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政治システム
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政治システム(せいじシステム)は、ある政体における政治に関わる人間行動の総体を指す。政治機構、政治体系、政治制度、政治体制とも呼ばれる。政治システムの外側には、政治に関係しない行動、自然の作用、別の政体があり、これらを「環境」と総称する。政治システムは内部にある程度のまとまりを持って、環境と相互作用している。
政治システム概念は、社会システム論が政治分野に波及して生まれたものである。と同時に、憲法的な制度に着目した従来の政治学に対し、社会内での政治行動に着目し対象領域を大幅に広げようとした政治学内部の動きからも生まれている。社会学・心理学との境界領域で扱う現象や、政治文化が、政治システムに含められる。
定義を満たす政治システム像は様々に異なるものでありうるが、政治学で広く受け入れられているのは、デイヴィッド・イーストンの政治システム論である。その政治システムは、入力と出力という二つの面で環境と相互作用する。具体的には、入力は人々の要求と支持であり、出力は政策である。フィードバックは、政策とその結果が人々に評価されて、要求・支持に変化を起こしたり補強したりすることである。こうして、入力→政治システム→出力→フィードバック→入力という循環が描かれる。以上説明はもっとも簡略なイメージであり、循環の各節は以後の研究を通じて精緻化されることが予定された。
数量化と統計にもとづく研究は、入力と出力を数量的におさえ、その間にある複雑な過程をブラックボックスに入れて捨象するという設計をとる場合が多い。そのような研究設計を図示すると、イーストンの政治システム論とよく似た形になる。入力から出力を導き出す関数として政治システムを見る見方は、数量化と統計を道具に用いる行動論政治学を巨視的レベルで総合したものとみなされ、アメリカ政治学で歓迎された。
政治システム論は、政治システムを関数としてブラックボックス化することを推奨するものではない。しかし、新しく政治学に迎え入れた制度外領域は入力部分に集中して存在したのでイーストンのモデルを前提とした研究では、入力の影響で出力が決定されるという説明法が主流になった。この点は、政治システムを無色・中立のものと誤って解しかねないとして、イーストンを含む研究者から批判を受けた。
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政治システム(せいじシステム)は、ある政体における政治に関わる人間行動の総体を指す。政治機構、政治体系、政治制度、政治体制とも呼ばれる。政治システムの外側には、政治に関係しない行動、自然の作用、別の政体があり、これらを「環境」と総称する。政治システムは内部にある程度のまとまりを持って、環境と相互作用している。 政治システム概念は、社会システム論が政治分野に波及して生まれたものである。と同時に、憲法的な制度に着目した従来の政治学に対し、社会内での政治行動に着目し対象領域を大幅に広げようとした政治学内部の動きからも生まれている。社会学・心理学との境界領域で扱う現象や、政治文化が、政治システムに含められる。
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{{出典の明記|date=2019年12月}}
{{政治}}
'''政治システム'''(せいじシステム)は、ある[[政体]]における[[政治]]に関わる人間行動の総体を指す。'''政治機構'''、'''政治体系'''、'''政治制度'''、'''政治体制'''とも呼ばれる。政治システムの外側には、政治に関係しない行動、自然の作用、別の政体があり、これらを「環境」と総称する。政治システムは内部にある程度のまとまりを持って、環境と相互作用している。
政治システム概念は、社会システム論が政治分野に波及して生まれたものである。と同時に、[[憲法]]的な制度に着目した従来の[[政治学]]に対し、社会内での政治行動に着目し対象領域を大幅に広げようとした政治学内部の動きからも生まれている。[[社会学]]・[[心理学]]との境界領域で扱う現象や、政治文化が、政治システムに含められる。
== イーストンの政治システム論 ==
定義を満たす政治システム像は様々に異なるものでありうるが、政治学で広く受け入れられているのは、[[デイヴィッド・イーストン]]の政治システム論である。その政治システムは、入力と出力という二つの面で[[環境]]と相互作用する。具体的には、入力は人々の要求と支持であり、出力は政策である。フィードバックは、政策とその結果が人々に評価されて、要求・支持に変化を起こしたり補強したりすることである。こうして、入力→政治システム→出力→フィードバック→入力という循環が描かれる。以上説明はもっとも簡略なイメージであり、循環の各節は以後の研究を通じて精緻化されることが予定された。
数量化と統計にもとづく研究は、入力と出力を数量的におさえ、その間にある複雑な過程を[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]に入れて捨象するという設計をとる場合が多い。そのような研究設計を図示すると、イーストンの政治システム論とよく似た形になる。入力から出力を導き出す関数として政治システムを見る見方は、数量化と統計を道具に用いる行動論政治学を巨視的レベルで総合したものとみなされ、アメリカ政治学で歓迎された。
政治システム論は、政治システムを関数としてブラックボックス化することを推奨するものではない。しかし、新しく政治学に迎え入れた制度外領域は入力部分に集中して存在したのでイーストンのモデルを前提とした研究では、入力の影響で出力が決定されるという説明法が主流になった。この点は、政治システムを無色・中立のものと誤って解しかねないとして、イーストンを含む研究者から批判を受けた。
== 関連項目 ==
* [[政治体制]]
* [[憲法]]
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ホビット
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ホビット(Hobbit)は、J・R・R・トールキンの創作した架空世界中つ国の種族。『ホビットの冒険』で初めて登場し、『指輪物語』でも重要な役割を果たした。
ホビットは、身長2 - 4フィート(60 - 121cm)で、わずかに尖った耳をもつ。足裏の皮が厚く、毛に覆われているので、靴をはくことはない。かれらは、冒険的でない牧歌的な暮らし、すなわち農耕・食事・社会生活を好む。ホビットは人間より若干長い寿命を持ち、しばしば120歳まで生きた(平均寿命100歳)。33歳で成人し、50歳で中年となる。ホビットたちは、トールキンのインスピレーションである英国の田舎の人々と同様、酒場でエールを飲むことを好む。中つ国のなかでもホビットらが住む地域の名としてトールキンが選んだ"the Shire"(ホビット庄)という名前からは、イングランドの「州(Shire)」をはっきり連想することができる。(イングランドの州も参照)
平和と食事を何よりも愛し、たいてい太っている。贈り物をするのもされるのも喜び、食べ物を例えに出すことを好む。しかしいざとなると驚くべき芯の強さを見せる。目が良いので石投げと弓矢の扱いが上手い。髭を生やしているものは一部の氏族を除いて殆どいない。一般的には船に乗ることを好まないが、ブランディバック家は例外である。
中つ国の北西部にある、伝統的イギリスの田園を思わせるホビット庄(シャイア)に住む。
ホビットは、明らかに人間と関係があり、種族としては人間達の支脈であると言われている。かれらの正確な起源は知られていないが、第三紀には荒地の国のアンドゥインの谷間に住んでいた。
ホビットは、その小さい身体であるため小さい人(Halfling、シンダール語で、単数形はペリアン perian、複数形はペリアンナス periannath)とも呼ばれる。しかしながら、この単語は、ホビットたちに言わせると自分たちは何の「半分 (half)」でもないとのことで、かれらにとって若干不快であり、自分たちでは使わなかったのは疑いない。
ゴンドールでは小さい人とよばれ、ローハンのことば(古英語風に訳されている)ではホルビトラ(HolbytlaかHolbytlan)とよばれる。
かれらはその生活習慣上、喫煙を好む傾向がある。またタバコの栽培もしており、特に良質のタバコを生産する。
かれらホビット族は自身こそこの習慣を発明した者だとしており、一説にはブリー村を発祥地とみる。メリアドク・ブランディバックの説に基けば、アンドゥイン川下流よりブリー村に伝わったとされ、更には西方から海を経て伝来してきた物だとされる。作中では、ホビット族の他にはアラゴルンとガンダルフが喫煙をたしなむほか、サルマンが上等のタバコ葉をアイゼンガルドに備蓄していた。
ホビット達は指輪物語の時代に於いて、喫煙をパイプにて行っており陶器製や木製のパイプを使用していた。
歴史的にホビットは、闇の森と霧ふり山脈の間にある大河アンドゥインの谷間で始まったことが知られている。『指輪物語』によると、かれらがどのように人類の一部と関係したかという系図上の詳細は失われた。当時、異なる気質を持つ三つのホビットの支族があった。最も多数からなるハーフット族は、指輪物語に描かれたホビットたちとほぼ同一である。ストゥア族は、船や水泳など水に親近感を持ち、ファロハイド族は冒険心を持つ人々であった。なお、これらストゥア族とファロハイド族の特徴は、後には非常にまれになったが、三支族間では婚姻を含む人的な交流は続いていたためか、まま変人や変り種とはみなされながらもハーフット族の内にもストゥア族やファロハイド族の特徴を持つ人物も稀に出ていたことが作中にて描かれている。
第三紀の始まりに近いある年に、理由は知られていないが、おそらくはモルドールの勢力によって、かれらは困難な霧ふり山脈横断に取り掛かった。しかしながら、ストゥア族の一部はとどまり、長い年月の後これらの人々からゴクリが生まれた。ホビットたちは、西方への旅でそれぞれ異なった経路を辿ったが、結局は(かれらによってブランディワイン川と改名される)バランドゥイン川と風見が丘にはさまれた地へ来た。そこでかれらは多くの集落を作り、ホビットの支族の間の区別はあいまいになり始めた。第三紀1600年ごろ、二人のファロハイドの兄弟は、これもまた理由は不明だが、バランドゥイン川を渡って対岸に集落を立てた。多くのホビットたちがかれらに続き、以前のかれらの領土のほとんどで人口が激減した。第三紀の終わりまで、ブリー村と幾つかの周辺の村が残っている。ブランディワイン川の土手の西におけるかれらが設立した新領土は、ホビット庄(Shire シャイア)と呼ばれる。
ホビット庄と周辺の領域の地図については、エリアドールの項を参照。
第四紀にはエレスサール王の下で統一された王国に再編されたが、王によってホビット庄は保護され人間の立ち入りは禁止された。その後のホビットの歴史はまるで伝わっていない。一説によると、人間が増えるにつれホビット達は住む土地を奪われ、ただ生きるために野山をさすらい隠れ住む貧しい種族に成り下がってしまったという。
ホビットは『指輪物語』での活躍にて、現実の世界でも良く知られるようになったが、これによりコンピュータゲーム等でもRPG分野で良く登場する種族となっている。これらではトールキンが細に渡って描写した事もあり、また現代ファンタジー文学の基盤として『指輪物語』が君臨しているため、他種族の扱いと比較してホビットのイメージの変化は少ない。
また、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』では権利上の問題から「ホビット」という名前が使用できなかったため、ホビット庄以外の西方語で使われた呼び名であるbanakilの翻訳であるハーフリング(小さい人)という名前(ドラゴンランスでは、ケンダー)で登場している。
同様に『ソードワールド』には「グラスランナー」という名前で登場。小さく、すばしっこく、運があり、陽気な種族として描写されていた。 このように「ホビット」の名前を使うことを避けながらも、同種族に影響されたと思われる素朴で背の小さな人々が登場する作品は他にも多く存在する。 この傾向はファンタジー分野のみならず、SF分野でも見られる。
『ロード・オブ・ザ・リング』以外の映画でホビットを主役にした映画として『ウィロー』がある。
創作以外の分野では、2003年にインドネシアのフローレス島で発見されたホモ・フローレシエンシスに対して「ホビット」という愛称が付けられている。
コンピュータRPG等では、ホビット族は腕力に秀でず、際立って賢くもないが、敏捷さや器用さが目だって高く設定されている。またウィザードリィシリーズのように運の要素があるゲームでは、かれらの運の良さは他種族を圧倒する。ウルティマシリーズでは初期3部作においてボビット(Bobbit)として登場しているが、前述の『D&D』と同様の権利上の問題か、ユーザーインタフェース上の問題(キーボード操作のみのキャラクター作成画面で人間"Human"との衝突を避ける為)かは不明である。
名称は違うがホビットと同じ特徴をもつ種族としては、「ホートルット」(エルミナージュシリーズ)、「クラッズ」(剣と魔法と学園モノ。シリーズ)、「ポークル」(Wizardry〜生命の楔〜など)、「ミグミィ」(円卓の生徒。神秘性(信仰心)が高い所はノームの特徴も併せ持っている)などがある。
『ホビットの冒険』でビルボが13人のドワーフに「しのびのもの」(バーグラー)として雇われた事に因み、泥棒や盗賊として登場する作品も多い。
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ホビット(Hobbit)は、J・R・R・トールキンの創作した架空世界中つ国の種族。『ホビットの冒険』で初めて登場し、『指輪物語』でも重要な役割を果たした。
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{{Otheruseslist|[[架空世界]]の種族|ピーター・ジャクソンによる実写映画|ホビット (映画)|AT&Tが設計したマイクロプロセッサー|Hobbit|[[フローレス島 (インドネシア)|フローレス島]]で発見されたホビットとも呼ばれる絶滅種|ホモ・フローレシエンシス}}
{{出典の明記|date=2020年5月}}
{{Expand English|Hobbit|date=2021年5月|fa=yes}}
'''ホビット'''('''Hobbit''')は、[[J・R・R・トールキン]]の創作した[[架空世界]][[中つ国 (トールキン)|中つ国]]の種族。『[[ホビットの冒険]]』で初めて登場し、『[[指輪物語]]』でも重要な役割を果たした。
==特徴==
ホビットは、身長2 - 4フィート(60 - 121cm)で、わずかに尖った耳をもつ。足裏の皮が厚く、毛に覆われているので、靴をはくことはない。かれらは、冒険的でない牧歌的な暮らし、すなわち農耕・食事・社会生活を好む。ホビットは人間より若干長い寿命を持ち、しばしば120歳まで生きた(平均寿命100歳)。33歳で成人し、50歳で中年となる。ホビットたちは、トールキンのインスピレーションである英国の田舎の人々と同様、酒場で[[エール (ビール)|エール]]を飲むことを好む。中つ国のなかでもホビットらが住む地域の名としてトールキンが選んだ"the Shire"(ホビット庄)という名前からは、イングランドの「州(Shire)」をはっきり連想することができる。([[イングランドの州]]も参照)
平和と食事を何よりも愛し、たいてい太っている。贈り物をするのもされるのも喜び、食べ物を例えに出すことを好む。しかしいざとなると驚くべき芯の強さを見せる。目が良いので石投げと[[弓矢]]の扱いが上手い。髭を生やしているものは一部の氏族を除いて殆どいない。一般的には船に乗ることを好まないが、ブランディバック家は例外である。
[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]の北西部にある、伝統的[[イギリス]]の田園を思わせる[[ホビット庄]](シャイア)に住む。
==起源==
ホビットは、明らかに[[人間 (トールキン)|人間]]と関係があり、種族としては人間達の支脈であると言われている。かれらの正確な起源は知られていないが、[[第三紀 (トールキン)|第三紀]]には[[荒地の国]]の[[アンドゥイン]]の谷間に住んでいた。
ホビットは、その小さい身体であるため'''小さい人'''(''Halfling''、[[シンダール語]]で、単数形はペリアン perian、複数形はペリアンナス periannath)とも呼ばれる。しかしながら、この単語は、ホビットたちに言わせると自分たちは何の「半分 (half)」でもないとのことで、かれらにとって若干不快であり、自分たちでは使わなかったのは疑いない。
[[ゴンドール]]では小さい人とよばれ、[[ローハン]]のことば([[古英語]]風に訳されている)ではホルビトラ({{Lang|ang|Holbytla}}か{{Lang|ang|Holbytlan}})とよばれる。<ref>ホビット(''Hobbit'')というのはトールキンの創作した英語訳で、元の[[西方語]]ではクドゥク(''kuduk'')と記す。</ref>
==喫煙==
かれらはその生活習慣上、[[喫煙]]を好む傾向がある。また[[タバコ]]の栽培もしており、特に良質のタバコを生産する。
かれらホビット族は自身こそこの習慣を発明した者だとしており、一説には[[ブリー村]]を発祥地とみる。[[メリアドク・ブランディバック]]の説に基けば、アンドゥイン川下流よりブリー村に伝わったとされ、更には西方から海を経て伝来してきた物だとされる。作中では、ホビット族の他にはアラゴルンとガンダルフが喫煙をたしなむほか、サルマンが上等のタバコ葉をアイゼンガルドに備蓄していた。
ホビット達は指輪物語の時代に於いて、喫煙を[[パイプ (たばこ)|パイプ]]にて行っており陶器製や木製のパイプを使用していた。<ref>現在でこそパイプによる喫煙は高度に趣味化された喫煙方法だと見なされているが、[[19世紀]]の欧州ではパイプで喫煙するのは主に[[労働者]]や[[大衆]]であるという見方が存在していた。ホビット族が喫煙パイプを大事にしているというのも、牧歌的で平和なかれらが極めて民衆的だというイメージに沿う物であろう。</ref><!--なお余禄ではあるが、陶器製のパイプは現在でもイギリスの喫煙具店で一般的に見られ、この10ポンドにも満たない安価なパイプは割れやすいながらも、多少使い込むだけで微妙な色合いが楽しめるとして、一定の愛好者が見られる。-->
==『指輪物語』に登場するホビット==
* [[ビルボ・バギンズ]]
* [[フロド・バギンズ]]
* [[サムワイズ・ギャムジー]]
* [[メリアドク・ブランディバック]]
* [[ペレグリン・トゥック]]
* [[フレデガー・ボルジャー]]
* [[ゴクリ|スメアゴル]]
* [[デアゴル]]
* [[ハムファスト・ギャムジー]](とっつぁん)
* [[ローズ・コトン]](ロージー)
* [[マゴット]]
* [[テド・サンディマン]](粉屋)
* [[オソ・サックビル・バギンズ]]
* [[ロソ・サックビル・バギンズ]]
* [[ロベリア・サックビル・バギンズ]]
* ノブ(ブリー村の)
==歴史==
歴史的にホビットは、[[闇の森]]と[[霧ふり山脈]]の間にある大河[[アンドゥイン]]の谷間で始まったことが知られている。『[[指輪物語]]』によると、かれらがどのように人類の一部と関係したかという系図上の詳細は失われた。当時、異なる気質を持つ三つの'''ホビットの支族'''があった。最も多数からなる[[ハーフット]]族は、指輪物語に描かれたホビットたちとほぼ同一である。[[ストゥア]]族は、船や水泳など水に親近感を持ち、[[ファロハイド]]族は冒険心を持つ人々であった。なお、これらストゥア族とファロハイド族の特徴は、後には非常にまれになったが、三支族間では婚姻を含む人的な交流は続いていたためか、まま変人や変り種とはみなされながらもハーフット族の内にもストゥア族やファロハイド族の特徴を持つ人物も稀に出ていたことが作中にて描かれている。
[[第三紀 (トールキン)|第三紀]]の始まりに近いある年に、理由は知られていないが、おそらくは[[モルドール]]の勢力によって、かれらは困難な霧ふり山脈横断に取り掛かった。しかしながら、ストゥア族の一部はとどまり、長い年月の後これらの人々から[[ゴクリ]]が生まれた。ホビットたちは、西方への旅でそれぞれ異なった経路を辿ったが、結局は(かれらによってブランディワイン川と改名される)[[バランドゥイン]]川と[[風見が丘]]にはさまれた地へ来た。そこでかれらは多くの集落を作り、ホビットの支族の間の区別はあいまいになり始めた。第三紀1600年ごろ、二人のファロハイドの兄弟は、これもまた理由は不明だが、バランドゥイン川を渡って対岸に集落を立てた。多くのホビットたちがかれらに続き、以前のかれらの領土のほとんどで人口が激減した。第三紀の終わりまで、[[ブリー村]]と幾つかの周辺の村が残っている。ブランディワイン川の土手の西におけるかれらが設立した新領土は、[[ホビット庄]](Shire シャイア)と呼ばれる。
ホビット庄と周辺の領域の地図については、[[エリアドール]]の項を参照。
[[第四紀 (トールキン)|第四紀]]にはエレスサール王の下で統一された王国に再編されたが、王によってホビット庄は保護され人間の立ち入りは禁止された。その後のホビットの歴史はまるで伝わっていない。一説によると、人間が増えるにつれホビット達は住む土地を奪われ、ただ生きるために野山をさすらい隠れ住む貧しい種族に成り下がってしまったという。
==トールキン以外での使用==
ホビットは『指輪物語』での活躍にて、現実の世界でも良く知られるようになったが、これにより[[コンピュータゲーム]]等でも[[コンピュータRPG|RPG]]分野で良く登場する種族となっている。これらではトールキンが細に渡って描写した事もあり、また現代[[ファンタジー]]文学の基盤として『指輪物語』が君臨しているため、他種族の扱いと比較してホビットのイメージの変化は少ない。
また、『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]』では[[著作権|権利]]上の問題から「ホビット」という名前が使用できなかったため、ホビット庄以外の西方語で使われた呼び名であるbanakilの翻訳である[[ハーフリング]](小さい人)という名前([[ドラゴンランス]]では、[[ケンダー]])で登場している。
同様に『[[ソードワールド]]』には「[[グラスランナー]]」という名前で登場。小さく、すばしっこく、[[運]]があり、陽気な種族として描写されていた。
このように「ホビット」の名前を使うことを避けながらも、同種族に影響されたと思われる素朴で背の小さな人々が登場する作品は他にも多く存在する。
この傾向はファンタジー分野のみならず、[[サイエンス・フィクション|SF]]分野でも見られる。
『[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]』以外の映画でホビットを主役にした映画として『[[ウィロー]]』がある。
創作以外の分野では、[[2003年]]に[[インドネシア]]の[[フローレス島 (インドネシア)|フローレス島]]で発見された[[ホモ・フローレシエンシス]]に対して「ホビット」という愛称が付けられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/310/|title=パラオ古代人ホビットやドワーフではなかった|work=[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナル ジオグラフィック]]|publisher=[[ナショナル ジオグラフィック協会]]|date=2008-08-27|accessdate=2023-11-25}}</ref>。
=== コンピュータRPG ===
コンピュータRPG等では、ホビット族は腕力に秀でず、際立って賢くもないが、敏捷さや器用さが目だって高く設定されている。また[[ウィザードリィ]]シリーズのように[[運]]の要素があるゲームでは、かれらの運の良さは他種族を圧倒する。[[ウルティマ|ウルティマシリーズ]]では初期3部作においてボビット(Bobbit)として登場しているが、前述の『D&D』と同様の権利上の問題か、ユーザーインタフェース上の問題(キーボード操作のみのキャラクター作成画面で人間"Human"との衝突を避ける為)かは不明である。
名称は違うがホビットと同じ特徴をもつ種族としては、「ホートルット」([[エルミナージュ]]シリーズ)、「クラッズ」([[剣と魔法と学園モノ。]]シリーズ)、「ポークル」(Wizardry〜生命の楔〜など)、「ミグミィ」([[円卓の生徒]]。神秘性(信仰心)が高い所はノームの特徴も併せ持っている)などがある。
『ホビットの冒険』でビルボが13人の[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]に「しのびのもの」([[シーフ|バーグラー]])として雇われた事に因み、泥棒や[[盗賊]]として登場する作品も多い。
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references /></div>
== 関連項目 ==
*[[マゾム]]
*[[ハーフリング]]
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福田康夫
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福田 康夫(ふくだ やすお、1936年〈昭和11年〉7月16日 - )は、日本の政治家。
衆議院議員(7期)、内閣官房長官(第67・68・69代)、沖縄開発庁長官(第41代)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)、自由民主党総裁(第22代)、内閣総理大臣(第91代)を歴任。
東京府東京市生まれで、群馬県高崎市育ち。大学卒業後、丸善石油株式会社に勤務し17年余りサラリーマン生活を送っていたが、40歳で退社し、政界入りする。父である福田赳夫の秘書を14年間務めた後、1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙において旧群馬3区から出馬し初当選を果たす。
第2次森内閣において内閣官房長官に抜擢され、続く小泉内閣でも官房長官を務めた。2004年(平成16年)、自身の年金未納が発覚したため、3年半余り務めた官房長官の職を引責辞任。在任期間は1289日、内閣官房長官として当時歴代最長在任記録を残した(2016年7月、第2次安倍内閣で内閣官房長官に就任した菅義偉に抜かれ、歴代2位となる)。ポスト小泉の候補として、安倍晋三の対立候補として総裁選への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。
2007年(平成19年)9月、安倍の突然の辞任劇の中、当初、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に2007年自由民主党総裁選挙に立候補する。麻生を破り、第22代自由民主党総裁に選出され、第91代内閣総理大臣に就任。史上初の親子二代での総理となった。2008年(平成20年)9月、内閣を総辞職し、内閣総理大臣・自民党総裁の職を辞した。2012年の衆議院選挙に出馬せず、同年11月に衆議院解散に伴い政界を引退した。
1936年(昭和11年)7月16日、東京府東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)に大蔵官僚、福田赳夫、三枝の長男として生まれる。父親の仕事の関係で1942年9月からの数ヶ月、南京に住み生活し南京に対するあこがれや望郷の思いを抱く。戦時中、父の実家の群馬県群馬郡金古町(後に群馬町、現:高崎市)に疎開していた。金古町立金古小学校(現、高崎市立金古小学校)、大宮市立南小学校(現:さいたま市立大宮南小学校)、東京高等師範附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、渋谷区立猿楽小学校などに学ぶ。1949年(昭和24年)3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)卒業。小学生時代の福田は野球の好きなスポーツ少年で、在中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった。
1952年(昭和27年)3月、麻布中学校、1955年(昭和30年)3月、麻布高等学校卒業。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった。同級生には声優の柴田秀勝や、物流大手のサンリツ会長の三浦正英などがいる。
1959年(昭和34年)3月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業。大阪に本社を置く丸善石油(現:コスモ石油)に入社し、1962年(昭和37年)3月から2年間、米国ロサンゼルス支店に赴任。帰国後に石油製品の輸入課長も務め、石油の価格、量の動向の予測、判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた。このときオイルショック(第1次、1973年)を経験している。
1966年(昭和41年)に元衆議院議長桜内義雄の姪の嶺貴代子に、「政治家の女房にはしない」と誓い結婚。
政界入りはしないとしていた福田だが、父の後継者とされた次男で養子に出した横手征夫が病気となり、母三枝が後継者に推したこともあって、政治家を志す。1976年11月に会社を辞め、衆議院議員秘書となり、1977年12月から1年間、父・赳夫の内閣総理大臣秘書官を務める。事務担当秘書官には、保田博、棚橋祐治、小和田恆らがいた。このことで、議員になる前より外務省にパイプができた。秘書官として、日中平和友好条約へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した。1990年2月に第39回衆議院議員総選挙で、群馬3区から出馬して当選(小選挙区制導入後は群馬4区選出)。
初当選後の取材で「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代。独立した一人の人間として見ていただきたい」と語っていたが、「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから」「あの年寄り(父・赳夫)と一緒にしないでよ」などと漏らしてもいた。連続7回当選する。50歳以上初当選組のクローニンの会に所属している。
議員としては、外務政務次官、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった。
2000年10月、第2次森内閣でスキャンダルで辞任に追い込まれた中川秀直に代わり、内閣官房長官および沖縄開発庁長官に就任する。後任人事として小泉純一郎、尾身幸次、町村信孝が挙げられていたが、当時森派会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」と考え推薦した。福田起用に関する協議はほぼ森首相と小泉の二人だけで行われたことから、党幹事長にもかかわらず相談を受けなかった野中広務は「私を取るか小泉氏を取るか」と怒りを顕わにした。これに対し小泉は「大人気ない」と一蹴した。福田はこの時点で閣僚経験が皆無だったため、官房長官への起用には疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役を務めた。森の失言の度に福田が会見でとりなし騒動を収めるというパターンが出来上がり、「弁明長官」と呼ばれた。
2000年12月の第2次森改造内閣(中央省庁再編前)において内閣官房長官に留任し、沖縄開発庁長官は退任。翌年1月に成立した第2次森改造内閣(中央省庁再編後)で内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任した。
2001年4月に組閣した第1次小泉内閣において引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任した。2002年9月の内閣改造により成立した第1次小泉第1次改造内閣でも、引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に留任した。2003年9月の内閣改造により成立した第1次小泉第2次改造内閣では、内閣官房長官に留任するとともに、男女共同参画担当大臣の改称により設置された内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)に就任した。
森政権に引き続き小泉政権においても2度にわたる内閣改造で留任し在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。官房長官の記者会見で垣間見える冷笑的態度から、ネットの匿名掲示板では「フフン」というあだ名がついた。
官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。これにより、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。騒動の末小泉は田中を更迭し、後任に川口順子を起用する。これは、引き続き官邸外交は福田に任せたい小泉の意向であった。川口は民間人閣僚のため与党内に基盤を持たず、外務省との調整は官房長官の福田が事実上取り仕切ったためである。
男女共同参画担当大臣を兼任し、「2020年までにあらゆる分野の指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という数値目標などを掲げた。また、沖縄開発庁長官として沖縄科学技術大学院大学の設立構想で関係閣僚会合を開くなどして主導、女子暴行事件の容疑者引渡し交渉など米兵による事件にも対応した。こうした経験から、首相就任時に沖縄に関して理解を示す期待が一部でされた。ハンセン病補償法訴訟の控訴断念にも一役買い(後述)、政府の公式謝罪をした。
在職中は、元中華民国総統の李登輝が病気治療目的で来日を希望した際に、中国への配慮から、外務大臣河野洋平と共にビザ発給に反対したといわれる。また、北朝鮮による日本人拉致問題に関し、「終始冷淡な態度をとっていた」と家族会は語っている(#エピソードの項を参照)。
中国や韓国などの靖国神社参拝に反対している国の意見などにも一定の配慮をすべきこと、憲法改正には周辺国の理解が必要と主張していることなどから、保守派の一部から「親中派」、「媚中派」などと批判されることもある。特に、『文藝春秋』とその系列メディアが官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し、『文藝春秋』から政府広報の広告を引き上げさせたとの報道も一部でなされた(実際、2004年から数ヶ月間、『文藝春秋』の誌面から政府広報が一切無くなった)。
2004年4月、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、それまで歴代1位だった保利茂の在任記録を更新し、会見で「秘密主義長官、影の外務大臣、影の防衛庁長官。いろいろ名前はありますが、まあ、しょせん影ですから」と語った(内閣官房長官在任記録は後に菅義偉に更新され、現在は歴代2位)。
4月28日に「(国民年金保険料を払っているか否かの公表は)個人情報でそういうものを開示すべきではない」、「犯罪ですか?」云々との旨の本人発言直後に、保険料未納が発覚する。当初未納期間は、1990年2月から1992年9月の間と、1995年8月から1995年12月までの間の合計3年1ヶ月間となっていたが、辞任直前、週刊文春が1976年11月から1990年2月までの間のうち、5年8ヶ月間も同じく未納であったことを報じた。
2004年5月7日 定例記者会見の席で官房長官の辞任を表明。在任日数1289日。「風のごとく来りて、風のごとく去るということだ」との言葉を残して官邸を去った。
年金未納が発覚して小泉内閣の官房長官を辞任した後は、政権と距離を置き、第3次小泉改造内閣にも入閣しなかったために、小泉内閣に批判的な一部政治家やマスコミ・知識人などの自民党内外の諸勢力の間に総理総裁就任待望論があり、小泉の2006年9月の総裁任期満了を控え「ポスト小泉」有力候補(俗に言う麻垣康三)の一人に挙げられてきた。
事前の各種世論調査において次期自民党総裁・首相として、安倍晋三に次ぐ支持率を得ることが多く、安倍に次いで次期首相の座に近い立場にあると目され、安倍への対抗馬の筆頭として注目を集めていた。アジア外交などについて小泉内閣の路線を踏襲する色合いの強い安倍に対して、アジア重視の姿勢を見せるなど対立軸を提示し、政権への意欲ともとれる動きも見せていたが、2006年7月21日、総裁選への不出馬を正式に表明。引退の意向すら漏らしたとも伝えられ、出馬を期待していた勢力からは失望の声が聞かれた。これを受け「ポスト小泉」の総裁選は、安倍の大勝に終わった。
安倍内閣においての要職起用は無く、表立った活動は少なかった。2007年6月には党住宅土地調査会会長として「200年住宅ビジョン」を発表したことが話題となった。与党が大きく議席を減らした2007年7月の参院選後は、8月27日の内閣改造人事における起用が取り沙汰されたが、実現しなかった。
しかし、7月の群馬県知事選挙では、自民党候補の大沢正明の選挙対策本部長を務めて当選に導き、そのリーダーシップを発揮した。
2007年9月12日に安倍晋三が内閣総理大臣、自由民主党総裁の辞任を表明し、その翌13日、福田に自由民主党総裁選挙への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。
15日、自由民主党総裁選挙に立候補の届出をした。対立候補として麻生太郎が立候補したが、町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、麻生派以外の全派閥)が福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていたが、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった。
9月23日実施の自民党総裁選において330票(麻生:197票 無効票:1 計528票)を獲得し当選。第22代自民党総裁に就任。
2007年9月25日に開かれた内閣総理大臣指名選挙(首班指名選挙)において、与党が過半数を占める衆議院では圧倒的多数で指名されるが、逆に野党が過半数を占める参議院では、民主党の小沢一郎が指名されるという“ねじれ国会”(逆転国会)の象徴的現象が起きた。両院協議会が開催されるが議論はまとまらず、法規に則り衆議院の議決が国会の議決となり、福田が内閣総理大臣に指名された。内閣の組閣に当たり、記者会見で福田は、「一歩でも違えば、自民党が政権を失う可能性もある」と指摘した上で、「背水の陣内閣」と自身の内閣を命名した。
翌9月26日に、宮中での親任式を経て正式に第91代内閣総理大臣に就任し(福田康夫内閣)、日本憲政史上初の親子での総理大臣就任となった。就任年齢となる71歳は、奇しくも父・赳夫が首相に就任した年齢と同じ(赳夫は71歳11ヶ月と10日、康夫は71歳2ヶ月と10日)である。
同年11月、福田と民主党代表小沢一郎との間で大連立構想が模索されたが頓挫し、一時は小沢が代表辞任を表明するなど混乱したが、その後、与野党は対決姿勢を強めることになった。第169回国会では、問責決議が1998年10月16日の額賀福志郎以来10年ぶりに参議院で可決されたが、翌日には内閣信任決議が衆議院で可決された。なお、首相への問責決議案が国会で可決されたのは、田中義一、吉田茂に続き3人目であり、日本国憲法下で参議院からは初である。
2008年8月2日、内閣改造により福田改造内閣が発足した。それに併せて、麻生太郎を幹事長に指名するなど、自由民主党執行部の人事も刷新した。閣僚の参議院枠は参議院自民党の推薦に基づき選抜するのが慣例だが、今回の組閣では参議院会長尾辻秀久による推薦を一切無視し、福田の独断で林芳正や中山恭子らを入閣させ舛添要一を留任させた。また、副大臣も党執行部の推薦に基づく選抜が慣例だが、今回は党からの推薦が差し戻され、閣僚経験者の鴨下一郎らが起用された。また、内閣総理大臣補佐官は、渡海紀三朗が新たに起用されたため全員が閣僚経験者となった。
2008年9月1日、午後9時30分より緊急記者会見を開催し、その席上、「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明した。退陣の理由として「国民生活の為に、新しい布陣で政策実現を期してもらいたい」ということを述べた。
2008年9月24日、内閣総辞職。なお、国政選挙の結果を経ずに成立し、かつ在任中に大型国政選挙が無かったのは羽田内閣以来となる。
内閣総理大臣退任後、インター・アクション・カウンシルのメンバーに就任し、2009年の総会ではヘルムート・シュミット、ジャン・クレティエンらと世界金融危機など政治経済の国際的な諸問題について討議した。また、麻生政権にて度々特派大使として各国を訪問し、日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りに理解を求めるなど、協力関係の構築を進めている。2009年7月の天皇・皇后北米歴訪の際は福田が首席随員に選任され、明仁天皇、美智子皇后に随伴しカナダやアメリカ合衆国ハワイ州を訪問した。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党新人で元フジテレビ社員の三宅雪子に苦戦を強いられた。しかも、当時73歳だった福田は党の内規により重複立候補ができなかったため、一時は落選の報も流れたが、結果として福田が三宅を小選挙区で破り7回目の当選を果たした(三宅は比例代表北関東ブロックで復活当選している)。
2010年4月、世界経済フォーラムのアジア版として中華人民共和国で設立されたボアオ・アジア・フォーラムの年次総会にて、フィデル・ラモスの後任として理事長に選出された。
人口問題をライフワークとすることから、アジア人口・開発協会の理事長に就任するとともに、25か国の国会議員らで構成する「人口と開発に関するアジア議員フォーラム」にて議長を務めている。同フォーラムは各国で立法作業の支援活動を展開しており、それらの活動が評価され国際連合人口賞(団体部門)を受賞した。2010年6月、福田は国際連合本部ビルに招かれ、国際連合副事務総長のアシャ=ローズ・ミギロからメダルを授与された。
2010年の防衛大学校開校記念祭観閲式には、横須賀市の市長である吉田雄人らとともに来賓として出席した。
麻生内閣の退陣と鳩山由紀夫内閣の成立により福田は一介の国会議員となったが、その経験を買われ、当時の民主党政権側から助力を求められることも多かった。2010年10月には、内閣総理大臣の菅直人に助言を請われ、アジア太平洋経済協力など外交分野について指南した。
2012年9月26日の自由民主党総裁選挙終了後に地元選挙区の後援会会合に出席、その後に「次期衆議院議員総選挙に出馬せず、今期限りで議員を引退する」意思を表明した。同年11月16日の衆議院解散に伴い、衆議院議員を退任した。退任に際して、衆議院を解散した内閣総理大臣野田佳彦について「解散しなければいけないと分かりながら、引き延ばした。その間政治が停滞した。行政も予算編成も止まり、特に経済は相当な影響を受けた」と厳しく批判するとともに「政権交代が結果的に失敗だったことが、明白になった」と総括した。また、自身の政治活動を振り返り「『正しい政治をしたい』、そういう気持ちだけでやってきた。日本全体と多くの人に良い結果をもたらすような精神を貫いていきたい」と語った。
同年11月に自由民主党群馬県第四区支部の党員大会が開催され、後任として長男の福田達夫の支部長就任が承認された。
ネルソン・マンデラの死去に際し、2013年12月9日に「故ネルソン・ロリシュラシュラ・マンデラ元南アフリカ共和国大統領の追悼式に参列する特派大使」に任命された。それに伴い南アフリカ共和国に渡航し、皇太子徳仁親王らとともにマンデラの追悼式に出席した。なお、同月24日まで特派大使を務めた。
2014年7月27日、北京を訪問し習近平主席と極秘の会談を行ったことが明らかにされた。
2015年1月25日、サウジアラビアの6代目アブドラ国王が死去したことにより、皇太子とともに特派大使として弔問に派遣される。
2018年4月、ボアオ・アジア・フォーラムの年次総会にて、理事長を元国際連合事務総長の潘基文に交代し、諮問委員会主席に就任した。
2022年7月12日、安倍晋三の葬儀に出席している。
安倍晋三首相と朴槿恵大統領の首脳会談も開かれない状態だった2014年の東京都の日韓交流のための祭りで福田は「互い(日韓)の心が通じる関係を確実につくっていかなければならない。」と日韓友好を訴えた。2017年8月末には安倍晋三を「よくやっている。資質もある方。」と評価する一方で、日本政府が米韓と連携して北朝鮮への圧力強化する方針については「日米韓連合で中国包囲網の形式になる懸念が中国にはある。中国政府と話さないと北朝鮮問題の解決の道は出てこない」と述べた。靖国神社参拝については「日本の首相が靖国神社に参拝しないことで、日本のマスコミが騒がなければ何も問題は起きない」との持論も語った。
2007年の自民党総裁選挙で、「希望と安心のくにづくり」、「改革を進め、その先にめざす社会」として次のような基本理念を示した。なお、「自立と共生」は10年前から新生党、旧民主党の理念として使われており、民主党代表の小沢一郎は「ずっと昔から僕が使っていた言葉を何かおっしゃっているみたいに感じた」と話している。
一方、福田は2007年10月21日の早稲田大学創立125周年記念式典にて、「自立と共生」は大隈重信が125年前に既に考えていたことだと発言したが、この発言に小沢への切り返しの意図があったのかは不明である。
前任の安倍晋三と比べると、多国間の協調を重視する姿勢が強いと評価されている。しかし、一方で他国に過大な配慮を行っているとの批判もあり、全方位土下座外交と呼ばれることもある。
身長171cm、体重70kg。趣味はベルリオーズ、バルトーク、シューベルトなどのクラシックの鑑賞。中学2年の時にベートーヴェンの交響曲第5番のレコードを貰ったことがきっかけである。好物は蕎麦、うどん、カレーライス、肉類。ワイン通としても知られる。勝海舟が好きで、歴史小説を中心に多くの本を読む。座右の銘は「誠実に日々一生懸命」、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」(勝海舟)。スポーツが好きで、若いころは登山、スキー、ゴルフ、ボウリングなどをしていた。現在の唯一のスポーツは速歩である。好きな映画としては『黄色いリボン』などの西部劇、俳優としては高峰秀子や藤原紀香を挙げている。愛犬家でありウェルシュ・コーギーを首相公邸で飼育している。サラリーマン時代の米国赴任の経験から英語が堪能。環境に配慮し、天然ガス自動車に乗っている。
冷静沈着な風貌で、会見時の冷笑的態度がよく知られていたが、実際には瞬間湯沸かし器といわれるほど激昂家である。官房長官時代は官房副長官を務めた安倍晋三の上司であったが、日本人拉致問題で帰国した被害者をいったん帰す意向であった福田に安倍が反発。この際「余計なことはするな」と机を蹴り上げて安倍を叱責したという。その他、官邸の官房長官執務室で大仁田厚に対し「大仁田君、政治は男のロマンだ。ファイヤー」と説くなど、ときに熱血漢ぶりを発揮することもある。政敵の菅直人は、官房長官時代の福田について「斜に構えているが泥をかぶってもやり遂げるというところがあった。小泉首相・福田官房長官というのは中曽根首相・後藤田官房長官を思わせる」と評している。脚本家の三谷幸喜は、当時の菅と福田を対比し、福田の物言いについて「明らかに面白いことを言おうという意思がうかがえ、しかも確実に面白いことを言っている」と評した。坪内祐三も「福田さんのブラックジョークが好きだった」としている。
自民党の数少ない外交族である。政界において外交は票に繋がらないというのが定説の中、父から継いだ強固な地盤で選挙には絶対の自信を持っていたためである。田中が外相時に外交が著しく停滞する中、官房長官として外務省を直接取り仕切り破綻を防いだ。これを小泉が高く評価し、後任の川口時代も実際に外務を取り仕切ることとなった。
小泉政権で福田と共に閣僚を務めた竹中平蔵は、首相就任後の福田について、クールアース推進構想での数値目標導入、公務員制度改革での内閣人事庁の新設、道路特定財源の一般財源化表明などを例示し「一カ月に一回くらい結構大きな決断をしている」と指摘し「福田総理は改革に後ろ向きであるわけではない」としている。同時に、竹中は福田政権の問題点として、福田によるプロアクティブな改革への取り組みを国民はリアクティブな改革として受け止めていると指摘し、「『政策マーケティング』に問題あり」と評している。福田政権で内閣総理大臣補佐官(社会保障担当)を務めた伊藤達也は「福田氏は厚労省改革で強い指導力をみせた」と評価した上で、福田は手柄を独り占めしようとせず「手柄を全部われわれに与えようとする」と指摘し「目立とうとしない政治家は珍しい」と評している。慶應義塾大学環境情報学部教授の福田和也は、公文書管理体制の強化を推進した福田について「あの人まじめだから、役所の記録とかを几帳面にきちんと文書化して残してるんだよ。きっと50年後の研究者はすごく助かると思う」と指摘している。
言語学者の東照二は、福田は情報を伝える効果をもつリポート・トークと呼ばれる話し方を得意とする一方、他人に感情を伝え、相手との共感を高める効果をもつラポート・トークと呼ばれる話し方が「できていない、どうしていいかわからない」人物であると指摘している。また東は、情報中心の言葉を多く使う福田が情緒中心の言葉を使う場面は往々にしてラポート・トークに結びつく「共感」「仲間意識」ではなく「怒り」「恐怖」「不満」を表明するときだとも指摘し、マスコミが福田の発言スタイルを「他人事節」と名付けたのは、「個人の強い思い入れ、心の底から湧いてくるような熱い思い、積極的な態度というものが浮かび上がってこない」特徴を指したものだとしている。
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"text": "福田 康夫(ふくだ やすお、1936年〈昭和11年〉7月16日 - )は、日本の政治家。",
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"text": "衆議院議員(7期)、内閣官房長官(第67・68・69代)、沖縄開発庁長官(第41代)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)、自由民主党総裁(第22代)、内閣総理大臣(第91代)を歴任。",
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"text": "東京府東京市生まれで、群馬県高崎市育ち。大学卒業後、丸善石油株式会社に勤務し17年余りサラリーマン生活を送っていたが、40歳で退社し、政界入りする。父である福田赳夫の秘書を14年間務めた後、1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙において旧群馬3区から出馬し初当選を果たす。",
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"text": "第2次森内閣において内閣官房長官に抜擢され、続く小泉内閣でも官房長官を務めた。2004年(平成16年)、自身の年金未納が発覚したため、3年半余り務めた官房長官の職を引責辞任。在任期間は1289日、内閣官房長官として当時歴代最長在任記録を残した(2016年7月、第2次安倍内閣で内閣官房長官に就任した菅義偉に抜かれ、歴代2位となる)。ポスト小泉の候補として、安倍晋三の対立候補として総裁選への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。",
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"text": "2007年(平成19年)9月、安倍の突然の辞任劇の中、当初、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に2007年自由民主党総裁選挙に立候補する。麻生を破り、第22代自由民主党総裁に選出され、第91代内閣総理大臣に就任。史上初の親子二代での総理となった。2008年(平成20年)9月、内閣を総辞職し、内閣総理大臣・自民党総裁の職を辞した。2012年の衆議院選挙に出馬せず、同年11月に衆議院解散に伴い政界を引退した。",
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"text": "1936年(昭和11年)7月16日、東京府東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)に大蔵官僚、福田赳夫、三枝の長男として生まれる。父親の仕事の関係で1942年9月からの数ヶ月、南京に住み生活し南京に対するあこがれや望郷の思いを抱く。戦時中、父の実家の群馬県群馬郡金古町(後に群馬町、現:高崎市)に疎開していた。金古町立金古小学校(現、高崎市立金古小学校)、大宮市立南小学校(現:さいたま市立大宮南小学校)、東京高等師範附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、渋谷区立猿楽小学校などに学ぶ。1949年(昭和24年)3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)卒業。小学生時代の福田は野球の好きなスポーツ少年で、在中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった。",
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"text": "1952年(昭和27年)3月、麻布中学校、1955年(昭和30年)3月、麻布高等学校卒業。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった。同級生には声優の柴田秀勝や、物流大手のサンリツ会長の三浦正英などがいる。",
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"text": "1959年(昭和34年)3月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業。大阪に本社を置く丸善石油(現:コスモ石油)に入社し、1962年(昭和37年)3月から2年間、米国ロサンゼルス支店に赴任。帰国後に石油製品の輸入課長も務め、石油の価格、量の動向の予測、判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた。このときオイルショック(第1次、1973年)を経験している。",
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"text": "1966年(昭和41年)に元衆議院議長桜内義雄の姪の嶺貴代子に、「政治家の女房にはしない」と誓い結婚。",
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"text": "政界入りはしないとしていた福田だが、父の後継者とされた次男で養子に出した横手征夫が病気となり、母三枝が後継者に推したこともあって、政治家を志す。1976年11月に会社を辞め、衆議院議員秘書となり、1977年12月から1年間、父・赳夫の内閣総理大臣秘書官を務める。事務担当秘書官には、保田博、棚橋祐治、小和田恆らがいた。このことで、議員になる前より外務省にパイプができた。秘書官として、日中平和友好条約へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した。1990年2月に第39回衆議院議員総選挙で、群馬3区から出馬して当選(小選挙区制導入後は群馬4区選出)。",
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"text": "初当選後の取材で「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代。独立した一人の人間として見ていただきたい」と語っていたが、「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから」「あの年寄り(父・赳夫)と一緒にしないでよ」などと漏らしてもいた。連続7回当選する。50歳以上初当選組のクローニンの会に所属している。",
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"text": "議員としては、外務政務次官、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった。",
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"text": "2000年10月、第2次森内閣でスキャンダルで辞任に追い込まれた中川秀直に代わり、内閣官房長官および沖縄開発庁長官に就任する。後任人事として小泉純一郎、尾身幸次、町村信孝が挙げられていたが、当時森派会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」と考え推薦した。福田起用に関する協議はほぼ森首相と小泉の二人だけで行われたことから、党幹事長にもかかわらず相談を受けなかった野中広務は「私を取るか小泉氏を取るか」と怒りを顕わにした。これに対し小泉は「大人気ない」と一蹴した。福田はこの時点で閣僚経験が皆無だったため、官房長官への起用には疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役を務めた。森の失言の度に福田が会見でとりなし騒動を収めるというパターンが出来上がり、「弁明長官」と呼ばれた。",
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"text": "2000年12月の第2次森改造内閣(中央省庁再編前)において内閣官房長官に留任し、沖縄開発庁長官は退任。翌年1月に成立した第2次森改造内閣(中央省庁再編後)で内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任した。",
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"text": "2001年4月に組閣した第1次小泉内閣において引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任した。2002年9月の内閣改造により成立した第1次小泉第1次改造内閣でも、引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に留任した。2003年9月の内閣改造により成立した第1次小泉第2次改造内閣では、内閣官房長官に留任するとともに、男女共同参画担当大臣の改称により設置された内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)に就任した。",
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"text": "森政権に引き続き小泉政権においても2度にわたる内閣改造で留任し在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。官房長官の記者会見で垣間見える冷笑的態度から、ネットの匿名掲示板では「フフン」というあだ名がついた。",
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"text": "官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。これにより、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。騒動の末小泉は田中を更迭し、後任に川口順子を起用する。これは、引き続き官邸外交は福田に任せたい小泉の意向であった。川口は民間人閣僚のため与党内に基盤を持たず、外務省との調整は官房長官の福田が事実上取り仕切ったためである。",
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"text": "男女共同参画担当大臣を兼任し、「2020年までにあらゆる分野の指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という数値目標などを掲げた。また、沖縄開発庁長官として沖縄科学技術大学院大学の設立構想で関係閣僚会合を開くなどして主導、女子暴行事件の容疑者引渡し交渉など米兵による事件にも対応した。こうした経験から、首相就任時に沖縄に関して理解を示す期待が一部でされた。ハンセン病補償法訴訟の控訴断念にも一役買い(後述)、政府の公式謝罪をした。",
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"text": "在職中は、元中華民国総統の李登輝が病気治療目的で来日を希望した際に、中国への配慮から、外務大臣河野洋平と共にビザ発給に反対したといわれる。また、北朝鮮による日本人拉致問題に関し、「終始冷淡な態度をとっていた」と家族会は語っている(#エピソードの項を参照)。",
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"text": "中国や韓国などの靖国神社参拝に反対している国の意見などにも一定の配慮をすべきこと、憲法改正には周辺国の理解が必要と主張していることなどから、保守派の一部から「親中派」、「媚中派」などと批判されることもある。特に、『文藝春秋』とその系列メディアが官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し、『文藝春秋』から政府広報の広告を引き上げさせたとの報道も一部でなされた(実際、2004年から数ヶ月間、『文藝春秋』の誌面から政府広報が一切無くなった)。",
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"text": "2004年4月、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、それまで歴代1位だった保利茂の在任記録を更新し、会見で「秘密主義長官、影の外務大臣、影の防衛庁長官。いろいろ名前はありますが、まあ、しょせん影ですから」と語った(内閣官房長官在任記録は後に菅義偉に更新され、現在は歴代2位)。",
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"text": "4月28日に「(国民年金保険料を払っているか否かの公表は)個人情報でそういうものを開示すべきではない」、「犯罪ですか?」云々との旨の本人発言直後に、保険料未納が発覚する。当初未納期間は、1990年2月から1992年9月の間と、1995年8月から1995年12月までの間の合計3年1ヶ月間となっていたが、辞任直前、週刊文春が1976年11月から1990年2月までの間のうち、5年8ヶ月間も同じく未納であったことを報じた。",
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"text": "2004年5月7日 定例記者会見の席で官房長官の辞任を表明。在任日数1289日。「風のごとく来りて、風のごとく去るということだ」との言葉を残して官邸を去った。",
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"text": "年金未納が発覚して小泉内閣の官房長官を辞任した後は、政権と距離を置き、第3次小泉改造内閣にも入閣しなかったために、小泉内閣に批判的な一部政治家やマスコミ・知識人などの自民党内外の諸勢力の間に総理総裁就任待望論があり、小泉の2006年9月の総裁任期満了を控え「ポスト小泉」有力候補(俗に言う麻垣康三)の一人に挙げられてきた。",
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"text": "事前の各種世論調査において次期自民党総裁・首相として、安倍晋三に次ぐ支持率を得ることが多く、安倍に次いで次期首相の座に近い立場にあると目され、安倍への対抗馬の筆頭として注目を集めていた。アジア外交などについて小泉内閣の路線を踏襲する色合いの強い安倍に対して、アジア重視の姿勢を見せるなど対立軸を提示し、政権への意欲ともとれる動きも見せていたが、2006年7月21日、総裁選への不出馬を正式に表明。引退の意向すら漏らしたとも伝えられ、出馬を期待していた勢力からは失望の声が聞かれた。これを受け「ポスト小泉」の総裁選は、安倍の大勝に終わった。",
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"text": "安倍内閣においての要職起用は無く、表立った活動は少なかった。2007年6月には党住宅土地調査会会長として「200年住宅ビジョン」を発表したことが話題となった。与党が大きく議席を減らした2007年7月の参院選後は、8月27日の内閣改造人事における起用が取り沙汰されたが、実現しなかった。",
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"text": "しかし、7月の群馬県知事選挙では、自民党候補の大沢正明の選挙対策本部長を務めて当選に導き、そのリーダーシップを発揮した。",
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"text": "2007年9月12日に安倍晋三が内閣総理大臣、自由民主党総裁の辞任を表明し、その翌13日、福田に自由民主党総裁選挙への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。",
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"text": "15日、自由民主党総裁選挙に立候補の届出をした。対立候補として麻生太郎が立候補したが、町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、麻生派以外の全派閥)が福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていたが、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった。",
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"text": "9月23日実施の自民党総裁選において330票(麻生:197票 無効票:1 計528票)を獲得し当選。第22代自民党総裁に就任。",
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"text": "2007年9月25日に開かれた内閣総理大臣指名選挙(首班指名選挙)において、与党が過半数を占める衆議院では圧倒的多数で指名されるが、逆に野党が過半数を占める参議院では、民主党の小沢一郎が指名されるという“ねじれ国会”(逆転国会)の象徴的現象が起きた。両院協議会が開催されるが議論はまとまらず、法規に則り衆議院の議決が国会の議決となり、福田が内閣総理大臣に指名された。内閣の組閣に当たり、記者会見で福田は、「一歩でも違えば、自民党が政権を失う可能性もある」と指摘した上で、「背水の陣内閣」と自身の内閣を命名した。",
"title": "来歴"
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"text": "翌9月26日に、宮中での親任式を経て正式に第91代内閣総理大臣に就任し(福田康夫内閣)、日本憲政史上初の親子での総理大臣就任となった。就任年齢となる71歳は、奇しくも父・赳夫が首相に就任した年齢と同じ(赳夫は71歳11ヶ月と10日、康夫は71歳2ヶ月と10日)である。",
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"paragraph_id": 32,
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"text": "同年11月、福田と民主党代表小沢一郎との間で大連立構想が模索されたが頓挫し、一時は小沢が代表辞任を表明するなど混乱したが、その後、与野党は対決姿勢を強めることになった。第169回国会では、問責決議が1998年10月16日の額賀福志郎以来10年ぶりに参議院で可決されたが、翌日には内閣信任決議が衆議院で可決された。なお、首相への問責決議案が国会で可決されたのは、田中義一、吉田茂に続き3人目であり、日本国憲法下で参議院からは初である。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "2008年8月2日、内閣改造により福田改造内閣が発足した。それに併せて、麻生太郎を幹事長に指名するなど、自由民主党執行部の人事も刷新した。閣僚の参議院枠は参議院自民党の推薦に基づき選抜するのが慣例だが、今回の組閣では参議院会長尾辻秀久による推薦を一切無視し、福田の独断で林芳正や中山恭子らを入閣させ舛添要一を留任させた。また、副大臣も党執行部の推薦に基づく選抜が慣例だが、今回は党からの推薦が差し戻され、閣僚経験者の鴨下一郎らが起用された。また、内閣総理大臣補佐官は、渡海紀三朗が新たに起用されたため全員が閣僚経験者となった。",
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"text": "2008年9月1日、午後9時30分より緊急記者会見を開催し、その席上、「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明した。退陣の理由として「国民生活の為に、新しい布陣で政策実現を期してもらいたい」ということを述べた。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "2008年9月24日、内閣総辞職。なお、国政選挙の結果を経ずに成立し、かつ在任中に大型国政選挙が無かったのは羽田内閣以来となる。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "内閣総理大臣退任後、インター・アクション・カウンシルのメンバーに就任し、2009年の総会ではヘルムート・シュミット、ジャン・クレティエンらと世界金融危機など政治経済の国際的な諸問題について討議した。また、麻生政権にて度々特派大使として各国を訪問し、日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りに理解を求めるなど、協力関係の構築を進めている。2009年7月の天皇・皇后北米歴訪の際は福田が首席随員に選任され、明仁天皇、美智子皇后に随伴しカナダやアメリカ合衆国ハワイ州を訪問した。",
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"paragraph_id": 37,
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"text": "2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党新人で元フジテレビ社員の三宅雪子に苦戦を強いられた。しかも、当時73歳だった福田は党の内規により重複立候補ができなかったため、一時は落選の報も流れたが、結果として福田が三宅を小選挙区で破り7回目の当選を果たした(三宅は比例代表北関東ブロックで復活当選している)。",
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"text": "2010年4月、世界経済フォーラムのアジア版として中華人民共和国で設立されたボアオ・アジア・フォーラムの年次総会にて、フィデル・ラモスの後任として理事長に選出された。",
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"text": "人口問題をライフワークとすることから、アジア人口・開発協会の理事長に就任するとともに、25か国の国会議員らで構成する「人口と開発に関するアジア議員フォーラム」にて議長を務めている。同フォーラムは各国で立法作業の支援活動を展開しており、それらの活動が評価され国際連合人口賞(団体部門)を受賞した。2010年6月、福田は国際連合本部ビルに招かれ、国際連合副事務総長のアシャ=ローズ・ミギロからメダルを授与された。",
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"text": "2010年の防衛大学校開校記念祭観閲式には、横須賀市の市長である吉田雄人らとともに来賓として出席した。",
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"paragraph_id": 41,
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"text": "麻生内閣の退陣と鳩山由紀夫内閣の成立により福田は一介の国会議員となったが、その経験を買われ、当時の民主党政権側から助力を求められることも多かった。2010年10月には、内閣総理大臣の菅直人に助言を請われ、アジア太平洋経済協力など外交分野について指南した。",
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"paragraph_id": 42,
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"text": "2012年9月26日の自由民主党総裁選挙終了後に地元選挙区の後援会会合に出席、その後に「次期衆議院議員総選挙に出馬せず、今期限りで議員を引退する」意思を表明した。同年11月16日の衆議院解散に伴い、衆議院議員を退任した。退任に際して、衆議院を解散した内閣総理大臣野田佳彦について「解散しなければいけないと分かりながら、引き延ばした。その間政治が停滞した。行政も予算編成も止まり、特に経済は相当な影響を受けた」と厳しく批判するとともに「政権交代が結果的に失敗だったことが、明白になった」と総括した。また、自身の政治活動を振り返り「『正しい政治をしたい』、そういう気持ちだけでやってきた。日本全体と多くの人に良い結果をもたらすような精神を貫いていきたい」と語った。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "同年11月に自由民主党群馬県第四区支部の党員大会が開催され、後任として長男の福田達夫の支部長就任が承認された。",
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"text": "ネルソン・マンデラの死去に際し、2013年12月9日に「故ネルソン・ロリシュラシュラ・マンデラ元南アフリカ共和国大統領の追悼式に参列する特派大使」に任命された。それに伴い南アフリカ共和国に渡航し、皇太子徳仁親王らとともにマンデラの追悼式に出席した。なお、同月24日まで特派大使を務めた。",
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"paragraph_id": 45,
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"text": "2014年7月27日、北京を訪問し習近平主席と極秘の会談を行ったことが明らかにされた。",
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"paragraph_id": 46,
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"text": "2015年1月25日、サウジアラビアの6代目アブドラ国王が死去したことにより、皇太子とともに特派大使として弔問に派遣される。",
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"paragraph_id": 47,
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"text": "2018年4月、ボアオ・アジア・フォーラムの年次総会にて、理事長を元国際連合事務総長の潘基文に交代し、諮問委員会主席に就任した。",
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"text": "2022年7月12日、安倍晋三の葬儀に出席している。",
"title": "来歴"
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"text": "安倍晋三首相と朴槿恵大統領の首脳会談も開かれない状態だった2014年の東京都の日韓交流のための祭りで福田は「互い(日韓)の心が通じる関係を確実につくっていかなければならない。」と日韓友好を訴えた。2017年8月末には安倍晋三を「よくやっている。資質もある方。」と評価する一方で、日本政府が米韓と連携して北朝鮮への圧力強化する方針については「日米韓連合で中国包囲網の形式になる懸念が中国にはある。中国政府と話さないと北朝鮮問題の解決の道は出てこない」と述べた。靖国神社参拝については「日本の首相が靖国神社に参拝しないことで、日本のマスコミが騒がなければ何も問題は起きない」との持論も語った。",
"title": "政策"
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"text": "2007年の自民党総裁選挙で、「希望と安心のくにづくり」、「改革を進め、その先にめざす社会」として次のような基本理念を示した。なお、「自立と共生」は10年前から新生党、旧民主党の理念として使われており、民主党代表の小沢一郎は「ずっと昔から僕が使っていた言葉を何かおっしゃっているみたいに感じた」と話している。",
"title": "政策"
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"text": "一方、福田は2007年10月21日の早稲田大学創立125周年記念式典にて、「自立と共生」は大隈重信が125年前に既に考えていたことだと発言したが、この発言に小沢への切り返しの意図があったのかは不明である。",
"title": "政策"
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"text": "前任の安倍晋三と比べると、多国間の協調を重視する姿勢が強いと評価されている。しかし、一方で他国に過大な配慮を行っているとの批判もあり、全方位土下座外交と呼ばれることもある。",
"title": "政策"
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"text": "身長171cm、体重70kg。趣味はベルリオーズ、バルトーク、シューベルトなどのクラシックの鑑賞。中学2年の時にベートーヴェンの交響曲第5番のレコードを貰ったことがきっかけである。好物は蕎麦、うどん、カレーライス、肉類。ワイン通としても知られる。勝海舟が好きで、歴史小説を中心に多くの本を読む。座右の銘は「誠実に日々一生懸命」、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」(勝海舟)。スポーツが好きで、若いころは登山、スキー、ゴルフ、ボウリングなどをしていた。現在の唯一のスポーツは速歩である。好きな映画としては『黄色いリボン』などの西部劇、俳優としては高峰秀子や藤原紀香を挙げている。愛犬家でありウェルシュ・コーギーを首相公邸で飼育している。サラリーマン時代の米国赴任の経験から英語が堪能。環境に配慮し、天然ガス自動車に乗っている。",
"title": "人物"
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"text": "冷静沈着な風貌で、会見時の冷笑的態度がよく知られていたが、実際には瞬間湯沸かし器といわれるほど激昂家である。官房長官時代は官房副長官を務めた安倍晋三の上司であったが、日本人拉致問題で帰国した被害者をいったん帰す意向であった福田に安倍が反発。この際「余計なことはするな」と机を蹴り上げて安倍を叱責したという。その他、官邸の官房長官執務室で大仁田厚に対し「大仁田君、政治は男のロマンだ。ファイヤー」と説くなど、ときに熱血漢ぶりを発揮することもある。政敵の菅直人は、官房長官時代の福田について「斜に構えているが泥をかぶってもやり遂げるというところがあった。小泉首相・福田官房長官というのは中曽根首相・後藤田官房長官を思わせる」と評している。脚本家の三谷幸喜は、当時の菅と福田を対比し、福田の物言いについて「明らかに面白いことを言おうという意思がうかがえ、しかも確実に面白いことを言っている」と評した。坪内祐三も「福田さんのブラックジョークが好きだった」としている。",
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"text": "自民党の数少ない外交族である。政界において外交は票に繋がらないというのが定説の中、父から継いだ強固な地盤で選挙には絶対の自信を持っていたためである。田中が外相時に外交が著しく停滞する中、官房長官として外務省を直接取り仕切り破綻を防いだ。これを小泉が高く評価し、後任の川口時代も実際に外務を取り仕切ることとなった。",
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"text": "小泉政権で福田と共に閣僚を務めた竹中平蔵は、首相就任後の福田について、クールアース推進構想での数値目標導入、公務員制度改革での内閣人事庁の新設、道路特定財源の一般財源化表明などを例示し「一カ月に一回くらい結構大きな決断をしている」と指摘し「福田総理は改革に後ろ向きであるわけではない」としている。同時に、竹中は福田政権の問題点として、福田によるプロアクティブな改革への取り組みを国民はリアクティブな改革として受け止めていると指摘し、「『政策マーケティング』に問題あり」と評している。福田政権で内閣総理大臣補佐官(社会保障担当)を務めた伊藤達也は「福田氏は厚労省改革で強い指導力をみせた」と評価した上で、福田は手柄を独り占めしようとせず「手柄を全部われわれに与えようとする」と指摘し「目立とうとしない政治家は珍しい」と評している。慶應義塾大学環境情報学部教授の福田和也は、公文書管理体制の強化を推進した福田について「あの人まじめだから、役所の記録とかを几帳面にきちんと文書化して残してるんだよ。きっと50年後の研究者はすごく助かると思う」と指摘している。",
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"text": "言語学者の東照二は、福田は情報を伝える効果をもつリポート・トークと呼ばれる話し方を得意とする一方、他人に感情を伝え、相手との共感を高める効果をもつラポート・トークと呼ばれる話し方が「できていない、どうしていいかわからない」人物であると指摘している。また東は、情報中心の言葉を多く使う福田が情緒中心の言葉を使う場面は往々にしてラポート・トークに結びつく「共感」「仲間意識」ではなく「怒り」「恐怖」「不満」を表明するときだとも指摘し、マスコミが福田の発言スタイルを「他人事節」と名付けたのは、「個人の強い思い入れ、心の底から湧いてくるような熱い思い、積極的な態度というものが浮かび上がってこない」特徴を指したものだとしている。",
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] |
福田 康夫は、日本の政治家。 衆議院議員(7期)、内閣官房長官(第67・68・69代)、沖縄開発庁長官(第41代)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)、自由民主党総裁(第22代)、内閣総理大臣(第91代)を歴任。 東京府東京市生まれで、群馬県高崎市育ち。大学卒業後、丸善石油株式会社に勤務し17年余りサラリーマン生活を送っていたが、40歳で退社し、政界入りする。父である福田赳夫の秘書を14年間務めた後、1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙において旧群馬3区から出馬し初当選を果たす。 第2次森内閣において内閣官房長官に抜擢され、続く小泉内閣でも官房長官を務めた。2004年(平成16年)、自身の年金未納が発覚したため、3年半余り務めた官房長官の職を引責辞任。在任期間は1289日、内閣官房長官として当時歴代最長在任記録を残した(2016年7月、第2次安倍内閣で内閣官房長官に就任した菅義偉に抜かれ、歴代2位となる)。ポスト小泉の候補として、安倍晋三の対立候補として総裁選への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。 2007年(平成19年)9月、安倍の突然の辞任劇の中、当初、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に2007年自由民主党総裁選挙に立候補する。麻生を破り、第22代自由民主党総裁に選出され、第91代内閣総理大臣に就任。史上初の親子二代での総理となった。2008年(平成20年)9月、内閣を総辞職し、内閣総理大臣・自民党総裁の職を辞した。2012年の衆議院選挙に出馬せず、同年11月に衆議院解散に伴い政界を引退した。
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{{Other people}}
{{注意|このページは[[WP:DEADREF|リンク切れ]]のWeb出典が多くなっており、記事の信頼性維持のため出典の差し替えが求められております。}}
{{政治家
|人名 = 福田 康夫
|各国語表記 = ふくだ やすお
|画像 = Yasuo Fukuda 200709.jpg
|画像サイズ = 220px
|画像説明 = [[内閣広報室]]より公表された肖像
|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1936|7|16}}
|出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[世田谷区]]
|没年月日 =
|死没地 =
|出身校 = [[早稲田大学政治経済学部|早稲田大学第一政治経済学部]][[経済学部|経済学科]]卒業
|前職 = [[コスモ石油|丸善石油]](現:[[コスモ石油]])従業員<br />衆議院議員秘書<br />[[内閣総理大臣秘書官]]
|現職 = [[ボアオ・アジア・フォーラム]]諮問委員会主席<br />アジア人口・開発協会理事長
|所属政党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]([[清和政策研究会|町村派]])
|称号・勲章 = [[学士(経済学)|経済学士]](早稲田大学・[[1959年]])
|親族(政治家) = 祖父・[[福田善治]]<br />義祖父・[[櫻内幸雄]](元衆議院議員)<br />父・[[福田赳夫]](元内閣総理大臣、元衆議院議員)<br />伯父・[[福田平四郎]]<br/>叔父・[[福田宏一]](元参議院議員)<br />義伯父・[[櫻内義雄]](元外務大臣、元衆議院議員)<br />義兄・[[越智通雄]](元経済企画庁長官、元衆議院議員)<br />長男・[[福田達夫]](衆議院議員)<br />甥・[[越智隆雄]](衆議院議員)
|配偶者 = 妻・[[福田貴代子]]
|国旗 = JPN
|職名 = 第91代 [[内閣総理大臣]]
|内閣 = [[福田康夫内閣]]<br />[[福田康夫内閣 (改造)|福田康夫改造内閣]]
|就任日 = [[2007年]][[9月26日]]
|退任日 = [[2008年]][[9月24日]]
|元首職 = 天皇
|元首 = 上皇([[明仁]])
|国旗3 = JPN
|職名3 = 第67-69代 [[内閣官房長官]]
|内閣3 = [[第2次森内閣]]<br />[[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編前)|第2次森改造内閣(省庁再編前)]]<br />[[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編後)|第2次森改造内閣(省庁再編後)]]<br />[[第1次小泉内閣]]<br />[[第1次小泉第1次改造内閣]]<br />[[第1次小泉第2次改造内閣]]<br />[[第2次小泉内閣]]
|就任日3 = [[2000年]][[10月27日]]
|退任日3 = [[2004年]][[5月7日]]
|国旗2 = JPN
|職名2 = [[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)|男女共同参画担当大臣]]<br />[[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)|内閣府特命担当大臣(男女共同参画)]]
|内閣2 = [[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編後)|第2次森改造内閣(省庁再編後)]]<br />[[第1次小泉内閣]]<br />[[第1次小泉内閣 (第1次改造)|第1次小泉第1次改造内閣]]<br />[[第1次小泉内閣 (第2次改造)|第1次小泉第2次改造内閣]]<br />[[第2次小泉内閣]]
|就任日2 = [[2001年]][[1月6日]]
|退任日2 = [[2004年]][[5月7日]]
|国旗4 = JPN
|職名4 = 第41代 [[沖縄振興局#歴代の沖縄開発庁長官等|沖縄開発庁長官]]
|内閣4 = [[第2次森内閣]]
|就任日4 = [[2000年]][[10月27日]]
|退任日4 = [[2000年]][[12月5日]]
|国旗5 = JPN
|職名5 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]
|選挙区5 = ([[群馬県第3区 (中選挙区)|旧群馬3区]]→)<br />[[群馬県第4区|群馬4区]]
|当選回数5 = 7回
|就任日5 = [[1990年]][[2月18日]]
|退任日5 = [[2012年]][[11月16日]]
|その他職歴1 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第22代 [[自由民主党総裁]]
|就任日6 = [[2007年]][[9月23日]]
|退任日6 = [[2008年]][[9月22日]]
}}
[[ファイル:George W Bush and Yasuo Fukuda 20080706 2.jpg|220px|thumb|[[2008年]][[7月6日]]、[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]](左)と]]
'''福田 康夫'''(ふくだ やすお、[[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[7月16日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。
[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](7期)、[[内閣官房長官]](第[[第2次森内閣|67]]・[[第1次小泉内閣|68]]・[[第2次小泉内閣|69]]代)、[[沖縄振興局#歴代の沖縄開発庁長官等|沖縄開発庁長官]]([[第2次森内閣|第41代]])、[[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)]]、[[自由民主党総裁]](第22代)、[[内閣総理大臣]]([[福田康夫内閣|第91代]])を歴任。
[[東京府]][[東京市]]生まれで、[[群馬県]][[高崎市]]育ち。大学卒業後、丸善石油株式会社に勤務し17年余りサラリーマン生活を送っていたが、40歳で退社し、政界入りする<ref>『[[読売新聞]]』2007年9月25日付</ref>。父である[[福田赳夫]]の秘書を14年間務めた後、[[1990年]]([[平成]]2年)の[[第39回衆議院議員総選挙]]において[[群馬県第3区 (中選挙区)|旧群馬3区]]から出馬し初当選を果たす。
[[第2次森内閣]]において[[内閣官房長官]]に抜擢され、続く[[第1次小泉内閣|小泉内閣]]でも官房長官を務めた。[[2004年]](平成16年)、自身の[[政治家の年金未納問題|年金未納]]が発覚したため、3年半余り務めた官房長官の職を引責辞任。在任期間は1289日、内閣官房長官として当時歴代最長在任記録を残した(2016年7月、[[第2次安倍内閣]]で内閣官房長官に就任した[[菅義偉]]に抜かれ、歴代2位となる<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016070500542&g=pol 菅官房長官、7日に在職歴代1位=1290日、福田康夫氏抜く]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>)。[[小泉純一郎#ポスト小泉|ポスト小泉]]の候補として、[[安倍晋三]]の対立候補として[[2006年自由民主党総裁選挙|総裁選]]への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。
[[2007年]](平成19年)9月、安倍の[[安倍晋三#体調の悪化と総辞職|突然の辞任劇]]の中、当初、後継総裁の最有力と見られた[[麻生太郎]]を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に[[2007年自由民主党総裁選挙]]に立候補する。麻生を破り、第22代[[自由民主党総裁]]に選出され、第91代[[内閣総理大臣]]に就任。史上初の[[親子]]二代での総理となった<ref>[https://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/100316.html 第22代 福田 康夫] 自由民主党{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref>。[[2008年]](平成20年)9月、[[内閣総辞職|内閣を総辞職]]し、内閣総理大臣・自民党総裁の職を辞した。[[2012年]]の衆議院選挙に出馬せず、同年11月に衆議院解散に伴い政界を引退した。
== 来歴 ==
[[画像:Yasuo Fukuda as a child.jpg|200px|thumb|left|幼少時の福田]]
=== 生い立ち ===
[[1936年]](昭和11年)[[7月16日]]、[[東京府]][[東京市]][[世田谷区]](現:[[東京都]][[世田谷区]])に[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[福田赳夫]]、[[福田三枝|三枝]]の長男として生まれる<ref name="yom">"[https://web.archive.org/web/20080609050406/www.yomiuri.co.jp/feature/fe5600/fe_070918_pr_fukuda.htm 安定感に定評 福田氏 プロフィール]" 読売新聞 2007年9月18日、2007年9月24日閲覧。</ref>。父親の仕事の関係で1942年9月からの数ヶ月、[[南京]]に住み生活し{{要出典範囲|date=2023年11月|南京に対するあこがれや望郷の思いを抱く。}}戦時中、父の実家の[[群馬県]][[群馬郡]][[金古町]](後に[[群馬町]]、現:[[高崎市]])に[[疎開]]していた<ref name="sank" />。金古町立金古小学校(現、高崎市立金古小学校)、大宮市立南小学校(現:[[さいたま市立大宮南小学校]])、東京高等師範附属小学校(現:[[筑波大学附属小学校]])、[[渋谷区立猿楽小学校]]などに学ぶ。[[1949年]](昭和24年)3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現:[[東京学芸大学附属世田谷小学校]])卒業。小学生時代の福田は[[野球]]の好きなスポーツ少年で、在[[中華人民共和国|中国]][[特命全権大使|大使]]を務めた[[谷野作太郎]]とはこのときから交流があった<ref name="sans">"[http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200709/sha2007092401.html 第22代自民党総裁は福田氏!史上初の親子2代首相が誕生]" [[サンケイスポーツ]] 2007年9月18日、2007年9月25日閲覧。{{リンク切れ|date=2016年6月}}</ref>。
[[1952年]](昭和27年)3月、[[麻布中学校・高等学校|麻布中学校]]、[[1955年]](昭和30年)3月、[[麻布中学校・高等学校|麻布高等学校]]卒業<ref name="kiso" />。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった<ref name="sank">"[http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070924/wdi070924005.htm 福田氏旧友「クールな捕手」発言心配?]" [[産経新聞]]2007年9月24日、2007年9月24日閲覧。</ref><ref name="mm9">「福田康夫ありのまま」[https://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2007/1206/1206.html 『福田内閣メールマガジン 第9号 〜 (2007/12/06) 〜』] 内閣官房内閣広報室、2007年12月18日閲覧。</ref>。同級生には[[声優]]の[[柴田秀勝]]や、物流大手の[[サンリツ]]会長の三浦正英などがいる<ref name="sank" />。
[[1959年]](昭和34年)3月、[[早稲田大学政治経済学部|早稲田大学第一政治経済学部]][[経済学部|経済学科]]を卒業。大阪に本社を置く[[コスモ石油|丸善石油]](現:[[コスモ石油]])に入社し、[[1962年]](昭和37年)3月から2年間、[[アメリカ合衆国|米国]][[ロサンゼルス]]支店に赴任<ref name="kiso" />。帰国後に[[石油]]製品の輸入課長も務め、石油の価格、量の動向の予測、判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた<ref>"[http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200709240020a.nwc 自民総裁に福田氏 「和」で難局に挑む 調整型“サラリーマン宰相”]" FujiSankei Business i: 2007-9-24. 2007年9月25日閲覧.</ref><ref>"[http://www.asahi.com/politics/update/0923/TKY200709230149.html 「影」の人、表舞台に 「本来は相当な決断型」]" 朝日新聞 2007年9月23日、2007年9月25日閲覧。</ref><ref name="akuj" />。このとき[[オイルショック]](第1次、1973年)を経験している<ref name="fm3">"[https://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2007/1025/1025.html 福田内閣メールマガジン第3号]" 福田内閣メールマガジン 2007-10-25. 2007年10月25日閲覧.</ref>。
[[1966年]](昭和41年)に元[[衆議院議長]][[櫻内義雄|桜内義雄]]の[[続柄#姪|姪]]の[[福田貴代子|嶺貴代子]]に、「政治家の女房にはしない」と誓い結婚<ref name="sans" />。
=== 政界入り ===
政界入りはしないとしていた福田だが、父の後継者とされた次男で養子に出した横手征夫が病気となり、母三枝が後継者に推したこともあって、政治家を志す<ref name="sans" /><ref name="20n">「『福田康夫』20のナゾ」『週刊新潮』2614号、26-30頁、2007年。</ref>。[[1976年]]11月に会社を辞め、衆議院議員秘書となり<ref name="kiso" />、[[1977年]]12月から1年間、父・赳夫の[[内閣総理大臣秘書官]]を務める。事務担当秘書官には、[[保田博]]、[[棚橋祐治]]、[[小和田恆]]らがいた。このことで、議員になる前より外務省にパイプができた。秘書官として、[[日中平和友好条約]]へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した。[[1990年]]2月に[[第39回衆議院議員総選挙]]で、[[群馬県第3区 (中選挙区)|群馬3区]]から出馬して当選([[小選挙区制]]導入後は[[群馬県第4区|群馬4区]]選出)。
初当選後の取材で「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代。独立した一人の人間として見ていただきたい」と語っていたが、「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから」「あの年寄り(父・赳夫)と一緒にしないでよ」などと漏らしてもいた<ref name="aera" />。連続7回当選する。50歳以上初当選組のクローニンの会に所属している。
議員としては、外務政務次官、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった。
=== 森政権 ===
[[2000年]][[10月]]、[[第2次森内閣]]でスキャンダルで辞任に追い込まれた[[中川秀直]]に代わり、内閣官房長官および沖縄開発庁長官に就任する。後任人事として[[小泉純一郎]]、[[尾身幸次]]、[[町村信孝]]が挙げられていたが、当時[[清和政策研究会#森派|森派]]会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」<ref name="mai">"[http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070924ddm012010032000c.html 福田・自民党新総裁:遅咲き、親子宰相/時を読み、頂点に(その2止)]" 毎日新聞 2007年9月24日、2007年9月24日閲覧。{{リンク切れ|date=2010年1月}}</ref>と考え推薦した。福田起用に関する協議はほぼ森首相と小泉の二人だけで行われたことから、党幹事長にもかかわらず相談を受けなかった野中広務は「私を取るか小泉氏を取るか」と怒りを顕わにした。これに対し小泉は「大人気ない」と一蹴した{{Sfn|『平成政治史 2』|p=140}}。福田はこの時点で[[国務大臣|閣僚]]経験が皆無だったため、官房長官への起用には疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役を務めた。森の失言の度に福田が会見でとりなし騒動を収めるというパターンが出来上がり、「弁明長官」と呼ばれた。
2000年12月の[[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編前)|第2次森改造内閣(中央省庁再編前)]]において内閣官房長官に留任し、沖縄開発庁長官は退任。翌年1月に成立した[[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編後)|第2次森改造内閣(中央省庁再編後)]]で内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任した。
=== 小泉政権 ===
[[画像:Yasuo Fukuda at fundraising October 2004 cropped.jpg|200px|thumb|[[内閣官房長官]]辞任直後の[[2004年]][[10月]]、[[赤坂プリンスホテル]]での後援会パーティーにて]]
2001年4月に組閣した[[第1次小泉内閣]]において引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任した。2002年9月の内閣改造により成立した[[第1次小泉第1次改造内閣]]でも、引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に留任した。2003年9月の内閣改造により成立した[[第1次小泉第2次改造内閣]]では、内閣官房長官に留任するとともに、男女共同参画担当大臣の改称により設置された内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)に就任した。
森政権に引き続き小泉政権においても2度にわたる[[内閣改造]]で留任し在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。官房長官の記者会見で垣間見える冷笑的態度から、ネットの匿名掲示板では「フフン」というあだ名がついた<ref>[[斎藤環]]『KY総理のキャラ分析』(「Voice」2008年4月号)</ref>。
[[内閣総理大臣官邸|官邸]]主導の[[政治]]体制が確立していく中で、[[日本国政府|政府]]各省や[[与党]]との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である[[外交]]における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[田中眞紀子]]と[[外務省]][[官僚]]との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。これにより、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。騒動の末小泉は田中を更迭し、後任に[[川口順子]]を起用する。これは、引き続き官邸外交は福田に任せたい小泉の意向であった。川口は[[民間人閣僚]]のため与党内に基盤を持たず、外務省との調整は官房長官の福田が事実上取り仕切ったためである。
男女共同参画担当大臣を兼任し、「2020年までにあらゆる分野の指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という数値目標などを掲げた<ref name="fm3" />。また、[[沖縄開発庁]]長官として[[沖縄科学技術大学院大学]]の設立構想で関係閣僚会合を開くなどして主導、女子暴行事件の容疑者引渡し交渉など米兵による事件にも対応した<ref name="okit" />。こうした経験から、首相就任時に沖縄に関して理解を示す期待が一部でされた<ref name="okit">"[http://www.okinawatimes.co.jp/day/200709241300_01.html 沖縄相経験者では初/検定問題対応に注目]" [[沖縄タイムス]] 2007年9月24日、2007年12月14日閲覧。{{リンク切れ|date=2010年1月}}</ref>。[[ハンセン病]]補償法訴訟の控訴断念にも一役買い([[福田康夫#社会保障|後述]])、政府の公式謝罪をした<ref>"[http://www.eda-jp.com/katudo/2001/010523.html 福田康夫官房長官の談話]" [[江田五月]]ホームページ 2003-5-23. 2007年12月8日閲覧.</ref>。
在職中は、元[[中華民国総統]]の[[李登輝]]が病気治療目的で来日を希望した際に、中国への配慮から、外務大臣[[河野洋平]]と共に[[査証|ビザ]]発給に反対したといわれる。また、[[北朝鮮による日本人拉致問題]]に関し、「終始冷淡な態度をとっていた」と家族会は語っている([[#エピソード]]の項を参照)。
[[中華人民共和国|中国]]や[[大韓民国|韓国]]などの[[靖国神社]]参拝に反対している国の意見などにも一定の配慮をすべきこと、[[憲法改正論議|憲法改正]]には周辺国の理解が必要と主張していることなどから、[[保守]]派の一部から「[[親中派]]」、「媚中派」などと批判されることもある。特に、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』とその系列[[マスメディア|メディア]]が官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し、『文藝春秋』から[[政府広報]]の広告を引き上げさせたとの報道も一部でなされた(実際、2004年から数ヶ月間、『文藝春秋』の誌面から政府広報が一切無くなった)。
[[2004年]][[4月]]、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、それまで歴代1位だった[[保利茂]]の在任記録を更新し、会見で「秘密主義長官、影の外務大臣、影の防衛庁長官。いろいろ名前はありますが、まあ、しょせん影ですから」と語った<ref name="mai" />(内閣官房長官在任記録は後に菅義偉に更新され、現在は歴代2位)。
[[4月28日]]に「([[国民年金]][[保険|保険料]]を払っているか否かの公表は)[[個人情報]]でそういうものを開示すべきではない」、「[[犯罪]]ですか?」云々との旨の本人発言直後に、保険料未納が発覚する。当初未納期間は、[[1990年]][[2月]]から[[1992年]][[9月]]の間と、[[1995年]][[8月]]から1995年[[12月]]までの間の合計3年1ヶ月間となっていたが、辞任直前、週刊文春が[[1976年]]11月から1990年2月までの間のうち、5年8ヶ月間も同じく未納であったことを報じた。
{{See also|政治家の年金未納問題}}
[[2004年]][[5月7日]] 定例[[記者会見]]の席で官房長官の辞任を表明。在任日数1289日。「風のごとく来りて、風のごとく去るということだ」との言葉を残して官邸を去った<ref name="goro">"[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070924-00000922-san-pol 福田氏語録「私は弁明長官」「私は捕手。絶対に受け止める」]" 産経新聞 2007年9月24日、2007年9月24日閲覧。{{リンク切れ|date=2010年1月}}</ref>。
=== ポスト小泉 ===
[[画像:Yasuo Fukuda Yoshiro Mori and Vladimir Putin 20051121.jpg|200px|thumb|[[2005年]][[11月21日]]、[[ロシア]][[ロシア連邦大統領|大統領]][[ウラジーミル・プーチン]](右)、[[衆議院議員]][[森喜朗]](中央)と]]
年金未納が発覚して小泉内閣の官房長官を辞任した後は、[[政権]]と距離を置き、[[第3次小泉改造内閣]]にも入閣しなかったために、小泉内閣に批判的な一部政治家やマスコミ・知識人などの自民党内外の諸勢力の間に総理総裁就任待望論があり、小泉の2006年9月の総裁任期満了を控え「ポスト小泉」有力候補(俗に言う[[麻垣康三]])の一人に挙げられてきた。
事前の各種[[世論調査]]において次期自民党総裁・首相として、[[安倍晋三]]に次ぐ支持率を得ることが多く、安倍に次いで次期首相の座に近い立場にあると目され、安倍への対抗馬の筆頭として注目を集めていた。[[アジア]][[外交]]などについて小泉内閣の路線を踏襲する色合いの強い安倍に対して、アジア重視の姿勢を見せるなど対立軸を提示し、政権への意欲ともとれる動きも見せていたが、2006年7月21日、総裁選への不出馬を正式に表明<ref name="bloomberg20060722">{{Cite web|和書|author=山村敬一 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2006-07-22/J2WBHZ0YHQ0X01 |title=福田氏が不出馬、安倍氏優位、自民総裁選-麻生、谷垣氏らの対応焦点 |publisher=ブルームバーグ |date=2006-07-22 |accessdate=2022-10-28}}</ref>。引退の意向すら漏らしたとも伝えられ、出馬を期待していた勢力からは失望の声が聞かれた。これを受け「ポスト小泉」の総裁選は、安倍の大勝に終わった。
安倍内閣においての要職起用は無く、表立った活動は少なかった。2007年6月には党住宅土地調査会会長として「200年住宅ビジョン」を発表したことが話題となった。[[与党]]が大きく議席を減らした[[第21回参議院議員通常選挙|2007年7月の参院選]]後は、[[8月27日]]の[[内閣改造]]人事における起用が取り沙汰されたが、実現しなかった。
しかし、7月の[[群馬県知事一覧|群馬県知事]]選挙では、自民党候補の[[大沢正明]]の選挙対策本部長を務めて当選に導き、そのリーダーシップを発揮した<ref name="akuj">『新政権を待ち受ける「悪事」の数々』[[読売ウィークリー]]pp.21-28, 2007-10-7. 2007年12月15日閲覧.</ref>。
{{See also|2006年自由民主党総裁選挙|麻垣康三}}
=== ポスト安倍 ===
[[画像:Voa chinese Yasuo Fukuda 23sep07 195.jpg|200px|thumb|[[2007年]][[9月12日]]、記者会見にて]]
[[2007年]][[9月12日]]に安倍晋三が[[内閣総理大臣]]、[[自由民主党総裁]]の辞任を表明し、その翌13日、福田に[[自由民主党総裁選挙]]への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。
15日、[[2007年自由民主党総裁選挙|自由民主党総裁選挙]]に立候補の届出をした。対立候補として[[麻生太郎]]が立候補したが、町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、[[麻生派]]以外の全派閥)が福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていた<ref>{{Cite news |url=http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070915k0000m010119000c.html |title=自民総裁選:福田氏が圧勝の勢い 麻生派除く8派が支持 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2007-09-14 |accessdate=2016-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070929135356/http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070915k0000m010119000c.html |archivedate=2007-09-29}}</ref>が、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった。
[[9月23日]]実施の自民党総裁選において330票(麻生:197票 無効票:1 計528票)を獲得し当選。第22代自民党総裁に就任。
{{See also|2007年自由民主党総裁選挙}}
=== 福田政権 ===
==== 福田内閣 ====
[[画像:Yasuo Fukuda profile.jpg|230px|thumb|左|プロフィール写真]]
[[画像:Fukuda meets Bush 16 November 2007.jpg|200px|thumb|[[2007年]][[11月16日]]、[[ホワイトハウス]]での共同記者会見後、[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]](右)と]]
[[画像:Vladimir Putin 26 April 2008-2.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[4月26日]]、[[ロシア連邦大統領|ロシア大統領]][[ウラジーミル・プーチン]](右)と]]
[[画像:George W Bush and Yasuo Fukuda 20080708.jpg|200px|thumb|[[第34回主要国首脳会議]]にて[[議長]]に就任]]
2007年[[9月25日]]に開かれた[[内閣総理大臣指名選挙|内閣総理大臣指名選挙(首班指名選挙)]]において、与党が過半数を占める[[衆議院]]では圧倒的多数で指名されるが、逆に[[野党]]が過半数を占める[[参議院]]では、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[小沢一郎]]が指名されるという“[[ねじれ国会]]”(逆転国会)の象徴的現象が起きた。[[両院協議会]]が開催されるが議論はまとまらず、法規に則り衆議院の議決が国会の議決となり、福田が[[内閣総理大臣]]に指名された。内閣の組閣に当たり、[[記者会見]]で福田は、「一歩でも違えば、自民党が[[政権]]を失う可能性もある」と指摘した上で、「背水の陣内閣」と自身の内閣を命名した。
翌[[9月26日]]に、宮中での親任式を経て正式に第91代内閣総理大臣に就任し([[福田康夫内閣]])、日本憲政史上初の親子での総理大臣就任となった。就任年齢となる71歳は、奇しくも父・赳夫が首相に就任した年齢と同じ(赳夫は71歳11ヶ月と10日、康夫は71歳2ヶ月と10日)である。
同年[[11月]]、福田と[[民主党代表]]小沢一郎との間で[[大連立構想 (日本 2007)|大連立構想]]が模索されたが頓挫し、一時は小沢が代表辞任を表明するなど混乱したが、その後、与野党は対決姿勢を強めることになった。[[第169回国会]]では、[[問責決議]]が[[1998年]][[10月16日]]の[[額賀福志郎]]以来10年ぶりに参議院で可決されたが、翌日には[[内閣信任決議]]が衆議院で可決された。なお、首相への問責決議案が国会で可決されたのは、[[田中義一]]{{efn|[[1929年]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]により[[内閣総理大臣]][[田中義一]]への問責決議案が可決された。}}、[[吉田茂]]{{efn|[[1954年]]、[[衆議院]][[予算委員会]]により[[内閣総理大臣]][[吉田茂]]への問責決議案が可決された。}}に続き3人目であり、[[日本国憲法]]下で参議院からは初である。
{{See also|福田康夫内閣|大連立構想 (日本 2007)|第168回国会|第169回国会}}
==== 福田改造内閣 ====
2008年[[8月2日]]、[[内閣改造]]により[[福田康夫内閣 (改造)|福田改造内閣]]が発足した。それに併せて、麻生太郎を[[自由民主党幹事長|幹事長]]に指名するなど、[[自由民主党執行部]]の人事も刷新した。[[国務大臣|閣僚]]の[[参議院枠]]は[[参議院議員団|参議院自民党]]の推薦に基づき選抜するのが慣例だが、今回の組閣では参議院会長[[尾辻秀久]]による推薦を一切無視し、福田の独断で[[林芳正]]や[[中山恭子]]らを入閣させ[[舛添要一]]を留任させた<ref>「改造舞台裏――参院の意向通らず/麻生氏、存在感示す」『[[讀賣新聞]]』47567号、[[読売新聞東京本社]]、[[2008年]][[8月3日]]、4面。</ref>。また、[[副大臣]]も党執行部の推薦に基づく選抜が慣例だが、今回は党からの推薦が差し戻され、閣僚経験者の[[鴨下一郎]]らが起用された<ref>「副大臣に元閣僚2人――首相、異例の介入――『実行力』に重点」『[[日本経済新聞]]』44018号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[8月5日]]、2面。</ref>。また、[[内閣総理大臣補佐官]]は、[[渡海紀三朗]]が新たに起用されたため全員が閣僚経験者となった。
{{main|福田おろし}}
[[2008年]][[9月1日]]、午後9時30分より緊急[[記者会見]]を開催し、その席上、「[[内閣総理大臣]]・[[自由民主党総裁]]を辞職する」ことを表明した。退陣の理由として「[[国民]]生活の為に、新しい布陣で[[政策]]実現を期してもらいたい」ということを述べた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080901/plc0809012305016-n1.htm 福田首相、退陣を表明] 産経新聞 2008年9月1日閲覧</ref>。
[[画像:Resignation of the Fukuda Cabinet 20080924.jpg|thumb|内閣総辞職に際して花束を贈呈される福田]]
[[2008年]][[9月24日]]、内閣総辞職。なお、国政選挙の結果を経ずに成立し、かつ在任中に大型国政選挙が無かったのは[[羽田内閣]]以来となる。
{{See also|福田康夫内閣 (改造)|2008年自由民主党総裁選挙}}
=== 内閣総理大臣退任後 ===
[[画像:Yasuo Fukuda and Kevin Rudd 201107.jpg|200px|thumb|left|[[2011年]][[7月]]、[[オーストラリア]][[:en:Minister for Foreign Affairs (Australia)|外務大臣]][[ケビン・ラッド]](右)と]]
[[内閣総理大臣]]退任後、[[インター・アクション・カウンシル]]のメンバーに就任し<ref>''[http://www.interactioncouncil.org/members/members.html IAC - Members]'', [[インター・アクション・カウンシル|Inter Action Council]].</ref>、[[2009年]]の総会では[[ヘルムート・シュミット]]、[[ジャン・クレティエン]]らと[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]など[[政治]][[経済]]の国際的な諸問題について討議した<ref>[[共同通信社]]『[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090512/mds0905120042002-n1.htm サウジでOBサミット――福田前首相ら世界経済危機を討議]{{リンク切れ|date=2018年11月}}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[5月12日]]。</ref>。また、[[麻生政権]]にて度々[[特派大使]]として各国を訪問し、日本の[[国際連合安全保障理事会]][[常任理事国]]入りに理解を求めるなど、協力関係の構築を進めている<ref>『[http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/press/enzetsu/21/sei_0321.html 外務省: TICAD閣僚級フォローアップ会合開会式 福田特派大使挨拶]』[[外務省]]、[[2009年]][[3月21日]]。</ref><ref>『[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/kaidan/others/uae_oman_09/gaiyo.html 外務省: 福田総理特使のアラブ首長国連邦、オマーン訪問]』[[外務省]]、[[2009年]][[3月26日]]。</ref><ref>『[http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2009/05/28/20090528ddm005010042000c.html 外交:福田前首相を特使に - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2009年]][[5月28日]]。</ref>。2009年[[7月]]の[[天皇]]・[[皇后]]北米歴訪の際は福田が首席随員に選任され、[[上皇明仁|明仁天皇]]、[[上皇后美智子|美智子皇后]]に随伴し[[カナダ]]や[[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]]を訪問した<ref>[[共同通信社|共同通信]]『[https://web.archive.org/web/20130508184032/http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009070301000550.html 両陛下、カナダに向け出発 日系人と懇談、ハワイへも - 47NEWS(よんななニュース)]』[[全国新聞ネット]]、[[2009年]][[7月3日]]。</ref>。
[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]では民主党新人で元[[フジテレビジョン|フジテレビ]]社員の[[三宅雪子]]に苦戦を強いられた。しかも、当時73歳だった福田は党の内規により重複立候補ができなかったため、一時は落選の報も流れたが、結果として福田が三宅を小選挙区で破り7回目の当選を果たした(三宅は[[比例北関東ブロック|比例代表北関東ブロック]]で復活当選している)<ref group="注釈">ちなみに、この衆院選で自民党は群馬県の小選挙区において5選挙区のうち3選挙区で野党に敗れ、当選出来たのは福田と[[群馬県第5区|5区]]の[[小渕優子]](当時少子化担当大臣)の2人にとどまった。</ref>。
[[2010年]][[4月]]、[[世界経済フォーラム]]のアジア版として[[中華人民共和国]]で設立された[[ボアオ・アジア・フォーラム]]の年次総会にて、[[フィデル・ラモス]]の後任として理事長に選出された<ref>編集NA『[http://j.peopledaily.com.cn/94474/6947451.html 福田康夫氏がボアオ・アジア・フォーラム新理事長に]』人民網日本、[[2010年]][[4月12日]]。</ref>。
[[人口]]問題をライフワークとすることから、アジア人口・開発協会の理事長に就任するとともに<ref>『{{PDFlink|[http://www.apda.jp/jp/pdf/members.pdf 財団法人アジア人口・開発協会役員名簿(理事・監事)]}}』[[2010年]][[3月18日]]。</ref>、25か国の国会議員らで構成する「人口と開発に関するアジア議員フォーラム」にて議長を務めている。同フォーラムは各国で立法作業の支援活動を展開しており、それらの活動が評価され国際連合人口賞(団体部門)を受賞した<ref name="yamashina20100604">山科武司『[http://mainichi.jp/select/world/news/20100604dde007030061000c.html 国連人口賞:アジア議員フォーラムが受賞 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2010年]][[6月4日]]。</ref><ref name="kyodo20100604">[[共同通信]]『[https://web.archive.org/web/20130508193329/http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010060401000147.html 福田元首相らの団体に国連人口賞 立法支援活動が評価 - 47NEWS(よんななニュース)]』[[全国新聞ネット]]、[[2010年]][[6月4日]]。</ref>。2010年6月、福田は[[国際連合本部ビル]]に招かれ、[[国際連合副事務総長]]の[[アシャ=ローズ・ミギロ]]からメダルを授与された<ref name="yamashina20100604" /><ref name="kyodo20100604" />。
2010年の[[防衛大学校]]開校記念祭観閲式には、[[横須賀市]]の市長である[[吉田雄人]]らとともに来賓として出席した<ref>[[五百旗頭真]]『[http://www.mod.go.jp/nda/obaradai/aisatsu/58kanetukunji.pdf 防衛大学校平成22年度(第58回)開校記念祭観閲式学校長式辞]』[[2010年]][[11月21日]]。</ref>。
[[麻生内閣]]の退陣と[[鳩山由紀夫内閣]]の成立により福田は一介の国会議員となったが、その経験を買われ、当時の民主党政権側から助力を求められることも多かった。2010年10月には、内閣総理大臣の[[菅直人]]に助言を請われ、[[アジア太平洋経済協力]]など外交分野について指南した<ref>『[https://web.archive.org/web/20101020195213/www.yomiuri.co.jp/politics/news/20101016-OYT1T00951.htm 首相が福田元首相と会談、APEC助言求める : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』読売新聞、[[2010年]][[10月16日]]。</ref><ref>『[https://web.archive.org/web/20101017174727/mainichi.jp/select/seiji/news/20101017k0000m010047000c.html 菅首相:APEC開催、福田氏が助言 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2010年]][[10月16日]]。</ref><ref>『[https://web.archive.org/web/20101019035237/www.nhk.or.jp/news/html/20101016/t10014629071000.html 菅首相 福田元首相と意見交換 NHKニュース]』[[日本放送協会]]、[[2010年]][[10月16日]]。</ref><ref>『[http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2010101702000036.html 東京新聞:福田元首相と菅首相が会談 APEC助言請う:政治 (TOKYO Web)]』[[中日新聞社]]、[[2010年]][[10月17日]]。</ref><ref>『[http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4552608.html 「首相、福田氏にAPECで助言求める」 News i - TBSの動画ニュースサイト]』[[TBSテレビ]]、[[2010年]][[10月17日]]。</ref><ref>『[http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/201017002.html 菅総理に福田元総理が指南 APEC首脳会合前に]』[[テレビ朝日]]、[[2010年]][[10月17日]]。</ref><ref>『[http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00186291.html FNNニュース: 菅首相、首相公邸に自民・福田元首相を招きおよそ40分間会談――APEC首脳会議で助言求める]』[[フジニュースネットワーク]]、[[2010年]][[10月17日]]。</ref>。
=== 代議士引退へ ===
[[2012年]][[9月26日]]の[[2012年自由民主党総裁選挙|自由民主党総裁選挙]]終了後に地元選挙区の後援会会合に出席、その後に「次期[[衆議院議員総選挙]]に出馬せず、今期限りで議員を引退する」意思を表明した<ref>[https://web.archive.org/web/20121006161034/mainichi.jp/select/news/20120927k0000m010074000c.html 福田康夫元首相:次期衆院選不出馬を表明] 毎日新聞 2012年9月26日閲覧</ref>。同年[[11月16日]]の衆議院解散に伴い、衆議院議員を退任した。退任に際して、衆議院を解散した内閣総理大臣[[野田佳彦]]について「解散しなければいけないと分かりながら、引き延ばした。その間政治が停滞した。行政も予算編成も止まり、特に経済は相当な影響を受けた」<ref name="otsuka20121117">大塚美智子『[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2012/news1/20121117-OYT1T00963.htm 福田康夫氏「今まで不毛な議論を続けてきた」 : ニュース : 衆院選2012 : 衆院選 : 選挙 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』[[読売新聞]]、[[2012年]][[11月17日]]。</ref>と厳しく批判するとともに「[[政権交代]]が結果的に失敗だったことが、明白になった」<ref name="otsuka20121117" />と総括した。また、自身の政治活動を振り返り「『正しい政治をしたい』、そういう気持ちだけでやってきた。日本全体と多くの人に良い結果をもたらすような精神を貫いていきたい」<ref name="otsuka20121117" />と語った。
同年11月に自由民主党群馬県第四区支部の党員大会が開催され、後任として長男の[[福田達夫]]の支部長就任が承認された<ref>『[http://sankei.jp.msn.com/region/news/121113/gnm12111302030000-n1.htm 福田達夫氏、支部長就任へ 自民県連 4区党員大会で承認 群馬 - MSN産経ニュース]』[[産経デジタル]]、[[2012年]][[11月13日]]。</ref><ref>『[https://archive.is/20130501113505/www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/news/20121113-OYT1T00692.htm 福田元首相の長男、群馬4区支部長に…満場一致 : 衆院選 : 選挙 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』[[読売新聞]]、[[2012年]][[11月13日]]。</ref>。
[[ネルソン・マンデラ]]の死去に際し、[[2013年]][[12月9日]]に「[[特派大使|故ネルソン・ロリシュラシュラ・マンデラ元南アフリカ共和国大統領の追悼式に参列する特派大使]]」<ref name="kampo20131211_8">「人事異動」『[[官報]]』6190号、[[国立印刷局]]、[[2013年]][[12月11日]]、8面。</ref>に任命された。それに伴い[[南アフリカ共和国]]に渡航し、[[皇太子徳仁親王]]らとともにマンデラの追悼式に出席した。なお、同月[[12月24日|24日]]まで[[特派大使]]を務めた<ref name="kampo20131211_8" />。
[[2014年]]7月27日、北京を訪問し習近平主席と極秘の会談を行ったことが明らかにされた<ref>『[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140801-00000000-jijp-pol.view-000 福田元首相、極秘に訪中]{{リンク切れ|date=2018年11月}}』[[時事通信]][[2014年]][[8月1日]]。</ref>。
[[2015年]][[1月25日]]、[[サウジアラビア]]の6代目[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドラ国王]]が死去したことにより、[[皇太子]]とともに特派大使として弔問に派遣される。
[[2018年]][[4月]]、ボアオ・アジア・フォーラムの年次総会にて、理事長を元[[国際連合事務総長]]の[[潘基文]]に交代し、諮問委員会主席に就任した<ref>{{Cite web |date=2018-04-10 |url=http://ydyl.people.com.cn/BIG5/n1/2018/0410/c411837-29915656.html |title=博鰲亞洲論壇產生新一屆理事會 潘基文當選理事長 |publisher=[[人民網]] |accessdate=2018-04-10}}</ref>。
[[2022年]][[7月12日]]、[[安倍晋三]]の葬儀に出席している<ref>https://www.minyu-net.com/news/gougai/gougai-pdf/20220713_080233.pdf 福島民友2022年7月13日1面</ref>。
== 政策 ==
=== 東アジア政策 ===
[[安倍晋三]]首相と[[朴槿恵]]大統領の首脳会談も開かれない状態だった2014年の東京都の日韓交流のための祭りで福田は「互い(日韓)の心が通じる関係を確実につくっていかなければならない。」と日韓友好を訴えた<ref>[http://news.naver.com/main/read.nhn?oid=437&sid1=104&aid=0000052984&mid=shm&mode=LSD&nh=20140927211504 도쿄에 울려퍼진 아리랑…한·일, 문화로 한발 가까이]</ref>。2017年8月末には安倍晋三を「よくやっている。資質もある方。」と評価する一方で、日本政府が米韓と連携して北朝鮮への圧力強化する方針については「日米韓連合で中国包囲網の形式になる懸念が中国にはある。中国政府と話さないと北朝鮮問題の解決の道は出てこない」と述べた。靖国神社参拝については「日本の首相が靖国神社に参拝しないことで、日本のマスコミが騒がなければ何も問題は起きない」との持論も語った<ref>[https://www.sankei.com/article/20170831-JI5FJODAVJORVCKXHL4VZOBXSI/ 福田康夫元首相「良くやっている」安倍晋三首相を評価]</ref>。
=== 基本理念 ===
2007年の自民党総裁選挙で、「希望と安心のくにづくり」、「改革を進め、その先にめざす社会」として次のような基本理念を示した<ref>[http://www.y-fukuda.or.jp/e_manifesto.html 福田康夫公式ウェブサイト内] ↓</ref><ref group="注釈" name="official">2007年9月25日より「なりすましメール」に注意を呼びかけるメッセージのみ掲載されている。</ref>。なお、「自立と共生」は10年前から[[新生党]]、[[民主党 (日本 1996-1998)|旧民主党]]の理念として使われており、民主党代表の[[小沢一郎]]は「ずっと昔から僕が使っていた言葉を何かおっしゃっているみたいに感じた」と話している<ref>"[http://www.asahi.com/politics/update/0919/TKY200709180409.html?ref=rss 「自立と共生、僕の言葉」 福田氏公約に小沢氏が皮肉]" 朝日新聞 2007年9月19日、2007年10月13日閲覧.</ref>。
一方、福田は2007年10月21日の早稲田大学創立125周年記念式典にて、「自立と共生」は[[大隈重信]]が125年前に既に考えていたことだと発言したが、この発言に小沢への切り返しの意図があったのかは不明である。
#自立と[[共生]]の社会
#ストック型(持続可能)の社会
#[[男女共同参画社会]]
=== 安全保障 ===
[[画像:Robert M. Gates meets with Yasuo Fukuda.jpg|200px|thumb|[[2007年]][[10月8日]]、[[総理大臣官邸]]にて[[アメリカ合衆国国防長官]][[ロバート・ゲーツ]](手前左)と]]
[[画像:Ackerley Fukuda.jpg|200px|thumb|[[2007年]][[11月20日]]、[[アンドルーズ空軍基地]]にて]]
;[[非核三原則]]の見直し
:2002年5月31日、内閣官房長官在任中、日本は理屈上核兵器保持は可能だが政策判断としてやめていると従来からの政府答弁をした。その直後に政府首脳が「(将来)[[国民]]が核を持つべきだということになるかもしれない」と「非核三原則見直し」と発言したと報じられたが、[[野党]]はこれを福田の発言であるとした<ref>『[[朝日新聞]]』2002年6月2日付</ref>。[[オフレコ]]での発言だったものの、非核三原則の見直しと捉えられ批判を呼んだ。同年6月10日、国会でこれらの発言などについての集中審議(議題を絞った審議)が行われた中で、福田は「それぞれの時代状況によって安全保障という問題は、国際情勢などを踏まえたさまざまな国民的議論があり得るということを述べたもの」、「将来、政府としての非核三原則見直しをするというような可能性を示唆したというのは自分の真意ではない」、「今後とも非核三原則を堅持していくという立場に変わりない」旨の釈明をした<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/011215420020610014.htm 第154回国会 衆議院 武力攻撃事態への対処に関する特別委員会14号] 平成14年(2002年)6月10日</ref>。
;自衛隊インド洋派遣
{{Main|自衛隊インド洋派遣|テロ対策特別措置法|テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法}}
:[[自衛隊インド洋派遣]]について肯定的であり、内閣官房長官在任時に[[テロ対策特別措置法]]の制定を主導し成立させた。当時の[[内閣官房参与]]だった[[岡本行夫]]は「安全で安上がり、しかも国際社会から評価された福田流外交の面目躍如」<ref>「不祥事さばき『影の外相』――外交族」『朝日新聞』43623号、[[朝日新聞社|朝日新聞東京本社]]、[[2007年]][[9月23日]]、4面。</ref>と評している。2007年9月、同法の延長について「(海自の活動は)日本の国際平和協力の一つの柱だ。現行法の延長が時間的制約で難しければ、新法を視野に入れるのはやむを得ない。新法を出すなら、[[臨時国会]]だ」<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe5600/news/20070921i114.htm 給油活動継続へ新法案提出も、福田・麻生両氏が一致] “YOMIURI ONLINE “2007年9月21日23時31分</ref>との考えを表明していたが、最終的に[[第168回国会]]への「[[テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法]]」(いわゆる「新テロ対策特措法」、「補給支援特措法」)提出を選択し、2008年[[1月11日]]に補給支援特措法を成立させた。前年11月1日にテロ対策特別措置法が失効したため、[[海上自衛隊]]はいったん[[インド洋]]から撤退していたが、補給支援特措法成立に伴い、福田は海上自衛隊のインド洋再派遣を命じた。
;自衛隊イラク派遣
{{Main|自衛隊イラク派遣|イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法}}
:[[自衛隊イラク派遣]]についても外務大臣の川口順子、[[防衛庁長官]]の[[石破茂]]ら関係閣僚とともに政策立案を主導、内閣官房長官在任時に「[[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法]]」(いわゆる[[イラク特措法]])を成立させている。
;防衛省の不祥事
{{See also|守屋武昌|山田洋行|日本ミライズ}}
:[[守屋武昌]]への接待問題や給油量隠蔽問題など[[防衛省]]の不祥事が相次いで発覚したことから、福田は内閣官房長官[[町村信孝]]に対し、内閣官房に「防衛省改革に関する有識者会議」を設置し対策を検討するよう指示した<ref>[[坂口裕彦]]『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20071116dde007010033000c.html 防衛省:不祥事続発で改革策検討へ 社保庁以来、官邸に有識者会議 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2007年]][[11月16日]]。</ref>。
: 2007年[[11月28日]]の自衛隊高級幹部会同では、「なれ合い、和気あいあいの雰囲気でもない」<ref>『[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007112701055 時事ドットコム:福田首相が栄誉礼を拒否=防衛省不祥事受け]』[[時事通信社]]、[[2007年]][[11月27日]]。</ref>と福田が判断し防衛省による[[栄誉礼]]や[[儀仗]]を拒否したうえで、綱紀粛正の徹底を訓示した<ref>『[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007112800664 時事ドットコム:「期待かみしめ、範示せ」=福田首相が自衛隊幹部に訓示]』[[時事通信社]]、[[2007年]][[11月28日]]。</ref>。
;日米同盟の強化
:2008年5月の演説にて、福田は[[日米同盟]]について「アジア・太平洋地域の[[公共財]]」<ref name="fukuda20080522">福田康夫「『太平洋が「内海」となる日へ―「共に歩む」未来のアジアに5つの約束―』国際交流会議『アジアの未来』晩餐会にて」『[http://www.kantei.go.jp/jp/hukudaspeech/2008/05/22speech.html 福田康夫日本国内閣総理大臣スピーチ 於・国際交流会議「アジアの未来」2008]』[[内閣官房]][[内閣広報室]]、[[2008年]][[5月22日]]。</ref>と指摘し、日本の安定維持のためだけでなく、アジア・太平洋での地域協力の基盤と位置づけた。さらに、「日米同盟の強化と、アジア外交の共鳴」<ref name="fukuda20080522" />を提唱し、日米の同盟関係の強化を積極的に推し進めると表明した<ref name="nikkei20080523">「アジアに防災・防疫網――首相提唱[[新型インフルエンザ|新型インフル]]に備え――太平洋を『内海』に」『[[日本経済新聞]]』43946号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[5月23日]]、1面。</ref>。
;対外情報機関の新設
:[[ウィキリークス]]により公開されたアメリカ合衆国の外交公電によれば、福田は内閣総理大臣在任中に対外情報機関の新設を指示していたとされる<ref name="Dorling20110221">Philip Dorling, "WikiLeaks unveils Japanese spy agency", ''[http://www.smh.com.au/technology/technology-news/wikileaks-unveils-japanese-spy-agency-20110220-1b17a.html WikiLeaks unveils Japanese spy agency]'', Fairfax Media, February 21, 2011.</ref><ref name="afp20110221">[[フランス通信社|AFP]]『[https://www.afpbb.com/articles/-/2786628?pid=6847036 日本政府、情報機関を準備か 豪紙入手の米外交公電 国際ニュース : AFPBB News]』[[クリエイティヴ・リンク]]、[[2011年]][[2月21日]]。</ref><ref name="ruvr20110222">『[http://japanese.ruvr.ru/2011/02/22/45533253.html 日本で戦後初となる対外情報機関が設立: The Voice of Russia]』[[ロシアの声]]、[[2011年]][[2月22日]]。</ref>。外交公電によれば、福田は2008年に対外情報機関を新設するよう命じ<ref name="Dorling20110221" />、内閣官房の[[内閣情報調査室]]を基盤とする機関が新設されることになったとされている<ref name="Dorling20110221" /><ref name="afp20110221" /><ref name="ruvr20110222" />。新機関は、アメリカ合衆国の[[中央情報局]]や[[イギリス]]の[[イギリス情報局秘密情報部|情報局秘密情報部]]を模範とし<ref name="Dorling20110221" /><ref name="afp20110221" /><ref name="ruvr20110222" />、他国や[[テロリスト]]などの情報収集にあたるとされる<ref name="Dorling20110221" />。日本国外での情報活動を主務とする機関の新設は、[[太平洋戦争]]後では初めてとなる<ref name="Dorling20110221" /><ref name="afp20110221" /><ref name="ruvr20110222" />。また、[[内閣情報官]]の三谷秀史は、同盟国であるアメリカ合衆国の[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]情報調査局局長のランダル・フォートと協議し、新機関では[[ヒューミント]]が優先課題となると表明した<ref name="Dorling20110221" /><ref name="afp20110221" />。なお、この対外情報機関の設立準備構想は、福田政権を継承した麻生政権に引き継がれたとされる<ref name="Dorling20110221" /><ref name="afp20110221" /><ref name="ruvr20110222" />。
{{See also|アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件|情報機関|内閣情報調査室}}
;イランの核開発問題
:2008年6月3日、ローマでの日本と[[イラン]]との首脳会談にて、福田は「日本とイランは[[石油]]以外の関係が進まない。障害は、核開発、ミサイルなど安全保障の問題だ」<ref name="asahi20080604">[[内田晃]]『[http://www.asahi.com/international/update/0604/TKY200806040003.html asahi.com:福田首相とイラン大統領、核開発めぐり応酬 - 国際]』[[朝日新聞社]]、[[2008年]][[6月4日]]。</ref>と主張し、[[イランの大統領]][[マフムード・アフマディーネジャード]]に対し核開発を中止するよう直接要請した。
: アフマディーネジャードは福田の主張に対し反論したが、その際に「核兵器は旧式で効率が悪く、保有しても実際には使えないことは、よくわかっている」<ref name="asahi20080604" />と述べた。この発言を聞いた福田は言葉尻を捉え「いい話をうかがった」<ref name="asahi20080604" />として「大統領が核兵器を中心に安全保障を考えていないことは重視したい」<ref name="asahi20080604" />と指摘し、さらに重ねて「濃縮を停止する英断を求めたい」<ref name="asahi20080604" />と要求を繰り返した。アフマディーネジャードは既存の核保有国の軍縮を持ち出して再反論したため議論が白熱し、最終的にアフマディーネジャードが「テヘランか東京で議論を続けたい」<ref name="asahi20080604" />と収めることになった。
:その際、福田はイランでの日本人学生誘拐事件の早期解決も同時に要請し、アフマディーネジャードから「健康に家族のもとに戻れるよう最善の努力を払う」<ref name="asahi20080604" />との言質を取った。イラン当局は犯人グループが被害者を[[パキスタン]]領内に連行したことまで確認済みだったが、イランは「パキスタンに借りはつくれない」との立場を取り同国に協力要請をせず、2007年10月から膠着状態となっていた<ref name="nikkei20080617">[[加賀谷和樹]]「イラン、法人誘拐解決に苦渋と思惑――パキスタンに協力要請――日本に『貸し』孤立脱却狙う」『[[日本経済新聞]]』43970号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[6月17日]]、8面。</ref>。しかし、福田の要請により日本との外交悪化を懸念したイラン当局は、やむを得ずパキスタンに捜査協力を要請し、パキスタン側から犯人グループ幹部が引き渡され、[[6月14日]]に日本人学生は解放された<ref name="nikkei20080617" />。
;北朝鮮による核開発
:首相就任後の[[CNN]]からの[[インタビュー]]にて、核開発を進める北朝鮮について「近隣に脅威を与えるようなものを持つ限りは自立していくのは難しい」<ref name="arimoto20071119">有元隆志「『北朝鮮、核保有続けるなら消滅』――福田首相、米テレビに語る」産経新聞[[産経新聞社]]、[[2007年]][[11月19日]]。</ref>と指摘した。さらに、北朝鮮の将来について「今のままではいずれは消滅してしまう」<ref name="arimoto20071119" />と厳しい評価を下し、北朝鮮の核兵器放棄が必須との考えを表明した。
;防衛費の増額
:2011年2月、福田は日本の防衛力について「もう少し強化してもいい。そういうこともきちっとすることが外交力発揮の基礎になる」<ref name="sankei20110221">『[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110221/stt11022118320005-n1.htm 福田元首相、防衛力強化の必要指摘「GDPの1%より低い。抑止力になるのか」 - MSN産経ニュース]』[[産経デジタル]]、[[2011年]][[2月21日]]。</ref>と指摘し、防衛力を強化するよう訴えた。特に強化すべき点については「[[軍事力]]というのは単に力、[[武器]]が強ければいいというだけではない。その前に情報力が必要で、日本はその面で非常にうまくいっていない」<ref name="sankei20110221" />と指摘し、情報収集に関する分野に対してより重点的に注力するよう訴えている。さらに、近年の[[防衛費]]について「[[国内総生産]] (GDP) の1%より低く、これで[[抑止力]]になるのか考えないといけない」<ref name="sankei20110221" />と述べ、[[防衛費1%枠]]の上限にすら達していない点を問題視し、[[防衛費]]の増額を主張した。
=== 財政 ===
;財政健全化
:[[中川秀直]]、[[麻生太郎]]ら[[第1次安倍内閣|安倍内閣]]が提唱した経済成長による税収増を目指す[[上げ潮派]]とは一線を画しており、小泉純一郎、[[谷垣禎一]]らが小泉内閣において推進した「財政再建重視政策」を主張している。福田は「[[聖域なき構造改革|小泉構造改革]]は、改革の道筋・日本の行く道を示し、大きな成果を挙げた」と評価しており<ref name="reuters070915">{{Cite web|和書|date=2007-09-15 |url=https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-27906720070915 |title=消費税上げに言及、小泉構造改革の方向性で=福田元官房長官 |publisher=ロイター |accessdate=2011-01-10}}</ref>、構造改革を「実行する上での諸問題に丁寧に対応し、この改革の方向性を見失うことなく道筋を作っていかなければならない。方向性は変わらない」と語っている<ref name="reuters070915" />。具体的には、小泉内閣が推進した[[歳出]]・[[歳入]]一体改革の継承を謳っており「歳出・歳入改革を一緒にできないか。一緒に進めることで改革のスピードを上げられれば一番良い」と発言している<ref name="reuters070915" />。また、小泉内閣では先送りされた[[消費税]]増税については、「消費税を増税しなければ[[財政赤字]]は減らない」としている<ref name="reuters070915" />。
;基礎的財政収支の黒字化
:[[上げ潮派]]には否定的であり、[[景気]]浮揚を目指しての財政出動を伴うバラマキ政策は採らないとしている。日本政府は2011年度までに[[基礎的財政収支]]の黒字化を目指す財政再建目標を掲げているが、福田は「達成するように最大限努力するのは当然だ。先に延ばすことは一切考えていない」<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070920i115.htm 財政再建目標を堅持、皇室典範改正は議論必要…福田氏] “YOMIURI ONLINE “ 2007年9月21日1時30分</ref>と明言している。麻生太郎や[[公明党]]幹事長の[[北側一雄]]らが財政再建目標の先延ばしを訴えており、連立与党の公明党とも主張が対立している。
{{See also|上げ潮派}}
=== 税制 ===
;[[道路特定財源制度]]についての指針を提示
{{Main|道路特定財源制度}}
:2008年[[3月19日]]、自由民主党[[政務調査会長]]の[[谷垣禎一]]と公明党政務調査会長の[[斉藤鉄夫]]に対して指針『道路特定財源の考え方』を示し<ref>「道路財源――首相『全額一般財源化も』――民主と協議へ――法案修正譲歩」『[[讀賣新聞]]』47431号、読売新聞東京本社、[[2008年]][[3月20日]]、1面。</ref>、一般財源化に向け税制改正による道路特定財源の見直し、新需要予測に基づく道路整備中期計画の見直し、道路予算の透明化・厳格化など5項目の実現を谷垣と斉藤に指示した。
:福田の打ち出した指針には「[[道路特定財源]]は[[税制]]抜本改正時に一般財源化に向け見直す」<ref name="yomiuri20080320">「税制法案修正――週内にも協議呼びかけ――民主『根本的に考え違う』」『読売新聞』47431号、読売新聞東京本社、[[2008年]][[3月20日]]、4面。</ref>との文言が明記された上、福田が「全額一般財源化を視野に入れたものだ」<ref name="yomiuri20080320" />としたため、福田との会談を終えた谷垣は「首相はここまで考えていたのかと驚いた」<ref name="yomiuri20080320" />と語った。さらに、福田は記者団に対し「税制の抜本改革は前から約束している。その際は(道路特定財源の)全額一般財源化も視野に入れ検討していく」<ref name="asahi20080320">「一般財源化を与党合意――道路財源――民主と協議入り困難」『朝日新聞』43796号、朝日新聞東京本社、[[2008年]][[3月20日]]、1面。</ref>とした上で「暫定税率は抜本改革の中で考えていい」<ref name="asahi20080320" />と語り、一般財源化するだけでなく税率自体の見直しも検討課題に含むと表明した。
;緊急記者会見で「福田提案」を提唱
:2008年[[3月27日]]、福田は[[総理大臣官邸]]で緊急記者会見を行い、道路特定財源制度を全て廃止し2009年度から一般財源化すると正式発表した<ref name="sankei20080327">『[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/133185/ 「道路特定財源を全額一般財源化 首相表明、21年度から」政治も‐政局ニュース:イザ!]』産経デジタル、[[2008年]][[3月27日]]。</ref>。道路整備中期計画については整備期間を半減させ<ref>『[http://mainichi.jp/select/today/news/20080327k0000e010103000c.html 道路特定財源:09年度からの一般財源化を表明 福田首相 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[3月27日]]。</ref>、整備計画や一般財源の使途については与野党協議会での協議に応じると提案した<ref name="sankei20080327" />。また、公益法人や道路整備特別会計については、無駄な支出の排除徹底を重ねて表明した<ref name="sankei20080327" />。さらに、仮に民主党と2008年度予算関連法案について合意できなくても、2009年度からの一般財源化は実施すると明言した。
:臨時記者会見の発表内容については、財務省、国土交通省、与党役員、[[族議員|道路族議員]]には相談せず、福田と一部の官邸スタッフだけで策定された<ref name="asahi20080328">「道路財源緊急会見――孤独の決断首相窮地」『朝日新聞』43804号、朝日新聞東京本社、[[2008年]][[3月28日]]、2面。</ref>。会見直前に内容を知らされた[[自由民主党幹事長]]の[[伊吹文明]]は「そこまで踏み込む必要はない」<ref>『[https://web.archive.org/web/20080401034710/mainichi.jp/select/seiji/news/20080328ddm002010085000c.html ガソリン鳴動:多元中継 突然の首相会見 寝耳に水、自民大荒れ - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[3月28日]]。</ref>「今日会見しなくてもよいのではないですか」<ref>『[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/133289/ 「道路財源 首相新方針で与党に激震 」政治も‐政局ニュース:イザ!]』産経デジタル、[[2008年]][[3月27日]]。</ref>「そんなの踏み込みすぎです」<ref name="asahi20080328" />と[[電話]]で福田を説得したが、福田は応じなかった。驚いた幹事長代理の[[細田博之]]は「皆さん軟弱だ。『[[殿]]、ご乱心』と言ってくる!」<ref>『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080328k0000m010155000c.html 道路特定財源:首相の「一般化」明言、自民道路族に不快感 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[3月28日]]。</ref>と政務調査会長の谷垣禎一とともに官邸に駆けつけたが、福田は「世論の相場観はそうだろ」<ref name="asahi20080328" />と指摘し与党側の説得を一蹴し、臨時記者会見で発表した。自民党の[[河野太郎]]は、党の反発を押し切った福田の姿勢を「総理による宮廷[[クーデター]]」<ref name="kono20080328">[[河野太郎]]「宮廷クーデター」『[http://www.taro.org/blog/index.php/archives/840 衆議院議員 河野太郎発行メルマガ「ごまめの歯ぎしり」ブログ版 » 宮廷クーデター]』[[2008年]][[3月28日]]。</ref>と評し、福田提案により自民党内の一般財源化主張派が「[[抵抗勢力]]から[[近衛兵|近衛部隊]]に一変した」<ref name="kono20080328" />とした。河野や[[水野賢一]]ら一般財源化主張派は福田提案への賛同者を募り、他党の国会議員をも含む「福田提案を支持し道路特定財源の一般財源化を実現する会」を結成した<ref>「暫定税率再議決6派閥足並み――自民一般財源化『担保』の声――TV出演・街頭演説民主はアピール躍起」『朝日新聞』43811号、朝日新聞東京本社、[[2008年]][[3月4日]]、4面。</ref>。
;道路特定財源の一般財源化の推進
:道路特定財源制度の一般財源化は[[小泉政権]]の[[聖域なき構造改革]]ですら実現を見送っており、続く安倍政権では余剰分のみしか一般財源化できず失敗したことから、歴代政権でも断念した難題と指摘されており<ref>『[http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20080328ddm005070147000c.html 社説:首相新提案 次は民主党が歩み寄る番だ - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[3月28日]]。</ref>、実現できれば画期的<ref>「首相の決断―小沢代表が応える番だ」『[http://www.asahi.com/paper/editorial20080328.html asahi.com:朝日新聞社説]』朝日新聞社、[[2008年]][[3月28日]]。</ref>だが実際には難航すると予想された。しかし、[[3月30日]]には[[国会対策委員長]]の[[大島理森]]が、福田提案を正式な与党案とすることを表明し<ref>『[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080330-OYT1T00365.htm 道路特定財源の首相提案、正式な与党案として野党に提示へ : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』読売新聞、[[2008年]][[3月30日]]。</ref>、翌日には閣僚らが福田提案の具体化に向け協議を開始した<ref>坂口裕彦『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080331k0000e010039000c.html 道路特定財源:官房長官ら5閣僚が具体化協議 首相新提案 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[3月31日]]。</ref>。[[4月11日]]、政府、自由民主党、公明党は2009年度に道路特定財源を全廃することで正式合意し、福田は「道路特定財源を廃止し、一般財源化を進めるため、与野党協議を進めていただきたい」<ref>「政府・与党、『道路』09年度一般財源化合意」『[http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20080413AT3S1101W11042008.html NIKKEI NET(日経ネット):政治ニュース-政策、国会など政治関連から行政ニュースまで]』[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[4月12日]]。</ref>と指示した。[[5月12日]]、福田は若手議員を官邸に集め「これをできないような自民党や公明党には明日はない。必ずやり遂げる」<ref>「『一般財源化、できない党に明日はない』――首相、若手に決意――再可決での造反『党内、問題ない』」『[[日本経済新聞]]』43936号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[5月13日]]、2面。</ref>と鼓舞激励し、翌日に道路特定財源の全廃を[[閣議決定]]した。
=== 金融 ===
[[画像:Fukuda at Davos.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]]年次総会にて]]
;金融危機への対応
:小泉政権下では[[金融不安]]解消のため[[不良債権処理]]が積極的に推進されたことから、内閣官房長官を務めた福田も[[金融危機]]対応の経験を積んだとされる<ref name="nikkei20080917">「リーマン破綻・事故米問題…――『政治空白』を直撃――危機対応、政府追われる――総裁選でも論点に」『[[日本経済新聞]]』44060号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[9月17日]]、2面。</ref>。
:福田政権下では2008年[[9月15日]]にアメリカ合衆国の[[リーマン・ブラザーズ]]が破綻したが、その際も日本政府は素早い対応を見せた。[[リーマン・ブラザーズ証券]](日本法人)の顧客資産の国外流出が懸念されたことから、顧客資産の保全を名目に9月15日午後3時に国内資産保有命令を発動、同日午後9時に業務停止命令を発動した<ref>「金融庁、休日返上で対応――生保『破綻こんなに速く…』」『[[日本経済新聞]]』44060号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[9月17日]]、4面。</ref>。同日夜、福田は「明朝に[[金融]]関係の[[閣僚]]を集めてくれ」<ref name="nikkei20080917" />と指示し、重ねて[[日本銀行総裁]][[白川方明]]にも出席を要請し<ref name="nikkei20080917" />、さらに[[財務大臣 (日本)|財務大臣]][[伊吹文明]]と対応策を協議した<ref>「政府・日銀為替協調介入も視野――リーマンの取引内容金融庁、詳細把握へ」『[[日本経済新聞]]』44060号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[9月17日]]、7面。</ref>。翌日の朝には白川らも交えた金融関係閣僚等懇談会を緊急招集し、対応策を協議した。
;[[空港法|空港整備法]]案の外資規制条項削除
:2008年、[[国土交通省]]が空港運営会社への外資規制を含む空港整備法改正案を提示すると、内閣府特命担当大臣の大田弘子や[[渡辺喜美]]らが規制に反対し、[[国土交通大臣]]の[[冬柴鐵三]]と対立した。[[世界経済フォーラム]]年次総会([[ダボス会議]])にて対日投資の拡大を呼びかけるなど、福田は[[空港]]関連会社への外資規制には従来慎重な考えを持っていた<ref name="misawa20080229">三沢耕平『[http://mainichi.jp/select/biz/news/20080229k0000m010152000c.html 空港整備法改正案:外資規制削除は「小泉改革」派の勝利 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[2月29日]]。</ref>。そのため、同年[[2月5日]]に規制反対派の中川秀直と会談した際、福田も中川の意見に同意した<ref name="misawa20080229" />。閣内不一致を解消するため内閣官房長官の町村信孝が[[東京国際空港]][[日本空港ビルデング|運営会社]]のみ規制対象外とする妥協案を提示したが、福田は「ダボス発言と矛盾する」<ref name="misawa20080229" />と拒否した。同年[[2月27日]]には冬柴が町村に再度外資規制の必要性を強く訴えたが、福田は冬柴の意見を却下し<ref name="misawa20080229" />規制条項を削除した法案を[[閣議決定]]した。
:この閣議決定に対し、冬柴の出身母体の公明党では異論が相次ぎ、政務調査会長の斉藤鉄夫は「公明党をなめているのかという声は非常に強い」<ref>『[http://www.asahi.com/politics/update/0304/TKY200803040382.html asahi.com:空港外資規制見送りに公明不快感 「なめているのか」 - 政治]』朝日新聞社、[[2008年]][[3月4日]]。</ref>と批判した。一方、渡辺喜美は「福田康夫首相と町村信孝官房長官の強い[[リーダーシップ]]で、いきなり外資規制を導入するという乱暴なことが回避されたのは大変結構だった」<ref name="reuters20080229">[[ロイター]]『[https://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-30571720080229 空港の外資規制の見送りは大変結構=渡辺担当相| ビジネス| Reuters]』[[ロイター|ロイター・ジャパン]]、[[2008年]][[2月29日]]。</ref>と評価し「わが国の[[資本]][[市場]]が安心して[[投資]]できる[[環境]]にあることがあらためて確認された」<ref name="reuters20080229" />と指摘している。
=== 経済 ===
[[画像:Klaus Schwab Yasuo Fukuda and Tony Blair 20080126.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]][[理事長]][[クラウス・シュワブ]](左)、[[中東カルテット]]特使[[トニー・ブレア]](右)と]]
[[画像:Klaus Schwab and Yasuo Fukuda 20080126.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]][[理事長]][[クラウス・シュワブ]](左)と]]
;200年住宅ビジョン
:党の住宅土地調査会では会長に就任し、2007年5月に「[[200年住宅]]ビジョン」を提言している。「30年程度しかもたない今の住宅では、土地にしか価値がなくなるから土地が投機対象になる」<ref name="hoshi">星浩「政態拝見――地味な福田流――それは『退屈』か『安定』か」『朝日新聞』43631号、朝日新聞東京本社、[[2007年]][[10月2日]]、4面。</ref>と指摘し、住宅の耐用年数向上の実現による資産価値向上と、その実現に向け税制改正の可能性に言及している。
:[[内閣総理大臣]]就任後、福田は「大量生産、大量消費をよしとする社会からの決別」<ref>『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080103/plc0801031933004-n2.htm 首相肝いり「200年住宅」 政府・次期通常国会で法案提出へ(2/2ページ)- MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2008年]][[1月3日]]。</ref>を宣言し、30年程度で建て替える日本の住宅の[[製品ライフサイクル]]を見直し長寿命化を推進する、と主張した。[[福田内閣]]では「長期耐用住宅」に対する[[不動産取得税]]や[[固定資産税]]の減免を盛り込んだ「[[長期優良住宅普及促進法]]」案を策定し、[[第169回国会]]に提出した。また、[[住宅]]改修時の履歴や[[エビデンス]]を記録をさせるなど、中古住宅を安心して購入できる環境を整備し、転売を促進することで中古住宅[[市場]]の活性化を図るとしている<ref>『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080103/plc0801031933004-n1.htm 首相肝いり「200年住宅」 政府・次期通常国会で法案提出へ(1/2ページ)- MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2008年]][[1月3日]]。</ref>。第169回国会の混乱の煽りを受け、長期優良住宅普及促進法案は継続審議扱いとなったが、[[第170回国会]]にて可決、成立した<ref>『[https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/article.aspx?id=20081128000130 「200年住宅」の普及促進/長期優良住宅法が成立―四国新聞社]』[[四国新聞社]]、[[2008年]][[11月28日]]。</ref>。
;消費者保護
:第168回国会の所信表明演説にて「真に消費者や生活者の視点に立った行政に発想を転換」<ref>『[http://www.kantei.go.jp/jp/hukudaspeech/2007/10/01syosin.html 第168回国会における福田内閣総理大臣所信表明演説]』[[内閣官房]]内閣広報室、[[2007年]][[10月1日]]。</ref>すると述べ、消費者保護政策を重視する考えを示している。政権発足後、[[内閣府特命担当大臣(国民生活担当)]]の[[岸田文雄]]に対し、消費者の視点で政府の政策や法令を見直し2007年12月までに緊急対策を纏めるよう指示している<ref>『[http://www.asahi.com/politics/update/1101/TKY200711010380.html asahi.com:「消費者重視へ転換を」 首相、全政策見直し指示 - 政治]』朝日新聞社、[[2007年]][[11月1日]]。</ref>。今後、中央省庁の案や有識者の意見を踏まえ岸田が福田に報告し、法改正が必要な場合は[[第169回国会]]での法案提出を目指すとしている。その他、内閣総理大臣として史上初めて[[国民生活センター]]を視察したり、国民生活審議会への出席時間が内閣総理大臣として歴代最長となったり<ref>『[http://www.asahi.com/politics/update/1105/TKY200711050312.html asahi.com:省庁政策点検「消費者の目で」 首相、国民生活審に要請 - 政治]』朝日新聞社、[[2007年]][[11月5日]]。</ref>と、さまざまな場で消費者重視政策をアピールしている。[[第1次安倍内閣|安倍政権]]では国民生活センターの大幅な機能縮小が提言された<ref>[[内閣府]]国民生活センターの在り方等に関する検討会『{{PDFlink|[https://www5.cao.go.jp/seikatsu/ncac/l-001.pdf 国民生活センターの在り方等に関する検討会最終報告]}}』[[2007年]][[9月]]。</ref>が、福田は内閣府国民生活局長の西達男に対し「10年後、20年後を見通して組織として充実を図るべきだ」<ref>『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20071219k0000m010131000c.html 国民生活センター:内閣府が機能充実を検討 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2007年]][[12月18日]]。</ref>と指示、国民生活審議会で機能強化を検討することになった<ref>『[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20071219i301.htm 国民生活センター統合せず、機能強化へ…政府決定 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』読売新聞、[[2007年]][[12月19日]]。</ref>。
{{See also|国民生活センター}}
;消費者行政一元化
:[[2008年]][[4月23日]]、福田は「[[消費者行政推進会議]]」にて、政府の消費者行政を一元化するため内閣府の[[外局]]として「[[消費者庁]]」を新設し、消費者行政の企画立案や他省庁への是正勧告権を附与すると正式表明した。
:福田は「消費者行政の司令塔として、消費者の安全、安心にかかわる問題について幅広く所管し、消費者の視点から監視する強力な権限を有する消費者庁を来年度に立ち上げ、早急に事務作業に着手する」<ref>『[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/139860/ 「福田首相が「消費者庁」創設を表明」政治も‐政局ニュース:イザ!]』産経デジタル、[[2008年]][[4月23日]]。</ref>とし、各省庁に対する是正勧告権を附与する考えを示した。また、「消費者庁創設は行政組織の肥大化を招くものであってはならない。各省の重複や時代遅れの組織の整理にもつながるものでなければならない」<ref>『[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080423-OYT1T00371.htm 消費者庁を創設、09年度から…首相が正式に表明 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』読売新聞、[[2008年]][[4月23日]]。</ref>と強調し、消費者庁の組織・定員は他省庁から振り替えることで[[行政]]の肥大化を防ぎ、併せて[[縦割り行政]]の弊害解消や[[小さな政府]]実現を目指すよう指示した。これを受け、政府内にて「消費者庁設置法」などの法制化の準備が進められ、同法をはじめとする関連法案が[[第170回国会]]に提出された。これらの法案は次の国会に引き継がれ、[[第171回国会]]にて[[衆議院]]、[[参議院]]とも与野党全会一致により可決、成立した<ref>『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090529/plc0905290901008-n1.htm 消費者庁法が成立 - MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2009年]][[5月29日]]。</ref>。
{{See also|消費者庁}}
;[[経済]]の[[構造改革]]
:[[日本経済]]について「成長だとかGDP(国内総生産)という量的なものではなく、質的な転換がいる」<ref name="asahi20080219">「首相じわり改革色――株下落人事でやる気PR――『小泉回帰』自民内に反発」『朝日新聞』43766号、朝日新聞東京本社、[[2008年]][[2月19日]]、4面。</ref>との持論を持っており、経済財政諮問会議に「構造変化と日本経済専門調査会」を新規に設置した。内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)[[大田弘子]]に対し、小泉政権当時の経済財政諮問会議議員だった[[牛尾治朗]]や、[[植田和男]]、[[香西泰]]を同調査会のメンバーとするよう指示し、同調査会に対し[[21世紀]]版「[[前川リポート]]」を策定するよう要請した<ref name="asahi20080219" />。
:「構造変化と日本経済専門調査会」の初会合で福田は[[植田和男]]を会長に指名し、[[第34回主要国首脳会議]]前でにリポートを纏め、内需主導の経済構造の実現を訴えることを目指すとした<ref>三島健二『[http://mainichi.jp/select/biz/news/20080227ddm003020090000c.html 前川リポート:「平成版」作成に着手 財界人ら11人議論--専門調査会 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[2月27日]]。</ref>。
=== 通商・資源・エネルギー ===
[[画像:Dmitry Medvedev at the 34th G8 Summit 7-9 July 2008-5.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月7日]]、[[ロシア連邦大統領]][[ドミートリー・メドヴェージェフ]](左)と]]
[[画像:Luiz Inacio Lula da Silva and Yasuo Fukuda 20080709.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月9日]]、[[ブラジル]][[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]][[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ]](左)と]]
;資源国との関係の強化
:丸善石油のサラリーマン時代から築いた人脈を生かして豊富な[[天然資源]]を持つ[[BRICs]]諸国や[[アフリカ]]諸国との関係強化を図り、日本として[[資源]]・[[エネルギー]]の安定的な確保を積極的に推し進めた。
: 2008年5月に開催された第4回[[アフリカ開発会議]]では、史上初めて[[内閣総理大臣]]として議長に就任した。その際、会議に出席するため日本を訪れた40人以上の[[首脳]]と個別に会談し、[[レアメタル]]などの資源確保や[[常任理事国改革]]について日本への協力を要請した<ref>「首相『マラソン会談』完走――アフリカ諸国首脳――常任理入り支持あいまいな回答」『[[日本経済新聞]]』43953号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[5月30日]]、2面。</ref>。さらに、アフリカ10ヶ国委員会との首脳会談も、日本の内閣総理大臣として初めて行った<ref>『[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080519-OYT1T00151.htm 首相マラソン会談へ、3日間で17時間…アフリカ開発会議 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』読売新聞、[[2008年]][[5月19日]]。</ref>。
;大陸棚の認定範囲の拡大
:小泉政権の閣僚懇談会の席上、[[国土交通大臣]][[扇千景]]が[[大陸棚]]調査体制の不備を述べたところ、内閣官房長官の福田は「大陸棚の画定は[[国益]]にかかわる重大課題。[[日本国政府|政府]]を挙げて対応する必要がある」<ref>「大陸棚は日本列島の1.7倍――権益確保へ調査強化」『朝日新聞』朝日新聞東京本社、[[2002年]][[5月11日]]。</ref>と主張し、関係省庁に対して検討会議の設置を指示した。内閣官房長官退任後は「大陸棚調査推進議員連盟」を結成し、扇を名誉会長に据え、福田はその会長に就任した。
:[[福田康夫内閣|福田政権]]成立後は、[[内閣 (日本)|内閣]]総合海洋政策本部に参与会議を設置するなど、機能の強化を図った。その席上「大陸棚調査推進議員連盟の会長であったため、海洋分野にも深い関心があることから、今回の参与会議の開催を喜ばしく思う」<ref>『{{PDFlink|[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kaiyou/sanyo/dai1/pdf/gijigaiyou.pdf 第1回総合海洋政策本部参与会議議事概要]}}』[[2007年]][[10月18日]]、1頁。</ref>とした上で「政府一体となって海洋政策を強力に推進していく」<ref>『[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kaiyou/kaisai.html 総合海洋政策本部]』[[内閣官房]]。</ref>と述べ、海洋資源権益確保の推進を指示した。2008年6月には、日本の大陸棚認定範囲の拡大を[[国際連合]]に対し申請することを決定した。日本が独自開発できる海域は、従来は[[排他的経済水域]]447万平方キロに留まっていたが、この申請の承認により新たに38万平方キロ([[日本列島]]の面積に匹敵)が加わることになり<ref>『[http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_08061103.cfm 「日本全土分」の大陸棚申請へ : ニュース : ジョブサーチ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』読売新聞、[[2008年]][[6月11日]]。</ref>、[[コバルト]]など[[レアメタル]]の確保が図れるとされている<ref>「大陸棚の範囲延長申請へ」『[[日本経済新聞]]』[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[6月11日]]、2面。</ref>。
=== 文教・科学技術 ===
[[画像:Mamoru Mori and Yasuo Fukuda 20080608.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[6月8日]]、[[日本科学未来館]]館長[[毛利衛]](中央)と]]
[[画像:STS-124 astronauts and Yasuo Fukuda 20080729.jpg|thumb|200px|[[2008年]][[7月29日]]、[[STS-124]]に参加した[[宇宙飛行士]]らと]]
;知的財産戦略の策定
:[[知的財産権]]について、福田は「[[知財]][[戦略]]は誤れば国全体の競争力を失いかねない非常に重要な[[政策]]だ」<ref name="nikkei20080619">「iPS細胞研究支援――政府の『知財計画2008』決定」『[http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080619AT3S1801Q18062008.html NIKKEI NET(日経ネット):経済ニュース -マクロ経済の動向から金融政策、業界の動きまでカバー]』[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[6月19日]]。</ref>と述べ、[[コンテンツ]]産業の育成と競争力強化を目指し[[著作権法]]を2008年中に見直すと表明した。
:福田内閣の下で策定された「知的財産推進計画2008」では、時代に合致しない法律の改定や国外での知的財産侵害への対策強化を謳っている<ref name="nikkei20080618">「著作権制限年度内に結論――映像などネット流通促進で政府知財計画――海賊版対策を強化」『[[日本経済新聞]]』[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[6月18日]]、5面。</ref>。具体的には、[[Google]]や[[Yahoo!]]などの検索サービスの2008年度中の合法化、国外の運営者に対し日本の[[コンテンツ]]事業者が削除要請できる仕組みの構築、などが盛り込まれた<ref name="nikkei20080618" />。
:また、[[ニコニコ動画]]や[[YouTube]]の興隆など、[[著作物]]の二次利用は新たな[[ビジネス]]創出に繋がると判断し、著作物の無許可利用を解禁する[[フェアユース]]規定の導入を検討している<ref name="nikkei20080618" />。二次利用コストの低減、新しい[[ビジネスモデル]]の開発、新規事業者の参入促進を目指し、2008年度中に包括的な権利制限規定の結論を出すとしている<ref name="nikkei20080618" />。
;iPS細胞の開発支援
:福田内閣の「知的財産推進計画2008」には、先端医療分野に対する支援策も盛り込まれた<ref name="nikkei20080619" /><ref name="nikkei20080618" />。[[特許]]保護体制の早急な整備・構築を打ち出すとともに、[[人工多能性幹細胞]]研究に対し国内の[[大学]]・研究機関の総力を投入し、オールジャパン体制での[[iPS細胞]]開発支援を打ち出した<ref name="nikkei20080618" />。
;学校行事としての靖國神社、護国神社訪問を解禁
:[[文部省]]は[[1949年]]の事務次官通達にて、学校行事としての[[靖国神社|靖國神社]]訪問を禁止していた。しかし、福田はこの通達の失効を[[閣議決定]]し、各[[学校]]に対し靖國神社や護国神社への訪問を解禁した。
:文部省が1949年に発した事務次官通達「社会科その他、初等および中等教育における宗教の取扱について」によれば、学校の行事として靖國神社や[[護国神社]]など[[戦没者]]を祀る施設に訪問することは禁止されていた。以来、この規定は、[[修学旅行]]や[[社会科見学]]などで靖國神社や護国神社を訪問できない根拠の一つとされていた。
:2008年[[5月23日]]、福田内閣は通達の失効を明言する答弁書を作成し、閣議決定を経て衆議院に提出した<ref>『{{PDFlink|[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon_pdf_t.nsf/html/shitsumon/pdfT/b169380.pdf/$File/b169380.pdf 内閣衆質一六九第三八〇号――平成二十年五月二十三日]}}』[[2008年]][[5月23日]]。</ref>。この閣議決定により、戦没者を祀る施設を訪問する学校行事が解禁されることになった。
;学習指導要領解説書に竹島領有権問題を明記
:[[学習指導要領]]解説書に[[竹島 (島根県)|竹島]]領有権問題を明記した。
:[[主要国首脳会議]]にて福田が明記することを[[大韓民国|韓国]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]の[[李明博]]に直接通告し、李は見送るよう懇願したが、福田は[[文部科学大臣]]の[[渡海紀三朗]]に指示し竹島問題を明記することで決着した。
=== 社会保障 ===
;基礎年金国庫負担の財源問題
:2009年度の基礎年金国庫負担率引き上げにともなう2兆5000億円の財源問題財源について、「今のようなきちきちの財政状況で(財源を)ひねりだすのは難しい問題だ。なおかつ毎年社会保障関係費は増加している」ため、歳出削減で補えない場合は「消費税を含めた他の手段を考える必要はある」と主張している<ref name="reuters070915" />。
;ハンセン病患者への隔離政策見直し
:2001年5月11日に[[熊本地方裁判所]]にて「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」で国が敗訴した際、内閣官房長官だった福田は控訴断念を主張した。[[厚生労働省]]が控訴する意向と知った福田は、控訴の断念に向け「何とかならないか」<ref name="hushime">「節目でみせた『決断力』――官房長官」『朝日新聞』43623号、朝日新聞東京本社、[[2007年]][[9月23日]]、4面。</ref>と[[内閣官房副長官]]の[[古川貞二郎]]に指示し、厚生労働省と調整させている。調整後、長官執務室に[[法務大臣]]の[[森山眞弓]]、[[厚生労働大臣]]の[[坂口力]]を呼び出し、「厚労省としての考えはどちらですか」<ref name="hushime" />と確認し、坂口に「省の意見は控訴断念です」<ref name="hushime" />との返答させてから、小泉純一郎に最終判断を仰いでいる。これらの政府内の一連の動きについて、坂口は「福田さんこそが控訴断念の立役者」<ref name="hushime" />と評し、事務方の調整を行った古川も、同趣旨の発言をしている<ref>古川貞二郎「霞ヶ関半世紀」(佐賀新聞社)</ref>。
;[[社会保障]]制度の見直し
:「[[社会保障国民会議]]」を内閣官房に設置し、社会保障に関する制度を見直しを進めた。メンバーは福田自らが人選し、小泉政権で経済財政諮問会議議員を務めた[[奥田碩]]、[[吉川洋]]らを指名した。さらに、新たに[[内閣総理大臣補佐官]](社会保障担当)のポストを設け、小泉政権で内閣府副大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)を歴任し、「社会保障費を5年間で1.1兆円削減する」<ref name="asahi20080219" />党方針を取り纏めた[[伊藤達也]]を補佐官に任命し、同会議の統括を命じた。伊藤、奥田、吉川らを含む人事に対し、[[尾辻秀久]]は「かつての[[竹中平蔵|竹中]]路線、経済財政諮問会議と考え方を同じくする人。社会保障はもっと弱者に優しくなきゃいかん」<ref name="asahi20080219" />と主張し、[[丹羽雄哉]]、坂口力らも批判する<ref name="asahi20080219" />など、[[厚生大臣]]経験者ら小泉改革に否定的な厚生関係議員([[族議員|社労族議員]])が強く反発した。
: 社会保障国民会議は、途中で民主党への政権交代があったため取りまとめに時間を要し、最終的には[[三党合意]]による[[社会保障制度改革国民会議]]と同日に最終報告が提出されて、共に閉会した。
=== 外交 ===
[[画像:Fukuda meets Bush Cross Hall 16 November 2007.jpg|200px|thumb|[[2007年]][[11月16日]]、[[ホワイトハウス]]での共同記者会見にて[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]](右)と]]
[[画像:Brinker With Fukuda.jpg|200px|thumb|首相就任後の初外遊先である[[アメリカ合衆国|米国]]にて[[アメリカ合衆国国務省|国務省]][[儀典長]][[:en:Nancy Brinker|ナンシー・ブリンカー]](左)と]]
[[画像:Yasuo Fukuda and Tony Blair 20080126.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[1月26日]]、[[スイス]]にて[[中東カルテット]]特使[[トニー・ブレア]](右)と]]
[[画像:Fukuda meets Rice February 27, 2008.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[2月27日]]、[[アメリカ合衆国国務長官]][[コンドリーザ・ライス]](左)と]]
[[画像:George W Bush and Yasuo Fukuda 20080706.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月6日]]、[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]](左)と]]
[[画像:Dmitry Medvedev at the 34th G8 Summit 7-9 July 2008-37.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月8日]]、[[ロシア]][[ロシア連邦大統領|大統領]][[ドミートリー・メドヴェージェフ]](左)と]]
[[画像:Dmitry Medvedev at the 34th G8 Summit 7-9 July 2008-23.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月8日]]、[[第34回主要国首脳会議]]の出席者と]]
[[画像:Leaders of Boao Forum for Asia cropped Dmitry Medvedev in China 15 April 2011-7.jpg|200px|thumb|[[2011年]][[4月15日]]、[[ボアオ・アジア・フォーラム]]年次総会の出席者と]]
[[画像:Kevin Rudd and Yasuo Fukuda 201107.jpg|200px|thumb|[[2011年]][[7月]]、[[オーストラリア]][[:en:Minister for Foreign Affairs (Australia)|外務大臣]][[ケビン・ラッド]](手前左)らと]]
前任の安倍晋三と比べると、多国間の協調を重視する姿勢が強いと評価されている。しかし、一方で他国に過大な配慮を行っているとの批判もあり、全方位土下座外交と呼ばれることもある<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/156700/ 「福田“全方位”土下座外交 与党からも批判噴出」政治も‐政局ニュース:イザ!]</ref>。
;新外交理念の提唱
:[[2006年]]4月25日、都内での講演で、亡父の福田赳夫が首相在任中に打ち出した対東南アジア外交の基本原則「[[福田ドクトリン]]」を基礎に、新たな対アジア政策を策定すべきだとの考えを表明した<ref>“Sankeiweb” 2006年4月25日</ref>。
:2008年[[5月22日]]、国際交流会議晩餐会での演説にて、アジア・太平洋地域に対する日本政府の新たな5つの外交理念を表明した<ref name="fukuda20080522" /><ref name="nikkei20080523" />。
#[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]共同体実現への断固支持
#[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米同盟]]の強化
#[[平和]]協力[[国家]]として尽力
#知的・世代的交流[[インフラストラクチャー|インフラ]]の育成・強化
#[[気候変動]]との闘い
;外交政策の立案
:福田は外交や経済で日本の存在感が薄れていることを懸念しており、[[五百旗頭真]]を座長とする「外交政策勉強会」を設置し、国際社会の中での日本のシェア低下への対応を諮問した<ref>『[http://www.asahi.com/politics/update/1210/TKY200712100043.html asahi.com:福田首相、日本の存在感の薄れ懸念 外交政策勉強会 - 政治]』朝日新聞社、[[2007年]][[12月10日]]。</ref>。なお、岡本行夫、[[小此木政夫]]、[[北岡伸一]]、谷野作太郎、[[渡辺修 (通産官僚)|渡辺修]]など、[[小泉政権]]の「対外関係タスクフォース」メンバーの半数以上が外交政策勉強会にも参加している<ref>対外関係タスクフォース『[https://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2002/1128tf.html 21世紀日本外交の基本戦略]―新たな時代、新たなビジョン、新たな外交―』[[内閣官房]]内閣広報室、[[2002年]][[11月28日]]。</ref><ref>『[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gaikou/kousei.html 外交政策勉強会-メンバー-]』[[内閣官房]]内閣広報室。</ref>。
;主要国首脳会議
:2008年の日仏首脳会談にて、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]][[ニコラ・サルコジ]]が「国際社会の変化に対応して、参加国を拡大する必要がある」<ref name="sankei20080603">『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080603/plc0806032354012-n1.htm 日仏首脳会談 首相「サミットは小人数の場」 - MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2008年]][[6月3日]]。</ref>と述べ、[[主要国首脳会議]]参加国に[[中華人民共和国|中国]]や[[インド]]など[[経済]]新興国も加えるよう主張した。しかし、福田は「国際社会に大きな責任を共有する小人数による率直な意見交換の場だ」<ref name="sankei20080603" />と述べ、経済新興国の参加は[[アウトリーチ]]会合のみで十分との考えを示した。
:2008年[[7月7日]]から開催された[[第34回主要国首脳会議]]([[北海道洞爺湖サミット]])では議長を務めた。
:[[中国製冷凍食品による農薬中毒事件]]で中国国内で日本未出荷の餃子から日本と同様の食中毒が発生し7月初めに伝えられたものの、中国政府への要請とサミットへの配慮から、事実が1ヶ月遅く公表されることとなった。
;アジア外交
:[[2007年]][[11月23日]] 韓国海洋博覧会への支持を表明。「海洋」をテーマにした博覧会であるため、[[日本海呼称問題]]や[[竹島問題]]を韓国側の主張を宣伝する場所になることが危惧されるが、韓国との軋轢を避けるため、展示内容に配慮を求めるなどの要求は行わなかった。
:2008年5月、[[東南アジア諸国連合]]加盟国が推進する「ASEAN共同体」構想に対し、支持を打ち出した。さらに、[[欧州連合|EU]]における日本政府EU代表部と同様に、将来的には[[ASEAN]]にも日本政府ASEAN代表部やASEAN担当大使を新設すると表明した<ref name="fukuda20080522" /><ref name="nikkei20080523" />。
{{See also|JPN・ASEAN包括的経済連携協定}}
;[[台湾]]
:[[中華民国総統]](当時)の[[陳水扁]]が「台湾」名義での[[国際連合]]加盟の是非を問う[[住民投票]]の実施を表明すると、[[中華人民共和国主席]][[胡錦濤]]や[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]]が反対を表明するなど、中国、アメリカ、欧州各国の政府は住民投票実施に反対した<ref>『[http://sankei.jp.msn.com/world/china/071222/chn0712220107000-n1.htm 米国務長官 台湾の住民投票に反対表明 - MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2007年]][[12月22日]]。</ref><ref>立尾良二『[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008032302097605.html 東京新聞:米は『独立』沈静化期待:国際 (TOKYO Web)] 』[[中日新聞社]]、[[2008年]][[3月23日]]。</ref><ref>『[http://sankei.jp.msn.com/world/america/080327/amr0803270910003-n1.htm 「明らかな犯罪活動だ」米中電話会談で胡錦濤主席 - MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2008年]][[3月27日]]。</ref>。しかし、他国の政府とは一線を画し、日本として「独立反対」との表現を避け台湾に一定の配慮を示す立場を堅持している<ref name="sakai20071229">酒井充『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/071229/plc0712291108004-n1.htm 日中首脳会談 「誤訳」で福田首相の顔色一変 - MSN産経ニュース]』[[2007年]][[12月29日]]。</ref>。
:元[[中華民国総統|総統]]の[[李登輝]]とは、父である赳夫の代から交流があり、康夫自身も台湾を訪れた際には李と会食するなど関係を保っている<ref name="bunshun2008051537">「福田康夫『台湾外相』極秘入国を認めていた!」『[[週刊文春]]』50巻19号、[[文藝春秋]]、[[2008年]][[5月15日]]、37頁。</ref>。また、小泉政権にて内閣官房長官を務めた際、[[中国共産党]]が台湾要人の訪日に反対姿勢を見せる中、福田は台湾[[中華民国外交部|外交部長]]の[[簡又新]]の入国を認めるよう指示し、2003年秋の簡の訪日を実現させたとされる<ref>「福田康夫『台湾外相』極秘入国を認めていた!」『[[週刊文春]]』50巻19号、[[文藝春秋]]、[[2008年]][[5月15日]]、36頁。</ref>。
:首相就任時に際し、台湾のマスコミから、日本の政治家としては異例な「台湾を三回訪問したことがある人物」<ref name="bunshun2008051537" />と紹介され、[[台北経済文化代表処]]の[[パーティー]]にも招かれ参加している<ref name="bunshun2008051537" />。
:2007年[[12月28日]]、日中首脳会談後の共同記者会見中、中国側の[[通訳]]が「福田首相は台湾独立に反対するとの立場を順守、厳守していくことを表明した」<ref name="sakai20071229" />と福田の発言を歪曲して翻訳した。しかし、それを聞いた福田は[[外務審議官]][[藪中三十二]]に資料を持って来させ、通訳の誤訳をその場で自ら訂正した<ref name="sakai20071229" />。
:[[2008年]][[5月]]、[[中国国民党]]の[[馬英九]]が台湾の新総統に就任すると、[[国交]]断絶以降史上初めて、日本政府として祝賀メッセージを送付した<ref>野嶋剛『[http://www.asahi.com/politics/update/0523/TKY200805230263.html asahi.com:日本政府、台湾・馬総統に就任祝賀メッセージ - 政治]』朝日新聞社、[[2008年]][[5月23日]]。</ref>。
;[[コソボ地位問題]]
:2008年[[2月17日]]、[[コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)|コソボ・メトヒヤ自治州]]の暫定政府が[[セルビア]]からの[[独立]]を宣言すると、日本政府として[[国家承認]]を行う考えを表明した。[[コソボ]]の独立に関しては、賛成するアメリカ、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]らと反対する[[ロシア]]、[[中国]]、セルビアらに二分され、[[欧州連合]]や[[国際連合]]の機関承認は見送られている。そのため、承認する時期については情勢を見極め慎重に検討する考えを示した。[[3月5日]]、福田はコソボと同じく[[バルカン半島]]に位置する[[クロアチア]]の大統領[[スティエパン・メシッチ]]らと会談し、両国ともコソボを国家承認する意向を確認し合った。その上で、独立宣言から1ヶ月後の[[3月18日]]、コソボの独立承認を正式に閣議決定した。
;[[北朝鮮による日本人拉致問題]]
:自民党総裁選直前に行われた2007年9月21日の東京・[[内幸町]]の[[日本プレスセンタービル|日本プレスセンター]]における麻生太郎との公開討論会においては、「拉致被害者に一刻も早く帰国してもらうということを最優先にすべき」、「だからといって、過大な要求をつきつけられることがあってはならない。」、「交渉は対話一本やりでなく、状況に応じて対話と圧力を活用して交渉する」、「こちらと対話するような雰囲気がまったくない、対話が途切れている場合は圧力も必要かと思う」などの見解を示した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/070921/stt0709212334116-n1.htm 公開討論会 守備固めの福田 攻撃不発の麻生] 産経ニュース 2007.9.21 23:34閲覧)</ref>。
:周辺諸国に対しても日本人拉致問題解決への協力を要請している。日米首脳会談では、[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]]との間で日本人拉致問題について議論を交わし<ref>中川佳昭『[http://mainichi.jp/select/world/news/20071117dde001010010000c.html 日米首脳会談:ブッシュ大統領「拉致忘れぬ」 北朝鮮核放棄へ連携 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2007年]][[11月17日]]。</ref>、日越首脳会談では、福田が[[ベトナム社会主義共和国主席|ベトナム国家主席]]の[[グエン・ミン・チェット]]に対し、日本人拉致問題・ミサイル問題解決に向けベトナムから北朝鮮への働きかけを要請し<ref>古本陽荘『[http://mainichi.jp/photo/news/20071128k0000m010126000c.html 福田首相:日本人拉致問題で越国家主席に協力要請 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2007年]][[11月27日]]。</ref>、日露首脳会談でも[[ロシア連邦大統領]][[ウラジーミル・プーチン]]に影響力を行使するよう要請し協力を取り付けている<ref>高木桂一『[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080427-00000048-san-pol 拉致問題進展へ 露大統領「協力」 首脳会談(産経新聞)]』産経新聞社、[[2008年]][[4月27日]]。</ref>。
:2008年[[7月6日]]の日米首脳会談では、拉致被害者の母親の著書<ref>横田早紀江『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』[[草思社]]、[[1999年]]。</ref>の英訳版<ref>Sakie Yokota ''North Korea Kidnapped My Daughter'', Vertical, 2009.</ref>をブッシュに贈呈し「非核化と拉致問題の解決が重要だ。引き続き米国と協力していきたい」<ref name="nikkei20080707">「対北朝鮮日米、核・拉致で連携――首脳会談申告協力に検証」『[[日本経済新聞]]』[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[7月7日]]、1面。</ref>と主張し協力を要請、ブッシュから「自分は拉致問題を決して忘れない。迅速な解決策を見いだすため引き続き緊密に連携していく」<ref name="nikkei20080707" />との言質を取った。また、福田は北朝鮮に対する厳正な検証が必要と主張し、ブッシュとの間で北朝鮮への検証の実施により核開発放棄に繋げることで合意した<ref name="nikkei20080707" />。翌日から開催された[[第34回主要国首脳会議]]でも日本人拉致問題を提起し各国首脳から日本への支持を取り付け<ref>「北朝鮮・イランに包囲網――首脳宣言で『核兵器削減』中国にも圧力――拉致問題で日本を支持」『[[日本経済新聞]]』43992号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[7月9日]]、2面。</ref>、日本人拉致問題に関する北朝鮮への非難が[[サミット]]の首脳声明に史上初めて盛り込まれた<ref>''[http://www.g8summit.go.jp/eng/doc/doc080714__en.html G8 Hokkaido Toyako Summit Leaders Declaration]'', [[外務省|Ministry of Foreign Affairs of Japan]], [[7月8日|8 July]] [[2008年|2008]].</ref>。
;ミャンマー軍事政権
:[[ミャンマー]]にて[[サイクロン・ナルギス]]による多数の死傷者が発生したため、日本政府は1000万ドル規模の緊急支援を表明し、福田は国際緊急援助隊の派遣など人的支援も表明した<ref>[[フランス通信社|AFP]]『[https://www.afpbb.com/articles/-/2389099?pid=2913123 日本政府、ミャンマーに1000万ドル追加支援へ 写真3枚 国際ニュース : AFPBB News]』クリエイティヴ・リンク、[[2008年]][[5月10日]]。</ref><ref>「2008/05/07-19:34――ミャンマーに人的派遣も=福田首相」『[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200805/2008050700858 時事ドットコム:指定記事]』[[時事通信社]]、[[2008年]][[5月7日]]。</ref>。しかし、ミャンマーの軍事政権は、各国からの人的援助の申し出を拒否するとともに、国民に対してはメディアを通じ円滑な救援活動が実施されているとアピールした<ref>藤田悟・矢野純一『[http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20080513k0000m030092000c.html ミャンマー:軍政、硬直姿勢変えず 外国の救援要員を拒否 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[5月12日]]。</ref>。この軍事政権の対応について、福田は「正直理解できない」<ref name="sankei20080512">『[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/144131/ 「福田首相怒った!ミャンマー政府の対応「理解できない」」政治も‐政局ニュース:イザ!]』産経デジタル、[[2008年]][[5月12日]]。</ref>と厳しく指摘し「仮に(死者が)10万人の災害なら、国際社会として放置するわけにはいかない」<ref name="sankei20080512" />と述べた上で、[[国際連合]]の枠組みを活用し積極介入も必要と指摘した。さらに、[[国家平和発展評議会]][[議長]][[タン・シュエ]]に対し、日本が緊急医療チームを派遣する用意があることを伝え、他国や国際機関の援助要員を受け入れるよう要請した<ref>『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080510/plc0805100049002-n1.htm 国際援助隊受け入れを 首相、ミャンマー支援で - MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2008年]][[5月10日]]。</ref>。
;[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]
:[[2008年]][[4月2日]]、[[2008年のチベット動乱]]で[[チベット]]を鎮圧した中国共産党への批判が国際的に高まったことについて、福田は「人権にかかわるようなことがあるならば、懸念を表明せざるを得ない」と述べた。その一方で、[[2008年北京オリンピックの開会式]]に出席するのかどうかについて聞かれると「中国が努力している最中に参加するとかしないとか言うべきではない」と発言し、その後、開会式に出席した。
:[[2008年北京オリンピックの聖火リレー]]にて各国での抗議行動からリレー走者を護っている「聖火防衛隊」について、日本政府、および、[[警察庁]]は「聖火防衛隊」による[[警察権]]行使を拒否する考えを表明した。[[国家公安委員会委員長]]の[[泉信也]]は「各国の報道では法執行権限を持っているような振る舞いをしているが、そのような行動を取るなら受け入れられない」<ref>『[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080418-00000058-jij-soci 法執行権限の行使は拒否=「聖火防衛隊」で国家公安委員長(時事通信)]』[[2008年]][[4月18日]]。</ref>と指摘し、内閣官房長官の町村信孝も「正体不明かどうか分かりませんが、青い服を着た人達を出したいという話がきているとは思いませんし、また、仮にそういう話があったにしても、わが国はきちんとした法治国家でありますので、他国の警察等々の力を借りなければならないという治安状態にはない」<ref>『[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/138424/ 「【官房長官会見】「他国の警察等々の力を借りなければならない治安状態にはない」(17日午後)」政治も‐社会政策ニュース:イザ!]』産経デジタル、[[2008年]][[4月17日]]。</ref>と述べた。福田康夫も[[中華人民共和国外交部|中国外交部]]長の[[楊潔篪]]に対し「日本の警察がしっかり守る」<ref>『[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/138828/ 「福田首相「聖火は日本の警察が守る」」政治も‐外交ニュース:イザ!]』産経デジタル、[[2008年]][[4月18日]]。</ref>と強調し、「聖火防衛隊」の警護は不要との考えを示した。さらに、[[チベット問題]]について中国側の主張を述べる楊に対し、福田は「国際的な問題になっている現実を直視する必要がある」<ref>「首相『現実直視を』――中国外相と会談」『産経新聞』産経新聞社、[[2008年]][[4月19日]]。</ref>と反論した。
:[[中国中央電視台]]とのインタビューにて、[[中国人]]のスポーツ観戦時の態度の悪さが問題視されている件について触れ、福田は「大勢の中国の方が中国の応援ばかりする」<ref name="asahi20080510">「『五輪でブーイングは反感のもと』――福田首相、中国テレビで『忠告』」『朝日新聞』朝日新聞東京本社、[[2008年]][[5月10日]]、4面。</ref>と苦言を呈した。そのうえで、福田は「相手の国を批判するとか[[ブーイング]]みたいなことをすれば、そうされた国の人たちは反感を持つ」<ref name="asahi20080510" />と指摘し、他国民にも「ほほ笑み」<ref name="asahi20080510" />をもって応じるよう中国国民に対して要求した。
;[[東シナ海ガス田問題]]
:[[2008年]][[6月18日]]に中国政府と共同開発で合意し、「東シナ海を平和・協力・友好の海にとかねてから話し合っていたが、今回合意できて大変結構だ」と述べた<ref>{{Cite news |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2008-06-18/K2NOTU0D9L3401 |work=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] |title=日中、東シナ海ガス田の共同開発で合意、境界線棚上げ-再び対立も(3) |date=2008-06-18 |accessdate=2016-09-14}}</ref>。
;[[靖国神社問題]]
:[[2001年]]12月、内閣官房長官としての私的諮問機関として「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させた。[[2005年]]11月9日に発足した超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」では、設立総会に参加した。
:[[2006年]]4月25日、都内での講演で小泉純一郎首相の靖国神社参拝について「この問題は国際的な広がりを持ってしまい、日本にプラスになっていない」と否定的評価を示した。自身が首相になった場合についても「参拝することは、おそらくないと思う」と答えている<ref>[http://www.asahi.com/politics/update/0915/TKY200709140420.html 福田氏「靖国参拝せず」、テレビ番組で語る](asahi.com 2007年9月15日1時7分)</ref>。2007年9月15日の総裁選出馬記者会見では、「相手が嫌がることをあえてする必要はない」と述べた。
:ただ、[[戦没者]]の追悼や慰霊自体には積極的に参加しており、[[内閣官房長官]]在任時を除けばほぼ毎年、福田は[[終戦の日]]に[[群馬縣護國神社]]を参拝し[[英霊]]を追悼している<ref name="ReferenceA">「靖国問題静かな8月――参拝せず、距離置く首相――新追悼施設、調査費見送り」『日本経済新聞』日本経済新聞社、2008年8月11日、2面。</ref>。また、靖国神社への集団参拝には参加していないものの、「大勢で参加することじゃないと、個人でふらりと出かけていた」<ref name="ReferenceA" />と指摘されており、参拝時は私人として個人的に行っていたとされる。
;[[村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」]]
:2007年9月19日、[[日本外国特派員協会]]において、「[[村山富市|村山]]首相の時代に首相が言ったことだから、正しいものだと考える必要がある」と述べ、「村山談話」を踏襲する意向を示した<ref>『読売新聞』2007年9月20日</ref>。
:2008年[[5月7日]]、福田は[[胡錦濤]]との日中首脳会談に臨んだが、その中で発表された「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」では村山談話については一切言及しなかった。村山談話の発表以降、日中首脳会談後の共同声明で村山談話に一切触れないのは極めて異例であり、1980年代以降必ず全ての共同文書に記載されていた歴史問題への言及を除外し、逆に日本が戦後60年間世界の平和と安定に貢献していることを積極的に評価して日本と中国は互いにパートナーであって脅威ではないとする文言が記載された<ref>『[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/visit/0805_ks.html 外務省: 「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明]』。</ref>。
;[[政府開発援助]]
:2007年度を最後に中国に対する円借款を打ち切ると正式決定した。さらに、2007年度分の中国への円借款は、環境保護対策に使途を限定したうえで、2006年度比で2割以上削減した。
;インド
:内閣総理大臣退任後には、[[中山太郎]]の後任として日印友好議員連盟の会長に就任した<ref name="jia">『[http://www.japan-india.com/news/view/58 日印友好議員連盟について : 日印協会]』日印協会。</ref>。2010年10月、インド[[インドの首相|首相]][[マンモハン・シン]]が来日した際には、会長代理の[[川端達夫]]らとともに、日印友好議員連盟会長として歓迎会に出席している<ref name="jia" />。
=== 環境 ===
[[画像:Fukuda special address.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[1月26日]]、[[世界経済フォーラム]]年次総会にて[[クールアース推進構想]]を提唱]]
[[画像:Leaders cropped Major Economies Meeting member 20080709.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月9日]]、[[エネルギー安全保障と気候変動に関する主要経済国会合]]にて[[ブラジル]][[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]][[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ]](左から1人目)、[[南アフリカ共和国]][[南アフリカの大統領|大統領]][[タボ・ムベキ]](左から2人目)、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]](右から1人目)と]]
;[[クールアース推進構想]]の提唱
:2008年[[1月26日]]、世界経済フォーラム年次総会での演説にて「クールアース推進構想」を提唱した。この演説の中で、[[ポスト京都議定書]]の枠組みの構築、環境技術移転や[[開発途上国|途上国]]支援による国際的環境協力、[[革新]][[技術]]の開発と[[低炭素社会]]への転換を実現する[[イノベーション]]、の三点について提案を行った。この提案では中国やアメリカなどを含む主要排出国全ての参加を求めており、セクター別の算出値に基づく国別総量目標を掲げるとしている。
: [[欧州連合]]は「クールアース推進構想」に対し肯定的な姿勢を示しており、2008年[[4月23日]]の日欧首脳会談にて、福田は[[欧州委員会委員長]][[ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ]]や欧州連合議長国[[スロベニアの首相]][[ヤネス・ヤンシャ]]から「セクター別アプローチ」への賛同を取り付けた<ref>須藤孝『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080423dde007010033000c.html 日本・EU定期首脳協議:「セクター別」案を評価、温暖化対策「有用で建設的」 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[4月23日]]。</ref>。
:第34回主要国首脳会議では温暖化対策が主要議題となったが、アメリカと他国との間で温暖化政策の隔たりが大きく、事務当局の調整は首脳宣言採択当日の朝まで続いたが合意に至らなかった。そのため、[[7月7日]]夜から翌日朝にかけ、福田はホテルの[[内線電話]]などで各首脳を個別に説得し、長期目標の設定に合意するよう訴えた<ref>「温暖化対策合意へ執念――首相、夜中に電話攻勢」『[[日本経済新聞]]』43992号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[7月9日]]、2面。</ref>。その結果、2050年までに世界の温室効果ガス排出量の半減を数値目標として共有することで合意し、サミット首脳宣言に盛り込まれた<ref>「『2050年半減』世界で共有――温暖化ガス――サミット首脳宣言――新興国にも貢献促す」『[[日本経済新聞]]』43992号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[7月9日]]、1面。</ref>。
{{See also|クールアース推進構想|京都議定書|ポスト京都議定書|京都議定書目標達成計画}}
;[[低炭素社会]]の推進
:2008年[[4月17日]]の主要8ヶ国ビジネスサミットでの演説にて、[[低炭素社会]]の推進を表明した。出席した[[日本経済団体連合会]]など各国の経済団体の[[首脳]]に対し、[[二酸化炭素]]排出削減への協力を促し、「低炭素革命」の実現を呼びかけた。
{{See also|低炭素社会}}
;「[[福田ビジョン]]」の提唱
:2008年[[6月9日]]、福田は「『将来の世代』のための『低炭素社会』へと大きくかじを切らねばならない」<ref>「排出量取引秋に試行――温暖化ガス削減長期目標最大で8割――首相が発表」『[[日本経済新聞]]』43963号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[6月10日]]、1面。</ref>と述べ、「『低炭素社会・日本』をめざして」と題した地球温暖化対策を発表した<ref>福田康夫『[http://www.kantei.go.jp/jp/hukudaspeech/2008/06/09speech.html 「低炭素社会・日本」をめざして]』[[内閣官房]][[内閣広報室]]、[[2008年]][[6月9日]]。</ref>。低炭素革命により国際社会での日本の存在感を高め、これをビジネスチャンスに繋げ強固な[[日本経済]]構築を図ると主張した<ref name="nikkei20080610">「ポスト京都主導へ一歩――温暖化福田ビジョン――中期目標は『来年に』――基準年見直しが火種」『[[日本経済新聞]]』43963号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[6月10日]]、3面。</ref>。このビジョンの骨子として、2008年[[秋]]からの二酸化炭素[[排出量取引]]の試験導入、[[2030年]]までに[[太陽光発電]]導入量を40倍にする、などの数値目標を含む具体案を列挙した。日本の[[温暖化ガス]]総排出量については、長期目標として[[2050年]]に現状比60〜80%削減を掲げたが、中期目標は[[ポスト京都議定書]]交渉での切り札とすることを狙い<ref name="nikkei20080610" />[[2009年]]に数値を発表するとした。
:福田ビジョンにおいて国内排出量取引制度の導入が初めて明言され、[[国際連合環境計画]]金融イニシアチブ特別顧問の[[末吉竹二郎]]は、同制度について当初は「議論すらオープンに出来ない雰囲気」<ref name="sueyoshi20080908">[[末吉竹二郎]]「低炭素化実行確約を」『朝日新聞』43964号、朝日新聞東京本社、[[2008年]][[9月8日]]、6面。</ref>だったと指摘し、導入を明言したのは「非常に厚い氷を割ったといえる」<ref name="sueyoshi20080908" />と評し「やると決めたのは英断だった」<ref name="sueyoshi20080908" />と述べている。
#革新技術の開発と既存先進技術の普及
#国全体を低炭素化へ動かしていくための仕組み
#地方の活躍
#国民主役の低炭素化
{{See also|福田ビジョン}}
=== 危機管理 ===
;岩手・宮城内陸地震
:[[2008年]][[6月14日]]午前8時43分、[[岩手県]]内陸南部を[[震源]]とする[[岩手・宮城内陸地震]]が発生した。福田は発生から7分後の午前8時50分に「被災状況の早期把握、迅速な[[広報]]、[[被災者]]などがある場合は救助に全力を挙げるように」<ref name="yomiuri20080615">「首相『危機管理』に懸命――政権発足後、初の大地震」『読売新聞』47518号、読売新聞東京本社、2008年6月15日、4面。</ref>と指示し、午前8時59分には[[陸上自衛隊]][[八戸駐屯地]]から[[ヘリコプター]]を派遣した<ref>「初動迅速救助へ連携――政府は総動員体制――発生7分後、官邸に対策室」『[[日本経済新聞]]』43968号、[[日本経済新聞社]]、2008年6月15日、2面。</ref>。地震発生から10分以内に[[消防庁]]災害対策本部、[[警察庁]]災害警備本部、[[総理大臣官邸危機管理センター]]官邸対策室、[[内閣府]]災害対策室、[[防衛省]]災害連絡室、[[海上保安庁]]地震災害対策本部の設置が完了するなど<ref name="cao20080615">[http://www.bousai.go.jp/saigaikinkyu/2008-iwate-cao-001.pdf 平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震について(第1報)]、内閣府、2008年6月15日。</ref>、素早い対応を見せた。
:福田は[[内閣府特命担当大臣]](防災担当)[[泉信也]]ら政府調査団を現地に派遣し、政府現地連絡対策室を[[栗原市]]に設置した<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/saigaikinkyu/chousadan-003.pdf 平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震に係る岩手県への政府調査団の派遣について(第3報)]}}、[[内閣府]]、2008年6月14日。</ref>。福田は官邸対策室にて陣頭指揮を執り、[[内閣危機管理監]][[伊藤哲朗]]らに「現地では日没が迫っている。警察、自衛隊などのヘリコプターを効果的に運用し、状況把握に努め、救出活動に全力を挙げてほしい」<ref name="yomiuri20080615" />と指示し、泉らからの現地報告に対し、行方不明者捜索や被害確認を夜を徹して継続するよう命じた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080614/plc0806142032009-n1.htm 夜間も捜索継続を指示 福田首相 - MSN産経ニュース]、産経デジタル、[[2008年]][[6月14日]]。</ref>。
:首相による被災地視察は、震災直後に実施すれば人員が首相への対応に追われてしまい、結果的に現場が混乱てしまうと判断した。そのため、地震直後は被災者救援を最優先とし首相の被災地視察は見送り<ref name="yomiuri20080615" />、[[6月18日]]に福田が被災地のダムや道路の視察と被災者の激励を行った<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/080618/dst0806181116007-n1.htm 【岩手・宮城内陸地震】福田首相が被災地視察、まず岩手]、産経デジタル、[[2008年]][[6月18日]]。</ref>。[[新潟県中越沖地震]]発生当日に当時の首相が現地視察を実施したことにより、[[危機管理]]や救援活動優先の観点から疑問視された反省に基づくものとされる<ref name="yomiuri20080615" /><ref>[https://www.tbs.co.jp/jijihoudan/last/070722.html 時事放談]、[[TBSテレビ|TBS]]、[[2007年]][[7月22日]]。</ref>
:[[7月9日]]、[[福田康夫内閣]]は[[政令]]を[[公布]]し、一関市、奥州市、栗原市に対し[[激甚災害]]指定を行った<ref>[[内閣府]](防災担当)『{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/oshirase/h20/080709kisya.pdf 「平成二十年岩手・宮城内陸地震による岩手県奥州市等の区域に係る災害についての激甚災害及びこれに対し適用すべき措置の指定に関する政令」について]}}』[[2008年]][[7月9日]]。</ref>。
;パンデミックの防止
:2008年5月の演説にて、「アジア防災・防疫ネットワーク」<ref name="fukuda20080522" />を提唱し、アジア全体を網羅する[[防災]]・[[防疫]]体制の構築を訴えた。[[インフルエンザ]]の[[パンデミック]]発生に備え、日本の資金援助により50万人分の[[抗ウイルス薬]]を新たに購入し、東南アジア諸国連合域内だけで100万人分の備蓄体制を構築するとした<ref name="nikkei20080523" />。また、各国の保健機関による伝染病監視体制の強化を主張している。
;緊急援助隊の創設
:2008年5月の演説にて、「防災協力外交」<ref name="fukuda20080522" />に注力することを表明し、アジア各国の自然災害に対し国際的な緊急援助隊を派遣できる制度を提唱した<ref name="nikkei20080523" />。被災国からの支援要請を待たずに援助隊を派遣することで迅速な救援・復興支援活動の実現を目指すとしており、まず[[ASEAN+3]]各国での協定の締結を提案した。
;食糧危機への対応
:2008年、米不足に陥ると予測された[[フィリピン]]が、各国に対し緊急援助要請を行った。これを受け、[[ミニマム・アクセス]]に基づき日本政府が輸入し備蓄されたままとなっていた輸入義務米の流用を決断し、フィリピンに対し政府備蓄米を援助することを決定した<ref>[[フランス通信社|AFP]]『[https://www.afpbb.com/articles/-/2397000?pid=2971500 食糧危機対策、日本の備蓄米に世界が注目 国際ニュース : AFPBB News]』クリエイティヴ・リンク、[[2008年]][[5月27日]]。</ref>。2008年6月、福田は[[国際連合食糧農業機関]]の食糧サミットで演説し、各国で相次ぐ食糧不足に対し「日本政府の保有する輸入米30万トン以上を放出する用意がある」<ref>犬童文良「『輸入備蓄米30万トンを放出』――首相、食料サミットで演説」『[http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080603AT3S0300903062008.html NIKKEI NET(日経ネット):経済ニュース -マクロ経済の動向から金融政策、業界の動きまでカバー]』[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[6月3日]]。</ref>と表明し、各国政府に対しても備蓄食糧を[[市場]]に放出するよう要請した。
=== 政治制度 ===
;憲法
:「[[日本国憲法]]」の前文は平和主義の精神を積極的に推し進めてきた反面、自衛という概念が希薄になっているという一大欠陥を抱えていることからあるため、日本のこれからの状況および国際環境を考えた上で前文の改正が必要であるとしている<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/008916220050224004.htm 第162回国会 衆議院 憲法調査会] [[2005年]]2月24日</ref>。
;政治資金
:安倍晋三が[[政治資金収支報告書]]に「1円以上」の領収書添付を義務付ける方針を示したことについて、2007年9月15日に自民党本部で行われた共同記者会見において「すべてを公開するのが妥当かどうか」と述べた。
;内閣人事局制度への反対
:[[安倍晋三]]内閣が決定した[[内閣人事局]]について、「政治家が人事をやってはいけない」「内閣人事局は最大の失敗」「国家の破滅に近づく」として反対している<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017080201001843.html 福田元首相、安倍政権を批判 「国家の破滅近づく」]、東京新聞、2017年8月2日</ref><ref>[https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=362493&comment_sub_id=0&category_id=256 福田元首相が政権批判「内閣人事局は最大の失敗」] 中国新聞、2017年8月3日</ref>。
;公文書の管理体制の整備
:[[独立行政法人]][[国立公文書館]]の整備、拡充を持論としており、「公文書館推進議員懇談会」では代表に就任している。公文書館の人員について、他国と比較し「米国の公文書館では2500人、英国では550人もの職員が働いているが、日本では、わずか42人。政府や自治体が持つ記録は、国民の共有財産なのだから、大事に保存して次世代に引き継がなくてはいけない」<ref name="hoshi" />と指摘している。[[薬害肝炎]]問題では厚生労働省の杜撰な文書管理が明るみに出て、報告を受けた福田は激怒したとされる。2008年[[2月29日]]には内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)の[[上川陽子]]を公文書管理担当大臣に任命し、公文書の作成から保管までをルール化する「文書管理法案」の策定を指示した。
:首相退任後も、一議員として公文書管理法案の成立に尽力した。2009年4月には、自由民主党と民主党の政策担当者を呼び寄せ「これは与野党が対立する案件ではない」<ref name="sankei20090624002">『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090624/plc0906242242009-n2.htm 公文書管理法スピード成立 背景に“生みの親”福田前首相(2/2ページ)- MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2009年]][[6月24日]]。</ref>と主張し、両党による修正協議を提案した。この提案を受け、民主党も[[逢坂誠二]]らが修正協議の開始に同意し、福田も自ら修正協議の場に加わった<ref name="sankei20090624002" />。同年5月、福田と[[枝野幸男]]らが修正案の叩き台を作成し、他党も加えたうえで修正案が正式合意された<ref name="sankei20090624002" />。
:当初、民主党の[[西村智奈美]]が「審議に100時間は必要だ」<ref name="sankei20090624001">『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090624/plc0906242242009-n1.htm 公文書管理法スピード成立 背景に“生みの親”福田前首相(1/2ページ)- MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2009年]][[6月24日]]。</ref>と主張し、与党側も「重要法案」指定を見送ったことから、[[第171回国会]]での公文書管理法の成立は絶望視されていた。しかし、福田らによる事前の修正協議が功を奏し、国会での委員会審議は両院計12時間で終了するなど異例の速さで審議が進み<ref name="sankei20090624002" />、公文書管理法は2009年6月に与野党全会一致で可決、成立した<ref name="sankei20090624001" />。[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学大学院人文社会系研究科]]教授の[[野島陽子]]は、法案成立の経緯について論じた際に、上川陽子、逢坂誠二、西村智奈美の3名を法文整備に尽力した立役者と評した上で<ref name="kato20120219">[[加藤陽子]]「時代の風――公文書の不在――根幹に政治の不在」『毎日新聞』48914号、14版、毎日新聞東京本社、[[2012年]][[2月19日]]、2面。</ref>、福田と上川の両名を「公文書管理法の生みの親」<ref name="kato20120219" />と並び称している。
:[[2021年]][[7月1日]]には国立公文書館の50周年記念式典に出席し、スピーチの中で[[森友学園問題|財務省の公文書改竄問題]]を厳しく批判した<ref>『[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210701/k10013114271000.html 福田元首相 財務省決裁文書改ざん 一連の政府対応に苦言]』NHKニュース、[[2021年]][[7月1日]]。</ref>。
;動画共有サービスの活用
:党の[[広報]]活動の一環として[[動画共有サービス]]を導入している。2007年[[12月18日]]には、「[[YouTube]]」(日本版)に、自由民主党の公式チャンネル「[https://www.youtube.com/user/LDPchannel LDP channel]」が開設された<ref>西村賢「議員のプライベート三味線映像も――「[https://atmarkit.itmedia.co.jp/news/200712/18/ldp.html 自民党がYouTubeにチャンネル正式開設」 - @IT]、[[アイティメディア]]、[[2007年]][[12月18日]]。</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0712/18/news134.html YouTubeに自民党公式チャンネル - ITmedia News]、[[アイティメディア]]、[[2007年]][[12月18日]]。</ref>。同日、福田のメッセージ動画が、歴代内閣総理大臣として初めてYouTubeに公式にアップロードされた。なお、YouTubeに公式チャンネルを開設するのは日本の政党では初めての試みである。2008年の年頭には、アメリカ駐在の経験を生かし[[英語]]でのメッセージ動画を投稿し、「環境問題で日本が中心的な役割を担うのは使命である」と語りかけるなど新年の抱負を述べた<ref>『[https://www.j-cast.com/2008/01/04015223.html J-CASTニュース : 福田首相、YouTubeに英語スピーチ動画投稿]』[[ジェイ・キャスト]]、[[2008年]][[1月4日]]。</ref>。
;独立行政法人・公益法人改革
:道路特定財源からの不適正な支出や、国土交通省出身者の[[公益法人]]などへの[[天下り]]が政治問題化すると、福田は「ちょっとひどい。大変な怒りを覚えた」<ref name="jiji20080330">『[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008033000175 時事ドットコム:道路、支出厳格化を徹底=日銀人事「財金連携必要」-福田首相]』[[時事通信社]]、[[2008年]][[3月30日]]。</ref>と激怒し「[[独立行政法人]]、関連の[[公益法人]]の実態は不透明なことがある。(不適切な支出も含め)一切やめてもらうと決意し、検討を始めた」<ref name="jiji20080330" />と表明した。2008年[[7月4日]]、[[国務大臣|閣僚]][[懇談会]]にて国務大臣らに「公益法人への支出の三割を削減する」<ref name="nikkei20080717">「点検福田流――“腹心”不在、戸惑う周囲」『[[日本経済新聞]]』[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[7月4日]]、2面。</ref>と指示した。「3割削減」とする数値目標について党や省庁との事前調整は一切していなかったが、同日の記者会見にて「それにとどまることはない」<ref name="nikkei20080717" />と発言し、削減幅のさらなる増加も示唆した。
:2008年[[8月13日]]、福田は[[雇用・能力開発機構]]について「早く結論を出してくれ。決して厚労省から出てくる案を待つ必要はない」<ref name="imafhoriokada20080818">今堀守通・岡田浩明「雇用開発機構解体の意向――厚労省に不信――首相改革主導」『産経新聞』23611号、[[産業経済新聞社|産業経済新聞東京本社]]、[[2008年]][[8月18日]]、4面。</ref>と指示した。これを受け、[[内閣府特命担当大臣(金融担当)]]兼[[内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)|行政改革担当大臣]]である[[茂木敏充]]は[[私のしごと館]]の売却か廃止、[[職業能力開発総合大学校]]の廃止、[[職業能力開発促進センター]]の移譲か廃止により雇用・能力開発機構の解体を図ると表明した<ref name="imafhoriokada20080818" />。
;選択的夫婦別姓制度
:選択的[[夫婦別姓]]制度について、国民の感情は「賛成」に近くなっており、「賛成」を党是とする民主党に対抗するためにも、自民党主体で決着をつけるべき、としている<ref>『政財界』2004年3月号、政界出版社</ref>。また、女性が働きやすい環境をつくるということになれば必要かもしれない、とも述べている<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL4T6T94L4TUTFK01D.html 福田元首相「夫婦別姓、女性の働きやすさには必要かも」]、朝日新聞、2018年4月26日。</ref>。
;移民受け入れへの反対
:他国からの[[移民]]の受け入れには否定的な姿勢を表明している。[[ワシントン・ポスト]]からのインタビューに対し、福田は「移民が急速に入り社会的混乱を起こすのは避けなければならない」<ref name="sankei20080511-2">『[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/144078/ 「首相「理解できない」 サイクロン被害でミャンマー政府に 」政治も‐政局ニュース:イザ!]』産経デジタル、[[2008年]][[5月11日]]。</ref>と述べ、受け入れにより懸念される問題点を指摘している。その上で、[[少子高齢化]]による[[労働力]]不足の解消のため移民を受け入れるべき、との意見に対しては「受け入れる必要度はまだ小さい段階」<ref name="sankei20080511-2" />と反論している。
== 人物 ==
=== 人物像 ===
[[画像:Yasuo Fukuda address at Davos.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[1月26日]]、[[スイス]]の[[グラウビュンデン州]][[ダボス]]にて]]
身長171cm、体重70kg。趣味は[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]などの[[クラシック音楽|クラシック]]の鑑賞<ref name="yom" /><ref name="kiso" />。中学2年の時に[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]の[[レコード]]を貰ったことがきっかけである<ref>「福田康夫ありのまま」『[https://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2007/1122/1122.html 福田内閣メールマガジン 第7号 〜 (2007/11/22) 〜]』[[内閣官房]]内閣広報室、2007年12月18日閲覧。</ref>。好物は[[蕎麦]]、[[うどん]]、[[カレーライス]]、[[食肉|肉]]類<ref name="kiso">"[http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe5700/fe_070924_01.htm 基礎からわかる「福田康夫」 福田政権 特集 ]" 読売新聞 2007年9月24日、2007年10月3日閲覧。</ref>。[[ワイン]]通としても知られる<ref name="fkoz">"[http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/e20070925006.html 調整vs豪腕 福田氏 初当選53歳の遅咲き 小沢氏 田中元首相の秘蔵っ子]" 産経新聞: 2007-9-25. 2007年9月25日閲覧.</ref>。[[勝海舟]]が好きで、[[歴史小説]]を中心に多くの本を読む<ref name="yom" />。[[座右の銘]]は「誠実に日々一生懸命」<ref name="yom" />、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」(勝海舟)<ref name="fkoz" />。スポーツが好きで、若いころは[[登山]]、[[スキー]]、[[ゴルフ]]、[[ボウリング]]などをしていた<ref name="fm3" />。現在の唯一のスポーツは速歩である<ref>「福田康夫ありのまま」『[https://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2007/1018.html 福田内閣メールマガジン 第2号 〜 (2007/10/18) 〜]』[[内閣官房]]内閣広報室、2007年12月18日閲覧。</ref>。好きな映画としては『[[黄色いリボン (映画)|黄色いリボン]]』などの西部劇、俳優としては[[高峰秀子]]や[[藤原紀香]]を挙げている<ref>「福田康夫ありのまま」『[https://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2007/1129/1129.html 福田内閣メールマガジン 第8号 〜 (2007/11/29) 〜]』[[内閣官房]]内閣広報室、[[2007年]][[11月29日]]。</ref>。愛犬家であり[[ウェルシュ・コーギー]]を首相公邸で飼育している<ref>犬童文良「福田首相 (71) ――父の無念、29年ぶりに晴らす」『[[日本経済新聞]]』43970号、[[日本経済新聞社]]、[[2008年]][[6月17日]]、31面。</ref>。サラリーマン時代の米国赴任の経験から英語が堪能<ref name="aera">"[http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20071001-01-0101.html 福田康夫「女と品格」]" [[AERA]]編集部・川村昌代、木村恵子、藤生明: 2007-10-1. 2007年10月3日閲覧.</ref>。環境に配慮し、[[天然ガス自動車]]に乗っている<ref>『[https://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2002/0221.html 小泉内閣メールマガジン 第35号 〜 (2002/2/21) 〜]』[[内閣官房]]内閣広報室、2007年12月8日閲覧。</ref>。
=== 人物評 ===
[[画像:34th G8 summit member 20080708 2.jpg|200px|thumb|[[第34回主要国首脳会議]]にて各国首脳らと]]
冷静沈着な風貌で、会見時の冷笑的態度がよく知られていたが、実際には瞬間湯沸かし器といわれるほど激昂家である。官房長官時代は官房副長官を務めた安倍晋三の上司であったが、[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致問題]]で帰国した被害者をいったん帰す意向であった福田に安倍が反発。この際「余計なことはするな」と机を蹴り上げて安倍を叱責したという<ref>[http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/173?page=4 安倍vs.福田 宰相候補を丸裸にする]</ref>。その他、官邸の官房長官執務室で[[大仁田厚]]に対し「大仁田君、政治は男のロマンだ。ファイヤー」<ref>[http://www.sponichi.co.jp/society/special/2006sosaisen/KFullNormal20070916055.html 福田康夫氏 大仁田氏に「ファイヤー」]</ref>と説くなど、ときに熱血漢ぶりを発揮することもある。政敵の[[菅直人]]は、官房長官時代の福田について「斜に構えているが泥をかぶってもやり遂げるというところがあった。小泉首相・福田官房長官というのは中曽根首相・後藤田官房長官を思わせる」<ref>山田孝男「風知草――論客・菅直人の福田観」『毎日新聞』毎日新聞東京本社、[[2008年]][[2月4日]]、3面。</ref>と評している。[[脚本家]]の[[三谷幸喜]]は、当時の菅と福田を対比し、福田の物言いについて「明らかに面白いことを言おうという意思がうかがえ、しかも確実に面白いことを言っている」<ref>[[三谷幸喜]]『三谷幸喜のありふれた生活3――大河な日日』朝日新聞社、[[2004年]]。</ref>と評した。[[坪内祐三]]も「福田さんの[[ブラックジョーク]]が好きだった」<ref>[[坪内祐三]]・[[福田和也]]談、[[石丸元章]]構成「文壇アウトローズの世相放談――これでいいのだ!」『[[SPA!]]』57巻42号、[[扶桑社]]、[[2008年]][[9月16日]]、133頁。</ref>としている。
自民党の数少ない外交族である。政界において外交は票に繋がらないというのが定説の中、父から継いだ強固な地盤で選挙には絶対の自信を持っていたためである。田中が外相時に外交が著しく停滞する中、官房長官として外務省を直接取り仕切り破綻を防いだ。これを小泉が高く評価し、後任の川口時代も実際に外務を取り仕切ることとなった。
小泉政権で福田と共に[[国務大臣|閣僚]]を務めた[[竹中平蔵]]は、首相就任後の福田について、クールアース推進構想での数値目標導入、公務員制度改革での内閣人事庁の新設、道路特定財源の一般財源化表明などを例示し「一カ月に一回くらい結構大きな決断をしている」<ref name="takenakakoda20080417">[[竹中平蔵]]・[[幸田真音]]「特別対談ニッポン経済の『ここ』が危ない!――霞が関の『肉食動物』が国民の金を食いツブす」『[[週刊文春]]』50巻16号、[[文藝春秋]]、[[2008年]][[4月17日]]、44頁。</ref>と指摘し「福田総理は[[改革]]に後ろ向きであるわけではない」<ref name="takenakakoda20080417"/>としている。同時に、竹中は福田政権の問題点として、福田によるプロアクティブな改革への取り組みを[[国民]]はリアクティブな改革として受け止めていると指摘し、「『[[政策]][[マーケティング]]』に問題あり」<ref name="takenakakoda20080417"/>と評している。福田政権で[[内閣総理大臣補佐官]](社会保障担当)を務めた[[伊藤達也]]は「福田氏は厚労省改革で強い指導力をみせた」<ref name="sankei20080924">今堀守通「『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080924/plc0809241839012-n2.htm 「官僚を使いこなすのは大変だ」 福田前首相が最後の最後に恨み節(2/2ページ)- MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2008年]][[9月24日]]。</ref>と評価した上で、福田は手柄を独り占めしようとせず「手柄を全部われわれに与えようとする」<ref name="sankei20080924" />と指摘し「目立とうとしない政治家は珍しい」<ref name="sankei20080924" />と評している。[[慶應義塾大学環境情報学部]]教授の[[福田和也]]は、公文書管理体制の強化を推進した福田について「あの人まじめだから、[[役所]]の[[記録]]とかを几帳面にきちんと[[文書]]化して残してるんだよ。きっと50年後の[[研究者]]はすごく助かると思う」<ref>[[坪内祐三]]・[[福田和也]]談、[[石丸元章]]構成「文壇アウトローズの世相放談――これでいいのだ!」『[[SPA!]]』57巻42号、[[扶桑社]]、[[2008年]][[9月16日]]、135頁。</ref>と指摘している。
言語学者の[[東照二]]は、福田は情報を伝える効果をもつリポート・トークと呼ばれる話し方を得意とする一方、他人に感情を伝え、相手との共感を高める効果をもつラポート・トークと呼ばれる話し方が「できていない、どうしていいかわからない」人物であると指摘している<ref>{{Cite journal|和書 |author=[[東照二]] |title=国民との心理的距離は広がるばかり 言語学者が福田「他人事語録」を丸裸にする |date=2008-06 |journal=[[月刊現代]] |pages=52-53 |publisher=[[講談社]]}}</ref>。また東は、情報中心の言葉を多く使う福田が情緒中心の言葉を使う場面は往々にしてラポート・トークに結びつく「共感」「仲間意識」ではなく「怒り」「恐怖」「不満」を表明するときだとも指摘し<ref>{{Cite journal|和書 |author=[[東照二]] |title=国民との心理的距離は広がるばかり 言語学者が福田「他人事語録」を丸裸にする |date=2008-06 |journal=[[月刊現代]] |pages=56-57 |publisher=[[講談社]]}}</ref>、マスコミが福田の発言スタイルを「他人事節」と名付けたのは、「個人の強い思い入れ、心の底から湧いてくるような熱い思い、積極的な態度というものが浮かび上がってこない」特徴を指したものだとしている<ref>{{Cite journal|和書 |author=[[東照二]] |title=国民との心理的距離は広がるばかり 言語学者が福田「他人事語録」を丸裸にする |date=2008-06 |journal=[[月刊現代]] |page=54 |publisher=[[講談社]]}}</ref>。
== エピソード ==
[[画像:Condoleezza Rice and Yasuo Fukuda 20080227.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[2月27日]]、[[アメリカ合衆国国務長官]][[コンドリーザ・ライス]](手前左)と]]
[[画像:Vladimir Putin 26 April 2008-3.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[4月26日]]、日露首脳会合にて[[ロシア連邦]][[ロシア連邦大統領|大統領]][[ウラジーミル・プーチン]](左中央)らと]]
[[画像:Dmitry Medvedev at the 34th G8 Summit 7-9 July 2008-38.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月8日]]、日露首脳会合にて[[ロシア連邦]][[ロシア連邦大統領|大統領]][[ドミートリー・メドヴェージェフ]](右中央)らと]]
[[画像:34th G8 summit member 20080707.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月7日]]、[[第34回主要国首脳会議]]の出席者と]]
[[画像:34th G8 summit member 20080708.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月8日]]、[[第34回主要国首脳会議]]の出席者と]]
[[画像:G-8+G-5 in 2008.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月9日]]、[[エネルギー安全保障と気候変動に関する主要経済国会合]]の出席者と]]
[[画像:Dmitry Medvedev in China 15 April 2011-7.jpeg|200px|thumb|[[2011年]][[4月15日]]、[[ボアオ・アジア・フォーラム]]年次総会の出席者と]]
[[画像:Ryoki Sugita Fidel V Ramos Yasuo Fukuda and Manuel Lopez 20110803.jpg|200px|thumb|[[2011年]][[8月3日]]、[[日本経済新聞社]][[会長]][[杉田亮毅]](左から1人目)、元[[フィリピン]][[フィリピンの大統領|大統領]][[フィデル・ラモス]](左から2人目)、[[特命全権大使|日本駐箚フィリピン特命全権大使]]マニュエル・ロペス(右から1人目)と]]
;[[在日米軍]]による犯罪
:2008年[[2月10日]]に[[沖縄県]]で発生した[[在日米軍]][[アメリカ海兵隊|海兵隊]]二等軍曹による[[米海兵隊員14歳沖縄少女強姦事件|女子中学生強姦事件]]について、「わが国の法と証拠に基づいて適切に対処していく」と述べた上で、「過去に何度か起こっているにもかかわらず、また起きてしまったことは本当に重大なことだと受け止めている。許されることではない」と強く非難し、アメリカ側に抗議し、改善を求める考えを明らかにした<ref>『[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/122097/ 「米兵事件に首相「許されることではない」」政治も‐政局ニュース:イザ!]』産経デジタル、[[2008年]][[2月12日]]。</ref>。2008年[[2月27日]]、[[総理大臣官邸]]を訪問した[[アメリカ合衆国国務長官]][[コンドリーザ・ライス]]は「極めて遺憾で申し訳なく深刻に受け止めている。再発防止に向け最大限努力したい」<ref>上野央絵『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080228k0000m010095000c.html ライス米国務長官:沖縄米兵暴行、「極めて遺憾」と謝罪 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[2月27日]]。</ref>と述べ、福田に対して謝罪の意を表した。
;年金記録問題
:2007年に[[年金記録問題]]が政治問題化すると、[[社会保険庁]]は[[宙に浮いた年金記録]]の解消を図るため、該当者不明の年金記録5000万件の照合作業を開始した。照合作業は[[第1次安倍内閣|安倍政権]]の下で始まったが、続く福田政権でも作業は引き継がれた。2007年12月、[[社会保険庁]]の照合作業の中間報告がなされ、[[2008年]][[3月]]末までに持ち主が判明するのは1000万人程度に留まり、名寄せ困難な記録が1975万件に達するとの推計値が公表された<ref>『[http://www.asahi.com/politics/update/1210/TKY200712100248.html asahi.com:名寄せ困難な年金、1975万件 宙に浮く5000万件 - 政治]』朝日新聞社、[[2007年]][[12月11日]]。</ref>。
: しかし、年金記録5000万件の照合作業について、前首相の[[安倍晋三]]は2007年5月の[[国会]]答弁で「三千万人の方々とこの二千八百八十万件を一年間のうちに突合いたします」<ref name="kokkakihonseisaku20070530">『[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=116624293X00220070530 両院協議会会議録情報 第166回国会 国家基本政策委員会合同審査会 第2号]』[[国立国会図書館]]、[[2007年]][[5月30日]]。</ref>と主張し、「一年間で私たちはすべて突合を行うということをお約束をする」<ref name="kokkakihonseisaku20070530" />と明言していた。さらに、[[第21回参議院議員通常選挙]]での演説で安倍は「最後の一人まですべての記録をチェックし、まじめに保険料を払ってきた人の受給を保障する」<ref>『[http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_118334007696&v=&vm=1 年金問題「必ず解決」 安倍首相、県内で応援演説 徳島新聞社]』[[徳島新聞|徳島新聞社]]、[[2007年]][[7月2日]]。</ref>と述べており、選挙公約に掲げていた。
:中間報告の推計に基づけば安倍の公約の達成はほぼ不可能と見られることから、政府・自民党に対し公約違反との批判が高まり、福田が首相として謝罪する騒ぎとなった<ref name="asahi20071217">『[http://www.asahi.com/special/070529/TKY200712170271.html asahi.com:首相「党のビラ、誤解招いた」 年金公約問題で - 年金記録問題]』朝日新聞社、[[2007年]][[12月17日]]。</ref>。[[内閣官房長官]][[町村信孝]]は「亡くなった方もいる。『最後の一人まで』ということはありえない。もとより無理」<ref name="asahi20071217" />と述べ、安倍の公約自体に実現可能性がなかった問題点を指摘した。福田は「(当時の)安倍総理は割合ときちんと言ってるんじゃないかと思います」<ref>『[http://news.tbs.co.jp/20071217/newseye/tbs_newseye3735255.html 「「年金公約」誤解の原因は選挙用ビラ」 News i - TBSの動画ニュースサイト]』[[TBSテレビ|TBS]]、[[2007年]][[12月17日]]。</ref>と発言し、安倍を擁護する姿勢を見せた。
;父・赳夫が首相としてできなかったこと
:福田康夫が首相に就任し、日本初の親子総理が誕生したが、その際、父赳夫が首相としてできなかったこととして注目されることがある。一つ目はサミットの議長、二つ目は解散総選挙である。父赳夫は1979年に日本の首相としてサミットの議長を担うことが予定されていたが、1978年の自民党総裁選で政敵である大平に敗北し、サミット議長も解散総選挙もできないまま総理総裁から退くのを、息子である康夫は首相秘書官として間近で見ていた。なお、息子である康夫は2008年7月にサミットの議長を務め、父の念願の夢を果たした。しかし、解散総選挙はできないまま2008年9月に総理を退任した。
;[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による拉致問題
:2002年、訪朝前に小泉首相との面会を要望した拉致被害者家族に対し、「心静かな状態で首脳会談を行なうために、家族とは会わないほうがよい」と言って、会わせなかった。首相に代わって福田が、拉致被害者家族と会った際、これまでの対応から誠意を感じていなかった[[増元照明]]に「私はあなたを信ずることができない」と言われた<ref name="syukandiamond20021012">[http://www.yoshiko-sakurai.jp/works/works_diamond_021012.html 訪朝前に拉致被害者家族と会わなかった政府首脳の罪](『[[週刊ダイヤモンド]]』2002年10月12日号 新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 464回)</ref>。
:拉致被害者家族の一人、[[蓮池透]]によれば、2002年9月、拉致被害者の安否について官房長官として福田が家族について報告した際、蓮池透の母が生存とされた家族と死亡とされた家族とを別々にしないで、一緒の場で報告してほしいと訴えると、「黙って聞きなさい。あなた方の家族は生きているのだから」と、両腕で押さえつけるような仕草をしたという。その報告に立ち会った[[北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会|救う会全国協議会]]事務局長の[[荒木和博]]は生存と知らされた家族らが他の方が亡くなったとの知らせに号泣したため、喜んで感謝すると思っていた福田はあてが外れて動揺したように見えたという<ref name="sukuunews20020919">[http://www.sukuukai.jp/mailnews.php# 救う会全国協議会ニュース] (2002.9.19)</ref>。蓮池は「8人死亡」という北朝鮮当局の解答と小泉総理が「[[日朝平壌宣言]]」に署名したことを同時に知って家族たちがマスコミの前で騒ぎ出さないように、意図的に被害者家族を“軟禁状態”にしたのだと思ったという。蓮池はその時点では日本政府は安否に関して何の確認も裏付けもとれてはいなかったのに福田が生死の情報を断定的に語ったことを許しがたいと非難している<ref>[[蓮池透]] 『奪還 - 引き裂かれた二十四年』 [[新潮社]] 2004年</ref>。荒木和博も福田は「亡くなったという情報があります」という言い方だったが、語調は極めて断定的で「北朝鮮側がこういう情報を伝えています」といったようなものではなかったと語っている<ref name="sukuunews20020919" />。2007年9月21日の麻生太郎との公開討論会において、これらの報告の際の状況について尋ねる麻生の質問に答えて福田は「外務省の連絡によるとこういうことですということを明確に御家族の方々に申しました」、「私が断定的に言ったということではありません」と説明した<ref name="sportshouchi070922">[http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070922-OHT1T00090.htm 麻生氏捨て身口撃で福田氏イライラ…自民党総裁選公開討論会](『スポーツ報知』 2007年9月22日06時02分閲覧)</ref>。
:一時帰国の約束で拉致被害者が帰国した際、[[安倍晋三]]官房副長官(当時)らの北朝鮮には返さないという主張に対し、田中均らと共に北朝鮮に帰すべきと主張していたといわれているが、2007年9月21日の麻生太郎との公開討論会においては、「その時私は、帰すべきではないとは言わなかった」、「ただ、北朝鮮に返すという約束を破って大丈夫なのかどうかを外務省によく尋ねた」、「最終結論を出す前に、帰国した本人に意向を確認して下さいとお願いし、(日本に残るという)確認が取れた」、「そういうプロセスを経てきたので、充分な配慮をしながら道筋を歩んだ」と説明した<ref name="sportshouchi070922" />。
:拉致問題についての外務省[[アジア大洋州局]]長(当時)の[[田中均]]の働きに関しては「田中はよくやった。パーフェクトだ」と評価した<ref name="syukandiamond20021012" />。
:小泉首相が安倍官房副長官の勧めで拉致問題プロジェクトチームを立ち上げたことに対して福田は反対したという<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H14/1404/140432abduct.html 拉致問題 福田官房長官と安倍副長官が対立]([http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/index.html 『國民新聞』])</ref>。
:2007年9月、自民党総裁選に向けての街頭演説で、「私の手で解決したい。私を信頼し、応援してほしい」、「今でも北朝鮮に残っている方(被害者)がいる。これは捨てておけない」と拉致問題解決と日朝国交正常化へ努力する決意を示した<ref>「[https://web.archive.org/web/20080302043844/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070917it12.htm 拉致問題で福田氏「私の手で解決」、麻生氏は圧力重視主張]」(“YOMIURI ONLINE “ 2007年9月17日22時17分閲覧)</ref>。
;靖国神社参拝問題
:小泉首相の靖国神社参拝日を、福田は前駐中国大使の谷野作太郎に相談し、小泉の10月訪中を中国が受け入れることを見返りに、8月18日参拝」に向けて動き出したという<ref>[http://www.nikkei.co.jp/neteye5/shimizu2/20060714ne97e000_14.html 小泉純一郎の「8・15靖国参拝」の深層(2006/7/19)]([http://www.nikkei.co.jp/neteye5/ NETアイ プロの視点])</ref>。
;レイプに関する発言
:[[2003年]]6月26日、女子大生が集団で[[強姦]]されていた、自身がOBである早稲田大学の[[スーパーフリー事件]]について、衆議院議員[[太田誠一]]が「集団[[強姦|レイプ]]する人は、まだ元気があるからいい」と取られるような発言をし大きな非難を受けた際に、「そういう格好しているほうが悪いんだ。男は[[黒豹]]なんだから」、「女性にもいかにも『してくれ』っていうの、いるじゃない」と[[オフレコ]]で発言したと報道され<ref>『週刊文春』2003年7月10日号</ref>、女性の[[人権]]に反する発言であると非難を受けたが、福田は、同年7月3日の参議院の[[内閣委員会]]において、「六月二十七日の記者会見でもはっきり言っております。レイプは犯罪行為だと、それも凶悪犯罪であると、こういうふうに言っているんですよ。ですから、私も、いまだかつてレイプを擁護したということは一回もありませんよ」、「今言われるような発言はしていないし、私の真意と全く違うということだけは重ねて申し上げておきます」<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=115614889X01620030703 第156回国会 参議院 内閣委員会 第16号] 平成15年(2003年)7月3日</ref>、「その発言の中身を一々記憶しているわけではありませんけれども、私の考えていることは、レイプを擁護するような、そういうことはしたことがないと、これはもう明確に申し上げます」、「長い間話していれば前と後ろをつなげれば何かできちゃう、全く違う発想になると、そういうことだってあるわけですよ」などと述べた<ref>第156回国会 参議院 内閣委員会 厚生労働委員会 連合審査会第1号 平成15年(2003年)7月8日</ref>。ちなみにこの発言を行った際、福田は[[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)|男女共同参画担当大臣]]の職にあった。
;年金未納
:2004年4月27日午前の記者会見で、閣僚の年金保険料の納付状況について「公開しろと国会で決めるなら従う」としながらも、「個人情報であること」を理由に公表を改めて拒否。3人の閣僚が未納を認めたことについては「積極的に開示されたということであって、本来ならばこれは守られるべき個人の情報だ」と述べた。公表を求める質問を続けた記者に対し、福田が年金制度の重要性などを語り、話題をそらしたため、記者が福田に「おかしいでしょう」と詰め寄ったことに対し、「あなたの方がおかしい」と反発した<ref>『毎日新聞』2004年 4月 27日付夕刊</ref>。同年5月、『[[週刊文春]]』が、国会議員になる以前にも延べ5年8カ月の未加入期間があったことを指摘<ref>「隠蔽(いんぺい)と[[嘘]](うそ)の連鎖 福田長官独占告白『本当は8年間払ってません』」(『[[週刊文春]]』2004年5月13日号)</ref>。福田長官周辺も『朝日新聞』の取材にその事実を認めた([[政治家の年金未納問題]]を参照)。
;政治とカネをめぐる問題
:2007年9月、 福田首相が代表を務める「自民党群馬県第4選挙区支部」や資金管理団体「千代田経済懇話会」、関連の政治団体の政治資金収支報告書に添付された領収書のコピーのあて名が100以上改ざんされていたことが発覚した。福田は「経理担当者が領収書を取り直すという手間を省いた」、「最高責任者としては、“汗顔の至り”だと思っている」などと説明した<ref name="youkanfuji20071003">「[http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/backnumber/n_yasuo_fukuda4__20071003_6/story/03fuji320071003016/ 「うっかりでは済まない」福田領収書改ざん100枚超]」 『[[夕刊フジ]]』2007年10月3日16時21分閲覧</ref>。同年10月3日の衆議院の[[代表質問]]では「改ざんではなく実態に合わせて補正した。全部領収書を取り直して取り換えた」と釈明した<ref>[http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt215/20071003AS3S0301903102007.html 領収書書き換え「改ざんではない」・首相が釈明] NIKKEI NET 2007年 10月3日 23:58閲覧</ref>。
:福田が代表を務める政党支部が[[1996年]]と[[2003年]]に、外国人や外国人が株式の過半数を持つ企業から献金を受けることを原則禁じている[[政治資金規正法]]に反し、朝鮮籍の会長と韓国籍の親族が全株式を保有する群馬県高崎市の[[パチンコ]]店を経営する企業から計20万円の[[寄付]]を受けていたことが発覚した<ref name="youkanfuji20071003" />。
:2000年11月、与党[[保守新党|保守党]]の[[松浪健四郎]]が本会議の質問中に野党のヤジに激高してコップの水を野党席にふりかけた事件の際、「民主党の若い人の騒ぎようは恥ずかしい。議長の指示に従わないのはガキ以下だ」と発言し<ref name="yom" />、衆院議運委員長から厳重注意を受け陳謝した。
;芸能・スポーツ
:2007年[[10月5日]]、[[双津竜順一|時津風親方]]([[年寄]]、元[[小結]][[双津竜順一]])が[[時津風部屋力士暴行死事件]]で財団法人[[日本相撲協会]]に解雇された問題について質問され、「[[国技]]として、[[相撲]]がみんなから愛されているなかで、こういうことが起こったことは極めて残念だ」「そういうことを乗り越えて、みんなから愛される相撲になってほしい。相撲協会頑張って欲しい」<ref>『[http://www.asahi.com/politics/update/1005/TKY200710050362.html asahi.com:「愛される相撲に」と福田首相 時津風親方解雇で - 政治]』朝日新聞社、[[2007年]][[10月5日]]。</ref>と答えている。
:歴代首相との交遊で知られた[[作家]]の[[川内康範]]とは、康夫の父・赳夫の代から交流があり、首相在任中も康夫は川内と会談しアドバイスを受けていた<ref>スポニチ『[http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20080408spn00m200010000c.html 川内康範氏:死去 政治にも影響力 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[4月8日]]。</ref>。川内の訃報に接した康夫は「あの方は考え方がしっかりしていて、私どもにも参考になるようなことを言ってくださった。残念です」<ref>白戸圭一「福田首相が弔意」『[http://mainichi.jp/select/person/news/20080408ddn041060021000c.html 訃報:川内康範さん 88歳 死去=作詞家、作家 - 毎日jp(毎日新聞)]』毎日新聞社、[[2008年]][[4月8日]]。</ref>とコメントした。
;中国をめぐるエピソード
:台湾前総統の李登輝が病気治療のために台湾側でビザの申請書を提出したが、日本の外務省本省は受理していないと発表し、官房長官であった福田も「申請は行われていない」と記者発表した。これに対して李登輝は台湾での会見で「日本政府は嘘つきだ」と非難した<ref>[[櫻井よしこ]]「政府は李前総統へのビザ発給問題を明確に説明せよ」(『週刊ダイヤモンド』2001年4月28日・5月5日合併号オピニオン縦横無尽 第394回)</ref>。
:自民党内で福田が支持を集めるにつれ、中国関連[[株式|株]]が値上りする現象が見られた<ref>『[[時事通信]]』(2007年9月14日17時3分)</ref>。中国国内では、福田を漫画『[[ドラえもん]]』の登場人物「[[野比のび太]]」になぞらえて親しみを表す声もあると報じられた<ref>『[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0925&f=national_0925_003.shtml ドラえもんのお陰?「福田のび太首相」にブロガー大喜び 2007/09/25 (火) 18:24:20 [中国情報局]]』</ref>。
:2008年発覚した[[中国産食品の安全性#殺虫剤が混入した冷凍餃子中毒事件(2007–2010)|中国製冷凍ギョーザによる中毒事件]]に関し、2008年2月29日、毒物混入経路が不明のまま中国公安省が開いた「中国国内での毒物混入可能性は極めて低い」という事実上事件の幕引きを図る会見について、「中国は解決に非常に前向き」と評価した<ref>【主張】中国ギョーザ事件 首相発言に疑問呈したい [http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080301/plc0803010354002-n1.htm 2008年3月1日産経新聞社説])</ref>。
:中国[[重慶市]]の地元紙・『重慶時報』が福田は一般的に「親中派」と見られているが、実際は外交理念は小泉元首相と同じであり、平和憲法改正と核兵器保有などの問題で、麻生太郎や安倍前首相よりさらに過激であるという理由で、福田を「親中派」と見るのは時期尚早であるとする中国国務院のシンクタンク、社会科学院の楊進博士の寄稿したリポートを紹介した<ref>{{Cite web|和書|date=2007-09-25 |url=https://web.archive.org/web/20071213154205/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0925&f=politics_0925_002.shtml |title=「福田氏は親中国派じゃない」中国政府専門家が指摘 |publisher=サーチナ |accessdate=2011-01-10}}</ref>。
:2018年4月にボアオ・アジア・フォーラム理事長を退任した際の[[人民日報]]への寄稿で関税で報復し合うなど米国と貿易戦争が生じてる中国に「中国は[[1980年代]]の[[日米貿易摩擦]]や[[プラザ合意]]から学んで米国を警戒すべき」と主張して中国で反響を呼び、中国国内で福田を支持する声が相次いだ<ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-10 |url=https://www.recordchina.co.jp/b180372-s0-c70-d0000.html |title=「中国は日本から教訓を得るべき」、福田元首相の発言が中国で反響 |publisher=[[Record China]] |accessdate=2018-04-10}}</ref><ref>{{Cite web |date=2018-04-09 |url=http://news.sina.com.cn/w/sy/2018-04-09/doc-ifyvtmxe2381741.shtml |title=福田康夫人民日报撰文:中国应吸取日本教训对美提高警惕 |publisher=[[新浪]] |accessdate=2018-04-10}}</ref>。同年8月には、12月に発売される『[[習近平]]はかく語りき [[中華人民共和国主席|中国国家主席]]珠玉のスピーチ集』(日本僑報社)に推薦文を寄稿している<ref>{{Cite web|和書|title=【良書案内】習近平はかく語りき―中国国家主席 珠玉のスピーチ集。福田康夫元首相推薦 |url=https://www.value-press.com/pressrelease/225843 |website=valuepress |accessdate=2021-03-20}}</ref>。
=== マスメディア ===
[[画像:Fukuda meets Bush in Oval Office 16 November 2007.jpg|200px|thumb|[[2007年]][[11月16日]]、記者会見にて[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]](奥右)と]]
[[画像:President Bush Participates in Joint Press Availability with Prime Minister Fukuda of Japan.jpg|200px|thumb|[[2008年]][[7月6日]]、日米共同記者会見にて[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]](左下)と]]
;『朝日新聞』誤報問題
:[[2003年]][[10月9日]]、参議院「国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会」の審議中、[[日本道路公団]][[総裁]][[藤井治芳]]の更迭問題が取り上げられた。参議院議員[[齋藤勁]]が『朝日新聞』の報道を基に、[[10月5日]]に[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]と[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]との合併大会が開催されるから、あえて大会当日を選んで藤井の総裁更迭を実施したのではないか、と問題提起した。齋藤は内閣総理大臣の小泉純一郎や内閣官房長官の福田を追及したが、小泉や福田らに否定された。齋藤は『朝日新聞』の記事に基づき「天下の報道、報道って、[[新聞]]ですよ」<ref name="ndl20031009">「第5号――平成15年10月9日」『[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=115714303X00520031009 参議院会議録情報 第157回国会 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会 第5号]』[[国立国会図書館]]、[[2003年]][[10月9日]]。</ref>と主張したが、福田は「そう書いてあるから信じようというのは、それはお金払って新聞買っているわけですから、それはお気持ちはよく分かりますけれども、やっぱりよくそこの辺は吟味する必要もある」<ref name="ndl20031009" />と指摘した上で、「福田官房長官がこう言っただとか、そういうことでうそが随分たくさんある」<ref name="ndl20031009" />と『朝日新聞』の報道姿勢を批判した。
;首相辞任表明記者会見でのエピソード
:2008年[[9月1日]]の退陣表明記者会見では、[[中国新聞社]]の[[道面雅量]]記者が「一般に、総理の会見が国民には他人事のように聞こえるというふうな話がよく聞かれておりました。今日の退陣会見を聞いても、やはり率直にそのように印象を持つのです」<ref name="kantei20080901">『[https://web.archive.org/web/20080905052903/http://www.kantei.go.jp/jp/hukudaspeech/2008/09/01kaiken.html 福田内閣総理大臣記者会見]』[[内閣官房]][[内閣広報室]]、[[2008年]][[9月1日]]。</ref>と述べたところ、「他人事のようにというふうにあなたはおっしゃったけれども、私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。'''あなたと違うんです'''。そういうことも併せ考えていただきたい」<ref name="kantei20080901" />と感情を露にして切り返した。
:[[立花隆]]は、この会見でこの部分が唯一面白いと評した。また、発言が[[2ちゃんねる]]などで[[流行語]]にもなり、後に2008年度[[ネット流行語大賞]]の年間大賞金賞(1位)に入賞<ref>[https://web.archive.org/web/20081205001655/http://texpo.jp/texpo/disp/16124 ネット流行語大賞2008結果発表です] - 秘密基地ブラジル 2008年12月1日</ref>。他にも、[[Tシャツ]]が作られるなど話題になった<ref>『[https://www.j-cast.com/2008/09/04026264.html J-CASTニュース : 福田首相の「あなたとは違うんです」 Tシャツの販売好調]』[[ジェイ・キャスト]]、[[2008年]][[9月4日]]。</ref><ref>『[https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-33615820080905 福田首相の捨てぜりふ、Tシャツなどで大人気に]』[[ロイター]]、[[2008年]][[9月6日]]。</ref>。「あなたとは違うんです」は、『[[週刊文春]]』の2008年12月4日号にて発表された、読者1000人からのアンケート集計による2008年度の『週刊文春版・流行語大賞』においても、262票を獲得して1位に選ばれた<ref>「恒例1000人アンケート 週刊文春版2008年『流行語大賞』発表! 『アラフォー』『キターー!!』『あなたとは違うんです』」『週刊文春』2008年12月4日号、42-45頁。</ref>。また、「あなたとは違うんです」は、2008年[[新語・流行語大賞]]にもノミネートされ<ref>『[https://web.archive.org/web/20091116222711/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/081111/trd0811110803005-n1.htm 今年の流行語大賞 ノミネート60語 「何も言えねぇ」「あなたとは違うんです」(1/4ページ) - MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2008年]][[11月11日]]。2009年11月16日時点の[http://sankei.jp.msn.com/life/trend/081111/trd0811110803005-n1.htm オリジナル]よりアーカイブ。</ref>、トップ10に選ばれたが、福田は「誠に光栄ですが、ご辞退申し上げます。花深く咲く処(ところ)行跡(ぎょうせき)なし」<ref>『[https://web.archive.org/web/20091117195019/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/081201/trd0812012313019-n1.htm 流行語大賞辞退の福田前首相が事務局に寄せた意味シンな一文(1/3ページ)- MSN産経ニュース]』産経デジタル、[[2008年]][[12月1日]]。2009年11月17日時点の [http://sankei.jp.msn.com/life/trend/081201/trd0812012313019-n1.htm オリジナル] よりアーカイブ。</ref>というコメントを事務局に寄せた上で受賞を辞退したため、該当者なしとされた。また、このコメントが報道されると、[[検索エンジン]]にて「花深く咲く処行跡なし」の検索数が急増し、「[[Yahoo! JAPAN]]」においては「急上昇ワードランキング」にランクインした<ref>『[https://web.archive.org/web/20120117123408/http://searchranking.yahoo.co.jp/combo/20081202/08 花深く咲く処 行跡なし(2008年12月2日の急上昇ワードランキング) - Yahoo!検索ランキング]』[[ヤフー (企業)|ヤフー]]、[[2008年]][[12月2日]]。2012年1月17日時点の [http://searchranking.yahoo.co.jp/combo/20081202/08 オリジナル] よりアーカイブ。</ref>。なお、一般には「'''あなた{{color|red|とは}}違うんです'''」という言葉で知られており、新語・流行語大賞にもその用語でノミネートされているが、映像を検証しても解かる通り、福田は「'''あなた{{color|green|と}}違うんです'''」と発言しており、「'''は'''」は発音していない。
== 略歴 ==
* [[1936年]][[7月16日]] - [[東京府]][[東京市]]に生まれる。
* [[1949年]]3月 - 東京第一師範学校男子部附属小学校(現:[[東京学芸大学附属世田谷小学校]])卒業。
* [[1952年]]3月 - [[麻布中学校・高等学校|麻布中学校]]卒業。
* [[1955年]]3月 - [[麻布中学校・高等学校|麻布高等学校]]卒業。
* [[1959年]]3月 - [[早稲田大学政治経済学部|早稲田大学第一政治経済学部]][[経済学部|経済学科]]卒業、[[丸善石油]](現:コスモ石油)入社。
* [[1962年]]3月 - [[アメリカ合衆国]]駐在(2年間)。
* [[1976年]]11月 - 退社し、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]][[秘書]]となる。
* [[1977年]]12月 - [[内閣総理大臣秘書官]]に就任([[1978年]]12月退任)。
* [[1986年]]5月 - [[社団法人]][[金融財政事情研究会]]理事に就任([[1994年]]2月退任)。
* [[1990年]]2月 - [[第39回衆議院議員総選挙]]で初当選(1期)。
* [[1992年]]6月 - 衆議院[[外務委員会]]理事に就任([[1999年]]10月退任)。
* [[1993年]]
**4月 - 日本スリランカ協会会長に就任([[2000年]]10月退任)。
**7月 - [[第40回衆議院議員総選挙]]で再選(2期)。
* [[1995年]]8月 - [[外務省|外務]][[政務次官]]に就任([[1996年]]1月退任)。
* [[1996年]]
**10月 - [[第41回衆議院議員総選挙]]で再選(3期)。
**11月 - [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]外交部会長に就任。
* [[1997年]]
**9月 - 自由民主党副[[幹事長]]に就任。
**11月 - 日本イエメン協会会長に就任([[2000年]]10月退任)。
* [[1998年]]8月 - 自由民主党財務委員長に就任。
* [[1999年]]10月 - 自由民主党経理局長に就任。
* [[2000年]]
**6月 - [[第42回衆議院議員総選挙]]で再選(4期)。
**7月 - 自由民主党[[政策部会|政務調査会]]副会長に就任。
**10月 - [[第2次森内閣]]で[[内閣官房長官]]、[[沖縄振興局#歴代の沖縄開発庁長官等|沖縄開発庁長官]]に就任。
**12月 - [[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編前)|第2次森改造内閣(省庁再編前)]]で内閣官房長官に留任。
* [[2001年]]
**1月 - [[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編後)|第2次森改造内閣(省庁再編後)]]で内閣官房長官に留任、[[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)|男女共同参画担当大臣]]に就任。
**4月 - [[第1次小泉内閣]]で内閣官房長官、男女共同参画担当大臣に留任。
* [[2002年]]9月 - [[第1次小泉内閣 (第1次改造)|第1次小泉内閣第1次改造内閣]]で内閣官房長官、男女共同参画担当大臣に留任。
* [[2003年]]
**9月 - [[第1次小泉内閣 (第2次改造)|第1次小泉内閣第2次改造内閣]]で内閣官房長官に留任、[[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)]]に就任。
**11月 - [[第43回衆議院議員総選挙]]で再選(5期)。[[第2次小泉内閣]]で内閣官房長官、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)に留任。
* [[2004年]]
**6月 - [[衆議院]][[憲法調査会]]幹事、日本スリランカ協会会長に就任。
**7月 - [[財団法人]]日本インドネシア協会会長に就任。
*2004年[[5月7日]] - 定例記者会見の席で内閣官房長官、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)の辞任を表明。
* [[2005年]]
**1月 - 自由民主党新憲法起草委員会安全保障及び非常事態に関する小委員会委員長に就任。
**3月 - 財団法人日本ユースホステル協会会長に就任。
**6月 - 社団法人日本カヌー連盟会長に就任。
**9月 - [[第44回衆議院議員総選挙]]で再選(6期)。
* [[2006年]]10月 - 自由民主党総務に就任。
* [[2007年]]
** [[9月23日]] - 第22代[[自由民主党総裁]]に就任。
** [[9月25日]] - 国会で第91代[[内閣総理大臣]]に指名。
** [[9月26日]] - 宮中に参内し、親任式および閣僚の[[認証官|認証式]]を経て[[福田康夫内閣]]を発足。
* [[2008年]]
** [[9月1日]] - [[内閣総理大臣官邸]]にて辞任表明。
** [[9月24日]] - 福田康夫内閣が総辞職。
* [[2009年]]8月 - [[第45回衆議院議員総選挙]]で再選(7期)。
* [[2012年]]
** [[9月26日]] - [[第46回衆議院議員総選挙]]への不出馬を表明。
** [[11月26日]] - 任期満了に伴い衆議院議員を退職。
* [[2013年]][[12月9日]] - 故[[ネルソン・マンデラ]]元[[南アフリカの大統領|南アフリカ共和国大統領]]の追悼式に参列する[[特派大使]]に就任([[12月24日|同月24日]]退任)。
== 選挙 ==
{{選挙歴
|衆|当落1=当|選挙名1=39|選挙区1=[[群馬県第3区 (中選挙区)|旧群馬3区]]|政党名1=[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]|得票数1=88,445|得票率1=20.32%|定数1=4|得票順1=1|候補者1=7|年齢1=53
|衆|当落2=当|選挙名2=40|選挙区2=旧群馬3区|政党名2=自由民主党|得票数2=83,501|得票率2=21.23%|定数2=4|得票順2=2|候補者2=7|年齢2=57
|衆|当落3=当|選挙名3=41|選挙区3=[[群馬県第4区|群馬4区]]|政党名3=自由民主党|得票数3=73,674|得票率3=45.99%|定数3=1|得票順3=1|候補者3=4|年齢3=60
|衆|当落4=当|選挙名4=42|選挙区4=群馬4区|政党名4=自由民主党|得票数4=94,517|得票率4=57.68%|定数4=1|得票順4=1|候補者4=3|年齢4=63
|衆|当落5=当|選挙名5=43|選挙区5=群馬4区|政党名5=自由民主党|得票数5=98,903|得票率5=62.15%|定数5=1|得票順5=1|候補者5=3|年齢5=67
|衆|当落6=当|選挙名6=44|選挙区6=群馬4区|政党名6=自由民主党|得票数6=118,517|得票率6=62.81%|定数6=1|得票順6=1|候補者6=3|年齢6=69
|衆|当落7=当|選挙名7=45|選挙区7=群馬4区|政党名7=自由民主党|得票数7=103,852|得票率7=51.91%|定数7=1|得票順7=1|候補者7=3|年齢7=73
}}
== 所属していた議員連盟・団体 ==
*クローニンの会(知命立志会)- 代表
*公文書館推進議員懇談会 - 代表世話人
*人口と開発に関するアジア議員フォーラム - 議長
* [[天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟]] - 顧問
* [[日米平和・文化交流協会]] - 理事(2005年 - 2007年)
* [[日本会議国会議員懇談会]]
* [[北京オリンピックを支援する議員の会]] - 副会長
* [[ラグビーワールドカップ2019日本大会成功議員連盟]] - 顧問
* [[みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会]]
* [[国立追悼施設を考える会]]
== 家族・親族 ==
[[画像:George W Bush Laura Bush Kiyoko Fukuda and Yasuo Fukuda 20080707.jpg|200px|thumb|[[ジョージ・W・ブッシュ|ジョージ]]・[[ローラ・ブッシュ|ローラ]]夫妻(左)と康夫・[[福田貴代子|貴代子]]夫妻(右)]]
[[画像:Dmitry Medvedev at the 34th G8 Summit 7-9 July 2008-20.jpg|200px|thumb|[[ドミートリー・メドヴェージェフ|ドミートリー]]・[[スヴェトラーナ・メドヴェージェワ|スヴェトラーナ]]夫妻(左)と康夫・貴代子夫妻(右)]]
*祖父・[[福田善治]](政治家、[[金古町]][[町長]])
*父・[[福田赳夫]](官僚、政治家、[[内閣総理大臣]])
*母・[[福田三枝|三枝]](群馬県、新井文夫の三女、[[大審院]][[判事]][[新井善教]]の孫娘)
*弟・[[横手征夫]](群馬県の[[伊香保温泉]]横手館へ[[養子]]入り)<ref>[http://www.yokotekan.com ようこそ。伊香保温泉 横手館 公式サイト]</ref>
*伯父・[[福田平四郎]](政治家、金古町町長)
*叔父・[[福田宏一]](政治家)
*岳父・[[嶺駒夫]](実業家)
*義祖父・[[櫻内幸雄]](政治家)
*義伯父・[[櫻内乾雄]](実業家、[[中国電力]]会長)、[[櫻内義雄]](実業家・政治家、[[衆議院議長]])
*妻・[[福田貴代子|貴代子]](宮城県、実業家[[嶺駒夫]]の娘 島根県[[士族]][[櫻内和一郎]]<ref>猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)サ九九頁より</ref>の曾孫、政治家[[櫻内幸雄]]の孫娘)
*長男・[[福田達夫|達夫]](自由民主党総務会長)
*孫・<ref>https://tatsuo-f.jp/about/tatsuodayori/index.html</ref>
*次男・長女<ref>https://tatsuo-f.jp/about/story/</ref>
*義兄・[[越智通雄]](官僚、政治家)、[[斎藤明]]([[毎日新聞社]]会長)<!--
*義従弟 [[太田誠一]](政治家)親族ではない-->
*甥・[[越智隆雄]](銀行員、政治家)
*甥・[[横手真一]]([[ゴールドマン・サックス]]社員)
*義姪・[[千野志麻]](元フリーアナウンサー 甥・真一の妻)
*甥・[[横手誠二]](横手館社長)
=== 系譜 ===
* [[福田氏]]
<pre>
太田清蔵━━━太田清之助
┣━━━太田誠一
┏━━俊子
┃
┣櫻内乾雄
┏櫻内幸雄━┫
┃ ┣櫻内義雄
┗櫻内辰郎 ┃ 斎藤明
┗━━淑子 ┃
┃ ┏富佐子
┃ ┃
嶺駒夫━━━┻貴代子 ┏福田達夫━━男
┣━━╋男
┏福田康夫 ┗女
┃
┏福田平四郎 ┣和子
┃ ┃ ┣━━━越智隆雄
福田善治━╋福田赳夫━━┫越智通雄
┃ ┃
┗福田宏一 ┣横手征夫━┏横手真一
┃ ┃ ┃
┗玲子 ┃ 千野志麻
┃ ┗横手誠二
松谷明彦
</pre>
== 栄典 ==
*2008年[[3月5日]] - [[:en:Grand Order of Queen Jelena|Grand Order of Queen Jelena with Sash and Morning Star]]([[クロアチア]])
== 著作 ==
=== 共著 ===
*福田康夫・[[衛藤征士郎]]著、[[明石散人]]聞き手『一国は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ』[[ベストセラーズ]]、[[2005年]]。ISBN 4584188602
=== 寄稿 ===
*福田康夫「官邸主導と構造改革」自由民主党編『決断! あの時私はこうした――自民党総理・総裁・官房長官が語る』[http://www.chukoji.co.jp/ 中央公論事業出版]、[[2006年]]。ISBN 4895142752
*福田康夫「日本外交と東アジア――政治家からみた日本の外交」[[渋沢雅英]]・[[山本正 (日本国際交流センター理事長)|山本正]]・[[小此木政夫]]・[[国分良成]]編『東アジアにおけるシヴィル・ソサエティの役割』[[慶應義塾大学出版会]]、[[2007年]]。ISBN 9784766413786
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
*佐藤朝泰『豪閥 {{small|地方豪族のネットワーク}}』[[立風書房]]、2001年、436-437、439-441頁。ISBN 978-4651700793
*神一行『閨閥 改定新版 {{small|特権階級の盛衰の系譜}}』[[角川書店]]、2002年、108-122頁。ISBN 978-4043533060
*山村明義「『官邸の妖婆』福田康夫研究」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』[[2003年]][[9月]]号。
* {{Cite book|和書 |author=[[後藤謙次]] |date=2014-06-06 |title=ドキュメント 平成政治史 2 小泉劇場の時代 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000281683 |ref={{SfnRef|『平成政治史 2』}}}}
* {{Cite book|和書 |author=後藤謙次 |date=2014-12-25 |title=ドキュメント 平成政治史 3 幻滅の政権交代 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000281690 |ref={{SfnRef|『平成政治史 3』}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Yasuo Fukuda}}
{{Wikisource|第168回国会における福田内閣総理大臣所信表明演説}}
{{Wikisource|福田内閣総理大臣の談話 テロ対策特別措置法の失効に伴う対応措置の終了}}
{{Wikinews|自民党総裁選挙、今月23日投票へ - 福田・麻生両氏立候補表明|福田氏、麻生氏を破って自民党新総裁に|福田康夫内閣、政権発足後初めての内閣改造へ - 日本|福田首相、辞意を表明 - 在任1年、改造後1ヶ月で}}
* [[福田康夫内閣]]
* [[福田康夫内閣改造内閣]]
* [[福田内閣メールマガジン]]
* [[福田氏]]
* [[福田晃治]]
* [[福田宏一]]
* [[福田ウイルス]]
:2007年9月25日からそれまでの内容を削除し、福田康夫を装ったなりすましメールへの警告文書(gif画像1枚)のみになっていた。その内容の一部が「なりすまし」ではなく「なり'''ます'''し」と誤植があり、その後修正が施され、そののち閲覧ができなくなった。そのほかについては[[福田ウイルス]]を参照。
* [[吾妻光良 & The Swinging Boppers]] - 「福田さんはカッコいい」という楽曲がある。
== 外部リンク ==
* [https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/091.html 歴代内閣ホームページ情報:福田内閣総理大臣] - 福田を紹介する総理大臣官邸の公式ウェブサイト
* {{Wayback|url=https://www.kantei.go.jp/jp/koizumidaijin/020930/12hukuda.html |title=内閣官房長官 |date=20021216072553}} - 福田を紹介する総理大臣官邸の公式ウェブサイト
* [https://www.jimin-gunma.jp/ 自由民主党群馬県支部連合会] - 自由民主党群馬県支部連合会の公式ウェブサイト
* {{Kotobank}}
{{S-start}}
{{s-off}}
{{succession box
|title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]]
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{{succession box
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{{succession box
|title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣府特命担当大臣]]([[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)|男女共同参画]])
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{{succession box
|title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)|男女共同参画担当大臣]]
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{{succession box
|title = {{Flagicon|JPN}} [[沖縄振興局#歴代の沖縄開発庁長官等|沖縄開発庁長官]]
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{{succession box
|title = [[自由民主党総裁]]
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|years = 第22代:2007年 - 2008年
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{{succession box
|title = [[主要国首脳会議]]議長
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|years = 2008年
|after = [[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]
|afternote = イタリア
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{{日本国歴代内閣総理大臣
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|前代=[[第1次安倍内閣 (改造)|90]]
|前首相名=安倍晋三
|次代=[[麻生内閣|92]]
|次首相名=麻生太郎}}
{{内閣官房長官}}
{{沖縄及び北方対策担当大臣||[[沖縄振興局|沖縄開発庁長官]]}}
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{{自由民主党総裁}}
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{{旧群馬3区選出衆議院議員(1947-1993)}}
{{群馬小選挙区選出衆議院議員(1996-)}}
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[[Category:福田康夫|*]]
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[[Category:日本会議国会議員懇談会の人物|元]]
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[[Category:福田赳夫]]
[[Category:福田善治家|やすお]]
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[[Category:麻布中学校・高等学校出身の人物]]
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[[Category:存命人物]]
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11,158 |
ミリメートル
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ミリメートル(millimetre, 記号mm)は、長さのSI単位で、1/1000メートル(m)である。
マイクロメートル ≪ ミリメートル < センチメートル
「mm」の、前の「m」(ミリ)は、千分の一を表すSI接頭語であり、後の「m」は、メートルの単位記号である。したがって、2つの m は小文字、立体で表記しなければならない。
ときに、「MM」と大文字で書かれることがあるが、これは誤りである。単位記号で大文字の「M」はメガと混同されることもある。
日本では1980年ごろまで、慣習的に「m/m」と書かれることがあったが、これも誤りである。現在でも、園芸用支柱のサイズの表示にm/mが用いられている。
なお、cm(センチメートル)についても「c/m」と書く慣用があった。
m/m は、全く別の意味で使われることがある。平面角の単位であるラジアンをSI基本単位のみによる表現とした場合に、m/m は「メートル÷メートル」の意味で便宜的に使われる表現であり、rad = m/m と書くことができる。
日本の漢字(国字)では「粍」と表記することがあるが、計量法では使用することはできない。また、ミリメートルに限らず、メートル法では「千分の一」を意味する単位の頭には「ミリ」が付く(例:ミリリットル、ミリグラム)が、単に「ミリ」と言った場合に「ミリメートル」の略語として使用される例がある。
ミリメートルの公式の英語の綴りは、millimetreで、「ミリミーター」に近い発音である。ただし、米国でのみ1977年以降、例外的にmillimeterとしている。
millimetre は一語であり、「milli metre」と離して書くことはできない。
millimetre の発音では、接頭語である milli の最初のシラブルに強アクセントがある。これは、kilometre、nanometre などの倍量単位・分量単位の英語発音でも同じである。詳細は、メートル#派生語の英語発音を参照のこと。
なお、単位「メートル」に由来しない、-metre ( -meter) で終わる語のアクセントは、その直前にあるのが普通である。例えば speedometer(速度計)のアクセントは、speedo- の第2シラブルに強アクセントがある。
製図における寸法は、100 mmや1000 mmを超えるような大きな長さ(ダムなどの場合)であっても、ミリメートルで表記するのが普通である。また、ミリメートルは降水量の単位としても用いられ、気象情報の報道など許容される場面では「ミリ」とも省略される。
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"title": "使用"
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] |
ミリメートルは、長さのSI単位で、1/1000メートル(m)である。 1 mm = 0.001 メートル = 0.1 センチメートル = 1000 マイクロメートル
1 mm3 = 0.001 mL = 1 µL マイクロメートル ≪ ミリメートル < センチメートル
|
{{単位
|名称= ミリメートル
|フランス語= millimètre
|英語= millimetre,<br>米国のみ1977年以降、millimet'''er'''<ref>{{Cite web|url=https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english-french/millimetre|title=French translation of 'millimetre'|work=Collins English-French Dictionary|publisher=HarperCollins|accessdate=2017-08-16}}</ref>
|画像= [[File:A ruler at 20X.jpg|220px|鋼製物差しの拡大画像]]<br>2番目に短い線が1ミリメートル間隔。
|記号= mm
|単位系= [[SI単位]]
|物理量= 長さ
|SI= [[SI組立単位]]
|組立=
|定義= 0.001 m
|派生単位=
|語源=
}}
'''ミリメートル'''('''millimetre''', 記号'''mm''')は、[[長さ]]の[[SI単位]]で、1/1000[[メートル]](m)である。
* 1 mm = 0.001 [[メートル]] = 0.1 [[センチメートル]] = 1000 [[マイクロメートル]]
* 1 mm<sup>3</sup> = 0.001 [[ミリリットル|mL]] = 1 [[マイクロリットル|µL]]
[[マイクロメートル]] ≪ '''ミリメートル''' < [[センチメートル]]
== 単位記号 ==
「mm」の、前の「m」([[ミリ]])は、[[1000|千]]分の一を表す[[SI接頭語]]であり<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080&openerCode=1#92 計量単位規則] 別表第三(第2条関係)、接頭語ミリの欄、立体の「m」となっている。
</ref>、後の「m」は、[[メートル]]の単位記号である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080&openerCode=1#91 計量単位規則] 別表第二(第2条関係)、長さの欄、記号は立体の「m」となっている。</ref>。したがって、2つの m は[[小文字]]、[[立体活字|立体]]で表記しなければならない。
ときに、「MM」と[[大文字]]で書かれることがあるが、これは誤りである<ref>{{PDFlink|[https://www.nmij.jp/public/pamphlet/si/SI1512.pdf 国際単位系 (SI)は世界共通のルールです]}} 3ページ目の右下の「誤りやすい単位記号の例」として"30 M"(正しくは→30 m)が示されている。</ref><ref group="注">以下はキロを「K」と表記することについての注意であるが、ミリを「M」とすること、及びメートルを「M」とすることにも適用される。[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286890/www.meti.go.jp/topic-j/e90930aj.html 「計量単位のSI化に係るQ & A(SI単位等普及推進委員会 通商産業省 計量行政室)] - 2009年7月17日時点のアーカイブ、 Q5: 接頭語のキロに大文字のKを使用することは可能か。 A5: SIのルールでは、大文字のKは温度の計量単位であるケルビン(K)を表す記号ですので、誤解を生む要因となります。したがって、正しく小文字のkを使用すべきです。特に、欧州やISOなどでは、記号も含めて整合性を求められますので、正しい記号を使用することをお薦めします。 なお、計量法は、計量単位記号については、標準となるべきものを定めていますので、大文字のKを用いることに罰則が伴うものではありません。</ref>。[[単位]]記号で大文字の「M」は[[メガ]]と[[メガメートル|混同される]]こともある。
日本では[[1980年]]([[昭和]]55年)ごろまで、慣習的に「m/m」と書かれることがあったが<ref>渡辺賢二、『陸軍登戸研究所と謀略戦 科学者たちの戦争』、p.114 図19 カバン型カメラ・ライター型カメラ(伴和子提供)の図中に「フィルム(8m/m)」の印字が見える。ISBN 978-4-642-05737-0、[[吉川弘文館]]、歴史文化ライブラリー 337、2012-02-01第1刷発行</ref>、これも誤りである<ref>{{Cite journal|和書|title=国際単位系(SI)のページ 3 日本ゴム協会誌への採用|journal=日本ゴム協会誌|volume=55|issue=5|pages=326-331|publisher=日本ゴム協会|date=1982|doi=10.2324/gomu.55.326}}</ref>。現在でも、園芸用支柱のサイズの表示にm/mが用いられている<ref>[https://shop.takii.co.jp/products/detail/TCS584 セキスイ イボ竹 写真] 太さ:20m/m φ、長さ:1500m/m と表示されている。</ref>。
なお、cm(センチメートル)についても「c/m」と書く慣用があった<ref group="注">[[1959年]]9月の[[伊勢湾台風]]の後に名古屋市が作成した災害誌(小中学校ごと)には、「浸水程度 床上230c/m」のように「c/m」の表記が見られる。</ref>。
m/m は、全く別の意味で使われることがある。[[平面角]]の単位である[[ラジアン]]を[[SI基本単位]]のみによる表現とした場合に、m/m は「メートル÷メートル」の意味で便宜的に使われる表現であり、rad = m/m と書くことができる<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、p.106 表4、2020年4月</ref>。
日本の漢字(国字)では[[1950年]](昭和25年)頃までは「'''粍'''」と表記されていたが、
[[常用漢字]]表にないうえこの翌年に制定された[[計量法]]では使用することはできないことから、
以来70年以上は滅多に使われなくなった。
また、ミリメートルに限らず、[[メートル法]]では「千分の一」を意味する単位の頭には「ミリ」が付く(例:[[ミリリットル]]、[[ミリグラム]])が、単に「ミリ」と言った場合に「ミリメートル」の略語として使用される例がある。
== 英語の綴り ==
ミリメートルの公式の英語の綴りは、millimet'''re'''で、「ミリミーター」に近い発音である。ただし、米国でのみ[[1977年]]以降、例外的にmillimet'''er'''としている。{{main|[[メートル#英語表記]]|[[メートル#米国における表記の経緯]]}}
millimetre は一語であり、「milli metre」と離して書くことはできない<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、p.112、2020年4月、「同様に接頭語の名称も、それが結合している単位の名称と不可分である。このため、例えば、ミリメートル、マイクロパスカル、メガニュートンは、一語である。」</ref>。
== millimetre のアクセント ==
millimetre の発音では、接頭語である '''mil'''li の最初のシラブルに強アクセントがある。これは、'''kil'''ometre、'''nan'''ometre などの倍量単位・分量単位の英語発音でも同じである。詳細は、[[メートル#派生語の英語発音]]を参照のこと。
なお、単位「メートル」に由来しない、-metre ( -meter) で終わる語のアクセントは、その直前にあるのが普通である。例えば speedometer(速度計)のアクセントは、speedo- の第2シラブルに強アクセントがある。
== 使用 ==
[[製図]]における[[寸法]]は、100 mmや1000 mmを超えるような大きな長さ([[ダム]]などの場合)であっても、ミリメートルで表記するのが普通である。また、ミリメートルは[[降水量]]の単位としても用いられ、気象情報の報道など許容される場面では「ミリ」とも省略される。
{{Quotation|気象庁では、風速の単位は「m/s(メートル毎秒)」、降水量の単位は「mm(ミリメートル)」を用いており、統計資料を示す場合は、正確な単位表現を用いています。一方、気象情報では、社会一般での使われ方や字数制限のある情報内での利用を考慮して、風速の単位の「メートル毎秒」を「メートル」、降水量の単位の「ミリメートル」を「ミリ」とするなど、一部を省略した単位表記を行っています。これらの表記は、誤解されることがないよう、報道機関などのご意見を聞いて決めています。|気象庁ウェブサイト「よくある質問集」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq1.html#3|archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11705403/www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq1.html#3|archivedate=2021-7-1|title=よくある質問集: 雨・雪について: 降水量の単位は「ミリメートル」なのに「メートル」を省略して「ミリ」と言っているのはなぜですか?|publisher=気象庁|accessdate=2021-10-10}}</ref>}}
== 脚注 ==
=== 注 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[長さの比較]]
**[[1 E-3 m]] : 1 mm - 10 mm
*[[単位一覧]]
*[[単位の換算一覧]]
{{長さの単位 (短)}}
{{DEFAULTSORT:みりめえとる}}
[[Category:長さの単位]]
[[Category:SI単位の10進の倍量及び分量]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB
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11,163 |
新性能電車の車両形式
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新性能電車の車両形式(しんせいのうでんしゃのしゃりょうけいしき)では、1959年に称号改正された101系電車・151系電車・153系電車・155系電車など以降の日本国有鉄道(国鉄)及び国鉄分割民営化により国鉄の車両を引き継いだJR各社が保有する新性能電車および貨物電車であるM250系の形式番号の付与法則について記述する。
電車の形式称号は、1959年に称号改正された101系電車・151系電車・153系電車・155系電車など以降の新性能電車とそれ以前の旧形電車とで称号方式が異なる。なお、本節では前者について記載する。後者は国鉄旧形電車の車両形式を参照。
ただし、直流電車では旧形電車に属する吊り掛け駆動方式を採用した車両であっても、交直両用電車および交流電車についてはこの称号規程により形式が付与される。
このうち、○については、車両の車種を表す記号を表し、●については用途を、Aは電気方式、Bは車両用途・構造を、CについてはA・Bに付随して定義される数字を指し、Xは製造番号を表す。
車両の種類を表す記号は、次のとおりである。
単独で使用する場合が多い。
形式数字は桁位置により次のような分類がある。また、JR化後に新製されたJR東日本の車両(一部の系列を除く)はこの数字の前にJR東日本の車両を示すE(Eastの頭文字)がつく。
JR化以降は国鉄継承車を除く。
十位の用途は次のとおり。なお、JR化以降は国鉄継承車を除く。また、普通列車用については国鉄時代は接客設備や最高速度の違いなどにより、通勤形と近郊形に明確な区分をしていたが、JR化以降は電車でも一般形の区分が使われるようになった。
なお、営業用車両から事業用車や試験車などに改造された場合は、元の車両の形式数字を踏襲するケースが多い。
このうち、○は車両の車種を表す記号、Aは電気方式、NNは最高速度、Xは製造番号を表す。
JR四国が所有している車両のうち、JR化後に新製された車両(電車・気動車)には形式と車両番号が一体となった4桁の数字のみの車両形式が用いられており、電車には千位が5 - 8の形式番号が使用されている。
国鉄から継承した車両とJR他社から購入した車両およびそれらの改造車はほとんどが国鉄時代の形式の付け方のままであるが、2016年に121系の機器・台車を更新した車両は、分割民営化後にJR四国が導入した7000系との連結を考慮したがため7200系という4桁数字の形式が与えられている。
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"text": "新性能電車の車両形式(しんせいのうでんしゃのしゃりょうけいしき)では、1959年に称号改正された101系電車・151系電車・153系電車・155系電車など以降の日本国有鉄道(国鉄)及び国鉄分割民営化により国鉄の車両を引き継いだJR各社が保有する新性能電車および貨物電車であるM250系の形式番号の付与法則について記述する。",
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "十位の用途は次のとおり。なお、JR化以降は国鉄継承車を除く。また、普通列車用については国鉄時代は接客設備や最高速度の違いなどにより、通勤形と近郊形に明確な区分をしていたが、JR化以降は電車でも一般形の区分が使われるようになった。",
"title": "形式数字"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "なお、営業用車両から事業用車や試験車などに改造された場合は、元の車両の形式数字を踏襲するケースが多い。",
"title": "形式数字"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "このうち、○は車両の車種を表す記号、Aは電気方式、NNは最高速度、Xは製造番号を表す。",
"title": "貨物電車の形式記号"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "JR四国が所有している車両のうち、JR化後に新製された車両(電車・気動車)には形式と車両番号が一体となった4桁の数字のみの車両形式が用いられており、電車には千位が5 - 8の形式番号が使用されている。",
"title": "JR四国の車両"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "国鉄から継承した車両とJR他社から購入した車両およびそれらの改造車はほとんどが国鉄時代の形式の付け方のままであるが、2016年に121系の機器・台車を更新した車両は、分割民営化後にJR四国が導入した7000系との連結を考慮したがため7200系という4桁数字の形式が与えられている。",
"title": "JR四国の車両"
}
] |
新性能電車の車両形式(しんせいのうでんしゃのしゃりょうけいしき)では、1959年に称号改正された101系電車・151系電車・153系電車・155系電車など以降の日本国有鉄道(国鉄)及び国鉄分割民営化により国鉄の車両を引き継いだJR各社が保有する新性能電車および貨物電車であるM250系の形式番号の付与法則について記述する。
|
'''新性能電車の車両形式'''(しんせいのうでんしゃのしゃりょうけいしき)では、1959年に称号改正された[[国鉄101系電車|101系電車]]・[[国鉄151系・161系・181系電車#20系→151系|151系電車]]・[[国鉄153系電車|153系電車]]・[[国鉄155系・159系電車|155系電車]]など以降の[[日本国有鉄道]](国鉄)及び[[国鉄分割民営化]]により国鉄の車両を引き継いだ[[JR]]各社が保有する[[新性能電車]]および貨物電車である[[JR貨物M250系電車|M250系]]の[[形式称号|形式番号]]の付与法則について記述する。
{{右|
[[ファイル:JNR number kuha103.jpg|thumb|200px|none|[[日本国有鉄道|国鉄]]からJRへ継承されてきた書体<br />([[国鉄103系電車|103系]])]]
[[ファイル:JRW number kumoha115.jpg|thumb|200px|none|[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が導入した<br />モリサワ新ゴ書体<br />([[国鉄115系電車#体質改善工事|115系体質改善車]])]]
[[ファイル:特急つがる 形式称号.JPG|thumb|200px|none|JR東日本[[つがる (列車)|特急「つがる」]](E751系)の形式称号]]
}}
== 形式標記 ==
[[電車]]の形式称号は、1959年に称号改正された101系電車・151系電車・153系電車・155系電車など以降の[[新性能電車]]とそれ以前の旧形電車とで称号方式が異なる。なお、本節では前者について記載する。後者は[[国鉄旧形電車の車両形式]]を参照。
ただし、直流電車では旧形電車に属する[[吊り掛け駆動方式]]を採用した車両であっても、[[交直流電車|交直両用電車]]および交流電車についてはこの称号規程により形式が付与される。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;"
|-
!style="text-align:center;"|記号事例
!style="text-align:center;"|○
!style="text-align:center;"|●
!
!A
!B
!C
!-
!XXXX
!style="text-align:center;"|車両形式
|-
!style="text-align:left;"|1.国鉄車両およびJR各社<br/>(ただし、2.とJR四国の新製形式を除く)
| align="center"|モ
| align="center"|ハ
| align="center"|
|4
|8
|5
| -
|96
|style="text-align:left;"|[[国鉄485系電車|485系電車]]モハ485形電動車
|-
!style="text-align:left;"|2.JR東日本[[JR東日本E351系電車|E351系電車]]以降の表記
| align="center"|ク
| align="center"|ハ
| align="center"|E
| 2
| 3
| 1
| -
| 21
|style="text-align:left;"|[[JR東日本E231系電車|E231系電車]]クハE231形制御車
|-
!style="text-align:left;"|3.JR東日本の蓄電池駆動電車
| align="center"|E
| align="center"|V-
| align="center"|E
| 3
| 0
| 1
| -
| 1
|style="text-align:left;"|[[JR東日本EV-E301系電車|EV-E301系電車]]EV-E301形制御電動車
|}
このうち、○については、車両の車種を表す記号を表し、●については用途を、Aは電気方式、Bは車両用途・構造を、CについてはA・Bに付随して定義される数字を指し、Xは製造番号を表す。
== 車両の種類を表す記号 ==
'''車両の種類を表す記号'''は、次のとおりである。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!style="width:2.5em;"|記号
!車種
!車種解説
|-
|style="width:2.5em; text-align:center;"|クモ(Mc)
|制御電動車
|運転台と動力装置のある車両
|-
|style="width:2.5em; text-align:center;"|モ(M)
|[[動力車|電動車]]
|動力装置(モーター)のある車両
|-
|style="width:2.5em; text-align:center;"|ク(Tc)
|[[制御車]]||運転台のある車両
|-
|style="width:2.5em; text-align:center;"|サ(T)
|[[付随車]]||運転台も動力装置もない車両
|}
== 車両の設備を表す記号 ==
単独で使用する場合が多い。
* [[旅客車#合造車|合造車]]の場合は下記の順番で重ねて使用される。電車では285系のみで使用されているA・B寝台合造車は「ロハネ」と標記される。
* 583系(寝台車と普通車)や485系「[[ニューなのはな]]」(お座敷グリーン車と普通車)のように座席に転換・可変機構が設けられている場合にはその中で高い等級のものが付けられる。
* 記号文字の「ロ」及び「ハ」はもともと一等車から順に[[いろは順]]に付けた記号の「イ」(一等車)が廃止され(2013年に「ななつ星in九州」の客車として復活)「ロ」(二等車→一等車)と「ハ」(三等車→二等車)の記号が残ったものである。それ以外は用途設備及びその関連語の読みに由来するが、詳細は各車種の記事参照。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!種別
!記号
!1969年5月10日以降
!1969年5月9日以前
!1960年5月31日以前
|-
| rowspan="8"|営業用
| align="center"|イネ
|[[ななつ星 in 九州|特別A寝台]]<ref group="注">1955年に一度廃止。2013年に77系客車「[[ななつ星 in 九州]]」用として再登場。</ref>(g)
|align="center"|-
|align="center"|-
|-
| align="center"|ロネ
|[[A寝台|A寝台車]]<ref group="注">1985年3月に583系・急行「[[きたぐに (列車)|きたぐに]]」用として登場。</ref>(n)
|align="center"|-
|align="center"|-
|-
| align="center"|ハネ
|[[B寝台|B寝台車]](h)
|二等寝台車
|align="center"|-
|-
| align="center"|ロ
|[[グリーン車]](s)
|一等車
|二等車
|-
| align="center"|ハ
|[[普通車]]
|二等車
|三等車
|-
| align="center"|シ
|colspan="3"|[[食堂車]](ビュッフェ含む<ref group="注">ただし、ビュッフェのある車両は全て普通車との合造車であるため、記号は'''ハシ'''となる。</ref>)(b)(d)
|-
| align="center"|ユ
|colspan="3"|[[郵便車]](w)
|-
| align="center"|二
|colspan="3"|[[荷物車]](x)
|-
| rowspan="3"|[[事業用車|事業用]]
| align="center"|ヤ
|colspan="3"|[[職用車]](z)
|-
| align="center"|エ
|colspan="3"|[[救援車]](h)
|-
| align="center"|ル
|colspan="3"|[[配給車]](a)
|}
== 形式数字 ==
形式数字は桁位置により次のような分類がある。また、JR化後に新製されたJR東日本の車両(一部の系列を除く)はこの数字の前にJR東日本の車両を示すE(Eastの頭文字)がつく。
*百位:電気方式
*十位:車両の用途
*一位:系列・形式の区別(おおむね連番)
=== 百位 ===
JR化以降は国鉄継承車を除く。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!rowspan="3"|形式番号
!colspan="7"|電気方式
!colspan="2"|電気方式以外の差違<br />(ただし、一般的ではない)
|-
!rowspan="2"|国鉄時代<ref name="JRWest data">[http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/ データで見るJR西日本] - 西日本旅客鉄道 p.119</ref>
!rowspan="2"|JR北海道
!rowspan="2"|JR東日本
!rowspan="2"|JR東海
!colspan="2"|JR西日本<ref name="JRWest data"/>
!rowspan="2"|JR九州
!rowspan="2"|JR化時点
!rowspan="2"|1989年度以降
|-
!JR化当初
!2005年度以降
|-
|style="text-align: center;"|1
|rowspan="3"|直流
|rowspan="6"|設定なし
|rowspan="3"|直流
|rowspan="3"|直流<br />(1は設定なし)
|rowspan="3"|直流<br />(3は設定なし)
|rowspan="3"|直流
|rowspan="3"|直流<br />(1・2は2012年時点では設定なし)
|colspan="2"|[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]
|-
|style="text-align: center;"|2
|colspan="2"| [[電機子チョッパ制御]]、<br />[[界磁添加励磁制御]]、<br />[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]
|-
|style="text-align: center;"|3
| [[アルミ合金]]製車両、<br />[[筑肥線]]直流飛び地用
|←に加え、特殊構造車、<br />VVVFインバータ制御新形式<ref group="注">一般形式の桁あふれにより、[[JR東海311系電車|311系]]、[[JR西日本321系電車|321系]]より割当開始。</ref>
|-
|style="text-align: center;"|4
|rowspan="3"|[[交直流電車|交直両用]]<br />(6は設定なし)
|rowspan="3"|交直両用
|rowspan="6"|設定なし
|rowspan="3"|交直両用<br />(4・5は設定なし)
|rowspan="4"|交直両用<br />(4・7は2012年時点では設定なし)
|rowspan="3"|交直両用<br />(2012年時点では設定なし)
|colspan="2"|抵抗制御、<br />電機子チョッパ制御、<br />界磁添加励磁制御
|-
|style="text-align: center;"|5
|style="text-align:left;"| 特殊用途
|VVVFインバータ制御新形式<ref group="注">JR化以降長年交直両用一般型(通勤型・近郊型)新形式の割当がなかったが、[[JR東日本E501系電車|E501系]]より割当開始。</ref>
|-
|style="text-align: center;"|6
|colspan="2"|界磁添加励磁制御<ref group="注">[[JR東日本651系電車|651系]]のみ。</ref>、<br />VVVFインバータ制御
|-
|style="text-align: center;"|7
|rowspan="2"|交流<br />(8は設定なし)
|rowspan="2" colspan="2"|交流<br />(8は2012年時点では設定なし)
|rowspan="2"|交流<br />(設定なし)
|rowspan="2"| 交流
|colspan="2"| 抵抗制御、<br>電機子チョッパ制御、<br>界磁添加励磁制御、<br />[[電気車の速度制御#サイリスタによる連続位相制御|サイリスタ位相制御]]、<br>[[超低床電車|低床式車両]]
|-
|style="text-align: center;"|8
| 直流<br />(2012年時点では設定なし)
|style="text-align:left;"| 特殊用途
|VVVFインバータ制御新形式<ref group="注">JR北海道車とのラップ回避のため、[[JR九州811系電車|JR九州811系]]から割当開始。</ref>
|-
|style="text-align: center;"|9
|colspan="2" style="text-align:left;"| 設定なし
|style="text-align:left;"| 試作車
|style="text-align:left;"| 設定なし
|style="text-align:left;"| 予備
|style="text-align:left;"| 設定なし
|colspan="2"|試作車
|}
=== 十位 ===
十位の用途は次のとおり。なお、JR化以降は国鉄継承車を除く。また、普通列車用については国鉄時代は接客設備や最高速度の違いなどにより、通勤形と近郊形に明確な区分をしていたが、JR化以降は電車でも[[一般形車両 (鉄道)|一般形]]の区分が使われるようになった{{refnest|group="注"|一般形電車が登場する経緯について、首都圏のような混雑線区を抱えるJR東日本では国鉄末期以降、近郊形でもロングシート化され、JR発足後はE217系では編成の過半数を4ドアロングシート車で占めながらセミクロスシート車とグリーン車があるために近郊形に区分され<ref>[http://www.jreast.co.jp/train/local/e217.html JR東日本:車両図鑑>在来線 E217系]</ref>、地方でも107系<ref>[http://www.jreast.co.jp/train/local/107.html JR東日本:車両図鑑>在来線 107系]</ref>や701系<ref>[http://www.jreast.co.jp/train/local/701.html JR東日本:車両図鑑>在来線 701系]</ref>、E127系といった3ドアロングシート車が導入され、こちらは通勤形に区分されているが<ref>[http://www.jreast.co.jp/train/local/e127.html JR東日本:車両図鑑>在来線 E127系]</ref>、中距離列車への使用も想定してトイレ付きで製作され、701系とE127系についてはセミクロスシート車も製作されたりするなど、両者の点が曖昧になりつつあり、JR東日本では普通列車用の電車においてもE231系以降、「一般形」の区分を使用する要因になっている。一方、他のJR各社では線区や列車の実情に合わせて通勤形や近郊形を導入しており、明確な区分をしているが、JR西日本の125系は小浜線や加古川線の電化と一般形気動車の置き換え目的で製作されたことから例外的にローカル線用の標準タイプとして一般形に区分され、JR東日本の事例とは意味合いが異なる<ref>[http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/ データで見るJR西日本] - 西日本旅客鉄道、p.121</ref>。なお、広義では通勤形と近郊形も一般形に含まれる<ref>JTBパブリッシング 石井幸孝『キハ47物語』 P36 - 37</ref>。JR東海とJR四国はJR発足後は普通列車用の電車については近郊形しか導入していないが、近郊形が実質的な一般形の区分という状態になっている。''詳細は「[[一般形車両 (鉄道)]]」を参照''}}。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!rowspan="4"|形式番号
!colspan="8"|用途・構造による区分
|-
!colspan="2"|国鉄時代
!colspan="6"|JR化以降
|-
!rowspan="2"|制定当初
!rowspan="2"|1970年代以降<ref name="JRWest data"/>
!rowspan="2"|JR北海道
!rowspan="2"|JR東日本
!rowspan="2"|JR東海
!colspan="2"|JR西日本<ref name="JRWest data"/>
!rowspan="2"|JR九州
|-
!JR化当初
!2005年度以降
|-
|-
|style="text-align: center;"|0
|rowspan="4"|近距離用
|[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]]<br /><ref group="注" name=Serise401>国鉄時代、[[常磐快速線]]電車の[[土浦駅|土浦]]延伸の為に交直流形通勤電車の製造が検討されており、この事から[[国鉄415系電車|415系]]の形式策定の際に交直流形通勤電車の形式を401系(および九州島内用通勤形として403系)とし従来の401系・403系を411系・413系(実際に製造された急行形改造の[[国鉄413系電車|413系]]とは無関係)に改番する事が計画されていた。また、415系製造当初の制御車の形式番号がクハ411形300番台となったのも411系(←401系)・413系(←403系)および421系・423系の制御車と共通形式(クハ401形をクハ411形0番台(1 - 90)・クハ421形をクハ411形100番台(101 - 206))とするためであった(なお、クハ401形・クハ421形・クハ411形の相互間には機能的差異は存在せず、常磐線・九州島内共にクハ401形・クハ421形に415系電動車、あるいはその逆といった編成も見られた)。しかし国鉄の労使問題の深刻化や債務状態の悪化により常磐快速線電車の延伸計画自体実現せず、415系の増備による中距離電車増発に留まったため401系・403系の改番は実施されなかった。このため401系・403系は通勤形電車の系列名を持つ近郊形電車となっている。なお国鉄時代には交直両用の通勤形電車は製造されておらず、[[国鉄分割民営化|JR化]]後に登場した交直両用の通勤形電車には[[JR東日本E501系電車|E501系]]の系列名が与えられている。</ref><ref group="注" name=Serise415>また交直流近郊型電車は当初 '''TcMM'Tc''' 組成を4連・8連・12連と適宜増結する運用形態をとったが、1985年の[[国際科学技術博覧会|筑波科学博]]開催を期に常磐線中距離電車を15連化するために '''TcMM'TMM'Tc''' の7連を組成する為に初めて中間附随車形式が発生したため、この形式は1984年新製のサハ411形として初めて投入された。なおこれにともなって常磐線では編成組換が発生したが、この際7連はすべて415系で統一はされておらず、厳密には(交流整流回路の能力による整流後実効電圧の差異と、台車構造が抜本的に異なる関係で)わずかに性能が異なる403系電動車ユニット、415系鋼製電動車ユニット、415系1500番台国鉄新製車電動車ユニット、415系1500番台JR東日本新製車電動車ユニット(415系を名乗っているが、新製費抑制のため交流特高圧回路が50Hz専用になっている。後年のJR九州への譲渡の際、鋼製車体グループが譲り渡されたのに対して、経年の浅い1500番台ユニットがそのまま廃車解体となったのはこの為である)が同一7連編成上に混成されていた。乗客からは交直デッドセクション通過の際、同一7連上でありながら照明用バッテリー搭載ユニットとそれからサービス電源を受けているクハ401形・クハ411形・サハ411形が客室照明を消灯しないのに対して、照明用バッテリー非搭載車は客室照明が消灯するという現象を見ることが出来た。</ref>
|rowspan="2"|設定なし
|rowspan="4"|一般形<ref group="注" name=ippan>実態としては通勤型・近郊型を完全に統合して「一般型」となったのは、首都圏や大阪近郊区間ほどの過密路線がなく、また伝統的にクロスシート車を運用している[[名古屋鉄道]]との競争から、103系の全廃を以て4扉通勤型電車を廃したJR東海のみ。JR東日本は同一系列としているものの、駅間が短く、また踏切がほとんどない通勤型仕様と、駅間が比較的長く、踏切が点在する近郊型仕様は、灯具類、表示機、運転台のクラッシャブルゾーンなど異なる点が多く、実際には区分番台で分けてその間での融通は事実上発生していない。JR西日本は気動車の運用を引き継ぐ125系以外は、依然として(101系→103系→201系→205系→)207系→321系の4扉通勤型の系譜と、(113系・115系・117系→213系→)221系→223系→225系→227系の3扉近郊型の系譜とは要求される性能、客室設備などが大きく異なるために別形式に分かれている。323系は山手線と異なり、[[東海道本線]]・[[紀勢本線]]・[[阪和線]]等の中電が乗り入れてくる関係で、以前から近郊型と通勤型が混在していた[[大阪環状線]]の非優等列車を3扉で統一し、旅客案内を簡素化と将来のホームゲート設置に対応するために例外的に3扉通勤型として登場した(このあたりは、JR東日本でも国鉄時代はやはり3扉近郊型と4扉通勤型が同一線路を共有していた常磐線が、通勤型のE231系・近郊型のE521系の4扉車で統一された事情に近い)。なお、JR九州の通勤型形式は交流電化の九州島内において直流電化飛び地である筑肥線用の形式のみ、JR北海道はもともと発足当初より実際の運用用途として国鉄通勤型形式を継承していない。</ref>
|設定なし
|rowspan="3"|通勤形・近郊形<ref group="注" name=Seriese125>2005年度以前では、125系が例外的に一般形電車として分類された。</ref><br/>(1は設定なし)
|rowspan="4"|一般形<ref group="注" name=ippan /><br/>(1・3は2012年時点では設定なし)
|通勤形
|-
|style="text-align: center;"|1
|rowspan="2"|[[近郊形車両|近郊形]]
|rowspan="1"|一般形
|rowspan="2"|近郊形
|-
|style="text-align: center;"|2
|rowspan="2"|一般形
|rowspan="2"|設定なし
|-
|style="text-align: center;"|3
|設定なし
|設定なし
|設定なし
|-
|style="text-align: center;"|4
|colspan="8"|事業用・非旅客([[荷物車]]・[[郵便車]])用※
|-
|style="text-align: center;"|5
|rowspan="4"|遠距離用
|rowspan="3"|[[急行形車両|急行形]]<ref group="注">1970年時点では、157系が唯一の急行形電車の系列名を持つ特急形電車になっていた。</ref>
|rowspan="3"|設定なし
|rowspan="2"|特急形
|rowspan="2"|設定なし
|rowspan="3"|急行形<br/>(設定なし)
|rowspan="2"|一般形<br/>(2012年時点では設定なし)
|rowspan="3"|設定なし
|-
|style="text-align: center;"|6
|-
|style="text-align: center;"|7
|rowspan="2"|設定なし
|rowspan="2"|特急形
|rowspan="2"|特急形
|-
|style="text-align: center;"|8
|colspan="2"|[[特急形車両|特急形]]
|特急形
|rowspan="1"|特急形
|-
|style="text-align: center;"|9
|colspan="2"|試験車※
|colspan="6"|事業用車・試験車・試作車など※
|}なお、営業用車両から事業用車や試験車などに改造された場合は、元の車両の形式数字を踏襲するケースが多い。
=== 一位 ===
:一位は、系列を表す場合奇数(1・3・5・7・9)を使用し、百位(電気方式)・十位(用途)の数字の組み合わせごとで、系列の登場した順に使用していない若い奇数から付番する<ref group="注" name=Serise401 /><ref group="注">ただし、碓氷峠で協調運転可能な車両の一位の数字を9に統一したために187系・487系という系列は製造されていない(前者については[[国鉄183系電車#187系開発計画|製造計画]]のみで終了した)。また881系・411系という系列(411系については上記を参照)も飛ばされたため存在せず、[[JR北海道733系電車|733系]]は[[JR北海道735系電車|735系]]の後に登場しており、系列の登場順と番号の順番が入れ替わっている</ref>。
:また電動車(制御電動車も含む)の増備車のみが仕様変更などで形式(系列名)変更されても、制御機器などに変更がなければ制御車・付随車は形式を変更せずに増備される(485系のクハ481形・サロ481形、113系のクハ111形・サハ111形など)場合がある<ref group="注">紛らわしい例としては[[国鉄583系電車|583系]]のクハネ581形とクハネ583形がある。勘違いされがちだが583系登場後も制御車はしばらくクハネ581形が使用されており、数年後に機器類の小型高性能化に伴う床下収納化による定員増と[[電動発電機|MG]]・[[空気圧縮機|CP]]の容量増大による長大編成化を目的としてクハネ583形が投入された。クハネ583形は、増車の余裕のあった山陽特急には[[山陽新幹線]]の開業もあって新製配置はなされず、大半は最長13連の東北特急用に配置された。しかし後年は、JR東日本に継承されたクハネ583形を含む編成が先に定期運用を失い、不定期特急運用も485系やJR化後の新系列に奪われて淘汰され、逆にJR西日本にクハネ581主体の編成は定期列車「[[きたぐに_(列車)|きたぐに]]」をはじめ不定期の「[[サンダーバード_(列車)|雷鳥]]」「[[しらさぎ_(列車)|しらさぎ]]」等現役車として積極的に投入されているという二重に皮肉な結果となった。なお、2012年3月17日ダイヤ改正以降はJR西日本車が完全に淘汰され、JR東日本のみにごくわずかに残る程度になっている</ref>。
:個々の車両形式を示す場合には次のとおり。
:*電動車(制御電動車も含む)の場合
:**[[MM'ユニット方式]]の場合、主制御装置を搭載するもの(M車、Mc車)に奇数、無いもの(M'車)に1減じた偶数を付番する。この場合、原則として奇数形式が[[制御車#制御車の方向|奇数向き]]([[東海道本線]]を基準として東京方)に配される<ref group="注">ただし、[[碓氷峠]]を通過する車両は重量配分の関係で奇数形式のMc車が麓方(偶数向き)の特別扱いを受けた</ref>。
:**1M方式電動車の場合は、原則として奇数が付番される。
:**JR化後には同一の系列内にユニット方式と1M方式の電動車を含んだ系列の登場や系列内での組成変更などにより、奇数形式同士がユニットを組んだり、1M方式の電動車に偶数形式を与えるなど原則から外れた付番をされている場合もある。
:*制御車の場合
:**どちら向きにも使用できるものは原則として奇数が付番される。この場合、奇数向き(東海道線で東京方先頭車)・偶数向き(同、神戸方)を車両番号の偶数・奇数や[[番台区分]]で区別することがある。
:**向きが限定されるものは奇数向きを奇数、偶数向きを1減じた偶数とする場合が多い。
:*付随車の場合
:**原則的に基本形式には奇数が付番される。また、設備や搭載機器の違いにより1減じた偶数を付番することもある。
:中には原則から外れたものもあり、最近では編成内で設備が異なる同形式車両が多いので、車両番号にオフセットを加えた番台区分で区別する場合がしばしば見られる。
:この車両称号規程制定以前に新製されていた101系・151系・153系・155系については旧規程による形式番号(それぞれ90系・20系・91系・82系)を付与されて落成しており、この規程の制定により形式番号が改められた<ref group="注">なお、[[国鉄157系電車|157系電車]]も設計上「22系電車」として設計されたが、規定改定後の落成であったため、旧称号での表記を実車で行ったことはない</ref>。
== 貨物電車の形式記号 ==
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;"
|-
!style="text-align:center;"|○
!A
!NN
!-
!XXXX
|-
!style="text-align:left;"|Mc
|2
|50
| -
|1
|}
このうち、○は車両の車種を表す記号、Aは電気方式、NNは最高速度、Xは製造番号を表す。
*車両の種類を表す記号
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!style="width:2.5em;"|記号
!車種
|-
|style="width:2.5em; text-align:center;"|Mc
|制御電動車
|-
|style="width:2.5em; text-align:center;"|M
|電動車
|-
|style="width:2.5em; text-align:center;"|T
|付随車
|}
*電気方式
{| class="wikitable"
|-
!百位
!電気方式
!使用電動機
|-
|style="text-align: center;"|1
|style="text-align: center;" rowspan="3"|直流
|style="text-align: center;"|[[直流電動機]]
|-
|style="text-align: center;"|2
|style="text-align: center;"|[[交流電動機]]
|-
|style="text-align: center;"|3
|style="text-align: center;"|その他
|-
|style="text-align: center;"|4
|style="text-align: center;" rowspan="3"|交直両用
|style="text-align: center;"|直流電動機
|-
|style="text-align: center;"|5
|style="text-align: center;"|交流電動機
|-
|style="text-align: center;"|6
|style="text-align: center;"|その他
|-
|style="text-align: center;"|7
|style="text-align: center;" rowspan="3"|交流
|style="text-align: center;"|直流電動機
|-
|style="text-align: center;"|8
|style="text-align: center;"|交流電動機
|-
|style="text-align: center;"|9
|style="text-align: center;"|その他
|}
*最高速度
{| class="wikitable"
|-
!十位以下
!最高速度
|-
|style="text-align: center;"|00 - 49
|style="text-align: center;"|110km/h以下
|-
|style="text-align: center;"|50 - 99
|style="text-align: center;"|110km/h超
|}
== 系列の一例 ==
* [[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]] - [[国鉄103系電車|103系]]・[[国鉄201系電車|201系]]・[[国鉄301系電車|301系]]など
* [[近郊形車両|近郊形電車]] - [[国鉄113系電車|113系]]・[[国鉄115系電車|115系]]・[[国鉄415系電車|415系]]・[[国鉄711系電車|711系]]など
* [[急行形車両|急行形電車]] - [[国鉄165系電車|165系]]・[[国鉄457系電車|457系]]など
* [[特急形車両|特急形電車]] - [[国鉄181系電車|151系]]・[[国鉄183系電車|183系]]・[[国鉄381系電車|381系]]・[[国鉄485系電車|485系]]など
=== 今までに登場した系列 ===
* ここでは消滅した系列や計画されていたが登場することがなかった系列についても記載している。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
! rowspan="2" colspan="2"|
! colspan="10"|十位
|-
! style="width:9em;"| 0
! style="width:5em;"| 1
! style="width:5em;"| 2
! style="width:5em;"| 3
! style="width:9em;"| 4
! style="width:5em;"| 5
! style="width:5em;"| 6
! style="width:5em;"| 7
! style="width:5em;"| 8
! style="width:9em;"| 9
|-
! rowspan="45" style="width:3em;"| 百位
! rowspan="5" style="width:2em;"| 1
| [[国鉄101系電車|101系]]
| [[国鉄113系電車#111系|111系]]
| [[国鉄121系電車|121系]]
| [[JR東日本E131系電車|E131系]]
| [[国鉄クモユ141形電車|141系]]
| [[国鉄151系・161系・181系電車#20系→151系|151系]]
| [[国鉄181系電車#161系|161系]]
|
| [[国鉄181系電車|181系]]
| [[国鉄191系電車|191系]]
|-
| [[国鉄103系電車|103系]]
| [[国鉄113系電車|113系]]※<ref group="注">制御車・付随車には111形(グリーン車のみサロ111形とサロ110形の2形式)を使用。後にサロ113形・サロ112形・サロ125形・サロ124形・クハ113形・クハ112形が登場している。</ref>
| [[国鉄123系電車|123系]]
|
| [[国鉄143系電車|143系]]
| [[国鉄153系電車|153系]]
|[[国鉄165系電車#163系|163系]]<ref group="注">付随車のサロ163形のみ製造。</ref>
|
| [[国鉄183系電車|183系]]
| [[国鉄193系電車|193系]]
|-
| [[国鉄105系電車|105系]]
| [[国鉄115系電車|115系]]
| ([[国鉄113系電車#サロ124形・サロ125形|124・125]])<br>[[JR西日本125系電車|125系]]
|
| [[国鉄145系電車|145系]]
| [[国鉄155系電車|155系]]
| [[国鉄165系電車|165系]]
|
| [[国鉄185系電車|185系]]
|
|-
| [[JR東日本107系電車|107系]]
| [[国鉄117系電車|117系]]
| [[JR東日本E127系電車|E127系]]
|
| [[国鉄145系電車#クモユニ147形|147系]]
| [[国鉄157系電車|157系]]
| [[国鉄165系電車#167系|167系]]
|
| ''[[国鉄183系電車#187系開発計画|(187系)]]''
|
|-
|
| [[国鉄119系電車|119系]]
| [[JR東日本E129系電車|E129系]]
| ||
| [[国鉄159系電車|159系]]
| [[国鉄165系電車#169系|169系]]
|
| [[国鉄183系電車#国鉄189系電車|189系]]
|
|-
! rowspan="5"|2
| [[国鉄201系電車|201系]]
| [[国鉄211系電車|211系]]
| [[JR西日本221系電車|221系]]
| [[JR東日本E231系電車|E231系]]
|
| [[JR東日本251系電車|251系]]
| [[JR東日本E261系電車|E261系]]
| [[JR西日本271系電車|271系]]
| [[JR西日本281系電車|281系]]
|
|-
| [[国鉄203系電車|203系]]
| [[国鉄213系電車|213系]]
| [[JR西日本223系電車|223系]]
| [[JR東日本E233系電車|E233系]]
|
| [[JR東日本253系電車|253系]]
|
| <!--[[JR西日本273系電車|273系]]-->
| [[JR西日本283系電車|283系]]
|
|-
| [[国鉄205系電車|205系]]
| [[JR東日本215系電車|215系]]
| [[JR西日本225系電車|225系]]
| [[JR東日本E235系電車|E235系]]
|
| [[JR東日本255系電車|255系]]
| ||
| [[JR西日本285系電車|285系]]
|
|-
| [[207系]]
| [[JR東日本E217系電車|E217系]]
| [[JR西日本227系電車|227系]]
| ||
| [[JR東日本E257系電車|E257系]]
| ||
| [[JR西日本287系電車|287系]]
|
|-
| [[JR東日本209系電車|209系]]
| || || ||
| [[JR東日本E259系電車|E259系]]
| ||
| [[JR西日本289系電車|289系]]
|
|-
! rowspan="5"|3
| [[国鉄301系電車|301系]]<br />[[JR東日本EV-E301系電車|EV-E301系]]
| [[JR東海311系電車|311系]]
| [[JR西日本321系電車|321系]]
| [[JR東日本E331系電車|E331系]]
|
| [[JR東日本E351系電車|E351系]]
|
| [[JR東海371系電車|371系]]
| [[国鉄381系電車|381系]]
|
|-
| [[JR九州303系電車|303系]]
| [[JR東海313系電車|313系]]
| [[JR西日本323系電車|323系]]
| ||
| [[JR東日本E353系電車|E353系]]
|
| [[JR東海373系電車|373系]]
| [[JR東海383系電車|383系]]
|
|-
| [[JR九州305系電車|305系]]
| [[JR東海315系電車|315系]]
| || || || || || || ||
|-
| || || || || || || || || ||
|-
| || || || || || || || || ||
|-
!rowspan="5"|4
| [[国鉄415系電車#401系|401系]]<ref group="注" name=Serise403>制御車にはクハ401形を使用。ただし、クハ411形も使用可能。</ref>
|([[国鉄415系電車#415系|411]])
| [[国鉄415系電車#421系|421系]]<ref group="注" name=Serise423>制御車にはクハ421形を使用。ただし、クハ411形も使用可能。</ref>
|
|([[国鉄72系電車#クモヤ440形|440]]・[[国鉄72系電車#クモヤ441形|441]])
| [[国鉄457系電車#451系・471系|451系]]
|
| [[国鉄457系電車#451系・471系|471系]]※<ref group="注" name=Serise451>制御車・付随車には451形を使用。</ref>
| [[国鉄485系電車#481系|481系]]
|([[伊那電気鉄道の電車#サ400形|490]]・[[国鉄72系電車#クモヤ491形→クモハ491形|491]])<br />[[JR東日本E491系電車|E491系]]
|-
| [[国鉄415系電車#403系・423系|403系]]※<ref group="注" name=Serise403 />
| [[国鉄413系・717系電車|413系]]
| [[国鉄415系電車#403系・423系|423系]]※<ref group="注" name=Serise423 />
|
| [[国鉄443系電車|443系]]
| [[国鉄457系電車#453系・473系|453系]]※<ref group="注" name=Serise451 />
|
| [[国鉄457系電車#453系・473系|473系]]※<ref group="注" name=Serise451 />
| [[国鉄485系電車#483系|483系]]※<ref group="注">制御車・付随車には481形を使用。</ref>
| [[国鉄51系電車#クモハ51形を交直流試験車493系に改造|493系]]<br />[[JR東日本E493系電車|E493系]]
|-
|
| [[国鉄415系電車|415系]]※<ref group="注" name=Serise401 /><ref group="注">制御車・付随車には411形を使用。ただし、クハ401形・クハ421形も使用可能。後にクハ415形が1両のみ登場している。</ref>
| || ||
| [[国鉄457系電車#455系・475系|455系]]
|
| [[国鉄457系電車#455系・475系|475系]]※<ref group="注" name=Serise455>制御車・付随車には455形を使用。</ref>
| [[国鉄485系電車|485系]]※<ref group="注">制御車・付随車には481形を使用。後にクハ480形が登場している。</ref>
| [[国鉄495系電車|495系]]
|-
|
| [[国鉄417系電車|417系]]
| || ||
| [[国鉄457系電車|457系]]※<ref group="注" name=Serise455 />
| ||
|
|([[鉄道総研クヤ497形電車|497]])
|-
|
| [[国鉄419系・715系電車|419系]]
| || || || || ||
| [[国鉄485系電車#489系|489系]]
|
|-
! rowspan="5"|5
| [[JR東日本E501系電車|E501系]]
|
| [[JR西日本521系電車|521系]]
| [[JR東日本E531系電車|E531系]]
| || || ||
| [[国鉄583系電車#581系|581系]]
| [[国鉄591系電車|591系]]
|-
| || || || || || || ||
| [[国鉄583系電車|583系]]※<ref group="注">制御車・付随車には581形を使用。後にクハネ583形が登場している。</ref>
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|-
| || || || || || || || || ||
|-
| || || || || || || || || ||
|-
| || || || || || || || || ||
|-
!rowspan="5"|6
| || || || ||
| [[JR東日本651系電車|651系]]
| ||
| [[JR西日本681系電車|681系]]
|
|-
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|[[JR東日本E653系電車|E653系]]
|
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| [[JR西日本683系電車|683系]]
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|[[JR東日本E655系電車|E655系]]
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|[[JR東日本E657系電車|E657系]]
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!rowspan="5"|7
| [[JR東日本701系電車|701系]]
| [[国鉄711系電車|711系]]
| [[JR北海道721系電車|721系]]<br />[[JR東日本E721系電車|E721系]]
| [[JR北海道731系電車|731系]]
|([[国鉄72系電車#クモヤ740形|740]])
|[[JR東日本E751系電車|E751系]]
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| [[国鉄781系電車|781系]]
|([[国鉄31系電車#交流試験車への改造|790]]・[[国鉄791系電車|791]])
|-
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| [[国鉄713系電車|713系]]
|
| [[JR北海道733系電車|733系]]
|([[JR東日本クモヤ743形電車|743]])
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| [[JR九州783系電車|783系]]
|([[国鉄72系電車#クモヤ740形|792]])
|-
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| [[国鉄419系・715系電車|715系]]
|
| [[JR北海道735系電車|735系]]
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| [[JR北海道785系電車|785系]]
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| [[国鉄413系・717系電車|717系]]
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| [[JR北海道737系電車|737系]]
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| [[JR九州787系電車|787系]]
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| [[JR東日本719系電車|719系]]
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| [[JR北海道789系電車|789系]]
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!rowspan="5"|8
| [[JR東日本EV-E801系電車|EV-E801系]]
| [[JR九州811系電車|811系]]
| [[JR九州821系電車|821系]]
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| [[JR九州813系電車|813系]]
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| [[JR九州883系電車|883系]]
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| [[JR九州815系電車|815系]]
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| [[JR九州885系電車|885系]]
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| [[JR九州817系電車|817系]]
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| [[JR九州BEC819系電車|BEC819系]]
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!rowspan="5"|9
| [[JR東日本209系電車#開発の経緯|901系]]
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|[[JR東日本E991系電車|E991系]]<br />[[JR東日本FV-E991系電車|FV-E991系]]
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|[[JR東日本E993系電車|E993系]]
|-
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|[[JR東日本E995系電車|E995系]]
|-
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|}
* ()で囲まれたものは、系列ではないが形式数字として存在するもの。
* ''(斜体)''で書かれたものは、計画のみで実際には製造されなかったもの。
* 後ろに※のついている系列は、新製時に電動車(制御電動車を含む)ユニットのみが系列名と同じ形式数字および1減じた偶数を用いて登場している<ref group="注">制御車・付随車には他系列の車両が流用できるため。</ref>もの。
* サロ124形・サロ125形は113系に含まれる。
* クハ411形・サハ411形は415系に含まれる。
== JR四国の車両 ==
[[JR四国の車両形式#電車|JR四国が所有している車両]]のうち、JR化後に新製された車両(電車・気動車)には形式と車両番号が一体となった4桁の数字のみの車両形式が用いられており、電車には千位が5 - 8の形式番号が使用されている。
国鉄から継承した車両とJR他社から購入した車両およびそれらの改造車はほとんどが国鉄時代の形式の付け方のままであるが、2016年に121系の機器・台車を更新した車両は、分割民営化後にJR四国が導入した[[JR四国7000系電車|7000系]]との連結を考慮したがため[[国鉄121系電車#改造#7200系への改造|7200系]]という4桁数字の形式が与えられている。<ref>{{Cite news|title=JR四国 121系近郊形直流電車 リニューアル工事実施|newspaper=鉄道ホビダス|date=2016-05-12|url=http://rail.hobidas.com/news/info/article/jr_121.html|accessdate=2016-05-12|publisher=ネコ・パブリッシング}}</ref><ref>[http://railf.jp/news/2016/06/14/180000.html JR四国7200系が営業運転を開始] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2016年6月14日</ref>
== その他の慣例 ==
;[[碓氷峠]]でEF63形電気機関車と[[協調運転]]する機能を装備
:元になった系列の一位を「9」に変更:例:165系→169系、183系→189系、485系→489系
:当てはまらない系列:上記3系列以外で一位が「9」の系列
;国鉄時代に登場したアルミ車体の直流用電車
:百位「3」:例:301系、381系
;狭小トンネル路線用のパンタグラフ取付部の低屋根構造
:800番台:例:クモハ100、モハ100、モハ114、モハ164
:800番台が存在するが狭小トンネル路線を通過しないため低屋根構造ではない形式:モハ112、モハ414、モハE231
;試作的なもの
:900番台:例:101系900番台、165系900番台→169系900番台、201系900番台、207系900番台、901系→209系900番台、209系950番台→E231系900番台
:9000番台:223系9000番台(クモハ223-9001→クモヤ223-9001)
:試作車が900番台・9000番台を名乗らない形式:207系(JR西日本)量産先行車、415系1900番台、681系量産先行車→681系1000番台
:当てはまらない系列:900番台を名乗るが試作要素がない系列:717系900番台
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[形式称号]]
*[[国鉄の車両形式一覧]]
*[[国鉄機関車の車両形式]]
*[[国鉄旧形電車の車両形式]]
*[[国鉄気動車の車両形式]]
*[[国鉄客車の車両形式]]
*[[国鉄貨車の車両形式]]
*[[:Category:日本国有鉄道の新性能電車]]
*[[JR東海HC85系気動車]] - 系列としては気動車であるが、新性能電車に準じた形式が与えられている。
{{DEFAULTSORT:しんせいのうてんしやのしやりようけいしき}}
[[Category:日本国有鉄道の新性能電車|*]]
[[Category:鉄道車両の形式称号]]
[[Category:JRの鉄道車両]]
|
2003-07-10T14:05:50Z
|
2023-11-11T12:11:11Z
| false | false | false |
[
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news",
"Template:右",
"Template:Refnest"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%80%A7%E8%83%BD%E9%9B%BB%E8%BB%8A%E3%81%AE%E8%BB%8A%E4%B8%A1%E5%BD%A2%E5%BC%8F
|
11,164 |
徳間デュアル文庫
|
徳間デュアル文庫(とくまデュアルぶんこ)は徳間書店が発行していたSF・ライトノベル系小説レーベルである。2000年8月に創刊された。2010年12月を最後に刊行停止した。
一般的な文庫のサイズがA6(105mm×148mm)であるのに対し、徳間デュアル文庫はこれより少しサイズが大きく(トールサイズ)、およそ110mm×158mmであった。その為、通常のブックカバーが使えず本棚のサイズによっては収納出来ないことがあるなどの不具合もあったが、一方で本屋で目立つ、他の文庫と差別化を図れるなどの利点もあった。
デュアル (dual) とは「二重」という意味で、これは小説とイラストで二重に楽しんでもらおうというコンセプトで名付けられた。表紙にカラーイラストを用いている他、所々に挿絵のページが挿入されていた。
収録されている作品のジャンルはSFがメイン。『銀河英雄伝説』など既に発表された作品の再録や文庫化の他、日本SF新人賞受賞者が作品を発表したりアンソロジーが編まれたりして、新旧を問わず多彩な顔ぶれが揃った。
一般文芸で活躍する作家の作品も多く、一般書籍から文庫落ちした作品または一般文芸として再版される作品も存在する為に一般文庫としての側面も持ち合わせていた。
|
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徳間デュアル文庫(とくまデュアルぶんこ)は徳間書店が発行していたSF・ライトノベル系小説レーベルである。2000年8月に創刊された。2010年12月を最後に刊行停止した。
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{{出典の明記|date=2021年3月}}
{{Portal 文学}}
'''徳間デュアル文庫'''(とくまデュアルぶんこ)は[[徳間書店]]が発行していた[[サイエンス・フィクション|SF]]・[[ライトノベル]]系小説レーベルである。[[2000年]]8月に創刊された。[[2010年]]12月を最後に刊行停止した。
== 概要 ==
一般的な文庫のサイズがA6(105mm×148mm)であるのに対し、徳間デュアル文庫はこれより少しサイズが大きく(トールサイズ)、およそ110mm×158mmであった。その為、通常の[[ブックカバー]]が使えず本棚のサイズによっては収納出来ないことがあるなどの不具合もあったが、一方で本屋で目立つ、他の文庫と差別化を図れるなどの利点もあった。
デュアル (dual) とは「二重」という意味で、これは小説とイラストで二重に楽しんでもらおうというコンセプトで名付けられた。表紙にカラー[[イラストレーション|イラスト]]を用いている他、所々に挿絵のページが挿入されていた。
収録されている作品のジャンルはSFがメイン。『[[銀河英雄伝説]]』など既に発表された作品の再録や文庫化の他、[[日本SF新人賞]]受賞者が作品を発表したり[[アンソロジー]]が編まれたりして、新旧を問わず多彩な顔ぶれが揃った。
一般文芸で活躍する作家の作品も多く、一般書籍から文庫落ちした作品または一般文芸として再版される作品も存在する為に一般文庫としての側面も持ち合わせていた。
==作品一覧==
{| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;"
!著者!!タイトル!!イラスト!!備考
|-
! colspan="4" |あ行
|-
| rowspan="2" |[[青木和]]||[[イミューン]]||[[緒方剛志]]||
|-
|[[大神亮平奇象観測ファイル]]||[[華門]]||全2巻
|-
|[[日日日]]||[[ギロチンマシン中村奈々子]]||[[大出長介]]||全5巻
|-
|[[揚羽千景]]||[[大正探偵怪奇譚]]||[[藤城陽]]||原作:[[松田環]] 全3巻
|-
|[[浅暮三文]]||[[夜聖の少年]]||[[橋本晋|はしもとしん]]||
|-
| rowspan="3" |[[新井素子]]||[[ラビリンス -迷宮-]]|| rowspan="2" |[[入江亜季|入江アリ]]|| rowspan="4" |再刊
|-
|[[ディアナ・ディア・ディアス]]
|-
|[[くますけと一緒に]]||[[羽住都]]
|-
|[[石原藤夫]]||[[「惑星」シリーズ|ハイウェイ惑星 惑星調査艇ヒノシオ号の冒険]]||[[あさりよしとお]]
|-
|[[市川智士]]||[[ウィッチブレイド (アニメ)|ウィッチブレイドLOST GENERATION〜碧の少女〜]]||[[うのまこと]]||原作:[[トップ・カウ・プロダクション]]
|-
|[[一条理希]]||[[鬼童来訪]]||[[山田章博]]||全3巻
|-
|[[乾くるみ]]||[[マリオネット症候群]]||[[安藤慈朗|あるまじろう]]||
|-
|[[冲方丁]]||[[微睡みのセフィロト]]||[[伊藤真美]]||後に[[ハヤカワ文庫]]JAより再刊。
|-
|[[梅村崇]]||[[時に消えたキミと歪曲の十日間 - デイ・トリッパー]]||[[縹りん子]]||
|-
| rowspan="2" |[[太田忠司]]||[[狩野俊介|玄武塔事件 - 名探偵狩野俊介]]|| rowspan="2" |[[末次徹朗]]|| rowspan="2" |再刊
|-
|[[狩野俊介|狩野俊介の事件簿]]
|-
| rowspan="4" |[[大塚英志]]||[[冬の教室]]||[[鶴田謙二]]||
|-
|[[多重人格探偵サイコ|多重人格探偵サイコ REAL]]||[[笹井一個]]||
|-
|[[魍魎戦記MADARAシリーズ|僕は天使の羽根を踏まない]]|| rowspan="2" |[[コヤマシゲト]]|| rowspan="5" |再刊
|-
|[[多重人格探偵サイコ|ロリータ℃の素敵な冒険]]
|-
| rowspan="3" |[[大原まり子]]||[[銀河郵便は“愛”を運ぶ]]|| rowspan="3" |[[忍青龍]]
|-
|[[イル&クラムジー物語]]
|-
|[[銀河郵便は三度ベルを鳴らす]]
|-
| rowspan="2" |[[荻野目悠樹]]||[[野望円舞曲]]|| rowspan="2" |[[久織ちまき]]||原案:[[田中芳樹]] 全10巻
|-
|[[野望円舞曲|野望円舞曲 外伝 デッドライン23]]||原案:田中芳樹
|-
! colspan="4" |か行
|-
|[[柿沼瑛子]]||[[魔性の森]]||[[安曇もか]]||
|-
|[[加地尚武]]||[[福音の少年 Good News Boy ]]||[[中臣亮]]||全7巻
|-
| rowspan="4" |[[梶尾真治]]||[[おもいでエマノン]]|| rowspan="4" |[[鶴田謙二]]|| rowspan="2" |再刊
|-
|[[さすらいエマノン]]
|-
|[[かりそめエマノン]]||
|-
|[[まろうどエマノン]]||
|-
| rowspan="3" |[[上遠野浩平]]||[[ナイトウォッチ三部作|ぼくらは虚空に夜を視る]]|| rowspan="3" |[[中澤一登]]||
|-
|[[ナイトウォッチ三部作|わたしは虚夢を月に聴く]]||
|-
|[[ナイトウォッチ三部作|あなたは虚人と星に舞う]]||
|-
|[[神代創]]||[[セルス騒乱記]]||[[鈴木理華]]||全3巻
|-
| rowspan="2" |[[川又千秋]]||[[火星人先史]]||[[大本海図]]||再刊
|-
|[[反在士の指環]]||[[コヤマシゲト]]||『[[反在士の鏡]]』の増補版
|-
|[[神林長平]]||[[ラーゼフォン|ラーゼフォン 時間調律師]]||[[末弥純]]||原作:[[ボンズ (アニメ制作会社)|BONES]]・[[出渕裕]]
|-
|[[菊地秀行]]||[[眠り男の伝説]]||[[奥瀬サキ]]||再刊
|-
| rowspan="5" |[[北野勇作]]||[[かめくん]]||[[前田真宏 (アニメ監督)|前田真宏]]||
|-
|[[昔、火星のあった場所]]||[[はしもとしん|橋本晋]]|| rowspan="2" |再刊
|-
|[[クラゲの海に浮かぶ舟]]||橋本晋
|-
|[[ザリガニマン]]||[[菅原芳人]]||
|-
|[[イカ星人]]||前田真宏||
|-
|[[草上仁]]||[[よろずお直し業]]||[[秋津たいら]]||再刊
|-
|[[倉阪鬼一郎]]||[[内宇宙への旅]]||[[槻城ゆう子]]||
|-
|[[後藤リウ]]||[[スクウォッター 僕と僕らの境界線]]||[[佐嶋真実]]||
|-
|[[小中千昭]]||[[深淵を歩くもの]]||[[伊藤郁子]]||
|-
|[[小林めぐみ]]||[[宇宙生命図鑑 book of cosmos]]||[[新間大悟]]<br/>[[佐伯経多]]||
|-
| rowspan="2" |[[紺野たくみ]]||[[どきどきリトル・ウィッチーズ ディアーナの娘たち]]|| rowspan="2" |[[高木信孝]]||
|-
|[[天使時間]]||
|-
! colspan="4" |さ行
|-
| rowspan="2" |[[沢上水也]]||[[舞-乙HiME|舞-乙HiME列伝]]||[[久行宏和]]<br/>[[橘セブン]]||原作:[[矢立肇]] 全2巻
|-
|[[プライベート・ポリス]]||[[村上水軍 (イラストレーター)|村上水軍]]||
|-
| rowspan="3" |[[篠田真由美]]||[[天使の血脈]]|| rowspan="3" |[[高屋未央]]|| rowspan="2" |上下巻 再刊
|-
|[[天使の血脈|堕とされしもの 天使の血脈]]
|-
|[[聖杯伝説 (小説)|聖杯伝説]]||
|-
| rowspan="2" |[[白倉由美]]||[[おおきくなりません]]|| rowspan="2" |[[鶴田謙二]]||再刊
|-
|[[やっぱりおおきくなりません]]||
|-
| rowspan="2" |[[菅浩江]]||[[<柊の僧兵>記]]||[[緒方剛志]]|| rowspan="2" |再刊
|-
|[[メルサスの少年 「螺旋の街」の物語]]||[[磐居広治]]
|-
|[[杉本蓮]]||[[KI.DO.U]]||[[森脇真未味]]||
|-
| rowspan="3" |[[清涼院流水]]||[[とくまシリーズ|とくまでやる]]|| rowspan="3" |[[牛木義隆]]||
|-
|[[とくまシリーズ|とくまつ 夜霧邸事件]]||
|-
|[[とくまシリーズ|とく。]]||
|-
! colspan="4" |た行
|-
|[[谷甲州]]||[[戦闘員ヴォルテ]]||[[沓沢龍一郎|沓澤龍一郎]]||再刊
|-
|[[谷口裕貴]]||[[遺産の方舟]]||[[金田榮路]]||
|-
| rowspan="3" |[[田中芳樹]]||[[銀河英雄伝説]]|| rowspan="3" |[[道原かつみ]]||全20巻 再刊
|-
|[[銀河英雄伝説|銀河英雄伝説 外伝]]||全9巻 再刊
|-
|[[銀河英雄伝説|銀河英雄伝説 ハンドブック]]||協力:[[らいとすたっふ]]
|-
|田中芳樹(2巻まで)<br/>[[一条理希]](3巻)||[[自転地球儀世界]]||[[緒方剛志]]||全3巻 再刊(2巻まで)
|-
| rowspan="4" |デュアル文庫編集部(編集)||[[NOVEL21|NOVEL21 text.BLUE 「少年の時間」]]|| rowspan="2" |[[寺田克也]]|| rowspan="4" |[[アンソロジー]]
|-
|[[NOVEL21|NOVEL21 text.RED 「少女の時間」]]
|-
|[[手塚治虫]]COVER エロス篇||[[村田蓮爾]]
|-
|手塚治虫COVER タナトス篇||寺田克也
|-
|[[東野司]]||[[よろず電脳調査局ページ11]]||[[片倉真二]]||全3巻
|-
|[[富野由悠季]]||[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア|機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー]]||[[久織ちまき]]||全3巻 再刊
|-
|[[友野詳]]<br/>[[番棚葵]]<br/>[[田辺あひる]]||[[ダイノコンチネント]] 夜の殺戮者||[[葵華鋭]]||原作:[[山本弘 (作家)|山本弘]] [[シェアード・ワールド]](ダイノコンチネント)
|-
! colspan="4" |な行
|-
| rowspan="2" |[[中井紀夫]]||[[遺響の門 -サイレント・ゲート-]]||[[中澤一登]]||
|-
|[[モザイク (曖昧さ回避)|モザイク]]||[[はやみあきら]]||全3巻
|-
|[[海猫沢めろん|ナカガワヒロユキ]]||[[舞-HiME]]||[[久行宏和]]<br/>[[稲吉朝子]]<br/>[[高野和史]]<br/>[[Maruto!]]<br/>[[坂本修司]]<br/>[[稲吉智重]]<br/>[[田中将雅]]||原作:[[矢立肇]] 全2巻
|-
|[[二階堂黎人]]||[[宇宙捜査艦《ギガンテス》]]||[[川越幸子]]||
|-
! colspan="4" |は行
|-
|[[はむばね]]||[[魔王さんちの勇者さま]]||[[ばっじん]]||全4巻
|-
|[[林譲治 (作家)|林譲治]]||[[大赤斑追撃]]||[[加藤直之]]||
|-
| rowspan="2" |[[火浦功]]||[[死に急ぐ奴らの街]]|| rowspan="2" |[[今掛勇]]||再刊
|-
|[[俺に撃たせろ!]]||
|-
|[[ひかわ玲子]]||[[太陽の娘]]||[[高田明美]]||全3巻 再刊
|-
| rowspan="3" |[[藤咲淳一]]||[[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX|攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 虚夢回路]]||[[中澤一登]]||
|-
|[[攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG|攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 凍える機械]]|| rowspan="2" |中澤一登<br/>[[新野量太]]||
|-
|[[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX|攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 眠り男の棺]]||
|-
| rowspan="3" |[[古橋秀之]]||[[サムライ・レンズマン]]||[[岩原裕二]]||
|-
|[[蟲忍 ―ムシニン―]]||[[前嶋重機]]||原案:前嶋重機
|-
|[[冬の巨人]]||[[藤城陽]]||
|-
! colspan="4" |ま行
|-
|[[みかづき紅月]]||[[サムライエイジ]]||[[さとみ]]||全3巻
|-
| rowspan="3" |[[三雲岳斗]]||[[海底密室]]||[[大本海図]]||
|-
|[[ワイヤレスハートチャイルド]]||[[あいす・くりーむ]]||
|-
|[[M.G.H. 楽園の鏡像]]||[[中臣亮]]|| rowspan="4" |再刊
|-
|[[岬兄悟]]||[[ラヴ・ペア・シリーズ|魔女でもステディ]]||[[厦門潤|陸乃家鴨]]
|-
|[[森青花]]||[[BH85]]||[[吾妻ひでお]]
|-
|[[森岡浩之]]||[[優しい煉獄]]||[[山本ヤマト]]
|-
|[[森橋ビンゴ]]||[[ソウルソードスーパースター]]||[[緒方剛志]]||上下巻
|-
! colspan="4" |や行
|-
| rowspan="5" |[[矢崎存美]]||[[ぶたぶたシリーズ|ぶたぶた]]|| rowspan="3" |[[杉山摂朗]]||再刊
|-
|[[ぶたぶたシリーズ|ぶたぶたの休日]]||
|-
|[[ぶたぶたシリーズ|刑事ぶたぶた]]||再刊
|-
|[[ぶたぶたシリーズ|夏の日のぶたぶた]]|| rowspan="2" |[[あいみあさ]]||
|-
|[[ぶたぶたシリーズ|クリスマスのぶたぶた]]||再刊
|-
|[[矢島さら]]||[[けろけろ 緑の誓い]]||[[濱元隆輔]]||
|-
|[[安彦良和]]||[[鋼馬章伝]]||[[安彦良和]]||再刊 全5巻
|-
| rowspan="4" |[[山田正紀]]||[[チョウたちの時間]]||[[緒方剛志]]|| rowspan="5" |再刊
|-
|[[地球・精神分析記録 - エルド・アナリュシス]]||[[ヨコタカツミ]]
|-
|[[ジャグラー (小説)|ジャグラー]]|| rowspan="2" |[[新間大悟]]<br/>[[佐伯経多]]
|-
|[[イノセンス|イノセンス After The Long Goodbye]]
|-
| rowspan="2" |[[山本弘 (作家)|山本弘]]||[[時の果てのフェブラリー -赤方偏移世界-]]||[[後藤圭二]]
|-
|[[ダイノコンチネント]] 滅亡の星、来たる||[[葵華鋭]]||[[シェアード・ワールド]](ダイノコンチネント)
|-
|[[夢枕獏]]||[[闇狩り師]]||[[寺田克也]]||全3巻 再刊
|-
|[[吉川良太郎]]||[[シガレット・ヴァルキリー]]||[[笹井一個]]||
|-
! colspan="4" |わ行
|-
| rowspan="3" |[[若木未生]]||[[ハイスクール・オーラバスター|オーラバスター・インテグラル 月光人魚]]||[[末弥純]]||
|-
|[[メタルバード]]||[[菅原健 (イラストレーター)|菅原健]]||全2巻
|-
|[[イズミ幻戦記|真・イズミ幻戦記]]||[[岡崎武士]]||全3巻
|}
== 外部リンク ==
*{{wayback|url=http://www1.odn.ne.jp/yuzawa/new/dual_new.html|title=徳間デュアル文庫 新刊情報|date=20091005194645}}
== 関連項目 ==
* [[文庫レーベル一覧]]
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[[Category:徳間デュアル文庫|*]]
[[Category:徳間書店の歴史]]
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11,169 |
推古天皇
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推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日〈欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。
日本史上最初の女帝とされる。欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれ、諱は額田部王(ぬかたべ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)である。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。
成長した後、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の崩御後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。
彼女の治世は日本で本格的に仏教が興隆していく時代であり、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝のとの外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と山背大兄王が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に蘇我蝦夷(蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した(舒明天皇、629年)。
後に推古天皇となる額田部(ぬかたべ)皇女(王)は欽明天皇と大臣の蘇我稲目の娘、堅塩媛との間に生まれた。彼女の系譜を伝えるのは『日本書紀』と『古事記』であり、『日本書紀』541年(欽明天皇2年)3月の立妃記事によれば堅塩媛は七男六女を産み、額田部王はその中で四番目の子であった。兄弟の数と額田部王の出生順は『古事記』の系譜でも同様である。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟、蘇我馬子は母方の叔父であった。
諱は額田部(ぬかたべ)である。6世紀後半から7世紀にかけて、天皇(大王)の子は男女の別なく「王(みこ)」と称されており、「皇子(みこ)」号が成立するのは天武朝(7世紀後半)においてである。『古事記』では古い記法が保存されており「額田部王」と記載されている。持統朝(7世紀末から8世紀初頭)には、「皇子(みこ)」「皇女(ひめみこ)」の書き分けが成立し、『日本書紀』では推古朝を含む過去の時代までこの書き分けを遡って適用しているため「額田部皇女」と書かれている。和風諡号は豊御食炊屋姫尊である。とも称される。現代の学者が推古天皇に言及する際には、利便性を重視して漢風諡号の「推古」を用いる場合や、「額田部」「額田部王」「額田部王女」「豊御食炊屋姫」「炊屋姫」など、名前の取り扱いに関する方針や文脈によって様々に書かれる。
571年(欽明32年)、額田部は18歳で異母兄である敏達天皇のキサキとなった(この時点では敏達天皇の即位前である)。『日本書紀』の記録では、575年(敏達4年)に息長真手王の娘広姫を皇后に立てたが、同年中に広姫が崩御し翌年に額田部が皇后となったとされる。ただし、日本において「皇后」という地位が確立されるのは7世紀末のことであり、実際には額田部が生きた時代に「皇后」や「夫人」といった天皇のキサキたちの序列が明確に存在していたわけではない。
『日本書紀』によれば、額田部は敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)・竹田皇子・小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)・鸕鶿守皇女・尾張皇子(聖徳太子妃の橘大郎女の父)・田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)・桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)の2男5女を儲けた。
585年5月(『日本書紀』による。『古事記』では584年4月)に敏達天皇が崩御した。その直後から額田部や蘇我馬子、物部守屋などの間で激しい権力闘争が争われた。蘇我馬子と物部守屋は敏達天皇の殯宮で執り行われた誄儀礼において互いの拙さを嘲笑い、対立姿勢を露わにした。この両者の対立は敏達朝期から仏教の受容への賛否と言う形で生じており、これは崇仏論争とも呼ばれる。両者の対立が崇仏を主題とし、仏教の支持者としての蘇我氏と仏敵としての物部氏の存在を強調する筋立てとなっているのは、この記録が「飛鳥寺系縁起」から来ているためで、実際には政治闘争が繰り広げられたものであるともいわれる。
敏達天皇の崩御から20日後、額田部の同母兄の橘豊日(用明天皇)が即位した。『日本書紀』「用明紀」は治世が短期間だったこともあり、その内容は「仏教関係記事がわずかに挟まる以外はほとんどが守屋討滅事件で占められ、全体が物部氏滅亡の物語といっても良い」(義江)ものとなっている。
586年(用明元年)夏5月、敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が皇后を「おか(姧)」そうとし、殯宮に入ろうとするという事件が発生した。この時、敏達天皇の寵臣であった三輪逆は門を固めて穴穂部を入れず、穴穂部が7度に渡って門を開けるよう要求しても応じなかった。穴穂部は三輪逆が自分の入場を阻止したことは無礼であると怒り、蘇我馬子、物部守屋両名もこれに同意した。その後、穴穂部は物部守屋と共に兵を率いて三輪逆を討伐すべく「磐余の池辺」を囲んだが、三輪逆はこれを察知して「後宮きさきの宮」(額田部の「別業(なりどころ)」の「海石榴市宮(つばきちのみや)」)に隠れた。しかし、同族によって密告され、三輪逆は最終的に穴穂部の命を受けた物部守屋によって殺害された。
用明天皇の治世は短く、587年5月21日に病没した。死の床にあって用明天皇は仏法帰依の是非を群臣に問うたという。『日本書紀』では仏法を受け入れなかった敏達天皇に対して、初めて仏法への帰依を明言した天皇として用明天皇が位置づけられている。用明天皇崩御の翌月、穴穂部と物部守屋が挙兵を企てたが、587年(用明2年)6月7日に額田部は即座に穴穂部および宅部(宣化天皇の皇子。穴穂部と親しかったとされる)の誅殺を命じる詔を出し、即座に両皇子は殺害された。翌月、蘇我馬子は諸皇子と群臣を集めて物部守屋討伐を主張し、軍勢を集めて河内の物部守屋の本拠地を攻めた。物部守屋は射殺され、その配下は四散した。
物部守屋討滅の翌月、額田部と群臣が泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を勧め、即位の礼が執り行われた。蘇我馬子を始め群臣の地位はそのまま維持された。しかし、5年後の592年(崇峻5年)、天皇が献上されたイノシシを指して「いつの日かこの頸を斬るように、自分がにくいと思うところの人を斬りたいものだ」と述べたことを聞いた蘇我馬子は、崇峻天皇が自分を嫌っていると警戒し、11月3日に崇峻天皇を暗殺した。
この結果空位となると、群臣は額田部に即位を勧めた。『日本書紀』「推古紀」の記載では、額田部は当初これを辞退し、3度請われて遂に豊浦宮において即位したとされる。この時彼女は39歳であり、日本(倭国)史上初の女性の大王(女帝)となった。
『日本書紀』によれば即位元年である593年5月15日(旧暦:4月10日)に、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として国政を委ねたという。実際には6世紀末当時、「皇太子」という地位・称号はまだ存在していなかったため、『日本書紀』の厩戸皇子の立太子記事をどのように理解するかについては様々な議論がある。『日本書紀』によれば即位した推古天皇は太子とした厩戸皇子に国政を委ねたとされる。こうした古代の記録やその後の聖徳太子信仰の影響もあり。伝統的に推古朝の政策は「聖徳太子」が主導したと考えられてきたが、現在では伝説的な聖徳太子像の解体と合わせて、こうした見解には再検討が進められており、推古天皇自身の主体性や蘇我馬子の存在などが再評価されている。実際にはこの時期には推古天皇、蘇我馬子、厩戸皇子の3名が政権の中枢を構成したと考えられる。
推古朝では日本史上重要な様々な政策が行われた。その一つが仏教の振興である。589年(推古2年)、推古天皇は「三宝興隆」の詔を発した。三宝とは仏・法・僧を意味し、これは崇仏論争以来の仏教を巡る争いを終結させ、国家の方針として仏教を受容することを宣言するものと位置づけられる。三宝興隆は推古朝初期の基本方針であったと見られ、各氏族に大王のための造寺が要求された。仏教寺院の建立は単なる先進文化の受容というのみならず、王権に対する忠誠の証明でもあった。造寺活動を先導していたのは蘇我氏であり、蘇我馬子は既に崇588年(崇峻元年)には法興寺(飛鳥寺)の造営を開始していた。法興寺は596年(推古4年)に伽藍が完成し、推古14年(606年)または推古17年(609年)に釈迦如来像が安置された。
589年に隋が中国を統一し南北朝時代が終了すると、百済、新羅が相次いで隋に遣使した。こうした国際情勢を受け、600年に倭国(日本)からも隋への遣使が行われた(遣隋使。これは倭国と中華王朝の通交としてはほぼ120年ぶりのものである。この遣隋使は倭国の風俗について説明した際に「此れ太だ義理なし」として煬帝から諭され、また服制の不備などもあり失敗に終わった。この時の遣使は『隋書』のみに記録されており『日本書紀』には残されていない。一般的に、失敗に終わったことが『日本書紀』に記載されていない理由であると考えられている。この失敗は倭国側に大きなカルチャーショックを与えたと見られ、恐らく遣隋使の帰国直後から様々な改革が行われた。603年には冠位十二階の制定、604年に宮門出入りの際の礼制と憲法十七条の制定、605年には服制の整理が行われている。これによって外交儀礼を執り行うことが可能となり、また相手国の外交担当者が自国の官品制と互換可能な官位制度が整えられた。一連の改革を経た607年(推古15年)、制定された冠位十二階で五位にあたる大礼の地位を帯びた小野妹子を隋に派遣した。大礼は後の令制における正六位に相当する。608年4月には帰国した小野妹子らと共に隋から派遣された答礼の使者裴世清が倭国を訪れ、一連の外交儀礼が実践されて小墾田宮で隋の国書が奉呈された。同年9月に再び小野妹子が遣隋使として派遣され、倭漢直福因ら学生4名と新漢人日文ら4名の学僧が随伴した。これら随伴た留学生らはいずれも渡来系氏族出身で、仏法を修めることが彼らを派遣した主たる理由であった。遣隋使は以後も断続的に派遣されたが、618年には隋が滅亡したため614年の犬上御田鍬らの派遣が最後となった。隋に代わった唐への遣使(遣唐使)の派遣は推古天皇の崩御後しばらくの時間を経てから実施されることになる。
『日本書紀』によれば620年(推古28年)、聖徳太子と蘇我馬子は共に『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂して献上したとされる。これらの歴史書は『日本書紀』以外に記載はなく、『日本書紀』内でもこの後に言及されるのは「皇極紀」で乙巳の変(645年)の際に焼失し『国記』の一部が火中から取り上げられたというものである。このため、その内容について判明していることは何もなく、推古朝における国史編纂の実態がどのようなものであったのか詳細はわかっていない。620年(推古28年)が欽明天皇の50年忌にあたることなどから、この国史編纂事業は世襲王権として欽明王系・蘇我氏の地位を確立し、欽明天皇を称揚する意図の中で行われたものであったとも考えられ、あるいは620年に編纂されたという年代設定自体が『日本書紀』編纂時のものである可能性もある。
その後、厩戸皇子が薨去した。『日本書紀』の記録では推古29年2月5日のことであるとされているが、法隆寺系の史料では皇子の死が推古30年2月22日であることを示しており、現代ではこちらが一般に採用されている。
624年(推古32年)、蘇我馬子は葛城県(かづらきのあがた)は自らの本居(うぶすな)であるとして賜ることを願い出た。推古天皇は馬子に配慮しつつこれを退けたが、その際に自らについて「朕は蘇何より出たり」と述べており、推古天皇が蘇我氏に対して強い帰属意識、同族意識を持っていたことを示すものとして注目される。
そして626年6月19日(推古34年5月20日)、蘇我馬子も薨去した。馬子は桃原墓(ももはらのはか)に葬られたと『日本書紀』は伝えるが、これは奈良県明日香村の石舞台古墳であるとするのが通説である。同じく『日本書紀』によれば、その造営のために蘇我一族がことごとく集まって宿営していたという。
628年4月15日(推古36年3月7日)、75歳で小墾田宮において崩御した。崩御前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫の田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子の山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されている。子の竹田皇子との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は方丘。遺跡名は「山田高塚古墳」で、方墳または長方墳である。
『日本書紀』では推古天皇36年(628年)3月の崩御ののち、同年9月に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い。一方で『古事記』では、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い。『延喜式』諸陵寮では、推古天皇陵は遠陵の「磯長山田陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする。『扶桑略記』では康平3年(1060年)に「推古天皇山陵」で盗掘があったという。その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している。なお、現陵近くの二子塚古墳を真陵に比定する説もあるほか、改葬前の陵(大野岡上)については植山古墳(奈良県橿原市)に比定する説がある。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
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"text": "推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日〈欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。",
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"text": "日本史上最初の女帝とされる。欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれ、諱は額田部王(ぬかたべ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)である。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。",
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"text": "成長した後、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の崩御後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。",
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"text": "彼女の治世は日本で本格的に仏教が興隆していく時代であり、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝のとの外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と山背大兄王が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に蘇我蝦夷(蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した(舒明天皇、629年)。",
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"text": "後に推古天皇となる額田部(ぬかたべ)皇女(王)は欽明天皇と大臣の蘇我稲目の娘、堅塩媛との間に生まれた。彼女の系譜を伝えるのは『日本書紀』と『古事記』であり、『日本書紀』541年(欽明天皇2年)3月の立妃記事によれば堅塩媛は七男六女を産み、額田部王はその中で四番目の子であった。兄弟の数と額田部王の出生順は『古事記』の系譜でも同様である。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟、蘇我馬子は母方の叔父であった。",
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"text": "諱は額田部(ぬかたべ)である。6世紀後半から7世紀にかけて、天皇(大王)の子は男女の別なく「王(みこ)」と称されており、「皇子(みこ)」号が成立するのは天武朝(7世紀後半)においてである。『古事記』では古い記法が保存されており「額田部王」と記載されている。持統朝(7世紀末から8世紀初頭)には、「皇子(みこ)」「皇女(ひめみこ)」の書き分けが成立し、『日本書紀』では推古朝を含む過去の時代までこの書き分けを遡って適用しているため「額田部皇女」と書かれている。和風諡号は豊御食炊屋姫尊である。とも称される。現代の学者が推古天皇に言及する際には、利便性を重視して漢風諡号の「推古」を用いる場合や、「額田部」「額田部王」「額田部王女」「豊御食炊屋姫」「炊屋姫」など、名前の取り扱いに関する方針や文脈によって様々に書かれる。",
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"text": "571年(欽明32年)、額田部は18歳で異母兄である敏達天皇のキサキとなった(この時点では敏達天皇の即位前である)。『日本書紀』の記録では、575年(敏達4年)に息長真手王の娘広姫を皇后に立てたが、同年中に広姫が崩御し翌年に額田部が皇后となったとされる。ただし、日本において「皇后」という地位が確立されるのは7世紀末のことであり、実際には額田部が生きた時代に「皇后」や「夫人」といった天皇のキサキたちの序列が明確に存在していたわけではない。",
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"text": "『日本書紀』によれば、額田部は敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)・竹田皇子・小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)・鸕鶿守皇女・尾張皇子(聖徳太子妃の橘大郎女の父)・田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)・桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)の2男5女を儲けた。",
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"text": "585年5月(『日本書紀』による。『古事記』では584年4月)に敏達天皇が崩御した。その直後から額田部や蘇我馬子、物部守屋などの間で激しい権力闘争が争われた。蘇我馬子と物部守屋は敏達天皇の殯宮で執り行われた誄儀礼において互いの拙さを嘲笑い、対立姿勢を露わにした。この両者の対立は敏達朝期から仏教の受容への賛否と言う形で生じており、これは崇仏論争とも呼ばれる。両者の対立が崇仏を主題とし、仏教の支持者としての蘇我氏と仏敵としての物部氏の存在を強調する筋立てとなっているのは、この記録が「飛鳥寺系縁起」から来ているためで、実際には政治闘争が繰り広げられたものであるともいわれる。",
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"text": "敏達天皇の崩御から20日後、額田部の同母兄の橘豊日(用明天皇)が即位した。『日本書紀』「用明紀」は治世が短期間だったこともあり、その内容は「仏教関係記事がわずかに挟まる以外はほとんどが守屋討滅事件で占められ、全体が物部氏滅亡の物語といっても良い」(義江)ものとなっている。",
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"text": "586年(用明元年)夏5月、敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が皇后を「おか(姧)」そうとし、殯宮に入ろうとするという事件が発生した。この時、敏達天皇の寵臣であった三輪逆は門を固めて穴穂部を入れず、穴穂部が7度に渡って門を開けるよう要求しても応じなかった。穴穂部は三輪逆が自分の入場を阻止したことは無礼であると怒り、蘇我馬子、物部守屋両名もこれに同意した。その後、穴穂部は物部守屋と共に兵を率いて三輪逆を討伐すべく「磐余の池辺」を囲んだが、三輪逆はこれを察知して「後宮きさきの宮」(額田部の「別業(なりどころ)」の「海石榴市宮(つばきちのみや)」)に隠れた。しかし、同族によって密告され、三輪逆は最終的に穴穂部の命を受けた物部守屋によって殺害された。",
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"text": "用明天皇の治世は短く、587年5月21日に病没した。死の床にあって用明天皇は仏法帰依の是非を群臣に問うたという。『日本書紀』では仏法を受け入れなかった敏達天皇に対して、初めて仏法への帰依を明言した天皇として用明天皇が位置づけられている。用明天皇崩御の翌月、穴穂部と物部守屋が挙兵を企てたが、587年(用明2年)6月7日に額田部は即座に穴穂部および宅部(宣化天皇の皇子。穴穂部と親しかったとされる)の誅殺を命じる詔を出し、即座に両皇子は殺害された。翌月、蘇我馬子は諸皇子と群臣を集めて物部守屋討伐を主張し、軍勢を集めて河内の物部守屋の本拠地を攻めた。物部守屋は射殺され、その配下は四散した。",
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"text": "この結果空位となると、群臣は額田部に即位を勧めた。『日本書紀』「推古紀」の記載では、額田部は当初これを辞退し、3度請われて遂に豊浦宮において即位したとされる。この時彼女は39歳であり、日本(倭国)史上初の女性の大王(女帝)となった。",
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推古天皇は、日本の第33代天皇。 日本史上最初の女帝とされる。欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれ、諱は額田部王(ぬかたべ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)である。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。 成長した後、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の崩御後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。 彼女の治世は日本で本格的に仏教が興隆していく時代であり、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝のとの外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と山背大兄王が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に蘇我蝦夷(蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した(舒明天皇、629年)。
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{{基礎情報 天皇
| 名 =推古天皇
| 代数=第33
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| 説明=『推古天皇像』(部分)<br/>[[土佐光芳]] 画・[[叡福寺]] 蔵
| 在位=[[593年]][[1月15日]] - [[628年]][[4月15日]]
| 和暦在位期間= [[崇峻天皇]]5年12月8日 - 推古天皇36年3月7日
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| 漢風諡号= 推古天皇
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| 印 =
| 生年=[[554年]][[5月21日]]([[欽明天皇]]15年乙巳朔癸丑)
| 生地=
| 没年=[[628年]][[4月15日]](推古天皇36年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]])
| 没地=[[小墾田宮]]
| 諱= 額田部
| 陵墓=[[植山古墳|大野岡上]]→[[山田高塚古墳|磯長山田陵(科長大陵)]]
| 先代=[[崇峻天皇]]
| 次代=[[舒明天皇]]
| 子 =[[菟道貝蛸皇女]]<br/>[[竹田皇子]]<br/>[[小墾田皇女]]<br/>[[鸕鶿守皇女]]<br/>[[尾張皇子]]<br/>[[田眼皇女]]<br/>[[桜井弓張皇女]]
| 夫 =[[敏達天皇]]
| 父親=[[欽明天皇]]
| 母親=[[蘇我堅塩媛]]
| 注釈=最初の天皇号使用者(異説あり)<br/>史上初の女性天皇
}}
{{基礎情報 皇后
|立后根拠 = 第30代天皇后
|画像 =
|画像幅 =
|画像代替文 =
|画像説明 =
|在位期間 = [[576年]][[4月23日]] - [[585年]][[9月15日]]
|和暦在位期間 = 敏達天皇5年3月10日 - 敏達天皇14年8月15日
|結婚 = [[571年]](欽明天皇32年)
|皇后 = [[576年]][[4月23日]](敏達天皇5年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]])(大后)
|配偶者1 = [[敏達天皇]]
}}
'''推古天皇'''(すいこてんのう、[[554年]][[5月21日]]〈[[欽明天皇]]15年乙巳朔癸丑: [[4月9日 (旧暦)|4月9日]]〉- [[628年]][[4月15日]]〈推古天皇36年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]〉{{efn2|『古事記』では[[戊子]]年3月15日}}{{efn2|在位期間は特に[[推古時代]]と呼ばれる。}})は、[[日本]]の第33代[[天皇]](在位:[[593年]][[1月15日]]〈[[崇峻天皇]]5年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。
日本史上最初の[[女性天皇|女帝]]とされる{{efn2|[[神功皇后]]を含まない。また、[[飯豊青皇女]]は[[執政]]したとして[[宮内庁]]では天皇と称される。}}。欽明天皇と[[蘇我堅塩媛]]の娘として生まれ、[[諱]]は'''額田部王'''(ぬかたべ)。和風諡号は'''豊御食炊屋姫尊'''(とよみけかしきやひめのみこと、『[[日本書紀]]』による。『古事記』では'''豊御食炊屋比売命'''という)である。'''炊屋姫尊'''とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に[[淡海三船]]によって名付けられたとされる{{efn2|『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。[[小治田宮]]は[[奈良県]][[高市郡]]。}}。
成長した後、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の[[敏達天皇]])の妻となった。敏達天皇の崩御後、同母兄の[[用明天皇]]が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた[[穴穂部皇子]]を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した[[物部守屋]]も滅ぼした。その後、[[蘇我馬子]]と共に泊瀬部皇子([[崇峻天皇]])を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。
彼女の治世は日本で本格的に[[仏教]]が興隆していく時代であり、初の[[遣隋使]](一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝のとの外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は[[厩戸皇子]]([[聖徳太子]]{{efn2|現代では、学校教科書を始め聖徳太子ではなく厩戸皇子という表記が一般的に用いられる傾向にある。これは聖徳太子が非常に伝説化された存在であることに注意を向けるためであるが、馬厩戸皇子あるいは厩戸王という名前も、同時代において使用されていたことが実証されている名前ではなく、伝説的な存在としての聖徳太子に対して、そのモデルになった史実上の人物を指すことを特に意図して使用される名前である<ref>[[#石井 2016|石井 2016]], pp. 3-7</ref>。}})を[[皇太子]]とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と[[山背大兄王]]が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に[[蘇我蝦夷]](蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した([[舒明天皇]]、629年)<ref name="義江2020">[[#義江 2020|義江 2020]]</ref>。
== 来歴 ==
=== 出自と背景 ===
[[画像:Emperor family tree26-37.png|thumb|right|150px|天皇系図 26~37代]]
後に推古天皇となる額田部(ぬかたべ)皇女(王)は[[欽明天皇]]と[[大臣 (古代日本)|大臣]]の[[蘇我稲目]]の娘、[[蘇我堅塩媛|堅塩媛]]との間に生まれた。彼女の系譜を伝えるのは『[[日本書紀]]』と『[[古事記]]』であり、『日本書紀』541年(欽明天皇2年)3月の立妃記事によれば堅塩媛は七男六女を産み、額田部王はその中で四番目の子であった<ref name="義江2020p2">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 2</ref>。兄弟の数と額田部王の出生順は『古事記』の系譜でも同様である<ref name="義江2020p4">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 4</ref>。第30代[[敏達天皇]]は異母兄で夫でもある。第31代[[用明天皇]]は同母兄、第32代[[崇峻天皇]]は異母弟、[[蘇我馬子]]は母方の叔父であった。
諱は額田部(ぬかたべ)である。6世紀後半から7世紀にかけて、天皇(大王)の子は男女の別なく「王(みこ)」と称されており、「皇子(みこ)」号が成立するのは[[天武天皇|天武]]朝(7世紀後半)においてである<ref name="乕尾1997p1367">[[#乕尾 1997|乕尾 1997]], p. 1367</ref><ref name="義江2020p6">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 6</ref>。『古事記』では古い記法が保存されており「額田部王」と記載されている<ref name="義江2020p6"/>。[[持統天皇|持統]]朝(7世紀末から8世紀初頭)には、「皇子(みこ)」「皇女(ひめみこ)」の書き分けが成立し、『日本書紀』では推古朝を含む過去の時代までこの書き分けを遡って適用しているため「額田部皇女」と書かれている<ref name="義江2020p6"/>。和風諡号は豊御食炊屋姫尊である{{efn2|とよみけかしきやひめのみこと、豊御食炊屋姫尊という表記は『[[日本書紀]]』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命。炊屋姫尊とも。}}。とも称される。現代の学者が推古天皇に言及する際には、利便性を重視して漢風諡号の「推古」を用いる場合や、「額田部<ref name="義江2020"/>」「額田部王<ref name="義江2020"/>」「額田部王女<ref name="倉本2015">[[#倉本 2015|倉本 2015]]</ref>」「豊御食炊屋姫<ref name="倉本2015"/>」「炊屋姫<ref name="坂本1979">[[#坂本 1979|坂本 1979]]</ref>」など、名前の取り扱いに関する方針や文脈によって様々に書かれる。
571年(欽明32年)、額田部は18歳で異母兄である敏達天皇の[[キサキ]]となった(この時点では敏達天皇の即位前である)<ref name="義江2020p21">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 21</ref>{{efn2|『日本書紀』敏達紀では、[[571年]](欽明天皇32年)に異母兄の渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、[[575年]](敏達天皇4年)11月の[[皇后]]の[[広姫]]の[[崩御]]を承け、[[576年]]4月23日(敏達天皇5年3月10日)、皇后に立てられた。「敏達14年8月乙酉朔己亥(『古事記』分注では「甲辰年四月六日崩」)」([[8月15日 (旧暦)|8月15日]])}}。『日本書紀』の記録では、575年(敏達4年)に[[息長真手王]]の娘[[広姫]]を皇后に立てたが、同年中に広姫が崩御し翌年に額田部が皇后となったとされる。ただし、日本において「皇后」という地位が確立されるのは7世紀末のことであり、実際には額田部が生きた時代に「皇后」や「夫人」といった天皇のキサキたちの序列が明確に存在していたわけではない<ref name="義江2020pp23_24">[[#義江 2020|義江 2020]], pp. 23-24</ref><ref name="吉村2020p119">[[#吉村 2020|吉村 2020]], p. 119</ref>。
『日本書紀』によれば、額田部は敏達天皇との間に[[菟道貝蛸皇女]]([[聖徳太子]]妃)・[[竹田皇子]]・[[小墾田皇女]]([[押坂彦人大兄皇子]]妃)・[[鸕鶿守皇女]]・[[尾張皇子]](聖徳太子妃の[[橘大郎女]]の父)・[[田眼皇女]](田村皇子(後の[[舒明天皇]])妃)・[[桜井弓張皇女]](押坂彦人大兄皇子の妃・[[来目皇子]]の妃)の2男5女を儲けた<ref name="義江2020pp23_24"/>{{efn2|『古事記』の記録では敏達天皇と額田部の間の子は次の8名である。静貝王(別名、貝蛸王)、竹田王(別名、小貝王)、小治田王(おはりだ)、葛城王、宇毛理王、小張王(おはり)、多米王、桜井玄王(さくらいのゆみはり)<ref name="義江2020pp23_24"/>。}}。
585年5月(『日本書紀』による。『古事記』では584年4月)に敏達天皇が崩御した。その直後から額田部や[[蘇我馬子]]、[[物部守屋]]などの間で激しい権力闘争が争われた<ref name="義江2020pp31_32_41">[[#義江 2020|義江 2020]], pp. 31-32, 41</ref>。蘇我馬子と物部守屋は敏達天皇の[[殯宮]]で執り行われた[[誄]]儀礼において互いの拙さを嘲笑い、対立姿勢を露わにした。この両者の対立は敏達朝期から[[仏教]]の受容への賛否と言う形で生じており、これは[[崇仏論争]]とも呼ばれる。両者の対立が崇仏を主題とし、仏教の支持者としての蘇我氏と[[仏敵]]としての物部氏の存在を強調する筋立てとなっているのは、この記録が「飛鳥寺系縁起」から来ているためで、実際には政治闘争が繰り広げられたものであるともいわれる<ref name="倉本2015p45">[[#倉本 2015|倉本 2015]], p. 45</ref><ref name="義江2020pp31_32_41"/>。
=== 即位 ===
敏達天皇の崩御から20日後、額田部の同母兄の橘豊日([[用明天皇]])が即位した。『日本書紀』「用明紀」は治世が短期間だったこともあり、その内容は「仏教関係記事がわずかに挟まる以外はほとんどが守屋討滅事件で占められ、全体が物部氏滅亡の物語といっても良い」(義江<ref name="義江2020p43">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 43</ref>)ものとなっている。
[[586年]](用明元年)夏5月、敏達天皇の[[殯|殯宮]]に異母弟の[[穴穂部皇子]]が皇后を「おか(姧)」そうとし、殯宮に入ろうとするという事件が発生した{{efn2|古代において天皇崩御後の誄の奏上は複数回にわたって行われていた<ref name="義江2020p51">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 51</ref>。}}。この時、敏達天皇の寵臣であった[[三輪逆]]は門を固めて穴穂部を入れず、穴穂部が7度に渡って門を開けるよう要求しても応じなかった。穴穂部は三輪逆が自分の入場を阻止したことは無礼であると怒り、蘇我馬子、物部守屋両名もこれに同意した<ref name="義江2020p50">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 50</ref>。その後、穴穂部は物部守屋と共に兵を率いて三輪逆を討伐すべく「磐余の池辺」を囲んだが、三輪逆はこれを察知して「後宮きさきの宮」(額田部の「別業(なりどころ)」の「海石榴市宮(つばきちのみや)」)に隠れた。しかし、同族によって密告され、三輪逆は最終的に穴穂部の命を受けた物部守屋によって殺害された<ref>『日本書紀』「用明紀」</ref><ref name="義江2020p50"/>。
用明天皇の治世は短く、587年5月21日{{efn2|用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)}}に病没した。死の床にあって用明天皇は仏法帰依の是非を群臣に問うたという。『日本書紀』では仏法を受け入れなかった敏達天皇に対して、初めて仏法への帰依を明言した天皇として用明天皇が位置づけられている<ref name="義江2020p57">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 57</ref>。用明天皇崩御の翌月、穴穂部と物部守屋が挙兵を企てたが、587年(用明2年)6月7日に額田部は即座に穴穂部および[[宅部皇子|宅部]]([[宣化天皇]]の皇子。穴穂部と親しかったとされる)の誅殺を命じる[[詔]]を出し、即座に両皇子は殺害された<ref name="義江2020p61">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 61</ref>。翌月、蘇我馬子は諸皇子と群臣を集めて物部守屋討伐を主張し、軍勢を集めて[[河内]]の物部守屋の本拠地を攻めた。物部守屋は射殺され、その配下は四散した<ref name="義江2020p62">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 62</ref>。
物部守屋討滅の翌月、額田部と群臣が泊瀬部皇子([[崇峻天皇]])に即位を勧め、即位の礼が執り行われた<ref name="崇峻紀">『日本書紀』「崇峻紀」</ref><ref name="義江2020p62">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 62</ref>。蘇我馬子を始め群臣の地位はそのまま維持された。しかし、5年後の592年(崇峻5年)、天皇が献上された[[イノシシ]]を指して「いつの日かこの頸を斬るように、自分がにくいと思うところの人を斬りたいものだ<ref>『日本書紀』「崇峻紀」、和訳は[[宇治谷孟]]訳に依った。</ref>」と述べたことを聞いた蘇我馬子は、崇峻天皇が自分を嫌っていると警戒し、11月3日{{efn2|癸卯朔乙巳(旧暦[[11月3日 (旧暦)|11月3日]])([[592年]]12月12日)}}に崇峻天皇を暗殺した<ref name="崇峻紀">『日本書紀』「崇峻紀」</ref><ref name="義江2020p68">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 68</ref>。
この結果空位となると、群臣は額田部に即位を勧めた。『日本書紀』「推古紀」の記載では、額田部は当初これを辞退し、3度請われて遂に豊浦宮において即位したとされる<ref name="推古紀">『日本書紀』「推古紀」</ref>。この時彼女は39歳であり、日本(倭国)史上初の女性の大王(女帝)となった<ref name="義江2020p70">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 70</ref>{{efn2|ただし、[[神功皇后]]と[[飯豊青皇女]]を歴代から除外した場合。}}。
=== 推古朝と蘇我氏・聖徳太子 ===
[[File:Empress Suiko painting.png|thumb|推古天皇の絵画]]
『日本書紀』によれば即位元年である593年5月15日(旧暦:[[4月10日 (旧暦)|4月10日]])に、甥の[[厩戸皇子]](聖徳太子)を[[皇太子]]として国政を委ねたという<ref name="推古紀"/>。実際には6世紀末当時、「皇太子」という地位・称号はまだ存在していなかったため<ref name="倉本2015p58">[[#倉本 2015|倉本 2015]], p. 58</ref>、『日本書紀』の厩戸皇子の立太子記事をどのように理解するかについては様々な議論がある{{efn2|[[荒木敏夫]]のまとめによれば、古代日本の皇太子をどのように理解するかについての先駆的な研究は[[本居宣長]]によるものである。宣長は『[[古事記伝]]』において日本の太子(ヒツギノミコ)は中国のそれとは異なり、複数存在していた例があることを指摘し、様々な要素を勘案しつつ天皇の「大御心」に適う者が太子となったと指摘した。20世紀前半には[[家永三郎]]の研究がその後の皇太子研究の基礎となったが、その中で家永は本居宣長の理解をヒツギノミコ理解も継承しつつ、日本における立太子の初例として聖徳太子(厩戸皇子)の立太子を位置づけ、また聖徳太子の摂政就任が、後世の[[摂関政治]]や[[大日本帝国憲法]]・[[皇室典範]]の規定するような法的根拠を持ったものではなく、太子が「万機を摂行する」というのが当時の「習俗」であり、摂政とは皇太子の地位が持つ属性の一つであったと論じた。[[第二次世界大戦]]後、[[井上光貞]]は中国の影響と皇室への権力集中の中で皇太子制度の前段階として古来の慣習法としての継承制度である[[大兄]]制を見出し、聖徳太子の立太子を次の天皇たる皇嗣であると同時に統治権の代行者でもあるという皇太子の観念の成立を示すものと見た<ref name="荒木1985pp1_19">[[#荒木 1985|荒木 1985]], pp. 1-19</ref>。[[直木孝次郎]]は「皇太子」と言う語が日本で成立したのは[[天武天皇|天武朝]]期の[[飛鳥浄御原令]](689年)であり、それに先行する制度としての「太子」制(厩戸皇子の立太子がその確実な初例とされる)を想定した<ref name="荒木1985p146">[[#荒木 1985|荒木 1985]], p. 146</ref>。荒木敏夫は、古代の日本において「王位」を巡る争いが頻発している一方で、太子(ヒツギノミコ)位を巡る争いが皆無であるなどの理由から、皇太子という地位自体が飛鳥浄御原令によって成立したのであり、それ以前の太子とは制度的に存在するものではなく、出自や実力を考慮しつつ究極的には人格によって体現されたものであるとして、厩戸皇子(を含む、律令制以前)の立太子の史実性に疑問を投げかけた<ref name="荒木1985pp129_172">[[#荒木 1985|荒木 1985]], pp. 129-172</ref>。}}。『日本書紀』によれば即位した推古天皇は太子とした厩戸皇子に国政を委ねたとされる<ref name="推古紀"/>。こうした古代の記録やその後の聖徳太子信仰の影響もあり。伝統的に推古朝の政策は「聖徳太子」が主導したと考えられてきたが、現在では伝説的な聖徳太子像の解体と合わせて、こうした見解には再検討が進められており、推古天皇自身の主体性や蘇我馬子の存在などが再評価されている<ref name="鈴木2018p62">[[#鈴木 2018|鈴木 2018]], p. 62</ref><ref name="石井2016pp32_33,97_108">[[#石井 2016|石井 2016]], pp. 32-33, 97-108</ref><ref name="義江2020p90">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 90</ref>。実際にはこの時期には推古天皇、蘇我馬子、厩戸皇子の3名が政権の中枢を構成したと考えられる<ref name="鈴木2018p63">[[#鈴木 2018|鈴木 2018]], p. 63</ref>。
推古朝では日本史上重要な様々な政策が行われた。その一つが仏教の振興である。589年(推古2年)、推古天皇は「三宝興隆」の詔を発した<ref name="推古紀"/>。三宝とは仏・法・僧を意味し、これは崇仏論争以来の仏教を巡る争いを終結させ、国家の方針として仏教を受容することを宣言するものと位置づけられる<ref name="鈴木2018p63"/>。三宝興隆は推古朝初期の基本方針であったと見られ、各氏族に大王のための造寺が要求された<ref name="義江2020p92">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 92</ref><ref name="鈴木2018p63"/>。仏教寺院の建立は単なる先進文化の受容というのみならず、王権に対する忠誠の証明でもあった<ref name="鈴木2018p63"/>。造寺活動を先導していたのは蘇我氏であり、蘇我馬子は既に崇588年(崇峻元年)には法興寺([[飛鳥寺]])の造営を開始していた。法興寺は596年(推古4年)に[[伽藍]]が完成し、推古14年(606年)または推古17年(609年)に釈迦如来像が安置された<ref name="鈴木2018p63"/>。
==== 遣隋使 ====
589年に[[隋]]が中国を統一し[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]が終了すると、[[百済]]、[[新羅]]が相次いで隋に遣使した。こうした国際情勢を受け、600年に倭国(日本)からも隋への遣使が行われた([[遣隋使]]<ref name="義江2020pp96_99">[[#義江 2020|義江 2020]], pp. 96-99</ref>)。これは倭国と中華王朝の通交としてはほぼ120年ぶりのものである。この遣隋使は倭国の風俗について説明した際に「此れ太だ義理なし」として[[煬帝]]から諭され、また服制の不備などもあり失敗に終わった。この時の遣使は『[[隋書]]』のみに記録されており『日本書紀』には残されていない。一般的に、失敗に終わったことが『日本書紀』に記載されていない理由であると考えられている<ref name="義江2020p99">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 99</ref><ref name="吉田1997pp87_89">[[#吉田 1997|吉田 1997]], pp. 87-89</ref><ref name="森2006p215">[[#森 2006|森 2006]], p. 215</ref>{{efn2|この600年の遣隋使は『隋書』記録が残されていることから、このため600年の遣隋使を[[大宰府|九州の出先機関]]からの非公式の使者と見るなど、その史実性を巡って議論があったが、今日では概ね実際に遣使があったと考えられている<ref name="義江2020p99"/><ref name="吉田1997p87">[[#吉田 1997|吉田 1997]], p. 87</ref>。}}。この失敗は倭国側に大きなカルチャーショックを与えたと見られ、恐らく遣隋使の帰国直後から様々な改革が行われた。603年には[[冠位十二階]]の制定{{efn2|冠は宮廷における地位の高低を明示する役割を持っていた<ref name="吉田1997p88">[[#吉田 1997|吉田 1997]], p. 88</ref>。}}、604年に宮門出入りの際の礼制と[[十七条憲法|憲法十七条]]の制定、605年には服制の整理が行われている<ref name="吉田1997pp87_89"/><ref name="義江2020pp100_103">[[#義江 2020|義江 2020]], pp. 100-103</ref>{{efn2|[[森公章]]は率直に「大恥をかいたことが、この遣使の『日本書紀』への不記載の理由であろう」とし<ref name="森2006p215"/>、[[吉田孝]]もまた「倭の使者は、どんなに恥ずかしい思いをしたことだろう。隋の広大な都、倭とは隔絶した文明を眼前にして、倭の使者の受けたカルチャーショックの大きさは、私たちの想像を絶するものがあったろう」と述べ、「推古朝の国制改革は、600年の遣隋使のカルチャーショックを、おそらくは起点としたのである」としている<ref name="吉田1997p89">[[#吉田 1997|吉田 1997]], p. 89</ref>}}。これによって外交儀礼を執り行うことが可能となり、また相手国の外交担当者が自国の官品制と互換可能な官位制度が整えられた<ref name="義江2020p104">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 104</ref>。一連の改革を経た[[607年]](推古15年)、制定された冠位十二階で五位にあたる[[大礼]]の地位を帯びた[[小野妹子]]を[[隋]]に派遣した。大礼は後の令制における[[正六位]]に相当する<ref name="義江2020p104">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 104</ref>。608年4月には帰国した小野妹子らと共に隋から派遣された答礼の使者[[裴世清]]が倭国を訪れ、一連の外交儀礼が実践されて小墾田宮で隋の国書が奉呈された<ref name="義江2020pp107_112">[[#義江 2020|義江 2020]], pp.
107-112</ref>。同年9月に再び小野妹子が遣隋使として派遣され、[[倭漢福因|倭漢直福因]]ら学生4名と[[旻|新漢人日文]]ら4名の学僧が随伴した<ref name="義江2020p122">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 122</ref>。これら随伴した留学生らはいずれも渡来系氏族出身で、仏法を修めることが彼らを派遣した主たる理由であった<ref name="義江2020p122"/>。遣隋使は以後も断続的に派遣されたが、618年には隋が滅亡したため614年の[[犬上御田鍬]]らの派遣が最後となった。隋に代わった[[唐]]への遣使([[遣唐使]])の派遣は推古天皇の崩御後しばらくの時間を経てから実施されることになる。
=== 国史の編纂と崩御 ===
『日本書紀』によれば[[620年]](推古28年)、聖徳太子と蘇我馬子は共に『[[天皇記]]』『[[国記]]』『[[臣連伴造国造百八十部并公民等本記]]』を編纂して献上したとされる<ref name="推古紀"/>。これらの歴史書は『日本書紀』以外に記載はなく、『日本書紀』内でもこの後に言及されるのは「[[皇極天皇|皇極紀]]」で[[乙巳の変]](645年)の際に焼失し『国記』の一部が火中から取り上げられたというものである<ref name="関根2020p63">[[#関根 2020|関根 2020]]</ref>。このため、その内容について判明していることは何もなく、推古朝における国史編纂の実態がどのようなものであったのか詳細はわかっていない<ref name="関根2020p63"/>。620年(推古28年)が[[欽明天皇]]の50年忌にあたることなどから、この国史編纂事業は世襲王権として欽明王系・蘇我氏の地位を確立し、欽明天皇を称揚する意図の中で行われたものであったとも考えられ、あるいは620年に編纂されたという年代設定自体が『日本書紀』編纂時のものである可能性もある<ref name="関根2020p63"/><ref name="義江2020p173">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 173</ref>。
その後、厩戸皇子が薨去した。『日本書紀』の記録では推古29年2月5日のことであるとされているが、[[法隆寺]]系の史料では皇子の死が推古30年2月22日{{efn2|622年4月8日}}であることを示しており、現代ではこちらが一般に採用されている<ref name="石井2016p201">[[#石井 2016|石井 2016]], p. 201</ref><ref name="義江2020p131">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 131</ref><ref name="倉本2015p72">[[#倉本 2015|倉本 2015]], p. 72</ref>。
624年(推古32年)、蘇我馬子は[[葛城県]](かづらきのあがた)は自らの本居(うぶすな)であるとして賜ることを願い出た。推古天皇は馬子に配慮しつつこれを退けたが、その際に自らについて「朕は蘇何より出たり」と述べており、推古天皇が蘇我氏に対して強い帰属意識、同族意識を持っていたことを示すものとして注目される<ref name="倉本2015pp58,74_75">[[#倉本 2015|倉本 2015]], pp. 58, 74-75</ref><ref name="義江2020p141">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 141</ref>。
そして626年6月19日(推古34年5月20日)、蘇我馬子も薨去した<ref name="倉本2015p75">[[#倉本 2015|倉本 2015]], p. 75</ref>。馬子は桃原墓(ももはらのはか)に葬られたと『日本書紀』は伝えるが、これは[[奈良県]][[明日香村]]の[[石舞台古墳]]であるとするのが通説である<ref name="倉本2015p77">[[#倉本 2015|倉本 2015]], p. 77</ref><ref name="義江2020p143">[[#義江 2020|義江 2020]], p. 143</ref>。同じく『日本書紀』によれば、その造営のために蘇我一族がことごとく集まって宿営していたという<ref name="舒明紀">『日本書紀』「舒明紀」</ref><ref name="倉本2015p78">[[#倉本 2015|倉本 2015]], p. 78</ref>。
628年4月15日(推古36年3月7日)、75歳で[[小墾田宮]]において崩御した。崩御前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫の田村皇子(のちの[[舒明天皇]])を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子の[[山背大兄王]]にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。
== 陵・霊廟 ==
[[File:Yamada Takatsuka Kofun, haisho-1.jpg|thumb|220px|right|{{center|推古天皇 [[山田高塚古墳|磯長山田陵]]・<br>[[山田高塚古墳|竹田皇子墓]]<br>([[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]])}}]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]]大字山田にある'''磯長山田陵'''(しながのやまだのみささぎ)に治定されている。子の[[竹田皇子]]との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は[[方墳|方丘]]。遺跡名は「[[山田高塚古墳]]」で、方墳または長方墳である。
『[[日本書紀]]』では推古天皇36年([[628年]])3月の崩御ののち、同年9月に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い{{Sfn|磯長山田陵(国史)}}。一方で『[[古事記]]』では、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い{{Sfn|磯長山田陵(国史)}}。『[[延喜式]]』[[諸陵式|諸陵寮]]では、推古天皇陵は遠陵の「磯長山田陵」として記載され、[[河内国]][[石川郡 (大阪府)|石川郡]]の所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする{{Sfn|磯長山田陵(国史)}}。『[[扶桑略記]]』では[[康平]]3年([[1060年]])に「推古天皇山陵」で盗掘があったという{{Sfn|磯長山田陵(国史)}}。その後、[[元禄]]の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している{{Sfn|磯長山田陵(国史)}}。なお、現陵近くの[[二子塚古墳 (大阪府太子町)|二子塚古墳]]を真陵に比定する説もあるほか、改葬前の陵(大野岡上)については[[植山古墳]]([[奈良県]][[橿原市]])に比定する説がある。
また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
== 在位年と西暦との対照表 ==
<div class="NavFrame" style="clear: both; border: 1px solid #999; margin: 0.5em auto;">
<div class="NavHead" style="background-color: #CCCCFF; font-size: 90%; border-left: 3em soli; text-align: center; font-weight: bold;">在位年と西暦との対照表
</div>
<div class="NavContent" style="padding: 1em 0 0 0; font-size: 90%; text-align: center;">
; 太字は『日本書紀』の[[太歳]]干支の年。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!推古天皇!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年!!7年!!8年!!9年!!10年
|-
|西暦||'''[[593年]]'''||[[594年]]||[[595年]]||[[596年]]||[[597年]]||[[598年]]||[[599年]]||[[600年]]||[[601年]]||[[602年]]
|-
|[[干支]]||'''[[癸丑]]'''||[[甲寅]]||[[乙卯]]||[[丙辰]]||[[丁巳]]||[[戊午]]||[[己未]]||[[庚申]]||[[辛酉]]||[[壬戌]]
|-
!推古天皇!!11年!!12年!!13年!!14年!!15年!!16年!!17年!!18年!!19年!!20年
|-
|西暦||[[603年]]||[[604年]]||[[605年]]||[[606年]]||[[607年]]||[[608年]]||[[609年]]||[[610年]]||[[611年]]||[[612年]]
|-
|[[干支]]||[[癸亥]]||[[甲子]]||[[乙丑]]||[[丙寅]]||[[丁卯]]||[[戊辰]]||[[己巳]]||[[庚午]]||[[辛未]]||[[壬申]]
|-
!推古天皇!!21年!!22年!!23年!!24年!!25年!!26年!!27年!!28年!!29年!!30年
|-
|西暦||[[613年]]||[[614年]]||[[615年]]||[[616年]]||[[617年]]||[[618年]]||[[619年]]||[[620年]]||[[621年]]||[[622年]]
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!推古天皇!!31年!!32年!!33年!!34年!!35年!!36年
|-
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== 系図 ==
{{皇室飛鳥時代}}
{{女性天皇系図}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=[[荒木敏夫]] |title=日本古代の皇太子 |date=1985-1 |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=978-4-642-02158-6|ref=荒木 1985}}
* {{Cite book |和書 |author=[[石井公成]] |title=聖徳太子 実像と伝説の間 |date=2016-1 |publisher=[[春秋社]] |isbn=978-4-393-13587-7|ref=石井 2016}}
* {{Cite book |和書 |author=[[倉本一宏]] |title=蘇我氏 -古代豪族の興亡 |date=2015-12 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-102353-7|ref=倉本 2015}}
* {{Cite book |和書|editor=|author=|year=|chapter=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}}
** {{Wikicite|reference=[[黛弘道]] 「推古天皇」|ref={{Harvid|推古天皇(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=石田茂輔 「磯長山田陵」(推古天皇項目内)|ref={{Harvid|磯長山田陵(国史)}}}}。
* {{Cite book |和書 |author=[[坂本太郎]] |title=聖徳太子 |date=1979-12 |publisher=[[吉川弘文館]]|series=人物叢書 |isbn=978-4-642-05001-2|ref=坂本 1979}}(1985年新装版)
* {{Cite book |和書 |author=[[鈴木正信]] |editor=[[佐藤信 (歴史学者)|佐藤信]] |title=古代史講義 |chapter=第3講 蘇我氏とヤマト王権 |series=ちくま新書 |date=2018-1 |publisher=[[ちくま書房]] |isbn=978-4-480-07117-0|ref=荒木 1985}}
* {{Cite book |和書 |author=関根淳|authorlink=関根淳 |title=六国史以前 日本書紀への道のり |series=歴史文化ライブラリー 502|date=2020-7 |publisher=吉川弘文館|isbn=978-4-642-08385-0|ref=関根 2020b}}
* {{Cite journal |和書 |author=[[乕尾達哉]] |date=1997-3 |title=古代参議制の研究 |journal= |publisher=[[京都大学]] |naid=110002369204 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110002369204 |accessdate=2019-9-8 |ref=乕尾 1997}}
* {{Cite book |和書 |author=[[森公章]] |title=東アジアの動乱と倭国 |series=戦争の日本史1|date=2006-12|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4-642-06311-1|ref=森 2006}}
* {{Cite book |和書 |author=[[義江明子]] |title=推古天皇 |date=2020-12 |publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4-623-09017-4|ref=義江 2020}}
* {{Cite book |和書 |author=[[吉田孝]] |title=日本の誕生 |series=[[岩波新書]] |date=1997-6|publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-430510-1|ref=吉田 1997}}
* {{Cite book |和書 |author=[[吉村武彦]] |title=新版 古代史の基礎知識 |series=角川選書 |date=2020-11 |publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-703672-7|ref=吉村 2020}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Empress Suiko}}
* [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/033/index.html 磯長山田陵] - 宮内庁
* {{Kotobank}}
{{歴代天皇一覧}}
{{歴代皇后一覧}}
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628年
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628年(628 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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628年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[戊子]]
* [[日本]]
** [[推古天皇]]36年
** [[皇紀]]1288年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[貞観 (唐)|貞観]]2年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[栄留王]]11年
** [[百済]]:[[武王 (百済)|武王]]29年
** [[新羅]]:(王)[[真平王]]50年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]45年
** [[檀紀]]2961年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=628|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 4月10日 ([[推古天皇]]36年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - 日本列島の東の太平洋上で[[皆既日食]]。『[[日本書紀]]』に書かれた初めての日食記録。
* 4月15日 (推古天皇36年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]])- 推古天皇、[[舒明天皇|田村皇子(後の舒明天皇)]]と[[山背大兄王]]に遺言して[[崩御]]。
* 9月 - 遺詔をめぐって群臣の争いが発生、田村皇子擁立派の[[蘇我蝦夷]]が、山背大兄王擁立派に回った一族の[[境部摩理勢|蘇我境部摩理勢]]を殺す。
* [[東京都]]最古の寺院[[浅草寺]]が創建される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:628年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月21日]](貞観2年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[高宗 (唐)|高宗]]、[[唐]]朝の第3代[[皇帝]](+ [[683年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:628年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月15日]](推古天皇36年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[推古天皇]]、第33代天皇(* [[554年]])
* [[統葉護可汗|統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)]]、[[西突厥]]の[[カガン|可汗]](* 生年不詳)
* [[境部摩理勢]]、[[飛鳥時代]]の[[豪族]]、[[蘇我馬子]]の弟(* 生年不詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|628}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:628年|*]]
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キックオフ
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キックオフ(英語:kick-off、Kickoff、kick off)とはサッカーやラグビー、アメリカンフットボールなどのフットボール系スポーツで、ゲームの開始やゴール、トライなどの得点後にボールを蹴り、試合開始あるいは試合再開となる事。サッカーでは、センターマークに置かれたボールを、相手コートに動かす。
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キックオフとはサッカーやラグビー、アメリカンフットボールなどのフットボール系スポーツで、ゲームの開始やゴール、トライなどの得点後にボールを蹴り、試合開始あるいは試合再開となる事。サッカーでは、センターマークに置かれたボールを、相手コートに動かす。 サッカーに関しては「キックオフ (サッカー)」を
アメリカンフットボールに関しては「アメリカンフットボール#フリーキック」を参照のこと。
|
'''キックオフ'''([[英語]]:kick-off、Kickoff、kick off)とは[[サッカー]]や[[ラグビーフットボール|ラグビー]]、[[アメリカンフットボール]]などのフットボール系スポーツで、ゲームの開始やゴール、トライなどの得点後にボールを蹴り、試合開始あるいは試合再開となる事。サッカーでは、センターマークに置かれたボールを、相手コートに動かす。
*サッカーに関しては「[[キックオフ (サッカー)]]」を
*アメリカンフットボールに関しては「[[アメリカンフットボール#フリーキック]]」を参照のこと。
== スポーツ以外の用法 ==
=== 技術 ===
* キックオフとは[[機関車]]が牽引する[[列車]]で、[[ブレーキ]]弁([[自弁]])を瞬間的にゆるめ込め位置に置いて、列車後部のブレーキ緩解を促す方法。
=== 漫画 ===
* [[キックオフ (漫画)]] - [[ちば拓]]の漫画作品。
=== 音楽 ===
* Kick off! - Coming Centuryの[[愛のMelody#収録曲|愛のMelody収録の楽曲]]。
* [[KICK OFF (森下由実子のアルバム)]] - 森下由実子のアルバム作品。
* [[KICK OFF (おニャン子クラブのアルバム)]] - おニャン子クラブの1stアルバム。
* Kick Off - [[渡辺美里]]の1986年の西武球場(現[[西武ドーム]])のライブタイトル。
* [[Kick Off!]] - サザンオールスターズのベスト・アルバム。
* [[キックオフ (佐藤ミキの曲)]] - [[佐藤ミキ]]の配信限定シングル。
=== 放送 ===
* [[SATURDAY KICK OFF!〜歌ってお出かけベスト30〜]] - かつてTOKYO FMで放送されていた生ワイド番組。
* [[KICK OFF (テレビ番組)]] - [[静岡第一テレビ]]で2014年3月30日まで放送されていたサッカー情報番組。『KICK OFF』の後に西暦年が入ったものが正式な番組タイトル。
* [[KICK OFF! (テレビ番組)]] - 2022年10月から放送されているサッカー番組。
=== その他 ===
* 新規[[プロジェクト]]の立ち上げの意。
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[[Category:ラグビーユニオン用語]]
[[Category:アメリカンフットボール用語]]
[[Category:英語の成句]]
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ロマニャーノ・セージア
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ロマニャーノ・セージア(伊: Romagnano Sesia)は、イタリア共和国ピエモンテ州ノヴァーラ県にある、人口約4,000人の基礎自治体(コムーネ)。
セージア川沿いに位置し、ワインで有名なゲンメやガッティナーラと隣接する。
隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のVCはヴェルチェッリ県所属を示す。
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ロマニャーノ・セージアは、イタリア共和国ピエモンテ州ノヴァーラ県にある、人口約4,000人の基礎自治体(コムーネ)。 セージア川沿いに位置し、ワインで有名なゲンメやガッティナーラと隣接する。
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{{コムーネ
|nomeComune_ja = ロマニャーノ・セージア
|nomeComune = Romagnano Sesia
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|altitudine = 268 (241 - 546) <ref name="istat2001">{{Cite web|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|url=http://dawinci.istat.it/daWinci/jsp/MD/dawinciMD.jsp?a1=m0GG0c0I0&a2=mG0Y8048f8&n=1UH90T07S25&v=1UH07B07R550000|title=Tavola: Popolazione residente - Novara (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.|language=イタリア語|accessdate=2018-01-03}}</ref>
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|anno = 2020-01-01
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|comuniLimitrofi = [[#隣接コムーネ]]参照
|cap = 28078
|prefisso = 0163
|istat = 003130
|fiscale = H502
|zonaSismica = 4
|nomeAbitanti = Romagnanesi
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|gradiGiorno = 2509
|sito = http://www.comune.romagnano-sesia.no.it/
|Mappa = Map of comune of Romagnano Sesia (province of Novara, region Piedmont, Italy).svg
|Didascalia mappa = ノヴァーラ県におけるコムーネの領域
{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|id=Q22593|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=250|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
}}
'''ロマニャーノ・セージア'''({{lang-it-short|'''Romagnano Sesia'''}})は、[[イタリア|イタリア共和国]][[ピエモンテ州]][[ノヴァーラ県]]にある、人口約4,000人の[[基礎自治体]]([[コムーネ]])。
[[セージア川]]沿いに位置し、[[ワイン]]で有名な[[ゲンメ]]や[[ガッティナーラ]]と隣接する。
== 地理 ==
{{Location map | Italy Piedmont
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| caption = ピエモンテ州における位置
}}
=== 位置・広がり ===
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*[[フォンタネート・ダゴーニャ]]
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*[[ゲンメ]]
*[[プラート・セージア]]
*[[セッラヴァッレ・セージア]] (VC)
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== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
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龍樹
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龍樹(りゅうじゅ、梵: नागार्जुन、Nāgārjuna、テルグ語: నాగార్జునుడు、チベット語: ཀླུ་སྒྲུབcode: bo is deprecated 、klu sgrub、タイ語: นาคารชุนะ)は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、蓮如以後の浄土真宗では八宗の祖師と称される。龍猛(りゅうみょう)とも呼ばれる。
鳩摩羅什訳『龍樹菩薩伝』によれば南インドのバラモンの家に生まれ、幼くしてヴェーダを諷んじてその意味を了得した。プトゥンの『仏教史』の伝えるところでは、南方のヴィダルバのバラモンの出身で、(中インドの)ナーランダ僧院でバラモンの学問を修めたのち出家したという。サータヴァーハナ朝の保護の下でセイロン、カシミール、ガンダーラ、中国などからの僧侶のために院を設けた。この地(古都ハイデラバードの東 70 km)は後にナーガールジュナ・コーンダ(丘)と呼ばれる。
哲学者の梅原猛は、龍樹は釈迦の仏教を否定し、大乗仏教を創始したとしている。一方、中村元は、大乗仏教は諸法の実相を説くことを標識とし、小乗仏教の三法印に対して大乗仏教は「実相印」を第四の印として挙げるとしているが、中村によれば龍樹は小乗の三法印のほかに別の法印をたてなかったという。
インド原典で伝わるナーガールジュナ伝が存在しないため史学的に厳密な生涯は不詳。鳩摩羅什訳と伝えられる『龍樹菩薩伝』の伝説は以下のとおりである。
天性の才能に恵まれていた龍樹はその学識をもって有名となった。龍樹は才能豊かな3人の友人を持っていたが、ある日互いに相談し学問の誉れは既に得たからこれからは快楽に尽くそうと決めた。彼らは術師から隠身の秘術を得、それを用い後宮にしばしば入り込んだ。100 日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた。この事態に驚愕した王臣たちは対策を練り砂を門に撒き、その足跡を頼りに彼らを追った衛士により3人の友人は切り殺されてしまった。しかし、王の影に身を潜めた龍樹だけは惨殺を免れ、その時、愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、もし宮廷から逃走することができたならば出家しようと決心した。
事実、逃走に成功した龍樹は山上の塔を訪ね受戒出家した。小乗の仏典をわずか 90 日で読破した龍樹は、更なる経典を求めヒマラヤ山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた。これを学んだ後、彼はインド中を遍歴し、仏教・非仏教の者達と対論しこれを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないところがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えた。
しかしマハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の龍宮に連れて行って諸々の大乗仏典を授けた。龍樹は 90 日かけてこれを読破し、深い意味を悟った。
龍樹は龍によって南インドへと返され、国王を教化するため自ら応募して将軍となり、瞬く間に軍隊を整備した。王は喜び「一体お前は何者なのか」と尋ねると、龍樹は「自分は全知者である」と答え、王はそれを証明させるため「今、神々は何をしているのか」と尋ねたところ、龍樹は神通力を以って神々と悪魔(阿修羅)の戦闘の様子を王に見せた。これにより王をはじめとして宮廷のバラモン達は仏教に帰依した。
そのころ1人のバラモンがいて、王の反対を押し切り龍樹と討論を開始した。バラモンは術により宮廷に大池を化作し、千葉の蓮華の上に座り、岸にいる龍樹を畜生のようだと罵った。それに対し龍樹は六牙の白象を化作し池に入り、鼻でバラモンを地上に投げ出し彼を屈服させた。
またその時、小乗の仏教者がいて、常に龍樹を憎んでいた。龍樹は彼に「お前は私が長生きするのはうれしくないだろう」と尋ねると、彼は「そのとおりだ」と答えた。龍樹はその後、静かな部屋に閉じこもり、何日たっても出てこないため、弟子が扉を破り部屋に入ると、彼はすでに息絶えていた。
龍樹の死後 100 年、南インドの人たちは廟を建て、龍樹を仏陀と同じように崇めていたという。
この「空」の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。なお、伝統的に龍樹の著作とされるもののうち、『中論(頌)』以外に近代仏教学において龍樹の真作であるとの見解の一致が得られている作品はない。
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している。)
さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証している。このことから、龍樹の「空」は「無自性空」とも呼ばれる。
この空の思想は、真理を
という二つの真理に分ける。言葉では表現できないこの世のありのままの姿は、第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは、世俗諦であるとするため、この説は二諦説と呼ばれる。
インドでは仏教の僧であるよりも錬金術師・占星術師として有名で著作伝説があるが、これはこの項で触れている龍樹よりもはるか後代に出現した同名の錬金術師と混同されているためである。
大正時代の河口慧海や寺本婉雅は、『八十四成就者伝』の龍樹伝が特異であることから、それに書かれた龍樹は、本来の龍樹の没後(寺本によると6世紀)の同名異人であるとした。この説では、本来の龍樹を「古龍樹 (Nāgārjuna I)」、『八十四成就者伝』の龍樹を「新龍樹 (Nāgārjuna II)」と呼び分ける。
河口は、密教経典のうち『無上瑜伽タントラ』(左道密教)が新龍樹の著作であるとしたが、これには、古龍樹の著に基づく真言密教の正当性を主張するという背景があった。
一方、寺本は、龍樹に帰せられていた密教経典の全てが新龍樹の著作であり、古龍樹は密教とは無関係であるとした。すなわち、古龍樹が中観の祖、新龍樹が密教の祖である。
この説に対し羽溪了諦は、2人の龍樹の伝記の骨子
は共通であることから、これらは同一人物の伝記であり、『八十四成就者伝』が異なる部分は密教の影響による潤色であるとした。また、栂尾祥雲は『八十四成就者伝』の史料的価値を否定した。
寺本は、新古2人の龍樹に加え、古龍樹の弟子の龍猛 (Nāgāhvaya) がいたとした。龍猛は浄土教の祖であり、『入楞伽経』に記された龍樹の授記は龍猛のものであるとした。
現在、龍猛が別人とされるときは、密教の業績が帰せられることが多い。この点では、寺本説の龍猛ではなくむしろ新龍樹に対応する(ただし龍猛と新龍樹は別の史料に基づく人物像である)。
中村元は、ナーガールジュナに帰せられる多数の著作が全て同一人によって書かれたかどうかは、大いに論議のあるところであるとしており、複数のナーガールジュナの存在も考えられるとしている。中村は、以下の6人のうちの5および6は、1とは大分色彩を異にしているので別人ではないかと思われると述べている。
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龍樹は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、蓮如以後の浄土真宗では八宗の祖師と称される。龍猛(りゅうみょう)とも呼ばれる。 真言宗では、龍猛が「付法の八祖」の第三祖とされた。龍樹が密教を説いたかどうかや、第五祖金剛智との時代の隔たりから、龍樹と龍猛の同一性を疑問視する意見もある。
浄土真宗では、七高僧の第一祖とされ龍樹菩薩、龍樹大士と尊称される。
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{{脚注の不足|date=2015年11月17日 (火) 07:15}}
{{Infobox Buddhist
|名前=龍樹(竜樹) ({{en|Nāgārjuna}})
|生没年=150 – 250 年頃
|尊称=龍樹菩薩・龍樹大士
|生地=[[インド]] 伝[[ヴィダルバ]]
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|説明文=頭上に[[ナーガ]]をいだく龍樹
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'''龍樹'''(りゅうじゅ、{{Lang-sa-short|नागार्जुन}}、{{ラテン翻字|sa|Nāgārjuna}}、{{Lang-te|నాగార్జునుడు}}、{{Lang-bo|ཀླུ་སྒྲུབ}}、{{ラテン翻字|bo|klu sgrub}}、{{Lang-th|นาคารชุนะ}})は、2世紀に生まれた[[インド]][[仏教]]の[[僧]]である。龍樹とは、[[サンスクリット]]の'''ナーガールジュナ'''{{efn|ナーガールジュナ…[[ナーガ]]は、蛇(蛇神転じて龍)、[[アルジュナ]]は[[インド神話]]の『[[マハーバーラタ]]』に登場する武将から(英雄の意味もある)。}}の漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。[[中観派]]の祖であり、[[蓮如]]以後の[[浄土真宗]]では[[八宗]]の[[祖師]]と称される。'''[[龍猛]]'''(りゅうみょう)とも呼ばれる。
* [[真言宗]]では、龍猛が「[[真言宗#真言八祖|付法の八祖]]」の第三祖とされた{{refnest|[https://kotobank.jp/word/%E4%BB%98%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%85%AB%E7%A5%96-620225 「ふほうのはっそ【付法の八祖】」 - 大辞林 第三版]}}<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%BE%8D%E6%A8%B9-149660 「龍樹」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>。龍樹が[[密教]]を説いたかどうかや、第五祖[[金剛智]]との時代の隔たりから、龍樹と龍猛の同一性を疑問視する意見もある{{refnest|name="小野塚幾澄_日本大百科全書"|[https://kotobank.jp/word/%E9%BE%8D%E7%8C%9B-149792 「龍猛」(小野塚幾澄) - 日本大百科全書(ニッポニカ)]}}{{efn|なお、[[不空]]訳の『三十七尊出生義』では龍樹は数百年生きたとされる{{refnest|name="小野塚幾澄_日本大百科全書"}}。}}。
* [[浄土真宗]]では、[[七高僧]]の第一祖とされ{{sfn|岩波仏教辞典 第二版||p=438}}{{sfn|真宗新辞典||p=213}}'''龍樹菩薩'''、'''龍樹大士'''と尊称{{sfn|真宗新辞典||pages=508-509}}される{{sfn|広説佛教語大辞典 縮刷版|2010|p=685}}<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2651_,83,0660a18:2651_,83,0660b21.html 大正新脩大藏經テキストデータベース『淨土高僧和讃』龍樹菩薩十首 (續諸宗部 Vol.83)]</ref>。
== 概要 ==
[[鳩摩羅什]]訳『龍樹菩薩伝』<ref>直勧; 吉迦夜; 曇曜; 鳩摩羅什; [[真諦]]; 道宣; 志磐; 師錬「淨土 2巻」『八祖列全傳記纂』、秋田屋平左衞門、1680年。{{ncid|BB20345210}}</ref><ref>鳩摩羅什; 真諦『龍樹菩薩傳.婆藪槃豆法師傳』、植村藤右衛門 : 井上忠兵衛、1763年、{{ncid|BB20589361}}。</ref><ref>鳩摩羅什; 真諦『馬鳴菩薩傳 ; 龍樹菩薩傳 ; 龍樹菩薩傳別本 ; 提婆菩薩傳 . 婆藪槃豆傳』、支那内學院、1932年、{{ncid|BA87507515}}</ref>によれば南インドの[[バラモン]]の家に生まれ、幼くして[[ヴェーダ]]を諷んじてその意味を了得した{{sfn|中村|2002|p=19}}。[[プトゥン]]の『仏教史』の伝えるところでは、南方の[[ヴィダルバ]]{{efn|ただし一説にこれは龍猛の出身地であり龍樹の出身地は不明{{sfn|寺本|1926|pages=117-124}}。}}のバラモンの出身で、(中インドの)[[ナーランダ僧院]]でバラモンの学問を修めたのち出家したという{{sfn|中村|2002|pp=33-34}}。[[サータヴァーハナ朝]]の保護の下で[[セイロン島|セイロン]]、[[カシミール]]、[[ガンダーラ]]、[[中国]]などからの僧侶のために院を設けた。この地(古都[[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]の東 70 km)は後にナーガールジュナ・コーンダ(丘)と呼ばれる。
[[哲学者]]の[[梅原猛]]は、龍樹は釈迦の仏教を否定し、大乗仏教を創始したとしている{{sfn|梅原|2006|pages=196-197}}。一方、[[中村元 (哲学者)|中村元]]は、大乗仏教は[[諸法実相|諸法の実相]]を説くことを標識とし、[[小乗|小乗仏教]]の[[三法印]]に対して大乗仏教は「実相印」を第四の[[法印|印]]として挙げるとしているが{{sfn|広説佛教語大辞典|2001|p=701}}、中村によれば龍樹は小乗の三法印のほかに別の法印をたてなかったという{{refnest|「諸法實相印」 {{sfn|広説佛教語大辞典|2001|p=927}}}}。
== 生涯 ==
インド原典で伝わるナーガールジュナ伝が存在しないため史学的に厳密な生涯は不詳。[[鳩摩羅什]]訳と伝えられる『龍樹菩薩伝』の伝説は以下のとおりである。
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天性の才能に恵まれていた龍樹はその学識をもって有名となった。龍樹は才能豊かな3人の友人を持っていたが、ある日互いに相談し学問の誉れは既に得たからこれからは快楽に尽くそうと決めた。彼らは術師から隠身の秘術を得、それを用い[[後宮]]にしばしば入り込んだ。100 日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた。この事態に驚愕した王臣たちは対策を練り砂を門に撒き、その足跡を頼りに彼らを追った衛士により3人の友人は切り殺されてしまった。しかし、王の影に身を潜めた龍樹だけは惨殺を免れ、その時、愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、もし宮廷から逃走することができたならば[[出家]]しようと決心した。
事実、逃走に成功した龍樹は山上の塔を訪ね受戒出家した。[[小乗]]の仏典をわずか 90 日で読破した龍樹は、更なる経典を求め[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた。これを学んだ後、彼はインド中を遍歴し、仏教・非仏教の者達と対論しこれを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないところがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えた。
しかしマハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の[[龍宮]]に連れて行って諸々の大乗仏典を授けた。龍樹は 90 日かけてこれを読破し、深い意味を悟った。
龍樹は龍によって南インドへと返され、国王を教化するため自ら応募して将軍となり、瞬く間に軍隊を整備した。王は喜び「一体お前は何者なのか」と尋ねると、龍樹は「自分は全知者である」と答え、王はそれを証明させるため「今、神々は何をしているのか」と尋ねたところ、龍樹は神通力を以って神々と[[悪魔]]([[阿修羅]])の戦闘の様子を王に見せた。これにより王をはじめとして宮廷のバラモン達は仏教に帰依した。
そのころ1人のバラモンがいて、王の反対を押し切り龍樹と討論を開始した。バラモンは術により宮廷に大池を化作し、千葉の[[蓮華]]の上に座り、岸にいる龍樹を畜生のようだと罵った。それに対し龍樹は六牙の[[白象 (動物)|白象]]を化作し池に入り、鼻でバラモンを地上に投げ出し彼を屈服させた。
またその時、小乗の仏教者がいて、常に龍樹を憎んでいた。龍樹は彼に「お前は私が長生きするのはうれしくないだろう」と尋ねると、彼は「そのとおりだ」と答えた。龍樹はその後、静かな部屋に閉じこもり、何日たっても出てこないため、弟子が扉を破り部屋に入ると、彼はすでに息絶えていた。
龍樹の死後 100 年、南インドの人たちは廟を建て、龍樹を仏陀と同じように崇めていたという。
}}
== 龍樹の空理論 ==
[[画像:Nagarjuna with 84 mahasiddha.jpg|サムネイル|中央の大きな人物が龍樹]]
[[画像:Nagarjuna_at_Samye_Ling_Monastery.JPG|サムネイル|龍樹の黄金像]]
この「空」の理論の大成は、龍樹の『[[中論]]』などの著作によって果たされた。なお、伝統的に龍樹の著作とされるもののうち、『中論(頌)』以外に近代仏教学において龍樹の真作であるとの見解の一致が得られている作品はない。
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を[[釈迦]]は「[[縁起]]」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している。)
さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=[[自性]])はないことを明かしている。これによって、すべての存在は[[無自性]]であり、「[[空 (仏教)|空]]」であると論証している。このことから、龍樹の「空」は「無自性空」とも呼ばれる。
この空の思想は、真理を
#概念を離れた真実の世界([[勝義諦|第一義諦]]、{{ラテン翻字|sa|paramārtha satya}})と、
#言語や概念によって認識された仮定の世界([[世俗諦]] 、{{ラテン翻字|sa|saṃvṛti-satya}})
という二つの真理に分ける。言葉では表現できないこの世のありのままの姿は、第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは、世俗諦であるとするため、この説は[[二諦]]説と呼ばれる。
==人物同一性==
=== 錬金術師===
インドでは仏教の僧であるよりも[[錬金術]]師・[[占星術]]師として有名で著作伝説があるが、これはこの項で触れている龍樹よりもはるか後代に出現した同名の錬金術師と混同されているためである。
*『ラサ゠ウパニシャッド』 - ナーガールジュナ作の錬金術の方法が記述されている。
*『ラサ・ラトナーカラ』、玄奘『[[大唐西域記]]』 - ナーガールジュナとサーリヴァハーナ王(引正王)の対話(不老長寿の霊薬など)。
*『ラサラトナ゠サムッチャヤ』(水銀の宝の集成) - [[水銀]]学の27人の学者のなかでナーガールジュナをあげる。
=== 密教の祖 ===
==== 新龍樹 ====
[[大正]]時代の[[河口慧海]]や[[寺本婉雅]]は、『[[八十四成就者伝]]』の龍樹伝が特異であることから、それに書かれた龍樹は、本来の龍樹の没後(寺本によると6世紀)の同名異人であるとした。この説では、本来の龍樹を「古龍樹 ({{ラテン翻字|sa|Nāgārjuna I}})」、『八十四成就者伝』の龍樹を「新龍樹 ({{ラテン翻字|sa|Nāgārjuna II}})」と呼び分ける。
河口は、密教経典のうち『[[無上瑜伽タントラ]]』(左道密教)が新龍樹の著作であるとしたが、これには、古龍樹の著に基づく真言密教の正当性を主張するという背景があった。
一方、寺本は、龍樹に帰せられていた密教経典の全てが新龍樹の著作であり、古龍樹は密教とは無関係であるとした。すなわち、古龍樹が中観の祖、新龍樹が密教の祖である{{sfn|寺本|1926|pages=1–5}}。
この説に対し[[羽溪了諦]]は、2人の龍樹の伝記の骨子
* [[南インド]]の[[バラモン]]出身
* [[ナーランダ僧院|ナーランダー]]で出家
* 南インド王に[[長生薬]]を授けた
* 弟子に[[龍智]]
は共通であることから、これらは同一人物の伝記であり、『八十四成就者伝』が異なる部分は密教の影響による潤色であるとした。また、[[栂尾祥雲]]は『八十四成就者伝』の史料的価値を否定した。
==== 龍猛 ====
寺本は、新古2人の龍樹に加え、古龍樹の弟子の龍猛 ({{ラテン翻字|sa|Nāgāhvaya}}) がいたとした。龍猛は[[浄土教]]の祖であり、『[[入楞伽経]]』に記された龍樹の[[授記]]は龍猛のものであるとした{{sfn|寺本|1926|pages=1–5}}。
現在、龍猛が別人とされるときは、密教の業績が帰せられることが多い。この点では、寺本説の龍猛ではなくむしろ新龍樹に対応する(ただし龍猛と新龍樹は別の史料に基づく人物像である)。
=== 中村元による分類 ===
[[中村元 (哲学者)|中村元]]は、ナーガールジュナに帰せられる多数の著作が全て同一人によって書かれたかどうかは、大いに論議のあるところであるとしており、複数のナーガールジュナの存在も考えられるとしている{{sfn|中村元|2005|pages=52-53}}。中村は、以下の6人のうちの5および6は、1とは大分色彩を異にしているので別人ではないかと思われると述べている{{sfn|中村元|2005|pages=52-53}}。
# 『[[中論]]』などの[[空_(仏教)|空]]思想を展開させた著者
# 仏教百科事典と呼ぶにふさわしい『[[大智度論]]』の著者
# 『[[華厳経]]』十地品の註釈書『[[十住毘婆沙論]]』の著者
# 現実的問題を扱った『[[宝行王正論]]』などの著者
# [[真言密教]]の学者としてのナーガールジュナ
# 化学(錬金術)の学者としてのナーガールジュナ
== 著作 ==
{{Wikisource|十住毘婆沙論|『十住毘婆沙論』}}
{{Wikisource|易行品|『十住毘婆沙論』「易行品」}}
* [[中論]] ({{ラテン翻字|sa|Mādhyamaka Kārikā}}) うち「頌」 - [[説一切有部]]を代表とする実在論を否定し、世俗においては、すべてのものは実体として認識することはできず、単に言葉によって施説されたものであると説く(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」)。勝義においては、それらすべての言語活動すら止滅する(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」において、その全ての否定)。この主張を受け継いだのが[[中観派]]である。
* [[廻諍論]](えじょうろん、{{ラテン翻字|sa|Vigrahavyāvartanī}})
* [[空七十論]] ({{ラテン翻字|sa|Śūnyatāsaptati}})
* ヴァイダリヤ・スートラ ({{ラテン翻字|sa|Vaidalya-sūtra}})
** [[ヴァイダリヤ論]] ({{ラテン翻字|sa|Vaidalya-prakaraṇa}}) - 「ヴァイダリヤ・スートラ」に対する自注。
* [[十二門論]] - 真偽問題が未解決。
* [[大智度論]] - 真偽問題が未解決。『[[般若経|二万五千頌般若経]]』系統の般若経典に対する百巻に及ぶ注釈書である。
* [[十住毘婆沙論]] - 真偽問題が未解決。大乗菩薩の階位について論述している。なおこれに含まれる「易行品」は、浄土真宗において称名による住不退転の根拠とされ、聖典とされている。
* [[宝行王正論]] ({{ラテン翻字|sa|Ratnāvalī}})
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!--当記事の出典として用いた資料の書誌情報を記す際は、「関連文献」節ではなくココに記してください。 -->
*{{cite book|和書|author=寺本婉雅|authorlink=寺本婉雅 |date=1926||title=新竜樹伝の研究 ; On the history of Nagarjuna II.|chapter=(九)古龍樹の出生地 |pages=117-124|publisher=内外出版|ref={{sfnref|寺本|1926}}}}<!-- <ref name=Teramoto9> -->
*{{cite book|和書|author=中村元|authorlink=中村元 (哲学者)|title=広説佛教語大辞典|number=中巻|publisher=東京書籍|date=2001年6月|chapter=實相|ref={{sfnref|広説佛教語大辞典|2001}}|page=701}}
**改訂版 {{Cite book|和書|author=中村 元|title=広説佛教語大辞典|edition=縮刷版|year=2010|month=7|publisher=[[東京書籍]]|isbn=978-4-487-73174-9}}
*{{Cite book|和書|author=中村元|date=2002-06-10|title=龍樹|series=[[講談社学術文庫]]1548|publisher=講談社|isbn=4-06-159548-2|ref={{Harvid|中村|2002}}}}
*{{Cite book|和書|editor=中村元ほか|year=2002|month=10|title=岩波仏教辞典 |edition=第二版|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-080205-4}}
== 関連文献 ==
<!--当記事の出典として用いた資料の書誌情報を記す際は、ココではなく「参考文献」の節に記してください。 -->
<!--著作者名の50音順-->
*{{Cite book|和書|author=石飛道子|authorlink=石飛道子|year=2007|month=10|title=ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道|publisher=[[サンガ (出版社)|サンガ]]|isbn=978-4-901679-52-7|ref={{Harvid|石飛|2007}}}}(新装版 2010 ISBN 978-4-904507-54-4、文庫版 2012 ISBN 978-4-905425-32-8)
*{{Cite book|和書|author=瓜生津隆真|authorlink=瓜生津隆真|year=2004|month=10|title=龍樹(ナーガールジュナ) 空の論理と菩薩の道|publisher=[[大法輪閣]]|isbn=4-8046-1212-2|ref={{Harvid|瓜生|2004}}}}
*{{Cite book|和書|author=立川武蔵|authorlink=立川武蔵|year=1986|month=11|title=「空」の構造 『中論』の論理|series=[[レグルス文庫]]169|publisher=[[第三文明社]]|isbn=4-476-01169-1|ref={{Harvid|立川|1986}}}}
*{{Cite book|和書|author=龍樹|others=[[梶山雄一]]・瓜生津隆真 訳注|year=1974|month=1|title=龍樹論集|series=大乗仏典14|edition=新訂版|publisher=[[中央公論社]]|isbn=4-12-401924-6|ref={{Harvid|龍樹|梶山|瓜生|1974}}}}(文庫版 2004 {{ISBN2|978-4-12-204437-1}}) - 収録:「中論」以外の「六十頌如理論」・「空七十論」・「廻諍論」・「ヴァイダルヤ論」・「宝行王正論」・「勧誡王頌」・「大乗二十頌論」・「因縁心論」8編を収録。
*{{Cite book|和書|author=龍樹|others=[[三枝充悳]] 訳注|date=1984-03-15|title=中論 縁起・空・中の思想|series=レグルス文庫158~160|volume=上|publisher=[[第三文明社]]|isbn=978-4-476-01158-6|ref={{Harvid|龍樹|三枝|1984}}}}
** {{ISBN2|978-4-476-01159-3}}(中)
** {{ISBN2|978-4-476-01160-9}}(下)
*{{Cite book|和書|author=三枝充悳|year=1985|month=12|title=中論[[偈頌]]総覧(ちゅうろん げじゅ そうらん)|publisher=第三文明社|isbn=4-476-09011-7|ref={{Harvid|三枝|1985}}}}
*{{Cite book|和書|author=三枝充悳|year=1997|month=3|title=龍樹・親鸞ノート|edition=増補新版|publisher=[[法蔵館]]|isbn=978-4-8318-7147-3|ref={{Harvid|三枝|1997}}}}
*{{Cite book|author=Nagarjuna|others=[[:en:Jay L. Garfield|Garfield, Jay L.]]|year=1995|title=The fundamental wisdom of the middle way: Nagarjuna's Mulamadhyamakakarika|publisher=Oxford University Press|isbn=0-19-509336-4 }} - チベット語訳からの英訳。
*{{Cite book|author=Nagarjuna|others=[[西嶋和夫|Gudo Wafu Nishijima]], {{仮リンク|ブラッド・ワーナー|en|Brad Warner}}|year=2011|title=The fundamental wisdom of the middle way: Nagarjuna's Mulamadhyamakakarika|edition=Paperback|publisher=Monkfish Book Publishing|isbn=978-0-9833589-0-9}} - [[道元]]の思想に基づいて解釈した[[禅僧]][[愚道和夫]]による新訳。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nagarjuna}}
{{Portal 仏教}}
*[[中観派]]
*[[中観部 (大正蔵)]]
*[[論集部 (大正蔵)]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kosaiji.org/Buddhism/chugan.htm 龍樹(広済寺のホームページ)]
* [https://1000ya.isis.ne.jp/0846.html 松岡正剛 千夜千冊(「空の思想史」立川武蔵)]
* {{IEP|nagarjun|Nagarjuna}}
* {{SEP|nagarjuna|Nāgārjuna}}
* {{Kotobank}}
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徳川家光
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徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。
15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。
慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれる。母は太閤豊臣秀吉の養女・達子(浅井長政の三女)。徳川家の世継であった父・秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世していた為、世子として扱われ、祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓が付けられる。
慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となる。幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟・国松(後の忠長)が誕生する。竹千代と国松の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、竹千代の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。
元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年(1617年)には西の丸へ移り、元和4年(1618年)には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康の死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。「家光」の諱は金地院崇伝が選定した。崇伝の記した『本光国師日記』には、当初は「家忠」を勘案したが、平安時代の公卿の左大臣藤原家忠の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとある。「家」は明らかに家康の「家」で、以後の徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱に使用する通字となった。元和8年(1622年)、鎧着初(具足始め)が行われ、具足親は加藤嘉明が務めた。
元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられる。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下 を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。
秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。家光は将軍になるや守役の青山忠俊を老中から罷免して、寛永2年(1625年)には改易に処した(忠俊の子の青山宗俊が後に旗本を経て大名に復帰)。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために再び上洛するが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣および左近衛大将に昇格した。
寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手しつつ、全国に巡見使を派遣して各地の情勢を監察させた。全国規模での巡見使の派遣は家光が初である。同年5月には外様大名を招集し、藩内の内訌などを理由に、肥後熊本藩主・加藤忠広の改易を命じている。寛永10年(1633年)福岡藩における栗山大膳事件(黒田騒動)では自ら裁定を下して藩主黒田忠之の主張を認め、寛永12年(1635年)対馬藩における柳川一件でも藩主宗義成の主張を認めた。幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。同年9月には外祖父の浅井長政に権中納言を贈官した。 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。
対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していった。親政が始まった後、長崎奉行の竹中重義に改易と切腹を命じ、新しい長崎奉行を旗本2人から任命して、同時に寛永10年(1633年)から寛永13年(1636年)にかけて、長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(鎖国令)を発布した。寛永12年(1635年)の長崎奉行への職務規定(第三次鎖国令)では、日本人の東南アジア方面との往来が禁止されることになり、宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えた。同時に、朱印船の役割は外国人(オランダ人・ポルトガル人・中国人)が代行することになり、また、寛永12年(1635年)に九州各地の中国人は長崎のみに集住させられ、ポルトガル人は寛永13年(1636年)長崎の出島に隔離された。寛永14年(1637年)に起きた島原の乱を鎮圧した後、ポルトガルとの断交を決意し、寛永16年(1639年)に、オランダ商館長のフランソワ・カロンを通して、台湾経由でも中国産の生糸を確保できることを確認、そして、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた命令(第五次鎖国令)を発布した。寛永18年(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた(ただし、「鎖国」という概念や言葉が生まれるのは19世紀になってからである)。
これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。前述のように長崎奉行(竹中重義)に切腹を命じたのも、島原の乱の責任を問うとして大名(松倉勝家)を切腹ではなく斬首に処したのも江戸時代で唯一の処置であり、改易でも50万石以上の大名(徳川忠長・加藤忠広)を改易に処した将軍は家光が最後であった。
寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(後の4代将軍・家綱)が生まれた。寛永11年(1634年)に家光は30万の大軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による院政を認めて紫衣事件以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図った。
ところが幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。更に正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた。正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した。
慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去する。享年48・満46歳没。
家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次、内田正信らが殉死している。遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。
※日付=旧暦
第108代後水尾天皇の中宮として、家光の同母妹である和子(東福門院)が入内した。家光は和子の息子(家光の甥)の高仁親王の立太子および即位を望んだが、親王はわずか3歳で夭折してしまう。そこで、和子の娘である女一宮興子内親王が第109代明正天皇として即位した。このことにより徳川家は皇室の外戚となり宮中にも強い影響力を持つようになった。
また、摂関家の九条道房に鶴姫(実際には姪)を、一条教輔に通姫を、それぞれ養女として嫁がせる等して朝廷内における権力の基盤も固めた。
なお二条康道と九条道房兄弟は、ともに母が家光の異父姉豊臣完子であるため、家光の甥にあたる。
秀忠の死後、前代からの年寄(老中)である土井利勝、酒井忠勝、酒井忠世が引き続き年寄となったが、家光はそれまで年寄一人ができたことも、年寄3人での合議がなければ将軍への披露を認めないことにした。そのため政務は渋滞を来たし、諸大名が幕府にちょっとした進物を出すこともままならなくなった。寛永16年(1634年)には制度を改め、年寄3人の担当を月番制とし、六人衆(若年寄の前身)をその補佐として置いた。当初はこの制度は円滑に動いていたが、後に年寄達が案件を翌月に先送りするようになり、さらに渋滞を招いた。
その後、六人衆から松平信綱や阿部忠秋らが老中となり、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみ扱う大老となった。また、目付と大目付を設置し、年寄達を通さずに直接将軍が情報を掌握できるようにするなど、幕府の諸役職は家光の時期に定まっている。
『当代記』には出生時に10ヶ月に満たないが安産とあり、早産だった。
家光は病気になると布団を5、6枚かぶり、厚着をして寝るという養生法を行なっていたため、かえって病気が悪化することもあった。医師たちが意見をすると激しく怒り、処罰する寸前に至ることもあった。山本博文は精神の重圧が招いた不安神経症ではないかと推測している。
寛永5年(1628年)には瘧(マラリア)を発病し、その快復直後、6月に脚気を発病した。この後毎年春から秋にかけて脚気に頻繁に悩まされるようになる。死去する慶安4年(1651年)の1月には胸が圧迫されるとの症状を訴えており、脚気衝心とみられる。
慶安4年(1651年)4月19日、家光は献上品の茶碗を見ていたところ、突然震えが止まらなくなり、そのまま倒れた。そして意識が戻ることがないまま、翌4月20日にそのまま薨去した。死の直前より歩行障害も生じていたと言われることから、死因は脳卒中だったと考えられている。
成人した3人の男子のうち、長男・家綱が次の4代将軍となり、三男・綱重は甲府藩主、四男・綱吉は館林藩主にそれぞれ封じられてこれを御両典(ごりょうてん)といった。御両典はともに25万石を領し、正三位参議で、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ高い家格を持ったが、藩主は江戸定府で、綱重は桜田御殿に、綱吉は神田御殿に、また綱重の子・綱豊は御浜御殿に居住した。御両典を定府としたのは、家綱に対する控えの存在としての意味合いを含むものだったと考えられるが、実際その家綱が子をなさずに死ぬと、綱重は早世していたので、5代将軍となったのは綱吉だった。そしてその綱吉も男子なく死ぬと、6代将軍となったのは綱重の子である綱豊(徳川家宣)だった。
(*[ ]内は初名または別名。)
※寛永15年(1638年)・家光体制成立時
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"text": "徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。",
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"text": "15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。",
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"text": "慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれる。母は太閤豊臣秀吉の養女・達子(浅井長政の三女)。徳川家の世継であった父・秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世していた為、世子として扱われ、祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓が付けられる。",
"title": "生涯"
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"text": "慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となる。幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟・国松(後の忠長)が誕生する。竹千代と国松の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、竹千代の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。",
"title": "生涯"
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"text": "元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年(1617年)には西の丸へ移り、元和4年(1618年)には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康の死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。「家光」の諱は金地院崇伝が選定した。崇伝の記した『本光国師日記』には、当初は「家忠」を勘案したが、平安時代の公卿の左大臣藤原家忠の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとある。「家」は明らかに家康の「家」で、以後の徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱に使用する通字となった。元和8年(1622年)、鎧着初(具足始め)が行われ、具足親は加藤嘉明が務めた。",
"title": "生涯"
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"text": "元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられる。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下 を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。",
"title": "生涯"
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"text": "秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。家光は将軍になるや守役の青山忠俊を老中から罷免して、寛永2年(1625年)には改易に処した(忠俊の子の青山宗俊が後に旗本を経て大名に復帰)。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために再び上洛するが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣および左近衛大将に昇格した。",
"title": "生涯"
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"text": "寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手しつつ、全国に巡見使を派遣して各地の情勢を監察させた。全国規模での巡見使の派遣は家光が初である。同年5月には外様大名を招集し、藩内の内訌などを理由に、肥後熊本藩主・加藤忠広の改易を命じている。寛永10年(1633年)福岡藩における栗山大膳事件(黒田騒動)では自ら裁定を下して藩主黒田忠之の主張を認め、寛永12年(1635年)対馬藩における柳川一件でも藩主宗義成の主張を認めた。幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。同年9月には外祖父の浅井長政に権中納言を贈官した。 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。",
"title": "生涯"
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"text": "対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していった。親政が始まった後、長崎奉行の竹中重義に改易と切腹を命じ、新しい長崎奉行を旗本2人から任命して、同時に寛永10年(1633年)から寛永13年(1636年)にかけて、長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(鎖国令)を発布した。寛永12年(1635年)の長崎奉行への職務規定(第三次鎖国令)では、日本人の東南アジア方面との往来が禁止されることになり、宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えた。同時に、朱印船の役割は外国人(オランダ人・ポルトガル人・中国人)が代行することになり、また、寛永12年(1635年)に九州各地の中国人は長崎のみに集住させられ、ポルトガル人は寛永13年(1636年)長崎の出島に隔離された。寛永14年(1637年)に起きた島原の乱を鎮圧した後、ポルトガルとの断交を決意し、寛永16年(1639年)に、オランダ商館長のフランソワ・カロンを通して、台湾経由でも中国産の生糸を確保できることを確認、そして、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた命令(第五次鎖国令)を発布した。寛永18年(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた(ただし、「鎖国」という概念や言葉が生まれるのは19世紀になってからである)。",
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"text": "これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。前述のように長崎奉行(竹中重義)に切腹を命じたのも、島原の乱の責任を問うとして大名(松倉勝家)を切腹ではなく斬首に処したのも江戸時代で唯一の処置であり、改易でも50万石以上の大名(徳川忠長・加藤忠広)を改易に処した将軍は家光が最後であった。",
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"text": "寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(後の4代将軍・家綱)が生まれた。寛永11年(1634年)に家光は30万の大軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による院政を認めて紫衣事件以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図った。",
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"text": "ところが幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。更に正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた。正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した。",
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"text": "慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去する。享年48・満46歳没。",
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"text": "家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次、内田正信らが殉死している。遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。",
"title": "生涯"
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"text": "※日付=旧暦",
"title": "官歴"
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"text": "第108代後水尾天皇の中宮として、家光の同母妹である和子(東福門院)が入内した。家光は和子の息子(家光の甥)の高仁親王の立太子および即位を望んだが、親王はわずか3歳で夭折してしまう。そこで、和子の娘である女一宮興子内親王が第109代明正天皇として即位した。このことにより徳川家は皇室の外戚となり宮中にも強い影響力を持つようになった。",
"title": "宮中への関与"
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"text": "また、摂関家の九条道房に鶴姫(実際には姪)を、一条教輔に通姫を、それぞれ養女として嫁がせる等して朝廷内における権力の基盤も固めた。",
"title": "宮中への関与"
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"text": "なお二条康道と九条道房兄弟は、ともに母が家光の異父姉豊臣完子であるため、家光の甥にあたる。",
"title": "宮中への関与"
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"text": "秀忠の死後、前代からの年寄(老中)である土井利勝、酒井忠勝、酒井忠世が引き続き年寄となったが、家光はそれまで年寄一人ができたことも、年寄3人での合議がなければ将軍への披露を認めないことにした。そのため政務は渋滞を来たし、諸大名が幕府にちょっとした進物を出すこともままならなくなった。寛永16年(1634年)には制度を改め、年寄3人の担当を月番制とし、六人衆(若年寄の前身)をその補佐として置いた。当初はこの制度は円滑に動いていたが、後に年寄達が案件を翌月に先送りするようになり、さらに渋滞を招いた。",
"title": "政治体制"
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"text": "その後、六人衆から松平信綱や阿部忠秋らが老中となり、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみ扱う大老となった。また、目付と大目付を設置し、年寄達を通さずに直接将軍が情報を掌握できるようにするなど、幕府の諸役職は家光の時期に定まっている。",
"title": "政治体制"
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"text": "『当代記』には出生時に10ヶ月に満たないが安産とあり、早産だった。",
"title": "人物"
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"text": "家光は病気になると布団を5、6枚かぶり、厚着をして寝るという養生法を行なっていたため、かえって病気が悪化することもあった。医師たちが意見をすると激しく怒り、処罰する寸前に至ることもあった。山本博文は精神の重圧が招いた不安神経症ではないかと推測している。",
"title": "人物"
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"text": "寛永5年(1628年)には瘧(マラリア)を発病し、その快復直後、6月に脚気を発病した。この後毎年春から秋にかけて脚気に頻繁に悩まされるようになる。死去する慶安4年(1651年)の1月には胸が圧迫されるとの症状を訴えており、脚気衝心とみられる。",
"title": "人物"
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"text": "慶安4年(1651年)4月19日、家光は献上品の茶碗を見ていたところ、突然震えが止まらなくなり、そのまま倒れた。そして意識が戻ることがないまま、翌4月20日にそのまま薨去した。死の直前より歩行障害も生じていたと言われることから、死因は脳卒中だったと考えられている。",
"title": "人物"
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"text": "成人した3人の男子のうち、長男・家綱が次の4代将軍となり、三男・綱重は甲府藩主、四男・綱吉は館林藩主にそれぞれ封じられてこれを御両典(ごりょうてん)といった。御両典はともに25万石を領し、正三位参議で、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ高い家格を持ったが、藩主は江戸定府で、綱重は桜田御殿に、綱吉は神田御殿に、また綱重の子・綱豊は御浜御殿に居住した。御両典を定府としたのは、家綱に対する控えの存在としての意味合いを含むものだったと考えられるが、実際その家綱が子をなさずに死ぬと、綱重は早世していたので、5代将軍となったのは綱吉だった。そしてその綱吉も男子なく死ぬと、6代将軍となったのは綱重の子である綱豊(徳川家宣)だった。",
"title": "系譜"
},
{
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"text": "(*[ ]内は初名または別名。)",
"title": "偏諱を与えた人物"
},
{
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"text": "※寛永15年(1638年)・家光体制成立時",
"title": "重臣"
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徳川 家光は江戸幕府の第3代将軍である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。
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{{基礎情報 武士
|氏名=徳川 家光
|画像=Iemitu.jpg
|画像サイズ=250px
|画像説明=徳川家光像([[金山寺]]蔵、[[岡山県立博物館]]寄託)
|時代=[[江戸時代]]前期
|生誕=[[慶長]]9年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[1604年]][[8月12日]])
|死没=[[慶安]]4年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[1651年]][[6月8日]])
|改名=竹千代([[幼名]])→家光
|諡号=大猷院
|戒名=大猷院殿贈正一位大相国公
|墓所=日光山[[輪王寺]]
|官位=[[正三位]]、[[従二位]]、[[権大納言]]、[[右近衛大将]]、[[右馬寮御監]]、[[正二位]]、[[内大臣]]、[[征夷大将軍]]、[[従一位]]、[[左大臣]]、[[左近衛大将]]、贈[[正一位]][[太政大臣]]
|幕府=[[江戸幕府]]3代[[征夷大将軍]](在任[[1623年]] - [[1651年]])
|氏族=[[徳川将軍家]]
|父母=父:[[徳川秀忠]]<br>母:[[崇源院]]
|兄弟=[[豊臣完子]]、[[千姫]]、[[珠姫]]、[[天崇院|勝姫]]、[[徳川長丸|長丸]]、[[初姫]]、'''家光'''、[[徳川忠長|忠長]]、[[徳川和子|東福門院]]、[[保科正之]]、ほか
|妻=御台所:'''[[鷹司孝子]]'''<br />側室:[[自証院|振]][[#系譜|ほか]]
|子=[[霊仙院|千代姫]]、'''[[徳川家綱|家綱]]'''、[[徳川亀松|亀松]]、[[徳川綱重|綱重]]、[[徳川綱吉|綱吉]]、[[徳川鶴松|鶴松]]|主君=徳川家康→徳川秀忠→後陽成天皇→明正天皇→後光明天皇}}
'''徳川 家光'''(とくがわ いえみつ)は[[江戸幕府]]の第3代[[征夷大将軍|将軍]](在職:[[1623年]] - [[1651年]])である。乳兄弟に[[稲葉正勝]]・[[稲葉正吉]]・[[稲葉正利]]がいる。
15人の[[徳川将軍一覧|徳川将軍]]のうち、(父親の)[[正室]]の子は、[[徳川家康|家康]]・家光・[[徳川慶喜|慶喜]]の3人のみであり、さらに[[将軍]]の御内室([[徳川将軍家御台所|御台所]])が生んだ将軍は、家光のみである。
== 生涯 ==
=== 誕生から将軍就任まで===
[[慶長]]9年([[1604年]])[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]、[[徳川秀忠]]の次男として[[江戸城]]西の丸に生まれる。[[母]]は太閤[[豊臣秀吉]]の養女・[[崇源院|達子]]([[浅井長政]]の三女)。[[徳川氏|徳川家]]の世継であった父・秀忠には[[慶長]]6年([[1601年]])に誕生した長男・[[徳川長丸|長丸]]がいたが、既に早世していた為、[[嫡男|世子]]として扱われ、祖父・家康と同じ[[幼名]]'''竹千代'''を与えられた。誕生に伴い、[[明智光秀]]家臣・[[斎藤利三]]の娘である福([[小早川氏|小早川家]]家臣[[稲葉正成]]室、後の[[春日局]])が[[乳母]]となり、稲葉正勝・[[松平信綱]]・岡部永綱・水野光綱・[[永井直貞]]らの[[小姓]]が付けられる。
慶長10年([[1605年]])、家康は秀忠に将軍職を譲位して[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となる。[[幼少]]時の家光は[[病弱]]で[[吃音症|吃音]]があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年([[1606年]])に弟・国松(後の[[徳川忠長|忠長]])が誕生する。竹千代と国松の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を[[寵愛]]しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は[[駿府]]の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、竹千代の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は[[元和 (日本)|元和]]年間であると考えられている。
元和2年([[1616年]])[[5月 (旧暦)|5月]]には、竹千代の守役として[[酒井忠利]]・[[内藤清次]]・[[青山忠俊]]の3人が家光付けの[[年寄]]となり、[[9月 (旧暦)|9月]]には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年([[1617年]])には西の丸へ移り、元和4年([[1618年]])には[[朝廷 (日本)|朝廷]]の[[勅使]]を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康の死去で延期されていた[[元服]]は元和6年([[1620年]])に済ませ、竹千代から家光に改め、[[従三位]][[権大納言]]に任官する。「家光」の諱は[[以心崇伝|金地院崇伝]]が選定した。崇伝の記した『[[本光国師日記]]』には、当初は「家忠」を勘案したが、[[平安時代]]の[[公卿]]の[[左大臣]][[藤原家忠]]の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとある。「家」は明らかに家康の「家」で、以後の[[徳川将軍家]]ではこの「家」が嫡男の諱に使用する[[通字]]となった。元和8年([[1622年]])、[[鎧着初]](具足始め)が行われ、具足親は[[加藤嘉明]]が務めた。
元和9年([[1623年]])には死去した内藤清次の後任として[[酒井忠世]]・[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]が年寄として付けられた。同年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]には、将軍家世子として朝廷より[[近衛大将|右近衛大将]]に任じられる。同年[[6月 (旧暦)|6月]]には父・秀忠とともに[[上洛]]し、[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]に[[伏見城]]で[[将軍宣下]]<ref group="注">'''征夷大将軍の辞令(宣旨)'''「孝亮宿禰日記」<br />
權大納言源朝臣家光<br />
右中將藤原朝臣季俊傳宣權大納言藤原朝臣實條宣<br />
奉 勅件人宜爲征夷大將軍者<br />
元和九年七月廿七日<br />
左大史小槻宿禰孝亮奉<br />
(訓読文)権大納言源朝臣家光(徳川家光) 右中将藤原朝臣季俊([[正親町季俊]])伝へ宣(の)り、権大納言藤原朝臣実条([[三条西実条]])宣る、勅(みこのとり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
元和9年(1623年)7月27日 左大史小槻宿禰孝亮([[壬生孝亮]])奉(うけたまは)る
</ref> を受け、[[正二位]][[内大臣]]となる。[[後水尾天皇]]や入内した妹・[[徳川和子|和子]]とも対面している。[[江戸]]へ戻ると、秀忠は江戸城[[西の丸]]に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては[[黒田長政]]の娘との噂もあったが、元和9年([[1623年]][[8月 (旧暦)|8月]]には摂家[[鷹司家]]から[[鷹司孝子]]が江戸へ下り、同年[[12月 (旧暦)|12月]]には正式に輿入れする。
=== 治世 ===
秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による[[二頭政治|二元政治]]のもとに置かれた。家光は将軍になるや守役の[[青山忠俊]]を老中から罷免して、[[寛永]]2年(1625年)には[[改易]]に処した(忠俊の子の[[青山宗俊]]が後に[[旗本]]を経て大名に復帰)。[[寛永]]3年(1626年)7月には後水尾天皇の[[二条城]][[行幸]]のために再び上洛するが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は[[伊達政宗]]・[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]ら多くの[[大名]]、[[旗本]]らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の[[太政大臣]]に対し家光は左大臣および左近衛大将に[[昇格]]した。
寛永9年([[1632年]])[[1月 (旧暦)|1月]]に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から[[公方]]として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手しつつ、全国に[[巡見使]]を派遣して各地の情勢を監察させた。全国規模での巡見使の派遣は家光が初である。同年[[5月 (旧暦)|5月]]には[[外様大名]]を招集し、藩内の内訌などを理由に、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]主・[[加藤忠広]]の[[改易]]を命じている。寛永10年([[1633年]])[[福岡藩]]における栗山大膳事件([[黒田騒動]])では自ら裁定を下して藩主[[黒田忠之]]の主張を認め、寛永12年([[1635年]])[[対馬藩]]における[[柳川一件]]でも藩主[[宗義成]]の主張を認めた。幕政における改革では、[[老中]]・[[若年寄]]・[[奉行]]・[[大目付]]の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。同年9月には外祖父の[[浅井長政]]に[[中納言|権中納言]]を贈官した。<ref>村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号 p.118</ref> 寛永12年([[1635年]])の[[武家諸法度]]の改訂では、大名に[[参勤交代]]を義務づける規定を加える。
対外的には[[長崎貿易]]の利益独占目的と[[国際紛争]]の回避、[[キリシタン]]の排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していった。親政が始まった後、[[長崎奉行]]の[[竹中重義]]に改易と[[切腹]]を命じ、新しい長崎奉行を旗本2人から任命して、同時に寛永10年(1633年)から寛永13年([[1636年]])にかけて、長崎奉行に[[東南アジア]]方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定([[鎖国|鎖国令]])を発布した。寛永12年(1635年)の長崎奉行への職務規定(第三次鎖国令)では、[[日本人]]の東南アジア方面との往来が禁止されることになり、[[宣教師]]の[[密航]]の手段であり[[国際紛争]]の火種となっていた[[朱印船]][[貿易]]は終焉を迎えた。同時に、朱印船の役割は外国人([[オランダ人]]・[[ポルトガル人]]・[[中国人]])が代行することになり、また、寛永12年(1635年)に[[九州]]各地の中国人は長崎のみに集住させられ、ポルトガル人は寛永13年(1636年)長崎の[[出島]]に隔離された。寛永14年([[1637年]])に起きた[[島原の乱]]を鎮圧した後、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]との断交を決意し、寛永16年([[1639年]])に、[[オランダ商館長]]の[[フランソワ・カロン]]を通して、[[台湾]]経由でも中国産の生糸を確保できることを確認、そして、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた命令(第五次鎖国令)を発布した。寛永18年([[1641年]])には[[オランダ商館]]を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「[[鎖国]]」体制を完成させた(ただし、「鎖国」という概念や言葉が生まれるのは[[19世紀]]になってからである)。
これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「[[武断政治]]」と言われる。前述のように長崎奉行(竹中重義)に[[切腹]]を命じたのも、島原の乱の責任を問うとして大名([[松倉勝家]])を切腹ではなく[[斬首]]に処したのも[[江戸時代]]で唯一の処置であり、改易でも50万石以上の大名(徳川忠長・加藤忠広)を改易に処した将軍は家光が最後であった。
寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(後の4代将軍・[[徳川家綱|家綱]])が生まれた。寛永11年([[1634年]])に家光は30万の大軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による[[院政]]を認めて[[紫衣事件]]以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図った<ref>通説では、その後[[徳川家茂]]の時代までの200年以上にわたって将軍の上洛は行われなかったとされているが、実際には家光存命中に何度か上洛計画があったことが判明している(野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂、2006年、P45・296)。</ref>。
ところが幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年([[1642年]])からは[[寛永の大飢饉]]が発生し、国内の諸大名・[[百姓]]の経営は大きな打撃を受ける。更に[[正保]]元年([[1644年]])には[[中国大陸]]で[[明]]が滅亡して[[満州民族|満州族]]の[[清]]が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた。正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・[[国絵図]](正保国絵図)・[[城絵図]](正保城絵図)を作成させ、農民統制では[[田畑永代売買禁止令]]を発布した<ref group="注">家光期に発令された農民統制策であると考えられている[[慶安御触書]]も家光期の治績であるとされてきたが、現在ではこれは慶安期の幕令ではなく、元禄期に甲斐国[[甲府藩]]の農民教諭書が流布される過程で幕令であったとする伝承が付加されたものであると考えられている。</ref>。
[[慶安]]3年([[1650年]])には病気となり、諸儀礼を[[徳川家綱|家綱]]に代行させ、翌年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]に江戸城内で死去する。享年48・満46歳没。
家光の死に際しては、[[堀田正盛]]や[[阿部重次]]、[[内田正信]]らが[[殉死]]している。遺骸は遺言により東叡山[[寛永寺]]に移され、[[日光市|日光]]の[[輪王寺]]に葬られた。同年5月には[[正一位]]・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、'''大猷院'''に定められた。翌[[承応]]元年([[1653年]])には大猷院廟が造営される。
== 官歴 ==
※日付=旧暦
* [[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])1月5日、[[正三位]]に叙す。9月7日、[[従二位]]に昇叙し、[[権大納言]]に任官。元服し、家光と名乗る。
* 元和9年([[1623年]])3月5日、[[近衛大将|右近衛大将]]に任官し[[右馬寮御監]]を兼任。
* 同年7月27日、[[正二位]]に昇叙し、[[内大臣]]に転任。併せて[[征夷大将軍]]・[[源氏長者]]宣下。
* [[寛永]]3年([[1626年]])8月19日、[[従一位]]に昇叙し、[[左大臣]]に転任。左近衛大将を兼任。
* 寛永11年([[1634年]])7月11日、[[太政大臣]]転任を固辞。
* [[慶安]]4年([[1651年]])4月20日、薨去。
*慶安4年5月3日、贈[[正一位]]太政大臣。
== 宮中への関与 ==
第108代[[後水尾天皇]]の[[中宮]]として、家光の同母妹である[[徳川和子|和子]](東福門院)が[[入内]]した。家光は和子の息子(家光の甥)の[[高仁親王]]の[[立太子]]および即位を望んだが、親王はわずか3歳で夭折してしまう。そこで、和子の娘である女一宮興子内親王が第109代[[明正天皇]]として即位した。このことにより徳川家は[[皇室]]の外戚となり[[宮中]]にも強い影響力を持つようになった。
また、[[摂家|摂関家]]の[[九条道房]]に[[廉貞院|鶴姫]](実際には姪)を、[[一条教輔]]に[[靖厳院|通姫]]を、それぞれ養女として嫁がせる等して朝廷内における権力の基盤も固めた。
なお[[二条康道]]と九条道房兄弟は、ともに母が家光の異父姉[[豊臣完子]]であるため、家光の甥にあたる。
== 政治体制 ==
秀忠の死後、前代からの[[老中|年寄]](老中)である[[土井利勝]]、[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]、[[酒井忠世]]が引き続き年寄となったが、家光はそれまで年寄一人ができたことも、年寄3人での合議がなければ将軍への披露を認めないことにした。そのため政務は渋滞を来たし、諸大名が幕府にちょっとした進物を出すこともままならなくなった。寛永16年(1634年)には制度を改め、年寄3人の担当を月番制とし、六人衆([[若年寄]]の前身)をその補佐として置いた。当初はこの制度は円滑に動いていたが、後に年寄達が案件を翌月に先送りするようになり、さらに渋滞を招いた。
その後、六人衆から[[松平信綱]]や[[阿部忠秋]]らが老中となり、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみ扱う[[大老]]となった。また、[[目付]]と[[大目付]]を設置し、年寄達を通さずに直接将軍が情報を掌握できるようにするなど、幕府の諸役職は家光の時期に定まっている。
== 人物 ==
[[File:徳川家光.jpg|thumb|徳川家光肖像([[徳川記念財団]]蔵)]]
* 将軍になって以降も、遠乗りや諸大名の邸への[[御成]]などで外出することを好んだ。
* [[武芸]]を好み、たびたび[[御前試合]]([[寛永御前試合]]や慶安御前試合など)や武芸上覧などを催している。特に[[剣術]]を好み、自身も[[柳生宗矩]]に師事し、[[柳生新陰流]]の免許を受けている。
* 家康や秀忠同様に[[能]]を好んだが、[[風流踊]]を主体とした催しをしたり、役者ではない諸大名や家臣に演じさせたりと、やや「屈折」した愛好の仕方であった。柳生宗矩にも、秘曲として名高い難曲「[[関寺小町]]」を舞わせている。玄人の中では当時の代表的な役者である[[喜多七太夫長能|北七大夫]]を父同様に贔屓した<ref>[[表章]]、[[天野文雄]]『岩波講座 能・狂言I 能楽の歴史』93頁(岩波書店、1987年)</ref>。
=== 二世権現 ===
* 春日局筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、病弱で3歳時に大病した家光が家康の調薬によって快復した、以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復したとする話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒し、家光を駿府に引き取って家康の養子にしてから3代将軍に就けると叱責した話が記されている<ref>井澤潤「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120006617729 東照大権現祝詞にみる徳川家光の東照大権現崇拝心理]」</ref>。これらに加え、家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどが、父・秀忠よりも祖父・家康の恩を意識していたと考えられている。
* 寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると、[[日光社参]]を生涯のうちに10回行っている<ref group="注">家光の死後、日光に参詣した将軍は4人だけであり、2度参詣した家綱以外は1度のみである。また、家綱の最初の参詣は家光在世中である。</ref>。
* 晩年、家光はたびたび家康の姿を夢に見て、[[狩野探幽]]にその肖像を何度も描かせている。これらは「(家光)[[霊夢]](の画)像」と総称され、現在16点程確認されている<ref>NHK・NHKプロモーション編集 『江戸開府四〇〇年記念 徳川将軍家展』図録、2003年、p.180に一覧表あり。ただし、画像形式による推定作品3点を含む。また1点のみ、元和9年(1623年)という早い時期に、探幽ではない絵師に描かせた可能性がある画像(徳川記念財団蔵)も存在する。</ref>。
* 身につけていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れており、これも家康とのつながりの意識の強さとその尊崇ぶりを著すものと見られている<ref>井澤潤「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120006617293 御守袋文書にみる徳川家光の心理]」</ref>。
=== 健康状態 ===
『当代記』には出生時に10ヶ月に満たないが安産とあり、早産だった。
家光は[[病気]]になると[[布団]]を5、6枚かぶり、厚着をして寝るという養生法を行なっていたため、かえって病気が悪化することもあった。[[医師]]たちが意見をすると激しく怒り、処罰する寸前に至ることもあった。[[山本博文]]は精神の重圧が招いた[[不安神経症]]ではないかと推測している<ref>山本博文『江戸城の宮廷政治』</ref>。
寛永5年(1628年)には瘧([[マラリア]])を発病し、その快復直後、6月に[[脚気]]を発病した。この後毎年春から秋にかけて脚気に頻繁に悩まされるようになる。死去する慶安4年(1651年)の1月には胸が圧迫されるとの症状を訴えており、[[衝心性脚気|脚気衝心]]とみられる<ref>{{Cite book|和書 |title=病が語る日本史 |publisher=講談社 |date=2008 |location=東京 |isbn=978-4-06-159886-7 |pages=169-170}}</ref>。
慶安4年(1651年)[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]、家光は献上品の[[茶碗]]を見ていたところ、突然震えが止まらなくなり、そのまま倒れた。そして意識が戻ることがないまま、翌[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]にそのまま[[崩御|薨去]]した。死の直前より歩行障害も生じていたと言われることから、死因は[[脳出血|脳卒中]]だったと考えられている<ref>[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、2005年5月、ISBN 978-4106101199)より。また、『[[謎解き!江戸のススメ]]』([[BS-TBS]]、2015年3月2日放送)でも紹介された。</ref>。
=== その他 ===
* 『立斎旧聞記』によれば[[立花宗茂]]について家光は、「この日本の諸大名歴々たりといえども、御前にて[[頭巾]](禿隠し)をかぶり、殿中にて杖をつく人は宗茂の他は一人もないとのことである。今すでに、将軍の寵遇、他に超えたり」と、他者ならば不敬扱いされるような特別扱いを許していたとされている。また、家光が能、狂言、茶席など宴を催した際や、上洛、大坂行き、日光社参など、何処に行っても宗茂を相伴し、『徳川実紀』にも「当代御咄衆の第一にて御待遇並々ならず」とある。
* 2012年、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の肖像画の[[紙形]](下絵)が公開された<ref>[http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201208070563.html 将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む]『朝日新聞』「2012年8月8日</ref>。白描淡彩本の家光像も含まれていた。
* 2018年、家光が使ったとされる[[駕籠]]が[[福井県]][[小浜市]]の[[発心寺]]で発見された。側近の小浜藩主(福井県)、[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]に送ったもので、[[明治]]時代の廃藩時に商人が買い付け、寺に寄贈したという<ref>{{Cite news|title=徳川将軍家:家光の駕籠、福井の寺で発見 専門家「驚き」|url=https://mainichi.jp/articles/20180731/k00/00e/040/208000c|date=2018-07-31|accessdate=2018-08-05|newspaper=毎日新聞}}</ref>。
* 墨絵を嗜んでいたことで知られ、家臣に与えた絵などが10数点確認されている<ref>[[久能山東照宮]]博物館編集・発行 『博物館資料集2 ―徳川歴代将軍の書画―』(1971年)に15点掲載(白黒写真)。[[府中市美術館]](金子信久、音ゆみ子)編著 『へそまがり日本美術』([[講談社]]、2019年3月14日、ISBN 978-4-06-515046-7)には、『徳川歴代将軍の書画』と重複する1点と、[[日本美術協会]]編『葵花余芳』(尚美会、1916年)から転載の1点を含んだ4点を掲載している。</ref>。特に[[ミミズク|木菟]]や[[セキレイ|鶺鴒]]など、鳥を描いた作品が多い。江戸絵画の基本文献の一つ『[[古画備考]]』には家光と息子家綱が取り上げられている。更に古筆了仲『扶桑画人伝』(明治22年([[1889年]]))では、家光は[[狩野探幽]]に絵を学び探幽には及ばないが、「筆力盛ンニシテ」「奇画」と評している<ref>{{近代デジタルライブラリー|851575}}。なお、『扶桑画人伝』では「[[富士山]]ノ図多シ」としているが、『徳川歴代将軍の書画』『へそまがり日本美術』には掲載されていない。</ref>。2019年3月、[[府中市美術館]]で開かれる展覧会では、家光が書いた兎図など3点が出品される<ref>{{Cite web|和書|date=2018-12-20 |url=https://www.asahi.com/articles/ASLDM3V5YLDMUCLV007.html |title= 徳川家光は「ヘタウマ」画家? 水墨画を公開へ|publisher= 朝日新聞デジタル|accessdate=2018-12-20}}</ref>。
== 評価 ==
{{未検証|date=2022年1月|secton=1}}
* 同時代では、[[大久保忠教]]は『[[三河物語]]』において、「少年時代の家光は内気であるが、家康の祖父[[松平清康]](家光の高祖父)に通じる」との好意的評価をしている。
=== 財政 ===
* [[日光東照宮]]の大規模改築に56万8,000両と銀100貫を投じた。そして数万のお供を従えるため巨大な費用がかかる参詣を3度行っている。
* 大軍を従えた上洛を3回おこない、京では天皇や諸公卿に献金し町衆に祝儀をばらまき江戸でもした。上洛で100万両以上、費やした。
*[[1632年]]に[[向井忠勝|向井将監]]に命じて新造した、[[軍艦|軍船]]形式の[[安宅丸|御座船 安宅丸]]に豪華な装飾を施したと言われ、その船の維持費用は巨額であったとされる。このため幕府の財政建て直しが求められていた5代将軍の[[徳川綱吉]]の時代、天和2年(1682年)に解体された。現在東京湾に運航している「[https://www.gozabune.jp/ 御座船 安宅丸]」は同船をテーマとした遊覧船である。
* 家光1代で500万両以上使ったが次代の家綱に600万両残し、各方面に52万両を遺産分けをした。
* 家光が死んだ頃には、金銀の産出量が減りはじめたこともあり家康以来の蓄財を浪費し、幕府財政窮乏の端緒を作ったとも言われる。
=== 鎖国と国際関係 ===
* 家光が単に外国嫌いだったとする説もあるが、前述の通り政策については重臣の意向も色濃く反映されている。
* [[キリシタン]]に対しては非常に苛烈な弾圧政策を推進した。一例としては[[寛永]]元年4月27日に男5人女7人のキリシタンが[[火刑]]に処され、12月1日には子供を含む13人が[[水磔]]で処刑。また家臣の中川某は一旦[[棄教]]したが、信仰を再開したため[[鋸挽き]]にされた。た。[[天正遣欧少年使節]]の[[中浦ジュリアン]]も寛永10年、穴吊りの刑により処刑されている。
== 系譜 ==
成人した3人の男子のうち、長男・家綱が次の4代将軍となり、三男・綱重は[[甲府藩]]主、四男・綱吉は[[館林藩]]主にそれぞれ封じられてこれを'''御両典'''(ごりょうてん)といった。御両典はともに25万石を領し、正三位参議で、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて[[徳川御三家|御三家]]に次ぐ高い家格を持ったが、藩主は[[定府|江戸定府]]で、綱重は桜田御殿に、綱吉は神田御殿に、また綱重の子・綱豊は御浜御殿に居住した。御両典を定府としたのは、家綱に対する控えの存在としての意味合いを含むものだったと考えられるが、実際その家綱が子をなさずに死ぬと、綱重は早世していたので、5代将軍となったのは綱吉だった。そしてその綱吉も男子なく死ぬと、6代将軍となったのは綱重の子である綱豊([[徳川家宣]])だった。
* [[御台所]]:[[鷹司孝子]](本理院) - 鷹司信房娘
* [[側室]]:[[自証院|振]](自証院) - 岡吉右衛門娘
** 長女:[[霊仙院|千代姫]] - [[徳川光友]]御簾中
* 側室:[[宝樹院 (徳川家光側室)|楽]](宝樹院) - 青木利長娘
** 長男:[[徳川家綱|家綱]]
* 側室:[[おまさの方|まさ]](成瀬氏)
** 二男:[[徳川亀松|亀松]] - 夭折<ref>『[[以貴小伝]]』による。『[[幕府祚胤伝]]』では母は玉とある。</ref>
* 側室:[[順性院|夏]](順性院) - 藤枝重家娘
** 三男:[[徳川綱重|綱重]] - [[甲府徳川家]]祖
* 側室:[[桂昌院|玉]](桂昌院) - [[本庄宗正]]養女, [[本庄宗道]]娘?
** 四男:[[徳川綱吉|綱吉]] - [[館林徳川家]]祖
* 側室:[[定光院|里佐]](定光院) - 青木直辰娘
** 五男:[[徳川鶴松|鶴松]] - 夭折
* 側室:[[永光院|万]](永光院) - 六条有純娘
* 側室:[[芳心院 (徳川家光側室)|琴]](芳心院)
* 養女
** [[亀鶴姫]]- [[前田利常]]娘(母は姉の[[珠姫]])、[[森忠広]]室
** [[廉貞院|鶴姫]] - [[松平忠直]]娘(母は姉の[[天崇院]])、[[九条道房]]室
** [[自昌院|満姫]] - 前田利常娘(母は姉の珠姫)、[[浅野光晟]]室
** [[清泰院 (前田光高正室)|大姫]] - [[徳川頼房]]娘、[[前田光高]]室
** [[靖厳院|通姫]] - [[池田光政]]娘(母は姪の[[円盛院]])、[[一条教輔]]室
* 猶子
** [[尊光法親王]] - [[後水尾天皇]]第二十五皇子
{{徳川家光の系譜}}
== 偏諱を与えた人物 ==
(*[ ]内は初名または別名。)
* [[二条光平|二条'''光'''平]](公家)
* [[徳川光友|徳川'''光'''友['''光'''義]]](従弟・娘婿、[[尾張徳川家]])
* [[徳川光貞|徳川'''光'''貞]](従弟、[[紀伊徳川家]])
* [[徳川光圀|徳川'''光'''圀['''光'''国]]](従弟、[[水戸徳川家]]、[[水戸黄門]])
* [[松平光長|松平'''光'''長]](甥(母が家光の姉・[[天崇院|勝姫]]))
* [[松平光通|松平'''光'''通]]
* [[伊達光宗|伊達'''光'''宗]](従甥(母・[[孝勝院|振姫]]が家光の従姉(伯母・[[督姫]]と[[池田輝政]]の娘))、仙台藩世子であったが早世)
* [[丹羽光重|丹羽'''光'''重]]
* [[牧野光成|牧野'''光'''成]]
* [[前田光高|前田'''光'''高]](甥(母が家光の姉・[[珠姫]]))
* [[池田光政|池田'''光'''政]](初め鳥取藩主、のち岡山藩主。家光の義甥(母が秀忠の養女・[[福正院|鶴姫]]([[榊原康政]]の娘)、但し家康の外孫ではない)。)
* [[池田光仲|池田'''光'''仲]](初め岡山藩主、のち鳥取藩主。家光の従甥で、光政と伊達光宗の従兄弟にあたる。父の[[池田忠雄|忠雄]]は家光の従兄弟(家康の外孫))
* [[浅野光晟|浅野'''光'''晟]]
* [[蜂須賀光隆|蜂須賀'''光'''隆]]([[徳島藩]]主。祖母の[[敬台院]]が徳川家康の外曽孫で養女)
* [[毛利光広|毛利'''光'''広]](長府藩主)
* [[黒田光之|黒田'''光'''之]]
* [[鍋島光茂|鍋島'''光'''茂]]
* [[加藤光広|加藤'''光'''広['''光'''正]]]
* [[細川光尚|細川'''光'''尚['''光'''利]]]
* [[島津光久|島津'''光'''久]]
== 重臣 ==
※寛永15年(1638年)・家光体制成立時
* [[井伊直孝]]([[大老]])
* [[土井利勝]](大老)
* [[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]](大老)
* [[松平信綱]]([[老中]])
* [[阿部忠秋]](老中)
* [[堀田正盛]]([[側衆|御側]] / [[大政参与|元老]]・老中) 春日局の義理の孫
* [[中根正盛]](御側 / [[大目付]])
== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; 小説
* [[山岡荘八]]『徳川家光』1-4(講談社山岡荘八歴史文庫、1987年)ISBN 4-06-195065-7、ISBN 4-06-195066-5、ISBN 4-06-195067-3、ISBN 4-06-195068-1
* 根岸明生『三代将軍徳川家光と皇女和の宮』(日本図書刊行会、1997年) ISBN 4-89039-379-X
* [[羽生道英]]『徳川家光 <small>英明・武勇の三代将軍</small>』(PHP文庫、1999年) ISBN 4-569-57338-X
; 漫画
* [[田中正雄 (漫画家)|田中正雄]]『徳川家光』[[Gakken|学研]]まんが人物日本史
* [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』[[白泉社]]
* [[中島健志]]『コミック版日本の歴史(28)江戸人物伝 徳川家光』[[ポプラ社]]
* 今井ムジイ『将軍の血』[[KADOKAWA]]
; 映画
* 長谷川・ロッパの家光と彦左(1941年、演:[[長谷川一夫]])
* 将軍家光と天下の彦左(1957年、演:[[中山昭二]])
* 家光と彦左と一心太助(1961年1月、演:中村錦之助([[萬屋錦之介]]))
* [[柳生一族の陰謀]](1978年1月21日、演:[[松方弘樹]]) - 醜い顔痣と聞き苦しい吃音に生まれたと脚色され、三男忠長との三代将軍争いでは、形勢不利な家光擁護派に策謀の要として指南役の柳生但馬が暗躍し、将軍を継承するも、首を落とされる内容となっている。
* [[将軍家光の乱心 激突]](1989年1月14日、演:[[京本政樹]])
* [[大奥 百花繚乱]](2008年11月8日、演:[[鈴木裕樹]])
; テレビドラマ
* [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥 (1968年版)]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]、1968年、演:[[中山仁]])
* [[家光が行く]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1972年、演:[[仲雅美]])
* [[徳川三国志 (テレビドラマ)|徳川三国志]]([[テレビ朝日]]、1975年、演:[[片岡仁左衛門 (15代目)|片岡孝夫]](現・片岡仁左衛門))
* 江戸っ子祭 太助・家光・彦左(フジテレビ、1981年、演:[[田中健 (俳優)| 田中健]])
** 江戸の大騒動 太助・家光・彦左(フジテレビ、1982年、演:田中健)
* [[徳川家康 (NHK大河ドラマ) |徳川家康]] ([[NHK大河ドラマ]]、1983年、演:[[嶋英二]])
* [[風雲江戸城 怒涛の将軍徳川家光]]([[テレビ東京]]、1987年、演:[[北大路欣也]])
* 新春時代劇スペシャル 家光と彦左と一心太助(テレビ朝日、1989年、演:[[仲村トオル]])
* [[将軍家光忍び旅]](テレビ朝日、1990-1993年、演:[[三田村邦彦]])
* [[新春ワイド時代劇]] [[徳川武芸帳 柳生三代の剣]](テレビ東京、1993年、演:[[堤大二郎]])
* 新春大型時代劇3時間スペシャル 家光謀殺(テレビ朝日、1995年、演:[[円谷浩]])
* [[葵 徳川三代]](NHK大河ドラマ、2000年、演:[[尾上松緑 (4代目)|尾上辰之助]](幼年期-少年期:内田雅楽→吉永和真→佐藤圭祐→酒井長輝→[[山田孝之]]))
* [[大奥 (フジテレビの時代劇)#2004年版『大奥〜第一章〜』|大奥〜第一章〜]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2004年、演:[[西島秀俊]])
* [[大奥〜誕生[有功・家光篇]]]([[TBSテレビ|TBS]]、2012年、演:[[多部未華子]])
* 新春ドラマスペシャル [[ホリデイ~江戸の休日~]](テレビ東京、2023年、演:[[望月歩]])
* [[大奥 (2023年のテレビドラマ)|大奥]](NHK[[ドラマ10]]、2023年、演:[[堀田真由]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[山本博文]]『寛永時代』[[吉川弘文館]]日本歴史叢書、1989年、1996年(新装版)。ISBN 4-642-06637-3
* 藤井譲治『徳川家光』吉川弘文館人物叢書、1997年。ISBN 4-642-05206-2
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tokugawa Iemitsu}}
* [[高円寺 (杉並区)]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{徳川家光の系譜}}
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{{江戸幕府将軍|1623年 - 1651年}}
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{{DEFAULTSORT:とくかわ いえみつ}}
[[Category:徳川家光|*]]
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2014年
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2014年(2014 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。平成26年。
この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。
※ ここでは、周年であること自体に意義のある事物のみ解説し、期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日起点で説明する。
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2014年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。平成26年。 この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。
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この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。
== 他の紀年法 ==
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* [[干支]]:[[甲午]](きのえ うま)
* [[日本]](月日は一致)
** [[平成]]26年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2674年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4347年
* [[中華民国|中華人民共和国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]103年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]103年
* [[仏滅紀元]]:2556年10月1日 - 2557年10月11日
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1435年2月28日 - 1436年3月9日
* [[ユダヤ暦]]:5774年4月29日 - 5775年4月9日
* [[UNIX時間|Unix Time]]:1388534400 - 1420070399
* [[修正ユリウス日]](MJD):56658 - 57022
* [[リリウス日]](LD):157499 - 157863
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=2014}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月1日]]
** [[ラトビア]]が欧州単一通貨[[ユーロ]]を導入<ref>{{Cite web|和書|date=2014-01-02 |url=http://jp.reuters.com/article/l3n0kc12f-latvia-euro-idJPTYEA0102D20140102 |title=ラトビアがユーロ導入、18カ国目 |publisher=ロイター |accessdate=2017-10-02}}</ref>。[[ソビエト連邦|旧ソビエト連邦諸国]]では[[エストニア]]に次いで2か国目<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201312/2013122800134&g=int ラトビア、来月ユーロ導入=政治・経済の先行き不透明]{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
** [[大韓民国]]で[[住居番号#韓国|道路名住所]]が本格的に使用される<ref>[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/01/01/2014010100638.html 「道路名住所」きょうから全面使用]</ref>。
** [[アメリカ合衆国]]で[[オバマケア]]での保険適用始まる<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3005903</ref>。
* [[1月2日]] - 前日に発見された直径2mから3mの[[小惑星]] [[2014 AA]] が[[地球]]に極めて接近。地球に衝突し、[[大気圏]]で消滅したと推定されている<ref>[http://www.nasa.gov/jpl/asteroid/first-2014-asteroid-20140102/#.UsYmxiFp7wQ First 2014 Asteroid Discovered ''NASA'']</ref>。
* [[1月19日]] - [[中華人民共和国]][[黒竜江省]][[ハルビン市]][[ハルビン駅]]前に、同駅で1909年に[[日本]]の[[伊藤博文]]元[[内閣総理大臣]]を[[暗殺]]した[[安重根]]を記念する「安重根義士記念館」開館<ref>{{cite news|title=ハルビン駅に安重根記念館、開館…伊藤博文暗殺|author=蒔田一彦|author2=吉田敏行|newspaper=[[YOMIURI ONLINE]]|publisher=読売新聞社|date=2014-01-20|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20140119-OYT1T00480.htm|accessdate=2014-01-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140201155842/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20140119-OYT1T00480.htm|archivedate=2014-02-01}}</ref>。
* [[1月22日]] - [[タイ王国]]政府、同日から60日間、首都[[バンコク]]とその近郊に[[非常事態宣言]]を発令<ref>{{cite news|date=2014-01-22|url=http://jp.reuters.com/article/wtInvesting/idJPL3N0KV45Q20140121|title=UPDATE 1-タイ政府、バンコクに非常事態宣言を発令 22日から60日間|publisher=ロイター|accessdate=2014-01-22}}</ref>。
* [[1月30日]] - [[Google]]、同社の[[携帯電話]]端末部門[[モトローラ]]を、中国の[[パソコン]]大手企業[[レノボ]]に29億1000万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で売却。レノボは[[アメリカ合衆国]]の携帯電話事業に初参入となり、併せて2000件以上の特許資産を獲得<ref>{{cite news|date=2014-01-30|url=http://jp.reuters.com/article/technologyNews/idJPTYEA0S08520140130|title=中国レノボ、グーグル傘下のモトローラを2970億円で買収|publisher=ロイター|accessdate=2014-01-30}}</ref>。
* [[1月31日]] - [[スイス]]・[[ジュネーブ]]にて22日から開催されていた[[シリア内戦]]の政治解決を目指す和平会議「ジュネーブ2」([[:en:Geneva II Middle East peace conference|en]])が終了。具体的な成果は出ず<ref>{{cite news|date=2014-02-01|url=http://www.cnn.co.jp/world/35043338.html|title=シリア和平協議、具体的成果なく終了|publisher=CNN.CO.JP|accessdate=2014-02-05}}</ref>。
=== 2月 ===
* [[2月2日]] - [[タイ王国]]下院総選挙。最大野党[[民主党 (タイ)|民主党]]が選挙をボイコット、南部9県では投票中止となったため、総選挙を「全国で同一の日に行う」と定めた同国憲法に違反するとして、同党が同月4日、選挙無効を同国憲法裁判所に提訴<ref>{{cite news|title=タイ野党、総選挙の無効求めて提訴|newspaper=産経新聞|date=2014-02-04|url=https://www.sankei.com/world/news/140204/wor1402040007-n1.html|accessdate=2014-02-05}}</ref>。
* [[2月3日]] - [[アメリカ合衆国]][[連邦準備制度]]理事会第14代議長[[ベン・バーナンキ]]の後任となる第15代議長に、女性初の議長となる[[ジャネット・イエレン]]が就任<ref>{{Cite web|和書|date=2014-02-03 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0302Q_T00C14A2FF2000/ |title=FRB、イエレン新議長が就任 11日に年次報告 |work=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-01-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2014-02-04 |url=https://jp.reuters.com/article/nl3n0l82ri-yellen-sworn-in-idJPTJEA1201620140203 |title=イエレン米FRB議長が就任宣誓 |publisher=ロイター |accessdate=2018-01-21}}</ref>。
* [[2月7日]]から[[2月23日|23日]]まで - [[ソチオリンピック]]
* [[2月10日]] - [[スペイン]]全国管区裁判所、[[1980年代]]から[[1990年代]]にかけて[[チベット]]で[[ジェノサイド]](集団殺害)を行ったとして、[[江沢民]]元[[中国共産党中央委員会総書記]]、[[李鵬]]元[[国務院総理|同国内閣総理]]ら元[[中華人民共和国]]政権幹部5人に対し、[[国際刑事警察機構]]に[[国際手配]]を要請。スペイン国籍を持つ亡命チベット人や人権団体の告発に基づき、2013年10月に出した逮捕状、および集団殺害やテロなど重大な人道犯罪について、スペイン人以外の人がスペイン以外の国で行った場合でも、当事国が裁かない場合にはスペインの司法管轄権が及ぶと定めた同国法を根拠にした<ref>{{cite news|date=2014-02-11|url=https://web.archive.org/web/20140212225727/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20140211-OYT1T00685.htm|title=江沢民氏ら5人を国際手配要請…スペイン裁判所|newspaper=読売新聞|accessdate=2014-02-18}}</ref>。
* [[2月13日]]
** [[インドネシア]]・[[東ジャワ州]]の[[ケルート山]]が[[噴火]]。[[噴煙]]の高さは約17kmに上り、周辺住民約20万人が避難。翌日、[[スラバヤ]]の[[ジュアンダ国際空港]]など周辺4空港が視界不良のため閉鎖<ref>{{cite news|date=2014-02-14|url=https://web.archive.org/web/20140214094457/http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014021401001741.html|title=ジャワ島東部で火山噴火 20万人避難、家屋倒壊|publisher=共同通信|newspaper=47NEWS|accessdate=2014-02-14}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
** [[ベルギー]]下院、同国で12年前に合法化されていた[[安楽死]]の適用年齢制限を廃止し、末期症状の子どもにも死を選ぶ権利を認める法案を可決。隣国[[オランダ]]に次いで子どもにも安楽死を容認する2つ目の国となると同時に、年齢制限を完全になくし12歳未満でも安楽死を選択可能とした世界初の国家となる<ref>{{cite news|date=2014-02-14|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3008448?ctm_campaign=txt_topics|title=ベルギー、子どもの安楽死を合法化|publisher=AFPBB News|accessdate=2014-02-14}}</ref>。
* [[2月14日]] - [[イタリア]]の[[エンリコ・レッタ]]首相が辞任を表明<ref>{{Cite news|title=イタリアのレッタ首相が辞任 組閣の動き本格化|newspaper=福井新聞|accessdate=2014-02-16}}</ref>。
* [[2月17日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の人権状況を調査した[[国際連合]]の調査委員会、日本人ら外国人拉致や[[公開処刑]]など残虐な[[人権侵害]]行為を挙げ、北朝鮮が国家として組織的に「[[人道に対する罪]]を犯した」と非難する最終報告書を公表。同国による広範な人権侵害を裁くため、[[国際連合安全保障理事会]]に対し、[[国際刑事裁判所]]に付託するよう勧告<ref>{{cite news|title=拉致は「人道に対する罪」国連委最終報告書 金体制の関与明言|newspaper=産経新聞|date=2014-02-17|url=https://www.sankei.com/world/news/140217/wor1402170003-n1.html|accessdate=2014-02-18}}</ref>。
* [[2月19日]] - [[中華人民共和国公安部]]、27省の警察が4つの児童売買組織を摘発し、382人の赤ん坊を救出、ウェブサイトや[[インスタントメッセージ]]を使って赤ん坊を売買していたとされる容疑者1094人を拘束<ref>{{cite news|date=2014-03-01|url=http://www.cnn.co.jp/world/35044645.html|title=中国で児童売買組織を摘発 赤ん坊数百人を救出|publisher=CNN.CO.JP|accessdate=2014-03-03}}</ref>。
* [[2月21日]] - [[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]・[[ウクライナ]][[ウクライナの大統領|大統領]]、同国で2013年11月より続いていた反政府デモにより同月18日以降77人の死者が出ていた問題について、野党3党の代表者と政治危機の収束に向けた合意文書に署名し<ref name="sankei20140222">{{cite news|title=デモ隊が大統領府封鎖 ウクライナ騒乱 ティモシェンコ元首相釈放の情報|newspaper=産経新聞|date=2014-02-22|url=https://www.sankei.com/world/news/140222/wor1402220002-n1.html|accessdate=2014-02-25}}</ref>、[[ヴェルホーヴナ・ラーダ|同国最高議会]]が同大統領の政敵だった[[ユーリヤ・ティモシェンコ]]元首相の釈放を可能にする法改正案を可決。翌22日、デモ隊が大統領府を封鎖<ref name="sankei20140222"/>、議会は同大統領を解任し<ref>{{cite news|title=ウクライナ政権崩壊 ヤヌコビッチ大統領、出国図る|newspaper=産経新聞|date=2014-02-23|url=https://www.sankei.com/article/20140224-PLAVPY52OVNG5CZ3KB57MYVT3U/|accessdate=2014-02-25}}</ref>、5月25日の大統領選挙開催を決定<ref>{{cite news|date=2014-02-23|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/140223/erp14022302070003-n1.htm|title=デモ隊が大統領府占拠 ティモシェンコ元首相釈放 ウクライナ(1/2ページ)|newspaper=MSN産経ニュース|accessdate=2014-02-25}}</ref>。同月24日、多数の市民を殺害した容疑で、ヤヌコーヴィチ元大統領と側近を指名手配<ref>{{cite news|date=2014-02-25|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/140225/erp14022507210001-n1.htm|title=ヤヌコビッチ氏 手配「新体制に疑問」露首相警戒|newspaper=MSN産経ニュース|accessdate=2014-02-25}}</ref>([[2014年ウクライナ騒乱]])。
* [[2月25日]] - [[アメリカ合衆国運輸省]]、2013年7月6日に[[サンフランシスコ国際空港]]で発生した[[アシアナ航空214便着陸失敗事故]]において、[[アシアナ航空]]が航空会社の事故対応として乗客の家族への支援などを義務付けた米国法に違反したと判断、同社に50万ドルの罰金を課し、うち最大10万ドルは、今回の失敗を繰り返さないための対策として航空業界全体で実施する会議や研修の費用に充てることを発表<ref>{{cite news|date=2014-02-26|url=http://www.cnn.co.jp/world/35044432.html|title=米当局、アシアナ航空に罰金5000万円 事故後の対応に問題(ページ1/2)
|publisher=CNN.CO.JP|accessdate=2014-02-26 }}</ref><ref>{{cite news|date=2014-02-26|url=http://www.cnn.co.jp/world/35044432-2.html|title=米当局、アシアナ航空に罰金5000万円 事故後の対応に問題(ページ2/2)|publisher=CNN.CO.JP|accessdate=2014-02-26 }}</ref>。
* [[2月26日]] - [[アメリカ航空宇宙局]]、[[宇宙望遠鏡]]「[[ケプラー (探査機)|ケプラー]]」の探査で新たに305個の[[恒星]]の周りを公転する715個の[[太陽系外惑星]]を発見、うち95%は[[海王星]]よりも小型の[[惑星]]で、生命存在の可能性がある「[[ハビタブルゾーン]]」圏内の惑星も4個発見されたことを発表<ref>{{cite news|date=2014-02-27|url=http://www.cnn.co.jp/fringe/35044502.html|title=NASA、715個の新惑星を太陽系外に発見|publisher=CNN.CO.JP|accessdate=2014-02-27}}</ref>。
=== 3月 ===
* [[3月1日]]
** [[中華人民共和国]][[雲南省]][[昆明市]]の[[昆明駅]]前で無差別殺傷事件発生、翌2日までに少なくとも29人が死亡、140人以上が負傷。[[中華人民共和国公安部]]、[[新疆ウイグル自治区]]の独立を狙う組織による計画的なテロ事件と断定、現場で容疑者の男女4人を射殺、女1人を逮捕、逃走していた容疑者4人を拘束<ref>{{cite news|date=2014-03-03|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0201E_S4A300C1FF8000/|title=中国無差別殺傷、死傷者170人に 当局は「テロ」断定 |newspaper=日本経済新聞|accessdate=2014-03-03}}</ref>。
** [[アドリー・マンスール]][[エジプトの大統領|エジプト大統領]]、首相候補に指名した[[イブラヒーム・メフレブ|イブラヒム・メハレブ]]による組閣を承認、2月24日に総辞職した[[ハーゼム・エル=ベブラーウィー]]暫定内閣に代わる内閣発足<ref>{{cite news|date=2014-03-02|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/140302/mds14030210580001-n1.htm|title=エジプト メハレブ新内閣発足|newspaper=MSN産経ニュース|accessdate=2014-03-03}}</ref>。
* [[3月7日]]〜[[3月16日]] - [[ソチパラリンピック]]
* [[3月8日]] - [[マレーシア航空]]の旅客機370便(乗客乗員239人)が[[タイ湾]]のトーチュー島付近で消息を絶つ([[マレーシア航空370便墜落事故]])<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014030800248 マレーシア機の捜索続く=墜落情報、確認されず] 時事ドットコム 2014年3月8日</ref>。
* [[3月12日]] - [[台南市長]]の[[頼清徳]]が翌13日を二二八事件で刑死(のちに無罪)した弁護士[[坂井徳章]](台湾名:湯徳章)の精神と行為を称える「台南市正義と勇気の日」とすることを宣布した<ref>{{Zh-tw icon}}[https://news.ltn.com.tw/news/politics/breakingnews/966488 賴清德︰明天是「南市正義與勇氣紀念日」] 2014年3月12日 [[自由時報]]</ref><ref>[https://www.ys-consulting.com.tw/news/69273.html 第67回 228事件70年と台南の英雄・湯徳章] 2017年3月3日 ワイズニュース</ref>。
* [[3月16日]] - 北朝鮮により[[日本海]]側に10発の[[ロケット砲]]が発射された<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014031600179 日本海にロケット砲発射=北朝鮮] 時事ドットコム 2014年3月16日</ref>。
* [[3月18日]] - ロシアのプーチン大統領がクリミア自治共和国の編入を表明<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2014031800515 ロシア、クリミア編入=ウクライナ排除、条約に調印-欧米、追加制裁へ] 時事ドットコム 2014年3月18日</ref>([[ロシアによるクリミアの併合]])。
* [[3月18日]] - 中国と台湾の間に結ばれたサービス貿易協定に反対する学生が台湾立法院(国会)を占拠<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/news/140324/chn14032411340006-n1.htm 台湾で学生ら国会占拠 警官隊と衝突、負傷者も] MSN産経ニュース 2014年3月20日</ref>([[ひまわり学生運動]])。
* [[3月24日]] - [[オランダ]]・[[ハーグ]]にて第3回[[核セキュリティ・サミット]]開催。
* [[3月26日]] - 北朝鮮、中距離弾道ミサイル「[[ノドン]]」2発を日本海に向け発射<ref>{{cite news|date=2014-03-26|url=https://web.archive.org/web/20140407093645/http://www.yomiuri.co.jp/world/20140326-OYT1T00294.html?from=yartcl_popin|title=非常に深刻に受け止める…北ミサイルで米国務省|newspaper=YOMIURI ONLINE|accessdate=2014-04-06}}</ref>。
* [[3月28日]]
** [[中華人民共和国|中国]]の[[習近平]][[中華人民共和国主席|国家主席]]が[[ベルリン]]を訪問し[[ヨアヒム・ガウク|ガウク]]大統領・[[アンゲラ・メルケル|メルケル]]独首相と[[中独包括的・戦略的パートナーシップの構築に関する共同声明]]を発表する。また中国・ドイツ両国中央銀行が[[フランクフルト]]で[[人民元|人民幣]]決済制度を構築する覚書きを発表する<ref>{{cite news |title=中独が包括的・戦略的パートナーシップを構築|newspaper=人民網日本語版|date=2014-03-29|url=http://j.people.com.cn/94474/8582694.html|accessdate=2014-04-29}}</ref>。
** [[大韓民国|韓国]]大統領[[朴槿恵]]が[[ドイツ]]の[[ドレスデン工科大学]]から[[名誉博士|名誉法学博士]]号を授与される。授与式で3大提案(いわゆる「ドレスデン構想」)を発表する<ref>{{cite news |title=朴大統領 北朝鮮に対する統一基盤作りの3大提案発表|newspaper=聯合ニュース|date=2014-03-28|url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2014/03/28/0200000000AJP20140328003300882.HTML|accessdate=2014-11-02}}</ref>。
* [[3月31日]] - [[国際司法裁判所]]、[[オーストラリア]]が[[日本]]の[[南氷洋]]における[[調査捕鯨]]を[[国際捕鯨取締条約]]違反として訴えた裁判で日本の調査捕鯨は「研究目的ではない」と述べ、条約違反と認定、今後実施しないよう命じる判決を下す<ref>{{cite news|title=日本の調査捕鯨は条約違反 国際司法裁判所|newspaper=産経新聞|date=2014-03-31|url=https://www.sankei.com/world/news/140331/wor1403310005-n1.html|accessdate=2014-04-01}}</ref>([[南極海捕鯨事件]])。
=== 4月 ===
* [[4月1日]] - [[チリ]]沖を震源とする、[[マグニチュード|M]]8.2の地震が発生、5人が死亡した<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/35046004.html チリ沖でM8.2の地震 5人死亡、囚人300人が脱走] CNN.co.jp 2014年4月2日閲覧。</ref>。チリでのM8.0以上の地震は2010年2月以来4年ぶり。([[イキケ地震 (2014年)]])
* [[4月9日]]
** [[Microsoft Windows XP]]の延長サポートがすべて終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://support.microsoft.com/lifecycle/?c2=1173|title=マイクロソフト プロダクト サポート ライフサイクル|publisher=マイクロソフト|accessdate=2012-04-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.microsoft.com/japan/windows/virtual-pc/support/faq.aspx|title=Windows XP Mode は Windows 7 のライフサイクルの間はサポートされますか。|publisher=マイクロソフト|accessdate=2012-04-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.microsoft.com/ja-jp/services/sup_eos_20140409.aspx|title=2014 年 4 月 9 日にサポートが終了する製品に関する技術サポート受付終了時間について| Microsoft Services|publisher=マイクロソフト|accessdate=2014-04-07}}</ref>。
** [[トヨタ自動車]]が全世界で639万台の[[リコール (自動車)|リコール]]を発表<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0901T_Z00C14A4000000/ トヨタ、世界で639万台リコール] 日本経済新聞 2014年4月9日閲覧。</ref>。
* [[4月10日]] - 中国と台湾の間に結ばれたサービス貿易協定に反対し台湾立法院(国会)を占拠していた学生を中心とする反対派グループが、台湾時間18時をもって同院より退去<ref>[http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPL3N0N30UM20140411 台湾、立法院占拠した学生が退去] Reuters Japan 2014年4月11日閲覧</ref>([[ひまわり学生運動]])。
* [[4月16日]] - [[大韓民国]][[全羅南道]][[珍島]]沖で、[[仁川広域市|仁川港]]から[[済州島]]へ向け航行していたクルーズ旅客船「セウォル号」が沈没、死者299人を出す海難事故が発生([[セウォル号沈没事故]])。[[黄海]]を航行中だった[[アメリカ海軍]][[佐世保基地 (アメリカ海軍)|佐世保基地]]所属の[[強襲揚陸艦]][[ボノム・リシャール (強襲揚陸艦)|ボノム・リシャール]]も捜索活動に参加<ref>{{Cite news|date=2014-04-17|url=http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303433504579504491119846528.html|title=韓国フェリー転覆事故、懸命の捜索続く―300人近くが不明|newspaper=ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版|publisher=Dow Jones & Company, Inc.|accessdate=2014-04-17}}</ref>。
* [[4月23日]] - [[バラク・オバマ]][[アメリカ合衆国大統領]]、同月29日にかけ、[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]、[[マレーシア]]、[[フィリピン]]各国を歴訪<ref>{{Cite news|date=2014-04-29|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201404/2014042900168|title=オバマ米大統領、帰国の途=アジア歴訪終了|newspaper=時事ドットコム|publisher=時事通信社|accessdate=2014-05-20}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
* [[4月26日]] - [[六四天安門事件]]から25年を機に、[[香港]]に[[六四記念館]]が正式開館<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/news/140420/chn14042017010004-n1.htm 天安門事件記念館を開設、活動家入境を拒否 香港] MSN産経新聞 2014年4月20日。</ref>。
=== 5月 ===
* [[5月2日]] - [[アフガニスタン]]北東部[[バダフシャーン州]]アルゴ地区で大規模の[[地滑り]]が発生、多数の死者発生<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/35047428.html アフガンで大規模な地滑り、350人死亡か 救助難航] CNN JAPAN 2014年5月3日閲覧。</ref>([[アフガニスタン地滑り災害]])。
* [[5月7日]] - [[タイ王国|タイ]]の[[インラック・シナワトラ|インラック]]首相が失職<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0DN0BA20140507 タイ憲法裁が政府高官人事で違憲判決、インラック首相失職] ロイター 2014年5月7日閲覧。</ref>。
* [[5月13日]] - [[トルコ]]・[[マニサ県]]ソマの炭鉱で爆発事故、301人死亡([[ソマ炭鉱爆発事故]])<ref>{{Cite news|date=2014-05-18|url=http://www.cnn.co.jp/world/35048053.html|title=トルコ炭鉱事故、死者301人に 全遺体の収容終える|newspaper=CNN.CO.JP|publisher=Turner Broadcasting System, Inc.|accessdate=2014-05-20}}</ref>。
* [[5月14日]] - [[ベトナム]]で、[[南沙諸島]]での石油採掘を巡り同国と衝突している[[中華人民共和国]]に反対するデモにより死者発生<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0DV06120140515 ベトナムの反中デモで初の死者、中国人とみられる16人含む21人死亡] ロイター 2014年5月15日。</ref>。
* [[5月18日]] - [[コロンビア]]で[[フンダシオンバス火災事故]]が発生。34人(内33人が子供)が死亡。
* [[5月20日]]
** [[タイ王国陸軍]]、同国全土に[[戒厳令]]発令<ref>{{Cite news|date=2014-05-20|url=http://www.cnn.co.jp/world/35048132.html|title=政治的混乱続くタイ 陸軍が戒厳令、「クーデターではない」|newspaper=CNN.CO.JP|publisher=Turner Broadcasting System, Inc.|accessdate=2014-05-20}}</ref>。
** [[中華人民共和国|中国]][[人民解放軍海軍]][[駆逐艦]][[蘭州級駆逐艦|鄭州]]などと[[ロシア海軍]][[巡洋艦]][[ヴァリャーク (ミサイル巡洋艦・2代)|ヴァリャーク]]など水上艦計14隻、[[潜水艦]]2隻、[[Su-30 (航空機)|Su-30]]など[[固定翼機]]9機等が[[東シナ海]]の[[長江]]河口沖で合同[[軍事演習]]「[[海上連合2014]]」を実施(26日まで)<ref>{{cite news|date=2014-05-26|url=http://military.people.com.cn/n/2014/0526/c1011-25065210.html|title=中俄“海上联合—2014”军事演习完美收官|newspaper=人民网|accessdate=2014-05-28}}</ref>。
* [[5月21日]] - 上海で[[アジア相互協力信頼醸成会議]](CICA)が開かれ、[[アジア新安保宣言]]を採択<ref>[https://web.archive.org/web/20140521144428/http://www.47news.jp/CN/201405/CN2014052101001607.html アジア新安保宣言を採択して閉幕 上海で信頼醸成会議] 47News 2014年5月21日。</ref>。[[ロシア|露]]大統領[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]が[[上海]]を訪問し[[中華人民共和国|中国]][[中華人民共和国主席|国家主席]][[習近平]]と中露東線天然ガス協力プロジェクト覚書に署名し、[[中国石油天然気集団]]会社と[[ガスプロム]]が中露東線天然ガス供給購入販売契約を締結する。[[2018年]]から30年間ガスプロム側が中国側へ、最終的に毎年380億立方メートルの天然ガスを独占的に供給する<ref>{{cite news|date=2014-05-22|url=http://j.people.com.cn/n/2014/0522/c94474-8731034.html|title=中露が天然ガス協力合意文書に調印|newspaper=人民網日本語版|accessdate=2014-05-27}}</ref>([[アレクセイ・ミレル|ミレル]]社長が契約総額を「4千億[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]」と発表<ref>{{cite news|date=2014-05-21|url=http://japanese.ruvr.ru/news/2014_05_21/272624598/|title=ロ中 4千億ドルの大型ガス供給契約に調印|newspaper=ロシアの声 |accessdate=2014-05-27}}</ref>)。さらに[[ロスネフチ]]が[[天津市|天津]]に年間能力1600万トンの[[精油]]所建設(投資額50億ドル)を協議するなど両国企業が50もの協議で、総額約「5千億米ドル」もの契約を締結した<ref>{{cite news|date=2014-05-22|url=http://radiovr.com.cn/2014_05_22/272663416/|title=俄中两国能源合作规模令人瞩目|newspaper=俄罗斯之声 |accessdate=2014-05-29}}</ref>。
* [[5月22日]] - [[タイ王国|タイ]]軍が[[クーデター]]を宣言。憲法を停止。[[タイ軍事クーデター (2014年)]]参照
* [[5月23日]]
**[[フィリピン]]と[[インドネシア]]が[[マニラ]]で[[ミンダナオ海]]・[[セレベス海]]における[[排他的経済水域|EEZ]]の境界を画定する議定書に調印する<ref>
{{cite news|date=2014-05-23|url=http://news.pia.gov.ph/index.php?article=1781400819001|title=PH, Indonesia sign agreement on Exclusive Economic Zone boundary|newspaper=Philippine Information Agency|accessdate=2014-05-25}}</ref>。
**[[カリフォルニア州]]で[[2014年アイラビスタ銃乱射事件]]が発生。6人が死亡、犯人も自殺。
* [[5月26日]] - レーサーである[[山路慎一]]が[[病気]](病名非公表)により50歳で他界。
=== 6月 ===
* [[6月2日]] - [[スペイン]]国王[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が退位を表明<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2014060200685 スペイン国王が退位へ=「民主化の象徴」-フェリペ皇太子が継承] 時事ドットコム 2014年6月2日。</ref>。
* [[6月5日]] - [[欧州中央銀行]]、[[金融緩和]]追加策として、[[政策金利]]を過去最低の年0.15%とすると同時に、主要国・地域で初めて、民間銀行が[[中央銀行]]に預け入れる余剰資金の金利をマイナス0.1%とする[[マイナス金利]]政策を導入<ref>{{Cite news|date=2014-06-05|url=http://www.nikkei.com/markets/features/12.aspx?g=DGXNASDC05007_05062014MM8000l|title=欧州中銀、初のマイナス金利 低インフレ長期化回避|newspaper=日本経済新聞|publisher=Nikkei Inc.|accessdate=2014-06-10}}</ref>。
* [[6月7日]] - [[ウクライナ]]で、[[ペトロ・ポロシェンコ]]が[[ウクライナの大統領|大統領]]就任<ref>{{Cite news|date=2014-06-07|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/140607/erp14060718180010-n1.htm|title=プーチン大統領に「クリミアはウクライナ領」ポロシェンコ氏が大統領に就任|newspaper=MSN産経ニュース|publisher=産経新聞|accessdate=2014-06-27}}</ref>。
* [[6月8日]] - 同日深夜、[[パキスタン]]・[[カラチ]]の[[ジンナー国際空港]]を[[ターリバーン]]が襲撃、ターリバーン戦闘員10人を含む29人が死亡。翌9日、パキスタン政府が収束を宣言、同日、[[パキスタン・ターリバーン運動]]が「同志への拷問と[[ワジリスタン]]での攻撃に対する報復」とする[[犯行声明]]発表<ref>{{Cite news|date=2014-06-09|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N6VBHV6TTDS001.html|title=タリバンがカラチの空港襲撃、29人が死亡-政府は終息宣言|newspaper=Bloomberg.co.jp|publisher=BLOOMBERG L.P.|accessdate=2014-06-10}}</ref>。
* [[6月12日]]〜[[7月13日]] - [[2014 FIFAワールドカップ|2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会]]
* [[6月19日]] - [[スペイン]]のアストゥリアス公フェリペ王子が[[フェリペ6世 (スペイン王)|フェリペ6世]]として新国王に即位<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3018107 スペイン議会、国王退位を承認 新国王即位へ] 2014年06月18日AFP</ref>。
* [[6月20日]] 明治大学のサークルによる泥酔騒動が発生。当サークルは解散されたが逮捕者は出なかった。
* [[6月21日]] - [[大韓民国]][[江原道 (南)|江原道]][[高城郡 (江原特別自治道)|高城郡]]の[[軍事境界線 (朝鮮半島)|南北軍事境界線]]近くの[[大韓民国陸軍]]施設付近で、兵士が[[手榴弾]]1発を投げ[[小銃|ライフル銃]]で銃弾10発を発砲し、同僚兵士5人が死亡、7人が負傷、兵士は実弾の装填された銃を持ったまま逃走<ref>{{Cite news|date=2014-06-22|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014062200003|title=兵士が銃乱射、同僚12人死傷=南北軍事境界線付近-韓国|newspaper=時事ドットコム|publisher=時事通信社|accessdate=2014-06-22}}</ref>。22日に銃撃戦となり、兵士が自殺を図るも23日に身柄を確保、病院へ搬送<ref>{{Cite news|date=2014-06-23|url=http://www.cnn.co.jp/world/35049792.html|title=逃走の韓国兵を身柄確保、銃で自殺図る|newspaper=CNN.co.jp|publisher=Cable News Network. Turner Broadcasting System, Inc.|accessdate=2014-06-23}}</ref>。
* [[6月24日]] - [[アメリカ合衆国]][[国家運輸安全委員会]]、2013年7月6日に発生した[[アシアナ航空214便着陸失敗事故]]について、操縦士が着陸時の高度調整のため[[自動操縦システム]]のモードを切り替えた際の操作に誤りがあったため、最低速度を維持できない状態に陥り機体が過度に減速、着陸に失敗したとする調査報告書を公表、「事故機の乗員は、自動化されたシステムを十分理解せずに、これに頼りすぎた」などと指摘<ref>{{Cite news|date=2014-06-25|url=https://web.archive.org/web/20140628054657/http://www.yomiuri.co.jp/world/20140625-OYT1T50097.html|title=アシアナ航空事故、自動操縦に頼りすぎ…報告書|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|accessdate=2014-06-25}}</ref>。
* [[6月26日]] - [[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]]沖で第24回[[環太平洋合同演習]]開始、過去最多の23か国中、[[中華人民共和国海軍]]が初参加<ref>{{Cite news|date=2014-06-27|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140627/plc14062713520018-n1.htm|title=リムパック始まる 中国海軍の4隻初参加 8月1日まで|newspaper=MSN産経ニュース|publisher=産経新聞|accessdate=2014-06-27}}</ref>。
* [[6月27日]]
** ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領、[[欧州連合]]各国首脳と、[[自由貿易協定]]を含む包括的な協力の枠組みを定めた「連合協定」の経済条項に署名<ref>{{Cite news|date=2014-06-27|url=https://web.archive.org/web/20140628161923/http://www.yomiuri.co.jp/world/20140627-OYT1T50130.html|title=ウクライナ、EUと連合協定…経済も親欧路線|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|accessdate=2014-06-27}}</ref>。
** 欧州連合首脳会議において、[[ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ]]の後継となる[[欧州委員会委員長]]について、[[デーヴィッド・キャメロン]][[イギリスの首相|イギリス首相]]らの反対意見を受け史上初の採決を実施、26対2の賛成多数で[[ジャン=クロード・ユンケル]]前[[ルクセンブルクの首相|ルクセンブルク首相]]を指名<ref name="EU President">{{cite news|date=2014-06-28|url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0F21PP20140627|title=ユンケル氏を次期欧州委員長に指名、英の懸念に配慮も|newspaper=Reuters.co.jp|publisher=ロイター|accessdate=2014-06-29}}</ref>。
* [[6月29日]] - [[イラク]]北部を制圧する[[イスラム教]][[スンニ派]]武装組織[[ISIL]](IS)が、[[カリフ]](予言者[[ムハンマド]]の後継者)を最高指導者とする国家の樹立を宣言、[[アルカーイダ|アルカイダ]]など他のイスラム組織に従属を求める<ref name="Dow Jones & Company, Inc">{{cite news|date=2014-06-30|url=http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702303844704580000151170593066|ISIS、イスラム国家の樹立宣言―アルカイダなどに従属要求|newspaper=ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版|publisher=Dow Jones & Company, Inc.|accessdate=2014-06-30}}</ref>。
=== 7月 ===
* <!-- ローカル情報 ** [[兵庫県議会]]議員(当時)の野々村竜太郎が前年度の[[兵庫県議会#政務活動費不正使用問題|政務活動費の不正使用疑惑]]について記者会見、当人が大声で泣き叫びながら質問に答えるという極めて異様な会見が「号泣会見」として大きな話題となる<ref>{{cite news|url=https://www.j-cast.com/2014/07/02209402.html|title=会見で子供のように号泣した兵庫県議 「何これギャグ?」とネットで驚きの声|publisher=[[J-CASTニュース]]|date=2014-07-02|accessdate=2016-07-06}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.huffingtonpost.jp/2014/07/01/nonomura-tears_n_5549706.html|title=野々村竜太郎・兵庫県議が号泣 日帰り出張195回を追及されて|publisher=[[ハフィントンポスト]]|date=2014-07-03|accessdate=2016-07-06}}</ref>。 -->[[7月1日]] - [[北京]]で日朝局長級協議<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2502M_V20C14A6000000/ 日朝局長級協議、7月1日に北京で 岸田外相発表] 日本経済新聞 2014年6月25日閲覧。</ref>。
* [[7月3日]] - [[習近平]][[中華人民共和国|中国]][[中華人民共和国国家主席|国家主席]]、[[国賓]]として[[大韓民国|韓国]]を初訪問、[[朴槿恵]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]と[[ソウル特別市|ソウル]]の[[青瓦台|大統領府]]で会談、共同声明で、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による「朝鮮半島での核兵器開発に断固として反対する」と明記、[[日本の慰安婦|いわゆる旧日本軍の従軍慰安婦問題]]について関係機関による共同研究を進める旨声明付属文書に記載<ref>{{cite news|date=2014-07-03|url=https://web.archive.org/web/20140714200345/http://www.47news.jp/CN/201407/CN2014070301001574.html|title=中韓首脳、北の核「断固反対」慰安婦研究、会見で日本批判せず|newspaper=47NEWS|publisher=共同通信社|accessdate=2014-07-03}}</ref>。
* [[7月8日]] - イスラエル軍は本格的なガザ攻撃を開始した([[ガザ侵攻 (2014年)]])。
* [[7月16日]] - [[ジャン=クロード・ユンケル]]が[[欧州議会]]の承認を受け[[欧州委員会委員長]]就任<ref name="EU President" />。
* [[7月17日]] - [[ウクライナ]]・[[ドネツク]]近郊で、[[オランダ]]・[[スキポール国際空港]]発[[マレーシア]]・[[クアラルンプール国際空港]]行[[マレーシア航空]][[ボーイング777]]が[[撃墜]]され、乗客乗員298名全員死亡<ref>{{Cite news|date=2014-07-18|url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0FM1YV20140717|title=マレーシア機がウクライナ東部で撃墜、295人全員死亡=当局者|publisher=ロイター|accessdate=2014-07-18}}</ref>([[マレーシア航空17便撃墜事件]])。
* [[7月23日]] - [[トランスアジア航空222便着陸失敗事故]]。
* [[7月24日]] - [[アルジェリア航空5017便墜落事故]]。
* [[7月25日]] - [[中華人民共和国]]で覚醒剤密輸の罪で日本人の死刑が執行された<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASG7T3RGPG7TUHBI00L.html 中国で日本人男性の死刑執行 覚醒剤密輸の罪] 朝日新聞 2014年11月25日閲覧。</ref>。
=== 8月 ===
* [[8月1日]]
** [[イスラエル]]と[[ハマース|ハマス]]が72時間の停戦に合意をした<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASG81262JG81UHBI00C.html イスラエルとハマス、72時間の停戦合意 米国務省発表] 朝日新聞 2014年8月1日閲覧。</ref>([[ガザ侵攻 (2014年)]])。
** [[台湾]]・[[高雄市]]で32人が死亡、321人が負傷する[[高雄ガス爆発事故|ガス爆発事故]]発生。
* [[8月8日]] - [[世界保健機構]](WHO)は、西アフリカ諸国に[[エボラ出血熱]]の感染が拡大していることをうけ、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0GB2AF20140811 エボラ出血熱、死者が1000人超える=WHO] ロイター 2014年8月12日。</ref>([[2014年の西アフリカエボラ出血熱流行]])。
* 8月8日 - アメリカを中心とした[[有志連合]]国が、[[イラク]]に展開する[[ISIL]](IS)に対して[[空爆]]を開始(同年10月16日に[[生来の決意作戦]]とする作戦名が後付けされる)。
* [[8月9日]] - 米国[[ミズーリ州]]で警察官が[[黒人]]青年を[[射殺]]、抗議デモに発展<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014081100404 米警官が黒人青年射殺=抗議デモ一部暴徒化-中西部] 時事通信 2014年11月19日閲覧。</ref>。
* [[8月26日]] - オバマアメリカ大統領が[[ISIL]](IS)に対して「正義の鉄槌を下す」と演説する。
* [[8月28日]] - [[アル=ヌスラ戦線|ヌスラ戦線]]のメンバーが[[フィジー]]の[[国際連合平和維持活動|国連平和維持軍]]45名を[[ゴラン高原]]にて誘拐<ref>
[http://syriaarabspring.info/?p=14338 シリア国内の暴力:ヌスラ戦線がUNDOF隊員を拘束] シリア・アラブの春 顛末記 2014年8月31日付</ref>。ヌスラは人質の解放の条件として国連にテロ組織の指定の解除を求めた<ref>
[https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ME_N-africa/nusra_front.html 公安調査庁フロントページ] 2016年12月14日閲覧</ref>。
=== 9月 ===
* [[9月1日]] - プーチン露大統領が中国[[国務院常務副総理]][[張高麗]]と[[サハ共和国]]ユス・ハトゥン(Үс хатыҥ)で中露東線天然ガスパイプライン[[シーラ・シビーリ]]の起工式に出席する<ref>{{cite news|date=2014-09-02|url=http://jp.xinhuanet.com/2014-09/02/c_133614906.htm|title=張高麗副総理、ロシアのプーチン大統領と会見し、共に中露東線天然ガスパイプラインの起工式に出席|newspaper=新華網日本語版|accessdate=2014-10-03}}</ref>。
* [[9月3日]] - プーチン露大統領が[[モンゴル国]][[ウランバートル]]を訪問し[[ツァヒアギーン・エルベグドルジ|エルベグドルジ]]大統領と[[ノモンハン事件|ハルハ川戦役]]勝利75周年招待会に出席する。また2020年までに100億ドルへの貿易拡大、ビザ免除制度の復活などの15件の文書に署名する。
* [[9月11日]] - [[上海協力機構]]元首理事会第十四次会議が[[タジキスタン|タジキスタン共和国]][[ドゥシャンベ]]で開催。プーチン露大統領と習近平中国国家主席が会見し中露西線天然ガスパイプラインの建設について協議する。
* [[9月13日]] - 習近平中国国家主席がドゥシャンベでタジキスタン大統領[[エモマリ・ラフモン|ラフモン]]と[[トルクメニスタン]]{{仮リンク|ガルクヌシガス田|en|Galkynysh Gas Field}}から[[ウズベキスタン]]・タジキスタン・[[キルギス]]を経て[[新疆ウイグル自治区|新疆]][[ウルグチャト県|烏恰県]]に至る{{仮リンク|中央アジア・中国ガスパイプライン|en|Central Asia–China gas pipeline}}D線の起工式に出席する。
* [[9月18日]] - [[スコットランド]]で[[イギリス]]からの独立を問う[[住民投票]]([[2014年スコットランド独立住民投票]])を実施。結果は「否決」。
* [[9月19日]]〜[[10月4日]] - [[2014年アジア競技大会|第17回アジア競技大会]]([[大韓民国|韓国]]・[[仁川広域市|仁川]])
* [[9月27日]] - 長野県と岐阜県の県境に位置する[[御嶽山]]が[[噴火]]<ref>{{Cite web|和書|date=2014年9月28日 |url=https://news.ntv.co.jp/category/society/260023 |title=御嶽山噴火 32人重傷、7人意識不明 |work=日テレNEWS24 |publisher=日本テレビ |accessdate=2018-04-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/tokyo/14m09/20140928_312.pdf|title=御嶽山の火山活動解説資料|publisher=気象庁地震火山部 火山監視・情報センター|format=PDF|accessdate=2020-10-20}}</ref>。([[2014年の御嶽山噴火]])
* [[9月28日]]〜[[12月15日]] - 香港で[[2014年香港反政府デモ|雨傘革命]](2014年香港反政府デモ)が起きる。最終的に警察の強制排除で終了した。
=== 10月 ===
* [[10月13日]] - [[中華人民共和国|中国]]国務院総理[[李克強]]が[[モスクワ]]で[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドベージェフ]]露首相と第19次総理定期会談を行い、欧亜高速運輸走廊(ユーラシア高速輸送回廊)の一部としてモスクワ・[[カザン]]区間の高速鉄道建設計画を実施すること<ref>{{cite news|date=2014-10-15|url=http://j.people.com.cn/n/2014/1015/c94476-8794785.html|title=北京からモスクワ、ユーラシア高速輸送回廊構想
|newspaper=人民网日本語版|accessdate=2014-10-16}}</ref>、中露間の天然ガス輸送への40年間の協力(特別の意思表示のない限り5年間延長)<ref>{{cite news|date=2014-10-13|url=http://japanese.ruvr.ru/news/2014_10_13/rochuu-gasu/|title=露中、東ルートでのガス供給で合意|newspaper=ロシアの声|accessdate=2014-10-16}}</ref> などに合意。また中国衛星導航系統委員会と[[ロシア連邦宇宙局]]が全球[[衛星測位システム]]に関する協力について覚書に署名する。
* [[10月24日]] - [[アジアインフラ投資銀行]](亜洲基礎設施投資銀行)設立の覚書が中国[[北京市|北京]][[人民大会堂]]で21カ国代表により結ばれる。投資額は500億米ドル。
=== 11月 ===
* [[11月3日]] - [[アメリカ同時多発テロ事件|911テロ事件]]で崩壊した[[ニューヨーク]]・[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]の跡地に高さ約541[[メートル|m]]の「[[1 ワールドトレードセンター]]」(1 WTC)が完成。
* [[11月4日]] - [[アメリカ合衆国]][[中間選挙]]投票日。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]が[[アメリカ合衆国上院|上院]]、[[アメリカ合衆国下院|下院]]共に過半数を制した。
* [[11月12日]] - 無人探査機「[[ロゼッタ (探査機)|ロゼッタ]]」が世界初の[[彗星]]着陸に挑戦し成功した。
=== 12月 ===
* [[12月5日]] - [[大韓航空ナッツ・リターン]]。
* [[12月15日]] - [[オーストラリア]]の[[シドニー]]中心部のリンツ・ショコラ・カフェで午前にイスラム教聖職者を自称する男が人質を取って立てこもり、16時間後の16日午前2時15分頃に警官隊が突入。人質2人と犯人が死亡。
* [[12月17日]] - [[アメリカ合衆国大統領]][[バラク・オバマ]]と[[キューバの国家元首|キューバの国家評議会議長]][[ラウル・カストロ]]が同時刻に両国の[[国交]]正常化交渉の開始を発表した<ref>{{Cite news|title=【米・キューバ正常化交渉】大使館開設へ オバマ、カストロ両氏、声明発表…半世紀の政策転換|newspaper=産経新聞|date=2014-12-18|url=https://www.sankei.com/article/20141218-OOC673QRQRKA5B2Z6ZS4FF6LIY/|accessdate=2015-12-24}}</ref>。
{{Main|キューバの雪解け}}
* [[12月28日]] - [[インドネシア]]の[[ジャワ島]]東部、[[スラバヤ]]にある[[ジュアンダ国際空港]]から[[シンガポール]]の[[シンガポール・チャンギ国際空港|チャンギ国際空港]]に向かって[[飛行]]していた航空便が現地時間(UTC+7)、2014年12月28日の朝5時35分に出発した後、現地時間6時17分に消息を絶った<ref name="nhk_20141228">{{Cite news |title= ジャワ島発のエアアジア機 消息絶つ|newspaper= NHK|date= 2014-12-28|author= |url= http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141228/j67710410000.html|accessdate=2014-12-28}}</ref>。乗員乗客162人全員が死亡([[インドネシア・エアアジア8501便墜落事故]])。
== 周年 ==
※ ここでは、周年であること自体に意義のある事物のみ解説し、期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日起点で説明する。
* [[2月8日]] - [[日露戦争]]開戦から110年<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/news/140209/erp14020920050002-n1.htm 日露戦争の沈没艦を慰霊 開戦110年、ウラジオで] MSN産経新聞 2014年2月9日。</ref>。
* [[3月8日]] - [[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]]生誕300年
* [[3月20日]] - [[いかりや長介]]没後10周年。
* [[3月22日]] - [[丸山眞男]]生誕100年
* [[4月1日]] - [[韓国高速鉄道]](KTX)開業10周年<ref>[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/03/31/2014033101553.html KTX 開業10年、韓国人の生活はどう変わった?] 朝鮮日報 2014年3月31日閲覧。</ref>。
* [[4月21日]] - [[ゲームボーイ]]発売開始25周年。
* [[4月17日]] - [[フォード・マスタング]]発表50周年<ref>[http://www.mustang50thbirthdaycelebration.com/ MUSTANG 50TH BIRTHDAY CELEBRATION]</ref>
* [[4月26日]] - [[ウィリアム・シェイクスピア]]生誕450年
* [[5月1日]] - [[アイルトン・セナ]]事故死から20年<ref>[http://f1-gate.com/williams/f1_22626.html ウィリアムズ、アイルトン・セナ没後20年記念ロゴをFW36に掲載] F1-Gate.com</ref>。
* [[5月4日]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]の[[イタリア]]・[[エルバ島]]への追放200周年<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3014206 ナポレオン上陸から200年、流刑地の島で再現イベント 伊] AFP bbnews 2014年05月05日。</ref>。
* [[6月4日]] - [[六四天安門事件]]から25年(4月26日、[[香港]]に常設の「六四記念館」オープン<ref>{{Cite news|date=2014-05-27|url=http://jp.ntdtv.com/news/10809/%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%80%8C%E5%85%AD%E5%9B%9B%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8%E3%80%8D%E6%9D%A5%E5%A0%B4%E8%80%85%E3%81%AE%E5%8D%8A%E5%88%86%E3%81%AF%E5%A4%A7%E9%99%B8%E4%BA%BA|title=香港「六四記念館」来場者の半分は大陸人|publisher=新唐人電視台|accessdate=2014-06-04}}</ref>)
* [[6月6日]] - [[ノルマンディー上陸作戦]]70周年<ref>{{Cite news|date=2014-06-06|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N6R36B6JTSE801.html|title=米ロ首脳が非公式会談、仏ノルマンディー上陸作戦記念式典で|newspaper=Bloomberg.co.jp|publisher=BLOOMBERG L.P.|accessdate=2014-06-06}}</ref>。
* {{仮リンク|第一次世界大戦100周年|en|First World War centenary}}(2018年まで欧米を中心とした世界各地で式典予定)
* [[6月11日]] - [[リヒャルト・シュトラウス]]生誕150年
** [[6月26日]] - [[ベルギー]]・[[ウェスト=フランデレン州]][[イーペル]](大戦中同地で初使用された[[マスタードガス]]の通称イペリットの名称由来の地)で[[欧州連合]]首脳による第一次世界大戦100周年記念式典<ref>{{Cite news|title=EU首脳、ベルギーで第一次大戦100年記念式典|newspaper=産経新聞|date=2014-06-27|url=https://www.sankei.com/world/news/140627/wor1406270025-n1.html|accessdate=2014-06-29}}</ref>。
** [[6月28日]] - [[サラエボ事件]]100周年<ref>{{Cite news|date=2014-06-29|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/140629/erp14062901550003-n1.htm|title=人類平和と共存へ誓い 第1次大戦の教訓胸に サラエボ事件100年で式典|newspaper=MSN産経ニュース|publisher=The Sankei Shimbun & Sankei Digital|accessdate=2014-06-29}}</ref>。
* [[7月25日]] - [[日清戦争]]開戦120周年<ref>[http://www.jicl.jp/old/hitokoto/backnumber/20140407.html 日清戦争・東学農民戦争の120年] 法学館憲法研究所。</ref>。
* [[8月9日]] - [[トーベ・ヤンソン]]生誕100年
* [[8月15日]] - [[パナマ運河]]開通100周年<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol100/index.html パナマ~運河とともに発展を続ける国] 外務省。</ref>。
* [[9月1日]] - [[リョコウバト]]絶滅から100年
* [[10月4日]] - [[ジャン=フランソワ・ミレー]]生誕200年
* [[11月24日]] - [[アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック]]生誕150年
* [[11月25日]] - [[ジョー・ディマジオ]]生誕100年
* [[12月2日]] - [[ニンテンドーDS]]発売10周年。
* [[12月3日]] - [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]発売20周年。
* [[12月12日]] - [[PlayStation Portable]]発売10周年。
* [[12月26日]] - [[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]から10年<ref>[http://jp.wsj.com/articles/SB11780535754685564831004580360023410307764 スマトラ島沖地震・インド洋大津波から10年] WSJ 2014年12月27日閲覧。</ref>。
* 日付未定
** 日本と[[ブルネイ]]友好30周年<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/page3_000591.html 2014年「日・ブルネイ友好30周年」ロゴマークの決定] 外務省</ref>。
== イベント・行事 ==
=== 国際年 ===
{{seealso|国際年}}
* [[世界結晶年]](International Year of Crystallography)
* [[国際家族農業年]](International Year of Family Farming)
== 天文現象 ==
{{seealso|2014年の気象・地象・天象}}
* [[1月21日]] - [[Ia型超新星]] [[SN 2014J]]がロンドン大学天文台によって発見された。
* [[2月15日]] - [[金星]]が-4.6[[等級 (天文)|等級]]の最大光度に達する<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/038d1e23e392bfdaf930acfa78159c2f3b3d4629 来年の天文現象 2014年はどんな年?](縣秀彦 自然科学研究機構 国立天文台准教授(教育学博士)/Yahoo!ニュース 2013年12月19日)</ref>。
* 4月 - [[太陽活動]]の[[黒点]][[太陽極大期|極大期]]を迎えた([[第24太陽周期]])<ref name="sorae200916">[https://sorae.info/astronomy/20200916-the-solar-cycle25-prediction-panel.html 第25太陽活動周期の開始を確認。極小期は2019年12月だった](sorae 2020年9月16日)</ref><ref name="astropics200916">[https://astropics.bookbright.co.jp/solar-cycle-25-is-here 太陽活動の第25周期がスタート](アストロピクス 2020年9月16日)</ref><ref>[https://solarwww.mtk.nao.ac.jp/jp/activity/2021/activity_2021.html 2021年の太陽活動]([[国立天文台]] 太陽観測科学プロジェクト 三鷹太陽地上観測)</ref>。
* [[4月15日]] - 皆既[[月食]](観測域:[[北アメリカ大陸|北米大陸]]など)
* [[4月29日]] - 金環[[日食]](観測域:[[南極大陸]])
* [[5月23日]] - 直径130mの[[小惑星]] {{mpl|2007 VK|184}} が地球最接近。なお、この小惑星は[[2048年]]の再接近時に地球と[[隕石衝突|衝突]]する可能性が僅かに指摘されていたが、今年3月下旬の観測結果により否定されている<ref>[https://macroanomaly.blogspot.com/2014/04/2007-vk184.html 最も危険な小惑星 2007 VK184 が ・・・](宏観亭見聞録 2014年4月9日)</ref><ref>[http://www.jpl.nasa.gov/asteroidwatch/newsfeatures.cfm?release=2014-106 Asteroid 2007 VK184 Eliminated as Impact Risk to Earth](NASA - April 03, 2014)</ref>。
* [[10月8日]] - 皆既月食(観測域:[[東アジア]]、[[オーストラリア]]東部、北米大陸、[[南アメリカ大陸|南米大陸]]西部など)
* [[10月19日]] - [[サイディング・スプリング彗星 (C/2013 A1)|サイディング・スプリング彗星]]が[[火星]]に極めて接近する。
* [[10月24日]] - 部分日食(観測域:[[シベリア]]東部から北米大陸など)
== 自然科学 ==
; {{Visible anchor|STAP細胞に関する騒動}}
: [[日本]]の[[理化学研究所]]発生・再生科学総合研究センターなど日米の共同研究チームは、[[ハツカネズミ#実験用マウス|マウス]]の体細胞を酸性の溶液に浸して刺激を与えることで、あらゆる細胞に変化できる[[人工多能性幹細胞|万能細胞]]「[[刺激惹起性多能性獲得細胞|STAP(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency=刺激惹起性多能性獲得)細胞]]」を世界で初めて作製することに成功したと発表<ref>{{cite news|date=2014-01-30|url=http://mainichi.jp/shimen/news/20140130ddm001040175000c.html|title=万能細胞:マウスで初の作製 簡単、がん化せず 「STAP細胞」命名−−理研など|publisher=毎日新聞|accessdate=2014-01-29}}</ref>、[[1月30日]]付けの[[ネイチャー]]に論文が掲載された。しかし、発表直後から様々な疑義や論文の不正などが指摘され、[[7月2日]]には論文を撤回する事態にもなっており<ref>{{Cite news|newspaper=NATURE EDITORIAL Sharing|title=STAP retracted - Two retractions highlight long-standing issues of trust and sloppiness that must be addressed|date=2014-07-02|url=http://www.nature.com/news/stap-retracted-1.15488|accessdate=2014-07-03}}</ref>、細胞の実在についてその信憑性が大きく揺らいでいる。
== 経済 ==
{{See|2014年の経済}}
== 政治 ==
{{See|2014年の政治}}
== 芸術・文化・ファッション ==
=== 世相 ===
* [[アラブの春]]から派生した[[シリア内戦]]を契機として、[[シリア]]・[[イラク]]両国内で勢力を伸ばす[[サラフィー・ジハード主義]]組織[[ISIL]](IS)が国家の樹立を一方的に宣言(国際的に[[国家の承認|承認]]されていない)<ref name="Dow Jones & Company, Inc"/>、イラク北西部の複数の都市を制圧下に置くなど地域情勢が緊迫化。これに対抗するため、[[アメリカ軍]]らが両国内の拠点施設などに対して[[空爆]]作戦を実施するに至っている。
* 昨年の12月に[[ギニア]]で発生した[[エボラ出血熱]]の流行は隣国の[[シエラレオネ]]、[[リベリア]]にも波及し、本年8月には[[世界保健機関]] (WHO) が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」と宣言。10月の時点で感染者は1万人を超え死者も5千人に迫っていたが、12月末の時点では2万人以上の感染者と8千人近くの死者を出すなど、依然としてかつてない規模で感染拡大を続けており、深刻な事態となっている([[2014年の西アフリカエボラ出血熱流行]])。
* [[イギリス]]から独立するか否かについて[[スコットランド]]で[[住民投票]]が実施された。イギリスの別の地域や他国の[[独立運動]]にも波及する可能性があり結果が注目されたが、反対55%で独立は否決された([[2014年スコットランド独立住民投票]])。
* 8月31日に[[ジェニファー・ローレンス]]を筆頭にハリウッドスターら有名人100人以上の[[クラッキング (コンピュータ)|クラッキング]]されたプライベート写真が流出する「史上最大の著名人ヌード写真リーク事件」が発生している<ref>{{cite web|title=Jennifer Lawrence NUDE photos leaked: Star among 101 others 'victim to mass hacker'|url=http://www.mirror.co.uk/3am/celebrity-news/jennifer-lawrence-nude-photos-leaked-4142426|website=Mirror.co.uk|accessdate=2014-09-01}}</ref>。その後も被害は拡大しており、10月5日には流出第4弾「Fappening 4」の画像がネット上に出回った<ref>{{cite web|url=http://thehackernews.com/2014/10/the-fappening-4-more-celebrity-nude_6.html|title=The Fappening 4: More Nude Photos Of Stars Leak Online|accessdate=2014-10-28}}</ref>([[2014年iCloudからの著名人プライベート写真大量流出事件]])。
=== 芸能界 ===
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[昼]]の[[帯番組]]『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』が3月31日の放送を以て終了して、32年半の歴史に幕を下ろした。
=== スポーツ ===
{{see|2014年のスポーツ}}
=== 音楽 ===
{{see|2014年の音楽}}
=== 映画 ===
{{main|2014年の映画}}
* [[アメリカン・スナイパー]]
* [[イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密]]
* [[インターステラー (映画)|インターステラー]]
* [[ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー (映画)|ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー]]
* [[キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー]]
* [[キングスマン]]
* [[グランド・ブダペスト・ホテル]]
* [[ゴーン・ガール]]
* [[ジャージー・ボーイズ (映画)|ジャージー・ボーイズ]]
* [[セッション (映画)|セッション]]
* [[ナイトクローラー (映画)|ナイトクローラー]]
* [[バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)]]
* [[フォックスキャッチャー]]
* [[6才のボクが、大人になるまで。]]
* [[GODZILLA ゴジラ]]
* [[LEGO ムービー]]
* [[ヒックとドラゴン2]]
* [[ペンギンズ FROM マダガスカル ザ・ムービー]]
* [[ブック・オブ・ライフ 〜マノロの数奇な冒険〜]]
* [[ベイマックス]]
<!-- * [[天才犬ピーボ博士のタイムトラベル]] -->
=== 文学 ===
{{see|2014年の文学}}
== 誕生 ==
{{see also|2014年の日本#誕生|Category:2014年生}}
=== 1月 - 6月 ===
* [[1月13日]] - [[嶋田鉄太]]、[[子役]]、[[男優]]
* [[1月22日]] - [[森優理斗]]、[[子役]]、[[男優]]
* [[2月17日]] - [[鳴海竜明]]、[[子役]]、[[男優]]
* [[2月20日]] - [[レオノール (ゴットランド公)|レオノール]]、[[スウェーデン]]王女
* [[3月14日]] - [[落井実結子]]、[[子役]]、[[俳優#性別での分類|女優]]
* 3月14日 - [[西川玲]]、[[子役]]、女優
* [[4月1日]] - [[高木波瑠]]、[[子役]]、[[男優]]
* [[4月30日]] - [[西村瑞季]]、[[子役]]、女優
* [[5月12日]] - [[キム・ジュン (2014年生の俳優)|キム・ジュン]]、[[大韓民国|韓国]]の子役
* [[5月27日]] - [[笹本旭]]、[[子役]]、[[男優]]
* [[6月20日]] - [[沖田絃乃]]、[[子役]]、女優
* 6月20日 - [[マイカ・ピュ]]、[[子役]]、女優
=== 7月 - 12月 ===
* [[8月17日]] - [[小山蒼海]]、[[子役]]、[[男優]]
* [[11月22日]] - [[野田あかり]]、[[子役]]、女優
* [[12月10日]] - [[ガブリエラ・ド・モナコ]]
* 12月10日 - [[ジャック・ド・モナコ]]
=== 人物以外 ===
* [[4月4日]] - [[ディアドラ (競走馬)|ディアドラ]]、競走馬
* [[5月13日]] - [[キセキ (競走馬)|キセキ]]、競走馬
* [[12月2日]] - [[桜浜]]、[[ジャイアントパンダ]]
* 12月2日 - [[桃浜]]、[[ジャイアントパンダ]]
== 死去 ==
{{See|訃報 2014年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]]:[[赤﨑勇]]、[[天野浩]]、[[中村修二]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]]:[[エリック・ベツィグ]]、[[シュテファン・ヘル]]、[[ウィリアム・モーナー]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]]:[[ジョン・オキーフ]]、[[マイブリット・モーセル]]、[[エドバルド・モーセル]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]]:[[パトリック・モディアノ]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]]:[[マララ・ユスフザイ]]、[[カイラシュ・サティーアーティ]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]]:[[ジャン・ティロール]]
== フィクションのできごと ==
* 火星のヴァース帝国が、地球連合に対し宣戦を布告。帝国の攻撃により世界各国の主要都市が陥落する。(アニメ『[[アルドノア・ゼロ]]』)
* アベンチュール級亜光速探査船によって、人類初の有人[[木星探査]]が行われる。(『[[スタートレック]]』シリーズ)<ref>{{Cite book |last1 = Goldstein |first1 = Stan |last2 = Goldstein |first2 = Fred |title = STAR TREK SPACEFLIGHT CHRONOLOGY |publisher = Pocket Books |date = 1979-12 |page = 30 - 33・36・37 |isbn = 978-0-671-79089-9}}</ref>
* ミニマムホルダーによる関連事件が発生する。(アニメ『[[ハマトラ (アニメ)|ハマトラ]]』シリーズ)
* ガンズ・オブ・ザ・パトリオット事件が発生。[[愛国者達]]が消滅する。(ゲーム『[[メタルギアソリッド4]]』)
* アメリカの木星観測ステーションが、[[わし座|鷲座]]方面の太陽系外から飛来した宇宙船が放つ電波を探知。「スナーク」と名付けられた宇宙船は火星近傍を経て金星へと向かい、金星観測ステーションから発信された信号に対し返信を行う。(小説『{{仮リンク|夜の大海の中で|en|In the Ocean of Night}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= グレゴリイ・ベンフォード|authorlink=グレゴリイ・ベンフォード |title = 夜の大海の中で |publisher = [[早川書房]] |year = 1986 |pages = 53,65-78,96-102,124-127,145,146,155,184-186,198-202,441 |isbn = 978-4-15-010658-4}}</ref>
* [[ダーレク]]が[[エイミー・ポンド]]とローリー・ウィリアムズを拉致する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
* スコヴォックス・ブリッツァーが地球破壊を計画。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
* [[2次元]]の存在が[[3次元]]の存在への攻撃を開始する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
* [[太陽フレア]]に備え、地球全域の森林が急激に成長する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
* 地球全土の死体が[[サイバーマン]]へアップグレードされる。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
''一部の出典の記事タイトルに伏字としている部分がある''
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
{{commons&cat|2014|2014}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
* {{日本語版にない記事リンク|2014年における世界各地の指導者一覧|en|List of state leaders in 2014}}
{{十年紀と各年|世紀=21|年代=2000}}
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[[Category:2014年|*]]
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|
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プログラマブル・カウンタ
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プログラマブル・カウンタ(英: Programmable Counter)とは電子回路の一つで、任意の回数の入力信号変化を計数することができるカウンタ。
プログラマブル・カウンタは、通常2つのレジスタから構成される。1つは入力パルスがある度に1ずつ増加する回路を持つもので、もう1つは前者をクリアする値を保持しておくものである。CPUがこれらのレジスタの値を読み書きできるようになっていることが多い。
また、これらのレジスタの値を比較して、一致した場合にカウント値をゼロクリアする信号を生成する回路も持っている。このクリア信号はたいてい外部に取り出せるようになっており、CPUに対して割り込みをかける用途に用いられたり、他のカウンタ回路の入力に用いられたりする。
カウンタをクリアするカウント値としてNを設定した場合、クリア信号は入力Nパルス毎に発生することとなる。つまり、入力に定期的に繰り返すパルス信号を与えた場合には、その周波数を1/Nにしたパルス信号を出力する。この観点から、プログラマブル・カウンタは「1/N分周器」と呼ばれることがある。また、この場合の設定値Nを分周比と呼ぶ。
例えばシリアル通信における通信速度(ボーレート)を様々に変化させたい(様々な通信速度に対応できる機器を作りたい)場合、分周比をCPUから自由に変えることができるプログラマブル・カウンタが必要になる。
プログラマブル・カウンタには、入力パルスをカウントする回路の前段に、別のカウンタが併設されていることが多い。この前段のカウンタはプリスケーラと呼ばれる。プリスケーラは回路の簡素化のために、2、4、16など2の冪乗の回数をカウントする毎に出力パルスが出るものであることが多い。
CPUから設定する値が、カウンタをゼロクリアする値ではなく、カウンタがオーバーフロー(最大値を過ぎるまでカウントアップ)した時にリセットする初期値であるように設計されたプログラマブル・カウンタも多い。この場合、設定するのは分周比そのものではなく、[カウンタが計数することのできる最大値-N+1](2の補数表現として見れば-N)を設定することにより1/N分周器となる。例えば、カウンタ部が8bitで構成されていた場合、(255-10+1)=246を設定すると入力周波数を1/10にする分周器になる。プログラマブル・カウンタをそのような機構にすると、回路が若干簡単になる。
かつてはプログラマブル・カウンタはそれだけで1つのICとして用いられていたが、近年はCPUの付属周辺回路としてCPUチップの中に入ってしまっていたり、CPUの周辺処理を一手に引き受けるチップセットLSIの中の1回路として組み込まれていることのほうが多い。
組み込み機器向けに設計されたCPUの場合、プログラマブル・カウンタに様々な付加機能を与える回路が付いていることが多い。例えば、カウンタをクリアする値の他に、出力値をOFFからONに切り替えるカウンタ値をセットできるレジスタを持っている場合、2つのレジスタの設定をうまく調整すると、ONである時間とOFFである時間を独立に調整しデューティ比を自在に設定した出力波形を作ることができる。このような、パルス幅を制御する技術はPWMと呼ばれ、発光体の明るさの調整や音の音色の調整など様々な用途で用いられている。
また、カウントアップのための入力信号とは別の入力信号と連動し、信号がONである間だけカウントを行ない、信号が途切れた時にカウント値を別のレジスタに転送するという機能を持つものもある。この場合、信号がONであった時間を精密に測定することができる。さらに、カウント値をデジタルアナログ変換する回路と、その出力電圧と外部入力電圧を比較して一致しているかどうかを検出する回路(アナログ・コンパレータ)をつけることにより、簡易型のアナログデジタル変換器を構成することができる。このように構成したアナログデジタル変換器は、変換時間が長くかかるという欠点を持つものの、ごく簡単な回路で作成することができ、IC上への集積も容易であるため、多く用いられている。
これらのように、多機能化したプログラマブル・カウンタは、ICU (Intelligent Counter Unit)やITU (Intelligent Timer Unit)などと呼ばれることがある。
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プログラマブル・カウンタとは電子回路の一つで、任意の回数の入力信号変化を計数することができるカウンタ。 プログラマブル・カウンタは、通常2つのレジスタから構成される。1つは入力パルスがある度に1ずつ増加する回路を持つもので、もう1つは前者をクリアする値を保持しておくものである。CPUがこれらのレジスタの値を読み書きできるようになっていることが多い。 また、これらのレジスタの値を比較して、一致した場合にカウント値をゼロクリアする信号を生成する回路も持っている。このクリア信号はたいてい外部に取り出せるようになっており、CPUに対して割り込みをかける用途に用いられたり、他のカウンタ回路の入力に用いられたりする。 カウンタをクリアするカウント値としてNを設定した場合、クリア信号は入力Nパルス毎に発生することとなる。つまり、入力に定期的に繰り返すパルス信号を与えた場合には、その周波数を1/Nにしたパルス信号を出力する。この観点から、プログラマブル・カウンタは「1/N分周器」と呼ばれることがある。また、この場合の設定値Nを分周比と呼ぶ。 例えばシリアル通信における通信速度(ボーレート)を様々に変化させたい(様々な通信速度に対応できる機器を作りたい)場合、分周比をCPUから自由に変えることができるプログラマブル・カウンタが必要になる。 プログラマブル・カウンタには、入力パルスをカウントする回路の前段に、別のカウンタが併設されていることが多い。この前段のカウンタはプリスケーラと呼ばれる。プリスケーラは回路の簡素化のために、2、4、16など2の冪乗の回数をカウントする毎に出力パルスが出るものであることが多い。 CPUから設定する値が、カウンタをゼロクリアする値ではなく、カウンタがオーバーフロー(最大値を過ぎるまでカウントアップ)した時にリセットする初期値であるように設計されたプログラマブル・カウンタも多い。この場合、設定するのは分周比そのものではなく、[カウンタが計数することのできる最大値-N+1](2の補数表現として見れば-N)を設定することにより1/N分周器となる。例えば、カウンタ部が8bitで構成されていた場合、(255-10+1)=246を設定すると入力周波数を1/10にする分周器になる。プログラマブル・カウンタをそのような機構にすると、回路が若干簡単になる。 かつてはプログラマブル・カウンタはそれだけで1つのICとして用いられていたが、近年はCPUの付属周辺回路としてCPUチップの中に入ってしまっていたり、CPUの周辺処理を一手に引き受けるチップセットLSIの中の1回路として組み込まれていることのほうが多い。 組み込み機器向けに設計されたCPUの場合、プログラマブル・カウンタに様々な付加機能を与える回路が付いていることが多い。例えば、カウンタをクリアする値の他に、出力値をOFFからONに切り替えるカウンタ値をセットできるレジスタを持っている場合、2つのレジスタの設定をうまく調整すると、ONである時間とOFFである時間を独立に調整しデューティ比を自在に設定した出力波形を作ることができる。このような、パルス幅を制御する技術はPWMと呼ばれ、発光体の明るさの調整や音の音色の調整など様々な用途で用いられている。 また、カウントアップのための入力信号とは別の入力信号と連動し、信号がONである間だけカウントを行ない、信号が途切れた時にカウント値を別のレジスタに転送するという機能を持つものもある。この場合、信号がONであった時間を精密に測定することができる。さらに、カウント値をデジタルアナログ変換する回路と、その出力電圧と外部入力電圧を比較して一致しているかどうかを検出する回路(アナログ・コンパレータ)をつけることにより、簡易型のアナログデジタル変換器を構成することができる。このように構成したアナログデジタル変換器は、変換時間が長くかかるという欠点を持つものの、ごく簡単な回路で作成することができ、IC上への集積も容易であるため、多く用いられている。 これらのように、多機能化したプログラマブル・カウンタは、ICUやITUなどと呼ばれることがある。
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{{複数の問題
|出典の明記=2016-04
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'''プログラマブル・カウンタ'''({{lang-en-short|Programmable Counter}})とは[[電子回路]]の一つで、任意の回数の入力信号変化を計数することができる[[カウンタ (電子回路)|カウンタ]]。
プログラマブル・カウンタは、通常2つの[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]から構成される。1つは入力パルスがある度に1ずつ増加する回路を持つもので、もう1つは前者をクリアする値を保持しておくものである。[[CPU]]がこれらのレジスタの値を読み書きできるようになっていることが多い。
また、これらのレジスタの値を比較して、一致した場合にカウント値をゼロクリアする信号を生成する回路も持っている。このクリア信号はたいてい外部に取り出せるようになっており、CPUに対して[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]をかける用途に用いられたり、他のカウンタ回路の入力に用いられたりする。
カウンタをクリアするカウント値としてNを設定した場合、クリア信号は入力Nパルス毎に発生することとなる。つまり、入力に定期的に繰り返すパルス信号を与えた場合には、その周波数を1/Nにしたパルス信号を出力する。この観点から、プログラマブル・カウンタは「1/N分周器」と呼ばれることがある。また、この場合の設定値Nを分周比と呼ぶ。
例えば[[シリアル通信]]における通信速度([[ボーレート]])を様々に変化させたい(様々な通信速度に対応できる機器を作りたい)場合、分周比をCPUから自由に変えることができるプログラマブル・カウンタが必要になる。
プログラマブル・カウンタには、入力パルスをカウントする回路の前段に、別のカウンタが併設されていることが多い。この前段のカウンタはプリスケーラと呼ばれる。プリスケーラは回路の簡素化のために、2、4、16など2の[[冪乗]]の回数をカウントする毎に出力パルスが出るものであることが多い。
CPUから設定する値が、カウンタをゼロクリアする値ではなく、カウンタがオーバーフロー(最大値を過ぎるまでカウントアップ)した時にリセットする初期値であるように設計されたプログラマブル・カウンタも多い。この場合、設定するのは分周比そのものではなく、[カウンタが計数することのできる最大値-N+1]([[2の補数]]表現として見れば-N)を設定することにより1/N分周器となる。例えば、カウンタ部が8[[ビット|bit]]で構成されていた場合、(255-10+1)=246を設定すると入力周波数を1/10にする分周器になる。プログラマブル・カウンタをそのような機構にすると、回路が若干簡単になる。
かつてはプログラマブル・カウンタはそれだけで1つの[[集積回路|IC]]として用いられていたが、近年はCPUの付属周辺回路としてCPUチップの中に入ってしまっていたり、CPUの周辺処理を一手に引き受ける[[チップセット|チップセットLSI]]の中の1回路として組み込まれていることのほうが多い。
組み込み機器向けに設計されたCPUの場合、プログラマブル・カウンタに様々な付加機能を与える回路が付いていることが多い。例えば、カウンタをクリアする値の他に、出力値をOFFからONに切り替えるカウンタ値をセットできるレジスタを持っている場合、2つのレジスタの設定をうまく調整すると、ONである時間とOFFである時間を独立に調整し[[デューティ比]]を自在に設定した出力波形を作ることができる。このような、パルス幅を制御する技術は[[パルス幅変調|PWM]]と呼ばれ、発光体の明るさの調整や音の音色の調整など様々な用途で用いられている。
また、カウントアップのための入力信号とは別の入力信号と連動し、信号がONである間だけカウントを行ない、信号が途切れた時にカウント値を別のレジスタに転送するという機能を持つものもある。この場合、信号がONであった時間を精密に測定することができる。さらに、カウント値を[[デジタル-アナログ変換回路|デジタルアナログ変換]]する回路と、その出力電圧と外部入力電圧を比較して一致しているかどうかを検出する回路([[コンパレータ|アナログ・コンパレータ]])をつけることにより、簡易型の[[アナログ-デジタル変換回路|アナログデジタル変換]]器を構成することができる。このように構成したアナログデジタル変換器は、変換時間が長くかかるという欠点を持つものの、ごく簡単な回路で作成することができ、IC上への集積も容易であるため、多く用いられている。
これらのように、多機能化したプログラマブル・カウンタは、ICU ({{lang|en|Intelligent Counter Unit}})やITU ({{lang|en|Intelligent Timer Unit}})などと呼ばれることがある。
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プレイヤーキャラクター
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プレイヤーキャラクター(player character、PC)は、ロールプレイングゲームの遊び手(プレイヤー)が操作を担当する登場人物(キャラクター)である。プレイヤーズキャラクター(player’s character)ともいう。
対語はノンプレイヤーキャラクター(non-player character、NPC)で、こちらは審判役の参加者(ゲームマスター)またはゲームソフト側、もしくはオンラインRPGの運営会社が操作を担当するキャラクターである。
なお、遊び手に対応するプレイヤーの略称は、大抵がPLであるが、まれにPYが使われる。
ストーリー性の強い1人用ゲームであれば、いわゆる主人公キャラクターとPCはほぼ同一であることがある。
テーブルトークRPG (TRPG) では、通常ひとりの遊び手(プレイヤー)は1人のPCを担当する。ゲームの都合上、PCの知識や性格と、プレイヤーとして持っている知識や性格とを区別してプレイすることが要求される。これはプレイヤー自身の社会的立場とは別のシチュエーションに生きている人物としてのPCをよりそれらしく扱い、描き出すためとされる。PCは、ゲーム進行役であるゲームマスター (GM) が演じるNPCからクエストを引き受けてロールプレイをすることができる。
コンピュータRPGでは、チームとして行動する複数のキャラクターを1人のプレイヤーが操作することが多い。これは、テーブルトークRPGが基本的に複数の人間が集まって遊ぶゲームであるのに対し、コンピュータRPGが1人でも遊べるゲームとしてデザインされていることによる。ただし、コンピュータRPGであっても、多数の人間が集まって遊ぶMORPGやMMORPGは、1人のPCを担当することがある。
時に、RPGと関わりが深いゲームブックについても、PCやNPCの概念が適用されることがある。ゲームブックは1人遊び用で、PCは1人であることが多い。
普通は1人のPCを複数のプレイヤーが共同で担当することはないが、Clockworks社から出版されたテーブルトークRPG『Asylum』では多重人格のキャラクターのルールが定められており、1人のPCを複数のプレイヤーが奪い合ってゲームが進行していく。
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プレイヤーキャラクターは、ロールプレイングゲームの遊び手(プレイヤー)が操作を担当する登場人物(キャラクター)である。プレイヤーズキャラクターともいう。 対語はノンプレイヤーキャラクターで、こちらは審判役の参加者(ゲームマスター)またはゲームソフト側、もしくはオンラインRPGの運営会社が操作を担当するキャラクターである。 なお、遊び手に対応するプレイヤーの略称は、大抵がPLであるが、まれにPYが使われる。
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{{出典の明記|date=2012年1月}}
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'''プレイヤーキャラクター'''({{en|player character}}、'''PC''')は、[[ロールプレイングゲーム]]の遊び手([[プレイヤー (ゲーム)|プレイヤー]])が操作を担当する登場人物([[キャラクター]])である。<!-- '''プレイアブルキャラクター'''({{en|playable character}}) -->'''プレイヤーズキャラクター'''({{en|player’s character}})ともいう。
対語は'''[[ノンプレイヤーキャラクター]]'''({{en|non-player character}}、'''NPC''')で、こちらは審判役の参加者([[ゲームマスター]])または[[ゲームソフト]]側、もしくはオンラインRPGの[[サクラ_(おとり)|運営会社が操作を担当するキャラクター]]である。
なお、遊び手に対応する'''プレイヤーの略称'''は、大抵が'''PL'''であるが、まれに'''PY'''が使われる。
[[ファイル:Fortnite cosplay at E3 2018.jpg|サムネイル|[[フォートナイト (ゲーム)|フォートナイト]]のキャラクター]]
== プレイヤーとPCの対応 ==
ストーリー性の強い1人用ゲームであれば、いわゆる主人公キャラクターとPCはほぼ同一であることがある。
[[テーブルトークRPG]] (TRPG) では、通常ひとりの遊び手(プレイヤー)は1人のPCを担当する。ゲームの都合上、PCの知識や性格と、プレイヤーとして持っている知識や性格とを区別してプレイすることが要求される。これはプレイヤー自身の社会的立場とは別のシチュエーションに生きている人物としてのPCをよりそれらしく扱い、描き出すためとされる。PCは、ゲーム進行役である[[ゲームマスター]] (GM) が演じるNPCから[[クエスト]]を引き受けてロールプレイをすることができる。
[[コンピュータRPG]]では、[[パーティ|チームとして行動する複数のキャラクター]]を1人のプレイヤーが操作することが多い。これは、テーブルトークRPGが基本的に複数の人間が集まって遊ぶゲームであるのに対し、コンピュータRPGが1人でも遊べるゲームとしてデザインされていることによる。ただし、コンピュータRPGであっても、多数の人間が集まって遊ぶ[[MORPG]]や[[MMORPG]]は、1人のPCを担当することがある。
時に、RPGと関わりが深い[[ゲームブック]]についても、PCやNPCの概念が適用されることがある。ゲームブックは1人遊び用で、PCは1人であることが多い。
普通は1人のPCを複数のプレイヤーが共同で担当することはないが、Clockworks社から出版されたテーブルトークRPG『Asylum』<ref>[https://index.rpg.net/display-entry.phtml?mainid=328 Asylum - RPGnet RPG Game Index]</ref>では[[多重人格]]のキャラクターのルールが定められており、1人のPCを複数のプレイヤーが奪い合ってゲームが進行していく。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[自機]]
* [[主人公]]
* [[ノンプレイヤーキャラクター]]
* [[ゲームマスター]]
* [[アバター]]
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[[Category:RPG用語]]
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ポリカーボネート
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ポリカーボネート(英: polycarbonate)は、熱可塑性プラスチックの一種。化合物名字訳基準に則った呼称はポリカルボナート。様々な製品の材料として利用されている。モノマー単位同士の接合部は、すべてカーボネート基 (-O-(C=O)-O-) で構成されるため、この名が付けられた。ポリカ、PCと省略されることもある。また、アクリル樹脂などと共に有機ガラスとも呼ばれる。ドイツのバイエル社が開発した。
ビスフェノールAとホスゲン(塩化カルボニル)、もしくはジフェニルカーボネートを原料として生産される。ホスゲンを用いる場合は、界面重縮合でポリマー化される。また、ジフェニルカーボネートを用いる場合は、エステル交換による重合で合成される。
日本では、三菱ガス化学が1971年に量産化している。鹿島工場(茨城県神栖市)で年間12万トン、タイ工場で14万トン、上海工場で8万トンの生産能力を持ち、国内トップシェアである。
透明性・耐衝撃性・耐熱性・難燃性・寸法安定性などにおいて、高い物性を示す。耐衝撃性は一般的なガラスの250倍以上といわれる。
エンジニアリングプラスチックの中でも平均して高い物性を示す樹脂であり、かつ透明性をもつために光学用途にも使用でき、その物性に比べて安価であり、航空機・自動車など輸送機器、電気・電子光学・医療機器、防弾ガラスの材料などに広く用いられている。機械的強度も優れているので力のかかるプラスチックねじで最も多く使われている材料である。
サンスター文具は本材料で作った筆入れ「アーム筆入れ」の頑丈さを、「象が踏んでも壊れない」というキャッチコピーのテレビCMでアピールした。採用契機は、開発担当者が「ニュース映画で見た『暴走族が信号機に投石しているにもかかわらず、信号機のレンズが割れなかったこと』に驚き、警察に問い合わせて材質を聞いた」ことにあったという。
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"text": "ビスフェノールAとホスゲン(塩化カルボニル)、もしくはジフェニルカーボネートを原料として生産される。ホスゲンを用いる場合は、界面重縮合でポリマー化される。また、ジフェニルカーボネートを用いる場合は、エステル交換による重合で合成される。",
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"text": "日本では、三菱ガス化学が1971年に量産化している。鹿島工場(茨城県神栖市)で年間12万トン、タイ工場で14万トン、上海工場で8万トンの生産能力を持ち、国内トップシェアである。",
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"text": "透明性・耐衝撃性・耐熱性・難燃性・寸法安定性などにおいて、高い物性を示す。耐衝撃性は一般的なガラスの250倍以上といわれる。",
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"text": "エンジニアリングプラスチックの中でも平均して高い物性を示す樹脂であり、かつ透明性をもつために光学用途にも使用でき、その物性に比べて安価であり、航空機・自動車など輸送機器、電気・電子光学・医療機器、防弾ガラスの材料などに広く用いられている。機械的強度も優れているので力のかかるプラスチックねじで最も多く使われている材料である。",
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"text": "サンスター文具は本材料で作った筆入れ「アーム筆入れ」の頑丈さを、「象が踏んでも壊れない」というキャッチコピーのテレビCMでアピールした。採用契機は、開発担当者が「ニュース映画で見た『暴走族が信号機に投石しているにもかかわらず、信号機のレンズが割れなかったこと』に驚き、警察に問い合わせて材質を聞いた」ことにあったという。",
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ポリカーボネートは、熱可塑性プラスチックの一種。化合物名字訳基準に則った呼称はポリカルボナート。様々な製品の材料として利用されている。モノマー単位同士の接合部は、すべてカーボネート基 (-O--O-) で構成されるため、この名が付けられた。ポリカ、PCと省略されることもある。また、アクリル樹脂などと共に有機ガラスとも呼ばれる。ドイツのバイエル社が開発した。
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{{出典の明記|date=2015年10月}}
[[File:Polycarbonate water bottle.JPG|thumb|ポリカーボネート製ボトル]]
[[File:Polycarbonate Greenhouse-00.jpg|thumb|温室のポリカーボネートシート]]
[[File:CD DVD Collections.jpg|thumb|CDとDVD]]
[[File:F-22 Raptor and pilot at Marine Corps Air Station Miramar 25 Jun 2010.jpg|thumb|F-22のコックピットのキャノピー]]
[[File:Laboratory protection goggles-blue.jpg|thumb|実験用安全ゴーグル]]
'''ポリカーボネート'''({{Lang-en-short|polycarbonate}})は、[[熱可塑性樹脂|熱可塑性プラスチック]]の一種。化合物名字訳基準に則った呼称は'''ポリカルボナート'''。様々な製品の材料として利用されている。[[モノマー]]単位同士の接合部は、すべて[[炭酸エステル|カーボネート基]] (-O-(C=O)-O-) で構成されるため、この名が付けられた。'''ポリカ'''、'''PC'''と省略されることもある。また、[[アクリル樹脂]]などと共に[[有機ガラス]]とも呼ばれる。[[ドイツ]]の[[バイエル (企業)|バイエル]]社が開発した。
== 物性 ==
* 密度:1.20 g/cm{{sup|3}}
* 可用温度: −100 ℃ to +180 ℃
* 融点:約250 ℃
* 屈折率: 1.585 ± 0.001
* 光透過率:90% ± 1%
* 熱伝導率:0.19 W/mK
== 製法 ==
[[ファイル:Polycarbonate reaction.PNG|thumb|400px|ビスフェノールAとホスゲンからのポリカーボネートの生成]]
[[ビスフェノールA]]と[[ホスゲン]](塩化カルボニル)、もしくは[[炭酸ジフェニル|ジフェニルカーボネート]]を原料として生産される。ホスゲンを用いる場合は、[[縮合重合|界面重縮合]]で[[重合体|ポリマー]]化される。また、ジフェニルカーボネートを用いる場合は、[[エステル交換反応|エステル交換]]による[[重合反応|重合]]で合成される。
日本では、[[三菱ガス化学]]が[[1971年]]に量産化している。{{いつ範囲|date=2023-02-20|鹿島工場([[茨城県]][[神栖市]])で年間12万トン、[[タイ王国|タイ]]工場で14万トン、[[上海市|上海]]工場で8万トンの生産能力を持ち、国内トップシェアである<ref>[http://www.mgc.co.jp/employ/fields/gousei.html 三菱ガス化学ホームページ]{{dead link|date=2023-02-20}}</ref>。}}
== 特徴 ==
=== 利点 ===
透明性・[[靱性|耐衝撃性]]・[[耐熱性]]・[[耐燃性|難燃性]]・[[寸法安定性]]<!-- ・通電性 --><!--=絶縁性の高さ?-->などにおいて、高い物性を示す。耐衝撃性は一般的なガラスの250倍以上といわれる<ref>http://www.mgc.co.jp/employ/fields/gousei.html</ref>。
[[エンジニアリングプラスチック]]の中でも平均して高い物性を示す樹脂であり、かつ透明性をもつために光学用途にも使用でき、その物性に比べて安価であり、[[航空機]]・[[自動車]]など輸送機器、電気・電子光学・医療機器、[[防弾ガラス]]の材料などに広く用いられている。機械的強度も優れているので力のかかるプラスチック[[ねじ]]で最も多く使われている材料である。
[[サンスター文具]]は本材料で作った筆入れ「アーム筆入れ」の頑丈さを、「[[ゾウ|象]]が踏んでも壊れない」というキャッチコピーのテレビCMでアピールした。採用契機は、開発担当者が「ニュース映画で見た『[[暴走族]]が[[交通信号機|信号機]]に投石しているにもかかわらず、信号機のレンズが割れなかったこと』に驚き、警察に問い合わせて材質を聞いた」ことにあったという<ref>串間努「まぼろし小学校」、1996年、小学館、P43</ref>。
=== 欠点 ===
* 薬品耐久性はあまりよいとは言えない。特にアルカリ剤、[[溶剤]]では劣化する。[[接着剤]]などの使用ができない。
* [[エステル結合]]を持つため、高温高湿度の環境下では[[加水分解]]する。
* 引張強度を超える力をかけると、白化して透明度が著しく低下する。
* 表面の硬度は高くなく、[[鉛筆]]の硬度でHB程度。硬いブラシによる清掃などで容易に傷が付くが<ref>{{Cite web|和書|title=ポリカーボネート(PC)の特徴 高い透明性・自己消火性・耐衝撃性をもつ樹脂 |url=https://www.yumoto.jp/material-onepoint/plastic-polycarbonate|accessdate=2019-5-11 | publisher=湯本電機株式会社 }}</ref>、この弱点を解決した加工をほどこした製品もある<ref>{{cite news |title=ポリカーボネート樹脂として世界最高水準の高表面硬度を実現【帝人化成】 |newspaper=[[自動車技術会]] |date=2011-12-13 |url=http://guide.jsae.or.jp/topics/16347/ |accessdate=2016-5-11 }}</ref>。
== 製品例 ==
=== 電機・電子・光学機器 ===
* [[コンパクトディスク|CD]]や[[DVD]]や[[Blu-ray Disc|BD]]の表面([[レーザーディスク|LD]]はアクリル樹脂だった)
* [[家庭用電気機械器具|家電製品]]
* [[光ファイバー]]
* [[カメラ]]の本体(フィルム・[[デジタルカメラ|デジタル]]問わず)
* [[双眼鏡]]
* [[液晶テレビ]]向け[[バックライト]]用拡散板
* [[パーソナルコンピュータ]]の筐体([[MacBook]]など)
* [[スマートフォン]]の筐体([[iPhone 5c]]など)
* [[腕時計]]([[HEB MILANO]]など)
* [[複写機|コピー機]]や[[レーザープリンタ]]の感光体
=== 輸送機器 ===
* [[航空機]]([[軍用機]]([[F-22 (戦闘機)|F-22]]など)の[[軍用機のコックピット|コックピット]]の[[キャノピー]]、[[旅客機]]の客室窓など)
* [[自動車]]・[[オートバイ]]など[[輸送機器]]の[[前照灯]]や[[方向指示器]]や[[尾灯]]など各[[レンズ]]類、軽量ウィンドウなど
* オートバイ乗車用[[ヘルメット (オートバイ)|ヘルメット]]の帽体・[[バイザー]]スクリーン
* [[鉄道車両]]([[新幹線N700系電車]]の普通車窓や[[名鉄2000系]]のフロント部分など)
=== その他機器 ===
* [[機械]]の油面・液面確認用の[[窓]]
* [[医療機器]]
* [[建築材料]]
=== 雑貨・家庭用品 ===
* [[哺乳瓶]]や[[食器]]
* [[ラジコン模型自動車|ラジコンカー]]、[[ミニ四駆]]のボディ
* [[スーツケース]]
* 包装用または光学用[[フィルム]]
* [[筆記用具]]・[[文房具]]
* [[サングラス]]や[[眼鏡]]、[[ゴーグル]]
* [[ヨーヨー]]
* [[除雪]]用[[シャベル|スコップ]]・[[スノーダンプ]]
=== 武器・防具 ===
* [[防弾ガラス]]
* [[特殊部隊]]が使用するヘルメットの防弾[[バイザー]]
* [[ライオットシールド]]([[盾]]。主に警察用)
* [[捕手#用具|スロートガード]]
* [[トンファー|トンファーバトン]](トンファーの形状をした警棒)
* [[ヘルメット#産業用保護帽(作業用ヘルメット)|作業用ヘルメット(保護帽)]]
* 軍用[[ゴーグル]]
* [[自転車競技]]や[[陸上競技]]、[[スキー]]での競技者の眼球保護具(サングラスを兼ねる)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[合成樹脂]]
== 外部リンク ==
{{Wiktionary}}
{{Commonscat|Polycarbonate}}
* [http://www.polycarbo.gr.jp/ ポリカーボネート樹脂技術研究会]
* [https://www.m-ep.co.jp/ 三菱エンジニアリングプラスチックス株式会社]
* [https://www.scpc.jp/ 住化ポリカーボネート株式会社]
* [https://www.teijin.co.jp/ 帝人株式会社]
* [https://www.idss.co.jp/ 出光興産株式会社]
* [https://www.shinpoly.co.jp/ja/ 信越ポリマー株式会社]
* {{Kotobank}}
{{プラスチック}}
{{Normdaten}}
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[[Category:誘電体]]
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11,189 |
プッタネスカ
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プッタネスカ (伊: Puttanesca) は、イタリア料理のパスタ料理の1つ。トマトソース・パスタのバリエーションの1つで、アンチョビやオリーブ、ケッパーの塩味や唐辛子の辛味を利かせた、刺激的なナポリの名物パスタである。
イタリアではパスタ料理の名称は必ずパスタの名称を含むため、スパゲッティを用いればスパゲッティ・アッラ・プッタネスカ (Spaghetti alla Puttanesca) 、リングイネを用いればリングイネ・アッラ・プッタネスカ (Linguine alla Puttanesca) が正式な名称である。ソースだけを指す場合は、スーゴ・アッラ・プッタネスカ (Sugo alla puttanesca) と呼ぶ。
プッタネスカとは、「娼婦風のパスタ」を意味する。名前の由来には諸説あり、「娼婦は昼食時にも忙しく、海のものも畑のものもごった混ぜにしてパスタと和えて食べた」説、「娼婦が客をもてなすためのパスタ」説や、「激務の娼婦が体力を回復するために食べたパスタ」説、「刺激的な味わいが娼婦を思わせるパスタ」説、「娼婦同様たまに味わえば美味だが、毎日のように食べれば飽きるパスタ」説など様々である。
ナポリではこのソースをかつてはマリナーラとも呼び、油漬けのツナを加えることもある。1950年より前には、プッタネスカという名称では知られていなかったという。
スパゲッティが使われる事が多いが、ペンネ、リングイネ、ブカティーニが使われることもある。
ナポリでは魚介類の入ったパスタにパルミジャーノ・レッジャーノなどのチーズはかけず、仕上げにオリーブ・オイルで炒めたパン粉をかける。
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プッタネスカ は、イタリア料理のパスタ料理の1つ。トマトソース・パスタのバリエーションの1つで、アンチョビやオリーブ、ケッパーの塩味や唐辛子の辛味を利かせた、刺激的なナポリの名物パスタである。
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{{出典の明記|date=2020年12月30日 (水) 02:20 (UTC)}}
{{Infobox prepared food
| name = プッタネスカ
| image = Pasta Puttanesca.jpg
| caption = スパゲッティ・アッラ・プッタネスカ
| alternate_name =Spaghetti pomodoro, aulive e chiapparielle; Pasta alla marinara<ref name=":0">{{Cite web |title=Pasta Puttanesca: What's With the Name? |url=https://www.italymagazine.com/dual-language/pasta-puttanesca-whats-name |website=ITALY Magazine |accessdate=2022-01-24 |language=en}}</ref>
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'''プッタネスカ''' ({{Lang-it-short|Puttanesca}}) は、[[イタリア料理]]の[[パスタ]]料理の1つ。<!-- Ippolito Cavalcanti, La cucina teorico-pratica, ovvero Il pranzo periodico di otto piatti al giorno., Napoli, Stamperia e cartiere del Fibreno, 1844, p. 179. 既存のリンクだがプッタネスカは全く登場しないので、取り敢えずコメントアウト。 -->[[トマトソース]]・パスタのバリエーションの1つで、[[アンチョビ]]や[[オリーブ]]、[[ケッパー]]の塩味や[[唐辛子]]の辛味を利かせた、刺激的な[[ナポリ]]の名物パスタである。
== 名称 ==
[[イタリア]]ではパスタ料理の名称は必ずパスタの名称を含むため、[[スパゲッティ]]を用いれば'''スパゲッティ・アッラ・プッタネスカ''' (Spaghetti alla Puttanesca) 、[[リングイネ]]を用いれば'''リングイネ・アッラ・プッタネスカ''' (Linguine alla Puttanesca) が正式な名称である。ソースだけを指す場合は、'''スーゴ・アッラ・プッタネスカ''' (Sugo alla puttanesca) と呼ぶ<ref name=":1">{{Cite web |title=Sugo alla puttanesca {{!}} Traditional Sauce From Naples {{!}} TasteAtlas |url=https://www.tasteatlas.com/sugo-alla-puttanesca |website=www.tasteatlas.com |accessdate=2022-01-24}}</ref>。
プッタネスカとは、「[[娼婦]]風のパスタ」を意味する。名前の由来には諸説あり、「娼婦は昼食時にも忙しく、海のものも畑のものもごった混ぜにしてパスタと和えて食べた」説、「娼婦が客をもてなすためのパスタ」説や、「激務の娼婦が体力を回復するために食べたパスタ」説、「刺激的な味わいが娼婦を思わせるパスタ」説、「娼婦同様たまに味わえば美味だが、毎日のように食べれば飽きるパスタ」説など様々である。
ナポリではこのソースをかつては[[マリナーラソース|マリナーラ]]<ref name=":0" /><ref>Vari, Guida gastronomica d'Italia, Milano, Touring Editore, 1931, p. 362, ISBN 9788836529407.</ref>とも呼び、油漬けの[[ツナ]]を加えることもある。[[1950年]]より前には、プッタネスカという名称では知られていなかったという<ref>{{Cite book|author=Arthur Schwartz|title=Naples at Table|year=1998|publisher=Harper Collins|isbn=0-06-018261-X|page=164-166}}</ref>。
== 使用パスタ ==
スパゲッティが使われる事が多いが、[[ペンネ]]、[[リングイネ]]、[[ブカティーニ]]が使われることもある<ref name=":1" />。
== 調理法 ==
# 赤[[唐辛子]]と[[ニンニク]]を[[オリーブ・オイル]]で炒め、[[アンチョビ]]、[[ケッパー]]、黒オリーブを入れて風味をつける。
# [[トマト]]を入れ、できた[[ソース (調味料)|ソース]]を茹でたパスタとからめ、[[コショウ|黒コショウ]]で調味する。
# 皿に盛り、炒めた[[パン粉]]と刻み[[パセリ]]を添えて完成。
ナポリでは魚介類の入ったパスタに[[パルミジャーノ・レッジャーノ]]などの[[チーズ]]はかけず、仕上げに[[オリーブ・オイル]]で炒めた[[パン粉]]をかける。
== プッタネスカが取り上げられた作品 ==
* 『[[ダイヤモンドは砕けない|ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない]]』 - 「娼婦風スパゲティー」の名称で登場する。
* 『[[コップクラフト DRAGNET MIRAGE RELOADED]]』 - 「娼婦風スパゲティ」の名称で登場する。
* 『[[プッタネスカの恋]]』- 短編集6作品の中の一つに、プッタネスカを題材にした作品を収録。
* 『[[異世界居酒屋「のぶ」]]』- 第1巻 第3話
*『[[世にも不幸なできごと]]』-第1巻
*『[[世にも不幸せな物語]]』映画中にパスタプッタネスカとして登場
*『[[バーニング・クロス ALEX CROSS]]』(2012)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Pasta Puttanesca}}
* [http://www.portanapoli.com/Ita/Cucina/ga_puttanesca.html Storia e leggenda della “puttanesca”]{{it icon}}
{{Normdaten}}
{{パスタ料理}}
{{DEFAULTSORT:ふつたねすか}}
[[Category:魚介料理]]
[[Category:パスタ料理]]
[[Category:イタリアの食文化]]
[[Category:カンパニア州の食文化]]
[[Category:ナポリの文化]]
[[Category:イタリア語の語句]]
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11,190 |
アラビアータ
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アラビアータ (イタリア語: all'arrabbiata) は、イタリア料理で、唐辛子を利かせたトマトソースのこと。
唐辛子を多めに入れたり、オイルに味つけしたりして、唐辛子の味を強くしたトマトソースを作り、それを茹でたパスタに絡めた料理である。好みでバジリコなどのハーブを添えることもある。ペンネで作ると「ペンネ・アラビアータ(Penne all'Arrabbiata)」、スパゲッティだと「スパゲッティ・アラビアータ(Spaghetti all'Arrabbiata)」になる。このソースはピザなどにも使われる。また、調理済みのソースとしても販売されている。
アラビアータ(arrabbiata)はより忠実に読むとアッラッビアータとなるが、これはイタリア語で「怒り」という意味。「おこりんぼ風」とも訳される。イタリア語では「〜風の」という「all'」を付けるのが正しく、カタカナにすると「アッラッラッビッアータ」と読むことになる。地名のアラビア (Arabia) との関係はない。
一般的な作り方は以下の通りである。
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アラビアータ は、イタリア料理で、唐辛子を利かせたトマトソースのこと。
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[[File:Pizzeria Bella Italia (Crépieux-la-Pape) - Penne all'arrabbiata (2) (février 2020).jpg|thumb|ペンネ・アラビアータ]]
'''アラビアータ''' ({{lang-it|all'arrabbiata}}) は、[[イタリア料理]]で、[[唐辛子]]を利かせた[[トマトソース]]のこと。
==作り方==
唐辛子を多めに入れたり、オイルに味つけしたりして、唐辛子の味を強くした[[トマトソース]]を作り、それを茹でた[[パスタ]]に絡めた料理である。好みで[[バジリコ]]などの[[ハーブ]]を添えることもある。[[ペンネ]]で作ると「ペンネ・アラビアータ(Penne all'Arrabbiata)」、[[スパゲッティ]]だと「スパゲッティ・アラビアータ(Spaghetti all'Arrabbiata)」になる。このソースは[[ピザ]]などにも使われる。また、調理済みのソースとしても販売されている。
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# [[オリーブ・オイル]]をフライパンで温め、スライスした[[ニンニク]]、[[鷹の爪]]を加え炒める。
# そこに[[トマトピューレ]]を加え煮込み、塩で味を調える。
# 2に茹でた[[パスタ]]を絡める。
== 関連項目 ==
* [[イタリア料理]]
* [[トマトソース]]
* [[パスタ]]
* [[ペンネ]]
* [[スパゲッティ]]
* {{仮リンク|カレッティエラ|it|Spaghetti alla carrettiera}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連文献 ==
*Silvia., Spagni, (2010). [https://www.newtoncompton.com/libro/larte-di-cucinare-alla-romana L'arte di cucinare alla romana] : ricette tradizionali e curiosi aneddoti per piatti da imperatore. Roma: Newton Compton. ISBN 9788854122574. OCLC 955291501.
*Giorgioni, Livio, (2002). [http://www.acec.it/sale_della_comunita/libri/00001983_L__Giorgioni__F__Pontiggia__M__Ronconi_La_grande_abbuffata.html La grande abbuffata] : percorsi cinematografici fra trame e ricette. Pontiggia, Federico, 1978-, Ronconi, Marco, 1972-. Cantalupa (Torino): Effatà. p. 25. ISBN 9788874020225. OCLC 50875311.
{{Normdaten}}
{{パスタ料理}}
{{DEFAULTSORT:あらひああた}}
[[Category:パスタ料理]]
[[Category:野菜のソース]]
[[Category:イタリアの食文化]]
[[Category:ラツィオ州の食文化]]
[[Category:唐辛子]]
[[Category:イタリア語の語句]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BF
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11,191 |
カルボナーラ
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カルボナーラ (伊: carbonara) とは、「炭焼のパスタ」(炭焼職人風)という意味のパスタソースの1種である。チーズ、黒コショウ、グアンチャーレもしくはパンチェッタ(塩漬けの豚肉)、鶏卵(卵黄又は全卵)を用いる。
元々はローマの料理で、グアンチャーレかパンチェッタを使用し、チーズにはペコリーノ・ロマーノ(なければパルミジャーノ・レッジャーノ)を使う。パスタにはスパゲッティを使用したものが一般的で、これをスパゲッティ・アッラ・カルボナーラ (伊: spaghetti alla carbonara) という。
本場イタリアのレシピではソースにはチーズを使い生クリームは入れないが、日本ではチーズ自体が高価であることや入手しづらいこともあり、スーパーマーケットで安価で手に入りやすい牛乳や生クリームをソースに使用することが多い。
本場ローマでは卵の凝固を防ぐために、グアンチャーレを炒めた際に出る油を事前に卵液へ加え、パスタ投入後はパスタの茹で汁を加えながら素早く和えるというレシピもある。
料理や名前の起源は不明確で色々な説があるが、その多くはラティウム地方に起源があるとしている。 1930年に出版されたAda Boniによるローマの料理本にはカルボナーラは載っていない。 よく似たパスタとして南イタリアのラード、溶き卵、チーズを使ったパスタcacio e uovaがある。1837年に編纂されたイッポーリト・カヴァルカンティ(伊: Ippolito Cavalcanti)によるCucina teorico-praticaにも似た手法と材料の料理があり(パンチェッタ、グアンチャーレはなく卵も固い)、ナポリ料理が起源にあるともされる。
第二次世界大戦時、1944年のローマ解放より、アメリカ軍が持ち込んだベーコンや卵が流通するようになった後にカルボナーラの名前が現れており 、 アメリカ兵が親しむ卵、ベーコン、スパゲッティを使った料理としてイタリア人シェフが考えたとされる説があり、1950年のイタリアの新聞『ラ・スタンパ』にもアメリカ軍将校が求めた料理と記されている。この説は多くのレシピでパンチェッタとグアンチャーレが同一の素材として扱われている理由も説明している。
薪から木炭を作る炭焼き職人(carbonai、ローマ方言でcarbonari)が考案したとする説、ナポリのブオンヴィチーノ公爵であるイッポーリト・カヴァルカンティが料理本に紹介していたとする説もある。
名前は単にコショウの色から連想されたという説もある。
「炭焼人 (Carbonara) が、もしも仕事の合間にパスタを作ったら、手に付いた炭の粉が落ちてこんな風になるのではないか」という想像から黒コショウを絡ませ創られたパスタという説や、カルボナリ(炭焼党 - イタリアの革命的秘密結社)との関わりを指摘する説もある。
日本ではグアンチャーレやパンチェッタは入手性の問題もありベーコンで代替する形で広まった。同様にチーズについてもパルメザンチーズを使うことが多い。また生クリームも使うものが一般的には多い。温泉卵をトッピングするケースもある。近年パンチェッタやペコリーノ・ロマーノが日本各地の輸入食品店で容易に入手できるようになり、イタリア本来の作り方も普及してきている。
日本風のカルボナーラソースは、レトルト食品としても市販されている。日本でも人気は高く、マイボイスコムの「よく利用するパスタソース」の調査ではトマトソース、ミートソースに次いで3位にンした。
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"text": "「炭焼人 (Carbonara) が、もしも仕事の合間にパスタを作ったら、手に付いた炭の粉が落ちてこんな風になるのではないか」という想像から黒コショウを絡ませ創られたパスタという説や、カルボナリ(炭焼党 - イタリアの革命的秘密結社)との関わりを指摘する説もある。",
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"text": "日本ではグアンチャーレやパンチェッタは入手性の問題もありベーコンで代替する形で広まった。同様にチーズについてもパルメザンチーズを使うことが多い。また生クリームも使うものが一般的には多い。温泉卵をトッピングするケースもある。近年パンチェッタやペコリーノ・ロマーノが日本各地の輸入食品店で容易に入手できるようになり、イタリア本来の作り方も普及してきている。",
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カルボナーラ とは、「炭焼のパスタ」(炭焼職人風)という意味のパスタソースの1種である。チーズ、黒コショウ、グアンチャーレもしくはパンチェッタ(塩漬けの豚肉)、鶏卵(卵黄又は全卵)を用いる。
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'''カルボナーラ''' ({{Lang-it-short|carbonara}}) とは、「炭焼のパスタ」(炭焼職人風)という意味の[[パスタ]][[ソース (調味料)|ソース]]の1種である。チーズ、黒[[コショウ]]、[[グアンチャーレ]]もしくは[[パンチェッタ]](塩漬けの[[豚肉]])、[[鶏卵]](卵黄又は全卵)を用いる。
== 概要 ==
元々は[[ローマ]]の料理<ref name="Gosetti">{{cite book |last=Gosetti della Salda |first=Anna |title=Le ricette regionali italiane |publisher=Solares |location=Milan |year=1967 |page=696 |language=Italian}}</ref><ref name="Carnacina">{{cite book |last=Carnacina |first=Luigi |author2=Vincenzo Buonassisi |year=1975 |title=Roma in Cucina |location=Milan |publisher=Giunti Martello |page=91}}</ref>で、[[グアンチャーレ]]か[[パンチェッタ]]を使用し、[[チーズ]]には[[ペコリーノ・ロマーノ]](なければ[[パルミジャーノ・レッジャーノ]])を使う<ref name="辻" />。パスタには[[スパゲッティ]]を使用したものが一般的で、これを'''スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ''' ({{Lang-it-short|spaghetti alla carbonara|links=no}}) という。
本場イタリアのレシピではソースにはチーズを使い生クリームは入れない<ref name="教本">『イタリア料理教本. 上』p.55</ref>が、日本ではチーズ自体が高価であることや入手しづらいこともあり、スーパーマーケットで安価で手に入りやすい牛乳や生クリームをソースに使用することが多い。
本場ローマでは卵の凝固を防ぐために、グアンチャーレを炒めた際に出る油を事前に卵液へ加え、パスタ投入後はパスタの茹で汁を加えながら素早く和えるというレシピもある。
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File:Spaghetti carbonara.jpg|スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ
File:Spaghetti alla Carbonara.jpg|スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ
File:Carbonara of Italian Tomato Cafe (2).jpg|日本のカルボナーラ
File:2019-01-31_Guanciale_al_Pepe_ca_800g.JPG|材料のグアンチャーレ
File:Pecorino_romano_cheese.jpg|材料のペコリーノ・ロマーノ
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== 起源 ==
料理や名前の起源は不明確で色々な説があるが、その多くは[[ラティウム]]地方に起源があるとしている<ref name="go696">Gosetti (1967), pg. 696-97</ref><ref name=ca91>Carnacina (1975), pg. 91.</ref><ref name=ja>Jannattoni (1998), ''sub Vocem''</ref>。
1930年に出版されたAda Boniによるローマの料理本にはカルボナーラは載っていない<ref>Boni (1983) [1930]</ref>。
よく似たパスタとして南イタリアのラード、溶き卵、チーズを使ったパスタcacio e uovaがある<ref name="buccini">Anthony F. Buccini, "On ''Spaghetti alla Carbonara'' and Related Dishes of Central and Southern Italy", in Richard Hosking, ''Eggs in Cookery: Proceedings of the Oxford Symposium on Food and Cookery 2006'', Prospect Books 2007, ISBN 1903018544, p. 36-47</ref>。1837年に編纂された{{日本語版にない記事リンク|イッポーリト・カヴァルカンティ|it|Ippolito Cavalcanti|short=on}}によるCucina teorico-pratica<ref>{{cite book2 |title=Cucina teorico-pratica: col corrispondente riposto ed apparecchio di pranzi e cene, con quattro analoghi disegni, metodo pratico per scalcare, e far servire in tavola, lista di quattro piatti al giorno per un anno intero, e finalmente una cucina casareccia in dialetto napoletano con altra lista analoga|author=Ippolito Cavalcanti|location=Napoli|agency=G. Palma|year=1839}}</ref>にも似た手法と材料の料理があり(パンチェッタ、グアンチャーレはなく卵も固い)、ナポリ料理が起源にあるともされる<ref>{{Cita web|url = http://www.ilmattino.it/mangiaebevi/la_ricetta_del_giorno/spaghetti_carbonara-195072.html|title = La ricetta della carbonara tradizionale: sapevate che ha origini napoletane?|accessdate = 2016-02-25|sitte = www.ilmattino.it}}</ref>。
[[第二次世界大戦]]時、1944年のローマ解放より、アメリカ軍が持ち込んだベーコンや卵が流通するようになった後にカルボナーラの名前が現れており<ref name = ja /> <ref> Davidson (1999), pg. 740 </ref> 、
アメリカ兵が親しむ卵、ベーコン、スパゲッティを使った料理としてイタリア人シェフが考えたとされる説があり<ref>Beltramme, Ilaria. ''Magna Roma - 110 ricette per cucinare a casa i piatti della tradizione romana'', Arnoldo Mondadori Editore, Milano, 2011, pag. 74-75, ISBN 978-88-04-60723-6</ref>、1950年のイタリアの新聞『[[ラ・スタンパ]]』にもアメリカ軍将校が求めた料理と記されている<ref>{{cite web|url=http://www.archiviolastampa.it/component/option,com_lastampa/task,search/mod,libera/action,viewer/Itemid,3/page,3/articleid,0044_01_1950_0176_0003_10225103|title=La Stampa - Consultazione Archivio|work=archiviolastampa.it|accessdate=2016-03-30}}</ref>。この説は多くのレシピでパンチェッタとグアンチャーレが同一の素材として扱われている理由も説明している。
薪から木炭を作る炭焼き職人(carbonai、ローマ方言でcarbonari)が考案したとする説、ナポリの[[ブオンヴィチーノ]]公爵であるイッポーリト・カヴァルカンティが料理本に紹介していたとする説もある<ref name=go696/>。
名前は単にコショウの色から連想されたという説もある。
「[[炭]]焼人 (Carbonara) が、もしも仕事の合間にパスタを作ったら、手に付いた[[炭]]の粉が落ちてこんな風になるのではないか」という想像から黒[[コショウ]]を絡ませ創られたパスタ<ref name="辻">『イタリア料理』pp.60-61</ref>という説や、[[カルボナリ]](炭焼党 - [[イタリア]]の革命的[[秘密結社]])との関わりを指摘する説もある<ref name="mariani">{{cite book|last=Mariani |first=Galina |authorlink=|author2=Galina Mariani|author3=Laura Tedeschi|title=The Italian-American cookbook: a feast of food from a great American cooking tradition|publisher=Harvard Common |year=2000|location=|pages=140–41|url=https://books.google.co.jp/books?id=Mz5tt-4yHIQC&pg=PA140&redir_esc=y&hl=ja|doi= |id= |isbn=978-1-55832-166-3}}</ref>。
== 日本風のカルボナーラ ==
<!--{{出典の明記|date=2012年6月|section=1}}
日本では[[1980年代]]以降に多くできた[[イタリア料理]]店、スパゲッティ専門店で出すようになり、その名が一般的に知られるようになった。日本で広まっている[[レシピ]]は、[[ベーコン]]を炒め、それに[[クリーム (食品)|生クリーム]]、[[チーズ]]、卵黄、粗挽き黒コショウを加えてソースとする。[[ニンニク]]をいれたり、炒めるのに[[バター]]を用いることもある。非常にこってりとしたソースであるため、パスタには太くて平たい[[タリアテッレ]](フェットゥッチーネ)が用いられることも多い。本場イタリアのものは生クリームを用いないものもあり、見た目も、風味も、日本風カルボナーラとは異なる。本来の[[パルミジャーノ・レッジャーノ]]や塩漬けの[[豚肉]]である[[パンチェッタ]]か[[グアンチャーレ]]を用いると、なお美味。
日本では「イタリア人はカルボナーラに生クリームを入れない」と言うのが定説になりつつあるが、イタリアでも生クリームを使うレシピも珍しくないので、正しいとは言えない。ただし分量的には卵が主、生クリームが従である。イタリア以外の[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では生クリームを多量に用いるレシピが多い。
-->
日本ではグアンチャーレやパンチェッタは入手性の問題もありベーコンで代替する形で広まった。同様にチーズについてもパルメザンチーズを使うことが多い。また生クリームも使うものが一般的には多い。温泉卵をトッピングするケースもある。近年パンチェッタやペコリーノ・ロマーノが日本各地の輸入食品店で容易に入手できるようになり、イタリア本来の作り方も普及してきている。
日本風のカルボナーラソースは、[[レトルト食品]]としても市販されている。日本でも人気は高く、マイボイスコムの「よく利用するパスタソース」の調査では[[トマトソース]]、[[ミートソース]]に次いで3位にインした<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1012/20/news065.html 最も利用するパスタソースはどれですか]Business Media 誠 2012年8月31日 閲覧。</ref>。
==逸話==
*なぜか「カルボナーラ発祥の店」と言われるローマの「[https://www.lacarbonara.it/ Osteria La Carbonara]」(1906年創業)だが、それは間違ったうわさであり、店などはそのような紹介は一切しておらず<ref>[https://www.lacarbonara.it/ Osteria - ristorante con cucina a Roma | La carbonara]</ref>、明確に否定している<ref name="名前なし-1">[https://saporitaweb.com/2015/06/22/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E4%B8%8B%E7%94%BA%E6%96%99%E7%90%86%E3%82%92%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F%E3%80%80%E3%81%9D%E3%81%AE4%E3%80%80carbonara/ ローマ下町料理を紐解く その4 Carbonara | SAPORITA]</ref>。また、同じくローマには「[https://www.ristorantelacarbonara.it/ Ristorante La Carbonara]」(1912年創業)という似たような店もあるが、こちらも「カルボナーラ発祥の店」と思われることもあるが否定している<ref name="名前なし-1"/>。
==関連項目==
*[[カチョエペペ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[辻勲]] 『イタリア料理』 辻学園調理技術専門学校<専門料理全書>、1998年、 ISBN 4-88046-910-6
* 吉川敏明 『イタリア料理教本. 上』 柴田書店、1999年、 ISBN 4-388-05847-5
*{{cite book2 |title=La Cucina Romana|last=Boni|first=Ada|authorlink=Ada Boni|location=Roma|agency=Newton Compton Editori|year=1983|origyear=1930}}
*{{cite book2 |title=Le ricette regionali italiane|last=Gosetti Della Salda|first=Anna|location=Milano|agency=Solares|year=1967}}
*{{cite book2 |title=Roma in Cucina|last=Carnacina|first=Luigi|authorlink=Luigi Carnacina|author2=Vincenzo Buonassisi|location=Milano|agency=Giunti Martello|year=1975}}
*{{cite book2 |title=La Cucina Romana e del Lazio|last=Jannattoni|first=Livio|last2=Malizia|first2=Giuliano|location=Roma|agency=Newton Compton|year=1998}}
*{{cite book2 |title=Oxford Companion to Food|last=Davidson|first=Alan|location=Oxford|agency=Oxford University Press|language=Inglese|year=1999|isbn=0-19-211579-0}}
*{{cite book2 |title=Magna Roma|last=Beltramme|first=Ilaria|location=Milano|agency=Arnoldo Mondadori Editore|year=2011|isbn=978-88-04-60723-6}}
* Jeanne Caròla Francesconi, ''Cucina napoletana'' Napoli, 1965, edizione Newton Compton, 1999 - 750 pagine
* Ippolito Cavalcanti, ''Cucina casereccia in lingua napoletana'', Edizioni Il Profilo
== 外部リンク ==
* {{Wikibooks-inline|料理本|スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ}}
* {{Commonscat-inline|Carbonara}}
{{パスタ料理}}
{{DEFAULTSORT:かるほなあら}}
[[Category:卵料理]]
[[Category:パスタ料理]]
[[Category:ベーコン料理]]
[[category:タマネギ]]
[[Category:イタリア語の語句]]
[[Category:ラツィオ州の食文化]]
[[Category:ローマの文化]]
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2003-07-11T03:41:27Z
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2023-12-18T07:53:43Z
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11,192 |
バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)
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バンクーバー(英語: Vancouver)は、カナダブリティッシュコロンビア州南西部のメトロバンクーバーに属する都市。同州最大にして北米有数の世界都市。ヴァンクーヴァーと表記されることもある。
バンクーバーを中心とする都市圏人口は246万人とカナダ国内第3位の都市圏を形成している。バンクーバー市のみの人口では同国内で第8位の約64万人である。民族や言語が多様で、人口のおよそ52%は第一言語が同州の公用語にあたる英語ではない。2016年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界28位と評価された。
1867年に製材所ができ、これらを中心とする入植地であったギャスタウンは発展を続け、グランビルとして町は拡大した。東カナダから続く鉄道の終着駅が町まで敷かれることになった1886年に町はバンクーバーとして改名され市政となる。
林業が同市最大の産業で、都市部ながら自然に囲まれた都市として知られていることから、観光業が発達しており、同市第2の産業となっている。同市にあるメトロバンクーバー港は同国最大の港であり、北米においても積載量で第4位の規模を持つ。同市および隣のバーナビー市には、主要な各映画製作会社が拠点を置いており、ロサンゼルス、ニューヨークに続く北米第3位の規模となる映画製作拠点となっている。このため、通称ハリウッドノースとも呼ばれる。国際会議や国際競技が数多く開催されており、2010年には第21回冬季オリンピック(バンクーバーオリンピック)が開催された。
バンクーバーの地名は18世紀後半、カナダ西海岸地域の測量を行ったイギリスの探検家、ジョージ・バンクーバーに由来する。旧訳漢字表記「晩香坡」。
ロッキー山脈に発しジョージア海峡に注ぐフレーザー川の河口地域にマスキーム (Xwméthkwyiem) といわれる先住民族が居住したのは、少なくとも3,000年以上前であった。ただし、豊かな自然環境を考慮すると10,000年以上も前から人類が住んでいたとも考えられている。ヨーロッパから探検家が到着した頃には、マスキーム族 (Musqueam) とスクワミッシュ族 (Squamish) が既に村を形成していた。北バンクーバー地域にはツレイルワスス族 (Tsleil'wauthuth) が居住していた。これらはサリシュ海岸 (Coast Salish) 先住民族と言われ、フレーザー渓谷から北部ワシントン地域を居住区としていた。
1791年にスペインのホセ・マリア・ナルバエス (Jose Maria Narvaez) 船長がジョージア海峡を探検した。翌1792年には、イギリス海軍のジョージ・バンクーバー提督がスペイン探検団とともにバンクーバー島西岸からジョージア海峡に入り、のちのシアトルのあたりまで到達した。
その後、毛皮の交易所がコロンビア川やフレーザー川に沿って設立され、ブリティッシュ・コロンビアの内陸部にもヨーロッパ人の入植が相次いだ。ハドソン湾会社などがますます進出した。1858年にはフレーザー川下流岸にも金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まった。1865年にはコロンビア川岸でも金鉱が発見されたが、すぐにゴールドラッシュは収束した。
バンクーバー港の中心であるバラード入り江にて林業が盛んになり、1863年には最初の製材所がムーディービル(のちのノースバンクーバー)に開業した。1865年にはオーストラリアへ輸出が開始された。同年までにはバンクーバー市街のあたりにも製材所が開業された。
カナダがイギリスより独立し、「カナダ自治領」(Dominion of Canada) が設立された4年後の1871年には、ブリティッシュ・コロンビアがカナダ自治領(カナダの連邦政府)に加盟した。
1885年、カナダ植民地政府のマクドナルド首相の指示の下、カナダ・パシフィック鉄道 (CPR) がグランビルに大陸横断鉄道の西海岸側の終着駅を建設した。CPRは、おそらくバンクーバー島に因んで、終着駅の名前を「バンクーバー」とした。その後1886年4月6日、正式に「バンクーバー市」が施行され、間もなくモントリオールからの大陸横断鉄道定期便が開業された。1886年の大火事で町の大部分が焼失したが、鉄道での物資の補給等により間もなく復興した。1888年にはスタンレーパークが開園した。
大陸横断鉄道がバンクーバー港と接続し、カナダが太平洋岸からも世界各国へつながることとなった。1891年にCPR初の貨物船「"Empress of India"」が東洋から到着した。1914年にはパナマ運河が開業し、バンクーバーは北太平洋の重要な海港の一つとなった。
20世紀に入ってもギャスタウン周辺が市の中心として栄えた。1922年にバンクーバーの車両交通は、イギリス方式の左側通行から右側通行に切り替わり、1937年にはライオンズゲートブリッジが開通した。市制100周年に当たる1986年には国際交通博覧会 (Expo 86) が開催され、それに合わせて新しい交通機関スカイトレインが運行開始した。
カナダの天然鉱物資源および工業製品、石油などを輸出する重要な港としての港湾業や、水産農林業、観光その他によって、バンクーバーの都市圏はその後も順調な成長を続け、周辺の都市と合わせると人口200万人を超え、カナダ第3位の大都市圏を形成している。自然環境と都市文化のバランスのいい発展を背景に、世界各国からの移民が急増した。特に1997年の香港の中華人民共和国返還に際し、共産主義化を恐れた香港系中国人の移民が急増した(詳細はチャイナタウン参照)。第二次世界大戦前から日系移民も多く以前は日本人街もあったが戦後急速に衰退していった(詳細はバンクーバーの日本人街参照)。
バンクーバーはブリティッシュコロンビア州の南西部、フレーザー川の河口に位置する。ジョージア海峡を挟んでバンクーバー島と向かい合っている。
周辺の20あまりの自治体と併せて州の地方行政区としてのメトロバンクーバーを形成している。
リッチモンド、バーナビー、バラード入り江を挟んでノースバンクーバー、イングリッシュベイを挟んでウェストバンクーバーに隣接している。
バンクーバーはカナダ国内で最も温暖な気候を持つ都市の1つである。ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。夏は涼しく30度以上の真夏日になることはほぼ無く、乾燥していて過ごしやすい。日中を通して晴れる日が多い夏とは対照的に、11月から3月は急激に降水量が増えるが緯度の割に寒くない。特に太平洋沿岸に位置するバンクーバーは、レインクーバーと呼ばれるほどカナダで最も降水量の多い都市の一つである。同じく太平洋沿岸のリッチモンドにあるバンクーバー国際空港の観測データによると、年間降水量は1175.1mmに達する。冬季はカナダで最も温暖な気候で、最も寒い12月の平均気温は3.9°C。これまで観測された最高気温は2009年7月30日の34.4°C、最低気温は1968年12月29日の-17.8°Cである。
2016年の人口調査によるとバンクーバー市の人口は631,486人。バンクーバー都市圏の人口は246万3431人でカナダではトロント、モントリオールに次ぐ第三の都市圏規模を持っている。
2016年国勢調査によるとバンクーバー市内の人種・民族構成は白人が48.2%と半数を占め、ついで中国系が27%で3割弱となっており167,180人を数えてバンクーバー都市圏の中ではリッチモンドの104,185人を抑えて最も多い。さらに南アジア系やフィリピン系と続き、日系人も10,315人、全人口の1.7%を占めている。バンクーバー市内のほうがサレーやバーナビー、リッチモンド等に比較すると白人の割合が高くなっているのが特徴で、これは家賃高騰等の影響から新移民は家賃や住宅が安い郊外に住む傾向が強いからである。南アジア系はサレー(バンクーバー市内:37,130人、サレー:168,040人)、韓国系はコキットラム(バンクーバー市内:9,360人、サレー:9,930人)の方がバンクーバー市内よりも人数が多くなっている。さらに、黒人人口は6,345人でサレーの9,455人よりも少なく、全人口の1%に過ぎない。
バンクーバー都市圏としてみた場合は白人が48.6%と過半数弱。中国系(474,655人、19.6%)や南アジア系(291,005人、12%)、フィリピン系(123,170人、5.1%)、韓国系(52,980人、2.2%)および日系(30,110人、1.2%)を始めとするアジア系が多く住む都市であり、北米有数の規模の中華街が形成されている。
中国系人口はバンクーバー都市圏の2割近くを占め、これは北米の大都市では最も高い。中国系住民の多くは香港返還前後に移民してきた香港人で、バンクーバーならぬホンクーバーとも言われるほどである。特に南部にあるリッチモンドは人口の大多数が中国系である。中華街には、孫文が中国国民党を結成する前の亡命中に住んだ、中山庭園がある。
かつては日本人街も存在したが第二次大戦中の日系人の収容所への連行などでブリティッシュコロンビア州内の日系人人口が激減し、廃退した。2011年現在、バンクーバー仏教会、バンクーバー日本語学校と日系会館を除き殆どが廃墟化している。しかし、今でもトロントをしのぐカナダ最大の日系社会を形成し、日本人留学生も多く在住している。ダウンタウンには、日本人向けのコンビニや飲食店などが建ち並んでおり、一角では日本語だけでも生活が可能なほどである。
その他にもフィリピン系やメキシコ系、ベトナム系やカンボジア系、クロアチア系など様々な民族が居住しているが、黒人はバンクーバー都市圏全体でも29,830人で北米の大都市では最も少ない。
バンクーバー大都市圏の母語話者の割合は英語が54%、ついで広東語の7・6%、中国語の7.1%、パンジャーブ語の6・2%となっている。中国語話者の中では広東語話者が最も多いが、普通話話者の他に台湾語話者のコミュニティもある。
太平洋岸に位置すること、トランスカナダハイウェイと鉄道の西の終点であることから、カナダで最大の産業都市の一つである。バンクーバー港はカナダ最大で、多岐にわたる貿易量が750億ドルに上り、GDPで105億ドルを占める。林業と鉱業の拠点でもあり、最近ではソフトウェア開発、バイオテクノロジー、映画産業の中心地になっている。毎年多くの観光客が集まり、アラスカやカナダ国内への重要な入り口でもある。カナダ一家賃が安く、世界一物価、家賃が安いという面がある。アメリカのワシントン州と接しており、毎日国境を越えて通勤する人も少なくない。通勤者や観光客の便宜を図るために、アメリカドルでの支払いも可能なところが少なくないが、この場合原則として、アメリカドルで支払う場合の金額がやや高めに設定されている。
バンクーバーは、トロントやモントリオールに共にカナダで最も重要な金融センターの1つである。2021年9月、イギリスのシンクタンクの調査で世界28位(前回は11位)の金融センターと評価された。香港からの移民にとってバンクーバーは最も有望な移住先であり、バンクーバーの金融業はアジアからの移民や投資によって支えられている。
島が多く存在するブリティッシュコロンビア州では多くの人がフェリーを交通手段として使っている。フェリーターミナルは、ウェストバンクーバーのホースシューベイ港とバンクーバー市南のデルタにあるツワッセン港から出港している。
バンクーバー都市圏の交通行政は、トランスリンクと呼ばれる団体の管轄である。バンクーバー市内では90分以内であれば同一料金で、トランスリンクが運営するバス、スカイトレイン、シーバスに乗降りすることができる。
バンクーバーのダウンタウンと、郊外都市や空港とを結ぶ自動運転の軌道系公共輸送機関。ダウンタウンでは地下を走り、郊外に出ると高架になる。初期の2路線であるエキスポラインとミレニアムラインは、鉄輪式リニアモーターカーが運行している。
2010年2月に開催されたバンクーバーオリンピックに合わせて、バンクーバーのダウンタウンと、南接するリッチモンドのバンクーバー国際空港および中心部とを結ぶカナダラインの建設が2005年11月より進められ、2009年8月に営業を開始した。同路線は、ターミナル駅であるウォーターフロント駅からダウンタウン地下を南下し、キャンビー通りの地下を抜け、フレーザー川付近のブリッジポート駅からは、空港方面とリッチモンド方面に分岐する。
バンクーバーダウンタウンと東にある郊外ミッション市間約68kmを結ぶ通勤用特急列車。
バンクーバーには昼間にトロリーバス(バンクーバー・トロリーバス)と普通のバス、夜間はナイトバスが運行しており、地域やバス停にもよるが、ほぼ24時間利用することができる。コミュニティ・シャトルは決まったエリア内を走行するミニバン型のバス。
バスは路線が充実しており、乗り継ぎをすれば大体はどこへでも行ける。2010年の冬季オリンピック・パラリンピックに向けて、すべてのバスが車椅子対応の車両に更新された。多くはノンステップバスである。
バンクーバーのダウンタウンとノースバンクーバーを結ぶ水上バス。
北米の一般的な都市と違い、バンクーバー市の中心部には高速道路が通っていない。モータリゼーションに伴い、高速道路を中心部まで建設する計画があったが、高速道路に対する反対運動が1970年代から80年代にかけて行われ、計画は白紙化された。
トランスカナダハイウェイの一部が唯一バンクーバー市を通過するが、同市の最東部に位置し、中心部からは距離がある。また、アメリカ国境、ライオンズゲートブリッジやウィスラーなどを結ぶ州道99号線がバンクーバーを南北に通過するが、南部のリッチモンド市以南は高速道路でありながら、バンクーバー市に到達すると一般道となる。
トランスリンクのバスやスカイトレインなどの交通機関で移動することができる。
夏には花火大会が開催され、招待された数カ国の花火が日を替えて競い合う。
バンクーバーを本拠地とする主なプロスポーツチームは以下の通り。
かつてバンクーバーを本拠地としたプロスポーツチームは以下の通りである。
2019年9月25日にリリースされたiOS、Android向けゲームアプリ『マリオカート ツアー』(MARIO KART TOUR) にて、バンクーバーをモデルにした「バンクーバーバレー」を走行することができる。バンクーバーバレーには、バンクーバー五輪聖火台やキャピラノ吊り橋などの名所が登場する。コースの時間帯は夜で、空には大きなオーロラが出現している。
後に『マリオカート8 デラックス』でもコース追加パス第5弾に収録された。
|
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"text": "バンクーバー(英語: Vancouver)は、カナダブリティッシュコロンビア州南西部のメトロバンクーバーに属する都市。同州最大にして北米有数の世界都市。ヴァンクーヴァーと表記されることもある。",
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"text": "バンクーバーを中心とする都市圏人口は246万人とカナダ国内第3位の都市圏を形成している。バンクーバー市のみの人口では同国内で第8位の約64万人である。民族や言語が多様で、人口のおよそ52%は第一言語が同州の公用語にあたる英語ではない。2016年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界28位と評価された。",
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"text": "1867年に製材所ができ、これらを中心とする入植地であったギャスタウンは発展を続け、グランビルとして町は拡大した。東カナダから続く鉄道の終着駅が町まで敷かれることになった1886年に町はバンクーバーとして改名され市政となる。",
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"text": "林業が同市最大の産業で、都市部ながら自然に囲まれた都市として知られていることから、観光業が発達しており、同市第2の産業となっている。同市にあるメトロバンクーバー港は同国最大の港であり、北米においても積載量で第4位の規模を持つ。同市および隣のバーナビー市には、主要な各映画製作会社が拠点を置いており、ロサンゼルス、ニューヨークに続く北米第3位の規模となる映画製作拠点となっている。このため、通称ハリウッドノースとも呼ばれる。国際会議や国際競技が数多く開催されており、2010年には第21回冬季オリンピック(バンクーバーオリンピック)が開催された。",
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"text": "バンクーバーの地名は18世紀後半、カナダ西海岸地域の測量を行ったイギリスの探検家、ジョージ・バンクーバーに由来する。旧訳漢字表記「晩香坡」。",
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"text": "ロッキー山脈に発しジョージア海峡に注ぐフレーザー川の河口地域にマスキーム (Xwméthkwyiem) といわれる先住民族が居住したのは、少なくとも3,000年以上前であった。ただし、豊かな自然環境を考慮すると10,000年以上も前から人類が住んでいたとも考えられている。ヨーロッパから探検家が到着した頃には、マスキーム族 (Musqueam) とスクワミッシュ族 (Squamish) が既に村を形成していた。北バンクーバー地域にはツレイルワスス族 (Tsleil'wauthuth) が居住していた。これらはサリシュ海岸 (Coast Salish) 先住民族と言われ、フレーザー渓谷から北部ワシントン地域を居住区としていた。",
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"text": "1791年にスペインのホセ・マリア・ナルバエス (Jose Maria Narvaez) 船長がジョージア海峡を探検した。翌1792年には、イギリス海軍のジョージ・バンクーバー提督がスペイン探検団とともにバンクーバー島西岸からジョージア海峡に入り、のちのシアトルのあたりまで到達した。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、毛皮の交易所がコロンビア川やフレーザー川に沿って設立され、ブリティッシュ・コロンビアの内陸部にもヨーロッパ人の入植が相次いだ。ハドソン湾会社などがますます進出した。1858年にはフレーザー川下流岸にも金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まった。1865年にはコロンビア川岸でも金鉱が発見されたが、すぐにゴールドラッシュは収束した。",
"title": "歴史"
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"text": "バンクーバー港の中心であるバラード入り江にて林業が盛んになり、1863年には最初の製材所がムーディービル(のちのノースバンクーバー)に開業した。1865年にはオーストラリアへ輸出が開始された。同年までにはバンクーバー市街のあたりにも製材所が開業された。",
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"text": "カナダがイギリスより独立し、「カナダ自治領」(Dominion of Canada) が設立された4年後の1871年には、ブリティッシュ・コロンビアがカナダ自治領(カナダの連邦政府)に加盟した。",
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"text": "1885年、カナダ植民地政府のマクドナルド首相の指示の下、カナダ・パシフィック鉄道 (CPR) がグランビルに大陸横断鉄道の西海岸側の終着駅を建設した。CPRは、おそらくバンクーバー島に因んで、終着駅の名前を「バンクーバー」とした。その後1886年4月6日、正式に「バンクーバー市」が施行され、間もなくモントリオールからの大陸横断鉄道定期便が開業された。1886年の大火事で町の大部分が焼失したが、鉄道での物資の補給等により間もなく復興した。1888年にはスタンレーパークが開園した。",
"title": "歴史"
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"text": "大陸横断鉄道がバンクーバー港と接続し、カナダが太平洋岸からも世界各国へつながることとなった。1891年にCPR初の貨物船「\"Empress of India\"」が東洋から到着した。1914年にはパナマ運河が開業し、バンクーバーは北太平洋の重要な海港の一つとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "20世紀に入ってもギャスタウン周辺が市の中心として栄えた。1922年にバンクーバーの車両交通は、イギリス方式の左側通行から右側通行に切り替わり、1937年にはライオンズゲートブリッジが開通した。市制100周年に当たる1986年には国際交通博覧会 (Expo 86) が開催され、それに合わせて新しい交通機関スカイトレインが運行開始した。",
"title": "歴史"
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"text": "カナダの天然鉱物資源および工業製品、石油などを輸出する重要な港としての港湾業や、水産農林業、観光その他によって、バンクーバーの都市圏はその後も順調な成長を続け、周辺の都市と合わせると人口200万人を超え、カナダ第3位の大都市圏を形成している。自然環境と都市文化のバランスのいい発展を背景に、世界各国からの移民が急増した。特に1997年の香港の中華人民共和国返還に際し、共産主義化を恐れた香港系中国人の移民が急増した(詳細はチャイナタウン参照)。第二次世界大戦前から日系移民も多く以前は日本人街もあったが戦後急速に衰退していった(詳細はバンクーバーの日本人街参照)。",
"title": "歴史"
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"text": "バンクーバーはブリティッシュコロンビア州の南西部、フレーザー川の河口に位置する。ジョージア海峡を挟んでバンクーバー島と向かい合っている。",
"title": "地理"
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"text": "周辺の20あまりの自治体と併せて州の地方行政区としてのメトロバンクーバーを形成している。",
"title": "地理"
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"text": "リッチモンド、バーナビー、バラード入り江を挟んでノースバンクーバー、イングリッシュベイを挟んでウェストバンクーバーに隣接している。",
"title": "地理"
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"text": "バンクーバーはカナダ国内で最も温暖な気候を持つ都市の1つである。ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。夏は涼しく30度以上の真夏日になることはほぼ無く、乾燥していて過ごしやすい。日中を通して晴れる日が多い夏とは対照的に、11月から3月は急激に降水量が増えるが緯度の割に寒くない。特に太平洋沿岸に位置するバンクーバーは、レインクーバーと呼ばれるほどカナダで最も降水量の多い都市の一つである。同じく太平洋沿岸のリッチモンドにあるバンクーバー国際空港の観測データによると、年間降水量は1175.1mmに達する。冬季はカナダで最も温暖な気候で、最も寒い12月の平均気温は3.9°C。これまで観測された最高気温は2009年7月30日の34.4°C、最低気温は1968年12月29日の-17.8°Cである。",
"title": "地理"
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"text": "2016年の人口調査によるとバンクーバー市の人口は631,486人。バンクーバー都市圏の人口は246万3431人でカナダではトロント、モントリオールに次ぐ第三の都市圏規模を持っている。",
"title": "人口"
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"text": "2016年国勢調査によるとバンクーバー市内の人種・民族構成は白人が48.2%と半数を占め、ついで中国系が27%で3割弱となっており167,180人を数えてバンクーバー都市圏の中ではリッチモンドの104,185人を抑えて最も多い。さらに南アジア系やフィリピン系と続き、日系人も10,315人、全人口の1.7%を占めている。バンクーバー市内のほうがサレーやバーナビー、リッチモンド等に比較すると白人の割合が高くなっているのが特徴で、これは家賃高騰等の影響から新移民は家賃や住宅が安い郊外に住む傾向が強いからである。南アジア系はサレー(バンクーバー市内:37,130人、サレー:168,040人)、韓国系はコキットラム(バンクーバー市内:9,360人、サレー:9,930人)の方がバンクーバー市内よりも人数が多くなっている。さらに、黒人人口は6,345人でサレーの9,455人よりも少なく、全人口の1%に過ぎない。",
"title": "人口"
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"text": "バンクーバー都市圏としてみた場合は白人が48.6%と過半数弱。中国系(474,655人、19.6%)や南アジア系(291,005人、12%)、フィリピン系(123,170人、5.1%)、韓国系(52,980人、2.2%)および日系(30,110人、1.2%)を始めとするアジア系が多く住む都市であり、北米有数の規模の中華街が形成されている。",
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"text": "中国系人口はバンクーバー都市圏の2割近くを占め、これは北米の大都市では最も高い。中国系住民の多くは香港返還前後に移民してきた香港人で、バンクーバーならぬホンクーバーとも言われるほどである。特に南部にあるリッチモンドは人口の大多数が中国系である。中華街には、孫文が中国国民党を結成する前の亡命中に住んだ、中山庭園がある。",
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"text": "かつては日本人街も存在したが第二次大戦中の日系人の収容所への連行などでブリティッシュコロンビア州内の日系人人口が激減し、廃退した。2011年現在、バンクーバー仏教会、バンクーバー日本語学校と日系会館を除き殆どが廃墟化している。しかし、今でもトロントをしのぐカナダ最大の日系社会を形成し、日本人留学生も多く在住している。ダウンタウンには、日本人向けのコンビニや飲食店などが建ち並んでおり、一角では日本語だけでも生活が可能なほどである。",
"title": "人口"
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"text": "その他にもフィリピン系やメキシコ系、ベトナム系やカンボジア系、クロアチア系など様々な民族が居住しているが、黒人はバンクーバー都市圏全体でも29,830人で北米の大都市では最も少ない。",
"title": "人口"
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"text": "バンクーバー大都市圏の母語話者の割合は英語が54%、ついで広東語の7・6%、中国語の7.1%、パンジャーブ語の6・2%となっている。中国語話者の中では広東語話者が最も多いが、普通話話者の他に台湾語話者のコミュニティもある。",
"title": "人口"
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"text": "太平洋岸に位置すること、トランスカナダハイウェイと鉄道の西の終点であることから、カナダで最大の産業都市の一つである。バンクーバー港はカナダ最大で、多岐にわたる貿易量が750億ドルに上り、GDPで105億ドルを占める。林業と鉱業の拠点でもあり、最近ではソフトウェア開発、バイオテクノロジー、映画産業の中心地になっている。毎年多くの観光客が集まり、アラスカやカナダ国内への重要な入り口でもある。カナダ一家賃が安く、世界一物価、家賃が安いという面がある。アメリカのワシントン州と接しており、毎日国境を越えて通勤する人も少なくない。通勤者や観光客の便宜を図るために、アメリカドルでの支払いも可能なところが少なくないが、この場合原則として、アメリカドルで支払う場合の金額がやや高めに設定されている。",
"title": "経済"
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"text": "バンクーバーは、トロントやモントリオールに共にカナダで最も重要な金融センターの1つである。2021年9月、イギリスのシンクタンクの調査で世界28位(前回は11位)の金融センターと評価された。香港からの移民にとってバンクーバーは最も有望な移住先であり、バンクーバーの金融業はアジアからの移民や投資によって支えられている。",
"title": "経済"
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"text": "島が多く存在するブリティッシュコロンビア州では多くの人がフェリーを交通手段として使っている。フェリーターミナルは、ウェストバンクーバーのホースシューベイ港とバンクーバー市南のデルタにあるツワッセン港から出港している。",
"title": "交通"
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"text": "バンクーバー都市圏の交通行政は、トランスリンクと呼ばれる団体の管轄である。バンクーバー市内では90分以内であれば同一料金で、トランスリンクが運営するバス、スカイトレイン、シーバスに乗降りすることができる。",
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"text": "バンクーバーのダウンタウンと、郊外都市や空港とを結ぶ自動運転の軌道系公共輸送機関。ダウンタウンでは地下を走り、郊外に出ると高架になる。初期の2路線であるエキスポラインとミレニアムラインは、鉄輪式リニアモーターカーが運行している。",
"title": "交通"
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"text": "2010年2月に開催されたバンクーバーオリンピックに合わせて、バンクーバーのダウンタウンと、南接するリッチモンドのバンクーバー国際空港および中心部とを結ぶカナダラインの建設が2005年11月より進められ、2009年8月に営業を開始した。同路線は、ターミナル駅であるウォーターフロント駅からダウンタウン地下を南下し、キャンビー通りの地下を抜け、フレーザー川付近のブリッジポート駅からは、空港方面とリッチモンド方面に分岐する。",
"title": "交通"
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"text": "バンクーバーダウンタウンと東にある郊外ミッション市間約68kmを結ぶ通勤用特急列車。",
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"text": "バンクーバーには昼間にトロリーバス(バンクーバー・トロリーバス)と普通のバス、夜間はナイトバスが運行しており、地域やバス停にもよるが、ほぼ24時間利用することができる。コミュニティ・シャトルは決まったエリア内を走行するミニバン型のバス。",
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"text": "バスは路線が充実しており、乗り継ぎをすれば大体はどこへでも行ける。2010年の冬季オリンピック・パラリンピックに向けて、すべてのバスが車椅子対応の車両に更新された。多くはノンステップバスである。",
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"text": "バンクーバーのダウンタウンとノースバンクーバーを結ぶ水上バス。",
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"text": "北米の一般的な都市と違い、バンクーバー市の中心部には高速道路が通っていない。モータリゼーションに伴い、高速道路を中心部まで建設する計画があったが、高速道路に対する反対運動が1970年代から80年代にかけて行われ、計画は白紙化された。",
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"text": "トランスカナダハイウェイの一部が唯一バンクーバー市を通過するが、同市の最東部に位置し、中心部からは距離がある。また、アメリカ国境、ライオンズゲートブリッジやウィスラーなどを結ぶ州道99号線がバンクーバーを南北に通過するが、南部のリッチモンド市以南は高速道路でありながら、バンクーバー市に到達すると一般道となる。",
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"text": "トランスリンクのバスやスカイトレインなどの交通機関で移動することができる。",
"title": "観光"
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"text": "夏には花火大会が開催され、招待された数カ国の花火が日を替えて競い合う。",
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"text": "バンクーバーを本拠地とする主なプロスポーツチームは以下の通り。",
"title": "スポーツチーム"
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"text": "かつてバンクーバーを本拠地としたプロスポーツチームは以下の通りである。",
"title": "スポーツチーム"
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"text": "2019年9月25日にリリースされたiOS、Android向けゲームアプリ『マリオカート ツアー』(MARIO KART TOUR) にて、バンクーバーをモデルにした「バンクーバーバレー」を走行することができる。バンクーバーバレーには、バンクーバー五輪聖火台やキャピラノ吊り橋などの名所が登場する。コースの時間帯は夜で、空には大きなオーロラが出現している。",
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"text": "後に『マリオカート8 デラックス』でもコース追加パス第5弾に収録された。",
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バンクーバーは、カナダブリティッシュコロンビア州南西部のメトロバンクーバーに属する都市。同州最大にして北米有数の世界都市。ヴァンクーヴァーと表記されることもある。
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{{Otheruses|カナダの都市|その他|バンクーバー}}
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|公式ウェブサイト = [https://vancouver.ca/ vancouver.ca]
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|市長=[[ケネディ・スチュワート]]([[新民主党]])
}}
'''バンクーバー'''({{lang-en|Vancouver}})は、[[カナダ]][[ブリティッシュコロンビア州]]南西部の[[メトロバンクーバー]]に属する都市。同州最大にして[[北米]]有数の[[世界都市]]。'''ヴァンクーヴァー'''と表記されることもある<ref>[[地球の歩き方]]2011年版など</ref>。
== 概要 ==
バンクーバーを中心とする[[世界の都市的地域の人口順位|都市圏人口]]は246万人とカナダ国内第3位の都市圏を形成している<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>。バンクーバー市のみの人口では同国内で第8位の約64万人<ref name=bcstats>{{cite web |url=http://www.bcstats.gov.bc.ca/data/pop/pop/mun/CurrentPopulationEstimates.pdf |title=BC Stats 2010 |date=January 2011 |accessdate=2011-10-10}}</ref>である。民族や言語が多様で、人口のおよそ52%は[[母語|第一言語]]が同州の公用語にあたる英語ではない<ref name=CityFacts2004>{{cite web |url=http://vancouver.ca/commsvcs/cityplans/CityFacts04.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060512164806/http://vancouver.ca/commsvcs/cityplans/CityFacts04.pdf |archivedate=2006年5月12日 |title=City Facts 2004 |publisher=City of Vancouver |year=2004 |format=PDF |accessdate=2011-06-09 |deadlinkdate=2017年9月 }} 48.9% have neither English nor French as their first language.</ref>。[[2016年]]に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界28位と評価された<ref>[http://mori-m-foundation.or.jp/ius/gpci/index.shtml 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2016] 森記念財団都市戦略研究所 2016年11月2日閲覧。</ref>。
1867年に[[製材|製材所]]ができ、これらを中心とする入植地であった[[ギャスタウン]]は発展を続け、[[グランビル]]として町は拡大した。東カナダから続く鉄道の終着駅が町まで敷かれることになった1886年に町はバンクーバーとして改名され市政となる。
林業が同市最大の産業で、都市部ながら自然に囲まれた都市として知られていることから、観光業が発達しており、同市第2の産業となっている<ref>{{cite web |url=http://www.tourismvancouver.com/pdf/research/monthly_overnight_visitors_1994_2005.pdf |title=Overnight visitors to Greater Vancouver by volume, monthly and annual basis |publisher=Vancouver Convention and Visitors Bureau |format=PDF |accessdate=2011-06-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110717081342/http://www.tourismvancouver.com/pdf/research/monthly_overnight_visitors_1994_2005.pdf |archivedate=2011年7月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。同市にあるメトロバンクーバー港は同国最大の港であり、北米においても積載量で第4位の規模を持つ<ref>{{cite web|url=http://www.portmetrovancouver.com/about/news/09-07-31/Port_Metro_Vancouver_Mid-Year_Stats_Include_Bright_Spots_in_a_Difficult_First_Half_for_2009.aspx|title=Port Metro Vancouver Mid-Year Stats Include Bright Spots in a Difficult First Half for 2009|publisher=[[Port Metro Vancouver]]|date=2009-07-31|accessdate=2011-06-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110615025718/http://www.portmetrovancouver.com/about/news/09-07-31/Port_Metro_Vancouver_Mid-Year_Stats_Include_Bright_Spots_in_a_Difficult_First_Half_for_2009.aspx|archivedate=2011年6月15日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。同市および隣の[[バーナビー|バーナビー市]]には、主要な各映画製作会社が拠点を置いており、[[ロサンゼルス]]、[[ニューヨーク]]に続く北米第3位の規模となる映画製作拠点となっている。このため、通称ハリウッドノースとも呼ばれる<ref>{{cite web|title=Industry Profile|url=http://www.bcfilmcommission.com/about_us/industry_profile.htm|publisher=BC Film Commission|accessdate=2011-06-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110707220257/http://www.bcfilmcommission.com/about_us/industry_profile.htm|archivedate=2011年7月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite book |last=Gasher |first=Mike |title=Hollywood North: The Feature Film Industry in British Columbia |publisher=University of British Columbia Press |month=November |year=2002 |location=Vancouver |isbn=978-0-7748-0967-2}}</ref>。国際会議や国際競技が数多く開催されており、2010年には第21回[[冬季オリンピック]]([[2010年バンクーバーオリンピック|バンクーバーオリンピック]])が開催された。
== 地名 ==
'''バンクーバー'''の地名は[[18世紀]]後半、カナダ西海岸地域の測量を行った[[イギリス]]の[[探検家]]、[[ジョージ・バンクーバー]]に由来する<ref>The Voyage of George Vancouver 1791–1795, Volume 1, ed: W. Kaye Lamb, Hakluyt Society, 1984, p.247(英語)</ref>。旧訳[[漢字|漢字表記]]「晩香坡」。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2011年10月}}
[[ロッキー山脈]]に発し[[ジョージア海峡]]に注ぐ[[フレーザー川]]の[[河口]]地域にマスキーム (Xwméthkwyiem) といわれる[[アメリカ州の先住民族|先住民族]]が居住したのは、少なくとも3,000年以上前であった<ref>{{Cite book|last=Kathryn|first=Bernick|year=1998|title=Hidden dimensions: the cultural significance of wetland archaeology|publisher=Univ of British Columbia Pr|isbn=978-0774806329|language=英語|page=233}}</ref>。ただし、豊かな自然環境を考慮すると10,000年以上も前から人類が住んでいたとも考えられている。ヨーロッパから探検家が到着した頃には、[[マスキーム]]族 (Musqueam) と[[スクワミッシュ]]族 (Squamish) が既に村を形成していた。北バンクーバー地域にはツレイルワスス族 (Tsleil'wauthuth) が居住していた。これらはサリシュ海岸 (Coast Salish) 先住民族と言われ、フレーザー渓谷から北部ワシントン地域を居住区としていた。
[[1791年]]に[[スペイン]]のホセ・マリア・ナルバエス (Jose Maria Narvaez) 船長がジョージア海峡を探検した。翌[[1792年]]には、[[イギリス海軍]]の[[ジョージ・バンクーバー]]提督がスペイン探検団とともに[[バンクーバー島]]西岸からジョージア海峡に入り、のちの[[シアトル]]のあたりまで到達した。
その後、[[毛皮]]の交易所が[[コロンビア川]]やフレーザー川に沿って設立され、ブリティッシュ・コロンビアの内陸部にもヨーロッパ人の入植が相次いだ。[[ハドソン湾会社]]などがますます進出した。[[1858年]]にはフレーザー川下流岸にも金鉱が発見され、[[ゴールドラッシュ]]が始まった。[[1865年]]にはコロンビア川岸でも金鉱が発見されたが、すぐにゴールドラッシュは収束した。
[[バンクーバー港]]の中心である[[バラード入り江]]にて[[林業]]が盛んになり、[[1863年]]には最初の製材所がムーディービル(のちの[[ノースバンクーバー]])に開業した。[[1865年]]には[[オーストラリア]]へ輸出が開始された。同年までにはバンクーバー市街のあたりにも製材所が開業された。
カナダがイギリスより独立し、「カナダ自治領」(Dominion of Canada) が設立された4年後の[[1871年]]には、ブリティッシュ・コロンビアがカナダ自治領(カナダの連邦政府)に加盟した。
[[1885年]]、カナダ植民地政府の[[ジョン・A・マクドナルド|マクドナルド首相]]の指示の下、[[カナダ太平洋鉄道|カナダ・パシフィック鉄道]] (CPR) がグランビルに[[大陸横断鉄道]]の西海岸側の終着駅を建設した。CPRは、おそらくバンクーバー島に因んで、終着駅の名前を「バンクーバー」とした。その後[[1886年]][[4月6日]]、正式に「バンクーバー市」が施行され、間もなく[[モントリオール]]からの大陸横断鉄道定期便が開業された。[[1886年]]の大火事で町の大部分が焼失したが、鉄道での物資の補給等により間もなく復興した。[[1888年]]には[[スタンレーパーク]]が開園した。
大陸横断鉄道がバンクーバー港と接続し、カナダが[[太平洋]]岸からも世界各国へつながることとなった。[[1891年]]にCPR初の貨物船「"Empress of India"」が東洋から到着した。[[1914年]]には[[パナマ運河]]が開業し、バンクーバーは北太平洋の重要な海港の一つとなった。
[[20世紀]]に入ってもギャスタウン周辺が市の中心として栄えた。[[1922年]]にバンクーバーの車両交通は、イギリス方式の[[左側通行]]から[[右側通行]]に切り替わり、[[1937年]]には[[ライオンズゲートブリッジ]]が開通した。市制100周年に当たる[[1986年]]には[[バンクーバー国際交通博覧会|国際交通博覧会]] (Expo 86) が開催され、それに合わせて新しい交通機関[[バンクーバー・スカイトレイン|スカイトレイン]]が運行開始した。
カナダの天然鉱物資源および工業製品、[[石油]]などを輸出する重要な港としての港湾業や、水産農林業、[[観光]]その他によって、バンクーバーの都市圏はその後も順調な成長を続け、周辺の都市と合わせると人口200万人を超え、カナダ第3位の大都市圏を形成している。自然環境と都市文化のバランスのいい発展を背景に、世界各国からの[[移民]]が急増した。特に[[1997年]]の[[香港]]の[[中華人民共和国]]返還に際し、共産主義化を恐れた香港系中国人の移民が急増した(詳細は[[チャイナタウン (バンクーバー)|チャイナタウン]]参照)。[[第二次世界大戦]]前から日系移民も多く以前は[[日本人街]]もあったが戦後急速に衰退していった(詳細は[[バンクーバーの日本人街]]参照)。
{{wide image|Vancouver dusk pano.jpg|2000px|バンクーバー市街のパノラマ画像}}
== 地理 ==
[[ファイル:Stadtgliederung Vancouver 2008.png|thumb|バンクーバーの行政区画]]
バンクーバーはブリティッシュコロンビア州の南西部、[[フレーザー川]]の河口に位置する。[[ジョージア海峡]]を挟んで[[バンクーバー島]]と向かい合っている。
周辺の20あまりの自治体と併せて州の[[ブリティッシュコロンビア州の地方行政区|地方行政区]]としての[[メトロバンクーバー]]を形成している。
[[リッチモンド (ブリティッシュコロンビア州)|リッチモンド]]、[[バーナビー]]、[[バラード入り江]]を挟んで[[ノースバンクーバー]]、[[イングリッシュベイ]]を挟んで[[ウェストバンクーバー]]に隣接している。
=== 気候 ===
バンクーバーはカナダ国内で最も温暖な気候を持つ都市の1つである<ref name=weatherwinners>{{cite web | url = http://www.climate.weatheroffice.gc.ca/winners/categorydata_e.html?SelectedCategory=7&submit=Submit | title = Weather Winners - Warmest Year Round | publisher = Environment Canada | accessdate = 2013-02-23}}</ref>。[[ケッペンの気候区分]]では[[西岸海洋性気候]](Cfb)に属する。夏は涼しく30度以上の真夏日になることはほぼ無く、乾燥していて過ごしやすい。日中を通して晴れる日が多い夏とは対照的に、11月から3月は急激に降水量が増えるが緯度の割に寒くない。特に太平洋沿岸に位置するバンクーバーは、レインクーバーと呼ばれるほどカナダで最も降水量の多い都市の一つである。同じく太平洋沿岸の[[リッチモンド (ブリティッシュコロンビア州)|リッチモンド]]にある[[バンクーバー国際空港]]の観測データによると、年間降水量は1175.1mmに達する。冬季はカナダで最も温暖な気候で、最も寒い12月の平均気温は3.9℃。これまで観測された最高気温は2009年7月30日の34.4℃、最低気温は1968年12月29日の-17.8℃である。
{{Weather box|location=バンクーバー(1991~2020)|metric first=yes|single line=yes|temperature colour=|Jan record high C=15.3|Feb record high C=18.4|Mar record high C=19.4|Apr record high C=26.1|May record high C=30.4|Jun record high C=33.3|Jul record high C=34.4|Aug record high C=33.3|Sep record high C=29.4|Oct record high C=25.0|Nov record high C=23.3|Dec record high C=15.1|Jan high C=6.9|Feb high C=8.0|Mar high C=10.2|Apr high C=13.2|May high C=17.1|Jun high C=19.7|Jul high C=22.4|Aug high C=22.4|Sep high C=19.0|Oct high C=13.6|Nov high C=9.4|Dec high C=6.6|year high C=14.0|Jan mean C=4.2|Feb mean C=4.9|Mar mean C=6.8|Apr mean C=9.5|May mean C=13.1|Jun mean C=15.8|Jul mean C=18.2|Aug mean C=18.3|Sep mean C=15.2|Oct mean C=10.4|Nov mean C=6.5|Dec mean C=3.9|year mean C=10.6|Jan low C=1.4|Feb low C=1.6|Mar low C=3.4|Apr low C=5.8|May low C=9.2|Jun low C=11.9|Jul low C=14.0|Aug low C=14.0|Sep low C=11.3|Oct low C=7.2|Nov low C=3.5|Dec low C=1.3|year low C=7.1|Jan record low C=-17.8|Feb record low C=-16.1|Mar record low C=-9.4|Apr record low C=-3.3|May record low C=0.6|Jun record low C=2.2|Jul record low C=6.1|Aug record low C=3.9|Sep record low C=-1.1|Oct record low C=-6.1|Nov record low C=-14.3|Dec record low C=-17.8|Jan rain mm=172.3|Feb rain mm=95.9|Mar rain mm=115.3|Apr rain mm=85.5|May rain mm=57.5|Jun rain mm=48.8|Jul rain mm=31.1|Aug rain mm=35.8|Sep rain mm=60.9|Oct rain mm=124.5|Nov rain mm=175.9|Dec rain mm=171.6|date=2022年11月|source=http://www.pogodaiklimat.ru/climate7.php?id=71892}}
== 人口 ==
[[File:Vancouverdowntown2019.jpg|thumb|400px|[[ハーバーセンター]]から見る中心市街地。バンクーバーはカナダ屈指の[[金融センター]]として高い役割を持つ]]
[[2016年]]の人口調査によるとバンクーバー市の人口は631,486人。[[メトロバンクーバー|バンクーバー都市圏]]の人口は246万3431人でカナダではトロント、モントリオールに次ぐ第三の都市圏規模を持っている<ref>{{cite web|url=https://www12.statcan.gc.ca/census-recensement/2016/dp-pd/prof/details/page.cfm?Lang=E&Geo1=CMACA&Code1=933&Geo2=PR&Code2=59&SearchText=vancouver&SearchType=Begins&SearchPR=01&B1=All&TABID=1&type=0|title=Vancouver [Census metropolitan area], British Columbia and British Columbia [Province]|accessdate=2020-05-16}}</ref>。
{|class="wikitable"
|-
! 年度
! 人口(人)
! 増加率(%)
|-
| 2016年
| style="text-align:right;" | 631,486
| style="text-align:center;" | 4.6
|-
| 2011年
| style="text-align:right;" | 603,502
| style="text-align:center;" | 4.4
|-
| 2006年
| style="text-align:right;" | 578,041
| style="text-align:center;" | 5.9
|-
| 2001年
| style="text-align:right;" | 545,671
| style="text-align:center;" | 6.2
|-
| 1996年
| style="text-align:right;" | 514,008
| style="text-align:center;" | 9.0
|-
| 1991年
| style="text-align:right;" | 471,644
| style="text-align:center;" | 9.4
|-
| 1986年
| style="text-align:right;" | 431,147
| style="text-align:center;" | 4.1
|-
| 1981年
| style="text-align:right;" | 414,281
| style="text-align:center;" | 1.0
|-
| 1976年
| style="text-align:right;" | 410,188
| style="text-align:center;" | -
|}
*増加率は過去5年間の人口増加率を意味する。
=== 民族 ===
{{bar box
|title=人種・民族構成(バンクーバー大都市圏) 2016年
|titlebar=#ddd
|float=right
|bars=
{{bar percent|[[白人]]|blue|48.6}}
{{bar percent|[[中国]]系|Orange|27.0}}
{{bar percent|[[南アジア]]系|green|6.0}}
{{bar percent|[[フィリピン]]系|yellow|5.1}}
{{bar percent|[[先住民]]|Red|2.5}}
{{bar percent|[[韓国]]系|silver|1.7}}
{{bar percent|[[西アジア]]系|gold|1.9}}
{{bar percent|[[東南アジア]]系|black|1.9}}
{{bar percent|[[中南米]]系|lightblue|1.4}}
{{bar percent|[[日系人]]|pink|1.2}}
{{bar percent|[[黒人]]|Purple|1.2}}
}}
{{bar box
|title=母語話者(バンクーバー大都市圏)2016
|titlebar=#ddd
|float=right
|bars=
{{bar percent|[[英語]]|red|54.0}}
{{bar percent|[[広東語]]|yellow|7.6}}
{{bar percent|[[標準中国語|北京語]]|orange|7.2}}
{{bar percent|[[パンジャーブ語]]|green|6.2}}
{{bar percent|[[韓国語]]|blue|1.9}}
{{bar percent|[[タガログ語]]|yellow|2.7}}
}}
2016年国勢調査によるとバンクーバー市内の人種・民族構成は白人が48.2%と半数を占め、ついで中国系が27%で3割弱となっており167,180人を数えてバンクーバー都市圏の中ではリッチモンドの104,185人を抑えて最も多い。さらに南アジア系やフィリピン系と続き、日系人も10,315人、全人口の1.7%を占めている。バンクーバー市内のほうが[[サレー]]や[[バーナビー]]、[[リッチモンド (ブリティッシュコロンビア州)|リッチモンド]]等に比較すると白人の割合が高くなっているのが特徴で、これは家賃高騰等の影響から新移民は家賃や住宅が安い郊外に住む傾向が強いからである。南アジア系はサレー(バンクーバー市内:37,130人、サレー:168,040人)、韓国系はコキットラム(バンクーバー市内:9,360人、サレー:9,930人)の方がバンクーバー市内よりも人数が多くなっている。さらに、黒人人口は6,345人でサレーの9,455人よりも少なく、全人口の1%に過ぎない。
バンクーバー都市圏としてみた場合は白人が48.6%と過半数弱。中国系(474,655人、19.6%)や南アジア系(291,005人、12%)、フィリピン系(123,170人、5.1%)、韓国系(52,980人、2.2%)および日系(30,110人、1.2%)を始めとするアジア系が多く住む都市であり、北米有数の規模の[[中華街]]が形成されている。
中国系人口はバンクーバー都市圏の2割近くを占め、これは北米の大都市では最も高い。中国系住民の多くは香港返還前後に移民してきた香港人で、バンクーバーならぬ'''ホンクーバー'''とも言われるほどである<ref>[http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/090/090_02_03.html 館報「開港のひろば」] 横浜開港資料館、2005年11月2日</ref>。特に南部にある[[リッチモンド (ブリティッシュコロンビア州)|リッチモンド]]は人口の大多数が中国系である。中華街には、[[孫文]]が[[中国国民党]]を結成する前の亡命中に住んだ、中山庭園がある。
かつては[[日本人街]]も存在したが第二次大戦中の[[日系人]]の収容所への連行などでブリティッシュコロンビア州内の日系人人口が激減し、廃退した。2011年現在、バンクーバー仏教会、バンクーバー日本語学校と日系会館を除き殆どが廃墟化している{{要出典|date=2011年9月}}。しかし、今でも[[トロント]]をしのぐカナダ最大の日系社会を形成し、日本人留学生も多く在住している。ダウンタウンには、日本人向けのコンビニや飲食店などが建ち並んでおり、一角では日本語だけでも生活が可能なほどである{{要出典|date=2011年9月}}。
その他にもフィリピン系やメキシコ系、ベトナム系やカンボジア系、クロアチア系など様々な民族が居住しているが、黒人はバンクーバー都市圏全体でも29,830人で北米の大都市では最も少ない。
=== 言語 ===
バンクーバー大都市圏の母語話者の割合は英語が54%、ついで[[広東語]]の7・6%、[[標準中国語|中国語]]の7.1%、[[パンジャーブ語]]の6・2%となっている。中国語話者の中では[[広東語]]話者が最も多いが、[[普通話]]話者の他に[[台湾語]]話者のコミュニティもある。
== 経済 ==
太平洋岸に位置すること、トランスカナダハイウェイと鉄道の西の終点であることから、カナダで最大の産業都市の一つである。バンクーバー港はカナダ最大で、多岐にわたる貿易量が750億ドルに上り、GDPで105億ドルを占める。林業と鉱業の拠点でもあり、最近では[[ソフトウェア]]開発、[[バイオテクノロジー]]、[[映画産業]]の中心地になっている。毎年多くの観光客が集まり、アラスカやカナダ国内への重要な入り口でもある。カナダ一家賃が安く、世界一物価、家賃が安いという面がある<ref>[http://www.rentseeker.ca/blog/index.php/new-report-shows-average-rents-and-vacancy-rates-across-canada-rentseeker-ca/2980 New Report Shows Average Rents and Vacancy Rates across Canada]</ref>。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ワシントン州]]と接しており、毎日国境を越えて通勤する人も少なくない。通勤者や観光客の便宜を図るために、[[アメリカ合衆国ドル|アメリカドル]]での支払いも可能なところが少なくないが、この場合原則として、アメリカドルで支払う場合の金額がやや高めに設定されている。
バンクーバーは、[[トロント]]や[[モントリオール]]に共にカナダで最も重要な[[金融センター]]の1つである。2021年9月、イギリスのシンクタンクの調査で世界28位(前回は11位)の金融センターと評価された<ref>{{Cite web|title=GFCI 30 Rank - Long Finance|url=https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/gfci-30-explore-data/gfci-30-rank/|website=www.longfinance.net|accessdate=2021-11-16}}</ref>。香港からの移民にとってバンクーバーは最も有望な移住先であり<ref>{{Cite web|和書|title=香港人のカナダ移住ブームが再来するのか?|url=https://agora-web.jp/archives/2037616.html|website=アゴラ 言論プラットフォーム|date=2019-03-06|accessdate=2021-11-16|language=ja|first=岡本|last=裕明}}</ref>、バンクーバーの金融業はアジアからの移民や投資によって支えられている。
== 行政 ==
{{節スタブ}}
=== 警察 ===
* バンクーバー市警(VPD:Vancouver Police Department)
: バンクーバー市は独自の警察部隊を持ち、バンクーバー市内の警察業務はバンクーバー市警の管轄となる。
* 交番(CPC:Community Policing Centers)
: 地域ごとに警察官とボランティアで構成された交番が配置されている。退職者から若者まで多くのボランティアが地域パトロールや盗難等の被害届の作成などを担当し、警察官たちがより重要な職務を遂行できるようサポートしている。24時間開いているわけではないが朝から夕方まで常時ボランティアが待機している。
== 交通 ==
{{節スタブ}}
=== 空港 ===
[[ファイル:Vancouver - panoramio (29).jpg|サムネイル|バンクーバー国際空港]]
* [[バンクーバー国際空港]] ([[空港コード]]:YVR)
: バンクーバーの南、[[リッチモンド (ブリティッシュコロンビア州)|リッチモンド]]にある国際空港で、旅客数は[[トロント・ピアソン国際空港]]に次ぐカナダ第2の空港。 国際空港としては珍しく、水上機定期便のためのターミナルを備えた空港でもある。
* [[アボッツフォード国際空港]]([[:en:Abbotsford International Airport|Abbotsford International Airport]])(空港コード:YXX)
:同地区から東部に位置する[[アボッツフォード]]にある国際空港で、設備面でもバンクーバー国際空港の代替機能を持つ空港。
* [[バンクーバー・ハーバー水上空港]] (空港コード:CXH)
:ダウンタウンの[[ウォーターフロント駅]]近くにあり、[[水上飛行機]]が[[バンクーバー島]]の[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]]や[[ナナイモ]]などとの間を短時間で結んでいる。離着陸数は約5万回で水上空港としてはカナダ1位。
=== BCフェリー ===
[[ファイル:Queenofoakbay-horshbay.jpg|thumb|BCフェリー]]
島が多く存在する[[ブリティッシュコロンビア州]]では多くの人が[[フェリー]]を交通手段として使っている。フェリーターミナルは、[[ウェストバンクーバー]]の[[ホースシュー・ベイ (カナダ)|ホースシューベイ港]]とバンクーバー市南の[[デルタ (ブリティッシュコロンビア州)|デルタ]]にあるツワッセン港から出港している。
=== 公共交通機関 ===
{{Main|トランスリンク (バンクーバー)}}
バンクーバー都市圏の交通行政は、トランスリンクと呼ばれる団体の管轄である。バンクーバー市内では90分以内であれば同一料金で、トランスリンクが運営するバス、スカイトレイン、シーバスに乗降りすることができる。
==== スカイトレイン ====
[[ファイル:Vancouver Skytrain train flickr.jpg|thumb|[[バンクーバー・スカイトレイン|スカイトレイン]]]]
{{Main|バンクーバー・スカイトレイン}}
バンクーバーのダウンタウンと、郊外都市や空港とを結ぶ自動運転の軌道系公共輸送機関。ダウンタウンでは地下を走り、郊外に出ると高架になる。初期の2路線である[[エキスポライン]]と[[ミレニアムライン]]は、[[鉄輪式リニアモーターカー]]が運行している。
2010年2月に開催された[[バンクーバーオリンピック]]に合わせて、バンクーバーのダウンタウンと、南接する[[リッチモンド (ブリティッシュコロンビア州)|リッチモンド]]の[[バンクーバー国際空港]]および中心部とを結ぶ[[カナダライン]]の建設が2005年11月より進められ、2009年8月に営業を開始した。同路線は、[[ターミナル駅]]である[[ウォーターフロント駅]]からダウンタウン地下を南下し、キャンビー通りの地下を抜け、[[フレーザー川]]付近のブリッジポート駅からは、空港方面とリッチモンド方面に分岐する。
==== ウエストコーストエクスプレス ====
{{Main|ウエストコーストエクスプレス}}
バンクーバーダウンタウンと東にある郊外ミッション市間約68kmを結ぶ通勤用特急列車。
==== 路線バス ====
[[ファイル:Vancouver trolley2101 050720.jpg|thumb|[[ニューフライヤー]] E40LFR型[[トロリーバス]]。]]
{{Main|トランスリンクのバス路線一覧}}
バンクーバーには昼間に[[トロリーバス]]([[バンクーバー・トロリーバス]])と普通の[[バス (交通機関)|バス]]、夜間はナイトバスが運行しており、地域やバス停にもよるが、ほぼ24時間利用することができる。コミュニティ・シャトルは決まったエリア内を走行するミニバン型のバス。
バスは路線が充実しており、乗り継ぎをすれば大体はどこへでも行ける。2010年の冬季[[2010年バンクーバーオリンピック|オリンピック]]・[[2010年バンクーバーパラリンピック|パラリンピック]]に向けて、すべてのバスが[[車椅子]]対応の車両に更新された。多くは[[ノンステップバス]]である。
==== シーバス ====
{{Main|シーバス (バンクーバー)}}
バンクーバーのダウンタウンと[[ノースバンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|ノースバンクーバー]]を結ぶ水上バス。
==== 長距離列車・高速バス ====
* [[:en:Pacific Central Station|パシフィック・セントラル駅]] - [[VIA鉄道]]カナディアン号が大陸横断鉄道の[[カナディアン号]]を運行する他、[[アムトラック]]により[[アメリカ合衆国]]の[[シアトル]]までの路線の出発駅となる。長距離鉄道は主に観光客をターゲットとしており、本数も少なく速達性や定時性も低いため、多くの乗客は併設されている高速バスターミナルからカナダ国内やシアトルを結ぶ都市間高速バスを利用する。
* [[:en:North Vancouver railway station|ノースバンクーバー駅]] - [[ノースバンクーバー]]にあり、かつては[[:en:BC Rail|BCレイル]]のターミナルであったが、[[ウィスラー (ブリティッシュコロンビア州)|ウィスラー]]まで[[ロッキーマウンテニア鉄道|ロッキーマウンテニア社]]による観光路線が運行されていた。2002年10月31日付で営業を停止。
* [[:en:Rocky Mountaineer Station|ロッキーマウンテニア駅]] - カルガリー・バンフなどのロッキー山脈方面への観光列車を運行するロッキーマウンテニア鉄道のターミナル駅。パシフィック・セントラル駅に隣接する。
=== 道路網 ===
[[File:Georgia @ Burrard.JPG|thumb|州道99号線(ジョージア通り)]]
北米の一般的な都市と違い、バンクーバー市の中心部には高速道路が通っていない。[[モータリゼーション]]に伴い、高速道路を中心部まで建設する計画があったが、高速道路に対する反対運動が1970年代から80年代にかけて行われ、計画は白紙化された。
[[トランスカナダハイウェイ]]の一部が唯一バンクーバー市を通過するが、同市の最東部に位置し、中心部からは距離がある。また、アメリカ国境、[[ライオンズゲートブリッジ]]や[[ウィスラー (ブリティッシュコロンビア州)|ウィスラー]]などを結ぶ州道99号線がバンクーバーを南北に通過するが、南部の[[リッチモンド (ブリティッシュコロンビア州)|リッチモンド市]]以南は高速道路でありながら、バンクーバー市に到達すると一般道となる。
== 教育 ==
[[ファイル:UBC aerial view.jpg|thumb|[[ブリティッシュコロンビア大学]]]]
[[ファイル:Vpl vancouver.jpg|thumb|[[バンクーバー公共図書館]]本館]]
=== 大学 ===
* [[ブリティッシュコロンビア大学]](UBC)
: 5万人が学ぶ西部カナダ最大の研究総合大学。常に国内トップ3に入る名門大学。世界的にも高い評価を得て、国際的な知名度も高い。402ヘクタールの広大な敷地を持ち、敷地内に[[新渡戸記念庭園]]がある。なお、住所はVancouverで郵便物も問題なく届くが、厳密にはUBCの土地は先住民から勉学のために借りているUniversity Endowment Landsであり、バンクーバー市には属さない。
* [[サイモンフレーザー大学]](SFU)
: 州立の総合大学。環境学、ビジネス、犯罪学/刑事法学の名門校。SFU本部は隣接する[[バーナビー|バーナビー市]]にあるが、バンクーバー市内の[[ウォーターフロント駅]]前にある[[ハーバーセンター]]内にもキャンパスを構える。
* [[ブリティッシュコロンビア工科大学]](BCIT)
* [[エミリー・カー美術大学]]
* [[キャピラノ大学]]
=== カレッジ ===
* [[バンクーバー・コミュニティ・カレッジ]]
* [[ランガラ・カレッジ]]
* [[コロンビア・カレッジ]](Columbia College)
* ダグラス・[[:en:Douglas_College|カレッジ]]
* [https://www.coquitlamcollege.com/ コキットラムカレッジ]
*
=== 図書館 ===
* [[バンクーバー公共図書館]](VPL) - 市立図書館。本館以外に21の分館を抱え、40万人近くが利用者として登録し、年間800万点以上の貸し出しを行っている、カナダ第三の規模を誇る公共図書館ネットワーク。
== 観光 ==
[[ファイル:Gastown Steam Clock by Kiyokun.JPG|thumb|240px|[[ギャスタウン]]]]
[[ファイル:Canadaplace-pano.jpg|thumb|240px|[[カナダプレイス]]]]
[[ファイル:Lions_Gate_Bridge_at_night.jpg|thumb|240px|[[ライオンズゲートブリッジ]]]]
[[トランスリンク]]の[[バス (交通機関)|バス]]や[[バンクーバー・スカイトレイン|スカイトレイン]]などの交通機関で移動することができる。
* [[スタンレーパーク]]
* [[ギャスタウン]]
* [[カナダプレイス]]
* [[ハーバーセンター]]([[ザ・ルックアウト]])
* [[グランビル・ストリート]]
* [[ロブソン通り|ロブソン・ストリート]]
* [[チャイナタウン (バンクーバー)|チャイナタウン]]
* [[中山庭園]]
* [[イエールタウン]]
* [[キツラノ]]
* [[イングリッシュベイ]]
* [[クイーンエリザベスパーク]]
* [[グランビルアイランド]]
* [[バンデューセン植物園]]
* [[バンクーバー海洋博物館]]
* [[バンクーバー水族館]]
* [[バンクーバー博物館]]
* [[バンクーバー美術館]]
* [[ヘイスティングスパーク]]
* [[BCプレイス・スタジアム]]
* [[ロジャース・アリーナ]]
* [[サム・キー・ビル]]([[:en:Sam Kee Building|Sam Kee Building]])
* [[新渡戸稲造記念庭園]]
* [[キャピラノ吊り橋]]
夏には花火大会が開催され、招待された数カ国の花火が日を替えて競い合う。
== スポーツチーム ==
[[ファイル:BCplace stadium.jpg|thumb|[[BCプレイス・スタジアム]]]]
バンクーバーを本拠地とする主なプロスポーツチームは以下の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
!スポーツ種別!!チーム!!所属団体!!団体内所属!!ホーム競技場
|-
![[野球]]
|[[バンクーバー・カナディアンズ]]
|[[マイナーリーグベースボール]]
|[[ハイAウエスト]]
|{{仮リンク|ナットベイリー・スタジアム|en|Nat Bailey Stadium}}
|-
![[アイスホッケー]]
|[[バンクーバー・カナックス]]
|[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]
|[[ウェスタン・カンファレンス (NHL)|ウェスタン・カンファレンス]]
|[[ロジャース・アリーナ]]
|-
![[カナディアンフットボール]]
|[[ブリティッシュ・コロンビア・ライオンズ|BCライオンズ]]
|[[カナディアン・フットボール・リーグ|CFL]]
|ウェスト・ディビジョン
|rowspan=2|[[BCプレイス・スタジアム]]
|-
![[サッカー]]
|[[バンクーバー・ホワイトキャップス]]
|[[メジャーリーグサッカー|MLS]]
|ウェスト・カンファレンス
|-
|}
かつてバンクーバーを本拠地としたプロスポーツチームは以下の通りである。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
!スポーツ種別!!チーム!!所属団体!!団体内所属!!ホーム競技場
|-
!rowspan="2"|[[野球]]
|[[バンクーバー朝日]]
|
|
|{{仮リンク|オッペンハイマー・パーク|en|Oppenheimer Park|preserve=1}}
|-
|{{仮リンク|バンクーバー・マナティーズ|en|Vancouver Mounties|preserve=1}}
|マイナーリーグベースボール
|[[パシフィックコーストリーグ]]
|キャピラノ・スタジアム
|-
!バスケットボール
|[[メンフィス・グリズリーズ|バンクーバー・グリズリーズ]]
|[[NBA]]
|[[ウェスタン・カンファレンス (NBA)|ウェスタン・カンファレンス]]
|[[ロジャーズ・アリーナ|GMプレイス]]
|-
|
|}
== 国際イベント ==
* [[1954年]] [[コモンウェルスゲームズ]]
* [[1986年]] [[バンクーバー国際交通博覧会]]
* [[2010年]] [[冬季オリンピック]]([[バンクーバーオリンピック]])、および冬季[[パラリンピック]]([[バンクーバーパラリンピック]])
== 姉妹都市 ==
* {{Flagicon|UKR}} [[オデッサ]] ([[ウクライナ]]・[[オデッサ州]])
* {{Flagicon|JPN}} [[横浜市]] ([[日本]]・[[神奈川県]])
* {{Flagicon|UK}} [[エディンバラ]] ([[イギリス]]・[[スコットランド]])
* {{Flagicon|CHN}} [[広州市]] ([[中華人民共和国|中国]]・[[広東省]])
* {{Flagicon|USA}} [[ロサンゼルス]] ([[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]])
== その他 ==
2019年9月25日にリリースされたiOS、Android向けゲームアプリ『[[マリオカート ツアー]]』(MARIO KART TOUR) にて、バンクーバーをモデルにした「バンクーバーバレー」を走行することができる。バンクーバーバレーには、バンクーバー五輪聖火台や[[キャピラノ吊り橋]]などの名所が登場する。コースの時間帯は夜で、空には大きな[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]が出現している。
後に『[[マリオカート8 デラックス]]』でもコース追加パス第5弾に収録された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[バンクーバー方式]] - 会議の開催地がバンクーバーだったことにちなむ。
* [[ブリティッシュコロンビア州]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Vancouver|Vancouver|バンクーバー}}
; 公式ウェブサイト
* [https://vancouver.ca/ City of Vancouver: Home] {{en icon}}
* {{Facebook|CityofVancouver|City of Vancouver - Local Government}}
* {{Instagram|cityofvancouver|City of Vancouver}}
* {{Twitter|CityofVancouver|City of Vancouver}}
* {{YouTube|u=CityofVancouver|City of Vancouver}}
; 日本政府
* [https://www.vancouver.ca.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在バンクーバー日本国総領事館] {{ja icon}}{{en icon}}
; 観光
* [https://www.tourismvancouver.com/ バンクーバー観光協会] {{en icon}}{{fr icon}}{{es icon}}{{de icon}}{{ja icon}}
* [https://www.hellobc.jp/vancouver.aspx ブリティッシュコロンビア州観光局 - バンクーバー] {{ja icon}}{{en icon}}{{fr icon}}{{es icon}}{{de icon}}
* [https://jp-keepexploring.canada.travel/places-to-go/vancouver カナダ観光局 - バンクーバー] {{ja icon}}
; その他
* [https://www.vpl.ca/ バンクーバー公共図書館] {{en icon}}{{fr icon}}{{es icon}}{{ja icon}}
* [https://www.bcferries.com/ BCフェリー] {{en icon}}
{{CND-stub}}
{{冬季オリンピック開催都市}}
{{冬季パラリンピック開催都市}}
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{{DEFAULTSORT:はんくうはあ}}
[[Category:メトロバンクーバー]]
[[Category:バンクーバー市|*]]
[[Category:ブリティッシュコロンビア州の都市]]
[[Category:北アメリカの港町]]
[[Category:太平洋の港町]]
[[Category:ジョージ・バンクーバー]]
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赤羽線
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赤羽線(あかばねせん)は、東京都豊島区の池袋駅と東京都北区の赤羽駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。
1985年(昭和60年)9月30日以降は運行系統の名称である「埼京線」と呼称・案内されている(詳細は後述)。本稿では、埼京線開業後も当該区間の正式路線名称は赤羽線であるため、埼京線開業後の赤羽線区間についても記述する。同日以降の旅客列車の運行形態については「埼京線」を参照。
「赤羽線」は、池袋駅と赤羽駅を板橋駅経由で結ぶ5.5kmの路線の正式名称で、かつては旅客案内でもこの名称が用いられていた。東北新幹線の上野駅延伸の見返りに建設された当時の仮称通勤新線(赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間)と直通運転が始まった1985年(昭和60年)9月30日以降、通勤新線と共に池袋駅 - 大宮駅間(及び同区間を通る旅客列車)が「埼京線」と案内されるようになった。
JR東日本の公式サイトにおいても現在は「赤羽線」との案内はなくなっている。なお、池袋駅 - 赤羽駅間の踏切、定期券や回数券、マルス端末発行による乗車券の経由表記においては、現在でも稀に赤羽線と表記されることがあるが、埼京線と併記されることがほとんどである。一方、『JR時刻表』の「埼京線」ページでは、「池袋 - 赤羽間は赤羽線」との表記がある。赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間の通勤新線も正式には東北本線の無名支線であり、埼京線という名の路線は存在しないことになっているが、埼京線という名称の方が案内等に多用される実態と違いが生じている。
全線が旅客営業規則で定める電車特定区間、大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。
当線はいわゆる湘南新宿ラインの池袋駅 - 赤羽駅間より約4km短く、当線では当該区間を途中2駅停車して9 - 10分で走行するのに対し、湘南新宿ラインの当該区間は10 - 11分ほどかかるため、先発した湘南新宿ラインの列車より、後発の当線経由の埼京線の列車の方が先着するダイヤが存在する。
本節では、品川線として開業した日本鉄道時代から1985年(昭和60年)9月30日の埼京線開業までの赤羽線の歴史・沿革(池袋駅 - 板橋駅間の日本貨物鉄道〈JR貨物〉の第二種鉄道事業については、その廃止日まで)について記述する。
赤羽線は、日本鉄道が1883年(明治16年)7月28日に開業した上野駅 - 熊谷駅間の第一区線と官設鉄道との連絡線として1885年(明治18年)3月1日に開業した赤羽駅 - 板橋駅 - 新宿駅 - 渋谷駅 - 品川駅間の品川線が起源である。つまり、現在の赤羽線(埼京線)と山手線の一部が一体となって敷設された路線で、赤羽線の方が本線であった。現在も池袋駅では山手線の方が東にカーブを描いているのはそのためである。ただし、品川線開業当時の池袋駅は池袋信号所であった。品川線の主たる目的は、官設鉄道との連絡と、横浜港からの鉄道資材や建築資材などや、群馬方面からの生糸を横浜港へ運ぶ輸送ルートの確保であり、現在は東京の通勤通学の最重要路線の中の山手線と赤羽線(埼京線)は、かつては貨物輸送を第一の目的として建設された路線であった。それでも、旅客営業を行っており、新橋駅 - 品川駅 - 渋谷駅 - 新宿駅 - 板橋駅 - 赤羽駅間を1日3往復で所要時間1時間15分で運行された。
1903年(明治36年)4月1日、同じ日本鉄道の路線だった隅田川線・土浦線へ線路をつなげるために、豊島線(池袋駅 - 田端駅間)が敷設された。その時に池袋信号所が池袋駅となり、同時に大塚駅と巣鴨駅が設置され、豊島線開業前の1901年(明治34年)8月に品川線(全線)・第一区線(上野駅 - 田端駅間)・秋葉原線(全線)を山手線と呼称することを決定、豊島線開業後それらと併せて山手線と呼ぶようになった。1906年(明治39年)11月1日に日本鉄道が国有化された後、1909年(明治42年)10月12日に赤羽駅 - 品川駅間、池袋駅 - 田端駅間は正式に山手線となった。同年12月16日に電化、電車は烏森駅(現・新橋駅) - 品川駅 - 池袋駅 - 田端駅 - 上野駅間と池袋駅 - 赤羽駅間と分かれて運行された。1925年(大正14年)11月1日に山手線が環状運転を行うようになった時、環状運転をする電車は池袋駅 - 田端駅方面へ運行したため、実質的に池袋駅 - 赤羽駅間の方が支線のような状態となり(名目上は池袋駅 - 赤羽駅間が本線で、池袋駅 - 田端駅間は支線だった)、以降、同区間は「赤羽線」という通称名で呼ばれていた。1972年(昭和47年)7月15日の線路区間表示等が変更された際に、池袋駅 - 赤羽駅間を山手線から分離、それまで通称として使われてきた「赤羽線」が正式に路線の名称となった。
赤羽線が正式名称となる前から、池袋駅での発着番線は4番線(現・8番線)で、赤羽駅は東北貨物線に隣接したホームで発着していた。浦和・大宮方面と池袋・新宿といった、山手線の西側を結ぶ短絡線として利用が多い路線であり、1970年代頃からその方面からの輸送量の大幅増大による混雑と、東北・上越新幹線建設に伴う通過地域の通勤新線建設の要望などから、赤羽線をその通勤新線に直通させることになった。そののち1981年(昭和56年)12月6日に自動列車制御装置 (ATC) の使用開始、1983年(昭和58年)3月2日に赤羽駅の専用ホームが高架化され、池袋駅も同年10月2日に4番線から新設の1・2番線(現3・4番線)ホームに変更された。その後、1985年(昭和60年)9月30日に東北本線支線(赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅)が開業し、同時に川越線の電化も行われ、赤羽線との直通運転が開始され、この時から赤羽線と東北本線支線は「埼京線」として案内されるようになった。
車両面では、戦後の1953年(昭和28年)頃から73系などが使用されていたが、1967年(昭和42年)4月に山手線の黄5号(カナリア色)の101系が転用され、黄色が赤羽線の路線色となった。しかし、101系運用時より黄緑6号(ウグイス色)の山手線の103系による代走が度々あった。1978年(昭和53年)3月1日に101系が103系に置き換わり、1編成を山手線との共通予備として黄緑色(一部の車両は黄色から黄緑色に戻した)としたため、黄緑色編成および黄緑・黄色の混色編成が多く見られた。なお、埼京線開業後は山手線と同じ黄緑色のラインカラーとなり、埼京線開業までに黄色の車両はすべて黄緑色に塗り替えられた(詳細は後述)。
開業当時から貨物輸送のメインルートの一つであった赤羽線であるが、戦後は山手貨物線や東北貨物線から当線を経由する貨物列車や、池袋駅・板橋駅は貨物の取扱があり、板橋駅発着のセメント輸送や砕石・砂利輸送、一般貨物(米や紙製品など)輸送列車が最盛期には1日4往復運転されていた。しかし、当線経由の貨物列車は、1978年(昭和53年)に山手貨物線経由に変更され、池袋駅の貨物扱いは1980年(昭和55年)に廃止となり、板橋駅発着の貨物列車も、1996年(平成8年)までに廃止された(詳細は後述)。
本節では、1985年9月30日の埼京線開業直前までの使用車両の詳細及びそれ以降の使用車両を記述する。(本節の全体の出典...)
下記に示す車両は、全て電車である(■の色は車体色)。なお、所属車両基地は全て池袋電車区(現・池袋運輸区)。
車両は1953年頃から旧型国電が使用され始め、同年代の通勤圏拡大に伴い、東北本線・高崎線方面から池袋・新宿・渋谷への通勤・通学客の増加に対応を重ね、1958年11月には4両編成→5両編成、1959年8月には5両編成→6両編成、1961年11月からは72系を中心とした7両編成に、1965年7月には当時の山手線と同じ8両編成となった。1967年(昭和42年)4月に山手線用のカナリア色の101系8両編成×5本40両が転用され、それに伴い黄色が赤羽線の路線色となった。101系運用時よりウグイス色の山手線の103系による代走がしばしばあったが、1972年6月23日に日暮里駅で起こった追突事故を契機に、山手線・京浜東北線・赤羽線に自動列車制御装置(ATC)を導入することになり、1978年3月1日までに運用車両を103系8両編成×5本40両に置き換え、101系は全車南武線に転用された。なお、投入された103系は、山手線用の車両をそのまま転用されたため、ウグイス色のまま運用され、また先頭車は全て低運転台クハ103形であった。1979年からATC対応の高運転台クハ103形が投入され、車両は順次ウグイス色→カナリア色へ塗り替えられた。1981年12月6日にATC使用開始後も8両編成で運用されていたが、1983年10月2日の池袋駅の発着ホーム移転に伴い全編成が10両編成化され、先頭車以外の中間車にも冷房車が新製投入された。その後、1985年9月30日の埼京線開業までに1編成を除き順次カナリア色→ウグイス色へと塗り替えられ、赤羽線のラインカラーであったカナリア色の電車の運用は終了した。
車両編成については、前述の通り72系運用時末期には、72系7両×サハ17形1両の8両編成で運用された。101系については、山手線に103系の新製投入に伴っての転用で、編成は(池袋方)McM'MM'TTMMc'(赤羽方)の8両編成で、車体の色はカナリア色、1969年に山手線から101系が撤退した後も、101系は継続運用された。なお、101系の中には、日除けのキセが分割形の初期車はおらず、1967年製で側扉がステンレス製のサハ101-126・126が含まれていた。また、101系当時の編成運用は、配置40両のうち使用32両・予備8両で1編成分の予備しかなかったので、前述の通り山手線用の103系の代走がしばしば見られた。103系については、1978年3月1日までに全車103系化された。編成は(池袋方)TcMM'TTMM'Tc(赤羽方)の8両編成で、全車山手線からの捻出車で、車体の色はウグイス色、編成中モハユニット(編成中間の電動車MM')とサハ(編成中間の付随車T)は全車非冷房車、先頭車のクハ(制御車Tc)は低運転台非冷房車であったが、1編成のみ試作冷房車を量産化改造したクハ103-178・179でこの2両は冷房車であった。1979年からATC対応の高運転台クハ103形が投入され、各編成は順次ウグイス色→カナリア色へ塗り替えられた。その間は、先頭車ウグイス色、中間車カナリア色という編成も見られた。しかし、編成自体は山手線と同様に先頭車が冷房装置を搭載しているATC車でありながら、中間車が冷房電源のない非冷房車のため、冷房が使えないいわゆる「キセル編成」であった。そのため、夏季のみ編成の一部に山手線用103系冷房改造車モハユニットに組み替えて冷房を使用出来るようにした。1981年12月6日にATC使用開始時、クハ103-301・302の2両は「山手線の予備車兼用」としてウグイス色のままであったが、当線用の1編成の中間車6両をカナリア色→ウグイス色へ戻し、先頭車をクハ103-301・302の2両に差し替えて「山手線の予備編成兼用」となった。1983年10月2日に10連化用のモハユニットであるモハ103-787+モハ102-2044他計10両が落成。これが103系最終増備車(最終ユニット車)に当たり、優先的に2・3号車と8・9号車へ組み込まれクハ103形の冷房電源スイッチが使用出来るようになった。また、翌年2月1日のダイヤ改正での福知山線短編成化による同線からのモハユニット2両(モハ103-776+モハ102-2033)が転入、当線用のうち4編成(下線部が冷房車)が(池袋方)TcMM'TMM'TMM'Tc(赤羽方)、1編成が(池袋方)TcMM'TMM'TMM'Tc(赤羽方)となった。その後、当線用のカナリア色車は、埼京線開業と川越線電化開業の準備対策としてウグイス色へ変更、最終ユニット車も2年余りでウグイス色へ変更されて、当線用の全編成が埼京線・川越線の車両基地である川越電車区(現・川越車両センター)へ転属した。
行き先表示は101系と103系非冷房車は2段の両終点表示(上段「池袋」、下段「赤羽」。103系の一部は1行で「池袋←→赤羽」の物もあり)、103系冷房車は線名(「赤羽線」)を表示していた。埼京線開業直前時には、行き先方向幕が埼京線対応のものに交換されることとなり、従来の「赤羽線」の表示コマは「指扇」へ変更となった。このため、交換後の運用中における行き先表示はそれぞれ「池袋」・「赤羽」表示とされた。
1985年9月30日の埼京線開業後は、103系(1985年 - 1990年)→205系(1989年 - 2016年)→E233系7000番台(2013年 - )と変遷した。所属車両基地はすべて川越電車区(現・川越車両センター)である。なお、2002年12月1日から東京臨海高速鉄道の70-000形が、2019年11月30日から相模鉄道の12000系が乗り入れている。ただし、相模鉄道12000系の赤羽線区間への乗り入れは、代走などの場合を除き定期旅客列車では設定されておらず、通常ダイヤでは回送列車による板橋駅電留線入線の場合のみ乗り入れる。
元々日本鉄道時代の品川線の主たる目的は、官設鉄道との連絡と、上毛地方の生糸の横浜方面への貨物輸送であった。当時の生糸は、日本最大の輸出品であり、第一区線(現・高崎線)が1884年(明治17年)8月に前橋駅まで延伸されると、江戸時代以来の舟運や馬車などによる輸送から鉄道輸送へ移るようになり、品川駅での官設鉄道との接続で、鉄道貨物の重要性がますます認識されていった。その後の豊島線の開通、隅田川貨物駅の開業、日本鉄道の国有化後は、東京に発着または通過する貨物量が増大し、山手貨物線の新設や田端操車場開業などで対応していった。昭和に入ると、山手貨物線の線路容量不足が露呈してきたことから、武蔵野線を開通させ、当線や山手貨物線を通過する貨物列車の本数は減ったが、深夜を中心に当線を通過する貨物列車は、1978年(昭和53年)9月30日まで運行されていた。
池袋駅での貨物取扱開始は、国有化直前の1906年(明治39年)10月23日からで、貨物設備は旅客ホーム東側の西武池袋駅寄りにあり、構内は、着発線6線・仕訳線・積卸線・貨物留置線・引上線などの貨物用側線・貨物ホームが設置されていた。また、同駅構内には西武池袋線と、同駅 - 板橋駅間には東武東上線との貨物輸送をするための連絡線が存在していた。西武鉄道との連絡貨物輸送は、1976年(昭和51年)の武蔵野線新秋津駅 - 西武池袋線所沢駅間の連絡線開業まで行われたが、赤羽線への貨物輸送は、板橋駅までの砂利輸送であった。東武鉄道との連絡貨物は昔から多く、同駅には東上線連絡貨車用の留置線が2本設けられていた。また、東上線側には、1947年(昭和22年)5月1日から1964年(昭和39年)9月14日まで西山信号所が設置され、貨物列車の引渡しが、この連絡線を通じて行われていた。東武鉄道向け新車輸送も行われ、車両メーカーから同信号所経由で下板橋駅まで輸送されていた。
一方、板橋駅は開業時から旅客、貨物両用の駅であった。戦後になると構内には、池袋駅寄りの東側には住友セメント(現・住友大阪セメント)池袋包装所、同西側には日本食糧倉庫、赤羽寄りには紙倉庫への専用線がそれぞれ引かれ、包装所へはセメント輸送と砕石・砂利輸送の専用貨物列車が、日本食糧倉庫、紙倉庫へは、普通貨物列車が設定され、最盛期には、セメント、砕石・砂利輸送1往復、日本食糧倉庫・紙倉庫への普通貨物3往復、計4往復運転された。その内砕石・砂利輸送は、東武鉄道向けと西武鉄道向けから、後年は初狩駅へのトキ25000形が専用列車として運行された。普通貨物輸送は、1日3往復の列車が運行されていたが、昭和59年2月1日のダイヤ改正以降、国鉄の貨物輸送システム再構成による、直行列車体系の再編成などから、板橋駅への貨物列車が、セメントと砕石・砂利輸送のみとなったため、池袋駅寄り西側と、赤羽寄りの専用線への貨物列車は廃止された。
その後貨物輸送は、1日1往復のみの東武会沢線上白石駅にあった住友セメント栃木工場からのタキ1900形のセメント専用貨物列車だけが残った。だかこの列車も、1996年(平成8年)3月16日で運行終了、これをもって、東京23区内のJR線の最後の旅客、貨物両用の駅であった板橋駅の貨物取扱が終了した。なお、1969年(昭和44年)頃まで、貨物列車の牽引は蒸気機関車D51牽引が残っていたが、その後、池袋駅 - 板橋駅間の貨物列車牽引は、ディーゼル機関車DD13、さらにDE10へと変わった。
本節では、当線全線の沿線概況を記述する。なお、埼京線赤羽駅 - 大宮駅間は埼京線#沿線概況を参照。(本節の全体の出典...)
赤羽線の起点は池袋駅であり、起点を示す0kmポストは現在の埼京線下りホーム4番線の脇にある。このホームは、1983年10月2日の赤羽線10両化に伴う新ホーム使用の際に設置されたホームで、以前は1・2番線を名乗っていたが、現在は3・4番線として使用され4番線に下り線が入っている。また、上りホームは、1988年3月13日の東北線(現在は愛称である宇都宮線と案内)・高崎線中距離列車の当駅への乗り入れに伴い、赤羽線(→埼京線)ホームの東側に新設された、元中距離列車用のホーム(現:1・2番線)を使用している。上り線は池袋駅の北側で湘南新宿ライン(山手貨物線)の線路を立体交差して跨ぎ、池袋駅では1番線に入る。
池袋駅を出ると、西側に山手線の池袋運輸区(旧・池袋電車区)への回送線、東側に埼京線などの同区への回送線に挟まれ進み、山手貨物線が東側へカーブして離れていくと、西側へカーブしながら山手線本線をオーバークロスし、池袋駅西口と東口を結ぶ池袋大橋をアンダークロスして、それぞれの回送線と平面交差、その先に同区の出入口が東側にある。回送線と平面交差後東武東上線の線路側に近づき、当線と平行になったところで川越街道(国道254号)と首都高速5号池袋線がオーバークロス、同線は北池袋駅まで平行し、同線が西側へカーブして離れると板橋駅へ至る。
板橋駅の手前で東側へカーブし、その先に1面2線のホームがある。同駅は、かつて東京23区内のJR線の旅客駅の中で唯一貨物取扱をしていた駅で、広い構内を持ち、構内池袋駅寄り東側にはセメント工場、同池袋駅寄り西側には食糧倉庫、同赤羽駅寄りには紙倉庫があった(詳細は、板橋駅#貨物取扱を参照)。板橋駅を出ると、旧中山道が渡る仲仙道踏切を通過、そこから下り勾配で中山道(国道17号)と首都高速中央環状線をアンダークロスすると、盛り土の上を通って石神井川を渡り、東側へカーブすると掘割の間を進み、掘割が終わると東側に都立王子特別支援学校や十条富士見中学校、西側に東京家政大学板橋キャンパスの施設に挟まれたところを進み、十条駅へ至る。
十条駅は、対向式ホームと呼ばれる上下線ホームが向かい合わせの構造で、同駅と同じ構造のホームを持つ東京23区内のJR線の駅は、横須賀線西大井駅、中央線水道橋駅、総武線秋葉原駅、浅草橋駅、山手線・中央線代々木駅と少数で、同駅はそのうちの一つである。十条駅を出ると、住宅街がひしめく中を進み、再び掘割構造となり、環状7号線(通称:環七通り)をアンダークロスした後、洪積平野が広がり西側に清水坂公園を見ると、東側より湘南新宿ライン(東北貨物線)、宇都宮線・高崎線、京浜東北線の線路が近づき、当線を含む4路線が平行した所で、東北・上越・北陸新幹線の高架が覆いかぶさるように上を横断し、同線の真上で平行になり、そして西側へカーブした先に赤羽駅があり、当線は7・8番線ホームに到着する。このホームは、1983年3月2日に、赤羽駅にある4面のホームの中でいち早く高架に切り替わったホームで、使用開始以来当線及び埼京線専用のホームとなっている。
旅客営業規則第67条の規定では、「旅客運賃・料金は、旅客の実際乗車する経路及び発着の順序によって計算する。」となっているが、赤羽線を含むいわゆる電車大環状線区間については、同規則第69条及び第70条から、普通旅客運賃・料金は最も短い営業キロによって計算され、経路の指定は行われない。電車大環状線内の各駅発着の普通運賃については最短経路を指定した上で迂回乗車として取り扱うことで事実上同様であり、電車大環状線内の各駅発着の料金についても、2015年3月14日より迂回乗車扱いが可能となった。
また、旅客営業取扱基準規程第110条から、赤羽以遠(川口方面)の各駅と池袋以遠(目白方面)の各駅との相互間を、東北本線及び山手線経由で直通運転する列車に乗車するときの運賃及び料金は、赤羽線(板橋)経由で計算することができる。普通運賃および料金については電車大環状線の規定が適用されるため、実質的には定期運賃と成田エクスプレスの東京駅 - 大宮駅間の特急料金のみに適用される規定である。旅客営業規則には記載がないため、原則通り田端駅経由の定期券を購入することもできる(この場合湘南新宿ラインと京浜東北線・山手線に加えて埼京線にも乗車でき、東十条駅 - 大塚駅の各駅でも乗降できるが、十条駅・板橋駅での乗降はできない)。
十条駅周辺にて、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。
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"text": "赤羽線(あかばねせん)は、東京都豊島区の池袋駅と東京都北区の赤羽駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。",
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"text": "1985年(昭和60年)9月30日以降は運行系統の名称である「埼京線」と呼称・案内されている(詳細は後述)。本稿では、埼京線開業後も当該区間の正式路線名称は赤羽線であるため、埼京線開業後の赤羽線区間についても記述する。同日以降の旅客列車の運行形態については「埼京線」を参照。",
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"text": "「赤羽線」は、池袋駅と赤羽駅を板橋駅経由で結ぶ5.5kmの路線の正式名称で、かつては旅客案内でもこの名称が用いられていた。東北新幹線の上野駅延伸の見返りに建設された当時の仮称通勤新線(赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間)と直通運転が始まった1985年(昭和60年)9月30日以降、通勤新線と共に池袋駅 - 大宮駅間(及び同区間を通る旅客列車)が「埼京線」と案内されるようになった。",
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"text": "JR東日本の公式サイトにおいても現在は「赤羽線」との案内はなくなっている。なお、池袋駅 - 赤羽駅間の踏切、定期券や回数券、マルス端末発行による乗車券の経由表記においては、現在でも稀に赤羽線と表記されることがあるが、埼京線と併記されることがほとんどである。一方、『JR時刻表』の「埼京線」ページでは、「池袋 - 赤羽間は赤羽線」との表記がある。赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間の通勤新線も正式には東北本線の無名支線であり、埼京線という名の路線は存在しないことになっているが、埼京線という名称の方が案内等に多用される実態と違いが生じている。",
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"text": "全線が旅客営業規則で定める電車特定区間、大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。",
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"text": "当線はいわゆる湘南新宿ラインの池袋駅 - 赤羽駅間より約4km短く、当線では当該区間を途中2駅停車して9 - 10分で走行するのに対し、湘南新宿ラインの当該区間は10 - 11分ほどかかるため、先発した湘南新宿ラインの列車より、後発の当線経由の埼京線の列車の方が先着するダイヤが存在する。",
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"text": "本節では、品川線として開業した日本鉄道時代から1985年(昭和60年)9月30日の埼京線開業までの赤羽線の歴史・沿革(池袋駅 - 板橋駅間の日本貨物鉄道〈JR貨物〉の第二種鉄道事業については、その廃止日まで)について記述する。",
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"text": "赤羽線は、日本鉄道が1883年(明治16年)7月28日に開業した上野駅 - 熊谷駅間の第一区線と官設鉄道との連絡線として1885年(明治18年)3月1日に開業した赤羽駅 - 板橋駅 - 新宿駅 - 渋谷駅 - 品川駅間の品川線が起源である。つまり、現在の赤羽線(埼京線)と山手線の一部が一体となって敷設された路線で、赤羽線の方が本線であった。現在も池袋駅では山手線の方が東にカーブを描いているのはそのためである。ただし、品川線開業当時の池袋駅は池袋信号所であった。品川線の主たる目的は、官設鉄道との連絡と、横浜港からの鉄道資材や建築資材などや、群馬方面からの生糸を横浜港へ運ぶ輸送ルートの確保であり、現在は東京の通勤通学の最重要路線の中の山手線と赤羽線(埼京線)は、かつては貨物輸送を第一の目的として建設された路線であった。それでも、旅客営業を行っており、新橋駅 - 品川駅 - 渋谷駅 - 新宿駅 - 板橋駅 - 赤羽駅間を1日3往復で所要時間1時間15分で運行された。",
"title": "歴史"
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"text": "1903年(明治36年)4月1日、同じ日本鉄道の路線だった隅田川線・土浦線へ線路をつなげるために、豊島線(池袋駅 - 田端駅間)が敷設された。その時に池袋信号所が池袋駅となり、同時に大塚駅と巣鴨駅が設置され、豊島線開業前の1901年(明治34年)8月に品川線(全線)・第一区線(上野駅 - 田端駅間)・秋葉原線(全線)を山手線と呼称することを決定、豊島線開業後それらと併せて山手線と呼ぶようになった。1906年(明治39年)11月1日に日本鉄道が国有化された後、1909年(明治42年)10月12日に赤羽駅 - 品川駅間、池袋駅 - 田端駅間は正式に山手線となった。同年12月16日に電化、電車は烏森駅(現・新橋駅) - 品川駅 - 池袋駅 - 田端駅 - 上野駅間と池袋駅 - 赤羽駅間と分かれて運行された。1925年(大正14年)11月1日に山手線が環状運転を行うようになった時、環状運転をする電車は池袋駅 - 田端駅方面へ運行したため、実質的に池袋駅 - 赤羽駅間の方が支線のような状態となり(名目上は池袋駅 - 赤羽駅間が本線で、池袋駅 - 田端駅間は支線だった)、以降、同区間は「赤羽線」という通称名で呼ばれていた。1972年(昭和47年)7月15日の線路区間表示等が変更された際に、池袋駅 - 赤羽駅間を山手線から分離、それまで通称として使われてきた「赤羽線」が正式に路線の名称となった。",
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"text": "赤羽線が正式名称となる前から、池袋駅での発着番線は4番線(現・8番線)で、赤羽駅は東北貨物線に隣接したホームで発着していた。浦和・大宮方面と池袋・新宿といった、山手線の西側を結ぶ短絡線として利用が多い路線であり、1970年代頃からその方面からの輸送量の大幅増大による混雑と、東北・上越新幹線建設に伴う通過地域の通勤新線建設の要望などから、赤羽線をその通勤新線に直通させることになった。そののち1981年(昭和56年)12月6日に自動列車制御装置 (ATC) の使用開始、1983年(昭和58年)3月2日に赤羽駅の専用ホームが高架化され、池袋駅も同年10月2日に4番線から新設の1・2番線(現3・4番線)ホームに変更された。その後、1985年(昭和60年)9月30日に東北本線支線(赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅)が開業し、同時に川越線の電化も行われ、赤羽線との直通運転が開始され、この時から赤羽線と東北本線支線は「埼京線」として案内されるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "車両面では、戦後の1953年(昭和28年)頃から73系などが使用されていたが、1967年(昭和42年)4月に山手線の黄5号(カナリア色)の101系が転用され、黄色が赤羽線の路線色となった。しかし、101系運用時より黄緑6号(ウグイス色)の山手線の103系による代走が度々あった。1978年(昭和53年)3月1日に101系が103系に置き換わり、1編成を山手線との共通予備として黄緑色(一部の車両は黄色から黄緑色に戻した)としたため、黄緑色編成および黄緑・黄色の混色編成が多く見られた。なお、埼京線開業後は山手線と同じ黄緑色のラインカラーとなり、埼京線開業までに黄色の車両はすべて黄緑色に塗り替えられた(詳細は後述)。",
"title": "歴史"
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"text": "開業当時から貨物輸送のメインルートの一つであった赤羽線であるが、戦後は山手貨物線や東北貨物線から当線を経由する貨物列車や、池袋駅・板橋駅は貨物の取扱があり、板橋駅発着のセメント輸送や砕石・砂利輸送、一般貨物(米や紙製品など)輸送列車が最盛期には1日4往復運転されていた。しかし、当線経由の貨物列車は、1978年(昭和53年)に山手貨物線経由に変更され、池袋駅の貨物扱いは1980年(昭和55年)に廃止となり、板橋駅発着の貨物列車も、1996年(平成8年)までに廃止された(詳細は後述)。",
"title": "歴史"
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"text": "本節では、1985年9月30日の埼京線開業直前までの使用車両の詳細及びそれ以降の使用車両を記述する。(本節の全体の出典...)",
"title": "使用車両"
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"text": "下記に示す車両は、全て電車である(■の色は車体色)。なお、所属車両基地は全て池袋電車区(現・池袋運輸区)。",
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"text": "車両は1953年頃から旧型国電が使用され始め、同年代の通勤圏拡大に伴い、東北本線・高崎線方面から池袋・新宿・渋谷への通勤・通学客の増加に対応を重ね、1958年11月には4両編成→5両編成、1959年8月には5両編成→6両編成、1961年11月からは72系を中心とした7両編成に、1965年7月には当時の山手線と同じ8両編成となった。1967年(昭和42年)4月に山手線用のカナリア色の101系8両編成×5本40両が転用され、それに伴い黄色が赤羽線の路線色となった。101系運用時よりウグイス色の山手線の103系による代走がしばしばあったが、1972年6月23日に日暮里駅で起こった追突事故を契機に、山手線・京浜東北線・赤羽線に自動列車制御装置(ATC)を導入することになり、1978年3月1日までに運用車両を103系8両編成×5本40両に置き換え、101系は全車南武線に転用された。なお、投入された103系は、山手線用の車両をそのまま転用されたため、ウグイス色のまま運用され、また先頭車は全て低運転台クハ103形であった。1979年からATC対応の高運転台クハ103形が投入され、車両は順次ウグイス色→カナリア色へ塗り替えられた。1981年12月6日にATC使用開始後も8両編成で運用されていたが、1983年10月2日の池袋駅の発着ホーム移転に伴い全編成が10両編成化され、先頭車以外の中間車にも冷房車が新製投入された。その後、1985年9月30日の埼京線開業までに1編成を除き順次カナリア色→ウグイス色へと塗り替えられ、赤羽線のラインカラーであったカナリア色の電車の運用は終了した。",
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"text": "車両編成については、前述の通り72系運用時末期には、72系7両×サハ17形1両の8両編成で運用された。101系については、山手線に103系の新製投入に伴っての転用で、編成は(池袋方)McM'MM'TTMMc'(赤羽方)の8両編成で、車体の色はカナリア色、1969年に山手線から101系が撤退した後も、101系は継続運用された。なお、101系の中には、日除けのキセが分割形の初期車はおらず、1967年製で側扉がステンレス製のサハ101-126・126が含まれていた。また、101系当時の編成運用は、配置40両のうち使用32両・予備8両で1編成分の予備しかなかったので、前述の通り山手線用の103系の代走がしばしば見られた。103系については、1978年3月1日までに全車103系化された。編成は(池袋方)TcMM'TTMM'Tc(赤羽方)の8両編成で、全車山手線からの捻出車で、車体の色はウグイス色、編成中モハユニット(編成中間の電動車MM')とサハ(編成中間の付随車T)は全車非冷房車、先頭車のクハ(制御車Tc)は低運転台非冷房車であったが、1編成のみ試作冷房車を量産化改造したクハ103-178・179でこの2両は冷房車であった。1979年からATC対応の高運転台クハ103形が投入され、各編成は順次ウグイス色→カナリア色へ塗り替えられた。その間は、先頭車ウグイス色、中間車カナリア色という編成も見られた。しかし、編成自体は山手線と同様に先頭車が冷房装置を搭載しているATC車でありながら、中間車が冷房電源のない非冷房車のため、冷房が使えないいわゆる「キセル編成」であった。そのため、夏季のみ編成の一部に山手線用103系冷房改造車モハユニットに組み替えて冷房を使用出来るようにした。1981年12月6日にATC使用開始時、クハ103-301・302の2両は「山手線の予備車兼用」としてウグイス色のままであったが、当線用の1編成の中間車6両をカナリア色→ウグイス色へ戻し、先頭車をクハ103-301・302の2両に差し替えて「山手線の予備編成兼用」となった。1983年10月2日に10連化用のモハユニットであるモハ103-787+モハ102-2044他計10両が落成。これが103系最終増備車(最終ユニット車)に当たり、優先的に2・3号車と8・9号車へ組み込まれクハ103形の冷房電源スイッチが使用出来るようになった。また、翌年2月1日のダイヤ改正での福知山線短編成化による同線からのモハユニット2両(モハ103-776+モハ102-2033)が転入、当線用のうち4編成(下線部が冷房車)が(池袋方)TcMM'TMM'TMM'Tc(赤羽方)、1編成が(池袋方)TcMM'TMM'TMM'Tc(赤羽方)となった。その後、当線用のカナリア色車は、埼京線開業と川越線電化開業の準備対策としてウグイス色へ変更、最終ユニット車も2年余りでウグイス色へ変更されて、当線用の全編成が埼京線・川越線の車両基地である川越電車区(現・川越車両センター)へ転属した。",
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"text": "行き先表示は101系と103系非冷房車は2段の両終点表示(上段「池袋」、下段「赤羽」。103系の一部は1行で「池袋←→赤羽」の物もあり)、103系冷房車は線名(「赤羽線」)を表示していた。埼京線開業直前時には、行き先方向幕が埼京線対応のものに交換されることとなり、従来の「赤羽線」の表示コマは「指扇」へ変更となった。このため、交換後の運用中における行き先表示はそれぞれ「池袋」・「赤羽」表示とされた。",
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"text": "1985年9月30日の埼京線開業後は、103系(1985年 - 1990年)→205系(1989年 - 2016年)→E233系7000番台(2013年 - )と変遷した。所属車両基地はすべて川越電車区(現・川越車両センター)である。なお、2002年12月1日から東京臨海高速鉄道の70-000形が、2019年11月30日から相模鉄道の12000系が乗り入れている。ただし、相模鉄道12000系の赤羽線区間への乗り入れは、代走などの場合を除き定期旅客列車では設定されておらず、通常ダイヤでは回送列車による板橋駅電留線入線の場合のみ乗り入れる。",
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"text": "元々日本鉄道時代の品川線の主たる目的は、官設鉄道との連絡と、上毛地方の生糸の横浜方面への貨物輸送であった。当時の生糸は、日本最大の輸出品であり、第一区線(現・高崎線)が1884年(明治17年)8月に前橋駅まで延伸されると、江戸時代以来の舟運や馬車などによる輸送から鉄道輸送へ移るようになり、品川駅での官設鉄道との接続で、鉄道貨物の重要性がますます認識されていった。その後の豊島線の開通、隅田川貨物駅の開業、日本鉄道の国有化後は、東京に発着または通過する貨物量が増大し、山手貨物線の新設や田端操車場開業などで対応していった。昭和に入ると、山手貨物線の線路容量不足が露呈してきたことから、武蔵野線を開通させ、当線や山手貨物線を通過する貨物列車の本数は減ったが、深夜を中心に当線を通過する貨物列車は、1978年(昭和53年)9月30日まで運行されていた。",
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"text": "池袋駅での貨物取扱開始は、国有化直前の1906年(明治39年)10月23日からで、貨物設備は旅客ホーム東側の西武池袋駅寄りにあり、構内は、着発線6線・仕訳線・積卸線・貨物留置線・引上線などの貨物用側線・貨物ホームが設置されていた。また、同駅構内には西武池袋線と、同駅 - 板橋駅間には東武東上線との貨物輸送をするための連絡線が存在していた。西武鉄道との連絡貨物輸送は、1976年(昭和51年)の武蔵野線新秋津駅 - 西武池袋線所沢駅間の連絡線開業まで行われたが、赤羽線への貨物輸送は、板橋駅までの砂利輸送であった。東武鉄道との連絡貨物は昔から多く、同駅には東上線連絡貨車用の留置線が2本設けられていた。また、東上線側には、1947年(昭和22年)5月1日から1964年(昭和39年)9月14日まで西山信号所が設置され、貨物列車の引渡しが、この連絡線を通じて行われていた。東武鉄道向け新車輸送も行われ、車両メーカーから同信号所経由で下板橋駅まで輸送されていた。",
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"text": "その後貨物輸送は、1日1往復のみの東武会沢線上白石駅にあった住友セメント栃木工場からのタキ1900形のセメント専用貨物列車だけが残った。だかこの列車も、1996年(平成8年)3月16日で運行終了、これをもって、東京23区内のJR線の最後の旅客、貨物両用の駅であった板橋駅の貨物取扱が終了した。なお、1969年(昭和44年)頃まで、貨物列車の牽引は蒸気機関車D51牽引が残っていたが、その後、池袋駅 - 板橋駅間の貨物列車牽引は、ディーゼル機関車DD13、さらにDE10へと変わった。",
"title": "貨物輸送"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "本節では、当線全線の沿線概況を記述する。なお、埼京線赤羽駅 - 大宮駅間は埼京線#沿線概況を参照。(本節の全体の出典...)",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "赤羽線の起点は池袋駅であり、起点を示す0kmポストは現在の埼京線下りホーム4番線の脇にある。このホームは、1983年10月2日の赤羽線10両化に伴う新ホーム使用の際に設置されたホームで、以前は1・2番線を名乗っていたが、現在は3・4番線として使用され4番線に下り線が入っている。また、上りホームは、1988年3月13日の東北線(現在は愛称である宇都宮線と案内)・高崎線中距離列車の当駅への乗り入れに伴い、赤羽線(→埼京線)ホームの東側に新設された、元中距離列車用のホーム(現:1・2番線)を使用している。上り線は池袋駅の北側で湘南新宿ライン(山手貨物線)の線路を立体交差して跨ぎ、池袋駅では1番線に入る。",
"title": "沿線概況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "池袋駅を出ると、西側に山手線の池袋運輸区(旧・池袋電車区)への回送線、東側に埼京線などの同区への回送線に挟まれ進み、山手貨物線が東側へカーブして離れていくと、西側へカーブしながら山手線本線をオーバークロスし、池袋駅西口と東口を結ぶ池袋大橋をアンダークロスして、それぞれの回送線と平面交差、その先に同区の出入口が東側にある。回送線と平面交差後東武東上線の線路側に近づき、当線と平行になったところで川越街道(国道254号)と首都高速5号池袋線がオーバークロス、同線は北池袋駅まで平行し、同線が西側へカーブして離れると板橋駅へ至る。",
"title": "沿線概況"
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"text": "板橋駅の手前で東側へカーブし、その先に1面2線のホームがある。同駅は、かつて東京23区内のJR線の旅客駅の中で唯一貨物取扱をしていた駅で、広い構内を持ち、構内池袋駅寄り東側にはセメント工場、同池袋駅寄り西側には食糧倉庫、同赤羽駅寄りには紙倉庫があった(詳細は、板橋駅#貨物取扱を参照)。板橋駅を出ると、旧中山道が渡る仲仙道踏切を通過、そこから下り勾配で中山道(国道17号)と首都高速中央環状線をアンダークロスすると、盛り土の上を通って石神井川を渡り、東側へカーブすると掘割の間を進み、掘割が終わると東側に都立王子特別支援学校や十条富士見中学校、西側に東京家政大学板橋キャンパスの施設に挟まれたところを進み、十条駅へ至る。",
"title": "沿線概況"
},
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"text": "十条駅は、対向式ホームと呼ばれる上下線ホームが向かい合わせの構造で、同駅と同じ構造のホームを持つ東京23区内のJR線の駅は、横須賀線西大井駅、中央線水道橋駅、総武線秋葉原駅、浅草橋駅、山手線・中央線代々木駅と少数で、同駅はそのうちの一つである。十条駅を出ると、住宅街がひしめく中を進み、再び掘割構造となり、環状7号線(通称:環七通り)をアンダークロスした後、洪積平野が広がり西側に清水坂公園を見ると、東側より湘南新宿ライン(東北貨物線)、宇都宮線・高崎線、京浜東北線の線路が近づき、当線を含む4路線が平行した所で、東北・上越・北陸新幹線の高架が覆いかぶさるように上を横断し、同線の真上で平行になり、そして西側へカーブした先に赤羽駅があり、当線は7・8番線ホームに到着する。このホームは、1983年3月2日に、赤羽駅にある4面のホームの中でいち早く高架に切り替わったホームで、使用開始以来当線及び埼京線専用のホームとなっている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "旅客営業規則第67条の規定では、「旅客運賃・料金は、旅客の実際乗車する経路及び発着の順序によって計算する。」となっているが、赤羽線を含むいわゆる電車大環状線区間については、同規則第69条及び第70条から、普通旅客運賃・料金は最も短い営業キロによって計算され、経路の指定は行われない。電車大環状線内の各駅発着の普通運賃については最短経路を指定した上で迂回乗車として取り扱うことで事実上同様であり、電車大環状線内の各駅発着の料金についても、2015年3月14日より迂回乗車扱いが可能となった。",
"title": "運賃及び料金の計算経路の特例"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、旅客営業取扱基準規程第110条から、赤羽以遠(川口方面)の各駅と池袋以遠(目白方面)の各駅との相互間を、東北本線及び山手線経由で直通運転する列車に乗車するときの運賃及び料金は、赤羽線(板橋)経由で計算することができる。普通運賃および料金については電車大環状線の規定が適用されるため、実質的には定期運賃と成田エクスプレスの東京駅 - 大宮駅間の特急料金のみに適用される規定である。旅客営業規則には記載がないため、原則通り田端駅経由の定期券を購入することもできる(この場合湘南新宿ラインと京浜東北線・山手線に加えて埼京線にも乗車でき、東十条駅 - 大塚駅の各駅でも乗降できるが、十条駅・板橋駅での乗降はできない)。",
"title": "運賃及び料金の計算経路の特例"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "十条駅周辺にて、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。",
"title": "連続立体交差事業"
}
] |
赤羽線(あかばねせん)は、東京都豊島区の池袋駅と東京都北区の赤羽駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。 1985年(昭和60年)9月30日以降は運行系統の名称である「埼京線」と呼称・案内されている(詳細は後述)。本稿では、埼京線開業後も当該区間の正式路線名称は赤羽線であるため、埼京線開業後の赤羽線区間についても記述する。同日以降の旅客列車の運行形態については「埼京線」を参照。
|
{{Otheruses|JR東日本の鉄道路線|かつて王子駅前と赤羽を結んでいた、王子電気軌道および東京都電車(都電)の同名の路線|東京都電車#王子電気軌道が敷設した路線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 赤羽線
|路線色=#00ac9a
|ロゴ=File:JR JA line symbol.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=ファイル:L25 akabane Tc103-273 750.jpg
|画像サイズ=315px
|画像説明=赤羽線103系 混色編成<br />1979年(赤羽駅 - [[十条駅 (東京都)|十条駅]]間にて)
|通称=[[埼京線]]
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]][[豊島区]]、[[北区 (東京都)|北区]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[池袋駅]]
|終点=[[赤羽駅]]
|駅数=4駅
|電報略号=アネセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p29">{{Cite book |和書 |author=名古屋鉄道管理局 |date=1979-08 |title=鉄道電報略号集 |url= |format= |publisher= |volume= |page=29}}</ref>
|路線記号=JA
|開業={{start date and age|1885|3|1}}(日本鉄道)
|項目1=線路名称制定
|日付1=1972年7月15日(国鉄赤羽線)
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)
|車両基地=[[川越車両センター]]、[[東臨運輸区]]、[[かしわ台車両センター]]
|使用車両=[[#使用車両]]を参照
|路線構造=
|路線距離=5.5 [[キロメートル|km]]
|営業キロ=
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式= 移動閉塞式
|保安装置=[[ATACS]]
|最高速度=池袋駅 - [[板橋駅]]間95 [[キロメートル毎時|km/h]]<br>板橋駅 - 赤羽駅間90 km/h<ref name="Super Mook 75">[[#Super Mook|双葉社スーパームック 『首都圏鉄道完全ガイド 主要JR路線編』 双葉社 P75]]</ref>
|路線図=
}}
'''赤羽線'''(あかばねせん)は、[[東京都]][[豊島区]]の[[池袋駅]]と東京都[[北区 (東京都)|北区]]の[[赤羽駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である<ref group="注">『[[鉄道要覧]]』には「赤羽線」の名で東日本旅客鉄道の路線として掲載。</ref>。
[[1985年]](昭和60年)[[9月30日]]以降は運行系統の名称である「'''[[埼京線]]'''」と呼称・案内されている(詳細は後述)。本稿では、埼京線開業後も当該区間の正式路線名称は赤羽線であるため、埼京線開業後の赤羽線区間についても記述する。同日以降の旅客列車の運行形態については「[[埼京線]]」を参照。
== 概要 ==
「赤羽線」は、池袋駅と赤羽駅を板橋駅経由で結ぶ5.5kmの路線の正式名称で、かつては旅客案内でもこの名称が用いられていた。[[東北新幹線]]の[[上野駅]]延伸の見返りに建設された当時の仮称通勤新線(赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間)と直通運転が始まった1985年(昭和60年)9月30日以降、通勤新線と共に池袋駅 - 大宮駅間(及び同区間を通る旅客列車)が「埼京線」と案内されるようになった。
JR東日本の公式サイトにおいても現在は「赤羽線」との案内はなくなっている<ref>[https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=2=1=%90%D4%89H%90%FC 赤羽線の駅]{{リンク切れ|date=2023年4月}} - JR東日本 2021年3月31日閲覧</ref>。なお、池袋駅 - 赤羽駅間の踏切、定期券や回数券、[[マルス (システム)|マルス]]端末発行による乗車券の経由表記においては、現在でも稀に赤羽線と表記されることがあるが、埼京線と併記されることがほとんどである。一方、『JR時刻表』の「埼京線」ページでは、「池袋 - 赤羽間は赤羽線」との表記がある<ref name="JR時刻表 埼京川り相">{{Cite book|和書|title=JR時刻表|series=各年各月号|publisher=交通新聞社|pages=埼京線・川越線・りんかい線・相鉄線の時刻ページ}}</ref>。赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間の通勤新線も正式には[[東北本線]]の無名支線であり、埼京線という名の路線は存在しないことになっているが、埼京線という名称の方が案内等に多用される実態と違いが生じている。
全線が[[旅客営業規則]]で定める[[電車特定区間]]、[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「東京近郊区間」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに含まれている。
当線はいわゆる[[湘南新宿ライン]]の池袋駅 - 赤羽駅間より約4km短く、当線では当該区間を途中2駅停車して9 - 10分で走行するのに対し、湘南新宿ラインの当該区間<ref group="注">山手貨物線(池袋 - [[田端信号場駅|田端信号場]])と東北貨物線(田端信号場 - 赤羽)経由。</ref>は10 - 11分ほどかかる<ref group="注">池袋→赤羽は最速9分の列車あり。赤羽→池袋には最遅12分の列車もある。</ref>ため、先発した湘南新宿ラインの列車より、後発の当線経由の埼京線の列車の方が先着するダイヤが存在する<ref name="JR時刻表 埼京川り相" />。
[[File:Nakasendo-clossing.jpg|thumb|none|250px|「赤羽線」と表記されている沿線の踏切の名称板(板橋駅 - 十条駅間)]]
== 歴史 ==
{{Main2|埼京線開業後の歴史・沿革については「[[埼京線#埼京線開業]]」以降を}}
本節では、品川線として開業した[[日本鉄道]]時代から1985年(昭和60年)9月30日の埼京線開業までの赤羽線の歴史・沿革(池袋駅 - 板橋駅間の[[日本貨物鉄道]]〈JR貨物〉の第二種鉄道事業については、その廃止日まで)について記述する。
=== 沿革 ===
赤羽線は、日本鉄道が[[1883年]]([[明治]]16年)7月28日に開業した[[上野駅]] - [[熊谷駅]]間の第一区線<ref group="注">現在の[[東北本線]]上野駅 - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間と[[高崎線]]。</ref>と官設鉄道<ref group="注">現在の[[東海道本線]][[新橋駅]] - [[横浜駅]]間。</ref>との連絡線として[[1885年]](明治18年)3月1日に開業した赤羽駅 - 板橋駅 - [[新宿駅]] - [[渋谷駅]] - [[品川駅]]間の品川線が起源である<ref name="Fukuroubook 52">[[#ふくろうの本|{{Cite book |和書 |author=松平乘昌 |title=図説日本鉄道会社の歴史 |series=ふくろうの本 |publisher=河出書房新社 |page=52}}]]</ref>{{refnest|group="注"|当時から品川線を「赤羽線」と呼ぶことがよくあった<ref>{{cite news|和書|title=汽車の発着時刻|newspaper=読売新聞|date=1890-11-02|page=朝刊2面|quote=赤羽線新橋発 午前八時十分ハ七時三十分に繰上げ}}</ref><ref>{{cite news|和書|title=狂女|newspaper=読売新聞|date=1899-07-09|page=朝刊4面|quote=一昨日午後七時頃新橋着赤羽線の列車に乗りて上京せし婦人は…}}</ref>。}}。つまり、現在の赤羽線(埼京線)と[[山手線]]の一部が一体となって敷設された路線で、赤羽線の方が本線であった。現在も[[池袋駅]]では山手線の方が東にカーブを描いているのはそのためである{{refnest|group="注"|松平乘昌著 『図説日本鉄道会社の歴史』 P66には、鉄道博物館所蔵の池袋駅開業前当時の写真(池袋駅分岐器)が掲載されている<ref name="Fukuroubook 66">[[#ふくろうの本|{{Cite book |和書 |author=松平乘昌 |title=図説日本鉄道会社の歴史 |series=ふくろうの本 |publisher=河出書房新社 |page=66}}]]</ref>。}}。ただし、品川線開業当時の池袋駅は池袋信号所であった<ref name="RailAtlas 29">[[#Rail Atlas of Japan 5|{{Cite book |和書 |author=(監修)今尾恵介 |title=日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線 5号東京 |series=新潮「旅」ムック |date=09-18 |year=2008 |publisher=新潮社 |page=29}}]]</ref>。品川線の主たる目的は、官設鉄道との連絡と、[[横浜港]]からの鉄道資材や建築資材などや、群馬方面からの[[生糸]]を横浜港へ運ぶ輸送ルートの確保であり、現在は東京の通勤通学の最重要路線の中の山手線と赤羽線(埼京線)は、かつては貨物輸送を第一の目的として建設された路線であった<ref>{{Cite book |和書 |author=櫻田純(監修) |title=通も知らない驚きのネタ!鉄道の雑学大全 |date=03-10 |year=2017 |publisher=青春出版社 |page= 第4章 こんなルーツがあったのか!歴史でひも解く鉄道事始め |pages=279 - 280}}</ref>。それでも、旅客営業を行っており、[[新橋駅]] - 品川駅 - 渋谷駅 - 新宿駅 - 板橋駅 - 赤羽駅間を1日3往復で所要時間1時間15分で運行された<ref name="Fukuroubook 52" />。
[[1903年]](明治36年)4月1日、同じ日本鉄道の路線だった隅田川線・土浦線<ref group="注">現在の[[常磐線]]の一部、当時は[[田端駅]] - [[三河島駅]] - [[水戸駅]]間が本線であった。</ref>へ線路をつなげるために、豊島線(池袋駅 - 田端駅間)が敷設された。その時に池袋信号所が池袋駅となり、同時に[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]と[[巣鴨駅]]が設置され、豊島線開業前の[[1901年]](明治34年)8月に品川線(全線)・第一区線(上野駅 - 田端駅間)・秋葉原線(全線)を'''山手線'''と呼称することを決定、豊島線開業後それらと併せて山手線と呼ぶようになった{{refnest|group="注"|当時は正式名称ではなく、通称名としてこの名称を使った<ref name="Fukuroubook 67">[[#ふくろうの本|{{Cite book |和書 |author=松平乘昌 |title=図説日本鉄道会社の歴史 |series=ふくろうの本 |publisher=河出書房新社 |pages=66 - 67}}]]</ref>。}}。[[1906年]](明治39年)11月1日に日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]された後、[[1909年]](明治42年)10月12日に赤羽駅 - 品川駅間、池袋駅 - 田端駅間は正式に山手線となった<ref name="RailAtlas 29" />。同年12月16日に電化、電車は烏森駅(現・新橋駅) - 品川駅 - 池袋駅 - 田端駅 - [[上野駅]]間と池袋駅 - 赤羽駅間と分かれて運行された<ref name="DJ921">[[#鉄道ダイヤ情報 378|{{Cite journal|和書|author=坂正博 |year=2015 |month=10 |title=埼京線・川越線・八高線・相模線車両の変遷 〜1980年代から今日まで〜|journal=鉄道ダイヤ情報 No.378 〔特集〕埼京線と東京メガループの“周辺”に注目 |page= 18 |publisher=交通新聞社}}]]</ref>。[[1925年]]([[大正]]14年)11月1日に山手線が環状運転を行うようになった時、環状運転をする電車は池袋駅 - 田端駅方面へ運行したため、実質的に池袋駅 - 赤羽駅間の方が支線のような状態となり(名目上は池袋駅 - 赤羽駅間が本線で、池袋駅 - 田端駅間は支線だった)、以降、同区間は「赤羽線」という通称名で呼ばれていた。[[1972年]]([[昭和]]47年)7月15日の線路区間表示等が変更された際に、池袋駅 - 赤羽駅間を山手線から分離、それまで通称として使われてきた「赤羽線」が正式に路線の名称となった<ref name="RP921 48-49">[[#鉄ピク 921|{{Cite journal|和書|author=芳田あきら・前納浩一 |year=2016 |month=9 |title=101系からE233系まで 埼京線の車両変遷|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】JR205系電車 |pages= 48 - 49|publisher=電気車研究会}}]]</ref>。
赤羽線が正式名称となる前から、池袋駅での発着番線は4番線(現・8番線)で、赤羽駅は東北貨物線に隣接したホームで発着していた。浦和・大宮方面と池袋・新宿といった、山手線の西側を結ぶ短絡線として利用が多い路線であり、1970年代頃からその方面からの輸送量の大幅増大による混雑と、東北・上越新幹線建設に伴う通過地域の通勤新線建設の要望などから、赤羽線をその通勤新線に直通させることになった<ref name="RJ226 28">{{Cite journal|和書|author=磯崎哲 |year=1985 |month=12 |title=埼京線の施設と運転計画の概要|journal=[[鉄道ジャーナル]] 特集●埼京線開業と通勤電車|volume=19|issue=12号(通巻226号) |page= 28|publisher=[[鉄道ジャーナル社]]}}</ref>。そののち[[1981年]](昭和56年)12月6日に[[自動列車制御装置]] (ATC) の使用開始、[[1983年]](昭和58年)3月2日に赤羽駅の専用ホームが高架化され、池袋駅も同年10月2日に4番線から新設の1・2番線(現3・4番線)ホームに変更された<ref name="RP921 50">[[#鉄ピク 921|{{Cite journal|和書|author=芳田あきら・前納浩一 |year=2016 |month=9 |title=101系からE233系まで 埼京線の車両変遷|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】JR205系電車 |page= 50|publisher=電気車研究会}}]]</ref>。その後、[[1985年]](昭和60年)9月30日に東北本線支線(赤羽駅 - [[武蔵浦和駅]] - 大宮駅)が開業し、同時に川越線の電化も行われ、赤羽線との[[直通運転]]が開始され、この時から赤羽線と東北本線支線は「埼京線」として案内されるようになった。
車両面では、戦後の1953年(昭和28年)頃から[[国鉄73系電車|73系]]などが使用されていたが、1967年(昭和42年)4月に山手線の[[黄5号]](カナリア色)の[[国鉄101系電車|101系]]が転用され<ref group="注">国電として101系・103系電車が路線ごとに特定のカラーリングを導入し、新性能化に際して山手線には黄色の101系が最初に導入された。</ref>、黄色が赤羽線の路線色となった。しかし、101系運用時より[[黄緑6号]](ウグイス色)の山手線の[[国鉄103系電車|103系]]による代走が度々あった<ref name="CanBooks 86">[[#Can Books 103|{{Cite book |和書 |author=毛呂信昭 |title=103系物語 戦後日本の高度成長を支えた通勤電車 総数3503両・製造開始から50年の奇跡 |series=キャンブックス|date=06-15 |year=2012 |publisher=JTBパブリッシング |pages= 86 - 87}}]]</ref>。[[1978年]](昭和53年)3月1日に101系が103系に置き換わり、1編成を山手線との共通予備として黄緑色(一部の車両は黄色から黄緑色に戻した)としたため、黄緑色編成および黄緑・黄色の混色編成が多く見られた。なお、埼京線開業後は山手線と同じ黄緑色のラインカラーとなり、埼京線開業までに黄色の車両はすべて黄緑色に塗り替えられた(詳細は[[#使用車両|後述]])。
開業当時から貨物輸送のメインルートの一つであった赤羽線であるが、戦後は[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]や[[東北貨物線]]から当線を経由する貨物列車や、池袋駅・板橋駅は貨物の取扱があり、板橋駅発着の[[セメント]]輸送や砕石・砂利輸送、一般貨物(米や紙製品など)輸送列車が最盛期には1日4往復運転されていた。しかし、当線経由の貨物列車は、[[1978年]](昭和53年)に山手貨物線経由に変更され、池袋駅の貨物扱いは1980年(昭和55年)に廃止となり、板橋駅発着の貨物列車も、[[1996年]](平成8年)までに廃止された<ref name="RP894 13">[[#鉄ピク 894|{{Cite journal|和書|author=今田保 |year=2014 |month=9 |title=山手貨物線の歴史|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】山手貨物線 |page= 13|publisher=電気車研究会}}]]</ref>(詳細は[[#貨物輸送|後述]])。
=== 年表 ===
* [[1885年]]([[明治]]18年)3月1日:'''日本鉄道'''品川線 品川駅 - 赤羽駅間が開業。現在の赤羽線にあたる区間に板橋駅が開業。
* [[1902年]](明治35年)5月10日:池袋信号所が開設。
* [[1903年]](明治36年)4月1日:池袋信号所が駅に変更され、池袋駅が開業。豊島線(池袋駅 - 田端駅間)開業。
* [[1905年]](明治38年)6月10日:十条駅(貨物駅)が開業。
* [[1906年]](明治39年)
** 2月7日:十条駅(貨物駅)廃止。
** 10月23日:池袋駅貨物取扱開始。
** 11月1日:日本鉄道が国有化。
* [[1909年]](明治42年)
** 10月12日:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定。'''山手線'''の一部となる。
** 12月16日:赤羽駅 - 池袋駅 - 品川駅間が電化。赤羽駅 - 池袋駅間で電車運転開始。
* [[1910年]](明治43年)11月1日:十条駅開業。
* [[1924年]]([[大正]]13年)12月25日:板橋駅 - 池袋駅間が複線化。
* [[1925年]](大正14年)
** 2月13日:十条駅 - 板橋駅間が複線化。
** 3月31日:赤羽駅 - 十条駅間が複線化。
* [[1961年]]([[昭和]]36年)11月:73系の運用開始。
* [[1965年]](昭和40年)7月26日:7両編成の運用を8両編成化。ラッシュ時の混雑度を250%から220%へ緩和させる目的<ref>「赤羽線、26日から編成を一両増やす」『日本経済新聞』昭和40年7月20日15面</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)4月:山手線用のカナリア色の101系が転用、同区間にて運用開始。
* [[1972年]](昭和47年)7月15日:池袋駅 - 赤羽駅間 (5.5km) が'''赤羽線'''として山手線から分離。
* [[1978年]](昭和53年)3月1日:運用車両を103系に置き換え完了。
* [[1980年]](昭和55年)5月20日:池袋駅貨物取扱廃止。
* [[1981年]](昭和56年)12月6日:[[自動列車制御装置]] (ATC) 使用開始。ただし、池袋駅 - 板橋駅間は[[貨物列車]]も運行していたため、バックアップ区間として使用開始(現在は通常ATC区間)。
* [[1983年]](昭和58年)
** 3月2日:赤羽駅ホームを高架線に切り替え<ref>{{Cite news |title=着々すすむ赤羽線の輸送力増強 ホーム高架化近く完成 とりあえず一面一線で |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-02-05 |page=2 }}</ref>。
** 10月2日:池袋駅の改良工事が完成。発着番線を旧・4番線(現・8番線)から新1・2番線(現3・4番線)に切り替えると共に、8両編成を10両編成に増強<ref>{{Cite news |title=赤羽線、混雑緩和に朗報 来月2日から10両化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-09-23 |page=2 }}</ref>。
* [[1985年]](昭和60年)9月30日:[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入。東北本線赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間の支線が開業、池袋駅 - 赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間が'''埼京線'''として川越線とも直通運転開始。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により東日本旅客鉄道が継承。[[日本貨物鉄道]]が池袋駅 - 板橋駅間の第二種鉄道事業者となる。板橋駅 - 赤羽駅間の貨物営業廃止。
* [[1996年]]([[平成]]8年)3月16日:池袋駅 - 板橋駅間の貨物列車設定廃止。
* [[1999年]](平成11年)3月31日:池袋駅 - 板橋駅間の日本貨物鉄道の第二種鉄道事業が廃止。
== 使用車両 ==
{{色|節}}
[[ファイル:JNR M102-2050.jpg|thumb|250px|かつて赤羽線で運用されたモハ102-2050]]
本節では、1985年9月30日の埼京線開業直前までの使用車両の詳細及びそれ以降の使用車両を記述する。(本節の全体の出典…<ref name="RP921">[[#鉄ピク 921|{{Cite journal|和書|author=芳田あきら・前納浩一 |year=2016 |month=9 |title=101系からE233系まで 埼京線の車両変遷|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】JR205系電車 |pages= 48 - 65|publisher=電気車研究会}}]]</ref><ref name="DJ921 20">[[#鉄道ダイヤ情報 378|{{Cite journal|和書|author=坂正博 |year=2015 |month=10 |title=埼京線・川越線・八高線・相模線車両の変遷 〜1980年代から今日まで〜|journal=鉄道ダイヤ情報 No.378 〔特集〕埼京線と東京メガループの“周辺”に注目 |pages= 20 - 23 |publisher=交通新聞社}}]]</ref>)
=== 1985年9月30日以前の使用車両 ===
下記に示す車両は、全て[[電車]]である(■の色は車体色)。なお、所属車両基地は全て[[池袋電車区]](現・[[池袋運輸区]])。
* {{Color|#98514B|■}}[[国鉄72系電車|72系]]他 (1953年頃 - 1967年、末期の8両編成は[[国鉄サハ17形電車|サハ17形]]を1両組み込み)
* {{Color|#ffd400|■}}[[国鉄101系電車|101系]] (1967年 - 1978年、6M2Tの8両編成)
* {{Color|#ffd400|■}}{{Color|#9acd32|■}}[[国鉄103系電車|103系]] (1978年 - 1985年、当初8両編成、1983年10月2日より10両編成。)
車両は1953年頃から旧型国電が使用され始め、同年代の通勤圏拡大に伴い、東北本線・高崎線方面から池袋・新宿・渋谷への通勤・通学客の増加に対応を重ね、1958年11月には4両編成→5両編成、1959年8月には5両編成→6両編成、1961年11月からは72系を中心とした7両編成に、1965年7月には当時の山手線と同じ8両編成となった。1967年(昭和42年)4月に山手線用のカナリア色の101系8両編成×5本40両が転用され、それに伴い黄色が赤羽線の路線色となった。101系運用時よりウグイス色の山手線の103系による代走がしばしばあったが、1972年6月23日に日暮里駅で起こった追突事故を契機に、山手線・[[京浜東北線]]・赤羽線に自動列車制御装置(ATC)を導入することになり、1978年3月1日までに運用車両を103系8両編成×5本40両に置き換え、101系は全車[[南武線]]に転用された。なお、投入された103系は、山手線用の車両をそのまま転用されたため、ウグイス色のまま運用され、また先頭車は全て低運転台クハ103形であった。1979年からATC対応の高運転台クハ103形が投入され、車両は順次ウグイス色→カナリア色へ塗り替えられた。1981年12月6日にATC使用開始後も8両編成で運用されていたが、1983年10月2日の池袋駅の発着ホーム移転に伴い全編成が10両編成化され、先頭車以外の中間車にも冷房車が新製投入された。その後、1985年9月30日の埼京線開業までに1編成を除き<ref group="注">予備編成であった1編成はウグイス色で運用されていた。</ref>順次カナリア色→ウグイス色へと塗り替えられ、赤羽線のラインカラーであったカナリア色の電車の運用は終了した。
車両編成については、前述の通り72系運用時末期には、72系7両×サハ17形1両の8両編成で運用された。101系については、山手線に103系の新製投入に伴っての転用で、編成は(池袋方)McM'MM'TTMMc'(赤羽方)の8両編成で、車体の色はカナリア色、1969年に山手線から101系が撤退した後も、101系は継続運用された。なお、101系の中には、日除けのキセが分割形の初期車はおらず、1967年製で側扉がステンレス製のサハ101-126・126が含まれていた。また、101系当時の編成運用は、配置40両のうち使用32両・予備8両で1編成分の予備しかなかったので、前述の通り山手線用の103系の代走がしばしば見られた。103系については、1978年3月1日までに全車103系化された。編成は(池袋方)TcMM'TTMM'Tc(赤羽方)の8両編成で、全車山手線からの捻出車で、車体の色はウグイス色、編成中モハユニット(編成中間の[[動力車|電動車]]MM')とサハ(編成中間の[[付随車]]T)は全車非冷房車、先頭車のクハ([[制御車]]Tc)は低運転台非冷房車であったが、1編成のみ試作冷房車を量産化改造したクハ103-178・179でこの2両は冷房車であった。1979年からATC対応の高運転台クハ103形が投入され、各編成は順次ウグイス色→カナリア色へ塗り替えられた。その間は、先頭車ウグイス色、中間車カナリア色という編成も見られた。しかし、編成自体は山手線と同様に先頭車が冷房装置を搭載しているATC車でありながら、中間車が冷房電源のない非冷房車のため、冷房が使えないいわゆる「[[山手線#キセル編成|キセル編成]]」であった。そのため、夏季のみ編成の一部に山手線用103系冷房改造車モハユニットに組み替えて冷房を使用出来るようにした。1981年12月6日にATC使用開始時、クハ103-301・302の2両は「山手線の予備車兼用」としてウグイス色のままであったが、当線用の1編成の中間車6両をカナリア色→ウグイス色へ戻し、先頭車をクハ103-301・302の2両に差し替えて「山手線の予備編成兼用」となった<ref group="注">山手線走行時は、他編成のモハユニットを増結して運用。その後、クハは305・306に差し替えられた。</ref>。1983年10月2日に10連化用のモハユニットであるモハ103-787+モハ102-2044他計10両<ref group="注">[[ランボード]]が[[国鉄201系電車|201系]]量産車タイプとなり塗屋根及び冷房装置がSUSカバーのAU75G/E系という点が同時期に落成した九州用1500番台及び[[国鉄185系電車|185系200番台]]と同様。</ref>が落成。これが103系最終増備車(最終ユニット車)に当たり、優先的に2・3号車と8・9号車へ組み込まれクハ103形の冷房電源スイッチが使用出来るようになった。また、翌年2月1日のダイヤ改正での[[福知山線]]短編成化による同線からのモハユニット2両(モハ103-776+モハ102-2033)が転入、当線用のうち4編成(下線部が冷房車)が(池袋方)<ins>TcMM'</ins>TMM'T<ins>MM'Tc</ins>(赤羽方)、1編成が(池袋方)<ins>TcMM'</ins>T<ins>MM'</ins>T<ins>MM'Tc</ins>(赤羽方)となった<ref group="注">前者がカナリア色、後者がウグイス色。</ref>。その後、当線用のカナリア色車は、埼京線開業と川越線電化開業の準備対策としてウグイス色へ変更、最終ユニット車も2年余りでウグイス色へ変更されて、当線用の全編成が埼京線・川越線の車両基地である川越電車区(現・[[川越車両センター]])へ転属した。
行き先表示は101系と103系非冷房車は2段の両終点表示(上段「池袋」、下段「赤羽」。103系の一部は1行で「池袋←→赤羽」の物もあり)、103系冷房車は線名(「赤羽線」)を表示していた。埼京線開業直前時には、行き先方向幕が埼京線対応のものに交換されることとなり、従来の「赤羽線」の表示コマは「指扇」へ変更となった。このため、交換後の運用中における行き先表示はそれぞれ「池袋」・「赤羽」表示とされた。
=== 1985年9月30日以降の使用車両 ===
{{Main|埼京線#使用車両}}
1985年9月30日の埼京線開業後は、103系(1985年 - 1990年)→[[国鉄205系電車|205系]](1989年 - 2016年)→[[JR東日本E233系電車|E233系7000番台]](2013年 - )と変遷した。所属車両基地はすべて川越電車区(現・[[川越車両センター]])である。なお、2002年12月1日から[[東京臨海高速鉄道]]の[[東京臨海高速鉄道70-000形電車|70-000形]]が、2019年11月30日から[[相模鉄道]]の[[相鉄12000系電車|12000系]]が乗り入れている。ただし、相模鉄道12000系の赤羽線区間への乗り入れは、代走などの場合を除き定期旅客列車では設定されておらず、通常ダイヤでは回送列車による板橋駅電留線入線<ref>{{Cite journal |和書|date=2021-06-01 |title=POST 相鉄12000系、池袋まで運転開始 |journal=鉄道ファン2021年6月号 特集:気になる国鉄・JR形 |volume=61 |issue=6号(通巻722号)|page=145 |publisher=交友社}}</ref>の場合のみ乗り入れる。
{{multiple image
| align = left
| direction = horizontal
| header = 埼京線開業後に赤羽線で運用された車両(運用終了)
| width = 250
| image1 = Itabashi4chome.jpg
| caption1 = 103系電車(1985年 - 1990年)<br>板橋駅 - 十条駅間
| image2 = 205kei saikyou line.jpg
| caption2 = 205系電車(1989年 - 2016年)<br>十条駅
}}
{{-}}
{{multiple image
| align = left
| direction = horizontal
| header = 埼京線開業後に赤羽線で運用されている車両(現用)
| width = 250
| image1 = JR East E233-7000 Series Saikyō Line at Jūjō Station.jpg
| caption1 = E233系7000番台電車(2013年 - )<br>十条駅
| image2 = TWR 70-070.jpg
| caption2 = 東京臨海高速鉄道70-000形電車(2002年 - )<br>十条駅
| image3 = Sotetsu 12001F.jpg
| caption3 = 相模鉄道12000系電車(2019年 - )<br>[[相鉄本線]][[鶴ヶ峰駅]]
}}
{{-}}
== 貨物輸送 ==
{{See also|池袋駅#貨物着発線|板橋駅#貨物取扱}}
元々日本鉄道時代の品川線の主たる目的は、官設鉄道との連絡と、上毛地方の生糸の横浜方面への貨物輸送であった。当時の生糸は、日本最大の輸出品であり、第一区線(現・[[高崎線]])が1884年([[明治]]17年)8月に[[前橋駅]]まで延伸されると、江戸時代以来の舟運や馬車などによる輸送から鉄道輸送へ移るようになり、品川駅での官設鉄道との接続で、鉄道貨物の重要性がますます認識されていった<ref name="Fukuroubook 52" />。その後の豊島線の開通、[[隅田川貨物駅]]の開業、日本鉄道の国有化後は、東京に発着または通過する貨物量が増大し、山手貨物線の新設や[[田端信号場駅|田端操車場]]開業などで対応していった。昭和に入ると、山手貨物線の線路容量不足が露呈してきたことから、[[武蔵野線]]を開通させ、当線や山手貨物線を通過する貨物列車の本数は減ったが、深夜を中心に当線を通過する貨物列車は、1978年(昭和53年)9月30日まで運行されていた<ref group="注">当線通過の貨物列車は、1978年(昭和53年)10月1日の赤羽駅高架化工事開始に伴い、東北貨物線への線路が撤去されたため、全て山手貨物線経由となった。</ref><ref name="RP臨増2012">[[#鉄P臨増 2012|{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|pages= 62 - 65|publisher=電気車研究会}}]]</ref>。
池袋駅での貨物取扱開始は、国有化直前の1906年(明治39年)10月23日からで、貨物設備は旅客ホーム東側の西武池袋駅寄りにあり、構内は、着発線6線・仕訳線・積卸線・貨物留置線・引上線などの貨物用側線・貨物ホームが設置されていた。また、同駅構内には[[西武池袋線]]と、同駅 - 板橋駅間には[[東武東上本線|東武東上線]]との貨物輸送をするための連絡線が存在していた<ref name="RP894">{{Cite journal|和書|author=祖田圭介 |year=2014 |month=9 |title=山手貨物線の線路配線と駅構内の今昔|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】山手貨物線|volume=64|issue=9号(通巻894号) |pages= 21 - 22 |publisher=電気車研究会}}</ref>。[[西武鉄道]]との連絡貨物輸送は、1976年(昭和51年)の[[武蔵野線]][[新秋津駅]] - 西武池袋線[[所沢駅]]間の連絡線開業まで行われたが、赤羽線への貨物輸送は、板橋駅までの砂利輸送<ref group="注">西武池袋線・[[西武秩父線]][[吾野駅]]などからの直通運用が主であった。</ref>であった<ref name="RP臨増2012 71">[[#鉄P臨増 2012|{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|pages= 70,71頁|publisher=電気車研究会}}]]</ref>。[[東武鉄道]]との連絡貨物は昔から多く、同駅には東上線連絡貨車用の留置線が2本設けられていた<ref name="RP臨増2012 70">[[#鉄P臨増 2012|{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|page= 70 |publisher=電気車研究会}}]]</ref>。また、東上線側には、1947年(昭和22年)5月1日から1964年(昭和39年)9月14日まで西山信号所が設置<ref name="RAJ4 53">[[#Rail Atlas of Japan 4|{{Cite book |和書 |author=(監修)今尾恵介 |title=日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線 |volume=4号関東2 |series=新潮「旅」ムック |date=2008-08-19 |publisher=新潮社 |page=53}}]]</ref>され、貨物列車の引渡しが、この連絡線を通じて行われていた。東武鉄道向け新車輸送も行われ、車両メーカーから同信号所経由で[[下板橋駅]]まで輸送されていた<ref group="注">旧型電車から[[東武8000系電車|東武8000系電車初期車]]までがこれにあたり、下板橋のほか[[川越駅]]でも新車引き渡しが行われていたので、少なからずも現在の埼京線にあたる区間において東武向け電車が[[車両輸送|甲種輸送]]ながら走っていた。</ref>。
一方、板橋駅は開業時から旅客、貨物両用の駅であった<ref name="RP894 13" />。戦後になると構内には、池袋駅寄りの東側には住友セメント(現・[[住友大阪セメント]])池袋包装所、同西側には日本食糧倉庫、赤羽寄りには紙倉庫への専用線がそれぞれ引かれ、包装所へは[[セメント]]輸送と砕石・砂利輸送の専用貨物列車が、日本食糧倉庫、紙倉庫へは、普通貨物列車が設定され、最盛期には、セメント、砕石・砂利輸送1往復、日本食糧倉庫・紙倉庫への普通貨物3往復、計4往復運転された<ref name="RP臨増2012 64">[[#鉄P臨増 2012|{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|pages= 64,65,68,69頁|publisher=電気車研究会}}]]</ref>。その内砕石・砂利輸送は、東武鉄道向けと西武鉄道向け<ref group="注">東武側から[[無蓋車]]トキ1形が東武会沢線上白石駅から[[北千住駅]]、後年は[[久喜駅]](国鉄側は[[東鷲宮駅]]まで)を通じて運行され、西武側から無蓋車トム形が、西武池袋線吾野駅・[[西武秩父線]]・[[東横瀬駅]](現・廃止)からの直通で、1976年までは池袋経由で、それ以降は新秋津駅 - 所沢駅間の連絡線経由で運行されていた。東武車は1991年11月25日に上白石への砕石輸送が廃止されるまで、西武車は発着駅が[[中央本線]][[酒折駅]]となったことで消滅した。</ref>から、後年は[[初狩駅]]への[[国鉄トキ25000形貨車|トキ25000形]]が専用列車として運行された<ref name="RP臨増2012 69">[[#鉄P臨増 2012|{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|page= 69 |publisher=電気車研究会}}]]</ref>。普通貨物輸送は、1日3往復の列車が運行されていたが、昭和59年2月1日のダイヤ改正以降、国鉄の貨物輸送システム再構成による、直行列車体系の再編成などから、板橋駅への貨物列車が、セメントと砕石・砂利輸送のみとなったため、池袋駅寄り西側と、赤羽寄りの専用線への貨物列車は廃止された<ref name="jt66">{{Cite journal|和書|author=富田松雄 |year=2017 |month=7 |title= 一般貨物列車&支線貨物廃止の一連 データで見る昭和50年代 首都圏貨物列車 |journal=j train Vor.66 2017 Summer 特集 貨物牽引機2017 現代×昭和 貨物列車事情 |issue=通巻66号 |pages= 77 - 85 |publisher=イカロス出版}}</ref>。
その後貨物輸送は、1日1往復のみの[[東武会沢線]]上白石駅にあった住友セメント栃木工場からの[[国鉄タキ1900形貨車|タキ1900形]]のセメント専用貨物列車だけが残った<ref name="RP臨増2012 69" />。だかこの列車も、1996年(平成8年)3月16日で運行終了、これをもって、東京23区内のJR線の最後の旅客、貨物両用の駅であった板橋駅の貨物取扱が終了した<ref name="RP894 13" />。なお、1969年(昭和44年)頃まで、貨物列車の牽引は蒸気機関車[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]]牽引が残っていたが、その後、池袋駅 - 板橋駅間の貨物列車牽引は、ディーゼル機関車[[国鉄DD13形ディーゼル機関車|DD13]]、さらに[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10]]へと変わった<ref name="RP臨増2012 65">[[#鉄P臨増 2012|{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|page= 65 |publisher=電気車研究会}}]]</ref>。
== 沿線概況 ==
本節では、当線全線の沿線概況を記述する。なお、埼京線赤羽駅 - 大宮駅間は[[埼京線#沿線概況]]を参照。(本節の全体の出典…<ref name="RJ226">[[#鉄道ジャーナル 226 伊集院|{{Cite journal|和書|author=伊集院護 |date=1985-12 |title=列車追跡シリーズ-230 東京西北の通勤動脈「川越→池袋」三車三様 されど埼京線は最強をめざす |journal=鉄道ジャーナル 特集●埼京線開業と通勤電車|volume=1985年12月号 |pages=41 - 43|publisher=鉄道ジャーナル社}}]]</ref><ref name="Super Mook">[[#Super Mook|{{Cite book |和書 |title=首都圏鉄道完全ガイド 主要JR路線編 |series=双葉社スーパームック |date=2013-12-06 |publisher=双葉社 |pages=76 - 78}}]]</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=成美堂出版編集部 |others=風早健史(発行者) |title=東京超詳細地図 |edition=ポケット版 |publisher=成美堂出版 |volume=各年度版|pages=赤羽線池袋駅 - 赤羽駅間の地図頁}}</ref>)
赤羽線の起点は池袋駅であり、起点を示す0kmポストは現在の埼京線下りホーム4番線の脇にある。このホームは、1983年10月2日の赤羽線10両化に伴う新ホーム使用の際に設置されたホームで、以前は1・2番線を名乗っていたが、現在は3・4番線として使用され4番線に下り線が入っている<ref name="DJ378 歴史">{{Cite journal|和書|author=小佐野カゲトシ |year=2015 |month=10 |title=埼京線その歴史とあらまし |journal=[[鉄道ダイヤ情報]] No.378 〔特集〕埼京線と東京メガループの“周辺”に注目 |volume=44|issue=10号(通巻402号)|page=11 |publisher=[[交通新聞社]]}}</ref>。また、上りホームは、1988年3月13日の東北線(現在は愛称である[[宇都宮線]]と案内)・高崎線中距離列車の当駅への乗り入れに伴い、赤羽線(→埼京線)ホームの東側に新設された、元中距離列車用のホーム(現:1・2番線)を使用している。上り線は池袋駅の北側で湘南新宿ライン(山手貨物線)の線路を立体交差して跨ぎ、池袋駅では1番線に入る。
池袋駅を出ると、西側に山手線の池袋運輸区(旧・池袋電車区)への回送線、東側に埼京線などの同区への回送線に挟まれ進み、山手貨物線が東側へカーブして離れていくと、西側へカーブしながら山手線本線をオーバークロスし、池袋駅西口と東口を結ぶ池袋大橋{{refnest|group="注"|この陸橋ができる前は、〝池袋大踏切〟と呼ばれた第二鎌倉踏切があった<ref name="TobuTojyoline 10">{{Cite book |和書 |author=矢嶋秀一 |title=東武東上線 街と駅の1世紀 |series=懐かしい沿線写真で訪ねる |publisher=彩流社 |page=池袋 10頁}}</ref>。}}をアンダークロスして、それぞれの回送線と平面交差、その先に同区の出入口が東側にある。回送線と平面交差後[[東武東上本線|東武東上線]]の線路側{{refnest|group="注"|かつてこの場所には西山信号所があり、東武と国鉄(当時)との間で貨物列車の受け渡しが行われていた<ref name="RAJ4 53" />。}}に近づき、当線と平行になったところで[[川越街道#現在、川越街道新道(国道254号)と旧川越街道|川越街道]]([[国道254号]])と[[首都高速5号池袋線]]がオーバークロス、同線は[[北池袋駅]]まで平行し、同線が西側へカーブして離れると板橋駅へ至る。
板橋駅の手前で東側へカーブし、その先に1面2線のホームがある。同駅は、かつて東京23区内のJR線の旅客駅の中で唯一貨物取扱をしていた駅で、広い構内を持ち、構内池袋駅寄り東側にはセメント工場、同池袋駅寄り西側には食糧倉庫、同赤羽駅寄りには紙倉庫があった(詳細は、[[板橋駅#貨物取扱]]を参照)。板橋駅を出ると、[[高岩寺#旧中山道|旧中山道]]が渡る仲仙道踏切を通過、そこから下り勾配で[[中山道#東京都通称道路名|中山道]]([[国道17号]])と[[首都高速中央環状線]]をアンダークロスすると、盛り土の上を通って[[石神井川]]を渡り、東側へカーブすると掘割の間を進み、掘割が終わると東側に都立王子特別支援学校や十条富士見中学校<ref group="注">この2校の奥には[[十条駐屯地|陸上自衛隊十条駐屯地]]や、[[東京成徳大学]]・[[東京成徳短期大学|同短期大学]]十条台キャンパスがある。</ref>、西側に[[東京家政大学]]板橋キャンパスの施設に挟まれたところを進み{{refnest|group="注"|十条駅手前で少し東側へ寄るが、これはここにかつての十条貨物駅が存在していた名残りである<ref name="RAJ5 29">[[#Rail Atlas of Japan 5|{{Cite book |和書 |author=(監修)今尾恵介 |title=日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線 |volume=5号東京 |series=新潮「旅」ムック |date=2008-09-18 |publisher=新潮社 |page=29}}]]</ref>。}}、十条駅へ至る。
十条駅は、対向式ホームと呼ばれる上下線ホームが向かい合わせの構造で、同駅と同じ構造のホームを持つ東京23区内のJR線の駅は、横須賀線[[西大井駅]]、中央線[[水道橋駅]]、総武線[[秋葉原駅]]、[[浅草橋駅]]、山手線・中央線[[代々木駅]]<ref group="注">ただし、代々木駅の山手線内回りホームと[[中央・総武緩行線]]中野方面行きは共通ホームを使用。また、山手線[[渋谷駅]]は、かつて内・外回りホームが別々で、両線が向かい合わせになっていない構造であったが、駅改良工事により内・外回りホームは同一ホームとなった。</ref>と少数で、同駅はそのうちの一つである。十条駅を出ると、住宅街がひしめく中を進み、再び掘割構造となり、[[東京都道318号環状七号線|環状7号線]](通称:環七通り)をアンダークロスした後、洪積平野が広がり西側に清水坂公園を見ると、東側より湘南新宿ライン(東北貨物線)、宇都宮線・高崎線、[[京浜東北線]]の線路が近づき、当線を含む4路線が平行した所で、東北・上越・北陸新幹線の高架が覆いかぶさるように上を横断し、同線の真上で平行になり、そして西側へカーブした先に赤羽駅があり、当線は7・8番線ホームに到着する。このホームは、1983年3月2日に、赤羽駅にある4面のホームの中でいち早く高架に切り替わったホームで、使用開始以来当線及び埼京線専用のホームとなっている。
== データ ==
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]
* 区間([[営業キロ]]):池袋駅 - 赤羽駅 5.5km
* 軌間:1067mm
* 駅数:4(起終点駅含む)
** 赤羽線所属駅に限定した場合、山手線所属の池袋駅および東北本線所属の赤羽駅<ref>[[#停車場変遷大事典|『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』 JTB 1998年 ISBN 978-4533029806]]</ref>が除外され、2駅となる。
* [[複線]]区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:移動閉塞式
* 保安装置:[[ATACS]]
=== 駅一覧 ===
{{Main2|各列車種別の停車駅・接続路線など|埼京線#駅一覧}}
* [[特定都区市内]]制度適用範囲の駅 … {{JR特定都区市内|山}}:[[東京山手線内]]、{{JR特定都区市内|区}}:東京都区内
* 全駅[[東京都]]内に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #00ac9a;"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px #00ac9a;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00ac9a;"|駅間<br>営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00ac9a;"|累計<br>営業キロ
!style="width:5em; border-bottom:solid 3px #00ac9a;"|所在地
|-
!JA 12
|[[池袋駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[豊島区]]
|-
!JA 13
|[[板橋駅]] {{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|1.8
|rowspan="3"|[[北区 (東京都)|北区]]
|-
!JA 14
|[[十条駅 (東京都)|十条駅]] {{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|3.5
|-
!JA 15
|[[赤羽駅]] {{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|5.5
|}
=== 廃駅 ===
* [[十条駅 (東京都)#歴史|十条駅]](初代):[[1906年]]廃止、池袋駅から3.0km付近<ref name="RAJ5 29" />。
== 運賃及び料金の計算経路の特例 ==
[[旅客営業規則]]第67条の規定では、「旅客運賃・料金は、旅客の実際乗車する経路及び発着の順序によって計算する。」<ref>[https://www.jreast.co.jp/ryokaku/02_hen/03_syo/01_setsu/02.html 旅客営業規則 第67条(抜粋)] - JR東日本HP 旅客営業規則 2018年2月8日閲覧</ref>となっているが、赤羽線を含むいわゆる[[電車大環状線]]区間については、同規則第69条<ref>[https://www.jreast.co.jp/ryokaku/02_hen/03_syo/01_setsu/03.html 旅客営業規則 第69条] - JR東日本 旅客営業規則 2018年2月8日閲覧</ref>及び第70条<ref>[https://www.jreast.co.jp/ryokaku/02_hen/03_syo/01_setsu/04.html 旅客営業規則 第70条] - JR東日本 旅客営業規則 2018年2月8日閲覧</ref>から、普通旅客運賃・料金は最も短い営業キロによって計算され、経路の指定は行われない。電車大環状線内の各駅発着の普通運賃については最短経路を指定した上で迂回乗車として取り扱うことで事実上同様であり<ref>旅客営業規則160条</ref>、電車大環状線内の各駅発着の料金についても、2015年3月14日より迂回乗車扱いが可能となった<ref>旅客営業規則第172条第8項</ref>。
また、[[旅客営業取扱基準規程]]第110条<ref>[http://www.desktoptetsu.com/ryoki/kijunkitei.htm JR東日本旅客営業取扱基準規程(特定列車に対する旅客運賃及び料金の計算経路の特例)第110条 2011年3月12日現行] - デスクトップ鉄のデータルーム・別館 旅規ポータルより</ref>から、赤羽以遠(川口方面)の各駅と池袋以遠(目白方面)の各駅との相互間を、東北本線及び山手線経由で直通運転する列車に乗車するときの運賃及び料金は、赤羽線(板橋)経由で計算することができる。普通運賃および料金については電車大環状線の規定が適用されるため、実質的には定期運賃と[[成田エクスプレス]]の東京駅 - 大宮駅間の特急料金<ref group="注">迂回乗車の指定区間に収まらないため。</ref>のみに適用される規定である。旅客営業規則には記載がないため、原則通り田端駅経由の定期券を購入することもできる(この場合湘南新宿ラインと京浜東北線・山手線に加えて埼京線にも乗車でき<ref>旅客営業取扱基準規定第153条</ref>、東十条駅 - 大塚駅の各駅でも乗降できるが、十条駅・板橋駅での乗降はできない)。
== 連続立体交差事業 ==
{{Main|埼京線#連続立体交差事業}}
十条駅周辺にて、[[連続立体交差事業]](鉄道高架化)の事業化を進める計画がある<ref>{{Cite web|和書|title=東日本旅客鉄道赤羽線(埼京線)十条駅付近の連続立体交差化計画および関連する道路計画について |url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_26.pdf |format=PDF |publisher=東京都都市整備局 |accessdate=2018-01-05}}</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{脚注ヘルプ}}
== 参考文献 ==
; 書籍
:* {{Cite book |和書 |author= |title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 |series= |date=|year=1998 |publisher=[[JTB]] |pages= 各頁 |ISBN = 978-4533029806 |ref=停車場変遷大事典}}
:* {{Cite book |和書 |author=(監修)今尾恵介 |title=日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線 |volume=4号関東2 |series=新潮「旅」ムック |date=2008-08-19 |publisher=新潮社 |page=53 |isbn=978-4-10-790022-7 |ref=Rail Atlas of Japan 4}}
:* {{Cite book |和書 |author=(監修)今尾恵介 |title=日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線 |volume=5号東京 |series=新潮「旅」ムック |date=2008-09-18 |publisher=新潮社 |pages=29,32頁 |isbn=978-4-10-790023-4 |ref=Rail Atlas of Japan 5}}
:* {{Cite book |和書 |author=松平乘昌 |title=図説日本鉄道会社の歴史 |series=ふくろうの本 |date=01-20 |year=2010 |publisher=河出書房新社 |pages=51,52,66,67頁 |ref=ふくろうの本}}
:* {{Cite book |和書 |author=毛呂信昭 |title=103系物語 戦後日本の高度成長を支えた通勤電車 総数3503両・製造開始から50年の奇跡 |series=キャンブックス|date=2012-06-15 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |pages= 86 - 88 |ref=Can Books 103}}
:* {{Cite book |和書 |author=|title=首都圏鉄道完全ガイド 主要JR路線編 |series=双葉社スーパームック |date=2013-12-06 |publisher=[[双葉社]] |pages= 75 - 83 |ref=Super Mook}}
:* {{Cite book |和書 |author=|title=昭和60年代の国鉄通勤電車 |series=双葉社スーパームック |date=01-28 |year=2017 |publisher=双葉社 |pages=62、63頁 |ref=Super Mook 103}}
:* {{Cite book |和書 |author=国土交通省鉄道局(監修) |title=鉄道要覧 |volume=各年度 |publisher=電気車研究会 |pages=「赤羽線」の頁 |ref=鉄道要覧}}
:* {{Cite book |和書 |author= |title=マイライン 東京時刻表 |volume=各年各月号 |publisher=[[交通新聞社]] |pages=東京臨海高速鉄道りんかい線・埼京線・川越線の時刻頁 |ref=My Line}}
;専門誌・趣味誌
:* {{Cite journal|和書|author=伊集院護 |date=1985-12 |title=列車追跡シリーズ-230 東京西北の通勤動脈「川越→池袋」三車三様 されど埼京線は最強をめざす |journal=鉄道ジャーナル 特集●埼京線開業と通勤電車|volume=19|issue=12号(通巻226号) |pages=41 - 43|publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=鉄道ジャーナル 226 伊集院}}
:* {{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=[[鉄道ピクトリアル]]2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|pages= 62 - 71|publisher=[[電気車研究会]]|ref=鉄P臨増 2012}}
:* {{Cite journal|和書|author=今田保 |year=2014 |month=9 |title=山手貨物線の歴史|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】山手貨物線|volume=64|issue=9号(通巻894号) |pages= 10 - 16|publisher=電気車研究会|ref=鉄ピク 894}}
:* {{Cite journal|和書|author=坂正博 |year=2015 |month=10 |title=埼京線・川越線・八高線・相模線車両の変遷 〜1980年代から今日まで〜|journal=鉄道ダイヤ情報 No.378 〔特集〕埼京線と東京メガループの“周辺”に注目 |volume=44|issue=10号(通巻402号)|pages= 18 - 20|publisher=交通新聞社 |ref=鉄道ダイヤ情報 378}}
:* {{Cite journal|和書|author=芳田あきら・前納浩一 |year=2016 |month=9 |title=101系からE233系まで 埼京線の車両変遷|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】JR205系電車|volume=66|issue=9号(通巻921号) |pages= 48 - 52|publisher=電気車研究会 |ref=鉄ピク 921}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Akabane Line}}
* [[湘南新宿ライン]]
* [[埼京線]]
* [[山手線]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[関東地方の鉄道路線]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=29=1=%8d%e9%8b%9e%90%fc%81E%90%ec%89z%90%fc 検索結果(埼京線・川越線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{東京近郊区間}}
{{東日本旅客鉄道東京支社}}
{{デフォルトソート:あかはねせん}}
[[Category:日本鉄道|路あかはね]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:山手線|*あかはね]]
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:埼京線|*あかはね]]
|
2003-07-11T04:32:43Z
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2023-12-31T01:03:39Z
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11,194 |
VFX
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VFX(ブイエフエックス)は映画やテレビドラマなどの映像作品において、現実には見られない画面効果を実現するための技術。視覚効果(しかくこうか)とも。撮影現場で加える効果SFX(特殊効果)と呼ぶのに対し、VFXは撮影後のポストプロダクション段階に付け加えられる効果を指す。
VFXの業界団体としてアメリカには視覚効果協会(VES)、日本にはVFX-JPNANがある。
アメリカのアカデミー賞にはVFXを評価するアカデミー視覚効果賞がある。また、アカデミー科学技術賞もVFXに関連した貢献に授与されることがある。
「VFX」という単語は視覚効果を意味する英語{{lang-en-short|visual effects}に由来し、「V」はvisualの頭文字、「FX」は「effects」の発音に類似もしくは全く同じ発音になることに由来する。</ref>
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VFX(ブイエフエックス)は映画やテレビドラマなどの映像作品において、現実には見られない画面効果を実現するための技術。視覚効果(しかくこうか)とも。撮影現場で加える効果SFX(特殊効果)と呼ぶのに対し、VFXは撮影後のポストプロダクション段階に付け加えられる効果を指す。 VFXの業界団体としてアメリカには視覚効果協会(VES)、日本にはVFX-JPNANがある。 アメリカのアカデミー賞にはVFXを評価するアカデミー視覚効果賞がある。また、アカデミー科学技術賞もVFXに関連した貢献に授与されることがある。 「VFX」という単語は視覚効果を意味する英語{{lang-en-short|visual effects}に由来し、「V」はvisualの頭文字、「FX」は「effects」の発音に類似もしくは全く同じ発音になることに由来する。</ref>
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{{No footnotes|date=2017年5月}}
'''VFX'''(ブイエフエックス)は[[映画]]や[[テレビドラマ]]などの映像作品において、現実には見られない画面効果を実現するための技術。'''視覚効果'''(しかくこうか)とも。撮影現場で加える効果を[[SFX]]<ref>{{lang-en-short|special effects}}</ref>(特殊効果)と呼ぶのに対し、VFXは撮影後の[[ポストプロダクション]]段階に付け加えられる効果を指す。
VFXの業界団体としてアメリカには[[視覚効果協会]](VES)、日本には[[VFX-JPNAN]]がある。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アカデミー賞]]にはVFXを評価する[[アカデミー視覚効果賞]]がある。また、[[アカデミー科学技術賞]]もVFXに関連した貢献に授与されることがある。
「VFX」という単語は[[視覚効果]]を意味する英語'''{{lang-en-short|visual effects}}'''に由来し、「V」はvisualの頭文字、「{{スペル|FX}}」は「{{lang|en|effects}}」の発音に類似もしくは全く同じ発音になることに由来する。
==VFX技術==
*[[光学合成]]
*[[東通ecgシステム]]
*[[デジタル合成]]
*[[コンピュータグラフィックス]]
*[[3次元コンピュータグラフィックス]]
*[[Computer Generated Imagery|コンピューター・ジェネレイティド・イマジェリー]]({{スペル|CGI}})
*[[マッチムーブ]]
*[[バレ消し|デジタルリムーバル]]
*[[クロマキー]]
==VFX制作会社一覧==
{{Notice|section=1|この一覧への追加は、十分な記事を作成してから行うようお願いします。}}
=== 非独立系 ===<!--買収が横行しているので分かりやすくする-->
*[[ソニーグループ]]
**[[ソニー・ピクチャーズ・イメージワークス]] ({{USA}})
**[[ピクソモンド]] ({{GER}})
*[[円谷フィールズホールディングス]]
**[[デジタル・フロンティア]] ({{JPN}})
*[[IMAGICA GROUP]]
**[[IMAGICA Lab.]]({{JPN}})
**[[オー・エル・エム#オー・エル・エム・デジタル|オー・エル・エム・デジタル]] ({{JPN}})
* [[TBSホールディングス]]
**[[OXYBOT|TBSアクトデザイン本部アートセンターOXYBOT事業部]] ({{JPN}})
* [[フジサンケイグループ]]
**[[FILM LLP]] ({{JPN}})
*[[東北新社]]
**[[オムニバス・ジャパン]] ({{JPN}})
*[[Netflix]]
**[[スキャンラインVFX]] ({{GER}})
**[[アニマル・ロジック]] ({{AUS}})
*{{仮リンク|Technicolor Creative Studios|en|Technicolor Creative Studios}}
**[[ムービング・ピクチャー・カンパニー]] ({{UK}})
**{{仮リンク|The Mill (会社)|en|The Mill (company)|label=The Mill}} ({{UK}})
**[[ミクロス・イマージュ]] ({{FRA}})
* [[コムキャスト]]/[[NBCユニバーサル]]
** [[マック・ガフ]] ({{FRA}})
* [[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]
**[[インダストリアル・ライト&マジック]] ({{USA}})
* [[ユービーアイソフト]]
**[[ハイブリッド・テクノロジーズ]] ({{CAN}})
===独立系(五十音順)===
{{節スタブ}}
*[[アイラ・ラボラトリ]]({{JPN}})
*[[アクト・デザインズ|ACTDESiGNS,inc.]]({{JPN}})
*[[AstroBros]]({{JPN}})
*[[AnnexDigital]]({{JPN}})
*[[アンダーグラフ (映像会社)|アンダーグラフ]]({{JPN}})
*[[インテリジェント・クリーチャーズ]] ({{CAN}})
*[[WETAデジタル]] ({{NZL}})
*[[エヌ・デザイン]] ({{JPN}})
*[[オクティグラフィカ|OCTIGRAPHICA]]({{JPN}})
<!--===か行===-->
*[[KASSEN]] ({{JPN}})
* [[Cafe Group]]
** [[Cafe VFX]]({{JPN}})
** [[AnimationCafe]]({{JPN}})
*[[金魚事務所]] ({{JPN}})
*[[GIFT inc.]]({{JPN}})
*[[キルアフィルム]]({{JPN}})
*[[グリオグルーヴ]] ({{JPN}})
*[[グリッターマジック|GlitterMagic Inc.]]({{THA}})
*[[クロフネプロダクト]]({{JPN}})
*[[CONTORNO]]({{JPN}})
<!--===さ行===-->
*[[シネサイト]] ({{UK}})
**[[イメージエンジン]] ({{CAN}})
*[[白組]] ({{JPN}})
*[[神央薬品]]({{JPN}})
*[[スタジオ・グーニーズ]]({{JPN}})
*[[スタジオ・バックホーン]] ({{JPN}})
*[[スティミュラスイメージ]]({{JPN}})
*[[SULTAMEDIA FX]]({{JPN}})
*[[Zoic Studios]] ({{USA}})
<!--===な行===-->
*[[ナイス・デー (企業)|ナイス・デー]]({{JPN}})
*[[日本映像クリエイティブ]]({{JPN}})
*[[日本エフェクトセンター]]({{JPN}})
<!--===た行===-->
*[[DNEG]] ({{UK}})
*[[デジタル・ドメイン]] ({{USA}})
*[[TSUBAKI (映像会社)|TSUBAKI]]({{JPN}})
*[[tsumiki (映像会社)|tsumiki]]({{JPN}})
*[[ティペット・スタジオ]] ({{USA}})
*[[トランジスタ・スタジオ]]({{JPN}})
<!--===は行===-->
*[[ハイドラックス]] ({{USA}})
*[[林デジタル工務店]]({{JPN}})
*[[BUFカンパニー]] ({{FRA}})
*[[4Dブレイン]] ({{JPN}})
*[[フレームストア]] ({{UK}})
**[[Method Studios]] ({{USA}})
*{{仮リンク|FuseFX|en|FuseFX}}({{USA}})
**[[ライジング・サン・ピクチャーズ]] ({{AUS}})
<!--===ま行===-->
*[[マーザ・アニメーションプラネット]]({{JPN}})
*[[マリンポスト]] ({{JPN}})
*[[丸壱動画]]({{JPN}})
*[[ミックジャパン (映像会社)|ミックジャパン]]({{JPN}})
*[[Motor/lieZ]] ([[イマージュ (画像処理企業)|イマージュ]]) ({{JPN}})
*[[モンブランピクチャーズ]]({{JPN}})
<!--===や行===-->
*[[ユニバーサル・プロダクション・パートナーズ]] ({{CZE}})
<!--===ら行===-->
*[[ルーデンス|TREE Digital Studio]] ({{JPN}})
*[[ロデオFX]] ({{CAN}})
=== VFXを手掛けたアニメーションスタジオ ===
* [[マーザ・アニメーションプラネット]]({{JPN}}) - [[セガサミーホールディングス]]系。
*[[東映アニメーション]] ({{JPN}}) - [[東映]]子会社。手掛けた実写作品は[[東映アニメーション#実写映画参加作品]]参照。
*[[ゴンゾ]]({{JPN}}) - 手掛けた実写作品は[[ゴンゾ#実写映画]]参照。
*[[ニンテンドーピクチャーズ]]({{JPN}}) - 手掛けた実写作品は[[ニンテンドーピクチャーズ#実写映画]]及び[[ニンテンドーピクチャーズ#テレビドラマ]]参照。
<!--↓VFXの実績不明?-->
*[[ピコナ]]({{JPN}})
*[[ドメリカ]]({{JPN}})
*[[天狗工房]]({{JPN}})
*[[しいたけデジタル]]({{JPN}})
*[[ルナワークス|lunaworks]]({{JPN}})
*[[フレームボックス (映像会社)|FrameBox]]({{JPN}})
*[[ダンデライオンアニメーションスタジオ]]({{JPN}})
*[[サムライ・ピクチャーズ|SAMURAI PICTURES]]({{JPN}})
<!--
*[[GUILD STUDIO]]({{JPN}})→ゲーム系
-->
=== 閉鎖 ===
*[[プラナ・スタジオ]] ({{USA}})
*[[リズム&ヒューズ・スタジオ]] ({{USA}})
*[[ピクチャーエレメント]] ({{JPN}})
*[[フレームワークス・エンターテインメント]]({{JPN}}) - 2021年終了<ref>[https://web.archive.org/web/20210228095738/http://www.feijapan.jp/profile.html profile FEI] フレームワークス・エンターテインメント</ref>。
<!--
*[[ノビラ]]?
-->
{{節スタブ}}
==VFX関係者一覧(五十音順)==
{{Notice|section=1|この一覧への追加は、十分な記事を作成してから行うようお願いします。}}
===あ行===
{{columns-list|5|
*[[アダム・ヴァルデス]]
*[[秋山貴彦]]
*[[浅野秀二]]
*[[荒牧伸志]]
*[[磯部晃一 (CG)|磯部晃一]]
*[[石井教雄]]
*[[井野元英二]]
*[[岩本晶]]
*[[上杉裕世]]
*[[ビル・ウェステンホファー]]
*[[リチャード・エドランド]]
*[[太田垣香織]]
*[[大屋哲男]]
*[[岡本晃 (CGデザイナー)|岡本晃]]
*[[岡部淳也]]
*[[小田一生]]
*[[尾上克郎]]
}}
===か行===
{{columns-list|5|
*[[鹿角剛]]
*[[鹿住朗生]]
*[[木村俊幸]]
*[[ジェームズ・キャメロン]]
}}
===さ行===
{{columns-list|5|
*[[坂口亮]]
*[[佐藤敦紀]]
*[[渋谷紀世子]]
*[[ピーター・ジャクソン]]
*[[ジョー・ジョンストン]]
*[[進威志]]
*[[ストラウス兄弟]]
*[[ステファン・セレッティ]]
*[[瀬下寛之]]
}}
===た行===
{{columns-list|5|
*[[ジョン・ダイクストラ]]
*[[太一 (映像作家)|太一]]
*[[立石勝]]
*[[丹治匠]]
*[[フィル・ティペット]]
*[[道木伸隆]]
*[[豊嶋勇作]]
}}
===な行===
{{columns-list|5|
*[[西川和宏 (CG)|西川和宏]]
*[[野口光一]]
*[[野崎宏二]]
*[[ジョン・ノール]]
*[[ノブタコウイチ]]
}}
===は行===
{{columns-list|5|
*[[林伸彦]]
*[[原田大三郎]]
*[[樋口真嗣]]
*[[ポール・フランクリン]]
}}
===ま行===
{{columns-list|5|
*[[グラント・マキューン]]
*[[宮原洋平]]
*[[デニス・ミューレン]]
}}
===や行===
{{columns-list|4|
*[[山口圭二]]
*[[山口聡]]
*[[山崎貴]]
*[[結城崇史]]
}}
===ら行===
{{columns-list|5|
*[[ジョージ・ルーカス]]
*[[ジョー・レッテリ]]
*[[ケン・ローストン]]
}}
===わ行===
{{columns-list|3|
*[[渡辺輝重]]
}}
==脚注==
<references/>
==参考文献==
*[[大口孝之]]著『コンピュータ・グラフィックスの歴史 3DCGというイマジネーション』フィルムアート社、ISBN 978-4-8459-0930-8
*『Cinefex 日本版』ボーンデジタル社、http://cinefex.jp/
*鍋 潤太郎☆ハリウッド映像トピックス https://nabejun.blog.shinobi.jp/
*マイコミジャーナル https://news.mynavi.jp/techplus/article/deziteacher-1/
*PRONEWS デジタル映像制作Webマガジン <nowiki>http://www.pronews.jp/</nowiki>
==関連項目==
*[[SFX]]
*[[特撮]]
{{DEFAULTSORT:VFX}}
[[Category:視覚効果|*]]
[[Category:SFX]]
[[Category:特撮]]
[[Category:コンピュータグラフィックス]]
[[it:Effetti speciali digitali]]
|
2003-07-11T04:41:48Z
|
2023-12-25T06:49:40Z
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[
"Template:JPN",
"Template:スペル",
"Template:Lang",
"Template:USA",
"Template:GER",
"Template:節スタブ",
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"Template:FRA",
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"Template:AUS",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/VFX
|
11,197 |
赤羽駅
|
赤羽駅(あかばねえき)は、東京都北区赤羽一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。「 ABN 」のスリーレターコードが付与されている。
当駅を経由する路線は、線路名称上は東北本線と赤羽線の2路線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、このうち東北本線を当駅の所属線とし、赤羽線は終着駅としている。東北本線は、田端駅経由(本線)の電車線である京浜東北線、尾久駅経由(支線)の列車線である宇都宮線・高崎線、湘南新宿ラインが走行する東北貨物線(通称)のほか、武蔵浦和駅経由の支線(埼京線の一部)が分岐している。JR東日本公式サイトでは、赤羽駅の所属路線を「京浜東北線・根岸線 埼京線・川越線 高崎線 東北本線 湘南新宿ライン 宇都宮線 上野東京ライン」と表記している。
当駅を経由する路線名称と各運転系統名称は以下の通り。
当駅付近の東北本線は通称電車線・列車線・貨物線(通称は東北貨物線)の3複線となっており、電車線は京浜東北線電車、列車線は宇都宮線・高崎線の上野東京ラインおよび上野駅発着列車、貨物線は貨物列車と湘南新宿ラインほか東武直通特急、他の新宿駅発着特急などが走行する。当駅より上野方面は経路も異なり、電車線は田端方面、列車線は尾久方面を経由する。なお、貨物線の列車はホームがないさいたま新都心駅を通過する。
事業着手されていないが、当駅に接続する路線としてメトロセブン(当駅始点)とエイトライナー(当駅終点)が構想されている。
島式ホーム4面8線を有する高架駅である。改札は北改札口と南改札口の2か所で、それぞれ西側と東側に出口がある自由通路形式となっている。一番西側の埼京線ホーム(7・8番線)の直上を東北新幹線が通過している。
以前は地上駅で、京浜東北線は盛土上にホームが設置され、東北線と赤羽線は地平ホームの橋上駅舎などとなっていた。その後、東北新幹線の上野駅への延伸工事に伴う地下通路の新設、1983年の赤羽線ホーム(当時は5番線、現在の7番線)の高架移設などにより当駅は内部構造が入り組んでしまい、高架ホームを地下の乗り換え通路を介して階段で行き来する構造であるにもかかわらずエスカレーターなども設置されていなかった。本来は一斉に完全高架化を行うべき所を東北新幹線建設を優先し、残りの高架化が遅れたことが原因である。このような構造上の問題もあり、京浜東北線と埼京線の乗り換えなどに非常に時間が掛かっていた。また、東北線・高崎線の当時の池袋駅発着列車の経路である東北貨物線は、当駅前後が単線で、上り・下り列車とも同一ホームの発着となっていた。1990年から約8年かけて駅や付近の線路の高架化工事および立体交差化工事を施工して完全高架化された後、各線相互の乗り換えは容易になった。当駅は山手線の東西各方面への列車が合流する分岐駅であり、ホーム間移動する乗客が多い。
赤羽営業統括センター所在駅である直営駅。埼京線十条駅 - 浮間舟渡駅および京浜東北線東十条駅が当センターの統括範囲である。
京浜東北線はラッシュ時の一部に当駅発着の設定があり、埼京線もラッシュ時や昼間の一部に当駅発着の設定があるほか、早朝と深夜には「赤羽線」区間にあたる池袋駅 - 当駅間のみの運転がある。このため、両線とも大宮寄りに引き上げ線がある。
各ホームの乗車位置には3つの四角形が設置されており、真ん中に北区のシンボルマークが配されている。
当駅から大宮駅へ向かう列車が数多く発着するため、駅の階段付近には各路線の所要時間が掲示されている。実際、全ての偶数番線から発車する電車は大宮方面へ続いている。
2019年11月30日に埼京線が相鉄線と相互直通運転を開始したことで、全ての奇数番線から発着する電車に神奈川県への乗り入れが設定された。
湘南新宿ラインが浦和駅に停車する前は、各ホームの駅名表示板の隣の駅名は全て異なっていた。また、当駅 - 浦和駅間の距離は11.0kmで、宇都宮線では最長の区間である。
(出典:JR東日本:駅構内図)
1・3番線ではテイチク、2・4・7・8番線では日本電音制作の発車メロディを使用している。
5・6番線では2018年11月16日から、当地出身のエレファントカシマシの楽曲を使用している。曲は5番線が「俺たちの明日」、6番線が「今宵の月のように」である。メロディはスイッチの制作で、編曲は福嶋尚哉が手掛けた。
2007年2月には、改札口・駅コンコース内にフルカラーLED式発車標が設置された。
駅舎は岩淵水門(通称・青水門)をイメージして造られている。
南側の改札内コンコースには、吉野家とJR東日本の外食グループ会社であるジェイアール東日本フードビジネス (JEFB) との業務提携によるJR駅構内2号店「駅の牛丼 吉野家 JEFB(ジェフビー)」があったが、2012年8月末で閉店した。
北側の改札内コンコースは、リニューアル工事が完了し、拡大し、後述のエキュート赤羽が開業した。
北改札内に2011年3月26日に開業したジェイアール東日本都市開発が開発・運営する改札内商業施設(他の多くのエキュートはJR東日本リテールネットが運営している)。同年9月23日に南改札寄りの増設エリアの整備が完了し、全面開業した。多数のスイーツ・デリ系ショップを中核とし、コンビニエンスストア「NEWDAYS」、カフェ「BECK'S COFFEE SHOP」、蕎麦店「そばいち」、書店「BOOK EXPRESS」などのほか、雑貨店・婦人衣料店などが出店している。出店店舗の一覧・詳細情報は公式サイト「ショップ一覧」を、営業時間は公式サイトトップページを参照。
2024年夏以降には、南口改札内に「エキュート赤羽みなみ」が新エリアとしてオープン予定である。
北改札の北側改札外からの高架下、途中東京都道460号中十条赤羽線ガード下を挟み、大宮方約350メートルにわたり設置されているショッピングセンターである。
飲食店や雑貨などの販売店をはじめ、ビバホームやスポーツオーソリティ、ユザワヤなどが出店している。駅ビルであるが、駐車場も備え、自家用車利用者も顧客として取り込んでいる(駅駐輪場も併設)。
元々は、北口改札前 - 都道460号ガード下までの間が「アルカード赤羽2」、ガード下から北側が「アルカード赤羽3 生活提案館」という名前であったが、2010年、南口改札外にあった「アルカード赤羽1」を「エキュート赤羽」の用地として転用するために閉鎖し、「1」が欠けた状態で残った北口改札外の「2」「3」が存在するという状態となっていたが、4年後の2014年11月13日「ビーンズ赤羽」として統合・リニューアルした。ジェイアール東日本都市開発が開発・運営している。
当駅は、埼玉県川口市、蕨市、戸田市、さいたま市などや、それ以北の同県内の都市から東京都心部へ移動する際に経由する駅であり、また山手線と併走する西側の埼京線・湘南新宿ライン(池袋・新宿・渋谷駅方面)と東側の京浜東北線・宇都宮線・高崎線(上野・東京・品川駅方面)への分岐点であることから、多くの乗り換え客が集中する。そのため、当駅ではエキュート赤羽開業とともに乗り換え経路を増加させ、乗り換え客の利便性向上を図った。川口市内からもバス等で来て利用する客が多い。特に西口は、国際興業バスのターミナルであり、各方面からのバス利用者が赤羽駅に集まる。
近年1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
当駅は旧赤羽村域に建設されたため、駅名は「赤羽駅」とされたが、当駅の北部は宿場町として有名であった旧岩淵宿であり、旧岩淵宿が旧赤羽村などと合併した際の町名は旧岩淵町とされていた。しかし、当駅周辺は次第に経済的に発展するようになり、かつ知名度から見ても、駅名となった「赤羽」という地名は「岩淵」よりも有名になった。そのため第二次世界大戦後の住居表示実施時には、岩淵という地名を完全に消滅させ、全て赤羽に改称する計画が生じたが、地域の住民運動により一部が岩淵町のまま存続することとなり、かつ埼玉高速鉄道と東京地下鉄(東京メトロ)南北線の駅名は赤羽岩淵駅とされている。しかし、旧岩淵宿域は完全に赤羽の経済圏ならびに生活圏になっている模様である。
当駅周辺は主に北区の商業の中心となっている。東北本線の線路が地上にあった頃は、駅の前後に「開かずの踏切」が点在し、東西の街は鉄道によって事実上分断されていたが、高架化の完成によってこれが解消され、高架下にも商業施設が多数入居し、東口・西口側双方から利用できる。
平成30年度『駅前放置自転車等の現況と対策』によれば、赤羽駅周辺の放置自転車数は平成30年度において都内ワースト1位である。
古くからの商業地が広がっている。複数の商店街が周辺に点在するほか、パチンコ店や居酒屋も多く、南側には歓楽街も広がっている。戦後の早い時期に行われた区画整理により、南北に走る北本通りを中心とした比較的整備された街並みとなっている。
地下鉄南北線・埼玉高速鉄道線の赤羽岩淵駅との間は、東口より赤羽東本通りを通じて徒歩10分程度離れている。そのため、埼玉高速鉄道線開業の際にも国際興業バスは同線とほぼ並行して走る赤羽駅東口 - 鳩ヶ谷公団住宅・川口市立医療センター線を廃止していない。なお、当駅を通る列車の運行に支障が生じた際の振替輸送では、赤羽岩淵駅を利用するように指示が出されることがある。
1980年代から1990年代にかけての再開発(パルロード赤羽を参照)によって、駅前には大型スーパーやマンションが建ち並んでいる。そこを通り抜けると周囲は住宅地となっており、周辺が丘陵地帯であることもあって、大きな道路や商業施設は存在しない。北側一帯の丘陵地には赤羽台団地が広がっており、その下を駅前からの道路が赤羽台トンネルで貫通し、北赤羽駅方面と連絡している。
東口と西口にバスターミナルがあり、国際興業バスのほか、関東バス、都営バスの路線が発着する。2015年4月1日から運行されている羽田空港行の空港連絡バスと2021年10月23日から運行の三井アウトレットパーク 木更津行の高速バスが東口9番のりばに発着するようになった。
1 - 4番のりばは東口駅前ロータリー内に、それ以外ののりばは駅東口からそれぞれ徒歩3 - 5分程の少々離れた場所にある。
全て国際興業バスが運行する路線バスが発着する。
JR東日本では、2011年1月19日に「赤羽駅リニューアル計画」を発表した。リニューアルはすべて北改札内であり、内容は以下の通り。
なお、この北改札内のリニューアルのため、発表以前より工事が始まっており、南改札に面した改札外商業施設「アルカード赤羽1」は2010年9月までに閉鎖された。アルカード赤羽1は建物の構造・位置関係上北改札内にあった従来の店舗と壁一つ隔てて隣接しており、新コンコースとエキュートはアルカード赤羽1の用地を転用する。また、北改札内にあった従来の店舗も同年末までに全店閉店したほか、ホーム上の一部店舗も閉鎖・撤去となった。
工事は2期に分けて実施され、2011年3月に北改札内のリニューアルとエキュート赤羽の一部先行オープンが、同年9月に乗り換えコンコースの整備・エスカレーターの設置が行われたほか、エキュート赤羽が全面オープンした。これにより、駅部中央部分が改札内扱いになるとともに、改札内店舗の面積は大幅に拡張された。
|
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"text": "赤羽駅(あかばねえき)は、東京都北区赤羽一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。「 ABN 」のスリーレターコードが付与されている。",
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"text": "当駅を経由する路線は、線路名称上は東北本線と赤羽線の2路線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、このうち東北本線を当駅の所属線とし、赤羽線は終着駅としている。東北本線は、田端駅経由(本線)の電車線である京浜東北線、尾久駅経由(支線)の列車線である宇都宮線・高崎線、湘南新宿ラインが走行する東北貨物線(通称)のほか、武蔵浦和駅経由の支線(埼京線の一部)が分岐している。JR東日本公式サイトでは、赤羽駅の所属路線を「京浜東北線・根岸線 埼京線・川越線 高崎線 東北本線 湘南新宿ライン 宇都宮線 上野東京ライン」と表記している。",
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"text": "当駅を経由する路線名称と各運転系統名称は以下の通り。",
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"text": "当駅付近の東北本線は通称電車線・列車線・貨物線(通称は東北貨物線)の3複線となっており、電車線は京浜東北線電車、列車線は宇都宮線・高崎線の上野東京ラインおよび上野駅発着列車、貨物線は貨物列車と湘南新宿ラインほか東武直通特急、他の新宿駅発着特急などが走行する。当駅より上野方面は経路も異なり、電車線は田端方面、列車線は尾久方面を経由する。なお、貨物線の列車はホームがないさいたま新都心駅を通過する。",
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"text": "事業着手されていないが、当駅に接続する路線としてメトロセブン(当駅始点)とエイトライナー(当駅終点)が構想されている。",
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"text": "島式ホーム4面8線を有する高架駅である。改札は北改札口と南改札口の2か所で、それぞれ西側と東側に出口がある自由通路形式となっている。一番西側の埼京線ホーム(7・8番線)の直上を東北新幹線が通過している。",
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"text": "以前は地上駅で、京浜東北線は盛土上にホームが設置され、東北線と赤羽線は地平ホームの橋上駅舎などとなっていた。その後、東北新幹線の上野駅への延伸工事に伴う地下通路の新設、1983年の赤羽線ホーム(当時は5番線、現在の7番線)の高架移設などにより当駅は内部構造が入り組んでしまい、高架ホームを地下の乗り換え通路を介して階段で行き来する構造であるにもかかわらずエスカレーターなども設置されていなかった。本来は一斉に完全高架化を行うべき所を東北新幹線建設を優先し、残りの高架化が遅れたことが原因である。このような構造上の問題もあり、京浜東北線と埼京線の乗り換えなどに非常に時間が掛かっていた。また、東北線・高崎線の当時の池袋駅発着列車の経路である東北貨物線は、当駅前後が単線で、上り・下り列車とも同一ホームの発着となっていた。1990年から約8年かけて駅や付近の線路の高架化工事および立体交差化工事を施工して完全高架化された後、各線相互の乗り換えは容易になった。当駅は山手線の東西各方面への列車が合流する分岐駅であり、ホーム間移動する乗客が多い。",
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"text": "赤羽営業統括センター所在駅である直営駅。埼京線十条駅 - 浮間舟渡駅および京浜東北線東十条駅が当センターの統括範囲である。",
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"text": "京浜東北線はラッシュ時の一部に当駅発着の設定があり、埼京線もラッシュ時や昼間の一部に当駅発着の設定があるほか、早朝と深夜には「赤羽線」区間にあたる池袋駅 - 当駅間のみの運転がある。このため、両線とも大宮寄りに引き上げ線がある。",
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"text": "湘南新宿ラインが浦和駅に停車する前は、各ホームの駅名表示板の隣の駅名は全て異なっていた。また、当駅 - 浦和駅間の距離は11.0kmで、宇都宮線では最長の区間である。",
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"text": "2007年2月には、改札口・駅コンコース内にフルカラーLED式発車標が設置された。",
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"title": "駅構造"
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"text": "当駅は、埼玉県川口市、蕨市、戸田市、さいたま市などや、それ以北の同県内の都市から東京都心部へ移動する際に経由する駅であり、また山手線と併走する西側の埼京線・湘南新宿ライン(池袋・新宿・渋谷駅方面)と東側の京浜東北線・宇都宮線・高崎線(上野・東京・品川駅方面)への分岐点であることから、多くの乗り換え客が集中する。そのため、当駅ではエキュート赤羽開業とともに乗り換え経路を増加させ、乗り換え客の利便性向上を図った。川口市内からもバス等で来て利用する客が多い。特に西口は、国際興業バスのターミナルであり、各方面からのバス利用者が赤羽駅に集まる。",
"title": "利用状況"
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"text": "当駅周辺は主に北区の商業の中心となっている。東北本線の線路が地上にあった頃は、駅の前後に「開かずの踏切」が点在し、東西の街は鉄道によって事実上分断されていたが、高架化の完成によってこれが解消され、高架下にも商業施設が多数入居し、東口・西口側双方から利用できる。",
"title": "駅周辺"
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"text": "平成30年度『駅前放置自転車等の現況と対策』によれば、赤羽駅周辺の放置自転車数は平成30年度において都内ワースト1位である。",
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"text": "古くからの商業地が広がっている。複数の商店街が周辺に点在するほか、パチンコ店や居酒屋も多く、南側には歓楽街も広がっている。戦後の早い時期に行われた区画整理により、南北に走る北本通りを中心とした比較的整備された街並みとなっている。",
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"title": "エキュート赤羽設置の経過(赤羽駅リニューアル計画)"
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赤羽駅(あかばねえき)は、東京都北区赤羽一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。「 ABN 」のスリーレターコードが付与されている。
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{{Otheruses|東京都北区にある東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅|かつて同区にあった王子電気軌道および東京都電車(都電)の同名の停留所<ref group="注釈">停留所のあった場所は、当駅付近ではなく、埼玉高速鉄道線・東京メトロ南北線の赤羽岩淵駅のほぼ直上、国道122号赤羽交差点付近にあった。</ref><ref>『日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線』5号東京 p.19 , 50</ref>|王子電気軌道#停留所一覧}}
{{混同|x1=東京都[[港区 (東京都)|港区]]にある[[都営地下鉄]][[大江戸線]]|赤羽橋駅}}
{{駅情報
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|駅名 = 赤羽駅
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|画像説明 = 東口(2010年5月)
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|開業年月日 = {{Nowrap|[[1885年]]([[明治]]18年)[[3月1日]]}}
|駅構造 = [[高架駅]]<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =22 }}</ref>
|ホーム = 4面8線{{R|zeneki05}}
|廃止年月日 =
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|統計年度 = 2022年<!--リンク先不要-->
|乗入路線数 = 5
|所属路線1 = {{Color|#f68b1e|■}}[[宇都宮線]]・[[高崎線]]<br />([[東北本線]]列車線{{Refnest|group="*"|name="line-name"|線路名称上は、埼京線十条方は[[赤羽線]]、それ以外は[[東北本線]](尾久方と北赤羽方は支線)}})
|前の駅1 = JU 03 [[尾久駅|尾久]]
|駅間A1 = 5.0
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|次の駅1 = [[浦和駅|浦和]]{{Refnest|group="*"|name="boundary"|当駅 - 川口間に[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]と[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から東十条方・尾久方は首都圏本部管内)}} JU 05
|駅番号1 = {{駅番号r|JU|04|#f68b1e|1}}
|キロ程1 = 7.7 km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から[[尾久駅|尾久]]経由で13.4
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{Color|#f68b1e|■}}{{Color|#0067c0|■}}[[湘南新宿ライン]]<br />(東北本線貨物線<ref group="*" name="line-name" />)
|前の駅2 = JS 21 [[池袋駅|池袋]]
|駅間A2 = 5.5{{Refnest|group="*"|池袋 - 当駅間の営業キロは赤羽線経由で算出}}
|駅間B2 = 11.0
|次の駅2 = 浦和<ref group="*" name="boundary" />{{Refnest|group="*"|name="takasaki-line"|高崎線直通含む。}} JS 23
|駅番号2 = {{駅番号r|JS|22|#e21f26|1}}
|キロ程2 =
|起点駅2 =
|所属路線3 = {{Color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]<br />(東北本線電車線<ref group="*" name="line-name" />)
|前の駅3 = JK 37 [[東十条駅|東十条]]
|駅間A3 = 1.8
|駅間B3 = 2.6
|次の駅3 = [[川口駅|川口]]<ref group="*" name="boundary" /> JK 39
|駅番号3 = {{駅番号r|JK|38|#00b2e5|1}}
|キロ程3 = 13.2 km(東京起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から17.1
|起点駅3 =
|所属路線4 = {{Color|#00ac9a|■}}[[埼京線]]<br />([[赤羽線]]・東北本線支線<ref group="*" name="line-name" />)
|前の駅4 = JA 14 [[十条駅 (東京都)|十条]]
|駅間A4 = 2.0
|駅間B4 = 1.5
|次の駅4 = [[北赤羽駅|北赤羽]] JA 16
|駅番号4 = {{駅番号r|JA|15|#00ac9a|1}}
|キロ程4 = 5.5 km([[池袋駅|池袋]]起点)<br />[[大崎駅|大崎]]から18.9
|起点駅4 =
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有
* [[ファイル:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[ファイル:Akabane-sta-West.JPG|thumb|西口(2010年5月)]]
'''赤羽駅'''(あかばねえき)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[赤羽]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。「{{駅番号s|black|#ffffff|ABN}}」の[[駅ナンバリング#スリーレターコード|スリーレターコード]]が付与されている。
== 乗り入れ路線 ==
当駅を経由する路線は、線路名称上は[[東北本線]]と[[赤羽線]]の2路線であり(詳細は路線記事および「[[鉄道路線の名称]]」を参照)、このうち東北本線を当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]とし、赤羽線は[[終着駅]]としている。東北本線は、[[田端駅]]経由(本線)の電車線である[[京浜東北線]]、[[尾久駅]]経由(支線)の列車線である[[宇都宮線]]・[[高崎線]]、[[湘南新宿ライン]]が走行する[[東北貨物線]](通称)のほか、[[武蔵浦和駅]]経由の支線([[埼京線]]の一部)が分岐している。JR東日本公式サイトでは、赤羽駅の所属路線を「京浜東北線・根岸線 埼京線・川越線 [[高崎線]] 東北本線 湘南新宿ライン 宇都宮線 [[上野東京ライン]]」と表記している<ref>{{Cite web|和書|title=駅の情報(赤羽駅):JR東日本|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=34|website=www.jreast.co.jp|accessdate=2019-12-22}}</ref>。
当駅を経由する路線名称と各運転系統名称は以下の通り。
* 東北本線
**[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JK]] [[京浜東北線]]:東北本線の大宮駅以南で主に各駅停車運転する通勤電車。横浜駅から[[根岸線]]への[[直通運転]]も実施。 - 駅番号「'''JK 38'''」
**[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]]:宇都宮線は、[[東京駅]] - 尾久駅 - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]を経て[[小山駅]]・[[宇都宮駅]]・[[黒磯駅]]方面を結ぶ東北本線の中距離電車。高崎線は、大宮駅から分岐して[[熊谷駅]]・[[高崎駅]]方面を結ぶ中距離電車。上野駅発着系統と、上野駅・[[東京駅]]経由で[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]に直通する[[上野東京ライン]]系統がある。- [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''JU 04'''」
**[[ファイル:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[湘南新宿ライン]]:東北本線の東北貨物線(通称)を走る中距離電車。新宿駅を経由し、大宮駅方面(北行)の[[宇都宮線]]・[[高崎線]]と[[横浜駅]]方面(南行)の[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[横須賀線]]を相互直通運転。 - 駅番号「'''JS 22'''」
**[[ファイル:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]:赤羽線から当駅を経て東北本線の支線に直通運転する通勤電車。大宮駅方面(北行)の[[川越線]]と[[大崎駅]]方面(南行)の[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]との相互[[直通運転]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]への片方向直通運転も実施。 - 駅番号「'''JA 15'''」
* [[赤羽線]]
** [[ファイル:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線:赤羽線から当駅を経て東北本線支線に直通運転する通勤電車。
当駅付近の東北本線は通称[[電車線・列車線]]・貨物線(通称は東北貨物線)の3複線となっており、電車線は京浜東北線電車、列車線は宇都宮線・高崎線の上野東京ラインおよび上野駅発着列車、貨物線は貨物列車と湘南新宿ラインほか[[日光 (列車)|東武直通特急]]、他の[[新宿駅]]発着[[特別急行列車|特急]]などが走行する。当駅より上野方面は経路も異なり、電車線は田端方面、列車線は尾久方面を経由する。なお、貨物線の列車はホームがない[[さいたま新都心駅]]を通過する。
=== 構想中の路線 ===
事業着手されていないが、当駅に接続する路線として[[メトロセブン]](当駅始点)と[[エイトライナー]](当駅終点)が構想されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/81754|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200301225343/https://trafficnews.jp/post/81754|title=東京の環状道路「環八」「環七」の下に環状地下鉄構想 そのメリットと課題は|website=乗りものニュース|date=2018-10-25|accessdate=2021-03-19|archivedate=2020-03-01}}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1885年]]([[明治]]18年)[[3月1日]]:[[日本鉄道]]により地上駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=390}}</ref>。[[品川駅]]に至る路線(品川線、後の[[山手線]])の分岐駅として設置された。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:[[鉄道国有法]]により国有化{{R|停車場}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により東北本線の所属となる。
* [[1968年]]([[昭和]]43年)[[12月27日]]:南口橋上駅舎が完成し、使用開始<ref>{{Cite news |和書 |title=赤羽駅、南口ができあがる きょうから営業 |newspaper=[[読売新聞]] |date=1968-12-27 |edition=中央版 |publisher=[[読売新聞東京本社]] |page=13 }}</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)[[7月15日]]:線路区間表示が改定され、山手線池袋 - 赤羽間が赤羽線として分離、改称される。
* [[1973年]](昭和48年)[[4月24日]](夜):国鉄職員による[[労働争議|順法闘争]](当時、列車に大幅な遅延と混雑が発生)にしびれを切らした乗客らが[[暴動]]化。これをきっかけに上野駅や新宿駅などでも暴動([[首都圏国電暴動]])が発生したため、翌[[4月25日|25日]]いっぱいまで[[首都圏 (日本)|首都圏]]の[[日本国有鉄道|国鉄線]]が麻痺状態に陥った。
* [[1976年]](昭和51年)[[2月25日]]:貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1978年]](昭和53年)[[10月1日]]:[[東北新幹線]]の上野駅延伸工事とそれに伴う赤羽線10両化に伴う高架化工事のため、当駅付近の東北貨物線が[[単線]]化される。その後、単線区間は[[東十条駅]]付近から[[荒川 (関東)|荒川]]橋梁付近にまで延長され、現在の5番線が完成・開通するまで単線運転が続けられた。
* [[1983年]](昭和58年)
** [[3月2日]]:赤羽線の高架が完成し、同線が発着する5番線を高架(現7番線)に切り換え<ref>{{Cite news |title=着々すすむ赤羽線の輸送力増強 ホーム高架化近く完成 とりあえず一面一線で |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-02-05 |page=2 }}</ref>。
** [[10月2日]]:池袋駅の新ホーム使用開始により、赤羽線の編成を8両編成から10両編成に変更。
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:大宮以南で東北貨物線を経由する当駅止まりの上り中距離電車を朝[[ラッシュ時]]に運転開始。赤羽線の高架下を走る東北貨物線(当時単線)に7番線ホームが設けられる。
* [[1985年]](昭和60年)[[9月30日]]:東北新幹線の開業に伴い、見返りとして建設された[[武蔵浦和駅]]経由の通勤新線(東北本線支線)が開業し、当駅を介して赤羽線と一体化して列車を運行開始、運転系統名を埼京線(通称)とした。
* [[1986年]](昭和61年)11月1日:[[日本国有鉄道の荷物運送|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月30日]]:駅ビル「アルカード」が開業<ref name="RP497_110">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=3月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1988-06-01|volume=38|issue=第6号(通巻第497号)|page=110|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** この年:駅付近の「[[開かずの踏切]]」による慢性的な交通障害を解消するため、駅の高架化工事開始。
** [[11月21日]]:「アルカード赤羽2」が開業<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=191 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)
** [[4月26日]]:高架化完了<ref name="交通980414">{{Cite news |title=東北線を高架に移設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-04-14 |page=1 }}</ref>。「開かずの踏切」が全廃された。
** [[12月6日]]:未完成だった東北貨物線上り線用の高架が完成し、当駅付近の東北貨物線が20年ぶりに[[複線]]に復帰、現5番線の使用が開始される<ref>{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |date = 1999-03 |volume = 49 |issue = 3 |page = 82 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月26日]]:「[[エキュート]]赤羽」開業。
** [[9月23日]]:北口[[コンコース]]のリニューアル・拡張および「エキュート赤羽」全面開業。
* [[2017年]](平成29年)[[3月25日]]:京浜東北線ホームで[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/tokyo/20160407_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510023513/https://www.jreast.co.jp/press/2016/tokyo/20160407_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=赤羽駅・上野駅・大井町駅3駅の京浜東北線ホームドア工事着手について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2016-04-07|accessdate=2020-04-08|archivedate=2019-05-10}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20170314_t02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170328231722/http://www.jreast.co.jp/press/2016/20170314_t02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=王子駅・御徒町駅の京浜東北線ホームドア工事に着手します|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2017-03-14|accessdate=2020-04-08|archivedate=2017-03-28}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[10月16日]] - [[12月14日]]:[[人工知能]](AI)を使った無人売店の実証実験を5・6番線ホームで実施<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181001.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191130151441/https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181001.pdf|format=PDF|language=日本語|title=AIを活用した無人決済店舗の実証実験第二弾を赤羽駅で実施 〜レジで会計待ちをすることなく、スマートなお買い物体験を〜|publisher=東日本旅客鉄道/JR東日本スタートアップ|date=2018-10-02|accessdate=2020-02-01|archivedate=2019-11-30}}</ref>。
** [[11月16日]]:5・6番線の[[発車メロディ]]を[[エレファントカシマシ]]の楽曲に変更<ref group="報道" name="Train-melody">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20181107_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190820222746/https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20181107_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=赤羽駅の発車メロディが変わります|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2018-11-08|accessdate=2020-02-01|archivedate=2019-08-20}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[3月31日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCD=34|title=駅の情報(赤羽駅):JR東日本|accessdate=2020-02-01|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://archive.ph/dQcVD|archivedate=2020-02-01}}</ref>。
** [[10月29日]]:南改札外に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 新橋/大崎/赤羽/北千住の4駅にSTATION BOOTHが開業!|publisher=STATION WORK|date=2020-10-28|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118062545/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2020-11-18}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]4面8線を有する[[高架駅]]である{{R|zeneki05}}。[[改札]]は北改札口と南改札口の2か所で、それぞれ西側と東側に出口がある自由通路形式となっている。一番西側の埼京線ホーム(7・8番線)の直上を[[東北新幹線]]が通過している。
以前は[[地上駅]]で、京浜東北線は[[盛土]]上にホームが設置され、東北線と赤羽線は地平ホームの[[橋上駅|橋上駅舎]]などとなっていた。その後、東北新幹線の上野駅への延伸工事に伴う地下通路の新設、[[1983年]]の赤羽線ホーム(当時は5番線、現在の7番線)の高架移設などにより当駅は内部構造が入り組んでしまい、高架ホームを地下の乗り換え通路を介して[[階段]]で行き来する構造であるにもかかわらず[[エスカレーター]]なども設置されていなかった。本来は一斉に完全高架化を行うべき所を東北新幹線建設を優先し、残りの高架化が遅れたことが原因である。このような構造上の問題もあり、京浜東北線と埼京線の乗り換えなどに非常に時間が掛かっていた。また、東北線・高崎線の当時の[[池袋駅]]発着列車の経路である東北貨物線は、当駅前後が単線で、上り・下り列車とも同一ホームの発着となっていた。[[1990年]]から約8年かけて駅や付近の線路の[[高架橋|高架]]化工事および[[連続立体交差事業|立体交差化工事]]を施工して完全高架化された後、各線相互の乗り換えは容易になった。当駅は山手線の東西各方面への列車が合流する分岐駅であり、ホーム間移動する乗客が多い。
赤羽営業統括センター所在駅である[[直営駅]]。埼京線[[十条駅 (東京都)|十条駅]] - [[浮間舟渡駅]]および京浜東北線[[東十条駅]]が当センターの統括範囲である<ref>{{Cite news |title=JR東労組東京地本No.001号 |date=2022-07-27|url=https://jreu-t.jp/wp-content/uploads/2022/07/4c51d21019cd175747fb63a13a209ad9.pdf |accessdate=2023-02-14|format=PDF |publisher=JR 東日本労働組合東京地方本部}}</ref>。
京浜東北線は[[ラッシュ時]]の一部に当駅発着の設定があり、埼京線もラッシュ時や昼間の一部に当駅発着の設定があるほか、早朝と深夜には「赤羽線」区間にあたる池袋駅 - 当駅間のみの運転がある。このため、両線とも大宮寄りに[[引き上げ線]]がある。
各ホームの乗車位置には3つの四角形が設置されており、真ん中に北区の[[シンボルマーク]]が配されている。
当駅から大宮駅へ向かう列車が数多く発着するため、駅の階段付近には各路線の所要時間が掲示されている。実際、全ての偶数番線から発車する電車は大宮方面へ続いている。
[[2019年]][[11月30日]]に埼京線が[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]と相互直通運転を開始したことで、全ての奇数番線から発着する電車に[[神奈川県]]への乗り入れが設定された<ref group="注釈">[[新宿駅]]以北からの相鉄線への乗り入れは朝のみ。</ref>。
湘南新宿ラインが浦和駅に停車する前は、各ホームの駅名表示板の隣の駅名は全て異なっていた。また、当駅 - 浦和駅間の距離は11.0kmで、宇都宮線では最長の区間である。
=== のりば ===
<!--方面表記および路線表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
|style="text-align:center;"|南行
|[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[横浜駅|横浜]]・[[磯子駅|磯子]]方面
|-
!2
|style="text-align:center;"|北行
|[[川口駅|川口]]・[[浦和駅|浦和]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面
|-
!3
|[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 上野東京ライン<br />(宇都宮線・高崎線)
|style="text-align:center;"|上り
|上野・東京・[[品川駅|品川]]・横浜・[[小田原駅|小田原]]・[[熱海駅|熱海]]方面
|-
!4
|[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線(東北線)・高崎線
|style="text-align:center;"|下り
|浦和・大宮・[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[高崎駅|高崎]]方面
|-
!5
|rowspan="2"|[[ファイル:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン
|style="text-align:center;"|南行
|[[新宿駅|新宿]]・横浜・[[大船駅|大船]]・小田原・[[逗子駅|逗子]]方面
|-
!6
|style="text-align:center;"|北行
|大宮・宇都宮・高崎方面
|-
!rowspan="2"|7
|rowspan="4"|[[ファイル:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線
|style="text-align:center;"|南行
|rowspan="2"|[[池袋駅|池袋]]・新宿・[[大崎駅|大崎]]・[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]方面
|-
|style="text-align:center;"|上り
|-
!rowspan="2"|8
|style="text-align:center;"|北行
|rowspan="2"|[[武蔵浦和駅|武蔵浦和]]・大宮・[[川越駅|川越]]方面
|-
|style="text-align:center;"|下り
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/34.html JR東日本:駅構内図])
* なお2013年3月16日に浦和駅に湘南新宿ライン列車が停車するようになって以降も、以前の名残で4番線への案内板にのみ「浦和・大宮・宇都宮・高崎方面」と表記される状態が続いている。
<gallery>
ファイル:JRE Akabane-STA North-Gate.jpg|北改札口(2022年12月)
ファイル:JRE Akabane-STA South-Gate.jpg|南改札口(2022年12月)
ファイル:JRE Akabane-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2022年9月)
ファイル:JRE Akabane-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2022年9月)
ファイル:JRE Akabane-STA Platform5-6.jpg|5・6番線ホーム(2022年9月)
ファイル:JRE Akabane-STA Platform7-8.jpg|7・8番線ホーム(2022年9月)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
1・3番線では[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]、2・4・7・8番線では[[日本電音]]制作の発車メロディを使用している。
5・6番線では2018年11月16日から、当地出身の[[エレファントカシマシ]]の楽曲を使用している。曲は5番線が「[[俺たちの明日]]」、6番線が「[[今宵の月のように]]」である<ref name="Train-melody" group="報道" />。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[福嶋尚哉]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=赤羽駅「エレファントカシマシ」楽曲の発車メロディ制作|url=http://www.switching.co.jp/news/430|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-08-23|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
!1
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]]
|Mellow time
|-
!2
|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]]
|春(強調トレモロ)
|-
!3
|[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]]
|すすきの高原
|-
!4
|[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]]
|高原
|-
!5
|[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]]
|俺たちの明日
|-
!6
|[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]]
|今宵の月のように
|-
!7
|[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]]
|高原
|-
!8
|[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]]
|せせらぎ
|}
=== 設備 ===
[[ファイル:Display at Akabane Station.jpg|thumb|400px|改札内コンコースに設置されているフルカラーLED式発車標(上野東京ライン開業前・当時は浦和駅に湘南新宿ラインのホームが設置されていない)]]
[[2007年]]2月には、改札口・駅コンコース内にフルカラー[[発光ダイオード|LED]]式[[発車標]]が設置された。
駅舎は[[岩淵水門]](通称・青水門)をイメージして造られている。
南側の改札内コンコースには、[[吉野家]]とJR東日本の外食グループ会社である[[ジェイアール東日本フードビジネス]] (JEFB) との業務提携によるJR駅構内2号店「駅の牛丼 吉野家 JEFB(ジェフビー)」があったが、2012年8月末で閉店した。
北側の改札内コンコースは、リニューアル工事が完了し、拡大し、後述のエキュート赤羽が開業した。
=== エキュート赤羽 ===
北改札内に2011年[[3月26日]]に開業した[[ジェイアール東日本都市開発]]が開発・運営する改札内商業施設(他の多くのエキュートは[[JR東日本リテールネット]]が運営している)。同年[[9月23日]]に南改札寄りの増設エリアの整備が完了し、全面開業した。多数の[[デザート|スイーツ]]・[[デリカテッセン|デリ]]系ショップを中核とし、[[コンビニエンスストア]]「[[NEWDAYS]]」、[[カフェ]]「[[BECK'S COFFEE SHOP]]」、[[蕎麦]]店「そばいち」、[[書店]]「BOOK EXPRESS」などのほか、雑貨店・婦人衣料店などが出店している。出店店舗の一覧・詳細情報は公式サイト「[http://www.ecute.jp/akabane/shop.html ショップ一覧]」を、営業時間は公式サイト[http://www.ecute.jp/akabane/ トップページ]を参照。
2024年夏以降には、南口改札内に「エキュート赤羽みなみ」が新エリアとしてオープン予定である。<ref>{{Cite web|和書|title=赤羽駅南口駅構内がリニューアル ~エキュート赤羽が南口に広がります~|トピックス|JR都市開発 |url=https://www.jrtk.jp/topics/archives/3766 |website=JR都市開発 |access-date=2023-10-18 |language=ja}}</ref>
=== ビーンズ赤羽 ===
[[ファイル:Beans-Akabane.jpg|thumb|ビーンズ赤羽(2019年6月)]]
北改札の北側改札外からの高架下、途中[[東京都道460号中十条赤羽線]]ガード下を挟み、大宮方約350メートルにわたり設置されている[[ショッピングセンター]]である。
飲食店や雑貨などの販売店をはじめ、[[ビバホーム]]や[[スポーツオーソリティ]]、[[ユザワヤ]]などが出店している。[[駅ビル]]であるが、[[駐車場]]も備え、自家用車利用者も顧客として取り込んでいる(駅[[駐輪場]]も併設)。
元々は、北口改札前 - 都道460号ガード下までの間が「アルカード赤羽2」、ガード下から北側が「アルカード赤羽3 生活提案館」という名前であったが、2010年、南口改札外にあった「アルカード赤羽1」を「エキュート赤羽」の用地として転用するために閉鎖し、「1」が欠けた状態で残った北口改札外の「2」「3」が存在するという状態となっていたが、4年後の2014年11月13日「ビーンズ赤羽」として統合・リニューアルした<ref>[http://beans.jrtk.jp/akabane/ ビーンズ赤羽]</ref>。ジェイアール東日本都市開発が開発・運営している。
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''86,518人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
*: JR東日本の駅では[[錦糸町駅]]に次いで第35位。他社線への乗換駅でない駅(JR東日本の路線しか通っていない駅)としては1位である。
当駅は、[[埼玉県]][[川口市]]、[[蕨市]]、[[戸田市]]、[[さいたま市]]などや、それ以北の同県内の都市から東京都心部へ移動する際に経由する駅であり、また[[山手線]]と併走する西側の埼京線・湘南新宿ライン(池袋・新宿・[[渋谷駅]]方面)と東側の京浜東北線・宇都宮線・高崎線(上野・[[東京駅|東京]]・[[品川駅]]方面)への分岐点であることから、多くの乗り換え客が集中する。そのため、当駅ではエキュート赤羽開業とともに乗り換え経路を増加させ、乗り換え客の利便性向上を図った。川口市内からもバス等で来て利用する客が多い。特に西口は、国際興業バスのターミナルであり、各方面からのバス利用者が赤羽駅に集まる。
近年1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|46,593
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|49,971
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|52,532
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|57,153
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|61,687
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|66,003
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|73,455
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|80,755
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|86,929
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|98,529
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|107,911
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|112,416
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|114,935
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|119,768
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|123,764
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|124,848
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|116,474
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|109,074
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|107,560
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|103,200
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|104,474
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|106,501
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|95,134
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|99,255
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|96,044
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|94,121
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|92,079
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|89,874
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|89,222
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|88,386
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|87,497
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|86,466
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|85,940
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|83,145
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|83,276
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|87,104
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|87,068
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|87,460
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|88,438
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|86,759
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|87,534
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|86,529
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|86,361
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|84,896
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|81,930
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|80,594
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)]- JR東日本</ref>80,197
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>82,041
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*">[http://www.city.kita.tokyo.jp/kuse/joho/shiryoshu/index.html 行政資料集] - 北区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>82,141
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>83,585
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>85,083
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>85,238
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>86,459
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>87,339
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref> 88,632
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>88,351
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>88,085
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>86,869
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>87,346
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>88,140
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>89,742
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>89,489
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>92,146
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>93,534
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>95,851
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>97,249
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>98,370
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>73,842
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>78,321
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>86,518
|
|}
== 駅周辺 ==
{{Vertical_images_list
|幅 = 200px
|枠幅 = 200px
|1 = JRE Akabane Sta 1974.jpg
|2 = 赤羽駅付近空中写真(1974年撮影 国土画像情報オルソ化空中写真([[国土交通省]])より)
|3 = Akabane sta 1974.JPG
|4 = 赤羽駅付近空中写真詳細(1974年撮影 国土画像情報カラー空中写真(国土交通省)より)
}}
{{See also|赤羽|赤羽台|岩淵町 (東京都北区)|志茂|神谷 (東京都北区)|赤羽南|赤羽西}}
当駅は旧赤羽村域に建設されたため、駅名は「赤羽駅」とされたが、当駅の北部は[[宿場町]]として有名であった旧[[岩淵宿]]であり、旧岩淵宿が旧赤羽村などと合併した際の町名は旧[[岩淵町]]とされていた。しかし、当駅周辺は次第に経済的に発展するようになり、かつ知名度から見ても、駅名となった「赤羽」という地名は「岩淵」よりも有名になった。そのため[[第二次世界大戦]]後の[[住居表示]]実施時には、岩淵という地名を完全に消滅させ、全て[[赤羽]]に改称する計画が生じたが、地域の住民運動により一部が[[岩淵町 (東京都北区)|岩淵町]]のまま存続することとなり、かつ[[埼玉高速鉄道]]と[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ南北線|南北線]]の駅名は[[赤羽岩淵駅]]とされている。しかし、旧岩淵宿域は完全に赤羽の経済圏ならびに生活圏になっている模様である。
当駅周辺は主に北区の商業の中心となっている。東北本線の線路が地上にあった頃は、駅の前後に「[[開かずの踏切]]」が点在し、東西の街は鉄道によって事実上分断されていたが、高架化の完成によってこれが解消され、高架下にも商業施設が多数入居し、東口・西口側双方から利用できる。
平成30年度『駅前放置自転車等の現況と対策』によれば、赤羽駅周辺の放置自転車数は平成30年度において都内ワースト1位である。
=== 北改札口・東口 ===
;南口(東側)含む
古くからの商業地が広がっている。複数の[[商店街]]が周辺に点在するほか、[[パチンコ]]店や[[居酒屋]]も多く、南側には[[歓楽街]]も広がっている。[[戦後]]の早い時期に行われた[[土地区画整理事業|区画整理]]により、南北に走る[[国道122号|北本通り]]を中心とした比較的整備された街並みとなっている。
地下鉄南北線・[[埼玉高速鉄道線]]の赤羽岩淵駅との間は、東口より赤羽東本通りを通じて徒歩10分程度離れている。そのため、埼玉高速鉄道線開業の際にも国際興業バスは同線とほぼ並行して走る赤羽駅東口 - 鳩ヶ谷公団住宅・川口市立医療センター線を廃止していない。なお、当駅を通る列車の運行に支障が生じた際の[[振替輸送]]では、赤羽岩淵駅を利用するように指示が出されることがある。
{{columns-list|2|
* [[JR東日本ホテルメッツ]]赤羽 - 駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能(事前予約制)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho04.pdf|title=STATION WORK×リッチモンドホテルズ ホテルテレワークプランを開始します ~半日単位2,300円より、ホテルの客室があなたのテレワーク空間に~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|page=2|date=2021-01-13|accessdate=2021-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210113130007/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho04.pdf|archivedate=2021-01-13}}</ref>
* [[ダイワロイネットホテルズ|ダイワロイネットホテル]]東京赤羽 - 2021年3月12日より、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能(事前予約制)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 3/12(金)よりダイワロイネットホテル4施設と提携開始!|publisher=STATION WORK|date=2021-03-11|accessdate=2021-03-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210318094835/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2021-03-18}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210305_ho01.pdf|title=STATION WORKがダイワロイネットホテルズ14施設と提携スタート ~東京・神奈川・千葉エリアの14施設と連携開始、日本全国136カ所のネットワークへ~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道、ダイワロイヤル|date=2021-03-05|accessdate=2021-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210305080415/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210305_ho01.pdf|archivedate=2021-03-05}}</ref>
<!-- * [[西友]] 赤羽店(1966年(昭和41年)3月23日開店<ref name="syogyokai-20years-1967-212">『商業界二十年 : 日本商業20年譜 1948-1967』 [[商業界]]、1967年。pp212</ref>、本社を併設) -->
* [[PALTAC]]東京支社([[カルビー]]旧本社→[[吉野家|吉野家ホールディングス]]旧本社)
* 赤羽公園
* 北区役所 赤羽区民事務所
* 赤羽会館
* [[赤羽郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]] 赤羽店
* [[東京消防庁]] 赤羽消防署
* 赤羽一番街商店街
* 赤羽スズラン通り商店街(LaLaガーデン)
** [[ダイエー]]赤羽店([[1969年]]([[昭和]]44年)[[12月5日]]開店<ref name="japan-comerce-yearbook-1971-25">『日本商業年鑑 1971年版』 [[商業界]]、1971年。pp25</ref>)
* 赤羽岩淵病院
* 赤羽病院
* 赤羽中央総合病院
* 赤羽東口病院
* [[博慈会記念総合病院]](路線バス利用)
* [[都市農業公園]](路線バス利用)
* [[荒川 (関東)|荒川]]
* [[岩淵水門]]
* [[新河岸川]]・[[隅田川]]
* [[成立学園中学校・高等学校]]
* [[ブックオフ|BOOK-OFF]]赤羽駅東口店
* [[国道122号]](北本通り)
|}}
=== 北改札口・西口 ===
; 南口(西側)含む
[[1980年代]]から[[1990年代]]にかけての[[都市再開発|再開発]]([[パルロード赤羽]]を参照)によって、駅前には大型[[スーパーマーケット|スーパー]]や[[マンション]]が建ち並んでいる。そこを通り抜けると周囲は[[住宅地]]となっており、周辺が[[丘陵]]地帯であることもあって、大きな道路や商業施設は存在しない。北側一帯の丘陵地には[[赤羽台団地]]が広がっており、その下を駅前からの道路が赤羽台トンネルで貫通し、[[北赤羽駅]]方面と連絡している。
{{columns-list|2|
* パルロード1(アピレ)
* パルロード2(ビビオ)
* パルロード3(イトーヨーカドー 赤羽店)
* 赤羽駅前[[郵便局]]
* [[学校法人星美学園|星美学園]][[星美学園短期大学|短期大学]]・[[星美学園中学校・高等学校|高等学校・中学校]]・[[星美学園小学校|小学校]] - 真下を通る東北新幹線の建設に猛反対したことで知られる。
* [[東洋大学赤羽台キャンパス]] - 旧[[北区立赤羽台中学校]]跡を[[東洋大学京北中学高等学校|京北中学校・高等学校]]・[[京北学園白山高等学校]]の仮校舎として使用の後に建て替え。
* [[東京北医療センター]](路線バスも利用可能)
* [[国立西が丘サッカー場]]
* [[国立スポーツ科学センター]]
* [[国際興業バス赤羽営業所]]
* [[本蓮沼駅]]([[都営地下鉄三田線]])
* [[東京都立赤羽商業高等学校]]
* [[淑徳大学]](東京キャンパス)
* [[静勝寺|稲付城跡]]
|}}
== バス路線 ==
東口と西口にバスターミナルがあり、[[国際興業バス]]のほか、[[関東バス]]、[[都営バス]]の路線が発着する。2015年4月1日から運行されている[[東京国際空港|羽田空港]]行の空港連絡バスと2021年10月23日から運行の[[三井アウトレットパーク 木更津]]行の高速バスが東口9番のりばに発着するようになった。
=== 東口発着 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
1 - 4番のりばは東口駅前ロータリー内に、それ以外ののりばは駅東口からそれぞれ徒歩3 - 5分程の少々離れた場所にある。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="4" style="text-align:center;"|国際興業バス
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス鳩ヶ谷営業所#赤羽駅 - 鳩ヶ谷庁舎 - 鳩ヶ谷地区方面線|'''赤21''']]:鳩ヶ谷公団住宅|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅東口 - 荒川大橋 - 鹿浜 - 西新井駅線|'''赤23''']]:[[西新井駅]]|'''赤23-3''':[[西新井大師西駅]]}}
|{{Unbulleted list|「赤21」は深夜バスのみ発着(深夜バス以外は6番のりば発着)|「赤23-3」は深夜バスの運行あり}}
|-
!2
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス川口営業所#赤羽駅東口 → 東川口駅線(深夜バス)|'''赤13''']]:[[東川口駅]]北口|[[国際興業バス川口営業所#赤羽駅東口 - 鹿浜橋 - 舎人団地線|'''赤26''']]:舎人団地}}
|「赤13」は深夜バス
|-
!3
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス鳩ヶ谷営業所#赤羽駅 → 川口駅 → 東浦和駅線(深夜バス)|'''赤12''']]:[[東浦和駅]]|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅東口 - 江北陸橋(環七経由)- 西新井駅線|'''赤27'''・'''赤27H''']]:西新井駅|'''赤27-3''':江北陸橋下}}
|{{Unbulleted list|「赤12」は深夜バス|「赤27-3」は土休日のみ運行}}
|-
!4
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス戸田営業所#赤羽駅 - 南浦和駅線|'''赤11''']]:[[南浦和駅]]西口|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅東口 - ハートアイランド循環線|'''赤25''']]:ハートアイランド循環|'''赤25-2''':ハートアイランド東}}
|「赤11」は深夜バス
|-
!5・9
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|国際興業バス|関東バス}}
|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅東口 - 大和町 - 野方駅 - 高円寺駅線|'''赤31''']]:[[高円寺駅]]北口
|
|-
!6・8
|style="text-align:center;"|国際興業バス
|{{Unbulleted list|'''赤20''':[[川口市立医療センター]]|'''赤21''':鳩ヶ谷公団住宅}}
|{{Unbulleted list|「赤20」は日中のみ運行|「赤21」の深夜バスは1番線から発着}}
|-
!8
|style="text-align:center;"|[[岩手県交通]]
|[[岩手県交通#高速バス|'''イーハトーブ号''']]:[[紫波中央駅]]
|夜行バス
|-
!9
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[京浜急行バス]]|国際興業バス|[[東京バス]]|[[小湊鉄道]]}}
|'''空港連絡バス''':[[羽田空港]] / [[成田空港]]
|
|-
!-
|style="text-align:center;"|都営バス
|[[都営バス北営業所#王57・深夜02系統|'''王57''']]:豊島五丁目団地
|
|}
; その他
* 国際興業バス
** '''深夜急行バス''':[[東浦和駅]](降車のみ)
* 深夜バス1時10分発は始発停留所の赤羽駅東口のみ乗車可能である。その他は降車のみ扱う。
=== 西口発着 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
全て国際興業バスが運行する路線バスが発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="9" style="text-align:center;"|国際興業バス
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス志村営業所#赤羽駅 - 高島平操車場線|'''赤56''']]:高島平操車場|'''赤56-3''':中台三丁目}}
|
|-
!2
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅西口 - 桐ヶ丘高校・体育館循環線|'''赤54'''・'''赤54-1''']]:桐ヶ丘循環|'''赤54-2''':桐ケ丘高校・体育館循環|'''赤73''':[[西高島平駅]]|'''赤96''':赤羽車庫}}
|「赤73」は深夜バス
|-
!3
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅西口 - ときわ台駅線|'''赤53''']]:[[ときわ台駅 (東京都)|ときわ台駅]]|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅西口 → 浮間舟渡・戸田公園駅線(深夜バス)|'''赤71''']]:[[浮間舟渡駅]]|'''赤72''':[[戸田公園駅]]}}
|「赤71」「赤72」は深夜バス
|-
!4
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅西口 - 豊島病院 - 池袋駅線|'''赤51''']]:[[池袋駅]]東口|[[国際興業バス池袋営業所#日大病院 - 赤羽駅線|'''赤57''']]:[[日本大学医学部附属板橋病院|日大病院]]|'''赤57-2''':[[板橋本町駅|大和町]]}}
|「赤57-2」は夜間のみ運行
|-
!5
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅西口 - 東京北医療センター線|'''赤58''']]:[[東京北医療センター]]|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅西口 - 赤羽車庫線|'''赤80-2''']]:赤羽車庫}}
|
|-
!6
|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅西口 - 西が丘 - 王子駅線|'''赤50''']]:[[王子駅]]
|
|-
!7
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス志村営業所#赤羽駅 - 成増駅線|'''赤02''']]:[[成増駅]]北口|'''赤83''':志村三丁目駅|'''赤84''':[[大東文化大学]]}}
|
|-
!8
|{{Unbulleted list|[[国際興業バス練馬営業所#赤羽駅 - 平和台駅 - 練馬駅線|'''赤01''']]:[[練馬駅]]|'''赤85''':[[平和台駅 (東京都)|平和台駅]]}}
|
|-
!9<br />(坂下のりば)
|'''赤58''':東京北医療センター
|
|}
; その他
* 深夜バス1時10分発は始発停留所となる赤羽駅西口のみ乗車可能である。その他は降車専用である。
* 90年代前半までは赤02を除く西口を発着する全ての系統が坂下乗り場からの発着であった(当時の赤02は東口発着)。
== エキュート赤羽設置の経過(赤羽駅リニューアル計画) ==
[[ファイル:L25_akabane.st_heisa.jpg|thumb|工事中の「アルカード赤羽1」跡地。案内表示板は仮設のもの。]]
JR東日本では、2011年[[1月19日]]に「赤羽駅リニューアル計画」を発表した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2010/20110107.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180405214541/http://www.jreast.co.jp/press/2010/20110107.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2011年夏、赤羽駅が生まれ変わります|publisher=東日本旅客鉄道/ジェイアール東日本都市開発|date=2011-01-19|accessdate=2020-06-11|archivedate=2018-04-05}}</ref>。リニューアルはすべて北改札内であり、内容は以下の通り。
* 駅部中央に乗り換え用の新コンコースを整備し、利便性を向上させる。さらに新コンコース内に各ホームとを連絡するエスカレーターを設置する。
* 床・天井のリニューアルおよび案内サインを再配置し、分かりやすくする。
* 改札内商業施設「エキュート赤羽」(開発・運営:ジェイアール東日本都市開発)を開業し、便利で快適に利用できるようにする。
なお、この北改札内のリニューアルのため、発表以前より工事が始まっており、南改札に面した改札外商業施設「アルカード赤羽1」は2010年9月までに閉鎖された。アルカード赤羽1は建物の構造・位置関係上北改札内にあった従来の店舗と壁一つ隔てて隣接しており、新コンコースとエキュートはアルカード赤羽1の用地を転用する。また、北改札内にあった従来の店舗も同年末までに全店閉店したほか、ホーム上の一部店舗も閉鎖・撤去となった。
工事は2期に分けて実施され、2011年3月に北改札内のリニューアルとエキュート赤羽の一部先行オープンが、同年9月に乗り換えコンコースの整備・エスカレーターの設置が行われたほか、エキュート赤羽が全面オープンした。これにより、駅部中央部分が改札内扱いになるとともに、改札内店舗の面積は大幅に拡張された。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線(東北本線)・高崎線・上野東京ライン
:* 特急「[[草津・四万]]」「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」停車駅
:* 臨時特急「[[水上 (列車)|水上]]」停車駅
:: {{Color|#f68b1e|■}}快速「ラビット」「アーバン」
::: [[上野駅]] (JU 02) - '''赤羽駅 (JU 04)''' - [[浦和駅]] (JU 05)
:: {{Color|#18a629|■}}普通
::: [[尾久駅]] (JU 03) - '''赤羽駅 (JU 04)''' - 浦和駅 (JU 05)
: [[ファイル:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン
:: {{Color|#0099ff|■}}特別快速・{{Color|#f68b1e|■}}快速・{{Color|#18a629|■}}普通
::: [[池袋駅]] (JS 21) - '''赤羽駅 (JS 22)''' - 浦和駅 (JS 23)
: [[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速・{{Color|#00b2e5|■}}各駅停車
::: [[東十条駅]] (JK 37) - '''赤羽駅 (JK 38)''' - [[川口駅]] (JK 39)
: [[ファイル:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線<!-- カラーはE233系のLED発車標に準拠 -->
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速
::: [[十条駅 (東京都)|十条駅]] (JA 14) - '''赤羽駅 (JA 15)''' - [[武蔵浦和駅]] (JA 21)
:: {{Color|#0099ff|■}}快速
::: 十条駅 (JA 14) - '''赤羽駅 (JA 15)''' - [[戸田公園駅]] (JA 18)
:: {{Color|#00ac9a|■}}各駅停車
::: 十条駅 (JA 14) - '''赤羽駅 (JA 15)''' - [[北赤羽駅]] (JA 16)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"}}
=== 利用状況 ===
; JRの1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; JRの統計データ
{{Reflist|group="*"}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Akabane Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[首都圏国電暴動]]
* [[喜劇 駅前開運]] - 赤羽駅周辺の商店街が舞台のコメディ映画。[[1960年代]]後期の赤羽駅駅舎が映像に残るとともに、前述の開かずの踏切が「宝くじ踏切」としてエピソード化されている。
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=34|name=赤羽}}
* [http://www.ecute.jp/akabane/ エキュート赤羽]
* [http://beans.jrtk.jp/akabane/ ビーンズ赤羽]
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{宇都宮線|ju=1}}
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[[Category:東京都北区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|かはね]]
[[Category:日本鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
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[[Category:1885年開業の鉄道駅]]
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[[Category:1880年代日本の設立]]
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板橋駅
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板橋駅(いたばしえき)は、東京都北区滝野川七丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。駅番号はJA 13。
当駅を通る鉄道路線は、線路名称上は赤羽線であるが、運行系統上は埼京線として案内される。特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。
島式ホーム1面2線を有する地上駅。指定席券売機、自動改札機が設置されている。
2018年7月にエスカレーターの利用が開始され、旧通路が工事作業のため閉鎖された。
駅は盛土構造になっており周辺市街地を分断しているが、ホームの十条側に地下通路が、また改札外のホーム中ほどにはトンネル状の自由通路があり、駅の東西をつないでいる。
当駅は隣駅の十条駅とともに踏切が駅の近くに存在することから「通過禁止駅」に指定されている。
板橋区などの要望により、2015年(平成27年)度から駅構内のバリアフリー化に伴うエスカレーター・エレベーターの設置などの工事が開始され、2020年7月3日に「JR板橋東口ビル」が開業している(併設されるスポーツ施設「ジェクサー・フィットネス&スパ板橋」は同年10月2日開業)。なお、同ビルは当初2020年6月11日の開業が予定されていたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大防止を理由に延期されていた。
また、2019年に東口と西口の改札が統合した。以前は、改札口が分かれていたが、1つにまとまったことによって、駅構内の移動で東口と西口の行き来が可能になった。
(出典:JR東日本:駅構内図)
西口コンコースと大宮方面線路の間には、かつての貨物用側線を転用した「板橋訓練所」があり、レール、警報機、信号機が設置されていたが、上記の駅構内バリアフリー化工事のため、現在は撤去されている。池袋方面線路のさらに東側にも貨物用側線があり一部側線が残っていたが、2019年よりこの跡地を活用し埼京線車両の夜間留置などの留置線が3線設置された。これに伴い池袋方に留置線に入線するための渡り線が増設されている。2021年3月15日より相鉄12000系が回送でこの留置線に入線する。
上下線で日本電音製の発車メロディを使用している。
正式な所在地を北区内に置き、北区滝野川・板橋区板橋・豊島区上池袋の境に存在する。東口(滝野川口)が北区に、西口(板橋口)が板橋区に、ホームの大半は豊島区にある。なお、板橋区の鉄道駅では最東端および最南端の駅で、豊島区の鉄道駅では最北端の駅(ただし、板橋区は西口(板橋口)とホーム、豊島区はホームのみなので、駅の正式所在地が板橋区の場合は、都営三田線新板橋駅、豊島区は東武東上線下板橋駅)である。
開業時から旅客、貨物両用の駅であった当駅は、国有化、国鉄分割民営化後も連綿と貨物取扱が行われ、当駅を起点とした貨物列車が最盛期には1日4往復運行されていた。
当駅の池袋駅寄り東側には、住友セメント(現・住友大阪セメント)の工場(池袋包装所)があり、当駅からの引き込み線(0.3 km)を介してセメントや砕石・砂利の輸送が行われていた。また、池袋駅寄り西側には、日本食糧倉庫が、赤羽駅寄りには、紙倉庫があり、それらの専用線が設置され、それらに普通貨物列車として1日3往復運行されていた。
ホームからは、牽引機関車(EF65形など)や、当駅までの牽引及び構内入換に使用するDD13形(→DE10形)、専用線には、有蓋車や私有のセメントタンク車などの国鉄運用の貨車や、東武鉄道や西武鉄道から乗り入れる貨車などを見ることができ、ときには東武の電車を出搬入する際にも当駅を使用していたことがあった。
1984年2月のダイヤ改正以降、国鉄の貨物輸送システム再構成による、直行列車体系の再編成などから、板橋駅への貨物列車が、セメント輸送と砕石・砂利輸送のみとなったため、普通貨物列車は廃止された。砕石・砂利輸送は、東武鉄道向けと西武鉄道向けから、後年は初狩駅へのトキ25000形が専用列車として運行された。その後、当駅の貨物列車はセメント輸送だけが残り、東武会沢線上白石駅にあった住友セメント栃木工場からのタキ1900形のセメント専用貨物列車が1日1往復のみ運行されていたが、1996年3月16日に運行を終了した。
折しも、隣の池袋駅では列車増発のための線形改良事業が構想されていたが、貨物列車の運転終了により同線の勾配に関する制約が緩和されたことから、当初は池袋駅の南側で当線と山手貨物線が立体交差する構想を、同駅の北側で交差する構造に変更した。この事業の完了に伴い、両線の平面交差支障解消および、埼京線と湘南新宿ラインの同一方向同一ホーム化が実現した。
貨物列車が発着していた2番線隣接部は、貨物取扱廃止後に一部のレールが撤去されたが、側線の一部やクロッシングポイントの一部、入換用の表示機など設備の一部が残されていた(2012年2月時点)。この跡地が電留線として活用されることになる。これは品川駅改良工事に伴うもので、同駅の山手線電留線を廃止し、電留線を利用していた山手線車両の一部は池袋駅の電留線(池袋運輸区)を使用することになった。このため本来池袋駅電留線に留置されていた埼京線・川越線車両のための留置線が必要となり、池袋駅から近く土地が空いていた板橋駅の貨物取扱跡地が活用されたものである。この電留線は先述の品川駅電留線廃止に伴い、2019年3月ダイヤ改正から使用が開始された。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は30,118人である。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
JR貨物の貨物取扱停止までの推移は下記の通り。
板橋駅板橋口地区第一種市街地再開発事業(板橋駅西口とその周辺の再開発事業)が2019年に東京都により認可され、進められている。
|
[
{
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"text": "板橋駅(いたばしえき)は、東京都北区滝野川七丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。駅番号はJA 13。",
"title": null
},
{
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"tag": "p",
"text": "当駅を通る鉄道路線は、線路名称上は赤羽線であるが、運行系統上は埼京線として案内される。特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。",
"title": null
},
{
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"tag": "p",
"text": "島式ホーム1面2線を有する地上駅。指定席券売機、自動改札機が設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "2018年7月にエスカレーターの利用が開始され、旧通路が工事作業のため閉鎖された。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "駅は盛土構造になっており周辺市街地を分断しているが、ホームの十条側に地下通路が、また改札外のホーム中ほどにはトンネル状の自由通路があり、駅の東西をつないでいる。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "当駅は隣駅の十条駅とともに踏切が駅の近くに存在することから「通過禁止駅」に指定されている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "板橋区などの要望により、2015年(平成27年)度から駅構内のバリアフリー化に伴うエスカレーター・エレベーターの設置などの工事が開始され、2020年7月3日に「JR板橋東口ビル」が開業している(併設されるスポーツ施設「ジェクサー・フィットネス&スパ板橋」は同年10月2日開業)。なお、同ビルは当初2020年6月11日の開業が予定されていたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大防止を理由に延期されていた。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、2019年に東口と西口の改札が統合した。以前は、改札口が分かれていたが、1つにまとまったことによって、駅構内の移動で東口と西口の行き来が可能になった。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "西口コンコースと大宮方面線路の間には、かつての貨物用側線を転用した「板橋訓練所」があり、レール、警報機、信号機が設置されていたが、上記の駅構内バリアフリー化工事のため、現在は撤去されている。池袋方面線路のさらに東側にも貨物用側線があり一部側線が残っていたが、2019年よりこの跡地を活用し埼京線車両の夜間留置などの留置線が3線設置された。これに伴い池袋方に留置線に入線するための渡り線が増設されている。2021年3月15日より相鉄12000系が回送でこの留置線に入線する。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "上下線で日本電音製の発車メロディを使用している。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "正式な所在地を北区内に置き、北区滝野川・板橋区板橋・豊島区上池袋の境に存在する。東口(滝野川口)が北区に、西口(板橋口)が板橋区に、ホームの大半は豊島区にある。なお、板橋区の鉄道駅では最東端および最南端の駅で、豊島区の鉄道駅では最北端の駅(ただし、板橋区は西口(板橋口)とホーム、豊島区はホームのみなので、駅の正式所在地が板橋区の場合は、都営三田線新板橋駅、豊島区は東武東上線下板橋駅)である。",
"title": "地理"
},
{
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"tag": "p",
"text": "開業時から旅客、貨物両用の駅であった当駅は、国有化、国鉄分割民営化後も連綿と貨物取扱が行われ、当駅を起点とした貨物列車が最盛期には1日4往復運行されていた。",
"title": "貨物取扱"
},
{
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"tag": "p",
"text": "当駅の池袋駅寄り東側には、住友セメント(現・住友大阪セメント)の工場(池袋包装所)があり、当駅からの引き込み線(0.3 km)を介してセメントや砕石・砂利の輸送が行われていた。また、池袋駅寄り西側には、日本食糧倉庫が、赤羽駅寄りには、紙倉庫があり、それらの専用線が設置され、それらに普通貨物列車として1日3往復運行されていた。",
"title": "貨物取扱"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ホームからは、牽引機関車(EF65形など)や、当駅までの牽引及び構内入換に使用するDD13形(→DE10形)、専用線には、有蓋車や私有のセメントタンク車などの国鉄運用の貨車や、東武鉄道や西武鉄道から乗り入れる貨車などを見ることができ、ときには東武の電車を出搬入する際にも当駅を使用していたことがあった。",
"title": "貨物取扱"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1984年2月のダイヤ改正以降、国鉄の貨物輸送システム再構成による、直行列車体系の再編成などから、板橋駅への貨物列車が、セメント輸送と砕石・砂利輸送のみとなったため、普通貨物列車は廃止された。砕石・砂利輸送は、東武鉄道向けと西武鉄道向けから、後年は初狩駅へのトキ25000形が専用列車として運行された。その後、当駅の貨物列車はセメント輸送だけが残り、東武会沢線上白石駅にあった住友セメント栃木工場からのタキ1900形のセメント専用貨物列車が1日1往復のみ運行されていたが、1996年3月16日に運行を終了した。",
"title": "貨物取扱"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "折しも、隣の池袋駅では列車増発のための線形改良事業が構想されていたが、貨物列車の運転終了により同線の勾配に関する制約が緩和されたことから、当初は池袋駅の南側で当線と山手貨物線が立体交差する構想を、同駅の北側で交差する構造に変更した。この事業の完了に伴い、両線の平面交差支障解消および、埼京線と湘南新宿ラインの同一方向同一ホーム化が実現した。",
"title": "貨物取扱"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "貨物列車が発着していた2番線隣接部は、貨物取扱廃止後に一部のレールが撤去されたが、側線の一部やクロッシングポイントの一部、入換用の表示機など設備の一部が残されていた(2012年2月時点)。この跡地が電留線として活用されることになる。これは品川駅改良工事に伴うもので、同駅の山手線電留線を廃止し、電留線を利用していた山手線車両の一部は池袋駅の電留線(池袋運輸区)を使用することになった。このため本来池袋駅電留線に留置されていた埼京線・川越線車両のための留置線が必要となり、池袋駅から近く土地が空いていた板橋駅の貨物取扱跡地が活用されたものである。この電留線は先述の品川駅電留線廃止に伴い、2019年3月ダイヤ改正から使用が開始された。",
"title": "貨物取扱"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は30,118人である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
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"text": "JR貨物の貨物取扱停止までの推移は下記の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
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"text": "板橋駅板橋口地区第一種市街地再開発事業(板橋駅西口とその周辺の再開発事業)が2019年に東京都により認可され、進められている。",
"title": "駅周辺"
}
] |
板橋駅(いたばしえき)は、東京都北区滝野川七丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。駅番号はJA 13。 当駅を通る鉄道路線は、線路名称上は赤羽線であるが、運行系統上は埼京線として案内される。特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。
|
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 板橋駅
|画像 = Itabashi-east-station-building2020-09.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 滝野川口駅舎(2020年9月)
|地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300
|marker=rail|marker2=rail-metro
|coord={{coord|35|44|45.7|N|139|43|10.3|E}}|title=板橋駅
|coord2={{coord|35|44|55.6|N|139|43|10.6|E}}|title2=新板橋駅
|marker-color=008000|marker-color2=006ab8
|frame-latitude=35.747490|frame-longitude=139.719814
}}上は新板橋駅
|よみがな = いたばし
|ローマ字 = Itabashi
|前の駅 = JA 12 [[池袋駅|池袋]]
|駅間A = 1.8
|駅間B = 1.7
|次の駅 = [[十条駅 (東京都)|十条]] JA 14
|電報略号 = イハ
|駅番号 = {{駅番号r|JA|13|#00ac9a|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#00ac9a|■}}[[埼京線]]<br />(線路名称上は[[赤羽線]])<ref group="※">1972年7月までは、線路名称上は[[山手線]]。</ref>
|キロ程 = 1.8 km([[池袋駅|池袋]]起点)<br />[[大崎駅|大崎]]から15.2
|起点駅 =
|所在地 = [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[滝野川 (東京都北区)|滝野川]]七丁目4-1{{refnest|group="※"|正式な所在地で、東口(滝野川口)と同じ<ref name="所在地">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=132 |title=駅の情報(板橋駅)基本情報 |accessdate=2021-02-18|publisher=東日本旅客鉄道 |language=日本語}}</ref>。以前は、東京都[[板橋区]][[板橋 (板橋区)|板橋]]一丁目15-1で、西口(板橋口)の住所であった。ホームの北側は板橋区板橋がほとんどで、北区滝野川は少しかすめる程度、南側は[[豊島区]][[上池袋]]四丁目にまたがる<ref name="所在地 Googleマップ">{{Cite web|和書|url=https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%9D%BF%E6%A9%8B%E9%A7%85/@35.7455765,139.7198585,20.5z/data=!3m1!5s0x6018929c7e1cb933:0x6b51f25db49d1fb1!4m5!3m4!1s0x6018929b7b6917b9:0x56db92b9d31bfa16!8m2!3d35.7455637!4d139.7200238?hl=ja |title=Googleマップ 板橋駅 |accessdate=2021-02-18|publisher=Google |language=日本語}}</ref><ref name="超詳細地図">{{Cite book|和書|editor=成美堂出版編集部 |others=風早健史(発行者) |title=東京超詳細地図 |chapter=王子 |edition=ポケット版 |publisher=成美堂出版 |volume=2013年度版|pages=278 -279}}</ref>。}}
|座標 = {{coord|35|44|45.7|N|139|43|10.3|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = {{Nowrap|[[1885年]]([[明治]]18年)[[3月1日]]}}
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 30,118
|統計年度 = 2022年
|乗換 = {{駅番号r|I|17|#006ab8|4}} [[新板橋駅]]<ref name="transfer">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200512081618/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=●JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-05-12|accessdate=2020-07-26|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref><br/>([[都営地下鉄三田線]])<ref group="※">運輸連絡は都営地下鉄のみの片側接続であり、JRは接続をとっていない。</ref>
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]
* [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="※"}}
}}
'''板橋駅'''(いたばしえき)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[滝野川 (東京都北区)|滝野川]]七丁目{{Refnest|group="注釈"|駅事務室の所在地。大部分は[[板橋区]][[板橋 (板橋区)|板橋]]一丁目、[[豊島区]][[上池袋]]四丁目にまたがる<ref name="所在地 Googleマップ" /><ref name="超詳細地図" />。}}にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]<ref name="所在地" />である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JA 13'''。
当駅を通る[[鉄道路線]]は、線路名称上は[[赤羽線]]であるが、運行系統上は[[埼京線]]として案内される。[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属する。<!-- ここまでの記述の仕方については[[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/営業案内路線名と異なる表記について]]で議論中です。 -->
== 歴史 ==
* [[1885年]]([[明治]]18年)[[3月1日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業し、同時に貨物の取り扱いを開始する。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:[[鉄道国有法]]により国有化。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により[[山手線]]の所属となる。
* [[1949年]]([[昭和]]24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足。
* [[1972年]](昭和47年)[[7月15日]]:赤羽線所属の駅となる。
* [[1985年]](昭和60年)[[9月30日]]:埼京線の運行を開始する。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)及び[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の駅(赤羽線所属)となる。
* [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月16日]]:[[貨物列車]]の設定が廃止される。
* [[1999年]](平成11年)4月1日:日本貨物鉄道(JR貨物)の駅が廃止される。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)度:駅構内[[バリアフリー]]化工事開始。
* [[2016年]](平成28年)[[6月30日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。
* [[2017年]](平成29年)度:板橋駅バリアフリー化工事完了<ref name="Itabashi HP">[https://web.archive.org/web/20171213010233/http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/086/attached/attach_86291_3.pdf 第一回板橋駅西口周辺地区まちづくり勉強会資料] - 板橋区HPより</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[8月6日]]:「板橋駅板橋口一体開発事業」の共同施行予定者を[[野村不動産]]に決定<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20180806_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181215051255/http://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20180806_t01.pdf|title=「板橋駅板橋口一体開発事業」の共同施行予定者を 野村不動産株式会社に決定し、事業を推進していきます|format=PDF|language=日本語|date=2018-08-06|archivedate=2018-12-15|accessdate=2021-02-13|publisher=東日本旅客鉄道東京支社}}</ref>。
** 年度内:[[駅舎]]整備完了(駅事務施設使用開始)<ref name="Itabashi HP" />。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** [[2月24日]]:東口と西口の改札が統合<ref name="2018-12-13">{{Cite web|和書|url=http://jreu-t.jp/relays/download/106/510/2035/3405/?file=/files/libs/3405//201812141040484178.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成30年度営業関係施策(その2)について提案を受ける|publisher=JR東労組東京地本|date=2018-12-13|accessdate=2020-01-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200128083755/http://jreu-t.jp/relays/download/106/510/2035/3405/?file=/files/libs/3405//201812141040484178.pdf|archivedate=2020-01-28}}</ref>。東西自由通路の供用開始<ref name="2018-12-13"/>。
** [[8月22日]]:東京都都市整備局より板橋駅板橋口地区第一種市街地再開発事業の施行を認可<ref name="東京都都市整備局" group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2019/08/22/03.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200627083543/https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2019/08/22/03.html|language=日本語|title=板橋駅板橋口地区第一種市街地再開発事業の施行を認可します |publisher=東京都都市整備局|date=2019-08-22|accessdate=2020-06-27|archivedate=2020-06-27}}</ref><ref name="JREast press release" group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190826_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190826073346/https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190826_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「板橋駅板橋口地区第一種市街地再開発事業」施行認可のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道東京支社/野村不動産|date=2019-08-26|archivedate=2019-08-26|accessdate=2021-02-13}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)[[7月3日]]:東口に「JR板橋東口ビル」が開業<ref name="press/20200619_to01" group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200619_to01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200619060458/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200619_to01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「JR板橋東口ビル」開業のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道東京支社/JR東日本スポーツ|date=2020-06-19|accessdate=2020-06-19|archivedate=2020-06-19}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。[[指定席券売機]]、[[自動改札機]]が設置されている。
2018年7月に[[エスカレーター]]の利用が開始され、旧通路が工事作業のため閉鎖された。
駅は盛土構造になっており周辺市街地を分断しているが、ホームの[[十条駅 (東京都)|十条]]側に地下通路が、また改札外のホーム中ほどには[[トンネル]]状の[[通路#自由通路|自由通路]]があり、駅の東西をつないでいる。
当駅は隣駅の[[十条駅 (東京都)|十条駅]]とともに踏切が駅の近くに存在することから「通過禁止駅」に指定されている{{要出典|date=2019年11月}}。
板橋区などの要望<ref>(板橋区からは[[2014年]](平成26年)12月15日に、JR板橋駅のバリアフリー化を求める要望書が提出)[http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/066/066213.html JR板橋駅のバリアフリー化を求める要望書] - 板橋区HPより 2017年12月12日閲覧</ref>により、2015年(平成27年)度から駅構内のバリアフリー化に伴うエスカレーター・[[エレベーター]]の設置などの工事が開始され<ref>[http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/064/attached/attach_64454_1.pdf 「JR板橋駅エレベーター等早期設置に関する請願」に関する資料] - 板橋区HP 都市建設委員会資料</ref>、2020年7月3日に「'''JR板橋東口ビル'''」が開業している(併設されるスポーツ施設「ジェクサー・フィットネス&スパ板橋」は同年10月2日開業)<ref name="press/20200619_to01" group="報道" />。なお、同ビルは当初2020年6月11日の開業が予定されていた<ref group="報道" name="press/20200130_to01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20200130_to01.pdf|title=JR板橋駅直結「JR板橋東口ビル」が開業します! ~2020年6月11日(木)開業~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社/JR東日本スポーツ|date=2020-01-30|accessdate=2020-01-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200130050719/https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20200130_to01.pdf|archivedate=2020-01-30}}</ref>が、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の拡大防止を理由に延期されていた<ref group="報道" name="press/20200515_to02">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200515_to02.pdf|title=「JR板橋東口ビル」開業延期のお知らせ|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社/JR東日本スポーツ|date=2020-05-15|accessdate=2020-05-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200515050812/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200515_to02.pdf|archivedate=2020-05-15}}</ref>。
また、2019年に東口と西口の改札が統合した。以前は、改札口が分かれていたが、1つにまとまったことによって、駅構内の移動で東口と西口の行き来が可能になった。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
! rowspan="2" |1
| rowspan="4" |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線
| style="text-align:center"|北行
| rowspan="2" |[[赤羽駅|赤羽]]・[[武蔵浦和駅|武蔵浦和]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[川越駅|川越]]方面
|-
| style="text-align:center"|下り
|-
! rowspan="2" |2
| style="text-align:center" |南行
| rowspan="2" |[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]・[[大崎駅|大崎]]・[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]方面
|-
| style="text-align:center"|上り
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/132.html JR東日本:駅構内図])
西口[[コンコース]]と大宮方面線路の間には、かつての貨物用[[側線]]を転用した「板橋訓練所」があり、レール、警報機、信号機が設置されていたが、上記の駅構内バリアフリー化工事のため、現在は撤去されている。池袋方面線路のさらに東側にも貨物用側線があり一部側線が残っていたが、2019年よりこの跡地を活用し埼京線車両の[[夜間滞泊|夜間留置]]などの[[留置線]]が3線設置された。これに伴い池袋方に留置線に入線するための[[渡り線]]が増設されている。[[2021年]][[3月15日]]より[[相鉄12000系電車|相鉄12000系]]が回送でこの留置線に入線する<ref name="RF722_145">{{Cite journal|和書|author=上田雄介|date=2021-06-01|title=POST 相鉄12000系、池袋まで運転開始|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]2021年6月号(特集:気になる国鉄・JR形)|volume=61|issue=第6号(通巻722号)|page=145|oclc=61102288|publisher=[[交友社]]}}</ref>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Itabashi-STA Gate.jpg|改札口(2021年5月)
JR East Itabashi Station Ticket Counter.jpg|切符売り場(2023年1月)
JR East Itabashi Station Platform 20230204.jpg|ホーム(2023年2月)
Itabashi Station pw sidings 20130331.JPG|かつて駅南西にあった貨物用設備跡(2013年3月)
Itabashi station east-exit.jpg|旧滝野川口駅舎(2007年2月)
Itabashi station west-exit.jpg|旧板橋口駅舎(2007年2月)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
上下線で[[日本電音]]製の発車メロディを使用している。
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
!1
|[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JK]]
|せせらぎ
|-
!2
|[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JK]]
|高原
|}
== 地理 ==
正式な所在地を北区内<ref name="所在地" />に置き<ref group="注釈">以前の正式な所在地は板橋区板橋一丁目15-1で、板橋区唯一のJRの駅であったが、2018年よりホーム下に移動した駅事務室(駅長室)が現住所のため、そこに変更した模様。なお、2019年2月24日に東口と西口の改札が統合、ホーム下の現在地に移動した。</ref>、北区滝野川・板橋区板橋・豊島区上池袋の境に存在する。東口(滝野川口)が北区に、西口(板橋口)が板橋区に、ホームの大半は豊島区にある<ref name="所在地 Googleマップ" /><ref name="超詳細地図" />。なお、板橋区の鉄道駅では最東端および最南端の駅で、豊島区の鉄道駅では最北端の駅(ただし、板橋区は西口(板橋口)とホーム、豊島区はホームのみなので、駅の正式所在地が板橋区の場合は、[[都営地下鉄三田線|都営三田線]][[新板橋駅]]、豊島区は[[東武東上本線|東武東上線]][[下板橋駅]]<ref name="所在地 Googleマップ" /><ref name="超詳細地図" />{{refnest|group="注釈"|豊島区は、板橋駅の上池袋四丁目よりさらに北東に西巣鴨四丁目があり、そこが豊島区の最北端で[[都電荒川線]][[西ヶ原四丁目停留場]]が付近にあるが、当停留場の正式な所在地は、東京都北区西ケ原四丁目で、豊島区の駅ではない。なお区界は、三ノ輪橋方面行きホームの後ろにある<ref name="所在地 Googleマップ" /><ref name="超詳細地図" />。}})である。
== 貨物取扱 ==
{{See also|赤羽線#貨物輸送}}
開業時から旅客、貨物両用の駅であった当駅は、国有化、国鉄分割民営化後も連綿と貨物取扱が行われ、当駅を起点とした貨物列車が最盛期には1日4往復運行されていた<ref name="RP臨増2012 64">{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=[[鉄道ピクトリアル]]2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|page= 64 |publisher=電気車研究会}}</ref>。
当駅の池袋駅寄り東側には、住友セメント(現・[[住友大阪セメント]])の工場(池袋包装所)があり、当駅からの引き込み線(0.3 km)を介して[[セメント]]や[[砕石]]・[[砂利]]の輸送が行われていた。また、池袋駅寄り西側には、日本食糧倉庫が、赤羽駅寄りには、紙倉庫があり、それらの[[専用線]]が設置され、それらに普通貨物列車として1日3往復運行されていた<ref name="RP臨増2012">{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|pages= 68 - 69 |publisher=電気車研究会}}</ref>。
ホームからは、牽引機関車([[国鉄EF65形電気機関車|EF65形]]など)や、当駅までの牽引及び構内入換に使用する[[国鉄DD13形ディーゼル機関車|DD13形]](→[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形]])、専用線には、[[有蓋車]]や私有のセメントタンク車などの国鉄運用の貨車や、[[東武鉄道]]や[[西武鉄道]]から乗り入れる貨車<ref group="注釈">東武車はトキ1形無蓋車、西武車は同社保有トム形など。</ref>などを見ることができ、ときには東武の電車を出搬入する際にも当駅を使用していたことがあった。
1984年2月のダイヤ改正以降、国鉄の貨物輸送システム再構成による、直行列車体系の再編成などから、板橋駅への貨物列車が、セメント輸送と砕石・砂利輸送のみとなったため、普通貨物列車は廃止された<ref name="jt66">{{Cite journal|和書|author=富田松雄 |year=2017 |month=7 |title= 一般貨物列車&支線貨物廃止の一連 データで見る昭和50年代 首都圏貨物列車 |journal=j train Vor.66 2017 Summer 特集 貨物牽引機2017 現代×昭和 貨物列車事情 |issue=通巻66号 |pages= 77 - 85 |publisher=イカロス出版}}</ref>。砕石・砂利輸送は、東武鉄道向けと西武鉄道向け<ref group="注釈">東武向けは、東武会沢線上白石駅から[[北千住駅]]、後年は[[久喜駅]](国鉄側は[[東鷲宮駅]]まで)を通じて運行され、西武向けは、[[西武池袋線]][[吾野駅]]および[[西武秩父線]][[東横瀬駅]](現・廃止)からの直通で、1976年までは池袋駅経由で、それ以降は[[新秋津駅]] - [[所沢駅]]間の[[連絡線]]経由で運行されていた。東武車は1991年11月25日に上白石駅への砕石輸送が廃止されるまで、西武車は発着駅が[[中央本線]][[酒折駅]]となったことで消滅した。</ref>から、後年は[[初狩駅]]への[[国鉄トキ25000形貨車|トキ25000形]]が専用列車として運行された<ref name="RP臨増2012 69">{{Cite journal|和書|author=渡辺一策 |year=2012 |month=5 |title=山手線と貨物輸送|journal=鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌|page= 69 |publisher=電気車研究会}}</ref>。その後、当駅の貨物列車はセメント輸送だけが残り、[[東武会沢線]]上白石駅にあった住友セメント栃木工場からの[[国鉄タキ1900形貨車|タキ1900形]]のセメント専用貨物列車が1日1往復のみ運行されていた<ref name="RP臨増2012 69" />が、1996年3月16日に運行を終了した<ref name="RP894 13">{{Cite journal|和書|author=今田保 |year=2014 |month=9 |title=山手貨物線の歴史|journal=鉄道ピクトリアル 【特集】山手貨物線 |page= 13|publisher=電気車研究会}}</ref>。
折しも、隣の[[池袋駅]]では列車増発のための線形改良事業が構想されていたが、貨物列車の運転終了により同線の勾配に関する制約が緩和された<ref group="注釈">貨物列車が走行する路線は一般的に、旅客列車のみ走行する路線よりも条件が厳しい。</ref>ことから、当初は池袋駅の南側で当線と[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]が立体交差する構想を、同駅の北側で交差する構造に変更した。この事業の完了に伴い、両線の平面交差支障解消および、埼京線と湘南新宿ラインの同一方向同一ホーム化が実現した。
{{Main2|池袋駅の[[線形 (路線)|線形]]改良の詳細|池袋駅#日本鉄道・国鉄・JR線ホームの変遷}}
貨物列車が発着していた2番線隣接部は、貨物取扱廃止後に一部のレールが撤去されたが、側線の一部やクロッシングポイントの一部、入換用の表示機など設備の一部が残されていた(2012年2月時点)。この跡地が[[留置線|電留線]]として活用されることになる。これは[[品川駅]]改良工事に伴うもので、同駅の山手線電留線を廃止し、電留線を利用していた山手線車両の一部は池袋駅の電留線([[池袋運輸区]])を使用することになった。このため本来池袋駅電留線に留置されていた埼京線・川越線車両のための留置線が必要となり、池袋駅から近く土地が空いていた板橋駅の貨物取扱跡地が活用されたものである。この電留線は先述の品川駅電留線廃止に伴い、2019年3月ダイヤ改正から使用が開始された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181213.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191022122217/https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181213.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年3月ダイヤ改正について|page=8|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-12-14|accessdate=2020-04-08|archivedate=2019-10-22}}</ref>。
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''30,118人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_categories/index01001006.html 板橋区の統計] - 板橋区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|25,786
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|26,254
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|26,992
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|27,504
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|27,258
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|27,227
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|28,400
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|28,577
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|28,452
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|28,418
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>28,522
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>28,798
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>28,965
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>29,424
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>29,154
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref> 29,348
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>29,452
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>29,803
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>29,724
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>29,521
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>29,871
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>30,168
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>30,973
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>31,891
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>32,081
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>33,056
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>33,522
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>33,958
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>34,455
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>33,710
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>25,224
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>27,524
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>30,118
|
|}
JR貨物の貨物取扱停止までの推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
!rowspan=2|年度
!colspan=2|総数
!colspan=2|車扱貨物
!colspan=2|コンテナ貨物
!rowspan=2|出典
|-
!発送トン数!!到着トン数!!発送トン数!!到着トン数!!発送トン数!!到着トン数
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|7,744
|221,975
|7,744
|221,975
|0
|0
|<ref>第42回東京都統計年鑑 222ページ</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|6,956
|177,248
|6,956
|177,248
|0
|0
|<ref>第43回東京都統計年鑑 228ページ</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|7,644
|148,762
|7,644
|148,762
|0
|0
|<ref>第44回東京都統計年鑑 222ページ</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|6,812
|134,892
|6,812
|134,892
|0
|0
|<ref>第45回東京都統計年鑑 232ページ</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|6,260
|137,024
|6,260
|137,024
|0
|0
|<ref>第46回東京都統計年鑑 218ページ</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|5,536
|116,319
|5,536
|116,319
|0
|0
|<ref>第47回東京都統計年鑑 236ページ</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|0
|0
|0
|0
|0
|0
|<ref>第48回東京都統計年鑑 252ページ</ref>
|}
== 駅周辺 ==
板橋駅板橋口地区第一種市街地再開発事業(板橋駅西口とその周辺の再開発事業)が2019年に東京都により認可され、進められている<ref name="東京都都市整備局" group="報道" /><ref name="JREast press release" group="報道" />。
{{columns-list|2|
* [[新板橋駅]]([[都営地下鉄三田線|都営三田線]])
* [[下板橋駅]]([[東武東上本線|東武東上線]])
* 旧[[中山道]]
* 中山道
* [[近藤勇]]・[[土方歳三]]の墓所 - 東口(徒歩1分)にある。
* [[東京都立北園高等学校]]
* [[東京共育学園高等部]]
* [[東京国際フランス学園]]
* [[北区立滝野川紅葉中学校]]
* 谷端川児童遊園 - 1962年に[[暗渠]]化された旧[[谷端川]]流路上に整備された遊歩道公園。「一の橋」と記された石造り[[欄干]]が遺されている。池袋方面からの「下り谷」を流れてくる支流と、この橋の付近で合流していた。地名における“袋”は、川と川の合流点を指すことが多い用語であるため、旧池袋村と旧板橋町[[大字]]瀧野川の境に相当する板橋駅南西側の一帯(板橋1丁目および豊島区池袋本町4丁目付近)を[[池袋]]の地名の由来とする説がある<ref group="注釈">NHK総合テレビ「[[ブラタモリ]] 池袋・巣鴨」2011年1月27日放送。他に、豊島区西池袋1丁目の元池袋史跡公園内にかつて存在していた「[[丸池 (豊島区)|丸池]]」を池袋の由来とする説もある。</ref>。
* [[国際興業バス]]「板橋駅」停留所([[国際興業バス池袋営業所#王子駅 - 板橋駅線|王22]]:[[王子駅]]方面)
|}}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車
::: [[池袋駅]] (JA 12) - '''板橋駅 (JA 13)''' - [[十条駅 (東京都)|十条駅]] (JA 14)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|2}}
=== 利用状況 ===
; JRの1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; JRの統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Itabashi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[赤羽線]]
* [[板橋駅 (曖昧さ回避)]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=132|name=板橋}}
{{埼京線}}
{{DEFAULTSORT:いたはし}}
{{代表的なトピック}}
[[Category:東京都北区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 い|たはし]]
[[Category:日本鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本貨物鉄道の廃駅]]
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[[Category:1885年開業の鉄道駅]]
[[Category:1880年代日本の設立]]
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11,199 |
智顗
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智顗(ちぎ、拼音: zhì-yǐ、大同4年(538年) - 開皇17年(597年)11月24日(新暦598年1月7日))は、中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶。天台教学の大成者であり、天台宗の開祖であるが、慧文、慧思に次いで第三祖ともされている(龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。天台大師、智者大師ともいう。
光大2年(568年)から7年間、金陵瓦官寺で『法華経』や『大智度論』を講義。
その有名な五時八教の教相判釈は日本の仏教受容に大きな影響を与えた。仏典をすべて釈迦の説いたものとし、50年の間、最初に華厳経を説き、最後の8年の間に法華経、涅槃経を説いたとする説は史実とは異なってはいるものの、中国、および日本の大乗仏教に大きな影響を与えたものとして看過できない意義を持つ。
など。
智顗の忌日に行われる法会を霜月会といい、途絶えていたものを天海が復興させた。
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智顗は、中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶。天台教学の大成者であり、天台宗の開祖であるが、慧文、慧思に次いで第三祖ともされている(龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。天台大師、智者大師ともいう。
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{{Infobox Buddhist
|名前=智顗
|生没年=[[538年]] - [[598年]][[1月7日]]
|諡号=
|尊称=智者大師
|生地=[[荊州]][[潜江市|華容県]]
|没地=西門石城寺
|画像=[[ファイル:TiantaiPatriarch.jpg]]
|説明文=
|宗派=[[天台宗#歴史|天台宗(中国)]]
|宗旨=
|寺院=[[天台山]]修禪寺(後の国清寺)
|師=[[慧思|南嶽慧思]]
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|著作=『維摩經玄疏』、『四教義』<br/>(以下は、章安灌頂による筆録)<br/>「[[天台五小部]]」・「[[天台三大部]]」
|廟=
}}
'''智顗'''(ちぎ、{{ピン音|zhì-yǐ}}、[[大同 (梁)|大同]]4年([[538年]]) - [[開皇]]17年(597年)[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]([[598年|新暦598年]][[1月7日]]))は、[[中国]]の[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]から[[隋]]にかけての[[僧|僧侶]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}。天台教学の大成者であり{{refnest|name="ブリタニカ国際大百科事典"|[https://kotobank.jp/word/%E6%99%BA%E9%A1%97-95925#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「智顗」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]}}、[[天台宗]]の開祖であるが{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}、[[慧文]]、[[慧思]]に次いで第三祖ともされている([[龍樹]]を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)<ref name="kb">[[南直哉 (禅僧)|南直哉]] 『賭ける仏教』 春秋社、2011年7月、256頁。</ref>。'''天台大師'''、'''智者大師'''ともいう{{refnest|name="日本大百科全書"|[https://kotobank.jp/word/%E6%99%BA%E9%A1%97-95925#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「智顗」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]}}{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}。
== 事績 ==
[[光大]]2年(568年)から7年間、[[南京市|金陵]][[瓦官寺]]で『[[法華経]]』や『[[大智度論]]』を講義<ref name="kb" />{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}。
その有名な五時八教の[[教相判釈]]は日本の仏教受容に大きな影響を与えた。仏典をすべて釈迦の説いたものとし、50年の間、最初に華厳経を説き、最後の8年の間に法華経、涅槃経を説いたとする説は中国、および日本の天台宗の系譜にある宗派において信奉され、大きな影響を与えた。この考え方は近代[[仏教学]]で否定されたものの、現在でも信奉する宗派もあり看過できない意義を持つ。
== 著書 ==
=== 天台三大部 ===
* 法華玄義{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
* [[法華文句]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
* [[摩訶止観]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
=== 天台五小部 ===
* [[観音玄義]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
* [[観音義疏]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
* 金光明経玄義{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
* 金光明経文句{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
* 観経疏{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
=== その他 ===
* 維摩経玄疏{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
* 維摩経文疏{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
など{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}。
== 霜月会 ==
智{{JIS2004フォント|顗}}の忌日に行われる法会を霜月会といい、途絶えていたものを[[天海]]が復興させた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tnm.jp/common/fckeditor/editor/filemanager/connectors/php/transfer.php?file=/exhibition/201110/uid000067_32303131313031326B616E65696A692E706466 |title=東叡山寛永寺 |publisher=[[東京国立博物館]] |accessdate=2019-10-28}}</ref>。
== 関連文献 ==
<!-- 当記事の出典として実際に用いた文献を挙げる際には、この節ではなく、「参考文献」という名前の節に記入してください。 -->
=== 著書の訳・注解 ===
*;法華玄義
**[[菅野博史]]訳注 『法華玄義』(全3巻)、[[第三文明社]]・選書判、新装版2016年
**菅野博史訳注 『現代語訳 法華玄義』(上下)、「東哲叢書」[[東洋哲学研究所]]、2018-2019年
**菅野博史訳注 『[[新国訳大蔵経]]中国撰述部 法華・天台部 法華玄義』(全3巻)、[[大蔵出版]]、2011-2018年
**[[多田孝正]]注・解説 『法華玄義 〈佛典講座26〉』 [[大蔵出版]]、1985年、新装版2002年
*;法華文句
**菅野博史訳注 『法華文句』(全4巻)、第三文明社・選書判、新装版2016-2017年
*;摩訶止観
**[[関口真大|関口眞大]]校注 『[[摩訶止観]]』 [[岩波文庫]](上・下)、新版刊
**[[村中祐生]]訳注 『摩訶止観 〈大乗仏典 中国・日本篇6〉』 [[中央公論新社|中央公論社]] - 抜粋での現代語訳
**菅野博史訳注 『摩訶止観』(全4巻)、第三文明社・選書判、2022年-刊行中
**菅野博史訳注 『一念三千とは何か 摩訶止観-正修止観章』 第三文明社・選書判、新装版2017年 - 抜粋での現代語訳
**新田雅章注・解説 『摩訶[[止観]] 〈佛典講座25〉』 大蔵出版、1989年、新装版2002年
*;天台小止観
**関口眞大校注 『[[天台小止観]]』 岩波文庫、新版刊
**関口眞大訳注 『現代語訳 天台小止観』 [[大東出版社]]、新版刊
=== 資料・伝記 ===
<!-- 当記事の出典として実際に用いた文献を挙げる際には、この節ではなく「参考文献」という名前の節に記入してください。 -->
*章安灌頂撰「隋天台智者大師別傳」{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
* 灌頂「国清百録」{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=984}}
*「隋國師智者天台山國清寺釋智{{JIS2004フォント|顗}}傳」(『[[続高僧伝]]』巻17「習禪篇」2)
**[[福原隆善]]訳注 『現代語訳一切経 2 隋天台智者大師別伝』 [[大東出版社]]
*京戸慈光<ref>1942年-2018年。[[浅草寺]]勧学所長ほか。著者紹介より</ref> 『天台大師の生涯』 [[第三文明社]](新版・第三文明選書、2022年)
*[[田村芳朗]]・新田雅章<ref>1936年- 。[[福井県立大学]]名誉教授、[[真宗大谷派]]僧侶。著者紹介より</ref> 『智{{JIS2004フォント|顗}} 人物中国の仏教』 [[大蔵出版]]
*[[藤善真澄]]・[[王勇 (歴史学者)|王勇]] 『天台の流伝 智{{JIS2004フォント|顗}}から最澄へ』 [[山川出版社]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=下巻 |ref={{SfnRef|総合仏教大辞典|1988}} }}
== 関連項目 ==
*[[教相判釈]]
*[[湛然]] - 天台宗第6祖(最澄は孫弟子)
*[[最澄]] - 日本[[天台宗]]の開祖
*[[円仁]] - 最澄の高弟の一人。[[天台宗|山門派]]において派祖とされる。
*[[天台寺門宗]] - 宗派の高祖とする。第5代[[天台座主]][[円珍]]を派祖とする寺門派。
*[[中国の仏教|中国仏教]]
<center><table border = 1><tr><td width = 40% align = center>師:[[慧思|南嶽慧思]]<td width = 20% align = center>[[天台宗#歴史|天台宗(中国)]]<td width = 40% align = center>弟子:[[章安灌頂]]</table></center>
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちき}}
[[Category:天台系仏教|*]]
[[Category:法華経]]
[[Category:中国の僧]]
[[Category:隋代の人物]]
[[Category:湖北省出身の人物]]
[[Category:538年生]]
[[Category:598年没]]
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11,200 |
整数環
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数学において、代数体 K の整数環(せいすうかん、英: ring of integers)とは、K に含まれるすべての整な元からなる環である。整な元とは有理整数係数の単多項式 x + cn−1x + ⋯ + c0 の根である。この環はしばしば OK あるいは O K {\displaystyle {\mathcal {O}}_{K}} と書かれる。任意の有理整数は K に属し、その整元であるから、環 Z はつねに OK の部分環である。
環 Z は最も簡単な整数環である。すなわち、Z = OQ ただし Q は有理数体である。そして実際、代数的整数論では、Z の元はこのためしばしば「有理整数」と呼ばれる。
代数体の整数環は体の一意的な極大整環(英語版)である。
整数環 OK は有限生成 Z 加群である。実際、それは自由 Z 加群であり、したがって整基底 (integral basis), すなわち次のような基底を持つ:Q ベクトル空間 K の基底 b1, ... ,bn ∈ OK であって、OK の各元 x は ai ∈ Z で一意的に
と表せる。OK の自由 Z 加群としての階数 n は K の Q 上の次数(英語版)に等しい。
代数体の整数環はデデキント整域である。
p が素数で、ζ が1の p 乗根で、K = Q(ζ) が対応する円分体のとき、OK = Z[ζ] の整基底は (1, ζ, ζ, ... , ζ) で与えられる。
d が平方因子を持たない整数で、K = Q(√d) が対応する二次体のとき、OK は二次の整数(英語版)の環であり、その整基底は次で与えられる:d ≡ 1 (mod 4) のとき (1, (1 + √d)/2) で、d ≡ 2, 3 (mod 4) のとき (1, √d) である。
整数環において、すべての元は既約元への分解を持つが、環は一意分解の性質を持つとは限らない:例えば、整数環 Z[√−5] において、元 6 は2つの本質的に異なる既約元への分解を持つ:
整数環はつねにデデキント整域であり、したがってイデアルの素イデアルへの一意分解を持つ。
整数環 OK の単数全体は、ディリクレの単数定理により、有限生成アーベル群である。捩れ部分群は K の1の冪根全体からなる。捩れなし生成元の集合は基本単数(英語版)の集合と呼ばれる。
非アルキメデス的局所体 F の整数環を絶対値が 1 以下の F のすべての元の集合として定義する;これは強三角不等式により環である。F が代数体の完備化であれば、その整数環は代数体の整数環の完備化である。代数体の整数環はすべての非アルキメデス的完備化において整数であるような元の全体として特徴づけられる。
例えば、p 進整数 Zp は p 進数 Qp の整数環である。
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数学において、代数体 K の整数環とは、K に含まれるすべての整な元からなる環である。整な元とは有理整数係数の単多項式 xn + cn−1xn−1 + ⋯ + c0 の根である。この環はしばしば OK あるいは O K と書かれる。任意の有理整数は K に属し、その整元であるから、環 Z はつねに OK の部分環である。 環 Z は最も簡単な整数環である。すなわち、Z = OQ ただし Q は有理数体である。そして実際、代数的整数論では、Z の元はこのためしばしば「有理整数」と呼ばれる。 代数体の整数環は体の一意的な極大整環である。
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[[数学]]において、[[代数体]] {{mvar|K}} の'''整数環'''(せいすうかん、{{lang-en-short|ring of integers}})とは、{{mvar|K}} に含まれるすべての[[整な元]]からなる[[環 (数学)|環]]である。整な元とは[[有理整数]]係数の[[単多項式]] {{math|''x''<sup>''n''</sup> + ''c''<sub>''n''−1</sub>''x''<sup>''n''−1</sup> + ⋯ + ''c''<sub>0</sub>}} の[[多項式の根|根]]である。この環はしばしば {{math|O<sub>''K''</sub>}} あるいは <math>\mathcal O_K</math> と書かれる。任意の有理整数は {{mvar|K}} に属し、その整元であるから、環 {{math|'''Z'''}} はつねに {{math|O<sub>''K''</sub>}} の[[部分環]]である。
環 {{math|'''Z'''}} は最も簡単な整数環である<ref>体を指定せずに''整数環''と言った場合には、すべてのそれらの環のプロトタイプな対象である「通常の」整数の環 {{math|'''Z'''}} を指す。それは抽象代数学における単語「[[wikt:整数|整数]]」の曖昧さの結果である。</ref>。すなわち、{{math|1='''Z''' = O<sub>'''Q'''</sub>}} ただし {{math|'''Q'''}} は[[有理数]][[可換体|体]]である<ref name=Cas192>{{harvnb|Cassels|1986|p=192}}.</ref>。そして実際、[[代数的整数論]]では、{{math|'''Z'''}} の元はこのためしばしば「有理整数」と呼ばれる。
代数体の整数環は体の一意的な極大{{仮リンク|整環|en|order (ring theory)}}である。
== 性質 ==
整数環 {{math|O<sub>''K''</sub>}} は[[有限生成加群|有限生成]] {{math|'''Z'''}} [[環上の加群|加群]]である。実際、それは[[自由加群|自由]] {{math|'''Z'''}} 加群であり、したがって'''整基底''' (integral basis), すなわち次のような基底を持つ:{{math|'''Q'''}} ベクトル空間 {{mvar|K}} の[[基底 (線型代数学)|基底]] {{math|''b''<sub>1</sub>, … ,''b''<sub>''n''</sub> ∈ O<sub>''K''</sub>}} であって、{{math|O<sub>''K''</sub>}} の各元 {{mvar|x}} は {{math|''a''<sub>''i''</sub> ∈ '''Z'''}} で一意的に
:<math>x=\sum_{i=1}^na_ib_i</math>
と表せる{{sfn|Cassels|1986|p=193}}。{{math|O<sub>''K''</sub>}} の自由 {{math|'''Z'''}} 加群としての階数 {{mvar|n}} は {{mvar|K}} の {{math|'''Q'''}} 上の{{仮リンク|体拡大の次数|label=次数|en|Degree of a field extension}}に等しい。
代数体の整数環は[[デデキント整域]]である<ref name=Sam49>{{harvnb|Samuel|1972|p=49}}.</ref>。
==例==
{{mvar|p}} が[[素数]]で、{{mvar|ζ}} が[[1の冪根|1の {{mvar|p}} 乗根]]で、{{math|1=''K'' = '''Q'''(ζ)}} が対応する[[円分体]]のとき、{{math|1=O<sub>''K''</sub> = '''Z'''[''ζ'']}} の整基底は {{math|(1, ''ζ'', ''ζ''<sup>2</sup>, … , ''ζ''<sup>''p''−2</sup>)}} で与えられる{{sfn|Samuel|1972|p=43}}。
{{mvar|d}} が[[平方因子を持たない整数]]で、{{math|1=''K'' = '''Q'''({{sqrt|''d''}})}} が対応する[[二次体]]のとき、{{math|O<sub>''K''</sub>}} は{{仮リンク|二次の整数|en|quadratic integer}}の環であり、その整基底は次で与えられる:{{math|''d'' ≡ 1 ([[合同算術|mod]] 4)}} のとき {{math|(1, (1 + {{sqrt|''d''}})/2)}} で、{{math|''d'' ≡ 2, 3 (mod 4)}} のとき {{math|(1, {{sqrt|''d''}})}} である{{sfn|Samuel|1972|p=35}}。
==乗法的構造==
整数環において、すべての元は[[既約元]]への分解を持つが、環は[[一意分解定理|一意分解]]の性質を持つとは限らない:例えば、整数環 {{math|'''Z'''[{{sqrt|−5}}]}} において、元 {{math|6}} は2つの本質的に異なる既約元への分解を持つ<ref name=Sam49 /><ref>{{cite book|last=Artin|first=Michael|title=Algebra|date=2011|publisher=Prentice Hall|isbn=978-0-13-241377-0|page=360}}</ref>:
:<math> 6 = 2 \cdot 3 = (1 + \sqrt{-5})(1 - \sqrt{-5}) \ . </math>
整数環はつねに[[デデキント整域]]であり、したがってイデアルの[[素イデアル]]への一意分解を持つ{{sfn|Samuel|1972|p=50}}。
整数環 {{mvar|O{{sub|K}}}} の[[可逆元|単数]]全体は、[[ディリクレの単数定理]]により、[[有限生成アーベル群]]である。[[捩れ部分群]]は {{mvar|K}} の[[1の冪根]]全体からなる。捩れなし生成元の集合は''{{仮リンク|基本単数|en|Fundamental unit (number theory)}}''の集合と呼ばれる{{sfn|Samuel|1972|pp=59–62}}。
==一般化==
[[非アルキメデス的局所体]] {{mvar|F}} の整数環を絶対値が 1 以下の {{mvar|F}} のすべての元の集合として定義する;これは強三角不等式により環である{{sfn|Cassels|1986|p=41}}。{{mvar|F}} が代数体の完備化であれば、その整数環は代数体の整数環の完備化である。代数体の整数環はすべての非アルキメデス的完備化において整数であるような元の全体として特徴づけられる<ref name=Cas192/>。
例えば、{{mvar|p}} 進整数 {{math|'''Z'''<sub>''p''</sub>}} は [[p進数|{{mvar|p}} 進数]] {{math|'''Q'''<sub>''p''</sub>}} の整数環である。
==脚注==
{{reflist}}
==参考文献==
* {{cite book | last=Cassels | first=J.W.S. | authorlink=J. W. S. Cassels | title=Local fields | zbl=0595.12006 | series=London Mathematical Society Student Texts | volume=3 | location=Cambridge | publisher=[[Cambridge University Press]] | year=1986 | isbn=0-521-31525-5 }}
*{{Neukirch ANT}}
* {{cite book |last=Samuel |first=Pierre |authorlink=Pierre Samuel |title=Algebraic number theory |publisher=Hermann/Kershaw |year=1972}}
{{DEFAULTSORT:せいすうかん}}
[[Category:環論]]
[[Category:代数的整数論]]
[[Category:数学に関する記事]]
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11,201 |
フュージョン (音楽)
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フュージョン(jazz fusion、fusion)は、1960年代後半から1970年代初頭に発生した、ジャズを基調にロックやラテン音楽、時にはクラシック音楽などを融合させた音楽のジャンルである。ジャズの派生ジャンルとされている。
電気楽器をジャズに導入する試みは、 60年代後半から開始された。マイルス・デイヴィスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』(1969年)と『ビッチェズ・ブリュー』。マイルスのアルバムとしては(1970年)は、初期のエレクトリック・ジャズの代表作である。電気楽器を使用したジャズは、当初はジャズ・ロックやエレクトリック・ジャズと呼ばれることが多かった。それ以前の1966年に、ラリー・コリエル率いるザ・フリー・スピリッツのアルバムが発表されているが、知名度はきわめて低かった。また、ギル・メレの『トムVI』(1967年)も、最も初期のエレクトリック・ジャズの1枚ではないかという説もある。さらに1970年代(1972年ごろ)に入ると、ソウル・ミュージックやラテン音楽の要素を取り入れ、クロスオーバーと呼ばれるようになる。同時期にはクラシック音楽を題材にした曲もあり、異例のセールスを記録したデオダートの『ツァラトゥストラはかく語りき』(R.シュトラウス)や、ボブ・ジェームスの『はげ山の一夜』(M.ムソルグスキー)等がある。またジャン=リュック・ポンティのアルバムも話題になった。1970年代半ばになり、クロスオーバーをさらに商業化したサウンドが現れるようになると、他のジャンルと融合した音楽という意味で、それらの音楽をフュージョンと呼ぶようになった。一方で、フュージョンは同時代の「ディスコ」や「産業ロック」と同じように、商業主義的だとして批判されることがあった。1977年ごろにさかんにNHK-FM放送を中心とした日本のFM局でオンエアされたミュージシャンには、リー・リトナー、ラリー・カールトン、アル・ディ・メオラ、高中正義らがいた。1978年にはチャック・マンジョーネの「フィールズ・ソー・グッド」が、全米でトップ5に入る大ヒットとなった。アール・クルーがインスト・カバーした「ダンス・ウィズ・ミー」(オリジナルはオーリアンズ)は、天気情報番組のバックでさかんにオンエアされた。1990年代から現在にかけては、フュージョンを大衆に聞きやすくしたスムーズジャズのジャンルに移行している。フュージョンの曲の多くは、ボーカル無しのインストゥルメンタルであったため、BGMとして使用しやすく、テレビ・ラジオ番組で、フュージョンの楽曲がさかんに使用された。
ジャズマンについてはジャズ音楽家の一覧も参照。
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フュージョンは、1960年代後半から1970年代初頭に発生した、ジャズを基調にロックやラテン音楽、時にはクラシック音楽などを融合させた音楽のジャンルである。ジャズの派生ジャンルとされている。
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|name = フュージョン<br />Jazz fusion
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|caption = [[マイルス・デイヴィス]]のエレクトリック・ジャズはクロスオーバーを経て、後年フュージョンへと変質した。
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|stylistic_origins = [[ジャズ]]<ref>[https://www.masterclass.com/articles/jazz-fusion-guide ジャズフュージョン・ガイド] 2023年5月31日閲覧</ref>、[[ロック (音楽)|ロック]]<ref>[https://www.masterclass.com/articles/jazz-fusion-guide ジャズフュージョン・ガイド] 2023年5月27日閲覧</ref>
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'''フュージョン'''('''jazz fusion'''、'''fusion''')は、[[1960年代]]後半から[[1970年代]]初頭に発生した、[[ジャズ]]を基調に[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ラテン音楽]]、時には[[クラシック音楽]]などを融合させた[[音楽]]の[[ジャンル]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3-170977#:~:text=%EF%BC%91%20%E8%9E%8D%E5%90%88%E3%80%82,%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%82%92%E8%9E%8D%E5%90%88%E3%81%97%E3%81%9F%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%80%82] - コトバンク</ref>。[[ジャズ]]の[[派生ジャンル]]とされている<ref group="注釈">一般的な「フュージョン」(融合した物)という意味ではなく、この項の時期の音楽について呼ばれる。このため、ジャズを基調にしない融合した音楽はフュージョンとは呼ばない。</ref>。
== 歴史 ==
[[電気楽器]]をジャズに導入する試みは、 [[1960年代|60年代]]後半から開始された。[[マイルス・デイヴィス]]<ref>http://www.allmusic.com/artist/miles-davis-mn0000423829</ref>の『[[イン・ア・サイレント・ウェイ]]』(1969年)と『[[ビッチェズ・ブリュー]]』<ref>[http://www.allmusic.com/album/bitches-brew-mw0000188019 Bitches Brew - Miles Davis : AllMusic] - Review by Thom Jurek</ref>。マイルスのアルバムとしては(1970年)は、初期の[[エレクトリック・ジャズ]]の代表作である。電気楽器を使用したジャズは、当初は[[ジャズ・ロック]]<ref group="注釈">コロシアム、ソフト・マシーン、ニュークリアスらが代表的なバンドである</ref>やエレクトリック・ジャズと呼ばれることが多かった。それ以前の1966年に、[[ラリー・コリエル]]率いるザ・フリー・スピリッツのアルバムが発表されているが、知名度はきわめて低かった<ref>[http://www.allmusic.com/artist/the-free-spirits-mn0000067673 The Free Spiritsのバイオグラフィー(AllMusic)]</ref>。また、[[ギル・メレ]]<ref>http://www.allmusic.com/artist/gil-melle-mn0000658242</ref>の『トムVI』(1967年)も、最も初期のエレクトリック・ジャズの1枚ではないかという説もある。さらに1970年代(1972年ごろ)に入ると、[[ソウル・ミュージック]]や[[ラテン音楽]]の要素を取り入れ、[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]<ref>http://www.allmusic.com/subgenre/crossover-jazz-ma0000012142</ref>と呼ばれるようになる。同時期には[[クラシック音楽]]を題材にした曲もあり、異例のセールスを記録した[[デオダート]]<ref>http://www.allmusic.com/artist/deodato-mn0000212614</ref>の『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]』<ref group="注釈">1972年から1973年にかけて、アメリカでヒットし、日本のラジオでも、さかんにオンエアされた。</ref>([[リヒャルト・シュトラウス|R.シュトラウス]])や、[[ボブ・ジェームス]]の『[[禿山の一夜|はげ山の一夜]]』([[モデスト・ムソルグスキー|M.ムソルグスキー]])等がある。また[[ジャン=リュック・ポンティ]]のアルバムも話題になった。1970年代半ばになり、クロスオーバーをさらに商業化したサウンドが現れるようになると、他のジャンルと融合した音楽という意味で、それらの音楽を'''フュージョン'''と呼ぶようになった。一方で、フュージョンは同時代の「[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]」や「[[産業ロック]]」と同じように、商業主義的だとして批判されることがあった。1977年ごろにさかんに[[NHK-FM放送]]を中心とした日本のFM局でオンエアされたミュージシャンには、[[リー・リトナー]]、[[ラリー・カールトン]]<ref group="注釈">元クルセイダーズのギタリスト。</ref>、[[アル・ディ・メオラ]]、[[高中正義]]らがいた。1978年には[[チャック・マンジョーネ]]の「フィールズ・ソー・グッド」<ref>http://www.tonozuka.net/MEDIA.html</ref>が、全米でトップ5に入る大ヒットとなった。[[アール・クルー]]がインスト・カバーした「ダンス・ウィズ・ミー」(オリジナルは[[オーリアンズ]])は、天気情報番組のバックでさかんにオンエアされた。1990年代から現在にかけては、フュージョンを大衆に聞きやすくした'''[[スムーズジャズ]]'''のジャンルに移行している。フュージョンの曲の多くは、ボーカル無しの[[器楽曲|インストゥルメンタル]]であったため、[[背景音楽|BGM]]として使用しやすく、[[テレビ]]・[[ラジオ]][[番組]]で、フュージョンの楽曲がさかんに使用された。
== 主なミュージシャン ==
ジャズマンについては[[ジャズ音楽家の一覧]]も参照。
=== 世界のアーティスト ===
{{main2|スムーズ・ジャズ系のアーティスト|スムーズジャズ}}
{{columns-list|colwidth=17em|
* [[アール・クルー]]
* [[アイアート・モレイラ]]
* [[アジムス]]
* [[アル・ジャロウ]]
* [[アル・ディ・メオラ]]
* [[イエロージャケッツ]]
* [[ウィントン・マルサリス]]
* [[ウェイン・ショーター]]
* [[ヴィクター・ウッテン]]
* [[ウェザー・リポート]]
* [[エアプレイ]]
* [[エリック・ゲイル]]
* [[エロイーズ・ロウズ]]<ref>{{cite web |url={{Allmusic|class=artist|id=p25270 |tab=overview |pure_url=yes}} |title=Eloise Laws Biography |publisher=[[Rovi Corporation]] |work=[[Allmusic]] | accessdate=03 September 2021}}</ref>
* [[オマー・ハキム]]
* ザ・ガッド・ギャング
* [[キース・ジャレット]]
* [[クリス・ベッカーズ・スプラッシュ]](UK)
* [[ザ・クルセイダーズ|クルセイダーズ]]
* [[グローヴァー・ワシントン・ジュニア]]
* [[ケニー・G]]
* [[コーネル・デュプリー]]
* [[シーウィンド]]
* [[ジェフ・ベック]]
* [[ジェフ・ポーカロ]]
* [[ジェフ・ローバー]]・フュージョン
* [[ジェリー・ヘイ]]
* [[シャカタク]](UK)
* [[ジャコ・パストリアス]]
* [[ジョー・ザヴィヌル]]
* [[ジョー・サンプル]]
* [[ジョージ・デューク]]
* [[ジョージ・ベンソン]]
* [[ジョージ・ハワード]]
* [[ジョン・トロペイ]]<ref group="注釈">デオダートの「ツァラトゥストラ」など多数の曲に参加。</ref>
* [[ジョン・パティトゥッチ]]
* [[ジョン・マクラフリン]]
* [[スタッフ (バンド)|スタッフ]]
* [[スコット・ヘンダーソン]]
* [[スタンリー・クラーク]]
* [[スティーブ・ガッド]]
* [[スティーブ・ルカサー]]
* [[ステップス・アヘッド]]
* [[スパイロ・ジャイラ]]
* [[チャック・マンジョーネ]]
* [[チック・コリア]]
* [[デイヴ・グルーシン]]
* [[デイヴィッド・サンボーン]]
* [[デイヴィッド・フォスター]]
* [[デイヴィッド・ベノワ]]
* [[デオダート]]
* [[トム・スコット (ミュージシャン)|トム・スコット]]
* [[ドナルド・バード]]
* [[ドン・グルーシン]]
* [[ナイアシン (バンド)|ナイアシン]]
* [[ナジー]]
* [[ネーザン・イースト]]
* [[ノーマン・コナーズ]]<ref>[https://www.hmv.co.jp/artist_Norman-Connors_000000000000772/biography/ ノーマン・コナーズ プロフィール] 2023年6月30日閲覧</ref>
* [[ハービー・ハンコック]]
* [[ハーヴィー・メイソン]]
* [[パット・メセニー]]・グループ
* [[ハリー・コニック・ジュニア]]
* [[ピーセズ・オブ・ア・ドリーム]]
* [[ヒロシマ (バンド)|ヒロシマ]]
* [[ヒューバート・ロウズ]]
* [[ビリー・コブハム]]
* [[フォープレイ]]
* [[ブライアン・カルバートソン]]
* [[ブラック・バーズ]]
* [[ブランフォード・マルサリス]]
* [[フルーツケーキ (バンド)|フルーツケーキ]](オランダ)
* [[フルムーン]]
* [[ブレッカー・ブラザーズ]]
* [[ポール・ジャクソン (ベーシスト)|ポール・ジャクソン]]
* [[ポール・ジャクソン・ジュニア]]
* [[ボブ・ジェームス]]
* [[マーカス・ミラー]]
* [[マイケル・ブレッカー]]
* [[マイク・スターン]]
* [[マイク・マイニエリ]]
* [[マイルス・デイヴィス]]
* [[マハヴィシュヌ・オーケストラ]]
* [[マリーナ・ショウ]]
* [[マンハッタン・トランスファー]]
* [[ミニー・リパートン]]
* [[メゾフォルテ (バンド)|メゾフォルテ]](アイスランド)
* [[ラーセン・フェイトン・バンド]]
* [[ラムゼイ・ルイス]]
* [[ラリー・カールトン]]
* [[ラリー・コリエル]]
* [[ランディ・ブレッカー]]
* [[ザ・リッピントンズ|リッピントンズ]]
* [[リー・リトナー]]
* [[リターン・トゥ・フォーエヴァー]]
* [[リチャード・ボナ]]
* [[レニー・ホワイト]]
* [[ロベン・フォード]]<ref group="注釈">ブルース・アルバムも発表。</ref>
* [[ロイ・エアーズ]]・ユビキティ
* [[ロニー・リストン・スミス]]
* [[ロニー・ロウズ]]
* [[ロン・カーター]]
}}
=== 日本のアーティスト ===
{{columns-list|colwidth=17em|
; あ行
* [[安藤正容]]<ref group="注釈" name="T-SQUARE元">T-SQUAREの元メンバー。</ref>
* [[伊東たけし]]<ref group="注釈" name="T-SQUARE">T-SQUAREのメンバー。</ref>
* [[乾裕樹]]
* [[上原ひろみ]]
* [[S.S.T.BAND]]
* [[大高清美]]<ref group="注釈" name="カシオペア">カシオペアのメンバー。</ref>
* [[大村憲司]]
; か行
* [[カシオペア (バンド)|カシオペア]]
* [[角松敏生]]
* [[カリオカ (フュージョンバンド)|カリオカ]]
* [[川崎燎]]
* [[河野啓三]]<ref group="注釈" name="T-SQUARE元" />
* [[カンガルー (音楽)|カンガルー]]
* [[菊地雅章]]
* [[後藤次利]]
* [[熊谷徳明]]<ref group="注釈" name="カシオペア元">カシオペアの元メンバー。</ref>
* [[COSMOS-keyboards trio-]]
; さ行
* [[佐々木隆 (ミュージシャン)|佐々木隆]]<ref group="注釈" name="カシオペア元" />
* [[櫻井哲夫]]<ref group="注釈" name="カシオペア元" />
* [[城之内ミサ]]
* [[神保彰]]<ref group="注釈" name="カシオペア元" />
* [[須藤満]]
* [[スペクトラム (日本のバンド)|スペクトラム]]
* [[Sensation (バンド)|Sensation]]
; た行
* [[高中正義]]
* [[タイガー大越]]
* [[T-SQUARE]]
* [[DIMENSION]]
* [[鳥山雄司]]
; な行
* [[ナニワエキスプレス]]
* [[鳴瀬喜博]]<ref group="注釈" name="カシオペア" />
* [[ネイティブ・サン (バンド)|ネイティブ・サン]]
* [[野呂一生]]<ref group="注釈" name="カシオペア" />
; は行
* [[蓮沼執太]]
* [[PARACHUTE]]
* [[坂東慧]]<ref group="注釈" name="T-SQUARE" />
* [[日野賢二]]
* [[日野皓正]]
* [[日山正明]]<ref group="注釈" name="カシオペア元" />
* [[深町純]]
* [[プリズム (バンド)|プリズム]]
* [[本多俊之]]
* [[本田雅人]]
* [[本田竹広]]
; ま行
* [[松居慶子]]
* [[松岡直也]]&ウィッシング
* [[松下誠]]
* [[増尾好秋]]
* [[マリーン]]
* [[MALTA]]
* [[向井滋春]]
* [[向谷実]]<ref group="注釈" name="カシオペア元" />
* [[森園勝敏]]
; や行、ら行、わ行
* [[山本圭右]]
* [[渡辺香津美]]
* [[渡辺建]]<ref group="注釈">元プリズム。井上たか之バンド。</ref>
* [[渡辺貞夫]]
* [[和田アキラ]]<ref group="注釈">プリズムのメンバー。</ref>
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!-- 細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、加藤総夫、柳沢てつや、北里義之、大村幸則、瀧口秀之、西島多恵子、山下泰司、黒田京子、桜井圭介、上野俊哉、米田栄、田辺秀樹、高橋順一、川竹英克、田村和紀夫、大宅緒、高見一樹、島原裕司、柴俊一
-->
<!--
|author = 細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、加藤総夫、柳沢てつや、北里義之、大村幸則、瀧口秀之、西島多恵子、山下泰司、黒田京子、桜井圭介、上野俊哉、米田栄、田辺秀樹、高橋順一、川竹英克、田村和紀夫、大宅緒、高見一樹、島原裕司、柴俊一
|year = 1997-03
|publisher = 洋泉社
|edition = 新版
|isbn = 4896912500
-->
== 関連項目 ==
* [[アダルト・コンテンポラリー]]
* [[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]
* [[スムーズジャズ]]
* [[クワイエット・ストーム]]
* [[ジャズ・ロック]]
* [[アシッド・ジャズ]]
* [[ジャズ・ファンク]]
{{ジャズ}}
{{ロック・ミュージック}}
{{音楽}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふゆうしよん}}
[[Category:音楽のジャンル]]
[[Category:ジャズのジャンル]]
[[Category:フュージョン|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の音楽]]
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"Template:Normdaten"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3_(%E9%9F%B3%E6%A5%BD)
|
11,202 |
同値関係
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数学において、同値関係(どうちかんけい、英: equivalence relation)とは二項関係であって反射的、対称的、推移的の3つの性質を満たすものをいう。そのことから、与えられた集合上の1つの同値関係はその集合を同値類に分割(類別)することが導かれる。
同値関係にあることを表すのに用いられる記法は文献によってさまざまであるが、与えられた集合上の同値関係 R に関して2つの元 a, b が同値であることを "a ~ b" や "a ≡ b" で表すことが最もよく用いられる。R に関して同値であることを明示する場合には、"a ~R b" や "a ≡R b" あるいは "aRb" などと書かれる。
ある集合 S において、以下の3つの性質をすべて満たす二項関係 ∼ は S 上の同値関係であるという。それらの性質とは S の任意の元 a, b, c に対して、
上の3つをまとめて同値律ということがよくある。∼ が同値関係であるときに、a ∼ b であることを、a と b は同値であるという。
以下のものは一般には、類における "関係" となる。
集合 S の上に同値関係 ∼ が定義されているときには、S の各元 a に対して a に同値である元を全て集めた集合を考えることができる。この S の部分集合を、a を代表あるいは代表元 (representative) とする同値類 (equivalence class) または単に a の(属する)類と呼び、普通 [a], a, C(a) などと書く:
また、1つの同値類 X に対して、[x] = X となる S の元 x を1つ定めることを、X の代表元として x をとるという。1つの同値類は、それに含まれている元を任意に選んでそれを代表元とする同値類を作ってもそれはもとと同じ同値類になる(同値類は代表元の取替えによって不変である):
ゆえに同値類に関する性質を代表元の性質のみによって記述することは、一般には適当ではない。X 上の同値関係 ~ が与えられたとき、X の元に関する性質 P が x ~ y なるとき常に P(x) ならば P(y) を満たすならば、性質 P は同値関係 ~ の下で well-defined であるとか、各同値類上で不変 (class invariant; 類不変) であるなどという。
そのようなものとしてよくあるのが、写像 f: X → Y で、x1 ~ x2 ならば f(x1) = f(x2) なるときである。この場合、f は各同値類上で定数 (class invariant under ~)、あるいは ~ の下で不変 (invariant under ~), より短く ~-不変などという。このようなものは例えば有限群の指標論などで見かけることができる。また、このような写像の性質を可換三角図式として書き表すことができる(不変量なども参照)。文献によっては、不変という代わりに、~ に関する準同型 (morphism; 射) であるとか ~ と両立する (compatible with ~) とか適合する ("respects ~") などのように言うこともある。
より一般に、(ある関係 ~A に関して)同値なものを(別の関係 ~B に関して)同値なものへ写す写像を考えることができて、そのような写像を ~A から ~B への準同型(あるいは射)などと呼ぶ。
集合 S の同値関係 ∼ から定まる同値類すべてを集めた集合のことを、集合S を同値関係 ∼ で割った集合、あるいは S の ∼ による商集合であるといい、
と表す。集合 S の元に対してそれが属する同値類を対応させることにより、Sから商集合への自然な全射
が与えられる。これを同値関係 ∼ に付随する商写像や標準射影という。
また、S の相異なるすべての同値類から代表元を1つずつ集めて作った S の部分集合のことを、集合 S における同値関係 ∼ の(あるいは商集合 S/∼ の)完全代表系 (complete system of representatives) と呼ぶ。つまり、集合S の部分集合 A が同値関係 ∼ についての完全代表系であるとは、包含写像と標準射影の合成 A ↪ S ↠ S/∼; a ↦ [a] が全単射となることである。
集合 S に対して、S の空集合を含まない部分集合族 M であって、M に属するどの2つの相異なる集合は交わりを持たず、M の和集合が S 全体に一致するときに、集合族 M のことを集合 S の類別または分類 (classification) あるいは分割 (partition) であるという。
これが同値関係と類別の間の基本的な結果である。 いずれの主張も、X の分割のセル全体のなす集合が X の ~ に関する同値類全体のなす集合に一致する。X の各元 x は X の分割のセルのうちただ1つのみに属するのであるから(かつ、各セルは同値類と同一視できるのだから)、各元 x は X の同値類のうちただ1つのみに属する。従って、X 上で可能な同値関係全体のなす集合と X の分割全体のなす集合との間には自然な全単射が存在することがわかる。
写像 f の同値核 (equivalence kernel) あるいは f に付随する同値関係とは、
で定義される関係 ~ を言う。
集合 S 上の2つの同値関係 ~, ≈ が a ~ b ならば a ≈ b を任意の a, b ∈ S に対して満たすとき、同値関係 ≈ は ~ より粗い (coarser) または弱いといい、~ は ≈ より細かい (finer) または強いという。
同値類の言葉で言えば
それゆえ、≈ に関する任意の同値類は ~ に関する同値類の合併になる。すなわち
とも言い換えられる。
相等関係は任意の集合上で最も強い同値関係であり、自明な関係は最も弱い同値関係であり、任意の2つの元は互いに同値になる。
集合 S を固定して考えるとき、その上の同値関係全体の成す集合上で、"~ は ≈ より細かい" という関係はそれ自身半順序を成し、それにより S 上の同値関係の全体は幾何束(英語版)をなす。
整数全体のなす集合 Z に、a と b の差 a − b が 3 の倍数であるときまたそのときに限って a ≡ b という関係 ≡ を決めると、これは同値関係になる。
この関係によって集合 Z が3つの同値類(この場合、剰余類 とも呼ばれる)に分割される。それぞれの同値類は 3 で割り切れるもの全体 [0]、1 余るもの全体 [1]、2 余るもの全体 [2] に対応している。
この商集合は普通 Z/3Z と書かれて、自然に演算が定義できて、加法に関するアーベル群、さらに乗法をいれて可換環になる(剰余類環)。また p が素数のとき Z/pZ は体(有限体)になる。
同様の例として、商線型空間(商ベクトル空間)、剰余群(剰余類群、商群)、剰余環(商環)、商位相空間などはそれぞれ適当な同値関係による商集合(に適切な構造を付与したもの)として定義される。
ユークリッドの著『原論』には
という公理がある。今日において、上の公理の「等しい」という部分をすべて「関係する」と書き換えた性質を満足する関係はユークリッド的(英語版)であると言われる。二項関係 R に関して一般には aRb は bRa と相異なるから、ユークリッド関係も
の二種類が考えられる。ユークリッド関係と同値関係との関係は以下のように述べることができる:
証明は以下のようにすればよい。
右ユークリッド関係についても同様。ゆえに、同値関係は反射的かつユークリッド的な二項関係として特徴づけられる。
同値関係を圏論的に一般化した概念に余等化子がある。圏 C の射 f, g: X → Y の余等化子とは対象 Q と射 q: Y → Q の組であって、qf = qg を満たし、以下の普遍性を持つものである:対象 Q' と射 q': Y → Q' の組があって、q'f = q'g を満たすならば、次の図式を可換にする射 u: Q → Q' がただ1つ存在する。
集合 S 上に同値関係 ∼ が与えられたとする。R = {(x, y) ∈ S × S | x ∼ y} とおき、写像 r1, r2: R → S を r1(x, y) = x, r2(x, y) = y で定義すると、商集合 S/∼ と標準射影 π: S → S/∼ の組は集合の圏における r1 と r2 の余等化子である。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "数学において、同値関係(どうちかんけい、英: equivalence relation)とは二項関係であって反射的、対称的、推移的の3つの性質を満たすものをいう。そのことから、与えられた集合上の1つの同値関係はその集合を同値類に分割(類別)することが導かれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "同値関係にあることを表すのに用いられる記法は文献によってさまざまであるが、与えられた集合上の同値関係 R に関して2つの元 a, b が同値であることを \"a ~ b\" や \"a ≡ b\" で表すことが最もよく用いられる。R に関して同値であることを明示する場合には、\"a ~R b\" や \"a ≡R b\" あるいは \"aRb\" などと書かれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ある集合 S において、以下の3つの性質をすべて満たす二項関係 ∼ は S 上の同値関係であるという。それらの性質とは S の任意の元 a, b, c に対して、",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "上の3つをまとめて同値律ということがよくある。∼ が同値関係であるときに、a ∼ b であることを、a と b は同値であるという。",
"title": "定義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "以下のものは一般には、類における \"関係\" となる。",
"title": "同値関係の例"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "集合 S の上に同値関係 ∼ が定義されているときには、S の各元 a に対して a に同値である元を全て集めた集合を考えることができる。この S の部分集合を、a を代表あるいは代表元 (representative) とする同値類 (equivalence class) または単に a の(属する)類と呼び、普通 [a], a, C(a) などと書く:",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "また、1つの同値類 X に対して、[x] = X となる S の元 x を1つ定めることを、X の代表元として x をとるという。1つの同値類は、それに含まれている元を任意に選んでそれを代表元とする同値類を作ってもそれはもとと同じ同値類になる(同値類は代表元の取替えによって不変である):",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ゆえに同値類に関する性質を代表元の性質のみによって記述することは、一般には適当ではない。X 上の同値関係 ~ が与えられたとき、X の元に関する性質 P が x ~ y なるとき常に P(x) ならば P(y) を満たすならば、性質 P は同値関係 ~ の下で well-defined であるとか、各同値類上で不変 (class invariant; 類不変) であるなどという。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "そのようなものとしてよくあるのが、写像 f: X → Y で、x1 ~ x2 ならば f(x1) = f(x2) なるときである。この場合、f は各同値類上で定数 (class invariant under ~)、あるいは ~ の下で不変 (invariant under ~), より短く ~-不変などという。このようなものは例えば有限群の指標論などで見かけることができる。また、このような写像の性質を可換三角図式として書き表すことができる(不変量なども参照)。文献によっては、不変という代わりに、~ に関する準同型 (morphism; 射) であるとか ~ と両立する (compatible with ~) とか適合する (\"respects ~\") などのように言うこともある。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "より一般に、(ある関係 ~A に関して)同値なものを(別の関係 ~B に関して)同値なものへ写す写像を考えることができて、そのような写像を ~A から ~B への準同型(あるいは射)などと呼ぶ。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "集合 S の同値関係 ∼ から定まる同値類すべてを集めた集合のことを、集合S を同値関係 ∼ で割った集合、あるいは S の ∼ による商集合であるといい、",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "と表す。集合 S の元に対してそれが属する同値類を対応させることにより、Sから商集合への自然な全射",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "が与えられる。これを同値関係 ∼ に付随する商写像や標準射影という。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "また、S の相異なるすべての同値類から代表元を1つずつ集めて作った S の部分集合のことを、集合 S における同値関係 ∼ の(あるいは商集合 S/∼ の)完全代表系 (complete system of representatives) と呼ぶ。つまり、集合S の部分集合 A が同値関係 ∼ についての完全代表系であるとは、包含写像と標準射影の合成 A ↪ S ↠ S/∼; a ↦ [a] が全単射となることである。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "集合 S に対して、S の空集合を含まない部分集合族 M であって、M に属するどの2つの相異なる集合は交わりを持たず、M の和集合が S 全体に一致するときに、集合族 M のことを集合 S の類別または分類 (classification) あるいは分割 (partition) であるという。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "これが同値関係と類別の間の基本的な結果である。 いずれの主張も、X の分割のセル全体のなす集合が X の ~ に関する同値類全体のなす集合に一致する。X の各元 x は X の分割のセルのうちただ1つのみに属するのであるから(かつ、各セルは同値類と同一視できるのだから)、各元 x は X の同値類のうちただ1つのみに属する。従って、X 上で可能な同値関係全体のなす集合と X の分割全体のなす集合との間には自然な全単射が存在することがわかる。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "写像 f の同値核 (equivalence kernel) あるいは f に付随する同値関係とは、",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "で定義される関係 ~ を言う。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "集合 S 上の2つの同値関係 ~, ≈ が a ~ b ならば a ≈ b を任意の a, b ∈ S に対して満たすとき、同値関係 ≈ は ~ より粗い (coarser) または弱いといい、~ は ≈ より細かい (finer) または強いという。",
"title": "諸概念"
},
{
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"text": "同値類の言葉で言えば",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "それゆえ、≈ に関する任意の同値類は ~ に関する同値類の合併になる。すなわち",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "とも言い換えられる。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "相等関係は任意の集合上で最も強い同値関係であり、自明な関係は最も弱い同値関係であり、任意の2つの元は互いに同値になる。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "集合 S を固定して考えるとき、その上の同値関係全体の成す集合上で、\"~ は ≈ より細かい\" という関係はそれ自身半順序を成し、それにより S 上の同値関係の全体は幾何束(英語版)をなす。",
"title": "諸概念"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "整数全体のなす集合 Z に、a と b の差 a − b が 3 の倍数であるときまたそのときに限って a ≡ b という関係 ≡ を決めると、これは同値関係になる。",
"title": "商集合の例"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "この関係によって集合 Z が3つの同値類(この場合、剰余類 とも呼ばれる)に分割される。それぞれの同値類は 3 で割り切れるもの全体 [0]、1 余るもの全体 [1]、2 余るもの全体 [2] に対応している。",
"title": "商集合の例"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この商集合は普通 Z/3Z と書かれて、自然に演算が定義できて、加法に関するアーベル群、さらに乗法をいれて可換環になる(剰余類環)。また p が素数のとき Z/pZ は体(有限体)になる。",
"title": "商集合の例"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "同様の例として、商線型空間(商ベクトル空間)、剰余群(剰余類群、商群)、剰余環(商環)、商位相空間などはそれぞれ適当な同値関係による商集合(に適切な構造を付与したもの)として定義される。",
"title": "商集合の例"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ユークリッドの著『原論』には",
"title": "他の2項関係との関係"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "という公理がある。今日において、上の公理の「等しい」という部分をすべて「関係する」と書き換えた性質を満足する関係はユークリッド的(英語版)であると言われる。二項関係 R に関して一般には aRb は bRa と相異なるから、ユークリッド関係も",
"title": "他の2項関係との関係"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "の二種類が考えられる。ユークリッド関係と同値関係との関係は以下のように述べることができる:",
"title": "他の2項関係との関係"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "証明は以下のようにすればよい。",
"title": "他の2項関係との関係"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "右ユークリッド関係についても同様。ゆえに、同値関係は反射的かつユークリッド的な二項関係として特徴づけられる。",
"title": "他の2項関係との関係"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "同値関係を圏論的に一般化した概念に余等化子がある。圏 C の射 f, g: X → Y の余等化子とは対象 Q と射 q: Y → Q の組であって、qf = qg を満たし、以下の普遍性を持つものである:対象 Q' と射 q': Y → Q' の組があって、q'f = q'g を満たすならば、次の図式を可換にする射 u: Q → Q' がただ1つ存在する。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "集合 S 上に同値関係 ∼ が与えられたとする。R = {(x, y) ∈ S × S | x ∼ y} とおき、写像 r1, r2: R → S を r1(x, y) = x, r2(x, y) = y で定義すると、商集合 S/∼ と標準射影 π: S → S/∼ の組は集合の圏における r1 と r2 の余等化子である。",
"title": "一般化"
}
] |
数学において、同値関係とは二項関係であって反射的、対称的、推移的の3つの性質を満たすものをいう。そのことから、与えられた集合上の1つの同値関係はその集合を同値類に分割(類別)することが導かれる。 同値関係にあることを表すのに用いられる記法は文献によってさまざまであるが、与えられた集合上の同値関係 R に関して2つの元 a, b が同値であることを "a ~ b" や "a ≡ b" で表すことが最もよく用いられる。R に関して同値であることを明示する場合には、"a ~R b" や "a ≡R b" あるいは "aRb" などと書かれる。
|
{{about|二項関係|命題|同値}}
{{出典の明記|date=2016-12}}
[[数学]]において、'''同値関係'''(どうちかんけい、{{lang-en-short|''equivalence relation''}})とは[[二項関係]]であって[[反射関係|反射的]]、[[対称関係|対称的]]、[[推移的関係|推移的]]の3つの性質を満たすものをいう。そのことから、与えられた集合上の1つの同値関係はその集合を[[同値類]]に[[集合の分割|分割]](類別)することが導かれる。
同値関係にあることを表すのに用いられる記法は文献によってさまざまであるが、与えられた集合上の同値関係 {{mvar|R}} に関して2つの元 {{math2|''a'', ''b''}} が同値であることを "{{math2|''a'' ~ ''b''}}" や "{{math2|''a'' ≡ ''b''}}" で表すことが最もよく用いられる。{{mvar|R}} に関して同値であることを明示する場合には、"{{math2|''a'' ~{{sub|''R''}} ''b''}}" や "{{math2|''a'' ≡{{sub|''R''}} ''b''}}" あるいは "{{mvar|{{gaps|a|R|b}}}}" などと書かれる。
== 定義 ==
ある[[集合]] {{mvar|S}} において、以下の3つの性質をすべて満たす[[二項関係]] {{math|∼}} は {{mvar|S}} 上の'''同値関係'''であるという。それらの性質とは {{mvar|S}} の任意の元 {{math2|''a'', ''b'', ''c''}} に対して、
* [[反射関係|反射律]]:{{math2|''a'' ∼ ''a''}}.
* [[対称関係|対称律]]:{{math2|''a'' ∼ ''b''}} ならば {{math2|''b'' ∼ ''a''}}.
* [[推移関係|推移律]]:{{math2|''a'' ∼ ''b''}} かつ {{math2|''b'' ∼ ''c''}} ならば {{math2|''a'' ∼ ''c''}}.
上の3つをまとめて'''同値律'''ということがよくある{{sfn|松坂|1968|p=54}}。{{math|∼}} が同値関係であるときに、{{math2|''a'' ∼ ''b''}} であることを、{{mvar|a}} と {{mvar|b}} は'''同値'''であるという{{sfn|松坂|1968|p=54}}。
== 同値関係の例 ==
* 相等関係 ({{math|1==}}):集合としてあるいは集合の元として同じである。表現形式や構成要素が同一である。
* [[図形の合同]]関係:位置や裏表や向きの違いを無視して、図形として同じである。
* [[図形の相似]]関係:裏表・向き・大きさの比率の違いを無視して、図形の "形" としては同じである。
* 量の[[比例|比例関係]]:増え方・減り方の割合としては同じである。
* [[整数の合同]]関係:ある数で割った余りが同じである。
以下のものは一般には、[[クラス (集合論)|類]]における "関係" となる。
* 集合の[[濃度 (数学)|濃度]]の対等 "関係":集合の中身は別として、集合の大きさとしては同じである。
* [[命題]]が[[同値]]であるという "関係":2つの命題において、真偽([[真理値]])が同じである、または互いに片方から他方を証明できる。
== 諸概念 ==
=== 同値類 ===
{{main|同値類}}
集合 {{mvar|S}} の上に同値関係 {{math|∼}} が定義されているときには、{{mvar|S}} の各元 {{mvar|a}} に対して {{mvar|a}} に同値である元を全て集めた集合を考えることができる。この {{mvar|S}} の部分集合を、{{mvar|a}} を'''代表'''{{sfn|松坂|1968|p=57}}あるいは'''代表元''' ({{en|representative}}) とする'''[[同値類]]''' ({{en|equivalence class}}) または単に {{mvar|a}} の(属する)類{{sfn|松坂|1968|p=57}}と呼び、普通 {{math2|[''a''], {{overline|''a''}}, ''C''(''a'')}}{{sfn|松坂|1968|p=56}} などと書く:
:<math>[a] := \{ x \in S \mid a \sim x\}.</math>
また、1つの同値類 {{mvar|X}} に対して、{{math2|1=[''x''] = ''X''}} となる {{mvar|S}} の元 {{mvar|x}} を1つ定めることを、{{mvar|X}} の代表元として {{mvar|x}} をとるという。1つの同値類は、それに含まれている元を任意に選んでそれを代表元とする同値類を作ってもそれはもとと同じ同値類になる(同値類は代表元の取替えによって不変である):
:<math>X = [x],\ y \in X \iff y \in [x] \iff x \sim y \iff x \in [y] \iff [y] = X,\, x \in X.</math>
ゆえに同値類に関する性質を代表元の性質のみによって記述することは、一般には適当ではない。{{mvar|X}} 上の同値関係 {{math|~}} が与えられたとき、{{mvar|X}} の元に関する性質 {{mvar|P}} が {{math2|''x'' ~ ''y''}} なるとき常に {{math|''P''(''x'')}} ならば {{math|''P''(''y'')}} を満たすならば、性質 {{mvar|P}} は同値関係 {{math|~}} の下で [[well-defined]] であるとか、各同値類上で不変 (''class invariant''; 類不変) であるなどという。
そのようなものとしてよくあるのが、写像 {{math2|''f'': ''X'' → ''Y''}} で、{{math2|1=''x''{{sub|1}} ~ ''x''{{sub|2}}}} ならば {{math2|1=''f''(''x''{{sub|1}}) = ''f''(''x''{{sub|2}})}} なるときである。この場合、{{mvar|f}} は各同値類上で定数 (''class invariant under'' {{math|~}})、あるいは {{math|~}} の下で不変 (''invariant under'' {{math|~}}), より短く {{math|~}}-不変などという。このようなものは例えば有限群の指標論などで見かけることができる。また、このような写像の性質を[[可換図式|可換三角図式]]として書き表すことができる([[不変量]]なども参照)。文献によっては、不変という代わりに、{{math|~}} に関する準同型 (''morphism''; 射) であるとか {{math|~}} と両立する (compatible with {{math|~}}) とか適合する ("respects {{math|~}}") などのように言うこともある。
より一般に、(ある関係 {{math|~{{sub|''A''}}}} に関して)同値なものを(別の関係 {{math|~{{sub|''B''}}}} に関して)同値なものへ写す写像を考えることができて、そのような写像を {{math|~{{sub|''A''}}}} から {{math|~{{sub|''B''}}}} への準同型(あるいは射)などと呼ぶ。
=== 商集合 ===
集合 {{mvar|S}} の同値関係 {{math|∼}} から定まる同値類すべてを集めた集合のことを、集合{{mvar|S}} を'''同値関係''' {{math|∼}} '''で割った集合'''、あるいは {{mvar|S}} の {{math|∼}} による'''[[商集合]]'''であるといい、
:<math>S/{\sim} := \{[x] \mid x \in S\}</math>
と表す。集合 {{mvar|S}} の元に対してそれが属する同値類を対応させることにより、{{mvar|S}}から商集合への自然な[[全射]]
:<math>\pi\colon S \twoheadrightarrow S/{\sim};\ x \mapsto [x]</math>
が与えられる。これを同値関係 {{math|∼}} に付随する'''[[商写像]]'''や'''標準射影'''という。
; 定理 (標準射影の普遍性)<ref>[[Garrett Birkhoff]] and [[Saunders Mac Lane]], 1999 (1967). ''Algebra'', 3rd ed. p.35, Th.19. Chelsea.</ref>
: 写像 {{math2|''f'': ''X'' → ''B''}} が {{math2|''a'' ~ ''b''}} ならば {{math2|1=''f''(''a'') = ''f''(''b'')}} を満たすならば、商集合からの写像 {{math2|''g'': ''X''/~ → ''B''}} で {{math2|1=''f'' = ''g'' ∘ π}}({{mvar|π}} は標準射影)を満たすものが一意に存在する。さらに、{{mvar|f}} が[[全射]]かつ {{math2|1=''a'' ~ ''b'' ⇔ ''f''(''a'') = ''f''(''b'')}} を満たすとき、{{mvar|g}} は[[全単射]]となる。
また、{{mvar|S}} の相異なるすべての同値類から代表元を1つずつ集めて作った {{mvar|S}} の部分集合のことを、集合 {{mvar|S}} における同値関係 {{math|∼}} の(あるいは商集合 {{math|''S''/∼}} の)'''完全代表系''' ({{en|complete system of representatives}}) と呼ぶ。つまり、集合{{mvar|S}} の部分集合 {{mvar|A}} が同値関係 {{math|∼}} についての完全代表系であるとは、[[埋め込み (数学)|包含写像]]と標準射影の合成 {{math|''A'' ↪ ''S'' ↠ ''S''/∼; ''a'' {{mapsto}} [''a'']}} が全単射となることである。
=== 類別 ===
{{main|集合の分割}}
集合 {{mvar|S}} に対して、{{mvar|S}} の空集合を含まない[[部分集合]][[族 (数学)|族]] {{mathbf|M}} であって、{{mathbf|M}} に属するどの2つの相異なる集合は[[共通部分|交わり]]を[[素集合|持たず]]、{{mathbf|M}} の[[合併 (集合論)|和集合]]が {{mvar|S}} 全体に一致するときに、集合族 {{mathbf|M}} のことを集合 {{mvar|S}} の'''類別'''または'''分類''' ({{en|classification}}){{sfn|松坂|1968|p=57}} あるいは'''[[集合の分割|分割]]''' (partition) であるという。
; 定理 (同値関係と類別の関係)
:* 集合 {{mvar|X}} 上の同値関係 {{math|~}} は {{mvar|X}} を類別する。
:* {{mvar|X}} の任意の類別に対して {{mvar|X}} 上の同値関係 {{math|~}} が一意的に対応する。
これが同値関係と類別の間の基本的な結果である<ref>Wallace, D. A. R., 1998. ''Groups, Rings and Fields''. p. 31, Th. 8. Springer-Verlag.</ref><ref>Dummit, D. S., and Foote, R. M., 2004. ''Abstract Algebra'', 3rd ed. p. 3, Prop. 2. John Wiley & Sons.</ref><ref>[[Karel Hrbacek]] & [[Thomas Jech]] (1999) ''Introduction to Set Theory'', 3rd edition, pages 29–32, [[Marcel Dekker]]</ref>。
いずれの主張も、{{mvar|X}} の分割のセル全体のなす集合が {{mvar|X}} の {{math|~}} に関する同値類全体のなす集合に一致する。{{mvar|X}} の各元 {{mvar|x}} は {{mvar|X}} の分割のセルのうちただ1つのみに属するのであるから(かつ、各セルは同値類と同一視できるのだから)、各元 {{mvar|x}} は {{mvar|X}} の同値類のうちただ1つのみに属する。従って、{{mvar|X}} 上で可能な同値関係全体のなす集合と {{mvar|X}} の分割全体のなす集合との間には自然な[[全単射]]が存在することがわかる。
=== 同値核 ===
{{See also|核 (代数学)|{{仮リンク|核 (集合論)|en|Kernel (set theory)}}}}
写像 {{mvar|f}} の'''同値核''' (''equivalence kernel'') あるいは {{mvar|f}} に'''付随する同値関係'''{{sfn|松坂|1968|p=55}}とは、
: <math>x\sim y \iff f(x) = f(y)</math>
で定義される関係 {{math|~}} を言う。
=== 同値関係の比較 ===
{{seealso|集合の分割#分割の細分}}
集合 {{mvar|S}} 上の2つの同値関係 {{math|~, ≈}} が {{math2|''a'' ~ ''b''}} ならば {{math2|''a'' ≈ ''b''}} を任意の {{math2|''a'', ''b'' ∈ ''S''}} に対して満たすとき、同値関係 {{math|≈}} は {{math|~}} より'''粗い''' (''coarser'') または弱いといい、{{math|~}} は {{math|≈}} より'''細かい''' (''finer'') または強いという。
[[同値類]]の言葉で言えば
* {{math|~}} が {{math|≈}} より細かい(強い)とは、{{math|~}} に関する任意の同値類が {{math|≈}} に関する適当な同値類の部分集合となるときにいう。
それゆえ、{{math|≈}} に関する任意の同値類は {{math|~}} に関する同値類の合併になる。すなわち
* {{math|~}} が {{math|≈}} より細かい(強い)とは、{{math|~}} の定める[[集合の分割|分割]]が {{math|≈}} の定める分割の[[集合の分割#分割の細分|細分]]となるときに言う。
とも言い換えられる。
[[等式|相等関係]]は任意の集合上で最も強い同値関係であり、[[自明な関係]]<ref>ProofWiki: [https://proofwiki.org/wiki/Definition:Trivial_Relation Trivial_Relation], [https://proofwiki.org/wiki/Trivial_Relation_is_Equivalence Trivial_Relation_is_Equivalence]</ref>は最も弱い同値関係であり、任意の2つの元は互いに同値になる。
集合 {{mvar|S}} を固定して考えるとき、その上の同値関係全体の成す集合上で、"{{math|~}} は {{math|≈}} より細かい" という関係はそれ自身[[半順序関係|半順序]]を成し、それにより {{mvar|S}} 上の同値関係の全体は{{仮リンク|幾何束|en|geometric lattice}}をなす<ref>{{Citation |title=Lattice Theory |volume=25 |series=Colloquium Publications |publisher=American Mathematical Society |first=Garrett |last=Birkhoff |authorlink=Garrett Birkhoff |edition=3rd |year=1995 |isbn=9780821810255}}. Sect. IV.9, Theorem 12, page 95</ref>。
== 商集合の例 ==
{{See also|合同関係}}
整数全体のなす集合 {{mathbf|Z}} に、{{mvar|a}} と {{mvar|b}} の差 {{math2|''a'' − ''b''}} が {{math|3}} の[[倍数]]であるときまたそのときに限って {{math2|''a'' ≡ ''b''}} という[[整数の合同|関係 {{math|≡}}]] を決めると、これは同値関係になる。
この関係によって集合 {{mathbf|Z}} が3つの同値類(この場合、''剰余類'' とも呼ばれる)に分割される。それぞれの同値類は {{math|3}} で割り切れるもの全体 {{math|[0]}}、{{math|1}} 余るもの全体 {{math|[1]}}、{{math|2}} 余るもの全体 {{math|[2]}} に対応している。
この商集合は普通 {{math|'''Z'''/3'''Z'''}} と書かれて、自然に演算が定義できて、加法に関する[[アーベル群]]、さらに乗法をいれて[[可換環]]になる(剰余類環)。また {{mvar|p}} が素数のとき {{math|'''Z'''/''p'''''Z'''}} は[[可換体|体]]([[有限体]])になる。
同様の例として、[[商線型空間]](商ベクトル空間)、[[剰余群]](剰余類群、商群)、[[剰余環]](商環)、[[商位相空間]]などはそれぞれ適当な同値関係による商集合(に適切な構造を付与したもの)として定義される。
== 他の2項関係との関係 ==
* [[半順序]]は[[反射関係|反射的]]・{{underline|[[反対称関係|'''反'''対称的]]}}かつ[[推移的関係|推移的]]な二項関係をいう。
* [[相等関係]]は半順序かつ同値関係となるような関係である。また、相等関係は反射的・対称的かつ反対称的な唯一の関係である。
* 狭義半順序は、非反射的・推移的かつ[[非対称関係|非対称的]]をいう。
* {{仮リンク|半同値関係|en|partial equivalence relation}}は推移的かつ対称的である。推移性と対称性から反射性が出るための[[必要十分条件]]は、各元 {{math2|''a ''∈ ''X''}} に対して適当な {{math2|''b ''∈ ''X''}} をとれば {{math2|''a ''~ ''b''}} とできることである。
* 反射的かつ対称的な関係は、それが有限なとき{{仮リンク|従属関係|en|dependency relation}}といい、無限なとき{{仮リンク|容認関係|en|tolerance relation}}という。
* {{仮リンク|前順序|en|preorder}} は反射的かつ推移的な関係をいう。
* [[合同関係]]は適当な[[代数系]]の台集合上で定義される同値関係で、付随する代数構造と両立するようなものをいう。一般に、合同関係は準同型の[[核 (代数学)|核]]と同じ役割を果たすもので、それによる商集合に商代数系の構造を入れることができる。多くの重要な場合において合同関係は考えている構造の部分構造として実現することができる(例えば、群の合同関係は[[正規部分群]]に対応する)。
=== ユークリッド関係 ===
[[ユークリッド]]の著『[[ユークリッド原論|原論]]』には
; 公理 1
: 同じものに等しいもの同士は互いに等しい
という公理がある。今日において、上の公理の「等しい」という部分をすべて「関係する」と書き換えた性質を満足する関係は{{仮リンク|ユークリッド関係|en|Euclidean relation|label=ユークリッド的}}であると言われる。[[二項関係]] {{mvar|R}} に関して一般には {{mvar|{{gaps|a|R|b}}}} は {{mvar|{{gaps|b|R|a}}}} と相異なるから、ユークリッド関係も
* 左ユークリッド関係:({{mvar|{{gaps|a|R|c}}}} かつ {{mvar|{{gaps|b|R|c}}}}) ならば {{mvar|{{gaps|a|R|b}}}}
* 右ユークリッド関係:({{mvar|{{gaps|c|R|a}}}} かつ {{mvar|{{gaps|c|R|b}}}}) ならば {{mvar|{{gaps|a|R|b}}}}
の二種類が考えられる。ユークリッド関係と同値関係との関係は以下のように述べることができる:
; 定理
: 与えられた左(または右)ユークリッド関係が反射的ならば、その関係は対称的かつ推移的となる。
証明は以下のようにすればよい。
* 左ユークリッド関係の性質 [({{mvar|{{gaps|a|R|c}}}} かつ {{mvar|{{gaps|b|R|c}}}}) ならば {{mvar|{{gaps|a|R|b}}}}] において {{math2|1=''a'' = ''c''}} ととれば、[({{mvar|{{gaps|a|R|a}}}} かつ {{mvar|{{gaps|b|R|a}}}}) ならば {{mvar|{{gaps|a|R|b}}}}] を得る。いま仮定により {{mvar|R}} は反射的だから恒真となる {{mvar|{{gaps|a|R|a}}}} を除去すれば対称性 [{{mvar|{{gaps|b|R|a}}}} ならば {{mvar|{{gaps|a|R|b}}}}] を得る。
* 対称性が示されたから、左ユークリッド関係の性質 [({{mvar|{{gaps|a|R|c}}}} かつ {{mvar|{{gaps|b|R|c}}}}) ならば {{mvar|{{gaps|a|R|b}}}}] において {{mvar|{{gaps|b|R|c}}}} を {{mvar|{{gaps|c|R|b}}}} で置き換えて推移性 [({{mvar|{{gaps|a|R|c}}}} かつ {{mvar|{{gaps|c|R|b}}}}) ならば {{mvar|{{gaps|a|R|b}}}}] を得る。
右ユークリッド関係についても同様。ゆえに、同値関係は反射的かつユークリッド的な二項関係として特徴づけられる。
== 一般化 ==
{{main|余等化子}}
同値関係を[[圏論]]的に一般化した概念に[[余等化子]]がある。[[圏 (数学)|圏]] {{mathbf|C}} の[[射]] {{math2|''f'', ''g'': ''X'' → ''Y''}} の'''余等化子'''とは[[対象 (圏論)|対象]] {{mvar|Q}} と射 {{math2|''q'': ''Y'' → ''Q''}} の組であって、{{math2|1=''qf'' = ''qg''}} を満たし、以下の[[普遍性]]を持つものである:対象 {{mvar|Q{{'}}}} と射 {{math2|''q{{'}}'': ''Y'' → ''Q{{'}}''}} の組があって、{{math2|1=''q{{'}}f'' = ''q{{'}}g''}} を満たすならば、次の図式を[[可換図式|可換]]にする射 {{math2|''u'': ''Q'' → ''Q{{'}}''}} がただ1つ存在する<ref>{{Cite book |last=Awodey |first=Steve |year=2006 |title=Category theory |url={{google books|IK_sIDI2TCwC|Category theory|plainurl=yes}} |publisher=Oxford University Press |isbn=0-19-856861-4 |ref=harv |zbl=1100.18001 |quote={{google books quote|id=zLs8BAAAQBAJ|page=66|Definition 3.18}}}}</ref>。
[[画像:Свойство коуравнителя.png|center|]]
集合 {{mvar|S}} 上に同値関係 {{math|∼}} が与えられたとする。{{math2|1=''R'' = {{mset|(''x'', ''y'') ∈ ''S'' × ''S'' | ''x'' ∼ ''y''}}}} とおき、写像 {{math2|''r''{{sub|1}}, ''r''{{sub|2}}: ''R'' → ''S''}} を {{math2|1=''r''{{sub|1}}(''x'', ''y'') = ''x''}}, {{math2|1=''r''{{sub|2}}(''x'', ''y'') = ''y''}} で定義すると、商集合 {{math|''S''/∼}} と標準射影 {{math2|''π'': ''S'' → ''S''/∼}} の組は[[集合の圏]]における {{math|''r''{{sub|1}}}} と {{math|''r''{{sub|2}}}} の余等化子である。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書 |author=松坂和夫 |title=集合・位相入門 |publisher=岩波書店 |year=1968}}
== 関連項目 ==
* [[違いを除いて]]
== 外部リンク ==
* {{高校数学の美しい物語|1314|同値関係といろいろな例}}
* {{SpringerEOM |title=Equivalence relation |urlname=Equivalence_relation}}
* {{MathWorld |title=Equivalence Relation |urlname=EquivalenceRelation}}
* {{PlanetMath |title=equivalence relation |urlname=equivalencerelation}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とうちかんけい}}
[[Category:同値 (数学)]]
[[Category:反射関係]]
[[Category:対称関係]]
[[Category:推移関係]]
[[Category:数学的関係]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-07-11T07:32:53Z
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非ユークリッド幾何学
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非ユークリッド幾何学(ひユークリッドきかがく、英語: non-Euclidean geometry)は、ユークリッド幾何学の平行線公準が成り立たないとして成立する幾何学の総称。非ユークリッドな幾何学の公理系を満たすモデルは様々に構成されるが、計量をもつ幾何学モデルの曲率を一つの目安としたときの両極端の場合として、至る所で負の曲率をもつ双曲幾何学と至る所で正の曲率を持つ楕円幾何学(特に球面幾何学は楕円幾何学の代表的なモデルである)が知られている。
ユークリッドの幾何学は、至る所曲率0の世界の幾何であることから、双曲・楕円に対して放物幾何学と呼ぶことがある。平易な言葉で表現するならば、「平面上の幾何学」であるユークリッド幾何学に対して、「曲面上の幾何学」が非ユークリッド幾何学である。
ユークリッドの著した『原論』(Elements) の1~4巻に於いては、今日で言うところのユークリッド幾何学に関して、古代ギリシア数学の成果がまとめられている。
さて、「原論」では最初にいくつかの公理・公準を述べているが、その中の第5公準が次の、「平行線公準」と呼ばれるものである。
これは他の公理に比べて自明性は低く、また明らかに冗長であったので、いくつかの疑念を生ずることとなった。
ここから、平行線公準の証明の試み、あるいは平行線公準の言い換えの試みが始まった。
ユークリッドの『幾何学原論』はアラビア語に翻訳されて保持された。 11世紀ペルシャのウマル・ハイヤームは『ユークリッドの難点に関する議論』 (Risâla fî sharh mâ ashkala min musâdarât Kitâb 'Uglîdis) を著している。この著作はジョヴァンニ・ジローラモ・サッケーリに多くの影響を与えている。13世紀のイスラム世界を代表する学者であるナスィールッディーン・アル・ディーン・アル・トゥースィーの遺稿をまとめた『ユークリッド原論編述』は1294年に発表された。このなかで彼は、第5公準を「すべての三角形の内角の和は2直角に等しい」と読み替えているが、これもまたサッケリーニに影響を与え、サッケリーニは「直角仮定」と呼んだ。 『ユークリッド原論編述』は、バースのアデラードによってラテン語に翻訳され、さらにノヴァラのカンパナス(英語版)が注を施した版に基づいてエアハルト・ラトドルト(英語版)によって1482年にヴェネツィアにおいて始めて出版された。
古代ギリシャ以降も、無数の「平行線公準の証明」が生まれたが、多くはプトレマイオスと同じ過ちを犯していた。しかし、その結果として無数の「平行線公準と同値な命題」が作られた。
ジョバンニ・ジローラモ・サッケーリは、1773年、論文「あらゆる汚点から清められたユークリッド」 (Euclides ab Omni Naevo Vindicatus) において、鋭角仮定・直角仮定・鈍角仮定という互いに背反かついずれかは成立するような仮定を設定し、直角仮定から平行線公準を導けることを示した。
同論文の定理9および定理15により、各仮定をより分かりやすく言い換えるなら次の通りである。
サッケーリは、鈍角仮定および鋭角仮定は矛盾を生じると主張したが、その証明に於いてはやはり平行線公準に依存する命題を使ってしまっており、証明としては正しくなかった。しかしながら、上の3つの分類はその後の非ユークリッド幾何学の構築に大きな役割を果たした。
またヨハン・ハインリッヒ・ランベルトも1766年執筆の論文「平行線の理論」に於いて同様の主張をしている。この論文は1786年に発見された。
カール・フリードリヒ・ガウスは、1824年11月8日の手紙に於いて、鋭角仮定のもとで整合的な幾何学が成立する可能性を示唆し、そこにはある定数があってこれが大きいほど通常の幾何学に近づくと述べた。
ガウスの言うある定数とは、現代の言葉で言えば空間の曲率 k に対し、 -(1/k) のことである。ガウス個人は非ユークリッド幾何の存在を確信していたと見られるが公表はしていない。
ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」(1829年)において、「虚幾何学」と名付けられた双曲幾何学のモデルを構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。
ボーヤイ・ヤーノシュは父・ボーヤイ・ファルカシュの研究を引き継いで、1832年、「空間論」を出版した。「空間論」では、平行線公準を仮定した幾何学 (Σ) 、および平行線公準の否定を仮定した幾何学 (S) を論じた。更に、1835年「ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明」において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないと証明した。
ベルンハルト・リーマンはリーマン球面と呼ばれる楕円幾何学のモデルを構成した。
あわせて4人が3通りの方法を発見した。その結果をまとめると以下のようになる。
なお、ここでは曲がった面上や空間内の「直線」は二点間の最短距離を実現する曲線(つまり測地線)を指すのであって、まっすぐな線のことではない。さらに、平行線は絶対に交わらない二本の直線であって、同角度に伸びている線を意味しない。
楕円・放物・双曲の各幾何学は、互いに他を否定する存在ではなく、いわば並行に存在しうる幾何学であることを注意しておきたい。各幾何は、それぞれ他の幾何の中に(少なくとも局所的には)モデルを持ち、したがって互いに他の体系の正当性を保証することになるからである。
特に楕円・放物・双曲の各幾何学はユークリッド幾何学の上にモデルが作られる。よって理論Tに対してTが無矛盾であることとTのモデルが存在することは同値というよく知られた事実により、「ユークリッド幾何学が無矛盾な体系であれば他の幾何学も無矛盾」ということがわかる。
ここでユークリッド幾何学は座標を用いることによって代数的に扱えることからユークリッド幾何学の無矛盾性は実数体の理論の無矛盾性に帰着されることを注意しておく。
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非ユークリッド幾何学は、ユークリッド幾何学の平行線公準が成り立たないとして成立する幾何学の総称。非ユークリッドな幾何学の公理系を満たすモデルは様々に構成されるが、計量をもつ幾何学モデルの曲率を一つの目安としたときの両極端の場合として、至る所で負の曲率をもつ双曲幾何学と至る所で正の曲率を持つ楕円幾何学(特に球面幾何学は楕円幾何学の代表的なモデルである)が知られている。 ユークリッドの幾何学は、至る所曲率0の世界の幾何であることから、双曲・楕円に対して放物幾何学と呼ぶことがある。平易な言葉で表現するならば、「平面上の幾何学」であるユークリッド幾何学に対して、「曲面上の幾何学」が非ユークリッド幾何学である。
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'''非ユークリッド幾何学'''(ひユークリッドきかがく、{{Lang-en|''non-Euclidean geometry''}})は、[[ユークリッド幾何学]]の[[平行線公準]]が成り立たないとして成立する[[幾何学]]の総称。非ユークリッドな幾何学の公理系を満たすモデルは様々に構成されるが、計量をもつ幾何学モデルの[[曲率]]を一つの目安としたときの両極端の場合として、至る所で負の曲率をもつ[[双曲幾何学]]と至る所で正の曲率を持つ[[楕円幾何学]](特に[[球面幾何学]]は楕円幾何学の代表的なモデルである)が知られている。
ユークリッドの幾何学は、至る所[[曲率]]0の世界の幾何であることから、双曲・楕円に対して'''放物幾何学'''と呼ぶことがある。平易な言葉で表現するならば、「[[平面]]上の[[幾何学]]」である[[ユークリッド幾何学]]に対して、「[[曲面]]上の幾何学」が非ユークリッド幾何学である。
== 歴史 ==
{{Main|平行線公準}}
=== 平行線公準 ===
[[ユークリッド]]の著した『[[原論]]』({{En|''Elements''}}) の1~4巻に於いては、今日で言うところのユークリッド幾何学に関して、[[古代ギリシア]]数学の成果がまとめられている。
さて、「原論」では最初にいくつかの[[公理]]・[[公準]]を述べているが、その中の第5公準が次の、「[[平行線公準]]」と呼ばれるものである。
: 2直線に他の1直線が交わってできる同じ側の内角の和が2直角より小さいなら、この2直線を延長すると、2直角より小さい側で交わる。
これは他の公理に比べて自明性は低く、また明らかに冗長であったので、いくつかの疑念を生ずることとなった。
* 公理・公準として扱うことは正しいのだろうか? [[定理]]なのでは無いだろうか。
* あるいは、もっと自明で簡潔な、[[同値]]な[[命題]]が存在するのではないだろうか。
ここから、平行線公準の証明の試み、あるいは平行線公準の言い換えの試みが始まった。
==== 古代ギリシア ====
* [[プロクロス]]は、「原論」の注釈書に於いて平行線公準が定理なのではないかと述べている。
* [[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]は「平行線公準を証明した」と主張したが、その証明は巡り巡って「原論」第1 巻命題 29 に依っており、命題 29 は平行線公準により証明されているので主張は正しくなかった。
==== アラビア ====
ユークリッドの『幾何学原論』はアラビア語に翻訳されて保持された。
11世紀ペルシャの[[ウマル・ハイヤーム]]は『ユークリッドの難点に関する議論』 (Risâla fî sharh mâ ashkala min musâdarât Kitâb 'Uglîdis) を著している。この著作は[[ジョヴァンニ・ジローラモ・サッケーリ]]に多くの影響を与えている。13世紀のイスラム世界を代表する学者である[[ナスィールッディーン・トゥースィー|ナスィールッディーン・アル・ディーン・アル・トゥースィー]]の遺稿をまとめた『ユークリッド原論編述』は1294年に発表された。このなかで彼は、第5公準を「すべての三角形の内角の和は2直角に等しい」と読み替えているが、これもまたサッケリーニに影響を与え、サッケリーニは「直角仮定」と呼んだ。
『ユークリッド原論編述』は、[[バースのアデラード]]によってラテン語に翻訳され、さらに{{仮リンク|ノヴァラのカンパナス|en|Campanus of Novara}}が注を施した版に基づいて{{仮リンク|エアハルト・ラトドルト|en|Erhard Ratdolt}}によって1482年にヴェネツィアにおいて始めて出版された<ref>慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション 2021年9月30日閲覧https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/incunabula/025</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=楠葉隆徳 |url=https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000031Repository_01003196 |title=<論考> アラビア語とサンスクリット版ユークリッド『原論』にみる三平方の定理 (経済学部特集号: 本多三郎教授退職記念号) |journal=大阪経大論集 |issn=0474-7909 |date=2010-07 |volume=61 |issue=2 |pages=99-112 |naid=120005534680}}</ref>。
==== 近代ヨーロッパ ====
古代ギリシャ以降も、無数の「平行線公準の証明」が生まれたが、多くはプトレマイオスと同じ過ちを犯していた。しかし、その結果として無数の「平行線公準と同値な命題」が作られた。
[[ジョバンニ・ジローラモ・サッケーリ]]は、[[1773年]]、論文「あらゆる汚点から清められたユークリッド」 (''Euclides ab Omni Naevo Vindicatus'') において、鋭角仮定・直角仮定・鈍角仮定という互いに背反かついずれかは成立するような仮定を設定し、直角仮定から平行線公準を導けることを示した。
同論文の定理9および定理15により、各仮定をより分かりやすく言い換えるなら次の通りである。
;鋭角仮定: 三角形の内角の和は2直角よりも小さい
;直角仮定: 三角形の内角の和は2直角に等しい
;鈍角仮定: 三角形の内角の和は2直角よりも大きい
[[サッケーリ]]は、鈍角仮定および鋭角仮定は矛盾を生じると主張したが、その証明に於いてはやはり[[平行線公準]]に依存する命題を使ってしまっており、証明としては正しくなかった。しかしながら、上の3つの分類はその後の非ユークリッド幾何学の構築に大きな役割を果たした。
また[[ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト]]も[[1766年]]執筆の論文「平行線の理論」に於いて同様の主張をしている。この論文は[[1786年]]に発見された。
[[カール・フリードリヒ・ガウス]]は、[[1824年]]11月8日の手紙に於いて、鋭角仮定のもとで整合的な幾何学が成立する可能性を示唆し、そこにはある定数があってこれが大きいほど通常の幾何学に近づくと述べた。
ガウスの言うある定数とは、現代の言葉で言えば空間の曲率 ''k'' に対し、 -(1/''k'') のことである。ガウス個人は非ユークリッド幾何の存在を確信していたと見られるが公表はしていない。
=== 非ユークリッド幾何学の成立 ===
[[ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー]]は「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」([[1829年]])において、「虚幾何学」と名付けられた[[双曲幾何学]]のモデルを構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。
[[ボーヤイ・ヤーノシュ]]は父・[[ボーヤイ・ファルカシュ]]の研究を引き継いで、[[1832年]]、「空間論」を出版した。「空間論」では、平行線公準を仮定した幾何学 (Σ) 、および平行線公準の否定を仮定した幾何学 (S) を論じた。更に、[[1835年]]「ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明」において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないと証明した。
[[ベルンハルト・リーマン]]は[[リーマン球面]]と呼ばれる[[楕円幾何学]]のモデルを構成した。
あわせて4人が3通りの方法を発見した。その結果をまとめると以下のようになる。
なお、ここでは曲がった面上や空間内の「直線」は二点間の最短距離を実現する曲線(つまり[[測地線]])を指すのであって、まっすぐな線のことではない。さらに、[[平行]]線は絶対に交わらない二本の直線であって、同角度に伸びている線を意味しない。
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|+研究結果
!結論!!楕円幾何学!!ユークリッド幾何学(放物幾何学)!!双曲幾何学
|-
!平行線の数
|0本||1本||2本以上
|-
!代表的なモデル
|[[リーマン球面]]||ユークリッド平面||[[:en: pseudosphere|擬球面]]
|}
== 幾何学の相補性 ==
楕円・放物・双曲の各幾何学は、互いに他を否定する存在ではなく、いわば並行に存在しうる幾何学であることを注意しておきたい。各幾何は、それぞれ他の幾何の中に(少なくとも局所的には)モデルを持ち、したがって互いに他の体系の正当性を保証することになるからである。
特に楕円・放物・双曲の各幾何学はユークリッド幾何学の上にモデルが作られる。よって理論Tに対してTが無矛盾であることとTのモデルが存在することは同値というよく知られた事実により、「ユークリッド幾何学が無矛盾な体系であれば他の幾何学も無矛盾」ということがわかる。
ここでらユークリッド幾何学の無矛盾性は実数体の理論の無矛盾性に帰着されることを注意しておく。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=近藤洋逸|authorlink=近藤洋逸|date=2008-10-08|title=新幾何学思想史|series=ちくま学芸文庫 Math&Scienceシリーズ|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-09163-5|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480091635/|ref=近藤2008}}
*{{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|date=1996-12-10|title=復刻版 近世数学史談・数学雑談|chapter=2. 平行線の話|publisher=共立出版|pages=42-81|isbn=4-320-01551-7|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320015517|ref=高木1996}}
*{{Cite book|和書|author=寺阪英孝|authorlink=寺阪英孝|date=1977-05-25|title=非ユークリッド幾何の世界 幾何学の原点をさぐる|series=ブルーバックス 312|publisher=講談社|isbn=4-06-117912-8|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000128939|ref=寺阪1977}}
**{{Cite book|和書|author=寺阪英孝|date=2014-08-20|title=非ユークリッド幾何の世界 幾何学の原点をさぐる|series=ブルーバックス B-1880|edition=新装版|publisher=講談社|isbn=978-4-06-257880-6|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000194841|ref=寺阪2014}}
*{{Cite book|和書|author=中岡稔|authorlink=中岡稔|date=1993-03-01|title=双曲幾何学入門 線形代数の応用|series=数理科学ライブラリ 5|publisher=サイエンス社|isbn=4-7819-0688-5|url=http://www.saiensu.co.jp/?page=book_details&ISBN=ISBN978-4-7819-0688-1&YEAR=1993|ref=中岡1993}}
*{{Cite book|和書|date=2009-01-15|title=宇宙や法則がよくわかるやさしい数学の世界 黄金比,無限,銀河系の質量は?|series=ニュートンムック Newton別冊|publisher=ニュートンプレス|isbn=978-4-315-51849-8|url=http://www.newtonsanseido.com/cart/book_view.php?book_code=0000000000063223&cart_no=2013012710421617|ref=ニュートンプレス2009}}
*{{Cite book|和書|author=深谷賢治|authorlink=深谷賢治|date=2004-09-07|title=双曲幾何 現代数学への入門|publisher=岩波書店|isbn=4-00-006882-2|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/2/0068820.html|ref=深谷2004}}
*{{Cite book|和書|author=谷口雅彦|authorlink=谷口雅彦|coauthors=[[奥村善英]]|year=1996|month=9|title=双曲幾何学への招待 複素数で視る|publisher=培風館|isbn=456-300242-9|url=http://www.washin.co.jp/honya/outline/4-563-00242-9.htm|ref=谷口&奥村1996}}
== 関連項目 ==
* [[楕円幾何学]]
** [[球面幾何学]]
* [[双曲幾何学]](ボヤイ・ロバチェフスキー幾何学)
* [[公理主義]]
* [[リーマン幾何学]]
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|title=Non-Euclidean Geometry|urlname=Non-EuclideanGeometry}}
* {{MathWorld|title=Euclid's Postulates|urlname=EuclidsPostulates}}
* {{MathWorld|title=Hyperbolic Geometry|urlname=HyperbolicGeometry}}
* {{MathWorld|title=Elliptic Geometry|urlname=EllipticGeometry}}
* {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
{{Geometry-footer}}{{実証主義}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ひゆうくりつときかかく}}
[[Category:幾何学]]
[[Category:エウクレイデス]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:数学のエポニム]]
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ジャズ・ロック
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ジャズ・ロック (Jazz Rock) とはジャズ音楽のジャンルで、1960年代後半にジャズおよびロックより発展した音楽ジャンルである。欧米ではJazz fusionと呼ばれることもある。
1960年代に、ビートルズやローリング・ストーンズなどの電気楽器を使用したロックミュージックが台頭し、ジャズは押され気味になった。それらの影響を受け、ジャズにおいても電気楽器(エフェクトを多用したエレクトリック・ギターや、エレクトリックピアノ)を使用したロック的な奏法を取り入れ、新しい演奏スタイルが生まれた。また、ロックのジャンルにおいてもより即興演奏を中心とするスタイルが発展した。これをジャズ・ロックと分類した。
ジャズ分野で既に名声を獲得していたマイルス・デイヴィスやジミー・スミス、ジョン・マクラフリン、ハービー・ハンコックなどが音楽的試みとして、演奏に取り入れた。さらに、70年代にはクロスオーバーや、商業主義的なポップ・ジャズのフュージョンへと変化していった。
1960年代末から70年代初頭にかけて、英国のロック及びジャズ系のミュージシャンがジャズ・ロック・アルバムを発表した。コロシアム、ソフト・マシーンやニュークリアスらが代表格である。他にフィル・コリンズが在籍したブランドX、グラハム・コリアー、マイク・ウェストブルック、ニール・アードレイらがいた。
アメリカのジャズ・ミュージシャンによる電気楽器の使用は、その後クロスオーバーなどに発展したが、英国でのロック系音楽家によるジャズ・ロックは1970年代後半に衰退した。だが、イタリアのアルティ・エ・メスティエリなど欧州の各国でプログレ的なアプローチが試みられた。ドイツではMoodレコードから10人編成のユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブルが1977から2002年まで、約25年間活躍した。
ジャズ・サイドでロックの影響を受けたジャズメンは、それまでの4ビートのジャズにはなかった8ビートや16ビートを取り入れた。ただし、ジャズ・サイドから電気的アプローチをしたため、ジャズ・ロックとは若干異なる「エレクトリック・ジャズ」へと発展した。マイルス・デイヴィスの「ビッチェズ・ブリューは」は、クロスオーバーが登場する以前は、エレクトリック・ジャズ、ジャズ・ロックの代表的なアルバムとして位置付けられた。
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ジャズ・ロック とはジャズ音楽のジャンルで、1960年代後半にジャズおよびロックより発展した音楽ジャンルである。欧米ではJazz fusionと呼ばれることもある。
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'''ジャズ・ロック''' (''Jazz Rock'') とはジャズ音楽のジャンルで、1960年代後半に[[ジャズ]]および[[ロック (音楽)|ロック]]より発展した音楽ジャンルである。欧米では[[:en:Jazz fusion|Jazz fusion]]と呼ばれることもある。
==概要==
[[1960年代]]に、[[ビートルズ]]や[[ローリング・ストーンズ]]などの電気楽器を使用した[[ロック (音楽)|ロック]]ミュージックが台頭し、ジャズは押され気味になった。それらの影響を受け、ジャズにおいても[[電気楽器]](エフェクトを多用した[[エレクトリック・ギター]]や、[[エレクトリックピアノ]])を使用したロック的な奏法を取り入れ、新しい演奏スタイルが生まれた。また、ロックのジャンルにおいてもより即興演奏を中心とするスタイルが発展した。これを'''ジャズ・ロック'''と分類した。
ジャズ分野で既に名声を獲得していた[[マイルス・デイヴィス]]や[[ジミー・スミス]]、[[ジョン・マクラフリン]]、[[ハービー・ハンコック]]などが音楽的試みとして、演奏に取り入れた。さらに、70年代には[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]や、商業主義的なポップ・ジャズの[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]へと変化していった。
1960年代末から70年代初頭にかけて、英国のロック及びジャズ系のミュージシャンがジャズ・ロック・アルバムを発表した。[[コロシアム (バンド)|コロシアム]]<ref>{{AllMusic |first=Mark |last=Deming |title=Colosseum Biography, Songs & Albums |class=artist |id=mn0000090945/biography |accessdate=2021-12-29 }}</ref>、[[ソフト・マシーン]]や[[ニュークリアス (バンド)|ニュークリアス]]らが代表格である。他にフィル・コリンズが在籍したブランドX、[[グラハム・コリアー]]、[[マイク・ウェストブルック]]、[[ニール・アードレイ]]らがいた。
アメリカのジャズ・ミュージシャンによる電気楽器の使用は、その後クロスオーバーなどに発展したが、英国でのロック系音楽家によるジャズ・ロックは[[1970年代]]後半に衰退した。だが、イタリアの[[アルティ・エ・メスティエリ]]など欧州の各国でプログレ的なアプローチが試みられた。ドイツではMoodレコードから10人編成の[[ユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブル]]が1977から2002年まで、約25年間活躍した。
==代表的なアーティスト==
*[[アラン・ホールズワース]]
*[[アルティ・エ・メスティエリ]]
*[[アレア (バンド)|アレア]]
*[[イアン・カー]]
*[[ウェザー・リポート]]
*[[コロシアム (バンド)|コロシアム]]、[[コロシアムII]]
*[[ゴング (バンド)|ゴング]]
*[[サンタナ (バンド)|サンタナ]]
*[[ジェフ・ベック]]
*[[ソフト・マシーン]]
*[[トニー・ウィリアムス]]
*[[ニール・アードレイ]]
*[[ニュークリアス (バンド)|ニュークリアス]]
*[[ハットフィールド・アンド・ザ・ノース]]
*[[ビリー・コブハム]]
*[[ビル・ブルーフォード]]
*[[ブランドX]]
*[[マイク・ウェストブルック]]
*[[マイルス・デイヴィス]]
*[[マハヴィシュヌ・オーケストラ]] ([[ジョン・マクラフリン]])
==エレクトリック・ジャズ==
ジャズ・サイドでロックの影響を受けたジャズメンは、それまでの4ビートのジャズにはなかった8ビートや16ビートを取り入れた。ただし、ジャズ・サイドから電気的アプローチをしたため、ジャズ・ロックとは若干異なる「エレクトリック・ジャズ」へと発展した<ref>{{AllMusic |title=Electric Jazz Music Genre Overview |class=style |id=ma0000012242 |accessdate=2021-12-29 }}</ref>。マイルス・デイヴィスの「ビッチェズ・ブリューは」は、クロスオーバーが登場する以前は、エレクトリック・ジャズ、ジャズ・ロックの代表的なアルバムとして位置付けられた<ref>Stuart Nicholson, ''JAZZ ROCK: a History'', 1998</ref>。
*[[マイルス・デイヴィス]]『ビッチェズ・ブリュー』
*[[ハービー・ハンコック]]『ヘッド・ハンターズ』
*[[ジミー・スミス]]『ルート・ダウン』
== 脚注 ==
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== 参考文献/参考資料 ==
* {{Cite book|和書
|author = 細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、加藤総夫、柳沢てつや、北里義之、大村幸則、瀧口秀之、西島多恵子、山下泰司、黒田京子、桜井圭介、上野俊哉、米田栄、田辺秀樹、高橋順一、川竹英克、田村和紀夫、大宅緒、高見一樹、島原裕司、柴俊一
|title = 新版 ジャズを放つ
|date = 1997-02
|publisher = 洋泉社
|series =
|isbn = 4896912500
|page = 23
}}
* 『ヨーロッパのジャズ・ディスク1800』 ジャズ批評社〈ジャズ批評別冊〉1998年3月
* 松井巧著『ブリティッシュ・ジャズ・ロック』 エクシードプレス〈EXCEED PRESS POP CULTURE SERIES〉1999年7月
* 『英国ロックの深い森 1955-1975』 [[ミュージック・マガジン]]〈レコード・コレクターズ増刊〉2001年8月
* 「特集 ジャズ・ロックって 何だ?」『ジャズ批評』2011年9月号(163号)ジャズ批評社
==関連項目==
*[[ブラス・ロック]]
*[[カンタベリー系]]
*[[ファンキー・ジャズ]]
{{ジャズ}}
{{ロック・ミュージック}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しやすろつく}}
[[Category:ジャズのジャンル]]
[[Category:ロックのジャンル]]
[[Category:アメリカ合衆国の音楽]]
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11,208 |
性同一性障害
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性同一性障害(せいどういつせいしょうがい)・性別違和(せいべついわ)・性別不合(せいべつふごう)は、「出生時に割り当てられた性別とは異なる性の自己意識を持ち、自らの身体的性別に持続的な違和感を覚える状態」をいう医学的な診断名および状態像。アメリカ精神医学会のDSM-5では性別違和、WHOのICD-11ではGender Incongruenceと呼称されるようになった。なお、2023年時点で日本の医学関連学会から構成される精神科病名検討連絡会は「Gender Incongruence」の訳語として「性別不合」を用いている。以前は性転換症とも呼ばれた。
日本の法律では、自己意識に一致する反対の性別を求め、時には自らの身体的性別を自己意識のそれに近づけるべく2004年に日本で施行された性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律に基づき性ホルモン治療を含む診療行為や性別適合手術などを受けて戸籍変更や名義変更を望む状態を主に言う。
性同一性障害の者は、性同一性障害者当事者もくしはgender identity disorder当事者(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダーとうじしゃ)と呼ばれ、略称はGID当事者(ジーアイディーとうじしゃ)などと呼ばれる。また診断名などとは別に、身体的性別と異なる性同一性をもち、性別適合手術を希望して予定している者、特に手術済みトランスジェンダーの者をトランスセクシャル(TS)と呼ぶ。
なお、体の性の変異に関わる性分化疾患、同性愛など性的指向は、それぞれ性同一性とは別個の概念であり、性同一性障害とは別のものである。また異性装も別の概念であり、異性装者でも性同一性障害とは一切関わりのない場合がある(後述参照)。
人は、意識するしないにかかわらず「自身がどのような人間か、社会の中でどのように振るまう存在かという自己の認識(自己同一性、アイデンティティー)」をもって生きており、そのうち特に「自身がどの性別に属するかという感覚、どのような男性や女性、或いは性別的ありかたを持っているかについての自己の認識」を性同一性という。
性同一性は、医学界におけるGender Identity (gender [性] - identity [同一性]) への伝統的な訳語であり、「男性または女性としての自己の統一性、一貫性、持続性」「自身がどの性別に属するかという感覚、男性または女性であることの自己の認識」という意味をもつ。その他の訳語として「性の自己意識」「性の自己認知」「自己の性意識」「性自認」、カタカナ表記として「ジェンダー・アイデンティティ」があり、いずれもほぼ同義である。
人々のうち大多数の者の性同一性は、生物学的性別と一致する。身体が男性で性同一性は男性、身体が女性で性同一性は女性である。人々のうち性同一性障害を抱える者の性同一性は、生物学的性別と一致しない。身体が男性で性同一性は女性、身体が女性で性同一性は男性である。この「同一性」とは、「心の性と身体の性が同一」という一致不一致の意味ではなく、アイデンティティー(同一性)、「環境の変化や時間の経過の中でも一貫して連続性を保ち続けている」という意味においての「同一性」である。性同一性障害は、性同一性そのものに異常や障害があるわけではなく、また性同一性が“無い”わけでもない。性同一性障害を抱える者も、そうでない大多数の者も、一様に人はそれぞれに性同一性を持っており、いずれも概して正常である。大多数の者(シスジェンダー)は性同一性と身体の性とが一致し、生来からそれを疑うことなく意識しないほどに至極当然であるため、自身の性同一性を客観的に実感したり認識したりすることが難しい。
性同一性は、性的指向(恋愛の対象とする性別)とは切り離すことのできる概念であり、性同一性がどちらの性別であるかに関して、性的指向はその基軸にはならない。性的指向は相手がいることで成り立つが、性同一性はあくまで自分一人の問題、自己の感覚や認識である。人は物心ついた頃から、おおむね幼年期や児童期頃には(身体的性別とは別に)自己としての性を認識するが、その多くは他者に恋愛感情を持つことで初めて認識するわけではない。性同一性は、単なる(社会的・文化的な)「男らしさ、女らしさ」とも別である。たとえば女性的な男性がすなわち性同一性が女性というものではない。「自分は男らしくない男性」と自覚していても、自己としての性の意識が男性であれば、性同一性は男性である。
多数の人々は、性的特徴(英語版)に基づいて出生時に割り当てられた性別と齟齬のない性同一性を有するが、自身の身体の性別を認識しながらも、自身の性同一性が一致しない人々もいる。そのなかで著しい苦痛を感じる状態を医学的に性同一性障害と呼んできた歴史がある。
過去、性別は身体の形状や、性染色体によって決定される一意的なものと考えられてきた。しかし、先天的に染色体、生殖腺、もしくは解剖学的に性の発達が非定型的である状態にある性分化疾患の症例を研究するうち、性分化疾患の場合、身体の性と性同一性はそれぞれ必ずしも一致しない場合があることがわかった。性同一性障害は、何らかの原因で、生まれつき身体的性別と、性同一性に関わる脳の一部とが、それぞれ一致しない状態で出生したと考えられるようになった。
性同一性障害を抱える者は、身体の性別と性同一性の齟齬に違和感をもったり嫌悪感を覚えながら、生活上のあらゆる状況において身体上の性別に基づいて生活し、また周囲から扱われることを強いられるため、精神的に著しい苦痛を受けることも少なくない。そうした著しい苦痛に対しては、精神医学的な立場からの治療・援助が必要になる場合もあるほか、自身の性同一性に沿った性別での生活や、身体への移行することがある。この性別の移行は容易なものではなく、性別の社会的扱いで混乱に巻き込まれることも多く、法的・公的な扱いとの齟齬もあって、社会生活で不本意な扱いを強いられることもある。
日本では、こうした性同一性障害を抱える人々への治療の効果を高め、社会生活上のさまざまな問題を解消するために、2003年7月16日に性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律を公布、翌年の2004年7月16日に施行した。この法律により、定められた要件を全て満たせば、戸籍上の性別を変更できるようになった。日本国外では、多くのヨーロッパ諸国、アメリカやカナダのほとんどの州で、1970年代から1980年代から立法や判例によって性同一性障害者の法的な性別の訂正を認めている。日本を含めこれらの国の法律は、性別適合手術を受けていることを要件の一つにしているが、新たに21世紀になってから立法したイギリスとスペインでは、性別適合手術を受けていることを要件とせずに法的な性別の訂正を認める法律を定めた。反対にハンガリーでは2020年に性別変更自体を不可とし、翌年にはハンガリーにおける反LGBT法の施行により未成年の性教育に対してLGBTの描写を禁じた。
性同一性障害は、Gender Identity Disorder (gender [性] - identity [同一性] - disorder [障害]) の訳語であり、医学的な疾患名である。国際的な診断基準として、世界保健機関が定めた国際疾患分類「ICD-11」、米国精神医学会が定めた診断基準「DSM-5」があり、医師の診察においてこのいずれかの診断基準を満たすとき、性同一性障害(現在は性別不合もしくは性別違和)と診断する。
「ICD-11」では「体験されたジェンダーと指定された性との間の顕著な不一致」と説明している。「性の健康に関連する状態群」に分類し、精神疾患としては扱っていない(「ICD-10」では「精神および行動の障害」に分類されていた)。
日本の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」では、同法における「性同一性障害者」の定義を、
としている。
出生時点の身体の観察の結果によって医師により割り当てられた性別が、自身の性同一性(ジェンダー・アイデンティティ)と異なる人々を総称してトランスジェンダーと呼ぶ。トランスジェンダーの人々の中には医療的なケア(ジェンダー・アファーミング・ケア(英語版))を受けるために性同一性障害の診断をもらう人々もいるが、性同一性障害と診断されなければトランスジェンダーではないということにはならない。
一部の人々は、性別違和の経験や性別適合手術を受けることがトランスジェンダーであるための条件であると考えており、この考え方はトランスメディカリズム(英語版)と呼ばれている。このトランスメディカリズムはジェンダー本質主義(英語版)と医療化に基づいた発想とみなされており、障害の医学モデル(英語版)に関連する誤った定義だと批判されている。
トランスセクシュアルは古い用語になりつつあり、身体的な性別移行(ジェンダー・トランジション)をする人のことを指していた。性別適合手術を受ける場合もある。ただし、この定義は厳密ではなく、トランスセクシュアルという言葉は必ずしも身体的変化を指すものではないという考えもある。トランスセクシュアルは精神疾患と結び付けられてきた過去もあり、この医学界でよく用いられたトランスセクシュアルという言葉を不快に感じる当事者もいるので、性別移行の有無に限らずあえて使わない人もいる。そのため、性同一性障害の診断をもらってもトランスセクシュアルのラベルを用いるかどうかは個人で異なる。なお、「transsexual(トランスセクシュアル)」と「transsexualism(トランスセクシュアリズム)」の2つの用語は意味が異なり、後述するとおり「transsexualism」(日本語では「性転換症」)は完全に医学的な用語である。
世界保健機関(WHO)の『疾病及び関連保健問題の国際統計分類』(ICD)において、以前の「ICD-10」では「性転換症(Transsexualism)」【F64.0】が用いられていたが、2019年の「ICD-11」からは「性転換症」という言葉を使わずに「性別不合(Gender Incongruence)」という言葉を用い、これを「青年期または成人期の性別不合」【HA60】と「小児期の性別不合」【HA61】の2つに区分している。
この「ICD-11」の「青年期または成人期の性別不合」【HA60】と「小児期の性別不合」【HA61】の2つは、アメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM)、とくに2013年の「DSM-5」における「青年および成人の性別違和」【302.85】と「子どもの性別違和」【302.6】に相当する。
性別違和症候群は、元来、性転換症よりも、広範な概念を持つ。1980年のDSM第3版で性同一性障害が診断名として採択された。
2013年のDSM-5(第5版)では再び性別違和(同じ gender dysphoria だが症候群がない)の診断名となった。
性別違和の用語は、ハリーベンジャミン国際性別違和協会(英語版)が、2006年に世界トランスジェンダー健康専門協会(英語版)(英: World Professional Association for Transgender Health)と改称されるまで性同一性障害と同意の内容を示すのもとしてアメリカ精神医学会を中心に使用されてきた。
なお「gender dysphoria」の中の「dysphoria」は違和感を意味し、ギリシャ語の「δυσφορια」に由来する(悪や苦痛を意味するδυσと、耐えることを意味するφοροςとの合成語で「不快」の意味)。現在も性別適合手術を受けていなくても当事者の法的性別変更を許可した英国のジェンダー承認法(英語版)において当事者に言及する際用いられているほか、オランダなどで米国の精神医学の紹介に関して性同一性障害の別称としてこの「性別違和症候群」という表現が用いられている。
性同一性障害の当事者の一部には、上記の概念のうち主として「同性愛」あるいは「ニューハーフ」と重なることはあるが、これらはその個人としてのありかたの一つであり、多くの当事者は上記の全ての概念と重ならない。諸々の概念はそれぞれとしての事象であり、それぞれとして明確に区別して考える必要がある。
性同一性障害を抱える者は、性の自己意識と身体の性とが一致しない以外は一般の人々となんら変わりはない。そして多くの当事者は、性の自己意識に基づく性別での普通の生活をすることを第一義としている。身体的性別も公にしたがらないため、いたずらに自身が性同一性障害の当事者であることをわざわざ周囲の人に告げることもない。とくに、戸籍上の性別の変更をすでに終えた当事者の場合、自身が性同一性障害であったことすら意識せず平静な日々を送っていることも多い。性同一性障害の当事者が世に表立つことはほとんどないため、大多数の人々は性同一性障害の実際を目にする機会は少ないといえる。
インターネットによる情報収集の際にも、言うまでもなく信頼性のある資料に当たることが大切である。インターネットは玉石混淆のメディアであり、医療機関や専門医、当事者有志による適正な解説もある一方、専門医でも当事者でもない者が、性同一性障害の実際を知らぬまま、誤解を基盤とした差別や偏見、狭く限られた個人的な体験による私感や私情などを根源とする言葉が存在することもありうる。性同一性障害を専門の一つとするある医師は、インターネット上での性同一性障害に関する情報において、なかには誤謬のあるものや、悪質な嘘偽りも多く存在する、との旨を記している。また、インターネットの匿名性においては、実際に性同一性障害との医学的な診断を受けたわけでもなく「自分は性同一性障害」と自称することも容易である。
現在「性同一性障害」という、名こそ広く知られているが、その反面、この疾患名を知る人々の全てが、必ずしもこの疾患概念を正しく把握しているとも限らない。とくに同性愛や男装、女装との混同など、いまだ正しい認識があまねく浸透しているとは言えない。そのような状況にあって、ある者が「性同一性障害」という言葉を用いた時、もしくはある者が「自分は性同一性障害」と自称した時、その者が、同性愛や趣味による男装や女装のことを性同一性障害だと誤認して用いている場合もあり得る。
医療者において、性別違和を主訴とする症例を「primary」と「secondary」(「一次性」と「二次性」)にわける分類がある。また、日本では「中核群」と「周辺群」(Core & Periphery groups) という分類もある。この二つの分類法は、内容は一見すると似ているが、それぞれの概念や発祥、経緯などが別々で、同一にはできない。
医師によって分類の定義がやや異なることがあり、かつ過去において定義の変遷を経ているが、おおむね以下のような分類となる。
原因は解明されていないが、「身体的性別とは一致しない性別への脳の性分化」が有力で、これが主たる原因と考えられている。
人の胎児における体の性分化(男性化・女性化)の機序は極めて複雑であり、数多くの段階をたどる。その過程は、一つでもうまく働かないと異常を起こし得る至妙な均衡のうえに成り立っており、多くの胎児では正常に性分化し発達する一方、性分化疾患におけるさまざまな事例など、人の体の性は必ずしも想定される状態に性分化、発達するとは限らない。胎児期の性分化では、性腺や内性器、外性器などの性別が決定された後、脳の中枢神経系にも同様に性分化を起こし、脳の構造的な性差が生じる。この脳の性差が生ずる際、通常は脳も身体的性別と一致するが、何らかによって身体的性別とは一致しない脳を部分的に持つことにより、性同一性障害を発現したものと考えられる。
男女の脳の差が明らかになるにつれ、この生物学的な要因を根拠づけるいくつかの報告がある。ヒトの脳のうち、男女の差が認められる細胞群はいくつか存在し、そのうちの分界条床核と間質核の第1核とが、人の性同一性(性の自己意識・自己認知)に関連しているとみられる示唆がある。分界条床核と間質核の第1核は、女性のものより男性のものが有意に大きいが、生物学的男性の性同一性障害当事者 (MtF) における分界条床核や間質核の第1核の大きさを調査した結果、女性のものと一致していた。
また、性ホルモンに関わる遺伝子に特徴が示されている研究結果もある。
性同一性障害の症状のその原因は、「性の自己意識と身体の性との不一致」による。単に性別違和を感じることがすなわち性同一性障害ではない。単に、性格が「女っぽい」「男っぽい」から性同一性障害、個人の性分として「男らしいこと」「女らしいこと」が好きあるいは嫌いだから性同一性障害、といったものでもない。
性同一性障害の診察や診断は、その知識を持つ医師によっておこなわれる。上記の症状や診断基準の一覧を用いて、たとえば自分で一つずつ照合するだけでの医学的な診断はできない。また、ほんの僅かでも自身の性別に違和感があったり、少しでも性役割に抵抗を感じたりすることをもって、ただちに「自分は性同一性障害」と断定したり思い込むのは的確ではない。周囲の者が知識もなく安易に「それは性同一性障害」と仕向けることも適切ではない。思春期におけるさまざまな変化や、何らかのきっかけによって、一時的に性の意識が混乱する場合もあり得る。いずれにしても、性別違和とその苦悩が強く持続的である場合は、専門医療機関による診察を受けることが適切といえる。
実際に性同一性障害を有する者は、幼児期や児童期の頃からすでに何らかの性別の違和感を覚えることが多い。
性同一性障害を抱える者それぞれに個々の境遇や心境などがあるため、さまざまな経緯や状態がある。
性同一性障害は、自身の身体への強い嫌悪感、日常において常に反対の性役割を強いられるなどの精神的苦痛から、うつ病、摂食障害、アルコール依存症、不眠症などの合併症を患うことがある。また、過去に自殺企図や自傷行為の既往があることが多く、性別の不一致の苦悩が甚だ深刻なものであるといえる。
国際的な診断基準として、世界保健機関が定めた国際疾患分類「ICD-11」、米国精神医学会が定めた診断基準「DSM-5 がある。また、診断と治療のガイドラインとして、国際的な組織である世界トランスジェンダー・ヘルス専門家協会(英語版)(WPATH)」による『Standards of Care for the Health of Transgender and Gender Diverse People(SOC)』がある。日本では、日本精神神経学会による『性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン』があり、2002年に第2版、2006年に第3版、2012年の第4版が発表されている。
日本精神神経学会『性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン』では、診断はおよそ次のようにおこなわれる。
性同一性障害の診察や診断には、そのことに関する正確な知識、充分な理解を持つことが望まれる。また治療者は受容的かつ共感的な態度が要求される。治療者側が、性同一性障害についての心性を理解できず、陰性感情を抱き、受容的共感的な態度が保持できない場合は、性同一性障害に対する治療者として不適切であり、治療をおこなうべきではない。
性別違和が一時的なものではなく、持続的なものであるかを確認するため、ある程度の一定の期間をかけて診察をおこなう必要がある。
性別違和や性別移行の願望などを訴えるものが必ずしも性同一性障害とは限らず、他の精神疾患や関連しない性のありようなどによって、類似の症状、訴え、外観を持つことがある。鑑別すべき性のありようとして「同性愛」「異性装」「Transvestic fetishism」などがある。鑑別すべき精神疾患は、性同一性障害に精通した精神科医により、「解離性同一性障害」・「統合失調症」・「気分障害」・「自閉スペクトラム症」などが挙げられているが、除外診断ではないため、これらの精神疾患に罹患している者に対しても、性同一性障害の診断が出ることは当然ある。特に、「抑うつ」は度々併存することが指摘されているし、「自閉スペクトラム症と性別違和」は精神医学の研究として世界的にも度々出てくるテーマである。他の精神障害は「併存」か「除外」なのかについて慎重かつ正確な鑑別が精神科医に求められる。
性同一性障害の診断と治療の指針である日本精神神経学会「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン (第3版)」では、社会への適応のサポートを中心とする精神科領域の治療と、身体的特徴をジェンダー・アイデンティティと適合する性別へ近づけるための身体的治療(ホルモン療法、乳房切除、性別適合手術、美容整形、医療脱毛など)で構成される。性同一性障害に対する診断と治療への理解と関心、充分な知識と経験を持った医師らによる医療チーム(診療科はおもに精神科、形成外科、泌尿器科、産婦人科など)が診断と治療をおこなう。
性同一性障害の診療の始めが精神科領域の治療であるのは、おもに精神的サポートや助言、当事者の「人生をどのように生きるか」などの希望を明らかにするため、除外診断をおこなうなどのためにある。身体的治療は、精神科領域の治療の後も性別の不一致による苦悩が続き、本人自らが身体的治療を希望する場合において、医療者による適応の判定を経て、本人の自己責任と自己決定のもとに選択する。身体的治療への移行は、精神科領域の治療と性同一性障害の診断の確定を省くことはできない。
なお、性同一性障害に対し、「心のほうを身体の性に一致させる」という治療は、以下の経験的、現実的、倫理的な理由によりおこなわれない。
精神科領域の治療としては、当事者のQOL(生活の質)の向上を目的として次のようなことを行う。
これらの診療は性同一性障害かどうかの診断と重なる部分もあるので、平行して行われることも多い。
身体的治療には性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律に基づきホルモン療法を行い、特に性別適合手術は戸籍変更の上では必要不可欠な要件となる。
併せて、トランス女性には場合や必要に応じて、美容整形 、医療脱毛 ・声帯手術・喉頭隆起切除術、豊胸術 などがあり、トランス男性には乳房切除がある。
当事者の身体的性別とは反対の性ホルモンを投与することで、身体的特徴を本来の性(性の自己意識)に近づける治療。ジェンダー・アイデンティティに一致する性別での社会生活を容易にするとともに、身体の性の不一致による苦悩を軽減する効果が認められている。
性ホルモンの投与によって、身体的変化のほか、副作用をともない、また身体的変化には不可逆的な変化も起こり得る。ホルモン療法の開始にあたっては、性同一性障害の診断の確定のうえ、性ホルモンの効果や限界、副作用を充分に理解していることや、新たな生活へ必要充分な検討ができていること、身体の診察や検査、18歳以上であることなどのいくつかの条件がある。
FtM に対してはアンドロゲン製剤を、MtF に対してはエストロゲン製剤などを用いる。
投与形態は注射剤、経口剤、添付薬があるが、日本においては注射剤が一般的に使われる。添付薬に次いで注射剤が副作用が少ないが、長期にわたる注射のために、注射部位(多くは三角筋あるいは大臀筋)の筋肉の萎縮を引き起こすことがある。
生物学的女性へのアンドロゲン製剤、および生物学的男性へのエストロゲン製剤の投与をおこなった場合、次のような変化が起こり得る。なかには不可逆的な変化もあり得る。(※ 特に、生物学的男性における精巣萎縮と造精機能喪失。生物学的女性における声帯の変化)
医学的対処を求めて受診する性同一性障害患者の中には、早急なホルモン療法の適用を望む者も多いが、ガイドラインにそった治療においては、精神科領域の治療と性同一性障害の診断、ホルモン療法の適応判定を省くことはできない。他方で、男性化した身体は不可逆的であることから、せめて女性化を促すのではなく単に男性化を一時的に停止させる抗男性ホルモン剤の使用はより広く特に未成年者に認められるべきであるとする見解もある。
下記の性別適合手術や女性ホルモン治療の他に美容整形(顔の女性化手術(FFS)・喉頭隆起切除術など)や医療脱毛・声帯手術・豊胸術などで外見を女性に近づけて生活の質を上げるために行う手術や診療行為がある。
FtMの場合、アンドロゲンを投与しても乳房の縮小はほとんど起こらないので乳房切除術が必要となる場合がある。
乳房が小さい場合には乳輪の周囲を切開して乳腺など内部組織を掻き出し、余剰皮膚を切り取る方式をとる。これは瘢痕が目立たない。
乳房が大きい場合や(乳房を不快に思って圧迫するなどにより)下垂している場合には、乳房の下溝に沿って皮膚を切開する方式を用いる。乳頭は一度遊離させて適切な位置に移植する必要がある。瘢痕が目立つことも多い。
外科的手法によって本来の性(性の自己意識)に合わせて形態を変更する手術療法のうち、顔面女性化手術(FFS)や喉頭隆起切除術や乳房切除術などがあるが主に内性器と外性器に関する手術を「性別適合手術」(sex reassignment surgery、SRS) という。
MtF に対しては、精巣摘出術、陰嚢皮膚切除術、陰茎切除術、女性外陰部形成術、造膣術(希望者のみ)などがある。FtM に対しては、子宮卵巣摘出術、膣粘膜切除・膣閉鎖術、尿道延長術、陰茎形成術がある。
MtF では精巣摘出および男性外性器切除術、FtM では子宮卵巣摘出によって、生殖能力(子供をつくる能力)は永久的に失われる。これは不可逆で、もとに戻すことはできない。併せて、男性または女性としての新たな生殖能力も得られない。副作用としては、骨粗鬆症などの可能性から、ホルモン療法は生涯にわたって継続すべきものとなる。
手術療法は、過去には「性転換手術」とも呼ばれてきたが、現在では「性別適合手術」が正式な名称として用いられている。原語は、英語の sex reassignment surgery であるが、“reassignment” は「再び割り当てる」という意味で、日本語訳として「性別再割り当て手術」「性別再判定手術」「性別再指定手術」がある。日本のGID学会、日本精神神経学会は「性別適合手術」を用いている。change(転換)を用いた「sex change surgery」という英語は用語として存在しない。
生物学においての「性転換」という用語は、雌雄いずれかに決定していた動植物の個体が生態として反対の性の機能を得ることに用いられる。また、当事者の性の同一性は生来から一貫しており、当事者は性別を「転換、チェンジ (change)」するものではないとして「性転換」という言葉を嫌うことがある。他に使われる用語として「性の移行、性別移行 gender shift」「性別再割り当て、性別再割当 sex reassignment」「性別再判定」「性別再指定」がある。
日本においては、法律に定められた要件を満たせば戸籍の性別変更が可能だが、そのために必要なホルモン療法や性別適合手術には健康保険の適用がなされていない。ただし、ホルモン療法については戸籍変更後であればホルモン補充療法という形で健康保険の適用を受けることができる場合がある(現在、戸籍変更後のホルモン補充療法への健康保険の適用をめぐって裁判になっており、被告国は健康保険の適用にならない旨を主張している)。また、性別適合手術においては経済的な負担を理由に健康保険の適用を求める当事者がいる一方、すでにある程度の当事者が自己負担で手術を受けて終えていることも性同一性障害特例法による性別の取扱いの変更数(2014年末現在までに総数5166名) などから確認できる。
性別適合手術を経た人のうち、世間の認識との誤解に苦しんで自殺した人の割合は全体の4割に及ぶ。また、全体の7割は自殺を考えたことがあるとされている。
日本では、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」第2条において、「性同一性障害者」が同法第3条第1項各号に該当する場合、請求による家庭裁判所の性別の取扱いの変更の審判によって、民法をはじめとする各法令手続き上の性別が変更されたものとみなされる。一般的には、戸籍法における「男女の別」の変更を示している。
第三条の定める要件は以下のとおり。ただし、第4号の要件については2023年10月25日に最高裁判所大法廷が憲法13条(個人の尊厳・幸福追求権)に違反し無効であると判断している。 併せて、主に陰茎切除術などのトランス女性に必須であった「変更先の性別の性器に類似した外観を持つようにするための手術を必要とする要件」(本法3条1項第5号)については高裁にて検討されていないとしてここでは判断はせずに審理を高裁に差し戻した。
一 十八歳以上であること。 二 現に婚姻をしていないこと。 三 現に未成年の子がいないこと。 四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。 五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
このほか「障害者基本法」や「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(略称は障害者差別解消法)」でも性同一性障害は広く同法の対象となっており、企業などで雇用されている当事者が保護される法律となっている。
障害者基本法第4条2項にて「社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。」とした。
これを受け、障害者差別解消法の中でも、この「合理的配慮」の実施が、日本国政府や地方公共団体や独立行政法人や特殊法人については義務(強制)として、また一般事業者については努力義務として位置づけられている。
先進国の多くでは、法律によって性同一性障害者の法的な性別の訂正または変更を認めている。
「性別移行者」「性同一性障害者」「トランスジェンダー」に該当する人物が登場する作品。「性同一性障害」という概念が生まれる前の作品も含む。ただし、製作に当事者が直接関わっていない作品が大半のため、実際の性同一性障害者とは状態が異なる。例えば、同性を愛しすぎたゆえに異性になることを決意する、恋愛対象によって性同一性が再形成されるなどの表現、同性愛と性同一性障害の混同、さらに異性を演じる職務にある人物や女装趣味嗜好のある人物、「ごっこ遊び」的感覚を持つ同性愛者を性同一性障害であるかのように扱う表現、「ニューハーフ」「オカマ」などの言葉を「性同一性障害者」と同義語であるかのように使用するといった誤用がある。
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"text": "性同一性障害(せいどういつせいしょうがい)・性別違和(せいべついわ)・性別不合(せいべつふごう)は、「出生時に割り当てられた性別とは異なる性の自己意識を持ち、自らの身体的性別に持続的な違和感を覚える状態」をいう医学的な診断名および状態像。アメリカ精神医学会のDSM-5では性別違和、WHOのICD-11ではGender Incongruenceと呼称されるようになった。なお、2023年時点で日本の医学関連学会から構成される精神科病名検討連絡会は「Gender Incongruence」の訳語として「性別不合」を用いている。以前は性転換症とも呼ばれた。",
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"text": "性同一性障害の者は、性同一性障害者当事者もくしはgender identity disorder当事者(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダーとうじしゃ)と呼ばれ、略称はGID当事者(ジーアイディーとうじしゃ)などと呼ばれる。また診断名などとは別に、身体的性別と異なる性同一性をもち、性別適合手術を希望して予定している者、特に手術済みトランスジェンダーの者をトランスセクシャル(TS)と呼ぶ。",
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"text": "日本では、こうした性同一性障害を抱える人々への治療の効果を高め、社会生活上のさまざまな問題を解消するために、2003年7月16日に性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律を公布、翌年の2004年7月16日に施行した。この法律により、定められた要件を全て満たせば、戸籍上の性別を変更できるようになった。日本国外では、多くのヨーロッパ諸国、アメリカやカナダのほとんどの州で、1970年代から1980年代から立法や判例によって性同一性障害者の法的な性別の訂正を認めている。日本を含めこれらの国の法律は、性別適合手術を受けていることを要件の一つにしているが、新たに21世紀になってから立法したイギリスとスペインでは、性別適合手術を受けていることを要件とせずに法的な性別の訂正を認める法律を定めた。反対にハンガリーでは2020年に性別変更自体を不可とし、翌年にはハンガリーにおける反LGBT法の施行により未成年の性教育に対してLGBTの描写を禁じた。",
"title": "概念"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害は、Gender Identity Disorder (gender [性] - identity [同一性] - disorder [障害]) の訳語であり、医学的な疾患名である。国際的な診断基準として、世界保健機関が定めた国際疾患分類「ICD-11」、米国精神医学会が定めた診断基準「DSM-5」があり、医師の診察においてこのいずれかの診断基準を満たすとき、性同一性障害(現在は性別不合もしくは性別違和)と診断する。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "「ICD-11」では「体験されたジェンダーと指定された性との間の顕著な不一致」と説明している。「性の健康に関連する状態群」に分類し、精神疾患としては扱っていない(「ICD-10」では「精神および行動の障害」に分類されていた)。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "日本の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」では、同法における「性同一性障害者」の定義を、",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "としている。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "出生時点の身体の観察の結果によって医師により割り当てられた性別が、自身の性同一性(ジェンダー・アイデンティティ)と異なる人々を総称してトランスジェンダーと呼ぶ。トランスジェンダーの人々の中には医療的なケア(ジェンダー・アファーミング・ケア(英語版))を受けるために性同一性障害の診断をもらう人々もいるが、性同一性障害と診断されなければトランスジェンダーではないということにはならない。",
"title": "類似の用語との違い"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "一部の人々は、性別違和の経験や性別適合手術を受けることがトランスジェンダーであるための条件であると考えており、この考え方はトランスメディカリズム(英語版)と呼ばれている。このトランスメディカリズムはジェンダー本質主義(英語版)と医療化に基づいた発想とみなされており、障害の医学モデル(英語版)に関連する誤った定義だと批判されている。",
"title": "類似の用語との違い"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "トランスセクシュアルは古い用語になりつつあり、身体的な性別移行(ジェンダー・トランジション)をする人のことを指していた。性別適合手術を受ける場合もある。ただし、この定義は厳密ではなく、トランスセクシュアルという言葉は必ずしも身体的変化を指すものではないという考えもある。トランスセクシュアルは精神疾患と結び付けられてきた過去もあり、この医学界でよく用いられたトランスセクシュアルという言葉を不快に感じる当事者もいるので、性別移行の有無に限らずあえて使わない人もいる。そのため、性同一性障害の診断をもらってもトランスセクシュアルのラベルを用いるかどうかは個人で異なる。なお、「transsexual(トランスセクシュアル)」と「transsexualism(トランスセクシュアリズム)」の2つの用語は意味が異なり、後述するとおり「transsexualism」(日本語では「性転換症」)は完全に医学的な用語である。",
"title": "類似の用語との違い"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "世界保健機関(WHO)の『疾病及び関連保健問題の国際統計分類』(ICD)において、以前の「ICD-10」では「性転換症(Transsexualism)」【F64.0】が用いられていたが、2019年の「ICD-11」からは「性転換症」という言葉を使わずに「性別不合(Gender Incongruence)」という言葉を用い、これを「青年期または成人期の性別不合」【HA60】と「小児期の性別不合」【HA61】の2つに区分している。",
"title": "名称の変遷"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "この「ICD-11」の「青年期または成人期の性別不合」【HA60】と「小児期の性別不合」【HA61】の2つは、アメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM)、とくに2013年の「DSM-5」における「青年および成人の性別違和」【302.85】と「子どもの性別違和」【302.6】に相当する。",
"title": "名称の変遷"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "性別違和症候群は、元来、性転換症よりも、広範な概念を持つ。1980年のDSM第3版で性同一性障害が診断名として採択された。",
"title": "名称の変遷"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2013年のDSM-5(第5版)では再び性別違和(同じ gender dysphoria だが症候群がない)の診断名となった。",
"title": "名称の変遷"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "性別違和の用語は、ハリーベンジャミン国際性別違和協会(英語版)が、2006年に世界トランスジェンダー健康専門協会(英語版)(英: World Professional Association for Transgender Health)と改称されるまで性同一性障害と同意の内容を示すのもとしてアメリカ精神医学会を中心に使用されてきた。",
"title": "名称の変遷"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なお「gender dysphoria」の中の「dysphoria」は違和感を意味し、ギリシャ語の「δυσφορια」に由来する(悪や苦痛を意味するδυσと、耐えることを意味するφοροςとの合成語で「不快」の意味)。現在も性別適合手術を受けていなくても当事者の法的性別変更を許可した英国のジェンダー承認法(英語版)において当事者に言及する際用いられているほか、オランダなどで米国の精神医学の紹介に関して性同一性障害の別称としてこの「性別違和症候群」という表現が用いられている。",
"title": "名称の変遷"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害の当事者の一部には、上記の概念のうち主として「同性愛」あるいは「ニューハーフ」と重なることはあるが、これらはその個人としてのありかたの一つであり、多くの当事者は上記の全ての概念と重ならない。諸々の概念はそれぞれとしての事象であり、それぞれとして明確に区別して考える必要がある。",
"title": "他の概念や疾患との別"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害を抱える者は、性の自己意識と身体の性とが一致しない以外は一般の人々となんら変わりはない。そして多くの当事者は、性の自己意識に基づく性別での普通の生活をすることを第一義としている。身体的性別も公にしたがらないため、いたずらに自身が性同一性障害の当事者であることをわざわざ周囲の人に告げることもない。とくに、戸籍上の性別の変更をすでに終えた当事者の場合、自身が性同一性障害であったことすら意識せず平静な日々を送っていることも多い。性同一性障害の当事者が世に表立つことはほとんどないため、大多数の人々は性同一性障害の実際を目にする機会は少ないといえる。",
"title": "他の概念や疾患との別"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "インターネットによる情報収集の際にも、言うまでもなく信頼性のある資料に当たることが大切である。インターネットは玉石混淆のメディアであり、医療機関や専門医、当事者有志による適正な解説もある一方、専門医でも当事者でもない者が、性同一性障害の実際を知らぬまま、誤解を基盤とした差別や偏見、狭く限られた個人的な体験による私感や私情などを根源とする言葉が存在することもありうる。性同一性障害を専門の一つとするある医師は、インターネット上での性同一性障害に関する情報において、なかには誤謬のあるものや、悪質な嘘偽りも多く存在する、との旨を記している。また、インターネットの匿名性においては、実際に性同一性障害との医学的な診断を受けたわけでもなく「自分は性同一性障害」と自称することも容易である。",
"title": "他の概念や疾患との別"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "現在「性同一性障害」という、名こそ広く知られているが、その反面、この疾患名を知る人々の全てが、必ずしもこの疾患概念を正しく把握しているとも限らない。とくに同性愛や男装、女装との混同など、いまだ正しい認識があまねく浸透しているとは言えない。そのような状況にあって、ある者が「性同一性障害」という言葉を用いた時、もしくはある者が「自分は性同一性障害」と自称した時、その者が、同性愛や趣味による男装や女装のことを性同一性障害だと誤認して用いている場合もあり得る。",
"title": "他の概念や疾患との別"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "医療者において、性別違和を主訴とする症例を「primary」と「secondary」(「一次性」と「二次性」)にわける分類がある。また、日本では「中核群」と「周辺群」(Core & Periphery groups) という分類もある。この二つの分類法は、内容は一見すると似ているが、それぞれの概念や発祥、経緯などが別々で、同一にはできない。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "医師によって分類の定義がやや異なることがあり、かつ過去において定義の変遷を経ているが、おおむね以下のような分類となる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "原因は解明されていないが、「身体的性別とは一致しない性別への脳の性分化」が有力で、これが主たる原因と考えられている。",
"title": "原因"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "人の胎児における体の性分化(男性化・女性化)の機序は極めて複雑であり、数多くの段階をたどる。その過程は、一つでもうまく働かないと異常を起こし得る至妙な均衡のうえに成り立っており、多くの胎児では正常に性分化し発達する一方、性分化疾患におけるさまざまな事例など、人の体の性は必ずしも想定される状態に性分化、発達するとは限らない。胎児期の性分化では、性腺や内性器、外性器などの性別が決定された後、脳の中枢神経系にも同様に性分化を起こし、脳の構造的な性差が生じる。この脳の性差が生ずる際、通常は脳も身体的性別と一致するが、何らかによって身体的性別とは一致しない脳を部分的に持つことにより、性同一性障害を発現したものと考えられる。",
"title": "原因"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "男女の脳の差が明らかになるにつれ、この生物学的な要因を根拠づけるいくつかの報告がある。ヒトの脳のうち、男女の差が認められる細胞群はいくつか存在し、そのうちの分界条床核と間質核の第1核とが、人の性同一性(性の自己意識・自己認知)に関連しているとみられる示唆がある。分界条床核と間質核の第1核は、女性のものより男性のものが有意に大きいが、生物学的男性の性同一性障害当事者 (MtF) における分界条床核や間質核の第1核の大きさを調査した結果、女性のものと一致していた。",
"title": "原因"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、性ホルモンに関わる遺伝子に特徴が示されている研究結果もある。",
"title": "原因"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害の症状のその原因は、「性の自己意識と身体の性との不一致」による。単に性別違和を感じることがすなわち性同一性障害ではない。単に、性格が「女っぽい」「男っぽい」から性同一性障害、個人の性分として「男らしいこと」「女らしいこと」が好きあるいは嫌いだから性同一性障害、といったものでもない。",
"title": "症状"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害の診察や診断は、その知識を持つ医師によっておこなわれる。上記の症状や診断基準の一覧を用いて、たとえば自分で一つずつ照合するだけでの医学的な診断はできない。また、ほんの僅かでも自身の性別に違和感があったり、少しでも性役割に抵抗を感じたりすることをもって、ただちに「自分は性同一性障害」と断定したり思い込むのは的確ではない。周囲の者が知識もなく安易に「それは性同一性障害」と仕向けることも適切ではない。思春期におけるさまざまな変化や、何らかのきっかけによって、一時的に性の意識が混乱する場合もあり得る。いずれにしても、性別違和とその苦悩が強く持続的である場合は、専門医療機関による診察を受けることが適切といえる。",
"title": "症状"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "実際に性同一性障害を有する者は、幼児期や児童期の頃からすでに何らかの性別の違和感を覚えることが多い。",
"title": "症状"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害を抱える者それぞれに個々の境遇や心境などがあるため、さまざまな経緯や状態がある。",
"title": "症状"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害は、自身の身体への強い嫌悪感、日常において常に反対の性役割を強いられるなどの精神的苦痛から、うつ病、摂食障害、アルコール依存症、不眠症などの合併症を患うことがある。また、過去に自殺企図や自傷行為の既往があることが多く、性別の不一致の苦悩が甚だ深刻なものであるといえる。",
"title": "症状"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "国際的な診断基準として、世界保健機関が定めた国際疾患分類「ICD-11」、米国精神医学会が定めた診断基準「DSM-5 がある。また、診断と治療のガイドラインとして、国際的な組織である世界トランスジェンダー・ヘルス専門家協会(英語版)(WPATH)」による『Standards of Care for the Health of Transgender and Gender Diverse People(SOC)』がある。日本では、日本精神神経学会による『性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン』があり、2002年に第2版、2006年に第3版、2012年の第4版が発表されている。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日本精神神経学会『性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン』では、診断はおよそ次のようにおこなわれる。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害の診察や診断には、そのことに関する正確な知識、充分な理解を持つことが望まれる。また治療者は受容的かつ共感的な態度が要求される。治療者側が、性同一性障害についての心性を理解できず、陰性感情を抱き、受容的共感的な態度が保持できない場合は、性同一性障害に対する治療者として不適切であり、治療をおこなうべきではない。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "性別違和が一時的なものではなく、持続的なものであるかを確認するため、ある程度の一定の期間をかけて診察をおこなう必要がある。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "性別違和や性別移行の願望などを訴えるものが必ずしも性同一性障害とは限らず、他の精神疾患や関連しない性のありようなどによって、類似の症状、訴え、外観を持つことがある。鑑別すべき性のありようとして「同性愛」「異性装」「Transvestic fetishism」などがある。鑑別すべき精神疾患は、性同一性障害に精通した精神科医により、「解離性同一性障害」・「統合失調症」・「気分障害」・「自閉スペクトラム症」などが挙げられているが、除外診断ではないため、これらの精神疾患に罹患している者に対しても、性同一性障害の診断が出ることは当然ある。特に、「抑うつ」は度々併存することが指摘されているし、「自閉スペクトラム症と性別違和」は精神医学の研究として世界的にも度々出てくるテーマである。他の精神障害は「併存」か「除外」なのかについて慎重かつ正確な鑑別が精神科医に求められる。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害の診断と治療の指針である日本精神神経学会「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン (第3版)」では、社会への適応のサポートを中心とする精神科領域の治療と、身体的特徴をジェンダー・アイデンティティと適合する性別へ近づけるための身体的治療(ホルモン療法、乳房切除、性別適合手術、美容整形、医療脱毛など)で構成される。性同一性障害に対する診断と治療への理解と関心、充分な知識と経験を持った医師らによる医療チーム(診療科はおもに精神科、形成外科、泌尿器科、産婦人科など)が診断と治療をおこなう。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "性同一性障害の診療の始めが精神科領域の治療であるのは、おもに精神的サポートや助言、当事者の「人生をどのように生きるか」などの希望を明らかにするため、除外診断をおこなうなどのためにある。身体的治療は、精神科領域の治療の後も性別の不一致による苦悩が続き、本人自らが身体的治療を希望する場合において、医療者による適応の判定を経て、本人の自己責任と自己決定のもとに選択する。身体的治療への移行は、精神科領域の治療と性同一性障害の診断の確定を省くことはできない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "なお、性同一性障害に対し、「心のほうを身体の性に一致させる」という治療は、以下の経験的、現実的、倫理的な理由によりおこなわれない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "精神科領域の治療としては、当事者のQOL(生活の質)の向上を目的として次のようなことを行う。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "これらの診療は性同一性障害かどうかの診断と重なる部分もあるので、平行して行われることも多い。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "身体的治療には性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律に基づきホルモン療法を行い、特に性別適合手術は戸籍変更の上では必要不可欠な要件となる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "併せて、トランス女性には場合や必要に応じて、美容整形 、医療脱毛 ・声帯手術・喉頭隆起切除術、豊胸術 などがあり、トランス男性には乳房切除がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "当事者の身体的性別とは反対の性ホルモンを投与することで、身体的特徴を本来の性(性の自己意識)に近づける治療。ジェンダー・アイデンティティに一致する性別での社会生活を容易にするとともに、身体の性の不一致による苦悩を軽減する効果が認められている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "性ホルモンの投与によって、身体的変化のほか、副作用をともない、また身体的変化には不可逆的な変化も起こり得る。ホルモン療法の開始にあたっては、性同一性障害の診断の確定のうえ、性ホルモンの効果や限界、副作用を充分に理解していることや、新たな生活へ必要充分な検討ができていること、身体の診察や検査、18歳以上であることなどのいくつかの条件がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "FtM に対してはアンドロゲン製剤を、MtF に対してはエストロゲン製剤などを用いる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "投与形態は注射剤、経口剤、添付薬があるが、日本においては注射剤が一般的に使われる。添付薬に次いで注射剤が副作用が少ないが、長期にわたる注射のために、注射部位(多くは三角筋あるいは大臀筋)の筋肉の萎縮を引き起こすことがある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "生物学的女性へのアンドロゲン製剤、および生物学的男性へのエストロゲン製剤の投与をおこなった場合、次のような変化が起こり得る。なかには不可逆的な変化もあり得る。(※ 特に、生物学的男性における精巣萎縮と造精機能喪失。生物学的女性における声帯の変化)",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "医学的対処を求めて受診する性同一性障害患者の中には、早急なホルモン療法の適用を望む者も多いが、ガイドラインにそった治療においては、精神科領域の治療と性同一性障害の診断、ホルモン療法の適応判定を省くことはできない。他方で、男性化した身体は不可逆的であることから、せめて女性化を促すのではなく単に男性化を一時的に停止させる抗男性ホルモン剤の使用はより広く特に未成年者に認められるべきであるとする見解もある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "下記の性別適合手術や女性ホルモン治療の他に美容整形(顔の女性化手術(FFS)・喉頭隆起切除術など)や医療脱毛・声帯手術・豊胸術などで外見を女性に近づけて生活の質を上げるために行う手術や診療行為がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "FtMの場合、アンドロゲンを投与しても乳房の縮小はほとんど起こらないので乳房切除術が必要となる場合がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "乳房が小さい場合には乳輪の周囲を切開して乳腺など内部組織を掻き出し、余剰皮膚を切り取る方式をとる。これは瘢痕が目立たない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "乳房が大きい場合や(乳房を不快に思って圧迫するなどにより)下垂している場合には、乳房の下溝に沿って皮膚を切開する方式を用いる。乳頭は一度遊離させて適切な位置に移植する必要がある。瘢痕が目立つことも多い。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "外科的手法によって本来の性(性の自己意識)に合わせて形態を変更する手術療法のうち、顔面女性化手術(FFS)や喉頭隆起切除術や乳房切除術などがあるが主に内性器と外性器に関する手術を「性別適合手術」(sex reassignment surgery、SRS) という。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "MtF に対しては、精巣摘出術、陰嚢皮膚切除術、陰茎切除術、女性外陰部形成術、造膣術(希望者のみ)などがある。FtM に対しては、子宮卵巣摘出術、膣粘膜切除・膣閉鎖術、尿道延長術、陰茎形成術がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "MtF では精巣摘出および男性外性器切除術、FtM では子宮卵巣摘出によって、生殖能力(子供をつくる能力)は永久的に失われる。これは不可逆で、もとに戻すことはできない。併せて、男性または女性としての新たな生殖能力も得られない。副作用としては、骨粗鬆症などの可能性から、ホルモン療法は生涯にわたって継続すべきものとなる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "手術療法は、過去には「性転換手術」とも呼ばれてきたが、現在では「性別適合手術」が正式な名称として用いられている。原語は、英語の sex reassignment surgery であるが、“reassignment” は「再び割り当てる」という意味で、日本語訳として「性別再割り当て手術」「性別再判定手術」「性別再指定手術」がある。日本のGID学会、日本精神神経学会は「性別適合手術」を用いている。change(転換)を用いた「sex change surgery」という英語は用語として存在しない。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "生物学においての「性転換」という用語は、雌雄いずれかに決定していた動植物の個体が生態として反対の性の機能を得ることに用いられる。また、当事者の性の同一性は生来から一貫しており、当事者は性別を「転換、チェンジ (change)」するものではないとして「性転換」という言葉を嫌うことがある。他に使われる用語として「性の移行、性別移行 gender shift」「性別再割り当て、性別再割当 sex reassignment」「性別再判定」「性別再指定」がある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "日本においては、法律に定められた要件を満たせば戸籍の性別変更が可能だが、そのために必要なホルモン療法や性別適合手術には健康保険の適用がなされていない。ただし、ホルモン療法については戸籍変更後であればホルモン補充療法という形で健康保険の適用を受けることができる場合がある(現在、戸籍変更後のホルモン補充療法への健康保険の適用をめぐって裁判になっており、被告国は健康保険の適用にならない旨を主張している)。また、性別適合手術においては経済的な負担を理由に健康保険の適用を求める当事者がいる一方、すでにある程度の当事者が自己負担で手術を受けて終えていることも性同一性障害特例法による性別の取扱いの変更数(2014年末現在までに総数5166名) などから確認できる。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "性別適合手術を経た人のうち、世間の認識との誤解に苦しんで自殺した人の割合は全体の4割に及ぶ。また、全体の7割は自殺を考えたことがあるとされている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "日本では、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」第2条において、「性同一性障害者」が同法第3条第1項各号に該当する場合、請求による家庭裁判所の性別の取扱いの変更の審判によって、民法をはじめとする各法令手続き上の性別が変更されたものとみなされる。一般的には、戸籍法における「男女の別」の変更を示している。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "第三条の定める要件は以下のとおり。ただし、第4号の要件については2023年10月25日に最高裁判所大法廷が憲法13条(個人の尊厳・幸福追求権)に違反し無効であると判断している。 併せて、主に陰茎切除術などのトランス女性に必須であった「変更先の性別の性器に類似した外観を持つようにするための手術を必要とする要件」(本法3条1項第5号)については高裁にて検討されていないとしてここでは判断はせずに審理を高裁に差し戻した。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "一 十八歳以上であること。 二 現に婚姻をしていないこと。 三 現に未成年の子がいないこと。 四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。 五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "このほか「障害者基本法」や「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(略称は障害者差別解消法)」でも性同一性障害は広く同法の対象となっており、企業などで雇用されている当事者が保護される法律となっている。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "障害者基本法第4条2項にて「社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。」とした。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "これを受け、障害者差別解消法の中でも、この「合理的配慮」の実施が、日本国政府や地方公共団体や独立行政法人や特殊法人については義務(強制)として、また一般事業者については努力義務として位置づけられている。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "先進国の多くでは、法律によって性同一性障害者の法的な性別の訂正または変更を認めている。",
"title": "法律"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "「性別移行者」「性同一性障害者」「トランスジェンダー」に該当する人物が登場する作品。「性同一性障害」という概念が生まれる前の作品も含む。ただし、製作に当事者が直接関わっていない作品が大半のため、実際の性同一性障害者とは状態が異なる。例えば、同性を愛しすぎたゆえに異性になることを決意する、恋愛対象によって性同一性が再形成されるなどの表現、同性愛と性同一性障害の混同、さらに異性を演じる職務にある人物や女装趣味嗜好のある人物、「ごっこ遊び」的感覚を持つ同性愛者を性同一性障害であるかのように扱う表現、「ニューハーフ」「オカマ」などの言葉を「性同一性障害者」と同義語であるかのように使用するといった誤用がある。",
"title": "性別移行者および性同一性障害者が登場する主な作品"
}
] |
性同一性障害(せいどういつせいしょうがい)・性別違和(せいべついわ)・性別不合(せいべつふごう)は、「出生時に割り当てられた性別とは異なる性の自己意識を持ち、自らの身体的性別に持続的な違和感を覚える状態」をいう医学的な診断名および状態像。アメリカ精神医学会のDSM-5では性別違和、WHOのICD-11ではGender Incongruenceと呼称されるようになった。なお、2023年時点で日本の医学関連学会から構成される精神科病名検討連絡会は「Gender Incongruence」の訳語として「性別不合」を用いている。以前は性転換症とも呼ばれた。 日本の法律では、自己意識に一致する反対の性別を求め、時には自らの身体的性別を自己意識のそれに近づけるべく2004年に日本で施行された性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律に基づき性ホルモン治療を含む診療行為や性別適合手術などを受けて戸籍変更や名義変更を望む状態を主に言う。 性同一性障害の者は、性同一性障害者当事者もくしはgender identity disorder当事者(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダーとうじしゃ)と呼ばれ、略称はGID当事者(ジーアイディーとうじしゃ)などと呼ばれる。また診断名などとは別に、身体的性別と異なる性同一性をもち、性別適合手術を希望して予定している者、特に手術済みトランスジェンダーの者をトランスセクシャル(TS)と呼ぶ。 なお、体の性の変異に関わる性分化疾患、同性愛など性的指向は、それぞれ性同一性とは別個の概念であり、性同一性障害とは別のものである。また異性装も別の概念であり、異性装者でも性同一性障害とは一切関わりのない場合がある(後述参照)。
|
{{混同|LGBT|性同一性|トランスジェンダー|TSF (ジャンル)|x4=フィクションの}}
{{更新|date=2023年6月}}
{{医学の情報源|date=2022年7月}}
{{Infobox disease
| Name = 性同一性障害<br>性別違和・性転換症
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| ICD10 = {{ICD10|F|64||f|60}}
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| ICDO =
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| MedlinePlus = 001527
| eMedicineSubj =
| eMedicineTopic =
| MeshID = D005783}}{{Transgender sidebar|expanded=医療}}'''性同一性障害'''(せいどういつせいしょうがい)・'''性別違和'''(せいべついわ)・'''性別不合'''(せいべつふごう)は、「[[性別の割り当て|出生時に割り当てられた性別]]とは異なる性の自己意識を持ち、自らの身体的性別に持続的な違和感を覚える状態」をいう[[医学]]的な[[診断]]名および状態像。[[アメリカ精神医学会]]の[[DSM-5]]では'''性別違和'''、[[WHO]]の{{仮リンク|ICD-11|en|ICD-11}}では'''Gender Incongruence'''と呼称されるようになった。なお、2023年時点で日本の医学関連学会から構成される精神科病名検討連絡会は「Gender Incongruence」の訳語として「'''性別不合'''」を用いている<ref name=jspn-isd11>{{Cite web|和書|url= https://www.jspn.or.jp/modules/advocacy/index.php?content_id=90 |title=連載 ICD-11「精神,行動,神経発達の疾患」分類と病名の解説シリーズ |accessdate=2023/11/14|publisher= 日本精神神経学会 |author= |date=2023/07/06 }}</ref>。以前は'''性転換症'''とも呼ばれた。
日本の法律では、自己意識に一致する反対の性別を求め、時には自らの身体的性別を自己意識のそれに近づけるべく2004年に日本で施行された[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]に基づき性ホルモン治療を含む[[医療行為|診療行為]]や[[性別適合手術]]などを受けて戸籍変更や名義変更を望む状態を主に言う。
性同一性障害の者は、'''性同一性障害者当事者'''もくしは'''gender identity disorder当事者(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダーとうじしゃ)'''と呼ばれ、略称は'''GID当事者'''(ジーアイディーとうじしゃ)などと呼ばれる。{{信頼性要検証範囲|また診断名などとは別に、身体的性別と異なる性同一性をもち、[[性別適合手術]]を希望して予定している者、特に手術済みトランスジェンダーの者を[[トランスセクシャル]](TS)と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=性別違和および性転換症 - 08. 精神障害 |url=https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB/08-%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%EF%BC%8C%E6%80%A7%E5%88%A5%E9%81%95%E5%92%8C%EF%BC%8C%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2/%E6%80%A7%E5%88%A5%E9%81%95%E5%92%8C%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E6%80%A7%E8%BB%A2%E6%8F%9B%E7%97%87 |website=MSDマニュアル プロフェッショナル版 |access-date=2023-03-04 }}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=トランスセクシュアル女性に男性との結婚認める、香港最高裁 婚姻法改定迫る |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2943759 |website=www.afpbb.com |access-date=2023-03-03 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トランスジェンダーとトランスセクシャルって何が違うの? |url=https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/sexual-minorities_b_8706104.html |website=ハフポスト |date=2015-12-03 |access-date=2023-03-03 }}</ref><ref name="<ref name=":3">{{Cite journal|last=Fukuko|first=Kimura|last2=Toshiya|first2=Funabashi|last3=Hideya|first3=Sakakibara|last4=Fumiki|first4=Hirahara|date=2005|title=トランスジェンダー(TG)および性転換症(TS)女性におけるプロゲステロン(P)の正のフィードバックに対する黄体形成ホルモン(LH)の反応|url=https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902277522544055|journal=Japanese Journal of Physiology|volume=55|issue=Supplement|pages=214|issn=0021-521X}}</ref>|date=2023年11月}}。
なお、体の性の変異に関わる[[性分化疾患]]、[[同性愛]]など[[性的指向]]は、それぞれ性同一性とは別個の概念であり、性同一性障害とは別のものである。また[[異性装]]も別の概念であり、異性装者でも性同一性障害とは一切関わりのない場合がある([[性同一性障害#他の概念や疾患との別|後述]]参照)。
{{Clear}}
{| align="right" border=1 cellspacing=0 cellpadding=2 style="border: solid 2px #000000; margin-left: 16px"
|-
| colspan="2" align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|性同一性障害のデータ
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| align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|[[疾病及び関連保健問題の国際統計分類|ICD]]-10
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|-
| align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|[[精神障害の診断と統計マニュアル|DSM]]-IV-TR
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|-
| align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|統計
| style="border-style: none none none solid"|<!-- 出典:[http://URL WHO] -->
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| align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|世界の患者数<!--世界の有病者数の事-->
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| align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|日本の患者数<!--日本の有病者数の事-->
| align="right" style="border-style: none none solid solid"|不明
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| colspan="2" align="center" style="border-style: solid none solid; background: #f0f0f0"|学会
|-
| align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|日本
| style="border-style: none none solid solid"|[http://www.gid-soc.org/ GID学会]
[http://www.jspn.or.jp/ 日本精神神経学会]
|-
| align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|世界
| style="border-style: none none solid solid"|[http://www.wpath.org/ WPATH]
|-
| colspan="2" align="right" style="border-style: solid none solid; background: #f0f0f0; font-size:smaller;"|この記事は[[プロジェクト:病気|ウィキプロジェクト]]の[[プロジェクト:病気#テンプレート|雛形]]を用いています
|}
== 概念 ==
{{See also|性同一性}}
人は、意識するしないにかかわらず「自身がどのような人間か、社会の中でどのように振るまう存在かという自己の認識([[自己同一性]]、アイデンティティー)」をもって生きており、そのうち特に「自身がどの性別に属するかという感覚、どのような男性や女性、或いは性別的ありかたを持っているかについての自己の認識」を'''性同一性'''という。
性同一性は、医学界における'''Gender Identity'''<small> (''gender'' [性] - ''identity'' [同一性])</small><ref>“gender identity” という言葉を初めて用いたのは、アメリカの心理学者ジョン・マネー John Money。初出は1966年。</ref> への伝統的な訳語であり{{Sfn|野宮ほか|2011|p=20}}、「男性または女性としての自己の統一性、一貫性、持続性{{Sfn|野宮ほか|2011|p=20–22}}」「自身がどの性別に属するかという感覚、男性または女性であることの自己の認識<ref>{{Citation | author = John Money | date = 1994 Fall | year = 1994 | title = The concept of gender identity disorder in childhood and adolescence after 39 years. | journal = Journal of Sex & Marital Therapy | volume = 20 | issue = 3 | page = 163–177 | url = http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/7996589}}</ref><ref name="Robert J. Stoller 1964 220–226">{{Citation | author = Robert J. Stoller | year = 1964 | journal = International Journal of Psycho-Analysis | volume = 45 | pages = 220–226 | title = A Contribution to the Study of Gender Identity | url = http://www.pep-web.org/document.php?id=ijp.045.0220a}}</ref>」という意味をもつ。その他の訳語として「'''性の自己意識'''」「'''性の自己認知'''」「'''自己の性意識'''」「'''[[性自認]]'''」、カタカナ表記として「'''ジェンダー・アイデンティティ'''」があり、いずれもほぼ同義である{{Sfn|野宮ほか|2011|p=20–21}}。
人々のうち大多数の者の性同一性は、生物学的性別と一致する。身体が男性で性同一性は男性、身体が女性で性同一性は女性である。人々のうち性同一性障害を抱える者の性同一性は、生物学的性別と一致しない。身体が男性で性同一性は女性、身体が女性で性同一性は男性である。この「同一性」とは、「心の性と身体の性が同一」という一致不一致の意味ではなく、アイデンティティー([[同一性]])、「環境の変化や時間の経過の中でも一貫して連続性を保ち続けている」という意味においての「同一性」である{{Sfn|野宮ほか|2011|p=22}}。性同一性障害は、性同一性そのものに異常や障害があるわけではなく、また性同一性が“無い”わけでもない。性同一性障害を抱える者も、そうでない大多数の者も、一様に人はそれぞれに性同一性を持っており、いずれも概して正常である。大多数の者([[シスジェンダー]])は性同一性と身体の性とが一致し、生来からそれを疑うことなく意識しないほどに至極当然であるため、自身の性同一性を客観的に実感したり認識したりすることが難しい。
性同一性は、性的指向(恋愛の対象とする性別)とは切り離すことのできる概念であり、性同一性がどちらの性別であるかに関して、性的指向はその基軸にはならない。性的指向は相手がいることで成り立つが、性同一性はあくまで自分一人の問題{{Sfn|野宮ほか|2011|p=24}}、自己の感覚や認識である。人は物心ついた頃から、おおむね幼年期や児童期頃には<small>(身体的性別とは別に)</small>自己としての性を認識するが、その多くは他者に恋愛感情を持つことで初めて認識するわけではない。性同一性は、単なる<small>(社会的・文化的な)</small>「男らしさ、女らしさ」とも別である。たとえば女性的な男性がすなわち性同一性が女性というものではない。「自分は男らしくない男性」と自覚していても、自己としての性の意識が男性であれば、性同一性は男性である<ref name="Robert J. Stoller 1964 220–226"/>。
{{See also|{{ill|「sex」と「gender」の差異|en|Sex–gender distinction}}}}
多数の人々は、{{仮リンク|性的特徴|en|Sexual characteristics}}に基づいて[[性別の割り当て|出生時に割り当てられた性別]]と齟齬のない性同一性を有するが、自身の身体の性別を認識しながらも、自身の性同一性が一致しない人々もいる。そのなかで著しい苦痛を感じる状態を医学的に'''性同一性障害'''と呼んできた歴史がある。
過去、性別は身体の形状や、性染色体によって決定される一意的なものと考えられてきた。しかし、先天的に染色体、生殖腺、もしくは解剖学的に性の発達が非定型的である状態にある[[性分化疾患]]の症例を研究するうち、性分化疾患の場合、身体の性と性同一性はそれぞれ必ずしも一致しない場合があることがわかった{{Sfn|山内俊雄|2005|p=368}}。性同一性障害は、何らかの原因で、生まれつき身体的性別と、性同一性に関わる脳の一部とが、それぞれ一致しない状態で出生したと考えられるようになった{{Sfn|野宮ほか|2011|p=40}}{{Sfn|山内兄人・新井康允|2006|p=342}}。
性同一性障害を抱える者は、身体の性別と性同一性の齟齬に違和感をもったり嫌悪感を覚えながら、生活上のあらゆる状況において身体上の性別に基づいて生活し、また周囲から扱われることを強いられるため、精神的に著しい苦痛を受けることも少なくない。そうした著しい苦痛に対しては、精神医学的な立場からの治療・援助が必要になる場合もあるほか、自身の性同一性に沿った性別での生活や、身体への移行することがある。この性別の移行は容易なものではなく、性別の社会的扱いで混乱に巻き込まれることも多く、法的・公的な扱いとの齟齬もあって、社会生活で不本意な扱いを強いられることもある。
日本では、こうした性同一性障害を抱える人々への治療の効果を高め、社会生活上のさまざまな問題を解消するために、2003年7月16日に[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]を公布、翌年の2004年7月16日に施行した。この法律により、定められた要件を全て満たせば、戸籍上の性別を変更できるようになった。日本国外では、多くのヨーロッパ諸国、アメリカやカナダのほとんどの州で、1970年代から1980年代から立法や判例によって性同一性障害者の法的な性別の訂正を認めている{{Sfn|野宮ほか|2011|p=197–200}}。日本を含めこれらの国の法律は、[[性別適合手術]]を受けていることを要件の一つにしているが、新たに21世紀になってから立法したイギリスとスペインでは、性別適合手術を受けていることを要件とせずに法的な性別の訂正を認める法律を定めた{{Sfn|野宮ほか|2011|p=200–205}}。反対に[[ハンガリー]]では2020年に性別変更自体を不可とし、翌年には[[ハンガリーにおける反LGBT法]]の施行により未成年の性教育に対して[[LGBT]]の描写を禁じた<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230926/amp/k10014207021000.html |title=“戸籍の性別変更に手術必要”は憲法違反か 27日最高裁で弁論 |access-date=2023-09-26 |publisher=NHK}}</ref>。
== 定義 ==
'''性同一性障害'''は、'''Gender Identity Disorder'''<small> (''gender'' [性] - ''identity'' [同一性] - ''disorder'' [障害])</small> の訳語であり、医学的な疾患名である{{Sfn|野宮ほか|2011|p=14}}。国際的な診断基準として、[[世界保健機関]]が定めた国際疾患分類「{{仮リンク|ICD-11|en|ICD-11}}」、[[アメリカ精神医学会|米国精神医学会]]が定めた診断基準「DSM-5」があり、医師の診察においてこのいずれかの診断基準を満たすとき、性同一性障害(現在は'''性別不合'''もしくは'''性別違和''')と診断する{{Sfn|野宮ほか2011|p=14–17}}。
「ICD-11」では「体験されたジェンダーと指定された性との間の顕著な不一致」と説明している<ref name=Matsunaga2022>{{Cite journal|和書|author=松永千秋 |title=ICD-11で新設された「性の健康に関連する状態群」―性機能不全・性疼痛における「非器質性・器質性」二元論の克服と多様な性の社会的包摂にむけて― |journal=精神神経学雑誌 |issn= |publisher= |year=2022 |month= |volume=124 |issue=1 |pages=134-143 |naid= |url=https://journal.jspn.or.jp/Disp?style=ofull&vol=124&year=2022&mag=0&number=2&start=134 |accessdate=2023-11-14}}</ref>。「性の健康に関連する状態群」に分類し、[[精神疾患]]としては扱っていない(「ICD-10」では「精神および行動の障害」に分類されていた){{R|Matsunaga2022}}。
日本の「[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]」では、同法における「性同一性障害者」の定義を、
{{Quotation|この法律において「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。|性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律|第二条{{R|特例法}}{{Sfn|南野ほか|2013|p=299}}}}
としている{{R|特例法}}{{Sfn|南野ほか|2013|p=299}}。
==類似の用語との違い==
===トランスジェンダー===
{{Main|トランスジェンダー}}
出生時点の身体の観察の結果によって医師により割り当てられた性別が、自身の性同一性(ジェンダー・アイデンティティ)と異なる人々を総称して'''[[トランスジェンダー]]'''と呼ぶ<ref name=glaad-trans-terms>{{Cite web|url= https://glaad.org/reference/trans-terms/ |title= GLAAD Media Reference Guide - Transgender Terms |accessdate=2023/11/21|publisher= GLAAD |author= |date= }}</ref><ref name=stonewall-terms>{{Cite web|url= https://www.stonewall.org.uk/list-lgbtq-terms |title= List of LGBTQ+ terms |accessdate=2023/11/21|publisher= Stonewall |author= |date= }}</ref><ref name=apa-tpgige>{{Cite web|url= https://www.apa.org/topics/lgbtq/transgender-people-gender-identity-gender-expression |title= Understanding transgender people, gender identity and gender expression |accessdate=2023/11/21|publisher= American Psychological Association |author= |date= }}</ref>{{Sfn|周司・高井|2023|p=10}}{{Sfn|ショーン・高井(訳)|2022|p=12}}<ref name=spur230928>{{Cite web|和書|url= https://spur.hpplus.jp/sdgs/dearearth/2023-09-28-ZUIh9A/ |title= 話題の『トランスジェンダー入門』の著者にインタビュー。トランスジェンダーと共にある社会を目指して |accessdate=2023/11/02|publisher= SPUR |author= |date=2023/09/28 }}</ref>。トランスジェンダーの人々の中には医療的なケア({{仮リンク|ジェンダー・アファーミング・ケア|en|Transgender health care}})を受けるために性同一性障害の診断をもらう人々もいるが、性同一性障害と診断されなければトランスジェンダーではないということにはならない{{Sfn|大阪弁護士会人権擁護委員会|2016|p=9}}{{Sfn|西野明樹|2018|p=36}}。
一部の人々は、性別違和の経験や性別適合手術を受けることがトランスジェンダーであるための条件であると考えており、この考え方は{{仮リンク|トランスメディカリズム|en|Transmedicalism}}と呼ばれている<ref name=gendergp220906>{{Cite web|url= https://www.gendergp.com/not-all-trans-people-experience-gender-dysphoria/ |title= Not All Trans People Experience Gender Dysphoria |accessdate=2023/11/21|publisher= GenderGP |author= |date=2022/09/06 }}</ref><ref name=prism220630>{{Cite web|url= https://prismreports.org/2022/06/30/transgender-experiences-are-not-monolithic/ |title= Transgender experiences are not monolithic—and we need to stop pretending that they are |accessdate=2023/11/21|publisher= Prism |author= |date=2022/06/30 }}</ref>。このトランスメディカリズムは{{仮リンク|ジェンダー本質主義|en|Gender essentialism}}と[[医療化]]に基づいた発想とみなされており、{{仮リンク|障害の医学モデル|en|Medical model of disability}}に関連する誤った定義だと批判されている{{R|gendergp220906}}<ref name=primer-transmedicalism>{{Cite web|url= https://translanguageprimer.com/transmedicalist/ |title= Transmedicalism |accessdate=2023/11/21|publisher= The Trans Language Primer |author= |date= }}</ref><ref>{{cite journal |last1=Baril |first1=Alexandre |author-link=Alexandre Baril |date=November 2015 |title=Transness as Debility: Rethinking Intersections between Trans and Disabled Embodiments |url=https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1057/fr.2015.21 |journal=[[Feminist Review]] |language=en |volume=111 |issue=1 |pages=59–74 |doi=10.1057/fr.2015.21 |issn=0141-7789 |s2cid=146887003 |access-date=2023/11/21}}</ref>。
{{See also|トランスフォビア}}
===トランスセクシュアル(トランスセクシャル)===
'''[[トランスセクシュアル]]'''は古い用語になりつつあり{{R|glaad-trans-terms}}{{R|apa-tpgige}}、身体的な[[性別移行]](ジェンダー・トランジション)をする人のことを指していた<ref name=issm-transsexual>{{Cite web|url= https://www.issm.info/sexual-health-qa/what-is-the-difference-between-transsexual-and-transgender |title= What is the difference between transsexual and transgender? |accessdate=2023/11/21|publisher= International Society for Sexual Medicine|author= |date= }}</ref>。性別適合手術を受ける場合もある{{R|issm-transsexual}}。ただし、この定義は厳密ではなく、トランスセクシュアルという言葉は必ずしも身体的変化を指すものではないという考えもある{{R|issm-transsexual}}。トランスセクシュアルは[[精神疾患]]と結び付けられてきた過去もあり、この医学界でよく用いられたトランスセクシュアルという言葉を不快に感じる当事者もいるので、性別移行の有無に限らずあえて使わない人もいる{{R|apa-tpgige}}<ref name=medicalnewstoday210224>{{Cite web|url= https://www.medicalnewstoday.com/articles/transgender-vs-transexual |title= Transgender vs. transsexual' |accessdate=2023/11/21|publisher= Medical News Today |author= |date=2021/02/24 }}</ref>。そのため、性同一性障害の診断をもらってもトランスセクシュアルのラベルを用いるかどうかは個人で異なる。なお、「'''transsexual'''(トランスセクシュアル)」と「'''transsexualism'''(トランスセクシュアリズム)」の2つの用語は意味が異なり、後述するとおり「transsexualism」(日本語では「性転換症」)は完全に医学的な用語である<ref name=apa-trans>{{Cite web|url= https://www.apa.org/practice/guidelines/transgender.pdf |title= Guidelines for Psychological Practice With Transgender and Gender Nonconforming People |accessdate=2023/11/21|publisher= American Psychological Association |author= |date= }}</ref>。
== 名称の変遷 ==
=== 性転換症 ===
[[世界保健機関]](WHO)の『[[疾病及び関連保健問題の国際統計分類]]』(ICD)において、以前の「ICD-10」では「'''性転換症'''(Transsexualism)」【F64.0】が用いられていたが、2019年の「ICD-11」からは「性転換症」という言葉を使わずに「性別不合(Gender Incongruence)」という言葉を用い、これを「青年期または成人期の性別不合」【HA60】と「小児期の性別不合」【HA61】の2つに区分している{{R|Matsunaga2022}}<ref name=Nakatuka2023>{{Cite journal|和書|author=中塚幹也 |title=「性同一性障害」の脱病理化とマイノリティ・ストレスICD-11の中の「性別不合」と心身医学に関与する人々の役割 |journal=女性心身医学 |issn= |publisher= |year=2023 |month= |volume=27 |issue=3 |pages=207-208 |naid= |url=https://doi.org/10.18977/jspog.27.3_207 |accessdate=2023-11-14}}</ref>。
この「ICD-11」の「青年期または成人期の性別不合」【HA60】と「小児期の性別不合」【HA61】の2つは、[[アメリカ精神医学会]]の『[[精神障害の診断と統計マニュアル]]』(DSM)、とくに2013年の「DSM-5」における「青年および成人の性別違和」【302.85】と「子どもの性別違和」【302.6】に相当する{{R|Matsunaga2022}}。
=== 性別違和症候群 ===
'''性別違和症候群'''は、元来、[[性転換症]]よりも、広範な概念を持つ。1980年の[[精神障害の診断と統計マニュアル|DSM]]第3版で'''性同一性障害'''が診断名として採択された。
* 日本での初出は 小此木啓吾、及川卓 著『性別同一性障害』、[[中山書店]]〈現代精神医学体系(8)〉、1981年、{{Ncid|BB1078796X}}。
2013年のDSM-5(第5版)では再び性別違和(同じ gender dysphoria だが症候群がない)の診断名となった。
性別違和の用語は、{{仮リンク|ハリーベンジャミン国際性別違和協会|en|Harry Benjamin International Gender Dysphoria Association}}が、2006年に{{仮リンク|世界トランスジェンダー健康専門協会|en|WPATH}}({{lang-en-short|World Professional Association for Transgender Health}})と改称されるまで性同一性障害と同意の内容を示すのもとして[[アメリカ精神医学会]]を中心に使用されてきた。
なお「gender dysphoria」の中の「dysphoria」は違和感を意味し、[[ギリシャ語]]の「δυσφορια」に由来する(悪や苦痛を意味するδυσと、耐えることを意味するφοροςとの合成語で「不快」の意味)。現在も性別適合手術を受けていなくても当事者の法的性別変更を許可した英国の{{仮リンク|ジェンダー承認法|en|Gender Recognition Act 2004}}において当事者に言及する際用いられているほか、[[オランダ]]などで米国の精神医学の紹介に関して性同一性障害の別称としてこの「性別違和症候群」という表現が用いられている。
== 他の概念や疾患との別 ==
{{Main|トランスジェンダー関連トピックのアウトライン}}
; 「同性愛」<small>(ホモセクシュアル、ゲイ、レズビアン)</small>
{{See also|{{ill|トランスジェンダーのセクシュアリティ|en|Transgender sexuality}}}}
: しばしば[[同性愛]]<small>(ホモセクシュアル、ゲイ、レズビアン)</small>と混同されることがあるが、これらは概念が異なり、両者には根本的な相違がある。同性愛は「恋愛の対象がどちらの性別であるか」の[[性的指向]]に関する概念であり、性同一性障害は「自己の性の意識はどちらの性別であるか」の[[性同一性]]に関する概念である{{Sfn|山内編著|2005|p=444}}。
: 同性愛は、男性が“男性として”男性を愛する、または女性が“女性として”女性を愛するものであり、自身の性別に違和感を持っているわけではなく、反対の性になりたいわけでもない{{Sfn|野宮ほか|2011|p=23–24}}。性同一性障害は、恋愛の対象がどちらの性別であれ、その人自身が、性の自己意識と身体の性との不一致により、自身の生物学的性別への違和感、身体とは反対の性への一体感を持つ。たとえば、男性同性愛者の性同一性は男性であり、自分が男性であることにも、男性として扱われることにも違和感がなく、“男性として”男性を愛している。性同一性障害当事者 (MtF) の性同一性は女性であり、自分の身体が男性であること、男性として扱われてしまうことに違和感をもつ。誰を好きであるから性別に違和感を持つという表面的な程度ではなく、根源的に「身体の性別が違う」という感覚を有している。
: 同性を愛することは、異性を愛することと同じく、その人自身の恋愛の自然なあり方であって、何らかの疾患、たとえば性同一性障害が原因などというものではない。同性愛は疾患ではなく、同性愛者は何らの医学的治療を必要としないが、性同一性障害は疾患であり、その当事者の多くは医学的治療を必要とする。
: 性同一性障害において「心の性」「心は男性・女性」といった表現があるが、他方で、性的指向を基準とした「心の性」の記述、たとえば男性同性愛者を指して時に「心が女性」という形容や認識がなされ得る。この言葉上の混同により、当事者による「自分は性同一性障害で心の性が女性」との説明に、他者にはあるいは「男性が好きということか。つまり同性愛」と受け取られかねない。性同一性障害における「心の性」とはあくまで「性同一性 ''gender identity''」という用語を便宜的に平たく表現したものであり、そして男性同性愛者は性同一性が女性であるから恋愛の対象が男性というわけではない。
: 性的指向と性同一性とは別の概念であり、別個に捉える必要がある。性同一性がどちらの性別であるかに関して、性的指向はその基軸にはならない。性同一性障害を有する有さないに限らず、異性愛、同性愛は存在する。性的指向は相手がいることで成り立つが、性同一性はあくまで自分一人の問題である{{Sfn|野宮ほか|2011|p=24}}。たとえば「ある女性が、女性を愛する(同性愛)。すなわち性同一性<small>(心の性)</small>が男性ということであり、その女性同性愛者は性同一性障害である」という理解は全くの誤りである。もしその女性自身に性の自己意識と身体の性との不一致を抱えていたとしたら性同一性障害であり、抱えていないとしたら性同一性障害ではない。このとき、その女性がどちらの性別を恋愛の対象としているかは別の事柄である。
: 性同一性障害の当事者のうち、FtM の恋愛対象は女性、MtF の恋愛対象は男性である場合が多く<ref>佐藤俊樹・黒田重利 「ジェンダークリニックの取り組みと実態」『Modern Physician 25-4 性同一性障害の診かたと治療』 新興医学出版社、2005年(2005年4月15日発行)、417頁。</ref>、これらは[[同性愛]]ではなく[[異性愛]]となる。
: <small>分界条床核(人間の性に深い関わりがあるとされる神経細胞群で、男性のものは女性よりも有意に大きい)の体積を測定したある調査<ref>{{Citation | author = Jiang-Ning Zhou, Michel A. Hofman, Louis J. G. Gooren & Dick F. Swaab | date = 2 November 1995 | year = 1995 | journal = Nature | volume = 378 | pages = 68–70 | title = A sex difference in the human brain and its relation to transsexuality | url = http://www.nature.com/nature/journal/v378/n6552/abs/378068a0.html}}</ref> では、男性、女性、男性同性愛者、性同一性障害 (MtF) のそれぞれ複数名が被験者となったが、当事者 (MtF) は女性とほぼ等しく、男性同性愛者は男性とほぼ同じ傾向を示した(性的指向と分界条床核の大きさとの関連は見られなかった){{Sfn|野宮ほか|2011|p=40}}。</small>
; 「異性装」<small>(男装、女装)</small>
{{See also|異性装フェティシズム}}
: 性同一性障害の当事者は、大多数の人々と同じく、あくまで性の自己意識に基づく服装をしているのみであり、[[男装]]や[[女装]]などの[[異性装]]とは異なる{{Sfn|野宮ほか|2011|p=26}}。
: 人が異性の装いをする理由はさまざまにあると見られるが、服装の好みによるもの、性的嗜好によるもの、サブカルチャーにおける服飾などであり、いずれも性の自己意識に基づく装いが由来ではない。どのような様態であれ、身体の性とは反対の性別の装いである事由が、性の自己意識と生物学的性別との不一致によるもの以外のあらゆる事例は性同一性障害と見ることはできない。
: また異性装者は、純粋にそれを楽しむためや、あくまで趣味と捉えていることが多い。性同一性障害を抱える者は、家族や親類との関係や仕事への就業と雇用、外科的手術、戸籍上の名や性別の変更など、まさに一つの人生そのものの問題であり、とても趣味や楽しみと呼べるものではない。加えて、「男装」「女装」という言葉は、「女性(男性)が、男(女)の装いをする」という、つねに身体的性別を前提および明示とする表現であるため、性同一性障害の当事者は、他者から「男装」「女装」との誤解や呼称をされることを嫌悪する場合がある{{Sfn|野宮ほか|2011|p=26}}。
; 「ニューハーフ」
: [[ニューハーフ]]({{和製英語|new-half}})とは、[[女性]]のようにふるまう[[男性]]を指し<ref name="kotobank">{{Kotobank|ニューハーフ|2=デジタル大辞泉}}</ref>、日本における造語である。並びに「[[トランスジェンダー]]」という言葉が日本へ流入する前の[[1980年代]]に産まれた、[[トランス女性]]に対する造語でもある<ref>{{Cite web|和書|title=「LGBTQ+」の時代に「ニューハーフ」を掲げる室井瑞希 「ジェンダー平等に否定的な人」も意識(よろず~ニュース) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/8ea584e67d0811d4538724eda81a3f541bc7c237 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-02-03 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「女の子として売れて、『実は男の子でした』というのが理想だった」はるな愛(50)が語る、それでも“後悔はしない”理由 |url=https://bunshun.jp/articles/-/56519 |website=文春オンライン |access-date=2023-02-03 |first=平田 |last=裕介}}</ref>。また、疾患名である性同一性障害と全く同義ではない{{Sfn|野宮ほか|2011|p=57}}。
: ニューハーフと呼ばれる人のなかには、性別に違和感を持たない男性(近年は女装家と呼び、ニューハーフとは分けるようになっている)もおり、またその一方で、性同一性障害を抱える者もいる。他方、多くの性同一性障害の当事者はごく一般的な仕事に就いており、職業的な意味合いのニューハーフではない。また、ニューハーフは自ずと身体的性別が公にあることを前提とする職業となり、GID当事者の多くはそうした特殊な環境を希望しない。
: 性同一性障害を抱えることと、個人としていずれか特定の職業に対する適性の有無とも全く関連はない。とくに性同一性障害が広く知られていなかった過去において、性同一性障害が理由で一般的な仕事に就くことができない、あるいはこうした仕事にしか就けないものと思い込んで、「ニューハーフ」に従事する当事者も多くいたが、適性がないと感じて悩む事例もまた多くあった{{Sfn|野宮ほか|2011|loc=58–59、153頁}}。
: ただし近年{{いつ|date=2023年12月}}は、職業名としてというより、外見的・社会的・身体的・内面的に女性として生きたい人を指す総称であると認知あるいは自称される場合がある。一例として、「IT系企業のニューハーフ社長」「ニューハーフシンガーソングライター」などと紹介あるいは自称されることがある。
; 「おかま」
: 「[[おかま]]」とは「肛門」{{Sfn|野宮ほか|2011|p=54}}の別名で、転じて男性同性愛者を指すものとなった俗語である{{Sfn|野宮ほか|2011|p=54}}。性同一性障害 (MtF) は男性同性愛者と同じではない。また、本来この言葉は性的な意味合い(肛門による性行為の意)があり、かつ同性愛者に対する侮蔑の意図を含むため、もとより他者への呼称に使われるべきものとは言えない。
: 性同一性障害を抱える者の大多数は、性の自己意識に基づく性別での平静な一般生活をしており、またはそれを希望している一人の個人である。そして対外的な性別を移行するにあたり、「親や友人から拒絶されるかもしれない」「仕事を解雇されるかもしれない」「たとえ移行できたとしても、その性別の姿容を得られるのか、仕事をみつけることはできるのか」など、甚大な不安や苦悩を抱えながら試みるものである。多くの努力と犠牲を経て、ようやく障壁を乗り越えた者に対し、一般に侮蔑の意味を含む(かつ誤用である)「おかま」と呼ぶことは、なんら適切ではない{{Sfn|野宮ほか|2011|p=55–56}}。
: また、世間では「おかま」の本来の意味合いを知らないまま混同し、「女っぽい男」「男を好きな男」「女の格好をした男」など、いわば「一般の男性像とかけ離れた者」に対して、なんとなくうやむやに使いつづけられているのが現状である。ただ、「女っぽい男」はその人の[[性格]]であり、「男を好きな男」は[[同性愛]]であり、「女の格好をした男」は[[女装]]であり、それぞれは全て別々で異なる概念である{{Sfn|野宮ほか|2011|p=54}}。
: {{要出典範囲|date=2023年7月|性同一性障害の当事者はごく普通の一般人であり、また身体的性別の公表も望まないため、テレビなどのメディアに登場することは滅多に無い。おもにバラエティ番組において「おかま」を自称したり芸風とするタレントが、ことさらに女言葉を用いたり、過剰に女性的なしぐさをしたり、性に開放的で男性に惚れやすいなどといったステレオタイプな「おかま」のキャラクターを演じているが、性同一性障害の当事者でこのような性格を持つ者は極めてまれといえる。また、それは個人としての性格であり、性同一性障害とは関連しない。メディアに登場するタレントは一般とは違う突出した個性や才能を持つがゆえにタレントであり、そのごく一部の特殊な少数を見て全体を解することは誤謬を招く。テレビ番組は常にインパクトを求める商業活動であること、また「バラエティ番組の撮影」という日常とはかけ離れた状況での演出や表現、ということにも留意を要する}}。
; 「性差の撤廃」
: {{要出典|範囲=社会や文化における男女の扱いの差をなくしたとするならば、性同一性障害を有する者の苦悩もなくなり「治る」のかといえば、それは決してない。もし仮に撤廃が実現したところで、現実的、物理的に当事者自身の身体は確然と存在し、身体的性別に対する違和感、嫌悪感を取り払うことにはならない。またなにより、それらの苦悩は単なる好き嫌いや損得ではなく、その人自身の持つ性の自己意識が基底にある。性同一性障害当事者の抱える問題のその根幹は「身体の性の不一致」であり、社会的文化的な性差の撤廃とは根本的な相違がある|date=2022年7月}}。
; 「性嗜好」
: 性同一性障害は、大多数の人々と同じくあくまで性の自己意識に基づいた服装をしているものであり、性的快感を求めるための手段や性的欲望を満たす目的として異性装を行うなどの[[性嗜好]]ではない{{Sfn|山内編著|2005|p=444}}。
: 性同一性障害の診断において、身体的性別とは反対の性の服装をする事由がもっぱら性嗜好によるものは除外診断の対象となる。
性同一性障害の当事者の一部には、上記の概念のうち主として「同性愛」あるいは「ニューハーフ」と重なることはあるが、これらはその個人としてのありかたの一つであり、多くの当事者は上記の全ての概念と重ならない。諸々の概念はそれぞれとしての事象であり、それぞれとして明確に区別して考える必要がある。
性同一性障害を抱える者は、性の自己意識と身体の性とが一致しない以外は一般の人々となんら変わりはない{{Sfn|野宮ほか|2011|p=135}}。そして多くの当事者は、性の自己意識に基づく性別での普通の生活をすることを第一義としている。身体的性別も公にしたがらないため、いたずらに自身が性同一性障害の当事者であることをわざわざ周囲の人に告げることもない。とくに、戸籍上の性別の変更をすでに終えた当事者の場合、自身が性同一性障害であったことすら意識せず平静な日々を送っていることも多い。性同一性障害の当事者が世に表立つことはほとんどないため、大多数の人々は性同一性障害の実際を目にする機会は少ないといえる。
[[インターネット]]による情報収集の際にも、言うまでもなく信頼性のある資料に当たることが大切である。インターネットは玉石混淆のメディアであり、医療機関や専門医、当事者有志による適正な解説もある一方、専門医でも当事者でもない者が、性同一性障害の実際を知らぬまま、誤解を基盤とした差別や偏見、狭く限られた個人的な体験による私感や私情などを根源とする言葉が存在することもありうる。性同一性障害を専門の一つとするある医師は、インターネット上での性同一性障害に関する情報において、なかには誤謬のあるものや、悪質な嘘偽りも多く存在する、との旨を記している{{Sfn|野宮ほか|2011|p=47}}。また、インターネットの匿名性においては、実際に性同一性障害との医学的な診断を受けたわけでもなく「自分は性同一性障害」と自称することも容易である。
現在「性同一性障害」という、名こそ広く知られているが、その反面、この疾患名を知る人々の全てが、必ずしもこの疾患概念を正しく把握しているとも限らない。とくに[[同性愛]]や[[男装]]、[[女装]]との混同など、いまだ正しい認識があまねく浸透しているとは言えない。そのような状況にあって、ある者が「性同一性障害」という言葉を用いた時、もしくはある者が「自分は性同一性障害」と自称した時、その者が、同性愛や趣味による男装や女装のことを性同一性障害だと誤認して用いている場合もあり得る<ref name="針間2011">[[針間克己]]「[https://ci.nii.ac.jp/naid/40018744231 自称性同一性障害と本物をどう見分けるか]」、『精神科』第18巻第3号、2011年3月、326-329頁。</ref>。
== 分類 ==
医療者において、性別違和を主訴とする症例を「primary」と「secondary」(「一次性」と「二次性」)にわける分類がある。また、日本では「中核群」と「周辺群」(Core & Periphery groups) という分類もある。この二つの分類法は、内容は一見すると似ているが、それぞれの概念や発祥、経緯などが別々で、同一にはできない。
医師によって分類の定義がやや異なることがあり、かつ過去において定義の変遷を経ているが、おおむね以下のような分類となる。
; Primary & Secondary (一次性と二次性) <ref>{{Citation | author = Person E, Ovesey L | date = 1974 Jan | year = 1974 | title = The transsexual syndrome in males. I. Primary transsexualism. | journal = American Journal of Psychotherapy | volume = 28 | issue = 1 | page = 4–20 | url = http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/4812111}}</ref><ref>{{Citation | author = Person E, Ovesey L | date = 1974 Apr | year = 1974 | title = The transsexual syndrome in males. II. Secondary transsexualism. | journal = American Journal of Psychotherapy | volume = 28 | issue = 2 | page = 174–193 | url = http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/4829699}}</ref><ref>中根秀之・小澤寛樹 「ジェンダークリニックの取り組みと実態」『Modern Physician 25-4 性同一性障害の診かたと治療』 新興医学出版社、2005年(2005年4月15日発行)、422頁。</ref>
:;Primary(一次性):これまでどの時期においても、性の自己意識に揺らぎがない。身体的性別への違和感を持つ時期が幼児期や児童期など比較的早く、性指向が異性愛(FtM は女性、MtF は男性に対して)。
:;Secondary(二次性):性の自己意識に揺らぎがあり、身体的性別への違和感をもつ時期が比較的遅く、性指向が同性愛(FtM は男性、MtF は女性に対して)または両性愛。
; 中核群と周辺群 (Core & Periphery groups) <ref>阿部輝夫「性同一性障害の診かた」『Modern Physician 25-4 性同一性障害の診かたと治療』新興医学出版社、2005年(2005年4月15日発行)、370–371頁。</ref><ref>加澤鉄士「性同一性障害の診断」『Modern Physician 25-4 性同一性障害の診かたと治療』新興医学出版社、2005年(2005年4月15日発行)、376頁。</ref>
:;中核群 (Core groups):性同一性障害の典型例。性の自己意識に揺らぎがなく、身体的性別への持続的な嫌悪感、身体とは反対の性への持続的な同一感があり、一貫してホルモン療法や性別適合手術などの医学的治療を強く求める。
:;周辺群 (Periphery groups):自身の身体的性別への違和感を持っているが、性の自己意識に揺らぎがあったり、ホルモン療法や性別適合手術などの医学的治療を自ら望まない、あるいは迷いがある。
== 原因 ==
{{Main|{{ill|性別不合の原因|en|Causes of gender incongruence}}}}
原因は解明されていないが、「身体的性別とは一致しない性別への脳の性分化」が有力で、これが主たる原因と考えられている{{Sfn|野宮ほか|2011|p=41}}。
人の胎児における体の性分化(男性化・女性化)の機序は極めて複雑であり、数多くの段階をたどる。その過程は、一つでもうまく働かないと異常を起こし得る至妙な均衡のうえに成り立っており、多くの胎児では正常に性分化し発達する一方、[[性分化疾患]]におけるさまざまな事例など、人の体の性は必ずしも想定される状態に性分化、発達するとは限らない。胎児期の性分化では、性腺や内性器、外性器などの性別が決定された後、脳の中枢神経系にも同様に性分化を起こし、脳の構造的な性差が生じる{{Sfn|山内俊雄|2000|pp=53-68}}。この脳の性差が生ずる際、通常は脳も身体的性別と一致するが、何らかによって身体的性別とは一致しない脳を部分的に持つことにより、性同一性障害を発現したものと考えられる{{Sfn|山内兄人・新井康允|2006|p=342}}。
男女の脳の差が明らかになるにつれ、この生物学的な要因を根拠づけるいくつかの報告がある{{Sfn|野宮ほか|2011|p=40}}。ヒトの脳のうち、男女の差が認められる細胞群はいくつか存在し、そのうちの分界条床核と間質核の第1核とが、人の性同一性(性の自己意識・自己認知)に関連しているとみられる示唆がある。分界条床核と間質核の第1核は、女性のものより男性のものが有意に大きいが、生物学的男性の性同一性障害当事者 (MtF) における分界条床核や間質核の第1核の大きさを調査した結果、女性のものと一致していた{{Sfn|山内兄人・新井康允|2006|p=35}}{{Sfn|山内兄人・新井康允|2006|pp=337-338}}。
また、性ホルモンに関わる遺伝子に特徴が示されている研究結果もある。
* 分界条床核
** 性に関わりの深い分界条床核 (BNST) は、男性のものは女性よりも1.4倍ほど有意に大きい。特に分界条床核の神経細胞のうち、ソマトスタチン陽性神経細胞の数が男性のものは女性より多い{{Sfn|山内兄人・新井康允|2006|p=321}}。脳の研究をおこなっているオランダの学者スワーブ ''Dick F. Swaab'' らによる調査<ref>{{Citation | author = Jiang-Ning Zhou, Michel A. Hofman, Louis J. G. Gooren & Dick F. Swaab J | date = 2 November 1995 | year = 1995 | journal = Nature | volume = 378 | pages = 68–70 | title = A sex difference in the human brain and its relation to transsexuality | url = http://www.nature.com/nature/journal/v378/n6552/abs/378068a0.html}}</ref> では、性同一性障害の当事者 (MtF) 6名の脳を死後に解剖した結果、分界条床核の大きさは、男性のものより有意に小さく、女性のものとほぼ同じであった{{Sfn|野宮ほか|2011|p=40}}{{Sfn|山内兄人・新井康允|2006|p=35}}。ソマトスタチン陽性神経細胞の数も明らかに少ない{{Sfn|山内兄人・新井康允|2006|p=322}}。この6名の当事者は、性別適合手術(精巣摘出)を受けており、エストロゲンを投与していたが、分界条床核の大きさは成人における性ホルモンの影響を受けない。前立腺がんの治療のためにエストロゲンの投与を受けた男性における分界条床核の大きさの減少はみられず、また副腎皮質腫瘍によるアンドロゲン産生や閉経後のためにエストロゲンが低下している女性において、分界条床核の大きさに平均値との差は認められない{{Sfn|新井康允|1999|p=149}}。当事者における分界条床核の大きさは成人後の性ホルモンが原因ではないことがわかる{{Sfn|新井康允|1999|p=148–149}}(当事者 (MtF) 6名の性的指向は、うち3名が女性、2名が男性、1名が両方に対して。また、この調査において男性同性愛者の分界条床核の大きさは男性異性愛者と等しく、有意な差はみられなかった。性的指向との関連はみられず、性同一性との関連の示唆がある)。
* 間質核の第1核
** 前視床下部の間質核 (INAH) は4つの亜核からなる。間質核の第1核の大きさには男女の差があり、女性と比べて男性のほうが約3.5倍大きい<ref>{{Citation | author = DF Swaab, E Fliers | date = 31 May 1985 | year = 1985 | journal = Science | volume = 228 | number = 4703 | pages = 1112–1115 | title = A sexually dimorphic nucleus in the human brain | url = http://www.sciencemag.org/content/228/4703/1112.abstract}}</ref>。オランダの学者スワーブ ''Dick F. Swaab'' らによると、性同一性障害 (MtF) 5名の脳を調べた結果、間質核の第1核の大きさは5例すべてにおいて女性とほぼ同じであった<ref>{{Citation | author = DF Swaab, MA Hofman | date = 1995 Jun | year = 1995 | journal = Trends Neurosci | volume = 18 | number = 6 | pages = 264–270 | title = Sexual differentiation of the human hypothalamus in relation to gender and sexual orientation | url = http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/7571001}}</ref>(男性異性愛者と男性同性愛者との有意な差はみられなかった<ref>{{Citation | author = DF Swaab, MA Hofman | date = 1990 Dec 24 | year = 1990 | journal = Brain Res | volume = 537 | number = 1-2 | pages = 141–148 | title = An enlarged suprachiasmatic nucleus in homosexual men | url = http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/2085769}}</ref>)。
* 性ホルモン関連の遺伝子
** 性同一性障害の研究をしているスウェーデンの学者ランデン ''Mikael Landén'' による遺伝子に関する研究結果<ref>{{Citation | author = Mikael Landén | date = 10 December 1999 | year = 1999 | publisher = Doctoral thesis | place = Göteborgs universitet | title = Transsexualism. Epidemiology, phenomenology, regret after surgery, aetiology, and public attitudes | url = http://gupea.ub.gu.se/handle/2077/12418}}</ref> があり、性同一性障害の当事者 (MtF) の遺伝子に特徴が示唆されている。性ホルモンに関わるアロマテーゼ遺伝子、アンドロゲン受容体遺伝子、エストロゲン遺伝子の繰り返し塩基配列の長さを調べた結果、当事者 (MtF) においてはこれが長い傾向を示した。これは、男性ホルモンの働きが弱い傾向であることを示している{{Sfn|野宮ほか|2011|p=40–41}}。
== 症状 ==
; 自身の生物学的性別に対する嫌悪や忌避
: ジェンダー・アイデンティティと反する生物学的性別を持っていることに違和感、嫌悪感を持つ。間違った性別の身体で生まれたと確信する。陰茎や精巣、月経や乳房に嫌悪を抱いたり、取り除くことを希望する。
; 生物学的性別とは反対の性への持続的な同一感
: 生物学的性別と反対の性、自身のジェンダー・アイデンティティと一致する性への、強く持続的な一体感、同一感。
; 生物学的性別とは反対の性役割
: 日常生活や社会においても、生物学的性別とは反対の性役割をおこなう。
性同一性障害の症状のその原因は、「性の自己意識と身体の性との不一致」による。単に性別違和を感じることがすなわち性同一性障害ではない。単に、性格が「女っぽい」「男っぽい」から性同一性障害、個人の性分として「男らしいこと」「女らしいこと」が好きあるいは嫌いだから性同一性障害、といったものでもない。
性同一性障害の診察や診断は、その知識を持つ医師によっておこなわれる。上記の症状や診断基準の一覧を用いて、たとえば自分で一つずつ照合するだけでの医学的な診断はできない。また、ほんの僅かでも自身の性別に違和感があったり、少しでも性役割に抵抗を感じたりすることをもって、ただちに「自分は性同一性障害」と断定したり思い込むのは的確ではない。周囲の者が知識もなく安易に「それは性同一性障害」と仕向けることも適切ではない。思春期におけるさまざまな変化や、何らかのきっかけによって、一時的に性の意識が混乱する場合もあり得る。いずれにしても、性別違和とその苦悩が強く持続的である場合は、専門医療機関による診察を受けることが適切といえる。
実際に性同一性障害を有する者は、幼児期や児童期の頃からすでに何らかの性別の違和感を覚えることが多い<ref name=sato_kuroda2005>佐藤俊樹・黒田重利 「ジェンダークリニックの取り組みと実態」『Modern Physician 25-4 性同一性障害の診かたと治療』 新興医学出版社、2005年(2005年4月15日発行)、417-418頁。</ref>。
性同一性障害を抱える者それぞれに個々の境遇や心境などがあるため、さまざまな経緯や状態がある。
* 生来から常に身体的性別としての扱いや役割を求められる環境にあったため、その身体的性別に応じた男性性または女性性の一部を身につけている場合がある。
* より社会へ適応するため、あるいは違和感や嫌悪感から逃れるために性の自己意識を抑え込み、身体的性別に応じた過剰な男性性または女性性の行動様式を取ろうとする場合もある。
* 自身が反対の性の容貌や外性器を持っているという確然たる事実や、当然のように身体的性別で扱われる環境にあって、姿形の見えない性の自己意識はそれだけでは不安定であるため、その自認する性に基づく男性性または女性性の行動様式を過剰に取ろうとする場合もある。
* 性の自己意識に基づく性別の実生活経験がなかったために、性別移行の始めは不慣れであったり不自然であったりする場合がある。
* 性の自己意識に揺らぎがある場合もある。当初は本人自身も同性愛と混同したり、異性装と認識してその後に性の自己意識が明瞭となることもある。
性同一性障害は、自身の身体への強い嫌悪感、日常において常に反対の性役割を強いられるなどの精神的苦痛から、[[うつ病]]、[[摂食障害]]、[[アルコール依存症]]、[[不眠症]]などの合併症を患うことがある。また、過去に自殺企図や自傷行為の既往があることが多く、性別の不一致の苦悩が甚だ深刻なものであるといえる<ref name=sato_kuroda2005/>。
== 診断 ==
{{Main|{{ill|Standards of Care for the Health of Transgender and Gender Diverse People|en|Standards of Care for the Health of Transgender and Gender Diverse People}}}}
国際的な診断基準として、[[世界保健機関]]が定めた国際疾患分類「[[ICD-11]]」、[[アメリカ精神医学会|米国精神医学会]]が定めた診断基準「[[DSM-5]] がある。また、診断と治療のガイドラインとして、国際的な組織である{{仮リンク|世界トランスジェンダー・ヘルス専門家協会|en|World Professional Association for Transgender Health}}(WPATH)」による『Standards of Care for the Health of Transgender and Gender Diverse People(SOC)』がある。日本では、日本精神神経学会による『性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン』があり、2002年に第2版、2006年に第3版、2012年の第4版が発表されている{{Sfn|南野ほか|2011|p=268}}。
日本精神神経学会『性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン』では、診断はおよそ次のようにおこなわれる。
# 生活歴の聴取
# 性別違和の実態を明らかにする。
#* 自らの性別に対する継続的な違和感・不快感
#* 反対の性に対する強く持続的な一体感
#* 反対の性役割を求める
# 身体的性別の判定
#* 染色体、ホルモン、内性器、外性器の診察・検査
# 除外診断
#* [[統合失調症]]などの精神障害によって、本来のジェンダー・アイデンティティを否認したり、性別適合手術を求めたりするものではないこと。(注 「統合失調症等他の精神疾患に罹患していることをもって、画一的に治療から排除するものではない」)
#* 文化的社会的理由による性役割の忌避や、もっぱら職業的又は社会的利得のために反対の性別を求めるものではないこと。
# 診断の確定
#* 以上の点を総合して、身体的性別とジェンダー・アイデンティティが一致しないことが明らかであれば、これを「性同一性障害」と診断する。
#* [[性分化疾患]]、性染色体異常などが認められるケースであっても、身体的性別とジェンダー・アイデンティティが一致していない場合、これらを広く「性同一性障害」の一部として認める。
#* 性同一性障害に十分な理解をもつ精神科医が診断にあたることが望ましい。2人の精神科医が一致して「性同一性障害」と診断することで診断は確定する。2人の精神科医の意見が一致しない場合は、さらに経験豊富な精神科医の診察結果を受けて改めて検討する。
性同一性障害の診察や診断には、そのことに関する正確な知識、充分な理解を持つことが望まれる。また治療者は受容的かつ共感的な態度が要求される。治療者側が、性同一性障害についての心性を理解できず、陰性感情を抱き、受容的共感的な態度が保持できない場合は、性同一性障害に対する治療者として不適切であり、治療をおこなうべきではない<ref name="針間2000">針間克己“「性同一障害の心理療法」『人格障害の心理臨床』金子書房〈臨床心理学大系19〉、2000年、ISBN 978-476-08-9339-3。掲載論文を以下で閲覧できる。 - 針間克己. “[http://www.harikatsu.com/coramu/13.html 性同一性障害の心理療法]”. 2019年4月29日閲覧。</ref>。
性別違和が一時的なものではなく、持続的なものであるかを確認するため、ある程度の一定の期間をかけて診察をおこなう必要がある。
性別違和や性別移行の願望などを訴えるものが必ずしも性同一性障害とは限らず、他の精神疾患や関連しない性のありようなどによって、類似の症状、訴え、外観を持つことがある。鑑別すべき性のありようとして「同性愛」「異性装」「Transvestic fetishism」などがある。鑑別すべき精神疾患は、性同一性障害に精通した精神科医により、「解離性同一性障害」・「統合失調症」・「気分障害」・「自閉スペクトラム症」などが挙げられているが、除外診断ではないため、これらの精神疾患に罹患している者に対しても、性同一性障害の診断が出ることは当然ある。特に、「抑うつ」は度々併存することが指摘されているし、「自閉スペクトラム症と性別違和」は精神医学の研究として世界的にも度々出てくるテーマである。他の精神障害は「併存」か「除外」なのかについて慎重かつ正確な鑑別が精神科医に求められる{{R|針間2000|針間2011}}。
== 治療 ==
性同一性障害の診断と治療の指針である日本精神神経学会「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン (第3版)」では、社会への適応のサポートを中心とする'''精神科領域の治療'''と、身体的特徴をジェンダー・アイデンティティと適合する性別へ近づけるための'''身体的治療'''('''ホルモン療法'''、'''乳房切除'''、'''性別適合手術'''、'''美容整形'''、'''医療脱毛'''など<ref>{{Cite web|和書|url=https://jsprs.or.jp/general/disease/sonota/seidoitsusei/ |title=性同一性障害 |access-date=2023-05-14 |publisher=一般社団法人 日本形成外科学会}}</ref>)で構成される。性同一性障害に対する診断と治療への理解と関心、充分な知識と経験を持った医師らによる医療チーム(診療科はおもに精神科、形成外科、泌尿器科、産婦人科など)が診断と治療をおこなう。
性同一性障害の診療の始めが精神科領域の治療であるのは、おもに精神的サポートや助言、当事者の「人生をどのように生きるか」などの希望を明らかにするため、除外診断をおこなうなどのためにある。身体的治療は、精神科領域の治療の後も性別の不一致による苦悩が続き、本人自らが身体的治療を希望する場合において、医療者による適応の判定を経て、本人の自己責任と自己決定のもとに選択する。身体的治療への移行は、精神科領域の治療と性同一性障害の診断の確定を省くことはできない。
なお、性同一性障害に対し、「心のほうを身体の性に一致させる」という治療は、以下の経験的、現実的、倫理的な理由によりおこなわれない。
{{See also|転向療法}}
* 性同一性障害の典型例では、過去の治療においてジェンダー・アイデンティティの変更に成功した例がなく{{Sfn|山内俊雄|2005|p=446}}、そのような治療は不可能だと判明している。性同一性障害に対する治療は、とくに日本国外において長い歴史があり、過去に幾度もジェンダー・アイデンティティを身体に合わせようとさまざまな療法が試みられてきたが、いずれもジェンダー・アイデンティティを変えることはできなかった{{Sfn|野宮ほか|2011|p=74}}。性同一性障害の典型例では生物学的な要因が推測され、ジェンダー・アイデンティティの変更は不可能と考えられている。
* 性同一性障害の当事者自身はジェンダー・アイデンティティの変更を望まないことが多いので、治療の継続が困難である。また、すでに当事者自身が、その身体の性別としての扱いに応えるべく努力し生きてきたという事実もある。いかに厳然と反対の性の身体で生まれようとも、いかに周りから常にその性別として扱われようとも、ついに最後まで屈することのなかった「性同一性」である。当事者自身も、さんざん悩み抜いた末に性別の移行を決断し医療機関を訪れている{{Sfn|野宮ほか|2011|p=75}}。
* ジェンダー・アイデンティティは人格の基礎の多くを占めており、人に対する人格の否定につながる。人格と身体を比較したとき、人格を優先することこそ、人の倫理に沿う考えであるといえる{{Sfn|野宮ほか|2011|p=76}}。性同一性障害の原因は、身体とは反対の性への脳の性分化が推測されているが、たとえば「脳を身体の性別に一致させる」という脳に対する外科手術は現在の医療水準では不可能であり{{Sfn|山内俊雄|2005|p=447}}、またたとえ仮に可能であったとしても倫理的に大きな問題がある。
=== 精神科領域の治療 ===
精神科領域の治療としては、当事者の[[クオリティ・オブ・ライフ|QOL]](生活の質)の向上を目的として次のようなことを行う。
* 非寛容によりもたらされがちな自己評価の低さを改善させる。
* ジェンダー・アイデンティティやそれに基づく自己同一性を再確認させ、「自分は何者であるか」を明確にさせる。
* 社会生活上に生じうる様々な困難を想定し、その対処法を検討させる。
* 実生活経験(リアルライフ・エクスペリエンス、''real life experience'', RLE)を通じて、それに伴う困難も体験させた上で対処法を検討する。
* 抑うつなどの精神症状を伴っている場合には、その治療を優先して行なう。
* 最終的に、今後どのような治療を希望するかを冷静に決定させる。
これらの診療は性同一性障害かどうかの診断と重なる部分もあるので、平行して行われることも多い。
=== 身体的治療 ===
身体的治療には[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]に基づき'''ホルモン療法'''を行い、特に'''性別適合手術'''は戸籍変更の上では必要不可欠な要件となる。
併せて、トランス女性には場合や必要に応じて、'''[[美容整形]] '''、'''[[脱毛 (美容)#医師法との関係|医療脱毛]] '''・声帯手術・'''[[喉頭隆起削除術|喉頭隆起切除術]]'''、'''[[豊胸手術|豊胸術]] '''などがあり、トランス男性には'''乳房切除'''がある。
==== ホルモン療法 ====
{{Main|{{ill|トランスジェンダーのホルモン療法|en|Transgender hormone therapy}}}}
当事者の身体的性別とは反対の性ホルモンを投与することで、身体的特徴を本来の性(性の自己意識)に近づける治療。ジェンダー・アイデンティティに一致する性別での社会生活を容易にするとともに、身体の性の不一致による苦悩を軽減する効果が認められている。
性ホルモンの投与によって、身体的変化のほか、副作用をともない、また身体的変化には不可逆的な変化も起こり得る。ホルモン療法の開始にあたっては、性同一性障害の診断の確定のうえ、性ホルモンの効果や限界、副作用を充分に理解していることや、新たな生活へ必要充分な検討ができていること、身体の診察や検査、18歳以上であることなどのいくつかの条件がある。
FtM に対しては[[アンドロゲン]]製剤を、MtF に対しては[[エストロゲン]]製剤などを用いる。
投与形態は注射剤、経口剤、添付薬があるが、日本においては注射剤が一般的に使われる。添付薬に次いで注射剤が副作用が少ないが、長期にわたる注射のために、注射部位(多くは[[三角筋]]あるいは[[大臀筋]])の筋肉の萎縮を引き起こすことがある。
生物学的女性への[[アンドロゲン]]製剤、および生物学的男性への[[エストロゲン]]製剤の投与をおこなった場合、次のような変化が起こり得る。なかには不可逆的な変化もあり得る。(※ 特に、生物学的男性における精巣萎縮と造精機能喪失{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}。生物学的女性における声帯の変化{{Sfn|野宮ほか|2011|p=95}})
{{-}}
{| class="wikitable" align="right" style="width:95%; background-color:#ffffff"
|-
! 生物学的女性へのアンドロゲン製剤 !! 生物学的男性へのエストロゲン製剤
|-
| style="vertical-align:top; width:50%" |
'''作用'''
* 月経の停止<ref name="hormone_4910187350453">石原理 「ホルモン療法の実際」『Modern Physician 25-4 性同一性障害の診かたと治療』 新興医学出版社、2005年(2005年4月15日発行)、386–388頁。</ref>{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 陰核の肥大<ref name="hormone_4910187350453" />{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}。
*乳輪の色素変化
* 声帯の変化(声が低くなる){{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}。
* 皮膚の乾燥、色素沈着{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 筋肉量の増加<ref name="hormone_4910187350453" />。
* 髭や体毛の増加<ref name="hormone_4910187350453" />{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}、毛の質が硬くなる{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 爪、髪、体毛が硬くなる。
* 性欲の昂進{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 男性形への体脂肪分布の変化{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 貧血の改善{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
'''副作用'''
* 痤瘡(にきび)の増加{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}。
* 頭髪の減少、はげの進行{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}。
* 体重の増加(血清コレステロール値の上昇){{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}。
* 睡眠時無呼吸{{Sfn|南野ほか|2013|p=128}}
* [[血栓症]]、[[高血圧]]{{Sfn|南野ほか|2013|p=128}}
| style="vertical-align:top; width:50%" |
'''作用'''
* 乳房の発達、乳腺組織の増大{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}、乳輪の色素変化{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 精巣の萎縮と造精機能喪失{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}、これによる勃起不全{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 皮脂の分泌量が低下し、皮膚がきめ細やかになる{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 筋肉量の減少{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 髭や体毛の減少{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 頭髪の増加、はげの改善{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 爪、髪、体毛が柔らかくなる。
* 性欲の減退{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 女性形への体脂肪分布の変化(骨盤周囲への体脂肪の増大){{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* [[前立腺肥大症]]の場合には症状が改善{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
'''副作用'''
* [[血栓症]]の危険が増大{{R|hormone_4910187350453}}{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* [[心不全]]、[[心筋梗塞]]、[[脳梗塞]]の危険が増大{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 高プロラクチン血症の発現の可能性{{R|hormone_4910187350453}}。
* 肝機能障害の発現の可能性{{R|hormone_4910187350453}}。
* 乳汁の分泌、下垂体腺腫の可能性{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
* 血色素の減少([[貧血]]気味になる場合がある{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}。
*抑うつ的な気分や情緒不安定になる頻度が高くなるという報告があり、有意な差は認められなかったとの報告もある{{Sfn|野宮ほか|2011|p=86–97}}
* 体重の増加{{Sfn|南野ほか|2013|p=128}}
|}
{{-}}
医学的対処を求めて受診する性同一性障害患者の中には、早急なホルモン療法の適用を望む者も多いが、ガイドラインにそった治療においては、精神科領域の治療と性同一性障害の診断、ホルモン療法の適応判定を省くことはできない。他方で、男性化した身体は不可逆的であることから、せめて女性化を促すのではなく単に男性化を一時的に停止させる抗男性ホルモン剤の使用はより広く特に未成年者に認められるべきであるとする見解もある。
==== トランス女性の全身への性別適合手術と治療に関して ====
下記の性別適合手術や女性ホルモン治療の他に[[美容整形]](顔の女性化手術(FFS)・[[喉頭隆起削除術|喉頭隆起切除術]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bangkokplasticsurgery.com/?page_id=791&lang=ja |title=顔の女性化手術(FFS) |access-date=2023-11-11 |publisher=Bangkok Plastic Surgery Clinic}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kofu-keisei.com/jiyuu/gid |title=GID(性同一性障害)の外科的治療 |access-date=2023-11-11 |publisher=甲府昭和形成外科クリニック}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://plastic-aesthetic-surgery.jp/%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E6%80%A7%E5%88%A5%E9%81%A9%E5%90%88%E6%89%8B%E8%A1%93%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%AE%E3%81%A9%E4%BB%8F%E3%80%8D%E5%BD%A2%E6%88%90%E6%89%8B%E8%A1%93/ |title=性別適合手術としての「のど仏」形成手術 |access-date=2015-06-15 |publisher=東京警察病院 形成外科・美容外科}}</ref>など)や[[脱毛 (美容)#医師法との関係|医療脱毛]]・声帯手術・[[豊胸手術|豊胸術]]などで外見を女性に近づけて生活の質を上げるために行う[[手術]]や[[医療行為|診療行為]]がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://jsprs.or.jp/general/disease/sonota/seidoitsusei/ |title=性同一性障害 |access-date=2023-04-09 |publisher=一般社団法人 日本形成外科学会}}</ref>。
==== 乳房切除 ====
FtMの場合、アンドロゲンを投与しても乳房の縮小はほとんど起こらないので乳房切除術が必要となる場合がある。
乳房が小さい場合には乳輪の周囲を切開して乳腺など内部組織を掻き出し、余剰皮膚を切り取る方式をとる。これは瘢痕が目立たない。
乳房が大きい場合や(乳房を不快に思って圧迫するなどにより)下垂している場合には、乳房の下溝に沿って皮膚を切開する方式を用いる。乳頭は一度遊離させて適切な位置に移植する必要がある。瘢痕が目立つことも多い。
==== 性別適合手術 ====
外科的手法によって本来の性(性の自己意識)に合わせて形態を変更する手術療法のうち、顔面女性化手術(FFS)や[[喉頭隆起削除術|喉頭隆起切除術]]や乳房切除術などがあるが主に内性器と外性器に関する手術を「[[性別適合手術]]」(''sex reassignment surgery''、SRS) という。
MtF に対しては、精巣摘出術、陰嚢皮膚切除術、陰茎切除術、女性外陰部形成術、造膣術(希望者のみ)などがある。FtM に対しては、子宮卵巣摘出術、膣粘膜切除・膣閉鎖術、尿道延長術、陰茎形成術がある。
MtF では精巣摘出および男性外性器切除術、FtM では子宮卵巣摘出によって、生殖能力(子供をつくる能力)は永久的に失われる{{Sfn|野宮ほか|2011|p=98}}。これは不可逆で、もとに戻すことはできない。併せて、男性または女性としての新たな生殖能力も得られない。[[副作用]]としては、[[骨粗鬆症]]などの可能性から、ホルモン療法は生涯にわたって継続すべきものとなる{{Sfn|JSPNガイドライン第3版|2006}}。
===== 手術の正式名称 =====
手術療法は、過去には「性転換手術」とも呼ばれてきたが、現在では「'''性別適合手術'''」が正式な名称として用いられている{{Sfn|野宮ほか|2011|p=98}}。原語は、英語の ''sex reassignment surgery'' であるが、“reassignment” は「再び割り当てる」という意味で、日本語訳として「性別再割り当て手術」「性別再判定手術」「性別再指定手術」がある。日本のGID学会、日本精神神経学会は「性別適合手術」を用いている。change(転換)を用いた「sex change surgery」という英語は用語として存在しない{{Sfn|野宮ほか|2011|p=98}}。
===== 「性転換」という言葉 =====
生物学においての「[[性転換]]」という用語は、雌雄いずれかに決定していた動植物の個体が生態として反対の性の機能を得ることに用いられる。また、当事者の性の同一性は生来から一貫しており、当事者は性別を「転換、チェンジ (change)」するものではないとして「性転換」という言葉を嫌うことがある{{Sfn|野宮ほか|2011|p=49}}{{Sfn|野宮ほか|2011|p=98}}。他に使われる用語として「性の移行、性別移行 ''gender shift''」「性別再割り当て、性別再割当 ''sex reassignment''」「性別再判定」「性別再指定」がある。
=== 現状 ===
日本においては、法律に定められた要件を満たせば戸籍の性別変更が可能だが、そのために必要なホルモン療法や性別適合手術には[[健康保険]]の適用がなされていない。ただし、ホルモン療法については戸籍変更後であればホルモン補充療法という形で健康保険の適用を受けることができる場合がある(現在、戸籍変更後のホルモン補充療法への健康保険の適用をめぐって裁判になっており、被告国は健康保険の適用にならない旨を主張している<ref>”[https://gidtomorrow.jp/%e8%a3%81%e5%88%a4/%e5%81%a5%e5%ba%b7%e4%bf%9d%e9%99%ba%e5%8f%97%e7%b5%a6%e6%a8%a9%e7%a2%ba%e8%aa%8d%e7%ad%89%e8%ab%8b%e6%b1%82%e4%ba%8b%e4%bb%b6/ 健康保険受給権確認等請求事件]” 掲載の被告第1準備書面. GID TOMORROW JAPAN. 2022年4月11日閲覧</ref>)。また、性別適合手術においては経済的な負担を理由に健康保険の適用を求める当事者がいる一方、すでにある程度の当事者が自己負担で手術を受けて終えていることも性同一性障害特例法による性別の取扱いの変更数(2014年末現在までに総数5166名)<ref>gid.jp 日本性同一性障害と共に生きる人々の会 [http://gid.jp/html/GID_law/index.html 性同一性障害特例法による性別の取扱いの変更数の推移]</ref> などから確認できる。
性別適合手術を経た人のうち、世間の認識との誤解に苦しんで自殺した人の割合は全体の4割に及ぶ。また、全体の7割は自殺を考えたことがあるとされている<ref>[[椿姫彩菜]]『わたし、男子校出身です。』[[ポプラ社]]、2008年、251頁、ISBN 978-459-11-0385-2。</ref>。
== 統計 ==
; 日本精神神経学会・性同一性障害に関する委員会の調査速報値
: 2007年度末までの全国統計
: 全国の主要専門医療機関受診者総数7177名
:* FtM:4146名
:* MtF:3031名
: 調査対象は、岡山大や埼玉医大、大阪医大、関西医大など全国9つのジェンダークリニック。一人の患者が複数の機関で受診しているケースも含まれている。
; 2008年度GID学会での報告
:* 岡山大学病院 FtM:572人 MtF:345名(1998-2008.2 総受診者のうち、GIDが疑われた総数)
:* 札幌医科大学附属病院 FtM:197名 MtF:83名(GID外来開設-2007.12、総受診者数)
:* 大分大学医学部附属病院 FtM:27名 MtF:7名(2003-2008.2 総受診者のうち、GID診断総数)
:* 長崎大学病院 FtM:64% MtF:36%(2004-2007.12における初診症例数の構成比)
:* あべメンタルクリニック FtM:1013名 MtF:993名(1996.3-2008.2。相談件数)
:* 川崎メンタルクリニック FtM:401名 MtF:292名(2000-2007 総受診者のうち、GID診断総数)
; Harry Benjamin International Gender Dysphoria Association『''Standards of Care for Gender Identity Disorders, sixth version''』(2001年)の統計
:* アメリカでは、FtM は107,000人に1人、MtF は37,000人に1人
:* オランダでは、FtM は30,400人に1人、MtF は11,900人に1人
:
== 法律 ==
=== 日本 ===
日本では、「[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]」第2条において、「性同一性障害者」が同法第3条第1項各号に該当する場合、請求による[[家庭裁判所]]の性別の取扱いの変更の審判によって、民法をはじめとする各法令手続き上の性別が変更されたものとみなされる{{Sfn|南野ほか|2013|p=213}}。一般的には、戸籍法における「男女の別」の変更を示している。
第三条の定める要件は以下のとおり{{R|特例法}}{{Sfn|南野ほか|2013|p=299}}。ただし、第4号の要件については2023年10月25日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[大法廷]]が'''[[日本国憲法第13条|憲法13条]](個人の尊厳・幸福追求権)に違反し無効'''であると判断している<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=裁判例結果詳細 {{!}} 裁判所 - Courts in Japan |url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=92446 |website=www.courts.go.jp |access-date=2023-10-27}}</ref>。 併せて、主に陰茎切除術などの[[トランス女性]]に必須であった'''「変更先の性別の性器に類似した外観を持つようにするための手術を必要とする要件」'''(本法3条1項第5号)については高裁にて検討されていないとしてここでは判断はせずに審理を高裁に差し戻した。
{{Quotation|
一 十八歳以上であること。<br />
二 現に婚姻をしていないこと。<br />
三 現に未成年の子がいないこと。<br />
四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。<br />
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
2項 前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない。|性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律|第三条{{R|特例法}}{{Sfn|南野ほか|2013|p=299}}}}
このほか「[[障害者基本法]]」{{R|障害者基本法}}や「[[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律]]{{R|障害者差別解消法}}(略称は障害者差別解消法)」でも性同一性障害は広く同法の対象となっており、企業などで雇用されている当事者が保護される法律となっている。
障害者基本法第4条2項にて「社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。」とした{{R|障害者基本法}}。
これを受け、[[障害者差別解消法]]の中でも、この「[[合理的配慮]]」の実施が、[[日本国政府]]や[[地方公共団体]]や[[独立行政法人]]や[[特殊法人]]については[[義務]](強制)として、また一般事業者については[[努力義務]]として位置づけられている。
=== 日本国外 ===
{{更新|date=2023年6月|section=1|2010年代以降}}
先進国の多くでは、法律によって性同一性障害者の法的な性別の訂正または変更を認めている。
; ヨーロッパ
: イギリスでは2004年に法律 “Gender Recognition Act 2004” を制定{{Sfn|野宮ほか|2011|p=200–203}}、スペインでは2007年に法律 “Ley de identidad de género” を制定{{Sfn|野宮ほか|2011|p=203–205}}、ドイツでは1980年に法律 “Gesetz über die Änderung der Vornamen und die Feststellung der Geschlechtszugehörigkeit in besonderen Fällen” (Transsexuellengesetz - TSG) を制定{{Sfn|野宮ほか|2011|p=199}}、イタリアでは1982年に法律を制定{{Sfn|野宮ほか|2011|p=199}}、スウェーデンでは1972年に法律を制定{{Sfn|野宮ほか|2011|p=199}}、オランダでは1985年に民法典に規定{{Sfn|野宮ほか|2011|p=199}}、トルコでは1988年に民法典に規定{{Sfn|野宮ほか|2011|p=199}}。
; 北米
: アメリカでは多くの州で{{Sfn|野宮ほか|2011|p=199–200}}、カナダではほとんどの州で{{Sfn|野宮ほか|2011|p=199}}、州法によって法的性別の訂正を認めている。
; オセアニア
: 南オーストラリア州では1988年に法律を制定{{Sfn|野宮ほか|2011|p=200}}、ニュージーランドでは1995年に登録法を改正{{Sfn|野宮ほか|2011|p=200}}。
== 歴史 ==
* '''日本'''
{{Main|日本におけるLGBTの権利}}
** 1969年 - [[ブルーボーイ事件]]。十分な診断をせずに安易に性別再判定手術を行なった医師が[[母体保護法|優生保護法]]違反により逮捕された{{Sfn|JSPNガイドライン第4版|2012}}。
** 1997年5月28日 - 日本精神神経学会が「性同一性障害に関する答申と提言」を答申。
** 1998年10月 - [[埼玉医科大学]]が FtM の患者に対して、日本国内初の公式な性別再判定手術をおこなった。
** 2001年10月11日−2002年3月28日 - ドラマ『[[3年B組金八先生]]』第6シリーズにおいて、主人公の一人に性同一性障害を抱える者として描かれた。当時この番組で初めて性同一性障害を知ったという人も多く{{Sfn|虎井まさ衛|2003|p=162}}、一般に広く知られるきっかけとなった。
** 2003年4月 - 東京都世田谷区議会議員選挙において、性同一性障害の当事者がそのことを明かしたうえで立候補を表明し当選した。立候補の際、[[世田谷区]]選挙管理委員会に対して戸籍上の記載とは異なる性別での届け出をし受理された。当選後の特別区議会議長会が発行する議員名簿にも申し出どおりの性別で掲載された。
** 2003年7月10日 - 「[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]」(性同一性障害特例法)が成立{{Sfn|南野|2013|p=208}}。
** 2004年7月16日 - 「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行{{Sfn|南野ほか|2013|p=213}}。
** 2006年5月 - 兵庫県の小学校低学年の生徒が戸籍上の性別と異なり、女児として学校生活を送っている例が紹介された。
** 2007年12月31日 - [[第58回NHK紅白歌合戦]]において、性同一性障害を抱える歌手が、戸籍上の性別の記載は男性であったが、女性陣の紅組として出場した。
** 2014年3月31日 - [[中古車]]販売会社に勤務していた女性 (戸籍における記載) が[[自殺]]したのは、性同一性障害を理由に退職強要されたことが原因であるとして、遺族が[[岩国市|岩国]][[労働基準監督署]]を相手取り、[[労働災害]]であることを認定した上で[[労働者災害補償保険|遺族補償年金]]が受けられるよう求め、[[広島地方裁判所]]に訴訟を起こした<ref>“[http://mainichi.jp/shimen/news/20140401ddm012040105000c.html 性同一性障害:「退職強要」遺族が提訴]”. ''毎日新聞'' (2014年4月1日) {{リンク切れ|date=2019年4月}}</ref>。
** 2018年 - [[お茶の水大学]]が戸籍上男性であっても性的違和のある生徒は女性として受け入れることを表明。また、[[日本女子大学]]などの私立女子大学も同様のことを検討中と報道された<ref>“[https://www.asahi.com/articles/ASL7C2DC0L7CUBQU002.html 「心は女性」入学 お茶大が診断書なくても受け入れへ]”. ''朝日新聞''. (2018年7月11日). 2019年5月1日閲覧。</ref>。
** 2020年3月13日、[[大阪市]]の[[タクシー]]会社・[[淀川交通]]に勤務する運転手が、性同一性障害を理由に乗務を禁じられたり、上司らから「気持ち悪い」などの暴言を吐かれるなどしたとして、[[大阪地方裁判所]]に慰謝料と未払い賃金の支払いを求め提訴した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200313/k00/00m/040/099000c 性同一性障害で乗務停止、上司らから「病気」「気持ち悪い」 大阪・タクシー会社を提訴] 毎日新聞 2020年3月13日</ref>。
* '''日本国外'''
** 2004年 - イギリスにおいて、性別適合手術を受けなくとも当事者の法的性別の変更を認める「[[:en:Gender Recognition Act 2004|Gender Recognition Act 2004]]」(性別承認法)が成立した。
** 2006年 - スペインにおいて、性別適合手術を受けなくとも当事者の法的性別の変更を認める「Ley de identidad de género」が成立した。
** 2009年2月27日 - オーストリアの行政高等裁判所において、仕事と家庭の事情で性別適合手術を受けられない当事者の法的な性別変更が承認された。
; 【法律】性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
: 名古屋高裁決昭和54・11・8及び東京高裁決平成12・2・9における戸籍訂正に関する抗告事件などを背景に{{要出典|date=2019年12月}}、2000年9月から[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]において[[南野知惠子]]が中心となって性同一性障害に関する勉強会を開始。途中中断するも2003年から活動を再開し、本法案を含む性同一性障害の法律的扱いについて検討が進められた。[[公明党]]でも[[浜四津敏子]]らが検討を進めており、2003年5月には自由民主党、[[公明党]]、[[保守新党]]の与党によるプロジェクトチームが発足する{{Sfn|南野ほか|2013|pp=204-212}}{{Efn|与党プロジェクトチームは座長:[[南野知惠子]]、座長代理:[[浜四津敏子]]、事務局長:[[山下英利]]、事務局次長:[[松あきら]]の体制であった。それ以前の自由民主党の勉強会には[[馳浩]]や[[陣内孝雄]]も関わっており、2008年の改正案の検討会には、南野、山下、浜四津、松に加え、[[古川俊治]]が参加している{{Sfn|南野ほか|2013|pp=204-212}}。}}。
: 2003年6月には与党で法案がまとまり、同年7月1日の[[参議院]]法務委員会で同委員会提出の法案となることが決定。同年7月2日の参議院本会議及び7月10日の衆議院本会議において「[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]」が成立した。2003年7月16日公布で、翌年の2004年7月16日に[[施行]]した{{Sfn|南野ほか|2013|pp=204-213}}。これにより、同法の定める要件を満たすとき、[[家庭裁判所]]の審判により、性同一性障害者の戸籍上の性別の変更ができるようになった{{Sfn|南野ほか|2013|pp=213-214}}。
: 2008年6月10日、改正案が衆参両院本会議で全会一致で可決、成立し、一部の要件が緩和された{{Sfn|南野ほか|2013|pp=210-211}}。
: 2023年10月25日、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[大法廷]]が、性別変更には生殖能力を永久的に失うことを要件とする本法第3条第1項第4号は、'''[[日本国憲法第13条|憲法13条]](個人の尊厳・幸福追求権)に違反し無効'''であると判断した(詳細は後述)<ref name=":2" />。
; 【判例】性同一性障害者解雇事件
: 性同一性障害に伴うトラブルなどを理由にして行われた[[懲戒処分|懲戒]][[解雇]]が解雇権の[[濫用]]にあたるとされた裁判例がある。それが2002年の性同一性障害者解雇無効事件(懲戒処分禁止等仮処分申立事件、東京地方裁判所平成14年(ヨ)第21038号、東京地裁平成14年6月20日決定 労働判例830号13頁掲載)である。この事件は、男性として[[雇用]]された被用者(原告)が女性装での就労を禁止する服務命令に違反したことを理由の一つ(ほかにも4つの理由が挙げられている)として懲戒解雇されたことに対し、従業員としての地位保全および賃金・賞与の仮払請求の[[仮処分]]を申し立てたものである。東京地裁は、性同一性障害である被用者が女性の服装・化粧をすることや女性として扱って欲しいなどの申し出をすることは理由があることだとした。そして、使用者側(被告)は被用者(原告)からのこうした申し出を受けた後も善後策を講じなかったことや、女性の格好をしていては就労に著しい支障を来すということの証明がないことを指摘して懲戒解雇を権利の濫用であるとして[[無効]]とし、賃金の支払いを命じた<ref>“[http://www.milkjapan.com/2002gn10.html 昭文社・性同一性障害を理由に社員解雇]”. ''milk'' vol.61. milk/green (2002年6月22日) 2019年5月1日閲覧。</ref><ref>“[http://www.milkjapan.com/2002gn11.html 「女性として働かせてほしい」 社員側の主張]”. ''milk'' vol.61. milk/green (2002年6月22日) 2019年5月1日閲覧。</ref><ref>“[http://www.milkjapan.com/2002gn12.html 「女装は職場の秩序を乱す」 昭文社側の言い分]. ''milk'' vol.61. milk/green (2002年6月22日) 2019年5月1日閲覧。</ref><ref>(関連)[http://www.milkjapan.com/2003dn15.html 「大阪市・性同一性障害男性を女性職員として認可」]”. ''milk'' vol.75. milk/green (2003年9月22日). 2019年5月1日閲覧。</ref>。
;【判例】性別変更要件(生殖能力喪失)違憲決定
: 2023年10月25日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[大法廷]]において、性同一性障害との診断を受けた生物学的男性の性別変更の申立てに対する決定(性別の取扱いの変更申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件、最高裁判所令和2年(ク)第993号、最高裁判所大法廷令和5年10月25日決定<ref name=":2" />)があり、同法廷は、性別変更には生殖能力を永久的に失うことを要件とする本法第3条第1項第4号は、同規定の立法目的である、性同一性障害者である男性の妊娠といった現行法令が想定していない事態を防ぐということについて、「生殖腺除去手術を受けずに性別変更審判を受けた者が子をもうけることにより親子関係等に関わる問題が生ずることは、極めてまれなこと」であり、また、「法律上の親子関係の成否や戸籍への記載方法等の問題 は、法令の解釈、立法措置等により解決を図ることが可能なもの」と判断し、加えて、性同一性障害者に対する生殖腺の摘出の治療は必ずしも行われなくなっており、「医学的にみて合理的関連性を欠く制約」であると判断し、そのため同規定は「必要かつ合理的なものということはできない」として'''[[日本国憲法第13条|憲法13条]](個人の尊厳・幸福追求権)に違反し無効'''であると、15人の裁判官全員一致の意見で判断した。
: なお、本件事件の申立人の(生物学的)男性は、同法第3条第1項第5号に規定する「その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えている」という要件についても憲法違反であることを予備的に主張しているが、最高裁判所はこの規定について審理を尽くさせるために、原審である[[広島高等裁判所]]に審理を差し戻した。これについて、「第5号に定める要件も憲法違反であり、申立人の請求を認容して性別変更の決定をするべきである」とする3人の裁判官([[三浦守]]、[[草野耕一]]、[[宇賀克也]])の反対意見が付されている。
== 性別移行者および性同一性障害者が登場する主な作品 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2023年11月}}
{{hidden begin|title = 性別移行者(性同一性障害者)が登場する主な作品を表示するには右の [表示] をクリックしてください。}}
「性別移行者」「性同一性障害者」「トランスジェンダー」に該当する人物が登場する作品。「性同一性障害」という概念が生まれる前の作品も含む。ただし、製作に当事者が直接関わっていない作品が大半のため、実際の性同一性障害者とは状態が異なる。例えば、同性を愛しすぎたゆえに異性になることを決意する、恋愛対象によって性同一性が再形成されるなどの表現、同性愛と性同一性障害の混同、さらに異性を演じる職務にある人物や女装趣味嗜好のある人物、「ごっこ遊び」的感覚を持つ同性愛者を性同一性障害であるかのように扱う表現、「[[ニューハーフ]]」「[[オカマ]]」などの言葉を「性同一性障害者」と同義語であるかのように使用するといった誤用がある。
=== TVドラマ ===
* [[バージンロード (テレビドラマ)|バージンロード]](1997年、フジテレビ)
* [[29歳の憂うつ パラダイスサーティー]] (2000年、テレビ朝日)
* [[3年B組金八先生]] 第6シリーズ (2001年、TBS)
* [[相棒]] season3 (2005年、テレビ朝日)
* [[伝説のマダム]](2005年、MBS)
* [[私が私であるために]] (2006年、日本テレビ)
* [[アグリー・ベティ]] (2006年 - 、ABC/NHK)
* [[ラスト・フレンズ]] (2008年、フジテレビ) - 作品中では性別違和症候群とする説明もある。
* [[ママはニューハーフ]] (2009年、テレビ東京)
* [[ママは昔パパだった]] (2009年、WOWOW)
* [[マジすか学園]] (2010年、テレビ東京)
* [[オレンジ・イズ・ニュー・ブラック]] (2013年、Netflix)
* [[夜のせんせい]] (2014年、TBS)
* [[ごめんね青春!]] (2014年、TBS)
* [[トランスペアレント (テレビドラマ)|トランスペアレント]] (2014年、Amazon)
* [[SUPERGIRL/スーパーガール]] (2015年、CBS)
* [[POSE/ポーズ]] (2018年、FX)
* [[ユーフォリア/EUPHORIA]] (2019年、HBO)
* [[僕らのままで WE ARE WHO WE ARE]] (2020年、HBO)
=== 映画 ===
;<< Female to Male >>
* [[ボーイズ・ドント・クライ]] / Boys Don't Cry (1999)…(米)
* [[ロバート・イーズ]] / Southern Comfort (2001)…(米)
* [[トランスペアレント]]/transparent(2005)...(米)
* [[アバウト・レイ 16歳の決断]]/ About Ray(2015)…(米)
* [[全員、片想い#.E7.89.87.E6.83.B3.E3.81.84.E3.82.B9.E3.83.91.E3.82.A4.E3.83.A9.E3.83.AB|片思いスパイラル]]/(2016)...(邦)
;<< Drag Queen >>
* [[ロッキー・ホラー・ショー]] / ROCKY HORROR PICTURE SHOW (1975)…(英)
* [[プリシラ (映画)|プリシラ]] / The Adventures of Priscilla, Queen of the Desert (1994)…(濠)
* [[キンキーブーツ]] / KinkyBoots (2005)…(英)
;<< Male to Female >>
* [[薔薇の葬列]] / Funeral Parade of Roses (1969)…(邦)
* [[ガープの世界]] / The World According to Garp (1982)…(米)
* [[クライング・ゲーム]] / The Crying Game (1992)…(英)
* [[極道記者2]] / (1994年)...(邦)
* [[クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望]]/(1995)...(邦)
* [[ぼくのバラ色の人生]] / Ma Vie En Rose :my Life In Pink (1997)…(仏)
* [[愛する者よ、列車に乗れ]] / Ceux qui m'aiment prendront le train (1998)…(仏)
* [[オール・アバウト・マイ・マザー]] / All About My Mother , Todo sobre mi madre (1999)…(西)
* [[ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ]] / Hedwig and the Angry Inch (2001)…(米)
* [[アグネスと彼の兄弟]] / AGNES UND SEINE BRUDER :Agnes and His Brothers (2004)…(独)
* [[トランスアメリカ]] / Transamerica (2005)…(米)
* [[プルートで朝食を]] / Breakfast on Pluto (2005)…(愛/英)
* [[わたしはロランス]] / Laurence Anyways (2012)…(仏/加)
* [[リリーのすべて]]/ The Danish Girl (2015)…(英/米/独)
* [[タンジェリン (映画)]]/ Tangerine(2015)…(米)
* [[ハイヒール革命!]]/(2016)...(邦)
* [[ダイ・ビューティフル]]/ Die Beautiful(2016)…(比)
* [[彼らが本気で編むときは、]]/(2017)…(邦)
* [[ナチュラルウーマン (2017年の映画)]]/Una mujer fantástica(2017)…(智利)
* [[ミッドナイトスワン]]/(2020)…(邦)
=== 小説 ===
* [[海辺のカフカ]] ([[村上春樹]])
* [[片想い (小説)|片想い]] ([[東野圭吾]])
* [[彼が彼女になったわけ]] ([[デイヴィッド・トーマス]])
* [[プリンセス・トヨトミ]] ([[万城目学]])
* [[インディゴの夜]] ([[加藤実秋]])
* [[この恋と、その未来。]] ([[森橋ビンゴ]])
* [[赤×ピンク]] ([[桜庭一樹]])
* [[クヮルテット 第1楽章性転換手術]] ([[なだいなだ]])
* [[わたし、男子校出身です。]] ([[椿姫彩菜]])
* [[奥の奥の森の奥に、いる。]] ([[山田悠介]])
* [[女子的生活]]([[坂木司]])
* [[逝年]]([[石田衣良]])
=== 漫画・アニメ・ゲームetc. ===
* [[ストップ!! ひばりくん!]]
* [[バーコードファイター]]
* [[湘南純愛組!]]
* [[ボンボン坂高校演劇部]]
* [[F.COMPO]]
* [[オッパイをとったカレシ。]]
* [[G.I.D - GENDER IDENTITY DISORDER]]
* [[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]
* [[無頼男 -ブレーメン-]]
* [[Paradise Kiss]]
* [[逢魔がホラーショー]]
* [[ピンクとみずいろ]]
* [[渋谷君友の会]]
* [[マリア様がみてる]]
* [[サウスパーク]]
* [[ダブルハッピネス]]
* [[ミッドナイトレストラン7to7]]
* [[アイレボ -Ice Revolution-]]
* [[幻覚ピカソ]]
* [[ぼくは、おんなのこ]]
* [[放浪息子]]
* [[ノノノノ]]
* [[罪花罰]]
* [[〜少女少年〜 GO!GO!ICHIGO]]
* [[殲鬼戦記ももたま]]
* [[曹操孟徳正伝]]
* [[天の神話 地の永遠]]
* [[玄椿]]
* [[今際の国のアリス]]
* [[ぼくらのへんたい]]
* [[幽麗塔]]
* [[ドロねこ9]]
* [[ファイアパンチ]]
* [[にくをはぐ]]
* [[男になりたい!]]
* [[ラフダイヤモンド まんが学校にようこそ]]
* [[東京喰種トーキョーグール|東京喰種:re]]
* [[僕が私になるために]]
* [[この恋に未来はない]]
* [[凛とチア。]]
* [[はぐれアイドル地獄変]]
* [[ゾンビランドサガ]]
* [[甘い生活 (漫画)]]
* [[俺の身体はなんで女なんだ?]]
* [[ブルーピリオド]]
* [[美醜の大地~復讐のために顔を捨てた女~]]
* [[スキップとローファー]]
* [[クローディーヌ…!]]
* [[パロスの剣]]
* [[僕たちいけないことしてる]]
* [[スクール人魚]]
* [[淫Days (わたしはわたし)]]
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="特例法">{{Cite web|和書|url= https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111 |title=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成十五年七月十六日法律第百十一号) |date=平成三十年六月二十日公布(平成三十年法律第五十九号)改正 |quote=施行は基準日時点 |accessdate=2019-02-20}}</ref>
<ref name="障害者基本法">{{Cite web|和書|url= https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=345AC1000000084 |title=障害者基本法(昭和四十五年法律第八十四号) |date=2013年6月26日公布(平成二十五年法律第六十五号)改正 |quote=2016年4月1日施行 |accessdate=2019-12-20}}</ref>
<ref name="障害者差別解消法">{{Cite web|和書|url= https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=425AC0000000065 |title=障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(平成二十五年法律第六十五号) |date=2018年6月20日公布(平成三十年法律第五十九号)改正 |quote=施行は基準日時点 |accessdate=2019-12-21}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
<div class="references-small">
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|周司・高井|2023}} |reference=[[周司あきら]] 著、[[高井ゆと里]] 著『トランスジェンダー入門』 [[集英社]]、2023年、232頁。{{ISBN2|978-4-08-721274-7}}}}
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|ショーン・高井(訳)|2022}} |reference=ショーン・フェイ 著、[[高井ゆと里]] 訳『トランスジェンダー問題——議論は正義のために』 [[明石書店]]、2022年、516頁。{{ISBN2|978-4750354637}}}}
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|大阪弁護士会人権擁護委員会|2016}} |reference=大阪弁護士会人権擁護委員会性的指向と性自認に関するプロジェクトチーム 著『LGBTsの法律問題Q&A』 [[LABO]]、2016年、152頁。{{ISBN2|978-4904497289}}}}
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|大阪弁護士会人権擁護委員会|2018}} |reference=西野明樹 著『子どもの性同一性障害に向き合う~成長を見守り支えるための本~』 [[日東書院本社]]、2018年、189頁。{{ISBN2|978-4528021853}}}}
* {{Cite|publisher=日本精神神経学会|title=性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第2版)|year=2002|ref={{Sfnref|JSPNガイドライン第2版|2002}} }}
* {{Cite|publisher=日本精神神経学会|title=性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第3版)|year=2006|ref={{Sfnref|JSPNガイドライン第3版|2006}} }}
**{{Cite web|和書|url = https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/gid_guideline_no3.pdf |title=性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン 第3版(2011年5月改訂)|year=2011|publisher=日本精神神経学会|accessdate=2014-12-31|ref={{Sfnref|JSPNガイドライン第3版改|2011}} }}
* {{Cite journal|和書|publisher=日本精神神経学会|title=性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第4版)|url= https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/journal_114_11_gid_guideline_no4.pdf |journal=精神神経学雑誌|volume=114|number=11|year=2012|pages=1250-1266|ref={{Sfnref|JSPNガイドライン第4版|2012}} }}
**{{Wikicite|ref={{Sfnref|JSPNガイドライン第4版改}} |reference=「[https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/gid_guideline_no4_20180120.pdf 性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン第4版改]」、日本精神神経学会 性同一性障害に関する委員会、2018年1月20日。}}
* {{Cite book|和書|author=山内俊雄|title=性同一性障害の基礎と臨床|publisher=新興医学出版社|year=2001|isbn=9784880024318|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=山内俊雄|title=性同一性障害の基礎と臨床|publisher=新興医学出版社|year=2004|isbn=9784880024738}}(改訂版)。
* {{Cite book|和書|author=山内俊雄 編著|series=Modern Physician 25-4|title=性同一性障害の診かたと治療|publisher=新興医学出版社|year=2005|ref={{Sfnref|山内編著|2005}} }}
* {{Cite book|和書|author=山内俊雄|title=性の境界 ― からだの性とこころの性|publisher=岩波書店|year=2000|isbn=9784000065740}}
<!--* 山内俊雄 『性転換手術は許されるのか—性同一性障害と性のあり方』 明石書店、1999年。ISBN 9784750312101。-->
* [[大島俊之 (法学者)|大島俊之]] 『性同一性障害と法』 日本評論社、2002年。ISBN 9784535058125
* 大島俊之 [http://www.law.kobegakuin.ac.jp/~jura/29_4_hbun5.htm 「性同一性障害とオランダ法」]『神戸学院法学第29巻第4号』 神戸学院大学法学会、2000年2月。
* 石原明・大島俊之編著ほか 『性同一性障害と法律—論説・資料・Q&A』 晃洋書房、2001年。ISBN 9784771012288
* {{Cite book|和書|author=野宮亜紀ほか|title=性同一性障害って何? ― 一人一人の性のありようを大切にするために|publisher=緑風出版|year=2003|isbn=9784846103101|ref={{Sfnref|野宮ほか|2003}} }}
* {{Cite book|和書|author=野宮亜紀ほか|title=性同一性障害って何? ― 一人一人の性のありようを大切にするために|publisher=緑風出版|year=2011|isbn=9784846111014|ref={{Sfnref|野宮ほか|2011}} }}(増補改訂版)。
* {{Cite book|和書|editor=針間克己監修|editor-link=針間克己|author=相馬佐江子編著|title=性同一性障害30人のカミングアウト|publisher=双葉社|year=2004|isbn=9784575297225|ref={{Sfnref|針間・相馬|2004}} }}
<!--* 南野知恵子 「解説・性同一性障害者性別取扱特例法」 日本加除出版、2004年。ISBN 9784817812902-->
* {{Cite book|和書|author=山内兄人・新井康允編著|title=脳の性分化|publisher=裳華房|year=2006|isbn=9784785359133|ref={{Sfnref|山内兄人・新井康允|2006}} }}
* {{Cite book|和書|author=新井康允|title=脳の性差 ― 男と女の心を探る|publisher=共立出版|year=1999|isbn=9784320053939|ref={{Sfnref|新井康允|1999}} }}
* {{Cite book|和書|author=中村美亜|authorlink=中村美亜|title=心に性別はあるのか? ― 性同一性障害のよりよい理解とケアのために|publisher=医療文化社|year=2005|isbn=9784902122169|ref=harv }}
* {{Cite journal|和書|url= https://ci.nii.ac.jp/naid/110006605270 |title=新しいジェンダー・アイデンティティ理論の構築に向けて生物・医学とジェンダー学の課題|author=中村美亜|journal=Gender and sexuality : journal of Center for Gender Studies ICU 02|pages=3-24|year=2006|month=12|publisher=[[国際基督教大学]]|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=石田仁編著|title=性同一性障害 ― ジェンダー・医療・特例法|publisher=御茶の水書房|year=2008|isbn=9784275008060|ref={{Sfnref|石田仁|2008}} }}
* {{Cite book|和書|author=虎井まさ衛|authorlink=虎井まさ衛|title=語り継ぐトランスジェンダー史—性同一性障害の現在・過去・未来|publisher=十月舎|year=2003|isbn=9784434033308|ref={{Sfnref|虎井まさ衛|2003}} }}
* {{Cite book|和書|author=上川あや|authorlink=上川あや|title=変えてゆく勇気 ― 「性同一性障害」の私から|publisher=岩波書店|year=2007|isbn=9784004310648|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=池田稔|title=私の体は神様がイタズラで造ったの? ― 性同一性障害を超えて|publisher=悠飛社|year=2001|isbn=9784946448966|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|[[米沢泉美]]編著|title=トランスジェンダリズム宣言 ― 性別の自己決定権と多様な性の肯定|publisher=社会批評社|year=2003|isbn=9784916117557|ref={{Sfnref|米沢泉美|2003}} }}
* {{Cite book|和書|series=別冊ジュリストNo.183|title=医事法判例百選|publisher=有斐閣|year=2006|isbn=9784641114838|ref={{Sfnref|医事法判例百選|2006}} }}
* {{Cite book|和書|author=ジョン・コラピント|title=ブレンダと呼ばれた少年 ― 性が歪められた時、何が起きたのか|editor=村井智之訳|publisher=扶桑社|year=2005|isbn=9784594049584|ref={{Sfnref|ジョン・コラピント著、村井智之訳|2005}} }}
* Hilleke E Hulshoff Pol, Peggy T Cohen-Kettenis, Neeltje E M Van Haren, Jiska S Peper, Rachel G H Brans, Wiepke Cahn, Hugo G Schnack, Louis J G Gooren and René S Kahn '[http://eje-online.org/cgi/content/full/155/suppl_1/S107/ Changing your sex changes your brain: influences of testosterone and estrogen on adult human brain structure]' 2006,''European Journal of Endocrinology'', Vol 155, suppl_1, S107-S114. DOI:10.1530/eje.1.02248
* {{Cite book|和書|author=南野知惠子ほか|authorlink=南野知惠子|title=性同一性障害の医療と法 ― 医療・看護・法律・教育・行政関係者が知っておきたい課題と対応|url= https://www.medica.co.jp/catalog/book/1869 |date=2013-03-15|edition=第1版第1刷|publisher=[[メディカ出版]]|isbn=978-4-8404-4089-9|ref={{Sfnref|南野ほか|2013}} }}
</div>
==GID当事者の著名人 ==
* [[:Category:トランスジェンダーの人物]]
* [[:Category:ノンバイナリー・ジェンダーの人物]]
* [[:Category:LGBTの人物]]
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2023年11月}}
* FTM(Female To Male) - [[安藤大将]]、[[虎井まさ衛]]、[[KAB.]]、[[成瀬芳貴]]、[[華京院レイ]]、[[真道ゴー]]、[[細田智也]]
* MTF(Male To Female) - [[カルーセル麻紀]]、[[柴谷宗叔]]、[[操-misao]]、[[上川あや]]、[[松本太郎 (漫画家)|松本太郎]]、[[KABA.ちゃん]]、[[こうぶんこうぞう]]、[[はるな愛]]、[[石橋磨季]]、[[能町みね子]]、[[如月音流]]、[[長崎アンナ]](麻倉ケイト)、[[小西真冬]]、[[IVAN]]、[[椿姫彩菜]]、[[中村中]]、[[GENKING]]、[[モカ (経営者)|モカ]](迷いうさこ)、[[西原さつき]]、[[真境名ナツキ]]、[[たけうち亜美]]、[[佐藤かよ]]、[[サリー楓]]、[[朱崇花]]、[[星元裕月]]
== 関連項目 ==
<!-- ウィキペディアに記事がある項目のみ列挙。関連するガイドラインもご参照ください。 -->
=== 医療===
* [[日本精神神経学会]]
* [[原科孝雄]] - [[埼玉医科大学]]で[[性別適合手術]]に従事した[[形成外科学|形成外科医]]。
* [[針間克己]] - [[精神科医]]。性同一性障害に関する著書も多数。
* [[ミルトン・ダイアモンド]] - 性同一性の起源について研究した[[性科学者]]。
* [[性別適合手術]](SRS)
=== 法律===
* [[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]] - 2003年に成立し、2004年から施行された日本の法律。
* [[大島俊之 (法学者)|大島俊之]] - 上記特例法の基礎となるGID当事者の戸籍情報の変更に関する論文を発表。
* [[ジョグジャカルタ原則]] - 正式名称は「性的指向と性同一性に関わる国際人権法の適用に関する原則」。
* [[モントリオール宣言]] - [[LGBT]]や[[性分化疾患|インターセックス(性分化疾患)]]の人権確保を求める宣言。
=== 概念===
* [[同一性]]
* [[身体性別]]
* [[:en:legal_gender|法的性別]]
* [[性役割]]
* [[ジェンダー|ジェンダー(社会的性別)]]
=== その他===
* [[メラニー法]] - 性同一性障害であったメラニー・アン・フィリップスが開発した、[[女声]]を出すための発声練習法。
* [[障害を扱った作品の一覧]]
== 外部リンク ==
* {{脳科学辞典|性同一性障害}}
=== 学会===
* [http://www.gid-soc.org/ GID学会]
* [https://www.jspn.or.jp/ 日本精神神経学会]
** [https://www.jspn.or.jp/modules/advocacy/index.php?content_id=23 性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン]
** [https://www.jspn.or.jp/modules/advocacy/index.php?content_id=33 「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第4版改)」一部改訂のお知らせ(2018.1.20)]
** [https://www.jspn.or.jp/modules/advocacy/index.php?content_id=25 性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン 過去 ガイドライン第3版(2011年5月改訂)]
* [https://www.wpath.org/ WPATH - World Professional Association for Transgender Health](世界トランスジェンダー・ヘルス専門家協会){{Languageicon|en|英語}}
** [https://www.tandfonline.com/doi/pdf/10.1080/26895269.2022.2100644 Standards of Care for the Health of Transgender and Gender Diverse People, Version 8] - ver.8{{Languageicon|en|英語}}
** [https://www.wpath.org/media/cms/Documents/SOC%20v7/Standards%20of%20Care_V7%20Full%20Book_English.pdf Standards of Care for the Health of Transsexual, Transgender, and Gender-Noncorming People] - ver.7{{Languageicon|en|英語}}
** [https://www.wpath.org/media/cms/Documents/SOC%20v7/SOC%20V7_Japanese.pdf トランスセクシャル、トランスジェンダー、ジェンダーに非同調な人々のためのケア基準] - 第7版{{Languageicon|ja|日本語}}
=== 国の機関===
* {{Egov law|415AC1000000111|性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律}}([[総務省]])
* [https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=blIf6kVoQlMhBDqQ3HjBCg%3D%3D 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律 (平成15年7月16日法律第111号)] - 日本法令検索([[国立国会図書館]])
* [https://www.moj.go.jp/JINKEN/kadai.html#15 性同一性障害者] - 主な人権課題([[法務省]])
* [https://www.mhlw.go.jp/general/seido/syakai/sei32/ 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律第3条第2項に規定する医師の診断書について] - 政策について([[厚生労働省]])
* [https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_23/index.html 性別の取扱いの変更] - 裁判手続の案内([[裁判所]])
* [https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_20/index.html 名の変更許可] - 裁判手続の案内(裁判所)
=== 支援団体===
* [https://gids.or.jp/ gid.jp 日本性同一性障害と共に生きる人々の会]
* [https://245family.jimdofree.com/ 性別違和のあるお子さんと家族のための情報サイト - にじっこ]
{{精神と行動の障害}}
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[[Category:性同一性障害|*]]
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11,209 |
長さ
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長さ(ながさ、英語: length)とは、
通常、長さというのは先験的(アプリオリ)な概念であるとされている。
2点がひとつの物体の両端のときの長さ、つまりある物体のひとつの軸に沿った端から端までの隔たりの大きさのことを、「物体の長さ」または単に「長さ」という。「物体の長さ」が特にはっきりと定義されるのは、ひもや棒のようなひとつの軸に沿った長さが飛び抜けて長い形の物体においてである。
「長さ」という語は時間的な隔たりについても用いられる。ある現象が続く期間の長さを、その現象の長さという。例えば、息の長さ、声の長さ、寿命の長さ、歴史の長さ、などである。音符の長さといえば、その音符が示す音の長さをいう。
空間的、時間的、どちらの場合についても、長さが大きいことには「長い」、小さいことには「短い」という形容詞が用いられる。時間的な隔りについて言う時には、「永さ」「永い」という字が使われることがある。
長さのうち、以下のものは特別の名称で呼ばれる。
上述のように、長さ、というのはアプリオリな概念だとされてきたのだが、数学においても18世紀まではそのように扱われてきた(つまりそれ以上分析することもなく使われていた)。そして線には長さが当然備わっている、とされていた。
だが、現代数学では長さという概念をより厳密に定義している。
例えば、線分の長さについて、公理的に扱い厳密な定義を与えている。
線分の長さとは、次のように定義される正の実数だとする。最初に、ある線分を選びこれを「単位線分」と呼ぶ。何らかの線分PQが与えられたら、まずPQが単位線分の何倍であるかを求め(これを n 倍とする。n は 0 あるいは正の整数)、不足分がでれば、この不足分が単位線分の 1/10 の何倍であるかを求め(これを n1 とする。0 から 9 の整数)、まだ不足があればさらにそれが単位線分の 1/100 の大きさの何倍であるかを求め......ということを限りなく続け、n, n1, n2, ... を求め、PQ の長さを a とするなら、
として、これを線分PQの長さ、と定義するということが行われているのである。
各記事を参照
ニュートンは空間を絶対のものとする体系(ニュートン力学)を作った。というよりも、暗黙裡にそうだと仮定されていたと言ったほうがよいのかも知れない、というのは(一般には)誰も疑いもしなかったのであるし、アインシュタインが現れるまで、空間や距離や時間というものは「自明のもの」として、根本的に問い直したり、疑うことをしなかったのだから、と茂木は述べた。(ただし哲学の領域ではカントが空間や時間についても徹底して検討しようとしたことがあるにはあったのではあるが)。ニュートン力学では長さは絶対のものと暗黙裡に仮定されていた。アインシュタインの相対性理論によって、ニュートン力学の絶対空間は否定され、物体の速度が光速に近づくにつれ、進行方向に空間が縮み、物体の長さが縮む、とされるようになった。例えば光速の60 %で進む乗り物があったとしたら、それは進行方向について20 %縮む、という。
長さのSI単位は、メートル法のメートルである。SI接頭語をつけた以下のような単位もよく用いられる。
尺貫法においては、以下のような単位が用いられる。
ヤード・ポンド法においては、以下のような単位が用いられる。
天文学においては、以下のような単位が用いられる。
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"text": "線分の長さとは、次のように定義される正の実数だとする。最初に、ある線分を選びこれを「単位線分」と呼ぶ。何らかの線分PQが与えられたら、まずPQが単位線分の何倍であるかを求め(これを n 倍とする。n は 0 あるいは正の整数)、不足分がでれば、この不足分が単位線分の 1/10 の何倍であるかを求め(これを n1 とする。0 から 9 の整数)、まだ不足があればさらにそれが単位線分の 1/100 の大きさの何倍であるかを求め......ということを限りなく続け、n, n1, n2, ... を求め、PQ の長さを a とするなら、",
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"text": "ニュートンは空間を絶対のものとする体系(ニュートン力学)を作った。というよりも、暗黙裡にそうだと仮定されていたと言ったほうがよいのかも知れない、というのは(一般には)誰も疑いもしなかったのであるし、アインシュタインが現れるまで、空間や距離や時間というものは「自明のもの」として、根本的に問い直したり、疑うことをしなかったのだから、と茂木は述べた。(ただし哲学の領域ではカントが空間や時間についても徹底して検討しようとしたことがあるにはあったのではあるが)。ニュートン力学では長さは絶対のものと暗黙裡に仮定されていた。アインシュタインの相対性理論によって、ニュートン力学の絶対空間は否定され、物体の速度が光速に近づくにつれ、進行方向に空間が縮み、物体の長さが縮む、とされるようになった。例えば光速の60 %で進む乗り物があったとしたら、それは進行方向について20 %縮む、という。",
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"text": "尺貫法においては、以下のような単位が用いられる。",
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"text": "ヤード・ポンド法においては、以下のような単位が用いられる。",
"title": "単位"
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"text": "天文学においては、以下のような単位が用いられる。",
"title": "単位"
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] |
長さとは、 長いこと。長いか短いかの程度のこと。
(数学)直線または曲線に沿って測った2点間の距離。「線分CDの長さ」のように使う。
(物理学、計量学)計量法や国際単位系(SI)における物象の状態の量(物理量)のひとつであり、時間、質量と並んでもっとも基本的な量である。この場合は、「距離」の語は用いない(距離#距離と長さ)。
基本、物体の端っこから端っこ。
時刻と時刻のへだたり。「ひとを待つ 時の長さが 身にしみた」のように使う。
|
{{redirect|深さ|環や加群の深さ|深さ (環論)|データ構造における木構造での深さの扱い|木構造 (データ構造)}}
[[ファイル:Opened rollable meter.jpg|サムネイル|長さを測るための道具の例]]
'''長さ'''(ながさ、{{lang-en|length}})とは、
* 長いこと<ref name="kojien_daigohan">広辞苑 第五版 p.1972</ref>。長いか短いかの程度のこと<ref name="kojien_daigohan" />。
*(数学)[[直線]]または[[曲線]]に沿って測った2点間の[[距離]]<ref name="kojien_daigohan">広辞苑 第五版 p.1972</ref><ref name="dj">デジタル大辞泉</ref>。「線分CDの長さ<ref name="dj" />」のように使う。
*(物理学、[[計量学]])[[計量法]]や[[国際単位系]](SI)における[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]([[物理量]])のひとつであり、[[時間]]、[[質量]]と並んでもっとも基本的な[[量]]である。この場合は、「[[距離]]」の語は用いない([[距離#距離と長さ]])。
* 基本、物体の端っこから端っこ。
* [[時刻]]と時刻のへだたり<ref name="kojien_daigohan" />。「ひとを待つ 時の長さが 身にしみた」のように使う。
== 概説 ==
通常、長さというのは[[アプリオリ|先験的(アプリオリ)]]な[[概念]]であるとされている<ref name="sdh">平凡社『世界大百科事典』第21巻 p.47 長さ、[[中岡稔]]</ref>。
{{要出典範囲|2点がひとつの[[物体]]の両端のときの長さ、つまりある物体のひとつの軸に沿った端から端までの隔たりの大きさのこと|date=2012年11月}}を、「'''物体の長さ'''」または単に「'''長さ'''」という。「物体の長さ」が特にはっきりと定義されるのは、ひもや棒のようなひとつの軸に沿った長さが飛び抜けて長い形の物体においてである{{要出典|date=2012年11月}}。
<!--{{要検証|date=2012年11月}} {{要出典範囲|2点が互いに離れた2地点のときは、「長さ」よりも'''[[距離]]'''という語が主に使われる。距離という語は「物体の長さ」の意味で使われることはない。距離という語はまた、「[[恒星]]までの距離の大きさ」「アメリカまでの距離は遠い」「東京大阪間の距離は短い」というようにも使われる。これらの表現では、距離という語は2点間の空間的隔たりそのものを指すとも考えられる。|date=2012年11月}}-->
「長さ」という語は[[時間]]的な隔たりについても用いられる。ある現象が続く期間の長さを、その現象の長さという。例えば、[[息]]の長さ、[[声]]の長さ、[[寿命]]の長さ、[[歴史]]の長さ、などである。[[音符]]の長さといえば、その音符が示す音の長さをいう。
空間的、時間的、どちらの場合についても、長さが大きいことには「'''長い'''」、小さいことには「'''短い'''」という[[形容詞]]が用いられる。時間的な隔りについて言う時には、「永さ」「永い」という字が使われることがある。
長さのうち、以下のものは特別の名称で呼ばれる。
*[[高さ]](たかさ)
*: [[鉛直]]方向の長さで、地面・水面よりも上のもの。身長、標高など。この長さが長いことを「高い」、短いことを「低い」といい、低いことを強調したい場合に「低さ」という表現が用いられる。
*'''深さ'''(ふかさ)
*: 鉛直方向の長さで、地面・水面より下のもの。[[水深]]など。また、容器状のもの口から底までの長さ。この長さが長いことを「深い」、短いことを「浅い」といい、浅いことを強調したい場合に「浅さ」という表現が用いられる。
*[[厚さ]](あつさ)
*: 膜状・面状のものの、面に垂直な方向の長さ。この長さが長いことを「厚い」、短いことを「薄い」といい、薄いことを強調したい場合に「薄さ」という表現が用いられる。
*'''幅'''(はば)<!-- リンクしないこと: 和裁でつかう単位について書かれている -->
*: ある物体または図形について、水平方向の2つの長さのうち短い方の長さ。道幅など。
*'''奥行き'''(おくゆき)
*: 立方体あるいは水平的な平面について、前後方向(手前と奥)の長さ。
== 数学 ==
上述のように、長さ、というのはアプリオリな概念だとされてきたのだが、[[数学]]においても[[18世紀]]まではそのように扱われてきた(つまりそれ以上分析することもなく使われていた)<ref name="sdh" />。そして[[線]]には長さが当然備わっている、とされていた<ref name="sdh" />。
だが、現代数学では長さという概念をより厳密に定義している<ref name="sdh" />。
=== 直線の場合 ===
例えば、[[線分]]の長さについて、[[公理]]的に扱い厳密な定義を与えている。
線分の長さとは、次のように定義される正の[[実数]]だとする。最初に、ある線分を選びこれを「単位線分」と呼ぶ。何らかの線分PQが与えられたら、まずPQが単位線分の何倍であるかを求め(これを ''n'' 倍とする。''n'' は 0 あるいは正の整数)、不足分がでれば、この不足分が単位線分の 1/10 の何倍であるかを求め(これを ''n''<sub>1</sub> とする。0 から 9 の[[整数]])、まだ不足があればさらにそれが単位線分の 1/100 の大きさの何倍であるかを求め……ということを限りなく続け、''n'', ''n''<sub>1</sub>, ''n''<sub>2</sub>, … を求め、PQ の長さを ''a'' とするなら、
:''a'' = ''n'' + (''n''<sub>1</sub>/10) + (''n''<sub>2</sub>/10<sup>2</sup>) + ⋯
として、これを線分PQの長さ、と定義する<ref name="sdh" />ということが行われているのである。
=== 曲線の場合 ===
{{main|弧長}}
=== その他の意味 ===
各記事を参照
*[[加群の長さ]]
*[[組成列]]の長さ
== 物理学 ==
[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]は[[空間]]を絶対のものとする体系([[ニュートン力学]])を作った<ref name="mogi">茂木健一郎『あなたにも分かる相対性理論』PHP研究所、2009</ref>。というよりも、暗黙裡にそうだと仮定されていたと言ったほうがよいのかも知れない<ref name="mogi" />、というのは(一般には)誰も疑いもしなかったのであるし、アインシュタインが現れるまで、空間や距離や時間というものは「自明のもの」として、根本的に問い直したり、疑うことをしなかったのだから、と茂木は述べた<ref name="mogi" />。(ただし哲学の領域ではカントが空間や時間についても徹底して検討しようとしたことがあるにはあったのではあるが)。ニュートン力学では長さは絶対のものと暗黙裡に仮定されていた。アインシュタインの[[相対性理論]]によって、ニュートン力学の[[絶対空間]]は否定され<ref name="mogi" />、物体の速度が光速に近づくにつれ、進行方向に空間が縮み、物体の長さが縮む、とされるようになった<ref name="mogi" />。例えば[[光速]]の60 %で進む乗り物があったとしたら、それは進行方向について20 %縮む、という<ref name="mogi" />。
== 単位 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年11月}}
{{see also|長さの単位}}
{{物理量
|名称=長さ
|英語=length
|記号=''r'', ''l'', ''x'', ''a'' 等
|次元=L
|階=スカラー
|SI=[[メートル]] (m)
|CGS=[[センチメートル]] (cm)
|FPS=[[フィート]] (ft)
|プランク=[[プランク長]] (''l''{{sub|P}})
|原子=[[ボーア半径]] (''a''{{sub|0}})
}}
=== SI単位 ===
長さの[[SI単位]]は、[[メートル法]]の[[メートル]]である。[[SI接頭語]]をつけた以下のような単位もよく用いられる。
{|
|[[キロメートル]]|| = km
|-
|[[センチメートル]]|| = cm
|-
|[[ミリメートル]]|| = mm
|-
|[[マイクロメートル]]|| = μm
|-
|[[ナノメートル]]|| = nm
|-
|[[ピコメートル]]|| = pm
|-
|[[フェムトメートル]]|| = fm
|}
<!--
他にも
*[[アトメートル]] =am
*[[ゼプトメートル]] =zm
*[[ヨクトメートル]] =ym
等がある。-->
=== その他の単位 ===
[[尺貫法]]においては、以下のような単位が用いられる。
*[[寸]]
*[[尺]]
*[[間]]
*[[里 (尺貫法)|里]]
[[ヤード・ポンド法]]においては、以下のような単位が用いられる。
*[[インチ]]
*[[フィート]]
*[[ヤード]]
*[[マイル]]
[[天文学]]においては、以下のような単位が用いられる。
*[[天文単位]]
*[[光年]]
*[[パーセク]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
{{Commons|length}}
{{Wikidata property}}
* [[長さの比較]]
* [[国際単位系]]
* [[メートル]]
* [[面積]]
* [[体積]]
* [[距離]]
* [[距離空間]]
* [[ノルム]]
* [[区間 (数学)|区間]] - 数学では長さとは全くの別の概念として捉えられる。
* [[長さの逆数]]
== 関連書 ==
*[[上野富美夫]]『「長さ」と「速さ」の話題事典』[[東京堂出版]]、[[2001年]]、ISBN 4490105894
{{Mathanalysis-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なかさ}}
[[Category:長さ|*]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:物理量]]
[[Category:空間]]
[[de:Längenmaß]]
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"Template:物理量"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%95
|
11,210 |
クロスオーバー (音楽)
|
クロスオーバー(Crossover)とは、ジャンルの垣根を乗り越えて音楽性を融合させるスタイルを指す音楽用語である。
1970年代前半に流行した、電気楽器や電子楽器を取り入れたジャズの演奏スタイルの一種。1960年代後半より、電気楽器やロック風な奏法を取り入れた新しいジャズ・スタイル、ジャズ・ロックやエレクトリック・ジャズが生まれた。マイルス・デイヴィスらはジャズの停滞状況を乗り越えるべく、新しいサウンドに挑戦していた。アメリカのスタジオ・ミュージシャン達は、ジャズにラテン音楽やロックを融合し、ジャンルの垣根を乗り越えた「クロスオーバー」音楽を生み出していった。
1970年代には、デオダート、ボブ・ジェームスらアレンジャーがアルバムを発表した。1973年には、デオダートが、アルバム『Prelude』を発表。クラシック作品をエレクトリック・ジャズにアレンジした「ツァラトゥストラはかく語りき」がジャズとしては異例のヒットとなった。同曲は「クロスオーバー」の最も初期の有名曲であり、日本でもNHKFMを中心にさかんにオンエアされた。1973年に発表した『Deodato2』でもジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」をカバーした。またデオダートをサポートしていたのがプロデューサー、クリード・テイラーのCTIレコードである。同レーベルではヒューバート・ロウズがイーゴリ・ストラヴィンスキーの春の祭典をアレンジした曲を発表したが、これはヒットには至らなかった。
70年代前半には、チック・コリア、キース・ジャレット、ハービー・ハンコックらも、クロスオーバーの作品を発表した。ハンコックは、「ヘッド・ハンターズ」(1973年)のようなファンク・リズムを取り入れたアルバムも制作した。
ロックのクロスオーバーは、時代や音楽性ごとに細かく区分されている。ブルース・ロックやジャズ・ロック、ラテン・ロック、ファンク・ロックなどが挙げられる。
ロックが1960年代に発展する過程で、ブルースを融合、クロス・オーバーさせたブルース・ロックが登場した。エリック・クラプトンのクリームやジミ・ヘンドリクス、フリートウッド・マック、ポール・バターフィールド、ジョン・メイオールなど、演奏能力に長けたバンドがブルース・ロック・ブームをまき起こした。サンタナはロックにラテンを融合することで、「ラテン・ロック」のアルバムを発表した。さらに、コロシアムやソフト・マシーン、ニュー・クリアスらジャズとロックを融合したジャズ・ロックを生み出し、ロックにクラシック音楽を取り入れたエマーソン、レイク&パーマー、イエスなどのプログレッシブ・ロックが発展していった。
また、インエクセスらのファンクとロックを融合した「ファンク・ロック」も登場した。90年代のロック分野におけるクロスオーバーの一つの現象が、パンクとヘヴィメタルを融合したニルヴァーナ(ナーヴァーナ)らのグランジと呼ばれるジャンルである。
1990年代に停滞していたヘヴィメタルと、ヒップ・ホップやファンクに代表される黒人音楽をクロスオーバーさせたジャンルで、ラップ・ロック、ラップメタルやファンクメタルなどのジャンルが生まれた。この動きは日本ではミクスチャー・ロックと呼ばれた。
クラシック音楽とポピュラー音楽がクロスオーバーしたサウンドは、クラシカル・クロスオーバーと呼ばれる場合がある。
最も著名な例としてはサラ・ブライトマンとアンドレア・ボチェッリのデュエット「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」(1996年)がある。この曲は全世界で2,500万枚以上を売り上げたとされ、このジャンルのスタンダードになった。グループで活動するイル・ディーヴォは男性歌手4人で成り立っており、ポップスとオペラの融合から彼ら自身はこの音楽の事を「ポペラ」と呼んでいる。音楽評論家の片桐卓也は、このジャンルの隆盛の背景として「クラシック界の中核を担う40、50歳代の音楽家は、若いころ、ごく自然にロックやポップスに親しんできた世代で、ポピュラー音楽を取り上げることに抵抗感のない人が多い」ことを挙げている。
日本でのクラシカル・クロスオーバーの歌手では、ソプラニスタの岡本知高などの歌手が活動している。2005年に、本田美奈子.のアルバム『アメイジング・グレイス』が日本人歌手によるクラシック・アルバムとしては初めてオリコンチャートトップ10入り(7位)を果たし、秋川雅史の「千の風になって」が2007年のオリコン年間シングルチャートで第1位となったことなどはその象徴的な出来事である。
また、ヴァイオリニストでシンガー・ソングライターのサラ・オレインも、クラシカル・クロスオーバーのジャンルでアルバム「セレステ」(2012年)を発表し、同アルバムは音楽配信で好調だった。
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クロスオーバー(Crossover)とは、ジャンルの垣根を乗り越えて音楽性を融合させるスタイルを指す音楽用語である。
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'''クロスオーバー'''(Crossover)とは、ジャンルの垣根を乗り越えて音楽性を融合させるスタイルを指す音楽用語である。
== ジャズのクロスオーバー ==
1970年代前半に流行した、電気楽器や電子楽器を取り入れた[[ジャズ]]の演奏スタイルの一種。[[1960年代]]後半より、[[電気楽器]]やロック風な奏法を取り入れた新しいジャズ・スタイル、[[ジャズ・ロック]]やエレクトリック・ジャズ<ref>http://www.allmusic.com/style/electric-jazz-ma0000012242</ref>が生まれた。マイルス・デイヴィスらはジャズの停滞状況を乗り越えるべく、新しいサウンドに挑戦していた。アメリカの[[スタジオ・ミュージシャン]]達は、ジャズに[[ラテン音楽]]やロックを融合し、ジャンルの垣根を乗り越えた「'''クロスオーバー'''」音楽を生み出していった。
1970年代には、[[デオダート]]、[[ボブ・ジェームス]]ら[[編曲家|アレンジャー]]がアルバムを発表した。[[1973年]]には、デオダートが、アルバム『Prelude』を発表。クラシック作品をエレクトリック・ジャズにアレンジした「[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]」がジャズとしては異例のヒットとなった<ref>http://www.billboard.com/music/deodato</ref>。同曲は「クロスオーバー」の最も初期の有名曲であり、日本でもNHKFMを中心にさかんにオンエアされた。1973年に発表した『Deodato2』でも[[ジョージ・ガーシュウィン]]の「[[ラプソディー・イン・ブルー]]」をカバーした。またデオダートをサポートしていたのが[[音楽プロデューサー|プロデューサー]]、[[クリード・テイラー]]の[[CTIレコード]]である。同レーベルでは[[ヒューバート・ロウズ]]が[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]の[[春の祭典]]をアレンジした曲を発表したが、これはヒットには至らなかった。
70年代前半には、[[チック・コリア]]、[[キース・ジャレット]]、[[ハービー・ハンコック]]らも、クロスオーバーの作品を発表した。ハンコックは、「ヘッド・ハンターズ」(1973年)のようなファンク・リズムを取り入れたアルバムも制作した。
=== 代表的なアルバム ===
*[[デオダート]] - 「プレリュード」
*[[ボブ・ジェームス]] - 「Two」
==ジャズ・クロスオーバーの主なアーティスト==
*[[デオダート]]
*[[ボブ・ジェームス]]
*[[ジャン=リュック・ポンティ]]
*[[ハーブ・アルパート]]
*[[スティーリー・ダン]]
*[[スウィング・アウト・シスター]]
== ロックのクロスオーバー ==
ロックのクロスオーバーは、時代や音楽性ごとに細かく区分されている。[[ブルース・ロック]]や[[ジャズ・ロック]]、[[ラテン・ロック]]、ファンク・ロックなどが挙げられる。
[[ロック (音楽)|ロック]]が[[1960年代]]に発展する過程で、[[ブルース]]を融合、クロス・オーバーさせたブルース・ロックが登場した。エリック・クラプトン<ref>http://sound.jp/mr-win/Eric-Clapton-kaisetu.htm </ref>の[[クリーム (バンド)|クリーム]]やジミ・ヘンドリクス、フリートウッド・マック、ポール・バターフィールド、ジョン・メイオールなど、演奏能力に長けたバンドがブルース・ロック・ブームをまき起こした。サンタナはロックにラテンを融合することで、「ラテン・ロック」のアルバムを発表した。さらに、コロシアムやソフト・マシーン、ニュー・クリアスら[[ジャズ]]とロックを融合したジャズ・ロックを生み出し、ロックに[[クラシック音楽]]を取り入れたエマーソン、レイク&パーマー<ref group="注">ELPのナット・ロッカーは、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」とロックを融合した曲だが、これはビー・バンブル&スティンガーが過去に発表した曲をカバーした可能性もある。</ref>、[[イエス (バンド)|イエス]]などの[[プログレッシブ・ロック]]が発展していった。
また、インエクセスらのファンクとロックを融合した「ファンク・ロック」も登場した。90年代のロック分野におけるクロスオーバーの一つの現象が、パンクとヘヴィメタルを融合したニルヴァーナ(ナーヴァーナ)らの[[グランジ]]と呼ばれるジャンルである。
[[1990年代]]に停滞していたヘヴィメタルと、[[ヒップ・ホップ]]や[[ファンク]]に代表される[[黒人音楽]]をクロスオーバーさせたジャンルで、ラップ・ロック、[[ラップメタル]]やファンクメタルなどのジャンルが生まれた。この動きは日本では[[ミクスチャー・ロック]]と呼ばれた。
== クラシック音楽のクロスオーバー ==
[[クラシック音楽]]と[[ポピュラー音楽]]がクロスオーバーしたサウンドは、クラシカル・クロスオーバーと呼ばれる場合がある。
最も著名な例としては[[サラ・ブライトマン]]と[[アンドレア・ボチェッリ]]の[[デュエット]]「[[コン・テ・パルティロ|タイム・トゥ・セイ・グッバイ]]」(1996年)がある。この曲は全世界で2,500万枚以上を売り上げたとされ、このジャンルのスタンダードになった。グループで活動する[[イル・ディーヴォ]]は男性歌手4人で成り立っており、ポップスとオペラの融合から彼ら自身はこの音楽の事を「ポペラ」と呼んでいる。音楽評論家の片桐卓也は、このジャンルの隆盛の背景として「クラシック界の中核を担う40、50歳代の音楽家は、若いころ、ごく自然にロックやポップスに親しんできた世代で、ポピュラー音楽を取り上げることに抵抗感のない人が多い」ことを挙げている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/music/future/20060609et11.htm ポップス? クラシック? 「クラシカル・クロスオーバー」] YOMIURI ONLINE(読売新聞)</ref>。
日本でのクラシカル・クロスオーバーの歌手では、ソプラニスタの[[岡本知高]]<ref group="注">テレビのカラオケ・歌コンテスト番組で審査員としても登場した。</ref>などの歌手が活動している。2005年に、[[本田美奈子.]]<ref group="注">白血病で死去した。</ref>のアルバム『[[アメイジング・グレイス (本田美奈子.のアルバム)|アメイジング・グレイス]]』が日本人歌手によるクラシック・アルバムとしては初めて[[オリコンチャート]]トップ10入り(7位)を果たし<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2765/ 本田美奈子.さん、驚異的なランクアップ!18年5ヵ月ぶりのTOP10入り!] ニュース-ORICON STYLE-</ref>、[[秋川雅史]]の「[[千の風になって (秋川雅史のシングル)|千の風になって]]」が2007年のオリコン年間シングルチャートで第1位となった<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/50565/full/ 第40回オリコン年間ランキング2007発表 シングル年間1位「千の風になって」] ニュース-ORICON STYLE-</ref>ことなどはその象徴的な出来事である。
また、ヴァイオリニストでシンガー・ソングライターの[[サラ・オレイン]]<ref group="注">オーストラリア出身で、NHK・ETVの英会話番組や、民放FMのDJなどとしても出演した。</ref>も、クラシカル・クロスオーバーのジャンルでアルバム「セレステ」(2012年)を発表し、同アルバムは音楽配信で好調だった。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
*[[ジャズ・ロック]]
*[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]
*[[AOR]]
*[[ディスコ]]
*[[ヒップホップ・ソウル]]
*[[ジャズ・ファンク]]
*[[ブラス・ロック]]
*[[ラテン音楽]]
*[[ミクスチャー・ロック]]
*[[バロック・ポップ]]
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魔法使い
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魔法使い(まほうつかい)とは、魔術、妖術、幻術などを使う者たちの総称である。
民話、神話にしばしば登場し、幻想文学、ゲームなどのフィクションでも素材として用いられる。歴史上の魔法使いについては、魔術師の一覧を参照。
日本語の「魔法使い」という語は、英語では次のような様々な意味を含んでおり、英語の用語のそれぞれを日本語で厳密に定義することは難しい。
一般的な訳語としては、魔術師は「wizard」、魔女は「witch」とされる。
魔法使いのうちでも、とくに賢明で思慮深く、魔法を正義及び善なる事のために使う者を「魔術師」(ウィザード、wizard)といい、「賢者」(ワイズマン、wise man)と同義であるとする作品もある。また日本語に翻訳した作品によっては訳者独自の訳語をたて、独立して自らの意思で魔法を使う者や導師的立場の者を「魔導師」、王侯などの命令で魔法を使う者や修行中の者を「魔導士」「魔道士」(団精二の訳語)というように表記を使い分けているものもある。
魔法使いは、主人公の援助者として、あるいは敵対者として民話や童話にしばしば登場する。特定の名前は与えられていない事が多い。シンデレラでは、典型的な主人公を援助する役割として、ヘンゼルとグレーテルでは、典型的な敵役として登場している。元型としては前者はオールドワイズマン(老賢者)やトリックスター、後者はグレートマザー(太母)があてはまる。白雪姫や眠りの森の美女などのように、敵としても味方としても物語に登場する話も数多い。人魚姫のように、敵とも味方とも付かない役割を演じることもあるが、いずれにせよ人知を超えた力をもつため、物語の転換地点で大きな役割を果たすことが多い。
ファンタジー(幻想文学)等の架空世界の設定では、魔法使いは非力であるとされることが多い。これには、魔法の習得には膨大な時間が必要となるため、高名な魔法使いは結果として必然的に年老いているという考え方や、また学究的な人物は身体的修練に時間を割いていないといった説明がなされている。しかしながら、魔法使いであると同時に剣士でもあるという例外も多く、例えばベルガリアード物語に登場するベルガリオンやドラゴンクエストシリーズの勇者のように主人公になることもある。ゲームの場合ならば、万能のキャラクターを登場させてゲームバランスを崩すわけにいかないという現実的な理由から魔法使いを非力に設定することも多い。この場合魔法戦士、乃至は魔法剣士というキャラクターを認めるにせよ、強くなりすぎないように何らかの形で制限が加えられることが多い。主に魔法戦士、魔法剣士はいわゆる「器用貧乏」な(=何でも出来る代わりに、仲間達の誰も及ばない秀でた技がない)キャラクターとして扱われる。
手品師が「魔法使い」と呼ばれたり自称することがある。
クライストチャーチでは魔法使いを自称していたイアン・ブラッケンベリー・チャンネルが観光客に人気となっていたことから、「公認魔法使い」として任命し、後にニュージーランド政府も公認した
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魔法使い(まほうつかい)とは、魔術、妖術、幻術などを使う者たちの総称である。 民話、神話にしばしば登場し、幻想文学、ゲームなどのフィクションでも素材として用いられる。歴史上の魔法使いについては、魔術師の一覧を参照。
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{{Redirect|ソーサラー|18世紀イギリスの競走馬|ソーサラー (競走馬)}}
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{{出典の明記|date=2013年12月20日 (金) 16:18 (UTC)}}
[[Image:The Lancashire Witches 10.jpg|thumb|200px|[[ほうき]]に乗って空を飛ぶ魔法使い(左)。[[魔女]]とも魔術師とも呼ばれる。]]'''魔法使い'''(まほうつかい)とは、[[魔術]]、[[妖術]]、[[奇術|幻術]]などを使う者たちの総称である。
[[民話]]、[[神話]]にしばしば登場し、[[ファンタジー|幻想文学]]、[[コンピューターゲーム|ゲーム]]などの[[フィクション]]でも素材として用いられる。歴史上の魔法使いについては、[[魔術師の一覧]]を参照。
== 語義 ==
日本語の「魔法使い」という語は、英語では次のような様々な意味を含んでおり、英語の用語のそれぞれを日本語で厳密に定義することは難しい。
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|magic user}}|マジック・ユーザー}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|enchanter}}|エンチャンター}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|enchantress}}|エンチャントレス}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|mage}}|メイジ}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|magician}}|マジシャン}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|wizard}}|ウィザード}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|witch}}|ウィッチ}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|sorcerer}}|ソーサラー}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|sorceress}}|ソーサレス}}
*{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|warlock}}|ワーロック}}
一般的な訳語としては、[[魔術師]]は「{{lang|en|wizard}}」、[[魔女]]は「{{lang|en|witch}}」とされる。
魔法使いのうちでも、とくに賢明で思慮深く、魔法を正義及び善なる事のために使う者を「魔術師」(ウィザード、{{lang|en|wizard}})といい、「[[賢者]]」(ワイズマン、{{lang|en|wise man}})と同義であるとする作品もある。また日本語に翻訳した作品によっては訳者独自の訳語をたて、独立して自らの意思で魔法を使う者や導師的立場の者を「'''魔導師'''」、王侯などの命令で魔法を使う者や修行中の者を「'''魔導士'''」「'''魔道士'''」([[荒俣宏|団精二]]の訳語)というように表記を使い分けているものもある。
== 民話や創作での描かれ方 ==
魔法使いは、主人公の援助者として、あるいは敵対者として[[民話]]や[[童話]]にしばしば登場する。特定の名前は与えられていない事が多い。[[シンデレラ]]では、典型的な主人公を援助する役割として、[[ヘンゼルとグレーテル]]では、典型的な敵役として登場している。[[元型]]としては前者はオールドワイズマン(老賢者)や[[トリックスター]]、後者はグレートマザー(太母)があてはまる。[[白雪姫]]や[[眠りの森の美女]]などのように、敵としても味方としても物語に登場する話も数多い。[[人魚姫]]のように、敵とも味方とも付かない役割を演じることもあるが、いずれにせよ人知を超えた力をもつため、物語の転換地点で大きな役割を果たすことが多い。
[[ファンタジー]](幻想文学)等の架空世界の設定では、魔法使いは[[非力]]であるとされることが多い。これには、魔法の習得には膨大な時間が必要となるため、高名な魔法使いは結果として必然的に年老いているという考え方や、また学究的な人物は身体的修練に時間を割いていないといった説明がなされている。しかしながら、魔法使いであると同時に剣士でもあるという例外も多く、例えば[[ベルガリアード物語]]に登場するベルガリオンや[[ドラゴンクエストシリーズ]]の勇者のように[[主人公]]になることもある。ゲームの場合ならば、万能のキャラクターを登場させてゲームバランスを崩すわけにいかないという現実的な理由から魔法使いを非力に設定することも多い。この場合魔法戦士、乃至は魔法剣士というキャラクターを認めるにせよ、強くなりすぎないように何らかの形で制限が加えられることが多い。主に魔法戦士、魔法剣士はいわゆる「器用貧乏」な(=何でも出来る代わりに、仲間達の誰も及ばない秀でた技がない)キャラクターとして扱われる。
== 現実の魔法使い ==
[[マジシャン (奇術)|手品師]]が「魔法使い」と呼ばれたり自称することがある。
[[クライストチャーチ]]では魔法使いを自称していた[[ウィザード・オブ・ニュージーランド|イアン・ブラッケンベリー・チャンネル]]が観光客に人気となっていたことから、「公認魔法使い」として任命し、後にニュージーランド政府も公認した<ref>{{Cite web|和書|title=NZクライストチャーチ市、公認魔法使いとの契約終了|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3371319|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-10-20|language=ja}}</ref>
== 魔法使いの一覧 ==
{{seealso|en:Category:Miracle workers}}
===神話・伝説の魔法使い(魔術師)(魔女)===
{{Div col}}
*[[ソロモン]]
*[[ヘルメス・トリスメギストス]]
*[[メルキゼデク]]
*[[アロン]]
*[[シモン・マグス]]
*[[マーリン]]
*[[ワイナミョイネン]]
*[[ロウヒ]]
*[[サタナ]]
*[[エンヘドゥアンナ]]
*[[オスタネス]]([[:en:ostanes|英語版]])
*[[ウェストカー・パピルス|ジェディ]]([[:en:Dedi]])
*[[キルケー]]
*[[パーシパエー]]
*[[メーデイア]]
*[[アグラオニケ]]
*[[モーガン・ル・フェイ]]
*[[ヴォルヴァ]]
*[[グローア]]
*[[スクルド]]
*[[カスバド]]
*[[ロジェスティラ]]
*[[アルチーナ (魔女)|アルチーナ]]
*[[モージ (魔法使い)|モージ]]
*[[クドラク]]
*[[バーバ・ヤーガ]]
*[[ラドカーン]]
{{Div col end}}
*[[イムホテプ]] - 古代エジプトの神官・宰相、死後は「知恵、医術と魔法の神」として神格化。アッシリアの魔術師との決闘などの伝説が残る。
*[[カエムワセト (ラムセス2世の息子)|カエムワセト]] - 古代エジプトの王子・神官・考古学者・魔術師。
*{{仮リンク|アマーギン|en|Amergin Glúingel}} - アイルランドの伝説『古老たちの語らい』の5大詩人の一人。最古の詩人にして、預言者。魔法使いともされる。
*[[ヴォルフ]]([[ヴォルフ・フセスラーヴィエヴィチ]] Volkh Vseslavich、[[ブィリーナ#ブィリーナの主人公たち]]、[[フセスラフ・ブリャチスラヴィチ#ブィリーナへの影響]]、[[:en:Vseslav of Polotsk#Volkh Vseslavich/Volga Sviatoslavich and Vseslav of Polotsk]]を参照)
==東亜の仙術士、呪術者、幻術使い==
{{Div col}}
*[[彭祖]]
*[[太公望]]
*[[呂洞賓]]
*[[首露王]]
*[[徐福]]
*[[張道陵]]
*[[左慈]]
*[[張角]]
*[[卑弥呼]]
*[[黄初平]]
*[[久米仙人]]
*[[役小角]]
*[[安倍晴明]]
*[[蘆屋道満]]
*[[鬼一法眼]]
*[[公孫勝]]
*[[果心居士]]
{{Div col end}}
== 架空の魔法使い ==
[[:Category:架空の魔術師]]を参照。
== 歴史上の魔法使い ==
[[魔術師の一覧]]を参照。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[超能力|超能力者]]
* [[魔女]]
* [[カニングフォーク]]
* [[魔法少女]]
* {{ill2|魔法の組織|en|Magical organization}}(魔術結社)
* {{ill2|オカルティストの一覧|en|List of occultists}}
* [[マギ]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まほうつかい}}
[[Category:キャラクター類型]]
[[Category:ファンタジー]]
[[Category:架空の魔術|*]]
[[Category:架空の職業]]
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平面
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平面(へいめん、plane)とは、平らな表面のことである。平らな面。一般的には曲面や立体などと対比されつつ理解されている。
数学的には平面について様々な説明の仕方がありうる。
ひとつは次のような説明である。
また別の説明としては次のようなものがありうる。
数学で扱う2次元の基本的な物体、または概念である。直感的にいって、平らな紙を無限に広げた形状を持つ。幾何学や三角法などで詳しく研究されている。
平面は、次のどの条件を与えても、それを満足するものはただ一つに決定される。
ユークリッド空間においては、二つの平面は互いに平行であるか、そうでなければただ一つの直線を共有する(平面の交線)。
平面が与えられたとき、解析幾何学的手法としてルネ・デカルトの直交座標を導入することにより、平面上の任意の点は二つの実数の組によって一意的に指定することが出来る。
あるいは 3 次元の空間を x, y, z の 3 つの軸を持つデカルト座標(xyz-座標)で表したとき、その空間内の平面は、方程式
(a, b, c, d は実数で、abc ≠ 0)の解全体の作る部分集合の全体として表される。
あるいは、これを二つの一次独立な 3 次元ベクトル v, w と別の 3 次元ベクトル u および、二つの実数値パラメータ s, t を用いて
のかたちに表すことも出来る。この平面上の点は二つのパラメータの値の組 (s, t) によって一意的に指定される。
ベクトルによる表示においては、ベクトルの次元は特に制限されない。すなわち、一般の n 次元ユークリッド空間(n = 2 の場合が最初に述べた意味での平面)における任意の平面は、三つの n 次元数ベクトル u, v, w(v, w は一次独立)と二つの実数値パラメータ s, t によって
のかたちに必ず表される。
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平面(へいめん、plane)とは、平らな表面のことである。平らな面。一般的には曲面や立体などと対比されつつ理解されている。
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'''平面'''(へいめん、plane)とは、平らな表面のことである<ref name="kojien_ver5">[[広辞苑]] 第五版、p.2395「平面」</ref>。平らな面。一般的には[[曲面]]や[[立体]]などと対比されつつ理解されている。
== 数学と平面 ==
数学的には平面について様々な説明の仕方がありうる。
ひとつは次のような説明である。
: (平面とは)ある[[曲面]]の[[任意]]の2[[点 (数学)|点]]を通過する[[直線]]が、常に全くその曲面に含まれるときの、その曲面のこと<ref name="kojien_ver5" />
また別の説明としては次のようなものがありうる。
: [[一次方程式]] ax + by + cz + d =0を満たす[[点 (数学)|点]](x, y, z)の[[軌跡_(数学)|軌跡]]<ref name="kojien_ver5" />
{{要出典範囲|[[数学]]で扱う[[2次元]]の基本的な[[物体]]、または概念である|date=2013年9月}}。直感的にいって、平らな紙を無限に広げた形状を持つ。[[幾何学]]や[[三角法]]などで詳しく研究されている。<!--{{要出典|date=2013年9月}}[[グラフ_(関数)|グラフ]]などは主に 2 次元に、言い換えると平面上に描かれる。-->
{{要出典範囲|平面は、次のどの条件を与えても、それを満足するものはただ一つに決定される|date=2020年9月}}。
* 同一直線上にない 3 点を通る。
* 一つの直線を含み、その直線上にない一つの点を通る。
* 平面の通る一点と、その平面に直交する一つの直線が指定されている。
* 平行であるかただ一点で交わる二つの直線を含む。
[[ユークリッド空間]]においては、二つの平面は互いに[[平行]]であるか、そうでなければただ一つの直線を共有する(平面の交線)。
=== デカルト座標 ===
{{出典の明記|section=1|date=2020年9月}}
平面が与えられたとき、[[解析幾何学]]的手法として[[ルネ・デカルト]]の[[直交座標]]を導入することにより、平面上の任意の点は二つの実数の組によって一意的に指定することが出来る。
あるいは 3 次元の[[ユークリッド空間|空間]]を ''x'', ''y'', ''z'' の 3 つの軸を持つデカルト座標(''xyz''-座標)で表したとき、その空間内の平面は、[[方程式]]
: ''ax'' + ''by'' + ''cz'' + ''d'' = 0
(''a'', ''b'', ''c'', ''d'' は実数で、''abc'' ≠ 0)の解全体の作る部分集合の全体として表される。
あるいは、これを二つの一次独立な 3 次元ベクトル '''v''', '''w''' と別の 3 次元ベクトル '''u''' および、二つの実数値パラメータ ''s'', ''t'' を用いて
: '''u''' + ''s'' '''v''' + ''t'' '''w'''
のかたちに表すことも出来る。この平面上の点は二つのパラメータの値の組 (''s'', ''t'') によって一意的に指定される。
ベクトルによる表示においては、ベクトルの次元は特に制限されない。すなわち、一般の ''n'' 次元[[ユークリッド空間]](''n'' = 2 の場合が最初に述べた意味での平面)における任意の平面は、三つの ''n'' 次元数ベクトル '''u''', '''v''', '''w'''('''v''', '''w''' は一次独立)と二つの実数値パラメータ ''s'', ''t'' によって
: '''u''' + ''s'' '''v''' + ''t'' '''w'''
のかたちに必ず表される。
==幾何学以外の「平面」==
*[[平面広告]]:広告業界などでは[[新聞]]・[[雑誌]]、[[ポスター]]などの[[印刷]][[媒体]]のことを「平面媒体」、また印刷媒体で展開される広告のことを(屋外広告=「立体」と比較し)「平面広告」と呼ぶ。
== 出典 ==
<references/>
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
* [[立体]]
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[[Category:曲面]]
[[Category:図]]
[[Category:数学の概念]]
[[Category:数学に関する記事]]
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8
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8(八、捌、はち、は、ぱ、やっつ、や)は、自然数または整数において、7の次で9の前の数である。
英語では、基数詞でeight(エイト)、序数詞ではeighth。
ラテン語ではocto(オクトー)。
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8(八、捌、はち、は、ぱ、やっつ、や)は、自然数または整数において、7の次で9の前の数である。 英語では、基数詞でeight(エイト)、序数詞ではeighth。 ラテン語ではocto(オクトー)。
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{{redirect|八|漢字の部首「八」|八部}}
{{Otheruses}}
{{整数|Decomposition= 2<sup>3</sup>}}
[[ファイル:八-order.gif|thumb|100px|「八」の筆順]]
'''8'''('''八'''、'''捌'''、はち、は、ぱ、やっつ、や)は、[[自然数]]または[[整数]]において、[[7]]の次で[[9]]の前の数である。
[[英語]]では、[[基数詞]]でeight(エイト)、[[序数詞]]ではeighth。
[[ラテン語]]ではocto(オクトー)。
== 性質 ==
* 8 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[4]], 8 である。
**[[半素数]]でない合成数のうち最小の合成数である。
** [[約数の和]]は[[15]]。
***約数の和が奇数になる4番目の数である。1つ前は[[4]]、次は[[9]]。
** σ(8) = 15 < 8 × 2 。このため[[不足数]]であり、σ(8) = 2 × 8 − 1 より[[概完全数]]である。(ただしσは[[約数関数]])
* 6番目の[[フィボナッチ数]]である。1つ前は[[5]]、次は[[13]]。
**[[合成数]]のフィボナッチ数の中では最小の数である。
**[[立方数]]のフィボナッチ数は8のほかには[[1]]しかないといわれている。
* [[テトラナッチ数]]の5番目の要素。1つ前は[[4]]、次は[[15]]。
* 3乗した数の各桁の数の和が元の数になる数である。つまり、8{{sup|3}} = [[512]] → 5 + 1 + 2 = 8。
** このような数は6個あり、[[1]], 8, [[17]], [[18]], [[26]], [[27]]。({{OEIS|A061209}})
* 8 = 2{{sup|3}}
**2番目の立方数である。1つ前は[[1]]、次は[[27]]。
*** 3番目の[[2の累乗数]]である。1つ前は[[4]]、次は[[16]]。
** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|''n''+1}} の値とみたとき1つ前は[[1]]、次は[[81]]。
** [[平方数]]より1小さい唯一の立方数である。また[[累乗数]]より1小さい唯一の累乗数である。(→[[カタラン予想]])
** 素数 ''p'' = 3 のときの 2{{sup|''p''}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[32]]。({{OEIS|A034785}})
** 8 = 2 × 2{{sup|2}}
***''n'' = 2 のときの ''n'' × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[24]]。({{OEIS|A036289}})
** 8 = 1 × 2 × 4
*** 4 の約数の積で表せる数である。1つ前は[[3]]、次は[[5]]。({{OEIS|A007955}})
*** 初項 1、公比 2 の[[等比数列]]における第3項までの[[総乗]]である。1つ前は[[2]]、次は[[64]]。({{OEIS|A006125}})
**** この値は ''n'' = 3 のときの 2{{sup|{{sfrac|''n''(''n''−1)|2}}}} の値である。
** 素数 ''p'' において ''p''{{sub|1}}{{sup|''p''{{sub|2}}}} の値とみたとき最小である。次は[[243]]。({{OEIS|A053089}})
* 2番目の[[八角数]]である。1つ前は1、次は[[21]]。
*{{sfrac|1|8}} = 0.[[125]]
**[[逆数]]が[[有限小数]]になる4番目の数である。1つ前は[[5]]、次は[[10]]。({{OEIS|A003592}})
**{{sfrac|1|2{{sup|''n''}}}} は、小数点以下 ''n'' 桁の[[有限小数]]になる。
***[[六進法]]では 0.043 (十進換算で {{sfrac|[[27]]|[[216]]}}) 、[[十八進法]]では 0.249 (十進換算で {{sfrac|[[729]]|[[5832]]}}) となる。
**[[十二進法]]と[[二十進法]]は、桁の底が[[奇数]]の4倍なので、[[1/8]] は小数点以下2桁の有限小数となる。十二進法では 0.16 (十進換算で {{sfrac|[[18]]|[[144]]}})、二十進法では 0.2A (十進換算で {{sfrac|[[50]]|[[400]]}}) となる。
**素因数が2と3のN進法では、逆数が有限小数になる5番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[9]]。({{OEIS|A003586}})
* (8, [[9]]) の組は2番目の[[ルース=アーロン・ペア]]である。1つ前は([[5]], [[6]])、次は([[15]], [[16]])。
* 4番目の[[高度トーシェント数]]である。1つ前は[[4]]、次は[[12]]。
* [[正八面体]]は3番目の[[正多面体]]である。1つ前は[[正六面体]]、次は[[正十二面体]]である。
* 8つの立体を持つ[[多胞体]]は八胞体と呼ばれる。[[正八胞体]]は[[正五胞体]]の次に立体の数が少ない[[正多胞体]]である。
**正 ''n'' 面体と(四次元での)正 ''n'' 胞体の両方が存在する ''n'' は8のみである。
* [[三角数]]の8倍は平方数より1小さい数である。 8 × ''n''(''n'' + 1)/2 = 4''n''{{sup|2}} + 4''n'' = (2''n'' + 1){{sup|2}} − 1であるため。(''n'' は自然数)
** 例:10 × 8 = [[80]] = 9{{sup|2}} − 1、[[210]] × 8 = [[1680]] = [[41]]{{sup|2}} − 1
* 8 を含む[[ピタゴラス数]]は 6{{sup|2}} + 8{{sup|2}} = 10{{sup|2}} 、8{{sup|2}} + 15{{sup|2}} = 17{{sup|2}} である。
* 8 = [[3]] + [[5]]
**[[双子素数]]の和で表せる最小の数である。次は[[12]]。({{OEIS|A54735}})
**一般の双子素数の和は3の倍数になるが、これは唯一当てはまらない。
* [[九九]]では1の段で 1 × 8 = 8(いんはちがはち)、2の段で 2 × 4 = 8(にしがはち)、4の段で 4 × 2 = 8(しにがはち)、8の段で 8 × 1 = 8(はちいちがはち)と4通りの表し方がある。
** 4番目の[[階乗|二重階乗数]]である(4!!)。1つ前は[[3]]、次は[[15]]。
* 8[[階乗|!]] = 40320
**8! − 1 = 40319 = [[23]] × 1753
**8! + 1 = 40321 = [[61]] × [[661]]
***共に[[合成数]]である。
* [[楔数]]の約数の個数は全部で8個である。
* [[コンピューター]]において、[[8ビット]]は一般に1[[バイト (情報)|バイト]]のことを指す。
* 各位の和が8になる[[ハーシャッド数]]は[[100]]までに2個、[[1000]]までに7個、[[10000]]までに25個ある。
* 異なる[[平方数]]の和で表せない31個の数の中で5番目の数である。1つ前は[[7]]、次は[[11]]。
* [[約数]]の和が8になる数は1個ある。([[7]]) 約数の和1個で表せる6番目の数である。1つ前は[[7]]、次は[[13]]。
*8番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[7]]、次は[[9]]。
**8を基とする最小のハーシャッド数である。次は[[80]]。
*各位の和([[数字和]])が8になる最小の数である。次は[[17]]。
*各位の[[平方和]]が64になる最小の数である。次は[[80]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の63は[[1156]]、次の65は[[18]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が512になる最小の数である。次は[[80]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の511は22357、次の513は[[18]]。({{OEIS|A165370}})
*各位の積が8になる最小の数である。次は[[18]]。({{OEIS|A199989}})
* [[1]]~[[3]]までの[[約数]]の和である。1つ前は[[4]]、次は[[15]]。
* 連続してある数に対して[[約数の和]]を求めていった場合4個の数が8になる。8より小さい数で4個ある数はない。1つ前は[[7]](3個)、次は[[15]](5個)。いいかえると <math>\sigma^m(n)=8~(m\geqq 1)</math> を満たす ''n'' が4個あるということである。(ただし σ は[[約数関数]])({{OEIS|A241954}})
* <math> 8 = \frac{1\times2\times3\times4\times5}{1+2+3+4+5} </math> この形の1つ前は[[1]]、次は[[180]]。({{OEIS|A108552}})
* [[球体|球]]を異なる3つのその球の[[大円]]で分割するとき8つに分割できる。1つ前は[[4]]、次は[[14]]。({{OEIS|A014206}})
** この数は ''n'' = 3 のときの ''n''{{sup|2}} − ''n'' + 2 の値である。
* 3番目の[[ケーキ数]]である。1つ前は[[4]]、次は[[15]]。({{OEIS|A000125}})
*2つの[[奇数]]の[[平方数]]の差は8の[[倍数]]になる。
**例. 3{{sup|2}} − 1{{sup|2}} = 8、5{{sup|2}} − 3{{sup|2}} = 16、9{{sup|2}} − 5{{sup|2}} = 56。
**奇素数(2以外の素数)の平方数どうしの差もこれに準ずる。
* 以下のような[[多重根号#無限多重根号|無限多重根号]]の式で表せる。
*: <math>8 = \sqrt{56+\sqrt{56+\sqrt{56+\sqrt{56+\cdots}}}}</math> , <math> 8 = \sqrt{72-\sqrt{72-\sqrt{72-\sqrt{72-\cdots}}}}</math>
== その他 8 に関すること ==
*8は西洋では不吉な数字とされており、八本の足を持つ[[タコ]]などは「悪魔の化身」等と呼ばれる。
*8は、[[核物理学]]において、[[2]], [[20]], [[28]], [[50]], [[82]], [[126]] と共に、[[原子核]]中の[[陽子]]、もしくは、[[中性子]]の数がこれらの数である場合、その原子核は安定しやすくなる、[[魔法数]]の1つとして知られている。
* 地球上で、[[質量数]]8の[[原子核]]に安定核種は存在しない。他、質量数[[5]], [[147]], [[151]]、そして [[209]] 以上の全てに地球上での安定核種が存在しない。
=== 言語・文字 ===
* 8の接頭辞:octo, oct([[ラテン語|拉]]、[[ギリシャ語|希]])。
** [[オクターブ]]、オクタゴン('''[[八角形]]''')、octopus([[タコ|タコ(章魚)]])、October([[10月]])など。
** '''八人組'''や'''八重奏'''を'''[[オクテット]]''' (octet) という。
** 8倍、8重を'''オクタプル''' (octuple) という。
* 漢字で「'''八'''」と書くと下の方が広がる事から「末広がり」を意味し、[[日本]]では幸運とされる。
* [[古代]]の[[日本]]においては、8 は聖数とされ、また、漠然と数が大きいことを示すのにも使われた(例:[[八島]]、[[八雲]]、[[八咫鏡]]、[[サクラ|八重桜]])。同様に、八を用いた[[80|八十]](やそ)、[[180|百八十]](ももやそ)、八百万(やおよろず)等も「数が大きい」という意味で用いられる。
* [[広東語]]などでは、"8"の発音が"発財"(金持ちになる)の"発"に通ずるところから幸運とされる。中国における「八」人気は現在でも続いており、例えば[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の開会式は2008年8月8日夜の8時8分8秒から開式された。
* 慣用表現では、「[[八方|'''八'''方]]塞がり」「[[八方美人|'''八'''方美人]]」「'''八'''紘(=世界)」のように、「全ての側面」という意味で八(8)が用いられることがある。他に、同じ意味合いを持つ表現として三十六([[36]])がある。
=== 八角形 ===
* [[日本]]では、八方を表す物として、八角形の[[寺院]]('''八角堂''')が見られる。八角堂は、天から見ると[[八角形]]、地から見ると八角錐を成している。
* [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]にある[[住吉神社 (東京都中央区)|住吉神社]]には八角形の[[神輿]]('''八角神輿''')が奉られている。
* [[中華料理]]では八角形の[[香辛料]]、'''八角'''([[トウシキミ]]の果実を乾燥させた物)が多用される。
* 和名[[トクビレ]]という魚の通称名「八角」
=== 8の字 ===
*[[ミツバチ]]がアラビア数字の「8」の通りに飛行活動する行為を「パルス」という。
* [[8の字結び]]は、アラビア数字の「8」の形からその名前がついた[[結び目]]。
* [[8の字]]は、[[静岡市]]で販売されている土産菓子。
=== 第8のもの ===
* [[原子番号]] 8 の[[元素]]は、[[酸素]] (O)。
* [[太陽系]]第8[[惑星]]は、[[海王星]]。
* 第8代[[天皇]]は、[[孝元天皇]]。
* 第8代[[内閣総理大臣]]は、[[山縣有朋]]。
* [[大相撲]]第8代[[横綱]]は、[[不知火諾右衛門]]。
* 第8代[[教皇|ローマ教皇]]は[[テレスフォルス (ローマ教皇)|テレスフォルス]](在位:[[125年]]?~[[136年]]?)である。
* 第8代[[アメリカ合衆国大統領]]は、[[マーティン・ヴァン・ビューレン|マーティン・ビューレン]]。
* [[タロット]]の[[大アルカナ]]でVIIIは[[力 (タロット)|力]]([[マルセイユ版タロット|マルセイユ版]]など伝統的なデッキでは[[正義 (タロット)|正義]])。
* [[易占]]の[[六十四卦]]で第8番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#比|水地比]]。
* [[クルアーン]]における第8番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[戦利品 (クルアーン)|戦利品]]である。
=== スポーツ ===
*[[ボート]]で1艇あたりの参加人数が最も多い種目は'''エイト'''と呼ばれ、8人の漕手と1人の舵手が乗る。
* [[野球]]に関する8
** [[守備番号]]8番[[中堅手]]。
** [[広島東洋カープ]]では、[[背番号]]8番は[[山本浩二]]の永久欠番である。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]でも一時、[[大杉勝男]]の永久欠番となったが、[[1985年]]に入団した[[広沢克己]]に[[禅譲]]。
** [[打順#各打順の役割|8番打者]]は、守備の負担が大きい[[捕手]]が務めることが多い。草野球では攻守共に劣る者が務めることが多く、守備では[[右翼手]]を務めることが多いため、「ライパチ」が下手な選手の代名詞となっている<ref>『ライパチくん』という漫画が存在する。</ref>。
** 後攻チームが9回表終了時点でリードしている場合、この時点で試合終了となる。この場合、後攻チームの攻撃回数は8回となる。
* [[ナンバーエイト]] (NO.8) は、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]のポジション。
* [[名古屋グランパスエイト]]は、[[日本プロサッカーリーグ]]1部に所属するクラブ。
* '''[[エイトボール]]''':ポケット[[ビリヤード]]競技の一つ。的球15個を使い、8番以外をソリッドボール(1~7番)とストライプボール(9~15番)の組に分け、自分の組のボール7つを落とし切った後、最終的に8番を先に落とした人が勝ちとなるゲーム。
* [[オートレース]]は通常8車でレースが行われる。
* 各種スポーツの競技会においては8位までが入賞とされることが多い。
=== ゲーム ===
* [[将棋]]の変則ルールとして[[八方桂]]がある。
* [[花札]]を用いて行われる[[ゲーム]]の1つ[[おいちょかぶ]]では、8を「オイチョ」と呼ぶ。これは[[スペイン語]]の 8 (ocho) が訛ったものである。
* 花札を用いて行われるゲームの1つ。八。
* [[8番出口]] 異変の有無を判断し、道を決め、歩いていくコンピューターゲーム
=== その他 ===
* [[マツダ・RX-8]]。通称「エイト」。
* [[ナンバープレート]]
** 日本において8という数字は自動車のナンバープレートでも人気があり、希望番号制で、「・・・8」は抽選対象番号である<ref group="注">[[2001年]][[1月4日]]以降は抽選対象番号からはずされていたが、この番号は人気が高く大量に払い出されたため[[2004年]][[5月6日]]から自家用車で再び抽選対象番号として復活した。8の[[ぞろ目]]の番号は人気が高く、現在では「・・・8」「・・88」「・888」「8888」は全て抽選対象番号である。</ref>。
** [[特種用途自動車]]を'''8ナンバー車'''とも言う(ナンバープレートの分類番号の上1桁より)。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「08」は[[茨城県]]。
* [[伊号第八潜水艦]](伊8)は日本の潜水艦。
* [[名古屋市]]の紋章は、漢字の八を丸で囲んだものである。
** 八を丸で囲んだ紋章は、[[尾張徳川家]]が八を丸で囲んだ字を[[印章|印鑑]]として使ったことに由来する。
* [[法華経]]は全部で8巻ある。
* [[オクターブ]] (octave):[[全音階]]([[七音]])においては第八の、[[半音階]](十二音)においては第十三の音。厳密には、全音階を「セプターブ」(septave, [[7|七]]音)と称すべきだが、全音階の第八音が、第一音の2周目に入るために、この称がある。
* [[ノアの方舟]]に乗った人間は8人であった。このため聖書において8は「救い」を象徴する数として知られている。
* [[8ミリ映画|8ミリ]](映画)、[[8ミリビデオ]]、[[8トラック]]。
* 『[[水戸黄門]]』の登場人物「うっかり八兵衛」の愛称。
* [[エイト・クイーン]]問題:[[チェス]]の競技に使われる盤と駒([[クイーン (チェス)|クイーン]])を使ったパズル。
* [[八王の乱]]:[[西晋]]の滅亡のきっかけをつくった皇族の権力争い。
*[[八海めぐり]] - [[忍野八海]]
* [[永字八法]]:[[書]]をするときに必要な筆の運びなどは、「[[永]]」という字に揃っているということを指す。
* [[プレミアム8]]は、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK BSハイビジョン]]の番組枠。
* [[ニコニコ動画]]などで使用される[[インターネットスラング]]。拍手の音「パチパチ」の代わりに「8888」などのように使用される。
* [[マイクロソフト]]の[[オペレーティングシステム]]、[[Microsoft Windows 8]]。
*[[東日本旅客鉄道株式会社|JR東日本]][[新幹線E8系電車|E8系]]。[[山形新幹線]]用に開発されたミニ[[新幹線]]車両であり、山形新幹線としては[[新幹線400系電車|400系]]以来の新車である。2023年営業運転開始予定。
== 8が付く地名 ==
* [[北海道]][[二海郡]][[八雲町]]
* [[青森県]][[八戸市]]
* [[秋田県]][[山本郡]][[八峰町]]
* [[埼玉県]][[八潮市]]
* [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[八重洲]]
* 東京都[[八王子市]]
* [[千葉県]][[八千代市]]
* 千葉県[[八街市]]
* [[滋賀県]][[近江八幡市]]
* 滋賀県[[八日市市]](現[[東近江市]])
* [[大阪府]][[八尾市]]
* [[島根県]][[松江市]][[八雲村 (島根県)|八雲町]]
* 島根県松江市[[八束町]]
* [[愛媛県]][[八幡浜市]]
* [[福岡県]][[八女市]] - なお、この周辺で栽培される茶は[[八女茶]]として日本では比較的知られている。
* [[熊本県]][[八代市]]
== テレビのチャンネル番号 ==
* 大半の[[フジテレビ系列]]局([[フジニュースネットワーク|FNN]]・[[フジネットワーク|FNS]])の[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル]][[リモコンキーID]]。
: [[キー局]]の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]と[[準キー局]]の[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、更には系列局の[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]のアナログ親局が3局揃って'''8ch'''であったことに起因する。
: [[東海テレビ放送|東海テレビ]](1)・[[サガテレビ]](3)、および[[クロスネット局]]である[[テレビ大分]](4)・[[テレビ宮崎]](3)は異なる。
: フジテレビ系以外では、[[岐阜放送|ぎふチャン]]([[全国独立放送協議会|独立局]])が使用している(ぎふチャンエリア内のフジテレビ系列局・東海テレビのIDがアナログ親局1chからの「1」になり「8」が空いた)。
* [[BSフジ]]の[[BSデジタル]]リモコンキーID。
* FNN・FNS系列の上記3局のアナログ親局及び[[宮城県]][[白石市|白石]]地域の[[仙台放送]]、[[福島県]][[いわき市|いわき]]地域の[[福島テレビ]]、[[岐阜県]][[高山市|高山]]・[[三重県]][[尾鷲市|尾鷲]]地域の[[東海テレビ放送|東海テレビ]]、[[熊本県]][[小国町 (熊本県)|小国町]]の[[テレビ熊本|テレビくまもと]]、[[鹿児島県]][[奄美大島]]地域の[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]のアナログ中継局のチャンネル。
* [[NHK山形放送局|NHK山形]]、[[NHK新潟放送局|NHK新潟]]、[[NHK宮崎放送局|NHK宮崎]][[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]、[[NHK盛岡放送局|NHK盛岡]]、[[NHK浜松支局|NHK浜松]][[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]、[[日本ニュースネットワーク|NNN]]・[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]系列の[[高知放送]]のアナログ親局のチャンネル。
* [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系列の岐阜県[[中津川市|中津川]]・[[郡上市|郡上]]地域の[[CBCテレビ]]と[[福岡県]][[北九州市|北九州]]地域の[[RKB毎日放送]]のアナログ中継局のチャンネル。
== 8に関する作品 ==
* [[8マン]]:[[平井和正]]原作、[[桑田二郎]]作画による漫画。それを原作に[[TBSテレビ|TBS]]系にて『エイトマン』のタイトルで放映されたアニメ。後に特撮版も製作された。
* [[8 (漫画)]]:[[上條淳士]]の漫画。
* [[八つ墓村]]:[[横溝正史]]の[[推理小説]]、及びそれを原作とした[[映画]]や[[テレビドラマ]]。「八つ墓」とは[[尼子氏]]の[[落武者]]の人数を指している。
* [[南総里見八犬伝]]:[[曲亭馬琴]]の伝奇小説。
* [[神八剣伝]]:『南総里見八犬伝』をモチーフにしたアニメ。
* [[8 (THE YELLOW MONKEYのアルバム)]]:日本の[[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]の [[THE YELLOW MONKEY]] のアルバム。
* [[8 (かりゆし58のアルバム)]]: [[かりゆし58]]のアルバム。
* [[ともだち8にん]]:[[日本放送協会|NHK]]の幼児向け番組『[[おかあさんといっしょ]]』内のショートアニメ。
== 8個1組の概念 ==
* '''[[八方]]''':[[北]]・[[南]]・[[東]]・[[西]]・[[北東]]・[[南東]]・[[北西]]・[[南西]]。[[四方]]に[[四隅]]を加えた8[[方位]]の総称。
* '''[[八卦]]''':[[乾]]・[[兌]]・[[離]]・[[震]]・[[巽]]・[[坎]]・[[艮]]・[[坤]]。それぞれ[[方位]]や吉凶を表すのに用いる。
* '''[[八音]]''':[[金属|金]]・[[石]]・[[糸]]・[[竹]]・[[ヒョウタン|匏]]・[[土]]・[[革]]・[[木]]。原材料8種類の[[楽器]]の総称。
* '''[[八景]]''':景勝地の八種の景観。中国、宋代の瀟湘周辺を描いた八枚の絵画が発端といわれる。
* '''[[八旗]]''':正黄・{{lang|zh|鑲}}黄・正白・{{lang|zh|鑲}}白・正紅・{{lang|zh|鑲}}紅・正藍・{{lang|zh|鑲}}藍。[[清]]王朝における8つの旗。
* '''[[八正道]]''':正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。[[仏教|佛教]]において、悟りに至るための8種類の方法。
* '''[[八徳]]''':仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌
* '''[[八虐]]''':謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義
* '''[[奇門遁甲|八門遁甲]]''':開門、休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門
* '''[[将棋]]'''の駒:[[玉将|王将]]、[[飛車]]、[[角行]]、[[金将]]、[[銀将]]、[[桂馬]]、[[香車]]、[[歩兵 (将棋)|歩兵]]
* '''[[八大競走]]''':[[日本の競馬]]において最も格式のある代表的な[[グレード制|GI競走]]。[[桜花賞]]、[[皐月賞]]、[[天皇賞(春)]]、[[優駿牝馬|オークス]]、[[東京優駿|日本ダービー]]、[[菊花賞]]、[[天皇賞(秋)]]、[[有馬記念]]。
* '''[[福祉八法]]''':[[高齢者の医療の確保に関する法律]]、[[児童福祉法]]、[[母子及び父子並びに寡婦福祉法]]、[[身体障害者福祉法]]、[[知的障害者福祉法]]、[[老人福祉法]]、[[社会福祉法]]、独立行政法人福祉医療機構法(旧・社会福祉・医療事業いうっじゅ団法*
* '''[[惑星]]''':[[水星]]、[[金星]]、[[地球]]、[[火星]]、[[木星]]、[[土星]]、[[天王星]]、[[海王星]]([[冥王星#国際天文学連合での議論|2006年の国際天文学連合総会での議論]])
* '''[[永字八法]]''':書に必要な技法8種。漢字の「永」は、これらが全て含まれているという。
* '''[[朝鮮八道]]''':朝鮮のかつての地域区分。咸鏡道、平安道、黄海道、京畿道、江原道、忠清道、全羅道、慶尚道。
== 符号位置 ==
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==他の表現法==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|8|八|やっつ}}
{{Wiktionarypar|eight|Ⅷ|ⅷ}}
*[[:Category:数]](数の一覧)
**[[0]] [[1]] [[2]] [[3]] [[4]] [[5]] [[6]] [[7]] '''8''' [[9]]
**[[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]] ... [[1000]] ... [[10000]]
**[[−8]]
**[[1/8|{{sfrac|1|8}}]] [[3/8|{{sfrac|3|8}}]] [[5/8|{{sfrac|5|8}}]] [[7/8|{{sfrac|7|8}}]]
*西暦[[8年]] [[紀元前8年]] [[2008年]] [[1908年]] [[8世紀]] [[1996年|平成8年]] [[1933年|昭和8年]] [[1919年|大正8年]] [[1875年|明治8年]] [[8月]]
*[[名数一覧]]
*漢数字は、[[Unicode]][[康煕部首]] (Unicode Kangxi Radicals) の「'''[[八部|⼋]]'''」(U+2F0B; 八部)に酷似する。
{{自然数}}
{{2^n}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:8}}
[[Category:数字]]
[[Category:数学に関する記事|/8]]
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2003-07-11T15:37:20Z
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9
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9(九、玖、きゅう、く、ちゅう、ここのつ、ここの)は、自然数また整数において、8の次で10の前の数である。
桁の底が十であれば10の前であるが、桁の底が十を超える場合には A の前の数である。
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9(九、玖、きゅう、く、ちゅう、ここのつ、ここの)は、自然数また整数において、8の次で10の前の数である。 桁の底が十であれば10の前であるが、桁の底が十を超える場合には A の前の数である。 英語では、基数詞でnine、序数詞では9th、ninthとなる。 ラテン語ではnovem(ノウェム)。
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{{Otheruses}}
[[ファイル:Baraja_de_UNO.JPG|thumb|165px|[[UNO (ゲーム)|UNO]]の[[カード]]のように、[[紙片]]や[[球体]]などに[[印字]]される場合、[[6]]との混同を避けるために「<u>9</u>」のように下線を引いて区別されることがある。]]
{{整数|Decomposition=3<sup>2</sup>}}
[[ファイル:九-order.gif|thumb|100px|「九」の筆順]]
'''9'''('''九'''、'''玖'''、きゅう、く、ちゅう、ここのつ、ここの)は、[[自然数]]また[[整数]]において、[[8]]の次で[[10]]の前の数である。
[[位取り記数法|桁]]の底が十であれば10の前であるが、桁の底が十を超える場合には A の前の数である。
英語では、[[基数詞]]でnine、[[序数詞]]では9[[th]]、''ninth''となる。
[[ラテン語]]ではnovem(ノウェム)。
== 性質 ==
*9 は最小の[[奇数]]の[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[3]], 9 である。
**約数の和は[[13]]。
***約数の和が奇数になる5番目の数である。1つ前は[[8]]、次は[[16]]。
***約数の和が[[素数]]になる3番目の数である。1つ前は[[4]]、次は[[16]]。
** [[素数]]を除いて σ(''n'') − ''n'' が[[平方数]]になる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[12]]。ただしσは[[約数関数]]。({{OEIS|A048699}})
*全ての[[自然数]]は高々 9 個の[[立方数]]の和で表すことができる([[ウェアリングの問題]])。
*9 = [[3]]{{sup|2}}
** 3番目の[[平方数]]である。1つ前は[[4]]、次は[[16]]。
** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[3]]、次は[[27]]。
** ''n'' = 3 のときの ''n''{{sup|''n''−1}} の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[64]]。({{OEIS|A000169}})
** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''!}} の値とみたとき1つ前は[[3]]、次は[[729]]。({{OEIS|A100731}})
** 9 = 3{{sup|2{{sup|1}}}}
*** ''n'' = 3 のときの[[階乗#階冪|階冪]]の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[262144]]。({{OEIS|A049384}})
** [[素数]] ''p'' = 3 のときの ''p''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[25]]。({{OEIS|A001248}})
**平方数が[[ハーシャッド数]]になる3番目の数である。1つ前は[[4]]、次は[[36]]。
** 3{{sup|''i''}} × 5{{sup|''j''}} × 7{{sup|''i''}} ( ''i'', ''j'', ''k'' ≧ 0) で表せる5番目の数である。1つ前は[[7]]、次は[[15]]。({{OEIS|A108347}})
* 9 の[[倍数]]は、その各位の数字の和も9の倍数である([[数字和]]、[[数字根]]、[[九去法]]。[[3]]の倍数の法則も同様)
**例: 9 × [[324]] = 2916 → 2 + 9 + 1 + 6 = 18 → 1 + 8 = 9 。
**各位の数字を入れ替えても各桁の数の和は変わらないので、9 の倍数を入れ替えてできた数もまた 9 の倍数である。例えば 2,9,1,6 の数字の順番を変えた 6291 や 1926 も 9 の倍数となる。
** 10 - 1 = 9 なので、9 × 2 = 18 だが、 9<sup>2</sup> = 81 で前後の数が入れ替わる。
*2番目の[[カプレカ数]]である。9{{sup|2}} = [[81]] 、[[8]] + [[1]] = 9 。1つ前は [[1]]、次は [[45]]。
**ある数を平方して各位の数をすべて加えて元の数と等しくなるのは [[1]] と 9 だけである。
*2番目の[[完全トーシェント数]]である。1つ前は3、次は[[15]]。なお、全ての3の累乗数は完全トーシェント数でもある。
*{{sfrac|1|9}} = 0.{{underline|1}}11… (下線部は循環節で長さは1)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で、[[循環節]]が1になる3番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[12]]。({{OEIS|A070021}})
** 3{{sup|−''n''}} の循環節の長さは 3{{sup|''n''−2}} (''n'' ≧ 2)になる。
** n>2(nは自然数)のとき、すべてのn進法において {{sfrac|1|n-1}} の答えは必ず 0.{{underline|1}}11… になる。
*3番目の[[半素数]]である。1つ前は[[6]]、次は[[10]]。
**半素数が[[ハーシャッド数]]になる3番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[10]]。
*([[8]] , 9) は2番目の[[ルース=アーロン・ペア]]である。1つ前は([[5]] , [[6]])、次は([[15]] , [[16]])。
*9 = 1{{sup|3}} + 2{{sup|3}}
**9はこのような形で表せる唯一の平方数である。
*** [[立方数]](この場合 2{{sup|3}} = 8)より 1 大きい唯一の平方数 (3{{sup|2}}) である。
****''X{{sup|m}}'' − ''Y{{sup|n}}'' = 1 (''X'', ''Y'' は自然数。''m'', ''n'' は2以上の整数)の解も (''X'', ''m'', ''Y'', ''n'') = (3, 2, 2, 3)、つまり 3{{sup|2}} − 2{{sup|3}} = 1 だけであると予想されていたが、2002年に証明された。⇒[[カタラン予想]]/
**9 = 0{{sup|3}} + 1{{sup|3}} + 2{{sup|3}}
***3連続整数の[[立方和]]で表せる数である。1つ前は[[0]]ただし負の数を除くと最小、次は[[36]]。
*素因数がフェルマー素数のみでも、そのうち1つでも重複している数は[[コンパスと定規による作図]]ができない。そのため、正九角形もコンパスと定規の作図ができない。それは、角度の三等分線を作図できないことにある。
*9 = 1[[階乗|!]] + 2! + 3!
**連続階乗の和とみたとき1つ前は3、次は[[33]]。
**3連続階乗の和とみたとき最小の数である。ただし 0!=1 を考えたときは [[4]] が最小、次は[[32]]。({{OEIS|A054119}})
*[[九九]]では1の段で1 × 9(いんくがく)、3の段で3 × 3(さざんがく)、9の段で 9 × 1(くいちがく) と3通りの表し方がある。九九で3通りの表し方がある数は他に4, 16, 36の3つのみ。またこれらはすべて平方数である。
*9! = 362880
*各位の和が9になる[[ハーシャッド数]]は[[100]]までに10個、[[1000]]までに55個、[[10000]]までに220個ある。
**10000までの数で各位の和が9になるハーシャッド数は2番目に多い数である(一番多いのは各位の和が18で335個)。
**したがって、各位の和が9になる数は全てハーシャッド数である。
*9番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[8]]、次は[[10]]。
**9を基とする最小のハーシャッド数である。次は[[18]]。
**[[各位の和]]が9になる最小の数である。次は18。
***各位の和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の8は[[8]]、次の10は[[19]]。({{OEIS|A051885}})
**1桁の自然数は、全てハーシャッド数かつ[[ズッカーマン数]]。
*各位の[[平方和]]が81になる最小の数である。次は[[90]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の80は[[48]]、次の82は[[19]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が729になる最小の数である。次は[[90]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の728は[[68]]、次の730は[[19]]。({{OEIS|A165370}})
*各位の積が9になる最小の数である。次は[[19]]。({{OEIS|A034056}})
* 約数の和で表せない最小の合成数である。
* 9 = 2 × 2{{sup|2}} + 1 より2番目の[[カレン数]]である。1つ前は[[3]]、次は[[25]]。
** 9 = 1 × 2{{sup|3}} + 1 より3番目の[[プロス数]]である。1つ前は[[5]]、次は[[13]]。
*** 9 = 2{{sup|3}} + 1 この形の1つ前は[[5]]、次は[[17]]。({{OEIS|A000051}})
* 2番目の[[完全数]][[28]]の異なる[[素因数]]の和が9である。1つ前は[[5]]、次は[[33]]。({{OEIS|A239546}})
* 9 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 2{{sup|2}}
** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる3番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[11]]。({{OEIS|A025321}})
* 9 = 5{{sup|2}} − 4{{sup|2}} = (5 + 4) × (5 − 4)
** ''n'' = 5 のときの (''n'' + 4)(''n'' − 4) の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[20]]。({{OEIS|A028566}})
* 4番目の[[幸運数]]である。1つ前は7、次は[[13]]。
* 以下のような[[多重根号#無限多重根号|無限多重根号]]の式で表せる。
*: <math>9 = \sqrt{72+\sqrt{72+\sqrt{72+\sqrt{72+\cdots}}}}</math> , <math> 9 = \sqrt{90-\sqrt{90-\sqrt{90-\sqrt{90-\cdots}}}}</math>
<!--
===他の進数での性質===
*[[十進法]]から[[十五進法]]まででは、一桁の[[奇数]]では唯一の[[合成数]]である。
* [[六進法]]では、9は「13」と表記され、9の倍数は下二桁が 13, 30, 43, 00 のどれかになる。例:[[99]]{{sub|(10)}} = 2'''43'''、[[180]]{{sub|(10)}} = 5'''00'''。
** 同じく、六進法では、9の冪数も下二桁が 13 となる。例:9{{sub|(10)}} = 13, [[81]]{{sub|(10)}} = 2'''13''', [[729]]{{sub|(10)}} = 32'''13''', [[6561]]{{sub|(10)}} = 502'''13'''。
** 六進法の[[小数]]では、[[1/4]] が 0.13 (十進換算:{{sfrac|9|[[36]]}}) で、これに対して [[1/9]] が {{sfrac|1|13}} = 0.04 (十進換算:{{sfrac|4|36}}) となり、4(= 2{{sup|'''2'''}})と13{{sub|(6)}}(= 9 = 3{{sup|'''2'''}})は同等の扱いになる。
*[[十二進法]]では、9の倍数は一の位が 9→6→3→0→9 で循環する。例:99{{sub|(10)}} = 8'''3''', [[117]]{{sub|(10)}} = 9'''9''', [[162]]{{sub|(10)}} = 11'''6''', [[252]]{{sub|(10)}} = 19'''0'''。
** 十二進法の小数では、[[3/4]] が 0.9 (十進換算:{{sfrac|9|12}}) で、これに対して 1/9 が 0.14 (十進換算:{{sfrac|[[16]]|[[144]]}}) 、1/16{{sub|(10)}} = 1/14{{sub|(12)}} が 0.09 になる。即ち、9 = 3{{sup|'''2'''}} で割ると 14{{sub|(12)}}倍 = 2{{sup|'''4'''}} 倍の数が現れる。
*[[十八進法]]では、[[18|十八]]が10となるため、9の倍数は一の位が9か0のどれかになる。例:99{{sub|(10)}} = 5'''9''', 891{{sub|(10)}} = 2D'''9''', [[1440]]{{sub|(10)}} = 48'''0'''。
** 十八進法の小数では、1/2 = 0.9 、1/4 = 0.49(十進換算:{{sfrac|[[81]]|[[324]]}})、3/4 = 0.D9(十進換算:{{sfrac|[[243]]|324}})となる。また、[[2の冪]]数の逆数は、小数の末尾には9が付き、その数は9の冪数(即ち3の偶数乗)になる。例:[[1/8]] = 0.249(十進換算:{{sfrac|[[729]]|[[5832]]}})、1/[[16|G]] = 0.1249(十進換算:{{sfrac|[[6561]]|104976}})。
* 十二進法と十八進法では、9の冪数は一の位が9になる。
** 十二進法では、9 → 6'''9'''(= [[81]]{{sub|(10)}})→ 50'''9'''(= [[729]]{{sub|(10)}})→ 396'''9'''(= [[6561]]{{sub|(10)}})…の順に増える。
** 十八進法では、9 → 4'''9'''(= 81{{sub|(10)}})→ 24'''9'''(= 729{{sub|(10)}})→ 124'''9'''(= 6561{{sub|(10)}})…の順に増える。
* [[因数]]に[[3]]が含まれている[[位取り記数法|N進法]]では、[[1/9]]は割り切れる。
** [[2]]と[[3]]が[[素因数]]に含まれる[[位取り記数法|N進法]]では、[[逆数]]が[[有限小数]]になる6番目の数である。1つ前は[[8]]、次は[[12]]。({{OEIS|A003586}})
** 「9」の字が使えて1/9が割り切れるN進法は、[[十二進法]]、[[十五進法]]、[[十八進法]]となる。
** 六進法では 0.04、十二進法では 0.14 で小数点以下二桁に対して、十八進法では 0.2 となる(10 = 2×3{{sup|2}}なので)。
** 素因数が3のみのN進法では、[[三進法]]で 0.01、[[九進法]]で 0.1 となる。
* [[十進法]]以外でも、因数に3が含まれていないN進法では、1/9は割り切れない。
** [[八進法]]では {{sfrac|1|11}} = 0.<u>07</u>07…、[[十六進法]]では 0.<u>1C7</u>…、[[二十進法]]では 0.<u>248HFB</u>… となる。(下線部は[[循環小数|循環節]])
-->
== その他 9 に関すること ==
{{See also|9 (曖昧さ回避)}}
=== 言語・文字 ===
*9の接頭辞:nona・novem([[ラテン語|拉]])、ennea([[ギリシャ語|希]])
**9倍を九重(ここのえ)、'''[[九人組]]'''や'''[[九重奏]]'''を'''ノネット''' (nonet) という。
**9倍、9重を'''ノナプル''' (nonuple) という。
**ギリシャ語由来で、九人組や九個一組を'''エニアド'''(ennead)というが、狭義では[[エジプト九柱の神々]]を大文字でエニアド(Ennead)と呼ぶこともある。
**'''[[エニアグラム]]''' (enneagram) :'''[[九角形]]'''(エニアゴン)を一筆書きで描く線。一般には、[[性格]]を 9種類に分類したもの。
*[[10|十]]を全体とする数え方(9 = 10-1)では、「ほぼ全体に近い」という意味で 9 が用いられる。例として、「十中八九」など。
**物質の[[純度]]やシステムの[[可用性]]など、100%に近い割合を表現する方法として、列んでいる「9」の数を数える(例:99.999%→「ファイブナイン」、99.999999999%→「[[イレブンナイン]]」)表現が用いられる。
*一方で、[[時計]]文字盤や[[月 (暦)|月数]]など、[[12|十二]]を全体とする数え方(9 = 10-3)では、「[[3/4]]」という意味で9が用いられる。
*[[アラビア数字]]の「9」を上下逆さにすると「[[6]]」に見える。
**紙片や球体など、上下逆さになりうるものに印字される場合、6 との混同を避けるために「{{underline|9}}」のように下線を引く、「9.」のように点を打つ、「九」と漢数字で表すなどの方法で区別されることがある。
**カジノゲームの[[クラップス]]の盤面や映画フィルムの先頭部の[[フィルムリーダー]]の6と9はアラビア数字を使わずにsixやnineとされている。
*[[中国]]では、九の発音が「久」に通ずる点と、漢字一字で書ける数字の中で最大の[[奇数]](奇数は吉数、偶数は凶数とされる)である事から、幸運の数字とされる。ただし、[[広東語]]や[[台湾語]]などを話す地域では「[[狗]]」(広東語:gau2、台湾語白読:{{unicode|káu}})と同音であるため、[[侮辱]]と見なされることもある<ref>{{Cite news|title=九狗同音 一句四尺九 婦被訴|url=https://tw.news.yahoo.com/%E4%B9%9D%E7%8B%97%E5%90%8C%E9%9F%B3-%E5%8F%A5%E5%9B%9B%E5%B0%BA%E4%B9%9D-%E5%A9%A6%E8%A2%AB%E8%A8%B4-185346075.html|accessdate=2018-08-03|language=zh-Hant-TW}}</ref>。
*[[日本]]では、九の「'''く'''」という読みが「[[苦]]」を連想させる事から非常に縁起の悪い数字であり、凶運の象徴として[[4]]と同じく忌み嫌われている。[[宿泊施設]]・集合住宅・入院施設の室番号等で9が避けられることが多く、中国とは逆の意味合いを持っている。
**[[坂本九]]の「九」は、「久」に通じて本名は「ひさし」と読む。
**「九」と書いて、「いちじく(一字+九)」と読む場合(力士の四股名など)もある。
**この他にも語呂合わせによる縁起の悪い数字は[[42]](しに{死に})、4,219(しにいく{死にいく})などがある。
*[[朝鮮民主主義人民共和国]]では、九州(中央+八方)に、あまねく統治者の徳が行き渡るという儒教の教えに基づく特別な吉数とされる。建国日の1948年9月9日も、この数を意識したものとなっている<ref>{{Cite web|和書|date=2020-09-11 |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62059 |title=台風3連発で北朝鮮に甚大被害、逼迫する食料事情 |publisher=jbpress |accessdate=2020-09-09}}</ref>。
* ''Cats have '''nine''' lives.'':「中々死なない」という意味の英語の[[諺]]([[西洋]]では、[[ネコ]]が高い所から落ちても死なないのは、9つの魂を持っているからとされる)。またそれを踏まえて、''[[:en:Curiosity killed the cat|Curiosity killed the cat]]'' (「[[好奇心]]は(9つの魂を持つと言われるはずの)ネコをも殺す」:誘惑に駆られて好奇心を出すと痛い目に遭う、の意味)という言い回しも英語にはある。
=== 第9のもの ===
*[[原子番号]] 9 の[[元素]]は[[フッ素]] (F) である。
*[[冥王星]]は、かつて[[太陽系]]で太陽から数えて9番目の[[惑星]]とされていたが、[[2006年]]の[[国際天文学連合]]総会で惑星から[[準惑星]]に変えられた。
*日本の[[憲法]]の[[日本国憲法第9条|第九条]]は、『戦争の放棄』に付いて記されている。
*第9代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ヒギヌス (ローマ教皇)|ヒギヌス]](在位:[[136年]]?~[[142年]]?)である。
*[[タロット]]の[[大アルカナ]]で IX は[[隠者 (タロット)|隠者]]。
*[[易占]]の[[六十四卦]]で第9番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#小畜|風天小畜]]。
*[[クルアーン]]における第9番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[悔悟 (クルアーン)|悔悟]]である。
=== スポーツ ===
* 日本の[[競走馬]]の名前は[[片仮名]]9文字までと定められている。
*[[野球]]の1チームは9人で構成され、チームや(時には出場中の9人以外の控えまでも含めた)選手を'''ナイン'''という。打順は9人分、守備位置も9箇所。試合も延長が無ければ9回まで。また、守備位置番号で9は[[右翼手]]を意味する。
*[[サッカー]]においては、9 番には[[フォワード (サッカー)|フォワード]]のエースナンバーで[[点取り屋]](ゴールゲッター)を意味する[[ストライカー]]の背番号として有名。
*'''[[ナインボール]]''':[[ビリヤード]]の内の1つの競技。手玉の他に9つの球を使い、ルールに沿って相手より早くナインボールを落とすことを競う競技。
*[[大相撲]]の第9代[[横綱]]は[[秀ノ山雷五郎]]である。
=== テレビのチャンネル ===
*[[全国独立放送協議会|独立テレビ局]]の [[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]] と[[奈良テレビ放送|奈良テレビ]]の[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル放送]]の[[リモコンキーID|リモコンID番号]]は '''9'''。
*[[BSデジタル]]の [[WOWOW]] のリモコンID番号は '''9'''。
*[[北海道]][[旭川市|旭川地域]]、[[秋田県]][[秋田平野]]、[[福島県]][[中通り]]、[[福井県]][[福井平野]]、[[静岡県]][[静岡市|静岡地域]]、[[山口県]][[山口市]]、[[熊本県]][[熊本平野]]等で[[NHK総合テレビジョン]]アナログ波に '''9ch''' が割り当てられている。
*[[中京広域圏|中京圏]]の大半、[[新潟県]][[糸魚川市]]、[[長野県]][[北信地方|北信]]・[[東信地方|東信]]・[[中信地方|中信]]地方、[[島根県]][[浜田市]]、[[鹿児島県]][[枕崎市]]等では[[NHK教育テレビジョン]]アナログ波に '''9ch''' が割り当てられている。
*[[日本ニュースネットワーク|NNN]]・[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]系列の[[西日本放送テレビ|西日本放送]]([[岡山県・香川県の放送|香川県・岡山県]])(JOKF-TV) と [[フジニュースネットワーク|FNN]]・[[フジネットワーク|FNS]]系列の[[テレビ西日本]]([[福岡県]])(JOJY-TV) <ref group="注">開局から[[1974年]]は[[北九州市]]の[[八幡テレビ・FM放送所|皿倉山]]が[[親局]]だった。</ref>のアナログ親局が '''9ch''' である。
*[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系列では[[北海道]][[小樽市]]での[[北海道放送]]、[[新潟県]][[魚沼市]]での[[新潟放送]]、[[広島県]][[三次市]]での[[中国放送]]、[[大分県]][[佐伯市]]の[[大分放送]]のアナログ中継局は '''9ch''' である。
=== 9に関する楽曲 ===
*'''[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]]''':交響曲第9番の俗称。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の作曲した交響曲の数であり、特に日本では「第九」と言えばベートーヴェンが交響曲としては最後の作品になる[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]を指すことが多い。これによって、シューベルト以降、[[ロマン派音楽|ロマン派]]の作曲家は、9曲の交響曲を作曲することが一つの壁=「[[第九の呪い]]」となった。
=== 9に関する小説・漫画・映画 ===
*『[[九尾の猫]]』(''Cat of Many Tails''、[[1949年]])は[[エラリー・クイーン]]の推理小説の邦題。事件は9回繰り返される。
*『9で割れ!!』は[[矢口高雄]]の漫画。
=== その他 ===
*アジア・オセアニア地域では、[[中波]][[ラジオ]]の[[周波数]]は9[[キロヘルツ]]単位間隔である。
*古典イスラム法における[[結婚#イスラム教|女性の結婚最低年齢]]。開祖[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ#アーイシャとの婚姻をめぐる議論|伝承に基づく]]。
*JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「09」は[[栃木県]]。
*'''[[九品官人法]]''':[[古代中国]]で、官僚を九段階で査定した制度。
*'''[[九尾の狐]]''':中国の伝説等に登場する獣。
*'''九尾の猫笞''' (''cat-o'-nine-tails''):先に幾つか結び目の付いた、[[鞭打ち|笞刑]]用の[[鞭|笞]]。
*日本の[[郵便切手]]において、9円の額面を持つものは長らく発行されたことがなかった。1994年1月24日に[[はがき]]の郵送料が41円から50円に値上げされた際の加貼用として、史上初めて9円切手が発行されたが、2002年10月1日に発行停止となった。
*'''[[九九]]''':[[十進法]]の1桁の[[乗算]]を暗記する方法。
*午後9時(21時)は、1970年代頃以前は「子供の寝る時間」とされ、その習慣が実行される家庭も多かった。
**1950年代頃は、映画館で午後9時になると、映画の上映が中止され、上映途中にスクリーンに午後9時を告げる時計の文字盤と「お子様連れのお客様はお帰り下さい」等との案内があった。
**1980年頃までは、午後9時に始まるテレビ番組のオープニング、例えば『[[日曜洋画劇場]]』、『[[日曜劇場|東芝日曜劇場]]』、『[[ニュースセンター9時]]』、『[[月曜ロードショー]]』等のオープニング字幕を、子供に就寝を促すように用いる親もいた(特にニュースセンター9時は、9時を知らせる時計の文字盤がタイトルにあった)。
*[[日本国有鉄道]](現代の[[JRグループ|JR各社]])における車両形式で十の位におけるこの数字は[[試験車]]や[[検測車]]のような非営業列車に用いられる。[[JR東日本E491系電車|E491系]]や[[国鉄193系電車|193系]]など。
*[[熱傷#熱傷面積|9の法則]]は、熱傷(やけど)の際等に、皮膚の大まかな面積を算出する基準。体の各部を 9% ずつに分ける。
*[[鉄道模型]]の内、[[標準軌]]のレール間隔が 9mm の規格のものを '''[[Nゲージ]]'''という。
*日本の[[義務教育]]は[[小学校]]6年と[[中学校]]3年の合計9年である。
*戦前、[[日本]](及び[[大日本帝国]]の統治下にあった外地)には、9つの[[帝国大学]]が存在した。
*[[花札]]を用いて行われる[[ゲーム]]の1つ[[おいちょかぶ]]では、9 を「カブ」と呼ぶ。
*[[麻雀]]では、
**[[麻雀牌#数牌|数牌]]は1色に付き9種類。その全てを待ちに持つ形は[[九蓮宝燈]]という役になる。
**[[麻雀牌#么九牌|么九牌]]は13種類あるが、第1ツモ時に9種類以上あると[[流局#九種九牌|九種九牌]]といって流局にすることができる。
*[[数独]]:通常 9 × 9 の盤面に、1〜9 の数字を9個ずつ入れる[[ペンシルパズル]]。
*[[将棋]]:9 × 9 の盤面上で争う。
*[[日本標準時]]は、[[協定世界時]]との時差が9時間ある([[標準時]]も参照のこと)。
*[[机「9」文字事件]]
*ヒトの栄養素である[[必須アミノ酸]]は全部で9種類である。
* コンピューターシステムにおいて処理することを前提として、何らかの区分値を数字で表すコード体系を設計する場合、'9' は慣習的に「その他」を表すコードとして使われる。例として[[職業分類コード]]では、数字4桁で表されるコードの下1桁が、[[日本標準産業分類]]では数字3桁で表される小分類コードの下1桁が 9 のコードは、すべて「その他の○○」である。
*[[バハイ教]]では九芒星がシンボルとしてよく使われる。
== 9個1組の概念 ==
*'''[[九星]]''':一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫。
*'''[[九流]]''':[[陰陽家]]・[[儒家]]・[[墨家]]・[[法家]]・[[名家 (諸子百家)|名家]]・[[道家]]・[[縦横家]]・[[雑家]]・[[農家 (諸子百家)|農家]]。[[中国史|古代中国]]で、9分野の[[哲学者]]の総称。
*'''[[九字]]''':臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。護身術の9文字。
*'''[[九色]]''':[[白]]・[[黒]]・[[茶色|茶]]・[[赤]]・[[オレンジ色|橙]]・[[黄色|黄]]・[[緑]]・[[青]]・[[紫]]。これら9種類が基幹[[色]]。
* [[九曜]]:[[インド天文学]]や[[インド占星術]]が扱う9つの[[天体]]とそれらを[[神格化]]した[[神]]の総称。
*'''[[九州]]''':筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩の9国、及びこれらの国が所在する島(広義では長門や周防を含めたり、[[琉球]]を含めることがあるが、厳密には除く)。
*'''[[九つの世界]]''':[[北欧神話]]に登場する世界の総称で9つあり、3つの層に分かれている。
*'''[[エジプト九柱の神々|エジプト九柱]]''':[[アトゥム]]・[[シュー (エジプト神話)|シュー]]・[[テフヌト]]・[[ゲブ]]・[[ヌト]]・[[オシリス]]・[[イシス]]・[[セト]]・[[ネフティス]]。[[エジプト神話]]の9人の神々。
== 符号位置 ==
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==他の表現法==
{{Number other reps
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|Character=I9
|Braille=⠊
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|9|九|ここのつ}}
{{Wiktionarypar|nine|Ⅸ|ⅸ}}
* [[:Category:数]](数の一覧)
**[[0]] [[1]] [[2]] [[3]] [[4]] [[5]] [[6]] [[7]] [[8]] '''9'''
**[[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]] ... [[1000]] ... [[10000]]
**[[−9]]
**[[1/9|{{sfrac|1|9}}]]
**西暦[[9年]] [[紀元前9年]] [[2009年]] [[1909年]] [[9世紀]] [[1997年|平成9年]] [[1934年|昭和9年]] [[1920年|大正9年]] [[1876年|明治9年]] [[9月]]
*[[名数一覧]]
* [[地下鉄9号線]] (曖昧さ回避)
* [[第9王朝 (曖昧さ回避)]]
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[[Category:数字]]
[[Category:数学に関する記事|/9]]
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土曜日
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土曜日(どようび)または土曜(どよう)は、金曜日と日曜日の間にある週の1日。カレンダーにおける週の最終日。日本のカレンダーでは青色で表記される例が比較的多い。
日本語の名称は、七曜のひとつである土星 (羅:Saturnus) の日にちなむ。
英語: Saturday、オランダ語: Zaterdagは、ドイツのヴェストファーレン地域でのSatertagと同じく、ローマ神話の農耕神サートゥルヌスから来ている。
イタリア語: sabato、フランス語: samedi、ドイツ語: Samstag、スペイン語: sábadoとポルトガル語: sábadoなどは、ラテン語: Sabbatumに起源があり、それはまたヘブライ語: יום השבת(安息日の意味)から出ている、中国語では「星期六」もしくは「礼拝六」という。
ツァドク暦の一週間の7日目。ユダヤ教では宗派によらず土曜日(正確には、日本でいう「金曜日」の日没から「土曜日」の日没まで)は安息日である。この日は働くことはもちろん、家事や出かけることなども禁じられる。ただし、現在では世俗的な生活をする人も多く、必ずしも守られてはいない。
土曜日、安息日を指すヘブライ語「シャバト」(שַבָּת)は土星や農耕神サートゥルヌスとは関係なく、「休む」という意味の動詞「シャヴァト」(שָבַת)に由来し、「安息日」を意味する。キリスト教でもギリシア語に借用されて「サバト」といい、さらにイタリア語 sabbato、スペイン語 sábado など、ヨーロッパと西アジアの多くの言語で土曜日の語源となった。
キリスト教には、もともと週末に信徒が集まる習慣として受け継がれた。主流派ではないが、日常の禁酒・禁煙に加えて、土曜日の安息を強調する教団(セブンスデー・アドベンチスト教会など)がいくつか存在し、教会・集会所に集まって礼拝する。
新約聖書の福音書には、当時の宗教家は安息日の決まりを形式的に守らせることにうるさく、イエスの弟子の行儀が悪いことを挙げて咎めるのに対し、イエスが反駁する場面がある。
かつて日本の官公庁や公立学校は午後だけが休日となっていて、これを「半ドン」と称していた。
現在は、官公庁や公立学校、ほとんどの会社が週休二日制を採用し、土曜日は終日休みとなっている。ただし、日曜日と異なり、この日が国民の祝日になった場合でも、振替休日は設けられない。
カレンダーでは平日と同様に黒色で表記したものもあるが、日曜日・国民の祝日と同様の赤色、または青色や灰色や緑色など平日と区別できるようになっている例が多々ある(大半は青色か灰色あるいは緑色で、日曜日や祝日と同じ赤色になることはほぼまれである)。
鉄道や路線バスのダイヤは、週休二日制が普及する1970年代以前は、土曜日は平日ダイヤで運行されていたが、週休二日制の普及により、都市圏では1980年代以降に主に夕方の運行本数の削減をする形で土曜専用のダイヤの新設を経て、1990年代以降休日ダイヤに統合された路線が多い。 鉄道では「土・休日ダイヤ」として休日扱いとしていることが多いが、過去には能勢電鉄など路線によっては土曜日を独立のダイヤにしている場合もあった(2022年12月のダイヤ改正をもって休日ダイヤと統合、廃止された)。 バスでは休日扱いする場合のほかに、独立の土曜ダイヤが組まれる場合と、平日ダイヤから朝夕のバスを間引く場合がある。週休二日制が普及したとはいえ、私立の学校や病院・医院などでは、土曜日に午前中だけの授業や診察を行っているところもあり通勤通学時の利便性を考慮している。
銀行などの金融機関では、1983年7月までは全ての土曜日で、1989年1月までは特定の土曜日の午前中 (9:00 - 12:00) に窓口営業を行っていた。 金融機関の営業土曜日にはATMは、9:00 - 14:00 の時間帯に稼動していた。その後に各金融機関で土曜日のATM稼働時間が延長されても、その名残で当初はこの時間帯 ( - 14:00) は時間外手数料がかからなかった。現在は週休二日制の普及により「土曜日も休日である」として、自行カードでも終日時間外手数料がかかる金融機関が主流だが、まだ「土曜14時までは時間外手数料がかからない」金融機関も存在する。
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土曜日(どようび)または土曜(どよう)は、金曜日と日曜日の間にある週の1日。カレンダーにおける週の最終日。日本のカレンダーでは青色で表記される例が比較的多い。
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{{otheruses|[[曜日]]|[[戦前]]の[[日本]]で発行されていた[[新聞]]|土曜日 (週刊紙)}}
{{出典の明記|date=2014年1月21日 (火) 09:26 (UTC)|ソートキー=曜日7}}
'''土曜日'''(どようび)または'''土曜'''(どよう)は、[[金曜日]]と[[日曜日]]の間にある[[週]]の1日。カレンダーにおける週の最終日。[[日本]]の[[カレンダー]]では[[青|青色]]で表記される例が比較的多い。
== 各言語での名称 ==
日本語の名称は、[[七曜]]のひとつである[[土星]] (羅:Saturnus) の日にちなむ。
{{lang-en|Saturday}}、{{lang-nl|Zaterdag}}は、[[ドイツ]]の[[ヴェストファーレン]]地域での{{lang|de|Satertag}}と同じく、[[ローマ神話]]の農耕神[[サートゥルヌス]]から来ている<ref name="S68p">{{Cite book|和書|author=S・ベアリング=グールド|authorlink=セイバイン・ベアリング=グールド|translator=今泉忠義|year=1955|title=民俗学の話|publisher=角川文庫|page=68}}</ref>。
{{lang-it|sabato}}、{{lang-fr|samedi}}、{{lang-de|Samstag}}、{{lang-es|sábado}}と{{lang-pt|sábado}}などは、{{lang-la|Sabbatum}}に起源があり、それはまた{{lang-he|יום השבת}}([[安息日]]の意味)から出ている<ref name="S68p" />、[[中国語]]では「{{lang|zh|星期六}}」もしくは「{{lang|zh|礼拝六}}」という。
== 安息日 ==
[[ザドクカレンダー|ツァドク暦]]の一週間の7日目。[[ユダヤ教]]では宗派によらず土曜日(正確には、日本でいう「金曜日」の日没から「土曜日」の日没まで{{efn2|詳細は「[[深夜]]」を参照。}})は[[安息日]]である。この日は働くことはもちろん、家事や出かけることなども禁じられる。ただし、現在では世俗的な生活をする人も多く、必ずしも守られてはいない。
土曜日、安息日を指すヘブライ語「シャバト」({{rtl-lang|he|שַבָּת}})は[[土星]]や農耕神[[サートゥルヌス]]とは関係なく、「休む」という意味の動詞「シャヴァト」({{rtl-lang|he|שָבַת}})に由来し<ref>{{cite book|title=A Hebrew and English Lexicon of the Old Testament|location=Oxford|publisher=Clarendon Press|pages=991-992|year=1906|url=https://archive.org/stream/hebrewenglishlex00browuoft#page/990/mode/2up}}</ref>、「安息日」を意味する。キリスト教でも[[ギリシア語]]に借用されて「サバト<!--[[安息日]]へのリダイレクト-->」といい、さらに[[イタリア語]] sabbato、[[スペイン語]] sábado など、ヨーロッパと西アジアの多くの言語で土曜日の語源となった。
[[キリスト教]]には、もともと週末に信徒が集まる習慣として受け継がれた。[[主流派 (キリスト教)|主流派]]ではないが、日常の禁酒・禁煙に加えて、土曜日の安息を強調する教団([[セブンスデー・アドベンチスト教会]]など)がいくつか存在し、教会・集会所に集まって礼拝する。
[[新約聖書]]の[[福音書]]には、当時の宗教家は安息日の決まりを形式的に守らせることにうるさく、[[イエス・キリスト|イエス]]の弟子の行儀が悪いことを挙げて咎めるのに対し、イエスが反駁する場面がある。
== 半ドン ==
{{see also|半ドン}}
かつて[[日本]]の[[官公庁]]や[[公立学校]]は午後だけが休日となっていて、これを「[[半ドン]]」と称していた。
現在は、官公庁や公立学校、ほとんどの会社が[[休日#週休二日制|週休二日制]]を採用し、土曜日は終日休みとなっている。ただし、日曜日と異なり、この日が[[国民の祝日]]になった場合でも、[[振替休日]]は設けられない。
[[カレンダー]]では[[平日]]と同様に黒色で表記したものもあるが、日曜日・国民の祝日と同様の赤色、または青色や灰色や緑色など平日と区別できるようになっている例が多々ある(大半は青色か灰色あるいは緑色で、日曜日や祝日と同じ赤色になることはほぼまれである)。
[[鉄道]]や[[路線バス]]の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]は、週休二日制が普及する[[1970年代]]以前は、土曜日は平日ダイヤで運行されていたが、週休二日制の普及により、都市圏では[[1980年代]]以降に主に夕方の運行本数の削減をする形で土曜専用のダイヤの新設を経て、[[1990年代]]以降休日ダイヤに統合された路線が多い。 鉄道では「土・休日ダイヤ」として休日扱いとしていることが多いが、過去には[[能勢電鉄]]など路線によっては土曜日を独立のダイヤにしている場合もあった(2022年12月のダイヤ改正をもって休日ダイヤと統合、廃止された)。 バスでは休日扱いする場合のほかに、独立の土曜ダイヤが組まれる場合と、平日ダイヤから朝夕のバスを間引く場合がある。週休二日制が普及したとはいえ、[[私立学校|私立の学校]]や[[病院]]・[[医院]]などでは、土曜日に午前中だけの[[授業]]や[[診察]]を行っているところもあり通勤通学時の利便性を考慮している。
[[銀行]]などの[[金融機関]]では、[[1983年]]7月までは全ての土曜日で、[[1989年]]1月までは特定の土曜日の午前中 (9:00 - 12:00) に窓口営業を行っていた。 金融機関の営業土曜日には[[現金自動預け払い機|ATM]]は、9:00 - 14:00 の時間帯に稼動していた。その後に各金融機関で土曜日のATM稼働時間が延長されても、その名残で当初はこの時間帯 ( - 14:00) は時間外手数料がかからなかった。現在は週休二日制の普及により「土曜日も休日である」として、自行カードでも終日時間外手数料がかかる金融機関が主流だが、まだ「土曜14時までは時間外手数料がかからない」金融機関も存在する{{efn2|特殊な例として、近年になって土日祝日の日中時間帯のATM手数料を無料化した[[三菱UFJ銀行]]の例があるが、こちらは単純にサービス向上策の一環であり、半ドンの名残とは関係がない。}}。
== 土曜日指定のもの ==
; {{Anchors|劇場映画の公開初日}}劇場映画の公開初日
:[[劇場]]用[[映画作品]]のうち大抵は土曜日が公開初日となっており、公開初日に主要[[映画館]]で[[映画監督|監督]]とキャストらによる舞台挨拶が行われる(例:[[東映]]制作作品の場合は[[丸の内TOEI]]で行われる)。
; {{Anchors|CDアルバムと一部のCDシングルのレンタル開始}}CDアルバムと一部のCDシングルのレンタル開始
:土曜日は、[[TSUTAYA]]や[[ゲオ|GEO]]などの[[レンタルCD]]・[[レンタルビデオ|ビデオ店]]でCDアルバムと一部のCDシングルのレンタル開始日に指定されている。ただし、[[日本レコード協会]]のルールに基づき、発売日から17日後のCDアルバム・一部を除くカップリング曲が2曲以上のCDシングルが対象である。なお、カップリング曲なし、もしくは1曲のCDシングルは発売と同時にレンタル開始であるが、[[AKB48]]{{efn2|一部を除く関連ユニットおよびソロシングルを含む。}}のようにカップリング曲が2曲以上の一部のCDシングルも発売と同時にレンタル開始する曲もある。
== 土曜日に関する作品 ==
<!--本項は土曜日を作品のテーマとした物を記述すること-->
=== 映画 ===
* 『[[土曜日の夜 (映画)|土曜日の夜]]』(1922年、[[アメリカ合衆国|米国]])
* 『土曜日の天使』(1954年、日本)
* 『[[サタデー・ナイト・フィーバー|SATURDAY NIGHT FEVER]]』(1977年、米国)
* 『[[ミスター・サタデー・ナイト]]』(1992年、米国)
=== 楽曲 ===
* 雨のサタデー(歌: [[和田アキ子]])
* 雨の土曜日(歌:[[サニーデイ・サービス]])
* [[危い土曜日]](歌:[[キャンディーズ]])
* [[俺達には土曜日しかない]](歌:[[氣志團]])
* Saturday In The Park(歌:[[シカゴ (バンド)|シカゴ]])
* [[サタデー・ナイト]](歌:[[ベイ・シティ・ローラーズ]])
* SATURDAY NIGHT(歌:[[Blankey Jet City]])
* [[SWEET DREAMS (松任谷由実の曲)|SATURDAY NIGHT ZOMBIES]](歌:[[松任谷由実]])
* [[クロス・ロード|Someday I'll Be Saturday Night]](歌:[[ボン・ジョヴィ]])
* 新宿サタデーナイト(歌:[[青江三奈]])
* 第2土曜日(歌:[[ブレッド&バター]])
* どうにかして土曜日(歌:[[モーニング娘。]])
* 土曜の停電(歌:[[原田知世]])
* 土曜の夜君とかえる(歌:[[泉谷しげる]])
* [[愛の世代の前に#収録曲|土曜の夜と日曜の朝]](歌:[[浜田省吾]])
* 土曜の夜何かが起きる(歌:[[黛ジュン]])
* 土曜の夜は羽田に来るの(歌:[[ハイ・ファイ・セット]])
* 土曜の夜はパラダイス(歌:[[EPO]])
* 土曜の夜は僕の生きがい(歌:[[エルトン・ジョン]])
* 土曜日(歌:[[syrup16g]])
* 土曜日の嘘(歌:[[森山直太朗]])
* [[土曜日の恋人]](歌:[[山下達郎]])
* [[17才のテーマ#収録曲|土曜日の楽しみ]](歌:[[山口百恵]])
* [[土曜日のタマネギ]](歌:[[斉藤由貴]])
* 土曜日の本(歌:[[富田靖子]])
* [[土曜日の夜 (アルバム)|土曜日の夜]](歌:[[トム・ウェイツ]])
* [[キャンディーズ ファイナルカーニバル プラス・ワン#Disk 3 / Side-B|土曜日の夜]](歌:キャンディーズ)
* 土曜日はいちばん(歌:[[ピンキーとキラーズ]])
* [[土曜日は大キライ]](歌:[[松任谷由実]])
* 土曜日は晴れた(歌:[[井上陽水]])
* 土曜夜市(歌:[[井上昌己 (歌手)|井上昌己]])
* なんて素敵な土曜日(歌:[[ケロロ小隊]]〈[[渡辺久美子]]、[[中田譲治]]、[[小桜エツコ|小桜エツ子]]、[[子安武人]]、[[草尾毅]]〉)
* Book of Saturday(歌:[[キング・クリムゾン]])
* [[J.BOY (アルバム)#収録曲|もうひとつの土曜日]](歌:浜田省吾)
* ワールド☆サタデーグラフティ(歌:[[ポルノグラフィティ]])
* 泡沫サタデーナイト! (歌:[[モーニング娘。]])
=== 番組 ===
==== テレビ ====
===== 世界各国 =====
*『[[サタデー・ナイト・ライブ]]』
**『[[サタデー・ナイト・ライブ JPN]]』
===== 日本 =====
*『[[日曜洋画劇場|土曜洋画劇場]]』
*『[[土曜映画劇場]]』
*『[[ハイ!土曜日です]]』
*『[[土曜ショー]]』
*『[[土曜大好き!830]]』
*『[[土曜はナニする!?]]』
*『[[土曜ぴーぷる]]』
*『[[土曜ワイド劇場]]』
*『[[土曜ロータリー]]』
*『[[土曜トップスペシャル]]』
*『[[土曜スーパースペシャル]]』
*『[[土曜スペシャル (テレビ東京)|土曜スペシャル]]』
*『[[土曜プレミアム]]』
*『[[めざましどようび]]』
*『[[おはよう朝日です|おはよう朝日・土曜日です]]』
*『[[デルサタ]]』
*『[[ドデスカ!|ドデスカ!ドようびデス。]]』<!--
放送曜日は土曜日ではあるものの、「土曜」や「サタデー」を冠していないため、コメントアウト
*『[[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)]]』と 『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)]]』-->
*『[[科学大好き土よう塾]]』
*『[[奇跡の扉 TVのチカラ|土曜の奇跡!TVのチカラ]]』
*『[[木曜時代劇 (NHK)|土曜時代劇]]』
*[[土曜ドラマ (日本テレビ)|『土曜グランド劇場』→『土曜ドラマ(日本テレビ版)』]]
*[[土曜ドラマ (NHK)|『土曜ドラマ(NHK版)』→『土曜ドラマスペシャル』]]
*『[[土曜ドラマ (フジテレビ)|土曜ドラマ(フジテレビ版)]]』→『[[土ドラ (フジテレビ)]]』
*『[[土曜ナイトドラマ]]』
*『[[土曜はダメよ!]]』
*『[[よんチャンTV|土曜のよんチャンTV]]』
*『[[サタデー・ナイト・ライブ JPN]]』([[フジテレビNEXT]]〈[[衛星放送|CS]]〉 / 月1回・土曜日 21:00 - 22:30)
*『[[サタデー生ワイド そらナビ]]』
*『[[土曜深夜族]]』
*『[[ズームイン!!サタデー]]』
*[[サタデーずばッと|『みのもんたのサタデーずばッと』→『サタデーずばッと』]]
*『[[サタデープラス]]』
*『[[ベリーベリーサタデー]]』
*『[[ブンブンサタデー]]』
*『[[バニラ気分!]] [[マツケン・今ちゃん・オセロのGO!GO!サタ]]』
*『[[ドスペ!]]』
*『[[ドスペ2]]』
*『[[サタスペ!]]』
*『[[サタ☆スマ]]』
*『[[サタうま!]]』
*『[[星期六我家的電視]]』(1990年代初期のTBS深夜番組。「どようびのうちのテレビ」と読む)
*『[[サタデーステーション]]』
*『[[サタデースポーツ]]』
*『[[サタデーウオッチ9]]』
*『[[土ドラ (東海テレビ)|オトナの土ドラ → 土ドラ (東海テレビ)]]』
*『[[海江田万里のパワフルサタデー]]』
*『[[サタデージャングル・サンデージャングル|サタデージャングル]]』
*『[[報道LIVE あさチャン!サタデー]]』
*『[[上田晋也のサタデージャーナル]]』
*『[[まるっと!サタデー]]』
*『[[土曜プライム]]』
*『[[土曜ナイトドラマ]]』
*『[[オシドラサタデー]]』
*『[[サタドラ]]』
*『[[読売テレビ制作土曜夕方枠のアニメ]]』
; BS ([[SOLiVE24|ウェザーニューズ]])
:*『[[SOLiVE Morning|SATURDAY SOLiVE Morning]]』
:*『[[ソラマド サンシャイン|SATURDAY ソラマド サンシャイン]]』
:*『[[SOLiVE Afternoon|SATURDAY SOLiVE Afternoon]]』
:*『[[サタデー ソラマド ティータイム]]』
:*『[[SOLiVE Night|SATURDAY SOLiVE Night]]』
==== ラジオ ====
*『[[オールナイトニッポンサタデースペシャル]]』
*『[[ありがとう浜村淳です土曜日です]]』
*『[[土曜天国]]』→『[[土曜天国SUPER]]』→『[[土曜天国 ぴかラジ]]』→『[[ザ・土曜天国]]』
*『[[土曜朝イチエンタ。堀尾正明+PLUS!]]』
*『[[土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界]]』
*『[[野中藍 ラリルれ、サタデーナイト。]]』
*『[[小島一宏 一週間のごぶサタデー]]』
*『[[サントリー・サタデー・ウェイティング・バー]]』
*『[[SATURDAY GLASS SHOW]]』
* [[MBSヤングタウン|MBS]][[ヤングタウン土曜日]]『さんまのヤンタン』([[MBSラジオ]] / 土曜日 22:00 - 23:30)
*『[[スイスイサタデー カロ・ソリーゾ]]』
*『[[蓮見孝之 まとめて!土曜日]]』
*『[[井上貴博 土曜日の『あ』]]』
*『[[billboard JAPAN HOT100 COUNTDOWN|サタデーミュージックバトル 天野ひろゆき ルート930]]』 など
=== 広告 ===
* 「こんにちは土曜日くん」([[1972年]]、[[伊勢丹]])
== 記号 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|12847|322f|-|全角括弧付き土<br />PARENTHESIZED IDEOGRAPH EARTH}}
{{CharCode|12943|328f|-|丸土<br />CIRCLED IDEOGRAPH EARTH}}
|}
== 脚注 ==
<references group="注"/>
== 出典 ==
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Saturday}}
* [[午砲台]]
{{曜日}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とようひ}}
[[Category:曜日]]
[[Category:土曜日|*]]
[[Category:安息日]]
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2003-07-11T15:40:40Z
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2023-12-01T06:56:13Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%9B%9C%E6%97%A5
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11,223 |
5
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5(五、伍、ご、う、いつつ、いつ)は、自然数また整数において、4の次で6 の前の数である。
英語では、基数詞でfive、序数詞では、5th、fifthとなる。
ラテン語ではquinque(クゥィンクゥェ)。
5人組によるもの
音楽グループ(上記を除く)
音楽作品
テレビ番組
乗用車
その他
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5(五、伍、ご、う、いつつ、いつ)は、自然数また整数において、4の次で6
の前の数である。 英語では、基数詞でfive、序数詞では、5th、fifthとなる。 ラテン語ではquinque(クゥィンクゥェ)。
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{{Otheruses|正の整数の五番目の数|その他}}
{{整数|Decomposition=([[素数]])}}
[[ファイル:五-order.gif|thumb|100px|「五」の筆順]]
'''5'''('''五'''、'''伍'''、ご、う、いつつ、いつ)は、[[自然数]]また[[整数]]において、[[4]]の次で[[6]]
の前の数である。
英語では、[[基数詞]]でfive、[[序数詞]]では、5[[序数標識#英語|th]]、''[[fifth]]''となる。
[[ラテン語]]ではquinque(クゥィンクゥェ)。
== 性質 ==
* 5 は3番目の[[素数]]である。1つ前は[[3]]、次は[[7]]。
**[[3]]の次の[[奇数]]。[[乗法|乗]][[除法|除]][[単位元]]である[[1]]を除けば、2番目に小さい奇数である。
**[[三角数]] − 1 で表せる最大の素数である。1つ前は[[2]]。
**[[約数]]の和は[[6]]。
***約数の和が[[倍積完全数]]になる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[12]]。
*** [[約数関数]]から導き出される数列 <math>a_n=\sigma(a_{n-1})</math> はその初期値によって異なる数列になる。異なる数列になる2番目の初期値(最小の値)を表す数である。1つ前は[[2]]、次は[[16]]。(ただし1を除く)({{OEIS|A257348}})
* 5 = 5 + 0 × ''ω'' (''ω''は1の虚立方根)
** a + 0 × ''ω'' (a > 0) で表される2番目の[[アイゼンシュタイン整数#アイゼンシュタイン素数|アイゼンシュタイン素数]]である。1つ前は2、次は11。
*5 = 2{{sup|2}} + 1
**2番目の[[フェルマー数|フェルマー素数]]である。また ''n''! − 1 の形 (3! − 1) にもなっている。
*** これにより、[[正五角形]]は[[コンパス]]と[[定規]]だけで作図できる。
** ''n''{{sup|2}} + 1 で表される2番目の[[素数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[17]]。
** 5 = 1 × 2{{sup|2}} + 1 より2番目の[[プロス数]]である。1つ前は[[3]]、次は[[9]]。
***2番目の[[プロス数#プロス素数|プロス素数]]である。1つ前は[[3]]、次は[[13]]。
** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[3]]、次は[[9]]。({{OEIS|A000051}})
** 5 = 2{{sup|2}} × 3{{sup|0}} + 1
*** 3番目の[[ピアポント素数]]である。1つ前は3、次は7。({{OEIS|A005109}})
**5 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}}
***2番目の[[四角錐数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[14]]。
***異なる2つの[[平方数]]の和1通りで表せる最小の数である。次は[[10]]。
***異なる2つの[[平方数]]の和を用いて ''n'' 通りで表せる最小の数である。次の2通りは[[65]]。({{OEIS|A093195}})
**5 = 0{{sup|2}} + 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}}
***3連続整数の最小の平方和である。次は[[14]]。ただし負の数を含むとき1つ前及び最小は[[2]] ((−1){{sup|2}} + 0{{sup|2}} + 1{{sup|2}})。
*{{sfrac|1|5}} = 0.2
**[[逆数]]が[[有限小数]]になる3番目の数である。1つ前は[[4]]、次は[[8]]。({{OEIS|A003592}})
** 自然数の[[逆数]]が小数第一位で収まる[[有限小数]]になる数は、{{sfrac|1|2}} = 0.5 、 {{sfrac|1|5}} = 0.2 、{{sfrac|1|10}} = 0.1 の3つある。
*''n'' ≥ 5 の時、[[対称群]] ''S{{sub|n}}'' は[[可解]]ではない。
**5次以上の方程式に[[解の公式]]が存在しないのは解の個数からできる対称群が可換複素数群で表すことができないからである。
*[[5の累乗数|5の冪]]の基数で、5{{sup|1}} 。1つ前は[[1]]、次は[[25]]。
*5番目の[[フィボナッチ数]]である。1つ前は [[3]]、次は [[8]]。
**3番目の[[フィボナッチ素数]]である。1つ前は[[3]]、次は[[13]]。
*2番目の[[五角数]]である。5 = 2 × (3 × 2 − 1)/2。1つ前は[[1]]、次は[[12]]。
*2番目の[[五胞体数]]である。1つ前は1、次は[[15]]。
**5 = {{sfrac|2 × 3 × 4 × 5|1 × 2 × 3 × 4}}
*2番目の[[スーパー素数]]である。1つ前は 3、次は[[11]]。
*3番目の[[ペル数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[12]]。
*3番目の[[カタラン数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[14]]。
*5 = 3! − 2! + 1!。3番目の[[交互階乗]]である。1つ前は[[1]]、次は[[19]]。
*[[3]]とペアの([[3]], 5), [[7]]との組(5, [[7]]) はそれぞれ1番目、2番目の[[双子素数]]である。次は ([[11]], [[13]])。
** ([[3]], 5, [[7]]) は唯一 (''n'', ''n'' + 2, ''n'' + 4) の形の[[三つ子素数]]である。
**''n'', ''n'' + 2, ''n'' + 6, ''n'' + 8 が全て素数となる最小の素数。[[四つ子素数]]といい (5, [[7]], [[11]], [[13]])は最小の組、次は ([[11]], [[13]], [[17]], [[19]]) 。
*3番目の[[ソフィー・ジェルマン素数]]。1つ前は[[3]]、次は[[11]]。
*最小の[[安全素数]]。次は[[7]]。
**ソフィー・ジェルマン素数かつ安全素数である最小の素数。次は[[11]]。({{OEIS|A59455}})
*5 = 1{{sup|0}} + 1{{sup|1}} + 1{{sup|2}} + 1{{sup|3}} + 1{{sup|4}}
**''n'' = 1 のときの ''n''{{sup|0}} + ''n''{{sup|1}} + ''n''{{sup|2}} + ''n''{{sup|3}} + ''n''{{sup|4}} の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[31]]。
* ''p'' = 5 のとき 2{{sup|''p''}} − 1 からできる 2{{sup|5}} − 1 = [[31]] は3番目の[[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]]である。
*5[[階乗|!]] = [[120]]
**5! − 1 = 119 = 7 × 17
**5! + 1 = 121 = 11{{sup|2}} であり、共に[[合成数]]である。
*5 を含む[[ピタゴラスの定理|ピタゴラス数]]
**3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} = 5{{sup|2}}
**5{{sup|2}} + 12{{sup|2}} = 13{{sup|2}}
*[[ピタゴラス数]]である3数のうち少なくとも1つは 5 の倍数である。
* 全ての[[自然数]]は[[負の整数|負]]を含めると5つの3乗数の和で表せる。
*[[九九]]では 1 の段で 1 × 5 = 5(いんごがご)、5 の段で 5 × 1 = 5(ごいちがご)と2通りの表し方がある。
*(5, 6) の組は最小の[[ルース=アーロン・ペア]]である。次に小さい組は(8, 9)。
*5 = 2 + 3
**連続した素数の和で表すことのできる唯一の素数である。
**[[素数]]の総和とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[10]]。
**連続素数和が素数となる2番目の素数である。1つ前は[[2]]、次は[[17]]。
** 5 = 2{{sup|1}} + 3
*** ''n'' = 1 のときの 2{{sup|''n''}} + 3 の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[7]]。({{OEIS|A062709}})
**** 2{{sup|''n''}} + 3 の形の最小の素数である。次は[[7]]。({{OEIS|A057733}})
* 2乗すると2''5''となるため、5の累乗数は一の位が ''5'' となる。
**2番目の[[自己同形数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[6]]。
*5 = (2[[黄金比|''φ'']] − 1){{sup|2}} {{See|黄金比}}
* ''n'' = 5 のときの ''n''<sup>4</sup> + ( ''n'' + 1 )<sup>4</sup> において、5<sup>4</sup> + ( 5 + 1 )<sup>4</sup> = 5<sup>4</sup> + 6<sup>4</sup> = 1921 = [[17]] × [[113]] となり、合成数となる最小の ''n'' である。
*各位の和が5となる[[ハーシャッド数]]は[[100]]までに2個、[[1000]]までに9個、[[10000]]までに22個ある。
*5番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[4]]、次は[[6]]。
**5を基とする最小のハーシャッド数である。次は[[50]]。
*各位の和([[数字和]])が5になる最小の数である。次は[[14]]。
**各位の和が5になる数で最小の[[素数]]である。次は[[23]]。({{OEIS|A062341}})
*各位の[[平方和]]が25になる最小の数である。次は[[34]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の24は[[224]]、次の26は[[15]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が125になる最小の数である。次は[[50]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の124は223333、次の126は[[15]]。({{OEIS|A165370}})
*各位の積が5になる最小の数である。次は[[15]]。({{OEIS|A199985}})
**各位の積が5になる数で最小の[[素数]]である。次は[[151]]。({{OEIS|A107691}})
* 1~5までの約数の個数を加えると[[10]]個になり5の2倍になる。1~''n'' までの約数の個数が ''n'' の整数倍になる3番目の数である。1つ前は[[4]] (2倍)、次は[[15]] (3倍)。({{OEIS|A050226}}参照)
*5 = 3{{sup|2}} − 2{{sup|2}}
**2つの[[素数]]の[[平方数]]の[[減法|差]]として得られる唯一の素数である。
***他の素数の組み合わせでは3の[[倍数]]または8の倍数となる。<br>例. 5{{sup|2}} − 2{{sup|2}} = 21 は3の倍数(3以外の[[奇素数]]と2を用いる場合)<br>例. 7{{sup|2}} − 3{{sup|2}} = 40 は8の倍数(両方に[[奇素数]]を用いる場合)
** 5 = (3 + 2) × (3 − 2)
*** ''n'' = 3 のときの (''n'' + 2)(''n'' − 2) の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[12]]。({{OEIS|A028347}})
* 最小の[[完全数]][[6]]の異なる[[素因数]]の和が5である。次は[[9]]。({{OEIS|A239546}})
** 最小の[[完全数]][[6]]の全ての[[素因数]]の和とみたとき次は[[11]]。({{OEIS|A276663}})
* 5 = 2{{sup|3}} − 3
** ''n'' = 3 のときの 2{{sup|''n''}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[12]]。({{OEIS|A000325}})
*** 2{{sup|''n''}} − ''n'' の形の2番目の[[素数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[503]]。({{OEIS|A081296}})
** 素数 ''p'' = 3 のときの 2{{sup|''p''}} − ''p'' の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[27]]。({{OEIS|A100105}})
* 5 = 6 − 1
** ''n'' = 1 のときの 6{{sup|''n''}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[1]]、次は[[34]]。({{OEIS|A024063}})
*** 6{{sup|''n''}} − ''n'' の形の最小の素数である。次は609359740010477。({{OEIS|A273941}})
* 以下のような[[多重根号#無限多重根号|無限多重根号]]の式で表せる。
*: <math>5 = \sqrt{20+\sqrt{20+\sqrt{20+\sqrt{20+\cdots}}}}</math> , <math> 5 = \sqrt{30-\sqrt{30-\sqrt{30-\sqrt{30-\cdots}}}}</math>
<!--
=== 他の進数の性質 ===
*{{sfrac|1|5}} = 0.2
**[[二十進法]]では、[[20|二十]](10)の[[約数]]に5が含まれている為、[[1/5]] は割り切れる。二十進法では、1/5 の商は 0.4 となる。また、二十進法では、自然数の逆数が小数第一位で収まる有限小数は、{{sfrac|1|2}} = 0.A と、{{sfrac|1|4}} = 0.5 と、{{sfrac|1|5}} = 0.4 と、{{sfrac|1|A}} = 0.2 の計4つとなる。
**逆に、[[六進法]]、[[十二進法]]、[[十六進法]]、[[十八進法]]では、[[6|六]](10)や[[12|十二]] (10) や[[16|十六]](10)や[[18|十八]](10)の約数に5が含まれていないため、、1/5 は割り切れない。1/5 の商は、六進法では 0.{{underline|1}}111…、十二進法では 0.{{underline|2497}}…、十六進法では 0.{{underline|3}}333…、十八進法では 0.{{underline|3AE7}}… となる。(下線部はそれぞれの[[循環節]])。
* [[五進法]]や[[二五進法|二・五進法]]では [[4]] + 1 = 10 となるので、一桁に入る数は4までで、5 は 10 になる。
* [[六進法]]では 5 + 1 = 10 となるので、一桁に入る数は5までで、5が一桁で最大の数となる。
** 5の倍数は、その各位の数字の和も5の倍数となる(→[[数字根]])。
*** 整数の例:334 = [[130]]{{sub|(10)}} → 3 + 3 + 4 = 14 = 10{{sub|(10)}}。
*** 乗算の例:5 × 124 = 1112 = [[260]]{{sub|(10)}} → 1 + 1 + 1 + 2 = 5 。
** 乗算表となる「五五」も、5×2 = 14、5×3 = 23、5×4 = 32、5×5 = 41 となり、前後の数が入れ替わる。
** 六進法で[[循環小数]]になる 5{{sup|-n}} の循環節は、n-1 になる。循環節の長さは、1/5が1桁、次の 1/[[25|41]] (5{{sup|-2}}) は5桁 (5{{sup|1}})、1/[[125|325]] (5{{sup|-3}}) は25桁 (5{{sup|2}})、1/[[625|2521]] (5{{sup|-4}}) は125桁 (5{{sup|3}})…の順で増加する。
** 六進法による最小の{{仮リンク|独自素数|en|unique prime|label=独自周期素数}}である。
* 六進法や十二進法では、5の冪数は一の位が 5 → 1 → 5 → 1 で循環する。
* [[二十進法]]では、5の倍数は一の位が 5→[[10|A]]→[[15|F]]→0→5 で循環する。
** 二十進法では、5の冪数の[[逆数]]は、小数の末尾は4と[[16|G]]を交互で繰り返し、その数値は2の偶数乗(4の冪数)になる。昇順に、1/5 = 0.4 、1/15 = 0.0G(十進換算:1/25 = [[16]]/[[400]])、1/65 = 0.034(十進換算:1/125 = [[64]]/[[8000]])、1/1B5 = 0.00CG(十進換算:1/625 = [[256]]/160000)…となり、冪指数が奇数の時は末尾が4、偶数の時は末尾がGになる。
* [[3]]{{sup|n}} ÷ 5{{sup|n}} の商は、小数点を消すと、[[十進法]]では[[6|六]]の n 乗、二十進法では[[12|十二]]の n 乗になる。
** 十進法の例:729 ÷ 15625 = 0.046656(冪指数は6、46656{{sub|(10)}} = 1000000{{sub|(6)}})
** 二十進法の例:41 ÷ 1B5 = 0.2BGG(冪指数は4、十進換算で81÷625、2BGG{{sub|(20)}} = 10000{{sub|(12)}} = 20736{{sub|(10)}})
-->
== その他 5 に関すること ==
{{See also|5 (曖昧さ回避)}}[[ファイル:5 playing cards.jpg|right|250px]]
* [[日本]]では、特に[[学校]]の成績は五段階[[評価]]法を採り、5 は最上位を表す。第 1、第 2 … や A、B … の昇順で級を下げる方式とはせず、5、4 … の降順で級を下げる方式を採り、[[1]] を最下位とすることが多い。
* [[中国]]では、[[木]]・[[火]]・[[土壌|土]]・[[金属|金]]・[[水]]の[[五行思想]]を象徴する。日本でも、その影響により同様の思想が見られる。
* [[キリスト教]]においては、[[四大元素]]に加わる第 5 番目のものとしての「神の息吹」を象徴することもある。[[カトリック教会]]では[[聖痕]]の意味もある。{{要出典|date=2018年8月}}
* [[哺乳類]]、多くの[[爬虫類]]などは、腕や足に片側 5 本の[[指]]を持つ。
** 片手5本の指から[[五進法]]が作られた。
** 転じて、五者の優れた人物や物事を、「五指に入る」と表現する。
* [[フットサル]]、[[バスケットボール]]は5人対5人で得点を競うスポーツ。
* 日本の[[国勢調査]]は、5年毎に行われる。
* 五つ組の[[画線法]]では、日本語では「正」の漢字を使用する。
* [[中国]]では、5は不吉な数字。(五の発音が無(ウー)で発音が同じため。)
* [[公認野球規則]]では、5回終了で試合成立となる。但し、後攻チームが5回表終了時点でリードしている場合や、5回裏に勝ち越した場合は、それらの時点で試合成立となる。
* [[トランプ]]のゲームである[[ポーカー]]は、カード5枚の組み合わせの優劣で勝負を決める。
=== 言語・文字 ===
* 5 の接頭辞: quinque([[ラテン語|拉]])、penta([[ギリシャ語|希]])
** 5倍、5重を'''クインティプル'''(クインタプル、quintuple)という。
** [[五人組]]や五重奏を'''クインテット''' (quintet) という。
** 五年紀 (quinquennium) :5 年を単位とする期間。英語でlustrumとも。60か[[月 (暦)|月]]であり、1[[世代]]([[30年]])の 6分の1 に当たる。[[十年紀]]の半分。
** [[五角形]] (pentagon) :5 つの点を辺を持つ[[平面]][[図形]]。
*** [[アメリカ国防総省|アメリカ合衆国国防総省]]を俗に「[[ペンタゴン]]」と呼ぶが、これは庁舎が天から見ると[[五角形]]であることに因む。
* [[花札]]を用いて行われる[[ゲーム]]の1つ[[おいちょかぶ]]では、5 を「ゴケ」と呼ぶ。
=== 第5のもの ===
* [[原子番号]]5 の[[元素]]は、[[ホウ素]](B)。
** 地球上で、[[質量数]]1〜4の[[原子核]]には安定核種も存在するが、質量数5の安定核種は存在しない。以降、質量数[[8]]、[[147]]、[[151]]、そして[[209]]以上の全てに地球上での安定核種が存在しない。
* [[太陽系]]第5[[惑星]]は、[[木星]]。
* 日本の5番目の[[元号]]は[[慶雲]]。
* 日本の第5代[[天皇]]は、[[孝昭天皇]]。
* 日本の第5代[[内閣総理大臣]]は、[[伊藤博文]]。
* 日本の[[大相撲]]第5代[[横綱]]は、[[小野川喜三郎]]。
* [[アメリカ合衆国]]第5代[[大統領]]は、[[ジェームズ・モンロー]]。
* 第5代[[殷]]王は、[[沃丁]]。
* 第5代[[周]]王は、[[穆王 (周)|穆王]]。
* 第5代[[教皇|ローマ教皇]]は[[エウァリストゥス (ローマ教皇)|エウァリストゥス]](在位:[[101年]]?〜[[108年]]?)である。
* [[タロット]]の[[大アルカナ]]で、Vは[[教皇 (タロット)|教皇]]を表す。
* [[易占]]の[[六十四卦]]で第5番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#需|水天需]]。
* [[5号機 (パチスロ)|5号機]] - [[パチスロ]]機の区分の1つ。
* [[クルアーン]]における第5番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[食卓 (クルアーン)|食卓]]である。
* 年始([[1月1日]])から5日目は[[1月5日]]。
=== 番号 ===
* [[野球]]の[[守備番号]]5番は[[三塁手]](サード)。スコアブックに記載されるときなどに用いられる。
* [[箏]]
** 『五段の調』は単に『五段』とも呼ばれ、作曲者不詳の[[箏曲]]。「段もの」に属し、五つの段よりなる[[器楽]]曲。
** 『五段砧(ごだんぎぬた)』は、[[天保]]の頃京都の盲人音楽家[[光崎検校]]が作曲した箏曲。五つの段よりなる「砧もの」で、箏の二重奏の曲として知られる。
* [[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]
** 5ナンバーは、小型[[乗用車]](全長 4.7 m未満、全幅 1.7 m未満、全高 2.0 m未満、ガソリン車の場合排気量 2000 cc 以下のすべての条件を満たす自動車)を指す。
** 「・・・5」は抽選対象番号だったが [[2001年]][[1月4日]]に抽選番号から外された。
* テレビのチャンネル番号
** [[テレビ朝日]]([[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]])フルネット系列([[朝日放送テレビ]]、[[九州朝日放送]]、[[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]、[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]を除く)20局、[[日本ニュースネットワーク|NNN]]系列の[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]、[[福岡放送]]、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系列の[[CBCテレビ]]、[[全国独立放送協議会|独立局]]の[[京都放送|KBS京都]]、[[テレビ和歌山]]の[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル]][[リモコンキーID|リモコンID番号]]。
** [[ビーエス朝日|BS朝日]]の[[BSデジタル]]リモコンID番号。
** [[NHK岡山放送局|NHK岡山]][[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]、[[NHK青森放送局|NHK青森]]、[[NHK仙台放送局|NHK仙台]]、[[NHK鹿児島放送局|NHK鹿児島]][[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]、NNN系列の札幌テレビ、[[山梨放送]]、JNN系列のCBCテレビ、[[新潟放送]]、[[長崎放送]]、[[大分放送]]のアナログ親局チャンネル。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「05」は[[秋田県]]。
* 元[[F1ドライバーの一覧|F1ドライバー]]、[[ナイジェル・マンセル]]のウィリアムズ時代のカーナンバー。その後は[[セバスチャン・ベッテル]]が固定カーナンバーとして[[2022年]]のF1引退まで使用していた。
=== 5の付く言葉 ===
* 5 は、2 種類の対立(2者×2種類=[[4]])にも属しない点で、[[3]] と同様に「中立」を意味する事がある。例えば、東西南北に中(中央)を加えて「'''[[方位|五方]]'''」と呼ぶ。
* 五は十の半分であることから、日本語では、2 者の人や物事の力関係が拮抗する時「五[[分 (数)|分]]五分」と表現する。
* 五本の輪の紋章に因んで、[[日本]]では、[[近代オリンピック|オリンピック]]を「[[五輪]]」とも略する。ただし、日本独自の概念であり、他の漢字圏国も含め世界では意味が通らない。
* 企業の職場環境維持改善において唱えられる[[5S]]
* [[摂家|五摂家]]:[[藤原氏|藤原]]北家の流れを汲む、江戸時代には[[摂政]]・[[関白]]になることができた[[公家]]最高の家柄を持つ[[近衛家]]・[[鷹司家]]・[[九条家]]・[[二条家]]・[[一条家]]の五家を指す。
** 転じて、有力な五大勢力を指す。具体的には、名古屋五摂家([[中部電力]]・[[東海銀行]]・[[東邦瓦斯]]・[[名古屋鉄道]]・[[松坂屋]])など(ただし、東海銀行は2回の合併を経て現在は[[三菱UFJ銀行]]となっているため現在は四摂家の表現が適切)。
* [[五線譜]]:[[楽譜]]のことを指す。[[ト音記号]]の範囲では、ミ (E) の音から[[オクターブ]]上のファ (F) の音までが収まる。五線で11音をカバーできるが、必要な時は上線・下線(五線に近いところから順に上第一線、上第二線、下第一線、下第二線)を加線していく。
*[[五音音階]]:音楽用語。ペンタトニックスケール。
*[[五目飯]]は[[炊き込みご飯]]の一種。
* [[五目並べ]]
* [[五重塔]]
* 五分五分とは[[英語]]における'''“フィフティー・フィフティー”'''のこと。
* 五星紅旗 - [[中華人民共和国の国旗]]。
* [[五香粉]]
=== 固有名詞 ===<!-- 可能なものは[[5 (曖昧さ回避)]]への転記を -->
{{Main2|単に「5」名義のもの|5 (曖昧さ回避)}}
[[5人組]]によるもの
* 音楽グループ
** [[ジャクソン5]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の音楽グループ。[[マイケル・ジャクソン]]ら兄弟5人組。
** [[フィンガー5]] - 琉球出身の兄弟姉妹5人で結成された音楽グループ。
** [[Dream5]] - 『[[天才てれびくん|天才てれびくんMAX]]』で結成された音楽グループ。
** [[ペンタトニックス]] - [[アメリカ合衆国]]のアカペラグループ。[[五音音階]]([[Pentatonic scale]])が由来。
* フィクション
** 『[[スーパー戦隊シリーズ]]』のうち、名前に'''5'''(ご・ファイブ)がつくもの。
*** [[秘密戦隊ゴレンジャー]]
*** [[大戦隊ゴーグルファイブ]]
*** [[地球戦隊ファイブマン]]
*** [[救急戦隊ゴーゴーファイブ]]
** [[ハイスクール!奇面組#挿入歌|奇面組ファイブ]] - 『[[ハイスクール!奇面組]]』の登場キャラクターである「[[ハイスクール!奇面組の登場人物一覧#メインキャラクター|奇面組]]」の、ユニット([[声優ユニット]])としての名義。
音楽グループ(上記を除く)
* [[ピチカート・ファイヴ]] - [[日本]]の音楽グループ。
音楽作品
* [[/05]] - [[坂本龍一]]のアルバム。
テレビ番組
* [[FiVE]](ファイブ) - [[1997年]]に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で放送された[[テレビドラマ]]。
* [[クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?]] - 日本テレビ系で放送されている[[クイズ番組]]。
[[乗用車]]
* [[ルノー・5]](サンク) - [[ルノー]]がかつて製造していた小型乗用車。
* [[BMW・5シリーズ]]
その他
* [[Intel Pentium (1993年)]] - "ギリシア語で「5」を意味するPentaとラテン語で「要素」を意味するiumをつなげてPentiumと作った言葉。
== 5個1組の概念 ==
* [[五大元素]] - 5種類の[[元素]]。
** '''[[五大]]''' - [[仏教]]で、[[地]]・[[水]]・[[火]]・[[風]]・[[虚空|空]]。
** '''[[五行思想|五行]]''' - [[道教]]で、[[木]]・[[火]]・[[土壌|土]]・[[金属|金]]・[[水]]。
*** '''[[五色]]''' - 上記の五行に相当する色で、[[青]]・[[赤]]・[[黄色|黄]]・[[白]]・[[黒]]。
* '''[[五臓]]''' - [[肝臓|肝]]・[[心臓|心]]・[[脾臓|脾]]・[[肺]]・[[腎臓|腎]]。(→[[五臓六腑]])
* '''[[五腑]]''' - 胆([[胆嚢]]と[[肝臓]])・[[小腸]]・[[胃]]・[[大腸]]・[[膀胱]]。
* '''[[五感]]''' - [[視覚]]・[[聴覚]]・[[嗅覚]]・[[味覚]]・[[触覚]]。5種類の[[感覚]]。
* '''[[五穀]]''' - [[イネ|稲]]・[[ムギ|麦]]・[[粟]]・[[黍]]・[[豆]]。
* '''[[五方]]''' - [[東]]・[[西]]・[[南]]・[[北]]・[[中央|中]]。若しくは[[左]]・[[右]]・[[前]]・[[後]]・中。
* '''五体''' - [[頭]]・[[首]]・[[胸]]・[[手]]・[[足]]。若しくは両手・両足・頭。
** 漢方では筋・血脈・肌肉・骨・皮。
** 書道では、五つの書体。篆・隷・真・行・草。若しくは古文・大篆・小篆・八分・隷書。
* '''[[五刑]]''' - [[笞罪|笞]]・[[杖罪|杖]]・[[徒罪|徒]]・[[流罪|流]]・[[死罪 (律令法)|死]]。
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]'''[[五大湖]]''' - [[スペリオル湖]]・[[ヒューロン湖]]・[[ミシガン湖]]・[[エリー湖]]・[[オンタリオ湖]]。
* '''[[五大陸]]''' - [[ヨーロッパ]]・[[アジア]]・[[アフリカ]]・[[オセアニア]]・[[アメリカ州|アメリカ]]。
* '''[[五大洋]]''' - [[太平洋]]・[[大西洋]]・[[北極海|北極洋]]・[[インド洋]]・[[南極洋]]。
* '''[[五街道]]''' - [[東海道]]・[[甲州街道]]・[[中山道]]・[[日光街道]]・[[奥州街道]]。
* '''[[富士五湖]]''' - [[河口湖]]・[[山中湖]]・[[西湖 (富士五湖)|西湖]]・[[本栖湖]]・[[精進湖]]。
* '''[[三方五湖]]''' - 三方湖・水月湖・菅湖・久々子湖・日向湖。
* '''[[肥後五鶏]]''' - [[肥後チャボ]]、[[久連子鶏]]、[[熊本種]]、[[地すり]]、[[天草大王]]。
* '''五大紙''' - [[日本経済新聞]]、[[毎日新聞]]、[[読売新聞]]、[[朝日新聞]]、[[産経新聞]]。(→[[全国紙]])
* 日本の[[オートバイ]]'''五大メーカー''' - [[川崎重工業|カワサキ]]・[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]・[[本田技研工業|ホンダ]]・[[スズキ (企業)|スズキ]]・[[フキ・プランニング|フキ]]。
* 日本の[[ビール]]'''五大メーカー''' - [[麒麟麦酒|キリン]]・[[アサヒビール|アサヒ]]・[[サッポロビール|サッポロ]]・[[サントリー]]・[[オリオンビール|オリオン]]。
* [[炎症]]の'''5大徴候''' - 発赤、熱感、腫張、[[疼痛]]、機能障害。
* '''[[五行 (イスラム教)|五行]]''' - [[イスラム教]]で、[[シャハーダ|信仰告白(シャハーダ)]]・[[サラート|礼拝(サラー)]]・[[ザカート|喜捨(ザカート)]]・[[断食|断食(サウム)]]・[[ハッジ|巡礼(ハッジ)]]
== 符号位置 ==
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==他の表現法==
{{Number other reps
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|Braille=⠑
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== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|5|五|いつつ}}
{{Wiktionarypar|five|v|Ⅴ|ⅴ}}
*[[:Category:数]](数の一覧)
**[[0]] [[1]] [[2]] [[3]] [[4]] '''5''' [[6]] [[7]] [[8]] [[9]]
**[[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]] ... [[1000]] ... [[10000]]
**[[−5]]
**[[1/5|{{sfrac|1|5}}]]
**[[5の平方根|√{{overline|5}}]]
*西暦[[5年]] [[紀元前5年]] [[2005年]] [[1905年]] [[5世紀]] [[1993年|平成5年]] [[1930年|昭和5年]] [[1916年|大正5年]] [[明治5年]] [[5月]]
*[[名数一覧]]
*[[5号線]] [[地下鉄5号線]] [[環状5号線]](曖昧さ回避)
*[[第5王朝 (曖昧さ回避)]]
{{自然数}}
{{Normdaten}}
[[Category:数字]]
[[Category:数学に関する記事|/5]]
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2003-07-11T15:40:51Z
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2023-11-16T05:48:57Z
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11,224 |
4
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4(四、肆、よん、し、す、よつ、よ)は、自然数また整数において、3の次で5の前の数である。
漢字の「四」は音読みが「し」、訓読みが「よ(よつ)」であるが、近年では「よん」という読みも用いられる。これは「七(しち)」との聞き違いを防ぐためや、「死」と音韻が通じるため(四の字)と考えられる。
英語では、基数詞でfour、序数詞では 4th/fourth となる。
ラテン語では quattuor (クアットゥオル)。
基本的には「肆」と記すが、「亖」と表記する場合もある(「肆」と「亖」と四の意味は似ているが由来が異なる)。
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4(四、肆、よん、し、す、よつ、よ)は、自然数また整数において、3の次で5の前の数である。 漢字の「四」は音読みが「し」、訓読みが「よ(よつ)」であるが、近年では「よん」という読みも用いられる。これは「七(しち)」との聞き違いを防ぐためや、「死」と音韻が通じるため(四の字)と考えられる。 英語では、基数詞でfour、序数詞では 4th/fourth となる。 ラテン語では quattuor (クアットゥオル)。
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{{Otheruses||『4』を称する作品名|4 (曖昧さ回避)}}
{{整数|Decomposition=2<sup>2</sup>}}
[[ファイル:四-order.gif|thumb|100px|「四」の筆順]]
'''4'''('''四'''、'''肆'''、よん、し、す、よつ、よ)は、[[自然数]]また[[整数]]において、[[3]]の次で[[5]]の前の数である。
[[漢字]]の「四」は音読みが「し」、訓読みが「よ(よつ)」であるが、近年では「よん」という読みも用いられる。これは「七(しち)」との聞き違いを防ぐためや、「死」と音韻が通じるため([[四の字]])と考えられる。
英語では、[[基数詞]]でfour、[[序数詞]]では 4[[th]]/[[フォース (曖昧さ回避)|''fourth'']] となる。
[[ラテン語]]では quattuor (クアットゥオル)。
== 性質 ==
*4 は最小の[[合成数]]で、正の[[約数]]は[[1]], [[2]], 4である。
**[[約数の和]]は[[7]]。
***約数の和が[[奇数]]になる3番目の数である。1つ前は[[2]]、次は[[8]]。
***約数の和が[[素数]]になる2番目の数である。1つ前は[[2]]、次は[[9]]。
**約数の和と元の数との積が[[完全数]]になる2番目の数である。1つ前は2、次は[[16]]。({{OEIS|A019279}})
**約数を3個もつ最小の数である。
***3番目の[[高度合成数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[6]]。
****高度合成数のうち[[不足数]]であるのは2と4のみである。
*最小の[[半素数]]である。次は[[6]]。
**4の倍数中唯一の半素数である。
**半素数が[[ハーシャッド数]]になる最小の数である。次は[[6]]。
*[[偶数]]のうち、4で割り切れる数を[[複偶数]]という。これに対して、[[2]]で割り切れるが4で割り切れない数は[[単偶数]]という。
*下2桁が 00、04、08、12、16、20、24、28、32、36、40、44、48、52、56、60、64、68、72、76、80、84、88、92、96 の数は全て4で割り切れるから[[複偶数]]である。
*{{sfrac|1|4}} = 0.25
** 2{{sup|''n''}} の逆数は、小数点以下 ''n'' 桁の有限小数になる。
**[[逆数]]が[[有限小数]]になる2番目の数である。1つ前は[[2]]、次は[[5]]。({{OEIS|A003592}})
***例えば自然数の逆数が小数第二位の[[有限小数]]になる数は、{{sfrac|1|20}} = 0.05, {{sfrac|1|25}} = 0.04, {{sfrac|1|50}} = 0.02, {{sfrac|1|100}} = 0.01 のみである。
*4! = [[24]]
**4[[階乗|!]] − 1 = [[23]]
***''n''! − 1 の形で[[階乗素数]]を生む2番目の数である。1つ前は[[3]]、次は[[6]]。
**4! + 1 = 25 = 5<sup>2</sup>
*** ''n''! + 1 の形式において、''n'' が 4 のとき初めて合成数となる。
*4{{sup|2}} + 1 = [[17]] であり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で素数を生む3番目の数である。1つ前は[[2]]、次は[[6]]。
**これは、 2{{sup|2{{sup|2}}}} + 1 と表せる[[フェルマー素数]]である。
*4{{sup|4}} + 1 = [[257]] であり、''n''{{sup|4}} + 1 の形で素数を生む3番目の数である。1つ前は[[2]]、次は[[6]]。
**これは、 2{{sup|2{{sup|3}}}} + 1 と表せる[[フェルマー素数]]である。
*4 = 2 + 2
**2個の[[素数]]の和で表せる最小の数である。次は[[5]]。
***4以上の偶数は2個の素数の和で表せるという予想([[ゴールドバッハの予想]])がある。
*3番目の[[高度トーシェント数]]である。1つ前は [[2]]、次は[[8]]。
*4つの点と辺を持つ[[平面]][[図形]]を[[四角形]]または方形 (quadrangle、quadrilateral) といい、特に正四角形は[[正方形]]と称される。[[周角]] ([[360]][[度 (角度)|°]]) を4で割ると[[直角]] ([[90]]°) になることから、4は平面・二次元空間における基数となり{{要検証|date=2021年7月}}(例:[[四方]])、四角形は最も基本的な平面図形として多用される。また、二次元空間における八方、[[時計]]や時間や数量の[[12]]分割とその累乗([[十二進法]])、[[言語]]や数量の[[20]]個区切りとその累乗([[二十進法]])も、例外なく4で割り切れる性質を基にしている{{要出典|date=2018年11月}}。
*4個の面を持つ[[正多面体]]を[[正四面体]]といい、最小の面からできる正多面体である。次の正多面体は、面の数が6つの[[立方体]]([[正六面体]])である。
**正四面体は4つの頂点を持つ。
*4 = 1 + 3
**2番目の[[三角錐数]]である。1つ前は [[1]]、次は [[10]]。
*[[位数 (群論)|位数]]が4の[[群 (数学)|群]]のうちには[[クラインの四元群]]と呼ばれる[[巡回群]]でない最小の群が含まれる。4はまた、[[単純群|単純]]でない群の位数のうち、最小のものでもある。
*全ての自然数は高々4つの[[平方数]]の和で表すことができる([[ウェアリングの問題]]、[[平方数|ラグランジュの定理]])。
*[[四色定理]]:いかなる平面または球面上の地図も、隣接する領域が異なる色になるように塗るには4色あれば充分である。
*4 = 2{{sup|2}}
**2番目の[[平方数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[9]]。
**[[2の累乗数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[8]]。
**''n''{{sup|''n''}} で表される2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[27]]。
*** ''n'' = 2 のときの ''n''↑↑''n'' の値とみたとき1つ前は[[1]]、次は7625597484987。(ただし↑は[[クヌースの矢印表記]])({{OEIS|A004231}})
*** ''n'' = 2 のときの 2↑↑''n'' の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[16]]。(ただし↑は[[クヌースの矢印表記]])({{OEIS|A014221}})
** ''n'' = 2 のときの (''n''!){{sup|''n''!}} の値とみたとき1つ前は[[1]]、次は46656。({{OEIS|A046882}})
**平方数が[[ハーシャッド数]]になる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[9]]。
**4 = 2 × 2 より最小の[[スミス数]]である。次は[[22]]。
*[[4の累乗数]]の一の位は、奇数乗は4、偶数乗は6である。
*3番目の[[リュカ数]]である。1つ前は[[3]]、次は[[7]]。
*4番目の[[トリボナッチ数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[7]]。
*4番目の[[テトラナッチ数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[8]]。
*4番目の素数7は4の約数の和である。
*4 を含む[[ピタゴラスの定理|ピタゴラス数]]
**3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} = [[5]]{{sup|2}}
**ピタゴラス数である3数のうち少なくとも1つは4の倍数である。
*[[九九]]では 1 の段で 1 × 4 = 4(いんしがし)、2 の段で 2 × 2 = 4(ににんがし)、4 の段で 4 × 1 = 4(しいちがし)と3通りで表される。九九で3通りで表される整数のうち最小の数である。他にそのような数は9, [[16]], [[36]]のみ。
*4 = 1{{sup|0}} + 1{{sup|1}} + 1{{sup|2}} + 1{{sup|3}}。この形の数の次は[[15]]。
* [[各位の和]]が4となる[[ハーシャッド数]]は[[100]]までに2個、[[1000]]までに5個、[[10000]]までに12個ある。
*4番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[3]]、次は[[5]]。
**4を基とする最小のハーシャッド数である。次は[[40]]。
*各位の和([[数字和]])が4になる最小の数である。次は[[13]]。
*各位の[[平方和]]が16になる最小の数である。次は[[40]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の15は1123、次の17は[[14]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が64になる最小の数である。次は[[40]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の63は1233、次の65は[[14]]。({{OEIS|A165370}})
*各位の積が4になる最小の数である。次は[[14]]。({{OEIS|A199987}})
* 約数の和が4になる数は1個ある。([[3]]) 約数の和1個で表せる3番目の数である。1つ前は3、次は6。
* 4 = 2<sup>3</sup> − 2<sup>2</sup> 、1つ前は[[0]]、次は[[18]]。({{OEIS|A045991}})
* 連続してある数に対して[[約数の和]]を求めていった場合2個の数が4になる。4より小さい数で2個ある数はない。1つ前は[[1]] (1個)、次は[[7]] (3個)。いいかえると <math>\sigma^m(n)=4~(m\geqq 1)</math> を満たす ''n'' が2個あるということである。(ただし ''σ'' は[[約数関数]])(参照{{OEIS|A241954}})
* 1 から 4 までの約数の個数を加えると[[8]]個になり8の2倍になる。1 から ''n'' までの約数の個数が ''n'' の整数倍になる2番目の数である。1つ前は[[1]] (1倍)、次は[[5]] (2倍)。({{OEIS|A050226}}参照)
* 4番目の[[三角数]]は10で初めて2桁の数になる。いいかえると1から[[自然数]]を加えていくと4で初めて2桁になる。1つ前は[[1]]、次は[[14]]。({{OEIS|A068092}})
* [[1]] から [[2]] までの[[約数]]の和である。1つ前は[[1]]、次は[[8]]。
* 以下のような[[多重根号#無限多重根号|無限多重根号]]の式で表せる。
*: <math>4 = \sqrt{12+\sqrt{12+\sqrt{12+\sqrt{12+\cdots}}}}</math> , <math> 4 = \sqrt{20-\sqrt{20-\sqrt{20-\sqrt{20-\cdots}}}}</math>
* 4 = <sup>2</sup>2([[テトレーション]]) = <math>\lim_{x\to\infty}2\uparrow^x2</math>(↑は[[クヌースの矢印表記]])
<!--
=== 他の進数での性質 ===
*{{sfrac|1|4}} = 0.25
** 底が[[単偶数]]の[[位取り記数法]]では、[[1/4]]の商が小数第二位で終わり、自然数の[[逆数]]が小数第二位の[[有限小数]]になる数には、100(n{{sup|2}})以外に、20と表記される「(n÷2)×4」が現れる。
***[[六進法]]では、自然数の逆数が小数第二位の有限小数になる数が、{{sfrac|1|4}} = 0.13(十進数換算で[[9]]/[[36]])、{{sfrac|1|13}} = 0.04(十進数換算で[[1/9]] = 4/36), {{sfrac|1|20}} = 0.03(十進数換算で[[1/12]] = 3/36), {{sfrac|1|30}} = 0.02(十進数換算で1/[[18]] = 2/36), {{sfrac|1|100}} = 0.01(十進数換算で1/[[36]])の計五種類となる。従って、1/4(= 2<sup>-2</sup>)と 1/9(= 1/13<sub>(6)</sub> = 3<sup>-2</sup>)は両方とも小数点以下二桁になる。
***[[十八進法]]では、{{sfrac|1|4}} = 0.49(十進数換算で[[81]]/[[324]])となる。自然数の逆数が小数第二位の有限小数になる数も、{{sfrac|1|4}} = 0.49(十進数換算で81/324)、{{sfrac|1|C}} = 0.19(十進数換算で[[1/12]] = [[27]]/324), {{sfrac|1|19}} = 0.0C(十進数換算で1/27 = 12/324), {{sfrac|1|20}} = 0.09(十進数換算で1/[[36]] = 9/324), {{sfrac|1|30}} = 0.06(十進数換算で1/[[54]] = 6/324), {{sfrac|1|49}} = 0.04(十進数換算で1/[[81]] = 4/324), {{sfrac|1|60}} = 0.03(十進数換算で1/[[108]] = 3/324), {{sfrac|1|90}} = 0.02(十進数換算で1/[[162]] = 2/324), {{sfrac|1|100}} = 0.01(十進数換算で1/[[324]])の計九種類となる。
**[[奇数]]進法では、1/4 は割り切れない。1/4 は、[[三進法]]では 0.<u>02</u>02…、[[九進法]]では 0.<u>2</u>222…、[[十五進法]]では 0.<u>3B</u>3B…となる(下線部は循環節)。
-->
== その他 4 に関すること ==
{{See also|4 (曖昧さ回避)}}
* [[デオキシリボ核酸|DNA]] は 4 種類の塩基分子([[チミン]]、[[グアニン]]、[[アデニン]]、[[シトシン]])の配列によって遺伝情報を保存、伝達している。
* [[素粒子]]には 4 種類の[[相互作用]]があり、[[強い相互作用]]・[[電磁相互作用]]・[[弱い相互作用]]・[[重力相互作用]]がある。
* [[西洋]]では、正方形と[[四大元素]]のイメージから、「地上世界」、「権威」、「王国」、「帝王」を象徴すると考えられる。
* [[漢字文化圏]]では'''し'''(死)と同音または類音となるので忌み嫌われる傾向があり、マンションやホテルなどでは欠番となっていることがある。<!--9に次いで忌み嫌われるという記述がありましたが、「九」は「久」に通ずるので逆に縁起が良いとされています。-->
** [[四の字|四忌避]](死を避ける)ため、[[病院]]では、4階に[[集中治療室]]、[[新生児特定集中治療室]]、[[手術室]]を配置していないことが多い。
** [[大韓民国|韓国]]では、音の響きとは別に、[[麗水・順天事件]]で反乱を起こした部隊が第四および第十四[[連隊]]であったため、4の数字が不吉とされ、以後、[[大韓民国国軍|韓国軍]]で4のつく部隊番号は欠番とされた。
* 主要[[大学]]は4年制。
* 4年に1回行われる主な行事
**[[ユリウス暦]]の[[閏年]]
** オリンピック
*** [[古代オリンピック]](オリュンピア大祭)
*** [[近代オリンピック]]
**** [[夏季オリンピック]](オリンピック競技大会)
**** [[冬季オリンピック]](オリンピック冬季競技大会)
** [[FIFAワールドカップ|ワールドカップサッカー]]
** [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[大統領]][[選挙]]
** [[日本]]の都道府県[[知事]]選挙、[[市町村長]]選挙
* [[野球]]での4
** [[ボール (野球)|ボール]]が4つで[[四球]]となり、打者は一塁へ進塁できる。但し[[故意四球]]は、連盟によっては申告制となっており、ボールと判定される投球を4回行う必要はない。{{main|[[故意四球#投球による故意四球]]}}
** [[野球場#内野|内野]]に 4 つの塁があり、[[走者]]が[[アウト (野球)|アウト]]にならずに(左[[打席]]から[[反時計回り]]で) 4 番目の塁([[野球場#本塁|本塁]])に触れると得点となる。
** [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]、[[ワールドシリーズ]]などでは、 4 勝すれば王者となる。
* 大半の[[哺乳動物]]は、4 本の足を持つ([[四足類]])。また、大半の机も、均衡を保つために足が 4 本であることが多い。
*[[シャジクソウ属|クローバー]]には稀に葉が 4 枚付いているものがある。この[[四つ葉のクローバー|四葉のクローバー]]は、[[西洋]]においては見つけると幸福になれると言われている。日本においては[[グリーン車]]のマークや、4 人組グループ「[[ももいろクローバーZ]]」のロゴマークなどに使われている。台湾でも四葉のクローバーは「幸運草」と呼ばれることがある(「ももいろクローバーZ」は「桃色幸運草Z」と呼ばれる)。
* [[テンパズル]]:4 つの 1 桁の数と[[四則演算]]を使い 10 を作る遊び。
* [[麻雀]]における[[麻雀のルール|基本ルール]]では、4 つの[[面子 (麻雀)|面子]]([[面子 (麻雀)#刻子|刻子]]、[[面子 (麻雀)#順子|順子]]、[[面子 (麻雀)#槓子|槓子]])と 1 つの[[雀頭]]で[[麻雀の役一覧|役]]を作ることになっている([[国士無双 (麻雀)|国士無双]]、[[十三不塔]]、[[七対子]]など少数の例外もある)。以下の麻雀の役は名称の中に「四」が含まれている。
** [[四喜和]](大四喜、小四喜)
** [[四暗刻]]
** [[四槓子]]
** [[四連刻]]
** [[一色四順]]
* 4 には様々な書き方がある。[[ヨット]]のように斜線部と縦棒が繋がっている書体や斜線部と縦棒を離して書く書き方、アルファベットの「L」と「I」を組み合わせたような書体がある。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「04」は[[宮城県]]。
=== 言語・表記 ===
*[[花札]]を用いて行われる[[ゲーム]]の1つ[[おいちょかぶ]]では 4 を「ヨツヤ」と呼ぶ。
*[[英語]]で[[前置詞]] {{lang|en|for}} の代わりに用いられることがある。4 を表す英語 four は for と発音が同じため。たとえば for you (あなたへ)は 4U と記される場合がある。
*[[ブルガリア語]]の[[チャット]]で「[[ч]](4をあらわす{{lang|bg|четири}}の頭文字から。また、字形の類似から。)」の代わりに用いる。
*4 の接頭辞:quadr-, quart-([[ラテン語|拉]])、tetra([[ギリシャ語|希]])。ラテン語の基数詞で 4 は quattuor である。
**英語や日本語で、4 [[倍]]や 4 重を'''カドラプル'''または'''クワドゥループル'''(quadruple)、[[1/4]] を'''[[クォーター]]''' (quarter) という。1/4 ドルである[[25セント硬貨 (アメリカ合衆国)]]も'''クォーター'''と呼ばれる。
**1'''[[クォート]]''' (quart) は1'''[[ガロン]]'''の 1/4 である。
**英語では、円(または円に見立てた区域など)を4分割した各部分、つまり[[扇形]] ([[:en:Circular sector|circular sector]]) を'''クォドラント''' ([[:en:Quadrant|quadrant]]) と呼ぶことがある。例えば、[[スタートレック]]シリーズでは銀河を円に見立て、4分割した各区域を'''[[宇宙域]]''' ([[:en:Galactic quadrant (Star Trek)|Galactic quadrant]]) と呼ぶ。
**[[四人組]]や四重奏を'''カルテット''' (quartet) という。
**ギリシャ語由来では、四人組や四個一組を'''テトラド'''(tetrad)という。同系語として、モナド(monad, 単体、ソロ)、エニアド(ennead, 九個一組、ノネット)、ディケイド(decad, 十個一組)など。
**[[クアドリガ]]と呼ばれる[[チャリオット]]は、[[ラテン語]]のquadri-(4つの)と jungere(くびき)を組み合わせた語。
*[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]に登場する[[シャア・アズナブル]]の別名[[クワトロ]]([[イタリア語]]:'''quattro''')は同キャラクターの4番目の名前である。
=== 4の付く言葉 ===
* [[三次元]](空間)に[[時間]]を加えて[[四次元]]([[時空]])という。
* 4 は「2 種類の対立」、「半分の半分にできる」などの意味を伴うことが多い。例:「[[十字路|四辻]]」「[[四季]]」「四半期」「[[第四世界]]」
* 4 は正方形や死を連想させることから、「堅物でつまらない」の意味を伴うこともある。「四角四面」や「四角張る」など。
* [[足4の字固め]]:[[プロレス]]の技の一種。相手の両足を締め上げ、アラビア数字の「4」のような形にする。自分の両足を4の字形にして相手の首を締める「首4の字固め」もある。
* [[Four fours]]:4 つの 4 と数学記号を使って、色々な数を表す[[数学パズル]]。
* [[4コマ漫画]]
* [[四字熟語]]
=== 第4のもの ===
* [[原子番号]] 4 の[[元素]]は[[ベリリウム]] (Be) である。
* [[太陽系]]第 4 [[惑星]]は[[火星]]である。
* [[タロット]]の[[大アルカナ]]で IV は[[皇帝 (タロット)|皇帝]]。
* [[易占]]の[[六十四卦]]で第 4 番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#蒙|山水蒙]]。
* [[年始]]から数えて4日目は[[1月4日]]。
* [[大相撲]]の第 4 代[[横綱]]は[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]である。
* [[第四世界]]:後発[[開発途上国|発展途上国]]の通称。
*第4代天皇は[[懿徳天皇]]であるといわれている。
*4番目の元号は大宝である。
* 第4代[[殷]]王は[[太甲]]である。
* 第4代[[周]]王は[[昭王 (周)|昭王]]である。
* 第4代[[教皇|ローマ教皇]]は[[クレメンス1世 (ローマ教皇)|クレメンス1世]](在位:[[91年]]?~[[101年]]?)である。
=== 番号 ===
* [[野球]]での 4
** [[日本プロ野球]]・[[読売ジャイアンツ]]に所属し現役中に急逝した[[黒沢俊夫]][[外野手]]の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]である。
** [[メジャーリーグベースボール]]・[[ニューヨーク・ヤンキース]]に所属していた[[ルー・ゲーリッグ]][[内野手]]の永久欠番でMLB史上初の永久欠番でもある。
** [[二塁手]]を意味する[[守備番号]]である。
** 四番打者は長打力のある最も優れた選手が務め、その前後も強打者で挟んで([[クリーンナップ]])、打線の軸となることが多い。
* 元[[NFL]]選手、[[ブレット・ファーヴ]]の番号。NFLでNo.4と言えばたいてい彼を指す。
* 分類番号 3 桁の自動車登録番号標(登録車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]])の一般払出で、各平仮名の最初の番号は "・・・4" である(ただし軽自動車とレンタカーと駐留軍車は除く)。
* [[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]に所属する大半のテレビ局は、[[地上デジタルテレビ放送]]の[[リモコンキーID]]に '''4''' を使用([[札幌テレビ放送]]、[[青森放送]]、[[北日本放送]]、[[福井放送]]、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、[[日本海テレビジョン放送]]、[[四国放送]]、[[福岡放送]]、[[テレビ宮崎]]は異なる)。他系列局では[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]の[[毎日放送]]と[[RKB毎日放送]]と[[フジテレビ系列]]の[[テレビ大分]](日本テレビ系列とのクロスネット)が 4 を使用している。
** アナログ放送では、以下の親局および中継局が 4 チャンネルを使用している。
*** 日本テレビ系列 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]](親局)、福井放送([[久須夜ヶ岳|小浜中継局]])、[[山口放送]]([[火の山 (山口県)|関門中継局]])、[[南海放送]]([[八幡浜中継局]]および[[松野町|松野中継局]])
*** TBS系列 - 毎日放送、[[中国放送]]、RKB毎日放送(以上、親局)、[[東北放送]]([[長の森山|気仙沼中継局]])、[[熊本放送]]([[肥後小国中継局]])、[[琉球放送]]([[久米島中継局]])
* [[BS日本|BS日テレ]]のリモコン番号は '''4'''。
=== 固有名詞 ===
*[[第四銀行]]:[[新潟市]]に本店を置く[[地方銀行]]。[[国立銀行条例]]に基づいて4番目に設立された[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]だったことに因んで、この名称がある。
*[[4 (フォリナーのアルバム)|4]]:[[フォリナー]]が[[1981年]]に発表した通算 4 枚目のアルバム。1500 万枚以上を売り上げ[[ビルボード]]・アルバムチャートで 10 週連続 1 位を記録した。 ([[:en:4 (Foreigner album)]])
*4:[[Lead (音楽グループ)|Lead]]が[[2006年]]に発表した通算 4 枚目のアルバム。([[:en:4 (Lead album)]])
*4:[[ビヨンセ]]が[[2011年]]に発表した通算 4 枚目のアルバム。([[:en:4 (Beyoncé album)]])
*[[4 (ヒトリエのアルバム)|4]]:[[ヒトリエ]]が2020年に発表したベスト・アルバム。
*[[4 FOUR]]:[[2011年]]のイギリス映画。日本では2013年に公開。
*[[ファンタスティック・フォー]]:[[マーベル・コミック]]の[[スーパーヒーロー]]集団、及び同名タイトルのアメリカの特撮映画シリーズ。彼らは本来、4 人組であることから、集団名に 4 (four) が付けられている。
=== 4の付く地名 ===
* [[東京都]][[新宿区]][[四谷]]
* [[大阪府]][[四條畷市]]
* [[千葉県]][[四街道市]]
* [[三重県]][[四日市市]]
* [[高知県]][[四万十町]] - [[四万十川]]が流れる。
* [[高知県]][[四万十市]] - 上記の四万十町とは隣接するが別の自治体
* [[鹿児島県]][[鹿児島市]][[四元町]]
== 4個で1組の概念 ==
* [[四則]]:[[加法]]・[[減法]]・[[乗法]]・[[除法]]。
* [[四季]]:[[春]]・[[夏]]・[[秋]]・[[冬]]。
* [[四時]]:真夜中(0 時 = 24 時)・夜明け(6 時)・真昼(12 時)・日暮れ(18 時)。1 日を 4 分割したものの総称。
* [[方位|四方]]:[[東]]・[[西]]・[[南]]・[[北]]。もしくは[[左]]・[[右]]・[[前]]・[[後]]。
* [[四隅]]:[[北東]]・[[北西]]・[[南東]]・[[南西]]。
* [[色|四色]]: 現代では、[[赤]]・[[黄色|黄]]・[[緑]]・[[青]]。[[サーモグラフ]]はこれらの[[色]]で構成される。
* [[四肢]]:左手・右手・左足・右足。
* [[四国]]:
** [[日本]]国内では、[[阿波国]]・[[讃岐国]]・[[伊予国]]・[[土佐国]]。及びこれら 4 国からなる島。
** [[四国同盟]]:特に[[西洋]]史において、[[19世紀]]頭の[[ロシア]]・[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[オーストリア]]・[[イギリス]]の同盟。
* [[四苦]]:[[生]]・[[老年|老]]・[[病気|病]]・[[死]]。
* [[四生]]:[[胎生]]・[[卵生]]・湿生・化生。[[仏教|佛教]]において、[[生命]]の生まれる方法の総称。
* [[四神]]:[[玄武]]・[[朱雀]]・[[青竜]]・[[白虎]]。
*[[四凶]]:[[渾沌]]・[[饕餮]]・[[窮奇]]・[[檮杌]]。
* [[四声]]:平声・上声・去声・[[入声]]。古典[[中国語]]の 4 種類の[[声調]]。あるいは一声・二声・三声・四声、[[普通話]]の 4 種類の声調。
* [[四書]]:[[大学 (書物)|大学]]・[[中庸]]・[[論語]]・[[孟子 (書物)|孟子]]。[[儒教|儒学]]で尊ぶ 4 種類の書物。(→[[四書五経]])
* [[四科]]:[[算術]]・[[幾何学]]・[[天文学]]・[[音楽]]。[[中世]]の[[西ヨーロッパ|西欧]]の主要学問。また、[[四科]]を意味する quadrivium は、本来は「四叉路」や「十字路」を意味する。
* [[四叉路]]
* [[四権]]:[[立法]]・[[行政]]・[[司法]]・[[報道]]。4 者の[[権力]]の総称で、特に、報道を「第4権力」という。
* [[四君子]]:[[ラン科|蘭]]・[[キク|菊]]・[[ウメ|梅]]・[[竹]]。4 種類の[[植物]]を賢者に例えたもの。
* [[麻雀牌#風牌|四風牌]]:[[麻雀牌]]のうち字牌の「東」、「南」、「西」、「北」の 4 つの牌の総称。
* [[四大元素]]:[[地]]・[[水]]・[[火]]・[[風]]。
* [[四大奇書]]:[[水滸伝]]・[[西遊記]]・[[金瓶梅]]・[[三国志演義]]。
* [[スート]]:[[スペード (シンボル)|スペード]]・[[ハート (シンボル)|ハート]]・[[クラブ (シンボル)|クラブ]]・[[ダイヤ (シンボル)|ダイヤ]]。
* [[四人組]]([[カルテット]]、[[重奏|四重奏]])
** [[四人組 (中国史)]]:[[江青]]・[[張春橋]]・[[姚文元]]・[[王洪文]]。
** サッカー界の[[黄金のカルテット]]:[[ジーコ]]・[[ソクラテス (サッカー選手)|ソクラテス]]・[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]・[[トニーニョ・セレーゾ|トニーニョ=セレーゾ]]。
** [[ドンキーカルテット]]:[[小野ヤスシ]]・ジャイアント吉田・飯塚文男・猪熊虎五郎。
*[[ヨハネの黙示録の四騎士]]
* [[四天王]]:[[多聞天]]・[[増長天]]・[[持国天]]・[[広目天]]。俗に、ある分野で特に優れた四人組を指す。
** [[徳川四天王]]:[[酒井忠次]]・[[本多忠勝]]・[[榊原康政]]・[[井伊直政]]。
** [[和歌四天王]]:[[頓阿]]・[[慶運]]・[[浄辨]]・[[卜部兼好|兼好]]。人物は時代によって異なる。
** [[財界四天王]]:[[小林中]]・[[水野成夫]]・[[永野重雄]]・[[櫻田武]]
** [[プロレス四天王]]:[[三沢光晴]]・[[川田利明]]・[[小橋建太|小橋健太(建太)]]・[[田上明]]。
** [[ものまね四天王]]:[[コロッケ]]・[[清水アキラ]]・[[栗田貫一]]・[[ビジーフォー]]。
** [[アンダルシアユニット|ジャニーズ四天王]]:[[東山紀之]]・[[赤坂晃]]・[[堂本光一]]・[[今井翼]]。
** [[韓流]]四天王:[[ペ・ヨンジュン]]・[[イ・ビョンホン]]・[[チャン・ドンゴン]]・[[ウォンビン]]。
* ベルばら四強([[宝塚歌劇団]]・第一次ベルばらブーム時の主演スターの名称):[[安奈淳]]、[[榛名由梨]]、[[汀夏子]]、[[鳳蘭]]。
* [[四駿四狗]]:モンゴル帝国草創期の功臣。
** 四駿:[[ムカリ]]・[[ボオルチュ]]・[[チラウン]]・[[ボロクル]]。
** 四狗:[[ジェベ]]・[[ジェルメ]]・[[スブタイ]]・[[クビライ (バルラス部)|クビライ]]。
* [[四S]]:[[ホトトギス]]派の俳人[[水原秋櫻子]]、[[高野素十]]、[[阿波野青畝]]、[[山口誓子]]の四人。名前の頭文字がSであることから、昭和初期に[[山口青邨]]が彼ら若手の俳人をこの呼び名で総称した。
* 北方四島:[[北方地域|北方領土]]([[歯舞群島]]、[[色丹島]]、[[国後島]]、[[択捉島]])をこう呼ぶことがある。しかし、歯舞群島は文字通り群島であるため、北方領土は厳密には4島ではない。
* [[四箇格言]]:[[日蓮宗]]の宗祖・[[日蓮]]が他の[[仏教]]宗派を批判した言葉「[[四箇格言#真言亡国|真言亡国]]」「[[四箇格言#念仏無間|念仏無間]]」「[[四箇格言#禅天魔|禅天魔]]」「[[四箇格言#律国賊|律国賊]]」の総称。
* [[花より男子の登場人物#F4|F4]]:[[少女漫画]]『[[花より男子]]』に登場するグループ。「花の4人組(Flower four)」を意味する。メンバーは道明寺司、花沢類、西門総二郎、美作あきら。また、台湾版テレビドラマ『[[流星花園]]』でこの「F4」を演じた4人が、同名のユニットを結成している(「[[F4 (ユニット)]]」を参照)。
=== その他 ===
* [[世界四大一覧]]
* [[日本四大一覧]]
* [[中国四大一覧]]
== 四の異体字 ==
基本的には「'''肆'''」と記すが、「'''亖'''」と表記する場合もある(「肆」と「亖」と四の意味は似ているが[[由来]]が異なる)。
== 符号位置 ==
{{特殊文字}}
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!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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|}
==他の表現法==
{{Number other reps
|Number=Four
|NATO=Delta
|Morse=・・・・-
|Character=D4
|Braille=⠙
}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|4}}
{{Wiktionarypar|四}}
{{Wiktionarypar|し}}
{{Wiktionarypar|よん}}
{{Wiktionarypar|よっつ}}
{{Wiktionarypar|four}}
{{Wiktionarypar|Ⅳ}}
{{Wiktionarypar|ⅳ}}
* [[:Category:数]](数の一覧)
** [[0]] [[1]] [[2]] [[3]] '''4''' [[5]] [[6]] [[7]] [[8]] [[9]]
** [[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]] ... [[1000]] ... [[10000]]
** [[-4|−4]]
** [[1/4|{{sfrac|1|4}}]]
* [[四つ (日本語の表現)]]
* 西暦[[4年]] [[紀元前4年]] [[2004年]] [[1904年]] [[4世紀]] [[1992年|平成4年]] [[1929年|昭和4年]] [[1915年|大正4年]] [[明治4年]] [[4月]]
* [[名数一覧]]
* [[4号線]] [[地下鉄4号線]] [[環状4号線]] (曖昧さ回避)
* [[第4王朝 (曖昧さ回避)]]
* [[四の字]]
* [[忌み数]]
{{自然数}}
{{2^n}}
{{Normdaten}}
[[Category:数字]]
[[Category:数学に関する記事|/4]]
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2003-07-11T15:41:11Z
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2023-12-15T01:48:41Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/4
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11,225 |
3
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3(三、参、參、弎、さん、み、みっつ、みつ)は、自然数または整数において、2の次で4の前の数である。
英語では、基数詞でthree、序数詞では、3rd, third となる。ラテン語では tres(トレース)。
このように3つを組み合わせたり3/三が使われたりする表現・言葉や事物は多い。その理由を研究している国田圭作(嘉悦大学教授/博報堂行動デザイン研究所アドバイザー)は、3は、多い/長いと少ない/短いの両面性や曖昧さがあって扱いやすく、理由の説明や選択肢も3つ挙げると4~5以上に比べて人間の情報処理能力で受け止めやすいためと説明している。日本人にとって3は好ましい数字の一つとされ、3で何かをくくることが多い理由としていい加減さの象徴で大小や白黒どちらかと割りきらずに3つめの候補を出すことで懐の深さや柔らかさを好む国民性に合っているとする説、満ちてこれでいっぱいになるめでたい気持ちがある説、2つの候補では心の余裕がない傾向があるためでもある。
和食の世界では切れたり割れたりすることに繋がらないように奇数が好まれ、日本人の名字には三が一番多く使われるのは元々地名として「御」の字が使われていたのが神や天皇を意味する字だったことから憚って「三」に変化したとされる。
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3(三、参、參、弎、さん、み、みっつ、みつ)は、自然数または整数において、2の次で4の前の数である。 英語では、基数詞でthree、序数詞では、3rd, third となる。ラテン語では tres(トレース)。
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{{Otheruses|数字の3|タイトルが単に「3」である作品|3 (曖昧さ回避)}}
{{雑多な内容の箇条書き|date=2020年1月}}
{{整数|Decomposition=([[素数]])}}
[[ファイル:三-order.gif|thumb|100px|「三」の筆順]]
'''3'''('''三'''、'''参'''、'''參'''、'''弎'''、さん、み、みっつ、みつ)は、[[自然数]]または[[整数]]において、[[2]]の次で[[4]]の前の数である。
英語では、[[基数詞]]でthree、[[序数詞]]では、{{lang|en|3[[rd]], ''[[third]]''}} となる。[[ラテン語]]では {{lang|la|tres}}(トレース)。
== 数学での性質 ==
* 3 は2番目の[[素数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[5]]。
** 自然数において3は2番目の[[奇数]]である。1つ前は[[1]]、次は5。
**[[約数の和]]は[[4]]。
***約数の和が平方数になる2番目の数である。1つ前は1、次は[[22]]。
***約数の和が[[2の冪|2の累乗数]]になる2番目の数である。1つ前は1、次は[[7]]。
**約数を2個もつ2番目の数である。1つ前は2、次は[[5]]。
***約数を ''n'' 個もつ ''n'' 番目の数である。1つ前は1、次は[[25]]。({{OEIS|A073916}})
**[[ガウス素数]]であり、有理整数でもあるものの中では最小である。
**[[アイゼンシュタイン整数|アイゼンシュタイン整数環]]においては、{{Math|1=3 = -ω{{sup|2}}(1-ω){{sup|2}}}} と分解される。
* 3の倍数は、「三つに分けても整数である」性質を持つ。しかし、2の倍数が「[[偶数]]」に対して、3の倍数には決まった名称が無い。
*[[数字根]]が3、6、9のいずれかになる唯一の素数である。
*3 = 2{{sup|2}} − 1
**2番目の[[メルセンヌ数]]である。1つ前は1、次は7。
***最小の[[メルセンヌ素数]]である。次は7。
*''p'' = 3 のときの 2{{sup|''p''}} − 1 で表せる 7 は2番目のメルセンヌ素数である。
*最小の[[スーパー素数]]である。次は5。
*4番目の[[フィボナッチ数]]である。1つ前は2、次は5。
**2番目の[[フィボナッチ素数]]である。1つ前は2、次は5。
*2番目の[[リュカ数]]である。1つ前は1、次は4。
**最小の[[リュカ数#リュカ素数|リュカ素数]]である。次は7。
*3 = 1 + 2
**2番目の[[三角数]]である。1つ前は1、次は[[6]]。
***三角数では唯一の素数である。
** 3 = 0 + 1 + 2
***最小の3連続整数和で表せる数である。ただし負の数を含むとき1つ前は[[0]]、次は[[6]]。
** 最小の 8''n'' + 3 型の素数であり、この類の素数は ''x''{{sup|2}} + 2''y''{{sup|2}} と表せるが、3 = 1{{sup|2}} + 2 × 1{{sup|2}} である。次は [[11]]。
*** 3 = 1 × 2 + 1 より最小の[[プロス数]]である。次は5。
****最小の[[プロス数#プロス素数|プロス素数]]である。次は5。
**3 = 2{{sup|1}} + 1
***最小の[[フェルマー素数]]である。次は5。
****''n'' がフェルマー素数ならば正''n''角形を[[定規とコンパスによる作図|コンパスと定規だけで作図]]できる。3 はフェルマー素数なので[[正三角形]]もコンパスと定規だけで作図できる。''n'' が 2 の累乗数の場合や 2 の累乗数と複数個のフェルマー素数(互いに異なる)の積であっても成り立つ。
** 3 = 2{{sup|1}} × 3{{sup|0}} + 1
*** 2番目の[[ピアポント素数]]である。1つ前は2、次は5。{{OEIS|A005109}}
*最小の[[完全トーシェント数]]である。次は[[9]]。
* ''p'', ''p'' + 2 が共に素数となる最小の数。[[双子素数]]といい 5 との組 (3, 5) が該当する。次は (5, 7)。また (3, 5, 7) は唯一の[[三つ子素数]]。
*2番目の[[ソフィー・ジェルマン素数]]である。1つ前は2、次は5。
*{{sfrac|1|3}} = 0.{{underline|3}}333… (下線部は循環節で長さは1)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が1になる最小の数である。次は[[6]]。({{OEIS|A070021}})
**循環節が ''n'' になる最小の数である。次の2は[[11]]。({{OEIS|A003060}})
*3[[階乗|!]] − 1 = 5 となり、''n''! − 1 の形で[[階乗素数]]を生む最小の数である。次は4。
*3! + 1 = 7 となり、''n''! + 1 の形で[[階乗素数]]を生む3番目の数である。1つ前は2、次は[[11]]。
**現在知られている中で、''n''! ± 1 の形で共に素数を生む唯一の数である。
*[[十進法]]では、10 - 1 = [[9]] = 3{{sup|2}}なので、その各桁の[[数字和]]が 3 の[[倍数]]であれば、3の倍数になる([[数字根]]、[[九去法]])。
**例:[[195]]の各位の数字の和は 1 + 9 + 5 = [[15]]で 3 の倍数となるので、195は3で割り切れる。また各桁の数字を入れ替えても各位の数字の和は変わらないので[[159]], [[519]], 591, 915, 951 も全て3の倍数である。
*[[平面]][[図形]]は、3個の[[点 (数学)|点]]を以って初めて形成される。3つの頂点と辺を持つ平面図形を[[三角形]]という。正三角形においては、[[重心]]と頂点を結ぶ3本の線分の間隔([[角度#分類|中心角]])と、[[角度#分類|外角]]の大きさは[[120]][[度 (角度)|°]]となる。([[360]] ÷ 3 = 120)
**[[三角法]]は、[[直角三角形]]の各辺と角の大きさの関係を体系化したもので、それから[[三角関数]]が派生した。また、主に用いられる三角関数は sin, cos, tan の3種類である。
*整数の中で最も[[円周率]]に近い。
*[[3の平方根]]すなわち √{{overline|3}} = 1.7320508075… の覚え方
**「人並みにおごれやおなご(女子)」
*3 を含む[[ピタゴラスの定理|ピタゴラス数]]
**3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} = 5{{sup|2}}
*ピタゴラス数である3数のうち少なくとも1つは3の倍数である。
*[[九九]]では1の段で 1 × 3 = 3(いんさんがさん)、3の段で 3 × 1 = 3(さんいちがさん)と2通りの表し方がある。
* 3 = 1 + 1 + 1
** 3 = 1{{sup|0}} + 1{{sup|1}} + 1{{sup|2}}
*** ''a'' = 1 のときの ''a''{{sup|0}} + ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} の値とみたとき次は7。
*** ''a''{{sup|0}} + ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} で表せる最小のメルセンヌ素数である。次は7。
*** ''a''{{sup|0}} + ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} で表せる最小の三角数である。次は[[21]]。
*** ''a''{{sup|0}} + ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} で表せる最小の[[ハーシャッド数]]である。次は7。
** 3 = 1{{sup|2}} + 1{{sup|2}} + 1{{sup|2}}
*** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる最小の数である。次は[[6]]。({{OEIS|A025321}})
** 3 = 1{{sup|3}} + 1{{sup|3}} + 1{{sup|3}}
*** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる最小の数である。次は[[10]]。({{OEIS|A025395}})
*** 3つの正の数の立方数の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。次の2通りは[[251]]。({{OEIS|A025418}})
*各位の和が3になる[[ハーシャッド数]]は[[100]]までに4個、[[1000]]までに10個、[[10000]]までに20個ある。
**[[各位の和]]が3になる数は全て[[ハーシャッド数]]である。このような性質を持つ自然数は、[[十進法]]では1, 3, 9のみである。
*3番目のハーシャッド数である。1つ前は2、次は4。
**3を基とする最小のハーシャッド数である。次は[[12]]。
**各位の和が3になる数で素数になる唯一の数である。
*各位の[[平方和]]が9になる最小の数である。次は[[30]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の8は[[22]]、次の10は[[13]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が27になる最小の数である。次は[[30]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の26は11222、次の28は[[13]]。({{OEIS|A165370}})
*各位の積が3になる最小の数である。次は[[13]]。({{OEIS|A034050}})
**各位の積が3になる数で素数になる最小の数である。次は[[13]]。({{OEIS|A107689}})
*[[3の冪|3の累乗数]]は、十進法や[[二十進法]]においては、一の位が 3 → 9 → 7 → 1 → 3 で循環する。
* 3, 4, 5の三連続整数の三辺でできる三角形の面積が整数([[6]])となる最初の組である。次は13, [[14]], 15。
* 異なる[[平方数]]の和で表せない31個の数の中で2番目の数である。1つ前は2、次は6。
* [[約数]]の和が3になる数は1個ある。(2) 約数の和1個で表せる2番目の数である。1つ前は1、次は4。
**約数の和が奇数になる2番目の奇数である。1つ前は1、次は7。
* 3番目の[[三角数]]は6で1桁の最大数になる。いいかえると[[自然数]]を1から3まで加えていくと1桁最大数になる。次は[[13]]。({{OEIS|A095863}})
* 2番目の[[幸運数]]である。1つ前は1、次は7。
**唯一の幸運数かつソフィー・ジェルマン素数である。
**3番目の幸運数かつフィボナッチ数の要素である。1つ前は1、次は13。
***最小の幸運数かつフィボナッチ素数である。次は13。
**2番目の幸運数かつリュカ数である。1つ前は1、次は7。
***最小の幸運数かつリュカ素数である。次は7。
**最小の幸運数かつスーパー素数である。次は31。
**唯一の幸運数かつフェルマー素数である。
* [[フェルマーの最終定理]]において、{{Math|1=a{{sup|n}} + b{{sup|n}} {{=}} c{{sup|n}} (3 ≤ n)}}を満たす自然数はない。
*以下のような[[多重根号#無限多重根号|無限多重根号]]の式で表せる。
*: <math>3 = \sqrt{6+\sqrt{6+\sqrt{6+\sqrt{6+\cdots}}}}</math> , <math> 3 = \sqrt{12-\sqrt{12-\sqrt{12-\sqrt{12-\cdots}}}}</math>
*<math>3 = \sqrt{1+2\sqrt{1+3\sqrt{1+\cdots}}}</math>
**上記の式は[[シュリニヴァーサ・ラマヌジャン]]がインド数学会雑誌に投稿した式である<ref>『100人の数学者』数学セミナー編集部編 日本評論社発行 P286</ref>。
<!--
===他の進数での性質===
* 10(十ではなく、桁の底)の[[素因数]]に3が含まれる[[位取り記数法|N進法]]は、[[三進法]]、[[六進法]]、[[九進法]]、[[十二進法]]、[[十五進法]]、[[十八進法]]などとなる。
*{{sfrac|1|3}} = 0.{{underline|3}}333… (下線部は循環節で長さは1)
** [[十進法]](素因数が[[2]]と[[5]])や[[十六進法]](素因数が2だけ)などは、10となる[[10|十]]や[[16|十六]]の因数に3が含まれていないので、[[1/3]] が割り切れない。[[八進法]]では 0.{{underline|25}}25…、十六進法では 0.{{underline|5}}555…、[[二十進法]]では 0.{{underline|6D}}6D… となる。(下線部はそれぞれの[[循環節]])。
**逆に、[[六進法]](素因数が2と3)や[[九進法]](素因数が3だけ)など「3の倍数」進法では、10となる[[6|六]]や[[9|九]]の因数に3が含まれるため、1/3は割り切れる。1/3 の商は、六進法では 0.2、九進法では 0.3、[[十二進法]]では 0.4、[[十八進法]]では 0.6 となる。
**自然数の逆数が小数第一位で収まる有限小数は、六進法では {{sfrac|1|2}} = 0.3 と {{sfrac|1|3}} = 0.2 の計2つが該当する。十二進法では、{{sfrac|1|2}} = 0.6 と、{{sfrac|1|3}} = 0.4 と、{{sfrac|1|4}} = 0.3 と、{{sfrac|1|6}} = 0.2 の計4つ。十八進法では、{{sfrac|1|2}} = 0.9 と、{{sfrac|1|3}} = 0.6 と、{{sfrac|1|6}} = 0.3 と、{{sfrac|1|9}} = 0.2 の計4つ。
*「3の倍数」進法では、一の位が3か0であれば3の倍数である。なお、三進法は一の位が0であれば3の倍数になる。
** 六進法では、一の位が3か0(例:12'''3''' = 51{{sub|10}})。九進法では、一の位が3か6か0(例:16'''6''' = 141{{sub|10}})。十二進法では、一の位が{3,6,9,0}のどれか(例:22'''9''' = 321{{sub|10}})。十五進法では、一の位が{3,6,9,[[12|C]],0}のどれか(例:5'''9''' = 84{{sub|10}})。十八進法では、一の位が{3,6,9,C,[[15|F]],0}のどれか(例:63'''3''' = 2001{{sub|10}})。
** 「3の倍数」進法における3の冪数は、一の位が以下のようになる。
***「3の冪数」進法 → 一の位が0。例:10'''0'''{{sub|3}} = 9{{sub|10}}, 3'''0'''{{sub|9}} = [[27]]{{sub|10}} = 10'''0'''{{sub|9}} = [[81]]{{sub|10}}。
***素因数が2と3 → 六進法では一の位が3(例:1'''3''' = 9{{sub|10}}、4'''3''' = 27{{sub|10}})。十二進法では一の位が3か9(例:2'''3''' = 27{{sub|10}}、6'''9''' = 81{{sub|10}})。十八進法では9以降は一の位が9(例:1'''9''' = 27{{sub|10}}、4'''9''' = 81{{sub|10}})。
* 5{{sup|n}} ÷ 3{{sup|n}} の商は、小数点を消すと、六進法では[[10|十]]の n 乗、十二進法では[[20|二十]]の n 乗になる。
** 六進法の例:200201 ÷ 3213 = 33.233344(冪指数は10{{sub|(6)}} = 6、十進換算で15625÷729、33233344{{sub|(6)}} = 1000000{{sub|(10)}})
** 十二進法の例:441 ÷ 69 = 7.8714(冪指数は4、十進換算で625÷81、78714{{sub|(12)}} = 10000{{sub|(20)}} = 160000{{sub|(10)}})
-->
<!--
===数値表===
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+ 3の冪数(3{{sup|x}})
|-
|指数||1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16
|-
|数値||3||[[9]]||[[27]]||[[81]]||[[243]]||[[729]]||[[2187]]||[[6561]]||[[19683]]||[[59049]]||[[177147]]||[[531441]]||1,594,323||4,782,969||14,348,907||43,046,721
|}
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+ [[立方数]](x{{sup|3}})
|-
|底||1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16||17||18||19||20
|-
|数値||1||[[8]]||[[27]]||[[64]]||[[125]]||[[216]]||[[343]]||[[512]]||[[729]]||[[1000]]||[[1331]]||[[1728]]||[[2197]]||[[2744]]||[[3375]]||[[4096]]||[[4913]]||[[5832]]||[[6859]]||[[8000]]
|}
-->
== その他 3 に関すること ==
* この世界の[[空間]]の[[次元]]数は3であると広く信じられている。縦、横、高さの3方向に広がりを持つ空間を[[3次元]]空間という。
* 故障や障碍の許されない重要なシステムでは、[[冗長性]]を高めるために正・副・予備の三重構成が取られることが多い。
{{See|フォールトトレラントシステム}}
* [[ヘーゲル]]哲学の[[弁証法]]における統合の過程では、2から3を生み出すと言われている。(原文:{{lang|en|The process of synthesis in Hegelian dialectic creates three-ness from two-ness}})
* 日本の[[裁判制度]]は[[三審制]]である。
* [[野球]]では、打者が[[ストライク (野球)|ストライク]]を3回取られると[[三振]]となる。また、攻撃側チームが[[アウト (野球)|アウト]]を3回取られると攻守交代となる。また、[[守備番号]]3は[[一塁手]]を指す。
* この野球ルールになぞらえた[[アメリカ合衆国]]の刑罰制度を「[[三振法]]」と呼ぶ。
* [[三曲合奏]]は[[三味線]]、[[箏]]、[[胡弓]]による[[合奏]]。[[明治]]以降胡弓の代わりに[[尺八]]が用いられることが多い。
* [[プロレス]]では両肩をマットに押し付けられて3カウント取られると[[ピンフォール|フォール]]敗けである。
* [[アーサー・C・クラーク]]の[[SF小説]]『[[宇宙のランデブー]]』には、何もかもが3つで1組になっている[[異星人]]の[[人工天体]]「ラーマ」が登場する。作品自体も後に続編が2つ書かれて[[三部作]]となっている。
* 小中学校では長期休暇の前に「三つの車のお世話にならない」と言う教育指導がある。三つの車とは一般的に[[パトカー]]、[[救急車]]、不審な車であり、それぞれ、[[補導]]、怪我や病気、犯罪に巻き込まれないことを意味する。
* 日本の[[中学校]]の修業年限は3年間である。
* [[インスタントラーメン]]の多くは調理時間が3分間である。
* [[ウルトラマン]]の地球での活動時間は最大3分間と設定されている。
* 『[[太陽戦隊サンバルカン]]』のエンディング曲『若さはプラズマ』は、三つであることを謳った内容である。
* 日本では古来「三」の字は「御」の字の代わりとして使われてきた。
* 「3」の書体は、[[ひらがな]]の「ろ」のような形をした書体が使われることもある。
* [[ボクシング]]では[[センサク・ムアンスリン]]([[タイ王国|タイ]])が世界最短キャリアとなる3戦目で世界王座奪取を果たしている。
* [[熟語]]を作る際に、一つ組の「独」、二つ組の「対」「偶」に続いて、三つ組には「[[鼎]]」を充てる。これは、鼎が三本の脚を持つ事に因む。用例として、「鼎談」「鼎立」など。
* [[日本]]では「[[三つ指]]をつく」という[[お辞儀]]の作法があり、[[正座]]して人差し指、中指、薬指の3本の指を地につきながら頭を下げるのが丁寧な挨拶とされる。
*[[俳句]]・[[川柳]]は五・七・五の3句から成る。
*[[アンモニア]][[分子]]の[[化学式]]は<chem>NH3</chem>である。
=== 自動車の名称 ===
* [[BMW・3シリーズ]] - [[BMW]]社製の乗用車。
* [[マツダ・アクセラ|マツダ・3(旧日本名:アクセラ)]] - [[マツダ]]製の乗用車。
* [[マツダ・サバンナ|マツダ・サバンナ (RX-3)]] - マツダ製の乗用車。
* [[ルノーサムスン・SM3]] - [[ルノーサムスン]]製の乗用車。
* [[ルノー・3]] - フランスの自動車会社[[ルノー]]の乗用車。
*[[テスラ・モデル3]] - [[テスラ (会社)|テスラ]]製の乗用車。
=== 言語・表記 ===
* [[和語]]系[[数詞]]の「み」「みい」は、数を数える場合を除いて単独で用いる例はなく、「みっ-つ(3つ)」「みっ-か(3日)」「み-ばん(3晩)」「み-けた(3桁)」「み-たび(3度)」などのように[[接尾辞]]([[助数詞]])を伴った形で用いられる。
* 「三人」は和語系数詞で「みたり」と読む。しかし現代日本語ではほとんど用いられず、[[漢語]]系数詞で「さんにん」と読むのが普通である。
* [[中国語]]では、三({{pinyin|sān}})は[[生命|生]]({{pinyin|shēng}})に音が似ているので、幸運の数字だと考えられている。逆に、四({{pinyin|sì}})は死({{pinyin|sǐ}})に音が似ているので、凶運の数字だと考えられている。
* [[ベトナム]]では、死と発音が同じ4よりも惨に通じる3が嫌われてきた。
* [[国際音声記号]](IPA 記号 {{IPA|ɜ}})とほぼ同形であることから、[[X-SAMPA]] では[[半開中舌非円唇母音|非円唇中舌広半母音]]を表す。
* [[花札]]を用いて行われる[[ゲーム]]の一つ[[おいちょかぶ]]では、3 を「サンタ」と呼ぶ。
* 3 の[[接頭辞]]: {{lang|la|tri, tre}}([[ラテン語|羅]]、[[ギリシャ語|希]]など[[インド・ヨーロッパ語族|印欧語]])
** 例:[[トライアングル]] ({{lang|en|triangle}})、[[トリコロール]](仏:{{lang|fr|tricolore}}、英:{{lang|en|tricolour}})
** [[三人組]]や三[[重奏]]を'''トリオ''' ({{lang|it|trio}}) という。
** 3[[倍]]や3重を'''[[トリプル]]''' ({{lang|en|triple}}) という。
** 他にも、三つ組を意味する語には、'''[[トロイカ (曖昧さ回避)|トロイカ]]''' ({{lang|ru-latn|troika}})、ギリシャ語系の'''トリアド''' ({{lang|el-latn|triad}}) という語がある。なお、トリアドの同系語として、モナド({{lang|el-latn|monad}}, ソロ、単体)、テドラド({{lang|el-latn|tetrad}}, カルテット、四つ組)、エニアド({{lang|el-latn|ennead}}, ノネット、九つ組)などがある。
** 三つのどれも実現困難な様相を、三竦みや'''[[トリレンマ]]'''({{lang|en|trilemma}})という。
=== 第3のもの ===
* [[原子番号]] 3 の[[元素]]は[[リチウム]] (Li) である。
* [[太陽系]]第3[[惑星]]は[[地球]]である。
* [[トランプ]]の[[大富豪]]では、3のカードは最も弱い。
* [[タロット]]の[[大アルカナ]]でIIIは[[女帝 (タロット)|女帝]]。
* [[易占]]の[[六十四卦]]で第3番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#屯|水雷屯]]。
* [[年始]]から数えて3日目は[[1月3日]]。
* [[日本]]の3代目の[[内閣総理大臣]]は、[[山縣有朋]]。
*日本の3番目の[[元号]]は[[朱鳥]]。
*[[十二支]]の第3は寅。
*[[干支]]の第3は[[丙寅]]。
* [[大相撲]]の第3代[[横綱]]は[[丸山権太左衛門]]である。
* 三琵琶、三味線、胡弓では低い方から3番目の弦(糸)、箏では向こうから3番目の弦。
* 国や地方公共団体(第一セクター)と民間企業(第二セクター)が共同で出資して設立された企業・団体が[[第三セクター]](鉄道なら[[第三セクター鉄道]])。
* [[第三のビール]]
* [[第三京浜道路]]
* [[第三帝国]]
*[[台風|台風3号]]
* 第3代[[殷]]王は[[中壬]]である。
* 第3代[[周]]王は[[康王 (周)|康王]]である。
* 第3代[[教皇|ローマ教皇]]は[[アナクレトゥス (ローマ教皇)|アナクレトゥス]](在位:[[78年]]?〜[[91年]]?)である。
* 鉄道では、
** 集電のために3本のレールを引く方式を[[第三軌条方式]]という。
** [[軌間]]が異なる車両の乗り入れのために3本レールを引くことを[[三線軌条]]という。
** 鉄道施設のみを所有し、自ら営業を行わず他社に施設を貸し出す鉄道事業者を[[第三種鉄道事業者]]という。
* [[クルアーン]]における第3番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[イムラーン家 (クルアーン)|イムラーン家]]である。
* 3番目の素数は5。
=== 番号 ===
* [[サッカー]]において、1人で1試合に3点(以上)取ることを英語で[[ハットトリック]]、イタリア語ではトリプレッタと言う。
* サッカーにおける背番号3は、主に[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]に割り当てられる。
* 背番号3を[[永久欠番]]とするサッカークラブ(括弧内は選手名)
** [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]([[ジャチント・ファッケッティ]])
** [[ACミラン]]([[パオロ・マルディーニ]])
** [[横浜F・マリノス]]([[松田直樹]] )
* 背番号3を永久欠番とする[[日本プロ野球]]球団(括弧内は選手名)
** [[読売ジャイアンツ]]([[長嶋茂雄]])
** [[広島東洋カープ]]([[衣笠祥雄]])
** かつては西鉄ライオンズ(現・[[埼玉西武ライオンズ]])でも[[大下弘]]の背番号3を永久欠番としたが、[[1968年]]に東映フライヤーズ(現・[[北海道日本ハムファイターズ]])の監督に就任したのを機に、自ら永久欠番を返上した。
* 背番号3を永久欠番とする[[メジャーリーグベースボール]]球団(括弧内は選手名)
** [[ニューヨーク・ヤンキース]]([[ベーブ・ルース]])
** [[シカゴ・ホワイトソックス]]([[ハロルド・ベインズ]])
** [[クリーブランド・ガーディアンズ]]([[アール・アベリル]])
**[[ミネソタ・ツインズ]]([[ハーモン・キルブルー]])
* [[3ナンバー]]は、[[普通乗用車]](全長4.7m以上、全高2.0m以上、全幅1.7m以上、排気量2000cc超のいずれかを満たす乗用車)を指す。
* 自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]の希望番号制度で、自動車登録番号標のみ「…3」は抽選対象番号であったが[[2001年]][[1月4日]]に抽選番号から外された。しかし[[2006年]][[5月18日]]から品川・横浜・大阪・神戸ナンバーで再び抽選番号になった。
* 同じくナンバープレートの希望番号制度では、希望番号であることを表示するために分類番号に「3」が付けられる。[[軽自動車]]が下2桁83、[[登録車]]が30以降が付けられる。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「03」は[[岩手県]]。
=== テレビのチャンネル ===
* [[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル放送]]の[[リモコンキーID]] '''3''' は、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]の[[北海道]]・[[青森県]]・[[宮城県]]・[[富山県]]・[[岐阜県]]・[[愛知県]]・[[三重県]]・[[鳥取県]]・[[島根県]]・[[徳島県]]・[[福岡県]]・[[鹿児島県]]で使用。これらの道県では、他ではNHK総合テレビのIDとして割り当てられている「[[1#テレビのチャンネル|1]]」を、アナログ親局が 1ch だった[[民間放送|民放]]が使用しているためであり、更にこれらの道県はNHK総合テレビのアナログ親局も岐阜・三重・島根の各県以外および北海道の札幌地方と網走地方・福岡県西部で '''3ch''' であった(これ以外でも、[[広島県]]・[[長崎県]]・[[大分県]]でもNHK総合テレビのアナログ親局が3chであった)。
* 民放では[[Japan News Network|JNN]]系列局の[[中国放送]](広島県)・[[テレビ山口]]・[[長崎放送]]・[[熊本放送]]・[[大分放送]]・[[琉球放送]]([[沖縄県]])、[[フジネットワーク|FNS]]系列局の[[サガテレビ]]、FNS・[[Nippon News Network|NNN]]・[[All-nippon News Network|ANN]]の[[クロスネット局]]である[[テレビ宮崎]]、[[全国独立放送協議会|独立局]]の[[とちぎテレビ]]・[[群馬テレビ]]・[[テレビ埼玉]]・[[千葉テレビ放送]]・[[テレビ神奈川]]・[[びわ湖放送]]([[滋賀県]])・[[サンテレビジョン]]([[兵庫県]])で使用。
* アナログ[[超短波|VHF]]テレビでは[[関東地方]]一円の他に[[福島県]][[会津盆地]]、[[山梨県]][[甲府盆地]]、[[福井県]][[福井平野]]、[[岡山県]][[岡山平野]]と[[香川県]][[中讃|中讃地域]]等で[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]に 3ch が割り当てられている。[[静岡県]]の[[伊豆半島]]東部でもNHK教育テレビは「3チャン」で通じることが多い。
* [[NHKデジタル衛星ハイビジョン]]→[[NHK BSプレミアム]]のデジタルIDは 3。
=== 固有名詞 ===
* 曲名
** 「三つ恋慕」 - 作曲者不詳の地歌手事もの曲。三弦、箏、胡弓を詠んだ曲
** 「三津山」 - [[光崎検校]]作曲の地歌手事もの曲。大和三山の伝説に因んだ曲。
** 「三段の調」 - 久本玄智作曲の箏曲。
** 「三つの民謡調」 - [[宮城道雄]]作曲の箏合奏曲。
** 「[[三弦]](三絃)」 - 三味線の別称。特に三曲で用いる。
** 「[[3カウント]]」 - [[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]の楽曲。
* アルバムタイトル
** [[参 (HIGH and MIGHTY COLORのアルバム)|参]] - [[HIGH and MIGHTY COLOR]]の3枚目のアルバム。
** [[3 (doaのアルバム)|3]](スリー) - [[doa (バンド)|doa]]の3枚目のアルバム。
** [[3 (drai)]] - [[SOFT BALLET]]の2枚目と3枚目のアルバムの間に発表されたミニアルバム。
** [[3.0|3.0(さんてんぜろ)]] - [[Chicago Poodle]]の3枚目のアルバム。
** [[3 (キリンジのアルバム)]] - [[キリンジ]]のアルバム。
* [[第三銀行]]は、[[明治]]期のナンバー銀行[[第三国立銀行]]とは別途に命名された、新ナンバー銀行。
* [[三和銀行]](現・[[三菱UFJ銀行]])の名は、3行合併により設立されたことに由来する。
* [[3 (バンド)|3]](スリー)は、イギリスのロックバンド。
*[[三国志]]
* [[:en:3 (telecommunications)|3]] - [[香港]]最大の通信会社[[ハチソン・ワンポア]]が展開している[[携帯電話]]サービスブランド。香港のほか[[ヨーロッパ]]や[[オーストラリア]]で展開している。名前の由来は[[第3世代移動通信システム]]を表す [[3G]] から。
* [[3COINS]] - パルが運営する300円を中心とする雑貨を販売する店舗。
=== 3の付く地名 ===
<!--都道府県名、市町村名のみ-->
* [[三重県]]
* [[青森県]][[三沢市]]
* 青森県[[三戸郡]][[三戸町]]
* [[秋田県]][[山本郡]][[三種町]]
* [[福島県]][[田村郡]][[三春町]]
* [[埼玉県]][[三郷市]]
* 埼玉県[[入間郡]][[三芳町]]
* [[神奈川県]][[三浦市]]
* [[新潟県]][[三条市]]
* [[静岡県]][[三島市]]
* [[兵庫県]][[三田市]]
* [[広島県]][[三原市]]
* 広島県[[三次市]]
* [[徳島県]][[三好市]]
== 三個一組の概念 ==
{{See also|[[世界三大一覧]]|[[日本三大一覧]]}}
*[[色|三色]]
**色料の[[原色|三原色]]: [[マゼンタ]]・[[シアン (色)|シアン]]・[[黄色|イエロー]]。
**[[光の三原色]]: [[赤]]・[[青]]・[[緑]]。
**[[信号機]]三色: 緑・黄・赤。
*[[三態|物質の三態]]: [[固体]]・[[液体]]・[[気体]]。
*[[徳川御三家]]: [[尾張徳川家|尾張]]・[[紀州徳川家|紀州]]・[[水戸徳川家|水戸]]。
*[[御三卿]]: [[一橋徳川家|一橋]]・[[清水徳川家|清水]]・[[田安徳川家|田安]]
*[[三管領]]: [[斯波氏]]・[[細川氏]]・[[畠山氏]]。
*[[3K]]
**職種: きつい・汚い・危険
**[[群馬県]]の名物: 空っ風・雷・かかあ天下
*[[3R]] - 環境配慮に関するキーワード。[[リデュース|減らす]](Reduce)、[[再使用]](Reuse)、[[リサイクル|再利用]](Recycle)。
*3S - [[野球]]・[[ソフトボール]]の[[盗塁#技術|盗塁に必要な技術]]。スタート(Start)、スピード(Speed)、[[スライディング]](Sliding)。
*[[権力分立|三権]]: [[司法]]・[[立法]]・[[行政]]。
*三原則
**[[非核三原則]]: [[核兵器]]を持たない・作らない・持ち込ませない。
**[[ロボット工学三原則]]:人間への危害禁止・命令服従・自己保存
**[[週刊少年ジャンプ|ジャンプ三原則]]: [[友情・努力・勝利]]
*[[三種の神器]]: 皇室に伝わる三種の神器。
*[[三宝]]: 仏教における三つの宝物。
*[[三国協商]]: [[イギリス]]・[[フランス]]・[[ロシア帝国]]。
*[[三国干渉]]: フランス・[[ドイツ帝国]]・ロシア帝国。
*[[三国志]]: [[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]・[[蜀]]。
*朝鮮史における三国時代:
**[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]: [[高句麗]]・[[新羅]]・[[百済]]。
**[[後三国時代]]: 新羅・[[後高句麗]]・[[後百済]]。
*琉球史における三国時代: [[三山時代]]
*[[三国同盟]]:
**[[甲相駿三国同盟]]: [[後北条氏]]・[[武田氏]]・[[今川氏]]。
**[[第一次世界大戦]]前に締結された[[三国同盟]]: [[ドイツ帝国]]・[[オーストリア]]・[[イタリア]]。
**[[日独伊三国軍事同盟]]: [[日本]]、[[ナチス・ドイツ]]、イタリア。
*[[3B政策]]: [[ベルリン]]・[[ビザンチウム]]・[[バグダード]]。
*[[3C政策]]: [[ケープタウン]]・[[カイロ]]・[[コルカタ]]。
*[[3S政策]]: [[スクリーン]]・[[スポーツ]]・[[性行為|セックス]]。
*三聖: [[釈迦]]・[[孔子]]・[[イエス・キリスト|キリスト]]。
*[[三蹟]]: [[小野道風]]・[[藤原佐理]]・[[藤原行成]]。
*[[局所銀河群]]を構成する3つの主要な銀河:[[天の川銀河]]・[[アンドロメダ銀河]]・[[さんかく座銀河]]。
*[[定規とコンパスによる作図|ギリシャの三大作図問題]]: 角の三等分問題・立方体倍積問題・[[円積問題]]。
*[[三段論法]]: 大前提・小前提・結論。
*三ちゃん農業: 爺ちゃん・婆ちゃん・母ちゃん。
*[[三頭政治]] (triarchy): [[ポンペイウス]]・[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]・[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]、[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]・[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]・[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス|レピドゥス]]。
*[[三筆]]: [[嵯峨天皇]]・[[空海]]・[[橘逸勢]]。
*[[日本三景]]: [[天橋立]]・[[松島]]・[[厳島]]。
*[[大洋|三大洋]]: [[太平洋]]・[[大西洋]]・[[インド洋]]。
*[[労働三権]]: [[団結権]]・[[団体交渉権]]・[[団体行動権]]。
*[[労働三法]]: [[労働組合法]]・[[労働基準法]]・[[労働関係調整法]]。
*トリヴァルガ: {{仮リンク|アルタ (ヒンドゥー教)|en|Artha|label=アルタ}}・[[カーマ (ヒンドゥー教)|カーマ]]・[[法 (仏教)|ダルマ]]。インド人の人生の三大目的。
*中国人の三大願望: 福・禄・寿。
*世界三大珍味: [[キャビア]]・[[セイヨウショウロ|トリュフ]]・[[フォアグラ]]。
*[[三種の神器]]: [[天叢雲剣]] ・[[八咫鏡]]・[[八尺瓊勾玉]]。[[皇位継承]]に必要とされた神器。
*[[三種の神器 (電化製品)]]: [[テレビ受像機|白黒テレビ]]・[[洗濯機]]・[[冷蔵庫]]
*[[三種の神器 (電化製品)#高度成長期・3Cの登場|3C]]: [[カラーテレビ]]・[[自動車]]・[[冷房|クーラー]]
*[[三猿]] : 見ざる・言わざる・聞かざる(不見不言不聞の訳語に「猿」をかけたもの)
*三大[[栄養素]]: [[タンパク質]]・[[炭水化物]]・[[脂肪]]。
*選挙の[[三バン]]: 地盤・看板・鞄。
*[[麻雀牌#三元牌|三元牌]]: [[麻雀]]における牌の種類の呼び方。白・発・中の三種類。
*天地人 - [[天]]・[[地]]・[[人]]
*[[マギ|東方の三博士]]: バルタザール・メルキオール・カスパール。
*運命の三姉妹: [[ノルン]]([[ウルズ]]・[[ヴェルザンディ]]・[[スクルド]]: [[北欧神話]])、[[モイライ]](クロト・ラケシス・アトロポス: [[ギリシア神話]])。
*[[黒い三連星]]: ガイア・オルテガ・マッシュ。『[[機動戦士ガンダム]]』に登場するエースパイロット三人組。
*野球の[[三冠王]]: [[打率]]・[[打点]]・[[本塁打]]
*[[三部作]]
*[[三すくみ]]
**[[じゃんけん]]: グー・チョキ・パー。
**[[虫拳]]: ヘビ・カエル・ナメクジ。
*[[メダル]]: [[金メダル]]・[[銀メダル]]・[[銅メダル]]。
*[[北陸地方]]の三県: [[石川県]]・[[富山県]]・[[福井県]]
*[[財閥]][[御三家]]: [[三井財閥|三井家]]・[[三菱財閥|岩崎家]]・[[住友財閥|住友家]]のこと。
*[[九州地方|九州]]の[[政令指定都市|政令市]]: [[福岡市]]・[[北九州市]]・[[熊本市]]
*[[京阪神]]: [[兵庫県]]・[[大阪府]]・[[京都府]]
*[[神戸川崎財閥|川崎睦会]]旧構成三社: [[川崎重工業]]・[[JFEスチール|川崎製鉄]]・[[川崎汽船]]
*三種の神器([[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]): 草薙・八神・神楽。
* 日本[[サッカー]]界に於ける御三家: [[三菱重工業サッカー部]]、 [[古河電気工業サッカー部]]、 [[日立製作所本社サッカー部]]。
*[[キリスト教]]の[[三位一体]]。
*[[ヒンドゥー教]]の[[三神一体]]。
*三管: [[篳篥]]・[[竜笛]]・[[笙]]。
*三鼓: [[鞨鼓]]・[[太鼓]]・[[鉦鼓]]。
*[[三曲]]: [[三味線]]([[地歌]]三味線・三弦)、[[箏]]、[[胡弓]]の総称([[尺八]]を加える場合もある)。
*[[三曲合奏]]: 地歌三味線、箏、胡弓または尺八による合奏。
*石川の三つ物: 石川勾当の三大名曲「八重衣」「新青柳」「融(とおる)」。
*[[陸上競技]]の[[トライアスロン]](三種競技): [[水泳]]・[[自転車競技|自転車]]・[[マラソン]]。
*三道楽: 呑む打つ買う、すなわち[[酒]]と[[博打]]と[[売春|女]]。
*雲太、和二、京三: [[平安時代]]後期に[[源為憲]]が著した子供向け学習書『[[口遊]]』にある[[出雲大社]]、[[東大寺]]、[[大極殿]]を指した言葉。
=== 3の付く言葉 ===
* 複雑な関係を表現する慣用表現には 3 が用いられることがある。例:「[[三つ巴]]」「[[三角関係]]」。
* 反復や持続の意味では、3 が用いられることが多い。例:「石の上にも三年」「三度目の正直」「仏の顔も三度まで」「三日坊主」「三日天下」「~なしで三日もたない」。
* 3 は「[[中立]]」「どれでもない」という意味で使われることも多い。例:「[[第三者]]」「[[三人称]]」。
* [[三味線]]は、[[安土桃山時代]]に現れた三本弦の[[リュート]]族撥弦楽器。日本を代表する楽器の一つ。
* 「三ノ鼓(さんのつづみ)」は、高麗(こま)楽用の鼓。
*[[3環状9放射]]
* 酒席では、「駆けつけ3杯」という、遅れてきた人に3杯の酒を飲ます悪習がある。
* 上記のように √{{overline|3}} の覚え方が「ヒトナミニオゴレヤ」であるため、俗に[[ケチ]]な人間のことを「√{{overline|3}}」と言うことがある。
* [[三色同順]]、[[三色同刻]]、[[三暗刻]]及び[[三槓子]]は、いずれも[[麻雀]]の役の一つ。
*[[三把刀]]: [[華僑]]が多く従事した、[[仕立屋]]・[[料理人]]・[[理容所|床屋]]の刃物を使う3つの職業。
*三せる: [[接待]]の方法の俗諺。「呑ませる」「食わせる」「威張らせる」。これに「[[売春|抱かせる]]」「[[賄賂|握らせる]]」が入ると「五せる」<ref>日本語俗語辞書 「五せる」</ref>。
*[[水戸の三ぽい]]
*[[ビッグスリー]]
*[[三角関数]]
**[[三角形]]
*[[御三家]]
*[[台風|台風3号]]
**[[台風第3号]]
*[[三本の矢]]
*[[三国国境]]
**[[三県境]]
**[[栃木・群馬・埼玉の三県境]]
*日本語での[[語呂合わせ]] - 日本語では[[五七調]]や[[七五調]]にあわせて[[文節]]に3種類の事物を入れたり、[[三行連]]として[[語呂合わせ]]したりすることがある。
** 「桃栗三年、柿八年」
** 「目には青葉 山時鳥(やまほととぎす) 初鰹」
** 「運・根・勘」成功の要件。運と努力と才能。
** 「いきなふかがわ([[深川 (江東区)|深川]])、いなせなかんだ([[神田 (千代田区)|神田]])、人の悪いはこうじまち([[麹町]])」- 遊舟歌『佃節』の歌詞で、7-7-7-5連の例
== 3に関する考察 ==
このように3つを組み合わせたり3/三が使われたりする表現・言葉や事物は多い。その理由を研究している国田圭作([[嘉悦大学]]教授/[[博報堂]]行動デザイン研究所アドバイザー)は、3は、多い/長いと少ない/短いの両面性や曖昧さがあって扱いやすく、理由の説明や選択肢も3つ挙げると4~5以上に比べて人間の情報処理能力で受け止めやすいためと説明している<ref>【くらし探検隊】マジックナンバー「3」の魅力*三国志、三銃士、松竹梅、優良可『[[日本経済新聞]]』2022年4月9日土曜朝刊別刷りNIKKEIプラス1(15面)</ref>。日本人にとって3は好ましい数字の一つとされ、3で何かをくくることが多い理由としていい加減さの象徴で大小や白黒どちらかと割りきらずに3つめの候補を出すことで懐の深さや柔らかさを好む国民性に合っているとする説<ref>{{Cite news | 和書 = | title = 「3」を究める | newspaper = 朝日新聞 | date = 2009-05-05 |url=https://www.asahi.com/shimbun/nie/kiji/kiji/20090511.html |accessdate = 2020-01-17 | publisher = 朝日新聞社 | page = 16 }}</ref>、満ちてこれでいっぱいになるめでたい気持ちがある説、2つの候補では心の余裕がない傾向があるためでもある<ref name="tokoro">{{Cite web|和書|date= |url=https://datazoo.jp/tv/%E6%96%B0%E8%AA%AC%EF%BC%81%E6%89%80JAPAN/1272152 |title=新説!所JAPAN 2019/06/17(月)の放送内容 |website=TV出た蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2020-01-16}}</ref>。
[[和食]]の世界では切れたり割れたりすることに繋がらないように奇数が好まれ<ref name="tokoro" />、日本人の名字には三が一番多く使われるのは元々地名として「御」の字が使われていたのが[[神道|神]]や[[天皇]]を意味する字だったことから憚って「三」に変化したとされる<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://datazoo.jp/tv/%E4%BA%BA%E5%90%8D%E6%8E%A2%E7%A9%B6%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%88%E3%81%A3%EF%BC%81/1113982 |title=人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ 2017/11/16(木)の放送内容 |website=TV出た蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2020-01-16}}</ref>。
== 符号位置 ==
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==他の表現法==
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|Character=C3
|Braille=⠉
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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{{Wiktionarypar|三}}
{{Wiktionarypar|みっつ}}
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{{Wiktionarypar|III}}
{{Wiktionarypar|ⅲ}}
*[[:Category:数]](数の一覧)
**[[0]] [[1]] [[2]] '''3''' [[4]] [[5]] [[6]] [[7]] [[8]] [[9]]
**[[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]] ... [[1000]] ... [[10000]]
**[[−3]]
**[[1/3|{{sfrac|1|3}}]]
**[[3の平方根|√{{overline|3}}]]
*西暦[[3年]] [[紀元前3年]] [[2003年]] [[1903年]] [[3世紀]] [[2021年|令和3年]] [[1991年|平成3年]] [[1928年|昭和3年]] [[1914年|大正3年]] [[明治3年]] [[3月]]
*[[名数一覧]]
*[[地下鉄3号線]]
*[[ラテン文字のアルファベット三文字組み合わせの一覧 (AAAからDZZまで)|ラテン文字のアルファベット三文字組み合わせの一覧 (A-D)]] [[ラテン文字のアルファベット三文字組み合わせの一覧 (EAAからHZZまで)|(E-H)]] [[ラテン文字のアルファベット三文字組み合わせの一覧 (IAAからLZZまで)|(I-L)]] [[ラテン文字のアルファベット三文字組み合わせの一覧 (MAAからPZZまで)|(M-P)]] [[ラテン文字のアルファベット三文字組み合わせの一覧 (QAAからTZZまで)|(Q-T)]] [[ラテン文字のアルファベット三文字組み合わせの一覧 (UAAからXZZまで)|(U-X)]] [[ラテン文字のアルファベット三文字組み合わせの一覧 (YAAからZZZまで)|(Y-Z)]]
*[[З]] - [[キリル文字]]。[[ギリシャ文字]]の[[Ζ]](ゼータ)に相当。
*[[円周率は3]] - 2002年度実施の小学校[[学習指導要領]]の改訂時に生じた困惑や混乱を象徴するフレーズ。「[[ゆとり教育]]」参照。
*[[スリー]] (曖昧さ回避)
*[[トリコーロン]]
*[[トライアド]]
*{{ill2|三つのルール|en|Rule of three (writing)}}
*{{ill2|三つ巴の決闘|en|Truel}} ‐ ゲーム理論や決闘映画などの演出、政治的状況など。
*[[バランス理論]] - 3者以上の人間がいるときにバランスを取ろうとする理論。
*[[隆中策]] ‐ 三国志において日本で「天下三分の計」と呼ばれるもの。
{{自然数}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:3}}
[[Category:数字]]
[[Category:数学に関する記事|/3]]
|
2003-07-11T15:41:32Z
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2023-11-17T09:47:12Z
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2(二、弐、貳、貮、に、じ、ふた、ふたつ)は、自然数または整数において、1 の次で 3 の前の数である。
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2(二、弐、貳、貮、に、じ、ふた、ふたつ)は、自然数または整数において、1 の次で 3 の前の数である。 英語では、基数詞でtwo、序数詞では2nd、second となる。 ラテン語では duo(ドゥオ)。
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{{整数|Decomposition=([[素数]])}}
[[ファイル:二-order.gif|thumb|100px|「二」の筆順]]
'''2'''('''二'''、'''弐'''、'''貳'''、'''貮'''、に、じ、ふた、ふたつ)は、[[自然数]]または[[整数]]において、[[1]] の次で [[3]] の前の数である。
英語では、[[基数詞]]でtwo、[[序数詞]]では2nd、''[[セカンド|second]]'' となる。
[[ラテン語]]では duo(ドゥオ)。
== 性質 ==
*2 は最小の[[素数]]。次の素数は [[3]]。
**[[偶数]]では唯一の素数である。
**[[約数]]の和は[[3]]。
***約数の和が奇数になる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[4]]。
***約数の和が素数になる最小の数である。次は[[4]]。
****約数の和が素数になるのは全て[[平方数]]だが、これは唯一そうではない。
**約数を2個もつ最小の数である。次は[[3]]。
***2番目の[[高度合成数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[4]]。
****素数では唯一の高度合成数である。
****高度合成数のうち[[不足数]]であるのは2と[[4]]のみ。
**約数の和と元の数との積が[[完全数]]になる最小の数である。次は[[4]]。({{OEIS|A019279}})
*2番目の[[高度トーシェント数]]。1つ前は[[1]]、次は[[4]]。
*2 の[[倍数]]を[[偶数]]といい、偶数は「半分にしても整数である」性質を持つ。
*[[2の冪乗]]の基数で、2{{sup|1}}。次は[[4]]。
**[[2の累乗数]]の一の位は、{{underline|2, 4, 8, 6, }}2, …(下線部は循環節)となる。
*3番目の[[フィボナッチ数]]である。1つ前は[[1]]、次は [[3]]。
**フィボナッチ数のうち[[矩形数]]でもある数は 2 のみである。
*3番目の[[トリボナッチ数]]かつ[[テトラナッチ数]]でもある。1つ前は[[1]]、次は[[4]]。
* 2 = 2 + 0 × ''ω'' (''ω''は1の虚立方根)
** a + 0 × ''ω'' (a > 0) で表される最小の[[アイゼンシュタイン整数#アイゼンシュタイン素数|アイゼンシュタイン素数]]である。次は5。
*2 = 1 + 1
** 2 = 1{{sup|4}} + 1
***''n''{{sup|4}} + 1 で表される最小の[[素数]]である。次は[[17]]。
** 2 = 1{{sup|2}} + 1
*** ''n''{{sup|2}} + 1 で表される最小の[[素数]]である。次は[[5]]。
**2 = 1{{sup|1}} + 1
***''n{{sup|n}}'' + 1 の形で表せる最小の素数である。次は[[5]]。
**2 = 1{{sup|3}} + 1{{sup|3}}
***''n'' 通りの2つの[[立方和]]で表せる最小の数を表す[[タクシー数]]である。次は[[1729]]。
** 2 = 2{{sup|0}} × 3{{sup|0}} + 1
*** 最小の[[ピアポント素数]]である。次は[[3]]。({{OEIS|A005109}})
*2 = 1 × 2
**最小の[[矩形数]]である。次は[[6]]。
*** 2 = 1{{sup|2}} + 1{{sup|1}} = 2{{sup|2}} − 2{{sup|1}}
**2番目の[[階乗数]] 2! である。1つ前は[[1]]、次は[[6]]。
*2番目の[[ベル数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[5]]。
*2番目の[[カタラン数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[5]]。
*最小の[[ソフィー・ジェルマン素数]]。次は[[3]]。
*2番目の[[レピュニット]] ''R''{{sub|2}} = [[11]] は素数となる最初のレピュニットである。次に素数となるのは [[19|''R''{{sub|19}}]]。
*2! + 1 = 3 となり、''n''! + 1 の形で素数になる2番目の数である。1つ前は[[1]]。次は[[3]]。
*2{{sup|2}} + 1 = 5 となり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で素数を生む2番目の数である。1つ前は1、次は4。
*2{{sup|2}} − 1 = 3 となり、''n''{{sup|2}} − 1 の形で素数を生む唯一の数である。
* [[三角数]]の2倍の[[矩形数]]には含まれるが、[[多角数]]ではない。
*[[コンピュータ]]の演算には'''[[二進法]]'''が使われる。これは、「[[0]] と [[1]]」(色で言えば「[[白]]と[[黒]]」) の2系統だけを用いることに因む。
*[[直線|線]]([[直線]]・[[曲線]]共に)は、2個の[[点 (数学)|点]]で初めて形成される。
**1本の直線だけの[[角度]]は[[180]]°となる。([[360]] ÷ 2 = 180)
*{{sfrac|1|2}} = 0.5
**自然数の逆数が小数点以下1桁の[[有限小数]]になるのは、[[十進法]]では他に {{sfrac|1|5}} = 0.2 , {{sfrac|1|10}} = 0.1 のみ。
**[[逆数]]が[[有限小数]]になる最小の数である。次は[[4]]。({{OEIS|A003592}})
** [[三進法]]では、[[十進法]]との関係はなく、[[3|三]](10)は2で割り切れない。10÷2=1.{{underline|1}}11…とどこまでも続く(下線部は[[循環節]])。
*任意の数値 ''x'' について次の式が当てはまる。
:''x'' + ''x'' = 2''x''
:''x'' × ''x'' = ''x''{{sup|2}}
*[[完全数]]の正の[[約数]](自身含む)の[[逆数]]の和は 2 となる。
*√{{overline|2}} = 1.4142135623730950488016887242097... は日本語の語呂合わせで
*:ひとよひとよにひとみごろにみなさんおくこまるし… といった覚え方が存在する。
*√{{overline|2}} ≒ {{sfrac|[[239]]|169}} = 1.414201... これは 239{{sup|2}} = 2 × 169{{sup|2}} − 1 の −1 の項を無視して変形したもの。
*<math>\sqrt{2} -1=\frac{1}{\sqrt{2} + 1}</math> となる。逆に <math>\sqrt{2} +1=\frac{1}{\sqrt{2} -1}</math> ともなる。
*[[リュカ]]は、[[リュカ数]]において <math>L_n</math>の ''n'' の指数が0の場合、値は2とした。
*[[九九]]では 1 の段で 1 × 2 = 2(いんにがに)、2 の段で 2 × 1 = 2(にいちがに)と2通りの表し方がある。九九で2通りの表し方がある整数のうち最小の数である。
*各位の和が2となる[[ハーシャッド数]]は[[100]]までに2個、[[1000]]までに4個、[[10000]]までに7個ある。
*2番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[3]]。
**2を基とする最小のハーシャッド数である。次は[[20]]。
*各位の和([[数字和]])が2となる最小の数である。次は[[11]]。
**各位の和が2になる数で[[素数]]になる最小の数である。次は[[11]]。({{OEIS|A003021}})
*各位の[[平方和]]が4になる最小の数である。次は[[20]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の3は[[111]]、次の5は[[12]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が8になる最小の数である。次は[[20]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の7は[[1111111]]、次の9は[[12]]。({{OEIS|A165370}})
*各位の積が2になる最小の数である。次は[[12]]。({{OEIS|A199986}})
**各位の積が2になる数で最小の[[素数]]である。次は[[211]]。({{OEIS|A107612}})
* 異なる[[平方数]]の和で表せない31個の数の中で最小の数である。次は[[3]]。
* 以下のような[[多重根号#無限多重根号|無限多重根号]]の式で表せる。
*: <math>2 = \sqrt{2+\sqrt{2+\sqrt{2+\sqrt{2+\cdots}}}}</math> , <math> 2 = \sqrt{6-\sqrt{6-\sqrt{6-\sqrt{6-\cdots}}}}</math>
*: <math>2 = \sqrt[3]{6+\sqrt[3]{6+\sqrt[3]{6+\sqrt[3]{6+\cdots}}}}</math> , <math> 2 = \sqrt[3]{10-\sqrt[3]{10-\sqrt[3]{10-\sqrt[3]{10-\cdots}}}}</math>
{|class="wikitable"
|+2 の[[累乗]]値
|-
|2{{sup|2}}||2{{sup|3}}||2{{sup|4}}||2{{sup|5}}||2{{sup|6}}||2{{sup|7}}||2{{sup|8}}||2{{sup|9}}||2{{sup|10}}||2{{sup|11}}||2{{sup|12}}||2{{sup|13}}||2{{sup|14}}||2{{sup|15}}||2{{sup|16}}||2{{sup|17}}||2{{sup|18}}||2{{sup|19}}||2{{sup|20}}||2{{sup|21}}
|-
|4||8||16||32||64||128||256||512||1,024||2,048||4,096||8,192||16,384||32,768||65,536||131,072||262,144||524,288||1,048,576||2,097,152
|}
{|class="wikitable"
|2{{sup|22}}||2{{sup|23}}||2{{sup|24}}||2{{sup|25}}||2{{sup|26}}||2{{sup|27}}||2{{sup|28}}||2{{sup|29}}
|-
|4,194,304||8,388,608||16,777,216||33,554,432||67,108,864||134,217,728||268,435,456||536,870,916
|}
== その他 2 に関すること ==
{{出典の明記| date = 2022年2月| section = 1}}
*様々な物事を2つの極に集める傾向が強くなることを、「二極集中」と言う。
*「二者択一」とは2つの物事に対して、いずれか一方を選択することを言う。
*2 は、[[核物理学]]において、[[8]], [[20]], [[28]], [[50]], [[82]], [[126]] と共に、[[原子核]]中の[[陽子]]、もしくは、[[中性子]]の数がこれらの数である場合、その原子核は安定しやすくなる、[[魔法数]]の一つとして知られている。
*整数において、2 で割り切るものは偶数とする。
=== 言語・表記 ===
*[[和語]]系[[数詞]]の「ふた」は本来単独で用いることができず、「ふた-つ(2つ)」「ふた-り(2人)」「ふた-くみ(2組)」などのように[[接尾辞]]([[助数詞]])を伴って用いられる。ただし、発音上で他の数と紛らわしさを避けるために特に「ふたじゅうふた (22)」、「フタフタマルマル (22:00)」などと呼ぶことがある。
*[[英語]]圏では、2 (two) の発音が“to”と同じであることから、“to”の意味で 2 と表記することがある。
*: 例:“[[Peer to Peer]]”→“P2P”
*[[花札]]を用いて行われる[[ゲーム]]の1つ[[おいちょかぶ]]では、2 を「ニゾウ」と呼ぶ。
*2の接頭辞:bi([[ラテン語|拉]])、di、dy([[ギリシャ語|希]])
**bicycle([[二輪車]])、biennale([[ビエンナーレ]]、2年に1回)、dioxide([[二酸化物]])、dyad([[対]]、[[ペア]])、など。化学分野の接頭辞「ディ(ジ)」。
*2[[倍]]、2重のことを'''[[ダブル]]''' (double)、[[1/2|{{sfrac|1|2}}]] を'''[[ハーフ]]''' (half) という。
*[[二人組]]を'''[[デュオ]]'''、[[二重奏]]を'''[[デュエット]]'''という。
*通常の視力検査では、測ることのできる最大の視力は 2.0 である。
=== 2の付く言葉 ===
*2 は対立や背反の意味を伴うことが多い。例:「二者」「二分化」「[[二股]]」
*[[二頭政治]] (diarchy):2者の最高権力者から成る政治形態である。
*“○○2.0”という使い方で、「次世代の○○」のような意味に使われることがある。→[[Web 2.0]]
*日本では[[双生児]]のことを、俗に'''二子'''・'''双子'''(ふたご)と呼んでいる。ちなみに、[[ふたご座]]という[[星座]]も存在する。
*[[麻雀]]の和了役(あがり役)に[[二盃口]]という役が存在する。また、ローカルルールに[[二翻縛り]]、昭和ルールとして2翻付け足して公式の翻数とする「[[バンバン]]」ルールが存在する。
*[[二線路]]
*[[二人三脚]]
*[[二次創作]]
*[[二次災害]]
*[[第二次世界大戦]]
*[[ことわざ]]・[[四字熟語]]
** [[一石二鳥]]
** 二者択一
** 二兎を追う者は一兎をも得ず
** 天は二物を与えず
=== 第2のもの ===
*[[2年|西暦2年]]
*[[紀元前2年]]
*[[原子番号]] 2 の[[元素]]は[[ヘリウム]] (He) である。
*[[年始]]から数えて2日目は[[1月2日]]。
*[[太陽系]]第2[[惑星]]は[[金星]]である。[[太陽]]に近い順に数えて2番目の惑星でもある。
*[[タロット]]の[[大アルカナ]]でIIは[[女教皇]]。
*[[易占]]の[[六十四卦]]で第2番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#坤|坤為地]]。
*第2代[[天皇]]は[[綏靖天皇]]とされる。
*2番目の元号は白雉である。
*[[日本]]の2代目の[[内閣総理大臣]]は、[[黒田清隆]]。
*[[大相撲]]の第2代[[横綱]]は[[綾川五郎次 (初代)|綾川五郎次]]である。
*第2代[[殷]]王は[[外丙]]である。
*第2代[[周]]王は[[成王 (周)|成王]]である。
*第2代[[教皇|ローマ教皇]]は[[リヌス (ローマ教皇)|リヌス]](在位:[[66年]]? - [[78年]]?)である。
*[[日本]]で2番目に開局した地上波テレビ局はラジオ東京テレビジョン(KRTテレビ)であり、現在の [[TBSテレビ]]である。
*第2代[[アメリカ合衆国大統領]]は、[[ジョン・アダムズ]]である。
*[[クルアーン]]における第2番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[雌牛 (クルアーン)|雌牛]]である。全スーラ中、最長の287節を持つ。
*[[五十音順]]における2番目は「い」である。
*英語の[[アルファベット順]]における2番目はbである。
=== 番号 ===
*[[野球]]で[[守備番号]] 2 番は[[捕手]]。
**これに因み、[[野球の背番号|背番号]]を2にする捕手(元[[阪神タイガース]]の[[城島健司]]など)も存在する。
*[[サッカーの背番号]] 2 番は、右[[ディフェンダー (サッカー)#サイドバック|サイドバック]](RSB)が付けることが多い。
*自動車で、普通自動車のうち11人以上乗れる車(主に[[バス (車両)|バス]])の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]の分類番号の上1桁には2が付けられる(2ナンバーともいう)。
*自動車のナンバープレートの希望番号制で「・・・2」は、かつて抽選対象の番号だったが、[[2001年]][[1月4日]]に抽選対象から外された。なお、[[軽自動車]]については、2005年の分類番号3桁化開始当初から抽選不要であるため、一般払い出しにおける各平仮名の最初の番号となっている。
*[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の地上デジタル放送の[[リモコンキーID]]は日本全国共通で 2。BSデジタルの ID2(BS102) は、かつては[[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]で、[[NHK BS1]] のマルチ編成休止中は ID1(BS101) と同内容。[[NHK BS8K]]のリモコンキーIDも 2。
*[[秋田県]][[鹿角市]]、[[長野県]][[北信地方|北信]]・[[東信地方|東信]]・[[松本盆地]]、[[福井県]][[小浜市]]、[[近畿広域圏|近畿2府4県]]、[[岡山県]][[津山市]]、[[愛媛県]][[東予]]地方、[[沖縄本島]]の[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]および [[九州朝日放送|KBCテレビ]]の[[北九州市|北九州]]中継局の VHFアナログテレビは'''2ch'''(上記各局はリモコンキーIDが全て1)。[[秋田県]][[秋田平野]]、[[福島県]][[中通り]]、[[静岡県]][[静岡市]]、[[岐阜県]][[高山市]]、愛媛県[[松山平野]]、[[熊本県]][[熊本平野]]等は NHK教育テレビのアナログテレビも '''2ch'''。
*JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「02」は[[青森県]]。
=== 固有名詞 ===
*[[マツダ・MAZDA2|マツダ・2]](旧日本名・[[マツダ・デミオ|デミオ]])
*[[トヨタ・マークII]]
*[[2 (小説)]] - [[野﨑まど]]の小説の題名。
*[[II (林部智史のアルバム)]] - [[林部智史]]のアルバム名。読みはセカンド。
== 2個1組の概念 ==
{{独自研究|date=2020年7月12日 (日) 12:38 (UTC)|section=1}}
*[[0]] と [[1]]([[二進法]])
*[[有]]と[[無]]
*開と閉([[扉|門扉]])
*[[白]]と[[黒]]
*[[善]]と[[悪]]
*[[生]]と[[死]]
*[[表と裏]]([[方位]])
*[[陰陽|陰と陽]]
*[[正の数と負の数|正と負]]
*[[男性|男]]と[[女性|女]]([[ヒト]]の[[性別]])
*[[雄]]と[[雌]](動植物の性別)
*[[大]]と[[小]]
*[[勝]]と[[敗]]
*[[前]]と[[後]]
*[[左右|右と左]]
*[[上下|上と下]]
*[[内]]と[[外]]
*[[静]]と[[動]]
*[[与党]]と[[野党]](政治界の与野党)
*[[天]]と[[地]]
*[[偶数]]と[[奇数]]('''丁と半'''、[[数]]的概念)
*[[月]]と[[太陽|日]]
*月と[[天体|星]]
*[[金]]と[[銀]]
*受動と能動
*北と南
**[[磁極|N極とS極]]
**北極と南極
*物と[[事]]
*[[売買|売と買]]
*[[成功]]と[[失敗]]
*[[衆議院]]と[[参議院]](日本での[[二院制]])
*[[新]]と[[旧]]
* 文と武。両立することを「[[文武両道]]」と言う。現代では勉学とスポーツを両立させること。
*[[若]]と[[老]]
== 符号位置 ==
{{特殊文字}}
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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|}
==他の表現法==
{{Number other reps
|Number=Two
|NATO=Bravo
|Morse=・・---
|Character=B2
|Braille=⠃
}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|2}}
{{Wiktionarypar|二}}
{{Wiktionarypar|ふたつ}}
{{Wiktionarypar|two}}
{{Wiktionarypar|second}}
{{Wiktionarypar|Ⅱ}}
{{Wiktionarypar|ⅱ}}
*[[:Category:数]](数の一覧)
**[[0]] [[1]] '''2''' [[3]] [[4]] [[5]] [[6]] [[7]] [[8]] [[9]]
**[[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]] ... [[1000]] ... [[10000]]
**[[−2]]
**[[1/2|{{sfrac|1|2}}]]
**[[2の平方根|√{{overline|2}}]]
*西暦[[2年]] [[紀元前2年]] [[2002年]] [[1902年]] [[2世紀]] [[2020年|令和2年]] [[1990年|平成2年]] [[1927年|昭和2年]] [[1913年|大正2年]] [[明治2年]] [[2月]]
*[[名数一覧]]
*[[2号線]] [[地下鉄2号線]] [[環状2号線]] (曖昧さ回避)
*[[第2王朝 (曖昧さ回避)]]
*[[ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧]]
*[[ツヴァイ]]([[ドイツ語]])
=== 漢数字 ===
* 片仮名の「[[ニ]]」に酷似する。
* [[Unicode]][[康煕部首]] (Unicode Kangxi Radicals) の「'''[[二部|⼆]]'''」(U+2F06; [[二部]])に酷似する。
{{自然数}}
{{2^n}}
{{Normdaten}}
[[Category:2 (数字)|*]]
[[Category:数字]]
[[Category:数学に関する記事|/2]]
|
2003-07-11T15:42:03Z
|
2023-12-28T08:39:21Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/2
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1
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1(一、壱、壹、弌、いち、ひと、ひとつ)は、最小の正の整数である。0 を自然数に含めない流儀では、最小の自然数とも言える。整数の通常の順序において、0 の次で 2 の前の整数である。1 はまた、実数を位取り記数法で記述するための数字の一つでもある。
「無」を意味する 0 に対して、1 は有・存在を示す最原初的な記号なので、物事を測る基準単位、つまり数や順序を数える際の初めである。
英語では、基数詞でone、序数詞では、1st、first となる。
ラテン語では unus(ウーヌス)で、接頭辞 uni- はこれに由来する。
0 を除いて最小の自然数であり、自然数のうちで最小の奇数でもある。任意の数 x に 1 を掛けても x のままであるので、1 は乗法に関する単位元と呼ばれる。
この性質より、1 は 1 自身の階乗であり、
自乗であり、より一般の累乗でもある。
0 以外の任意の数の0乗は 1 である。
多くの場合、0の階乗や0の0乗は規約により 1 とされる。
西洋で今日 1 を表す数字の字形は垂直に立った棒であるが、単なる線と区別するために、しばしば上部にひげ飾りが付けられたり、下部に水平の短い線が付けられたりする。アラビア数字はインドに起源を持ち、古くは漢字の「一」のように水平の線で 1 を表していた。グプタ文字ではやや丸まった線になり、デーヴァナーガリーではときに左端に小さな黒丸が付された。これが90度回転して 9 に似た字形になり、グジャラート語やパンジャーブ語の文字で現在用いられる字形になった。ネパール語でも回転した字形を用いるが、黒丸が残っている。この黒丸が上部のひげ飾りになった一方、下部の短い水平の線はローマ数字の I からきたものと考えられる。ドイツなどのいくつかのヨーロッパの国では、1 のひげ飾りを比較的長く書くため、他国での 7 の字形に近くなって誤解を生じやすい。そのような国では、7 を書くときに垂直の線に水平の線を入れて区別する。
現代のほとんどの欧文の書体において、1 は h と同じ高さであるが、古典的な書体の中には のように x と同じ高さであるものもある。古いタイプライタには 1 のキーが無いものがあり、代わりに似た字体である小文字の l (エル)を用いた。また、体積の単位のリットルの記号は、単位名称が人名由来ではないため本来は小文字の l となるが、数字の 1 と似ていて紛らわしいことから大文字の L とすることが推奨されている。
装飾の目的のため、1 の代わりに大文字の J を用いる例も見られる。
抽象代数学では、乗法群やモノイドの単位元を 1 で表すことがあるが、e(ドイツ語の Einheit に由来する)で表す方がより伝統的である。整数に限らない一般の環において、乗法における単位元を 1 で表し、加法における単位元を 0 で表すことは一般的である。1 を n 回足して 0 になるとき、その環の標数は n であるという。通常の整数では 1 を何度繰り返し足しても 0 にはならないため、そのような環の標数は 0 と定める。例えば標数 2 の体は、符号理論などに応用を持つ。通常の体の定義は、1 と 0 が等しくないことを要求するので、標数 1 の体は存在しないが、一元体という概念はある。ただし、それは単集合ではない。
大日本帝国の陸軍および海軍で、兵器名称における「一式」は皇紀2601年 (1941年、昭和16年) に制定されたことを示す。
番号付けとして1番を与えられた兵器 (国名はISO 3166-1の2文字コード順)
1 を始点とする概念や体系には、以下のものがある。
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"text": "1(一、壱、壹、弌、いち、ひと、ひとつ)は、最小の正の整数である。0 を自然数に含めない流儀では、最小の自然数とも言える。整数の通常の順序において、0 の次で 2 の前の整数である。1 はまた、実数を位取り記数法で記述するための数字の一つでもある。",
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"text": "「無」を意味する 0 に対して、1 は有・存在を示す最原初的な記号なので、物事を測る基準単位、つまり数や順序を数える際の初めである。",
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"text": "西洋で今日 1 を表す数字の字形は垂直に立った棒であるが、単なる線と区別するために、しばしば上部にひげ飾りが付けられたり、下部に水平の短い線が付けられたりする。アラビア数字はインドに起源を持ち、古くは漢字の「一」のように水平の線で 1 を表していた。グプタ文字ではやや丸まった線になり、デーヴァナーガリーではときに左端に小さな黒丸が付された。これが90度回転して 9 に似た字形になり、グジャラート語やパンジャーブ語の文字で現在用いられる字形になった。ネパール語でも回転した字形を用いるが、黒丸が残っている。この黒丸が上部のひげ飾りになった一方、下部の短い水平の線はローマ数字の I からきたものと考えられる。ドイツなどのいくつかのヨーロッパの国では、1 のひげ飾りを比較的長く書くため、他国での 7 の字形に近くなって誤解を生じやすい。そのような国では、7 を書くときに垂直の線に水平の線を入れて区別する。",
"title": "数字としての1"
},
{
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"tag": "p",
"text": "現代のほとんどの欧文の書体において、1 は h と同じ高さであるが、古典的な書体の中には のように x と同じ高さであるものもある。古いタイプライタには 1 のキーが無いものがあり、代わりに似た字体である小文字の l (エル)を用いた。また、体積の単位のリットルの記号は、単位名称が人名由来ではないため本来は小文字の l となるが、数字の 1 と似ていて紛らわしいことから大文字の L とすることが推奨されている。",
"title": "数字としての1"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "装飾の目的のため、1 の代わりに大文字の J を用いる例も見られる。",
"title": "数字としての1"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "抽象代数学では、乗法群やモノイドの単位元を 1 で表すことがあるが、e(ドイツ語の Einheit に由来する)で表す方がより伝統的である。整数に限らない一般の環において、乗法における単位元を 1 で表し、加法における単位元を 0 で表すことは一般的である。1 を n 回足して 0 になるとき、その環の標数は n であるという。通常の整数では 1 を何度繰り返し足しても 0 にはならないため、そのような環の標数は 0 と定める。例えば標数 2 の体は、符号理論などに応用を持つ。通常の体の定義は、1 と 0 が等しくないことを要求するので、標数 1 の体は存在しないが、一元体という概念はある。ただし、それは単集合ではない。",
"title": "抽象代数"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国の陸軍および海軍で、兵器名称における「一式」は皇紀2601年 (1941年、昭和16年) に制定されたことを示す。",
"title": "その他 1 に関すること"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "番号付けとして1番を与えられた兵器 (国名はISO 3166-1の2文字コード順)",
"title": "その他 1 に関すること"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1 を始点とする概念や体系には、以下のものがある。",
"title": "1を始点とする概念"
}
] |
1(一、壱、壹、弌、いち、ひと、ひとつ)は、最小の正の整数である。0 を自然数に含めない流儀では、最小の自然数とも言える。整数の通常の順序において、0 の次で 2 の前の整数である。1 はまた、実数を位取り記数法で記述するための数字の一つでもある。 「無」を意味する 0 に対して、1 は有・存在を示す最原初的な記号なので、物事を測る基準単位、つまり数や順序を数える際の初めである。 英語では、基数詞でone、序数詞では、1st、first となる。 ラテン語では unus(ウーヌス)で、接頭辞 uni- はこれに由来する。
|
{{整数}}
[[ファイル:一-order.gif|thumb|100px|「一」の筆順]]
'''1'''('''一'''、'''壱'''、'''壹'''、'''弌'''、いち、ひと、ひとつ)は、最小の[[正の数と負の数|正]]の[[整数]]である。[[0]] を[[自然数]]に含めない流儀では、最小の自然数とも言える。整数の通常の[[順序集合|順序]]において、0 の次で [[2]] の前の整数である。1 はまた、[[実数]]を[[位取り記数法]]で記述するための[[数字]]の一つでもある。
「[[無]]」を意味する 0 に対して、1 は[[有]]・[[存在]]を示す最原初的な[[記号]]なので、物事を測る基準単位、つまり[[数]]や[[順序]]を数える際の初めである。
[[英語]]では、[[基数詞]]でone、[[序数詞]]では、{{lang|en|1[[序数標識|st]]}}、{{lang|en|''[[ファースト|first]]''}} となる。
[[ラテン語]]では {{lang|la|unus}}(ウーヌス)で、[[接頭辞]] {{lang|la|uni-}} はこれに由来する。
== 数としての1 ==
0 を除いて最小の自然数であり、自然数のうちで最小の[[奇数]]でもある。任意の数 ''x'' に 1 を掛けても ''x'' のままであるので、1 は[[乗法]]に関する[[単位元]]と呼ばれる。
:<math>x \times 1 = 1 \times x = x \,.</math>
この性質より、1 は 1 自身の[[階乗]]であり、
:<math>1! = 1</math>
[[自乗]]であり、より一般の[[冪乗|累乗]]でもある。
:<math>1^x = 1\,.</math>
0 以外の任意の数の0乗は 1 である。
:<math>x^0 = 1 \qquad (x \ne 0)\,.</math>
多くの場合、0の階乗や[[0の0乗]]は規約により 1 とされる。
:<math>\begin{align}
0^0 &:= 1,\\
0! &:= 1\,.
\end{align}</math>
== 数字としての1 ==
[[ファイル:Evolution1glyph.svg|thumb|1 を表す数字の字形の変遷]]
[[ファイル:Clock 24 J.jpg|thumb|[[ヴェネツィア]]の時計台の24時間計。1の代わりに大文字の ''J'' を用いている。]]
西洋で今日 1 を表す数字の[[字形]]は垂直に立った棒であるが、単なる線と区別するために、しばしば上部にひげ飾りが付けられたり、下部に水平の短い線が付けられたりする。[[アラビア数字]]は[[インド亜大陸|インド]]に起源を持ち、古くは[[漢字]]の「一」のように水平の線で 1 を表していた。[[グプタ文字]]ではやや丸まった線になり、[[デーヴァナーガリー]]ではときに左端に小さな黒丸が付された。これが90度回転して [[9]] に似た字形になり、[[グジャラート語]]や[[パンジャーブ語]]の文字で現在用いられる字形になった。[[ネパール語]]でも回転した字形を用いるが、黒丸が残っている<ref>Georges Ifrah, ''The Universal History of Numbers: From Prehistory to the Invention of the Computer'' transl. David Bellos et al. London: The Harvill Press (1998): 392, Fig. 24.61</ref>。この黒丸が上部のひげ飾りになった一方、下部の短い水平の線は[[ローマ数字]]の I からきたものと考えられる。[[ドイツ]]などのいくつかのヨーロッパの国では、1 のひげ飾りを比較的長く書くため、他国での [[7]] の字形に近くなって誤解を生じやすい。そのような国では、7 を書くときに垂直の線に水平の線を入れて区別する。
現代のほとんどの欧文の[[書体]]において、1 は h と同じ高さであるが、古典的な書体の中には [[Image:TextFigs148.svg]] のように x と同じ高さであるものもある。古いタイプライタには 1 のキーが無いものがあり、代わりに[[ホモグリフ|似た字体]]である小文字の l (エル)を用いた。また、体積の単位の[[リットル]]の記号は、単位名称が人名由来ではないため本来は小文字の l となるが、数字の 1 と似ていて紛らわしいことから大文字の L とすることが推奨されている。
装飾の目的のため、1 の代わりに大文字の J を用いる例も見られる。
== 性質 ==
*1 はちょうど1個の正の整数で割り切れる唯一の正整数である(素数はちょうど2つの正の整数で割り切れ、[[合成数]]は3個以上の整数で割り切れ、0 はすべての整数で割り切れる。)
**[[約数]]の和は1。
***[[約数]]の和が奇数になる最小の数である。次は[[2]]。
***最小の[[倍積完全数]]である。次は[[6]]。また約数の和が自分自身になる唯一の数である(1倍完全数)。
***最小の[[高度合成数]]である。[[奇数]]で唯一の高度合成数である。次は[[2]]。
*** 1 = 2<sup>0</sup> × (2<sup>1</sup> − 1)
**** 2<sup>''n''−1</sup> × (2<sup>''n''</sup> − 1) で[[完全数]]にならない最小の数である。次は[[120]]。({{OEIS|A144858}})
*** 1 = σ(1) (ただし σ は[[約数関数]])
**** ''N'' = σ(''N'') を満たす唯一の整数である。(ただしσは[[約数関数]])
**[[約数]]の和の[[平均]]が整数になる最小の数である。次は[[56]]。({{OEIS|A047727}})
*[[実数]]、[[複素数]]における[[乗法|乗算]]の[[単位元]]である。<!--
*実数の十進小数展開として、1は 1.000... と [[0.999...]] の2つの表現を持つ。-->
*乗算と[[除法|除算]]においては、1 を乗数や除数とする演算の積や商は、被乗数や被除数と同じ数になる。
*[[累乗]]では、指数が 0 の場合、値は必ず 1 となる。
*過去には、素数の定義として「1 と自分自身で割り切れる整数」を採用することにより、1 を素数と見なす数学者もいた。1 を素数と公言した最後の数学の専門家は、[[1899年]]の[[アンリ・ルベーグ]]である。現代では、1 は素数でも[[合成数]]でもなく、−1 や[[ガウス整数]]における [[虚数単位|''i'']] および −''i'' などと同じく[[可逆元|単数]]であるとされる。[[算術の基本定理]]によれば、単数の違いを違いと見なさなければ、[[素因数分解]]は一意である(例えば 2 = 2{{sup|1}} = 1{{sup|3}} × (−1){{sup|2}} × 2{{sup|1}} だが、この2つの分解は同じと見なす)。
*[[位取り記数法]]の底に用いることができない。[[画線法]]は底 1 の記数法([[一進法]])と言われることがあるが、これは位取り記数法ではない。
*[[関数 (数学)|関数]] 1{{sup|''x''}} は常に 1 に等しく[[逆写像|逆関数]]を持たないため、底 1 の[[対数]]は定義しない。
**最小の[[自己同形数]]である。次は[[5]]。
*あらゆる種類の[[図形数]]、例えば[[三角数]]、[[三角錐数]]、[[五角数]]、[[六角数]]、[[中心つき六角数]]の最初の数である。
**次の[[多角数|''n''角数]]は ''n'' 、[[中心つき多角数|中心つき''n''角数]]、''n''角錐数は ''n'' + 1 、[[八面体数]]は[[6]] 、[[平方三角数]]は [[36]] である。詳しくは下記の2桁までの自然数を参照。
**三角数が三角数になる約数の個数をもつ最小の数である。次は[[28]]。({{OEIS|A116541}})
**三角数が三角数になる約数の個数をもつ数の中で前の数を上回る個数をもつ最小の数である。次は[[28]]。({{OEIS|A076172}})
**三角数の数列において、1 から ''a'' までの和の初めて ''n'' 桁となる ''a'' の値とみたとき、次は[[4]]。({{OEIS|A068092}})
* 1 = 1{{sup|1}} = 1{{sup|2}} = 1{{sup|3}} = 1{{sup|4}} …
**なんらかの[[累乗数]]の最初の数である。
***次の数については[[1#関連項目|後術]]を参照。
***''n''{{sup|''n''}} で表される最小の数である。次は[[4]]。
***''n''{{sup|''n''{{sup|''n''}}}} で表される最小の数である。次は[[16]]。
* 最小の[[カタラン数]]である。次は[[2]]。
* 最小の[[高度トーティエント数]]である。次は[[2]]。また、[[奇数]]の中では唯一[[ノントーティエント]]ではない。
* 1 = 2<sup>1</sup> − 1
**最小の[[メルセンヌ数]]である。次は[[3]]。
*1{{sup|2}} + 1 = 2 であり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で素数を生む最小の数である。次は[[2]]。
*1[[階乗|!]] + 1 = 2 であり、''n''! + 1 の形で素数を生む最小の数である(0! の時も実際の値は同じである)。次は[[2]]。
*[[フィボナッチ数|フィボナッチ数列]]の最初の数かつ2番目の数でもあり、その他の多くの整数列の最初の数である。フィボナッチ数列の次の数は [[2]] 。整数列を集めた[[ニール・スローン]]の最初の本 Handbook of Integer Sequences では、1 で始まらない数列にも慣習として最初に 1 を加え、その 1 は数列を順序付ける[[辞書式順序]]の考慮外とした。改訂版の Encyclopedia of Integer Sequences およびウェブ上の後継である[[オンライン整数列大辞典]]では、数列の最初に並んだ 0 や 1 は辞書式順序の考慮外となっている。
*最小の[[ベル数]]である。次は[[2]]。
*[[交互階乗]]の最小の数かつ2番目の数でもあり、2番目の場合、2! − 1! = 2 − 1 である。次は[[5]]。
*[[単位ベクトル]]の長さであり、[[単位行列]]の[[行列式]]である。
*[[確率論]]において、[[確率]]の[[最大と最小|最大値]]であり、必ず起こる[[確率論|事象]]の確率である。
*[[統計学]]において、[[相関係数]]は −1 から 1 の間の値を取り、1 に近いほど正の相関が強い。
*自然数を定式化する方法によって、1 は異なる表現を持つ。
*[[ペアノの公理]]では、1 は 0 の後者である。すなわち、1 = {0} = {Ø} である(Ø は[[空集合]])。
*[[プリンキピア・マテマティカ]]では、1 は[[単集合]](1つの元のみを持つ集合)全ての集合と定義される。
*[[古代エジプト]]では、{{sfrac|2|3}} と {{sfrac|3|4}} は別格として、一般の[[分数]]を、分子が 1 で分母が異なるいくつかの分数の和として表した。例えば、{{sfrac|2|5}} = {{sfrac|1|3}} + {{sfrac|1|15}} などである。分子が 1 の分数、あるいはそれらの和で表す形式は、[[単位分数]]または[[エジプト式分数]]と呼ばれる。
*全ての項が 1 である数列の[[母関数]]は次で与えられる。
*:<math>\frac{1}{1-x} =1+x+x^2 +x^3 +\cdots</math>
:この級数は、|''x''| < 1 のときに限り収束する。
*自然界に出現する数値や[[2の冪]]などの数学的対象の多くは[[ベンフォードの法則]]に従い、1 で始まるものが最多で全体の約30 %を占める。
*最小の[[リュカ数]]である。次は[[3]]。また、初項[[2]]の後者である。
*1 = 1[[階乗|!]]
**最小の[[階乗数]]である。次は2。
** ''n''! が ''n'' 桁となる数である。他には [[22]] と [[23]] と [[24]] しかない。
*[[級数]] [[1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + ⋯|{{sfrac|1|2}} + {{sfrac|1|4}} + {{sfrac|1|8}} + {{sfrac|1|16}} + ⋯]] は 1 に収束する。
*約数の和が 1 になる数は1個ある (1) 。[[約数]]の和1個で表せる最小の数である。次は[[3]]。
**約数の和が奇数になる最小の奇数である。次は[[3]]。
**[[倍積完全数]]の約数の和としては最小の数である。次は[[12]]。
**約数の和 ''n'' 個で表せる ''n'' 番目の数である。次は[[18]]。
**約数の和の個数別の最小でいうと、これも最小にあたる(1個)。次は[[12]](2個)。
* 連続してある数に対して[[約数の和]]を求めていった場合1個の数が 1 になる。その最小の数。次は[[4]](2個)。いいかえると <math>\sigma^m(n)=1~(m\geqq 1)</math> を満たす ''n'' が1個あるということである。(ただし σ は[[約数関数]])({{OEIS|A241954}})
*[[九九]]においては、1 の段で 1 × 1 = 1(いんいちがいち)と表し方が 1 通りしかない。九九で表し方が 1 通りのしかない数は他に [[25]], [[49]], [[64]], [[81]] があり、計5つである。
*各位の和が 1 となる[[ハーシャッド数]]は [[100]] までに3個、[[1000]] までに4個、[[10000]] までに5個ある。
**各位の和が 1 となる数は、全てハーシャッド数。そのような数は、[[十進法]]では他に [[3]] と [[9]] しかない。
* 最小のハーシャッド数である。次は[[2]]。
**1 を基とする最小のハーシャッド数である。次は[[10]]。
** ''n'' を基とする ''n'' 番目のハーシャッド数である。次は[[20]]。
** 各位の和([[数字和]])が ''n'' となる ''n'' 番目の数。次は[[11]]。
**[[平方数]]がハーシャッド数になる最小の数である。次は[[4]]。
**[[立方数]]がハーシャッド数になる最小の数である。次は [[8]]。
**[[三角数]]がハーシャッド数になる最小の数である。次は [[3]]。
**[[フィボナッチ数]]がハーシャッド数になる最小の数である。次は[[2]]。
*各位の積が 1 になる最小の数である。次は[[11]]。({{OEIS|A000042}})
* 最小の[[カプレカ数]](第1定義)。次は[[9]]。
* 1 の約数の個数は1個になり 1 の1倍になる。1~''n'' までの約数の個数が ''n'' の整数倍になる最小の数である。次は[[4]](2倍)。({{OEIS|A050226}})
== 抽象代数 ==
[[抽象代数学]]では、乗法[[群 (数学)|群]]や[[モノイド]]の[[単位元]]を ''1'' で表すことがあるが、''e''([[ドイツ語]]の Einheit に由来する)で表す方がより伝統的である。整数に限らない一般の[[環 (数学)|環]]において、乗法における単位元を 1 で表し、[[加法]]における単位元を 0 で表すことは一般的である。1 を ''n'' 回足して 0 になるとき、その環の[[標数]]は ''n'' であるという。通常の整数では 1 を何度繰り返し足しても 0 にはならないため、そのような環の標数は 0 と定める。例えば標数 2 の[[可換体|体]]は、[[符号理論]]などに応用を持つ。通常の体の定義は、1 と 0 が等しくないことを要求するので、標数 1 の体は存在しないが、[[一元体]]という概念はある。ただし、それは単集合ではない。
== その他 1 に関すること ==
*西洋の[[数秘術]]では、1 は万物の始まり、唯一絶対であること、神などを象徴する。
*[[デジタル]]で状態を表すときの、2個の要素の内の一つであり、[[デジタル信号]]で、信号がアクティブである場合を表す。
=== 言語・表記 ===
*[[大和言葉|和語]]系[[数詞]]の「ひと」は単独で用いることはできず、「ひと - つ(一つ)」「ひと - よ(一夜)」など[[接尾辞]]([[助数詞]])を伴って用いられる。
**ただし、[[通話表#和文通話表|通話表]]で 1 を送る場合「数字の'''ひと'''」と送られる。
*[[暦]]で[[月 (暦)|月]]の第1日を意味する「ついたち」は「月立ち」が転訛したものである。時間としての1日(24時間)を和語系数詞では「ひとひ」と呼ぶが、現代日本語ではほとんど用いられず、専ら[[漢語]]系数詞による「いちにち」が用いられる。
*非常に多くの[[数字]]体系で、1 は1本の棒や1つの点などで表される。
*[[書道]]では、漢字の一は基本の練習文字として多用される。
*「ピンからキリまで」といった慣用句や、[[おいちょかぶ]]というゲームなど、限定された文脈においては、1 を「ピン」と呼ぶ。
*[[日本語]]圏の[[スレッドフロート型掲示板]]において、コメント番号が 1 になることから、1 はそのスレッドを立てた人([[電子掲示板|スレ主]])のこと。
*1 を乗数・除数とする演算の値が元の数と同じになる性質から、1 は、数量の概念としての[[数 (文法)|複数]]に対する[[数 (文法)|単数]]、言語としての[[数 (文法)|複数形]]に対する[[数 (文法)|単数形]]のように、特殊な取り扱いを受けることが多い。
*1 の接頭辞:[[[ラテン語|拉]]]{{lang|lan|uni-}}、[[[ギリシア語|希]]]{{lang|el-latn|mono-}}。
**[[ユニフォーム]] ({{lang|en|uniform}})、[[モノラル]] ({{lang|en|monoral}}) など。
*単一であること、単独であること、1倍、1重を'''[[シングル]]''' (single) という。「[[ダブル]]」に対して使われることも多い。
=== 1 の付く言葉 ===
*「1 のつく日」に開かれた[[市場|定期市]]に由来する[[地名]]である「一日市」「一日市場」は多くの場合「ひといち」「ひといちば」と読まれる。恐らくは「ひとひ・いち(ば)」からの転訛であると思われる。
* 当選に必要な得票数が[[選挙区]]によって異なることを「[[一票の格差]]」という<ref>{{Cite web|和書|title=一票の格差(イッピョウノカクサ)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E7%A5%A8%E3%81%AE%E6%A0%BC%E5%B7%AE-434606|publisher=[[コトバンク]]|accessdate=2018-02-25}}</ref>。
=== 第1のもの ===
*[[原子番号]] 1 の[[元素]]は[[水素]] (H) である。
*[[太陽系]]第1[[惑星]]は[[水星]]であり、[[太陽]]に近い順に数えて1番目の惑星である。
*[[タロット]]の[[大アルカナ]]でIは[[魔術師 (タロット)|魔術師]]。
*[[易占]]の[[六十四卦]]で第1番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#乾|乾為天]]。
*[[1909年]]に制定された形式番号体系による1号[[機関車]](当時の日本の[[鉄道省|官設鉄道]]最小の機関車) - [[国鉄1形蒸気機関車]]
*[[クルアーン]]における第1番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[開端 (クルアーン)|開端]]である。
*年始から1日目は[[1月1日]]。
*JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の 01 は[[北海道]]。すなわち都道府県コードの若い番号順に都道府県を配列したとき、最初になるのは北海道。
*1番目の元号は大化。
=== 番号 ===
[[Image:U+2673 DejaVu Sans.svg|50px|right|thumb|SPIコードの1]]
*リサイクルで使用される[[SPIコード]]で、1 は[[ポリエチレンテレフタラート]]を指す。
==== スポーツ ====
*[[野球]]
**[[守備番号]] 1番は[[投手]]。[[スコアブック]]に記載されるときなどに用いられる。
**[[高校野球]]では、主に[[エース (野球)|エース]]が付ける[[野球の背番号|背番号]]。
**[[日本プロ野球]]・[[読売ジャイアンツ]]では[[王貞治]]内野手が付けていた背番号 1 が[[永久欠番]]となっている。
::かつては[[大阪近鉄バファローズ]]でも[[鈴木啓示]]投手の永久欠番となっていたが、[[2005年]]にオリックス・ブルーウェーブと合併、「[[オリックス・バファローズ]]」が発足したのを機に失効となった<ref group="注">当初、オリックス側でも背番号 1 の扱いが検討されたが、鈴木本人が「自らの永久欠番はあくまで近鉄でのもの」とし、オリックスの背番号 1 継続使用を承諾した。</ref>。
*[[サッカー]]において背番号 1 は[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]が着用する。使用出来るポジションが固定されている唯一の背番号である。
*[[ラグビーユニオン]]において背番号 1 は[[ラグビーユニオンのポジション|左プロップ]],[[ラグビーリーグ]]において背番号1は[[フルバック (ラグビーリーグ)|フルバック]]が着用する(ただしラグビーリーグはこの限りでない)。
*[[モータースポーツ]]において、カーナンバー 1 は前年のチャンピオンドライバーが付ける番号である。ただしカテゴリーによっては使用は任意となっていることもある(例:F1チャンピオン[[ルイス・ハミルトン]]は2015年以降チャンピオンを獲得した翌年も自身の固定ナンバー「[[44]]」を使用しており、「1」は使用していない。)。
*[[バスケットボール]]において、1 は PG([[ポイントガード]])を示す番号である。
==== ナンバープレート ====
*自動車で、普通自動車のうち貨物用途の車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]の分類番号の上1桁には 1 が付けられる(1ナンバーともいう)。
*自動車のナンバープレートの希望番号制で、「・・・1」は抽選対象番号である。
==== テレビのチャンネル ====
*日本の大半の地域は[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]の地上デジタルテレビ放送の[[リモコンキーID]]だが、以下の地域に限りアナログ親局 '''1ch''' の民放に充てている。
**[[北海道]] - [[北海道放送]] (HBC)([[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系列)(JOHR-DTV)
**[[青森県]] - [[青森放送]] (RAB)([[日本ニュースネットワーク|NNN]]・[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]系列)(JOGR-DTV)
**[[宮城県]] - [[東北放送]] (TBC)(JNN系列)(JOIR-DTV)
**[[富山県]] - [[北日本放送]] (KNB) (NNN・NNS系列)(JOLR-DTV)
**[[中京広域圏]] - [[東海テレビ放送|東海テレビ]] (THK)([[フジニュースネットワーク|FNN]]・[[フジネットワーク|FNS]]系列)(JOFX-DTV)
**[[山陰地方]] - [[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]] (NKT)(NNN・NNS系列)(JOJX-DTV)
**[[徳島県]] - [[四国放送]] (JRT)(NNN・NNS系列)(JOJR-DTV)
**[[福岡県]] - [[九州朝日放送]] (KBC)([[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]系列)(JOIF-DTV)
**[[鹿児島県]] - [[南日本放送]] (MBC)(JNN系列)(JOCF-DTV)
*アナログ[[超短波|VHF]]テレビでは[[関東地方]]の他に[[福島県]][[会津盆地]]、[[山梨県]][[甲府盆地]]、[[岡山県]][[新見市]]、[[広島県]][[備後都市圏|福山・尾道地域圏]]、[[高知県]][[安芸市]]及び[[四万十市]]等でNHK総合テレビに '''1ch''' が割り当てられている。[[静岡県]][[伊豆半島]]東部でも NHK総合テレビのことをアナログ時代から「1チャン」で通じることが多い。
*[[NHK BS]]の[[日本における衛星放送|BS2K]]と[[NHK BSプレミアム4K]]の[[4K 8Kテレビ放送|BS4K]]のリモコンキーIDも '''1''' 。
=== 音楽 ===
* [[ビートルズ]]が各国の[[音楽]]チャートで1位になった曲を集めた[[ベスト・アルバム|ベストアルバム]]。邦題は『[[ザ・ビートルズ1]]』。
* [[1 〜ONE〜]]は[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]の曲の一つであり、アルバム名。
* [[Ⅰ (林部智史のアルバム)]]は[[林部智史]]のアルバム。読みはファースト。
* 「1」はゲーム『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』収録曲であり、ボカロP[[164 (音楽家)|164]]によって書き下ろされた曲。<!-- かぎかっこ付きが正式表記です -->
* [[壱 (アルバム)]]
=== 兵器 ===
[[大日本帝国]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]および[[大日本帝国海軍|海軍]]で、兵器名称における「一式」は[[神武天皇即位紀元|皇紀]]2601年 ([[1941年]]、[[昭和]]16年) に制定されたことを示す。
{{定義リスト2|陸軍|* [[一式戦闘機]]
* [[一式中戦車]]
* [[一式砲戦車]]|海軍|* [[一式陸上攻撃機]]}}
番号付けとして1番を与えられた兵器 (国名は[[ISO 3166-1]]の2文字コード順)
{{定義リスト2|{{DEU1871}}/{{DEU1935}}/{{GER}}|* [[レオパルト1]] - 戦車
* [[V1飛行爆弾]] - ミサイル兵器
* [[I号戦車]] - 軽戦車
* [[ティーガーI]] - 重戦車
* [[マルダーI]] - 対戦車自走砲|{{FRA}}|* [[ミラージュF1 (戦闘機)|ミラージュF1]] - 戦闘機|{{UK}}|* [[チャレンジャー1]] - 戦車
* [[マチルダI歩兵戦車]] - 歩兵戦車
* [[マーク I 戦車]] - 戦車
* [[TOG 1重戦車]] - 重戦車|{{Flagcountry|JPN}}/{{JPN1889}}|* [[F-1 (航空機)|F-1]] - 航空自衛隊の支援戦闘機
* [[P-1 (哨戒機)|P-1]] - 航空自衛隊の哨戒機
* [[試製1号戦車]] - 大日本帝国陸軍の戦車
* [[第1戦車大隊]]
* [[第1戦車群]]
* [[第1戦車団]]
* [[戦車第1連隊]]|{{SSR1923}}|* [[Yak-1 (航空機)|Yak-1]] - 戦闘機
* [[MiG-1 (航空機)|MiG-1]] - 戦闘機
* [[IT-1]] - 駆逐戦車
* [[BMP-1]] - 歩兵戦闘車
* [[IS-1]] - 重戦車
* [[KV-1]] - 重戦車|{{Flagcountry|アメリカ}}|* [[B-1 (航空機)|B-1]] - 爆撃機
* [[M1エイブラムス]] - 戦車
* [[A-1 (航空機)|A-1]] - 攻撃機
* [[P-1 (戦闘機)|P-1]] - 戦闘機
* [[AH-1 コブラ|AH-1]] - 攻撃ヘリコプター
* [[TV-1]] - 原子力推進戦車}}
=== 固有名詞 ===
*[[日本の銀行一覧|日本の銀行]]では、かつて[[第一銀行]]、その後身の[[第一勧業銀行]](現[[みずほ銀行]])が存在した。なお、みずほ銀行の銀行コード0001は、それを受け継いだもの。
*日本の[[生命保険|生命保険会社]]では、[[第一生命保険|第一生命]]がある。また損害保険では[[第一火災海上保険|第一火災]]や第一ライフ損害保険(現[[損害保険ジャパン日本興亜]])が存在した。
*日本の[[ホテル]]チェーンでは、[[阪急阪神ホテルズ|第一ホテル]]が存在する(会社としての第一ホテルは事実上消滅、現在は[[阪急阪神ホテルズ]](グループ名は阪急阪神第一ホテルグループ)となっている)。なお、徳島には独立系の徳島第一ホテルが存在する。
*九州地方には[[第一工業大学]]という工業系の専門大学が存在。
*[[第一中央汽船]] - [[商船三井]]・[[住友金属工業|住友金属]]系の準大手海運会社。
*第一石産 - [[和歌山県|和歌山]]地盤の中小石油販社。平成22年4月23日に和歌山地裁に自己破産申請。
*[[静岡第一テレビ]] - [[静岡県]]の県域[[テレビジョン放送局|テレビ局]]。資本・ネット系列ともに[[日本テレビ系列]]。
*[[第一三共]]/[[第一三共ヘルスケア]] - 日本の医薬大手。前者は医療用医薬大手、後者は市販用医薬([[一般用医薬品|大衆薬]])大手で、ともに第一三共グループの一角である。
*[[第一家庭電器]] - かつて存在した日本の家電量販店チェーンである。
*[[第一交通産業]] - 日本の大手タクシー会社グループ。
=== 1の付く地名 ===
*[[岩手県]][[一戸町]]
*[[岩手県]][[一関市]]
*[[千葉県]][[一宮町]]
*[[愛知県]][[一宮市]]
*[[高知市]]一宮
== 1を始点とする概念 ==
1 を始点とする概念や体系には、以下のものがある。
*[[順序数]]([[序数詞]])
*[[紀年法]]
*[[日付]]・[[世紀]]
*[[数え年]]
== 符号位置 ==
{{特殊文字}}
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|-
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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==他の表現法==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
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*[[数に関する記事の一覧]]
**[[0]] '''1''' [[2]] [[3]] [[4]] [[5]] [[6]] [[7]] [[8]] [[9]]
**[[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]] … [[1000]] … [[10000]] … [[100000]] … [[1000000]] … [[10000000]] … [[1000000000000]]
**'''1''' [[2]] [[4]] [[8]] [[16]] [[32]] [[64]] [[128]] [[256]] [[512]] [[1024]] [[2048]] [[4096]] [[8192]] [[16384]] [[32768]] [[65536]] [[131072]] [[262144]] [[524288]] … [[16777216]] … [[4294967296]]
**[[−1|−1]]
*西暦[[1年]] [[紀元前1年]] [[2001年]] [[1901年]] [[1世紀]] [[2019年|令和1年]] [[1989年|平成1年]] [[1926年|昭和1年]] [[1912年|大正1年]] [[明治元年|明治1年]] [[1月]]
*[[名数一覧]]
*[[1号線]] [[地下鉄1号線]] [[環状1号線]] (曖昧さ回避)
*[[第1王朝 (曖昧さ回避)]]
*[[1+1|1 + 1]]
*[[0.999...]]
*[[1の冪根]]
{{自然数}}
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{{Normdaten}}
[[Category:数字]]
[[Category:数学に関する記事|/1]]
[[Category:1|*]]
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11,229 |
10
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10(十、拾、什、じゅう、とお)は自然数、また整数において、9 の次で11の前の数である。桁の底が十を超える場合には A と表記され、以降の数も 11 は B 、12 は C ...というようにラテンアルファベットの大文字で表記する。
日本語の訓読みでは、十倍を意味する語尾を「そ」と読む(例:三十を「みそ」と読む)(但し、二十は「はたち」と読む)。漢字の「十」は音読みを「ジッ」もしくは「ジュウ」と発音する(下記参照)。
英語では、基数詞でten、序数詞では10th あるいは tenth となる。
ラテン語では decem(デケム)。
漢字「十」の音読みは、当用漢字音訓表には「ジュウ」と「ジッ」が掲載されている。「ジュウ」は通常の呉音だが、「ジッ」のような促音で終わる漢字音は本来ならありえず、これはイレギュラーに発生した慣用音である。なお漢音はあまり使われないが「シュウ」である。
「ジッ」という漢字音は、「実行(ジッコウ)」のような字音での促音化ならありふれている。「ジッ」も本来は字音での促音化であった。その証拠に、「ジッ」で終わる語はない。「十」の本来の、歴史的仮名遣いでの呉音は「ジフ」だった。この音は「ジク」や「ジツ」のように、熟語音では頻繁に促音化し「ジッ」になった。
「ジフ」の「フ」は入声を表したものであり、「十」という漢字が日本に導入された頃の中国語(中古音)では dzyip(ジプ)のような発音だった。その証拠に、日本語・北方語以外の漢字圏の多くの言語では入声音が存続している。例えば現代朝鮮語では십(sip、シップ)である。このため、/‐t/(‐ツ) や /‐k/(‐ク)で終わる他の入声音と同様に、促音化を起こしたのである。日本語には本来閉音節(子音で終わる音)がないため、語尾に母音の u を補うと「ジプ」となるが、拗音や濁音の表記法が未発達な時代には、仮名では「シフ」と宛てて表現するほかなかった。後ろにp音、k音、t音などの詰まる音が来る際には、本来の発音が想起され「十把(じっぱ)」「十個(じっこ)」「十頭(じっとう)」など、「ジッ」という発音となる。しかし、それ以外の音が来た場合、例えば「十枚」の読み表記は「しふまい」となり、音便化されて「ジューマイ」と発音される。「ジュウ」の読みはこれに由来する。中世に唇音退化によるハ行子音の消失と二重母音の長母音化が起こり、「ジフ」は「ジュウ」に変化した。「ジュウ」という漢字音は促音化を起こさないので、「ジッ」はどんな音が促音化したのかわかりにくくなり、音訓表では独立した漢字音として認められた。
さらに江戸時代以降、拗音の表記法の未整備や、人的交流の活発化による他地方の方言の影響から、主に江戸や関東地方において「ジッ」の読みが「ジュッ」と発音されることも多くなった。現在では東京方言の影響の大きさもあって、後者の「ジュッ」の読みも多くの地方で使われており、NHK でも認められている。また、平成22年に見直しが行われた常用漢字本表でも「ジュッ」が加えられ、漢字テスト等で誤りとされることはなくなったが、この変更を知らない教師もまだ多い。
同様の現象は /‐p/(つまり歴史的仮名遣いで「‐フ」)入声で終わっていた漢字音では他でも起こりえた。「十」の大字として用いられる「拾」は音訓表には「ジュウ」(と「シュウ」)しかないが、歴史的仮名遣いでは「ジフ」で促音化を起こしえ、拾得(唐代の僧侶の名)は「ジットク」と読む。「合」は「ガフ」「カフ」の促音化が合併(ガッペイ)・合戦(カッセン)などに残っており、現在では「ガッ」「カッ」が慣用音として認められている。ただし他の類型もあり、「立」は「リフ」の促音化「リッ」から誤った原音「リツ」が逆成され、現在では「リツ」が慣用音として認められている(「リッ」は「リツ」の促音化とされ独立した慣用音としては認められていない)。これらの現象は「フツ相通」と呼ばれ、ほかに「雑」(雑巾・雑居)「納」(納入・納豆)「入」(入院・入唐)などにも見られる。
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10(十、拾、什、じゅう、とお)は自然数、また整数において、9 の次で11の前の数である。桁の底が十を超える場合には A と表記され、以降の数も 11 は B 、12 は C …というようにラテンアルファベットの大文字で表記する。 日本語の訓読みでは、十倍を意味する語尾を「そ」と読む(但し、二十は「はたち」と読む)。漢字の「十」は音読みを「ジッ」もしくは「ジュウ」と発音する(下記参照)。 英語では、基数詞でten、序数詞では10th あるいは tenth となる。 ラテン語では decem(デケム)。
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{{redirectlist|十|漢字の部首「十」|十部|中村一義のアルバム|十 (中村一義のアルバム)|その他|十 (曖昧さ回避)}}
{{整数|Decomposition=2 × 5}}
[[ファイル:十-order.gif|thumb|100px|「十」の筆順]]
'''10'''('''十'''、'''拾'''、'''什'''、じゅう、とお)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[9]] の次で[[11]]の前の数である。[[位取り記数法|桁]]の底が十を超える場合には [[A]] と表記され、以降の数も [[11]] は [[B]] 、[[12]] は [[C]] …というように[[ラテン文字|ラテン]][[アルファベット]]の[[大文字]]で表記する。
日本語の訓読みでは、十倍を意味する語尾を「そ」と読む(例:三十を「みそ」と読む)(但し、二十は「はたち」と読む)。漢字の「十」は音読みを「ジッ」もしくは「ジュウ」と発音する([[#漢字「十」の音読み|下記]]参照)。
英語では、[[基数詞]]でten、[[序数詞]]では10[[序数標識|th]] あるいは ''tenth'' となる。
[[ラテン語]]では decem(デケム)。
== 性質 ==
* 10 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[5]], 10 である。
**[[約数の和]]は[[18]] 。
*10 = 1 + 2 + 3 + 4
**4番目の[[三角数]]である。1つ前は[[6]]、次は[[15]]。
*** [[三角数]]が[[三角錐数]]になる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[120]]。
*** 2桁の数では最小の三角数である。
*** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|2}} 番目の三角数である。1つ前は[[1]]、次は[[45]]。({{OEIS|A037270}})
*** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} 番目の三角数である。1つ前は[[3]]、次は[[36]]。({{OEIS|A007582}})
**** 10 = 2{{sup|1}} × (2{{sup|2}} + 1)
** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和で表せる2番目の三角数である。1つ前は[[3]]、次は[[36]]。({{OEIS|A119977}})
** 10 = 1{{sup|1}} + 2{{sup|1}} + 3{{sup|1}} + 4{{sup|1}}
***[[1]]から[[4]]までの累乗和である。1つ前は[[4]],次は[[30]]。
*3番目の[[中心つき三角数]]である。1つ前は[[4]]、次は[[19]]。
*10 = 1 + 3 + 6
**3番目の[[三角錐数]]である。1つ前は[[4]]、次は[[20]]。
**3つの異なる[[三角数]]の和で表せる最小の三角数である。次は[[28]]。({{OEIS|A112353}})
** 10 = 1{{sup|2}} + 3{{sup|2}}
*** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる2番目の数である。1つ前は[[5]]、次は[[13]]。({{OEIS|A004431}})
* 10 = [[2]] × [[5]]
**4番目の[[半素数]]である。1つ前は[[9]]、次は[[14]]。
***10の倍数中唯一の半素数である。
***2桁の数では最小の半素数である。
***半素数が[[ハーシャッド数]]になる4番目の数である。1つ前は[[9]]、次は[[21]]。
** ''n'' = 1 のときの 5 × 2{{sup|''n''}} の値である。1つ前は[[5]]、次は[[20]]。({{OEIS|A020714}})
** ''n'' = 2 のときの 2(2''n'' + 1) の値である。即ち、2番目の[[単偶数]]である。1つ前は[[6]]、次は[[14]]。
**[[素因数]]が複数になる2番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[12]]。
*** 2つの異なる[[素因数]]の積で ''p'' × ''q'' の形で表せる2番目の数である。1つ前は6、次は[[14]]。
*{{sfrac|1|10}} = 0.1
**[[逆数]]が[[有限小数]]になる5番目の数である。1つ前は[[8]]、次は[[16]]。({{OEIS|A003592}})
***自然数の[[逆数]]のうち、小数点以下1桁の[[小数|有限小数]]で表されるのは {{sfrac|1|10}} と {{sfrac|1|2}} = 0.5、{{sfrac|1|5}} = 0.2 である。
**{{sfrac|1|10}}{{sub|(10)}}が有限小数になる[[位取り記数法|N進法]]は、[[素因数]]に[[2]]と[[5]]が含まれるN進法に限られる。
***従って、「5の倍数」進数でも[[二十進法]]では {{sfrac|1|A}} = 0.2 と有限小数になるが、[[十五進法]]では {{sfrac|1|A}} = 0.1<u>7</u>77… となり[[循環小数]]になる。
**素因数に5が含まれていないN進法では、{{sfrac|1|10}}{{sub|(10)}}は循環小数になる。
***[[六進法]]では {{sfrac|1|14}} = 0.0<u>3</u>33…、[[九進法]]では {{sfrac|1|11}} = 0.<u>08</u>08…、[[十二進法]]では {{sfrac|1|A}} = 0.1<u>2497</u>…、[[十六進法]]では {{sfrac|1|A}} = 0.1<u>9</u>99…、[[十八進法]]では {{sfrac|1|A}} = 0.1<u>E73A</u>…となる。(下線部は循環節)
***素因数が2と[[3]]のN進法では、「[[互いに素 (整数論)|互いに素]]ではないが、逆数が循環小数になる数」で最小になる。
*[[4ビット]]表記において 10 = (1010){{sub|2}} と 1, 0 が交互に並んでいる。
*自然数に 10 を掛けると元の数の右端に 0 を付けた数になる。例: '''45''' × 10 = '''45'''0<!--「十進数」を言い換えただけでは。数学的性質ではない-->
* [[十進法]]ならびに[[10の冪|十の冪]]の基数。10{{sup|1}}。次は[[100]]。
*10{{sup|2}} + 1 = [[101]] であり、 ''n''{{sup|2}} + 1 の形で素数を生む5番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[14]]。
*√{{overline|10}} は自然数の平方根では[[円周率]] [[π|{{π}}]] に最も近い。√{{overline|10}} = 3.16227766 ≈ {{π}}
*[[九九]]では 2 の段で 2 × 5 = 10 (にごじゅう)、5 の段で 5 × 2 = 10 (ごにじゅう)と2通りの表し方がある。
*10[[階乗|!]] = 6! × 7! = 3628800
*各位の和が10となる[[ハーシャッド数]]の最小は[[190]]、1000までに9個、10000までに63個ある。
*10番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[9]]、次は[[12]]。
**1を基としたとき2番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[100]]。
**2桁の数では最小の[[ハーシャッド数]]である。
** 各位の和が1になる数は、10以上は全て[[偶数]]である。
*各位の積が0になる2番目の数である。1つ前は[[0]]、次は[[20]]。({{OEIS|A011540}})
*10 = 2 + 3 + 5
**[[素数#連続素数和|最初からの連続素数の和]]である。1つ前は[[5]]、次は[[17]]。
*10 = [[3]] + [[7]] = [[5]] + [[5]]
**2つの[[素数]]の和2通りで表せる最小の数である。次は[[14]]。({{OEIS|A067188}})
**2つの素数の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の1通りは[[4]]、次の3通りは[[22]]。({{OEIS|A023036}})
* 10 = 1{{sup|3}} + 1{{sup|3}} + 2{{sup|3}}
** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる2番目の数である。1つ前は[[3]]、次は[[17]]。({{OEIS|A025395}})
** 10 = 2{{sup|3}} + 2
*** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|3}} + ''n'' の値である。1つ前は[[2]]、次は[[30]]。({{OEIS|A034262}})
* 10 = 13{{sup|1}} − 3{{sup|1}} = 13{{sup|3}} − 3{{sup|7}}
** ''a'' > 1 , ''b'' > 1 のとき ''a''{{sup|''x''}} − ''b''{{sup|''y''}} = c を成り立たせる自然数 ''x'' , ''y'' の解を2つもつ6番目の数である。1つ前は[[9]]、次は[[13]]。({{OEIS|A236211}})
* 以下のような[[多重根号#無限多重根号|無限多重根号]]の式で表せる。
*: <math>10 = \sqrt{90+\sqrt{90+\sqrt{90+\sqrt{90+\cdots}}}}</math> , <math> 10 = \sqrt{110-\sqrt{110-\sqrt{110-\sqrt{110-\cdots}}}}</math>
* ''n'' = 10 のとき ''n'' と ''n'' − 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' − 1 を並べた数が素数になる2番目の数である。1つ前は[[4]]、次は[[22]]。({{OEIS|A054211}})
* 10 = 0! + 1! + 2! + 3!
** 0からの連続[[階乗]]和とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[34]]。({{OEIS|A003422}})
== 漢字「十」の音読み ==
漢字「十」の[[音読み]]は、当用漢字音訓表には「ジュウ」と「ジッ」が掲載されている。「ジュウ」は通常の[[呉音]]だが、「ジッ」のような[[促音]]で終わる漢字音は本来ならありえず、これはイレギュラーに発生した[[慣用音]]である。なお[[漢音]]はあまり使われないが「シュウ」である。
「ジッ」という漢字音は、「実行(ジッコウ)」のような[[字音]]での促音化ならありふれている。「ジッ」も本来は字音での促音化であった。その証拠に、「ジッ」で終わる語はない。「十」の本来の、[[歴史的仮名遣い]]での呉音は「ジフ」だった。この音は「ジク」や「ジツ」のように、熟語音では頻繁に促音化し「ジッ」になった。
「ジフ」の「フ」は[[入声]]を表したものであり、「十」という漢字が日本に導入された頃の中国語([[中古音]])では dzyip(ジプ)のような発音だった。その証拠に、日本語・[[北方語]]以外の漢字圏の多くの言語では入声音が存続している。例えば現代[[朝鮮語]]では십(sip、シップ)である。このため、/‐t/(‐ツ) や /‐k/(‐ク)で終わる他の入声音と同様に、促音化を起こしたのである。日本語には本来[[音節|閉音節]]([[子音]]で終わる音)がないため、語尾に[[母音]]の u を補うと「ジプ」となるが、[[拗音]]や[[濁音]]の表記法が未発達な時代には、仮名では「シフ」と宛てて表現するほかなかった。後ろにp音、k音、t音などの詰まる音が来る際には、本来の発音が想起され「十把(じっぱ)」「十個(じっこ)」「十頭(じっとう)」など、「ジッ」という発音となる。しかし、それ以外の音が来た場合、例えば「十枚」の読み表記は「しふまい」となり、[[音便]]化されて「ジューマイ」と発音される。「ジュウ」の読みはこれに由来する。中世に[[唇音退化]]による[[ハ行]]子音の消失と[[二重母音の長母音化]]が起こり、「ジフ」は「ジュウ」に変化した。「ジュウ」という漢字音は促音化を起こさないので、「ジッ」はどんな音が促音化したのかわかりにくくなり、音訓表では独立した漢字音として認められた。
さらに[[江戸時代]]以降、拗音の表記法の未整備や、人的交流の活発化による他地方の[[方言]]の影響から、主に[[江戸]]や[[関東地方]]において「ジッ」の読みが「ジュッ」と発音されることも多くなった。現在では[[東京方言]]の影響の大きさもあって、後者の「ジュッ」の読みも多くの地方で使われており、[[日本放送協会|NHK]] でも認められている<ref>{{ Citation
|title = NHK ことばのハンドブック
|editor = NHK 放送文化研究所
|publisher = 日本放送出版協会
|year = 2005
|isbn = 978-4140112182
}}p.95</ref>。また、平成22年に見直しが行われた常用漢字本表でも「ジュッ」が加えられ、漢字テスト等で誤りとされることはなくなったが、この変更を知らない教師もまだ多い。
同様の現象は /‐p/(つまり歴史的仮名遣いで「‐フ」)入声で終わっていた漢字音では他でも起こりえた。「十」の[[大字 (数字)|大字]]として用いられる「拾」は音訓表には「ジュウ」(と「シュウ」)しかないが、歴史的仮名遣いでは「ジフ」で促音化を起こしえ、[[拾得]]([[唐|唐代]]の僧侶の名)は「ジットク」と読む。「合」は「ガフ」「カフ」の促音化が合併(ガッペイ)・合戦(カッセン)などに残っており、現在では「ガッ」「カッ」が慣用音として認められている。ただし他の類型もあり、「立」は「リフ」の促音化「リッ」から誤った原音「リツ」が[[逆成]]され、現在では「リツ」が慣用音として認められている(「リッ」は「リツ」の促音化とされ独立した慣用音としては認められていない)。これらの現象は「フツ相通」と呼ばれ、ほかに「雑」(雑巾・雑居)「納」(納入・納豆)「入」(入院・入唐)などにも見られる。
== その他 10 に関すること ==
=== 曖昧さ回避 ===
*[[:en:10 (film)]] - [[1979年]]公開の映画。日本での題名は『[[テン (映画)|テン]]』。
*[[10 (cali≠gariのアルバム)]] - [[cali≠gari]] のアルバム。
*[[10 (RIP SLYMEのアルバム)]] - [[RIP SLYME]]のアルバム。
=== その他 ===
{{notice|曖昧さ回避となる場合を除き、「10」が付くという理由で、特に固有名詞を掲載することは慎重にして下さい。}}
*[[人間]]の手[[指]]の数は、通常は両手を併せて十本である。
*多くの[[文明]]において、標準的な[[位取り記数法|記数法]]として'''[[十進法]]'''が採用されている。人間が[[指]]折り数える習慣に由来する。
**十進法の例として、10年を[[十年紀]]に対して、[[100]]年(=10年×10回)を[[世紀]]という。
*[[原子番号]] 10 の[[元素]]は[[ネオン]] (Ne) である。
*[[SI接頭語]]では、10 倍は da([[デカ]])、{{sfrac|1|10}} は d([[デシ]])である。
**一般には、10 の接頭語は deci([[ラテン語|拉]])、deca([[ギリシア語|希]])。
**これらの接頭語は、[[ラテン語]]の''decem'' (10) と[[ギリシア語|ギリシャ語]]の''deka'' (10)、ラテン語の ''decimus'' ({{sfrac|1|10}}) に由来する。また、英語や西語では、[[小数]]や十進法を ''decimal'' というが、これも decimus ({{sfrac|1|10}}) に因んでいる。
**[[十角形]]を'''デカゴン''' (decagon)、[[十面体]]を'''デカヘドロン''' (decahedron)、十人組を'''デクテット''' (dectet) という。
**[[ローマ帝国]]の[[銀貨]]・[[デナリウス]] (denarius) は、本来はラテン語で「十個一組」「十個から成る」を意味する。
**10 倍を'''十重'''(とえ)や'''デキュプル''' (decuple) という。
**英語では、ギリシャ語に由来する[[デケイド]] (decade) を十個一組の単位に用い、狭義では十年を指す。語源が同じ関連語として、テトラド(tetrad, 四個一組、カルテット)やエニアド(ennead, 九個一組、ノネット)などもある。
*非常に大きな数や[[絶対値]]が 0 に近い数は、10{{sup|''n''}} や 10{{sup|−''n''}} を用いて表されることもある([[常用対数]])。例: 845000 = 8.45 × 10{{sup|5}}, 0.00017 = 1.7 × 10{{sup|−4}}
*1ヶ[[月 (暦)|月]](≒[[30]][[日]])の{{sfrac|1|3}}は10日、1[[世代]](≒30[[年]])の{{sfrac|1|3}}は10年である。このため、30から成る[[時間]]の[[単位]]を三分割して、10から成る単位で数える場合がある。
**10[[日]]間を[[旬 (単位)|旬]]という。
**[[十年紀]](ラテン語:decennium):10[[年]]を単位とする期間。
**[[国際連合]]では、10年単位で世界的に問題解決を促す期間である[[国際年|国際の十年]]を設定。
*[[慣用表現]]では、10 は「多く」「全部」の比喩として使われることもある。例:「一を聞いて十を知る」「十把一絡げ」「十人十色」「[[アーミーナイフ|十徳ナイフ]]」
*また、10 は「終わり」「限り」を意味することもある。例:「一から十まで」
*漢数字「十」は、[[Shift_JIS]] においてコンピュータプログラムの動作不良の原因となる文字(通称「[[Shift_JIS|ダメ文字]]」)の一つ。
*[[タロット]]の[[大アルカナ]]で X は[[運命の輪]]。
*[[易占]]の[[六十四卦]]で第10番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#履|天沢履]]。
*[[サッカー]]においてはエースナンバーであり、俗に言う[[司令塔 (スポーツ)|司令塔]]あるいはエース[[ストライカー]]が背番号10を付けるのが通例である。1958年に[[1958 FIFAワールドカップ|W杯スウェーデン大会]]で[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]の背番号10の[[ペレ]]が大会通算6得点をあげるなど大活躍し、同国に優勝をもたらしたことに由来する。
*[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球]]、[[少年野球]]、[[ソフトボール]]では背番号10は[[主将]]が付ける番号である。
*[[日本プロ野球]]の以下の球団は背番号10を[[野球界の永久欠番|永久欠番]]にしている。
**[[中日ドラゴンズ]] - [[服部受弘]]投手の背番号
**[[阪神タイガース]] - [[藤村富美男]]内野手の背番号
**[[東北楽天ゴールデンイーグルス]] - [[ファン]]のための背番号
*[[十脚目|十脚類]] (decapod) - [[エビ]]や[[カニ]]や[[イカ]]など、10 本の足を持つ[[動物]]。
*[[テンパズル]] - [[乗車券]]の4桁の数字を使って 10 を作る遊び。
*[[聖書]]
**[[旧約聖書]]
***「[[十の災い]]」は[[モーセ]]と兄[[アロン]]が[[ファラオ]]王に対してイスラエルの人々を解放するために行った災い。
***[[モーセの十戒]]とは主が[[モーセ]]に与えた戒律。
**[[新約聖書]]で迷い出た[[羊]]の[[例え]]の次に10枚のドラクメ銀貨の例えが述べられている。
*:「あるいは,ドラクメ銀貨を'''十'''枚持っている女がいて,その一枚を無くしたとすれば,ともし火をつけ,家を掃き,見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」([[ルカによる福音書]] 15章 8節)
*[[十種競技]] - 陸上の複合競技。
*[[ダビング10]]は、コピー回数に制限を設けた仕組み。元々は[[コピー・ワンス|コピーワンス]]制度。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「10」は[[群馬県]]。
*東京の地下鉄10号線は[[都営地下鉄新宿線]]である。
*[[オリジナル10]]([[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]発足当時の参加全10クラブの総称)。
*第10代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ピウス1世 (ローマ教皇)|ピウス1世]](在位:[[142年]]?~[[155年]]?)である。
*[[クルアーン]]における第10番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[ユーヌス (クルアーン)|ユーヌス]]である。
*[[真田十勇士]] - [[真田信繁|真田幸村]]に家臣として仕えた架空の[[忍者]]10人を主人公にした作品とその派生作品。
*[[サラダ十勇士トマトマン]] - 1992年の[[テレビ東京]]系テレビアニメ。
*8桁表示の[[電卓]]で3.1622777の2乗を計算すると、9桁目以下が切り捨てられ、10と表示される機種がある。
=== テレビのチャンネル ===
*[[Nippon News Network|NNN]]系列[[準キー局]]の[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]([[近畿広域圏]])と[[TXN]]系列の[[テレビ愛知]]が採用した[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル]]の[[リモコンキーID]]。
*[[日本における衛星放送|BSデジタル放送]]における[[スター・チャンネル]]のリモコンキーID。
*[[4K 8Kテレビ放送|BS4K放送]]における[[ザ・シネマ]]のリモコンキーID。
*[[All-nippon News Network|ANN]]系列の[[テレビ朝日]]([[関東地方]])、NNN系列の読売テレビの他、NNN系列の[[山形放送]]と[[南海放送]]、[[Japan News Network|JNN]]系列の[[山陰放送]]・[[宮崎放送]]・[[琉球放送]]の[[NTSC|アナログテレビ]]親局のチャンネル番号は 10。
**[[北海道]][[函館市]]、[[宮城県]][[気仙沼市]]・[[白石市]]、[[福島県]][[いわき市]]、[[富山県]]の大半、[[福井県]][[小浜市]]、[[熊本県]][[小国町 (熊本県)|小国町]]等では[[NHK教育テレビジョン]]のアナログ周波数に 10 チャンネルが割り当てられている。
**JNN系列では上記3局の他に[[新潟県]][[上越市|上越地域]]の[[新潟放送]]、[[岐阜県]][[下呂市]]および[[三重県]][[鳥羽市]]の[[CBCテレビ]]、[[長崎県]][[佐世保市|佐世保地域]]の[[長崎放送]]、[[鹿児島県]][[出水市|出水地域]]の[[南日本放送]]のアナログ中継局に 10 チャンネルが割り当てられている。
**[[フジニュースネットワーク|FNN]]系列では[[岐阜県]][[中津川市]]・[[郡上市]]の[[東海テレビ放送]]、[[福岡県]][[北九州市|北九州地域圏]]の[[テレビ西日本]]<ref group="注">開局~[[1974年]]は北九州が[[親局]]だった。</ref>のアナログ中継局に 10 チャンネルが割り当てられている。
== 十個一組で数えるもの ==
*'''[[十界]]''':[[地獄]]界・[[餓鬼]]界・[[畜生]]界・[[阿修羅|修羅]]界・[[人間]]界・[[天]]上界・[[声聞]]界・[[縁覚]]界・[[菩薩]]界・[[仏陀|佛]]界。
*'''[[方位|十方]]''':[[東]]・[[西]]・[[北]]・[[南]]・[[天]]・[[地]]・[[北東]]・[[南東]]・[[北西]]・[[南西]]。即ち、六方に四隅を加えた[[方位]]の総称。
*'''[[十干]]''':[[甲]]・[[乙]]・[[丙]]・[[丁]]・[[戊]]・[[己]]・[[庚]]・[[辛]]・[[壬]]・[[癸]]。
*'''[[諸子百家|十家]]''':[[陰陽家]]・[[儒教|儒家]]・[[墨家]]・[[法家]]・[[名家 (諸子百家)|名家]]・[[老荘思想|道家]]・[[縦横家]]・[[雑家]]・[[農家]]・[[小説家 (諸子百家)|小説家]]。
*'''[[十志]]''':[[律暦]]・[[礼楽]]・[[刑法]]・[[食貨]]・[[皇帝祭祀|郊祀]]・[[天文学|天文]]・[[五行思想|五行]]・地理・[[溝洫]]・[[芸文]]。[[漢書]]における10冊の歴史書の総称。
*'''[[十哲]]''':
**'''[[孔門十哲]]''':[[顔回|顔淵]]・[[閔子騫]]・[[冉伯牛]]・[[仲弓]]・[[宰我]]・[[子貢]]・[[冉有]]・[[子路]]・[[子游]]・[[子夏]]。
**'''[[蕉門十哲]]''':[[宝井其角]]・[[服部嵐雪]]・[[森川許六]]・[[向井去来]]・[[各務支考]]・[[内藤丈草]]・[[立花北枝]]・[[杉山杉風]]・[[志太野坡]]・[[越智越人]]。
*'''十[[徳]]''':[[仁]]・[[義]]・[[礼]]・[[智]]・[[信]]・[[忠]]・[[孝]]・[[悌]]・[[忍]]・[[畏]]。
== 符号位置 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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{{Wiktionarypar|十}}
{{Wiktionarypar|とお}}
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{{Wiktionarypar|X}}
{{Wiktionarypar|ⅹ}}
{{数字2桁|1|- [[1998年|平成10年]] [[1935年|昭和10年]] [[1921年|大正10年]] [[1877年|明治10年]]
**[[10月]]}}
*'''10''' [[100]] [[1000]] [[10000]] [[100000]] [[1000000]] [[10000000]] [[100000000]]
*[[地下鉄10号線]] (曖昧さ回避)
*[[第10王朝 (曖昧さ回避)]]
*漢数字は、[[Unicode]][[康煕部首]] (Unicode Kangxi Radicals) の「'''[[十部|⼗]]'''」(U+2F17; 十部)に酷似する。
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{{日本の命数}}
{{Normdaten}}
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2003-07-11T15:47:59Z
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2023-09-05T22:38:32Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/10
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11,230 |
小判
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小判(こばん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。
金座で用いられた公式な呼称は小判であり『三貨図彙』では「小判」と明記されているが、『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。
計数貨幣であるが量目(質量)および金品位が一定に定められており、金含有量が額面を決める秤量貨幣の発展形である。
現代では、共同体が定めた公式な貨幣ではなく、それを模した記念品やメダルを「小判」ということもある。また、クック諸島は法定通貨として有効な小判を模した金貨・銀貨を発行しており代理店が「小判」として販売している。
当然ながら大判より小さいため小判と呼ばれるが、その大きさは鋳造年代により異なり、また同種の小判でも手作りのため多少ばらつきがあり、それを示すために「大きな小判」や「小さな小判」という表現がされるが、重言や排反では無い。
形状は、小判形と呼ばれる楕円形で表面には全体的に打目が彫られ、上下に扇枠に囲まれた五三桐(ごさんのきり)、中央上部に「壹两」(=「一両」)、下部に「光次(花押)」の極印が打たれている。
楕円形、打目、黄金色が米俵の形状、俵目、色彩に由来するとの説が唱えられているが、反論も多くあり、内部まで金であることを証明するため打ち伸ばした「蛭藻金」や「譲葉金」の形状に起源を持つとか、打目も内部まで金であることを示すために刻まれたものであるとか、あるいは金地金を打ち伸ばすときに槌や鏨(たがね)によって不可避的に付く打目であるなどの説もかつては支持された。
一般的に小判は「金貨」とされ純金のように見えるものが多いが、実際は金銀合金である。外見上、金色に見えるのは、「色揚げ」と称して表面の銀を薬品と共に加熱して塩化銀として取り去る処理を施した結果である。
江戸幕府を開くに先立ち、徳川家康は大判より小型のものとし、墨書を極印に改め一般流通を想定した通貨を発行する構想を持っており、慶長6年(1601年)に徳川家康が後藤家に命じて鋳造させた慶長小判を嚆矢とし、万延元年(1860年)発行の万延小判まで10種が発行された。
全国通用を前提とするものであるが、金山が主に常陸、甲斐、伊豆および佐渡などに位置し、金貨の一般通用は家康により新たに取り入れられた政策であったため主に関東地方を中心に流通した。
額面は金一両。これは本来、質量単位としての一両の目方の砂金と言う意味であったが、鎌倉時代には金一両は五匁、銀一両は4.3匁と変化し、文明16年(1484年)、室町幕府により京目(きょうめ)金一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、それ以外のものは田舎目(いなかめ)とされた。安土桃山時代には四進法の通貨単位の便宜を図るためか、京目金一両は四匁四分と変化し、田舎目金一両は四匁前後となった。
慶長小判はこの京目一両の原則に沿っていたが、実際の慶長小判の量目は品位52.2匁位であるから金44匁に銀8.2匁を足して52.2匁となり、金座の鋳造手数料4.4匁を差引くと47.8匁となり吹き減り0.2匁を差引けば10両分の量目が47.6匁になるとされた。あるいは大判が44匁2分でありこれが8両2分(当時)で取引されているから44匁2分を8.5で割ると10両あたり52匁となるので品位52匁位とし、大判の重さの1割の鋳造手数料4匁2分2厘を差引くと47匁5分8厘となる。これに大判の入目2分に順じ2分を足せば10両の量目は47匁6分となるとする説もある。このように名目上の一両の金平価は金4.4匁(16.4g)であるが、慶長小判でさえ実際の含有金量は4.0匁強と、金平価をやや下回っている。
一両は日常生活では大変高額なものであり、例えば慶長小判一両であれば米3~4石を入手する購買力を持っており、財布に入れて使用するような性質のものではなく庶民には縁遠い存在であった。
また、小判も丁銀と同様に包封して百両包、五十両包あるいは二十五両包など包金として高額取引や献上・贈答用として用いられ、流通過程でも敢えて開封されることは殆ど無かった。特に金座の後藤包が権威あるものとして両替商らが為替金などを幕府に納入する際は後藤包であることが要求された。包封せず裸のまま献上・贈答用として使用できたのは大判のみであった。
後世に金銀産出の衰退、幕府の支出拡大による慢性的な財政難の補填のため、正徳・享保期を除き、時代ごとに主に出目(改鋳利益)の収得を目的とした品位(金含有率)・量目ともに改悪されることが多かった。この吹き替えは寛永年間頃からの急速な金の産出の衰退、長年の流通による小判の折損、中国などとの貿易取引による多量の金の流出、幕府の出費の増大による財政の逼迫などが理由に挙げられる。
また、幕末には、日本国外での金銀比価が日本国内と大きく異なったため、これを是正するため極端に小型の万延小判に改鋳され、インフレーションを引き起こした。さらに万延小判でさえ製造は少量に止まり、実際に多量に発行され市場を凌駕したのはより品位の低い万延二分判であった。
上述のように小判の品位は「四十四匁位法」あるいは「差銀加算法」とされる44匁の金に差銀を加えた量目で表され、例えばその合金の量目が52匁2分ならば「五十二匁二分位」とされ、金品位は44/52.2 = 842.9/1000であった。
江戸時代には、小判同様の計数貨幣の金貨として、品位が同等で、量目が正確に小判の1⁄4に造られた一分判金がある。
この小判および分金の通貨単位は武田信玄による領国貨幣である甲州金の四進法(両、分、朱)を取り入れたものであった。一分判は、小判の小額貨幣として常に小判と同品位、四分の一の量目でもって本位貨幣的に発行されていた。
一方、文政年間頃から登場した一朱判、二朱判、および二分判などの貨幣は、品位すなわち含有される金の量目が小判に対して額面より少なく補助貨幣的な名目貨幣として発行された。これらも幕府の財政の埋め合わせを目的とした出目を狙ったものであり、幕末にはこれらの定位貨幣が小判の流通額を凌駕するようになっていた。
小判に対し、大判(大判金)も江戸時代を通して発行されていたが、大判は一般通貨ではなく、恩賞、贈答用のもので金一枚(四十四匁)という基準でつくられ、計数貨幣としてではなく、品位と量目および需要を基に大判相場によって取引された(強いて言えば秤量貨幣に近く、現代的に解釈すれば、金地金(インゴット)に相当するものと言える)。また、天保年間に大判と小判の中間的な貨幣として五両判が発行されたが、金含有量の劣る定位貨幣でありほとんど流通しなかった。
なお、明治以降新貨条例が施行され、1両は1圓(円)と等価とされ(万延二分判2枚の金銀含有量の実質価値と1圓金貨の純金含有量の価値がほぼ等しかった)、古金銀(金貨(大判含む)および金貨単位の銀貨)はそれぞれの含有金銀量に基づいて定められた交換比率で新貨幣と交換された。
貨幣・浮世絵ミュージアム、貨幣博物館および造幣博物館には小判が体系的に展示されている。
括弧内は発行年、量目、金含有率(推定)。
括弧内は発行年、発行高、量目、金含有率(規定)。発行高は一分判との合計で、元禄小判の場合は二朱判も含む。
江戸時代の金称呼定位銀貨には一分銀、二朱銀、一朱銀があるが、幕府の発行した貨幣として一両の額面を持つ金称呼定位銀貨は存在しない。ただ地方貨幣では、一両の額面を持つ、または一両通用を想定した銀貨として、秋田八匁封銀、秋田九匁二分銀判、盛岡八匁銀判、会津一両銀判などが挙げられる。
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"text": "額面は金一両。これは本来、質量単位としての一両の目方の砂金と言う意味であったが、鎌倉時代には金一両は五匁、銀一両は4.3匁と変化し、文明16年(1484年)、室町幕府により京目(きょうめ)金一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、それ以外のものは田舎目(いなかめ)とされた。安土桃山時代には四進法の通貨単位の便宜を図るためか、京目金一両は四匁四分と変化し、田舎目金一両は四匁前後となった。",
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"text": "括弧内は発行年、発行高、量目、金含有率(規定)。発行高は一分判との合計で、元禄小判の場合は二朱判も含む。",
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"text": "江戸時代の金称呼定位銀貨には一分銀、二朱銀、一朱銀があるが、幕府の発行した貨幣として一両の額面を持つ金称呼定位銀貨は存在しない。ただ地方貨幣では、一両の額面を持つ、または一両通用を想定した銀貨として、秋田八匁封銀、秋田九匁二分銀判、盛岡八匁銀判、会津一両銀判などが挙げられる。",
"title": "(参考)一両の額面を持つ、または一両通用を想定した銀貨"
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小判(こばん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。 金座で用いられた公式な呼称は小判であり『三貨図彙』では「小判」と明記されているが、『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。 計数貨幣であるが量目(質量)および金品位が一定に定められており、金含有量が額面を決める秤量貨幣の発展形である。 現代では、共同体が定めた公式な貨幣ではなく、それを模した記念品やメダルを「小判」ということもある。また、クック諸島は法定通貨として有効な小判を模した金貨・銀貨を発行しており代理店が「小判」として販売している。 当然ながら大判より小さいため小判と呼ばれるが、その大きさは鋳造年代により異なり、また同種の小判でも手作りのため多少ばらつきがあり、それを示すために「大きな小判」や「小さな小判」という表現がされるが、重言や排反では無い。
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{{統合文字|{{補助漢字フォント|两}}}}
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'''小判'''(こばん)とは、[[江戸時代]]に流通した[[金貨]]の一種である。
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[[計数貨幣]]であるが[[量目]]([[質量]])および[[金]][[品位]]が一定に定められており、金含有量が[[額面]]を決める[[秤量貨幣]]の発展形である。
現代では、共同体が定めた公式な貨幣ではなく、それを模した記念品やメダルを「小判」ということもある。また、[[クック諸島]]は法定通貨として有効な小判を模した金貨・銀貨を発行しており代理店が「小判」として販売している。
当然ながら大判より小さいため小判と呼ばれるが、その大きさは鋳造年代により異なり、また同種の小判でも手作りのため多少ばらつきがあり、それを示すために「大きな小判」や「小さな小判」という表現がされるが、[[重言]]や排反では無い。
==概要==
[[ファイル:Keicho-koban2.jpg|thumb|right|160px|慶長小判]]
===形状===
形状は、小判形と呼ばれる[[楕円]]形で表面には全体的に打目が彫られ、上下に[[扇]]枠に囲まれた[[桐紋|五三桐]](ごさんのきり)、中央上部に「壹{{補助漢字フォント|两}}」(=「一両」)、下部に「[[後藤庄三郎|光次]]([[花押]])」の極印が打たれている<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p237-238.]]</ref>。
楕円形、打目、黄金色が[[米俵]]の形状、俵目、色彩に由来するとの説が唱えられているが、反論も多くあり、内部まで金であることを証明するため打ち伸ばした「[[蛭藻金]]」や「[[譲葉金]]」の形状に起源を持つとか、打目も内部まで金であることを示すために刻まれたものであるとか、あるいは[[金地金]]を打ち伸ばすときに[[槌]]や[[鏨]](たがね)によって不可避的に付く打目であるなどの説もかつては支持された<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p64-65.]]</ref>。
一般的に小判は「[[金貨]]」とされ純金のように見えるものが多いが、実際は[[金]][[銀]][[合金]]である。外見上、金色に見えるのは、「色揚げ」と称して表面の銀を薬品と共に加熱して[[塩化銀]]として取り去る処理を施した結果である<ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p102.]]</ref>。
[[江戸幕府]]を開くに先立ち、[[徳川家康]]は[[大判]]より小型のものとし、墨書を極印に改め一般流通を想定した通貨を発行する構想を持っており、[[慶長]]6年([[1601年]])に徳川家康が[[後藤庄三郎|後藤家]]に命じて鋳造させた[[慶長小判]]を嚆矢とし、[[万延]]元年([[1860年]])発行の[[万延小判]]まで10種が発行された。
全国通用を前提とするものであるが、[[金鉱山|金山]]が主に[[常陸国|常陸]]、[[甲斐国|甲斐]]、[[伊豆国|伊豆]]および[[佐渡国|佐渡]]などに位置し、金貨の一般通用は家康により新たに取り入れられた政策であったため主に[[関東地方]]を中心に流通した<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p65-66.]]</ref>。
=== 小判の量目 ===
[[額面]]は金一[[両]]。これは本来、質量単位としての一両<ref group="注釈">[[大宝律令]]では金銀の量目は小両(約14グラム)を用いたが、[[延喜式]]以降は金銀も含めて原則として一両は十匁(約37.3グラム)となった。(『図録 日本の貨幣 2巻』[[東洋経済新報社]]、[[1974年]])</ref>の目方の[[砂金]]と言う意味であったが、[[鎌倉時代]]には金一両は五[[匁]]、銀一両は4.3匁と変化し、[[文明 (日本)|文明]]16年([[1484年]])、[[室町幕府]]により[[京目]](きょうめ)金一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、それ以外のものは田舎目(いなかめ)とされた。[[安土桃山時代]]には四進法の通貨単位の便宜を図るためか、京目金一両は四匁四分と変化し、田舎目金一両は四匁前後となった<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p78-79.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p29-30.]]</ref>。
[[慶長小判]]はこの京目一両の原則に沿っていたが、実際の慶長小判の量目は品位52.2匁位であるから金44匁に銀8.2匁を足して52.2匁となり、金座の鋳造手数料4.4匁を差引くと47.8匁となり吹き減り0.2匁を差引けば10両分の量目が47.6匁になるとされた<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p69.]]</ref><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p50.]]</ref>。あるいは大判が44匁2分でありこれが8両2分(当時)で取引されているから44匁2分を8.5で割ると10両あたり52匁となるので品位52匁位とし、大判の重さの1割の鋳造手数料4匁2分2厘を差引くと47匁5分8厘となる。これに大判の入目2分に順じ2分を足せば10両の量目は47匁6分となるとする説もある<ref name="名前なし-1">[[#Aoyama1982|青山(1982), p89.]]</ref>。このように名目上の一両の金平価は金4.4匁(16.4g)であるが、慶長小判でさえ実際の含有金量は4.0匁強と、金平価をやや下回っている。
一両は日常生活では大変高額なものであり、例えば慶長小判一両であれば米3~4[[石 (単位)|石]]を入手する購買力を持っており、[[財布]]に入れて使用するような性質のものではなく庶民には縁遠い存在であった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p70.]]</ref><ref>[[#Zoheikyoku1940|造幣局(1940), p39.]]</ref>。
また、小判も[[丁銀]]と同様に包封して百両包、五十両包あるいは二十五両包など[[包金銀|包金]]として高額取引や献上・贈答用として用いられ<ref group="注釈">[[時代劇]]でも贈収賄のシーンでよく見られるさま</ref>、流通過程でも敢えて開封されることは殆ど無かった。特に金座の[[後藤包]]が権威あるものとして両替商らが為替金などを幕府に納入する際は後藤包であることが要求された。包封せず裸のまま献上・贈答用として使用できたのは大判のみであった<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p117-119.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p215-219.]]</ref>。
=== 改鋳 ===
後世に金銀産出の衰退、幕府の支出拡大による慢性的な財政難の補填のため、[[正徳 (日本)|正徳]]・[[享保]]期を除き、時代ごとに主に[[シニョリッジ|出目]](改鋳利益)の収得を目的とした[[品位]](金含有率)・量目ともに改悪されることが多かった。この[[貨幣改鋳|吹き替え]]は寛永年間頃からの急速な金の産出の衰退<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p131.]]</ref>、長年の流通による小判の折損、中国などとの貿易取引による多量の金の流出、幕府の出費の増大による財政の逼迫などが理由に挙げられる<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p145-167.]]</ref><ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p125-144.]]</ref><ref>[[#=Takizawa1996|滝沢(1996), p189-202.]]</ref>。
また、幕末には、日本国外での[[金銀比価]]が日本国内と大きく異なったため、これを是正するため極端に小型の万延小判に改鋳され、[[インフレーション]]を引き起こした。さらに万延小判でさえ製造は少量に止まり、実際に多量に発行され市場を凌駕したのはより品位の低い[[万延]][[二分金|二分判]]であった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p281-285.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p150-151.]]</ref>。
上述のように小判の品位は「四十四匁位法」あるいは「差銀加算法」とされる44匁の金に差銀を加えた量目で表され、例えばその合金の量目が52匁2分ならば「五十二匁二分位」とされ、金品位は44/52.2 = 842.9/1000であった<ref name="Taya">田谷博吉、「[https://doi.org/10.20624/sehs.39.3_261 江戸時代貨幣表の再検討]」 『社会経済史学』 1973年 39巻 3号 p.261-279, {{doi|10.20624/sehs.39.3_261}}, 社会経済史学会</ref><ref name="名前なし-1"/><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p66-68.]]</ref>。
=== 定位貨幣の台頭 ===
江戸時代には、小判同様の[[計数貨幣]]の金貨として、品位が同等で、量目が正確に小判の{{分数|1|4}}に造られた[[一分金|一分判金]]がある。
この小判および分金の通貨単位は[[武田信玄]]による[[領国貨幣]]である[[甲州金]]の四進法(両、分、朱)を取り入れたものであった<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p97-99.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p56-57.]]</ref><ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p73-74.]]</ref>。一分判は、小判の小額貨幣として常に小判と同品位、四分の一の量目でもって[[本位貨幣]]的に発行されていた。
一方、[[文政]]年間頃から登場した[[一朱金|一朱判]]、[[二朱金|二朱判]]、および[[二分金|二分判]]などの貨幣は、品位すなわち含有される金の量目が小判に対して額面より少なく[[補助貨幣]]的な名目貨幣として発行された<ref group="注釈">名目価値が実質価値より劣る定位金貨や定位銀貨も小判に対する補助貨幣と規定されていたわけではなく、[[法定通貨]]として通用制限額が設定されているわけでもなかった。</ref>。これらも幕府の財政の埋め合わせを目的とした出目を狙ったものであり、幕末にはこれらの定位貨幣が小判の流通額を凌駕するようになっていた<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p65, 208-212、234-245.]]</ref><ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p102, 112.]]</ref>。
====小判・一分判、および定位金貨・定位銀貨の流通高<ref name="Okurasho1875">[[#Okurasho1875|大蔵省(1875).]]</ref><ref group="注釈">名目上の額面の総額は増加しても、実質上の純金総使用量は左程増加していない。</ref>====
{| style="white-space:nowrap"
|+
|元禄8年(1695年)
|style="text-align:right"|10,627,055両
|<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:43px; height:20px; background:#ffd700"></div>
|-
|宝永3年(1706年)
|style="text-align:right"|14,036,220両
|<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:56px; height:20px; background:#ffd700"></div>
|-
|宝永7年(1710年)
|style="text-align:right"|13,512,484両
|<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:54px; height:20px; background:#ffd700"></div>
|-
|正徳4年(1714年)
|style="text-align:right"|11,995,610両
|<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:47px; height:20px; background:#ffd700"></div>
|-
|元文元年(1736年)
|style="text-align:right"|8,742,096両
|<!-- 5段目 --><div style="float:left; width:35px; height:20px; background:#ffd700"></div>
|-
|安永元年(1772年)
|style="text-align:right"|18,698,215両
|<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:75px; height:20px; background:#ffd700; text-align:center">小判</div>
|-
|文政元年(1818年)
|style="text-align:right"|24,631,215両
|<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:75px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:24px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|天保3年(1832年)
|style="text-align:right"|40,206,600両
|<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:62px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:32px; height:20px; background:#ddff75"></div></div><div style="float:left; width:67px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|安政元年(1854年)
|style="text-align:right"|48,556,952両
|<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:59px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:53px; height:20px; background:#ddff75"></div><div style="float:left; width:82px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|万延元年(1860年)
|style="text-align:right"|82,262,552両
|<!-- 10段目 --><div style="float:left; width:60px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:67px; height:20px; background:#ddff75"></div><div style="float:left; width:201px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|明治2年(1869年)
|style="text-align:right"|126,837,932両
|<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:43px; height:20px; background:#ffd700; text-align:center"></div><div style="float:left; width:255px; height:20px; background:#ddff75; text-align:center">定位金貨</div><div style="float:left; width:210px; height:20px; background:#dcdcdc; text-align:center">定位銀貨</div>
|}
====大判====
小判に対し、[[大判]](大判金)も江戸時代を通して発行されていたが、大判は一般[[通貨]]ではなく、[[恩賞]]、贈答用のもので金一枚(四十四匁<ref group="注釈">実際には吹減り、磨耗を考慮して二分の入り目が足され、四十四匁二分が大判の規定量目である。</ref>)という基準でつくられ<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p95-96.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p74-75.]]</ref>、計数貨幣としてではなく、品位と量目および[[需要]]を基に[[大判|大判相場]]によって取引された(強いて言えば[[秤量貨幣]]に近く、現代的に解釈すれば、[[金地金]]([[インゴット]])に相当するものと言える)。また、[[天保]]年間に大判と小判の中間的な貨幣として[[五両判]]が発行されたが、金含有量の劣る[[定位貨幣]]でありほとんど流通しなかった<ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p101-102.]]</ref>。
===明治以降===
なお、[[明治]]以降[[新貨条例]]が施行され、1両は1[[円 (通貨)|圓(円)]]と等価とされ([[二分金|万延二分判]]2枚の金銀含有量の実質価値と[[日本の金貨#一圓金貨幣|1圓金貨]]の純金含有量の価値がほぼ等しかった)、古金銀(金貨(大判含む)および金貨単位の銀貨)はそれぞれの含有金銀量に基づいて定められた交換比率で新貨幣と交換された<ref>『旧金銀貨幣価格表』[[造幣局 (日本)|造幣寮]]、[[1874年]]</ref><ref name="Okurasho1875" />。
===展示===
[[貨幣・浮世絵ミュージアム]]、[[貨幣博物館]]および[[造幣博物館]]には小判が体系的に展示されている。
==江戸時代以前==
括弧内は発行年、量目、金含有率(推定)<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p233-237.]]</ref><ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p81-82.]]</ref><ref>近藤守重『金銀図録』[[1810年]]</ref>。
* '''[[慶長小判#駿河墨書小判|駿河墨書小判]]'''(するがすみがきこばん・するがぼくしょこばん)([[文禄]]4年([[1595年]])(確定的でない)、4.5[[匁]]、84%)
* '''[[慶長小判#武蔵墨書小判|武蔵墨書小判]]'''(むさしすみがきこばん・むさしぼくしょこばん)(文禄4年(1595年)頃、4.8匁、84%)
==江戸時代==
括弧内は発行年、発行高、量目、金含有率(規定)。発行高は一分判との合計で、元禄小判の場合は二朱判も含む<ref name="Okurasho1875" /><ref>佐藤治左衛門『貨幣秘録』[[1843年]]</ref><ref>[[勝海舟]]『吹塵録』[[1887年]]</ref>。
* '''[[慶長小判]]'''(慶長6年(1601年)頃、14,727,055両(推定値)、4.76匁、84.3%→86.8%)
* '''[[元禄小判]]'''([[元禄]]8年([[1695年]])9月、13,936,220両1分、4.76匁、57.4%)
* '''[[宝永小判]]'''([[宝永]]7年([[1710年]])4月、11,515,500両、2.5匁、84.3%)
* '''[[正徳小判]]'''([[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])5月、213,500両、4.76匁、84.3%)
* '''[[享保小判]]'''(正徳4年(1714年)8月、8,280,000両、4.76匁、86.8%)
* '''[[元文小判]]'''([[元文]]元年([[1736年]])5月、17,435,711両1分、3.5匁、65.7%)
* '''[[文政小判]]'''([[文政]]2年([[1819年]])6月、11,043,360両、3.5匁、56.4%)
* '''[[天保小判]]'''([[天保]]8年([[1837年]])7月、8,120,450両、3匁、56.8%)
* '''[[安政小判]]'''([[安政]]6年([[1859年]])5月、351,000両、2.4匁、56.8%)
* '''[[万延小判]]'''(万延元年(1860年)2月、666,700両、0.88匁、56.8%)
{| style="white-space:nowrap"
|+ 小判・一分判の規定品位および量目<ref group="注釈">「五十匁七分位」など金座関係文書の記録に基く品位であり、分析品位ではない。</ref>
|慶長金
|style="text-align:right"|(1601年)4.76匁
|<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:242px; height:20px; background:#ffd700; text-align:center">[[金]]</div><div style="float:left; width:44px; height:20px; background:#dcdcdc; text-align:center">[[銀]]</div>
|-
|元字金
|style="text-align:right"|(1695年)4.76匁
|<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:164px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:122px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|乾字金
|style="text-align:right"|(1710年)2.50匁
|<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:127px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:23px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|正徳金
|style="text-align:right"|(1714年)4.76匁
|<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:242px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:44px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|享保金
|style="text-align:right"|(1714年)4.76匁
|<!-- 5段目 --><div style="float:left; width:248px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:38px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|文字金
|style="text-align:right"|(1736年)3.50匁
|<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:138px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:72px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|新文字金
|style="text-align:right"|(1819年)3.50匁
|<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:118px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:92px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|保字金
|style="text-align:right"|(1837年)3.00匁
|<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:102px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:78px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|正字金
|style="text-align:right"|(1859年)2.40匁
|<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:82px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:62px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|万延金
|style="text-align:right"|(1860年)0.88匁
|<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:30px; height:20px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:23px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|}
{{Wide image|Koban evolution.jpg|1000px|慶長小判(1601年)、元禄小判(1695年)、宝永小判(1710年)、正徳小判(1714年)、享保小判(1714年)、元文小判(1736年)、文政小判(1819年)、天保小判(1837年)、安政小判(1859年)、万延小判(1860年)、何れもレプリカ。}}
== (参考)一両の額面を持つ、または一両通用を想定した銀貨 ==
江戸時代の金称呼定位銀貨には[[一分銀]]、[[二朱銀]]、[[一朱銀]]があるが、幕府の発行した貨幣として一両の額面を持つ金称呼定位銀貨は存在しない。ただ[[地方貨幣]]では、一両の額面を持つ、または一両通用を想定した銀貨として、[[秋田八匁封銀]]、[[秋田九匁二分銀判]]、[[盛岡八匁銀判]]、[[会津一両銀判]]などが挙げられる。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳 |title=日本鉱山史の研究 |edition= |series= |volume= |publisher=[[岩波書店]] |date=1968 |isbn= |ref=Kobata1968}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄 |title=日本の貨幣の歴史 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1996 |isbn=978-4-642-06652-5 |ref=Takizawa1996}}
* {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄,西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省造幣局 |title=貨幣の生ひ立ち |edition= |series= |volume= |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1940 |isbn= |ref=Zoheikyoku1940}}
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省 |title=新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書 |edition= |series= |volume= |publisher=大蔵省 |date=1875 |isbn= |ref=Okurasho1875}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994141 近代デジタルライブラリー]
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Koban (coin)}}
* [[大判]]
* [[一分判]]
* [[金座]]
{{江戸時代の貨幣}}
{{DEFAULTSORT:こはん}}
[[Category:江戸時代の金貨]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%88%A4
|
11,232 |
短距離走
|
短距離走(たんきょりそう)とは、陸上競技のうち短距離を走る競技の総称。具体的には400mまでの距離において順位や記録を競うものをいう。すべての種目で各選手は割り当てられたレーンを走る(セパレートレーン)。
短距離走は紀元前776年に開催された最初の古代ギリシャの祭典(古代オリンピック)のときから実施されていた。スタディオン走と呼ばれるもので約190メートルの距離をまっすぐに走る競技であった。ただし、同時代の競走種目は開催する競技場によって長さが多少異なっていたといわれている。
100m走、200m走、400m走があり、100m走と200m走をショートスプリント、400m走をロングスプリントという。
スタートはクラウチングスタートと定められており、スターティングブロックを使用する。
スタートの方法には以下のような方法がある。
2002年までは同一選手が2度不正出発したとき失格とされていた。その後、2009年までは1回目いずれかの選手に不正出発があったときは全員に対して警告を行い、2回目のスタート時に不正出発を行った選手を失格としていた。2010年からは1回目から不正出発を行った選手は失格としている。
主要大会ではスターティングブロックへの不正スタート発見装置の取り付けが義務付けられておりスタートの号砲から0.1秒未満で反応した選手を検出できるようになっている。
フィニッシュは決勝線(ゴールライン)にトルソー(頭、首、腕、手を除いた胴体部)が到達した時と定められている。厳密には5cm幅のフィニッシュラインのスタート側線端に選手のトルソーが到達した時をフィニッシュとしている。
フィニッシュの方法には以下のような方法がある。
短距離走の公式種目のうち100m走と200m走では追い風が2.0m/sを超えると追い風参考記録となる。
追い風2.0/sの判定基準は100m走の場合はピストル合図から10秒間を基準とする。200m走の場合は先頭の選手が直走路に入ってから10秒間を基準とする。
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] |
短距離走(たんきょりそう)とは、陸上競技のうち短距離を走る競技の総称。具体的には400mまでの距離において順位や記録を競うものをいう。すべての種目で各選手は割り当てられたレーンを走る(セパレートレーン)。
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'''短距離走'''(たんきょりそう)とは、[[陸上競技]]のうち短距離を[[走る]]競技の総称。具体的には400mまでの距離において順位や記録を競うものをいう<ref name = "21sports1285">『21世紀スポーツ大事典』大修館書店、2015年、p.1285</ref>。すべての種目で各選手は割り当てられたレーンを走る(セパレートレーン)<ref name = "21sports1285" />。
== 歴史 ==
短距離走は紀元前776年に開催された最初の古代ギリシャの祭典([[古代オリンピック]])のときから実施されていた<ref name = "21sports1285" />。[[スタディオン走]]と呼ばれるもので約190メートルの距離をまっすぐに走る競技であった<ref name = "21sports1285" />。ただし、同時代の競走種目は開催する競技場によって長さが多少異なっていたといわれている<ref name = "21sports1285" />。
== 短距離走の種類 ==
=== 公式種目 ===
100m走、200m走、400m走があり、100m走と200m走をショートスプリント、400m走をロングスプリントという<ref name = "21sports1285" />。
* [[100メートル競走]] - 走路には100mの直走路を使用する<ref name = "21sports1285" />。
* [[200メートル競走]] - 走路は曲走路120m、直走路80mである<ref name = "21sports1285" />。
* [[400メートル競走]]
=== 非公式種目 ===
*[[50メートル競走]]
*[[60メートル競走]]
*[[100ヤード競走]]
*[[150メートル競走]]
*[[300メートル競走]]
== スタートとフィニッシュ ==
=== スタート ===
スタートは[[クラウチングスタート]]と定められており、[[スターティングブロック]]を使用する<ref name="Q&A p50">『スポーツQ&Aシリーズ 実戦陸上競技 トラック編』日本陸上競技連盟編、大修館書店、1990年、p.50. ISBN 978-4469162165</ref>。
==== スタートの方法 ====
スタートの方法には以下のような方法がある。
; ショートスタート
: 後足のつま先を前足の踵と平行になるようスターティングブロックを調整する<ref name = "Q&A p50" />。一歩目の接地は最も早い方法だが、ブロックを押し出す力は弱く、上体が起こされやすくなるのが欠点である<ref name = "Q&A p50" />。
; ミドルスタート
: 後脚の膝が前足のつま先と平行になるようスターティングブロックを調整する<ref name = "Q&A p50" />。最もオーソドックスで一般的な方法である<ref name = "Q&A p50" />。
; ロングスタート
: 後足を前足の踵から脛骨までの長さ以上に後ろに引いた状態でスターティングブロックを調整する<ref name = "Q&A p50" />。一歩目の接地が他に比べて遅くなるといった欠点がある<ref name = "Q&A p50" />。
==== 不正出発(フライング) ====
2002年までは同一選手が2度不正出発したとき失格とされていた<ref name = "21sports1285" />。その後、2009年までは1回目いずれかの選手に不正出発があったときは全員に対して警告を行い、2回目のスタート時に不正出発を行った選手を失格としていた<ref name = "21sports1285" />。2010年からは1回目から不正出発を行った選手は失格としている<ref name = "21sports1285" />。
主要大会ではスターティングブロックへの不正スタート発見装置の取り付けが義務付けられておりスタートの号砲から0.1秒未満で反応した選手を検出できるようになっている<ref name = "21sports1285" />。
=== フィニッシュ ===
==== フィニッシュの判定 ====
フィニッシュは決勝線(ゴールライン)にトルソー(頭、首、腕、手を除いた胴体部)が到達した時と定められている<ref name="Q&A p75">『スポーツQ&Aシリーズ 実戦陸上競技 トラック編』日本陸上競技連盟編、大修館書店、1990年、p.75. ISBN 978-4469162165</ref>。厳密には5cm幅のフィニッシュラインのスタート側線端に選手のトルソーが到達した時をフィニッシュとしている<ref name = "21sports1285" />。
==== フィニッシュの方法 ====
フィニッシュの方法には以下のような方法がある。
; ディップ
: ゴール前の最後の一歩の蹴り上げに合わせて両腕を後方に引きつけて上体を前に突き出すようにフィニッシュする方法<ref name = "Q&A p75" />。
; シュラッグ
: ゴール前の最後の一歩の蹴り上げに合わせて肩をひねるように上体を傾けながらフィニッシュする方法<ref name = "Q&A p75" />。
; 走り抜け
: ゴール前に特別の動作を行うことなく疾走フォームを維持したまま走り抜ける方法<ref name = "Q&A p75" />。
== 追い風参考記録 ==
短距離走の公式種目のうち100m走と200m走では追い風が2.0m/sを超えると[[追い風参考記録]]となる<ref name = "21sports1285" />。
追い風2.0/sの判定基準は100m走の場合はピストル合図から10秒間を基準とする<ref name = "21sports1285" />。200m走の場合は先頭の選手が直走路に入ってから10秒間を基準とする<ref name = "21sports1285" />。
== 世界大会における日本人メダリスト ==
* [[オリンピック陸上競技|オリンピック]]、[[ユースオリンピック]]、[[世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]、[[世界室内陸上競技選手権大会|世界室内選手権]]、[[世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]]、[[世界ユース陸上競技選手権大会|世界ユース選手権]]、[[ユニバーシアード陸上競技|ユニバーシアード]]における日本人メダリストを記載。
* 大会の年齢区分:ユース(18歳未満)、ジュニア(20歳未満)、学生(28歳未満)。
=== 100メートル競走 ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%; min-width:75%"
|+ 男子
|-
! 年
! 大会
! 年齢区分
! 開催地
! 選手
! メダル
! 記録
|-
| [[1965年|1965]]
| [[1965年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|HUN}} [[ブダペスト]]
| [[飯島秀雄]]
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 金
| 10秒1 (+5.0)
|-
| [[2009年|2009]]
| [[2009年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]
| [[江里口匡史]]
| style="background-color: #c96; text-align: center;" | 銅
| 10秒33 (-0.7)
|-
| [[2010年|2010]]
| [[シンガポールユースオリンピック|ユースオリンピック]]
| ユース
| {{SIN}}
| [[梨本真輝]]
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 銀
| 10秒51 (+0.1)
|-
| [[2011年|2011]]
| [[2011年世界ユース陸上競技選手権大会|世界ユース選手権]]
| ユース
| {{Flagicon|FRA}} [[リール (フランス)|リール]]
| [[大瀬戸一馬]]
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 銀
| 10秒52 (-0.3)
|-
| [[2013年|2013]]
| [[2013年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|RUS}} [[カザン]]
| [[山縣亮太]]
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 銀
| 10秒21 (+0.5)
|-
| [[2014年|2014]]
| [[2014年世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]]
| ジュニア
| {{Flagicon|USA}} [[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]
| [[桐生祥秀]]
| style="background-color: #c96; text-align: center;" | 銅
| 10秒34 (-0.6)
|-
| [[2014年|2014]]
| [[南京ユースオリンピック|ユースオリンピック]]
| ユース
| {{Flagicon|CHN}} [[南京市|南京]]
| [[大嶋健太]]
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 銀
| 10秒57 (-0.5)
|-
| [[2015年|2015]]
| [[2015年世界ユース陸上競技選手権大会|世界ユース選手権]]
| ユース
| {{Flagicon|COL}} [[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]
| [[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 金
| 10秒28 (-0.4)
|}
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%; min-width:75%"
|+ 女子
|-
! 年
! 大会
! 年齢区分
! 開催地
! 選手
! メダル
! 記録
|-
| [[2009年|2009]]
| [[2009年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]
| [[高橋萌木子]]
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 銀
| 11秒52 (-0.3)
|}
=== 200メートル競走 ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%; min-width:75%"
|+ 男子
|-
! 年
! 大会
! 年齢区分
! 開催地
! 選手
! メダル
! 記録
|-
| [[2003年|2003]]
| [[2003年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]
| シニア
| {{Flagicon|FRA}} [[パリ]]
| [[末續慎吾]]
| style="background-color: #c96; text-align: center;" | 銅
| 20秒38 (+0.1)
|-
| [[2005年|2005]]
| [[2005年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|TUR}} [[イズミル]]
| [[高平慎士]]
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 銀
| 20秒93 (+1.1)
|-
| [[2007年|2007]]
| [[2007年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|THA}} [[バンコク]]
| [[神山知也]]
| style="background-color: #c96; text-align: center;" | 銅
| 20秒97 (+0.2)
|-
| [[2010年|2010]]
| [[2010年世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]]
| ジュニア
| {{Flagicon|CAN}} [[モンクトン]]
| [[飯塚翔太]]
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 金
| 20秒67 (+0.5)
|-
| [[2010年|2010]]
| [[シンガポールユースオリンピック|ユースオリンピック]]
| ユース
| {{SIN}}
| [[本間圭祐]]
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 銀
| 21秒27 (+0.4)
|-
| [[2013年|2013]]
| [[2013年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|RUS}} [[カザン]]
| [[飯塚翔太]]
| style="background-color: #c96; text-align: center;" | 銅
| 20秒33 (+2.4)
|-
| [[2015年|2015]]
| [[2015年世界ユース陸上競技選手権大会|世界ユース選手権]]
| ユース
| {{Flagicon|COL}} [[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]
| [[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 金
| 20秒34 (-0.4)
|}
=== 400メートル競走 ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%; min-width:75%"
|+ 男子
|-
! 年
! 大会
! 年齢区分
! 開催地
! 選手
! メダル
! 記録
|-
| [[1997年|1997]]
| [[1997年世界室内陸上競技選手権大会|世界室内選手権]]
| シニア
| {{Flagicon|FRA}} [[パリ]]
| [[苅部俊二]]
| style="background-color: #c96; text-align: center;" | 銅
| 45秒76
|-
| [[2000年|2000]]
| [[2000年世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]]
| ジュニア
| {{Flagicon|CHI}} [[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]
| [[石川慎二]]
| style="background-color: #c96; text-align: center;" | 銅
| 45秒77
|-
| [[2005年|2005]]
| [[2005年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|TUR}} [[イズミル]]
| [[山口有希]]
| style="background-color: #c96; text-align: center;" | 銅
| 46秒15
|-
| [[2009年|2009]]
| [[2009年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]
| 学生
| {{Flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]
| [[金丸祐三]]
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 金
| 45秒68
|-
| [[2014年|2014]]
| [[2014年世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]]
| ジュニア
| {{Flagicon|USA}} [[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]
| [[加藤修也]]
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 銀
| 46秒17
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
*[[150メートル走]](公式大会ではない)
*[[スタディオン走]] - [[古代ギリシア]]の短距離走(200m弱)
{{陸上競技}}
{{スポーツ一覧}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:たんきよりきようそう}}
[[Category:陸上競技種目]]
[[Category:短距離走|*]]
|
2003-07-11T16:17:49Z
|
2023-08-01T23:17:52Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E8%B7%9D%E9%9B%A2%E8%B5%B0
|
11,233 |
長距離走
|
長距離走(ちょうきょりそう)とは、陸上競技のうち長距離を走る競技。
絶対的なスピードや瞬発力などよりも持久力、戦略などが要求される。同様に高い有酸素持久力を要求される中距離走と比べると展開は緩やかであるのが特徴。短距離走などは常に自己の最大パフォーマンスを発揮することを狙い同走者の動向によってレース展開を変えることはないが、長距離走は時には同走者と駆け引きを行い、勝負どころを掴み勝機を掴むための高い技術力も必要とされる。
持久走とは70%ぐらいの力で5~30分間走ることである。学校現場では全力で走り競争を伴う長距離走と混同されていることが多い。長い距離を走ることは文科省の学習指導要領(小学校)では長距離走ではなく持久走として扱うこととしている。
日本の小・中・高等学校ではしばしば持久走大会(もしくはマラソン大会)が行われる。多くの学校では、秋から冬に「耐寒訓練」として行われ、大会の前には朝の授業前、休憩時間や放課後に練習を行ったり、体育の授業でも持久走を行い、タイムを計測する(コースの下見のみでタイムを計測しないところもある)。また、学校によっては運動会(体育祭)で行うところや、学期ごとに行う(年2回または3回)ところもある。
距離は小学校の場合400メートルから2キロメートル程度で、学年に応じて距離が長くなる。中学・高校では学年や性別によって異なるが、2キロメートルから10キロメートルぐらいが一般的である。オリンピックでは5000メートルと10000メートルが長距離に分類されている。
また持久走大会ではなく強歩大会が行なわれている学校もある。多くの学校では、コースは学校外の道路だが、一部の学校では学校のグラウンドを使うところもある。
|
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長距離走(ちょうきょりそう)とは、陸上競技のうち長距離を走る競技。 絶対的なスピードや瞬発力などよりも持久力、戦略などが要求される。同様に高い有酸素持久力を要求される中距離走と比べると展開は緩やかであるのが特徴。短距離走などは常に自己の最大パフォーマンスを発揮することを狙い同走者の動向によってレース展開を変えることはないが、長距離走は時には同走者と駆け引きを行い、勝負どころを掴み勝機を掴むための高い技術力も必要とされる。
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{{出典の明記|date=2011年10月31日 (月) 11:27 (UTC)}}
'''長距離走'''(ちょうきょりそう)とは、[[陸上競技]]のうち長距離を[[走る]]競技。
絶対的なスピードや瞬発力などよりも持久力、戦略などが要求される。同様に高い[[有酸素持久力]]を要求される[[中距離走]]と比べると展開は緩やかであるのが特徴。[[短距離走]]などは常に自己の最大[[パフォーマンス]]を発揮することを狙い同走者の動向によってレース展開を変えることはないが、長距離走は時には同走者と駆け引きを行い、勝負どころを掴み勝機を掴むための高い技術力も必要とされる<ref>ラリー・グリーン著 [[山西哲郎]]他 訳『中・高校生の中長距離走トレーニング』[[大修館書店]] (ISBN 978-4469264074)
</ref>。
== 持久走とは ==
持久走とは70%ぐらいの力で5~30分間走ることである。学校現場では全力で走り競争を伴う長距離走と混同されていることが多い。長い距離を走ることは文科省の学習指導要領(小学校)では長距離走ではなく持久走として扱うこととしている。
日本の[[小学校|小]]・[[中学校|中]]・[[高等学校]]ではしばしば持久走大会(もしくはマラソン大会)が行われる。多くの学校では、秋から冬に「耐寒訓練」として行われ、大会の前には朝の授業前、休憩時間や放課後に練習を行ったり、[[体育]]の授業でも持久走を行い、タイムを計測する(コースの下見のみでタイムを計測しないところもある)。また、学校によっては[[運動会]](体育祭)で行うところや、学期ごとに行う(年2回または3回)ところもある。
距離は小学校の場合400メートルから2キロメートル程度で、学年に応じて距離が長くなる。中学・高校では学年や性別によって異なるが、2キロメートルから10キロメートルぐらいが一般的である。オリンピックでは5000メートルと10000メートルが長距離に分類されている。
また持久走大会ではなく[[強歩大会]]が行なわれている学校もある。多くの学校では、コースは学校外の道路だが、一部の学校では学校のグラウンドを使うところもある。
== 長距離走の種類 ==
* [[5000メートル競走]]
* [[10000メートル競走]]
* [[ハーフマラソン]]
* [[マラソン|フルマラソン]]
* [[ウルトラマラソン]]
* [[クロスカントリー競走]]
* [[駅伝競走]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[Long Slow Distance]]
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[[Category:陸上競技種目]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B7%9D%E9%9B%A2%E8%B5%B0
|
11,237 |
モンティ・ホール問題
|
モンティ・ホール問題(モンティ・ホールもんだい、英: Monty Hall problem)とは、確率論の問題で、ベイズの定理における事後確率、あるいは主観確率の例題の一つとなっている。モンティ・ホール(英語版)(Monty Hall, 本名:Monte Halperin)が司会者を務めるアメリカのゲームショー番組、「Let's make a deal(英語版)」の中で行われたゲームに関する論争に由来する。一種の心理トリックになっており、確率論から導かれる結果を説明されても、なお納得しない者が少なくないことから、モンティ・ホール・ジレンマ、モンティ・ホール・パラドックスとも称される。「直感で正しいと思える解答と、論理的に正しい解答が異なる問題」の適例とされる。
なお、モンティ・ホール問題と実質的に同型である「3囚人問題」については、かつて日本で精力的に研究された。
1990年9月9日発行、ニュース雑誌「Parade」にてマリリン・ヴォス・サヴァントが連載するコラム「マリリンにおまかせ」で、上記の読者投稿による質問に「正解は『ドアを変更する』である。なぜなら、ドアを変更した場合には景品を当てる確率が2倍になるからだ」と回答。すると直後から、読者からの「彼女の解答は間違っている」との約1万通の投書が殺到し、本問題は大議論に発展した。
投書には、1000人近い博士号保持者からのものも含まれていた。その大部分は「ドアを変えても確率は五分五分(2分の1)であり、3分の2にはならない」とするものであった。サヴァントは投書への反論を試み、同年12月2日、数通の反論の手紙を紹介した。
サヴァントは、より簡易にした表を掲載「ドアを変えれば勝てるのは3回の内2回、負けるのは3回の内1回だけ、しかしドアを変えなければ勝てるのは3回の内1回だけ」と述べる。この問題に関する1991年2月17日付、3回目の記事の段階でサヴァントに対する反論は9割程度を占める。
「現実が直観と反する時、人々は動揺する」とサヴァントはコラムで反論の声に応じ、下記の説明を試みる。
サヴァントの再再々解説でも大論争へと発展、「彼女こそ間違っている」という感情的なジェンダー問題にまで飛び火した。
プロ数学者ポール・エルデシュの弟子だったアンドリュー・ヴァージョニが本問題を自前のパーソナルコンピュータでモンテカルロ法を用いて数百回のシミュレーションを行うと、結果はサヴァントの答えと一致。エルデシュは「あり得ない」と主張していたがヴァージョニがコンピュータで弾き出した答えを見せられサヴァントが正しかったと認める。その後、カール・セーガンら著名人らがモンティーホール問題を解説、サヴァントの答えに反論を行なっていた人々は、誤りを認める。
サヴァントは、「最も高い知能指数を有する者が、子供でもわかる些細な間違いを新聞で晒した」等の数多くの非難に対して3回のコラムをこの問題にあて、激しい反論の攻撃に耐えて持論を擁護し通し、証明した。それによると、ドアの数を100万に増やした例まで挙げて説明しても正しく理解してもらえなかったとのことである。
なお、サヴァントの本の183頁以降に、ミズーリ大学のドナルド・グランバーグ教授が補遺を記載している。それによると、モンティ・ホールジレンマに関しては、コラムでの議論ののちに、「アメリカン・スタティスティシャン」「アメリカン・マスマティカル・マンスリー」「マスマティカル・サイエンティスト」「マスマティクス・ティーチャー」「ニューヨークタイムズ」等の媒体で細部まで議論され、その結果、サヴァントの解答は基本的に正しいとされたとのことである。
このうち (3) と (4) の条件が重要である(ベイズの定理でいう事後確率が有効になる)。 もし (3) が決められていなければ、例えば開けるかどうかモンティが決められるなら、このゲームはプレーヤーとモンティの心理戦であり、確率の問題ではない。 また、(4) の条件次第では答えが逆になったり、答えを定めることができなかったりする。つまり、モンティが景品を出してしまう可能性があるなら、問題の大前提が変わってしまう。
大騒ぎとなった最大の原因として、ルールに対する数学的な説明が無く「解釈」の余地があったことで、数学的に正しいルールが決まるまで決着が付かなかった。
この問題を巡る人々の反応は、冒頭のエピソードにある様に『どちらを選んでも変わらない』とする意見が多かった。
ドアが2つになった時点でプレーヤーが改めてコイントスによって決めなおしたと仮定すると、景品を得る確率はコイントスから生じる確率1/2そのものとなる(それまでの確率 1/3 と 2/3 との選択を止めることになるため)。
ところが、2枚のドアの価値はルール (1) - (4) で確率の高い(価値のある)選択をすることが可能となっている。つまり、『どちらを選んでも変わらない』は誤りである。
以下のように考えると直感でも理解しやすい。
最初にハズレのドアを選ぶことができれば、上記手順で確実に当たりのドアを開けることができる。最初にハズレのドアを選ぶことができる確率は2/3であるので、この手順に従えば(つまりドアを変更すれば)2/3の確率で当たりのドアを開けることができる。
この1.の「当たりのドアを選ぶ」か「ハズレのドアを選ぶ」かは気持ちの問題であり、確率的な影響はまったくないことに注意を要する。3.でドアを変更することへの抵抗感をなくす効果しか持っていない。
よって2.においてモンティが「もう一つのハズレのドアがどれかを教えてくれる」のではなくモンティも当てようとする(モンティが当てたらプレーヤーは自動的に外れる)場合には、1/3の確率で2.でモンティが当ててしまうので、3.にたどり着くのはモンティが2/3の確率で外した場合に限る。この場合3.にたどり着いた時点で残る確率は、変更すると当たる確率1/3(2/3だった確率のうち1/3をモンティが使って(そして外して)しまった)と、変更すると外れる確率1/3とになり、ドアを変更してもしなくても確率は等しいという直感通りの確率になる。
つまり、2.でモンティが2/3の確率のうち1/3を使ってハズレのドアを開けてしまうのではなく、確実に(確率を減らさずに)ハズレのドアを開けることが直感通りにならない要因である。
これを変形させた考え方もできる。
最初にプレーヤーが選んだ1枚のドアと「残り99枚のうちで、正解を知っているモンティが開こうとしなかった、ただ1枚のドア」の確率が相違していることは、直感で理解が可能であろう。
または、こう考えることもできる。
プレーヤーが最初に選択することにより、ひとまとめの対象から(番組側から見てランダムに)外されたドアと、残りすべてのドアでは、価値が等しくないことは明らかである。
また、確率論の基になっている統計の考え方を呼び起こすことで、理解を助けられた実験がある。
この問題はパラドックスであるといわれることがある。最初からドアが1つ開いた状態で、2つのドアから1つを選ぶという問題であったなら、確率は 1/2 である。それに対して、このゲームによってドアが1つ開いた状態になった場合には、確率は 1/3 と 2/3 になる。このように確率が異なることがパラドックスといわれる理由である。
しかし、これは確率の計算に矛盾があるわけではないので、擬似パラドックスである。ドアが2択になった経緯を知っているか知らないかの情報の差がドアの評価に影響しているだけである(単純な話、「最初にプレーヤーがドアを選択する時点での確率」と考えると理解しやすい。なお、1つドアが初めから開いた状態=単なる2択問題であり、モンティ・ホール問題は成立し得ない)。
自然な仮定の下で、開けるドアを変更すると、プレーヤーが景品を獲得する確率が2倍になることをベイズの公式(ベイズの定理)を使って示す。
簡単化のため、プレーヤーは初めにAのドアを選ぶものとする(プレーヤーが初めにBまたはCのドアを選ぶとしても以下の論法は変わらない)。
標本空間をΩとし(例えば、全ての放映されたモンティ・ホール・ショーのうち、プレーヤーが初めにAのドアを選んだ場合全ての集合と考えることにする)、Ω上で定義された確率をPとする(ここでは、Ωの任意の部分集合Uに対して、P(U)=(Uの要素の個数)/(Ωの要素の個数)と定義することにする)。また、Ω上で定義された「景品があるドア」を表す確率変数をXとし、「モンティが開けるドア」を表す確率変数をYする。XとYの値域は、それぞれ、X(Ω)={A,B,C}、Y(Ω)={A,B,C}である。xをX(Ω)の要素を表す変数とすれば(つまりxはA,B,Cのいずれかの値を取る)、「景品があるドア」がxである確率はPX(x)=P(X(x))と表される。同様に、yをY(Ω)の要素を表す変数とすれば、「モンティが開けるドア」がyである確率はPY(y)=P(Y(y))と表される。
プレーヤーが初めにAのドアを選び、モンティがBかCのドアを開ける前の時点での結合確率PX,Y(x,y)=P(X(x)∩Y(y))を考える。ベイズの公式により、条件付確率PX|Y(x|y)=PX,Y(x,y)/PY(y)、および条件付確率PY|X(y|x)=PX,Y(x,y)/PX(x)である。
ここで自然ではあるが、問題文では触れられていない次の仮定を置く。「景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアまたはCのドアを選ぶ確率は等しく1/2である」。この仮定が成り立たない場合については後で考察する。
プレーヤーの持っている情報では、景品がA,B,Cのどのドアにあるかの確率は等しく1/3である。つまりPX(A)=PX(B)=PX(C)=1/3である。プレーヤーがAのドアを選んだ場合、モンティはAのドアを開くことは無いので、条件付確率PY|X(A|A)=PY|X(A|B)=PY|X(A|C)=0 である。従ってPX,Y(A,A)=PX,Y(B,A)=PX,Y(C,A)=0 である。景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアを選ぶ条件付確率PY|X(B|A)は、上の仮定により1/2であり、ベイズの公式から結合確率PX,Y(A,B)=PY|X(B|A)×PY(A)=1/6となる。モンティがCのドアを選ぶ結合確率PX,Y(A,C)も同様に1/6である。
景品がBのドアにある場合、モンティはAとBのドアを選ぶことはできないのでCのドアを開けざるを得ない。つまりPY|X(B|B)=0であり、PY|X(C|B)=1である。従ってPX,Y(B,B)=PY|X(B|B)×PY(B)=0であり、PX,Y(B,C)=PY|X(C|B)×PY(C)=1/3である。同様に、PX,Y(C,C)=0であり、PX,Y(C,B)=1/3である。
以上を表にまとめると、次のようになる。
表からわかるように、プレーヤーの持っている情報では、モンティがBのドアを開ける確率PY(B)またはCのドアを開ける確率PY(C)は等しく1/2である。 モンティがCのドアを開けた瞬間、プレーヤーの持っている情報は、条件付確率PX|Y(x|C)となる。ベイズの公式によりPX|Y(x|C)=PX,Y(x,C)/PY(C)であるから、PX|Y(A|C)=1/3、PX|Y(B|C)=2/3、PX|Y(C|C)=0となる。つまり、景品がAのドアにある確率は1/3であり、Bのドアにある確率は2/3である。従って確かに、プレーヤーが開けるドアをAからBに変更すれば、景品を獲得する確率は2倍になる。
以下で、上記の仮定「景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアまたはCのドアを選ぶ確率は等しく1/2である」が成り立たない場合について考察する。景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアを選ぶ確率をr (0≤r≤1)、Cのドアを選ぶ確率を1-rとする。つまりPY|X(B|A)=r、PY|X(C|A)=1-rとする。
この場合の、結合確率PX,Y(x,y)は下表のようになる。r=1/2であれば上の表に一致する。
この場合、もしモンティがBのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、ベイズの公式によりPX|Y(A|B)=r/(1+r)、PX|Y(B|B)=0、PX|Y(C|B)=1/(1+r)と確定する。
逆に、もしモンティがCのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、ベイズの公式によりPX|Y(A|C)=(1-r)/(2-r)、PX|Y(B|C)=1/(2-r)、PX|Y(C|C)=0と確定する。
具体的に、「プレーヤーがAのドアを選んだ状態で、景品がAのドアにある場合、モンティは必ずCのドアを選ぶ」、つまりr=0という情報をプレーヤーが持っている場合(例えば今まで放映された番組では、必ずそうしていたという情報を持っているような場合)について考えてみる。
この場合、もしモンティがBのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、上の式に r=0 を代入して PX|Y(A|B)=0、PX|Y(B|B)=0、PX|Y(C|B)=1と、景品がCのドアにあることが確定する。
逆に、もしモンティがCのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、やはり上の式に r=0 を代入して PX|Y(A|C)=1/2、PX|Y(B|C)=1/2、PX|Y(C|C)=0と確定する。この場合は「ドアを変えても確率は五分五分(2分の1)であり、3分の2にはならない」というクレームは正しいことになる。
一方、r=0 の場合、モンティがBのドアを開ける確率は1/3であり、Cのドアを開ける確率は2/3である。プレーヤーが、どのような場合でもドアを換えるという戦略をとる場合の景品を得る確率の期待値は、1/3×1+2/3×1/2=1/3+1/3=2/3であり、r=1/2 の場合と変わらないことが分かる。
r が一般の値 (0≤r≤1) であり、プレーヤーは r の値を知っていて、モンティが選択するドアに応じて、最も景品を得る確率が高いドアを選択する場合を考える。
モンティがBのドアを選ぶ確率は、上表から(1+r)/3であり、その場合にCのドアに景品がある条件付確率PX|Y(C|B)は1/(1+r)、Aのドアに景品がある条件付確率PX|Y(C|B)はr/(1+r)であるから、Cのドアに景品がある確率のほうが大きいか、または等しい(r=1 の場合)。
モンティがCのドアを選ぶ確率は、上表から(2-r)/3であり、その場合にBのドアに景品がある条件付確率PX|Y(B|C)は1/(2-r)、Aのドアに景品がある条件付確率PX|Y(A|C)は(1-r)/(2-r)であるから、Bのドアに景品がある確率のほうが大きいか、または等しい(r=0 の場合)。
結局、モンティがBまたはCのどちらのドアを選んだ場合でも、プレーヤーがAとは別の残りのドアを選んだ方が、選択をAのドアのまま変えない場合より景品を得る確率は高いか等しくなる。
プレーヤーがAのドアからBまたはCのドアに選択を変更した場合に景品を得られる確率は、(1+r)/3×1/(1+r)+(2-r)/3×1/(2-/r)=1/3+1/3=2/3であり、これはrの値に関係なく成立することが分かる。
つまり、モンティがドアの選択について、どのような傾向を持っているかという情報を、プレーヤーが持っているか、いないかにかかわらず、プレーヤーはドアの選択を変更する戦略をとる方が、景品を得る確率は高くなり、その場合に景品を得られる確率は、r の値に関係なく2/3であることが分かる。
簡単なプログラムでシミュレーションを行い、答えを導くこともできる(図)。このグラフでは、変更したドアに景品があった回数の累計が、変更しなかった場合の約2倍となっている。
ルールを変更することで例題の理解を助けたり、統計論の別の課題を説明する試みが行われている。
(4) モンティは景品のあるドアを知っている。どちらを開けるかコイントスで決めるが、選んだドアが景品の場合はもう片方のドアに変更する。
このルールは結局ドアの選び方に変化はないので、解答は「開けるドアを変更する」である。
(4) モンティは景品のあるドアを知らない。どちらを開けるかコイントスで決めるが、選んだドアが景品の場合は番組スタッフが中身を入れ替える。
これは、前のルールで最後にモンティがドアの選択を変更していたところをスタッフが代わりにやっているだけであり、解答は「開けるドアを変更する」である。
このルールではドアを変更したほうがよいことが直感的に分かる。残ったドアに景品が移動してくることはあっても、出ていくことはないからである。数値で示すと、プレーヤーが最初から正解していた確率は 1/3、モンティが正解して景品が移動した確率も 1/3、二人ともハズレであった確率も 1/3 である。景品は必ず最後の扉に移動するので、最後の扉に景品がある確率は 2/3 である。
(4) モンティはどちらを開けるかコイントスで決め、中身にかかわらず開ける。
モンティが景品を出してしまった場合はゲーム終了と仮定して、モンティがヤギを出したらプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合の正解はどっちを選んでも確率は 1/2 となり、変更してもしなくてもよいのである。
モンティが景品を出す確率は1/3、ヤギを出す確率は 2/3 である。景品を出したらゲームは終了するので、ヤギを出した場合の2/3の内訳を考えると、プレーヤーが選んだドアに景品がある確率1/3と、最後のドアにある確率1/3になる。 この場合、プレーヤーもモンティも正解に関係なくドアを選ぶので、先に景品を入れる必要はなく、後から景品の位置をランダムに決めても結果は等価となる。
(3) モンティは景品のあるドアを知っている。コイントスでヤギのドアの片方を選び、プレーヤーの選択にかかわらず開ける。
モンティがプレーヤーの選んだドアを選んだ場合はゲーム終了と仮定して、モンティがヤギを出したらプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合も変更ルール3同様、変更してもしなくてもよいのである。
(3) モンティは景品のあるドアを知っている。最初にプレーヤーが景品のあるドアを選んだ時に限り、ドアを開ける。
このように変更すると、モンティがドアを開けない場合がある。もし、偶然にもモンティがドアを開けたとすると、プレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合は当然答えは「開けるドアを変更しない」である。 このことから、モンティがドアを必ず開けるというルールは非常に重要だということが分かる。
(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーが景品のあるドアを選んだ時だけ、変更してよいという。
(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーがヤギのいるドアを選んだ時だけ、変更してよいという。
プレーヤーとモンティの心理戦を想定した例題も試みられている。駆け引きの内容を数値化することで、統計論的に解を求めることができる。
(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーが景品のあるドアを選んだ時は100%の確率で、ヤギのいるドアを選んだ時は50%の確率で、プレーヤーが選ばなかったヤギのいるドアを開けて見せ、変更してよいという。
ナッシュ均衡による解では、変更したときに景品を得る確率は1/2となる。つまり、変更してもしなくても変わらない。
もとの例題ではルール (3) と (4) が重要とされるのが一般的だが、実はもう一つ重要な前提がある。それは、「プレーヤーが最初に当たりを選んだ場合に、モンティが残るドアのどちらを開けるかについて "癖がない(ランダムに選ぶ)" ことだ。例えば「プレーヤーが最初に当たりのAのドアを選んだ場合は、モンティは必ずBを開く」という可能性があるとすれば、「マリリンの解答は間違っている」というのは必ずしも間違いではない。ここで、「癖がない(ランダムに選ぶ)」ことがいかに重要であるか、具体的に説明する。
プレーヤーがドアAを選んだ場合にモンティがドアBを選択する(選択して開ける)確率を x とすると、ドアBが開いた(もちろん外れ)という条件のもとで、ドアAが当たりである確率は x/(1+x)となる(もちろん、ドアCが当たりである確率は 1/(1+x)である)。
計算法
ドアBが開いたということは、プレーヤーがドアCを選択したかドアAを選択したということである。ドアCを選択した場合は必ず(確率1で)ドアBを開き、ドアAを選択した場合は、確率 x でドアBを開くのであるから、ドアBが開いたという条件で、ドアAが当たりである確率は、xを1+x で割れば求められる。
よって、確率 x が0超1以下の間の数値を取るとすれば、ドアAが当たりである確率は0から1/2まで変化する(ドアCが当たりである確率は1から1/2まで変化する)。ドアB、Cをランダムに(x=1/2 の確率で)選択したときに限って、ドアAが当たりの確率は1/3のまま(ドアCが当たりの確率は当初の1/3から2/3に上がる)となる。マリリンの答えは、この特殊な条件を想定したものである。確かに常識的仮定だが、数学的には当然視できるものではない。
なお、先に述べた通り、x が0超1以下の間の数値を取るとき、ドアAが当たりである確率は0から1/2まで変化する一方、ドアCが当たりである確率は1から1/2まで変化する。よって、この前提の場合には、0<x<1のときはドアを変えたほうが当たる確率が高く、x=1のときはドアを変えても当たり確率に変化はないということになり、「ドアを変えたほうが良い」という結論は維持される。
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"text": "モンティ・ホール問題(モンティ・ホールもんだい、英: Monty Hall problem)とは、確率論の問題で、ベイズの定理における事後確率、あるいは主観確率の例題の一つとなっている。モンティ・ホール(英語版)(Monty Hall, 本名:Monte Halperin)が司会者を務めるアメリカのゲームショー番組、「Let's make a deal(英語版)」の中で行われたゲームに関する論争に由来する。一種の心理トリックになっており、確率論から導かれる結果を説明されても、なお納得しない者が少なくないことから、モンティ・ホール・ジレンマ、モンティ・ホール・パラドックスとも称される。「直感で正しいと思える解答と、論理的に正しい解答が異なる問題」の適例とされる。",
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"text": "なお、モンティ・ホール問題と実質的に同型である「3囚人問題」については、かつて日本で精力的に研究された。",
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"text": "1990年9月9日発行、ニュース雑誌「Parade」にてマリリン・ヴォス・サヴァントが連載するコラム「マリリンにおまかせ」で、上記の読者投稿による質問に「正解は『ドアを変更する』である。なぜなら、ドアを変更した場合には景品を当てる確率が2倍になるからだ」と回答。すると直後から、読者からの「彼女の解答は間違っている」との約1万通の投書が殺到し、本問題は大議論に発展した。",
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"text": "投書には、1000人近い博士号保持者からのものも含まれていた。その大部分は「ドアを変えても確率は五分五分(2分の1)であり、3分の2にはならない」とするものであった。サヴァントは投書への反論を試み、同年12月2日、数通の反論の手紙を紹介した。",
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"text": "サヴァントは、より簡易にした表を掲載「ドアを変えれば勝てるのは3回の内2回、負けるのは3回の内1回だけ、しかしドアを変えなければ勝てるのは3回の内1回だけ」と述べる。この問題に関する1991年2月17日付、3回目の記事の段階でサヴァントに対する反論は9割程度を占める。",
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"text": "「現実が直観と反する時、人々は動揺する」とサヴァントはコラムで反論の声に応じ、下記の説明を試みる。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 6,
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"text": "サヴァントの再再々解説でも大論争へと発展、「彼女こそ間違っている」という感情的なジェンダー問題にまで飛び火した。",
"title": "概要"
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"text": "プロ数学者ポール・エルデシュの弟子だったアンドリュー・ヴァージョニが本問題を自前のパーソナルコンピュータでモンテカルロ法を用いて数百回のシミュレーションを行うと、結果はサヴァントの答えと一致。エルデシュは「あり得ない」と主張していたがヴァージョニがコンピュータで弾き出した答えを見せられサヴァントが正しかったと認める。その後、カール・セーガンら著名人らがモンティーホール問題を解説、サヴァントの答えに反論を行なっていた人々は、誤りを認める。",
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"text": "サヴァントは、「最も高い知能指数を有する者が、子供でもわかる些細な間違いを新聞で晒した」等の数多くの非難に対して3回のコラムをこの問題にあて、激しい反論の攻撃に耐えて持論を擁護し通し、証明した。それによると、ドアの数を100万に増やした例まで挙げて説明しても正しく理解してもらえなかったとのことである。",
"title": "概要"
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"text": "なお、サヴァントの本の183頁以降に、ミズーリ大学のドナルド・グランバーグ教授が補遺を記載している。それによると、モンティ・ホールジレンマに関しては、コラムでの議論ののちに、「アメリカン・スタティスティシャン」「アメリカン・マスマティカル・マンスリー」「マスマティカル・サイエンティスト」「マスマティクス・ティーチャー」「ニューヨークタイムズ」等の媒体で細部まで議論され、その結果、サヴァントの解答は基本的に正しいとされたとのことである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "このうち (3) と (4) の条件が重要である(ベイズの定理でいう事後確率が有効になる)。 もし (3) が決められていなければ、例えば開けるかどうかモンティが決められるなら、このゲームはプレーヤーとモンティの心理戦であり、確率の問題ではない。 また、(4) の条件次第では答えが逆になったり、答えを定めることができなかったりする。つまり、モンティが景品を出してしまう可能性があるなら、問題の大前提が変わってしまう。",
"title": "概要"
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"text": "大騒ぎとなった最大の原因として、ルールに対する数学的な説明が無く「解釈」の余地があったことで、数学的に正しいルールが決まるまで決着が付かなかった。",
"title": "概要"
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{
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"tag": "p",
"text": "この問題を巡る人々の反応は、冒頭のエピソードにある様に『どちらを選んでも変わらない』とする意見が多かった。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ドアが2つになった時点でプレーヤーが改めてコイントスによって決めなおしたと仮定すると、景品を得る確率はコイントスから生じる確率1/2そのものとなる(それまでの確率 1/3 と 2/3 との選択を止めることになるため)。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ところが、2枚のドアの価値はルール (1) - (4) で確率の高い(価値のある)選択をすることが可能となっている。つまり、『どちらを選んでも変わらない』は誤りである。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "以下のように考えると直感でも理解しやすい。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "最初にハズレのドアを選ぶことができれば、上記手順で確実に当たりのドアを開けることができる。最初にハズレのドアを選ぶことができる確率は2/3であるので、この手順に従えば(つまりドアを変更すれば)2/3の確率で当たりのドアを開けることができる。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "この1.の「当たりのドアを選ぶ」か「ハズレのドアを選ぶ」かは気持ちの問題であり、確率的な影響はまったくないことに注意を要する。3.でドアを変更することへの抵抗感をなくす効果しか持っていない。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "よって2.においてモンティが「もう一つのハズレのドアがどれかを教えてくれる」のではなくモンティも当てようとする(モンティが当てたらプレーヤーは自動的に外れる)場合には、1/3の確率で2.でモンティが当ててしまうので、3.にたどり着くのはモンティが2/3の確率で外した場合に限る。この場合3.にたどり着いた時点で残る確率は、変更すると当たる確率1/3(2/3だった確率のうち1/3をモンティが使って(そして外して)しまった)と、変更すると外れる確率1/3とになり、ドアを変更してもしなくても確率は等しいという直感通りの確率になる。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "つまり、2.でモンティが2/3の確率のうち1/3を使ってハズレのドアを開けてしまうのではなく、確実に(確率を減らさずに)ハズレのドアを開けることが直感通りにならない要因である。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "これを変形させた考え方もできる。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "最初にプレーヤーが選んだ1枚のドアと「残り99枚のうちで、正解を知っているモンティが開こうとしなかった、ただ1枚のドア」の確率が相違していることは、直感で理解が可能であろう。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "または、こう考えることもできる。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "プレーヤーが最初に選択することにより、ひとまとめの対象から(番組側から見てランダムに)外されたドアと、残りすべてのドアでは、価値が等しくないことは明らかである。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "また、確率論の基になっている統計の考え方を呼び起こすことで、理解を助けられた実験がある。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "この問題はパラドックスであるといわれることがある。最初からドアが1つ開いた状態で、2つのドアから1つを選ぶという問題であったなら、確率は 1/2 である。それに対して、このゲームによってドアが1つ開いた状態になった場合には、確率は 1/3 と 2/3 になる。このように確率が異なることがパラドックスといわれる理由である。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "しかし、これは確率の計算に矛盾があるわけではないので、擬似パラドックスである。ドアが2択になった経緯を知っているか知らないかの情報の差がドアの評価に影響しているだけである(単純な話、「最初にプレーヤーがドアを選択する時点での確率」と考えると理解しやすい。なお、1つドアが初めから開いた状態=単なる2択問題であり、モンティ・ホール問題は成立し得ない)。",
"title": "直感と理論の乖離"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "自然な仮定の下で、開けるドアを変更すると、プレーヤーが景品を獲得する確率が2倍になることをベイズの公式(ベイズの定理)を使って示す。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "簡単化のため、プレーヤーは初めにAのドアを選ぶものとする(プレーヤーが初めにBまたはCのドアを選ぶとしても以下の論法は変わらない)。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "標本空間をΩとし(例えば、全ての放映されたモンティ・ホール・ショーのうち、プレーヤーが初めにAのドアを選んだ場合全ての集合と考えることにする)、Ω上で定義された確率をPとする(ここでは、Ωの任意の部分集合Uに対して、P(U)=(Uの要素の個数)/(Ωの要素の個数)と定義することにする)。また、Ω上で定義された「景品があるドア」を表す確率変数をXとし、「モンティが開けるドア」を表す確率変数をYする。XとYの値域は、それぞれ、X(Ω)={A,B,C}、Y(Ω)={A,B,C}である。xをX(Ω)の要素を表す変数とすれば(つまりxはA,B,Cのいずれかの値を取る)、「景品があるドア」がxである確率はPX(x)=P(X(x))と表される。同様に、yをY(Ω)の要素を表す変数とすれば、「モンティが開けるドア」がyである確率はPY(y)=P(Y(y))と表される。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "プレーヤーが初めにAのドアを選び、モンティがBかCのドアを開ける前の時点での結合確率PX,Y(x,y)=P(X(x)∩Y(y))を考える。ベイズの公式により、条件付確率PX|Y(x|y)=PX,Y(x,y)/PY(y)、および条件付確率PY|X(y|x)=PX,Y(x,y)/PX(x)である。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ここで自然ではあるが、問題文では触れられていない次の仮定を置く。「景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアまたはCのドアを選ぶ確率は等しく1/2である」。この仮定が成り立たない場合については後で考察する。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "プレーヤーの持っている情報では、景品がA,B,Cのどのドアにあるかの確率は等しく1/3である。つまりPX(A)=PX(B)=PX(C)=1/3である。プレーヤーがAのドアを選んだ場合、モンティはAのドアを開くことは無いので、条件付確率PY|X(A|A)=PY|X(A|B)=PY|X(A|C)=0 である。従ってPX,Y(A,A)=PX,Y(B,A)=PX,Y(C,A)=0 である。景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアを選ぶ条件付確率PY|X(B|A)は、上の仮定により1/2であり、ベイズの公式から結合確率PX,Y(A,B)=PY|X(B|A)×PY(A)=1/6となる。モンティがCのドアを選ぶ結合確率PX,Y(A,C)も同様に1/6である。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "景品がBのドアにある場合、モンティはAとBのドアを選ぶことはできないのでCのドアを開けざるを得ない。つまりPY|X(B|B)=0であり、PY|X(C|B)=1である。従ってPX,Y(B,B)=PY|X(B|B)×PY(B)=0であり、PX,Y(B,C)=PY|X(C|B)×PY(C)=1/3である。同様に、PX,Y(C,C)=0であり、PX,Y(C,B)=1/3である。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "以上を表にまとめると、次のようになる。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "表からわかるように、プレーヤーの持っている情報では、モンティがBのドアを開ける確率PY(B)またはCのドアを開ける確率PY(C)は等しく1/2である。 モンティがCのドアを開けた瞬間、プレーヤーの持っている情報は、条件付確率PX|Y(x|C)となる。ベイズの公式によりPX|Y(x|C)=PX,Y(x,C)/PY(C)であるから、PX|Y(A|C)=1/3、PX|Y(B|C)=2/3、PX|Y(C|C)=0となる。つまり、景品がAのドアにある確率は1/3であり、Bのドアにある確率は2/3である。従って確かに、プレーヤーが開けるドアをAからBに変更すれば、景品を獲得する確率は2倍になる。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "以下で、上記の仮定「景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアまたはCのドアを選ぶ確率は等しく1/2である」が成り立たない場合について考察する。景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアを選ぶ確率をr (0≤r≤1)、Cのドアを選ぶ確率を1-rとする。つまりPY|X(B|A)=r、PY|X(C|A)=1-rとする。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この場合の、結合確率PX,Y(x,y)は下表のようになる。r=1/2であれば上の表に一致する。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "この場合、もしモンティがBのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、ベイズの公式によりPX|Y(A|B)=r/(1+r)、PX|Y(B|B)=0、PX|Y(C|B)=1/(1+r)と確定する。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "逆に、もしモンティがCのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、ベイズの公式によりPX|Y(A|C)=(1-r)/(2-r)、PX|Y(B|C)=1/(2-r)、PX|Y(C|C)=0と確定する。",
"title": "計算"
},
{
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"text": "具体的に、「プレーヤーがAのドアを選んだ状態で、景品がAのドアにある場合、モンティは必ずCのドアを選ぶ」、つまりr=0という情報をプレーヤーが持っている場合(例えば今まで放映された番組では、必ずそうしていたという情報を持っているような場合)について考えてみる。",
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"paragraph_id": 41,
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"text": "この場合、もしモンティがBのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、上の式に r=0 を代入して PX|Y(A|B)=0、PX|Y(B|B)=0、PX|Y(C|B)=1と、景品がCのドアにあることが確定する。",
"title": "計算"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "逆に、もしモンティがCのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、やはり上の式に r=0 を代入して PX|Y(A|C)=1/2、PX|Y(B|C)=1/2、PX|Y(C|C)=0と確定する。この場合は「ドアを変えても確率は五分五分(2分の1)であり、3分の2にはならない」というクレームは正しいことになる。",
"title": "計算"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一方、r=0 の場合、モンティがBのドアを開ける確率は1/3であり、Cのドアを開ける確率は2/3である。プレーヤーが、どのような場合でもドアを換えるという戦略をとる場合の景品を得る確率の期待値は、1/3×1+2/3×1/2=1/3+1/3=2/3であり、r=1/2 の場合と変わらないことが分かる。",
"title": "計算"
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"text": "r が一般の値 (0≤r≤1) であり、プレーヤーは r の値を知っていて、モンティが選択するドアに応じて、最も景品を得る確率が高いドアを選択する場合を考える。",
"title": "計算"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "モンティがBのドアを選ぶ確率は、上表から(1+r)/3であり、その場合にCのドアに景品がある条件付確率PX|Y(C|B)は1/(1+r)、Aのドアに景品がある条件付確率PX|Y(C|B)はr/(1+r)であるから、Cのドアに景品がある確率のほうが大きいか、または等しい(r=1 の場合)。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "モンティがCのドアを選ぶ確率は、上表から(2-r)/3であり、その場合にBのドアに景品がある条件付確率PX|Y(B|C)は1/(2-r)、Aのドアに景品がある条件付確率PX|Y(A|C)は(1-r)/(2-r)であるから、Bのドアに景品がある確率のほうが大きいか、または等しい(r=0 の場合)。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "結局、モンティがBまたはCのどちらのドアを選んだ場合でも、プレーヤーがAとは別の残りのドアを選んだ方が、選択をAのドアのまま変えない場合より景品を得る確率は高いか等しくなる。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "プレーヤーがAのドアからBまたはCのドアに選択を変更した場合に景品を得られる確率は、(1+r)/3×1/(1+r)+(2-r)/3×1/(2-/r)=1/3+1/3=2/3であり、これはrの値に関係なく成立することが分かる。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "つまり、モンティがドアの選択について、どのような傾向を持っているかという情報を、プレーヤーが持っているか、いないかにかかわらず、プレーヤーはドアの選択を変更する戦略をとる方が、景品を得る確率は高くなり、その場合に景品を得られる確率は、r の値に関係なく2/3であることが分かる。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "簡単なプログラムでシミュレーションを行い、答えを導くこともできる(図)。このグラフでは、変更したドアに景品があった回数の累計が、変更しなかった場合の約2倍となっている。",
"title": "計算"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ルールを変更することで例題の理解を助けたり、統計論の別の課題を説明する試みが行われている。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "(4) モンティは景品のあるドアを知っている。どちらを開けるかコイントスで決めるが、選んだドアが景品の場合はもう片方のドアに変更する。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "このルールは結局ドアの選び方に変化はないので、解答は「開けるドアを変更する」である。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "(4) モンティは景品のあるドアを知らない。どちらを開けるかコイントスで決めるが、選んだドアが景品の場合は番組スタッフが中身を入れ替える。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "これは、前のルールで最後にモンティがドアの選択を変更していたところをスタッフが代わりにやっているだけであり、解答は「開けるドアを変更する」である。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "このルールではドアを変更したほうがよいことが直感的に分かる。残ったドアに景品が移動してくることはあっても、出ていくことはないからである。数値で示すと、プレーヤーが最初から正解していた確率は 1/3、モンティが正解して景品が移動した確率も 1/3、二人ともハズレであった確率も 1/3 である。景品は必ず最後の扉に移動するので、最後の扉に景品がある確率は 2/3 である。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "(4) モンティはどちらを開けるかコイントスで決め、中身にかかわらず開ける。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "モンティが景品を出してしまった場合はゲーム終了と仮定して、モンティがヤギを出したらプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合の正解はどっちを選んでも確率は 1/2 となり、変更してもしなくてもよいのである。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "モンティが景品を出す確率は1/3、ヤギを出す確率は 2/3 である。景品を出したらゲームは終了するので、ヤギを出した場合の2/3の内訳を考えると、プレーヤーが選んだドアに景品がある確率1/3と、最後のドアにある確率1/3になる。 この場合、プレーヤーもモンティも正解に関係なくドアを選ぶので、先に景品を入れる必要はなく、後から景品の位置をランダムに決めても結果は等価となる。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "(3) モンティは景品のあるドアを知っている。コイントスでヤギのドアの片方を選び、プレーヤーの選択にかかわらず開ける。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "モンティがプレーヤーの選んだドアを選んだ場合はゲーム終了と仮定して、モンティがヤギを出したらプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合も変更ルール3同様、変更してもしなくてもよいのである。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "(3) モンティは景品のあるドアを知っている。最初にプレーヤーが景品のあるドアを選んだ時に限り、ドアを開ける。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "このように変更すると、モンティがドアを開けない場合がある。もし、偶然にもモンティがドアを開けたとすると、プレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合は当然答えは「開けるドアを変更しない」である。 このことから、モンティがドアを必ず開けるというルールは非常に重要だということが分かる。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーが景品のあるドアを選んだ時だけ、変更してよいという。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーがヤギのいるドアを選んだ時だけ、変更してよいという。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "プレーヤーとモンティの心理戦を想定した例題も試みられている。駆け引きの内容を数値化することで、統計論的に解を求めることができる。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーが景品のあるドアを選んだ時は100%の確率で、ヤギのいるドアを選んだ時は50%の確率で、プレーヤーが選ばなかったヤギのいるドアを開けて見せ、変更してよいという。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ナッシュ均衡による解では、変更したときに景品を得る確率は1/2となる。つまり、変更してもしなくても変わらない。",
"title": "変形問題"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "もとの例題ではルール (3) と (4) が重要とされるのが一般的だが、実はもう一つ重要な前提がある。それは、「プレーヤーが最初に当たりを選んだ場合に、モンティが残るドアのどちらを開けるかについて \"癖がない(ランダムに選ぶ)\" ことだ。例えば「プレーヤーが最初に当たりのAのドアを選んだ場合は、モンティは必ずBを開く」という可能性があるとすれば、「マリリンの解答は間違っている」というのは必ずしも間違いではない。ここで、「癖がない(ランダムに選ぶ)」ことがいかに重要であるか、具体的に説明する。",
"title": "数学"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "プレーヤーがドアAを選んだ場合にモンティがドアBを選択する(選択して開ける)確率を x とすると、ドアBが開いた(もちろん外れ)という条件のもとで、ドアAが当たりである確率は x/(1+x)となる(もちろん、ドアCが当たりである確率は 1/(1+x)である)。",
"title": "数学"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "計算法",
"title": "数学"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ドアBが開いたということは、プレーヤーがドアCを選択したかドアAを選択したということである。ドアCを選択した場合は必ず(確率1で)ドアBを開き、ドアAを選択した場合は、確率 x でドアBを開くのであるから、ドアBが開いたという条件で、ドアAが当たりである確率は、xを1+x で割れば求められる。",
"title": "数学"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "よって、確率 x が0超1以下の間の数値を取るとすれば、ドアAが当たりである確率は0から1/2まで変化する(ドアCが当たりである確率は1から1/2まで変化する)。ドアB、Cをランダムに(x=1/2 の確率で)選択したときに限って、ドアAが当たりの確率は1/3のまま(ドアCが当たりの確率は当初の1/3から2/3に上がる)となる。マリリンの答えは、この特殊な条件を想定したものである。確かに常識的仮定だが、数学的には当然視できるものではない。",
"title": "数学"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "なお、先に述べた通り、x が0超1以下の間の数値を取るとき、ドアAが当たりである確率は0から1/2まで変化する一方、ドアCが当たりである確率は1から1/2まで変化する。よって、この前提の場合には、0<x<1のときはドアを変えたほうが当たる確率が高く、x=1のときはドアを変えても当たり確率に変化はないということになり、「ドアを変えたほうが良い」という結論は維持される。",
"title": "数学"
}
] |
モンティ・ホール問題とは、確率論の問題で、ベイズの定理における事後確率、あるいは主観確率の例題の一つとなっている。モンティ・ホールが司会者を務めるアメリカのゲームショー番組、「Let's make a deal」の中で行われたゲームに関する論争に由来する。一種の心理トリックになっており、確率論から導かれる結果を説明されても、なお納得しない者が少なくないことから、モンティ・ホール・ジレンマ、モンティ・ホール・パラドックスとも称される。「直感で正しいと思える解答と、論理的に正しい解答が異なる問題」の適例とされる。 なお、モンティ・ホール問題と実質的に同型である「3囚人問題」については、かつて日本で精力的に研究された。
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[[画像:Monty open door.svg|thumb|right|250px|'''モンティ・ホール問題'''<br />閉まった3つのドアのうち、当たりは1つ。プレーヤーが1つのドアを選択したあと、例示のように外れのドアが1つ開放される。残り2枚の当たりの確率は直感的にはそれぞれ 1/2(50%)になるように思えるが、はたしてそれは正しいだろうか。]]
'''モンティ・ホール問題'''(モンティ・ホールもんだい、{{lang-en-short|Monty Hall problem}})とは、[[確率論]]の問題で、[[ベイズの定理]]における[[事後確率]]、あるいは[[主観確率]]の例題の一つとなっている。{{仮リンク|モンティ・ホール|en|Monty Hall}}(Monty Hall, 本名:Monte Halperin)が司会者を務めるアメリカのゲームショー番組、「{{仮リンク|Let's make a deal|en|Let's make a deal}}{{Efn|取り引き、駆け引き、のるかそるか、の意。なお、日本でも1979年に[[東京12チャンネル]](当時)の「[[ザ・テレビジョン (テレビ番組)|ザ・テレビジョン]]」内で「仰天がっぽりクイズ」という邦題で放送されたことがある。}}」の中で行われたゲームに関する論争に由来する。一種の心理トリックになっており、確率論から導かれる結果を説明されても、なお納得しない者が少なくないことから、'''モンティ・ホール・ジレンマ'''、'''モンティ・ホール・パラドックス'''とも称される。「直感で正しいと思える解答と、論理的に正しい解答が異なる問題」の適例とされる。
なお、モンティ・ホール問題と実質的に同型である「[[3囚人問題]]」については、かつて日本で精力的に研究された。
== 概要 ==
{{cquote2|
'''<投稿された相談>'''<br/>
プレーヤーの前に閉じた3つのドアがあって、1つのドアの後ろには景品の新車が、2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。プレーヤーは新車のドアを当てると新車がもらえる。プレーヤーが1つのドアを選択した後、司会のモンティが残りのドアのうちヤギがいるドアを開けてヤギを見せる。
ここでプレーヤーは、最初に選んだドアを、残っている開けられていないドアに変更してもよいと言われる。<br/>
'''ここでプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?'''}}
[[1990年]][[9月9日]]発行、ニュース雑誌「''Parade''」にて[[マリリン・ボス・サバント|マリリン・ヴォス・サヴァント]]が連載するコラム「マリリンにおまかせ」で、上記の読者投稿による質問に「正解は『ドアを変更する』である。なぜなら、ドアを変更した場合には景品を当てる確率が2倍になるからだ」と回答。すると直後から、読者からの「彼女の解答は間違っている」との約1万通の投書が殺到し、本問題は大議論に発展した。
=== 答えをめぐっての騒動 ===
投書には、1000人近い博士号保持者からのものも含まれていた。その大部分は「ドアを変えても確率は五分五分(2分の1)であり、3分の2にはならない」とするものであった。サヴァントは投書への反論を試み、同年[[12月2日]]、数通の反論の手紙を紹介した。
* [[ジョージ・メイソン大学]] ロバート・サッチス博士「プロの数学者として、一般大衆の数学的知識の低さを憂慮する。自らの間違いを認める事で現状が改善されます」
* [[フロリダ大学]] スコット・スミス博士「君は明らかなヘマをした(中略)世界最高の知能指数保有者である貴女が自ら数学的無知をこれ以上世間に広める愚行を直ちに止め、恥を知るように!」
サヴァントは、より簡易にした表を掲載「ドアを変えれば勝てるのは3回の内2回、負けるのは3回の内1回だけ、しかしドアを変えなければ勝てるのは3回の内1回だけ」と述べる。この問題に関する[[1991年]][[2月17日]]付、3回目の記事の段階でサヴァントに対する反論は9割程度を占める。
* E・レイ・ボボ博士「(前略)現在、憤懣やるかたない数学者を何人集めれば、貴女の考えを改める事が可能でしょうか?」
「現実が直観と反する時、人々は動揺する」とサヴァントはコラムで反論の声に応じ、下記の説明を試みる。
{{cquote2|司会者がドアを開けてみせた直後にUFOがステージに到着して宇宙人が出てきたと仮定する。人間の出場者が最初に選んだ扉を宇宙人は知らずに司会者がまだ開けられていない2つの扉のどちらかを選択するよう宇宙人に勧めると、この時の確率が五分五分になる。しかし、それは宇宙人が本来の出場者が司会者から得たヒントを知らないためである。仮に景品が扉2にある場合司会者は扉3を開ける。扉3に景品がある場合は扉2を開ける。つまり景品が扉2または扉3にあるなら、出場者が扉の選択を変えれば勝利する。『どちらかでも勝てるのです!』でも扉を変えなければ、扉1に賞品がある場合しか勝てないのです。}}
サヴァントの再再々解説でも大論争へと発展、「彼女こそ間違っている」という感情的な[[ジェンダー#社会的・文化的性の意識の変化|ジェンダー問題]]にまで飛び火した。
プロ数学者[[ポール・エルデシュ]]の弟子だったアンドリュー・ヴァージョニが本問題を自前のパーソナルコンピュータで[[モンテカルロ法]]を用いて数百回の[[シミュレーション]]を行うと、結果はサヴァントの答えと一致。エルデシュは「あり得ない」と主張していたがヴァージョニがコンピュータで弾き出した答えを見せられサヴァントが正しかったと認める<ref>{{Harvnb|ムロディナウ|2009|p=71}}</ref>。その後、[[カール・セーガン]]ら著名人らがモンティーホール問題を解説、サヴァントの答えに反論を行なっていた人々は、誤りを認める。
サヴァントは、「最も高い知能指数を有する者が、子供でもわかる些細な間違いを新聞で晒した」等の数多くの非難に対して3回のコラムをこの問題にあて、激しい反論の攻撃に耐えて持論を擁護し通し、証明した<ref>{{Harvnb|サヴァント|2002|pp=5-16}}</ref>。それによると、ドアの数を100万に増やした例まで挙げて説明しても正しく理解してもらえなかったとのことである。<!--もっとも、この本の7頁に書かれている「したがって、あなたが選んだ貝殻が当たる確率を変えるような情報は何も得られません。」という内容は誤りであろう。新たな情報が得られたこと自体は事実だからである。-->
なお、サヴァントの本の183頁以降に、ミズーリ大学のドナルド・グランバーグ教授が補遺を記載している。それによると、モンティ・ホールジレンマに関しては、コラムでの議論ののちに、「アメリカン・スタティスティシャン」「アメリカン・マスマティカル・マンスリー」「マスマティカル・サイエンティスト」「マスマティクス・ティーチャー」「ニューヨークタイムズ」等の媒体で細部まで議論され、その結果、サヴァントの解答は基本的に正しいとされたとのことである<ref>{{Harvnb|サヴァント|2002|pp=183ff}}</ref>。
=== ゲームのルール ===
{{出典の明記|date=2021年10月|section=1}}
:(1) 3つのドア (A, B, C) に(景品、ヤギ、ヤギ)がランダムに入っている。
:(2) プレーヤーはドアを1つ選ぶ。
:(3) モンティは残りのドアのうち1つを必ず開ける。
:(4) モンティの開けるドアは、必ずヤギの入っているドアである。
:(5) モンティはプレーヤーにドアを選びなおしてよいと必ず言う。
このうち (3) と (4) の条件が重要である(ベイズの定理でいう事後確率が有効になる)。
もし (3) が決められていなければ、例えば開けるかどうかモンティが決められるなら、このゲームはプレーヤーとモンティの心理戦であり、確率の問題ではない。
また、(4) の条件次第では答えが逆になったり、答えを定めることができなかったりする。つまり、モンティが景品を出してしまう可能性があるなら、問題の大前提が変わってしまう。
{{要出典範囲|大騒ぎとなった最大の原因として、ルールに対する数学的な説明が無く「解釈」の余地があったことで、数学的に正しいルールが決まるまで決着が付かなかった|date=2023年1月}}。
== 直感と理論の乖離 ==
この問題を巡る人々の反応は、冒頭のエピソードにある様に『どちらを選んでも変わらない』とする意見が多かった。
ドアが2つになった時点でプレーヤーが改めて''コイントスによって決めなおした''と仮定すると、景品を得る確率はコイントスから生じる確率1/2そのものとなる(それまでの確率 1/3 と 2/3 との選択を止めることになるため)。
ところが、2枚のドアの価値はルール (1) - (4) で確率の高い(価値のある)選択をすることが可能となっている。つまり、『どちらを選んでも変わらない』は誤りである。
以下のように考えると直感でも理解しやすい。
=== ハズレに色を付ける方法 ===
*ドアの位置は考えなくても良い。
*最初の選択で発生するのが3パターン(当たりか、ハズレ (青) か、ハズレ (赤))だと覚えておく。
<pre>
最初の選択 / 残りのドアの中身
(位置は考えなくてよい)
↓ ↓
A 当たり / ハズレ (青) ・ ハズレ (赤)
B ハズレ (青) / 当たり ・ ハズレ (赤)
C ハズレ (赤) / 当たり ・ ハズレ (青)
</pre>
* 最初の選択で当たりを引けるケースは1つ (A) 、ハズレを引いてしまうケースは2つ (B,C) ある。
* 2回目の選択ではハズレが1つ除外されているため、当たりを引くケースは2つ (B,C) 。ハズレを引くケースは1つ (A) となる。
====ポイント====
:* 最初に自分がハズレを引いていれば、2回目はドアを変えれば確実に当たりが出る(残りのハズレが除外されているため)。
:* 最初に当たりを引いているケースは1つしかないが、ハズレを引いているケースは2つあるので、変えるほうが得である。
====ワナ====
:* 「最初にハズレを引くケースは1つ多い」を忘れていると、2回目の確率が50%に見えてしまうこと。
:* 最初にハズレを引くケースは2つあるので、確率は50%ではない。
=== ドアに印を付ける方法 ===
# そのドアに景品が入っていることを ○ で示す。
# ドア A, B, C が ○ である確率は、それぞれ 1/3 である。
# 「ドア A が ○ である確率」は 1/3 であるが、「B または C が ○ である確率」は 2/3 である。
# ドア C を開いたあとでも、「B または C が ○ である確率」は 2/3 である。
# ドア C を開いて、C が ○ ではないと判明したあとでは、「B が ○ である確率」は、「B または Cが ○ である確率」と等しい{{Efn|確率論の法則による。集合の和についての確率の値。}}。その確率は 2/3 である。
# 「A が ○ である確率」は 1/3 であるが、「B が ○ である確率」は 2/3 である。
=== 最初にハズレのドアを選ぶ方法 ===
# 当たりのドアを選ぼうとせず、わざとハズレのドアを選ぶ。
# その後モンティが、もう一つのハズレのドアがどれかを教えてくれるので、残ったドアが当たりのドアである。
# 当たりのドアがどれか判明したので、最初に選んだハズレのドアから当たりのドアに変更する。
最初にハズレのドアを選ぶことができれば、上記手順で確実に当たりのドアを開けることができる。最初にハズレのドアを選ぶことができる確率は2/3であるので、この手順に従えば(つまりドアを変更すれば)2/3の確率で当たりのドアを開けることができる。
この1.の「当たりのドアを選ぶ」か「ハズレのドアを選ぶ」かは気持ちの問題であり、確率的な影響はまったくないことに注意を要する。3.でドアを変更することへの抵抗感をなくす効果しか持っていない。
よって2.においてモンティが''「もう一つのハズレのドアがどれかを教えてくれる」''のではなくモンティも当てようとする(モンティが当てたらプレーヤーは自動的に外れる)場合には、1/3の確率で2.でモンティが当ててしまうので、3.にたどり着くのはモンティが2/3の確率で外した場合に限る。この場合3.にたどり着いた時点で残る確率は、変更すると当たる確率1/3(2/3だった確率のうち1/3をモンティが使って(そして外して)しまった)と、変更すると外れる確率1/3とになり、ドアを変更してもしなくても確率は等しいという直感通りの確率になる。
つまり、2.でモンティが2/3の確率のうち1/3を使ってハズレのドアを開けてしまうのではなく、確実に(確率を減らさずに)ハズレのドアを開けることが直感通りにならない要因である。
これを変形させた考え方もできる。
#最初プレーヤーが当たりを引く確率は1/3である。
#ドアを変更しない場合はそのまま1/3の確率である(変更しないのであればモンティがドアを開けようが開けまいが確率は変わらない)。
#モンティがドアを開けた後にドアを変更する場合、最初に選択したドアがハズレであれば変更後のドアは当たりが確定である。つまり、最初に選択したドアがハズレである確率=ドアを変更した場合に当たりを引く確率である。
#最初の選択で当たりを引く確率は1/3、ハズレを引く確率は2/3である。
#ゆえに、ドアを変更した場合の当たりを引く確率は2/3と考えられる。
=== 100枚のドアを使う方法 ===
# ゲームには100枚のドアが使われるとする。プレーヤーが最初のドアを選んだとき、このドアの当たりの確率は1/100である。
# モンティが残り99枚のドアのうち98枚を開けてヤギを見せる。
# プレーヤーは2回目の選択をする。
最初にプレーヤーが選んだ1枚のドアと「残り99枚のうちで、正解を知っているモンティが開こうとしなかった、ただ1枚のドア」の確率が相違していることは、直感で理解が可能であろう。
=== その他の方法 ===
または、こう考えることもできる。
# プレーヤーは1回目の選択をする。この時点では確率は全て等しい。
# 番組側は残りのドアをひとまとめにし、どれを開けても結果は共通と宣言する。
# プレーヤーは2回目の選択をする。
プレーヤーが最初に選択することにより、ひとまとめの対象から(番組側から見てランダムに)外されたドアと、残りすべてのドアでは、価値が等しくないことは明らかである。
また、確率論の基になっている[[統計学|統計]]の考え方を呼び起こすことで、理解を助けられた実験がある<ref>{{Cite journal|和書|author=小林厚子|year=1998|title=確率判断の認知心理(1)|journal=東京成徳大学研究紀要|issue=5|pages=pp. 89-100|publisher=東京成徳大学|url=https://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/10/P089-100.pdf|format=PDF|archiveurl=http://web.archive.org/web/20171110172334/https://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/10/P089-100.pdf|archivedate=2017-11-10}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=小林厚子|year=1999|title=確率判断の認知心理(2)|journal=東京成徳大学研究紀要|issue=6|pages=pp. 137-146|publisher=東京成徳大学|url=https://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/11/P137-146.pdf|format=PDF|archiveurl=http://web.archive.org/web/20201115220036/https://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/11/P137-146.pdf|archivedate=2020-11-15}}</ref>。
=== パラドックス ===
この問題は[[パラドックス]]であるといわれることがある。最初からドアが1つ開いた状態で、2つのドアから1つを選ぶという問題であったなら、確率は 1/2 である。それに対して、このゲームによってドアが1つ開いた状態になった場合には、確率は 1/3 と 2/3 になる。このように確率が異なることがパラドックスといわれる理由である。
しかし、これは確率の計算に矛盾があるわけではないので、擬似パラドックスである。ドアが2択になった経緯を知っているか知らないかの[[情報]]の差がドアの評価に影響しているだけである(単純な話、「最初にプレーヤーがドアを選択する時点での確率」と考えると理解しやすい。なお、1つドアが初めから開いた状態=単なる2択問題であり、モンティ・ホール問題は成立し得ない)。
== 計算 ==
[[画像:Monty closed doors.svg|thumb|right|250px|'''最初の状態'''<br />プレーヤーが選んだ1番のドアが当たりの確率は1/3、残り2枚のドアが当たりの確率は各々が1/3 で、和は 2/3。]]
[[画像:Monty open door chances.svg|thumb|right|250px|'''モンティがドアを開いた後'''<br />「1番のドアが当たりの確率は1/3」および「残り2枚のドアが当たる確率 = 2/3」は変化しない。ただし、後者は 2/3の確率は2番のドアに集中し、3番のドアの当たり確率は 0。]]
=== 数え上げ (ベイズの公式) ===
自然な仮定の下で、開けるドアを変更すると、プレーヤーが景品を獲得する確率が2倍になることをベイズの公式([[ベイズの定理]])を使って示す。
簡単化のため、プレーヤーは初めにAのドアを選ぶものとする(プレーヤーが初めにBまたはCのドアを選ぶとしても以下の論法は変わらない)。
[[標本空間]]をΩとし(例えば、全ての放映されたモンティ・ホール・ショーのうち、プレーヤーが初めにAのドアを選んだ場合全ての集合と考えることにする)、Ω上で定義された確率をPとする(ここでは、Ωの任意の部分集合Uに対して、P(U)=(Uの要素の個数)/(Ωの要素の個数)と定義することにする)。また、Ω上で定義された「景品があるドア」を表す[[確率変数]]をXとし、「モンティが開けるドア」を表す確率変数をYする。XとYの値域は、それぞれ、X(Ω)={A,B,C}、Y(Ω)={A,B,C}である。xをX(Ω)の要素を表す変数とすれば(つまりxはA,B,Cのいずれかの値を取る)、「景品があるドア」がxである確率はP<sub>X</sub>(x)=P(X<sup>-1</sup>(x))と表される。同様に、yをY(Ω)の要素を表す変数とすれば、「モンティが開けるドア」がyである確率はP<sub>Y</sub>(y)=P(Y<sup>-1</sup>(y))と表される。
プレーヤーが初めにAのドアを選び、モンティがBかCのドアを開ける前の時点での[[結合確率]]P<sub>X,Y</sub>(x,y)=P(X<sup>-1</sup>(x)∩Y<sup>-1</sup>(y))を考える。ベイズの公式により、条件付確率P<sub>X|Y</sub>(x|y)=P<sub>X,Y</sub>(x,y)/P<sub>Y</sub>(y)、および条件付確率P<sub>Y|X</sub>(y|x)=P<sub>X,Y</sub>(x,y)/P<sub>X</sub>(x)である。
ここで自然ではあるが、問題文では触れられていない次の仮定を置く。「景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアまたはCのドアを選ぶ確率は等しく1/2である」。この仮定が成り立たない場合については後で考察する。
プレーヤーの持っている情報では、景品がA,B,Cのどのドアにあるかの確率は等しく1/3である。つまりP<sub>X</sub>(A)=P<sub>X</sub>(B)=P<sub>X</sub>(C)=1/3である。プレーヤーがAのドアを選んだ場合、モンティはAのドアを開くことは無いので、条件付確率P<sub>Y|X</sub>(A|A)=P<sub>Y|X</sub>(A|B)=P<sub>Y|X</sub>(A|C)=0 である。従ってP<sub>X,Y</sub>(A,A)=P<sub>X,Y</sub>(B,A)=P<sub>X,Y</sub>(C,A)=0 である。景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアを選ぶ条件付確率P<sub>Y|X</sub>(B|A)は、上の仮定により1/2であり、ベイズの公式から結合確率P<sub>X,Y</sub>(A,B)=P<sub>Y|X</sub>(B|A)×P<sub>Y</sub>(A)=1/6となる。モンティがCのドアを選ぶ結合確率P<sub>X,Y</sub>(A,C)も同様に1/6である。
景品がBのドアにある場合、モンティはAとBのドアを選ぶことはできないのでCのドアを開けざるを得ない。つまりP<sub>Y|X</sub>(B|B)=0であり、P<sub>Y|X</sub>(C|B)=1である。従ってP<sub>X,Y</sub>(B,B)=P<sub>Y|X</sub>(B|B)×P<sub>X</sub>(B)=0であり、P<sub>X,Y</sub>(B,C)=P<sub>Y|X</sub>(C|B)×P<sub>X</sub>(B)=1/3である。同様に、P<sub>X,Y</sub>(C,C)=0であり、P<sub>X,Y</sub>(C,B)=1/3である。
以上を表にまとめると、次のようになる。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+プレーヤーがAのドアを選んだ時点での結合確率
|-
!rowspan=2 colspan=2| 結合確率P<sub>X,Y</sub>(x,y)=<br/>P(X<sup>-1</sup>(x)∩Y<sup>-1</sup>(y))
!colspan=3|確率変数Y<br/>(モンティが開けるドア)
!rowspan=2|P<sub>X</sub>(x)=<br/>P(X<sup>-1</sup>(x))
|-
!|y=A
!|y=B
!|y=C
|-
!rowspan=3| 確率変数X<br/>(景品があるドア)
!|x=A
||0
||1/6
||1/6
||1/3
|-
!|x=B
||0
||0
||1/3
||1/3
|-
!|x=C
||0
||1/3
||0
||1/3
|-
!colspan=2|P<sub>Y</sub>(y)=<br/>P(Y<sup>-1</sup>(y))
||0
||1/2
||1/2
||P(Ω)=1<br/>(全確率)
|}
表からわかるように、プレーヤーの持っている情報では、モンティがBのドアを開ける確率P<sub>Y</sub>(B)またはCのドアを開ける確率P<sub>Y</sub>(C)は等しく1/2である。
モンティがCのドアを開けた瞬間、プレーヤーの持っている情報は、条件付確率P<sub>X|Y</sub>(x|C)となる。ベイズの公式によりP<sub>X|Y</sub>(x|C)=P<sub>X,Y</sub>(x,C)/P<sub>Y</sub>(C)であるから、P<sub>X|Y</sub>(A|C)=1/3、P<sub>X|Y</sub>(B|C)=2/3、P<sub>X|Y</sub>(C|C)=0となる。つまり、景品がAのドアにある確率は1/3であり、Bのドアにある確率は2/3である。従って確かに、プレーヤーが開けるドアをAからBに変更すれば、景品を獲得する確率は2倍になる。
=== 「景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアまたはCのドアを選ぶ確率は等しく1/2である」が成り立たない場合 ===
以下で、上記の仮定「景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアまたはCのドアを選ぶ確率は等しく1/2である」が成り立たない場合について考察する。景品がAのドアにある場合、モンティがBのドアを選ぶ確率をr (0≤r≤1)、Cのドアを選ぶ確率を1-rとする。つまりP<sub>Y|X</sub>(B|A)=r、P<sub>Y|X</sub>(C|A)=1-rとする。
この場合の、結合確率P<sub>X,Y</sub>(x,y)は下表のようになる。r=1/2であれば上の表に一致する。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+プレーヤーがAのドアを選んだ時点ので結合確率<br/>(モンティがBのドアを選ぶ確率はrの場合)
|-
!rowspan=2 colspan=2| 結合確率P<sub>X,Y</sub>(x,y)=<br/>P(X<sup>-1</sup>(x)∩Y<sup>-1</sup>(y))
!colspan=3|確率変数Y<br/>(モンティが開けるドア)
!rowspan=2|P<sub>X</sub>(x)=<br/>P(X<sup>-1</sup>(x))
|-
!|y=A
!|y=B
!|y=C
|-
!rowspan=3| 確率変数X <br/>(景品があるドア)
!|x=A
||0
||r/3
||(1-r)/3
||1/3
|-
!|x=B
||0
||0
||1/3
||1/3
|-
!|x=C
||0
||1/3
||0
||1/3
|-
!colspan=2|P<sub>Y</sub>(y)=<br/>P(Y<sup>-1</sup>(y))
||0
||(1+r)/3
||(2-r)/3
||P(Ω)=1<br/>(全確率)
|}
この場合、もしモンティがBのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、ベイズの公式によりP<sub>X|Y</sub>(A|B)=r/(1+r)、P<sub>X|Y</sub>(B|B)=0、P<sub>X|Y</sub>(C|B)=1/(1+r)と確定する。
逆に、もしモンティがCのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、ベイズの公式によりP<sub>X|Y</sub>(A|C)=(1-r)/(2-r)、P<sub>X|Y</sub>(B|C)=1/(2-r)、P<sub>X|Y</sub>(C|C)=0と確定する。
具体的に、「プレーヤーがAのドアを選んだ状態で、景品がAのドアにある場合、モンティは必ずCのドアを選ぶ」、つまりr=0という情報をプレーヤーが持っている場合(例えば今まで放映された番組では、必ずそうしていたという情報を持っているような場合)について考えてみる。
この場合、もしモンティがBのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、上の式に r=0 を代入して P<sub>X|Y</sub>(A|B)=0、P<sub>X|Y</sub>(B|B)=0、P<sub>X|Y</sub>(C|B)=1と、景品がCのドアにあることが確定する。
逆に、もしモンティがCのドアを開けた場合には、その瞬間に、各ドアに景品のある確率は、やはり上の式に r=0 を代入して P<sub>X|Y</sub>(A|C)=1/2、P<sub>X|Y</sub>(B|C)=1/2、P<sub>X|Y</sub>(C|C)=0と確定する。この場合は「ドアを変えても確率は五分五分(2分の1)であり、3分の2にはならない」というクレームは正しいことになる。
一方、r=0 の場合、モンティがBのドアを開ける確率は1/3であり、Cのドアを開ける確率は2/3である。プレーヤーが、どのような場合でもドアを換えるという戦略をとる場合の景品を得る確率の期待値は、1/3×1+2/3×1/2=1/3+1/3=2/3であり、r=1/2 の場合と変わらないことが分かる。
r が一般の値 (0≤r≤1) であり、プレーヤーは r の値を知っていて、モンティが選択するドアに応じて、最も景品を得る確率が高いドアを選択する場合を考える。
モンティがBのドアを選ぶ確率は、上表から(1+r)/3であり、その場合にCのドアに景品がある条件付確率P<sub>X|Y</sub>(C|B)は1/(1+r)、Aのドアに景品がある条件付確率P<sub>X|Y</sub>(C|B)はr/(1+r)であるから、Cのドアに景品がある確率のほうが大きいか、または等しい(r=1 の場合)。
モンティがCのドアを選ぶ確率は、上表から(2-r)/3であり、その場合にBのドアに景品がある条件付確率P<sub>X|Y</sub>(B|C)は1/(2-r)、Aのドアに景品がある条件付確率P<sub>X|Y</sub>(A|C)は(1-r)/(2-r)であるから、Bのドアに景品がある確率のほうが大きいか、または等しい(r=0 の場合)。
結局、モンティがBまたはCのどちらのドアを選んだ場合でも、プレーヤーがAとは別の残りのドアを選んだ方が、選択をAのドアのまま変えない場合より景品を得る確率は高いか等しくなる。
プレーヤーがAのドアからBまたはCのドアに選択を変更した場合に景品を得られる確率は、(1+r)/3×1/(1+r)+(2-r)/3×1/(2-/r)=1/3+1/3=2/3であり、これはrの値に関係なく成立することが分かる。
つまり、モンティがドアの選択について、どのような傾向を持っているかという情報を、プレーヤーが持っているか、いないかにかかわらず、プレーヤーはドアの選択を変更する戦略をとる方が、景品を得る確率は高くなり、その場合に景品を得られる確率は、r の値に関係なく2/3であることが分かる。
[[画像:Monty problem monte carlo.svg|thumb|right|250px|'''当たる確率のシミュレーション'''<br />青:変更せず / 赤:変更する]]
=== シミュレーション ===
簡単なプログラムでシミュレーションを行い、答えを導くこともできる(図)。このグラフでは、変更したドアに景品があった回数の累計が、変更しなかった場合の約2倍となっている。
== 変形問題 ==
ルールを変更することで例題の理解を助けたり、統計論の別の課題を説明する試みが行われている。
=== 変更ルール1 ===
(4) モンティは景品のあるドアを知っている。どちらを開けるかコイントスで決めるが、選んだドアが景品の場合はもう片方のドアに変更する。
このルールは結局ドアの選び方に変化はないので、解答は「開けるドアを変更する」である。
=== 変更ルール2 ===
(4) モンティは景品のあるドアを知らない。どちらを開けるかコイントスで決めるが、選んだドアが景品の場合は番組スタッフが中身を入れ替える。
これは、前のルールで最後にモンティがドアの選択を変更していたところをスタッフが代わりにやっているだけであり、解答は「開けるドアを変更する」である。
このルールではドアを変更したほうがよいことが直感的に分かる。残ったドアに景品が移動してくることはあっても、出ていくことはないからである。数値で示すと、プレーヤーが最初から正解していた確率は 1/3、モンティが正解して景品が移動した確率も 1/3、二人ともハズレであった確率も 1/3 である。景品は必ず最後の扉に移動するので、最後の扉に景品がある確率は 2/3 である。
=== 変更ルール3 ===
(4) モンティはどちらを開けるかコイントスで決め、中身にかかわらず開ける。
モンティが景品を出してしまった場合はゲーム終了と仮定して、モンティがヤギを出したらプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合の正解はどっちを選んでも確率は 1/2 となり、変更してもしなくてもよいのである。
モンティが景品を出す確率は1/3、ヤギを出す確率は 2/3 である。景品を出したらゲームは終了するので、ヤギを出した場合の2/3の内訳を考えると、プレーヤーが選んだドアに景品がある確率1/3と、最後のドアにある確率1/3になる。
この場合、プレーヤーもモンティも正解に関係なくドアを選ぶので、先に景品を入れる必要はなく、後から景品の位置をランダムに決めても結果は等価となる。
=== 変更ルール4 ===
(3) モンティは景品のあるドアを知っている。コイントスでヤギのドアの片方を選び、プレーヤーの選択にかかわらず開ける。
モンティがプレーヤーの選んだドアを選んだ場合はゲーム終了と仮定して、モンティがヤギを出したらプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合も変更ルール3同様、変更してもしなくてもよいのである。
<!-- 2010/07/19 説明がおかしい。執筆者は確認されたし
この場合も前のと同様に、モンティはプレーヤーの選択肢を知る必要はないのだから、プレーヤーが最後にドアを選んでも同じことである。モンティが選ばなかったドアを選ぶ確率は 2/3 であり、そのうち半分が景品、残り半分がヤギである。
-->
=== 変更ルール5 ===
(3) モンティは景品のあるドアを知っている。最初にプレーヤーが景品のあるドアを選んだ時に限り、ドアを開ける。
このように変更すると、モンティがドアを開けない場合がある。もし、偶然にもモンティがドアを開けたとすると、プレーヤーはドアを変更すべきだろうか?この場合は当然答えは「開けるドアを変更しない」である。
このことから、モンティがドアを必ず開けるというルールは非常に重要だということが分かる。
=== 悪魔モンティ ===
(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーが景品のあるドアを選んだ時だけ、変更してよいという<ref name="en01">[[:en:Monty Hall problem|英語版]](22:38, 4 July 2010)</ref>。
=== 天使モンティ ===
(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーがヤギのいるドアを選んだ時だけ、変更してよいという<ref name="en01"/>。
=== 心理戦 ===
プレーヤーとモンティの心理戦を想定した例題も試みられている。駆け引きの内容を数値化することで、統計論的に解を求めることができる。
(5) モンティは景品のあるドアを知っていて、プレーヤーが景品のあるドアを選んだ時は100%の確率で、ヤギのいるドアを選んだ時は50%の確率で、プレーヤーが選ばなかったヤギのいるドアを開けて見せ、変更してよいという。
[[ナッシュ均衡]]による解では、変更したときに景品を得る確率は1/2となる。つまり、変更してもしなくても変わらない<ref name="en01"/>。
== 数学 ==
もとの例題ではルール (3) と (4) が重要とされるのが一般的だが、実はもう一つ重要な前提がある。それは、「プレーヤーが最初に当たりを選んだ場合に、モンティが残るドアのどちらを開けるかについて "癖がない(ランダムに選ぶ)" ことだ。例えば「プレーヤーが最初に当たりのAのドアを選んだ場合は、モンティは必ずBを開く」という可能性があるとすれば、「マリリンの解答は間違っている」というのは必ずしも間違いではない。ここで、「癖がない(ランダムに選ぶ)」ことがいかに重要であるか、具体的に説明する。
プレーヤーがドアAを選んだ場合にモンティがドアBを選択する(選択して開ける)確率を x とすると、ドアBが開いた(もちろん外れ)という条件のもとで、ドアAが当たりである確率は x/(1+x)となる(もちろん、ドアCが当たりである確率は 1/(1+x)である)。
'''計算法'''
ドアBが開いたということは、プレーヤーがドアCを選択したかドアAを選択したということである。ドアCを選択した場合は必ず(確率1で)ドアBを開き、ドアAを選択した場合は、確率 x でドアBを開くのであるから、ドアBが開いたという条件で、ドアAが当たりである確率は、xを1+x で割れば求められる。
よって、確率 x が0超1以下の間の数値を取るとすれば、ドアAが当たりである確率は0から1/2まで変化する(ドアCが当たりである確率は1から1/2まで変化する)。ドアB、Cをランダムに(x=1/2 の確率で)選択したときに限って、ドアAが当たりの確率は1/3のまま(ドアCが当たりの確率は当初の1/3から2/3に上がる)となる。マリリンの答えは、この特殊な条件を想定したものである。確かに常識的仮定だが、数学的には当然視できるものではない。
なお、先に述べた通り、x が0超1以下の間の数値を取るとき、ドアAが当たりである確率は0から1/2まで変化する一方、ドアCが当たりである確率は1から1/2まで変化する。よって、この前提の場合には、0<x<1のときはドアを変えたほうが当たる確率が高く、x=1のときはドアを変えても当たり確率に変化はないということになり、「ドアを変えたほうが良い」という結論は維持される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite web|和書|author=[[浅沼ヒロシ]]|date=2014-01-19|url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20140114/327242/|title=「モンティ・ホール・パラドックス」を知っていますか - 産業動向 - Tech-On!|publisher=日経BP社|accessdate=2014-01-24|ref={{Harvid|浅沼|2014}}}}
*{{Cite book|和書|author=ジェイソン・ローゼンハウス|authorlink=ジェイソン・ローゼンハウス|others=[[松浦俊輔]] 訳|date=2013-12|title=モンティ・ホール問題 テレビ番組から生まれた史上最も議論を呼んだ確率問題の紹介と解説|publisher=青土社|isbn=978-4-7917-6752-6|url=http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791767526|ref={{Harvid|ローゼンハウス|2013}}}}
*{{Cite book|和書|author=ジム・アル=カリーリ|authorlink=ジム・アル=カリーリ|others=[[松浦俊輔]] 訳 |date=2013-03-07|title=物理パラドックスを解く|chapter=第1章 クイズ番組のパラドックス|publisher=SBクリエイティブ |isbn=978-4-7973-6937-3|url=http://www.sbcr.jp/products/4797369373.html|ref={{Harvid|アル=カリーリ|2013}}}}
*{{Cite book|和書|author=マリリン・ヴォス・サヴァント|authorlink=マリリン・ヴォス・サヴァント|others=[[東方雅美]] 訳|date=2002-10|title=気がつかなかった数字の罠 論理思考力トレーニング法|publisher=中央経済社|isbn=4-502-36500-9|ref={{Harvid|サヴァント|2002}}}}
*{{Cite book|和書|author=繁枡算男|authorlink=繁枡算男|date=1985-04|title=ベイズ統計入門|publisher=東京大学出版会|isbn=4-13-042061-5|url=https://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-009062-9.html|ref={{Harvid|繁枡|1985}}}}
*{{Cite book|和書|author=アルフレッド・S・ポザマンティエ|coauthors=イングマール・レーマン|others=[[堀江太郎]] 訳|date=2015-07-30|title=数学まちがい大全集 誰もがみんなしくじっている!|chapter=モンティ・ホール問題(物議をかもしたまちがい)|publisher=[[化学同人]]|pages=260-264|isbn= 978-4-7598-1618-1|url=http://www.kagakudojin.co.jp/book/b201237.html|ref={{Harvid|ポザマンティエ|レーマン|2015}}}} - 原タイトル:''MAGNIFICENT MISTAKES IN MATHEMATICS.''
*{{Cite book|和書|author=ポール・ホフマン|authorlink=ポール・ホフマン|others=[[平石律子]] 訳|date=2000-02-29|title=放浪の天才数学者エルデシュ|publisher=草思社|isbn=4-7942-0950-9|url=http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_950.html|ref={{Harvid|ホフマン|2000}}}} - 原タイトル: ''The man who loved only numbers.''
**{{Cite book|和書|author=ポール・ホフマン|others=平石律子 訳|date=2011-10-14|title=放浪の天才数学者エルデシュ|series=草思社文庫|publisher=草思社|isbn=978-4-7942-1854-4|url=http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_1854.html|ref={{Harvid|ホフマン|2011}}}} - {{Harvnb|ホフマン|2000}}の文庫版。
*{{Cite book|和書|author=レナード・ムロディナウ|authorlink=レナード・ムロディナウ|others=[[田中三彦]] 訳|date=2009-09|title=たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する|publisher=ダイヤモンド社|isbn=978-4-478-00452-4|url=http://www.diamond.co.jp/book/9784478004524.html|ref={{Harvid|ムロディナウ|2009}}}}
*{{Citation|first=D.V.|last=Lindley|year=1971|month=January|title=Making Decisions|publisher=John Wiley & Sons Ltd|isbn=0-471-53785-3}}
**{{Citation|first=Dennis V.|last=Lindley|year=1991|month=April|title=Making Decisions|edition=2nd|publisher=Wiley|isbn=0-471-90808-8|url=http://as.wiley.com/WileyCDA/WileyTitle/productCd-0471908088.html}}
== 関連項目 ==
* [[3囚人問題]]<!--
* [[リストリクテッドチョイスの原則]] [[:en:Principle of restricted choice (bridge)]]-->
== 外部リンク ==
*{{Wayback |url=http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20110706.html |title=数字トリック見破り術 - NHK「ためしてガッテン」、2011年7月6日放送 |date=20161008083339}}
*[http://ruby.kyoto-wu.ac.jp/konami/Math/monty/ モンティ・ホール問題に挑戦] [[小波秀雄]] 京都女子大学
*{{MathWorld|title=Monty Hall Problem|urlname=MontyHallProblem}}
*[https://www.montyhallproblem.com/ The Monty Hall Problem]
{{確率論}}
{{DEFAULTSORT:もんていほおるもんたい}}<!--カテゴリの50音順-->
[[Category:確率問題]]
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[[Category:エポニム]]
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2003-07-11T17:56:17Z
|
2023-11-20T16:19:23Z
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御三家
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御三家(ごさんけ)とは、徳川家康の男子のうち義直(尾張)、頼宣(紀伊)、頼房(常陸)の家系が将軍家に次ぐ家格として格別に扱われたことに由来し、ある分野で有力な3つの存在をいう。英語ではこうした概念は「ビッグスリー (BIG 3)」と表現する。
デジタル大辞泉では、「御三家」の2番目の意味の用例として、「業界の御三家」「演歌の御三家」を挙げている。
当記事でもそれに倣い、歌謡・エンタメ業界や業界の「御三家」の用例から挙げる。そして各組内では、古い方から挙げる。
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'''御三家'''(ごさんけ)とは、[[徳川家康]]の男子のうち[[徳川義直|義直]]([[尾張国|尾張]])、[[徳川頼宣|頼宣]]([[紀伊国|紀伊]])、[[徳川頼房|頼房]]([[常陸国|常陸]])の家系が将軍家に次ぐ家格として格別に扱われたことに由来し、ある分野で有力な3つの存在をいう<ref>精選版 日本国語大辞典</ref><ref name="平凡パンチ740905">{{Cite journal|和書 |author1=大滝譲司 |author2=鴛海正平 |author3=筧悟 |author4=加東康一 |authorlink4=加東康一 |author5=菅原マキ |author6=当麻桃之 |author7=三木重信 |author8=渡辺敬一 |title=珍奇折りまぜ…各界〈御三家〉列伝 |journal=[[平凡パンチ]] |issue=1974年9月5日号 |publisher=[[マガジンハウス|平凡出版]] |pages=152-157}}</ref>。英語ではこうした概念は「[[ビッグスリー]] (BIG 3)」と表現する。
デジタル大辞泉では、「御三家」の2番目の意味の用例として、「業界の御三家」「演歌の御三家」を挙げている<ref>デジタル大辞泉【御三家】</ref>。
当記事でもそれに倣い、歌謡・エンタメ業界や業界の「御三家」の用例から挙げる。そして各組内では、古い方から挙げる。
== {{Visible anchor|芸能・エンタメ|芸能|エンタメ}} ==
* 「[[時代劇|時代物]]御三家」:[[阪東妻三郎]]、[[片岡千恵蔵]]、[[嵐寛寿郎]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[松竹大船撮影所|松竹大船]][[美男子|美男]]御三家」:[[佐野周二]]、[[佐分利信]]、[[上原謙]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[東映]][[時代劇]]御三家」:[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、[[東千代之介]]、[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[日活]]アクション御三家」:[[石原裕次郎]]、[[小林旭]]、[[宍戸錠]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[酒豪]]御三家」:[[勝新太郎]]、[[水原弘]]、[[石原裕次郎]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[麻雀|ジャン]]豪御三家」:[[丹波哲郎]]、[[長門裕之]]、[[都はるみ]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「ジャン豪[[作家]]御三家」:[[生島治郎]]、[[五木寛之]]、[[近藤啓太郎]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「ゴマスリ[[司会]]者御三家」:[[玉置宏]]、[[高橋圭三]]、[[山川静夫]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「御三家」(昭和時代の歌謡界の御三家。次の「新御三家」が登場した後には、[[レトロニム]]で「元祖御三家」とも呼ばれるようになった):[[橋幸夫]]、[[舟木一夫]]、[[西郷輝彦]]<!--{{small|{{main|御三家 (歌手)}}}}まだ記事が出来ていないので--><ref name="平凡パンチ740905"/><ref name="gosanke"/><ref>{{Cite web|和書 |date=2013-03-20 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/254569 |title=デヴィ夫人 西郷輝彦さんしか「昭和の御三家」知らなかった…偲ぶ会で判明 |website=[[東京スポーツ|東スポWEB]] |publisher=東京スポーツ新聞社 |accessdate=2023-04-29}}</ref>
** 2001年、'''G3K'''(ごさんけ)というユニット名で『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』第29部の主題歌を歌唱。この3人の歌唱による音源は第32部まで使われたが、第30部以降は各人のソロが週替わりで使われている。
* 「[[新御三家]]」:[[野口五郎]]、[[郷ひろみ]]、[[西城秀樹]]<ref name="平凡パンチ740905"/><ref name="gosanke">{{Cite web|和書 |url=https://archive.is/MUe3h |title=「御三家」って? 昭和歌謡を席巻 なりきり「御三家」今もカラオケで熱:唱 |website=asahi.com |publisher=株式会社朝日新聞社 |date=2018-07-12 |accessdate=2021-04-04}}</ref>
* 「[[オナペット]]御三家」:[[松尾和子]]、[[由美かおる]]、[[風吹ジュン]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「脱ぎっぷりのよさ御三家」:[[高橋惠子|関根恵子]]、[[高沢順子]]、[[高橋洋子 (俳優)|高橋洋子]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[ハーフ (混血)|ハーフ]]御三家」:[[ジャネット八田]]、[[キャシー中島]]、[[杉本エマ]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[母親|お母さん]][[俳優#性別での分類|女優]]御三家」:[[加藤治子]]、[[京塚昌子]]、[[山岡久乃]]<ref name="平凡パンチ740905"/>(実生活は"お母さんイメージ"とはほど遠い)<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「モテモテオバサマ御三家」:[[若尾文子]]、[[池内淳子]]、[[森光子]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「清純派女優御三家」:[[山口百恵]]、[[仁科明子]]、[[村地弘美]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[映画監督|監督]]名夫人御三家」:[[岩下志麻]]、[[岡田茉莉子]]、[[小山明子]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[酒豪]]女性御三家」:[[日吉ミミ]]、[[太地喜和子]]、[[春川ますみ]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[ぶりっ子|カマトト]]御三家」:[[栗原小巻]]、[[天地真理]]、[[あべ静江]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「理想の[[妻]]御三家」:[[山本陽子]]、[[松原智恵子]]、[[吉永小百合]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[プレイボーイ]]御三家」:[[五木ひろし]]、[[萩原健一]]、[[中条きよし]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「性豪役者御三家」:[[藤岡弘、|藤岡弘]]、[[谷隼人]]、[[北大路欣也]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[恐妻家]]御三家」:[[竹脇無我]]、[[加藤剛]]、[[高島忠夫]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[実業家]]タレント御三家」:[[大橋巨泉]]、[[片岡千恵蔵]]、[[長谷川一夫]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[タレント政治家|タレント議員]]御三家」:[[石原慎太郎]]、[[一龍齋貞鳳]]、[[宮田輝]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「タレント議員新御三家」:[[青島幸男]]、[[野末陳平]]、[[秦豊]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[少年御三家]]」(1980年代末期の男性アイドルの御三家。いずれも当時[[ジャニーズ事務所]]に所属していた):[[光GENJI]]、[[男闘呼組]]、[[少年忍者]]<ref>{{Cite web|和書 |title=TOKIO復活にも現実味? 男闘呼組「復活」大反響…あの「元ジャニーズ社長」も関与か (2022年7月18日) |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_316227/ |website=エキサイトニュース |accessdate=2022-07-24}}</ref>
* 「中年御三家」:[[永六輔]]、[[小沢昭一]]、[[野坂昭如]]<ref name="平凡パンチ740905"/><ref>[[産経新聞|サンケイ・スポーツ]] 1974年12月6日、「歌う「中年ご三家」「戦中派」に若者が共感」</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=小西良太郎 |authorlink=小西良太郎 |title=歌は世につれ世は歌につれ 歌謡特集(2) 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考』 |quote=中年御三家は狂い咲きか |journal=スタア |issue=1975年1月号 |publisher=[[マガジンハウス|平凡出版]] |pages=230-231}}</ref>
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* 「トレンディ御三家」(平成御三家):[[吉田栄作]]、[[織田裕二]]、[[加勢大周]]<ref>{{Cite web|和書 |title=吉田栄作・織田裕二・加勢大周の「トレンディ御三家」を筆頭としたトレンディ俳優15名!トレンディドラマに引っ張りだこだった当時の活躍ぶりを振り返る。|url=https://middle-edge.jp/articles/M0Ak6 |website=Middle Edge(ミドルエッジ) |accessdate=2021-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=吉田栄作の結婚で振り返る 非ジャニーズの“平成御三家”が90年代に輝いた理由|日刊ゲンダイDIGITAL |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/298576 |website=日刊ゲンダイDIGITAL |accessdate=2021-12-11}}</ref>
* 「[[乃木坂46]]御三家」:[[白石麻衣]]、[[橋本奈々未]]、[[松村沙友理]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mdpr.jp/music/detail/1665090 |title=橋本奈々未・白石麻衣・松村沙友理の絆に涙腺崩壊…“それでも御三家は永遠だから”<ななみん卒業コンサート> |newspaper=モデルプレス |publisher=ネットネイティブ |date=2017-02-21 |accessdate=2018-10-28}}</ref>
**2017年2月に橋本、2020年10月に白石、2021年7月に松村が卒業しているため御三家のメンバーは全員卒業している。
* 「[[新劇]]御三家」:[[文学座]]、[[劇団俳優座]]、[[劇団民藝]]<ref>{{Cite web|和書 |title=「新劇御三家」新たな動き 文学座は角野卓造が代表に 劇団民藝は25歳以下無料席も - 芸能 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202206160000047.html |website=nikkansports.com |accessdate=2022-08-27}}</ref>
== {{Visible anchor|業界}}・{{Visible anchor|産業界}} ==
{{Anchors|企業}}
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* ホテル御三家:[[帝国ホテル]]、[[ホテルオークラ東京|ホテルオークラ]]、[[ホテルニューオータニ|ニューオータニ]]<ref>{{Cite web|和書 |title=帝国、オークラ、ニューオータニがホテル御三家と呼ばれる訳 『ホテル御三家』|url=https://books.j-cast.com/2020/05/26011794.html |website=J-CAST BOOKウォッチ |date=2020-06-11 |accessdate=2020-06-19}}</ref>
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* [[日立グループ]]御三家:[[日立化成]]、[[日立金属]]、[[日立電線]]<ref>{{Cite web|和書 |title=日立社長が上場子会社の再編に言及 「21年度までに結論を出す」|ニュースイッチ by 日刊工業新聞社 |url=https://newswitch.jp/p/18337 |website=ニュースイッチ Newswitch |accessdate=2019-11-27}}<br />{{Cite web|和書 |title=日立、グループ経営にヒビ |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO38768360Q8A211C1TJ1000/ |website=日本経済新聞 電子版 |accessdate=2019-11-27}}</ref>
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* 宅配[[ピザ]]御三家:[[ドミノ・ピザ]]、[[ピザハット]]、[[ピザーラ]]<ref>{{Cite web|和書 |title=宅配ピザのアツイ戦い、ドミノ・ピザーラ・ピザハットの“御三家”にダスキンが挑む |url=https://www.sbbit.jp/article/cont1/41404 |website=ビジネス+IT |accessdate=2023-06-11}}<br />{{Cite web|和書 |title=“ピザ御三家”で万年3位のピザハット。コロナ禍で生まれた「逆転の一手」 |url=https://bizspa.jp/post-437268/ |website=bizSPA!フレッシュ |accessdate=2023-06-11}}</ref>
* 居酒屋旧御三家:[[養老乃瀧]]、[[村さ来]]、[[つぼ八]]<ref name=":1">{{Cite web|和書 |title=「居酒屋御三家」あの看板を最近見ないワケ : 深読み |url=https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20190304-OYT8T50006/ |website=読売新聞オンライン |date=2019-03-07 |accessdate=2022-04-21}}</ref>
* 居酒屋新御三家:[[モンテローザ (企業)|モンテローザ]]、[[ワタミ]]、[[コロワイド]]<ref name=":1" />
* [[名古屋市|名古屋]]財界新御三家:[[トヨタ自動車]]、[[東海旅客鉄道]]、[[中部電力]]<ref>{{Cite web|和書 |title=新御三家:経済用語辞典:中日BIZナビ |url=https://biz.chunichi.co.jp/kiji/article/68/80/ |website=中日BIZナビ |accessdate=2022-06-12}}</ref>
* [[四日市市|四日市]]御三家:[[四日市岡田家|岡田家]]([[イオングループ]])、九鬼家([[九鬼産業]])、平田家([[平田紡績]]・[[チヨダウーテ]])<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.isenp.co.jp/2022/09/24/81556/ |title=背景に「建材業界の厳しさ」 チヨダウーテ上場廃止で帝国DB分析 三重 |publisher=[[伊勢新聞]] |date=2022-09-24 |accessdate=2023-06-01}}</ref>
* [[広島県|広島]]御三家:[[マツダ]]、[[中国電力]]、[[広島銀行]]<ref>{{Cite web|和書 |title=広商次期会頭 「御三家」難色、選任が長期化 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASJB3003Y_Q0A131C1LCA000/ |website=日本経済新聞 |date=2010-12-01 |accessdate=2022-06-12}}<br />{{Cite web|和書 |title=第5部 地元と共に<6>経済界 世界と闘い、広島をリード【 マツダ100年 車づくりと地域】 {{!}} 中国新聞デジタル |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/63437 |website=第5部 地元と共に<6>経済界 世界と闘い、広島をリード【 マツダ100年 車づくりと地域】 {{!}} 中国新聞デジタル |accessdate=2022-06-12}}</ref>
* [[筑豊御三家]]:麻生家([[麻生 (企業)|麻生グループ]])、貝島家([[貝島太助|貝島炭鉱]])、安川家([[安川電機]])<ref>{{Cite web|和書 |title=貝島太助の伝記復刻 郷土史家の福田さん 1910年刊行の3巻 |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/516498/ |website=西日本新聞me |accessdate=2023-06-11}}</ref>
* [[ドイツ車]]御三家:[[メルセデス・ベンツ]]、[[BMW]]、[[アウディ]]<ref>{{Cite web|和書 |title=レクサス 逆張りの発想でドイツ車御三家の牙城崩した |url=https://www.news-postseven.com/archives/20160413_403037.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |accessdate=2021-10-04}}</ref>
* 中東エアライン御三家:[[エミレーツ航空]]、[[カタール航空]]、[[エティハド航空]]<ref>{{Cite web|和書 |title=中東系エアラインの新たな一手、エティハド航空と独ルフトハンザの連携から中東御三家の戦略を読み解く |url=https://www.travelvoice.jp/20170228-83548 |website=トラベルボイス |date=2017-02-28 |accessdate=2019-11-15}}</ref>
== 官庁 ==
* 官庁御三家:[[財務省]](旧:[[大蔵省]])、[[経済産業省]](旧:通商産業省)、[[総務省]](旧:[[自治省]]部門)あるいは[[警察庁]]<ref>[https://gendai.media/articles/-/57120 官僚志望者の一生を左右する「夏の官庁訪問」一体なぜ重要なのか? 猛暑の中で肝を冷やす…] ドクターZ [[週刊現代|現代ビジネス]] 2018.08.26、<br />[https://www.homemate-research-public.com/useful/news/164/spring/ 春の官庁・省庁情報] ホームメイト・リサーチ [[東建コーポレーション]]<!--https://newspicks.com/news/4495586/、http://www.kawabekeiji.com/cgi/blog/diary.cgi?no=224 参照。--></ref>
== 将棋 ==
* (2020年時点)振り飛車御三家:[[藤井猛]]、[[久保利明]]、[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]<ref>{{Cite web|和書 |title=藤井猛九段が鈴木大介九段との「振り飛車御三家」対決を制する! 第33期竜王戦2組昇級者決定戦 |url=https://news.mynavi.jp/article/20200616-1057432/ |website=マイナビニュース |date=2020-06-16 |accessdate=2020-06-19}}</ref>
== 作家 ==
* 日本SF御三家:[[星新一]]、[[小松左京]]、[[筒井康隆]]<ref>[[宮崎哲弥]]『[[100分de名著]]「小松左京スペシャル」』 [[NHK出版]]、2019、p.5</ref>
* 海外SF御三家:[[アーサー・C・クラーク]]、[[アイザック・アシモフ]]、[[ロバート・A・ハインライン]]<ref>[http://www28.atwiki.jp/tohokusf/pages/90.html#id_2b19f793 東北大学SF研wiki - 用語集]</ref><ref>[http://msf.is.land.to/index.php?%A4%AA%A4%B9%A4%B9%A4%E1%CB%DC%A5%EA%A5%B9%A5%C8 名古屋大学SF研究会 - おすすめ本リスト]</ref>{{信頼性要検証|date=2019-12}}
== {{Visible anchor|製品}}・{{Visible anchor|商品}} ==
* オーディオ御三家(1970年代〜80年代前半):[[山水電気]]、[[ケンウッド|トリオ]](現:[[JVCケンウッド]])、[[パイオニア]]<ref>[https://kyodonewsprwire.jp/release/201211308636 ドウシシャ SANSUI『Bluetooth機能搭載スピーカーシステム』 新製品4モデルを発売]</ref> - 「サントリパイ」とも呼ばれた。
* [[8ビット御三家]](1980年代の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]):[[PC-8000シリーズ]]、[[FM-7]]シリーズ、[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズ
* [[DCブランド]]御三家:[[三宅一生|ISSEY MIYAKE]]、[[コム・デ・ギャルソン|COMME des GARCONS]]、[[山本耀司|Yohji Yamamoto]]<ref>{{Cite web|和書 |author=高橋一史 |url=https://www.pen-online.jp/article/000584.html |title=「MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事」の服を徹底解説。 |website=[[Pen (雑誌)|Pen]] |publisher=[[CCCメディアハウス]] |date=2016-05-18 |accessdate=2022-08-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220812040443/https://www.pen-online.jp/article/000584.html |archivedate=2022-08-10}}{{Cite book|和書 |author=井上雅人 |year=2017 |title=洋裁文化と日本のファッション |publisher=[[青弓社]] |isbn=978-4-7872-3417-9 |page=35}}{{Cite web|和書 |author=[[小島健輔]] |url=http://www.fcn.co.jp/thesis/fa1405/ |title=ファッション販売2014年5月号掲載 発刊40周年記念企画『ファッションビジネスの40年と2020年への課題』 |publisher=[[小島健輔|小島ファッションマーケティング]] |year=2015 |accessdate=2022-08-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160513045144/http://www.fcn.co.jp/thesis/fa1405/ |archivedate=2016-05-13}}{{Cite web|和書 |author=宮田理江 |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/miyatarie/20230208-00335767 |title=いくつ知ってる? ファッション界の勢力図を塗り替える「日本3大メゾン」出身ブランドの実力 |website=[[Yahoo!|Yahoo! 特集記事]] |publisher= |date=2023-02-08 |accessdate=2023-02-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230208054836/https://news.yahoo.co.jp/byline/miyatarie/20230208-00335767 |archivedate=2023-02-08}}</ref>
== スポーツ ==
* [[スポーツ]]が盛んな[[地方公共団体|自治体]]を表す言葉は「[[野球王国]]」や「サッカー御三家」などという表現で、古くから使われてきた<ref>{{Cite web|和書 |author=辻健治 |title=秀吉が城を築いた琵琶湖岸、どうして「アメフトの聖地」になったのか |work=[[朝日新聞デジタル]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2023-01-12 |url=https://www.asahi.com/articles/ASR1C4GYJR16PTQP00D.html |accessdate=2023-04-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230115104618/https://www.asahi.com/articles/ASR1C4GYJR16PTQP00D.html |archivedate=2023-01-15}}</ref>。
* サッカー御三家:[[埼玉県]]、[[静岡県]]、[[広島県]]<ref>[https://web.archive.org/web/20040319000535/https://www.j-league.or.jp/document/jnews/64/08.html Jリーグ百年構想 Jリーグ百年構想が目指すもの〜スポーツを通じた街づくり] (Internet Archive)、{{Cite web|和書 |title=【高校サッカー百蹴年】さあ決勝 2000年以降は群雄割拠「地方の時代」 |work=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2022-01-10 |url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202201090000553.html |accessdate=2022-02-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220109204500/https://www.nikkansports.com/soccer/news/202201090000553.html |archivedate=2022-01-29}}{{Cite web|和書 |author=辻健治 |title=なでしこ戦、17年ぶりの広島 攻めに転じる「御三家」 |work=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2021-06-10 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP69572CP5NPTQP006.html |accessdate=2022-02-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210610013606/https://www.asahi.com/articles/ASP69572CP5NPTQP006.html |archivedate=2021-06-10}}{{Cite web|和書 |author=加部究 |authorlink=加部究 |url=https://thedigestweb.com/topics_detail_ad/id=5938 |title=「高校サッカー選手権」の優勝回数を都道府県別にランキング!最多優勝は千葉?静岡?それとも… |work=[[サッカーダイジェスト|サッカーダイジェストWeb]] |publisher=[[日本スポーツ企画出版社]] |date=2019-12-30 |accessdate=2022-05-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220405023247/https://thedigestweb.com/topics_detail_ad/id=5938 |archivedate=2022-04-05}}{{Cite web|和書 |author= |url=https://soccerhihyo.futabanet.jp/articles/-/98289?page=1 |title=「サッカー批評のtoto予想」(第1364回)4月29日 カギを握るのは「神奈川勢」! 横浜F・マリノスの首位肉薄など上位に変動の予感 |work=[[サッカー批評|サッカー批評web]] |publisher=[[双葉社]] |date=2023-04-28 |accessdate=2023-04-29}}[https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=98706 W杯『2年に1度』は本当にサッカー界のためになる? 日本にとっては“好都合”な改革案だが…欧州や南米の反発も当然]、[https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%BE%E5%B8%82%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%90%91%E3%81%91%E6%8E%88%E6%A5%AD%E3%80%8C%E5%9F%BC%E7%8E%89%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC100%E5%B9%B4%E3%81%A8/ さいたま市中学校向け授業「埼玉サッカー100年と浦和レッズ」を開始 | URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE]、[https://www.city.saitama.jp/004/006/002/p002645_d/fil/saitama_football_guide7.pdf 『サッカーのまち』さいたま100年のあゆみ] - [[さいたま市役所]]、[http://www.urawa-football.com/post/14408/ あるべき「浦和のJクラブ」を考える。村井満(Jリーグ・チェアマン)×永井良和(元日本代表)対談(2014/12/8)]、{{Cite web|和書 |author=川住貴 |title=磐田 成績安定のチームへ「守備の構築と継続」かぎ |work=[[中日新聞]] |publisher=[[中日新聞社]] |date=2022-01-21 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/403938 |accessdate=2022-05-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220122024623/https://www.chunichi.co.jp/article/403938 |archivedate=2022-01-22}}[http://www.nposhifa.net/?p=2339 清水サッカーの歴史 | 清水サッカー協会/静岡県サッカー協会中東部支部]、{{Cite web|和書 |title=蹴球都市と呼ばれて サッカーに明け、サッカーに暮れる、サッカーの街・藤枝 |publisher=藤枝市サッカー協会 |date= |url=http://www.fujieda-fa.com/shukyutoshi/ |accessdate=2022-02-03 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200806105454/http://www.fujieda-fa.com/shukyutoshi/ |archivedate=2020-08-06 -->}}{{Cite web|和書 |title=広島サッカーの歴史 |publisher=[[サンフレッチェ広島]] |date= |url=https://www.sanfrecce.co.jp/club/hiroshima_soccer.html |accessdate=2022-02-03 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613213541/https://www.sanfrecce.co.jp/club/hiroshima_soccer.html |archivedate=2020-06-13 -->}}[https://hiroshimaforpeace.com/peace-match2020/ 国際平和拠点ひろしま ピースマッチ(サンフレッチェ広島) 〜One Ball. One World. スポーツができる平和に感謝〜1/2] - [[広島県庁]]、{{Cite web|和書 |author=[[大住良之]] |url=https://soccerhihyo.futabanet.jp/articles/-/92488?page=1 |title=大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第84回「戦争とサッカー」(2)「サッカー御三家」広島をレベルアップさせたドイツ兵 |website=[[サッカー批評|サッカー批評Web]] |date=2022-03-09 |publisher=[[双葉社]] |accessdate=2022-05-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220412033913/https://soccerhihyo.futabanet.jp/articles/-/92488?page=1 |archivedate=2022-04-12}}{{Cite web|和書 |title=【高校サッカー軌跡・広島】広島代表の軌跡を辿る 「サッカー王国・広島」復活へ |work=[[第100回全国高等学校サッカー選手権大会]] |publisher=[[日本テレビ]] |date=2021-12-25 |url=https://www.ntv.co.jp/soc/100/news/f7k6vy0womun3p94.html |accessdate=2022-02-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211225145150/https://www.ntv.co.jp/soc/100/news/f7k6vy0womun3p94.html |archivedate=2021-12-25}}{{Cite news |author=森谷達也 |newspaper=[[読売新聞オンライン]] |publisher=[[読売新聞社]] |date=2023-02-23 |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/feature/CO047372/20230223-OYTAT50034/|title=広島のサッカー1 サンフレ 蹴球熱の結晶 |accessdate=2023-04-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230309131803/https://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/feature/CO047372/20230223-OYTAT50034/ |archivedate=2023-03-09}}{{Cite web|和書 |title=野村尊敬インタビュー |work=リーダーシップ論 |publisher=[[日本サッカー名蹴会]] |date= |url=https://www.meishukai.or.jp/blog/20170901142005/ |accessdate=2022-02-03 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180101091237/https://www.meishukai.or.jp/blog/20170901142005/ |archivedate=2018-01-01 -->}}[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=760 攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(上)|賀川サッカーライブラリー]、[https://web.archive.org/web/20131029194729/http://www.salon2002.net/symposium/2011_sympo.pdf 2011年『高校サッカー90年史』を語ろう! - サロン2002オフィシャルサイトp14] (Internet Archive)、[https://koko-soccer.com/interview/71-kantokuinterviewuniv/331-interview-fukudai-inuihc 福岡大学 乾真寛監督#1「大学4年間でこんなに変われるんだということを自分自身が身を持って感じた」]、[https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/202112140004-spnavi 名門・帝京で黄金期を築いた古沼貞雄氏 選手権で6度の優勝、勝ち続けた極意とは]、[https://toyokeizai.net/articles/-/8602 小嶺忠敏 (4/4) 日本サッカーは進歩したが、根付き度で世界との差は大]、[https://web.archive.org/web/20140608091444/https://www.nishinippon.co.jp/nsp/wcup_brazil/article/93505 走る九州勢 酷暑に自信 ブラジルW杯 猛練習が下地 大久保「厳しさ望むところ」]Internet Archive)</ref>
* [[丸の内御三家]]([[日本サッカーリーグ]]):[[古河電気工業サッカー部]](現:[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド千葉]])、[[三菱重工業サッカー部]](現:[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]])、[[日立製作所本社サッカー部]](現:[[柏レイソル]])
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]]御三家:[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]、[[ACミラン|ミラン]]、[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]<ref>{{Cite web|和書 |title=セリエA御三家からラブコールの23歳伊代表の注目株フラッテージ「僕自身は決めた」 |author=Michiru Arai |url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/sassuolo-frattesi-2023062317/blt3ea828466f5b76b8 |website=GOAL.com |publisher=FootballCo Japan |date=2023-06-23 |accessdate=2023-10-22}}</ref>
* [[全国高等学校駅伝競走大会|高校駅伝]]御三家:[[中京大学附属中京高等学校|中京]]、[[広島県立世羅高等学校|世羅]]、[[宮崎県立小林高等学校|小林]]<ref>長岡民男ほか『高校駅伝50年史 - 半世紀、タスキつないで』[[出版芸術社]]、2000年、p.8、[[陸上競技マガジン]]、[[ベースボール・マガジン社]]、2013年2月号、p.169。</ref>
* 「[[日本プロ野球|プロ野球]][[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]御三家」:[[読売ジャイアンツ]]、[[中日ドラゴンズ]]、[[阪神タイガース]]
* 「プロ野球[[酒豪]]御三家」:[[江藤慎一]]、[[江藤省三]]、[[王貞治]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[相撲界]]遊び人御三家」:[[輪島大士|輪島]]、[[龍虎勢朋|龍虎]]、[[北の富士勝昭|北の富士]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[ボクシング]][[フライ級]]御三家」:[[ファイティング原田]]、[[海老原博幸]]、[[青木勝利]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「ボクシング御三家」:[[ガッツ石松]]、[[柴田国明]]、[[輪島功一]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[種牡馬]]御三家」:[[セイユウ]]、[[チャイナロック]]、[[アローエクスプレス]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[競馬]]予想御三家」:[[大川慶次郎]]、宮城昌康、[[大橋巨泉]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[自動車競技|レーサー]]御三家」:[[式場壮吉]]、[[生沢徹]]、[[滝進太郎]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「レーサー新御三家」:[[高橋国光]]、[[北野元]]、[[長谷見昌弘]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「レーサー新々御三家」:[[高原敬武]]、[[桑島正美]]、谷口芳浩<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「[[美容体操]]御三家」:[[竹腰美代子]]、[[和田静郎]]、菅原マキ<ref name="平凡パンチ740905"/>
== サブカルチャー ==
* [[シューティングゲーム#横スクロールシューティング|横スクロールシューティング]]御三家:[[グラディウスシリーズ|グラディウス]]、[[R-TYPE]]、[[ダライアス]]<ref>[http://dengekionline.com/elem/000/000/769/769674/ 『R-Type Dimensions』シューティングゲームの金字塔『R-Type』と『R-Type II』が3Dグラフィックに進化!【電撃PS×PS Store】]</ref>
* [[ニコニコ動画]]御三家:[[VOCALOID]]、[[東方Project]]、[[アイドルマスターシリーズ]]<ref>[https://japan.cnet.com/article/35016742/ ニコニコ超会議で見た御三家たち--アイドルマスター編]<br />[https://japan.cnet.com/article/35016718/ ニコニコ超会議で見た御三家たち--東方Project&ボーカロイド編]</ref>
* ポケモン御三家(ゲーム「[[ポケットモンスター]]」シリーズで、プレイヤーが冒険の最初に3匹のうちいずれかを選べるポケモンを指す通称<ref>{{Cite web|和書 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/64113/ |title=激戦必死!あなたが好きなポケットモンスター御三家はどの世代?【人気投票実施中】 |website=ねとらぼ調査隊 |accessdate=2022-03-30}}</ref>)<ref group="注">御三家はくさタイプ、ほのおタイプ、みずタイプのポケモンだが、地方によって異なる。
* [[ポケットモンスター 赤・緑|赤・緑]]など([[カントー地方]]):[[フシギダネ]]、[[ヒトカゲ (ポケモン)|ヒトカゲ]]、[[ゼニガメ (ポケモン)|ゼニガメ]]
* [[ポケットモンスター 金・銀|金・銀]]など([[ジョウト地方]]):[[チコリータ]]、[[ヒノアラシ]]、[[ワニノコ]]
* [[ポケットモンスター ルビー・サファイア|ルビー・サファイア]]など([[ホウエン地方]]):[[キモリ]]、[[アチャモ]]、[[ミズゴロウ]]
* [[ポケットモンスター ダイヤモンド・パール|ダイヤモンド・パール]]など([[シンオウ地方]]):[[ナエトル]]、[[ヒコザル]]、[[ポッチャマ]]
* [[ポケットモンスター ブラック・ホワイト|ブラック・ホワイト]]など([[イッシュ地方]]):[[ツタージャ]]、[[ポカブ]]、[[ミジュマル]]
* [[ポケットモンスター X・Y|X・Y]]([[カロス地方]]):[[ハリマロン]]、[[フォッコ]]、[[ケロマツ]]
* [[ポケットモンスター サン・ムーン|サン・ムーン]]など([[アローラ地方]]):[[モクロー]]、[[ニャビー]]、[[アシマリ]]
* [[ポケットモンスター ソード・シールド|ソード・シールド]]([[ガラル地方]]):[[サルノリ]]、[[ヒバニー]]、[[メッソン]]
* [[ポケットモンスター スカーレット・バイオレット|スカーレット・バイオレット]]([[パルデア地方]]):[[ニャオハ]]、[[ホゲータ]]、[[クワッス]]</ref>
* [[スーパーロボット大戦シリーズ|スパロボ]]御三家:[[マジンガーZ]]、[[ゲッターロボ]]、[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]
== 教育機関 ==
{{Anchors|教育機関}}
{{独自研究|section=1|date=2015-09}}
; {{Visible anchor|大学}}
* 私立医科大御三家(私立大学医学部における歴史や[[学閥]])<ref>[https://juken.y-sapix.com/igakubu/igakubu-shiryo/igakubu-keifu2/ 私立大学における医学部の系譜 | 東大・京大・医学部研究室 by SAPIX YOZEMI GROUP]<!--[http://www.geocities.jp/armisael95/hierarchy.htm 医系大学の系譜]--><!--リンク切れかつ私的サイト--><br />[https://医学部受験.jp/p-univ 私立大学 医学部・医大 受験情報 - 医学部受験の予備校なら武田塾メディカル]</ref>:[[慶應義塾大学]]、[[東京慈恵会医科大学]]、[[日本医科大学]]
* 関東私立女子大御三家(関東の私立女子大学における入試難易度や人気度)<ref name=":0">{{Cite news |title=「就職に強い女子大学」トップ65ランキング {{!}} 就職四季報プラスワン |date=2017-11-10 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/196724 |accessdate=2018-11-06 |work=東洋経済オンライン}}</ref><ref>{{Cite news |title=女子大御三家に負けない 実践女子大を早大流で改革|出世ナビ|NIKKEI STYLE |author=日本経済新聞社・日経BP社 |url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO34790280Q8A830C1000000?channel=DF070420172345 |accessdate=2018-11-06 |work=NIKKEI STYLE}}</ref>:[[津田塾大学]]、[[日本女子大学]]、[[東京女子大学]]
* 関西私立女子大御三家(関西の私立女子大学における歴史や人気度)<ref name=":0" />:[[神戸女学院大学]]、[[同志社女子大学]]、[[京都女子大学]]
; {{Visible anchor|中学校}}・{{Visible anchor|高校}}・{{Visible anchor|旧制中学}}など
{{small|{{main|中学受験#御三家}}}}
*一中御三家([[旧制中学校]]における入試難易度や進学実績)<ref>『東京府立第一中学校』{{{}}}須藤直勝、[[近代文藝社]]、1994年</ref>:[[愛知県立旭丘高等学校|愛知県立第一中学校]]、[[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]]、[[兵庫県立神戸高等学校|兵庫県立第一神戸中学校]]
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* 東京都女子私立御三家(入試難易度や人気度)<ref name="zitsiryoku_p39"/><ref name="perfect2009"/><ref>『プレジデントファミリー』[[プレジデント社]]、2009年1月号、p.45, p.110<br />『プレジデントファミリー』プレジデント社、2010年10月別冊号、p.68<br />『中学受験白書』[[ダイヤモンド社]]、2010年4月、p.5, p.204, p.229</ref>:[[女子学院中学校・高等学校]]、[[雙葉中学校・高等学校]]、[[桜蔭中学校・高等学校]]
* 西の御三家(当時の進学実績や入試難易度)<ref name="toyokeizai_ICT"/><ref>{{Cite web|和書 |title=「塾は不要」の愛光中高 国公立大医学部に4人に1人 |url=https://reskill.nikkei.com/article/DGXMZO24219440U7A201C1000000/ |website= NIKKEIリスキリング |date=2017-12-17 |accessdate=2023-12-17}}</ref>:[[灘中学校・高等学校]]、[[ラ・サール中学校・高等学校]]、[[愛光中学校・高等学校]]
* 神奈川県男子私立御三家(入試難易度や進学実績)<ref name="zitsiryoku_p39"/><ref name="toyokeizai_ICT"/><ref name="chuzyuhakusyo_p5">『中学受験白書』[[ダイヤモンド社]]、2010年4月、p.5</ref><ref>『中学受験 パーフェクトガイド』[[読売新聞社]]、2009年10月、pp16-21, p.87</ref>:[[浅野中学校・高等学校]]、[[栄光学園中学校・高等学校]]、[[聖光学院中学校・高等学校]](2000年代以降は、進学実績の面でも[[桐蔭学園高等学校|桐蔭学園]]に代わり浅野が括られるようになった)
* 神奈川県女子私立御三家(入試難易度や人気度)<ref name="toyokeizai_ICT"/><ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/66145/ {{Nowiki|フェリス女学院中・横浜雙葉中徹底比較研究 [中学受験] All About}}] 2013年03月14日<br />[https://chugaku-juken.com/juken-kanagawa/ 首都圏中学受験の動向④〜神奈川編〜 | 中学受験ナビ] 2017.05.02</ref>:[[フェリス女学院中学校・高等学校]]、[[横浜共立学園中学校・高等学校]]、[[横浜雙葉中学校・高等学校]]
* 九州私立御三家(進学実績や入試難易度・人気度)<ref>[https://www.igakubu-juku.com/nagasaki-high/seiun.php 青雲高等学校 | |医学部合格を目指す予備校PMD|福岡・長崎・熊本・鹿児島]</ref>:[[久留米大学附設中学校・高等学校]]、[[ラ・サール中学校・高等学校]]、[[青雲中学校・高等学校]]
* [[東京都立高等学校|東京都立高]]御三家(入試難易度や進学実績)<ref>{{Cite web|和書 |title=都立校の未来図「小石川」が日比谷・西・国立を抜く日 |url=https://www.oricon.co.jp/article/2143450/ |website=ORICON NEWS |date=2023-02-24 |accessdate=2023-11-15}}</ref>:[[東京都立日比谷高等学校]]、[[東京都立西高等学校]]、[[東京都立国立高等学校]]
* 東京都立中御三家(入試難易度や進学実績)<ref>{{Cite web|和書 |title=共学派ママが気になる「都立中御三家」本当のところ {{!}} VERY NAVY[ヴェリィ ネイビー]公式サイト|ファッション&ライフスタイル誌|光文社 |url=https://veryweb.jp/navy/education/144102/ |website=VERY[ヴェリィ] |accessdate=2023-11-15}}</ref>:[[東京都立両国高等学校・附属中学校]]、[[東京都立小石川中等教育学校]]、[[東京都立武蔵高等学校・附属中学校]]
* 大阪府公立御三家(入試難易度や人気度)<ref>{{Cite web|和書 |title=大阪は団結、福岡は切磋琢磨 躍進目指す公立ライバル校の本音 〈週刊朝日〉|url=https://dot.asahi.com/articles/-/109417 |website=AERA dot. (アエラドット) |date=20160325T070000+0900 |accessdate=2019-10-01}}</ref>:[[大阪府立北野高等学校]]、[[大阪府立大手前高等学校]]、[[大阪府立天王寺高等学校]]
* 京都府公立御三家(入試難易度や進学実績):[[京都市立西京高等学校・附属中学校|京都市立西京高等学校]]、[[京都市立堀川高等学校]]、[[京都府立嵯峨野高等学校]]
* 愛知県御三家(進学実績)<ref>{{Cite web|和書 |title=名門校トップ対決[愛知編]個性的な御三家 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/561588 |website=東洋経済オンライン |date=2016-10-08 |accessdate=2023-11-15}}</ref>:[[愛知県立旭丘高等学校]]、[[愛知県立岡崎高等学校]]、[[東海中学校・高等学校]]
* 福岡市公立御三家(入試難易度や人気度)<ref>都市生活研究プロジェクト[博多チーム]『博多ルール』[[中経出版]]、2010年(平成22年)、109頁 など</ref>:[[福岡県立修猷館高等学校]]、[[福岡県立福岡高等学校]]、[[福岡県立筑紫丘高等学校]]
* 千葉県公立御三家(入試難易度や人気度)<ref>{{Cite web|和書 |title=親世代とは大違い“地方名門私立”の盛衰 躍進する渋幕、西大和学園、北嶺 |url=https://president.jp/articles/-/27226 |website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2019-01-10 |accessdate=2019-09-24}}</ref>:[[千葉県立千葉中学校・高等学校]]、[[千葉県立船橋高等学校]]、[[千葉県立東葛飾中学校・高等学校]]
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* 埼玉県公立御三家(入試難易度や進学実績)<ref>{{Cite web|和書 |title=【高校受験2018】浦高・一女・大宮…埼玉県立御三家合格セミナー7/10 |url=https://resemom.jp/article/2017/06/06/38508.html |website=リセマム |accessdate=2019-11-27}}</ref>:[[埼玉県立浦和高等学校]]、[[埼玉県立浦和第一女子高等学校]]、[[埼玉県立大宮高等学校]]
* 埼玉県私立御三家(入試難易度や人気度)<ref>[https://manavo.jp/no104/ 高校分析 〜県内&都内近隣私立高校編〜] Manavo WEB 2019/12/10<br />[https://www.takeda.tv/kawagoe/area-hs/post-156714/ 【知っておきたい】川越東高校の評判・進学実績・偏差値] 武田塾 川越校 2021.05.20<br />[https://news.livedoor.com/article/detail/18814599/ 川越東vs宇都宮] ライブドアニュース</ref>:[[栄東中学校・高等学校]]、[[開智小学校・中学校・高等学校 (埼玉県)|開智小学校・中学校・高等学校]]、[[川越東高等学校]]
* 富山県御三家(入試難易度や進学実績)<ref>{{Cite web|和書 |title=難関大学合格者急増!富山・奇跡の学校の「頭のいい子の育て方」 |url=https://gendai.media/articles/-/55286?page=1&imp=0 |website=[[週刊現代]] |date=2018-06-04 |accessdate=2021-02-23}}<br />{{Cite web|和書 |title=富山中部高校の進学先は?偏差値・評判・口コミ・進学実績など |url=https://www.takeda.tv/toyama/area-hs/post-162352/ |website=武田塾富山校 |date=2021-02-04 |accessdate=2021-02-23}}</ref>:[[富山県立富山高等学校]]、[[富山県立高岡高等学校]]、[[富山県立富山中部高等学校]]
* 青森県御三家(近年の入試難易度)<ref>{{Cite web|和書 |author=mimiyori_media |title=【母校トリビア】「ねぷた」にかける進学校!青森御三家のあずましい担当~弘前高校(青森)前編 |url=https://mimi-yori.com/entry/trivia/highschool_hirosaki_aomori1 |website=Webメディア「mimiyori」 |date=2021-08-28 |accessdate=2023-11-15}}</ref>:[[青森県立弘前高等学校]]、[[青森県立八戸高等学校]]、[[青森県立青森高等学校]]
* 東京私立男子新御三家(進学実績や入試難易度)<ref name="toyokeizai_ICT">{{Cite web |title=学校の御三家・新御三家とは?地域別にそれぞれの特徴を解説 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/677471 |publisher=東洋経済education×ICT編集部 |date=2023-06-09 |accessdate=2023-12-16}}</ref>:[[海城中学校・高等学校|海城中学校]]、[[巣鴨中学校・高等学校|巣鴨中学校]]、[[駒場東邦中学校・高等学校|駒場東邦中学校]]
*東京私立女子新御三家(進学実績や入試難易度)<ref name="toyokeizai_ICT"/>:[[豊島岡女子学園中学校・高等学校|豊島岡女子学園中学校]]、[[鷗友学園女子中学校・高等学校|鷗友学園女子中学校]]、[[吉祥女子中学校・高等学校|吉祥女子中学校]]
* 品川区大井町御三家(人気度やルーツ)<ref>[https://diamond.jp/articles/-/262192?page=3#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%B9%BE%E5%B2%B8%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%9E%E3%83%B3%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AB%E5%8B%A2%E3%81%84&text=%E7%89%B9%E3%81%AB%E9%A1%95%E8%91%97%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE,%E8%8B%B1%E3%81%AE3%E6%A0%A1%E3%81%A0%E3%80%82 首都圏「中学受験」、異例尽くしの2021年を総括 | 中学受験への道] ダイヤモンド・オンライン</ref>:[[品川翔英中学・高等学校]]、[[青稜中学校・高等学校|青稜中学・高等学校]]、[[朋優学院高等学校]]
; {{Visible anchor|小学校}}
* 小学校御三家(小学校における歴史や地域性)<ref>『総理の乳母:安倍晋三の隠された原風景』[[七尾和晃]]、創言社、2007年、pp.61-63</ref>:[[千代田区立番町小学校]]、[[千代田区立麹町小学校]]、[[文京区立誠之小学校]]
* 公立小御三家<ref name="kobo">{{Cite web|和書 |title=中学受験は小学校の「学区選び」から始まる!【「千代田・中央・港」都心3区の攻防】|url=https://diamond.jp/articles/-/213136?page=3 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2019-08-29 |accessdate=2021-11-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=東京"3大名門公立小"に通わせる親の吉凶 番町、白金、青南では塾通いが前提 |url=https://president.jp/articles/-/28450 |website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) |date=2019-04-21 |accessdate=2021-11-25}}</ref>:千代田区立番町小学校、[[港区立白金小学校]]、[[港区立青南小学校]]
* 私立小御三家<ref name="kobo"/><ref>{{Cite web|和書 |title=“私立小御三家”から転落しかねない…学習院初等科の危機|名門校のトリビア |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/263517 |website=日刊ゲンダイDIGITAL |accessdate=2020-07-03}}</ref>:[[学習院初等科]]、[[慶應義塾幼稚舎]]、[[青山学院初等部]]
; {{Visible anchor|幼稚園}}
* 東京幼稚園御三家<ref>{{Cite book|和書 |title=『ある華族の昭和史:上流社会の明暗を見た女の記録』 |author=酒井美意子 |authorlink=酒井美意子 |publisher=主婦と生活社 |date=1982-02}}</ref>:[[若葉会幼稚園]]、[[松濤幼稚園]]、[[枝光会]]幼稚園(松濤幼稚園の閉園後、[[愛育幼稚園]]を御三家に含める説もあるが上野毛幼稚園とする記述もあり択一不可能。)
== その他 ==
* 猛毒[[キノコ]]御三家:[[ドクツルタケ]]、[[タマゴテングタケ]]、[[シロタマゴテングタケ]]<ref>大海淳 著 『いますぐ使えるきのこ採りナビ図鑑』大泉書店、2006年10月1日発行、ISBN 978-4-278-04717-2、60頁。</ref>
* [[青魚|青物]]御三家:[[ヒラマサ]]、[[カンパチ]]、[[ブリ]]または[[シマアジ]]<ref>{{Cite web|和書 |title=[青物御三家]ブリとカンパチあと1つは? 誰でもわかる3魚種の見分け方│ルアマガプラス |url=https://plus.luremaga.jp/2022/11/18/197582/ |website=plus.luremaga.jp |accessdate=2023-06-11 }}<br />{{Cite web|和書 |title=駿河湾・金洲五目が絶好釣! 御前崎港「増福丸」から出船:中日スポーツ・東京中日スポーツ |url=https://www.chunichi.co.jp/article/248676 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |accessdate=2023-06-11}}</ref>
* ブランド産院御三家:[[愛育病院]]、[[山王病院]]、[[聖路加国際病院]]<ref>{{Cite web|和書 |title=元皇族・守谷絢子さんが"ブランド産院御三家"で男児をご出産「鼻と口は絢子さん似」 |url=https://bunshun.jp/articles/-/15789 |website=文春オンライン |author=「週刊文春デジタル」編集部 |accessdate=2019-11-27}}</ref>
* 「[[写真家]]御三家」:[[土門拳]]、[[木村伊兵衛]]、[[秋山庄太郎]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「写真家新御三家」:[[秋山庄太郎]]、[[大竹省二]]、[[中村正也]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
* 「写真家新々御三家」:[[篠山紀信]]、[[加納典明]]、[[鋤田正義]]あるいは[[沢渡朔]]<ref name="平凡パンチ740905"/>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[世界三大一覧]]
* [[日本三大一覧]]
;類似表現
* [[ビッグスリー]]
* [[三役]]
* [[三傑]]
* [[三人娘]]
* [[三銃士 (曖昧さ回避)#たとえられた人物|三銃士]]
* [[三種の神器 (電化製品)]]
* [[三本柱]]
* [[三千家]]
* [[三ばか大将]]
* [[三羽烏]]
* [[トリオ]]
;3以外の数の重要な存在を指す表現
[[名数]]や[[:en:Category:名数]]を参照のこと。
* 唯一・随一
* 両巨頭
* 双璧
* [[四天王 (曖昧さ回避)]]
* 五[[摂家]]
* [[春秋五覇|五覇]]
* [[六神通]]
* [[ギリシャ七賢人|七賢]]
* [[戦国七雄|七雄]]
* [[十傑]]
{{DEFAULTSORT:こさんけ}}
[[Category:江戸幕府]]
[[Category:日本の名数3]]
[[Category:御三家|*]]
|
2003-07-11T18:06:15Z
|
2023-12-17T13:40:22Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6
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11,241 |
徳川将軍一覧
|
徳川将軍一覧(とくがわしょうぐんいちらん)では、江戸幕府(徳川幕府)の歴代征夷大将軍(徳川将軍家)を一覧にしている。15人をまとめて徳川十五代と呼ぶこともある。
秀忠を除く14人が征夷大将軍と同時に源氏長者に任じられ、没後に正一位を贈られている。ほとんどが、生前または没後に太政大臣まで昇進している。ちなみに15代の将軍のうち、家康・家光・慶喜のみ(父親の)正室から産まれている。
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徳川将軍一覧(とくがわしょうぐんいちらん)では、江戸幕府(徳川幕府)の歴代征夷大将軍(徳川将軍家)を一覧にしている。15人をまとめて徳川十五代と呼ぶこともある。 秀忠を除く14人が征夷大将軍と同時に源氏長者に任じられ、没後に正一位を贈られている。ほとんどが、生前または没後に太政大臣まで昇進している。ちなみに15代の将軍のうち、家康・家光・慶喜のみ(父親の)正室から産まれている。
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[[File:Portraits of the Tokugawa Rulers LACMA M.84.31.143a-c.jpg|thumb|right|450px|徳川十五代([[月岡芳年]]、[[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]所蔵)<br/>上段左から、家慶・家定・家光・家康・秀忠・家宣・家重・家斉。<br/>下段左から、家茂・慶喜・綱吉・家綱・吉宗・家継・家治。]]
'''徳川将軍一覧'''(とくがわしょうぐんいちらん)では、[[江戸幕府]](徳川幕府)の歴代[[征夷大将軍]]([[徳川将軍家]])を一覧にしている。15人をまとめて'''徳川十五代'''と呼ぶこともある。
秀忠を除く14人が征夷大将軍と同時に[[源氏長者]]に任じられ、没後に[[正一位]]を贈られている。ほとんどが、生前または没後に[[太政大臣]]まで昇進している。ちなみに15代の将軍のうち、家康・家光・慶喜のみ(父親の)正室から産まれている。
== 一覧 ==
* 氏名・院号•墓所は[[50音順]]の[[Help:表の作り方#再整列可能な表|ソート]]
* 官位は位の高い順にソート<!--
WebKit系のブラウザで折り返しに不具合が生じるため、表中では全角カッコのかわりに半角カッコ(半角カッコ+半角スペース)を使用しています。
{{Display none| }}で囲まれている文字列はソートキーです。読み仮名から濁点を取ってあります。
-->
{| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; text-align:center; font-size:95%; margin:10px 0px;"
|-style="vertical-align:top; white-space:nowrap;"
! style="padding-right:17px" | 代
! 氏名
! class="unsortable" | 肖像
! style="padding-right:17px" | 院号
! 官位
! 在職
! 期間
! 出身家
! style="padding-right:17px" | {{Nowrap|享年}}
! 墓所
|-
!1
|<small>とくがわ いえやす</small><br />[[徳川家康]]<br><small>(初め元康)</small>
|[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2.JPG|140px]]
|{{Display none|あんこくいん/}}安国院<br />[[東照宮|東照大権現]]
| style="white-space:nowrap;" |{{Display none|01-10/}}[[従一位]]<br />{{Display none|1/}}[[太政大臣]]
|{{Display none|1603-/}}{{Nowrap begin}}[[慶長]]8年([[1603年]])[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]<br /> - 慶長10年([[1605年]])[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]{{Nowrap end}}
|2年2ヶ月
|{{Display none|0/}}[[松平氏|安祥松平家]]
|75
|{{Display none|くのうざんとうしょうぐう/}}[[久能山東照宮]]
|-
!2
|<small>とくがわ ひでただ</small><br />[[徳川秀忠]]<br />
|[[ファイル:Hidetada2.jpg|140px]]
| style="white-space:nowrap;" |{{Display none|たいとくいん/}}台徳院
|{{Display none|01-10/}}従一位<br />{{Display none|1/}}太政大臣
|{{Display none|1605-/}}{{Nowrap begin}}慶長10年([[1605年]])[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]<br /> - [[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]{{Nowrap end}}
|18年3ヶ月
|{{Display none|0/}}[[徳川氏]]
|54
| style="white-space:nowrap;" |{{Display none|そうしようし/}}[[増上寺]]
|-
!3
|<small>とくがわ いえみつ</small><br />[[徳川家光]]<br />
|[[ファイル:Iemitu.jpg|140px]]
|{{Display none|たいゆういん/}}大猷院
|{{Display none|01-10/}}従一位<br />{{Display none|2/}}[[左大臣]]
|{{Display none|1623-/}}{{Nowrap begin}}元和9年([[1623年]])[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<br /> - [[慶安]]4年([[1651年]])[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]
|27年9ヶ月
|{{Display none|0/}}[[徳川将軍家]]
|48
| style="white-space:nowrap;" |{{Display none|りんのうし/}}[[輪王寺]]
|-
!4
|<small>とくがわ いえつな</small><br />[[徳川家綱]]<br />
|[[ファイル:Tokugawa Ietsuna.jpg|140px]]
|{{Display none|けんゆういん/}}厳有院
|{{Display none|02-00/}}[[正二位]]<br />{{Display none|3/}}[[右大臣]]
|{{Display none|1651-/}}{{Nowrap begin}}慶安4年([[1651年]])[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]<br /> - [[延宝]]8年([[1680年]])[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]{{Nowrap end}}
|28年9ヶ月
|{{Display none|0/}}徳川将軍家
|40
| style="white-space:nowrap;" |{{Display none|かんえいし/}}[[寛永寺]]
|-
!5
|<small>とくがわ つなよし</small><br />[[徳川綱吉]]<br />
|[[ファイル:Tsunyaoshi.jpg|140px]]
|{{Display none|しようけんいん/}}常憲院
|{{Display none|02-00/}}正二位<br />{{Display none|3/}}右大臣
|{{Display none|1680-/}}{{Nowrap begin}}延宝8年([[1680年]])[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]<br /> - [[宝永]]6年([[1709年]])[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]{{Nowrap end}}
|28年5ヶ月
| style="white-space:nowrap;" |[[館林徳川家]]
|64
|{{Display none|かんえいし/}}寛永寺
|-
!6
| style="white-space:nowrap;" |<small>とくがわ いえのぶ</small><br />[[徳川家宣]]<br><small>(初め綱豊)</small>
|[[ファイル:Tokugawa Ienobu.jpg|140px]]
|{{Display none|ふんしよういん/}}文昭院
|{{Display none|02-00/}}正二位<br />{{Display none|4/}}[[内大臣]]
|{{Display none|1709-/}}{{Nowrap begin}}宝永6年([[1709年]])[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]<br /> - [[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]{{Nowrap end}}
|3年5ヶ月
| style="white-space:nowrap;" |[[甲府徳川家]]
|51
|{{Display none|そうしようし/}}増上寺
|-
!7
|<small>とくがわ いえつぐ</small><br />[[徳川家継]]<br />
|[[ファイル:Tokugawa Ietsugu cropped.jpg|140px]]
|{{Display none|ゆうしよういん/}}有章院
|{{Display none|02-00/}}正二位<br />{{Display none|4/}}内大臣
|{{Display none|1713-/}}{{Nowrap begin}}正徳3年([[1713年]])[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]<br /> - [[享保]]元年([[1716年]])[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]{{Nowrap end}}
|3年1ヶ月
|{{Display none|0/}}徳川将軍家
|{{Display none|0}}8
|{{Display none|そうしようし/}}増上寺
|-
!8
|<small>とくがわ よしむね</small><br />[[徳川吉宗]]<br><small>(初め頼方)</small>
|[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|140px]]
|{{Display none|ゆうとくいん/}}有徳院
|{{Display none|02-00/}}正二位<br />{{Display none|3/}}右大臣
|{{Display none|1716-/}}{{Nowrap begin}}享保元年([[1716年]])[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]<br /> - [[延享]]2年([[1745年]])[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]{{Nowrap end}}
|29年1ヶ月
| style="white-space:nowrap;" |[[紀州徳川家]]
|68
|{{Display none|かんえいし/}}寛永寺
|-
!9
|<small>とくがわ いえしげ</small><br />[[徳川家重]]<br />
|[[ファイル:Tokugawa Ieshige.jpg|140px]]
|{{Display none|しゆんしんいん/}}惇信院
|{{Display none|02-00/}}正二位<br />{{Display none|4/}}内大臣
|{{Display none|1745-/}}{{Nowrap begin}}延享2年([[1745年]])[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]<br /> - [[宝暦]]10年([[1760年]])[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]{{Nowrap end}}
|14年6ヶ月
|紀州徳川家
|51
|{{Display none|そうしようし/}}増上寺
|-
!10
|<small>とくがわ いえはる</small><br />[[徳川家治]]<br />
|[[ファイル:Tokugawa Ieharu.jpg|140px]]
|{{Display none|しゆんめいいん/}}浚明院
|{{Display none|02-00/}}正二位<br />{{Display none|3/}}右大臣
|{{Display none|1760-/}}{{Nowrap begin}}宝暦10年([[1760年]])[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]<br /> - [[天明]]6年([[1786年]])[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]{{Nowrap end}}
|26年4ヶ月
|{{Display none|0/}}徳川将軍家
|50
|{{Display none|かんえいし/}}寛永寺
|-
!11
|<small>とくがわ いえなり</small><br />[[徳川家斉]]<br />
|[[ファイル:Tokugawa Ienari.jpg|140px]]
|{{Display none|ふんきよういん/}}文恭院
|{{Display none|01-10/}}従一位<br />{{Display none|1/}}太政大臣
|{{Display none|1787-/}}{{Nowrap begin}}天明7年([[1787年]])[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]<br /> - [[天保]]8年([[1837年]])[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]{{Nowrap end}}
|50年
| style="white-space:nowrap;" |[[一橋徳川家]]
|69
|{{Display none|かんえいし/}}寛永寺
|-
!12
|<small>とくがわ いえよし</small><br />[[徳川家慶]]<br />
|[[ファイル:Tokugawa Ieyoshi.JPG|140px]]
|{{Display none|しんとくいん/}}慎徳院
|{{Display none|01-10/}}従一位<br />{{Display none|2/}}左大臣
|{{Display none|1837-/}}{{Nowrap begin}}天保8年([[1837年]])[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]<br /> - [[嘉永]]6年([[1853年]])[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]{{Nowrap end}}
|16年2ヶ月
|{{Display none|0/}}徳川将軍家
|61
|{{Display none|そうしようし/}}増上寺
|-
!13
|<small>とくがわ いえさだ</small><br />[[徳川家定]]<br><small>(初め家祥)</small>
|[[ファイル:Tokugawa Iesada.jpg|140px]]
|{{Display none|おんきよういん/}}温恭院
|{{Display none|02-00/}}正二位<br />{{Display none|4/}}内大臣
|{{Display none|1853-/}}{{Nowrap begin}}嘉永6年([[1853年]])[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]<br /> - [[安政]]5年([[1858年]])[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]{{Nowrap end}}
|4年8ヶ月
|{{Display none|0/}}徳川将軍家
|35
|{{Display none|かんえいし/}}寛永寺
|-
!14
|<small>とくがわ いえもち</small><br />[[徳川家茂]]<br><small>(初め慶福)</small>
|[[ファイル:Tokugawa Iemochi by oil painting.jpg|140px]]
|{{Display none|しようとくいん/}}昭徳院
|{{Display none|01-10/}}従一位<br />{{Display none|3/}}右大臣
|{{Display none|1858-/}}{{Nowrap begin}}安政5年([[1858年]])[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]<br /> - [[慶応]]2年([[1866年]])[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]{{Nowrap end}}
|7年9ヶ月
|紀州徳川家
|21
|{{Display none|そうしようし/}}増上寺
|-
!15
|<small>とくがわ よしのぶ</small><br />[[徳川慶喜]]<br><small>(初め昭致)</small>
|[[ファイル:YoshinobuTokugawa.jpg|140px]]
|<ref group="注" name="a">[[仏教]]から[[神道]]に改宗し、葬儀を神式で執り行ったため、[[菩提寺]]である寛永寺には葬られなかった。そのため、院号は存在しない。</ref>
|{{Display none|01-10/}}従一位<br />{{Display none|4/}}内大臣
|{{Display none|1866-/}}{{Nowrap begin}}慶応2年12月5日([[1867年]]1月10日)<br /> -慶応3年12月9日([[1868年]]1月3日)
|1年
|一橋徳川家
|77
|{{Display none|やなかれいえん/}}[[谷中霊園]]<br />
|}
== 系譜一覧 ==
{{徳川家康の系譜}}
{{徳川秀忠の系譜}}
{{徳川家綱の系譜}}
{{徳川綱吉の系譜}}
{{徳川家光の系譜}}
{{徳川家宣の系譜}}
{{徳川家継の系譜}}
{{徳川吉宗の系譜}}
{{徳川家重の系譜}}
{{徳川家治の系譜}}
{{徳川家斉の系譜}}
{{徳川家慶の系譜}}
{{徳川家定の系譜}}
{{徳川家茂の系譜}}
{{徳川慶喜の系譜}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
<!--=== 出典 ===
{{Reflist}}-->
== 関連項目 ==
*[[征夷大将軍]]
*[[鎌倉将軍一覧]]
*[[足利将軍一覧]]
== 外部リンク ==
*[http://www.tokugawa.ne.jp/ 徳川記念財団]
*[https://www.start-point.net/syakai/syougun/ 徳川将軍クイズ]
{{江戸幕府将軍}}
{{DEFAULTSORT:とくかわしようくんいちらん}}
[[Category:江戸幕府の征夷大将軍|*]]
[[Category:日本史の人物一覧]]
|
2003-07-11T18:12:06Z
|
2023-08-14T05:56:05Z
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[
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"Template:徳川家宣の系譜",
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ビキニ
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ビキニ (Bikini, bikini)
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ビキニ ビキニ環礁 - アメリカが原爆・水爆実験を行なった。
ビキニデー - ビキニ環礁での水爆実験に由来する原水爆禁止運動の記念日。
ビキニ (水着) - 水着の一種、ビキニ環礁での実験で用いられた原爆のように「小さくて破壊的」との意味が込められた。類似の下着にも用いられる。
マイクロビキニ - 極端に小さなビキニ。
ビキニブリーフ - ビキニの下着。
ビキニアーマー
ビキニ! - 水上航による漫画作品。
BiKiNi - かつてテレビ東京で放送された番組。
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'''ビキニ''' (Bikini, bikini)
* [[ビキニ環礁]] - アメリカが原爆・水爆実験を行なった。
* [[ビキニデー]] - ビキニ環礁での水爆実験に由来する[[原水爆禁止運動]]の記念日。
* [[ビキニ (水着)]] - [[水着]]の一種、ビキニ環礁での実験で用いられた原爆のように「小さくて破壊的」との意味が込められた。類似の[[下着]]にも用いられる。
** [[マイクロビキニ]] - 極端に小さなビキニ。
** [[ビキニブリーフ]] - ビキニの下着。
** [[ビキニアーマー]]
* ビキニ! - [[水上航]]による漫画作品。
* [[BiKiNi]] - かつて[[テレビ東京]]で放送された番組。
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リーマン
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リーマン(ドイツ語: Riemann, Lehmann, Lehman)は、ドイツ語圏の男性名。
“Lehmann”および “Lehman”は日本語のカタカナ表記では「レーマン」と記述される例もある(関連項目参照) 。
音楽において、フーゴー・リーマンにちなむ。
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リーマンは、ドイツ語圏の男性名。 “Lehmann”および “Lehman”は日本語のカタカナ表記では「レーマン」と記述される例もある(関連項目参照)。
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'''リーマン'''({{lang-de|Riemann, Lehmann, Lehman}})は、[[ドイツ語|ドイツ語圏]]の男性名。
“Lehmann”および “Lehman”は日本語のカタカナ表記では「レーマン」と記述される例もある([[#関連項目|関連項目]]参照) 。
{{定義リスト2
| 人名 |
* [[ベルンハルト・リーマン]] - [[ドイツ]]の[[数学者]]
* [[フーゴー・リーマン]] - [[ドイツ]]の[[音楽理論|音楽理論家]]、[[作曲家]]
* [[ヘンリー・リーマン]] - [[アシュケナジム|ユダヤ系ドイツ人]]の実業家で、証券会社リーマン・ブラザーズの創設者
| 会社名 |
* [[リーマン・ブラザーズ]] - かつて存在した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[証券会社]]
** [[リーマン・ショック]] - リーマン・ブラザーズ社の破綻を発端に起こった[[世界金融危機 (2007年-2010年)]]
| 人名に由来する学術用語 |
数学において、[[ベルンハルト・リーマン]]にちなむ。
*[[リーマン幾何学]]
*[[リーマン多様体]]
**[[擬リーマン多様体]]
**{{仮リンク|部分リーマン多様体|en|Sub-Riemannian manifold}}
**{{仮リンク|リーマン部分多様体|en|Riemannian submanifold}}
**[[リーマン計量]]
*{{仮リンク|リーマン円|en|Riemannian circle}}
*{{仮リンク|リーマンの沈め込み|en|Riemannian submersion}}
*{{仮リンク|リーマンペンローズ不等式|en|Riemannian Penrose inequality}}
*{{仮リンク|リーマンホロノミー|en|Riemannian holonomy}}
*[[リーマン曲率テンソル]]
*{{仮リンク|リーマン接続|en|Riemannian connection}}
**{{仮リンク|曲面上のリーマン接続|en|Riemannian connection on a surface}}
*{{仮リンク|リーマンの対称空間|en|Riemannian symmetric space}}
*{{仮リンク|リーマンの体積形式|en|Riemannian volume form}}
*{{仮リンク|リーマンの束計量|en|Riemannian bundle metric}}
*{{仮リンク|ベルンハルト・リーマンに因んで名づけられているトピックスのリスト|en|List of topics named after Bernhard Riemann}}
音楽において、[[フーゴー・リーマン]]にちなむ。
*[[ネオ・リーマン理論]]
| 俗語 |
* 日本における[[サラリーマン]]の俗称のひとつ。
}}
== 関連項目 ==
* [[レーマン (曖昧さ回避)]] (Lehmann, Lehman)
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[[category:ドイツ語の姓]]
[[Category:数学の曖昧さ回避]]
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玉川学園前駅
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玉川学園前駅(たまがわがくえんまええき)は、東京都町田市玉川学園二丁目にある、小田急電鉄小田原線の駅である。駅番号はOH 26。
成城学園が成城学園前駅周辺の住宅開発をしたのと同様の手法で、学校法人玉川学園が駅を誘致して宅地開発を行い、その資金で学校建設を行うために開設された。
相対式ホーム2面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。東西にある丘陵の谷間に位置し、駅周囲の住宅地には急坂が多い。
東京メトロ千代田線方面の直通の準急列車は、朝ラッシュ時のみ当駅に停車する。
2012年度の設備投資計画において行先案内表示器の新設が盛り込まれた。
2022年度の1日平均乗降人員は39,653人であり、小田急線全70駅中27位。
近年の1日平均乗降人員・乗車人員の推移は下表の通り。
学校法人玉川学園を中心とした学園都市であり、行政上の正式な住所でも「玉川学園」が用いられている。新宿方面からは玉川学園の敷地内を走行するので、キャンパス内風景がよく見える。春は桜の名所となる。駅北東に広大な玉川学園があるため、線路と並走して鶴川駅方面へ行く道はない。駅東西および南には線路と平行に走る道があり、商店街となっている。また、文教地区である駅周辺地域にはパチンコ店等の風俗営業はない。
都県境が近く、駅東方向へ山越えする神奈川県横浜市青葉区奈良町地域の一部もこの駅の利用圏である。
町田市による玉川学園コミュニティバス(玉ちゃんバス)と、神奈川中央交通による路線が発着する。
玉川学園前駅南口
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玉川学園前駅(たまがわがくえんまええき)は、東京都町田市玉川学園二丁目にある、小田急電鉄小田原線の駅である。駅番号はOH 26。
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{{駅情報
|社色 = #2288CC
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|駅名 = 玉川学園前駅
|画像 = Tamagawagakuen-sta-north (3).jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 玉川学園前駅北口(2021年12月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
|よみがな = たまがわがくえんまえ
|ローマ字 = Tamagawagakuen-mae
|副駅名 =
|前の駅 = OH 25 [[鶴川駅|鶴川]]
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|駅間B = 2.9
|次の駅 = [[町田駅|町田]] OH 27
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|乗降人員 = <ref group="小田急" name="odakyu2022" />39,653
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|備考 =
}}
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br/>玉川学園前駅<br/>配線図|#2288CC}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}
↑[[鶴川駅]]
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↓[[町田駅]]
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|}
[[画像:Tamagawagakuen-sta-south.jpg|thumb|南口(2016年12月)]]
[[画像:Tamagawagakuenmae-Sta-Platform.JPG|thumb|ホーム(2017年6月)]]
'''玉川学園前駅'''(たまがわがくえんまええき)は、[[東京都]][[町田市]][[玉川学園]]二丁目にある、[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''OH 26'''。
== 歴史 ==
[[学校法人成城学園|成城学園]]が[[成城学園前駅]]周辺の住宅開発をしたのと同様の手法で、[[学校法人玉川学園]]が駅を誘致して宅地開発を行い、その資金で学校建設を行うために開設された<ref name="tamagawa20190225">{{Cite web|和書|url=https://www.tamagawa.jp/introduction/enkaku/history/detail_15708.html|title=玉川学園について 玉川学園前駅|publisher=玉川学園|accessdate=2021-05-29|date=2019-02-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/https://www.tamagawa.jp/introduction/enkaku/history/detail_15708.html|archivedate=2022-01-13}}</ref>。
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月1日]] - 玉川学園の創立者である[[小原國芳]]が、小田原急行(現・[[小田急電鉄]])に駅舎を無償提供したことにより開業<ref name="tamagawa20190225" />。「直通」の停車駅となる。
** 各駅停車は新宿駅 - 稲田登戸駅(現・[[向ヶ丘遊園駅]])間のみの運行であり、当駅までの運行はなかった。
* [[1945年]](昭和20年)6月 - 「直通」の廃止と同時に各駅停車が全線で運行されることとなり、各駅停車の停車駅となる。
* [[1946年]](昭和21年)[[10月1日]] - [[小田急小田原線#準急|準急]]が設定され、停車駅となる。
* [[1948年]](昭和23年)9月 - 桜準急が設定され、停車駅となる。
* [[1960年]](昭和35年)[[3月25日]] - 通勤準急が設定され、停車駅となる。
* [[1966年]](昭和41年) - 駅舎改築。2代目駅舎を使用開始<ref name="tamagawa20190225" />。
* [[1970年]](昭和45年)[[7月19日]] - 駅舎改築。3代目駅舎(現駅舎)を使用開始し、同時に[[自動改札機]]を試験的に導入(当時小田急線全線を通じ導入されたのは当駅のみ。故障の多さから数年後に撤去)<ref name="tamagawa20190225" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tamagawa.jp/social/useful/tamagawa_trivia/tamagawa_trivia-69.html|title=玉川豆知識 No.69 小田急線で最初に自動改札装置が設置されたのが玉川学園前駅|publisher=玉川学園|accessdate=2021-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/https://www.tamagawa.jp/social/useful/tamagawa_trivia/tamagawa_trivia-69.html|archivedate=2022-01-13}}</ref>。
* [[2003年]]([[平成]]15年)[[3月21日]] - 駅構内[[エレベーター]]が使用開始<ref name="koho20030211">{{Cite web|和書|url=https://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/koho/kouhoushi/koho_machida/2003/20030401.files/p2.pdf|title=広報まちだ 2003年4月1日号|publisher=町田市|accessdate=2021-05-26|date=2003-04-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/https://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/koho/kouhoushi/koho_machida/2003/20030401.files/p2.pdf|archivedate=2022-01-13}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[12月11日]] - [[小田急小田原線#区間準急|区間準急]]が設定され、停車駅となる。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]] - [[小田急ダイヤ改正|ダイヤ改正]]により通勤準急が新設され、停車駅となる。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[10月28日]] - 玉川学園コミュニティセンターと北口駅舎を結ぶ歩道橋「玉川学園前駅デッキ」が開通<ref name="news20211028">{{Cite web|和書|url=https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/sumai/road/dourosirase/koji/tamagawadekki.files/3.pdf|title=玉川学園前駅デッキの通行開始及び工事期間延長のお知らせ|publisher=町田市|accessdate=2021-10-31|date=2021-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211031092820/https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/sumai/road/dourosirase/koji/tamagawadekki.files/3.pdf|archivedate=2021-10-31}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。東西にある[[丘陵]]の谷間に位置し、駅周囲の住宅地には急坂が多い。
[[東京メトロ千代田線]]方面に直通する通勤準急は、平日朝[[ラッシュ時]]のみ当駅に停車する。また、東京メトロ千代田線方面から直通する準急は、平日夕夜間のみ当駅に停車する。
2012年度の設備投資計画において[[発車標|行先案内表示器]]の新設が盛り込まれた<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20211120032958/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/7093_4803266_.pdf 2012年度の鉄道事業設備投資計画 (2)駅施設改良、サービスの向上 2.行先表示装置の新設]}} - 小田急電鉄(2012年4月27日閲覧)</ref>。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!ホーム!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/tamagawagakuen_mae/ |title=玉川学園前駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
|style="text-align:center"|下り
|[[小田原駅|小田原]]・[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[新宿駅|新宿]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]方面
|}
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''39,653人'''であり<ref group="小田急" name="odakyu2022" />、小田急線全70駅中27位。
近年の1日平均'''乗降'''人員・'''乗車'''人員の推移は下表の通り。
<!--東京都統計年鑑、町田市統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/toukei/sogo/toukeisyo/index.html 町田市統計書] - 町田市</ref>
!年度
!1日平均<br/>乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br/>乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1978年(昭和53年)
|
|17,470
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|
|17,643
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|
|17,876
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|
|18,221
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|
|18,089
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|
|18,302
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|
|18,550
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|
|19,165
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|
|19,893
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|
|20,077
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|
|21,159
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|
|20,995
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|21,934
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|22,544
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|22,918
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|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|23,367
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|23,661
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|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|23,844
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|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|23,329
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|-
|1998年(平成10年)
|
|23,493
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|23,385
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|
|23,236
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|
|23,140
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|45,375
|22,992
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
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|2009年(平成21年)
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|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230308034356/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
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|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
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|}
== 駅周辺 ==
{{See also|玉川学園|東玉川学園|金井ヶ丘|奈良町 (横浜市)}}
[[学校法人玉川学園]]を中心とした[[学園都市]]であり、行政上の正式な住所でも「[[玉川学園]]」が用いられている。新宿方面からは玉川学園の敷地内を走行するため、[[キャンパス]]内風景がよく見える。春は[[サクラ|桜]]の名所となる。駅北東に広大な玉川学園があるため、線路と並走して[[鶴川駅]]方面へ行く道はない。駅東西および南には線路と平行に走る道があり、[[商店街]]となっている。また、[[文教地区]]である駅周辺地域には[[パチンコ]]店等の[[風俗営業]]はない。
都県境が近く、駅東方向へ山越えする[[神奈川県]][[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]][[奈良町 (横浜市)|奈良町]]地域の一部もこの駅の利用圏である。
=== 北口 ===
* 玉川学園正門
* 玉川学園購買部 キャンパスストア・タマガワ([[紀伊國屋書店]])
* 町田市玉川学園コミュニティセンター(旧・玉川学園文化センター)
** 町田市役所 玉川学園駅前連絡所
* [[三和|スーパー三和]] 玉川学園店
* [[きらぼし銀行]] 玉川学園支店
* 玉川学園前[[郵便局]]
=== 南口 ===
* 玉川学園南門
* [[小田急商事#都市型スーパーマーケット事業「Odakyu OX」|Odakyu OX]] 玉川学園店
* [[久美堂]] 玉川学園店
* [[小田急マルシェ]]玉川学園前<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8318_6768662_.pdf|title=小田急マルシェ玉川学園前 2015年10月27日(火)オープン|publisher=小田急電鉄|format=PDF|date=2015-09-11|accessdate=2015-09-20}}</ref>
** [[トモズ]] 小田急マルシェ玉川学園前店
** [[ロッテリア]] 小田急マルシェ玉川学園前店
*[[すき家]] 玉川学園駅前店<ref>{{Cite web|和書|title=すき家 玉川学園駅前店|東京都の店舗|店舗情報 {{!}} すき家 |url=https://maps.sukiya.jp/jp/detail/1053.html |website=maps.sukiya.jp |access-date=2023-09-08}}</ref>
* [[ココカラファインヘルスケア|ココカラファイン]] 玉川学園前南口店
* [[城南信用金庫]] 玉川学園支店
* [[昭和薬科大学]] - 駅から徒歩15分ほど
== 路線バス ==
町田市による[[玉川学園コミュニティバス]](玉ちゃんバス)と、[[神奈川中央交通]]による路線が発着する。
;玉川学園前駅(北口)
* 玉川学園コミュニティバス:[[玉川学園コミュニティバス#運行ルート|北ルート]]
* [[神奈川中央交通町田営業所#町田バスセンター - 玉川学園前駅方面|町03系統]]:[[町田バスセンター]]行(平日2本のみ)
'''玉川学園前駅南口'''
* 玉川学園コミュニティバス:東ルート
* 玉川学園コミュニティバス:南ルート
== 隣の駅 ==
;小田急電鉄
:[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
<!-- 有料列車の通過は記載しない -->
:: {{color|#f89c1c|■}}快速急行・{{color|#ef4029|■}}急行
:::;通過
:: {{color|#00ab76|□}}通勤準急・{{color|#00ab76|■}}準急・{{color|#18469d|■}}各駅停車(通勤準急は平日朝上りのみ、準急は平日夜下りのみ運転)
:::[[鶴川駅]] (OH 25) - '''玉川学園前駅 (OH 26)''' - [[町田駅]] (OH 27)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|16em}}
;小田急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="小田急"|3}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tamagawagakuen-mae Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[玉川学園]](地区名)
* [[学校法人玉川学園]]
== 外部リンク ==
* [https://www.odakyu.jp/station/tamagawagakuen_mae/ 玉川学園前駅](各駅のご案内) - 小田急電鉄
* [http://www.tamagawa.jp/social/useful/tamagawa_trivia/tamagawa_trivia-69.html 玉川豆知識 No.69「小田急線で最初に自動改札装置が設置されたのが玉川学園前駅」] - 学校法人玉川学園
{{小田急小田原線}}
{{DEFAULTSORT:たまかわかくえんまえ}}
[[Category:東京都の鉄道駅]]
[[Category:町田市の交通]]
[[Category:日本の鉄道駅 た|まかわかくえんまえ]]
[[Category:小田急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:学校法人玉川学園]]
[[Category:1929年開業の鉄道駅]]
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成城学園前駅
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成城学園前駅(せいじょうがくえんまええき)は、東京都世田谷区成城六丁目にある、小田急電鉄小田原線の駅である。駅番号はOH 14。
開業前に「財団法人成城学園」が移転し、その要請を請ける形で駅を設置したことから「成城学園前」となった。
島式ホーム2面4線が地下(実際は掘割、以下同じ)、駅舎が地上にある地下駅。管区長・駅長所在駅であり、「成城学園前管区」として下北沢駅 - 和泉多摩川駅間の各駅を、「成城学園前管区成城学園前管内」として千歳船橋駅 - 和泉多摩川駅間の各駅を管理している。2013年3月23日に東北沢・下北沢・世田谷代田の三駅が地下化されるまでは、小田急電鉄の途中駅で唯一の地下駅でもあった。当駅では終日緩急接続が実施される。
砧地域を代表する駅で、喜多見駅寄りに車両基地(喜多見検車区)があり、当駅から出入庫線が繋がっている。そのため当駅始発や終点の駅になる列車がある。2018年3月実施のダイヤ改正で、当駅発着の列車が増加した。主に千代田線直通の列車が多く、新宿や相模大野・小田原方向への発着も設定されている。
特急ロマンスカーは千代田線直通の下り列車のすべてと上り列車の一部が停車するが、新宿駅発着列車は全て停車しない。
2019年3月16日改正以降、6両編成単独の各駅停車は当駅から小田原駅方面の列車のみの運用となり、新宿駅への6両編成の入線は(特急ロマンスカーを除いて)消滅し、10両編成(各駅停車の一部は8両編成)が乗り入れる。
東京メトロ千代田線16000系1本の外泊運用がある。
※下りの東北沢 - 登戸間、上りの向ヶ丘遊園 - 東北沢間の急行線・緩行線は原則として以下の通り使い分けられている。
駅入口から改札口までは段差がない。改札階と各ホーム階を結ぶ上下のエスカレーターとエレベーターが各ホームに1基ずつ設置されている。各ホームに階段は2か所ある。
待合室は各ホームに1室ずつある。
ユニバーサルデザインで、車椅子使用者や人工排泄器保有者が使用可能な多目的トイレが3か所ある。ベビーベッドなども設置されている。
2021年度の1日平均乗降人員は74,920人で、小田急線全70駅中15位。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通り。
当駅の周辺、特に北口側の成城五丁目、同六丁目あたりは高級住宅街が広がっている。また成城学園を中心とした学園都市であり、平日と土曜の朝方は周辺の学校に通学する学生・生徒や通勤者で混雑が激しい。成城六丁目には成城石井の本店が位置している。
駅ビルの成城コルティは2006年9月29日に営業を開始した。
南口に「成城学園前駅南口」、西口に「成城学園前駅西口」停留所がある。過去に北口に「成城学園前駅北口」停留所があったが西口広場整備工事により西口へと移動になった。
小田急バス・東急バスの路線が発着する。
小田急バス(狛江営業所)の路線が発着する。
南口発の渋24・玉07系統は西口終着となっている。
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成城学園前駅(せいじょうがくえんまええき)は、東京都世田谷区成城六丁目にある、小田急電鉄小田原線の駅である。駅番号はOH 14。
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{{出典の明記|date=2020年1月}}
{{駅情報
|社色 = #2288CC
|文字色 =
|駅名 = 成城学園前駅
|画像 = OER Seijogakuen-Mae Station North.JPG
|pxl = 200px
|画像説明 = 北口(2007年6月8日)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
|よみがな = せいじょうがくえんまえ
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|備考 =
}}
'''成城学園前駅'''(せいじょうがくえんまええき)は、[[東京都]][[世田谷区]][[成城]]六丁目にある、[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''OH 14'''。
== 歴史 ==
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月1日]]:駅開業前に[[学校法人成城学園|成城学園]]が当地に移転し、[[成城高等学校 (旧制)|成城高等学校(旧制)]]の校長だった[[小原國芳]]が駅を招致して<ref name="odakyu50-76">{{Cite book|和書|title=小田急五十年史|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11956508/1/67|page=76-78|publisher=小田急電鉄|date=1980-12|doi=10.11501/11956508}}</ref>開業<ref name="odakyu50-98">{{Cite book|和書|title=小田急五十年史|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11956508/1/78|page=98-99|publisher=小田急電鉄|date=1980-12|doi=10.11501/11956508}}</ref>。駅周辺では宅地開発を行いその利益で学校を建設する方法で成城学園を拡大した。
* [[1932年]](昭和7年):[[橋上駅|橋上駅舎]]化(小田急初の橋上駅舎)。[[複々線]]化工事前は島式ホーム2面4線の[[地上駅]](橋上駅舎)だった。複々線化工事の進展に伴い上り1面2線・下り1面1線になった。
* [[1937年]](昭和12年)[[9月1日]]:片瀬江ノ島行「直通」の停車駅となった(小田原方面行「直通」は通過)。
* [[1946年]](昭和21年)[[10月1日]]:[[小田急小田原線|準急]]が設定され、停車駅となった。
* [[1948年]](昭和23年)
** [[8月19日]]:[[東宝争議]]のため、[[警視庁]]の指示により一時当駅での乗降扱いを見合わせた。
** [[9月]]:[[小田急小田原線|桜準急]]が設定され、停車駅となった。
* [[1960年]](昭和35年)[[3月25日]]:[[小田急小田原線|通勤準急]]が設定され、停車駅となった。同時に、朝[[ラッシュ時]]上り列車の[[小田急小田原線|通勤急行]]に限り、停車駅となった。
* [[1964年]](昭和39年)[[11月5日]]:[[小田急小田原線|快速準急]]が設定され、停車駅となった。
* [[1971年]](昭和46年)[[4月]]:[[小田急小田原線|急行]]の停車駅となった。同時に通勤急行は廃止された。
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[3月]]:1番線(下り待避線)を使用停止<ref name="RP946_40" />。
* [[2002年]](平成14年)
** [[3月23日]]:[[多摩急行]]・[[湘南急行]]が設定され、停車駅となった<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=401&info_kubun=d-cue&mode=online|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041205102942/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=401&info_kubun=d-cue&mode=online|language=日本語|title=平成14年3月23日(土)にダイヤ改正を実施します 江ノ島線沿線から新宿への「湘南急行」、多摩線沿線から千代田線直通の「多摩急行」が登場|publisher=小田急電鉄|date=2002-02-14|accessdate=2021-05-04|archivedate=2004-12-05}}</ref>。4番線(上り待避線)使用停止<ref name="RP829_206-210">{{Cite journal|和書|author=杉田弘志|title=小田急電鉄 列車運転の変遷とその興味|journal=鉄道ピクトリアル|date=2010-01-10|volume=60|issue=第1号(通巻829号)|pages=206 - 210|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
** [[3月31日]]:下り線が地下化<ref name="RP946_40">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=小田急の複々線区間工事前後を見る|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2018-06-01|volume=68|issue=第6号(通巻946号)|page=40|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="RP829_206-210" />。下り線側[[小田急電鉄の車両検修施設#喜多見検車区|喜多見検車区]]への出入庫線の使用を開始<ref name="RP829_206-210" />。
** [[6月16日]]:上り線地下化<ref name="RP946_40" /><ref name="RP829_206-210" /><ref>{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳 |journal = RAIL FAN |date = 2002年9月号 |issue = 9 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 22 }}</ref>。プラットホームが地下の島式1面2線となった(現在の下り線側ホームのみを使用)<ref name="RP946_40" /><ref name="RP829_206-210" />。上り線側喜多見検車区への出入庫線の使用を停止<ref name="RP829_206-210" />。
* [[2004年]](平成16年)
** [[5月23日]]:上り線側ホームの使用を開始(上り1面2線(上りは2線化)・下り1面1線)<ref name="RP946_40" /><ref name="RP829_206-210" />。上り線側喜多見検車区への出入庫線の使用を再開<ref name="RP829_206-210" />。
** [[9月26日]]:複々線化が完了し島式2面4線となった<ref name="RP946_40" /><ref name="RP829_206-210" />。
** [[12月11日]]:[[小田急小田原線|区間準急]]が設定され、停車駅となった<ref name="press20041006">{{Cite press release|和書|url=http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=869&info_kubun=d-cue&mode=online|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050308101903/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=869&info_kubun=d-cue&mode=online|language=日本語|title=12月11日(土)、小田急線のダイヤ改正を実施 -複々線化区間の延伸、新種別の導入で所要時間が短縮します-|publisher=小田急電鉄|date=2004-10-06|accessdate=2021-05-05|archivedate=2005-03-08}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[4月11日]]:西口開設。
* [[2006年]](平成18年)[[9月29日]]:駅ビル「成城コルティ」がオープン<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.d-cue.com/program/info/data.info/1813_7324487_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060821174001/http://www.d-cue.com/program/info/data.info/1813_7324487_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=成城学園前駅ビルの名称を「SEIJO CORTY(成城コルティ)」に決定 2006年9月29日(金)にオープンします|publisher=小田急電鉄|date=2006-07-18|accessdate=2021-05-05|archivedate=2006-08-21}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|メトロホームウェイ]]」「[[はこね (列車)|メトロさがみ]]」「ベイリゾート」が設定され、停車駅となった<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/3276_7621683_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120312203207/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/3276_7621683_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2008年3月15日(土)から ロマンスカー・MSEによる東京メトロ線への直通運転を開始します|publisher=小田急電鉄/東京地下鉄|date=2007-12-20|accessdate=2021-05-05|archivedate=2012-03-12}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]]:特急ロマンスカー「メトロはこね」の全列車が停車するようになった<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6813_2421858_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201108044809/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6813_2421858_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2012年3月17日(土)ダイヤ改正を実施します。「メトロはこね」を毎日運転、朝方と夕夜間のロマンスカーを増発|publisher=小田急電鉄|date=2011-12-16|accessdate=2021-05-05|archivedate=2020-11-08}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[1月]]:[[駅ナンバリング]]が導入され、使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|title=小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて 2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します! 新宿駅から箱根・芦ノ湖まで通しのナンバリングにより、わかりやすくご利用いただけます|publisher=小田急電鉄/箱根登山鉄道|date=2013-12-24|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210509093516/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf|accessdate=2021-05-09|archivedate=2021-05-09}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の車両が[[東京メトロ]][[東京メトロ千代田線|千代田線]]経由で小田急線に乗り入れ、当駅にも停車するようになった<ref name="press20151218">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8360_8351253_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201127044703/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8360_8351253_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2016年3月26日(土) 小田急線ダイヤ改正を実施します ロマンスカー停車駅の新設および東京メトロ千代田線直通列車の増発|publisher=小田急電鉄|date=2015-12-18|accessdate=2021-05-05|archivedate=2020-11-27}}</ref>。また区間準急が廃止された<ref name="press20151218" />。
* [[2018年]](平成30年)3月17日:新たに特急ロマンスカー「[[えのしま (列車)|メトロえのしま]]」・「メトロモーニングウェイ」・通勤急行(2代目)・通勤準急(2代目)・千代田線直通各駅停車が設定され、停車駅となった。また、特急ロマンスカー「メトロさがみ」・多摩急行が廃止された<ref name="press20171101">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8701_5820170_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190415221739/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8701_5820170_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=代々木上原〜登戸間の「複々線化」により小田急の通勤が変わる! 2018年3月、新ダイヤでの運行開始 〜ラッシュピーク混雑率150%、町田〜新宿間の最大12分短縮を実現〜 〜快速急行の登戸停車や列車種別の新設で、都心へのアクセス向上〜|publisher=小田急電鉄|date=2017-11-01|accessdate=2021-05-05|archivedate=2019-04-15}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:当駅以東への6両編成の入線が特急ロマンスカーを除き廃止<ref name="RP976_161">{{Cite journal|和書|author=杉田弘志|title=小田急電鉄 列車運転の変遷とその興味|journal=鉄道ピクトリアル|date=2020-08-10|volume=70|issue=第8号(通巻976号)|page=161|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[3月12日]]:千代田線から入線する「メトロホームウェイ号」がすべてこの駅に停車するようになる。
=== 駅名の由来 ===
開業前に「'''[[学校法人成城学園|財団法人成城学園]]'''」が移転し、その要請を請ける形で駅を設置したことから「'''成城学園前'''」となった<ref>{{Cite|和書|author=小田急電鉄株式会社社史編集事務局 編|title=小田急五十年史|date=1980|pages=77・645頁}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面4線が地下(実際は[[切土|掘割]]、以下同じ)、駅舎が地上にある[[地下駅]]。管区長・駅長所在駅であり、「成城学園前管区」として[[下北沢駅]] - [[和泉多摩川駅]]間の各駅を、「成城学園前管区成城学園前管内」として[[千歳船橋駅]] - 和泉多摩川駅間の各駅を管理している<ref name="RP976_13">{{Cite journal|和書|author=藤田雄介(小田急電鉄CSR・広報部)|title=総説:小田急電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|date=2020-08-10|volume=70|issue=第8号(通巻976号)|page=13|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。2013年3月23日に[[東北沢駅|東北沢]]・下北沢・[[世田谷代田駅|世田谷代田]]の三駅が地下化されるまでは、小田急電鉄の途中駅で唯一の地下駅でもあった。当駅では終日[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]が実施される。
[[砧地域]]を代表する駅で、[[喜多見駅]]寄りに[[車両基地]]([[小田急電鉄の車両検修施設#喜多見検車区|喜多見検車区]])があり、当駅から出入庫線が繋がっている。そのため当駅始発や終点の駅になる列車がある。2018年3月実施のダイヤ改正で、当駅発着の列車が増加した<ref group="注">当駅止まりで折り返し上り方面になる列車は、一旦喜多見検車区まで引き上げてから折り返す。そのため、次の列車になるまでの時間は約20分程度を要する。</ref>。主に千代田線直通の列車が多く、新宿や相模大野・小田原方向への発着も設定されている。
特急ロマンスカーは千代田線直通の下り列車のすべてと上り列車の一部が停車するが、新宿駅発着列車は全て停車しない。
2019年3月16日改正で、6両編成単独の各駅停車は当駅から小田原駅方面の列車のみの運用となり、当駅から新宿駅方面への6両編成の入線は(特急ロマンスカーを除いて)消滅した。2022年3月12日改正で、6両編成単独の列車の当駅への乗り入れも(特急ロマンスカーを除いて)廃止された。当駅へは10両編成(各駅停車の一部は8両編成)が乗り入れる。
東京メトロ16000系1本の外泊運用がある。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!ホーム!!路線!!方向!!軌道!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/seijyogakuen_mae/ |title=成城学園前駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|-
!1
|rowspan="4"|[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
|rowspan="2" style="text-align:center"|下り
|style="text-align:center"|緩行線
|rowspan="2"|[[小田原駅|小田原]]・[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]方面
|-
!2
| style="text-align:center" rowspan="2" |急行線
|-
!3
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|rowspan="2"|[[新宿駅|新宿]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]方面
|-
!4
|style="text-align:center"|緩行線
|}
※下りの[[東北沢駅|東北沢]] - [[登戸駅|登戸]]間、上りの[[向ヶ丘遊園駅|向ヶ丘遊園]] - 東北沢間の急行線・緩行線は原則として以下の通り使い分けられている。
; 〔急行線〕
:'''{{color|red|□}}特急ロマンスカー・'''{{color|#f89c1c|■}}'''快速急行・'''{{color|#ef4029|□}}'''通勤急行・'''{{color|#ef4029|■}}'''急行'''が使用する。当駅 - [[経堂駅]]間のみ{{color|#00ab76|□}}'''通勤準急'''も使用し、当駅では急行線のホームに発着する。
; 〔緩行線〕
:{{color|#00ab76|■}}'''準急・'''{{color|#18469d|■}}'''各駅停車'''が使用する。{{color|#00ab76|□}}'''通勤準急'''も上記以外の区間で使用する。
:ただし、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]直通の上り{{color|#ef4029|■}}'''急行'''は、経堂駅以東で緩行線を使用する。
=== 配線図 ===
{{駅配線図|image=Rail Tracks map Odakyu Seijogakuen-mae Station.svg
|title = 小田急電鉄 成城学園前駅 鉄道配線略図
|width = 300px
|up =
|up-align =
|left=代々木上原・<br/>新宿・綾瀬<br/>方面
|left-valign = top
|right=唐木田・藤沢・<br/>小田原方面
|right-valign = top
|down = <br/>[[小田急電鉄の車両検修施設#喜多見検車区|喜多見検車区]]
|down-align = right
|source = * 以下を参考に作成。<br/>** {{Cite journal|和書|author=|title=小田急電鉄線路配線略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2020-08-10|volume=70|issue=第8号(通巻976号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}
|note =
}}
=== 駅設備 ===
駅入口から[[改札|改札口]]までは段差がない。改札階と各ホーム階を結ぶ上下の[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が各ホームに1基ずつ設置されている。各ホームに階段は2か所ある。
[[待合室]]は各ホームに1室ずつある。
[[ユニバーサルデザイン]]で、[[車椅子]]使用者や[[オストメイト|人工排泄器保有者]]が使用可能な多目的トイレが3か所ある。[[ベビーベッド]]なども設置されている。
<gallery>
OER Seijogakuen-Mae Station South.JPG|駅南口
OER Seijogakuen-Mae Station.JPG|駅西口
Seijogakuen-mae-Sta-Platform.JPG|ホーム(2011年4月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2021年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''74,920人'''で、小田急線全70駅中15位<ref group="小田急" name="odakyu2022" />。
近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/kusei/001/003/005/d00050936.html 世田谷区統計書] - 世田谷区</ref>
!年度
!1日平均<br/>乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br/>乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|2,419
|
|
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|3,629
|
|
|-
|1935年(昭和10年)
|3,905
|
|
|-
|1940年(昭和15年)
|6,163
|
|
|-
|<ref group="注">1945年度は資料なし</ref>1946年(昭和21年)
|14,543
|
|
|-
|1950年(昭和25年)
|16,617
|
|
|-
|1955年(昭和30年)
|21,335
|
|
|-
|1956年(昭和31年)
|
|11,296
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 14ページ</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|
|12,136
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 14ページ</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|
|12,908
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 14ページ</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|
|13,797
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|29,679
|15,077
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|33,488
|16,747
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|35,867
|17,974
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|38,892
|19,578
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|43,960
|22,207
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|47,020
|23,751
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|49,679
|24,893
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|50,727
|25,501
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|50,457
|25,276
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|51,642
|25,902
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|51,871
|26,363
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|57,691
|29,618
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|63,010
|32,174
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|64,966
|33,116
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|68,424
|34,865
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|70,563
|35,863
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|72,684
|37,107
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|73,262
|37,789
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|80,706
|40,392
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|82,414
|41,777
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|83,206
|42,625
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|85,552
|43,519
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|86,381
|44,012
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|87,338
|44,351
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|88,515
|44,847
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|89,176
|45,209
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|91,034
|46,223
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
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|1987年(昭和62年)
|91,959
|46,736
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|-
|1988年(昭和63年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
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|1989年(平成元年)
|94,072
|47,991
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|95,271
|48,773
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|<ref group="注">当駅の乗降人員最高値年度</ref>97,306
|49,733
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|96,423
|49,419
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|96,027
|49,620
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|95,165
|49,225
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|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|93,990
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|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|92,894
|47,904
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|91,673
|47,115
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|90,007
|46,205
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|87,647
|44,579
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
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|43,115
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|-
|2001年(平成13年)
|83,614
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|-
|2002年(平成14年)
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|-
|2003年(平成15年)
|81,506
|40,761
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|79,284
|40,538
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|-
|2005年(平成17年)
|77,911
|39,846
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|80,311
|41,127
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|83,805
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|-
|2008年(平成20年)
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|-
|2009年(平成21年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
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|2011年(平成23年)
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|2012年(平成24年)
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|2014年(平成26年)
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|-
|2016年(平成28年)
|88,727
|44,698
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|-
|2017年(平成29年)
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|-
|2018年(平成30年)
|89,856
|45,219
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|-
|2019年(令和元年)
|88,692
|44,639
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|58,614
|29,463
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 令和2年]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230308034356/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
|archivedate=2023-03-08|page=|accessdate=2023-08-26|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=2023-08-26}}</ref>66,680
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
|archivedate=2023-07-01|page=|accessdate=2023-08-26|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=}}</ref>74,920
|
|
|}
== 駅周辺 ==
[[画像:Seijyo Corty.JPG|thumb|180px|right|成城コルティ]]
{{See also|成城|砧 (世田谷区)|大蔵 (世田谷区)|喜多見|上祖師谷}}
当駅の周辺、特に北口側の成城五丁目、同六丁目あたりは[[高級住宅街]]が広がっている。また[[学校法人成城学園|成城学園]]を中心とした[[学園都市]]であり、平日と土曜の朝方は周辺の学校に通学する学生・生徒や通勤者で混雑が激しい。成城六丁目には[[成城石井]]の本店が位置している。
[[駅ビル]]の[[成城コルティ]]は2006年9月29日に営業を開始した。
=== 中央口 ===
* 成城コルティ
** [[小田急商事# 都市型スーパーマーケット事業「Odakyu OX」|Odakyu OX]]成城店
* [[小田急レストランシステム]] フォレスティ カフェ 成城店
=== 北口 ===
* 成城学園前郵便局
* [[成城郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]]成城店
* [[学校法人成城学園]]
** 成城学園幼稚園
** [[成城学園初等学校]]
** [[成城学園中学校高等学校]]
** [[成城大学]]
* [[世田谷区役所]]砧総合支所・成城出張所
* 世田谷区立砧図書館 - 当駅と[[祖師ヶ谷大蔵駅]]の中間に立地する。
* [[三菱UFJ銀行]] 成城支店・成城学園前支店
* [[三菱UFJモルガン・スタンレー証券]] 成城支店
* [[成城石井]]成城店
* 成城テニスアカデミー
* [[東京都立総合工科高等学校]]
=== 南口 ===
* [[成城警察署]]成城学園駅前交番
* [[三井住友銀行]]成城支店
* [[成城消防署|東京消防庁成城消防署]]
* 世田谷成城二郵便局
* [[世田谷美術館]]分館 清川泰次記念ギャラリー
* [[日蓮正宗]] 善福寺
* [[世田谷区立明正小学校]]
* [[世田谷区立砧小学校]]
* [[東京都市大学付属中学校・高等学校]]
* [[東京都市大学付属小学校]]
* [[世田谷区立砧中学校]]
* [[科学技術学園高等学校]]
* [[次大夫堀公園|世田谷区立次大夫堀公園]]
* [[城南信用金庫]]砧支店
* [[大和証券]]成城支店
* [[マツモトキヨシ]]成城学園店
* [[成城三丁目緑地]]
* [[サミット (チェーンストア)|サミットストア]]成城店
* [[オーケー]]成城店
* [[東宝スタジオ]](旧・[[東宝]]砧撮影所)
** [[ABCハウジング]]成城住宅公園
* [[妙法寺 (世田谷区大蔵)|妙法寺]](おおくら大仏)
* [[永安寺 (世田谷区)|永安寺]]
=== 西口 ===
* 富士見橋
* [[みずほ銀行]]成城支店
* [[みずほ信託銀行]]成城支店
* [[みずほ証券]]成城支店
* [[野村証券]]成城支店
*アグリス成城
*成城五丁目猪股庭園
*成城三丁目こもれびの庭市民緑地
*成城みつ池緑地
**旧山田家住宅
== バス路線 ==
南口に「成城学園前駅南口」、西口に「成城学園前駅西口」停留所がある。過去に北口に「成城学園前駅北口」停留所があったが西口広場整備工事により西口へと移動になった。<!--
=== 成城学園前駅北口 ===
[[小田急バス]]の路線が発着する。
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者
|-
|rowspan="6"|1番|| || || ||rowspan="6"|{{color|crimson|■}}小田急([[小田急バス狛江営業所|狛江営業所]])
|-
| || ||
|-
| || ||
|-
| || ||千歳船橋駅
|-
|rowspan="2"|出入庫||rowspan="2"|{{small|[[上祖師谷]]四丁目}}||狛江営業所
|-
|狛江駅北口
|-
|rowspan="3"|2番|| || || ||rowspan="3"|{{color|crimson|■}}小田急(狛江営業所)
|-
|出入庫||{{small|中央電通学園}}||狛江営業所
|-
| || ||中央電通学園
|-
|rowspan="2"|3番|| || || ||rowspan="2"|{{color|crimson|■}}小田急(狛江営業所)
|-
| || ||
|}-->
=== 成城学園前駅南口(小田急)・成城学園前駅(東急) ===
[[画像:Seijōgakuen Mae South Bus Stop.jpg|thumb|200px|成城学園前駅南口バス乗り場]]
小田急バス・[[東急バス]]の路線が発着する。
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者
|-
|1番||渋24||{{small|[[国立成育医療研究センター|成育医療研究センター前]]・[[東京農業大学|農大前]]・[[上町駅|上町]]・[[三軒茶屋駅|三軒茶屋]]}}||[[渋谷駅]]|| {{color|red|■}}[[東急バス弦巻営業所#成城線|東急]]([[東急バス弦巻営業所|弦巻営業所]])
|-
|rowspan="5"|2番||[[東急バス瀬田営業所#美術館線|玉31]]||{{small|成育医療研究センター前・岡本三丁目}}||[[二子玉川駅]]||rowspan="5"|{{color|red|■}}東急([[東急バス瀬田営業所|瀬田営業所]])
|-
|[[東急バス瀬田営業所#美術館線|無番]]||{{small|成育医療研究センター前・岡本三丁目}}||[[用賀駅]]
|-
|[[東急バス瀬田営業所#世田谷線|用06]]||{{small|成育医療研究センター前・桜丘三丁目}}||用賀駅
|-
|rowspan="2"|[[東急バス瀬田営業所#世田谷線|等12]]||<small>成育医療研究センター前・桜丘三丁目・用賀駅・深沢不動前・[[等々力駅|等々力]]</small>||等々力操車所
|-
|<small>成育医療センター前・桜丘三丁目・用賀駅</small>||瀬田営業所
|-
|rowspan="3"|3番||rowspan="2"|玉07||{{small|砧中学校下・[[鎌田 (世田谷区)|鎌田]]・吉沢}}||rowspan="2"|[[二子玉川駅]]||rowspan="2"|{{color|crimson|■}}[[小田急バス狛江営業所#二子線|小田急]](狛江営業所)<br/>{{color|red|■}}[[東急バス瀬田営業所#二子成城線|東急]](瀬田営業所)
|-
|{{small|砧中学校下・鎌田・吉沢・中耕地(朝のみ運行)}}
|-
|[[小田急バス狛江営業所#その他の主な出入庫系統(営業路線)|出入庫]]||{{small|砧中学校下}}||狛江営業所||{{color|crimson|■}}小田急(狛江営業所)
|}
=== 成城学園前駅西口 ===
[[画像:Seijōgakuen Mae West Bus Station.jpg|thumb|200px|工事前の駅西口バス乗り場(のりば1)]]
小田急バス(狛江営業所)の路線が発着する。
南口発の渋24・玉07系統は西口終着となっている。
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先
|-
|rowspan="2"|1番||[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(和泉線・神代団地線)|成04]]||{{small|[[仙川駅|仙川駅入口]]・狛江営業所}}||[[調布駅]]南口
|-
|[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(和泉線・神代団地線)|成05]]||{{small|仙川駅入口}}||[[狛江駅]]北口
|-
|rowspan="2"|2番||[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(和泉線・神代団地線)|成01]]||{{small|[[NTT]]中央研修センタ・[[神代団地]]}}||[[つつじヶ丘駅]]南口
|-
|[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(和泉線・神代団地線)|出入庫]]||{{small|NTT中央研修センタ}}||狛江営業所
|-
|3番|| || ||降車場
|-
|4番|| || ||降車場
|-
|rowspan="5"|5番||[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(和泉線・神代団地線)|成02]]||{{small|上祖師谷四丁目・[[芦花公園駅|芦花公園駅前]]}}||[[千歳烏山駅]]北口
|-
|[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(祖師谷線)|成06]]||{{small|上祖師谷四丁目}}||千歳烏山駅南口
|-
|[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(祖師谷線)|歳20]]||{{small|上祖師谷四丁目・廻沢・[[成城警察署|成城警察署前]]}}||[[千歳船橋駅]]
|-
|[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(祖師谷線)|歳21]]||{{small|上祖師谷四丁目・廻沢}}||千歳船橋駅
|-
|[[小田急バス狛江営業所#成城西口線(祖師谷線)|出入庫]]||{{small|上祖師谷四丁目・仙川駅入口}}||狛江営業所/狛江駅北口行
|}
== 隣の駅 ==
<!--テンプレートは使用しないでください-->
;小田急電鉄
:[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
:*{{color|#f44|'''□'''}}[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]「メトロはこね」「メトロモーニングウェイ」「メトロホームウェイ」「メトロえのしま」停車駅(「メトロモーニングウェイ」は一部のみ)
::※[[新宿駅]]発着の特急ロマンスカーは一部の臨時列車を除き通過。
::{{color|#f89c1c|■}}快速急行
:::;通過
::{{color|#ef4029|□}}通勤急行(平日朝上りのみ運転)
:::[[下北沢駅]] (OH 07) ← '''成城学園前駅 (OH 14)''' ← [[向ヶ丘遊園駅]] (OH 19)
::{{color|#ef4029|■}}急行・{{color|#00ab76|□}}通勤準急(平日朝上りのみ運転)
:::[[経堂駅]] (OH 11) - '''成城学園前駅 (OH 14)''' - [[登戸駅]] (OH 18)
::{{color|#00ab76|■}}準急
:::[[祖師ヶ谷大蔵駅]] (OH 13) - '''成城学園前駅 (OH 14)''' - [[狛江駅]] (OH 16)
::{{color|#18469d|■}}各駅停車
:::祖師ヶ谷大蔵駅 (OH 13) - '''成城学園前駅 (OH 14)''' - [[喜多見駅]] (OH 15)
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
===出典===
{{Reflist|2}}
;小田急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="小田急"|3}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Seijōgakuen-Mae Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[高級住宅街]]
== 外部リンク ==
* [https://www.odakyu.jp/station/seijyogakuen_mae/ 小田急電鉄 成城学園前駅]
{{小田急小田原線}}
{{DEFAULTSORT:せいしようかくえんまええき}}
[[Category:世田谷区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 せ|いしようかくえんまえ]]
[[Category:小田急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1927年開業の鉄道駅]]
[[Category:成城大学]]
|
2003-07-11T20:11:02Z
|
2023-12-09T03:18:51Z
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[
"Template:出典の明記",
"Template:Reflist",
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"Template:小田急小田原線",
"Template:脚注ヘルプ",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%9F%8E%E5%AD%A6%E5%9C%92%E5%89%8D%E9%A7%85
|
11,249 |
シュトラウス
|
シュトラウス、ストラウス(ドイツ語: Strauss, Strauß, Straus, ハンガリー語: Strausz, スロバキア語: Štraus, チェコ語: Štraus、イディッシュ語: שטרויס、ヘブライ語: שטראוס)は、ドイツ語圏の姓。「花束」という意味もあるが、姓の場合は「ダチョウ」の場合が多い(屋号や紋章からも由来)。また、ハンガリーのアシュケナジムユダヤ人の姓としても知られる。
オーストリアの作曲家一家シュトラウス家の人物。いずれもウィンナ・ワルツに深く携わった。姓の綴りは「Strauß」よりも「Strauss」が多く用いられた。
以下の2人はワルツ王一家と血縁関係はない。
ワルツ王一家、リヒャルト・シュトラウス一家と血縁関係はない。
以下の人物は上記のどの人物とも血縁などの関係はない。
|
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"text": "シュトラウス、ストラウス(ドイツ語: Strauss, Strauß, Straus, ハンガリー語: Strausz, スロバキア語: Štraus, チェコ語: Štraus、イディッシュ語: שטרויס、ヘブライ語: שטראוס)は、ドイツ語圏の姓。「花束」という意味もあるが、姓の場合は「ダチョウ」の場合が多い(屋号や紋章からも由来)。また、ハンガリーのアシュケナジムユダヤ人の姓としても知られる。",
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"text": "オーストリアの作曲家一家シュトラウス家の人物。いずれもウィンナ・ワルツに深く携わった。姓の綴りは「Strauß」よりも「Strauss」が多く用いられた。",
"title": "ワルツ王ヨハン・シュトラウスの一家"
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"text": "以下の2人はワルツ王一家と血縁関係はない。",
"title": "作曲家・指揮者リヒャルト・シュトラウスの一家"
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"text": "ワルツ王一家、リヒャルト・シュトラウス一家と血縁関係はない。",
"title": "その他のシュトラウス姓の作曲家"
},
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"text": "以下の人物は上記のどの人物とも血縁などの関係はない。",
"title": "その他の人物"
}
] |
シュトラウス、ストラウスは、ドイツ語圏の姓。「花束」という意味もあるが、姓の場合は「ダチョウ」の場合が多い(屋号や紋章からも由来)。また、ハンガリーのアシュケナジムユダヤ人の姓としても知られる。
|
{{toc right}}
'''シュトラウス'''、'''ストラウス'''({{lang-de|Strauss, Strauß, Straus}}, {{lang-hu|Strausz}}, {{lang-sk|Štraus}}, {{lang-cs|Štraus}}、<span lang=he-n>{{lang-yi|שטרויס‎}}、{{lang-he|שטראוס‎}}</span>)は、[[ドイツ語圏]]の[[姓]]。「花束」という意味もあるが、姓の場合は「[[ダチョウ]]」の場合が多い([[屋号]]や[[紋章]]からも由来)。また、[[ハンガリー]]の[[アシュケナジム]][[ユダヤ人]]の姓としても知られる<ref>{{Cite book|和書|author=倉田稔|authorlink=倉田稔|date=2006年(平成18年)|title=ハプスブルク文化紀行|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=4-14-091058-5}}p.175</ref>。
== ワルツ王ヨハン・シュトラウスの一家 ==
[[オーストリア]]の作曲家一家[[シュトラウス家]]の人物。いずれも[[ウィンナ・ワルツ]]に深く携わった。姓の綴りは「Strauß」よりも「Strauss」が多く用いられた<ref>[http://www.johann-strauss.at/wissen/ss.shtml リンク先を参照。]</ref>。
* [[ヨハン・シュトラウス1世]] - 「ワルツの父」と呼ばれる。
* [[ヨハン・シュトラウス2世]] - ヨハン1世の長男。「ワルツ王」と呼ばれる。単に「ヨハン・シュトラウス」と呼ぶ場合、この2世を指すことが多い。
* [[ヨーゼフ・シュトラウス]] - ヨハン1世の次男で、作曲家・指揮者。
* [[エドゥアルト・シュトラウス1世]] - ヨハン1世の四男で、作曲家・指揮者。
*[[ヨハン・シュトラウス3世]] - エドゥアルト1世の長男で、作曲家・指揮者。
*[[エドゥアルト・シュトラウス2世]] - エドゥアルト1世の孫で、ヨハン3世の甥。指揮者。
*[[エドゥアルト・シュトラウス (1955-)]] - エドゥアルト2世の息子。音楽家ではないが、一族の音楽の研究や講演活動などに携わる。
== 作曲家・指揮者リヒャルト・シュトラウスの一家 ==
以下の2人はワルツ王一家と血縁関係はない。
* [[リヒャルト・シュトラウス]] - [[ロマン派音楽|後期ロマン派]]を代表するドイツの作曲家、指揮者。
* [[フランツ・シュトラウス]] - リヒャルト・シュトラウスの父でドイツの作曲家、ホルン奏者。一部の作品が金管楽器のレパートリーとして知られる。
== その他のシュトラウス姓の作曲家 ==
ワルツ王一家、リヒャルト・シュトラウス一家と血縁関係はない。
* [[オスカー・シュトラウス]](オスカルとも、Oscar Straus) - ユダヤ系のオーストリアの作曲家。綴りは'''Straus'''であり、Straussではない。
* [[イザーク・シュトラウス]](Isaac Strauss) - ユダヤ系のフランスの作曲家。フランス語の読みでは姓は「ストロース」。社会人類学者、民族学者[[クロード・レヴィ=ストロース]]の曽祖父。
* [[ヴォルフガング・シュトラウス]](Wolfgang Strauß) - ドイツの作曲家、指揮者。
== その他の人物 ==
以下の人物は上記のどの人物とも血縁などの関係はない。
* [[ダーフィト・シュトラウス]] - ドイツの哲学者・神学者。[[青年ヘーゲル派]]に属す。
* [[レオ・シュトラウス]] - ドイツ生まれで、アメリカで活躍したユダヤ系の[[政治学]]者。[[政治哲学]]者。
* [[オットー・シュトラウス]] - ドイツ生まれの哲学者。インド思想に造詣が深く、[[コルカタ大学|カルカッタ大学]]でも教鞭をとった。
* [[エーミール・シュトラウス]] - ドイツの作家。農業の傍ら、執筆活動をする。作品に「いのちの十字路」など。
* [[ボート・シュトラウス]] - 現代ドイツの作家。劇作、評論など多岐にわたり活躍した。
* [[フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス]] - 旧西ドイツの政治家。
* [[ヴィクトール・フリードリヒ・フォン・シュトラウス・ウント・トルナイ]] - ドイツの詩人。[[老子]]の道徳経の独訳など中国思想の移入に貢献した。
* [[ルールー・フォン・シュトラウス・ウント・トルナイ]] - ドイツの女性詩人・作家。ヴィクトール・フリードリヒの孫にあたる。
* [[リーバイ・ストラウス]] - ユダヤ系の[[ジーンズ]]開発者で[[リーバイス]]創設者。
* [[オスカー・ストラウス]] - ユダヤ系のアメリカ合衆国の政治家。
* [[ダニエル・ストラウス]] - アメリカの総合格闘家。
* [[アンセルム・ストラウス]] - アメリカの[[社会学者]]・[[社会心理学者]]。[[シンボリック相互作用論]]の担い手の1人。
* [[アドルフ・シュトラウス]] - ドイツの[[軍人]]。[[第一次世界大戦]]・[[第二次世界大戦]]に従軍。
== 人名以外 ==
* [[シュトラウス (競走馬)]] - 日本の競走馬。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* {{prefix}}
* {{intitle}}
* {{intitle|ストラウス}}
{{人名の曖昧さ回避}}
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[[Category:ドイツ語の姓]]
[[Category:イディッシュ語の姓]]
[[Category:動物名由来の姓]]
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無量寿経
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『無量寿経』(むりょうじゅきょう)は、大乗仏教の経典の一つ。 原題は『スカーヴァティー・ヴィユーハ』(梵: Sukhāvatī-vyūha)で、「極楽の荘厳」という意味である。サンスクリットでは同タイトルの『阿弥陀経』と区別して、『大スカーヴァティー・ヴィユーハ』とも呼ぶ。
サンスクリット写本、チベット語訳、漢訳が現存する。 日本では特記が無い限り『無量寿経』というと、漢訳『仏説無量寿経』の事を示し、浄土宗や浄土真宗では根本所依の経典とされる。
イェシェーデ(Ye shes sde)らによるチベット語訳は『アミターバ・ヴューハ』(Amitābhavyūha)すなわち「無量光仏の荘厳」というサンスクリットの題名を持つ。
『大スカーヴァティー・ヴィユーハ』の漢訳は、かつて古来中国に12訳が存したと日本では伝えられており、5つの訳本が現存し、7つの訳本は欠本とされる。このように五存七欠十二訳が言われるが、その史実性は疑われている。 諸漢訳はいずれも無量寿佛の立誓、浄土・極楽往生が説かれるが、内容は同一でなく差異がみえる。
序分に王舎城の耆闍崛山において、優れた比丘や菩薩たちに対して、釈尊が五徳の瑞相をあらわし説かれた。
正宗分には、ある国王が世自在王仏のもとで出家し法蔵菩薩と名乗り、偈文(「讃仏偈」)を作り師を讃嘆し、諸々の仏の国土の成り立ちを見せて欲しいと願いを述べ、その仏国土より優れた点を選び取り、発願(ほつがん)し、五劫の間思惟して行を選び取った。 願と行を選び取った法蔵菩薩は、師に向かい48の願(四十八願)を述べた。 続けてこの願の目的を述べ重ねて誓った(「四誓偈(重誓偈・三誓偈)」)。 そして兆戴永劫にわたり修行し、願が成就し、無量寿仏(阿弥陀仏)と成り、その仏国土の名が「極楽」であると説かれる。 願が成就してから十劫が経っていて、阿弥陀仏の徳とその国土である「極楽」の様子が説かれる。
極楽浄土に生まれたいと願う者は皆、仏になることが約束され、阿弥陀仏の名号を聞信し喜び、心から念ずれば往生が定まると説かれる。 その者たちは、上輩・中輩・下輩に分けられ、それぞれの往生の方法が説かれる。修行もやり遂げられない、善行も戎も守りきれない下輩の者は、たとえわずかな回数でも、一心に念ずれば往生がさだまると説かれる。 そして釈尊は、偈文(「東方偈〈往覲偈〉」)を読み、教えを聞き、阿弥陀仏を敬い、「極楽」への往生を勧める。 さらに浄土に往生した聖なる者たちの徳を説かれる。 次に釈尊は弥勒菩薩に対して、煩悩のある世界(穢土)に生きる衆生の苦しみの理由を、三毒・五悪によると示し、誡める。 続けて弥勒菩薩に、そのままではその苦しみから逃れられない事を説き、「極楽」に往生する事が苦しみから逃れる方法であると説かれる。 それは、ただ無量寿仏の名を聞いて、たった一度でも名を称えれば(念仏)すれば、功徳を身に供える事ができると説いた。この教えを聞いたものは、後戻りする事は無い(必ず往生できる)と説かれる。
流通分には、無上功徳の名号を受持せよとすすめ、時が流れ一切の法が滅しても、この経(『無量寿経』)だけは留めおいて人々を救いつづけると説かれる。
「仏説」とは、釈尊が自ら口で説いた教えのことである。しかし、釈尊の在世時から滅後100年頃までは口伝によって教えである「法」と規則である「律」が伝えられる。それら「法」と「律」は、「結集」によって認証確定されていく。そして滅後100年を過ぎた頃に、「法」を集めた「経蔵」と「律」を集めた「律蔵」が成立したものと考えられる。(詳細は、大乗非仏説を参照)。
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『無量寿経』(むりょうじゅきょう)は、大乗仏教の経典の一つ。
原題は『スカーヴァティー・ヴィユーハ』で、「極楽の荘厳」という意味である。サンスクリットでは同タイトルの『阿弥陀経』と区別して、『大スカーヴァティー・ヴィユーハ』とも呼ぶ。
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{{JIS2004}}
『'''無量寿経'''』(むりょうじゅきょう)は、[[大乗仏教]]の[[経典]]の一つ。
原題は『'''スカーヴァティー・ヴィユーハ'''』({{lang-sa-short|Sukhāvatī-vyūha}})で、「[[極楽]]の[[荘厳]]」という意味である。[[サンスクリット]]では同タイトルの『[[阿弥陀経]]』と区別して、『'''大スカーヴァティー・ヴィユーハ'''』とも呼ぶ。
== 概要 ==
サンスクリット写本、[[チベット語]]訳、[[#漢訳|漢訳]]が現存する。
日本では特記が無い限り『無量寿経』というと、漢訳『'''[[#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]'''』の事を示し、[[浄土宗]]や[[浄土真宗]]では根本所依の経典とされる。
[[イェシェーデ]]({{Unicode|Ye shes sde}})らによるチベット語訳は『'''アミターバ・ヴューハ'''』({{IAST|Amitābhavyūha}})すなわち「無量光仏の荘厳」というサンスクリットの題名を持つ<ref>[http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/tibet_detail.pl?lang=&id=0049 聖無量光莊嚴大乘經 - 漢籍全文.佛典經錄資料庫]</ref>。
== 漢訳 ==
<!-- セクション名「漢訳」は、ノートベージにおける議論に基づく名称です。改名をする場合はノートページで議論を行った下さい。 -->
『大スカーヴァティー・ヴィユーハ』の[[漢訳#仏典の漢訳|漢訳]]は、かつて古来中国に12訳が存したと日本では伝えられており、5つの訳本が現存し、7つの訳本は欠本とされる{{efn2|name="gozon1932"|大正15年([[1926年]])に日本で出版された[[河口慧海]]著の『在家仏教』の康僧鎧譯無量壽經の眞相(64頁)の記述などに「五存七欠」の表記がみえる}}。このように五存七欠十二訳が言われるが、その史実性は疑われている{{Sfn|教科書改訂検討委員会|2004|p=150}}。
諸漢訳はいずれも無量寿佛の立誓、浄土・極楽往生が説かれるが、内容は同一でなく差異がみえる。
=== 仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経 ===
{{wikisourcelang|zh|佛說阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經|『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經』}}
* 『仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』2巻 [[呉 (三国)|呉]]の[[支謙]]訳…「呉訳」
** 後漢の支婁迦讖訳とする説もあるが、支謙訳という説が一般的である<ref name="浄土宗_大阿弥陀経">石田一裕[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%B8%89%E8%80%B6%E4%B8%89%E4%BB%8F%E8%96%A9%E6%A5%BC%E4%BB%8F%E6%AA%80%E9%81%8E%E5%BA%A6%E4%BA%BA%E9%81%93%E7%B5%8C 「阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経」 - 新纂浄土宗大辞典]、浄土宗。</ref>。
** 別称には、『'''大阿弥陀経'''』がある<ref name="浄土宗_大阿弥陀経"/>。
** [[阿弥陀仏|阿弥陀如来]]の本願は、「四十八願」ではなく、「二十四願」である。
** 偈頌を持たず、散文のみで構成される<ref name="浄土宗_大阿弥陀経"/>。
** 『[[大正新脩大蔵経]]』(以下、『大正蔵』)第12巻 P300~P317
** 原文の経題の表記は、『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷上』、『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷下』 呉月支國居士支謙譯。
** 主な引用先…源信…『往生要集』、法然:『選択集』、親鸞:『教行信証』。
=== 仏説無量清浄平等覚経 ===
{{wikisourcelang|zh|佛說無量清淨平等覺經|『佛說無量清淨平等覺經』}}
* 『仏説無量清浄平等覚経』4巻 [[後漢]]の[[支婁迦讖]]訳…「漢訳{{efn2|name="kanyaku"|漢訳…ここでは『仏説無量清浄平等覚経』4巻のことを「'''漢訳'''」と略称する。後'''漢'''の時代の'''訳'''の意。}}」
** 支婁迦讖訳という説は仏教学では受け入れられていない<ref name="浄土宗_平等覚経">齊藤舜健[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E9%87%8F%E6%B8%85%E6%B5%84%E5%B9%B3%E7%AD%89%E8%A6%9A%E7%B5%8C 「無量清浄平等覚経」 - 新纂浄土宗大辞典]、浄土宗。</ref>。
** [[西晋]]の[[竺法護]]訳、曹魏の白延(はくえん〈帛延とも〉)訳との説もある<ref name="浄土宗_平等覚経"/>。
** 『[[#仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経|大阿弥陀経]]』と『仏説無量寿経』の中間期に成立したとされている<ref name="浄土宗_平等覚経"/>。
** 略称は、『'''清浄平等覚経'''』、『'''平等覚経'''』が用いられる。
** 阿弥陀仏の本願は、「[[四十八願]]」ではなく、「二十四願」である。
** 『大正蔵』 第12巻 P279~P299。
** 原文の経題の表記は、『佛説無量清淨平等覺經卷第一』、『佛説無量清淨平等覺經卷第二』、『佛説無量清淨平等覺經卷第三』、『佛説無量清淨平等覺經卷第四』 後漢月支國三藏支婁迦讖譯。
** 主な引用先…[[善導]]:『[[観無量寿経疏|観経疏]]』、[[源信 (僧侶)|源信]]…『[[往生要集]]』、[[法然]]:『[[選択本願念仏集|選択集]]』、[[親鸞]]:『[[顕浄土真実教行証文類|教行信証]]』、『[[愚禿鈔]]』、作者不詳:『安心決定鈔』。
=== 仏説無量寿経 ===
{{Wikisource|仏説無量寿経|『仏説無量寿経』}}
{{Wikiquote|仏説無量寿経|『仏説無量寿経』}}
* 『'''仏説無量寿経'''』'''2巻''' [[魏 (三国)|曹魏]]の[[康僧鎧]]訳…「魏訳」
** 漢訳のうち日本の浄土教諸宗において主に用いられるのは、この二巻本『'''仏説無量寿経'''』である。
** 『[[歴代三宝紀]]』に現れる、康僧鎧が漢訳したという説は、多くの点から支持し難く<ref name="浄土宗_無量寿経">齊藤舜健[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C 「無量寿経」 - 新纂浄土宗大辞典]、浄土宗。</ref>{{Sfn|香川|1984|pp=20-22}}、東晋の'''[[仏陀跋陀羅]]'''・'''[[宝雲]]'''の両者によって[[421年]]に共訳されたとする説が有力である<ref name="浄土宗_無量寿経"/>{{Sfn|香川|1984|p=41-42}}{{Sfn|藤田|2004|p=100}} 。
**上下巻の2巻からなるため『双巻無量寿経』(『雙巻無量壽經』)、『双巻経』(『雙巻經』)とも呼ばれる。また、経名に「大」の字を冠して『'''大無量寿経'''』と称し、略して『大経』とも称する。{{efn2|『大無量寿経』…法然『選択本願念仏集』、親鸞『顕浄土真実教行証文類』などで『大無量寿経』の語を用いている。(『選択本願念仏集』岩波文庫、P.168、『教行信証』岩波文庫、P.29を参照。)}}。
** [[浄土教#日本|日本の浄土教]]の根本聖典の一つで、『'''[[観無量寿経|仏説観無量寿経]]'''』([[畺良耶舎]]訳)、『'''[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]'''』([[鳩摩羅什]]訳)とともに「'''[[浄土三部経]]'''」と総称される。
** 浄土教諸宗の信者が[[勤行]]で読誦する「[[四誓偈]]」(三誓偈、重誓偈)は『仏説無量寿経』の一部分である。
** 『大正蔵』第12巻 P265~279。
** 原文の経題の表記は、『佛説無量壽經卷上』・『佛説無量壽經卷下』 曹魏天竺三藏康僧鎧譯。
==== 内容 ====
;上巻
序分に[[王舎城]]の[[耆闍崛山]]において、優れた比丘や[[菩薩]]たちに対して、[[釈迦|釈尊]]が五徳の瑞相をあらわし説かれた。
正宗分には、ある国王が世自在王仏のもとで出家し法蔵菩薩と名乗り、偈文(「讃仏偈」)を作り師を讃嘆し、諸々の仏の国土の成り立ちを見せて欲しいと願いを述べ、その仏国土より優れた点を選び取り、発願(ほつがん)し、五劫の間思惟して行を選び取った。
願と行を選び取った法蔵菩薩は、師に向かい48の願([[四十八願]])を述べた。
続けてこの願の目的を述べ重ねて誓った(「[[四誓偈]](重誓偈・三誓偈)」)。
そして兆戴永劫にわたり修行し、願が成就し、'''[[阿弥陀如来|無量寿仏]]'''('''阿弥陀仏''')と成り、その仏国土の名が「極楽」であると説かれる。
願が成就してから十劫が経っていて、阿弥陀仏の徳とその国土である「極楽」の様子が説かれる。
;下巻
極楽浄土に生まれたいと願う者は皆、仏になることが約束され、阿弥陀仏の[[名号]]を聞信し喜び、心から念ずれば[[往生]]が定まると説かれる。
その者たちは、上輩・中輩・下輩に分けられ、それぞれの往生の方法が説かれる。修行もやり遂げられない、善行も戎も守りきれない下輩の者は、たとえわずかな回数でも、一心に念ずれば往生がさだまると説かれる。
そして釈尊は、偈文(「東方偈〈往覲偈〉」)を読み、教えを聞き、阿弥陀仏を敬い、「極楽」への往生を勧める。
さらに浄土に往生した聖なる者たちの徳を説かれる。
次に釈尊は[[弥勒菩薩]]に対して、煩悩のある世界([[穢土]])に生きる衆生の苦しみの理由を、[[三毒]]{{efn2|貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)。}}・[[五戒|五悪]]{{efn2|殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)、飲酒(おんじゅ)。}}によると示し、誡める。
続けて弥勒菩薩に、そのままではその苦しみから逃れられない事を説き、「極楽」に往生する事が苦しみから逃れる方法であると説かれる。
それは、ただ無量寿仏の名を聞いて、たった一度でも名を称えれば(念仏)すれば、功徳を身に供える事ができると説いた。この教えを聞いたものは、後戻りする事は無い(必ず往生できる)と説かれる。
流通分には、無上功徳の名号を受持せよとすすめ、時が流れ一切の法が滅しても、この経(『無量寿経』)だけは留めおいて人々を救いつづけると説かれる。
=== 無量寿如来会 ===
* 『無量寿如来会』2巻 [[唐]]の[[菩提流志]]{{efn2|唐の菩提流志(ぼだいるし)…北魏の菩提流支とは別人}}訳…「唐訳」
** 『大正蔵』第11巻 P91~P101。
** 原文の経題の表記は、『大寶積經卷第十七』「無量壽如來會第五之一」、『大寶積經卷第十八』「無量壽如來會第五之二」 大唐三藏菩提流志詔譯。
** 略称は、『'''如来会'''』が用いられる。
** 阿弥陀仏の本願は、「魏訳」と同じ「四十八願」である。
** 主な引用先…親鸞:『教行信証』、『[[浄土文類聚鈔]]』、『愚禿鈔』、『[[浄土三経往生文類]]』、『[[一念多念文意]]』、『[[如来二種回向文]]』、『親鸞聖人御消息(善性本)』、[[蓮如]]:『正信偈大意』。
=== 仏説大乗無量寿荘厳経 ===
{{wikisourcelang|zh|佛說大乘無量壽莊嚴經|『佛說大乘無量壽莊嚴經』}}
* 『仏説大乗無量寿荘厳経』3巻 [[宋 (王朝)|宋]]の法賢(ほっけん)訳…「宋訳」
** 『大正蔵』第12巻 P318~P326。
** 原文の経題の表記は、『佛説大乘無量壽莊嚴經卷上』、『佛説大乘無量壽莊嚴經卷中』、『佛説大乘無量壽莊嚴經卷下』 西天譯經三藏朝散大夫試光禄卿 明教大師臣法賢奉詔譯。
** 略称は、『'''荘厳経'''』が用いられる。
** 阿弥陀仏の本願は、「四十八願」ではなく、「三十六願」である。
=== 欠本とされている7つの異訳本 ===
* 『無量寿経』2巻 後漢の[[安世高]]訳とされる。
* 『仏説無量清浄平等覚経』2巻 曹魏の白延訳とされる。
* 『仏説無量寿経』2巻 西晋の竺法護訳とされる。
* 『仏説無量寿至真等正覚経』1巻 [[東晋]]の竺法力(じくほうりき)訳とされる。
* 『新無量寿経』2巻 東晋の仏陀跋陀羅訳とされる。{{efn2|康僧鎧訳とされる魏訳『仏説無量寿経』がこれに当たるとされる<ref name="浄土宗_無量寿経"/>。}}
* 『新無量寿経』2巻 東晋の宝雲(ほううん)訳とされる。{{efn2|康僧鎧訳とされる魏訳『仏説無量寿経』がこれに当たるとされる<ref name="浄土宗_無量寿経"/>。}}
* 『新無量寿経』2巻 [[宋 (南朝)|劉宋]]の曇摩蜜多(どんまみった)訳とされる。
== チベット語訳 ==
* 経題は『{{Unicode|'phags pa 'od dpag med kyi bkod pa zhes bya ba theg pa chen po'i mdo}}』<ref name="浄土宗_無量寿経"/>(聖なる“無量光仏の荘厳”という名の大乗経)。
* 阿弥陀仏の本願は、「四十八願」より一つ多い「'''四十九願'''」である<ref name="浄土宗_無量寿経"/>。
* 訳者はデルゲ版、ラサ版、トクパレス写本に至るまで、イェシェーデ、ジナミトラ、ダーナシーラと記されているが、北京版だけがルイギェンツェン({{Unicode|Klu'i rgyal mtshan}})とする<ref name="浄土宗_無量寿経"/>。
* 三毒段、五悪段がなく、サンスクリット本と同じ形態である<ref name="浄土宗_無量寿経"/>。
== 注釈書 ==
* [[世親|ヴァスバンドゥ(世親・天親)]]造・菩提留支訳 [[無量寿経優婆提舎願生偈|『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』)]] - 菩提留支による漢訳が現存するのみで、サンスクリット語の原典は発見されていない{{refnest|name="浄土論_世界大百科2nd"|[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E8%AB%96-1175028 「浄土論」 - 世界大百科事典 第2版]、平凡社。}}。
** [[曇鸞]]註解 [[無量寿経優婆提舎願生偈註|『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』)]] - 『浄土論』の注釈書であり、『無量寿経』に対する複注釈書{{refnest|name="礪波護_浄土論註"|[[礪波護]]、[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E8%AB%96%E8%A8%BB-1175029 「浄土論註」 - 世界大百科事典 第2版]、平凡社。}}。
* [[憬興|憬興(璟興)]]撰『無量寿経連義述文賛』- [[親鸞]]撰 [[顕浄土真実教行証文類|『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)]]において多く引用される。
== 経典成立時期と編纂者 ==
<!--この節にはノートで重要な議論がされた事項が含まれています。編集合戦を防ぐため、編集する前にこの記事のノートをご確認ください。-->
「仏説{{efn2|仏説…仏教の教義。また特に、釈迦が自らの口から直接説いた教え。(『[[大辞林]]』第二版より)}}」とは、釈尊が自ら口で説いた教えのことである。しかし、釈尊の在世時から滅後100年頃までは口伝によって教えである「法」と規則である「[[律 (仏教)|律]]」が伝えられる。それら「法」と「律」は、「[[結集]]」によって認証確定されていく。そして滅後100年を過ぎた頃に、「法」を集めた「経蔵」と「律」を集めた「律蔵」が成立したものと考えられる<ref> 『仏教学辞典』 法藏館、1995年、新版、P.317「大蔵経」を参照。</ref>。(詳細は、[[大乗非仏説]]を参照)。
;成立時期などに関する諸説
:仏典研究上では、[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]に対する信仰は、客観的な資料がとぼしく諸説<ref>信楽峻麿「阿弥陀仏論」</ref>存在するが、インドおよび近隣諸国の思想の影響下、「釈尊観の展開によるとする説」が有力である。[[原始仏教]]以来の釈尊観の発展、および『無量寿経』の法蔵菩薩説話における仏伝の投影から、浄土教は大乗仏教が伝播するに伴う菩薩思想の深化の中で、釈尊観の展開としたものと考えられる。
:*仏教学者の[[中村元 (哲学者)|中村元]]は、[[浄土教]]・浄土経典は[[部派仏教]]がいちおう確立したのちに出現したものとする{{Sfn|中村・早島・紀野|1990b|p=249}}。140年頃かそれ以前には、『無量寿経』・『阿弥陀経』が漢訳されたとする。([[#参考文献|『浄土三部経』下]]を参照。)
:*[[信楽峻麿]]は、釈尊入滅から500年前後には大乗仏教が成立したものと考え、『無量寿経』の成立時期について、釈尊入滅後約500年とし、編纂者は不明とする([[#参考文献|信楽峻麿「阿弥陀仏論」]]P.251を参照)。
:*[[藤田宏達]]は、原始仏教において、阿弥陀仏、極楽浄土の観念、浄土思想が存在しなかったとする。([[#参考文献|教学本部編『伝道』]]29号、80P.を参照)
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
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== 参考文献 ==
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
*{{Cite book|和書
|author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂
|date=初版1996年
|title=<浄土真宗聖典>浄土三部経 -現代語版-
|publisher=本願寺出版社
|id=ISBN 978-4-89416-601-1
}}
*{{Cite book|和書
|author=中村 元|authorlink=中村元 (哲学者)
|coauthors=[[早島鏡正]]・[[紀野一義]] 訳注
|year=1990
|title=浄土三部経 上
|publisher=[[岩波書店]]
|series=[[岩波文庫]] 青306-1
|isbn=4-00-333061-7
|ref= {{SfnRef|中村・早島・紀野|1990a}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=中村 元
|coauthors=早島鏡正・紀野一義 訳注
|year=1990
|title=浄土三部経 下
|publisher=岩波書店
|series=岩波文庫 青306-2
|isbn=4-00-333062-5
|ref= {{SfnRef|中村・早島・紀野|1990b}}
}}
*[https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572360032600064 信楽峻麿「阿弥陀仏論」(龍谷大学仏教文化研究所 編『仏教文化研究所紀要』第20集、1982年3月]
*信楽峻麿「[http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%94%EF%BC%96%E5%8F%B7/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%94%EF%BC%96%E5%8F%B7%20014%E4%BF%A1%E6%A8%82%E5%B3%BB%E9%BA%BF%E3%80%8C%E3%80%88%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%AC%9B%E6%BC%94%E3%80%89%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%9C%9F%E5%81%BD%E8%AB%96%E2%80%95%E2%80%95%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%97%E2%80%95%E2%80%95%E3%80%8D.pdf 現代真宗真偽論]」(真宗連合学会 編『真宗研究』2002年1月)
*{{Cite book|和書
|author=多屋頼俊
|coauthors=横超慧日・舟橋一哉 編
|year=1995
|title=仏教学辞典
|edition=新版
|publisher=法藏館
|isbn=4-8318-7009-9
}}
*{{Cite book|和書
|author=大橋俊雄 校注|authorlink=大橋俊雄
|year=1997
|title=法然 [[選択本願念仏集]]
|publisher=岩波書店
|series=岩波文庫 青340-1
|isbn=4-00-333401-9
}}
*{{Cite book|和書
|author=金子大栄 校訂|authorlink=金子大栄
|year=1957
|title=親鸞 教行信証
|publisher=岩波書店
|series=岩波文庫 青318-1
|isbn=4-00-333181-8
}}
*{{Cite book|和書
|author=教科書改訂検討委員会 編|authorlink=
|year=2004
|title=新訂 仏教学概論
|publisher=浄土宗出版
|series=
|isbn=
|url=https://press.jodo.or.jp/products/detail.php?product_id=322
|ref={{SfnRef|教科書改訂検討委員会|2004}}
}}
*{{Cite journal|和書|last=香川 |first=孝雄 |title= 『無量寿経』の漢訳者について |url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_BB000200003131 |journal=佛教大学佛教文化研究所年報 |volume= |issue=2 |date=1984 |publisher=佛教大学仏教文化研究所 |pages=18-49 |ref={{SfnRef|香川|1984}} }}
*{{Cite journal|和書|last=藤田 |first=宏達 |title= 浄土経典研究の現状と課題 |url=https://mylibrary.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/TD00346021 |journal=佛教文化研究所紀要 |volume= |issue=43 |date=2004 |publisher=龍谷大学佛教文化研究所 |pages=97-112 |ref={{SfnRef|藤田|2004}} }}
== 関連項目 ==
*[[七宝]]
*落語『[[寿限無]]』…無量寿経に出てくるありがたい言葉を全部並べた結果とんでもない事に
== 外部リンク ==
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ 大正新脩大藏經]…『大正新脩大藏經』のオンライン検索(テキストデータによる閲覧)
* [http://kindai.ndl.go.jp/index.html 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー]…『大正新脩大藏經』と入力検索すると、同書が写真により閲覧ができる。
* [http://www.terakoya.com/seiten/genten.html 本願寺派聖典]
* 聖教電子化研究会 [http://www.icho.gr.jp/seiten/html/001.html (冒頭~)] ・[http://www.icho.gr.jp/seiten/html/018.html (第十八願の部分)]
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[[Category:浄土三部経]]
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11,251 |
木造
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木造
青森県の地名。旧西津軽郡木造町。つがる市木造および木造町を参照
三重県の地名。津市木造町。
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木造 建築の構造のひとつ。木構造 (建築)を参照
木製を表す表現で、橋、船や電車などの輸送機関、仏像などにも使われる 青森県の地名。旧西津軽郡木造町。つがる市木造および木造町を参照 木造駅 - 青森県つがる市にある東日本旅客鉄道(JR東日本)五能線の駅
青森県立木造高等学校 - 青森県つがる市にある高等学校 三重県の地名。津市木造町。 木造氏 - 上記を本貫とする、北畠家の傍流氏族
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'''木造'''
; もくぞう
* [[建築]]の構造のひとつ。[[木構造 (建築)]]を参照
* 木製を表す表現で、橋、船や電車などの輸送機関、仏像などにも使われる
; きづくり
[[青森県]]の地名。旧[[西津軽郡]][[木造町]]。[[つがる市]][[木造 (つがる市)|木造]]および[[木造町]]を参照
* [[木造駅]] - 青森県つがる市にある[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[五能線]]の[[鉄道駅|駅]]
* [[青森県立木造高等学校]] - 青森県つがる市にある[[高等学校]]
; こづくり
[[三重県]]の地名。[[津市]]木造町。
* [[木造氏]] - 上記を[[本貫]]とする、[[北畠家]]の傍流氏族
== 関連項目 ==
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エラリー・クイーン
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エラリー・クイーン (Ellery Queen) は、アメリカの推理作家、編集者である。早川書房では「エラリイ・クイーン」と表記する。
フレデリック・ダネイ(Frederic Dannay、1905年10月20日 - 1982年9月3日)とマンフレッド・ベニントン・リー(Manfred Bennington Lee、1905年1月11日 - 1971年4月3日)が探偵小説を書くために用いた筆名の一つ。ダネイとリーは従兄弟同士であり、ユダヤ系移民の子である。上記の彼らの個人名もそれぞれペンネームであり、ダネイの本名はダニエル・ネイサン (Daniel Nathan)、リーの本名はマンフォード・エマニュエル・レポフスキー (Manford Emanuel Lepofsky)。
小説シリーズでは、エラリー・クイーンは著者の名前だけでなく物語の名探偵の名前でもある。なお共作の手法は、まずプロットとトリックをダネイが考案し、それをリーに梗概などの形で伝え、2人で議論を重ねたあとリーが執筆した。2人がこの創作方法をとるようになったのは、プロットを思いつく能力は天才的ながら文章を書くのが苦手なダネイと、文章は上手いがプロットが作れないリーの2人の弱点を補完するためであった。
現在はアガサ・クリスティほど広範な人気は持たないものの、日本では第二次世界大戦前から一般読者からマニアまで広く支持を集め、特に20世紀末以降の新本格派と呼ばれる作家群にはこの名を第一に挙げたり、影響を公言したりする作家が数名存在する。
『ローマ帽子の謎』から『スペイン岬の謎』までのいわゆる国名シリーズは、S・S・ヴァン・ダインの影響が見られるものの、読者への挑戦状など独自の工夫もあり、手掛りの解釈に緻密さと大胆さを両立させ得た作風は、本格探偵小説として評価が高い。
同時にバーナビー・ロス名義で、聾者の探偵ドルリー・レーンが活躍する4部作も発表している。第2作『Yの悲劇』は、とりわけ日本で評価が高く、ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』の影響を受けつつも、さらに意外な犯人で、推理小説の歴史に残る傑作とされる(第1期)。
『中途の家』から『ドラゴンの歯』までの5作品は、クイーンがハリウッドで脚本の仕事を始めたり、女性誌に作品を発表したりしたことから、恋愛小説的要素が増えた(第2期)。
ライツヴィルという架空の地方都市を舞台にした『災厄の町』から、人間の心理面に重きが置かれるようになり、『九尾の猫』では悲劇的な真相に気づいて涙を見せるなど、超人的な名探偵であったエラリーが、間違いを犯し苦悩することもある人間として描かれる。そして、中年となったエラリーが30年前(『ローマ帽子の謎』直後)に扱った事件の真相に気づく、集大成的な作品『最後の一撃』でこの時期は終わる(第3期)。この「間違いを犯し苦悩することもある人間」としての探偵については、後期クイーン的問題としてしばしば議論の対象となる。
1960年代以降の作品のいくつかは、監修は行っていたと考えられるものの、執筆は他の作家によることが知られている。代表的なものには、シオドア・スタージョンによる『盤面の敵』、アヴラム・デイヴィッドスンの手になる『第八の日』『三角形の第四辺』などがある(第4期)。これらはクイーンの本来の共作スタイルとして、「ダネイがプロット担当、リーが執筆担当」だったものが、リーの衰えにより、ダネイのプロットの作品化を他作家に委ねたものである。
同時期にペーパーバック・オリジナルで刊行されたクイーン名義のミステリとロス名義の歴史小説は、他の作家の作品にリーが手を入れたものである。『二百万ドルの死者』が早川書房から、『青の殺人』など数作が、原書房から翻訳され出版されている。遡って1940年代にも他者の手になるノベライゼーション『エラリー・クイーンの事件簿』(「大富豪殺人事件」ほか数点をまとめた中編集)やエラリー・クイーン・ジュニア名義の児童ものがある。
初期から晩年までダイイング・メッセージに固執し続けたが、この点については都筑道夫他評価しない論者もいる。
実作以外には、1933年に創刊された雑誌『ミステリー・リーグ』の編集に参加(2人で参加)。ただし雑誌は4号で廃刊となった。その後1941年に推理小説専門誌 『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』(Ellery Queen's Mystery Magazine、EQMM) を創刊(ダネイ単独)して新人作家の育成を行った。また、アンソロジーの編纂により過去の作家の佳作を発掘したりするなどの活動(ダネイ単独)も広く行った。アントニー・バウチャーは1951年に「エラリー・クイーンはアメリカの探偵小説である」と評している。
1961年にMWA賞巨匠賞を受賞している。さらに、1950年にEQMMにもMWA賞特別賞が贈られている。
日本では、『Yの悲劇』が1978年に清水邦夫脚本、石坂浩二主演で連続TVドラマ化されている。『災厄の町』も『配達されない三通の手紙』として、野村芳太郎監督により1979年に映画化された。
エラリー・クイーンが『レーン最後の事件』で表明しているところでは、最後に意外な犯人の新しいパターンを成立させるために、新しいペンネームと新しい探偵を創造した(先行する3作が4作目のトリックを際立たせる仕組み)ということになる。トリック用ペンネームとでもいうべきクイーンの覇気満々の時代の念の入った仕事である。
なお、クイーン名義の『ローマ帽子の謎』中に「バーナビー・ロス殺人事件」なる語句を挿入し、読者にヒントを与えていたのだと主張している。
かつて「クイーン」と「ロス」の2人がそれぞれ覆面をかぶって公開討論したことがある。2人合同でペンネームを二つ持つという事実が秘密だったから可能になった「二人二役」である。
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エラリー・クイーン は、アメリカの推理作家、編集者である。早川書房では「エラリイ・クイーン」と表記する。 フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーが探偵小説を書くために用いた筆名の一つ。ダネイとリーは従兄弟同士であり、ユダヤ系移民の子である。上記の彼らの個人名もそれぞれペンネームであり、ダネイの本名はダニエル・ネイサン、リーの本名はマンフォード・エマニュエル・レポフスキー。 小説シリーズでは、エラリー・クイーンは著者の名前だけでなく物語の名探偵の名前でもある。なお共作の手法は、まずプロットとトリックをダネイが考案し、それをリーに梗概などの形で伝え、2人で議論を重ねたあとリーが執筆した。2人がこの創作方法をとるようになったのは、プロットを思いつく能力は天才的ながら文章を書くのが苦手なダネイと、文章は上手いがプロットが作れないリーの2人の弱点を補完するためであった。 現在はアガサ・クリスティほど広範な人気は持たないものの、日本では第二次世界大戦前から一般読者からマニアまで広く支持を集め、特に20世紀末以降の新本格派と呼ばれる作家群にはこの名を第一に挙げたり、影響を公言したりする作家が数名存在する。
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{{Otheruses|推理作家|この作家の推理小説に登場する同名の名探偵|エラリー・クイーン (架空の探偵)}}
{{Infobox 作家
| name = エラリー・クイーン<br />Ellery Queen
| image = Ellery Queen NYWTS.jpg
| caption = フレデリック・ダネイ(左)とミステリー作家[[ジェイムズ・ヤッフェ]](1943年)
| pseudonym = エラリー・クイーン (Ellery Queen)<br />バーナビー・ロス (Barnaby Ross)
| birth_name = フレデリック・ダネイ、マンフレッド・ベニントン・リー
| birth_date =
| birth_place =
| death_date =
| death_place =
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| nationality = {{USA}}
| period =
| genre = [[推理小説]]
| notable_works = 『[[Yの悲劇]]』(1932年)
| debut_works = 『[[ローマ帽子の謎]]』(1929年)
}}
'''エラリー・クイーン''' (Ellery Queen) は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[推理作家]]、[[編集者]]である。早川書房では「エラリイ・クイーン」と表記する。
'''フレデリック・ダネイ'''(Frederic Dannay、[[1905年]][[10月20日]] - [[1982年]][[9月3日]]<ref>[https://www.imdb.com/name/nm0200366/bio Frederic Dannay] IMDb</ref>)と'''マンフレッド・ベニントン・リー'''(Manfred Bennington Lee、[[1905年]][[1月11日]] - [[1971年]][[4月3日]]<ref>[https://www.imdb.com/name/nm0497804/ Manfred Lee] IMDb</ref>)が[[推理小説|探偵小説]]を書くために用いた[[ペンネーム|筆名]]の一つ。ダネイとリーは[[いとこ|従兄弟]]同士であり、[[ユダヤ人|ユダヤ系]]移民の子である。上記の彼らの個人名もそれぞれペンネームであり、ダネイの本名はダニエル・ネイサン (Daniel Nathan)、リーの本名はマンフォード・エマニュエル・レポフスキー (Manford Emanuel Lepofsky)。
小説シリーズでは、エラリー・クイーンは著者の名前だけでなく物語の[[名探偵]]の名前でもある。なお共作の手法は、まず[[プロット]]と[[トリック (推理小説)|トリック]]をダネイが考案し、それをリーに梗概などの形で伝え、2人で議論を重ねたあとリーが執筆した<ref>『エラリー・クイーン 推理の芸術』第7章</ref>。2人がこの創作方法をとるようになったのは、プロットを思いつく能力は天才的ながら文章を書くのが苦手なダネイと、文章は上手いがプロットが作れないリーの2人の弱点を補完するためであった。
現在は[[アガサ・クリスティ]]ほど広範な人気は持たないものの、日本では第二次世界大戦前から一般読者からマニアまで広く支持を集め、特に20世紀末以降の新本格派と呼ばれる作家群にはこの名を第一に挙げたり、影響を公言したりする作家が数名存在する<ref> 誰にでもわかるような形でペンネームに名前を取り入れた[[依井貴裕]]、警視の父親を持つ作者と同名の作家兼探偵という主人公をそのまま踏襲して作品を発表し続けている[[法月綸太郎]]のほか、『ニューウェーブ・ミステリ読本』(1997年原書房)のインタビューでは[[綾辻行人]]が好きな作家として「海外では断然クイーン」と語っている。また、[[有栖川有栖]]は「[[作家アリスシリーズ]]」で自らの国名シリーズを執筆したり、「[[学生アリスシリーズ]]」で[[読者への挑戦|読者への挑戦状]]を挿入したりしている。</ref>。
== 経歴 ==
『[[ローマ帽子の謎]]』から『[[スペイン岬の謎]]』までのいわゆる国名シリーズは、[[S・S・ヴァン・ダイン]]の影響が見られるものの、読者への挑戦状など独自の工夫もあり、手掛りの解釈に緻密さと大胆さを両立させ得た作風は、本格探偵小説として評価が高い。
同時に'''バーナビー・ロス'''名義で、[[ろう者|聾者]]の探偵[[ドルリー・レーン]]が活躍する4部作も発表している。第2作『[[Yの悲劇]]』は、とりわけ日本で評価が高く、ヴァン・ダインの『[[グリーン家殺人事件]]』の影響を受けつつも、さらに意外な犯人で、[[推理小説]]の歴史に残る傑作とされる(第1期)。
『[[中途の家]]』から『ドラゴンの歯』までの5作品は、クイーンが[[ハリウッド]]で脚本の仕事を始めたり、女性誌に作品を発表したりしたことから、[[恋愛小説]]的要素が増えた(第2期)。
[[ライツヴィル]]という架空の地方都市を舞台にした『[[災厄の町]]』から、人間の心理面に重きが置かれるようになり、『[[九尾の猫]]』では悲劇的な真相に気づいて涙を見せるなど、[[エラリー・クイーン (架空の探偵)|超人的な名探偵であったエラリー]]が、間違いを犯し苦悩することもある人間として描かれる。そして、中年となったエラリーが30年前(『ローマ帽子の謎』直後)に扱った事件の真相に気づく、集大成的な作品『最後の一撃』でこの時期は終わる(第3期)。この「間違いを犯し苦悩することもある人間」としての探偵については、[[後期クイーン的問題]]としてしばしば議論の対象となる。
[[1960年]]代以降の作品のいくつかは、監修は行っていたと考えられるものの、執筆は他の作家によることが知られている。代表的なものには、[[シオドア・スタージョン]]による『盤面の敵』、[[アヴラム・デイヴィッドスン]]の手になる『第八の日』『三角形の第四辺』などがある(第4期)。これらはクイーンの本来の共作スタイルとして、「ダネイがプロット担当、リーが執筆担当」だったものが、リーの衰えにより、ダネイのプロットの作品化を他作家に委ねたものである<ref>飯城 勇三『エラリー・クイーンの騎士たち―横溝正史から新本格作家まで』(論創社)</ref>。
同時期にペーパーバック・オリジナルで刊行されたクイーン名義のミステリとロス名義の歴史小説は、他の作家の作品にリーが手を入れたものである。『[[二百万ドルの死者]]』が早川書房から、『[[青の殺人]]』など数作が、原書房から翻訳され出版されている。遡って1940年代にも他者の手になるノベライゼーション『エラリー・クイーンの事件簿』(「大富豪殺人事件」ほか数点をまとめた中編集)やエラリー・クイーン・ジュニア名義の児童ものがある。
初期から晩年まで[[ダイイング・メッセージ]]に固執し続けたが、この点については[[都筑道夫]]他評価しない論者もいる。
実作以外には、[[1933年]]に創刊された雑誌『ミステリー・リーグ』の編集に参加(2人で参加)。ただし雑誌は4号で廃刊となった。その後[[1941年]]に推理小説専門誌 ''『[[エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン]]』(Ellery Queen's Mystery Magazine、EQMM)'' を創刊(ダネイ単独<ref name="エラリイ・クイーンの世界 P.41">フランシス M.ネヴィンズ Jr.『エラリイ・クイーンの世界』 (早川書房)P.41</REF>)して新人作家の育成を行った。また、[[アンソロジー]]の編纂により過去の作家の佳作を発掘したりするなどの活動(ダネイ単独<ref name="エラリイ・クイーンの世界 P.41"/>)も広く行った。[[アントニー・バウチャー]]は1951年に「エラリー・クイーンはアメリカの探偵小説である」<ref> "The detective story itself was an American invention; and after a long period of British pre‐eminence, Ellery Queen as writer and editor has done as much as anyone (and probably more) to make it once more an American possession. Ellery Queen is the American detective story."</ref>と評している。
<!--[[1941年]]に[[アメリカ探偵作家クラブ#エドガー賞|MWA賞]]短編賞、-->[[1961年]]に[[アメリカ探偵作家クラブ#名誉賞・功労賞等|MWA賞巨匠賞]]を受賞している。さらに、[[1950年]]にEQMMにもMWA賞特別賞が贈られている。
日本では、『Yの悲劇』が[[1978年]]に[[清水邦夫]]脚本、[[石坂浩二]]主演で連続TVドラマ化されている。『災厄の町』も『[[配達されない三通の手紙]]』として、[[野村芳太郎]]監督により[[1979年]]に映画化された。
=== バーナビー・ロス名義使用の真相 ===
エラリー・クイーンが『[[レーン最後の事件]]』で表明しているところでは、最後に意外な犯人の新しいパターンを成立させるために、新しいペンネームと新しい探偵を創造した(先行する3作が4作目のトリックを際立たせる仕組み)ということになる。'''トリック用ペンネーム'''とでもいうべきクイーンの覇気満々の時代の念の入った仕事である。
なお、クイーン名義の『ローマ帽子の謎』中に「''バーナビー・ロス殺人事件''」なる語句を挿入し、読者にヒントを与えていたのだと主張している。
かつて「クイーン」と「ロス」の2人がそれぞれ覆面をかぶって公開討論したことがある。2人合同でペンネームを二つ持つという事実が秘密だったから可能になった「二人二役」である。<!--英語版のエラリークィーンの項目より-->
== 著作リスト ==
=== 長編 ===
==== エラリー&クイーン警視もの ====
* [[1929年]] [[ローマ帽子の謎]] ''The Roman Hat Mystery''
* [[1930年]] [[フランス白粉の謎]] ''The French Powder Mystery''
* [[1931年]] [[オランダ靴の謎]] ''The Dutch Shoe Mystery''
* [[1932年]] [[ギリシア棺の謎]] ''The Greek Coffin Mystery''
* 1932年 [[エジプト十字架の謎]] ''The Egyptian Cross Mystery''
* [[1933年]] [[アメリカ銃の謎]] ''The American Gun Mystery''
* 1933年 [[シャム双生児の謎|シャム双子の謎]](シャム双生児の秘密)''The Siamese Twin Mystery''
* [[1934年]] [[チャイナ橙の謎]] ''The Chinese Orange Mystery''
* [[1935年]] [[スペイン岬の謎]] ''The Spanish Cape Mystery''
* [[1936年]] [[中途の家]](途中の家)''Halfway House''
* [[1937年]] [[ニッポン樫鳥の謎]](日本庭園の秘密) ''The Door Between''
* [[1938年]] [[悪魔の報復]] ''The Devil to Pay''
* 1938年 [[ハートの4]] ''The Four of Hearts''
* [[1939年]] [[許されざる結婚|ドラゴンの歯]](許されざる結婚)''The Dragon's Teeth'' (''The Virgin Heiress'')
* [[1942年]] [[災厄の町]] ''Calamity Town''
* [[1943年]] [[靴に棲む老婆]](生者と死者と)''There Was an Old Woman'' (''The Quick and the Dead'')
* [[1945年]] [[フォックス家の殺人]] ''The Murderer Is a Fox''
* [[1948年]] [[十日間の不思議]] ''Ten Days' Wonder''
* [[1949年]] [[九尾の猫]] ''Cat of Many Tails''
* [[1950年]] [[ダブル・ダブル (推理小説)|ダブル・ダブル]] ''Double, Double''
* [[1951年]] 悪の起源 ''The Origin of Evil''
* [[1952年]] 帝王死す ''The King is Dead''
* [[1953年]] 緋文字 ''The Scarlet Letters''
* [[1956年]] クイーン警視自身の事件 ''Inspector Queen's Own Case''
* [[1958年]] [[最後の一撃]] ''The Finishing Stroke''
* [[1963年]] 盤面の敵 ''The Player on the Other Side''
* [[1964年]] 第八の日 ''And on the Eighth Day''
* [[1965年]] 三角形の第四辺 ''The Fourth Side of the Triangle''
* [[1966年]] 恐怖の研究 ''A Study in Terror'' (同題映画のノヴェライゼーション)
* [[1967年]] 顔 ''Face to Face''
* [[1968年]] 真鍮の家 ''The House of Brass''
* [[1970年]] [[最後の女]] ''The Last Woman in His Life''
* [[1971年]] [[心地よく秘密めいた場所]] ''A Fine and Private Place''
* [[1999年]] [[間違いの悲劇]] ''The Tragedy of Errors'' (長編の[[プロット (物語)|シノプシス]]。同題の短編集に収録。)
==== ノンシリーズ ====
* [[1954年]] ガラスの村 ''The Glass Village''
* [[1969年]] 孤独の島 ''Cop Out''
=== 短編集 ===
* [[1934年]] [[エラリー・クイーンの冒険]] ''The Adventures of Ellery Queen''
* [[1940年]] エラリー・クイーンの新冒険 ''The New Adventures of Ellery Queen''
* [[1952年]] 犯罪カレンダー ''Calendar of Crime''
* [[1955年]] クイーン検察局 ''QBI: Queen's Bureau of Investigation''
* [[1965年]] クイーンのフルハウス ''Queen's Full''
* [[1968年]] クイーン犯罪実験室 ''QED: Queen's Experiments in Detection''
* [[1999年]] [[間違いの悲劇]] ''The Tragedy of Errors and Other Stories''
=== ノヴェライゼーション集 ===
* エラリー・クイーンの事件簿(全2巻。1940年から1942年にかけて刊行されたノベライゼーション5編の集成。)
=== 台本・シナリオ集 ===
* [[1945年]] 『ナポレオンの剃刀の冒険』『死せる案山子の冒険』 ''The Adventure of the Murdered Moths and other Radio Mysteries''
* 1945年 犯罪コーポレーションの冒険 ''The Adventure of the Crime Corporation and other Radio Mysteries''
* 1945年 消える魔術師の冒険 ''The Adventure of the The Vanishing Magician and other Radio Mysteries''
** [[1939年]] 消える魔術師の冒険 ''The Adventure of the The Vanishing Magician'' - 上記の表題作。クイーン作品では稀有な「[[犯罪]]が起こらない」ミステリ。謎は密室状態の家での「人間消失」<ref>中編『神の燈火』も「建物消失」がテーマだが犯罪は発生している。</ref>。
** [[1940年]] 暗闇の弾丸 ''The Blind Bullet'' - HMM ('78.4)
** 1940年 よきサマリア人の冒険 ''The Adventure of the Good Samaritan'' - 『EQ』('82.1)。
** 1940年 怯えたスターの冒険 ''The Finghtened Star'' - 『EQ』('84.'1)
** 1940年 カインの烙印 ''The Mark of Cain'' - 『HMM』('99.12) 。日本でも[[辻本祐樹]](エラリー)・[[秋野太作]](クイーン警視)主演により舞台化<ref>ピュアーマリー「エラリー・クイーン ミステリー・オムニバス~観客への挑戦~」(こくみん共済 coop 文化フェスティバル2020)</ref>。
** 1942年 見えざる手がかりの冒険 ''The Invisible Clue'' - 『EQ』('97.5)
** 1943年 一本足の男 ''The One-Legged Man'' - 『HMM』('78.4)
** 1945年 十三番ボックス殺人事件 ''The Foul Tip'' - 白水社「現代世界戯曲選集7 一幕物篇」('54)。『新冒険』収録の「人間が犬をかむ」のラジオドラマ化。
=== バーナビー・ロス名義の作品 ===
==== 悲劇四部作(ドルリー・レーン) ====
* [[1932年]] [[Xの悲劇]] ''The Tragedy of X''
* 1932年 [[Yの悲劇]] ''The Tragedy of Y''
* [[1933年]] [[Zの悲劇]] ''The Tragedy of Z''
* 1933年 [[レーン最後の事件]](最後の悲劇) ''Drury Lane's Last Case''
==== 普通小説 ====
* [[1961年]] ''Quintin Chivas''
* [[1962年]] ''The Scrolls of Lysis''
* [[1964年]] ''The Duke of Chaos''
* [[1965年]] ''The Cree from Minataree''
* 1965年 ''Strange Kinsip''
* [[1966年]] ''The Passionate Queen''
=== エラリー・クイーン・ジュニア名義の児童向け作品 ===
==== ジュナの冒険 ====
* [[1941年]] [[黒い犬の秘密]](見習い探偵ジュナの冒険 黒い犬と逃げた銀行強盗) ''The Black Dog Mystery'' - リーの監修のもとサミュエル・ダフ・マッコイが執筆<ref>フランシス・M・ネヴィンズ著『エラリー・クイーン 推理の芸術』([[2016年]]、国書刊行会)</ref>。
* [[1942年]] [[金色の鷲の秘密]] ''The Golden Eagle Mystery'' - フランク・ベルナップ・ロング執筆。
* [[1943年]] [[緑色の亀の秘密]] (見習い探偵ジュナの冒険 幽霊屋敷と消えたオウム) ''The Green Turtle Mystery'' - ロング執筆。
* [[1946年]] [[赤いリスの秘密]] ''The Red Chipmunk Mystery'' - マッコイ執筆。
* [[1948年]] [[茶色い狐の秘密]] ''The Brown Fox Mystery '' - マッコイ執筆。
* [[1950年]] [[白い象の秘密]] ''The White Elephant Mystery '' - マッコイ執筆。
* [[1952年]] [[黄色い猫の秘密]] ''The Yellow Cat Mystery '' - マッコイ執筆。
* [[1954年]] [[青いにしんの秘密]] ''The Blue Herring Mystery '' - マッコイ執筆。
* [[1966年]] 紫の鳥の秘密 ''The Purple Bird Mystery '' - ジェイムズ・ホールディングが執筆し、ダネイが監修。邦訳はHMM'08.2 - 4に連載、日本での単行本なし。
==== ガリヴァー・クイーンシリーズ ====
* [[1961年]] ''The Mystery of the Merry Magician '' - ジェイムズ・ホールディング執筆。
* [[1962年]] ''The Mystery of the Vanished Victim '' - ホールディング執筆。
=== ダネイおよびリー単独作品 ===
* [[1953年]] [[ゴールデン・サマー]] ''The Golden Summer'' (ダネイ単独、ダニエル・ネイサン名義)
* [[1964年]] [[エラリー・クイーンの国際事件簿]] ''Ellery Queen's International Case Book'' (リー単独)
=== 名義貸し作品(ペーパーバック書き下ろし) ===
==== ティム・コリガン警部 ====
* [[1966年]] ''Where Is Bianca?'' (タルメッジ・パウエルが執筆。リーが監修。)
* 1966年 ''Who Spies, Who Kills?''
* 1966年 ''Why So Dead??''
* [[1967年]] ''How Goes the Murder?'' (リチャード・デミングが執筆)
* 1967年 ''Which Way to Die?''
* [[1968年]] [[摩天楼のクローズドサークル]] ''What's In the Dark?'' (''When Fell the Night?'')(リチャード・デミングが執筆)
==== トラブルシューター ====
* [[1968年]] ''Guess Who's Coming to Kill You?''
* [[1969年]] ''The Campus Murders''
* [[1970年]] ''The Black Hearts Murder''(リチャード・デミングが執筆)
* [[1972年]] [[青の殺人]] ''THe Blue Movie Murders''([[エドワード・D・ホック]]が執筆、ダネイが監修)
==== ノンシリーズ ====
* [[1961年]] [[二百万ドルの死者]] ''Dead Man's Tale''([[スティーヴン・マーロウ]]が執筆、リーが監修<ref>早川ポケットミステリ1006([[1967年]])</ref>)
* [[1962年]] ''Death Spins the Platter''(リチャード・デミングが執筆)
* [[1963年]] ''Murder with a Past''(タルメッジ・パウエルが執筆)
* 1963年 ''Wife or Death''(リチャード・デミングが執筆)
* 1963年 '' Kill As Directed''
* [[1964年]] ''The Four Johns'' (Four Men Called John)([[ジャック・ヴァンス]]が執筆)
* 1964年 ''The Golden Goose'' (フレッチャー・フローラが執筆)
* 1964年 [[熱く冷たいアリバイ]] ''Blow Hot Blow Cold''([[フレッチャー・フローラ]]が執筆、リーが監修)
* 1964年 ''The Last Score''(チャールズ・ラニアンが執筆)
* [[1965年]] ''Reware The Young Stranger''(タルメッジ・パウエルが執筆)
* 1965年 ''The Copper Frame'' (リチャード・デミングが執筆)
* 1965年 [[チェスプレイヤーの密室 ]]''A Room to Die''([[ジャック・ヴァンス]]が執筆)
* 1965年 ''The Killer Touch'' (チャールズ・ラニアンが執筆)
* [[1966年]] ''The Devil's Cook''(フレッチャー・フローラが執筆)
* 1966年 ''Losers,Weepers'' (リチャード・デミングが執筆)
* 1966年 ''The Madman Theory''(ジャック・ヴァンスが執筆、リーが監修)
* 1966年 '' Shoot the Scene''
* [[1969年]] ''Kiss and Kill''(チャールズ・ラニアンが執筆)
=== ノンフィクション ===
* [[1956年]] 私の好きな犯罪実話 ''My Favorite True Mystery''<ref>The American Weekly ,USA 1956.</ref>
:(他作家の執筆作品も含めたアンソロジー。現実では犯人が完全犯罪を達成した『ベンスン殺人事件』『[[スタイルズ荘の怪事件]]』など有名作家作品の元ネタとなった事件も取り上げられている。「テイラー事件」「あるドン・ファンの死」の2作品をリーが執筆。)
* [[1966年]] [[事件の中の女]] ''The Women in the Case''(女性が事件のメインとなった犯罪実話集。リーが執筆。)
=== 往復書簡 ===
*[[2012年]] エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947 - 1950年 ''Blood Relations''
:ダネイとリーの往復書簡。2人の没後、ジョゼフ・グッドリッチ (Joseph Goodrich) により纏められ出版([[飯城勇三]]訳、[[国書刊行会]]、2021年)。
=== 編書・アンソロジー ===
==== テーマ別 ====
* [[1936年]] 読者への挑戦 ''Challenge to the Reader '' - [[作者]]と[[名探偵]]の名を伏せて、読者に当てさせるゲーム趣向の短編集。
* [[1941年]] [[101年のお楽しみ]] ''101 Years' Entertainment '' - 1841-1941 の名探偵・女探偵・怪盗・犯罪ものに分類された短編傑作集。
* [[1942年]] 血のスポーツ ''Sporting Blood '' - 運動・スポーツ関連の犯罪・探偵小説を集めた短編集。
* [[1943年]] 犯罪の中のレディたち '' Ladies in Crime '' - 女性の名探偵や犯罪者が登場する短編集。
* [[1944年]] [[シャーロック・ホームズの災難]] '' The Misadventures of Sherlock Holmes '' - [[シャーロック・ホームズ|ホームズ]]もののパロディ・パスティシュ集。
* [[1945年]] 完全犯罪大百科 '' Rougue's Gallery '' - 殺人をはじめとする犯人側が勝利する作品群。いわば悪党見本市。
* [[1947年]] 殺人は専門家に ''Murder by Experts '' - 医師や弁護士など専門的知識を有する人物が殺人者もしくは名探偵の短編集。
* [[1949年]] 黄金の十二 ''Golden Dozen '' - ヘイクラフトやカーら十二人が選んだ短編の傑作選。
* [[1951年]] [[犯罪文学傑作選]] '' The Literature of Crime '' - 文豪たちが書いた犯罪小説を集めたもの。
* [[1962年]] 眠られぬ夜の為に '' To Be Read Before Midnight '' - 夜の事件・サスペンス中心のミッドナイト・スリラー。
* [[1967年]] 犯罪は詩人の楽しみ '' Ellery Queen's Poetic Justice '' - 詩人によるミステリの集大成。
* [[1969年]] ミニミステリ傑作選 '' Ellery Queen's Mini Mysteries '' - 最大二千語を超えないショート・ショートミステリ。
* [[1971年]] 黄金の13 '' Ellery Queen's the Golden 13 '' - クイーン主宰の短編コンテスト優勝作品を13年分まとめた短編集。
* [[1976年]] 警官嫌い '' Cops and Capers '' - 警官と刑事を主人公にした所謂「警察もの」。
* [[1977年]] 兇行の果て '' Crime and Consequences '' - 「[[推理小説#倒叙|倒叙]]」および「半倒叙」ミステリの作品集。
* 1977年 今際の託言 '' X marks the Plot '' - [[ダイイング・メッセージ]]を扱った短編集。
* [[1978年]] 日本傑作推理12選 '' Japanese Golden Dozen '' - [[日本]]推理作家の短編を集めた企画もの。日本では光文社から[[1977年]]に先行出版(日本語から米語への翻訳についての詳細は不明)、[[1980年]]から[[1981年]]に『[[傑作推理劇場]]』のタイトルでドラマ化。
==== 年度別 ====
* [[1962年]] EQMMアンソロジー '' Ellery Queen's 1962 Anthology'' - 1962年の短編傑作選<ref>邦訳は『EQMMアンソロジーI・II』(早川書房)の二分冊。</ref>。
* [[1966年]] ミステリー短篇傑作集 '' Ellery Queen's 1965 Anthology'' - 1965年の短編傑作選<ref>邦訳が「洋販出版」のため、[[1962年]]の「早川書房」と邦題が統一されていない。また『ミステリー短篇傑作集』(洋販出版)は二分冊にせず、全作品を収録するが抄訳。</ref>。
* [[1967年]] ミステリー短篇傑作集 第二集 '' Ellery Queen's 1966 Anthology'' - 1966年の短編傑作選。
* 1967年 名探偵の供宴 ''Ellery Queen's All-Star Lineup '' - 1967年の短編傑作選。
* [[1968年]] ''Ellery Queen's Mystery Parade ''
* [[1969年]] ''Ellery Queen's Murder Menu ''
* [[1970年]] ''Ellery Queen's Grand Slam ''
* [[1971年]] 立て役者が多すぎる ''Ellery Queen's Headliners '' - 1971年の短編傑作選。
* [[1977年]] 状況証拠 ''Ellery Queen's Circumstantial Evidence '' - 1977年の短編傑作選。
* [[1980年]] 隠された真実(クイーンズ・コレクション) ''Ellery Queen's Veils of Mystery '' - 1980年の短編傑作選<ref>1967年以降の邦題はHMM掲載時。単行本では『クイーンズ・コレクション1・2』のような平凡なタイトルになっている。</ref>。
==== 作家別 ====
* [[1947年]] 女王がライヴァル<ref>新樹社では『エラリー・クイーンのライヴァルたち1』</ref> ''The Riddle of Hildegarde Withers '' - [[スチュアート・パーマー]]のヒルデガルデもの短編集。
* [[1948年]] 悪夢の街 ''Nightmare Town '' - [[ダシール・ハメット]]の「新任保安官」ほかハードボイルド黎明期の中短編。
* [[1970年]] ''P as in Police - ローレンス・トリート
* [[1973年]] ''Amateur in Violence '' - [[マイケル・ギルバート]]
* [[1977年]] 欺瞞教本 ''How To Trap A Crook '' - ジュリアン・シモンズの短編傑作選。
* [[1977年]] '' Kindly Dig Your Grave, and Other Wicked Stories '' - [[スタンリー・エリン]]
:(クイーンが編纂したアンソロジーは、「テーマ別」と「年度別」の他に「作家別」の編書が多数ある<ref>クイーン研究書『エラリー・クイーンの世界』など</ref>が、上記で邦題があるもの以外は日本語単行本がなく、また翻訳版はクイーン編オリジナルと収録作が違うことがある)
=== 評論・その他 ===
* [[1934年]] 芸術としての殺人 '' Murder as a Fine Art ''
:(エラリー・クイーンの推理小説論・エッセイ)
* [[1942年]] 推理短編目録 ''The Detective Short Story: A Bibliography ''
:(作者別アルファベット順の探偵小説の短編集目録)
* [[1943年]] 黄金の二十 '' The Golden Twenty ''
:(クイーンが推理小説通の人々にベスト作品を問うアンケートを実施し、長編10、短編10を決定しコメントしたもの。[[アントニー・バウチャー|アンソニー・バウチャー]]は本作に賛否もろもろの意見を述べた評論『シルバー13』を発表している。)
* [[1946年]] クイーン好み '' To the Queen's Taste ''
:(クイーン主幹の雑誌『ミステリ・リーグ』に連載のコラムを纏めたもの。ダネイが執筆。)
* [[1951年]] [[クイーンの定員]] '' Queen's Quorum ''
:([[エドガー・アラン・ポー|ポー]]以前にまでさかのぼり、クイーンが年代ごとに番号をつけ解説する推理小説の歴史。ダネイが執筆。)
* [[1957年]] クイーン談話室 ''In the Queen's Parlor, and Other Leaves from the Editor's Notebook''
:(自作・他作問わず、ミステリ関連の話題を語った評論・エッセイ集)
== 関連文献 ==
=== クイーン研究書 ===
* ミステリ・リーグ傑作選(上・下) [[論創社]] [[論創海外ミステリ]]
* エラリイ・クイーンの世界 [[早川書房]] フランシス・M・ネヴィンズ Jr著
* エラリー・クイーン論 論創社 ([[飯城勇三]]著)
* エラリー・クイーンの騎士たち - 横溝正史から新本格作家まで 論創社(飯城勇三著)
* エラリー・クイーン 推理の芸術 [[国書刊行会]] (フランシス・M・ネヴィンズ<ref>以前の筆名は「フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニア」だったが、現在は「ジュニア」がない(解説:飯城勇三)。</ref> 著 ISBN 978-4-336-06102-7)
=== クイーン作品のパロディ・パスティシュなど ===
* [[1969年]] エラリー・クイーンの災難 '' The Misadventures of Erelley Queen ''- [[エドワード・D・ホック]]ほか
:(エラリー・クイーン名義での作品(『青の殺人』など)発表もあるホックなどが書いた探偵エラリー登場のパロディ集)
* [[1969年]] 10か月間の不首尾 '' The Ten Months' Wander ''- J・N・ウイリアムソン
:(『十日間の不思議』The Ten Days' Wonder のもじり。クイーン後期作品のパスティシュ。)
* [[1973年]] スウェーデン長靴の謎 '' The Swedish Boots Mystery '' - [[ジョン・リン・ブリーン|ジョン・L・ブリーン]]
:(クイーン主宰の『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』で書評欄を務めるブリーン(『女装好きな男』『虚栄殺人事件』など[[アーサー・コナン・ドイル|コナン・ドイル]]やヴァン・ダインの文体に似せた作品を書いたことでも知られる)による国名シリーズのパスティシュ。北欧民話「幸福の長靴」に因むとともに、クイーンの『オランダ靴の謎』The Dutch Shoe Mysteryのもじり。)
* [[1980年]] 犯罪の傑作 '' A Masterpiece of Crime '' - [[ロバート・トゥーイ]]
:素人探偵と刑事のコンビが、クイーンのアンソロジー『[[101年のお楽しみ]]』を参考に連続殺人を阻止する。電話口にダネイらしき人物も声で出演している。
*1982年 銀座の児雷也- [[都筑道夫]]
:昭和11年、映画脚本を書くため来日したエラリイは銀座で殺人を目撃する。日本の習俗を知らないエラリイに[[永井荷風]]がヒントを与える。
* [[1990年]] 探偵の秋あるいは猥の悲劇 - [[岩崎正吾]]
:(ドルリー・レーン4部作の「[[本歌取|本歌取り]]」ミステリ。八田家の当主の死に端を発する連続殺人を、耳の不自由な旅回りの役者が解決に導く。作品名の後半「猥の悲劇」は『Yの悲劇』のもじり。)
* [[2000年]] 大君殺人事件 またはポーランド鉛硝子の謎 - [[芦辺拓]]
:(雑誌社の社長が殺され、3人の容疑者にはそれぞれアリバイがある。その謎の解明に集結した[[ファイロ・ヴァンス]]、[[オーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン|ヴァン・ドゥーゼン教授]]、[[ネロ・ウルフ]]ともう一人、彼らの前で[[鼻眼鏡]](パンス・ネ)をはめて「Q・E・D」と素人探偵気取りで真相を語る「私」。)
* [[2002年]] Qの悲劇 または二人の黒覆面の冒険 - 芦辺拓
:(マンフレッド・リーとフレデリック・ダネイが謎の覆面作家エラリー・クイーンとバーナビー・ロスとして講演会を催す当日、現実の殺人事件に巻き込まれ、講演会で事件の解決を余儀なくされる。作品名の前半「Qの悲劇」は『Yの悲劇』のもじり。)
* [[2010年]] 視聴者への挑戦状 '' The Television Adventures of Ellery Queen '' - リチャード・レビンソンとウイリアム・リンク
:(『[[刑事コロンボ]]』原作者コンビによるTVドラマ『エラリー・クイーン』のシナリオ集。ドラマの途中でエラリーが視聴者に「挑戦」をいどむ趣向の作品<ref>日本のドラマ『[[古畑任三郎]]』が同じ手法を採用している。</ref>。日本では23作<ref>「奇妙なお茶会の冒険」のみはエラリー・クイーン原作の短編を元にした台本である。</ref>のうち『ミステリの女王の冒険』(エラリー・クイーン原案)と題し、表題作ほか4本を収録した単行本が[[論創社]]から発行。)
* [[2018年]] シャーロック・ホームズの失われた災難'' The Missing Misadventures of Sherlock Holmes '' - ジュリー・マッキュラス 編。
:(『シャーロック・ホームズの災難』の序文の中で、クイーンはさまざまな理由により収録出来なかった作品について解説しているが、本書はその「失われた」作品を収録した短編集<ref>『シャーロック・ホームズの失われた災難』(原書房)の「解説」に各作品をクイーンが割愛した理由の説明が記されている。</ref>。)
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン]]
* [[エラリー・クイーン (架空の探偵)]]
* [[ドルリー・レーン]]
* [[アヴラム・デイヴィッドスン]]
* [[後期クイーン的問題]]
* [[有栖川有栖]]
* [[法月綸太郎]]
* [[麻耶雄嵩]]
* [[依井貴裕]]
* [[氷川透]]
* [[青崎有吾]]
* [[妃英理]]
* [[飯城勇三]]
{{エラリー・クイーン}}
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[[Category:20世紀アメリカ合衆国の小説家]]
[[Category:アメリカ合衆国の推理作家]]
[[Category:アメリカ合衆国の編集者]]
[[Category:ユダヤ系アメリカ人]]
[[Category:ユダヤ人の著作家]]
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茨木駅
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茨木駅(いばらきえき)は、大阪府茨木市駅前一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅である。駅番号はJR-A41。「JR京都線」の愛称区間に含まれている。
茨木市を代表する駅で、かつ新快速が通過する駅の中では最も乗車人員が多い。
当駅と阪急京都線茨木市駅の間は、距離にして約1.5km、徒歩なら約18分かかる。両駅間を阪急バス・近鉄バス・京阪バスが結んでいる。阪急への乗り換えは摂津富田駅や高槻駅がより至近である。
新快速停車の計画があると何度か報じられたが、JR西日本からの公式発表はなく、以降進展する様子はない。
回送列車や臨時列車は通過待ちのため当駅で運転停車する事がある。
また当駅構内はカーブとなっており、それに伴うITV設置の関係で、高槻・京都方面の10両・12両編成の快速のみ、ドア閉直前に乗降促進ベルが鳴る(7両編成の普通や6・8両編成の快速では鳴らない)。
向日町駅 - 高槻駅 - 大阪駅間の鉄道が開業した約2週間後に山崎駅・吹田駅とともに新設開業。この2駅と並び同区間内で最初の新駅となった。
島式ホーム2面4線を持ち、さらにホームのない待避線を上下1本ずつ備えた地上駅で、橋上駅舎を有している。12両編成の列車に対応している。当駅の千里丘方からは「はるかロード」と呼ばれる貨物列車用の線路が分岐しており、吹田貨物ターミナル駅から梅田貨物線や北方貨物線などへ入る列車は貨物列車用の線路に入ることになる。改札内にトイレがある。
直営駅で、高槻駅長の管理下にあるが、吹田駅と同様に地区駅長が配置され、当駅は千里丘駅を管理している。ICOCA利用可能駅(相互利用可能ICカードはICOCAの項を参照)。
改札前コンコースに自動券売機・みどりの窓口がある。駅改良工事に伴い、改札正面から改札隣に移動した。また、2009年(平成21年)初までは京阪資本のジューサーバーがあったが閉店、その後バウムクーヘン店を経て2010年(平成22年)4月時点ではビアードパパの作りたて工房が開業した。隣のスペースにはミスターミニットが入居していたが、2013年(平成25年)初頭に閉店、2014年からは舞昆のこうはらが1年間限定で営業、その後洋菓子屋となっていた。いずれも、駅改良工事に伴い2016年10月31日をもって閉店した。なお、同じく駅改良工事に伴い、エスタシオンカフェ・麺家・キヨスク・日本旅行(Tis)が閉店している。
改札内コンコースではパン屋が営業していたが、こちらも駅改良工事に伴い閉店した。
東口階段下には、コンビニ「ハート・イン」があったが同様に駅改良工事に伴い閉店した。西口階段下には、レンタサイクル「駅リンくん」がある。
なお、2018年春に一連の駅改良工事が完了し、以下の核店舗が開業した。
また、当駅に設置されているトイレは大阪府内のJRの駅としては関西空港駅・大阪駅に次いで3番目とかなり早い段階から無料でトイレットペーパーが設置されていた。
エレベーターは両ホームと改札階とを結ぶものと、改札階と地上(西口・東口とも)を結ぶものが設置されている。2017年9月11日には両ホームと改札階とを結ぶエスカレーターの使用が開始された。
朝ラッシュ時は、当該時間帯のみ外側線を走行する快速の多くが普通と連絡する。大阪方面については、当駅で快速と連絡を取らない普通も多くが新大阪駅到着までに追い抜かれる。
一方日中時間帯は普通と快速の連絡はなく、普通も全て大阪・高槻まで先着する。このためこれらの駅までの利用であれば1時間あたり12本(快速が4本、普通が8本)利用することが出来る。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は41,582人であり、JR西日本の駅では尼崎駅に次いで第16位。新快速通過駅の中では最も多い。茨木市内で最大の利用者数を誇り、阪急京都線の茨木市駅より利用者が多い。
各年度の1日平均乗車人員は以下の通りである。
近年の1年間の累計乗車人員は以下の通り。
なお下表内の数値の単位は全て「千人」である。
阪急の茨木市駅へは東口方面へ1.5 kmほど。両駅間に市役所をはじめとした市の施設や国・大阪府の出先機関などが並び、茨木市の中心市街地を形成している。
メインのバス発着場となる西口にバスロータリーが整備されている他、東口にもバスのりばが設置されており、多数のバス路線が発着する。
路線バスは阪急バス・近鉄バス・京阪バスの3社が乗り入れている。2015年11月27日より、西口駅前広場再整備に伴いのりばが変更となった。さらに、2016年12月5日からは、4番のりばを発着する近鉄バスの一部路線が、三菱UFJ銀行前に新設の11番のりばからの発着に変更された。
かつては各方面への路線は茨木市駅西口と同様にロータリー中央部のホームから発着していたが、のりば変更後は4番のりばとして使用されている最も西側の1つを除き閉鎖され、現在は当駅前折り返しの阪急バス・近鉄バスの乗務員休憩所として使用されている。
エレベーターは1 - 3番のりばへは茨木駅前ビル側、5 - 10番のりばへは駅舎側に設置されているが、4番のりばには設置されていない。エスカレーターは11番のりば付近に設置されている。1 - 4番のりばと11番のりばおよびバスおりばから駅西口までの歩道橋には屋根が設置されていない。
茨木駅前ビル付近の2番のりば、ロータリー内の7・8・9・10番のりばが割り当てられている。この内7番のりばはタクシーのりば横(近鉄バス5・6番のりばのすぐ後方)、8・9・10番のりばは駅舎付近のロータリー外周に設置されている。主に彩都をはじめとした茨木市北部や箕面市方面への路線が発着。
停留所名は「JR茨木駅」。
忍頂寺車作線の一部は豊能営業所管轄だが、他は全て茨木営業所の管轄。
23時台以降発の便は深夜バスとして運行されている。深夜バスの運賃は通常の倍額である。
茨木駅前ビル付近の1番のりば、ロータリー内の4・5・6・11番のりばが割り当てられている。4番のりばはロータリー中央のホーム部、5・6番のりばはタクシーのりば横に設置。主に茨木市西部や吹田市方面へのバスが発着。
路線名は全て「茨木線」のため系統名を記載する。
停留所名は阪急バスと同じ「JR茨木駅」。鳥飼営業所の管轄。
市立吹田サッカースタジアムでJリーグが開催される際には臨時直行バスが4番のりばより万博記念競技場までピストン運行される。この時は鳥飼以外の近鉄バス各営業所も応援として臨時便を運行する。
阪急茨木を経て茨木市南東部・高槻市南部・枚方市方面へ向かう枚方茨木線が発着。高槻営業所の管轄。
西口では唯一、停留所名が「JR茨木」であり「駅」が付されていない。
3のりばが割り当てられており、おりばはのりば後方に設置されている(この間に阪急バス・近鉄バスのおりばもある)。
近鉄バスと京阪バスが路線バスを運行するほか、関空リムジンバスが発着している。停留所名は全て「JR茨木東口」。
なお、2015年3月16日(京阪バスのみ3月29日)より、東口ロータリー再整備完了に伴いのりばが変更となっている。
ロータリー形態ではないため、各路線バスは当停留所 - 阪急茨木南口間において往路と復路で異なるルートを走行する。
進行方向前方の1のりばより寝屋川茨木線が発着。摂南大学へ向かう学生が多数利用する。
平日の一部と土休日全便は寝屋川営業所の管轄である。平日の大部分は高槻営業所が担当。
摂南大学の祝日開講日や学内でイベント(オープンキャンパスや各種試験)が開催される場合は臨時便として「NS経路」が運行される。途中、阪急茨木南口のみ停車する。
この他、毎年4月1日のみ京阪バス枚方茨木線9号経路・南茨木駅発着系統が停車する。南茨木駅行きについては駅東口から約200 mのNSビル前に専用ののりばが設置されている。枚方市駅行きについては寝屋川茨木線同様東口1のりばに停車。
2・3番のりばより茨木市南東部を循環する茨木線の平田系統が発着。この路線も鳥飼営業所発着で、水尾三丁目回りと桑田町回りでのりばが分けられている。
東口5番のりばは関西国際空港行きのリムジンバスのりばとなっている。関西空港交通と近鉄バスの共同運行で、過去には大阪空港交通(現在の阪急観光バス)とも共同で運行していた。2021年3月から全便運休中。
バスのりばの容量の関係上、近隣の学校のスクールバスや企業の通勤バス等は駅前ではなく、駅より多少離れた場所より発着している。
主な発着場所は以下の2箇所であり、茨木市が管理を行っている。
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"text": "直営駅で、高槻駅長の管理下にあるが、吹田駅と同様に地区駅長が配置され、当駅は千里丘駅を管理している。ICOCA利用可能駅(相互利用可能ICカードはICOCAの項を参照)。",
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"text": "改札前コンコースに自動券売機・みどりの窓口がある。駅改良工事に伴い、改札正面から改札隣に移動した。また、2009年(平成21年)初までは京阪資本のジューサーバーがあったが閉店、その後バウムクーヘン店を経て2010年(平成22年)4月時点ではビアードパパの作りたて工房が開業した。隣のスペースにはミスターミニットが入居していたが、2013年(平成25年)初頭に閉店、2014年からは舞昆のこうはらが1年間限定で営業、その後洋菓子屋となっていた。いずれも、駅改良工事に伴い2016年10月31日をもって閉店した。なお、同じく駅改良工事に伴い、エスタシオンカフェ・麺家・キヨスク・日本旅行(Tis)が閉店している。",
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"text": "エレベーターは両ホームと改札階とを結ぶものと、改札階と地上(西口・東口とも)を結ぶものが設置されている。2017年9月11日には両ホームと改札階とを結ぶエスカレーターの使用が開始された。",
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"text": "朝ラッシュ時は、当該時間帯のみ外側線を走行する快速の多くが普通と連絡する。大阪方面については、当駅で快速と連絡を取らない普通も多くが新大阪駅到着までに追い抜かれる。",
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"text": "一方日中時間帯は普通と快速の連絡はなく、普通も全て大阪・高槻まで先着する。このためこれらの駅までの利用であれば1時間あたり12本(快速が4本、普通が8本)利用することが出来る。",
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"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は41,582人であり、JR西日本の駅では尼崎駅に次いで第16位。新快速通過駅の中では最も多い。茨木市内で最大の利用者数を誇り、阪急京都線の茨木市駅より利用者が多い。",
"title": "利用状況"
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"text": "各年度の1日平均乗車人員は以下の通りである。",
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"text": "なお下表内の数値の単位は全て「千人」である。",
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"text": "阪急の茨木市駅へは東口方面へ1.5 kmほど。両駅間に市役所をはじめとした市の施設や国・大阪府の出先機関などが並び、茨木市の中心市街地を形成している。",
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"text": "メインのバス発着場となる西口にバスロータリーが整備されている他、東口にもバスのりばが設置されており、多数のバス路線が発着する。",
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"text": "路線バスは阪急バス・近鉄バス・京阪バスの3社が乗り入れている。2015年11月27日より、西口駅前広場再整備に伴いのりばが変更となった。さらに、2016年12月5日からは、4番のりばを発着する近鉄バスの一部路線が、三菱UFJ銀行前に新設の11番のりばからの発着に変更された。",
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"text": "この他、毎年4月1日のみ京阪バス枚方茨木線9号経路・南茨木駅発着系統が停車する。南茨木駅行きについては駅東口から約200 mのNSビル前に専用ののりばが設置されている。枚方市駅行きについては寝屋川茨木線同様東口1のりばに停車。",
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"text": "2・3番のりばより茨木市南東部を循環する茨木線の平田系統が発着。この路線も鳥飼営業所発着で、水尾三丁目回りと桑田町回りでのりばが分けられている。",
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"text": "東口5番のりばは関西国際空港行きのリムジンバスのりばとなっている。関西空港交通と近鉄バスの共同運行で、過去には大阪空港交通(現在の阪急観光バス)とも共同で運行していた。2021年3月から全便運休中。",
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茨木駅(いばらきえき)は、大阪府茨木市駅前一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅である。駅番号はJR-A41。「JR京都線」の愛称区間に含まれている。
|
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{{Otheruses|JR西日本東海道本線(JR京都線)の茨木駅|かつて茨木駅と称した[[大阪モノレール|大阪高速鉄道]](当時)[[大阪モノレール本線|大阪モノレール線]]の駅|宇野辺駅}}
{{混同|茨木市駅}}
{{統合文字|茨}}
{{駅情報
|社色 = #0072bc
|文字色 =
|駅名 = 茨木駅
|画像 = Ibaraki Station Ibaraki Osaka pref Japan01-r.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 西口(2021年3月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|34|48|55.27|N|135|33|44.08|E}}}}
|よみがな = いばらき
|ローマ字 = Ibaraki
|前の駅 = JR-A40 [[JR総持寺駅|JR総持寺]]
|駅間A = 2.0
|駅間B = 2.9
|次の駅 = [[千里丘駅|千里丘]] JR-A42*►<br />(5.5km) [[吹田貨物ターミナル駅|吹田(タ)]]**
|電報略号 = イハ
|駅番号 = '''JR-A41'''
|所属事業者 = [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
|所属路線 = {{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[JR京都線]])
|キロ程 = 541.8 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[京都駅|京都]]から28.2
|起点駅 =
|所在地 = [[大阪府]][[茨木市]]駅前一丁目1-10
|座標 = {{Coord|34|48|55.27|N|135|33|44.08|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])<ref name="zeneki02">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =02号 大阪駅・神戸駅・鶴橋駅ほか77駅 |date =2012-08-12 |page =23 }}</ref>
|ホーム = 2面4線{{R|zeneki02}}
|開業年月日 = [[1876年]]([[明治]]9年)[[8月9日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 41,582
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]<br />[[みどりの窓口]] 有<br />* 旅客線側の隣駅<br />** 貨物線側の隣の施設
|備考全幅 =
}}
[[ファイル:茨木駅東口(工事後).jpg|thumb|東口(改良工事後)<br />(2019年11月)]]
[[ファイル:Ibaraki Station Ibaraki Osaka pref Japan04-r.jpg|thumb|東口デッキ(いばらきスカイパレット)<br />(2021年3月)]]
'''茨木駅'''(いばらきえき)は、[[大阪府]][[茨木市]]駅前一丁目にある、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[東海道本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。駅番号は'''JR-A41'''。「[[JR京都線]]」の愛称区間に含まれている。
== 概要 ==
茨木市を代表する駅で、かつ[[新快速]]が通過する駅の中では最も乗車人員が多い。
当駅と[[阪急京都本線|阪急京都線]][[茨木市駅]]の間は、距離にして約1.5km、徒歩なら約18分かかる。両駅間を[[阪急バス]]・[[近鉄バス]]・[[京阪バス]]が結んでいる。阪急への乗り換えは[[摂津富田駅]]や[[高槻駅]]がより至近である。
[[新快速]]停車の計画があると{{要出典範囲|何度か|date=2023年11月}}報じられたが<ref>[http://www.sankei.com/west/news/140816/wst1408160033-n1.html 新快速、茨木に停まる?JR西が検討 大学・新スタジアムなど開業見据え 強みのスピードと兼ね合いが課題] - 産経新聞 2014年8月16日</ref>、JR西日本からの公式発表はなく、以降進展する様子はない。
回送列車や臨時列車は通過待ちのため当駅で運転停車する事がある。
また当駅構内はカーブとなっており、それに伴うITV設置の関係で、高槻・京都方面の10両・12両編成の快速のみ、ドア閉直前に[[発車ベル|乗降促進ベル]]が鳴る(7両編成の普通や6・8両編成の快速では鳴らない)。
== 歴史 ==
[[向日町駅]] - 高槻駅 - 大阪駅間の鉄道が開業した約2週間後に[[山崎駅 (京都府)|山崎駅]]・[[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]]とともに新設開業。この2駅と並び同区間内で最初の新駅となった。
=== 年表 ===
* [[1876年]]([[明治]]9年)[[8月9日]]:[[日本国有鉄道|官設鉄道]]の[[高槻駅]] - [[大阪駅]]間に新設開業。旅客・貨物の取り扱いを開始。
* [[1895年]](明治28年)[[4月1日]]:線路名称制定。東海道線([[1909年]]より[[東海道本線]])の所属となる。
* [[1969年]]([[昭和]]44年)[[10月1日]]:現在の橋上駅舎に改築(3代目)。
* [[1970年]](昭和45年)[[3月14日]] - [[9月13日]]:[[日本万国博覧会]]の開催に合わせ、快速が臨時停車。「万博東口駅」という愛称がつく{{R|zeneki02}}。停車継続運動が起こり、開催終了後も快速停車継続となる{{要出典|date=2023年11月}}。
* [[1976年]](昭和51年)[[9月4日]]:当駅と専売公社・引き込み線間で[[京阪100年号事故]]が発生。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:貨物の取り扱いが廃止。
** [[日本たばこ産業]]茨木工場・[[東洋製罐]]茨木工場・[[サッポロビール]]大阪工場へ[[専用鉄道|専用線]]が続き、貨物輸送を行っていた。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の駅となる。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:路線愛称の制定により、「[[JR京都線]]」の愛称を使用開始。
* [[1990年]]([[平成]]2年)4月1日 - [[9月30日]]:[[国際花と緑の博覧会]]の開催に合わせ、一部の特急雷鳥が会場アクセスのため臨時停車。
* [[1997年]]([[平成]]9年)[[7月19日]]:[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=185 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[7月29日]]:[[運行管理システム (JR西日本)#JR京都・神戸線システム|JR京都・神戸線運行管理システム]]導入。
* [[2003年]](平成15年)11月1日:[[ICカード]]「[[ICOCA]]」の利用が可能となる<ref>[https://web.archive.org/web/20040803184954/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030820a.html 「ICOCA」いよいよデビュー! 〜 平成15年11月1日(土)よりサービス開始いたします 〜]([[インターネットアーカイブ]]) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月30日</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[駅自動放送]]を更新。
* [[2015年]](平成27年)
** [[3月12日]]:入線警告音の見直しに伴い、[[接近メロディ]]導入<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/03/page_6933.html 琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線・大阪環状線の駅のホームで使用している「入線警告音」の音質を見直します]</ref>。
** [[3月16日]]:リニューアル工事着工。東口デッキ(いばらきスカイパレット)の使用を開始、東口バスのりばの整備が完了。
* [[2017年]](平成29年)[[9月11日]]:改札内の[[エスカレーター]]が稼働を開始。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月17日]]:当駅の京都側に隣接する駅としてJR総持寺駅が開業<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/08/page_10927.html JR京都線、摂津富田~茨木駅間新駅の駅名決定について]- 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2017年8月8日</ref>。合わせて[[駅ナンバリング]]が導入され、使用を開始。
** 4月1日:改札外の付帯施設がグランドオープンし、リニューアル工事が完成<ref>{{Cite news |title=茨木駅改良工事が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2018-04-11 |page=1}}</ref><ref>[https://www.westjr.co.jp/railroad/project/project9/ JR京都線 茨木駅 リニューアル工事が完成] - 西日本旅客鉄道 2018年4月1日</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[5月17日]]:駅東南に「ビエラ茨木新中条」が開業<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2019/05/page_14240.html VIERRA茨木新中条 5月17日(金曜日)オープン] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2019年5月10日</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** 3月31日:2・3番のりばにてJR西日本初のホーム安全スクリーンを使用開始<ref>https://www.westjr.co.jp/press/article/items/230329_00_houmuanzen.pdf</ref>。
** 8月24日:1・4番のりばにてホーム安全スクリーンを使用開始<ref>https://www.westjr.co.jp/press/article/items/2c14d0ef796a7dc0a7f105fdb5c80bab.pdf</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面4線を持ち、さらにホームのない待避線を上下1本ずつ備えた[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している{{R|zeneki02}}。12両編成の列車に対応している。当駅の千里丘方からは{{要出典範囲|「はるかロード」と呼ばれる|date=2023年11月}}貨物列車用の線路が分岐しており、[[吹田貨物ターミナル駅]]から[[梅田貨物線]]や[[北方貨物線]]などへ入る列車は貨物列車用の線路に入ることになる。改札内にトイレがある。
[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]で、[[高槻駅]]長の管理下にあるが、[[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]]と同様に地区駅長が配置され、当駅は[[千里丘駅]]を管理している<ref>『鉄道ジャーナル』2010年11月号・日本縦断各駅停車</ref>。[[ICOCA]]利用可能駅(相互利用可能[[ICカード]]はICOCAの項を参照)。
=== のりば ===
<!--方面表記は、JR西日本(JRおでかけネット)の「構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!のりば<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!線路!!行先!!備考
|-
!1
|rowspan="4"|{{JR西路線記号|K|A}} JR京都線
|rowspan="2" style="text-align:center;"|下り
|style="text-align:center;"|外側線
|rowspan="2"|[[大阪駅|大阪]]・[[三ノ宮駅|三ノ宮]]方面<!--※出典先には「新大阪」の記載はなし--><ref name="jr-odekake-premises?id=0610124">{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0610124|title=茨木駅|構内図:JRおでかけネット|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2023-01-11}}</ref>
|平日朝の一部の快速
|-
!2
|rowspan="2" style="text-align:center;"|内側線
|
|-
!3
|rowspan="2" style="text-align:center;"|上り
|rowspan="2"|[[高槻駅|高槻]]・[[京都駅|京都]]方面<ref name="jr-odekake-premises?id=0610124" />
|
|-
!4
|style="text-align:center;"|外側線
|平日朝の一部の快速
|}
==== 付記事項 ====
* 上表の路線名は旅客案内上の名称(愛称)で表記している。
* 原則として2番のりばと3番のりばが使用される。1・4番のりばは平日朝ラッシュ時の快速のみ停車し、それ以外の時間帯はロープが張られている。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JR West Ibaraki Station Gate.jpg|改札口(2023年2月)
JR West Ibaraki Station Ticket Counter.jpg|切符売り場(2023年2月)
JR West Ibaraki Station Platform 1・2.jpg|1・2番のりばホーム(2023年2月)
JR West Ibaraki Station Platform 3・4.jpg|3・4番のりばホーム(2023年2月)
</gallery>
=== 運転取り扱い上の呼称 ===
* 1番線:ホームなし(待避線)
* 2番線:1番のりば、下り外側線(本線)
* 3番線:2番のりば、下り内側線(本線)
* 4番線:3番のりば、上り内側線(本線)
* 5番線:4番のりば、上り外側線(本線)
* 6番線:ホームなし(待避線)
** 1番線、6番線は向日町駅 - 新大阪駅・大阪駅間の回送列車などの待避などに使われる。
** 下りは場内と第一出発 ~ 第三出発があり、[外]場内で1番線へ進入、[外]第三出発で外側線→貨物線、[内]内側線→外側線・貨物線へ進出できる{{要出典|date=2023年11月}}。
** 上りは第一場内~第四場内と出発があり、[外]第一場内は貨物線から外側線へ合流、[外]第二場内で外側線→内側線、[外]第三場内で外側線→6番線、[内]内側線→5番線へ進入できる{{要出典|date=2023年11月}}。
=== 付帯施設 ===
[[改札]]前[[コンコース]]に[[自動券売機]]・[[みどりの窓口]]がある。駅改良工事に伴い、改札正面から改札隣に移動した。また、[[2009年]]([[平成]]21年)初までは[[京阪電気鉄道|京阪]][[資本]]の[[ジューサーバー]]があったが閉店、その後[[バウムクーヘン]]店を経て[[2010年]](平成22年)[[4月]]時点では[[DAY TO LIFE|ビアードパパの作りたて工房]]が開業した。隣のスペースにはミスターミニットが入居していたが、[[2013年]](平成25年)初頭に閉店、[[2014年]]からは[[舞昆のこうはら]]が1年間限定で営業、その後[[洋菓子]]屋となっていた。いずれも、駅改良工事に伴い[[2016年]][[10月31日]]をもって閉店した。なお、同じく駅改良工事に伴い、[[ジェイアール西日本フードサービスネット|エスタシオンカフェ]]・麺家・[[キヨスク]]・[[日本旅行]](Tis)<ref group="注">高槻支店と統合。</ref>が閉店している。
改札内コンコースでは[[ベーカリー|パン屋]]が営業していたが、こちらも駅改良工事に伴い閉店した。
東口階段下には、[[コンビニエンスストア|コンビニ]]「[[ハート・イン]]」があったが同様に駅改良工事に伴い閉店した。西口階段下には、[[レンタサイクル]]「駅リンくん」がある。
なお、2018年春に一連の駅改良工事が完了し、以下の核店舗が開業した。
* [[ハート・イン|セブンイレブン ハート・イン]]
* デリカフェ
* 麺家
* エピソード(ファッション雑貨)
* [[ココカラファイン]](ドラッグストア)
* [[日本旅行]](2019年12月24日閉店)
また、当駅に設置されている[[トイレ]]は大阪府内のJRの駅としては[[関西空港駅]]・[[大阪駅]]に次いで3番目とかなり早い段階から無料で[[トイレットペーパー]]が設置されていた。
=== バリアフリー ===
[[エレベーター]]は両ホームと改札階とを結ぶものと、改札階と地上(西口・東口とも)を結ぶものが設置されている。[[2017年]][[9月11日]]には両ホームと改札階とを結ぶエスカレーターの使用が開始された<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/02/page_5224.html 東海道本線(JR京都線)茨木駅改良計画について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2014年2月24日付</ref>。
== ダイヤ ==
朝ラッシュ時は、当該時間帯のみ外側線を走行する快速の多くが普通と連絡する。大阪方面については、当駅で快速と連絡を取らない普通も多くが新大阪駅到着までに追い抜かれる。
一方日中時間帯は普通と快速の連絡はなく、普通も全て大阪・高槻まで先着する。このためこれらの駅までの利用であれば1時間あたり12本(快速が4本、普通が8本)利用することが出来る。
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''41,582人'''であり、JR西日本の駅では[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]に次いで第16位。[[新快速]]通過駅の中では最も多い<ref group="注">当駅より乗降客数が多い、新快速の停車駅は、京都駅・高槻駅・新大阪駅・大阪駅・尼崎駅・三ノ宮駅・神戸駅・明石駅・姫路駅の9駅である。</ref>。茨木市内で最大の利用者数を誇り、[[阪急京都本線|阪急京都線]]の[[茨木市駅]]より利用者が多い。
=== 1日平均乗車人員 ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員は以下の通りである。
{| class="wikitable mw-collapsible" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/ データで見るJR西日本:JR西日本]</ref><ref group="統計">[https://www.pref.osaka.lg.jp/toukei/nenkan/index.html 大阪府統計年鑑] - 大阪府</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!うち定期
!定期率
!出典1
!出典2
|-
|1988年(昭和63年)
|41,612
|29,177
|70.1%
|
|<ref name=":0" group="大阪府">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00088438/tn1990n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成2年)]}}</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|42,465
|29,764
|70.0%
|
|<ref name=":0" group="大阪府" />
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|44,225
|30,731
|69.5%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00088143/tn1991n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成3年)]}}</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|44,582
|31,215
|70.0%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00088083/tn1992n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成4年)]}}</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|45,510
|32,103
|70.5%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085641/tn1993n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成5年)]}}</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|45,840
|32,069
|70.0%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085625/tn1994n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成6年)]}}</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|45,660
|31,812
|69.7%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085578/tn1995n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成7年)]}}</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|46,898
|32,412
|69.1%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085307/tn1996n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成8年)]}}</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|47,118
|32,611
|69.2%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00084805/tn1997n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成9年)]}}</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|45,816
|31,882
|69.6%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00084997/tn1998n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|44,932
|31,144
|69.3%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085083/tn1999n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|44,367
|30,654
|69.1%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085215/tn2000n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成12年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|44,961
|30,483
|67.8%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076905/tn01n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成13年)]}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|45,805
|30,863
|67.4%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076904/tn02n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成14年)]}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|44,810
|30,307
|67.6%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076903/tn03n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成15年)]}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|45,314
|30,736
|67.8%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076902/tn04n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成16年)]}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|45,318
|31,062
|68.5%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076901/tn05n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成17年)]}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|45,237
|31,088
|68.7%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076900/tn06n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成18年)]}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|45,648
|31,407
|68.8%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00074421/tn07n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成19年)]}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|45,502
|31,530
|69.2%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00074418/tn08n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成20年)]}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|45,688
|31,652
|69.3%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00064556/tn09n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成21年)]}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|44,799
|31,330
|69.9%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00071058/tn10n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成22年)]}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|44,387
|31,029
|69.9%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00093411/tn2011n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成23年)]}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|44,091
|30,795
|69.8%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00121073/tn2012n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成24年)]}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|44,319
|30,805
|69.5%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00144873/tn2013n09.pdf 大阪府統計年鑑(平成25年)]}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|45,194
|31,508
|69.7%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00180638/tn2014n09.pdf 大阪府統計年鑑(平成26年)]}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|44,432
|31,191
|70.2%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00211004/tn2015n09.pdf 大阪府統計年鑑(平成27年)]}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|48,122
|33,733
|70.1%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00242803/tn2016n09.pdf 大阪府統計年鑑(平成28年)]}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|48,626
|34,109
|70.1%
|
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00281833/9-all.pdf 大阪府統計年鑑(平成29年)]}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|49,010
|34,551
|70.5%
|<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2018_11.pdf |title=データで見るJR西日本2018 |format=PDF |accessdate=2019-09-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190531102805/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2018_11.pdf |archivedate=2019-05-31}}</ref>
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00319513/n2018-09-2.pdf 大阪府統計年鑑(平成30年)]}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|48,966
|34,587
|70.6%
|<ref name="jrwest-2018" group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2019_11.pdf |title=データで見るJR西日本2019 |format=PDF |accessdate=2019-09-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190926020425/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2019_11.pdf |archivedate=2019-09-26}}</ref>
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00357824/n2019-09.pdf 大阪府統計年鑑(令和元年)]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|48,243
|33,972
|70.4%
|<ref name="jrwest-2019" group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_11.pdf |title=データで見るJR西日本2020 |format=PDF |accessdate=2020-10-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201007094434/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_11.pdf |archivedate=2020-10-07}}</ref>
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00387493/n2020-09-01~31.pdf 大阪府統計年鑑(令和2年)]}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|36,110
|26,763
|74.1%
|<ref name="jrwest-2020" group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_11.pdf |title=データで見るJR西日本2021 |format=PDF |accessdate=2021-10-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211020131519/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_11.pdf |archivedate=2021-10-20}}</ref>
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00422997/n2021-09.pdf 大阪府統計年鑑(令和3年)]}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|37,859
|27,518
|72.7%
|<ref name="jrwest-2021" group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2022_11.pdf |title=データで見るJR西日本2022 |format=PDF |accessdate=2023-1-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2022_11.pdf |archivedate=2023-1-15}}</ref>
|<ref group="大阪府">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00447272/n2022-09.pdf 大阪府統計年鑑(令和4年)]}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|41,582
|
|
|<ref name=":0" group="JR">[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2023_11.pdf データで見るJR西日本2023]</ref>
|
|}
=== 年間乗車人員 ===
近年の1年間の累計'''乗車'''人員は以下の通り。
なお下表内の数値の単位は全て「千人」である。
{| class="wikitable mw-collapsible" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別年間累計乗車人員<ref group="統計">[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/kikou/soumu/soumu/menu/tokei/ibaraki_tokei/tokeisho/index.html 茨木市統計書] - 茨木市</ref>
!年度
!年間乗車人員
!うち定期
!出典
|-
|2007年(平成19年)
|16,654
|11,540
|<ref name="ibaraki2012" group="茨木市" />
|-
|2008年(平成20年)
|16,676
|11,553
|<ref name="ibaraki2012" group="茨木市" />
|-
|2009年(平成21年)
|16,352
|11,435
|<ref name="ibaraki2012" group="茨木市" />
|-
|2010年(平成22年)
|16,201
|11,326
|<ref name="ibaraki2012" group="茨木市" />
|-
|2011年(平成23年)
|16,137
|11,271
|<ref group="茨木市" name="ibaraki2012">[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/13/h24_toukeisyo.pdf 茨木市統計書 平成24年版(2012年版)PDF版 ]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|16,177
|11,244
|<ref group="茨木市">[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/13/h25toukeisyo.pdf 茨木市統計書 平成25年版(2013年版)PDF版 ]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|16,496
|11,500
|<ref group="茨木市">[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/13/h26toukeisyo.pdf 茨木市統計書 平成26年版(2014年版)PDF版 ]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|16,218
|11,385
|<ref group="茨木市">[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/13/h27tokeisho.pdf 茨木市統計書 平成27年版(2015年版)PDF版 ]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|17,565
|12,313
|<ref group="茨木市">[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/2/h28toukeisho.pdf 茨木市統計書 平成28年版(2016年版)PDF版 ]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|17,748
|12,450
|<ref group="茨木市">[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/2/toukeisho-h29.pdf 茨木市統計書 平成29年版(2017年版)PDF版 ]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|17,888
|12,611
|<ref group="茨木市">{{PDFlink|[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/2/toukeisho-h30.pdf 茨木市統計書 平成30年版(2018年版)PDF版 ]}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|17,873
|12,624
|<ref group="茨木市">{{PDFlink|[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/2/toukeisho-R01.pdf 茨木市統計書 令和元年版(2019年版)PDF版 ]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|17,657
|12,434
|<ref group="茨木市">{{PDFlink|[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/2/toukeisho-R02.pdf 茨木市統計書 令和2年版(2020年版)PDF版 ]}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|13,180
|9,768
|<ref group="茨木市">{{PDFlink|[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/2/toukeisho03.pdf 茨木市統計書 令和3年版(2021年版)PDF版]}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|13,819
|10,044
|<ref group="茨木市">{{PDFlink|[https://www.city.ibaraki.osaka.jp/material/files/group/2/toukeisho04.pdf 茨木市統計書 令和4年版(2022年版)PDF版]}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
=== 西口方面 ===
[[ファイル:Ibaraki Station Ibaraki Osaka pref Japan05-r.jpg|thumb|西口バスターミナルと[[茨木ショップタウン]]]]
{{columns-list|2|
* [[茨木ショップタウン]]
* [[茨木市立春日丘小学校]]
* [[茨木市立穂積小学校]]
* [[茨木警察署]]
* [[茨木郵便局]]
* [[北おおさか信用金庫]]本店
* [[イオンモール茨木]]
** [[茨木市立穂積図書館]]
* [[大阪府立春日丘高等学校]]
* [[大阪モノレール]][[宇野辺駅]](1.3 km程) - 徒歩で20分近く要する。幹線道路([[大阪府道2号大阪中央環状線|中央環状線]])を越える必要があるため、乗換には注意が必要。
* [[大阪府済生会茨木病院]](東口より無料送迎バスあり)
* [[大阪府三島府民センター]]
** [[茨木土木事務所|大阪府茨木土木事務所]]
}}
=== 東口方面 ===
[[ファイル:Ritsumeikan Building B.jpg|thumb|立命館大学大阪いばらきキャンパス(B棟と岩倉公園)]]阪急の茨木市駅へは東口方面へ1.5 kmほど。両駅間に市役所をはじめとした市の施設や国・大阪府の出先機関などが並び、茨木市の中心市街地を形成している。{{columns-list|2|
* 茨木市役所
* [[茨木市立養精中学校]]
* [[茨木神社]]
* 安住寺
* [[立命館大学]]大阪いばらきキャンパス
* [[茨木市立中条小学校]]
* [[大阪府立茨木高等学校]]
* [[公共職業安定所|ハローワーク]]茨木
* [[茨木市消防本部]]
* [[茨木市立中条図書館]]
}}
== バス路線 ==<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については行先が重複しているものを除き省略して記載しています。-->
メインのバス発着場となる西口にバスロータリーが整備されている他、東口にもバスのりばが設置されており、多数のバス路線が発着する。
[[ファイル:茨木駅西口バスターミナル(工事後).jpg|thumb|西口バスターミナル]]
=== 西口 ===
路線バスは[[阪急バス]]・[[近鉄バス]]・[[京阪バス]]の3社が乗り入れている。[[2015年]]11月27日より、西口駅前広場再整備に伴いのりばが変更となった<ref>[http://www.city.ibaraki.osaka.jp/kikou/kensetsu/dorokotsu/menu/news/jribarakiekinisiguchi.html JR茨木駅西口駅前広場のバス乗り場変更のお知らせ] - 茨木市役所建設部道路交通課</ref>。さらに、2016年12月5日からは、4番のりばを発着する近鉄バスの一部路線が、三菱UFJ銀行前に新設の11番のりばからの発着に変更された<ref>[http://www.city.ibaraki.osaka.jp/kikou/kensetsu/dorokotsu/menu/news/1479355349472.html JR茨木駅西口駅前広場のバス乗り場を一部変更します] - 茨木市役所建設部道路交通課</ref>。
かつては各方面への路線は[[茨木市駅]]西口と同様にロータリー中央部のホームから発着していたが、のりば変更後は4番のりばとして使用されている最も西側の1つを除き閉鎖され、現在は当駅前折り返しの阪急バス・近鉄バスの乗務員休憩所として使用されている。
エレベーターは1 - 3番のりばへは茨木駅前ビル側、5 - 10番のりばへは駅舎側に設置されているが、4番のりばには設置されていない。エスカレーターは11番のりば付近に設置されている。1 - 4番のりばと11番のりばおよびバスおりばから駅西口までの歩道橋には屋根が設置されていない。
==== 阪急バス ====
茨木駅前ビル付近の2番のりば、ロータリー内の7・8・9・10番のりばが割り当てられている。この内7番のりばはタクシーのりば横(近鉄バス5・6番のりばのすぐ後方)、8・9・10番のりばは駅舎付近のロータリー外周に設置されている。主に[[国際文化公園都市|彩都]]をはじめとした茨木市北部や[[箕面市]]方面への路線が発着。
停留所名は「'''JR茨木駅'''」。
忍頂寺車作線の一部は[[阪急バス豊能営業所|豊能営業所]]管轄だが、他は全て[[阪急バス茨木営業所|茨木営業所]]の管轄。
23時台以降発の便は深夜バスとして運行されている。深夜バスの運賃は通常の倍額である。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!路線!!行先!!備考
|-
!2
| style="text-align:center;" |
|阪急茨木市駅(西口)
|90・91・92・95・81・181・85・82・83・86・87系統
|-
! rowspan="2" |7
| style="text-align:center;" |[[阪急バス茨木営業所#茨木彩都線|'''茨木彩都線''']]
|'''95系統''':[[彩都西駅]]
|
|-
| rowspan="5" style="text-align:center;" |[[阪急バス茨木営業所#石橋線|'''石橋線''']]
|'''92系統''':小野原/[[石橋阪大前駅|阪急石橋阪大前駅]]
|朝の一部は小野原止まり
|-
! rowspan="4" |8
|'''92系統''':豊川一丁目
|平日のみ
|-
|'''臨時・直行''':豊川一丁目
|平日のみ、ノンストップ
|-
|'''90系統''':郡山団地/鍛冶屋橋/[[阪急バス茨木営業所|茨木営業所]]前方面循環/小野原
|鍛冶屋橋行き最終、平日の小野原行最終は深夜バス
|-
|'''93系統''':豊川四丁目
|
|-
! rowspan="7" |9
| rowspan="4" style="text-align:center;" |[[阪急バス茨木営業所#茨木サニータウン線|'''茨木サニータウン線''']]
|'''77系統''':茨木山手台七丁目
|茨木サニータウンから83または87系統となる便あり
|-
|'''83系統''':[[茨木サニータウン]]
|中央図書館前経由。茨木山手台七丁目からは77系統
|-
|'''86系統''':茨木サニータウン
|茨木山手台七丁目は経由しない。平日の最終便は深夜バス
|-
|'''87系統''':茨木サニータウン
|茨木山手台七丁目から77系統となる便あり
|-
| rowspan="4" style="text-align:center;" |'''[[阪急バス茨木営業所#忍頂寺車作線|忍頂寺車作線]]'''
|'''81系統''':中河原南口/忍頂寺/余野(東能勢中)
|中河原南口行きは土休日最終の深夜バスのみ。豊能営業所と共管(余野行きは3本全て)
|-
|'''181系統''':希望ヶ丘東([[阪急バス豊能営業所|豊能営業所]])
|[[阪急バス豊能営業所#忍頂寺車作線|豊能営業所の管轄]]
|-
|'''85系統''':粟生団地
|
|-
! rowspan="3" |10
|'''82系統''':[[学校法人追手門学院|追手門学院]]前
|
|-
| style="text-align:center;" |[[阪急バス茨木営業所#メゾン千里丘線|'''メゾン千里丘線''']]
|'''57系統''':[[山田駅 (大阪府)|阪急山田駅]]/[[千里中央駅|千里中央]]
|一部は阪急山田駅止まり
|-
| style="text-align:center;" |'''[[阪急バス茨木営業所#彩都もえぎ線|彩都もえぎ線]]'''
|'''直行''':ロジスタ・ロジクロス茨木彩都
|阪急茨木市駅(西口)にて乗車扱いのみ行う。一般客も利用可
|}
==== 近鉄バス ====
茨木駅前ビル付近の1番のりば、ロータリー内の4・5・6・11番のりばが割り当てられている。4番のりばはロータリー中央のホーム部、5・6番のりばはタクシーのりば横に設置。主に茨木市西部や[[吹田市]]方面へのバスが発着。
路線名は全て「茨木線」のため系統名を記載する。
停留所名は阪急バスと同じ「'''JR茨木駅'''」。[[近鉄バス鳥飼営業所|鳥飼営業所]]の管轄。
[[市立吹田サッカースタジアム]]で[[Jリーグ]]が開催される際には臨時直行バスが4番のりばより[[万博記念競技場]]までピストン運行される<ref>[http://www2.gamba-osaka.net/stadium/ ホームスタジアム/アクセス 市立吹田サッカースタジアム] - ガンバ大阪</ref>。この時は鳥飼以外の近鉄バス各営業所も応援として臨時便を運行する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!系統!!行先!!備考
|-
! rowspan="2" |1
| style="text-align:center;" |[[近鉄バス鳥飼営業所#八防系統|'''八防系統''']]
|'''21番''':[[南摂津駅]]
|平日のみ
|-
|
|阪急茨木市駅
|春日丘系統2番、阪大系統12(平日のみ)・22番
|-
!4
| style="text-align:center;" |[[近鉄バス鳥飼営業所#エキスポシティ系統|'''エキスポシティ系統''']]
|'''100番''':[[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]](エキスポシティ前)
|土休日7本のみ
|-
! rowspan="2" |5
| rowspan="2" style="text-align:center;" |[[近鉄バス鳥飼営業所#春日丘系統|'''春日丘系統''']]
|'''1番''':春日丘公園方面循環
|当停留所始発
|-
|'''2番''':春日丘公園方面循環
|
|-
! rowspan="3" |6
| rowspan="3" style="text-align:center;" |[[近鉄バス鳥飼営業所#阪大系統|'''阪大系統''']]
|'''12番''':[[日本庭園 (万博記念公園)|日本庭園]]前
|平日夜間1本のみ
|-
|'''24番''':[[大阪大学|阪大]]本部前
|一部便は阪大本部前にて茨木美穂ヶ丘行きと連絡
|-
|'''25番''':茨木美穂ヶ丘
|時間帯により経由順が一部異なる
|-
!11
| style="text-align:center;" |[[近鉄バス鳥飼営業所#弁天系統|'''弁天系統''']]
|'''14番''':[[辯天宗|茨木弁天前]]
|土休日1本のみ
|}
==== 京阪バス ====
阪急茨木を経て茨木市南東部・[[高槻市]]南部・[[枚方市]]方面へ向かう枚方茨木線が発着。[[京阪バス高槻営業所|高槻営業所]]の管轄。
西口では唯一、停留所名が「'''JR茨木'''」であり「駅」が付されていない。
3のりばが割り当てられており、おりばはのりば後方に設置されている(この間に阪急バス・近鉄バスのおりばもある)。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!路線!!行先!!備考
|-
! rowspan="4" |3
| rowspan="4" style="text-align:center;" |[[京阪バス高槻営業所#枚方茨木線|'''枚方茨木線''']]
|'''3号経路''':[[枚方市駅]]北口
|朝のみ。白川三丁目は経由しない
|-
|'''4A号経路''':白川三丁目
|平日夕方7本のみ
|-
|'''7号経路''':枚方市駅北口
|
|-
|'''7B号経路''':竹ノ内町
|
|}
=== 東口 ===
近鉄バスと京阪バスが路線バスを運行するほか、関空リムジンバスが発着している。停留所名は全て「'''JR茨木東口'''」。
なお、[[2015年]][[3月16日]](京阪バスのみ[[3月29日]])より、東口ロータリー再整備完了に伴いのりばが変更となっている。
ロータリー形態ではないため、各路線バスは当停留所 - 阪急茨木南口間において往路と復路で異なるルートを走行する。
==== 京阪バス ====
進行方向前方の1のりばより寝屋川茨木線が発着。[[摂南大学]]へ向かう学生が多数利用する。
平日の一部と土休日全便は[[京阪バス寝屋川営業所|寝屋川営業所]]の[[京阪バス寝屋川営業所#寝屋川茨木線|管轄]]である。平日の大部分は高槻営業所が担当。
摂南大学の祝日開講日や学内でイベント(オープンキャンパスや各種試験)が開催される場合は臨時便として「NS経路」が運行される<ref group="注">定期便では阪急茨木南口始発のみ運行。ただし大学からのNS経路は定期便でも当停留所まで運行されている。</ref>。途中、阪急茨木南口のみ停車する。
この他、毎年4月1日のみ京阪バス枚方茨木線9号経路・[[南茨木駅]]発着系統が停車する。南茨木駅行きについては駅東口から約200 mのNSビル前に専用ののりばが設置されている。枚方市駅行きについては寝屋川茨木線同様東口1のりばに停車。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば
!路線!!系統・行先
!備考
|-
!1
| style="text-align:center;" |[[京阪バス高槻営業所#寝屋川茨木線|'''寝屋川茨木線''']]
|'''12号経路''':[[寝屋川市駅]](西口)/上鳥飼北
|上鳥飼北行きは摂南大学休講期間のみ
|}
==== 近鉄バス ====
2・3番のりばより茨木市南東部を循環する茨木線の平田系統が発着。この路線も鳥飼営業所発着で、水尾三丁目回りと桑田町回りでのりばが分けられている。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば
!路線!!系統・行先
!備考
|-
!2
| rowspan="3" style="text-align:center;" |[[近鉄バス鳥飼営業所#平田系統|'''平田系統''']]
|'''83番''':水尾三丁目・平田方面循環
|
|-
! rowspan="2" |3
|'''84番''':桑田町・平田方面循環
|
|-
|'''85番''':桑田町・平田方面循環
|平日の最終便で、循環後に2回目の阪急茨木南口で運転を打ち切る
|}
==== リムジンバス ====
東口5番のりばは[[関西国際空港]]行きのリムジンバスのりばとなっている。[[関西空港交通]]と近鉄バスの共同運行で、過去には[[大阪空港交通]](現在の[[阪急観光バス]])とも共同で運行していた。{{要出典範囲|2021年3月から|date=2023年11月}}全便運休中。
=== スクールバス・通勤バス ===
バスのりばの容量の関係上、近隣の学校のスクールバスや企業の通勤バス等は駅前ではなく、駅より多少離れた場所より発着している。
主な発着場所は以下の2箇所であり、茨木市が管理を行っている。
* 茨木市上穂東町バスターミナル(JR茨木駅西口より北へ約600 m。春日1丁目交差点付近)
* 茨木市松ヶ本町バスターミナル(JR茨木駅西口より南西へ約500 m。イオンモール茨木北側)
== 隣の駅 ==
; 西日本旅客鉄道(JR西日本)
: {{JR西路線記号|K|A}} JR京都線(東海道本線旅客線)
:: {{Color|#0072bc|■}}新快速
::: '''通過'''
:: {{Color|#ff6600|■}}快速
::: [[高槻駅]] (JR-A38) - '''茨木駅 (JR-A41)''' - [[新大阪駅]] (JR-A46)
:: {{Color|#999|■}}普通
::: [[JR総持寺駅]](JR-A40) - '''茨木駅 (JR-A41)''' - [[千里丘駅]] (JR-A42)
: 東海道本線貨物線(旅客運転は通過列車のみ。{{要出典範囲|通称「『[[はるか (列車)|はるか]]』ルート」|date=2023年11月}})
::: '''茨木駅''' - (貨)[[吹田貨物ターミナル駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; データで見るJR西日本
{{Reflist|group="JR"}}
; 大阪府統計年鑑
{{Reflist|group="大阪府"|22em}}
; 茨木市統計書
{{Reflist|group="茨木市"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[大阪万博の交通]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR西日本駅|0610124|茨木|大阪府}}
{{JR京都線}}
{{東海道本線 (大阪府内貨物支線)}}
{{DEFAULTSORT:いはらき}}
[[Category:茨木市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 い|はらき]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:JR京都線|いはらきえき]]
[[Category:1876年開業の鉄道駅]]
|
2003-07-12T03:01:02Z
|
2023-12-11T13:55:47Z
| false | false | false |
[
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ラグビーフットボール
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ラグビーフットボール(英: Rugby football)は、イングランド中部のラグビーにあるラグビー校を発祥地とする2つのフットボールコード(code、法典)、ラグビーリーグ(13人制)とラグビーユニオン(15人制)を指す。日本でのラグビーは通常ラグビーユニオンである。
フィールド上の各サイドの人数やルールが異なる様々な派生競技が存在する。ラグビーユニオンでは通常の15人制に加え10人制(テンズ)と7人制(セブンズ)、ラグビーリーグでは通常の13人制に加え9人制(ナインズ)と7人制(セブンズ)の人気があり、各地で大会が開かれている。7人制ラグビーユニオンは夏季オリンピック、コモンウェルスゲームズ、アジア競技大会の正式種目である。
ラグビーリーグのルールに基づき、タックルを安全なタグやタッチに置き換えたタグラグビーやタッチラグビー、タッチラグビーを競技化したタッチも広くプレーされている。
ラグビーフットボールは2つのチームに分かれて行われ、楕円形(回転楕円体)のボールを奪い合って相手陣のインゴールまで運ぶ、あるいはH型のゴール上部に蹴り入れて得点を競うスポーツである。
イングランド発祥の競技ということもあって、ヨーロッパ(イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、フランス、イタリア。この内イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズはホームユニオンと称される)ばかりでなく、オセアニア(オーストラリア、ニュージーランド、サモア、フィジー、トンガ)および南アフリカ、アルゼンチンで人気の競技である。とりわけ英連邦諸国内ではサッカーやクリケットと並ぶ人気スポーツである。アメリカンフットボールは楕円形のボールを使う、タックルにより相手の前進を止めるなどラグビーフットボールと共通する特徴をもっていることから、古い時代に共通の起源をもつと考えられているものの、まったく別の競技である。
なお、ボールが楕円形であるなど他の球技に比べると珍しい特徴があるが、なぜこのような形になったかに関しては諸説があり、はっきりしていない。
由来地名にあたる「ラグビー」を意味する "Rugby(ラグビー)" との区別は、表記言語的には大文字の使用・不使用で明示されるが、一般には特に区別されない。また、球技「ラグビー」は英語で "rugger(ラガー)" ともいい、この語は「ラグビーをする人」をも意味する。ただ、「ラグビーをする人」を意味する英語としては "rugby player" のほうが一般的である。また、英語 "rugger" に由来する外来語としての日本語「ラガー」は、ほとんど後者の意味に限って通用し、後者の同義語「ラガーマン(英: rugger man)」のほうが多く用いられる。
現代日本語では、ほとんどすべての場合「ラグビー」というが、1925年(大正14年)ごろ以降、戦前(第二次世界大戦前)には「ラ式蹴球(ラしきしゅうきゅう)」が正式名称であったという。また、戦局が悪化して敵性語が禁止され始めた1943年(昭和18年)3月から終戦まで使われた「闘球(とうきゅう)」がある。なお、慶應義塾大学のラグビー部は例外的に現在も昔ながらの「蹴球部」(慶應義塾體育會蹴球部)を名乗っている。今でこそ「蹴球」はサッカーの別名という認識が定着しているが、当クラブが創立された1899年(明治32年)頃にはフットボール全般が「蹴球」で、ソッカー部(今でいうサッカー部)より数年早く創部されたラグビー部がその名を占有した(cf. 慶應義塾体育会ソッカー部)。「ラ式(※ラグビー式)」ことラグビー、「ア式(※アソシエーション式)」ことソッカー(サッカー)、「米式(べいしき)」ことアメリカンフットボールなどといった呼び分けは後付けである。
ラグビーフットボールの起源は、「1823年、イングランドの有名なパブリックスクールであるラグビー校でのフットボールの試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリスがボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」ことだとされている。
1840年頃にはボールを持って走る「ランニングイン」が確立して普及しだしたのは確かであるが、その第1号がエリス少年だったかどうかについては諸説ある。しかし、エリスが最初にボールを持って走ったという証言が記してある文章が、ラグビーフットボールの起源を調べる上で最古の文献だということは間違いなく、起源と考案者を探る上で名前がわかっている人物はエリスただ一人である。なお、エリス少年がルールを破ったとされるのは、ボールを手で扱ったことでなく、ボールを持って走った行為についてである。その頃はまだ今でいうサッカーも生まれておらず、当時のフットボールでは手を使うこと自体はルールとして許されていた。
エリスは1806年にマンチェスター近郊で生まれ、ラグビー校では少なくとも3シーズン、フットボールをプレーしている。オックスフォード大学に進み、卒業した後は牧師となり、病気療養のために渡った南フランスで65歳で没した。南仏コートダジュールの小都市マントンに墓地がある。ラグビーフットボールとクリケットを愛したと伝えられている。
ラグビー校ではラグビーフットボールのルーツ以外にも多くの習慣が生まれており、イングランド代表の白いジャージの元になった白いシャツとショーツと紺色のストッキング、ハーフタイムにサイドをチェンジする習慣、インターナショナル代表がかぶるキャップ、H型のゴールポスト、楕円球のボールなどラグビーフットボールの起源を示すような証拠が多くこの学校から生まれた。
ラグビーフットボールの源流である「原始フットボール」は中世イングランドに起源をさかのぼる。数千人の大人数が手と足を使って村と村の対抗戦として原始的な「フットボール」を行っていた。ちなみに1点先取で勝負を決めていたことから、長時間続けるために得点するのを難しくしようとオフサイドが生まれ、今日のラグビーフットボールにもルールとして生き永らえている。試合は祝祭でもあり、死者も出るほど激しかった。
19世紀に入り、ラグビー校やイートン校、ハロー校などパブリックスクールでは学校ごとに独自のルールでそれぞれのフットボールを行なっていた。それぞれ学校で違うルールの統一を目指した協議は長らく行われてきたが、1863年10月26日にロンドンのフリーメイソンズ・タバーンでFA(フットボール・アソシエーション)とロンドンにある12のクラブの間で会議が開かれ、12月までに6回のミーティングを持って統一ルールの作成を行った。この統一ルール作成により近代サッカーが本格的に誕生した。このとき、一部のクラブの代表が、ボールを持って走ること、ボールを運んでいる相手にハッキング(すねをけること)、トリッピング(引っ掛けてつまずかせること)およびホールディング(おさえること)を行うことが認められなくなったことに合意できず、FAを脱退した。これがラグビーフットボールとアソシエーションフットボール(サッカー)が分岐した瞬間である。
そして1871年、脱退した者たちによって、サッカーのFA(フットボール・アソシエーション、1863年設立)に対抗して、ロンドンでラグビーフットボール連合(RFU:ラグビーフットボール・ユニオン)が設立された。
発祥であるイギリスでは中流階級から上流階級の間でも人気があり、その子息が通う名門校でも盛んに行われていることから「ジェントルマンのスポーツ」とも称される。
ラグビーフットボールは英国でも指折りの炭鉱地帯であるマンチェスターを中心とするイングランド北部のランカスター、ヨークシャー地方ならびにウェールズ南部で発展していった。
しかし1895年、選手の労働会社などへの休業補償問題(現在も兼業しながらプレーする選手が多数だが、当時は今と違ってラグビーフットボールにはプロ契約が存在しなかった)がきっかけで、北部でRFUからの分裂が起き、22チームからなるプロリーグが発足した。それ以降、世界にはラグビーという名のスポーツが2つあり、ケンブリッジ大学対オックスフォード大学戦(ザ・バーシティマッチ)に代表される南部を母体とするアマチュア主義をうたった組織はラグビーユニオン、北部を母体とする報酬を目的とするものはラグビーリーグと呼ばれるようになった。
分裂した頃はルールは全く同一のものであったが、現在ではユニオンは15人制でリーグは13人制である。ルール上最も異なっている点は、ラグビーリーグがフォワードの密集(ラック、モール)を排除したことである。
プロ容認のリーグへのユニオン選手の流失が相次ぎ、リーグに移った選手はユニオンでのプレーを禁止されるなど長らくユニオンとリーグは対立状態にあった。
しかしラグビーワールドカップなどをきっかけに120年以上アマチュア主義を守ってきたユニオンも1995年以降にプロを認めたこともあり、コーチ層での交流(リーグのディフェンスシステムをユニオンに取り入れるなど)などからしだいに対立は緩和した。現在は選手がユニオンとリーグを行き来することも多い。現在、英国ではラグビーリーグとラグビーユニオンの両方のルールで前後半の試合を行うクロスコード・ゲームが行われることもある。
ラグビーユニオンとリーグに共通する特徴的な要素には、楕円形のボールの使用や前方へボールを投げることの禁止があり、選手が陣地を得る方法はボールを持って走るかボールを蹴るかしかない。ラグビーリーグではユニオンと分離し以降、より速いペースのよりトライを指向した試合とする目的でルール改正が行われている。
ユニオンとリーグの主な差異には、リーグが13人制でユニオンが15人制であること以外には、タックルとその直後のプレーがある。
ユニオンのセットプレーには、相手選手のパックをボールのポゼッションのために互いに押し合う「スクラム」や、タッチラインに対して垂直に平行なラインで並んだ両チームの選手がタッチから投げられたボールをキャッチしようと試みる「ラインアウト」がある。
リーグのルールにはスクラムはまだ存在しているが、関与する選手が少なく、争われることもほとんどないため重要性が大幅に減少している。セットプレーは一般的にプレー・ザ・ボールの状況から開始される。ラグビーリーグのポジションの多くはラグビーユニオンのポジションと同様の名称および要件を有しているが、ラグビーリーグにはフランカーが存在しない。
イングランドでは、ラグビーユニオンは「支配者層」のスポーツとして広く認められており、主に上流階級および中流階級に属する人々によってプレーされる。例えば、私立学校や文法学校(グラマースクール)の多くの生徒はラグビーユニオンをプレーする。しかし、コンプリヘンシブスクール(総合制中等学校)でも人気を得てきている。このステレオタイプにもかかわらず、ラグビーユニオンは特に西部地方では全ての階級で人気がある。グロスター・ラグビーは労働者階級のクラブの典型例である。対照的に、ラグビーリーグは伝統的に労働者階級のスポーツとして見られてきた。ラグビーユニオンに対する上流階級ステレオタイプのさらなる例外はウェールズである。ウェールズではラグビーユニオンは伝統的に休日にプレーする炭鉱労働者や産業労働者からなる小さな村のチームと結び付いてきた。アイルランドにおいて、ラグビーユニオンは国や宗派の壁を越えた求心力であり、ラグビーユニオンのアイルランド代表はアイルランド共和国と北アイルランドの統一チームである。
オーストラリアでは、ラグビーユニオンおよびラグビーリーグの人気はニューサウスウェールズ州、クイーンズランド州、オーストラリア首都特別地域に集中している。イングランドと同様の階級間の障壁がリーグとユニオンの間には存在し、これはラグビーユニオンが私立学校で支持され発展してきていることで促進されている。
上記の地域では、ラグビーユニオンが上・中流階級のスポーツ、ラグビーリーグが労働者階級のスポーツと認識されているのに対して、ニュージーランド、ウェールズ、パリを除くフランス、コーンウォール、グロスタシャー、サマセット、スコティッシュ・ボーダーズ、アイルランドのリムリック県、太平洋諸島は例外であり、ラグビーユニオンは労働者階級に人気がある。それにもかかわらず、ラグビーリーグはイングランド北部(英語版)やオーストラリアのニューサウスウェールズ州およびクイーンズランド州では労働者階級のスポーツとして認識されている。ニュージーランドでは、ラグビーリーグは下流階級あるいはオークランドの西部の郊外に住む下流階級を示す「westies」や最近ではラグビーリーグが人気のあるオークランド南部の貧困地域のスポーツといまだに多くの人によって考えられている。
イギリスでは、ラグビーユニオンのファンはこのスポーツの別称として「rugger」という用語を用いることがある。ニュージーランド人は通常ラグビーのことを「footy」あるいは「football」と呼び、ラグビーユニオンを指す場合は「ラグビー」あるいは「ユニオン」、ラグビーリーグは「ラグビーリーグ」あるいは「リーグ」と呼ばれる。アメリカ合衆国では、ラグビーをプレーする人々は「ruggers」と呼ばれることがある。
フランスでは、ラグビーは広くプレーされており、スペインとフランスとの間の境界領域に沿ったバスク、オクシタニア、カタルーニャ地域に強い伝統がある。また、19世紀に英語話者の入植者によってラグビーが伝えられた南アフリカでは、ラグビーは非常に人気がある。イギリス人入植者はラグビーをオーストラリアおよびニュージランドに伝えた。ラグビーはフィジー、サモア、トンガなどポリネシアの国々に広まって人気を博している。ラグビーユニオンはアメリカ州やアジアの一部でも同様に成長し続けている。
季語としての「ラグビー」は、冬の季語(三冬の季語)である。分類は人事/行事/生活。また、「ラグビー」を親季語とする子季語に「ラガー」がある。ただしここでいう「ラガー」は日本語の用法に限った語意と考えるべきで、したがって「ラグビーをする人」を指すと捉えておくのがよい(※対して英語での第1義は球技『ラグビー』の別名である)。
水牛歳時記によれば、ラグビーが俳句に詠まれるようになったのは昭和時代になってからとのこと。特に、山口誓子が昭和初期にラグビーの句を連作したことがきっかけになって定着したといわれている。
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ラグビーフットボールは、イングランド中部のラグビーにあるラグビー校を発祥地とする2つのフットボールコード(code、法典)、ラグビーリーグ(13人制)とラグビーユニオン(15人制)を指す。日本でのラグビーは通常ラグビーユニオンである。 フィールド上の各サイドの人数やルールが異なる様々な派生競技が存在する。ラグビーユニオンでは通常の15人制に加え10人制(テンズ)と7人制(セブンズ)、ラグビーリーグでは通常の13人制に加え9人制(ナインズ)と7人制(セブンズ)の人気があり、各地で大会が開かれている。7人制ラグビーユニオンは夏季オリンピック、コモンウェルスゲームズ、アジア競技大会の正式種目である。 ラグビーリーグのルールに基づき、タックルを安全なタグやタッチに置き換えたタグラグビーやタッチラグビー、タッチラグビーを競技化したタッチも広くプレーされている。
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{{出典の明記|date= 2021年4月6日 (火) 06:56 (UTC)}}{{Otheruses|2=15人制のラグビー競技|3=ラグビーユニオン|4=13人制のラグビー競技|5=ラグビーリーグ}}[[ファイル:Scrum-1.JPG|thumb|360px|'''[[ラグビーユニオン]]'''/[[クルセイダーズ (ラグビー)|クルセイダーズ]]と[[ブランビーズ (ラグビー)|ブランビーズ]]との間の[[スクラム (ラグビー)|スクラム]]。]]
[[ファイル:Paul Gallen (26 October 2008).jpg|thumb|'''[[ラグビーリーグ]]'''/[[ニュージーランド]]の選手が[[オーストラリア]]の選手にタックルしている。]]
'''ラグビーフットボール'''({{lang-en-short|Rugby football}})は、[[イングランド]]中部の[[ラグビー (イングランド)|ラグビー]]にある[[ラグビー校]]を発祥地とする2つの[[フットボール]]コード(code、[[法典]])、'''[[ラグビーリーグ]]'''(13人制)と'''[[ラグビーユニオン]]'''(15人制)を指す。[[日本のラグビーユニオン|日本でのラグビー]]は通常[[ラグビーユニオン]]である。
フィールド上の各サイドの人数やルールが異なる様々な派生競技が存在する。ラグビーユニオンでは通常の15人制に加え[[10人制ラグビー|10人制]](テンズ)と[[7人制ラグビー|7人制]](セブンズ)、ラグビーリーグでは通常の13人制に加え[[ラグビーリーグナインズ|9人制]](ナインズ)と[[ラグビーリーグセブンズ|7人制]](セブンズ)の人気があり、各地で大会が開かれている。7人制ラグビーユニオンは[[夏季オリンピック]]、[[コモンウェルスゲームズ]]、[[アジア競技大会]]の正式種目である。
ラグビーリーグのルールに基づき、[[タックル (フットボール)#ラグビー|タックル]]を安全なタグやタッチに置き換えた[[タグラグビー]]や[[タッチラグビー]]、タッチラグビーを競技化した[[タッチ (スポーツ)|タッチ]]も広くプレーされている。
== 概要 ==
[[ファイル:Rugby tackle cropped.jpg|thumb|220px|]]
ラグビーフットボールは2つのチームに分かれて行われ、[[楕円形]]([[回転楕円体]])の[[ボール]]を奪い合って相手陣のインゴールまで運ぶ、あるいはH型のゴール上部に蹴り入れて得点を競う[[スポーツ]]である。
[[イングランド]]発祥の競技ということもあって、[[ヨーロッパ]]([[イングランド]]、[[スコットランド]]、[[アイルランド]]、[[ウェールズ]]、[[フランス]]、[[イタリア]]。この内イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズは'''[[ホーム・ネイションズ|ホームユニオン]]'''と称される)ばかりでなく、[[オセアニア]]([[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[サモア]]、[[フィジー]]、[[トンガ]])および[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]、[[アルゼンチン]]で人気の競技である。とりわけ[[英連邦]]諸国内では[[サッカー]]や[[クリケット]]と並ぶ人気スポーツである。[[アメリカンフットボール]]は楕円形のボールを使う、タックルにより相手の前進を止めるなどラグビーフットボールと共通する特徴をもっていることから、古い時代に共通の起源をもつと考えられているものの、まったく別の競技である。
なお、ボールが楕円形であるなど他の球技に比べると珍しい特徴があるが、なぜこのような形になったかに関しては諸説があり、はっきりしていない。<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/rugby/106|title=ラグビーボールはなぜ楕円球なのか|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2016-03-27|accessdate=2020-11-17}}</ref>
== 名称 ==
{{Anchors|Rugbyとrugby|rugger|rugby player|ラガー|ラガーマン}}由来[[地名]]にあたる「[[ラグビー (イングランド)|ラグビー]]」を意味する "'''Rugby'''(ラグビー)" との区別は、表記言語的には[[大文字]]の使用・不使用で明示されるが{{r|kb}}、一般には特に区別されない。{{Anchors|ラガー|ラガーマン}}また、[[球技]]「ラグビー」は英語で "'''rugger'''(ラガー)" ともいい、この語は「ラグビーをする人」をも意味する<ref name="kb_ラガー">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ラガー |title=ラガー |publisher=コトバンク |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』、[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版、小学館『精選版 [[日本国語大辞典]]』 |accessdate=2019-10-01 }}</ref>。ただ、「ラグビーをする人」を意味する英語としては "'''rugby player'''" のほうが一般的である。また、英語 "rugger" に由来する[[外来語]]としての[[日本語]]「'''ラガー'''」は、ほとんど後者の意味に限って通用し、後者の[[同義語]]「'''ラガーマン'''({{lang-en-short|'''rugger man'''}}<ref group="注">出版社の異なる複数の日本語辞書に「ラガーマン(英語表記)rugger man」などと記載されており、[[和製英語]]ではないようであるが、少なくとも "rugger man" は英語話者に広く通用する英語ではない。</ref>)」のほうが多く用いられる<ref name="kb_ラガーマン">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ラガーマン |title=ラガーマン |publisher=コトバンク |author=三省堂『大辞林』第3版、小学館『精選版 日本国語大辞典』 |accessdate=2019-10-01 }}</ref>。
{{Anchors|ラ式蹴球|蹴球|闘球}}現代日本語では、ほとんどすべての場合「ラグビー」というが、[[1925年]]([[大正]]14年)ごろ以降{{Refnest|group="注"|[[小学館]]『精選版 [[日本国語大辞典]]』の1925年刊行の大増補改版に付属する「新らしい言葉の字引」が、少なくとも同社における初出である<ref name="kb_ラ式蹴球">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ラ式蹴球 |title=ラ式蹴球 |publisher=コトバンク |author=小学館『精選版 日本国語大辞典』、ほか |accessdate=2019-10-01 }}</ref>。}}、[[戦前]]([[第二次世界大戦]]前)には「'''ラ式蹴球'''(ラしきしゅうきゅう)」{{r|kb_ラ式蹴球}}が正式名称であったという<ref name="水牛">{{Cite web|和書|author=大澤水牛 |title=ラグビー |url=http://sogyusha.org/saijiki/04_winter/rugby.html |publisher=[[特定非営利活動法人|NPO法人]]双牛舎[http://sogyusha.org/] |website=水牛歳時記(公式ウェブサイト) |accessdate=2019-10-01 }}</ref>。また、戦局が悪化して[[敵性語]]が禁止され始めた[[1943年]](昭和18年)3月から[[終戦]]まで使われた「'''闘球'''(とうきゅう)」がある<ref name="朝日_20180618">{{Cite news |和書 |author=吉永岳央 |date=2018-06-18 |title=日本はなぜサッカーと呼ぶ? 世界はフットボールが主流 - サッカーワールドカップ |url=https://www.asahi.com/articles/ASL6B4RD9L6BUTQP00Y.html |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |accessdate=2019-09-30 }}</ref>。なお、[[慶應義塾大学]]のラグビー[[クラブ活動|部]]は例外的に現在も昔ながらの「蹴球部」([[慶應義塾體育會蹴球部]])を名乗っている{{r|朝日_20180618}}。今でこそ「'''蹴球'''」は<ref name="kb_蹴球">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/蹴球 |title=蹴球 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-10-01 }}</ref>[[サッカー]]の別名という認識が定着しているが、当クラブが創立された[[1899年]]([[明治]]32年)頃にはフットボール全般が「蹴球」で、ソッカー部(今でいうサッカー部)より数年早く創部されたラグビー部がその名を占有した(''cf.'' {{small|[[慶應義塾体育会ソッカー部]]}})。「ラ式(※ラグビー式)」ことラグビー{{r|kb_蹴球}}、「ア式(※アソシエーション式)」ことソッカー(サッカー){{r|kb_蹴球}}<ref name="kb_ア式蹴球">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ア式蹴球 |title=ア式蹴球 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-10-01 }}</ref>、「米式(べいしき)」こと[[アメリカンフットボール]]{{r|kb_蹴球}}<ref name="kb_米式蹴球">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/米式蹴球 |title=米式蹴球 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-10-01 }}</ref>などといった呼び分けは後付けである。
== ラグビーフットボールの歴史 ==
{{See also|ラグビーユニオンの歴史}}
ラグビーフットボールの起源は、「[[1823年]]、[[イングランド]]の有名な[[パブリックスクール]]である[[ラグビー校]]での[[フットボール]]の試合中、[[ウィリアム・ウェッブ・エリス]]がボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」ことだとされている。
1840年頃にはボールを持って走る「ランニングイン」が確立して普及しだしたのは確かであるが、その第1号がエリス少年だったかどうかについては諸説ある。しかし、エリスが最初にボールを持って走ったという証言が記してある文章が、ラグビーフットボールの起源を調べる上で最古の文献だということは間違いなく、起源と考案者を探る上で名前がわかっている人物はエリスただ一人である。なお、エリス少年がルールを破ったとされるのは、ボールを手で扱ったことでなく、ボールを持って走った行為についてである。その頃はまだ今でいう[[サッカー]]も生まれておらず、当時のフットボールでは手を使うこと自体はルールとして許されていた<ref group="注">日本の資料ではしばしば「エリス少年がサッカーの試合中にボールを持って走り出した」という記述が見受けられる。一例として、[[2020年東京オリンピック]]の[https://megalodon.jp/2021-0816-2335-22/https://olympics.com:443/ja/sports/rugby-sevens/ 公式ホームページ]にさえ、「ラグビーの伝説によれば、1823年、イギリスのラグビー校の生徒が、'''サッカーの試合中'''にボールを手に取り、ゴールライン目掛けて走ったことがこの競技の起源だと言われています」という記述がある。このような記述の存在のため、「サッカーの試合中に手を使ってプレーしたことからラグビーが生まれた」という誤解が起きているが、前述のとおり、まだサッカーとラグビーが未分化であった当時、手を使うこと自体はルール違反ではなかった。</ref>。
エリスは1806年に[[マンチェスター]]近郊で生まれ、ラグビー校では少なくとも3シーズン、フットボールをプレーしている。[[オックスフォード大学]]に進み、卒業した後は[[牧師]]となり、病気療養のために渡った南フランスで65歳で没した。南仏[[コートダジュール]]の小都市[[マントン]]に墓地がある。ラグビーフットボールと[[クリケット]]を愛したと伝えられている。
ラグビー校ではラグビーフットボールのルーツ以外にも多くの習慣が生まれており、イングランド代表の白い[[ラグビージャージ|ジャージ]]の元になった白いシャツとショーツと紺色のストッキング、ハーフタイムにサイドをチェンジする習慣、インターナショナル代表がかぶるキャップ、H型のゴールポスト、楕円球のボールなどラグビーフットボールの起源を示すような証拠が多くこの学校から生まれた。
ラグビーフットボールの源流である「原始フットボール」は中世[[イングランド]]に起源をさかのぼる。数千人の大人数が手と足を使って村と村の対抗戦として原始的な「フットボール」を行っていた。ちなみに1点先取で勝負を決めていたことから、長時間続けるために得点するのを難しくしようと[[オフサイド]]が生まれ、今日のラグビーフットボールにもルールとして生き永らえている。試合は祝祭でもあり、死者も出るほど激しかった。
19世紀に入り、ラグビー校や[[イートン校]]、ハロー校など[[パブリックスクール]]では学校ごとに独自のルールでそれぞれのフットボールを行なっていた。それぞれ学校で違うルールの統一を目指した協議は長らく行われてきたが、1863年[[10月26日]]に[[ロンドン]]のフリーメイソンズ・タバーンで[[フットボール・アソシエーション|FA]](フットボール・アソシエーション)と[[ロンドン]]にある12のクラブの間で会議が開かれ、12月までに6回のミーティングを持って統一ルールの作成を行った。この統一ルール作成により近代[[サッカー]]が本格的に誕生した。このとき、一部のクラブの代表が、ボールを持って走ること、ボールを運んでいる相手に[[ハッキング (ラグビー)|ハッキング]](すねをけること)、トリッピング(引っ掛けてつまずかせること)およびホールディング(おさえること)を行うことが認められなくなったことに合意できず、FAを脱退した。これがラグビーフットボールとアソシエーションフットボール(サッカー)が分岐した瞬間である。
そして[[1871年]]、脱退した者たちによって、サッカーのFA(フットボール・アソシエーション、[[1863年]]設立)に対抗して、[[ロンドン]]で[[ラグビー・フットボール・ユニオン|ラグビーフットボール連合]](RFU:ラグビーフットボール・ユニオン)が設立された。
発祥であるイギリスでは[[中流階級]]から[[上流階級]]の間でも人気があり、その子息が通う名門校でも盛んに行われていることから「[[ジェントルマン]]のスポーツ」とも称される。
=== ラグビーユニオンとラグビーリーグ ===
{{main|ラグビーユニオン|ラグビーリーグ|ラグビーリーグとラグビーユニオンの比較}}
ラグビーフットボールは[[イギリス|英国]]でも指折りの[[炭鉱]]地帯である[[マンチェスター]]を中心とするイングランド北部の[[ランカスター (ランカシャー州)|ランカスター]]、[[ヨークシャー]]地方ならびに[[ウェールズ]]南部で発展していった。
しかし[[1895年]]、選手の労働会社などへの休業補償問題(現在も兼業しながらプレーする選手が多数だが、当時は今と違ってラグビーフットボールには[[プロフェッショナル|プロ]]契約が存在しなかった)がきっかけで、北部でRFUからの分裂が起き、22チームからなるプロリーグが発足した。それ以降、世界にはラグビーという名のスポーツが2つあり、[[ケンブリッジ大学]]対[[オックスフォード大学]]戦([[ザ・バーシティマッチ]])に代表される南部を母体とする[[アマチュア]]主義をうたった組織は'''[[ラグビーユニオン]]'''、北部を母体とする報酬を目的とするものは'''[[ラグビーリーグ]]'''と呼ばれるようになった。
分裂した頃はルールは全く同一のものであったが、現在ではユニオンは15人制でリーグは13人制である。ルール上最も異なっている点は、ラグビーリーグがフォワードの密集([[ラック (ラグビー)|ラック]]、[[モール (ラグビー)|モール]])を排除したことである。
プロ容認のリーグへのユニオン選手の流失が相次ぎ、リーグに移った選手はユニオンでのプレーを禁止されるなど長らくユニオンとリーグは対立状態にあった。
しかし[[ラグビーワールドカップ]]などをきっかけに120年以上アマチュア主義を守ってきたユニオンも1995年以降にプロを認めたこともあり、コーチ層での交流<ref>{{cite web|url=https://www.planetrugby.com/analysis-leagues-growing-impact-on-union/|title=Analysis: League’s growing impact on union|date=2019-07-17|author=Sam Larner|publisher=planetrugby|accessdate=2019-11-03}}</ref>(リーグのディフェンスシステムをユニオンに取り入れるなど)などからしだいに対立は緩和した。現在は選手がユニオンとリーグを行き来することも多い。現在、英国ではラグビーリーグとラグビーユニオンの両方のルールで前後半の試合を行うクロスコード・ゲームが行われることもある。
=== ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表 ===
; 18世紀まで
* 1400年から1800年 - 多くの異なる種類の[[フットボール]](サッカーやラグビーフットボールの先祖)が[[グレートブリテン島]]各地で行われていた。現代サッカーと異なり、ほとんどのフットボールの試合では手を使うことが許されていた。
; 19世紀
* 1830年 - ボールを持って走ることは1830年代にラグビー校で一般的になり、1850年代と1860年代にラグビースクールフットボールは連合王国中で人気となった。
* 1863年 - ザ・フットボール・アソシエーション (FA) が結成され、FAとラグビーフットボールの間の分裂が正式なものとなった。
; ラグビーとサッカーの分裂
* 1864年 - 初のラグビークラブが[[リーズ]]と[[ハダーズフィールド]]で結成され、その後1870年代と1880年代には[[カンバーランド]]、[[ランカシャー]]、[[ヨークシャー]]で何百ものクラブが作られた。
* 1871年 - '''ラグビー・フットボール・ユニオン'''(ラグビーフットボール協会、'''RFU''')が創設され、{{仮リンク|ポールモールレストラン|en|Pall Mall Restaurant}}で21クラブによる会合が開かれた。
* 1871年 - 確認されている初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われた。
* 1876年 - {{仮リンク|マシュー・ブロクサム|en|Matthew Bloxam}}の書簡が{{仮リンク|ザ・ミーティア|en|The Meteor}}に掲載された。この書簡ではラグビー校の生徒のウィリアム・ウェブ・エリスがボールを拾い上げたことがラグビーの発祥であると主張されている。1895年のラグビー協会の調査では証拠はないとされたが、この神話を不朽のものとすることが決定された。
* 1876年 - {{仮リンク|ヨークシャーカップ (ラグビーユニオン)|en|Yorkshire Cup (rugby union)|label=ヨークシャーカップ}}がヨークシャーのラグビークラブによって始まった。この大会は[[FAカップ]]決勝よりも多くの観客を集めた。
* 1877年 - 選手数が1チーム20人から15人に減少した。
* 1883年 - 初の[[シックス・ネイションズ|ホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ]]がイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの間で行われた。
* 1886年 - 大部分が[[労働者階級]]で構成される北部クラブの高まる優越性を危惧して、南部が主体のラグビーフットボール協会は厳格なアマチュアルールを導入した。
* 1888年・1889年 - ニュージーランド先住民フットボールチームがブリテン、オーストラリア、ニュージーランド遠征を行った。
* 1890年- 1890/91シーズンから現代の得点システムが[[ホーム・ネイションズ]]によって一様に承認された。
* 1892年 - [[ブラッドフォード]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}}とリーズのラグビーフットボールクラブが選手の休業保障を行ったことによって、プロフェッショナリズムの非難が向けられた。しかしラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) 自身も、1888年ブリテン諸島代表のオーストラリア遠征や、1904年にイングランドと対戦したニューサウスウェールズのHarry Hamillに対する支払いを認めている。
* 1893年 - ヨークシャーのクラブは選手の休業保障として6[[シリング]]を支払うことを提案したが、RFUはこの提案を否決した。これによって北部のクラブおよび選手による試合の中止が広がっていった。
; ラグビーリーグとラグビーユニオンの分裂
* 1895年(リーグ・ユニオン) - ラグビーフットボール界の分裂の結果、'''ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン''' ('''NRFU''') が結成された。この分裂には、労働者階級の北部チームの成功や、入場料を徴収した競技場でのラグビー試合のRFUによる禁止命令、クラブがアマチュアリズムを受け入れなかった場合のRFUからの除籍に対する恐れ、選手が仕事を休んでラグビーの試合に出場した際の休業保障の開始など多くの要素が作用している。同じような動きは他の国々でも存在した。22のクラブがハダーズフィールドのジョージホテルで会合を開きNRFUが結成された。ハダーズフィールドでの初会合から15年以内に、200以上のクラブがRFUを脱退しNRFUに加入した。
* 1896年(リーグ) - [[マニンガムFC|マニンガム]]が初のノーザン・ユニオン・チャンピオンシップで優勝した。マニンガムは1903年にアソシエーションフットボール([[サッカー]])に転向し、[[ブラッドフォード・シティAFC|ブラッドフォード・シティ]]となった。
* 1896年(リーグ) - [[ラグビーリーグ・チャレンジカップ]]が創設され、開始から成功を収めた。[[バトリー・ブルドッグズ|バトリー]]が[[セント・ヘレンズRFC|セント・ヘレンズ]]を10対3で破り、初の勝者となった。
* 1897年(リーグ) - 試合をより興奮するものにするため、ノーザン・ユニオンはラインアウトを廃止し、全てのゴールの得点を2点に減らした。ラインアウトはタッチラインからのパントに変更された。トライは3点を与えられた。
* 1898年(リーグ) - ノーザン・ユニオンにプロフェッショナリズムが導入された。このプロフェッショナリズムは厳密にパートタイムであり、選手は他の「きちんとした」仕事を持っていることが義務付けられた。
* 1900年(ユニオン) - ラグビーユニオンが1900年の夏季[[パリオリンピック (1900年)|パリオリンピック]]に採用された。これは1924年の[[パリオリンピック (1924年)|パリオリンピック]]に終了した。
; 20世紀前半
* 1901年(リーグ) - ラグビーリーグのラインアウトに代わるパントアウトの導入実験がわずか4年で終了した。現在はボールがアウト・オブ・プレーになると[[スクラム (ラグビー)|スクラム]]でリスタートされる。
* 1904年(リーグ) - ラグビーリーグの初の国際試合が[[ウィガン]]で行われ、イングランドが他国合同チームに3対9で敗れた。
* 1905年(ユニオン) - ウェールズが初遠征を行ったラグビーユニオンのニュージーランド代表にかろうじて勝利した。この試合は「{{仮リンク|世紀の試合|en|The Game of the Century<!-- 曖昧さ回避ページ -->}}」と呼ばれた。
* 1906年(ユニオン) - イングランドは([[スプリングボクス]]として知られる)南アフリカとラグビーユニオンの試合を初めて行った。南アフリカが黒人選手がプレーすることに抗議した後、{{仮リンク|ジェームス・ピータース (ラグビー)|en|James Peters (rugby)|label=ジェームス・ピータース}}がイングランドチームから外された。
* 1906年(ユニオン) - ジェームス・ピータースはイングランド代表としてスコットランドと戦い、初の黒人ラグビー選手となった。
* 1906年(リーグ) - ラグビーリーグにおいて、よりクリエイティブなプレーのためのスペースを与えるために選手数が15人から13人に減らされた。タックル後の試合再開の形としてプレー・ザ・ボールの初期の形が導入された。
* 1907年(リーグ) - ラグビーリーグが[[オーストラリア]]および[[ニュージーランド]]に広まっていった。ニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・リーグが[[シドニー]]のBateman'sホテルで創設された。ニューサウスウェールズ・ラグビー・リーグは故障した選手に対する保障問題でオーストラリアン・ラグビー・ユニオンと喧嘩した後に、8チームで開始した。初優勝はサウス・シドニーが果たした。ラグビーリーグは[[ニューサウスウェールズ州]]と[[クイーンズランド州]]での主要なフットボール競技としてラグビーユニオンに取って代わっていった。
* 1907年(リーグ) - ニュージーランドラグビーリーグチームがブリテンへ遠征を行った。ニュージーランドの郵便局員{{仮リンク|アルバート・ヘンリー・バスカヴィル|en|Albert Henry Baskerville}}によって組織されたニュージーランド遠征チームは、彼らのオープン・プロフェッショナリズムのために母国のメディアに「オール・ゴールズ (All Golds)」との汚名を着せられた。彼らはシドニーとブリテンではラグビーユニオンのルールで試合を行い、オーストラリアの偉大な選手である{{仮リンク|ダリ・メッセンジャー|en|Dally Messenger}}に遠征に加わるよう説得した。彼らは初の[[テストマッチ]]に2対1で勝利したが、バスカヴィルは帰国中に[[肺炎]]のため25歳で死去した。
* 1908年(リーグ) - 初のオーストラリア[[カンガルーズ]]遠征チームがブリテンを訪れた。{{仮リンク|ハンスレット・ホークス|en|Hunslet Hawks|label=ハンスレット}}は、チャンピオンシップ、チャレンジカップ、ヨークシャーカップ、ヨークシャーリーグの4つのトロフィー全てを手にした初のクラブとなった。ハンスレットはラグビーリーグ初期の主要な選手である{{仮リンク|アルバート・ゴールドソープ|en|Albert Goldthorpe}}に率いられた。
* 1910年(ユニオン) - ラグビーユニオンのホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがフランスの参加により[[シックス・ネイションズ|ファイブ・ネイションズ・チャンピオンシップ]]となった。
* 1910年(リーグ) - 初のノーザン・ユニオンの{{仮リンク|ラグビーリーググレートブリテン代表|en|Great Britain national rugby league team|label=ブリティッシュ・ライオンズ}}による遠征がオーストラリアおよびニュージーランドへ行われ、シドニーと[[ブリスベン]]で行われたテストマッチに勝利した。
* 1912年(ユニオン) - [[ラグビー南アフリカ代表|ラグビーユニオン南アフリカ代表]]がブリテン諸島およびフランスに遠征した。遠征チームはイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、フランスのヨーロッパ5チーム全ての勝利する「グランドスラム」を達成した。
* 1914年(リーグ) - [[ハダーズフィールド・ジャイアンツ|ハダーズフィールド]]の{{仮リンク|アルバート・ローゼンフェルド|en|Albert Rosenfeld}}が1シーズン100トライを記録した。ブリテン代表遠征チームはテストマッチ3連戦の最終戦でオーストラリアに14対6で勝利し、{{仮リンク|ジ・アッシーズ (ラグビーリーグ)|en|The Ashes (rugby league)|label=The Ashes}}を勝ち取った。最後までこの試合に残っていたのはわずか10人であり(選手交代は認められていなかった)、{{仮リンク|ロークス・ドリフトの防衛戦|en|Battle of Rorke's Drift|label=ロークス・ドリフト}}のテストマッチとして知られるようになった。
* 1922年(リーグ) - ノーザン・ユニオンは'''ラグビー・フットボール・リーグ'''と改名した。この組織名がオーストラリアにおけるこのスポーツの名称としても以後使用されるようになった。
* 1925年(ユニオン) - ラグビーユニオンの[[オールブラックス]]のブリテン、フランス、カナダ遠征が行われた。ニュージーランド人達は遠征中無敗を誇り、「The Invincibles(無敵)」の称号を得た。
* 1929年(リーグ) - 初の[[ラグビーリーグ・チャレンジカップ]]決勝が[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]で行われた。41,500人の観衆の前で[[ウィガン・ウォリアーズ|ウィガン]]が{{仮リンク|デューズベリー・ラムズ|en|Dewsbury Rams|label=デューズベリー}}に13対2で勝利した。
* 1930年(ユニオン) - ファイブ・ネイションズとは別にラグビーユニオンヨーロピアンカップが始まった。この大会は第二次世界大戦で中断された。
* 1930年(ユニオン) - ラグビーリーグのブリテン代表とオーストラリア代表のテストマッチ第3戦が0対0の引き分けに終わった後、前例のない第4戦が[[ロッチデール]]で行われた。ブリテン代表は3対0で勝利しThe Ashesを手にした。
* 1932年(リーグ) - 夜間照明の下で初のラグビーリーグの試合が開催された。
* 1933年(リーグ) - 大晦日、フランスにおける初のラグビーリーグの試合が、イングランドとオーストラリアの間で行われた。フランスはプロフェッショナリズムの申し立ての真っ只中にありラグビーユニオンのファイブ・ネイションズから除外されていたことから、新しいスポーツを受け入れようとしていた。
* 1934年(リーグ) - 元ラグビーユニオン代表の{{仮リンク|ジャン・ガリア|en|Jean Galia}}によってフランスでラグビーリーグが設立された。1939年までにフランスリーグには225クラブが所属した。
* 1934年(リーグ) - フランスはパリで初めての国際試合を行いイングランドに32対21で敗れた。[[サルフォード・レッドデビルズ|サルフォード]]はフランス遠征を行い、‘Les Diables Rouges’(赤い悪魔)のニックネームを得た。
* 1941年(リーグ・ユニオン) - フランス[[ヴィシー政権|ヴィシー政府]]は敵国との繋り(フランスはドイツおよびイタリアの占領下にあった)を理由にラグビーリーグを禁止した。ラグビーリーグの資金および資産は全て没収されるかラグビーユニオンのクラブに渡った。ラグビーユニオンは無傷であり、ラグビーリーグに奪われた競技場のほとんどを取り返した。今でもラグビーリーグのクラブの資産は彼らに返還されていない。
* 1943年(リーグ・ユニオン) - {{仮リンク|ノーザン・コマンド (イギリス)|en|Northern Command (United Kingdom)|label=ノーザン・コマンド}}陸軍ラグビーリーグチームとノーザン・コマンド陸軍ラグビーユニオンチームは[[ヘディングリー・スタジアム|ヘディングリー]]でラグビーユニオンルールで戦い、ラグビーリーグ側が18対11で勝利した。次の年は三軍統合ラグビリーグチームが三軍統合ラグビーユニオンチームを15対10で破った。1996年に交流が再開されるまでリーグ対ユニオンの試合はこれらだけであった。
* 1944年(リーグ) - ヴィシー政権の崩壊により、フランスにおけるラグビーリーグの禁止令が解除された。
* 1945年(リーグ) - {{仮リンク|ブライアン・ビーヴァン|en|Brian Bevan}}が[[ウォリントン・ウルブズ|ウォリントン]]でラグビーリーグデビューを果たした。16年間に渡って、ビーヴァンはウォリントンで620試合に出場し740トライを上げた。キャリア通算トライ数は796。しかし、故郷のオーストラリア代表としてプレーすることはなかった。
* 1946年(リーグ) - {{仮リンク|ランス・トッド・トロフィー|en|Lance Todd Trophy}}がチャレンジカップ決勝のマン・オブ・ザ・マッチに初めて手渡された。[[ウェイクフィールド・トリニティ|ウェイクフィールド・トリニティー・ワイルドキャッツ]]の{{仮リンク|ビリー・ストット|en|Billy Stott}}が初の受賞者となった。1942年に交通事故で死亡した{{仮リンク|ランス・トッド|en|Lance Todd}}は1907年ニュージーランド代表遠征チームの一員であり、サルフォードを1928年から1940年まで指揮した。
* 1946年(リーグ) - この年は史上最も有名なラグビーリーグ遠征が行われた。ライオンズは[[インドミタブル (空母)|HMSインドミタブル]]でオーストラリアへ航海した。オーストラリアを横断する5日間の旅で、{{仮リンク|ガス・リスマン|en|Gus Risman}}に率いられたチームはテストマッチを2勝1引き分けで終えThe Ashesを保持した。
* 1949年(リーグ) - フランスラグビーリーグは名称への「ラグビー」の使用を禁止され、''Jeu à Treize''(Game of Thirteen)へと改称した。
* 1950年(リーグ) - [[トリノ]]からのイタリアチームがイングランド北部へと遠征した。イタリアは後に国内大会やオーストラリアとの試合を行ったが、この活動は1962年に途絶えた。
; 20世紀後半
* 1951年(ユニオン) - {{仮リンク|南米ラグビーチャンピオンシップ|en|South American Rugby Championship}}が開始した。
* 1951年(ユニオン) - 南アフリカラグビーユニオン代表がブリテン諸島およびフランスへ遠征した。南アフリカは二度目のファイブ・ネイション・グランドスラムを達成した。
* 1951年(リーグ) - 活動を終えてからちょうど10年後、フランスはオーストラリアでの初のラグビーリーグシリーズに勝利した。フランスは1955年にも再び勝利を収めた。
* 1951年(リーグ) - ラグビーリーグの{{仮リンク|セク・トンプソン|en|Cec Thompson}}はあらゆるスポーツの中で初のグレートブリテン代表の黒人選手となった。
* 1952年(ユニオン) - ラグビーユニオンのヨーロピアンカップが再開した。
* 1953年(リーグ) - 英国陸軍通信部隊で兵役を果たしていたウェールズ人の若者、{{仮リンク|ビリー・ボストン|en|Billy Boston}}がウィガンでデビューした。彼はイギリスの最多トライ数の記録を持っており、全世界ではビーヴァンに次いで第2位である。
* 1954年(リーグ) - イングランドブラッドフォードOdsalスタジアムで行われた{{仮リンク|label=1953-54 ラグビーリーグチャレンジカップ|1953-54 ノーザン・ラグビー・フットボール・リーグ・シーズン|en|1953–54 Northern Rugby Football League season}}決勝は102,569の観衆を集め、ラグビーユニオン・ラグビーリーグを含むラグビーフットボールの試合の新記録を打ち立てた。
* 1954年(リーグ) - 初の[[ラグビーリーグ・ワールドカップ]](ユニオンも含めて初)がフランスで開催された。パリ、[[パルク・デ・プランス]]で行われた決勝では、グレートブリテン代表がフランス代表を16対12で破り優勝した。
* 1956年(ユニオン) - [[ラグビー南アフリカ共和国代表|スプリングボクス]]がニュージーランドに遠征した。南アフリカはニュージーランドに対して遠征で初めての敗戦を喫した。
* 1957年(リーグ) - オーストラリアがラグビーリーグ・ワールドカップ第2回大会で優勝した。
* 1958年(リーグ) - ラグビーリーグテストマッチ第2試合でグレートブリテン代表はオーストラリア代表に25対18で勝利した。この試合では健康なグレートブリテン代表はピッチに8人しかいなかった。{{仮リンク|アラン・プレスコット|en|Alan Prescott}}は腕を骨折しながら77分間プレーした。
* 1960年(リーグ) - グレートブリテンが第3回ラグビーリーグ・ワールドカップで優勝した。
* 1964年(リーグ) - ラグビーリーグで初めて選手交代が認められたが、ハーフタイム前に負傷した選手に限られていた。
* 1966年(リーグ) - [[国際ラグビーリーグ連盟|国際ラグビーリーグ委員会]]は、ボールを保持したチームには3度のプレー・ザ・ボールが認められ、4度目のタックルでスクラムが組まれるルールを導入した。次の年に南半球はこのルールを採用した。1972年には6度の攻撃権が認められるようになり、1983年にスクラムはボールの引き渡しに変更された。
* 1967年(リーグ) - プロラグビーリーグは減少する観客を呼び戻す試みで、他のスポーツに先駆けて主な試合日を日曜日とした。
* 1968年(リーグ) - ‘Watersplash’(浅瀬)チャレンジカップ決勝が、豪雨がピッチを満たしていたにもかかわらず行われた。この試合は最もドラマティックな幕切れとなった。ウェイクフィールドの{{仮リンク|ドン・フォックス|en|Don Fox}}が逆転のためのゴール近くからの簡単なコンバージョンを試みたが失敗し、リーズが11対10で勝者となった。
* 1968年(ユニオン) - ラグビーユニオンで選手交代が初めて認められた(負傷選手のみ)。
* 1969年(ユニオン) - スクリングボクスがブリテンとアイルランドに遠征した。この遠征は[[アパルトヘイト]]に対する抗議を受け、以後南アフリカはアパルトヘイト廃止までヨーロッパ遠征を行わなかった。
* 1969年(リーグ) - ラグビーリーグはイギリスの大学のスポーツとしてついに認められていった。
* 1970年(リーグ) - グレートブリテン代表はオーストラリアとのテストマッチの後半2戦に勝利しThe Ashesを得た。
* 1970年(リーグ) - イングランドで開催されたラグビーリーグ・ワールドカップは少ない観客しか集めることができなかった。オーストラリアが優勝した。
* 1971年(リーグ) - ニュージーランドがブリテンでのラグビーリーグシリーズで初めて勝利した。
* 1971年(ユニオン) - ラグビーユニオンの[[ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ|ライオンズ]]がオーストラリアとニュージーランドに遠征した。このライオンズはニュージーランドでのテストシリーズで勝利した唯一のチームである。
* 1971年(ユニオン) - スプリングボクスのオーストラリア遠征は抗議活動を受けた。
* 1972年(リーグ) - タイムキーパーとサイレンがラグビーリーグに初めて導入された。
* 1972年(リーグ) - グレートブリテンがフランス・ラグビーリーグ・ワールドカップで再び優勝した。
* 1973年(ユニオン) - [[バーバリアンズ]]が[[カーディフ・アームズ・パーク]]で[[オールブラックス]]を破った。
* 1973年(リーグ) - 多くのアマチュアリーグ・クラブが消滅していることに対するRFLの軽視に抗議して、草の根レベルでラグビーリーグを運営するため{{仮リンク|イギリスアマチュアラグビーリーグ協会|en|British Amateur Rugby League Association}}が設立された。両者の再統一には30年を要した。
* 1974年(ユニオン) - ラグビーユニオンのライオンズが南アフリカに遠征した。[[99コール]]が悪名高い遠征である。
* 1974年(リーグ) - ラグビーリーグの[[ドロップゴール]]による得点が2点から1点に減点された。
* 1975年(リーグ) - ウェールズとイングランドが別々のチームでラグビーリーグ・ワールドカップに参加し、両半球で数カ月に渡ってプレーした。オーストラリアがイングランドに1ポイントリードしトロフィーを手にした。
* 1976年(ユニオン) - ラグビーユニオンニュージーランド代表(オールブラックス)が南アフリカに遠征した。南アフリカとスポーツで交流することを禁じた[[国際オリンピック委員会]] (IOC) の決定に反抗したニュージーランドの1976年夏季[[モントリオールオリンピック]]からの追放をIOCが拒否したことから、28の国(アフリカのほとんどの国)がモントリオールオリンピックを[[ボイコット]]した。
* 1978年(ユニオン) - ラグビーユニオンニュージーランド代表がブリテンおよびアイルランドに遠征した。ニュージーランドはイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズを破り初めてグランドスラムを達成した。
* 1980年(リーグ) - ロンドンにラグビーリーグクラブ、[[ロンドン・ブロンコズ|フラムRFC]]が結成された。9,500人以上の観客が初試合に訪れ、[[ウィガン・ウォリアーズ|ウィガン]]に勝利した。フラムは初シーズンの終りに昇格し、昇格や降格、ホームの移転を経て、現在も[[ロンドン・ブロンコズ]]として存続している。
* 1980年(リーグ) - オーストラリアで出身州別のラグビーリーグチームが対戦する形式(クイーンズランド出身の選手とサウスウェールズ出身の選手が相対する)が作られた([[ステート・オブ・オリジン]])。‘State against state; mate against mate’である。1982年から、3試合シリーズとして行われており、世界最強・最も厳しいラグビーと認識されている。
* 1981年(リーグ) - オーストラリアでラグビーリーグに「[[シン・ビン]]」が導入された。
* 1981年(ユニオン) - スプリグボクスがニュージーランドに遠征した。
* 1981年(ユニオン) - 国際ラグビー評議会によってアパルトヘイト政策を廃止するまで南アフリカのラグビーユニオン国際大会への参加が禁止された。
* 1982年(ユニオン) - トンガ、フィジー、サモアによるラグビーユニオンの[[パシフィック・トライネイションズ]]開催
* 1982年(リーグ) - ラグビーリーグオーストラリアチームの遠征において初めて全試合に勝利し、「The Invincibles(無敵)」として知られるようになった。
* 1983年(リーグ) - ラグビーリーグのトライが4点に加点された。6度目のタックルによるポゼッション移行の導入やスクラムの下図を劇的に減少させたことで、試合の性格は大きく変化した。退場に値しない反則に対してシン・ビン(一時的な退場)が導入された。
* 1983年(リーグ) - ラグビーリーグの他国リーグ間の移籍が解禁された。
* 1984年(ユニオン) - オーストラリアラグビーユニオンチームのブリテンおよびアイルランド遠征。オーストラリアはイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズを破り初めてグランドスラムを達成した。
* 1987年(ユニオン) - ニュージーランドとオーストラリアで開催された初の[[ラグビーワールドカップ|ラグビーユニオンワールドカップ]]でニュージーランドがフランスを29対9で破り優勝した。
* 1987年(リーグ・ユニオン) - アマチュアレベルにおける2つのルール間の「自由通路」が導入されたが、個々の場合の区別は継続した。
* 1987年(ユニオン) - RFUはラグビーユニオンに108のリーグのおよそ1000クラブが参加する昇格・降格ありのピラミッド型[[プレミアシップ (ラグビー)|カリッジ・リーグ]](the Courage Leagues)を導入した。
* 1988年(リーグ) - ラグビーリーグのウィガンが[[ハリファックスRLFC]]を32対12で破り、チャレンジカップ8連覇のスタートを切った。{{仮リンク|エレリー・ハンリー|en|Ellery Hanley}}、{{仮リンク|アンディー・グレゴリー|en|Andy Gregory}}、{{仮リンク|ショーン・エドワーズ|en|Shaun Edwards}}といった選手を擁した現代的なタレント揃いのチームは10年間リーグを支配し、この期間に3度ワールドカップで優勝した。
* 1989年(リーグ) - 初の公式[[ワールドクラブチャレンジ]]で[[ウィドネス・バイキングズ]]が{{仮リンク|キャンベラ・レイダーズ|en|Canberra Raiders}}を30対18で破った。
* 1990年(リーグ) - ロシアでラグビーリーグが始まった。ロシアは2000年ワールドカップに出場し、クラブもチャレンジカップに出場した。
* 1990年(リーグ) - ラグビーリーグにブラッド・ビン(Blood-bin)が導入された。
* 1990年(リーグ) - フランスのラグビーリーグの名称への「ラグビー」の使用禁止が解除された。これいによって名称はRugby à Treizeへと戻った。
* 1991年(ユニオン) - ブリテン諸島とフランスで開催された第2回ラグビーユニオンワールドカップ決勝(ロンドン、[[トゥイッケナム・スタジアム|トゥイッケナム]])でオーストラリアがイングランドを12対6で破った。
* 1992年(ユニオン) - アパルトヘイトの廃止によりスプリングボクスが国際ラグビーユニオン界に復帰した。
* 1992年(リーグ) - [[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]で行われたラグビーリーグワールドカップ決勝は73,631人の観衆を集め、オーストラリアがグレートブリテンを10対6で破った。
* 1992年(リーグ) - {{仮リンク|マーティン・オファイア|en|Martin Offiah}}が世界記録の440,000ポンドの移籍金によりウィドネスからウィガンへ移籍した。
* 1993年(リーグ) - アメリカ合衆国は初のラグビーリーグ国際試合でカナダを54対14で破った。
* 1994年(ユニオン) - {{仮リンク|デイヴィッド・ヒンチリフ|en|David Hinchliffe}}議員はラグビーユニオン側のラグビーリーグのアマチュア選手に対する差別を禁止する法案を提出した<ref>{{cite news|title=Do I not like that . . . / Hypocrisy has to end: David Hinchliffe MP explains why he has introduced a Bill to stop rugby union discriminating against the league code |url=http://www.independent.co.uk/sport/do-i-not-like-that-----hypocrisy-has-to-end-david-hinchliffe-mp-explains-why-he-has-introduced-a-bill-to-stop-rugby-union-discriminating-against-the-league-code-1425064.html|author=David Hinchliffe|date=1994-06-26|accessdate=2011-11-25|newspaper=The Independent}}</ref>。
* 1994年(リーグ) - イギリスの三軍はラグビーリーグをスポーツであると認めた。ラグビーリーグは軍において他のスポーツと同じ立場を得た。
* 1995年(ユニオン) - 国際ラグビー評議会はラグビーユニオンが「オープン」プロフェッショナルスポーツであると宣言した。これによって、試合に関係する全ての支払いや手当の制限が撤廃された。
* 1995年(ユニオン) - 南アフリカで開催された第3回ラグビーユニオンワールドカップにおいて、[[ヨハネスブルク]][[エリス・パーク・スタジアム|エリス・パーク]]で行われた決勝で、延長戦の末に南アフリカがニュージーランドを15対12で破った。
* 1995年(リーグ) - ブリテンでワールドカップが復活し、ラグビーリーグ百周年が祝われた。ウェンブリーで行われた決勝でオーストラリアがイングランドに16対8で勝利した。フィジー、トンガ、南アフリカ、西サモアは本大会に出場したが、アイルランド、スコットランド、アメリカ合衆国、ロシア、[[クック諸島]]、[[モルドヴァ]]、[[モロッコ]]は{{仮リンク|ラグビーリーグ新興国トーナメント|en|Rugby League Emerging Nations Tournament}}に参加した。
* 1995年(ユニオン) - ラグビーユニオンのヨーロッパ12クラブによって争われる[[ハイネケン・カップ]]が作られた。
* 1995年(リーグ) - オーストラリアにおけるテレビ放映権に関する紛争の一部として、イギリスのRFLは[[ニューズ・コープ]]からラグビーリーグの[[スーパーリーグ (ラグビーリーグ)|スーパーリーグ]]を新設する87百万ポンドのオファーを受けた。リーグ側は夏シーズン制に移行することを承諾し、{{仮リンク|パリ・ザンジェルマン・ラグビーリーグ|en|Paris Saint-Germain Rugby League}}がイギリスのトップクラブに加わり14チームが参加した。
* 1996年(リーグ) - RFLはラグビーリーグのスーパーリーグにビデオ判定を導入した。
* 1996年(ユニオン) - オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの間で争われるラグビーユニオンの[[ザ・ラグビーチャンピオンシップ|トライ・ネイションズ]]が始まった。
* 1996年(リーグ・ユニオン) - イングランドのユニオンおよびリーグのそれぞれトップクラブである[[バース・ラグビー]]と[[ウィガン・ウォリアーズ|ウィガンRLFC]]が、それぞれのルールで試合を行うという歴史を作った([[クラッシュ・オブ・ザ・コーズ]]を参照)。最初の試合はマンチェスター、[[メイン・ロード]]においてリーグルールで行われウィガンがバースに82対6で勝利した。2週間後、リターンマッチがトゥイッケナムにおいてユニオンルールで行われ、バースがウィガンに44対19で勝利した。
* 1998年(リーグ) - オーストラリアにおいて、{{仮リンク|スーパーリーグ戦争|en|Super League war}}が終わりを迎え、{{仮リンク|ニューズ・インターナショナル|en|News International}}と{{仮リンク|オーストラリアン・ラグビーリーグ|en|Australian Rugby League}}は彼らの大会を融合させて[[ナショナルラグビーリーグ]]を作ることで合意した。
* 1998年(ユニオン) - [[コモンウェルスゲームズ]]および[[アジア競技大会]]においてラグビーセブンズ競技が始まった。
* 1999年(ユニオン) - [[IRBセブンズワールドシリーズ]]が始まった。
* 1999年(ユニオン) - ウェールズで開催された第4回ラグビーユニオンワールドカップ、カーディフ[[ミレニアム・スタジアム]]で行われた決勝でオーストラリアがフランスを35対12で下した。
* 2000年(ユニオン) - IRBは南半球のスーパー12で試みた後、国際ラグビーユニオンに「シン・ビン」と「テレビジョン・マッチ・オフィシャル」(TMO) を導入した。
* 2000年(ユニオン) - ラグビーユニオンのカリッジリーグはチューリッヒ・プレミアシップとなった。
* 2000年(ユニオン) - ラグビーユニオンのファイブ・ネイションズはイタリアの参加により[[シックス・ネイションズ|シックス・ネイションズ・チャンピオンシップ]]となった。
* 2000年(ユニオン) - スタジアムオーストラリアの世界記録109,874人の観衆の前で、ニュージーランドはオーストラリアをかろうじて破った。
; 21世紀
* 2001年(ユニオン) - ラグビーユニオンのライオンズによるオーストラリア遠征が行われた。ワラビーズはライオンズに初めて勝利した。
* 2003年(ユニオン) - ラグビーユニオンの[[チャーチルカップ]]がカナダ、アメリカ合衆国、イングランド・サクソンズ(イングランド[[A代表 (ラグビー)|A代表]])と招待国1チーム(後に3チーム)によって始まった。
* 2003年(ユニオン) - オーストラリアで開催された第5回ラグビーユニオンワールドカップ、シドニー、スタジアム・オーストラリアで行われた決勝で、イングランドは延長戦の末にオーストラリアを20対16で破った。
* 2003年(リーグ) - ラグビーリーグのヨーロッパ全土への振興のために{{仮リンク|欧州ラグビーリーグ連盟|en|Rugby League European Federation}} (RLEF) が作られた。
* 2006年(リーグ) - フランスのチーム[[カタラン・ドラゴンズ]]にラグビーリーグのスーパーリーグライセンスを与えられた
* 2007年(ユニオン) - フランス、スコットランドおよびウェールズで開催された第6回ラグビーユニオンワールドカップ決勝、[[スタッド・ド・フランス]]において、南アフリカがイングランドを15対6で破った。
* 2008年(リーグ) - ラグビーリーグは2000年大会以来のワールドカップを開催した。
* 2011年(ユニオン) - ニュージーランドで開催された第7回ラグビーユニオンワールドカップ決勝、[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]、[[イーデン・パーク]]において、ニュージーランドがフランスを8対7で破った。
* 2011年(リーグ) - 14チームが2013ラグビーリーグワールドカップの出場権を得た: オーストラリア、イングランド、ニュージーランド、サモア、ウェールズ、フィジー、フランス、パプアニューギニア、アイルランド、スコットランド、トンガ、クック諸島、イタリア、アメリカ合衆国。
* 2012年(ユニオン) - トライネイションズがアルゼンチンを含んで拡大し、ラグビー・チャンピオンシップに改称された。
* 2015年(ユニオン) - ニュージーランドが第8回ラグビーユニオンワールドカップ決勝でオーストラリアを34対17で下し、初の連覇を達成した。
* 2016年(ユニオン) - アメリカ合衆国の[[PROラグビー]]の初開催シーズン。PROラグビーはわずか1シーズンで解散した。
* 2016年(ユニオン) - 夏季オリンピックで[[7人制ラグビー|ラグビーセブンズ]]競技が開始。
* 2017年(リーグ) - [[トロント・ウルフパック]]が[[カナダ]]初の完全なプロラグビーリーグチームとなった。イギリス/フランスのプロラグビーリーグシステムの3部ディビジョンである[[リーグ1 (ラグビーリーグ)|リーグ 1]]に加入した。
* 2018年(ユニオン) - [[メジャーリーグラグビー]]の初開催シーズン。アメリカ合衆国とカナダのラグビーユニオンチームが参加。
* 2019年(ユニオン) - [[ラグビーワールドカップ]]日本大会が開催。決勝で南アフリカがイングランドを32対12で破り3度目の優勝。
== ルール==
{{Main|ラグビーリーグとラグビーユニオンの比較}}
ラグビーユニオンとリーグに共通する特徴的な要素には、楕円形のボールの使用や前方へボールを投げることの禁止があり、選手が陣地を得る方法はボールを持って走るかボールを蹴るかしかない。ラグビーリーグではユニオンと分離し以降、より速いペースのよりトライを指向した試合とする目的でルール改正が行われている。
ユニオンとリーグの主な差異には、リーグが13人制でユニオンが15人制であること以外には、タックルとその直後のプレーがある。
* ユニオンの選手はタックルに続いてボールの支配を争い、状況に応じて、[[ラック (ラグビー)|ラック]]あるいは[[モール (ラグビー)|モール]]が発生する。リーグの選手はタックルの後にボールの支配を争わず、プレーは「プレー・ザ・ボール」によって続く。
* リーグでは、6回のタックルの前に得点することができなければ、ボールは相手チームに移る。ユニオンは6回タックルのルールはなく、ボールのポゼッションを維持している限り得点するまで無制限にタックルを受けることができ、反則はとられない。
ユニオンの[[セットプレー]]には、相手選手のパックをボールのポゼッションのために互いに押し合う「[[スクラム (ラグビー)|スクラム]]」や、[[タッチライン]]に対して垂直に平行なラインで並んだ両チームの選手がタッチから投げられたボールをキャッチしようと試みる「[[ラインアウト]]」がある。
リーグのルールにはスクラムはまだ存在しているが、関与する選手が少なく、争われることもほとんどないため重要性が大幅に減少している。セットプレーは一般的にプレー・ザ・ボールの状況から開始される。ラグビーリーグのポジションの多くは[[ラグビーユニオンのポジション]]と同様の名称および要件を有しているが、ラグビーリーグには[[ラグビーリーグのポジション|フランカー]]が存在しない。
== 文化 ==
=== ホームカントリー ===
イングランドでは、ラグビーユニオンは「支配者層」のスポーツとして広く認められており、主に[[上流階級]]および[[中流階級]]に属する人々によってプレーされる。例えば、[[私立学校]]や[[グラマースクール|文法学校]](グラマースクール)の多くの生徒はラグビーユニオンをプレーする<ref>Phillips, Buchler. Appendices to the Minutes of Evidence to Select Committee on Culture, Media and Sport. ''[http://www.publications.parliament.uk/pa/cm199900/cmselect/cmcumeds/99/99ap22.htm]''</ref>。しかし、[[コンプリヘンシブスクール]](総合制中等学校)でも人気を得てきている。このステレオタイプにもかかわらず、ラグビーユニオンは特に[[西部地方 (イングランド)|西部地方]]では全ての階級で人気がある。[[グロスター・ラグビー]]は労働者階級のクラブの典型例である。対照的に、ラグビーリーグは伝統的に[[労働者階級]]のスポーツとして見られてきた。ラグビーユニオンに対する上流階級ステレオタイプのさらなる例外はウェールズである。ウェールズではラグビーユニオンは伝統的に休日にプレーする炭鉱労働者や産業労働者からなる小さな村のチームと結び付いてきた<ref>Sommerville, D. (1997). The Encyclopedia of Rugby Union. Aurum Press, UK. ISBN 1-85410-481-0.</ref>。[[アイルランド]]において、ラグビーユニオンは国や宗派の壁を越えた求心力であり、ラグビーユニオンのアイルランド代表は[[アイルランド共和国]]と[[北アイルランド]]の統一チームである。
オーストラリアでは、ラグビーユニオンおよびラグビーリーグの人気は[[ニューサウスウェールズ州]]、[[クイーンズランド州]]、[[オーストラリア首都特別地域]]に集中している。イングランドと同様の階級間の障壁がリーグとユニオンの間には存在し、これはラグビーユニオンが私立学校で支持され発展してきていることで促進されている<ref name="Collins Paper">Collins, T. (2005). "Australian Nationalism and Working-Class Britishness: The Case of Rugby League Football." History Compass, Vol. 3, No. 1.</ref>。
上記の地域では、ラグビーユニオンが上・中流階級のスポーツ、ラグビーリーグが労働者階級のスポーツと認識されているのに対して、ニュージーランド、ウェールズ、パリを除くフランス、[[コーンウォール]]、[[グロスタシャー]]、[[サマセット]]、[[スコティッシュ・ボーダーズ]]、アイルランドの[[リムリック県]]、[[太平洋諸島]]は例外であり、ラグビーユニオンは労働者階級に人気がある。それにもかかわらず、ラグビーリーグは{{仮リンク|ノーザン・イングランド|en|Northern England|label=イングランド北部}}<ref>Collins, T. (1998). Rugby’s Great Split: Class, Culture and the Origins of Rugby League Football (London).</ref>やオーストラリアのニューサウスウェールズ州およびクイーンズランド州<ref name="Collins Paper" />では労働者階級のスポーツとして認識されている。ニュージーランドでは、ラグビーリーグは下流階級あるいは[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]の西部の郊外に住む下流階級を示す「westies」や最近ではラグビーリーグが人気のあるオークランド南部の貧困地域のスポーツといまだに多くの人によって考えられている。
イギリスでは、ラグビーユニオンのファンはこのスポーツの別称として「rugger」という用語を用いることがある<ref>Rugger:
* [[オックスフォード英語辞典|OED]]:Rugger "Slang or colloquial alteration of RUGBY (in the sense of 'Rugby football'). Freq. attrib. rugger-tackle".
* Tony Collins, ''[http://www.bbc.co.uk/voices/recordings/individual/leeds-leeds-collins-tony.shtml Football, rugby, rugger?]'', BBC sound recording with written transcript, and a comment in prose by Jonnie Robinson, Curator, English accents and dialects, British Library Sound Archive.</ref>。ニュージーランド人は通常ラグビーのことを「footy」あるいは「football」と呼び、ラグビーユニオンを指す場合は「ラグビー」あるいは「ユニオン」、ラグビーリーグは「ラグビーリーグ」あるいは「リーグ」と呼ばれる<ref>The New Zealand Pocket Oxford Dictionary. ISBN 0-19-558379-5.</ref>。アメリカ合衆国では、ラグビーをプレーする人々は「ruggers」と呼ばれることがある。
=== その他の国 ===
フランスでは、ラグビーは広くプレーされており、スペインとフランスとの間の境界領域に沿った[[バスク]]、[[オクシタニア]]、[[カタルーニャ人|カタルーニャ]]地域に強い伝統がある。また、19世紀に英語話者の入植者によってラグビーが伝えられた南アフリカでは、ラグビーは非常に人気がある。イギリス人入植者はラグビーをオーストラリアおよびニュージランドに伝えた。ラグビーはフィジー、サモア、トンガなどポリネシアの国々に広まって人気を博している。ラグビーユニオンはアメリカ州やアジアの一部でも同様に成長し続けている。
=== 季語 ===
[[季語]]としての「'''ラグビー'''」は、[[冬]]の季語(三冬の季語)である{{r|水牛}}<ref name="きごさい">{{Cite web|和書|title=ラグビー |url=http://kigosai.sub.jp/kigo500b/385.html |publisher= |website=きごさい歳時記 |accessdate=2019-10-01 }}</ref>。分類は人事/行事/生活<ref group="注">分類名は[[歳時記]]によってまちまちであるが、「人事」も「行事」も「生活」も、要するに「人が生きるうえで行う事柄」全般を指す。</ref>。また、「ラグビー」を親季語とする子季語に「'''ラガー'''」がある{{r|きごさい}}。ただしここでいう「ラガー」は[[日本語]]の用法に限った語意と考えるべきで、したがって「ラグビーをする人」を指す{{r|水牛}}と捉えておくのがよい(※対して英語での第1義は球技『ラグビー』の別名である)。
水牛歳時記によれば、ラグビーが[[俳句]]に詠まれるようになったのは[[昭和]]時代になってからとのこと{{r|水牛}}。特に、[[山口誓子]]が昭和初期にラグビーの句を連作したことがきっかけになって定着したといわれている{{r|水牛}}。
* 例句 - ラグビーの 肉搏<sup>(う)</sup>つひびき 吾が聞きぬ 山口誓子
* 例句 - ラグビーの 野辺も稲城も 狐色 山口誓子
* 例句 - ラグビーや 青雲一抹あれば足る [[中村草田男]] {{r|kb}}
* 例句 - ラグビーや 敵の汗に触れて組む [[日野草城]] 『昨日の花』
* 例句 - 枯草に ラグビーの血の乾かざる 日野草城 『昨日の花』
* 例句 - ラガーらの そのかち歌のみぢかけれ [[横山白虹]]
* 例句 - ラガーらの [[雄蕊|雄しべ]]のごとく円となる [[加藤三七子]]
* 例句 - ラグビーや 緑の大地あるかぎり [[長谷川櫂]] 『初雁』
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="kb">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ラグビー |title=ラグビー |publisher=[[コトバンク]] |author=『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』、ほか |accessdate=2019-10-10 }}</ref>
}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|ラグビー}}
{{sisterlinks|commons=Rugby}}
* [[ラグビーリーグ]](13人制ラグビー)
** [[ラグビーリーグナインズ]]
** [[ラグビーリーグセブンズ]]
** {{仮リンク|タッチ (スポーツ)|en|Touch (sport)}}
** [[車いすラグビー]](ウィルチェアーラグビーとも)
* [[ラグビーユニオン]](15人制ラグビー) - 日本で一般に「ラグビー」と呼ばれているのは15人制のラグビーユニオンである。
** [[7人制ラグビー]](セブンズ)
** [[10人制ラグビー]]
** [[タッチラグビー]]
** [[ビーチラグビー]]
** {{仮リンク|田んぼラグビー|en|Tambo rugby}}
== 外部リンク ==
* [https://intrl.sport/ Ruby League International Federation] {{en icon}} - [[ラグビーリーグ国際連盟]]
* [https://www.japaneserl.com/ Japan RL] {{ja icon}} - [[日本ラグビーリーグ協会]]
* [https://www.world.rugby/ World Rugby] {{en icon}} - [[ワールドラグビー]]
* [https://www.rugby-japan.jp/ JRFU] {{ja icon}} - [[日本ラグビーフットボール協会]]
* {{Kotobank|ラグビー(フットボール)}}
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森重文
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森 重文(もり しげふみ、1951年〈昭和26年〉2月23日 - )は、日本の数学者(代数幾何学)。文化功労者。文化勲章受章者。学位は、理学博士(京都大学・1978年)(学位論文『The endomorphism rings of some abelian varieties〈幾つかのアーベル多様体の自己準同型環〉』)。京都大学名誉教授。日本学士院会員。
京都大学理学部助手、ハーバード大学助教授、名古屋大学理学部教授、京都大学数理解析研究所教授、京都大学数理解析研究所所長、京都大学高等研究院研究院長などを歴任した。
愛知県名古屋市出身の数学者である。代数幾何学における双有理幾何学を専攻する。代数幾何学での業績により、1990年にフィールズ賞を受賞した。名古屋大学教授、京都大学数理解析研究所教授・所長、名古屋大学特別教授、京都大学高等研究院特別教授・研究院長を歴任した。ハーバード大学、プリンストン高等研究所、マックス・プランク研究所、コロンビア大学など、日本国外での研究経験も豊富であった。数学分野での国際的な協力を行う非政府組織であり、国際数学者会議の主催団体である国際数学連合の総裁にアジア人としては初めて選出された。
「接束が豊富なら射影空間である」というハーツホーンの予想を解決した論文は、代数多様体の構造論における最初の一般的な定理として歴史に刻まれるものであり、そこで開発された証明の技法がさらに洗練され「端射線の理論」となった。これは代数多様体および有理写像の構造の研究に有力な手段を与えるもので、これにより2次元の壁を乗り越えて高次元代数多様体の構造を解明することが可能になった。森理論の発表、3次元ファノ多様体の研究など高次元代数多様体の研究に新しい視点を提供した。これらの業績により、1983年のワルシャワでのICMの招待講演に招聘された。さらに極小モデルの存在を3次元の場合に示すことに成功し、1990年に京都で開かれた国際数学者会議でフィールズ賞を受けた。
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森 重文は、日本の数学者(代数幾何学)。文化功労者。文化勲章受章者。学位は、理学博士(京都大学・1978年)。京都大学名誉教授。日本学士院会員。 京都大学理学部助手、ハーバード大学助教授、名古屋大学理学部教授、京都大学数理解析研究所教授、京都大学数理解析研究所所長、京都大学高等研究院研究院長などを歴任した。
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'''森 重文'''(もり しげふみ、[[1951年]]〈[[昭和]]26年〉[[2月23日]]{{R|長田2011}} - )は、[[日本]]の[[日本の数学者の一覧#1951年 - 1960年生まれの日本の数学者|数学者]]([[代数幾何学]])。[[文化功労者]]。[[文化勲章]]受章者。[[学位]]は、[[博士(理学)|理学博士]]([[京都大学]]・1978年)([[学位論文]]『The endomorphism rings of some abelian varieties〈幾つかのアーベル多様体の自己準同型環〉』)。京都大学[[名誉教授]]。[[日本学士院]]会員。
京都大学[[京都大学大学院理学研究科・理学部|理学部]][[助手 (教育)|助手]]、[[ハーバード大学]][[助教授]]、[[名古屋大学]][[名古屋大学大学院理学研究科・理学部|理学部]][[教授]]、京都大学[[京都大学数理解析研究所|数理解析研究所]]教授、京都大学数理解析研究所[[所長]]、京都大学高等研究院[[研究院長]]などを歴任した。
== 概要 ==
[[愛知県]][[名古屋市]]出身の[[数学者]]である。[[代数幾何学]]における[[双有理幾何学]]を専攻する。代数幾何学での業績により、[[1990年]]に[[フィールズ賞]]を受賞した。[[名古屋大学]][[教授]]、[[京都大学]][[京都大学数理解析研究所|数理解析研究所]]教授・[[所長]]、名古屋大学[[特別教授]]、京都大学高等研究院特別教授・[[研究院長]]を歴任した。[[ハーバード大学]]、[[プリンストン高等研究所]]、[[マックス・プランク研究所]]、[[コロンビア大学]]など、日本国外での研究経験も豊富であった。数学分野での国際的な協力を行う非政府組織であり、[[国際数学者会議]]の主催団体である[[国際数学連合]]の[[総裁]]にアジア人としては初めて選出された{{R|SP2014|日経2014}}。
== 研究 ==
「[[接束]]が豊富なら[[射影空間]]である」という[[ロビン・ハーツホーン|ハーツホーン]]の予想を解決した論文{{Sfn|Mori|1979}}は、[[代数多様体]]の構造論における最初の一般的な定理として歴史に刻まれるものであり、そこで開発された証明の技法がさらに洗練され「端射線の理論」となった。これは代数多様体および有理写像の構造の研究に有力な手段を与えるもので、これにより2次元の壁を乗り越えて高次元代数多様体の構造を解明することが可能になった。森理論の発表、3次元[[ファノ多様体]]の研究など高次元代数多様体の研究に新しい視点を提供した。これらの業績により、1983年の[[ワルシャワ]]での[[国際数学者会議|ICM]]の招待講演に招聘された。さらに[[極小モデル]]の存在を3次元の場合に示すことに成功し、1990年に京都で開かれた国際数学者会議でフィールズ賞を受けた。
== 人物 ==
* 日本を震撼させた[[東大安田講堂事件|東大安田講堂攻防戦]]の直後となった[[1969年]]の[[東京大学]]入学試験は、当時の[[第2次佐藤内閣 (第2次改造)|佐藤内閣]]政治的判断と行政指導により中止されてしまった。このため森は仕方なく京都大学に進んだ{{R|長田2011}}。フィールズ賞を受賞した時、『[[科学朝日]]』誌は「あのとき東大に進んでいたらフィールズ賞受賞はなかっただろう」とこれを報じている{{Full citation needed|date=2023年10月17日 (火) 14:35 (UTC)}}。
* 大学時代は全問正解しても80点しかくれない教授の試験で120点を取り続けた<ref>{{PDFlink|[http://www.sanjo-minami.jp/documents/sasaki21.pdf 『三条南ロータリークラブ週報」第2144号、2015年1月19日]}} 会長挨拶、1-2頁。</ref>{{要高次出典|date=2018年5月}}。
* 大学受験数学雑誌『[[大学への数学]]』の学力コンテストで1年間ほぼ連続満点{{R|岡本2016}}を続けた伝説の人となり、編集部が森君の答案を楽しみにしていた{{要出典|date=2018-05}}。
* 高校の時に大学の内容を進んで学んでいたりはしていなかった。大学での数学に触れたのは大学に入ってからである{{R|長田2011}}。
* [[広中平祐]]は「自分は鈍才だが、森君は天才」という{{R|日経2015}}。
* 謙虚な人柄で、「3次元代数多様体における極小モデルの存在証明」のテーマで同賞を受賞したことについて「応用がものすごく広がったが、私が貢献したのはごく一部。周りの皆さんのおかげ」という{{R|産経2016}}。
<!--
{{出典の明記|section=1|date=2014-08}}
* 学生時代、指導教授からある数学書を薦められると1~2ヶ月ほどで「読みました」と戻って来てしまい、次の数学書を薦められてはまた同じことを繰り返した。「数学書を読むのが異常に速い」学生として強烈な印象を与えていたという。
* 教えていた数学の教師が、高校卒業後も『彼はやがてノーベル賞をとる』と言い続けていた。
* フィールズ賞受賞の4年前に他の分野で既にフィールズ賞候補になっていてその時は取れなかったが、競争相手が多いメジャーな別の分野を新たに研究して、フィールズ賞を受賞した。
-->
== 略歴 ==
[[画像:Shigefumi Mori ICM 2018.jpg|200px|thumb|2018年8月1日、[[国際数学者会議]]にて]]
* 1969年 - [[東海中学校・高等学校|東海高等学校]]卒業{{R|桜井2009}}
* 1973年 - [[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都大学理学部]]卒業
* 1975年
** [[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都大学大学院理学研究科]][[修士課程]]修了{{R|桜井2009}}
** 京都大学理学部[[助手 (教育)|助手]]{{R|桜井2009}}
* 1977年 - [[ハーバード大学]][[助教|助教授]](1977-1980年)
* 1978年
** 京都大学より[[博士(理学)|理学博士]]号{{Sfn|森重文|1978}}
** [[ロビン・ハーツホーン|ハーツホーン]]予想を解決(ハーバード大学滞在中){{Sfn|隅広|1991}}
* 1980年 - [[名古屋大学大学院理学研究科・理学部|名古屋大学理学部]][[講師 (教育)|講師]] ハーバード大学、[[プリンストン高等研究所]]、[[マックス・プランク研究所]]の研究員を併任
* 1982年
** 端斜線の理論を発表{{Sfn|向井|1991}}
** 名古屋大学理学部[[助教授]]
* 1985年 - [[コロンビア大学]]客員教授(1985-1987年)
* 1986年 - 3次元の[[代数多様体]]の[[極小モデル]]の存在証明に成功{{Sfn|隅広|1991}}{{Efn|1987年との表記もある{{R|桜井2009}}。}}
* 1988年 - 名古屋大学理学部教授{{R|桜井2009}}
* 1990年 - [[京都大学数理解析研究所]]教授{{R|桜井2009}}
* 1999年 - [[国際数学連合]]副総裁(1999<ref>森重文「[https://doi.org/10.5363/tits.5.28 国際数学連合の活動について]」、『学術の動向』第5巻第1号、2000年、28-31頁。</ref> - 2002年)<ref><!-- [http://www.jiji.com/jc/zc?k=201408/2014081200226&g=soc 時事通信2014年8月12日]{{リンク切れ|date=2015年5月}} -->{{Cite web|和書|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201408/2014081200226&g=soc
|title=数学連合総裁に森京大教授=日本人で初めて|accessdate=2022-05-31|publisher=[[時事ドットコム]]|date=2014-08-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140827000411/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201408/2014081200226&g=soc|archivedate=2014年8月27日|deadlinkdate=2022年5月}}</ref>
* 2010年 - 名古屋大学特別教授{{R|高等研究院}}<ref>“[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/sp/distinguished/index.html 特別教授]” 名古屋大学、2018年5月13日閲覧。</ref>
* 2011年 - 京都大学数理解析研究所所長( - 2014年)
* 2015年 - 国際数学連合総裁{{R|SP2014|日経2014|JN}}( - 2018年12月)
* 2016年
** 京都大学高等研究院院長{{R|産経2016|京大稲盛2017}}
** 京都大学[[名誉教授]]{{R|研究所}}
== 賞歴・講演歴 ==
[[画像:Widden Mori.jpg|200px|thumb|1990年、[[国際数学者会議]]にて[[エドワード・ウィッテン]](左)と]]
* 1983年
** [[日本数学会]][[彌永賞]]{{R|桜井2009}} - 代数多様体の研究{{R|彌永賞}}
** [[国際数学者会議|ICM]]招待講演([[ワルシャワ]])<ref name=":ICM">[https://www.mathunion.org/icm-plenary-and-invited-speakers?combine=Shigefumi ICM Plenary and Invited Speakers 国際数学者連合公式サイト(英文)]</ref>
* 1984年 - [[中日文化賞]]{{R|桜井2009}} - [[代数幾何学]]の研究、特にハーツホーン問題の解決{{R|中日文化賞}}
* 1988年
** 日本数学会[[秋季賞]] - 代数多様体の極小モデル理論([[川又雄二郎]]との共同受賞){{R|彌永賞}}
** 井上科学振興財団[[井上学術賞]] - 高次元代数多様体の研究、特に3次元極小モデルの存在証明
* 1990年
** ICM全体講演([[京都]])<ref name=":ICM" />
** [[国際数学者会議]][[フィールズ賞]]{{R|桜井2009}}
** [[アメリカ数学会]][[コール賞]]代数部門 - 代数多様体の分類。特に論文 ''Flip theorem and the existence of minimal models for 3-folds'' に対して
** [[日本学士院賞]]{{R|桜井2009}} - 代数多様体の分類理論の研究([[飯高茂]]、川又雄二郎との共同受賞)
* 1992年 - 米国芸術科学アカデミー外国人名誉会員{{R|学士院}}
* 1998年 - 日本学士院会員{{R|学士院}}
* 2004年 - 藤原科学財団[[藤原賞]]{{R|学士院|高等研究院}} - 高次元双有理幾何学理論の建設
* 2016年 - [[ロシア科学アカデミー]]外国人会員{{R|学士院}}
* 2017年 - [[米国科学アカデミー]]外国人会員{{R|学士院}}
== 栄典 ==
* 1990年 - [[文化功労者]]{{R|学士院}}
* 2021年 - [[文化勲章]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021102600557&g=pol|title=長嶋茂雄さんら9人文化勲章 功労者に加山雄三さんら|accessdate=2023-03-05|publisher=[[時事ドットコム]]|date = 2021-10-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211026070024/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021102600557&g=pol|archivedate=2021-10-26|deadlinkdate=2023-03}}</ref>
== 著作 ==
=== 学位論文 ===
* {{Cite book|和書 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007760758-00 |title=The endomorphism rings of some abelian varieties |author=森重文 |date=1978-03-23 |publisher=[[京都大学]] |series=[[博士論文]](乙第3526号)|ref=harv}}<!--授与年月日:昭和53年3月23日、学位:理学博士-->日本語題名『幾つかのアーベル多様体の自己準同型環』
=== 著書 ===
* 森重文『双有理幾何学』[[岩波書店]]〈岩波講座現代数学の展開第16巻〉、1998年、ISBN 4000106538。<ref>宮岡洋一「[https://doi.org/10.11429/sugaku1947.53.308 書評 Janos Kollar : Birational Geometry of Algebraic Varieties, Cambridge University Press,1998年, viii+254ページ.森重文:双有理幾何学,岩波書店,1998年,ix+328ページ.]」『数学』第53巻第3号、2001年、308-333頁。</ref>
* Janos Kollar、森重文『双有理幾何学』岩波書店、2008年、ISBN 9784000056137。
=== 代表的な論文 ===
* {{Cite journal|last=Mori |first=Shigefumi |title=Projective manifolds with ample tangent bundles |journal=[[Annals of Mathematics]] |volume=110 |issue=3 |year=1979 |pages=593-606 |url=https://doi.org/10.2307/1971241 |jstor=1971241 |mr=0554387 |ref=harv}}{{R|学士院|RIMS|京大稲盛2017}}
* Mori, S. and Mukai, S. (1981). “[https://doi.org/10.1007/BF01170131 Classification of Fano 3-folds with the second B_2 ≥ 2]”, ''Manuscripta Math.'', '''36''' (2): 147-162; Erratum, 110 (2003), 407.{{R|RIMS|京大稲盛2017}}
* Mori, Shigefumi (1982). “[https://doi.org/10.2307/2007050 Threefolds whose canonical bundles are not numerically effective]”, ''Annals of Mathematics'' '''116''' (1): 133-176. {{Jstor|2007050}}{{R|学士院|RIMS|京大稲盛2017}}
* Miyaoka, Y. and Mori, S. (1986). “[https://doi.org/10.2307/1971387 A numerical criterion of uniruledness]”, ''Annals of Mathematics'' '''124''' (1): 65-69. {{Jstor|1971387}}{{R|学士院|RIMS|京大稲盛2017}}
* Mori, Shigefumi (1988). “[http://www.ams.org/journals/jams/1988-01-01/S0894-0347-1988-0924704-X/S0894-0347-1988-0924704-X.pdf Flip theorem and the existence of minimal models for 3-folds]”, ''Journal of the AMS'' '''1''' (1): 117-253.{{R|学士院|RIMS|京大稲盛2017}}
* Kollár, J., Yoichi Miyaoka, Y. and Mori, S. (1992). “[https://doi.org/10.4310/jdg/1214453188 Rational connectedness and boundedness of Fano manifolds]”. ''Journal of Differential Geometory'' '''36''' (3): 765-779.{{R|RIMS|京大稲盛2017}}
* Kollár, J. and Mori, S. (1992). “[https://doi.org/10.1090/S0894-0347-1992-1149195-9 Classification of three dimensional flips]”. ''Journal of the AMS'' '''5''': 533-703.{{R|学士院|RIMS}}
**Mori, S. (2007)“[https://doi.org/10.1090/S0894-0347-06-00543-1 Errata to ``Classification of three-dimensional flips'']” '''20''': 269-271.
* Mori, S. and Keel, S. (1997). “[https://doi.org/10.2307/2951828 Quotients by groupoids]”, ''Annals of Mathematics'' '''145''' (1): 193-213. {{Jstor|2951828}}{{R|学士院|RIMS|京大稲盛2017}}
* Fujino, O. and Mori, S. (2000). “[https://doi.org/10.4310/jdg/1090347529 A canonical bundle formula]”. ''Journal of Differential Geometory'' '''56''' (1): 167-188. {{Mr|1863025}}{{R|学士院|RIMS|京大稲盛2017}}
* Mori, S. and Prokhorov, Y. (2008). “[https://doi.org/10.2977/prims/1210167329 On Q-conic bundles]”. ''Publ. Res. Inst. Math. Sci.'' '''44''' (2): {{R|RIMS|京大稲盛2017}}
* Mori, S. and Prokhorov, Y. (2014). “[https://doi.org/10.1017/S0013091513000850 Threefold Extremal Contractions of Types (IC) and (IIB)]”, ''Proceedings of the Edinburgh Mathematical Society (Series 2)'' '''57''' (1): 231-252.{{R|RIMS}}
== 注釈 ==
{{Notelist}}
== 出典 ==
{{Reflist|2|refs=
<ref name="長田2011">{{Cite journal|和書|url=http://www.s-coop.net/lifestage/backnumber/fresh/pdf/fr_04-05.pdf |format=PDF|title=-こんな時代だからこそ自分から動いてほしい-|author=森重文|journal=らいふすてーじ|volume=新入生歓歓迎特別号|year=2011|accessdate=2015-05-06}}(長田哲也教授インタビュー)</ref>
<ref name="中日文化賞"><!-- “[http://www.chunichi.co.jp/info/award/culture/page04.html 第31回-第40回受賞者]” ''中日文化賞''、[[中日新聞社]]、2015年5月6日閲覧。 -->{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/info/c_culture_award/winner_list|title=中日文化賞 受賞者一覧|accessdate=2022-05-31|publisher=[[中日新聞]]|date=}}</ref>
<ref name="彌永賞"><!-- “[http://mathsoc.jp/office/prize/haruakilist.html 彌永賞・日本数学会賞受賞者リスト]”、[[日本数学会]]、2015年5月6日閲覧。 -->{{Cite web|和書|url=https://mathsoc.jp/office/prize/haruakilist.html|title=彌永賞・日本数学会賞受賞者リスト|accessdate=2022-05-31|publisher=[[日本数学会]]|date=2019/10/2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210114023826/https://mathsoc.jp/office/prize/haruakilist.html|archivedate=2021-0114|deadlinkdate=2022-05}}</ref>
<ref name="桜井2009">[[桜井進]]<!-- (2009年1月16日). “[http://toyokeizai.net/articles/-/2735?page=2 (第33回)近世日本人数学者列伝~森重文~(前編)]” 東洋経済ONLINE:p.2, 2015年5月6日閲覧。 -->{{Cite web|和書|url=http://toyokeizai.net/articles/-/2735?page=2|title=(第33回)近世日本人数学者列伝~森重文~(前編)|accessdate=2022-05-31|publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済ONLINE]]|date=2009-01-16|
archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304130327/http://toyokeizai.net/articles/-/2735?page=2|archivedate=2016-03-04|deadlinkdate=2022-05}}</ref>
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<ref name="日経2014">“[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG12017_S4A810C1CR0000/ 国際数学連合の次期総裁に森・京大教授 アジア人初]” ''日本経済新聞''(2014年8月12日)2018年5月13日閲覧。</ref>
<ref name="JN">“[http://japanest-nippon.com/jp/news/detail.php?id=119 フィールズ賞受賞者の森 重文京都大学教授、国際数学連合の総裁にアジア人として初めて選出]” Japanest Nippon. 2018年5月14日閲覧。</ref>
<ref name="産経2016">“[https://www.sankei.com/article/20160322-DTRHYQGNJNLVNNUVW7BNJ35WP4/ フィールズ賞受賞の京都大の森教授が定年迎え最終講義、10分オーバー]” 産経ニュース(2016年3月22日)2018年5月12日閲覧。</ref>
<ref name="日経2015">「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO91228130R00C15A9TCQ000/ 気鋭の数学者 京大数理研に集う]」、『日本経済新聞』2015年9月2日朝刊。</ref>
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<ref name="岡本2016">岡本祐幸(2016年4月7日)“[https://web.archive.org/web/20180514141344/http://www.tb.phys.nagoya-u.ac.jp/~okamoto/NU/Nobel/daisu-mori.pdf 森重文氏の東海高校在学中の「大学への数学」学力コンテスト結果]” 名古屋大学大学院理学研究科 物理学教室 TB研 理論生物化学物理研究室、2018年5月13日閲覧。</ref>
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}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書 |author=[[向井茂]] |url=http://mathsoc.jp/pamph/history/ICM90/sugaku4301040-047.pdf |title=森重文氏の業績 |journal=数学 |volume=43 |number=1 |year=1991 |pages=40-47 |doi=10.11429/sugaku1947.43.29 |ref={{Sfnref|向井|1991}}}}
* {{Cite journal|和書|author=隅広秀康 |url=http://mathsoc.jp/pamph/history/ICM90/sugaku4301047-050.pdf |title=森重文氏 |journal=数学 |volume=43 |number=1 |year=1991 |pages=47-50 |doi=10.11429/sugaku1947.43.29 |ref={{Sfnref|隅広|1991}} }}
== 関連項目 ==
* (6879) [[重文 (小惑星)]] - 森重文に因んで名付けられた小惑星
== 外部リンク ==
* [https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/ja/list/mori.html 森重文] - 京都大学数理解析研究所
* [https://kuias.kyoto-u.ac.jp/j/profile/mori/ プロフィール] - 京都大学高等研究院
* {{Kaken|00093328}}
* [https://www.1101.com/n/s/hayano_researcher_04 ほぼ日刊イトイ新聞 はじめてのだいすうきかがく。摩訶不思議な「数学」の世界。](2019年)
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個人旅行
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個人旅行(こじんりょこう)とは、旅行の形態のひとつで、個人で実施する観光旅行や帰省、業務旅行など個人が旅行の主体者となる旅行のこと。団体旅行の対義語である。「少人数」「知人同士」の旅行であれば、2人以上での旅行についても用いられることが多い。
旅行市場の市場調査などでは旅行形態は団体旅行と個人旅行に分けられる。JTBF旅行実態調査では個人で実施する観光旅行などが個人旅行として扱われている。したがって個人で旅行会社のパック旅行(パッケージツアー)に参加する場合には「個人で実施する観光旅行」に分類され個人旅行として把握される。パッケージツアーを利用する団体旅行は団体ツアー、パッケージツアーを利用する個人旅行は個人ツアーという。
JTBF旅行実態調査では次のような類型が個人旅行とされている。
旅行者個人が旅行プランを策定し、航空券やホテルの予約も旅行代理店を通さずに自力で行う旅行形態は自由旅行という。
旅行同行者の有無では一人旅という区分もある。ただし先述のように旅行市場の市場調査たとえばJTBF旅行実態調査では個人で旅行会社のパック旅行に参加する場合も旅程は団体行動となるが個人旅行として把握されている。なお、JTBF旅行実態調査では一人旅(ひとり旅)は観光・レクリエーションを目的とする旅行における同行者の有無による区分に用いられている(JTBF旅行実態調査では個人で実施する観光旅行と帰省や冠婚葬祭など家事に関する旅行は区別されている)。
自由旅行・手配旅行では旅程の制限がほとんど無く、思い通りの旅行が可能である。好きなときに好きな場所を訪問し、好きな食事を取り、宿泊施設も自分の意志で選ぶことができる。旅行中に行き先や日程を変更することすら可能であろう。
受注型企画旅行では旅行中の日程変更こそできないものの、旅行会社が取り扱っている航空会社・宿泊施設の範囲内であれば旅行計画を事前に自由にリクエストできる。中央アジア・南米・アフリカなどのいわゆる「秘境」をガイド付きで安全に回りたい場合にはこれが最適であろう。
募集型企画旅行はいわゆるパッケージツアーであり、中小の旅行会社も含めれば無数の個人向けパッケージツアーが発売されている。現地滞在時間のほとんどが自由時間になっている点と、参加人数が1人でも催行される点が特徴である。旅程の大幅な組み替えこそできないものの、延泊による日程延長、ホテルの選択、現地オプショナルツアーへの参加などを事前にリクエストできるものが多いため、自分の要望に近い旅程を作ることが可能である。
1人、または友人知人グループのみで旅行ができるのも大きな長所であろう。パッケージツアーの場合、ツアーの集団になじめないために旅行の楽しさが損なわれる可能性がある(自分以外が全員夫婦だった、自分だけ年齢が離れていた、気の合わない客がいた等)。個人旅行ではこのような心配はない。なお、個人向け募集型企画旅行では一部(空港の送迎やオプショナルツアー)で他人と混載することがある。
ほとんどの団体向けパッケージツアーでは最低催行人数が定められており、参加人数がこれを下回ると旅行自体が中止になってしまう。個人旅行ではこのような心配はない。
大人数の参加を前提とした団体向けパッケージツアーと比較して、同一行程・同一内容では旅行代金が高くなる傾向がある。これは各種の団体料金が適用されにくいためである。しかし、以下の工夫によって団体向けパッケージツアーよりも旅行代金を抑えることも可能である。
なお、景気の低迷に合わせて団体向けパッケージツアーの値下がりが続いており、特にアジア向けを中心に航空券の値段をも下回るツアーも存在する。これらは免税店や土産物屋に立ち寄ることが参加の条件になっており、同一内容でこれよりも安く個人旅行を行うのは難しい。
個人旅行の保障の有無については、旅行代理店との契約によって異なる。
自由旅行が自己責任であることは言うまでもないが、手配旅行も旅行代理店側に補償義務はなく、トラブルや日程変更に際しては自分自身が航空会社やホテル等と直接交渉するのが原則となる。近年はインターネット上で航空券やホテルの予約が可能になってきているが、予約後の問い合わせや交渉が円滑に行われるとは限らない。特に海外のウェブサイトを利用した場合、英語で交渉しなければならない場合が多いため注意が必要である。
それに対し、受注型企画旅行および個人向け募集型企画旅行では、個人向けの旅行であっても通常のパッケージツアーと同様の保障を受けることができる。旅行中の事故や旅行日程の変更などに対して補償金の支払いが義務付けられているほか、旅先等でのトラブルについても旅行会社側の対応に委ねることができる。
以下のように、個人旅行では訪問が困難な場所もある。
旅行代理店を通したツアーの形態でなければ入国ができない国(ブータン、サウジアラビア、北朝鮮、中国チベット)を訪れるには、受注型企画旅行または募集型企画旅行を利用しなければならない。これらに個人で申し込めば個人旅行が可能であるが、それでもガイドとともに事前の計画通りに行動しなければならず、いずれにせよ「自由旅行」は不可能である。
ロシアを旅行するためには、ロシア外務省の公認するロシア国内の旅行代理店を通じてホテルを予約し、それを証明する書類(招待状=インビテーション)を入手したうえでロシア大使館に提出する必要がある。これらの手続きは個人では難しいため、日本国内の旅行代理店に代行してもらうのが普通である。形態としては手配旅行(ホテルの予約と招待状の発行のみを依頼する)、受注型企画旅行、募集型企画旅行のいずれかを利用することになる。なおガイドは不要であり、ロシア国内では自由に行動できる。
団体向けパッケージツアーでは当然とされる、空港でのチェックイン、出入国手続き、現地での送迎、宿泊施設のチェックインなどの世話が無いか、または簡素化されている。
通常、観光政策は国内観光が先行した後で国際観光が展開されていくことが多い。しかし、中国の場合は、外貨獲得のためのインバウンド国際観光が先行し、そのあとで国内観光やアウトバウンド国際観光が発展した。
中国の一般国民にアウトバウンドの国際観光が許可されたのは1983年からである。出国観光は1997年に初めてシンガポール、タイおよびマレーシアーへの親族訪問以外の観光が認められたが団体旅行のみに制限されていた。2003年に香港への個人観光が試験的に許可されてから段階的に規制が緩和され個人旅行も認められるようになった。
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個人旅行(こじんりょこう)とは、旅行の形態のひとつで、個人で実施する観光旅行や帰省、業務旅行など個人が旅行の主体者となる旅行のこと。団体旅行の対義語である。「少人数」「知人同士」の旅行であれば、2人以上での旅行についても用いられることが多い。
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'''個人旅行'''(こじんりょこう)とは、[[旅行]]の形態のひとつで、個人で実施する観光旅行や[[帰省]]、業務旅行など個人が旅行の主体者となる旅行のこと<ref name="nenpo2015" />。[[団体旅行]]の対義語である。「少人数」「知人同士」の旅行であれば、2人以上での旅行についても用いられることが多い。
== 個人旅行の定義 ==
旅行市場の市場調査などでは旅行形態は団体旅行と個人旅行に分けられる<ref name="nenpo2015" />。JTBF旅行実態調査では個人で実施する観光旅行などが個人旅行として扱われている<ref name="nenpo2015" />。したがって個人で旅行会社のパック旅行([[パッケージツアー]])に参加する場合には「個人で実施する観光旅行」に分類され個人旅行として把握される<ref name="nenpo2015" />。パッケージツアーを利用する団体旅行は団体ツアー、パッケージツアーを利用する個人旅行は個人ツアーという<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mlit.go.jp/common/000999490.pdf |format=PDF |year=2013 |author=観光庁|title=訪日外国人消費動向調査(平成25年1-3月期)|accessdate=2018-10-27}} </ref>。
JTBF旅行実態調査では次のような類型が個人旅行とされている<ref name="nenpo2015">{{Cite web|和書|url= https://www.jtb.or.jp/wp-content/uploads/2015/10/nenpo2015_1-1.pdf |format=PDF |year=2015 |author=日本交通公社|title=旅行年報2015|accessdate=2018-10-27}} </ref>。
# 個人で実施する観光旅行(スポーツ旅行やパック旅行への個人での参加を含む)<ref name="nenpo2015" />
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旅行者個人が旅行プランを策定し、航空券やホテルの予約も旅行代理店を通さずに自力で行う旅行形態は[[自由旅行]]という。
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== 長所と短所 ==
{{複数の問題
| section = 1
| 出典の明記 = 2018年9月
| 独自研究 = 2018年9月
}}
=== 長所 ===
==== 自由度の高さ ====
[[自由旅行]]・手配旅行では旅程の制限がほとんど無く、思い通りの旅行が可能である。好きなときに好きな場所を訪問し、好きな食事を取り、宿泊施設も自分の意志で選ぶことができる。旅行中に行き先や日程を変更することすら可能であろう。
受注型企画旅行では旅行中の日程変更こそできないものの、旅行会社が取り扱っている航空会社・宿泊施設の範囲内であれば旅行計画を事前に自由にリクエストできる。中央アジア・南米・アフリカなどのいわゆる「秘境」をガイド付きで安全に回りたい場合にはこれが最適であろう。
募集型企画旅行はいわゆるパッケージツアーであり、中小の旅行会社も含めれば無数の個人向けパッケージツアーが発売されている。現地滞在時間のほとんどが自由時間になっている点と、参加人数が1人でも催行される点が特徴である。旅程の大幅な組み替えこそできないものの、延泊による日程延長、ホテルの選択、現地オプショナルツアーへの参加などを事前にリクエストできるものが多いため、自分の要望に近い旅程を作ることが可能である。
==== 混載が避けられるメリット ====
1人、または友人知人グループのみで旅行ができるのも大きな長所であろう。パッケージツアーの場合、ツアーの集団になじめないために旅行の楽しさが損なわれる可能性がある(自分以外が全員夫婦だった、自分だけ年齢が離れていた、気の合わない客がいた等)。個人旅行ではこのような心配はない。なお、個人向け募集型企画旅行では一部(空港の送迎やオプショナルツアー)で他人と混載することがある。
==== 最低催行人数が存在しないメリット ====
ほとんどの団体向けパッケージツアーでは最低催行人数が定められており、参加人数がこれを下回ると旅行自体が中止になってしまう。個人旅行ではこのような心配はない。
=== 欠点 ===
==== 価格 ====
大人数の参加を前提とした団体向けパッケージツアーと比較して、同一行程・同一内容では旅行代金が高くなる傾向がある。これは各種の団体料金が適用されにくいためである。しかし、以下の工夫によって団体向けパッケージツアーよりも旅行代金を抑えることも可能である。
* いわゆる[[格安航空券]]を利用する。最近の旅行会社のほとんどが格安航空券を取り扱っている。
* 可能な限り公共交通機関を利用する。
* 現地オプショナルツアーを上手に活用する。運賃や入場料の関係で、個人で訪れるよりもオプショナルツアーを利用したほうが安いことがある。特に現地の旅行会社の催行するオプショナルツアーは安いが、一部の例外を除いて日本語が通用しない。
* [[ユースホステル]]・[[民宿]]・[[ベッド・アンド・ブレックファスト|B&B]]・ゲストハウスなどの低価格の宿泊施設を利用する。施設によっては旅行会社や代理店による取り扱いが無く、インターネットや電話で直接予約しなければならないことがある。
なお、景気の低迷に合わせて団体向けパッケージツアーの値下がりが続いており、特にアジア向けを中心に航空券の値段をも下回るツアーも存在する。これらは免税店や土産物屋に立ち寄ることが参加の条件になっており、同一内容でこれよりも安く個人旅行を行うのは難しい。
==== 保障の有無 ====
個人旅行の保障の有無については、旅行代理店との契約によって異なる。
[[自由旅行]]が自己責任であることは言うまでもないが、手配旅行も旅行代理店側に補償義務はなく、トラブルや日程変更に際しては自分自身が航空会社やホテル等と直接交渉するのが原則となる。近年は[[インターネット]]上で航空券やホテルの予約が可能になってきているが、予約後の問い合わせや交渉が円滑に行われるとは限らない。特に海外の[[ウェブサイト]]を利用した場合、英語で交渉しなければならない場合が多いため注意が必要である。
それに対し、受注型企画旅行および個人向け募集型企画旅行では、個人向けの旅行であっても'''通常のパッケージツアーと同様の保障を受けることができる'''。旅行中の事故や旅行日程の変更などに対して補償金の支払いが義務付けられているほか、旅先等でのトラブルについても旅行会社側の対応に委ねることができる。
==== 訪問先の制限 ====
以下のように、個人旅行では訪問が困難な場所もある。
* 美術館等の非公開部分、科学施設、軍事施設など。これらを訪れるには特別な許可を得たパッケージツアーに参加しなければならない。
* 個人客の入場を制限している観光地(夏季の[[エカテリーナ宮殿]]など)。何らかの理由で集団の客を優先して入場させるためである。これらは現地オプショナルツアーに参加することで訪問が可能になることが多い。
==== 国家による制限 ====
旅行代理店を通したツアーの形態でなければ入国ができない国([[ブータン]]、[[サウジアラビア]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[中国]][[チベット自治区|チベット]])を訪れるには、受注型企画旅行または募集型企画旅行を利用しなければならない。これらに個人で申し込めば個人旅行が可能であるが、それでもガイドとともに事前の計画通りに行動しなければならず、いずれにせよ「自由旅行」は不可能である。
[[ロシア]]を旅行するためには、ロシア外務省の公認するロシア国内の旅行代理店を通じてホテルを予約し、それを証明する書類(招待状=インビテーション)を入手したうえでロシア大使館に提出する必要がある。これらの手続きは個人では難しいため、日本国内の旅行代理店に代行してもらうのが普通である。形態としては手配旅行(ホテルの予約と招待状の発行のみを依頼する)、受注型企画旅行、募集型企画旅行のいずれかを利用することになる。なおガイドは不要であり、ロシア国内では自由に行動できる。
==== 案内・送迎 ====
団体向けパッケージツアーでは当然とされる、空港でのチェックイン、出入国手続き、現地での送迎、宿泊施設のチェックインなどの世話が無いか、または簡素化されている。
* [[自由旅行]]・手配旅行では上記サービスは原則として無い。現地送迎については旅行代理店に個別に依頼することで可能になることもある。
* 受注型企画旅行では事前に旅程に含めてもらうことで上記のサービスも可能である。また、交通事情や治安の悪い地域においては料金に現地送迎が含まれていることがある。
* 個人向けパッケージツアーでの対応は様々である。上記全てが含まれているものもあれば、一切を個人で行わなければならないものもある。現地送迎は安全のため多くのプランで行われているようである。
== 各国の個人旅行 ==
=== 日本 ===
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=== 中国 ===
通常、観光政策は国内観光が先行した後で国際観光が展開されていくことが多い<ref name="09_01">{{Cite web|和書|url=http://www.jafit.jp/thesis/pdf/09_01.pdf |title=わが国の国際観光のインバウンド側面に関する若干の考察|author=大淵 三洋|publisher= 日本国際観光学会論文集|format=PDF|accessdate=2018-10-25}}</ref>。しかし、中国の場合は、外貨獲得のためのインバウンド国際観光が先行し、そのあとで国内観光やアウトバウンド国際観光が発展した<ref name="09_01" />。
中国の一般国民にアウトバウンドの国際観光が許可されたのは1983年からである<ref name="09_01" />。出国観光は1997年に初めてシンガポール、タイおよびマレーシアーへの親族訪問以外の観光が認められたが団体旅行のみに制限されていた<ref name="09_01" />。2003年に香港への個人観光が試験的に許可されてから段階的に規制が緩和され個人旅行も認められるようになった<ref name="09_01" />。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
*[[団体旅行]]
*[[自由旅行]]
*[[VFR (観光)]]
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フリープラン (旅行)
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フリープランとは、日本の旅行業界で用いられる募集型企画旅行の商品の分類で、往復の交通(航空券や乗車券など)と宿泊(ホテル・旅館)のみをセットにして旅行会社が販売している商品のこと。また、この分類は統計上でも用いられる。和製英語である。
スケジュールに従った団体行動で観光や食事などを行う形態のパッケージツアーと異なり、基本プランでは自由行動で添乗員が伴わないことが特徴である。いわゆる格安ツアーもこの形態に当てはまることがある。
料金は、個人の手配とは異なり、企画した旅行会社が交通機関と宿泊施設それぞれ契約した(航空機は個人包括旅行運賃)が適用される。ホテルのシングルルーム宿泊プランでは、最少催行人数が1名であるため、商用(出張)や冠婚葬祭・帰省など、観光目的では無くても利用できる。
利用する交通手段の時間指定や、基本宿泊日数を予め延泊する事で旅行期間を延長できるなど、個人・手配旅行と遜色なくアレンジ出来るセミオーダー商品もある。個人旅行やダイナミックパッケージで手配するよりもフリープラン商品が安価である場合がある。
また、オプションとして、ミールクーポン(食事券)・テーマパーク等の入場券・スポーツ観戦チケット・現地のJRや路線バスの周遊券や観光路線バス乗車券(日本国内)をはじめ、レンタカー利用権や、オプショナルツアーなどを追加設定可能なツアーも大手旅行会社主催を中心として多い。
日本では1998年の格安航空会社参入に伴い、羽田 - 新千歳・福岡間の運賃価格競争が始まった。それに加え、札幌・福岡市内で複数のホテル開発が進んでいたこともあり、上記路線を使うフリープラン商品が安くなった。
個人包括旅行運賃(IIT運賃)による往復の航空券と札幌・福岡市内のシングルルーム一泊が含まれる商品でも、ゴールデンウィークなどの繁忙期を除き、旅行料金のほとんどは航空会社の往復運賃以下である。2000年代に入り沖縄でも各地でホテル開発が進み、航空便の搭乗率上昇(集客力)を図る意図から、冬期前半(12-1月)は安く販売されるようになっている。
往復の交通(航空機・JR線など)は、旅行申込時に指定した航空便・列車(指定席の場合)しか利用出来ない。旅行者の理由による予定変更や乗り遅れた場合はその行程のきっぷ・航空券は無効となり、旅行を続けるには個人できっぷ・航空券を別途購入しなければならない。これがフリープランのデメリットであり、引き替えに格安での旅行が提供されている。ただし列車利用のフリープランでは、指定の列車に乗り遅れた場合でも、その日のうちならば後続列車の自由席を利用できる商品も多数存在する。
ただし悪天候や事故など不可抗力によって指定交通機関が運休・欠航した場合は、運送会社が後続便への振替を無償で行う。または、旅行者もしくは主催旅行会社の指示・判断により旅行行程を中断し現地での証明を受けることで、後日主催旅行会社から未使用の運賃や宿泊費等の相当額の払い戻しを受けることができる。
宿泊施設でも設備の瑕疵などによって代替の部屋が用意できない場合は、上記と同様の手段が取られる場合がある。
鉄道の企画乗車券にミールクーポンやレジャーチケットを合わせたもので、旅行日程が日帰りの観光を目的としたもの。近距離移動で普通列車の利用に限定される場合は、乗車する列車が指定されないため、現地での自由時間を多くすることが出来る。
JR東海の子会社であるジェイアール東海ツアーズが提供している「ぷらっとこだま」のような「こだま」の区間や列車を指定した「企画旅行扱いの鉄道乗車(=鉄道乗車票)だけのフリープラン」(該当商品はドリンクチケットを含むが、実質的には割引きっぷ)や、主催旅行会社によってはいわゆるツアーバスも「募集型企画旅行商品」とされる。これらの商品では、旅行業法で定められている特別補償規定の適用範囲が、行程表で示されている運送機関乗車時に限定される。
なお、航空機のIIT運賃は1泊以上の宿泊を同時に販売する場合のみ利用可能であるため、往復航空券だけのフリープランは現実的ではない。
各種マイレージ特典や格安航空券・特別企画乗車券などによって、現地集合場所(空港や宿泊施設が多い)までの往復交通手段が確保できる利用者のニーズに応え、往復の交通を除いた宿泊とオプション参加のみが含まれたフリープランも存在する。日本発着の海外旅行ではランドオンリー・現地集合プランなどの名称で募集されている。
国内旅行では、交通+宿泊を伴うフリープラン商品の中で交通部分を省いた形態のものと、純粋に宿泊特化型のフリープラン商品が存在する。例えば、「受験生プラン」は受験生向けに電気スタンドの設置や、受験会場での昼食用弁当を販売するなどのサービスを含む。「宿泊フリープラン」は、空港やテーマパーク周辺で前後泊するための宿泊のみであるものと、都市部のシティホテルやリゾートホテルでの宿泊に、ミールクーポンやエステ・ゴルフプレー券・路線バス周遊券などのオプション・特典を含む商品がある。
しかし、宿泊利用のみであれば、インターネット上の宿泊予約ウェブサイト(大手旅行代理店の予約サイトや楽天トラベル、Octopus Travelなど)で予約した方が安いことがある。フリープランでは、募集企画をした旅行会社へ一定の手数料を支払う必要があるためである。
日本発着の海外旅行のフリープランでも、基本は航空券と宿泊のみがセットになっている商品である。プランによっては現地の空港 - 宿泊施設間の送迎で現地係員が対応したり、オプショナルツアーの申込みが可能である。格安ツアーではフリープランであることが多い。
そのため、現地情勢や地理などある程度の情報収集が必要であるが、情報誌やインターネットなどで現地情報が入手しやすくなった1990年代以降、観光や食事など現地での行動を自ら組み立てられることもあり、海外旅行商品の一分野として定着している。
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フリープランとは、日本の旅行業界で用いられる募集型企画旅行の商品の分類で、往復の交通(航空券や乗車券など)と宿泊(ホテル・旅館)のみをセットにして旅行会社が販売している商品のこと。また、この分類は統計上でも用いられる。和製英語である。
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| 出典の明記 = 2018年10月
| 独自研究 = 2018年10月
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'''フリープラン'''とは、日本の旅行業界で用いられる[[企画旅行#募集型企画旅行|募集型企画旅行]]の商品の分類で、往復の交通([[航空券]]や[[乗車券]]など)と宿泊([[ホテル]]・[[旅館]])のみをセットにして[[旅行会社]]が販売している商品のこと<ref name="mlit000019458">[https://www.mlit.go.jp/common/000019458.pdf 海外旅行者満足度・意識調査報告(概要版)] [[国土交通省]]、2018年10月24日閲覧。</ref>。また、この分類は統計上でも用いられる<ref name="mlit000019458" />。[[和製英語]]である。
==概要==
スケジュールに従った団体行動で[[観光]]や[[食事]]などを行う形態の[[パッケージツアー]]と異なり、基本プランでは'''自由行動'''で[[添乗員]]が伴わないことが特徴である。いわゆる格安ツアーもこの形態に当てはまることがある。
料金は、個人の手配とは異なり、企画した旅行会社が交通機関と宿泊施設それぞれ契約した(航空機は[[航空券#航空券の種類|個人包括旅行運賃]])が適用される。ホテルのシングルルーム宿泊プランでは、最少催行人数が1名であるため、商用([[出張]])や[[冠婚葬祭]]・帰省など、観光目的では無くても利用できる。
利用する交通手段の時間指定や、基本宿泊日数を予め延泊する事で旅行期間を延長できるなど、[[個人旅行|個人]]・[[手配旅行]]と遜色なくアレンジ出来るセミオーダー商品もある。[[個人旅行]]や[[ダイナミックパッケージ]]で手配するよりもフリープラン商品が安価である場合がある。
また、オプションとして、ミールクーポン([[食事券]])・テーマパーク等の入場券・スポーツ観戦チケット・現地のJRや路線バスの[[周遊券]]や[[定期観光バス|観光路線バス]]乗車券(日本国内)をはじめ、[[レンタカー]]利用権や、オプショナルツアーなどを追加設定可能なツアーも大手旅行会社主催を中心として多い。
===価格の低廉化===
日本では1998年の[[格安航空会社]]参入に伴い、[[東京国際空港|羽田]] - [[新千歳空港|新千歳]]・[[福岡空港|福岡]]間の運賃価格競争が始まった。それに加え、札幌・福岡市内で複数のホテル開発が進んでいたこともあり、上記路線を使うフリープラン商品が安くなった。
個人包括旅行運賃(IIT運賃)による往復の航空券と札幌・福岡市内のシングルルーム一泊が含まれる商品でも、[[ゴールデンウィーク]]などの繁忙期を除き、旅行料金のほとんどは航空会社の往復運賃以下である。2000年代に入り[[沖縄県|沖縄]]でも各地でホテル開発が進み、航空便の搭乗率上昇(集客力)を図る意図から、冬期前半(12-1月)は安く販売されるようになっている。
===主な留意点===
往復の交通(航空機・JR線など)は、旅行申込時に指定した航空便・列車(指定席の場合)しか利用出来ない。旅行者の理由による予定変更や乗り遅れた場合はその行程のきっぷ・航空券は無効となり、旅行を続けるには個人できっぷ・航空券を別途購入しなければならない。これがフリープランのデメリットであり、引き替えに格安での旅行が提供されている。ただし列車利用のフリープランでは、指定の列車に乗り遅れた場合でも、その日のうちならば後続列車の自由席を利用できる商品も多数存在する。
ただし悪天候や事故など不可抗力によって指定交通機関が運休・欠航した場合は、運送会社が後続便への振替を無償で行う。または、旅行者もしくは主催旅行会社の指示・判断により旅行行程を中断し現地での証明を受けることで、後日主催旅行会社から未使用の運賃や宿泊費等の相当額の払い戻しを受けることができる。
宿泊施設でも設備の瑕疵などによって代替の部屋が用意できない場合は、上記と同様の手段が取られる場合がある。
== 変則的なフリープラン ==
=== 宿泊を伴わないフリープラン ===
鉄道の企画乗車券にミールクーポンや[[レジャーチケット]]を合わせたもので、旅行日程が[[日帰り]]の観光を目的としたもの。近距離移動で普通列車の利用に限定される場合は、乗車する列車が指定されないため、現地での自由時間を多くすることが出来る。
[[東海旅客鉄道|JR東海]]の子会社である[[ジェイアール東海ツアーズ]]が提供している「[[こだま (列車)#東海道新幹線区間|ぷらっとこだま]]」のような「[[こだま (列車)|こだま]]」の区間や列車を指定した「[[企画旅行]]扱いの鉄道乗車(=鉄道乗車票)だけのフリープラン」(該当商品はドリンクチケットを含むが、実質的には割引きっぷ)や、主催旅行会社によってはいわゆる[[ツアーバス]]も「募集型企画旅行商品」とされる。これらの商品では、[[旅行業法]]で定められている[[企画旅行#特別補償|特別補償規定]]の適用範囲が、行程表で示されている運送機関乗車時に限定される。
なお、航空機のIIT運賃は1泊以上の宿泊を同時に販売する場合のみ利用可能であるため、往復航空券だけのフリープランは現実的ではない。
=== 交通を伴わないフリープラン ===
各種[[マイレージ]]特典や格安航空券・[[特別企画乗車券]]などによって、現地集合場所(空港や宿泊施設が多い)までの往復交通手段が確保できる利用者のニーズに応え、往復の交通を除いた宿泊とオプション参加のみが含まれたフリープランも存在する。日本発着の海外旅行では'''ランドオンリー'''・'''現地集合プラン'''などの名称で募集されている。
国内旅行では、交通+宿泊を伴うフリープラン商品の中で交通部分を省いた形態のものと、純粋に宿泊特化型のフリープラン商品が存在する。例えば、「'''受験生プラン'''」は[[受験生]]向けに電気スタンドの設置や、受験会場での昼食用[[弁当]]を販売するなどのサービスを含む。「'''宿泊フリープラン'''」は、[[空港]]や[[テーマパーク]]周辺で前後泊するための宿泊のみであるものと、都市部の[[シティホテル]]や[[リゾートホテル]]での宿泊に、ミールクーポンや[[エステティック|エステ]]・[[ゴルフ]]プレー券・路線バス[[周遊券]]などのオプション・特典を含む商品がある。
しかし、宿泊利用のみであれば、[[インターネット]]上の宿泊予約[[ウェブサイト]](大手旅行代理店の予約サイトや[[楽天トラベル]]、[[Octopus Travel]]など)で予約した方が安いことがある。フリープランでは、募集企画をした旅行会社へ一定の[[手数料]]を支払う必要があるためである。
==海外旅行==
日本発着の海外旅行のフリープランでも、基本は航空券と宿泊のみがセットになっている商品である。プランによっては現地の[[空港]] - 宿泊施設間の送迎で現地係員が対応したり、オプショナルツアーの申込みが可能である。格安ツアーではフリープランであることが多い。
そのため、現地情勢や地理などある程度の情報収集が必要であるが、[[情報誌]]や[[インターネット]]などで現地情報が入手しやすくなった[[1990年代]]以降、観光や食事など現地での行動を自ら組み立てられることもあり、海外旅行商品の一分野として定着している。
== 出典 ==
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==関連項目==
*[[パッケージツアー]]
*[[ダイナミックパッケージ]]
*[[企画旅行]]
*[[手配旅行]]
*[[海外旅行]]
*[[ツアーバス]]
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パッケージツアー
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パッケージツアー (英: package tour) とは、旅行業者があらかじめ旅行の目的地・日程・宿泊施設・移動方法(交通)などのサービス内容および料金を設定しておいて、参加者を(一般の、不特定の人々から)募集する旅行のこと。 パックツアーとも。英語ではパッケージ・ホリデー (英: package holiday) などとも言う。この概念を単に「ツアー」とも呼ぶ。
対比される概念としては
である。
パッケージツアーとは、いわゆる「パッケージ化」した旅行のことであり、旅行業者が主催するタイプのツアーであり、旅行業者があらかじめツアーを「企画」、つまりツアーの目的地、日程(出発日、途中の日程、帰還日)、移動方法(どの航空便・バス・列車などを使うかなど)、宿泊するホテルのランクや具体的なホテル名、(またオプションのサービスなどに関しても)、一連の構想や具体的な計画を練り(パッケージ化し)、それに対する料金も設定し、それらのプランと料金を公表して、参加者を募集するツアーである。
旅行業者から見れば、パッケージツアーというのは旅行会社みずからが企画し販売する商品であるので、主催する旅行会社は、旅程管理を行なう義務があり、会社の責任として旅程保証、特別補償、損害賠償という3つの責任を負う。
参加者(旅行者)の側から見ると、自分で基本的な移動手段や宿泊場所すらも探したり予約を入れたりしなければならない「手配旅行」に比べて、楽に旅行を行えるというメリットがある。
日本の旅行業法上は「募集型企画旅行」という用語が用いられ、同用語は旅行契約書などで用いられている。
パッケージツアーに参加したい人の側から見ると、世の中には多数のパッケージツアーがあり、旅行業者がパンフレットやウェブサイトなどで宣伝して参加者を募集しているので、そこに書かれているパッケージツアーの概要を見て自分の好みや希望条件に合致するものかどうか判断し、合致していれば旅行会社に行き説明を受け、疑問点があれば念のためそれも確認し、旅行契約書に署名をし、パンフレットなどに記載されていた代金を現金やカードなどで一括して払う。
あとは、指定された日時・場所に集合場所に行き、他の参加者とともに集団となり、旅行業者の従業員の指示にしたがうことで行程表(スケジュール)どおりに移動・宿泊・観光を行うことができ、解散場所で解散することになる。
ただし、「実施条件」として申込者の「下限数」があらかじめ設定されていてそれが注意書きなどで説明されていることがあり、申込者数がその数を極端に下回ると、旅行は実施されなくなることがある。すでに支払った代金は返金はされるが、申込者から見ると、予定がすっかり狂ってしまうことになるので、その点についてはある程度注意する必要がある。
日本ではもともとはもっぱら、集合場所から解散場所まで全行程に添乗員が同行する形が一般的であった。ただし、1990年代からは旅行業者の添乗員がおらず、所定の往復の交通と宿泊だけで構成されるフリープランも増えている。フリープランにさまざまなオプショナルツアー(別料金を払うことで追加できる小旅行、体験コース)が用意されていて、旅行者は好みでそれを選ぶことも可能になっていることも多い。 こうした比較的安価なパッケージツアーばかりを企画している旅行業者もある。
海外旅行のパッケージツアーでは、添乗員(日本人または日本語を話せる外国人)では、現地国に駐在して、現地のみ添乗・案内するケースが非常に多くなっている(旅行業者が諸経費を節約するために、こうしたことがしばしば行われている)。この場合は旅行行程表などに「添乗員は同行しませんが現地係員がお世話します」などと記載されている。 例えば、行程表に書かれている日本と海外の往復空路の航空券の手配は旅行業者が行ってくれるが、日本から飛行機に乗り海外へ行き、海外の指定の宿泊施設にチェックインするまでは、自力で判断して辿りつかなければならないものも増えているのである。 ただし、海外旅行のフリープランでも、参加者が犯罪にまきこまれたり、外国語でのコミュニケーションで苦しむことを防止するために、現地空港から宿泊施設までは現地係員が専用車などで案内し、チェックイン手続を代行してくれるプランもある。
他方、価格が高めで、予算に余裕のある団塊の世代や高齢者層を主な対象にした、パッケージツアーを(も)企画している旅行業者もある。そういったタイプのパッケージツアーは添乗員が同行することが多く、高級志向のホテル・旅館や豪華客船などを利用しているものが多い。新聞広告、あるいはクレジットカード・銀行・証券会社の情報誌などで募集が行われている。
価格帯によっておおまかに旅行業者の関与の度合いの傾向はある。が、業者ごとに流儀が違ったり、同一業者のパッケージツアーでも特定のものに関しては特殊なやり方でやっている場合があるなど、さまざまな場合があるうるので、結局は個々の企画に関して個別に旅行業者の担当者に尋ねてみて判ることになる。
組織化された旅行は既に1400年頃にあったといわれており、エルサレムへの巡礼者向けの旅行代理人が宿泊契約や乗船契約の代行を行っていた。このほかにも簡単なパックツアーは実施されており、1600年頃にはローマの観光ガイドがナポリに宿泊したのちヴェスヴィオ山へ登りさらにガエタへ船で周遊する2週間旅行などを実施していた。18世紀には宿泊・食事・観光ガイドの料金をすべて含む一定料金でパリやローマに案内する旅行代理人が存在した。
19世紀初めごろには観光産業という言葉が使われるようになったが、組織化された旅行産業が誕生するのは鉄道や汽船の技術的な発達によって交通網が発達してからである。近代の旅行産業の先駆けとして団体旅行と呼ばれるプランを初めて実施したのは家具職人で巡回牧師だったイギリスのトーマス・クックであるとされている。トーマス・クックは1841年7月5日に割引料金の臨時列車を仕立てて570人が参加するレスターからラフバラまでの往復旅行を実施し、この鉄道旅行が近代旅行業の始まりといわれている。
概説でも説明したように、パッケージツアーの場合、旅行会社には旅程管理を行なう義務があり、会社の責任として旅程保証、特別補償、損害賠償という3つの責任を負う。これは法律で定められている。
ただし、パッケージツアーのパンフレットには「免責事項」という注意書きがいくつか挙げられていることもある(以下は例)。
なおどの程度まで実際に「免責」され、どの程度まで損害賠償をせずに済むかについては、法律や判例にもとづいて判断されるべきことであり、旅行業者のパンフレットに「免責事項」として印刷されているからと言って、必ずしも旅行業者が作成した文言(主張)のとおり「免責」されるわけではない。実際には、旅行者から提訴が行われれば、裁判所が総合的に判断する。
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"text": "ただし、「実施条件」として申込者の「下限数」があらかじめ設定されていてそれが注意書きなどで説明されていることがあり、申込者数がその数を極端に下回ると、旅行は実施されなくなることがある。すでに支払った代金は返金はされるが、申込者から見ると、予定がすっかり狂ってしまうことになるので、その点についてはある程度注意する必要がある。",
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"text": "組織化された旅行は既に1400年頃にあったといわれており、エルサレムへの巡礼者向けの旅行代理人が宿泊契約や乗船契約の代行を行っていた。このほかにも簡単なパックツアーは実施されており、1600年頃にはローマの観光ガイドがナポリに宿泊したのちヴェスヴィオ山へ登りさらにガエタへ船で周遊する2週間旅行などを実施していた。18世紀には宿泊・食事・観光ガイドの料金をすべて含む一定料金でパリやローマに案内する旅行代理人が存在した。",
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"text": "19世紀初めごろには観光産業という言葉が使われるようになったが、組織化された旅行産業が誕生するのは鉄道や汽船の技術的な発達によって交通網が発達してからである。近代の旅行産業の先駆けとして団体旅行と呼ばれるプランを初めて実施したのは家具職人で巡回牧師だったイギリスのトーマス・クックであるとされている。トーマス・クックは1841年7月5日に割引料金の臨時列車を仕立てて570人が参加するレスターからラフバラまでの往復旅行を実施し、この鉄道旅行が近代旅行業の始まりといわれている。",
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"text": "概説でも説明したように、パッケージツアーの場合、旅行会社には旅程管理を行なう義務があり、会社の責任として旅程保証、特別補償、損害賠償という3つの責任を負う。これは法律で定められている。",
"title": "特徴"
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"text": "ただし、パッケージツアーのパンフレットには「免責事項」という注意書きがいくつか挙げられていることもある(以下は例)。",
"title": "特徴"
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"text": "なおどの程度まで実際に「免責」され、どの程度まで損害賠償をせずに済むかについては、法律や判例にもとづいて判断されるべきことであり、旅行業者のパンフレットに「免責事項」として印刷されているからと言って、必ずしも旅行業者が作成した文言(主張)のとおり「免責」されるわけではない。実際には、旅行者から提訴が行われれば、裁判所が総合的に判断する。",
"title": "特徴"
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パッケージツアー とは、旅行業者があらかじめ旅行の目的地・日程・宿泊施設・移動方法(交通)などのサービス内容および料金を設定しておいて、参加者を(一般の、不特定の人々から)募集する旅行のこと。 パックツアーとも。英語ではパッケージ・ホリデー などとも言う。この概念を単に「ツアー」とも呼ぶ。 対比される概念としては 旅行者自身が宿泊施設や移動手段などを、ひとつひとつ探し、手配・予約する「手配旅行(てはいりょこう)」。
旅行業者が顧客の要望に合わせて手配予約すること。 である。
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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2013年6月
| 独自研究 = 2018年10月
}}
'''パッケージツアー''' ({{Lang-en-short|package tour}}) とは、[[旅行会社|旅行業者]]があらかじめ旅行の目的地・日程・宿泊施設・移動方法(交通)などのサービス内容および料金を設定しておいて、参加者を(一般の、不特定の人々から)募集する旅行のこと<ref name="kankouyougoshu">[https://www.tourism.jp/tourism-database/glossary/package-tour/]</ref>。 '''パックツアー'''とも。英語ではパッケージ・ホリデー ({{Lang-en-short|package holiday}}) などとも言う。この概念を単に「ツアー」とも呼ぶ。
対比される概念としては
*旅行者自身が宿泊施設や移動手段などを、ひとつひとつ探し、手配・予約する「手配旅行(てはいりょこう)」<ref name="kankouyougoshu" />。
*旅行業者が顧客の要望に合わせて手配予約すること。
である。
== 概要 ==
パッケージツアーとは、いわゆる「パッケージ化」した旅行のことであり、旅行業者が主催するタイプのツアーであり、旅行業者があらかじめツアーを「企画」、つまりツアーの目的地、日程(出発日、途中の日程、帰還日)、移動方法(どの航空便・バス・列車などを使うかなど)、宿泊するホテルのランクや具体的なホテル名、(また[[オプション]]のサービスなどに関しても)、一連の構想や具体的な計画を練り(パッケージ化し)、それに対する料金も設定し、それらのプランと料金を公表して、参加者を募集するツアーである。
旅行業者から見れば、パッケージツアーというのは旅行会社みずからが企画し販売する商品であるので、主催する旅行会社は、旅程管理を行なう義務があり、会社の[[責任]]として'''旅程保証'''、'''特別補償'''、'''損害賠償'''という<u>3つの責任</u>を負う<ref name="kankouyougoshu" />。
参加者(旅行者)の側から見ると、自分で基本的な移動手段や宿泊場所すらも探したり予約を入れたりしなければならない「手配旅行」に比べて、楽に旅行を行えるというメリットがある。
*パッケージツアーと「団体旅行」や「個人旅行」との関係や相違点
:なおパッケージツアーと「団体旅行」は必ずしも同義ではない(「団体旅行」というのは、会社が主催する職場旅行などもあり、旅行会社が主催していないものがある、という点で異なっている場合があるのである)。また、旅行市場の市場調査では旅行の形態は[[団体旅行]]と[[個人旅行]]に分けられるが<ref name="nenpo2015" />、JTBF旅行実態調査などでは「個人で実施する観光旅行」は個人旅行に分類されるため、個人で旅行会社のパック旅行(パッケージツアー)に参加する場合にはあくまで「個人旅行」と分類される<ref name="nenpo2015">{{Cite web|和書|url= https://www.jtb.or.jp/wp-content/uploads/2015/10/nenpo2015_1-1.pdf |format=PDF |year=2015 |author=日本交通公社|title=旅行年報2015|accessdate=2018-10-27}} </ref>。パッケージツアーを利用する団体旅行を団体ツアー、パッケージツアーを利用する個人旅行を個人ツアーという<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mlit.go.jp/common/000999490.pdf |format=PDF |year=2013 |author=観光庁|title=訪日外国人消費動向調査(平成25年1-3月期)|accessdate=2018-10-27}} </ref>。
=== 日本の旅行業者主催のパッケージツアー ===
日本の[[旅行業法]]上は「募集型[[企画旅行]]」という用語が用いられ、同用語は旅行契約書などで用いられている。
パッケージツアーに参加したい人の側から見ると、世の中には多数のパッケージツアーがあり、旅行業者が[[パンフレット]]や[[ウェブサイト]]などで宣伝して参加者を募集しているので、そこに書かれているパッケージツアーの概要を見て自分の好みや希望条件に合致するものかどうか判断し、合致していれば旅行会社に行き説明を受け、疑問点があれば念のためそれも確認し、旅行[[契約書]]に署名をし、パンフレットなどに記載されていた代金を現金やカードなどで一括して払う。
あとは、指定された日時・場所に集合場所に行き、他の参加者とともに集団となり、旅行業者の従業員の指示にしたがうことで行程表(スケジュール)どおりに移動・宿泊・観光を行うことができ、解散場所で解散することになる。
ただし、「実施条件」として申込者の「下限数」があらかじめ設定されていてそれが注意書きなどで説明されていることがあり、申込者数がその数を極端に下回ると、旅行は実施されなくなることがある。すでに支払った代金は返金はされるが、申込者から見ると、予定がすっかり狂ってしまうことになるので、その点についてはある程度注意する必要がある。
;さまざまなタイプとさまざまな価格帯
日本ではもともとはもっぱら、集合場所から解散場所まで全行程に[[添乗員]]が同行する形が一般的であった。ただし、1990年代からは旅行業者の添乗員がおらず、所定の往復の交通と宿泊だけで構成される[[フリープラン (旅行)|フリープラン]]も増えている。フリープランにさまざまな[[オプショナルツアー]](別料金を払うことで追加できる小旅行、体験コース)が用意されていて、旅行者は好みでそれを選ぶことも可能になっていることも多い。
こうした比較的安価なパッケージツアーばかりを企画している旅行業者もある。
[[海外旅行]]のパッケージツアーでは、添乗員(日本人または日本語を話せる外国人)では、現地国に駐在して、現地のみ添乗・案内するケースが非常に多くなっている(旅行業者が諸経費を節約するために、こうしたことがしばしば行われている)。この場合は旅行行程表などに「添乗員は同行しませんが現地係員がお世話します」などと記載されている。
例えば、行程表に書かれている日本と海外の往復空路の航空券の手配は旅行業者が行ってくれるが、日本から飛行機に乗り海外へ行き、海外の指定の宿泊施設にチェックインするまでは、自力で判断して辿りつかなければならないものも増えているのである。
ただし、海外旅行のフリープランでも、参加者が犯罪にまきこまれたり、外国語でのコミュニケーションで苦しむことを防止するために、現地空港から宿泊施設までは現地係員が専用車などで案内し、チェックイン手続を代行してくれるプランもある。
他方、価格が高めで、予算に余裕のある[[団塊の世代]]や[[高齢者]]層を主な対象にした、パッケージツアーを(も)企画している旅行業者もある。そういったタイプのパッケージツアーは添乗員が同行することが多く、高級志向のホテル・旅館や[[豪華客船]]などを利用しているものが多い。[[新聞広告]]、あるいは[[クレジットカード (日本)|クレジットカード]]・[[銀行]]・[[証券会社]]の情報誌などで募集が行われている。
価格帯によっておおまかに旅行業者の関与の度合いの傾向はある。が、業者ごとに流儀が違ったり、同一業者のパッケージツアーでも特定のものに関しては特殊なやり方でやっている場合があるなど、さまざまな場合があるうるので、結局は個々の企画に関して個別に旅行業者の担当者に尋ねてみて判ることになる。
== 歴史 ==
=== ヨーロッパ ===
組織化された旅行は既に1400年頃にあったといわれており、エルサレムへの巡礼者向けの旅行代理人が宿泊契約や乗船契約の代行を行っていた<ref name="shinka151">ヴィンフリート・レシュブルク 『旅行の進化論』p.151 1999年</ref>。このほかにも簡単なパックツアーは実施されており、1600年頃にはローマの観光ガイドが[[ナポリ]]に宿泊したのち[[ヴェスヴィオ山]]へ登りさらにガエタへ船で周遊する2週間旅行などを実施していた<ref name="shinka151" />。18世紀には宿泊・食事・観光ガイドの料金をすべて含む一定料金でパリやローマに案内する旅行代理人が存在した<ref name="shinka151" />。
19世紀初めごろには観光産業という言葉が使われるようになったが、組織化された旅行産業が誕生するのは鉄道や汽船の技術的な発達によって交通網が発達してからである<ref name="shinka151" />。近代の旅行産業の先駆けとして団体旅行と呼ばれるプランを初めて実施したのは家具職人で巡回牧師だった[[イギリス]]の[[トーマス・クック]]であるとされている<ref>ヴィンフリート・レシュブルク 『旅行の進化論』pp.151-152 1999年</ref>。トーマス・クックは1841年7月5日に割引料金の臨時列車を仕立てて570人が参加する[[レスター]]からラフバラまでの往復旅行を実施し、この鉄道旅行が近代旅行業の始まりといわれている<ref>ヴィンフリート・レシュブルク 『旅行の進化論』p.152 1999年</ref>。
== 特徴 ==
=== 利点と欠点 ===
;利点
* (添乗員が同行してくれるタイプでは)[[不安]]感が比較的少ない。
* (スケジュールが細かく、効率的に組まれていることが多いので)比較的多くの[[観光]]名所を短時間に効率よく周遊出来る(ことが多い)。
* 事前の現地[[情報]]収集は少なめで済み、楽である。
* [[自由旅行]]や[[手配旅行]]と比べると、旅行費用全体では割安なケースが多い。(企画している旅行業者と宿泊施設などの間で、団体枠の料金([[団体料金]])が適用され、旅行者ひとりあたりの原価が安くなっているため。)
* 法律上、旅行業者が3つの[[責任]](旅程管理責任、旅程保証責任、特別保障責任)を負うことになっているため、その点は手配旅行に比べると安心できる。
;欠点
* スケジュールが極端に細かく設定されていて、やたらと動き回らせるものがあり、その場合、ひとつひとつの場所でそこを十分に味わう時間すら得られず、労働させられているような感覚を味わわされ、疲れるばかりで、満足感がかえって低下する場合がある。
* コースが「お仕着せ」なので、企画者のセンスや好みと旅行者(参加者)の好みが異なっていると満足できない。
* 行動時間の大半は、他の参加者と集団行動をしなければならず、他の参加者が様々なトラブルを引き起こして、それがとても煩わしく感じられることがある。
* 日本でもすでに[[格安航空会社]]が格安の航空チケットを提供しており、ホテル代の割引が個人客にも開放されているので、昭和時代とは異なり、パッケージツアーよりも、むしろ[[自由旅行]]・[[手配旅行]]・[[一人旅]]などほうが安くなる場合もある。特に1人参加で1人部屋追加料金を支払う場合はパッケージツアーはかなり高くつく傾向がある(見ず知らずの参加者同士の[[相部屋]]を認めるタイプもあるが、そのかわりにそれなりのわずらわしさがある)。また、辺境地を[[チャーター便]]や貸切バスで周遊するツアーも高額になりやすい。
* 土産物店や[[免税店]]に何回も立ち寄らされることがある。現地での観光を放棄する方法もあるが、ツアーによっては認めないものもある(その土産物店等が旅行会社と契約しておりその[[手数料|マージン]]を旅行会社に払っているため)。
* 列車や飛行機等、便指定が多く、変更が出来ない場合が多い。キャンセル料も通常の鉄道会社(JR乗車券は210円)や航空会社設定のキャンセル料ではなく、取消日により、異なり、全体の料金からの割合になる。
=== 旅行会社の責任、および「免責事項」の説明 ===
概説でも説明したように、パッケージツアーの場合、旅行会社には旅程管理を行なう義務があり、会社の[[責任]]として'''旅程保証'''、'''特別補償'''、'''[[損害賠償]]'''という<u>3つの責任</u>を負う<ref name="kankouyougoshu" />。これは法律で定められている。
ただし、パッケージツアーのパンフレットには「免責事項」という注意書きがいくつか挙げられていることもある(以下は例)。
* 気象条件・交通渋滞・路面凍結・遊歩道の状態等により行程や日程が変更となる場合あるいは催行そのものが中止になる場合があることの説明。
* ツアープランあるいは発着地により途中の観光地が異なることの説明。
* 添乗員・ガイドが同行しない区間あるいはプランの説明。
* 当日の状況により途中立ち寄る観光地において案内人・ガイドが付かない場合のあることの説明。
* 途中の徒歩区間につき足場が悪い場所があることの説明。
* 他社のパッケージツアーと混乗となる場合があることの説明。
* 行程中の一部(他社の交通機関を利用する区間など)に募集型企画旅行に含まれない区間があること(保険適用外)の説明。
* 特定期間・特定曜日のツアーでは別プランとなる場合があることの説明。
* 一部有料施設の入場料につき自己負担となる場合があることの説明。
* 宿泊先から食事箇所まで各自移動の場合があることの説明。
* 宿泊先のプランによって交通機関が別設定(タクシーあるいは徒歩移動)となる場合があることの説明。
* 途中の交通機関(フェリー等)のダイヤ改正により宿泊先への到着・出発、行程(観光時間の短縮)、食事箇所が変更(弁当への変更)になる場合があることの説明。
* 気象条件によってプランが中止・変更(雨天・雪解けの状況による散策の中止、悪天候による遊覧船の欠航)があることの説明。
* 自然条件によって目的を達しない場合(山の観望、御来光、日没、花の開花、サケの遡上など)があることの説明。
* 気象状況に関係なく雨天決行となるため雨具の携行が必要であることの説明。
* 工場稼働日でない場合には工場見学が無くショッピングのみとなることの説明。
なおどの程度まで実際に「免責」され、どの程度まで損害賠償をせずに済むかについては、[[法律]]や[[判例]]にもとづいて判断されるべきことであり、旅行業者のパンフレットに「免責事項」として印刷されているからと言って、必ずしも旅行業者が作成した文言(主張)のとおり「免責」されるわけではない。実際には、旅行者から[[訴訟|提訴]]が行われれば、[[裁判所]]が総合的に判断する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[団体旅行]]
* [[フリープラン (旅行)]]
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{{DEFAULTSORT:はつけえしつあ}}
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キリル文字
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キリル文字(キリルもじ、露: кириллица、英: cyrillic)は、スラヴ語派などを表記するのに用いられる表音文字である。
ギリシア文字に基づいてギリシア人のキュリロス(Kyrillos)(ロシア式呼び方では「キリル」)が9世紀に作ったグラゴル文字をもとに、(その弟子たちが)10世紀にブルガリアで作った文字である。(→#歴史)
キリル文字はロシア語、ベラルーシ語、ウクライナ語、ブルガリア語、セルビア語、カザフ語、キルギス語など多くの言語で使用されており、文字集合はそれぞれ微妙に異なる。
ギリシャ文字と同じで、半角文字は存在しない。
グラゴル文字は、スラヴ人に布教を行ったキリスト教東方教会の総本山、正教会の宣教師であるキュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)が発明した文字である。
862年、西スラヴ人の王国であるモラヴィア王国のラスチスラフ王が東ローマ帝国にキリスト教の伝道師派遣を要請し、東ローマ皇帝はキリルとメフォディの兄弟をモラビア王国に派遣した。このときキリルとメフォディ兄弟はスラヴ人に正教を布教するため、スラブ語を表記するための文字を考案した。これがグラゴル文字で、このグラゴル文字がのちにキリル文字に発展した。
862年から863年ごろに考案されたグラゴル文字は史上初のスラヴ語表記の文字であり、スラブ世界で広く使用されるようになった。しかし、キリルとメフォディ兄弟の布教はキリスト教西方教会であるローマ教会から妨害され、885年のメフォディの死後、キリルとメフォディ兄弟の弟子であるオフリドのクリメントらは弾圧から逃れてブルガリア帝国へ移り、ボリス1世に庇護されながら布教活動を続けた。
グラゴル文字はスラヴ語の特徴をよくとらえたものであったが、いくつかの問題が存在した。形が複雑すぎて使用しにくかったことと、当時ブルガリアではすでにギリシア語を使う層が一定数おり、ブルガリア語をギリシア文字で表すことも行われていたことである。そこでブルガリアに移った弟子たちはグラゴル文字を改良し、900年前後よりギリシア文字に近い形の新しい文字を開発した。キリル文字の開発にあたっては、基本的にはギリシア文字を採用し、ギリシア文字では表現できないものはグラゴル文字からの借用や新文字によって表現した。しかし彼らはキュリロスをしのび、新しい文字をキュリロスの文字と呼んだ。これがキリル文字である。この名称のため、後世にはキリルが作ったのがキリル文字と信じられるようになった。上記のように弾圧を受けたこともあって文字成立期の資料がほとんど発見されていなかったため、19世紀前半まではグラゴル文字とキリル文字のどちらが古いかは謎となっていたが、19世紀中ごろに古い音韻を残したグラゴル文字資料がいくつか発見され、グラゴル文字の方が早く成立したことが明らかとなった。
キリル文字の使用が始まった時期は明確ではないが、シメオン1世の統治下(893年 - 927年)と考えられている。開発当初、キリル文字とグラゴル文字はブルガリア国内で併存しており、首都プレスラフを中心とする北東部ではキリル文字が、旧首都オフリドを中心とする西部においてはグラゴル文字が使用されていた。
教会での典礼用に開発されたキリル文字は、グラゴル文字と同様スラヴ語正教会圏に普及していき、徐々にグラゴル文字の後継言語となった。シメオン時代にブルガリア統治下にあったセルビアにもキリル文字は伝播し、さらに988年にはキエフ大公ウラジーミル1世が正教会を受け入れたため、ロシア全土にキリル文字が伝播することとなった。
各国に伝わったキリル文字は、その後各地の実情に応じて修正が加えられていった。ロシアにおいては18世紀初頭にピョートル大帝が文字改革を行っていくつかの文字を廃止し、また字体がラテン文字に近づけられた。さらに20世紀に入ると再び改革が行われることになり、1912年に改正改革案が発表され、1917年にはロシア臨時政府によって旧文字体系から4つの文字が除去された現行のロシア文字体系が施行された。セルビアにおいても19世紀半ばにヴーク・カラジッチによって言文一致を旨とした改革が遂行され、不要な文字の除去とラテン文字のJの導入などが行われ、セルビア語キリル・アルファベットが成立した。1945年にはブルガリアにおいても文字改革が実施された。
古くからキリル文字が使われ、現在も使われている言語は、スラヴ語派と正教会の重なる範囲にほぼ一致する。つまり、東スラヴ語群のロシア語・ウクライナ語・ベラルーシ語、南スラヴ語群のうちブルガリア語・マケドニア語・セルビア語・モンテネグロ語である。スラヴ語族でも、カトリック圏のポーランド語・チェコ語・スロヴァキア語・スロヴェニア語・クロアチア語はラテン文字であり、イスラム教に属するボスニア語もラテン文字を使う場合が多い。また、スラヴ語とは全く関係のないモンゴル語族に属するモンゴル語、ジョージアでは南オセチア自治州のオセット語(イラン語派に属する)もキリル文字を使用している。
また、正教会であってもスラヴ語派でない場合、キリル文字はかつては使用されていた所も多いものの現代においては使われていない。ルーマニア語も正教会であるためキリル文字を使用していたが、18世紀以降民族主義の高まりによりラテン文字化運動が広がっていき、1859年から1860年にかけて、正式にラテン文字が採用されることとなった。ギリシア語はギリシア文字、グルジア語はグルジア文字、アルメニア語はアルメニア文字である。
ソビエト連邦時代には、ソ連内でこれまで文字を持たなかったシベリアなどの言語や、アラビア文字を使っていた中央アジアなどの言語に、ラテン文字での正書法が制定された。しかし1940年以後の言語政策の変化によりキリル文字での正書法が改めて制定され、既にラテン文字で正書法が制定された言語についてはキリル文字への切り替えがなされた。
ソ連あるいは帝政ロシアによる併合以前からアラビア文字以外の文字を用いていたバルト三国のエストニア語・ラトビア語・リトアニア語(いずれもラテン文字)、アルメニア語(アルメニア文字)、グルジア語(グルジア文字)はキリル文字化されなかったが、ルーマニア語から政治的に分離されたモルドバ語はラテン文字からキリル文字に改められた。
使用地域が現在もロシア領である言語では、アルタイ語・ウィルタ語・エヴェンキ語・オセット語・カルムイク語・クリミア・タタール語・サハ語・ショル語・タタール語・チュヴァシ語・チュクチ語・トゥバ語・ドンガン語・ナナイ語・ニヴフ語・ハカス語・ブリヤート語などがキリル文字を使用している。ソ連崩壊時に独立した国の言語では、カザフ語・キルギス語・タジク語などがある。ソ連の強い影響下にあったモンゴルでも、1937年にモンゴル語がモンゴル文字からキリル文字化された。
1991年のソビエト連邦崩壊後、キリル文字を使用していた諸国のうちいくつかは使用文字をラテン文字へと変更する傾向が顕著になった。こうした移行の背景には、ソビエト連邦、およびその主流となってきたロシア的なものへの嫌悪感があり、キリル文字から文字を変更することによって過去からの決別を行うことを目的としていた。また、世界で最も使用される文字であるラテン文字を使用することで世界とより深く結びつくことも目的とされた。
ソ連時代にアラビア文字からラテン文字化され、更にキリル文字化されたアゼルバイジャン語・ウズベク語・カラカルパク語・トルクメン語では、独立後ラテン文字が再び採用され徐々に切り替わりつつあり、他にいくつかの言語で、これに続こうとする動きがある。モルドバにおいても1989年には再度表記をラテン文字に改めることが決定され、ふたたびラテン文字使用国となった。上記のようにウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンは1990年代にラテン文字表記に移行した。キリル文字使用国として残っているキルギスやタジキスタンにおいても、ラテン文字移行やアラビア文字回帰の議論は2000年代後半から盛んになってきている。
カザフスタンにおいてはソ連崩壊後もキリル文字の使用が続いてきたが、2006年にラテン文字への切り替え構想が浮上。2017年4月、同国のヌルスルタン・ナザルバエフ大統領はカザフ語の表記をラテン文字に改め、2018年には学校教育においてラテン文字の使用を開始し、2025年には完全にカザフ語表記をラテン文字に移行することを表明した。2017年時点で既に多くの企業・銀行や劇場にある看板、車のナンバープレート、郵便番号などがラテン文字になっており、若者の間ではラテン文字を使うことが流行になっている。移行完了までの総費用は約3億ドルと予想されている。また2003年以降、紙幣と硬貨にはカザフ語とロシア語の併用が認められてきたが、2019年2月にはカザフ語のみの使用とし、記念貨幣には外国語の使用も認めるという大統領令が発布された。
ナザルバエフ大統領は「ロシア語とロシア文化を忘れることはない」と言明しているが、カザフスタン国内ではラテン文字化政策は世界に開かれた国づくりの一環とみなされている。しかしながら、ウズベキスタンではラテン文字へ切り替えて20年以上たったものの、依然としてキリル文字も幅広く使用されており、特に中高齢層ではキリル文字が一般的なままである。また、文字表記の移行には莫大な予算がかかるという欠点も露呈している。さらに、民族問題の複雑さも絡んでおり、特にカザフスタンのようなロシア系住民の割合が高い国では問題となりかねない。
モンゴルにおいてはソビエト崩壊後の1994年にモンゴル文字へと再び文字を切り替える動きが出たものの、モンゴル文字を自由に使いこなせる人間が少ないことや、モンゴル文字は横書きができないこと、文字を切り替えた後で言語変化が起きており、モンゴル文字ではキリル文字にくらべて新しい語彙への対応ができていないことなどからこの運動は失敗し、引き続きキリル文字を主に使用する状況が続いているが、モンゴル国会は2020年3月18日、2025年までにモンゴル文字表記の併用を推進し、最終的にモンゴル文字への移行を目指す方針を決めた。
バルカン半島北西部に居住する南スラヴ語群に属するいくつかの民族は言語的にはほとんど差異がなく、セルビア・クロアチア語と呼ばれる方言連続体を形成していたが、地域によって使用する文字は異なっていた。西部に居住するクロアチア人はカトリック教会に属しており、同じくカトリックに属するハンガリーとの関係が深かったこともあってラテン文字を使用しているのに対し、東部のセルビア人は正教会を奉じており、キリル文字を長く使用していた。1943年にこの地域に成立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国は「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの連邦国家」という言葉に象徴されるようにかなり広範な地方自治を認めており、文字に関しても統一を行うことはなく二つの文字が並立する体制が続いていた。この時期のユーゴスラビア国内においては、西のスロベニア社会主義共和国およびクロアチア社会主義共和国においては主にラテン文字が、東のボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国やセルビア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国においては主にキリル文字が使用されていた。ただし、お互いの文字圏において別の文字が使用されることは珍しいことではなかった。クロアチアで成立したガイ式ラテン・アルファベットとセルビア語キリル・アルファベットが完全に1対1で対応しており(ただしキリル1文字をラテン2文字で表記する場合がある)、併用しやすかったこともこの傾向を促進していた。
こうした状況は、1991年のユーゴスラビア崩壊によって変化した。統一言語として扱われていたセルビア・クロアチア語は崩壊し、それぞれクロアチア語・ボスニア語・セルビア語として別個の言語として扱われるようになった。これに伴い、ボスニア内においてもクロアチア人はラテン文字を使用し、ボシュニャク人もキリル文字を使用することはあるもののラテン文字を主に使用するようになり、セルビア人は逆にキリル文字を使用する頻度が高くなった。
詳細については各言語を参照のこと。
キリル文字は各言語において文字やその数が異なっている。ロシアのキリル文字は33文字、セルビアのキリル文字は30文字で構成されている。またセルビア語およびマケドニア語においては、ラテン文字よりJの字が導入され使用されている。キリル文字が発明された当初は45文字であったと推定されており、その後各地で不要な文字が廃棄されて現在の文字数に落ち着いた。またキリル文字をそのまま数字として使用するキリル数字という記数法もキリル文字成立当初から存在する。
ラテン文字と同じように立体とイタリック体の活字がある。一部の文字は立体とイタリック体で形がかなり異なり、例えばロシア語では、イタリック体の「т」はラテン文字小文字のmに似た字形となる。以下にロシア語のキリル小文字の立体とイタリック体を示す。特に形が異なる字を強調(太字)で示す。
また一部の文字では、言語によってイタリック体の字形が異なる。例えばセルビア語では、ロシア語などと違い、イタリック体の「т」はラテン文字小文字のmを上下逆にして上線を付したような字形となる。
小文字の筆記体はロシア語のイタリック体の字形とほぼ同じだが、「б」と「д」の筆記体はセルビア語のイタリック体の字形と同じである。ただし、識別度を高くするや個人の習慣などの理由により、あえて「г」「п」「т」をセルビア語のイタリック体字形と同じように書くこともある。
同じくギリシア文字を元に作られたラテン文字とは似た形の文字が多いが、形が似ていても音価が対応関係にない、あるいは音価が対応していても形が対応関係に無い場合も多いので注意を要する。例えばラテン文字の R([r]) と似ているキリル文字として Я([ja]) があるが、前者はギリシア文字の Ρ から、後者は合字の ІА から派生した文字であり、発音も起源も全く関連が無い。また、例えば [v] の音価に相当する文字は、ラテン文字ではギリシア文字の Υ([u]) から派生した V だが、キリル文字では Β([b]、現代ギリシア語では[v])から派生した В である。
Unicode では以下の位置に次の文字が収録されている。
キリル文字を使用する主な言語のWindowsにおけるキーボードの配列は以下の通り。旧ロシア帝国支配下の国々とバルカン半島諸国の言語で配列に大きな違いがある。これはタイプライターが導入された時期からの違いである。
|
[
{
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"text": "キリル文字(キリルもじ、露: кириллица、英: cyrillic)は、スラヴ語派などを表記するのに用いられる表音文字である。",
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},
{
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"text": "ギリシア文字に基づいてギリシア人のキュリロス(Kyrillos)(ロシア式呼び方では「キリル」)が9世紀に作ったグラゴル文字をもとに、(その弟子たちが)10世紀にブルガリアで作った文字である。(→#歴史)",
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},
{
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"text": "キリル文字はロシア語、ベラルーシ語、ウクライナ語、ブルガリア語、セルビア語、カザフ語、キルギス語など多くの言語で使用されており、文字集合はそれぞれ微妙に異なる。",
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{
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"text": "ギリシャ文字と同じで、半角文字は存在しない。",
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},
{
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"text": "グラゴル文字は、スラヴ人に布教を行ったキリスト教東方教会の総本山、正教会の宣教師であるキュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)が発明した文字である。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "862年、西スラヴ人の王国であるモラヴィア王国のラスチスラフ王が東ローマ帝国にキリスト教の伝道師派遣を要請し、東ローマ皇帝はキリルとメフォディの兄弟をモラビア王国に派遣した。このときキリルとメフォディ兄弟はスラヴ人に正教を布教するため、スラブ語を表記するための文字を考案した。これがグラゴル文字で、このグラゴル文字がのちにキリル文字に発展した。",
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{
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"text": "862年から863年ごろに考案されたグラゴル文字は史上初のスラヴ語表記の文字であり、スラブ世界で広く使用されるようになった。しかし、キリルとメフォディ兄弟の布教はキリスト教西方教会であるローマ教会から妨害され、885年のメフォディの死後、キリルとメフォディ兄弟の弟子であるオフリドのクリメントらは弾圧から逃れてブルガリア帝国へ移り、ボリス1世に庇護されながら布教活動を続けた。",
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"text": "グラゴル文字はスラヴ語の特徴をよくとらえたものであったが、いくつかの問題が存在した。形が複雑すぎて使用しにくかったことと、当時ブルガリアではすでにギリシア語を使う層が一定数おり、ブルガリア語をギリシア文字で表すことも行われていたことである。そこでブルガリアに移った弟子たちはグラゴル文字を改良し、900年前後よりギリシア文字に近い形の新しい文字を開発した。キリル文字の開発にあたっては、基本的にはギリシア文字を採用し、ギリシア文字では表現できないものはグラゴル文字からの借用や新文字によって表現した。しかし彼らはキュリロスをしのび、新しい文字をキュリロスの文字と呼んだ。これがキリル文字である。この名称のため、後世にはキリルが作ったのがキリル文字と信じられるようになった。上記のように弾圧を受けたこともあって文字成立期の資料がほとんど発見されていなかったため、19世紀前半まではグラゴル文字とキリル文字のどちらが古いかは謎となっていたが、19世紀中ごろに古い音韻を残したグラゴル文字資料がいくつか発見され、グラゴル文字の方が早く成立したことが明らかとなった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "キリル文字の使用が始まった時期は明確ではないが、シメオン1世の統治下(893年 - 927年)と考えられている。開発当初、キリル文字とグラゴル文字はブルガリア国内で併存しており、首都プレスラフを中心とする北東部ではキリル文字が、旧首都オフリドを中心とする西部においてはグラゴル文字が使用されていた。",
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"text": "教会での典礼用に開発されたキリル文字は、グラゴル文字と同様スラヴ語正教会圏に普及していき、徐々にグラゴル文字の後継言語となった。シメオン時代にブルガリア統治下にあったセルビアにもキリル文字は伝播し、さらに988年にはキエフ大公ウラジーミル1世が正教会を受け入れたため、ロシア全土にキリル文字が伝播することとなった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "各国に伝わったキリル文字は、その後各地の実情に応じて修正が加えられていった。ロシアにおいては18世紀初頭にピョートル大帝が文字改革を行っていくつかの文字を廃止し、また字体がラテン文字に近づけられた。さらに20世紀に入ると再び改革が行われることになり、1912年に改正改革案が発表され、1917年にはロシア臨時政府によって旧文字体系から4つの文字が除去された現行のロシア文字体系が施行された。セルビアにおいても19世紀半ばにヴーク・カラジッチによって言文一致を旨とした改革が遂行され、不要な文字の除去とラテン文字のJの導入などが行われ、セルビア語キリル・アルファベットが成立した。1945年にはブルガリアにおいても文字改革が実施された。",
"title": "歴史"
},
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"text": "古くからキリル文字が使われ、現在も使われている言語は、スラヴ語派と正教会の重なる範囲にほぼ一致する。つまり、東スラヴ語群のロシア語・ウクライナ語・ベラルーシ語、南スラヴ語群のうちブルガリア語・マケドニア語・セルビア語・モンテネグロ語である。スラヴ語族でも、カトリック圏のポーランド語・チェコ語・スロヴァキア語・スロヴェニア語・クロアチア語はラテン文字であり、イスラム教に属するボスニア語もラテン文字を使う場合が多い。また、スラヴ語とは全く関係のないモンゴル語族に属するモンゴル語、ジョージアでは南オセチア自治州のオセット語(イラン語派に属する)もキリル文字を使用している。",
"title": "使用言語"
},
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"text": "また、正教会であってもスラヴ語派でない場合、キリル文字はかつては使用されていた所も多いものの現代においては使われていない。ルーマニア語も正教会であるためキリル文字を使用していたが、18世紀以降民族主義の高まりによりラテン文字化運動が広がっていき、1859年から1860年にかけて、正式にラテン文字が採用されることとなった。ギリシア語はギリシア文字、グルジア語はグルジア文字、アルメニア語はアルメニア文字である。",
"title": "使用言語"
},
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"text": "ソビエト連邦時代には、ソ連内でこれまで文字を持たなかったシベリアなどの言語や、アラビア文字を使っていた中央アジアなどの言語に、ラテン文字での正書法が制定された。しかし1940年以後の言語政策の変化によりキリル文字での正書法が改めて制定され、既にラテン文字で正書法が制定された言語についてはキリル文字への切り替えがなされた。",
"title": "使用言語"
},
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"text": "ソ連あるいは帝政ロシアによる併合以前からアラビア文字以外の文字を用いていたバルト三国のエストニア語・ラトビア語・リトアニア語(いずれもラテン文字)、アルメニア語(アルメニア文字)、グルジア語(グルジア文字)はキリル文字化されなかったが、ルーマニア語から政治的に分離されたモルドバ語はラテン文字からキリル文字に改められた。",
"title": "使用言語"
},
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"text": "使用地域が現在もロシア領である言語では、アルタイ語・ウィルタ語・エヴェンキ語・オセット語・カルムイク語・クリミア・タタール語・サハ語・ショル語・タタール語・チュヴァシ語・チュクチ語・トゥバ語・ドンガン語・ナナイ語・ニヴフ語・ハカス語・ブリヤート語などがキリル文字を使用している。ソ連崩壊時に独立した国の言語では、カザフ語・キルギス語・タジク語などがある。ソ連の強い影響下にあったモンゴルでも、1937年にモンゴル語がモンゴル文字からキリル文字化された。",
"title": "使用言語"
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"text": "1991年のソビエト連邦崩壊後、キリル文字を使用していた諸国のうちいくつかは使用文字をラテン文字へと変更する傾向が顕著になった。こうした移行の背景には、ソビエト連邦、およびその主流となってきたロシア的なものへの嫌悪感があり、キリル文字から文字を変更することによって過去からの決別を行うことを目的としていた。また、世界で最も使用される文字であるラテン文字を使用することで世界とより深く結びつくことも目的とされた。",
"title": "使用言語"
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"text": "ソ連時代にアラビア文字からラテン文字化され、更にキリル文字化されたアゼルバイジャン語・ウズベク語・カラカルパク語・トルクメン語では、独立後ラテン文字が再び採用され徐々に切り替わりつつあり、他にいくつかの言語で、これに続こうとする動きがある。モルドバにおいても1989年には再度表記をラテン文字に改めることが決定され、ふたたびラテン文字使用国となった。上記のようにウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンは1990年代にラテン文字表記に移行した。キリル文字使用国として残っているキルギスやタジキスタンにおいても、ラテン文字移行やアラビア文字回帰の議論は2000年代後半から盛んになってきている。",
"title": "使用言語"
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"text": "カザフスタンにおいてはソ連崩壊後もキリル文字の使用が続いてきたが、2006年にラテン文字への切り替え構想が浮上。2017年4月、同国のヌルスルタン・ナザルバエフ大統領はカザフ語の表記をラテン文字に改め、2018年には学校教育においてラテン文字の使用を開始し、2025年には完全にカザフ語表記をラテン文字に移行することを表明した。2017年時点で既に多くの企業・銀行や劇場にある看板、車のナンバープレート、郵便番号などがラテン文字になっており、若者の間ではラテン文字を使うことが流行になっている。移行完了までの総費用は約3億ドルと予想されている。また2003年以降、紙幣と硬貨にはカザフ語とロシア語の併用が認められてきたが、2019年2月にはカザフ語のみの使用とし、記念貨幣には外国語の使用も認めるという大統領令が発布された。",
"title": "使用言語"
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"text": "ナザルバエフ大統領は「ロシア語とロシア文化を忘れることはない」と言明しているが、カザフスタン国内ではラテン文字化政策は世界に開かれた国づくりの一環とみなされている。しかしながら、ウズベキスタンではラテン文字へ切り替えて20年以上たったものの、依然としてキリル文字も幅広く使用されており、特に中高齢層ではキリル文字が一般的なままである。また、文字表記の移行には莫大な予算がかかるという欠点も露呈している。さらに、民族問題の複雑さも絡んでおり、特にカザフスタンのようなロシア系住民の割合が高い国では問題となりかねない。",
"title": "使用言語"
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"text": "モンゴルにおいてはソビエト崩壊後の1994年にモンゴル文字へと再び文字を切り替える動きが出たものの、モンゴル文字を自由に使いこなせる人間が少ないことや、モンゴル文字は横書きができないこと、文字を切り替えた後で言語変化が起きており、モンゴル文字ではキリル文字にくらべて新しい語彙への対応ができていないことなどからこの運動は失敗し、引き続きキリル文字を主に使用する状況が続いているが、モンゴル国会は2020年3月18日、2025年までにモンゴル文字表記の併用を推進し、最終的にモンゴル文字への移行を目指す方針を決めた。",
"title": "使用言語"
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"text": "バルカン半島北西部に居住する南スラヴ語群に属するいくつかの民族は言語的にはほとんど差異がなく、セルビア・クロアチア語と呼ばれる方言連続体を形成していたが、地域によって使用する文字は異なっていた。西部に居住するクロアチア人はカトリック教会に属しており、同じくカトリックに属するハンガリーとの関係が深かったこともあってラテン文字を使用しているのに対し、東部のセルビア人は正教会を奉じており、キリル文字を長く使用していた。1943年にこの地域に成立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国は「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの連邦国家」という言葉に象徴されるようにかなり広範な地方自治を認めており、文字に関しても統一を行うことはなく二つの文字が並立する体制が続いていた。この時期のユーゴスラビア国内においては、西のスロベニア社会主義共和国およびクロアチア社会主義共和国においては主にラテン文字が、東のボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国やセルビア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国においては主にキリル文字が使用されていた。ただし、お互いの文字圏において別の文字が使用されることは珍しいことではなかった。クロアチアで成立したガイ式ラテン・アルファベットとセルビア語キリル・アルファベットが完全に1対1で対応しており(ただしキリル1文字をラテン2文字で表記する場合がある)、併用しやすかったこともこの傾向を促進していた。",
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"text": "キリル文字は各言語において文字やその数が異なっている。ロシアのキリル文字は33文字、セルビアのキリル文字は30文字で構成されている。またセルビア語およびマケドニア語においては、ラテン文字よりJの字が導入され使用されている。キリル文字が発明された当初は45文字であったと推定されており、その後各地で不要な文字が廃棄されて現在の文字数に落ち着いた。またキリル文字をそのまま数字として使用するキリル数字という記数法もキリル文字成立当初から存在する。",
"title": "キリル文字の例"
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"text": "小文字の筆記体はロシア語のイタリック体の字形とほぼ同じだが、「б」と「д」の筆記体はセルビア語のイタリック体の字形と同じである。ただし、識別度を高くするや個人の習慣などの理由により、あえて「г」「п」「т」をセルビア語のイタリック体字形と同じように書くこともある。",
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"text": "同じくギリシア文字を元に作られたラテン文字とは似た形の文字が多いが、形が似ていても音価が対応関係にない、あるいは音価が対応していても形が対応関係に無い場合も多いので注意を要する。例えばラテン文字の R([r]) と似ているキリル文字として Я([ja]) があるが、前者はギリシア文字の Ρ から、後者は合字の ІА から派生した文字であり、発音も起源も全く関連が無い。また、例えば [v] の音価に相当する文字は、ラテン文字ではギリシア文字の Υ([u]) から派生した V だが、キリル文字では Β([b]、現代ギリシア語では[v])から派生した В である。",
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キリル文字は、スラヴ語派などを表記するのに用いられる表音文字である。 ギリシア文字に基づいてギリシア人のキュリロス(Kyrillos)(ロシア式呼び方では「キリル」)が9世紀に作ったグラゴル文字をもとに、(その弟子たちが)10世紀にブルガリアで作った文字である。(→#歴史) キリル文字はロシア語、ベラルーシ語、ウクライナ語、ブルガリア語、セルビア語、カザフ語、キルギス語など多くの言語で使用されており、文字集合はそれぞれ微妙に異なる。 ギリシャ文字と同じで、半角文字は存在しない。
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{{Infobox WS
|name=キリル文字
|type=[[アルファベット]]
|time=初期キリル文字の初出は[[940年|940年頃]]
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|famrveccggrc1=[[原カナン文字]]
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| unicode = [https://www.unicode.org/charts/PDF/U0400.pdf U+0400-U+04FF]<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U0500.pdf U+0500-U+052F]<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2DE0.pdf U+2DE0-U+2DFF]<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/UA640.pdf U+A640-U+A69F]
|sample=Romanian-kirilitza-tatal-nostru.jpg
| caption = キリル文字による「[[主の祈り]]」([[ルーマニア語]])。[[1850年代]]。
|iso15924=Cyrl
}}
{{音素文字}}
'''キリル文字'''(キリルもじ、{{lang-ru-short|кириллица}}、{{lang-en-short|cyrillic}})は、[[スラヴ語派]]などを表記するのに用いられる[[表音文字]]である。
[[ギリシア文字]]に基づいて[[ギリシア人]]の[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]](Kyrillos)(ロシア式呼び方では「キリル」)が9世紀に作った[[グラゴル文字]]をもとに、(その弟子たちが)[[10世紀]]に[[ブルガリア]]で作った文字である。(→[[#歴史]])
キリル文字は[[ロシア語]]、[[ベラルーシ語]]、[[ウクライナ語]]、[[ブルガリア語]]、[[セルビア語]]、[[カザフ語]]、[[キルギス語]]など多くの言語で使用されており、文字集合はそれぞれ微妙に異なる。
{{要説明範囲|date=2023年12月|ギリシャ文字と同じで、半角文字は存在しない。}}
== 歴史 ==
=== 前史・グラゴル文字の発明 ===
[[グラゴル文字]]は、[[スラヴ人]]に布教を行った[[キリスト教]][[東方教会]]の総本山、[[正教会]]の[[宣教師]]である[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]](キリル)と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]](メフォディ)が発明した文字である。
862年、[[西スラヴ人]]の王国である[[モラヴィア王国]]の[[ラスチスラフ]]王が[[東ローマ帝国]]にキリスト教の[[伝道師]]派遣を要請し、東ローマ皇帝はキリルとメフォディの兄弟をモラビア王国に派遣した。このときキリルとメフォディ兄弟は[[スラヴ人]]に正教を[[布教]]するため、[[スラブ語]]を表記するための文字を考案した。これがグラゴル文字で、このグラゴル文字がのちに'''キリル文字に発展'''した。
[[862年]]から[[863年]]ごろに考案されたグラゴル文字は'''史上初のスラヴ語表記の文字'''であり、スラブ世界で広く使用されるようになった。しかし、キリルとメフォディ兄弟の布教はキリスト教[[西方教会]]である[[ローマ教会]]から妨害され、[[885年]]のメフォディの死後、キリルとメフォディ兄弟の弟子である[[オフリドのクリメント]]らは弾圧から逃れて[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]へ移り、[[ボリス1世]]に庇護されながら布教活動を続けた<ref>「キリール文字の誕生 スラヴ文化の礎を築いた人たち」p218 原求作 上智大学出版 2014年3月10日第1版第1刷</ref>。
=== キリル文字の誕生 ===
グラゴル文字はスラヴ語の特徴をよくとらえたものであったが、いくつかの問題が存在した。形が複雑すぎて使用しにくかったことと、当時ブルガリアではすでに[[ギリシア語]]を使う層が一定数おり、ブルガリア語をギリシア文字で表すことも行われていたことである<ref>「キリール文字の誕生 スラヴ文化の礎を築いた人たち」p248 原求作 上智大学出版 2014年3月10日第1版第1刷</ref>。そこでブルガリアに移った弟子たちはグラゴル文字を改良し、[[900年]]前後より[[ギリシア文字]]に近い形の新しい文字を開発した。キリル文字の開発にあたっては、基本的にはギリシア文字を採用し、ギリシア文字では表現できないものはグラゴル文字からの借用や新文字によって表現した<ref name="名前なし-1">「ロシア・中欧・バルカン世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p45 桑野隆・長與進編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2010年6月10日初版第1刷</ref>。しかし彼らはキュリロスをしのび、新しい文字をキュリロスの文字と呼んだ<ref>「ロシア・中欧・バルカン世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p41 桑野隆・長與進編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2010年6月10日初版第1刷</ref>。これがキリル文字である。この名称のため、後世にはキリルが作ったのがキリル文字と信じられるようになった。上記のように弾圧を受けたこともあって文字成立期の資料がほとんど発見されていなかったため、[[19世紀]]前半まではグラゴル文字とキリル文字のどちらが古いかは謎となっていたが、19世紀中ごろに古い音韻を残したグラゴル文字資料がいくつか発見され、グラゴル文字の方が早く成立したことが明らかとなった<ref>「キリール文字の誕生 スラヴ文化の礎を築いた人たち」p240-242 原求作 上智大学出版 2014年3月10日第1版第1刷</ref>。
キリル文字の使用が始まった時期は明確ではないが、[[シメオン1世]]の統治下([[893年]] - [[927年]])と考えられている<ref name="名前なし-1"/>。開発当初、キリル文字とグラゴル文字はブルガリア国内で併存しており、首都プレスラフを中心とする北東部ではキリル文字が、旧首都[[オフリド]]を中心とする西部においてはグラゴル文字が使用されていた<ref>「キリール文字の誕生 スラヴ文化の礎を築いた人たち」p248-249 原求作 上智大学出版 2014年3月10日第1版第1刷</ref>。
=== 伝播と変遷 ===
教会での典礼用に開発されたキリル文字は、グラゴル文字と同様スラヴ語正教会圏に普及していき、徐々にグラゴル文字の後継言語となった<ref>「ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑 ヒエログリフからマルチメディアまで」p273 アンヌ=マリー・クリスタン編 柊風舎 2012年4月15日第1刷</ref>。シメオン時代にブルガリア統治下にあった[[セルビア]]にもキリル文字は伝播し、さらに[[988年]]には[[キエフ大公]][[ウラジーミル1世]]が正教会を受け入れたため、ロシア全土にキリル文字が伝播することとなった。
各国に伝わったキリル文字は、その後各地の実情に応じて修正が加えられていった。ロシアにおいては[[18世紀]]初頭に[[ピョートル大帝]]が文字改革を行っていくつかの文字を廃止し、また字体がラテン文字に近づけられた<ref>「ロシア・中欧・バルカン世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p48-50 桑野隆・長與進編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2010年6月10日初版第1刷</ref>。さらに20世紀に入ると再び改革が行われることになり、[[1912年]]に改正改革案が発表され、[[1917年]]には[[ロシア臨時政府]]によって旧文字体系から4つの文字が除去された現行のロシア文字体系が施行された<ref>「ロシア・中欧・バルカン世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p51-52 桑野隆・長與進編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2010年6月10日初版第1刷</ref>。セルビアにおいても19世紀半ばに[[ヴーク・カラジッチ]]によって[[言文一致]]を旨とした改革が遂行され、不要な文字の除去とラテン文字の[[J]]の導入などが行われ、[[セルビア語キリル・アルファベット]]が成立した<ref name="名前なし-2">「ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑 ヒエログリフからマルチメディアまで」p278 アンヌ=マリー・クリスタン編 柊風舎 2012年4月15日第1刷</ref>。[[1945年]]にはブルガリアにおいても文字改革が実施された<ref name="名前なし-2"/>。
== 使用言語 ==
[[ファイル:Scripts of European national languages.png|thumb|upright=1.2|ヨーロッパにおける使用文字別地域塗り分け図。地域と使用文字の対応は次のとおり。緑:ギリシア文字、青緑:ギリシア文字とラテン文字、青:ラテン文字、紫:ラテン文字とキリル文字、赤:キリル文字、橙:グルジア文字、黄色:アルメニア文字]]
古くからキリル文字が使われ、現在も使われている言語は、[[スラヴ語派]]と[[正教会]]の重なる範囲にほぼ一致する。つまり、[[東スラヴ語群]]の[[ロシア語]]・[[ウクライナ語]]・[[ベラルーシ語]]、[[南スラヴ語群]]のうち[[ブルガリア語]]・[[マケドニア語]]・[[セルビア語]]<ref group="注釈" name="a">ラテン文字も通常使用されている。</ref>・[[モンテネグロ語]]<ref group="注釈" name="a"/>である。スラヴ語族でも、[[カトリック教会|カトリック]]圏の[[ポーランド語]]・[[チェコ語]]・[[スロバキア語|スロヴァキア語]]・[[スロベニア語|スロヴェニア語]]・[[クロアチア語]]は[[ラテン文字]]であり、[[イスラム教]]に属する[[ボスニア語]]もラテン文字を使う場合が多い<ref group="注釈">ボスニア語ではキリル文字も用いられる。</ref>。また、スラヴ語とは全く関係のない[[モンゴル語族]]に属する[[モンゴル語]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]では[[南オセチア]]自治州の[[オセット語]]([[イラン語派]]に属する)もキリル文字を使用している。
また、正教会であってもスラヴ語派でない場合、キリル文字はかつては使用されていた所も多いものの現代においては使われていない。[[ルーマニア語]]も正教会であるためキリル文字を使用していたが、[[18世紀]]以降民族主義の高まりによりラテン文字化運動が広がっていき、[[1859年]]から[[1860年]]にかけて、正式にラテン文字が採用されることとなった<ref name="名前なし-3">「バルカンを知るための66章 第2版」p272 柴宜弘編著 明石書店 2016年1月31日第2版第1刷</ref>。[[ギリシア語]]はギリシア文字、[[グルジア語]]は[[グルジア文字]]、[[アルメニア語]]は[[アルメニア文字]]である<ref group="注釈">ギリシア文字、グルジア文字、アルメニア文字はいずれもキリル文字より歴史が古い。</ref>。
=== ソ連時代のキリル文字化の進展 ===
[[ソビエト連邦]]時代には、ソ連内でこれまで文字を持たなかった[[シベリア]]などの言語や、[[アラビア文字]]を使っていた[[中央アジア]]などの言語に、ラテン文字での正書法が制定された。しかし1940年以後の言語政策の変化によりキリル文字での正書法が改めて制定され、既にラテン文字で正書法が制定された言語については[[キリル文字化|キリル文字への切り替え]]がなされた<ref name="名前なし-4">「中央アジアを知るための60章」p104 宇山智彦編著 明石書店 2003年3月10日初版第1刷</ref>。
ソ連あるいは帝政ロシアによる併合以前からアラビア文字以外の文字を用いていた[[バルト三国]]の[[エストニア語]]・[[ラトビア語]]・[[リトアニア語]](いずれもラテン文字)、[[アルメニア語]](アルメニア文字)、[[グルジア語]](グルジア文字)はキリル文字化されなかったが、[[ルーマニア語]]から政治的に分離された[[モルドバ語]]はラテン文字からキリル文字に改められた。
使用地域が現在も[[ロシア]]領である言語では、[[アルタイ語]]・[[ウィルタ語]]・[[エヴェンキ語]]・[[オセット語]]・[[カルムイク語]]・[[クリミア・タタール語]]・[[サハ語]]・[[ショル語]]・[[タタール語]]・[[チュヴァシ語]]・[[チュクチ語]]・[[トゥバ語]]・[[ドンガン語]]・[[ナナイ語]]・[[ニヴフ語]]・[[ハカス語]]・[[ブリヤート語]]などがキリル文字を使用している。ソ連崩壊時に独立した国の言語では、[[カザフ語]]・[[キルギス語]]・[[タジク語]]などがある。ソ連の強い影響下にあった[[モンゴル国|モンゴル]]でも、[[1937年]]に[[モンゴル語]]が[[モンゴル文字]]からキリル文字化された<ref>「図説 アジア文字入門」p105 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所編 河出書房新社 2005年4月30日初版発行</ref>。
=== ソ連崩壊後のキリル文字使用言語の減少 ===
[[1991年]]のソビエト連邦崩壊後、キリル文字を使用していた諸国のうちいくつかは使用文字をラテン文字へと変更する傾向が顕著になった。こうした移行の背景には、ソビエト連邦、およびその主流となってきた[[ロシア]]的なものへの嫌悪感があり、キリル文字から文字を変更することによって過去からの決別を行うことを目的としていた<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p169 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。また、世界で最も使用される文字であるラテン文字を使用することで世界とより深く結びつくことも目的とされた<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p170 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。
ソ連時代にアラビア文字からラテン文字化され、更にキリル文字化された[[アゼルバイジャン語]]・[[ウズベク語]]・[[カラカルパク語]]・[[トルクメン語]]では、独立後ラテン文字が再び採用され徐々に切り替わりつつあり<ref name="名前なし-4"/>、他にいくつかの言語で、これに続こうとする動きがある。モルドバにおいても[[1989年]]には再度表記をラテン文字に改めることが決定され、ふたたびラテン文字使用国となった<ref name="名前なし-3"/>。上記のように[[ウズベキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[アゼルバイジャン]]は1990年代にラテン文字表記に移行した<ref name="名前なし-5">【[[Nikkei Asian Review|NIKKEI ASIAN REVIEW]]から】カザフスタン/ローマ字移行 ロシアに背「欧米追従」一部に批判『[[日経産業新聞]]』2017年7月20日アジア・グローバル面</ref>。キリル文字使用国として残っているキルギスやタジキスタンにおいても、ラテン文字移行やアラビア文字回帰の議論は2000年代後半から盛んになってきている<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p171 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。
[[カザフスタン]]においてはソ連崩壊後もキリル文字の使用が続いてきたが、[[2006年]]にラテン文字への切り替え構想が浮上。[[2017年]]4月、同国の[[ヌルスルタン・ナザルバエフ]]大統領は[[カザフ語]]の表記をラテン文字に改め、[[2018年]]には学校教育においてラテン文字の使用を開始し<ref>{{Cite news|title=カザフスタンが表記文字を変更、ロシア文字からローマ字へ|url=https://www.reuters.com/article/kazakhstan-idJPKBN1CZ04T|work=Reuters|date=2017-10-30|accessdate=2021-07-03}}</ref>、[[2025年]]には完全にカザフ語表記をラテン文字に移行することを表明した<ref>https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170621-00000081-jij-asia 「ローマ字化、是か非か=旧ソ連のカザフで論議」時事通信 2017年6月21日 2017年6月21日閲覧{{リンク切れ|date=2021-07-03}}</ref>。2017年時点で既に多くの企業・[[銀行]]や[[劇場]]にある看板、車の[[ナンバープレート]]、[[郵便番号]]などがラテン文字になっており、若者の間ではラテン文字を使うことが流行になっている。移行完了までの総費用は約3億ドルと予想されている。また2003年以降、紙幣と硬貨にはカザフ語とロシア語の併用が認められてきたが、2019年2月にはカザフ語のみの使用とし、記念貨幣には外国語の使用も認めるという大統領令が発布された<ref>{{Cite news|url=http://www.trt.net.tr/japanese/shi-jie/2019/02/24/20190224-001-1151288|title=カザフスタン】 これからはカザフ語のみで貨幣発行へ|newspaper=[[TRT日本語]]|date=2019-02-24|accessdate=2019-02-25}}</ref>。
ナザルバエフ大統領は「ロシア語とロシア文化を忘れることはない」と言明しているが、カザフスタン国内ではラテン文字化政策は世界に開かれた国づくりの一環とみなされている<ref name="名前なし-5"/>。しかしながら、ウズベキスタンではラテン文字へ切り替えて20年以上たったものの、依然としてキリル文字も幅広く使用されており、特に中高齢層ではキリル文字が一般的なままである。また、文字表記の移行には莫大な予算がかかるという欠点も露呈している。さらに、民族問題の複雑さも絡んでおり、特にカザフスタンのようなロシア系住民の割合が高い国では問題となりかねない。
モンゴルにおいてはソビエト崩壊後の[[1994年]]にモンゴル文字へと再び文字を切り替える動きが出たものの、モンゴル文字を自由に使いこなせる人間が少ないことや、モンゴル文字は横書きができないこと、文字を切り替えた後で言語変化が起きており、モンゴル文字ではキリル文字にくらべて新しい語彙への対応ができていないことなどからこの運動は失敗し、引き続きキリル文字を主に使用する状況が続いている<ref>『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 25頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210</ref>が、モンゴル国会は2020年3月18日、2025年までに[[モンゴル文字]]表記の併用を推進し、最終的にモンゴル文字への移行を目指す方針を決めた<ref>{{cite web |url=https://www.thetimes.co.uk/article/mongolia-abandons-soviet-past-by-restoring-alphabet-rsvcgqmxd|title=Mongolia abandons Soviet past by restoring alphabet | World | The Times|accessdate=2020-06-22 }}</ref>。
=== 旧ユーゴスラビアとキリル文字 ===
バルカン半島北西部に居住する[[南スラヴ語群]]に属するいくつかの民族は言語的にはほとんど差異がなく、[[セルビア・クロアチア語]]と呼ばれる[[方言連続体]]を形成していたが、地域によって使用する文字は異なっていた。西部に居住する[[クロアチア人]]はカトリック教会に属しており、同じくカトリックに属する[[ハンガリー]]との関係が深かったこともあってラテン文字を使用しているのに対し、東部の[[セルビア人]]は正教会を奉じており、キリル文字を長く使用していた。[[1943年]]にこの地域に成立した[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]は「7つの[[国境]]、6つの[[共和国]]、5つの[[民族]]、4つの[[言語]]、3つの[[宗教]]、2つの[[文字]]、1つの[[連邦国家]]」という言葉に象徴されるようにかなり広範な地方自治を認めており、文字に関しても統一を行うことはなく二つの文字が並立する体制が続いていた。この時期のユーゴスラビア国内においては、西の[[スロベニア社会主義共和国]]および[[クロアチア社会主義共和国]]においては主にラテン文字が、東の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国]]や[[セルビア社会主義共和国]]、[[モンテネグロ社会主義共和国]]、[[マケドニア社会主義共和国]]においては主にキリル文字が使用されていた。ただし、お互いの文字圏において別の文字が使用されることは珍しいことではなかった。[[クロアチア]]で成立した[[ガイ式ラテン・アルファベット]]とセルビア語キリル・アルファベットが完全に1対1で対応しており(ただしキリル1文字をラテン2文字で表記する場合がある)、併用しやすかったこともこの傾向を促進していた。
こうした状況は、[[1991年]]のユーゴスラビア崩壊によって変化した。統一言語として扱われていたセルビア・クロアチア語は崩壊し、それぞれクロアチア語・ボスニア語・セルビア語として別個の言語として扱われるようになった。これに伴い、[[ボスニア]]内においてもクロアチア人はラテン文字を使用し、[[ボシュニャク人]]もキリル文字を使用することはあるもののラテン文字を主に使用するようになり、[[セルビア人]]は逆にキリル文字を使用する頻度が高くなった<ref>「ロシア・中欧・バルカン世界のことばと文化」(世界のことばと文化シリーズ)p236-237 桑野隆・長與進編著 早稲田大学国際言語文化研究所 成文堂 2010年6月10日初版第1刷</ref>。
[[ファイル:Cyrillic alphabet distribution map.png|thumb|center|400px|{{legend|darkgreen|キリル文字を使用}} {{legend|green|キリル文字と他の文字を併用}}]]
{{clear}}<!-- 図が以下の節に入り込むのを防止 -->
== キリル文字の例 ==
*[[キリル文字一覧]]
詳細については各言語を参照のこと。
*[[ロシア語アルファベット]]
*[[カザフ語アルファベット]]
*[[ブルガリア語アルファベット]]
*[[セルビア語キリル・アルファベット]]
*{{仮リンク|ルーマニア語キリル・アルファベット|ro|Alfabetul chirilic român|en|Romanian Cyrillic alphabet}} など
キリル文字は各言語において文字やその数が異なっている。ロシアのキリル文字は33文字、セルビアのキリル文字は30文字で構成されている。またセルビア語およびマケドニア語においては、ラテン文字よりJの字が導入され使用されている<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p24 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。キリル文字が発明された当初は45文字であったと推定されており<ref name="名前なし-1"/>、その後各地で不要な文字が廃棄されて現在の文字数に落ち着いた。またキリル文字をそのまま[[数字]]として使用する[[キリル数字]]という[[記数法]]もキリル文字成立当初から存在する。
== 字体 ==
[[ラテン文字]]と同じように[[ローマン体|立体]]と[[イタリック体]]の[[活字]]がある。一部の文字は立体とイタリック体で形がかなり異なり、例えば[[ロシア語]]では、イタリック体の「т」はラテン文字小文字のmに似た字形となる。以下にロシア語のキリル小文字の立体とイタリック体を示す。特に形が異なる字を'''強調(太字)'''で示す。
{| border=0 cellpadding=4 cellspacing=1 style="padding:0 .5em .2em; border:1px solid #999; margin:1em 0;"
|+ align=bottom style="text-align:left; font-size:smaller;" | 上の表が正しく(上記「т」の字形に関する記述を参考とせよ)表示されていない場合は[[commons:Image:Cyrillic-italics-nonitalics.png|画像版]]を参照のこと。
|- style="font-family:FreeSerif,Georgia,'Times New Roman','Nimbus Roman No9 L','Century Schoolbook L','Trebuchet MS','URW Bookman L','URW Chancery L','URW Palladio L',Arial,Teams,serif; font-size:large; text-align:center; "
|''' а '''|| б || в ||''' г '''||''' д '''|| е || ё || ж || з ||''' и '''||''' й '''|| к || л || м || н || о ||''' п '''|| р || с ||''' т '''|| у || ф || х || ц || ч || ш || щ || ъ || ы || ь || э || ю || я
|- style="font-family:FreeSerif,Georgia,'Times New Roman','Nimbus Roman No9 L','Century Schoolbook L','Trebuchet MS','URW Bookman L','URW Chancery L','URW Palladio L',Arial,Teams,serif; font-size:large; text-align:center; "
|''' ''а'' '''|| ''б'' || ''в'' ||''' ''г'' '''||''' ''д'' '''|| ''е'' || ''ё'' || ''ж'' || ''з'' ||''' ''и'' '''||''' ''й'' '''|| ''к'' || ''л'' || ''м'' || ''н'' || ''о'' ||''' ''п'' '''|| ''р'' || ''с'' ||''' ''т'' '''|| ''у'' || ''ф'' || ''х'' || ''ц'' || ''ч'' || ''ш'' || ''щ'' || ''ъ'' || ''ы'' || ''ь'' || ''э'' || ''ю'' || ''я''
|}
[[ファイル:Special Cyrillics.png|thumb|各言語の{{lang|ru|б, г, д, п, т}}の比較。上段がロシア語、中段がセルビア語とマケドニア語、下段がブルガリア語。]]
また一部の文字では、言語によってイタリック体の字形が異なる。例えば[[セルビア語]]では、ロシア語などと違い、イタリック体の「т」はラテン文字小文字のmを上下逆にして上線を付したような字形となる。
小文字の筆記体はロシア語のイタリック体の字形とほぼ同じだが、「б」と「д」の筆記体はセルビア語のイタリック体の字形と同じである。ただし、識別度を高くするや個人の習慣などの理由により、あえて「г」「п」「т」をセルビア語のイタリック体字形と同じように書くこともある。
同じくギリシア文字を元に作られた[[ラテン文字]]とは似た形の文字が多いが、形が似ていても音価が対応関係にない、あるいは音価が対応していても形が対応関係に無い場合も多いので注意を要する。例えばラテン文字の {{Unicode|[[R]]}}({{IPA|r}}) と似ているキリル文字として {{Unicode|[[Я]]}}({{IPA|ja}}) があるが、前者はギリシア文字の {{Unicode|[[Ρ]]}} から、後者は合字の {{Unicode|[[ІА]]}} から派生した文字であり、発音も起源も全く関連が無い。また、例えば {{IPA|v}} の音価に相当する文字は、ラテン文字ではギリシア文字の {{Unicode|[[Υ]]}}({{IPA|u}}) から派生した [[V]] だが、キリル文字では {{Unicode|[[Β]]}}({{IPA|b}}、現代ギリシア語では{{IPA|v}})から派生した {{Unicode|[[В]]}} である。
{{clear}}<!-- 図が以下の節に入り込むのを防止 -->
==コンピュータ==
=== Unicode 収録位置 ===
[[Unicode]] では以下の位置に次の文字が収録されている。
{| class="wikitable" style="font-size:125%;text-align:center;font-family:Arial,'Microsoft Sans Serif',FreeSans,'DejaVu Sans','Times New Roman','Liberation Serif','Doulos SIL',Quivira,Code2000,Symbola,'Charis SIL','Gentium Plus';"
!U+!!width="15pt"|0!!width="15pt"|1!!width="15pt"|2!!width="15pt"|3!!width="15pt"|4!!width="15pt"|5!!width="15pt"|6!!width="15pt"|7!!width="15pt"|8!!width="15pt"|9!!width="15pt"|A!!width="15pt"|B!!width="15pt"|C!!width="15pt"|D!!width="15pt"|E!!width="15pt"|F
|-
! 0400
|Ѐ||Ё||Ђ||Ѓ||Є||Ѕ||І||Ї||Ј||Љ||Њ||Ћ||Ќ||Ѝ||Ў||Џ
|-
! 0410
|А||Б||В||Г||Д||Е||Ж||З||И||Й||К||Л||М||Н||О||П
|-
! 0420
|Р||С||Т||У||Ф||Х||Ц||Ч||Ш||Щ||Ъ||Ы||Ь||Э||Ю||Я
|-
! 0430
|а||б||в||г||д||е||ж||з||и||й||к||л||м||н||о||п
|-
! 0440
|р||с||т||у||ф||х||ц||ч||ш||щ||ъ||ы||ь||э||ю||я
|-
! 0450
|ѐ||ё||ђ||ѓ||є||ѕ||і||ї||ј||љ||њ||ћ||ќ||ѝ||ў||џ
|-
! 0460
|Ѡ||ѡ||Ѣ||ѣ||Ѥ||ѥ||Ѧ||ѧ||Ѩ||ѩ||Ѫ||ѫ||Ѭ||ѭ||Ѯ||ѯ
|-
! 0470
|Ѱ||ѱ||Ѳ||ѳ||Ѵ||ѵ||Ѷ||ѷ||Ѹ||ѹ||Ѻ||ѻ||Ѽ||ѽ||Ѿ||ѿ
|-
! 0480
|Ҁ||ҁ||҂|| ҃|| ҄|| ҅|| ҆|| ҇|| ҈|| ҉||Ҋ||ҋ||Ҍ||ҍ||Ҏ||ҏ
|-
! 0490
|Ґ||ґ||Ғ||ғ||Ҕ||ҕ||Җ||җ||Ҙ||ҙ||Қ||қ||Ҝ||ҝ||Ҟ||ҟ
|-
! 04A0
|Ҡ||ҡ||Ң||ң||Ҥ||ҥ||Ҧ||ҧ||Ҩ||ҩ||Ҫ||ҫ||Ҭ||ҭ||Ү||ү
|-
! 04B0
|Ұ||ұ||Ҳ||ҳ||Ҵ||ҵ||Ҷ||ҷ||Ҹ||ҹ||Һ||һ||Ҽ||ҽ||Ҿ||ҿ
|-
! 04C0
|Ӏ||Ӂ||ӂ||Ӄ||ӄ||Ӆ||ӆ||Ӈ||ӈ||Ӊ||ӊ||Ӌ||ӌ||Ӎ||ӎ||ӏ
|-
! 04D0
|Ӑ||ӑ||Ӓ||ӓ||Ӕ||ӕ||Ӗ||ӗ||Ә||ә||Ӛ||ӛ||Ӝ||ӝ||Ӟ||ӟ
|-
! 04E0
|Ӡ||ӡ||Ӣ||ӣ||Ӥ||ӥ||Ӧ||ӧ||Ө||ө||Ӫ||ӫ||Ӭ||ӭ||Ӯ||ӯ
|-
! 04F0
|Ӱ||ӱ||Ӳ||ӳ||Ӵ||ӵ||Ӷ||ӷ||Ӹ||ӹ||Ӻ||ӻ||Ӽ||ӽ||Ӿ||ӿ
|-
| colspan="17" |
|-
! 0500
|Ԁ||ԁ||Ԃ||ԃ||Ԅ||ԅ||Ԇ||ԇ||Ԉ||ԉ||Ԋ||ԋ||Ԍ||ԍ||Ԏ||ԏ
|-
! 0510
|Ԑ||ԑ||Ԓ||ԓ||Ԕ||ԕ||Ԗ||ԗ||Ԙ||ԙ||Ԛ||ԛ||Ԝ||ԝ||Ԟ||ԟ
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! 0520
|Ԡ||ԡ||Ԣ||ԣ||Ԥ||ԥ||Ԧ||ԧ||Ԩ|||ԩ|||Ԫ||ԫ||Ԭ||ԭ||Ԯ||ԯ
|-
| colspan="17" |
|-
! 2DE0
|ⷠ||ⷡ||ⷢ||ⷣ||ⷤ||ⷥ||ⷦ||ⷧ||ⷨ||ⷩ||ⷪ||ⷫ||ⷬ||ⷭ||ⷮ||ⷯ
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! 2DF0
|ⷰ||ⷱ||ⷲ||ⷳ||ⷴ||ⷵ||ⷶ||ⷷ||ⷸ||ⷹ||ⷺ||ⷻ||ⷼ||ⷽ||ⷾ||ⷿ
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| colspan="17" |
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! A640
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! A670
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===キーボード===
キリル文字を使用する主な言語のWindowsにおけるキーボードの配列は以下の通り。旧ロシア帝国支配下の国々とバルカン半島諸国の言語で配列に大きな違いがある。これは[[タイプライター]]が導入された時期からの違いである。
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2018年12月|section=1}}
*Ivan G. Iliev. Short History of the Cyrillic Alphabet. Plovdiv. 2012. [https://ivanilievlogosmaster.blogspot.com/2012/07/scriptura-mundi-cyrillic-alphabet.html Short History of the Cyrillic Alphabet]
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Cyrillic alphabet|Cyrillic alphabet}}
*[[偽キリル文字]] - ラテン文字の中にキリル文字を混ぜる言葉遊び
*[[日本語のキリル文字表記]]
== 外部リンク ==
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2003-07-12T08:22:08Z
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国際博覧会
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国際博覧会(こくさいはくらんかい、仏: Exposition universelle、英: Universal Exposition)は、国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて行われる複数の国が参加する博覧会である。万国博覧会(ばんこくはくらんかい)とも呼ばれ、略称は国際博、万国博、万博(ばんぱく)など。 一般的にエキスポ(またはエクスポ、英: EXPO)とも称される。
国際博覧会条約によれば、「博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう」とされている。
様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は1798年、フランス革命の時期のパリで初めて開催された。1849年までにパリで11回開催され、徐々に規模が大きくなっていった。同様の博覧会がベルギー、オランダなど各国でも開催されるようになると1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し、1851年に第1回国際博覧会がロンドンで開催された。
初期の万博として、クリスタル・パレス(水晶宮)が造られたロンドン万国博覧会(第1回、1851年)やエッフェル塔が建設されたパリ万国博覧会(第4回、1889年)などが著名である。
スペインのバルセロナでも1888年と1929年の2回開催されている。メイン会場は前者はシウタデリャ公園(バルセロナ要塞跡地)、後者はモンジュイックの丘であった。
アフリカ分割がなされた1880年代以降は、欧米各国が国力誇示と植民地気運を高めるため母国やその植民地で競って開催した植民地博覧会も国際博覧会の一種である。1883年のアムステルダム国際植民地貿易博覧会、1886年の植民地・インド博覧会、1894年のリヨン国際植民地博覧会などをはじめ、1924年のイギリス帝国博覧会、1933年のパリ植民地博覧会など、第二次世界大戦後まで数十回開催された。1880年のメルボルン博覧会など、植民地内博覧会も各地で開催され、欧米列強に倣い20世紀初頭には日本も朝鮮・台湾で博覧会を開催した。
史上初の公式認定博(特別博)で初めて開催されたのは、1936年のストックホルム国際博覧会である。
史上初の公式国際園芸博で初めて開催されたのは、1960年のロッテルダム国際園芸博覧会である。
史上初の公式マスコットが登場したのは、1984年のニューオーリンズ国際河川博覧会で、「シーモア・D・フェア(Seymore D. Fair)」である。
※「区分」の定義は後述。
国際博覧会条約に基づく博覧会を行うには開催を希望する政府が博覧会国際事務局(BIE)に申請(立候補)し、総会で承認される必要がある。
国際博覧会は会場の規模やテーマなどから、主に登録博覧会(登録博)と認定博覧会(認定博)の2つに大別されている(以前は「一般博」と「特別博」に区分されていた)。最大の規模の国際博覧会である登録博は1995年以降は5年ごとに開催され、その開催地はBIEでの投票で決定される。開催期間は最大で6か月である。パビリオンの建設は各参加国が行う。一方の認定博は各国政府が様々な目的から登録博の間に開催するもので、2つの登録博の中間期間に1つの認定博が開催できる。認定博のパビリオンは開催国が用意しなければならない。認定博は開催規模に厳しい制限があり開催期間も最大で3か月までとなっている。
国際園芸家協会が認定した「国際園芸博覧会」のうち大規模なものでBIEが認めたものと「ミラノ・トリエンナーレ」でBIEが認めたものは、「認定博(以前は「特別博」)」として国際博覧会と称することが出来ることとなっている。
一般的に国際博覧会は開催国政府が主催する事が多いが、政府以外が主催者になっても良いことになっている。ただし、国際博覧会条約の事務局である博覧会国際事務局(BIE)に国際博覧会開催を申請(立候補)出来るのは各国政府のみである。政府以外の団体が主催者となった場合、その主催者はBIE条約上、政府機関とみなされる。具体的には2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)の主催者の財団法人の2005年日本国際博覧会協会などがこれにあたる。BIE条約の非加盟国も、国際博覧会に参加することはできる。大規模な国際博覧会の場合、参加国はBIE条約の加盟国の数よりも多くなることが多い。また、BIE条約の非加盟国が国際博覧会開催を申請することも制度上は可能である。ただしその場合、申請と同時にBIE条約に加盟することが多い。日本は日本万国博覧会(大阪万博)の開催申請直前にBIE条約を批准した。詳細は博覧会国際事務局を参照のこと。
日本に国際博覧会の存在が伝わったのは1853年であると考えられており、別段オランダ風説書を通じてニューヨーク万国博覧会の開催と、前々年の1851年に同様の催しがロンドンでも開催されたことが伝えられた。国際博覧会との直接的な接触が生まれたのは1862年のロンドン万国博覧会からで、公式参加ではないものの、駐日イギリス公使のオールコックが収集した日本の品々が出品されたほか、開幕式には訪英中の文久遣欧使節団が出席し注目を集めた。
日本が初めて参加したのは、幕末の1867年、幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加したパリ万国博覧会(第2回)であり、維新後の新政府は1873年のウィーン万国博覧会から公式参加を行った。その前年予行演習として東京の湯島聖堂で初の官設博覧会(湯島聖堂博覧会)が開催され、それが東京国立博物館の始まりとなった。明治・大正頃の国際博覧会では日本の芸妓が接待役を務め、この時紹介された浮世絵はモネらフランスの画壇に影響を与えたことは広く知られている。これらが「ジャポニスム」と呼ばれたものである。日本の展示館は1893年のシカゴ万国博覧会(第1回)では平等院風のもの(フランク・ロイド・ライトに影響を与えたという説もある)や1900年のパリ万国博覧会(第5回)では法隆寺風のものなど伝統的様式で建設され、エキゾチックな印象を与えて好評を博したという。また大橋翠石が出品した猛虎の図の絵画は毛並みのリアルさなど東洋的芸術が評価され、優勝金牌を受賞した。しかし1900年のパリ万国博覧会では日本の出品物は酷評されてしまい、明治政府は輸出振興のためにデザインの必要性を認識し『図案』(雑誌)を発行するなど日本の芸術や産業にも大きなインパクトを与えた。
その後ウィーン万博の出展をきっかけに日本は多くの海外博覧会への出展を行い、国内では殖産興業策の一つとして内国勧業博覧会をはじめとして多くの博覧会が開催され万国博覧会開催への気運を盛り上げる事となった。1928年には国際博覧会条約を締結し、博覧会国際事務局(BIE)が設置され日本も調印したが批准せず非加盟国となった。
日本での国際博覧会開催については最初の計画として1885年に西郷従道の提案により1890年開催の「亜細亜大博覧会」があったが実現に至らず、次いで日露戦争の戦勝を記念して1907年には1912年4月から10月にかけて実質的な万国博覧会の計画となる「日本大博覧会」計画を決定しアメリカ等の各国が賛意を示したが、経費増大や準備の遅れから5年間延期され中止となった。その後1940年に東京の月島(晴海)などを会場に紀元2600年記念日本万国博覧会および東京オリンピックを開催すべく準備が進められた。前売り券(10円)も販売され、勝鬨橋は整備の一環で造られた。日中戦争が激化したため、軍部の反対および参加国の減少が確実になったことなどで1938年に延期が決定し実質的に中止となった。
中止になった紀元2600年記念日本万国博覧会の前売り券は1970年の日本万国博覧会および2005年の2005年日本国際博覧会で使用可能であった。ちなみに日本万国博覧会では3077枚、2005年日本国際博覧会では48枚使われたという。
日本およびアジアでの開催は1970年に大阪で開かれた日本万国博覧会(大阪万博)が最初である。なお大阪万博は一般博で、他は1972年の条約による特別博である。2005年日本国際博覧会(愛知万博)は一般博が登録博と改名された後に日本で開催された唯一の登録博(WorldExpo)である。アジアで登録博を開催したのは大阪、愛知と上海だけであり、2025年に再度大阪が開催権を獲得した万博も最も規模が大きい登録博である。
国威発揚と人類発展のために開催されるイベントであるため、万国博覧会への最先端の技術の出展に対しては最大限の便宜が図られる。有名な例としては、ほぼ全ての国家で国際博覧会での公開は、特許取得の拒絶理由の例外として認められる。
特に欧州特許庁においては、ほぼ唯一の例外規定となっている。日本においては特許法第30条第1項の規定の適用が受けられ、新規性違反の拒絶理由を回避することができる。
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"text": "日本が初めて参加したのは、幕末の1867年、幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加したパリ万国博覧会(第2回)であり、維新後の新政府は1873年のウィーン万国博覧会から公式参加を行った。その前年予行演習として東京の湯島聖堂で初の官設博覧会(湯島聖堂博覧会)が開催され、それが東京国立博物館の始まりとなった。明治・大正頃の国際博覧会では日本の芸妓が接待役を務め、この時紹介された浮世絵はモネらフランスの画壇に影響を与えたことは広く知られている。これらが「ジャポニスム」と呼ばれたものである。日本の展示館は1893年のシカゴ万国博覧会(第1回)では平等院風のもの(フランク・ロイド・ライトに影響を与えたという説もある)や1900年のパリ万国博覧会(第5回)では法隆寺風のものなど伝統的様式で建設され、エキゾチックな印象を与えて好評を博したという。また大橋翠石が出品した猛虎の図の絵画は毛並みのリアルさなど東洋的芸術が評価され、優勝金牌を受賞した。しかし1900年のパリ万国博覧会では日本の出品物は酷評されてしまい、明治政府は輸出振興のためにデザインの必要性を認識し『図案』(雑誌)を発行するなど日本の芸術や産業にも大きなインパクトを与えた。",
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"text": "その後ウィーン万博の出展をきっかけに日本は多くの海外博覧会への出展を行い、国内では殖産興業策の一つとして内国勧業博覧会をはじめとして多くの博覧会が開催され万国博覧会開催への気運を盛り上げる事となった。1928年には国際博覧会条約を締結し、博覧会国際事務局(BIE)が設置され日本も調印したが批准せず非加盟国となった。",
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"text": "日本での国際博覧会開催については最初の計画として1885年に西郷従道の提案により1890年開催の「亜細亜大博覧会」があったが実現に至らず、次いで日露戦争の戦勝を記念して1907年には1912年4月から10月にかけて実質的な万国博覧会の計画となる「日本大博覧会」計画を決定しアメリカ等の各国が賛意を示したが、経費増大や準備の遅れから5年間延期され中止となった。その後1940年に東京の月島(晴海)などを会場に紀元2600年記念日本万国博覧会および東京オリンピックを開催すべく準備が進められた。前売り券(10円)も販売され、勝鬨橋は整備の一環で造られた。日中戦争が激化したため、軍部の反対および参加国の減少が確実になったことなどで1938年に延期が決定し実質的に中止となった。",
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国際博覧会は、国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて行われる複数の国が参加する博覧会である。万国博覧会(ばんこくはくらんかい)とも呼ばれ、略称は国際博、万国博、万博(ばんぱく)など。 一般的にエキスポとも称される。
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{{出典の明記|date=2010年5月}}
[[File:Le Chateau d'eau and plaza, Exposition Universal, 1900, Paris, France.jpg|thumb|300px|1900年の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]]]
'''国際博覧会'''(こくさいはくらんかい、{{Lang-fr-short|Exposition universelle}}、{{Lang-en-short|Universal Exposition}})は、[[博覧会国際事務局|国際博覧会条約]](BIE条約)に基づいて行われる複数の国が参加する[[博覧会]]である。'''万国博覧会'''(ばんこくはくらんかい)とも呼ばれ、略称は'''国際博'''、'''万国博'''、'''万博'''(ばんぱく)など。 一般的に'''[[wikt:エキスポ|エキスポ]]'''(または'''[[wikt:エクスポ|エクスポ]]'''、{{Lang-en-short|'''EXPO'''}})とも称される。
== 目的 ==
国際博覧会条約によれば、「博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう」<ref>{{Cite web|和書|title=外務省:国際博覧会(万博):「国際博覧会条約」抜粋|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/banpaku/jyouyaku.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2021-12-04}}</ref>とされている。
== 歴史 ==
様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は[[1798年]]、[[フランス革命]]の時期の[[パリ]]で初めて開催された。[[1849年]]までにパリで11回開催され、徐々に規模が大きくなっていった。同様の博覧会が[[ベルギー]]、[[オランダ]]など各国でも開催されるようになると[[1849年]]、[[フランス]]の首相が国際博覧会を提唱し、[[1851年]]に第1回国際博覧会が[[ロンドン]]で開催された。
初期の万博として、[[水晶宮|クリスタル・パレス]](水晶宮)が造られた[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万国博覧会]](第1回、[[1851年]])や[[エッフェル塔]]が建設された[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]](第4回、[[1889年]])などが著名である。
[[スペイン]]の[[バルセロナ]]でも[[バルセロナ万国博覧会 (1888年)|1888年]]と[[バルセロナ万国博覧会 (1929年)|1929年]]の2回開催されている。メイン会場は前者は[[シウタデリャ公園]](バルセロナ要塞跡地)、後者は[[モンジュイックの丘]]であった。
[[アフリカ分割]]がなされた[[1880年代]]以降は、欧米各国が国力誇示と植民地気運を高めるため母国やその植民地で競って開催した[[:en:Colonial Exhibition|植民地博覧会]]も国際博覧会の一種である。[[1883年]]の[[:en:International Colonial and Export Exhibition|アムステルダム国際植民地貿易博覧会]]、[[1886年]]の[[植民地・インド博覧会]]、[[1894年]]の[[:en:Exposition internationale et coloniale (1894)|リヨン国際植民地博覧会]]などをはじめ、[[1924年]]の[[:en:British Empire Exhibition|イギリス帝国博覧会]]、[[1933年]]の[[:en:Paris Colonial Exposition|パリ植民地博覧会]]など、[[第二次世界大戦]]後まで数十回開催された。[[1880年]]のメルボルン博覧会など、植民地内博覧会も各地で開催され、欧米列強に倣い20世紀初頭には日本も[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]・[[日本統治時代の台湾|台湾]]で博覧会を開催した。
史上初の公式認定博(特別博)で初めて開催されたのは、[[1936年]]の[[ストックホルム国際博覧会 (1936年)|ストックホルム国際博覧会]]である。
史上初の公式国際園芸博で初めて開催されたのは、[[1960年]]の[[ロッテルダム国際園芸博覧会]]である。
史上初の[[万博マスコット|公式マスコット]]が登場したのは、[[1984年]]の[[ニューオーリンズ国際河川博覧会]]で、「'''[[:en:Seymore D. Fair|シーモア・D・フェア]]'''(Seymore D. Fair)」である。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!開催年!!{{Nowrap|国際博覧会の名称}}!!開催地!!詳細!!主催!!{{Nowrap|開催日数}}!!会場坪数!!{{Nowrap|入場者概数}}!!写真
|-
|{{Nowrap|[[1851年]]}}||[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万国博覧会]]||{{Flagicon2|GBR}} [[ロンドン]]||史上初の国際博覧会<br />クリスタルパレスを用いた<br />会場建物を建てた||{{Nowrap|民間協会}}||141日||26000[[坪]]||604万人||[[ファイル:Crystal Palace from the northeast from Dickinson's Comprehensive Pictures of the Great Exhibition of 1851. 1854.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1853年]]||[[ニューヨーク万国博覧会 (1853年)|ニューヨーク万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA|1851}} [[ニューヨーク]]||非公式の大会||民間協会||5か月||76000坪||125万人||
|-
|[[1855年]]||[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]||{{Flagicon2|FRA|1852}} [[パリ]]||フランス初の大会||政府||200日||51000坪||516万人||
|-
|[[1862年]]||[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万国博覧会]]||{{Flagicon2|GBR}} ロンドン||||民間協会||171日||38000坪||621万人||
|-
|[[1867年]]||[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]||{{Flagicon2|FRA|1852}} パリ||||政府||210日||208000坪||1020万人||
|-
|[[1873年]]||[[ウィーン万国博覧会]]||{{flagicon2|Austria-Hungary}} [[ウィーン]]||オーストリア初の大会<br />日本が初参加||政府||186日||705000坪||726万人||
|-
|[[1876年]]||[[フィラデルフィア万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA|1867}} [[フィラデルフィア]]||アメリカ初の大会||官民||159日||348000坪||986万人||
|-
|[[1878年]]||[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万国博覧会]]||{{Flagicon2|FRA}} パリ||||政府||190日||227000坪||1610万人||
|-
|[[1880年]]||[[メルボルン万国博覧会]]||{{Flagicon2|Australia}} [[メルボルン]]||オーストラリア初の大会||政府||477日||75625坪||133万人||
|-
|[[1883年]]||[[:nl:Internationale Koloniale en Uitvoerhandel Tentoonstelling (Amsterdam)|アムステルダム国際植民地輸出博覧会]]||{{Flagicon2|NED}} [[アムステルダム]]||非公式の大会<br />28か国参加の植民地博覧会||官民||5か月間||66550坪||140万人||
|-
|[[1888年]]||[[バルセロナ万国博覧会 (1888年)|バルセロナ万国博覧会]]||{{Flagicon2|SPA|1785}} [[バルセロナ]]||スペイン初の大会||||236日||||||
|-
|[[1889年]]||[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]||{{Flagicon2|FRA|1870}} パリ||エッフェル塔の完成の大会||政府||180日||327000坪||3235万人||[[File:Tour Eiffel Wikimedia Commons.jpg|280x280ピクセル]]
|-
|[[1893年]]||[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA|1891}} [[シカゴ]]||||民間会社||183日||775000坪||2754万人||[[File:Chicago Exposition 1893 by Boston Public Library.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1897年]]||[[ブリュッセル万国博覧会 (1897年)|ブリュッセル万国博覧会]]||{{Flagicon2|BEL}} [[ブリュッセル]]||ベルギー初の大会||||||||||
|-
|[[1900年]]||[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]||{{Flagicon2|FRA|1870}} パリ||[[1900年パリオリンピック|パリオリンピック]]と同時期<br />19世紀の最後の大会||政府||210日||327000坪||4768万人||[[File:Expo universelle paris 1900.JPG|151x151ピクセル]]
|-
|[[1904年]]||[[セントルイス万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA|1896}} [[セントルイス]]||[[1904年セントルイスオリンピック|セントルイスオリンピック]]と同時期<br />20世紀の最初の大会||民間会社||185日||{{Nowrap|1518000坪}}||1970万人||
|-
|[[1905年]]||[[リエージュ万国博覧会 (1905年)|リエージュ万国博覧会]]||{{Flagicon2|BEL}} [[リエージュ]]||||民間会社||185日||1518000坪||1970万人||
|-
|[[1906年]]||[[ミラノ万国博覧会 (1906年)|ミラノ万国博覧会]]||{{Flagicon2|ITA|1861}} [[ミラノ]]||style="white-space:nowrap" |イタリア初の大会||||||||||
|-
|[[1910年]]||[[ブリュッセル万国博覧会 (1910年)|ブリュッセル万国博覧会]]||{{Flagicon2|BEL}} ブリュッセル||||||||||||
|-
|[[1913年]]||[[ヘント万国博覧会]]||{{Flagicon2|BEL}} [[ヘント]]||||||||||||
|-
|[[1915年]]||[[サンフランシスコ万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA|1912}} [[サンフランシスコ]]||||民間会社||288日||960000坪||1883万人||[[File:Panama-Pacific International Exposition - Project Gutenberg eText 17625.png|151px]]
|-
|[[1926年]]||フィラデルフィア万国博覧会||{{Flagicon2|USA|1912}} フィラデルフィア||非公式の大会||民間会社||184日||1331000坪||650万人||
|-
|[[1929年]]||[[バルセロナ万国博覧会 (1929年)|バルセロナ万国博覧会]]||{{Flagicon2|SPA|1785}} バルセロナ||||||||||||
|-
|[[1933年]]||[[シカゴ万国博覧会 (1933年)|シカゴ万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA|1912}} シカゴ||初めてテーマが掲げられた大会<br />テーマは「進歩の一世紀」||民間会社||170日||516000坪||2257万人||[[File:Chicago world's fair, a century of progress, expo poster, 1933, 2.jpg|228x228ピクセル]]
|-
|[[1935年]]||[[ブリュッセル万国博覧会 (1935年)|ブリュッセル万国博覧会]]||{{Flagicon2|BEL}} ブリュッセル||||||150日||||2000万人||
|-
|[[1936年]]||[[ストックホルム国際博覧会 (1936年)|ストックホルム国際博覧会]]||{{Flagicon2|SWE}} [[ストックホルム]]||史上初の認定博||||17日||||||
|-
|[[1937年]]||[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万国博覧会]]||{{Flagicon2|FRA|1870}} パリ||||||93日||||870万人||
|-
|[[1938年]]||[[ヘルシンキ国際博覧会]]||{{Flagicon2|FIN}} [[ヘルシンキ]]||フィンランド初の大会||||||||||
|-
|rowspan="2"|[[1939年]]||[[ニューヨーク万国博覧会 (1939年)|ニューヨーク万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA|1912}} ニューヨーク||||||340日||||4500万人||[[File:Joseph Binder's poster for the 1939 New York World's Fair.jpg|229x229ピクセル]]
|-
|[[リエージュ国際博覧会 (1939年)|リエージュ国際博覧会]]||{{Flagicon2|BEL}} リエージュ||ベルギー初の認定博||||||||||
|-
|[[1947年]]||[[パリ国際博覧会 (1947年)|パリ国際博覧会]]||{{Flagicon2|FRA|1946}} パリ||第二次世界大戦後の最初の大会<br />フランス初の認定博||||||||||
|-
|rowspan="3"|[[1949年]]||[[ストックホルム国際博覧会 (1949年)|ストックホルム国際博覧会]]||{{Flagicon2|SWE}} ストックホルム||||||||||||
|-
|[[リヨン国際博覧会]]||{{Flagicon2|FRA|1946}} [[リヨン]]||||||||||||
|-
|[[ポルトープランス万国博覧会]]||{{Nowrap|{{Flagicon2|HTI}} [[ポルトープランス]]}}||発展途上国初の大会<br />ハイチ初の大会||||||||||
|-
|[[1951年]]||[[リール国際博覧会]]||{{Flagicon2|FRA|1946}} [[リール (フランス)|リール]]||||||||||||
|-
|rowspan="2"|[[1953年]]||[[ローマ国際博覧会]]||{{Flagicon2|ITA|1946}} [[ローマ]]||イタリア初の認定博||||||||||
|-
|[[エルサレム国際博覧会]]||{{Flagicon2|ISR}} [[エルサレム]]||イスラエル初の大会||||||||||
|-
|[[1954年]]||[[ナポリ国際博覧会]]||{{Flagicon2|ITA|1946}} [[ナポリ]]||||||||||||
|-
|rowspan="2"|[[1955年]]||[[トリノ国際博覧会 (1955年)|トリノ国際博覧会]]||{{Flagicon2|ITA|1946}} [[トリノ]]||||||||||||
|-
|[[ヘルシンボリ国際博覧会]]||{{Flagicon2|SWE}} [[ヘルシンボリ]]||||||||||||
|-
|[[1956年]]||[[ベト・ダゴン国際博覧会]]||{{Flagicon2|ISR}} ベト・ダゴン||||||||||||
|-
|[[1957年]]||[[ベルリン国際博覧会]]||{{Flagicon2|BRD}} [[ベルリン]]||ドイツ初の大会||||||||||
|-
|[[1958年]]||[[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万国博覧会]]||{{Flagicon2|BEL}} ブリュッセル||||||186日||||4150万人||[[File:Belgium-6430B - Atomium (14141441443).jpg|227x227ピクセル]]
|-
|[[1960年]]||{{Nowrap|[[ロッテルダム国際園芸博覧会]]}}||{{Flagicon2|NED}} [[ロッテルダム]]||史上初の国際園芸博覧会||||||||||[[File:1604 Euromast, Rotterdam 096.jpg|151ピクセル]]
|-
|[[1961年]]||[[トリノ国際博覧会 (1961年)|トリノ国際博覧会]]||{{Flagicon2|ITA|1946}} トリノ||||||||||||
|-
|[[1962年]]||[[シアトル万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA}} [[シアトル]]||||||184日||||964万人||[[File:Sunny Day for Space Needle Standing.jpg|227x227ピクセル]]
|-
|[[1963年]]||[[ハンブルク国際園芸博覧会 (1963年)|ハンブルク国際園芸博覧会]]||{{Flagicon2|BRD}} [[ハンブルク]]||ドイツ初の国際園芸博覧会||||||||||
|-
|rowspan="2"|[[1964年]]||[[ウィーン国際園芸博覧会 (1964年)|ウィーン国際園芸博覧会]]||{{Flagicon2|AUT}} ウィーン||オーストリア初の国際園芸博覧会||||||||||
|-
|[[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)|ニューヨーク万国博覧会]]||{{Flagicon2|USA}} ニューヨーク||非公式の大会||||360日||||5167万人||[[File:New York World's Fair August 1964.jpeg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1965年]]||[[ミュンヘン国際博覧会]]||{{Flagicon2|BRD}} [[ミュンヘン]]||||||||||||
|-
|[[1967年]]||[[モントリオール万国博覧会]]||{{Flagicon2|CAN}} [[モントリオール]]||カナダ初の大会||||185日||||5031万人||[[File:Expo 67, pavillon des États-Unis.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1968年]]||[[サンアントニオ国際博覧会]]||{{Flagicon2|USA}} [[サンアントニオ]]||アメリカ初の認定博||||||||||[[File:Tower of the americas 2013.jpg|225x225ピクセル]]
|-
|[[1969年]]||[[パリ国際園芸博覧会]]||{{Flagicon2|FRA}} パリ||フランス初の国際園芸博覧会||||||||||
|}
=== 主な国際博覧会 ===
※「区分」の定義は後述。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!開催年!!名称<br />(通称・略称)!!区分!!詳細!!写真
|-
|{{Nowrap|[[1970年]]}}||{{Flagicon2|JPN|1947}} [[日本万国博覧会]]
::(大阪万博)
|一般博||アジア初の大会<br />日本初の大会||[[File:Osaka Expo'70 Korean Pavilion.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1971年]]||{{Flagicon2|HUN|1957}} [[ブダペスト国際博覧会]]||特別博||社会主義初の大会<br />ハンガリー初の大会||
|-
|[[1972年]]||{{Flagicon2|NED}} [[アムステルダム国際園芸博覧会 (1972年)|アムステルダム国際園芸万博]]||rowspan="3"|{{Nowrap|特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)}}||||
|-
|[[1973年]]||{{Flagicon2|BRD}} [[ハンブルク国際園芸博覧会 (1973年)|ハンブルク国際園芸博覧会]]||||
|-
|rowspan="2"|[[1974年]]||{{Flagicon2|AUT}} [[ウィーン国際園芸博覧会 (1974年)|ウィーン国際園芸博覧会]]||||
|-
|{{Flagicon2|USA}} [[スポーケン国際博覧会|スポケーン国際環境博覧会]]||rowspan="2"|特別博||||[[File:Expo '74, Spokane, Washington, looking northeast.tif|151x151ピクセル]]
|-
|[[1975年]]||{{Flagicon2|JPN|1947}} [[沖縄国際海洋博覧会]]
::(沖縄海洋博)
|アジア初の認定博の大会<br />日本初の認定博の大会||[[File:Aquapolis 1977.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1980年]]||{{Flagicon2|CAN}} [[モントリオール国際園芸博覧会]]||特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||カナダ初の国際園芸博覧会の大会||
|-
||[[1981年]]||{{Flagicon2|BGR|1971}} [[プロヴディフ国際博覧会 (1981年)|プロヴディフ国際博覧会]]||特別博||ブルガリア初の大会||
|-
|rowspan="2"|[[1982年]]||{{Flagicon2|NED}} [[アムステルダム国際園芸博覧会 (1982年)|アムステルダム国際園芸万博]]||特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|{{Flagicon2|USA}} [[ノックスビル国際博覧会|ノックスビル国際エネルギー博覧会]]||特別博||||[[File:Knoxville Expo '82 Technology and Lifestyle Center and Sunsphere.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1983年]]||{{Flagicon2|BRD}} [[ミュンヘン国際園芸博覧会]]||特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|rowspan="2"|[[1984年]]||{{Flagicon2|USA}} [[ニューオーリンズ国際河川博覧会]]
::(ニューオーリンズ万博)
|特別博||公式マスコットを持った史上初の大会||[[File:June 1984 Snap Shot.jpg|227x227ピクセル]]
|-
|{{Flagicon2|GBR}} [[リバプール国際園芸博覧会|リバプール国際庭園博覧会]]||特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||イギリス初の国際園芸博覧会の大会||
|-
|rowspan="2"|[[1985年]]||{{Flagicon2|JPN|1947}} [[国際科学技術博覧会]]
::(科学万博、つくば万博など)
|rowspan="4"|特別博||||[[File:Világkiállítás (EXPO 85). Fortepan 100604.jpg|151x151px]]
|-
|{{Flagicon2|BGR|1971}} [[プロヴディフ国際博覧会 (1985年)|プロヴディフ国際博覧会]]||||
|-
|[[1986年]]||{{Flagicon2|CAN}} [[バンクーバー国際交通博覧会]]||カナダ初の認定博の大会||[[File:Expo 86 - monorail.jpg|151x151px]]
|-
|[[1988年]]||{{Flagicon2|AUS}} [[ブリスベン国際レジャー博覧会]]||オーストラリア初の認定博の大会||[[File:Expo-88-showing-globe-of-world.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1990年]]||{{Flagicon2|JPN|1947}} [[国際花と緑の博覧会]]
::(花の万博、花博)
|特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||アジア初の国際園芸博覧会の大会<br />日本初の国際園芸博覧会の大会||[[File:Statue of Life.JPG| 201x201ピクセル]]
|-
|[[1991年]]||{{Flagicon2|BUL}} [[プロヴディフ国際博覧会 (1991年)|プロヴディフ国際博覧会]]||特別博||||
|-
|rowspan="3"|[[1992年]]||{{Flagicon2|ESP}} [[セビリア万国博覧会]]||一般博||22年ぶりの登録博の大会である。||[[File:Parque Científico y Tecnológico Cartuja, Isla de la Cartuja.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|{{Flagicon2|ITA|1946}} [[ジェノヴァ国際博覧会|ジェノヴァ国際船と海の博覧会]]||特別博||||
|-
|{{Nowrap|{{Flagicon2|NED}} [[ハーグ・ズータメア国際園芸博覧会]]}}||特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|rowspan="2"|[[1993年]]||{{Flagicon2|KOR}} [[大田国際博覧会]]
::(テジョン万博)
|特別博||韓国初の大会||[[File:Gate, bridge, and tower at Daejeon Expo Science Park.jpg|227x227ピクセル]]
|-
|{{Flagicon2|GER}} [[シュトゥットガルト国際園芸博覧会]]||特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|[[1998年]]||{{Flagicon2|PRT}} [[リスボン国際博覧会]]||特別博||ポルトガル初の大会||[[File:Expo 98 - Lisboa (Portugal) (2513077565).jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[1999年]]||{{Flagicon2|CHN}} [[昆明世界園芸博覧会]]||特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||style="white-space:nowrap" |中国初の大会||[[ファイル:世界园艺博览园-入口.jpg|151px]]
|-
|[[2000年]]||{{Flagicon2|GER}} [[ハノーヴァー万国博覧会]]||一般博||20世紀の最後の大会である。||[[Image:Expo2000 nl.jpg|201x201ピクセル]]
|-
|[[2002年]]||{{Flagicon2|NED}} [[ハールレマミーア国際園芸博覧会]]||特別博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|[[2003年]]||{{Flagicon2|GER}} [[ロストック国際園芸博覧会]]||認定博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|[[2005年]]||{{Flagicon2|JPN}} [[2005年日本国際博覧会]]
::(愛知万博、愛・地球博)
|登録博||21世紀の初の大会である。||[[File:Aichi World Expo Entrance 2005.jpg|151x151ピクセル]]
|-
|[[2006年]]||{{Flagicon2|THA}} [[チェンマイ国際園芸博覧会]]||認定博<br />(大国際園芸博覧会区分)||タイ初の大会||
|-
|[[2008年]]||{{Flagicon2|ESP}} [[サラゴサ国際博覧会]]||認定博||21世紀のヨーロッパ初の大会である。||
|-
|[[2010年]]||{{Flagicon2|CHN}} [[上海国際博覧会]]
::(上海万博)
|登録博||中国初の登録博の大会||[[File:上海万博中国館.JPG|151x151ピクセル]]
|-
|rowspan="2"|[[2012年]]||{{Flagicon2|KOR}} [[麗水国際博覧会]]
::(ヨス万博)
|認定博||||[[File:Big-O.JPG|151x151ピクセル]]
|-
|{{Flagicon2|NED}} [[フェンロー国際園芸博覧会]]||認定博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|[[2015年]]||{{Flagicon2|ITA}} [[ミラノ国際博覧会 (2015年)|ミラノ国際博覧会]]||登録博||21世紀のヨーロッパ初の登録博の大会である。||
|-
|[[2016年]]||{{Flagicon2|TUR}} アンタルヤ国際園芸博覧会||認定博<br />(大国際園芸博覧会区分)||トルコ初の大会||
|-
|[[2017年]]||{{Flagicon2|KAZ}} [[アスタナ国際博覧会]]||認定博||カザフスタン初の大会||[[File:Экспо 2017 4.jpg|151ピクセル]]
|-
|[[2019年]]||{{Flagicon2|CHN}} [[北京世界園芸博覧会]]||認定博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|[[2021年]]||{{Flagicon2|UAE}} [[ドバイ国際博覧会]]||登録博||中東初の大会<br />アラブ首長国連邦初の大会||
|-
|[[2022年]]||{{Flagicon2|NED}} [[アルメーレ国際園芸博覧会]]
::(フロリアード2022)
|rowspan="2"|認定博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|rowspan="2"|[[2023年]]||{{Flagicon2|QAT}} [[ドーハ国際園芸博覧会]]||カタール初の大会||
|-
|{{Flagicon2|ARG}} [[ブエノスアイレス国際博覧会]]||認定博||開催中止||
|-
|[[2025年]]||{{Flagicon2|JPN}} [[2025年日本国際博覧会]]
::(大阪・関西万博)
|登録博||||
|-
|rowspan="2"|[[2027年]]||{{Flagicon2|JPN}} [[2027横浜国際園芸博覧会|2027年国際園芸博覧会]]
:: (GREEN×EXPO 2027)
|認定博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|{{Flagicon2|SRB}} [[ベオグラード国際博覧会]]||認定博||セルビア初の大会||
|-
|[[2029年]]||{{Flagicon2|POL}} [[ウッチ国際園芸博覧会]]||認定博<br />(大国際園芸博覧会区分)||||
|-
|[[2030年]]||{{Flagicon|KSA}} [[2030年国際博覧会|リヤド国際博覧会]]||登録博||||
|}
[[File:PanoExpo2008Zaragoza.jpg|thumb|center|600px|2008年[[スペイン]]の[[サラゴサ国際博覧会]]]]
== 国際博覧会の区分と手続き ==
国際博覧会条約に基づく博覧会を行うには開催を希望する政府が博覧会国際事務局(BIE)に申請(立候補)し、総会で承認される必要がある。
国際博覧会は会場の規模やテーマなどから、主に'''登録博覧会'''(登録博)と'''認定博覧会'''(認定博)の2つに大別されている(以前は「一般博」と「特別博」に区分されていた)。最大の規模の国際博覧会である登録博は[[1995年]]以降は5年ごとに開催され、その開催地はBIEでの投票で決定される。開催期間は最大で6か月である。パビリオンの建設は各参加国が行う。一方の認定博は各国政府が様々な目的から登録博の間に開催するもので、2つの登録博の中間期間に1つの認定博が開催できる。認定博のパビリオンは開催国が用意しなければならない。認定博は開催規模に厳しい制限があり開催期間も最大で3か月までとなっている。
国際園芸家協会が認定した「[[国際園芸博覧会]]」のうち大規模なものでBIEが認めたものと「[[ミラノ・トリエンナーレ]]」でBIEが認めたものは、「認定博(以前は「特別博」)」として国際博覧会と称することが出来ることとなっている。
一般的に国際博覧会は開催国政府が主催する事が多いが、政府以外が主催者になっても良いことになっている。ただし、国際博覧会条約の事務局である博覧会国際事務局(BIE)に国際博覧会開催を申請(立候補)出来るのは各国政府のみである。政府以外の団体が主催者となった場合、その主催者はBIE条約上、政府機関とみなされる。具体的には[[2005年日本国際博覧会]](愛知万博、愛・地球博)の主催者の[[財団法人]]の[[2005年日本国際博覧会協会]]などがこれにあたる。BIE条約の非加盟国も、国際博覧会に参加することはできる。大規模な国際博覧会の場合、参加国はBIE条約の加盟国の数よりも多くなることが多い。また、BIE条約の非加盟国が国際博覧会開催を申請することも制度上は可能である。ただしその場合、申請と同時にBIE条約に加盟することが多い。日本は[[日本万国博覧会]](大阪万博)の開催申請直前にBIE条約を批准した。詳細は[[博覧会国際事務局]]を参照のこと。
== 日本と国際博覧会 ==
[[Image:Japanese_pavilion_in_Expo_1873.jpg|thumb|240px|1873年[[ウィーン万国博覧会]]の日本館]]
日本に国際博覧会の存在が伝わったのは[[1853年]]であると考えられており、[[オランダ風説書|別段オランダ風説書]]を通じて[[ニューヨーク万国博覧会 (1853年)|ニューヨーク万国博覧会]]の開催と、前々年の[[1851年]]に同様の催しがロンドンでも開催されたことが伝えられた<ref name="yoshida1985_134">吉田(1985)、p.134.</ref>。国際博覧会との直接的な接触が生まれたのは[[1862年]]の[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万国博覧会]]からで、公式参加ではないものの、駐日イギリス公使の[[ラザフォード・オールコック|オールコック]]が収集した日本の品々が出品されたほか、開幕式には訪英中の[[文久遣欧使節|文久遣欧使節団]]が出席し注目を集めた<ref name="yoshimi2010_115-120">吉見(2010)、pp.115-120.</ref>。
日本が初めて参加したのは、幕末の[[1867年]]、[[江戸幕府|幕府]]および[[薩摩藩]]と[[佐賀藩]]が参加した[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会(第2回)]]であり、維新後の新政府は[[1873年]]の[[ウィーン万国博覧会]]から公式参加を行った<ref name="mofa">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/banpaku/pdfs/banpaku_kaisetsu.pdf 外交資料に見る日本万国博覧会への道] - 外務省</ref>。その前年予行演習として東京の[[湯島聖堂]]で初の官設博覧会([[湯島聖堂博覧会]])が開催され、それが[[東京国立博物館]]の始まりとなった<ref>[http://www.tnm.jp/uploads/r_db/publication_news/news2004-07_10_2.pdf 世紀の祭典 万国博覧会の美術] 東京国立博物館ニュース第666号 2004年7-8月号</ref>。[[明治]]・[[大正]]頃の国際博覧会では日本の[[芸妓]]が接待役を務め、この時紹介された[[浮世絵]]は[[クロード・モネ|モネ]]らフランスの画壇に影響を与えたことは広く知られている。これらが「[[ジャポニスム]]」と呼ばれたものである。日本の展示館は[[1893年]]の[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会(第1回)]]では[[平等院]]風のもの([[フランク・ロイド・ライト]]に影響を与えたという説もある)や[[1900年]]の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会(第5回)]]では[[法隆寺]]風のものなど伝統的様式で建設され、エキゾチックな印象を与えて好評を博したという。また[[大橋翠石]]が出品した猛虎の図の絵画は毛並みのリアルさなど東洋的芸術が評価され、優勝金牌を受賞した。しかし1900年のパリ万国博覧会では日本の出品物は酷評されてしまい、[[明治政府]]は輸出振興のために[[デザイン]]の必要性を認識し『図案』(雑誌)を発行するなど日本の[[芸術]]や[[産業]]にも大きなインパクトを与えた。
その後ウィーン万博の出展をきっかけに日本は多くの海外博覧会への出展を行い、国内では殖産興業策の一つとして[[内国勧業博覧会]]をはじめとして多くの博覧会が開催され万国博覧会開催への気運を盛り上げる事となった。[[1928年]]には国際博覧会条約を締結し、博覧会国際事務局(BIE)が設置され日本も調印したが批准せず非加盟国となった<ref name="mofa"/>。
日本での国際博覧会開催については最初の計画として[[1885年]]に[[西郷従道]]の提案により1890年開催の「[[亜細亜大博覧会]]」があったが実現に至らず<ref name="mofa"/>、次いで日露戦争の戦勝を記念して[[1907年]]には[[1912年]]4月から10月にかけて実質的な万国博覧会の計画となる「[[日本大博覧会]]」計画を決定しアメリカ等の各国が賛意を示したが、経費増大や準備の遅れから5年間延期され中止となった<ref name="mofa"/>。その後[[1940年]]に[[東京]]の[[月島]]([[晴海 (東京都中央区)|晴海]])などを会場に[[紀元2600年記念日本万国博覧会]]および[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]を開催すべく準備が進められた。前売り券(10円)も販売され、[[勝鬨橋]]は整備の一環で造られた。[[日中戦争]]が激化したため、軍部の反対および参加国の減少が確実になったことなどで[[1938年]]に延期が決定し実質的に中止となった。
中止になった紀元2600年記念日本万国博覧会の前売り券は[[1970年]]の日本万国博覧会および[[2005年]]の2005年日本国際博覧会で使用可能であった。ちなみに日本万国博覧会では3077枚、2005年日本国際博覧会では48枚<ref>[https://web.archive.org/web/20140308103126/http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2800X_Y4A220C1000000/?df=3&dg=1 100年来の夢、五輪で結実 東京湾岸で国家イベント] - [[日本経済新聞]] [[2014年]][[3月8日]]閲覧</ref>使われたという。
[[日本]]および[[アジア]]での開催は1970年に[[大阪]]で開かれた[[日本万国博覧会|日本万国博覧会(大阪万博)]]が最初である。なお大阪万博は[[博覧会国際事務局|一般博]]で、他は[[1972年]]の条約による特別博である。[[2005年日本国際博覧会|2005年日本国際博覧会(愛知万博)]]は一般博が登録博と改名された後に日本で開催された唯一の登録博(WorldExpo)である。アジアで登録博を開催したのは大阪、愛知と上海だけであり、[[2025年日本国際博覧会|2025年に再度大阪が開催権を獲得した万博]]も最も規模が大きい登録博である。
=== その他 ===
* 1990年の[[国際花と緑の博覧会]]は、国際園芸家協会認定で博覧会国際事務局承認の国際博覧会である。
* 国際園芸・造園博の[[ジャパンフローラ2000]]([[淡路夢舞台]]、[[2000年]])や[[浜名湖花博]]([[浜名湖ガーデンパーク]]、[[2004年]])などの博覧会は海外からも参加しているが、国際博覧会ではない。BIE条約に基づいて政府が開催申請しBIEの承認を受け、政府およびその受託を受けた博覧会協会が中心になって運営するものが国際博覧会である。
* かつては、国際博覧会には一般博と特別博(または国際博)の区別があったが現在は登録博と認定博となっており、愛知万博は特別博として申請中に制度が変わり登録博になった。詳しくは「[[博覧会国際事務局]]」と「[[2005年日本国際博覧会]]」の説明を参照のこと。
* 国際博覧会の担当官庁は基本的には開催国や地域を問わず[[経済産業省]]である(総括は[[内閣]]が行う)。ただし今まで国内で開催された特別博や今後開催される認定博の場合、テーマごとにその分野を担当する官庁が主導することになる。例えとして、[[2006年]]のチェンマイ国際園芸博は[[国土交通省]]と[[農林水産省]]が担当する。なお今まで国内で行われた総合的な博覧会(一般博、登録博)の場合は経済産業省が責任を持つが、政府代表の派遣や博覧会国際事務局との交渉や参加国招致と参加各国との調整などは[[外務省]]と共同で行い会場やパビリオンの建設は国土交通省や開催する[[都道府県]]などが分担した。
== 先端技術と特許の取り扱い ==
国威発揚と人類発展のために開催されるイベントであるため、万国博覧会への最先端の技術の出展に対しては最大限の便宜が図られる。有名な例としては、ほぼ全ての国家で国際博覧会での公開は、[[特許]]取得の拒絶理由の例外として認められる。
特に[[欧州特許庁]]においては、ほぼ唯一の例外規定となっている。[[日本]]においては[[特許法]]第30条第1項の規定の適用が受けられ、[[新規性]]違反の拒絶理由を回避することができる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author= 吉田光邦(編)|authorlink= |year= 1985|title= 図説万国博覧会史|publisher= 思文閣出版|id= |isbn= }}
* {{Cite book |和書 |author= 吉見俊哉|authorlink= 吉見俊哉|year= 2010|title= 博覧会の政治学|publisher= 講談社|series= 講談社学術文庫|id= |isbn= 978-4-06-291993-7}}
== 関連項目 ==
* [[国際博覧会一覧]]
* [[博覧会国際事務局]]
* [[博覧会]]
* [[万博マスコット]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:World's Fairs}}
{{Wiktionary}}
{{Wiktionary|万国博覧会}}
* [https://www.bie-paris.org 博覧会国際事務局(BIE)](仏・英語)
* [https://www.ndl.go.jp/exposition/index.html 博覧会 近代技術の展示場]国立国会図書館電子展示会
* [https://www.nomurakougei.co.jp/expo/ 博覧会資料検索] 乃村工芸社
* [https://www.expomuseum.com EXPO MUSEUM](英・西・伊・中国語)
* [https://www.meti.go.jp/policy/exhibition/ 経済産業省 国際博覧会]
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/banpaku/ 国際博覧会(万博)|外務省]
** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/banpaku.html 「万国博覧会とは?」]
** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/kako.html 「過去の万国博覧会」]
** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/jyouyaku.html 「国際博覧会条約(抜粋)」]
* [https://www.meti.go.jp/policy/exhibition/milano2015.html 2015年ミラノ国際博覧会]
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沖縄国際海洋博覧会
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座標: 北緯26度41分30秒 東経127度52分30秒 / 北緯26.69167度 東経127.87500度 / 26.69167; 127.87500
沖縄国際海洋博覧会(おきなわこくさいかいようはくらんかい 英:International Ocean Exposition)は、沖縄返還、沖縄県の日本本土復帰記念事業として沖縄県国頭郡本部町で183日間の会期、1975年(昭和50年)7月20日 - 1976年(昭和51年)1月18日をもって行われた国際博覧会(特別博)。略称は「沖縄海洋博」「海洋博」など。
「海-その望ましい未来」を統一テーマとし、日本を含む36か国と三つの国際機関が参加し特別博としては当時史上最大規模となった。会場規模は、100万m(うち陸域75万m、海域25万m)であった。期間中は県内の至る所に「めんそーれ沖縄」と書かれた歓迎の垂れ幕類が立っていた。
博覧会会場は海岸沿いの非常に細長い敷地であったため、会場内のアクセス向上策としてKRTやCVSなどの新交通システムが日本で初めて試験的に導入された。
海洋博開催によって、沖縄県の列島改造というべき開発が劇的に進んだ。現在の沖縄自動車道の一部区間整備や各国道の拡幅などが開催期間に向けて急ピッチで進められたほか、ホテル日航那覇グランドキャッスル(現・ダブルツリーbyヒルトン那覇首里城)や、沖縄ハーバービューホテルなどの大型ホテル、ゼファー那覇タワーなどの観光施設はすべてこれにあわせて建設された。特にゼファー那覇タワーは、2007年(平成19年)8月にD'グラフォート沖縄タワーに抜かれるまで、沖縄一高いビルであった。
450万人の目標に対し最終的な入場者数は約349万人にとどまり、このことは、海洋博をあてこんでさまざまな商売を目論んだ層を落胆させ、民宿経営者などからは「起爆剤ではなく自爆剤」とまで不満が出る結果となった。会場内でグッズ類が投売りに近い値段で安売りされる光景は、ドキュメンタリー映像にも残り後年テレビ放映された。また、海洋博に合わせて行なわれた開発は、陸地からの泥土の海への流出を招きサンゴ礁に被害を与えるという海洋汚染も引き起こした。
博覧会開会式に出席するため、沖縄県を訪問した当時の皇太子明仁親王・皇太子妃美智子(現在の上皇明仁・上皇后美智子)がひめゆりの塔を訪問した際、過激派から火炎瓶を投擲されるという事件が起こった。
展示施設の中でも最大の目玉とされたのが、未来型海洋都市のモデルとなる人工島「アクアポリス」であった。しかし、アクアポリス自体が展示物であり内部にさしたるアミューズメント的な仕掛けもない施設となっていたことから、訪問客のなかには拍子抜けした者も少なくなかった。
会場には、1975年(昭和50年)7月1日 - 1976年(昭和51年)1月31日の間、「沖縄海洋博郵便局」が置かれた。
場内は「海に親しむ」をテーマとした「魚のクラスター」、「海に生きる」をテーマとした「民族・歴史のクラスター」、「海に開く」をテーマとした「科学・技術のクラスター」、「海を行く」をテーマとした「船のクラスター」の4つのゾーニングで構成された。
会場内の輸送手段を兼ねてKRT線(Expoニューシティカー)とCVS線(Expo未来カー)の2つの自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)の路線が運行されており、これらは財団法人沖縄国際海洋博覧会協会が軌道法に基づき会期中期間限定の旅客運送を行っていたものであった。戦後初の沖縄県内で鉄軌道法規が適用された正式な鉄軌道路線であり、日本初の新交通システム営業路線でもあった。
1970年(昭和45年)の日本万国博覧会を契機に沖縄の日本復帰記念事業として「海」、「海洋」をテーマに国際博覧会を開催する構想が生まれた。1971年(昭和46年)10月15日に琉球政府行政主席から、通商産業大臣に対し「一九七五年沖繩国際海洋博覧会開催について(要請)」が提出され、博覧会国際事務局に開催申請手続を進めることで10月22日に閣議了解された。11月2日に在パリ日本大使を通じ、博覧会国際事務局に申請し、11月24日に開催された博覧会国際事務局理事会で申請が正式受理された。1972年(昭和47年)5月1日には「沖縄国際海洋博覧会の準備及び運営のために必要な特別措置に関する法律」が施行された。開催候補地には本部半島の他糸満市、読谷村、宮古島、八重山地域が挙げられていた。
海洋博の終了後、跡地は国営沖縄海洋博覧会記念公園となった。「海洋生物園」は博覧会終了後から「国営沖縄海洋博記念公園水族館」、1987年から「国営沖縄記念公園水族館」と名称を変えその後も公園内の中核施設として営業を続け、老朽化により2002年に建物も建て替えられて沖縄美ら海水族館となっている。アクアポリスは2000年(平成12年)10月、鉄屑としてアメリカ合衆国の企業へ売却処分、10月23日に現地を離れ、解体場所の中華人民共和国の上海へ海上を曳航された。
海洋博のシンボルマークは、水色の丸の中に青い三つの波頭が並んだ絵柄で、博覧会の主テーマを非常に簡潔に表している。
11人による指名コンペの結果、永井一正のデザインが採用された。
日本航空が「オフィシャル・エアライン」となり、ほぼ全ての機材に博覧会のロゴマークを入れて運航した他、多くのパッケージツアーを主催した。
1976年(昭和51年)9月18日に東宝洋画系で沖縄海洋博の記録映画である『公式長編記録映画 沖縄海洋博』が公開された。中村メイコと愛川欽也のトーク形式のナレーションが特徴的だった。再上映やテレビでの放映がされず長く幻の記録映画であったが2006年にDVDが発売された。
公式ソングが幾つかリリースされた。
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"text": "1970年(昭和45年)の日本万国博覧会を契機に沖縄の日本復帰記念事業として「海」、「海洋」をテーマに国際博覧会を開催する構想が生まれた。1971年(昭和46年)10月15日に琉球政府行政主席から、通商産業大臣に対し「一九七五年沖繩国際海洋博覧会開催について(要請)」が提出され、博覧会国際事務局に開催申請手続を進めることで10月22日に閣議了解された。11月2日に在パリ日本大使を通じ、博覧会国際事務局に申請し、11月24日に開催された博覧会国際事務局理事会で申請が正式受理された。1972年(昭和47年)5月1日には「沖縄国際海洋博覧会の準備及び運営のために必要な特別措置に関する法律」が施行された。開催候補地には本部半島の他糸満市、読谷村、宮古島、八重山地域が挙げられていた。",
"title": "沿革"
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"text": "海洋博の終了後、跡地は国営沖縄海洋博覧会記念公園となった。「海洋生物園」は博覧会終了後から「国営沖縄海洋博記念公園水族館」、1987年から「国営沖縄記念公園水族館」と名称を変えその後も公園内の中核施設として営業を続け、老朽化により2002年に建物も建て替えられて沖縄美ら海水族館となっている。アクアポリスは2000年(平成12年)10月、鉄屑としてアメリカ合衆国の企業へ売却処分、10月23日に現地を離れ、解体場所の中華人民共和国の上海へ海上を曳航された。",
"title": "閉会後"
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"text": "海洋博のシンボルマークは、水色の丸の中に青い三つの波頭が並んだ絵柄で、博覧会の主テーマを非常に簡潔に表している。",
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"text": "11人による指名コンペの結果、永井一正のデザインが採用された。",
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"text": "日本航空が「オフィシャル・エアライン」となり、ほぼ全ての機材に博覧会のロゴマークを入れて運航した他、多くのパッケージツアーを主催した。",
"title": "オフィシャル・エアライン"
},
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"text": "1976年(昭和51年)9月18日に東宝洋画系で沖縄海洋博の記録映画である『公式長編記録映画 沖縄海洋博』が公開された。中村メイコと愛川欽也のトーク形式のナレーションが特徴的だった。再上映やテレビでの放映がされず長く幻の記録映画であったが2006年にDVDが発売された。",
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沖縄国際海洋博覧会は、沖縄返還、沖縄県の日本本土復帰記念事業として沖縄県国頭郡本部町で183日間の会期、1975年(昭和50年)7月20日 - 1976年(昭和51年)1月18日をもって行われた国際博覧会(特別博)。略称は「沖縄海洋博」「海洋博」など。
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{{出典の明記|date=2014年1月18日 (土) 15:09 (UTC)|ソートキー=沖縄おきなわこくさいかいようはくらんかい}}
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{{イベントインフォメーション
|イベント名称=沖縄国際海洋博覧会
|英文表記=Expo'75<br>International Ocean Exposition
|種類=国際博覧会
|画像= EXPO 75.svg
|画像説明=シンボルマーク
|通称=沖縄海洋博、海洋博
|正式名称=
|旧名称=
|開催時期=[[1975年]](昭和50年)[[7月20日]] - [[1976年]](昭和51年)[[1月18日]](約6か月、183日間)
|初回開催=
|会場=[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]]
|主催=[[日本国政府|日本政府]]
|共催=
|後援=
|協賛=
|企画制作=
|協力=
|運営=財団法人沖縄国際海洋博覧会協会
|プロデューサー=
|出展数=47<br>(日本2、海外35、<br>国際機関3、民間企業7)
|来場者数=約349万人
|会場アクセス名=<!--複数会場がある場合、主な会場名を記載-->
|最寄駅=
|直通バス=那覇空港からの直通バス<br>(当時は[[沖縄自動車道]]が未開通のため一般道経由)
|駐車場=<!--駐車場の有無-->
|URL=
|特記事項= [[マスコットキャラクター一覧#博覧会|マスコット]]:[[オキちゃん]]
}}
'''沖縄国際海洋博覧会'''(おきなわこくさいかいようはくらんかい 英:International Ocean Exposition)は、[[沖縄返還]]、[[沖縄県]]の[[日本]][[本土復帰]]記念事業として[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]]で183日間の会期、[[1975年]](昭和50年)[[7月20日]] - [[1976年]](昭和51年)[[1月18日]]をもって行われた[[国際博覧会]](特別博)<ref name="aramashi">1975年(昭和50年)5月28日『[[官報]]』第14518号付録資料版No.884総理府「昭和50年版・観光白書のあらまし」</ref>。略称は「沖縄海洋博」「海洋博」など。
== 概要 ==
「海-その望ましい未来」を統一テーマとし<ref name="aramashi"/>、日本を含む36か国と三つの[[国際機関]]が参加し特別博としては当時史上最大規模となった<ref name="hyoka"/>。会場規模は、100万m{{sup|2}}(うち陸域75万m{{sup|2}}、海域25万m{{sup|2}})であった<ref name="aramashi"/>。期間中は県内の至る所に「[[琉球語|めんそーれ]]沖縄」と書かれた歓迎の垂れ幕類が立っていた。
博覧会会場は海岸沿いの非常に細長い敷地であったため、会場内のアクセス向上策としてKRTやCVSなどの[[新交通システム]]が日本で初めて試験的に導入された<ref>[http://www.kobelco.co.jp/engineering/products/traffic/index.html 神戸製鋼 エンジニアリング事業 製品紹介 新交通システム]</ref>。
海洋博開催によって、沖縄県の列島改造というべき開発が劇的に進んだ。現在の[[沖縄自動車道]]の一部区間整備や各国道の拡幅などが開催期間に向けて急ピッチで進められたほか、[[オークラ ニッコー ホテルマネジメント|ホテル日航]]那覇グランドキャッスル(現・ダブルツリーby[[ヒルトン]]那覇首里城)や、沖縄ハーバービューホテルなどの大型ホテル、[[那覇タワー|ゼファー那覇タワー]]などの観光施設はすべてこれにあわせて建設された。特にゼファー那覇タワーは、[[2007年]](平成19年)8月に[[大和ハウス工業|D'グラフォート]]沖縄タワーに抜かれるまで、沖縄一高いビルであった。
450万人の目標に対し最終的な入場者数は約349万人にとどまり<ref name="hyoka"/><ref name="shiryo"/>、このことは、海洋博をあてこんでさまざまな商売を目論んだ層を落胆させ、民宿経営者などからは「起爆剤ではなく自爆剤」とまで不満が出る結果となった。会場内でグッズ類が投売りに近い値段で安売りされる光景は、ドキュメンタリー映像にも残り後年テレビ放映された。また、海洋博に合わせて行なわれた開発は、陸地からの泥土の海への流出を招き[[サンゴ礁]]に被害を与えるという[[海洋汚染]]も引き起こした<ref name="hyoka">沖縄国際海洋博覧会公式記録 閉幕 海洋博に対する評価 - 沖縄国際海洋博覧会協会</ref>。
博覧会開会式に出席するため、沖縄県を訪問した当時の[[皇太子#日本の皇太子|皇太子]]明仁親王・[[皇太子妃]]美智子(現在の[[上皇明仁]]・[[上皇后美智子]])が[[ひめゆりの塔]]を訪問した際、[[過激派]]から[[火炎瓶]]を投擲されるという事件が起こった。{{See|ひめゆりの塔事件}}
== 展示物等 ==
[[画像:Aquapolis 1977.jpg|thumb|220px|1977年(昭和52年)<br>アクアポリスの空中写真。{{国土航空写真}}]]
展示施設の中でも最大の目玉とされたのが、未来型海洋都市のモデルとなる人工島「[[アクアポリス]]」であった。しかし、アクアポリス自体が展示物であり内部にさしたるアミューズメント的な仕掛けもない施設となっていたことから、訪問客のなかには拍子抜けした者も少なくなかった。
会場には、1975年(昭和50年)7月1日 - 1976年(昭和51年)1月31日の間、「沖縄海洋博郵便局」が置かれた<ref>1975年(昭和50年)6月11日郵政省告示第391号「郵便局を設置する件」</ref>。
場内は「海に親しむ」をテーマとした「魚のクラスター」、「海に生きる」をテーマとした「民族・歴史のクラスター」、「海に開く」をテーマとした「科学・技術のクラスター」、「海を行く」をテーマとした「船のクラスター」の4つのゾーニングで構成された<ref>{{Cite journal|和書|author=多田治 |url=https://hdl.handle.net/2065/352 |title=沖縄イメージの誕生 : 沖縄海洋博と観光リゾート化のプロセス |issue=早稲田大学 博士 (文学), 甲第1722号 |year=2003 |naid=500000234773 |accessdate=2022-03-23}}</ref><ref>{{Nomurakougei expo material|18816|沖縄海洋博覧会-ガイドマップ-9|accessdate=2021-01-23}}</ref>。
; 沿岸部
*アクアポリス
*海洋牧場
*エキスポランド
*エキスポビーチ
*エキスポ未来カー(CVS線)
*海浜公園
*夕陽の広場
*夜行海
*魚見台
*潮見台
*船見台
*迎賓館
*船乗り広場
*ポートサイドシアター
*フローティングステージ
*ポートサイドレストラン
{| class="wikitable"
!クラスター!!国内出展!!海外出展!!その他施設
|-
!魚のクラスター
|
* [[住友グループ|住友]]館
|
* [[イラン]]館
|
*水族館
*海洋生物園
*魚の広場
*いるかの国
|-
!民族・歴史のクラスター
|
*沖縄館
*海洋文化館([[日本政府]])
* [[日立グループ]]海洋図書館
* [[三菱未来館|三菱海洋未来館]]
|
*国際1号館<ref>出展:[[大韓民国|韓国]]、[[コスタリカ]]・[[エルサルバドル]]・[[グアテマラ]]・[[ホンジュラス]]・[[ニカラグア]]合同、[[エジプト]]、[[ウルグアイ]]、[[ドイツ]]、[[ハンガリー]]、[[オランダ領アンティル]](非公式出展)、[[タイ王国|タイ]]、[[ブルガリア]]、[[キューバ]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[フィリピン]]、[[西サモア]]、[[インドネシア]]</ref>
*国際2号館<ref>出展:[[カメルーン]]、[[ケニア]]、[[ブラジル]]、[[モロッコ]]、[[コロンビア]]、[[マルタ]]、[[バチカン市国]]、[[東南アジア諸国連合|東南アジア貿易投資観光促進センター]]</ref>
|
*北ゲート
*海洋博ホール([[パナソニック|松下電器]])
*かりゆし広場屋外ステージ
*KRT北ゲート駅
|-
!科学・技術のクラスター
|
* [[芙蓉グループ]]パビリオン
*WOSくじら館<ref>[[伊藤忠商事]]をはじめとした海洋関連産業の企業グループによる出展。</ref>
* [[三井グループ|三井]]こども科学館
|
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]館
* [[イタリア]]館
* [[ソビエト連邦|ソ連]]館
* [[オーストラリア]]館
* [[カナダ]]館
|
*国際広場
*探検広場
*中央アーケード
*KRT国際広場駅
|-
!船のクラスター
|
*海洋[[みどり会|みどり]]館
|
*国際3号館<ref>出展:[[モナコ]]、[[スペイン]]、[[イギリス]]、[[欧州共同体]]、[[国際連合]]</ref>
|
*南ゲート
*KRT南ゲート駅
*シーサイド・バザール
*中央診療所
|}
=== 会場内を運行した新交通システム ===
{{Main|沖縄県の鉄道#沖縄海洋博で会場内を運行した新交通システム}}
会場内の輸送手段を兼ねて'''KRT線'''(Expoニューシティカー)と'''CVS線'''(Expo未来カー)の2つの[[自動案内軌条式旅客輸送システム]](AGT)の路線が運行されており、これらは財団法人沖縄国際海洋博覧会協会が[[軌道法]]に基づき会期中期間限定の旅客運送を行っていたものであった<ref>[https://web.archive.org/web/20150128180406/http://www.kobelco.co.jp/engineering/products/traffic/agt/okinawa01.html 神戸製鋼 エンジニアリング事業 製品紹介 新交通システム](Internet Archive)</ref><ref name="tv76">出江政次、「[https://doi.org/10.3169/itej1954.30.107 海洋博を終って]」『テレビジョン』 1976年 30巻 2号 p. 107-113, {{doi|10.3169/itej1954.30.107}}, 映像情報メディア学会</ref><ref name="expoguide">沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック - 沖縄国際海洋博覧会協会(1975年)</ref><ref name="ieej">井口雅一、「[https://doi.org/10.11526/ieejjournal1888.96.952 交通とエレクトロニクス II.新しい交通システム 第2章新交通システム]」『電氣學會雜誌』 1976年 96巻 11号 p.952-956, {{doi|10.11526/ieejjournal1888.96.952}}, 電気学会</ref><ref name="expo75oficial">沖縄国際海洋博覧会公式記録(総合編)第III章 会場施設 輸送サービス施設 - 沖縄国際海洋博覧会協会</ref>。戦後初の沖縄県内で鉄軌道法規が適用された正式な鉄軌道路線であり、日本初の[[新交通システム]]営業路線でもあった。
== 沿革 ==
; 開催経緯
[[1970年]](昭和45年)の[[日本万国博覧会]]を契機に沖縄の日本復帰記念事業として「海」、「海洋」をテーマに[[国際博覧会]]を開催する構想が生まれた。[[1971年]](昭和46年)10月15日に[[琉球政府]][[行政主席]]から、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]に対し「一九七五年沖繩国際海洋博覧会開催について(要請)」<ref>1971年10月15日琉球政府通総第957号</ref>が提出され、[[博覧会国際事務局]]に開催申請手続を進めることで10月22日に[[閣議 (日本)|閣議]]了解された。[[11月2日]]に在パリ日本大使を通じ、博覧会国際事務局に申請し、[[11月24日]]に開催された博覧会国際事務局理事会で申請が正式受理された<ref>1972年(昭和47年)1月5日『[[官報]]』第13509号付録資料版No.710通商産業省「1975年沖繩国際海洋博覧会」</ref>。[[1972年]](昭和47年)[[5月1日]]には「沖縄国際海洋博覧会の準備及び運営のために必要な特別措置に関する法律」<ref>1972年(昭和47年)法律第24号</ref>が施行された。開催候補地には本部半島の他糸満市、読谷村、宮古島、八重山地域が挙げられていた。
; 年表
* 1970年<ref name="sokuseki">沖縄国際海洋博覧会公式記録 開催への足跡 - 沖縄国際海洋博覧会協会</ref>
** 3月20日 - 沖縄経済振興懇談会が沖縄への国際博覧会招致の積極的推進を行う共同声明を発表。
** 8月15日 - 琉球政府が日本政府に沖縄での海洋博覧会開催を正式要請。
* 1971年<ref name="sokuseki"/>
** 6月1日 - 通商産業省に「沖縄海洋博調査室」を設置。
** 10月22日 - 沖縄での海洋博覧会開催を閣議了解。
** 11月 - 通産省に国際海洋博覧会準備室を設置。
** 11月2日 - 国際博覧会事務局(BIE)に特別博覧会として海洋博覧会の開催を申請。
** 11月24日 - 第70回BIE総会にて沖縄での海洋博覧会開催を受理。琉球政府が海洋博推進本部を設置。
* 1972年<ref name="sokuseki"/>
** 2月1日 - 財団法人沖縄国際海洋博覧会協会設立。
** 2月20日 - 琉球政府が本部半島周辺での博覧会開催を答申。
** 2月29日 - 会場を本部半島に決定。
** 3月24日 - この日までに異議申立や競合申請がなかったため、沖縄での国際海洋博覧会開催が確定。
** 4月10日 - テーマ・基本理念決定。
** 5月1日 - 沖縄国際海洋博覧会特措法施行。
** 5月2日 - 閣議で開催期間を1975年3月2日から8月31日、会場面積約100ヘクタールに決定。
** 5月15日 - 沖縄県に海洋博協力局が発足。
** 5月25日 - 第71回BIE理事会にて沖縄国際海洋博覧会の開催を正式決定。
** 7月26日 - シンボルマーク決定。
** 9月26日 - 第一次会場基本計画案を採択。
** 11月10日 - 世界140カ国34国際機関に招請状を送付。
* 1973年<ref name="sokuseki"/>
** 1月15日 - 第1次全体資金計画決定、建設費220.06億円・運営費110.27億円とする。
** 1月30日 - 政府に沖縄国際海洋博覧会推進対策本部設置。
** 3月2日 - 起工式開催。
** 5月15日 - 国内出展参加受付開始、亀倉雄策デザインによるマスコットマーク発表。
** 6月19日 - 第二次会場計画案を採択。
** 7月10日 - マスコットマーク愛称「オキちゃん」決定。
** 8月1日 - 沖縄国際海洋博覧会協会本部を東京都港区から那覇市に移転。
** 12月21日 - オイルショックに伴い会期を7月20日から翌年1月18日までへの延期を閣議了解。
* 1974年<ref name="sokuseki"/>
** 2月20日 - BIE分類委員会にて会期延期を正式承認。
** 5月13日 - 入場料金決定。
** 7月20日 - 前売入場券発売開始。
** 8月28日 - ソ連が第1号外国出展契約を締結。
* 1975年<ref name="sokuseki"/>
** 3月22日 - 那覇港に到着したカナダ館用のコンテナが到着、参加国貨物の輸送を開始<ref name="un-ei">沖縄国際海洋博覧会公式記録 運営 - 沖縄国際海洋博覧会協会</ref>。
** 3月28日 - 第2次全体資金計画決定、建設費318.59億円・運営費141.59億円とする。その後304.61億円に減額。
** 4月23日 - アクアポリス会場到着。
** 5月20日 - 沖縄自動車道許田 - 石川間完成。
** 7月9日 - 報道公開。
** 7月15日 - 博覧会跡地への記念公園設置を閣議決定<ref>沖縄国際海洋博覧会公式記録 閉幕 海洋博の跡利用 - 沖縄国際海洋博覧会協会</ref>。
** 7月19日 - 開会式。
** 7月23日 - 過激派の青年1人がエキスポポート停泊中のチリの練習帆船「[[エスメラルダ (練習帆船)|エスメラルダ]]」に火炎瓶を投げ乗組員2名が負傷([[エスメラルダ号火炎瓶投擲事件]])<ref>エスメラルダ火炎びん事件『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月27日夕刊、3版、7面</ref>。
** 8月24日 - 入場者100万人突破<ref name="shiryo">沖縄国際海洋博覧会公式記録 資料 - 沖縄国際海洋博覧会協会</ref>。
** 10月27日 - 入場者200万人突破<ref name="shiryo"/>。
** 10月13日 - 琉球海運による那覇新港 - 渡久地新港間の大型客船による博覧会アクセス便の運航を中止<ref name="un-ei"/>。
** 11月2日 - 水上ステージで[[ミス・インターナショナル]]日本代表選出大会が開催され<ref>出場者を募集 '76ミスインターナショナル東海三県大会『[[中日新聞]]』1975年7月31日18面</ref>、中村久美江が選出された。
** 11月3日 - 水上ステージでミス・インターナショナル世界大会が開催され、[[ユーゴスラビア]]代表の[[:en:Lidija Manić|リディヤ・ベラ・マニッチ]]が優勝<ref>ミス・インタナショナルはユーゴ代表『中日新聞』1975年11月4日18面</ref>。
** 12月13日 - ミクロネシア・[[サタワル島]]からアウトリガーカヌー「チェチェメニ」が到着<ref name="un-ei"/>。
* 1976年<ref name="sokuseki"/>
** 1月1日 - 入場者300万人突破<ref name="shiryo"/>。
** 1月18日 - 閉会式。
** 3月末 - 博覧会の全体収支を14.92億円の黒字とする。
** 7月31日 - 沖縄国際海洋博覧会協会解散。
== 閉会後 ==
[[画像:Expo'75 Beach park.jpg|thumb|2012(平成24)年1月9日撮影<br>[[国営沖縄記念公園]]に残る日本政府出展「海浜公園」入口]]
海洋博の終了後、跡地は[[国営沖縄記念公園|国営沖縄海洋博覧会記念公園]]となった。「海洋生物園」は博覧会終了後から「国営沖縄海洋博記念公園水族館」、1987年から「国営沖縄記念公園水族館」と名称を変えその後も公園内の中核施設として営業を続け、老朽化により2002年に建物も建て替えられて[[沖縄美ら海水族館]]となっている。[[アクアポリス]]は[[2000年]](平成12年)10月、鉄屑として[[アメリカ合衆国]]の企業へ売却処分、[[10月23日]]に現地を離れ、解体場所の[[中華人民共和国]]の[[上海市|上海]]へ海上を曳航された。
== シンボルマーク ==
海洋博のシンボルマークは、水色の丸の中に青い三つの波頭が並んだ絵柄で、博覧会の主テーマを非常に簡潔に表している。
11人による指名コンペの結果、[[永井一正]]のデザインが採用された<ref>[http://designcommittee.jp/1972/10/1161953.html 第116回デザインギャラリー1953「沖縄国際海洋博のシンボルマーク」] - 日本デザインコミッティー</ref>。
== オフィシャル・エアライン ==
[[日本航空]]が「オフィシャル・エアライン」となり、ほぼ全ての機材に博覧会のロゴマークを入れて運航した他、多くのパッケージツアーを主催した。
== 記念発行物 ==
[[File:Expo 1975 commemorative 100 Japanese yen coin.png|thumb|記念貨幣(100円白銅貨)]]
* [[記念切手]]
** 20+5円付加寄付金付きが1974年(昭和49年)3月2日に発行された<ref>1974年(昭和49年)2月25日郵政省告示第128号「沖繩国際海洋博覧会寄附金つき二十円郵便切手を発行する件」</ref>。販売の結果、財団法人沖縄国際海洋博覧会協会へ227,957,726円が寄付金交付された<ref>1975年(昭和50年)11月5日郵政省告示第771号「お年玉つき郵便葉書に付加された寄附金等の経理状況に関する件」</ref>。
** 20円・30円・50円の三種類が1975年(昭和50年)7月19日に発行された<ref>1975年(昭和50年)6月27日郵政省告示第437号「沖繩国際海洋博覧会記念郵便切手を発行する件」</ref>。
* [[臨時補助貨幣#記念貨幣|記念貨幣]]
** 100円白銅貨が<ref>1979年(昭和49年)12月27日政令第400号「百円の臨時補助貨幣の形式等に関する政令の一部を改正する政令」</ref>、1975年(昭和50年)7月3日(10月22日追加発行)発行された。表は[[守礼門]]と[[紅型]]をイメージした波模様、裏はシンボルマークとマスコット「オキちゃん」のデザインがあしらわれた。
== 映画 ==
[[1976年]](昭和51年)[[9月18日]]に[[東宝|東宝洋画系]]で沖縄海洋博の記録映画である『公式長編記録映画 沖縄海洋博』が公開された。[[中村メイコ]]と[[愛川欽也]]のトーク形式のナレーションが特徴的だった。再上映やテレビでの放映がされず長く幻の記録映画であったが[[2006年]]に[[DVD]]が発売された。
=== スタッフ ===
*監督:[[松山善三]]
*総プロデューサー:[[田口助太郎]]
*音楽:[[木下忠司]]
*ナレーション:[[中村メイコ]]、[[愛川欽也]]
*主題歌:[[森山良子]]
*企画:沖縄国際海洋博覧会協会
*製作:[[ニュース映画製作者連盟]]
== 音楽 ==
公式ソングが幾つかリリースされた。<ref>[http://www.dee-okinawa.com/topics/2014/09/expo75.html EXPO'75の珍品レコード! 「沖縄海洋博音頭」&「イルカ音頭」] - 沖縄B級ポータル DEEokinawa ぐしけんこずえ</ref>
* 「沖縄海洋音頭」 大平隆嘉(海洋博協賛歌)
* 「沖縄海洋博音頭」 城明(沖縄海洋博協賛歌)
* 「沖縄国際海洋博音頭」 乙女椿(沖縄国際海洋博覧会協賛)MR-2014
* 「イルカ音頭」「イルカのソナタ」 イルカファミリーコーラス(海洋博のうた)
* 「海洋博ユンタ」 [[三橋美智也]] / 「オキちゃんマーチ」 [[今陽子]] - A面B面(海洋博協会選定歌)<ref>[https://megalodon.jp/2016-0831-1040-00/ryuqspecial.ti-da.net/e1972109.html ryuQ100歌 2月号 『♪沖縄演歌特集』] - ryuQ</ref>
* 「海洋博は招くよ」 饒辺愛子 「沖縄メンソウロー」 新垣豊子/上地末子 - A面B面(※ジャケット未表記)KF-215
* 「海のおくりもの」 [[やまがたすみこ]](沖縄国際海洋博覧会協会推薦)
* 「サンゴ礁の娘」[[城みちる]](沖縄国際海洋博覧会 世界青少年海洋大会参加曲)
* 「沖縄海洋博小唄」[[崎浜秀文]]と[[国際歌謡学院民謡グループ]]
* 「珊瑚礁に何を見た」[[上條恒彦]](沖縄海洋博イメージソング)
== 沖縄海洋博が登場した作品 ==
* [[サンデースペシャル]]([[TBSテレビ|TBS]]) - 1975年(昭和50年)7月27日に『夏だ!海洋博だ!マチャアキだ!』を放送([[琉球放送]]制作)。メインは[[堺正章]]。ゲストは[[加山雄三]]・[[由美かおる]]・[[石原慎太郎]]等が出演。
* [[夜のヒットスタジオ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 1975年(昭和50年)8月11日放送にて、同博覧会会場に特設ステージを設けて生中継を行う予定であったが、当日になって沖縄県全域に台風が接近したことから、そのステージを使用することができなくなり、急遽スタッフ用の狭いブースから中継を行うというハプニングが起きた。2009年(平成21年)6月18日に[[フジテレビTWO]]の再放送の初回放送となる。
* [[スター誕生!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 1975年(昭和50年)11月26日にテレビ予選の公開収録が行われた(放送は12月7日・14日)。
* [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]](フジテレビ) - 1975年(昭和50年) 12月14日放送分Bパート「めんそ〜れ沖縄」にて、磯野家が沖縄海洋博を訪れた。
* [[ゴジラ対メカゴジラ]] - 沖縄海洋博会場予定地で洞窟と予言の壁画が発見される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[オキちゃん]]
* [[沖縄県の鉄道#沖縄海洋博で会場内を運行した新交通システム|沖縄海洋博で会場内を運行した新交通システム]]
* [[金城哲夫]]
* [[沖縄エキスポランド]] - 海洋博会場内にあった遊園地。博覧祭終了後も営業を続けたが、利用者数の減少にともない経営が困難になり、2000年(平成12年)3月をもって閉園。
* [[ホバークラフト]] - 琉球海運が3隻を用い那覇港から会場までのアクセス航路に使用。
* [[藤子・F・不二雄]] - 海洋博の中に、架空のパビリオン・「海洋夢見館」を舞台とするSF短編「ぼくのオキちゃん」を描いている。
* [[シチズン時計]] - 沖縄海洋博協賛イベントとして、同社の防水腕時計を封入した漂流[[浮き|ブイ]]数千個を、沖縄から本土に向けて放流するイベントを行った。ブイには、調査用葉書も同梱されており、拾った人からの葉書で漂着状況を調査することにより、[[海流]]調査を兼ねていた。
* [[C・W・ニコル]] - カナダ国籍でありカナダ館副館長として参加している。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Expo 1975}}
* {{博覧会国際事務局博覧会紹介|1975-okinawa}}
* [http://oki-park.jp/kaiyohaku/ 国営沖縄記念公園 海洋博地区] - 沖縄国際海洋博覧会の跡地
* 記録映画
** {{Japanese-cinema-db|12703|沖縄海洋博}}
** {{Kinejun title|28371|沖縄海洋博}}
** {{Allcinema title|145622|沖縄海洋博}}
** {{映画.com title|41564|沖縄海洋博}}
** {{JMDb title|1976|cz002860|沖縄海洋博}}
* {{科学映像館|gmst|4660|海の祭典 海-その望ましい未来(1976年 カラー 80分)}}
{{Normdaten}}
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[[Category:沖縄国際海洋博覧会|*]]
[[Category:1975年の日本]]
[[Category:1976年の日本]]
[[Category:1975年7月]]
[[Category:1975年8月]]
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[[Category:1975年11月]]
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[[Category:沖縄県の歴史]]
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[[Category:日本のドキュメンタリー映画]]
[[Category:1976年の映画]]
[[Category:安定成長期の昭和時代を舞台とした映画作品]]
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11,271 |
国際科学技術博覧会
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国際科学技術博覧会(こくさいかがくぎじゅつはくらんかい、英文表記: The International Exposition, Tsukuba, Japan, 1985、通称・略称: 科学万博、つくば万博、つくば科学万博、つくば '85、Tsukuba Expo '85 など)は、主に筑波研究学園都市の茨城県筑波郡谷田部町御幸が丘(現在のつくば市御幸が丘)をメイン会場として、1985年3月17日から同年9月16日までの184日間にわたって行われた国際博覧会(特別博)。
1978年に科学技術庁がエネルギー問題を中心とした科学技術博覧会構想を立案し、9月22日にコンセプトプランを発表。1981年1月にテーマや基本構想原案がまとまり4月22日に『「国際博覧会に関する条約」に基づく特別博覧会』として登録され開催が決定し、財団法人国際科学技術博覧会協会が主催となって行われた。
「人間・居住・環境と科学技術(Dwellings and Surroundings - Science and Techonology for Man at Home)」を博覧会統一主題(いわゆる「テーマ」)とし、日本を含む48ヵ国と37の国際機関が参加した。総入場者数は、2033万4727人であった。首都圏で行われた万博という開催場所の地の利も手伝って、この総入場者数は当時の特別博覧会史上最高入場者記録となった。会場面積は101.6ヘクタール。
「宇宙」「地球」「人間」「科学」「芸術」などの未来像をイメージして作られたという。形は、青地の三角形の中に白丸と2個の輪が描いたものが使用された。三角形の頂点は「筑波の山々」を表し、みっつの角は、「人間」「居住」「環境」を、白丸は「太陽」を、ふたつの輪は「人間」と「科学」を表す。田中一光作。
マスコットキャラクターは「コスモ星丸(ほしまる)」。1981年から1982年にかけて、日本全国の小中学生から公募され、当時愛知県一宮市に住んでいた中学1年生の女子生徒がUFOをイメージして描いたものに、選考委員だった和田誠が仕上げを加えたものであるという。なお当初は「ピコちゃん」という仮称が付けられていたが、アンケート調査などを経て正式名が決定した。
CMや宣伝番組出演時の声優は富田耕生。
開会式は、開幕前日の3月16日にエキスポプラザで行われ、皇太子明仁(名誉総裁)・同妃美智子・礼宮文仁が臨場し開催された。参加48の国旗・国際機関・28のパビリオンの入場行進は「EXPO'85マーチ」で、服部克久が作曲した。吹奏楽団と合唱団は茨城県内の高校の生徒から選抜され、合唱団は全員が女性による女声合唱であった。管弦楽はNHK交響楽団で、指揮は外山雄三であった。国旗・国際機関の掲揚の際には「EXPO '85讃歌 ここは宇宙」(作詞 阪田寛夫、作曲 芥川也寸志)が合唱された。BIE旗がBIE副議長から博覧会協会会長の土光敏夫に手渡され、土光、官房長官の藤波孝生(当時首相の中曽根康弘の代読)、皇太子らが式辞を述べ、博覧会担当大臣の竹内黎一により開幕のスイッチが押された。開会式では、他にアトラクションとして、N響と「WASUBOT」によるバッハの『G線上のアリア』、茨城大学教育学部附属小学校の児童によるシンセサイザーのためのベートーヴェンの『交響曲第9番』の演奏が行われ、フィナーレには西城秀樹と子供たちによる『一万光年の愛』のライブパフォーマンスで終了した。
閉会式は、最終日の9月16日にエキスポプラザで行われ、皇太子夫妻が臨場の下、開催された。参加48の国旗・国際機関・28のパビリオンの入場行進の後、博覧会協会会長 土光敏夫、首相 中曽根康弘、皇太子らが式辞を述べ、国旗・BIE旗・科学万博旗・国際機関旗が一斉に降ろされ、BIE旗が1986年のバンクーバー国際交通博覧会パトリック・リード(カナダ政府代表)に引き継がれた。その後、ブルガリア人民共和国・オーストラリア・カナダで開催される万博の成功を祈願して記念品が贈呈された。最後に、万博に参加した関係者に子供たちから花束が手渡され、蛍の光が流れる中、閉会式が終了した。
第一会場
エキスポパーク
筑波科学博・送電鉄塔「エキスポール」は、スリムな外観と力学的構造の簡潔な線の流れが近寄るにつれてダイナミックな印象を人々に与えるとともに、見る位置によって四本の支柱が二本あるいは三本に見え、景観に変化をもたらしている。特に、アームの付け根部分を円盤状にすることで、日本古来の方形の和室と円窓の調和美にも通じる美しさを表現している。現在でも6基が科学万博跡地にそびえたつ。諸元として、高さは45メートル、15万ボルトの電流を流している。1984年に完成。東京電力の設計で、黒川紀章がデザインコンサルティングを務めた。会期中夜間の人々の移動を考慮して、エキスポールにも屋外照明が設けられている。
会期終了後、メイン会場跡地は工業団地(筑波西部工業団地)に転用され、Dブロック跡地には「科学万博記念公園」が設立された。旧桜村(現つくば市)吾妻の第二会場は、翌1986年4月17日にメモリアル施設である「つくばエキスポセンター」として整備・開設され、現在に至っている。
郵政省は「ポストカプセル2001」というサービスを行った。これは、科学万博郵便局内に設置した専用ポストへ投函した、またはポストカプセル郵便であることを明記した手紙が、16年後の21世紀最初の元日である2001年(平成13年)1月1日に届くというもの。配達当日には、郵政省が消滅し総務省(郵政事業庁)に再編されており、当時の郵便はがき一葉の値段より値上がりし、郵便番号も3桁から7桁化されていたが、326万636通の郵便物が差額無しで投函時の値段40円で郵便配達された。配達までは筑波学園郵便局で保管されていた。
日本航空が「オフィシャル・エアライン」となり、ほぼ全ての機材に博覧会のロゴマークを入れて運行した他、多くのパッケージツアーを主催した。場内で運行されていたHSSTも日本航空と名古屋鉄道の共同開発によるものだった。
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"text": "国際科学技術博覧会(こくさいかがくぎじゅつはくらんかい、英文表記: The International Exposition, Tsukuba, Japan, 1985、通称・略称: 科学万博、つくば万博、つくば科学万博、つくば '85、Tsukuba Expo '85 など)は、主に筑波研究学園都市の茨城県筑波郡谷田部町御幸が丘(現在のつくば市御幸が丘)をメイン会場として、1985年3月17日から同年9月16日までの184日間にわたって行われた国際博覧会(特別博)。",
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"text": "マスコットキャラクターは「コスモ星丸(ほしまる)」。1981年から1982年にかけて、日本全国の小中学生から公募され、当時愛知県一宮市に住んでいた中学1年生の女子生徒がUFOをイメージして描いたものに、選考委員だった和田誠が仕上げを加えたものであるという。なお当初は「ピコちゃん」という仮称が付けられていたが、アンケート調査などを経て正式名が決定した。",
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"text": "CMや宣伝番組出演時の声優は富田耕生。",
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"text": "開会式は、開幕前日の3月16日にエキスポプラザで行われ、皇太子明仁(名誉総裁)・同妃美智子・礼宮文仁が臨場し開催された。参加48の国旗・国際機関・28のパビリオンの入場行進は「EXPO'85マーチ」で、服部克久が作曲した。吹奏楽団と合唱団は茨城県内の高校の生徒から選抜され、合唱団は全員が女性による女声合唱であった。管弦楽はNHK交響楽団で、指揮は外山雄三であった。国旗・国際機関の掲揚の際には「EXPO '85讃歌 ここは宇宙」(作詞 阪田寛夫、作曲 芥川也寸志)が合唱された。BIE旗がBIE副議長から博覧会協会会長の土光敏夫に手渡され、土光、官房長官の藤波孝生(当時首相の中曽根康弘の代読)、皇太子らが式辞を述べ、博覧会担当大臣の竹内黎一により開幕のスイッチが押された。開会式では、他にアトラクションとして、N響と「WASUBOT」によるバッハの『G線上のアリア』、茨城大学教育学部附属小学校の児童によるシンセサイザーのためのベートーヴェンの『交響曲第9番』の演奏が行われ、フィナーレには西城秀樹と子供たちによる『一万光年の愛』のライブパフォーマンスで終了した。",
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"text": "閉会式は、最終日の9月16日にエキスポプラザで行われ、皇太子夫妻が臨場の下、開催された。参加48の国旗・国際機関・28のパビリオンの入場行進の後、博覧会協会会長 土光敏夫、首相 中曽根康弘、皇太子らが式辞を述べ、国旗・BIE旗・科学万博旗・国際機関旗が一斉に降ろされ、BIE旗が1986年のバンクーバー国際交通博覧会パトリック・リード(カナダ政府代表)に引き継がれた。その後、ブルガリア人民共和国・オーストラリア・カナダで開催される万博の成功を祈願して記念品が贈呈された。最後に、万博に参加した関係者に子供たちから花束が手渡され、蛍の光が流れる中、閉会式が終了した。",
"title": "開催中の様子"
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"text": "第一会場",
"title": "パビリオン"
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"text": "エキスポパーク",
"title": "パビリオン"
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"text": "筑波科学博・送電鉄塔「エキスポール」は、スリムな外観と力学的構造の簡潔な線の流れが近寄るにつれてダイナミックな印象を人々に与えるとともに、見る位置によって四本の支柱が二本あるいは三本に見え、景観に変化をもたらしている。特に、アームの付け根部分を円盤状にすることで、日本古来の方形の和室と円窓の調和美にも通じる美しさを表現している。現在でも6基が科学万博跡地にそびえたつ。諸元として、高さは45メートル、15万ボルトの電流を流している。1984年に完成。東京電力の設計で、黒川紀章がデザインコンサルティングを務めた。会期中夜間の人々の移動を考慮して、エキスポールにも屋外照明が設けられている。",
"title": "エキスポール"
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"text": "会期終了後、メイン会場跡地は工業団地(筑波西部工業団地)に転用され、Dブロック跡地には「科学万博記念公園」が設立された。旧桜村(現つくば市)吾妻の第二会場は、翌1986年4月17日にメモリアル施設である「つくばエキスポセンター」として整備・開設され、現在に至っている。",
"title": "博覧会終了後"
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"text": "郵政省は「ポストカプセル2001」というサービスを行った。これは、科学万博郵便局内に設置した専用ポストへ投函した、またはポストカプセル郵便であることを明記した手紙が、16年後の21世紀最初の元日である2001年(平成13年)1月1日に届くというもの。配達当日には、郵政省が消滅し総務省(郵政事業庁)に再編されており、当時の郵便はがき一葉の値段より値上がりし、郵便番号も3桁から7桁化されていたが、326万636通の郵便物が差額無しで投函時の値段40円で郵便配達された。配達までは筑波学園郵便局で保管されていた。",
"title": "その他"
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"text": "日本航空が「オフィシャル・エアライン」となり、ほぼ全ての機材に博覧会のロゴマークを入れて運行した他、多くのパッケージツアーを主催した。場内で運行されていたHSSTも日本航空と名古屋鉄道の共同開発によるものだった。",
"title": "その他"
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国際科学技術博覧会は、主に筑波研究学園都市の茨城県筑波郡谷田部町御幸が丘(現在のつくば市御幸が丘)をメイン会場として、1985年3月17日から同年9月16日までの184日間にわたって行われた国際博覧会(特別博)。
|
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<!--{{Redirect|つくば科学万博|その他の特別博覧会を含む万国博覧会|国際博覧会}}-->
{{イベントインフォメーション
|イベント名称=国際科学技術博覧会
|英文表記=The International Exposition, Tsukuba, Japan, 1985
|種類=[[国際博覧会]](特別博)
|画像=[[File:Expo’85 logo.svg|230px]]
----[[file:EXPO 1985.JPG|300px]]
|画像サイズ=
|画像説明=国際科学技術博覧会会場
|通称=科学万博、つくば万博、つくば科学万博、つくば '85、Tsukuba Expo '85 など
|正式名称=国際科学技術博覧会
|旧名称=
|開催時期=[[1985年]][[3月17日]] - [[9月16日]]
|初回開催=
|会場={{JPN}}<br/ >{{Flag|茨城県}}・[[筑波研究学園都市]]
|主催=財団法人国際科学技術博覧会協会
|共催=
|後援=
|協賛=
|企画制作=
|協力=
|運営=
|プロデューサー=
|出展数=48ヵ国(日本を含む)と37の国際機関、28の民間企業・団体
|来場者数=2033万4727人
|会場アクセス名=<!--複数会場がある場合、主な会場名を記載-->
|最寄駅=[[日本国有鉄道|国鉄]][[常磐線]][[つくば科学万博の交通#万博中央駅|万博中央駅]]
|直通バス=万博中央駅、[[水海道駅]]、[[牛久駅]]、[[土浦駅]]
|駐車場=有
|URL=
|特記事項=
}}
'''国際科学技術博覧会'''(こくさいかがくぎじゅつはくらんかい、[[英語|英文表記]]: ''The International Exposition, Tsukuba, Japan, 1985''、通称・略称: '''科学万博'''、'''つくば万博'''、'''つくば科学万博'''、'''つくば '85'''、'''Tsukuba Expo '85''' など)は、主に[[筑波研究学園都市]]の[[茨城県]][[筑波郡]][[谷田部町]][[御幸が丘]](現在の[[つくば市]][[御幸が丘]])をメイン会場として、[[1985年]][[3月17日]]から同年[[9月16日]]までの184日間にわたって行われた[[国際博覧会]](特別博)。
== 概要 ==
[[File:Expo 1985 aerial photograph of construction was taken in 1984.jpg|thumb|270px|開催前年の1984年撮影の会場周辺の空中写真。パビリオン等の施設の多くが確認できる。<br/>1984年撮影の2枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
[[File:Former site Expo 1985 Aerial photograph.1990.jpg|thumb|270px|上記画像とほぼ同じ範囲を撮影した1990年の空中写真。パビリオン等の施設は撤去され再開発が進んでいる。<br/>1990年撮影の4枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
1978年に[[科学技術庁]]がエネルギー問題を中心とした科学技術博覧会構想を立案し、9月22日にコンセプトプランを発表。1981年1月にテーマや基本構想原案がまとまり4月22日に『「国際博覧会に関する条約」に基づく特別博覧会』として登録され開催が決定し、財団法人国際科学技術博覧会協会が主催となって行われた。
「'''人間・居住・環境と科学技術'''(''Dwellings and Surroundings - Science and Techonology for Man at Home'')」を博覧会統一主題(いわゆる「テーマ」)とし、[[日本]]を含む48ヵ国と37の[[国際機関]]が参加した。総入場者数は、2033万4727人であった。[[首都圏 (日本)|首都圏]]で行われた万博という開催場所の地の利も手伝って、この総入場者数は当時の特別博覧会史上最高入場者記録となった。会場面積は101.6[[ヘクタール]]。
=== 組織 ===
* 名誉総裁 - [[明仁]](当時皇太子)
* 会長 - [[土光敏夫]]
* 副会長 - [[稲山嘉寛]]、[[井深大]]、[[江戸英雄]]、[[川又克二]]、[[五島昇]]、[[小林宏治]]、[[竹内藤男]]、[[花村仁八郎]]、[[本田宗一郎]]、[[松井明]]、[[守屋学治]]、[[吉山博吉]]
* 事務総長 - [[伊原義徳]]
=== シンボルマーク ===
「宇宙」「地球」「人間」「科学」「芸術」などの未来像をイメージして作られたという。形は、青地の三角形の中に白丸と2個の輪が描いたものが使用された。三角形の頂点は「筑波の山々」を表し、みっつの角は、「人間」「居住」「環境」を、白丸は「太陽」を、ふたつの輪は「人間」と「科学」を表す。[[田中一光]]作。
=== マスコット ===
[[マスコット]]キャラクターは「'''コスモ星丸'''(ほしまる)」。1981年から1982年にかけて、日本全国の小中学生から公募され、当時[[愛知県]][[一宮市]]に住んでいた中学1年生の女子生徒が[[未確認飛行物体|UFO]]をイメージして描いたものに、選考委員だった[[和田誠]]が仕上げを加えたものであるという<ref name="クロニクル1">『つくば科学万博クロニクル』、24頁。</ref>。なお当初は「ピコちゃん」という仮称が付けられていたが、アンケート調査などを経て正式名が決定した<ref name="クロニクル1"/>。
[[コマーシャルメッセージ|CM]]や宣伝番組出演時の声優は[[富田耕生]]。
=== 入場料 ===
{{colbegin|4}}
* 当日発売入場券
** 大人:2700円
** 中人:1400円
** 小人:700円
* 前売入場券(2割引)
** 大人:2160円
** 中人:1120円
** 小人:560円
* 夜間入場券(午後4時以降)
** 大人:1400円
** 中人:700円
** 小人:400円
* 回数券(5回分)
** 大人:12000円
** 中人:6000円
** 小人:3000円
{{colend}}
=== 会場 ===
; 第一会場(メイン)
: [[茨城県]][[筑波郡]][[谷田部町]][[御幸が丘]](現在:[[つくば市]]御幸が丘)。現在は、筑波西部工業団地 及び [[科学万博記念公園]]となっている。
; 第二会場(サブ)
: 茨城県[[新治郡]][[桜村 (茨城県)|桜村]][[吾妻 (つくば市)|吾妻]](現在:つくば市吾妻)二丁目9番地。現在は、[[つくばエキスポセンター]]となっている。
== 開催中の様子 ==
=== 開会式 ===
[[開会式]]は、開幕前日の3月16日にエキスポプラザで行われ、[[明仁|皇太子明仁]](名誉総裁)・[[上皇后美智子|同妃美智子]]・[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁]]が臨場し開催された。参加48の国旗・国際機関・28のパビリオンの入場行進は「EXPO'85マーチ」で、[[服部克久]]が作曲した。[[吹奏楽]]団と[[合唱]]団は[[茨城県高等学校一覧|茨城県内の高校]]の[[在籍者 (学習者)|生徒]]から選抜され、合唱団は全員が女性による[[女声合唱]]であった。[[オーケストラ|管弦楽]]は[[NHK交響楽団]]で、[[指揮者|指揮]]は[[外山雄三]]であった。国旗・国際機関の掲揚の際には「EXPO '85讃歌 ここは宇宙」(作詞 [[阪田寛夫]]、作曲 [[芥川也寸志]])が合唱された。BIE旗がBIE副議長から博覧会協会会長の[[土光敏夫]]に手渡され、土光、官房長官の[[藤波孝生]](当時首相の[[中曽根康弘]]の代読)、皇太子らが式辞を述べ、博覧会担当大臣の[[竹内黎一]]により開幕のスイッチが押された。開会式では、他にアトラクションとして、N響と「WASUBOT」による[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の『[[G線上のアリア]]』、[[茨城大学教育学部附属小学校]]の[[在籍者 (学習者)|児童]]による[[シンセサイザー]]のための[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]』の演奏が行われ、フィナーレには西城秀樹と子供たちによる『一万光年の愛』のライブパフォーマンスで終了した。
=== おもな出来事 ===
*9月13日 - エキスポプラザで[[ミス・インターナショナル]]と[[ミス・ワールド]]の日本大会が開催され、前者の日本代表には小林利花、後者には杉本治子が選出された<ref>美の日本代表決まる『中日新聞』1985年9月14日22面</ref>。
*9月15日 - エキスポプラザでミス・インターナショナル世界大会が開催され、[[ベネズエラ]]代表の[[:en:Nina Sicilia|ニーナ・シシリア・エルナンデス]]が優勝した<ref>ミス・インターナショナル ベネズエラの22歳『中日新聞』1985年9月16日18面</ref>。
=== 閉会式 ===
閉会式は、最終日の9月16日にエキスポプラザで行われ、皇太子夫妻が臨場の下、開催された。参加48の国旗・国際機関・28のパビリオンの入場行進の後、博覧会協会会長 土光敏夫、首相 中曽根康弘、皇太子らが式辞を述べ、国旗・BIE旗・科学万博旗・国際機関旗が一斉に降ろされ、BIE旗が1986年の[[バンクーバー国際交通博覧会]]パトリック・リード(カナダ政府代表)に引き継がれた。その後、ブルガリア人民共和国・オーストラリア・カナダで開催される万博の成功を祈願して記念品が贈呈された。最後に、万博に参加した関係者に子供たちから花束が手渡され、[[蛍の光]]が流れる中、閉会式が終了した。
=== 会場アクセス ===
{{see|つくば科学万博の交通}}
== パビリオン ==
第一会場
=== Aブロック ===
[[画像:Expo85 ibaraki1.jpg|thumb|200px|いばらきパビリオン]]
* 「いばらきパビリオン」
** [[茨城県]]のパビリオン。
** テーマは「今、新しい未来のために-自然・科学・人間」。
** 建物は、白くふたつの山型をしている。会場からも見る事ができた茨城県のほぼ中心に位置する山「[[筑波山]]」をモチーフに作られた。
** パビリオン入り口には高さ約5メートルの[[滝]]があった。
** 映像シアター:[[70ミリフィルム]]と特殊[[魚眼レンズ]]を用いた茨城県の代表的な風景を上映するシアターで、[[ドーム]][[スクリーン]]は直径18mで水平面160度、垂直面70度の1/4球スクリーン。プログラムは「明日の詩」で10分。収容人数は300人。入場整理券を9時、11時、13時、15時、17時、19時にパビリオン前で配布した。
** エキゾチックマップ・ダイナミックス:茨城県の7000分の1スケール立体マップ(縦16メートル、横14メートル)で9つのスクリーンパネルがあり、未来の茨城県が地域毎にどのように発展してゆくかが上映された。時間は6分。人形、山の造形、照明、[[レーザー]][[アニメーション]]等、全てを[[コンピュータ]]でコントロールした。「スーパーぴょん太」人形の[[声優]]は[[野沢雅子]]。
** サイエンスコーナー:筑波研究学園都市の最新の科学技術を紹介するコーナーで、「ビッグサイエンス」では[[原子力]]エネルギーが[[石油]]などのエネルギーと何が違うのかが展示された。また、電子衝突[[加速器]]「トリスタン」の800分の1の模型や、 [[核融合炉]]研究の実験装置である[[JT-60]]の模型が展示された。
** お祭り広場:筑波山をバックに広がる[[霞ヶ浦]]をイメージした造りの催し物を行う広場。その他、特産品売り場などがあった。
** マスコットはカエルの「ぴょん太」。
[[画像:Expo85_hitach1.jpg|thumb|200px|EXPO'85 日立グループ館]]
* 「EXPO'85[[日立グループ館]]」
**[[日立グループ]]のパビリオン。
** テーマは「Interface-技術との自由な対話」。
** 建物は、白い帽子のような形だった。客席は回転式フロアーなので中心は円柱型になっている。基本デザインは、アンドレ・クレージュ。
** 2階の映像フロアーは4分割された円形劇場「インターフェイス・シアター」。客席は5分ごとに90度ずつ<ref>『つくば科学万博クロニクル』、8頁。</ref>、上から見ると時計回りに回るようになっており、20分で4劇場を見る事ができた。各劇場150人収容。予約券は9時からパビリオン前で発行した。
*** アプローチ劇場:客の入れ替えを行うと共に、レーザーグラフィックショーを行う。
*** 第一劇場:[[犬]]のロボット「ボブおじさん」と「ボブジュニア」。[[猫]]のロボット「ピップ」「ペップ」がミュージカルショーを演じた。スクリーンは縦2.2メートル、横3メートル。
*** 第二劇場:縦5メートル、横11.75メートルのスクリーン。アニメーションで未来の生活を上映した。
*** 第三劇場:ジョン・ホイットニーJr.が制作した[[CG]]による[[立体映像]]で宇宙旅行を上映。中央スクリーンは縦4メートル、横9.2メートル。左右に縦横6メートルのサブスクリーンを有した。[[偏光]]メガネはプレゼントされた。
** ロボット工芸コーナー:[[産業用ロボット]]M6060が2台で縦55センチ、横54センチ、厚さ27センチの[[氷]]を[[彫刻]]するコーナー。ステージ奥のロボットA6030が紹介する彫刻モチーフ「[[コアラ]]」「[[ゾウ]]」「[[ライオン]]」「[[ヒツジ]]」「[[イヌ]]」の中から、観客の[[拍手]]が最も多かったものを選んで彫刻した。M6060に[[関節]]は6つあり、[[三次元]]の空間座標6000ポイント。2台で12000ポイントをモチーフ毎に用意し、動きを[[プログラミング]]するのに十数人で半年以上かかった。横では[[ブリヂストン]]と協力して開発した[[人工筋肉]]を用いたロボットが、コンパニオンのアシスタントをした。
** 電子写真館:[[クロマキー合成]]で[[西部劇]]、[[ルパン三世]]、パビリオンなどのデザインに関わった[[アンドレ・クレージュ]]、[[原辰徳|原選手]]のプロ野球コーチ、世界名所巡り、スペースアドベンチャー等の動画の中に入ることができ、その動画の中から切り取られた画像は、昇華型[[プリンタ]]か大型インクジェットプリンタ(概略A1サイズプリント)でプレゼントされた。動画は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]により制作され、[[レーザーディスク]]から送出された。シャッターチャンスの2フレームのみに コピーライト表示が記録されており、全体をそのフレームで撮影することが著作権者から求められた。
** 電子情報館:[[光ファイバー]]や[[人工衛星]][[さくら2号a|さくら2号]]のニューメディア配信システムによって送られる「つくば衛星新聞」をパビリオン内の[[輪転機]]で印刷し、発行した。
** ニュースボード:好きなボタンを押せば最新ニュースや[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の画面、[[横浜港]]等がスクリーンやモニタに写し出された。横浜港のカメラは遠隔操作できた。
** 同館のコンパニオン(女性スタッフ)は61人おり、全員が日立製作所の正社員だった。また、[[手話]]の訓練も受けていた。
** 演出は[[電通]]。
[[画像:Expo85 toshiba.jpg|thumb|200px|東芝館]]
* 「東芝館」
**[[東芝]]のパビリオン。
** テーマは「ヒューマン エレクトロニクス」。
** 建物は赤い鉄骨で覆われ、中央に大きくかかれたTOSHIBAの文字が印象的だった。設計は[[黒川紀章]]。上から見ると半円柱・直方体・三角柱が一列に並んでいるように見える構造体。
** ウェイティングゾーン:入場を待っている間、縦1.8メートル、横6メートルのキャンバスに10色、12本のカラーペンを使ったコンピュータペインティングが見られた。垂直型のXY[[プロッター]]は世界初。制作は製図機械メーカーの武藤工業。ソフトウェア開発費のみで1億円かかった。
** エントランスホール:[[LED]]や巨大[[電球]]による光のショー。世界最大の[[タングステン]]電球は高さ75センチ、直径50センチメートルで消費電力は5万ワットだが、高熱のためフルパワーでは光らなかった。
** ショウスキャンシアター:70mmフィルムを秒間60コマで映写することで、高精細かつなめらかな映像が観られる日本初公開の[[ダグラス・トランブル#ショースキャンの詳細|ショウスキャン]]方式の映像で「Let's Go!パル」が上映された。スクリーンサイズは縦11メートル、横24メートル。上映時間は17分。観客数は500人。映像制作は、ショウスキャンを開発した[[ダグラス・トランブル]]。サウンドシステムは左右に高さ2.6メートル、横幅1.5メートルの[[スピーカー]]。8台の超低音スピーカーなど、計23台のスピーカーを設置。15台のアンプと6チャンネルの[[ドルビーラボラトリーズ|ドルビー]]サウンドシステムを採用した。ウェイティングゾーンから入って来た観客は、スクリーン下のドアからシアターに入り、上映前になるとスクリーンが入り口ドアの高さ分だけ降ろされて上映が始まった。内容は、とある科学研究所にやって来た少年ヒロシが、人間と同じような感情を持ち、[[英語]]や[[ドイツ語]]なども話せるひょうきんなロボット「パル」の案内で所内を探検するのだが、最後にデービス博士が[[コントローラー]]でパルをコントロールしていたのを知り少しガッカリするも、将来は自分も科学者になりたいと思うようになるストーリー展開だった。
** エレクトロプラザ
*** コマ芸ロボット:3種類の多関節ロボット、計6台でコマ回し芸を披露した。ロボットは[[CCDイメージセンサ]]でコマの位置を正確に確認した。
*** センサービル君:外国[[紙幣]]自動監査機の技術に、[[触覚]]センサ、[[音声]]センサなどを追加し、1秒間に25枚のカードを認識するマシン。
*** 心臓の断層写真:当時最先端技術だった[[コンピュータ断層撮影|CT]]で撮影した[[心臓]]の断層写真が見られた。
** アイドル歌手の[[岡田有希子]]が、東芝のCMや広告に出ていた縁で名誉館長を務めた。
**[[青島健太]]<ref>後に[[プロ野球選手]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]][[内野手]])→[[スポーツライター]]に転向。</ref>が東芝を退職しなければこのパビリオンを担当する予定だった<ref>[http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/31765/32876/9246434]</ref>。
[[画像:Expo85 mitsui.jpg|thumb|200px|滝の劇場 三井館]]
* 「滝の劇場 三井館(Mitsui Water Theater)」
** [[三井グループ]]のパビリオン。
** テーマは「人と科学、人と自然、そのすばらしい関係」。
** パビリオンは白い鉄骨で覆われた建物の中心から、青と水色で塗られた二本の[[円錐]]が空に向かって突き出ているもので、正面から見るとMラインをイメージしているものだった。Mとは、Mitsui(三井) Mind(心) Mental(精神) Mate(仲間) Man(人間) の5つのMを表しており「感動する心を持ち続けることができるのか。人と科学そして自然は、どこまで素晴らしい関係を作ることができるか」をテーマとしていた。設計は[[黒川紀章]]。
** エントランスゾーン:コンパニオンから4種類の[[笛]]がランダムに一人1本ずつ手渡された。
** ウェイティングゾーン:登場人物が紹介され、ハイライトシーンが写し出された。
** ライドステーション:1台21人乗りで5台連結された乗り物(ライド)に乗り込んだ。乗車時間は26分。
** ホームステージ(第一ステージ):主人公である[[動物]][[写真家]]の青年ケンの研究室。制御チャンネルが52チャンネルあり、52動作が可能な人形ロボット(アニマドール)が演じた。途中、空中に像を浮かび上がらせるリフレックス映像を利用していた。
** 滝のスクリーン(第二ステージ):高さ7メートル、幅40メートルの人工[[滝]]のスクリーンで視野200度の三面マルチ映像。タイトルは「青年ケンとドクターロボの大冒険」。12本の[[ポンプ]]で毎分12トンの水をくみ上げ、水の中に空気泡を混入して白濁化させた水(滝)をスクリーンにした。滝に映る画像は鮮明ではなかったが一斉に流れる水は爽快だった。ハイライトは主人公が川に流されている[[スカンク]]の子供を助けようとして人力飛行機から落下して危機を迎える場面で、人力飛行機を操縦するドクターロボットに向けてプログラムされていない「自分の身の危険をおかしてまで他人を助ける」という行動に目覚めさせるために観客が一斉に笛(勇気の笛)を吹いて「愛と勇気」がインプットされて間一髪で助け出すというものだった。館内の音楽は[[三枝成彰]]が担当。オリジナルサウンドトラックが出口脇の売店で販売されていた。
** フォトラマ:滝の画像をバックに記念撮影ができるコーナー。
** マスコットマーク:滝の劇場で出てくるスカンクの子供「マグちゃん」
** 展示演出:電通。チーフディレクター:[[上條喬久]]。映像ディレクター:東郷東海
[[画像:Expo85 sumitomo1.jpg|thumb|200px|住友館 3D-ファンタジアム]]
[[画像:Expo85 sumitomo2.jpg|thumb|200px|住友館 天井に吊ってあったエリカの像]]
* 「住友館 3D-ファンタジアム」
** [[住友グループ]]のパビリオン。
** テーマは「自然への愛・人間への希望」。
** 建物は、[[鏡]]と[[ハーフミラー]]張りの壁面に黄色いフレームが突き出ているもので、フレームがまるで浮かんでいるように見え、当時は反響を呼んだ。立体の黄色いフレームは一辺が12.5メートル、幅は1.3メートルで、[[炭素繊維|カーボンファイバー]]で補強した薄い軽量[[コンクリート]](CFRC)製だった。見えているフレームの本物は4分の3で、残りは135度に向かい合った鏡に映っていた<ref>『つくば科学万博クロニクル』、9頁。</ref>。また、フレームの下の池も鏡の役目を果たしていた。建物の壁面は全てを鏡にすると館内が暗くなってしまうため、半分をハーフミラーとして外光を取り入れることで照明の数を減らし、省エネ化に努めた。また、鏡とハーフミラーをできるだけ同じように見せるためにプラナーマグネトロンスパッター法でハーフミラーを銀色に着色した。設計は[[福田繁雄]]。
** 副展示室:主人公の少女と犬がそれぞれ[[ハングライダー]]に乗り、会話をしている展示だった。
** 3D-ファンタジアム:7歳の少女「エリカ=ハミルトン」と犬「ボゾ」の冒険を描く偏光方式の立体映像「大地の詩」が上映された。犬の種類は[[オールド・イングリッシュ・シープドッグ]]。スクリーンは縦8.5メートル、横18メートルで上映時間は15分。収容人数は450人。70ミリフィルムを用いた2台のカメラで撮影し、2台の映写機で投影するステレオスペース方式の立体映像で、画面の明るさと鮮明度が特徴だった。開発はアメリカのユナイテッド・アーチスト・コミュニケーションズ社。音響は29個のスピーカーで7チャンネル構成のスーパーマルチチャンネル立体音響。劇場は、前の人の肩越しに画面が見えるように床角度を7度にしたり、コンピュータを用いてシミュレーション設計された。観客は偏光メガネを使用し、メガネはプレゼントされた。メインテーマ曲の「空に会おうよ」は[[作詞]]・[[矢野顕子]]、作編曲・[[坂本龍一]]、歌・モモ([[やまがたすみこ]])。レコードはパビリオン内でも販売していた。
** 映像監督:[[福原進]]。総合プロデューサー:泉眞也
* 「ガスパビリオン」
**[[日本ガス協会]]のパビリオン
** テーマは「火・食・くらし」。
** 正面から見ると白く縁取られた6本の緑、青の[[シリンダー]]を模した円からなる建物だった。
** 炎の樹:高さ25mのシンボルタワーで、頂部には直径1メートルで1800のノズル。地上6メートルには直径1.3メートルで3100のノズルを有した球形[[バーナー]]で炎の演出をした。博覧会期間中に使用するガスは26万立方メートル。この時代の家庭で使用する一ヶ月の平均消費量35.4立方メートルの612年分だった。
** エネルギープラント(1F):17台のビデオモニターでガラス越しに見える本物の[[ガスタービンエンジン|ガスエンジン]]発電機(ランキンボトミングエンジン)からエネルギーを取り出す説明を行う。ガスエンジンは1台で240kWを発電でき、発電効率は40%。廃熱回収分は44%で合計84%のエネルギー利用効率を誇った。ガスパビリオンでは合計3台で720kWを発電し、パビリオンの冷暖房、給湯をまかなった。
** 映像ホール(ガスラマ):スクリーンは縦10メートル、横20メートルで上下2面に使ったマルチ映像。上映時間は17分。収容人数は500人。70ミリフィルムを使用し、食べ物を通して火が人間にとっていかに深く結びついているかを映像化した作品「火がつくるすばらしい世界」を上映した。
** ガスオンステージ(未来の街)2F
*** -162度の秘密:[[天然ガス]]の冷熱利用を紹介した。
*** ガスは魔術師:[[燃料電池]]のマジックショー。
*** 炎の[[オーケストラ]]:ガスの炎が様々な利用をされている様子をオーケストラの演奏形式で演出した。
** 燃料電池:パビリオン3階に設置されていた都市ガスを用いたPC-18型燃料電池。発電された電力はパビリオンで利用され、回収廃熱は同館レストラン「ガス燈」の給湯用に利用した。
** マスコット:ひたろう
** 総合プロデューサ:吉原順平。建築、空間構成ディレクター:古見修一。映像ディレクター:藤久真彦。展示ディレクター:稲垣博
[[画像:Expo85 ucc2.jpg|thumb|200px|UCCコーヒー館]]
[[画像:Expo85 ucc1.jpg|thumb|200px|UCCコーヒー館のステージ]]
[[File:TaroTokyo2013-EXPO85-HSST.jpg|thumb|200px|HSST]]
* 「UCCコーヒー館」
** Aブロック[[UCC上島珈琲]]のパビリオン。
** テーマは「Good day! Nice friends!」。科学万博のテーマの一部である「for Man at Home」を受けたかたちで、文化性、対話性、国際性、未来性を出展の基調にし、博覧会場にゆとりと安らぎの場を提供した。
** 白い大小ふたつのピラミッド型の建物が建ち、間にステージがあった。ピラミッド型は[[ブルーマウンテン]]の山頂をシンボル化したものだった。
** モニュメント:入り口近くにあるモニュメント。[[コーヒー]]の木と地球をあしらったもので、太陽への感謝と人々のふれあいをシンボライズしている。
** エントランスゾーン:コーヒーと人間が出会うシーンを数々のパネルで展示した。
** コーヒーカップ・エキジビション:一粒のコーヒー豆から様々な文化が生まれて来たことをコーヒーカップで展示した。
** コーヒーゼミナールQ&A:観客からのコーヒーについての質問にビデオで答えた。
** マイブレンドコーナー:年齢や性別を指定するとボールゲームが始まり、民族衣装を着た人形が踊りだした。終わると自分に一番合ったコーヒーブレンドが印刷されたが、実際は三種類しかなかった。
** カフェプラザ:博覧会を記念して作られたオリジナルブレンドコーヒーが味わえた。
** ステージ:コーヒー生産国各国のダンスショーやミュージシャンの演奏が聴けた。空き時間は一般に開放し、[[ディスコ]]大会や[[カラオケ]]大会を行った。座席450席。立ち見550名。
** アートディレクター:[[福田繁雄]]<ref>『つくば科学万博クロニクル』、10頁。</ref>
** テーマソング:OPA
* '''その他外国館など'''
* 「[[アメリカ合衆国|アメリカ]]館」
** [[デュポン]]、[[テキサス・インスツルメンツ]]、[[ポラロイド]]などの企業パビリオンもあった。
* 「[[コスタリカ]]館」
* 「[[ブラジル]]館」
* 「[[ウルグアイ]]館」
* 「[[ポルトガル]]館」
* 「[[ベリーズ]]館」
* 「[[ネパール]]館」
* 「[[ドミニカ共和国]]館」(準備が遅れて万博開始から1ヶ月以上経った1985年4月21日にオープンした<ref name="クロニクル2">『つくば科学万博クロニクル』、150頁。</ref>)
* 「[[パナマ]]館」
* 「[[ジャマイカ]]館」
* 「[[HSST]]」
=== Bブロック ===
* 「でんでんINS館」
** [[日本電信電話公社]](電電公社)(会期中の1985年4月1日より民営化され、[[日本電信電話|日本電信電話株式会社]]=NTTとなった)のパビリオン。
** テーマは「INSがひらく夢のある暮らし」。当時、[[東京都|東京]]の[[三鷹市|三鷹]]・[[武蔵野市|武蔵野]]のモデル地区でしか使えなかった高度情報通信網[[INSネット|INS]]を利用した暮らしを万博会場で体験してもらうのが狙いだった。INSとは、Information Network Systemのことで、NTTにおける[[ISDN]]のサービス名称である。
** [[立方体]]の上に、かまぼこ型の屋根が乗っている建物だった。<!--設計は[[NTTファシリティーズ]] NTTファシリティーズ設立前なので記載する意味はないと思われる-->
** INSプラザ:入り口のホール。天井には[[光ファイバー]]で「光る鳥」があしらわれていた。2階へは[[エスカレータ]]で上がった。
** INSビレッジ(2F):農業や林業、漁業でINSをどのように利用していけばよいかを展示した。
** INSストリート(2F):[[明治]]、[[大正]]時代の街道を再現した展示場。役者と[[イベントコンパニオン|コンパニオン]]が「もしも明治時代にINSがあったなら」という[[漫才]]仕立てのショーを行っていた。ショーのコンセプトはINSの3文字をもじって「いつでも・仲良く・幸せに」。[[西郷従道]]邸では[[伊藤博文]]夫人がデジタル静止画端末で西洋料理のメニューを見るミニドラマ。[[松本健次郎]]邸には[[森鷗外]]の[[書斎]]があり、[[テレビ電話]]や[[キャプテンシステム|キャプテン]]センターアクセス機を使うミニドラマを行っていた。
** INSホール:光通信や衛星通信を利用して全国各地と結ばれた情報シアターで、「INSつくば号」や東京、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪市|大阪]]に作られた会場とを結んで、日本各地の文化についてやり取りを行った。スクリーンは縦3メートル、横4メートル(一台は高品位テレビ対応)。上映時間は20分。参加卓にはモニタテレビ、[[電話機]]、[[ファクシミリ]]があり、自由に操作ができた。1卓7人で、合計350人。収容人数は550人(予約制)。「INSつくば号」は3月17日に[[鹿児島県|鹿児島]]からスタートして、6月には[[北海道]]へ。[[沖縄]]をのぞく46都道府県84ヶ所を巡回した。
** 企画制作:電通。総括プロデューサー:尾佐竹徇。プロデューサー:吉原順平。オンライン演出プロデューサー:[[山城祥二]]<ref>『つくば科学万博クロニクル』、11頁。</ref>。建築設計:電電公社建築局
* 「講談社ブレインハウス」
** [[講談社]]のパビリオン。
** テーマは「宇宙、人間、未来」。
** 高さ25メートル、直径22メートルの[[円筒]]が垂直に立っている形の建物で、[[左脳]]と[[右脳]]を表現していた。建物の天井にはLEDや電球、[[グラスファイバー]]、スチールワイヤーが張り巡らされ、脳の神経細胞「[[ニューロン]]」を表現し、建物全体で人間の脳の100万倍の大きさの脳を表現した。
** ブレインワールド:人間の仕草や動きと、脳の働きの関係を展示した。
** ブレインシアター:GOKÛと一緒に少女(深見八重 12歳)の脳に入り込んで旅をする物語。「GOKÛのブレイントリップ」を上映。スクリーンは縦7メートル、横28メートルの3面マルチスクリーン。上映時間15分。収容人数370人。8[[パーフォレーション]]35ミリフィルム。音響は6チャンネル・ステレオ音響システム。実写、イラスト、アニメーション、CGを合成した作品で、合成映像とマルチスクリーンによる映像システムは世界初の試みだった。
** マスコット:GOKÛ
** ゼネラルアドバイザー:[[小松左京]]。プランニングアドバイザー:飛岡健。アートディレクター:[[勝井三雄]]。プランニングディレクター:[[山根一眞]]。建築:[[戸田建設]]
* 「[[三菱未来館]]」
** [[三菱グループ]]のパビリオン。
** テーマは「すばらしい地球・人間」。
** 建物は、大小ふたつの三角柱を組み合わせた独特の形で、外側に大きくせり出した外壁のミラーが特徴的だった。
** エントランスホール:ドーム全体が光の反射で[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]のように見えた。
** プロローグ:[[瞳孔]]に40インチのテレビを使用してアニメを流す「科学する眼」を見て「みつびし21」に乗り込んだ。乗車時間は12分。「みつびし21」はモーションコントロールカーで、160メートルのコンクリート走路を秒速26.6センチメートルで進む[[観覧車]]であった。定員は50人で、重量は7トン。幅3.5メートル、長さ6.5メートル。[[電動機]]は三相誘導電動機AC200V、5.5 kW, 6P。制動機は電磁ブレーキ。三菱重工神戸造船所にて開発された。制御室では160メートルの軌道を16分割し、16台の運行を管理した。案内の音声は車上に搭載したCDプレーヤが、走路に設置したセンサの信号により展示に連動する音声を拾いだした。
** 生命の誕生と進化:生命の発生から始まる進化の流れを展示。
** 人間の仲間たち:一辺3.6メートルの[[正六角形]]と[[正五角形]]で構成された直径15メートルのドームスクリーンにたくさんの動物が[[ルミネセンス|ルミノプリント]]により現れた。開発は[[大日本塗料]]カラーセンター。絵は動物画家の田中豊美。映像の一部には35ミリフィルム1台、16ミリフィルム2台の映写機も使われた。
** 機能から生まれた技術:4年がかりで開発した縦1.6メートル、横3.7メートルの大型液晶テレビ「スペクタス」を使用した映像を流した。
** 海洋科学:直径13メートルの「地球ドーム」に、海底の様子が4面マルチ映像で映し出され、[[潜水艦]]に乗っている雰囲気を味わえた。
** 宇宙へ:[[ロケット]]の模型とミラーを組み合わせて、ロケットが発射される時の臨場感を味わえた。
** 宇宙ステーション:[[2030年]]の[[宇宙ステーション]]のイメージ。
** 宇宙を探る(スペースドラマ):直径25メートルのドームスクリーンに宇宙が広がっていた。[[ハレー彗星]]も観られた。
** 水の惑星:青い地球が見えてきて「みつびし21」による旅が終了する。
** エピローグ:不思議な枝と木漏れ日の光の世界が展示。
** コンパニオン:59人おり、観客から科学の質問をされても答えられるように自ら企業に取材しに行き勉強して「サイエンス読本」という本を作成した。
** マスコット:ピピロン。頭の部分が地球で、身体は星になっており、すばらしい地球を表していた。
** 総合プロデューサー:[[田中友幸]](当時[[TOHOスタジオ|東宝映画]]社長)。プランニングスタッフ:[[恩地日出夫]]、[[上村一夫]]、島田親一、武市好古、[[真鍋博]]。顧問:小松左京、[[竹内均]]、[[斎藤茂太]]、[[林雄二郎]]。建築設計:[[三菱地所]]。展示制作:日本創造企画
** [[特撮]]は[[川北紘一]]。音楽は[[羽田健太郎]]が担当し、[[1984年]]に公開された映画「[[さよならジュピター]]」で使用されたミニチュアを部分回収し、展示または映像を公開した。
[[画像:Expo85 ibm.jpg|thumb|200px|日本アイ・ビー・エム館]]
* 「日本アイ・ビー・エム館」
** [[日本IBM]]のパビリオン。
** テーマは「科学する心育む-21世紀への遺産」。
** 建物は、□の上に△が○を囲むような形で建っている。「□△○」がキーワード。配布していたパンフレットにも大きく描かれていた。設計は[[黒川紀章]]。
** ロビー:壁には科学の歴史が描かれており、[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]や[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]など、歴史的な科学者138人の展示があった。日本人は[[平賀源内]]や[[福井謙一]]など9人の展示だった。
** ファンタジック・エスカレーター:映像ホールへ続く、青い光で包まれた長いエスカレーター。
** スーパードーム21(3F):直径32メートルの全天周ドームスクリーンと、直径5メートルの球形スクリーンで、面積は1678平方メートルと80平方メートル。科学が開くミクロ、マクロの世界、科学と未知の世界などを描く「人間と科学の叙事詩」を上映。これは地球の誕生から現代文明の開花までを綴ったもので、中身は「ふるさとの星・地球」「未来へ向かう子供達」など、4つのストーリをつないだものだった。上映時間は475秒。約8分で、観客は動く歩道(ムービングベルト)で立ちながらスクリーンを見上げた。原画14,000点から映像化した10本の35ミリフィルムと、1本の70ミリフィルム。8チャンネルのテープに集積された音響ソースから出力。70ミリの映写機は中央の球形スクリーン内にあり、天頂からドーム上部へ映写していた。
** 展示コーナー(2F):科学原理の立体模型10点を展示。2万本の[[光ファイバー]]を用いた銀河系のモデル。[[シリコン]]ゴムを用いた細胞のモデル。原子モデル。[[パンゲア]]が移動する「大陸移動」モデルなどを展示。
** コンピュータコーナー(1F):コンピュータと遊びながら科学するコーナーで、「スタディコーナー」「サイエンスコーナー」「ゲームコーナー」に分かれていた。コンピュータの台は子供から大人まで対応できるように上下に動かすことができた。
** 出展者:日本アイビーエム代表者・[[椎名武雄]]。総合監修:[[江崎玲於奈]]。プロデューサー:[[栄久庵憲司]]、黒川紀章。
* 「鉄鋼館」
**[[日本鉄鋼連盟]]のパビリオン。同様の名前で[[日本万国博覧会|大阪万博]]にも出展していた。
** テーマは「永遠なる鉄と人間」。
** 建物は川田工業(現、[[川田テクノロジーズ]])が製作し、高さ46メートルの[[鉄塔]]に6本のワイヤで重量250トンの建物前方部分を釣り上げる構造。[[本州四国連絡橋]]の技術を使ったもので<ref>[http://anniversary.kawada.jp/detail/no1001949.html 科学万博 つくば’85 鉄鋼館] - 川田テクノロジーズ株式会社、2015年8月3日閲覧。</ref>、1本のワイヤには5ミリの鋼線を91本束ねたもので、1本のワイヤで280トンを支えられた。また、[[H形鋼]]やパイプ、[[鋳鋼]]など建物に使われている鉄の素地をそのまま見ることができ、用途に応じた使い分けの様子が展示された。
** 映像ホール(スペースシアター)
*** レーザーショー:アメリカレッセル社の[[アルゴン]][[レーザー]]2基と、[[人工ダイヤ]]のミラーボールを用いて90秒の演出した。
*** 映像:アメリカのステレオビジョン社が開発した1台のカメラで撮影し、1台の映写機で映し出す70ミリステレオビジョン方式を採用。この方式による70ミリ立体映像映画の製作、上映は世界初だった。プログラムは「人間と鉄-この永遠なるもの」。野球やサッカーのボールが観客に向かって飛んでくる立体映像で、スクリーンは縦10メートル、横20メートル。上映時間は15分。収容人数は400人。音響はサラウンド・イメージ・コントロール・システムという音場制御技術基礎に日本楽器製造が開発システムで、今まで[[レコーディング・エンジニア|ミキサー]]の経験に頼っていた音像移動を、すべてコンピュータで行った。
*** なお、[[昭和天皇]]が来館した際<!--敬語不要。観点を参照-->、先述のボールなど刺激の強い映像については、敢えて立体では見えないように編集して上映<ref group="注釈">当時の新聞記事により</ref>された。
** 展示ホール:[[超伝導]]電磁推進船などを展示。その他、鉄を温度別に分けた展示もあった。
*** A 3000度:不思議な鉄、微粒子である[[磁性流体]]のダンスを展示。
*** B 1530度:宇宙時代の鉄
*** C 910度、80〜36度、-88度:様々に変化する鉄
*** D -162度、-253度、-269度:低温、未来の技術と鉄
** 鉄のギャラリー:内田晴之作の[[ステンレス]]の[[彫刻]]。
** 隕鉄:[[1890年]]に[[富山県]][[上市町|富山県白荻村]]で発見された重さ33.6キログラムの[[隕鉄]]のレプリカが展示。
** [[アモルファス]]鉄合金:宇宙で合金を作ると純度の高いものが作れることを展示。
** 総合プロデュース・展示・演出:電通。総合プロデューサー:泉眞也。建築・設計監理:[[日建設計]]。
[[画像:Expo85 kuruma.jpg|thumb|200px|くるま館]]
* 「くるま館」
** [[日本自動車工業会]]のパビリオン。
** テーマは「自由なモビリティを求めて」。
** 建物は高さ36メートルで、直径30メートルの円柱の周りをスパイラル状にチューブ(スペースハイウェイ)が巻き付いている形だった。夜になると円柱をスクリーンに見立てて[[自動車]]の[[シルエット]]などが映し出されていた。
** スペースハイウェイ:96台ある4人乗りのライド「スペースライダー」は秒速45センチメートルで進む観覧車で、外周軌道170メートル(上り勾配12.5度)と内部映像空間の内周軌道80メートル(下り勾配15度)の全長340メートルを走行した。乗車時間は13分。パビリオン2階の乗車ステーションから、地上33メートルの頂上までの高低差28.1メートルを登ったところで館内に入り、大映像空間「スペースシネマゾーン」を走行した。全体を1.5kWの直流モーター80台で動かしており、一部のモーターが故障しても運転が可能なシステムとなっていた。また、震度4で自動停止する仕組みだった。スクリーンは縦8メートル、横18メートルのものが3つあり、プログラムは「地球横断」。[[アラスカ]]の白い大[[氷原]]。[[ニュージーランド]]の緑の大[[草原]]。[[アフリカ]]の褐色の[[砂漠]]をドライブしている映像で、エンドレス35ミリダブルフレーム8パーフォレーションシステムで上映した。
** カーテックプラザ
*** カープロダクトコーナー:生産工程の自動化や、本物の産業ロボットによる[[溶接]]、[[塗装]]等の実演。
*** カーサイエンスコーナー
*** カーデザインコーナー
*** 二輪車コーナー
** ハーモニースクウェア:
*** フューチャートラフィック:直径8メートルで、未来都市の150分の1スケール[[ジオラマ]]。
*** 未来車のモデル:[[2050年]]代の未来の車を2分の1モデルで展示。
** 総合プロデューサー:黒川紀章。プロデューサー・グループ:[[林雄二郎]]、合田周平、[[加藤寛]]{{要曖昧さ回避|date=2019年1月}}、[[菅家陳彦]]、[[粟津潔]]。企画制作:[[博報堂]]。
[[画像:Expo85 fujitu.jpg|thumb|200px|富士通パビリオン]]
* 「富士通パビリオン」
** [[富士通]]のパビリオン。
** テーマは「人間・ゆめ・技術」。
** 建物の壁面には滝が流れ、高さ15メートルに位置する幅5.3メートルのフレームが浮いているような建物だった。これは[[テンセグリティ]]構造体を応用して作られたフレームで、設計は当時[[日本大学]]理工学部助教授の斉藤公男。長さ5メートル、直径16センチメートルのパイプを一辺とする正三角形のトライアングル4つを組み合わせ、直径2.5センチメートルのワイヤで組み立てて、さらにこれを4段に積み上げた。風速60メートルの風や、マグニチュード7の地震にも耐えられる設計だった。
** テクノホール
*** まねし鳥:コンピュータの合成音で話す鳥のロボットで、テクノホールの案内をした。
*** ファナックマン(FANUC MAN):身長5メートル、体重約25トンの巨大なロボット。当時の高性能な産業ロボットで50キログラムのものが運べた中で、片手で100キロ、両手で200キロの[[バーベル]]を持ち上げたり、自分の小さな模型を組み立てた。産業用ロボットは基本腕が1本であったが、ファナックマンは人間と同じく2本の腕を駆使して動かせる点で進化したシステムを有していた。また、1本の腕に6つ、ボディーに4つ。合計16の関節を有しており、動力源は交流[[サーボモータ]]を採用していた。また、眼となるセンサーには新しく開発された高速視覚センサーが使われていた。
** コミュニラボ
*** ちびっ子恐竜:恐竜の骨組みの小さな模型。合成音でコミュニラボの案内をした。
*** 自動翻訳システム:世界のニュースや作文を翻訳する展示。作文はテクノホールの一角で書いたもの。全ての言語に共通な中間表現を設け、入力言語の文を解釈し、その意味表現から出力言語の文を生成するピボット方式を採用した。
** コスモドーム:23度の傾斜を持つ客席の上に直径20メートルの半球状スクリーンが29度傾斜して配置された全天周立体映像のホール。プログラムは「ザ・ユニバース」。左目は赤色、右目は青色のメガネで見るアナグリフ方式による立体画像で、[[太陽系]]50億年の歴史の物語として宇宙や水の分子、[[アミノ酸]]の合成から[[デオキシリボ核酸|DNA]]ができ、生命が誕生する過程を描いた。収容人数は300人。予約制で、入場整理券は9時30分と16時にパビリオン前で配布した。
*** 全天周立体映像では、人間の視野の間隔7〜9センチメートルで2台の70ミリフィルム撮影機を設置して魚眼レンズで撮影しなければならないため、お互いのカメラが映り込んでしまう。また、広い[[被写界深度]]で撮影することが困難で、従来は[[実写]]による全天周立体映像は不可能とされていたが、CGを使うことで映像化を実現した世界初の映像だった。
*** 1コマの絵は1728×1280ドットで構成されており、1ドットずつ、半球状スクリーンに魚眼レンズで映写するので歪みを修正して、右目と左目の映像も考慮した値を導くために毎秒150万回の計算ができる大型コンピュータ([[FACOM]] M-380)2台を1年1ヶ月専有して計算した。70%はソフト作りで、8分30秒の映像にかかった費用は16億円。1秒で300万円かかっている。プロデューサーはアメリカの[[ローレンス・リバモア国立研究所]]研究員、ネルソン・マックスに依頼。制作したのはトーヨーリンクス。これを[[IMAX|アイマックス社]]の[[オムニマックス]]システムで上映。15パーフォレーションの70ミリフィルムを使用して、左右180度、上下125度に映写した。
** 総合プロデュース:富士通科学万博推進本部、電通。総合監修:泉眞也。建築設計:日本設計事務所
[[画像:Expo85 tdk.jpg|thumb|200px|TDKふしぎパビリオン]]
* 「TDKふしぎパビリオン」
** [[TDK]]のパビリオン。
** テーマは「科学する心・創造する心」。[[レーダー]]や医療機器に使用されている[[超音波]]レーダーは[[コウモリ]]の研究から。[[赤外線]]レーダーは[[ガラガラヘビ]]の研究から生まれたもので、人間の感覚を超えた動物の特技は科学的発見に大きな役割を果たして来ていることから、様々な動物の視覚、聴覚、触覚を体験してもらうパビリオン。
** 50万年後の未来から来た不思議な生物で、象と昆虫と鳥が融合している「象昆虫」をイメージした建物だった。
** ウェイティングホール:人間が200分の1の大きさになると世の中がどう見えるのかを表したゾーン。巨大な[[イヌワシ]]や[[カブトムシ]]などが壁にディスプレイされており、巨大な眼で上からのぞかれている感じがした。レーザー光線によるショーや[[ホログラフィー]]による[[畑正憲|ムツゴロウさん]](畑正憲)の挨拶、動物の声を使った「アニマルシンフォニー」があった。
** ライブシアター:自分が[[鳥]]や[[蝶]]になったら世界はどのように見えるのか、[[メタモルフォーゼ]](変身)体験できる劇場で、[[昆虫]]の[[複眼]]で花畑を見るとどう見えるのか表現するのに日本には再現できるレンズがなく、海外から輸入して2つの眼で二百数十個の等質レンズを用いた撮影を行った。その他、魚や馬の見え方を体験できた。70ミリフィルムを使った大型マルチ映像で、スクリーンは縦11メートル、横21メートル。16チャンネルマルチ音響。プログラムは「感覚の旅・科学の眼」。上映時間は27分。収容人数は400人。舞台には[[ペルシュロン]]種の白馬の「コマッタ君」が登場し、子供達はふれあうことができた。
** マスコット:ゾコちゃん。像と昆虫と鳥の優れたところを備えている未来の生物。
** 総合プロデューサー:[[畑正憲]]。映像プロデューサー:渡辺竜平。展示デザイナー:鈴木七七夫。企画:電通。設計施工:[[清水建設]]。
* 「松下館」
** [[パナソニックグループ|松下グループ]]のパビリオン。
** テーマは「日本人と日本文化の源流を探る」。
** 最先端技術で古代の文化を説明する、前方後円墳を模した建物だった。
** キュービックマルチ・あなたの顔は何系?:[[日本人]]と同じ祖先を持つと思われる民族の1000人の顔が64台のディスプレイに映し出された。28型が21台。21型が21台、19型が22台で、全て[[ブラウン管]]。
** 弥生式[[竪穴建物]]:古代人のサイボット(サイボーグとロボットの合成語)が弥生語で会話をしていた。
** 立体テレビ
** 古代人の暮らし:[[パラメトリック・スピーカー|超指向性スピーカー]]を用いて古代人の衣食住の説明を聞けた。
** 銅鐸の音:レプリカの[[銅鐸]]を作成し、[[NHK交響楽団]]の演奏者にたたいてもらった音をコンパクトディスクで聴けた。1986年まで、CDよりもLP盤レコードの方が販売枚数が多かった。
** 屋久杉の年輪:推定樹齢2000年。直径2メートルの[[屋久杉]]の年輪を展示。歴史的事件が起きた年の年輪をレーザー光線で照らし、さらに頭上のモニターにその事件のあらましが映し出された。
** 似顔絵ロボット:舞台に大小二台のロボットが左右に配置されており、大きい方が男性画家(ロボ太君)、小さい方は女性画家(ロボ子嬢)を装っていた。左右独立したシステムで、6軸垂直多関節型ロボットを使用。傾斜して置かれたキャンバスに対して常に直角方向に姿勢を保ち、[[毛筆]]を進行方向に合わせながら筆圧を変化させて約2分で描いた。
** 古代おもしろゼミナールQ&A:[[ハイビジョン|高品位テレビ]]を用いたクイズで、12人が参加できた。出題は5問。
** 映像ホール:当時日本で一番大きい縦3メートル、横4メートルの液晶アストロビジョンを3面マルチ画面で使用。プログラムは「日本人のふるさと」。上映時間12分。収容人数300人。
** ニューメディアコーナー
** つくばコーナー
** マスコット:弥生時代の子供でやんちゃでいたずらっ子のマツゴロウ
** プレゼント:似顔絵、古代史博士免状(全問正解者のみ)
** 監修:[[江上波夫]]。協力:筑波大学。アドバイザー:泉眞也。映像監督:恩地日出夫。企画:電通、学習研究社、乃村工藝社。映像:東宝映像。建築設計:竹中工務店。建築施工:竹中工務店、[[鹿島建設]]
<gallery>
画像:Expo85 matushita1.jpg|松下館
画像:Expo85 matushita2.jpg|顔絵ロボットコーナー
画像:Expo85 matushita3.jpg|顔絵ロボット「ロボッコ」
画像:Expo85 matushita4.jpg|3m×12mの液晶ディスプレー「液晶アストロビジョン」
</gallery>
[[画像:Expo85 fuyo.jpg|thumb|200px|芙蓉ロボットシアター]]
* 「芙蓉ロボットシアター」
** [[芙蓉グループ]]のパビリオン。
** テーマは「人間を大切にあしたの科学」。
** 建物は、銀河系に浮かぶ地球をイメージしたもの。
** 世界初のロボットショーが上演され、入館前に選ばれた子どもとフレンドロボット「マルコ」との対話や、ロボット同士の恋物語、ボール型ロボットを使ったサッカーゲームなどで連日観客を楽しませた。ロボットは[[ルイジ・コラーニ]]による曲線的なデザイン。またアリーナで司会を担当したコンパニオンは[[ローラースケート]]に[[ワイヤレスマイク]]内蔵のヘルメット付きコスチュームで登場し、当時としては斬新だった。
** テーマソングを[[香坂みゆき]]が歌っていた。
* '''その他外国館など'''
* 「[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]館」(当時は「西ドイツ」だった)
* 「[[イタリア]]館」
* 「[[スウェーデン]]館」
* 「[[オーストラリア]]館」
* 「[[スイス]]館」
* 「[[ユーゴスラビア]]館」
* 「[[イギリス|英国]]館」
* 「[[フランス]]館」
* 「[[ベルギー]]館」
* 「[[欧州共同体|EC]]館」
=== Cブロック ===
* 「国連平和館」
** [[国際連合]]、[[国際司法裁判所]]、[[国際連合貿易開発会議]]、[[国際連合環境計画]]、[[国際連合環境計画|国際連合人間居住センター]]、[[国際連合工業開発機関]]、[[国際連合児童基金]]、[[国際連合開発計画]]、[[国際連合難民高等弁務官事務所]]、[[国際連合訓練調査研究所]]、[[国際連合パレスチナ難民救済事業機関]]、[[国際連合人口基金]]、[[国際連合大学]]、[[国際連合世界食糧計画]]、世界食糧理事会、[[国際労働機関]]、[[国際連合食糧農業機関]]、[[国際連合教育科学文化機関]]、[[世界保健機関]]、[[世界銀行]]、[[国際通貨基金]]、[[国際民間航空機関]]、[[万国郵便連合]]、[[国際電気通信連合]]、[[世界気象機関]]、[[国際海事機関]]、[[世界知的所有権機関]]、[[国際農業開発基金]]、[[国際原子力機関 ]]、[[関税および貿易に関する一般協定|GATT]]によるパビリオン。
** テーマは「開発による平和-行動する国連」。
** 建物は、青と白に塗り分けられた半球ドーム型。地球儀を形作る紙の形をしたコンクリート片40枚を組み合わせて作られた。
** [[国際連合]]の歴史や活動などの紹介、展示が行われた。
** 館内には[[平山郁夫]]画伯制作の「平和のキャラバン」一対を展示し、小片に分割して販売したが、開催期間内には完売しなかった。閉幕後は[[広島市]]の[[広島平和記念資料館]]に移転、展示されているという。
=== Dブロック ===
エキスポパーク
[[画像:Expo85 sony.jpg|thumb|200px|SONYジャンボトロン]]
* 「SONY[[ジャンボトロン]]」
**[[ソニー]]が施設参加として万博側に提供。
** テーマは「夢は大きい方がいい」。
** 縦25メートル・横40メートルの2000インチ超巨大テレビの形をした建物<ref name="nikkeijt20">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53826680W9A221C1AA1P00/ ジャンボトロン 巨大画面に人々夢中(古今東西万博考)] - 日本経済新聞2020年1月4日</ref>。
** 会場風景・アイドルのコンサート映像・ミュージックビデオなど各種映像を上映した<ref name="nikkeijt20"/>。
** 画面には偏向膜が覆われていて、[[3D映像]]を流す事ができた<ref>『つくば科学万博クロニクル』、96頁。</ref>。
** 同社から発売されていた[[MSX]]版「[[ロードランナー]]」のゲーム大会も行ったこともある<ref>『つくば科学万博クロニクル』、97頁。</ref>。
** [[1984年]]の[[日本放送協会|NHK]][[ゆく年くる年]]で、いち早くお披露目された<ref>『つくば科学万博クロニクル』、95頁。</ref>。
* 「エキスポプラザ」
** [[日本国政府]]出展のパビリオン。
** ゲイラカイトのような形の屋根をもつ、収容人数5000名の催事場施設である。
** 開会式など各種イベントに使われた。
=== Eブロック ===
* 「テーマ館」
** [[日本政府]]出展のパビリオン。
** テーマは「人間・居住・環境と科学技術」。
** 高さ42メートルの透明なシンボルタワーと「我が国土」がテーマのA館と「我が暮らし」がテーマのB館の2棟からなるガラス張りの建物だった。
** 13m×20mのスクリーンを使っての日本の四季、国土の映像を上映。展示では、[[加藤一郎 (ロボット研究者)]]と[[住友電気工業]]の共同開発による譜面を読み取ってエレクトーン演奏をするロボット「WASUBOT」や[[トマト]]と[[ジャガイモ]]を掛け合わせた[[ポマト]]などが注目を集めた。
* 「歴史館」
** [[日本政府]]出展のパビリオン。
** テーマは「日本の科学技術のあゆみ」。
** U字型の白い建物だった。
** 日本の技術発展の歩みを展示。弥生時代の農機具、明治時代作られた国産の[[蒸気機関車]]([[国鉄860形蒸気機関車]])や[[発電機]]、現代のエレクトロニクスまで展示されていた。
* 「こども広場」
** [[日本政府]]出展のパビリオン。
** テーマは「科学する心を育む」。
** 機械仕掛けの動物で遊べる「メカ動物園」、全長270mの中に無響エリア、反響室エリア、無限の合わせ鏡エリアなどがある「おもしろチューブ」、タイルで作った直径40mの10万/1の「[[日本地図]]」、ドアだけが沢山建っている「ふしぎの庭」、コスモ星丸で描いたアインシュタイン、噴水、日時計などがあった。また、コミュニケーションロボット「つくばたろう」と「つくばはなこ」がここでガイドをしていた。
<gallery>
画像:Expo85 kodomo1.jpg|こども広場の日本地図
画像:Expo85 kodomo2.jpg|こども広場のふしぎの庭
画像:Expo85 kodomo3.jpg|こども広場の噴水
画像:Expo85 tokei.jpg|ジャイロを使った日時計
画像:Expo85 parade.jpg|パレードの模様
</gallery>
=== Fブロック ===
* 「エレクトロガリバーの冒険-電力館」
** [[電気事業連合会]]出展のパビリオン。
** テーマは「エネルギーそして未来」。
** 鉄塔からワイヤーで大小25のテント屋根を吊っている建物だった。設計は[[黒川紀章]]
** 3人乗りのライドに乗り、自然、化石、原子力の各エネルギーのテーマを体験する内容で、エネルギーや電気についての知識が得られた。
** 総合プロデュース:[[竹内均]]<ref>『つくば科学万博クロニクル』、17頁。</ref>
[[画像:Expo85 tecno.jpg|thumb|200px|テクノコスモスの観覧車]]
* 「[[テクノコスモス]]」
** [[京セラ]]・[[泉陽興業]]・[[ローランド]]・[[文化シヤッター]]・[[フジキン]]・[[エスペック]]のパビリオン。
** テーマは「超と極の世界」。
** 85メートルにもおよぶ、当時世界一の大きさの大観覧車がメインの建造物だった。
** 観覧車では約15分の空中散歩が楽しめた。ゴンドラ中で、[[スニッカーズ]]状の「[[宇宙食]]」(コズミックスナック)で食事もできた。隣の展示館では科学ショーが楽しめた。
** チーフディレクター:[[松岡正剛]]<ref name="クロニクル2"/>
* 「ダイエー館 詩人の家」
** [[ダイエー]]のパビリオン。
** テーマは「人みな詩人、物みな光る」。
** 半地下式板張りのピラミッド型建物で、階段状の屋根は3600名が休める巨大ベンチとなっていた。
** 直径16mのドームスクリーンで詩が朗読や映像で表現されていた。
* '''その他外国館など'''
* 「[[ソビエト連邦|ソ連]]館」
** ソ連館の建物は、[[筑波研究学園専門学校]]の2号館「つくば万博記念館」として移築され、現在も利用されている。
* 「[[ブルガリア]]館」
* 「[[世界観光機関]]館」
* 「南太平洋館」([[キリバス]]、[[トンガ]]、[[ツバル]]、[[パプアニューギニア]]、[[西サモア]]、[[ソロモン諸島]]、[[ナウル]]、[[フィジー]]、[[バヌアツ]]の共同パビリオン)
* 「[[アジア開発銀行]]館」
* 「[[経済協力開発機構]]館」
* 「アフリカ館」([[コートジボワール|象牙海岸共和国]]、[[ケニア]]、[[セネガル]]、[[ザンビア]]の共同パビリオン)
* 「星丸ランド」~遊園地~
* その他、下記の遊具が設置されていた。
** スペースプラズマ(ローラーコースター)
** スーパートルネーダー
** スーパースイング
** スタージェット(ループコースター) - 閉幕後は[[鷲羽山ハイランド]]に移設。
** スーパーエンタープライズ
** コスモラピッド
** 星丸トレイン
** わいわいハウス
** フワフワ・パーク - 5歳の子供が隙間に肘を入れて全治2ヶ月の複雑骨折という事故があった。
** サイクルモノレール
** グレートポセイドン(バイキング)
=== Gブロック ===
[[画像:Expo85 nec.jpg|thumb|200px|NEC C&Cパビリオン]]
* 「NEC C&Cパビリオン」
**[[日本電気|NEC]]のパビリオン。
** テーマは「Man and C&C いつでも どこでも だれとでも」。
** 直径32メートルの巨大パラボラアンテナがある建物だった。
** 出し物は観客参加型の映像シアター。タッチパネル式のクイズやゲームが展開され、観客の選択でストーリーが分岐するものだった。音楽は安西史孝。会場ロビーではサウンドトラックレコードが販売された。
** [[朝日新聞]]東京本社から一日2回、[[通信衛星]]「[[さくら (人工衛星)|さくら2号]]」を経由して「つくば衛星新聞」を発行、配布した。
** 入館者には「宇宙飛行士認定証」が配られた。
** コンパニオンは20~25歳までの55人。制服は白抜きの[[牡丹]]をあしらった[[木綿]]の[[藍染め]]のスーツ。うち45人が閉幕後NECに入社して事務職に就いた。
* 「みどり館」
** [[みどり会]]([[三和グループ]])のパビリオン。
** テーマは「世紀を開くバイオテクノロジー」。
** 建物は、緑と白の球が重なり、細胞融合を表していた。
** 5面のマルチスクリーンにSFファンタジー「バイオ星への旅」が上映されていた。館内では[[デオキシリボ核酸|DNA]]などの解説本「バイオ読本」が売られていた。
* 「燦鳥館(さんとりーかん)」
** [[サントリー]]のパビリオン。
** テーマは「鳥たちのいのち、私たちの明日」。
** 建物は、カテナリー曲線を天地替えしたドーム型。カテナリー曲線とは鎖の両端を持って吊り下げて生じる曲線である。
** 内容は、26m×35mのスクリーンを使って自然とカナダグース(シジュウカラガン)、飛行機のアクロバット映像などの「空のかなたへ」。その他200羽の鳥がとまった木を使った鳥のコーラス、噴水ショーがあった。
[[画像:Expo85 shoueishia.jpg|thumb|200px|集英社館]]
* 「集英社館」
** [[集英社]]のパビリオン。
** テーマは「遺跡と人間-その生命の詩」。
** 建物は、巨大な仏像や[[オルメカ]]の戦士像等、世界各国の古代遺跡の一部を集めた彫刻で彩られていた。
** 16m×23mのスクリーンを使って世界の遺跡を紹介。展示では[[大英博物館]]の古代エジプトの[[ミイラ]]が日本初公開として公開された。
** 建物は開幕半年前には完成していて、おまけに目立つものであったので、世界中に科学万博を印象付けた功績は大きい。
* 「健康・スポーツ館」
** [[デサント]]・[[スズケン]]・[[大塚製薬]]3社のパビリオン。略称「健スポ館」。
** テーマは「健康とスポーツを科学する」。
** 黄色の3棟の建物を間に立つ白い柱から伸びたワイヤーが支えるような建物だった。
** 42面の動くスクリーンを使っての「The Body」と、17m×23mのスクリーンでの「Breathe」の2本を上映。その他、健康、スポーツ、科学に関する3社の展示があった。観客動員数は、パビリオンの中では最大だった。
* 「KDDテレコムランド」
** [[国際電信電話]]のパビリオン。
** テーマは「ふれあい・今グローバル」。
** パラボラアンテナを持った通信衛星型のゴンドラを持った50度の傾斜角を持つ観覧車と、壁面に世界地図が書かれた建物があった。
** 観覧車の他、3面のスクリーンを使って[[海底ケーブル]]探検映像や[[昭和基地]]との中継、他には国際電話をかけることもできた。
* 「ハートピア・自然の美パビリオン」
** [[第一勧銀グループ|三金会(第一勧銀グループ)]]のパビリオン。
** テーマは「自然-造型の秘密」。
** 垂直に立つ円柱に屋根を立てかけたような形状の建物だった。
** 中は「バードアイ・シアター」と銘打たれ、スクリーンを観客が見下ろす形の劇場で、鳥の親子が空を旅する光景が巨大スクリーンに映し出された。
* その他、以下の各国・各団体のパビリオンがあった。
* '''その他外国館など'''
* 「[[大韓民国]]館」
* 「[[スリランカ]]館」
[[画像:Expo85 daibutu.jpg|thumb|200px|外国館の前にあった大仏]]
* 「[[インドネシア]]館」
* 「[[タイ王国|タイ]]館」
* 「[[ブルネイ・ダルサラーム]]館」
* 「[[セイシェル]]館」
* 「[[フィリピン]]館」
* 「[[カナダ]]館」
** [[TBSテレビ|東京放送(TBS、当時)]]の[[サテライトスタジオ]]が併設されており、開催期間中はここから同局の生番組[[EXPOスクランブル]]が放送されていた。
* 「[[中国]]館」
* 「[[トルコ]]館」
* 「[[チュニジア]]館」
* 「[[イラン回教共和国]]館」
* 「[[エジプト・アラブ共和国]]館」
* 「[[国際標準化機構]]館」
* 「[[インテルサット|国際電気通信衛星機構]]館」
* 「[[インマルサット|国際海事衛星機構]]館」
* 「[[国際電気通信連合]]館」
* 「パピルスプラザ」(図書館)
=== 会場内交通機関 ===
* [[HSST]]
* ビスタライナー
* スカイライド
{{see|つくば科学万博の交通}}
=== 関連企画 ===
* [[ラジオきらっと]] - 交通情報や会場情報などの提供のため、開催期間中開設された[[イベント放送局]]。コールサイン:JO2C、周波数:855KHz、送信出力:1kw。運用を委託された[[文化放送]]の[[日本のアナウンサー|アナウンサー]]が主にDJを務めた。交通情報を知らせるメロディーも当時の文化放送と同じ音楽を使用していた。[[超短波放送|FM放送]]ではなく[[中波放送|AM放送]]による[[ラジオ放送]]で、受信エリアとしては会場周辺から[[関東地方]]の一部(送信所を中心に半径20km程度)が想定され、主に茨城県南・県西の一部地域で聴取可能だったが、会場の雰囲気を味わいたい聴取者や受信マニアの間で評判となり、[[送信所]]が[[関東平野]]に位置していて[[地形]]上もしくは[[人工|人工物]]である[[超高層建築物|超高層]]の[[建築物]]などといった[[電波]]を遮る要素が近傍に少ないこともあって、結果的に全国から受信報告が届いた。
* [[EXPOスクランブル]] - [[TBSテレビ|TBS]]で放送されていた番組。
* TV WAR - 1985年9月15日に行われたパフォーマンス。当時世界最大を誇った巨大モニター「ジャンボトロン」を使用した。コンセプト・[[浅田彰]]、映像・[[RADICAL TV]]([[原田大三郎]]・[[庄野晴彦]])、音楽・[[坂本龍一]]という、当時の[[サブカルチャー|サブカル]]シーンの最先端を走っていた面々が集結し制作された。当日は激しい雨が降り、坂本は仮設テントの中で演奏を行った。この模様が収録された同名の映像ソフトがVHS版で1985年に発売され、2005年にはDVDでの復刻版も出ている。
== エキスポール ==
筑波科学博・送電鉄塔「エキスポール」は、スリムな外観と力学的構造の簡潔な線の流れが近寄るにつれてダイナミックな印象を人々に与えるとともに、見る位置によって四本の支柱が二本あるいは三本に見え、景観に変化をもたらしている。特に、アームの付け根部分を円盤状にすることで、日本古来の方形の和室と円窓の調和美にも通じる美しさを表現している。現在でも6基が科学万博跡地にそびえたつ。諸元として、高さは45メートル、15万ボルトの電流を流している。1984年に完成。[[東京電力]]の設計で、[[黒川紀章]]がデザインコンサルティングを務めた<ref><科学万博用の送電線路>エキスポール送電開始『新電気』38(12)(489)オーム社 [編] (オーム社, 1984年10月号</ref>。会期中夜間の人々の移動を考慮して、エキスポールにも屋外照明が設けられている<ref>エキスポ-ルの投光照明 (科学万博--つくば′85の照明<特集>) -- (基幹施設の屋外照明(資料))『照明学会誌』 69(5), p238-240, 1985年5月号</ref>。
== 博覧会終了後 ==
会期終了後、メイン会場跡地は[[工業団地]](筑波西部工業団地)に転用され、Dブロック跡地には「[[科学万博記念公園]]」が設立された。旧[[桜村 (茨城県)|桜村]](現つくば市)吾妻の第二会場<!--(メイン会場との間に連絡バスが運行されていた)-->は、翌[[1986年]][[4月17日]]にメモリアル施設である「[[つくばエキスポセンター]]」として整備・開設され、現在に至っている。
=== 博覧会終了後のパビリオン ===
[[画像:TIST2ndBuilding.jpg|250px|right|thumb|[[筑波研究学園専門学校]]2号館(万博記念館)<br />科学万博の[[ソビエト連邦|ソ連]]館を移築したもの]]
* 「ソビエト連邦館」は、[[筑波研究学園専門学校]]の2号館校舎「科学万博記念館」として再利用された。
* テクノコスモスの大観覧車は大阪府[[吹田市]]の[[エキスポランド]]に移設され、名を「テクノスター」に変え2007年の閉園まで活躍、2009年11月に解体された。またビスタライナーもほぼ同時期にエキスポランドに移設された。
* 「[[国際連合]]平和館」は、博覧会終了後の1986年3月、[[爆破解体]]により取り壊された。
* 「エキスポプラザ」は博覧会終了後も残す予定だったが、解体業者が誤って屋根を支える柱を1本壊してしまったため、やむを得ず予定を変更して解体された。
* 「ジャンボトロン」は[[サウジアラビア]]、[[ニューヨーク]]、[[中華人民共和国|中国]]のいずれかに移設する案があったが、移設費の問題で断念、解体された<ref>『つくば科学万博クロニクル』、99頁。</ref>。
=== 博覧会終了後の展示物 ===
* 「ガスパビリオン」の「炎の樹」は、東京都[[江東区]][[豊洲]]にあった[[ガスの科学館|旧ガスの科学館]]に移設された。
* 「富士通パビリオン」の「ザ・ユニバース」は万博閉幕後に[[ららぽーとTOKYO-BAY|ららぽーと船橋ショッピングセンター<!--(現在の、三井ショッピングパークららぽーとTOKYO-BAY)-->]]駐車場に特設会場を設置し、上映された。その後、[[横浜こども科学館]]でも期間限定上映され、1991年以降は幕張富士通ドームシアターで[[国際花と緑の博覧会]]に出展された「ザ・ユニバース2」と2本立てで公開された。ナレーターは[[羽佐間道夫]]。
* 「富士通パビリオン」の建物の柱の一部がモニュメントとして、[[渋谷教育学園幕張高等学校]]に移設されている。
* 「芙蓉ロボットシアター」のロボットの一部は、[[サイバーダインスタジオ]]に展示されている<ref>[http://www.cyberdyne-studio.com/studio.html サイバーダインスタジオ施設概要(2013年8月4日閲覧)]</ref>。
* 「テーマ館」の「WASUBOT」は、[[つくばエキスポセンター]]の「科学万博‐つくば’85メモリアル」コーナーに展示されている<ref>[http://www.expocenter.or.jp/?page_id=88 つくばエキスポセンター 科学万博‐つくば’85メモリアル(2013年8月4日閲覧)]</ref>。
* 「歴史館」で展示されていた玉虫型飛行器は、[[二宮忠八飛行館]]に展示されている<ref>[http://chuhachi.netcrew.co.jp/tenji/ 二宮忠八飛行館ホームページ - 展示のご案内(2023年12月14日閲覧)]</ref>。
* 「松下館」で展示されていた似顔絵描きロボット、ロボっ太は、[[白浜エネルギーランド]]に展示されている<ref>[https://www.energyland.jp/blog/b_blog/energyland40th-8.html エネルギーランドのロボットたち(2023年12月14日閲覧)]</ref>。
== その他 ==
=== ポストカプセル2001 ===
[[郵政省]]は「ポストカプセル2001」というサービスを行った。これは、科学万博郵便局内に設置した専用ポストへ投函した、またはポストカプセル郵便であることを明記した手紙が、16年後の[[21世紀]]最初の[[元日]]である[[2001年]]([[平成]]13年)[[1月1日]]に届くというもの。配達当日には、郵政省が消滅し[[総務省]]([[郵政事業庁]])に再編されており、当時の郵便[[はがき]]一葉の値段より値上がりし、[[日本の郵便番号|郵便番号]]も3桁から7桁化されていたが、326万636通の郵便物が差額無しで投函時の値段40円で郵便配達された。配達までは[[筑波学園郵便局]]で保管されていた。
* このサービスで送られた[[TBSテレビ|TBS]]『[[ザ・ベストテン]]』宛てのリクエスト葉書([[THE ALFEE|アルフィー]]の曲へのリクエスト)が、2001年[[12月30日]]の特番『ザ・ベストテン2001』で紹介された。
* このサービスで送られた[[電波新聞社]]の『[[マイコンBASICマガジン]]』への投稿葉書が、同誌2001年3月号p.177で紹介されたほか、『[[アニメージュ]]』([[徳間書店]])、『[[アニメディア]]』([[学研パブリッシング|学習研究社]])、『[[ファンロード]]』(当時[[ラポート]])各誌への投稿葉書も、それぞれの2001年3月号にて掲載された。
* このサービスで送られた[[坂本九]]からの[[年賀状]]が、実娘・[[大島花子]]のもとに届いたことを、大島が[[2017年]]([[平成]]29年)[[1月30日]]放送の『[[白熱ライブ ビビット]]』(TBS系)で明らかにした<ref>{{cite news | url = https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1772071.html | title =坂本九さん没後に届いた手紙、長女大島花子が明かす | newspaper = [[日刊スポーツ]] | date = 2017-01-30 | accessdate = 2021-03-24 }}</ref>。
* 1999年に発生した[[桶川ストーカー殺人事件]]の被害者(当時7歳)が未来の自分に宛てた手紙が届けられた<ref>『つくば科学万博クロニクル』、148頁。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20010124070700/http://www.asahi.com/0120/news/national20030.html こいびとはいるかな 桶川事件被害者からポストカプセル]、[[朝日新聞]]。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。
* 万博を訪れた開催当時の[[内閣総理大臣]][[中曾根康弘]]は2001年の内閣総理大臣宛の手紙を投函<ref>『読売新聞』1985年6月11日2面。</ref>。受け取ったのは[[森喜朗]]だった。
=== 記念発行物 ===
[[画像:Japanese commemorative coin01.jpg|thumb|right|250px|記念貨幣]]
* [[記念切手]]
** 60円に10円の寄附金が付いた[[寄附金付切手]]が[[1984年]][[2月10日]]発行された。
** 40円・60円の二種類と[[小型シート]]が[[1985年]][[3月16日]]に発行された。
*** 他にもソ連やハンガリーなど参加国各国でも記念切手が発行されている。
* [[記念貨幣]]
** 500円白銅貨が[[1985年]][[3月12日]]に発行された。
* 記念入場券・乗車券
** [[日本国有鉄道|国鉄]][[東日本旅客鉄道水戸支社|水戸鉄道管理局]]で発行されたもので、当時としては珍しい初歩的な立体フォログラフを表紙にあしらっていた。
** 硬券本体は[[ファインセラミックス|ニューセラミクス]]製。
** オルゴール付き乗車券、香りの出る乗車券なども発売された。
* 記念[[印章|スタンプ]]
** 各パビリオンに設置された[[シヤチハタ]]製の大型スタンプ。パビリオンごとに建物やキャラクターなどがデザインされ、「無料で持ち帰れるおみやげ」として好評だった。
* [[テレホンカード]]
** [[日本電信電話公社]](現[[日本電信電話株式会社]])から50度数・100度数・300度数・500度数の四種類が発行された。
=== つくば博関連の曲 ===
* 公式のテーマ曲
** 「[[HOSHIMARUアッ!]]」(「公式」イメージソング・作詞:[[阿久悠]]・作曲・編曲:TPO(安西史孝)・歌:池田智子)
** 「[[一万光年の愛]]」(「開会式」テーマ曲・作詞:[[大津あきら]]・作曲・編曲:[[井上大輔]]・歌:[[西城秀樹]])
* 各パビリオンのテーマ曲
** 「We will be one someday」(「日本政府館」のテーマ曲)
** 「The Fantasia Of Falls」(「滝の劇場・三井館」のテーマ曲)
** 「空に会おうよ」(「住友館 3-D ファンタジアム」のテーマ曲・作詞:[[矢野顕子]]・作曲・編曲:[[坂本龍一]]・歌:[[やまがたすみこ|モモ]])
** 「夢の旅人」(「三菱未来館」のテーマ曲・作詞:[[竜真知子]]・作曲・編曲:徳武弘文・歌:[[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]])
** 「君の瞳に恋してる」(「講談社ブレインハウス」のテーマ曲・作詞:[[康珍化]]・作曲:[[鈴木キサブロー]]・編曲:勝山俊一郎・歌:[[SALLY]])
** 「Fly to tha future,Spaceship C&C!」(「NEC C&Cシアター」のテーマ曲・作曲・編曲:TPO2(安西史孝))
** 「Breathe」(「健康・スポーツ館」のテーマ曲・作詞・作曲・編曲・歌:[[原田真二]])
** 「Bird Chorus」(「燦鳥館」のテーマ曲・作曲・編曲:[[冨田勲]])
** 「すてきなラブ・パワー」(「エレクトロガリバーの冒険・電力館」のテーマ曲・作詞:[[山川啓介]]・作曲・編曲:[[冨田勲]]・歌:[[野宮真貴]])
** 「ポエジー」(「ダイエー館 詩人の家」のテーマ曲・作詞:[[清水哲男]]・作曲:[[村井邦彦]]・編曲:[[ジョー・ジャクソン (ミュージシャン)|ジョー・ジャクソン]]・歌:[[戸川純]])
* その他
** 「限りなき夢」(歌:[[三波春夫]])
** 「科学万博音頭」(作詞:宮本和夫・作曲:宮本英一・編曲:[[寺内タケシ]]・歌:[[五木ひろし]])
** 「HOSHIMARU音頭」(作詞:[[阿久悠]]・作曲・編曲:TPO(安西史孝)・歌:池田智子)
** 「万博音頭」(作詞:長坂嘉明・作曲・編曲:加納弘・歌:[[村田英雄]])
** 「つくば万博音頭」(作詞:磯部たけを・作曲:嶋淳平・編曲:白石十四男・歌:[[大塚文雄]]・比気由美子)
** 「つくば万博音頭」(作詞・神原一敬・作曲・編曲:山崎洋一・歌:鈴木幸錦・金沢はるみ)
*** 参考:「つくば万博音頭」の2曲は単に同名であり歌詞・曲とも全く異なる。
** 「青い宇宙(コスモス)」(作詞:[[三浦徳子]]・作曲:[[都倉俊一]]・編曲:[[川村栄二]]・歌:オーロラ(石川晴美・鈴木祥仁))「ドリームキャラバン」キャンペーンソング
** 「素足のFalling Star」(作詞:友井久美子・作曲:都倉俊一・編曲:[[つのごうじ]]・歌:オーロラ(石川晴美・鈴木祥仁))「サイエンストレイン」キャンペーンソング
** 「春色のエアメール」(作詞・作曲:[[EPO]]・歌:[[松本典子]])「ポストカプセル2001」キャンペーンソング
=== オフィシャル・エアライン ===
[[日本航空]]が「オフィシャル・エアライン」となり、ほぼ全ての機材に博覧会のロゴマークを入れて運行した他、多くのパッケージツアーを主催した。場内で運行されていた[[HSST]]も日本航空と[[名古屋鉄道]]の共同開発によるものだった。
=== つくば博を舞台とした作品 ===
; アニメ
* [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]] - つくば博開催期間中、番組のオープニングで、サザエさんが東芝館に来ていた。当時『サザエさん』は東芝の[[一社提供]]番組だった。
* [[魔法の妖精ペルシャ]] - 原作が[[集英社]]から刊行されていたことから、第39話『科学博カッパ騒動』はつくば博を舞台としている<ref name="クロニクル3">『つくば科学万博クロニクル』、151頁。</ref>。
* [[ミームいろいろ夢の旅]] - でんでんINS館を出展していた電電公社→NTTの1社提供番組で、つくば博開幕前から頻繁に取り上げられていた。
; 漫画
* [[ゴルゴ13]] - [[リイド社]]刊SPコミックス第66巻『シーザーの眼』の舞台になっている。広告代理店のAEと[[警視庁]]にいる友人がタッグを組んで、軍事目的に転用される可能性のある精密機器をめぐって機密情報流出や会場でのテロ行為を阻止する描写が見られる。
* [[超人キンタマン]] - [[月刊コロコロコミック]]1985年3月号(開幕1か月前に発売)に掲載された回の冒頭からつくば博会場が登場した。
; 特撮
* [[巨獣特捜ジャスピオン]] - 第11話『グェッ! ツクバの巨大ガマ大行進』の舞台になった<ref name="クロニクル3"/>。
; CM
* [[綜合警備保障]] - つくば博でも警備を担当しており、CMでもつくば博会場の様子を見ることができた(閉幕後もしばらく提供番組(『[[FNNスーパータイム]]』など)で流れた)。
=== その他 ===
* TOP番号「AA000001」の入場券は、つくば博[[名誉総裁]]で当時[[皇太子]]であった[[明仁|上皇明仁]]に献上された<ref name="クロニクル4">『つくば科学万博クロニクル』、146頁。</ref>。
* つくば博を協賛した[[1984年]]の「年末ジャンボ[[宝くじ]]」は、売り上げが850億円で、当時の史上最高売上額だった<ref name="クロニクル4"/>。
* 「NEC C&Cパビリオン」内には、画面に映し出された隕石を射撃して打ち落とすというバーチャルコーナーがあった。当時の[[内閣総理大臣]]だった[[中曽根康弘]]は、「僕は昔、[[海軍]][[士官]]だったからね。」と言い「A判定」を出したと、同パビリオンの館長が語っている<ref>『つくば科学万博クロニクル』、120頁。</ref>。
* 『鉄鋼館』の映像ホールの立体映像は、偏光メガネをかけて見るものであったが、[[昭和天皇]](裕仁)の来場時には、映像による刺激緩和のため、偏光メガネをかけずに見たという逸話がある。
* 会場内には1700基の[[便所|トイレ]]が設置された。
* 会場内の火災は、ゴミ箱の焼損が5件、倉庫の半焼が1件、電気配線接触部の加熱による建物の部分焼損が1件、演出用モーターの加熱による建物の部分焼損が1件の計8件だった<ref name="クロニクル5">『つくば科学万博クロニクル』、152頁。</ref>。
* 会場内での刑法犯罪発生件数は、222件だった<ref name="クロニクル5"/>。
* 会場内での急病人発生件数は、25705名で、うち博覧会従業員は9975名だった。救急車出動件数は1273件で、1307名が付近の病院に搬送された。
* 国鉄列車「エキスポドリーム号」は宿泊需要に応える車中泊サービスだったが、通常の[[寝台列車]]として見た場合『わずか2駅しか移動しない寝台列車』であることから[[鉄道ファン]]の間からも興味深いものとなっている。
* 夜になると、シンボルタワーの屋上から赤・緑・青の[[レーザー]]光を夜空に向けて照射していた。
* ガスパビリオンのシンボル「炎の樹」はガス供給による燃焼であるが、寒い時期には暖を取る人もいたという逸話がある。
* 会場内限定の[[スクラッチ (宝くじ)|スクラッチ宝くじ]]が定期的に発売された。これはスクラッチ部分での直接的な当せん以外に、特別賞に当せんすると会場内での「ナンバーズゲーム」(翌年に「グリーンジャンボ宝くじ」の特別賞として設定された「緑のナンバーズゲーム」の前身で、現在の「ナンバーズ3」に近い数字選択式抽せんくじ)に挑戦できるという当時としては画期的な仕組みであった<ref>[https://www.takarakuji-official.jp/about/history/s59h10.html 宝くじのあゆみ 昭和59年〜平成10年]、宝くじ公式サイト - 2021年11月27日閲覧。</ref>。
* この科学博覧会の仕掛人は、元[[通商産業省]][[技官]]で当時は[[科学技術庁]]研究調整局長(1983年6月~)で、科学博でも政府館総館長を務めた[[福島公夫]](のちつくば科学万博記念財団理事長)。
* 万博に関する貴重な資料が、[[筑波山神社]]の保存専用蔵に保管されていた。通常は一般非公開であったが、2006年(平成18年)に「[[出没!アド街ック天国]]」で[[つくば市]]が特集された直後に、期間限定で一般公開されたことがあった。また、東ゲートにあった「宇宙の卵」が神社敷地内に展示されている。
* 会場内で[[スヌーピー]]をはじめとした漫画『[[ピーナッツ (漫画)|ピーナッツ]]』のキャラクターが宇宙服を着たデザインの商品が販売されていた<ref>『スヌーピー・ブティック―Peanuts vintage collectibles (2)』[[辰巳出版]](タツミムック)、2002年、127頁。ISBN 4-88641-744-2。</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考資料 ==
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* 国際科学技術博覧会公式ガイドブック(国際科学技術博覧会協会, 1985.3)
* 国際科学技術博覧会公式記録(国際科学技術博覧会協会, 1986.6)
* 国際科学技術博覧会茨城県公式記録(茨城県国際博協力室,1986.3)
* 国際科学技術博覧会茨城県公式記録写真集(茨城新聞社出版センター.[[茨城新聞]], 1986.3)
* 国際科学技術博覧会政府公式記録([[科学技術庁]], 1986.3)
* EXPO'85日本政府出展施設(国際科学技術博覧会協会, 1985)
* BIRDS-I-VISION 自然-造型の秘密(三金会つくば科学博出展委員会, 1985.3)
* エレクトロ・ガリバーの冒険・電力館EXPO'85の記録([[電気事業連合会]], 1985.11)
* 「科学万博つくば'85」建築の記録([[日本建築学会]], 1985.6)
* コンパニオン らくがき帳(日本電気文化センター, 1985.12)
* くるま館記録集(日本自動車工業会, 1986.3)
* 新電気別冊 科学万博ハイテクガイド([[オーム社]], 1985.3.15)
* 毎日グラフ 増刊 科学万博ーつくば'85完全ガイド([[毎日新聞社]], 1985.4.6)
* 学研まんがひみつシリーズスペシャル 徹底ガイド 夏だ飛び出せ科学万博つくば'85([[学習研究社]], 1985.6.20)
* Tsukuba Expo'85公式記録写真集(国際科学技術博覧会協会, 1986.6)
* Tsukuba EXPO'85催事写真集(国際科学技術博覧会協会催事部, 1985.10)
* 昭和ニッポン 第23巻(昭和59-61年・1984-1986)([[講談社]], 2005.6)DVD book
* つくば科学万博クロニクル([[洋泉社]],2005.1)
* Narita, Tatsushi (成田興史). 'Tsukuba 1985.' In ''Encyclopedia of World's Fairs and Expositions'', ed. John E. Findling and Kimberly D. Pelle. Jefferson, NC and London:McFarland, 2008.
== 関連項目 ==
* [[万博マスコット]]
* [[つくばモビリティロボット実験特区]]
* [[ROCK IN JAPAN FESTIVAL]]
* [[水戸の梅まつり]]
* [[土浦全国花火競技大会]]
* [[つくば科学万博の交通]]
* [[つくばエキスポセンター]] - [[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]][[つくば駅]] もしくは [[つくばセンター]][[バスターミナル]]より徒歩約5分
* [[科学万博記念公園]] - [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]][[万博記念公園駅 (茨城県)|万博記念公園駅]]より徒歩20分(但し、途中の道路状況の観点からバスの利用を推奨)
== 外部リンク ==
{{commonscat|Expo 1985}}
* [http://www.bie-paris.org/site/en/1985-tsukuba ウェブサイト (BIE)]
* [http://tsukuba-banpaku.jp/ 財団法人つくば科学万博記念財団]
* [http://expocenter.or.jp/ つくばエキスポセンター]
* {{NHK放送史|D0009030200_00000|つくばで 科学万博}}
* {{NHK放送史|D0009042183_00000|ハイライト科学万博}}
* {{NHK放送史|D0009042184_00000|ジスイズマイカントリー’85科学万博}}
* {{NHK放送史|D0009042185_00000|つくばからこんにちは}}
* {{NHK放送史|D0009043867_00000|サヨナラつくば EXPO’85ハイライト}}
* [http://chunichieigasha.co.jp/video/10709/ 「科学万博あと一年」(昭和59年4月公開) - 中日ニュース1476号(動画)]・[[中日映画社]]
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つくば科学万博
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国際花と緑の博覧会
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国際花と緑の博覧会(こくさいはなとみどりのはくらんかい、英:The International Garden and Greenery Exposition, Osaka, Japan, 1990)は、大阪府大阪市鶴見区と守口市に跨る鶴見緑地で、183日間の会期(1990年4月1日 - 9月30日)で行われた博覧会国際事務局 (BIE) 認定の国際博覧会であり、またアジアで初めて開催された国際園芸家協会 (AIPH) の国際園芸博覧会(A1認定)でもある。会場面積は約140haで、略称は「花の万博」「EXPO'90」(「花博」は通称であり正式略称ではない。)。「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」をテーマとし、日本を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加した。総来場者数は2312万6934名で、特別博覧会史上最高を記録した。博覧会名誉総裁は当時の皇太子徳仁親王。
当初は、1989年の大阪市市制100周年事業として、国内博覧会として開催する方向で準備が進められていた。鶴見緑地では1984年から、博覧会に向けてのイベントが定期的に開催されていた。
しかしその後、国の政策とも合致し国際博覧会として、1990年に開催されることになった。計画当初は「鉄冷え」と言われるほど日本経済は冷え込んでおり、閣議了解は民間活力導入を条件になされた。その後、1980年代後半辺りから日本経済はバブル景気を迎え、民間企業からの施設参加(資金提供等)は順調に推移、また民間企業からの寄付金の総額は国際博覧会史上最高を記録するなど、民間からの参加が順調に推移した。国内で大小数々のイベントが催されたバブル期でも最大規模の催事である。
会場内は「野原のエリア」「街のエリア」「山のエリア」の大きく3つのエリアに分かれていた。
会場中央の大池「いのちの海」を取り囲む花一杯のエリア。
企業出展の大規模なパビリオンや飲食店・遊園地ゾーンなどが建ち並ぶ賑やかなエリア。3つのエリアの中で最大面積を誇り、入場者の約8割が足を運んだ。
「国際庭園」が点在する異国色豊かなエリア。テーマ館「政府苑」や、いくつかの企業パビリオンも、このエリアに出展されていた。
会場内を遊覧・移動するために、4つの交通機関が出展されていた。
1990年3月31日、名誉総裁である皇太子による開会宣言が行われて花の万博は開会した。開会式の様子はNHKで中継された。一般公開は翌日の4月1日から同年の9月30日までの183日間だった。
開幕2日目の4月2日、会場内を水力を使って遊覧するウォーターライド(ジャスコ・イオングループ出展)が高架水路(高さ7メートル)から転落する事故が発生し、乗客・コンパニオン合わせて24名が重軽傷を負う事故が発生した。事故の影響でウォーターライドは約3か月間、運行を中止し、安全確認を強化することで7月12日から運行を再開した。
この事故の後も、他の交通システムや、遊園地ゾーン「マジカルクロス」の乗り物などで、部品落下や緊急停止などのトラブルが相次いだ。
4月14日には各国の美女を迎えて「ミス・フラワークイーン・ページェントEXPO'90」が開催された。これは朝日放送が主催し、アメリカ合衆国のロサンゼルスで開催されたミス・ユニバース1990に合わせて行われたイベントで、アメリカ代表のブレンダ・レイスレイターが優勝した。会場の外ではミス・コンテストに反対する抗議行動が行われた。閉会式が迫った9月15日にはミス・インターナショナルとミス・ワールドの日本大会が開催され、前者の日本代表には高田美穂、後者には岩崎朋子が選出された。9月16日にはミス・インターナショナル世界大会も開催され、スペイン代表のシルヴィア・デ・エステバンが優勝した。
事故やトラブルが相次いだものの、入場者は日増しに増え、6月20日には入場者数が早くも1000万人に到達した。
7月23日に来場した。成婚後間もない1990年当時、世の中は「紀子様ブーム」一色となった。
1990年の夏は記録的な猛暑となった。特にアスファルトが敷き詰められた博覧会会場の暑さは尋常ではなく、まさに灼熱地獄と化していた。会場内の最高気温は38度近く。博覧会協会は、人工雪を降らせたり、会場内のあちこちに氷柱やクーラー付きのテーブルを設置したりと、「暑さ対策」に追われることになる。その「暑さ対策」に投じられた金額は3億円。
9月15日に、予定より早く目標であった入場者数2000万人をクリアした。会場は感謝ムード一色となったが、その後、1日の入場者数が30万人を上回る日も出始め、活況による会場内・各交通機関の混乱が心配された。9月23日には、1日の入場者数が37万人となり、これが会期中最高の人出となった。
1990年は台風の当たり年となり、1年に6個もの台風が上陸した。その中でも台風19号は強い勢力を保ったまま9月19日に関西地方に上陸し、この影響で博覧会会場は、午後3時半で閉場となった。
当日の入場者数は約4万2000人で、これが会期中最低の人出となった。なおこの日は出口にて再入場券を無料で配っている。
1990年9月30日、183日間の会期を終え閉会式を迎えた。当日は台風20号の影響で暴風雨となったが、午後1時半に入場者数2300万人を突破し、最終的には総入場者数が2312万6934名を数えた。これは特別博覧会史上、最も多い入場者数であり、日本で行われた国際博覧会の中でも1970年の大阪万博に次ぐ記録である。
様々な歌手によってテーマソングが歌われた。
会場への交通手段として、京橋駅と鶴見緑地駅を結ぶ日本初の鉄輪式リニアモーター地下鉄である大阪市営地下鉄鶴見緑地線(現:Osaka Metro長堀鶴見緑地線)が建設された。
また、京阪では守口市駅に特急が臨時停車していた(鶴見緑地駅と同様に会場から近かったため、京阪バスが多く運行されていた)。
JRでは、以下の臨時列車が運行されたほか、エル特急「雷鳥」の一部が茨木駅に臨時停車した。
このほか、京橋駅、京阪関目駅・守口市駅からの徒歩ルートも設定されていたが、大型連休などの多客期を除き、徒歩での来訪者はあまり見受けられなかった。
以下の場所と会場との間に直通シャトルバスが運行された。シャトルバス7ルート28社局の輸送人員は508.6万人だった。
公式には上記7箇所から直通シャトルバスが出ていたが、下記の場所からも運行されていた。
また、路線バスとして以下の場所からも運行した。
高速バスも開設された。
なお、鶴見緑地公園の整備に伴い、整備区域にかかることになった近鉄バス茨田営業所(鶴見通沿いの諸口停留所前)が移転を余儀なくされ、開幕前年の1989年に近鉄バス稲田営業所を設置して移転した。
当時のドラマ・アニメ・小説などで、博覧会が登場することもあった。
このほか、博覧会会場内に特設されたサテライトスタジオでは、読売テレビが、来場客を回答者としてスタジオに招きクイズ番組「クイズ!花博ランド」を生放送していた(平日午前の帯番組。司会はタージン)。
『花物語』- 後援映画として前年1989年夏より大映の配給で公開する。
会場跡地は花博記念公園鶴見緑地として整備されている。無料で入ることができ、市民の憩いの場となっている。博覧会閉幕と同時に、ほとんどすべてのパビリオン・乗り物等は撤去されたが、下記の施設は現在も存在している。
会場内に設置された「花の万博郵便局」は、閉幕後、残務処理を行う会場内各施設の利便性のため、会場中央にあった本局だけが閉会後もしばらくの間営業を続けていた。この郵便局はゲートの中にあったにもかかわらず、ゲートで郵便局を訪問したい旨を告げるだけで、一般人でも正門ゲートのみからの入場が可能であった。このため、正門ゲートから郵便局の間に限るが、後片付けや建物の解体の様子が観察できた。ただし、風景印や定額貯金記念証書などの使用は会期中だけであった。
博覧会の準備および運営を目的とした財団法人国際花と緑の博覧会協会は解散し、花の万博の翌年には理念継承法人として財団法人国際花と緑の博覧会記念協会が設立された。(平成25年4月1日より公益財団法人となる。)。
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"text": "当日の入場者数は約4万2000人で、これが会期中最低の人出となった。なおこの日は出口にて再入場券を無料で配っている。",
"title": "会期中の主な出来事"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1990年9月30日、183日間の会期を終え閉会式を迎えた。当日は台風20号の影響で暴風雨となったが、午後1時半に入場者数2300万人を突破し、最終的には総入場者数が2312万6934名を数えた。これは特別博覧会史上、最も多い入場者数であり、日本で行われた国際博覧会の中でも1970年の大阪万博に次ぐ記録である。",
"title": "会期中の主な出来事"
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"text": "様々な歌手によってテーマソングが歌われた。",
"title": "テーマソング"
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"text": "会場への交通手段として、京橋駅と鶴見緑地駅を結ぶ日本初の鉄輪式リニアモーター地下鉄である大阪市営地下鉄鶴見緑地線(現:Osaka Metro長堀鶴見緑地線)が建設された。",
"title": "会場への交通"
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"text": "また、京阪では守口市駅に特急が臨時停車していた(鶴見緑地駅と同様に会場から近かったため、京阪バスが多く運行されていた)。",
"title": "会場への交通"
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"text": "JRでは、以下の臨時列車が運行されたほか、エル特急「雷鳥」の一部が茨木駅に臨時停車した。",
"title": "会場への交通"
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"text": "このほか、京橋駅、京阪関目駅・守口市駅からの徒歩ルートも設定されていたが、大型連休などの多客期を除き、徒歩での来訪者はあまり見受けられなかった。",
"title": "会場への交通"
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"text": "以下の場所と会場との間に直通シャトルバスが運行された。シャトルバス7ルート28社局の輸送人員は508.6万人だった。",
"title": "会場への交通"
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"text": "公式には上記7箇所から直通シャトルバスが出ていたが、下記の場所からも運行されていた。",
"title": "会場への交通"
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"text": "また、路線バスとして以下の場所からも運行した。",
"title": "会場への交通"
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"text": "高速バスも開設された。",
"title": "会場への交通"
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"text": "なお、鶴見緑地公園の整備に伴い、整備区域にかかることになった近鉄バス茨田営業所(鶴見通沿いの諸口停留所前)が移転を余儀なくされ、開幕前年の1989年に近鉄バス稲田営業所を設置して移転した。",
"title": "会場への交通"
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"text": "当時のドラマ・アニメ・小説などで、博覧会が登場することもあった。",
"title": "博覧会を取り扱ったテレビドラマ・アニメ・小説など"
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"text": "このほか、博覧会会場内に特設されたサテライトスタジオでは、読売テレビが、来場客を回答者としてスタジオに招きクイズ番組「クイズ!花博ランド」を生放送していた(平日午前の帯番組。司会はタージン)。",
"title": "博覧会を取り扱ったテレビドラマ・アニメ・小説など"
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"text": "『花物語』- 後援映画として前年1989年夏より大映の配給で公開する。",
"title": "後援映画"
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"text": "会場跡地は花博記念公園鶴見緑地として整備されている。無料で入ることができ、市民の憩いの場となっている。博覧会閉幕と同時に、ほとんどすべてのパビリオン・乗り物等は撤去されたが、下記の施設は現在も存在している。",
"title": "博覧会閉幕後"
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"text": "会場内に設置された「花の万博郵便局」は、閉幕後、残務処理を行う会場内各施設の利便性のため、会場中央にあった本局だけが閉会後もしばらくの間営業を続けていた。この郵便局はゲートの中にあったにもかかわらず、ゲートで郵便局を訪問したい旨を告げるだけで、一般人でも正門ゲートのみからの入場が可能であった。このため、正門ゲートから郵便局の間に限るが、後片付けや建物の解体の様子が観察できた。ただし、風景印や定額貯金記念証書などの使用は会期中だけであった。",
"title": "博覧会閉幕後"
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"text": "博覧会の準備および運営を目的とした財団法人国際花と緑の博覧会協会は解散し、花の万博の翌年には理念継承法人として財団法人国際花と緑の博覧会記念協会が設立された。(平成25年4月1日より公益財団法人となる。)。",
"title": "関連団体"
}
] |
国際花と緑の博覧会は、大阪府大阪市鶴見区と守口市に跨る鶴見緑地で、183日間の会期で行われた博覧会国際事務局 (BIE) 認定の国際博覧会であり、またアジアで初めて開催された国際園芸家協会 (AIPH) の国際園芸博覧会(A1認定)でもある。会場面積は約140haで、略称は「花の万博」「EXPO'90」(「花博」は通称であり正式略称ではない。)。「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」をテーマとし、日本を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加した。総来場者数は2312万6934名で、特別博覧会史上最高を記録した。博覧会名誉総裁は当時の皇太子徳仁親王。
|
{{イベントインフォメーション
|イベント名称 = 国際花と緑の博覧会
|英文表記 = The International Garden and Greenery Exposition,Osaka,Japan,1990
|種類 = [[国際博覧会]](特別博)<br />[[国際園芸博覧会]]
|画像 =[[File:Expo’90.svg|200px]]
---- [[file:EXPO 1990.JPG|300px]]
|画像サイズ =
|画像説明 = シンボルマークと国際花と緑の博覧会会場([[1990年]][[4月1日]])
|通称 = 花の万博、EXPO'90
|正式名称 = 国際花と緑の博覧会
|旧名称=
|開催時期 = [[1990年]][[4月1日]] - [[9月30日]]
|初回開催 =
|会場 = [[花博記念公園鶴見緑地|鶴見緑地]]<br />([[大阪府]][[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]・[[守口市]])
|主催 = 財団法人国際花と緑の博覧会協会
|共催 =
|後援 =
|協賛 =
|企画制作 =
|協力 =
|運営 =
|プロデューサー =
|出展数=83カ国(日本を含む)と55の国際機関<br />212企業・団体
|来場者数 = 2312万6934名
|会場アクセス名 = <!--複数会場がある場合、主な会場名を記載-->
|最寄駅 = [[大阪市営地下鉄]][[鶴見緑地駅]]
|直通バス = [[大阪国際空港]]、[[西日本旅客鉄道|JR]][[新大阪駅]]、[[西日本旅客鉄道|JR]][[大阪駅]]、[[西日本旅客鉄道|JR]][[茨木駅]]、[[阪急電鉄|阪急]][[南茨木駅]]、[[京阪電気鉄道|京阪]][[守口市駅]]、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[荒本駅]]の7箇所から直通シャトルバス
|駐車場 = 有
|URL = http://www.expo-cosmos.or.jp
|特記事項 =
}}
[[画像:EXPO 1990 Central Gate.JPG|250px|thumb|国際花と緑の博覧会 中央ゲート([[1990年]][[9月2日]])]]
[[画像:Hanahaku5000.jpg|250px|thumb|記念貨幣(5000円銀貨)]]
'''国際花と緑の博覧会'''(こくさいはなとみどりのはくらんかい、[[英語|英]]:'''The International Garden and Greenery Exposition, Osaka, Japan, 1990''')は、[[大阪府]][[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]と[[守口市]]に跨る[[花博記念公園鶴見緑地|鶴見緑地]]で、183日間の会期([[1990年]][[4月1日]] - [[9月30日]])で行われた[[博覧会国際事務局]] (BIE) 認定の[[国際博覧会]]であり、またアジアで初めて開催された国際園芸家協会 (AIPH) の[[国際園芸博覧会]](A1認定)でもある<ref>{{Cite news |title=花の万博起工式 64年度中に完成へ 総事業費3000億円 |newspaper=朝日新聞 夕刊 |publisher= 朝日新聞社 |date=1987-10-05}}</ref>。会場面積は約140haで、略称は「'''花の万博'''」「'''EXPO'90'''」(「花博」は通称であり正式略称ではない。)。「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」をテーマとし<ref>{{Cite news |title=心に残る花と緑の万博を(社説)|newspaper=朝日新聞 朝刊 |publisher=朝日新聞社 |date=1985-11-07}}</ref>、日本を含む83カ国と55の国際機関<ref name="asahi19901001">{{Cite news |title=花博フィナーレ 入場者、2312万6934人 |newspaper=朝日新聞 朝刊 大阪版 |publisher=朝日新聞社 |date=1990-10-01}}</ref>、212企業・団体が参加した。総来場者数は2312万6934名<ref name="asahi19901001"/>で、特別[[博覧会]]史上最高を記録した。博覧会名誉総裁は当時の[[徳仁|皇太子徳仁親王]]。
== 開催までの流れ ==
当初は、[[1989年]]の[[大阪市]]市制100周年事業として、国内[[博覧会]]として開催する方向で準備が進められていた。[[鶴見緑地]]では1984年から、[[博覧会]]に向けての[[イベント]]が定期的に開催されていた。
しかしその後、国の政策とも合致し[[国際博覧会]]として、[[1990年]]に開催されることになった。計画当初は「鉄冷え」と言われるほど日本経済は冷え込んでおり、閣議了解は民間活力導入を条件になされた。その後、[[1980年代]]後半辺りから日本経済は[[バブル景気]]を迎え、民間企業からの施設参加(資金提供等)は順調に推移、また民間企業からの[[寄付金]]の総額は[[国際博覧会]]史上最高を記録するなど、民間からの参加が順調に推移した。国内で大小数々のイベントが催された[[バブル期]]でも最大規模の催事である。
== シンボルマークとマスコットキャラクター ==
[[画像:Hanazukinchan.JPG|150px|thumb|鶴見緑地駅のモザイク壁画に描かれている花ずきんちゃん]]
* シンボルマーク
: [[1986年]]10月23日を締切日として行われた指名コンペで[[勝井三雄]]の作品が選ばれ、同年12月5日に発表された<ref name="koushikikiroku">国際花と緑の博覧会 公式記録、1991年、財団法人国際花と緑の博覧会協会</ref>。生命の神秘さを一輪のきらめく華に例えた6弁の花のデザインとした。
* マスコットキャラクター
: デザイン募集が1987年4月1日から同年5月11日まで行われた。応募総数9,603点の中から森の中の世界で戯れる、かわいい花の妖精をイメージ<!--チューリップの花をモチーフと-->した蔵前侑吏恵(くらまえゆりえ)の作品が選定され、審査委員長の[[手塚治虫]]が立体デザインをリライトの上、同年7月3日に発表された。その後、同年7月6日から8月15日まで愛称が募集された。応募総数29,267通の中から「'''花ずきんちゃん'''」が愛称に選ばれ、同年10月2日に発表された<ref name="koushikikiroku" />。
: [[声]]は当時若手の[[林原めぐみ]]が担当しており、[[ハローキティ]]と同じ声質だった。
== 開場時間 ==
* [[1990年]][[4月1日]] - [[4月26日]] 9時30分 - 22時
* 1990年[[4月27日]] - [[9月30日]] 9時 - 22時30分
: 「都市型[[博覧会]]」ということを考慮して、当初、深夜帯までの開場も検討されていたが、最終的には上記の時間帯に設定された。
== 入場料 ==
* 大人普通入場券 2,990円
* 中人普通入場券 1,550円
: (1990年[[4月1日]]現在で満15歳以上18歳未満の者)
* 小人普通入場券 820円
* 大人特別割引入場券 1,550円(身障者のみ)
: すべて消費税(当時は税率3%)込。
: 夜間入場料は、上記の半額となっていた。
: 顔写真入の全会期通用入場券も発売された。こちらは開催前のみの販売。
: ※ チケットは大蔵省印刷局製造。テレホンカードと同じ素材。
== 会場内施設・パビリオン ==
会場内は「'''野原のエリア'''」「'''街のエリア'''」「'''山のエリア'''」の大きく3つのエリアに分かれていた。
=== 野原のエリア ===
会場中央の大池「いのちの海」を取り囲む花一杯のエリア。
* いちょう館([[大阪府]])
*: 時空快速艇「カラノ」に搭乗し、未来の大阪にタイムスリップ。休憩所や催事場として設営されていた「好きやねんプラザ」は毎週金曜夜間は[[ディスコ]]として運営されていた。
* アレフ([[クボタ]]・[[セゾングループ]])
*: 大池で行われた噴水ショー。池が真っ二つに割れる演出が話題となっていた。
* 国際展示水の館
*: とある出展ブースにてひっそりと<!--レプリカだったかも知れないが-->月の石が展示されていた。
* 国際展示光の館
* 国際展示大地の館
*: 水の館・光の館に展示品が入り切らなくなったため、急遽追加で建てられた。
* 花桟敷・花の谷
*: 合わせて2ヘクタールもあり、四季の花々が入場者を迎えていた。
=== 街のエリア ===
企業出展の大規模な[[パビリオン]]や飲食店・[[遊園地]]ゾーンなどが建ち並ぶ賑やかなエリア。3つのエリアの中で最大面積を誇り、入場者の約8割が足を運んだ。
* [[日本たばこ産業|JT]]館 ジョイフルタイム アドベンチャー
*: ダークライド型パビリオン。謎の王国に囚われた妖精を救うため、「ノア号」に乗り込み怪鳥と闘う「[[シミュレーションライド]]システム」。
* ふしぎな森の館・[[パナソニックグループ|松下]]館
*: [[アンリ・ルソー]]の絵画の世界を、松下のハイテクで再現。
* シネラビリンス ガスパビリオン([[日本ガス協会]])
*: [[映画]]の内容を選択しながら先に進んでいく映像迷路。ガスを使用した展示品も人気があり、その中でも自動的に[[おにぎり]]を作る「おにぎりロボット」が人気だった。
* [[大輪会]] 水のファンタジアム(企業40社)
*: 水・光・炎・音が乱舞する「ウォーターディスコショー」。
* [[芙蓉グループ|芙蓉]]ミュージカル・シアター
*: ワイヤーを使用した華やかなミュージカルを披露。
* [[ダイコク電機]]「名画の庭」
*: 絵画庭園。安藤忠雄が設計したコンクリートの建造物に、巨大な陶版画が注目を集めていた。花博で展示された4点と、その後に作られた4点の合計8点は、現在[[京都府立陶板名画の庭]]に展示されている。
* グリーンミュージアム(富士カントリーグループ 企業4社)
*: [[バルビゾン派]]から[[素朴派]]までの絵画や写真作品の展示。
* 花博写真美術館([[キヤノン]]・[[日本経済新聞社]]・[[日本生命]]・[[オムロン]]・[[ポラロイド|日本ポラロイド]]・[[近畿測量専門学校]]ほか企業20社)
*: レトロから最新のカメラの展示・借し出し。写真作品の展示など。
* 100年先の「の~んびり村」(未来指向型企業グループ17社・団体)
*: [[OSGコーポレーション]]、日本電気保安協会等大阪府の中小企業を含む企業連合による合同パビリオン<ref>[https://www.osg-nandemonet.co.jp/communication/114.html 人生はプラス思考で歩きましょう 【第114回:花博出展の事情】] - OSGコーポレーション</ref>。また財団法人「亜細亜技術協力会」が出資を募集した。当初は入館者は個人情報を記入していたが、悪用のおそれがあるとして半月程で中止となった。の〜んびり村の催しに対して[[全国霊感商法対策弁護士連絡会]]は[[霊感商法]]の被害拡大につながるおそれがあるとして万博協会に調査と指導を申し入れた。[[日韓トンネル]]に関するアニメーションを上映するなどし、国会で[[統一教会]]とのつながりの疑いが指摘された<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111805063X00319900419 衆議院会議録情報 第118回国会 物価問題等に関する特別委員会 第3号]</ref>。
* [[サントリー]]館
*: 世界最大の[[立体映像]]を上映。
* [[住友グループ|住友]]館
*: [[ダグラス・トランブル]]が担当を務めた最新の特撮映像を公開。
* EXPO'90 [[日立グループ館]]([[日立グループ]])
*: 世界最大の[[ハイビジョン]]シアター。パビリオンは同グループのCM「[[日立の樹]]」をモチーフとしている。
* [[三井グループ|三井]]・[[東芝]]館
*: 「ホロビジョンシステム」を駆使したロボットショー。ディズニーランドのデザインなどを手掛けたボブ・ロジャーズ ([[:en:Bob Rogers (designer)|Bob Rogers (designer)]]) が演出を手掛けたアニメーション「フラワープラネット」も同時公開<ref>[http://bungeikan.jp/domestic/detail/828/ 私の万博体験〜モノとヒトの出会いのドラマ〜] - [[淀野隆]](日本ペンプラブ電子文藝館)</ref>。
* [[三和グループ|三和]]みどり館([[みどり会]])
*: 前方と足元のスクリーンに映像が映し出される「マジックカーペットシステム」で独特の浮遊感を体験。
* ハートピア・空の筏パビリオン([[第一勧銀グループ|三金会]])
* キャンディキャッスル館(日本菓子加工食品振興協会)
*: [[ヘンゼルとグレーテル]]の世界をモチーフにした[[スタンプラリー]]。ゴールはケーキの城「キャンディキャッスル」。
* フローラドーム([[郵政省]]・[[日本電信電話|NTT]]・[[国際電信電話|KDD]])
*: 大型全天周フルカラーの映像上映、映像の中に飛び込んだような迫力を体験。
* ひかりファンタジー 電力館([[電気事業連合会]])
*: ダークライド型パビリオン。[[坂本龍一]]の音楽に乗って光が飛び回る異空間を「ルミナー号」に乗って体験。クライマックは100万個の光源が作る大響会。
* [[三菱未来館]]([[三菱グループ]])
*: 360°全天周映像で、上下左右を映像に飲み込まれる不思議体験。
* [[富士通]]パビリオン
*: 全天周3DフルカラーCG映像作品『ユニバース2-太陽の響(ひびき)- "Echos of the Sun"』を上映。映像は1分間に1億円以上かけられていた超大作。『ユニバース2』はのちに大阪・京橋[[大阪ビジネスパーク|OBP]]富士通関西システムラボラトリ横に仮設された専用劇場や千葉・幕張富士通ドームシアター(2002年9月末閉館)でも上映された。
* いんなあとりっぷ館([[霊友会]])
*: ダークライド型パビリオン。「メビウスライド」に乗って絵本の世界を体験。ライド自体が円形をしており、半円状に乗車部が二つ、背中合わせに作られており、一台のライドに二観客グループが搭乗する。また全ライドが円形に配置された状態で内周側展示、外周側展示を順に合計二周する珍しい構造になっていた。
* 生命の大樹・[[いのちの塔]]
*: EXPO'90に因んで高さは90メートル。会員になると館内の[[コンピュータ]]に写真やメッセージを永久保存することができた。
*: 会期中、出資者の財政難より一時期入館料の徴収が行われたが、これは博覧会協会の指導により中止された。<!--この脚注を削除する際にはこの項目のノートに削除した理由を記述してください-->
* [[咲くやこの花館]]([[大阪市]])
*: 全面ガラス張りの日本最大級を誇る大温室。
* 花の江戸東京館([[東京都]])
*: 江戸文化の紹介・実演など。
* メインホール'90
*: 開幕式・閉幕式ほか主要イベントが、ここで開催された。会期終了後、保存して運用を続けることも検討された。
* テアトル花座
*: ミュージカルなどが上演された。
* マジカルクロス(遊園地)
*: 27種類の遊戯施設が建ち並ぶアミューズメントゾーン。ヨーロッパのお祭り遊園を再現した「キルメスゾーン」とアメリカンスタイルな「パークゾーン」の2エリアで構成されていた。[[1985年]]に開催された「[[国際科学技術博覧会]]」の遊園地ゾーンをはるかに上回る規模で展開され、[[博覧会]]の見所の一つとなっていた。人気No.1の乗り物は、立ち乗りジェットコースターの風神雷神。「マジカルクロス」の運営は「[[阪急電鉄]]」「[[泉陽興業]]」「[[京阪電気鉄道]]」によって行われていた。
=== 山のエリア ===
「国際庭園」が点在する異国色豊かなエリア。テーマ館「政府苑」や、いくつかの企業パビリオンも、このエリアに出展されていた。
* 政府苑(日本国政府 [[建設省]]・[[農林水産省]])
*: 世界最大の花[[ラフレシア]]の展示が話題となっていた。
* 国際陳列館
*: 様々なイベントを開催。4階にはヨーロッパ20都市が共同で出展したヨーロッパパビリオンがあり、各都市の文化などを紹介。
* 花と緑・日本画美術館([[第一不動産]]グループ)
*: 日本画壇を代表する51人の新作(テーマは「花と緑」)を展示。
* シャロン館 鳥の王国
*: バードケージに放たれた[[鳥類|鳥]]達(約1,000羽)の王国を、ボートに乗って探検。
* 大きな夢の小さな街「ミクルのくに」([[日本生命保険|日本生命]]ほか20社)
*: 少年「ミクル」が住む街をミニチュアで表現。
* ゴールデンベルパビリオン([[江崎グリコ]]・[[サッポロビール]]・[[三洋電機]]・[[住友ゴム工業|DUNLOP]]・[[椿本チエイン]]・東洋不動産)
*: 最も美しく・難関だと言われる[[ゴルフ]]コース、「[[オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ|オーガスタナショナルゴルフクラブ]]」の12番ホールを再現。
* 国際庭園
*: [[博覧会]]の見所の一つ。様々な国が、その国独自の個性溢れる庭園を出展していた。[[パキスタン]]庭園は完成が開幕に間に合わず、完成までの間は庭園造りの様子そのものが展示代わりとなり、思わぬ人気を博していた。
* 花木苑 生活の庭・夢の庭・日本の庭
*: 企業出展による庭園。
* ふるさとの庭(スポットガーデン)
*: 国内各都道府県が出展した庭園。
* さぼうランド(建設省)
*: 大阪一・日本一・世界一の大雨を体験することができた。
=== 会場内の交通手段(4つの交通システム) ===
会場内を遊覧・[[移動]]するために、4つの交通機関が出展されていた。
* ウォーターライド「アドベンチャークルーズ」([[ジャスコ]]・[[イオングループ]])
*:「中央ゲート駅」と「街の駅」を結んだ3両連結の大型ボート(72人乗り)。イメージキャラクターは「[[銀河鉄道999]]」のヒロイン「[[メーテル]]」。開幕直後に発生した事故(これについては後述)の影響で約3か月間運航を休止した。
* ロープウェイ「フラワーキャビン」([[アコム]]他企業体)
*:「祭りの大通り駅」と「山の駅」を結んだ[[索道|ロープウェイ]]。
* [[CTM (曖昧さ回避)|CTM]]「パノラマライナー」([[三越]]他企業体)
*: 磁石の原理を利用した、最新の短距離交通システム。「街の駅」と「山の駅」を結んだ。
* SL義経「ドリームエキスプレス」([[西日本旅客鉄道|JR西日本]])
*: 山のエリア内の「風車の駅」と「山の駅」を結ぶ[[蒸気機関車|SL]]鉄道。[[国鉄7100形蒸気機関車|7100形蒸気機関車「義経号」]]が客車を牽引して運行していた。
== 会期中の主な出来事 ==
=== 開会式 ===
[[1990年]][[3月31日]]、名誉総裁である[[徳仁|皇太子]]による開会宣言が行われて[[花の万博]]は開会した。開会式の様子は[[日本放送協会|NHK]]で中継された。一般公開は翌日の[[4月1日]]から同年の[[9月30日]]までの183日間だった。
[[画像:JUSCO WATER RIDE.JPG|180px|thumb|事故のお詫び看板]]
=== ウォーターライド転落事故 ===
開幕2日目の[[4月2日]]、会場内を水力を使って遊覧する[[ウォーターライド]]([[ジャスコ]]・[[イオングループ]]出展)が高架水路(高さ7メートル)から転落する事故が発生し<ref>{{Cite news |title=ウォーターライド脱線、落下 花博会場の高架ボート |newspaper=朝日新聞 夕刊 大阪版 |publisher=朝日新聞社 |date=1990-04-02}}</ref>、乗客・コンパニオン合わせて24名が重軽傷を負う事故が発生した<ref>{{Cite news |title=コンベヤー、試験中にも停止 花博のウォーターライド事故 |newspaper=朝日新聞 朝刊 大阪版 |publisher=朝日新聞社 |date=1990-04-05}}</ref>。事故の影響でウォーターライドは約3か月間、運行を中止し、安全確認を強化することで[[7月12日]]から運行を再開した<ref>{{Cite news |title=今度は万全? 再発車のウォーターライド 花の万博 |newspaper=朝日新聞 夕刊 |publisher=朝日新聞社 |date=1990-07-12}}</ref>。
この事故の後も、他の交通システムや、[[遊園地]]ゾーン「マジカルクロス」の乗り物などで、部品落下<ref>{{Cite news |title=ナットの固定忘れ、点検見落としの2重ミス 花博・車輪事故 |newspaper=朝日新聞 朝刊 大阪版 |publisher=朝日新聞社 |date=1990-05-26}}</ref>や緊急停止などの[[トラブル]]が相次いだ。
=== ミス・フラワークイーン大会と抗議行動 ===
[[4月14日]]には各国の美女を迎えて「ミス・フラワークイーン・ページェントEXPO'90」が開催された。これは[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]が主催し、[[アメリカ合衆国]]の[[ロサンゼルス]]で開催された[[ミス・ユニバース1990]]に合わせて行われたイベントで、アメリカ代表の[[:en:Brenda Leithleiter|ブレンダ・レイスレイター]]が優勝した。会場の外では[[ミス・コンテスト]]に反対する抗議行動が行われた<ref name="asahi_f">"花の女王"に米国モデル『中日新聞』1990年4月15日30面</ref>。閉会式が迫った[[9月15日]]には[[ミス・インターナショナル]]と[[ミス・ワールド]]の日本大会が開催され、前者の日本代表には高田美穂、後者には岩崎朋子が選出された<ref>2つの"美の代表"決まる『中日新聞』1990年9月16日30面</ref>。[[9月16日]]にはミス・インターナショナル世界大会も開催され、スペイン代表の[[:en:Silvia de Esteban|シルヴィア・デ・エステバン]]が優勝した<ref>スペインの18歳 "美女世界一" ミス・インターナショナル決まる『中日新聞』1990年9月17日30面</ref>。
=== 入場者数1000万人突破 ===
[[事故]]やトラブルが相次いだものの、入場者は日増しに増え、[[6月20日]]には入場者数が早くも1000万人に到達した<ref>{{Cite news |title=花博入場者が1000万人を突破 |newspaper=朝日新聞 朝刊 |publisher=朝日新聞社 |date=1990-06-21}}</ref>。
=== 秋篠宮夫妻来場 ===
[[7月23日]]に来場した<ref>{{Cite news |title=秋篠宮ご夫妻、大阪で花博を見学 |newspaper=朝日新聞 夕刊 大阪版 |publisher=朝日新聞社 |date=1990-07-23}}</ref>。成婚後間もない[[1990年]]当時、世の中は「紀子様ブーム」一色となった{{要出典|date=2021年12月}}。<!--[[文仁親王妃紀子|紀子妃]]にとっては、これが結婚後初の公務となった。
少なくとも、朝日新聞ではこれを公務としては報道していない。-->
=== 猛暑 ===
[[1990年]]の[[夏]]は記録的な[[猛暑]]となった。特に[[アスファルト]]が敷き詰められた[[博覧会]]会場の暑さは尋常ではなく、まさに灼熱地獄と化していた{{要出典|date=2021年12月}}。会場内の最高気温は38度近く{{要出典|date=2021年12月}}。博覧会協会は、人工雪を降らせたり、会場内のあちこちに[[氷柱]]やクーラー付きのテーブルを設置したりと、「暑さ対策」に追われることになる。その「暑さ対策」に投じられた金額は3億円{{要出典|date=2021年12月}}。
=== 入場者数2000万人突破 ===
[[9月15日]]に、予定より早く目標であった入場者数2000万人をクリアした{{要出典|date=2021年12月}}。会場は感謝ムード一色となったが、その後、1日の入場者数が30万人を上回る日も出始め、活況による会場内・各交通機関の混乱が心配された{{要出典|date=2021年12月}}。[[9月23日]]には、1日の入場者数が37万人となり、これが会期中最高の人出となった{{要出典|date=2021年12月}}。
=== 台風19号来襲 ===
[[1990年]]は[[台風]]の当たり年となり、1年に6個もの台風が上陸した。その中でも[[平成2年台風第19号|台風19号]]は強い勢力を保ったまま[[9月19日]]に[[近畿地方|関西]]地方に上陸し、この影響で[[博覧会]]会場は、午後3時半で閉場となった{{要出典|date=2021年12月}}。
当日の入場者数は約4万2000人で、これが会期中最低の人出となった。なおこの日は出口にて再入場券を無料で配っている{{要出典|date=2021年12月}}。
=== 閉会式 ===
[[1990年]][[9月30日]]、183日間の会期を終え閉会式を迎えた。当日は台風20号の影響で暴風雨となったが、午後1時半に入場者数2300万人を突破し、最終的には総入場者数が2312万6934名を数えた{{要出典|date=2021年12月}}。これは特別博覧会史上、最も多い入場者数であり、日本で行われた国際博覧会の中でも1970年の[[日本万国博覧会|大阪万博]]に次ぐ記録である。
== テーマソング ==
様々な歌手によってテーマソングが歌われた。
* [[FLOWER REVOLUTION]] ([[THE ALFEE]])
*: 開会式で演奏されたほか、同年1月に開催された『1990 第9回[[大阪国際女子マラソン]]』のイメージソングとしても使用された。
* [[約束 (相川恵里の曲)|約束]]([[相川恵里]])
*: [[毎日新聞社]]による歌詞公募作品。同社主催の[[第62回選抜高等学校野球大会]]の入場行進曲も兼ねる。
* フラワー&グリーン(花の輪)音頭([[石川さゆり]]/[[五木ひろし]])
*: 歌詞公募作品。作詞は大阪市在住の生物教師(当時)・三上務<ref name=nikei900303>「関西トレンディ──花博ソング花ざかり、音頭もあれば、ロックもある」『[[日本経済新聞]]』1990年3月3日付大阪夕刊、30頁。</ref>。
* ほんまやね (SAKA-O-BAND)
*: 歌詞公募作品。作詞は童話作家の長尾健一<ref name=nikei900303 />。
* ラ・ブートニア([[井上昌己 (歌手)|井上昌己]])
*: 花の万博協会の音楽プロデューサーである[[服部克久]]の推薦による楽曲<ref name=nikei900303 />。
* FLOWER MAGIC(「花ずきんちゃん」テーマソング)([[山中すみか]])
* White Communication〜新しい絆〜(花の万博NHK[[イメージソング]])([[永井真理子]])
* Lonely Heartによろしく(「ミクルのくに」イメージソング)([[酒井法子]])
* 花マル音頭EXPO'90([[笹みどり]])
* Let's sing a song(「ふしぎな森の館 松下館」テーマソング)([[久我陽子]])
== 記録 ==
* [[パビリオン]]の最多入場者数
*: 743万人([[政府]]苑で記録)
* パビリオンの最長待ち時間
*: 6時間(JT館や電力館で記録)
* 立ち乗り[[ジェットコースター]]「風神雷神」利用者数
*: 230万人([[遊園地]]ゾーン「マジカルクロス」の乗り物の中で、1番の利用者数である)
* 1日最多入場者数
*: 370,752人(9月23日)<ref name="memorial-guide"> 国際花と緑の博覧会30周年記念メモリアル展ガイド(公益財団法人国際花と緑の博覧会記念協会)</ref>
* 場内最大観客数
*: 224,928人(9月23日 13:48)<ref name="memorial-guide" />
* ゴミ排出量(1日平均)
*: 39.63トン<ref name="数字でみる花の万博">[https://www.expo-cosmos.or.jp/expo/map.html 数字でみる花の万博(公益財団法人国際花と緑の博覧会記念協会)]</ref>
* 電力使用量(1日平均)
*: 28.5万KWH(一般家庭換算30,600戸分)<ref name="数字でみる花の万博" />
* 上水使用量(1日平均)
*: 6,750立方メートル(一般家庭換算10,100戸分)<ref name="数字でみる花の万博" />
* ガス使用量(1日平均)
*: 14,260立方メートル(一般家庭換算12,300戸分)<ref name="数字でみる花の万博" />
* 忘れ物総数
*: 35,418件<ref name="数字でみる花の万博" />
* 現金の忘れ物総額
*: 7383万円<ref name="数字でみる花の万博" />
* 経済波及効果
*: 2兆6,991億円<ref name="memorial-guide" />
== 会場への交通 ==
=== 鉄道 ===
[[画像:JR ticket-1.JPG|thumb|ひかり花の万博号の指定席特急券]]
会場への交通手段として、[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]と[[鶴見緑地駅]]を結ぶ日本初の鉄輪式[[リニアモーター]][[日本の地下鉄#ミニ地下鉄|地下鉄]]である[[大阪市営地下鉄]]鶴見緑地線(現:[[Osaka Metro長堀鶴見緑地線]])が建設された。
また、[[京阪電気鉄道|京阪]]では[[守口市駅]]に[[京阪特急|特急]]が臨時停車していた(鶴見緑地駅と同様に会場から近かったため、[[京阪バス]]が多く運行されていた)。
JRでは、以下の[[臨時列車]]が運行されたほか、[[エル特急]]「[[サンダーバード (列車)|雷鳥]]」の一部が[[茨木駅]]に臨時停車した。
* [[東海道新幹線]] - 「[[ひかり (列車)|ひかり花の万博号]]」([[東京駅]] - [[新大阪駅]])。
* [[北陸本線|北陸]]方面 - 「[[サンダーバード (列車)#エキスポ雷鳥|エキスポ雷鳥]]」(京橋駅 - [[大阪環状線]][[天王寺駅]]・[[梅田貨物線]]経由 - [[富山駅]])
* [[紀勢本線|紀勢]]方面 - 「[[くろしお (列車)#エキスポくろしお|エキスポくろしお]]」(京橋駅 - 大阪環状線[[大阪駅]]経由 - [[白浜駅]])
* 快速エキスポ号(岡山、柘植、園部、近江今津、福知山〜大阪駅)
このほか、京橋駅、京阪[[関目駅]]・[[守口市駅]]からの徒歩ルートも設定されていたが、大型連休などの多客期を除き、徒歩での来訪者はあまり見受けられなかった{{要出典|date=2021年12月}}。
=== バス ===
以下の場所と会場との間に直通シャトルバスが運行された。シャトルバス7ルート28社局の輸送人員は508.6万人だった<ref name="hankyu-bus">阪急バス75年史</ref>。
<!-- 運行会社補足希望 -->
* [[大阪国際空港]]([[大阪空港交通]]、[[阪神バス]])
* [[西日本旅客鉄道|JR]][[新大阪駅]](運行幹事は[[阪急バス]]で、平日は[[観光バス]]各社が、日祝は[[阪急バス]]が運行)
: 輸送人員は118万6698人、延べ便数は3万6070便に及んだ<ref name="hankyu-bus" />。
: これに合わせて[[大阪市営地下鉄]](現・[[大阪市高速電気軌道|大阪メトロ]])[[御堂筋線]]の[[中津駅 (Osaka Metro)|中津駅]] - [[天王寺駅]]間の折り返し列車が、会期中の昼間の列車に限り[[新大阪駅]]に延長運転された。しかし、好評だったため会期終了後も続けられ、のちに夜間時間帯にも拡大している。
* [[西日本旅客鉄道|JR]][[大阪駅]]([[大阪市営バス]]=現・[[大阪シティバス]])
* [[西日本旅客鉄道|JR]][[茨木駅]]([[近鉄バス]])
* [[阪急電鉄|阪急]][[南茨木駅]]([[京阪バス]]、[[南海バス]]、[[阪神バス]])
* [[京阪電気鉄道|京阪]][[守口市駅]]([[京阪バス]])
: 同社に限りシャトルバスとは別に一般路線バスも別経路で同時期に新規に設定(これについては現在廃止されている。またこれとは別に[[1985年]]に設定された[[京阪バス門真営業所|門真19号経路]]もあり、これは2009年に営業所が移管され[[京阪バス寝屋川営業所|寝屋川19号経路]]となったものの、2019年現在でも運行している)。
* [[近畿日本鉄道|近鉄]][[荒本駅]]([[近鉄バス]])
公式には上記7箇所から直通シャトルバスが出ていたが、下記の場所からも運行されていた。
* [[京阪電気鉄道|京阪]][[門真市駅]]([[京阪バス]])
* [[奈良駅]]・[[近鉄奈良駅]]・[[学園前駅 (奈良県)|学園前駅]]([[奈良交通]])
* [[大和上市駅|上市駅]]・[[橿原神宮前駅]]・[[大和八木駅|八木駅]]([[奈良交通]])
* [[五條バスセンター]]・[[近鉄御所駅]]・[[大和高田駅|近鉄高田駅]]([[奈良交通]])
* [[天理駅]]([[奈良交通]])
また、路線バスとして以下の場所からも運行した。
* [[布施駅|近鉄布施駅]]([[近鉄バス]])
* [[難波駅 (南海)|南海難波駅]]([[南海バス]])
* 山崎・北条・社・吉川IC([[神姫バス]])
* 西脇・野村・社・吉川IC([[神姫バス]])
高速バスも開設された。
* [[名鉄バスセンター]]([[名鉄バス]]、[[日本急行バス]])
* [[名神ハイウェイバス]]([[ジェイアール東海バス]]、[[名阪近鉄バス]]、[[名鉄観光バス]](旧社名:[[名古屋観光日急]]))
なお、[[花博記念公園鶴見緑地|鶴見緑地公園]]の整備に伴い、整備区域にかかることになった[[近鉄バス]]茨田営業所(鶴見通沿いの諸口停留所前)が移転を余儀なくされ、開幕前年の[[1989年]]に[[近鉄バス]]稲田営業所を設置して移転した。
== 関係者 ==
* [[小松左京]](総合プロデューサー)
* [[泉眞也]](総合プロデューサー)
* [[磯崎新]](総合プロデューサー)
== 博覧会を取り扱ったテレビドラマ・アニメ・小説など ==
当時の[[ドラマ]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[小説]]などで、博覧会が登場することもあった。
* [[日本放送協会|NHK]]連続テレビ小説「和っこの金メダル」([[1989年]][[10月2日]] - [[1990年]][[3月31日]]放送)の最終回で、博覧会に主人公と息子が行く場面や、空撮で会場を撮っている場面が登場している。
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列放送の[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]で、一家が博覧会を訪れるエピソードが放送された。また、オープニングには毎週、[[マスコット]]の「花ずきんちゃん」が登場していた。サザエさん一家は主要な公設パビリオンや庭園のほか、民間パビリオンでは唯一、三井・東芝館を訪れている<ref>番組は当時東芝の一社提供だったため。東芝は2018年3月で降板。</ref>。
* 同じくフジテレビ系列放送のアニメ『[[キテレツ大百科 (アニメ)|キテレツ大百科]]』でも「真夏の[[花博]]で大百科外伝をみつけ出せ」という回で、登場人物らが博覧会を訪れるというエピソードが放送された。
* [[斎藤栄]]著の小説に「大阪花博殺人旅愁」がある。
このほか、博覧会会場内に特設された[[サテライトスタジオ]]では、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]が、来場客を回答者としてスタジオに招きクイズ番組「クイズ!花博ランド」を[[生放送]]していた(平日午前<!--確か11:00〜11:30。当時の夕方はドラマの再放送と「ざまぁKANKAN!」を放送。-->の帯番組。司会は[[タージン]])。
== 後援映画 ==
『花物語』- 後援映画として前年[[1989年]]夏より[[大映]]の配給で公開する。
* 原作は[[田宮虎彦]]の「花」。
* スタッフは、監督に[[堀川弘通]]、脚本に小森奈津、音楽に[[小六禮次郎]]、撮影に丸池納。
* キャストは、主演に[[高橋惠子]]。共演に[[石橋蓮司]]、[[佐々木すみ江]]、[[蟹江敬三]]、[[杉山とく子]]、[[殿山泰司]]、他。
* 内容は、太平洋戦争末期、花を愛する女性と、家族や村人のヒューマン・ストーリーだった。どんな世の中でも花が心の癒しになることを描いている。
== 博覧会閉幕後 ==
=== 会場 ===
会場跡地は[[花博記念公園鶴見緑地]]として整備されている。無料で入ることができ、市民の憩いの場となっている。博覧会閉幕と同時に、ほとんどすべての[[パビリオン]]・[[乗り物]]等は撤去されたが、下記の施設は現在も存在している。
* [[咲くやこの花館]]
* 生命の大樹 [[いのちの塔]]
* 国際陳列館
: 現在は1階が花博記念ホール(陳列館ホール)、2階が国際花と緑の博覧会記念協会事務局である。3 - 4階は[[生き生き地球館]](市立環境学習センター)として運用されていたが、2014年3月30日に閉鎖された。
* 国際展示 水の館
: 現在は西半分が市営のスポーツセンター、東半分が汎用展示会場ハナミズキホール(水の館ホール)として運用されている。
* 花の谷
* 花桟敷
* 国際庭園
* 風車
: 花の万博開催のための鶴見緑地の大規模改修工事前より存在。
* むらさき亭
: 鋼板葺・寄棟造りの本格的な茶室で、日本庭園の中にある(有料)<ref>[https://www.tsurumi-ryokuchi.jp/facility/murasakitei.html むらさき亭 | 花博記念公園鶴見緑地]</ref>。
* 迎賓館
: 現在は結婚式場「鶴見ノ森 迎賓館」として運用されている<ref>[https://www.mori-geihinkan.com/ 鶴見ノ森 迎賓館]</ref>。
=== 出展物のその後 ===
[[画像:Kaibara st03 2816.jpg|thumb|「山の駅」<br />現:[[福知山線]] [[柏原駅 (兵庫県)|柏原駅]]([[丹波市]])]]
[[画像:150725 Wakasa-Hongo Station Ooi Fukui pref Japan07n.jpg|thumb|「風車の駅」<br />現:[[小浜線]] [[若狭本郷駅]]([[おおい町]])]]
[[画像:150725 Wakasa-Hongo Station Ooi Fukui pref Japan13n.jpg|thumb|「SL義経」(レプリカ) ([[若狭本郷駅]]前)]]
* [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が出展した交通システム、「SL義経」(ドリームエキスプレス)の「山の駅」駅舎は[[福知山線]][[柏原駅 (兵庫県)|柏原駅]]に、「SL義経」は交通科学博物館を経て京都鉄道博物館に、「風車の駅」駅舎は[[小浜線]][[若狭本郷駅]]にそれぞれ移設および移築された。
* [[ダイコク電機]]による出展の[[パビリオン]]「名画の庭」([[安藤忠雄]]設計)は、[[京都市]][[左京区]]の[[京都府立陶板名画の庭]]に移築された。
* 「三和みどり館」で公開された[[アトラクション]](マジックカーペットシステム)は、[[フランス]]の[[パリ]]郊外の[[テーマパーク]]「フチュロスコープ」に移築された。
* 「シネラビリンス ガスパビリオン」内で、人気者だった展示物「おにぎりロボット」は、[[万博記念公園]]内の「大阪ガス生活誕生館ディリパ」で活躍することとなった(現在は撤去されている)。
* [[滋賀県]][[信楽町]]が「国際展示 水の館」に出展した噴水「花の塔」は「滋賀県立水環境科学館」に移築された。
=== 乗り物関係のその後 ===
* 4つの交通システムについては、[[索道|ロープウェイ]]の[[搬器|ゴンドラ]]は[[かぐらスキー場]]で再利用、SL義経・CTMは、それぞれ大阪[[交通科学博物館]]・[[東京サマーランド]]にて展示されたが2014年4月6日に[[交通科学博物館]]が閉館後に他の展示物に先駆けて、「[[梅小路蒸気機関車館]]」に移設されて同年に動態復活し、同館の閉館後の2016年4月29日にオープンした[[京都鉄道博物館]]で引き続き、他のSL([[国鉄8620形蒸気機関車#8630号機|8630]]・[[国鉄C61形蒸気機関車#C61 2|C61 2]]・[[国鉄C62形蒸気機関車#C62 2|C62 2]]・[[国鉄B20形蒸気機関車#B20 10|B20 10]])とともに動態が継続されている。ドリームエクスプレスにて使用されていた客車の内2両は、京都の「[[梅小路蒸気機関車館]]」のリニューアルに伴う閉館までSLの体験列車「'''SLスチーム号'''」で使用されていた。あとの一両は京都府亀岡市にて静態保存されている。残るウォーターライドは、前述の事故を起こしたことによるイメージの悪化で引き取り手が現れず、完全に[[スクラップ]]となってしまった。
* [[遊園地]]ゾーン「マジカルクロス」の[[乗り物]]達は、その多くが各遊園地・[[テーマパーク]]に移築された。[[エキスポランド]]、[[ひらかたパーク]]、[[宝塚ファミリーランド]]など[[近畿地方|関西]]圏の遊園地にとどまらず、[[ドルアーガの塔 (アトラクション)|ドルアーガの塔]]、[[ギャラクシアン3|ギャラクシアン{{sup|3}}]]が[[東京都]][[二子玉川]]の[[ナムコ・ワンダーエッグ]]に移築。また、立ち乗りジェットコースターの風神雷神が[[熊本県]]の[[グリーンランド (遊園地)|グリーンランド]]に移築されるなど、日本各地の遊園地で余生を送ることとなった。
=== 郵便局 ===
会場内に設置された「花の万博郵便局」は、閉幕後、残務処理を行う会場内各施設の利便性のため、会場中央にあった本局だけが閉会後もしばらくの間営業を続けていた。この郵便局はゲートの中にあったにもかかわらず、ゲートで郵便局を訪問したい旨を告げるだけで、一般人でも正門ゲートのみからの入場が可能であった。このため、正門ゲートから郵便局の間に限るが、後片付けや建物の解体の様子が観察できた。ただし、[[風景印]]や[[定額貯金]]記念証書などの使用は会期中だけであった。
== 関連団体 ==<!--
この付近の記事が2度にわたって削除されています。理由のない削除は荒らしとみなされます。必要ならば理由を明記して下さい。
もう一度、同じことが起こればページの編集は規制されます。無意味なことはやめて下さい。
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:荒らし-->
博覧会の準備および運営を目的とした[[財団法人]]'''国際花と緑の博覧会協会'''は解散し{{要出典|date=2011-11-08}}、花の万博の翌年には理念継承法人として財団法人'''国際花と緑の博覧会記念協会'''が設立された。(平成25年4月1日より公益財団法人となる。)<ref>[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02jinji02_000022.html 各府省等からの再就職者が5代以上続いている独立行政法人・特殊法人等・公益法人の役職に関する府省庁によるあっせんの有無等の調査について] 総務省資料</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[国際博覧会]]
* [[国際博覧会一覧]]
* [[国際園芸博覧会]]
* [[万博マスコット]]
* [[2027横浜国際園芸博覧会]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Expo 1990}}
* [http://www.expo-cosmos.or.jp/ 公益財団法人国際花と緑の博覧会記念協会]
* [https://web.archive.org/web/20101017030114/http://matsushita-flowerprize.or.jp/ 財団法人 松下幸之助花の万博記念財団 ]
* [https://www.bie-paris.org/site/en/1990-osaka Bureau International des Expositions (BIE)]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こくさいはなとみとりのはくらんかい}}
[[Category:花の万博|*]]
[[Category:国際園芸博覧会]]
[[Category:大阪市鶴見区の歴史]]
[[Category:守口市の歴史]]
[[Category:1990年の日本]]
[[Category:平成時代の大阪]]
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2003-07-12T08:55:52Z
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スポーツ観戦
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スポーツ観戦(スポーツかんせん)とは、スポーツをテレビ・ビデオを通して観戦したり、スタジアム・競技場まで足を運んで観戦すること。日本では野球、サッカー、相撲、マラソンの観戦が人気がある。
スポーツ観戦は心臓発作、脳卒中、またはその他の危険な状態を引き起こすほどのストレスを体に与えてしまうなど、健康に悪影響を及ぼすとハーバード大学医学院准教授Robert H. Shmerlingは発表した。
スタジアム・競技場などで観戦するためには、競技が行われる競技場等まで出かける必要がある。また、プロスポーツではほとんどの場合に観戦料(競技場への入場料など)を徴収される。しかし選手が目の前でスポーツをしているという臨場感や、同じ趣味を持つ観客との一体感を味わうことができる。自宅等から遠い競技場まで出かける場合、一種の旅行と捉えられる場合もあり、現にスポーツ観戦を目的としたツアーも旅行会社によって企画されている。
いっぽう、テレビ・ラジオ・ビデオなどでの観戦は自宅で気軽に楽しめるメリットがある。一部のペイ・パー・ビューなどを除けば、観戦に費用もかからない。さらに、多くのカメラによる中継やアナウンサーによる的確な実況があれば、競技場等よりも選手の動きや試合・演技の流れがつかみやすいというメリットもある。テレビ中継の場合、リプレイ画像もある。
両者の中間に位置するものとして、スポーツバー等での観戦が挙げられる。これはスポーツ観戦を趣味とするものが特定の店舗に集ってテレビ等で観戦するものであり、臨場感はないが他のファンとの一体感を味わうことができる。店舗に限らず、試合が行われていない競技場や広場等のスクリーンの前にファンが集まって観戦することはしばしば行われている。これはパブリックビューイングと呼ばれ、日本ではサッカーの観戦でこのような例がよく見られる。
スポーツ観戦を趣味とする者の中には、普段はテレビ等で観戦し、ときどき競技場等に足を運ぶ者が多い。たとえば年間100を超える試合を開催するプロ野球の試合をすべてスタジアムで観戦することは困難であるため、プロ野球ファンのほとんどはこのタイプと思われる。
近年ではスポーツ観戦を観光資源と捉え、スポーツ観戦客を周辺の観光に呼ぶ込むことで地域活性化の起爆剤にしようという取り組みも行われつつある。
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スポーツ観戦(スポーツかんせん)とは、スポーツをテレビ・ビデオを通して観戦したり、スタジアム・競技場まで足を運んで観戦すること。日本では野球、サッカー、相撲、マラソンの観戦が人気がある。
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'''スポーツ観戦'''(スポーツかんせん)とは、[[スポーツ]]を[[テレビ]]・[[ビデオ信号記録装置|ビデオ]]を通して観戦したり、[[スタジアム]]・[[競技場]]まで足を運んで観戦すること。日本では[[野球]]、[[サッカー]]、[[相撲]]、[[マラソン]]の観戦が人気がある<ref>{{Cite | author=NHK放送文化研究所世論調査部| url=http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3989c.html |title=日本人の好きなもの}}, 社会実情データ図録</ref>。
== 健康上の問題 ==
スポーツ観戦は[[心臓発作]]、[[脳卒中]]、またはその他の危険な状態を引き起こすほどの[[ストレス (生体)|ストレス]]を体に与えてしまうなど、健康に悪影響を及ぼすと[[ハーバード大学]][[医学]]院准教授Robert H. Shmerlingは発表した<ref>{{cite news |author-link=Harvard Medical School |title=Can watching sports be bad for your health? |newspaper=Harvard Health Publishing|date=JANUARY 11, 2019|url=https://www.health.harvard.edu/blog/can-watching-sports-be-bad-for-your-health-2019011115751}}</ref>。
== 競技場等での観戦とテレビ等での観戦の違い ==
スタジアム・競技場などで観戦するためには、競技が行われる競技場等まで出かける必要がある。また、[[プロフェッショナルスポーツ|プロスポーツ]]ではほとんどの場合に観戦料(競技場への入場料など)を徴収される。しかし選手が目の前でスポーツをしているという臨場感や、同じ趣味を持つ観客との一体感を味わうことができる。自宅等から遠い競技場まで出かける場合、一種の[[旅行]]と捉えられる場合もあり、現にスポーツ観戦を目的としたツアーも[[旅行会社]]によって企画されている<ref>スポーツビジネスについては[http://www.kanto.meti.go.jp/tokei/hokoku/data/20fy_sports/4_dai1syou.pdf 関東経済産業局 スポーツビジネスの現状]に詳しい。</ref>。
いっぽう、テレビ・[[ラジオ]]・ビデオなどでの観戦は自宅で気軽に楽しめるメリットがある。一部の[[ペイ・パー・ビュー]]などを除けば、観戦に費用もかからない。さらに、多くの[[ビデオカメラ|カメラ]]による中継や[[アナウンサー]]による的確な実況があれば、競技場等よりも選手の動きや試合・演技の流れがつかみやすいというメリットもある。テレビ中継の場合、リプレイ画像もある。
両者の中間に位置するものとして、[[スポーツバー]]等での観戦が挙げられる。これはスポーツ観戦を趣味とするものが特定の店舗に集ってテレビ等で観戦するものであり、臨場感はないが他の[[ファン]]との一体感を味わうことができる。店舗に限らず、試合が行われていない競技場や広場等の[[スクリーン]]の前にファンが集まって観戦することはしばしば行われている。これは[[パブリックビューイング]]と呼ばれ、日本では[[サッカー]]の観戦でこのような例がよく見られる<ref>観戦方法と現代社会のコミュニケーションやグローバル化などとの関連についても研究されている(たとえば[http://www.andrew.ac.jp/lectureroom/social/post-38.php 桃山学院大学 髙井昌吏])ほか、観戦者を[[消費者]]と見做して消費者行動を分析する試みもなされている(たとえば[http://www.nifs-k.ac.jp/property/researchers/syllabary/03/000460.html 鹿屋体育大学 隅野美砂輝])。</ref>。
スポーツ観戦を趣味とする者の中には、普段はテレビ等で観戦し、ときどき競技場等に足を運ぶ者が多い。たとえば年間100を超える試合を開催する[[プロ野球]]の試合をすべてスタジアムで観戦することは困難であるため、プロ野球ファンのほとんどはこのタイプと思われる。
近年ではスポーツ観戦を観光資源と捉え、スポーツ観戦客を周辺の観光に呼ぶ込むことで地域活性化の起爆剤にしようという取り組みも行われつつある<ref>{{Cite |author=[[観光庁]]スポーツ観光推進室 |date=2011-01-27 |url=https://www.mlit.go.jp/common/000135939.pdf |title= 2011年スポーツ観光記者発表資料}}</ref>。
==脚注==
<references />
==関連項目==
*[[心臓発作]]
*[[脳卒中]]
*[[スポーツ]]
*[[ファン]]
*[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]] - スポーツの中継が多い
*[[パブリックビューイング]]
*[[パンとサーカス]]
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ベルンハルト・リーマン
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン(ドイツ語: Georg Friedrich Bernhard Riemann, 1826年9月17日 - 1866年7月20日)は、ドイツの数学者。解析学・幾何学・数論の分野で業績を上げた。アーベル関数に関する研究によって当時の数学者から高く評価されたが、先駆的な彼の研究は十分に理解されず、20世紀になって彼のそれぞれの研究分野で再評価されるようになった。19世紀を代表する数学者の一人である。
彼の名前が残っている数学用語に、リーマン積分、コーシー=リーマンの方程式、リーマンのゼータ関数、リーマン多様体、リーマン球面、リーマン面、リーマン=ロッホの定理、リーマン予想などがある。また、小惑星(4167) Riemannは彼にちなむ。
ハノーファー王国ダンネンベルク (Dannenberg) 近くの小村ブレゼレンツ (Breselenz) に牧師の息子として生まれた。幼少期から、彼は非常に内気で内向的だったという。1847年に、ゲッティンゲン大学に入学、カール・フリードリヒ・ガウスと初めて出会った。同年ベルリン大学に移り、ペーター・グスタフ・ディリクレ、カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ、フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタインから楕円関数論や偏微分方程式論を学んだ。1849年にゲッティンゲン大学に戻り、1851年にガウスのもとで論文「1複素変数関数の一般理論の基礎づけ」を提出して博士号を取得、1854年には「幾何学の基礎にある仮説について」で大学教授資格を取得した。ガウスは若い数学者をほとんど評価しなかったが、リーマン幾何学に関する講演は高く賞賛した。二つの論文によって、複素解析の基礎づけとリーマン幾何学を確立した。
1857年に予備教授となり、1859年にディリクレの後継者として正教授になった。1862年に妹の友人エリーゼ・コッホと結婚し娘が生まれたが、この時期から結核の病状が悪化してイタリアで療養するようになった。1866年、旅の途中にマッジョーレ湖の近くで39歳で亡くなった。その生涯についてはリーマン全集に掲載されたリヒャルト・デーデキントの小伝がある。
複素解析の分野はオーギュスタン=ルイ・コーシーが独力で研究していたが、リーマンは1851年の学位論文でコーシー=リーマンの微分方程式を複素関数の定義として(コーシーは複素関数の一種として定義し、単性関数と呼んでいた)、さらに写像やリーマン面など新たな成果を組み込むことで複素解析の基礎づけと共に理論的な発展をさせることになった。1854年の教授資格講演「幾何学の基礎にある仮説について」では、初めて多様体の概念を導入して、リーマン幾何学を確立した。これは後にアルベルト・アインシュタインによって一般相対性理論に応用されている。
リーマンが当時の数学者によって高く評価されたのは、学位論文の続編となる1857年の論文「アーベル関数の理論」によるところが大きい。この論文で、彼は楕円関数論での未解決問題であったヤコービの逆問題を解決し、アーベル関数論を完成させた。リーマンは楕円型偏微分方程式によるモジュライの理論の研究の先駆者となり、双有理同値、ヤコビ多様体、テータ関数論などの研究はその後の代数幾何学の研究の端緒となった。
半積分の定義を初めて提唱した。
三角級数による表現に関する論文では、リーマン積分の概念を提示することで、実解析の基礎づけに寄与した。数論については1859年の論文「与えられた数より小さい素数の個数について」が唯一の論文であるが、彼の複素解析の方法の一つの応用である。ゼータ関数についてのリーマン予想を述べ、解析的整数論の重要論文の一つとなった。この予想は21世紀になっても重要な未解決問題の一つとなっている。
リーマン自身は自分の数学理論を物理学に応用したいと考えていたが、彼は準備していた研究を生前に公表するには至らなかった。
リーマンの直接の後継者はリーマン・ロッホの定理で知られるグスタフ・ロッホと代数曲線論を発展させたアルフレッド・クレプシュである。だが、この二人は若くして亡くなった。ゴルタンもリーマンとの交流があり、当初はリーマンの研究を継承しようとしていたが、不変式論で独自の研究へと進んでいった。リーマンの影響は直接の接触のなかった次の世代のフェリックス・クライン、アンリ・ポアンカレ、ダフィット・ヒルベルトによってさまざまな数学的成果へと結び付けられるようになった。
現在では、リーマンの数学的業績の多くがさまざまな分野に浸透しているが、19世紀には、複素解析の基礎づけもリーマン幾何学も正当な評価を得ていなかった。複素解析の分野では、カール・ワイエルシュトラスがリーマンの複素解析の基礎づけに使ったディリクレの原理にギャップがあることを指摘したため、多くの数学者が疑念を共有するようになった。その一方で、ワイエルシュトラスが主導していたベルリン学派の数学者たちはリーマンの複素解析と楕円関数の研究を検討するようになり、シュワルツは幾何学的方法によってリーマンのギャップを解消する交互処理法を導入し、フックスは特異点のまわりでの解の解析接続を研究するためにリーマンの方法を利用するようになった。また、クラインはリーマンの複素解析に関する論文を発表し、この分野での研究を促していった。1900年、ヒルベルトは(ワイエルシュトラスが批判した)ディリクレの原理の問題を解消し、その後、ヘルマン・ワイルがリーマン面を1次元複素多様体として厳密に定義し、さらにディリクレの原理を直交射影の原理として再定式化することで、リーマンの複素解析での業績は再評価されることになった。ポアンカレはリーマンが示した位置解析のアイデアを発展させ、トポロジーを体系的に研究した。また、ポアンカレとケーベは写像定理を一般化した一意化の定理をそれぞれ独立に証明した。カール・ジーゲルはリーマンの遺稿を分析することで、リーマン予想に関するリーマンの研究の中に、すでにその後の研究を先取りする内容が含まれていることを発見した。
クラインはリーマンの複素解析を支持したが、エルランゲン・プログラムとの違いからリーマン幾何学に対しては否定的な姿勢をとった。リーマン幾何学の研究はリーマンが晩年に滞在していたイタリアで発展していった。リーマン自身はリーマン幾何学の計算技法を十分に与えなかったが、それを補うテンソル解析がエウジェニオ・ベルトラミ、トゥーリオ・レヴィ=チヴィタによって発展させられた。この分野はアインシュタインの相対性理論の登場によって注目されることになる。
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマンは、ドイツの数学者。解析学・幾何学・数論の分野で業績を上げた。アーベル関数に関する研究によって当時の数学者から高く評価されたが、先駆的な彼の研究は十分に理解されず、20世紀になって彼のそれぞれの研究分野で再評価されるようになった。19世紀を代表する数学者の一人である。 彼の名前が残っている数学用語に、リーマン積分、コーシー=リーマンの方程式、リーマンのゼータ関数、リーマン多様体、リーマン球面、リーマン面、リーマン=ロッホの定理、リーマン予想などがある。また、小惑星(4167) Riemannは彼にちなむ。
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{{Infobox scientist
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| caption = 肖像(1863年)
| birth_name =
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| death_cause =
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'''ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン'''({{lang-de|Georg Friedrich Bernhard Riemann}}, [[1826年]][[9月17日]] - [[1866年]][[7月20日]])は、[[ドイツ]]の[[数学者]]。[[解析学]]・[[幾何学]]・[[数論]]の分野で業績を上げた。[[アーベル関数]]に関する研究によって当時の数学者から高く評価されたが、先駆的な彼の研究は十分に理解されず、20世紀になって彼のそれぞれの研究分野で再評価されるようになった。19世紀を代表する数学者の一人である。
彼の名前が残っている数学用語に、[[リーマン積分]]、[[コーシー・リーマンの関係式|コーシー=リーマンの方程式]]、リーマンの[[リーマンゼータ函数|ゼータ関数]]、リーマン多様体、[[リーマン球面]]、[[リーマン面]]、[[リーマン=ロッホの定理]]、[[リーマン予想]]などがある。また、[[小惑星]][[リーマン (小惑星)|(4167) Riemann]]は彼にちなむ<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4167|title=(4167) Riemann = 1968 DR = 1978 TQ7 = 1986 TO1|publisher=MPC|accessdate=2021-10-05}}</ref>。
== 生涯 ==
[[ハノーファー王国]][[ダンネンベルク]] ([[:en:Dannenberg|Dannenberg]]) 近くの小村[[ブレゼレンツ]] ([[:en:Breselenz|Breselenz]]) に牧師の息子として生まれた。幼少期から、彼は非常に内気で内向的だったという<ref>{{Cite web|和書|title=ベルンハルト・リーマンの伝記-事実、子供時代、家族生活、ドイツ数学者の業績。 - 科学者 |url=https://ja.celeb-true.com/bernhard-riemann-german-mathematician-known-contribution-differential |website=ja.celeb-true.com |access-date=2023-01-01 |language=ja}}</ref>。[[1847年]]に、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]に入学、[[カール・フリードリヒ・ガウス]]と初めて出会った。同年[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に移り、[[ペーター・グスタフ・ディリクレ]]、[[カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ]]、[[フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン]]から楕円関数論や偏微分方程式論を学んだ。[[1849年]]にゲッティンゲン大学に戻り、[[1851年]]にガウスのもとで論文「1複素変数関数の一般理論の基礎づけ」を提出して博士号を取得、[[1854年]]には「幾何学の基礎にある仮説について」で大学教授資格を取得した。ガウスは若い数学者をほとんど評価しなかったが、[[リーマン幾何学]]に関する講演は高く賞賛した。二つの論文によって、複素解析の基礎づけとリーマン幾何学を確立した。
[[1857年]]に予備教授となり、[[1859年]]にディリクレの後継者として正教授になった。[[1862年]]に妹の友人エリーゼ・コッホと結婚し娘が生まれたが、この時期から[[結核]]の病状が悪化して[[イタリア]]で療養するようになった。[[1866年]]、旅の途中に[[マッジョーレ湖]]の近くで39歳で亡くなった。その生涯についてはリーマン全集に掲載された[[リヒャルト・デーデキント]]の小伝がある<ref>{{Harvnb|Dedekind|1892|pp=541-558}}, {{Harvnb|デーデキント|赤堀|2004|pp=347-366}}</ref>。
== 主要な業績 ==
[[複素解析]]の分野は[[オーギュスタン=ルイ・コーシー]]が独力で研究していたが、リーマンは1851年の学位論文でコーシー=リーマンの微分方程式を複素関数の定義として(コーシーは複素関数の一種として定義し、単性関数と呼んでいた)、さらに[[写像]]や[[リーマン面]]など新たな成果を組み込むことで[[複素解析]]の基礎づけと共に理論的な発展をさせることになった。1854年の教授資格講演「幾何学の基礎にある仮説について」では、初めて[[多様体]]の概念を導入して、[[リーマン幾何学]]を確立した。これは後に[[アルベルト・アインシュタイン]]によって[[一般相対性理論]]に応用されている。
リーマンが当時の数学者によって高く評価されたのは、学位論文の続編となる1857年の論文「アーベル関数の理論」によるところが大きい。この論文で、彼は[[楕円関数論]]での未解決問題であった[[ヤコービの逆問題]]を解決し、アーベル関数論を完成させた。リーマンは楕円型偏微分方程式によるモジュライの理論の研究の先駆者となり、双有理同値、ヤコビ多様体、テータ関数論などの研究はその後の[[代数幾何学]]の研究の端緒となった。
半積分の定義を初めて提唱した。
[[三角級数]]による表現に関する論文では、[[リーマン積分]]の概念を提示することで、実解析の基礎づけに寄与した。数論については1859年の論文「[[与えられた数より小さい素数の個数について]]」が唯一の論文であるが、彼の複素解析の方法の一つの応用である。[[ゼータ関数]]についての[[リーマン予想]]を述べ、解析的整数論の重要論文の一つとなった。この予想は21世紀になっても重要な未解決問題の一つとなっている。
リーマン自身は自分の数学理論を物理学に応用したいと考えていたが、彼は準備していた研究を生前に公表するには至らなかった。
== リーマンの数学の影響 ==
リーマンの直接の後継者は[[リーマン・ロッホの定理]]で知られる[[グスタフ・ロッホ]]と[[代数曲線]]論を発展させた[[アルフレッド・クレプシュ]]である。だが、この二人は若くして亡くなった。ゴルタンもリーマンとの交流があり、当初はリーマンの研究を継承しようとしていたが、不変式論で独自の研究へと進んでいった。リーマンの影響は直接の接触のなかった次の世代の[[フェリックス・クライン]]、[[アンリ・ポアンカレ]]、[[ダフィット・ヒルベルト]]によってさまざまな数学的成果へと結び付けられるようになった。
現在では、リーマンの数学的業績の多くがさまざまな分野に浸透しているが、19世紀には、複素解析の基礎づけもリーマン幾何学も正当な評価を得ていなかった。複素解析の分野では、[[カール・ワイエルシュトラス]]がリーマンの複素解析の基礎づけに使った[[ディリクレの原理]]にギャップがあることを指摘したため、多くの数学者が疑念を共有するようになった。その一方で、ワイエルシュトラスが主導していたベルリン学派の数学者たちはリーマンの複素解析と楕円関数の研究を検討するようになり、シュワルツは幾何学的方法によってリーマンのギャップを解消する交互処理法を導入し、フックスは[[特異点]]のまわりでの解の解析接続を研究するためにリーマンの方法を利用するようになった。また、クラインはリーマンの複素解析に関する論文を発表し、この分野での研究を促していった。1900年、ヒルベルトは(ワイエルシュトラスが批判した)ディリクレの原理の問題を解消し、その後、[[ヘルマン・ワイル]]がリーマン面を1次元複素多様体として厳密に定義し、さらにディリクレの原理を[[直交射影の原理]]として再定式化することで、リーマンの複素解析での業績は再評価されることになった。ポアンカレはリーマンが示した位置解析のアイデアを発展させ、[[位相幾何学|トポロジー]]を体系的に研究した。また、ポアンカレと[[パウル・ケーベ|ケーベ]]は写像定理を一般化した一意化の定理をそれぞれ独立に証明した。[[カール・ジーゲル]]はリーマンの遺稿を分析することで、リーマン予想に関するリーマンの研究の中に、すでにその後の研究を先取りする内容が含まれていることを発見した。
クラインはリーマンの複素解析を支持したが、[[エルランゲン目録|エルランゲン・プログラム]]との違いからリーマン幾何学に対しては否定的な姿勢をとった。リーマン幾何学の研究はリーマンが晩年に滞在していたイタリアで発展していった。リーマン自身はリーマン幾何学の計算技法を十分に与えなかったが、それを補う[[テンソル|テンソル解析]]が[[エウジェニオ・ベルトラミ]]、[[トゥーリオ・レヴィ=チヴィタ]]によって発展させられた。この分野はアインシュタインの相対性理論の登場によって注目されることになる。
ディリクレの示唆によって書かれた三角級数に関する論文は、[[ルベーグ積分]]と[[ゲオルク・カントール]]の[[集合論]]の発展に影響を与えた。
== 主要論文 ==
*{{PDFlink|[http://www.emis.de/classics/Riemann/Grund.pdf Grundlagen für eine allgemeine Theorie der Functionen einer veränderlichen complexen Grösse]}} (1851) - 「複素一変数関数の一般論の基礎」、[[笠原乾吉]]訳(『リーマン論文集』、1-43頁)
*{{PDFlink|[http://www.emis.de/classics/Riemann/Trig.pdf Ueber die Darstellbarkeit einer Function durch eine trigonometrische Reihe]}} (1854) - 「任意関数の三角級数による表現の可能性について」、[[長岡亮介 (数学者)|長岡亮介]]・[[鹿野健]]訳(『リーマン論文集』、223-276頁)
*{{PDFlink|[http://www.emis.de/classics/Riemann/Geom.pdf Ueber die Hypothesen, welche der Geometrie zu Grunde liegen]}} (1854) - 「幾何学の基礎にある仮説について」、[[山本敦之]]訳(『リーマン論文集』、295-311頁)
*{{PDFlink|[http://www.emis.de/classics/Riemann/AbelFn.pdf Theorie der Abel'schen Functionen]}} (1857) - 「アーベル関数の理論」、[[高瀬正仁]]訳(『リーマン論文集』、71-153頁)
*{{PDFlink|[http://www.emis.de/classics/Riemann/PFunct.pdf Beiträge zur Theorie der durch die Gauss'sche Reihe F(α, β, γ, x) darstellbaren Functionen]}} (1857) - 「ガウスの級数 F(α, β, γ, x) で表示できる関数の理論への貢献」、[[寺田俊明]]訳(『リーマン論文集』、45-70頁)
*{{PDFlink|[http://www.emis.de/classics/Riemann/Zeta.pdf Ueber die Anzahl der Primzahlen unter einer gegebenen Grösse]}} (1859) - 「[[与えられた数より小さい素数の個数について|与えられた限界以下の素数の個数について]]」、[[杉浦光夫]]訳(『リーマン論文集』、155-185頁)
== 著作 ==
*{{Cite book|和書|author=ベルンハルト・リーマン|others=[[足立恒雄]]・[[杉浦光夫]]・[[長岡亮介 (数学者)|長岡亮介]] 訳|date=2004-02-20|title=リーマン論文集|series=数学史叢書|publisher=[[朝倉書店]]|isbn=4-254-11460-5|url=http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-11460-7/|ref={{Harvid|リーマン|足立ほか|2004}}}}
*{{Cite book|和書|author=ベルンハルト・リーマン|coauthors=[[ヘルマン・ミンコウスキー]]|others=[[ヘルマン・ワイル]] 序文・解説、[[菅原正巳]] 訳|date=1970-06-10|title=幾何学の基礎をなす仮説について|publisher=清水弘文堂書房|ref={{Harvid|リーマン|ミンコウスキー|ワイル|菅原|1970}}}} - ミンコウスキー『空間と時間』を併録。
**{{Cite book|和書|author=ベルンハルト・リーマン|coauthors=ヘルマン・ミンコフスキー|others=ヘルマン・ワイル 序文・解説、菅原正巳 訳|date=2013-11-06|title=幾何学の基礎をなす仮説について|series=[[ちくま学芸文庫]]|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-09583-1|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480095831/|ref={{Harvid|リーマン|ミンコフスキー|ワイル|菅原|2013}}}} - ミンコフスキー『空間と時間』を併録。
*{{Cite book|和書|author=リーマン|others=[[近藤洋逸]] 訳|date=1973-09-10|title=世界の名著 65 現代の科学 1|chapter=幾何学の基礎をなす仮説について|publisher=[[中央公論社]]|pages=265-302|isbn=978-4-12-400145-7|url=http://www.chuko.co.jp/zenshu/1973/09/400145.html|ref={{Harvid|リーマン|1973}}}}
**{{Cite book|和書|author=リーマン|others=近藤洋逸 訳|date=1979-07-20|title=世界の名著 79 現代の科学 1|series=[[中公バックス]]|chapter=幾何学の基礎をなす仮説について|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4-12-400689-6|url=http://www.chuko.co.jp/zenshu/1979/07/400689.html|ref={{Harvid|リーマン|1979}}}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|author=Harold M. Edwards|authorlink=ハロルド・M・エドワーズ (数学者)|year=2001|title=Riemann's Zeta Function|publisher=Dover Publications|isbn=0-486-41740-9|ref={{Harvid|Edwards|2001}}}}
**{{Cite book|和書|author=ハロルド・M・エドワーズ|authorlink=ハロルド・M・エドワーズ (数学者)|others=[[鈴木治郎]]訳|date=2012-06-25|title=明解 ゼータ関数とリーマン予想|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-155799-4|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000149191|ref={{Harvid|エドワーズ|2012}}}}
*{{Cite book|和書|author=デートレフ・ラウグヴィッツ|authorlink=デートレフ・ラウグヴィッツ|others=[[山本敦之]] 訳|date=1998-02-12|title=リーマン 人と業績|publisher=[[シュプリンガー・フェアラーク東京]]|isbn=4-431-70762-X|ref={{Harvid|ラウグヴィッツ|山本|1998a}}}}
**{{Cite book|和書|author=デートレフ・ラウグヴィッツ|others=山本敦之 訳|date=1998-02-12|title=リーマン 人と業績|publisher=[[丸善出版]]|isbn=978-4-621-06430-6|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621064306.html|ref={{Harvid|ラウグヴィッツ|山本|1998b}}}}
*{{Citation|last=Dedekind|first=Richard|author-link=リヒャルト・デーデキント|year=1892|title=Bernhard Riemann's gesammelte mathematische Werkeund wissenschaftlicher Nachlass|chapter=Bernhard Riemann's Lebenslauf|publisher=Druck und Verlag von B.G. Teubner|pages=541-558|location=Leipzig|edition=Zweite Auflage|url=http://www.emis.de/classics/Riemann/Leben.pdf|format=PDF}}
**{{Cite book|和書|author=デーデキント|authorlink=リヒャルト・デーデキント|others=[[赤堀庸子]] 訳|date=2004-02-20|title=リーマン論文集|chapter=ベルンハルト・リーマンの生涯|series=数学史叢書|publisher=朝倉書店|pages=347-366|isbn=4-254-11460-5|url=http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-11460-7/|ref={{Harvid|デーデキント|赤堀|2004}}}}
*{{Cite book|last=Bell|first=Eric Temple|year=1986|title=Men of Mathematics|publisher=Simon and Schuster|location=New York|id=(Hardcover) ISBN 0-671-46400-0/(Paperback) ISBN 0-671-62818-6|ref={{Harvid|Bell|1986}}}}
**{{Cite book|和書|author=E.T.ベル|others=[[田中勇 (数学者)|田中勇]]・[[銀林浩]] 訳|date=2003-11-19|title=数学をつくった人びと|volume=第3巻|series=ハヤカワ文庫 NF 285|publisher=早川書房|isbn=4-15-050285-4|url=http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/90285.html|ref={{Harvid|ベル|田中|銀林|2003}}}}
*{{Cite book|和書|editor=日本数学会|date=2007-03-15|title=岩波 数学辞典|edition=第4版|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-080309-0|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/08/3/0803090.html|ref={{Harvid|日本数学会|2007}}}}
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|リーマン|2=[[小堀憲]]}}
*{{MacTutor|id=Riemann|title=Georg Friedrich Bernhard Riemann}}
* [http://www.emis.de/classics/Riemann/ The Mathematical Papers of Georg Friedrich Bernhard Riemann (1826-1866)] - リーマン論文集
* [https://openlibrary.org/books/OL13995979M/Bernhard_Riemann's_Gesammelte_mathematische_Werke_und_Wissenschaftlicher_Nachlass リーマン論文集] {{de icon}}
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丁銀
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丁銀(ちょうぎん)とは、日本国内において主に商取引用として室町時代後期から明治維新まで流通した銀貨である。当時は単に銀と呼ばれ、例えば品位を下げた元禄丁銀は「元字銀」などと称呼された。丁銀という名称は『金銀図録』の記述によれば棒状の銀塊の意味である鋌銀(ちょうぎん)が挺銀(ちょうぎん)を経て変化したものとされる。
形状は、ナマコ形と呼ばれるやや不揃いな棒状の銀塊で、量目(質量)は不定だがおおよそ43匁(約160.4グラム)前後で実際には三十何匁から四十何匁辺り(120-180g程度)が多かった。額面は記載されておらず、量目によって貨幣価値が決まる秤量貨幣である。表面には「寳」および「大黒」、「常是」などの極印が打たれ、また慶長銀と異なり銀品位の劣る丁銀には「元・宝・永・文・保・政」といった年代印が打たれ区別された。二ツ宝銀・三ツ宝銀・四ツ宝銀は「宝」字極印の数および書体で区別され、元文銀と文政銀は「文」字の書体で区別された。ただし、宝永期は大黒常是が御役召放とされたため、「常是」の極印は打たれていない。
金(小判)および銭と共に三貨制度の一角を担い、当時は銀と呼ばれていた。江戸時代には、主に大坂を中心とした西日本および北陸、東北と広域に亘って流通した。
額面は天秤による量目の実測値で、商取引において銀何貫、銀何匁と表記される銀目取引の通貨単位であった。また賞賜目的には43匁を銀一枚とする単位が用いられ、これが丁銀の量目の目安とされた。なお、当時用いられた分銅の質量単位は「両」であったが、小判の通貨単位との混同を避けるため「両」は用いられず「匁」が銀の通貨単位であった。一方中国では、当時秤量銀貨(銀錠)の額面単位に「両(テール)」を用いていた。
丁銀は額面の記載されていない秤量貨幣で、本来は使用のごとに量目を量る必要があるが、実際に取引の度に秤量して用いたのは豆板銀(小玉銀)だけであり、丁銀はこれに小玉銀を掛け足して五百目包(1865g)など包銀の形で用いられた。これは、丁銀と同品位の少額貨幣である豆板銀を合わせて一定の量目(恩賞および献上用には銀一枚:43匁、商取引用には五百目など)にし、紙に包んで封印したものである。銀数十匁にもなる丁銀は日常生活には高額過ぎ、例えば四十目(149.2g)の慶長丁銀であれば米2~3石を入手する購買力を持っており、財布に入れて使用するような性質のものではなかった。それゆえ豆板銀と異なり包封していない裸銀として日常の支払いに用いられることはまず無かった。
秤量銀貨の量目を定め、包封することは両替商の重要な仕事のひとつで、諸藩における年貢米の売り上げ、物品購入代金の管理を任命された両替商、および天領である石見銀山、生野銀山などで産出される上納灰吹銀の量目を掛け改めた役職は掛屋(かけや)とも呼ばれた。
江戸時代以前には、灰吹銀および極印銀が、鋳造者である富商や両替商の極印によって流通した。また、当時は切り遣いの慣行が見られた。これらが「地方銀」と呼ばれる領国貨幣である。やがて、灰吹銀を譲葉のような形状に叩き伸ばして極印を打った銀貨が登場した。16世紀中ごろから銀山の開発および灰吹法の普及により国内の銀の産出が急増し始め、銀屋(かなや/かねや)あるいは銀吹屋(かねふきや)と呼ばれた銀地金の売買および精錬などを手掛ける者が現れ、後の銀座および両替商の前身となった。堺の南鐐座の銀細工師湯浅作兵衛らは諸国の灰吹銀を集め極印を打って売買していたが、伏見銀座設立前に家康の上覧に供するための丁銀を試鋳した。この時代のものは古丁銀(こちょうぎん)とよばれる。またこれらを切り遣いしたものは切銀(きりぎん)と呼ばれる。
極印銀および古丁銀の銀品位は各地の銀山により不定であったが、おおむね90%以上であった。中でも石見銀山産出の銀で作られた、石州銀(ソーマ銀)(佐摩)は良質で量的にも潤沢であったが、銀産地による品位には上下があった。
丁銀や銀座が買い集めた灰吹銀などの銀品位は「灰吹買上ゲ法」とする、上銀一貫目ならば、銀座において目方1.1倍の品位800/1000である慶長銀つまり一貫百目で買上げられ、これを「一割入レ」と称し、品位640/1000であれば、銀座において目方0.704倍の慶長銀つまり704匁の慶長銀で買上げられたため「二割九歩六引ヶ」(0.64 × 1.1 - 1 = -0.296)と称された。
慶長6年7月(1601年)には、伏見銀座から慶長丁銀が鋳造され、以後、江戸幕府によって品位を一定に定められた丁銀が発行され、元和年間以降は常に小額通貨である同品位の豆板銀(小玉銀)を伴って発行された。銀座では常に鋳造された丁銀は灰吹法による糺吹(ただしふき)すなわち銀品位の抜き取り検査が行われ、規定の品位の基準を満たさない場合は吹き戻され作り直された。
銀座は銀の売買、地金への極印打ち、すなわち貨幣の鋳造を許された御用達商人であり、銀座の経営方式には、私領銀山などから産出される灰吹銀(買灰吹銀)を買い集めて丁銀を鋳造し一部を運上として幕府に納める自家営業方式、あるいは天領銀山から産出される公儀灰吹銀を銀座が預り丁銀に鋳造して一部を分一銀(ぶいちぎん)として受取る御用達方式があった。しかし新産銀が減少し自家営業方式が困難となった元禄期以降は、御用達方式による分一銀が主な収入源となった。
江戸時代初期は各地銀山からの産出が隆盛を極めたが寛永年間ごろから早くも陰りを見せその後銀の産出は衰退し、その一方で中国などとの貿易取引で多量の銀が流出し、加えて元禄年間には出費の増大により幕府の財政は底をつき、元禄8年(1695年)には幕府の財政再建の目的で吹替えにより銀品位が下げられた。
その後も宝永年間には更なる吹替えが立続けに行われる。中でも永字銀、三ツ宝銀、および四ツ宝銀の三品は、度重なる天災地変の救恤・御普請などで幕府の財政が深刻化したため荻原重秀が吹替えを建議した処、新井白石の計らいにより吹替えの議は中止となったものの、重秀の独断専行により鋳造されたもので将軍の正式な決裁も無く新銀通用の御触れさえ出されることは無かった。
正徳年間には大黒常是が復帰し小判と共に慶長の品位に戻されるが、一連の宝永銀の回収・改鋳の進捗は遅れ品位の異なる6種の銀が併用されることとなり銀品位に応じて区別通用され、この状態は最終的に元禄および宝永銀4品が通用停止となる享保7年(1722年)末まで続いた。また、通貨縮小による米価下落のため、元文年間以降、銀品位を下げる吹替えが度々行われた。
江戸時代後半、明和年間の南鐐二朱銀の鋳造を皮切りに、文政年間、幕末の天保・嘉永年間を中心に一分銀、一朱銀など丁銀に対して含有銀量の劣る出目獲得を目的とした金貨単位の名目貨幣が多発され、文政年間以降はこのような定位貨幣の流通が大半を占めるようになった。一方で丁銀の流通は次第に衰退し銀目取引は藩札および手形で代用されるなど名目化した。
また、吹替えの度に起こる旧銀の退蔵や定位銀貨への改鋳に伴う丁銀の払底、あるいは高額な丁銀ではなく小額の銀目取引の必要性から匁銭勘定が行われ、銀札に代えて銭匁札が発行された。
慶応4年5月(1868年)に、明治維新政府は銀目廃止令の布令を出し、丁銀は豆板銀と共に流通停止となった。明治元年10月、丁銀・豆板銀(明和五匁銀も含む)は純銀の含有量に応じて金貨単位(両・分・朱)で交換比率が定められ、両・分・朱単位の金貨や銀貨と交換された。その交換は明治7年(1874年)9月に終了し、その後は地金扱いとされたため、直接新貨(円・銭・厘)と交換されることはなかった。
古丁銀は以下のものが知られているが、いずれも現存極めて稀少である。
括弧内は発行年、鋳造量、銀含有率(規定)。鋳造量には豆板銀を含む。
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"text": "秤量銀貨の量目を定め、包封することは両替商の重要な仕事のひとつで、諸藩における年貢米の売り上げ、物品購入代金の管理を任命された両替商、および天領である石見銀山、生野銀山などで産出される上納灰吹銀の量目を掛け改めた役職は掛屋(かけや)とも呼ばれた。",
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"text": "江戸時代以前には、灰吹銀および極印銀が、鋳造者である富商や両替商の極印によって流通した。また、当時は切り遣いの慣行が見られた。これらが「地方銀」と呼ばれる領国貨幣である。やがて、灰吹銀を譲葉のような形状に叩き伸ばして極印を打った銀貨が登場した。16世紀中ごろから銀山の開発および灰吹法の普及により国内の銀の産出が急増し始め、銀屋(かなや/かねや)あるいは銀吹屋(かねふきや)と呼ばれた銀地金の売買および精錬などを手掛ける者が現れ、後の銀座および両替商の前身となった。堺の南鐐座の銀細工師湯浅作兵衛らは諸国の灰吹銀を集め極印を打って売買していたが、伏見銀座設立前に家康の上覧に供するための丁銀を試鋳した。この時代のものは古丁銀(こちょうぎん)とよばれる。またこれらを切り遣いしたものは切銀(きりぎん)と呼ばれる。",
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"text": "極印銀および古丁銀の銀品位は各地の銀山により不定であったが、おおむね90%以上であった。中でも石見銀山産出の銀で作られた、石州銀(ソーマ銀)(佐摩)は良質で量的にも潤沢であったが、銀産地による品位には上下があった。",
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"text": "慶長6年7月(1601年)には、伏見銀座から慶長丁銀が鋳造され、以後、江戸幕府によって品位を一定に定められた丁銀が発行され、元和年間以降は常に小額通貨である同品位の豆板銀(小玉銀)を伴って発行された。銀座では常に鋳造された丁銀は灰吹法による糺吹(ただしふき)すなわち銀品位の抜き取り検査が行われ、規定の品位の基準を満たさない場合は吹き戻され作り直された。",
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"text": "慶応4年5月(1868年)に、明治維新政府は銀目廃止令の布令を出し、丁銀は豆板銀と共に流通停止となった。明治元年10月、丁銀・豆板銀(明和五匁銀も含む)は純銀の含有量に応じて金貨単位(両・分・朱)で交換比率が定められ、両・分・朱単位の金貨や銀貨と交換された。その交換は明治7年(1874年)9月に終了し、その後は地金扱いとされたため、直接新貨(円・銭・厘)と交換されることはなかった。",
"title": "略史"
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"text": "古丁銀は以下のものが知られているが、いずれも現存極めて稀少である。",
"title": "古丁銀の種類"
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"text": "括弧内は発行年、鋳造量、銀含有率(規定)。鋳造量には豆板銀を含む。",
"title": "江戸時代に鋳造された丁銀"
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] |
丁銀(ちょうぎん)とは、日本国内において主に商取引用として室町時代後期から明治維新まで流通した銀貨である。当時は単に銀と呼ばれ、例えば品位を下げた元禄丁銀は「元字銀」などと称呼された。丁銀という名称は『金銀図録』の記述によれば棒状の銀塊の意味である鋌銀(ちょうぎん)が挺銀(ちょうぎん)を経て変化したものとされる。
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{{Otheruses||中国の税制である地丁銀制(ちていぎんせい)|地丁銀制}}
'''丁銀'''(ちょうぎん)とは、日本国内において主に[[商取引]]用として[[室町時代]]後期から[[明治維新]]まで流通した[[銀貨]]である。当時は単に'''銀'''と呼ばれ、例えば品位を下げた[[元禄丁銀]]は「元字銀」などと称呼された。丁銀という名称は『[http://ue450s.imes.boj.or.jp/cm/digitalroom/senpu/ao1-1-1/index.htm 金銀図録]』の記述によれば棒状の銀塊の意味である'''{{JIS2004フォント|鋌}}銀'''(ちょうぎん)が'''挺銀'''(ちょうぎん)を経て変化したものとされる<ref name="zuroku">[[#Zuroku1972|日本の貨幣(1972, 1973).]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p86.]]</ref>。
{{統合文字|{{JIS2004フォント|鋌}}}}
{{JIS2004}}
== 概要 ==
[[画像:Keicho-chogin2.jpg|thumb|right|180px|慶長丁銀]]
形状は、[[ナマコ]]形と呼ばれるやや不揃いな棒状の銀塊で、量目([[質量]])は不定だがおおよそ43[[匁]]<ref name="Hisamitsu1976-87">[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p87.]]</ref>(約160.4[[グラム]])前後で実際には三十何匁から四十何匁辺り(120-180g程度)が多かった<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p125.]]</ref><ref group="注釈">実際にはその範囲からやや外れたものも見られるが、20匁(74.6g)を切る小型のものや、60匁(223.8g)を超える大型のものは極めて稀である。</ref>。額面は記載されておらず、量目によって貨幣価値が決まる[[秤量貨幣]]である<ref name="Hisamitsu1976-87" />。表面には「寳」および「大黒」、「常是」などの極印が打たれ、また慶長銀と異なり銀品位の劣る丁銀には「元・宝・永・文・保・政」といった年代印が打たれ区別された。[[宝永二ツ宝丁銀|二ツ宝銀]]・[[宝永三ツ宝丁銀|三ツ宝銀]]・[[宝永四ツ宝丁銀|四ツ宝銀]]は「宝」字極印の数および書体で区別され、[[元文丁銀|元文銀]]と[[文政丁銀|文政銀]]は「文」字の書体で区別された。ただし、[[宝永]]期は[[大黒常是]]が御役召放とされたため、「常是」の極印は打たれていない<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p116.]]</ref><ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p106.]]</ref><ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p93-94, 185-186.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p182-183.]]</ref>。
[[金貨|金]]([[小判]])および[[銭貨|銭]]と共に[[江戸時代の三貨制度|三貨制度]]の一角を担い、当時は'''銀'''と呼ばれていた。[[江戸時代]]には、主に[[大坂]]を中心とした[[西日本]]および[[北陸]]、[[東北]]と広域に亘って流通した。
=== 秤量貨幣 ===
額面は[[天秤]]による量目の実測値で、商取引において銀何[[貫]]、銀何匁と表記される[[銀目]]取引の通貨単位であった。また賞賜目的には43匁を銀一枚とする単位が用いられ、これが丁銀の量目の目安とされた<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p85-86.]]</ref>。なお、当時用いられた[[分銅]]の質量単位は「[[両]]」であったが、小判の通貨単位との混同を避けるため「両」は用いられず「匁」が銀の通貨単位であった。一方[[中国]]では、当時秤量銀貨([[銀錠]])の額面単位に「両([[:zh:两|テール]])」を用いていた。
丁銀は額面の記載されていない秤量貨幣で、本来は使用のごとに量目を量る必要があるが、実際に取引の度に秤量して用いたのは[[豆板銀]](小玉銀)だけであり、丁銀はこれに小玉銀を掛け足して五百目包(1865g)など[[包銀]]の形で用いられた<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p124.]]</ref>。これは、丁銀と同品位の少額貨幣である豆板銀を合わせて一定の量目([[恩賞]]および献上用には銀一枚:43匁、商取引用には五百目など)にし、紙に包んで封印したものである。銀数十匁にもなる丁銀は日常生活には高額過ぎ、例えば四十目(149.2g)の慶長丁銀であれば米2~3[[石 (単位)|石]]を入手する購買力を持っており、[[財布]]に入れて使用するような性質のものではなかった。それゆえ豆板銀と異なり包封していない裸銀として日常の支払いに用いられることはまず無かった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p124-143.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p214-219.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p117-118.]]</ref><ref>[[#Zoheikyoku1940|造幣局(1940), p39.]]</ref>。
[[秤量銀貨]]の量目を定め、包封することは両替商の重要な仕事のひとつで、諸[[藩]]における[[年貢]]米の売り上げ、物品購入代金の管理を任命された両替商、および[[天領]]である石見銀山、[[生野銀山]]などで産出される上納灰吹銀の量目を掛け改めた役職は'''[[掛屋]]'''(かけや)とも呼ばれた。
== 略史 ==
江戸時代以前には、[[灰吹銀]]および極印銀が、鋳造者である富商や両替商の極印によって流通した。また、当時は切り遣いの慣行が見られた。これらが「地方銀」と呼ばれる[[領国貨幣]]である。やがて、灰吹銀を[[譲葉]]のような形状に叩き伸ばして極印を打った銀貨が登場した。[[16世紀]]中ごろから[[銀山]]の開発および[[灰吹法]]の普及により国内の銀の産出が急増し始め、'''銀屋'''(かなや/かねや)あるいは'''銀吹屋'''(かねふきや)と呼ばれた[[銀]][[地金]]の売買および[[精錬]]などを手掛ける者が現れ、後の[[銀座 (歴史)|銀座]]および[[両替商]]の前身となった<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p85-86.]]</ref>。[[堺市|堺]]の南鐐座の[[銀細工師]][[湯浅作兵衛]]らは諸国の灰吹銀を集め極印を打って売買していたが、[[銀座 (歴史)#伏見銀座|伏見銀座]]設立前に[[徳川家康|家康]]の上覧に供するための丁銀を試鋳した<ref name="Kusama1815">[[#Kusama1815|草間(1815), p555-556.]]</ref><ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p83-87.]]</ref><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p53-54.]]</ref><ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p86-87.]]</ref>。この時代のものは'''古丁銀'''(こちょうぎん)とよばれる。またこれらを[[貨幣の切断|切り遣い]]したものは'''切銀'''(きりぎん)と呼ばれる。
極印銀および古丁銀の銀品位は各地の[[銀山]]により不定であったが、おおむね90%以上であった。中でも[[石見銀山]]産出の銀で作られた、石州銀(ソーマ銀)(佐摩)は良質で量的にも潤沢であったが、銀産地による品位には上下があった<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p99-102.]]</ref>。
丁銀や銀座が買い集めた灰吹銀などの銀品位は「灰吹買上ゲ法」とする、上銀<ref group="注釈">当時の精錬技術で最上級の純銀とされる南鐐あるいは花降銀。</ref>一貫目ならば、銀座において目方1.1倍の品位800/1000である慶長銀つまり一貫百目で買上げられ、これを「一[[割]]入レ」と称し、品位640/1000であれば、銀座において目方0.704倍の慶長銀つまり704匁の慶長銀で買上げられたため「二割九歩六引ヶ」(0.64 × 1.1 - 1 = -0.296)と称された<ref name="Taya">{{Cite journal|和書|author=田谷博吉 |date=1973 |url=https://doi.org/10.20624/sehs.39.3_261 |title=江戸時代貨幣表の再検討 |journal=社会経済史学 |ISSN=00380113 |publisher=社会経済史学会 |volume=39 |issue=3 |pages=261-279 |doi=10.20624/sehs.39.3_261 |naid=110001215475 |CRID=1390282680076449536}}</ref><ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p107-109.]]</ref><ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p89.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p108-109.]]</ref>。
=== 江戸時代の銀座 ===
[[慶長]]6年7月(1601年)には、伏見銀座から[[慶長丁銀]]が鋳造され、以後、[[江戸幕府]]によって品位を一定に定められた丁銀が発行され、[[元和 (日本)|元和]]年間以降は常に小額通貨である同品位の[[豆板銀]](小玉銀)を伴って発行された。銀座では常に鋳造された丁銀は灰吹法による糺吹(ただしふき)すなわち銀品位の抜き取り検査が行われ、規定の品位の基準を満たさない場合は吹き戻され作り直された<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p115-118.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p111.]]</ref>。
銀座は銀の売買、地金への極印打ち、すなわち貨幣の鋳造を許された[[御用達]]商人であり、銀座の経営方式には、私領銀山などから産出される灰吹銀(買灰吹銀)を買い集めて丁銀を鋳造し一部を運上として幕府に納める自家営業方式、あるいは天領銀山から産出される公儀灰吹銀を銀座が預り丁銀に鋳造して一部を分一銀(ぶいちぎん)として受取る御用達方式があった。しかし新産銀が減少し自家営業方式が困難となった元禄期以降は、御用達方式による分一銀が主な収入源となった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p38-40.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p98-99.]]</ref>。
=== 改鋳 ===
江戸時代初期は各地銀山からの産出が隆盛を極めたが[[寛永]]年間ごろから早くも陰りを見せその後銀の産出は衰退し<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p133.]]</ref>、その一方で中国などとの貿易取引で多量の銀が流出し、加えて元禄年間には出費の増大により幕府の財政は底をつき、[[元禄]]8年(1695年)には[[江戸幕府|幕府]]の財政再建の目的で[[貨幣改鋳|吹替え]]により銀品位が下げられた<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p145-167.]]</ref><ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p125-144.]]</ref><ref>[[#=Takizawa1996|滝沢(1996), p189-202.]]</ref>。
その後も宝永年間には更なる吹替えが立続けに行われる。中でも[[宝永永字丁銀|永字銀]]、[[宝永三ツ宝丁銀|三ツ宝銀]]、および[[宝永四ツ宝丁銀|四ツ宝銀]]の三品は、度重なる天災地変の救恤・御普請などで幕府の財政が深刻化したため[[荻原重秀]]が吹替えを建議した処、[[新井白石]]の計らいにより吹替えの議は中止となったものの、重秀の独断専行により鋳造されたもので将軍の正式な決裁も無く新銀通用の[[触|御触れ]]さえ出されることは無かった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p168-171.]]</ref><ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p204-207.]]</ref><ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p106-113.]]</ref><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p79-80.]]</ref>。
[[正徳 (日本)|正徳]]年間には大黒常是が復帰し小判と共に慶長の品位に戻されるが、一連の宝永銀の回収・改鋳の進捗は遅れ品位の異なる6種の銀が併用されることとなり銀品位に応じて区別通用され、この状態は最終的に元禄および宝永銀4品が通用停止となる享保7年(1722年)末まで続いた<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p269-281.]]</ref><ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p163-179.]]</ref><ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p206-218.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p269-271.]]</ref>。また、通貨縮小による米価下落のため、[[元文]]年間以降、銀品位を下げる吹替えが度々行われた<ref name="名前なし-1">[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p159.]]</ref>。
=== 定位銀貨の台頭 ===
江戸時代後半、[[明和]]年間の[[南鐐二朱銀]]の鋳造を皮切りに、[[文政]]年間、幕末の[[天保]]・[[嘉永]]年間を中心に[[一分銀]]、[[一朱銀]]など丁銀に対して含有銀量の劣る出目獲得を目的とした金貨単位の名目貨幣が多発され、文政年間以降はこのような定位貨幣の流通が大半を占めるようになった。一方で丁銀の流通は次第に衰退し銀目取引は藩札および手形で代用されるなど名目化した<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p230-246.]]</ref>。
また、吹替えの度に起こる旧銀の退蔵や定位銀貨への改鋳に伴う丁銀の払底、あるいは高額な丁銀ではなく小額の銀目取引の必要性から[[匁銭]]勘定が行われ、銀札に代えて銭匁札が発行された<ref>{{Cite journal|和書|author=鹿野嘉昭 |date=2009-07 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012474 |title=銭匁勘定と銭遣い : 江戸期幣制の特色を再検討する |journal=經濟學論叢 |ISSN=0387-3021 |publisher=同志社大學經濟學會 |volume=61 |issue=1 |pages=19-60 |doi=10.14988/pa.2017.0000012474 |naid=110008613809 |CRID=1390572174867023872}}</ref><ref>鹿野嘉昭, [http://www.osaka-ue.ac.jp/file/general/14214 〔書評〕藤本隆士『近世匁銭の研究』吉川弘文館、2014年]</ref>。
[[慶応]]4年5月(1868年)に、明治維新政府は[[銀目廃止令]]の布令を出し、丁銀は豆板銀と共に流通停止となった<ref name="名前なし-1"/><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p154-155.]]</ref>。[[明治]]元年10月、丁銀・豆板銀(明和[[五匁銀]]も含む)は純銀の含有量に応じて金貨単位(両・分・朱)で交換比率が定められ、両・分・朱単位の金貨や銀貨と交換された。その交換は明治7年([[1874年]])9月に終了し、その後は地金扱いとされたため、直接新貨(円・銭・厘)と交換されることはなかった。
{| style="white-space:nowrap"
|+ 丁銀・小玉銀、および定位銀貨の流通高<ref name="Okurasho1875">[[#Okurasho1875|大蔵省(1875).]]</ref>(定位銀貨は"金"一両を銀六十目に換算)<ref group="注釈">名目上の額面の総額は増加しても、実質上の純銀総使用量は左程増加していない。</ref>
|元禄8年(1695年)
|style="text-align:right"|157,059貫
|<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:24px; height:20px; background:#c0c0c0; text-align:center"></div>
|-
|宝永3年(1706年)
|style="text-align:right"|405,850貫
|<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:61px; height:20px; background:#c0c0c0"></div>
|-
|宝永7年(1710年)
|style="text-align:right"|394,175貫
|<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:59px; height:20px; background:#c0c0c0"></div>
|-
|正徳4年(1714年)
|style="text-align:right"|777,563貫
|<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:117px; height:20px; background:#c0c0c0"></div>
|-
|元文元年(1736年)
|style="text-align:right"|331,025貫
|<!-- 5段目 --><div style="float:left; width:50px; height:20px; background:#c0c0c0"></div>
|-
|安永元年(1772年)
|style="text-align:right"|526,783貫
|<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:79px; height:20px; background:#c0c0c0; text-align:center">丁銀</div>
|-
|文政元年(1818年)
|style="text-align:right"|882,760貫
|<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:79px; height:20px; background:#c0c0c0"></div><div style="float:left; width:53px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|天保3年(1832年)
|style="text-align:right"|1,389,688貫
|<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:57px; height:20px; background:#c0c0c0"></div><div style="float:left; width:151px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|安政元年(1854年)
|style="text-align:right"|1,466,100貫
|<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:35px; height:20px; background:#c0c0c0"></div><div style="float:left; width:185px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|万延元年(1860年)
|style="text-align:right"|3,254,747貫
|<!-- 10段目 --><div style="float:left; width:35px; height:20px; background:#c0c0c0"></div><div style="float:left; width:453px; height:20px; background:#dcdcdc"></div>
|-
|明治2年(1869年)
|style="text-align:right"|3,354,211貫
|<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:32px; height:20px; background:#c0c0c0"></div><div style="float:left; width:472px; height:20px; background:#dcdcdc; text-align:center">定位銀貨</div>
|}
== 古丁銀の種類 ==
古丁銀は以下のものが知られているが、いずれも現存極めて稀少である<ref name="zuroku" /><ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p75-77, 86-87.]]</ref><ref>『輝きふたたび 石見銀山展』 [[島根県立古代出雲歴史博物館]] 石見銀山資料館、[[2007年]]</ref>。
* '''萩古丁銀'''(はぎこちょうぎん):無銘の丁銀で'''石州丁銀'''(せきしゅうちょうぎん)ともいい、[[石州銀]]であるが[[長州藩]]に所蔵されていたため「萩」と称される。
* '''譲葉丁銀'''(ゆずりはちょうぎん):萩古丁銀より細長い譲葉の様な形状のもの。
* '''御取納丁銀'''(おとりおさめちょうぎん):譲葉丁銀に「御取納」の極印が打たれ、[[毛利氏]]が[[永禄]]3年(1560年)、[[正親町天皇]]の即位礼のとき献上したもの。
* '''文禄石州丁銀'''(ぶんろくせきしゅうちょうぎん):[[文禄]]2年(1593年)、[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]で[[豊臣秀吉]]が諸大名への賞賜用として鋳造させたもの。
* '''御公用丁銀'''(ごくようちょうぎん):「御公用」の極印が打たれ、毛利氏が朝廷に貢納したもの。
* '''博多御公用丁銀'''(はかたごくようちょうぎん):「御公用」「文禄二中山与左衛門」の極印が打たれ、文禄の役の際、豊臣秀吉が鋳造させたとされる。
* '''天又一丁銀'''(てんまたいちちょうぎん):文禄2年(1593年)鋳造で山奉行、天野又衛門および[[周防国|周防]]の「一の坂銀山」を指すとされる。
* '''小銀'''(しょうぎん):譲葉丁銀に「小銀」の極印が打たれる。
* '''八福丁銀'''(はちふくちょうぎん):横書きの「福八」の極印が打たれる。
* '''大与大丁銀'''(だいよだいちょうぎん):「大与大([[花押]])」の極印が打たれる。
* '''菊一文字印銀'''(きくいちもんじいんぎん):慶長3年(1598年)ごろに[[堺]]の南鐐座職人により慶長丁銀の鋳造にあたり、家康の上覧に供されたもの。
* '''夷一文字印銀'''(えびすいちもんじいんぎん):南鐐座職人により慶長丁銀の鋳造にあたり、家康の上覧に供されたもの。
* '''括袴丁銀'''(くくりはかまちょうぎん):南鐐座の湯浅作兵衛が慶長丁銀の鋳造にあたり、家康の上覧に供され選定されたもので、[[大黒天|大黒]]の[[袴]]の裾が括られている。
* '''澤瀉丁銀'''(おもだかちょうぎん):湯浅作兵衛が慶長丁銀の発行に先立って試鋳したものと推定され、「常是」、「寳」および「大黒像」に加えて[[家紋の一覧#沢瀉紋(面高)|沢瀉紋]]の極印が打たれる。
== 江戸時代に鋳造された丁銀 ==
括弧内は発行年、鋳造量、銀含有率(規定)。鋳造量には豆板銀を含む<ref name="Okurasho1875" /><ref name="Taya1963-41">[[#Taya1963|田谷(1963), p41, 170, 269, 287, 388, 402, 443.]]</ref><ref>佐藤治左衛門 『貨幣秘録』 1843年</ref><ref>[[勝海舟]] 『吹塵録』 1887年</ref>。
=== 日本国内一般流通用 ===
* '''[[慶長丁銀]]'''([[慶長]]6年7月(1601年)、1,200,000[[貫]](推定値)、80%)
* '''[[元禄丁銀]]'''([[元禄]]8年9月(1695年)、405,850貫余、64%)
* '''[[宝永二ツ宝丁銀]]'''([[宝永]]3年7月(1706年)、278,130貫余、50%)
* '''[[宝永永字丁銀]]'''(宝永7年3月(1710年)、5,836貫余、40%)
* '''[[宝永三ツ宝丁銀]]'''(宝永7年4月(1710年)、370,487貫余、32%)
* '''[[宝永四ツ宝丁銀]]'''([[正徳 (日本)|正徳]]元年8月(1711年)、401,240貫余、20%)
* '''[[享保丁銀]]'''('''正徳丁銀''')(正徳4年8月(1714年)、331,420貫余、80%)
* '''[[元文丁銀]]'''([[元文]]元年6月(1736年)、525,465貫900匁、46%)
* '''[[文政丁銀]]'''([[文政]]3年5月(1820年)、224,981貫900匁、36%)
* '''[[天保丁銀]]'''([[天保]]8年11月(1837年)、182,108貫、26%)
* '''[[安政丁銀]]'''([[安政]]6年12月(1859年)、102,907貫、13%〔[[ママ_(引用)|ママ]]〕14%)
{| style="white-space:nowrap"
|+ 丁銀・小玉銀の規定品位<ref group="注釈">「一割二歩引ヶ」など銀座関係文書の記録に基く品位であり、分析品位ではない。</ref>
|慶長銀
|style="text-align:right"|(1601年)
|<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:240px; height:20px; background:#dcdcdc; text-align:center">[[銀]]</div><div style="float:left; width:60px; height:20px; background:#ffa07a; text-align:center">[[銅]]</div>
|-
|元字銀
|style="text-align:right"|(1695年)
|<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:192px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:108px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|-
|二ツ宝銀
|style="text-align:right"|(1706年)
|<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:150px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:150px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|-
|永字銀
|style="text-align:right"|(1710年)
|<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:120px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:180px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|-
|三ツ宝銀
|style="text-align:right"|(1710年)
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|-
|四ツ宝銀
|style="text-align:right"|(1711年)
|<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:60px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:240px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|-
|正徳銀
|style="text-align:right"|(1714年)
|<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:240px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:60px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|-
|文字銀
|style="text-align:right"|(1736年)
|<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:138px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:162px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|-
|新文字銀
|style="text-align:right"|(1820年)
|<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:108px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:192px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|-
|保字銀
|style="text-align:right"|(1837年)
|<!-- 10段目 --><div style="float:left; width:78px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:222px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|-
|政字銀
|style="text-align:right"|(1859年)
|<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:42px; height:20px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:258px; height:20px; background:#ffa07a"></div>
|}
=== 貿易取引、異国被下銀 ===
* '''[[人参代往古銀]]'''(宝永7年9月(1710年)、5,337貫156匁、80%)
* '''[[宝永正字丁銀]]'''(宝永7年(1710年)、40貫、80%)
== 外部リンク ==
[http://www.v-museum.pref.shimane.jp/special/vol06/coin/index.html しまねバーチャルミュージアム企画コーナー(石州丁銀)]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=草間直方 |title=三貨図彙 |edition= |series= |volume= |publisher= |date=1815 |isbn= |ref=Kusama1815}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳 |title=日本鉱山史の研究 |edition= |series= |volume= |publisher=[[岩波書店]] |date=1968 |isbn= |ref=Kobata1968}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄 |title=日本の貨幣の歴史 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1996 |isbn=978-4-642-06652-5 |ref=Takizawa1996}}
* {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄,西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省造幣局 |title=貨幣の生ひ立ち |edition= |series= |volume= |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1940 |isbn= |ref=Zoheikyoku1940}}
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省 |title=新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書 |edition= |series= |volume= |publisher=大蔵省 |date=1875 |isbn= |ref=Okurasho1875}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994141 近代デジタルライブラリー]
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
* {{Cite book|和書|editor=日本銀行調査局土屋喬雄 |title=図録 日本の貨幣・1, 2巻「近世幣制の成立」 |publisher=東洋経済新報社 |date=1972, 1973 |isbn= |ref=Zuroku1972}}
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国際通貨基金
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国際通貨基金(こくさいつうかききん、英語: International Monetary Fund, IMF)は、国際連合(国連)の専門機関の一つ。国際金融と為替相場の安定化を目的として設立された。本部はアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.。2018年現在、加盟国は189か国である。
加盟各国の中央銀行の取りまとめのような役割を負い、国際貿易の促進、加盟国の高水準の雇用と国民所得の増大、為替の安定などへの寄与を目的とする。具体的には、経常収支が悪化した加盟国への融資、為替相場と各国の為替政策の監視などを行っている。世界銀行と共に、国際金融秩序の根幹を成す。
1929年の世界恐慌は世界の経済システムに大打撃を与え、「金本位制」はほとんどの国で放棄された。国際金融や為替を管轄する国際機関は存在せず、これが経済混乱を助長する一因となった。各国間では通貨の切り下げ競争が起こり、一部の国は経済混乱を乗り切るために軍拡と侵略へと走り、第二次世界大戦が引き起こされた。こうしたことから、連合国の戦後構想の一環として、国際金融や為替について各国間の協力と調整を行う国際機関の設立が構想された。この組織をめぐってはイギリスのジョン・メイナード・ケインズの案とアメリカのハリー・ホワイトの案の二つが提出されたが、最終的な組織はホワイトの案に近いものとなった。
1944年7月、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ブレトンウッズにおいて、国際金融並びに為替相場の安定を目的として、国際連合の「金融・財政会議」が開催された。この会議において調印された「ブレトン・ウッズ協定」によって、第二次世界大戦後復興策の一環として、安定した通貨制度を確保するための国際通貨基金の設立が国際復興開発銀行と共に決定され、1945年12月27日に29か国で創設された。
1947年3月にIMF協定が発効し、実際の業務を開始した。また、国際連合と協定を結び、国際連合の専門機関となった。一方、ソビエト連邦はブレトン・ウッズ会議には参加したものの結局批准せず、ソ連および社会主義諸国は1949年に経済相互援助会議(COMECON)を設立して「ブレトン・ウッズ体制」の枠外に立つことになった。こうしたことからIMFの本部はアメリカの首都であるワシントンD.C.に置かれることになり、他と懸絶した経済力を持つアメリカの発言権が強い組織となった。
発足当初は外為市場で交換される通貨を物理的に輸送していた。これを見かねた欧州経済協力機構が1950年にヨーロッパ支払同盟をつくった。これは各月末で決済する外為取引用の手形交換制度である。1958年、十分なキャッシュフローを備えるかたちでヨーロッパ通貨協定に改組された。業務の遂行に欧州各国の承諾がいらなくなり、かわりに経済協力開発機構が指揮を担った。協定は1972年に終了し、IMFがその業務を継承した。
国際通貨基金は戦後の経済秩序の根幹をなし、IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)と呼ばれるこの経済体制下で西側諸国は徐々に繁栄していくようになった。この体制の根幹はアメリカが「金1オンスを35USドル」と定め、そのドルに各国がペッグして固定相場制を取るという変則的な金本位制によって成り立っていた。金本位制を取るアメリカ・ドルに各国通貨がペッグしていることから、この時期の通貨体制を「金・ドル本位制」とも呼ぶ。この時期のIMFは参加各国の為替自由化を主要な目標とし、国際収支の赤字を理由に為替制限ができるIMF14条国から、それができないIMF8条国への参加各国の移行を目指していた。この目標は西ヨーロッパ諸国においては1961年に、日本においては1964年に達成された。
しかしこの頃から、西ヨーロッパ諸国や日本は急速に経済発展し、一方のアメリカは経済的に低迷するようになった。このアメリカの相対的な経済優位の喪失は、市場からマイナスの評価を下され、アメリカから大量の金が流出するようになった。また、アメリカによるベトナム戦争の軍事介入は、アメリカの戦費を増大させ、アメリカの財政赤字をますます悪化させた。そして、世界において、アメリカ・ドルへの信頼がさらに低下していった。IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)が揺らぎ始めたのである。
こうした状況を改善するため、IMFは1969年の第一次協定改正によって、金やドル等の既存の準備資産を補完するための公的準備資産である「特別引出権(SDR)」を創設した。これにより、加盟国はそれまでのIMFに対する直接借入れに加え、他の加盟国からIMFが定める「自由利用可能通貨」(2018年現在はドル・ポンド・ユーロ・円・人民元)という通貨バスケットにある通貨を融通してもらうことが可能になったが、それでも、アメリカの貿易赤字と信認の低下は依然と続いた。アメリカからの金の流出も続いた。
そして、ついに、1971年8月15日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領は、アメリカ・ドルと金との兌換停止を電撃的に発表した。これにより、「金・ドル本位制」は崩壊した(詳細は「ニクソン・ショック」を参照)。これは同時にブレトン・ウッズ体制の崩壊をも意味していた。
このアメリカの発表を受けて、世界各国は新たな国際通貨体制を模索し、1971年12月18日、とりあえず、ドルと各国通貨との交換レート改定を柱とする「スミソニアン協定」を締結し、固定相場制の存続を図ろうとしたが、ドルの暴落は依然として止まらず、固定相場制は存続不可能となった。そして、世界各国は相次いで変動相場制を採用し、1973年にはスミソニアン体制は完全に崩壊することになった。この状況に対し、IMFは1976年に変動相場制の承認や金の公定価格の廃止を含んだ「キングストン合意」を採択し、1978年には発効した。世界経済は、変動相場制を基礎とする「キングストン体制」が新たに始まったのである。
1970年代中盤以降になると、発展途上国の経済・債務問題への対処がIMFの大きな目的の一つとなった。先進国への融資は1978年を最後としてほぼなくなり、発展途上国への融資がIMFの主要な目的の一つとなった。これは、戦後の復興が一段落つき、開発資金援助へと特化していた国際復興開発銀行および世界銀行グループと業務の重複を生むこととなった。
折から、第二次石油ショック後の資源価格の下落や1970年代の無理な産業開発戦略の影響で、1980年代に入ると中南米諸国やアフリカ諸国において債務危機が多発するようになった。
これを受け、IMFは発展途上国に救済融資を行った。それまでのIMFの融資条件はさして厳しいものではなかったが、この融資を行うに当たり、IMFは問題の根源は支払い能力ではなく資金の流動性にある、すなわち債務支払い能力がないわけではなく、一時的に資金繰りがショートしているだけであると考え、IMFは当該国の政府に緊縮財政政策を取らせて経常収支を改善するよう付帯条件をつけた。
発展途上国はIMFの勧告に従い、増税や政府支出削減、民営化、経済自由化、通貨切り下げなどを行った。こうした政策を総称して、「IMFの構造調整」と呼ぶ。このIMFの構造調整政策はラテンアメリカやアジア・アフリカの発展途上国を対象として広く行われたが、特にアフリカにおいては経済成長をもたらすことはなく、逆に経済の停滞、悪化を招いた。またこのプログラムにより、アフリカや南米、アジアなどの発展途上国では、雇用や教育、医療などにおいて後退や停滞が発生し、1987年には国際連合児童基金(UNICEF)は、このIMFの構造調整を厳しく批判している。同時期、ラテンアメリカにおいても債務危機が発生し、IMFによる構造調整が行われたが、これも経済成長をもたらすことなく失敗し、経済状況はさらに悪化した。
アフリカにおける構造調整策は、ただ単純に成功しなかったというだけではなく、政府開発援助を行う先進諸国が被援助国に構造調整政策の実施を前提条件として求めたことから、IMFと世界銀行の介入が非常に大きな意味を持つようになってしまい、内政不干渉の原則にはずれるとの批判の声も上がった。
一方、こうした構造調整に伴う痛みの大きさやそれに見合わない成果、既得権益との兼ね合い、そして当該国の行政能力そのものの低さなどから構造調整が遅々として進まない、あるいは政府ができる限り形式的な改革で済ませようとする事例も、特に1980年代には頻発した。しかしこうした抵抗に対し、1991年のケニアのように、IMFは構造調整の遅れた国に新規融資を差し止めるなどの措置を行い、構造調整の実施を強制した。
1980年代後半に入るとソビエト連邦の衰退が明らかになり、ペレストロイカの流れの中でIMFと東側諸国との関係は改善に向かった。そして1989年に東欧革命が勃発し社会主義体制が崩壊すると、これら諸国の市場主義経済化を支援し、経済的に立ち直らせることもIMFの重要な職務の一つとなった。1990年以降はソビエト連邦からの支援要請も相次ぐようになり、1991年末にソビエト連邦の崩壊が起きると、ロシア連邦をはじめとする独立国家共同体(CIS)諸国への支援がこれに加わった。IMFはこうした旧ソ連・東欧諸国に対し急進的な市場経済化、いわゆるショック療法を提案したが、インフレと緊縮財政によって国民生活は大きな打撃を受けた。この政策は全体的に成功したとは言えず、とくにロシアにおいては1998年にロシア財政危機を起こす原因の一つとなった。
1994年12月にはメキシコで資本収支危機が発生したものの、このときはIMFから180億ドルの融資が行われるなど各国が大規模支援を行ったため、速やかに経済は回復した。
1997年7月にタイでの通貨危機を皮切りに発生したアジア通貨危機において、IMFはタイ・インドネシア・韓国の3か国に対して支援を実施した。しかしこれらの諸国の経済の基礎的条件はそれほど悪いものではなく、急速な資本流出こそが問題であったのにそれと関係のない緊縮財政や構造改革などの政策を取ってしまったため信用収縮はさらに拡大し、この3か国は深刻な不況に見舞われた。これらの国々に対する厳しい貸し出し条件(コンディショナリティ)は、画一的な財政緊縮策や、対外収支の改善に直接関係しないガバナンス改革等が多く含まれていたこともあって後に多くの批判を招くこととなり、後のコンディショナリティ見直しへとつながることとなった。
2008年には、前年のアメリカのサブプライム住宅ローン危機に端を発し、9月のリーマン・ブラザーズの倒産(リーマン・ショック)に代表される世界金融危機が勃発し、IMFは金融危機に瀕した加盟国の支援を行った。こうした中で支援の原資となるIMFの資金基盤強化が急務となった。IMFの融資財源は原則的に加盟国が出資するクォータから賄うこととされているが、IMFの議決権はクォータ比例であるために増資交渉には時間がかかる。そのため、当面は加盟国からの借り入れによって資金基盤を拡大しつつ、同時並行で大規模な増資交渉が行われることとなった。2008年11月に開催された第1回G20サミットでは日本がIMFに対する1000億ドルの貸付を表明(2009年2月締結)。その後加盟国からIMFへの貸付による資金基盤拡大が国際的な議論の流れとなり、2009年9月の第3回G20サミットではIMFの資金基盤が最大7500億ドルまで拡大されたことが確認された。
2010年12月15日には、IMFのクォータ(出資額)総額を倍増する第14次クォータ一般見直し、及び全理事選任制への移行などのガバナンス改革のための第七次協定改正が総務会にて決議された(IMF2010年改革)。 しかし、2010年改革は、その発効のために投票権シェア85%以上を持つ113ヶ国以上の受諾が必要とされていたが、投票権シェア15%以上で実質的に拒否権を有する米国での国内承認の遅れから発効が大幅に遅れ、2016年1月26日にようやく発効した。
毎年秋に年次総会と呼ばれる世界銀行と合同の総務会を開催。また年2度の国際通貨金融委員会の開催も行っている。
総会(英語: World Bank IMF General Assembly)は、毎年秋に1回、世界銀行と合同で開催される。
国際通貨金融委員会(英語: International Monetary and Financial Committee、IMFC)は、年に2回開催される。
意思決定機関として総務会と理事会がある。
「英語: Board of governors(一般的に総務会と訳される)」は、各国につき1人の総務(財務大臣や中央銀行総裁など)と1人の総務代理で構成される最高意思決定機関で、年1回開催される。投票権は出資金の支払い比率に応じて与えられる。この出資金がIMFの財源であり、経済規模に応じて定められている。
「英語: Executive board(一般的に理事会と訳される)」は、24名の理事によるIMFの通常業務に関する執行機関。投票権の少ない国は複数国で一つの理事室を形成している。
理事は2016年現在24名で構成されている。理事はすべて加盟国によって選出される。
かつてはIMFの上位出資国五か国(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、日本)が任命理事を各国一人ずつ選任し、残りの加盟国が選出理事を投票で19名選出していたが、IMFの機構改革の一環として任命理事を廃止し、24名すべての理事を加盟国によって選出することとする第七次協定改正が行われた(2010年12月総務会決議、2016年1月26日発効)。
「英語: managing director(一般に専務理事と訳される)」は、理事会の議長と国際通貨基金の代表を務める。専務理事は理事会によって選出されることとなっている。世界銀行の総裁に米国出身者が選出されているのと同様、国際通貨基金の専務理事には欧州出身者の就任が慣例となっている。(また、理事が任命する副専務理事のうち、筆頭副専務理事はこれまで常に米国出身者が務めている。)なお、過去の選出過程では、カムドシュの後任として日本の榊原英資元財務官が、またストロスカーンの後任にメキシコ中央銀行のカルステンス総裁の起用が検討されたこともある。
IMFの融資財源の大半は、主に加盟国が払い込むクォータ(出資割当額)を原資としており、更に一部加盟国からの借り入れによってクォータ資金を補っている。低所得国向けの譲許的融資及び債務救済は、別途、拠出ベースの信託基金により賄われている。
IMFでの議決権は一国一票ではなく、下記のクォータ(出資額)による。各加盟国は基礎票(約750票)に加え、出資額100,000SDRごとに1票が与えられる。2010年のクォータ改革によって新興国の占める比率が大幅に高まり、BRICs4国は常時10か国入りした。出資比率は2018年1月現在下記の通り。現在第15次一般クォータ見直しの議論が進行中であり、2019年秋の年次総会までに見直しを完了することとしている。
日本は、1952年8月に第53番目の加盟国としてIMFに加盟。国内では財政法が改正され、国際通貨基金及び国際復興開発銀行への加盟に伴う措置に関する法律が施行された。その後、日本の経済力が上昇していく中で上記のとおり為替自由化が求められていくようになり、1964年(昭和39年)には国際収支の赤字を理由に為替制限ができる14条国から、それができない8条国へ移行した。
1965年(昭和40年)には、IMFについて2億2500万ドル(邦貨換算810億円)、国際復興開発銀行について1億660万ドル(邦貨換算383億7600万円)の追加出資。この負担金の拠出を理由に戦後初めて日本国債が発行された(当時は首相は佐藤栄作、日本銀行頭取は宇佐美洵)。1970年(昭和45年)には出資率の上昇により、任命理事を選出できるようになった。2006年(平成18年)には、小寺清が日本人として初の世銀・IMF合同開発委員会の事務局長となり、2010年まで4年間にわたりその職にあった。
2018年1月現在、日本はIMFへの第2位の出資国であり、単独で理事を選出している。総務(Governer)は財務大臣、総務代理(Alternate)は日本銀行総裁が担当。また、2021年12月現在4人在籍する副専務理事のうち、1人は日本の元財務官である岡村健司が務めている(2021年12月着任)。
なお1997年以降5代連続で、日本人から副専務理事が選出されている。ただし、2017年1月現在日本人職員は59名(全体の2.2%)に留まる。また、IMFアジア太平洋地域事務所が、アジア太平洋地域における窓口として、東京都千代田区内幸町に設置されている。
IMFは、国際通貨制度を監視するとともに、189の加盟国の経済及び金融部門政策のモニタリングを行う。サーベイランス(政策監視)と呼ばれるこの活動は、国際レベル及び国レベルで行なわれるが、この過程においてIMFは、安定性への考えうるリスクを明確にし、必要な政策調整について助言を行なう。これによりIMFは、各国間における財、サービス、及び資本の交換を促進し金融と経済の安定に必要な条件を確保することで経済成長を維持するという、国際通貨制度の主な目的の達成に貢献する。
IMF4条協議
IMFは、IMF協定第4条に基づき、原則年一回加盟国の経済状況、及び財政・金融・為替等の政策を評価するための調査を実施する(「IMF4条協議」)。エコノミストが加盟国を訪問し、加盟国政府・中央銀行と為替レート、金融、財政、金融部門に関する政策、及びマクロ・クリティカル(マクロ経済に決定的な意味を持つ)な構造改革を中心とした、経済・金融の状況に関する協議を行う(ミッション)。なお、多くの加盟国が、IMFミッションの終了の際に、スタッフによる声明を発表している。当局との議論を踏まえ、本部に戻った後スタッフは、IMF理事会での協議に向け報告書を提出。その後理事会の見解は加盟国当局に報告され、4 条協議と呼ばれるプロセスが終了する。現在ほぼ全ての加盟国が、理事会の見解の総括であるプレスリリースとIMFのスタッフ・レポートや関連分析の公表に同意しており、IMFのWebサイト上で公表されている。 4条協議報告書には加盟国経済の分析に加えて政策提言も記載されており、例えば、2017年の対日4条協議報告書においては、急速に進む高齢化と労働力人口の減少という課題を指摘し、賃金の伸びと生産性改善等のための構造改革への取り組み、持続的な金融緩和スタンスの維持、消費税の0.5%か1%ずつ15%までの引き上げ等の提言を行った。
マルチラテラル・サーベイランス
IMFは、個別国のサーベイランスに加え、世界及び地域レベルで経済情勢をモニタリングするとともに、加盟国の諸政策の世界経済への波及効果を分析する。マルチラテラル・サーベイランスは主に、定期的に発表される世界経済見通し (World Economic Outlook: WEO)、国際金融安定性報告書 (Global Financial Stability Repoort: GFSR)、および 財政モニター(Fiscal Monitor: FM)を通して行われる。WEOは、世界経済とその成長見通しに関する詳細な分析を提示し、世界的な金融の混乱のマクロ経済への影響といった問題に取り組むとともに、システミックな国や地域における経済政策・金融政策の国境を越える影響に特に焦点を当てながら、主な潜在的な世界的波及効果を評価する。GFSRは、世界の資本市場の情勢、そして金融の安定性にリスクをもたらす金融の不均衡や脆弱性を評価する。FMは、最新の中期的な財政見通しを提示するとともに、公共財政の情勢を評価する。このほかにも、金融システムで重要な位置を占める国や地域の対外ポジションを分析する対外セクター報告書(External Sector Report: ESR)や、G20財務大臣・中央銀行総裁会議/G20サミットへの経済状況の報告等、様々な形で分析を公表している。
IMFの融資は、対象国に対し財政緊縮策や構造改革などの厳しい貸出条件(コンディショナリティ)を付けるものの、その条件は経済の成長を目的としておらず、むしろ経常収支を均衡させるために国内の景気を冷却化させることを目的としている。また対象国の経済条件を無視して画一的な政策を押し付けるためにより経済状況が悪化することすらあり、しばしば批判の的となっている。IMFのコンディショナリティについては経済学者のジョセフ・E・スティグリッツなども批判を行っている。
2011年には、現役の専務理事であったドミニク・ストロス=カーンが女性強姦未遂容疑で米当局に逮捕され、この事は米国メディアで連日大きく取り上げられた。トップのストロスカーンの逮捕とあって、IMFの政策運営に空白が生じれば、財政危機が深刻化し、国債利回りが急上昇しているギリシャ問題、原油高騰を招いている中東・北アフリカ情勢への対応など、重要課題への対応が遅れることなどへ大きな懸念が高まった。
事件を受けて、ドミニク・ストロス=カーンは専務理事を辞任、クリスティーヌ・ラガルドが後任に選出された。しかし、後に被害を訴えた女性の証言の信憑性が低く、性犯罪の証明が困難との判断から、検察の訴追取り下げ申請が行われ、公訴は棄却されている。
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"text": "発足当初は外為市場で交換される通貨を物理的に輸送していた。これを見かねた欧州経済協力機構が1950年にヨーロッパ支払同盟をつくった。これは各月末で決済する外為取引用の手形交換制度である。1958年、十分なキャッシュフローを備えるかたちでヨーロッパ通貨協定に改組された。業務の遂行に欧州各国の承諾がいらなくなり、かわりに経済協力開発機構が指揮を担った。協定は1972年に終了し、IMFがその業務を継承した。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "国際通貨基金は戦後の経済秩序の根幹をなし、IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)と呼ばれるこの経済体制下で西側諸国は徐々に繁栄していくようになった。この体制の根幹はアメリカが「金1オンスを35USドル」と定め、そのドルに各国がペッグして固定相場制を取るという変則的な金本位制によって成り立っていた。金本位制を取るアメリカ・ドルに各国通貨がペッグしていることから、この時期の通貨体制を「金・ドル本位制」とも呼ぶ。この時期のIMFは参加各国の為替自由化を主要な目標とし、国際収支の赤字を理由に為替制限ができるIMF14条国から、それができないIMF8条国への参加各国の移行を目指していた。この目標は西ヨーロッパ諸国においては1961年に、日本においては1964年に達成された。",
"title": "沿革"
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"text": "しかしこの頃から、西ヨーロッパ諸国や日本は急速に経済発展し、一方のアメリカは経済的に低迷するようになった。このアメリカの相対的な経済優位の喪失は、市場からマイナスの評価を下され、アメリカから大量の金が流出するようになった。また、アメリカによるベトナム戦争の軍事介入は、アメリカの戦費を増大させ、アメリカの財政赤字をますます悪化させた。そして、世界において、アメリカ・ドルへの信頼がさらに低下していった。IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)が揺らぎ始めたのである。",
"title": "沿革"
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"text": "こうした状況を改善するため、IMFは1969年の第一次協定改正によって、金やドル等の既存の準備資産を補完するための公的準備資産である「特別引出権(SDR)」を創設した。これにより、加盟国はそれまでのIMFに対する直接借入れに加え、他の加盟国からIMFが定める「自由利用可能通貨」(2018年現在はドル・ポンド・ユーロ・円・人民元)という通貨バスケットにある通貨を融通してもらうことが可能になったが、それでも、アメリカの貿易赤字と信認の低下は依然と続いた。アメリカからの金の流出も続いた。",
"title": "沿革"
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"text": "そして、ついに、1971年8月15日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領は、アメリカ・ドルと金との兌換停止を電撃的に発表した。これにより、「金・ドル本位制」は崩壊した(詳細は「ニクソン・ショック」を参照)。これは同時にブレトン・ウッズ体制の崩壊をも意味していた。",
"title": "沿革"
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"text": "このアメリカの発表を受けて、世界各国は新たな国際通貨体制を模索し、1971年12月18日、とりあえず、ドルと各国通貨との交換レート改定を柱とする「スミソニアン協定」を締結し、固定相場制の存続を図ろうとしたが、ドルの暴落は依然として止まらず、固定相場制は存続不可能となった。そして、世界各国は相次いで変動相場制を採用し、1973年にはスミソニアン体制は完全に崩壊することになった。この状況に対し、IMFは1976年に変動相場制の承認や金の公定価格の廃止を含んだ「キングストン合意」を採択し、1978年には発効した。世界経済は、変動相場制を基礎とする「キングストン体制」が新たに始まったのである。",
"title": "沿革"
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"text": "1970年代中盤以降になると、発展途上国の経済・債務問題への対処がIMFの大きな目的の一つとなった。先進国への融資は1978年を最後としてほぼなくなり、発展途上国への融資がIMFの主要な目的の一つとなった。これは、戦後の復興が一段落つき、開発資金援助へと特化していた国際復興開発銀行および世界銀行グループと業務の重複を生むこととなった。",
"title": "沿革"
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"text": "折から、第二次石油ショック後の資源価格の下落や1970年代の無理な産業開発戦略の影響で、1980年代に入ると中南米諸国やアフリカ諸国において債務危機が多発するようになった。",
"title": "沿革"
},
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"text": "これを受け、IMFは発展途上国に救済融資を行った。それまでのIMFの融資条件はさして厳しいものではなかったが、この融資を行うに当たり、IMFは問題の根源は支払い能力ではなく資金の流動性にある、すなわち債務支払い能力がないわけではなく、一時的に資金繰りがショートしているだけであると考え、IMFは当該国の政府に緊縮財政政策を取らせて経常収支を改善するよう付帯条件をつけた。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "発展途上国はIMFの勧告に従い、増税や政府支出削減、民営化、経済自由化、通貨切り下げなどを行った。こうした政策を総称して、「IMFの構造調整」と呼ぶ。このIMFの構造調整政策はラテンアメリカやアジア・アフリカの発展途上国を対象として広く行われたが、特にアフリカにおいては経済成長をもたらすことはなく、逆に経済の停滞、悪化を招いた。またこのプログラムにより、アフリカや南米、アジアなどの発展途上国では、雇用や教育、医療などにおいて後退や停滞が発生し、1987年には国際連合児童基金(UNICEF)は、このIMFの構造調整を厳しく批判している。同時期、ラテンアメリカにおいても債務危機が発生し、IMFによる構造調整が行われたが、これも経済成長をもたらすことなく失敗し、経済状況はさらに悪化した。",
"title": "沿革"
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"text": "アフリカにおける構造調整策は、ただ単純に成功しなかったというだけではなく、政府開発援助を行う先進諸国が被援助国に構造調整政策の実施を前提条件として求めたことから、IMFと世界銀行の介入が非常に大きな意味を持つようになってしまい、内政不干渉の原則にはずれるとの批判の声も上がった。",
"title": "沿革"
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{
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"text": "一方、こうした構造調整に伴う痛みの大きさやそれに見合わない成果、既得権益との兼ね合い、そして当該国の行政能力そのものの低さなどから構造調整が遅々として進まない、あるいは政府ができる限り形式的な改革で済ませようとする事例も、特に1980年代には頻発した。しかしこうした抵抗に対し、1991年のケニアのように、IMFは構造調整の遅れた国に新規融資を差し止めるなどの措置を行い、構造調整の実施を強制した。",
"title": "沿革"
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"text": "1980年代後半に入るとソビエト連邦の衰退が明らかになり、ペレストロイカの流れの中でIMFと東側諸国との関係は改善に向かった。そして1989年に東欧革命が勃発し社会主義体制が崩壊すると、これら諸国の市場主義経済化を支援し、経済的に立ち直らせることもIMFの重要な職務の一つとなった。1990年以降はソビエト連邦からの支援要請も相次ぐようになり、1991年末にソビエト連邦の崩壊が起きると、ロシア連邦をはじめとする独立国家共同体(CIS)諸国への支援がこれに加わった。IMFはこうした旧ソ連・東欧諸国に対し急進的な市場経済化、いわゆるショック療法を提案したが、インフレと緊縮財政によって国民生活は大きな打撃を受けた。この政策は全体的に成功したとは言えず、とくにロシアにおいては1998年にロシア財政危機を起こす原因の一つとなった。",
"title": "沿革"
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"text": "1994年12月にはメキシコで資本収支危機が発生したものの、このときはIMFから180億ドルの融資が行われるなど各国が大規模支援を行ったため、速やかに経済は回復した。",
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"text": "1997年7月にタイでの通貨危機を皮切りに発生したアジア通貨危機において、IMFはタイ・インドネシア・韓国の3か国に対して支援を実施した。しかしこれらの諸国の経済の基礎的条件はそれほど悪いものではなく、急速な資本流出こそが問題であったのにそれと関係のない緊縮財政や構造改革などの政策を取ってしまったため信用収縮はさらに拡大し、この3か国は深刻な不況に見舞われた。これらの国々に対する厳しい貸し出し条件(コンディショナリティ)は、画一的な財政緊縮策や、対外収支の改善に直接関係しないガバナンス改革等が多く含まれていたこともあって後に多くの批判を招くこととなり、後のコンディショナリティ見直しへとつながることとなった。",
"title": "沿革"
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{
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"text": "2008年には、前年のアメリカのサブプライム住宅ローン危機に端を発し、9月のリーマン・ブラザーズの倒産(リーマン・ショック)に代表される世界金融危機が勃発し、IMFは金融危機に瀕した加盟国の支援を行った。こうした中で支援の原資となるIMFの資金基盤強化が急務となった。IMFの融資財源は原則的に加盟国が出資するクォータから賄うこととされているが、IMFの議決権はクォータ比例であるために増資交渉には時間がかかる。そのため、当面は加盟国からの借り入れによって資金基盤を拡大しつつ、同時並行で大規模な増資交渉が行われることとなった。2008年11月に開催された第1回G20サミットでは日本がIMFに対する1000億ドルの貸付を表明(2009年2月締結)。その後加盟国からIMFへの貸付による資金基盤拡大が国際的な議論の流れとなり、2009年9月の第3回G20サミットではIMFの資金基盤が最大7500億ドルまで拡大されたことが確認された。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "2010年12月15日には、IMFのクォータ(出資額)総額を倍増する第14次クォータ一般見直し、及び全理事選任制への移行などのガバナンス改革のための第七次協定改正が総務会にて決議された(IMF2010年改革)。 しかし、2010年改革は、その発効のために投票権シェア85%以上を持つ113ヶ国以上の受諾が必要とされていたが、投票権シェア15%以上で実質的に拒否権を有する米国での国内承認の遅れから発効が大幅に遅れ、2016年1月26日にようやく発効した。",
"title": "沿革"
},
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"text": "毎年秋に年次総会と呼ばれる世界銀行と合同の総務会を開催。また年2度の国際通貨金融委員会の開催も行っている。",
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},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "総会(英語: World Bank IMF General Assembly)は、毎年秋に1回、世界銀行と合同で開催される。",
"title": "主要会議"
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"text": "国際通貨金融委員会(英語: International Monetary and Financial Committee、IMFC)は、年に2回開催される。",
"title": "主要会議"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "意思決定機関として総務会と理事会がある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "「英語: Board of governors(一般的に総務会と訳される)」は、各国につき1人の総務(財務大臣や中央銀行総裁など)と1人の総務代理で構成される最高意思決定機関で、年1回開催される。投票権は出資金の支払い比率に応じて与えられる。この出資金がIMFの財源であり、経済規模に応じて定められている。",
"title": "構成"
},
{
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"text": "「英語: Executive board(一般的に理事会と訳される)」は、24名の理事によるIMFの通常業務に関する執行機関。投票権の少ない国は複数国で一つの理事室を形成している。",
"title": "構成"
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{
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"text": "理事は2016年現在24名で構成されている。理事はすべて加盟国によって選出される。",
"title": "幹部"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "かつてはIMFの上位出資国五か国(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、日本)が任命理事を各国一人ずつ選任し、残りの加盟国が選出理事を投票で19名選出していたが、IMFの機構改革の一環として任命理事を廃止し、24名すべての理事を加盟国によって選出することとする第七次協定改正が行われた(2010年12月総務会決議、2016年1月26日発効)。",
"title": "幹部"
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{
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"text": "「英語: managing director(一般に専務理事と訳される)」は、理事会の議長と国際通貨基金の代表を務める。専務理事は理事会によって選出されることとなっている。世界銀行の総裁に米国出身者が選出されているのと同様、国際通貨基金の専務理事には欧州出身者の就任が慣例となっている。(また、理事が任命する副専務理事のうち、筆頭副専務理事はこれまで常に米国出身者が務めている。)なお、過去の選出過程では、カムドシュの後任として日本の榊原英資元財務官が、またストロスカーンの後任にメキシコ中央銀行のカルステンス総裁の起用が検討されたこともある。",
"title": "幹部"
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{
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"text": "IMFの融資財源の大半は、主に加盟国が払い込むクォータ(出資割当額)を原資としており、更に一部加盟国からの借り入れによってクォータ資金を補っている。低所得国向けの譲許的融資及び債務救済は、別途、拠出ベースの信託基金により賄われている。",
"title": "出資額と議決権"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "IMFでの議決権は一国一票ではなく、下記のクォータ(出資額)による。各加盟国は基礎票(約750票)に加え、出資額100,000SDRごとに1票が与えられる。2010年のクォータ改革によって新興国の占める比率が大幅に高まり、BRICs4国は常時10か国入りした。出資比率は2018年1月現在下記の通り。現在第15次一般クォータ見直しの議論が進行中であり、2019年秋の年次総会までに見直しを完了することとしている。",
"title": "出資額と議決権"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本は、1952年8月に第53番目の加盟国としてIMFに加盟。国内では財政法が改正され、国際通貨基金及び国際復興開発銀行への加盟に伴う措置に関する法律が施行された。その後、日本の経済力が上昇していく中で上記のとおり為替自由化が求められていくようになり、1964年(昭和39年)には国際収支の赤字を理由に為替制限ができる14条国から、それができない8条国へ移行した。",
"title": "日本とIMFの関係"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1965年(昭和40年)には、IMFについて2億2500万ドル(邦貨換算810億円)、国際復興開発銀行について1億660万ドル(邦貨換算383億7600万円)の追加出資。この負担金の拠出を理由に戦後初めて日本国債が発行された(当時は首相は佐藤栄作、日本銀行頭取は宇佐美洵)。1970年(昭和45年)には出資率の上昇により、任命理事を選出できるようになった。2006年(平成18年)には、小寺清が日本人として初の世銀・IMF合同開発委員会の事務局長となり、2010年まで4年間にわたりその職にあった。",
"title": "日本とIMFの関係"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2018年1月現在、日本はIMFへの第2位の出資国であり、単独で理事を選出している。総務(Governer)は財務大臣、総務代理(Alternate)は日本銀行総裁が担当。また、2021年12月現在4人在籍する副専務理事のうち、1人は日本の元財務官である岡村健司が務めている(2021年12月着任)。",
"title": "日本とIMFの関係"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお1997年以降5代連続で、日本人から副専務理事が選出されている。ただし、2017年1月現在日本人職員は59名(全体の2.2%)に留まる。また、IMFアジア太平洋地域事務所が、アジア太平洋地域における窓口として、東京都千代田区内幸町に設置されている。",
"title": "日本とIMFの関係"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "IMFは、国際通貨制度を監視するとともに、189の加盟国の経済及び金融部門政策のモニタリングを行う。サーベイランス(政策監視)と呼ばれるこの活動は、国際レベル及び国レベルで行なわれるが、この過程においてIMFは、安定性への考えうるリスクを明確にし、必要な政策調整について助言を行なう。これによりIMFは、各国間における財、サービス、及び資本の交換を促進し金融と経済の安定に必要な条件を確保することで経済成長を維持するという、国際通貨制度の主な目的の達成に貢献する。",
"title": "IMFのサーベイランス"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "IMF4条協議",
"title": "IMFのサーベイランス"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "IMFは、IMF協定第4条に基づき、原則年一回加盟国の経済状況、及び財政・金融・為替等の政策を評価するための調査を実施する(「IMF4条協議」)。エコノミストが加盟国を訪問し、加盟国政府・中央銀行と為替レート、金融、財政、金融部門に関する政策、及びマクロ・クリティカル(マクロ経済に決定的な意味を持つ)な構造改革を中心とした、経済・金融の状況に関する協議を行う(ミッション)。なお、多くの加盟国が、IMFミッションの終了の際に、スタッフによる声明を発表している。当局との議論を踏まえ、本部に戻った後スタッフは、IMF理事会での協議に向け報告書を提出。その後理事会の見解は加盟国当局に報告され、4 条協議と呼ばれるプロセスが終了する。現在ほぼ全ての加盟国が、理事会の見解の総括であるプレスリリースとIMFのスタッフ・レポートや関連分析の公表に同意しており、IMFのWebサイト上で公表されている。 4条協議報告書には加盟国経済の分析に加えて政策提言も記載されており、例えば、2017年の対日4条協議報告書においては、急速に進む高齢化と労働力人口の減少という課題を指摘し、賃金の伸びと生産性改善等のための構造改革への取り組み、持続的な金融緩和スタンスの維持、消費税の0.5%か1%ずつ15%までの引き上げ等の提言を行った。",
"title": "IMFのサーベイランス"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "マルチラテラル・サーベイランス",
"title": "IMFのサーベイランス"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "IMFは、個別国のサーベイランスに加え、世界及び地域レベルで経済情勢をモニタリングするとともに、加盟国の諸政策の世界経済への波及効果を分析する。マルチラテラル・サーベイランスは主に、定期的に発表される世界経済見通し (World Economic Outlook: WEO)、国際金融安定性報告書 (Global Financial Stability Repoort: GFSR)、および 財政モニター(Fiscal Monitor: FM)を通して行われる。WEOは、世界経済とその成長見通しに関する詳細な分析を提示し、世界的な金融の混乱のマクロ経済への影響といった問題に取り組むとともに、システミックな国や地域における経済政策・金融政策の国境を越える影響に特に焦点を当てながら、主な潜在的な世界的波及効果を評価する。GFSRは、世界の資本市場の情勢、そして金融の安定性にリスクをもたらす金融の不均衡や脆弱性を評価する。FMは、最新の中期的な財政見通しを提示するとともに、公共財政の情勢を評価する。このほかにも、金融システムで重要な位置を占める国や地域の対外ポジションを分析する対外セクター報告書(External Sector Report: ESR)や、G20財務大臣・中央銀行総裁会議/G20サミットへの経済状況の報告等、様々な形で分析を公表している。",
"title": "IMFのサーベイランス"
},
{
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"tag": "p",
"text": "IMFの融資は、対象国に対し財政緊縮策や構造改革などの厳しい貸出条件(コンディショナリティ)を付けるものの、その条件は経済の成長を目的としておらず、むしろ経常収支を均衡させるために国内の景気を冷却化させることを目的としている。また対象国の経済条件を無視して画一的な政策を押し付けるためにより経済状況が悪化することすらあり、しばしば批判の的となっている。IMFのコンディショナリティについては経済学者のジョセフ・E・スティグリッツなども批判を行っている。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2011年には、現役の専務理事であったドミニク・ストロス=カーンが女性強姦未遂容疑で米当局に逮捕され、この事は米国メディアで連日大きく取り上げられた。トップのストロスカーンの逮捕とあって、IMFの政策運営に空白が生じれば、財政危機が深刻化し、国債利回りが急上昇しているギリシャ問題、原油高騰を招いている中東・北アフリカ情勢への対応など、重要課題への対応が遅れることなどへ大きな懸念が高まった。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "事件を受けて、ドミニク・ストロス=カーンは専務理事を辞任、クリスティーヌ・ラガルドが後任に選出された。しかし、後に被害を訴えた女性の証言の信憑性が低く、性犯罪の証明が困難との判断から、検察の訴追取り下げ申請が行われ、公訴は棄却されている。",
"title": "不祥事"
}
] |
国際通貨基金は、国際連合(国連)の専門機関の一つ。国際金融と為替相場の安定化を目的として設立された。本部はアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.。2018年現在、加盟国は189か国である。 加盟各国の中央銀行の取りまとめのような役割を負い、国際貿易の促進、加盟国の高水準の雇用と国民所得の増大、為替の安定などへの寄与を目的とする。具体的には、経常収支が悪化した加盟国への融資、為替相場と各国の為替政策の監視などを行っている。世界銀行と共に、国際金融秩序の根幹を成す。
|
{{Infobox UN
|name = 国際通貨基金
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|ru name = Международный валютный фонд
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|caption = シンボルマーク
|image2 = Headquarters of the International Monetary Fund (Washington, DC).jpg
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|caption2 = IMF本部
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|acronyms = IMF
|head = {{仮リンク|クリスタリナ・ゲオルギエヴァ|en|Kristalina Georgieva}}専務理事
|status = 活動中
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|established = [[1945年]][[12月27日]]<ref name="名前なし-1">「世界地理大百科事典1 国際連合」p405 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店</ref>
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|website = [https://www.imf.org/ IMF]{{en icon}}
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'''国際通貨基金'''(こくさいつうかききん、{{Lang-en|International Monetary Fund, '''IMF'''}})は、[[国際連合]](国連)の[[専門機関]]の一つ。[[国際金融市場|国際金融]]と[[為替]]相場の安定化を目的として設立された。本部は[[アメリカ合衆国]]の首都[[ワシントンD.C.]]。2018年現在、加盟国は189か国である<ref>http://www.imf.org/external/np/sec/memdir/members.aspx "IMF Members' Quotas and Voting Power, and IMF Board of Governors" 2018年1月 2018年1月5日閲覧</ref>。
加盟各国の[[中央銀行]]の取りまとめのような役割を負い、[[国際貿易]]の促進、加盟国の高水準の雇用と国民所得の増大、[[為替]]の安定などへの寄与を目的とする。具体的には、[[経常収支]]が悪化した加盟国への融資、為替相場と各国の為替政策の監視などを行っている。[[世界銀行]]と共に、国際金融秩序の根幹を成す。
== 沿革 ==
=== ブレトン・ウッズ体制 ===
[[1929年]]の[[世界恐慌]]は世界の経済システムに大打撃を与え、「[[金本位制]]」はほとんどの国で放棄された。国際金融や為替を管轄する国際機関は存在せず、これが経済混乱を助長する一因となった。各国間では通貨の切り下げ競争が起こり、一部の国は経済混乱を乗り切るために軍拡と侵略へと走り、[[第二次世界大戦]]が引き起こされた。こうしたことから、連合国の戦後構想の一環として、国際金融や為替について各国間の協力と調整を行う国際機関の設立が構想された。この組織をめぐってはイギリスの[[ジョン・メイナード・ケインズ]]の案とアメリカの[[ハリー・ホワイト]]の案の二つが提出されたが、最終的な組織はホワイトの案に近いものとなった。
[[1944年]][[7月]]、[[アメリカ合衆国]][[ニューハンプシャー州]][[ブレトンウッズ]]において、国際金融並びに為替相場の安定を目的として、[[国際連合]]の「[[金融]]・[[財政]]会議」が開催された。この会議において調印された「[[ブレトン・ウッズ協定]]」によって、第二次世界大戦後復興策の一環として、安定した[[通貨]]制度を確保するための国際通貨基金の設立が[[国際復興開発銀行]]と共に決定され、[[1945年]][[12月27日]]に29か国で創設された<ref>http://www.imf.org/external/about/histcoop.htm </ref><ref name="名前なし-1"/>。
[[1947年]]3月にIMF協定が発効し、実際の業務を開始した。また、[[国際連合]]と協定を結び、国際連合の[[国際連合の専門機関|専門機関]]となった。一方、[[ソビエト連邦]]はブレトン・ウッズ会議には参加したものの結局批准せず、ソ連および社会主義諸国は[[1949年]]に[[経済相互援助会議]](COMECON)を設立して「[[ブレトン・ウッズ体制]]」の枠外に立つことになった。こうしたことからIMFの本部はアメリカの首都であるワシントンD.C.に置かれることになり、他と懸絶した経済力を持つアメリカの発言権が強い組織となった。
発足当初は外為市場で交換される通貨を物理的に輸送していた。これを見かねた[[欧州経済協力機構]]が1950年に[[ヨーロッパ支払同盟]]をつくった。これは各月末で決済する外為取引用の[[手形交換所|手形交換制度]]である。1958年、十分な[[キャッシュフロー]]を備えるかたちで[[:en:European Monetary Agreement|ヨーロッパ通貨協定]]に改組された。業務の遂行に欧州各国の承諾がいらなくなり、かわりに[[経済協力開発機構]]が指揮を担った。協定は1972年に終了し、IMFがその業務を継承した。
国際通貨基金は戦後の経済秩序の根幹をなし、IMF体制([[ブレトン・ウッズ体制]])と呼ばれるこの経済体制下で西側諸国は徐々に繁栄していくようになった。この体制の根幹はアメリカが「金1[[トロイオンス|オンス]]を35[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]」と定め、そのドルに各国がペッグして[[固定相場制]]を取るという変則的な[[金本位制]]によって成り立っていた<ref>「南北・南南問題」(世界史リブレット56)p19-20 室井義雄 山川出版社 2009年9月25日3版18刷発行</ref>。[[金本位制]]を取るアメリカ・ドルに各国通貨がペッグしていることから、この時期の通貨体制を「金・ドル本位制」とも呼ぶ。この時期のIMFは参加各国の為替自由化を主要な目標とし、国際収支の赤字を理由に為替制限ができるIMF14条国から、それができないIMF8条国への参加各国の移行を目指していた。この目標は[[西ヨーロッパ]]諸国においては[[1961年]]に、日本においては1964年に達成された。
しかしこの頃から、西ヨーロッパ諸国や日本は急速に経済発展し、一方のアメリカは経済的に低迷するようになった。このアメリカの相対的な経済優位の喪失は、市場からマイナスの評価を下され、アメリカから大量の金が流出するようになった。また、アメリカによる[[ベトナム戦争]]の軍事介入は、アメリカの戦費を増大させ、アメリカの財政赤字をますます悪化させた。そして、世界において、アメリカ・ドルへの信頼がさらに低下していった。IMF体制([[ブレトン・ウッズ体制]])が揺らぎ始めたのである。
こうした状況を改善するため、IMFは[[1969年]]の第一次協定改正によって、金やドル等の既存の準備資産を補完するための公的準備資産である「[[特別引出権]](SDR)」を創設した。これにより、加盟国はそれまでのIMFに対する直接借入れに加え、他の加盟国からIMFが定める「自由利用可能通貨」(2018年現在はドル・ポンド・ユーロ・円・人民元)という通貨バスケットにある通貨を融通してもらうことが可能になったが、それでも、アメリカの貿易赤字と信認の低下は依然と続いた。アメリカからの金の流出も続いた。
そして、ついに、[[1971年]][[8月15日]]、アメリカの[[リチャード・ニクソン]]大統領は、アメリカ・ドルと金との兌換停止を電撃的に発表した。これにより、「金・ドル本位制」は崩壊した(詳細は「'''[[ニクソン・ショック]]'''」を参照)。これは同時に[[ブレトン・ウッズ体制]]の崩壊をも意味していた。
このアメリカの発表を受けて、世界各国は新たな国際通貨体制を模索し、1971年12月18日、とりあえず、ドルと各国通貨との交換レート改定を柱とする「[[スミソニアン協定]]」を締結し、[[固定相場制]]の存続を図ろうとしたが、ドルの暴落は依然として止まらず、固定相場制は存続不可能となった。そして、世界各国は相次いで[[変動相場制]]を採用し、[[1973年]]にはスミソニアン体制は完全に崩壊することになった。この状況に対し、IMFは[[1976年]]に変動相場制の承認や金の公定価格の廃止を含んだ「[[キングストン合意]]」<ref>[[キングストン (ジャマイカ)]]で合意されたのでこの名がある</ref>を採択し、1978年には発効した<ref>「国際機構 第四版」p177 家正治・小畑郁・桐山孝信編 世界思想社 2009年10月30日第1刷</ref>。世界経済は、変動相場制を基礎とする「キングストン体制」が新たに始まったのである。
=== ブレトン・ウッズ体制崩壊後 ===
1970年代中盤以降になると、発展途上国の経済・債務問題への対処がIMFの大きな目的の一つとなった<ref>「アフリカ経済論」p96 北川勝彦・高橋基樹編著 ミネルヴァ書房 2004年11月25日初版第1刷</ref>。先進国への融資は[[1978年]]を最後としてほぼなくなり<ref>「IMF(国際通貨基金)使命と誤算」p59 大田英明 中公新書 2009年11月25日発行</ref>、発展途上国への融資がIMFの主要な目的の一つとなった。これは、戦後の復興が一段落つき、開発資金援助へと特化していた国際復興開発銀行および世界銀行グループと業務の重複を生むこととなった。
折から、[[オイルショック#第2次|第二次石油ショック]]後の資源価格の下落や1970年代の無理な産業開発戦略の影響で、1980年代に入ると中南米諸国やアフリカ諸国において[[債務危機]]が多発するようになった。
これを受け、IMFは発展途上国に救済融資を行った。それまでのIMFの融資条件はさして厳しいものではなかった<ref>「IMF(国際通貨基金)使命と誤算」p62 大田英明 中公新書 2009年11月25日発行</ref>が、この融資を行うに当たり、IMFは問題の根源は支払い能力ではなく資金の流動性にある、すなわち債務支払い能力がないわけではなく、一時的に資金繰りがショートしているだけであると考え、IMFは当該国の政府に[[緊縮財政政策]]を取らせて経常収支を改善するよう付帯条件をつけた。
発展途上国はIMFの勧告に従い、増税や政府支出削減、民営化、経済自由化、通貨切り下げなどを行った<ref>「国際経済システム読本 国際通貨・貿易の今を考える」p134 野崎久和 梓出版社 2008年4月20日第1刷</ref>。こうした政策を総称して、「'''IMFの構造調整」'''と呼ぶ。このIMFの構造調整政策はラテンアメリカやアジア・アフリカの発展途上国を対象として広く行われたが、特にアフリカにおいては経済成長をもたらすことはなく、逆に経済の停滞、悪化を招いた<ref>「アフリカ経済論」p113 北川勝彦・高橋基樹編著 ミネルヴァ書房 2004年11月25日初版第1刷</ref>。またこのプログラムにより、アフリカや南米、アジアなどの発展途上国では、雇用や教育、医療などにおいて後退や停滞が発生し、[[1987年]]には[[国際連合児童基金]](UNICEF)は、このIMFの構造調整を厳しく批判している<ref>「アフリカ経済論」p103 北川勝彦・高橋基樹編著 ミネルヴァ書房 2004年11月25日初版第1刷</ref>。同時期、ラテンアメリカにおいても債務危機が発生し、IMFによる構造調整が行われたが、これも経済成長をもたらすことなく失敗し、経済状況はさらに悪化した<ref>「IMF(国際通貨基金)使命と誤算」p68-69 大田英明 中公新書 2009年11月25日発行</ref>。
アフリカにおける構造調整策は、ただ単純に成功しなかったというだけではなく、[[政府開発援助]]を行う先進諸国が被援助国に構造調整政策の実施を前提条件として求めた<ref>「ケニアを知るための55章」pp136 松田素二・[[津田みわ]]編著 明石書店 2012年7月1日初版第1刷</ref>ことから、IMFと世界銀行の介入が非常に大きな意味を持つようになってしまい、[[内政不干渉の原則]]にはずれるとの批判の声も上がった<ref>「アフリカ経済論」p102 北川勝彦・高橋基樹編著 ミネルヴァ書房 2004年11月25日初版第1刷</ref>。
一方、こうした構造調整に伴う痛みの大きさやそれに見合わない成果、既得権益との兼ね合い、そして当該国の行政能力そのものの低さなどから構造調整が遅々として進まない、あるいは政府ができる限り形式的な改革で済ませようとする事例も、特に1980年代には頻発した<ref>勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p119</ref>。しかしこうした抵抗に対し、[[1991年]]の[[ケニア]]のように、IMFは構造調整の遅れた国に新規融資を差し止めるなどの措置を行い、構造調整の実施を強制した<ref>「ケニアを知るための55章」pp137-138 松田素二・津田みわ編著 明石書店 2012年7月1日初版第1刷</ref>。
1980年代後半に入ると[[ソビエト連邦]]の衰退が明らかになり、[[ペレストロイカ]]の流れの中でIMFと[[東側諸国]]との関係は改善に向かった。そして[[1989年]]に[[東欧革命]]が勃発し社会主義体制が崩壊すると、これら諸国の市場主義経済化を支援し、経済的に立ち直らせることもIMFの重要な職務の一つとなった。1990年以降はソビエト連邦からの支援要請も相次ぐようになり、[[1991年]]末に[[ソビエト連邦の崩壊]]が起きると、[[ロシア連邦]]をはじめとする[[独立国家共同体]](CIS)諸国への支援がこれに加わった。IMFはこうした旧ソ連・東欧諸国に対し急進的な市場経済化、いわゆるショック療法を提案したが、インフレと緊縮財政によって国民生活は大きな打撃を受けた<ref>「IMF(国際通貨基金)使命と誤算」pp96 大田英明 中公新書 2009年11月25日発行</ref><ref>「現代国際関係の基礎と課題」内第2章「国際経済の構造」須賀周平 p38 建帛社 平成11年4月15日初版発行</ref>。この政策は全体的に成功したとは言えず、とくにロシアにおいては[[1998年]]に[[ロシア財政危機]]を起こす原因の一つとなった。
1994年12月にはメキシコで資本収支危機が発生したものの、このときはIMFから180億ドルの融資が行われる<ref>https://www.imf.org/External/japanese/pubs/ft/whatj.pdf 「国際通貨基金とは」p15 国際通貨基金 2018年9月15日閲覧</ref>など各国が大規模支援を行ったため、速やかに経済は回復した<ref>「IMF(国際通貨基金)使命と誤算」p76-77 大田英明 中公新書 2009年11月25日発行</ref>。
[[1997年]]7月に[[タイ王国|タイ]]での通貨危機を皮切りに発生した[[アジア通貨危機]]において、IMFはタイ・[[インドネシア]]・[[IMFによる韓国救済|韓国]]の3か国に対して支援を実施した。しかしこれらの諸国の経済の基礎的条件はそれほど悪いものではなく、急速な資本流出こそが問題であったのにそれと関係のない緊縮財政や構造改革などの政策を取ってしまったため信用収縮はさらに拡大し、この3か国は深刻な不況に見舞われた<ref>「国際経済システム読本 国際通貨・貿易の今を考える」p153 野崎久和 梓出版社 2008年4月20日第1刷</ref><ref>「IMF(国際通貨基金)使命と誤算」pp92-93 大田英明 中公新書 2009年11月25日発行</ref>。これらの国々に対する厳しい貸し出し条件(コンディショナリティ)は、画一的な財政緊縮策や、対外収支の改善に直接関係しないガバナンス改革等が多く含まれていたこともあって後に多くの批判を招くこととなり、後のコンディショナリティ見直しへとつながることとなった。
=== 金融危機後の資金基盤強化===
[[2008年]]には、前年のアメリカの[[サブプライム住宅ローン危機]]に端を発し、9月の[[リーマン・ブラザーズ]]の倒産([[リーマン・ショック]])に代表される[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]が勃発し、IMFは金融危機に瀕した加盟国の支援を行った。こうした中で支援の原資となるIMFの資金基盤強化が急務となった。IMFの融資財源は原則的に加盟国が出資するクォータから賄うこととされているが、IMFの議決権はクォータ比例であるために増資交渉には時間がかかる。そのため、当面は加盟国からの借り入れによって資金基盤を拡大しつつ、同時並行で大規模な増資交渉が行われることとなった。2008年11月に開催された第1回G20サミットでは日本がIMFに対する1000億ドルの貸付を表明<ref>http://www.kantei.go.jp/jp/asospeech/2008/11/15naigai.html 金融・世界経済に関する首脳会合内外記者会見 2018年1月5日閲覧</ref>(2009年2月締結)<ref>https://www.imf.org/en/News/Articles/2015/09/28/04/53/sonew021309a ”IMF Survey: IMF Signs $100 Billion Borrowing Agreement With Japan” 2009年2月13日 2018年1月5日閲覧</ref>。その後加盟国からIMFへの貸付による資金基盤拡大が国際的な議論の流れとなり、2009年9月の第3回G20サミットではIMFの資金基盤が最大7500億ドルまで拡大されたことが確認された。<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/g20/0909_seimei_ka.html 首脳声明 ピッツバーグ サミット (仮訳)2018年1月5日閲覧</ref>
2010年12月15日には、IMFのクォータ(出資額)総額を倍増する第14次クォータ一般見直し、及び全理事選任制への移行などのガバナンス改革のための第七次協定改正が総務会にて決議された(IMF2010年改革)。<ref name="名前なし-2">https://www.imf.org/external/japanese/np/exr/facts/changingj.htm 「ファクトシート 世界経済危機へのIMFの対応」国際通貨基金 2016年3月22日 2017年3月3日閲覧</ref> しかし、2010年改革は、その発効のために投票権シェア85%以上を持つ113ヶ国以上の受諾が必要とされていたが、投票権シェア15%以上で実質的に拒否権を有する米国での国内承認の遅れから発効が大幅に遅れ、2016年1月26日にようやく発効した。<ref>http://www.mof.go.jp/international_policy/imf/what_is_imf/press_release/imf_160128.htm 「国際通貨基金(IMF)における第14次増資と、第7次国際通貨基金協定改正が発効しました」 2016年1月28日 2018年1月5日閲覧</ref>
== 主要会議 ==
毎年秋に年次総会と呼ばれる世界銀行と合同の総務会を開催。また年2度の国際通貨金融委員会の開催も行っている。
'''総会'''({{lang-en|World Bank IMF General Assembly}})は、毎年秋に1回、[[世界銀行]]と合同で開催される。
'''国際通貨金融委員会'''({{lang-en|International Monetary and Financial Committee}}、IMFC)は、年に2回開催される。
== 構成 ==
意思決定機関として総務会と理事会がある。
「{{lang-en|'''Board of governors'''}}(一般的に'''総務会'''と訳される)」は、各国につき1人の総務([[財務大臣]]や[[中央銀行]][[総裁]]など)と1人の総務代理で構成される最高意思決定機関で、年1回開催される<ref name="名前なし-1"/>。投票権は出資金の支払い比率に応じて与えられる。この出資金がIMFの財源であり、経済規模に応じて定められている。
「{{lang-en|'''Executive board'''}}(一般的に'''理事会'''と訳される)」は、24名の理事によるIMFの通常業務に関する執行機関。投票権の少ない国は複数国で一つの理事室を形成している。<ref>http://www.imf.org/external/np/sec/memdir/eds.aspx IMF Executive Directors and Voting Power</ref>
== 幹部 ==
理事は2016年現在24名で構成されている<ref>https://www.imf.org/external/japanese/np/exr/facts/governj.htm 「ファクトシート IMFの意思決定」国際通貨基金 2016年6月28日 2017年3月3日閲覧</ref>。理事はすべて加盟国によって選出される。
かつてはIMFの上位出資国五か国([[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[日本]])が任命理事を各国一人ずつ選任し、残りの加盟国が選出理事を投票で19名選出していたが、IMFの機構改革の一環として任命理事を廃止し、24名すべての理事を加盟国によって選出することとする第七次協定改正が行われた(2010年12月総務会決議<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty177_02gai.html 『「理事会の改革に関する国際通貨基金協定の改正」について(略称:国際通貨基金協定の改正)』日本国外務省 平成23年3月 2017年3月3日閲覧</ref>、2016年1月26日発効<ref name="名前なし-2"/>)。
「{{lang-en|'''managing director'''}}(一般に'''専務理事'''と訳される)」は、理事会の議長と国際通貨基金の代表を務める。専務理事は理事会によって選出されることとなっている。<ref>http://www.imf.org/en/About/Factsheets/Managing-Director-Selection-Process</ref>[[世界銀行]]の総裁に[[アメリカ合衆国|米国]]出身者が選出されているのと同様、国際通貨基金の専務理事には[[ヨーロッパ|欧州]]出身者の就任が慣例となっている。(また、理事が任命する副専務理事のうち、筆頭副専務理事はこれまで常に米国出身者が務めている。)なお、過去の選出過程では、カムドシュの後任として日本の[[榊原英資]]元財務官が、またストロスカーンの後任に[[メキシコ中央銀行]]のカルステンス総裁の起用が検討されたこともある。
{| class="wikitable"
! 代
! colspan="2" | 専務理事
! 国
! 就任
! 退任
|-
! 1
| [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]
| {{仮リンク|カミーユ・ガット|en|Camille Gutt}}
| {{BEL}}
| 1946年5月6日
| 1951年5月5日
|-
! 2
| [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]
| {{仮リンク|イヴァル・ルース|en|Ivar Rooth}}
| rowspan="2" | {{SWE}}
| 1951年8月3日
| 1956年10月3日
|-
! 3
| [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]
| [[ペール・ヤコブソン]]
| 1956年11月21日
| 1963年5月5日
|-
! 4
| [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]
| {{仮リンク|ピエール=ポール・シュバイツァー|en|Pierre-Paul Schweitzer}}
| {{FRA}}
| 1963年9月1日
| 1973年8月31日
|-
! 5
| [[ファイル:Johan Witteveen.jpg|60px]]
| {{仮リンク|ヨハネス・ヴィトフェーン|en|Johan Witteveen}}
| {{NED}}
| 1973年9月1日
| 1978年6月16日
|-
! 6
| [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]
| {{仮リンク|ジャック・ド・ラロジエール|en|Jacques de Larosière}}
| rowspan="2" | {{FRA}}
| 1978年6月17日
| 1987年1月15日
|-
! 7
| [[ファイル:Camdessu.gif|68x68ピクセル]]
| {{仮リンク|ミシェル・カムドシュ|en|Michel Camdessus}}
| 1987年1月16日
| 2000年2月14日
|-
! 8
| [[ファイル:Horst Köhler.jpg|60px]]
| [[ホルスト・ケーラー]]
| {{DEU}}
| 2000年5月1日
| 2004年3月4日
|-
! 代行
| [[ファイル:Anne O. Krueger (2004).jpg|60px]]
| [[アン・クルーガー|アンネ・オズボーン・クリューガー]]
| {{USA}}
| 2004年3月4日
| 2004年6月7日
|-
! 9
| [[ファイル:RODRIGO RATO RT-8 01.JPG|60px]]
| {{仮リンク|ロドリーゴ・デ・ラト・イ・フィガレード|label=ロドリーゴ・ラト|en|Rodrigo Rato}}
| {{ESP}}
| 2004年6月7日
| 2007年10月31日
|-
! 10
| [[ファイル:Strauss-Kahn, Dominique (official portrait 2008).jpg|60px]]
| [[ドミニク・ストロス=カーン]]
| {{FRA}}
| 2007年11月1日
| 2011年5月18日
|-
! 代行
| [[ファイル:Lipsky, John (IMF).jpg|60px]]
| {{仮リンク|ジョン・リプスキー|en|John Lipsky}}
| {{USA}}
| 2011年5月18日
| 2011年7月5日
|-
! 11
| [[ファイル:UMP regional elections IlM 2010-02-18 n07.jpg|60px]]
| [[クリスティーヌ・ラガルド]]
| {{FRA}}
| 2011年7月5日
| 2019年9月12日
|-
! 代行
| [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]
| デーヴィッド・リプトン
| {{USA}}
| 2019年7月2日
| 2019年10月1日
|-
! 12
| [[File:Kristalina_Georgieva_Headshot.jpg|60px]]
| {{仮リンク|クリスタリナ・ゲオルギエヴァ|en|Kristalina Georgieva}}
| {{BUL}}
| 2019年10月1日
| (現職)
|-
|}
== 出資額と議決権 ==
IMFの融資財源の大半は、主に加盟国が払い込むクォータ(出資割当額)を原資としており、更に一部加盟国からの借り入れによってクォータ資金を補っている。低所得国向けの譲許的融資及び債務救済は、別途、拠出ベースの信託基金により賄われている。<ref>http://www.imf.org/ja/About/Factsheets/Where-the-IMF-Gets-Its-Money 「IMFの財源」2016年6月23日 2018年1月5日閲覧</ref>
IMFでの議決権は一国一票ではなく、下記のクォータ(出資額)による。各加盟国は基礎票(約750票)に加え、出資額100,000SDRごとに1票が与えられる。<ref>http://www.imf.org/external/pubs/ft/aa/index.htm Articles of Agreement of the International Monetary Fund(IMF協定) April 2016 Article XII: Organization and Management Section 5. (a) </ref>2010年のクォータ改革によって新興国の占める比率が大幅に高まり、BRICs4国は常時10か国入りした。出資比率は2018年1月現在下記の通り。現在第15次一般クォータ見直しの議論が進行中であり、2019年秋の年次総会までに見直しを完了することとしている。<ref>http://www.imf.org/en/About/Factsheets/Sheets/2016/07/14/12/21/IMF-Quotas IMF Factsheet 2017年10月13日 2018年1月5日閲覧</ref>
{| class="wikitable" style="border:none; float:center;"
|-
!2018年現在の出資上位10か国と票数<ref>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/np/sec/memdir/members.aspx |title=IMF Members' Quotas and Voting Power, and IMF Board of Governors |publisher=Imf.org |date=20 December 2015 |accessdate=20 December 2015}}</ref>)
|-
| style="padding:0; border:none;" |
{| class="wikitable sortable" style="margin:0; width:100%;"
|-
!順位!!国!!出資額(クォータ) 単位:100万[[特別引出権|SDR]]!!割合!! 票数!!総投票数に対する割合
|-
!1
||{{flagcountry|USA}}||82,994.2||17.46||831,407||16.52
|-
!2
||{{flagcountry|Japan}}||30,820.5||6.48||309,670||6.15
|-
!3
||{{flagcountry|China}}||30,482.9||6.41||306,294||6.09
|-
!4
||{{flagcountry|Germany}}||26,634.4||5.60||267,809||5.32
|-
!5
||{{flagcountry|UK}} ||20,155.1||4.24||203,016||4.03
|-
!5
||{{flagcountry|France}}||20,155.1||4.24||203,016||4.03
|-
!7
||{{flagcountry|Italy}}||15,070.0||3.17||152,165||3.02
|-
!8
||{{flagcountry|India}}||13,114.4||2.76||132,609||2.64
|-
!9
||{{flagcountry|Russia}}||12,903.7||2.71||130,502||2.59
|-
!10
||{{flagcountry|Brazil}}||11,042.0||2.32||111,885||2.22
|-
| colspan="6" |
|- class="sortbottom"
!
||''全189か国計''||475,472.9||100.0||5,031,614||100.0
|}
|}
== 日本とIMFの関係 ==
日本は、1952年8月に第53番目の加盟国としてIMFに加盟。国内では[[財政法]]が改正され、[[国際通貨基金及び国際復興開発銀行への加盟に伴う措置に関する法律]]が施行された。その後、日本の経済力が上昇していく中で上記のとおり為替自由化が求められていくようになり、[[1964年]](昭和39年)には国際収支の赤字を理由に為替制限ができる14条国から、それができない8条国へ移行した。
[[1965年]](昭和40年)には、IMFについて2億2500万ドル(邦貨換算810億円)、[[国際復興開発銀行]]について1億660万ドル(邦貨換算383億7600万円)の追加出資<ref>第49回国会[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104914629X00219650806 『衆議院大蔵委員会第2号議事録』]、1965年8月6日。</ref>。この負担金の拠出を理由に戦後初めて[[日本国債]]が発行された(当時は首相は[[佐藤栄作]]、[[日本銀行]]頭取は[[宇佐美洵]])<ref>第51回国会[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=105105254X00119651220 『衆議院本会議第1号議事録』]、1965年12月20日。</ref>。[[1970年]](昭和45年)には出資率の上昇により、任命理事を選出できるようになった。[[2006年]](平成18年)には、[[小寺清]]が日本人として初の世銀・IMF合同開発委員会の事務局長となり、[[2010年]]まで4年間にわたりその職にあった<ref>[http://www.mof.go.jp/international_policy/imf/dc/20100425c.htm 第81回世銀・IMF合同開発委員会 コミュニケ(ポイント)(平成22年4月25日)] 日本国財務省 2017年3月3日閲覧</ref><ref group="注釈">世銀・IMF合同開発委員会とは、[[G7]]を含む先進国、途上国の24か国の財務大臣、開発担当大臣等が一堂に会し、途上国への開発援助問題に関するその時々の重要なトピックについて議論し、世界銀行・IMFの総務会に勧告を行うハイレベルな会合である。事務局長は、開発委員会議長、世界銀行総裁、及びIMF専務理事と協議しつつ、委員会の運営にあたる。なお、日本政府は、「国際通貨基金及び国際復興開発銀行への加盟に伴う措置に関する法律」(昭和27年法191)を制定して政府がIMFに法定出資できること及び出資方法を定めている。</ref>。
[[ファイル:Official document (S39).jpg|thumb|right|200px|[[1964年]]、8条国移行に関する[[外為法]]改正について、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]が[[閣議 (日本)#日本国憲法下|閣議]]を求めることに関する[[経済産業省|通商産業省]]の決裁文書。]]
2018年1月現在、日本はIMFへの第2位の出資国であり、単独で理事を選出している。総務(Governer)は財務大臣、総務代理(Alternate)は日本銀行総裁が担当。また、2021年12月現在4人在籍する副専務理事のうち、1人は日本の元[[財務官 (日本)|財務官]]である[[岡村健司]]が務めている(2021年12月着任)<ref>[https://www.mof.go.jp/policy/international_policy/imf/what_is_imf/press_release/imf_20211111.pdf 国際通貨基金(IMF)次期副専務理事について]</ref><ref>[https://www.imf.org/external/japanese/np/omd/bios/mfj.pdf]</ref>。
なお1997年以降5代連続で、日本人から副専務理事が選出されている。ただし、2017年1月現在日本人職員は59名(全体の2.2%)に留まる<ref>[http://www.imf.org/external/np/div/2017/other/supplement.pdf IMF Diversity Annual Report 2016-2017 Supplement]</ref>。また、IMFアジア太平洋地域事務所が、アジア太平洋地域における窓口として、[[東京都]][[千代田区]][[内幸町]]に設置されている<ref>[http://www.imf.org/external/oap/jpn/aboutj.htm 国際通貨基金 (IMF) アジア太平洋地域事務所 (OAP) について] 2018年1月5日閲覧</ref>。
== IMFのサーベイランス ==
IMFは、国際通貨制度を監視するとともに、189の加盟国の経済及び金融部門政策のモニタリングを行う。サーベイランス(政策監視)と呼ばれるこの活動は、国際レベル及び国レベルで行なわれるが、この過程においてIMFは、安定性への考えうるリスクを明確にし、必要な政策調整について助言を行なう。これによりIMFは、各国間における財、サービス、及び資本の交換を促進し金融と経済の安定に必要な条件を確保することで経済成長を維持するという、国際通貨制度の主な目的の達成に貢献する。<ref name=":0">http://www.imf.org/ja/About/Factsheets/IMF-Surveillance IMFファクトシート IMFのサーベイランス 2016年9月13日 2018年1月5日閲覧</ref>
'''{{fontsize|large|IMF4条協議}}'''
IMFは、IMF協定第4条に基づき、原則年一回加盟国の経済状況、及び財政・金融・為替等の政策を評価するための調査を実施する('''「IMF4条協議」''')。エコノミストが加盟国を訪問し、加盟国政府・中央銀行と為替レート、金融、財政、金融部門に関する政策、及びマクロ・クリティカル(マクロ経済に決定的な意味を持つ)な構造改革を中心とした、経済・金融の状況に関する協議を行う(ミッション)。なお、多くの加盟国が、IMFミッションの終了の際に、スタッフによる声明を発表している。当局との議論を踏まえ、本部に戻った後スタッフは、IMF理事会での協議に向け報告書を提出。その後理事会の見解は加盟国当局に報告され、4 条協議と呼ばれるプロセスが終了する。現在ほぼ全ての加盟国が、理事会の見解の総括であるプレスリリースとIMFのスタッフ・レポートや関連分析の公表に同意しており、IMFのWebサイト上で公表されている。<ref name=":0" /> 4条協議報告書には加盟国経済の分析に加えて政策提言も記載されており、例えば、2017年の対日4条協議報告書においては、急速に進む高齢化と労働力人口の減少という課題を指摘し、賃金の伸びと生産性改善等のための構造改革への取り組み、持続的な金融緩和スタンスの維持、消費税の0.5%か1%ずつ15%までの引き上げ等の提言を行った。<ref>https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-06-19/ORS8V86K50XZ01 ブルームバーグ「IMF声明:金融緩和スタンス維持すべきだ-市場との対話強化を」2017年6月19日 2018年1月5日閲覧</ref><ref>http://www.imf.org/ja/News/Articles/2017/07/31/NA073117-For-Japan-Economy-Now-Is-the-Time-to-Step-Up-Reforms
[http://www.imf.org/ja/News/Articles/2017/07/31/NA073117-For-Japan-Economy-Now-Is-the-Time-to-Step-Up-Reforms 日本経済にとって構造改革を一段と推進するべき時は今]
[http://www.imf.org/ja/News/Articles/2017/07/31/NA073117-For-Japan-Economy-Now-Is-the-Time-to-Step-Up-Reforms 2017年7月31日] 2018年1月5日閲覧</ref>
'''{{fontsize|large|マルチラテラル・サーベイランス}}'''
IMFは、個別国のサーベイランスに加え、世界及び地域レベルで経済情勢をモニタリングするとともに、加盟国の諸政策の世界経済への波及効果を分析する。マルチラテラル・サーベイランスは主に、定期的に発表される世界経済見通し (World Economic Outlook: WEO)、国際金融安定性報告書 (Global Financial Stability Repoort: GFSR)、および 財政モニター(Fiscal Monitor: FM)を通して行われる。WEOは、世界経済とその成長見通しに関する詳細な分析を提示し、世界的な金融の混乱のマクロ経済への影響といった問題に取り組むとともに、システミックな国や地域における経済政策・金融政策の国境を越える影響に特に焦点を当てながら、主な潜在的な世界的波及効果を評価する。GFSRは、世界の資本市場の情勢、そして金融の安定性にリスクをもたらす金融の不均衡や脆弱性を評価する。FMは、最新の中期的な財政見通しを提示するとともに、公共財政の情勢を評価する。このほかにも、金融システムで重要な位置を占める国や地域の対外ポジションを分析する対外セクター報告書(External Sector Report: ESR)や、G20財務大臣・中央銀行総裁会議/G20サミットへの経済状況の報告等、様々な形で分析を公表している。<ref name=":0" />
== 批判==
IMFの融資は、対象国に対し財政緊縮策や構造改革などの厳しい貸出条件(コンディショナリティ)を付けるものの、その条件は経済の成長を目的としておらず、むしろ経常収支を均衡させるために国内の景気を冷却化させることを目的としている<ref>「IMF(国際通貨基金)使命と誤算」p26 大田英明 中公新書 2009年11月25日発行</ref>。また対象国の経済条件を無視して画一的な政策を押し付けるためにより経済状況が悪化することすらあり<ref>「IMF(国際通貨基金)使命と誤算」p25 大田英明 中公新書 2009年11月25日発行</ref>、しばしば批判の的となっている。IMFのコンディショナリティについては経済学者のジョセフ・E・スティグリッツなども批判を行っている。
{{See also|ジョセフ・E・スティグリッツ#IMF批判}}
== 不祥事 ==
2011年には、現役の専務理事であった[[ドミニク・ストロス=カーン#IMF専務理事|ドミニク・ストロス=カーン]]が女性強姦未遂容疑で米当局に逮捕され、この事は米国[[メディア (媒体)|メディア]]で連日大きく取り上げられた。トップのストロスカーンの逮捕とあって、IMFの政策運営に空白が生じれば、[[財政]]危機が深刻化し、[[国債]]利回りが急上昇している[[ギリシャ]]問題、原油高騰を招いている中東・北アフリカ情勢への対応など、重要課題への対応が遅れることなどへ大きな懸念が高まった。
事件を受けて、[[ドミニク・ストロス=カーン#IMF専務理事|ドミニク・ストロス=カーン]]は専務理事を辞任、[[クリスティーヌ・ラガルド]]が後任に選出された。しかし、後に被害を訴えた女性の証言の信憑性が低く、性犯罪の証明が困難との判断から、検察の訴追取り下げ申請が行われ、公訴は棄却されている<ref>https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2401R_U1A820C1EB1000/ 日本経済新聞「IMF前専務理事の事件、事実上の終結 訴追取り下げ認める」2011年8月24日付 2018年1月5日閲覧</ref>。
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:International Monetary Fund}}
* [[世界銀行]]
* [[特別引出権]](SDR)
* [[アジア通貨危機]] - [[IMFによる韓国救済]]
* [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)]]
* [[グローバリゼーション]]
* [[チェンマイ・イニシアティブ]]
* [[アジア通貨基金]]
* [[国際金融市場]]
== 外部リンク ==
*[https://www.imf.org/ja/ IMF]{{ja icon}} - 日本語サイトには一部ページのみ記載。詳細は英語サイトへ。
*[https://www.imf.org/en/ IMF]{{en icon}}
**[https://www.imf.org/ja/Countries/ResRep/OAP-Home アジア太平洋地域事務所]{{ja icon}}
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ロベルト・シューマン
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ロベルト・アレクサンダー・シューマン(ドイツ語: Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。ドイツ語発音: [ˈroːbɛrt]に基づきローベルト・シューマンと表記されることもある。
ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。
ツヴィッカウの裕福な家庭に生まれ、ライプツィヒ大学の法科に進むも、ピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)に師事する。しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となる。ヴィークの娘でピアニストのクララ(1819年 - 1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼした。文学への造詣も深く、1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年間にわたって音楽評論活動を行う。このころから精神障害の症状に悩まされるようになる。1844年にライプツィヒからドレスデンへ、1850年にデュッセルドルフへと移住して指揮者としても活動する。この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残した。1853年にヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年にライン川に投身自殺を図る。救助されたシューマンはボン近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去した。
1810年6月8日、プロイセン王国のツヴィッカウで書籍販売・出版業を営んでいたアウグスト・シューマン(1773年 - 1826年)とその妻ヨハンナ(1767年 - 1836年)との子として生まれる。6月14日に自宅で洗礼を受け、市の書記官と郵便局長が代父を、商人ルッピウスの妻が代母を務めた。ツヴィッカウは2年後にザクセン王国の一部となる。
シューマンは5人兄弟の末子であり、兄3人、姉1人があった。
シューマンの両親はもともと南のテューリンゲン地方の出身であり、 シューマンの父方の祖父フリードリヒ・ゴットロープ・シューマンは、ライプツィヒの南、ゲーラ近くのエントシュッツ地区の牧師だった。
シューマンの父アウグストは、文学者を志しライプツィヒ大学に学んだ。1795年にツァイツ(de:Zeitz)の外科医の娘ヨハンナ・シュナーベルと結婚、1799年にロンネブルクで書店を開業し、1807年にツヴィッカウに移った。ツヴィッカウでは書店に併せて出版社を設立し、スコットやバイロンの翻訳全集などを出版した。アウグスト自身も中世の騎士や修道士を題材にした物語を書き、商業的な論文や雑誌の編集もこなした。事業に成功したアウグストは土地の名士となっていた。アウグストは非常に温厚で誠実な人柄であったとされており、シューマンが音楽の道を志すことも心から賛成していた。
シューマンの母ヨハンナは、外科医・軍医だったアブラハム・G・シュナーベルの長女として生まれ、彼女は短い詩を書いたり、ピアノで軽い旋律を弾いたりした。シューマンの四女オイゲーニエによれば、ヨハンナは歌を歌い、アウグストはモーツァルトのアリアをヨハンナに覚えさせたという。
シューマンの友人でヴァイオリニストのヴァジェレフスキ(de:Wilhelm Joseph von Wasielewski, 1822年 - 1896年)が1858年に出版したシューマンの最初の伝記によれば、ヨハンナは魅力的で知的だったが広い教養はなく、視野が狭かったとされる。その他の伝記では、現実的な性格として描かれている。
シューマンは3歳から5歳の間、代母であるエレオノーレ・ルッピウス夫人のもとに預けられ養育された。
両親はシューマンのために住み込みの家庭教師を雇い、シューマンは6歳から4年間、私立の初等予備学校で学んだ。
シューマンは7歳のときに父アウグストに連れられてドレスデンに行き、ウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴いて感動している。シューマンはこのころからピアノで小さな舞曲を作曲し、周囲の注目を集めるようになった。さらに1819年夏、9歳のときに父同伴でボヘミアのカールスバートに出かけ、イグナーツ・モシェレス(1794年-1870年)のピアノ・リサイタルを聴いて圧倒的な感銘を受けた。この体験は、シューマンがピアニストを目指すきっかけとなった。
また、この年にはライプツィヒで初めてのオペラ、モーツァルトの『魔笛』に接した。これにもシューマンは強烈な刺激を覚え、モーツァルトのオペラからの抜粋をピアノ用に編曲している。
1820年3月、シューマンは10歳でツヴィッカウのギムナジウムに入学した。
シューマンにピアノを手ほどきしたのは、聖マリア教会のオルガニストを勤めていたヨハン・ゴットフリート・クンチュ(1775年 - 1855年)である。クンチュは高度な音楽知識や技能は持っていなかったが、シューマンの音楽に対する情熱を育てた。シューマンは後に、クンチュについて「(クンチュ)先生は私の音楽的才能を認め、いずれは私の天性がおもむくことになった音楽の道を示唆して下さった唯一の方です」と述べている。
クンチュの指導の下、シューマンは友人で同じくクンチュの弟子だったフリードリヒ・ピルツィングとともにハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンらの管弦楽曲をピアノ連弾用に編曲して練習した。
父アウグストはシューマンの音楽的才能を認めて高価なシュトライヒャーのピアノを買い与え、シューマンはピアノを何時間も即興的に弾いた。
シューマンはギムナジウムで開かれた校内演奏会に出演し、難曲として知られるモシェレスの『アレクサンダー変奏曲』を弾いた。また、オーケストラや合唱を組織して詩や音楽の発表会などを主催した。 両親は、シューマンが友人たちと編成した小さなオーケストラのために、総譜や譜面台など必要な用具のすべてを寄贈するなど、シューマンの活動を支援した。
こうしたもとでシューマンは作曲を始め、1821年、11歳のときに合唱と管弦楽のためのオラトリオ『詩篇第150番』を作曲したのをはじめ、ピアノで即興的に幻想曲や変奏曲を作っては家族に聴かせるようになった。しかし、この時代の作品はほとんど失われている。
父アウグストはシューマンが音楽的才能を発揮することを喜び、シューマンが15歳のときにウェーバーに手紙を書き、息子を弟子にしてもらえないかと頼んだ。しかし返事はなく、ウェーバーは翌1826年6月に死去する。その2ヶ月後の8月にはアウグストも世を去った。父の死の数週間前には、姉のエミーリエが29歳で入水自殺していた。
ギムナジウム在学中、シューマンはツヴィッカウで父アウグストと親交のあった郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルや製造業者カール・エルトマン・カールス(1780年 - 1842年)などの私邸で開かれる音楽会やサロンに迎えられた。 カールス家でしばしば開かれた室内楽音楽会では、1827年にカールスの甥でコルディッツ(de:Colditz)の医師エルンスト・カールスとその妻アグネス(1802年 - 1839年)と知り合う。8歳年上のアグネスは容姿端麗な歌手で、シューマンはシューベルトの歌曲のピアノ伴奏を引き受けるなどするうちに彼女に魅せられ、夏休みの間、アグネスについてコルディッツまで行き、そこでまた音楽をともにするほどであった。
シューマンはこの時期、アグネス以外にもナンニ・ペッチュ、リディ・ヘンペルという二人の少女と交際しており、ほとんど同時進行で恋愛を楽しんでいた。またシューマンは、このころからシャンパンや葉巻きたばこを嗜むようになった。
一方、シューマンは文学にも情熱を燃やした。 シューマンは早くから父アウグストの編集を手伝いながら古今の文学書に親しみ、詩や戯曲を書くようになった。13歳のときには父が刊行する雑誌に短文を寄稿し、1828年にはシューマンの詩がドレスデンの夕刊紙に掲載された。
ギムナジウムでは15歳で「ドイツ文学」サークルに入り、リーダー的存在となる。このサークルを通じてシューマンはシラー、ゲーテ、クロプシュトック、ヘルダーリン、ホフマンらの作品に親しみ、とくにシラーとゲーテは彼にとって偶像的存在となった。
とりわけシューマンに大きな影響を与えたのは、ドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウル(1763年 - 1825年)である。ジャン・パウルの空想に満ちた文学的スタイルにシューマンが魅了されたのは1827年ごろで、父アウグストもジャン・パウルを愛読していた。
『巨人』、『生意気ざかり』、『見えない少舎』、『宵の明星』などのジャン・パウル作品をシューマンは精読し、傾倒のあまり、自分より傾倒の度合いの少ないものを敵対者と見なしかねないほどだった。 また、ホメーロス、ソポクレス、ホラティウス、プラトン、キケロ、タキトゥスなどの古典やバイロン、シェイクスピアなどの外国作品にも接しており、後にシューマンが音楽評論で見せることになる対話体の手法は、プラトンによるところが大きいとされる。
1828年3月にツヴィッカウのギムナジウムを優等で卒業したシューマンは、友人エミール・フレクシヒ(1808年 - 1878年)に宛てた手紙に次のように書いた。
シューマンはライプツィヒ大学法科に進学した。これは、シューマンの母ヨハンナの意向および父アウグストの遺産を管理しシューマンの後見人を務めたゴットロープ・ルーデル(1776年 - 1859年)の勧めに従ったものだった。
同じライプツィヒ大学の神学科に進んでいたフレクシヒおよび法科のモーリッツ・ゼンメル(1807年 - 1874年)と同居生活を送ることになったシューマンは、ゼンメルの紹介でギスベルト・ローゼン(1808年 - 1876年)と知り合う。ローゼンはハイデルベルク大学に転校することになっていたが、ジャン・パウルの崇拝者であり、シューマンとたちまち意気投合した。4月、シューマンはローゼンをツヴィッカウに招き、5月の新学期を前に二人でバイエルン王国への旅に出た。バイロイト、レーゲンスブルク、アウクスブルク、ニュルンベルク、ミュンヘンを訪れ、バイロイトではジャン・パウルの未亡人ロルヴェンツェルからジャン・パウルの肖像画を譲り受けた。ミュンヘンでは詩人のハインリヒ・ハイネ(1797年 - 1856年)に会っている。
ハイネの印象について、シューマンは「ハイネは、人情味のあるギリシャのアナクレオンのように、ぼくを親しげに迎えてくれ、友情を込めて僕の手をしっかりと握ってくれました。(中略)ただ彼の口元には、辛辣で皮肉な微笑がありましたが」と書いている。
5月から学生生活が始まり、法律の勉強に取り組もうとしたシューマンだったが、大学の講義への出席率は次第に低下していった。シューマンは母親への手紙に、冷徹な法学を好きになれないと書き送っている。ライプツィヒの周辺には故郷のツヴィッカウのように森や野の自然がなかったことも失望につながった。
シューマンはピアノを入手し、学生仲間の中から弦楽器奏者を見つけて室内楽の演奏に熱中するようになった。このころ彼らが好んで取り組んだのはシューベルトのピアノ三重奏曲第1番だった。
また、1827年に死去したベートーヴェンを記念して、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を催し、シューマンはこれを聞いて強い印象を受けた。聖トーマス教会の礼拝ではバッハのカンタータなどを聞いた。
このころの習作として、歌曲や連弾のための8つのポロネーズ、ハ短調のピアノ四重奏曲などが試みられている。とくにピアノ四重奏曲は交響曲へ改作しようとした形跡も見られる。
ツヴィッカウで交流のあったアグネス・カールスの夫エルンストが1828年からライプツィヒ大学の医学教授となったことにより、シューマンはライプツィヒでカールス家と再会する。
カールス家で催された音楽会で、シューマンはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)とその娘のクララ(1819年 - 1896年)、ライプツィヒ歌劇場指揮者のハインリヒ・マルシュナー(1795年 - 1861年)、楽譜出版商ホフマイスター(de:Friedrich Hofmeister, 1782年 - 1864年)らと出会った。
ヴィークのピアノ授業料は高く、その指導は厳格な上に過酷、残忍とまでの評判を取っていたが、シューマンは母親に手紙を書いて許可をもらい、ヴィークにレッスンを申し込んで承諾された。娘のクララは当時9歳で、シューマンの前でフンメルのピアノ三重奏曲のピアノを担当し、シューマンによると「驚くほど巧みに」演奏した。クララはこの年の10月20日にエルネスティーネ・ペルトハーラーの演奏会に賛助出演して音楽界デビューを果たす。
こうしてシューマンは1828年の夏ごろからヴィークにピアノを師事し、クララとも親しくなった。
同じころ、シューマンはカールスの友人でブラウンシュヴァイクの楽長ゴットロープ・ヴィーデバイン(1779年 - 1854年)に自作の曲を送り、助言を頼んだ。ヴィーデバインからは、シューマンには天性多くのものがあるが、専門技術と音楽的要素の用い方がいまだ不十分との返事が来た。シューマンは1828年8月5日付のヴィーデバインに宛てた手紙に、「いまや作曲法の研究に取りかかるべきときと存じます。―私は、勇気を出して、楽音のオデオン(大劇場)へ上る階段に足を踏み入れたいと存じます」と感謝と決意を綴っている。
友人ローゼンからの手紙を読んだシューマンはハイデルベルク大学への転校を思い立ち、後見人のルーデルに相談して賛同を得た。当時ハイデルベルク大学にはティボー(1772年 - 1840年)やミッテルマイアー(de:Carl Joseph Anton Mittermaier, 1787年 - 1867年)ら高名な法科教授がおり、彼らの講義を聴くというのがシューマンの転校理由だった。しかし、実際のところシューマンは早朝からピアノに向かっており、頭の中に法律はすでになかった。また、ティボー教授が音楽サークルを指導しており、『音楽芸術の純粋性について』という著書もあることへの期待もあった。
友人のゼンメルはシューマンに法律か音楽かどちらかを選ぶよう忠告したが、シューマンはこのときは決定できなかった。
1829年5月、ツヴィッカウに戻ったシューマンは、ハイデルベルクに向かう旅で南ドイツを回った。マイン川およびライン川沿いを馬車で下り、フランクフルト、マインツ、コブレンツなどを経由して5月21日にハイデルベルクに到着した。このとき初めてライン川を見たシューマンは感銘を受け、母親に宛てて次のように書き送っている。
この旅行では、当時ベストセラー作家だったヴィリバルト・アレクシス(本名ゲオルク・ヴィルヘルム・ヘーリング、1798年 - 1871年)と意気投合し、コブレンツまで同行した。フランクフルトでは、ベートーヴェンの弟子だったフェルディナント・リース(1784年 - 1838年)に会い、イギリス人のリース夫人に魅せられている。
同年の夏から秋にかけて、シューマンは再び旅行に出かけ、スイスと北イタリアを訪れた。ミラノ・スカラ座ではロッシーニのオペラを聴いた。旅行中、シューマンは持ち金を使い果たし、旅先から後見人に送金を催促する手紙を頻繁に出し、ミラノでは借金をしている。
ハイデルベルク大学のティボー教授は法律学の権威であるとともに熱心なアマチュア音楽家だった。彼は合唱団「ジングフェライン」を組織し、自宅では毎週木曜日の夕方に音楽会が開かれていた。ティボーは自らピアノを弾いてヘンデルのオラトリオを演奏した。シューマンの手紙によるとティボーは、神はシューマンに法律家としての運命を与えていないという見解を示し、シューマンは自分の時間をほとんど音楽に充てるようになった。 シューマンのピアニストとしての評判はハイデルベルクの外にまでおよび、バーデン大公妃ステファニー(1789年 - 1860年)に招かれてマンハイムで演奏するほどだった。 こうした時期に、作品1の『アベッグ変奏曲』が完成している。
ハイデルベルクでシューマンはシャンパンや葉巻きたばこを楽しむだけでなく、居酒屋やレストランを飲み歩き、ダンスパーティーやカーニバルの仮装大会などにも顔を出して地元の娘たちからも好かれた。彼は手紙で「ハイデルベルクの人気者」になったと自慢している。同時に浪費癖が目立つようになり、家族や後見人、友人にも金を無心する手紙を書いている。
1830年4月、友人たちとフランクフルトに出かけたシューマンは、ニコロ・パガニーニ(1782年 - 1840年)のヴァイオリン演奏を聴いて決定的な影響を受けた。彼は母ヨハンナに宛てて自分の決意を打ち明けた。
父アウグストとは異なり、母ヨハンナにとって音楽は「パンにならない芸術」であり、息子が法律の道に進むことが彼女の希望だった。シューマンの手紙にはヴィークの指導を受ける旨が書かれていたため、ヨハンナは彼に意見を求めた。ヴィークはシューマンを弟子として引き受けると回答し、それだけでなく、3年以内にシューマンをモシェレスやフンメル以上のピアニストに育てると約束した。これにより、ヨハンナはシューマンの意向をひとまず受け入れた。 ただしヨハンナの承諾は、シューマンをヴィークの弟子として6ヶ月間仮採用することが条件だった。 半年後にヴィークは、シューマンの才能と素質は彼が音楽家になるべきことを完全に証明するものであり、無理やり法律家にするのは愚かだと再回答した。ヨハンナはついに納得して、シューマンが音楽家になることを認めた
シューマンは1830年9月24日にハイデルベルクを発ち、10月にライプツィヒに戻った。シューマン20歳のときである。
1830年10月にライプツィヒに戻ったシューマンは、ヴィークの家に住み込みでレッスンを受けた。また、ヴィークの紹介によりライプツィヒ歌劇場の指揮者ハインリヒ・ドルン(1804年 - 1892年)にも音楽理論を学ぶ。
しかし、気難しく厳格なヴィークに対して次第に不満を募らせたシューマンは、翌1831年8月に当時名ピアニストとして名声を博していたフンメル(1778年 - 1837年)に宛てて手紙を書いてヴィークへの不満を打ち明け、レッスンを受けたいと頼んでいる。シューマンはこのことをヴィークにも話し、激しい叱責を受けた。 1831年10月にヴィークがクララを連れて演奏旅行に出かけると、シューマンはヴィークの家を出た。
その後もヴィークとのレッスンは続けられたものの、シューマンは再びパーティや社交活動に精を出すようになる。シューマンは自分の下宿やカフェ・バウムなど街のコーヒー・ハウスで芸術好きな仲間たちと夜遅くまで音楽論議を交わした。この集まりは、後の「ダヴィッド同盟」の出発点となった。
このころの作品に、『蝶々』(作品2)がある。
1831年、シューマンは「自伝的覚え書き」に「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と述べており、この時期に右手を故障したものと見られる。 故障の原因として、シューマンが独自に工夫した機械装置によってピアノを練習したことが挙げられているが、詳しくは後段で述べる。
同じころ、シューマンは目の病気に罹り、失明する恐怖にも襲われている。 思い悩んだシューマンは、一時はチェロに転向することや音楽をあきらめて神学の道に進むことも考えたが、1832年5月に作曲で身を立てる意志を固めた。 いったんピアノを離れて交響曲の作曲を試みたシューマンだったが、『ツヴィッカウ交響曲』は未完に終わり、再びピアノ曲に専心するようになる。
シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809年 - 1849年)を紹介する論文を投稿していたが、ドイツで流布している音楽批評の水準に不満を感じていた。このため、1833年ごろからカフェ・バウムなどで友人や音楽関係の知己たちと新しい雑誌を発行する可能性について話し合い、1834年4月3日に「新音楽時報」(Neue Zeitschrift für Musik)を創刊する。
「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノル(1807年 - 1861年)であり、シューマンは編集の手伝いをしていたが、まもなく仕事のすべてを引き受けることになった。 シューマンは「新音楽時報」の中で、「新しい詩的な時代」を準備するために低俗なペリシテ人と戦う「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、「フロレスタン」や「オイゼビウス」といったペンネームにより自身の分身を登場させた。 (詳しくは、#音楽評論を参照のこと。)
1833年秋に兄ユリウスと兄嫁ロザーリエが相次いで死去したことにより、シューマンは孤独と恐怖感に苛まれた。 この年の日記に、シューマンは次のように書いている。「これより僕の生涯に、大きい断面。10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」。しかし、友人のルートヴィヒ・シュンケ(de:Ludwig Schuncke, 1810年 - 1834年)や芸術家のパトロンだった商人カール・フォイクト(1805年 - 1881年)とその妻ヘンリエッテ(de:Henriette Voigt, 1808年 - 1839年)らとの親しい交際が慰めとなった。 シューマンの友人たちの中でも、同じ下宿に住んでいたピアニストのシュンケとはとくに固い友情で結ばれていた。シューマンはシュンケに「使徒ヨハン」とあだ名を付け、作品7の『トッカータ』を彼に献呈している。
二人の友情はシュンケが1834年末に肺結核で死去するまで続いた。 また、シューマンはヘンリエッテに心惹かれており、彼女を「変イ長調の魂」と呼び、ピアノソナタ第2番を彼女に捧げている。
1834年4月、当時18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年)がヴィークの新しい弟子としてヴィーク家に住み込んだ。 シューマンはエルネスティーネと恋愛関係となり、半年経たないうちに彼女と婚約するが、その後数週間のうちに双方の合意によって婚約は解消された。 エルネスティーネはフォン・フリッケン男爵とツェトヴィッツ伯爵夫人との間の私生児であり、イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーによれば、彼女はこうした複雑な家庭事情についてシューマンに率直に語らず、このことを知ったシューマンが傷ついたとしている。
二人の恋愛から生まれたのが、『謝肉祭』(作品9)と『交響的練習曲』(作品13)である。『謝肉祭』の中で、シューマンはエルネスティーネの出身地であるアッシュ(ASCH)の文字に基づく音型をちりばめている。 また『交響的練習曲』は、エルネスティーネの父フォン・フリッケン男爵が作曲した主題に基づく変奏曲である。
1835年からシューマンとクララとの恋愛が始まると、エルネスティーネは潔く身を引き、むしろ二人を励ました。
シューマンとクララははじめ兄妹のような関係だった。シューマンはクララや彼女の弟アルヴィンと散歩や遊びに興じ、お化けの話をして子供たちを震え上がらせたりした。しかし、エルネスティーネとの関係が終わると、シューマンの恋愛対象はクララに向かっていった。
1835年秋、フェリックス・メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、10月4日に指揮者デビュー演奏会を開いた。これを聴いたシューマンは、「新音楽時報」で絶賛する。クララは1835年12月9日に16歳でゲヴァントハウスでのデビューを飾り、シューマンの故郷ツヴィッカウでも演奏会を開いた。このときシューマンはツヴィッカウまで戻ってクララに会っている。
シューマンとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移り住まわせ、シューマンから遠ざけた。同年2月4日に母ヨハンナが死去するが、シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。
以降、シューマンは一段と強くクララを求めるようになった。
このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵詈雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視下に置かれた。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会うたびに悪罵を投げつけ、顔につばを吐きかけることもあったという。さらにヴィークはシューマンに生活力がなく飲酒癖があるなど虚偽・中傷を繰り返し、エルネスティーネとの恋愛事件を蒸し返して彼女の協力を得ようとした。シューマンを動転させるために、ヴィークの友人でクララの声楽教師だったカール・バンクにクララの恋人を演じさせようと試みてもいる。
ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。
1837年9月、シューマンはヴィークに手紙を書き、会見に応じてくれるよう懇願した。数日後にヴィークは会見に応じたが、ヴィークはクララをコンサート・ピアニストとして育てたのであって、主婦にするつもりはないと告げた。 シューマンは9月18日付けでクララに宛てた手紙に「父上との会見は恐るべきものでした。お父上は冷ややかで、敵意に満ち、混乱し、矛盾だらけでした。とにかく人を挫くことに思慮をめぐらし、人の胸に柄まで届けとばかりに匕首を突き刺してくるのです」と報告している。
クララはヴィークとともにたびたび演奏旅行に出かけるようになり、シューマンはクララと会うことも手紙のやりとりも禁止されていた。だが、彼は秘密裏にクララと文通して連絡を取り合いつつ、創作面では優れた作品を次々に書いていった。 クララはコンサートでシューマンの作品を演奏し、音楽によって二人は一体化した。ヴィークもこれを妨げることはできなかった。 日本の音楽学者前田昭雄(1935年 - )は、クララとの結婚をめぐるヴィークとの闘いの年月は、シューマンの内面を危機的な深淵にまで沈めると同時に、そこから立ち上がる決定的な力ともなったとしており、この時期に相次いで成立したピアノソナタ第1番(作品11)、『幻想小曲集』(作品12)、ピアノソナタ第3番(作品14)、『子供の情景』(作品15)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『幻想曲』(作品17)のすべてにわたり、クララへの愛に生を賭した実存的燃焼の表白が、「言葉なき」歌として、詩として劇として展開されていると述べている。
シューマンは1838年10月から翌1839年4月までウィーンに滞在した。クララがウィーンでの演奏会で大成功を収めたことを知り、クララのピアニストとしての活動と「新音楽時報」の本拠地をウィーンに移せばヴィークの束縛から逃れられるのではないかと考えたのである。
これには、詩人アーデルベルト・フォン・シャミッソー(1781年 - 1838年)の勧めがあったともいわれる。 同時にウィーンは、シューマンが1832年以来めざすべき「ベートーヴェンとシューベルトの楽都」でもあった。
しかし、ウィーンの出版社はむしろ敵意を持ってシューマンを迎えた。当時のウィーンは反動保守の政治体制下にあり、各地の自由主義運動や革命の波及を恐れて言論や出版の自由を圧迫していた。このためシューマンは「新音楽時報」が検閲によって押さえつけられることを恐れ、計画を断念する。
ウィーン滞在中、シューマンはベートーヴェンとシューベルトの墓を訪れた。ベートーヴェンの墓の前でシューマンは1本の鉄製のペンを拾って持ち帰った。 また、帰途にシューベルトの兄フェルディナント(1794年 - 1859年)の家を訪ね、シューベルトの遺稿の中から大ハ長調交響曲の草稿を発見した。 この交響曲は1839年3月21日、ライプツィヒのゲヴァントハウスでの演奏会でメンデルスゾーンの指揮によって初演され、爆発的な成功を収めることになる。
もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼した。 同年7月、シューマンはヴィークと離婚していたクララの実母マリアンネ・バルギールをベルリンに訪ねてクララとの結婚の同意を得た。また、公的な地位を得ることが結婚に役立つかもしれないと考えたシューマンは、1840年2月、シェイクスピアと音楽との関係についての論文によってイェーナ大学の哲学博士の学位を取得している。
訴訟を知って激怒したヴィークは、クララがピアノを弾くことを禁じて家から追い出した。クララは、ベルリンから迎えに来たマリアンネとともに暮らした。ヴィークはクララの相続権停止などで対抗しようとしたものの、法廷では有効な申し立てができず、罵詈雑言をわめきちらして判事からたしなめられる有様だった。彼は街でシューマンに出くわすと平手打ちを食わせた。こうしたヴィークの極端な行動は、物笑いの種となった。形勢不利を悟ったヴィークは1840年1月、今度はクララの動揺を狙い、レーマンという偽名を使ってシューマンに対するありとあらゆる非難を並べ立てた手紙を書き、ベルリンで開かれたクララのリサイタル当日に届けさせた。この策謀は、クララの弟アルヴィンがシューマンに警告したため、シューマンはあらかじめクララに連絡を取って警戒させることができた。シューマンはこのことでヴィークを別件の名誉毀損で訴えた。
1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下され、二人は9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。この結婚式には、4月に知り合ったばかりのフランツ・リスト(1811年 - 1886年)も出席している。 名誉毀損の訴えでもシューマンが勝訴し、1841年にヴィークはシューマンを中傷したことで2週間の禁固刑に処された。
シューマンは1839年の時点では「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」と述べており、現に作品23の『4つの夜曲』までほとんどピアノ曲ばかり作曲していた。しかし、1840年にクララとの結婚が近づくと、一転して続々と歌曲を手がけるようになる。1840年3月から7月までの間に、シューマンは音楽史に残る5つの優れた歌曲集を作曲した。二つの『リーダークライス』(作品24および作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)である。 これらを含め、この年に120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。これはシューマンが生涯に残した歌曲の大半を超えるものであり、1840年は「歌曲の年」と呼ばれる。 これについてシューマンは、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。―私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と語っている。
結婚後、シューマンはクララとともにバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、それが終わると、ベートーヴェンなどウィーン古典派の弦楽四重奏曲を勉強した。
1841年には交響曲第1番(作品38)が完成する。この交響曲はシューマンの「ライプツィヒ時代」を代表する作品であり、この曲の成功は、シューマンの創作活動においてピアノ曲と歌曲から交響曲作家への脱皮という画期をなすものとなった。 その後もシューマンは『序曲、スケルツォと終曲』(作品52)、ピアノと管弦楽のための幻想曲(後のピアノ協奏曲第1楽章)、ニ短調交響曲(後の交響曲第4番)などオーケストラ作品に取り組んだ。 翌1842年には、シューマンは室内楽曲の分野に足を踏み入れ、3曲の弦楽四重奏曲(イ短調、ヘ長調、イ長調の作品41)、ピアノ五重奏曲(作品44)、ピアノ四重奏曲(作品47)などが生まれた。 これには、フランツ・リストの勧めがあった。リストは、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めていた。 これらにより、1841年を「交響曲の年」、1842年を「室内楽曲の年」と呼ぶことがある。
シューマンとクララは幼いころから日記を付けており、二人は結婚と同時にそれぞれの日記をひとつに融合させ、互いに日々の出来事を報告し合った。毎週日曜日に一週間分の日記が朗読され、二人で反省したりコメントを付け合ったりした。 シューマンが家で作曲しているときにはクララはピアノの練習を控えた。このためにクララは結婚から5ヶ月後の日記に演奏力の低下を嘆いている。
シューマンとクララの間には、8人の子供が生まれた。
シューマンは子供好きで、いくら多くてもかまわないという考え方であり、子供が増えるに従ってクララは演奏家と主婦、母親の両立に苦心することになった。
また、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、クララは家計を支えるために演奏旅行の回数を増やさなくてはならなくなった。 クララの演奏旅行にシューマンが同伴すると、すでにピアニストとしての名声が高かったクララに比べて、シューマンは粗略に扱われた。1842年の演奏旅行ではオルデンブルクでクララ一人が宮廷に招待されたことに傷ついて、シューマンはライプツィヒに戻っている。 屈辱を味わった彼は、一時はアメリカへの移住を考えたほどだった。 1844年のロシア旅行でも、シューマンは「ピアニストの夫」として従属的な立場に置かれた。 しかし、シューマンはこうした自分たちの特殊な状況を明確に理解しており、次のように述べている。
このように、シューマン夫妻の間には日常の家庭生活の負担から生ずる避けがたい緊張や芸術上の観点の違いによる深刻な対立はあったものの、お互いに相補う夫婦として、しばしば理想的なカップルとして描かれる。
結婚後、シューマン夫妻が4年間住んだライプツィヒは、急速にドイツ音楽界の中心となっていった。その中心にいたのは、メンデルスゾーンである。彼はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を務める傍ら、1843年にライプツィヒ音楽院を創設し、イグナーツ・モシェレス(ピアノ)、フェルディナンド・ダヴィッド(ヴァイオリン)、モーリッツ・ハウプトマン(音楽理論)らと並んでシューマンを作曲とピアノの教授に迎えた。 メンデルスゾーンはイギリスからウィリアム・スタンデール・ベネット、デンマークからニルス・ゲーゼらをライプツィヒに招き、シューマンも彼らと親交を結んだ。シューマンは彼らを「新音楽時報」で応援したほか、ベネットに『交響的練習曲』(作品13)を献呈しており、『子供のためのアルバム』(作品68)の第42曲「北欧の歌」において、ゲーゼの名前の綴りであるGADEの音名を主題に使っている。
シューマンはこの時期二度にわたって病気で倒れた。最初は1842年で、「過労」としてクララとともにボヘミアの温泉に保養に行った。 日本の音楽評論家、門馬直美(1924年 - 2001年)は、シューマンが家庭を維持する経済的な重荷を背負いながら、大作を書いても予期した収入をもたらさず、疲労感に襲われて次第に神経衰弱気味になっていったとする。このため、1842年から1843年にかけて作曲の筆はほとんどすすまず、シューマンは内省的になり、外部との新鮮な接触を嫌悪するようになった。
しかし、1843年1月にエクトル・ベルリオーズ(1803年 - 1869年)がパリからライプツィヒを訪れたことはシューマンに刺激と喜びを与えた。 1843年2月ごろから創作意欲を取り戻してきたシューマンは、トマス・モアの原作に基づく独唱、合唱、管弦楽のためのオラトリオ『楽園とペリ』(作品50)を完成させる。 『楽園とペリ』の成功は、シューマンの作曲家としての名声を決定的なものとした。この年、クララの父ヴィークがシューマン夫妻に和解を求めてきたのも、この曲の成功が理由の一つだった。
二度目は1844年8月、ロシア旅行から帰ってきてまもないころで、より深刻だった。この年1月25日から5月末にかけて、シューマンとクララはロシアに滞在した。クララはサンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で演奏し、ピアニストとして成功したが、5ヶ月間にわたる旅行はシューマンにとって大きな負担となった。
ライプツィヒに戻ったシューマンは、「新音楽時報」の編集主幹をオズヴァルト・ロレンツ(de:Oswald Lorenz)に譲り、ゲーテの『ファウスト』の音楽化の構想を練り始めた。しかし、夏ごろから体調が悪化し、死を恐れたり、高所恐怖症の症状を示すようになった。シューマンは『ファウスト』第2部最後の「神秘の合唱」を作曲したものの、強度の神経疲労のために構想は中断され、この作品の完成はドレスデン時代を経てデュッセルドルフ時代まで持ち越されることになる。また、9月にシューマンはライプツィヒ音楽院で教鞭をとろうと試みたが、症状の悪化により断念せざるを得なかった。
10月にシューマンはドレスデンで類似療法の医師ヘルビッヒ博士の治療を受けた。記録によるとシューマンの症状は、幻聴、ひっきりなしの震え、高所や鋭い金属物などに対するさまざまな恐怖症があった。とくに幻聴のために作曲もできなくなった。クララはこのころのシューマンについて、「ロベルトは一晩も眠っていません。彼の想像力は恐ろしい妄想を描いているのです。毎朝早く、私は涙にくれている彼を見なければなりません。彼はもうすっかり諦めているのです」と書いている。
病気の回復には気候条件の変わったところが良いと考えたシューマンは、ドレスデンへの移住を決意する。この年、メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を辞任し、シューマンはその後任を希望していたが、デンマーク人のゲーゼが選ばれたことで落胆し、自己嫌悪に陥ったことも転地の理由となった。1844年12月、シューマンはライプツィヒ音楽院の職を辞し、クララら家族とともにライプツィヒを去った。
ドレスデンに移ったシューマンはバッハの作品を再び研究し始めた。1845年4月25日、ピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたペダルピアノを導入し、バッハのオルガン曲を練習できるようにした。この年に作曲されたペダルピアノのための『練習曲』(作品56)、『スケッチ』(作品58)、『BACHの名による6つのフーガ』(作品60)などはその成果である。創作力を徐々に回復したシューマンは、1841年に書いたピアノと管弦楽のための『幻想曲』を改訂し、新たに2つの楽章を追加してピアノ協奏曲(作品54)を完成させた。
交響曲第2番(作品61)は、1845年末から約1年間を費やして完成した。この間、1846年5月には幻聴や耳鳴りのために作曲できなくなり、双極性障害の症状も現れるようになっていた。このため第2交響曲は、シューマンが危機を乗り越えて再生した「勝利の歌」ということもできる。
当時のドレスデンは、ザクセン王国の首都としてフリードリヒ・アウグスト2世の治世下にあった。芸術家たちは王の雇い人という立場に置かれ、宮廷画家が援助される一方、音楽家は冷遇されていた。また、交響作品や室内楽よりもオペラが好まれた。こうした保守的で窮屈な環境にあってシューマンの友人となったのは、アマチュア男性合唱団の指揮者をしていたフェルディナント・ヒラー(1811年 - 1885年)である。シューマンとヒラーは協力して、ライプツィヒのゲヴァントハウスのような会員制の演奏会を企画し、1845年11月10日に演奏会を実現させた。このとき、出演予定だったクララが病気のため、代役としてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のソリストを務めたのは、当時14歳のヨーゼフ・ヨアヒム(1831年 - 1907年)だった。しかし、一般大衆に音楽が行き渡っていないドレスデンでの運営は厳しく、活動の継続は断念せざるを得なかった。
また、シューマンはドレスデン宮廷歌劇場の楽長をしていたリヒャルト・ワーグナー(1813年 - 1883年)と出会う。しかし、この二人の関係は冷ややかで、発展しなかった。一方、メンデルスゾーンを高く評価していたシューマンはますます親密な文通を続けた。
シューマン夫妻にとってドレスデンはライプツィヒと比べて音楽的に遅れており、居心地の良い土地ではなかった。 家計を助ける目的もあって、クララは出産と子育ての合間を縫ってしばしば演奏旅行に出かけた。 1846年11月末から翌1847年1月にかけて、二人はウィーンで一連の演奏会を開催し、シューマンの交響曲第1番やピアノ協奏曲などを取り上げたが、失敗に終わった。 音楽批評家のエドゥアルト・ハンスリック(1825年 - 1904年)は、このとき演奏会終了後の楽屋で「みんな冷たい人なんだわ、恩知らずが」と当たり散らすクララと、「落ち着きなさい。クララ、10年経てばすべてが変わるよ」となだめるシューマンの姿を書き残している。 二人の窮地を救ったのは、「スウェーデンのナイチンゲール」と称されていたソプラノ歌手、ジェニー・リンド(1820年 - 1887年)で、彼女との共演によって1月11日の最後の演奏会は大成功を収めることができた。 また、リンドを通じてシューマンとアンデルセン(1805年 - 1875年)との交流が生まれた。
1847年からはオペラ『ゲノフェーファ』(作品81)に取りかかるが、精神障害に悩まされながらの作曲となった。 7月、生まれ故郷ツヴィッカウでシューマンを称える記念祭が2週間にわたって開催され、招かれたシューマンは恩師のクンチュや幼なじみたちと再会を果たした。記念祭のハイライトはシューマンの交響曲第2番の発表であり、この出来事は、シューマン夫妻のウィーンでの挫折を埋めるものとなった。 一方でこの年、長男エミールが早世し、11月4日にメンデルスゾーンが死んだことは痛手となった。
1847年11月、友人のヒラーがデュッセルドルフの音楽監督に就任し、ドレスデンを離れることになった。シューマンはヒラーの指名を受けて男声合唱団「リーダーターフェル」の指揮者となる。シューマンは翌1848年1月にこの合唱団を70名規模の混声合唱団に拡大した。自作発表の場を得たことにより、シューマンは以降多くの合唱曲を作曲した。
前田昭雄はこの時期、シューマンの様式は円熟の境地を見せ、深みと哲学的な思索性を持つようになったとしている。声楽曲としては、オペラ『ゲノフェーファ』(作品81)、バイロンの詩に基づく劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)、『ゲーテのファウストからの情景』(WoO 3)第1部の主要部分が作曲され、歌曲にはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター歌曲』(作品98)や『レーナウ歌曲集』(作品90)などがある。 管弦楽作品としては、先に挙げたピアノ協奏曲や交響曲第2番に加え、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(作品86、1849年)がある。 室内楽曲の分野では、ピアノ三重奏曲第1番、同第2番のほか、オーボエやクラリネット、チェロ、ホルンのための作品が書かれている。 また、ピアノ曲では『森の情景』(作品82)や『子供のためのアルバム』(作品68)がある。後者は「楽しき農夫」などの親しみやすい曲が含まれており、ドレスデンで子供たちに囲まれた暮らしの中で作曲されたことをうかがわせる。
ドイツに起こった三月革命は、1849年5月にドレスデンにも及んだ。思想的には自由主義・共和主義に共感していたシューマンだが、暴力を嫌悪し、ワーグナーのような政治的行動はとらなかった。 シューマンは家族とともに郊外のクライシャに避難した。
1850年、かねてからバッハの作品の多くが出版されずに埋もれてしまっていることに憤慨していたシューマンは、バッハ没後100年を機に「バッハ協会(de:Bach-Gesellschaft Leipzig)」の設立に尽力、バッハ作品全集の計画に参加して中心的役割を果たした。 その一方で高所恐怖症が悪化し、同年のオペラ『ゲノフェーファ』のライプツィヒ公演の際には宿の2階の部屋にいられず、1階に部屋を変えてもらわなければならないほどだった。
このころ、シューマンは音楽界での定職に就きたいという希望を持つようになり、1847年には空席になっていたウィーン音楽院院長職への就任を打診し、メンデルスゾーンの死後はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者への就任についても探りを入れていたが、これらはいずれも実現しなかった。 1849年の秋、ヒラーからケルンで新しい職に就くため、デュッセルドルフの音楽監督のポストをシューマンに譲りたいという手紙を受け取った。 シューマンはためらったが、ドレスデンの旧弊さに嫌気がさしていたクララは定職に就く機会を逃さないようシューマンに勧めた。 シューマンは受諾し、1850年9月、家族とともにデュッセルドルフに向かって旅立った。
デュッセルドルフでシューマン夫妻は歓迎を受けた。 この地でシューマンは管弦楽団と合唱団の指揮を担当し、シューマンが指揮した最初のコンサートは成功を収めた。 創作力も旺盛であり、この時期に相次いで書かれたチェロ協奏曲(作品129)と交響曲第3番「ライン」(作品97)は、シューマンのデュッセルドルフ時代を代表する作品となった。
しかし、最初のシーズンが終わると、1851年3月に地元の新聞がシューマンの指導力を批判する匿名記事を掲載した。 この年、シューマンは室内楽協会を設立している。 つづくシーズンでは事態はさらに悪化した。シューマンは右手の不自由のためにしばしば指揮棒を取り落とし、例えばミサ曲の演奏では曲が終わり、神父が祈祷を唱え始めたにもかかわらずまだ指揮を続けるなどということが起こった。 また、シューマンの内向的な性格や、とりわけこのころ顕著になり始めていた自閉癖のために、団員たちは困惑させられるようになった。 指揮のテクニック不足や、自分の考えをオーケストラに明瞭に伝える能力にも欠けることが露呈し、シューマンの名声は急速にしぼんでいく。
1852年の冬には、オーケストラの理事会がシューマンの練習方法について批判する書簡を送り、摩擦が表面化した。書簡は辞任勧告の意味合いが含まれており、シューマンは拒否したが、これに対して理事会は総辞職で応じた。新しく組織された理事会とシューマンは、ユリウス・タウシュ(de:Julius Tausch, 1827年 - 1895年)を補助指揮者として合唱団の練習を任せ、シューマンはオーケストラの練習と公開コンサートの指揮を続けることで合意した。
1853年5月に開催された「低ライン音楽祭」では、改訂されたシューマンの交響曲第4番(作品120)が初演され、成功した。 5月17日にはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲でヨーゼフ・ヨアヒムと共演する。ヨアヒムはシューマンに対する賛嘆の念を示し、二人の交流から、2曲のヴァイオリン・ソナタ(作品105、作品121)、ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(作品131)、ヴァイオリン協奏曲(作品番号なし)が書かれた。
しかし同年秋にはオーケストラとの間に新たなトラブルが発生する。ヨアヒムを招いて開かれた公開コンサートでは、シューマンは演奏を開始することができなかった。 ヨアヒムは、これについて次のように述べている。
ウォーカーは、こうしたシューマンの奇妙な行動について、病気の進行に伴って彼の身体機能が犯され、動作、言葉、聴力などが均衡の取れないものになっていったのだとしている。 これ以降、シューマンに指揮の機会は訪れなかった。 オーケストラの統率を失ったシューマンに対し、理事会はタウシュを正指揮者としてコンサートの指揮もすべて任せることを要求した。シューマンは受け入れざるを得なかった。 ブリオンによれば、シューマンとクララは経済的な理由のためにこの屈辱に耐えなければならなかったとする。
シューマンの病状は次第に重くなっていった。1851年6月にはシューマン自身が「神経の発作」に悩まされ続けていることを明かしている。 1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり、医者に勧められてシューマン夫妻は北海沿岸の保養地シェヴェニンゲンに出かけたが、効果はなかった。 シューマンの弟子だったヴァジェレフスキによれば、1853年3月、シューマンは降霊術を扱った本を読んでおり、次女エリーゼと二人で霊媒実験を始めたという。このことをシューマンは5月25日付けのヒラーに宛てた手紙に「実に不思議な現象です」と書いている。 1853年6月にクララが記した日記には、シューマンが目を覚まし麻痺性の発作に襲われたことが記録されている。シューマンの言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。
シューマンのデュッセルドルフ時代の作品は多岐にわたっており、フランスの著述家、マルセル・ブリオン(fr:Marcel Brion, 1895年 - 1984年)は、実生活上のいざこざがあっても彼の創造力には少しも影響を与えなかったとする。
例えば、チェロ協奏曲は1850年10月10日から24日にかけて、交響曲第3番は1850年11月2日から12月9日にかけて、ヴァイオリンソナタ第1番は4日間、同第2番は6日間、ピアノ三重奏曲第3番が7日間と、驚くべき速筆で書かれている。『ヘルマンとドロテア』序曲はわずか数時間で作曲された。
ドレスデン時代から始まった「文学的音楽」の系列としては、上記ゲーテの『ヘルマンとドロテア』序曲のほか、シラーの『メッシーナの花嫁』序曲、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』序曲(いずれも1850年)、ウーラントの『王子』、『歌人の呪い』(1852年)などがある。 シューマン畢生の大作となった『ゲーテのファウストからの情景』は、ライプツィヒ時代の1844年に第2部終末の場面を作曲して以来10年がかりの構想となり、最後の序曲は1853年4月13日から15日までの3日間で作曲された。
デュッセルドルフの音楽監督の職務には、カトリック教会の典礼に基づく宗教音楽の実践義務も含まれていた。 このため、シューマンはパレストリーナやバッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトらの作品に接しながら宗教音楽の分野に手を染め、1849年に管弦楽伴奏による男声重唱のためのモテット『苦しみの谷にあっても絶望することなかれ』(作品93)、1852年にはミサ曲(作品147)、レクイエム(作品148)などが作曲された。
1853年9月30日、当時20歳のヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)がヨアヒムの紹介状を携えてシューマン家を訪れた。 ブラームスがピアノの前に座って自作のソナタを弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といった。 ウォーカーはこの出会いについて、「二人の出会いは音楽史に残る出来事だった」、「(シューマン家の)暗澹とした日々に、一筋の光を与えた」と形容している。
シューマンはブラームスの作曲家としての優れた才能を認めて「若き鷲」と呼んだ。 「彼が成長するにつれて、私は消えゆくのみ」とも語った。 シューマンはライプツィヒの音楽出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルに手紙を書いてブラームスを紹介するとともに、10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。 シューマンの厚誼に深く感謝したブラームスは、シューマンのもっとも忠実な弟子となり、シューマンが絶望のどん底にあるときも変わらぬ友情を示した。ブラームスはまた、クララが助力を必要とするときには常に慰め、彼女の心の支えとなった。
ブラームスは10月いっぱいシューマン家に滞在した。 この間ヨアヒムもデュッセルドルフを訪れ、シューマンはブラームスおよび弟子のアルベルト・ディートリヒ(1829年 - 1908年)とともに『F.A.E.ソナタ』を共作してヨアヒムに贈っている。
シューマンはクララとともにたびたびデュッセルドルフを抜け出して演奏旅行に出かけた。とくにオランダではシューマンの作品が受け入れられ、高い評価を得た。1854年のはじめにはヨアヒムやブラームスとともに旅行し、ハノーファーでの演奏会を成功させた。
シューマンの日記によると、1854年2月10日の夜に彼は激しい耳の痛みに襲われた。4日後の2月14日、レストランでヴァイオリニストのベッカーと同席したシューマンは、手にしていた新聞を置いて「とてもこれ以上読んでいられない。A音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と言ったという。
クララは日記に次のように記した。
2月17日には、シューマンは天使たちが歌って聞かせてくれたという変ホ長調の主題に基づく『主題と変奏(天使の主題による変奏曲)』を書くが、この旋律は前年の1853年に作曲したヴァイオリン協奏曲に酷似している。 翌18日になると天使たちは悪魔に変わり、虎やハイエナの姿を取ってシューマンをめがけて襲いかかった。二人の医師が呼ばれ、シューマンを診察した。19日、シューマンは悪魔の精霊に取り囲まれ、夜まで苛まれた。20日にはシューマンは罪と悔恨に打ちひしがれ、自分は罪人で地獄に落ちるのだといって聖書を読み続けた。 その後も発作と小康状態を繰り返したが、2月26日夜、シューマンはもはや分別を保てず、このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがあるとして自分を精神病院に入れるように言い、身の回りの整理を始めた。
翌2月27日、クララと医師が話し合っている隙にシューマンは家を抜け出し、ガウンとスリッパのままの姿でライン橋まで行き、ライン川に身を投げた。 飛び込む前に、シューマンは結婚指輪を外して川に投げ込んでおり、これは16年前の1837年11月、クララへの求婚で悩んだシューマンが婚約指輪を深い池に投げ込んだのと同じ行為だった。 シューマンの寝室には、『主題と変奏』の浄書と「愛するクララ、僕は結婚指輪をライン川へ投げ入れます。君もそうしてください。そうすれば、二つの指輪はひとつに結ばれるのです」という走り書きがあった。
シューマンが川に飛び込むところを漁師が目撃しており、彼は救助された。 家に連れ戻されたシューマンは再び精神病院への入院を望み、ボン近郊のエンデニヒにあるゲイムラート・リヒャルツ博士が経営する療養所に収容されることになった。 3月4日、シューマンはエンデニヒに向かった。 このときクララは懐妊中であり、消耗の極みに達していたために、医師がシューマンに会うことを許さず、彼の自殺未遂についても聞かされなかった。クララがこれを知ったのは、シューマンが死んで2年後のことである。
シューマンはエンデニヒで2年間を過ごした。リヒャルツ博士の療養所(現シューマン記念館de:Schumannhaus Bonn)は、広い庭園の中に建っており、シューマンは庭を自由に散歩できた。 外出もしており、ボンでベートーヴェン記念碑を訪ねている。 部屋にはピアノや五線譜、筆記用具が備えられ、作曲もできた。 エンデニヒにおいて、シューマンはパガニーニの24の奇想曲用のピアノ伴奏を補筆しており、ヨアヒムのオペラ『ハインリヒ4世』序曲のピアノ編曲もしている。 クララと家族との面会はシューマンの神経を刺激しないために禁じられたが、ブラームスやヨアヒム、ディートリヒ、批評家のハンスリックらが面会に訪れた。 シューマンがエンデニヒから出した手紙は、クララ宛が7通、ブラームス宛が4通、ヨアヒム宛が1通、長女マーリエ宛が1通残されており、のちにハンスリックによって公表された。クララ宛の手紙は子供たちへの心遣いを含めた愛情あふれる手紙となっている。 また、1854年11月27日付けのブラームスに宛てた手紙には、ブラームスが作曲した『シューマンの主題による変奏曲』(作品9)についての批評を書き送っているが、ここには精神錯乱を思わせる箇所は全く見当たらない。
シューマン自身は回復できると考えていたが、しかしその望みは日毎に薄れた。 発音が困難になり、感覚の鈍磨が聴覚、味覚、嗅覚にまで広がった。 シューマンは絶え間なく部屋の中を歩き回り、ときにはひざまずいて手を組み合わせた。お前の作品は盗作だと非難する声が聞こえ、シューマンは興奮して「そんなことはない、嘘だ!」と叫んだ。食事を拒否することもしばしばで、次第にやせ衰えていった。1854年8月14日にシューマンを見舞ったブラームスによると、シューマンは突然ワインを飲むのをやめ、毒が入っていると言って床に流したという。 1855年の夏には、シューマンの伝記を書いたヴァジェレフスキがエンデニヒを訪れた。だれも聴いている者もいないのに、即興でピアノを弾いているシューマンの姿を「それはバネがこわれて、ときどき思い出したように動く機械のようだった」と述べている。 1855年の秋、リヒャルツ博士はシューマンはもう回復の望みはないと診断した。 1856年6月8日にブラームスがエンデニヒを訪れたときは、シューマンの足は腫れ上がり、ベッドに寝たきりとなっていた。このときシューマンは、地図帳から地名を拾い出し、正確にアルファベット順に並べる作業をしており、シューマンが好んだ言葉遊びが最後まで残っていた。
7月23日にリヒャルツ博士から危急を知らせる電報を受け取ったクララは7月27日にエンデニヒに着き、2年ぶりにシューマンと再会した。「それは夕方6時から7時のころのことでした。彼は私を認めて微笑み、非常な努力を払って―もうその頃、彼は四肢の自由がきかなくなっていました―彼の腕を私に回しました。私はそれを決して忘れません。世界中の宝をもってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」とクララは述懐している。 翌28日、シューマンの手足の痙攣が続き、クララはシューマンにワインを飲ませた。ワインの一部がクララの手の上にこぼれると、シューマンは嬉しそうにクララの指をなめた。 1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じた。 シューマンの最後の言葉は、「meine,......ich kenne... (私の...わかるよ...)」だった。
遺体は2日後にボンで埋葬された。ブラームス、ヨアヒム、ディートリヒが棺を担ぎ、グリルパルツァーが弔辞を述べた。クララが葬儀をごく近しい友人にしか知らせなかったため、クララとヒラー以外に参列したのは、6年前にシューマン夫妻がデュッセルドルフに到着したとき、歓迎のセレナーデを演奏した楽団コンコルディア・ゲゼルシャフトのメンバーだけだった。
シューマンの死後、クララは子供たちとともにベルリンに移った。1863年からはバーデン=バーデンを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。クララは同時代で最高の女性ピアニストとしての名声を築き上げるとともに、シューマンの作品を弾く機会を逃さず、シューマンの曲のもっとも権威ある解釈者として信頼された。クララは1896年に76歳で没し、ボンのシューマンの墓にともに葬られた。
シューマンの8人の子供は、長男エミールが1歳で亡くなったほかはみな成人した。長女マーリエは音楽教師として独身で過ごし、インターラーケンで死去した。次女エリーゼは、ゾンマーホフ(1844年 - 1911年)と結婚し、夫に先立たれた後は17年間独身で暮らした。三女ユーリエは、1869年夏ごろからブラームスから心を寄せられていたが、ブラームスがそれを率直に打ち明けることはなく、イタリアの貴族ラディカーディ・ディ・マルモリート伯爵(1831年 - 1923年)と結婚した。ブラームスは傷心から『アルト・ラプソディ』(作品53)を作曲している。次男ルートヴィヒは商店で働き、生涯独身だった。三男フェルディナントは銀行員となったが、シューマンに作曲を学び、作品を残している。四女オイゲーニエは独身で音楽教師となり、回想記を残した。末子のフェリックスは詩人を志し、彼の2編の詩にブラームスが付曲している。作品63の歌曲集中の「青春の歌1(わが恋は緑)」と「青春の歌2」である。
シューマンが成人してから体験した症状は、麻痺、言語障害、けいれん、めまい、視力減退、耳鳴りなどがあった。 これらの原因がなんだったのか、100年近くの間、医学界では謎とされていた。 また、シューマンの兄弟たちはみな短命で、シューマンより早く世を去っている。姉のエミーリエは原因不明の皮膚病にかかり、19歳の時にチフスで高熱の発作を起こし、川に投身自殺した。シューマンの祖父のいとこゲオルク・フェルディナント・シューマンも1817年に投身自殺しているが、この二人の自殺とシューマンの自殺未遂との関わりは不明である。
シューマンの伝記を最初に書いたヴァジェレフスキはシューマンの死因についてエンデニヒ療養所のリヒャルツ博士に問い合わせており、リヒャルツ博士は1883年にシューマンの検屍報告書を発表した。 これによると、シューマンの脳は摘出されて検査を受けており、シューマンの脳は同年齢の一般男子の脳と比べて軽く、萎縮していることが認められた。 リヒャルツ博士は、精神病の遺伝については否定している。シューマンの精神疾患は原発性の特異なもので、全神経組織を統合する力が徐々に、しかし遅滞なく衰弱していき、ここから心的障害が部分的に現れたとしている。 さらに、その最初の根源はきわめて若いころにあり、それが年月とともに進行していったとしている。 イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーは、リヒャルツ博士は最終的に、梅毒による全身麻痺だったと診断している。しかし、シューマンの病状に関するカルテがエンデニヒの療養所から消えてしまい、この結論は確認できなくなった。 これについてウォーカーは、リヒャルツ博士はクララに恥をかかせないために病院の記録を隠したのではないかと述べている。 この結果、シューマンの病気については統合失調症、結核性髄膜炎、脳腫瘍といったあらゆる病気が当てはめられ、シューマンの伝記作者たちは、あやふやなまま提供されたさまざまな説に翻弄されることになった。
1959年、精神病理学と神経病理学の専門家、マリオット・スレイターとアルフレッド・メイヤーは共同論文を発表し、医学的な証拠を残らず再調査した結果、シューマンのすべての病状に適合するのは第三期梅毒しかないという結論を下した。 シューマンは1844年に「歌うような雑音」が聞こえると訴えており、これは第二期梅毒の典型的な症状に該当する。このことから潜伏期間を推定すると、シューマンが梅毒に感染したのは1830年から1831年の間と考えられる。このころシューマンはライプツィヒで無頼な日々を送っており、1973年に出版されたシューマンの当時の日記には、女性との性的交渉について細かい記録があった。 その後、1994年にリヒャルツ博士によるシューマンのカルテが公開され、シューマンの死因が梅毒による進行性麻痺だったと報道された。
ウォーカーによれば、おそらく1830年にヴィークのレッスンを受け始める前からシューマンは右手の不調に気づいていたという。 その1年後、1831年の「自伝的覚え書き」にシューマンは「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と記している。 1832年にヴィークがクララの演奏旅行に同伴してライプツィヒに戻ったときには、シューマンの右手はまったく使えなくなっていた。
シューマンの指の故障について伝えられているのは、シューマンは指の動きを均等化するために指の1本だけを吊りながら演奏するという機械装置を独自に考案し、右手の第4指ないし第5指の腱を傷めたというものである。 しかし、シューマン自身がこのように説明している記述はどこにもない。
指の訓練機械について最初に触れたのは、ヴィークである。彼は1853年の著書『ピアノと歌』で「その指の訓練器は私のある有名な弟子が私の意に反して発明し、密かに使っていた。そして当然のこととして、第3、第4指を痛めてしまったのである」と述べている。 ヴィークはこの弟子がシューマンであるとは述べていないが、後世の解説者たちはこれをシューマンと結びつけた。 さらに、シューマンの四女オイゲーニエが父親が第3指を縛ってつり上げ、他の指で鍵盤を弾いたと述べたことで決定的となった。
1889年、シューマンの研究家フリードリヒ・ニークスがクララに会ってインタビューしたところ、クララはシューマンが故障した指は右手の第2指であり、固い無音鍵盤で練習したのが原因だと語った。ニークスは、それまで知られていた説と矛盾するクララの証言について、70歳という老齢による錯誤であろうとして信用しなかった。 しかし、80年後の1969年、ライプツィヒ市の資料室からシューマンと軍司令官との間に交わされた未公開の書簡が発見された。シューマンは1842年に軍隊入りを志願したものの、手の疾患のために兵役免除となっていた。書簡にはシューマンの主治医ロイター博士の署名入り診断書が添えられており、右手の人差し指と中指が悪いと記されていた。これは、クララの証言を裏付けるものである。
1971年、イギリスの音楽学者エリック・サムス(en:Eric Sams)は、少なくとも一般的に知られているような形でのシューマンの指の「事故」はなかったとし、シューマンは水銀中毒のために運動機能に回復不能の症状を来したと仮定した。 19世紀当時、梅毒の治療には広く水銀が使われており、この間、すでに述べたように1959年にスレイターとメイヤーの共同論文によって、シューマンの死因が第三期梅毒であることが指摘されていた。
シューマンと同時代のドイツの作曲家・音楽批評家ルイス・エーレルト(en:Louis Ehlert, 1825年 - 1884年)は、著作『シューマンとその楽派』(1849年)において、「ベートーヴェンが古典的時代の芸術の頂点なら、シューマンはわれわれの現代の時代意識を体現する存在になっている。彼の苦闘が結んだ愛には、必ず優しい、温和な守護神(天才)が宿っていて、われわれは人間的にそこへ惹きつけられる」と述べている。 また、19世紀ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840年 - 1893年)は、「この世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない。シューマンの音楽は、ベートーヴェンの作品と有機的に結びつきながら同時に決定的にこれから離れ、われわれに新しい音楽形式の全体的な世界を拓き出し、そういう偉大な先駆者たちもいまだ触れたことのない弦を響かせている。そこにはわれわれの心的生活の秘かなプロセス―あの疑いと憂鬱と、理想を振り仰ぐまなざしと―今日の人の心を感動させるものが響きを発しているのだ」と述べている。
シューマンの創作の重要な時期は、3つの都市名で区分できる。ライプツィヒ時代(1828年 - 1844年)、ドレスデン時代(1844年 - 1850年)、デュッセルドルフ時代(1850年 - 1854年)である。この前後に、ツヴィッカウの幼少年時代、エンデニヒの最後の療養所生活、より短い期間では、ハイデルベルクとウィーンでの生活を挙げることもできる。
ライプツィヒ時代に書かれ、シューマンの名を一般に不朽のものとしているのは、ピアノ曲と歌曲である。 作品番号の1番から23番まではすべてピアノ曲であり、20歳代のシューマンはピアノ作品に集中した。 作品24からは歌曲の創作が続く。 こうして、30代では1840年が「歌の年」、1841年が「交響曲の年」、1842年が「室内楽の年」、1843年にはオラトリオ『楽園とペリ』が完成、というように分野が拡大されていった。 ドレスデン時代とデュッセルドルフ時代を通じて、オペラ『ゲノフェーファ』(作品81)、劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)、『ゲーテのファウストからの情景』(WoO 3)などさらに分野を拡大した。晩年には『ミサ曲』(作品147)や『レクイエム』(作品148)など宗教音楽も作曲したが、一般的に評価されていない。シューマンの芸術の幅が広がり、奥行きと深みを増すにつれて、反面、想像力の鮮やかな直観性、純粋な詩情、天才的なひらめきは重厚な構成に比重を譲っているように見られる。
ブリオンは、ビーダーマイヤー的な家庭環境で育ったシューマンの音楽からは、良心も精神も純粋であって、充実して輝かしい人間性が内面的に成熟した場合の、静かな、無言の深い喜びが輝き出ているとし、これをドイツ・ロマン派の牧歌的な側面として位置づけている。 また門馬は、シューマンの作品に行進曲のリズムが多く見られるのは、ナポレオン戦争のさなかに生まれたシューマンの幼児体験からの影響とする。 一方でシューマンは技巧的な作品を否定しておらず、このことは幼年時代にモシェレスを聴いて圧倒的感銘を受けたことやハイデルベルク時代に音楽で身を立てようと決心をしたきっかけがパガニーニの演奏だったことからもうかがえる。「技巧」へのロマン的賛美は、ヴィークへの入門を決意した際にも強く意思されていた。
シューマンの作品には楽譜に対して実際の音楽の拍節が異なって聞こえる場合がしばしばあり、日本の作曲家池辺晋一郎(1943年 - )はこれを「拍節マジック」と呼んでいる。 また、池辺は、シューマンが『楽園とペリ』(作品50)においてワーグナーよりも早くライトモティーフを使用していると指摘している。
シューマンの作品全体の概観からは、作品がグループあるいは組になって作られている傾向が見て取れ、このように同じ分野の作品を立て続けに作曲した後に次の分野に移るという形で作品を残した作曲家は他に例がない。 このことからウォーカーは、シューマンは心理学者のいう「循環気質」型の性格であり、彼のすべての業績は、その創造的衝動が潜行しては、また別な分野に再び現れて形成されているとする。 この点、近年の資料研究によって未公開のスケッチや文書資料などが明らかにされ、交響曲をはじめとする大作品への意欲や、最高の普遍性を持った作曲家であろうとする願いが、シューマンの初期のころから根強く存在していたことが判明している。 例えば、1832年に『間奏曲集』(作品4)の着手前にシューマンはト短調のいわゆる『ツヴィッカウ交響曲』を試みている。1838年には2曲の弦楽四重奏曲、1839年にはピアノ協奏曲が試みられた。これらは完成されなかったが、後の交響曲や室内楽などの分野での成果を予告するものだった。 また、同一分野の作品を短期間に集中して書き上げることも特徴的で、例えば1842年、シューマンは作品41の3曲の弦楽四重奏曲を作曲するのに5週間とかからず、作品44のピアノ五重奏曲は6日間、作品47のピアノ四重奏曲は5日間で書き上げるなど、超人的な速筆ぶりは晩年まで変わらなかった。 ブリオンは、このようなシューマンの作曲方法について、彼の有機的な創造性が、いわばいっぱいにせき止められた水がひとたび出口を見つけるや、鉄砲水の勢いで一気にほとばしり出るのに似ていると述べている。
ブリオンは、一方でシューマンのこうした集中的な創作傾向はかえって自分自身を苦しめることにもなったとする。 シューマンがひとつのことにこだわる傾向は作曲分野以外にも見られ、曲の中でリズムパターンに固執する例も多い。 ドレスデン時代以降は精神障害に苦しみ、研究家の中には、これらの病気がシューマンの作曲活動に影響を及ぼし、彼の創造力の衰えとして結論づける論者もいる。
また、ワインガルトナー以降の交響曲論者によって、シューマンの天才は初期のピアノ曲や歌曲にあり、交響曲その他の後期の作品には否定的な評価を与える見方がある。 例えば門馬直美は、シューマンの交響曲の音響的な基盤はピアノと室内楽であるとし、楽想的にもピアノ的なものが幅をきかせており、ヴァイオリンの音型などでもむしろピアノ向きだと思えるものが少なくないと指摘している。 また、フランスの文学者アンドレ・ジッド(1869年 - 1951年)は、シューマンとショパンのピアノ様式を端的に区別し、「シューマンは詩人であり、ショパンは芸術家である」と述べている。シューマンのピアノ曲には、ときにピアノを逸脱した独自性を示すことがあり、ピアノの鍵盤は詩的な表現のための道具として供される印象を与えるためである。
前田は、これらの見方について「結局、シューマンのピアノ曲はシンフォニックといわれ、シンフォニーはピアノ的といわれ、それぞれ否定的なニュアンスでいわれることが多いという事実である。しかし、同じことは肯定的にも捉えられ得る」と述べる。 シューマンの『フモレスケ』(作品20)についての文章の中で、前田はシューマンの音楽について、程度の差こそあれ、「欠陥にもかかわらず」ありのままに愛されうる性格が著しく、形式的破綻すらも血の通ったひとつのドキュメントとして愛されることができる、としている。
シューマンの読書好きは父親譲りで、主として文学と哲学を好んだ。 シューマンは13歳のとき、当時興味を持った批評や詩、哲学的著作からの引用や自作の劇『精神』(未完)からの断章、両親の文章などを「スクランダー」というペンネームで『美しい黄金色の牧場の葉と花』としてまとめている。 また、1825年から1828年の間に書いた自作の文集を「ムルデ河畔のロベルト」というペンネームで『雑録』としてまとめている。このころ、シューマンはゲーテの『ファウスト』をほとんど全部暗記し、友人たちからは「ファウスト」または「メフィスト」などと呼ばれていた。 このほか、シューマンが手がけた文学作品として、コリオランを題材にした合唱付きの悲劇『ランデンドルファー兄弟』や喜劇『レオンハルトとマンテリエ』、ジャン・パウルから影響を受けた『6月の晩と7月の昼間』という小説があるが、いずれも未完である。 シューマンが文学者をめざさず音楽の道を選んだことについて、ブリオンは「シューマンにとって、限界があり、厳密さを欠く文章表現よりも、音楽はずっと豊かで、多様で、陰影があり、緻密な言葉を提供した」と述べている。
初期のピアノ曲にとくに関係が深いのがジャン・パウルとE.T.A.ホフマンの二人である。 例えば、シューマンの『蝶々』(作品2)はジャン・パウルの小説『生意気盛り』から着想された作品である。 また、『幻想小曲集』(作品12)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『夜想曲集』(作品23)のそれぞれの題名はE.T.A.ホフマンの文学作品から採られており、いずれもロマン的憧憬に彩られている。 シューマンは絶えず読んだジャン・パウルの全集の次のような部分にアンダーラインを引いている。
シューマンの文学に対する豊かな素養は、歌曲の詩の選択にも反映されている。彼が選んだ詩人では、ハイネが44篇、つづいてリュッケルトが42篇と多い。これにガイベル(de:Emanuel Geibel, 1815年 - 1884年)がつづく。アイヒェンドルフとケルナー(de:Justinus Kerner, 1786年 - 1862年)はそれぞれ20曲ずつとなっている。ゲーテについては歌曲は18曲とそれほど多くないが、より大規模な合唱作品がある。 このほかシャミッソー、ファラースレーベン、レーナウ、メーリケ、ウーラント(de:Ludwig Uhland, 1787年 - 1862年)、ヘッベルなどのドイツ詩人・作家、スコットランドのロバート・バーンズ、デンマークのアンデルセン、イギリスのバイロンなどが採り上げられた。
また、読書のほか自然を好み、散歩をよくした。ライン川や、とくに生まれ故郷ツヴィッカウには強い愛着を抱いていた。 シューマンは1845年に出版されたフンボルト(1769年 - 1859年)の『コスモス』を読んでこれを推奨している。ブリオンは、自然哲学者が自然との一致及び事物のほとんど予言者的な幻影から宇宙体系を推論するように、シューマンが自然との牧神的な一致から普遍的な魂の表現をつかみ取って作品とりわけ交響曲へ流入させていると述べている。
シューマンは生涯に計4曲の交響曲を作曲した。 交響曲の創作に本格的に進出したのは1841年からで、前年の1840年にはピアノ曲から歌曲への創作分野の転換があり、クララと結婚している。1841年には交響曲第1番「春」(作品38)と後に改訂されるニ短調交響曲が書かれた。 交響曲第2番(作品61)はシューマンのドレスデン時代の作品である。 デュッセルドルフ時代に交響曲第3番(作品97)が書かれ、さらに1841年に書かれたニ短調交響曲が改訂され「第4番」(作品120)として出版された。 なお、第1交響曲に先立つ1832年に『ツヴィッカウ交響曲』に取り組み、1841年にはハ短調の交響曲の構想もあったが、これらは完成されなかった。
シューマンはピアノ曲を創作するはるか以前から『ハムレット交響曲』などのスケッチを書いており、1829年にはヴィークに宛てた手紙に「交響曲を頭の中で書きました」と報告している。このように、交響曲への意欲はシューマンのごく初期から彼の中にあり、シューマンのピアノ作品は交響的イメージから発想されたり、交響的な次元に向かって開いていることが多い。第1交響曲はわずか4日でスケッチが完成されているが、こうした前提をふまえたものであり、霊感のみによって突然成就されたものではなかった。
シューマンの交響曲は、管弦楽編成の点では古典派の延長線上にあり、19世紀前半のロマン派交響曲として、また、ベートーヴェンやシューベルトからブラームスやブルックナーへの橋渡し的存在として重要である。 これらの影響とは別に、シューマンの交響曲にはシューマンならではの個性や格調、筆致があり、例えば1903年に古典的なシューマン評伝を書いたヘルマン・アーベルトは、「シューマンの交響曲の際だった特質は、第一に楽想の例外ない独創性と深い真摯さであり、また純粋な熱中の、われわれを抗いがたく引き込む飛翔力である」と述べている。
にもかかわらず、シューマンの交響曲は彼のピアノ曲のようには広く支持されていない。 その理由の一つとして挙げられるのが、シューマンの管弦楽法についてであり、「オーケストレーションがときに鈍重で垢抜けない」、「色彩的には華麗で明快なものではなく、どちらかといえばくすぶったような、曇りがちの天候のような響きを出す」、「往々にして暗く重く、3度やオクターヴの平行が多く、楽器の使い方が技術的に問題」などといった批評が多く見られる。 このため、グスタフ・マーラーをはじめ、シューマンの交響曲のオーケストレーションに修正を加えて演奏する例が見られたが、近年ではオリジナルを尊重して手を入れない、あるいはリハーサルの段階で各パートのバランスを調整して問題を解決させた演奏が多くなっている。
門馬直美は、こうしたシューマンの管弦楽の扱い方について、「未熟さがあるからだといわれることが多いが、逆に言えば、そこにシューマンの味があり、特色がある」としている。
また、『西洋音楽史』のドナルド・グラウトは、シューマンの交響曲について次のように述べている。
これに対して前田昭雄は、グラウトの評価を十分賛同できるとしつつ、「有機的統一に欠ける」という指摘は修正を要するとしている。 すなわち、シューマンの形式は決して新主題の羅列ではなく、形式原理が認識されなかっただけであり、「人は理解できぬものに対してはさしあたり否定的な評価を下すことになる」と述べている。
シューマンは早い時期からピアノ独奏と管弦楽のための協奏的作品に取り組んでいるが、変ホ長調(1828年)、ヘ長調(1829年 - 1831年)、ニ短調(1839年)などはいずれも未完である。完成されたものとしては、ピアノ協奏曲(作品54)、『序奏とアレグロ・アパッショナート(ピアノ小協奏曲とも)』(作品92)、『序奏と協奏的アレグロ』(作品134)などがある。 ピアノ以外では、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(作品86)、チェロ協奏曲(作品129)、ヴァイオリン独奏と管弦楽のための幻想曲(作品131)及びヴァイオリン協奏曲(WoO 23)があり、池辺晋一郎は、「そんなふうに言われることはあまりないが、シューマンは実は協奏曲作家だ」と述べている。
このうち、ピアノ協奏曲はロマン派時代の最も優れた協奏曲の一つである。 この曲は第1楽章が『幻想曲』として1841年に作曲されており、残りの楽章は1846年、ドレスデンで完成された。
チェロ協奏曲は、シューマンがデュッセルドルフに移ってまもない1850年10月に完成しているが、なぜ書かれたのかその理由ははっきりわかっていない。シューマンはかつて右手を痛めてピアニストになることを断念したとき、チェロ奏者になることも考えており、ウォーカーはおそらく多分にノスタルジーがあったからではないかとしている。初演は1860年で、シューマンの存命中には演奏されなかった。
また、ヴァイオリン協奏曲はシューマン最晩年の作品だが、楽譜を贈られたヨーゼフ・ヨアヒムがこの曲を採り上げることはなく、作曲から80年近く経った1937年に初演されている。
シューマンはギムナジウムに在籍していた1823年ごろから友人や知人の家でモーツァルトやウェーバーらの室内楽を楽しみ、ピアノを担当した。 室内楽曲のもっとも初期の試みとして、1828年から1829年にかけてハ短調のピアノ四重奏曲やヴァイオリンとピアノのためのソナタがある。1839年6月にも2曲の弦楽四重奏曲を書こうとしているが、最初の部分だけで中絶した。1840年にクララとの結婚後、シューマンはベートーヴェンの弦楽四重奏曲を熱心に研究した。本格的に室内楽に取り組んだのは1842年であり、弦楽四重奏曲(3曲)、ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲などが書かれた。 ドレスデン時代以降にはピアノ三重奏曲(3曲)やヴァイオリンソナタ(3曲)などがある。
シューマンの室内楽曲は独特の幻想味にあふれている。古典的な伝統に従いながらも自由さを見せる構成の中に、巧妙な対位法がシューマンの幻想の広がりを妨げることなく織り込まれている。 3曲の弦楽四重奏曲のほかは楽器編成にピアノを用いているほか、チェロが愛好されていることが特徴である。
また、古典派的な多楽章形式を基礎に置いたもののほか、ピアノ曲の分野で好んだような小品集や組曲形式も見られ、これらの作品では、シューマンは趣に富んだ楽器の組み合わせを考え出した。 クラリネットとピアノのための『幻想小曲集』(作品73)、ホルンとピアノのための『アダージョとアレグロ』(作品70)、オーボエとピアノのための『3つのロマンス』(作品94)などは、本来ロココ風である管楽器とロマン的なピアノによる対話であり、これらはシューマンが18世紀とロマン主義とを調和させ、均衡させることができた例である。
シューマンの作品23までの曲はすべてピアノ曲である。ピアニストを目指して訓練したが指を痛めて断念、作曲に転向した経緯から、シューマンにとってピアノはもっとも親しい楽器だった。 最初期には未出版の曲も含めてほとんど変奏曲ばかり書いており、作品1の『アベッグ変奏曲』も同様である。 ピアノ書法の面では、ペダルの用法に特徴があり、『蝶々』(作品2)の終わりの部分では、属七の和音の構成音を次第に減らしていって最後に属音のみが残って消えるようにフェルマータを置いている。このようなペダルが不可欠な終わり方は『アベッグ変奏曲』の終曲にも見られる。
『謝肉祭』(作品9)や『交響的練習曲』(作品13)において、シューマンは初期ロマン派の作曲家たちが直面していた大曲の音楽構成についてひとつの解決法を打ち出している。これらは、糸で連ねられた真珠のように、小品が途切れることなく演奏されていくという新しい形式の音楽である。19世紀前半にはメンデルスゾーンやショパン、リストらもピアノの小品を書いているが、シューマンの場合は小品の集まりが一つの曲として構成されていたり文学的・幻想的な関連で括られており、こうした曲のまとめ方はシューマン独自のものである。 また、シューマンは曲中で気に入ったリズムを導入すると、それにきわめて長く固執する性癖を持っていた。『交響的練習曲』の終曲や、ピアノソナタなどその他の作品でもそうした傾向が現れている。
クララとの結婚をめぐるヴィークとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。すなわちピアノソナタ第1番(作品11)、『幻想小曲集』(作品12)、ピアノソナタ第3番(作品14)、『子供の情景』(作品15)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『幻想曲』(作品17)などである。 マルセル・ブリオンは、クララとの結婚までの6年間はシューマンの作品にピアノ史上類のないほどの悲劇的な壮大さを与えており、これらの作品にクララへの思いが喜びや希望や苦痛や悲嘆の形で込められていないものは1小節もなかった、と述べている。 ハンス・ヨーゼフ・オルタイルは、この数年間にシューマンが書いたすべての作品はクララとの関係を題材にしており、それらの核心をなすのが『子供の情景』だとする。この曲集はシューマン自身が正確に述べているように子供向きのものではなく、クララとのなれそめから1838年春の作曲時期に至るまでシューマンがヴィークの家庭との関わりではっきりと思い浮かべた過去の出来事を、音楽によって再創造した「思い出の対話」である。
シューマンのピアノ曲には曲の開始部と終結部を同じフレーズとしているものが特徴的に見られ、例えば、『子供の情景』の第4曲「おねだりする子供」や『森の情景』(作品82)の第7曲「予言の鳥」がある。 また、シンコペーションを好み、しばしば表記上の拍と耳で聴く拍が違っている。例えば、『子供の情景』の第10曲「大まじめに(むきになって)」や『幻想小曲集』の第1曲「夕べに」などで、後者は、全曲を通じて3/8拍子に聞こえるが、楽譜は2/8拍子で書かれている。 ジャン・パウルの影響によって、シューマンの初期のピアノ曲の基調にはフモールの概念があり、『フモレスケ』(作品20)では、この概念がタイトルそのものとなった。シューマン自身の説明によれば、「フモール」は独自のドイツ的な内容を持つものであり、「夢幻的」かつ「涙の下から微笑む」心である。 池辺晋一郎は、インスピレーションが詩的な想念となり、ピアノの音に転化していく。こういったことがシューマン独自の世界なのだ、と述べる。
一般に「シューマンのピアノ曲」として認知されているのは1839年の『4つの小品』(作品32)までであり、ドレスデン時代以降になると、ペダルピアノのための『6つの練習曲』(作品56)、同じく『4つのスケッチ』(作品58)、『6つのフーガ』(作品60)、『4つのフーガ』(作品72)といったバッハの対位法研究の成果を示す作品群が現れ、さらに、『子供のためのアルバム』(作品68)をはじめとした家庭向きあるいは教育向きとも見られるピアノ作品も書かれるようになった。 また、1850年にシューマンは「若き音楽家への助言」を発表しており、これは『子供のためのアルバム』の序文としてよく使われている。
ロマン派の歌曲の歴史の中で、シューマンはきわめて重要な役割を果たしている。 ブリオンによれば、シューマンはロマン派の憧れそのものを、またそのもっとも本質的な特徴を体現しており、彼の歌曲は、モーツァルトを除いては他のいかなる作曲家も及ばぬこの上ない調和を達成しているとしている。 日本の音楽評論家横溝亮一(1931年 - 2015年)は、「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」と述べている。 また、ウォーカーは、「もし、シューマンが歌曲しか書かなかったならば、彼はより大家と目されただろう」と述べている。
シューマンが本格的に歌曲の世界に足を踏み入れたのは1840年で、シューマンはこの年9月にクララとの結婚を実現させている。
シューマンは30歳であり、クララの存在が彼の想像力の源であった。 それまでピアノ曲を主体に書いてきたシューマンは、1839年にヘルマン・ヒルシュバッハに宛てた手紙に歌曲について「器楽曲と比べて立派な芸術と思っていなかった」と述べている。しかしこのシューマンの見解はめざましい転換を遂げ、歌曲の創作はシューマンにとって大きな意義を帯びることになった。これには、友人で声楽の教師だったオズヴァルト・ロレンツ(1806年-1889年)からの影響もあった。
1840年だけでシューマンは120曲以上、生涯を通じては270曲以上の歌曲を作曲した。 シューマンの文学に対する豊かな素養が詩の選択にも反映されていることについては、#文学との関係を参照のこと。 形式面では、変化有節形式と通作形式が目立って多く、いくつかの歌曲集では、テーマ的な関連性を織り込む試みをなしとげている。 また、歌曲において従来は伴奏でしかなかったピアノの地位を向上せしめた。シューマンの歌曲では、ピアノは歌に対して対等であり、ときには作品を支配する役割を担っている。例えば、『詩人の恋』(作品48)の終曲は充実した独奏ピアノによって閉じられる。 このため、シューマンの歌曲は「歌声部の伴奏を持つピアノ曲」といわれることもある。
シューマンは「新音楽時報」でマイアベーアのオペラを痛烈に批判しており、自分でも優れたオペラを作曲したいと考えていた。 シューマンの日記からは、オペラ化を計画した文学作品が多数挙げられる。バイロンの『海賊』、『サルダナパラス』、カルデロン(1600年 - 1681年)の『マルティブレの橋』、『魔術師』、E.T.A.ホフマンの『総督と総督夫人』、トマス・モアの『ララ・ルク』、ゲーテの『ヘルマンとドロテア』、『ファウスト』などである。これらのうち、『ララ・ルク』や『ファウスト』はそれぞれ『楽園とペリ』及び『ゲーテのファウストからの情景』のオラトリオ的作品として結実した(下記参照)。また、『ヘルマンとドロテア』は、シューマンは友人のユリウス・ハマーに作品の手直しと台本化を依頼したが実現しなかった。
シューマンが実際にオペラとして取り組んだのは2曲だが、このうち『海賊』は未完であり、『ゲノフェーファ』(作品81)のみが完成した。 しかし、唯一のオペラである『ゲノフェーファ』も、優れた場面はあるものの、音楽・台本に一貫性を欠いており、親しまれているとは言い難い。
トマス・モア原作によるオラトリオ『楽園とペリ』(作品50)は、シューマンの出世作となった。 また、後に書かれたバイロン原作による劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)や『ゲーテのファウストからの情景』も、独唱、混声合唱、児童合唱、管弦楽による演奏時間約2時間の大作である。 とくに『ゲーテのファウストからの情景』は、シューマンの全創作のうちでも作曲家の精力が最も集中された作品であり、前田は「作品番号はつけられていない。これは未完とか遺稿とかいう意味ではなく、シューマンにとって作品とか演奏とか、初演や初版の成功とかいう意味を超えた、芸術的実存を賭けての超作品という存在に、この音楽が育っていったことを意味している」と述べている。
このほか、独唱、合唱、管弦楽のための作品に『夜の歌』(作品108)、『ばらの巡礼』(作品112)、『王子』(作品116)、『うたびとの呪い』(作品139)、『小姓と王女について』(作品140)、『エーデンハルの幸せ』(作品143)などがある。 舞台装置や衣装を必要とする大がかりなオペラでなくこうしたオラトリオ的作品が多く書かれた理由は、シューマンが文学に造詣が深かったことと、彼が生きた時代が「市民の時代」黎明期であり、アマチュアや市民による合唱団が巷間に生まれつつあったことが背景にある。
宗教音楽に対してシューマンが真剣な情熱を注いだことはそれほど理解されていない。 シューマンは、「もしも聖書とシェイクスピアとゲーテを読み、それらを自分の中に取り入れてしまえば、もうその人にはなにも必要はない」と語っている。 また、シューマンがアウグスト・シュトラッカリアンに宛てた1851年1月13日付けの手紙には、「芸術家の至高の目的が宗教音楽に対して創造的な力で貢献することであるのは確かなことです」と述べている。 1852年からは、バッハのミサ曲 ロ短調やマタイ受難曲の演奏会も積極的に行っており、このころ『スターバト・マーテル』やリュッケルトの詩による『ドイツ・レクイエム』、プロテスタントの典礼に基づくレクイエムやオラトリオなどの作曲も計画したものの、これらは実現しなかった。
とはいえ、シューマンの宗教音楽について、批評家は概して酷評を下している。 例えば、シューマンのミサ曲やレクイエムのテキスト選択についてシュピッタは、ロマン的、神秘的な性格、内密なものへの共感からなされていると述べているが、アウグスト・ライスマン(1825年 - 1903年)はこれらの作品の構成の弱さを指摘している。ダームスは、シューマンの器楽曲における対位法の熟達ぶりに比べて教会音楽における声部のポリフォニーが貧弱なのはどうしたわけかと疑問を投げかけ、シューマンのミサ曲とレクイエムは単に音楽的記録としてのみ取り上げるにとどめるべきで、演奏されるに値しないとまで述べている。
シューマンの死後まもない1856年、クララとブラームスはシューマンの作品全集の出版について話し合った。全集の編纂には長い年月を要し、1879年から1893年にかけて全29巻のシューマン作品全集がブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から刊行された。
この過程で、クララは1861年4月、シューマンの作品のメトロノーム指定を改訂することでブラームスと相談している。ブラームスはクララに助言し、自分の演奏スピードを毎回記録し、平均値を取ることにした。その結果、メトロノーム指定を変更したのはピアノソナタ第3番、『幻想曲』、『子供の情景』、『夜想曲集』(作品23)、『森の情景』の5曲にとどまり、その他のピアノ作品や管弦楽作品ほかについては変更がなかった。変更された5曲も、数値的にごくわずかなものだった。
一方、指揮者・ピアニストのハンス・フォン・ビューロー(1830年 - 1894年)は、自身が校訂したヨハン・クラーマーの1869年版ピアノ練習曲集の序文に「シューマンが創作に携わっていた間、ずっと故障しているメトロノームを使っていたことはすでに広く知られるところである」と述べた。さらに1886年、シューマンの書簡集を刊行したグスタフ・ヤンゼン(1831年 - 1910年)は、その第1版に、シューマンの死後メトロノーム指定が正確でないことがわかり、シューマンの作品の多くはメトロノーム指定が不適切であるとしてビューローの見解を支持した。 1887年には、クララが自分の個人的な演奏習慣をもとにしたシューマンのピアノ作品の校閲版を同社から出版し、シューマンの与えたメトロノーム指定を大幅に改訂した。同時代を代表するピアニストであり、生涯を通じてシューマンの優れた解釈者でもあったクララの改訂は、シューマンのメトロノームが壊れていたという見解を公的に承認するものとなった。
しかし、例えば『子供の情景』において、第2曲「不思議なお話」でのシューマンのメトロノーム表示が♪=112であるのに対してクララの指定は♪=132であり、第3曲「鬼ごっこ」ではシューマンの♪=138に対してクララが♪=120と、クララの解釈はシューマンのメトロノーム表示と比較して速いものと遅いものが混在している。もしメトロノームが壊れていたとして、あるときには進み、またあるときには遅れるということは通常考えられない。しかも、シューマンは1853年に作曲家のフェルディナント・ベーメに宛てた手紙で、時計で自分のメトロノームをチェックして異常がなかったことを報告していた。
ウォーカーは、この問題の発端はクララにあったとする。彼女はシューマンのメトロノーム表示を随時変更し、時折見られる「突飛な」テンポ指示について、シューマンのメトロノームが壊れていたせいだと口外していたと見られる。 また、門馬も1887年のころまでには、クララはすでにシューマンの意図から離れて自分のテンポで演奏していたとしている。
ウォーカーは、それでもシューマンのテンポ表示はしばしば不自然に速く聞こえるとしており、これについて、作曲家が譜面を見ながら頭の中で「演奏」した場合、実際の演奏よりも速くなりがちであることから、シューマンは頭の中のテンポにメトロノームを合わせたために混乱が起こったとしている。
シューマンの音楽評論活動は、1832年にライプツィヒの「一般音楽新聞 (Allgemeine musikalische Zeitung)」に投稿した「諸君、脱帽したまえ、天才だ」という有名な論文でショパン(1810年 - 1849年)を紹介したことに始まる。 当時ドイツで有力な音楽雑誌に「一般音楽新聞」と「音楽芸術の女神 (Iris Gebiert der Tonkunst)」の二つがあり、このうち「一般音楽新聞」は1798年創刊のドイツで最初の音楽雑誌として、ベートーヴェン作品の普及に大きな役割を果たした。しかし、1830年ごろには音楽評論の姿勢は保守的な極みにあり、同紙は以後シューマンの寄稿を不穏当と見なして掲載しなくなっていた。
このころライプツィヒのコーヒー・ハウス「カフェ・バウム」で交わされる音楽談義には、シューマンのほかヴィークやピアニストのユリウス・クノル(1807年 - 1861年)、画家のヨハン・ペーター・リューザー(1803年 - 1870年)、医者のモーリッツ・エミール・ロイター(1802年 - 1853年)、シューマンの友人でピアニストのルートヴィヒ・シュンケ(1810年 - 1834年)らがいた。
彼らの話し合いから新しい音楽雑誌の計画が立ち上がり、1834年4月3日、「新音楽時報」(Neue Zeitschrift für Musik, 「音楽新報」とも)が創刊された。 「新音楽時報」の意義と目的は、現在と未来を体現している若い音楽家の真価が認められ、耳を傾けてもらえるところまで働きかけて成果を得ることにあった。 シューマン自身の言葉によれば、創造的な芸術家に出番を提供し、「彼自身の実力によるだけでなく、書かれた言葉で自分自身を表現するための機関を与える」ことだった。 このように、19世紀前半、ライプツィヒで多くの重要な音楽雑誌が出版された中で、1834年に創刊された「新音楽時報」は、革新的であると自認する若い世代の作曲家や批評家たちからの強硬な反撃と見なすことができる。
「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノルで、シューマンは編集を手伝った。しかし、数ヶ月経たないうちにクノルが病気に倒れ、ヴィークはこの仕事に興味を失い、シュンケが肺結核のために1834年末に死去すると、シューマンがすべてを受け継ぐことになった。
「新音楽時報」の誌面上で、シューマンは「ダヴィッド同盟」と称する架空の団体を創り出し、音楽界の俗物であるペリシテ人と戦うというコンセプトをもって評論を展開した。
「ダヴィッド同盟」の構成員にはシューマン自身や友人・仲間たちを想定し、評論の内容によってペンネームが付けられた。例えば「フロレスタン」は行動的な情熱家、「オイゼビウス」は優しい夢想家であり、シューマン自身の性格の二つの側面を代表している。 また、「ラロ楽長(マイスター・ラロ)」は分別をわきまえた調停役であり、そのモデルとしてヴィークを想定する説やシューマンとクララの名前をつなげた claRARObert に由来するという推定がなされている。 「リヴィア」、「マリア」、「エレオノーレ」、「エストレリャ」、「キアリーナ」、「ツィーリア」などの女性名は、リヴィア・ゲルハルト、ヘンリエッテ・フォイクト、エルネスティーネ・フォン・フリッケン、そしてクララ・ヴィークら当時シューマンと交流のあった女性たちから採られた。 このほか、「サーペンティヌス(蛇紳士。クララとの恋愛関係をめぐってライヴァルであったカール・バンクのこと)」や「クニフ(ライヴァル音楽批評誌の編集者フィンク (Fink)の逆読み)」など、特定の人物を当てこすったものもあった。 この手法は読者の好奇心をそそり、ライプツィヒ市民はこれらのペンネームの正体を自分たちがよく知っている音楽家の中から見つけようとした。
シューマン自身は、死の2年前に次のように意図を語っている。
こうしたシューマンの音楽哲学は、彼が傾倒していたジャン・パウルから着想を得ている。小説『生意気盛り』に登場する「ヴァルト」と「ヴルト」が著者ジャン・パウルの性格の対照的な二面を表すことをシューマンは察知しており、彼は対位法を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだと語っていた。一方、こうした二面性をシューマンの統合失調症の初期症状と考える解説者もいる。
「ダヴィッド同盟」はシューマンの作品に実際に現れている。 1835年に完成された『謝肉祭』(作品9)では「オイゼビウス」や「フロレスタン」など同盟の構成員が登場し、終曲は「ダヴィッド同盟員の行進」である。シューマンはここで低俗なペリシテ人に17世紀の「おじいさんのダンス」というメロディーを引用して当て、戯画化している。 同年完成のピアノソナタ第1番(作品11)の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず、「クララに捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した。 1837年に完成された『ダヴィッド同盟舞曲集』(作品6)では、各曲に「E(オイゼビウスの頭文字)」や「F(フロレスタンの頭文字)」または「EとF」といったサインがあり、ところどころに「このとき、フロレスタンは黙っていたが、感情の高まりに唇は震えていた」などのメモが書き添えられている。
シューマンの音楽批評は、新しいドイツ近代音楽の特性を詩的に明確化するという目的を持っていた。ショパンやベルリオーズ、ベネット(1816年 - 1875年)、フィールド(1782年 - 1837年)ら外国人作曲家も擁護したが、シューマンが意図したのは自分が生きる時代と風土に根ざした音楽固有の要素を明確に表現することであって、ショパンたちの天才も同様に時代と風土の所産だと考えたからである。 一方でシューマンはイタリア音楽の影響をドイツ音楽の発展にとって有害と見なし、イタリア人を「カナリア」に例えて「ベルカント」の精神を批判した。マイアベーア(1791年 - 1864年)に対して「虚ろなデクラマツィオン(劇的朗読。歌において言葉を音楽に優先させること)」とし、ロッシーニのコロラトゥーラを無用として攻撃した。また、自作にはフランス語の曲名やドイツ語の音楽用語を与えてイタリア語の概念から逃れようとした。
シューマンは約10年にわたって「新音楽時報」を単独で主宰した。 機知に富み、華麗で想像力あふれる彼の文章スタイルは読者の目を引き、「新音楽時報」は広く読者を増やして、全ドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌となった。 シューマンは音楽ジャーナリズムに確たる地歩を築き、当初は作曲家としてよりもむしろ批評家としての名声を得た。 シューマンの評論活動は、彼が作曲家として自立するまで財政的な安定を与えることにもなった。
シューマンは1844年に「新音楽時報」の編集主幹をオズヴァルト・ロレンツ(ドイツ語版)(1806年 - 1889年)に譲り、ドレスデンに移った。その後、常勤の編集部員には、カール・バンク(1809年 - 1889年)、ルートヴィヒ・ベーナー(1787年 - 1860年)、それにリヒャルト・ワーグナーも加わっている。 1853年、ブラームスとの出会いによってシューマンは10年ぶりに評論の筆を執り、「新しい道」と題する評論を書いてブラームスを世に紹介した。この評論は、ショパンの天才をいち早く発見したシューマンの最初の評論と呼応して、「天才は天才を知る」の見事な実例となっている。
「新音楽時報」の発行を中心とするシューマンの就筆活動は近代音楽評論の道を開くものとして大いに注目に値する。
その一方で、シューマンの論文は今日ではあまりにも心情的・主観的色合いが濃すぎるとされる。 マールブルク大学教授のジークハルト・デーリングによると、シューマンは独自の芸術方針を貫くことに熱心だったが、偏った判断を避けることができなかったし、そうしようともしなかった。彼は熱狂的な情熱にとりつかれて音楽の進むべき道筋を示そうとしたが、音楽一般の発展を促そうとはしなかった。このような傾向に潜む考え方は、ロレンツから編集を引き継いだフランツ・ブレンデル(de:Franz Brendel, 1811年 - 1868年)が、もっぱら「新ドイツ学派」だけを引き立てたことでいっそう明確になった。
シューマンは子供のころから晩年に至るまで日記を書き続けており、ツヴィッカウのシューマンの生家の記念館には1828年から1853年までの旅日記がすべて保管されている。ブリオンは、シューマンの日記は後世の人に読ませる目的ではなく、彼にとって人間生活という荒れ狂う海を渡りぬくための航海日誌のようなものだったとしている。シューマンの妻となったクララも日記を付けており、しかも彼女が生まれた日から父親のヴィークがクララの一人称で代筆し、娘が筆を持つことができるようになると自分で毎日書くよう求めていた。
1830年ごろのシューマンについて、友人で楽長兼ピアニストだったトーマス・テークリヒスペックは次のように伝えている。
後年の精神障害もあって内向的とされるシューマンの性格だが、ブリオンによれば、もともとの人間嫌いではなく、若い娘たちとのつきあいを好み、友情を重んじた。集まりに招かれると、仲間たちの前で演奏を楽しんだ。友人のテプケンは青年時代のシューマンの様子を次のように語っている。
とはいえ、シューマン最初期のピアノ作品の独創的で華麗な意匠が評価される中でも、彼はより客観的で普遍性への要求を自分に課していた。
シューマン夫妻には、8人の子供が生まれた。クララは子供が生まれるたびに演奏活動を中断しなければならなかったが、シューマンは家族が増えることを喜び、子供たちと楽しく過ごしていた。 シューマンの四女オイゲーニエは、父の思い出の中で次のように述べている。「父が21歳のとき、ゲーテの詩から『黄金の杖』として選び出した銘は、父の性格をよく表しています。その詩とは次のようなものです。『広い世界と人生の中で、長い歳月をたゆまず努力し、つねに探求し、かつ創り出し、うちに閉じこもらず、円熟を志す』」。 ブリオンは、シューマンが『ファウスト』の作者を人生の師として選んだのは正しかったが、彼の生涯がこの銘どおりとなったのはさらに見事だった、と述べている。
シューマンは手紙に「私の手本とする双璧はバッハとベートーヴェンです」(1838年、ジモーニン宛て)と書き、とくにバッハ(J.S.バッハ)については「私の確信するところでは、バッハには到底かないません。彼は桁違いです」(ケーファーシュタイン宛て)、「(バッハは)芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」(哲学者クリューガー宛て)などと記している。
1840年にクララと結婚したシューマンは、二人でバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、それが終わると、ベートーヴェンなどウィーン古典派の弦楽四重奏曲を勉強した。 また、1845年にドレスデンに移ったときにもバッハのオルガン曲を研究するためにピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたペダルピアノを導入している。 デュッセルドルフ時代の1853年には、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全6曲と無伴奏チェロ組曲全6曲のピアノ伴奏部を作曲しているなど、折に触れてバッハ作品に立ち戻った。
ベートーヴェンに関しては、6歳のころからピアノ作品に親しんでおり、1825年ごろからはピアノ連弾で交響曲第3番「英雄」を演奏していた。 1828年からはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でベートーヴェンの交響曲に接しており、ベートーヴェンの9曲の交響曲の総譜のほか、弦楽四重奏曲(大フーガを除く全曲)、『ミサ・ソレムニス』、歌劇『フィデリオ』、ピアノ協奏曲第1番、同第4番、同第5番、レオノーレ序曲第1番 - 同第3番、コリオラン序曲、エグモント序曲、献堂式序曲、ピアノ三重奏曲第7番「大公」、七重奏曲、ピアノソナタ全曲、『歌唱・ヴァイオリン・チェロ・ピアノのための25のスコットランド民謡集』の楽譜を所有していた。
シューマンの『幻想曲』(作品17)では、ベートーヴェンの歌曲集『遥かなる恋人に』から「恋人よ、あなたのために歌うこのメロディーを受け取って下さい」の箇所が引用されていることで知られる。 このほか、『子供のためのアルバム』(作品68)の第2曲「兵士の行進」にベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第5番「春」のスケルツォ楽章との類似が見られ、パロディーと考えられる。ピアノソナタ第2番(作品22)の終楽章でもベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」の終楽章を意識したと考えられている。もっとも引用が明確なのは『謝肉祭』(作品10)の終曲「ダヴィッド同盟員の行進」で、ここではベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のフィナーレからの引用がはっきりと聴き取れる。
シューベルトについては、ライプツィヒに来て間もないころから友人たちと室内楽を演奏する際のお気に入りがピアノ三重奏曲第1番だった。シューマンはこのころからシューベルトに特別な親近感を抱き、「私だけのシューベルト」などと述べており、1828年11月、シューベルトの死去が報じられたときには夜通し泣いたという。 1829年5月からのハイデルベルク滞在中も、ピアノでもっとも多く演奏したのがシューベルト作品で、この時期に弾いたベートーヴェン作品はピアノ独奏曲ではなく室内楽曲が3曲のみだった。
シューマンは1838年秋からウィーンに滞在してシューベルトの交響曲第8番を発見し、1839年3月にメンデルスゾーンの指揮により初演された。このことは、1841年に交響曲第1番「春」が書かれたことと密接に関わっている。
シューマンの日記にエクトル・ベルリオーズ(1803年 - 1869年)の名前が初めて登場するのは1834年5月末である。1836年6月23日付の手紙では、自作のピアノソナタ第1番(作品11)をベルリオーズに送っている。ベルリオーズはこれに対し、序曲『宗教裁判官』(作品3)のスコアをシューマンに送った。序曲『宗教裁判官』は、シューマンが四手ピアノ版に編曲しており、これを同年3月の「新音楽時報」で紹介していた。 ベルリオーズの音楽は、その想像力、燃え上がる幻想、情熱の激しさによってシューマンを圧倒し、シューマンは彼を「ダヴィッド同盟」の一員と見なしていた。 とくに『幻想交響曲』をベートーヴェンの後継的な価値ある作品と位置づけ、ベルリオーズの管弦楽法を詳細に研究し、彼の音楽の「フモール」を高く評価した。
1843年1月、ベルリオーズはライプツィヒを訪れ、初めてシューマンと会った。滞在中、二人はたびたび食事し、顔を合わせた。しかしベルリオーズはピアノを好まず、シューマンの多くのピアノ作品になじめなかったという。 またクララは1839年2月にパリに演奏旅行しており、ベルリオーズに会ったが、よい印象を抱かなかった。 メンデルスゾーンもまたベルリオーズに批判的であり、シューマンのベルリオーズ評価は彼らとの議論や口論の原因ともなった。
フェリックス・メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)に対しては、シューマンはその才能を畏敬の念を持って眺め、「19世紀のモーツァルト」と呼んだ。 1835年8月にライプツィヒで会って以降、二人の交際はメンデルスゾーンの死まで続いた。 一般的には、この二人の関係はシューマン側からの一方的・無制限の尊敬、メンデルスゾーン側からは適当な距離を置いた敬意及び度重なる援助と支持という形で了解されている。しかし、子細に見れば、シューマンのメンデルスゾーンへの態度は無条件の賛美ではなく、メンデルスゾーンの表現の過剰への反発や解釈上の衝突などが含まれていた。シューマンはメンデルスゾーンが指揮したベートーヴェンの第9交響曲について、第1楽章のテンポが速すぎると苦情を述べており、メンデルスゾーンの音楽の未来性については、回想録に次のように記している。
同年生まれのフレデリック・ショパン(1810年 - 1849年)を、シューマンは1831年に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」として紹介した。
これはシューマンが発表した初めての評論である。ショパンは1835年10月にライプツィヒを訪れ、シューマンはショパンの演奏を聴いて「新音楽時報」で報告した。その後も1836年から1842年までの間に、ショパンが出版したピアノ曲の大部分を「新音楽時報」で紹介した。シューマンはショパンをパリで最高のピアニストであり、作曲家だと考えていた。ショパンに大曲がないことを嘆き、当初はさらに広範で深みのある音楽を期待していたが、やがてその望みは叶わないだろうと落胆した。ショパンのピアノソナタ第2番(作品35)については全面的には支持せず、とくに終楽章については「これは音楽ではない」と述べている。一方のショパンは、シューマンの音楽にも批評にもほとんど無関心であり、たまに手紙でシューマンに触れることがあっても綴りを間違えたりした。
シューマンとフランツ・リストとの関係は複雑なものだった。
リストはシューマンをいち早く評価したひとりで、シューマンと共通する音楽観に立ってシューマンの詩的な音楽の理念を支持した。シューマンもリストも「詩的」という言葉を好んだが、二人においてこの言葉の意味するところは微妙に違っており、リストの場合はより標題音楽的な指向が強かった。 リストはまた、シューマンの変奏技巧の巧みさにも着目していて、変奏曲に関してはベートーヴェンの後継者だと位置づけていた。
リストはシューマンの作品の成長発展に深い影響を及ぼした。シューマンは自作をすべてリストに送って助言を求め、リストがコンサートでシューマンの曲を演奏することに感謝していた。リストはいずれシューマンにとってピアノはあまりにも物足りなくなると見抜き、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めている。シューマンが室内楽曲の分野に足を踏み入れたのは1842年である。こうした経緯から、1840年に初めてリストに会ったシューマンは、「お互いに20年来の知己のように思えた」と語っている。
しかし一方で、シューマンはリストの成金趣味や上流階級志向に困惑を覚えた。 また、メンデルスゾーンによればリストは「スキャンダルと音楽的理想像との間を往復し続ける人物」であり、シューマンの妻クララはリストを「ピアノの粉砕者」と呼んでいた。シューマンはリストのあまりに華やかな個性に次第に耐えられなくなっていった。
シューマンのドレスデン時代、1848年6月に二人の間に有名な諍いが起こっている。グスタフ・ヤンゼンの伝えるところによれば、リストがシューマン夫妻を突然訪問することになり、シューマンはリストを迎えるために音楽付きの晩餐会を準備した。しかしリストは約束の時刻から2時間も遅れてやってきた。音楽家たちがシューマンのピアノ四重奏曲を演奏すると、リストは「いかにも『ライプツィヒ流儀』だね」と評し、晩餐会は気まずい雰囲気となった。やがてメンデルスゾーンとマイアベーアの功績について議論が始まると、リストはマイアベーアを賞賛してメンデルスゾーンを批判した。メンデルスゾーンは前年11月に世を去っており、怒りを爆発させたシューマンはリストの両肩をつかみ、「メンデルスゾーンのような音楽家をそんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫んで部屋を出て行った。リストはクララに向き直り、「彼は私にきついことをいわれましたが、彼は、私がそうした言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」と言った。
ウォーカーは、この事件をライプツィヒとヴァイマルのほぼ20年間にわたる音楽界のライヴァル同士の争いの発端ともいえるものだったとしている。リストは1848年にヴァイマルに居を定め、この地を新しい音楽の拠点にしようとしていた。古典主義的理想を信じ、交響曲を守ろうとしたシューマンに対し、リストは標題に基づく交響詩を考案し、ワーグナーとともに「芸術の総合」を唱えるようになっていった。このような文化的分裂は、後のブラームスとワーグナーをそれぞれの理論的頭目とする「ロマン派時代の大抗争」へと発展していく。
後にシューマンは長い手紙を書いてリストに送ってこの件を水に流した。手紙の最後は「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と結ばれている。
事件後もリストはヴァイマルでシューマンの作品を指揮とピアノの両面にわたって積極的に取り上げている。『ゲーテのファウストからの情景』第3部、『メッシーナの花嫁』序曲、劇付随音楽『マンフレッド』抜粋、交響曲第4番、ピアノ協奏曲、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュックなどである。
リヒャルト・ワーグナーはライプツィヒの生まれであり、シューマンとの知己はワーグナーがまだ10歳代の1831年からである。 後にワーグナーはドレスデンの宮廷歌劇場の指揮者を務め、シューマンがドレスデンに移ったことで再会するが、この二人が打ち解けることはなかった。 シューマンが交誼を結んだフェルディナント・ヒラーの集いで二人は再三顔を合わせたものの、シューマンはワーグナーのオペラが好きになれず、マイアベーアの影響下にあって、イタリア趣味に毒されていると判断した。また、「彼(ワーグナー)のおしゃべりの才能には呆れてしまう。彼の頭の中は、いつも自分の考えでいっぱいなのだ」と語った。これに対してワーグナーは「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができないのだ」と非難し、シューマンの傷つきやすい性格を「行かず後家」と称して嘲笑した。
ワーグナーのオペラ『タンホイザー』については、シューマンは故意に沈黙を守った。 1845年10月に『タンホイザー』に接したシューマンは、2年後の1847年8月7日に次のように記した。
しかし、シューマンの詳細な評論は最後まで保留された。
シューマンのこのような態度は、後のブラームスのワーグナーに対する態度に通じるものがある。ブラームスはワーグナーに終始距離を置いていたが、ワーグナーのブラームスに対する態度に比較すれば、ずっと公平なものだった。ブラームスはウィーンからヨアヒムに宛てた手紙に、「いまワーグナーが当地にいる。そして僕はワグネリアンということになるだろう。もちろんこれは矛盾だが、当地の音楽家が彼に反対する軽率な仕方をみると、思慮ある人間としてはこの矛盾もあえて冒したくなるのだ」(1862年12月29日)と書いている。
ロベルト・シューマンが演奏した楽器として非常によく知られているのは、コンラート・グラーフのグランドピアノである。このピアノは、1839年にロベルトとクララが結婚した際、ピアノ製作者から贈られた物だった。この楽器はデュッセルドルフのシューマンの仕事場に置かれ、後にクララ・シューマンからヨハネス・ブラームスに譲渡された。そして何箇所かに移送された後に楽友協会が受け取り、現在はウィーンの美術史美術館に展示されている。
(以下は門馬直美著『シューマン』に基づく。)
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"text": "ロベルト・アレクサンダー・シューマン(ドイツ語: Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。ドイツ語発音: [ˈroːbɛrt]に基づきローベルト・シューマンと表記されることもある。",
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"text": "ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。",
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"text": "ツヴィッカウの裕福な家庭に生まれ、ライプツィヒ大学の法科に進むも、ピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)に師事する。しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となる。ヴィークの娘でピアニストのクララ(1819年 - 1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼした。文学への造詣も深く、1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年間にわたって音楽評論活動を行う。このころから精神障害の症状に悩まされるようになる。1844年にライプツィヒからドレスデンへ、1850年にデュッセルドルフへと移住して指揮者としても活動する。この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残した。1853年にヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年にライン川に投身自殺を図る。救助されたシューマンはボン近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去した。",
"title": "概説"
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"text": "1810年6月8日、プロイセン王国のツヴィッカウで書籍販売・出版業を営んでいたアウグスト・シューマン(1773年 - 1826年)とその妻ヨハンナ(1767年 - 1836年)との子として生まれる。6月14日に自宅で洗礼を受け、市の書記官と郵便局長が代父を、商人ルッピウスの妻が代母を務めた。ツヴィッカウは2年後にザクセン王国の一部となる。",
"title": "生涯"
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"text": "シューマンは5人兄弟の末子であり、兄3人、姉1人があった。",
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"text": "シューマンの両親はもともと南のテューリンゲン地方の出身であり、 シューマンの父方の祖父フリードリヒ・ゴットロープ・シューマンは、ライプツィヒの南、ゲーラ近くのエントシュッツ地区の牧師だった。",
"title": "生涯"
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"text": "シューマンの父アウグストは、文学者を志しライプツィヒ大学に学んだ。1795年にツァイツ(de:Zeitz)の外科医の娘ヨハンナ・シュナーベルと結婚、1799年にロンネブルクで書店を開業し、1807年にツヴィッカウに移った。ツヴィッカウでは書店に併せて出版社を設立し、スコットやバイロンの翻訳全集などを出版した。アウグスト自身も中世の騎士や修道士を題材にした物語を書き、商業的な論文や雑誌の編集もこなした。事業に成功したアウグストは土地の名士となっていた。アウグストは非常に温厚で誠実な人柄であったとされており、シューマンが音楽の道を志すことも心から賛成していた。",
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"text": "シューマンの母ヨハンナは、外科医・軍医だったアブラハム・G・シュナーベルの長女として生まれ、彼女は短い詩を書いたり、ピアノで軽い旋律を弾いたりした。シューマンの四女オイゲーニエによれば、ヨハンナは歌を歌い、アウグストはモーツァルトのアリアをヨハンナに覚えさせたという。",
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"text": "シューマンの友人でヴァイオリニストのヴァジェレフスキ(de:Wilhelm Joseph von Wasielewski, 1822年 - 1896年)が1858年に出版したシューマンの最初の伝記によれば、ヨハンナは魅力的で知的だったが広い教養はなく、視野が狭かったとされる。その他の伝記では、現実的な性格として描かれている。",
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"text": "シューマンは3歳から5歳の間、代母であるエレオノーレ・ルッピウス夫人のもとに預けられ養育された。",
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"text": "両親はシューマンのために住み込みの家庭教師を雇い、シューマンは6歳から4年間、私立の初等予備学校で学んだ。",
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"text": "シューマンは7歳のときに父アウグストに連れられてドレスデンに行き、ウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴いて感動している。シューマンはこのころからピアノで小さな舞曲を作曲し、周囲の注目を集めるようになった。さらに1819年夏、9歳のときに父同伴でボヘミアのカールスバートに出かけ、イグナーツ・モシェレス(1794年-1870年)のピアノ・リサイタルを聴いて圧倒的な感銘を受けた。この体験は、シューマンがピアニストを目指すきっかけとなった。",
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"text": "また、この年にはライプツィヒで初めてのオペラ、モーツァルトの『魔笛』に接した。これにもシューマンは強烈な刺激を覚え、モーツァルトのオペラからの抜粋をピアノ用に編曲している。",
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"text": "1820年3月、シューマンは10歳でツヴィッカウのギムナジウムに入学した。",
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"text": "シューマンにピアノを手ほどきしたのは、聖マリア教会のオルガニストを勤めていたヨハン・ゴットフリート・クンチュ(1775年 - 1855年)である。クンチュは高度な音楽知識や技能は持っていなかったが、シューマンの音楽に対する情熱を育てた。シューマンは後に、クンチュについて「(クンチュ)先生は私の音楽的才能を認め、いずれは私の天性がおもむくことになった音楽の道を示唆して下さった唯一の方です」と述べている。",
"title": "生涯"
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"text": "クンチュの指導の下、シューマンは友人で同じくクンチュの弟子だったフリードリヒ・ピルツィングとともにハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンらの管弦楽曲をピアノ連弾用に編曲して練習した。",
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"text": "父アウグストはシューマンの音楽的才能を認めて高価なシュトライヒャーのピアノを買い与え、シューマンはピアノを何時間も即興的に弾いた。",
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"text": "シューマンはギムナジウムで開かれた校内演奏会に出演し、難曲として知られるモシェレスの『アレクサンダー変奏曲』を弾いた。また、オーケストラや合唱を組織して詩や音楽の発表会などを主催した。 両親は、シューマンが友人たちと編成した小さなオーケストラのために、総譜や譜面台など必要な用具のすべてを寄贈するなど、シューマンの活動を支援した。",
"title": "生涯"
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"text": "こうしたもとでシューマンは作曲を始め、1821年、11歳のときに合唱と管弦楽のためのオラトリオ『詩篇第150番』を作曲したのをはじめ、ピアノで即興的に幻想曲や変奏曲を作っては家族に聴かせるようになった。しかし、この時代の作品はほとんど失われている。",
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"text": "父アウグストはシューマンが音楽的才能を発揮することを喜び、シューマンが15歳のときにウェーバーに手紙を書き、息子を弟子にしてもらえないかと頼んだ。しかし返事はなく、ウェーバーは翌1826年6月に死去する。その2ヶ月後の8月にはアウグストも世を去った。父の死の数週間前には、姉のエミーリエが29歳で入水自殺していた。",
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"text": "ギムナジウム在学中、シューマンはツヴィッカウで父アウグストと親交のあった郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルや製造業者カール・エルトマン・カールス(1780年 - 1842年)などの私邸で開かれる音楽会やサロンに迎えられた。 カールス家でしばしば開かれた室内楽音楽会では、1827年にカールスの甥でコルディッツ(de:Colditz)の医師エルンスト・カールスとその妻アグネス(1802年 - 1839年)と知り合う。8歳年上のアグネスは容姿端麗な歌手で、シューマンはシューベルトの歌曲のピアノ伴奏を引き受けるなどするうちに彼女に魅せられ、夏休みの間、アグネスについてコルディッツまで行き、そこでまた音楽をともにするほどであった。",
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"text": "シューマンはこの時期、アグネス以外にもナンニ・ペッチュ、リディ・ヘンペルという二人の少女と交際しており、ほとんど同時進行で恋愛を楽しんでいた。またシューマンは、このころからシャンパンや葉巻きたばこを嗜むようになった。",
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"text": "一方、シューマンは文学にも情熱を燃やした。 シューマンは早くから父アウグストの編集を手伝いながら古今の文学書に親しみ、詩や戯曲を書くようになった。13歳のときには父が刊行する雑誌に短文を寄稿し、1828年にはシューマンの詩がドレスデンの夕刊紙に掲載された。",
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"paragraph_id": 23,
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"text": "ギムナジウムでは15歳で「ドイツ文学」サークルに入り、リーダー的存在となる。このサークルを通じてシューマンはシラー、ゲーテ、クロプシュトック、ヘルダーリン、ホフマンらの作品に親しみ、とくにシラーとゲーテは彼にとって偶像的存在となった。",
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{
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"text": "とりわけシューマンに大きな影響を与えたのは、ドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウル(1763年 - 1825年)である。ジャン・パウルの空想に満ちた文学的スタイルにシューマンが魅了されたのは1827年ごろで、父アウグストもジャン・パウルを愛読していた。",
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"text": "『巨人』、『生意気ざかり』、『見えない少舎』、『宵の明星』などのジャン・パウル作品をシューマンは精読し、傾倒のあまり、自分より傾倒の度合いの少ないものを敵対者と見なしかねないほどだった。 また、ホメーロス、ソポクレス、ホラティウス、プラトン、キケロ、タキトゥスなどの古典やバイロン、シェイクスピアなどの外国作品にも接しており、後にシューマンが音楽評論で見せることになる対話体の手法は、プラトンによるところが大きいとされる。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "1828年3月にツヴィッカウのギムナジウムを優等で卒業したシューマンは、友人エミール・フレクシヒ(1808年 - 1878年)に宛てた手紙に次のように書いた。",
"title": "生涯"
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"text": "シューマンはライプツィヒ大学法科に進学した。これは、シューマンの母ヨハンナの意向および父アウグストの遺産を管理しシューマンの後見人を務めたゴットロープ・ルーデル(1776年 - 1859年)の勧めに従ったものだった。",
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"text": "同じライプツィヒ大学の神学科に進んでいたフレクシヒおよび法科のモーリッツ・ゼンメル(1807年 - 1874年)と同居生活を送ることになったシューマンは、ゼンメルの紹介でギスベルト・ローゼン(1808年 - 1876年)と知り合う。ローゼンはハイデルベルク大学に転校することになっていたが、ジャン・パウルの崇拝者であり、シューマンとたちまち意気投合した。4月、シューマンはローゼンをツヴィッカウに招き、5月の新学期を前に二人でバイエルン王国への旅に出た。バイロイト、レーゲンスブルク、アウクスブルク、ニュルンベルク、ミュンヘンを訪れ、バイロイトではジャン・パウルの未亡人ロルヴェンツェルからジャン・パウルの肖像画を譲り受けた。ミュンヘンでは詩人のハインリヒ・ハイネ(1797年 - 1856年)に会っている。",
"title": "生涯"
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"text": "ハイネの印象について、シューマンは「ハイネは、人情味のあるギリシャのアナクレオンのように、ぼくを親しげに迎えてくれ、友情を込めて僕の手をしっかりと握ってくれました。(中略)ただ彼の口元には、辛辣で皮肉な微笑がありましたが」と書いている。",
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"text": "5月から学生生活が始まり、法律の勉強に取り組もうとしたシューマンだったが、大学の講義への出席率は次第に低下していった。シューマンは母親への手紙に、冷徹な法学を好きになれないと書き送っている。ライプツィヒの周辺には故郷のツヴィッカウのように森や野の自然がなかったことも失望につながった。",
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"tag": "p",
"text": "シューマンはピアノを入手し、学生仲間の中から弦楽器奏者を見つけて室内楽の演奏に熱中するようになった。このころ彼らが好んで取り組んだのはシューベルトのピアノ三重奏曲第1番だった。",
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"paragraph_id": 32,
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"text": "また、1827年に死去したベートーヴェンを記念して、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を催し、シューマンはこれを聞いて強い印象を受けた。聖トーマス教会の礼拝ではバッハのカンタータなどを聞いた。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "このころの習作として、歌曲や連弾のための8つのポロネーズ、ハ短調のピアノ四重奏曲などが試みられている。とくにピアノ四重奏曲は交響曲へ改作しようとした形跡も見られる。",
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ツヴィッカウで交流のあったアグネス・カールスの夫エルンストが1828年からライプツィヒ大学の医学教授となったことにより、シューマンはライプツィヒでカールス家と再会する。",
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "カールス家で催された音楽会で、シューマンはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)とその娘のクララ(1819年 - 1896年)、ライプツィヒ歌劇場指揮者のハインリヒ・マルシュナー(1795年 - 1861年)、楽譜出版商ホフマイスター(de:Friedrich Hofmeister, 1782年 - 1864年)らと出会った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "ヴィークのピアノ授業料は高く、その指導は厳格な上に過酷、残忍とまでの評判を取っていたが、シューマンは母親に手紙を書いて許可をもらい、ヴィークにレッスンを申し込んで承諾された。娘のクララは当時9歳で、シューマンの前でフンメルのピアノ三重奏曲のピアノを担当し、シューマンによると「驚くほど巧みに」演奏した。クララはこの年の10月20日にエルネスティーネ・ペルトハーラーの演奏会に賛助出演して音楽界デビューを果たす。",
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"text": "こうしてシューマンは1828年の夏ごろからヴィークにピアノを師事し、クララとも親しくなった。",
"title": "生涯"
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"text": "同じころ、シューマンはカールスの友人でブラウンシュヴァイクの楽長ゴットロープ・ヴィーデバイン(1779年 - 1854年)に自作の曲を送り、助言を頼んだ。ヴィーデバインからは、シューマンには天性多くのものがあるが、専門技術と音楽的要素の用い方がいまだ不十分との返事が来た。シューマンは1828年8月5日付のヴィーデバインに宛てた手紙に、「いまや作曲法の研究に取りかかるべきときと存じます。―私は、勇気を出して、楽音のオデオン(大劇場)へ上る階段に足を踏み入れたいと存じます」と感謝と決意を綴っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "友人ローゼンからの手紙を読んだシューマンはハイデルベルク大学への転校を思い立ち、後見人のルーデルに相談して賛同を得た。当時ハイデルベルク大学にはティボー(1772年 - 1840年)やミッテルマイアー(de:Carl Joseph Anton Mittermaier, 1787年 - 1867年)ら高名な法科教授がおり、彼らの講義を聴くというのがシューマンの転校理由だった。しかし、実際のところシューマンは早朝からピアノに向かっており、頭の中に法律はすでになかった。また、ティボー教授が音楽サークルを指導しており、『音楽芸術の純粋性について』という著書もあることへの期待もあった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "友人のゼンメルはシューマンに法律か音楽かどちらかを選ぶよう忠告したが、シューマンはこのときは決定できなかった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "1829年5月、ツヴィッカウに戻ったシューマンは、ハイデルベルクに向かう旅で南ドイツを回った。マイン川およびライン川沿いを馬車で下り、フランクフルト、マインツ、コブレンツなどを経由して5月21日にハイデルベルクに到着した。このとき初めてライン川を見たシューマンは感銘を受け、母親に宛てて次のように書き送っている。",
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"text": "この旅行では、当時ベストセラー作家だったヴィリバルト・アレクシス(本名ゲオルク・ヴィルヘルム・ヘーリング、1798年 - 1871年)と意気投合し、コブレンツまで同行した。フランクフルトでは、ベートーヴェンの弟子だったフェルディナント・リース(1784年 - 1838年)に会い、イギリス人のリース夫人に魅せられている。",
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"text": "同年の夏から秋にかけて、シューマンは再び旅行に出かけ、スイスと北イタリアを訪れた。ミラノ・スカラ座ではロッシーニのオペラを聴いた。旅行中、シューマンは持ち金を使い果たし、旅先から後見人に送金を催促する手紙を頻繁に出し、ミラノでは借金をしている。",
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"text": "ハイデルベルク大学のティボー教授は法律学の権威であるとともに熱心なアマチュア音楽家だった。彼は合唱団「ジングフェライン」を組織し、自宅では毎週木曜日の夕方に音楽会が開かれていた。ティボーは自らピアノを弾いてヘンデルのオラトリオを演奏した。シューマンの手紙によるとティボーは、神はシューマンに法律家としての運命を与えていないという見解を示し、シューマンは自分の時間をほとんど音楽に充てるようになった。 シューマンのピアニストとしての評判はハイデルベルクの外にまでおよび、バーデン大公妃ステファニー(1789年 - 1860年)に招かれてマンハイムで演奏するほどだった。 こうした時期に、作品1の『アベッグ変奏曲』が完成している。",
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"paragraph_id": 45,
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"text": "ハイデルベルクでシューマンはシャンパンや葉巻きたばこを楽しむだけでなく、居酒屋やレストランを飲み歩き、ダンスパーティーやカーニバルの仮装大会などにも顔を出して地元の娘たちからも好かれた。彼は手紙で「ハイデルベルクの人気者」になったと自慢している。同時に浪費癖が目立つようになり、家族や後見人、友人にも金を無心する手紙を書いている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1830年4月、友人たちとフランクフルトに出かけたシューマンは、ニコロ・パガニーニ(1782年 - 1840年)のヴァイオリン演奏を聴いて決定的な影響を受けた。彼は母ヨハンナに宛てて自分の決意を打ち明けた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "父アウグストとは異なり、母ヨハンナにとって音楽は「パンにならない芸術」であり、息子が法律の道に進むことが彼女の希望だった。シューマンの手紙にはヴィークの指導を受ける旨が書かれていたため、ヨハンナは彼に意見を求めた。ヴィークはシューマンを弟子として引き受けると回答し、それだけでなく、3年以内にシューマンをモシェレスやフンメル以上のピアニストに育てると約束した。これにより、ヨハンナはシューマンの意向をひとまず受け入れた。 ただしヨハンナの承諾は、シューマンをヴィークの弟子として6ヶ月間仮採用することが条件だった。 半年後にヴィークは、シューマンの才能と素質は彼が音楽家になるべきことを完全に証明するものであり、無理やり法律家にするのは愚かだと再回答した。ヨハンナはついに納得して、シューマンが音楽家になることを認めた",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "シューマンは1830年9月24日にハイデルベルクを発ち、10月にライプツィヒに戻った。シューマン20歳のときである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1830年10月にライプツィヒに戻ったシューマンは、ヴィークの家に住み込みでレッスンを受けた。また、ヴィークの紹介によりライプツィヒ歌劇場の指揮者ハインリヒ・ドルン(1804年 - 1892年)にも音楽理論を学ぶ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "しかし、気難しく厳格なヴィークに対して次第に不満を募らせたシューマンは、翌1831年8月に当時名ピアニストとして名声を博していたフンメル(1778年 - 1837年)に宛てて手紙を書いてヴィークへの不満を打ち明け、レッスンを受けたいと頼んでいる。シューマンはこのことをヴィークにも話し、激しい叱責を受けた。 1831年10月にヴィークがクララを連れて演奏旅行に出かけると、シューマンはヴィークの家を出た。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "その後もヴィークとのレッスンは続けられたものの、シューマンは再びパーティや社交活動に精を出すようになる。シューマンは自分の下宿やカフェ・バウムなど街のコーヒー・ハウスで芸術好きな仲間たちと夜遅くまで音楽論議を交わした。この集まりは、後の「ダヴィッド同盟」の出発点となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "このころの作品に、『蝶々』(作品2)がある。",
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1831年、シューマンは「自伝的覚え書き」に「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と述べており、この時期に右手を故障したものと見られる。 故障の原因として、シューマンが独自に工夫した機械装置によってピアノを練習したことが挙げられているが、詳しくは後段で述べる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "同じころ、シューマンは目の病気に罹り、失明する恐怖にも襲われている。 思い悩んだシューマンは、一時はチェロに転向することや音楽をあきらめて神学の道に進むことも考えたが、1832年5月に作曲で身を立てる意志を固めた。 いったんピアノを離れて交響曲の作曲を試みたシューマンだったが、『ツヴィッカウ交響曲』は未完に終わり、再びピアノ曲に専心するようになる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809年 - 1849年)を紹介する論文を投稿していたが、ドイツで流布している音楽批評の水準に不満を感じていた。このため、1833年ごろからカフェ・バウムなどで友人や音楽関係の知己たちと新しい雑誌を発行する可能性について話し合い、1834年4月3日に「新音楽時報」(Neue Zeitschrift für Musik)を創刊する。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノル(1807年 - 1861年)であり、シューマンは編集の手伝いをしていたが、まもなく仕事のすべてを引き受けることになった。 シューマンは「新音楽時報」の中で、「新しい詩的な時代」を準備するために低俗なペリシテ人と戦う「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、「フロレスタン」や「オイゼビウス」といったペンネームにより自身の分身を登場させた。 (詳しくは、#音楽評論を参照のこと。)",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1833年秋に兄ユリウスと兄嫁ロザーリエが相次いで死去したことにより、シューマンは孤独と恐怖感に苛まれた。 この年の日記に、シューマンは次のように書いている。「これより僕の生涯に、大きい断面。10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」。しかし、友人のルートヴィヒ・シュンケ(de:Ludwig Schuncke, 1810年 - 1834年)や芸術家のパトロンだった商人カール・フォイクト(1805年 - 1881年)とその妻ヘンリエッテ(de:Henriette Voigt, 1808年 - 1839年)らとの親しい交際が慰めとなった。 シューマンの友人たちの中でも、同じ下宿に住んでいたピアニストのシュンケとはとくに固い友情で結ばれていた。シューマンはシュンケに「使徒ヨハン」とあだ名を付け、作品7の『トッカータ』を彼に献呈している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "二人の友情はシュンケが1834年末に肺結核で死去するまで続いた。 また、シューマンはヘンリエッテに心惹かれており、彼女を「変イ長調の魂」と呼び、ピアノソナタ第2番を彼女に捧げている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1834年4月、当時18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年)がヴィークの新しい弟子としてヴィーク家に住み込んだ。 シューマンはエルネスティーネと恋愛関係となり、半年経たないうちに彼女と婚約するが、その後数週間のうちに双方の合意によって婚約は解消された。 エルネスティーネはフォン・フリッケン男爵とツェトヴィッツ伯爵夫人との間の私生児であり、イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーによれば、彼女はこうした複雑な家庭事情についてシューマンに率直に語らず、このことを知ったシューマンが傷ついたとしている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "二人の恋愛から生まれたのが、『謝肉祭』(作品9)と『交響的練習曲』(作品13)である。『謝肉祭』の中で、シューマンはエルネスティーネの出身地であるアッシュ(ASCH)の文字に基づく音型をちりばめている。 また『交響的練習曲』は、エルネスティーネの父フォン・フリッケン男爵が作曲した主題に基づく変奏曲である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "1835年からシューマンとクララとの恋愛が始まると、エルネスティーネは潔く身を引き、むしろ二人を励ました。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "シューマンとクララははじめ兄妹のような関係だった。シューマンはクララや彼女の弟アルヴィンと散歩や遊びに興じ、お化けの話をして子供たちを震え上がらせたりした。しかし、エルネスティーネとの関係が終わると、シューマンの恋愛対象はクララに向かっていった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 63,
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"text": "1835年秋、フェリックス・メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、10月4日に指揮者デビュー演奏会を開いた。これを聴いたシューマンは、「新音楽時報」で絶賛する。クララは1835年12月9日に16歳でゲヴァントハウスでのデビューを飾り、シューマンの故郷ツヴィッカウでも演奏会を開いた。このときシューマンはツヴィッカウまで戻ってクララに会っている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "シューマンとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移り住まわせ、シューマンから遠ざけた。同年2月4日に母ヨハンナが死去するが、シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 65,
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"text": "以降、シューマンは一段と強くクララを求めるようになった。",
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},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵詈雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視下に置かれた。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会うたびに悪罵を投げつけ、顔につばを吐きかけることもあったという。さらにヴィークはシューマンに生活力がなく飲酒癖があるなど虚偽・中傷を繰り返し、エルネスティーネとの恋愛事件を蒸し返して彼女の協力を得ようとした。シューマンを動転させるために、ヴィークの友人でクララの声楽教師だったカール・バンクにクララの恋人を演じさせようと試みてもいる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1837年9月、シューマンはヴィークに手紙を書き、会見に応じてくれるよう懇願した。数日後にヴィークは会見に応じたが、ヴィークはクララをコンサート・ピアニストとして育てたのであって、主婦にするつもりはないと告げた。 シューマンは9月18日付けでクララに宛てた手紙に「父上との会見は恐るべきものでした。お父上は冷ややかで、敵意に満ち、混乱し、矛盾だらけでした。とにかく人を挫くことに思慮をめぐらし、人の胸に柄まで届けとばかりに匕首を突き刺してくるのです」と報告している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "クララはヴィークとともにたびたび演奏旅行に出かけるようになり、シューマンはクララと会うことも手紙のやりとりも禁止されていた。だが、彼は秘密裏にクララと文通して連絡を取り合いつつ、創作面では優れた作品を次々に書いていった。 クララはコンサートでシューマンの作品を演奏し、音楽によって二人は一体化した。ヴィークもこれを妨げることはできなかった。 日本の音楽学者前田昭雄(1935年 - )は、クララとの結婚をめぐるヴィークとの闘いの年月は、シューマンの内面を危機的な深淵にまで沈めると同時に、そこから立ち上がる決定的な力ともなったとしており、この時期に相次いで成立したピアノソナタ第1番(作品11)、『幻想小曲集』(作品12)、ピアノソナタ第3番(作品14)、『子供の情景』(作品15)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『幻想曲』(作品17)のすべてにわたり、クララへの愛に生を賭した実存的燃焼の表白が、「言葉なき」歌として、詩として劇として展開されていると述べている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "シューマンは1838年10月から翌1839年4月までウィーンに滞在した。クララがウィーンでの演奏会で大成功を収めたことを知り、クララのピアニストとしての活動と「新音楽時報」の本拠地をウィーンに移せばヴィークの束縛から逃れられるのではないかと考えたのである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "これには、詩人アーデルベルト・フォン・シャミッソー(1781年 - 1838年)の勧めがあったともいわれる。 同時にウィーンは、シューマンが1832年以来めざすべき「ベートーヴェンとシューベルトの楽都」でもあった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "しかし、ウィーンの出版社はむしろ敵意を持ってシューマンを迎えた。当時のウィーンは反動保守の政治体制下にあり、各地の自由主義運動や革命の波及を恐れて言論や出版の自由を圧迫していた。このためシューマンは「新音楽時報」が検閲によって押さえつけられることを恐れ、計画を断念する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ウィーン滞在中、シューマンはベートーヴェンとシューベルトの墓を訪れた。ベートーヴェンの墓の前でシューマンは1本の鉄製のペンを拾って持ち帰った。 また、帰途にシューベルトの兄フェルディナント(1794年 - 1859年)の家を訪ね、シューベルトの遺稿の中から大ハ長調交響曲の草稿を発見した。 この交響曲は1839年3月21日、ライプツィヒのゲヴァントハウスでの演奏会でメンデルスゾーンの指揮によって初演され、爆発的な成功を収めることになる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼した。 同年7月、シューマンはヴィークと離婚していたクララの実母マリアンネ・バルギールをベルリンに訪ねてクララとの結婚の同意を得た。また、公的な地位を得ることが結婚に役立つかもしれないと考えたシューマンは、1840年2月、シェイクスピアと音楽との関係についての論文によってイェーナ大学の哲学博士の学位を取得している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "訴訟を知って激怒したヴィークは、クララがピアノを弾くことを禁じて家から追い出した。クララは、ベルリンから迎えに来たマリアンネとともに暮らした。ヴィークはクララの相続権停止などで対抗しようとしたものの、法廷では有効な申し立てができず、罵詈雑言をわめきちらして判事からたしなめられる有様だった。彼は街でシューマンに出くわすと平手打ちを食わせた。こうしたヴィークの極端な行動は、物笑いの種となった。形勢不利を悟ったヴィークは1840年1月、今度はクララの動揺を狙い、レーマンという偽名を使ってシューマンに対するありとあらゆる非難を並べ立てた手紙を書き、ベルリンで開かれたクララのリサイタル当日に届けさせた。この策謀は、クララの弟アルヴィンがシューマンに警告したため、シューマンはあらかじめクララに連絡を取って警戒させることができた。シューマンはこのことでヴィークを別件の名誉毀損で訴えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下され、二人は9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。この結婚式には、4月に知り合ったばかりのフランツ・リスト(1811年 - 1886年)も出席している。 名誉毀損の訴えでもシューマンが勝訴し、1841年にヴィークはシューマンを中傷したことで2週間の禁固刑に処された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "シューマンは1839年の時点では「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」と述べており、現に作品23の『4つの夜曲』までほとんどピアノ曲ばかり作曲していた。しかし、1840年にクララとの結婚が近づくと、一転して続々と歌曲を手がけるようになる。1840年3月から7月までの間に、シューマンは音楽史に残る5つの優れた歌曲集を作曲した。二つの『リーダークライス』(作品24および作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)である。 これらを含め、この年に120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。これはシューマンが生涯に残した歌曲の大半を超えるものであり、1840年は「歌曲の年」と呼ばれる。 これについてシューマンは、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。―私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と語っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "結婚後、シューマンはクララとともにバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、それが終わると、ベートーヴェンなどウィーン古典派の弦楽四重奏曲を勉強した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1841年には交響曲第1番(作品38)が完成する。この交響曲はシューマンの「ライプツィヒ時代」を代表する作品であり、この曲の成功は、シューマンの創作活動においてピアノ曲と歌曲から交響曲作家への脱皮という画期をなすものとなった。 その後もシューマンは『序曲、スケルツォと終曲』(作品52)、ピアノと管弦楽のための幻想曲(後のピアノ協奏曲第1楽章)、ニ短調交響曲(後の交響曲第4番)などオーケストラ作品に取り組んだ。 翌1842年には、シューマンは室内楽曲の分野に足を踏み入れ、3曲の弦楽四重奏曲(イ短調、ヘ長調、イ長調の作品41)、ピアノ五重奏曲(作品44)、ピアノ四重奏曲(作品47)などが生まれた。 これには、フランツ・リストの勧めがあった。リストは、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めていた。 これらにより、1841年を「交響曲の年」、1842年を「室内楽曲の年」と呼ぶことがある。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "シューマンとクララは幼いころから日記を付けており、二人は結婚と同時にそれぞれの日記をひとつに融合させ、互いに日々の出来事を報告し合った。毎週日曜日に一週間分の日記が朗読され、二人で反省したりコメントを付け合ったりした。 シューマンが家で作曲しているときにはクララはピアノの練習を控えた。このためにクララは結婚から5ヶ月後の日記に演奏力の低下を嘆いている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "シューマンとクララの間には、8人の子供が生まれた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "シューマンは子供好きで、いくら多くてもかまわないという考え方であり、子供が増えるに従ってクララは演奏家と主婦、母親の両立に苦心することになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "また、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、クララは家計を支えるために演奏旅行の回数を増やさなくてはならなくなった。 クララの演奏旅行にシューマンが同伴すると、すでにピアニストとしての名声が高かったクララに比べて、シューマンは粗略に扱われた。1842年の演奏旅行ではオルデンブルクでクララ一人が宮廷に招待されたことに傷ついて、シューマンはライプツィヒに戻っている。 屈辱を味わった彼は、一時はアメリカへの移住を考えたほどだった。 1844年のロシア旅行でも、シューマンは「ピアニストの夫」として従属的な立場に置かれた。 しかし、シューマンはこうした自分たちの特殊な状況を明確に理解しており、次のように述べている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "このように、シューマン夫妻の間には日常の家庭生活の負担から生ずる避けがたい緊張や芸術上の観点の違いによる深刻な対立はあったものの、お互いに相補う夫婦として、しばしば理想的なカップルとして描かれる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "結婚後、シューマン夫妻が4年間住んだライプツィヒは、急速にドイツ音楽界の中心となっていった。その中心にいたのは、メンデルスゾーンである。彼はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を務める傍ら、1843年にライプツィヒ音楽院を創設し、イグナーツ・モシェレス(ピアノ)、フェルディナンド・ダヴィッド(ヴァイオリン)、モーリッツ・ハウプトマン(音楽理論)らと並んでシューマンを作曲とピアノの教授に迎えた。 メンデルスゾーンはイギリスからウィリアム・スタンデール・ベネット、デンマークからニルス・ゲーゼらをライプツィヒに招き、シューマンも彼らと親交を結んだ。シューマンは彼らを「新音楽時報」で応援したほか、ベネットに『交響的練習曲』(作品13)を献呈しており、『子供のためのアルバム』(作品68)の第42曲「北欧の歌」において、ゲーゼの名前の綴りであるGADEの音名を主題に使っている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "シューマンはこの時期二度にわたって病気で倒れた。最初は1842年で、「過労」としてクララとともにボヘミアの温泉に保養に行った。 日本の音楽評論家、門馬直美(1924年 - 2001年)は、シューマンが家庭を維持する経済的な重荷を背負いながら、大作を書いても予期した収入をもたらさず、疲労感に襲われて次第に神経衰弱気味になっていったとする。このため、1842年から1843年にかけて作曲の筆はほとんどすすまず、シューマンは内省的になり、外部との新鮮な接触を嫌悪するようになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "しかし、1843年1月にエクトル・ベルリオーズ(1803年 - 1869年)がパリからライプツィヒを訪れたことはシューマンに刺激と喜びを与えた。 1843年2月ごろから創作意欲を取り戻してきたシューマンは、トマス・モアの原作に基づく独唱、合唱、管弦楽のためのオラトリオ『楽園とペリ』(作品50)を完成させる。 『楽園とペリ』の成功は、シューマンの作曲家としての名声を決定的なものとした。この年、クララの父ヴィークがシューマン夫妻に和解を求めてきたのも、この曲の成功が理由の一つだった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "二度目は1844年8月、ロシア旅行から帰ってきてまもないころで、より深刻だった。この年1月25日から5月末にかけて、シューマンとクララはロシアに滞在した。クララはサンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で演奏し、ピアニストとして成功したが、5ヶ月間にわたる旅行はシューマンにとって大きな負担となった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "ライプツィヒに戻ったシューマンは、「新音楽時報」の編集主幹をオズヴァルト・ロレンツ(de:Oswald Lorenz)に譲り、ゲーテの『ファウスト』の音楽化の構想を練り始めた。しかし、夏ごろから体調が悪化し、死を恐れたり、高所恐怖症の症状を示すようになった。シューマンは『ファウスト』第2部最後の「神秘の合唱」を作曲したものの、強度の神経疲労のために構想は中断され、この作品の完成はドレスデン時代を経てデュッセルドルフ時代まで持ち越されることになる。また、9月にシューマンはライプツィヒ音楽院で教鞭をとろうと試みたが、症状の悪化により断念せざるを得なかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "10月にシューマンはドレスデンで類似療法の医師ヘルビッヒ博士の治療を受けた。記録によるとシューマンの症状は、幻聴、ひっきりなしの震え、高所や鋭い金属物などに対するさまざまな恐怖症があった。とくに幻聴のために作曲もできなくなった。クララはこのころのシューマンについて、「ロベルトは一晩も眠っていません。彼の想像力は恐ろしい妄想を描いているのです。毎朝早く、私は涙にくれている彼を見なければなりません。彼はもうすっかり諦めているのです」と書いている。",
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "病気の回復には気候条件の変わったところが良いと考えたシューマンは、ドレスデンへの移住を決意する。この年、メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を辞任し、シューマンはその後任を希望していたが、デンマーク人のゲーゼが選ばれたことで落胆し、自己嫌悪に陥ったことも転地の理由となった。1844年12月、シューマンはライプツィヒ音楽院の職を辞し、クララら家族とともにライプツィヒを去った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "ドレスデンに移ったシューマンはバッハの作品を再び研究し始めた。1845年4月25日、ピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたペダルピアノを導入し、バッハのオルガン曲を練習できるようにした。この年に作曲されたペダルピアノのための『練習曲』(作品56)、『スケッチ』(作品58)、『BACHの名による6つのフーガ』(作品60)などはその成果である。創作力を徐々に回復したシューマンは、1841年に書いたピアノと管弦楽のための『幻想曲』を改訂し、新たに2つの楽章を追加してピアノ協奏曲(作品54)を完成させた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "交響曲第2番(作品61)は、1845年末から約1年間を費やして完成した。この間、1846年5月には幻聴や耳鳴りのために作曲できなくなり、双極性障害の症状も現れるようになっていた。このため第2交響曲は、シューマンが危機を乗り越えて再生した「勝利の歌」ということもできる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "当時のドレスデンは、ザクセン王国の首都としてフリードリヒ・アウグスト2世の治世下にあった。芸術家たちは王の雇い人という立場に置かれ、宮廷画家が援助される一方、音楽家は冷遇されていた。また、交響作品や室内楽よりもオペラが好まれた。こうした保守的で窮屈な環境にあってシューマンの友人となったのは、アマチュア男性合唱団の指揮者をしていたフェルディナント・ヒラー(1811年 - 1885年)である。シューマンとヒラーは協力して、ライプツィヒのゲヴァントハウスのような会員制の演奏会を企画し、1845年11月10日に演奏会を実現させた。このとき、出演予定だったクララが病気のため、代役としてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のソリストを務めたのは、当時14歳のヨーゼフ・ヨアヒム(1831年 - 1907年)だった。しかし、一般大衆に音楽が行き渡っていないドレスデンでの運営は厳しく、活動の継続は断念せざるを得なかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "また、シューマンはドレスデン宮廷歌劇場の楽長をしていたリヒャルト・ワーグナー(1813年 - 1883年)と出会う。しかし、この二人の関係は冷ややかで、発展しなかった。一方、メンデルスゾーンを高く評価していたシューマンはますます親密な文通を続けた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "シューマン夫妻にとってドレスデンはライプツィヒと比べて音楽的に遅れており、居心地の良い土地ではなかった。 家計を助ける目的もあって、クララは出産と子育ての合間を縫ってしばしば演奏旅行に出かけた。 1846年11月末から翌1847年1月にかけて、二人はウィーンで一連の演奏会を開催し、シューマンの交響曲第1番やピアノ協奏曲などを取り上げたが、失敗に終わった。 音楽批評家のエドゥアルト・ハンスリック(1825年 - 1904年)は、このとき演奏会終了後の楽屋で「みんな冷たい人なんだわ、恩知らずが」と当たり散らすクララと、「落ち着きなさい。クララ、10年経てばすべてが変わるよ」となだめるシューマンの姿を書き残している。 二人の窮地を救ったのは、「スウェーデンのナイチンゲール」と称されていたソプラノ歌手、ジェニー・リンド(1820年 - 1887年)で、彼女との共演によって1月11日の最後の演奏会は大成功を収めることができた。 また、リンドを通じてシューマンとアンデルセン(1805年 - 1875年)との交流が生まれた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "1847年からはオペラ『ゲノフェーファ』(作品81)に取りかかるが、精神障害に悩まされながらの作曲となった。 7月、生まれ故郷ツヴィッカウでシューマンを称える記念祭が2週間にわたって開催され、招かれたシューマンは恩師のクンチュや幼なじみたちと再会を果たした。記念祭のハイライトはシューマンの交響曲第2番の発表であり、この出来事は、シューマン夫妻のウィーンでの挫折を埋めるものとなった。 一方でこの年、長男エミールが早世し、11月4日にメンデルスゾーンが死んだことは痛手となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 98,
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"text": "1847年11月、友人のヒラーがデュッセルドルフの音楽監督に就任し、ドレスデンを離れることになった。シューマンはヒラーの指名を受けて男声合唱団「リーダーターフェル」の指揮者となる。シューマンは翌1848年1月にこの合唱団を70名規模の混声合唱団に拡大した。自作発表の場を得たことにより、シューマンは以降多くの合唱曲を作曲した。",
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"text": "前田昭雄はこの時期、シューマンの様式は円熟の境地を見せ、深みと哲学的な思索性を持つようになったとしている。声楽曲としては、オペラ『ゲノフェーファ』(作品81)、バイロンの詩に基づく劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)、『ゲーテのファウストからの情景』(WoO 3)第1部の主要部分が作曲され、歌曲にはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター歌曲』(作品98)や『レーナウ歌曲集』(作品90)などがある。 管弦楽作品としては、先に挙げたピアノ協奏曲や交響曲第2番に加え、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(作品86、1849年)がある。 室内楽曲の分野では、ピアノ三重奏曲第1番、同第2番のほか、オーボエやクラリネット、チェロ、ホルンのための作品が書かれている。 また、ピアノ曲では『森の情景』(作品82)や『子供のためのアルバム』(作品68)がある。後者は「楽しき農夫」などの親しみやすい曲が含まれており、ドレスデンで子供たちに囲まれた暮らしの中で作曲されたことをうかがわせる。",
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"paragraph_id": 100,
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"text": "ドイツに起こった三月革命は、1849年5月にドレスデンにも及んだ。思想的には自由主義・共和主義に共感していたシューマンだが、暴力を嫌悪し、ワーグナーのような政治的行動はとらなかった。 シューマンは家族とともに郊外のクライシャに避難した。",
"title": "生涯"
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"text": "1850年、かねてからバッハの作品の多くが出版されずに埋もれてしまっていることに憤慨していたシューマンは、バッハ没後100年を機に「バッハ協会(de:Bach-Gesellschaft Leipzig)」の設立に尽力、バッハ作品全集の計画に参加して中心的役割を果たした。 その一方で高所恐怖症が悪化し、同年のオペラ『ゲノフェーファ』のライプツィヒ公演の際には宿の2階の部屋にいられず、1階に部屋を変えてもらわなければならないほどだった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "このころ、シューマンは音楽界での定職に就きたいという希望を持つようになり、1847年には空席になっていたウィーン音楽院院長職への就任を打診し、メンデルスゾーンの死後はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者への就任についても探りを入れていたが、これらはいずれも実現しなかった。 1849年の秋、ヒラーからケルンで新しい職に就くため、デュッセルドルフの音楽監督のポストをシューマンに譲りたいという手紙を受け取った。 シューマンはためらったが、ドレスデンの旧弊さに嫌気がさしていたクララは定職に就く機会を逃さないようシューマンに勧めた。 シューマンは受諾し、1850年9月、家族とともにデュッセルドルフに向かって旅立った。",
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"paragraph_id": 103,
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"text": "デュッセルドルフでシューマン夫妻は歓迎を受けた。 この地でシューマンは管弦楽団と合唱団の指揮を担当し、シューマンが指揮した最初のコンサートは成功を収めた。 創作力も旺盛であり、この時期に相次いで書かれたチェロ協奏曲(作品129)と交響曲第3番「ライン」(作品97)は、シューマンのデュッセルドルフ時代を代表する作品となった。",
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"paragraph_id": 104,
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"text": "しかし、最初のシーズンが終わると、1851年3月に地元の新聞がシューマンの指導力を批判する匿名記事を掲載した。 この年、シューマンは室内楽協会を設立している。 つづくシーズンでは事態はさらに悪化した。シューマンは右手の不自由のためにしばしば指揮棒を取り落とし、例えばミサ曲の演奏では曲が終わり、神父が祈祷を唱え始めたにもかかわらずまだ指揮を続けるなどということが起こった。 また、シューマンの内向的な性格や、とりわけこのころ顕著になり始めていた自閉癖のために、団員たちは困惑させられるようになった。 指揮のテクニック不足や、自分の考えをオーケストラに明瞭に伝える能力にも欠けることが露呈し、シューマンの名声は急速にしぼんでいく。",
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"paragraph_id": 105,
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"text": "1852年の冬には、オーケストラの理事会がシューマンの練習方法について批判する書簡を送り、摩擦が表面化した。書簡は辞任勧告の意味合いが含まれており、シューマンは拒否したが、これに対して理事会は総辞職で応じた。新しく組織された理事会とシューマンは、ユリウス・タウシュ(de:Julius Tausch, 1827年 - 1895年)を補助指揮者として合唱団の練習を任せ、シューマンはオーケストラの練習と公開コンサートの指揮を続けることで合意した。",
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"paragraph_id": 106,
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"text": "1853年5月に開催された「低ライン音楽祭」では、改訂されたシューマンの交響曲第4番(作品120)が初演され、成功した。 5月17日にはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲でヨーゼフ・ヨアヒムと共演する。ヨアヒムはシューマンに対する賛嘆の念を示し、二人の交流から、2曲のヴァイオリン・ソナタ(作品105、作品121)、ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(作品131)、ヴァイオリン協奏曲(作品番号なし)が書かれた。",
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"paragraph_id": 107,
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"text": "しかし同年秋にはオーケストラとの間に新たなトラブルが発生する。ヨアヒムを招いて開かれた公開コンサートでは、シューマンは演奏を開始することができなかった。 ヨアヒムは、これについて次のように述べている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "ウォーカーは、こうしたシューマンの奇妙な行動について、病気の進行に伴って彼の身体機能が犯され、動作、言葉、聴力などが均衡の取れないものになっていったのだとしている。 これ以降、シューマンに指揮の機会は訪れなかった。 オーケストラの統率を失ったシューマンに対し、理事会はタウシュを正指揮者としてコンサートの指揮もすべて任せることを要求した。シューマンは受け入れざるを得なかった。 ブリオンによれば、シューマンとクララは経済的な理由のためにこの屈辱に耐えなければならなかったとする。",
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"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "シューマンの病状は次第に重くなっていった。1851年6月にはシューマン自身が「神経の発作」に悩まされ続けていることを明かしている。 1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり、医者に勧められてシューマン夫妻は北海沿岸の保養地シェヴェニンゲンに出かけたが、効果はなかった。 シューマンの弟子だったヴァジェレフスキによれば、1853年3月、シューマンは降霊術を扱った本を読んでおり、次女エリーゼと二人で霊媒実験を始めたという。このことをシューマンは5月25日付けのヒラーに宛てた手紙に「実に不思議な現象です」と書いている。 1853年6月にクララが記した日記には、シューマンが目を覚まし麻痺性の発作に襲われたことが記録されている。シューマンの言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 110,
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"text": "シューマンのデュッセルドルフ時代の作品は多岐にわたっており、フランスの著述家、マルセル・ブリオン(fr:Marcel Brion, 1895年 - 1984年)は、実生活上のいざこざがあっても彼の創造力には少しも影響を与えなかったとする。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "例えば、チェロ協奏曲は1850年10月10日から24日にかけて、交響曲第3番は1850年11月2日から12月9日にかけて、ヴァイオリンソナタ第1番は4日間、同第2番は6日間、ピアノ三重奏曲第3番が7日間と、驚くべき速筆で書かれている。『ヘルマンとドロテア』序曲はわずか数時間で作曲された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 112,
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"text": "ドレスデン時代から始まった「文学的音楽」の系列としては、上記ゲーテの『ヘルマンとドロテア』序曲のほか、シラーの『メッシーナの花嫁』序曲、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』序曲(いずれも1850年)、ウーラントの『王子』、『歌人の呪い』(1852年)などがある。 シューマン畢生の大作となった『ゲーテのファウストからの情景』は、ライプツィヒ時代の1844年に第2部終末の場面を作曲して以来10年がかりの構想となり、最後の序曲は1853年4月13日から15日までの3日間で作曲された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 113,
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"text": "デュッセルドルフの音楽監督の職務には、カトリック教会の典礼に基づく宗教音楽の実践義務も含まれていた。 このため、シューマンはパレストリーナやバッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトらの作品に接しながら宗教音楽の分野に手を染め、1849年に管弦楽伴奏による男声重唱のためのモテット『苦しみの谷にあっても絶望することなかれ』(作品93)、1852年にはミサ曲(作品147)、レクイエム(作品148)などが作曲された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "1853年9月30日、当時20歳のヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)がヨアヒムの紹介状を携えてシューマン家を訪れた。 ブラームスがピアノの前に座って自作のソナタを弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といった。 ウォーカーはこの出会いについて、「二人の出会いは音楽史に残る出来事だった」、「(シューマン家の)暗澹とした日々に、一筋の光を与えた」と形容している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "シューマンはブラームスの作曲家としての優れた才能を認めて「若き鷲」と呼んだ。 「彼が成長するにつれて、私は消えゆくのみ」とも語った。 シューマンはライプツィヒの音楽出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルに手紙を書いてブラームスを紹介するとともに、10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。 シューマンの厚誼に深く感謝したブラームスは、シューマンのもっとも忠実な弟子となり、シューマンが絶望のどん底にあるときも変わらぬ友情を示した。ブラームスはまた、クララが助力を必要とするときには常に慰め、彼女の心の支えとなった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "ブラームスは10月いっぱいシューマン家に滞在した。 この間ヨアヒムもデュッセルドルフを訪れ、シューマンはブラームスおよび弟子のアルベルト・ディートリヒ(1829年 - 1908年)とともに『F.A.E.ソナタ』を共作してヨアヒムに贈っている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "シューマンはクララとともにたびたびデュッセルドルフを抜け出して演奏旅行に出かけた。とくにオランダではシューマンの作品が受け入れられ、高い評価を得た。1854年のはじめにはヨアヒムやブラームスとともに旅行し、ハノーファーでの演奏会を成功させた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "シューマンの日記によると、1854年2月10日の夜に彼は激しい耳の痛みに襲われた。4日後の2月14日、レストランでヴァイオリニストのベッカーと同席したシューマンは、手にしていた新聞を置いて「とてもこれ以上読んでいられない。A音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と言ったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "クララは日記に次のように記した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 120,
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"text": "2月17日には、シューマンは天使たちが歌って聞かせてくれたという変ホ長調の主題に基づく『主題と変奏(天使の主題による変奏曲)』を書くが、この旋律は前年の1853年に作曲したヴァイオリン協奏曲に酷似している。 翌18日になると天使たちは悪魔に変わり、虎やハイエナの姿を取ってシューマンをめがけて襲いかかった。二人の医師が呼ばれ、シューマンを診察した。19日、シューマンは悪魔の精霊に取り囲まれ、夜まで苛まれた。20日にはシューマンは罪と悔恨に打ちひしがれ、自分は罪人で地獄に落ちるのだといって聖書を読み続けた。 その後も発作と小康状態を繰り返したが、2月26日夜、シューマンはもはや分別を保てず、このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがあるとして自分を精神病院に入れるように言い、身の回りの整理を始めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 121,
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"text": "翌2月27日、クララと医師が話し合っている隙にシューマンは家を抜け出し、ガウンとスリッパのままの姿でライン橋まで行き、ライン川に身を投げた。 飛び込む前に、シューマンは結婚指輪を外して川に投げ込んでおり、これは16年前の1837年11月、クララへの求婚で悩んだシューマンが婚約指輪を深い池に投げ込んだのと同じ行為だった。 シューマンの寝室には、『主題と変奏』の浄書と「愛するクララ、僕は結婚指輪をライン川へ投げ入れます。君もそうしてください。そうすれば、二つの指輪はひとつに結ばれるのです」という走り書きがあった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "シューマンが川に飛び込むところを漁師が目撃しており、彼は救助された。 家に連れ戻されたシューマンは再び精神病院への入院を望み、ボン近郊のエンデニヒにあるゲイムラート・リヒャルツ博士が経営する療養所に収容されることになった。 3月4日、シューマンはエンデニヒに向かった。 このときクララは懐妊中であり、消耗の極みに達していたために、医師がシューマンに会うことを許さず、彼の自殺未遂についても聞かされなかった。クララがこれを知ったのは、シューマンが死んで2年後のことである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "シューマンはエンデニヒで2年間を過ごした。リヒャルツ博士の療養所(現シューマン記念館de:Schumannhaus Bonn)は、広い庭園の中に建っており、シューマンは庭を自由に散歩できた。 外出もしており、ボンでベートーヴェン記念碑を訪ねている。 部屋にはピアノや五線譜、筆記用具が備えられ、作曲もできた。 エンデニヒにおいて、シューマンはパガニーニの24の奇想曲用のピアノ伴奏を補筆しており、ヨアヒムのオペラ『ハインリヒ4世』序曲のピアノ編曲もしている。 クララと家族との面会はシューマンの神経を刺激しないために禁じられたが、ブラームスやヨアヒム、ディートリヒ、批評家のハンスリックらが面会に訪れた。 シューマンがエンデニヒから出した手紙は、クララ宛が7通、ブラームス宛が4通、ヨアヒム宛が1通、長女マーリエ宛が1通残されており、のちにハンスリックによって公表された。クララ宛の手紙は子供たちへの心遣いを含めた愛情あふれる手紙となっている。 また、1854年11月27日付けのブラームスに宛てた手紙には、ブラームスが作曲した『シューマンの主題による変奏曲』(作品9)についての批評を書き送っているが、ここには精神錯乱を思わせる箇所は全く見当たらない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "シューマン自身は回復できると考えていたが、しかしその望みは日毎に薄れた。 発音が困難になり、感覚の鈍磨が聴覚、味覚、嗅覚にまで広がった。 シューマンは絶え間なく部屋の中を歩き回り、ときにはひざまずいて手を組み合わせた。お前の作品は盗作だと非難する声が聞こえ、シューマンは興奮して「そんなことはない、嘘だ!」と叫んだ。食事を拒否することもしばしばで、次第にやせ衰えていった。1854年8月14日にシューマンを見舞ったブラームスによると、シューマンは突然ワインを飲むのをやめ、毒が入っていると言って床に流したという。 1855年の夏には、シューマンの伝記を書いたヴァジェレフスキがエンデニヒを訪れた。だれも聴いている者もいないのに、即興でピアノを弾いているシューマンの姿を「それはバネがこわれて、ときどき思い出したように動く機械のようだった」と述べている。 1855年の秋、リヒャルツ博士はシューマンはもう回復の望みはないと診断した。 1856年6月8日にブラームスがエンデニヒを訪れたときは、シューマンの足は腫れ上がり、ベッドに寝たきりとなっていた。このときシューマンは、地図帳から地名を拾い出し、正確にアルファベット順に並べる作業をしており、シューマンが好んだ言葉遊びが最後まで残っていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "7月23日にリヒャルツ博士から危急を知らせる電報を受け取ったクララは7月27日にエンデニヒに着き、2年ぶりにシューマンと再会した。「それは夕方6時から7時のころのことでした。彼は私を認めて微笑み、非常な努力を払って―もうその頃、彼は四肢の自由がきかなくなっていました―彼の腕を私に回しました。私はそれを決して忘れません。世界中の宝をもってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」とクララは述懐している。 翌28日、シューマンの手足の痙攣が続き、クララはシューマンにワインを飲ませた。ワインの一部がクララの手の上にこぼれると、シューマンは嬉しそうにクララの指をなめた。 1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じた。 シューマンの最後の言葉は、「meine,......ich kenne... (私の...わかるよ...)」だった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "遺体は2日後にボンで埋葬された。ブラームス、ヨアヒム、ディートリヒが棺を担ぎ、グリルパルツァーが弔辞を述べた。クララが葬儀をごく近しい友人にしか知らせなかったため、クララとヒラー以外に参列したのは、6年前にシューマン夫妻がデュッセルドルフに到着したとき、歓迎のセレナーデを演奏した楽団コンコルディア・ゲゼルシャフトのメンバーだけだった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "シューマンの死後、クララは子供たちとともにベルリンに移った。1863年からはバーデン=バーデンを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。クララは同時代で最高の女性ピアニストとしての名声を築き上げるとともに、シューマンの作品を弾く機会を逃さず、シューマンの曲のもっとも権威ある解釈者として信頼された。クララは1896年に76歳で没し、ボンのシューマンの墓にともに葬られた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "シューマンの8人の子供は、長男エミールが1歳で亡くなったほかはみな成人した。長女マーリエは音楽教師として独身で過ごし、インターラーケンで死去した。次女エリーゼは、ゾンマーホフ(1844年 - 1911年)と結婚し、夫に先立たれた後は17年間独身で暮らした。三女ユーリエは、1869年夏ごろからブラームスから心を寄せられていたが、ブラームスがそれを率直に打ち明けることはなく、イタリアの貴族ラディカーディ・ディ・マルモリート伯爵(1831年 - 1923年)と結婚した。ブラームスは傷心から『アルト・ラプソディ』(作品53)を作曲している。次男ルートヴィヒは商店で働き、生涯独身だった。三男フェルディナントは銀行員となったが、シューマンに作曲を学び、作品を残している。四女オイゲーニエは独身で音楽教師となり、回想記を残した。末子のフェリックスは詩人を志し、彼の2編の詩にブラームスが付曲している。作品63の歌曲集中の「青春の歌1(わが恋は緑)」と「青春の歌2」である。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "シューマンが成人してから体験した症状は、麻痺、言語障害、けいれん、めまい、視力減退、耳鳴りなどがあった。 これらの原因がなんだったのか、100年近くの間、医学界では謎とされていた。 また、シューマンの兄弟たちはみな短命で、シューマンより早く世を去っている。姉のエミーリエは原因不明の皮膚病にかかり、19歳の時にチフスで高熱の発作を起こし、川に投身自殺した。シューマンの祖父のいとこゲオルク・フェルディナント・シューマンも1817年に投身自殺しているが、この二人の自殺とシューマンの自殺未遂との関わりは不明である。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "シューマンの伝記を最初に書いたヴァジェレフスキはシューマンの死因についてエンデニヒ療養所のリヒャルツ博士に問い合わせており、リヒャルツ博士は1883年にシューマンの検屍報告書を発表した。 これによると、シューマンの脳は摘出されて検査を受けており、シューマンの脳は同年齢の一般男子の脳と比べて軽く、萎縮していることが認められた。 リヒャルツ博士は、精神病の遺伝については否定している。シューマンの精神疾患は原発性の特異なもので、全神経組織を統合する力が徐々に、しかし遅滞なく衰弱していき、ここから心的障害が部分的に現れたとしている。 さらに、その最初の根源はきわめて若いころにあり、それが年月とともに進行していったとしている。 イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーは、リヒャルツ博士は最終的に、梅毒による全身麻痺だったと診断している。しかし、シューマンの病状に関するカルテがエンデニヒの療養所から消えてしまい、この結論は確認できなくなった。 これについてウォーカーは、リヒャルツ博士はクララに恥をかかせないために病院の記録を隠したのではないかと述べている。 この結果、シューマンの病気については統合失調症、結核性髄膜炎、脳腫瘍といったあらゆる病気が当てはめられ、シューマンの伝記作者たちは、あやふやなまま提供されたさまざまな説に翻弄されることになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "1959年、精神病理学と神経病理学の専門家、マリオット・スレイターとアルフレッド・メイヤーは共同論文を発表し、医学的な証拠を残らず再調査した結果、シューマンのすべての病状に適合するのは第三期梅毒しかないという結論を下した。 シューマンは1844年に「歌うような雑音」が聞こえると訴えており、これは第二期梅毒の典型的な症状に該当する。このことから潜伏期間を推定すると、シューマンが梅毒に感染したのは1830年から1831年の間と考えられる。このころシューマンはライプツィヒで無頼な日々を送っており、1973年に出版されたシューマンの当時の日記には、女性との性的交渉について細かい記録があった。 その後、1994年にリヒャルツ博士によるシューマンのカルテが公開され、シューマンの死因が梅毒による進行性麻痺だったと報道された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "ウォーカーによれば、おそらく1830年にヴィークのレッスンを受け始める前からシューマンは右手の不調に気づいていたという。 その1年後、1831年の「自伝的覚え書き」にシューマンは「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と記している。 1832年にヴィークがクララの演奏旅行に同伴してライプツィヒに戻ったときには、シューマンの右手はまったく使えなくなっていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "シューマンの指の故障について伝えられているのは、シューマンは指の動きを均等化するために指の1本だけを吊りながら演奏するという機械装置を独自に考案し、右手の第4指ないし第5指の腱を傷めたというものである。 しかし、シューマン自身がこのように説明している記述はどこにもない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "指の訓練機械について最初に触れたのは、ヴィークである。彼は1853年の著書『ピアノと歌』で「その指の訓練器は私のある有名な弟子が私の意に反して発明し、密かに使っていた。そして当然のこととして、第3、第4指を痛めてしまったのである」と述べている。 ヴィークはこの弟子がシューマンであるとは述べていないが、後世の解説者たちはこれをシューマンと結びつけた。 さらに、シューマンの四女オイゲーニエが父親が第3指を縛ってつり上げ、他の指で鍵盤を弾いたと述べたことで決定的となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "1889年、シューマンの研究家フリードリヒ・ニークスがクララに会ってインタビューしたところ、クララはシューマンが故障した指は右手の第2指であり、固い無音鍵盤で練習したのが原因だと語った。ニークスは、それまで知られていた説と矛盾するクララの証言について、70歳という老齢による錯誤であろうとして信用しなかった。 しかし、80年後の1969年、ライプツィヒ市の資料室からシューマンと軍司令官との間に交わされた未公開の書簡が発見された。シューマンは1842年に軍隊入りを志願したものの、手の疾患のために兵役免除となっていた。書簡にはシューマンの主治医ロイター博士の署名入り診断書が添えられており、右手の人差し指と中指が悪いと記されていた。これは、クララの証言を裏付けるものである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "1971年、イギリスの音楽学者エリック・サムス(en:Eric Sams)は、少なくとも一般的に知られているような形でのシューマンの指の「事故」はなかったとし、シューマンは水銀中毒のために運動機能に回復不能の症状を来したと仮定した。 19世紀当時、梅毒の治療には広く水銀が使われており、この間、すでに述べたように1959年にスレイターとメイヤーの共同論文によって、シューマンの死因が第三期梅毒であることが指摘されていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "シューマンと同時代のドイツの作曲家・音楽批評家ルイス・エーレルト(en:Louis Ehlert, 1825年 - 1884年)は、著作『シューマンとその楽派』(1849年)において、「ベートーヴェンが古典的時代の芸術の頂点なら、シューマンはわれわれの現代の時代意識を体現する存在になっている。彼の苦闘が結んだ愛には、必ず優しい、温和な守護神(天才)が宿っていて、われわれは人間的にそこへ惹きつけられる」と述べている。 また、19世紀ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840年 - 1893年)は、「この世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない。シューマンの音楽は、ベートーヴェンの作品と有機的に結びつきながら同時に決定的にこれから離れ、われわれに新しい音楽形式の全体的な世界を拓き出し、そういう偉大な先駆者たちもいまだ触れたことのない弦を響かせている。そこにはわれわれの心的生活の秘かなプロセス―あの疑いと憂鬱と、理想を振り仰ぐまなざしと―今日の人の心を感動させるものが響きを発しているのだ」と述べている。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "シューマンの創作の重要な時期は、3つの都市名で区分できる。ライプツィヒ時代(1828年 - 1844年)、ドレスデン時代(1844年 - 1850年)、デュッセルドルフ時代(1850年 - 1854年)である。この前後に、ツヴィッカウの幼少年時代、エンデニヒの最後の療養所生活、より短い期間では、ハイデルベルクとウィーンでの生活を挙げることもできる。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "ライプツィヒ時代に書かれ、シューマンの名を一般に不朽のものとしているのは、ピアノ曲と歌曲である。 作品番号の1番から23番まではすべてピアノ曲であり、20歳代のシューマンはピアノ作品に集中した。 作品24からは歌曲の創作が続く。 こうして、30代では1840年が「歌の年」、1841年が「交響曲の年」、1842年が「室内楽の年」、1843年にはオラトリオ『楽園とペリ』が完成、というように分野が拡大されていった。 ドレスデン時代とデュッセルドルフ時代を通じて、オペラ『ゲノフェーファ』(作品81)、劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)、『ゲーテのファウストからの情景』(WoO 3)などさらに分野を拡大した。晩年には『ミサ曲』(作品147)や『レクイエム』(作品148)など宗教音楽も作曲したが、一般的に評価されていない。シューマンの芸術の幅が広がり、奥行きと深みを増すにつれて、反面、想像力の鮮やかな直観性、純粋な詩情、天才的なひらめきは重厚な構成に比重を譲っているように見られる。",
"title": "音楽"
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"paragraph_id": 140,
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"text": "ブリオンは、ビーダーマイヤー的な家庭環境で育ったシューマンの音楽からは、良心も精神も純粋であって、充実して輝かしい人間性が内面的に成熟した場合の、静かな、無言の深い喜びが輝き出ているとし、これをドイツ・ロマン派の牧歌的な側面として位置づけている。 また門馬は、シューマンの作品に行進曲のリズムが多く見られるのは、ナポレオン戦争のさなかに生まれたシューマンの幼児体験からの影響とする。 一方でシューマンは技巧的な作品を否定しておらず、このことは幼年時代にモシェレスを聴いて圧倒的感銘を受けたことやハイデルベルク時代に音楽で身を立てようと決心をしたきっかけがパガニーニの演奏だったことからもうかがえる。「技巧」へのロマン的賛美は、ヴィークへの入門を決意した際にも強く意思されていた。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "シューマンの作品には楽譜に対して実際の音楽の拍節が異なって聞こえる場合がしばしばあり、日本の作曲家池辺晋一郎(1943年 - )はこれを「拍節マジック」と呼んでいる。 また、池辺は、シューマンが『楽園とペリ』(作品50)においてワーグナーよりも早くライトモティーフを使用していると指摘している。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "シューマンの作品全体の概観からは、作品がグループあるいは組になって作られている傾向が見て取れ、このように同じ分野の作品を立て続けに作曲した後に次の分野に移るという形で作品を残した作曲家は他に例がない。 このことからウォーカーは、シューマンは心理学者のいう「循環気質」型の性格であり、彼のすべての業績は、その創造的衝動が潜行しては、また別な分野に再び現れて形成されているとする。 この点、近年の資料研究によって未公開のスケッチや文書資料などが明らかにされ、交響曲をはじめとする大作品への意欲や、最高の普遍性を持った作曲家であろうとする願いが、シューマンの初期のころから根強く存在していたことが判明している。 例えば、1832年に『間奏曲集』(作品4)の着手前にシューマンはト短調のいわゆる『ツヴィッカウ交響曲』を試みている。1838年には2曲の弦楽四重奏曲、1839年にはピアノ協奏曲が試みられた。これらは完成されなかったが、後の交響曲や室内楽などの分野での成果を予告するものだった。 また、同一分野の作品を短期間に集中して書き上げることも特徴的で、例えば1842年、シューマンは作品41の3曲の弦楽四重奏曲を作曲するのに5週間とかからず、作品44のピアノ五重奏曲は6日間、作品47のピアノ四重奏曲は5日間で書き上げるなど、超人的な速筆ぶりは晩年まで変わらなかった。 ブリオンは、このようなシューマンの作曲方法について、彼の有機的な創造性が、いわばいっぱいにせき止められた水がひとたび出口を見つけるや、鉄砲水の勢いで一気にほとばしり出るのに似ていると述べている。",
"title": "音楽"
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"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "ブリオンは、一方でシューマンのこうした集中的な創作傾向はかえって自分自身を苦しめることにもなったとする。 シューマンがひとつのことにこだわる傾向は作曲分野以外にも見られ、曲の中でリズムパターンに固執する例も多い。 ドレスデン時代以降は精神障害に苦しみ、研究家の中には、これらの病気がシューマンの作曲活動に影響を及ぼし、彼の創造力の衰えとして結論づける論者もいる。",
"title": "音楽"
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"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "また、ワインガルトナー以降の交響曲論者によって、シューマンの天才は初期のピアノ曲や歌曲にあり、交響曲その他の後期の作品には否定的な評価を与える見方がある。 例えば門馬直美は、シューマンの交響曲の音響的な基盤はピアノと室内楽であるとし、楽想的にもピアノ的なものが幅をきかせており、ヴァイオリンの音型などでもむしろピアノ向きだと思えるものが少なくないと指摘している。 また、フランスの文学者アンドレ・ジッド(1869年 - 1951年)は、シューマンとショパンのピアノ様式を端的に区別し、「シューマンは詩人であり、ショパンは芸術家である」と述べている。シューマンのピアノ曲には、ときにピアノを逸脱した独自性を示すことがあり、ピアノの鍵盤は詩的な表現のための道具として供される印象を与えるためである。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "前田は、これらの見方について「結局、シューマンのピアノ曲はシンフォニックといわれ、シンフォニーはピアノ的といわれ、それぞれ否定的なニュアンスでいわれることが多いという事実である。しかし、同じことは肯定的にも捉えられ得る」と述べる。 シューマンの『フモレスケ』(作品20)についての文章の中で、前田はシューマンの音楽について、程度の差こそあれ、「欠陥にもかかわらず」ありのままに愛されうる性格が著しく、形式的破綻すらも血の通ったひとつのドキュメントとして愛されることができる、としている。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "シューマンの読書好きは父親譲りで、主として文学と哲学を好んだ。 シューマンは13歳のとき、当時興味を持った批評や詩、哲学的著作からの引用や自作の劇『精神』(未完)からの断章、両親の文章などを「スクランダー」というペンネームで『美しい黄金色の牧場の葉と花』としてまとめている。 また、1825年から1828年の間に書いた自作の文集を「ムルデ河畔のロベルト」というペンネームで『雑録』としてまとめている。このころ、シューマンはゲーテの『ファウスト』をほとんど全部暗記し、友人たちからは「ファウスト」または「メフィスト」などと呼ばれていた。 このほか、シューマンが手がけた文学作品として、コリオランを題材にした合唱付きの悲劇『ランデンドルファー兄弟』や喜劇『レオンハルトとマンテリエ』、ジャン・パウルから影響を受けた『6月の晩と7月の昼間』という小説があるが、いずれも未完である。 シューマンが文学者をめざさず音楽の道を選んだことについて、ブリオンは「シューマンにとって、限界があり、厳密さを欠く文章表現よりも、音楽はずっと豊かで、多様で、陰影があり、緻密な言葉を提供した」と述べている。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "初期のピアノ曲にとくに関係が深いのがジャン・パウルとE.T.A.ホフマンの二人である。 例えば、シューマンの『蝶々』(作品2)はジャン・パウルの小説『生意気盛り』から着想された作品である。 また、『幻想小曲集』(作品12)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『夜想曲集』(作品23)のそれぞれの題名はE.T.A.ホフマンの文学作品から採られており、いずれもロマン的憧憬に彩られている。 シューマンは絶えず読んだジャン・パウルの全集の次のような部分にアンダーラインを引いている。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "シューマンの文学に対する豊かな素養は、歌曲の詩の選択にも反映されている。彼が選んだ詩人では、ハイネが44篇、つづいてリュッケルトが42篇と多い。これにガイベル(de:Emanuel Geibel, 1815年 - 1884年)がつづく。アイヒェンドルフとケルナー(de:Justinus Kerner, 1786年 - 1862年)はそれぞれ20曲ずつとなっている。ゲーテについては歌曲は18曲とそれほど多くないが、より大規模な合唱作品がある。 このほかシャミッソー、ファラースレーベン、レーナウ、メーリケ、ウーラント(de:Ludwig Uhland, 1787年 - 1862年)、ヘッベルなどのドイツ詩人・作家、スコットランドのロバート・バーンズ、デンマークのアンデルセン、イギリスのバイロンなどが採り上げられた。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 149,
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"text": "また、読書のほか自然を好み、散歩をよくした。ライン川や、とくに生まれ故郷ツヴィッカウには強い愛着を抱いていた。 シューマンは1845年に出版されたフンボルト(1769年 - 1859年)の『コスモス』を読んでこれを推奨している。ブリオンは、自然哲学者が自然との一致及び事物のほとんど予言者的な幻影から宇宙体系を推論するように、シューマンが自然との牧神的な一致から普遍的な魂の表現をつかみ取って作品とりわけ交響曲へ流入させていると述べている。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "シューマンは生涯に計4曲の交響曲を作曲した。 交響曲の創作に本格的に進出したのは1841年からで、前年の1840年にはピアノ曲から歌曲への創作分野の転換があり、クララと結婚している。1841年には交響曲第1番「春」(作品38)と後に改訂されるニ短調交響曲が書かれた。 交響曲第2番(作品61)はシューマンのドレスデン時代の作品である。 デュッセルドルフ時代に交響曲第3番(作品97)が書かれ、さらに1841年に書かれたニ短調交響曲が改訂され「第4番」(作品120)として出版された。 なお、第1交響曲に先立つ1832年に『ツヴィッカウ交響曲』に取り組み、1841年にはハ短調の交響曲の構想もあったが、これらは完成されなかった。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "シューマンはピアノ曲を創作するはるか以前から『ハムレット交響曲』などのスケッチを書いており、1829年にはヴィークに宛てた手紙に「交響曲を頭の中で書きました」と報告している。このように、交響曲への意欲はシューマンのごく初期から彼の中にあり、シューマンのピアノ作品は交響的イメージから発想されたり、交響的な次元に向かって開いていることが多い。第1交響曲はわずか4日でスケッチが完成されているが、こうした前提をふまえたものであり、霊感のみによって突然成就されたものではなかった。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "シューマンの交響曲は、管弦楽編成の点では古典派の延長線上にあり、19世紀前半のロマン派交響曲として、また、ベートーヴェンやシューベルトからブラームスやブルックナーへの橋渡し的存在として重要である。 これらの影響とは別に、シューマンの交響曲にはシューマンならではの個性や格調、筆致があり、例えば1903年に古典的なシューマン評伝を書いたヘルマン・アーベルトは、「シューマンの交響曲の際だった特質は、第一に楽想の例外ない独創性と深い真摯さであり、また純粋な熱中の、われわれを抗いがたく引き込む飛翔力である」と述べている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 153,
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"text": "にもかかわらず、シューマンの交響曲は彼のピアノ曲のようには広く支持されていない。 その理由の一つとして挙げられるのが、シューマンの管弦楽法についてであり、「オーケストレーションがときに鈍重で垢抜けない」、「色彩的には華麗で明快なものではなく、どちらかといえばくすぶったような、曇りがちの天候のような響きを出す」、「往々にして暗く重く、3度やオクターヴの平行が多く、楽器の使い方が技術的に問題」などといった批評が多く見られる。 このため、グスタフ・マーラーをはじめ、シューマンの交響曲のオーケストレーションに修正を加えて演奏する例が見られたが、近年ではオリジナルを尊重して手を入れない、あるいはリハーサルの段階で各パートのバランスを調整して問題を解決させた演奏が多くなっている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 154,
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"text": "門馬直美は、こうしたシューマンの管弦楽の扱い方について、「未熟さがあるからだといわれることが多いが、逆に言えば、そこにシューマンの味があり、特色がある」としている。",
"title": "作品"
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"paragraph_id": 155,
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"text": "また、『西洋音楽史』のドナルド・グラウトは、シューマンの交響曲について次のように述べている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 156,
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"text": "これに対して前田昭雄は、グラウトの評価を十分賛同できるとしつつ、「有機的統一に欠ける」という指摘は修正を要するとしている。 すなわち、シューマンの形式は決して新主題の羅列ではなく、形式原理が認識されなかっただけであり、「人は理解できぬものに対してはさしあたり否定的な評価を下すことになる」と述べている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 157,
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"text": "シューマンは早い時期からピアノ独奏と管弦楽のための協奏的作品に取り組んでいるが、変ホ長調(1828年)、ヘ長調(1829年 - 1831年)、ニ短調(1839年)などはいずれも未完である。完成されたものとしては、ピアノ協奏曲(作品54)、『序奏とアレグロ・アパッショナート(ピアノ小協奏曲とも)』(作品92)、『序奏と協奏的アレグロ』(作品134)などがある。 ピアノ以外では、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(作品86)、チェロ協奏曲(作品129)、ヴァイオリン独奏と管弦楽のための幻想曲(作品131)及びヴァイオリン協奏曲(WoO 23)があり、池辺晋一郎は、「そんなふうに言われることはあまりないが、シューマンは実は協奏曲作家だ」と述べている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "このうち、ピアノ協奏曲はロマン派時代の最も優れた協奏曲の一つである。 この曲は第1楽章が『幻想曲』として1841年に作曲されており、残りの楽章は1846年、ドレスデンで完成された。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "チェロ協奏曲は、シューマンがデュッセルドルフに移ってまもない1850年10月に完成しているが、なぜ書かれたのかその理由ははっきりわかっていない。シューマンはかつて右手を痛めてピアニストになることを断念したとき、チェロ奏者になることも考えており、ウォーカーはおそらく多分にノスタルジーがあったからではないかとしている。初演は1860年で、シューマンの存命中には演奏されなかった。",
"title": "作品"
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"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "また、ヴァイオリン協奏曲はシューマン最晩年の作品だが、楽譜を贈られたヨーゼフ・ヨアヒムがこの曲を採り上げることはなく、作曲から80年近く経った1937年に初演されている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "シューマンはギムナジウムに在籍していた1823年ごろから友人や知人の家でモーツァルトやウェーバーらの室内楽を楽しみ、ピアノを担当した。 室内楽曲のもっとも初期の試みとして、1828年から1829年にかけてハ短調のピアノ四重奏曲やヴァイオリンとピアノのためのソナタがある。1839年6月にも2曲の弦楽四重奏曲を書こうとしているが、最初の部分だけで中絶した。1840年にクララとの結婚後、シューマンはベートーヴェンの弦楽四重奏曲を熱心に研究した。本格的に室内楽に取り組んだのは1842年であり、弦楽四重奏曲(3曲)、ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲などが書かれた。 ドレスデン時代以降にはピアノ三重奏曲(3曲)やヴァイオリンソナタ(3曲)などがある。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "シューマンの室内楽曲は独特の幻想味にあふれている。古典的な伝統に従いながらも自由さを見せる構成の中に、巧妙な対位法がシューマンの幻想の広がりを妨げることなく織り込まれている。 3曲の弦楽四重奏曲のほかは楽器編成にピアノを用いているほか、チェロが愛好されていることが特徴である。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "また、古典派的な多楽章形式を基礎に置いたもののほか、ピアノ曲の分野で好んだような小品集や組曲形式も見られ、これらの作品では、シューマンは趣に富んだ楽器の組み合わせを考え出した。 クラリネットとピアノのための『幻想小曲集』(作品73)、ホルンとピアノのための『アダージョとアレグロ』(作品70)、オーボエとピアノのための『3つのロマンス』(作品94)などは、本来ロココ風である管楽器とロマン的なピアノによる対話であり、これらはシューマンが18世紀とロマン主義とを調和させ、均衡させることができた例である。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "シューマンの作品23までの曲はすべてピアノ曲である。ピアニストを目指して訓練したが指を痛めて断念、作曲に転向した経緯から、シューマンにとってピアノはもっとも親しい楽器だった。 最初期には未出版の曲も含めてほとんど変奏曲ばかり書いており、作品1の『アベッグ変奏曲』も同様である。 ピアノ書法の面では、ペダルの用法に特徴があり、『蝶々』(作品2)の終わりの部分では、属七の和音の構成音を次第に減らしていって最後に属音のみが残って消えるようにフェルマータを置いている。このようなペダルが不可欠な終わり方は『アベッグ変奏曲』の終曲にも見られる。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "『謝肉祭』(作品9)や『交響的練習曲』(作品13)において、シューマンは初期ロマン派の作曲家たちが直面していた大曲の音楽構成についてひとつの解決法を打ち出している。これらは、糸で連ねられた真珠のように、小品が途切れることなく演奏されていくという新しい形式の音楽である。19世紀前半にはメンデルスゾーンやショパン、リストらもピアノの小品を書いているが、シューマンの場合は小品の集まりが一つの曲として構成されていたり文学的・幻想的な関連で括られており、こうした曲のまとめ方はシューマン独自のものである。 また、シューマンは曲中で気に入ったリズムを導入すると、それにきわめて長く固執する性癖を持っていた。『交響的練習曲』の終曲や、ピアノソナタなどその他の作品でもそうした傾向が現れている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "クララとの結婚をめぐるヴィークとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。すなわちピアノソナタ第1番(作品11)、『幻想小曲集』(作品12)、ピアノソナタ第3番(作品14)、『子供の情景』(作品15)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『幻想曲』(作品17)などである。 マルセル・ブリオンは、クララとの結婚までの6年間はシューマンの作品にピアノ史上類のないほどの悲劇的な壮大さを与えており、これらの作品にクララへの思いが喜びや希望や苦痛や悲嘆の形で込められていないものは1小節もなかった、と述べている。 ハンス・ヨーゼフ・オルタイルは、この数年間にシューマンが書いたすべての作品はクララとの関係を題材にしており、それらの核心をなすのが『子供の情景』だとする。この曲集はシューマン自身が正確に述べているように子供向きのものではなく、クララとのなれそめから1838年春の作曲時期に至るまでシューマンがヴィークの家庭との関わりではっきりと思い浮かべた過去の出来事を、音楽によって再創造した「思い出の対話」である。",
"title": "作品"
},
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"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "シューマンのピアノ曲には曲の開始部と終結部を同じフレーズとしているものが特徴的に見られ、例えば、『子供の情景』の第4曲「おねだりする子供」や『森の情景』(作品82)の第7曲「予言の鳥」がある。 また、シンコペーションを好み、しばしば表記上の拍と耳で聴く拍が違っている。例えば、『子供の情景』の第10曲「大まじめに(むきになって)」や『幻想小曲集』の第1曲「夕べに」などで、後者は、全曲を通じて3/8拍子に聞こえるが、楽譜は2/8拍子で書かれている。 ジャン・パウルの影響によって、シューマンの初期のピアノ曲の基調にはフモールの概念があり、『フモレスケ』(作品20)では、この概念がタイトルそのものとなった。シューマン自身の説明によれば、「フモール」は独自のドイツ的な内容を持つものであり、「夢幻的」かつ「涙の下から微笑む」心である。 池辺晋一郎は、インスピレーションが詩的な想念となり、ピアノの音に転化していく。こういったことがシューマン独自の世界なのだ、と述べる。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "一般に「シューマンのピアノ曲」として認知されているのは1839年の『4つの小品』(作品32)までであり、ドレスデン時代以降になると、ペダルピアノのための『6つの練習曲』(作品56)、同じく『4つのスケッチ』(作品58)、『6つのフーガ』(作品60)、『4つのフーガ』(作品72)といったバッハの対位法研究の成果を示す作品群が現れ、さらに、『子供のためのアルバム』(作品68)をはじめとした家庭向きあるいは教育向きとも見られるピアノ作品も書かれるようになった。 また、1850年にシューマンは「若き音楽家への助言」を発表しており、これは『子供のためのアルバム』の序文としてよく使われている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "ロマン派の歌曲の歴史の中で、シューマンはきわめて重要な役割を果たしている。 ブリオンによれば、シューマンはロマン派の憧れそのものを、またそのもっとも本質的な特徴を体現しており、彼の歌曲は、モーツァルトを除いては他のいかなる作曲家も及ばぬこの上ない調和を達成しているとしている。 日本の音楽評論家横溝亮一(1931年 - 2015年)は、「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」と述べている。 また、ウォーカーは、「もし、シューマンが歌曲しか書かなかったならば、彼はより大家と目されただろう」と述べている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "シューマンが本格的に歌曲の世界に足を踏み入れたのは1840年で、シューマンはこの年9月にクララとの結婚を実現させている。",
"title": "作品"
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"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "シューマンは30歳であり、クララの存在が彼の想像力の源であった。 それまでピアノ曲を主体に書いてきたシューマンは、1839年にヘルマン・ヒルシュバッハに宛てた手紙に歌曲について「器楽曲と比べて立派な芸術と思っていなかった」と述べている。しかしこのシューマンの見解はめざましい転換を遂げ、歌曲の創作はシューマンにとって大きな意義を帯びることになった。これには、友人で声楽の教師だったオズヴァルト・ロレンツ(1806年-1889年)からの影響もあった。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "1840年だけでシューマンは120曲以上、生涯を通じては270曲以上の歌曲を作曲した。 シューマンの文学に対する豊かな素養が詩の選択にも反映されていることについては、#文学との関係を参照のこと。 形式面では、変化有節形式と通作形式が目立って多く、いくつかの歌曲集では、テーマ的な関連性を織り込む試みをなしとげている。 また、歌曲において従来は伴奏でしかなかったピアノの地位を向上せしめた。シューマンの歌曲では、ピアノは歌に対して対等であり、ときには作品を支配する役割を担っている。例えば、『詩人の恋』(作品48)の終曲は充実した独奏ピアノによって閉じられる。 このため、シューマンの歌曲は「歌声部の伴奏を持つピアノ曲」といわれることもある。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "シューマンは「新音楽時報」でマイアベーアのオペラを痛烈に批判しており、自分でも優れたオペラを作曲したいと考えていた。 シューマンの日記からは、オペラ化を計画した文学作品が多数挙げられる。バイロンの『海賊』、『サルダナパラス』、カルデロン(1600年 - 1681年)の『マルティブレの橋』、『魔術師』、E.T.A.ホフマンの『総督と総督夫人』、トマス・モアの『ララ・ルク』、ゲーテの『ヘルマンとドロテア』、『ファウスト』などである。これらのうち、『ララ・ルク』や『ファウスト』はそれぞれ『楽園とペリ』及び『ゲーテのファウストからの情景』のオラトリオ的作品として結実した(下記参照)。また、『ヘルマンとドロテア』は、シューマンは友人のユリウス・ハマーに作品の手直しと台本化を依頼したが実現しなかった。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "シューマンが実際にオペラとして取り組んだのは2曲だが、このうち『海賊』は未完であり、『ゲノフェーファ』(作品81)のみが完成した。 しかし、唯一のオペラである『ゲノフェーファ』も、優れた場面はあるものの、音楽・台本に一貫性を欠いており、親しまれているとは言い難い。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "トマス・モア原作によるオラトリオ『楽園とペリ』(作品50)は、シューマンの出世作となった。 また、後に書かれたバイロン原作による劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)や『ゲーテのファウストからの情景』も、独唱、混声合唱、児童合唱、管弦楽による演奏時間約2時間の大作である。 とくに『ゲーテのファウストからの情景』は、シューマンの全創作のうちでも作曲家の精力が最も集中された作品であり、前田は「作品番号はつけられていない。これは未完とか遺稿とかいう意味ではなく、シューマンにとって作品とか演奏とか、初演や初版の成功とかいう意味を超えた、芸術的実存を賭けての超作品という存在に、この音楽が育っていったことを意味している」と述べている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "このほか、独唱、合唱、管弦楽のための作品に『夜の歌』(作品108)、『ばらの巡礼』(作品112)、『王子』(作品116)、『うたびとの呪い』(作品139)、『小姓と王女について』(作品140)、『エーデンハルの幸せ』(作品143)などがある。 舞台装置や衣装を必要とする大がかりなオペラでなくこうしたオラトリオ的作品が多く書かれた理由は、シューマンが文学に造詣が深かったことと、彼が生きた時代が「市民の時代」黎明期であり、アマチュアや市民による合唱団が巷間に生まれつつあったことが背景にある。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "宗教音楽に対してシューマンが真剣な情熱を注いだことはそれほど理解されていない。 シューマンは、「もしも聖書とシェイクスピアとゲーテを読み、それらを自分の中に取り入れてしまえば、もうその人にはなにも必要はない」と語っている。 また、シューマンがアウグスト・シュトラッカリアンに宛てた1851年1月13日付けの手紙には、「芸術家の至高の目的が宗教音楽に対して創造的な力で貢献することであるのは確かなことです」と述べている。 1852年からは、バッハのミサ曲 ロ短調やマタイ受難曲の演奏会も積極的に行っており、このころ『スターバト・マーテル』やリュッケルトの詩による『ドイツ・レクイエム』、プロテスタントの典礼に基づくレクイエムやオラトリオなどの作曲も計画したものの、これらは実現しなかった。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "とはいえ、シューマンの宗教音楽について、批評家は概して酷評を下している。 例えば、シューマンのミサ曲やレクイエムのテキスト選択についてシュピッタは、ロマン的、神秘的な性格、内密なものへの共感からなされていると述べているが、アウグスト・ライスマン(1825年 - 1903年)はこれらの作品の構成の弱さを指摘している。ダームスは、シューマンの器楽曲における対位法の熟達ぶりに比べて教会音楽における声部のポリフォニーが貧弱なのはどうしたわけかと疑問を投げかけ、シューマンのミサ曲とレクイエムは単に音楽的記録としてのみ取り上げるにとどめるべきで、演奏されるに値しないとまで述べている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "シューマンの死後まもない1856年、クララとブラームスはシューマンの作品全集の出版について話し合った。全集の編纂には長い年月を要し、1879年から1893年にかけて全29巻のシューマン作品全集がブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から刊行された。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 180,
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"text": "この過程で、クララは1861年4月、シューマンの作品のメトロノーム指定を改訂することでブラームスと相談している。ブラームスはクララに助言し、自分の演奏スピードを毎回記録し、平均値を取ることにした。その結果、メトロノーム指定を変更したのはピアノソナタ第3番、『幻想曲』、『子供の情景』、『夜想曲集』(作品23)、『森の情景』の5曲にとどまり、その他のピアノ作品や管弦楽作品ほかについては変更がなかった。変更された5曲も、数値的にごくわずかなものだった。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "一方、指揮者・ピアニストのハンス・フォン・ビューロー(1830年 - 1894年)は、自身が校訂したヨハン・クラーマーの1869年版ピアノ練習曲集の序文に「シューマンが創作に携わっていた間、ずっと故障しているメトロノームを使っていたことはすでに広く知られるところである」と述べた。さらに1886年、シューマンの書簡集を刊行したグスタフ・ヤンゼン(1831年 - 1910年)は、その第1版に、シューマンの死後メトロノーム指定が正確でないことがわかり、シューマンの作品の多くはメトロノーム指定が不適切であるとしてビューローの見解を支持した。 1887年には、クララが自分の個人的な演奏習慣をもとにしたシューマンのピアノ作品の校閲版を同社から出版し、シューマンの与えたメトロノーム指定を大幅に改訂した。同時代を代表するピアニストであり、生涯を通じてシューマンの優れた解釈者でもあったクララの改訂は、シューマンのメトロノームが壊れていたという見解を公的に承認するものとなった。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "しかし、例えば『子供の情景』において、第2曲「不思議なお話」でのシューマンのメトロノーム表示が♪=112であるのに対してクララの指定は♪=132であり、第3曲「鬼ごっこ」ではシューマンの♪=138に対してクララが♪=120と、クララの解釈はシューマンのメトロノーム表示と比較して速いものと遅いものが混在している。もしメトロノームが壊れていたとして、あるときには進み、またあるときには遅れるということは通常考えられない。しかも、シューマンは1853年に作曲家のフェルディナント・ベーメに宛てた手紙で、時計で自分のメトロノームをチェックして異常がなかったことを報告していた。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "ウォーカーは、この問題の発端はクララにあったとする。彼女はシューマンのメトロノーム表示を随時変更し、時折見られる「突飛な」テンポ指示について、シューマンのメトロノームが壊れていたせいだと口外していたと見られる。 また、門馬も1887年のころまでには、クララはすでにシューマンの意図から離れて自分のテンポで演奏していたとしている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "ウォーカーは、それでもシューマンのテンポ表示はしばしば不自然に速く聞こえるとしており、これについて、作曲家が譜面を見ながら頭の中で「演奏」した場合、実際の演奏よりも速くなりがちであることから、シューマンは頭の中のテンポにメトロノームを合わせたために混乱が起こったとしている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "シューマンの音楽評論活動は、1832年にライプツィヒの「一般音楽新聞 (Allgemeine musikalische Zeitung)」に投稿した「諸君、脱帽したまえ、天才だ」という有名な論文でショパン(1810年 - 1849年)を紹介したことに始まる。 当時ドイツで有力な音楽雑誌に「一般音楽新聞」と「音楽芸術の女神 (Iris Gebiert der Tonkunst)」の二つがあり、このうち「一般音楽新聞」は1798年創刊のドイツで最初の音楽雑誌として、ベートーヴェン作品の普及に大きな役割を果たした。しかし、1830年ごろには音楽評論の姿勢は保守的な極みにあり、同紙は以後シューマンの寄稿を不穏当と見なして掲載しなくなっていた。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "このころライプツィヒのコーヒー・ハウス「カフェ・バウム」で交わされる音楽談義には、シューマンのほかヴィークやピアニストのユリウス・クノル(1807年 - 1861年)、画家のヨハン・ペーター・リューザー(1803年 - 1870年)、医者のモーリッツ・エミール・ロイター(1802年 - 1853年)、シューマンの友人でピアニストのルートヴィヒ・シュンケ(1810年 - 1834年)らがいた。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "彼らの話し合いから新しい音楽雑誌の計画が立ち上がり、1834年4月3日、「新音楽時報」(Neue Zeitschrift für Musik, 「音楽新報」とも)が創刊された。 「新音楽時報」の意義と目的は、現在と未来を体現している若い音楽家の真価が認められ、耳を傾けてもらえるところまで働きかけて成果を得ることにあった。 シューマン自身の言葉によれば、創造的な芸術家に出番を提供し、「彼自身の実力によるだけでなく、書かれた言葉で自分自身を表現するための機関を与える」ことだった。 このように、19世紀前半、ライプツィヒで多くの重要な音楽雑誌が出版された中で、1834年に創刊された「新音楽時報」は、革新的であると自認する若い世代の作曲家や批評家たちからの強硬な反撃と見なすことができる。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノルで、シューマンは編集を手伝った。しかし、数ヶ月経たないうちにクノルが病気に倒れ、ヴィークはこの仕事に興味を失い、シュンケが肺結核のために1834年末に死去すると、シューマンがすべてを受け継ぐことになった。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "「新音楽時報」の誌面上で、シューマンは「ダヴィッド同盟」と称する架空の団体を創り出し、音楽界の俗物であるペリシテ人と戦うというコンセプトをもって評論を展開した。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "「ダヴィッド同盟」の構成員にはシューマン自身や友人・仲間たちを想定し、評論の内容によってペンネームが付けられた。例えば「フロレスタン」は行動的な情熱家、「オイゼビウス」は優しい夢想家であり、シューマン自身の性格の二つの側面を代表している。 また、「ラロ楽長(マイスター・ラロ)」は分別をわきまえた調停役であり、そのモデルとしてヴィークを想定する説やシューマンとクララの名前をつなげた claRARObert に由来するという推定がなされている。 「リヴィア」、「マリア」、「エレオノーレ」、「エストレリャ」、「キアリーナ」、「ツィーリア」などの女性名は、リヴィア・ゲルハルト、ヘンリエッテ・フォイクト、エルネスティーネ・フォン・フリッケン、そしてクララ・ヴィークら当時シューマンと交流のあった女性たちから採られた。 このほか、「サーペンティヌス(蛇紳士。クララとの恋愛関係をめぐってライヴァルであったカール・バンクのこと)」や「クニフ(ライヴァル音楽批評誌の編集者フィンク (Fink)の逆読み)」など、特定の人物を当てこすったものもあった。 この手法は読者の好奇心をそそり、ライプツィヒ市民はこれらのペンネームの正体を自分たちがよく知っている音楽家の中から見つけようとした。",
"title": "音楽評論"
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"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "シューマン自身は、死の2年前に次のように意図を語っている。",
"title": "音楽評論"
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{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "こうしたシューマンの音楽哲学は、彼が傾倒していたジャン・パウルから着想を得ている。小説『生意気盛り』に登場する「ヴァルト」と「ヴルト」が著者ジャン・パウルの性格の対照的な二面を表すことをシューマンは察知しており、彼は対位法を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだと語っていた。一方、こうした二面性をシューマンの統合失調症の初期症状と考える解説者もいる。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "「ダヴィッド同盟」はシューマンの作品に実際に現れている。 1835年に完成された『謝肉祭』(作品9)では「オイゼビウス」や「フロレスタン」など同盟の構成員が登場し、終曲は「ダヴィッド同盟員の行進」である。シューマンはここで低俗なペリシテ人に17世紀の「おじいさんのダンス」というメロディーを引用して当て、戯画化している。 同年完成のピアノソナタ第1番(作品11)の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず、「クララに捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した。 1837年に完成された『ダヴィッド同盟舞曲集』(作品6)では、各曲に「E(オイゼビウスの頭文字)」や「F(フロレスタンの頭文字)」または「EとF」といったサインがあり、ところどころに「このとき、フロレスタンは黙っていたが、感情の高まりに唇は震えていた」などのメモが書き添えられている。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "シューマンの音楽批評は、新しいドイツ近代音楽の特性を詩的に明確化するという目的を持っていた。ショパンやベルリオーズ、ベネット(1816年 - 1875年)、フィールド(1782年 - 1837年)ら外国人作曲家も擁護したが、シューマンが意図したのは自分が生きる時代と風土に根ざした音楽固有の要素を明確に表現することであって、ショパンたちの天才も同様に時代と風土の所産だと考えたからである。 一方でシューマンはイタリア音楽の影響をドイツ音楽の発展にとって有害と見なし、イタリア人を「カナリア」に例えて「ベルカント」の精神を批判した。マイアベーア(1791年 - 1864年)に対して「虚ろなデクラマツィオン(劇的朗読。歌において言葉を音楽に優先させること)」とし、ロッシーニのコロラトゥーラを無用として攻撃した。また、自作にはフランス語の曲名やドイツ語の音楽用語を与えてイタリア語の概念から逃れようとした。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "シューマンは約10年にわたって「新音楽時報」を単独で主宰した。 機知に富み、華麗で想像力あふれる彼の文章スタイルは読者の目を引き、「新音楽時報」は広く読者を増やして、全ドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌となった。 シューマンは音楽ジャーナリズムに確たる地歩を築き、当初は作曲家としてよりもむしろ批評家としての名声を得た。 シューマンの評論活動は、彼が作曲家として自立するまで財政的な安定を与えることにもなった。",
"title": "音楽評論"
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{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "シューマンは1844年に「新音楽時報」の編集主幹をオズヴァルト・ロレンツ(ドイツ語版)(1806年 - 1889年)に譲り、ドレスデンに移った。その後、常勤の編集部員には、カール・バンク(1809年 - 1889年)、ルートヴィヒ・ベーナー(1787年 - 1860年)、それにリヒャルト・ワーグナーも加わっている。 1853年、ブラームスとの出会いによってシューマンは10年ぶりに評論の筆を執り、「新しい道」と題する評論を書いてブラームスを世に紹介した。この評論は、ショパンの天才をいち早く発見したシューマンの最初の評論と呼応して、「天才は天才を知る」の見事な実例となっている。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 197,
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"text": "「新音楽時報」の発行を中心とするシューマンの就筆活動は近代音楽評論の道を開くものとして大いに注目に値する。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "その一方で、シューマンの論文は今日ではあまりにも心情的・主観的色合いが濃すぎるとされる。 マールブルク大学教授のジークハルト・デーリングによると、シューマンは独自の芸術方針を貫くことに熱心だったが、偏った判断を避けることができなかったし、そうしようともしなかった。彼は熱狂的な情熱にとりつかれて音楽の進むべき道筋を示そうとしたが、音楽一般の発展を促そうとはしなかった。このような傾向に潜む考え方は、ロレンツから編集を引き継いだフランツ・ブレンデル(de:Franz Brendel, 1811年 - 1868年)が、もっぱら「新ドイツ学派」だけを引き立てたことでいっそう明確になった。",
"title": "音楽評論"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "シューマンは子供のころから晩年に至るまで日記を書き続けており、ツヴィッカウのシューマンの生家の記念館には1828年から1853年までの旅日記がすべて保管されている。ブリオンは、シューマンの日記は後世の人に読ませる目的ではなく、彼にとって人間生活という荒れ狂う海を渡りぬくための航海日誌のようなものだったとしている。シューマンの妻となったクララも日記を付けており、しかも彼女が生まれた日から父親のヴィークがクララの一人称で代筆し、娘が筆を持つことができるようになると自分で毎日書くよう求めていた。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "1830年ごろのシューマンについて、友人で楽長兼ピアニストだったトーマス・テークリヒスペックは次のように伝えている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "後年の精神障害もあって内向的とされるシューマンの性格だが、ブリオンによれば、もともとの人間嫌いではなく、若い娘たちとのつきあいを好み、友情を重んじた。集まりに招かれると、仲間たちの前で演奏を楽しんだ。友人のテプケンは青年時代のシューマンの様子を次のように語っている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "とはいえ、シューマン最初期のピアノ作品の独創的で華麗な意匠が評価される中でも、彼はより客観的で普遍性への要求を自分に課していた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "シューマン夫妻には、8人の子供が生まれた。クララは子供が生まれるたびに演奏活動を中断しなければならなかったが、シューマンは家族が増えることを喜び、子供たちと楽しく過ごしていた。 シューマンの四女オイゲーニエは、父の思い出の中で次のように述べている。「父が21歳のとき、ゲーテの詩から『黄金の杖』として選び出した銘は、父の性格をよく表しています。その詩とは次のようなものです。『広い世界と人生の中で、長い歳月をたゆまず努力し、つねに探求し、かつ創り出し、うちに閉じこもらず、円熟を志す』」。 ブリオンは、シューマンが『ファウスト』の作者を人生の師として選んだのは正しかったが、彼の生涯がこの銘どおりとなったのはさらに見事だった、と述べている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "シューマンは手紙に「私の手本とする双璧はバッハとベートーヴェンです」(1838年、ジモーニン宛て)と書き、とくにバッハ(J.S.バッハ)については「私の確信するところでは、バッハには到底かないません。彼は桁違いです」(ケーファーシュタイン宛て)、「(バッハは)芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」(哲学者クリューガー宛て)などと記している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "1840年にクララと結婚したシューマンは、二人でバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、それが終わると、ベートーヴェンなどウィーン古典派の弦楽四重奏曲を勉強した。 また、1845年にドレスデンに移ったときにもバッハのオルガン曲を研究するためにピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたペダルピアノを導入している。 デュッセルドルフ時代の1853年には、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全6曲と無伴奏チェロ組曲全6曲のピアノ伴奏部を作曲しているなど、折に触れてバッハ作品に立ち戻った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "ベートーヴェンに関しては、6歳のころからピアノ作品に親しんでおり、1825年ごろからはピアノ連弾で交響曲第3番「英雄」を演奏していた。 1828年からはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でベートーヴェンの交響曲に接しており、ベートーヴェンの9曲の交響曲の総譜のほか、弦楽四重奏曲(大フーガを除く全曲)、『ミサ・ソレムニス』、歌劇『フィデリオ』、ピアノ協奏曲第1番、同第4番、同第5番、レオノーレ序曲第1番 - 同第3番、コリオラン序曲、エグモント序曲、献堂式序曲、ピアノ三重奏曲第7番「大公」、七重奏曲、ピアノソナタ全曲、『歌唱・ヴァイオリン・チェロ・ピアノのための25のスコットランド民謡集』の楽譜を所有していた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "シューマンの『幻想曲』(作品17)では、ベートーヴェンの歌曲集『遥かなる恋人に』から「恋人よ、あなたのために歌うこのメロディーを受け取って下さい」の箇所が引用されていることで知られる。 このほか、『子供のためのアルバム』(作品68)の第2曲「兵士の行進」にベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第5番「春」のスケルツォ楽章との類似が見られ、パロディーと考えられる。ピアノソナタ第2番(作品22)の終楽章でもベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」の終楽章を意識したと考えられている。もっとも引用が明確なのは『謝肉祭』(作品10)の終曲「ダヴィッド同盟員の行進」で、ここではベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のフィナーレからの引用がはっきりと聴き取れる。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "シューベルトについては、ライプツィヒに来て間もないころから友人たちと室内楽を演奏する際のお気に入りがピアノ三重奏曲第1番だった。シューマンはこのころからシューベルトに特別な親近感を抱き、「私だけのシューベルト」などと述べており、1828年11月、シューベルトの死去が報じられたときには夜通し泣いたという。 1829年5月からのハイデルベルク滞在中も、ピアノでもっとも多く演奏したのがシューベルト作品で、この時期に弾いたベートーヴェン作品はピアノ独奏曲ではなく室内楽曲が3曲のみだった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "シューマンは1838年秋からウィーンに滞在してシューベルトの交響曲第8番を発見し、1839年3月にメンデルスゾーンの指揮により初演された。このことは、1841年に交響曲第1番「春」が書かれたことと密接に関わっている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "シューマンの日記にエクトル・ベルリオーズ(1803年 - 1869年)の名前が初めて登場するのは1834年5月末である。1836年6月23日付の手紙では、自作のピアノソナタ第1番(作品11)をベルリオーズに送っている。ベルリオーズはこれに対し、序曲『宗教裁判官』(作品3)のスコアをシューマンに送った。序曲『宗教裁判官』は、シューマンが四手ピアノ版に編曲しており、これを同年3月の「新音楽時報」で紹介していた。 ベルリオーズの音楽は、その想像力、燃え上がる幻想、情熱の激しさによってシューマンを圧倒し、シューマンは彼を「ダヴィッド同盟」の一員と見なしていた。 とくに『幻想交響曲』をベートーヴェンの後継的な価値ある作品と位置づけ、ベルリオーズの管弦楽法を詳細に研究し、彼の音楽の「フモール」を高く評価した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "1843年1月、ベルリオーズはライプツィヒを訪れ、初めてシューマンと会った。滞在中、二人はたびたび食事し、顔を合わせた。しかしベルリオーズはピアノを好まず、シューマンの多くのピアノ作品になじめなかったという。 またクララは1839年2月にパリに演奏旅行しており、ベルリオーズに会ったが、よい印象を抱かなかった。 メンデルスゾーンもまたベルリオーズに批判的であり、シューマンのベルリオーズ評価は彼らとの議論や口論の原因ともなった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "フェリックス・メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)に対しては、シューマンはその才能を畏敬の念を持って眺め、「19世紀のモーツァルト」と呼んだ。 1835年8月にライプツィヒで会って以降、二人の交際はメンデルスゾーンの死まで続いた。 一般的には、この二人の関係はシューマン側からの一方的・無制限の尊敬、メンデルスゾーン側からは適当な距離を置いた敬意及び度重なる援助と支持という形で了解されている。しかし、子細に見れば、シューマンのメンデルスゾーンへの態度は無条件の賛美ではなく、メンデルスゾーンの表現の過剰への反発や解釈上の衝突などが含まれていた。シューマンはメンデルスゾーンが指揮したベートーヴェンの第9交響曲について、第1楽章のテンポが速すぎると苦情を述べており、メンデルスゾーンの音楽の未来性については、回想録に次のように記している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "同年生まれのフレデリック・ショパン(1810年 - 1849年)を、シューマンは1831年に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」として紹介した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "これはシューマンが発表した初めての評論である。ショパンは1835年10月にライプツィヒを訪れ、シューマンはショパンの演奏を聴いて「新音楽時報」で報告した。その後も1836年から1842年までの間に、ショパンが出版したピアノ曲の大部分を「新音楽時報」で紹介した。シューマンはショパンをパリで最高のピアニストであり、作曲家だと考えていた。ショパンに大曲がないことを嘆き、当初はさらに広範で深みのある音楽を期待していたが、やがてその望みは叶わないだろうと落胆した。ショパンのピアノソナタ第2番(作品35)については全面的には支持せず、とくに終楽章については「これは音楽ではない」と述べている。一方のショパンは、シューマンの音楽にも批評にもほとんど無関心であり、たまに手紙でシューマンに触れることがあっても綴りを間違えたりした。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "シューマンとフランツ・リストとの関係は複雑なものだった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "リストはシューマンをいち早く評価したひとりで、シューマンと共通する音楽観に立ってシューマンの詩的な音楽の理念を支持した。シューマンもリストも「詩的」という言葉を好んだが、二人においてこの言葉の意味するところは微妙に違っており、リストの場合はより標題音楽的な指向が強かった。 リストはまた、シューマンの変奏技巧の巧みさにも着目していて、変奏曲に関してはベートーヴェンの後継者だと位置づけていた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "リストはシューマンの作品の成長発展に深い影響を及ぼした。シューマンは自作をすべてリストに送って助言を求め、リストがコンサートでシューマンの曲を演奏することに感謝していた。リストはいずれシューマンにとってピアノはあまりにも物足りなくなると見抜き、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めている。シューマンが室内楽曲の分野に足を踏み入れたのは1842年である。こうした経緯から、1840年に初めてリストに会ったシューマンは、「お互いに20年来の知己のように思えた」と語っている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "しかし一方で、シューマンはリストの成金趣味や上流階級志向に困惑を覚えた。 また、メンデルスゾーンによればリストは「スキャンダルと音楽的理想像との間を往復し続ける人物」であり、シューマンの妻クララはリストを「ピアノの粉砕者」と呼んでいた。シューマンはリストのあまりに華やかな個性に次第に耐えられなくなっていった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "シューマンのドレスデン時代、1848年6月に二人の間に有名な諍いが起こっている。グスタフ・ヤンゼンの伝えるところによれば、リストがシューマン夫妻を突然訪問することになり、シューマンはリストを迎えるために音楽付きの晩餐会を準備した。しかしリストは約束の時刻から2時間も遅れてやってきた。音楽家たちがシューマンのピアノ四重奏曲を演奏すると、リストは「いかにも『ライプツィヒ流儀』だね」と評し、晩餐会は気まずい雰囲気となった。やがてメンデルスゾーンとマイアベーアの功績について議論が始まると、リストはマイアベーアを賞賛してメンデルスゾーンを批判した。メンデルスゾーンは前年11月に世を去っており、怒りを爆発させたシューマンはリストの両肩をつかみ、「メンデルスゾーンのような音楽家をそんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫んで部屋を出て行った。リストはクララに向き直り、「彼は私にきついことをいわれましたが、彼は、私がそうした言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」と言った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "ウォーカーは、この事件をライプツィヒとヴァイマルのほぼ20年間にわたる音楽界のライヴァル同士の争いの発端ともいえるものだったとしている。リストは1848年にヴァイマルに居を定め、この地を新しい音楽の拠点にしようとしていた。古典主義的理想を信じ、交響曲を守ろうとしたシューマンに対し、リストは標題に基づく交響詩を考案し、ワーグナーとともに「芸術の総合」を唱えるようになっていった。このような文化的分裂は、後のブラームスとワーグナーをそれぞれの理論的頭目とする「ロマン派時代の大抗争」へと発展していく。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "後にシューマンは長い手紙を書いてリストに送ってこの件を水に流した。手紙の最後は「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と結ばれている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "事件後もリストはヴァイマルでシューマンの作品を指揮とピアノの両面にわたって積極的に取り上げている。『ゲーテのファウストからの情景』第3部、『メッシーナの花嫁』序曲、劇付随音楽『マンフレッド』抜粋、交響曲第4番、ピアノ協奏曲、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュックなどである。",
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"text": "リヒャルト・ワーグナーはライプツィヒの生まれであり、シューマンとの知己はワーグナーがまだ10歳代の1831年からである。 後にワーグナーはドレスデンの宮廷歌劇場の指揮者を務め、シューマンがドレスデンに移ったことで再会するが、この二人が打ち解けることはなかった。 シューマンが交誼を結んだフェルディナント・ヒラーの集いで二人は再三顔を合わせたものの、シューマンはワーグナーのオペラが好きになれず、マイアベーアの影響下にあって、イタリア趣味に毒されていると判断した。また、「彼(ワーグナー)のおしゃべりの才能には呆れてしまう。彼の頭の中は、いつも自分の考えでいっぱいなのだ」と語った。これに対してワーグナーは「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができないのだ」と非難し、シューマンの傷つきやすい性格を「行かず後家」と称して嘲笑した。",
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"text": "ワーグナーのオペラ『タンホイザー』については、シューマンは故意に沈黙を守った。 1845年10月に『タンホイザー』に接したシューマンは、2年後の1847年8月7日に次のように記した。",
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"text": "しかし、シューマンの詳細な評論は最後まで保留された。",
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"text": "シューマンのこのような態度は、後のブラームスのワーグナーに対する態度に通じるものがある。ブラームスはワーグナーに終始距離を置いていたが、ワーグナーのブラームスに対する態度に比較すれば、ずっと公平なものだった。ブラームスはウィーンからヨアヒムに宛てた手紙に、「いまワーグナーが当地にいる。そして僕はワグネリアンということになるだろう。もちろんこれは矛盾だが、当地の音楽家が彼に反対する軽率な仕方をみると、思慮ある人間としてはこの矛盾もあえて冒したくなるのだ」(1862年12月29日)と書いている。",
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"text": "ロベルト・シューマンが演奏した楽器として非常によく知られているのは、コンラート・グラーフのグランドピアノである。このピアノは、1839年にロベルトとクララが結婚した際、ピアノ製作者から贈られた物だった。この楽器はデュッセルドルフのシューマンの仕事場に置かれ、後にクララ・シューマンからヨハネス・ブラームスに譲渡された。そして何箇所かに移送された後に楽友協会が受け取り、現在はウィーンの美術史美術館に展示されている。",
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"text": "(以下は門馬直美著『シューマン』に基づく。)",
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ロベルト・アレクサンダー・シューマンは、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。に基づきローベルト・シューマンと表記されることもある。 ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。
とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。
|
{{別人|ロベール・シューマン|x1=フランスの政治家}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = ロベルト・シューマン<br />Robert Schumann
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| Img_capt = [[アドルフ・フォン・メンツェル]](1815年 - 1905年)による肖像画
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| Birth_name = ロベルト・アレクサンダー・シューマン<br/>Robert Alexander Schumann
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| School_background = <!-- 個人のみ -->
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| Died = {{死亡年月日と没年齢|1810|6|8|1856|7|29}}<br/>{{PRU1803}}、{{仮リンク|エンデニヒ|de|Endenich}}
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'''ロベルト・アレクサンダー・シューマン'''({{Lang-de|Robert Alexander Schumann}}, [[1810年]][[6月8日]] - [[1856年]][[7月29日]])は、[[ドイツ]]・[[ロマン派音楽|ロマン派]]を代表する[[作曲家]]{{sfn|門馬|2003|pp=7–10}}{{efn|日本の作曲家、[[池辺晋一郎]]はシューマンをロマン派時代の最もロマン的な作曲家としている{{sfn|池辺|2010|p=2}}。}}。{{IPA-de|ˈroːbɛrt}}<ref>{{Cite book | title =[[Duden]] Das Aussprachewörterbuch | publisher = Dudenverlag | edition = 6 | page = 681 | isbn =978-3-411-04066-7}}</ref>に基づき'''ローベルト・シューマン'''と表記されることもある。
[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[音楽]]のロマン的後継者として位置づけられ、[[交響曲]]から[[合唱]]曲まで幅広い分野で作品を残した{{sfn|前田|1983|pp=22–25}}{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}。
とくに[[ピアノ曲]]と[[歌曲]]において評価が高い{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}{{sfn|前田|1983|pp=1–8}}。
== 概説 ==
[[ツヴィッカウ]]の裕福な家庭に生まれ、[[ライプツィヒ大学]]の法科に進むも、[[ピアニスト]]をめざして[[フリードリヒ・ヴィーク]](1785年 - 1873年)に師事する。しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となる。ヴィークの娘でピアニストの[[クララ・シューマン|クララ]](1819年 - 1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼした。[[文学]]への造詣も深く、1834年に「[[新音楽時報]]」の創刊に携わり、以後10年間にわたって[[音楽評論家|音楽評論]]活動を行う。このころから[[精神障害]]の症状に悩まされるようになる。1844年に[[ライプツィヒ]]から[[ドレスデン]]へ、1850年に[[デュッセルドルフ]]へと移住して[[指揮者]]としても活動する。この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残した。1853年に[[ヨハネス・ブラームス]](1833年 - 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年に[[ライン川]]に投身自殺を図る。救助されたシューマンは[[ボン]]近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去した{{sfn|前田|1995|pp=8–16}}。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
==== 幼年時代(1810年-1820年) ====
[[ファイル:August Schumann.jpg|thumb|upright|ロベルトの父、アウグスト・シューマン(1773年 - 1826年)]]
1810年6月8日、[[プロイセン王国]]の[[ツヴィッカウ]]で書籍販売・出版業を営んでいたアウグスト・シューマン(1773年 - 1826年)とその妻ヨハンナ(1767年 - 1836年)との子として生まれる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=9–10}}{{sfn|門馬|2003|pp=7–10}}{{sfn|藤本|2008|pp=8–12}}。6月14日に自宅で洗礼を受け、市の書記官と郵便局長が代父を、商人ルッピウスの妻が代母を務めた{{sfn|藤本|2008|pp=8–12}}。ツヴィッカウは2年後にザクセン王国の一部となる{{sfn|藤本|2008|pp=8–12}}。
シューマンは5人兄弟の末子であり、兄3人、姉1人があった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=9–10}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=39–42}}{{sfn|門馬|2003|pp=10–15}}。
[[ファイル:Zwickau Robert Schumann Birth House.jpg|thumb|left|シューマンの生家([[ツヴィッカウ]]、現シューマン博物館)]]
シューマンの両親はもともと南の[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]地方の出身であり{{sfn|門馬|2003|pp=7–10}}、
シューマンの父方の祖父フリードリヒ・ゴットロープ・シューマンは、[[ライプツィヒ]]の南、[[ゲーラ]]近くのエントシュッツ地区の[[牧師]]だった{{sfn|ブリオン|1984|pp=39–42}}{{sfn|門馬|2003|pp=10–15}}{{sfn|藤本|2008|pp=8–12}}。
シューマンの父アウグストは、文学者を志し[[ライプツィヒ大学]]に学んだ{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}。1795年に[[ツァイツ]]([[:de:Zeitz]])の外科医の娘ヨハンナ・シュナーベルと結婚{{efn|[[日本]]の[[音楽学者]]、[[前田昭雄]](1935年 - )はヨハンナの母(シューマンの祖母)がドイツの文豪[[ゴットホルト・エフライム・レッシング]](1729-1781)の家から出ており、シューマンの文学的素養と才能は父母双方から受け継いだと述べている{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}。}}、1799年に[[ロンネブルク]]で書店を開業し、1807年にツヴィッカウに移った。ツヴィッカウでは書店に併せて出版社を設立し、[[ウォルター・スコット|スコット]]や[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]の翻訳全集などを出版した。アウグスト自身も[[中世]]の[[騎士]]や[[修道士]]を題材にした物語を書き、商業的な論文や雑誌の編集もこなした。事業に成功したアウグストは土地の名士となっていた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=9–10}}{{sfn|オルタイル|1986|p=308}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=39–42}}{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}{{sfn|門馬|2003|pp=7–10}}{{sfn|門馬|2003|pp=10–15}}。アウグストは非常に温厚で誠実な人柄であったとされており、シューマンが音楽の道を志すことも心から賛成していた{{sfn|藤本|2008|pp=8–12}}。
シューマンの母ヨハンナは、外科医・軍医だったアブラハム・G・シュナーベルの長女として生まれ、彼女は短い[[詩]]を書いたり、[[ピアノ]]で軽い旋律を弾いたりした{{sfn|ブリオン|1984|pp=39–42}}{{sfn|藤本|2008|pp=8–12}}。シューマンの四女オイゲーニエによれば、ヨハンナは歌を歌い、アウグストは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[アリア]]をヨハンナに覚えさせたという{{sfn|ブリオン|1984|p=112}}。
シューマンの友人でヴァイオリニストの[[ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァジェレフスキ|ヴァジェレフスキ]]([[:de:Wilhelm Joseph von Wasielewski]], 1822年 - 1896年)が1858年に出版したシューマンの最初の伝記によれば、ヨハンナは魅力的で知的だったが広い教養はなく、視野が狭かったとされる。その他の伝記では、現実的な性格として描かれている{{sfn|門馬|2003|pp=10–15}}。
[[ファイル:Ignaz Moscheles by Godefroy Engelmann.jpg|thumb|upright|[[イグナーツ・モシェレス]](1794年 - 1870年)]]
シューマンは3歳から5歳の間、代母であるエレオノーレ・ルッピウス夫人のもとに預けられ養育された{{sfn|藤本|2008|pp=12–14}}{{efn|この幼い時に母親の元を離れて育ったことが、後の精神的な不安定さのきっかけとなったと指摘する学者もいる{{sfn|藤本|2008|pp=12–14}}。}}。
両親はシューマンのために住み込みの家庭教師を雇い、シューマンは6歳から4年間、私立の初等予備学校で学んだ{{sfn|ウォーカー|1986|pp=10–11}}{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}{{sfn|藤本|2008|pp=12–14}}。
シューマンは7歳のときに父アウグストに連れられて[[ドレスデン]]に行き、[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]指揮による[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲]]を聴いて感動している。シューマンはこのころからピアノで小さな舞曲を作曲し、周囲の注目を集めるようになった{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}。さらに1819年夏、9歳のときに父同伴で[[ボヘミア]]の[[カルロヴィ・ヴァリ|カールスバート]]に出かけ、[[イグナーツ・モシェレス]](1794年-1870年)のピアノ・リサイタルを聴いて圧倒的な感銘を受けた。この体験は、シューマンがピアニストを目指すきっかけとなった{{sfn|ウォーカー|1986|p=12}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=126–129}}{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}{{efn|後年、1851年11月にモシェレスからチェロソナタを献呈され、その返礼の手紙にシューマンは少年時代に接したモシェレスの演奏会のプログラムを30年以上経っても大事に持っていることを述べている{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}。}}。
また、この年には[[ライプツィヒ]]で初めての[[オペラ]]、モーツァルトの『[[魔笛]]』に接した。これにもシューマンは強烈な刺激を覚え、モーツァルトのオペラからの抜粋をピアノ用に編曲している{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}。
==== ギムナジウム時代(1820年-1828年) ====
[[ファイル:Robert-Schumann-Haus.JPG|thumb|left|シューマンの生家にある音楽室(現シューマン博物館)]]
1820年3月、シューマンは10歳で[[ツヴィッカウ]]の[[ギムナジウム]]に入学した{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}{{sfn|藤本|2008|pp=14}}。
シューマンに[[ピアノ]]を手ほどきしたのは、聖マリア教会のオルガニストを勤めていたヨハン・ゴットフリート・クンチュ(1775年 - 1855年)である{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}。クンチュは高度な音楽知識や技能は持っていなかったが、シューマンの音楽に対する情熱を育てた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=10–11}}{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}。シューマンは後に、クンチュについて「(クンチュ)先生は私の音楽的才能を認め、いずれは私の天性がおもむくことになった音楽の道を示唆して下さった唯一の方です」と述べている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=10–11}}。
クンチュの指導の下、シューマンは友人で同じくクンチュの弟子だったフリードリヒ・ピルツィングとともに[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]らの[[管弦楽曲]]をピアノ連弾用に編曲して練習した{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}。
父アウグストはシューマンの音楽的才能を認めて高価な[[ナネッテ・シュトライヒャー|シュトライヒャー]]のピアノを買い与え{{sfn|ウォーカー|1986|pp=10–11}}、シューマンはピアノを何時間も即興的に弾いた{{sfn|オルタイル|1986|pp=310–311}}。
シューマンはギムナジウムで開かれた校内演奏会に出演し、難曲として知られる[[イグナーツ・モシェレス|モシェレス]]の『アレクサンダー変奏曲』を弾いた{{sfn|ウォーカー|1986|p=12}}。また、[[オーケストラ]]や合唱を組織して詩や音楽の発表会などを主催した{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}。
両親は、シューマンが友人たちと編成した小さなオーケストラのために、総譜や譜面台など必要な用具のすべてを寄贈するなど、シューマンの活動を支援した{{sfn|ブリオン|1984|p=112}}。
こうしたもとでシューマンは[[作曲]]を始め、1821年、11歳のときに合唱と管弦楽のための[[オラトリオ]]『詩篇第150番』を作曲したのをはじめ、ピアノで即興的に[[幻想曲]]や[[変奏曲]]を作っては家族に聴かせるようになった。しかし、この時代の作品はほとんど失われている{{sfn|ウォーカー|1986|p=11}}{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}{{sfn|門馬|2003|pp=15–20}}。
父アウグストはシューマンが音楽的才能を発揮することを喜び、シューマンが15歳のときに[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]に手紙を書き、息子を弟子にしてもらえないかと頼んだ。しかし返事はなく、ウェーバーは翌1826年6月に死去する{{sfn|ウォーカー|1986|pp=16–17}}{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}{{sfn|門馬|2003|pp=20–24}}。その2ヶ月後の8月にはアウグストも世を去った。父の死の数週間前には、姉のエミーリエが29歳で入水自殺していた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=16–17}}{{sfn|門馬|2003|pp=20–24}}{{efn|ウォーカーによれば、エミーリエの自殺は幼いころからの皮膚病による憂鬱症のためであり、アウグストは娘を亡くした衝撃から立ち直れなかった。この事件はシューマンの性格に終生影響を残し、彼は死や葬式などについて考えることすらできなくなったとする{{sfn|ウォーカー|1986|pp=16–17}}。}}。
ギムナジウム在学中、シューマンはツヴィッカウで父アウグストと親交のあった郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルや製造業者カール・エルトマン・カールス(1780年 - 1842年)などの私邸で開かれる音楽会や[[サロン]]に迎えられた{{sfn|門馬|2003|pp=20–24}}{{efn|なお、日本の[[音楽評論家]]、[[門馬直美]](1924年 - 2001年)は郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルの家で催される室内楽の夕べにおいて、シューマンが[[プロイセン]]王子[[ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1772-1806)|ルイ・フェルディナント]](1772年 - 1806年)とモーツァルトの四重奏曲に親しんだとするが、年代が合わない。}}。
カールス家でしばしば開かれた室内楽音楽会では、1827年にカールスの甥で[[コルディッツ]]([[:de:Colditz]])の医師エルンスト・カールスとその妻アグネス(1802年 - 1839年)と知り合う。8歳年上のアグネスは容姿端麗な歌手で、シューマンは[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[歌曲]]のピアノ伴奏を引き受けるなどするうちに彼女に魅せられ、夏休みの間、アグネスについてコルディッツまで行き、そこでまた音楽をともにするほどであった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=14–15}}{{sfn|門馬|2003|pp=20–24}}。
シューマンはこの時期、アグネス以外にもナンニ・ペッチュ、リディ・ヘンペルという二人の少女と交際しており、ほとんど同時進行で恋愛を楽しんでいた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=14–15}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=93–101}}{{sfn|門馬|2003|pp=24–30}}。またシューマンは、このころから[[シャンパン]]や[[葉巻きたばこ]]を嗜むようになった{{sfn|門馬|2003|pp=24–30}}。
[[ファイル:Jean Paul by Friedrich Meier 1810.jpg|thumb|upright|[[ジャン・パウル]](1763年 - 1825年)]]
一方、シューマンは[[文学]]にも情熱を燃やした{{sfn|ウォーカー|1986|pp=12–13}}{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}。
シューマンは早くから父アウグストの編集を手伝いながら古今の文学書に親しみ、[[詩]]や[[戯曲]]を書くようになった。13歳のときには父が刊行する雑誌に短文を寄稿し、1828年にはシューマンの詩が[[ドレスデン]]の夕刊紙に掲載された{{sfn|ブリオン|1984|pp=39–42}}{{sfn|門馬|2003|pp=24–30}}。
ギムナジウムでは15歳で「[[ドイツ文学]]」サークルに入り、リーダー的存在となる。このサークルを通じてシューマンは[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック|クロプシュトック]]、[[フリードリヒ・ヘルダーリン|ヘルダーリン]]、[[E.T.A.ホフマン|ホフマン]]らの作品に親しみ、とくにシラーとゲーテは彼にとって偶像的存在となった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=12–13}}{{sfn|門馬|2003|pp=24–30}}。
とりわけシューマンに大きな影響を与えたのは、ドイツ・[[ロマン主義|ロマン派]]の作家[[ジャン・パウル]](1763年 - 1825年)である。ジャン・パウルの空想に満ちた文学的スタイルにシューマンが魅了されたのは1827年ごろで、父アウグストもジャン・パウルを愛読していた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=12–13}}{{sfn|門馬|2003|pp=24–30}}{{efn|[[門馬直美]]は1826年の姉と父の死もシューマンのジャン・パウルへの傾倒に関係があるとしている。}}。
『[[巨人 (小説)|巨人]]』、『[[生意気ざかり]]』、『[[見えない少舎]]』、『[[宵の明星 (小説)|宵の明星]]』などのジャン・パウル作品をシューマンは精読し、傾倒のあまり、自分より傾倒の度合いの少ないものを敵対者と見なしかねないほどだった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=12–13}}{{sfn|門馬|2003|pp=24–30}}。
また、[[ホメーロス]]、[[ソポクレス]]、[[ホラティウス]]、[[プラトン]]、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]、[[タキトゥス]]などの[[古典]]や[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]などの外国作品にも接しており、後にシューマンが音楽評論で見せることになる対話体の手法は、プラトンによるところが大きいとされる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=12–13}}{{sfn|門馬|2003|pp=24–30}}。
==== 大学時代(1828年 - 1830年) ====
[[ファイル:Giere - Heine.jpg|thumb|upright|[[ハインリヒ・ハイネ]](1797年 - 1856年)]]
1828年3月に[[ツヴィッカウ]]の[[ギムナジウム]]を優等で卒業したシューマンは、友人エミール・フレクシヒ(1808年 - 1878年)に宛てた手紙に次のように書いた{{sfn|ウォーカー|1986|p=15}}{{sfn|門馬|2003|pp=30–36}}。
{{Quotation|「学校はいまや背後となり、眼前には世間が広がっている。これで学生生活も終わりだと思うと涙を禁じ得ない。とはいえ、悲しみよりも喜びの方が大きい。今こそ、真実の魂が前へ進み出て、その何たるかを世に示す時である」|1828年3月18日付、友人フレクシヒに宛てたシューマンの手紙{{sfn|ウォーカー|1986|pp=16–17}}}}
シューマンは[[ライプツィヒ大学]]法科に進学した。これは、シューマンの母ヨハンナの意向および父アウグストの遺産を管理しシューマンの後見人を務めたゴットロープ・ルーデル(1776年 - 1859年)の勧めに従ったものだった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=16–17}}{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}{{sfn|門馬|2003|pp=30–36}}{{efn|父親の遺産のうちシューマンの受領分は、資本金の利息から年200ターラー(1ターラーは現在のおよそ300円)および、試験などのたびに100ターラーが支給されるというものだった{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。}}。
同じライプツィヒ大学の神学科に進んでいたフレクシヒおよび法科のモーリッツ・ゼンメル(1807年 - 1874年)と同居生活を送ることになったシューマンは、ゼンメルの紹介でギスベルト・ローゼン(1808年 - 1876年)と知り合う。ローゼンは[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に転校することになっていたが、[[ジャン・パウル]]の崇拝者であり、シューマンとたちまち意気投合した。4月、シューマンはローゼンをツヴィッカウに招き、5月の新学期を前に二人で[[バイエルン王国]]への旅に出た。[[バイロイト]]、[[レーゲンスブルク]]、[[アウクスブルク]]、[[ニュルンベルク]]、[[ミュンヘン]]を訪れ、バイロイトではジャン・パウルの未亡人ロルヴェンツェルからジャン・パウルの肖像画を譲り受けた。ミュンヘンでは詩人の[[ハインリヒ・ハイネ]](1797年 - 1856年)に会っている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=17–18}}{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}{{sfn|門馬|2003|pp=24–30}}。
ハイネの印象について、シューマンは「ハイネは、人情味のあるギリシャの[[アナクレオン]]のように、ぼくを親しげに迎えてくれ、友情を込めて僕の手をしっかりと握ってくれました。(中略)ただ彼の口元には、辛辣で皮肉な微笑がありましたが」と書いている{{sfn|門馬|2003|pp=30–36}}。
5月から学生生活が始まり、[[法律]]の勉強に取り組もうとしたシューマンだったが、大学の講義への出席率は次第に低下していった。シューマンは母親への手紙に、冷徹な法学を好きになれないと書き送っている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=17–18}}{{sfn|門馬|2003|pp=36–47}}。ライプツィヒの周辺には故郷のツヴィッカウのように森や野の自然がなかったことも失望につながった{{sfn|ブリオン|1984|pp=102–108}}。
シューマンはピアノを入手し、学生仲間の中から[[弦楽器]]奏者を見つけて[[室内楽]]の演奏に熱中するようになった。このころ彼らが好んで取り組んだのは[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[ピアノ三重奏曲第1番 (シューベルト)|ピアノ三重奏曲第1番]]だった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=17–18}}{{sfn|門馬|2003|pp=36–47}}。
また、1827年に死去した[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]を記念して、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]がベートーヴェンの[[交響曲]]全曲演奏会を催し、シューマンはこれを聞いて強い印象を受けた{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}。[[聖トーマス教会]]の礼拝では[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[教会カンタータ|カンタータ]]などを聞いた{{sfn|ブリオン|1984|pp=109–111}}。
このころの習作として、[[歌曲]]や連弾のための8つの[[ポロネーズ]]、ハ短調の[[ピアノ四重奏曲]]などが試みられている。とくにピアノ四重奏曲は交響曲へ改作しようとした形跡も見られる{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}。
{{multiple image | align = right | direction = horizontal | header_align = center | footer_align = left | footer_background = | image1 = Friedrich Wieck age 45.jpg | width1 = 150 | caption1 = {{Center| [[フリードリヒ・ヴィーク]](45歳、1830年ごろ)}} | image2 = Clara Schumann (Zeichnung 1830er).jpg | width2 = 150 | caption2 = {{Center| [[クララ・シューマン|クララ・ヴィーク]](1830年)}} }}
ツヴィッカウで交流のあったアグネス・カールスの夫エルンストが1828年からライプツィヒ大学の医学教授となったことにより、シューマンはライプツィヒでカールス家と再会する{{sfn|ブリオン|1984|pp=109–111}}。
カールス家で催された音楽会で、シューマンはピアノ教師の[[フリードリヒ・ヴィーク]](1785年 - 1873年)とその娘の[[クララ・シューマン|クララ]](1819年 - 1896年)、[[ライプツィヒ歌劇場]][[指揮者]]の[[ハインリヒ・マルシュナー]](1795年 - 1861年)、楽譜出版商ホフマイスター([[:de:Friedrich Hofmeister]], 1782年 - 1864年)らと出会った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=17–18}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=46–50}}{{sfn|前田|1995|pp=8–9}}{{sfn|門馬|2003|pp=36–47}}{{sfn|門馬|2003|pp=7–12}}。
ヴィークのピアノ授業料は高く、その指導は厳格な上に過酷、残忍とまでの評判を取っていたが、シューマンは母親に手紙を書いて許可をもらい、ヴィークにレッスンを申し込んで承諾された{{sfn|ウォーカー|1986|pp=17–18}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=112–113}}。娘のクララは当時9歳で、シューマンの前で[[ヨハン・ネポムク・フンメル|フンメル]]のピアノ三重奏曲のピアノを担当し、シューマンによると「驚くほど巧みに」演奏した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=17–18}}。クララはこの年の10月20日にエルネスティーネ・ペルトハーラーの演奏会に賛助出演して音楽界デビューを果たす{{sfn|門馬|2003|pp=51–54}}。
こうしてシューマンは1828年の夏ごろからヴィークにピアノを師事し、クララとも親しくなった{{sfn|門馬|2003|pp=67–71}}。
同じころ、シューマンはカールスの友人で[[ブラウンシュヴァイク]]の楽長ゴットロープ・ヴィーデバイン(1779年 - 1854年)に自作の曲を送り、助言を頼んだ。ヴィーデバインからは、シューマンには天性多くのものがあるが、専門技術と音楽的要素の用い方がいまだ不十分との返事が来た。シューマンは1828年8月5日付のヴィーデバインに宛てた手紙に、「いまや作曲法の研究に取りかかるべきときと存じます。―私は、勇気を出して、楽音のオデオン(大劇場)へ上る階段に足を踏み入れたいと存じます」と感謝と決意を綴っている{{sfn|ブリオン|1984|pp=109–111}}。
友人ローゼンからの手紙を読んだシューマンは[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]への転校を思い立ち、後見人のルーデルに相談して賛同を得た{{sfn|ウォーカー|1986|pp=19–20}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=117–120}}。当時ハイデルベルク大学には[[アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー|ティボー]](1772年 - 1840年)やミッテルマイアー([[:de:Carl Joseph Anton Mittermaier]], 1787年 - 1867年)ら高名な法科教授がおり{{sfn|ブリオン|1984|pp=121–124}}、彼らの講義を聴くというのがシューマンの転校理由だった。しかし、実際のところシューマンは早朝からピアノに向かっており、頭の中に法律はすでになかった{{sfn|門馬|2003|pp=71–78}}。また、ティボー教授が音楽サークルを指導しており、『音楽芸術の純粋性について』という著書もあることへの期待もあった{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}{{efn|前田は、加えてアグネス・カールスに対する強い慕情のための「前方への逃走」の意味もあったとしている{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}。}}。
友人のゼンメルはシューマンに法律か音楽かどちらかを選ぶよう忠告したが、シューマンはこのときは決定できなかった{{sfn|門馬|2003|pp=71–78}}。
[[ファイル:Assmannshausen Hoellenberg.jpg|thumb|[[ライン川]]と[[ラインガウ]]の谷]]
1829年5月、ツヴィッカウに戻ったシューマンは、[[ハイデルベルク]]に向かう旅で南ドイツを回った。[[マイン川]]および[[ライン川]]沿いを馬車で下り、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]、[[マインツ]]、[[コブレンツ]]などを経由して5月21日にハイデルベルクに到着した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=19–20}}{{sfn|門馬|2003|pp=67–71}}。このとき初めてライン川を見たシューマンは感銘を受け、母親に宛てて次のように書き送っている{{sfn|ブリオン|1984|pp=117–120}}。
{{Quotation|「老いて堂々とした父なるラインの初めて見せる光景を、冷静な心全体で受け止めることができるように、ぼくは目を閉じました。それから目を開いてみますと、ライン川はぼくの前に古いドイツの神のようにゆったりと、音も立てず、厳粛に、誇らしげに横たわり、それとともに、山や、谷のすべてがぶどうの楽園である、花が咲き緑なす[[ラインガウ]]のすばらしい全景が広がっていたのです」|1829年5月、母ヨハンナに宛てたシューマンの手紙{{sfn|ブリオン|1984|pp=117–120}}}}
この旅行では、当時ベストセラー作家だったヴィリバルト・アレクシス(本名ゲオルク・ヴィルヘルム・ヘーリング、1798年 - 1871年)と意気投合し、コブレンツまで同行した。フランクフルトでは、ベートーヴェンの弟子だった[[フェルディナント・リース]](1784年 - 1838年)に会い、イギリス人のリース夫人に魅せられている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=19–20}}{{sfn|門馬|2003|pp=67–71}}。
同年の夏から秋にかけて、シューマンは再び旅行に出かけ、[[スイス]]と北[[イタリア]]を訪れた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=22–23}}{{sfn|門馬|2003|pp=71–78}}。[[ミラノ]]・[[スカラ座]]では[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]のオペラを聴いた{{sfn|ブリオン|1984|pp=125–126}}。旅行中、シューマンは持ち金を使い果たし、旅先から後見人に送金を催促する手紙を頻繁に出し、ミラノでは借金をしている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=22–23}}{{sfn|門馬|2003|pp=71–78}}。
[[ファイル:Anton Friedrich Justus Thibaut.jpg|thumb|upright|[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]の法科教授、[[アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー]](1772年 - 1840年)]]
ハイデルベルク大学のティボー教授は法律学の権威であるとともに熱心なアマチュア音楽家だった。彼は合唱団「ジングフェライン」を組織し、自宅では毎週木曜日の夕方に音楽会が開かれていた。ティボーは自らピアノを弾いて[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の[[オラトリオ]]を演奏した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=19–23}}{{sfn|門馬|2003|pp=71–78}}。シューマンの手紙によるとティボーは、神はシューマンに法律家としての運命を与えていないという見解を示し、シューマンは自分の時間をほとんど音楽に充てるようになった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=19–24}}。
シューマンのピアニストとしての評判はハイデルベルクの外にまでおよび、[[バーデン (領邦)|バーデン]][[大公]]妃[[ステファニー・ド・ボアルネ|ステファニー]](1789年 - 1860年)に招かれて[[マンハイム]]で演奏するほどだった{{sfn|ブリオン|1984|p=125}}{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。
こうした時期に、作品1の『[[アベッグ変奏曲]]』が完成している{{sfn|ウォーカー|1986|p=23}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=144–145}}{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。
ハイデルベルクでシューマンはシャンパンや葉巻きたばこを楽しむだけでなく、[[居酒屋]]や[[レストラン]]を飲み歩き、[[ダンスパーティー]]や[[謝肉祭|カーニバル]]の[[仮装]]大会などにも顔を出して地元の娘たちからも好かれた。彼は手紙で「ハイデルベルクの人気者」になったと自慢している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=22–23}}{{sfn|オルタイル|1986|pp=316–317}}。同時に浪費癖が目立つようになり、家族や後見人、友人にも金を無心する手紙を書いている{{sfn|門馬|2003|pp=67–71}}。
[[ファイル:Kersting - Der Geiger Nicolo Paganini.jpg|thumb|upright|left|1830年頃の[[ニコロ・パガニーニ]](1782年 - 1840年)]]
1830年4月、友人たちと[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]に出かけたシューマンは、[[ニコロ・パガニーニ]](1782年 - 1840年)の[[ヴァイオリン]]演奏を聴いて決定的な影響を受けた。彼は母ヨハンナに宛てて自分の決意を打ち明けた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=24–25}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=126–129}}{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。
{{Quotation|「僕の今までの人生は、詩と散文との間であがいてきた苦しみの20年間でした。(中略)僕はいま、人生の岐路に立ち、どの道を選ぶべきかという問題に直面して、怯えています。そして、僕の芸術に向かおうとする資質が正しい道なのではないかと考えてしまうのです」|1830年7月30日付、母ヨハンナに宛てたシューマンの手紙{{sfn|ウォーカー|1986|pp=24–25}}}}
父アウグストとは異なり、母ヨハンナにとって音楽は「[[パン]]にならない芸術」であり、息子が法律の道に進むことが彼女の希望だった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=16–17}}。シューマンの手紙には[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]の指導を受ける旨が書かれていたため、ヨハンナは彼に意見を求めた。ヴィークはシューマンを弟子として引き受けると回答し、それだけでなく、3年以内にシューマンを[[イグナーツ・モシェレス|モシェレス]]や[[ヨハン・ネポムク・フンメル|フンメル]]以上のピアニストに育てると約束した。これにより、ヨハンナはシューマンの意向をひとまず受け入れた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=25–27}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=129–134}}{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。
ただしヨハンナの承諾は、シューマンをヴィークの弟子として6ヶ月間仮採用することが条件だった{{sfn|ブリオン|1984|pp=129–134}}。
半年後にヴィークは、シューマンの才能と素質は彼が音楽家になるべきことを完全に証明するものであり、無理やり法律家にするのは愚かだと再回答した。ヨハンナはついに納得して、シューマンが音楽家になることを認めた{{sfn|ブリオン|1984|pp=145–147}}
シューマンは1830年9月24日にハイデルベルクを発ち、10月にライプツィヒに戻った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=40–41}}{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。シューマン20歳のときである{{sfn|ウォーカー|1986|pp=25–27}}。
=== ライプツィヒ時代(1830年 - 1844年) ===
==== 指の故障によりピアニストを断念 ====
[[ファイル:Robert Schumann 1830.png|thumb|upright|20歳のころのシューマン(1830年)]]
1830年10月にライプツィヒに戻ったシューマンは、[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]の家に住み込みでレッスンを受けた。また、ヴィークの紹介により[[ライプツィヒ歌劇場]]の指揮者ハインリヒ・ドルン(1804年 - 1892年)にも[[音楽理論]]を学ぶ{{sfn|ウォーカー|1986|pp=40–42}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=135–138}}{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。
しかし、気難しく厳格なヴィークに対して次第に不満を募らせたシューマンは、翌1831年8月に当時名ピアニストとして名声を博していた[[ヨハン・ネポムク・フンメル|フンメル]](1778年 - 1837年)に宛てて手紙を書いてヴィークへの不満を打ち明け、レッスンを受けたいと頼んでいる。シューマンはこのことをヴィークにも話し、激しい叱責を受けた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=40–41}}。
1831年10月にヴィークがクララを連れて演奏旅行に出かけると、シューマンはヴィークの家を出た{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。
その後もヴィークとのレッスンは続けられたものの、シューマンは再びパーティや社交活動に精を出すようになる。シューマンは自分の下宿や[[カフェ・バウム]]など街のコーヒー・ハウスで芸術好きな仲間たちと夜遅くまで音楽論議を交わした。この集まりは、後の「ダヴィッド同盟」の出発点となった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=40–41}}。
このころの作品に、『[[蝶々 (シューマン)|蝶々]]』(作品2)がある{{sfn|ブリオン|1984|pp=147–148}}。
1831年、シューマンは「自伝的覚え書き」に「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と述べており、この時期に右手を故障したものと見られる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
故障の原因として、シューマンが独自に工夫した機械装置によってピアノを練習したことが挙げられているが、詳しくは[[#指の故障|後段]]で述べる。
同じころ、シューマンは目の病気に罹り、失明する恐怖にも襲われている{{sfn|ブリオン|1984|pp=141–142}}。
思い悩んだシューマンは、一時は[[チェロ]]に転向することや音楽をあきらめて[[神学]]の道に進むことも考えたが、1832年5月に[[作曲]]で身を立てる意志を固めた{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。
いったんピアノを離れて[[交響曲]]の作曲を試みたシューマンだったが、『[[ツヴィッカウ交響曲]]』は未完に終わり、再びピアノ曲に専心するようになる{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}。
==== 「新音楽時報」の創刊と「ダヴィッド同盟」 ====
[[ファイル:Neue Zeitschrift fuer Musik 1834 Jg1 Bd1 Titel.png|thumb|「[[新音楽時報]]」の表紙(1834年)]]
シューマンは1832年、[[ライプツィヒ]]の「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」として[[フレデリック・ショパン|ショパン]](1809年 - 1849年)を紹介する論文を投稿していたが{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}、[[ドイツ]]で流布している音楽批評の水準に不満を感じていた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}。このため、1833年ごろから[[カフェ・バウム]]などで友人や音楽関係の知己たちと新しい雑誌を発行する可能性について話し合い、1834年4月3日に「[[新音楽時報]]」(Neue Zeitschrift für Musik)を創刊する{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=165–167}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}。
「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノル(1807年 - 1861年)であり、シューマンは編集の手伝いをしていたが、まもなく仕事のすべてを引き受けることになった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=42–43}}{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}。
シューマンは「新音楽時報」の中で、「新しい詩的な時代」を準備するために低俗な[[ペリシテ人]]と戦う「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、「フロレスタン」や「オイゼビウス」といったペンネームにより自身の分身を登場させた{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}。
(詳しくは、[[#音楽評論]]を参照のこと。)
[[ファイル:Ludwig Schunke 1834.jpg|thumb|left|死の床の[[ルートヴィヒ・シュンケ]](1834年)]]
[[ファイル:Henriette Voigt.jpg|thumb|upright|ヘンリエッテ・フォイクト(1808年 - 1839年)]]
1833年秋に兄ユリウスと兄嫁ロザーリエが相次いで死去したことにより、シューマンは孤独と恐怖感に苛まれた{{sfn|門馬|2003|pp=84–88}}。
この年の日記に、シューマンは次のように書いている。「これより僕の生涯に、大きい断面。10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」{{sfn|前田|1983|pp=232–234}}。しかし、友人の[[ルートヴィヒ・シュンケ]]([[:de:Ludwig Schuncke]], 1810年 - 1834年)や芸術家の[[パトロン]]だった商人カール・フォイクト(1805年 - 1881年)とその妻ヘンリエッテ([[:de:Henriette Voigt]], 1808年 - 1839年)らとの親しい交際が慰めとなった{{sfn|門馬|2003|pp=84–88}}。
シューマンの友人たちの中でも、同じ下宿に住んでいたピアニストのシュンケとはとくに固い友情で結ばれていた。シューマンはシュンケに「[[ヨハネ (使徒)|使徒ヨハン]]」とあだ名を付け、作品7の『[[トッカータ (シューマン)|トッカータ]]』を彼に献呈している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=42–43}}。
二人の友情はシュンケが1834年末に[[結核#肺結核|肺結核]]で死去するまで続いた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=42–43}}{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}。
また、シューマンはヘンリエッテに心惹かれており、彼女を「[[変イ長調]]の魂」と呼び、[[ピアノソナタ第2番 (シューマン)|ピアノソナタ第2番]]を彼女に捧げている{{sfn|ブリオン|1984|pp=183–186}}。
==== エルネスティーネとの交際 ====
[[ファイル:Ernestine von Fricken.jpg|thumb|upright|エルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年)]]
1834年4月、当時18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年)が[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]の新しい弟子としてヴィーク家に住み込んだ{{sfn|ウォーカー|1986|pp=53–54}}{{sfn|門馬|2003|pp=84–88}}{{efn|なお、ウォーカーはエルネスティーネがヴィーク家に滞在していたのは1834年6月から1835年1月までとしている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=53–54}}。}}。
シューマンはエルネスティーネと恋愛関係となり、半年経たないうちに彼女と婚約するが、その後数週間のうちに双方の合意によって婚約は解消された{{sfn|ウォーカー|1986|pp=53–54}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=183–186}}{{sfn|門馬|2003|pp=84–88}}。
エルネスティーネはフォン・フリッケン男爵とツェトヴィッツ伯爵夫人との間の私生児であり、[[イギリス]]の[[音楽学者]]、評論家の[[アラン・ウォーカー (音楽学者)|アラン・ウォーカー]]によれば、彼女はこうした複雑な家庭事情についてシューマンに率直に語らず、このことを知ったシューマンが傷ついたとしている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=53–54}}。
二人の恋愛から生まれたのが、『[[謝肉祭 (シューマン)|謝肉祭]]』(作品9)と『[[交響的練習曲]]』(作品13)である{{sfn|ウォーカー|1986|pp=53–54}}{{sfn|門馬|2003|pp=84–88}}。『謝肉祭』の中で、シューマンはエルネスティーネの出身地であるアッシュ(ASCH){{efn|ASCHの文字はシューマンの名前にも含まれている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=53–54}}。}}の文字に基づく音型をちりばめている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=53–54}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=183–186}}{{efn|なお、ブリオンは、『謝肉祭』においてシューマンがエルネスティーネを象徴するエストレリャに「コン・アフェット(感情を込めて)」と指定しているのに対し、クララを象徴するキアリーナにはアパッショナート(情熱的に)、コン・モルタ・アニマ(大いに心を込めて)と指定しており、彼のうちにクララに対する情熱の芽が育ち始めていたことがわかる、としている{{sfn|ブリオン|1984|pp=183–186}}。}}。
また『交響的練習曲』は、エルネスティーネの父フォン・フリッケン男爵が作曲した主題に基づく[[変奏曲]]である{{sfn|ウォーカー|1986|pp=53–54}}。
1835年からシューマンと[[クララ・シューマン|クララ]]との恋愛が始まると、エルネスティーネは潔く身を引き、むしろ二人を励ました{{sfn|ブリオン|1984|pp=192–193}}。
==== クララとの恋愛とヴィークの妨害 ====
シューマンとクララははじめ兄妹のような関係だった。シューマンはクララや彼女の弟アルヴィンと散歩や遊びに興じ、お化けの話をして子供たちを震え上がらせたりした。しかし、エルネスティーネとの関係が終わると、シューマンの恋愛対象はクララに向かっていった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=84–87}}{{sfn|門馬|2003|pp=84–88}}。
1835年秋、[[フェリックス・メンデルスゾーン]](1809年 - 1847年)が[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]の常任指揮者に就任し、10月4日に指揮者デビュー演奏会を開いた。これを聴いたシューマンは、「[[新音楽時報]]」で絶賛する{{sfn|門馬|2003|pp=84–88}}。クララは1835年12月9日に16歳で[[ゲヴァントハウス]]でのデビューを飾り、シューマンの故郷[[ツヴィッカウ]]でも演奏会を開いた。このときシューマンはツヴィッカウまで戻ってクララに会っている{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
シューマンとクララの関係に気づいた[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]は、1836年1月にクララを[[ライプツィヒ]]から[[ドレスデン]]に移り住まわせ、シューマンから遠ざけた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=84–87}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=194–210}}{{efn|オルタイルによると、クララのドレスデン行きは演奏旅行だったとしている{{sfn|オルタイル|1986|p=325}}。}}。同年2月4日に母ヨハンナが死去するが{{sfn|ブリオン|1984|pp=193–194}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}、シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした{{sfn|オルタイル|1986|p=325}}。
以降、シューマンは一段と強くクララを求めるようになった{{sfn|ブリオン|1984|pp=193–194}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵詈雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視下に置かれた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=84–87}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=194–210}}。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会うたびに悪罵を投げつけ、顔につばを吐きかけることもあったという{{sfn|ブリオン|1984|pp=194–210}}。さらにヴィークはシューマンに生活力がなく飲酒癖があるなど虚偽・中傷を繰り返し、エルネスティーネとの恋愛事件を蒸し返して彼女の協力を得ようとした。シューマンを動転させるために、ヴィークの友人でクララの声楽教師だったカール・バンクにクララの恋人を演じさせようと試みてもいる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=194–210}}。
ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった{{sfn|ブリオン|1984|pp=194–210}}。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈された[[ピアノソナタ第1番 (シューマン)|ピアノソナタ第1番]]を弾いてシューマンに応え{{efn|オルタイルは、このときクララが弾いたのは『[[交響的練習曲]]』だとしている{{sfn|オルタイル|1986|p=327}}。}}、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
1837年9月、シューマンはヴィークに手紙を書き、会見に応じてくれるよう懇願した。数日後にヴィークは会見に応じたが、ヴィークはクララをコンサート・ピアニストとして育てたのであって、主婦にするつもりはないと告げた{{efn|ウォーカーによれば、ヴィークにとってクララは娘以上の存在であり、手塩にかけた自慢の創造物、生涯を賭けた作品だったとしている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=84–87}}。}}。
シューマンは9月18日付けでクララに宛てた手紙に「父上との会見は恐るべきものでした。お父上は冷ややかで、敵意に満ち、混乱し、矛盾だらけでした。とにかく人を挫くことに思慮をめぐらし、人の胸に柄まで届けとばかりに匕首を突き刺してくるのです」と報告している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=84–87}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=211–214}}。
クララはヴィークとともにたびたび演奏旅行に出かけるようになり、シューマンはクララと会うことも手紙のやりとりも禁止されていた。だが、彼は秘密裏にクララと文通して連絡を取り合いつつ、創作面では優れた作品を次々に書いていった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
クララはコンサートでシューマンの作品を演奏し、音楽によって二人は一体化した。ヴィークもこれを妨げることはできなかった{{sfn|ブリオン|1984|pp=189–188}}。
[[日本]]の[[音楽学者]][[前田昭雄]](1935年 - )は、クララとの結婚をめぐるヴィークとの闘いの年月は、シューマンの内面を危機的な深淵にまで沈めると同時に、そこから立ち上がる決定的な力ともなったとしており、この時期に相次いで成立した[[ピアノソナタ第1番 (シューマン)|ピアノソナタ第1番]](作品11)、『[[幻想小曲集作品12 (シューマン)|幻想小曲集]]』(作品12)、[[ピアノソナタ第3番 (シューマン)|ピアノソナタ第3番]](作品14)、『[[子供の情景]]』(作品15)、『[[クライスレリアーナ]]』(作品16)、『[[幻想曲 (シューマン)|幻想曲]]』(作品17)のすべてにわたり、クララへの愛に生を賭した実存的燃焼の表白が、「言葉なき」歌として、詩として劇として展開されていると述べている{{sfn|前田|1995|pp=11–12}}。
==== ウィーン滞在 ====
[[ファイル:Robert Schumann Wohnhaus Wien stitched 2009 PD.jpg|thumb|[[ウィーン]]滞在中にシューマンが住んだ家(1838年 - 1839年)]]
シューマンは1838年10月から翌1839年4月まで[[ウィーン]]に滞在した。クララがウィーンでの演奏会で大成功を収めたことを知り、クララのピアニストとしての活動と「[[新音楽時報]]」の本拠地をウィーンに移せばヴィークの束縛から逃れられるのではないかと考えたのである{{sfn|ウォーカー|1986|pp=87–89}}{{sfn|前田|1995|pp=11–12}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
これには、[[詩人]][[アーデルベルト・フォン・シャミッソー]](1781年 - 1838年)の勧めがあったともいわれる{{sfn|ブリオン|1984|pp=224–225}}{{efn|シューマンは1840年にシャミッソーの詩による歌曲集『[[女の愛と生涯]]』を作曲している。}}。
同時にウィーンは、シューマンが1832年以来めざすべき「[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]と[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の楽都」でもあった{{sfn|前田|1995|pp=11–12}}。
しかし、ウィーンの出版社はむしろ敵意を持ってシューマンを迎えた。当時のウィーンは[[反動]][[保守]]の政治体制下にあり、各地の[[自由主義]]運動や[[革命]]の波及を恐れて言論や出版の自由を圧迫していた。このためシューマンは「新音楽時報」が検閲によって押さえつけられることを恐れ、計画を断念する{{sfn|ウォーカー|1986|pp=87–89}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
ウィーン滞在中、シューマンはベートーヴェンとシューベルトの墓を訪れた。ベートーヴェンの墓の前でシューマンは1本の鉄製のペンを拾って持ち帰った{{efn|のちにこのペンで[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第1番]]「春」が書かれることになった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=87–89}}。}}。
また、帰途にシューベルトの兄フェルディナント(1794年 - 1859年)の家を訪ね、シューベルトの遺稿の中から[[交響曲第8番 (シューベルト)|大ハ長調交響曲]]の草稿を発見した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=87–89}}{{sfn|前田|1995|pp=11–12}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
この交響曲は1839年3月21日、[[ライプツィヒ]]の[[ゲヴァントハウス]]での演奏会で[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の指揮によって初演され、爆発的な成功を収めることになる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=87–89}}{{sfn|前田|1995|pp=11–12}}。
==== 結婚 ====
[[ファイル:Robert Schumann 1839.jpg|thumb|upright|29歳のころのシューマン。[[ヨーゼフ・クリーフーバー]](1800年 - 1876年)による[[リトグラフ]]。1839年]]
もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て[[弁護士]]に訴訟手続きを依頼した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=236–238}}{{sfn|前田|1995|pp=11–12}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
同年7月、シューマンはヴィークと離婚していたクララの実母マリアンネ・バルギールを[[ベルリン]]に訪ねてクララとの結婚の同意を得た{{sfn|ブリオン|1984|pp=236–238}}。また、公的な地位を得ることが結婚に役立つかもしれないと考えたシューマンは、1840年2月、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]と音楽との関係についての論文によって[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]の哲学博士の学位を取得している{{sfn|ブリオン|1984|pp=268–269}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}{{efn|ブリオンは「法学博士」としているが、ここでは門馬に従った。}}。
訴訟を知って激怒したヴィークは、クララがピアノを弾くことを禁じて家から追い出した。クララは、ベルリンから迎えに来たマリアンネとともに暮らした{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}{{sfn|オルタイル|1986|pp=7–12}}。ヴィークはクララの相続権停止などで対抗しようとした{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}ものの、法廷では有効な申し立てができず、罵詈雑言をわめきちらして判事からたしなめられる有様だった。彼は街でシューマンに出くわすと平手打ちを食わせた。こうしたヴィークの極端な行動は、物笑いの種となった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}。形勢不利を悟ったヴィークは1840年1月、今度はクララの動揺を狙い、レーマンという偽名を使ってシューマンに対するありとあらゆる非難を並べ立てた手紙を書き、ベルリンで開かれたクララのリサイタル当日に届けさせた。この策謀は、クララの弟アルヴィンがシューマンに警告したため、シューマンはあらかじめクララに連絡を取って警戒させることができた。シューマンはこのことでヴィークを別件の[[名誉毀損]]で訴えた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}。
1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下され、二人は9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=269–270}}。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}。この結婚式には、4月に知り合ったばかりの[[フランツ・リスト]](1811年 - 1886年)も出席している{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
名誉毀損の訴えでもシューマンが勝訴し、1841年にヴィークはシューマンを中傷したことで2週間の禁固刑に処された{{sfn|ウォーカー|1986|pp=92–95}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=269–270}}。
==== 作曲分野の広がり ====
シューマンは1839年の時点では「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」と述べており、現に作品23の『4つの夜曲』までほとんどピアノ曲ばかり作曲していた。しかし、1840年にクララとの結婚が近づくと、一転して続々と[[歌曲]]を手がけるようになる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}。1840年3月から7月までの間に、シューマンは音楽史に残る5つの優れた歌曲集を作曲した。二つの『リーダークライス』([[リーダークライス作品24 (シューマン)|作品24]]および[[リーダークライス作品39 (シューマン)|作品39]])、『[[ミルテの花 (シューマン)|ミルテの花]]』(作品25)、『[[女の愛と生涯]]』(作品42)、そして『[[詩人の恋]]』(作品48)である{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}。
これらを含め、この年に120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている{{efn|門馬は120曲以上、前田は130曲以上、ウォーカーは140曲以上としているが、ここではもっとも少ない門馬に従った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}{{sfn|前田|1995|pp=11–12}}{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。}}。これはシューマンが生涯に残した歌曲の大半を超えるものであり、1840年は「歌曲の年」と呼ばれる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}。
これについてシューマンは、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。―私は[[サヨナキドリ|ナイチンゲール]]のように、死ぬまで歌い続けるのだ」と語っている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=240–241}}。
結婚後、シューマンは[[クララ・シューマン|クララ]]とともに[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の『[[平均律クラヴィーア曲集]]』を研究し、それが終わると、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]など[[ウィーン楽派|ウィーン古典派]]の[[弦楽四重奏曲]]を勉強した{{sfn|ブリオン|1984|pp=280–282}}{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
1841年には[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第1番]](作品38)が完成する。この交響曲はシューマンの「ライプツィヒ時代」を代表する作品であり{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}、この曲の成功は、シューマンの創作活動において[[ピアノ曲]]と[[歌曲]]から[[交響曲]]作家への脱皮という画期をなすものとなった{{sfn|前田|1995|pp=12–13}}。
その後もシューマンは『[[序曲、スケルツォと終曲]]』(作品52)、ピアノと管弦楽のための幻想曲(後の[[ピアノ協奏曲 (シューマン)|ピアノ協奏曲]]第1楽章)、ニ短調交響曲(後の[[交響曲第4番 (シューマン)|交響曲第4番]])などオーケストラ作品に取り組んだ{{sfn|前田|1995|pp=12–13}}。
翌1842年には、シューマンは[[重奏|室内楽曲]]の分野に足を踏み入れ、[[弦楽四重奏曲 (シューマン)|3曲の弦楽四重奏曲]]([[弦楽四重奏曲第1番 (シューマン)|イ短調]]、[[弦楽四重奏曲第2番 (シューマン)|ヘ長調]]、[[弦楽四重奏曲第3番 (シューマン)|イ長調]]の作品41)、[[ピアノ五重奏曲 (シューマン)|ピアノ五重奏曲]](作品44)、[[ピアノ四重奏曲 (シューマン)|ピアノ四重奏曲]](作品47)などが生まれた{{sfn|ブリオン|1984|pp=284–285}}{{sfn|前田|1995|pp=12–13}}。
これには、[[フランツ・リスト]]の勧めがあった。リストは、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めていた{{sfn|ブリオン|1984|pp=284–285}}。
これらにより、1841年を「交響曲の年」、1842年を「室内楽曲の年」と呼ぶことがある{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
==== 家庭生活 ====
[[ファイル:Leipzig Schumann-Haus.jpg|thumb|ロベルトとクララが暮らした[[ライプツィヒ]]の家]]
シューマンとクララは幼いころから[[日記]]を付けており、二人は結婚と同時にそれぞれの日記をひとつに融合させ、互いに日々の出来事を報告し合った。毎週日曜日に一週間分の日記が朗読され、二人で反省したりコメントを付け合ったりした{{sfn|ブリオン|1984|pp=272–275}}。
シューマンが家で作曲しているときにはクララは[[ピアノ]]の練習を控えた。このためにクララは結婚から5ヶ月後の日記に演奏力の低下を嘆いている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=97–99}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=276–277}}。
シューマンとクララの間には、8人の子供が生まれた{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
* 長女 マーリエ(1841年 - 1929年)
* 次女 エリーゼ(1843年 - 1928年)
* 三女 ユーリエ(1845年 - 1872年)
* 長男 エミール(1846年 - 1847年)
* 次男 ルートヴィヒ(1848年 - 1899年)
* 三男 フェルディナント(1849年 - 1891年)
* 四女 オイゲーニエ(1851年 - 1938年)
* 四男 フェリックス(1854年 - 1879年){{sfn|池辺|2010|p=83}}
シューマンは子供好きで、いくら多くてもかまわないという考え方であり{{sfn|ブリオン|1984|pp=276–277}}{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}、子供が増えるに従ってクララは演奏家と主婦、母親の両立に苦心することになった{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
また、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、クララは家計を支えるために演奏旅行の回数を増やさなくてはならなくなった{{sfn|ブリオン|1984|pp=276–277}}。
クララの演奏旅行にシューマンが同伴すると、すでにピアニストとしての名声が高かったクララに比べて、シューマンは粗略に扱われた。1842年の演奏旅行では[[オルデンブルク]]でクララ一人が宮廷に招待されたことに傷ついて、シューマンは[[ライプツィヒ]]に戻っている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=97–99}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=278–279}}{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
屈辱を味わった彼は、一時は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への移住を考えたほどだった{{sfn|ブリオン|1984|pp=278–279}}。
1844年の[[ロシア]]旅行でも、シューマンは「ピアニストの夫」として従属的な立場に置かれた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=97–99}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=295–297}}。
しかし、シューマンはこうした自分たちの特殊な状況を明確に理解しており、次のように述べている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=97–99}}。
{{Quotation|「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。人はすべてを所有することなどできはしない。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである。お互いに所有しあい、心の底から理解し、愛し合ってこそ、私たちは共に幸せになれるのだ」{{sfn|ウォーカー|1986|pp=97–99}}}}
このように、シューマン夫妻の間には日常の家庭生活の負担から生ずる避けがたい緊張や芸術上の観点の違いによる深刻な対立はあったものの、お互いに相補う夫婦として、しばしば理想的なカップルとして描かれる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=97–99}}。
==== 精神障害の発症 ====
結婚後、シューマン夫妻が4年間住んだ[[ライプツィヒ]]は、急速にドイツ音楽界の中心となっていった。その中心にいたのは、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]である。彼は[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]の常任指揮者を務める傍ら、1843年に[[フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ|ライプツィヒ音楽院]]を創設し、[[イグナーツ・モシェレス]](ピアノ)、[[フェルディナンド・ダヴィッド]](ヴァイオリン)、[[モーリッツ・ハウプトマン]](音楽理論)らと並んでシューマンを作曲とピアノの教授に迎えた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=112–114}}。
メンデルスゾーンは[[イギリス]]から[[ウィリアム・スタンデール・ベネット]]、[[デンマーク]]から[[ニルス・ゲーゼ]]らをライプツィヒに招き、シューマンも彼らと親交を結んだ。シューマンは彼らを「[[新音楽時報]]」で応援したほか、ベネットに『[[交響的練習曲]]』(作品13)を献呈しており、『[[子供のためのアルバム]]』(作品68)の第42曲「北欧の歌」において、ゲーゼの名前の綴りであるGADEの音名を主題に使っている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=112–114}}。
[[ファイル:Gustave Courbet - Portrait of Hector Berlioz - WGA05492.jpg|thumb|upright|left|[[エクトル・ベルリオーズ]](1850年、[[ギュスターヴ・クールベ]]による肖像画)]]
シューマンはこの時期二度にわたって病気で倒れた。最初は1842年で、「[[過労]]」としてクララとともに[[ボヘミア]]の[[温泉]]に保養に行った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}。
[[日本]]の[[音楽評論家]]、[[門馬直美]](1924年 - 2001年)は、シューマンが家庭を維持する経済的な重荷を背負いながら、大作を書いても予期した収入をもたらさず、疲労感に襲われて次第に神経衰弱気味になっていったとする。このため、1842年から1843年にかけて作曲の筆はほとんどすすまず、シューマンは内省的になり、外部との新鮮な接触を嫌悪するようになった{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
しかし、1843年1月に[[エクトル・ベルリオーズ]](1803年 - 1869年)が[[パリ]]からライプツィヒを訪れたことはシューマンに刺激と喜びを与えた{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
1843年2月ごろから創作意欲を取り戻してきたシューマンは、[[トマス・モア]]の原作に基づく独唱、合唱、管弦楽のための[[オラトリオ]]『[[楽園とペリ]]』(作品50)を完成させる{{sfn|ブリオン|1984|pp=348–349}}{{sfn|前田|1995|pp=12–13}}。
『楽園とペリ』の成功は、シューマンの作曲家としての名声を決定的なものとした。この年、クララの父[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]がシューマン夫妻に和解を求めてきたのも、この曲の成功が理由の一つだった{{sfn|ブリオン|1984|pp=270–271}}{{sfn|前田|1995|pp=12–13}}{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
[[ファイル:Robert Schumann - Der Moskauer Kreml 1844.jpg|thumb|シューマンが描いた[[モスクワ]]の[[クレムリン]]宮殿(1844年)]]
二度目は1844年8月、[[ロシア]]旅行から帰ってきてまもないころで、より深刻だった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}。この年1月25日から5月末にかけて、シューマンとクララはロシアに滞在した{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。クララは[[サンクトペテルブルク]]でロシア皇帝の前で演奏し、ピアニストとして成功した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}が、5ヶ月間にわたる旅行はシューマンにとって大きな負担となった{{sfn|前田|1995|pp=13–14}}。
ライプツィヒに戻ったシューマンは、「[[新音楽時報]]」の編集主幹を[[オズヴァルト・ロレンツ]]([[:de:Oswald Lorenz]])に譲り{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』の音楽化の構想を練り始めた{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。しかし、夏ごろから体調が悪化し、死を恐れたり、[[高所恐怖症]]の症状を示すようになった{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。シューマンは[[ファウスト 第二部|『ファウスト』第2部]]最後の「神秘の合唱」を作曲したものの、強度の神経疲労のために構想は中断され、この作品の完成は[[ドレスデン]]時代を経て[[デュッセルドルフ]]時代まで持ち越されることになる{{sfn|前田|1995|pp=13–14}}{{sfn|前田|1995|pp=251–252}}。また、9月にシューマンはライプツィヒ音楽院で教鞭をとろうと試みたが、症状の悪化により断念せざるを得なかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}。
10月にシューマンは[[ドレスデン]]で[[ホメオパシー|類似療法]]の医師ヘルビッヒ博士の治療を受けた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}。記録によるとシューマンの症状は、[[幻聴]]、ひっきりなしの震え、高所や鋭い金属物などに対するさまざまな[[恐怖症]]があった。とくに幻聴のために作曲もできなくなった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}。クララはこのころのシューマンについて、「ロベルトは一晩も眠っていません。彼の想像力は恐ろしい妄想を描いているのです。毎朝早く、私は涙にくれている彼を見なければなりません。彼はもうすっかり諦めているのです」と書いている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}。
病気の回復には気候条件の変わったところが良いと考えたシューマンは、ドレスデンへの移住を決意する{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}{{sfn|前田|1995|pp=13–14}}{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。この年、メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を辞任し、シューマンはその後任を希望していたが、デンマーク人の[[ニルス・ゲーゼ|ゲーゼ]]が選ばれたことで落胆し、自己嫌悪に陥ったことも転地の理由となった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=295–297}}。1844年12月、シューマンはライプツィヒ音楽院の職を辞し、クララら家族とともに[[ライプツィヒ]]を去った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
=== ドレスデン時代(1844年 - 1850年) ===
[[ファイル:E Kaiser - Robert + Clara Schumann (Litho 1847).jpg|thumb|ドレスデン時代のシューマン夫妻(1847年)]]
[[ドレスデン]]に移ったシューマンは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の作品を再び研究し始めた。1845年4月25日、ピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けた[[ペダルピアノ]]を導入し、バッハのオルガン曲を練習できるようにした{{sfn|ウォーカー|1986|pp=141–143}}。この年に作曲されたペダルピアノのための『練習曲』(作品56)、『スケッチ』(作品58)、『BACHの名による6つのフーガ』(作品60)などはその成果である{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}。創作力を徐々に回復したシューマンは、1841年に書いたピアノと管弦楽のための『幻想曲』を改訂し、新たに2つの楽章を追加して[[ピアノ協奏曲 (シューマン)|ピアノ協奏曲]](作品54)を完成させた{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}。
[[交響曲第2番 (シューマン)|交響曲第2番]](作品61)は、1845年末から約1年間を費やして完成した{{sfn|前田|1983|pp=189–190}}。この間、1846年5月には幻聴や耳鳴りのために作曲できなくなり、[[双極性障害]]の症状も現れるようになっていた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}。このため第2交響曲は、シューマンが危機を乗り越えて再生した「勝利の歌」ということもできる{{sfn|前田|1983|pp=189–190}}。
[[ファイル:Hiller-01.jpg|thumb|upright|left|[[フェルディナント・ヒラー]](1811年 - 1885年)]]
当時のドレスデンは、[[ザクセン王国]]の首都として[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]の治世下にあった。芸術家たちは王の雇い人という立場に置かれ、宮廷画家が援助される一方、音楽家は冷遇されていた。また、交響作品や室内楽よりも[[オペラ]]が好まれた{{sfn|ブリオン|1984|pp=297–298}}。こうした保守的で窮屈な環境にあってシューマンの友人となったのは、アマチュア男性合唱団の指揮者をしていた[[フェルディナント・ヒラー]](1811年 - 1885年)である{{sfn|ウォーカー|1986|pp=128–131}}{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。シューマンとヒラーは協力して、[[ライプツィヒ]]の[[ゲヴァントハウス]]のような会員制の演奏会を企画し、1845年11月10日に演奏会を実現させた。このとき、出演予定だった[[クララ・シューマン|クララ]]が病気のため、代役として[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|ヴァイオリン協奏曲]]のソリストを務めたのは、当時14歳の[[ヨーゼフ・ヨアヒム]](1831年 - 1907年)だった。しかし、一般大衆に音楽が行き渡っていないドレスデンでの運営は厳しく、活動の継続は断念せざるを得なかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=128–131}}。
また、シューマンは[[ゼンパー・オーパー|ドレスデン宮廷歌劇場]]の楽長をしていた[[リヒャルト・ワーグナー]](1813年 - 1883年)と出会う。しかし、この二人の関係は冷ややかで、発展しなかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=128–131}}。一方、メンデルスゾーンを高く評価していたシューマンはますます親密な文通を続けた{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。
[[ファイル:Jenny Lind nd.jpg|thumb|upright|[[ジェニー・リンド]](1820年 - 1887年)]]
シューマン夫妻にとってドレスデンはライプツィヒと比べて音楽的に遅れており、居心地の良い土地ではなかった{{sfn|ブリオン|1984|pp=297–298}}。
家計を助ける目的もあって、クララは出産と子育ての合間を縫ってしばしば演奏旅行に出かけた{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。
1846年11月末から翌1847年1月にかけて、二人は[[ウィーン]]で一連の演奏会を開催し、シューマンの[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第1番]]や[[ピアノ協奏曲 (シューマン)|ピアノ協奏曲]]などを取り上げたが、失敗に終わった{{sfn|ブリオン|1984|pp=300–302}}。
[[音楽評論家|音楽批評家]]の[[エドゥアルト・ハンスリック]](1825年 - 1904年)は、このとき演奏会終了後の楽屋で「みんな冷たい人なんだわ、恩知らずが」と当たり散らすクララと、「落ち着きなさい。クララ、10年経てばすべてが変わるよ」となだめるシューマンの姿を書き残している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=128–131}}。
二人の窮地を救ったのは、「[[スウェーデン]]の[[サヨナキドリ|ナイチンゲール]]」と称されていた[[ソプラノ]][[歌手]]、[[ジェニー・リンド]](1820年 - 1887年)で、彼女との共演によって1月11日の最後の演奏会は大成功を収めることができた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=128–131}}。
また、リンドを通じてシューマンと[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]](1805年 - 1875年)との交流が生まれた{{sfn|ブリオン|1984|pp=300–302}}。
1847年からはオペラ『[[ゲノフェーファ]]』(作品81)に取りかかるが、[[精神障害]]に悩まされながらの作曲となった{{sfn|ブリオン|1984|pp=304–305}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=333–334}}。
7月、生まれ故郷[[ツヴィッカウ]]でシューマンを称える記念祭が2週間にわたって開催され{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}、招かれたシューマンは恩師のクンチュや幼なじみたちと再会を果たした。記念祭のハイライトはシューマンの[[交響曲第2番 (シューマン)|交響曲第2番]]の発表であり、この出来事は、シューマン夫妻のウィーンでの挫折を埋めるものとなった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}。
一方でこの年、長男エミールが早世し、11月4日にメンデルスゾーンが死んだことは痛手となった{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。
1847年11月、友人のヒラーが[[デュッセルドルフ]]の音楽監督に就任し、ドレスデンを離れることになった。シューマンはヒラーの指名を受けて男声合唱団「リーダーターフェル」の[[指揮者]]となる。シューマンは翌1848年1月にこの合唱団を70名規模の混声合唱団に拡大した。自作発表の場を得たことにより、シューマンは以降多くの合唱曲を作曲した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=351–352}}{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。
前田昭雄はこの時期、シューマンの様式は円熟の境地を見せ、深みと哲学的な思索性を持つようになったとしている。声楽曲としては、オペラ『[[ゲノフェーファ]]』(作品81)、[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]の詩に基づく劇付随音楽『[[マンフレッド (シューマン)|マンフレッド]]』(作品115)、『[[ゲーテのファウストからの情景]]』(WoO 3)第1部の主要部分が作曲され、[[歌曲]]にはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター歌曲』(作品98)や『レーナウ歌曲集』(作品90)などがある{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}。
管弦楽作品としては、先に挙げたピアノ協奏曲や交響曲第2番に加え、[[4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック]](作品86、1849年)がある{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}。
室内楽曲の分野では、[[ピアノ三重奏曲第1番 (シューマン)|ピアノ三重奏曲第1番]]、[[ピアノ三重奏曲第2番 (シューマン)|同第2番]]のほか、[[オーボエ]]や[[クラリネット]]、[[チェロ]]、[[ホルン]]のための作品が書かれている{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}。
また、ピアノ曲では『[[森の情景]]』(作品82)や『[[子供のためのアルバム]]』(作品68)がある。後者は「楽しき農夫」などの親しみやすい曲が含まれており{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}、ドレスデンで子供たちに囲まれた暮らしの中で作曲されたことをうかがわせる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}。
[[ドイツ]]に起こった[[1848年革命#ドイツ三月革命|三月革命]]は、1849年5月にドレスデンにも及んだ。思想的には[[自由主義]]・[[共和主義]]に共感していた{{efn|シューマンの思想が反映されていると見られる作品に『4つの行進曲』(作品76)や男声合唱のための『自由の歌』(Wo0 15)などがある{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}。}}シューマンだが、暴力を嫌悪し、ワーグナーのような政治的行動はとらなかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=141–143}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=355–356}}{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。
シューマンは家族とともに郊外のクライシャに避難した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=141–143}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=355–356}}{{sfn|前田|1995|pp=14–15}}。
1850年、かねてからバッハの作品の多くが出版されずに埋もれてしまっていることに憤慨していたシューマンは、バッハ没後100年を機に「バッハ協会([[:de:Bach-Gesellschaft Leipzig]])」の設立に尽力、バッハ作品全集の計画に参加して中心的役割を果たした{{sfn|ウォーカー|1986|pp=141–143}}。
その一方で[[高所恐怖症]]が悪化し、同年のオペラ『ゲノフェーファ』の[[ライプツィヒ]]公演の際には宿の2階の部屋にいられず、1階に部屋を変えてもらわなければならないほどだった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}。
このころ、シューマンは音楽界での定職に就きたいという希望を持つようになり、1847年には空席になっていた[[ウィーン音楽院]]院長職への就任を打診し、メンデルスゾーンの死後は[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]の指揮者への就任についても探りを入れていたが、これらはいずれも実現しなかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=141–143}}。
1849年の秋、ヒラーから[[ケルン]]で新しい職に就くため、[[デュッセルドルフ]]の音楽監督のポストをシューマンに譲りたいという手紙を受け取った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=141–143}}。
シューマンはためらったが{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}、ドレスデンの旧弊さに嫌気がさしていたクララは定職に就く機会を逃さないようシューマンに勧めた{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。
シューマンは受諾し、1850年9月、家族とともにデュッセルドルフに向かって旅立った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=141–143}}{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。
=== デュッセルドルフ時代(1850年 - 1854年) ===
[[ファイル:Schumann-photo1850.jpg|thumb|upright|40歳ごろのシューマン(1850年)]]
[[ファイル:Menzel 1853 Joseph Joachim.jpg|thumb|upright|[[ヨーゼフ・ヨアヒム]](1853年、[[アドルフ・フォン・メンツェル]]画)]]
[[デュッセルドルフ]]でシューマン夫妻は歓迎を受けた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=154–159}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=360–361}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}{{sfn|門馬|2003|pp=102–105}}。
この地でシューマンは管弦楽団と合唱団の指揮を担当し{{sfn|門馬|2003|pp=102–105}}、シューマンが指揮した最初のコンサートは成功を収めた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=154–159}}。
創作力も旺盛であり、この時期に相次いで書かれた[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]](作品129)と[[交響曲第3番 (シューマン)|交響曲第3番]]「ライン」(作品97)は、シューマンのデュッセルドルフ時代を代表する作品となった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=159–163}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}。
しかし、最初のシーズンが終わると、1851年3月に地元の新聞がシューマンの指導力を批判する匿名記事を掲載した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=154–159}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=366–367}}{{sfn|門馬|2003|pp=102–105}}。
この年、シューマンは室内楽協会を設立している{{sfn|ブリオン|1984|pp=363–364}}。
つづくシーズンでは事態はさらに悪化した。シューマンは右手の不自由のためにしばしば指揮棒を取り落とし、例えば[[ミサ曲]]の演奏では曲が終わり、[[神父]]が祈祷を唱え始めたにもかかわらずまだ指揮を続けるなどということが起こった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=154–159}}。
また、シューマンの内向的な性格や、とりわけこのころ顕著になり始めていた自閉癖のために、団員たちは困惑させられるようになった{{sfn|ブリオン|1984|pp=366–367}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}。
指揮のテクニック不足や、自分の考えをオーケストラに明瞭に伝える能力にも欠けることが露呈し、シューマンの名声は急速にしぼんでいく{{sfn|ウォーカー|1986|pp=154–159}}。
1852年の冬には、オーケストラの理事会がシューマンの練習方法について批判する書簡を送り、摩擦が表面化した。書簡は辞任勧告の意味合いが含まれており、シューマンは拒否したが、これに対して理事会は総辞職で応じた。新しく組織された理事会とシューマンは、[[ユリウス・タウシュ]]([[:de:Julius Tausch]], 1827年 - 1895年)を補助指揮者として合唱団の練習を任せ、シューマンはオーケストラの練習と公開コンサートの指揮を続けることで合意した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=159–163}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=368–370}}。
1853年5月に開催された「低ライン音楽祭」では、改訂されたシューマンの[[交響曲第4番 (シューマン)|交響曲第4番]](作品120)が初演され、成功した{{sfn|門馬|2003|pp=133–135}}。
5月17日には[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲]]で[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]と共演する。ヨアヒムはシューマンに対する賛嘆の念を示し{{sfn|ブリオン|1984|pp=382–383}}、二人の交流から、2曲のヴァイオリン・ソナタ([[ヴァイオリンソナタ第1番 (シューマン)|作品105]]、[[ヴァイオリンソナタ第2番 (シューマン)|作品121]])、[[ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲]](作品131)、[[ヴァイオリン協奏曲 (シューマン)|ヴァイオリン協奏曲]](作品番号なし)が書かれた{{sfn|ブリオン|1984|pp=288–289}}{{sfn|門馬|2003|pp=135–138}}。
しかし同年秋にはオーケストラとの間に新たなトラブルが発生する。ヨアヒムを招いて開かれた公開コンサートでは、シューマンは演奏を開始することができなかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=159–163}}{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
ヨアヒムは、これについて次のように述べている。
{{Quotation|「若いころには正確に拍子をとれたのかもしれないが、彼は演奏に注意を与えることは何もしなかった。『[[楽園とペリ]]』のリハーサルではクララ(ピアノを弾いていた)が『主人はここは弱く弾いてほしいといっています』と言い、シューマンはかたわらでその通りとばかりうなずくのであった。演奏がうまくいかないと、ひとり腹を立てていた。あるとき、自分の交響曲を演奏する際、彼は指揮棒を振り上げたまま立っていて、オーケストラ・メンバーは楽器を構えたまま、いつ弾き始めたらよいかわからないのだった。そこで、第1プルトに座っているケーニッヒスレウと私が手で合図して演奏を開始すると、シューマンは嬉しそうに笑いながらついてくるという有様だった」|[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]による回想{{sfn|ウォーカー|1986|pp=154–159}}}}
ウォーカーは、こうしたシューマンの奇妙な行動について、病気の進行に伴って彼の身体機能が犯され、動作、言葉、聴力などが均衡の取れないものになっていったのだとしている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=154–159}}。
これ以降、シューマンに指揮の機会は訪れなかった{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
オーケストラの統率を失ったシューマンに対し、理事会はタウシュを正指揮者としてコンサートの指揮もすべて任せることを要求した。シューマンは受け入れざるを得なかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=159–163}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=368–370}}。
ブリオンによれば、シューマンとクララは経済的な理由のためにこの屈辱に耐えなければならなかったとする{{sfn|ブリオン|1984|pp=368–370}}。
シューマンの病状は次第に重くなっていった。1851年6月にはシューマン自身が「神経の発作」に悩まされ続けていることを明かしている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=159–163}}。
1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり、医者に勧められてシューマン夫妻は[[北海]]沿岸の保養地[[スヘフェニンゲン|シェヴェニンゲン]]に出かけたが、効果はなかった{{sfn|門馬|2003|pp=102–105}}。
シューマンの弟子だったヴァジェレフスキによれば、1853年3月、シューマンは[[降霊術]]を扱った本を読んでおり、次女エリーゼと二人で霊媒実験を始めたという。このことをシューマンは5月25日付けのヒラーに宛てた手紙に「実に不思議な現象です」と書いている{{sfn|ブリオン|1984|pp=395–396}}。
1853年6月にクララが記した日記には、シューマンが目を覚まし麻痺性の発作に襲われたことが記録されている。シューマンの言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=159–163}}。
==== デュッセルドルフ時代の作品 ====
シューマンのデュッセルドルフ時代の作品は多岐にわたっており、[[フランス]]の著述家、[[マルセル・ブリオン]]([[:fr:Marcel Brion]], 1895年 - 1984年)は、実生活上のいざこざがあっても彼の創造力には少しも影響を与えなかったとする{{sfn|ブリオン|1984|pp=371–372}}。
例えば、[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]は1850年10月10日から24日にかけて、[[交響曲第3番 (シューマン)|交響曲第3番]]は1850年11月2日から12月9日にかけて、[[ヴァイオリンソナタ第1番 (シューマン)|ヴァイオリンソナタ第1番]]は4日間、[[ヴァイオリンソナタ第2番 (シューマン)|同第2番]]は6日間、[[ピアノ三重奏曲第3番 (シューマン)|ピアノ三重奏曲第3番]]が7日間と、驚くべき速筆で書かれている。『ヘルマンとドロテア』序曲はわずか数時間で作曲された{{sfn|ブリオン|1984|pp=371–372}}。
ドレスデン時代から始まった「文学的音楽」の系列としては、上記[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『ヘルマンとドロテア』序曲のほか、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]の『メッシーナの花嫁』序曲、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『ジュリアス・シーザー』序曲(いずれも1850年)、[[ルートヴィヒ・ウーラント|ウーラント]]の『王子』、『歌人の呪い』(1852年)などがある{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}。
シューマン畢生の大作となった『[[ゲーテのファウストからの情景]]』は、ライプツィヒ時代の1844年に第2部終末の場面を作曲して以来10年がかりの構想となり、最後の序曲は1853年4月13日から15日までの3日間で作曲された{{sfn|ブリオン|1984|pp=340–345}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}。
デュッセルドルフの音楽監督の職務には、[[カトリック教会]]の典礼に基づく[[宗教音楽]]の実践義務も含まれていた{{sfn|前田|1995|p=246}}。
このため、シューマンは[[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ|パレストリーナ]]や[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]らの作品に接しながら宗教音楽の分野に手を染め、1849年に管弦楽伴奏による男声重唱のための[[モテット]]『苦しみの谷にあっても絶望することなかれ』(作品93)、1852年には[[ミサ曲 (シューマン)|ミサ曲]](作品147)、[[レクイエム (シューマン)|レクイエム]](作品148)などが作曲された{{sfn|ブリオン|1984|pp=364–365}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}{{sfn|門馬|2003|pp=102–105}}。
==== ブラームスの来訪 ====
{{multiple image | align = right | direction = horizontal | header_align = center | footer_align = left | footer_background = | image1 = 03 Bonaventure Laurens Robert Schumann.jpg | width1 = 150 | caption1 = <center>ジャン=ジョセフ・ボナヴェンチャ・ローレンスによるシューマンの肖像画(1853年)</center> | image2 = 04 Bonaventure Laurens Johannes Brahms 1833-97.jpg | width2 = 150 | caption2 = <center>同じくローレンスによる[[ヨハネス・ブラームス]]の肖像画(1853年)</center> }}
1853年9月30日、当時20歳の[[ヨハネス・ブラームス]](1833年 - 1897年)がヨアヒムの紹介状を携えてシューマン家を訪れた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=163–165}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=379–379}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}{{sfn|門馬|2003|pp=105–111}}。
ブラームスがピアノの前に座って自作のソナタを弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=163–165}}。
ウォーカーはこの出会いについて、「二人の出会いは音楽史に残る出来事だった」、「(シューマン家の)暗澹とした日々に、一筋の光を与えた」と形容している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=163–165}}。
シューマンはブラームスの作曲家としての優れた才能を認めて「若き鷲」と呼んだ{{sfn|ウォーカー|1986|pp=163–165}}{{sfn|門馬|2003|pp=105–111}}。
「彼が成長するにつれて、私は消えゆくのみ」とも語った{{sfn|ブリオン|1984|pp=379–379}}。
シューマンは[[ライプツィヒ]]の音楽出版社[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]に手紙を書いてブラームスを紹介するとともに、10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「[[新音楽時報]]」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=163–165}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=379–379}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}{{sfn|門馬|2003|pp=105–111}}。
シューマンの厚誼に深く感謝したブラームスは、シューマンのもっとも忠実な弟子となり、シューマンが絶望のどん底にあるときも変わらぬ友情を示した。ブラームスはまた、クララが助力を必要とするときには常に慰め、彼女の心の支えとなった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=163–165}}。
ブラームスは10月いっぱいシューマン家に滞在した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=163–165}}{{sfn|門馬|2003|pp=111–114}}。
この間ヨアヒムも[[デュッセルドルフ]]を訪れ、シューマンはブラームスおよび弟子の[[アルベルト・ディートリヒ]](1829年 - 1908年)とともに『[[F.A.E.ソナタ]]』を共作してヨアヒムに贈っている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=163–165}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=386–387}}{{sfn|門馬|2003|pp=111–114}}{{efn|[[F.A.E.ソナタ]]がヨアヒムとクララによって演奏された翌日からわずか3日間でシューマンは自分が担当しなかった第1楽章と第3楽章を作曲して第3番のヴァイオリンソナタとした{{sfn|池辺|2010|pp=100–101}}{{sfn|門馬|2003|pp=111–114}}。}}。
==== 自殺未遂 ====
シューマンはクララとともにたびたび[[デュッセルドルフ]]を抜け出して演奏旅行に出かけた。とくに[[オランダ]]ではシューマンの作品が受け入れられ、高い評価を得た。1854年のはじめにはヨアヒムやブラームスとともに旅行し、[[ハノーファー]]での演奏会を成功させた{{sfn|ブリオン|1984|pp=375–376}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
シューマンの日記によると、1854年2月10日の夜に彼は激しい耳の痛みに襲われた。4日後の2月14日、レストランでヴァイオリニストのベッカーと同席したシューマンは、手にしていた新聞を置いて「とてもこれ以上読んでいられない。A音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と言ったという{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}。
クララは日記に次のように記した。
{{Quotation|「かわいそうなロベルト、ひどく辛いらしい。彼にはどんな音も音楽に聞こえてしまうのだ。……これが止まらなければ気が狂ってしまうと何度も訴えている。巨大な管弦楽のようなものが聞こえ、それが終わるかと思えば、また次の音楽が彼の幻想の中に聞こえてくるという具合で、幻聴はひどい状態に達している」|1854年2月、[[クララ・シューマン]]による日記{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}}}
[[ファイル:Düsseldorf Stich 1850.jpg|thumb|シューマンが自殺未遂を起こした[[ライン川]]の橋(1850年の版画)]]
2月17日には、シューマンは[[天使]]たちが歌って聞かせてくれたという[[変ホ長調]]の主題に基づく『[[主題と変奏 (シューマン)|主題と変奏]](天使の主題による変奏曲)』を書くが、この旋律は前年の1853年に作曲した[[ヴァイオリン協奏曲 (シューマン)|ヴァイオリン協奏曲]]に酷似している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}{{efn|前田は、「天使の主題」とヴァイオリン協奏曲第2楽章の主題は、『子供のための歌のアルバム』(作品79)の第20曲「春の訪れ」にすでに現れており、その部分の[[アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン|ホフマン・フォン・ファラースレーベン]]の詩は「この暗い日々のあとで、野原はなんと明るいことか―」であるとする{{sfn|前田|1983|pp=236–237}}。}}。
翌18日になると天使たちは[[悪魔]]に変わり、[[虎]]や[[ハイエナ]]の姿を取ってシューマンをめがけて襲いかかった。二人の医師が呼ばれ、シューマンを診察した。19日、シューマンは悪魔の精霊に取り囲まれ、夜まで苛まれた。20日にはシューマンは罪と悔恨に打ちひしがれ、自分は罪人で[[地獄]]に落ちるのだといって[[聖書]]を読み続けた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=404–406}}。
その後も発作と小康状態を繰り返したが、2月26日夜、シューマンはもはや分別を保てず、このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがあるとして自分を[[精神科|精神病院]]に入れるように言い、身の回りの整理を始めた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=404–406}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
翌2月27日、クララと医師が話し合っている隙にシューマンは家を抜け出し、ガウンとスリッパのままの姿でライン橋まで行き、[[ライン川]]に身を投げた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=404–406}}{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
飛び込む前に、シューマンは結婚指輪を外して川に投げ込んでおり、これは16年前の1837年11月、クララへの求婚で悩んだシューマンが婚約指輪を深い池に投げ込んだのと同じ行為だった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}。
シューマンの寝室には、『主題と変奏』の浄書{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}と「愛するクララ、僕は結婚指輪をライン川へ投げ入れます。君もそうしてください。そうすれば、二つの指輪はひとつに結ばれるのです」という走り書きがあった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}。
シューマンが川に飛び込むところを漁師が目撃しており、彼は救助された{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}。
家に連れ戻されたシューマンは再び精神病院への入院を望み、[[ボン]]近郊のエンデニヒにあるゲイムラート・リヒャルツ博士が経営する療養所に収容されることになった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}。
3月4日、シューマンはエンデニヒに向かった{{sfn|ブリオン|1984|pp=404–406}}{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
このときクララは懐妊中であり{{efn|6月11日にフェリックスを出産した{{sfn|ブリオン|1984|pp=404–406}}。}}、消耗の極みに達していたために、医師がシューマンに会うことを許さず、彼の自殺未遂についても聞かされなかった。クララがこれを知ったのは、シューマンが死んで2年後のことである{{sfn|ウォーカー|1986|pp=166–170}}。
=== 晩年(1854年 - 1856年) ===
[[ファイル:Germany Bonn Endenich Schumannhaus Robert Schumann 2009 05 31.jpg|thumb|シューマンが没するまで過ごした[[ボン]]近郊エンデニヒの療養所(現シューマン記念館)]]
[[ファイル:Bonn graveyard robert schumann 20080509.jpg|thumb|シューマン夫妻の墓([[ボン]])]]
シューマンはエンデニヒで2年間を過ごした。リヒャルツ博士の療養所(現シューマン記念館[[:de:Schumannhaus Bonn]])は、広い庭園の中に建っており、シューマンは庭を自由に散歩できた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=408–409}}。
外出もしており、[[ボン]]で[[ベートーヴェン記念碑]]を訪ねている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}。
部屋には[[ピアノ]]や[[五線譜]]、筆記用具が備えられ、[[作曲]]もできた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=408–409}}。
エンデニヒにおいて、シューマンは[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]の[[24の奇想曲]]用のピアノ伴奏を補筆しており、ヨアヒムのオペラ『ハインリヒ4世』序曲のピアノ編曲もしている{{sfn|ブリオン|1984|pp=408–409}}{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。
クララと家族との面会はシューマンの神経を刺激しないために禁じられたが、ブラームスやヨアヒム、ディートリヒ、批評家の[[エドゥアルト・ハンスリック|ハンスリック]]らが面会に訪れた{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
シューマンがエンデニヒから出した手紙は、クララ宛が7通、ブラームス宛が4通、ヨアヒム宛が1通、長女マーリエ宛が1通残されており、のちにハンスリックによって公表された。クララ宛の手紙は子供たちへの心遣いを含めた愛情あふれる手紙となっている{{sfn|門馬|2003|pp=121–130}}。
また、1854年11月27日付けのブラームスに宛てた手紙には、ブラームスが作曲した『シューマンの主題による変奏曲』(作品9)についての批評を書き送っているが、ここには精神錯乱を思わせる箇所は全く見当たらない{{sfn|ブリオン|1984|pp=408–409}}。
シューマン自身は回復できると考えていたが、しかしその望みは日毎に薄れた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。
発音が困難になり、感覚の鈍磨が聴覚、味覚、嗅覚にまで広がった{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。
シューマンは絶え間なく部屋の中を歩き回り、ときにはひざまずいて手を組み合わせた。お前の作品は盗作だと非難する声が聞こえ、シューマンは興奮して「そんなことはない、嘘だ!」と叫んだ。食事を拒否することもしばしばで、次第にやせ衰えていった。1854年8月14日にシューマンを見舞ったブラームスによると、シューマンは突然[[ワイン]]を飲むのをやめ、毒が入っていると言って床に流したという{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}。
1855年の夏には、シューマンの伝記を書いたヴァジェレフスキがエンデニヒを訪れた。だれも聴いている者もいないのに、即興でピアノを弾いているシューマンの姿を「それはバネがこわれて、ときどき思い出したように動く機械のようだった」と述べている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。
1855年の秋、リヒャルツ博士はシューマンはもう回復の望みはないと診断した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。
1856年6月8日にブラームスがエンデニヒを訪れたときは、シューマンの足は腫れ上がり、ベッドに寝たきりとなっていた。このときシューマンは、地図帳から地名を拾い出し、正確にアルファベット順に並べる作業をしており、シューマンが好んだ言葉遊びが最後まで残っていた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。
7月23日にリヒャルツ博士から危急を知らせる電報を受け取ったクララは7月27日にエンデニヒに着き、2年ぶりにシューマンと再会した。「それは夕方6時から7時のころのことでした。彼は私を認めて微笑み、非常な努力を払って―もうその頃、彼は四肢の自由がきかなくなっていました―彼の腕を私に回しました。私はそれを決して忘れません。世界中の宝をもってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」とクララは述懐している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=411–412}}{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。
翌28日、シューマンの手足の痙攣が続き、クララはシューマンにワインを飲ませた。ワインの一部がクララの手の上にこぼれると、シューマンは嬉しそうにクララの指をなめた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}。
1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{efn|クララによれば、シューマンが死んだのは午後5時で、彼女が30分ほど目を離した間だったという{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。}}。
シューマンの最後の言葉は、「meine,……ich kenne… (私の…わかるよ…)」だった{{sfn|Eismann|1956|pp=197–198}}{{sfn|原田|1970|pp=208}}{{efn|クララの日記によればロベルトの最期の様子は次のとおりである。Nur Einmal verstand ich "meine", gewiß wollte er "Clara" sagen, denn er sah mich freundlich dabei an, dann noch einmal "ich kenne"--"Dich" wahrscheinlich.
{{sfn|Eismann|1956|pp=197}}。}}。
遺体は2日後にボンで埋葬された。ブラームス、ヨアヒム、ディートリヒが棺を担ぎ、グリルパルツァー{{efn|ウォーカーによる。門馬は「市長の一行がともに歩いた」としているが、市長の名前がグリルパルツァーかどうか不明。あるいは[[フランツ・グリルパルツァー]](1791年 - 1872年)か?{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}}}が弔辞を述べた。クララが葬儀をごく近しい友人にしか知らせなかったため、クララと[[フェルディナント・ヒラー|ヒラー]]以外に参列したのは、6年前にシューマン夫妻がデュッセルドルフに到着したとき、歓迎の[[セレナーデ]]を演奏した楽団コンコルディア・ゲゼルシャフトのメンバーだけだった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=170–172}}{{sfn|門馬|2003|pp=125–130}}。
==== クララと子供たち ====
[[ファイル:Robert und Clara Schumanns Kinder.jpg|thumb|シューマンとクララの子供たち(向かって左からルートヴィヒ、マーリエ、フェリックス、エリーゼ、フェルディナント、オイゲーニエ。1854年)]]
シューマンの死後、クララは子供たちとともに[[ベルリン]]に移った。1863年からは[[バーデン=バーデン]]を本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。クララは同時代で最高の女性[[ピアニスト]]としての名声を築き上げるとともに、シューマンの作品を弾く機会を逃さず、シューマンの曲のもっとも権威ある解釈者として信頼された。クララは1896年に76歳で没し、[[ボン]]のシューマンの墓にともに葬られた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=173–174}}。
シューマンの8人の子供は、長男エミールが1歳で亡くなったほかはみな成人した。長女マーリエは音楽教師として独身で過ごし、インターラーケンで死去した。次女エリーゼは、ゾンマーホフ(1844年 - 1911年)と結婚し、夫に先立たれた後は17年間独身で暮らした。三女ユーリエは、1869年夏ごろから[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]から心を寄せられていたが、ブラームスがそれを率直に打ち明けることはなく、イタリアの貴族ラディカーディ・ディ・マルモリート伯爵(1831年 - 1923年)と結婚した。ブラームスは傷心から『[[アルト・ラプソディ]]』(作品53)を作曲している{{efn|出版社に宛てたブラームスの手紙には、「私はここでシューマンの伯爵夫人のために花嫁の歌を書いた。―しかし、恨みを持ってそれを書いた。―立腹して書いた!」と述べている{{sfn|門馬|2003|pp=150–154}}。}}。次男ルートヴィヒは商店で働き、生涯独身だった。三男フェルディナントは銀行員となったが、シューマンに作曲を学び、作品を残している。四女オイゲーニエは独身で音楽教師となり、回想記を残した。末子のフェリックスは[[詩人]]を志し、彼の2編の詩にブラームスが付曲している。作品63の歌曲集中の「青春の歌1(わが恋は緑)」と「青春の歌2」である{{sfn|門馬|2003|pp=150–154}}。
=== シューマンの病気 ===
==== 死因 ====
シューマンが成人してから体験した症状は、麻痺、言語障害、けいれん、めまい、視力減退、耳鳴りなどがあった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
これらの原因がなんだったのか、100年近くの間、医学界では謎とされていた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=172–173}}。
また、シューマンの兄弟たちはみな短命で、シューマンより早く世を去っている。姉のエミーリエは原因不明の[[皮膚病]]にかかり、19歳の時に[[チフス]]で高熱の発作を起こし、川に投身自殺した。シューマンの祖父のいとこゲオルク・フェルディナント・シューマンも1817年に投身自殺しているが、この二人の自殺とシューマンの自殺未遂との関わりは不明である{{sfn|門馬|2003|pp=10–15}}。
シューマンの伝記を最初に書いた[[ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァジェレフスキ|ヴァジェレフスキ]]はシューマンの死因についてエンデニヒ療養所のリヒャルツ博士に問い合わせており、リヒャルツ博士は1883年にシューマンの検屍報告書を発表した{{efn|ウォーカーは1883年、ブリオンは1873年としており、ここではウォーカーに従った。あるいは両者は別々のものである可能性がある。}}。
これによると、シューマンの[[脳]]は摘出されて検査を受けており、シューマンの脳は同年齢の一般男子の脳と比べて軽く、[[萎縮]]していることが認められた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=172–173}}{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
リヒャルツ博士は、[[精神病]]の[[遺伝]]については否定している。シューマンの[[精神疾患]]は原発性の特異なもので、全[[神経組織]]を統合する力が徐々に、しかし遅滞なく衰弱していき、ここから[[心的障害]]が部分的に現れたとしている{{sfn|ブリオン|1984|pp=407–408}}。
さらに、その最初の根源はきわめて若いころにあり、それが年月とともに進行していったとしている{{sfn|門馬|2003|pp=121–125}}。
イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーは、リヒャルツ博士は最終的に、梅毒による全身麻痺だったと診断している。しかし、シューマンの病状に関する[[診療録|カルテ]]がエンデニヒの療養所から消えてしまい、この結論は確認できなくなった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=172–173}}。
これについてウォーカーは、リヒャルツ博士はクララに恥をかかせないために病院の記録を隠したのではないかと述べている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=172–173}}。
この結果、シューマンの病気については[[統合失調症]]、[[結核性髄膜炎]]、[[脳腫瘍]]といったあらゆる病気が当てはめられ、シューマンの伝記作者たちは、あやふやなまま提供されたさまざまな説に翻弄されることになった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=172–173}}。
1959年、[[精神病理学]]と[[神経病理学]]の専門家、マリオット・スレイターとアルフレッド・メイヤーは共同論文を発表し、医学的な証拠を残らず再調査した結果、シューマンのすべての病状に適合するのは[[梅毒|第三期梅毒]]しかないという結論を下した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}{{sfn|ウォーカー|1986|pp=172–173}}。
シューマンは1844年に「歌うような雑音」が聞こえると訴えており、これは第二期梅毒の典型的な症状に該当する。このことから潜伏期間を推定すると、シューマンが梅毒に感染したのは1830年から1831年の間と考えられる。このころシューマンは[[ライプツィヒ]]で無頼な日々を送っており、1973年に出版されたシューマンの当時の日記には、女性との性的交渉について細かい記録があった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=172–173}}。
その後、1994年にリヒャルツ博士によるシューマンのカルテが公開され、シューマンの死因が梅毒による[[進行性麻痺]]だったと報道された<ref>[https://web.archive.org/web/20000511190741/http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/konojune/94/94o7a.htm ロベルト・シューマンの死因は梅毒による[[脳軟化症]] 独で病状日誌を公開] - 94/03/18 東京夕刊 文化面</ref>。
==== 指の故障 ====
ウォーカーによれば、おそらく1830年に[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]のレッスンを受け始める前からシューマンは右手の不調に気づいていたという{{sfn|ウォーカー|1986|p=43}}。
その1年後、1831年の「自伝的覚え書き」にシューマンは「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と記している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
1832年にヴィークがクララの演奏旅行に同伴して[[ライプツィヒ]]に戻ったときには、シューマンの右手はまったく使えなくなっていた{{sfn|ウォーカー|1986|p=43}}。
シューマンの指の故障について伝えられているのは、シューマンは指の動きを均等化するために指の1本だけを吊りながら演奏するという機械装置を独自に考案し、右手の第4指ないし第5指の腱を傷めたというものである{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=138–140}}{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}{{sfn|門馬|2003|pp=78–82}}。
しかし、シューマン自身がこのように説明している記述はどこにもない{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
指の訓練機械について最初に触れたのは、ヴィークである。彼は1853年の著書『ピアノと歌』で「その指の訓練器は私のある有名な弟子が私の意に反して発明し、密かに使っていた。そして当然のこととして、第3、第4指を痛めてしまったのである」と述べている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
ヴィークはこの弟子がシューマンであるとは述べていないが、後世の解説者たちはこれをシューマンと結びつけた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
さらに、シューマンの四女オイゲーニエが父親が第3指を縛ってつり上げ、他の指で鍵盤を弾いたと述べたことで決定的となった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=138–140}}{{efn|縛った指についてウォーカーは「第3指」、ブリオンは「第4指」とそれぞれ述べているが、ここではウォーカーに従った。}}。
1889年、シューマンの研究家フリードリヒ・ニークス{{efn|ニークスは、クララやドルンらシューマンと関係の深かった人物へのインタビュー記録を元に1924年に『ロベルト・シューマン、伝記への補足と改訂』を著した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=186–187}}。}}がクララに会ってインタビューしたところ、クララはシューマンが故障した指は右手の第2指であり、固い無音鍵盤で練習したのが原因だと語った。ニークスは、それまで知られていた説と矛盾するクララの証言について、70歳という老齢による錯誤であろうとして信用しなかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
しかし、80年後の1969年、[[ライプツィヒ]]市の資料室からシューマンと軍司令官との間に交わされた未公開の書簡が発見された。シューマンは1842年に軍隊入りを志願したものの、手の疾患のために兵役免除となっていた。書簡にはシューマンの主治医ロイター博士の署名入り診断書が添えられており、右手の人差し指と中指が悪いと記されていた。これは、クララの証言を裏付けるものである{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
1971年、イギリスの音楽学者[[エリック・サムス]]([[:en:Eric Sams]])は、少なくとも一般的に知られているような形でのシューマンの指の「事故」はなかったとし、シューマンは[[水銀中毒]]のために運動機能に回復不能の症状を来したと仮定した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}。
[[19世紀]]当時、[[梅毒]]の治療には広く[[水銀]]が使われており{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}、この間、すでに述べたように1959年にスレイターとメイヤーの共同論文によって、シューマンの死因が[[梅毒|第三期梅毒]]であることが指摘されていた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=48–52}}{{sfn|ウォーカー|1986|pp=172–173}}。
== 音楽 ==
=== 評価 ===
[[ファイル:Robertschumann.jpg|thumb|[[ツヴィッカウ]]のシューマン像]]
シューマンと同時代のドイツの作曲家・音楽批評家[[ルイス・エーレルト]]([[:en:Louis Ehlert]], 1825年 - 1884年)は、著作『シューマンとその楽派』(1849年)において、「[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]が古典的時代の芸術の頂点なら、シューマンはわれわれの現代の時代意識を体現する存在になっている。彼の苦闘が結んだ愛には、必ず優しい、温和な守護神(天才)が宿っていて、われわれは人間的にそこへ惹きつけられる」と述べている{{sfn|前田|1983|pp=22–25}}。
また、[[19世紀]][[ロシア]]の作曲家[[ピョートル・チャイコフスキー]](1840年 - 1893年)は、「この世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない。シューマンの音楽は、ベートーヴェンの作品と有機的に結びつきながら同時に決定的にこれから離れ、われわれに新しい音楽形式の全体的な世界を拓き出し、そういう偉大な先駆者たちもいまだ触れたことのない弦を響かせている。そこにはわれわれの心的生活の秘かなプロセス―あの疑いと憂鬱と、理想を振り仰ぐまなざしと―今日の人の心を感動させるものが響きを発しているのだ」と述べている{{sfn|前田|1983|pp=22–25}}。
シューマンの創作の重要な時期は、3つの都市名で区分できる。[[ライプツィヒ]]時代(1828年 - 1844年)、[[ドレスデン]]時代(1844年 - 1850年)、[[デュッセルドルフ]]時代(1850年 - 1854年)である。この前後に、[[ツヴィッカウ]]の幼少年時代、[[エンデニヒ]]の最後の療養所生活、より短い期間では、[[ハイデルベルク]]と[[ウィーン]]での生活を挙げることもできる{{sfn|前田|1983|pp=218–220}}。
ライプツィヒ時代に書かれ、シューマンの名を一般に不朽のものとしているのは、[[ピアノ曲]]と[[歌曲]]である{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}{{sfn|前田|1983|pp=1–8}}。
[[作品番号]]の1番から23番まではすべてピアノ曲であり、20歳代のシューマンはピアノ作品に集中した{{sfn|前田|1983|pp=1–8}}。
作品24からは歌曲の創作が続く{{sfn|前田|1983|pp=85–89}}。
こうして、30代では1840年が「歌の年」、1841年が「[[交響曲]]の年」、1842年が「[[室内楽]]の年」、1843年には[[オラトリオ]]『[[楽園とペリ]]』が完成、というように分野が拡大されていった{{sfn|前田|1983|pp=1–8}}。
ドレスデン時代とデュッセルドルフ時代を通じて、オペラ『[[ゲノフェーファ]]』(作品81)、劇付随音楽『[[マンフレッド (シューマン)|マンフレッド]]』(作品115)、『[[ゲーテのファウストからの情景]]』(WoO 3)などさらに分野を拡大した。晩年には『[[ミサ曲 (シューマン)|ミサ曲]]』(作品147)や『[[レクイエム (シューマン)|レクイエム]]』(作品148)など[[宗教音楽]]も作曲したが、一般的に評価されていない。シューマンの芸術の幅が広がり、奥行きと深みを増すにつれて、反面、想像力の鮮やかな直観性、純粋な詩情、天才的なひらめきは重厚な構成に比重を譲っているように見られる{{sfn|前田|1983|pp=1–8}}{{efn|前田は、シューマンの中後期の作品理解、とくに大作への理解が遅れており、判断と評価の適正な基盤はまだ整っていないとしている{{sfn|前田|1983|pp=11–12}}。}}。
ブリオンは、[[ビーダーマイヤー]]的な家庭環境で育ったシューマンの音楽からは、良心も精神も純粋であって、充実して輝かしい人間性が内面的に成熟した場合の、静かな、無言の深い喜びが輝き出ているとし、これをドイツ・ロマン派の牧歌的な側面として位置づけている{{sfn|ブリオン|1984|pp=90–91}}。
また門馬は、シューマンの作品に[[行進曲]]の[[リズム]]が多く見られるのは、[[ナポレオン戦争]]のさなかに生まれたシューマンの幼児体験からの影響とする{{sfn|門馬|2003|pp=7–10}}。
一方でシューマンは技巧的な作品を否定しておらず、このことは幼年時代に[[イグナーツ・モシェレス|モシェレス]]を聴いて圧倒的感銘を受けたことやハイデルベルク時代に音楽で身を立てようと決心をしたきっかけが[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]の演奏だったことからもうかがえる。「技巧」へのロマン的賛美は、[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]への入門を決意した際にも強く意思されていた{{sfn|前田|1995|pp=9–10}}。
[[ファイル:Schumann Sy3 Incipit.gif|thumb|600px|[[交響曲第3番 (シューマン)|交響曲第3番]]「ライン」より第1楽章第1主題。3/4拍子で書かれているが、3/2拍子のように聞こえる{{sfn|池辺|2010|pp=30–31}}。]]
シューマンの作品には楽譜に対して実際の音楽の拍節が異なって聞こえる場合がしばしばあり{{sfn|ウォーカー|1986|pp=55–56}}、日本の作曲家[[池辺晋一郎]](1943年 - )はこれを「拍節マジック」と呼んでいる{{sfn|池辺|2010|pp=31–35}}。
また、池辺は、シューマンが『[[楽園とペリ]]』(作品50)において[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]よりも早く[[ライトモティーフ]]を使用していると指摘している{{sfn|池辺|2010|pp=166–170}}。
シューマンの作品全体の概観からは、作品がグループあるいは組になって作られている傾向が見て取れ、このように同じ分野の作品を立て続けに作曲した後に次の分野に移るという形で作品を残した作曲家は他に例がない{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}。
このことからウォーカーは、シューマンは[[心理学者]]のいう「循環気質」型の性格であり、彼のすべての業績は、その創造的衝動が潜行しては、また別な分野に再び現れて形成されているとする{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}。
この点、近年の資料研究によって未公開のスケッチや文書資料などが明らかにされ、交響曲をはじめとする大作品への意欲や、最高の普遍性を持った作曲家であろうとする願いが、シューマンの初期のころから根強く存在していたことが判明している{{sfn|前田|1983|pp=11–12}}。
例えば、1832年に『[[間奏曲集 (シューマン)|間奏曲集]]』(作品4)の着手前にシューマンはト短調のいわゆる『[[ツヴィッカウ交響曲]]』を試みている。1838年には2曲の弦楽四重奏曲、1839年にはピアノ協奏曲が試みられた。これらは完成されなかったが、後の交響曲や室内楽などの分野での成果を予告するものだった{{sfn|前田|1983|pp=89–92}}。
また、同一分野の作品を短期間に集中して書き上げることも特徴的で、例えば1842年、シューマンは作品41の3曲の弦楽四重奏曲を作曲するのに5週間とかからず、作品44の[[ピアノ五重奏曲 (シューマン)|ピアノ五重奏曲]]は6日間、作品47の[[ピアノ四重奏曲 (シューマン)|ピアノ四重奏曲]]は5日間で書き上げるなど、超人的な速筆ぶりは晩年まで変わらなかった{{sfn|ブリオン|1984|pp=286–287}}。
ブリオンは、このようなシューマンの作曲方法について、彼の有機的な創造性が、いわばいっぱいにせき止められた水がひとたび出口を見つけるや、鉄砲水の勢いで一気にほとばしり出るのに似ていると述べている{{sfn|ブリオン|1984|pp=371–372}}。
=== 批判的見解 ===
ブリオンは、一方でシューマンのこうした集中的な創作傾向はかえって自分自身を苦しめることにもなったとする{{sfn|ブリオン|1984|pp=286–287}}。
シューマンがひとつのことにこだわる傾向は作曲分野以外にも見られ、曲の中でリズムパターンに固執する例も多い{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
[[ドレスデン]]時代以降は精神障害に苦しみ、研究家の中には、これらの病気がシューマンの作曲活動に影響を及ぼし、彼の創造力の衰えとして結論づける論者もいる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}。
また、[[フェリックス・ワインガルトナー|ワインガルトナー]]以降の交響曲論者によって、シューマンの天才は初期のピアノ曲や歌曲にあり、交響曲その他の後期の作品には否定的な評価を与える見方がある{{sfn|前田|1983|pp=85–89}}。
例えば[[門馬直美]]は、シューマンの交響曲の音響的な基盤はピアノと室内楽であるとし、楽想的にもピアノ的なものが幅をきかせており、ヴァイオリンの音型などでもむしろピアノ向きだと思えるものが少なくないと指摘している{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}。
また、[[フランス]]の文学者[[アンドレ・ジッド]](1869年 - 1951年)は、シューマンと[[フレデリック・ショパン|ショパン]]のピアノ様式を端的に区別し、「シューマンは[[詩人]]であり、ショパンは[[芸術家]]である」と述べている。シューマンのピアノ曲には、ときにピアノを逸脱した独自性を示すことがあり、ピアノの鍵盤は詩的な表現のための道具として供される印象を与えるためである{{sfn|前田|1983|pp=85–89}}。
前田は、これらの見方について「結局、シューマンのピアノ曲はシンフォニックといわれ、シンフォニーはピアノ的といわれ、それぞれ否定的なニュアンスでいわれることが多いという事実である。しかし、同じことは肯定的にも捉えられ得る」と述べる{{sfn|前田|1983|pp=85–89}}。
シューマンの『[[フモレスケ (シューマン)|フモレスケ]]』(作品20)についての文章の中で、前田はシューマンの音楽について、程度の差こそあれ、「欠陥にもかかわらず」ありのままに愛されうる性格が著しく、形式的破綻すらも血の通ったひとつのドキュメントとして愛されることができる、としている{{sfn|前田|1983|pp=47–57}}。
=== 文学との関係 ===
[[ファイル:ETA Hoffmann 3.jpg|thumb|upright|[[E.T.A.ホフマン]](1776年 - 1822年)]]
[[ファイル:Friedrich Rückert..jpg|thumb|upright|[[フリードリヒ・リュッケルト]](1788年 - 1866年)]]
{{Quotation|シューマンの作品は、1770年に始まったロマン派文学の開花を音楽化したもののようにしばしば思われているが、むしろ、もっとも徹底的で完全な表現を追求するドイツ・ロマン派の天才の最高の発露のように思われる。|マルセル・ブリオン『シューマンとロマン主義の時代』p.38{{sfn|ブリオン|1984|pp=37–38}}}}
{{Quotation|文学における、音楽における「詩的なるもの Das Dichterische, Poetische」のまさに輻合する点に、シューマン芸術は源をもち続けたのだ。そういう根源的な意味でシューマンは「詩人」であったと思う。|前田昭雄『シューマニアーナ』pp.55-56{{sfn|前田|1983|pp=47–57}}}}
シューマンの読書好きは父親譲りで、主として[[文学]]と[[哲学]]を好んだ{{sfn|門馬|2003|pp=154–156}}。
シューマンは13歳のとき、当時興味を持った批評や詩、哲学的著作からの引用や自作の劇『精神』(未完)からの断章、両親の文章などを「スクランダー」という[[ペンネーム]]で『美しい黄金色の牧場の葉と花』としてまとめている。
また、1825年から1828年の間に書いた自作の文集を「ムルデ河畔のロベルト」というペンネームで『雑録』としてまとめている。このころ、シューマンは[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』をほとんど全部暗記し、友人たちからは「ファウスト」または「[[メフィストフェレス|メフィスト]]」などと呼ばれていた。
このほか、シューマンが手がけた文学作品として、[[コリオレイナス|コリオラン]]を題材にした合唱付きの悲劇『ランデンドルファー兄弟』や喜劇『レオンハルトとマンテリエ』、[[ジャン・パウル]]から影響を受けた『6月の晩と7月の昼間』という小説があるが、いずれも未完である{{sfn|ブリオン|1984|pp=75–78}}。
シューマンが[[文学者]]をめざさず[[音楽]]の道を選んだことについて、ブリオンは「シューマンにとって、限界があり、厳密さを欠く文章表現よりも、音楽はずっと豊かで、多様で、陰影があり、緻密な言葉を提供した」と述べている{{sfn|ブリオン|1984|pp=46–50}}。
初期の[[ピアノ曲]]にとくに関係が深いのが[[ジャン・パウル]]と[[E.T.A.ホフマン]]の二人である{{sfn|門馬|2003|pp=154–156}}。
例えば、シューマンの『[[蝶々 (シューマン)|蝶々]]』(作品2)はジャン・パウルの[[小説]]『生意気盛り』から着想された作品である{{sfn|池辺|2010|p=21}}。
また、『[[幻想小曲集]]』(作品12)、『[[クライスレリアーナ]]』(作品16)、『[[夜想曲集 (シューマン)|夜想曲集]]』(作品23)のそれぞれの題名はE.T.A.ホフマンの文学作品から採られており、いずれもロマン的憧憬に彩られている{{sfn|ブリオン|1984|pp=215–220}}。
シューマンは絶えず読んだジャン・パウルの全集の次のような部分にアンダーラインを引いている。
{{Quotation|「花は生きていて眠るからには、きっと子供や動物と同じように夢を見る。結局、生物はすべて夢を見るのだ」{{sfn|ブリオン|1984|p=48}}}}
シューマンの文学に対する豊かな素養は、[[歌曲]]の詩の選択にも反映されている。彼が選んだ詩人では、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]が44篇、つづいて[[フリードリヒ・リュッケルト|リュッケルト]]が42篇と多い。これに[[エマヌエル・ガイベル|ガイベル]]([[:de:Emanuel Geibel]], 1815年 - 1884年)がつづく。[[ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ|アイヒェンドルフ]]と[[ユスティヌス・ケルナー|ケルナー]]([[:de:Justinus Kerner]], 1786年 - 1862年)はそれぞれ20曲ずつとなっている。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]については歌曲は18曲とそれほど多くないが、より大規模な合唱作品がある{{sfn|門馬|2003|pp=413–416}}。
このほか[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー|シャミッソー]]、[[アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン|ファラースレーベン]]、[[ニコラウス・レーナウ|レーナウ]]、[[エドゥアルト・メーリケ|メーリケ]]、[[ルートヴィヒ・ウーラント|ウーラント]]([[:de:Ludwig Uhland]], 1787年 - 1862年)、[[フリードリヒ・ヘッベル|ヘッベル]]などの[[ドイツ]]詩人・作家、[[スコットランド]]の[[ロバート・バーンズ]]、[[デンマーク]]の[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]、[[イギリス]]の[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]などが採り上げられた{{sfn|門馬|2003|pp=413–416}}。
また、読書のほか[[自然]]を好み、散歩をよくした。[[ライン川]]や、とくに生まれ故郷[[ツヴィッカウ]]には強い愛着を抱いていた{{sfn|門馬|2003|pp=154–156}}。
シューマンは1845年に出版された[[アレクサンダー・フォン・フンボルト|フンボルト]](1769年 - 1859年)の『[[コスモス (フンボルト)|コスモス]]』を読んでこれを推奨している。ブリオンは、[[自然哲学]]者が自然との一致及び事物のほとんど[[予言#予言者|予言者]]的な幻影から[[宇宙]]体系を推論するように、シューマンが自然との[[パーン (ギリシア神話)|牧神]]的な一致から普遍的な魂の表現をつかみ取って作品とりわけ[[交響曲]]へ流入させていると述べている{{sfn|ブリオン|1984|pp=46–50}}。
== 作品 ==
{{Main|シューマンの楽曲一覧}}
=== 交響曲 ===
シューマンは生涯に計4曲の[[交響曲]]を作曲した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}。
交響曲の創作に本格的に進出したのは1841年からで、前年の1840年には[[ピアノ曲]]から[[歌曲]]への創作分野の転換があり、[[クララ・シューマン|クララ]]と結婚している。1841年には[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第1番]]「春」(作品38)と後に改訂される[[交響曲第4番 (シューマン)|ニ短調交響曲]]が書かれた{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}。
[[交響曲第2番 (シューマン)|交響曲第2番]](作品61)はシューマンの[[ドレスデン]]時代の作品である{{sfn|前田|1983|pp=189–190}}。
[[デュッセルドルフ]]時代に[[交響曲第3番 (シューマン)|交響曲第3番]](作品97)が書かれ{{sfn|ウォーカー|1986|pp=159–163}}、さらに1841年に書かれたニ短調交響曲が改訂され「第4番」(作品120)として出版された{{sfn|門馬|2003|pp=133–135}}。
なお、第1交響曲に先立つ1832年に『[[ツヴィッカウ交響曲]]』に取り組み、1841年には[[ハ短調]]の交響曲の構想もあったが、これらは完成されなかった{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}。
シューマンは[[ピアノ曲]]を創作するはるか以前から『[[ハムレット]]交響曲』などのスケッチを書いており、1829年には[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]に宛てた手紙に「交響曲を頭の中で書きました」と報告している。このように、交響曲への意欲はシューマンのごく初期から彼の中にあり、シューマンのピアノ作品は交響的イメージから発想されたり、交響的な次元に向かって開いていることが多い。第1交響曲はわずか4日でスケッチが完成されているが、こうした前提をふまえたものであり、霊感のみによって突然成就されたものではなかった{{sfn|前田|1983|pp=85–89}}。
シューマンの交響曲は、管弦楽編成の点では[[古典派音楽|古典派]]の延長線上にあり{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}、[[19世紀]]前半の[[ロマン派音楽|ロマン派]]交響曲として、また、ベートーヴェンやシューベルトからブラームスや[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]への橋渡し的存在として重要である{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}{{sfn|前田|1983|pp=22–25}}{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}。
これらの影響とは別に、シューマンの交響曲にはシューマンならではの個性や格調、筆致があり{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}、例えば1903年に古典的なシューマン評伝を書いたヘルマン・アーベルトは、「シューマンの交響曲の際だった特質は、第一に楽想の例外ない独創性と深い真摯さであり、また純粋な熱中の、われわれを抗いがたく引き込む飛翔力である」と述べている{{sfn|前田|1983|pp=20–21}}。
にもかかわらず、シューマンの交響曲は彼のピアノ曲のようには広く支持されていない{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}。
その理由の一つとして挙げられるのが、シューマンの管弦楽法についてであり、「オーケストレーションがときに鈍重で垢抜けない」{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}、「色彩的には華麗で明快なものではなく、どちらかといえばくすぶったような、曇りがちの天候のような響きを出す」{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}、「往々にして暗く重く、3度やオクターヴの平行が多く、楽器の使い方が技術的に問題」などといった批評が多く見られる{{sfn|前田|1983|pp=25–26}}。
このため、[[グスタフ・マーラー]]をはじめ、シューマンの交響曲のオーケストレーションに修正を加えて演奏する例が見られたが、近年ではオリジナルを尊重して手を入れない、あるいはリハーサルの段階で各パートのバランスを調整して問題を解決させた演奏が多くなっている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=117–121}}{{sfn|前田|1983|pp=25–26}}。
[[門馬直美]]は、こうしたシューマンの管弦楽の扱い方について、「未熟さがあるからだといわれることが多いが、逆に言えば、そこにシューマンの味があり、特色がある」としている{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}。
また、『西洋音楽史』のドナルド・グラウトは、シューマンの交響曲について次のように述べている。
{{Quotation|「彼の交響曲では、ときどき付帯的に絵画的なものを偲ばせることもあるが、彼は[[絶対音楽]]を望んだのであり、その理想はベートーヴェンであった。しかし全体として彼は、古典派の交響曲の様式の大らかさと有機的な統一を創り上げることに成功しなかった。シューマンの交響曲の美しさは、その細部とロマン主義的な精神の燃焼に在る」|ドナルド・グラウトによるシューマンの交響曲への論評{{sfn|前田|1983|pp=113–118}}}}
これに対して前田昭雄は、グラウトの評価を十分賛同できるとしつつ、「有機的統一に欠ける」という指摘は修正を要するとしている{{sfn|前田|1983|pp=113–118}}。
すなわち、シューマンの形式は決して新主題の羅列ではなく、形式原理が認識されなかっただけであり{{sfn|前田|1983|pp=130–131}}、「人は理解できぬものに対してはさしあたり否定的な評価を下すことになる」と述べている{{sfn|前田|1983|p=189}}。
=== 協奏曲 ===
シューマンは早い時期からピアノ独奏と管弦楽のための協奏的作品に取り組んでいるが、変ホ長調(1828年)、ヘ長調(1829年 - 1831年)、ニ短調(1839年)などはいずれも未完である。完成されたものとしては、[[ピアノ協奏曲 (シューマン)|ピアノ協奏曲]](作品54)、『序奏とアレグロ・アパッショナート(ピアノ小協奏曲とも)』(作品92)、『序奏と協奏的アレグロ』(作品134)などがある{{sfn|池辺|2010|pp=140–141}}。
ピアノ以外では、[[4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック]](作品86)、[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]](作品129)、ヴァイオリン独奏と管弦楽のための幻想曲(作品131)及び[[ヴァイオリン協奏曲 (シューマン)|ヴァイオリン協奏曲]](WoO 23)があり、[[池辺晋一郎]]は、「そんなふうに言われることはあまりないが、シューマンは実は協奏曲作家だ」と述べている{{sfn|池辺|2010|pp=140–141}}。
このうち、ピアノ協奏曲はロマン派時代の最も優れた協奏曲の一つである{{sfn|ウォーカー|1986|pp=139–140}}。
この曲は第1楽章が『幻想曲』として1841年に作曲されており、残りの楽章は1846年、[[ドレスデン]]で完成された{{sfn|ウォーカー|1986|pp=139–140}}{{sfn|門馬|2003|pp=438–440}}。
チェロ協奏曲は、シューマンが[[デュッセルドルフ]]に移ってまもない1850年10月に完成しているが、なぜ書かれたのかその理由ははっきりわかっていない。シューマンはかつて右手を痛めてピアニストになることを断念したとき、[[チェロ]]奏者になることも考えており、ウォーカーはおそらく多分にノスタルジーがあったからではないかとしている。初演は1860年で、シューマンの存命中には演奏されなかった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=139–140}}{{sfn|門馬|2003|pp=445–447}}。
また、ヴァイオリン協奏曲はシューマン最晩年の作品だが、楽譜を贈られた[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]がこの曲を採り上げることはなく、作曲から80年近く経った1937年に初演されている{{sfn|池辺|2010|pp=140–141}}{{sfn|門馬|2003|pp=441–444}}。
=== 室内楽曲 ===
シューマンは[[ギムナジウム]]に在籍していた1823年ごろから友人や知人の家で[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]らの室内楽を楽しみ、ピアノを担当した{{sfn|門馬|2003|pp=365–367}}。
室内楽曲のもっとも初期の試みとして、1828年から1829年にかけてハ短調の[[ピアノ四重奏曲]]やヴァイオリンとピアノのためのソナタがある。1839年6月にも2曲の[[弦楽四重奏曲]]を書こうとしているが、最初の部分だけで中絶した。1840年に[[クララ・シューマン|クララ]]との結婚後、シューマンは[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の弦楽四重奏曲を熱心に研究した。本格的に室内楽に取り組んだのは1842年であり、[[弦楽四重奏曲 (シューマン)|弦楽四重奏曲(3曲)]]、[[ピアノ五重奏曲 (シューマン)|ピアノ五重奏曲]]、[[ピアノ四重奏曲 (シューマン)|ピアノ四重奏曲]]などが書かれた{{sfn|門馬|2003|pp=365–367}}。
[[ドレスデン]]時代以降にはピアノ三重奏曲(3曲)やヴァイオリンソナタ(3曲)などがある{{sfn|門馬|2003|pp=386–402}}。
シューマンの室内楽曲は独特の幻想味にあふれている。古典的な伝統に従いながらも自由さを見せる構成の中に、巧妙な[[対位法]]がシューマンの幻想の広がりを妨げることなく織り込まれている{{sfn|門馬|2003|pp=365–367}}。
3曲の弦楽四重奏曲のほかは楽器編成に[[ピアノ]]を用いているほか、[[チェロ]]が愛好されていることが特徴である{{sfn|門馬|2003|pp=365–367}}。
また、[[古典派音楽|古典派]]的な多楽章形式を基礎に置いたもののほか、ピアノ曲の分野で好んだような小品集や組曲形式も見られ{{sfn|門馬|2003|pp=365–367}}、これらの作品では、シューマンは趣に富んだ楽器の組み合わせを考え出した{{sfn|ブリオン|1984|pp=346–347}}。
[[クラリネット]]とピアノのための『[[幻想小曲集作品73 (シューマン)|幻想小曲集]]』(作品73)、[[ホルン]]とピアノのための『[[アダージョとアレグロ (シューマン)|アダージョとアレグロ]]』(作品70)、[[オーボエ]]とピアノのための『3つのロマンス』(作品94)などは、本来[[ロココ]]風である[[管楽器]]とロマン的なピアノによる対話であり、これらはシューマンが[[18世紀]]と[[ロマン主義]]とを調和させ、均衡させることができた例である{{sfn|ブリオン|1984|pp=346–347}}。
=== ピアノ曲 ===
[[ファイル:Schumann - Kinderszenen, Op15 - Score 1st page.jpg|thumb|『[[子供の情景]]』(作品15)のスコア表紙]]
シューマンの作品23までの曲はすべて[[ピアノ曲]]である。ピアニストを目指して訓練したが指を痛めて断念、[[作曲]]に転向した経緯から、シューマンにとってピアノはもっとも親しい楽器だった{{sfn|門馬|2003|pp=187–189}}。
最初期には未出版の曲も含めてほとんど[[変奏曲]]ばかり書いており、作品1の『[[アベッグ変奏曲]]』も同様である{{sfn|門馬|2003|pp=193–194}}。
ピアノ書法の面では、ペダルの用法に特徴があり、『[[蝶々 (シューマン)|蝶々]]』(作品2)の終わりの部分では、属七の和音の構成音を次第に減らしていって最後に属音のみが残って消えるようにフェルマータを置いている。このようなペダルが不可欠な終わり方は『アベッグ変奏曲』の終曲にも見られる{{sfn|門馬|2003|pp=187–189}}。
『[[謝肉祭 (シューマン)|謝肉祭]]』(作品9)や『[[交響的練習曲]]』(作品13)において、シューマンは初期ロマン派の作曲家たちが直面していた大曲の音楽構成についてひとつの解決法を打ち出している。これらは、糸で連ねられた真珠のように、小品が途切れることなく演奏されていくという新しい形式の音楽である。[[19世紀]]前半には[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]や[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[フランツ・リスト|リスト]]らもピアノの小品を書いているが、シューマンの場合は小品の集まりが一つの曲として構成されていたり文学的・幻想的な関連で括られており、こうした曲のまとめ方はシューマン独自のものである{{sfn|ウォーカー|1986|p=55}}{{sfn|門馬|2003|pp=187–189}}。
また、シューマンは曲中で気に入ったリズムを導入すると、それにきわめて長く固執する性癖を持っていた。『交響的練習曲』の終曲や、ピアノソナタなどその他の作品でもそうした傾向が現れている{{sfn|門馬|2003|pp=187–189}}。
クララとの結婚をめぐる[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]との争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。すなわち[[ピアノソナタ第1番 (シューマン)|ピアノソナタ第1番]](作品11)、『[[幻想小曲集作品12 (シューマン)|幻想小曲集]]』(作品12)、[[ピアノソナタ第3番 (シューマン)|ピアノソナタ第3番]](作品14)、『[[子供の情景]]』(作品15)、『[[クライスレリアーナ]]』(作品16)、『[[幻想曲 (シューマン)|幻想曲]]』(作品17)などである{{sfn|前田|1995|pp=11–12}}。
[[マルセル・ブリオン]]は、クララとの結婚までの6年間はシューマンの作品にピアノ史上類のないほどの悲劇的な壮大さを与えており、これらの作品にクララへの思いが喜びや希望や苦痛や悲嘆の形で込められていないものは1小節もなかった、と述べている{{sfn|ブリオン|1984|pp=187–188}}。
ハンス・ヨーゼフ・オルタイルは、この数年間にシューマンが書いたすべての作品はクララとの関係を題材にしており、それらの核心をなすのが『子供の情景』だとする。この曲集はシューマン自身が正確に述べているように子供向きのものではなく、クララとのなれそめから1838年春の作曲時期に至るまでシューマンがヴィークの家庭との関わりではっきりと思い浮かべた過去の出来事を、音楽によって再創造した「思い出の対話」である{{sfn|オルタイル|1986|pp=332–333}}。
シューマンのピアノ曲には曲の開始部と終結部を同じフレーズとしているものが特徴的に見られ、例えば、『[[子供の情景]]』の第4曲「おねだりする子供」や『[[森の情景]]』(作品82)の第7曲「予言の鳥」がある{{sfn|ウォーカー|1986|pp=55–56}}。
また、[[シンコペーション]]を好み、しばしば表記上の拍と耳で聴く拍が違っている。例えば、『子供の情景』の第10曲「大まじめに(むきになって)」や『幻想小曲集』の第1曲「夕べに」などで、後者は、全曲を通じて3/8拍子に聞こえるが、楽譜は2/8拍子で書かれている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=55–56}}。
[[ジャン・パウル]]の影響によって、シューマンの初期のピアノ曲の基調には[[フモール]]の概念があり、『[[フモレスケ (シューマン)|フモレスケ]]』(作品20)では、この概念がタイトルそのものとなった。シューマン自身の説明によれば、「フモール」は独自のドイツ的な内容を持つものであり、「夢幻的」かつ「涙の下から微笑む」心である{{sfn|前田|1983|pp=35–36}}。
[[池辺晋一郎]]は、インスピレーションが詩的な想念となり、ピアノの音に転化していく。こういったことがシューマン独自の世界なのだ、と述べる{{sfn|池辺|2010|p=21}}。
一般に「シューマンのピアノ曲」として認知されているのは1839年の『4つの小品』(作品32)までであり、[[ドレスデン]]時代以降になると、[[ペダルピアノ]]のための『6つの練習曲』(作品56)、同じく『4つのスケッチ』(作品58)、『6つのフーガ』(作品60)、『4つのフーガ』(作品72)といった[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[対位法]]研究の成果を示す作品群が現れ、さらに、『[[子供のためのアルバム]]』(作品68)をはじめとした家庭向きあるいは教育向きとも見られるピアノ作品も書かれるようになった{{sfn|門馬|2003|pp=193–194}}。
また、1850年にシューマンは「若き音楽家への助言」を発表しており、これは『子供のためのアルバム』の序文としてよく使われている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=134–135}}。
=== 声楽曲 ===
==== 歌曲 ====
[[ロマン派音楽|ロマン派]]の[[歌曲]]の歴史の中で、シューマンはきわめて重要な役割を果たしている{{sfn|ブリオン|1984|pp=247–249}}。
ブリオンによれば、シューマンはロマン派の憧れそのものを、またそのもっとも本質的な特徴を体現しており、彼の歌曲は、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を除いては他のいかなる作曲家も及ばぬこの上ない調和を達成しているとしている{{sfn|ブリオン|1984|pp=247–249}}。
[[日本]]の[[音楽評論家]][[横溝亮一]](1931年 - 2015年)は、「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」と述べている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=188–195}}。
また、ウォーカーは、「もし、シューマンが歌曲しか書かなかったならば、彼はより大家と目されただろう」と述べている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}。
シューマンが本格的に歌曲の世界に足を踏み入れたのは1840年で、シューマンはこの年9月に[[クララ・シューマン|クララ]]との結婚を実現させている{{sfn|門馬|2003|pp=413–416}}。
シューマンは30歳であり、クララの存在が彼の想像力の源であった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}。
それまでピアノ曲を主体に書いてきたシューマンは、1839年にヘルマン・ヒルシュバッハに宛てた手紙に歌曲について「器楽曲と比べて立派な芸術と思っていなかった」と述べている。しかしこのシューマンの見解はめざましい転換を遂げ、歌曲の創作はシューマンにとって大きな意義を帯びることになった。これには、友人で[[声楽]]の教師だったオズヴァルト・ロレンツ(1806年-1889年)からの影響もあった{{sfn|門馬|2003|pp=413–416}}。
1840年だけでシューマンは120曲以上、生涯を通じては270曲以上の歌曲を作曲した{{sfn|門馬|2003|pp=413–416}}。
シューマンの文学に対する豊かな素養が詩の選択にも反映されていることについては、[[#文学との関係]]を参照のこと。
形式面では、変化有節形式と通作形式が目立って多く{{sfn|門馬|2003|pp=413–416}}、いくつかの歌曲集では、テーマ的な関連性を織り込む試みをなしとげている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}。
また、歌曲において従来は伴奏でしかなかったピアノの地位を向上せしめた。シューマンの歌曲では、ピアノは歌に対して対等であり、ときには作品を支配する役割を担っている。例えば、『[[詩人の恋]]』(作品48)の終曲は充実した独奏ピアノによって閉じられる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=96–97}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=250–253}}{{sfn|門馬|2003|pp=413–416}}。
このため、シューマンの歌曲は「歌声部の伴奏を持つピアノ曲」といわれることもある{{sfn|門馬|2003|pp=88–92}}。
==== オペラ ====
シューマンは「[[新音楽時報]]」で[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]の[[オペラ]]を痛烈に批判しており、自分でも優れたオペラを作曲したいと考えていた{{sfn|ブリオン|1984|pp=324–325}}。
シューマンの日記からは、オペラ化を計画した文学作品が多数挙げられる。[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]の『海賊』、『サルダナパラス』、[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン]](1600年 - 1681年)の『マルティブレの橋』、『魔術師』、[[E.T.A.ホフマン]]の『総督と総督夫人』、[[トマス・モア]]の『ララ・ルク』、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『ヘルマンとドロテア』、『ファウスト』などである。これらのうち、『ララ・ルク』や『ファウスト』はそれぞれ『[[楽園とペリ]]』及び『[[ゲーテのファウストからの情景]]』の[[オラトリオ]]的作品として結実した(下記参照)。また、『ヘルマンとドロテア』は、シューマンは友人のユリウス・ハマーに作品の手直しと台本化を依頼したが実現しなかった{{sfn|ブリオン|1984|pp=330–333}}。
シューマンが実際にオペラとして取り組んだのは2曲だが、このうち『海賊』は未完であり、『[[ゲノフェーファ]]』(作品81)のみが完成した{{sfn|池辺|2010|pp=163–164}}。
しかし、唯一のオペラである『ゲノフェーファ』も、優れた場面はあるものの、音楽・台本に一貫性を欠いており、親しまれているとは言い難い{{sfn|池辺|2010|pp=163–164}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=330–333}}。
==== 合唱曲 ====
[[トマス・モア]]原作による[[オラトリオ]]『[[楽園とペリ]]』(作品50)は、シューマンの出世作となった{{sfn|池辺|2010|pp=163–164}}。
また、後に書かれたバイロン原作による[[劇付随音楽]]『[[マンフレッド (シューマン)|マンフレッド]]』(作品115)や『[[ゲーテのファウストからの情景]]』も、[[ソロ (音楽)|独唱]]、[[混声合唱]]、[[児童合唱]]、[[オーケストラ|管弦楽]]による演奏時間約2時間の大作である{{sfn|池辺|2010|pp=163–164}}。
とくに『ゲーテのファウストからの情景』は、シューマンの全創作のうちでも作曲家の精力が最も集中された作品であり、前田は「作品番号はつけられていない。これは未完とか遺稿とかいう意味ではなく、シューマンにとって作品とか演奏とか、初演や初版の成功とかいう意味を超えた、芸術的実存を賭けての超作品という存在に、この音楽が育っていったことを意味している」と述べている{{sfn|前田|1995|pp=251–252}}。
このほか、独唱、合唱、管弦楽のための作品に『夜の歌』(作品108)、『ばらの巡礼』(作品112)、『王子』(作品116)、『うたびとの呪い』(作品139)、『小姓と王女について』(作品140)、『エーデンハルの幸せ』(作品143)などがある{{sfn|ブリオン|1984|pp=353–354}}。
舞台装置や衣装を必要とする大がかりな[[オペラ]]でなくこうしたオラトリオ的作品が多く書かれた理由は、シューマンが文学に造詣が深かったことと、彼が生きた時代が「[[市民]]の時代」黎明期であり、アマチュアや市民による合唱団が巷間に生まれつつあったことが背景にある{{sfn|池辺|2010|pp=163–164}}。
==== 宗教音楽 ====
[[宗教音楽]]に対してシューマンが真剣な情熱を注いだことはそれほど理解されていない{{sfn|前田|1995|pp=241–242}}。
シューマンは、「もしも[[聖書]]とシェイクスピアとゲーテを読み、それらを自分の中に取り入れてしまえば、もうその人にはなにも必要はない」と語っている{{sfn|門馬|2003|pp=102–105}}。
また、シューマンがアウグスト・シュトラッカリアンに宛てた1851年1月13日付けの手紙には、「芸術家の至高の目的が宗教音楽に対して創造的な力で貢献することであるのは確かなことです」と述べている{{sfn|前田|1995|pp=241–242}}。
1852年からは、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[ミサ曲 ロ短調]]や[[マタイ受難曲]]の演奏会も積極的に行っており、このころ『[[スターバト・マーテル]]』や[[フリードリヒ・リュッケルト|リュッケルト]]の詩による『ドイツ・レクイエム』、[[プロテスタント]]の典礼に基づくレクイエムやオラトリオなどの作曲も計画したものの、これらは実現しなかった{{sfn|前田|1995|pp=241–242}}。
とはいえ、シューマンの宗教音楽について、批評家は概して酷評を下している{{sfn|ブリオン|1984|pp=364–365}}。
例えば、シューマンの[[ミサ曲 (シューマン)|ミサ曲]]や[[レクイエム (シューマン)|レクイエム]]のテキスト選択についてシュピッタは、ロマン的、神秘的な性格、内密なものへの共感からなされていると述べているが、アウグスト・ライスマン(1825年 - 1903年)はこれらの作品の構成の弱さを指摘している。ダームスは、シューマンの[[器楽曲]]における[[対位法]]の熟達ぶりに比べて教会音楽における声部のポリフォニーが貧弱なのはどうしたわけかと疑問を投げかけ、シューマンのミサ曲とレクイエムは単に音楽的記録としてのみ取り上げるにとどめるべきで、演奏されるに値しないとまで述べている{{sfn|ブリオン|1984|pp=364–365}}。
=== シューマン全集の編纂とメトロノーム問題 ===
[[ファイル:Franz von Lenbach - Clara Schumann (Pastell 1878).jpg|thumb|upright|[[クララ・シューマン]](1878年、[[フランツ・フォン・レンバッハ]]([[:de:Franz von Lenbach]])画)]]
シューマンの死後まもない1856年、[[クララ・シューマン|クララ]]と[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]はシューマンの作品全集の出版について話し合った。全集の編纂には長い年月を要し、1879年から1893年にかけて全29巻のシューマン作品全集が[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]社から刊行された{{sfn|ウォーカー|1986|pp=57–61}}{{sfn|門馬|2003|pp=190–193}}。
この過程で、クララは1861年4月、シューマンの作品の[[メトロノーム]]指定を改訂することでブラームスと相談している{{sfn|門馬|2003|pp=190–193}}。ブラームスはクララに助言し、自分の演奏スピードを毎回記録し、平均値を取ることにした。その結果、メトロノーム指定を変更したのは[[ピアノソナタ第3番 (シューマン)|ピアノソナタ第3番]]、『[[幻想曲 (シューマン)|幻想曲]]』、『[[子供の情景]]』、『夜想曲集』(作品23)、『[[森の情景]]』の5曲にとどまり、その他のピアノ作品や管弦楽作品ほかについては変更がなかった。変更された5曲も、数値的にごくわずかなものだった{{sfn|門馬|2003|pp=190–193}}。
一方、指揮者・ピアニストの[[ハンス・フォン・ビューロー]](1830年 - 1894年)は、自身が校訂したヨハン・クラーマーの1869年版ピアノ練習曲集の序文に「シューマンが創作に携わっていた間、ずっと故障しているメトロノームを使っていたことはすでに広く知られるところである」と述べた。さらに1886年、シューマンの書簡集を刊行したグスタフ・ヤンゼン(1831年 - 1910年)は、その第1版に、シューマンの死後メトロノーム指定が正確でないことがわかり、シューマンの作品の多くはメトロノーム指定が不適切であるとしてビューローの見解を支持した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=57–61}}{{sfn|門馬|2003|pp=190–193}}。
1887年には、クララが自分の個人的な演奏習慣をもとにしたシューマンのピアノ作品の校閲版を同社から出版し、シューマンの与えたメトロノーム指定を大幅に改訂した。同時代を代表するピアニストであり、生涯を通じてシューマンの優れた解釈者でもあったクララの改訂は、シューマンのメトロノームが壊れていたという見解を公的に承認するものとなった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=57–61}}{{sfn|門馬|2003|pp=190–193}}。
しかし、例えば『[[子供の情景]]』において、第2曲「不思議なお話」でのシューマンのメトロノーム表示が♪=112であるのに対してクララの指定は♪=132であり、第3曲「鬼ごっこ」ではシューマンの♪=138に対してクララが♪=120と、クララの解釈はシューマンのメトロノーム表示と比較して速いものと遅いものが混在している。もしメトロノームが壊れていたとして、あるときには進み、またあるときには遅れるということは通常考えられない。しかも、シューマンは1853年に作曲家のフェルディナント・ベーメに宛てた手紙で、時計で自分のメトロノームをチェックして異常がなかったことを報告していた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=57–61}}。
ウォーカーは、この問題の発端はクララにあったとする。彼女はシューマンのメトロノーム表示を随時変更し、時折見られる「突飛な」テンポ指示について、シューマンのメトロノームが壊れていたせいだと口外していたと見られる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=57–61}}。
また、門馬も1887年のころまでには、クララはすでにシューマンの意図から離れて自分のテンポで演奏していたとしている{{sfn|門馬|2003|pp=190–193}}。
ウォーカーは、それでもシューマンのテンポ表示はしばしば不自然に速く聞こえるとしており、これについて、作曲家が譜面を見ながら頭の中で「演奏」した場合、実際の演奏よりも速くなりがちであることから、シューマンは頭の中のテンポにメトロノームを合わせたために混乱が起こったとしている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=57–61}}。
== 音楽評論 ==
=== 「新音楽時報」の創刊 ===
[[ファイル:Coffeebaum Leipzig.jpg|thumb|[[ライプツィヒ]]のコーヒー・ハウス、[[カフェ・バウム]]]]
シューマンの音楽評論活動は、1832年に[[ライプツィヒ]]の「一般音楽新聞 (Allgemeine musikalische Zeitung)」に投稿した「諸君、脱帽したまえ、天才だ」という有名な論文で[[フレデリック・ショパン|ショパン]](1810年 - 1849年)を紹介したことに始まる{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}{{efn|これはショパンの『[[ラ・チ・ダレム変奏曲]]』(作品2)についての論文だった{{sfn|ブリオン|1984|pp=165–167}}。}}。
当時[[ドイツ]]で有力な音楽雑誌に「一般音楽新聞」と「音楽芸術の女神 (Iris Gebiert der Tonkunst)」の二つがあり{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}、このうち「一般音楽新聞」は1798年創刊のドイツで最初の音楽雑誌として、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]作品の普及に大きな役割を果たした{{sfn|デーリング|1997|pp=173–174}}。しかし、1830年ごろには音楽評論の姿勢は保守的な極みにあり{{sfn|デーリング|1997|pp=173–174}}、同紙は以後シューマンの寄稿を不穏当と見なして掲載しなくなっていた{{sfn|ブリオン|1984|pp=165–167}}。
このころライプツィヒのコーヒー・ハウス「[[カフェ・バウム]]」で交わされる音楽談義には、シューマンのほか[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]やピアニストのユリウス・クノル(1807年 - 1861年)、画家のヨハン・ペーター・リューザー(1803年 - 1870年)、医者のモーリッツ・エミール・ロイター(1802年 - 1853年)、シューマンの友人でピアニストの[[ルートヴィヒ・シュンケ]](1810年 - 1834年)らがいた{{sfn|ブリオン|1984|pp=168–170}}。
彼らの話し合いから新しい音楽雑誌の計画が立ち上がり、1834年4月3日、「[[新音楽時報]]」(Neue Zeitschrift für Musik, 「音楽新報」とも)が創刊された{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=165–167}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}。
「新音楽時報」の意義と目的は、現在と未来を体現している若い音楽家の真価が認められ、耳を傾けてもらえるところまで働きかけて成果を得ることにあった{{sfn|ブリオン|1984|pp=165–167}}。
シューマン自身の言葉によれば、創造的な芸術家に出番を提供し、「彼自身の実力によるだけでなく、書かれた言葉で自分自身を表現するための機関を与える」ことだった{{sfn|デーリング|1997|pp=173–174}}。
このように、[[19世紀]]前半、[[ライプツィヒ]]で多くの重要な音楽雑誌が出版された中で、1834年に創刊された「新音楽時報」は、革新的であると自認する若い世代の作曲家や批評家たちからの強硬な反撃と見なすことができる{{sfn|デーリング|1997|pp=173–174}}。
「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノルで、シューマンは編集を手伝った。しかし、数ヶ月経たないうちにクノルが病気に倒れ、ヴィークはこの仕事に興味を失い、シュンケが肺結核のために1834年末に死去すると、シューマンがすべてを受け継ぐことになった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=42–43}}{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}。
=== 「ダヴィッド同盟」 ===
「新音楽時報」の誌面上で、シューマンは「ダヴィッド同盟」と称する架空の団体を創り出し、音楽界の俗物である[[ペリシテ人]]と戦うというコンセプトをもって評論を展開した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}。
「ダヴィッド同盟」の構成員にはシューマン自身や友人・仲間たちを想定し、評論の内容によって[[ペンネーム]]が付けられた。例えば「フロレスタン」は行動的な情熱家、「オイゼビウス」は優しい夢想家であり、シューマン自身の性格の二つの側面を代表している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=177–179}}。
また、「ラロ楽長(マイスター・ラロ)」は分別をわきまえた調停役であり、そのモデルとして[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]を想定する説やシューマンとクララの名前をつなげた claRARObert に由来するという推定がなされている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=177–179}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}{{efn|ウォーカーは、シューマンとヴィークが音楽的に見解の一致を見ることはめったになかったことから前者には無理があるとし、後者の名前の結合は興味深いとしている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}。}}。
「リヴィア」、「マリア」、「エレオノーレ」、「エストレリャ」、「キアリーナ」、「ツィーリア」などの女性名は、リヴィア・ゲルハルト、ヘンリエッテ・フォイクト、エルネスティーネ・フォン・フリッケン、そしてクララ・ヴィークら当時シューマンと交流のあった女性たちから採られた{{sfn|ブリオン|1984|pp=177–179}}。
このほか、「サーペンティヌス(蛇紳士。クララとの恋愛関係をめぐってライヴァルであったカール・バンクのこと)」や「クニフ(ライヴァル音楽批評誌の編集者フィンク (Fink)の逆読み)」など、特定の人物を当てこすったものもあった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}。
この手法は読者の好奇心をそそり、ライプツィヒ市民はこれらのペンネームの正体を自分たちがよく知っている音楽家の中から見つけようとした{{sfn|ブリオン|1984|pp=177–179}}。
シューマン自身は、死の2年前に次のように意図を語っている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=77–79}}。
{{Quotation|「芸術について対照的な考え方を表現するために、正反対の芸術的人格を創るのも悪くないと考えた。中でもフロレスタン、オイゼビウスと中庸を取る人物としてのラロ楽長はもっとも重要であった」{{sfn|ウォーカー|1986|pp=77–79}}}}
こうしたシューマンの音楽哲学は、彼が傾倒していた[[ジャン・パウル]]から着想を得ている。小説『生意気盛り』に登場する「ヴァルト」と「ヴルト」が著者ジャン・パウルの性格の対照的な二面を表すことをシューマンは察知しており、彼は[[対位法]]を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだと語っていた。一方、こうした二面性をシューマンの[[統合失調症]]の初期症状と考える解説者もいる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=77–79}}。
「ダヴィッド同盟」はシューマンの作品に実際に現れている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=77–79}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=177–179}}。
1835年に完成された『[[謝肉祭 (シューマン)|謝肉祭]]』(作品9)では「オイゼビウス」や「フロレスタン」など同盟の構成員が登場し、終曲は「ダヴィッド同盟員の行進」である。シューマンはここで低俗なペリシテ人に[[17世紀]]の「おじいさんのダンス」というメロディーを引用して当て、戯画化している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}。
同年完成の[[ピアノソナタ第1番 (シューマン)|ピアノソナタ第1番]](作品11)の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず、「[[クララ・シューマン|クララ]]に捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}。
1837年に完成された『[[ダヴィッド同盟舞曲集]]』(作品6)では、各曲に「E(オイゼビウスの頭文字)」や「F(フロレスタンの頭文字)」または「EとF」といったサインがあり、ところどころに「このとき、フロレスタンは黙っていたが、感情の高まりに唇は震えていた」などのメモが書き添えられている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=77–79}}。
=== シューマンの音楽批評 ===
[[ファイル:Schumann Neue Bahnen 1853 (Zeitschrift).pdf|thumb|「[[新音楽時報]]」に掲載されたシューマンの「新しい道」(1853年)]]
シューマンの音楽批評は、新しいドイツ近代音楽の特性を詩的に明確化するという目的を持っていた。[[フレデリック・ショパン|ショパン]]や[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]、[[ウィリアム・スタンデール・ベネット|ベネット]](1816年 - 1875年)、[[ジョン・フィールド|フィールド]](1782年 - 1837年)ら外国人作曲家も擁護したが、シューマンが意図したのは自分が生きる時代と風土に根ざした音楽固有の要素を明確に表現することであって、ショパンたちの天才も同様に時代と風土の所産だと考えたからである{{sfn|ブリオン|1984|pp=175–176}}。
一方でシューマンはイタリア音楽の影響をドイツ音楽の発展にとって有害と見なし、[[イタリア人]]を「[[カナリア]]」に例えて「[[ベルカント]]」の精神を批判した。[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]](1791年 - 1864年)に対して「虚ろなデクラマツィオン(劇的朗読。歌において言葉を音楽に優先させること)」とし、ロッシーニの[[コロラトゥーラ]]を無用として攻撃した。また、自作には[[フランス語]]の曲名や[[ドイツ語]]の音楽用語を与えて[[イタリア語]]の概念から逃れようとした{{sfn|ブリオン|1984|pp=175–176}}{{efn|速度や発想標語に母国語を使うようになったのはシューマンからである{{sfn|池辺|2010|p=45}}。}}。
シューマンは約10年にわたって「[[新音楽時報]]」を単独で主宰した{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}。
機知に富み、華麗で想像力あふれる彼の文章スタイルは読者の目を引き、「新音楽時報」は広く読者を増やして、全ドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌となった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}。
シューマンは音楽ジャーナリズムに確たる地歩を築き{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}、当初は作曲家としてよりもむしろ批評家としての名声を得た{{sfn|ウォーカー|1986|pp=72–76}}。
シューマンの評論活動は、彼が作曲家として自立するまで財政的な安定を与えることにもなった{{sfn|前田|1995|pp=10–11}}。
シューマンは1844年に「新音楽時報」の編集主幹を{{仮リンク|オズヴァルト・ロレンツ|de|Oswald Lorenz}}(1806年 - 1889年)に譲り、[[ドレスデン]]に移った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}。その後、常勤の編集部員には、カール・バンク(1809年 - 1889年)、ルートヴィヒ・ベーナー(1787年 - 1860年)、それに[[リヒャルト・ワーグナー]]も加わっている{{sfn|ブリオン|1984|pp=175–176}}{{sfn|門馬|2003|pp=82–84}}。
1853年、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]との出会いによってシューマンは10年ぶりに評論の筆を執り、「新しい道」と題する評論を書いてブラームスを世に紹介した。この評論は、ショパンの天才をいち早く発見したシューマンの最初の評論と呼応して、「天才は天才を知る」の見事な実例となっている{{sfn|前田|1995|pp=15–16}}。
「新音楽時報」の発行を中心とするシューマンの就筆活動は近代音楽評論の道を開くものとして大いに注目に値する{{sfn|ウォーカー|1986|pp=188–195}}。
その一方で、シューマンの論文は今日ではあまりにも心情的・主観的色合いが濃すぎるとされる{{sfn|ブリオン|1984|pp=386–387}}。
[[マールブルク大学]]教授のジークハルト・デーリングによると、シューマンは独自の芸術方針を貫くことに熱心だったが、偏った判断を避けることができなかったし、そうしようともしなかった。彼は熱狂的な情熱にとりつかれて音楽の進むべき道筋を示そうとしたが、音楽一般の発展を促そうとはしなかった。このような傾向に潜む考え方は、ロレンツから編集を引き継いだ[[フランツ・ブレンデル]]([[:de:Franz Brendel]], 1811年 - 1868年)が、もっぱら「[[新ロマン主義音楽|新ドイツ学派]]」だけを引き立てたことでいっそう明確になった{{sfn|デーリング|1997|pp=173–174}}{{efn|デーリングはブレンデルが編集を引き継いだのはシューマンからとしているが、ここではウォーカーに従ってロレンツとした{{sfn|ウォーカー|1986|pp=121–122}}。}}。
== 人物 ==
[[ファイル:Zwickaurschumann2.jpg|thumb|[[エルンスト・リーチェル]]によるシューマン夫妻の[[レリーフ]](1846年)]]
[[ファイル:Signature Robert Schumann-2.jpg|thumb|シューマンの[[サイン]]]]
シューマンは子供のころから晩年に至るまで日記を書き続けており、[[ツヴィッカウ]]のシューマンの生家の記念館には1828年から1853年までの旅日記がすべて保管されている。ブリオンは、シューマンの日記は後世の人に読ませる目的ではなく、彼にとって人間生活という荒れ狂う海を渡りぬくための航海日誌のようなものだったとしている。シューマンの妻となった[[クララ・シューマン|クララ]]も日記を付けており、しかも彼女が生まれた日から父親の[[フリードリヒ・ヴィーク|ヴィーク]]がクララの一人称で代筆し、娘が筆を持つことができるようになると自分で毎日書くよう求めていた{{sfn|ブリオン|1984|pp=272–275}}。
1830年ごろのシューマンについて、友人で楽長兼ピアニストだったトーマス・テークリヒスペックは次のように伝えている。
{{Quotation|「体つきはたくましいがすらりとした若者で、ほおはとくに赤いというほどではないが血色のよい、生気あふれた顔をしていた。耳の横からこめかみにかけて、たっぷり一房になってなでつけられている、少し長めに伸ばしたブリュネットの髪がその顔にたいへんによく合っていた。彼の目はくぼんでいて黒っぽく、熱狂的な光で輝いていた。彼の風貌全体が気品そのものだった」{{sfn|ブリオン|1984|pp=138–140}}}}
後年の[[精神障害]]もあって内向的とされるシューマンの性格だが、ブリオンによれば、もともとの人間嫌いではなく、若い娘たちとのつきあいを好み、友情を重んじた。集まりに招かれると、仲間たちの前で演奏を楽しんだ。友人のテプケンは青年時代のシューマンの様子を次のように語っている。
{{Quotation|「彼との共演は、彼がどの曲でも解釈と演奏法についてヒントを与え、実例で説明してくれたので、私にとって興味があると同時に、勉強になった。共同の楽しみの後では、たいてい彼の方からピアノによる幻想曲が即興で演奏され、彼は存分に才能を発揮した。実を言うと、シューマンから音楽が流れ出る様は、つねに私に楽しみを与えてくれたのであるが、どんな大音楽家のものを聞いても、これに匹敵するような楽しみを後には二度と味わったことがない」{{sfn|ブリオン|1984|pp=108–109}}}}
とはいえ、シューマン最初期のピアノ作品の独創的で華麗な意匠が評価される中でも、彼はより客観的で普遍性への要求を自分に課していた{{sfn|前田|1983|p=18}}。
{{Quotation|「お前の中から警句的な、機知的なものを取り除け―それはお前の本性にはない。単純に、自然に書け。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]はつねに良いお手本だ。正確と簡潔に慣れよ、表現の連続性にも。意味をぴたりと射当てる言葉を見出すまで、探しつづけること」|1831年10月17日付けシューマンの日記{{sfn|前田|1983|p=18}}}}
シューマン夫妻には、8人の子供が生まれた。クララは子供が生まれるたびに演奏活動を中断しなければならなかったが、シューマンは家族が増えることを喜び、子供たちと楽しく過ごしていた{{sfn|ウォーカー|1986|pp=131–140}}。
シューマンの四女オイゲーニエは、父の思い出の中で次のように述べている。「父が21歳のとき、ゲーテの詩から『黄金の杖』として選び出した銘は、父の性格をよく表しています。その詩とは次のようなものです。『広い世界と人生の中で、長い歳月をたゆまず努力し、つねに探求し、かつ創り出し、うちに閉じこもらず、円熟を志す』」{{sfn|ブリオン|1984|pp=310–311}}。
ブリオンは、シューマンが『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』の作者を人生の師として選んだのは正しかったが、彼の生涯がこの銘どおりとなったのはさらに見事だった、と述べている{{sfn|ブリオン|1984|pp=310–311}}。
=== バッハ、ベートーヴェン、シューベルト ===
シューマンは手紙に「私の手本とする双璧は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]と[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]です」(1838年、ジモーニン宛て)と書き、とくにバッハ(J.S.バッハ)については「私の確信するところでは、バッハには到底かないません。彼は桁違いです」(ケーファーシュタイン宛て)、「(バッハは)芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」(哲学者クリューガー宛て)などと記している{{sfn|ブリオン|1984|pp=163–164}}。
1840年に[[クララ・シューマン|クララ]]と結婚したシューマンは、二人でバッハの『[[平均律クラヴィーア曲集]]』を研究し、それが終わると、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]などウィーン古典派の[[弦楽四重奏曲]]を勉強した{{sfn|ブリオン|1984|pp=280–282}}{{sfn|門馬|2003|pp=95–100}}。
また、1845年に[[ドレスデン]]に移ったときにもバッハの[[オルガン]]曲を研究するためにピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けた[[ペダルピアノ]]を導入している{{sfn|ウォーカー|1986|pp=141–143}}。
[[デュッセルドルフ]]時代の1853年には、バッハの[[無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ]]全6曲と[[無伴奏チェロ組曲]]全6曲のピアノ伴奏部を作曲しているなど、折に触れてバッハ作品に立ち戻った{{sfn|ブリオン|1984|pp=386–387}}。
ベートーヴェンに関しては、6歳のころからピアノ作品に親しんでおり、1825年ごろからはピアノ連弾で[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番]]「英雄」を演奏していた{{sfn|門馬|2003|pp=174–179}}。
1828年からは[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]の演奏会でベートーヴェンの交響曲に接しており{{sfn|門馬|2003|pp=174–179}}、ベートーヴェンの9曲の交響曲の総譜のほか、弦楽四重奏曲(大フーガを除く全曲)、『[[ミサ・ソレムニス#ベートーヴェンのミサ・ソレムニス|ミサ・ソレムニス]]』、歌劇『[[フィデリオ]]』、[[ピアノ協奏曲第1番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第1番]]、[[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|同第4番]]、[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|同第5番]]、[[レオノーレ序曲第1番]] - [[レオノーレ序曲第3番|同第3番]]、[[コリオラン]]序曲、[[エグモント (劇音楽)|エグモント]]序曲、[[献堂式序曲]]、[[ピアノ三重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第7番]]「大公」、[[七重奏曲 (ベートーヴェン)|七重奏曲]]、ピアノソナタ全曲、『歌唱・ヴァイオリン・チェロ・ピアノのための25のスコットランド民謡集』の楽譜を所有していた{{sfn|門馬|2003|pp=148–150}}。
シューマンの『[[幻想曲 (シューマン)|幻想曲]]』(作品17)では、ベートーヴェンの歌曲集『[[遥かなる恋人に]]』から「恋人よ、あなたのために歌うこのメロディーを受け取って下さい」の箇所が引用されていることで知られる{{sfn|ウォーカー|1986|pp=89–91}}。
このほか、『[[子供のためのアルバム]]』(作品68)の第2曲「兵士の行進」にベートーヴェンの[[ヴァイオリンソナタ第5番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第5番]]「春」の[[スケルツォ]]楽章との類似が見られ、[[パロディー]]と考えられる。[[ピアノソナタ第2番 (シューマン)|ピアノソナタ第2番]](作品22)の終楽章でもベートーヴェンの[[ヴァイオリンソナタ第9番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第9番]]「クロイツェル」の終楽章を意識したと考えられている。もっとも引用が明確なのは『[[謝肉祭 (シューマン)|謝肉祭]]』(作品10)の終曲「ダヴィッド同盟員の行進」で、ここではベートーヴェンの[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番]]のフィナーレからの引用がはっきりと聴き取れる{{sfn|ウォーカー|1986|p=92}}。
[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]については、ライプツィヒに来て間もないころから友人たちと室内楽を演奏する際のお気に入りが[[ピアノ三重奏曲第1番 (シューベルト)|ピアノ三重奏曲第1番]]だった。シューマンはこのころからシューベルトに特別な親近感を抱き、「私だけのシューベルト」などと述べており{{sfn|ウォーカー|1986|pp=17–18}}{{sfn|門馬|2003|pp=36–47}}、1828年11月、シューベルトの死去が報じられたときには夜通し泣いたという{{sfn|ウォーカー|1986|pp=17–18}}。
1829年5月からの[[ハイデルベルク]]滞在中も、ピアノでもっとも多く演奏したのがシューベルト作品で、この時期に弾いたベートーヴェン作品はピアノ独奏曲ではなく室内楽曲が3曲のみだった{{sfn|門馬|2003|pp=139–147}}。
シューマンは1838年秋から[[ウィーン]]に滞在して[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[交響曲第8番 (シューベルト)|交響曲第8番]]を発見し、1839年3月に[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の指揮により初演された。このことは、1841年に[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第1番]]「春」が書かれたことと密接に関わっている{{sfn|門馬|2003|pp=341–344}}。
=== シューマンと同時代の作曲家たち ===
==== ベルリオーズ ====
シューマンの日記に[[エクトル・ベルリオーズ]](1803年 - 1869年)の名前が初めて登場するのは1834年5月末である。1836年6月23日付の手紙では、自作の[[ピアノソナタ第1番 (シューマン)|ピアノソナタ第1番]](作品11)をベルリオーズに送っている。ベルリオーズはこれに対し、序曲『宗教裁判官』(作品3)のスコアをシューマンに送った。序曲『宗教裁判官』は、シューマンが四手ピアノ版に編曲しており、これを同年3月の「[[新音楽時報]]」で紹介していた{{sfn|門馬|2003|pp=157–168}}。
ベルリオーズの音楽は、その想像力、燃え上がる幻想、情熱の激しさによってシューマンを圧倒し、シューマンは彼を「ダヴィッド同盟」の一員と見なしていた{{sfn|ブリオン|1984|pp=282–283}}。
とくに『[[幻想交響曲]]』をベートーヴェンの後継的な価値ある作品と位置づけ{{sfn|門馬|2003|pp=168–174}}、ベルリオーズの管弦楽法を詳細に研究し、彼の音楽の「[[フモール]]」を高く評価した{{sfn|ブリオン|1984|pp=282–283}}。
1843年1月、ベルリオーズは[[ライプツィヒ]]を訪れ、初めてシューマンと会った。滞在中、二人はたびたび食事し、顔を合わせた。しかしベルリオーズはピアノを好まず、シューマンの多くのピアノ作品になじめなかったという{{sfn|門馬|2003|pp=157–168}}。
またクララは1839年2月に[[パリ]]に演奏旅行しており、ベルリオーズに会ったが、よい印象を抱かなかった{{sfn|門馬|2003|pp=157–168}}。
メンデルスゾーンもまたベルリオーズに批判的であり、シューマンのベルリオーズ評価は彼らとの議論や口論の原因ともなった{{sfn|ブリオン|1984|pp=282–283}}。
==== メンデルスゾーン ====
[[ファイル:Felix Mendelssohn Bartholdy - Edward Magnus 1846.jpg|thumb|upright|1846年の[[フェリックス・メンデルスゾーン]](1809年 - 1847年)]]
[[フェリックス・メンデルスゾーン]](1809年 - 1847年)に対しては、シューマンはその才能を畏敬の念を持って眺め、「[[19世紀]]の[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]」と呼んだ{{sfn|ウォーカー|1986|pp=112–114}}。
1835年8月にライプツィヒで会って以降、二人の交際はメンデルスゾーンの死まで続いた{{sfn|前田|1983|pp=301–306}}。
一般的には、この二人の関係はシューマン側からの一方的・無制限の尊敬、メンデルスゾーン側からは適当な距離を置いた敬意及び度重なる援助と支持という形で了解されている。しかし、子細に見れば、シューマンのメンデルスゾーンへの態度は無条件の賛美ではなく、メンデルスゾーンの表現の過剰への反発や解釈上の衝突などが含まれていた。シューマンはメンデルスゾーンが指揮したベートーヴェンの[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第9交響曲]]について、第1楽章のテンポが速すぎると苦情を述べており、メンデルスゾーンの音楽の未来性については、回想録に次のように記している{{sfn|前田|1983|pp=301–306}}。
{{Quotation|「彼は、自分の使命が終わったことを感じているのだろうか。私はそうだと思う。『[[交響曲第2番 (メンデルスゾーン)|讃美の歌]]』以後の作品には、ひとはけの憂愁がしばしば尾を引く。彼の使命は終わった。彼自身がよく知っていた。すべて傷ましい」{{sfn|前田|1983|pp=301–306}}}}
==== ショパン ====
同年生まれの[[フレデリック・ショパン]](1810年 - 1849年)を、シューマンは1831年に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」として紹介した。
これはシューマンが発表した初めての評論である{{sfn|門馬|2003|pp=180–182}}。ショパンは1835年10月にライプツィヒを訪れ、シューマンはショパンの演奏を聴いて「[[新音楽時報]]」で報告した。その後も1836年から1842年までの間に、ショパンが出版したピアノ曲の大部分を「新音楽時報」で紹介した。シューマンはショパンを[[パリ]]で最高のピアニストであり、作曲家だと考えていた。ショパンに大曲がないことを嘆き、当初はさらに広範で深みのある音楽を期待していたが、やがてその望みは叶わないだろうと落胆した。ショパンの[[ピアノソナタ第2番 (ショパン)|ピアノソナタ第2番]](作品35)については全面的には支持せず、とくに終楽章については「これは音楽ではない」と述べている。一方のショパンは、シューマンの音楽にも批評にもほとんど無関心であり、たまに手紙でシューマンに触れることがあっても綴りを間違えたりした{{sfn|門馬|2003|pp=180–182}}。
==== リスト ====
[[ファイル:Franz Liszt 1846.jpg|thumb|upright|1846年の[[フランツ・リスト]](1811年 - 1886年)]]
シューマンと[[フランツ・リスト]]との関係は複雑なものだった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=114–117}}。
リストはシューマンをいち早く評価したひとりで、シューマンと共通する音楽観に立ってシューマンの詩的な音楽の理念を支持した。シューマンもリストも「詩的」という言葉を好んだが、二人においてこの言葉の意味するところは微妙に違っており、リストの場合はより[[標題音楽]]的な指向が強かった{{sfn|門馬|2003|pp=168–174}}。
リストはまた、シューマンの変奏技巧の巧みさにも着目していて、[[変奏曲]]に関してはベートーヴェンの後継者だと位置づけていた{{sfn|門馬|2003|pp=168–174}}。
リストはシューマンの作品の成長発展に深い影響を及ぼした{{sfn|ブリオン|1984|pp=284–285}}。シューマンは自作をすべてリストに送って助言を求め、リストがコンサートでシューマンの曲を演奏することに感謝していた{{sfn|ブリオン|1984|pp=377–379}}。リストはいずれシューマンにとってピアノはあまりにも物足りなくなると見抜き、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めている。シューマンが室内楽曲の分野に足を踏み入れたのは1842年である{{sfn|ブリオン|1984|pp=284–285}}。こうした経緯から、1840年に初めてリストに会ったシューマンは、「お互いに20年来の知己のように思えた」と語っている{{sfn|ウォーカー|1986|pp=114–117}}。
しかし一方で、シューマンはリストの成金趣味や上流階級志向に困惑を覚えた{{sfn|ブリオン|1984|pp=377–379}}。
また、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]によればリストは「スキャンダルと音楽的理想像との間を往復し続ける人物」であり、シューマンの妻[[クララ・シューマン|クララ]]はリストを「ピアノの粉砕者」と呼んでいた。シューマンはリストのあまりに華やかな個性に次第に耐えられなくなっていった{{sfn|ウォーカー|1986|pp=114–117}}。
シューマンの[[ドレスデン]]時代、1848年6月に二人の間に有名な諍いが起こっている。グスタフ・ヤンゼンの伝えるところによれば、リストがシューマン夫妻を突然訪問することになり、シューマンはリストを迎えるために音楽付きの晩餐会を準備した。しかしリストは約束の時刻から2時間も遅れてやってきた。音楽家たちがシューマンの[[ピアノ四重奏曲 (シューマン)|ピアノ四重奏曲]]を演奏すると、リストは「いかにも『ライプツィヒ流儀』だね」と評し、晩餐会は気まずい雰囲気となった。やがてメンデルスゾーンと[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]の功績について議論が始まると、リストはマイアベーアを賞賛してメンデルスゾーンを批判した。メンデルスゾーンは前年11月に世を去っており、怒りを爆発させたシューマンはリストの両肩をつかみ、「メンデルスゾーンのような音楽家をそんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫んで部屋を出て行った。リストはクララに向き直り、「彼は私にきついことをいわれましたが、彼は、私がそうした言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」と言った{{sfn|ウォーカー|1986|pp=114–117}}。
ウォーカーは、この事件を[[ライプツィヒ]]と[[ヴァイマル]]のほぼ20年間にわたる音楽界のライヴァル同士の争いの発端ともいえるものだったとしている。リストは1848年にヴァイマルに居を定め、この地を新しい音楽の拠点にしようとしていた。[[古典主義]]的理想を信じ、[[交響曲]]を守ろうとしたシューマンに対し、リストは標題に基づく[[交響詩]]を考案し、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]とともに「芸術の総合」を唱えるようになっていった。このような文化的分裂は、後の[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]とワーグナーをそれぞれの理論的頭目とする「ロマン派時代の大抗争」へと発展していく{{sfn|ウォーカー|1986|pp=114–117}}。
後にシューマンは長い手紙を書いてリストに送ってこの件を水に流した。手紙の最後は「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と結ばれている{{sfn|ブリオン|1984|pp=377–379}}。
事件後もリストはヴァイマルでシューマンの作品を指揮とピアノの両面にわたって積極的に取り上げている。『[[ゲーテのファウストからの情景]]』第3部、『メッシーナの花嫁』序曲、劇付随音楽『[[マンフレッド (シューマン)|マンフレッド]]』抜粋、[[交響曲第4番 (シューマン)|交響曲第4番]]、[[ピアノ協奏曲 (シューマン)|ピアノ協奏曲]]、[[4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック]]などである{{sfn|門馬|2003|pp=168–174}}。
==== ワーグナー ====
[[ファイル:Richard Wagner 1842.jpg|thumb|upright|left|1842年の[[リヒャルト・ワーグナー]](1813年 - 1883年)]]
[[リヒャルト・ワーグナー]]は[[ライプツィヒ]]の生まれであり、シューマンとの知己はワーグナーがまだ10歳代の1831年からである{{sfn|前田|1983|pp=306–307}}。
後にワーグナーは[[ドレスデン]]の[[ドレスデン国立歌劇場|宮廷歌劇場]]の指揮者を務め、シューマンがドレスデンに移ったことで再会するが、この二人が打ち解けることはなかった{{sfn|ブリオン|1984|pp=321–323}}{{sfn|門馬|2003|pp=100–102}}。
シューマンが交誼を結んだ[[フェルディナント・ヒラー]]の集いで二人は再三顔を合わせたものの、シューマンはワーグナーのオペラが好きになれず、[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]の影響下にあって、イタリア趣味に毒されていると判断した。また、「彼(ワーグナー)のおしゃべりの才能には呆れてしまう。彼の頭の中は、いつも自分の考えでいっぱいなのだ」と語った。これに対してワーグナーは「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができないのだ」と非難し、シューマンの傷つきやすい性格を「行かず後家」と称して嘲笑した{{sfn|ウォーカー|1986|pp=128–131}}{{sfn|ブリオン|1984|pp=321–323}}。
ワーグナーのオペラ『[[タンホイザー]]』については、シューマンは故意に沈黙を守った{{sfn|ブリオン|1984|pp=321–323}}。
1845年10月に『タンホイザー』に接したシューマンは、2年後の1847年8月7日に次のように記した。
{{Quotation|「タンホイザー、手短には論ずることのできぬオペラである。天才的な筆致によることは確かだ。もし彼が発明の才と同様に旋律の才にも恵まれた音楽家であったら、まさに時の要求する人であったろうに。このオペラについては多くのことがいわれようし、またその価値のある作品ではあるが、別の機会に譲る」{{sfn|前田|1983|pp=306–307}}}}
しかし、シューマンの詳細な評論は最後まで保留された{{sfn|前田|1983|pp=306–307}}。
シューマンのこのような態度は、後の[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]のワーグナーに対する態度に通じるものがある。ブラームスはワーグナーに終始距離を置いていたが、ワーグナーのブラームスに対する態度に比較すれば、ずっと公平なものだった。ブラームスは[[ウィーン]]から[[ヨーゼフ・ヨアヒム|ヨアヒム]]に宛てた手紙に、「いまワーグナーが当地にいる。そして僕はワグネリアンということになるだろう。もちろんこれは矛盾だが、当地の音楽家が彼に反対する軽率な仕方をみると、思慮ある人間としてはこの矛盾もあえて冒したくなるのだ」(1862年12月29日)と書いている{{sfn|前田|1983|pp=309–310}}。
== 楽器 ==
ロベルト・シューマンが演奏した楽器として非常によく知られているのは、[[コンラート・グラーフ]]のグランドピアノである。このピアノは、1839年にロベルトとクララが結婚した際、ピアノ製作者から贈られた物だった<ref>Litzmann. [https://doi.org/10.2307/916520 "Clara Schumann-Johannes Brahms: Briefe, 1853-96"]. ''The Musical Times''. '''68''' (1016): 899. [[デジタルオブジェクト識別子|doi]]:[[doi:10.2307/916520|10.2307/916520]]. [[ISBN|ISSN]] [[issn:0027-4666|0027-4666]]. [[JSTOR]] [https://www.jstor.org/stable/916520 916520].</ref>。この楽器はデュッセルドルフのシューマンの仕事場に置かれ、後にクララ・シューマンから[[ヨハネス・ブラームス]]に譲渡された。そして何箇所かに移送された後に[[ウィーン楽友協会|楽友協会]]が受け取り、現在はウィーンの[[美術史美術館]]に展示されている<ref>''[https://www.jstor.org/stable/j.ctt7rxmx Brahms and His World]'' (Revised ed.). Princeton University Press. 2009. p. 78. [[ISBN]] [[特別:BookSources/978-0-691-14344-6|<bdi>978-0-691-14344-6</bdi>]]. [[JSTOR]] [https://www.jstor.org/stable/j.ctt7rxmx j.ctt7rxmx].</ref>。
== 年譜 ==
(以下は[[門馬直美]]著『シューマン』に基づく{{sfn|門馬|2003|pp=7–12}}。)
* 1810年6月8日、[[ザクセン王国]][[ツヴィッカウ]]にて誕生。
* 1816年、6歳、デーナー経営の私立学校に入学。
* 1817年、7歳、このころヨハン・クンチュのもとでピアノの勉強を開始、[[ドレスデン]]で[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]指揮の[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の交響曲を聴く。
* 1819年、9歳。[[カルロヴィ・ヴァリ|カールスバート]]で[[イグナーツ・モシェレス|モシェレス]]の演奏を聴く。この頃[[ライプツィヒ]]で[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[オペラ]]『[[魔笛]]』を観る。
* 1820年、10歳。ツヴィッカウの[[ギムナジウム]]に入学。
* 1822年、12歳。詩篇150篇。序曲と合唱(農夫の合唱)
* 1823年、13歳。父の刊行する雑誌に短文を掲載しはじめる。
* 1825年、15歳。ギムナジウムで「ドイツ文学」サークルのリーダーとなる。
* 1826年、16歳。姉エミーリエが自殺。父アウグスト没。
* 1827年、17歳。この頃から[[ジャン・パウル]]に熱中する。リディ・ヘンパー、ナンニ・パッチュとの恋愛体験。アグネス・カールスと出会い、親しく交流する。
* 1828年、18歳。3月、ギムナジウムを修了。[[ライプツィヒ大学]]法科に入学する。[[バイロイト]]、[[アウクスブルク]]、[[ミュンヘン]]([[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]に会う)などを旅行。5月、ライプツィヒに到着。自作の歌曲をヴィーデバインに送る。[[フリードリヒ・ヴィーク]]の下でピアノを学びはじめる。
* 1829年、19歳。5月、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]、[[コブレンツ]]などを旅行し、[[ハイデルベルク]]に到着。[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]法科に移り、[[アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー|ティボー]]教授のサークルで音楽に親しむ。8月、[[スイス]]、[[イタリア]]に旅行。
* 1830年、20歳。フランクフルトで[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]の演奏を聴き、音楽家になることを決意。10月、ライプツィヒに戻りヴィーク家に下宿する。[[聖トーマス教会]]カントールのヴァインリヒに音楽理論を学ぶ。『[[アベッグ変奏曲]]』作品1。
* 1831年、21歳。ヴァインリヒの元を去り、ハインリヒ・ドルンに師事。『[[蝶々 (シューマン)|蝶々]]』作品2。
* 1832年、22歳。指を痛めて作曲家への転向を決意する。11月、『[[ツヴィッカウ交響曲]]』が[[ツヴィッカウ]]で初演される。[[ライプツィヒ]]の音楽雑誌『[[一般音楽新聞]]』に[[フレデリック・ショパン|ショパン]]を紹介する論文を寄稿する。『[[パガニーニ練習曲集]]』作品3。
* 1833年、23歳。10月に兄嫁ロザーリエ、11月に兄ユリウスが没。神経衰弱の症状が現れる。『[[クララ・ヴィークの主題による即興曲集]]』作品5。
* 1834年、24歳。音楽雑誌『[[新音楽時報]]』を創刊。エルネスティーネ・フォン・フリッケンと恋愛。
* 1835年、25歳。[[フェリックス・メンデルスゾーン]]が[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]の常任指揮者に就任。ヴィーク家でモシェレスに会う。[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の『[[幻想交響曲]]』についての評論を『新音楽時報』に寄稿する。12月、[[クララ・ヴィーク]]がメンデルスゾーンの指揮でライプツィヒでデビュー。『[[謝肉祭 (シューマン)|謝肉祭]]』作品9、[[ピアノソナタ第1番 (シューマン)|ピアノソナタ第1番]]作品11。
* 1836年、26歳。2月、母ヨハンナが没。
* 1837年、27歳。8月、クララとひそかに婚約する。9月、クララとの結婚の同意をヴィークに求めるが拒絶される。『[[ダヴィッド同盟舞曲集]]』作品6、『[[交響的練習曲]]』作品13。
* 1838年、28歳。10月から翌1839年4月まで[[ウィーン]]に滞在。『[[子供の情景]]』作品15、『[[クライスレリアーナ]]』作品16。
* 1839年、29歳。1月1日、[[フランツ・シューベルト]]の兄フェルディナントを訪問、[[交響曲第8番 (シューベルト)|交響曲第8番]]の草稿を発見する。『[[花の曲 (シューマン)|花の曲]]』作品19、『[[夜想曲集 (シューマン)|夜想曲集]]』作品23。
* 1840年、30歳。「歌曲の年」 2月、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]より哲学博士の称号を授与される。3月、ライプツィヒを訪れた[[フランツ・リスト|リスト]]と知り合う。9月、クララと結婚。『[[ウィーンの謝肉祭の道化]]』作品26、『[[リーダークライス作品24 (シューマン)|リーダークライス]]』作品24、[[リーダークライス作品39 (シューマン)|同作品39]]、『[[ミルテの花 (シューマン)|ミルテの花]]』作品25、『[[女の愛と生涯]]』作品42、『[[詩人の恋]]』作品48。
* 1841年、31歳。「交響曲の年」 9月、長女マーリエ誕生。11月、クララとともに[[ヴァイマル]]に演奏旅行。[[交響曲第1番 (シューマン)|交響曲第1番]]「春」、[[交響曲第4番 (シューマン)|ニ短調交響曲]](後に改訂)。
* 1842年、32歳。「室内楽の年」 2月、クララとともに[[ブレーメン]]などに演奏旅行。3月、一人でライプツィヒに戻る。弦楽四重奏曲作品41(3曲)、[[ピアノ五重奏曲 (シューマン)|ピアノ五重奏曲]]作品44、[[ピアノ四重奏曲 (シューマン)|ピアノ四重奏曲]]作品47。
* 1843年、33歳。「オラトリオの年」 ライプツィヒにやってきたベルリオーズと知り合う。4月、[[ライプツィヒ音楽院]]教授となる。次女エリーゼ誕生。12月、ヴィークと和解。[[オラトリオ]]『[[楽園とペリ]]』作品50。
* 1844年、34歳。クララと5ヶ月間の[[ロシア]]演奏旅行。「新音楽時報」の編集主幹を辞任する。12月、ライプツィヒ音楽院教授を辞職し、[[ドレスデン]]へ移り住む。
* 1845年、35歳。三女ユーリエ誕生。[[ピアノ協奏曲 (シューマン)|ピアノ協奏曲]]作品54。
* 1846年、36歳。2月、長男エミール誕生。クララとウィーン、[[プラハ]]などに演奏旅行。[[交響曲第2番 (シューマン)|交響曲第2番]]作品61。
* 1847年、37歳。6月、長男エミール没。7月、故郷[[ツヴィッカウ]]でシューマン音楽祭が開かれる。11月、メンデルスゾーン没。リーダーターフェルの指揮者となる。混声合唱団を創設する。[[ピアノ三重奏曲第1番 (シューマン)|ピアノ三重奏曲第1番]]作品63、同[[ピアノ三重奏曲第2番 (シューマン)|第2番]]作品80。
* 1848年、38歳。1月、次男ルートヴィヒ誕生。『[[子供のためのアルバム]]』作品68。
* 1849年、39歳。5月、[[3月革命]]の騒動を避けてドレスデンから避難。7月、三男フェルディナント誕生。オペラ『[[ゲノフェーファ]]』作品81、『[[マンフレッド (シューマン)|マンフレッド]]序曲』作品115、『[[森の情景]]』作品82。
* 1850年、40歳。1月、『楽園とペリ』が上演され、成功を収める。[[ブレーメン]]などへ演奏旅行。[[デュッセルドルフ]]市音楽監督の職を受諾。6月、ライプツィヒで『ゲノフェーファ』を上演。バッハ協会設立に尽力。9月、デュッセルドルフに移る。[[交響曲第3番 (シューマン)|交響曲第3番]]「ライン」作品97、[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]作品129。
* 1851年、41歳。デュッセルドルフの合唱団と管弦楽団とのトラブルが起こる。12月、四女オイゲーニエ誕生。『[[ばらの巡礼]]』作品112、[[幻想小曲集作品111 (シューマン)|幻想小曲集]]作品111、[[ピアノ三重奏曲第3番 (シューマン)|ピアノ三重奏曲第3番]]作品110、[[ヴァイオリンソナタ第1番 (シューマン)|ヴァイオリンソナタ第1番]]作品105、同[[ヴァイオリンソナタ第2番 (シューマン)|第2番]]作品121。
* 1852年、42歳。精神障害の症状が悪化。『[[レクイエム (シューマン)|レクイエム]]』作品148。
* 1853年、43歳。低ライン音楽祭にて[[交響曲第4番 (シューマン)|交響曲第4番]]が演奏され大成功を博す。9月、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]と出会い、「新音楽時報」に「新しい道」を寄稿。『音楽と音楽家についての著作集』をまとめ、出版に向けて準備(翌1854年刊)。[[ミサ曲 (シューマン)|ミサ曲]]作品147、『[[ゲーテのファウストからの情景]]』、[[ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲]]作品131、[[F.A.E.ソナタ]]。
* 1854年、44歳。1月[[ハノーファー]]旅行。2月、幻聴などの精神症状が悪化、[[ライン川]]に投身自殺を図る。3月、[[ボン]]近郊エンデニヒの療養所に収容される。6月、四男フェリックス誕生。
* 1856年、7月29日、46歳で没。
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}}
* [[シューマンの楽曲一覧]]
* [[ロマン派音楽]]
* [[新音楽時報]]
* [[クララ・シューマン]]
* [[ヨハネス・ブラームス]]
=== シューマンを題材にした作品 ===
; 映画
* 『[[愛の調べ]]』:1947年のアメリカ映画。クラレンス・ブラウン製作・監督、[[ポール・ヘンリード]]、[[キャサリン・ヘプバーン]]ほか出演。
* 『[[哀愁のトロイメライ/クララ・シューマン物語|哀愁のトロイメライ]]』:1981年のドイツ映画。監督はペーター・シャモニ。[[ナスターシャ・キンスキー]]ほか出演。
* 『[[クララ・シューマン 愛の協奏曲]]』:2007年のドイツ映画。
; 音楽作品
* [[ハインツ・ホリガー]]:『灰の音楽―ロマンセンドレス ''Romancendres''』(2003年) - クララにより廃棄されたシューマンの最晩年の曲『ピアノとチェロのためのロマンス』(1853年、1893年廃棄)に触発されて作曲したピアノとチェロのための作品<ref>[http://phoenixhall.jp/newslist/3/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC ハインツ・ホリガー インタビュー―10月フェニックスに来演する「スーパー」オーボエ奏者ハインツ・ホリガー 思いのすべて 音楽が語る]、[[ザ・フェニックスホール]]、[[2012年]][[7月4日]]</ref>。
; 小説
* [[奥泉光]]:『シューマンの指』(2010年)
=== その他 ===
[[小惑星]][[シューマン (小惑星)|(4003) Schumann]]はシューマンの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4003|title=(4003) Schumann = 1933 FG1 = 1964 ED = 1967 RK1 = 1968 UL3 = 1974 SE2 = 1978 GM4 = 1980 RH2 = 1980 TP6 = 1981 WV8|publisher=MPC|accessdate=2021-10-03}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=門馬直美|authorlink=門馬直美|translator =|year=2003|title=シューマン|publisher=[[春秋社]]|isbn=439393167X|ref={{SfnRef|門馬|2003}}}}
* {{Cite book|和書|author=前田昭雄|authorlink=前田昭雄|translator =|year=1983|title=シューマニアーナ|publisher=[[春秋社]]|isbn=|ref={{SfnRef|前田|1983}}}}
* {{Cite book|和書|author=音楽之友社編|translator =|year=1995|title=作曲家別名曲解説ライブラリー23 シューマン|publisher=音楽之友社|isbn=4276010632|ref={{SfnRef|前田|1995}}}}
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* {{Cite book|和書|author=マルセル・ブリオン(:fr:Marcel Brion)|authorlink=:fr:Marcel Brion|translator =喜多尾道冬、須磨一彦|year=1984|title=シューマンとロマン主義の時代|publisher=国際文化出版社|isbn=4875460163|ref={{SfnRef|ブリオン|1984}}}}
* {{Cite book|和書|editor=ハンス=ヨーゼフ・オルタイル|editor-link=ハンス=ヨーゼフ・オルタイル|translator =[[喜多尾道冬]]、荒木詳二、須磨一彦|year=1986|title=ローベルト クララ シューマン 愛の手紙|publisher=[[国際文化出版社]]|isbn=4875460244|ref={{SfnRef|オルタイル|1986}}}}
* {{Cite book|和書|editor=アレグザンダー・リンガー|editor-link=アレグザンダー・リンガー|others=[[西原稔]]監訳|year=1997|title=西洋の音楽と社会7 初期ロマン派 ロマン主義と革命の時代|publisher=音楽之友社|isbn=4276112370|ref={{SfnRef|デーリング|1997}}}}
* {{Cite book|和書|author=原田光子|authorlink=原田光子|translator =|year=1970|title=真実なる女性クララ・シューマン|publisher=[[ダヴィッド社]]|isbn=978-4804801155|ref={{SfnRef|原田|1970}}}}
*{{Cite book|first=Georg|last=Eismann|year=1956|title=Robert Schumann Ein Quellenwerk über sein Leben und Schaffen|publisher=Breitkopf und Härtel|ref=Eismann 1956}}
== 録音 ==
* Jörg Demus. Robert Schumann, Clara Schumann. [https://www.discogs.com/Robert-Schumann-Clara-Schumann-Schumanns-Clavier/release/14833806 Schumann's Clavier.] Played on the original 1839 Graf piano.
* Alexander Melnikov. Robert Schumann. [http://theclassicalreviewer.blogspot.com/2015/09/those-investing-in-alexander-melnikovs.html Piano Concerto.] Played on the original 1837 Erard piano and the 1847 Streicher piano.
* Penelope Crawford. Robert Schumann. [https://www.musicaomnia.org/release/robert-schumann-kinderszenen-digital-download/ Kinderszenen Op.15 - Abegg Variations Op.1]. Played on an antique 1835 Graf piano.
== 外部リンク ==
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* {{IMSLP|id=Schumann, Robert}}
* {{Kotobank|シューマン(Robert (Alexander) Schumann、作曲家)}}
* [http://schumann.jpn.org/introduction.html 日本シューマン協会]
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大河ドラマ
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『大河ドラマ』(たいがドラマ)または『NHK大河ドラマ』は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKによる歴史ドラマシリーズの総称。略称は大河。 日本史上実在した人物の生涯を描いた作品や群像劇が多いが、ドラマオリジナルの架空の人物を通して時代そのものを描き出す作品もある。
1984年から1986年にかけて放送された新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。
放送形態は1回45分・日曜夜・1年間(50回前後)。
主人公には侍やその周辺の人物が選ばれることが多いが、商人や作家などの作品もある。逆に、後白河天皇・後醍醐天皇・明治天皇などの日本史を語る際に欠かせない歴代天皇は重要な登場人物のひとりとされても、主役に選ばれたケースは60余作で一度もない。
第1作が放送された1963年当時は1月開始ではなく、4月の番組改編期からスタートしていた。
第1作放送開始以来、後述のように変則的な制作や放映クールが採用されたことはあっても枠としての中断はなく、『連続テレビ小説』と並んでNHKひいては日本ドラマの代表格としてメディアなどでも取り上げられ、視聴率の変遷が話題になることも多い。
放送期間:放送年のみ記載の作品は、以下の特例を除きその年の1月から12月の1年間(「放送サイクル」も参照)。
主人公:太字=女性。=架空の人物。=別名或いは旧姓。
主人公となる人物の一代記を取ることが多いが、忠臣蔵もの(特に最初の『赤穂浪士』)など、比較的短時日のドラマを1年間かけて描くものも少数ながら存在する。『利家とまつ』や『功名が辻』のような夫婦をダブル主人公とする形式や、『国盗り物語』『草燃える』『炎立つ』『葵 徳川三代』『いだてん〜東京オリムピック噺〜』のように主人公が交代する形式もある。通常は平安時代以降から明治時代までを舞台とするが、『山河燃ゆ』『春の波涛』『いのち』『いだてん〜東京オリムピック噺〜』は近現代を描いている。
草創期は既存の歴史小説を原作としたものが多かったが、『三姉妹』『春の坂道』『黄金の日日』のように大河ドラマ制作のために原作が企画され、書き下ろされることもあった。また複数の小説を原作とすることや、原作にない期間をオリジナル脚本で補うこともしばしば行われていた。完全なオリジナル脚本の作品は18作目の『獅子の時代』が最初である。2010年代以降は2011年の『江』と2018年『西郷どん』を除きオリジナル脚本となっている。これについて『どうする家康』でチーフプロデューサーを務めた磯智明は、2010年以降インターネットとSNSの影響で時代考証に関する質問が増加するようになり、原作が採用している説や描写についても時代考証的に正しいか判断する必要が生まれたこともあり、原作を採用しない方針を取っているとしている。
井伊直弼、原田甲斐、平清盛、平将門、柳沢吉保、北条政子、足利尊氏、日野富子、明智光秀等々、一般的には歴史上ネガティブなイメージを持たれた人物を主人公に据え、新解釈によってその人物の人間的側面を掘り下げて魅力的に描く手法(そういった原作を採用する事)が度々採られてきた。 架空の人物が主人公となることもあるが、『いのち』は主要キャストに歴史上の人物が登場しない異色の作品となった。
一代記となる形式の場合は、出生から幼少期までを子役が演じ、青年期以降を本役の俳優が演じることが多い。ただし『江』や『鎌倉殿の13人』のように幼年期・少年期を成人した本役の俳優が演じることもある。
「大坂城」や「屋敷門の炎上」、「関ヶ原の戦い」など、過去の作品で使用した場面が何度も使われるケースがある。題材となる人物やテーマに所縁のある地方とタイアップする事も多い。また、歴史上の人物の節目に因んで、テーマが選択される事もある。三谷幸喜が奈良時代の舞台設定を提案するも、戦国時代や江戸時代などのように、衣装やセットを使いまわしできず全部新作しなければならず金がかかると拒否された事例もあり、狭い歴史時代範囲で制作されている。
主人公をヒーロー/ヒロインまたは現代的感覚を持った人物として描こうとするため、その人物の暗い側面に関しての描写が曖昧であったり、歴史学上の定説と離れた演出が加えられることもある。このことに関し、NHK側は「大河ドラマはドキュメンタリーではなくあくまでドラマであり、演出も必要である」と述べている。また、『鎌倉殿の13人』で歴史考証者を務めた坂井孝一は、作業内容は、スタッフに歴史の大枠や特徴は説明して、脚本の不自然な点や言葉をチェックして提言するが、歴史的な厳密さより研究とは別だと製作側のドラマとしての脚本の話の面白さを優先する場合もあるという。なお、『いだてん〜東京オリムピック噺〜』のように、「このドラマは史実を基にしたフィクションです」という注釈テロップが付けられることもある。『徳川慶喜』のように、ドラマでの描写を機に、それまで否定的に見られていた人物の評価が見直されたりする。
第一作とされている『花の生涯』放送開始時には、「大型時代劇」という名称で呼ばれていたが、同枠のドラマが本数を重ね、さらに次第に歴史ドラマとして注目されるようになると「大型歴史ドラマ」の名称が用いられるようになった。シリーズ15周年を記念して発売された2枚組LPレコード『NHK大型歴史ドラマの15年 花の生涯から花神まで』(ポリドール)のタイトルにもそれが現れている。
一方、第二作の『赤穂浪士』放送直前の1964年(昭和39年)1月5日の読売新聞が『花の生涯』と『赤穂浪士』を「大河小説」になぞらえて「大河ドラマ」と表現し、その後一般でも「大河ドラマ」の名称で呼称されるようになった。1977年(昭和52年)3月、NHKでシリーズ15周年記念番組『大河ドラマの15年』を放送。これがNHKが公式に「大河ドラマ」の名称を用いた最初である。レコードや書籍にも「大河ドラマ」の名が使われるようになり、やがて本放送時にも「大河ドラマ」とシリーズ名が明示されるようになった。
なお、 「大河ドラマ」という表記自体が大河ドラマでテロップもしくはそれに準ずる形で初めて登場したのは、第40作『北条時宗』の副音声解説である。テロップではその翌年の第41作『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の冒頭、オープニングタイトルでは、第43作『新選組!』からである。
原則1年1作で、1月初回、12月最終回である。初期は年内いっぱいの52回放送していたが、のちに正月3が日と12月下旬は特別番組に枠を譲り、50回放送が典型となった(年末年始2週間は放送休止する計算となる)。2018年以降は、NHKの働き方改革の影響を受け、47回放送となり、特別編の挿入や選挙などの報道特別体制時に番組休止を挟むようになった。
1990年代前半には、大河のスリム化が図られ、放送サイクルが変則的になった。連続テレビ小説と同じ年度別2作品の方式とするべく、第31作『琉球の風』を6か月(1993年1月-6月)、第32作『炎立つ』を9か月(1993年7月-1994年3月)にそれぞれ短縮し、以降は半年ずつの放送サイクルとするはずであった。しかしこの計画が不評だったためか、第33作『花の乱』も9か月(1994年4月-12月)とし、第34作『八代将軍吉宗』(1995年)からは再び1年1作のサイクルに戻った。
第59作『麒麟がくる』は、新型コロナウイルスの影響で制作・放送スケジュールに遅れが生じたため、放送が越年。次回作『青天を衝け』の放送期間が1か月短縮されている。
この他に、第30作『信長 KING OF ZIPANGU』から第33作『花の乱』までの4作品は、NHKの子会社であるNHKエンタープライズに制作が委託されていたが、『八代将軍吉宗』でNHK東京本部の単独制作に復帰した。
出演者は、通常のドラマでは主役級の俳優・女優が共演することが多く、これに名脇役と呼ばれる俳優や舞台俳優・歌手・アイドル・お笑い芸人など多彩なキャストも加わるため、普段は見られない顔合わせがよく見られる(このことは連続テレビ小説でも同様に言える)。
番組初期は五社協定により映画会社所属の俳優はテレビ出演が制限されていたため、新劇の俳優や歌舞伎俳優が多く起用された。
第3作『太閤記』では緒形拳、高橋幸治、石坂浩二ら無名の新人俳優が抜擢され、一躍人気スターとなった。
五社協定消滅後も、第16作『黄金の日日』で石川五右衛門と杉谷善住坊を演じた根津甚八と川谷拓三や第21作『徳川家康』で織田信長役を演じた役所広司、第25作『独眼竜政宗』で主演した渡辺謙は番組がきっかけで一躍有名になり、2000年代に入ってからは『北条時宗』に出演した北村一輝、『新選組!』に土方歳三と山南敬介で出演した山本耕史や堺雅人、『真田丸』に出演した高木渉などが、大河ドラマに出演したことをきっかけとして活躍の場を広げることになった。
なお、連続テレビ小説と異なり、同じ俳優が別作品で同一人物を演じる例がしばしば見られる。端役で登場するケースもあるが、同じ役で共演する主要な役では第3作『太閤記』で豊臣秀吉を演じた緒形拳、織田信長を演じた高橋幸治が第16作『黄金の日日』で揃って同じ役を演じ、第11作 『国盗り物語』で徳川家康を演じた寺尾聰と第35作『秀吉』で豊臣秀吉を演じた竹中直人が共に第53作『軍師官兵衛』で同じ役を演じたケースがある。他に同一人物を演じた主要役の例として、織田信長を演じた藤岡弘、(第19作『おんな太閤記』と第27作『春日局』)、徳川家康を演じた津川雅彦(第25作『独眼竜政宗』と第39作『葵 徳川三代』)、滝川一益を演じた段田安則(第35作『秀吉』と第55作『真田丸』)などがある。
また特異な例として、小栗旬が第35作『秀吉』で石田三成の子役、第48作『天地人』で成人後の石田三成を、神木隆之介が第44作『義経』で源義経の少年期である牛若を、第51作『平清盛』で成人後の源義経を演じている。第50作『江』で徳川家康を演じた北大路欣也は、第60作『青天を衝け』では案内役としての徳川家康を演じている。第61作『鎌倉殿の13人』の最終回では、翌年の第62作『どうする家康』の主人公を務める松本潤が、同じ徳川家康役で特別出演している。
2015年の連続テレビ小説『あさが来た』には、第43作『新選組!』で土方歳三を演じた山本耕史が同役で出演している。また五代友厚を演じたディーン・フジオカは2021年に放映された第60作『青天を衝け』で同役を務めている。
2012年4月から2023年3月までBSプレミアムにおいて、2021年4月からはBS4Kにおいて(2021年4月から2023年3月まではBS8Kでも放送)、過去の作品を再放送している。
各作品、クレジットはオープニング時に表示され、その時にオープニングのテーマ曲が流れる(約3分)。テーマ曲は原則オーケストラ(NHK交響楽団)により演奏されるオリジナル曲。また、クレジットの最初に出るタイトルは原則手書きで、製作者は「題字」として出演者よりも先にテロップされる。
オープニングの映像やパターンも作品によって異なる。特筆する箇所は以下の通り。
『独眼竜政宗』以降の作品では、オープニング前に図解や写真などを用いた史実の解説などを行うアバンタイトルで始まるパターンが多い。
本編では全般的に序盤はロケシーンが多く、中盤から後半にクライマックスがあり、終盤は登場人物も代替わりして若手俳優が増え、またスタジオ撮影のシーンが多くなるのが特徴である。近年、合戦シーンなどではコンピュータグラフィックス(CG)を用いることも多い。
本編終了後に次回予告(30秒程度)が流れ、その回の放送内容の舞台となった地や重点的に取り上げられた人物のゆかりの地を紹介する「紀行」コーナーが入る。最終回では本編終了後に「紀行」コーナーが先に入って作品自体はそこで終了し、その後に次作の予告が入る(30秒から2分程度)。なお 『麒麟がくる』以降は次回予告後一旦本編を終了させて、その後に紀行コーナーに入るパターンになっている。
作品によっては、最終回のみオープニングをカットして、エンディング(「紀行」の直前、本編ラスト)にテーマ曲(※『龍馬伝』は除く)とテロップが流れる。
なお、2004年と2005年の大河ドラマ『新選組!』および『義経』はデジタル総合にて13時 - 13時45分(2005年4月からは13時5分 - 13時50分)に限定先行放送を始めたが、2006年(『功名が辻』)から再びその放送はなくなった。
年末には総集編(ダイジェスト版。全部で3、4時間程度)も製作される(作品によっては翌年正月に放送する場合もある)。また、本放送に区切りがつくごとにその時点までの総集編が番宣も兼ねて放送されることもある。
1984年から1986年にかけての「近代大河3部作」(『山河燃ゆ』、『春の波涛』、『いのち』)が放送されていた時期に、従来の時代劇路線の大河ドラマのファンのためにそれまで軽い内容で娯楽系の「水曜時代劇」が放送されていた水曜日の20時台に新たに設けられた。放送曜日と予算は大河ドラマと異なるが出演者に大河ドラマ出演者が多く、1年間の放送であったことから大河ドラマに準じる連続大型時代劇として扱われることも多い。
1986年の『武蔵坊弁慶』は翌1987年1月から大河ドラマが『独眼竜政宗』で時代劇路線に戻ることもあり、約9か月間の放送で終了した。
再び現代が舞台となった『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が放送された2019年には当枠に代わる番組は編成されず、NHK地上波の連続時代劇枠は一時的ではあるが土曜日の「土曜時代ドラマ」1枠のみとなった。
2006年1月には大河ドラマとしては初めて続編が製作、放送された。これは2004年制作の第43作『新選組!』のその後を描いた作品で、大河ドラマでは局長・近藤勇が主役だったが、続編『新選組!! 土方歳三 最期の一日』では副長・土方歳三にバトンタッチし、土方の最期の一日を描いた。
2009年から2011年にかけての毎年12月に、当初「21世紀スペシャル大河」として企画され1話90分・全13話で放送された。そのため、第48作『天地人』から第50作『江〜姫たちの戦国〜』までの3作品は11月で放送が終了している。
2023年2月4日にNHK総合で放送された。テレビ放送70周年、大河ドラマ60周年を迎えることを記念した、若きテレビマンたちによる大河ドラマ誕生の様子を描く奮闘記。生田斗真主演。
上述のように、大河ドラマはNHKの看板番組の扱いを受けており、NHKも1年間、その年の放送内容に関する番組を随所で放送する。例えば、『その時歴史が動いた』、『歴史秘話ヒストリア』などNHKの歴史教養番組、娯楽番組では、主人公およびその時代が度々取り上げられる。また、放送開始直前のNHK紅白歌合戦には、主演俳優はほぼ必ず出演する(ほとんどはゲスト審査員であるが、司会者に他に適任者がいないときは司会に、歌手としての活動も盛んに行っている場合には出場歌手に名を連ねる場合もあり)。
放送年の2月3日には、出演者が大相撲力士と共に成田山新勝寺で節分の豆まきの来賓ゲストとして出席するのが恒例である。また、主要出演者(主演者に限らず)が中央競馬のNHKマイルカップのゲスト出演や表彰プレゼンテーターをする場合がある。
日本国内のNHKでの放送では、デジタルで放送されるデジタルBSプレミアムとデジタル総合テレビでは副音声で視覚障害者向けの解説放送がある。また、デジタル総合テレビとデジタルBSプレミアムは連動データ放送がある。この解説放送はステレオ2音声放送で、アナログ総合テレビとアナログBSプレミアムならびに海外向けテレビ番組配信のNHKワールド・プレミアムでは行われていない(通常のステレオ放送のみ)。これらはBSデジタルの放送開始翌年の『北条時宗』より行われた。
海外向けでは、日本人が多く住む地域でNHKワールド以外の放送局で放送されている(字幕付き)。2000年代以降では、CS専門チャンネル(ファミリー劇場、時代劇専門チャンネル、衛星劇場など)で放送されている。
2001年から2005年まではアナログ放送とデジタル放送では番組内容は同じでもそれぞれ編集映像比率内容が異なっていた。アナログ放送用(NHKワールド・プレミアムも含む)では本編は4:3で放送されるが番組最後の紀行の部分のみレターボックスで放送されていた。2006年からアナログ・デジタル同時送出のため、アナログ放送(NHKワールド・プレミアムも含む)ではレターボックス14:9(上下黒帯幅がやや小さく、4:3画面でも違和感がないもの)で放送されるようになった(他の番組では16:9レターボックス放送は行われるようになった中、本番組では2010年7月11日以降も『龍馬伝』最終回・総集編まで14:9サイズでの放送が続いていた)。これにあわせて同年の『功名が辻』と翌年の『風林火山』の中ではスタッフ・キャストのテロップを横書き表示に変更した。2008年以降の作品については再び縦書きクレジットの作品が増えているが、2009年の『天地人』、2010年の『龍馬伝』、2014年の『軍師官兵衛』、2023年の『どうする家康』では横書きでクレジットされた(もっとも、画面サイズとは関わり無く、『山河燃ゆ』『春の波涛・総集編』など、過去の作品でも横書きクレジットタイトル表示だった作品は少数ながら存在する)。2011年に入ってからレターボックス16:9に移行した。
スタジオでの全収録が終了するクランクアップの時には出演者・スタッフの労を労ってスタジオにくす玉が吊るされ、主演者がそれを割ったり出演者のスピーチも行われ、翌年の大河の主役の俳優からその年の主役の俳優に花束を渡し引継ぎを行うなど、その模様はスポーツ新聞やNHK広報番組、NHKオンラインの会見動画!で取り上げられることが多い。
2005年以降、NHKの不祥事がクローズアップされたため透明性を明かすために『功名が辻』以降、毎年の決算概要に1話分の平均製作費について公表している。以降の作品は、『義経』が6,440万円、『功名が辻』が6,110万円、『風林火山』が6,080万円、『篤姫』が5,910万円など。ほとんどの支出がセットなどの美術費であるとのことである。
1年間にわたって大河ドラマの舞台となった地域は、たとえ複数(主人公の生育地、成年後の生活地が異なる場合が多い)であっても、その観光への影響力は大きい。関連するビジネス団体や、地方公共団体においてもその誘致に、組織的な努力がなされることが一般化している。テーマ、地域、時代、主人公プロフィールなどの偏りに配慮するNHKの判断を見越して、多くの地域で多大な誘致活動が行われている。
自治体や地元経済団体などにより臨時の展示施設を開設することも多く、NHK側もドラマで使用された衣装・小道具やドラマの筋書・歴史的背景などを紹介するパネル展示、出演者を招いたイベント実施などの協力を行うほか、自ら関連会社により展覧会を東京都江戸東京博物館や関連府県で開催している。
”大河ドラマのまち”と銘打って自治体や地元経済団体などが地域活性化を図るケースは多い。例えば2002年の『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』が高視聴率を博したことで石川県の観光振興に大きく貢献しているとされる。一方で、集客力はドラマ本体の評価に左右される面もあるとされ、長野県上田市に開館した『真田丸』(2016年)の「大河ドラマ館」が目標を大きく上回る入館者を集めるなど盛況を博し観光振興に大きく貢献した一方で、『花燃ゆ』(2015年)ではドラマ人気が低調であったため、観光への影響が予測を下回り「不完全燃焼」であると報道された。
このほか、毎年秋に各地で開催される菊人形展では大河ドラマをテーマにする事例が多い。著名なものとしては「ひらかた大菊人形」(ひらかたパークで開催)があった。このイベントは技術者の高齢化や後継者の不足などを理由に2005年(『義経』)をもって終了したが、市民からの復活の要望および主催企業である京阪電気鉄道の創業100年を記念して2010年のみ復活開催され、この時も大河ドラマ(『龍馬伝』)をメインテーマに選定している。
無形文化遺産であり、東北地方最大級の神事とされ毎年8月に実施されている八戸三社大祭(青森県八戸市)では、2005年から大河ドラマの出演者が中日の合同運行に参加している。
1970年代までのNHKを含む多くの放送局では、放送用マスターテープとして使われた2インチVTRの保存は一般的でなく、放送終了後には内容を消去して他番組の収録に使い回していた。こうした事情から大河ドラマに関しては、『元禄太平記』(1975年)以前の作品および『花神』(1977年)、『草燃える』(1979年)のマスターテープの大半が失われており、映像資料用として保存されていた一部の放送回のみ(作品によっては総集編も)現存している。なお、同様の理由で既に存在していないと思われていた『風と雲と虹と』(1976年)については全映像の現存が確認され、後に完全版DVDが発売された。これが全話映像ソフト化された最古の作品となっている。
当初は高価だった放送局用ビデオテープも、家庭用ビデオデッキの登場によって安価となったため、次第に番組を保存するように方針が変わり、『黄金の日日』(1978年)は全話現存している。そして『獅子の時代』(1980年)以降の歴代作品は、通常放送回・総集編ともに全ての映像をNHKが保存している。
NHKではマスターテープが失われた過去の放送番組の収集を進めている。その結果、制作関係者や一般視聴者がビデオ(当時は大変高価だった)で録画保存していたものが発見されて寄贈されることもある。例えば『樅ノ木は残った』(1970年)はNHKに総集編の映像しか残されていなかったが、近年になって通常放送回の大半の回を録画したビデオテープ(白黒映像)が見つかっている。『春の坂道』(1971年)は総集編を含めてNHKに全く映像が残されておらず、「幻の大河ドラマ」と呼ばれていたが、後に最終回のみモノクロの家庭用VTRで録画された映像が発見されて、NHKアーカイブスに収蔵されている(ただし本作はカラー作品なので本来の形での放送回は厳密には現存していない)。同様に通常放送回のマスターテープが全て失われていた前述の『草燃える』は、寄贈されたビデオテープによって全放送回の映像が揃えられたが、一部の回の映像に欠損している箇所があるので、今のところ完全な形では揃っていない(詳細については「草燃える#映像の現存状況」などを参照)。また『元禄太平記』は、出演者の江守徹が「うちには全話録画してある」とコメントしているものの、NHKに提供はされていない。そして2015年11月、それまで唯一通常放送回の映像が1本も残っていなかった『国盗り物語』(1973年)の本編2話分が寄贈されたことで、全作品の通常放送回が最低1話は現存していることになった。
現存している作品の幾つかはDVDで販売され、NHKアーカイブスで視聴することも可能である。また一部作品はビデオ・オン・デマンド(VOD)による配信もされている。現在、現存している初期作品のデジタルリマスター化がアメリカで行われている。
総合、BSプレミアムでは番組連動型データ放送のサービスを展開している。
データ放送の基本画面(LANケーブルやWi-Fiを接続しなくても視聴可能)では、その日のあらすじや出演者・その役柄についての説明など基本情報を収録。更にNHKデータオンライン(LANケーブルやWi-Fiを接続して視聴可能)を利用することによって、出演者インタビューや収録の裏話・トピックス、作品の時代背景や物語の舞台となった土地、登場人物の略歴といったドラマ関連の情報を見ることができる。
さらにNHKネットクラブ(2019年終了)会員に登録したうえで、ドラマ放送中の時間帯(再放送を含み、「5分で(作品名)」は対象外)に実施されるスタンプラリーに参加することによって、ネットクラブの会員ポイント(1視聴につき1点。1週間につき最大3点)をためることができ、またキャンペーン期間中には作品関連グッズプレゼントへの応募権利が与えられる特典もあった。
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"text": "主人公には侍やその周辺の人物が選ばれることが多いが、商人や作家などの作品もある。逆に、後白河天皇・後醍醐天皇・明治天皇などの日本史を語る際に欠かせない歴代天皇は重要な登場人物のひとりとされても、主役に選ばれたケースは60余作で一度もない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "第1作が放送された1963年当時は1月開始ではなく、4月の番組改編期からスタートしていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "第1作放送開始以来、後述のように変則的な制作や放映クールが採用されたことはあっても枠としての中断はなく、『連続テレビ小説』と並んでNHKひいては日本ドラマの代表格としてメディアなどでも取り上げられ、視聴率の変遷が話題になることも多い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "放送期間:放送年のみ記載の作品は、以下の特例を除きその年の1月から12月の1年間(「放送サイクル」も参照)。",
"title": "歴代作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "主人公:太字=女性。=架空の人物。=別名或いは旧姓。",
"title": "歴代作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "主人公となる人物の一代記を取ることが多いが、忠臣蔵もの(特に最初の『赤穂浪士』)など、比較的短時日のドラマを1年間かけて描くものも少数ながら存在する。『利家とまつ』や『功名が辻』のような夫婦をダブル主人公とする形式や、『国盗り物語』『草燃える』『炎立つ』『葵 徳川三代』『いだてん〜東京オリムピック噺〜』のように主人公が交代する形式もある。通常は平安時代以降から明治時代までを舞台とするが、『山河燃ゆ』『春の波涛』『いのち』『いだてん〜東京オリムピック噺〜』は近現代を描いている。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "草創期は既存の歴史小説を原作としたものが多かったが、『三姉妹』『春の坂道』『黄金の日日』のように大河ドラマ制作のために原作が企画され、書き下ろされることもあった。また複数の小説を原作とすることや、原作にない期間をオリジナル脚本で補うこともしばしば行われていた。完全なオリジナル脚本の作品は18作目の『獅子の時代』が最初である。2010年代以降は2011年の『江』と2018年『西郷どん』を除きオリジナル脚本となっている。これについて『どうする家康』でチーフプロデューサーを務めた磯智明は、2010年以降インターネットとSNSの影響で時代考証に関する質問が増加するようになり、原作が採用している説や描写についても時代考証的に正しいか判断する必要が生まれたこともあり、原作を採用しない方針を取っているとしている。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "井伊直弼、原田甲斐、平清盛、平将門、柳沢吉保、北条政子、足利尊氏、日野富子、明智光秀等々、一般的には歴史上ネガティブなイメージを持たれた人物を主人公に据え、新解釈によってその人物の人間的側面を掘り下げて魅力的に描く手法(そういった原作を採用する事)が度々採られてきた。 架空の人物が主人公となることもあるが、『いのち』は主要キャストに歴史上の人物が登場しない異色の作品となった。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "一代記となる形式の場合は、出生から幼少期までを子役が演じ、青年期以降を本役の俳優が演じることが多い。ただし『江』や『鎌倉殿の13人』のように幼年期・少年期を成人した本役の俳優が演じることもある。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "「大坂城」や「屋敷門の炎上」、「関ヶ原の戦い」など、過去の作品で使用した場面が何度も使われるケースがある。題材となる人物やテーマに所縁のある地方とタイアップする事も多い。また、歴史上の人物の節目に因んで、テーマが選択される事もある。三谷幸喜が奈良時代の舞台設定を提案するも、戦国時代や江戸時代などのように、衣装やセットを使いまわしできず全部新作しなければならず金がかかると拒否された事例もあり、狭い歴史時代範囲で制作されている。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "主人公をヒーロー/ヒロインまたは現代的感覚を持った人物として描こうとするため、その人物の暗い側面に関しての描写が曖昧であったり、歴史学上の定説と離れた演出が加えられることもある。このことに関し、NHK側は「大河ドラマはドキュメンタリーではなくあくまでドラマであり、演出も必要である」と述べている。また、『鎌倉殿の13人』で歴史考証者を務めた坂井孝一は、作業内容は、スタッフに歴史の大枠や特徴は説明して、脚本の不自然な点や言葉をチェックして提言するが、歴史的な厳密さより研究とは別だと製作側のドラマとしての脚本の話の面白さを優先する場合もあるという。なお、『いだてん〜東京オリムピック噺〜』のように、「このドラマは史実を基にしたフィクションです」という注釈テロップが付けられることもある。『徳川慶喜』のように、ドラマでの描写を機に、それまで否定的に見られていた人物の評価が見直されたりする。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "第一作とされている『花の生涯』放送開始時には、「大型時代劇」という名称で呼ばれていたが、同枠のドラマが本数を重ね、さらに次第に歴史ドラマとして注目されるようになると「大型歴史ドラマ」の名称が用いられるようになった。シリーズ15周年を記念して発売された2枚組LPレコード『NHK大型歴史ドラマの15年 花の生涯から花神まで』(ポリドール)のタイトルにもそれが現れている。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "一方、第二作の『赤穂浪士』放送直前の1964年(昭和39年)1月5日の読売新聞が『花の生涯』と『赤穂浪士』を「大河小説」になぞらえて「大河ドラマ」と表現し、その後一般でも「大河ドラマ」の名称で呼称されるようになった。1977年(昭和52年)3月、NHKでシリーズ15周年記念番組『大河ドラマの15年』を放送。これがNHKが公式に「大河ドラマ」の名称を用いた最初である。レコードや書籍にも「大河ドラマ」の名が使われるようになり、やがて本放送時にも「大河ドラマ」とシリーズ名が明示されるようになった。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお、 「大河ドラマ」という表記自体が大河ドラマでテロップもしくはそれに準ずる形で初めて登場したのは、第40作『北条時宗』の副音声解説である。テロップではその翌年の第41作『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の冒頭、オープニングタイトルでは、第43作『新選組!』からである。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "原則1年1作で、1月初回、12月最終回である。初期は年内いっぱいの52回放送していたが、のちに正月3が日と12月下旬は特別番組に枠を譲り、50回放送が典型となった(年末年始2週間は放送休止する計算となる)。2018年以降は、NHKの働き方改革の影響を受け、47回放送となり、特別編の挿入や選挙などの報道特別体制時に番組休止を挟むようになった。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1990年代前半には、大河のスリム化が図られ、放送サイクルが変則的になった。連続テレビ小説と同じ年度別2作品の方式とするべく、第31作『琉球の風』を6か月(1993年1月-6月)、第32作『炎立つ』を9か月(1993年7月-1994年3月)にそれぞれ短縮し、以降は半年ずつの放送サイクルとするはずであった。しかしこの計画が不評だったためか、第33作『花の乱』も9か月(1994年4月-12月)とし、第34作『八代将軍吉宗』(1995年)からは再び1年1作のサイクルに戻った。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "第59作『麒麟がくる』は、新型コロナウイルスの影響で制作・放送スケジュールに遅れが生じたため、放送が越年。次回作『青天を衝け』の放送期間が1か月短縮されている。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "この他に、第30作『信長 KING OF ZIPANGU』から第33作『花の乱』までの4作品は、NHKの子会社であるNHKエンタープライズに制作が委託されていたが、『八代将軍吉宗』でNHK東京本部の単独制作に復帰した。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "出演者は、通常のドラマでは主役級の俳優・女優が共演することが多く、これに名脇役と呼ばれる俳優や舞台俳優・歌手・アイドル・お笑い芸人など多彩なキャストも加わるため、普段は見られない顔合わせがよく見られる(このことは連続テレビ小説でも同様に言える)。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "番組初期は五社協定により映画会社所属の俳優はテレビ出演が制限されていたため、新劇の俳優や歌舞伎俳優が多く起用された。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "第3作『太閤記』では緒形拳、高橋幸治、石坂浩二ら無名の新人俳優が抜擢され、一躍人気スターとなった。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "五社協定消滅後も、第16作『黄金の日日』で石川五右衛門と杉谷善住坊を演じた根津甚八と川谷拓三や第21作『徳川家康』で織田信長役を演じた役所広司、第25作『独眼竜政宗』で主演した渡辺謙は番組がきっかけで一躍有名になり、2000年代に入ってからは『北条時宗』に出演した北村一輝、『新選組!』に土方歳三と山南敬介で出演した山本耕史や堺雅人、『真田丸』に出演した高木渉などが、大河ドラマに出演したことをきっかけとして活躍の場を広げることになった。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "なお、連続テレビ小説と異なり、同じ俳優が別作品で同一人物を演じる例がしばしば見られる。端役で登場するケースもあるが、同じ役で共演する主要な役では第3作『太閤記』で豊臣秀吉を演じた緒形拳、織田信長を演じた高橋幸治が第16作『黄金の日日』で揃って同じ役を演じ、第11作 『国盗り物語』で徳川家康を演じた寺尾聰と第35作『秀吉』で豊臣秀吉を演じた竹中直人が共に第53作『軍師官兵衛』で同じ役を演じたケースがある。他に同一人物を演じた主要役の例として、織田信長を演じた藤岡弘、(第19作『おんな太閤記』と第27作『春日局』)、徳川家康を演じた津川雅彦(第25作『独眼竜政宗』と第39作『葵 徳川三代』)、滝川一益を演じた段田安則(第35作『秀吉』と第55作『真田丸』)などがある。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また特異な例として、小栗旬が第35作『秀吉』で石田三成の子役、第48作『天地人』で成人後の石田三成を、神木隆之介が第44作『義経』で源義経の少年期である牛若を、第51作『平清盛』で成人後の源義経を演じている。第50作『江』で徳川家康を演じた北大路欣也は、第60作『青天を衝け』では案内役としての徳川家康を演じている。第61作『鎌倉殿の13人』の最終回では、翌年の第62作『どうする家康』の主人公を務める松本潤が、同じ徳川家康役で特別出演している。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2015年の連続テレビ小説『あさが来た』には、第43作『新選組!』で土方歳三を演じた山本耕史が同役で出演している。また五代友厚を演じたディーン・フジオカは2021年に放映された第60作『青天を衝け』で同役を務めている。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2012年4月から2023年3月までBSプレミアムにおいて、2021年4月からはBS4Kにおいて(2021年4月から2023年3月まではBS8Kでも放送)、過去の作品を再放送している。",
"title": "番組内容"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "各作品、クレジットはオープニング時に表示され、その時にオープニングのテーマ曲が流れる(約3分)。テーマ曲は原則オーケストラ(NHK交響楽団)により演奏されるオリジナル曲。また、クレジットの最初に出るタイトルは原則手書きで、製作者は「題字」として出演者よりも先にテロップされる。",
"title": "番組の構成"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "オープニングの映像やパターンも作品によって異なる。特筆する箇所は以下の通り。",
"title": "番組の構成"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "『独眼竜政宗』以降の作品では、オープニング前に図解や写真などを用いた史実の解説などを行うアバンタイトルで始まるパターンが多い。",
"title": "番組の構成"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "本編では全般的に序盤はロケシーンが多く、中盤から後半にクライマックスがあり、終盤は登場人物も代替わりして若手俳優が増え、またスタジオ撮影のシーンが多くなるのが特徴である。近年、合戦シーンなどではコンピュータグラフィックス(CG)を用いることも多い。",
"title": "番組の構成"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "本編終了後に次回予告(30秒程度)が流れ、その回の放送内容の舞台となった地や重点的に取り上げられた人物のゆかりの地を紹介する「紀行」コーナーが入る。最終回では本編終了後に「紀行」コーナーが先に入って作品自体はそこで終了し、その後に次作の予告が入る(30秒から2分程度)。なお 『麒麟がくる』以降は次回予告後一旦本編を終了させて、その後に紀行コーナーに入るパターンになっている。",
"title": "番組の構成"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "作品によっては、最終回のみオープニングをカットして、エンディング(「紀行」の直前、本編ラスト)にテーマ曲(※『龍馬伝』は除く)とテロップが流れる。",
"title": "番組の構成"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、2004年と2005年の大河ドラマ『新選組!』および『義経』はデジタル総合にて13時 - 13時45分(2005年4月からは13時5分 - 13時50分)に限定先行放送を始めたが、2006年(『功名が辻』)から再びその放送はなくなった。",
"title": "放送日データ"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "年末には総集編(ダイジェスト版。全部で3、4時間程度)も製作される(作品によっては翌年正月に放送する場合もある)。また、本放送に区切りがつくごとにその時点までの総集編が番宣も兼ねて放送されることもある。",
"title": "放送日データ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1984年から1986年にかけての「近代大河3部作」(『山河燃ゆ』、『春の波涛』、『いのち』)が放送されていた時期に、従来の時代劇路線の大河ドラマのファンのためにそれまで軽い内容で娯楽系の「水曜時代劇」が放送されていた水曜日の20時台に新たに設けられた。放送曜日と予算は大河ドラマと異なるが出演者に大河ドラマ出演者が多く、1年間の放送であったことから大河ドラマに準じる連続大型時代劇として扱われることも多い。",
"title": "姉妹番組"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1986年の『武蔵坊弁慶』は翌1987年1月から大河ドラマが『独眼竜政宗』で時代劇路線に戻ることもあり、約9か月間の放送で終了した。",
"title": "姉妹番組"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "再び現代が舞台となった『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が放送された2019年には当枠に代わる番組は編成されず、NHK地上波の連続時代劇枠は一時的ではあるが土曜日の「土曜時代ドラマ」1枠のみとなった。",
"title": "姉妹番組"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2006年1月には大河ドラマとしては初めて続編が製作、放送された。これは2004年制作の第43作『新選組!』のその後を描いた作品で、大河ドラマでは局長・近藤勇が主役だったが、続編『新選組!! 土方歳三 最期の一日』では副長・土方歳三にバトンタッチし、土方の最期の一日を描いた。",
"title": "姉妹番組"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2009年から2011年にかけての毎年12月に、当初「21世紀スペシャル大河」として企画され1話90分・全13話で放送された。そのため、第48作『天地人』から第50作『江〜姫たちの戦国〜』までの3作品は11月で放送が終了している。",
"title": "姉妹番組"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2023年2月4日にNHK総合で放送された。テレビ放送70周年、大河ドラマ60周年を迎えることを記念した、若きテレビマンたちによる大河ドラマ誕生の様子を描く奮闘記。生田斗真主演。",
"title": "姉妹番組"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "上述のように、大河ドラマはNHKの看板番組の扱いを受けており、NHKも1年間、その年の放送内容に関する番組を随所で放送する。例えば、『その時歴史が動いた』、『歴史秘話ヒストリア』などNHKの歴史教養番組、娯楽番組では、主人公およびその時代が度々取り上げられる。また、放送開始直前のNHK紅白歌合戦には、主演俳優はほぼ必ず出演する(ほとんどはゲスト審査員であるが、司会者に他に適任者がいないときは司会に、歌手としての活動も盛んに行っている場合には出場歌手に名を連ねる場合もあり)。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "放送年の2月3日には、出演者が大相撲力士と共に成田山新勝寺で節分の豆まきの来賓ゲストとして出席するのが恒例である。また、主要出演者(主演者に限らず)が中央競馬のNHKマイルカップのゲスト出演や表彰プレゼンテーターをする場合がある。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "日本国内のNHKでの放送では、デジタルで放送されるデジタルBSプレミアムとデジタル総合テレビでは副音声で視覚障害者向けの解説放送がある。また、デジタル総合テレビとデジタルBSプレミアムは連動データ放送がある。この解説放送はステレオ2音声放送で、アナログ総合テレビとアナログBSプレミアムならびに海外向けテレビ番組配信のNHKワールド・プレミアムでは行われていない(通常のステレオ放送のみ)。これらはBSデジタルの放送開始翌年の『北条時宗』より行われた。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "海外向けでは、日本人が多く住む地域でNHKワールド以外の放送局で放送されている(字幕付き)。2000年代以降では、CS専門チャンネル(ファミリー劇場、時代劇専門チャンネル、衛星劇場など)で放送されている。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2001年から2005年まではアナログ放送とデジタル放送では番組内容は同じでもそれぞれ編集映像比率内容が異なっていた。アナログ放送用(NHKワールド・プレミアムも含む)では本編は4:3で放送されるが番組最後の紀行の部分のみレターボックスで放送されていた。2006年からアナログ・デジタル同時送出のため、アナログ放送(NHKワールド・プレミアムも含む)ではレターボックス14:9(上下黒帯幅がやや小さく、4:3画面でも違和感がないもの)で放送されるようになった(他の番組では16:9レターボックス放送は行われるようになった中、本番組では2010年7月11日以降も『龍馬伝』最終回・総集編まで14:9サイズでの放送が続いていた)。これにあわせて同年の『功名が辻』と翌年の『風林火山』の中ではスタッフ・キャストのテロップを横書き表示に変更した。2008年以降の作品については再び縦書きクレジットの作品が増えているが、2009年の『天地人』、2010年の『龍馬伝』、2014年の『軍師官兵衛』、2023年の『どうする家康』では横書きでクレジットされた(もっとも、画面サイズとは関わり無く、『山河燃ゆ』『春の波涛・総集編』など、過去の作品でも横書きクレジットタイトル表示だった作品は少数ながら存在する)。2011年に入ってからレターボックス16:9に移行した。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "スタジオでの全収録が終了するクランクアップの時には出演者・スタッフの労を労ってスタジオにくす玉が吊るされ、主演者がそれを割ったり出演者のスピーチも行われ、翌年の大河の主役の俳優からその年の主役の俳優に花束を渡し引継ぎを行うなど、その模様はスポーツ新聞やNHK広報番組、NHKオンラインの会見動画!で取り上げられることが多い。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2005年以降、NHKの不祥事がクローズアップされたため透明性を明かすために『功名が辻』以降、毎年の決算概要に1話分の平均製作費について公表している。以降の作品は、『義経』が6,440万円、『功名が辻』が6,110万円、『風林火山』が6,080万円、『篤姫』が5,910万円など。ほとんどの支出がセットなどの美術費であるとのことである。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1年間にわたって大河ドラマの舞台となった地域は、たとえ複数(主人公の生育地、成年後の生活地が異なる場合が多い)であっても、その観光への影響力は大きい。関連するビジネス団体や、地方公共団体においてもその誘致に、組織的な努力がなされることが一般化している。テーマ、地域、時代、主人公プロフィールなどの偏りに配慮するNHKの判断を見越して、多くの地域で多大な誘致活動が行われている。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "自治体や地元経済団体などにより臨時の展示施設を開設することも多く、NHK側もドラマで使用された衣装・小道具やドラマの筋書・歴史的背景などを紹介するパネル展示、出演者を招いたイベント実施などの協力を行うほか、自ら関連会社により展覧会を東京都江戸東京博物館や関連府県で開催している。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "”大河ドラマのまち”と銘打って自治体や地元経済団体などが地域活性化を図るケースは多い。例えば2002年の『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』が高視聴率を博したことで石川県の観光振興に大きく貢献しているとされる。一方で、集客力はドラマ本体の評価に左右される面もあるとされ、長野県上田市に開館した『真田丸』(2016年)の「大河ドラマ館」が目標を大きく上回る入館者を集めるなど盛況を博し観光振興に大きく貢献した一方で、『花燃ゆ』(2015年)ではドラマ人気が低調であったため、観光への影響が予測を下回り「不完全燃焼」であると報道された。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "このほか、毎年秋に各地で開催される菊人形展では大河ドラマをテーマにする事例が多い。著名なものとしては「ひらかた大菊人形」(ひらかたパークで開催)があった。このイベントは技術者の高齢化や後継者の不足などを理由に2005年(『義経』)をもって終了したが、市民からの復活の要望および主催企業である京阪電気鉄道の創業100年を記念して2010年のみ復活開催され、この時も大河ドラマ(『龍馬伝』)をメインテーマに選定している。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "無形文化遺産であり、東北地方最大級の神事とされ毎年8月に実施されている八戸三社大祭(青森県八戸市)では、2005年から大河ドラマの出演者が中日の合同運行に参加している。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1970年代までのNHKを含む多くの放送局では、放送用マスターテープとして使われた2インチVTRの保存は一般的でなく、放送終了後には内容を消去して他番組の収録に使い回していた。こうした事情から大河ドラマに関しては、『元禄太平記』(1975年)以前の作品および『花神』(1977年)、『草燃える』(1979年)のマスターテープの大半が失われており、映像資料用として保存されていた一部の放送回のみ(作品によっては総集編も)現存している。なお、同様の理由で既に存在していないと思われていた『風と雲と虹と』(1976年)については全映像の現存が確認され、後に完全版DVDが発売された。これが全話映像ソフト化された最古の作品となっている。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "当初は高価だった放送局用ビデオテープも、家庭用ビデオデッキの登場によって安価となったため、次第に番組を保存するように方針が変わり、『黄金の日日』(1978年)は全話現存している。そして『獅子の時代』(1980年)以降の歴代作品は、通常放送回・総集編ともに全ての映像をNHKが保存している。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "NHKではマスターテープが失われた過去の放送番組の収集を進めている。その結果、制作関係者や一般視聴者がビデオ(当時は大変高価だった)で録画保存していたものが発見されて寄贈されることもある。例えば『樅ノ木は残った』(1970年)はNHKに総集編の映像しか残されていなかったが、近年になって通常放送回の大半の回を録画したビデオテープ(白黒映像)が見つかっている。『春の坂道』(1971年)は総集編を含めてNHKに全く映像が残されておらず、「幻の大河ドラマ」と呼ばれていたが、後に最終回のみモノクロの家庭用VTRで録画された映像が発見されて、NHKアーカイブスに収蔵されている(ただし本作はカラー作品なので本来の形での放送回は厳密には現存していない)。同様に通常放送回のマスターテープが全て失われていた前述の『草燃える』は、寄贈されたビデオテープによって全放送回の映像が揃えられたが、一部の回の映像に欠損している箇所があるので、今のところ完全な形では揃っていない(詳細については「草燃える#映像の現存状況」などを参照)。また『元禄太平記』は、出演者の江守徹が「うちには全話録画してある」とコメントしているものの、NHKに提供はされていない。そして2015年11月、それまで唯一通常放送回の映像が1本も残っていなかった『国盗り物語』(1973年)の本編2話分が寄贈されたことで、全作品の通常放送回が最低1話は現存していることになった。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "現存している作品の幾つかはDVDで販売され、NHKアーカイブスで視聴することも可能である。また一部作品はビデオ・オン・デマンド(VOD)による配信もされている。現在、現存している初期作品のデジタルリマスター化がアメリカで行われている。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "総合、BSプレミアムでは番組連動型データ放送のサービスを展開している。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "データ放送の基本画面(LANケーブルやWi-Fiを接続しなくても視聴可能)では、その日のあらすじや出演者・その役柄についての説明など基本情報を収録。更にNHKデータオンライン(LANケーブルやWi-Fiを接続して視聴可能)を利用することによって、出演者インタビューや収録の裏話・トピックス、作品の時代背景や物語の舞台となった土地、登場人物の略歴といったドラマ関連の情報を見ることができる。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "さらにNHKネットクラブ(2019年終了)会員に登録したうえで、ドラマ放送中の時間帯(再放送を含み、「5分で(作品名)」は対象外)に実施されるスタンプラリーに参加することによって、ネットクラブの会員ポイント(1視聴につき1点。1週間につき最大3点)をためることができ、またキャンペーン期間中には作品関連グッズプレゼントへの応募権利が与えられる特典もあった。",
"title": "備考"
}
] |
『大河ドラマ』(たいがドラマ)または『NHK大河ドラマ』は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKによる歴史ドラマシリーズの総称。略称は大河。
日本史上実在した人物の生涯を描いた作品や群像劇が多いが、ドラマオリジナルの架空の人物を通して時代そのものを描き出す作品もある。 1984年から1986年にかけて放送された新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。
|
{{Otheruseslist|NHKのドラマ|歴史を描いたドラマ一般|時代劇|韓国のテレビドラマシリーズ|KBS大河ドラマ}}
『'''大河ドラマ'''』(たいがドラマ)または『'''NHK大河ドラマ'''』は、[[1963年]]([[昭和]]38年)から放送されている[[日本放送協会|NHK]]による歴史ドラマシリーズの総称。[[略称]]は'''大河'''。
[[日本の歴史|日本史]]上実在した人物の生涯を描いた作品や群像劇が多いが、ドラマオリジナルの架空の人物を通して時代そのものを描き出す作品もある。
[[1984年]]から[[1986年]]にかけて放送された'''新大型時代劇'''と[[2009年]]から[[2011年]]にかけて放送されたスペシャルドラマ『'''[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]'''』についてもこの項で述べる。
== 概要 ==
放送形態は1回45分・日曜夜・1年間(50回前後)。
[[主人公]]には[[侍]]やその周辺の人物が選ばれることが多いが、商人や作家などの作品もある。逆に、[[後白河天皇]]・[[後醍醐天皇]]・[[明治天皇]]などの日本史を語る際に欠かせない歴代[[天皇]]は重要な登場人物のひとりとされても、主役に選ばれたケースは60余作で一度もない。
第1作が放送された[[1963年]]当時は1月開始ではなく、4月の番組改編期からスタートしていた<ref>{{Cite book|和書 |title=時代劇入門 |publisher=角川新書 |year=2020 |page=285}}</ref>。
第1作放送開始以来、後述のように変則的な制作や放映クールが採用されたことはあっても枠としての中断はなく、『[[連続テレビ小説]]』と並んでNHKひいては日本ドラマの代表格としてメディアなどでも取り上げられ、[[視聴率]]の変遷が話題になることも多い。
== 歴代作品一覧 ==
{{main|大河ドラマ作品一覧}}
<small>放送期間:放送年のみ記載の作品は、以下の特例を除きその年の1月から12月の1年間(「[[#放送サイクル|放送サイクル]]」も参照)。
*『花の生涯』『炎立つ』『花の乱』は9か月間。
*『琉球の風』は6か月(半年)間。
*『天地人』『龍馬伝』『江〜姫たちの戦国〜』<ref group="注釈">この3年(『天地人』『龍馬伝』『江〜姫たちの戦国〜』)はそれぞれ12月に大型ドラマ『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』が放送されたため。</ref>『青天を衝け』<ref name="TC2020"group="注釈">[[新型コロナウイルス]]の影響で放送中断があったため</ref>は11か月間。
*『麒麟がくる』<ref name="TC2020"group="注釈"/>は14か月間。</small>
<small>主人公:<!--要太字解消:文字化必要2022.10-->'''太字'''=[[女性]]。<sup>*</sup>=[[架空の人物]]。</small><sup>()</sup>=別名或いは[[旧姓]]。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%; text-align:center; background:#FFFFFF; line-height:1.4em;"
! !! タイトル!! 年<small>/月</small>!! 原作!! 脚本!! 時代!! 主人公!! 主演
!語り
|-
!1 || [[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]
|1963<small>/4-12</small>
|[[舟橋聖一]]
|[[北条誠]]
|[[幕末]]
|[[井伊直弼]]
|[[尾上松緑 (2代目)|尾上松緑]]<ref group="注釈">2代目尾上松緑。</ref>
|[[小沢栄太郎]]
|-
!2 || [[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]
|1964
|[[大佛次郎]]
|[[村上元三]]
|{{Display none|心}}[[江戸時代|江戸]]
|[[大石良雄|大石内蔵助]]
|[[長谷川一夫]]
|竹内三郎
|-
!3 || [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]
|1965
|[[吉川英治]]
|[[茂木草介]]
|[[戦国時代 (日本)|戦国]] - [[安土桃山]]
|[[豊臣秀吉]]
|[[緒形拳]]
|[[平光淳之助]]
|-
!4 || [[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]
|1966
|村上元三
|村上元三
|{{Display none|雷}}[[平安時代|平安]] - [[源平]]内乱
|[[源義経]]
|[[尾上菊五郎 (7代目)|尾上菊之助]]<ref group="注釈">4代目尾上菊之助(現在の7代目尾上菊五郎)。</ref>
|小沢寅三
|-
!5 || [[三姉妹]]
|1967
|大佛次郎
|[[鈴木尚之]]
|幕末
|'''永井家 三姉妹'''<br />(むら・るい・雪)<sup>*</sup>
|[[岡田茉莉子]]<br />[[藤村志保]]<br />[[栗原小巻]]
|なし<br />(総集編のみ[[鈴木瑞穂]])
|-
!6 || [[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]
|1968
|[[司馬遼太郎]]
|[[水木洋子]]
|幕末
|[[坂本龍馬]]
|[[北大路欣也]]
|[[滝沢修]]
|-
!7 || [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]
|1969
|[[海音寺潮五郎]]
|中井多喜夫<br />[[須藤出穂]]<br />[[杉山義法]]
|戦国 - 安土桃山
|[[上杉謙信]]
|[[石坂浩二]]
|中村允
|-
!8 || [[樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った]]
|1970
|[[山本周五郎]]
|茂木草介
|{{Display none|心}}江戸
|[[原田宗輔|原田甲斐]]
|[[平幹二朗]]
|[[和田篤]]
|-
!9 || [[春の坂道]]
|1971
|[[山岡荘八]]
|杉山義法
|{{Display none|愁}}安土桃山 - 江戸
|[[柳生宗矩]]
|[[萬屋錦之介|中村錦之助]]<ref group="注釈">現在の萬屋錦之介。</ref>
|福島俊夫
|-
!10 || [[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]
|1972
|吉川英治
|[[平岩弓枝]]
|{{Display none|雷}}平安 - 源平内乱
|[[平清盛]]
|[[仲代達矢]]
|福本義典
|-
!11 || [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]
|1973
|司馬遼太郎
|[[大野靖子]]
|戦国 - 安土桃山
|[[斎藤道三]]<br />[[織田信長]]
|平幹二朗<br />[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]
|[[中西龍]]
|-
!12 || [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]
|1974
|[[子母澤寛]]
|[[倉本聰]]<br />[[中沢昭二]]
|幕末
|[[勝海舟]]
|[[渡哲也]]<br />→[[松方弘樹]]
|[[石野倬]]
|-
!13 || [[元禄太平記]]
|1975
|[[南條範夫]]
|[[小野田勇]]<br />[[小幡欣治]]<br />土橋成男
|{{Display none|心}}江戸
|[[柳沢吉保]]
|石坂浩二
|福本義典
|-
!14 || [[風と雲と虹と]]
|1976
|海音寺潮五郎
|[[福田善之]]
|{{Display none|馬}}平安
|[[平将門]]
|[[加藤剛]]
|加瀬次男
|-
!15 || [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]
|1977
|司馬遼太郎
|大野靖子
|幕末
|[[大村益次郎]]
|[[中村梅之助 (4代目)|中村梅之助]]<ref group="注釈">4代目中村梅之助。</ref>
|小高昌夫
|-
!16 || [[黄金の日日]]
|1978
|[[城山三郎]]
|[[市川森一]]<br />[[長坂秀佳]]
|戦国 - 安土桃山
|[[呂宋助左衛門]]
|[[松本白鸚 (2代目)|市川染五郎]]<ref group="注釈">6代目市川染五郎(現在の2代目松本白鸚)。</ref>
|[[梶原四郎]]
|-
!17 || [[草燃える]]
|1979
|[[永井路子]]
|[[中島丈博]]
| nowrap="nowrap" |{{Display none|雨}}源平内乱 - 鎌倉
|[[源頼朝]]<br />'''[[北条政子]]'''
|石坂浩二<br />[[岩下志麻]]
|[[森本毅郎]]
|-
!18 || [[獅子の時代]]
|1980
|なし
|[[山田太一 (脚本家)|山田太一]]
|{{Display none|9}}幕末 - 明治
|平沼銑次<sup>*</sup><br />苅谷嘉顕<sup>*</sup>
|[[菅原文太]]<br />加藤剛
|[[和田篤]]
|-
!19 || [[おんな太閤記]]
|1981
|なし
|[[橋田壽賀子]]
|{{Display none|戈}}戦国 - 江戸
|'''[[高台院|ねね]]'''
|[[佐久間良子]]
|[[山田誠浩]]
|-
!20 || [[峠の群像]]
|1982
|[[堺屋太一]]
|[[冨川元文]]
|{{Display none|心}}江戸
|大石内蔵助
|緒形拳
|[[加賀美幸子]]
|-
!21 || [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]
|1983
|山岡荘八
|[[小山内美江子]]
|{{Display none|戈}}戦国 - 江戸
|[[徳川家康]]
|[[滝田栄]]
|[[館野直光]]
|-
!22 || [[山河燃ゆ]]
|1984
|[[山崎豊子]]
|市川森一<br />[[香取俊介]]
|{{Display none|7}}昭和
|天羽賢治<sup>*</sup><br />天羽忠<sup>*</sup>
|[[松本白鸚 (2代目)|松本幸四郎]]<ref group="注釈">1978年度の『[[黄金の日日]]』の主演を務めた6代目市川染五郎は1981年に9代目松本幸四郎を襲名した。現在は2代目松本白鸚。</ref><br />[[西田敏行]]
|なし<br />(総集編のみ[[和田篤]])
|-
!23 || [[春の波涛]]
|1985
|[[杉本苑子]]
|中島丈博
|{{Display none|8}}明治 - 大正
|'''[[川上貞奴]]'''
|[[松坂慶子]]
|[[柳井恒夫 (アナウンサー)|柳井恒夫]]
|-
!24 || [[いのち (NHK大河ドラマ)|いのち]]
|1986
|なし
|橋田壽賀子
|{{Display none|6}}昭和
|'''岩田<small>(高原)</small>未希'''<sup>*</sup>
|[[三田佳子]]
|[[奈良岡朋子]]
|-
!25 || [[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]
|1987
|山岡荘八
|[[ジェームス三木]]
|{{Display none|戈}}安土桃山 - 江戸
|[[伊達政宗]]
|[[渡辺謙]]
|[[葛西聖司]]
|-
!26 || [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]
|1988
|[[新田次郎]]
|[[田向正健]]
|戦国
|[[武田信玄]]
|[[中井貴一]]
|[[若尾文子]]
|-
!27 || [[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]
|1989
|なし
|橋田壽賀子
|{{Display none|戈}}安土桃山 - 江戸
|'''[[春日局]]'''(おふく)
|[[大原麗子]]
|奈良岡朋子
|-
!28 || [[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]
|1990
|司馬遼太郎
|小山内美江子
|{{Display none|9}}幕末 - 明治
|[[西郷隆盛]]<br />[[大久保利通]]
|西田敏行<br />[[鹿賀丈史]]
|[[草野大悟]](第一部)<br />[[田中裕子]](第二部)
|-
!29 || [[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]
|1991
|吉川英治
|[[池端俊策]]<br />[[仲倉重郎]]
|{{Display none|車}}鎌倉 - 南北朝
|[[足利尊氏]]
|[[真田広之]]
|[[山根基世]]
|-
!30 || [[信長 KING OF ZIPANGU|信長 <br /><small>KING OF ZIPANGU]]
|1992
|なし
|田向正健
|戦国 - 安土桃山
|織田信長
|[[緒形直人]]
|ランシュー・クリストフ
|-
!31 || [[琉球の風 (NHK大河ドラマ)|琉球の風 <br /><small>DRAGON SPIRIT]]
|1993<small>/1-6</small>
|[[陳舜臣]]
|[[山田信夫 (脚本家)|山田信夫]]
|{{Display none|戈}}安土桃山 - 江戸
|楊啓泰<sup>*</sup>
|[[東山紀之]]
|[[北林谷栄]]
|-
!32 || [[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]
|1993<small>/7</small>-1994<small>/3</small>
|[[高橋克彦]]
|中島丈博
|{{Display none|雷}}平安 - 源平内乱
|[[藤原経清]]<br />[[藤原清衡]]<br />[[藤原泰衡]]
|渡辺謙<br />[[村上弘明]]
|[[寺田農]]
|-
!33 || [[花の乱]]
|1994<small>/4-12</small>
|なし
|市川森一
|{{Display none|車}}室町 - 戦国
|'''[[日野富子]]'''
|三田佳子
|三田佳子
|-
!34 || [[八代将軍吉宗]]
|1995
|なし
|ジェームス三木
|{{Display none|心}}江戸
|[[徳川吉宗]]
|西田敏行
|[[江守徹]]
|-
!35 || [[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]
|1996
|堺屋太一
|[[竹山洋]]
|戦国 - 安土桃山
|豊臣秀吉
|[[竹中直人]]
|[[宮本隆治]]
|-
!36 || [[毛利元就 (NHK大河ドラマ)|毛利元就]]
|1997
|永井路子
|[[内館牧子]]
|戦国
|[[毛利元就]]
|[[中村芝翫 (8代目)|中村橋之助]]<ref group="注釈">3代目中村橋之助(現在の8代目中村芝翫)。</ref>
|[[平野啓子]]
|-
!37 || [[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]
|1998
|司馬遼太郎
|田向正健
|幕末
|[[徳川慶喜]]
|[[本木雅弘]]
|大原麗子
|-
!38 || [[元禄繚乱]]
|1999
|舟橋聖一
|中島丈博
|{{Display none|心}}江戸
|大石内蔵助
|[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]]<ref group="注釈">5代目中村勘九郎(現在の18代目中村勘三郎)。</ref>
|[[国井雅比古]]
|-
!39 || [[葵 徳川三代]]
|2000
|なし
|ジェームス三木
|{{Display none|愁}}安土桃山 - 江戸
|徳川家康<br />[[徳川秀忠]]<br />[[徳川家光]]
|[[津川雅彦]]<br />西田敏行<br />[[尾上松緑 (4代目)|尾上辰之助]]<ref group="注釈">2代目尾上辰之助(現在の4代目尾上松緑)。</ref>
|[[中村梅雀 (2代目)|中村梅雀]]<ref group="注釈">2代目中村梅雀。</ref>
|-
!40 || [[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]
|2001
|高橋克彦
|[[井上由美子 (脚本家)|井上由美子]]
|鎌倉
|[[北条時宗]]
|[[和泉元彌]]
|[[十朱幸代]]
|-
!41 || [[利家とまつ〜加賀百万石物語〜|利家とまつ<br /><small>〜加賀百万石物語〜</small>]]
|2002
|竹山洋
|竹山洋
|戦国 - 江戸
|[[前田利家]]<br />'''[[芳春院|まつ]]'''
|[[唐沢寿明]]<br />[[松嶋菜々子]]
|[[阿部渉]]
|-
!42 || [[武蔵 MUSASHI|武蔵 <br /><small>MUSASHI]]
|2003
|吉川英治
|[[鎌田敏夫]]
|{{Display none|戈}}江戸
|[[宮本武蔵]]
|[[市川團十郎 (13代目)|市川新之助]]<ref group="注釈">7代目市川新之助(現在の13代目市川團十郎)。</ref>
|[[橋爪功]]
|-
!43 || [[新選組!]]
|2004
|なし
|[[三谷幸喜]]
|幕末
|[[近藤勇]]
|[[香取慎吾]]
|[[小寺康雄]](アバンタイトル)<br />[[沢口靖子]](総集編)
|-
!44 || [[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]
|2005
|[[宮尾登美子]]
|[[金子成人]]
|{{Display none|雷}}平安 - 源平内乱
|源義経
|[[滝沢秀明]]
|[[白石加代子]]
|-
!45 || [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]
|2006
|司馬遼太郎
|[[大石静]]
|戦国 - 江戸
|'''[[見性院 (山内一豊室)|千代]]'''<br />[[山内一豊]]
|[[仲間由紀恵]]<br />[[上川隆也]]
|[[三宅民夫]]
|-
!46 || [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]
|2007
|[[井上靖]]
|[[大森寿美男]]
|戦国
|[[山本勘助]]
|[[内野聖陽]]
|[[加賀美幸子]]
|-
!47 || [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]
|2008
|宮尾登美子
|[[田渕久美子]]
|幕末
|'''[[天璋院]](篤姫)'''
|[[宮﨑あおい]]
|奈良岡朋子
|-
!48 || [[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]
|2009<small>/1-11</small>
|[[火坂雅志]]
|[[小松江里子]]
|戦国 - 江戸
|[[直江兼続]]
|[[妻夫木聡]]
|[[宮本信子]]
|-
!49 || [[龍馬伝]]
|2010<small>/1-11</small>
|なし
|[[福田靖]]
|幕末
|坂本龍馬
|[[福山雅治]]
|[[香川照之]]
|-
!50 || nowrap="nowrap" |[[江〜姫たちの戦国〜|江<br /><small>〜姫たちの戦国〜</small>]]
|2011<small>/1-11</small>
|[[田渕久美子]]
|田渕久美子
|{{Display none|戈}}戦国 - 江戸
|'''[[崇源院|江]]'''
|[[上野樹里]]
|[[鈴木保奈美]]
|-
!51 || [[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]
|2012
|なし
|[[藤本有紀]]
|{{Display none|雷}}平安 - 源平内乱
|平清盛
|[[松山ケンイチ]]
|[[岡田将生]]
|-
!52 || [[八重の桜]]
|2013
|なし
|[[山本むつみ]]<br />[[吉澤智子]]<br />[[三浦有為子]]
|{{Display none|9}}幕末 - 明治
|'''[[新島八重]]'''
|[[綾瀬はるか]]
|[[草笛光子]]
|-
!53 || [[軍師官兵衛]]
|2014
|なし
|[[前川洋一]]
|戦国 - 江戸
|[[黒田孝高|黒田官兵衛]]
|[[岡田准一]]
|藤村志保<br />→[[広瀬修子]]
|-
!54 || [[花燃ゆ]]
|2015
|なし
|[[大島里美]]<br />[[宮村優子 (脚本家)|宮村優子]]<br />[[金子ありさ]]<br />小松江里子
|幕末 - 明治
|'''[[楫取美和子|杉文]]'''
|[[井上真央]]
|[[池田秀一]]
|-
!55 || [[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]
|2016
|なし
|三谷幸喜
|安土桃山 - 江戸
|[[真田信繁|真田信繁(幸村)]]
|[[堺雅人]]
|[[有働由美子]]
|-
!56 || [[おんな城主 直虎]]
|2017<ref>{{Cite web|和書|url= http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150825/k10010203111000.html |title= 再来年の大河ドラマは「おんな城主 直虎」 |publisher= NHK |date= 2015-08-25 |accessdate= 2020-01-22 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20150825090657/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150825/k10010203111000.html |archivedate= 2015-08-25 }}</ref>
|なし
|[[森下佳子]]
|戦国 - 安土桃山
|'''[[井伊直虎]]'''
|[[柴咲コウ]]
|中村梅雀
|-
!57 || [[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]]
|2018<ref>{{cite news|url=http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/252141.html|title=2018年の大河ドラマは「西郷どん」!|newspaper=NHKドラマトピックス|date=2016-09-08|accessdate=2016-09-08}}</ref>
|[[林真理子]]
|[[中園ミホ]]
|幕末 - 明治
|西郷隆盛
|[[鈴木亮平 (俳優)|鈴木亮平]]
|西田敏行
|-
!58 ||[[いだてん〜東京オリムピック噺〜|いだてん<br /><small>〜東京オリムピック噺〜</small>]]
|2019<ref name="nhk161116">{{cite news|url=http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/257134.html|title=2019年の大河ドラマは「オリンピック×宮藤官九郎」!|newspaper=NHKドラマトピックス|date=2016-11-16|accessdate=2016-11-16}}</ref><ref name="nhk170403">{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20170403090401/https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/266692.html|title=2019年 大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」主演は中村勘九郎さん、阿部サダヲさん!|newspaper=NHKドラマトピックス|date=2017-04-03|accessdate=2017-04-03}}</ref>
|なし
|[[宮藤官九郎]]
|明治 - 昭和<ref name="nhk161116"/>
|[[金栗四三]]<br />[[田畑政治]]
|[[中村勘九郎 (6代目)|中村勘九郎]]{{Refnest|group=注釈|6代目中村勘九郎で、1999年度の父:5代目中村勘九郎(18代目中村勘三郎)に続く父子二代の大河主演<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/01/06/kiji/20190106s00041000242000c.html|title=中村勘九郎「いだてん」タイトルバックに感慨 天国の父思い「少しは“勘九郎孝行”できたかな」|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2019-01-06|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2019-01-06}}</ref>。}}<br />[[阿部サダヲ]]
|[[ビートたけし]](噺)<br />[[森山未來]](語り)
|-
!59 || [[麒麟がくる]]
|2020<small>/1</small>-2021<small>/2</small><ref>{{cite news|url=http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/295435.html|title=長谷川博己さんが明智光秀役! 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」|newspaper=NHKドラマトピックス|date=2018-04-19|accessdate=2018-04-19}}</ref>
|なし
|池端俊策<br />前川洋一<br />岩本真耶<br />[[河本瑞貴]]
|戦国 - 安土桃山
|[[明智光秀]]
|[[長谷川博己]]
|市川海老蔵<ref group="注釈">2003年度の『武蔵 MUSASHI』の主演を務めた7代目市川新之助は2004年に11代目市川海老蔵を襲名した。現在は13代目市川團十郎。</ref><br />(総集編のみ[[川口春奈]]<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2183880/full/ |title= 【麒麟がくる】川口春奈が語りを担当 帰蝶目線の総集編放送決定 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2021-02-07 |accessdate= 2022-08-19 }}</ref>)
|-
!60 || [[青天を衝け]]
|2021<small>/2-12</small><ref>{{cite news|url=http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/412103.html|title=2021年大河ドラマ「青天を衝け」 製作開始と主演・吉沢亮さんを発表!|newspaper=NHKドラマトピックス|date=2019-09-09|accessdate=2019-09-09}}</ref>
|なし
|[[大森美香]]
|幕末 - 昭和
|[[渋沢栄一]]
|[[吉沢亮]]
|[[守本奈実]](総集編のみ[[髙橋美鈴|高橋美鈴]])
|-
!61 || [[鎌倉殿の13人|鎌倉殿の13人 <br /><small>THE 13 LORDS OF THE SHOGUN]]
|2022<ref>{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200108/k10012238891000.html|title=再来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」主演は小栗旬さん|newspaper=NHKニュース|date=2020-01-08|accessdate=2020-01-08}}</ref>
|なし
|三谷幸喜
|源平内乱 - 鎌倉
|[[北条義時]]
|[[小栗旬]]
|[[長澤まさみ]]
|-
!62 || [[どうする家康]]
|2023<ref>{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20210119095301/https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/442313.html|title=2023年 大河ドラマ「どうする家康」主演は松本潤さん!|newspaper=NHKドラマトピックス|date=2021-01-19|accessdate=2021-01-19}}</ref>
|なし
|[[古沢良太]]
|戦国 - 江戸
|徳川家康
|[[松本潤]]
|[[寺島しのぶ]]
|-
!63
![[光る君へ]]
|2024予定<ref>{{cite news|url=https://www.nhk.jp/g/blog/z5oq49w1n/|title=2024年大河ドラマ『光る君へ』作・大石静さん 主演・吉高由里子さん|newspaper=NHKドラマ情報|date=2022-05-11|accessdate=2022-05-11}}</ref>
|なし
|大石静
|平安
|'''[[紫式部]]'''
|[[吉高由里子]]
|[[伊東敏恵]]
|-
!64
![[べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜|べらぼう<br /><small>〜蔦重栄華乃夢噺〜</small>]]
|2025予定<ref>{{cite news|url=https://www.nhk.jp/g/blog/idodnrkpyp3/|title=2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」主演・横浜流星さん!|newspaper=NHKドラマ情報|date=2023-04-27|accessdate=2023-04-27}}</ref>
|なし
|森下佳子
|江戸
|[[蔦屋重三郎]]
|[[横浜流星]]
|
|-
|}
<!--今後の放送予定に関しては、必ずNHKの公式発表を出典として添付してください。-->
== 番組内容 ==
=== 題材 ===
主人公となる人物の一代記を取ることが多いが、忠臣蔵もの(特に最初の『赤穂浪士』)など、比較的短時日のドラマを1年間かけて描くものも少数ながら存在する。『利家とまつ』や『功名が辻』のような夫婦をダブル主人公とする形式や、『国盗り物語』『草燃える』『炎立つ』『葵 徳川三代』『いだてん〜東京オリムピック噺〜』のように主人公が交代する形式もある。通常は[[平安時代]]以降から[[明治時代]]までを舞台とするが、『山河燃ゆ』『春の波涛』『いのち』『いだてん〜東京オリムピック噺〜』は近現代を描いている。
草創期は既存の[[歴史小説]]を原作としたものが多かったが、『三姉妹』『春の坂道』『黄金の日日』のように大河ドラマ制作のために原作が企画され、書き下ろされることもあった。また複数の小説を原作とすることや、原作にない期間をオリジナル脚本で補うこともしばしば行われていた。完全なオリジナル脚本の作品は18作目の『獅子の時代』が最初である。2010年代以降は2011年の『江』<ref group="注釈">ただし脚本の田渕久美子による描き下ろし小説が原作である。</ref>と2018年『西郷どん』を除きオリジナル脚本となっている。これについて『どうする家康』でチーフプロデューサーを務めた[[磯智明]]は、2010年以降[[インターネット]]と[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]の影響で時代考証に関する質問が増加するようになり、原作が採用している説や描写についても時代考証的に正しいか判断する必要が生まれたこともあり、原作を採用しない方針を取っているとしている<ref>{{Cite web|url= https://www.nhk.or.jp/ieyasu/column/17.html |title= ゆるっと解説 大河と歴史の裏話『前代未聞! 三河一向一揆を3週にわたって』 |website= 大河ドラマ「どうする家康」 |publisher= NHK |date= 2023-06-25 |accessdate= 2023-12-23 |archiveurl= https://archive.li/0BeDY |archivedate= 2023-06-26 }}</ref>。
[[井伊直弼]]、[[原田宗輔|原田甲斐]]、[[平清盛]]、[[平将門]]、[[柳沢吉保]]、[[北条政子]]、[[足利尊氏]]、[[日野富子]]、[[明智光秀]]等々、一般的には歴史上ネガティブなイメージを持たれた人物を主人公に据え、新解釈によってその人物の人間的側面を掘り下げて魅力的に描く手法(そういった原作を採用する事)が度々採られてきた。
架空の人物が主人公となることもあるが、『いのち』は主要キャストに歴史上の人物が登場しない異色の作品となった。
=== 演出 ===
一代記となる形式の場合は、出生から幼少期までを子役が演じ、青年期以降を本役の俳優が演じることが多い。ただし『江』や『鎌倉殿の13人』のように幼年期・少年期を成人した本役の俳優が演じることもある。
「[[大坂城]]」や「屋敷門の炎上」、「[[関ヶ原の戦い]]」など、過去の作品で使用した場面が何度も使われるケースがある。題材となる人物やテーマに所縁のある地方と[[タイアップ]]する事も多い。また、歴史上の人物の節目に因んで、テーマが選択される事もある。[[三谷幸喜]]が奈良時代の舞台設定を提案するも、戦国時代や江戸時代などのように、衣装やセットを使いまわしできず全部新作しなければならず金がかかると拒否された事例もあり、狭い歴史時代範囲で制作されている<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/27/kiji/20220127s00041000393000c.html |title= 歴史好き三谷幸喜氏 奈良時代を描きたいけどNHKからは「やめてほしい」 その理由は? |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2022-01-27 |accessdate= 2022-09-23 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20220127073816/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/27/kiji/20220127s00041000393000c.html |archivedate= 2022-01-27 }}</ref>。
主人公をヒーロー/ヒロインまたは現代的感覚を持った人物として描こうとするため、その人物の暗い側面に関しての描写が曖昧であったり、歴史学上の定説と離れた演出が加えられることもある。このことに関し、NHK側は「'''大河ドラマはドキュメンタリーではなくあくまでドラマであり、演出も必要である'''」と述べている。また、『鎌倉殿の13人』で歴史考証者を務めた[[坂井孝一]]は、作業内容は、スタッフに歴史の大枠や特徴は説明して、脚本の不自然な点や言葉をチェックして提言するが、歴史的な厳密さより研究とは別だと製作側のドラマとしての脚本の話の面白さを優先する場合もあるという<ref>坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏 - 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』〈NHK出版新書〉2021年、p.259-260「おわりに」</ref>。なお、『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』のように、「このドラマは史実を基にした[[フィクション]]です」という注釈テロップが付けられることもある<ref name="hochi20181214">{{Cite news|url=https://hochi.news/articles/20181214-OHT1T50195.html |title=来年大河「いだてん」、異例の注釈「史実を基にしたフィクション」|date=2018-12-14 |newspaper=スポーツ報知|accessdate=2019-01-13}}</ref>。『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』のように、ドラマでの描写を機に、それまで否定的に見られていた人物の評価が見直されたりする。
=== 名称の由来 ===
第一作とされている『[[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]』放送開始時には、「大型時代劇」という名称で呼ばれていたが、同枠のドラマが本数を重ね、さらに次第に歴史ドラマとして注目されるようになると「大型歴史ドラマ」の名称が用いられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://cgi2.nhk.or.jp/navi/trivia/index.html |title=NHK雑学 |accessdate=2012-10-16}}</ref>。シリーズ15周年を記念して発売された2枚組LPレコード『NHK大型歴史ドラマの15年 花の生涯から花神まで』([[ポリドール・レコード|ポリドール]])のタイトルにもそれが現れている。
一方、第二作の『[[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]』放送直前の1964年(昭和39年)1月5日の[[読売新聞]]が『花の生涯』と『赤穂浪士』を「[[大河小説]]」になぞらえて「大河ドラマ」と表現し、その後一般でも「大河ドラマ」の名称で呼称されるようになった<ref>{{Cite book|和書|title=NHK大河ドラマ大全:50作品徹底ガイド |publisher=NHK出版 |year=2011 |page=84 |isbn=9784144071768 }}</ref>。1977年(昭和52年)3月、NHKでシリーズ15周年記念番組『大河ドラマの15年』を放送。{{要出典範囲|これがNHKが公式に「大河ドラマ」の名称を用いた最初である。|date=2023年1月}}レコードや書籍にも「大河ドラマ」の名が使われるようになり、やがて本放送時にも「大河ドラマ」とシリーズ名が明示されるようになった。
なお、 「大河ドラマ」という表記自体が大河ドラマでテロップもしくはそれに準ずる形で初めて登場したのは、第40作『[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]』の副音声解説である。テロップではその翌年の第41作『[[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]]』の冒頭、オープニングタイトルでは、第43作『[[新選組!]]』からである。
=== 放送サイクル ===
原則1年1作で、1月初回、12月最終回である。初期は年内いっぱいの52回放送していたが、のちに正月3が日と12月下旬は特別番組に枠を譲り、50回放送が典型となった(年末年始2週間は放送休止する計算となる)。2018年以降は、NHKの働き方改革の影響を受け、47回放送となり、特別編の挿入や選挙などの報道特別体制時に番組休止を挟むようになった。
1990年代前半には、大河のスリム化が図られ、放送サイクルが変則的になった。[[連続テレビ小説]]と同じ年度別2作品の方式とするべく、第31作『[[琉球の風 (NHK大河ドラマ)|琉球の風]]』を6か月(1993年1月-6月)、第32作『[[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』を9か月(1993年7月-1994年3月)にそれぞれ短縮し、以降は半年ずつの放送サイクルとするはずであった。しかしこの計画が不評だったためか、第33作『[[花の乱]]』も9か月(1994年4月-12月)とし、第34作『[[八代将軍吉宗]]』(1995年)からは再び1年1作のサイクルに戻った。
第59作『[[麒麟がくる]]』は、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]の影響で制作・放送スケジュールに遅れが生じたため、放送が越年。次回作『[[青天を衝け]]』の放送期間が1か月短縮されている。
この他に、第30作『[[信長 KING OF ZIPANGU]]』から第33作『[[花の乱]]』までの4作品は、NHKの子会社である[[NHKエンタープライズ]]に制作が委託されていたが、『八代将軍吉宗』でNHK東京本部の単独制作に復帰した。
=== 出演者 ===
出演者は、通常のドラマでは主役級の[[俳優]]・女優が共演することが多く、これに名脇役と呼ばれる俳優や[[舞台]]俳優・[[歌手]]・[[アイドル]]・[[お笑いタレント|お笑い芸人]]など多彩なキャストも加わるため、普段は見られない顔合わせがよく見られる(このことは[[連続テレビ小説]]でも同様に言える)。
番組初期は[[五社協定]]により映画会社所属の俳優はテレビ出演が制限されていたため、[[新劇]]の俳優や[[歌舞伎]]俳優が多く起用された。
第3作『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』では[[緒形拳]]、[[高橋幸治]]、[[石坂浩二]]ら無名の新人俳優が抜擢され、一躍人気スターとなった。
五社協定消滅後も、第16作『[[黄金の日日]]』で[[石川五右衛門]]と[[杉谷善住坊]]を演じた[[根津甚八 (俳優)|根津甚八]]と[[川谷拓三]]や第21作『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』で[[織田信長]]役を演じた[[役所広司]]、第25作『[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]』で主演した[[渡辺謙]]は番組がきっかけで一躍有名になり、2000年代に入ってからは『[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]』に出演した[[北村一輝]]、『[[新選組!]]』に[[土方歳三]]と[[山南敬助|山南敬介]]で出演した[[山本耕史]]や[[堺雅人]]、『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』に出演した[[高木渉]]などが、大河ドラマに出演したことをきっかけとして活躍の場を広げることになった。
なお、[[連続テレビ小説]]と異なり、同じ俳優が別作品で同一人物を演じる例がしばしば見られる。端役で登場するケースもあるが、同じ役で共演する主要な役では第3作『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』で豊臣秀吉を演じた[[緒形拳]]、織田信長を演じた[[高橋幸治]]が第16作『[[黄金の日日]]』で揃って同じ役を演じ、第11作 『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』で徳川家康を演じた[[寺尾聰]]と第35作『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』で[[豊臣秀吉]]を演じた[[竹中直人]]が共に第53作『[[軍師官兵衛]]』で同じ役を演じたケースがある。他に同一人物を演じた主要役の例として、織田信長を演じた[[藤岡弘、]](第19作『[[おんな太閤記]]』と第27作『[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]』)、徳川家康を演じた[[津川雅彦]](第25作『独眼竜政宗』と第39作『葵 徳川三代』)、[[滝川一益]]を演じた[[段田安則]](第35作『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』と第55作『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』)などがある。
また特異な例として、[[小栗旬]]が第35作『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』で[[石田三成]]の子役、第48作『[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]』で成人後の石田三成を、[[神木隆之介]]が第44作『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』で[[源義経]]の少年期である牛若を、第51作『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』で成人後の源義経を演じている。第50作『江』で徳川家康を演じた[[北大路欣也]]は、第60作『青天を衝け』では案内役としての徳川家康を演じている。第61作『鎌倉殿の13人』の最終回では、翌年の第62作『どうする家康』の主人公を務める[[松本潤]]が、同じ徳川家康役で特別出演している。
2015年の[[連続テレビ小説]]『[[あさが来た]]』には、第43作『[[新選組!]]』で[[土方歳三]]を演じた[[山本耕史]]が同役で出演している。また[[五代友厚]]を演じた[[ディーン・フジオカ]]は2021年に放映された第60作『[[青天を衝け]]』で同役を務めている。
=== アンコール ===
2012年4月から2023年3月までBSプレミアムにおいて、2021年4月からはBS4Kにおいて(2021年4月から2023年3月まではBS8Kでも放送)、過去の作品を再放送している。
*『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』のアンコール放送については[[いだてん〜東京オリムピック噺〜#アンコール放送|当該項目]]を参照。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center;"
! 期間 !! 時間 !! タイトル
|-
| 2012年4月 - 2013年3月
| rowspan="3" | 土曜 18:00 - 18:45
| [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]
|-
| 2013年4月 - 2014年3月
| [[龍馬伝]]
|-
| 2014年4月 - 2015年3月
| [[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]
|-
| 2016年4月 - 2017年3月
| rowspan="3" | 日曜 12:00 - 12:45
| [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]
|-
| 2017年4月 - 2018年3月
| [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]
|-
| 2018年4月 - 2019年3月
| [[軍師官兵衛]]
|-
| 2019年4月 - 2020年3月
| rowspan="2" | 日曜 6:00 - 6:45
| [[葵 徳川三代]]
|-
| 2020年4月 - 2021年3月
| [[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]
|-
| 2021年4月 - 2022年3月
| 日曜 6:45 - 7:30
| [[黄金の日日]]
|-
| 2022年4月 - 2023年3月
| 日曜 7:15 - 8:00
| [[おんな太閤記]]
|-
| 2023年4月 - 2024年3月<br />(BSP4K)
| 日曜 11:30 - 12:15<br /> 木曜 18:15 - 19:00<br /> (再放送)
| rowspan="2"|[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]
|-
| 2023年12月 - 2024年11月<br />(BS)
| 月曜 18:00 - 18:45
|}
== 番組の構成 ==
各作品、クレジットはオープニング時に表示され、その時にオープニングのテーマ曲が流れる(約3分<ref group="注釈">黎明期の作品(『[[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]』〜『[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]』)は2分以下。『[[鎌倉殿の13人]]』は2分10秒。</ref>)。テーマ曲は原則オーケストラ([[NHK交響楽団]])により演奏されるオリジナル曲。また、クレジットの最初に出るタイトルは原則手書き<ref group="注釈">彫刻などの場合もある(『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』など)が、ほとんどの作品が揮毫による手作り。『[[山河燃ゆ]]』『[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]』『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』、『鎌倉殿の13人』『[[どうする家康]]』はレタリング・フォントを元にした題字を用いている。</ref>で、製作者は「題字」として出演者よりも先にテロップされる。
オープニングの映像やパターンも作品によって異なる。特筆する箇所は以下の通り。
*『[[風と雲と虹と]]』は初回オープニングのみ映像が異なるほか、本編冒頭で原作者の解説などを経てドラマ部に入るパターン。
*『[[獅子の時代]]』は曲中で、その回のハイライトシーンが織り込まれる(※一部の回は変則)パターン。(→『[[獅子の時代#オープニング]]』)
*『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』はタイトルシーン以降は、第1部と第2部を境に映像が異なるパターン(→『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く#概要]]』)、
:なお『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜|いだてん]]』もこれに該当し、第1部と第2部を境にオープニングが異なる<ref name="どうする">{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/05/15/kiji/20230514s00041000840000c.html|title=「どうする家康」OPタイトルバック変更の狙い 三方ヶ原が転機「戦国ど真ん中」第3弾は?大河過去に数例|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2023-05-15|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2023-05-15}}</ref>。
*『[[琉球の風 (NHK大河ドラマ)|琉球の風]]』は初回オープニングのみ映像が異なる変則パターン。(→『[[琉球の風 (NHK大河ドラマ)|琉球の風#概要]]』)
*『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』は途中のシーンの映像が不特定に変わるパターン。
*『[[龍馬伝]]』はオープニングの冒頭シーンのみ異なるパターン。(→『[[龍馬伝#オープニングタイトル]]』)
*『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』は第2部(第30話)と第3部(第31話)を境に一部シーンを差し替えているパターン。(→『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)#企画・制作|平清盛#作品構成]]』)
*『[[八重の桜]]』は中盤部分を月替わりに変更し、全体でも第33話と第34話を境にリニューアルしたパターン。(→『[[八重の桜#スタッフ|八重の桜#オープニング映像]]』)
*『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』は『[[獅子の時代]]』同様にその回のハイライトシーンが織り込まれ、第44回のみ変則構成(※後述の脚注参照)のパターン。
*『[[鎌倉殿の13人]]』はオープニングをキャストと原作・音楽担当のみにし、それ以外の製作者(指導・スタッフ)は本編内でテロップするパターン{{Refnest|group=注釈|『[[鎌倉殿の13人]]』の制作統括の清水拓哉CPによると「冒頭のアバンタイトルからの『さぁ、見るぞ』という視聴者の熱量・熱気を逃さないために尺を短くしたい。この連立方程式を解いた結果、タイトルバックではキャストのみとし、スタッフは別で出す。(要約)」と説明している<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/23/kiji/20220122s00041000645000c.html|title=「鎌倉殿の13人」異例のOPタイトルバックに2つの狙い 例年より尺を約1分短縮 スタッフ名は別出し|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2022-01-23|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2022-01-24}}</ref>。}}。
*『[[どうする家康]]』は2度(※1回目は第17話と第18話<ref name="どうする" />、2回目は第34話と第35話<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/09/17/kiji/20230917s00041000194000c.html|title=「どうする家康」白兎に富士山!OPタイトルバックも“最終形態”ネット沸く「感慨」制作語る第3弾の狙い|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2023-09-17|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2023-09-18}}</ref>(※第44話のみ別仕様{{Refnest|group=注釈|この回はオープニング曲はそのままだが、タイトルバック映像と演奏は全てこの回だけの別仕様となる。特に演奏はピアノ4台のみで、手拍子もピアノで演奏したという<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/11/19/kiji/20231119s00041000190000c.html|title=「どうする家康」大河異例 テーマ曲も“変更”OPタイトルバック新装は一夜限りのSP版 ネット驚き続々|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2023-11-19|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2023-11-20}}</ref>。}})を境に)、オープニングをサプライズ変更するパターン。
『[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]』以降の作品では、オープニング前に図解や写真などを用いた史実の解説などを行う[[アバンタイトル]]で始まるパターンが多い。
本編では全般的に序盤はロケシーンが多く、中盤から後半にクライマックスがあり、終盤は登場人物も代替わりして若手俳優が増え、またスタジオ撮影のシーンが多くなるのが特徴である。近年、合戦シーンなどでは[[コンピュータグラフィックス]](CG)を用いることも多い。
本編終了後に次回予告(30秒程度)が流れ、その回の放送内容の舞台となった地や重点的に取り上げられた人物のゆかりの地を紹介する'''「紀行」コーナー'''が入る<ref group="注釈">『[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]』も参照。なお『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』以降は、その紹介した場所のアドレスも紹介されるが、最終回はアドレス紹介は割愛されている。</ref>{{Refnest|group=注釈|なお『[[鎌倉殿の13人]]』の第18回は本編を拡大し、「紀行」コーナーを休む変則パターンを行い<ref>{{cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20220422dog00m200049000c.html|title=鎌倉殿の13人:平家滅亡「壇ノ浦の戦い」回は“紀行なし”「たっぷり楽しんで」「相当な規模」の大海戦に&義経の八艘飛びも|newspaper=MANTANWEB|date=2022-04-22|agency=MANTAN|accessdate=2022-04-23}}</ref>、その代わりとなる「紀行」コーナーを'''「予習として」'''4回にわたって放送した<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/05/02/kiji/20220502s00041000173000c.html|title=「鎌倉殿の13人」壇ノ浦の戦い「紀行」“異例の予習放送”日時決定 計4回!5・8第18話は本編45分|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2022-05-22|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2022-05-23}}</ref>。}}。最終回では本編終了後に「紀行」コーナーが先に入って作品自体はそこで終了し、その後に次作の予告が入る(30秒から2分程度)。なお 『[[麒麟がくる]]』以降は次回予告後一旦本編を終了させて、その後に紀行コーナーに入るパターンになっている。
作品によっては<ref group="注釈">主に『[[龍馬伝]]』以降(『[[麒麟がくる]]』は除く)。なお『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』の第44回も変則構成となっており、エンディング(「紀行」の直前、本編ラスト)にオープニングを流し、そのカットインに次回予告を混ぜる構成になっている。</ref>、最終回のみオープニングをカットして、エンディング(「紀行」の直前、本編ラスト)にテーマ曲(※『[[龍馬伝]]』は除く)とテロップが流れる。
== 放送日データ ==
* [[NHK総合テレビジョン|総合]] - 本放送 日・20時 - 20時45分
** 第40作の北条時宗からは初回・最終回の放送時間を延長するときにも開始時刻は20時に固定し、終了時刻を延長している。
** [[衆議院議員総選挙]]・[[参議院議員通常選挙]]・[[統一地方選挙]]などの重要な選挙の投開票日は投票締め切りの20時から開票速報を放送するため、放送時刻が変更される。
*** 1991年『太平記』は、[[第12回統一地方選挙]]投開票日は19時台に繰り上げて放送したが、その後は重複日は大河ドラマは放送休止していた。
*** 2000年『葵 徳川三代』以降は、19時台に繰り上げて放送した。2014年の[[第47回衆議院議員総選挙]]投開票日は『[[軍師官兵衛]]』の最終回拡大版の放送日であったため19時台に収めることが出来ず、翌週に延期された。
*** 2018年『西郷どん』以降は、回数減に合わせて、放送を休止するようになった。
** その他、オリンピックやサッカーワールドカップなどのスポーツ中継、重大ニュースによる報道[[特別番組]]の編成などにより、放送休止、もしくは変更されることがある。
** 2020年3月1日以降は、[[NHKプラス]]でインターネット同時配信・見逃し配信が行われている。
* 再放送 土・13時5分 - 13時50分(本放送の6日後)
** 高校野球などのスポーツ番組、国会中継実施{{efn|第2作赤穂浪士から第27作春日局で発生。}}などの特別番組放送で放送時間が変更されることがある。
** 最終回は、年末の番組編成の都合上、放送時間が変更される例があるが、再放送しなかった例もある。
* [[NHK BS|BS]]<ref group="注釈" name=BS再編>どうする家康の途中に当たる2023年12月1日よりBSの再編により、2K放送の[[NHK BSプレミアム|BSプレミアム]]と[[NHK BS1|BS1]]を統合する[[NHK BS|BS(2K放送)]]と、[[NHK BS4K|BS4K]]をリニューアルする[[NHK BSプレミアム4K|BSプレミアム4K]]に再編されたが、先行放送については従来の体裁を踏襲して、BS(2K放送),BSプレミアム4Kでも継続される</ref> - 日・18時 - 18時45分(先行放送){{efn|旧BSプレミアムでは独自のポイントサービスである'''BSドラマイル → BSマイル'''対象番組の一つとして扱われた(2016年サービス終了)。}}
** 第60作の青天を衝けからBS(プレミアム)4Kとの[[サイマル放送]]。
* [[NHK BSプレミアム4K|BSプレミアム4K]]<ref group="注釈" name=BS再編/> - 日・18時 - 18時45分(先行放送)
** 第60作の青天を衝けからBSプレミアムとのサイマル放送。
**日・9時 - 9時45分(先々行放送)※2019年の第58作と2020年の第59作<ref>[https://web.archive.org/web/20181110080429/https://www.nhk.or.jp/idaten/ 大河ドラマ いだてん~東京オリムピック噺~]</ref>
**日・12時15分 - 13時(先々行放送)※2023年(第62作)途中の2023年4月9日より
*** 再放送 日・8時 - 8時45分 (2019年の第58作と2020年の第59作)
*** 再放送 日・20時 - 20時45分(第59作の麒麟がくる第12回から最終回までは総合とのサイマル放送。)
* NHKワールド・プレミアム - 日・20時 - 20時45分(オリンピック開催期間中はニュース番組の時差放送による特別編成の関係上、19時15分 - 20時に放送時間を繰り上げる。よって、オリンピック開催期間中は総合より早く放送されることとなる。選挙開票速報がある場合も同様。2010年6月20日は20時から[[NHKニュース7]]の時差放送を行う関係で20時15分 - 21時に変更{{efn|2012年のロンドンオリンピック期間中は7月28日は総合と同じ通常時刻で(ただし総合は21時〈その後柔道の中継延長で22時2分に変更〉開始のため国際放送単独放送)、8月5日は20時20分 - 21時5分に放送される。8月12日は国内向け・国際放送向けとも大河ドラマの番組自体が休止。}})
** 再放送 月・3時10分 - 3時55分(メンテナンスによる放送・配信休止の場合は5時10分 - 5時55分に変更。2010年3月22日は放送・配信休止に加え、5時台に大相撲中継の1時間ダイジェスト版が組まれる関係上、6時15分 - 7時に変更)、土・13時5分 - 13時50分
* [[テレビジャパン]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カナダ]]・[[プエルトリコ]]。衛星放送またはケーブルテレビ)
** 本放送 東海岸:日・20時5分 - 20時53分 西海岸:日・17時5分 - 17時53分 [[ハワイ州|ハワイ]]:日・15時5分 - 15時53分(米本土の[[夏時間]]期間は14時5分 - )番組前後にCM有
** 再放送 東海岸:月・1時15分 - 2時 西海岸:日・22時15分 - 23時 ハワイ:日・20時15分 - 21時(米本土の夏時間期間は19時15分 - )
** 再々放送(英語字幕付。約3か月遅れ)
*** 標準時期間 東海岸:土・18時18分 - 20時3分 西海岸:土・15時18分 - 16時3分 ハワイ:土・13時18分 - 14時3分
*** 夏時間期間 東海岸:土・17時15分 - 18時 西海岸:土・14時15分 - 15時 ハワイ:土・11時15分 - 12時
* KIKU-TV(ハワイ。地上波で英語字幕付。なおCMが有る。長年約3か月遅れ放送だったが、『篤姫』からは約50日(およそ7週間と少し)、『天地人』からは37日遅れ(2009年2月10日初回放送)に短縮)
** 本放送 - 火・20時 - 21時
** 再放送 - 日(本放送5日後)・19時 - 20時
なお、2004年と2005年の大河ドラマ『新選組!』および『義経』は[[NHK総合テレビジョン|デジタル総合]]にて13時 - 13時45分(2005年4月からは13時5分 - 13時50分)に限定先行放送を始めたが、2006年(『功名が辻』)から再びその放送はなくなった。
=== 放送時間の推移 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;"
|+ 本放送
|-
!colspan=2|期間!!放送時間([[日本標準時|日本時間]])!!備考
|-
!1963.04!!1964.03
|日曜 20:45 - 21:30(45分)||
|-
!1964.04!!1964.12
|日曜 21:30 - 22:15(45分)||『[[歌のグランド・ショー]]』放送開始のため繰り下げ
|-
!1965.01!!1969.04
|日曜 20:15 - 21:00(45分)||
|-
!1969.04!!現在
|日曜 20:00 - 20:45(45分)||『[[歌の祭典 (NHK)|歌の祭典]]』放送短縮のため繰り上げ
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;"
|+ 再放送
|-
!colspan=2|期間!!放送時間([[日本標準時|日本時間]])!!備考
|-
!1964.01!!1964.03
|土曜 14:05 - 14:50(45分)||
|-
!1964.04!!1965.03
|土曜 13:15 - 14:00(45分)||
|-
!1965.04!!1989.03
|土曜 13:25 - 14:10(45分)||
|-
!1989.04!!現在
|土曜 13:05 - 13:50(45分)||
|}
=== ダイジェスト版 ===
* 2009年度より[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]の「[[NHKワンセグ2|ワンセグ2]]」(2014年度終了)で月曜日に5分間の『(作品名)ダイジェスト』を放送したが、これを2011年4月(『江〜姫たちの戦国』の途中)から、月曜0時5分 - 0時10分(日曜深夜)に、[[NHK総合テレビジョン|総合]]でも放送される(解説放送はなし)。(のちに2014年4月から水曜22時45分 - 22時50分に移動)。2015年からは番組名を『5分でわかる(作品名)』もしくは『5分で(作品名)』に変更。2017年から月曜0時5分 - 0時10分(日曜深夜。2020年3月22日までは近畿広域圏では放送なし)に再び移動。2020年3月30日からは月曜0時10分 - 0時15分(日曜深夜)ほかに放送。
=== 総集編 ===
年末には総集編(ダイジェスト版。全部で3、4時間程度)も製作される(作品によっては翌年正月に放送する場合もある)。また、本放送に区切りがつくごとにその時点までの総集編が番宣も兼ねて放送されることもある。
== 姉妹番組 ==
=== 新大型時代劇 ===
1984年から1986年にかけての「近代大河3部作」(『[[山河燃ゆ]]』、『[[春の波涛]]』、『[[いのち (NHK大河ドラマ)|いのち]]』)が放送されていた時期に、従来の時代劇路線の大河ドラマのファンのためにそれまで軽い内容で娯楽系の「[[木曜時代劇 (NHK)|水曜時代劇]]」が放送されていた水曜日の20時台に新たに設けられた<ref>{{Cite interview |和書|last=大原 |first=誠 |subjectlink=大原誠 |title=舞台裏インタビュー ディレクター編:大原 誠さん(元・NHKディレクター) |url=https://web.archive.org/web/20150915075200/https://www.nhk.or.jp/archives/search/special/backstage/ |work=[[NHKアーカイブス]]([[日本放送協会|NHK]]) |accessdate=2019-03-06}}</ref>。放送曜日と予算は大河ドラマと異なるが出演者に大河ドラマ出演者が多く、1年間の放送であったことから大河ドラマに準じる連続大型時代劇として扱われることも多い。
1986年の『武蔵坊弁慶』は翌[[1987年]]1月から大河ドラマが『[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]』で時代劇路線に戻ることもあり、約9か月間の放送で終了した。
再び現代が舞台となった『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』が放送された2019年には当枠に代わる番組は編成されず、NHK地上波の連続時代劇枠は一時的ではあるが土曜日の「土曜時代ドラマ」1枠のみとなった。
==== 作品 ====
; [[宮本武蔵 (NHK新大型時代劇)|宮本武蔵]](1984年[[4月4日]] - 1985年[[3月13日]]、全45話)
: 原作 / 吉川英治、脚本 / [[杉山義法]]、音楽 / [[三枝成彰|三枝成章]]
: 出演 / [[役所広司]]([[宮本武蔵]])、[[古手川祐子]](お通)、[[中康次]]([[佐々木小次郎]])、[[竹脇無我]]([[柳生宗矩]])、[[丹波哲郎]]([[新免無二斎|平田無二斎]])、[[石坂浩二]]([[本阿弥光悦]])
; [[真田太平記 (テレビドラマ)|真田太平記]](1985年[[4月3日]] - 1986年[[3月19日]]、全45話)
: 原作 / [[池波正太郎]]、脚本 / [[金子成人]]、音楽 / [[林光]]
: 出演 / [[渡瀬恒彦]]([[真田信之]])、[[草刈正雄]]([[真田信繁|真田幸村]])、[[遥くらら]](お江)、[[岡田茉莉子]]([[淀殿|淀君]])、[[中村梅之助 (4代目)|中村梅之助]]([[徳川家康]])、[[丹波哲郎]]([[真田昌幸]])
; [[武蔵坊弁慶 (テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]](1986年[[4月9日]] - 1986年[[12月3日]]、全34話)
: 原作 / [[富田常雄]]、脚本 / 杉山義法ほか、音楽 / [[芥川也寸志]](オープニングテーマ)、[[毛利蔵人]](本編)
: 出演 / [[中村吉右衛門 (2代目)|中村吉右衛門]]([[武蔵坊弁慶]])、[[川野太郎]]([[源義経]])、[[荻野目慶子]](玉虫)、[[芦田伸介]]([[平清盛]])、[[菅原文太]]([[源頼朝]])、[[萬屋錦之介]]([[藤原秀衡]])
=== 続編の放送 ===
[[2006年]]1月には大河ドラマとしては初めて[[続編]]が製作、放送された。これは[[2004年]]制作の第43作『[[新選組!]]』のその後を描いた作品で、大河ドラマでは局長・[[近藤勇]]が主役だったが、続編『[[新選組!! 土方歳三 最期の一日]]』では副長・[[土方歳三]]にバトンタッチし、土方の最期の一日を描いた。
=== スペシャルドラマ「坂の上の雲」 ===
2009年から2011年にかけての毎年12月に、当初「'''21世紀スペシャル大河'''」として企画され1話90分・全13話で放送された。そのため、第48作『[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]』から第50作『[[江〜姫たちの戦国〜]]』までの3作品は11月で放送が終了している。
==== 作品 ====
; [[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]([[2009年]][[11月29日]] - [[12月27日]]、[[2010年]][[12月5日]] - [[12月26日]]、[[2011年]][[12月4日]] - [[12月25日]]、全13話)
: 原作 / 司馬遼太郎、脚本 / [[野沢尚]]ほか、音楽 / [[久石譲]]
: 出演 / [[本木雅弘]]([[秋山真之]])、[[阿部寛]]([[秋山好古]])、[[香川照之]]([[正岡子規]])、[[菅野美穂]]([[正岡律]])、[[石原さとみ]](秋山季子)、[[加藤剛]]([[伊藤博文]])、[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]([[児玉源太郎]])、[[渡哲也]]([[東郷平八郎]])
=== 大河ドラマが生まれた日 ===
2023年2月4日に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]で放送された。テレビ放送70周年、大河ドラマ60周年を迎えることを記念した、若きテレビマンたちによる大河ドラマ誕生の様子を描く奮闘記<ref>{{Cite web|和書|title=テレビ70年記念ドラマ「大河ドラマが生まれた日」新たな出演者と放送日決定! |url=https://www.nhk.jp/g/blog/wvjbzdambj/ |website=NHKドラマ |date=2022-10-11 |access-date=2022-10-24 |language=ja}}</ref>。[[生田斗真]]主演。
== 備考 ==
上述のように、大河ドラマはNHKの看板番組の扱いを受けており、NHKも1年間、その年の放送内容に関する番組を随所で放送する。例えば、『[[その時歴史が動いた]]』、『[[歴史秘話ヒストリア]]』などNHKの歴史教養番組、娯楽番組では、主人公およびその時代が度々取り上げられる。また、放送開始直前の[[NHK紅白歌合戦]]には、主演俳優はほぼ必ず出演する(ほとんどはゲスト審査員であるが、司会者に他に適任者がいないときは司会に、歌手としての活動も盛んに行っている場合には出場歌手に名を連ねる場合もあり)。
放送年の2月3日には、出演者が[[大相撲]][[力士]]と共に[[成田山新勝寺]]で[[節分]]の豆まきの来賓ゲストとして出席する<ref>{{Cite news |title=成田山新勝寺 恒例の豆まき |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130203/t10015259841000.html|newspaper=NHKニュース |publisher=NHK|date=2013-02-03 |accessdate=2013-02-06|archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0206-1337-02/www3.nhk.or.jp/news/html/20130203/t10015259841000.html |archivedate=2013-02-06}}</ref>のが恒例である{{Refnest|group="注釈"|例外として1976年に放送された『風と雲と虹と』の出演者は成田山新勝寺の節分会に参加しなかった。これは新勝寺自体がこの作品の主人公でもある[[平将門]]を調伏するために[[下総国]]公津ヶ原(現在の[[成田市]]並木町付近)で不動護摩の儀式を行ったのが開基の由来となっており、将門の怨敵とされているため<ref>{{Cite web|和書|url=https://tenki.jp/suppl/kous4/2016/01/03/9201.html|title=全国有数の初詣スポット成田山新勝寺。巨大寺院の謎と秘密に迫る!|accessdate=2020年2月6日|publisher=日本気象協会(2016年1月3日作成)}}</ref>。}}。また、主要出演者(主演者に限らず)が[[中央競馬]]の[[NHKマイルカップ]]のゲスト出演や表彰プレゼンテーターをする場合がある。
日本国内のNHKでの放送では、デジタルで放送されるデジタルBSプレミアムとデジタル総合テレビでは[[音声多重放送|副音声]]で視覚障害者向けの[[解説放送]]がある{{efn|アナログ放送では地上波・BSともにステレオ放送のみを実施し、解説放送はなかった。NHKでは地上波・BSをふくめ、デジタル放送の普及に合わせる形で、それまで視覚障碍者を扱った作品と、[[帯ドラマ]]のみで実施したドラマ番組(一部除く)での解説放送を強化している。}}。また、デジタル総合テレビとデジタルBSプレミアムは[[データ放送|連動データ放送]]がある。この解説放送はステレオ2音声放送で、アナログ総合テレビとアナログBSプレミアムならびに海外向けテレビ番組配信のNHKワールド・プレミアムでは行われていない(通常のステレオ放送のみ)。これらはBSデジタルの放送開始翌年の『[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]』より行われた。
海外向けでは、日本人が多く住む地域でNHKワールド以外の放送局で放送されている(字幕付き)。2000年代以降では、CS専門チャンネル([[ファミリー劇場]]、[[時代劇専門チャンネル]]、[[衛星劇場]]など)で放送されている。
2001年から2005年まではアナログ放送とデジタル放送では番組内容は同じでもそれぞれ編集映像比率内容が異なっていた。アナログ放送用(NHKワールド・プレミアムも含む)では本編は4:3で放送されるが番組最後の紀行の部分のみレターボックスで放送されていた。2006年からアナログ・デジタル同時送出のため、アナログ放送(NHKワールド・プレミアムも含む)では[[レターボックス (映像技術)|レターボックス14:9]](上下黒帯幅がやや小さく、4:3画面でも違和感がないもの)で放送されるようになった(他の番組では16:9レターボックス放送は行われるようになった中、本番組では2010年7月11日以降も『[[龍馬伝]]』最終回・総集編まで14:9サイズでの放送が続いていた)。これにあわせて同年の『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』と[[2007年|翌年]]の『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』の中ではスタッフ・キャストのテロップを横書き表示に変更した。[[2008年]]以降の作品については再び縦書きクレジットの作品が増えているが、[[2009年]]の『[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]』、[[2010年]]の『[[龍馬伝]]』、[[2014年]]の『[[軍師官兵衛]]』、[[2023年]]の『[[どうする家康]]』では横書きでクレジットされた(もっとも、画面サイズとは関わり無く、『[[山河燃ゆ]]』『[[春の波涛]]・総集編』など、過去の作品でも横書きクレジットタイトル表示だった作品は少数ながら存在する)。2011年に入ってからレターボックス16:9に移行した。
スタジオでの全収録が終了するクランクアップの時には出演者・スタッフの労を労ってスタジオに[[くす玉]]が吊るされ、主演者がそれを割ったり出演者のスピーチも行われ、翌年の大河の主役の俳優からその年の主役の俳優に花束を渡し引継ぎを行うなど、その模様は[[スポーツ新聞]]やNHK広報番組、[[NHKオンライン]]の[https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/video/preview.html 会見動画!]で取り上げられることが多い。
=== 製作費について ===
2005年以降、[[NHKの不祥事]]がクローズアップされたため透明性を明かすために『功名が辻』以降、毎年の決算概要に1話分の平均製作費<ref>[https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/yosan/yosan26/pdf/siryou.pdf p.11 チャンネル別予算 <ジャンル別の番組制作費>] - NHK 平成26年度 収支予算と事業計画の説明資料</ref><ref>[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/154715 莫大な経済効果 朝ドラ「マッサン」1話あたりの制作費は?] - 日刊ゲンダイ、2014年11月5日</ref>について公表している。以降の作品は、『義経』が6,440万円、『功名が辻』が6,110万円、『風林火山』が6,080万円、『篤姫』が5,910万円など。ほとんどの支出がセットなどの美術費であるとのことである<ref>[https://web.archive.org/web/20070615122357/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20060328et01.htm NHKが制作費公表 「功名が辻」6,110万・「きょうの料理」170万…] - [[読売新聞]]、2006年3月28日</ref>。
=== 観光への影響 ===
[[画像:Sanadamaru taigadoramakan 01.jpg|thumb|right|1年で100万人を超える来館者を集めた「信州上田真田丸大河ドラマ館」(長野県上田市)]]
[[ファイル:hirakata-kikuningyo3213.JPG|thumb|right|ひらかた大菊人形(2005年『義経』、大阪府枚方市)]]
1年間にわたって大河ドラマの舞台となった地域は、たとえ複数(主人公の生育地、成年後の生活地が異なる場合が多い)であっても、その観光への影響力は大きい。関連するビジネス団体や、地方公共団体においてもその誘致に、組織的な努力がなされることが一般化している。テーマ、地域、時代、主人公プロフィールなどの偏りに配慮するNHKの判断を見越して、多くの地域で多大な誘致活動が行われている。
自治体や地元経済団体などにより臨時の展示施設を開設することも多く、NHK側もドラマで使用された衣装・小道具やドラマの筋書・歴史的背景などを紹介するパネル展示、出演者を招いたイベント実施などの協力を行うほか、自ら関連会社により展覧会を[[東京都江戸東京博物館]]や関連府県で開催している。
”大河ドラマのまち”と銘打って自治体や地元経済団体などが地域活性化を図るケースは多い。例えば[[2002年]]の『[[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]]』が高視聴率を博したことで[[石川県]]の観光振興に大きく貢献しているとされる<!--出典なし-->。一方で、集客力はドラマ本体の評価に左右される面もあるとされ、[[長野県]][[上田市]]に開館した『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』(2016年)の「大河ドラマ館」が目標を大きく上回る入館者を集めるなど盛況を博し観光振興に大きく貢献した<ref>{{Cite news |url=http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20170105/KT170105FSI090002000.php|accessdate=2017-1-5|title=大河ドラマ館 入館100万人 上田市 08年以降最多|newspaper=信濃毎日新聞|date=2017-1-5}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/articles/ASK1H46J7K1HUOOB002.html|accessdate=2017-2-9|title=長野)真田丸大河ドラマ館が閉館|newspaper=朝日新聞|author=鈴木基顕|date=2017-1-16
}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.sankei.com/article/20170116-Y3NEYKMMC5OK3IOFOZ3AYRV25U/|accessdate=2017-2-9|title=「真田丸大河ドラマ館」これにて幕 1年間の入館者、103万人超 長野|newspaper=産経新聞|date=2017-1-16}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/14/kiji/K20161214013901190.html|accessdate=2016-12-21|title=「真田丸」イベント大盛況の理由、仕掛け人が明かす成功の鍵は「スマホと地方紙」|newspaper=スポーツニッポン|date=2016-12-14}}</ref>一方で、『[[花燃ゆ]]』(2015年)ではドラマ人気が低調であったため、観光への影響が予測を下回り「不完全燃焼」であると報道された<ref name="毎日西部">{{cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20151224/ddp/041/200/006000c|title=「花燃ゆ」終了 不完全燃焼、ご当地も|newspaper=毎日新聞西部朝刊|date=2015-12-24|accessdate=2016-11-26}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20160503-V4XFFU7IEJP7NELH2UDBUJEITQ/3/ |title=「花燃ゆ」燃えず…「真田丸」展は約1カ月で1万8000人 群馬の「上州沼田真田丸展」|publisher=産経新聞 |date=2016-05-03 |accessdate=2016-11-26}}</ref>。
このほか、毎年秋に各地で開催される[[菊人形]]展では大河ドラマをテーマにする事例が多い。著名なものとしては「[[ひらかた大菊人形]]」([[ひらかたパーク]]で開催)があった。このイベントは技術者の高齢化や後継者の不足などを理由に[[2005年]](『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』)をもって終了したが、市民からの復活の要望および主催企業である[[京阪電気鉄道]]の創業100年を記念して[[2010年]]のみ復活開催され、この時も大河ドラマ(『[[龍馬伝]]』)をメインテーマに選定している。
[[無形文化遺産]]であり、東北地方最大級の神事とされ毎年8月に実施されている[[八戸三社大祭]]([[青森県]][[八戸市]])では、2005年から大河ドラマの出演者が中日の合同運行に参加している。
=== 作品の現存状況 ===
[[1970年代]]までのNHKを含む多くの放送局では、放送用[[マスターテープ]]として使われた[[2インチVTR]]の保存は一般的でなく、放送終了後には内容を消去して他番組の収録に使い回していた<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/about/ 発掘って何?](NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト)</ref>。こうした事情から大河ドラマに関しては、『[[元禄太平記]]』(1975年)以前の作品および『[[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]』(1977年)、『[[草燃える]]』(1979年)のマスターテープの大半が失われており、映像資料用として保存されていた一部の放送回のみ(作品によっては総集編も)現存している。なお、同様の理由で既に存在していないと思われていた『[[風と雲と虹と]]』(1976年)については全映像の現存が確認され、後に完全版DVDが発売された。これが全話映像ソフト化された最古の作品となっている。
当初は高価だった放送局用ビデオテープも、家庭用[[ビデオデッキ]]の登場によって安価となったため、次第に番組を保存するように方針が変わり、『[[黄金の日日]]』(1978年)は全話現存している。そして『[[獅子の時代]]』(1980年)以降の歴代作品は、通常放送回・総集編ともに全ての映像をNHKが保存している。
NHKではマスターテープが失われた過去の放送番組の収集を進めている<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/film/ NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト]</ref>。その結果、制作関係者や一般視聴者が[[ビデオテープレコーダ|ビデオ]](当時は大変高価だった)で録画保存していたものが発見されて寄贈されることもある。例えば『[[樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った]]』(1970年)はNHKに総集編の映像しか残されていなかったが、近年になって通常放送回の大半の回を録画したビデオテープ(白黒映像)が見つかっている。『[[春の坂道]]』(1971年)は総集編を含めてNHKに全く映像が残されておらず、「幻の大河ドラマ」と呼ばれていたが、後に最終回のみモノクロの家庭用VTRで録画された映像が発見されて、[[NHKアーカイブス (施設)|NHKアーカイブス]]に収蔵されている(ただし本作はカラー作品なので本来の形での放送回は厳密には現存していない)。同様に通常放送回のマスターテープが全て失われていた前述の『草燃える』は、寄贈されたビデオテープによって全放送回の映像が揃えられたが、一部の回の映像に欠損している箇所があるので、今のところ完全な形では揃っていない(詳細については「[[草燃える#映像の現存状況]]」などを参照)。また『元禄太平記』は、出演者の[[江守徹]]が「うちには全話録画してある」とコメントしているものの、NHKに提供はされていない。そして2015年11月、それまで唯一通常放送回の映像が1本も残っていなかった<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/features/201407/ こんな番組探しています!2014年7月の特集](NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト)</ref>『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』(1973年)の本編2話分が寄贈されたことで<ref>{{Cite web|url= https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail082.html |title= 杉良太郎さんから『国盗り物語』大発掘! |website= NHK番組発掘プロジェクト通信 |date= 2015-11-20 |accessdate= 2023-12-23 }}</ref>、全作品の通常放送回が最低1話は現存していることになった。
現存している作品の幾つかはDVDで販売され、NHKアーカイブスで視聴することも可能である。また一部作品は[[ビデオ・オン・デマンド]](VOD)による配信もされている。現在、現存している初期作品のデジタルリマスター化がアメリカで行われている。
=== データ放送 ===
総合、BSプレミアムでは番組連動型[[データ放送]]のサービス<ref>[https://www.nhk.or.jp/tsunagou/drama/kanbe.html ネットにつなごう!「軍師官兵衛」]</ref>を展開している。
データ放送の基本画面([[イーサネット#ケーブル|LANケーブル]]や[[Wi-Fi]]を接続しなくても視聴可能)では、その日のあらすじや出演者・その役柄についての説明など基本情報を収録。更に[[NHKデータオンライン]](LANケーブルやWi-Fiを接続して視聴可能)を利用することによって、出演者インタビューや収録の裏話・トピックス、作品の時代背景や物語の舞台となった土地、登場人物の略歴といったドラマ関連の情報を見ることができる。
さらに[[NHKネットクラブ]](2019年終了)会員に登録したうえで、ドラマ放送中の時間帯(再放送を含み、「5分で(作品名)」は対象外)に実施されるスタンプラリーに参加することによって、ネットクラブの会員ポイント(1視聴につき1点。1週間につき最大3点)をためることができ、またキャンペーン期間中には作品関連グッズプレゼントへの応募権利が与えられる特典もあった<ref>{{Cite web|url= https://pid.nhk.or.jp/pid16/campaign/2013/12/post-30.html |title= 軍師官兵衛スタンプラリー 1月5日スタート!! |website= NHKネットクラブ |date= 2013-12-18 |accessdate= 2023-12-23 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140825045356/https://pid.nhk.or.jp/pid16/campaign/2013/12/post-30.html |archivedate= 2014-08-25 }}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[奈良岡朋子]] - 出演回数が多く、第1作と第50作という節目に登場する出演者となった。
* [[ラジオ深夜便]] - 2011年の『江-姫たちの戦国-』から2013年『八重の桜』まで、原則として毎月最終月曜未明(日曜深夜)の1時台に、番組関係者がパーソナリティーとして、ドラマに関したあらすじの紹介を取り上げていた。2014年6月からは[[関西発ラジオ深夜便|関西発]]の第1・3金曜日に始まる土曜日1時からの放送([[中村宏]])の中で、「大河ドラマの主題歌をさかのぼる」のコーナーを開始。
* [[空想大河ドラマ 小田信夫]] - NHK自身による大河ドラマのセルフパロディ作品。2017年放送。
* [[大河への道]] - [[伊能忠敬]]を主人公にした大河ドラマの企画立案と地域おこしを題材としたコメディ映画。2022年公開。
* [[大河ドラマが生まれた日]] - テレビ放送70周年、大河ドラマ60周年を記念するドラマ。2023年2月放送。
=== NHKのほかの時代劇番組 ===
* [[木曜時代劇 (NHK)|木曜時代劇]](総合)
* [[BS時代劇]](BSプレミアム)
*: 大河ドラマと同様、史実より娯楽性を重視したもの(5から10回程度の中・長編が主)を放送している。なお地上波・総合では一時期娯楽時代劇の放送を休止した時期(2011年度)がある。
* [[光秀のスマホ]]シリーズ(総合)
*: [[スマートフォン]]を持っているという設定の[[サイエンス・フィクション|SF]]時代劇。制作は大河ドラマと連動している。
== 外部リンク ==
{{commonscat|NHK Taiga Drama}}
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/taiga/ 大河60 | NHKアーカイブス]([[NHKアーカイブス]]、[[NHK]])
* {{Wayback|url=https://www.nhk.or.jp/archives/search/special/comic/?movie#vol07 |title=“大河”と呼ばれるドラマの誕生 - マンガで読むNHKヒストリー |date=20150927095703}}
* [https://web.archive.org/web/20160708030656/http://www.nhk.or.jp/archives/archives-catalogue/shinkaron/shinkaron10_1.html テレビ番組放送記録+番組小史 1953〜2008「日曜夜の定番大河ドラマ」]([[ウェブアーカイブ]]、NHKアーカイブスカタログ)
* [[NHKアーカイブス]] [[NHK放送史]]
** {{NHK放送史|D0009043931_00000|放送記念日特集 大河ドラマの15年〜『花の生涯』から『花神』まで〜}}
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010332 特集 その時、舞台裏では…衣装編 大河ドラマの衣裳の世界 - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010738 番組エピソード 女性が主人公の大河ドラマ - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010549 番組エピソード 大河ドラマ 制作者座談会 - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010714 番組エピソード 大河が描いた歴代“関ヶ原” - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010715 番組エピソード 大河ドラマの“信長” - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010719 番組エピソード 大河ドラマの“浅井三姉妹”と“お市” - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010721 番組エピソード 「大河」の中の直江兼続 - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010723 番組エピソード 「大河ドラマ」の歴代“秀吉” - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010731 番組エピソード 大河ドラマの歴代“龍馬” - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010732 番組エピソード 大河ドラマの“題字” - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010736 番組エピソード 緒形拳と「大河ドラマ」 - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010773 番組エピソード 新しい国づくりへ!「幕末維新を描いた大河ドラマ特集」 - NHKアーカイブス]
** [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010744 番組エピソード 真田家が登場した主なNHKドラマ - NHKアーカイブス]
* [https://web.archive.org/web/20160627183604/http://www.asahi-net.or.jp/~JM5H-KTKW/ 大河ドラマの歴史](2016年時点のウェブアーカイブ)
{{前後番組
|放送局 = [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]
|放送枠 = 日曜20:45 - 21:30枠
|番組名 = 大河ドラマ<br />(1963年4月 - 1964年3月)
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|次番組 = [[若い季節 (テレビドラマ)|若い季節]]<br />※20:15 - 21:00<br />【15分繰り下げ】<hr />[[NHKニュース]]<br />※21:00 - 21:15<br />【30分繰り上げ】<hr />[[ニュースの焦点]]<br />※21:15 - 21:30<br />【30分繰り上げ】
|2放送局 = NHK総合
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|2次番組 = [[ある人生]]<br />※21:30 - 22:00<hr />看護婦物語<br />※22:00-22:50
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|4次番組 = -
}}
{{前後番組
|放送局=NHK総合
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|番組名=大河ドラマ<br />(再放送)<br />(1964年1月 - 1964年3月)
|前番組=劇場中継<br />※14:05 - 17:00
|次番組=劇場中継<br />※14:05 - 17:00
|2放送局=NHK総合
|2放送枠=土曜13:15 - 14:00枠
|2番組名=大河ドラマ<br />(再放送)<br />(1964年4月 - 1965年3月)
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|3放送局=NHK総合
|3放送枠=土曜13:25 - 14:10枠
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|3次番組='''大河ドラマ(再放送)'''<br />※13:05 - 13:50<br />【20分繰り上げ】<hr />中継枠<br />※13:50 -
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視聴率
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視聴率(しちょうりつ)とは、ある特定のテレビ番組をその地区のテレビ受像機所有世帯のうち何パーセントが視聴したかを表す推定値であり、一つの指標である。
かつては「聴視率」という言い方もされていた。
視聴率の測定は基本的に、モニター世帯に設置されるテレビに接続した専用の機器から得られるデータを基にしている。地域や調査内容によっては、日記式のアンケートによる調査を行っているものもある。
視聴率には、世帯視聴率と個人視聴率がある。かつてテレビは高価な上ブラウン管の影響で大きかったため、一般的な家庭では通常1台のテレビしか所有していなかった。このため、その1台のテレビがどのチャンネルを受信しているかを調べるだけで十分だと考えられ、当時の「視聴率」は「世帯視聴率」を指していた。
その後テレビは安価になり、薄型化が進んだ。また、複数人がいる世帯では、複数の部屋に複数台のテレビ受像機を所有することが一般的になり、家族が各自で個別に番組を視聴するケースも増えた。その結果、1台のテレビだけを調査する方法では実際の視聴状況を正確に把握できないとの指摘や批判が生じるようになった。
2020年時点で、日本の各テレビ局が使用する社内指標については個人視聴率への移行が進められている。
視聴率を調査する意義は、大きく分けて以下のようなものである。
「視聴率」とは、調査対象世帯全体に対する割合で測られる指標である。これは、その時点でテレビの電源が入っていた世帯に対する割合で測るものではない。例えば、100世帯がテレビ視聴率の計測対象である場合を想定する。このうち1世帯のみがテレビを視聴していた状態で、残りの99世帯がテレビを消していた場合、その1世帯が視聴していた番組の視聴率は1%となる。電源が入っている世帯の割合で計算する場合の指標は「番組視聴占拠率」と呼ばれる。
1970年代から90年代にかけてVHS及びビデオデッキが登場・普及し、更に2000年代にハードディスクに録画する装置であるハードディスクレコーダー(HDDレコーダー)が登場し、2000年代や2010年代に普及した。これらのデバイスにより、録画して後で再生し視聴することが一般化した。特にハードディスクレコーダーは、指定した時間に録画した番組や、キーワードに基づいて自動録画された番組を、例えば週末など時間的余裕がある時にまとめて視聴することを一般化させた。この結果、番組の放送日時と視聴日時が異なることが標準的な現象となった。
このような視聴方法の広まりは、従来の「視聴」という概念を変え、「視聴率」をどのように定義すべきか、録画後の視聴を統計にどう反映させるか、といった新たな問題を引き起こした。日本では2014年7月、初めて「録画視聴率」という概念が登場した。ただし、録画を視聴する際、多くの視聴者が高速再生を利用し、数十秒ジャンプできる機能を用いて広告部分を飛ばす傾向にある。この結果、テレビ広告の視聴率は低下している。
2010年代になると景気後退の深刻化・インターネット経由の動画配信(GoogleのYouTubeなど)やインターネット経由の番組配信(Netflix、Amazon Prime Videoなど)が一般化した。これにより、地上波や衛星放送の「テレビ番組」の視聴率(視聴時間)も低下傾向にある。とくに若年層では、インターネットの動画やインターネット経由の番組配信により多くの時間を費やしている。
2023年7月、ビデオリサーチはTVerやYouTubeなどの動画配信プラットフォームを視聴率測定の対象に含める取り組みを行うことを発表した。2024年4月から関東地区で試行された後、2025年10月から全国32地区で正式サービスが開始される予定。
調査エリア内のテレビを所有する世帯のうち、テレビを付けている世帯の割合を表す。広く普及している視聴率の概念で、長らく指標として使用されてきた。2020年から視聴率の調査方法が大きく変化し、より精度の高い指標が登場したことで、2022年現在ではテレビ局とスポンサー間の取引指標としては使用されなくなってきている。
世帯ではなく個人単位でテレビを視聴している割合を表す。個人視聴率の一種に"個人全体視聴率"があり、対象世帯に住む全体の人数のうち誰がどのくらい視聴したかの割合を表す。性別、年齢、職業などの特性で区分して集計することができる。2010年代後半以降、スポットCMの新しい取引指標として重視されるようになった。
"ファミリー層"の個人視聴率を表す用語で、テレビ局によって定義が異なるが概ね13歳~49歳の個人視聴率を指す。行動範囲が広く、商品購買意欲の高い視聴者層として、テレビCMを出稿するスポンサーが重視している。
毎分0秒の時の視聴率(瞬間視聴率)の平均で求められており、一番組中で最も高かった瞬間視聴率をマスコミ用語で"瞬間最高視聴率"として考慮することもある。
瞬間視聴率や瞬間最高視聴率という言葉はマスメディアによる造語で、ビデオリサーチではそれぞれ毎分視聴率、毎分視聴率の最高値という。
ハードディスク式録画装置に録画しておいて、後から再生して視聴することが一般化したことから、日本では2014年7月に初めて録画率を表す「録画視聴率」が公開された。2022年現在、ビデオリサーチは放送から7日間(168時間内)での録画視聴をタイムシフト視聴率として集計している。
リアルタイム視聴とタイムシフト視聴のいずれかで視聴されたことを示す指標。ビデオリサーチでは、リアルタイムとタイムシフトの両方で視聴した場合、複数回カウントはせず1回の視聴として扱われる。
アメリカ合衆国では、1950年代以降、視聴率調査はニールセン・メディア・リサーチ社が業務を独占している。
ニールセン・メディア・リサーチ社はニューヨークに本社をおくマーケットリサーチ会社である。
調査方法は、アメリカ合衆国全国調査は1987年よりピープルメーター方式(それ以前は日記式アンケート)、地域調査は1週間分の日記式のアンケートを郵送する方式に加えて、2003年後半から2004年前半にピープルメーター方式を導入した。
アメリカの視聴率はパーセンテージと「○○○万○千人」などといった視聴者数を同時に計測・発表しており、視聴率よりも視聴者数の方が重視される傾向にある。
ニールセン調べにおける全米の視聴率歴代最高は1983年2月28日のCBS『マッシュ』最終回で記録した60.2%(視聴者数1億597万人)であり、視聴者数歴代最高は2015年2月1日のNBC『第49回スーパーボウル』で記録した1億1440万人(視聴率49.7%)である(2017年現在)。2010年以後、それまで視聴者数歴代最高だった『マッシュ』最終回の記録が、『スーパーボウル』のテレビ中継によって次々と更新されている。
ニールセンの調査では、月曜〜土曜の20時から23時及び日曜の19時から23時を特に視聴率の高い「プライムタイム」としている。これは日本の調査での「プライムタイム」とは異なる。
日本における視聴率は記録に残っているものでは、1954年に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初である。「NHK放送文化研究所」による調査は、1971年に調査方式を配付回収法に変更した。数か月に1回、1週間分の個人視聴率の調査・発表を行っている。
1955年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を開始した(電通による視聴率調査は1963年1月が最終。以後の調査は「ビデオリサーチ」へ引き継がれる)。関西では電通大阪支社と毎日放送、朝日放送の3者が「放送調査委員会」を組織して実施した。当時まだ少なかったテレビ所有世帯を探して毎日訪ね、5分刻みで記入できる翌日の番組表を渡して書き込んでもらい、回収した。集計は約一カ月かかった。
視聴率をより早く知りたいというスポンサー企業の要望に対応するため、毎日放送はその後、独自に電話調査を開始した。電話帳に千枚通しを突き刺し、穴が開いたページの一般家庭を調査対象としてリストアップ。電話をかけて「テレビはありますか」「どなたが見ていますか」「見てるのは、どのチャンネルですか」の3項目を質問した。「テレビはない」と怒鳴られることもあったという。
1958年には社団法人中央調査社が同じく日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、1959年には年12回(毎月)に拡大した。1961年4月、ニールセンが日本に進出し測定機械による世帯視聴率調査を開始し、1962年12月からはビデオリサーチ社も調査を開始した。当時は測定器を該当する世帯のテレビに取り付け、情報を紙テープに記録するオフラインメータ方式で、調査員が記録テープを回収した後に集計を行っていたため、前週の視聴率が翌週に判明する状態であった。
1977年9月26日、関東地区にてビデオリサーチが開発した「ミノル・メーター」を使用し、通信回路(電話回線)を経由して情報を自動回収するオンラインメータ方式による調査を開始したことにより、翌日には視聴率が判明するようになった。
長らく、このニールセンとビデオリサーチの2社が日本国内における世帯視聴率を測定していたが2000年3月、ニールセンが日本国内における視聴率調査から撤退し、それ以後は世帯視聴率はビデオリサーチの測定した結果のみが用いられることとなった。
ニールセン撤退の理由は、機械式個人視聴率調査の導入に関して民放キー局と意見が対立したからだとされる。1987年春に日本の民放テレビ業界で起こった視聴質論争をきっかけに機械式個人視聴率調査の導入問題が起こる。1994年11月にニールセンが三井造船系列の企業が開発した「Vライン」を使用した機械式個人視聴率調査を開始したが、Vラインの調査に不安を抱えていたテレビ局側が猛反発し、実際に日本テレビなどがニールセンとの契約解除に踏み切る。1997年にはビデオリサーチも機械式個人視聴率調査を導入するが、これに伴い調査費用が高騰。結果的にこれがニールセンの撤退に繋がったとされる。
2006年8月よりケーブルテレビ会社のジュピターテレコム(J:COM)が、番組供給事業者向けにセットトップボックス(STB)の双方向機能を使った「デジタル視聴率」の提供を開始した。
2011年7月4日、ビデオリサーチはフルセグ放送が視聴できるデスクトップパソコンとケーブルテレビのデジアナ変換を「パソコンテレビ」として視聴率の調査対象に加えた。同年7月24日以降、アナログ放送が終了したエリアでは調査対象がデジタル放送を視聴できる世帯のみとなっている。
2015年1月から録画タイムシフトによる視聴率提供を開始している。
関東地区に限り、2016年の年度下期から(同年10月3日調査分から)は調査世帯数の増加に合わせ、従前のリアルタイム視聴率に加え、タイムシフト視聴率も調査対象に正式に加わった。「リアルタイム視聴率」と「タイムシフト視聴率」の和集合の数値を「総合視聴率」とも呼んでいる。
2018年の「年度」から(同年4月2日調査分から)関西地区でも、同年の「年間下期」から(同年7月2日調査分から)名古屋地区でも、それぞれタイムシフト視聴率の調査を各地区のリアルタイム調査全世帯600に拡大した。
日本の視聴率はパーセンテージのみの発表で、アメリカとは異なり視聴者数は発表されなかった。2018年7月23日、ビデオリサーチは2018 FIFAワールドカップの日本代表戦4試合の生中継における日本全国での「リアルタイム総視聴者数」の推計を発表し、続いて2019年1月15日、2018〜2019年の年末年始(12月30日~1月3日)の恒例番組における日本全国での「リアルタイム総視聴者数」の推計を発表した。
2010年代に入り、スイッチメディア(2013年12月から測定開始)やTVS REGZA(2016年春から測定開始)が視聴率測定に参入している。なお、両者共にインターネット経由で視聴率を測定しているため家庭や地域的な事情によりブロードバンド回線に接続していない(または出来ない)世帯は測定の対象外となる。つまり、TVS REGZAの場合は同社製造のテレビのみ測定の対象となるため、TVS REGZA以外で製造されたテレビも測定の対象外となる。
ビデオリサーチは2020年3月30日より新視聴率計画に基づき、視聴率調査の大幅なリニューアルを行った。多様化、分散化する視聴者像を明らかにするため、機械式(PM)の個人視聴率調査・タイムシフト視聴率調査を全国で適用し、関東地区での調査対象世帯を900世帯から3倍の2,700世帯に、関西地区では600世帯から1,200世帯に拡大している。「52週PM化」と呼ばれるこれらの施策により、全国の世帯・個人視聴率を安定して公表し、視聴者をより詳細に把握・分析できることが期待されている。また、番組全体の視聴人数を推計した「平均視聴人数」、番組を1分以上視聴した人数を推計した「到達人数」の提供も開始された。
だが、少子高齢化の進展により近年では高齢層が好む番組ほど世帯視聴率が高くなる傾向にある。そのため各テレビ局は広告の取引指標を世帯視聴率から個人視聴率に変更し、「コアターゲット」とよばれる消費意欲の高い層を設定することで広告主のニーズに答えようとしている。例として、日本テレビは13~49歳を“コアターゲット”、フジテレビは13~49歳を“キー特性”、TBSテレビは13~59歳を“ファミリーコア”に設定、更に同局は4歳~49歳を”新ファミリーコア”に設定し重点ターゲットとしていくことを発表しており、これらの世代に向けた番組作りを進めているとされる。キー局以外では、テレビ朝日系列の準キー局である朝日放送テレビ(ABCテレビ・大阪府)は2019年から49歳以下をターゲットとする独自指標の“U49”を設定し、U49における視聴率が低い長寿番組の打ち切りを行うなど、新たな基準による番組編成を進めている。
一方、テレビ朝日ではアクティブシニア層が含まれる50歳以上が日本における総人口の半分以上を占めている現状を踏まえ、19時台から22時台のゴールデン・プライムタイムが引き続き全年齢層をターゲットとした編成や番組作りに取り組むと明言しており、他の在京キー局3社を始め系列局でもあるABCテレビの戦略とは一線を画している。
なお、ビデオリサーチが自社ウェブサイトで発表する個人視聴率は全世代を合計した"個人全体視聴率"であり、コア視聴率については外部公表していない。ビデオリサーチ以外では、カルチュア・コンビニエンス・クラブ関連企業のCCCマーケティングが独自の視聴データをもとにしたコア視聴層(13歳~49歳)の視聴率を公表している。
テレビ局側の視聴率指標は個人視聴率および各局が設定する「コア視聴率」に移行し、長寿番組でも躊躇なく打ち切る姿勢に転じたものの、視聴率を報じる新聞記事やネットニュースでは未だに世帯視聴率を前提に報道されることが多い。この事については放送関係者や芸能人から批判されており、実際にお笑いタレントの松本人志は「大前提として、ネットニュースで視聴率を記事にすること自体、やらなくていい」「世帯視聴率を用いたネットニュースの番組とかタレントの下げ記事は無視してください」とテレビ番組において述べているほか、日本放送協会(NHK)放送総局長の正籬聡も2021年の大晦日に放送した『第72回NHK紅白歌合戦』の世帯平均視聴率が歴代最低視聴率だったことを定例会見で問われた際に録画や動画配信サービス「NHKプラス」など、視聴媒体の多様化をあげた上で「世帯平均視聴率だけを見て判断するのは危険だと思う」「世帯視聴率オンリーでは一面的になってしまうし、視聴者のニーズに応えられなくなってくる」と回答している。
日本では測定する有力会社が「ビデオリサーチ」1つのみになった2000年3月以降、同社の調査結果が世帯のリアルタイム視聴率とされている。「ビデオリサーチ」の場合、機械式の視聴率調査は関東、関西、名古屋、札幌、仙台、福島、新潟、静岡、岡山・香川、広島、北部九州の11地区で毎日、青森、岩手、秋田、山形、富山、金沢、長野、山陰(鳥取・島根)、山口、愛媛、高知、熊本、長崎、大分、鹿児島、沖縄の16地区で毎月の第1月曜日(4月と10月は第2月曜日)から2週間、それぞれ調査期間を設けて調査を行っていたが、2020年4月からはこれらの地域でも毎日集計が開始された。標本数は関東は2,700、関西は1,200、名古屋は600、北部九州地区、札幌地区は400、それ以外の地区は200である。なお、放送エリア内に地元民放テレビ局が3局以上あることが機械式視聴率調査の条件のため、福井、山梨、徳島、佐賀、宮崎では機械式視聴率調査は行われていなかったが、2020年4月からは全国データ算出のため、各地区50~100世帯を設定してPM調査を開始した。
CSデジタル放送・ケーブルテレビ・地上波独立局などは一括して「その他の局」という扱いとなり、個別の数字は特に公表されていないが、NHK BSのスポーツ中継、NHK BSプレミアム移行後の連続テレビ小説、大河ドラマなどはNHKがビデオリサーチに対して特別に依頼の上、測定される。地上デジタル放送については、2003年12月の開始当初は対象外としていたが、普及に合わせてデジタル対応の調査機器への更新が進められた。BSデジタル放送については、2015年4月よりBSパワー調査が機械式調査に移行したことにより、地上波とは若干条件が異なるものの視聴率が測定・公表される。ただし有料チャンネルは除かれる。
パソコンや携帯受像機による視聴は機械式調査ではカウントされていない。録画による視聴(タイムシフト視聴率)に関しては、2016年10月3日の調査分から関東地区に限り測定されており、ランキングも別途存在している。またマルチチャンネル編成を行っている時間帯は、メインチャンネルとサブチャンネル両方を合算した数字を発表している。
一般に関東、関西、名古屋地区などでゴールデン・プライムタイムで15パーセントを超えるとヒット作と言われるものが多く、逆に10パーセントを切ると「一桁」として視聴率が低迷していると言われるものが多い。どの調査対象の世帯も該当の番組を見ていなかった(つまり、0パーセント)の場合は「*」として表示される。様々な事情が絡むため一概には言えないが、関東キー局の場合平均視聴率が概ね8%(テレビ東京では6%)を下回ると打ち切りが検討される可能性が高くなる。
民間放送各社、特にキー局にとってはこの数値が1ポイント増減しただけで利益や広告の営業活動に大きく響くため、視聴率を重視している。全国の世帯から徴収する受信料で成り立つNHKは「視聴率に左右されないテレビ局」を謳っているが、NHK以外のメディアにおいて「NHKも民放と同様、あるいはそれ以上に視聴率を意識している」との見解が示されているか、またはそれを前提とした報道・評論がされている例も多い。かつてNHKの気象情報に出演していた気象予報士の半井小絵も「チャンネルを変えられないようにとの指示が出ていたんです」と証言している。
これまでの関東地区における最高視聴率は、「ビデオリサーチ」が視聴率調査を開始した1962年12月3日以降では1963年12月31日のNHK総合テレビ『第14回NHK紅白歌合戦』で記録した81.4パーセントであり(1961年-2000年に行われていた「ニールセン」による調査でも『第14回NHK紅白歌合戦』の89.8パーセントが最高)、「ビデオリサーチ」以前も含めた最高視聴率は1955年5月30日、日本テレビのボクシング中継・パスカル・ペレス対白井義男戦で記録した96.1パーセント(電通調べ)である。
「ビデオリサーチ」調査における関東地区の全日視聴率では、NHK総合が1963年から1986年までの24年間、各民放キー局を押しのけて連続して1位を獲得していた。1987年以降は民放局がその座を獲得する例が多くなった。
「ビデオリサーチ」調査では『NHK紅白歌合戦』があることなど(後述)から、年間視聴率1位はNHK総合の番組という例が多い。2001年までNHK総合の番組が年間視聴率1位の座を譲ったことがなかった(紅白についても1997年まで年間視聴率1位の座を譲ったことがなかった)。2002年以降は年によっては民放番組(主に国際スポーツ中継の日本戦)が年間視聴率1位を獲得する例もある。
冒頭で述べた通り、(1960年代から2000年まで2社体制で視聴率調査をしていた。)「ニールセン」と「ビデオリサーチ」とで、最もテレビの視聴が高い時間帯の基準が両社で異なっていたからによるものとされている。アメリカに本社を持つ「ニールセン」では、アメリカ基準で最もテレビの視聴が高い時間帯を設定し、これを19時から23時までとして「プライムタイム」と呼んだ。(ただし実際のアメリカにおける「プライムタイム」は前述のように日本のそれとは異なる。)
これに対し、「ビデオリサーチ」は日本独自の基準として最もテレビの視聴が高い時間帯を19時から22時までとして「ゴールデンタイム」と呼んだ。
なお、この2区分の調査はニールセンの「プライムタイム」は1961年4月の調査開始当初から「ビデオリサーチ」の「ゴールデンタイム」も1962年12月の調査開始当初から始めた。しかしながら「ビデオリサーチ」も1971年から「プライムタイム」の調査を開始し、現在に至っている。
日本の放送局が視聴率を評価する際に使う表現で、下記3区分すべてで平均視聴率がトップの放送局を指して「三冠王」と呼ぶ。
上記に加え、日本テレビではノンプライム(6時-19時、23時-24時)でも視聴率がトップであれば「四冠王」と呼んでいたが、2012年度からはノンプライムを内部参考化したため、こう呼ばれることはなくなった。テレビ朝日ではプライム2(23時-翌日1時)でも視聴率がトップであれば、「四冠王」と呼ぶ。なお、NHKおよびTBS・テレビ東京・フジテレビにおいて公式にはいずれの意味の「四冠王」の表現を用いていない。(フジはかつてノンプライムの放送区分を用いて四冠王を称していたことがあった。)
視聴率三冠王(NHKを入れたすべての在京テレビ局で)の第1号はTBSで、1978年に1度達成している。当時は『まんが日本昔ばなし』『クイズダービー』『8時だョ!全員集合』『Gメン'75』と言った土曜日の19時より22時台手前まで連続して人気番組を編成していたことや、平日においても「クイズ100人に聞きました」「ザ・ベストテン」などの高視聴率番組が存在したことが主な要因であった。なお、この年のTBSの全日視聴率はNHKと同率であった(10.1%)。とはいえ、この頃のNHKの連続テレビ小説や大河ドラマの視聴率が2018年現在の2倍以上であったことなどを考慮すると、民放局での三冠達成は、業界内では画期的な出来事であった。
1980年代後半、フジテレビが「三冠王」を使い始めた。フジテレビは1982年から1993年までの12年間、連続して三冠王となったがこれは在京民放局5局の中での三冠王である(NHKを含めた中での三冠王となったのは1987年と1990年から1993年の合わせて5年間で、それ以外の年はNHKがフジテレビの全日視聴率を上回っていた。)。なお、1993年のフジテレビの全日視聴率は、日本テレビと同率であった。一方で、年度視聴率においてもフジテレビは1982年から1992年までの11年間は連続して三冠王となったが、やはりこちらも在京民放局5局の中での三冠王であった。(1990年になってやっとNHKの全日視聴率を含めて完全三冠王となったが長くは続かず、NHKを含めた在京6局の中での三冠王は結局1992年度までの3年だけであった。)
その後日本テレビが「四冠王」の表現を使い始め、バラエティー番組やプロ野球巨人戦の中継が好調に推移したことで同社が(NHKを含めた在京6局の中での)年間視聴率四冠王の座を1994年から2003年までの10年間、連続して獲得した(1994年の日本テレビは全日は単独で首位だったが、ゴールデンタイム、ならびにプライムタイムのそれぞれの年間視聴率でフジテレビと同率であった)。一方で、年度視聴率においては日本テレビは1994年から2002年までの9年間、連続して三冠王だったが、1993年度は全日のみ首位(ゴールデン、プライムはフジの二冠)、2003年度はプライム以外の三冠だった(プライム首位はフジ)。
2004年以降はフジテレビが年間、および年度視聴率の三冠王を2010年まで7年連続で獲得(NHKを含めた在京6局中)。2011年は日本テレビが8年ぶりに年間視聴率三冠王を奪還した(こちらもNHKを含めた在京6局中。ただし、全日はフジテレビと同率であった)。
2012年はテレビ朝日が年間世帯視聴率で開局以来初のプライム首位を獲得し、日本テレビの2年連続三冠王達成とはならなかった(日本テレビは全日、ゴールデンの二冠。)。さらに2012年の年度視聴率、ならびに2013年の年間視聴率ではテレビ朝日がゴールデン、プライムの二冠を達成した。(全日は共に日本テレビが首位。)
個人視聴率においては2011年から日本テレビが三冠王を11年連続で獲得している。
視聴率がテレビ局並びに放送番組の評価の指針となる場合があるため、国や時代、時間帯を問わず裏番組間での視聴率争いは行われている。
ここではその代表的なものを挙げる。
この視聴率戦争は日本のテレビ番組では歴史上最大の視聴率争いとして語り継がれている。
TBSの『8時だョ!全員集合』(1969年-1985年)が「お化け番組」と呼ばれる程の凄まじい人気を誇ったことで発生した。
他局への影響は大きく、当初『コント55号の世界は笑う』で優位だったライバルのフジテレビは対抗する番組『コント55号のやるぞみてくれ!』を企画するも、僅か2ヶ月で打ち切られ、その後は時代劇を中心としたドラマ路線に変更するも悉く放送終了し、土曜20時枠は「鬼門」とまで言われた。1974年3月に荒井注がザ・ドリフターズから抜けてしばらくは、翌1975年4月から放送が開始された『欽ちゃんのドンとやってみよう!』の成功もあり、視聴率が上昇して『全員集合』を脅かしたが1976年、その2年前の4月に荒井に代わってメンバーに加入した志村けんの「東村山音頭」のヒットで再び引き離し、以後も『オレたちひょうきん族』(1981年 - 1989年)が登場するまで対抗出来る番組はほぼ皆無となり、女子プロ野球チーム「ニューヤンキース」の試合をメインとした『土曜グランドスペシャル』(1978年)が目立つ程度だった。中には『ピーマン白書』のように大々的な番宣キャンペーンを行ったにも関わらず、放送回数僅か6回で打ち切りになったものも存在した。
日本テレビは1972年10月より『全日本プロレス中継』を約6年半の長きに渡って放送するも視聴率が振るわず、1979年4月に放送枠を移動。以後19:30枠と統合し、90分単発特別番組枠『土曜スペシャル』を放送、その後『笑点』の司会として当時人気だった三波伸介を出演させて90分バラエティ『爆笑ヒット大進撃!!』→『ダントツ笑撃隊!!』を放送し対抗するが短命で終了、1982年1月より『土曜トップスペシャル』として単発枠を復活した。
テレビ朝日は時代劇や現代劇といった1時間ドラマを放送したが対抗できず、1972年(昭和47年)7月から、直前枠である19:30枠の『仮面ライダー』(毎日放送制作)の視聴者である子供をターゲットに、「変身大会」と称した前後半の30分番組として分離し、前半30分は特撮番組『人造人間キカイダー』→『キカイダー01』、後半30分はアニメ『デビルマン』→『ミクロイドS』→『キューティーハニー』を放送した。それらの番組はスタート当初は16%前後と『全員集合』という強力な番組の裏番組としては大健闘したものの、次第に児童層も『全員集合』を選ぶ傾向が強くなったため、視聴率は回復しなかった。このため1時間枠に戻したものの、それでも1978年1月より放送開始の松平健の主演時代劇『暴れん坊将軍シリーズ』までヒットしなかった。特に1976年5月に『刑事バレッタ』(第1シリーズ)終了後、同年10月開始の時代劇『五街道まっしぐら!』までの間は、定時番組は置かずに単発枠(つなぎ番組)を編成し、『戦え!ぼくらのヒーロー大集合』や劇場版『サイボーグ009』などの子供向け番組を特番扱いで放送する状態だった。
NHK総合テレビでは、1970年に『ステージ101』、1972年に『お笑いオンステージ』といった、後年日曜日に放送時間を変更する番組を放送したが、いずれも視聴率面で『全員集合』には追い付けず、ようやく1974年に海外ドラマ『刑事コロンボ』を導入して大ヒットさせる。これが現在まで続く『土曜ドラマ』に受け継がれる。
東京12チャンネル→テレビ東京では1970年代中盤から3ヶ月程度の番組が連発し、1978年より90分単発特別番組枠『土曜特番』を開始、以後何度か中断を置きながら単発枠を継続した。だがその単発枠中断時に放送した番組は各局同様苦戦が続き、特に1980年(昭和55年)10月に、国際プロレス主催プロレス中継『国際プロレスアワー』を月曜20時から移動するも、先述の『ピーマン白書』と最下位を争う状態で遂に翌1981年3月にはレギュラー放送を打ち切り、同年8月の団体崩壊につながってしまう。
当時のドリフの人気を示すエピソードとして、タレントの王理恵も自分はドリフ(全員集合)を見たかったが家では父(王貞治)が出ている野球中継を見ていた。月曜日、自分は学校でドリフの話についていけなかったと当時を回顧した。
1981年10月改編でフジテレビはお笑いブームに乗り、『オレたちひょうきん族』(以下『ひょうきん族』)を放送開始。開始直後の視聴率は伸び悩んだが、ドリフの不祥事(仲本工事、志村けんの「競馬ノミ行為事件」)や「囚人コントのギロチン事件」が大きく響いた事もあり、以降『ひょうきん族』は徐々に視聴率を獲得し1984年の年間視聴率でついに『全員集合』を逆転、翌1985年(昭和60年)10月改編で『全員集合』も終了した。ところが翌1986年1月、『全員集合』の後継番組である『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(以下『加トケン』)が放送されると、徐々に『加トケン』が視聴率を獲得、同年12月に起きたフライデー襲撃事件により『ひょうきん族』の看板タレントだったビートたけしが芸能活動謹慎の為、番組レギュラーから抜けたこともあり、1987年に『ひょうきん族』を逆転。それから約2年後の1989年10月改編で『ひょうきん族』は放送終了となった。
1990年代に入ると、『加トケン』への対抗として1990年10月より『マジカル頭脳パワー!!』(日本テレビ。 以下『マジカル』)が、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ。以下『やるやら』)がそれぞれ放送開始。テレビ朝日の『暴れん坊将軍』と合わせて人気4番組による争いとなる。争いは2年ほど続いたが、まず『加トケン』が1992年4月、『KATO&KENテレビバスターズ』としてリニューアルするも、これが裏目に出て視聴率が急速に低迷し同年9月に終了。一方の『やるやら』も1993年6月、収録時の事故により放送が急遽打ち切られると、『めちゃ×2イケてるッ!』(以下『めちゃイケ』)の放送まで再びフジテレビの土曜20時枠は「鬼門」となった。一方、『マジカル』は『あるなしクイズ』が放送局や番組をまたいで大ブームとなったこともあり、終了したKATO&KENやウンナンの視聴者を獲得する形となり高視聴率を獲得したものの、4月から9月までの間はプロ野球中継(主に巨人戦)により放送を休止することが度々あったため、それを極力避ける目的で、番組枠を木曜日の同時間帯に移動した。
TBSでは長年続いたザ・ドリフターズ出演のバラエティー番組シリーズ終了後、『音楽派トゥギャザー』以来2年9ヶ月ぶりとなるゴールデン及びプライムタイムでの音楽バラエティー番組の『突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100』や、紀行番組の『自然がいちばん!地球塾』を放送するもいずれの番組も放送開始から半年で放送時間変更や終了に追い込まれ、1993年10月より『どうぶつ奇想天外!』をスタート。当初は『マジカル』に苦戦したが『マジカル』の木曜日への移動により安定した視聴率を獲得し、「親が子どもに見せたい番組」の上位にランクインされる人気番組になった。フジテレビも1996年10月に『めちゃイケ』をスタートさせると視聴率を獲得、1978年の放送以来、常に安定した人気を保っていた『暴れん坊将軍』を移動させると、『サタデードラマ』(2000年3月まで)という現代劇枠に転換させ、それ以降が現在に至るまでバラエティ番組が編成されている。
2000年4月に『どうぶつ奇想天外!』が日曜20時に移動すると、しばらくは『めちゃイケ』の独走状態であったが2004年に放送開始した日本テレビの『世界一受けたい授業』の台頭により、同番組に陰りが見え始めてくる。2006年度には『世界一受けたい授業』が『めちゃイケ』を上回ることも珍しくなくなった。しかし、『めちゃイケ』の直前番組である『脳内エステIQサプリ』(以下『IQサプリ』)の視聴率が一時17%前後にまで及んだことで、一時的に視聴率は回復したものの2007年4月、『IQサプリ』の裏番組に『天才!志村どうぶつ園』が移動。これにより『IQサプリ』の視聴率は11%前後にまで低下し、その効果が『めちゃイケ』にも及び再び『世界一受けたい授業』に負けだすようになった。追い打ちをかけるように、2008年4月にはTBSがドラマ枠を設置し、その第1弾として森田まさのりの原作の野球漫画を実写化した『ROOKIES』が放送され、人気を博す。2009年5月にはジャニーズ事務所所属の人気グループSMAPのメンバーの一人でもある木村拓哉主演の『MR.BRAIN』が放送されたことにより、『めちゃイケ』は視聴率が低迷していた。但し、TBSのドラマ枠は『ハンマーセッション』を最後に2010年9月をもって廃止されている。
その後、『めちゃイケ』は特別企画を中心に視聴率を稼いでいたが、2010年以降はテレビ東京の『土曜スペシャル』が「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」を中心に人気を集め、中には『めちゃイケ』を凌ぐ視聴率を記録する回もあり、『めちゃイケ』の独走状態ではなくなった。2015年からはNHKの『ブラタモリ』の第4シリーズが本枠で開始、2017年からは『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』(テレビ東京)のレギュラー放送が始まり、『めちゃイケ』の視聴率は一桁台へ低迷、最終的に『めちゃイケ』は2018年(平成30年)4月改編で終了することとなった。
土曜19時枠でも、1970年代から1980年代までは『まんが日本昔ばなし』(毎日放送制作。第2期)と『クイズダービー』を擁したTBSの独走状態となって他局は苦戦を強いられた。日本テレビは1985年10月に『全日本プロレス中継』を土曜夕方枠から19時枠に移動して、6年半ぶりにゴールデンタイムの生中継を復活するも、僅か2年半で日曜22時半の録画中継枠への枠移動に追い込まれた。
フジテレビは1975年4月より19時枠前半で放送されていた長寿番組の『ズバリ!当てましょう』(第2期)が1982年3月で打ち切られ、翌1983年4月には、かつて18時枠後半の看板番組であったアニメ『タイムボカンシリーズ』の『イタダキマン』を19時枠後半に移動させるも、視聴率を奪えず僅か20話で終了し、シリーズ自体も終了に追い込まれる事態となった。
テレビ朝日は1989年1月より、19時枠後半にコロコロコミックで連載され、絶大的な人気を誇っていた小林よしのり原作のギャグ漫画である『おぼっちゃまくん』をアニメ化して放送。開始されるや子供を中心に人気を集め、視聴率で肉薄。1990年秋頃から『クイズダービー』を視聴率で抜くことも増え、結果フジテレビ系の19時半のアニメ枠を廃枠に追い込んだ。もっとも『おぼっちゃまくん』は約3年9ヶ月の長きに渡って放送が続いたものの、過激かつ下品なギャグが多かった事から視聴率は取れても肝心なスポンサーが離れて定着しなかった。
その後、1991年10月にフジが19時枠に『平成教育委員会』を、翌1992年3月にテレビ朝日が19時台前半枠に『美少女戦士セーラームーンシリーズ』を、さらにその翌1993年10月、同じく後半枠に『SLAM DUNK』をそれぞれ投入してようやくTBSの勢いを止めることに成功したが、そこまで10年以上の時間を要した。『平成教育委員会』も1992年9月には『おぼっちゃまくん』も放送終了へ追い込み、1997年9月までレギュラー放送を続けた。なお、『おぼっちゃまくん』終了の原因は前述の理由もある。
同じフジテレビ系列である関西テレビでは、『クイズダービー』(関西では毎日放送が放映)の裏番組が『部長刑事』だったこともあり、さらに厳しい戦いとなった。(後述の「#関西土曜戦争」を参照。)
特にこの視聴率戦争は日本テレビが放映権を独占していた巨人主催戦中継「DRAMATIC BASEBALL」にまでおよび、21時台までの日テレ系バラエティ番組がフジテレビ系列とのクロスネット局であるテレビ大分が同時ネットを開始する程のお化け番組であったことで、2002年からNHKプロ野球での放送が原則化している。
1958年9月から大阪テレビ放送→朝日放送(現:朝日放送テレビ)が製作し、土曜の夜に関西地区で絶大な人気を誇ったローカル刑事ドラマ『部長刑事』を巡る争いである。
『部長刑事』は大阪府警察本部が「応援」という形で番組に協力していたこともあり、関西地区における土曜夜の顔的な番組であった。そのため毎日放送・関西テレビ・読売テレビといった在阪他局は対抗する手段がなく、裏番組は軒並み打ち切りになっていた。
1970年、毎日放送の斎藤守慶(営業局長)が打倒『部長刑事』を旗印に東映に「新しい仮面のヒーロー番組を製作したい」という企画を依頼した。そこでできた作品が、『仮面ライダー』である(番組のスタートは翌1971年4月)。斉藤の目論見は成功し、『仮面ライダー』は、関東地区では第1話の視聴率は8パーセント台と低迷したものの、関西地区では20パーセント超えの視聴率をマークした。やがて、放送開始から3ヶ月後には、撮影中の事故により負傷した仮面ライダー1号こと本郷猛を演じた主演の藤岡弘に代わって、仮面ライダー2号こと一文字隼人、FBI捜査官・滝和也、ライダーガールズの新たなレギュラー入りや、変身ポーズの導入、藤岡復帰後の1号、2号のダブルライダーの共演など、それまでの暗く重苦しい作風から、明るく華やかな作風への路線変更が功を奏し、人気番組へと成長。第二次怪獣ブーム(変身ブーム)の到来とともに、子供を中心とした社会現象にまでなった。『仮面ライダー』が特撮児童向けドラマとして製作されたこともあり、『部長刑事』の視聴者層とほぼ被らなかったため、それ自体が1973年2月まで続くロングラン放送(全98話)となり、以降も『仮面ライダーV3』、『仮面ライダーX』、『仮面ライダーアマゾン』とシリーズ化され、『部長刑事』と視聴率を争う事となる。なお、昭和第一次仮面ライダーシリーズ最終作である『仮面ライダーストロンガー』は、後述の毎日放送と朝日放送との間のネットチェンジにより、1975年4月の放送開始から放送時間が土曜の19時に変更された。これにより、約4年続いた『仮面ライダーシリーズ』と『部長刑事』との視聴率争いは終結した。
1975年4月、毎日放送と朝日放送との間でのネットチェンジがあったが、ネットチェンジ後も毎日放送は『部長刑事』への対抗として、関西地区では朝日放送時代には火曜夜に遅れネットで放送されていた『お笑い頭の体操』を同時ネットに移行し、以後も『クイズダービー』や『クイズテレビずき!』、『チャレンジ大魔王』などを放送。しかし『部長刑事』もこれに対抗して、所々でテコ入れを行い、毎回10パーセント前後の安定した視聴率を挙げていたが、『新・部長刑事 アーバンポリス24』からは、マンネリ化もあり、視聴率で苦戦し始めた。
『部長刑事』は「外伝」を始めた2001年、ついに放送時間を土曜18時30分に移動した。
「部長刑事シリーズ」は、2002年3月まで放送開始から43年7か月の間、関西地区を中心に放送されたが、関東地区・名古屋地区をはじめとした他のネット局では別時間帯で放送された。異なる系列局で放送されたり、放送されなかった回が存在した他、不祥事の間接的な原因になるなどした。また穴埋めとして短期間放送した局もあった。これは、番組販売の形式で他の放送局にネットされていたことによるものであった。ただし、基本的に一話完結形式のため、大きな混乱とはならなかった。
この視聴率争いは日本のテレビ番組史上初めての裏番組間に於ける本格的な視聴率争いとなり、前述の「土曜夜戦争」が開始されるまでの間は、この視聴率争いが日本のテレビ史上最大規模の視聴率競争であったが、「土曜夜戦争」開始後も約10年間継続した。ただし、そのほとんどの期間が一部時間帯のみでの視聴率争いであり、また後述するが途中2度の休戦期間が存在する。
1965年11月8日より、日本テレビで朝の子供向け番組『おはよう!こどもショー』(以下『こどもショー』)が月曜日 - 土曜日の間で放送を開始し、開始からわずか1か月で10%の視聴率を記録した人気番組(当時は生放送であった)となったが、続いて翌1966年10月にはフジテレビで『ママとあそぼう!ピンポンパン』(以下『ピンポンパン』)が放送を開始した(『こどもショー』と異なり、当時は平日のみ放送)。『ピンポンパン』放送開始当時は両番組の間で放送時間が重複していなかったが、2年後の1968年4月に『ピンポンパン』が番組枠を5分拡大して45分番組になると同時に放送時間を8:00 - 8:45となり、一部時間帯で『こどもショー』と重複したことで視聴率争いが始まった。しかし、『ピンポンパン』の番組開始当時は後発だったこともあり、視聴率が3%程度に留まり、当時は人気番組だった『こどもショー』の牙城を打ち崩せない状態が、しばらくの間続いていた。
『こどもショー』は翌1969年4月に放送時間を15分拡大して全曜日で7:15 - 8:30の1時間15分の番組となり、『ピンポンパン』と重複する時間が15分から30分に拡大するも、この頃より番組が徐々に認知され始めた『ピンポンパン』に視聴者が移行したことと、生放送からVTR放送に移行したことで新鮮さが失われた部分が出たことで、『こどもショー』は重複時間帯に入った時間以降の視聴率に陰りが見え始めた。対する『ピンポンパン』は同じ1969年4月に平日と同じ8:00 - 8:45の放送時間帯で土曜日版も放送するようになり、重複時間帯のみとはいえ、視聴率争いは徐々に激化するようになった。
しかしながら、同年10月に『こどもショー』が番組編成の都合上で7:15 - 8:00に放送時間を縮小したことで一旦は『ピンポンパン』との放送時間帯の重複が解消され、視聴率争いは一旦休戦状態となった。
この間『ピンポンパン』は1970年4月に全曜日で放送時間を8:10 - 8:55に移動するも、1971年10月に再度全曜日で放送時間を元に戻し、お姉さん役も渡辺直子から石毛恭子に変更したが、放送時間を元に戻したと同時に体操コーナーの「ピンポンパン体操」が開始され、これが空前の大ヒットとなり、視聴率が一気に8%を超える日も出るなど、番組を代表するコーナーとなった。対する『こどもショー』は、1970年10月に満を持して日曜版を7:15 - 7:55の40分番組として放送するようになり、1971年4月にはその日曜版を5分拡大して7:15 - 8:00の45分番組となったが、視聴率の伸び悩みを解消するまでには行かなかった(一方の『ピンポンパン』は日曜版の放送は行わなかった)。しかし同年6月より日曜版を子供視聴者参加型歌合戦「コンちゃんのトンカチうたじまん」(司会 - 大村崑、石川牧子(当時局アナ)、審査委員長 - 山下毅雄)に変更し、1975年3月まで続く人気企画となった。
ところが1972年1月、『こどもショー』が7:25 - 8:15に放送時間帯を移動したことで再び『ピンポンパン』と一部時間帯(8:00 - 8:15)で重複することとなり、重複時間帯における両番組間での視聴率争いが再開する。そこで日本テレビでは、「ピンポンパン体操」の大ヒットで危機感を持ったこともあり、『ピンポンパン』への視聴者流出対策として、『こどもショー』の大幅なテコ入れを実施することとなり、同年4月24日の放送より司会者を楠トシエ・石川進(1日交代)から鶴間エリに(同時に司会役の女性を『ピンポンパン』同様「お姉さん」と命名する)、マスコットをロバくん(声 - 愛川欽也→富山敬)からオットくん(声 - 雷門ケン坊)にそれぞれ変更し、番組内容も一部コーナーを廃止してその空いた枠に体操コーナーの「へんしんたいそう」や特撮コーナードラマ(通称・『怪獣コーナー』)を導入した。このコーナーは『レッドマン』を皮切りに、以後も『行け!ゴッドマン』、『行け!グリーンマン』、『行け!牛若小太郎』とシリーズ化され、1975年4月まで続いた。これらのコーナーがかなりの好評となり、テコ入れに成功した『こどもショー』は、同年3月の視聴率は3%台(同時期の『ピンポンパン』の視聴率は7〜8%)だったのに対して、7%台に急速に回復するなどの効果が表れた。一方の『ピンポンパン』は引き続き「ピンポンパン体操」など、一部のコーナーは引き続き大好評だったものの、重複時間帯で視聴率を落とすこととなった。
その2年後の1974年4月、『こどもショー』は放送時間を7:00 - 7:45に移動して5分短縮、『ピンポンパン』も8:00 - 8:40にして『こどもショー』と同じく5分短縮したため、重複する時間が解消。重複時間帯での視聴率争いは再び休戦となった。しかしこの時期の『こどもショー』は頻繁に出演者を変更、1973年11月にはお姉さん役を海老名美どり、マスコットをニャンダ(声 - 海野かつを)にしたものの、その海老名が体操のお兄さん役の峰竜太と結婚したことで降板となり、1975年からはお姉さん役を関谷ますみに変更した(ニャンダは継続)。
1975年10月、フジテレビは同じく子供向け番組である『ひらけ!ポンキッキ』(以下『ポンキッキ』)の放送時間帯が昼から朝に移動し、『ピンポンパン』の次の番組として8:15 - 8:45の枠で放送するようになり、その影響を受けて『ピンポンパン』は、平日に限り、7:45 - 8:15に放送時間を移動した(土曜日版も8:00 - 8:30に放送時間を縮小)が、開始から3年を経過していても「ピンポンパン体操」が依然として人気であり、また同年4月より子役男性グループのビッグ・マンモスをレギュラー陣に加え、お姉さん役も酒井ゆきえを起用するなど、著しい勢いで人気上昇していた『ピンポンパン』の視聴者が、『ポンキッキ』も引き続き視聴すると言う効果を生んだ。その『ポンキッキ』では、ガチャピンとムックの斬新なキャラクターや、番組内から生まれた楽曲「およげ!たいやきくん」がシングルレコード売上450万枚を超える空前の大ヒットとなり、話題となった。なお、『ポンキッキ』は土曜日の放送は行わなかった。対して、『こどもショー』の放送時間は、この時点では従来通り7:00 - 7:45のままであったので、2番組と重複する時間帯は引き続きなかったままであったが、その『こどもショー』は同時期に内容を大幅に変更した。平日は2部に分け、2部は今までの「こどもショー」としたが、1部は「トンカチうたじまん」の後継である「こどものどじまん」の曜日別戦、そして土曜は「こどものどじまん」のチャンピオン大会、日曜は観客である子供から参加者を募って歌わせる「こどものどじまん とびいりのどじまん大会」に変更、これに伴い「のどじまん」の司会は大村崑・石川アナから横山やすし・西川きよし(後に青空球児・好児)、審査委員長は谷啓(後にハナ肇)にそれぞれ変更した。また1年後の1976年9月には日曜版を変更、番組で結成した少年野球チーム「おはよう!こどもショー モーニングス」が全国各地の少年野球チームとの試合を中継する「スポーツ・スペシャル 小学生野球大会」(実況 - 志生野温夫、解説 - 須藤豊)となった。また、『ピンポンパン』のビッグ・マンモスに対抗して、『こどもショー』では男性アイドルグループのJOHNNYS' ジュニア・スペシャルを起用するようになって巻き返しを図った。
その後、1977年4月に『ピンポンパン』が7:30 - 8:00に放送時間を10分縮小するも15分繰り上げ、『ポンキッキ』も8:00 - 8:30に連動する形で移動したが、同時に『こどもショー』も平日・土曜日版を7:45 - 8:25に移動した(日曜日版は7:00 - 7:45で不変)ことで、日本テレビの『こどもショー』の放送時間帯が、フジテレビの2番組のそれと全時間帯で重複することとなり、ここに『ピンポンパン』&『ポンキッキ』VS『こどもショー』の視聴率争いがまたも始まることとなり、しかもその視聴率争いはこれまでよりも大きいものとなった。
『ポンキッキ』の時間移動効果もあり、フジテレビの2番組に視聴者が移行したことで急速に視聴率が激減した『こどもショー』側では、フジテレビに対抗する形で、1975年より1977年にかけてコーナーのリニューアル短期間のうちに幾度か実施し、古くなったコーナーを廃止したりする反面、新たに番組のオリジナルソングを制定した上で、その楽曲を歌うコーナーなどを新設したり、ピンク・レディーの小学生版との触れ込みで、当時双子の女子小学生歌手であり、後にチャイドルと言われるようになる低年齢アイドルの先駆けとなったリトル・ピンクを同年6月27日放送分よりレギュラーで起用するなどのテコ入れを図ったものの、ガチャピンとムックの人気キャラクターや人気楽曲を徐々に輩出するようになる『ポンキッキ』と、人気を引き続き維持していた『ピンポンパン』の前には、もはやチャイドルの起用だけでは視聴率向上の方策としては旨味に欠ける状況となり、『こどもショー』は次第に歯が立たなくなるようになった。またこの時期になると、『こどもショー』の出演者も、ディスクジョッキーで人気が出たつボイノリオや、男性アイドル歌手の太川陽介が出るようになり、お姉さん役も同年10月より関谷に代わってデビュー間もない女性アイドル歌手の大場久美子へと交代し、「けでんと17号」のコーナーの主役として出演するようになったが、人気アイドル歌手へのお姉さん役の交代も功を奏さず、また短期間で何度もテコ入れを繰り返して迷走状態になったこともあり、視聴率の低下に拍車が掛かった。
『こどもショー』に追い打ちをかけるように、『ピンポンパン』は「にっこり町」を舞台にしたコメディのコーナーをメインに据えるようになり、『ポンキッキ』も徐々にではあるが、歌以外のミニコーナーも充実させるようになった。この当時の『ポンキッキ』は『ピンポンパン』より視聴者が少なかったとはいえ、5%台の視聴率で推移した。それどころか『こどもショー』は、1978年4月より放送時間をフジテレビの2番組と全く同じ7:30 - 8:30となり、完全に競合してしまう。一方の『ピンポンパン』は同じく1978年4月より土曜日版の放送時間を平日と同じ7:30 - 8:00とし、さらなる攻勢を掛けてきたことで、平日版を含めて、この時間帯の『こどもショー』の視聴率をフジテレビの2番組はおろか、他のキー局の番組のそれにすら届かずに、キー局最下位にまで転落してしまう事態となった。
この時、人気が著しく落ちたものの、一部の親子での視聴者からはまだ支持されていた『こどもショー』に対して、再リニューアルも多数要望されていたが、上記の視聴率最下位にまで没落したことや、他のジャンルの番組との編成バランスの関連や、当時の日本テレビでは『こどもショー』以外の子供向け番組の縮小を実行に移していた事情などもあり、再リニューアルを見送り、終了することとした。平成以降であれば子供番組を夕方への放送時間枠の移動が検討されることもあるが、当時においては夕方の時間帯は『ピンポンパン』の再放送を例外とすれば、あったとしても子供向けの番組はアニメ及び特撮以外はあまり存在していなかったことや、当時の夕方の枠では1時間番組が編成しにくかったこともあり、見送られた。
『こどもショー』は、フジテレビの2番組に敗れる形で、まず1979年3月2日に平日版を終了。最終日は14年間の総集編を放送した。次番組は子供向け番組から一転して大人向けの情報番組『ズームイン!!朝!』(以下『ズームイン』)となった。同年の翌3月3日には、土曜日版は日曜日版と同じ7:00 - 7:45に移動したものの、コーナーは「おはよう!のどじまん」程度しか設けられず、日曜日版も「小学生野球大会」を放送する程度までに整理されたことで、これらの版でも著しく視聴率が落ち、遂に1980年、『こどもショー』は番組を終了した。
平日版終了後も、日曜版のみ『おはよう!サンデー』が『こどもショー』の後継番組となったが、これもコーナー縮小の後、1987年に終了する。それと入れ替わるように、夕方に『とんでけグッチョンパ』を放送していたが、これも大きな人気を得るまでには至らず1988年9月で終了して、日本テレビは子供向け番組より一時撤退した。
1988年10月以降は放送枠(月曜17:00)の後継番組『それいけ!アンパンマン』(以下『アンパンマン』)がアニメとして、途中何度も放送曜日や時間を変更しながら、撤退した子供向け番組枠を実質的に継承することになる。その後、2002年7月から、毎週金曜夕方に人気女性アイドルグループのモーニング娘。や、その妹分にあたるハロー!プロジェクト所属の女性アイドルを起用した『ティンティンTOWN!』を開始して子供向け番組に再参入し、2004年3月まで放送された。なお、『ティンティンTOWN!』の放送時間は『アンパンマン』の直前枠であり、連結放送されていた。同番組の終了を以って地上波から子供向けバラエティ番組から完全に撤退し、2023年時点に至るまで完全に放送を始めていない。
これらの他、1973年4月にはNETテレビ→テレビ朝日でも、日本テレビ系列からテレビ朝日系列に移動して間もない名古屋放送(現:名古屋テレビ)が制作した『ブンブンバンバン』を放送、珍しく地方局制作の子供番組で『こどもショー』・『ピンポンパン』と三つ巴の戦いになるも壁は厚く、2年で終了。また『ブンブンバンバン』と同時期に『あそびましょパンポロリン』を日曜日のみの放送にしたが、NETが1974年4月より教育専門局から一般局に変更されるのに先駆け、1973年10月より平日10時台に変更、その後は『とべとべパンポロリン』に改題したり、枠を10時台や16時台などに変えていたが、1975年10月より8:01 - 8:30に変更、『こどもショー』や『ピンポンパン』・『ポンキッキ』と2度目の三つ巴となったが、わずか半年で『とびだせ!パンポロリン』に改題して10時台や16時台で放送、その後1978年4月より2年振りに8:00 - 8:30に戻り、お姉さん役も『あそびましょ』時代からの山田美也子から竹田芳子に交代して、三度三つ巴(今度は『ピンポンパン』は関わらず)となるも、壁の厚さとお姉さんの交代がうまくいかず、またも半年で16時台に移動、同時にお姉さん役もアニソン歌手・かおりくみこに変更、1980年まで続いた。
1977年4月から2年間の直接対決では団塊ジュニア(1971年 - 1974年生)世代が幼児であり、『こどもショー』より対象年齢の低いフジテレビの勝利となったが、『ピンポンパン』『ポンキッキ』の天下は短く、団塊ジュニア世代が小学校に進学すると視聴率が下降し始める。1979年4月に開始された『おはようスタジオ』(東京12チャンネル→テレビ東京)が当初は大人向けのワイドショーとして始めたが、児童世代における視聴独占率の高さから事実上の子供向けワイドショー(当時としては珍しめの児童向け子供番組)へと転向を計り、ターゲットの関係で番組キャラクターを置かず、番組スポンサー(日本船舶振興会)の流れから同会会長の笹川良一や、ハドソン所属の社員である高橋名人など、児童層の有名人を常連ゲストとして据えたことで『ピンポンパン』『ポンキッキ』と『ズームイン』の間の世代(小中学生)を取り込んで健闘する。『ピンポンパン』は1980年3月に土曜版を終了、1981年末には同番組の人気キャラクターであったカータン(声 - 大竹宏)を卒業させ、翌1982年1月から、バビちゃん(声 - あきやまるな)に交代させるも、人気を得るまでには至らず、同年3月『ピンポンパン』は15年半の歴史に幕を閉じ、1982年4月から1988年3月までの7:30 - 8:00はアニメの再放送枠となる。一方の『ポンキッキ』は幼児向けの番組制作費やスポンサーを集約させることで少子化を乗り切る長寿番組となり、1993年10月『ポンキッキーズ』にリニューアルした。『ポンキッキーズ』は放送時間やタイトルの変更の繰り返しや、1999年10月より、月〜金の帯番組から毎週土曜日の週一放送に縮小はあったものの、地上波放送は2007年3月まで続いた。1992年10月には、CGを多用した異色の子供番組『ウゴウゴルーガ』を開始。絵本を原作とした有名コンテンツである「ノンタン」シリーズの初アニメ化作品である『ノンタンといっしょ』をコーナーアニメとしての展開を売りにし、『ピンポンパン』終了以来10年半振りに子供番組2体制に戻るも、僅か1年半でこの番組自体が終了した。
関西広域圏の放送局が製作する番組同士の争いでその競争期間もごく短期ではあったものの、いずれも全国ネット番組でクイズ番組間での視聴率対決として視聴率争いを繰り広げていた。
1963年10月より毎日放送の制作によって日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)系列で全国ネットによる放送を開始した『アップダウンクイズ』(以下『アップダウン』)は、放送時間を19時から19時30分までの30分番組ながらも、約22年に及ぶ長寿番組となり、10問正解してハワイ旅行が獲得できるクイズとして人気を博し、スタート当初は初代出題者、翌1964年4月より二代目司会者となる小池清と1972年11月より3代目出題者に就任した佐々木美絵とのコンビも番組名物となった。
この間1960年代はTBSの『タケダアワー』、1970年代前半はフジテレビのアニメ枠(1971 - 1972年の『ミラーマン』のみ特撮)と鎬あいを続け、特に前者での『柔道一直線』と後者での『アタックNo.1』がそれぞれ放送されていた1969年頃には、その影響で『アップダウン』は視聴率を落としたが、どちらも同じ「スポーツを題材にした漫画原作を映像化したドラマ・アニメ作品(通称・スポ根もの)」でありながら、視聴者層がそれぞれの番組で異なっていたのと、両番組の開始を機に、それまでこの時間帯にテレビを見ていなかった年齢層が両番組を中心に見るようになり、それによって全体のテレビ視聴者数が多くなったことで、両番組放送開始の影響による視聴率の低下はごくわずかで済んた。視聴者層は『柔道一直線』では主に小学生 ~ 高校生の男子、『アタックNo.1』では同じく小学生 ~ 高校生の女子、『アップダウン』は主に大学生以上の男女が視聴者の中心層であった。なお、『柔道一直線』は1971年4月に、『アタックNo.1』は同年11月にそれぞれ終了してからは、その視聴者層の一部が『アップダウン』に移行し、結果として視聴率が上昇したのみならず、同番組の視聴者層が幅広くなった。
その後、『アップダウン』が1975年3月31日の腸捻転解消でNETよりTBSへ移動後は、日本テレビの『びっくり日本新記録』(読売テレビ制作。途中2度にわたる中断あり)や、東京12チャンネル→テレビ東京の若者向け歌謡バラエティ番組『ヤンヤン歌うスタジオ』まで加わり、『アップダウン』を失ったNETは一気に人気低下、NETがテレビ朝日に社名変更した1977年4月に、土曜19:00から朝日放送(現:朝日放送テレビ)制作・日本メナード化粧品一社提供のクイズ番組『三枝の結婚ゲーム』が移動、以後メナード提供のクイズ番組を継続したが、『アップダウン』には歯が立たず、1981年5月開始の『ヒラメキ大作戦』継続中にメナードが降板、そして終了後の同年10月からは金曜19:30から児童向けドラマ『それゆけ!レッドビッキーズ』(以下『レッドビッキーズ』)が移動(同時に制作もテレビ朝日から朝日放送に移動)、クイズ路線が中断した。
『レッドビッキーズ』終了後の翌1982年4月より放送開始の『三角ゲーム・ピタゴラス』からクイズ路線を復活、そしてその翌1983年3月に、朝日放送(現ABCテレビ)がこれまで関西ローカルの番組で日曜日午前11時台に放送していた『世界一周双六ゲーム』(以下『双六ゲーム』)を『アップダウン』と全く同じ放送時間帯に移動させて全国ネット化したことで同番組の裏番組となり、ここにMBS対ABCのクイズ番組間での本格対決が始まった。
純粋に出題者がクイズの問題を出してそれに解答者が答えるという、当時は一般的なクイズ番組のシステムであった『アップダウン』に対して、『双六ゲーム』はクイズに正解すれば双六にチャレンジする権利が与えられる、ゲーム性を混在させた番組構成が視聴者に大受けし、『アップダウン』は急速に視聴者を『双六ゲーム』に奪われる形で視聴率が激減した。
このため同年10月に『アップダウン』は大幅な内容のリニューアルを実施することを決め、司会を小池から俳優の西郷輝彦に交代し、「この人クイズ」などの廃止とそれに代わる「リポータークイズ」「シンクロクイズ」を新設しクイズのルールも一部変更。番組セットも全面的に更新した。ところがこのテコ入れは失敗に終わり、クイズのルールも1984年4月に一部を除き元に戻すなどの迷走状態になった。その一方で『双六ゲーム』は前述のゲーム性の要素のある番組構成だけでなく、司会の乾浩明による進行も話題となったことで、一気に視聴率を上げた。『アップダウン』とは対照的に、『双六ゲーム』では番組の内容をあまり変えなかった(全国ネット化時にオーロラコースの追加と他の解答者とコマが重複した場合に6つ下げるルールを逆に6つ進ませるルールに変更した程度)。
1984年に入っても『アップダウン』は視聴率の低下に歯止めがかからず、1985年には特別番組やスポーツ中継で休止になることも多くなった。そして毎日放送は同年秋に『アップダウン』の終了を決断した。
しかし『アップダウン』との視聴率争いに勝利を収めた『双六ゲーム』も、1985年秋以降も引き続き高い視聴率を維持していたものの、今度は1985年3月に始まったフジテレビのアニメ『タッチ』に視聴者が徐々に流出するようになり、翌1986年春に終了した。
毎日放送では『アップダウン』の終了後は、同じクイズ番組である『クイズ!!ひらめきパスワード』を開始させたが、この番組が芸能人出演型にリニューアルされた翌1986年4月6日以降は、芸能人と司会の野村啓司とのトークのやり取りが好評を得たことと、『双六ゲーム』が終了したこともあり、視聴率が急速に上昇し、以後番組が終了する1992年3月までの間、裏番組の『タッチ』(同番組は1987年3月に終了)と互角の高視聴率を維持する番組となった(野村は1990年限りで司会者を勇退。翌1991年より後任は俳優で野村の高校の先輩でもある山城新伍が務めた)。
1970年代後半から80年代前半にかけて、木曜21時はTBSの『ザ・ベストテン』(以下『ベストテン』)が一強状態であったが、1988年頃になると、『ベストテン』の人気にも陰りが出始め視聴率が1桁の回もあった。フジテレビは10月、人気を誇ったとんねるずの初ゴールデン冠番組として『とんねるずのみなさんのおかげです』(→『ラスタとんねるず'94』→『とんねるずの本汁でしょう!!』→『とんねるずのみなさんのおかげでした』)を開始。レギュラー初回は14.9%だったものの、翌1989年の年間平均視聴では24.4%を記録し、一気に『ベストテン』を破り、この年の10月には放送終了に追い込んだ。
『おかげです』はその年から1994年まで6年連続で年間バラエティ番組平均視聴率ランキング第1位を獲得することになった。
TBSはベストテン終了後の1989年10月、この時間帯を13年ぶりに連続ドラマ枠として、『愛し方がわからない』を皮切りに翌年10月からスタートした『渡る世間は鬼ばかり』に代表されるホームドラマや、石ノ森章太郎の人気漫画を実写ドラマ化した『HOTEL』、後述の『3年B組金八先生』をレギュラー放送では7年ぶりに復活。それらの作品を人気ドラマとして定着させた。テレビ朝日も『木曜ドラマ』を維持。テレビ東京の『木曜洋画劇場』(以下『木曜洋画』)もコアな視聴層を固めた。2000年代以降はテレビ朝日が『交渉人』、『ドクタ-X』、『リーガルV』など米倉涼子主演作のヒットに恵まれ、また日本テレビは1995年10月からスタートした『輝け!噂のテンベストSHOW』を皮切りに『どっちの料理ショー』、『ニッポン旅×旅ショー』、『秘密のケンミンSHOW』といった読売テレビ制作バラエティー番組も支持を得て、再びこの時間帯の視聴率争いが激化。テレビ東京は40年以上続いた『木曜洋画』を2009年4月改編で打ち切り、TBSは2015年10月改編で長年続いた連続ドラマ枠(『木曜ドラマ9』→『木曜ドラマ劇場』)を廃止し、『ニンゲン観察バラエティ モニタリング』を19時56分(後に20時開始に変更・短縮)開始の2時間番組に拡大。そしてフジテレビでは2018年(平成30年)4月改編で『おかげでした』が終了、その後番組に坂上忍の冠情報バラエティ『直撃!シンソウ坂上』を開始したが2年半で終了し、2020年10月からは千鳥の冠お笑いバラエティ番組である『千鳥のクセがスゴいネタGP』を開始して、2023年4月からは当番組は日曜19時に移行しタイトルも『千鳥のクセスゴ!』に改題。代わりに『私のバカせまい史』を開始し、視聴率争いはさらに激しいものとなっている。
1985年、テレビ朝日は社運をかけてそれまで23時台に放送されていた深夜ニュース番組を1時間繰り上げ、22時からにすることを決定、番組名を『ニュースステーション』(以下Nステ)とした。司会にはTBSの人気音楽番組『ザ・ベストテン』で司会を務めていた久米宏に白羽の矢を立てた。久米はキャスター就任を了承したが、秘密裏に進められた計画であった為、共演者の黒柳徹子へもこの事を伝えないまま、同年4月25日放送分を最後に『ザ・ベストテン』の司会を降板した。
同年10月に『Nステ』の放送が始まると、中高生にわかりやすいニュースをコンセプトにした内容が功を奏し、高視聴率を獲得したが、TBSの首脳陣は一連の久米の行動に激怒。諏訪博会長の号令により「報道のTBS」の面子と社運を懸けて、打倒『Nステ』を目指し22時台のニュース帯番組を製作し、『Nステ』にぶつける計画を立てた。しかし、計画はキャスター選びから難航した。当初、白羽の矢を立てたのは、『ザ・ベストテン』時代の久米の共演者の黒柳徹子だったが、黒柳が拒否すると朝日新聞社員だった筑紫哲也にキャスター就任を要請した。ところが、テレビ朝日がTBSに猛反発、遂には朝日新聞とTBS両社のトップ会談が開かれる事態になった。その後、TBSは森本毅郎をキャスターに据えて1987年10月から『JNNニュース22プライムタイム』(以下プライムタイム)をスタートしたが、視聴率で『Nステ』に勝てなかったばかりか、森本に女性スキャンダルが発覚した為、1年で森本も降板して新たに小川邦雄がキャスターに迎え、番組タイトルを『JNNニュースデスク'88(→'89)』に変更するも、結局『プライムタイム』放送開始から2年後の1989年9月、22時台のニュース帯番組から撤退した。その後、TBSは筑紫をキャスターに据えた『NEWS23』を翌月から放送開始した。
その後、2000年3月27日にNHK総合テレビが新たに平日22:00に『NHKニュース10』を設置、『Nステ』もこれに対抗して放送時間を21:54に繰り上げた。それでも『Nステ』の牙城は崩れないものの、2004年4月からはキャスターを古舘伊知郎に交代、タイトルも『報道ステーション』に変更した。結果『ニュース10』はTBSより放送期間は長かったものの、2006年3月31日で打ち切られて『NC9』以来の伝統枠だった21時台に『ニュースウオッチ9』として戻り、再びテレビ朝日の独壇場となる。
それでもNHKはこの時間帯の報道情報系番組を放送しており、19時台後半の放送だった『クローズアップ現代+』を2016年(平成28年)4月改編で22時台に移動、『報ステ』に対抗するようになった。その後、2022年(令和4年)4月の改編で再び19時台後半に戻ることが同年2月に発表された。
2021年、今度はテレビ東京が23時から放送している『ワールドビジネスサテライト』を同年3月29日から1時間繰り上げて、22時スタートすることを同年1月の改編会見で発表した。同局の石川一郎社長は『報ステ』と放送時間が重なることについて、「(『報ステ』を含む)22時台はザッピングも非常に多い。ネット、SNSを含めて生き残っていくためには今日の経済事案は何かをきちんと整理して明日以降の生活、経済活動に生かせる材料を伝えたい」と語っている。
北海道地区の夕方ワイド番組における視聴率争いで、札幌テレビ放送(STV)が1991年10月に始めた『どさんこワイド120』を中心としたものである。
1989年10月、北海道文化放送(UHB)が道内初の夕方ワイド番組となる『TVポテトジャーナル』をスタートさせた。視聴率は当初苦戦していたが、次第に2桁を取る週が出るようになる。STVは2年後の1991年に『どさんこワイド』をスタートさせる。『どさんこワイド』も『TVポテトジャーナル』同様、視聴率は当初は苦戦したものの、次第に視聴率が向上する。『どさんこワイド』の成功を受け、北海道放送(HBC)は1993年10月に『HBCゆうやけワイド・テレビ一番星』を16時から19時までの3時間、『テレポート6』を内包する形で開始するが、STVも『どさんこワイド』の放送時間を『テレビ一番星』と同じ16時から19時までの時間帯まで拡大させ、両番組が同じ時間帯で放送されることになり、結局「一番星」は1年で終了。その後もHBCは「4時からワイド一番星」→「いきいきテレビ特急便」→「気になるパンプキン」→「情報ワイドビタミンH」・「夕刊5時ダス」→「ビタミンTV」と放送するがいずれも「どさんこ」の前に敗退。短期間で終了に追い込まれた。
その後夕方ワイド番組はHBC・STV・UHBの巴戦が続いていたが、UHBは1993年10月に『TVポテトジャーナル』から番組名を変更した『ポテト』を1994年9月に終了させ、ドラマの再放送枠に戻る。その後北海道テレビ放送(HTB)が1999年4月に『情報ワイド 夕方Don!Don!』を17・18時台でスタートさせ夕方ワイド番組の視聴率争いに参入した。さらには2002年にはNHK北海道が『ほくほくテレビ』を、2003年にはTVhも『おばんでスタ!』をそれぞれスタートさせ、夕方ワイド番組争いに参入するがどちらも撤退した。2003年4月にHTBは『イチオシ!(現・イチオシ!!)』にリニューアルし、2005年4月からは16時台にも放送枠を拡大。スポーツ情報を取り入れるなど若年層に照準を絞って軌道に乗せた。2006年4月、HBCは16時台『ビタミンTV』および18時台の『テレポート2000』を合体させた新番組『Hana*テレビ』をスタート。その後、2010年には『グッチーの今日ドキッ!(現・今日ドキッ!)』をスタート。当初の視聴率は3%程度と低迷したが、大幅リニューアルを行い、大幅リニューアルを行うなどテコ入れして、STV・HTBととの三つ巴と言えるまでに数字を伸ばした。
2011年4月、一時期夕方ワイド番組から撤退したUHBは夕方ワイド番組『U型テレビ』をスタートさせた。その後、2014年には午前の『さあ!トークだよ』を終了させ自社制作のローカルワイド帯番組を午後に集約。今までの『U型テレビ』をリニューアルさせ、『U型ライブEXPRESS』・『U型ライブ』・『Super NEWS U』を編成。14時から19時までの大半を自社制作のローカルワイド帯番組が占める事となった。しかし同年10月『U型ライブEXPRESS』の打ち切りを発表、夕方の大型改編は大失敗に終わる。2015年、UHBはこれまで放送されてきた『U型ライブ』・『Super NEWS U』の枠を統合させた新番組『みんなのテレビ』がスタート。なおUHBにとっては、開局以来初めて3時間の自社制作大型情報ワイド番組を編成。2019年4月1日には『みんテレ』を正式タイトルに変更して実質新番組扱いとしてリニューアル。2020年4月改編にて、『みんテレ』を16時台から撤退し、約2時間に短縮した。HBCも2022年4月改編より、『今日ドキッ!』を16時台から撤退し、約2時間に短縮した。これに伴い、自主制作で16時台から18時台まで放送しているのは、STV『どさんこワイド』とHTB『イチオシ!!』のみとなった。
1970年代から1980年代にかけて金曜20時に放送された『太陽にほえろ!』(日本テレビ)と『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)、TBSのドラマ・バラエティ番組の視聴率争いを中心としたものである。『太陽にほえろ!』と『ワールドプロレスリング』の両番組は、ほぼ同時期にスタートし同時期に終了や枠移動を行っている。当時、日本プロレスの中継は日本テレビとNET(現テレビ朝日)の2局で放送を行っていたが、日本プロレスの意向により日本テレビはジャイアント馬場の試合を、NETはアントニオ猪木の試合を中心に放送していた。その後、日本プロレスから猪木が除名追放されたことを機に、NET首脳陣は馬場の試合中継を要求。日本プロレス幹部がこれに応じたため、日本テレビ側が激怒。1972年5月、放送していた『日本プロレス中継』を打ち切り、7月21日から金曜夜20時枠に刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の放送を開始した。
一方のNETは、『太陽にほえろ!』の放送開始から1週間後の7月28日より、同じく金曜夜20時枠に『NET日本プロレスリング中継』のタイトルでプロレス番組を開始した(翌1973年4月より、その前年1月に猪木が設立した新日本プロレスの試合中継を放送するのを機に『ワールドプロレスリング』に再改題)。当初、日本テレビは『太陽にほえろ!』の放送を1クールで終了させ、10月から馬場が設立した全日本プロレスの中継番組を『ワールドプロレスリング』に直接ぶつける計画があった。しかし、『太陽にほえろ!』が高視聴率を記録したため、『全日本プロレス中継』は「お化け番組」と呼ばれた『8時だョ!全員集合』にぶつける事となった(詳細は前述の「#土曜夜戦争」を参照)。その後、『太陽にほえろ!』が、新人や無名の若手俳優を主演の新米刑事として出演させ、成長させるパターンで安定した視聴率を稼いだのに対し、『ワールドプロレスリング』が、猪木を中心とした「ストロングスタイル」をメインに、「過激なプロレス」(「ハイスパート・レスリング」とも呼ばれた)や、「異種格闘技戦」路線で高視聴率を挙げた。
両番組のために低迷していたTBSは1979年秋から、学園ドラマの『3年B組金八先生』(以下『金八先生』)を放送。『金八先生』は放送開始するや瞬く間に巷の話題となって視聴率が毎回上がり続け、視聴率争いは三つ巴となる。『金八先生』は半年後の終了前には30パーセントを超える視聴率を毎回獲得して『太陽にほえろ!』と『ワールドプロレスリング』を完全に逆転した。特に『金八先生』第1シリーズの最終回は関東地区で39.9パーセントの視聴率を記録した。同日、『太陽にほえろ!』は400回スペシャルを放送したが視聴率は『金八先生』の半分以下18.8パーセントに終わる。『金八先生』第1シリーズ終了後もTBSは『金八先生』と舞台設定を同じにした学園ドラマ(通称・『桜中学シリーズ』)をこの時間帯に敷いてリードを保った。しかしその間にも『太陽にほえろ!』は見所であった殉職降板や新刑事登場を連発して巻き返しを図り、『ワールドプロレスリング』側も1981年4月、同時期にテレビ朝日系列で放送がスタートしたテレビアニメ『タイガーマスク二世』とのタイアップ企画によって誕生したタイガーマスク(初代)の登場、そしてデビュー。ライバル団体全日本プロレスとの外国人レスラーの引き抜き合戦、同年8月に崩壊した国際プロレスの残党(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)によって結成された「国際軍団」や、長州力率いる「維新軍団」を登場させ、猪木率いる本隊にあたる「新日正規軍」を加えた三つ巴の軍団抗争や、正規軍・藤波辰巳と維新軍団・長州との「名勝負数え歌」が人気を呼んだ。特に、後に維新軍団に加わる小林邦昭がタイガーマスクのマスクを剥ぎにかかるシーンが放送されると、タイガーの正体の見たさに視聴率が上昇した。その反抗の影響と、『桜中学シリーズ』自体もシリーズを重ねて飽きられ始めると、再び三つ巴の様相となっていったものの、『桜中学シリーズ』は徐々に視聴率を落とし、ついに1983年3月、『3年B組貫八先生』を最後に金曜20時枠での放送を終了した。
『桜中学シリーズ』終了後、しばらくの間は児童や若者向けのドラマを中心に放送していたTBSは、1986年5月に絶大な人気を誇っていたビートたけしをメインに据えた、視聴者参加型バラエティ番組『風雲!たけし城』(以下『たけし城』)をスタートさせると、視聴率が逆転し金曜20時の視聴率の覇権を収めた。対する日本テレビは主演の石原裕次郎の体調不良もあって、『太陽にほえろ!』の終了を決断(石原未出演のPART2を含めると、番組は翌1987年2月で終了。石原は同年7月に死去)。テレビ朝日も1986年10月、『ワールドプロレスリング』を月曜20時へ移動させ、音楽番組『ミュージックステーション』(以下『Mステ』)の放送を開始した。
しかし、これら長寿番組だった両番組を打ち切り(『太陽にほえろ!』)や放送時間変更(『ワールドプロレスリング』)に追いやった『たけし城』だが、前述のフライデー襲撃事件により、看板だったビートたけしと襲撃に参加したたけし軍団が芸能活動謹慎となったことで、番組を降板して一時の勢いが衰えてしまう。彼らは事件から約半年後に番組に復帰したものの、勢いを取り戻すことはできず、1989年4月に『たけし城』はレギュラー放送を終了した。 一方、『Mステ』は放送開始当初は視聴率を取れなかったが、放送開始から約半年後の1987年4月、タモリが2代目の司会に就任後、一定の人気を得た。番組にはジャニーズ事務所所属の男性アイドルをはじめ、様々なゲストが登場。中でも番組放送開始から3カ月後、タモリが司会者に就任する前の1987年1月には、かつてのライバル番組(『太陽にほえろ!』)に出演していた石原裕次郎がハワイの別荘からビデオ出演。近況報告後、カバー曲の「BEYOND THE REEF」を披露し、番組にエールを送った(前述の通り石原は番組出演から約半年後の同年7月に死去したため、この番組が彼にとって生涯最後のテレビ出演となった)。また、1996年には同年4月から日本テレビ系で放送されていたバラエティ番組の『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(以下、『ウリナリ』)から誕生したユニット「ポケットビスケッツ」、「ブラックビスケッツ」の登場、そしてブレイクにより、視聴率面で苦戦する事もあったが、1999年6月の宇多田ヒカルテレビ初出演で視聴率を20%台に乗せた。1990年代半ばから2000年代初め頃の「金曜20時戦争」は、かつての前述1970年代の「『太陽にほえろ!』対『ワールドプロレスリング』」のように、日本テレビとテレビ朝日の2強時代が長らく続いていたが、最終的に『Mステ』は 「金曜20時戦争」に勝利を収め、2002年3月で『ウリナリ』を放送終了に追い込んだ。その後『Mステ』は、2019年10月改編で金曜21時に枠移動。後枠として水曜23時台に放送していた『マツコ&有吉 かりそめ天国』の放送時間を変更させた上でゴールデンタイムに進出した。
一方、フジテレビは1979年秋に当時人気番組だった『ザ・ベストテン』に対抗して『ビッグベストテン』を開始させるが、視聴率が振るわず、わずか5ヶ月で打ち切られた。また後続番組『花の金曜ゴールデンスタジオ』→『ハナキンスタジオ』も、同様に打ち切られ単発番組枠へ移動した。1988年、『Mステ』や『たけし城』に対抗するため、明石家さんまを中心とした新番組の計画や『ひょうきん族』の放送枠移動の計画があったが、当時の昭和天皇の病状悪化による自粛ムードや、出演者側のスケジュールの問題などもあり中止になった。
1960年代から1970年代後半にかけてTBSの『ベルトクイズQ&Q』、テレビ朝日の『アフタヌーンショー』の2大番組が争っていた。1970年代の昼の視聴率で苦戦していたフジテレビは1980年10月、漫才ブームに便乗し『笑ってる場合ですよ!』を放送。それから2年後、漫才ブーム終焉後の1982年10月、『森田一義アワー 笑っていいとも!』(以下『笑っていいとも!』)の放送を開始する。『笑っていいとも!』は瞬く間に人気を博し、2002年4月には司会者のタモリが「生放送バラエティ番組 単独司会者による生放送の長寿記録」を樹立し、翌2003年版のギネスブックに登録されるほどの人気番組となり、2014年3月、本放送の最終回とは別に特番としてゴールデンタイムに放送された『笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号』(事実上の最終回)では、タモリが「生放送バラエティ番組 単独司会者最多記録」、番組自体も「生放送バラエティ番組 放送回数最多記録」として、それぞれギネスに認定された。
1985年、8月に起きたやらせリンチ事件をきっかけに2ヶ月後に『アフタヌーンショー』が打ち切られると、他局の番組に太刀打ちできる番組はなく、正午の時間帯は『笑っていいとも!』の一人勝ち状態となったことから、視聴率争いは日本テレビ、TBS、テレビ朝日による2位争いに移行した。みのもんたは『午後は○○おもいッきりテレビ』(以下『おもいっきりテレビ』)の司会に就任した際の記者会見で、目標を『笑っていいとも!』ではなく、当時時間帯2位だったTBSの『新伍のお待ちどおさま』に設定するなど2位争いが過熱した。
日本テレビでは、1987年10月に『おもいッきりテレビ』を放送。当初は『笑っていいとも!』をはじめ他局に苦戦したが、1989年に司会の山本コウタローが参議院選挙出馬のため降板。みのもんたに司会が変わると、それまでの内容を一新した事が功を奏し、中高年を中心に人気が出始めた。これで3局の2位争い一歩抜きん出て単独2位となったどころか、日によっては視聴率で『笑っていいとも!』を逆転することもあり、ここに「みのもんた症候群」という造語までできた『おもいっきりテレビ』と、若者を中心に安定した人気を保つ『笑っていいとも!』との2番組の戦いへと変わっていく。
一方、アフタヌーンショーの打ち切り以降、同時間帯で苦戦し2位争いから脱落していたテレビ朝日は、1996年4月に『ワイド!スクランブル』を放送。再びワイドショー路線に回帰すると同時に視聴率も上向きになった。2004年4月1日保坂尚希の離婚会見を独占生中継した際は『笑っていいとも!』、『おもいっきりテレビ』を抑え、第2部(当時は12時 - 13時5分)で視聴率1位を獲得するなど放送内容によっては『笑っていいとも!』や、『おもいっきりテレビ』を上回ることもあった。
TBSの1980年代は、『ベルトクイズQ&Q』と、そのモデルチェンジ版である『スーパーダイスQ』や、かつて月曜19時台後半枠の人気番組であり、放送時間変更後は日曜日のローカル枠で放送されていた『ハイ&ロー』シリーズの放送時間を40分に拡大し、帯番組としたリニューアル版である『貴女も社長ハイ&ロー』(1985年4月に『社長かヒラか!ハイ&ロー』に改題)の相次ぐ終了以降、昼の番組に苦戦することになった。特に1990年代は『新伍のお待ちどおさま』が終了すると、テレビ朝日同様に短命で終了する番組が続出、TBSの正午は死に枠とさえ言われた。2000年開始の『ベストタイム』の放送以降苦戦を続けていたが、2012年『ひるおび!・午後』にて年間視聴率が同時間帯横並びトップを獲得した。
その後、日本テレビの『おもいッきりシリーズ』(おもいッきりテレビ・『おもいッきりイイ!!テレビ』・『おもいッきりDON!・第2部』)は2010年3月まで続き、その後『DON!』を経て、2011年3月からは『ヒルナンデス!』を放送。2014年3月、フジテレビは人気番組『笑っていいとも!』を終了させ、4月より『バイキング』(2020年9月28日より『バイキングMORE』に改題)を放送。テレビ朝日も同年4月より長寿番組『徹子の部屋』の放送枠を移動し、2020年春改編にて13時に放送枠を再度移動した。そして、2022年4月に『バイキングMORE』は、2015年4月より総合MCを務めている坂上忍が、彼のライフワークである「動物保護活動に注力する」という理由で番組卒業を申し出、それと同時に番組自体も終了。後継番組は佐野瑞樹、山崎夕貴両アナウンサーを進行MCに起用し、明るい芸能ニュースに特化したワイドショー番組『ポップUP!』を開始した。しかし、「ポップUP!」は裏番組の「ワイドスクランブル」、「ひるおび」、「ヒルナンデス」に押されて番組開始から8か月後の2022年内で終了し、2023年年明けから「ぽかぽか」を放送開始。
これにより、平日正午の視聴率争いは再び混沌としている。
MBS制作の『プレバト!!』(TBS系列)が放送されている木曜19時台では、主婦層が『得する人損する人』(日本テレビ)、若年層が『VS嵐』(フジテレビ)を視聴する傾向が2016年頃まで定着。放送開始から10年以上経過していた『いきなり!黄金伝説』(テレビ朝日)と、2012年10月から放送を開始した『プレバト』(タイトルは当時の表記)の視聴率は、制作陣の想定を大きく下回っていた。
『プレバト』では以上の状況を踏まえて、「漢字書き順トーナメント」を皮切りに、「年代やキャリアを問わず、芸能人の才能を『査定員』(専門家)がランキング方式で査定する」というカルチャースクール風の企画を開始。TBSとの共同制作による特別番組として始まった経緯から、レギュラー化以降もTBSの女性アナウンサーが務めていたアシスタントも、2015年4月以降は自社(MBS)の女性アナウンサーによる「(本社のある大阪から収録スタジオのある東京への)日帰り出張」で賄うようになった。このようなリニューアルが功を奏して、中年層を中心に視聴率が徐々に上昇した。MBSの放送対象地域である関西地区ではその傾向が顕著で、2015年頃から週間視聴率ランキングに登場。2018年頃からは、(一部の期間を除いて)放送週に常時15%以上を記録するようになった。TBSの放送対象地域である関東地区でも、2017年頃から視聴率が2桁に乗り始めたばかりか、『VS嵐』と互角の勝負を展開している。
このように視聴率競争の構図が一変したことを受けて、テレビ朝日では、15年間にわたって放送してきた『黄金伝説』を2018年の10月から『くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館』に変更。日本テレビでも『得する人損する人』を2018年9月で終了させた後に、翌10月から『THE突破ファイル』の放送を開始した。『THE突破ファイル』では、MCに内村光良とサンドウィッチマン、出演者に「お笑い第七世代」(ハナコやEXITなど)を起用するなど、若い世代からの好感度が高いキャストで『プレバト』に対抗。「再現VTRに力を入れる」「クイズ仕立てで映像を流す」といった演出と相まって、『プレバト!!』と『VS嵐』の視聴者層の間の世代(ファミリー層)から一定の支持を得ている。一方の『ハナタカ!優越館』では、関東地区での視聴率が2桁に乗る週があるものの、同時間帯における民放4位に甘んじることが多かった。
関西地区における『プレバト』一強状態は、2020年以降も継続している。同年4月9日放送分の「春の3時間スペシャル」で過去最高の19.7%を記録したほか、2021年3月25日放送分「春の3時間スペシャル」では、視聴率18.1%で当該週における週間視聴率ランキングのトップに立った。その一方で、テレビ朝日では2021年の10月改編を前に、『ハナタカ!優越館』を9月16日放送分で終了。翌週(9月23日)から『ウラ撮れちゃいました』をレギュラーで編成している。
1965年1月、NHK大河ドラマ『太閤記』に始まる、日本最長の視聴率争いである。当初は壮絶なドラマ戦争であり、1965年4月までは6局同時にドラマ(東京12チャンネルは『87分署シリーズ』)を放送していた。
日曜20時枠の特徴として、空白期間や局の垣根を越えて同じ芸能人が何度も起用される事例がある。渥美清、萩本欽一、堺正章、久米宏、ビートたけし、島田紳助、ダウンタウン(浜田雅功)、今田耕司、古舘伊知郎、所ジョージ、竹中直人、内村光良、ロンドンブーツ1号2号(田村淳)、有田哲平、石橋貴明、バナナマンと多数の例がある。
50年以上にわたる日曜20時枠の民放局別戦績は日本テレビの圧勝であり、『東宝青春学園シリーズ』から安定した視聴率を維持している。日本テレビの長期低迷は『西遊記II』終了から『久米宏のTVスクランブル』開始までと『特命リサーチ200X』終了から『世界の果てまでイッテQ!』開始までの2回とされる。
東京12チャンネル→テレビ東京の日曜20時枠は『日曜テレビ寄席』(1967年10月 - 1969年9月)『日曜ワイド笑』(1969年10月 - 1972年9月)の演芸番組を放送した後、1972年10月から『日曜特別ロードショー』『日曜ビッグスペシャル』『日曜ビッグバラエティ』と50年間にわたり特別番組枠が続き、『家、ついて行ってイイですか?』の枠移動で2022年10月から1時間枠のレギュラー番組が復活した。
1972年10月開始のフジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』がドラマとの差別化に成功して長寿番組になるとバラエティ番組戦争に発展。日本テレビ『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』、フジテレビ『ダウンタウンのごっつええ感じ』、日本テレビ『特命リサーチ200X』、TBSテレビ『どうぶつ奇想天外!』、日本テレビ『世界の果てまでイッテQ!』、テレビ朝日(ABCテレビ)『ポツンと一軒家』と勝者が推移する。
2021年、日本テレビ『世界の果てまでイッテQ!』(2007年2月開始)がフジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年10月 - 1986年9月)の放送期間14年を超え、日曜20時枠の最長寿番組となった。
日本テレビが1998年に深夜より昇格させた『ザ!鉄腕!DASH!!』と、2007年に放送開始した『世界の果てまでイッテQ!』は、それぞれが10年以上にわたって15%超え、回によっては20%に迫る視聴率を獲得する人気番組となった。
2000年代の他局は19時台に『さんまのSUPERからくりTV』(TBSテレビ)や『熱血!平成教育学院』(フジテレビ)、20時台に『どうぶつ奇想天外!』(TBSテレビ)や『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)、『大改造!!劇的ビフォーアフター』(テレビ朝日)などが放送されていたが、2010年代に入るとこれらの番組が視聴率低迷や不祥事などを理由に軒並み終了し、19時台には『シルシルミシルさんデー』や『日本人の3割しか知らないこと くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館』(共にテレビ朝日)、『この差って何ですか?』(TBSテレビ)、『ほこ×たて』(フジテレビ)、20時台には『クイズ☆タレント名鑑』や『駆け込みドクター!運命を変える健康診断』(共にTBSテレビ)、『爆笑 大日本アカン警察』(フジテレビ)などが放送されたが、どれも『DASH』『イッテQ』『行列』の牙城を崩すには至らなかった。
2016年に入るとこの時間帯の争いが激化。テレビ朝日が19時台に『日曜もアメトーーク!』をスタートさせたり、フジテレビがフリーアナウンサーの古舘伊知郎をメイン司会に据えた2時間番組の『フルタチさん』をスタート。さらにTBSも19時台に『タレント名鑑』の復活版『クイズ☆スター名鑑』、20時台に『ピラミッド・ダービー』を参入させたが、どれも思うほどの視聴率は獲得すらできず短期間で終了した。
しかし、2018年に入ると『DASH』は出演者の不祥事で、『イッテQ』は番組そのものに不祥事が発覚し視聴率に陰りが見え始める。そんな中、同年冬にはフジテレビが19時台に『ジャンク』を復活し一定の成果を収めた。秋にはテレビ朝日で『ナニコレ珍百景』と『ポツンと一軒家』(ABCテレビ制作)がスタート。特に『ポツン』については、中高年をターゲットにした戦略からレギュラー前から15%近い視聴率を稼いでおり、2019年冬頃には互角の勝負をするようになった。さらに時に20%超えの視聴率を稼ぐほど好調であり、『イッテQ』やNHK大河ドラマを抑えて同時間帯トップを獲得する回数も増えている。しかし、2020年春から本格的に導入された「個人視聴率」や若年層(13歳から49歳)をターゲットとしている「コア視聴率」では、『ポツン』が高齢者層向けの番組であることが仇となり、性別や年齢層別の集計によっては最下位に近い週も発生するなど同番組が苦戦を強いられている。なお、TBSでは同時期に『消えた天才』を開始し、ある程度の成功を収めるが不適切な演出があったことが発覚したため、約1年後に打ち切られている。
ドーハの悲劇で知られる『1994 FIFAワールドカップアジア地区最終予選 日本×イラク』がテレビ東京歴代最高視聴率の番組平均48.1%、瞬間最高58.4%を獲得。放送当日の1993年10月28日はテレビ東京開局以来初の「日別平均視聴率三冠王」(全日9.4%、ゴールデンタイム14.8%、プライムタイム22.8%)も獲得している。
『1994 FIFAワールドカップアジア地区最終予選 日本×イラク』地区別番組平均視聴率
参考文献
1990年代後半のアメリカ合衆国では、米国を二分するプロレス団体のWWF(現・WWE)とWCW(解散し現存しない)が、月曜夜の同じ時間帯にプロレス中継(WWFの『MONDAY NIGHT RAW』、WCWの『MONDAY NITRO』)を放送しており、熾烈な視聴率争いが発生していた。
この視聴率争いは凄まじく、ライバル団体の放送を見て何の前触れもなしに対戦カードを変更する、視聴率で押されそうになると現地スタッフがレスラーに乱入を指令するなど、常軌を逸した演出も日常茶飯事であった。
当初はWCWが人気レスラーを起用しnWoブームを生むなど優勢であったが、WWFが選手や社長一家の抗争を前面に出すアティテュード路線に変更することで巻き返し、ついにはWCWを解散に追い込んだ。
国政選挙が行われるたびに選挙特別番組においても激しい視聴率争いが繰り広げられている。公共放送であるNHKに対抗すべく、民放では番組の演出に趣向を凝らすようになり、特に1970年代のフジテレビでは、選挙特番を放送するために休止する『唄子・啓助のおもろい夫婦』や『パンチDEデート』(関西テレビ制作)の内容を流用、司会も京唄子・鳳啓助や桂三枝(現:六代目文枝)・西川きよしといった流用番組の司会者が務めた。
1980年代に日本テレビで放送された『久米宏のTV選挙スクランブル』では落選した候補者には、「葬送行進曲」を流し、候補者の顔写真が落ちていくという演出を行った。1989年以降、民放各局では視聴率獲得のため、スポーツ中継と開票速報を同時に行う番組編成を行ったり、多くのタレントや芸能人がコメンテーターとして出演させたりした。また、NHKをはじめ各局が出口調査などを元に独自の事前分析で他局より1秒でも早く選挙区の当落を判明させて放送するようになった。一方で、当落の誤報を起こすようになり番組内で謝罪したケースも存在した。
2010年、テレビ東京が池上彰を司会に据えた『池上彰の選挙スペシャル』をスタートさせたところ、わかりやすい解説や公明党の幹部や候補者に創価学会との関係について質問する姿勢、また当選した候補者や有名候補者への鋭い切り口が視聴者の好評を獲て、2010年以降4回連続で民放1位の視聴率を記録、2013年の特番では初の2桁視聴率も獲得している。
ビデオリサーチは番組価値を測る新たな指標として、「Twitter TV エコー」というサービスを開始した。Twitterにおける「インプレッションユーザー数」「インプレッション数」「1分あたりのツイート投稿数」「ツイート投稿ユーザー数」の4つを基本指標としている。インプレッション(ツイートの拡散)が多いのはバラエティ、ドラマなどで、少ないのはスポーツ番組、報道番組などで、高齢層より若年層で視聴率とツイートは高い相関関係、投稿よりもインプレッション(表示)において視聴率とツイートは高い相関関係にある。
いずれも日本における視聴率に関するもの。
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"text": "視聴率(しちょうりつ)とは、ある特定のテレビ番組をその地区のテレビ受像機所有世帯のうち何パーセントが視聴したかを表す推定値であり、一つの指標である。",
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"text": "かつては「聴視率」という言い方もされていた。",
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"text": "視聴率の測定は基本的に、モニター世帯に設置されるテレビに接続した専用の機器から得られるデータを基にしている。地域や調査内容によっては、日記式のアンケートによる調査を行っているものもある。",
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"text": "視聴率には、世帯視聴率と個人視聴率がある。かつてテレビは高価な上ブラウン管の影響で大きかったため、一般的な家庭では通常1台のテレビしか所有していなかった。このため、その1台のテレビがどのチャンネルを受信しているかを調べるだけで十分だと考えられ、当時の「視聴率」は「世帯視聴率」を指していた。",
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"text": "その後テレビは安価になり、薄型化が進んだ。また、複数人がいる世帯では、複数の部屋に複数台のテレビ受像機を所有することが一般的になり、家族が各自で個別に番組を視聴するケースも増えた。その結果、1台のテレビだけを調査する方法では実際の視聴状況を正確に把握できないとの指摘や批判が生じるようになった。",
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"text": "2020年時点で、日本の各テレビ局が使用する社内指標については個人視聴率への移行が進められている。",
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"text": "視聴率を調査する意義は、大きく分けて以下のようなものである。",
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"text": "「視聴率」とは、調査対象世帯全体に対する割合で測られる指標である。これは、その時点でテレビの電源が入っていた世帯に対する割合で測るものではない。例えば、100世帯がテレビ視聴率の計測対象である場合を想定する。このうち1世帯のみがテレビを視聴していた状態で、残りの99世帯がテレビを消していた場合、その1世帯が視聴していた番組の視聴率は1%となる。電源が入っている世帯の割合で計算する場合の指標は「番組視聴占拠率」と呼ばれる。",
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"text": "1970年代から90年代にかけてVHS及びビデオデッキが登場・普及し、更に2000年代にハードディスクに録画する装置であるハードディスクレコーダー(HDDレコーダー)が登場し、2000年代や2010年代に普及した。これらのデバイスにより、録画して後で再生し視聴することが一般化した。特にハードディスクレコーダーは、指定した時間に録画した番組や、キーワードに基づいて自動録画された番組を、例えば週末など時間的余裕がある時にまとめて視聴することを一般化させた。この結果、番組の放送日時と視聴日時が異なることが標準的な現象となった。",
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"text": "このような視聴方法の広まりは、従来の「視聴」という概念を変え、「視聴率」をどのように定義すべきか、録画後の視聴を統計にどう反映させるか、といった新たな問題を引き起こした。日本では2014年7月、初めて「録画視聴率」という概念が登場した。ただし、録画を視聴する際、多くの視聴者が高速再生を利用し、数十秒ジャンプできる機能を用いて広告部分を飛ばす傾向にある。この結果、テレビ広告の視聴率は低下している。",
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"text": "2010年代になると景気後退の深刻化・インターネット経由の動画配信(GoogleのYouTubeなど)やインターネット経由の番組配信(Netflix、Amazon Prime Videoなど)が一般化した。これにより、地上波や衛星放送の「テレビ番組」の視聴率(視聴時間)も低下傾向にある。とくに若年層では、インターネットの動画やインターネット経由の番組配信により多くの時間を費やしている。",
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"text": "2023年7月、ビデオリサーチはTVerやYouTubeなどの動画配信プラットフォームを視聴率測定の対象に含める取り組みを行うことを発表した。2024年4月から関東地区で試行された後、2025年10月から全国32地区で正式サービスが開始される予定。",
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"text": "調査エリア内のテレビを所有する世帯のうち、テレビを付けている世帯の割合を表す。広く普及している視聴率の概念で、長らく指標として使用されてきた。2020年から視聴率の調査方法が大きく変化し、より精度の高い指標が登場したことで、2022年現在ではテレビ局とスポンサー間の取引指標としては使用されなくなってきている。",
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"text": "世帯ではなく個人単位でテレビを視聴している割合を表す。個人視聴率の一種に\"個人全体視聴率\"があり、対象世帯に住む全体の人数のうち誰がどのくらい視聴したかの割合を表す。性別、年齢、職業などの特性で区分して集計することができる。2010年代後半以降、スポットCMの新しい取引指標として重視されるようになった。",
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"text": "\"ファミリー層\"の個人視聴率を表す用語で、テレビ局によって定義が異なるが概ね13歳~49歳の個人視聴率を指す。行動範囲が広く、商品購買意欲の高い視聴者層として、テレビCMを出稿するスポンサーが重視している。",
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"text": "毎分0秒の時の視聴率(瞬間視聴率)の平均で求められており、一番組中で最も高かった瞬間視聴率をマスコミ用語で\"瞬間最高視聴率\"として考慮することもある。",
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},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "瞬間視聴率や瞬間最高視聴率という言葉はマスメディアによる造語で、ビデオリサーチではそれぞれ毎分視聴率、毎分視聴率の最高値という。",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ハードディスク式録画装置に録画しておいて、後から再生して視聴することが一般化したことから、日本では2014年7月に初めて録画率を表す「録画視聴率」が公開された。2022年現在、ビデオリサーチは放送から7日間(168時間内)での録画視聴をタイムシフト視聴率として集計している。",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "リアルタイム視聴とタイムシフト視聴のいずれかで視聴されたことを示す指標。ビデオリサーチでは、リアルタイムとタイムシフトの両方で視聴した場合、複数回カウントはせず1回の視聴として扱われる。",
"title": "種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国では、1950年代以降、視聴率調査はニールセン・メディア・リサーチ社が業務を独占している。",
"title": "アメリカ合衆国"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ニールセン・メディア・リサーチ社はニューヨークに本社をおくマーケットリサーチ会社である。",
"title": "アメリカ合衆国"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "調査方法は、アメリカ合衆国全国調査は1987年よりピープルメーター方式(それ以前は日記式アンケート)、地域調査は1週間分の日記式のアンケートを郵送する方式に加えて、2003年後半から2004年前半にピープルメーター方式を導入した。",
"title": "アメリカ合衆国"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "アメリカの視聴率はパーセンテージと「○○○万○千人」などといった視聴者数を同時に計測・発表しており、視聴率よりも視聴者数の方が重視される傾向にある。",
"title": "アメリカ合衆国"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ニールセン調べにおける全米の視聴率歴代最高は1983年2月28日のCBS『マッシュ』最終回で記録した60.2%(視聴者数1億597万人)であり、視聴者数歴代最高は2015年2月1日のNBC『第49回スーパーボウル』で記録した1億1440万人(視聴率49.7%)である(2017年現在)。2010年以後、それまで視聴者数歴代最高だった『マッシュ』最終回の記録が、『スーパーボウル』のテレビ中継によって次々と更新されている。",
"title": "アメリカ合衆国"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ニールセンの調査では、月曜〜土曜の20時から23時及び日曜の19時から23時を特に視聴率の高い「プライムタイム」としている。これは日本の調査での「プライムタイム」とは異なる。",
"title": "アメリカ合衆国"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "日本における視聴率は記録に残っているものでは、1954年に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初である。「NHK放送文化研究所」による調査は、1971年に調査方式を配付回収法に変更した。数か月に1回、1週間分の個人視聴率の調査・発表を行っている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1955年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を開始した(電通による視聴率調査は1963年1月が最終。以後の調査は「ビデオリサーチ」へ引き継がれる)。関西では電通大阪支社と毎日放送、朝日放送の3者が「放送調査委員会」を組織して実施した。当時まだ少なかったテレビ所有世帯を探して毎日訪ね、5分刻みで記入できる翌日の番組表を渡して書き込んでもらい、回収した。集計は約一カ月かかった。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "視聴率をより早く知りたいというスポンサー企業の要望に対応するため、毎日放送はその後、独自に電話調査を開始した。電話帳に千枚通しを突き刺し、穴が開いたページの一般家庭を調査対象としてリストアップ。電話をかけて「テレビはありますか」「どなたが見ていますか」「見てるのは、どのチャンネルですか」の3項目を質問した。「テレビはない」と怒鳴られることもあったという。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1958年には社団法人中央調査社が同じく日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、1959年には年12回(毎月)に拡大した。1961年4月、ニールセンが日本に進出し測定機械による世帯視聴率調査を開始し、1962年12月からはビデオリサーチ社も調査を開始した。当時は測定器を該当する世帯のテレビに取り付け、情報を紙テープに記録するオフラインメータ方式で、調査員が記録テープを回収した後に集計を行っていたため、前週の視聴率が翌週に判明する状態であった。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1977年9月26日、関東地区にてビデオリサーチが開発した「ミノル・メーター」を使用し、通信回路(電話回線)を経由して情報を自動回収するオンラインメータ方式による調査を開始したことにより、翌日には視聴率が判明するようになった。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "長らく、このニールセンとビデオリサーチの2社が日本国内における世帯視聴率を測定していたが2000年3月、ニールセンが日本国内における視聴率調査から撤退し、それ以後は世帯視聴率はビデオリサーチの測定した結果のみが用いられることとなった。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ニールセン撤退の理由は、機械式個人視聴率調査の導入に関して民放キー局と意見が対立したからだとされる。1987年春に日本の民放テレビ業界で起こった視聴質論争をきっかけに機械式個人視聴率調査の導入問題が起こる。1994年11月にニールセンが三井造船系列の企業が開発した「Vライン」を使用した機械式個人視聴率調査を開始したが、Vラインの調査に不安を抱えていたテレビ局側が猛反発し、実際に日本テレビなどがニールセンとの契約解除に踏み切る。1997年にはビデオリサーチも機械式個人視聴率調査を導入するが、これに伴い調査費用が高騰。結果的にこれがニールセンの撤退に繋がったとされる。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2006年8月よりケーブルテレビ会社のジュピターテレコム(J:COM)が、番組供給事業者向けにセットトップボックス(STB)の双方向機能を使った「デジタル視聴率」の提供を開始した。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2011年7月4日、ビデオリサーチはフルセグ放送が視聴できるデスクトップパソコンとケーブルテレビのデジアナ変換を「パソコンテレビ」として視聴率の調査対象に加えた。同年7月24日以降、アナログ放送が終了したエリアでは調査対象がデジタル放送を視聴できる世帯のみとなっている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2015年1月から録画タイムシフトによる視聴率提供を開始している。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "関東地区に限り、2016年の年度下期から(同年10月3日調査分から)は調査世帯数の増加に合わせ、従前のリアルタイム視聴率に加え、タイムシフト視聴率も調査対象に正式に加わった。「リアルタイム視聴率」と「タイムシフト視聴率」の和集合の数値を「総合視聴率」とも呼んでいる。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2018年の「年度」から(同年4月2日調査分から)関西地区でも、同年の「年間下期」から(同年7月2日調査分から)名古屋地区でも、それぞれタイムシフト視聴率の調査を各地区のリアルタイム調査全世帯600に拡大した。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本の視聴率はパーセンテージのみの発表で、アメリカとは異なり視聴者数は発表されなかった。2018年7月23日、ビデオリサーチは2018 FIFAワールドカップの日本代表戦4試合の生中継における日本全国での「リアルタイム総視聴者数」の推計を発表し、続いて2019年1月15日、2018〜2019年の年末年始(12月30日~1月3日)の恒例番組における日本全国での「リアルタイム総視聴者数」の推計を発表した。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2010年代に入り、スイッチメディア(2013年12月から測定開始)やTVS REGZA(2016年春から測定開始)が視聴率測定に参入している。なお、両者共にインターネット経由で視聴率を測定しているため家庭や地域的な事情によりブロードバンド回線に接続していない(または出来ない)世帯は測定の対象外となる。つまり、TVS REGZAの場合は同社製造のテレビのみ測定の対象となるため、TVS REGZA以外で製造されたテレビも測定の対象外となる。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ビデオリサーチは2020年3月30日より新視聴率計画に基づき、視聴率調査の大幅なリニューアルを行った。多様化、分散化する視聴者像を明らかにするため、機械式(PM)の個人視聴率調査・タイムシフト視聴率調査を全国で適用し、関東地区での調査対象世帯を900世帯から3倍の2,700世帯に、関西地区では600世帯から1,200世帯に拡大している。「52週PM化」と呼ばれるこれらの施策により、全国の世帯・個人視聴率を安定して公表し、視聴者をより詳細に把握・分析できることが期待されている。また、番組全体の視聴人数を推計した「平均視聴人数」、番組を1分以上視聴した人数を推計した「到達人数」の提供も開始された。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "だが、少子高齢化の進展により近年では高齢層が好む番組ほど世帯視聴率が高くなる傾向にある。そのため各テレビ局は広告の取引指標を世帯視聴率から個人視聴率に変更し、「コアターゲット」とよばれる消費意欲の高い層を設定することで広告主のニーズに答えようとしている。例として、日本テレビは13~49歳を“コアターゲット”、フジテレビは13~49歳を“キー特性”、TBSテレビは13~59歳を“ファミリーコア”に設定、更に同局は4歳~49歳を”新ファミリーコア”に設定し重点ターゲットとしていくことを発表しており、これらの世代に向けた番組作りを進めているとされる。キー局以外では、テレビ朝日系列の準キー局である朝日放送テレビ(ABCテレビ・大阪府)は2019年から49歳以下をターゲットとする独自指標の“U49”を設定し、U49における視聴率が低い長寿番組の打ち切りを行うなど、新たな基準による番組編成を進めている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "一方、テレビ朝日ではアクティブシニア層が含まれる50歳以上が日本における総人口の半分以上を占めている現状を踏まえ、19時台から22時台のゴールデン・プライムタイムが引き続き全年齢層をターゲットとした編成や番組作りに取り組むと明言しており、他の在京キー局3社を始め系列局でもあるABCテレビの戦略とは一線を画している。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、ビデオリサーチが自社ウェブサイトで発表する個人視聴率は全世代を合計した\"個人全体視聴率\"であり、コア視聴率については外部公表していない。ビデオリサーチ以外では、カルチュア・コンビニエンス・クラブ関連企業のCCCマーケティングが独自の視聴データをもとにしたコア視聴層(13歳~49歳)の視聴率を公表している。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "テレビ局側の視聴率指標は個人視聴率および各局が設定する「コア視聴率」に移行し、長寿番組でも躊躇なく打ち切る姿勢に転じたものの、視聴率を報じる新聞記事やネットニュースでは未だに世帯視聴率を前提に報道されることが多い。この事については放送関係者や芸能人から批判されており、実際にお笑いタレントの松本人志は「大前提として、ネットニュースで視聴率を記事にすること自体、やらなくていい」「世帯視聴率を用いたネットニュースの番組とかタレントの下げ記事は無視してください」とテレビ番組において述べているほか、日本放送協会(NHK)放送総局長の正籬聡も2021年の大晦日に放送した『第72回NHK紅白歌合戦』の世帯平均視聴率が歴代最低視聴率だったことを定例会見で問われた際に録画や動画配信サービス「NHKプラス」など、視聴媒体の多様化をあげた上で「世帯平均視聴率だけを見て判断するのは危険だと思う」「世帯視聴率オンリーでは一面的になってしまうし、視聴者のニーズに応えられなくなってくる」と回答している。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本では測定する有力会社が「ビデオリサーチ」1つのみになった2000年3月以降、同社の調査結果が世帯のリアルタイム視聴率とされている。「ビデオリサーチ」の場合、機械式の視聴率調査は関東、関西、名古屋、札幌、仙台、福島、新潟、静岡、岡山・香川、広島、北部九州の11地区で毎日、青森、岩手、秋田、山形、富山、金沢、長野、山陰(鳥取・島根)、山口、愛媛、高知、熊本、長崎、大分、鹿児島、沖縄の16地区で毎月の第1月曜日(4月と10月は第2月曜日)から2週間、それぞれ調査期間を設けて調査を行っていたが、2020年4月からはこれらの地域でも毎日集計が開始された。標本数は関東は2,700、関西は1,200、名古屋は600、北部九州地区、札幌地区は400、それ以外の地区は200である。なお、放送エリア内に地元民放テレビ局が3局以上あることが機械式視聴率調査の条件のため、福井、山梨、徳島、佐賀、宮崎では機械式視聴率調査は行われていなかったが、2020年4月からは全国データ算出のため、各地区50~100世帯を設定してPM調査を開始した。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "CSデジタル放送・ケーブルテレビ・地上波独立局などは一括して「その他の局」という扱いとなり、個別の数字は特に公表されていないが、NHK BSのスポーツ中継、NHK BSプレミアム移行後の連続テレビ小説、大河ドラマなどはNHKがビデオリサーチに対して特別に依頼の上、測定される。地上デジタル放送については、2003年12月の開始当初は対象外としていたが、普及に合わせてデジタル対応の調査機器への更新が進められた。BSデジタル放送については、2015年4月よりBSパワー調査が機械式調査に移行したことにより、地上波とは若干条件が異なるものの視聴率が測定・公表される。ただし有料チャンネルは除かれる。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "パソコンや携帯受像機による視聴は機械式調査ではカウントされていない。録画による視聴(タイムシフト視聴率)に関しては、2016年10月3日の調査分から関東地区に限り測定されており、ランキングも別途存在している。またマルチチャンネル編成を行っている時間帯は、メインチャンネルとサブチャンネル両方を合算した数字を発表している。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "一般に関東、関西、名古屋地区などでゴールデン・プライムタイムで15パーセントを超えるとヒット作と言われるものが多く、逆に10パーセントを切ると「一桁」として視聴率が低迷していると言われるものが多い。どの調査対象の世帯も該当の番組を見ていなかった(つまり、0パーセント)の場合は「*」として表示される。様々な事情が絡むため一概には言えないが、関東キー局の場合平均視聴率が概ね8%(テレビ東京では6%)を下回ると打ち切りが検討される可能性が高くなる。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "民間放送各社、特にキー局にとってはこの数値が1ポイント増減しただけで利益や広告の営業活動に大きく響くため、視聴率を重視している。全国の世帯から徴収する受信料で成り立つNHKは「視聴率に左右されないテレビ局」を謳っているが、NHK以外のメディアにおいて「NHKも民放と同様、あるいはそれ以上に視聴率を意識している」との見解が示されているか、またはそれを前提とした報道・評論がされている例も多い。かつてNHKの気象情報に出演していた気象予報士の半井小絵も「チャンネルを変えられないようにとの指示が出ていたんです」と証言している。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "これまでの関東地区における最高視聴率は、「ビデオリサーチ」が視聴率調査を開始した1962年12月3日以降では1963年12月31日のNHK総合テレビ『第14回NHK紅白歌合戦』で記録した81.4パーセントであり(1961年-2000年に行われていた「ニールセン」による調査でも『第14回NHK紅白歌合戦』の89.8パーセントが最高)、「ビデオリサーチ」以前も含めた最高視聴率は1955年5月30日、日本テレビのボクシング中継・パスカル・ペレス対白井義男戦で記録した96.1パーセント(電通調べ)である。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "「ビデオリサーチ」調査における関東地区の全日視聴率では、NHK総合が1963年から1986年までの24年間、各民放キー局を押しのけて連続して1位を獲得していた。1987年以降は民放局がその座を獲得する例が多くなった。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "「ビデオリサーチ」調査では『NHK紅白歌合戦』があることなど(後述)から、年間視聴率1位はNHK総合の番組という例が多い。2001年までNHK総合の番組が年間視聴率1位の座を譲ったことがなかった(紅白についても1997年まで年間視聴率1位の座を譲ったことがなかった)。2002年以降は年によっては民放番組(主に国際スポーツ中継の日本戦)が年間視聴率1位を獲得する例もある。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "冒頭で述べた通り、(1960年代から2000年まで2社体制で視聴率調査をしていた。)「ニールセン」と「ビデオリサーチ」とで、最もテレビの視聴が高い時間帯の基準が両社で異なっていたからによるものとされている。アメリカに本社を持つ「ニールセン」では、アメリカ基準で最もテレビの視聴が高い時間帯を設定し、これを19時から23時までとして「プライムタイム」と呼んだ。(ただし実際のアメリカにおける「プライムタイム」は前述のように日本のそれとは異なる。)",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "これに対し、「ビデオリサーチ」は日本独自の基準として最もテレビの視聴が高い時間帯を19時から22時までとして「ゴールデンタイム」と呼んだ。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、この2区分の調査はニールセンの「プライムタイム」は1961年4月の調査開始当初から「ビデオリサーチ」の「ゴールデンタイム」も1962年12月の調査開始当初から始めた。しかしながら「ビデオリサーチ」も1971年から「プライムタイム」の調査を開始し、現在に至っている。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "日本の放送局が視聴率を評価する際に使う表現で、下記3区分すべてで平均視聴率がトップの放送局を指して「三冠王」と呼ぶ。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "上記に加え、日本テレビではノンプライム(6時-19時、23時-24時)でも視聴率がトップであれば「四冠王」と呼んでいたが、2012年度からはノンプライムを内部参考化したため、こう呼ばれることはなくなった。テレビ朝日ではプライム2(23時-翌日1時)でも視聴率がトップであれば、「四冠王」と呼ぶ。なお、NHKおよびTBS・テレビ東京・フジテレビにおいて公式にはいずれの意味の「四冠王」の表現を用いていない。(フジはかつてノンプライムの放送区分を用いて四冠王を称していたことがあった。)",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "視聴率三冠王(NHKを入れたすべての在京テレビ局で)の第1号はTBSで、1978年に1度達成している。当時は『まんが日本昔ばなし』『クイズダービー』『8時だョ!全員集合』『Gメン'75』と言った土曜日の19時より22時台手前まで連続して人気番組を編成していたことや、平日においても「クイズ100人に聞きました」「ザ・ベストテン」などの高視聴率番組が存在したことが主な要因であった。なお、この年のTBSの全日視聴率はNHKと同率であった(10.1%)。とはいえ、この頃のNHKの連続テレビ小説や大河ドラマの視聴率が2018年現在の2倍以上であったことなどを考慮すると、民放局での三冠達成は、業界内では画期的な出来事であった。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半、フジテレビが「三冠王」を使い始めた。フジテレビは1982年から1993年までの12年間、連続して三冠王となったがこれは在京民放局5局の中での三冠王である(NHKを含めた中での三冠王となったのは1987年と1990年から1993年の合わせて5年間で、それ以外の年はNHKがフジテレビの全日視聴率を上回っていた。)。なお、1993年のフジテレビの全日視聴率は、日本テレビと同率であった。一方で、年度視聴率においてもフジテレビは1982年から1992年までの11年間は連続して三冠王となったが、やはりこちらも在京民放局5局の中での三冠王であった。(1990年になってやっとNHKの全日視聴率を含めて完全三冠王となったが長くは続かず、NHKを含めた在京6局の中での三冠王は結局1992年度までの3年だけであった。)",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "その後日本テレビが「四冠王」の表現を使い始め、バラエティー番組やプロ野球巨人戦の中継が好調に推移したことで同社が(NHKを含めた在京6局の中での)年間視聴率四冠王の座を1994年から2003年までの10年間、連続して獲得した(1994年の日本テレビは全日は単独で首位だったが、ゴールデンタイム、ならびにプライムタイムのそれぞれの年間視聴率でフジテレビと同率であった)。一方で、年度視聴率においては日本テレビは1994年から2002年までの9年間、連続して三冠王だったが、1993年度は全日のみ首位(ゴールデン、プライムはフジの二冠)、2003年度はプライム以外の三冠だった(プライム首位はフジ)。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2004年以降はフジテレビが年間、および年度視聴率の三冠王を2010年まで7年連続で獲得(NHKを含めた在京6局中)。2011年は日本テレビが8年ぶりに年間視聴率三冠王を奪還した(こちらもNHKを含めた在京6局中。ただし、全日はフジテレビと同率であった)。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2012年はテレビ朝日が年間世帯視聴率で開局以来初のプライム首位を獲得し、日本テレビの2年連続三冠王達成とはならなかった(日本テレビは全日、ゴールデンの二冠。)。さらに2012年の年度視聴率、ならびに2013年の年間視聴率ではテレビ朝日がゴールデン、プライムの二冠を達成した。(全日は共に日本テレビが首位。)",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "個人視聴率においては2011年から日本テレビが三冠王を11年連続で獲得している。",
"title": "日本"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "視聴率がテレビ局並びに放送番組の評価の指針となる場合があるため、国や時代、時間帯を問わず裏番組間での視聴率争いは行われている。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ここではその代表的なものを挙げる。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "この視聴率戦争は日本のテレビ番組では歴史上最大の視聴率争いとして語り継がれている。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "TBSの『8時だョ!全員集合』(1969年-1985年)が「お化け番組」と呼ばれる程の凄まじい人気を誇ったことで発生した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "他局への影響は大きく、当初『コント55号の世界は笑う』で優位だったライバルのフジテレビは対抗する番組『コント55号のやるぞみてくれ!』を企画するも、僅か2ヶ月で打ち切られ、その後は時代劇を中心としたドラマ路線に変更するも悉く放送終了し、土曜20時枠は「鬼門」とまで言われた。1974年3月に荒井注がザ・ドリフターズから抜けてしばらくは、翌1975年4月から放送が開始された『欽ちゃんのドンとやってみよう!』の成功もあり、視聴率が上昇して『全員集合』を脅かしたが1976年、その2年前の4月に荒井に代わってメンバーに加入した志村けんの「東村山音頭」のヒットで再び引き離し、以後も『オレたちひょうきん族』(1981年 - 1989年)が登場するまで対抗出来る番組はほぼ皆無となり、女子プロ野球チーム「ニューヤンキース」の試合をメインとした『土曜グランドスペシャル』(1978年)が目立つ程度だった。中には『ピーマン白書』のように大々的な番宣キャンペーンを行ったにも関わらず、放送回数僅か6回で打ち切りになったものも存在した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "日本テレビは1972年10月より『全日本プロレス中継』を約6年半の長きに渡って放送するも視聴率が振るわず、1979年4月に放送枠を移動。以後19:30枠と統合し、90分単発特別番組枠『土曜スペシャル』を放送、その後『笑点』の司会として当時人気だった三波伸介を出演させて90分バラエティ『爆笑ヒット大進撃!!』→『ダントツ笑撃隊!!』を放送し対抗するが短命で終了、1982年1月より『土曜トップスペシャル』として単発枠を復活した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "テレビ朝日は時代劇や現代劇といった1時間ドラマを放送したが対抗できず、1972年(昭和47年)7月から、直前枠である19:30枠の『仮面ライダー』(毎日放送制作)の視聴者である子供をターゲットに、「変身大会」と称した前後半の30分番組として分離し、前半30分は特撮番組『人造人間キカイダー』→『キカイダー01』、後半30分はアニメ『デビルマン』→『ミクロイドS』→『キューティーハニー』を放送した。それらの番組はスタート当初は16%前後と『全員集合』という強力な番組の裏番組としては大健闘したものの、次第に児童層も『全員集合』を選ぶ傾向が強くなったため、視聴率は回復しなかった。このため1時間枠に戻したものの、それでも1978年1月より放送開始の松平健の主演時代劇『暴れん坊将軍シリーズ』までヒットしなかった。特に1976年5月に『刑事バレッタ』(第1シリーズ)終了後、同年10月開始の時代劇『五街道まっしぐら!』までの間は、定時番組は置かずに単発枠(つなぎ番組)を編成し、『戦え!ぼくらのヒーロー大集合』や劇場版『サイボーグ009』などの子供向け番組を特番扱いで放送する状態だった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "NHK総合テレビでは、1970年に『ステージ101』、1972年に『お笑いオンステージ』といった、後年日曜日に放送時間を変更する番組を放送したが、いずれも視聴率面で『全員集合』には追い付けず、ようやく1974年に海外ドラマ『刑事コロンボ』を導入して大ヒットさせる。これが現在まで続く『土曜ドラマ』に受け継がれる。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "東京12チャンネル→テレビ東京では1970年代中盤から3ヶ月程度の番組が連発し、1978年より90分単発特別番組枠『土曜特番』を開始、以後何度か中断を置きながら単発枠を継続した。だがその単発枠中断時に放送した番組は各局同様苦戦が続き、特に1980年(昭和55年)10月に、国際プロレス主催プロレス中継『国際プロレスアワー』を月曜20時から移動するも、先述の『ピーマン白書』と最下位を争う状態で遂に翌1981年3月にはレギュラー放送を打ち切り、同年8月の団体崩壊につながってしまう。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "当時のドリフの人気を示すエピソードとして、タレントの王理恵も自分はドリフ(全員集合)を見たかったが家では父(王貞治)が出ている野球中継を見ていた。月曜日、自分は学校でドリフの話についていけなかったと当時を回顧した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1981年10月改編でフジテレビはお笑いブームに乗り、『オレたちひょうきん族』(以下『ひょうきん族』)を放送開始。開始直後の視聴率は伸び悩んだが、ドリフの不祥事(仲本工事、志村けんの「競馬ノミ行為事件」)や「囚人コントのギロチン事件」が大きく響いた事もあり、以降『ひょうきん族』は徐々に視聴率を獲得し1984年の年間視聴率でついに『全員集合』を逆転、翌1985年(昭和60年)10月改編で『全員集合』も終了した。ところが翌1986年1月、『全員集合』の後継番組である『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(以下『加トケン』)が放送されると、徐々に『加トケン』が視聴率を獲得、同年12月に起きたフライデー襲撃事件により『ひょうきん族』の看板タレントだったビートたけしが芸能活動謹慎の為、番組レギュラーから抜けたこともあり、1987年に『ひょうきん族』を逆転。それから約2年後の1989年10月改編で『ひょうきん族』は放送終了となった。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1990年代に入ると、『加トケン』への対抗として1990年10月より『マジカル頭脳パワー!!』(日本テレビ。 以下『マジカル』)が、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ。以下『やるやら』)がそれぞれ放送開始。テレビ朝日の『暴れん坊将軍』と合わせて人気4番組による争いとなる。争いは2年ほど続いたが、まず『加トケン』が1992年4月、『KATO&KENテレビバスターズ』としてリニューアルするも、これが裏目に出て視聴率が急速に低迷し同年9月に終了。一方の『やるやら』も1993年6月、収録時の事故により放送が急遽打ち切られると、『めちゃ×2イケてるッ!』(以下『めちゃイケ』)の放送まで再びフジテレビの土曜20時枠は「鬼門」となった。一方、『マジカル』は『あるなしクイズ』が放送局や番組をまたいで大ブームとなったこともあり、終了したKATO&KENやウンナンの視聴者を獲得する形となり高視聴率を獲得したものの、4月から9月までの間はプロ野球中継(主に巨人戦)により放送を休止することが度々あったため、それを極力避ける目的で、番組枠を木曜日の同時間帯に移動した。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "TBSでは長年続いたザ・ドリフターズ出演のバラエティー番組シリーズ終了後、『音楽派トゥギャザー』以来2年9ヶ月ぶりとなるゴールデン及びプライムタイムでの音楽バラエティー番組の『突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100』や、紀行番組の『自然がいちばん!地球塾』を放送するもいずれの番組も放送開始から半年で放送時間変更や終了に追い込まれ、1993年10月より『どうぶつ奇想天外!』をスタート。当初は『マジカル』に苦戦したが『マジカル』の木曜日への移動により安定した視聴率を獲得し、「親が子どもに見せたい番組」の上位にランクインされる人気番組になった。フジテレビも1996年10月に『めちゃイケ』をスタートさせると視聴率を獲得、1978年の放送以来、常に安定した人気を保っていた『暴れん坊将軍』を移動させると、『サタデードラマ』(2000年3月まで)という現代劇枠に転換させ、それ以降が現在に至るまでバラエティ番組が編成されている。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2000年4月に『どうぶつ奇想天外!』が日曜20時に移動すると、しばらくは『めちゃイケ』の独走状態であったが2004年に放送開始した日本テレビの『世界一受けたい授業』の台頭により、同番組に陰りが見え始めてくる。2006年度には『世界一受けたい授業』が『めちゃイケ』を上回ることも珍しくなくなった。しかし、『めちゃイケ』の直前番組である『脳内エステIQサプリ』(以下『IQサプリ』)の視聴率が一時17%前後にまで及んだことで、一時的に視聴率は回復したものの2007年4月、『IQサプリ』の裏番組に『天才!志村どうぶつ園』が移動。これにより『IQサプリ』の視聴率は11%前後にまで低下し、その効果が『めちゃイケ』にも及び再び『世界一受けたい授業』に負けだすようになった。追い打ちをかけるように、2008年4月にはTBSがドラマ枠を設置し、その第1弾として森田まさのりの原作の野球漫画を実写化した『ROOKIES』が放送され、人気を博す。2009年5月にはジャニーズ事務所所属の人気グループSMAPのメンバーの一人でもある木村拓哉主演の『MR.BRAIN』が放送されたことにより、『めちゃイケ』は視聴率が低迷していた。但し、TBSのドラマ枠は『ハンマーセッション』を最後に2010年9月をもって廃止されている。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "その後、『めちゃイケ』は特別企画を中心に視聴率を稼いでいたが、2010年以降はテレビ東京の『土曜スペシャル』が「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」を中心に人気を集め、中には『めちゃイケ』を凌ぐ視聴率を記録する回もあり、『めちゃイケ』の独走状態ではなくなった。2015年からはNHKの『ブラタモリ』の第4シリーズが本枠で開始、2017年からは『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』(テレビ東京)のレギュラー放送が始まり、『めちゃイケ』の視聴率は一桁台へ低迷、最終的に『めちゃイケ』は2018年(平成30年)4月改編で終了することとなった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "土曜19時枠でも、1970年代から1980年代までは『まんが日本昔ばなし』(毎日放送制作。第2期)と『クイズダービー』を擁したTBSの独走状態となって他局は苦戦を強いられた。日本テレビは1985年10月に『全日本プロレス中継』を土曜夕方枠から19時枠に移動して、6年半ぶりにゴールデンタイムの生中継を復活するも、僅か2年半で日曜22時半の録画中継枠への枠移動に追い込まれた。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "フジテレビは1975年4月より19時枠前半で放送されていた長寿番組の『ズバリ!当てましょう』(第2期)が1982年3月で打ち切られ、翌1983年4月には、かつて18時枠後半の看板番組であったアニメ『タイムボカンシリーズ』の『イタダキマン』を19時枠後半に移動させるも、視聴率を奪えず僅か20話で終了し、シリーズ自体も終了に追い込まれる事態となった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
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"tag": "p",
"text": "テレビ朝日は1989年1月より、19時枠後半にコロコロコミックで連載され、絶大的な人気を誇っていた小林よしのり原作のギャグ漫画である『おぼっちゃまくん』をアニメ化して放送。開始されるや子供を中心に人気を集め、視聴率で肉薄。1990年秋頃から『クイズダービー』を視聴率で抜くことも増え、結果フジテレビ系の19時半のアニメ枠を廃枠に追い込んだ。もっとも『おぼっちゃまくん』は約3年9ヶ月の長きに渡って放送が続いたものの、過激かつ下品なギャグが多かった事から視聴率は取れても肝心なスポンサーが離れて定着しなかった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "その後、1991年10月にフジが19時枠に『平成教育委員会』を、翌1992年3月にテレビ朝日が19時台前半枠に『美少女戦士セーラームーンシリーズ』を、さらにその翌1993年10月、同じく後半枠に『SLAM DUNK』をそれぞれ投入してようやくTBSの勢いを止めることに成功したが、そこまで10年以上の時間を要した。『平成教育委員会』も1992年9月には『おぼっちゃまくん』も放送終了へ追い込み、1997年9月までレギュラー放送を続けた。なお、『おぼっちゃまくん』終了の原因は前述の理由もある。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "同じフジテレビ系列である関西テレビでは、『クイズダービー』(関西では毎日放送が放映)の裏番組が『部長刑事』だったこともあり、さらに厳しい戦いとなった。(後述の「#関西土曜戦争」を参照。)",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 83,
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"text": "特にこの視聴率戦争は日本テレビが放映権を独占していた巨人主催戦中継「DRAMATIC BASEBALL」にまでおよび、21時台までの日テレ系バラエティ番組がフジテレビ系列とのクロスネット局であるテレビ大分が同時ネットを開始する程のお化け番組であったことで、2002年からNHKプロ野球での放送が原則化している。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1958年9月から大阪テレビ放送→朝日放送(現:朝日放送テレビ)が製作し、土曜の夜に関西地区で絶大な人気を誇ったローカル刑事ドラマ『部長刑事』を巡る争いである。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "『部長刑事』は大阪府警察本部が「応援」という形で番組に協力していたこともあり、関西地区における土曜夜の顔的な番組であった。そのため毎日放送・関西テレビ・読売テレビといった在阪他局は対抗する手段がなく、裏番組は軒並み打ち切りになっていた。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1970年、毎日放送の斎藤守慶(営業局長)が打倒『部長刑事』を旗印に東映に「新しい仮面のヒーロー番組を製作したい」という企画を依頼した。そこでできた作品が、『仮面ライダー』である(番組のスタートは翌1971年4月)。斉藤の目論見は成功し、『仮面ライダー』は、関東地区では第1話の視聴率は8パーセント台と低迷したものの、関西地区では20パーセント超えの視聴率をマークした。やがて、放送開始から3ヶ月後には、撮影中の事故により負傷した仮面ライダー1号こと本郷猛を演じた主演の藤岡弘に代わって、仮面ライダー2号こと一文字隼人、FBI捜査官・滝和也、ライダーガールズの新たなレギュラー入りや、変身ポーズの導入、藤岡復帰後の1号、2号のダブルライダーの共演など、それまでの暗く重苦しい作風から、明るく華やかな作風への路線変更が功を奏し、人気番組へと成長。第二次怪獣ブーム(変身ブーム)の到来とともに、子供を中心とした社会現象にまでなった。『仮面ライダー』が特撮児童向けドラマとして製作されたこともあり、『部長刑事』の視聴者層とほぼ被らなかったため、それ自体が1973年2月まで続くロングラン放送(全98話)となり、以降も『仮面ライダーV3』、『仮面ライダーX』、『仮面ライダーアマゾン』とシリーズ化され、『部長刑事』と視聴率を争う事となる。なお、昭和第一次仮面ライダーシリーズ最終作である『仮面ライダーストロンガー』は、後述の毎日放送と朝日放送との間のネットチェンジにより、1975年4月の放送開始から放送時間が土曜の19時に変更された。これにより、約4年続いた『仮面ライダーシリーズ』と『部長刑事』との視聴率争いは終結した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "1975年4月、毎日放送と朝日放送との間でのネットチェンジがあったが、ネットチェンジ後も毎日放送は『部長刑事』への対抗として、関西地区では朝日放送時代には火曜夜に遅れネットで放送されていた『お笑い頭の体操』を同時ネットに移行し、以後も『クイズダービー』や『クイズテレビずき!』、『チャレンジ大魔王』などを放送。しかし『部長刑事』もこれに対抗して、所々でテコ入れを行い、毎回10パーセント前後の安定した視聴率を挙げていたが、『新・部長刑事 アーバンポリス24』からは、マンネリ化もあり、視聴率で苦戦し始めた。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "『部長刑事』は「外伝」を始めた2001年、ついに放送時間を土曜18時30分に移動した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "「部長刑事シリーズ」は、2002年3月まで放送開始から43年7か月の間、関西地区を中心に放送されたが、関東地区・名古屋地区をはじめとした他のネット局では別時間帯で放送された。異なる系列局で放送されたり、放送されなかった回が存在した他、不祥事の間接的な原因になるなどした。また穴埋めとして短期間放送した局もあった。これは、番組販売の形式で他の放送局にネットされていたことによるものであった。ただし、基本的に一話完結形式のため、大きな混乱とはならなかった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "この視聴率争いは日本のテレビ番組史上初めての裏番組間に於ける本格的な視聴率争いとなり、前述の「土曜夜戦争」が開始されるまでの間は、この視聴率争いが日本のテレビ史上最大規模の視聴率競争であったが、「土曜夜戦争」開始後も約10年間継続した。ただし、そのほとんどの期間が一部時間帯のみでの視聴率争いであり、また後述するが途中2度の休戦期間が存在する。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1965年11月8日より、日本テレビで朝の子供向け番組『おはよう!こどもショー』(以下『こどもショー』)が月曜日 - 土曜日の間で放送を開始し、開始からわずか1か月で10%の視聴率を記録した人気番組(当時は生放送であった)となったが、続いて翌1966年10月にはフジテレビで『ママとあそぼう!ピンポンパン』(以下『ピンポンパン』)が放送を開始した(『こどもショー』と異なり、当時は平日のみ放送)。『ピンポンパン』放送開始当時は両番組の間で放送時間が重複していなかったが、2年後の1968年4月に『ピンポンパン』が番組枠を5分拡大して45分番組になると同時に放送時間を8:00 - 8:45となり、一部時間帯で『こどもショー』と重複したことで視聴率争いが始まった。しかし、『ピンポンパン』の番組開始当時は後発だったこともあり、視聴率が3%程度に留まり、当時は人気番組だった『こどもショー』の牙城を打ち崩せない状態が、しばらくの間続いていた。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "『こどもショー』は翌1969年4月に放送時間を15分拡大して全曜日で7:15 - 8:30の1時間15分の番組となり、『ピンポンパン』と重複する時間が15分から30分に拡大するも、この頃より番組が徐々に認知され始めた『ピンポンパン』に視聴者が移行したことと、生放送からVTR放送に移行したことで新鮮さが失われた部分が出たことで、『こどもショー』は重複時間帯に入った時間以降の視聴率に陰りが見え始めた。対する『ピンポンパン』は同じ1969年4月に平日と同じ8:00 - 8:45の放送時間帯で土曜日版も放送するようになり、重複時間帯のみとはいえ、視聴率争いは徐々に激化するようになった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、同年10月に『こどもショー』が番組編成の都合上で7:15 - 8:00に放送時間を縮小したことで一旦は『ピンポンパン』との放送時間帯の重複が解消され、視聴率争いは一旦休戦状態となった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "この間『ピンポンパン』は1970年4月に全曜日で放送時間を8:10 - 8:55に移動するも、1971年10月に再度全曜日で放送時間を元に戻し、お姉さん役も渡辺直子から石毛恭子に変更したが、放送時間を元に戻したと同時に体操コーナーの「ピンポンパン体操」が開始され、これが空前の大ヒットとなり、視聴率が一気に8%を超える日も出るなど、番組を代表するコーナーとなった。対する『こどもショー』は、1970年10月に満を持して日曜版を7:15 - 7:55の40分番組として放送するようになり、1971年4月にはその日曜版を5分拡大して7:15 - 8:00の45分番組となったが、視聴率の伸び悩みを解消するまでには行かなかった(一方の『ピンポンパン』は日曜版の放送は行わなかった)。しかし同年6月より日曜版を子供視聴者参加型歌合戦「コンちゃんのトンカチうたじまん」(司会 - 大村崑、石川牧子(当時局アナ)、審査委員長 - 山下毅雄)に変更し、1975年3月まで続く人気企画となった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ところが1972年1月、『こどもショー』が7:25 - 8:15に放送時間帯を移動したことで再び『ピンポンパン』と一部時間帯(8:00 - 8:15)で重複することとなり、重複時間帯における両番組間での視聴率争いが再開する。そこで日本テレビでは、「ピンポンパン体操」の大ヒットで危機感を持ったこともあり、『ピンポンパン』への視聴者流出対策として、『こどもショー』の大幅なテコ入れを実施することとなり、同年4月24日の放送より司会者を楠トシエ・石川進(1日交代)から鶴間エリに(同時に司会役の女性を『ピンポンパン』同様「お姉さん」と命名する)、マスコットをロバくん(声 - 愛川欽也→富山敬)からオットくん(声 - 雷門ケン坊)にそれぞれ変更し、番組内容も一部コーナーを廃止してその空いた枠に体操コーナーの「へんしんたいそう」や特撮コーナードラマ(通称・『怪獣コーナー』)を導入した。このコーナーは『レッドマン』を皮切りに、以後も『行け!ゴッドマン』、『行け!グリーンマン』、『行け!牛若小太郎』とシリーズ化され、1975年4月まで続いた。これらのコーナーがかなりの好評となり、テコ入れに成功した『こどもショー』は、同年3月の視聴率は3%台(同時期の『ピンポンパン』の視聴率は7〜8%)だったのに対して、7%台に急速に回復するなどの効果が表れた。一方の『ピンポンパン』は引き続き「ピンポンパン体操」など、一部のコーナーは引き続き大好評だったものの、重複時間帯で視聴率を落とすこととなった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "その2年後の1974年4月、『こどもショー』は放送時間を7:00 - 7:45に移動して5分短縮、『ピンポンパン』も8:00 - 8:40にして『こどもショー』と同じく5分短縮したため、重複する時間が解消。重複時間帯での視聴率争いは再び休戦となった。しかしこの時期の『こどもショー』は頻繁に出演者を変更、1973年11月にはお姉さん役を海老名美どり、マスコットをニャンダ(声 - 海野かつを)にしたものの、その海老名が体操のお兄さん役の峰竜太と結婚したことで降板となり、1975年からはお姉さん役を関谷ますみに変更した(ニャンダは継続)。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "1975年10月、フジテレビは同じく子供向け番組である『ひらけ!ポンキッキ』(以下『ポンキッキ』)の放送時間帯が昼から朝に移動し、『ピンポンパン』の次の番組として8:15 - 8:45の枠で放送するようになり、その影響を受けて『ピンポンパン』は、平日に限り、7:45 - 8:15に放送時間を移動した(土曜日版も8:00 - 8:30に放送時間を縮小)が、開始から3年を経過していても「ピンポンパン体操」が依然として人気であり、また同年4月より子役男性グループのビッグ・マンモスをレギュラー陣に加え、お姉さん役も酒井ゆきえを起用するなど、著しい勢いで人気上昇していた『ピンポンパン』の視聴者が、『ポンキッキ』も引き続き視聴すると言う効果を生んだ。その『ポンキッキ』では、ガチャピンとムックの斬新なキャラクターや、番組内から生まれた楽曲「およげ!たいやきくん」がシングルレコード売上450万枚を超える空前の大ヒットとなり、話題となった。なお、『ポンキッキ』は土曜日の放送は行わなかった。対して、『こどもショー』の放送時間は、この時点では従来通り7:00 - 7:45のままであったので、2番組と重複する時間帯は引き続きなかったままであったが、その『こどもショー』は同時期に内容を大幅に変更した。平日は2部に分け、2部は今までの「こどもショー」としたが、1部は「トンカチうたじまん」の後継である「こどものどじまん」の曜日別戦、そして土曜は「こどものどじまん」のチャンピオン大会、日曜は観客である子供から参加者を募って歌わせる「こどものどじまん とびいりのどじまん大会」に変更、これに伴い「のどじまん」の司会は大村崑・石川アナから横山やすし・西川きよし(後に青空球児・好児)、審査委員長は谷啓(後にハナ肇)にそれぞれ変更した。また1年後の1976年9月には日曜版を変更、番組で結成した少年野球チーム「おはよう!こどもショー モーニングス」が全国各地の少年野球チームとの試合を中継する「スポーツ・スペシャル 小学生野球大会」(実況 - 志生野温夫、解説 - 須藤豊)となった。また、『ピンポンパン』のビッグ・マンモスに対抗して、『こどもショー』では男性アイドルグループのJOHNNYS' ジュニア・スペシャルを起用するようになって巻き返しを図った。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "その後、1977年4月に『ピンポンパン』が7:30 - 8:00に放送時間を10分縮小するも15分繰り上げ、『ポンキッキ』も8:00 - 8:30に連動する形で移動したが、同時に『こどもショー』も平日・土曜日版を7:45 - 8:25に移動した(日曜日版は7:00 - 7:45で不変)ことで、日本テレビの『こどもショー』の放送時間帯が、フジテレビの2番組のそれと全時間帯で重複することとなり、ここに『ピンポンパン』&『ポンキッキ』VS『こどもショー』の視聴率争いがまたも始まることとなり、しかもその視聴率争いはこれまでよりも大きいものとなった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "『ポンキッキ』の時間移動効果もあり、フジテレビの2番組に視聴者が移行したことで急速に視聴率が激減した『こどもショー』側では、フジテレビに対抗する形で、1975年より1977年にかけてコーナーのリニューアル短期間のうちに幾度か実施し、古くなったコーナーを廃止したりする反面、新たに番組のオリジナルソングを制定した上で、その楽曲を歌うコーナーなどを新設したり、ピンク・レディーの小学生版との触れ込みで、当時双子の女子小学生歌手であり、後にチャイドルと言われるようになる低年齢アイドルの先駆けとなったリトル・ピンクを同年6月27日放送分よりレギュラーで起用するなどのテコ入れを図ったものの、ガチャピンとムックの人気キャラクターや人気楽曲を徐々に輩出するようになる『ポンキッキ』と、人気を引き続き維持していた『ピンポンパン』の前には、もはやチャイドルの起用だけでは視聴率向上の方策としては旨味に欠ける状況となり、『こどもショー』は次第に歯が立たなくなるようになった。またこの時期になると、『こどもショー』の出演者も、ディスクジョッキーで人気が出たつボイノリオや、男性アイドル歌手の太川陽介が出るようになり、お姉さん役も同年10月より関谷に代わってデビュー間もない女性アイドル歌手の大場久美子へと交代し、「けでんと17号」のコーナーの主役として出演するようになったが、人気アイドル歌手へのお姉さん役の交代も功を奏さず、また短期間で何度もテコ入れを繰り返して迷走状態になったこともあり、視聴率の低下に拍車が掛かった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "『こどもショー』に追い打ちをかけるように、『ピンポンパン』は「にっこり町」を舞台にしたコメディのコーナーをメインに据えるようになり、『ポンキッキ』も徐々にではあるが、歌以外のミニコーナーも充実させるようになった。この当時の『ポンキッキ』は『ピンポンパン』より視聴者が少なかったとはいえ、5%台の視聴率で推移した。それどころか『こどもショー』は、1978年4月より放送時間をフジテレビの2番組と全く同じ7:30 - 8:30となり、完全に競合してしまう。一方の『ピンポンパン』は同じく1978年4月より土曜日版の放送時間を平日と同じ7:30 - 8:00とし、さらなる攻勢を掛けてきたことで、平日版を含めて、この時間帯の『こどもショー』の視聴率をフジテレビの2番組はおろか、他のキー局の番組のそれにすら届かずに、キー局最下位にまで転落してしまう事態となった。",
"title": "視聴率争い"
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{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "この時、人気が著しく落ちたものの、一部の親子での視聴者からはまだ支持されていた『こどもショー』に対して、再リニューアルも多数要望されていたが、上記の視聴率最下位にまで没落したことや、他のジャンルの番組との編成バランスの関連や、当時の日本テレビでは『こどもショー』以外の子供向け番組の縮小を実行に移していた事情などもあり、再リニューアルを見送り、終了することとした。平成以降であれば子供番組を夕方への放送時間枠の移動が検討されることもあるが、当時においては夕方の時間帯は『ピンポンパン』の再放送を例外とすれば、あったとしても子供向けの番組はアニメ及び特撮以外はあまり存在していなかったことや、当時の夕方の枠では1時間番組が編成しにくかったこともあり、見送られた。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "『こどもショー』は、フジテレビの2番組に敗れる形で、まず1979年3月2日に平日版を終了。最終日は14年間の総集編を放送した。次番組は子供向け番組から一転して大人向けの情報番組『ズームイン!!朝!』(以下『ズームイン』)となった。同年の翌3月3日には、土曜日版は日曜日版と同じ7:00 - 7:45に移動したものの、コーナーは「おはよう!のどじまん」程度しか設けられず、日曜日版も「小学生野球大会」を放送する程度までに整理されたことで、これらの版でも著しく視聴率が落ち、遂に1980年、『こどもショー』は番組を終了した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "平日版終了後も、日曜版のみ『おはよう!サンデー』が『こどもショー』の後継番組となったが、これもコーナー縮小の後、1987年に終了する。それと入れ替わるように、夕方に『とんでけグッチョンパ』を放送していたが、これも大きな人気を得るまでには至らず1988年9月で終了して、日本テレビは子供向け番組より一時撤退した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1988年10月以降は放送枠(月曜17:00)の後継番組『それいけ!アンパンマン』(以下『アンパンマン』)がアニメとして、途中何度も放送曜日や時間を変更しながら、撤退した子供向け番組枠を実質的に継承することになる。その後、2002年7月から、毎週金曜夕方に人気女性アイドルグループのモーニング娘。や、その妹分にあたるハロー!プロジェクト所属の女性アイドルを起用した『ティンティンTOWN!』を開始して子供向け番組に再参入し、2004年3月まで放送された。なお、『ティンティンTOWN!』の放送時間は『アンパンマン』の直前枠であり、連結放送されていた。同番組の終了を以って地上波から子供向けバラエティ番組から完全に撤退し、2023年時点に至るまで完全に放送を始めていない。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "これらの他、1973年4月にはNETテレビ→テレビ朝日でも、日本テレビ系列からテレビ朝日系列に移動して間もない名古屋放送(現:名古屋テレビ)が制作した『ブンブンバンバン』を放送、珍しく地方局制作の子供番組で『こどもショー』・『ピンポンパン』と三つ巴の戦いになるも壁は厚く、2年で終了。また『ブンブンバンバン』と同時期に『あそびましょパンポロリン』を日曜日のみの放送にしたが、NETが1974年4月より教育専門局から一般局に変更されるのに先駆け、1973年10月より平日10時台に変更、その後は『とべとべパンポロリン』に改題したり、枠を10時台や16時台などに変えていたが、1975年10月より8:01 - 8:30に変更、『こどもショー』や『ピンポンパン』・『ポンキッキ』と2度目の三つ巴となったが、わずか半年で『とびだせ!パンポロリン』に改題して10時台や16時台で放送、その後1978年4月より2年振りに8:00 - 8:30に戻り、お姉さん役も『あそびましょ』時代からの山田美也子から竹田芳子に交代して、三度三つ巴(今度は『ピンポンパン』は関わらず)となるも、壁の厚さとお姉さんの交代がうまくいかず、またも半年で16時台に移動、同時にお姉さん役もアニソン歌手・かおりくみこに変更、1980年まで続いた。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 106,
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"text": "1977年4月から2年間の直接対決では団塊ジュニア(1971年 - 1974年生)世代が幼児であり、『こどもショー』より対象年齢の低いフジテレビの勝利となったが、『ピンポンパン』『ポンキッキ』の天下は短く、団塊ジュニア世代が小学校に進学すると視聴率が下降し始める。1979年4月に開始された『おはようスタジオ』(東京12チャンネル→テレビ東京)が当初は大人向けのワイドショーとして始めたが、児童世代における視聴独占率の高さから事実上の子供向けワイドショー(当時としては珍しめの児童向け子供番組)へと転向を計り、ターゲットの関係で番組キャラクターを置かず、番組スポンサー(日本船舶振興会)の流れから同会会長の笹川良一や、ハドソン所属の社員である高橋名人など、児童層の有名人を常連ゲストとして据えたことで『ピンポンパン』『ポンキッキ』と『ズームイン』の間の世代(小中学生)を取り込んで健闘する。『ピンポンパン』は1980年3月に土曜版を終了、1981年末には同番組の人気キャラクターであったカータン(声 - 大竹宏)を卒業させ、翌1982年1月から、バビちゃん(声 - あきやまるな)に交代させるも、人気を得るまでには至らず、同年3月『ピンポンパン』は15年半の歴史に幕を閉じ、1982年4月から1988年3月までの7:30 - 8:00はアニメの再放送枠となる。一方の『ポンキッキ』は幼児向けの番組制作費やスポンサーを集約させることで少子化を乗り切る長寿番組となり、1993年10月『ポンキッキーズ』にリニューアルした。『ポンキッキーズ』は放送時間やタイトルの変更の繰り返しや、1999年10月より、月〜金の帯番組から毎週土曜日の週一放送に縮小はあったものの、地上波放送は2007年3月まで続いた。1992年10月には、CGを多用した異色の子供番組『ウゴウゴルーガ』を開始。絵本を原作とした有名コンテンツである「ノンタン」シリーズの初アニメ化作品である『ノンタンといっしょ』をコーナーアニメとしての展開を売りにし、『ピンポンパン』終了以来10年半振りに子供番組2体制に戻るも、僅か1年半でこの番組自体が終了した。",
"title": "視聴率争い"
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"text": "関西広域圏の放送局が製作する番組同士の争いでその競争期間もごく短期ではあったものの、いずれも全国ネット番組でクイズ番組間での視聴率対決として視聴率争いを繰り広げていた。",
"title": "視聴率争い"
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"text": "1963年10月より毎日放送の制作によって日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)系列で全国ネットによる放送を開始した『アップダウンクイズ』(以下『アップダウン』)は、放送時間を19時から19時30分までの30分番組ながらも、約22年に及ぶ長寿番組となり、10問正解してハワイ旅行が獲得できるクイズとして人気を博し、スタート当初は初代出題者、翌1964年4月より二代目司会者となる小池清と1972年11月より3代目出題者に就任した佐々木美絵とのコンビも番組名物となった。",
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"paragraph_id": 109,
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"text": "この間1960年代はTBSの『タケダアワー』、1970年代前半はフジテレビのアニメ枠(1971 - 1972年の『ミラーマン』のみ特撮)と鎬あいを続け、特に前者での『柔道一直線』と後者での『アタックNo.1』がそれぞれ放送されていた1969年頃には、その影響で『アップダウン』は視聴率を落としたが、どちらも同じ「スポーツを題材にした漫画原作を映像化したドラマ・アニメ作品(通称・スポ根もの)」でありながら、視聴者層がそれぞれの番組で異なっていたのと、両番組の開始を機に、それまでこの時間帯にテレビを見ていなかった年齢層が両番組を中心に見るようになり、それによって全体のテレビ視聴者数が多くなったことで、両番組放送開始の影響による視聴率の低下はごくわずかで済んた。視聴者層は『柔道一直線』では主に小学生 ~ 高校生の男子、『アタックNo.1』では同じく小学生 ~ 高校生の女子、『アップダウン』は主に大学生以上の男女が視聴者の中心層であった。なお、『柔道一直線』は1971年4月に、『アタックNo.1』は同年11月にそれぞれ終了してからは、その視聴者層の一部が『アップダウン』に移行し、結果として視聴率が上昇したのみならず、同番組の視聴者層が幅広くなった。",
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"paragraph_id": 110,
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"text": "その後、『アップダウン』が1975年3月31日の腸捻転解消でNETよりTBSへ移動後は、日本テレビの『びっくり日本新記録』(読売テレビ制作。途中2度にわたる中断あり)や、東京12チャンネル→テレビ東京の若者向け歌謡バラエティ番組『ヤンヤン歌うスタジオ』まで加わり、『アップダウン』を失ったNETは一気に人気低下、NETがテレビ朝日に社名変更した1977年4月に、土曜19:00から朝日放送(現:朝日放送テレビ)制作・日本メナード化粧品一社提供のクイズ番組『三枝の結婚ゲーム』が移動、以後メナード提供のクイズ番組を継続したが、『アップダウン』には歯が立たず、1981年5月開始の『ヒラメキ大作戦』継続中にメナードが降板、そして終了後の同年10月からは金曜19:30から児童向けドラマ『それゆけ!レッドビッキーズ』(以下『レッドビッキーズ』)が移動(同時に制作もテレビ朝日から朝日放送に移動)、クイズ路線が中断した。",
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"paragraph_id": 111,
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"text": "『レッドビッキーズ』終了後の翌1982年4月より放送開始の『三角ゲーム・ピタゴラス』からクイズ路線を復活、そしてその翌1983年3月に、朝日放送(現ABCテレビ)がこれまで関西ローカルの番組で日曜日午前11時台に放送していた『世界一周双六ゲーム』(以下『双六ゲーム』)を『アップダウン』と全く同じ放送時間帯に移動させて全国ネット化したことで同番組の裏番組となり、ここにMBS対ABCのクイズ番組間での本格対決が始まった。",
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"text": "純粋に出題者がクイズの問題を出してそれに解答者が答えるという、当時は一般的なクイズ番組のシステムであった『アップダウン』に対して、『双六ゲーム』はクイズに正解すれば双六にチャレンジする権利が与えられる、ゲーム性を混在させた番組構成が視聴者に大受けし、『アップダウン』は急速に視聴者を『双六ゲーム』に奪われる形で視聴率が激減した。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "このため同年10月に『アップダウン』は大幅な内容のリニューアルを実施することを決め、司会を小池から俳優の西郷輝彦に交代し、「この人クイズ」などの廃止とそれに代わる「リポータークイズ」「シンクロクイズ」を新設しクイズのルールも一部変更。番組セットも全面的に更新した。ところがこのテコ入れは失敗に終わり、クイズのルールも1984年4月に一部を除き元に戻すなどの迷走状態になった。その一方で『双六ゲーム』は前述のゲーム性の要素のある番組構成だけでなく、司会の乾浩明による進行も話題となったことで、一気に視聴率を上げた。『アップダウン』とは対照的に、『双六ゲーム』では番組の内容をあまり変えなかった(全国ネット化時にオーロラコースの追加と他の解答者とコマが重複した場合に6つ下げるルールを逆に6つ進ませるルールに変更した程度)。",
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},
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"paragraph_id": 114,
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"text": "1984年に入っても『アップダウン』は視聴率の低下に歯止めがかからず、1985年には特別番組やスポーツ中継で休止になることも多くなった。そして毎日放送は同年秋に『アップダウン』の終了を決断した。",
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"paragraph_id": 115,
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"text": "しかし『アップダウン』との視聴率争いに勝利を収めた『双六ゲーム』も、1985年秋以降も引き続き高い視聴率を維持していたものの、今度は1985年3月に始まったフジテレビのアニメ『タッチ』に視聴者が徐々に流出するようになり、翌1986年春に終了した。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "毎日放送では『アップダウン』の終了後は、同じクイズ番組である『クイズ!!ひらめきパスワード』を開始させたが、この番組が芸能人出演型にリニューアルされた翌1986年4月6日以降は、芸能人と司会の野村啓司とのトークのやり取りが好評を得たことと、『双六ゲーム』が終了したこともあり、視聴率が急速に上昇し、以後番組が終了する1992年3月までの間、裏番組の『タッチ』(同番組は1987年3月に終了)と互角の高視聴率を維持する番組となった(野村は1990年限りで司会者を勇退。翌1991年より後任は俳優で野村の高校の先輩でもある山城新伍が務めた)。",
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"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半から80年代前半にかけて、木曜21時はTBSの『ザ・ベストテン』(以下『ベストテン』)が一強状態であったが、1988年頃になると、『ベストテン』の人気にも陰りが出始め視聴率が1桁の回もあった。フジテレビは10月、人気を誇ったとんねるずの初ゴールデン冠番組として『とんねるずのみなさんのおかげです』(→『ラスタとんねるず'94』→『とんねるずの本汁でしょう!!』→『とんねるずのみなさんのおかげでした』)を開始。レギュラー初回は14.9%だったものの、翌1989年の年間平均視聴では24.4%を記録し、一気に『ベストテン』を破り、この年の10月には放送終了に追い込んだ。",
"title": "視聴率争い"
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"text": "『おかげです』はその年から1994年まで6年連続で年間バラエティ番組平均視聴率ランキング第1位を獲得することになった。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "TBSはベストテン終了後の1989年10月、この時間帯を13年ぶりに連続ドラマ枠として、『愛し方がわからない』を皮切りに翌年10月からスタートした『渡る世間は鬼ばかり』に代表されるホームドラマや、石ノ森章太郎の人気漫画を実写ドラマ化した『HOTEL』、後述の『3年B組金八先生』をレギュラー放送では7年ぶりに復活。それらの作品を人気ドラマとして定着させた。テレビ朝日も『木曜ドラマ』を維持。テレビ東京の『木曜洋画劇場』(以下『木曜洋画』)もコアな視聴層を固めた。2000年代以降はテレビ朝日が『交渉人』、『ドクタ-X』、『リーガルV』など米倉涼子主演作のヒットに恵まれ、また日本テレビは1995年10月からスタートした『輝け!噂のテンベストSHOW』を皮切りに『どっちの料理ショー』、『ニッポン旅×旅ショー』、『秘密のケンミンSHOW』といった読売テレビ制作バラエティー番組も支持を得て、再びこの時間帯の視聴率争いが激化。テレビ東京は40年以上続いた『木曜洋画』を2009年4月改編で打ち切り、TBSは2015年10月改編で長年続いた連続ドラマ枠(『木曜ドラマ9』→『木曜ドラマ劇場』)を廃止し、『ニンゲン観察バラエティ モニタリング』を19時56分(後に20時開始に変更・短縮)開始の2時間番組に拡大。そしてフジテレビでは2018年(平成30年)4月改編で『おかげでした』が終了、その後番組に坂上忍の冠情報バラエティ『直撃!シンソウ坂上』を開始したが2年半で終了し、2020年10月からは千鳥の冠お笑いバラエティ番組である『千鳥のクセがスゴいネタGP』を開始して、2023年4月からは当番組は日曜19時に移行しタイトルも『千鳥のクセスゴ!』に改題。代わりに『私のバカせまい史』を開始し、視聴率争いはさらに激しいものとなっている。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "1985年、テレビ朝日は社運をかけてそれまで23時台に放送されていた深夜ニュース番組を1時間繰り上げ、22時からにすることを決定、番組名を『ニュースステーション』(以下Nステ)とした。司会にはTBSの人気音楽番組『ザ・ベストテン』で司会を務めていた久米宏に白羽の矢を立てた。久米はキャスター就任を了承したが、秘密裏に進められた計画であった為、共演者の黒柳徹子へもこの事を伝えないまま、同年4月25日放送分を最後に『ザ・ベストテン』の司会を降板した。",
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"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "同年10月に『Nステ』の放送が始まると、中高生にわかりやすいニュースをコンセプトにした内容が功を奏し、高視聴率を獲得したが、TBSの首脳陣は一連の久米の行動に激怒。諏訪博会長の号令により「報道のTBS」の面子と社運を懸けて、打倒『Nステ』を目指し22時台のニュース帯番組を製作し、『Nステ』にぶつける計画を立てた。しかし、計画はキャスター選びから難航した。当初、白羽の矢を立てたのは、『ザ・ベストテン』時代の久米の共演者の黒柳徹子だったが、黒柳が拒否すると朝日新聞社員だった筑紫哲也にキャスター就任を要請した。ところが、テレビ朝日がTBSに猛反発、遂には朝日新聞とTBS両社のトップ会談が開かれる事態になった。その後、TBSは森本毅郎をキャスターに据えて1987年10月から『JNNニュース22プライムタイム』(以下プライムタイム)をスタートしたが、視聴率で『Nステ』に勝てなかったばかりか、森本に女性スキャンダルが発覚した為、1年で森本も降板して新たに小川邦雄がキャスターに迎え、番組タイトルを『JNNニュースデスク'88(→'89)』に変更するも、結局『プライムタイム』放送開始から2年後の1989年9月、22時台のニュース帯番組から撤退した。その後、TBSは筑紫をキャスターに据えた『NEWS23』を翌月から放送開始した。",
"title": "視聴率争い"
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{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "その後、2000年3月27日にNHK総合テレビが新たに平日22:00に『NHKニュース10』を設置、『Nステ』もこれに対抗して放送時間を21:54に繰り上げた。それでも『Nステ』の牙城は崩れないものの、2004年4月からはキャスターを古舘伊知郎に交代、タイトルも『報道ステーション』に変更した。結果『ニュース10』はTBSより放送期間は長かったものの、2006年3月31日で打ち切られて『NC9』以来の伝統枠だった21時台に『ニュースウオッチ9』として戻り、再びテレビ朝日の独壇場となる。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "それでもNHKはこの時間帯の報道情報系番組を放送しており、19時台後半の放送だった『クローズアップ現代+』を2016年(平成28年)4月改編で22時台に移動、『報ステ』に対抗するようになった。その後、2022年(令和4年)4月の改編で再び19時台後半に戻ることが同年2月に発表された。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "2021年、今度はテレビ東京が23時から放送している『ワールドビジネスサテライト』を同年3月29日から1時間繰り上げて、22時スタートすることを同年1月の改編会見で発表した。同局の石川一郎社長は『報ステ』と放送時間が重なることについて、「(『報ステ』を含む)22時台はザッピングも非常に多い。ネット、SNSを含めて生き残っていくためには今日の経済事案は何かをきちんと整理して明日以降の生活、経済活動に生かせる材料を伝えたい」と語っている。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "北海道地区の夕方ワイド番組における視聴率争いで、札幌テレビ放送(STV)が1991年10月に始めた『どさんこワイド120』を中心としたものである。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "1989年10月、北海道文化放送(UHB)が道内初の夕方ワイド番組となる『TVポテトジャーナル』をスタートさせた。視聴率は当初苦戦していたが、次第に2桁を取る週が出るようになる。STVは2年後の1991年に『どさんこワイド』をスタートさせる。『どさんこワイド』も『TVポテトジャーナル』同様、視聴率は当初は苦戦したものの、次第に視聴率が向上する。『どさんこワイド』の成功を受け、北海道放送(HBC)は1993年10月に『HBCゆうやけワイド・テレビ一番星』を16時から19時までの3時間、『テレポート6』を内包する形で開始するが、STVも『どさんこワイド』の放送時間を『テレビ一番星』と同じ16時から19時までの時間帯まで拡大させ、両番組が同じ時間帯で放送されることになり、結局「一番星」は1年で終了。その後もHBCは「4時からワイド一番星」→「いきいきテレビ特急便」→「気になるパンプキン」→「情報ワイドビタミンH」・「夕刊5時ダス」→「ビタミンTV」と放送するがいずれも「どさんこ」の前に敗退。短期間で終了に追い込まれた。",
"title": "視聴率争い"
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{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "その後夕方ワイド番組はHBC・STV・UHBの巴戦が続いていたが、UHBは1993年10月に『TVポテトジャーナル』から番組名を変更した『ポテト』を1994年9月に終了させ、ドラマの再放送枠に戻る。その後北海道テレビ放送(HTB)が1999年4月に『情報ワイド 夕方Don!Don!』を17・18時台でスタートさせ夕方ワイド番組の視聴率争いに参入した。さらには2002年にはNHK北海道が『ほくほくテレビ』を、2003年にはTVhも『おばんでスタ!』をそれぞれスタートさせ、夕方ワイド番組争いに参入するがどちらも撤退した。2003年4月にHTBは『イチオシ!(現・イチオシ!!)』にリニューアルし、2005年4月からは16時台にも放送枠を拡大。スポーツ情報を取り入れるなど若年層に照準を絞って軌道に乗せた。2006年4月、HBCは16時台『ビタミンTV』および18時台の『テレポート2000』を合体させた新番組『Hana*テレビ』をスタート。その後、2010年には『グッチーの今日ドキッ!(現・今日ドキッ!)』をスタート。当初の視聴率は3%程度と低迷したが、大幅リニューアルを行い、大幅リニューアルを行うなどテコ入れして、STV・HTBととの三つ巴と言えるまでに数字を伸ばした。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "2011年4月、一時期夕方ワイド番組から撤退したUHBは夕方ワイド番組『U型テレビ』をスタートさせた。その後、2014年には午前の『さあ!トークだよ』を終了させ自社制作のローカルワイド帯番組を午後に集約。今までの『U型テレビ』をリニューアルさせ、『U型ライブEXPRESS』・『U型ライブ』・『Super NEWS U』を編成。14時から19時までの大半を自社制作のローカルワイド帯番組が占める事となった。しかし同年10月『U型ライブEXPRESS』の打ち切りを発表、夕方の大型改編は大失敗に終わる。2015年、UHBはこれまで放送されてきた『U型ライブ』・『Super NEWS U』の枠を統合させた新番組『みんなのテレビ』がスタート。なおUHBにとっては、開局以来初めて3時間の自社制作大型情報ワイド番組を編成。2019年4月1日には『みんテレ』を正式タイトルに変更して実質新番組扱いとしてリニューアル。2020年4月改編にて、『みんテレ』を16時台から撤退し、約2時間に短縮した。HBCも2022年4月改編より、『今日ドキッ!』を16時台から撤退し、約2時間に短縮した。これに伴い、自主制作で16時台から18時台まで放送しているのは、STV『どさんこワイド』とHTB『イチオシ!!』のみとなった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "1970年代から1980年代にかけて金曜20時に放送された『太陽にほえろ!』(日本テレビ)と『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)、TBSのドラマ・バラエティ番組の視聴率争いを中心としたものである。『太陽にほえろ!』と『ワールドプロレスリング』の両番組は、ほぼ同時期にスタートし同時期に終了や枠移動を行っている。当時、日本プロレスの中継は日本テレビとNET(現テレビ朝日)の2局で放送を行っていたが、日本プロレスの意向により日本テレビはジャイアント馬場の試合を、NETはアントニオ猪木の試合を中心に放送していた。その後、日本プロレスから猪木が除名追放されたことを機に、NET首脳陣は馬場の試合中継を要求。日本プロレス幹部がこれに応じたため、日本テレビ側が激怒。1972年5月、放送していた『日本プロレス中継』を打ち切り、7月21日から金曜夜20時枠に刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の放送を開始した。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "一方のNETは、『太陽にほえろ!』の放送開始から1週間後の7月28日より、同じく金曜夜20時枠に『NET日本プロレスリング中継』のタイトルでプロレス番組を開始した(翌1973年4月より、その前年1月に猪木が設立した新日本プロレスの試合中継を放送するのを機に『ワールドプロレスリング』に再改題)。当初、日本テレビは『太陽にほえろ!』の放送を1クールで終了させ、10月から馬場が設立した全日本プロレスの中継番組を『ワールドプロレスリング』に直接ぶつける計画があった。しかし、『太陽にほえろ!』が高視聴率を記録したため、『全日本プロレス中継』は「お化け番組」と呼ばれた『8時だョ!全員集合』にぶつける事となった(詳細は前述の「#土曜夜戦争」を参照)。その後、『太陽にほえろ!』が、新人や無名の若手俳優を主演の新米刑事として出演させ、成長させるパターンで安定した視聴率を稼いだのに対し、『ワールドプロレスリング』が、猪木を中心とした「ストロングスタイル」をメインに、「過激なプロレス」(「ハイスパート・レスリング」とも呼ばれた)や、「異種格闘技戦」路線で高視聴率を挙げた。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "両番組のために低迷していたTBSは1979年秋から、学園ドラマの『3年B組金八先生』(以下『金八先生』)を放送。『金八先生』は放送開始するや瞬く間に巷の話題となって視聴率が毎回上がり続け、視聴率争いは三つ巴となる。『金八先生』は半年後の終了前には30パーセントを超える視聴率を毎回獲得して『太陽にほえろ!』と『ワールドプロレスリング』を完全に逆転した。特に『金八先生』第1シリーズの最終回は関東地区で39.9パーセントの視聴率を記録した。同日、『太陽にほえろ!』は400回スペシャルを放送したが視聴率は『金八先生』の半分以下18.8パーセントに終わる。『金八先生』第1シリーズ終了後もTBSは『金八先生』と舞台設定を同じにした学園ドラマ(通称・『桜中学シリーズ』)をこの時間帯に敷いてリードを保った。しかしその間にも『太陽にほえろ!』は見所であった殉職降板や新刑事登場を連発して巻き返しを図り、『ワールドプロレスリング』側も1981年4月、同時期にテレビ朝日系列で放送がスタートしたテレビアニメ『タイガーマスク二世』とのタイアップ企画によって誕生したタイガーマスク(初代)の登場、そしてデビュー。ライバル団体全日本プロレスとの外国人レスラーの引き抜き合戦、同年8月に崩壊した国際プロレスの残党(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)によって結成された「国際軍団」や、長州力率いる「維新軍団」を登場させ、猪木率いる本隊にあたる「新日正規軍」を加えた三つ巴の軍団抗争や、正規軍・藤波辰巳と維新軍団・長州との「名勝負数え歌」が人気を呼んだ。特に、後に維新軍団に加わる小林邦昭がタイガーマスクのマスクを剥ぎにかかるシーンが放送されると、タイガーの正体の見たさに視聴率が上昇した。その反抗の影響と、『桜中学シリーズ』自体もシリーズを重ねて飽きられ始めると、再び三つ巴の様相となっていったものの、『桜中学シリーズ』は徐々に視聴率を落とし、ついに1983年3月、『3年B組貫八先生』を最後に金曜20時枠での放送を終了した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "『桜中学シリーズ』終了後、しばらくの間は児童や若者向けのドラマを中心に放送していたTBSは、1986年5月に絶大な人気を誇っていたビートたけしをメインに据えた、視聴者参加型バラエティ番組『風雲!たけし城』(以下『たけし城』)をスタートさせると、視聴率が逆転し金曜20時の視聴率の覇権を収めた。対する日本テレビは主演の石原裕次郎の体調不良もあって、『太陽にほえろ!』の終了を決断(石原未出演のPART2を含めると、番組は翌1987年2月で終了。石原は同年7月に死去)。テレビ朝日も1986年10月、『ワールドプロレスリング』を月曜20時へ移動させ、音楽番組『ミュージックステーション』(以下『Mステ』)の放送を開始した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "しかし、これら長寿番組だった両番組を打ち切り(『太陽にほえろ!』)や放送時間変更(『ワールドプロレスリング』)に追いやった『たけし城』だが、前述のフライデー襲撃事件により、看板だったビートたけしと襲撃に参加したたけし軍団が芸能活動謹慎となったことで、番組を降板して一時の勢いが衰えてしまう。彼らは事件から約半年後に番組に復帰したものの、勢いを取り戻すことはできず、1989年4月に『たけし城』はレギュラー放送を終了した。 一方、『Mステ』は放送開始当初は視聴率を取れなかったが、放送開始から約半年後の1987年4月、タモリが2代目の司会に就任後、一定の人気を得た。番組にはジャニーズ事務所所属の男性アイドルをはじめ、様々なゲストが登場。中でも番組放送開始から3カ月後、タモリが司会者に就任する前の1987年1月には、かつてのライバル番組(『太陽にほえろ!』)に出演していた石原裕次郎がハワイの別荘からビデオ出演。近況報告後、カバー曲の「BEYOND THE REEF」を披露し、番組にエールを送った(前述の通り石原は番組出演から約半年後の同年7月に死去したため、この番組が彼にとって生涯最後のテレビ出演となった)。また、1996年には同年4月から日本テレビ系で放送されていたバラエティ番組の『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(以下、『ウリナリ』)から誕生したユニット「ポケットビスケッツ」、「ブラックビスケッツ」の登場、そしてブレイクにより、視聴率面で苦戦する事もあったが、1999年6月の宇多田ヒカルテレビ初出演で視聴率を20%台に乗せた。1990年代半ばから2000年代初め頃の「金曜20時戦争」は、かつての前述1970年代の「『太陽にほえろ!』対『ワールドプロレスリング』」のように、日本テレビとテレビ朝日の2強時代が長らく続いていたが、最終的に『Mステ』は 「金曜20時戦争」に勝利を収め、2002年3月で『ウリナリ』を放送終了に追い込んだ。その後『Mステ』は、2019年10月改編で金曜21時に枠移動。後枠として水曜23時台に放送していた『マツコ&有吉 かりそめ天国』の放送時間を変更させた上でゴールデンタイムに進出した。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "一方、フジテレビは1979年秋に当時人気番組だった『ザ・ベストテン』に対抗して『ビッグベストテン』を開始させるが、視聴率が振るわず、わずか5ヶ月で打ち切られた。また後続番組『花の金曜ゴールデンスタジオ』→『ハナキンスタジオ』も、同様に打ち切られ単発番組枠へ移動した。1988年、『Mステ』や『たけし城』に対抗するため、明石家さんまを中心とした新番組の計画や『ひょうきん族』の放送枠移動の計画があったが、当時の昭和天皇の病状悪化による自粛ムードや、出演者側のスケジュールの問題などもあり中止になった。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 135,
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"text": "1960年代から1970年代後半にかけてTBSの『ベルトクイズQ&Q』、テレビ朝日の『アフタヌーンショー』の2大番組が争っていた。1970年代の昼の視聴率で苦戦していたフジテレビは1980年10月、漫才ブームに便乗し『笑ってる場合ですよ!』を放送。それから2年後、漫才ブーム終焉後の1982年10月、『森田一義アワー 笑っていいとも!』(以下『笑っていいとも!』)の放送を開始する。『笑っていいとも!』は瞬く間に人気を博し、2002年4月には司会者のタモリが「生放送バラエティ番組 単独司会者による生放送の長寿記録」を樹立し、翌2003年版のギネスブックに登録されるほどの人気番組となり、2014年3月、本放送の最終回とは別に特番としてゴールデンタイムに放送された『笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号』(事実上の最終回)では、タモリが「生放送バラエティ番組 単独司会者最多記録」、番組自体も「生放送バラエティ番組 放送回数最多記録」として、それぞれギネスに認定された。",
"title": "視聴率争い"
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"text": "1985年、8月に起きたやらせリンチ事件をきっかけに2ヶ月後に『アフタヌーンショー』が打ち切られると、他局の番組に太刀打ちできる番組はなく、正午の時間帯は『笑っていいとも!』の一人勝ち状態となったことから、視聴率争いは日本テレビ、TBS、テレビ朝日による2位争いに移行した。みのもんたは『午後は○○おもいッきりテレビ』(以下『おもいっきりテレビ』)の司会に就任した際の記者会見で、目標を『笑っていいとも!』ではなく、当時時間帯2位だったTBSの『新伍のお待ちどおさま』に設定するなど2位争いが過熱した。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 137,
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"text": "日本テレビでは、1987年10月に『おもいッきりテレビ』を放送。当初は『笑っていいとも!』をはじめ他局に苦戦したが、1989年に司会の山本コウタローが参議院選挙出馬のため降板。みのもんたに司会が変わると、それまでの内容を一新した事が功を奏し、中高年を中心に人気が出始めた。これで3局の2位争い一歩抜きん出て単独2位となったどころか、日によっては視聴率で『笑っていいとも!』を逆転することもあり、ここに「みのもんた症候群」という造語までできた『おもいっきりテレビ』と、若者を中心に安定した人気を保つ『笑っていいとも!』との2番組の戦いへと変わっていく。",
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"text": "一方、アフタヌーンショーの打ち切り以降、同時間帯で苦戦し2位争いから脱落していたテレビ朝日は、1996年4月に『ワイド!スクランブル』を放送。再びワイドショー路線に回帰すると同時に視聴率も上向きになった。2004年4月1日保坂尚希の離婚会見を独占生中継した際は『笑っていいとも!』、『おもいっきりテレビ』を抑え、第2部(当時は12時 - 13時5分)で視聴率1位を獲得するなど放送内容によっては『笑っていいとも!』や、『おもいっきりテレビ』を上回ることもあった。",
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"text": "TBSの1980年代は、『ベルトクイズQ&Q』と、そのモデルチェンジ版である『スーパーダイスQ』や、かつて月曜19時台後半枠の人気番組であり、放送時間変更後は日曜日のローカル枠で放送されていた『ハイ&ロー』シリーズの放送時間を40分に拡大し、帯番組としたリニューアル版である『貴女も社長ハイ&ロー』(1985年4月に『社長かヒラか!ハイ&ロー』に改題)の相次ぐ終了以降、昼の番組に苦戦することになった。特に1990年代は『新伍のお待ちどおさま』が終了すると、テレビ朝日同様に短命で終了する番組が続出、TBSの正午は死に枠とさえ言われた。2000年開始の『ベストタイム』の放送以降苦戦を続けていたが、2012年『ひるおび!・午後』にて年間視聴率が同時間帯横並びトップを獲得した。",
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"text": "その後、日本テレビの『おもいッきりシリーズ』(おもいッきりテレビ・『おもいッきりイイ!!テレビ』・『おもいッきりDON!・第2部』)は2010年3月まで続き、その後『DON!』を経て、2011年3月からは『ヒルナンデス!』を放送。2014年3月、フジテレビは人気番組『笑っていいとも!』を終了させ、4月より『バイキング』(2020年9月28日より『バイキングMORE』に改題)を放送。テレビ朝日も同年4月より長寿番組『徹子の部屋』の放送枠を移動し、2020年春改編にて13時に放送枠を再度移動した。そして、2022年4月に『バイキングMORE』は、2015年4月より総合MCを務めている坂上忍が、彼のライフワークである「動物保護活動に注力する」という理由で番組卒業を申し出、それと同時に番組自体も終了。後継番組は佐野瑞樹、山崎夕貴両アナウンサーを進行MCに起用し、明るい芸能ニュースに特化したワイドショー番組『ポップUP!』を開始した。しかし、「ポップUP!」は裏番組の「ワイドスクランブル」、「ひるおび」、「ヒルナンデス」に押されて番組開始から8か月後の2022年内で終了し、2023年年明けから「ぽかぽか」を放送開始。",
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"text": "これにより、平日正午の視聴率争いは再び混沌としている。",
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"text": "MBS制作の『プレバト!!』(TBS系列)が放送されている木曜19時台では、主婦層が『得する人損する人』(日本テレビ)、若年層が『VS嵐』(フジテレビ)を視聴する傾向が2016年頃まで定着。放送開始から10年以上経過していた『いきなり!黄金伝説』(テレビ朝日)と、2012年10月から放送を開始した『プレバト』(タイトルは当時の表記)の視聴率は、制作陣の想定を大きく下回っていた。",
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"text": "『プレバト』では以上の状況を踏まえて、「漢字書き順トーナメント」を皮切りに、「年代やキャリアを問わず、芸能人の才能を『査定員』(専門家)がランキング方式で査定する」というカルチャースクール風の企画を開始。TBSとの共同制作による特別番組として始まった経緯から、レギュラー化以降もTBSの女性アナウンサーが務めていたアシスタントも、2015年4月以降は自社(MBS)の女性アナウンサーによる「(本社のある大阪から収録スタジオのある東京への)日帰り出張」で賄うようになった。このようなリニューアルが功を奏して、中年層を中心に視聴率が徐々に上昇した。MBSの放送対象地域である関西地区ではその傾向が顕著で、2015年頃から週間視聴率ランキングに登場。2018年頃からは、(一部の期間を除いて)放送週に常時15%以上を記録するようになった。TBSの放送対象地域である関東地区でも、2017年頃から視聴率が2桁に乗り始めたばかりか、『VS嵐』と互角の勝負を展開している。",
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"text": "このように視聴率競争の構図が一変したことを受けて、テレビ朝日では、15年間にわたって放送してきた『黄金伝説』を2018年の10月から『くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館』に変更。日本テレビでも『得する人損する人』を2018年9月で終了させた後に、翌10月から『THE突破ファイル』の放送を開始した。『THE突破ファイル』では、MCに内村光良とサンドウィッチマン、出演者に「お笑い第七世代」(ハナコやEXITなど)を起用するなど、若い世代からの好感度が高いキャストで『プレバト』に対抗。「再現VTRに力を入れる」「クイズ仕立てで映像を流す」といった演出と相まって、『プレバト!!』と『VS嵐』の視聴者層の間の世代(ファミリー層)から一定の支持を得ている。一方の『ハナタカ!優越館』では、関東地区での視聴率が2桁に乗る週があるものの、同時間帯における民放4位に甘んじることが多かった。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 145,
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"text": "関西地区における『プレバト』一強状態は、2020年以降も継続している。同年4月9日放送分の「春の3時間スペシャル」で過去最高の19.7%を記録したほか、2021年3月25日放送分「春の3時間スペシャル」では、視聴率18.1%で当該週における週間視聴率ランキングのトップに立った。その一方で、テレビ朝日では2021年の10月改編を前に、『ハナタカ!優越館』を9月16日放送分で終了。翌週(9月23日)から『ウラ撮れちゃいました』をレギュラーで編成している。",
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"paragraph_id": 146,
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"text": "1965年1月、NHK大河ドラマ『太閤記』に始まる、日本最長の視聴率争いである。当初は壮絶なドラマ戦争であり、1965年4月までは6局同時にドラマ(東京12チャンネルは『87分署シリーズ』)を放送していた。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 147,
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"text": "日曜20時枠の特徴として、空白期間や局の垣根を越えて同じ芸能人が何度も起用される事例がある。渥美清、萩本欽一、堺正章、久米宏、ビートたけし、島田紳助、ダウンタウン(浜田雅功)、今田耕司、古舘伊知郎、所ジョージ、竹中直人、内村光良、ロンドンブーツ1号2号(田村淳)、有田哲平、石橋貴明、バナナマンと多数の例がある。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "50年以上にわたる日曜20時枠の民放局別戦績は日本テレビの圧勝であり、『東宝青春学園シリーズ』から安定した視聴率を維持している。日本テレビの長期低迷は『西遊記II』終了から『久米宏のTVスクランブル』開始までと『特命リサーチ200X』終了から『世界の果てまでイッテQ!』開始までの2回とされる。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 149,
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"text": "東京12チャンネル→テレビ東京の日曜20時枠は『日曜テレビ寄席』(1967年10月 - 1969年9月)『日曜ワイド笑』(1969年10月 - 1972年9月)の演芸番組を放送した後、1972年10月から『日曜特別ロードショー』『日曜ビッグスペシャル』『日曜ビッグバラエティ』と50年間にわたり特別番組枠が続き、『家、ついて行ってイイですか?』の枠移動で2022年10月から1時間枠のレギュラー番組が復活した。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 150,
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"text": "1972年10月開始のフジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』がドラマとの差別化に成功して長寿番組になるとバラエティ番組戦争に発展。日本テレビ『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』、フジテレビ『ダウンタウンのごっつええ感じ』、日本テレビ『特命リサーチ200X』、TBSテレビ『どうぶつ奇想天外!』、日本テレビ『世界の果てまでイッテQ!』、テレビ朝日(ABCテレビ)『ポツンと一軒家』と勝者が推移する。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "2021年、日本テレビ『世界の果てまでイッテQ!』(2007年2月開始)がフジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年10月 - 1986年9月)の放送期間14年を超え、日曜20時枠の最長寿番組となった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 152,
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"text": "日本テレビが1998年に深夜より昇格させた『ザ!鉄腕!DASH!!』と、2007年に放送開始した『世界の果てまでイッテQ!』は、それぞれが10年以上にわたって15%超え、回によっては20%に迫る視聴率を獲得する人気番組となった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 153,
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"text": "2000年代の他局は19時台に『さんまのSUPERからくりTV』(TBSテレビ)や『熱血!平成教育学院』(フジテレビ)、20時台に『どうぶつ奇想天外!』(TBSテレビ)や『ジャンクSPORTS』(フジテレビ)、『大改造!!劇的ビフォーアフター』(テレビ朝日)などが放送されていたが、2010年代に入るとこれらの番組が視聴率低迷や不祥事などを理由に軒並み終了し、19時台には『シルシルミシルさんデー』や『日本人の3割しか知らないこと くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館』(共にテレビ朝日)、『この差って何ですか?』(TBSテレビ)、『ほこ×たて』(フジテレビ)、20時台には『クイズ☆タレント名鑑』や『駆け込みドクター!運命を変える健康診断』(共にTBSテレビ)、『爆笑 大日本アカン警察』(フジテレビ)などが放送されたが、どれも『DASH』『イッテQ』『行列』の牙城を崩すには至らなかった。",
"title": "視聴率争い"
},
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"text": "2016年に入るとこの時間帯の争いが激化。テレビ朝日が19時台に『日曜もアメトーーク!』をスタートさせたり、フジテレビがフリーアナウンサーの古舘伊知郎をメイン司会に据えた2時間番組の『フルタチさん』をスタート。さらにTBSも19時台に『タレント名鑑』の復活版『クイズ☆スター名鑑』、20時台に『ピラミッド・ダービー』を参入させたが、どれも思うほどの視聴率は獲得すらできず短期間で終了した。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 155,
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"text": "しかし、2018年に入ると『DASH』は出演者の不祥事で、『イッテQ』は番組そのものに不祥事が発覚し視聴率に陰りが見え始める。そんな中、同年冬にはフジテレビが19時台に『ジャンク』を復活し一定の成果を収めた。秋にはテレビ朝日で『ナニコレ珍百景』と『ポツンと一軒家』(ABCテレビ制作)がスタート。特に『ポツン』については、中高年をターゲットにした戦略からレギュラー前から15%近い視聴率を稼いでおり、2019年冬頃には互角の勝負をするようになった。さらに時に20%超えの視聴率を稼ぐほど好調であり、『イッテQ』やNHK大河ドラマを抑えて同時間帯トップを獲得する回数も増えている。しかし、2020年春から本格的に導入された「個人視聴率」や若年層(13歳から49歳)をターゲットとしている「コア視聴率」では、『ポツン』が高齢者層向けの番組であることが仇となり、性別や年齢層別の集計によっては最下位に近い週も発生するなど同番組が苦戦を強いられている。なお、TBSでは同時期に『消えた天才』を開始し、ある程度の成功を収めるが不適切な演出があったことが発覚したため、約1年後に打ち切られている。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 156,
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"text": "ドーハの悲劇で知られる『1994 FIFAワールドカップアジア地区最終予選 日本×イラク』がテレビ東京歴代最高視聴率の番組平均48.1%、瞬間最高58.4%を獲得。放送当日の1993年10月28日はテレビ東京開局以来初の「日別平均視聴率三冠王」(全日9.4%、ゴールデンタイム14.8%、プライムタイム22.8%)も獲得している。",
"title": "視聴率争い"
},
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"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "『1994 FIFAワールドカップアジア地区最終予選 日本×イラク』地区別番組平均視聴率",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 158,
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"text": "参考文献",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 159,
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"text": "1990年代後半のアメリカ合衆国では、米国を二分するプロレス団体のWWF(現・WWE)とWCW(解散し現存しない)が、月曜夜の同じ時間帯にプロレス中継(WWFの『MONDAY NIGHT RAW』、WCWの『MONDAY NITRO』)を放送しており、熾烈な視聴率争いが発生していた。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "この視聴率争いは凄まじく、ライバル団体の放送を見て何の前触れもなしに対戦カードを変更する、視聴率で押されそうになると現地スタッフがレスラーに乱入を指令するなど、常軌を逸した演出も日常茶飯事であった。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "当初はWCWが人気レスラーを起用しnWoブームを生むなど優勢であったが、WWFが選手や社長一家の抗争を前面に出すアティテュード路線に変更することで巻き返し、ついにはWCWを解散に追い込んだ。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "国政選挙が行われるたびに選挙特別番組においても激しい視聴率争いが繰り広げられている。公共放送であるNHKに対抗すべく、民放では番組の演出に趣向を凝らすようになり、特に1970年代のフジテレビでは、選挙特番を放送するために休止する『唄子・啓助のおもろい夫婦』や『パンチDEデート』(関西テレビ制作)の内容を流用、司会も京唄子・鳳啓助や桂三枝(現:六代目文枝)・西川きよしといった流用番組の司会者が務めた。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "1980年代に日本テレビで放送された『久米宏のTV選挙スクランブル』では落選した候補者には、「葬送行進曲」を流し、候補者の顔写真が落ちていくという演出を行った。1989年以降、民放各局では視聴率獲得のため、スポーツ中継と開票速報を同時に行う番組編成を行ったり、多くのタレントや芸能人がコメンテーターとして出演させたりした。また、NHKをはじめ各局が出口調査などを元に独自の事前分析で他局より1秒でも早く選挙区の当落を判明させて放送するようになった。一方で、当落の誤報を起こすようになり番組内で謝罪したケースも存在した。",
"title": "視聴率争い"
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"paragraph_id": 164,
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"text": "2010年、テレビ東京が池上彰を司会に据えた『池上彰の選挙スペシャル』をスタートさせたところ、わかりやすい解説や公明党の幹部や候補者に創価学会との関係について質問する姿勢、また当選した候補者や有名候補者への鋭い切り口が視聴者の好評を獲て、2010年以降4回連続で民放1位の視聴率を記録、2013年の特番では初の2桁視聴率も獲得している。",
"title": "視聴率争い"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "ビデオリサーチは番組価値を測る新たな指標として、「Twitter TV エコー」というサービスを開始した。Twitterにおける「インプレッションユーザー数」「インプレッション数」「1分あたりのツイート投稿数」「ツイート投稿ユーザー数」の4つを基本指標としている。インプレッション(ツイートの拡散)が多いのはバラエティ、ドラマなどで、少ないのはスポーツ番組、報道番組などで、高齢層より若年層で視聴率とツイートは高い相関関係、投稿よりもインプレッション(表示)において視聴率とツイートは高い相関関係にある。",
"title": "Twitter TV エコー"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "いずれも日本における視聴率に関するもの。",
"title": "関連書籍"
}
] |
視聴率(しちょうりつ)とは、ある特定のテレビ番組をその地区のテレビ受像機所有世帯のうち何パーセントが視聴したかを表す推定値であり、一つの指標である。 かつては「聴視率」という言い方もされていた。
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{{混同|視聴質}}
{{複数の問題
|出典の明記=2019年9月17日 (火) 06:05 (UTC)
|独自研究=2019年9月17日 (火) 06:05 (UTC)
}}
'''視聴率'''(しちょうりつ)とは、ある特定の[[テレビ番組]]をその地区の[[テレビ受像機]]所有[[世帯]]のうち何パーセントが視聴したかを表す推定値であり、一つの[[指標]]である。
かつては「聴視率」という言い方もされていた<ref>『[[週刊TVガイド]]』1969年9月5日号でこの名称を使用している。</ref>。
== 概説 ==
視聴率の測定は基本的に、[[モニター]]世帯に設置されるテレビに接続した専用の機器から得られるデータを基にしている。地域や調査内容によっては、[[日記]]式の[[アンケート]]による調査を行っているものもある。
視聴率には、'''世帯視聴率'''と'''個人視聴率'''がある。かつてテレビは高価な上[[ブラウン管]]の影響で大きかったため、一般的な家庭では通常1台のテレビしか所有していなかった。このため、その1台のテレビがどのチャンネルを受信しているかを調べるだけで十分だと考えられ、当時の「視聴率」は「世帯視聴率」を指していた。
その後テレビは安価になり、薄型化が進んだ。また、複数人がいる世帯では、複数の部屋に複数台のテレビ受像機を所有することが一般的になり、家族が各自で個別に番組を視聴するケースも増えた。その結果、1台のテレビだけを調査する方法では実際の視聴状況を正確に把握できないとの指摘や批判が生じるようになった。
2020年時点で、日本の各テレビ局が使用する社内指標については個人視聴率への移行が進められている<ref>{{Cite web|和書|title=今日から変わる「視聴率」 “世帯”から“個人”へ…テレビの価値提示狙う (1)|url=https://news.mynavi.jp/article/20200331-rating/|website=マイナビニュース|accessdate=2020-11-18|language=ja}}</ref>。
視聴率を調査する意義は、大きく分けて以下のようなものである。
* 各世代がどの程度視聴しているか推算する根拠となる。その結果、番組の媒体力や広告効果を示唆しうる、ひとつの指標として提示でき、広告料を設定したり、[[民放]]の場合番組の[[スポンサー]]に対してスポンサー料をある額に設定する根拠とできる
* 視聴率により、各番組への国民の関心の高さを探ることができる
* 視聴率の移り変わりから社会の動きを知る
;視聴率と占拠率の違い
「視聴率」とは、調査対象世帯全体に対する割合で測られる指標である。これは、その時点でテレビの電源が入っていた世帯に対する割合で測るものではない。例えば、100世帯がテレビ視聴率の計測対象である場合を想定する。このうち1世帯のみがテレビを視聴していた状態で、残りの99世帯がテレビを消していた場合、その1世帯が視聴していた番組の視聴率は1%となる。電源が入っている世帯の割合で計算する場合の指標は「番組視聴占拠率」と呼ばれる。
;録画機能の登場とその影響
1970年代から90年代にかけて[[VHS]]及び[[ビデオデッキ]]が登場・普及し、更に2000年代に[[ハードディスク]]に録画する装置である[[ハードディスク・レコーダー#映像録画用ハードディスク・レコーダー|ハードディスクレコーダー(HDDレコーダー)]]が登場し、2000年代や2010年代に普及した。これらのデバイスにより、録画して後で再生し視聴することが一般化した。特にハードディスクレコーダーは、指定した時間に録画した番組や、キーワードに基づいて自動録画された番組を、例えば週末など時間的余裕がある時にまとめて視聴することを一般化させた。この結果、番組の放送日時と視聴日時が異なることが標準的な現象となった。
このような視聴方法の広まりは、従来の「視聴」という概念を変え、「視聴率」をどのように定義すべきか、録画後の視聴を統計にどう反映させるか、といった新たな問題を引き起こした。日本では[[2014年]]7月、初めて「録画視聴率」という概念が登場した。ただし、録画を視聴する際、多くの視聴者が高速再生を利用し、数十秒ジャンプできる機能を用いて広告部分を飛ばす傾向にある。この結果、テレビ広告の視聴率は低下している。
;景気後退・人々のインターネット配信視聴へのシフトとテレビ番組視聴率の低下
2010年代になると[[景気後退]]の深刻化・[[インターネット]]経由の動画配信(Googleの[[YouTube]]など)やインターネット経由の番組配信([[Netflix]]、[[Amazon Prime Video]]など)が一般化した。これにより、地上波や衛星放送の「テレビ番組」の視聴率(視聴時間)も低下傾向にある<ref name="marketrunk">[https://www.profuture.co.jp/mk/column/17077 コロナ禍で「テレビ離れ」に変化?YouTubeやNetflixなど動画配信とテレビ視聴数の実態]</ref>。とくに若年層では、インターネットの動画やインターネット経由の番組配信により多くの時間を費やしている<ref name="marketrunk" />。
;YouTubeおよびTVerへの視聴率調査の拡大
2023年7月、ビデオリサーチはTVerやYouTubeなどの動画配信プラットフォームを視聴率測定の対象に含める取り組みを行うことを発表した。2024年4月から関東地区で試行された後、2025年10月から全国32地区で正式サービスが開始される予定<ref>{{Cite web|和書|title=視聴率調査、YouTubeやTVerにも拡大 ビデオリサーチが24年に試行|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2307/19/news184.html|website=ITmedia NEWS|accessdate=2023-11-12|language=ja}}</ref>。
== 種類・分類 ==
=== 世帯視聴率 ===
調査エリア内のテレビを所有する世帯のうち、テレビを付けている世帯の割合を表す。広く普及している視聴率の概念で、長らく指標として使用されてきた。2020年から視聴率の調査方法が大きく変化し、より精度の高い指標が登場したことで、2022年現在ではテレビ局とスポンサー間の取引指標としては使用されなくなってきている<ref>{{Cite web|和書|title=世帯視聴率と個人視聴率、スポンサーは番組ターゲット層のコア視聴率を重視 - 社会 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202108090000054.html |website=nikkansports.com |access-date=2022-11-15 |language=ja}}</ref>。
=== 個人視聴率 ===
世帯ではなく個人単位でテレビを視聴している割合を表す。個人視聴率の一種に"'''個人全体視聴率'''"があり、対象世帯に住む全体の人数のうち誰がどのくらい視聴したかの割合を表す。性別、年齢、職業などの特性で区分して集計することができる<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=「世帯視聴率」と「個人視聴率」ってなに?「コア視聴率」についても説明!|お役立ちコラム|tv asahi Ads|テレビ朝日セールスサイト(CMや広告などの営業メニューをご紹介) |url=https://www.tv-asahi.co.jp/ex/sales/column/house-person/ |website=tv asahi Ads|テレビ朝日セールスサイト(CMや広告などの営業メニューをご紹介) |access-date=2022-11-15}}</ref>。2010年代後半以降、スポットCMの新しい取引指標として重視されるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=世帯から個人へ、タイムシフトも反映。2018年、視聴率が変わる!(境治) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/sakaiosamu/20171227-00079793 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-11-15 |language=ja}}</ref>。
=== コア視聴率 ===
"ファミリー層"の個人視聴率を表す用語で、テレビ局によって定義が異なるが概ね13歳~49歳の個人視聴率を指す。行動範囲が広く、商品購買意欲の高い視聴者層として、テレビCMを出稿するスポンサーが重視している<ref name=":3" />。
{{main|#新視聴率調査(2020年~)}}
=== 平均視聴率 ===
毎分0秒の時の視聴率(瞬間視聴率)の平均で求められており、一番組中で最も高かった瞬間視聴率を[[マスメディア|マスコミ]]用語で"瞬間最高視聴率"として考慮することもある。
=== 瞬間視聴率 ===
瞬間視聴率や瞬間最高視聴率という言葉はマスメディアによる造語で<ref>日刊スポーツ 2010年6月22日付</ref>、[[ビデオリサーチ]]ではそれぞれ毎分視聴率、毎分視聴率の最高値という。
=== タイムシフト視聴率 ===
ハードディスク式録画装置に録画しておいて、後から再生して視聴することが一般化したことから、日本では[[2014年]]7月に初めて録画率を表す「録画視聴率」が公開された。2022年現在、ビデオリサーチは放送から7日間(168時間内)での録画視聴を[[タイムシフト視聴率]]として集計している<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=週間高視聴率番組 10. |url=https://www.videor.co.jp/tvrating/ |website=ビデオリサーチ コーポレートサイト |access-date=2022-11-15 |language=ja |last=株式会社ビデオリサーチ}}</ref>。
=== 総合視聴率 ===
リアルタイム視聴とタイムシフト視聴のいずれかで視聴されたことを示す指標。ビデオリサーチでは、リアルタイムとタイムシフトの両方で視聴した場合、複数回カウントはせず1回の視聴として扱われる<ref name=":4" />。
== アメリカ合衆国 ==
=== 調査 ===
[[アメリカ合衆国]]では、1950年代以降、視聴率調査は[[エーシーニールセン|ニールセン・メディア・リサーチ社]]が業務を独占している<ref name="WIRED">[http://wired.jp/wv/archives/2004/04/19/tv%E8%A6%96%E8%81%B4%E7%8E%87%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%81%AE%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%A4%BE%E3%80%81%E5%95%8F%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%89%8B%E6%B3%95%E3%81%AE/ TV視聴率調査のニールセン社、問われる調査手法の信頼性] WIRED.jp 2004年4月19日</ref>。
ニールセン・メディア・リサーチ社はニューヨークに本社をおくマーケットリサーチ会社である<ref name="technology">{{Cite book|和書|author1=ロバート・A・バーゲルマン|title=技術とイノベーションの戦略的マネジメント|year=2012|page=171|author2=スティーヴン・C・ウィールライト}}</ref>。
調査方法は、アメリカ合衆国全国調査は1987年よりピープルメーター方式(それ以前は日記式アンケート)、地域調査は1週間分の日記式のアンケートを郵送する方式に加えて、2003年後半から2004年前半にピープルメーター方式を導入した<ref name="WIRED"/>。
アメリカの視聴率はパーセンテージと「○○○万○千人」などといった視聴者数を同時に計測・発表しており、視聴率よりも視聴者数の方が重視される傾向にある。
ニールセン調べにおける全米の視聴率歴代最高は[[1983年]][[2月28日]]の[[CBS]]『[[マッシュ (テレビドラマ)|マッシュ]]』最終回で記録した60.2%(視聴者数1億597万人)<ref name="tsp21_100208">[http://www.tsp21.com/sports/nfl/news2010/0208.html 第44回スーパーボウル、全米TV史上最多 1.06億人が視聴]、TSPスポーツ、2010年2月8日。</ref>であり、視聴者数歴代最高は[[2015年]][[2月1日]]の[[NBC]]『[[第49回スーパーボウル]]』で記録した1億1440万人<ref>[http://www.tsp21.com/sports/nfl/news2017/0206.html 第51回スーパーボウル、全米TV視聴者数歴代 4位]、TSPスポーツ、2017年2月6日。</ref>(視聴率49.7%<ref>[https://biztips.ohmae.ac.jp/biz-topics/1%E5%84%841440%E4%B8%87%E4%BA%BA%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E2%80%95%E2%80%95%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%97%EF%BC%9F 1億1440万人以上――これは何の数字?]、BIZトピックス、2015年2月25日。</ref>)である(2017年現在)。[[2010年]]以後、それまで視聴者数歴代最高だった<ref name=tsp21_100208 />『マッシュ』最終回の記録が、『スーパーボウル』のテレビ中継によって次々と更新されている。
=== 視聴率測定における時間帯区分(プライムタイム) ===
ニールセンの調査では、月曜〜土曜の20時から23時及び日曜の19時から23時を特に視聴率の高い「プライムタイム」としている<ref>{{Cite book|和書|author=増田弘道|title=デジタルが変えるアニメビジネス|year=2016|page=90}}</ref>。これは日本の調査での「プライムタイム」とは異なる。
== 日本 ==
=== 歴史 ===
[[日本]]における視聴率は記録に残っているものでは、[[1954年]]に「[[NHK放送文化研究所]]」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初である<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』15頁。</ref>。「NHK放送文化研究所」による調査は、[[1971年]]に調査方式を配付回収法に変更した。数か月に1回、1週間分の個人視聴率の調査・発表を行っている。
[[1955年]]には[[電通]]が年に4回、日記式のアンケートによる調査を開始した<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』15-18頁。</ref>(電通による視聴率調査は[[1963年]]1月が最終。以後の調査は「ビデオリサーチ」へ引き継がれる<ref>{{Cite book|和書|editor=日本放送協会|date=1977-03-10|title=放送五十年史 資料編|url={{NDLDC|12274907}}|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|pages=591|id={{NDLJP|12274907/332}}}}</ref>)。[[関西]]では電通大阪支社と[[毎日放送]]、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]の3者が「放送調査委員会」を組織して実施した。当時まだ少なかったテレビ所有世帯を探して毎日訪ね、5分刻みで記入できる翌日の番組表を渡して書き込んでもらい、回収した。集計は約一カ月かかった。
視聴率をより早く知りたいという[[スポンサー]]企業の要望に対応するため、毎日放送はその後、独自に電話調査を開始した。[[電話帳]]に[[千枚通し]]を突き刺し、穴が開いたページの一般家庭を調査対象としてリストアップ。電話をかけて「テレビはありますか」「どなたが見ていますか」「見てるのは、どのチャンネルですか」の3項目を質問した。「テレビはない」と怒鳴られることもあったという<ref>[https://mainichi.jp/articles/20181012/k00/00e/040/299000c 「視聴率調査 足で電話で/テレビ創成期 電話帳 千枚通し刺し…担当者が証言」]『毎日新聞』夕刊2018年10月13日(社会面)2018年10月22日閲覧。</ref>。
[[1958年]]には[[社団法人]][[中央調査社]]<ref>http://www.crs.or.jp/ ([[一般社団法人]][[中央調査社]])</ref>が同じく日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、[[1959年]]には年12回(毎月)に拡大した<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』18頁。</ref>。[[1961年]]4月、[[エーシーニールセン|ニールセン]]が日本に進出し測定機械による世帯視聴率調査を開始し、[[1962年]]12月からは[[ビデオリサーチ]]社も調査を開始した<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』18-19頁。</ref>。当時は測定器を該当する世帯のテレビに取り付け、情報を紙テープに記録するオフラインメータ方式<ref name="kokkai">[http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/theme_honbun_100061.html テーマ別調べ方案内 / タイトル:テレビ視聴率(総論)] [[国立国会図書館]]</ref>で、調査員が記録テープを回収<ref name="GUIDE BOOK">視聴率調査について(視聴率ハンドブック) - [http://www.videor.co.jp/rating/wh/index.htm テキスト版] / {{PDFlink|[http://www.videor.co.jp/rating/wh/rgb200811.pdf PDF版(2008年11月作成)]}} ビデオリサーチ</ref>した後に集計を行っていたため、前週の視聴率が翌週に判明する状態であった<ref name="All">[http://allabout.co.jp/entertainment/drama/closeup/CU20031026/ 前代未聞!視聴率測定世帯買収事件 視聴率のためなら悪魔に魂を…] [[All About]] 2003年10月26日</ref>。
[[1977年]]9月26日、関東地区にてビデオリサーチが開発した「ミノル・メーター」<ref>[http://www.dentsu.co.jp/trendbox/adnenpyo/r1977.htm 広告景気年表:1977年] [[電通]] 消費者情報トレンドボックス</ref><ref>[http://www.videor.co.jp/company/history.htm 沿革 1962年 - 69年] [[ビデオリサーチ]] 会社情報</ref>を使用し、通信回路([[電話回線]])を経由して情報を自動回収するオンラインメータ方式<ref name="kokkai"/>による調査を開始したことにより、翌日には視聴率が判明するようになった<ref name="GUIDE BOOK"/><ref name="All"/>。
長らく、このニールセンとビデオリサーチの2社が日本国内における世帯視聴率を測定していたが[[2000年]]3月、ニールセンが日本国内における視聴率調査から撤退し<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争-そのとき一億人が感動した』19頁。</ref>、それ以後は世帯視聴率はビデオリサーチの測定した結果のみが用いられることとなった。
ニールセン撤退の理由は、機械式個人視聴率調査の導入に関して民放キー局と意見が対立したからだとされる。[[1987年]]春に[[日本]]の[[民間放送|民放]][[テレビ]]業界で起こった[[視聴質]]論争をきっかけに機械式個人視聴率調査の導入問題が起こる。[[1994年]]11月にニールセンが三井造船系列の企業が開発した「Vライン」を使用した機械式個人視聴率調査を開始したが、Vラインの調査に不安を抱えていたテレビ局側が猛反発し、実際に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]などがニールセンとの契約解除に踏み切る。1997年にはビデオリサーチも機械式個人視聴率調査を導入するが、これに伴い調査費用が高騰。結果的にこれがニールセンの撤退に繋がったとされる<ref>『放送批評の50年』762-763頁。</ref>。
2006年8月よりケーブルテレビ会社の[[ジュピターテレコム]](J:COM)が、番組供給事業者向けに[[セットトップボックス]](STB)の双方向機能を使った「デジタル視聴率」の提供を開始した<ref>[http://www.jcom.co.jp/library/pdf/newsrelease/ja/20060727_ja.pdf J:COM News Release 「デジタル視聴率」を番組供給事業者に 2006年8月より提供開始]</ref>。
2011年7月4日、ビデオリサーチはフルセグ放送が視聴できるデスクトップパソコンと[[ケーブルテレビ]]の[[デジアナ変換]]を「パソコンテレビ」として視聴率の調査対象に加えた。同年7月24日以降、アナログ放送が終了したエリアでは調査対象がデジタル放送を視聴できる世帯のみとなっている。
2015年1月から[[タイムシフト視聴率|録画タイムシフトによる視聴率]]提供を開始している<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/657791.html ビデオリサーチ、録画番組再生などのタイムシフト視聴動向を調査。'15年1月からデータ提供へ]</ref><ref>[http://www.videor.co.jp/press/2014/140714_data.htm タイムシフト視聴動向把握に向けた取り組みについて <主な調査結果>]</ref><ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140714-00000042-asahi-ent 録画視聴率を初公表、ドラマ上位が鮮明 ビデオリサーチ]</ref>。
関東地区に限り、2016年の年度下期から(同年10月3日調査分から)は調査世帯数の増加に合わせ、従前のリアルタイム視聴率に加え、タイムシフト視聴率も調査対象に正式に加わった<ref>[https://www.videor.co.jp/press/2016/160826.htm 関東地区テレビ視聴率調査の仕様変更について ~ サンプル拡張とタイムシフト測定 ~] ビデオリサーチ、2016年8月26日発行、同年10月6日閲覧。</ref>。「リアルタイム視聴率」と「タイムシフト視聴率」の和集合の数値<ref group="注釈">すなわち、両視聴率の重複分は2重にカウントしない。</ref>を「総合視聴率」とも呼んでいる<ref>[http://www.videor.co.jp/about-vr/terms/sougou_rate.htm 総合視聴率] ビデオリサーチ</ref>。
2018年の「年度」から(同年4月2日調査分から)関西地区でも、同年の「年間下期」から(同年7月2日調査分から)名古屋地区でも、それぞれタイムシフト視聴率の調査を各地区のリアルタイム調査全世帯600に拡大した<ref name="vr-timeshift">[https://hochi.news/articles/20180227-OHT1T50042.html 「タイムシフト視聴」関西・名古屋両地区でも測定開始へ ビデオリサーチ社発表] スポーツ報知 2018年2月27日閲覧、同年3月1日閲覧。</ref>。
日本の視聴率はパーセンテージのみの発表で、アメリカとは異なり視聴者数は発表されなかった。2018年7月23日、ビデオリサーチは[[2018 FIFAワールドカップ]]の日本代表戦4試合の生中継における日本全国での「リアルタイム総視聴者数」の推計を発表し<ref>[https://www.videor.co.jp/press/2018/180723.html 『2018 FIFAワールドカップ ロシア』 日本代表戦テレビ生中継4試合日本全国で推計約8,014万人がリアルタイム自宅内テレビ視聴4試合合計: 延べリアルタイム自宅内テレビ視聴者数は推計約1億7,458万人〜『テレビ視聴率調査』から全国の「総視聴者数」を推計〜]、ビデオリサーチ、2018年7月23日。</ref>、続いて2019年1月15日、2018〜2019年の年末年始(12月30日~1月3日)の恒例番組における日本全国での「リアルタイム総視聴者数」の推計を発表した<ref>[https://www.videor.co.jp/press/2019/190115.html 2018-2019年の年末年始(12月30日~1月3日)恒例番組における日本全国 リアルタイム自宅内テレビ視聴人数を推計〜『テレビ視聴率調査』から全国の「総視聴者数」を推計〜]、ビデオリサーチ、2019年1月15日。</ref><ref>[https://www.screens-lab.jp/article/13137 VR、年末年始恒例番組における日本全国リアルタイム自宅内テレビ視聴人数を推計]、Screens、2019年1月16日 17時35分。</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20190123-NU2W5YWNNBOALCSWNIAXOKMTTY/ 紅白視聴は6183万人 ビデオリサーチ推計]、産経ニュース、2019年1月23日 07時35分。</ref>。
[[2010年代]]に入り、スイッチメディア(2013年12月から測定開始)や[[TVS REGZA]]<ref group="注釈">2021年2月までは[[東芝]]映像ソリューションが運営していた。</ref>(2016年春から測定開始)が視聴率測定に参入している<ref>{{Cite web|和書|title=テレビ視聴分析サービス SMARTの正式サービスを提供開始 |url=https://www.switch-m.com/news/smart-release |website=スイッチメディア |access-date=2022-07-25 |date=2014-10-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=2016年 春 大人アニメ集計 by TimeOn Analytics |url=https://m.timeon.jp/analytics/anime-2016sp/ |website=レグザクラウドサービス「TimeOn」 |access-date=2022-07-25 |date=2016-08-05}}</ref>。なお、両者共にインターネット経由で視聴率を測定しているため家庭や地域的な事情により[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド回線]]に接続していない(または出来ない)世帯は測定の対象外となる。つまり、TVS REGZAの場合は同社製造のテレビのみ測定の対象となるため、TVS REGZA以外で製造されたテレビも測定の対象外となる<ref>{{Cite web|和書|title=テレビ視聴データについて |url=https://www.switch-m.com/data |website=スイッチメディア |access-date=2022-07-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=よくあるご質問 |url=http://www.regza.com/tvdata/faq |website=東芝テレビ視聴データ分析サービス |access-date=2022-07-25}}</ref>。
==== 新視聴率調査(2020年~) ====
ビデオリサーチは2020年3月30日より新視聴率計画に基づき、視聴率調査の大幅なリニューアルを行った。多様化、分散化する視聴者像を明らかにするため、機械式(PM)の個人視聴率調査・タイムシフト視聴率調査を全国で適用し、関東地区での調査対象世帯を900世帯から3倍の2,700世帯に、関西地区では600世帯から1,200世帯に拡大している<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=連載特別企画第一弾 新視聴率のスタートで変わること~来年4月全地区同一仕様に~|url=https://www.videor.co.jp/digestplus/tv/2020/01/35457.html|website=株式会社ビデオリサーチ|accessdate=2021-09-28|date=2020-01-28}}</ref>。「52週PM化」と呼ばれるこれらの施策により、全国の世帯・個人視聴率を安定して公表し、視聴者をより詳細に把握・分析できることが期待されている<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=視聴率調査、変わります~2020年3月30日より大幅リニューアル~|url=https://www.videor.co.jp/press/2020/200206.html|website=株式会社ビデオリサーチ|accessdate=2021-09-28|date=2020-02-06}}</ref>。また、番組全体の視聴⼈数を推計した「平均視聴人数」、番組を1分以上視聴した人数を推計した「到達人数」の提供も開始された<ref>{{Cite web|和書|title=連載特別企画第三弾 新視聴率のスタートで変わること~全国推計視聴数からみた朝ドラ「エール」~|url=https://www.videor.co.jp/digestplus/tv/2020/07/39482.html|website=株式会社ビデオリサーチ|accessdate=2021-09-28|last=|date=2020-07-09}}</ref>。
だが、[[少子高齢化]]の進展により近年では高齢層が好む番組ほど世帯視聴率が高くなる傾向にある。そのため各テレビ局は広告の取引指標を世帯視聴率から個人視聴率に変更し、「'''コアターゲット'''」とよばれる消費意欲の高い層を設定することで広告主のニーズに答えようとしている<ref>{{Cite web|和書|title=日テレとテレ朝、明暗を分ける決算のある数字|url=https://toyokeizai.net/articles/-/368876|website=東洋経済新報|date=2020-08-14|accessdate=2021-09-28}}</ref>。例として、[[日本テレビ]]は13~49歳を“コアターゲット”、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]は13~49歳を“キー特性”、[[TBSテレビ]]は13~59歳を“ファミリーコア”に設定、更に同局は4歳~49歳を”新ファミリーコア”に設定し重点ターゲットとしていくことを発表しており、これらの世代に向けた番組作りを進めているとされる<ref>{{Cite web|和書|title=テレビが遂に気づいた「視聴率より大切なこと」|url=https://toyokeizai.net/articles/-/379330|website=東洋経済新報|date=2020-10-04|accessdate=2021-09-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=視聴率〇%のネット記事が的外れで無意味な訳|url=https://toyokeizai.net/articles/-/412824|website=東洋経済新報|date=2021-02-20|accessdate=2021-02-21}}</ref>。キー局以外では、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]の準キー局である[[朝日放送テレビ]](ABCテレビ・大阪府)は2019年から49歳以下をターゲットとする独自指標の“U49”を設定し、U49における視聴率が低い長寿番組の打ち切りを行うなど、新たな基準による番組編成を進めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.asahi.co.jp/ja/ir/library/presentation/main/011/teaserItems1/04/linkList/0/link/20190520SCRIPTS_web.pdf|title=朝日放送グループホールディングス株式会社 2019年3月期決算説明会|accessdate=2021-09-28|date=2019-05-20|website=朝日放送グループホールディングス株式会社|page=27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「アタック25」終了で注目 「新婚さんいらっしゃい!」の“打ち切り”はあるのか?|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/107332|website=東京スポーツ|accessdate=2021-09-28|date=2021-09-27}}</ref>。
一方、[[テレビ朝日]]ではアクティブシニア層が含まれる50歳以上が日本における総人口の半分以上を占めている現状を踏まえ、19時台から22時台のゴールデン・プライムタイムが引き続き全年齢層をターゲットとした編成や番組作りに取り組むと明言しており、他の在京キー局3社を始め系列局でもあるABCテレビの戦略とは一線を画している<ref>{{Cite web|和書|title=テレビ朝日「視聴率トップ」目前も稼ぎが鈍いわけ|url=https://toyokeizai.net/articles/-/472952|website=東洋経済新報|date=2021-12-04|accessdate=2021-12-04|page=2}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/03/11/kiji/20220311s00041000397000c.html |title=テレビ朝日 4月改編も全年齢層向け“ハイブリッド戦略”「すべてに楽しんでいただけるコンテンツを」 |accessdate=2022-03-11 |date=2022-03-11 |website=スポーツニッポン}}</ref>。
なお、ビデオリサーチが自社ウェブサイトで発表する個人視聴率は全世代を合計した"個人全体視聴率"であり、コア視聴率については外部公表していない<ref>{{Cite web|和書|title=松本人志言及の「コア視聴率」で分析 フジテレビとテレビ朝日の評価逆転も|url=https://www.news-postseven.com/archives/20210620_1669746.html?DETAIL|website=NEWSポストセブン|accessdate=2021-10-10|language=ja}}</ref>。ビデオリサーチ以外では、[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]]関連企業のCCCマーケティングが独自の視聴データをもとにしたコア視聴層(13歳~49歳)の視聴率を公表している<ref>{{Cite web|和書|title=ソレユケ テレビ探偵団|url=https://soreyuke.tv/|website=ソレユケ テレビ探偵団|accessdate=2021-10-10|language=ja}}</ref>。
テレビ局側の視聴率指標は個人視聴率および各局が設定する「'''コア視聴率'''」に移行し、長寿番組でも躊躇なく打ち切る姿勢に転じたものの<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=『アタック25』も終了決定…いま、長寿番組の「打ち切り連鎖」が続々と噂されているワケ|url=https://gendai.media/articles/-/85395|website=現代ビジネス|accessdate=2021-08-01|author=週刊現代|date=2021-08-01}}</ref>、視聴率を報じる新聞記事やネットニュースでは未だに世帯視聴率を前提に報道されることが多い。この事については放送関係者や芸能人から批判されており、実際に[[お笑いタレント]]の[[松本人志]]は「大前提として、ネットニュースで視聴率を記事にすること自体、やらなくていい」「世帯視聴率を用いたネットニュースの番組とかタレントの下げ記事は無視してください」とテレビ番組において述べているほか<ref>{{Cite web|和書|title=松本人志、視聴率報じるネットニュース「やらなくていい」 タレントの下げ記事“無視”呼び掛け|url=https://www.oricon.co.jp/news/2197515/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2021-06-23|date=2021-06-20}}</ref>、[[日本放送協会]](NHK)放送総局長の[[正籬聡]]も2021年の[[大晦日]]に放送した『[[第72回NHK紅白歌合戦]]』の世帯平均視聴率が歴代最低視聴率だったことを定例会見で問われた際に録画や[[ビデオ・オン・デマンド|動画配信]]サービス「[[NHKプラス]]」など、視聴媒体の多様化をあげた上で「世帯平均視聴率だけを見て判断するのは危険だと思う」「世帯視聴率オンリーでは一面的になってしまうし、視聴者のニーズに応えられなくなってくる」と回答している<ref>{{Cite web|和書|title=NHK放送総局長、昨年の紅白に「多様性やジェンダーに一定の配慮を」 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202201190000365.html |website=日刊スポーツ |accessdate=2022-01-22 |date=2022-01-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=BSの不適切字幕問題でNHK放送総局長が改めて陳謝…再発防止へチェックルール徹底を指示 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/403102 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |accessdate=2022-01-22 |date=2022-01-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=NHK総局長 紅白が視聴率最低「世帯平均だけで判断するのは危険」 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/01/19/0014997098.shtml |website=デイリースポーツ |accessdate=2022-01-22 |date=2022-01-19}}</ref>。
=== 調査 ===
日本では測定する有力会社が「ビデオリサーチ」1つのみになった2000年3月以降、同社の調査結果が世帯のリアルタイム視聴率とされている。「ビデオリサーチ」の場合、機械式の視聴率調査は[[関東地方|関東]]、[[近畿地方|関西]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[札幌市|札幌]]、[[仙台市|仙台]]、[[福島県|福島]]、[[新潟県|新潟]]、[[静岡県|静岡]]、[[岡山市|岡山]]・[[香川県|香川]]、[[広島市|広島]]、[[福岡県|北部九州]]の11地区で毎日、[[青森県|青森]]、[[岩手県|岩手]]、[[秋田県|秋田]]、[[山形県|山形]]、[[富山県|富山]]、[[石川県|金沢]]、[[長野県|長野]]、[[山陰地方|山陰]]([[鳥取県|鳥取]]・[[島根県|島根]])、[[山口県|山口]]、[[愛媛県|愛媛]]、[[高知県|高知]]、[[熊本県|熊本]]、[[長崎県|長崎]]、[[大分県|大分]]、[[鹿児島県|鹿児島]]、[[沖縄県|沖縄]]の16地区で毎月の第1月曜日(4月と10月は第2月曜日)から2週間、それぞれ調査期間を設けて調査を行っていたが、2020年4月からはこれらの地域でも毎日集計が開始された<ref>[https://www.videor.co.jp/digestplus/tv/2020/01/35457.html 連載特別企画第一弾 新視聴率のスタートで変わること~来年4月全地区同一仕様に~]</ref>。標本数は関東は2,700、関西は1,200、名古屋は600、北部九州地区、札幌地区は400、それ以外の地区は200である。なお、放送エリア内に地元民放テレビ局が3局以上あることが機械式視聴率調査の条件のため、[[福井県|福井]]、[[山梨県|山梨]]、[[徳島県|徳島]]、[[佐賀県|佐賀]]、[[宮崎県|宮崎]]では機械式視聴率調査は行われていなかったが、2020年4月からは全国データ算出のため、各地区50~100世帯を設定してPM調査を開始した。
CSデジタル放送・[[ケーブルテレビ]]・[[全国独立放送協議会|地上波独立局]]などは一括して「その他の局」という扱いとなり、個別の数字は特に公表されていない<ref>[http://www.videor.co.jp/faq/faq1.htm BS(NHK衛星放送・WOWOW)・CS・CATVの視聴率は?]([[ビデオリサーチ]])</ref>が、[[NHK BS]]の[[スポーツ中継]]、[[NHK BSプレミアム]]移行後の[[連続テレビ小説]]、[[大河ドラマ]]などはNHKがビデオリサーチに対して特別に依頼の上、測定される。[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]については、[[2003年]]12月の開始当初は対象外<ref group="注釈">調査機器自体がデジタル未対応という事情もあったが当時の放送エリアは親局受信エリアの一部に限られていたことや受信設備自体が上級指向のものに限られていたため。</ref>としていたが、普及に合わせてデジタル対応の調査機器への更新が進められた<ref>[https://web.archive.org/web/20080724000506/http://www.asahi.com/culture/tv_radio/TKY200612060169.html 〈視聴率のふしぎ・下〉デジタル化に対応できるか](2006.12 [[朝日新聞社]] [[asahi.com]]、[[ウェブアーカイブ]])</ref>。BSデジタル放送については、2015年4月より[[BSパワー調査]]が機械式調査に移行したことにより、地上波とは若干条件が異なるものの視聴率が測定・公表される。ただし有料チャンネルは除かれる。
[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や携帯受像機による視聴は機械式調査ではカウントされていない。録画による視聴([[タイムシフト視聴率]])に関しては、2016年10月3日の調査分から関東地区に限り測定されており、ランキングも別途存在している。また[[マルチチャンネル]]編成を行っている時間帯は、メインチャンネルとサブチャンネル両方を合算した数字を発表している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/02/14/kiji/20220214s00041000233000c.html |title=平野歩夢が金 NHK生中継19・1% 直後の“気象情報”26・3% サブチャン切り替え物議も高視聴率 |accessdate=2022-02-16 |date=2022-02-14 |website=スポーツニッポン}}</ref>。
一般に関東、関西、名古屋地区などで[[プライムタイム|ゴールデン・プライムタイム]]で15パーセントを超えるとヒット作と言われるものが多く、逆に10パーセントを切ると「一桁」として視聴率が低迷していると言われるものが多い。どの調査対象の世帯も該当の番組を見ていなかった(つまり、0パーセント)の場合は「*」として表示される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2019/12231105/?all=1|title=夏目三久「あさチャン!」が大ピンチ 半沢直樹と志らくのおかげで危機感ナシ!?|accessdate=2019年12月24日|publisher=週刊新潮(2019年12月23日作成)}}</ref>。様々な事情が絡むため一概には言えないが、関東キー局の場合平均視聴率が概ね8%(テレビ東京では6%)を下回ると打ち切りが検討される可能性が高くなる。
[[民間放送]]各社、特に[[キー局]]にとってはこの数値が1ポイント増減しただけで利益や[[広告]]の営業活動に大きく響くため、視聴率を重視している。全国の世帯から徴収する[[NHK受信料|受信料]]で成り立つ[[日本放送協会|NHK]]は「視聴率に左右されないテレビ局」を謳っている<ref>[http://www.nhk.or.jp/faq-corner/01nhk/01/01-01-20.htm 「NHKだからできる放送」とは何か] 日本放送協会(2016年1月4日閲覧)</ref>が、NHK以外のメディアにおいて「NHKも民放と同様、あるいはそれ以上に視聴率を意識している」との見解が示されているか、またはそれを前提とした報道・評論がされている例も多い<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E8%A6%96%E8%81%B4%E7%8E%87%E8%B2%B7%E5%8F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6-182997 日本テレビ視聴率買収事件][[コトバンク]]</ref><ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20140211_240326.html 「毎分視聴率」を出す民放と出さぬNHK 番組制作の意識に差][[NEWSポストセブン]]2014年[[2月11日]]7時0分配信</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150113011318/http://biz-journal.jp/2015/01/post_8537.html 明菜、聖子、薬師丸って…若者は興味ゼロ歌手連発で視聴率低下の紅白 捨て合う若者とテレビ] ビジネスジャーナル2015年1月9日配信</ref><ref>[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201012250131.html 〈回顧2010・放送〉 NHKに注目 民放連ドラ苦戦][[朝日新聞デジタル]]2010年12月25日11時38分配信([[2015年の日本|2015年]]12月13日閲覧)</ref><ref>[https://npn.co.jp/article/detail/12400405/ またしても一線級女優のキャスティング…来春NHK朝ドラ主演は堀北真希][[リアルライブ]][[2011年の日本|2011年]]6月17日15時30分配信(2015年12月13日閲覧)</ref><ref>[https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20140107/enn1401071529014-n1.htm 杏&東出昌大“ごちそうさん愛”で視聴率アップ? NHKニンマリ (1/2ページ)][[夕刊フジ]](2014年1月7日配信)2016年1月4日閲覧。</ref>。かつてNHKの気象情報に出演していた[[気象予報士]]の[[半井小絵]]も「チャンネルを変えられないようにとの指示が出ていたんです」と証言している<ref>{{Cite news|title=半井小絵さん「NHKにいるときにはあんなに偏向報道をしているとは思いませんでした」言論テレビ討論会|newspaper=産経ニュース|date=2017-09-18|url=https://www.sankei.com/article/20170918-LSYH3WQEFNMBTBHMCF5YNNCW5U/2/|accessdate=2017-09-19|publisher=[[産業経済新聞社]]}}</ref>。
これまでの関東地区における最高視聴率は、「ビデオリサーチ」が視聴率調査を開始した[[1962年]][[12月3日]]以降では[[1963年]][[12月31日]]の[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]『[[第14回NHK紅白歌合戦]]』で記録した81.4パーセントであり([[1961年]]-[[2000年]]に行われていた「[[エーシーニールセン|ニールセン]]」による調査でも『第14回NHK紅白歌合戦』の89.8パーセントが最高)、「ビデオリサーチ」以前も含めた最高視聴率は[[1955年]][[5月30日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[ボクシング]]中継・[[パスカル・ペレス (ボクサー)|パスカル・ペレス]]対[[白井義男]]戦で記録した96.1パーセント([[電通]]調べ)<ref>{{Cite book|和書|editor=日本放送協会|date=1977-03-10|title=放送五十年史 資料編|url={{NDLDC|12274907}}|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|pages=590 - 591|id={{NDLJP|12274907/332}}}}</ref>である。
「ビデオリサーチ」調査における関東地区の[[全日]]視聴率では、NHK総合が[[1963年]]から[[1986年]]までの24年間、各民放キー局を押しのけて連続して1位を獲得していた<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』(引田惣弥・著、[[講談社]]、2004年、ISBN 4062122227、116頁)</ref><ref group="注釈">[[1978年]]の年間の全日視聴率は、NHK総合と[[TBSテレビ|TBS]]とが10.1パーセントで同率1位であった。なお、この年(1978年)にはTBSが年間視聴率で3冠王を獲得している。</ref>。[[1987年]]以降は民放局がその座を獲得する例が多くなった。
「ビデオリサーチ」調査では『[[NHK紅白歌合戦]]』があることなど(後述)から、年間視聴率1位はNHK総合の番組という例が多い。[[2001年]]までNHK総合の番組が年間視聴率1位の座を譲ったことがなかった(紅白についても[[1997年]]まで年間視聴率1位の座を譲ったことがなかった)。[[2002年]]以降は年によっては民放番組(主に国際スポーツ中継の日本戦)が年間視聴率1位を獲得する例もある。
{| class="wikitable"
|+ 在京局歴代最高視聴率(ビデオリサーチ調べ、[[関東地区]]・世帯・リアルタイム)
!放送局!!番組名!!放送日!!放送時間!!長さ!!視聴率
|-
|style="text-align:center"|[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]||[[第14回NHK紅白歌合戦]]||style="text-align:center; white-space:nowrap"|[[1963年]](昭和38年)<br />[[12月31日]]||21:05 - 23:45||style="white-space:nowrap"|160分||style="text-align:right"|81.4 [[パーセント|%]]
|-
|style="text-align:center"|[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]||[[第61回全国高等学校野球選手権大会]] [[和歌山県立箕島高等学校|箕島]]×[[星稜中学校・高等学校|星稜]]([[箕島対星稜延長18回]])||style="text-align:center"|[[1979年]](昭和54年)<br />[[8月16日]]||18:00 - 20:00||120分||style="text-align:right"|29.4 %
|-
|style="text-align:center"|[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]||[[日本プロレス中継]]「[[ワールド・レスリング・アソシエーション (ロサンゼルス)|WWA]]世界選手権・[[ザ・デストロイヤー]]×[[力道山]]」||style="text-align:center"|[[1963年]](昭和38年)<br />[[5月24日]]||20:00 - 21:15||{{0}}75分||style="text-align:right"|64.0 %
|-
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|[[テレビ朝日]]||[[2006 FIFAワールドカップ]] [[サッカー日本代表|日本]]×[[サッカークロアチア代表|クロアチア]]||style="text-align:center"|[[2006年]](平成18年)<br />[[6月18日]]||style="white-space:nowrap"|21:35 - 翌0:30||175分||style="text-align:right"|52.7 %
|-
|style="text-align:center"|[[TBSテレビ|TBS]]||[[2010 FIFAワールドカップ]] 日本×[[サッカーパラグアイ代表|パラグアイ]]||style="text-align:center"|[[2010年]](平成22年)<br />[[6月29日]]||22:40 - 翌1:10||150分||style="text-align:right"|57.3 %
|-
|style="text-align:center"|[[テレビ東京]]||[[1994 FIFAワールドカップ]]アジア地区最終予選 日本×[[サッカーイラク代表|イラク]]([[ドーハの悲劇]])||style="text-align:center"|[[1993年]](平成5年)<br />[[10月28日]]||22:00 - 翌0:15||135分||style="text-align:right"|48.1 %
|-
|style="text-align:center"|[[フジテレビジョン|フジテレビ]]||[[2002 FIFAワールドカップ]] 日本×[[サッカーロシア代表|ロシア]]||style="text-align:center"|[[2002年]](平成14年)<br />[[6月9日]]||20:00 - 22:54||174分||style="text-align:right"|66.1 %
|}
*在京民放[[キー局]]の局別歴代最高視聴率は日本テレビを除き全局[[サッカー]] [[FIFAワールドカップ]]予選・本選の[[日本]]戦が、またNHK総合([[歌番組]])以外は全局共に[[スポーツ中継]]が獲得している。
=== 視聴率測定における時間帯区分 ===
==== ゴールデンタイム・プライムタイム ====
冒頭で述べた通り、([[1960年代]]から[[2000年]]まで2社体制で視聴率調査をしていた。)「ニールセン」と「ビデオリサーチ」とで、最もテレビの視聴が高い時間帯の基準が両社で異なっていたからによるものとされている。アメリカに本社を持つ「ニールセン」では、アメリカ基準で最もテレビの視聴が高い時間帯を設定し、これを19時から23時までとして「プライムタイム」と呼んだ。(ただし実際のアメリカにおける「プライムタイム」は前述のように日本のそれとは異なる。)
これに対し、「ビデオリサーチ」は日本独自の基準として最もテレビの視聴が高い時間帯を19時から22時までとして「ゴールデンタイム」と呼んだ。
なお、この2区分の調査はニールセンの「プライムタイム」は[[1961年]]4月の調査開始当初から「ビデオリサーチ」の「ゴールデンタイム」も[[1962年]]12月の調査開始当初から始めた。しかしながら「ビデオリサーチ」も[[1971年]]から「プライムタイム」の調査を開始し、現在に至っている。
==== 三冠王・四冠王 ====
日本の放送局が視聴率を評価する際に使う表現で、下記3区分すべてで平均視聴率がトップの放送局を指して「三冠王」と呼ぶ。
* [[ゴールデンタイム]](19時-22時)
* [[プライムタイム]](19時-23時)
* [[全日]](6時-24時)
上記に加え、日本テレビでは[[ノンプライム]](6時-19時、23時-24時)でも視聴率がトップであれば「四冠王」と呼んでいたが、2012年度からはノンプライムを内部参考化したため、こう呼ばれることはなくなった<ref>日刊合同通信 2012年4月13日(金) 第57巻 第13791号による(参考:[http://www.godotsushin.com/backnumber_nikkan/2012/2012_04.html])。</ref>。テレビ朝日では'''プライム2'''<ref group="注釈">なお、日本テレビでは2012年4月以降、この時間帯を「プラチナゾーン」と呼んでいる。</ref>(23時-翌日1時)でも視聴率がトップであれば、「四冠王」と呼ぶ。なお、NHKおよびTBS・テレビ東京・フジテレビにおいて公式にはいずれの意味の「四冠王」の表現を用いていない。(フジはかつてノンプライムの放送区分を用いて四冠王を称していたことがあった。)
視聴率三冠王(NHKを入れたすべての在京テレビ局で)の第1号はTBSで、[[1978年]]に1度達成している。当時は『[[まんが日本昔ばなし]]』『[[クイズダービー]]』『[[8時だョ!全員集合]]』『[[Gメン'75]]』と言った土曜日の19時より22時台手前まで連続して人気番組を編成していたことや、平日においても「[[クイズ100人に聞きました]]」「[[ザ・ベストテン]]」などの高視聴率番組が存在したことが主な要因であった。なお、この年のTBSの全日視聴率はNHKと同率であった(10.1%)<ref name="HS116" />。とはいえ、この頃のNHKの[[連続テレビ小説]]や[[大河ドラマ]]の視聴率が2018年現在の2倍以上であったことなどを考慮すると、民放局での三冠達成は、業界内では画期的な出来事であった。
[[1980年代]]後半、フジテレビが「三冠王」を使い始めた。フジテレビは[[1982年]]から[[1993年]]までの12年間、連続して三冠王となったがこれは在京'''民放局5局'''の中での三冠王である(NHKを含めた中での三冠王となったのは[[1987年]]と[[1990年]]から[[1993年]]の合わせて5年間で、それ以外の年はNHKがフジテレビの全日視聴率を上回っていた。)。なお、1993年のフジテレビの全日視聴率は、日本テレビと同率であった<ref name="HS116">『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』116頁</ref>。一方で、年度視聴率においてもフジテレビは1982年から1992年までの11年間は連続して三冠王となったが、やはりこちらも在京'''民放局5局'''の中での三冠王であった。(1990年になってやっとNHKの全日視聴率を含めて完全三冠王となったが長くは続かず、NHKを含めた在京6局の中での三冠王は結局1992年度までの3年だけであった。)
その後日本テレビが「四冠王」の表現を使い始め、バラエティー番組やプロ野球巨人戦の中継が好調に推移したことで同社が(NHKを含めた在京6局の中での)年間視聴率四冠王の座を[[1994年]]から[[2003年]]までの10年間、連続して獲得した(1994年の日本テレビは全日は単独で首位だったが、ゴールデンタイム、ならびにプライムタイムのそれぞれの年間視聴率でフジテレビと同率であった<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』199頁</ref>)。一方で、年度視聴率においては日本テレビは1994年から2002年までの9年間、連続して三冠王だったが、1993年度は全日のみ首位(ゴールデン、プライムはフジの二冠)、2003年度はプライム以外の三冠だった(プライム首位はフジ)。
[[2004年]]以降はフジテレビが年間、および年度視聴率の三冠王を[[2010年]]まで7年連続で獲得(NHKを含めた在京6局中)。[[2011年]]は日本テレビが8年ぶりに年間視聴率三冠王を奪還した(こちらもNHKを含めた在京6局中。ただし、全日はフジテレビと同率であった)<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201201020017.html 〈速報〉日テレが11年「視聴率3冠王」] asahi.com 2012年1月2日</ref>。
[[2012年]]はテレビ朝日が年間世帯視聴率で開局以来初のプライム首位を獲得し、日本テレビの2年連続三冠王達成とはならなかった(日本テレビは全日、ゴールデンの二冠。)。さらに2012年の年度視聴率、ならびに[[2013年]]の年間視聴率ではテレビ朝日がゴールデン、プライムの二冠を達成した。(全日は共に日本テレビが首位。)
個人視聴率においては[[2011年]]から日本テレビが三冠王を11年連続で獲得している。
== 視聴率争い ==
視聴率がテレビ局並びに放送番組の評価の指針となる場合があるため、国や時代、時間帯を問わず[[裏番組]]間での視聴率争いは行われている。
ここではその代表的なものを挙げる。
=== 日本 ===
==== 土曜夜戦争 ====
;日本最大の視聴率戦争
この視聴率戦争は日本のテレビ番組では歴史上最大の視聴率争いとして語り継がれている。
[[TBSテレビ|TBS]]の『[[8時だョ!全員集合]]』([[1969年]]-[[1985年]])が「'''お化け番組'''」と呼ばれる程の凄まじい人気を誇ったことで発生した。{{see also|8時だョ!全員集合の歴史#1971年|8時だョ!全員集合#概要}}
他局への影響は大きく、当初『[[コント55号の世界は笑う]]』で優位だったライバルのフジテレビは対抗する番組『[[コント55号のやるぞみてくれ!]]』を企画するも、僅か2ヶ月で打ち切られ、その後は時代劇を中心としたドラマ路線に変更するも悉く放送終了し、土曜20時枠は「鬼門」とまで言われた。1974年3月に[[荒井注]]が[[ザ・ドリフターズ]]から抜けてしばらくは、翌1975年4月から放送が開始された『[[欽ドン!|欽ちゃんのドンとやってみよう!]]』の成功もあり、視聴率が上昇して『全員集合』を脅かしたが1976年、その2年前の4月に荒井に代わってメンバーに加入した[[志村けん]]の「[[東村山音頭]]」のヒットで再び引き離し、以後も『[[オレたちひょうきん族]]』([[1981年]] - [[1989年]])が登場するまで対抗出来る番組はほぼ皆無となり、女子[[プロ野球]]チーム「[[日本女子野球連盟#その後|ニューヤンキース]]」の試合をメインとした『[[土曜グランドスペシャル]]』(1978年)が目立つ程度だった。中には『[[ピーマン白書]]』のように大々的な番宣キャンペーンを行ったにも関わらず、放送回数僅か6回で打ち切りになったものも存在した。
日本テレビは1972年10月より『[[全日本プロレス中継]]』を約6年半の長きに渡って放送するも視聴率が振るわず、1979年4月に放送枠を移動。以後19:30枠と統合し、90分[[単発特別番組枠]]『[[土曜トップスペシャル|土曜スペシャル]]』を放送、その後『[[笑点]]』の司会として当時人気だった[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]を出演させて90分バラエティ『[[爆笑ヒット大進撃!!]]』→『[[ダントツ笑撃隊!!]]』を放送し対抗するが短命で終了、1982年1月より『[[土曜トップスペシャル]]』として単発枠を復活した。
{{main|全日本プロレス中継#土曜20時枠時代}}
テレビ朝日は時代劇や現代劇といった1時間ドラマを放送したが対抗できず、[[1972年]](昭和47年)[[7月]]から、直前枠である19:30枠の『[[仮面ライダー]]』([[MBSテレビ|毎日放送]]制作)の視聴者である子供をターゲットに、「変身大会」と称した前後半の30分番組として分離し、前半30分は特撮番組『[[人造人間キカイダー]]』→『[[キカイダー01]]』、後半30分はアニメ『[[デビルマン]]』→『[[ミクロイドS]]』→『[[キューティーハニー]]』を放送した。それらの番組はスタート当初は16%前後と『全員集合』という強力な番組の裏番組としては大健闘したものの、次第に児童層も『全員集合』を選ぶ傾向が強くなったため、視聴率は回復しなかった。このため1時間枠に戻したものの、それでも[[1978年]]1月より放送開始の[[松平健]]の主演時代劇『[[暴れん坊将軍|暴れん坊将軍シリーズ]]』までヒットしなかった。特に1976年5月に『刑事バレッタ』(第1シリーズ)終了後、同年10月開始の時代劇『[[五街道まっしぐら!]]』までの間は、定時番組は置かずに単発枠([[つなぎ番組]])を編成し、『[[戦え!ぼくらのヒーロー大集合]]』や劇場版『[[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009]]』などの子供向け番組を特番扱いで放送する状態だった。
{{main|キカイダー01#概要|キューティーハニー#解説|テレビ朝日土曜8時枠の連続ドラマ#参考・『土曜時代劇』までのつなぎ番組}}
[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]では、[[1970年]]に『[[ステージ101]]』、[[1972年]]に『[[お笑いオンステージ]]』といった、後年日曜日に放送時間を変更する番組を放送したが、いずれも視聴率面で『全員集合』には追い付けず、ようやく[[1974年]]に海外ドラマ『[[刑事コロンボ]]』を導入して大ヒットさせる。これが現在まで続く『[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]』に受け継がれる。
[[テレビ東京|東京12チャンネル→テレビ東京]]では[[1970年代]]中盤から3ヶ月程度の番組が連発し、1978年より90分単発特別番組枠『[[土曜特番 (東京12チャンネル)|土曜特番]]』を開始、以後何度か中断を置きながら単発枠を継続した。だがその単発枠中断時に放送した番組は各局同様苦戦が続き、特に1980年(昭和55年)10月に、[[国際プロレス]]主催プロレス中継『[[プロレスアワー|国際プロレスアワー]]』を月曜20時から移動するも、先述の『ピーマン白書』と最下位を争う状態で遂に翌1981年3月にはレギュラー放送を打ち切り、同年8月の団体崩壊につながってしまう。
{{main|プロレスアワー#土曜20時台時代 - レギュラー放送終了}}
当時のドリフの人気を示すエピソードとして、タレントの[[王理恵]]も自分はドリフ(全員集合)を見たかったが家では父([[王貞治]])が出ている野球中継を見ていた。月曜日、自分は学校でドリフの話についていけなかったと当時を回顧した<ref>スポーツニッポン 2004年5月15日号</ref>。
[[1981年]]10月改編でフジテレビは[[漫才ブーム|お笑いブーム]]に乗り、『オレたちひょうきん族』(以下『ひょうきん族』)を放送開始。開始直後の視聴率は伸び悩んだが、ドリフの不祥事([[仲本工事]]、志村けんの「競馬[[ノミ行為]]事件」)や「囚人コントのギロチン事件」が大きく響いた事もあり、以降『ひょうきん族』は徐々に視聴率を獲得し1984年の年間視聴率でついに『全員集合』を逆転、翌1985年(昭和60年)10月改編で『全員集合』も終了した。ところが翌1986年1月、『全員集合』の後継番組である『[[加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ]]』(以下『加トケン』)が放送されると、徐々に『加トケン』が視聴率を獲得、同年12月に起きた[[フライデー襲撃事件]]により『ひょうきん族』の看板タレントだった[[ビートたけし]]が芸能活動謹慎の為、番組レギュラーから抜けたこともあり、[[1987年]]に『ひょうきん族』を逆転。それから約2年後の[[1989年]]10月改編で『ひょうきん族』は放送終了となった。
{{main|フライデー襲撃事件#たけし出演番組などへの影響|オレたちひょうきん族#番組の終了とその後}}
[[1990年代]]に入ると、『加トケン』への対抗として1990年10月より『[[マジカル頭脳パワー!!]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]。 以下『マジカル』)が、『[[ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!]]』(フジテレビ。以下『やるやら』)がそれぞれ放送開始。テレビ朝日の『暴れん坊将軍』と合わせて人気4番組による争いとなる。争いは2年ほど続いたが、まず『加トケン』が1992年4月、『[[KATO&KENテレビバスターズ]]』としてリニューアルするも、これが裏目に出て視聴率が急速に低迷し同年9月に終了。一方の『やるやら』も1993年6月、収録時の事故により放送が急遽打ち切られると、『[[めちゃ×2イケてるッ!]]』(以下『めちゃイケ』)の放送まで再びフジテレビの土曜20時枠は「鬼門」となった。一方、『マジカル』は『[[あるなしクイズ]]』が放送局や番組をまたいで大ブームとなったこともあり<ref group="注釈">当時、フジテレビの『笑っていいとも!』でもあるなしクイズをコーナーとして放送していた。</ref>、終了したKATO&KENやウンナンの視聴者を獲得する形となり高視聴率を獲得したものの、4月から9月までの間はプロ野球中継(主に巨人戦)により放送を休止することが度々あったため、それを極力避ける目的で、番組枠を木曜日の同時間帯に移動した。
{{Main|ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!#ウォン・カークイ死亡事故とその影響|マジカル頭脳パワー!!#沿革}}
TBSでは長年続いたザ・ドリフターズ出演のバラエティー番組シリーズ終了後、『[[音楽派トゥギャザー]]』以来2年9ヶ月ぶりとなるゴールデン及びプライムタイムでの音楽バラエティー番組の『[[突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100]]』や、紀行番組の『[[自然がいちばん!地球塾]]』を放送するもいずれの番組も放送開始から半年で放送時間変更や終了に追い込まれ、[[1993年]]10月より『[[どうぶつ奇想天外!]]』をスタート。当初は『マジカル』に苦戦したが『マジカル』の木曜日への移動により安定した視聴率を獲得し、「親が子どもに見せたい番組」の上位にランクインされる人気番組になった。フジテレビも1996年10月に『めちゃイケ』をスタートさせると視聴率を獲得、1978年の放送以来、常に安定した人気を保っていた『暴れん坊将軍』を移動させると、『[[サタデードラマ]]』(2000年3月まで)という現代劇枠に転換させ、それ以降が現在に至るまでバラエティ番組が編成されている。
2000年4月に『どうぶつ奇想天外!』が日曜20時に移動すると、しばらくは『めちゃイケ』の独走状態であったが[[2004年]]に放送開始した日本テレビの『[[世界一受けたい授業]]』の台頭により、同番組に陰りが見え始めてくる。2006年度には『世界一受けたい授業』が『めちゃイケ』を上回ることも珍しくなくなった。しかし、『めちゃイケ』の直前番組である『[[脳内エステIQサプリ]]』(以下『IQサプリ』)の視聴率が一時17%前後にまで及んだことで、一時的に視聴率は回復したものの2007年4月、『IQサプリ』の裏番組に『[[天才!志村どうぶつ園]]』が移動。これにより『IQサプリ』の視聴率は11%前後にまで低下し、その効果が『めちゃイケ』にも及び再び『世界一受けたい授業』に負けだすようになった。追い打ちをかけるように、2008年4月にはTBSが[[TBS土曜8時枠の連続ドラマ|ドラマ枠]]を設置し、その第1弾として[[森田まさのり]]の原作の野球漫画を実写化した『[[ROOKIES]]』が放送され、人気を博す。2009年5月には[[ジャニーズ事務所]]所属の人気グループ[[SMAP]]のメンバーの一人でもある[[木村拓哉]]主演の『[[MR.BRAIN]]』が放送されたことにより、『めちゃイケ』は視聴率が低迷していた。但し、TBSのドラマ枠は『[[ハンマーセッション]]』を最後に2010年9月をもって廃止されている。
その後、『めちゃイケ』は特別企画を中心に視聴率を稼いでいたが、2010年以降はテレビ東京の『[[土曜スペシャル (テレビ東京)|土曜スペシャル]]』が「[[ローカル路線バス乗り継ぎの旅]]」を中心に人気を集め、中には『めちゃイケ』を凌ぐ視聴率を記録する回もあり<ref>[http://www.videor.co.jp/data/ratedata/backnum/2012/vol36.htm バックナンバー2012年度 VOL.36 2012年 8月27日(月) 〜 9月2日(日)]</ref>、『めちゃイケ』の独走状態ではなくなった。2015年からはNHKの『[[ブラタモリ]]』の第4シリーズが本枠で開始<ref group="注釈">それまでは木曜22時台で放送されていた。</ref>、2017年からは『[[出川哲朗の充電させてもらえませんか?]]』(テレビ東京)のレギュラー放送が始まり、『めちゃイケ』の視聴率は一桁台へ低迷、最終的に『めちゃイケ』は2018年(平成30年)4月改編で終了することとなった。
土曜19時枠でも、1970年代から1980年代までは『[[まんが日本昔ばなし]]』([[MBSテレビ|毎日放送]]制作。第2期)と『[[クイズダービー]]』を擁したTBSの独走状態となって他局は苦戦を強いられた。日本テレビは1985年10月に『全日本プロレス中継』を土曜夕方枠から19時枠に移動して、6年半ぶりにゴールデンタイムの生中継を復活するも、僅か2年半で日曜22時半の録画中継枠への枠移動に追い込まれた。
フジテレビは1975年4月より19時枠前半で放送されていた長寿番組の『[[ズバリ!当てましょう]]』(第2期)が1982年3月で打ち切られ、翌1983年4月には、かつて18時枠後半の看板番組であったアニメ『[[タイムボカンシリーズ]]』の『[[イタダキマン]]』を19時枠後半に移動させるも、視聴率を奪えず僅か20話で終了し、シリーズ自体も終了に追い込まれる事態となった。
テレビ朝日は1989年1月より、19時枠後半に[[コロコロコミック]]で連載され、絶大的な人気を誇っていた[[小林よしのり]]原作のギャグ漫画である『[[おぼっちゃまくん]]』をアニメ化して放送。開始されるや子供を中心に人気を集め、視聴率で肉薄。1990年秋頃から『クイズダービー』を視聴率で抜くことも増え、結果フジテレビ系の19時半のアニメ枠を廃枠に追い込んだ。もっとも『おぼっちゃまくん』は約3年9ヶ月の長きに渡って放送が続いたものの、過激かつ下品なギャグが多かった事から視聴率は取れても肝心なスポンサーが離れて定着しなかった<ref group="注釈">当時、[[日本PTA全国協議会]]が選ぶ「子供に見せたくない番組」でも、常に上位だった。</ref>。
その後、1991年10月にフジが19時枠に『[[平成教育委員会]]』を、翌1992年3月にテレビ朝日が19時台前半枠に『[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーンシリーズ]]』を、さらにその翌1993年10月、同じく後半枠に『[[SLAM DUNK]]』をそれぞれ投入してようやくTBSの勢いを止めることに成功したが、そこまで10年以上の時間を要した<ref group="注釈">『クイズダービー』は1992年12月で終了。『まんが日本昔ばなし』は1994年4月に全国ネットの放送終了と同時にローカルセールス枠に降格。</ref>。『平成教育委員会』も1992年9月には『おぼっちゃまくん』も放送終了へ追い込み、1997年9月までレギュラー放送を続けた。なお、『おぼっちゃまくん』終了の原因は前述の理由もある。
同じフジテレビ系列である関西テレビでは、『クイズダービー』(関西では毎日放送が放映)の裏番組が『[[部長刑事]]』だったこともあり、さらに厳しい戦いとなった。(後述の「[[#関西土曜戦争]]」を参照。)
{{main|仮面ライダー#企画|部長刑事#放送に伴う影響}}
特にこの視聴率戦争は日本テレビが[[放映権]]を独占していた[[読売ジャイアンツ|巨人主催戦]][[プロ野球中継|中継]]「[[DRAMATIC BASEBALL]]」にまでおよび、21時台までの日テレ系バラエティ番組が[[フジテレビ系列]]との[[クロスネット局]]である[[テレビ大分]]が同時ネットを開始する程の[[怪物番組|お化け番組]]であったことで、2002年から[[NHKプロ野球]]での放送が[[原則]]化している。
===== 関西土曜戦争 =====
1958年9月から[[大阪テレビ放送]]→朝日放送(現:[[朝日放送テレビ]])が製作し、土曜の夜に関西地区で絶大な人気を誇ったローカル刑事ドラマ『部長刑事』を巡る争いである。
『部長刑事』は[[大阪府警察本部]]が「応援」という形で番組に協力していたこともあり、関西地区における土曜夜の顔的な番組であった。そのため[[毎日放送]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]といった在阪他局は対抗する手段がなく、裏番組は軒並み打ち切りになっていた。
1970年、毎日放送の[[斎藤守慶]](営業局長)が打倒『部長刑事』を旗印に[[東映]]に「新しい仮面のヒーロー番組を製作したい」という企画を依頼した。そこでできた作品が、『仮面ライダー』である<ref>読売新聞 [[1993年]][[3月15日]]夕刊より。</ref>(番組のスタートは翌1971年4月)。斉藤の目論見は成功し、『仮面ライダー』は、関東地区では第1話の視聴率は8パーセント台と低迷したものの、関西地区では20パーセント超えの視聴率をマークした<ref group="注釈">ビデオリサーチ社の調べでは関西地区20.5パーセント</ref>。やがて、放送開始から3ヶ月後には、撮影中の事故により負傷した仮面ライダー1号こと[[本郷猛]]を演じた主演の[[藤岡弘]]に代わって、仮面ライダー2号こと[[一文字隼人]]、[[連邦捜査局|FBI]]捜査官・滝和也、ライダーガールズの新たなレギュラー入りや、[[仮面ライダーシリーズにおける変身|変身ポーズ]]の導入、藤岡復帰後の1号、2号のダブルライダーの共演など、それまでの暗く重苦しい作風から、明るく華やかな作風への路線変更が功を奏し、人気番組へと成長。[[第二次怪獣ブーム]]([[変身 (ヒーロー)|変身ブーム]])の到来とともに、[[子供]]を中心とした[[社会現象]]<ref group="注釈">実際、関連商品(特に[[変身ベルト]]や[[サイクロン号]]を模した子供用[[自転車]])は軒並みヒット商品となり、[[仮面ライダースナック]]は人気が出すぎておまけの仮面ライダーカードだけを取ってお[[菓子]]自体は捨てるという悪い行為が全国的に多発した。放送当時仮面ライダーの記事を独占的に掲載した[[講談社]]は、仮面ライダーバブルの最中に『[[テレビマガジン]]』を創刊した程となっている。</ref>にまでなった。『仮面ライダー』が[[特撮]][[児童向けドラマ]]として製作されたこともあり、『部長刑事』の視聴者層とほぼ被らなかったため、それ自体が[[1973年]]2月まで続く[[ロングラン]]放送(全98話)となり、以降も『[[仮面ライダーV3]]』、『[[仮面ライダーX]]』、『[[仮面ライダーアマゾン]]』とシリーズ化され、『部長刑事』と視聴率を争う事となる。なお、昭和第一次[[仮面ライダーシリーズ]]最終作である『[[仮面ライダーストロンガー]]』は、後述の毎日放送と朝日放送との間の[[ネットチェンジ]]により、1975年4月の放送開始から放送時間が土曜の19時に変更された。これにより、約4年続いた『仮面ライダーシリーズ』と『部長刑事』との視聴率争いは終結した。
{{main|仮面ライダー#藤岡弘の事故負傷とその影響}}
1975年4月、毎日放送と朝日放送との間でのネットチェンジがあったが、ネットチェンジ後も毎日放送は『部長刑事』への対抗として、関西地区では朝日放送時代には火曜夜に遅れネットで放送されていた『[[お笑い頭の体操]]』を同時ネットに移行し、以後も『クイズダービー』や『[[クイズテレビずき!]]』、『[[チャレンジ大魔王]]』などを放送。しかし『部長刑事』もこれに対抗して、所々で[[テコ入れ]]を行い、毎回10パーセント前後の安定した視聴率を挙げていたが、『新・部長刑事 アーバンポリス24』からは、マンネリ化もあり、視聴率で苦戦し始めた。
『部長刑事』は「外伝」を始めた2001年、ついに放送時間を土曜18時30分に移動した。
「部長刑事シリーズ」は、2002年3月まで放送開始から43年7か月の間、関西地区を中心に放送されたが、関東地区・名古屋地区をはじめとした他のネット局では別時間帯で放送された。異なる系列局で放送されたり、放送されなかった回が存在した他、不祥事の間接的な原因になるなどした。また穴埋めとして短期間放送した局もあった。これは、[[番組販売]]の形式で他の放送局にネットされていたことによるものであった。ただし、基本的に一話完結形式のため、大きな混乱とはならなかった。
{{Main|部長刑事#放送に伴う影響|ネットチェンジ#ネットチェンジ後の編成}}
==== 平日朝子供向け番組戦争 ====
;日本最初の視聴率戦争
この視聴率争いは日本のテレビ番組史上初めての裏番組間に於ける本格的な視聴率争いとなり、前述の「土曜夜戦争」が開始されるまでの間は、この視聴率争いが日本のテレビ史上最大規模の視聴率競争であったが、「土曜夜戦争」開始後も約10年間継続した。ただし、そのほとんどの期間が一部時間帯のみでの視聴率争いであり、また後述するが途中2度の休戦期間が存在する。
1965年11月8日より、日本テレビで朝の[[子供向け番組]]『[[おはよう!こどもショー]]』(以下『こどもショー』)が月曜日 - 土曜日の間で放送を開始し、開始からわずか1か月で10%の視聴率を記録した人気番組(当時は生放送であった<ref name="読売新聞19720608">「ガップリ四つ ママとあそぼうピンポンパン おはよう!こどもショー」『[[読売新聞]]』1972年6月8日付朝刊、23頁。</ref>)となったが、続いて翌1966年10月にはフジテレビで『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』(以下『ピンポンパン』)が放送を開始した(『こどもショー』と異なり、当時は平日のみ放送)。『ピンポンパン』放送開始当時は両番組の間で放送時間が重複していなかった<ref group="注釈">1966年時点での放送時間は『おはよう!こどもショー』は7:15 - 8:15、対する『ママとあそぼう!ピンポンパン』は8:15 - 8:55であった。</ref>が、2年後の1968年4月に『ピンポンパン』が番組枠を5分拡大して45分番組になると同時に放送時間を8:00 - 8:45となり、一部時間帯で『こどもショー』と重複したことで視聴率争いが始まった。しかし、『ピンポンパン』の番組開始当時は後発だったこともあり、視聴率が3%程度に留まり<ref name="読売新聞19720322">「子どもにもてもて ピンポンパンの金森勢 ママよりおにいさんの一言」『読売新聞』1972年3月22日付夕刊、7頁。</ref>、当時は人気番組だった『こどもショー』の牙城を打ち崩せない状態が、しばらくの間続いていた。
『こどもショー』は翌1969年4月に放送時間を15分拡大して全曜日で7:15 - 8:30の1時間15分の番組となり、『ピンポンパン』と重複する時間が15分から30分に拡大するも、この頃より番組が徐々に認知され始めた『ピンポンパン』に視聴者が移行したことと、生放送からVTR放送に移行したことで新鮮さが失われた部分が出たことで、『こどもショー』は重複時間帯に入った時間以降の視聴率に陰りが見え始めた。対する『ピンポンパン』は同じ1969年4月に平日と同じ8:00 - 8:45の放送時間帯で土曜日版も放送するようになり、重複時間帯のみとはいえ、視聴率争いは徐々に激化するようになった。
しかしながら、同年10月に『こどもショー』が番組編成の都合上で7:15 - 8:00に放送時間を縮小したことで一旦は『ピンポンパン』との放送時間帯の重複が解消され、視聴率争いは一旦休戦状態となった。
この間『ピンポンパン』は1970年4月に全曜日で放送時間を8:10 - 8:55に移動するも、1971年10月に再度全曜日で放送時間を元に戻し、お姉さん役も[[渡辺直子]]から[[石毛恭子]]<ref group="注釈">両名とも当時フジテレビアナウンサー。</ref>に変更したが、放送時間を元に戻したと同時に体操コーナーの「[[ピンポンパン体操]]」が開始され、これが空前の大ヒットとなり、視聴率が一気に8%を超える日も出るなど、番組を代表するコーナーとなった<ref>「ピンポンパン体操の歌のレコード 二週間で三十万枚 視聴率も押し上げる」『[[読売新聞]]』1972年1月21日付朝刊、23頁。</ref>。対する『こどもショー』は、1970年10月に満を持して日曜版を7:15 - 7:55の40分番組として放送するようになり、1971年4月にはその日曜版を5分拡大して7:15 - 8:00の45分番組となったが、視聴率の伸び悩みを解消するまでには行かなかった(一方の『ピンポンパン』は日曜版の放送は行わなかった)。しかし同年6月より日曜版を子供視聴者参加型歌合戦「コンちゃんのトンカチうたじまん」(司会 - [[大村崑]]、[[石川牧子]](当時局アナ)、審査委員長 - [[山下毅雄]])に変更し、1975年3月まで続く人気企画となった。
ところが1972年1月、『こどもショー』が7:25 - 8:15に放送時間帯を移動したことで再び『ピンポンパン』と一部時間帯(8:00 - 8:15)で重複することとなり、重複時間帯における両番組間での視聴率争いが再開する。そこで日本テレビでは、「ピンポンパン体操」の大ヒットで危機感を持ったこともあり、『ピンポンパン』への視聴者流出対策として、『こどもショー』の大幅なテコ入れを実施することとなり、同年4月24日の放送より司会者を[[楠トシエ]]・[[石川進]](1日交代)から[[鶴間エリ]]に(同時に司会役の女性を『ピンポンパン』同様「お姉さん」と命名する)、マスコットをロバくん(声 - [[愛川欽也]]→[[富山敬]])<ref group="注釈">ロバくんは敵役のガマ親分(声 - [[加藤精三 (声優)|加藤精三]])と共に着ぐるみ人形から[[パペット]]に変更して、引き続き登場、同時にロバくんの声は[[田の中勇]]に変更された。</ref>からオットくん(声 - [[雷門ケン坊]])にそれぞれ変更し、番組内容も一部コーナーを廃止してその空いた枠に体操コーナーの「へんしんたいそう」や[[特撮]][[コーナードラマ]](通称・『怪獣コーナー』)を導入した。このコーナーは『[[レッドマン]]』を皮切りに、以後も『[[行け!ゴッドマン]]』、『[[行け!グリーンマン]]』、『[[行け!牛若小太郎]]』とシリーズ化され、1975年4月まで続いた<ref name="読売新聞19720608" />。これらのコーナーがかなりの好評となり、テコ入れに成功した『こどもショー』は、同年3月の視聴率は3%台(同時期の『ピンポンパン』の視聴率は7〜8%<ref name="読売新聞19720322" />)だったのに対して、7%台に急速に回復するなどの効果が表れた<ref name="読売新聞19720608" />。一方の『ピンポンパン』は引き続き「ピンポンパン体操」など、一部のコーナーは引き続き大好評だったものの、重複時間帯で視聴率を落とすこととなった。
その2年後の1974年4月、『こどもショー』は放送時間を7:00 - 7:45に移動して5分短縮、『ピンポンパン』も8:00 - 8:40にして『こどもショー』と同じく5分短縮したため、重複する時間が解消。重複時間帯での視聴率争いは再び休戦となった。しかしこの時期の『こどもショー』は頻繁に出演者を変更、1973年11月にはお姉さん役を[[海老名美どり]]、マスコットをニャンダ(声 - [[海野かつを]])にしたものの、その海老名が体操のお兄さん役の[[峰竜太]]と結婚したことで降板となり、1975年からはお姉さん役を[[関谷ますみ]]に変更した(ニャンダは継続)。
1975年10月、フジテレビは同じく子供向け番組である『[[ひらけ!ポンキッキ]]』(以下『ポンキッキ』)の放送時間帯が昼から朝に移動し、『ピンポンパン』の次の番組として8:15 - 8:45の枠で放送するようになり、その影響を受けて『ピンポンパン』は、平日に限り、7:45 - 8:15に放送時間を移動した(土曜日版も8:00 - 8:30に放送時間を縮小)が、開始から3年を経過していても「ピンポンパン体操」が依然として人気であり、また同年4月より子役男性グループの[[ビッグ・マンモス]]をレギュラー陣に加え、お姉さん役も[[酒井ゆきえ]]<ref group="注釈">当時フジテレビアナウンサー。酒井は1979年3月に番組を卒業。</ref>を起用するなど、著しい勢いで人気上昇していた『ピンポンパン』の視聴者が、『ポンキッキ』も引き続き視聴すると言う効果を生んだ。その『ポンキッキ』では、[[ガチャピン]]と[[ムック (キャラクター)|ムック]]の斬新なキャラクターや、番組内から生まれた楽曲「[[およげ!たいやきくん]]」がシングルレコード売上450万枚を超える空前の大ヒットとなり、話題となった<ref>この記録は、2023年現在も破られていない。</ref>。なお、『ポンキッキ』は土曜日の放送は行わなかった。対して、『こどもショー』の放送時間は、この時点では従来通り7:00 - 7:45のままであったので、2番組と重複する時間帯は引き続きなかったままであったが、その『こどもショー』は同時期に内容を大幅に変更した。平日は2部に分け、2部は今までの「こどもショー」としたが、1部は「トンカチうたじまん」の後継である「こどものどじまん」の曜日別戦、そして土曜は「こどものどじまん」のチャンピオン大会、日曜は観客である子供から参加者を募って歌わせる「こどものどじまん とびいりのどじまん大会」に変更、これに伴い「のどじまん」の司会は大村崑・石川アナから[[横山やすし・西川きよし]](後に[[青空球児・好児]])、審査委員長は[[谷啓]](後に[[ハナ肇]])にそれぞれ変更した。また1年後の1976年9月には日曜版を変更、番組で結成した少年野球チーム「おはよう!こどもショー モーニングス」が全国各地の少年野球チームとの試合を中継する「スポーツ・スペシャル 小学生野球大会」(実況 - [[志生野温夫]]、解説 - [[須藤豊]])となった。また、『ピンポンパン』のビッグ・マンモスに対抗して、『こどもショー』では男性アイドルグループの[[JOHNNYS' ジュニア・スペシャル]]を起用するようになって巻き返しを図った。
その後、1977年4月に『ピンポンパン』が7:30 - 8:00に放送時間を10分縮小するも15分繰り上げ、『ポンキッキ』も8:00 - 8:30に連動する形で移動したが、同時に『こどもショー』も平日・土曜日版を7:45 - 8:25に移動した(日曜日版は7:00 - 7:45で不変)ことで、日本テレビの『こどもショー』の放送時間帯が、フジテレビの2番組のそれと全時間帯で重複することとなり、ここに『ピンポンパン』&『ポンキッキ』VS『こどもショー』の視聴率争いがまたも始まることとなり、しかもその視聴率争いはこれまでよりも大きいものとなった。
『ポンキッキ』の時間移動効果もあり、フジテレビの2番組に視聴者が移行したことで急速に視聴率が激減した『こどもショー』側では、フジテレビに対抗する形で、1975年より1977年にかけてコーナーのリニューアル短期間のうちに幾度か実施し、古くなったコーナーを廃止したりする反面、新たに番組のオリジナルソングを制定した上で、その楽曲を歌うコーナーなどを新設したり、[[ピンク・レディー]]の小学生版との触れ込みで、当時双子の女子小学生歌手であり、後に[[チャイドル]]と言われるようになる低年齢アイドルの先駆けとなったリトル・ピンク<ref group="注釈">当時[[日本テレビ音楽学院]]に在籍し、日本テレビエンタープライズ(現[[日テレイベンツ]]所属)のアイドル歌手であった。このため、日本テレビ以外のテレビ局の番組には原則的に出演しなかった。内藤佳緒利(姉)・内藤佐緒利(妹)のコンビであった。</ref>を同年6月27日放送分よりレギュラーで起用<ref group="注釈">リトル・ピンクのデビューは1977年6月25日だが、デビュー当日は土曜日であったことと、平日版のレギュラーとして起用したので、実際の出演は同年6月27日からとなった。なお、平日版の終了と同時にリトル・ピンクはわずか2年足らずの活動期間で解散し、後に2人とも芸能界を引退した。</ref>するなどのテコ入れを図ったものの、ガチャピンとムックの人気キャラクターや人気楽曲を徐々に輩出するようになる『ポンキッキ』と、人気を引き続き維持していた『ピンポンパン』の前には、もはやチャイドルの起用だけでは視聴率向上の方策としては旨味に欠ける状況となり、『こどもショー』は次第に歯が立たなくなるようになった。またこの時期になると、『こどもショー』の出演者も、[[ディスクジョッキー]]で人気が出た[[つボイノリオ]]や、男性アイドル歌手の[[太川陽介]]が出るようになり、お姉さん役も同年10月より関谷に代わってデビュー間もない女性アイドル歌手の[[大場久美子]]へと交代し、「けでんと17号」のコーナーの主役<ref group="注釈">「けでんと」とは「飛んでけ」を逆読みにした言葉で、17号は当時点での大場の年齢(17歳)が由来であった。</ref>として出演するようになったが、人気アイドル歌手へのお姉さん役の交代も功を奏さず、また短期間で何度もテコ入れを繰り返して迷走状態になったこともあり、視聴率の低下に拍車が掛かった。
『こどもショー』に追い打ちをかけるように、『ピンポンパン』は「にっこり町」を舞台にしたコメディのコーナーをメインに据えるようになり、『ポンキッキ』も徐々にではあるが、歌以外のミニコーナーも充実させるようになった。この当時の『ポンキッキ』は『ピンポンパン』より視聴者が少なかったとはいえ、5%台の視聴率で推移した。それどころか『こどもショー』は、1978年4月より放送時間をフジテレビの2番組と全く同じ7:30 - 8:30となり、完全に競合してしまう。一方の『ピンポンパン』は同じく1978年4月より土曜日版の放送時間を平日と同じ7:30 - 8:00とし、さらなる攻勢を掛けてきたことで、平日版を含めて、この時間帯の『こどもショー』の視聴率をフジテレビの2番組はおろか、他のキー局の番組のそれにすら届かずに、キー局最下位にまで転落してしまう事態となった。
この時、人気が著しく落ちたものの、一部の親子での視聴者からはまだ支持されていた『こどもショー』に対して、再リニューアルも多数要望されていたが、上記の視聴率最下位にまで没落したことや、他のジャンルの番組との編成バランスの関連や、当時の日本テレビでは『こどもショー』以外の子供向け番組の縮小を実行に移していた事情<ref group="注釈">実際に1979年に『[[ロンパールーム]]』を終了している。</ref>などもあり、再リニューアルを見送り、終了することとした。平成以降であれば子供番組を夕方への放送時間枠の移動が検討されることもあるが、当時においては夕方の時間帯は『ピンポンパン』の再放送を例外とすれば、あったとしても子供向けの番組はアニメ及び特撮以外はあまり存在していなかったことや、当時の夕方の枠では1時間番組が編成しにくかった<ref group="注釈">当時の夕方の番組は30分番組が基本であった。</ref>こともあり、見送られた。
『こどもショー』は、フジテレビの2番組に敗れる形で、まず1979年3月2日に平日版を終了。最終日は14年間の総集編を放送した。次番組は子供向け番組から一転して大人向けの情報番組『[[ズームイン!!朝!]]』(以下『ズームイン』)となった。同年の翌3月3日には、土曜日版は日曜日版と同じ7:00 - 7:45に移動したものの、コーナーは「おはよう!のどじまん」程度しか設けられず、日曜日版も「小学生野球大会」を放送する程度までに整理されたことで、これらの版でも著しく視聴率が落ち、遂に1980年、『こどもショー』は番組を終了した。
平日版終了後も、日曜版のみ『[[おはよう!サンデー]]』が『こどもショー』の後継番組となったが、これもコーナー縮小の後、1987年に終了する。それと入れ替わるように、夕方に『[[とんでけグッチョンパ]]』を放送していたが、これも大きな人気を得るまでには至らず1988年9月で終了して、日本テレビは子供向け番組より一時撤退した。
1988年10月以降は放送枠(月曜17:00)の後継番組『[[それいけ!アンパンマン]]』(以下『アンパンマン』)がアニメとして、途中何度も放送曜日や時間を変更しながら、撤退した子供向け番組枠を実質的に継承することになる。その後、2002年7月から、毎週金曜夕方に人気女性アイドルグループの[[モーニング娘。]]や、その妹分にあたる[[ハロー!プロジェクト]]所属の女性アイドルを起用した『[[ティンティンTOWN!]]』を開始して子供向け番組に再参入し、2004年3月まで放送された。なお、『ティンティンTOWN!』の放送時間は『アンパンマン』の直前枠であり、連結放送されていた。同番組の終了を以って地上波から子供向けバラエティ番組から完全に撤退し、2023年時点に至るまで完全に放送を始めていない<ref group="注釈">ただし、日本テレビ系列であっても[[日本における衛星放送|BS放送局]]である[[BS日本|BS日テレ]]では2000年12月の開局当初から『アンパンマン』の派生バラエティ番組として『[[それいけ!アンパンマン#それいけ!アンパンマンくらぶ|それいけ!アンパンマンくらぶ]]』と呼ばれる過去のアニメ本編(2009年3月以前の[[標準画質映像|SD製作エピソード]])と実写パートを組み合わせた30分番組(2023年3月までは1時間番組)を月曜〜金曜8時30分からの[[帯番組]]として放送している。こちらは現在も継続し、無料BS放送局の子供番組における最長寿番組でもある。</ref>。
これらの他、1973年4月にはNETテレビ→[[テレビ朝日]]でも、日本テレビ系列からテレビ朝日系列に移動して間もない[[名古屋テレビ放送|名古屋放送(現:名古屋テレビ)]]が制作した『[[ブンブンバンバン]]』を放送、珍しく地方局制作の子供番組で『こどもショー』・『ピンポンパン』と三つ巴の戦いになるも壁は厚く、2年で終了。また『ブンブンバンバン』と同時期に『[[パンポロリン|あそびましょパンポロリン]]』を日曜日のみの放送にしたが、NETが1974年4月より教育専門局から一般局に変更されるのに先駆け、1973年10月より平日10時台に変更、その後は『[[パンポロリン|とべとべパンポロリン]]』に改題したり、枠を10時台や16時台などに変えていたが、1975年10月より8:01<ref group="注釈">1分遅いのは『[[レースガイド]]』が8:00 - 8:01に設置されているため(当時はNET→テレビ朝日が在京キー局での放送だった)、</ref> - 8:30に変更、『こどもショー』や『ピンポンパン』・『ポンキッキ』と2度目の三つ巴となったが、わずか半年で『[[パンポロリン|とびだせ!パンポロリン]]』に改題して10時台や16時台で放送、その後1978年4月より2年振りに8:00 - 8:30に戻り、お姉さん役も『あそびましょ』時代からの[[山田美也子]]から竹田芳子に交代して、三度三つ巴(今度は『ピンポンパン』は関わらず)となるも、壁の厚さとお姉さんの交代がうまくいかず、またも半年で16時台に移動、同時にお姉さん役も[[アニソン歌手]]・[[かおりくみこ]]に変更、1980年まで続いた。
1977年4月から2年間の直接対決では[[団塊ジュニア]](1971年 - 1974年生)世代が幼児であり、『こどもショー』より対象年齢の低いフジテレビの勝利となったが、『ピンポンパン』『ポンキッキ』の天下は短く、団塊ジュニア世代が小学校に進学すると視聴率が下降し始める。1979年4月に開始された『[[おはようスタジオ]]』(東京12チャンネル→[[テレビ東京]])が当初は大人向けの[[ワイドショー]]として始めたが、児童世代における視聴独占率の高さから事実上の子供向けワイドショー(当時としては珍しめの児童向け子供番組)へと転向を計り、ターゲットの関係で番組キャラクターを置かず、番組[[スポンサー]]([[日本財団|日本船舶振興会]])の流れから同会[[会長]]の[[笹川良一]]{{efn|当番組の[[タイムCM]]でも放送され、子供向けに作られた[[日本防火・防災協会|日本防災協会]]との連名啓発[[コマーシャルメッセージ|CM]]に主役として出演した影響も兼ねていた。}}や、[[ハドソン]]所属の[[サラリーマン|社員]]である[[高橋名人]]{{efn|高橋名人のゲスト出演回は、意図的に[[ファミリーコンピュータ]]を題材とした回とした。}}など、児童層の有名人を常連[[ゲスト]]として据えたことで『ピンポンパン』『ポンキッキ』と『ズームイン』の間の世代(小中学生)を取り込んで健闘する。『ピンポンパン』は1980年3月に土曜版を終了、1981年末には同番組の人気キャラクターであったカータン<ref group="注釈">[[河童]]がモチーフであった。</ref>(声 - [[大竹宏]])を卒業させ、翌1982年1月から、バビちゃん<ref group="注釈">兎がモチーフだった。</ref>(声 - [[あきやまるな]])に交代させるも、人気を得るまでには至らず、同年3月『ピンポンパン』は15年半の歴史に幕を閉じ<ref group="注釈">ただし終了直後の同年4月、土曜8:00に設置された単発枠『[[雑学百科]]』で『ピンポンパン』の派生番組を6回放送([[ママとあそぼう!ピンポンパン#備考|詳細]])、またこの『雑学百科』では『ポンキッキ』の派生番組も放送された。</ref>、1982年4月から1988年3月までの7:30 - 8:00はアニメの再放送枠となる。一方の『ポンキッキ』は幼児向けの番組制作費やスポンサーを集約させることで[[少子化]]を乗り切る[[長寿番組]]となり、1993年10月『[[ポンキッキーズ]]』にリニューアルした。『ポンキッキーズ』は放送時間やタイトルの変更の繰り返しや、1999年10月より、月〜金の帯番組から毎週土曜日の週一放送に縮小はあったものの、地上波放送は2007年3月まで続いた{{efn|同年4月以降の[[ポンキッキシリーズ]]は[[BSフジ]]へと移行し、2023年現在の構成番組は『[[ガチャムク]]』である。}}。1992年10月には、[[コンピューターグラフィックス|CG]]を多用した異色の子供番組『[[ウゴウゴルーガ]]』を開始。[[絵本]]を[[原作]]とした有名[[コンテンツ]]である「[[ノンタン]]」シリーズの初アニメ化作品である『ノンタンといっしょ』を[[コーナー]]アニメとしての展開を売りにし、『ピンポンパン』終了以来10年半振りに子供番組2体制に戻るも、僅か1年半でこの番組自体が終了した。
;平日朝子供向け番組 放送時間の変遷
:*フジテレビ:『ピンポンパン』、『ポンキッキ』
:*日本テレビ:『こどもショー』、『[[カリキュラマシーン]]』
:*昭和おはスタ:『おはようスタジオ』(東京12チャンネル→テレビ東京)
:{| class="wikitable" style="font-size:small;"
!年月!!フジテレビ!!日本テレビ!!重複!!備考
|-
|1966.10|||08:15 - 08:55||rowspan="2"|07:15 - 08:15||なし||『ピンポンパン』開始
|-
|1968.04||rowspan="3"|08:00 - 08:45||15分||
|-
|1969.04||07:15 - 08:30||30分||
|-
|1969.10||rowspan="3"|07:15 - 08:00||rowspan="3"|なし||
|-
|1970.04||08:10 - 08:55||
|-
|1971.10||rowspan="2"|08:00 - 08:45||
|-
|1972.01||07:25 - 08:15||15分||
|-
|1974.04||08:00 - 08:40||rowspan="2"|07:00 - 08:00||なし||『カリキュラ』開始
|-
|1975.10||07:45 - 08:45||15分||『ポンキッキ』朝枠開始
|-
|1977.04||rowspan="3"|07:30 - 08:30||07:30 - 08:25||55分||
|-
|1978.04||07:30 - 08:30||60分||
|-
|1979.03||平日版終了||なし||『ズームイン』開始
|-
!年月!!フジテレビ!!昭和おはスタ!!重複!!備考
|-
|1979.04||rowspan="2"|07:30 - 08:30||07:30 - 08:30||60分||
|-
|1981.04||rowspan="2"|07:05 - 08:05||35分||
|-
|1982.04||rowspan="5"|08:00 - 08:30||{{0}}5分||『ピンポンパン』終了
|-
|1984.04||07:00 - 07:54||rowspan="2"|なし||
|-
|1985.04||07:15 - 08:00||
|-
|1986.04||07:25 - 08:15||15分||
|-
|1986.07||番組終了||なし||テレ東はアニメ枠に
|}
==== 日曜19時クイズ番組戦争 ====
関西広域圏の放送局が製作する番組同士の争いでその競争期間もごく短期ではあったものの、いずれも全国ネット番組でクイズ番組間での視聴率対決として視聴率争いを繰り広げていた。
1963年10月より毎日放送の制作によって日本教育テレビ(NET。現・[[テレビ朝日]])系列で全国ネットによる放送を開始した『[[アップダウンクイズ]]』(以下『アップダウン』)は、放送時間を19時から19時30分までの30分番組ながらも、約22年に及ぶ長寿番組となり、10問正解してハワイ旅行が獲得できるクイズとして人気を博し、スタート当初は初代出題者、翌1964年4月より二代目司会者となる[[小池清]]と1972年11月より3代目出題者に就任した[[佐々木美絵]]とのコンビ<ref group="注釈">両名とも当時毎日放送アナウンサー。</ref>も番組名物となった。
この間1960年代はTBSの『[[タケダアワー]]』、1970年代前半はフジテレビの[[フジテレビ系列日曜夜7時台枠のアニメ|アニメ枠]](1971 - 1972年の『[[ミラーマン]]』のみ特撮)と鎬あいを続け、特に前者での『[[柔道一直線]]』と後者での『[[アタックNo.1]]』がそれぞれ放送されていた1969年頃には、その影響で『アップダウン』は視聴率を落としたが、どちらも同じ「スポーツを題材にした漫画原作を映像化したドラマ・アニメ作品(通称・[[スポ根]]もの)」でありながら、視聴者層がそれぞれの番組で異なっていたのと、両番組の開始を機に、それまでこの時間帯にテレビを見ていなかった年齢層が両番組を中心に見るようになり、それによって全体のテレビ視聴者数が多くなったことで、両番組放送開始の影響による視聴率の低下はごくわずかで済んた。視聴者層は『柔道一直線』では主に小学生 ~ 高校生の男子、『アタックNo.1』では同じく小学生 ~ 高校生の女子、『アップダウン』は主に大学生以上の男女が視聴者の中心層であった。なお、『柔道一直線』は1971年4月に、『アタックNo.1』は同年11月にそれぞれ終了してからは、その視聴者層の一部が『アップダウン』に移行し、結果として視聴率が上昇したのみならず、同番組の視聴者層が幅広くなった。
その後、『アップダウン』が1975年3月31日の[[ネットチェンジ|腸捻転解消]]でNETよりTBSへ移動後は、日本テレビの『[[びっくり日本新記録]]』([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作。途中2度にわたる中断あり)や、東京12チャンネル→テレビ東京の若者向け歌謡バラエティ番組『[[ヤンヤン歌うスタジオ]]』まで加わり、『アップダウン』を失ったNETは一気に人気低下、NETがテレビ朝日に社名変更した1977年4月に、土曜19:00から[[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]]制作・[[日本メナード化粧品]][[一社提供]]のクイズ番組『[[三枝の結婚ゲーム]]』が移動、以後メナード提供のクイズ番組{{efn|1980年 ~ 1981年放送の『[[ニコニコ訪問]]』は後半からクイズを廃止した。}}を継続したが、『アップダウン』には歯が立たず、1981年5月開始の『[[ヒラメキ大作戦]]』継続中にメナードが降板、そして終了後の同年10月からは[[テレビ朝日金曜7時30分枠の連続ドラマ|金曜19:30]]から[[児童向けドラマ]]『[[レッドビッキーズ|それゆけ!レッドビッキーズ]]』(以下『レッドビッキーズ』)が移動(同時に制作もテレビ朝日から朝日放送に移動)、クイズ路線が中断した。
『レッドビッキーズ』終了後の翌1982年4月より放送開始の『[[三角ゲーム・ピタゴラス]]』からクイズ路線を復活、そしてその翌1983年3月に、朝日放送(現[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]])がこれまで関西ローカルの番組で日曜日午前11時台に放送していた『[[世界一周双六ゲーム]]』(以下『双六ゲーム』)を『アップダウン』と全く同じ放送時間帯に移動させて全国ネット化したことで同番組の裏番組となり、ここにMBS対ABCのクイズ番組間での本格対決が始まった。
純粋に出題者がクイズの問題を出してそれに解答者が答えるという、当時は一般的なクイズ番組のシステムであった『アップダウン』に対して、『双六ゲーム』はクイズに正解すれば双六にチャレンジする権利が与えられる、ゲーム性を混在させた番組構成が視聴者に大受けし、『アップダウン』は急速に視聴者を『双六ゲーム』に奪われる形で視聴率が激減した。
このため同年10月に『アップダウン』は大幅な内容のリニューアルを実施することを決め、司会を小池から俳優の[[西郷輝彦]]に交代し、「この人クイズ」などの廃止とそれに代わる「リポータークイズ」「シンクロクイズ」を新設しクイズのルールも一部変更。番組セットも全面的に更新した。ところがこのテコ入れは失敗に終わり、クイズのルールも1984年4月に一部を除き元に戻すなどの迷走状態になった。その一方で『双六ゲーム』は前述のゲーム性の要素のある番組構成だけでなく、司会の[[乾浩明]]<ref group="注釈">当時朝日放送アナウンサー。</ref>による進行も話題となったことで、一気に視聴率を上げた。『アップダウン』とは対照的に、『双六ゲーム』では番組の内容をあまり変えなかった(全国ネット化時にオーロラコースの追加と他の解答者とコマが重複した場合に6つ下げるルールを逆に6つ進ませるルールに変更した程度)。
1984年に入っても『アップダウン』は視聴率の低下に歯止めがかからず、1985年には特別番組やスポーツ中継で休止になることも多くなった。そして毎日放送は同年秋に『アップダウン』の終了を決断した。
しかし『アップダウン』との視聴率争いに勝利を収めた『双六ゲーム』も、1985年秋以降も引き続き高い視聴率を維持していたものの、今度は1985年3月に始まったフジテレビのアニメ『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』に視聴者が徐々に流出するようになり、翌1986年春に終了した。
毎日放送では『アップダウン』の終了後は、同じクイズ番組である『[[クイズ!!ひらめきパスワード]]』を開始させたが、この番組が芸能人出演型にリニューアルされた翌1986年4月6日以降は、芸能人と司会の[[野村啓司]]<ref group="注釈">当時毎日放送アナウンサー。この番組の大ヒットで野村は前番組司会だった小池と同様に全国的に有名となった。</ref>とのトークのやり取りが好評を得たことと、『双六ゲーム』が終了したこともあり、視聴率が急速に上昇し、以後番組が終了する1992年3月までの間、裏番組の『タッチ』(同番組は1987年3月に終了)と互角の高視聴率を維持する番組となった(野村は1990年限りで司会者を勇退。翌1991年より後任は俳優で野村の高校の先輩でもある[[山城新伍]]が務めた)。
==== 木曜21時戦争及びとんねるず包囲網 ====
1970年代後半から80年代前半にかけて、木曜21時は[[TBSテレビ|TBS]]の『[[ザ・ベストテン]]』(以下『ベストテン』)が一強状態であったが、1988年頃になると、『ベストテン』の人気にも陰りが出始め視聴率が1桁の回もあった<ref>1988年3月31日放送分関東地区・ビデオリサーチ社調べ</ref>。フジテレビは10月、人気を誇った[[とんねるず]]の初ゴールデン冠番組として『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』(→『[[ラスタとんねるず'94]]』→『[[とんねるずの本汁でしょう!!]]』→『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』)を開始。レギュラー初回は14.9%だったものの、翌1989年の年間平均視聴では24.4%を記録し、一気に『ベストテン』を破り、この年の10月には放送終了に追い込んだ。
{{main|ザ・ベストテン#1988年 - 番組の終了|とんねるずのみなさんのおかげです#概要}}
『おかげです』はその年から1994年<ref group="注釈">1994年は3月まで放送された第2期のみの平均でトップを獲得。10月から再開された第3期を含めた平均視聴率では5位となる。</ref>まで6年連続で年間バラエティ番組平均視聴率ランキング第1位を獲得することになった。
TBSはベストテン終了後の1989年10月、この時間帯を13年ぶりに連続ドラマ枠として、『[[愛し方がわからない]]』を皮切りに翌年10月からスタートした『[[渡る世間は鬼ばかり]]』に代表されるホームドラマや、[[石ノ森章太郎]]の人気漫画を実写ドラマ化した『[[HOTEL (テレビドラマ)|HOTEL]]』、後述の『[[3年B組金八先生]]』をレギュラー放送では7年ぶりに復活。それらの作品を人気ドラマとして定着させた<ref group="注釈">なお、『ベストテン』の「事実上の後番組」である『[[音楽派トゥギャザー]]』は、従来の放送時間より1時間繰り下がり、22時からの放送開始になったものの、わずか約3ヶ月(全10回)の短命で放送終了となった。</ref>。テレビ朝日も『[[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]]』を維持。テレビ東京の『[[木曜洋画劇場]]』(以下『木曜洋画』)もコアな視聴層を固めた。2000年代以降はテレビ朝日が『[[交渉人〜THE NEGOTIATOR〜|交渉人]]』、『[[ドクターX〜外科医・大門未知子〜|ドクタ-X]]』、『[[リーガルV〜元弁護士・小鳥遊翔子〜|リーガルV]]』など[[米倉涼子]]主演作のヒットに恵まれ、また日本テレビは1995年10月からスタートした『[[輝け!噂のテンベストSHOW]]』を皮切りに『[[どっちの料理ショー]]』、『[[ニッポン旅×旅ショー]]』、『[[秘密のケンミンSHOW]]』といった[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作バラエティー番組も支持を得て、再びこの時間帯の視聴率争いが激化。テレビ東京は40年以上続いた『木曜洋画』を2009年4月改編で打ち切り、TBSは2015年10月改編で長年続いた連続ドラマ枠(『[[木曜ドラマ9]]』→『木曜ドラマ劇場』)を廃止し、『[[ニンゲン観察バラエティ モニタリング]]』を19時56分(後に20時開始に変更・短縮)開始の2時間番組に拡大。そしてフジテレビでは[[2018年]](平成30年)4月改編で『おかげでした』が終了、その後番組に[[坂上忍]]の冠情報バラエティ『[[直撃!シンソウ坂上]]』を開始したが2年半で終了し、2020年10月からは[[千鳥 (お笑いコンビ)|千鳥]]の冠お笑いバラエティ番組である『[[千鳥のクセがスゴいネタGP]]』を開始して、2023年4月からは当番組は日曜19時に移行しタイトルも『[[千鳥のクセスゴ!]]』に改題。代わりに『[[私のバカせまい史]]』を開始し、視聴率争いはさらに激しいものとなっている。
{{main|とんねるずのみなさんのおかげでした#番組の歴史|木曜ドラマ (テレビ朝日)#概要}}
==== 平日22時ニュース戦争 ====
1985年、テレビ朝日は社運をかけてそれまで23時台に放送されていた深夜ニュース番組を1時間繰り上げ、22時からにする<ref group="注釈">番組開始当初は金曜に限り23時からのままであった。これは当時金曜22時枠に朝日放送制作の人気時代劇『[[必殺シリーズ]]』が存在していたからである。</ref>ことを決定、番組名を『[[ニュースステーション]]』(以下Nステ)とした。司会には[[TBSテレビ|TBS]]の人気音楽番組『ザ・ベストテン』で司会を務めていた[[久米宏]]に白羽の矢を立てた。久米はキャスター就任を了承したが、秘密裏に進められた計画であった為、共演者の[[黒柳徹子]]へもこの事を伝えないまま、同年4月25日放送分を最後に『ザ・ベストテン』の司会を降板した。
{{main|ニュースステーション#初期(1985年10月 - 1988年4月)|久米宏#『ニュースステーション』のキャスター (1985年 - 2004年)}}
同年10月に『Nステ』の放送が始まると、中高生にわかりやすいニュースをコンセプトにした内容が功を奏し、高視聴率を獲得したが、TBSの首脳陣は一連の久米の行動に激怒。諏訪博会長の号令により「報道のTBS」の面子と社運を懸けて、打倒『Nステ』を目指し22時台のニュース帯番組を製作し、『Nステ』にぶつける計画を立てた。しかし、計画はキャスター選びから難航した。当初、白羽の矢を立てたのは、『ザ・ベストテン』時代の久米の共演者の黒柳徹子だった<ref>山田修爾 『ザ・ベストテン』 ソニー・マガジンズ、2008年12月25日、205-208頁。</ref>が、黒柳が拒否すると朝日新聞社員だった[[筑紫哲也]]にキャスター就任を要請した。ところが、テレビ朝日がTBSに猛反発、遂には朝日新聞とTBS両社のトップ会談が開かれる事態になった<ref>筑紫哲也 『ニュースキャスター』 集英社〈集英社新書〉、2002年6月</ref>。その後、TBSは[[森本毅郎]]をキャスターに据えて1987年10月から『[[JNNニュース22プライムタイム]]』(以下プライムタイム)をスタートしたが、視聴率で『Nステ』に勝てなかったばかりか、森本に女性スキャンダルが発覚した為、1年で森本も降板して新たに[[小川邦雄]]がキャスターに迎え、番組タイトルを『[[JNNニュースデスク'88・'89|JNNニュースデスク'88(→'89)]]』に変更するも、結局『プライムタイム』放送開始から2年後の1989年9月、22時台のニュース帯番組から撤退した。その後、TBSは筑紫をキャスターに据えた『[[NEWS23]]』を翌月から放送開始した。
{{main|筑紫哲也 NEWS23#放送開始の経緯|筑紫哲也#生い立ちと朝日新聞社時代}}
その後、2000年3月27日に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]が新たに平日22:00に『[[NHKニュース10]]』を設置、『Nステ』もこれに対抗して放送時間を21:54に繰り上げた。それでも『Nステ』の牙城は崩れないものの、2004年4月からはキャスターを[[古舘伊知郎]]に交代、タイトルも『[[報道ステーション]]』に変更した。結果『ニュース10』はTBSより放送期間は長かったものの、2006年3月31日で打ち切られて『[[ニュースセンター9時|NC9]]』以来の伝統枠だった21時台に『[[ニュースウオッチ9]]』として戻り、再びテレビ朝日の独壇場となる。
{{main|報道ステーション#第1期・古舘時代|NHKニュース10#概要}}
それでもNHKはこの時間帯の報道情報系番組を放送しており、19時台後半の放送だった『[[クローズアップ現代+]]』を[[2016年]](平成28年)4月改編で22時台に移動、『報ステ』に対抗するようになった。その後、2022年(令和4年)4月の改編で再び19時台後半に戻ることが同年2月に発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/02/09/kiji/20220209s00041000459000c.html |title=「クローズアップ現代」6年ぶりゴールデン復帰 桑子真帆アナがキャスター就任に驚き「息が止まりそうに」 |accessdate=2022-03-07 |date=2022-02-09 |website=スポーツニッポン}}</ref>。
{{main|クローズアップ現代+#歴史}}
2021年、今度は[[テレビ東京]]が23時から放送している『[[ワールドビジネスサテライト]]』を同年3月29日から1時間繰り上げて、22時スタートすること<ref group="注釈">2021年4月2日以降も23時スタートを継続する金曜日を除く。</ref>を同年1月の改編会見で発表した。同局の[[石川一郎 (ジャーナリスト)|石川一郎]]社長は『報ステ』と放送時間が重なることについて、「(『報ステ』を含む)22時台はザッピングも非常に多い。ネット、SNSを含めて生き残っていくためには今日の経済事案は何かをきちんと整理して明日以降の生活、経済活動に生かせる材料を伝えたい」と語っている<ref>{{Cite web|和書|title=テレ東「WBS」4月から1時間繰り上げ午後10時|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202101250000387.html|website=日刊スポーツ|accessdate=2021-01-25|publisher=|date=2021-01-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=テレ東「WBS」1時間繰り上げ発表 大江麻理子キャスター「視聴者に寄り添うための選択」|url=https://encount.press/archives/135014/|website=ENCOUNT|accessdate=2021-01-25|publisher=|date=2021-01-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=テレ東「WBS」夜10時へ放送枠移動、大江麻理子キャスター「改めて気を引き締め直して」|url=https://thetv.jp/news/detail/1018488/|website=ザテレビジョン|accessdate=2021-01-25|publisher=|page=1|date=2021-01-25}}</ref>。
==== 札幌戦争 ====
[[北海道]]地区の[[夕方ワイド番組]]における視聴率争いで、[[札幌テレビ放送]](STV)が1991年10月に始めた『[[どさんこワイド|どさんこワイド120]]』を中心としたものである<ref>「[http://www.tsukuru.co.jp/gekkan/gekkan94.html#anchor227845 自社制作ワイドで火花を散らす“札幌戦争”]」『[[創 (雑誌)|創]]』1994年7月号、[[創出版]]。</ref>。
1989年10月、[[北海道文化放送]](UHB)が道内初の夕方ワイド番組となる『[[TVポテトジャーナル]]』をスタートさせた。視聴率は当初苦戦していたが、次第に2桁を取る週が出るようになる。STVは2年後の[[1991年]]に『どさんこワイド』をスタートさせる。『どさんこワイド』も『TVポテトジャーナル』同様、視聴率は当初は苦戦したものの、次第に視聴率が向上する。『どさんこワイド』の成功を受け、[[北海道放送]](HBC)は1993年10月に『[[HBCゆうやけワイド・テレビ一番星]]』を16時から19時までの3時間、『[[テレポート6 (北海道放送)|テレポート6]]』を内包する形で開始するが、STVも『どさんこワイド』の放送時間を『テレビ一番星』と同じ16時から19時までの時間帯まで拡大させ、両番組が同じ時間帯で放送されることになり、結局「一番星」は1年で終了。その後もHBCは「4時からワイド一番星」→「いきいきテレビ特急便」→「気になるパンプキン」→「情報ワイドビタミンH」・「夕刊5時ダス」→「[[ビタミンTV]]」と放送するがいずれも「どさんこ」の前に敗退。短期間で終了に追い込まれた。
その後夕方ワイド番組はHBC・STV・UHBの巴戦が続いていたが、UHBは1993年10月に『TVポテトジャーナル』から番組名を変更した『ポテト』を1994年9月に終了させ、ドラマの再放送枠に戻る。その後[[北海道テレビ放送]](HTB)が1999年4月に『[[情報ワイド 夕方Don!Don!]]』を17・18時台でスタートさせ夕方ワイド番組の視聴率争いに参入した。さらには2002年にはNHK北海道が『[[ほくほくテレビ]]』を、2003年にはTVhも『[[おばんでスタ!]]』をそれぞれスタートさせ、夕方ワイド番組争いに参入するがどちらも撤退した。2003年4月にHTBは『[[イチオシ!!|イチオシ!]](現・イチオシ!!)』にリニューアルし、2005年4月からは16時台にも放送枠を拡大。スポーツ情報を取り入れるなど若年層に照準を絞って軌道に乗せた<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=【今月号特選記事】HBC「今日ドキッ!」MC・グッチーが3月末降板の“確定情報” {{!}} 財界さっぽろ |url=https://www.zaikaisapporo.co.jp/news/news-article.php?id=16520 |website=財界さっぽろ ONLINE |accessdate=2022-03-31 |language=ja |last=株式会社財界さっぽろ}}</ref>。2006年4月、HBCは16時台『ビタミンTV』および18時台の『テレポート2000』を合体させた新番組『[[Hana*テレビ]]』をスタート。その後、2010年には『[[今日ドキッ!|グッチーの今日ドキッ!]](現・今日ドキッ!)』をスタート。当初の視聴率は3%程度と低迷したが、大幅リニューアルを行い、大幅リニューアルを行うなどテコ入れして、STV・HTBととの三つ巴と言えるまでに数字を伸ばした<ref name=":2" />。
2011年4月、一時期夕方ワイド番組から撤退したUHBは夕方ワイド番組『[[U型テレビ]]』をスタートさせた。その後、2014年には午前の『さあ!トークだよ』を終了させ自社制作のローカルワイド帯番組を午後に集約。今までの『U型テレビ』をリニューアルさせ、『[[U型ライブEXPRESS]]』・『[[U型ライブ]]』・『[[Super NEWS U]]』を編成。14時から19時までの大半を自社制作のローカルワイド帯番組が占める事となった。しかし同年10月『U型ライブEXPRESS』の打ち切りを発表、夕方の大型改編は大失敗に終わる。2015年、UHBはこれまで放送されてきた『U型ライブ』・『Super NEWS U』の枠を統合させた新番組『[[みんテレ|みんなのテレビ]]』がスタート。なおUHBにとっては、開局以来初めて3時間の自社制作大型情報ワイド番組を編成。[[2019年]][[4月1日]]には『'''みんテレ'''』を正式タイトルに変更して実質新番組扱いとしてリニューアル。2020年4月改編にて、『みんテレ』を16時台から撤退し、約2時間に短縮した。HBCも2022年4月改編より、『今日ドキッ!』を16時台から撤退し、約2時間に短縮した。これに伴い、自主制作で16時台から18時台まで放送しているのは、STV『どさんこワイド』とHTB『イチオシ!!』のみとなった。
==== 金曜20時戦争 ====
1970年代から1980年代にかけて金曜20時に放送された『[[太陽にほえろ!]]』(日本テレビ)と『[[ワールドプロレスリング]]』(テレビ朝日)、TBSのドラマ・バラエティ番組の視聴率争いを中心としたものである。『太陽にほえろ!』と『ワールドプロレスリング』の両番組は、ほぼ同時期にスタートし同時期に終了や枠移動を行っている<ref group="注釈">スタートは『太陽にほえろ!』が1972年7月21日、『ワールドプロレスリング』が1972年7月28日(放送開始時のタイトルは『NET日本プロレスリング中継』、1973年4月6日より[[新日本プロレス]]中継番組として『ワールドプロレスリング』に改題)、終了が『太陽にほえろ!』は1986年11月14日(第一期)、『ワールドプロレスリング』が1986年10月に放送枠移動</ref>。当時、日本プロレスの中継は日本テレビとNET(現テレビ朝日)の2局で放送を行っていたが、日本プロレスの意向により日本テレビは[[ジャイアント馬場]]の試合を、NETは[[アントニオ猪木]]の試合を中心に放送していた。その後、日本プロレスから猪木が除名追放されたことを機に、NET首脳陣は馬場の試合中継を要求。日本プロレス幹部がこれに応じたため、日本テレビ側が激怒。1972年5月、放送していた『[[日本プロレス中継]]』を打ち切り、7月21日から金曜夜20時枠に刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の放送を開始した。{{main|日本プロレス#崩壊|日本プロレス中継#実況中継終了}}
{{see also|ジャイアント馬場#猪木のクーデターと放送問題|上田馬之助 (プロレスラー)#密告事件}}
一方のNETは、『太陽にほえろ!』の放送開始から1週間後の7月28日より、同じく金曜夜20時枠に『[[NET日本プロレスリング中継]]』のタイトルでプロレス番組を開始した(翌1973年4月より、その前年1月に猪木が設立した[[新日本プロレス]]の試合中継を放送するのを機に『ワールドプロレスリング』に再改題)。当初、日本テレビは『太陽にほえろ!』の放送を1クールで終了させ、<ref>石原慎太郎著『弟』より抜粋</ref>10月から馬場が設立した[[全日本プロレス]]の中継番組を『ワールドプロレスリング』に直接ぶつける計画があった<ref>日刊ゲンダイ 2008年10月18日号</ref>。しかし、『太陽にほえろ!』が高視聴率を記録したため、『全日本プロレス中継』は「お化け番組」と呼ばれた『8時だョ!全員集合』にぶつける事となった(詳細は前述の「[[#土曜夜戦争]]」を参照)。その後、『太陽にほえろ!』が、新人や無名の若手俳優を主演の新米刑事として出演させ、成長させるパターンで安定した視聴率を稼いだのに対し、『ワールドプロレスリング』が、猪木を中心とした「[[ストロングスタイル]]」をメインに、「過激なプロレス」(「ハイスパート・レスリング」とも呼ばれた)や、「[[異種格闘技戦]]」路線で高視聴率を挙げた。
{{main|太陽にほえろ!#太陽にほえろ! 誕生まで|全日本プロレス中継#土曜20時枠時代}}
{{see also|日本プロレス#団体崩壊後|ワールドプロレスリング#放送開始 - 古舘の全盛期}}
両番組のために低迷していた[[TBSテレビ|TBS]]は[[1979年]]秋から、学園ドラマの『3年B組金八先生』(以下『金八先生』)を放送。『金八先生』は放送開始するや瞬く間に巷の話題となって視聴率が毎回上がり続け、視聴率争いは三つ巴となる。『金八先生』は半年後の終了前には30パーセントを超える視聴率を毎回獲得して『太陽にほえろ!』と『ワールドプロレスリング』を完全に逆転した。特に『金八先生』第1シリーズの最終回は関東地区で39.9パーセントの視聴率を記録した<ref>ビデオリサーチ社調べ</ref>。同日、『太陽にほえろ!』は400回スペシャルを放送したが視聴率は『金八先生』の半分以下18.8パーセントに終わる<ref>関東地区・ビデオリサーチ社調べ</ref>。『金八先生』第1シリーズ終了後もTBSは『金八先生』と舞台設定を同じにした学園ドラマ(通称・『[[桜中学シリーズ]]』)をこの時間帯に敷いてリードを保った。しかしその間にも『太陽にほえろ!』は見所であった殉職降板<ref group="注釈">希に事故死、病死、転勤、研修、退職による降板もあった。</ref>や新刑事登場を連発して巻き返しを図り、『ワールドプロレスリング』側も1981年4月、同時期にテレビ朝日系列で放送がスタートしたテレビアニメ『[[タイガーマスク二世]]』とのタイアップ企画によって誕生した[[佐山聡|タイガーマスク]](初代)の登場、そしてデビュー。ライバル団体全日本プロレスとの外国人レスラーの引き抜き合戦、同年8月に崩壊した国際プロレスの残党([[ラッシャー木村]]、[[アニマル浜口]]、[[寺西勇]])によって結成された「[[国際軍団]]」や、[[長州力]]率いる「[[維新軍団]]」<ref group=注釈>結成当初は「はぐれ狼軍団」、または「革命軍」とも呼ばれた。</ref>を登場させ、猪木率いる本隊にあたる「新日正規軍」を加えた三つ巴の軍団抗争や、正規軍・[[藤波辰巳]]と維新軍団・長州との「名勝負数え歌」が人気を呼んだ。特に、後に維新軍団に加わる[[小林邦昭]]がタイガーマスクのマスクを剥ぎにかかるシーンが放送されると、タイガーの正体の見たさに視聴率が上昇した<ref>夕刊フジ 2013年5月6日号</ref>。その反抗の影響と、『桜中学シリーズ』自体もシリーズを重ねて飽きられ始めると、再び三つ巴の様相となっていったものの、『桜中学シリーズ』は徐々に視聴率を落とし、ついに1983年3月、『[[3年B組貫八先生]]』を最後に金曜20時枠での放送を終了した<ref group="注釈">『桜中学シリーズ』もスペシャル版を除くと、『金八先生』の第3シリーズ(ただし、ここでの舞台は「桜中学」ではなく、「松ヶ崎中学」である)として、1988年10月に月曜21時枠で放送を再開するまで約5年半中断したが、その後『金八先生』のみ、1995年10月からの第4シリーズ開始以降は、時折ブランクを挟みながら断続的に第8シリーズまで毎週木曜21時に放送され、前述の「木曜21時戦争及びとんねるず包囲網」に加わり、裏番組であるフジテレビ系のとんねるずのバラエティ番組と視聴率を争う事となる。ただし、2004年10月から放送の第7シリーズのみ、毎週金曜22時から放送された。</ref>。
{{main|桜中学シリーズ#作品・放送リスト|3年B組金八先生#概要}}
『桜中学シリーズ』終了後、しばらくの間は児童や若者向けのドラマを中心に放送していたTBSは、[[1986年]]5月に絶大な人気を誇っていたビートたけしをメインに据えた、視聴者参加型バラエティ番組『[[痛快なりゆき番組 風雲!たけし城|風雲!たけし城]]』(以下『たけし城』)をスタートさせると、視聴率が逆転し金曜20時の視聴率の覇権を収めた。対する日本テレビは主演の[[石原裕次郎]]の体調不良もあって、『太陽にほえろ!』の終了を決断(石原未出演の[[太陽にほえろ!PART2|PART2]]を含めると、番組は翌1987年2月で終了。石原は同年7月に死去)。テレビ朝日も1986年10月、『ワールドプロレスリング』を月曜20時へ移動させ、音楽番組『[[ミュージックステーション]]』(以下『Mステ』)の放送を開始した。
しかし、これら長寿番組だった両番組を打ち切り(『太陽にほえろ!』)や放送時間変更(『ワールドプロレスリング』)に追いやった『たけし城』だが、前述のフライデー襲撃事件により、看板だったビートたけしと襲撃に参加したたけし軍団が芸能活動謹慎となったことで、番組を降板して一時の勢いが衰えてしまう。彼らは事件から約半年後に番組に復帰したものの、勢いを取り戻すことはできず、1989年4月に『たけし城』はレギュラー放送を終了した。
一方、『Mステ』は放送開始当初は視聴率を取れなかったが、放送開始から約半年後の1987年4月、[[タモリ]]が2代目の司会に就任後、一定の人気を得た。番組にはジャニーズ事務所所属の男性アイドルをはじめ、様々なゲストが登場。中でも番組放送開始から3カ月後、タモリが司会者に就任する前の1987年1月には、かつてのライバル番組(『太陽にほえろ!』)に出演していた石原裕次郎がハワイの別荘からビデオ出演。近況報告後、カバー曲の「BEYOND THE REEF」を披露し、番組にエールを送った(前述の通り石原は番組出演から約半年後の同年7月に死去したため、この番組が彼にとって生涯最後のテレビ出演となった)。また、1996年には同年4月から日本テレビ系で放送されていたバラエティ番組の『[[ウッチャンナンチャンのウリナリ!!]]』(以下、『ウリナリ』)から誕生したユニット「[[ポケットビスケッツ]]」、「[[ブラックビスケッツ]]」の登場、そしてブレイクにより、視聴率面で苦戦する事もあったが、1999年6月の[[宇多田ヒカル]]テレビ初出演で視聴率を20%台に乗せた。1990年代半ばから2000年代初め頃の「金曜20時戦争」は、かつての前述1970年代の「『太陽にほえろ!』対『ワールドプロレスリング』」のように、日本テレビとテレビ朝日の2強時代が長らく続いていたが、最終的に『Mステ』は 「金曜20時戦争」に勝利を収め、2002年3月で『ウリナリ』を放送終了に追い込んだ。その後『Mステ』は、2019年10月改編で金曜21時に枠移動。後枠として水曜23時台に放送していた『[[マツコ&有吉 かりそめ天国]]』の放送時間を変更させた上でゴールデンタイムに進出した<ref>{{Cite web|和書|url=https://post.tv-asahi.co.jp/post-96386/|title=Mステが夜9時へ!テレビ朝日の金曜日が変わる|accessdate=2019年12月27日|publisher=テレビ朝日(2019年8月27日作成)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2143159/full/|title=『ミュージックステーション』10月から“金曜9時” 33年の歴史で初の枠移動|accessdate=2019年12月27日|publisher=オリコン(2019年8月27日作成)}}</ref>。
{{see also|ミュージックステーション#沿革}}
一方、フジテレビは1979年秋に当時人気番組だった『ザ・ベストテン』に対抗して『[[ビッグベストテン]]』を開始させるが、視聴率が振るわず、わずか5ヶ月で打ち切られた。また後続番組『[[花の金曜ゴールデンスタジオ]]』→『ハナキンスタジオ』も、同様に打ち切られ単発番組枠へ移動した。1988年、『Mステ』や『たけし城』に対抗するため、[[明石家さんま]]を中心とした新番組の計画や『ひょうきん族』の放送枠移動の計画があったが、当時の昭和天皇の病状悪化による自粛ムードや、出演者側のスケジュールの問題などもあり中止になった。
==== 平日正午戦争 ====
1960年代から1970年代後半にかけてTBSの『[[ベルトクイズQ&Q]]』、テレビ朝日の『[[アフタヌーンショー]]』の2大番組が争っていた。1970年代の昼の視聴率で苦戦していたフジテレビは1980年10月、[[漫才ブーム]]に便乗し『[[笑ってる場合ですよ!]]』を放送。それから2年後、漫才ブーム終焉後の1982年10月、『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』(以下『笑っていいとも!』)の放送を開始する。『笑っていいとも!』は瞬く間に人気を博し、2002年4月には司会者のタモリが「生放送バラエティ番組 単独司会者による生放送の長寿記録」を樹立し、翌2003年版の[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に登録されるほどの人気番組となり、2014年3月、本放送の最終回とは別に特番としてゴールデンタイムに放送された『笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号』(事実上の最終回)では、タモリが「生放送バラエティ番組 単独司会者最多記録」、番組自体も「生放送バラエティ番組 放送回数最多記録」として、それぞれギネスに認定された。
1985年、8月に起きた[[アフタヌーンショー#やらせリンチ事件|やらせリンチ事件]]をきっかけに2ヶ月後に『アフタヌーンショー』が打ち切られると、他局の番組に太刀打ちできる番組はなく、正午の時間帯は『笑っていいとも!』の一人勝ち状態となったことから、視聴率争いは日本テレビ、TBS、テレビ朝日による2位争いに移行した。[[みのもんた]]は『[[午後は○○おもいッきりテレビ]]』(以下『おもいっきりテレビ』)の司会に就任した際の記者会見で、目標を『笑っていいとも!』ではなく、当時時間帯2位だったTBSの『[[新伍のお待ちどおさま]]』に設定するなど2位争いが過熱した。
日本テレビでは、1987年10月に『おもいッきりテレビ』を放送。当初は『笑っていいとも!』をはじめ他局に苦戦したが、1989年に司会の[[山本コウタロー]]が参議院選挙出馬のため降板。みのもんたに司会が変わると、それまでの内容を一新した事が功を奏し、中高年を中心に人気が出始めた。これで3局の2位争い一歩抜きん出て単独2位となったどころか、日によっては視聴率で『笑っていいとも!』を逆転することもあり、ここに「みのもんた症候群」という造語までできた『おもいっきりテレビ』と、若者を中心に安定した人気を保つ『笑っていいとも!』との2番組の戦いへと変わっていく。
一方、アフタヌーンショーの打ち切り以降、同時間帯で苦戦し2位争いから脱落していたテレビ朝日は、1996年4月に『[[ワイド!スクランブル]]』を放送。再びワイドショー路線に回帰すると同時に視聴率も上向きになった。2004年4月1日[[保坂尚希]]の離婚会見を独占生中継した際は『笑っていいとも!』、『おもいっきりテレビ』を抑え、第2部(当時は12時 - 13時5分)で視聴率1位を獲得するなど<ref>2004年4月2日ビデオリサーチ社発表より</ref>放送内容によっては『笑っていいとも!』や、『おもいっきりテレビ』を上回ることもあった。
TBSの1980年代は、『ベルトクイズQ&Q』と、そのモデルチェンジ版である『[[スーパーダイスQ]]』や、かつて月曜19時台後半枠の人気番組であり、放送時間変更後は日曜日のローカル枠で放送されていた『ハイ&ロー』シリーズ<ref group="注釈">『人生ゲームハイ&ロー』の他に、放送時間や司会者を変更して放送された『社長ゲームハイ&ロー』の2本を指す。</ref>の放送時間を40分に拡大し、帯番組としたリニューアル版である『貴女も社長ハイ&ロー』(1985年4月に『社長かヒラか!ハイ&ロー』に改題)の相次ぐ終了以降、昼の番組に苦戦することになった。特に1990年代は『新伍のお待ちどおさま』が終了すると、テレビ朝日同様に短命で終了する番組が続出、TBSの正午は死に枠とさえ言われた。2000年開始の『[[ベストタイム]]』の放送以降苦戦を続けていたが、2012年『[[ひるおび!]]・午後』にて年間視聴率が同時間帯横並びトップを獲得した。
その後、日本テレビの『おもいッきりシリーズ』(おもいッきりテレビ・『[[おもいッきりイイ!!テレビ]]』・『[[おもいッきりDON!]]・第2部』)は2010年3月まで続き、その後『[[DON!]]』を経て、2011年3月からは『[[ヒルナンデス!]]』を放送。2014年3月、フジテレビは人気番組『笑っていいとも!』を終了させ、4月より『[[バイキング (テレビ番組)|バイキング]]』(2020年9月28日より『[[バイキングMORE]]』に改題)を放送。テレビ朝日も同年4月より長寿番組『徹子の部屋』の放送枠を移動し、2020年春改編にて13時に放送枠を再度移動した。そして、2022年4月に『バイキングMORE』は、2015年4月より総合MCを務めている坂上忍が、彼のライフワークである「動物保護活動に注力する」という理由で番組卒業を申し出、それと同時に番組自体も終了。後継番組は[[佐野瑞樹 (アナウンサー)|佐野瑞樹]]、[[山崎夕貴]]両アナウンサーを進行MCに起用し、明るい芸能ニュースに特化したワイドショー番組『[[ポップUP!]]』を開始した。しかし、「ポップUP!」は裏番組の「ワイドスクランブル」、「ひるおび」、「ヒルナンデス」に押されて番組開始から8か月後の2022年内で終了し、2023年年明けから「ぽかぽか」を放送開始。
これにより、平日正午の視聴率争いは再び混沌としている。
==== 関西地区の木曜19時台における『プレバト!!』一強状態 ====
{{要出典|MBS制作の『[[プレバト!!]]』(TBS系列)が放送されている木曜19時台では、主婦層が『[[得する人損する人]]』(日本テレビ)、若年層が『[[VS嵐]]』(フジテレビ)を視聴する傾向が2016年頃まで定着。放送開始から10年以上経過していた『[[いきなり!黄金伝説。|いきなり!黄金伝説]]』(テレビ朝日)と、2012年10月から放送を開始した『[[プレバト!!|プレバト]]』(タイトルは当時の表記)の視聴率は、制作陣の想定を大きく下回っていた|date=2021年10月}}。
{{要出典|『プレバト』では以上の状況を踏まえて、「漢字書き順トーナメント」を皮切りに、「年代やキャリアを問わず、芸能人の才能を『査定員』(専門家)がランキング方式で査定する」というカルチャースクール風の企画を開始。TBSとの共同制作による特別番組として始まった経緯から、レギュラー化以降もTBSの女性アナウンサーが務めていたアシスタントも、2015年4月以降は自社(MBS)の女性アナウンサーによる「(本社のある大阪から収録スタジオのある東京への)日帰り出張」で賄うようになった。このようなリニューアルが功を奏して、中年層を中心に視聴率が徐々に上昇した。MBSの放送対象地域である関西地区ではその傾向が顕著で、2015年頃から週間視聴率ランキングに登場。2018年頃からは、(一部の期間を除いて)放送週に常時15%以上を記録するようになった。TBSの放送対象地域である関東地区でも、2017年頃から視聴率が2桁に乗り始めたばかりか、『VS嵐』と互角の勝負を展開している|date=2021年10月}}。
{{要出典|このように視聴率競争の構図が一変したことを受けて、テレビ朝日では、15年間にわたって放送してきた『黄金伝説』を2018年の10月から『[[くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館]]』に変更。日本テレビでも『得する人損する人』を2018年9月で終了させた後に、翌10月から『[[THE突破ファイル]]』の放送を開始した。『THE突破ファイル』では、MCに内村光良とサンドウィッチマン、出演者に「[[お笑い第七世代]]」(ハナコやEXITなど)を起用するなど、若い世代からの好感度が高いキャストで『プレバト』に対抗。「再現VTRに力を入れる」「クイズ仕立てで映像を流す」といった演出と相まって、『プレバト!!』と『VS嵐』の視聴者層の間の世代(ファミリー層)から一定の支持を得ている。一方の『ハナタカ!優越館』では、関東地区での視聴率が2桁に乗る週があるものの、同時間帯における民放4位に甘んじることが多かった|date=2021年10月}}。
{{要出典|関西地区における『プレバト』一強状態は、2020年以降も継続している。同年4月9日放送分の「春の3時間スペシャル」で過去最高の19.7%を記録したほか、2021年3月25日放送分「春の3時間スペシャル」では、視聴率18.1%で当該週における週間視聴率ランキングのトップに立った。その一方で、テレビ朝日では2021年の10月改編を前に、『ハナタカ!優越館』を9月16日放送分で終了。翌週(9月23日)から『[[ウラ撮れちゃいました]]』をレギュラーで編成している|date=2021年12月}}。
==== 日曜20時戦争 ====
;日本最長の視聴率戦争
1965年1月、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』に始まる、日本最長の視聴率争いである。当初は壮絶なドラマ戦争であり、1965年4月までは6局同時にドラマ([[テレビ東京|東京12チャンネル]]は『[[87分署シリーズ]]』)を放送していた。
日曜20時枠の特徴として、空白期間や局の垣根を越えて同じ芸能人が何度も起用される事例がある。[[渥美清]]、[[萩本欽一]]、[[堺正章]]、久米宏、ビートたけし、[[島田紳助]]、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]([[浜田雅功]])、[[今田耕司]]、古舘伊知郎、[[所ジョージ]]、[[竹中直人]]、[[内村光良]]、[[ロンドンブーツ1号2号]]([[田村淳]])、[[有田哲平]]、[[石橋貴明]]、[[バナナマン]]と多数の例がある。
50年以上にわたる日曜20時枠の民放局別戦績は日本テレビの圧勝であり、『[[日本テレビ日曜8時連続ドラマ|東宝青春学園シリーズ]]』から安定した視聴率を維持している。日本テレビの長期低迷は『[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記II]]』終了から『[[久米宏のTVスクランブル]]』開始までと『[[特命リサーチ200X]]』終了から『[[世界の果てまでイッテQ!]]』開始までの2回とされる。
東京12チャンネル→テレビ東京の日曜20時枠は『日曜テレビ寄席』(1967年10月 - 1969年9月)『日曜ワイド笑』(1969年10月 - 1972年9月)の演芸番組を放送した後、1972年10月から『日曜特別ロードショー』『[[日曜ビッグスペシャル]]』『[[日曜ビッグバラエティ (テレビ東京)|日曜ビッグバラエティ]]』と50年間にわたり特別番組枠が続き、『[[家、ついて行ってイイですか?]]』の枠移動で2022年10月から1時間枠のレギュラー番組が復活した。
1972年10月開始のフジテレビ『[[オールスター家族対抗歌合戦]]』がドラマとの差別化に成功して長寿番組になるとバラエティ番組戦争に発展。日本テレビ『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』、フジテレビ『[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]』、日本テレビ『[[特命リサーチ200X]]』、TBSテレビ『[[どうぶつ奇想天外!]]』、日本テレビ『[[世界の果てまでイッテQ!]]』、テレビ朝日(ABCテレビ)『[[ポツンと一軒家]]』と勝者が推移する。
2021年、日本テレビ『世界の果てまでイッテQ!』(2007年2月開始)がフジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年10月 - 1986年9月)の放送期間14年を超え、日曜20時枠の最長寿番組となった。
<div class="NavFrame">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">日曜20時枠 主な高視聴率番組</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送局!!番組名!!放送日!!放送時間!!視聴率!!colspan=2|同日のNHK大河ドラマ!!備考
|-
|日本テレビ||[[コント55号の裏番組をぶっとばせ!]]||1969年{{0}}7月{{0}}6日||20:00 - 20:56||29.3%||[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]||27.6%||
|-
|日本テレビ||[[コント55号の裏番組をぶっとばせ!]]||1969年10月{{0|00日}}||20:00 - 20:56||33.8%||[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]||||番組最高
|-
|東京12ch||世界フェザー級タイトルマッチ「西城正三×フランキー・クロフォード」||1971年{{0}}2月28日||20:00 - 21:26||34.9%||[[春の坂道]]||||テレビ東京歴代2位
|-
|TBSテレビ||WBA世界Jフライ級タイトルマッチ「具志堅用高×アナセト・バルガス」||1978年{{0}}1月29日||19:30 - 20:55||38.1%||[[黄金の日日]]||20.7%||
|-
|TBSテレビ||WBA世界Jフライ級タイトルマッチ「具志堅用高×ハイメ・リオス」||1978年{{0}}5月{{0}}7日||19:30 - 20:55||43.2%||[[黄金の日日]]||19.8%||『黄金の日日』最低
|-
|日本テレビ||[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記]] 最終回||1979年{{0}}4月{{0}}8日||20:00 - 20:54||27.4%||[[草燃える]]||22.7%||番組最高
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|テレビ朝日||[[西部警察 (PART1)|西部警察]] 初回||1979年10月14日||20:00 - 20:54||18.8%||[[草燃える]]||25.5%||『西部警察』1979年最高
|-
|TBSテレビ||WBA世界Jフライ級タイトルマッチ「具志堅用高×金龍鉉」||1980年{{0}}1月27日||19:30 - 20:55||41.1%||[[獅子の時代]]||14.3%||『獅子の時代』同率最低
|-
|日本テレビ||[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記II]]||1980年{{0}}2月{{0}}3日||20:00 - 20:54||21.1%||[[獅子の時代]]||21.8%||番組最高<ref group="注釈">同日放送、テレビ朝日『[[西部警察 (PART1)|西部警察]]』12.8%</ref>
|-
|TBSテレビ||WBA世界Jフライ級タイトルマッチ「具志堅用高×マルチン・バルカス」||1980年{{0}}6月{{0}}1日||19:30 - 20:55||32.5%||[[獅子の時代]]||14.3%||『獅子の時代』同率最低
|-
|テレビ朝日||[[西部警察 (PART1)|西部警察]]||1980年{{0}}7月{{0}}6日||20:00 - 20:54||19.6%||[[獅子の時代]]||19.3%||『西部警察』1980年最高
|-
|TBSテレビ||WBA世界Jフライ級タイトルマッチ「具志堅用高×ペドロ・フローレス」||1980年10月12日||19:30 - 20:55||36.0%||[[獅子の時代]]||17.6%||
|-
|東京12ch||[[日曜ビッグスペシャル]]「輝け'80日本漫才大賞」||1980年12月28日||20:00 - 21:54||21.3%||休止<ref group="注釈">19:20 - 20:20『1980年スポーツハイライト』、20:20 - 21:10『[[NHK特集 シルクロード]]』を放送</ref>||||『日曜ビッグスペシャル』最高
|-
|テレビ朝日||[[西部警察 (PART1)|西部警察]]||1981年11月29日||20:00 - 20:54||21.9%||[[おんな太閤記]]||32.9%||番組3位
|-
|テレビ朝日||[[西部警察 (PART1)|西部警察]]||1981年12月27日||20:00 - 20:54||22.3%||休止<ref group="注釈">『思い出のサンフランシスコ トニー・ベネット・イン・ジャパン』を放送</ref>||||番組最高
|-
|フジテレビ||[[オールスター家族対抗歌合戦]]||1982年{{0}}1月24日||20:00 - 20:54||28.5%||[[峠の群像]]||||番組最高<ref group="注釈">同日放送、テレビ朝日『[[西部警察 (PART1)|西部警察]]』19.7%</ref>
|-
|テレビ朝日||[[西部警察 (PART1)|西部警察]] 最終回||1982年{{0}}4月18日||20:00 - 20:54||22.0%|||[[峠の群像]]|||||番組2位
|-
|テレビ朝日||[[西部警察 PART-II]]||1982年11月27日||20:00 - 20:54||20.7%|||[[峠の群像]]|||||番組最高(PART-II)
|-
|テレビ朝日||[[西部警察 PART-III]]||1983年{{0}}5月15日||20:00 - 20:54||20.1%|||[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]|||34.7%||番組最高(PART-III)
|-
|TBSテレビ||WBC世界バンタム級統一王座決定戦「薬師寺保栄×辰吉丈一郎」||1994年12月{{0}}4日||19:30 - 20:54||39.4%||[[花の乱]]||10.2%||
|-
|日本テレビ||[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]||1995年{{0}}3月{{0}}5日||20:00 - 20:54||21.9%||[[八代将軍吉宗]]||27.7%||1995年最高<ref group="注釈">ビートたけしバイク事故から復帰初回</ref>
|-
|フジテレビ||[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]||1995年11月12日||20:00 - 20:54||24.2%||[[八代将軍吉宗]]||27.2%||番組最高
|-
|フジテレビ||[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]||1996年{{0}}1月14日||20:00 - 20:54||21.6%||[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]||29.2%||番組6位(1996年最高)
|-
|TBSテレビ||[[1996年アトランタオリンピック|'96アトランタオリンピック]]「女子マラソン」||1996年{{0}}7月28日||19:30 - 22:54||36.6%||[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]||26.4%||
|-
|日本テレビ||[[特命リサーチ200X]]||1999年{{0}}3月14日||19:58 - 20:54||25.6%||[[元禄繚乱]]||20.6%||番組最高
|-
|rowspan=2|TBSテレビ||rowspan=2|WBC世界フライ級タイトルマッチ「内藤大助×亀田興毅」||rowspan=2|2009年11月29日||19:58 - 20:15||25.8%||rowspan=2|[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]||rowspan=2|17.7%||rowspan=2|
|-
|20:15 - 21:25||43.1%
|-
|日本テレビ||[[世界の果てまでイッテQ!]]||2010年{{0}}2月21日||19:58 - 20:54||22.6%||[[龍馬伝]]||22.3%||番組最高
|-
|日本テレビ||[[世界の果てまでイッテQ!]]||2015年{{0}}2月{{0}}1日||19:58 - 20:54||22.4%||[[花燃ゆ]]||12.8%||『イッテQ』2015年最高
|-
|日本テレビ||[[世界の果てまでイッテQ!]]||2016年11月13日||19:58 - 20:54||22.2%||[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]||15.2%||『イッテQ』2016年最高
|-
|日本テレビ||[[世界の果てまでイッテQ!]] 10周年2時間SP||2017年{{0}}2月{{0}}5日||19:58 - 21:54||22.5%||[[おんな城主 直虎]]||16.0%||『イッテQ』2017年最高
|-
|テレビ東京||[[緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦]]||2017年11月26日||19:54 - 21:54||12.8%||[[おんな城主 直虎]]||11.3%||日曜枠番組最高<ref group="注釈">同日放送、日本テレビ『[[誰も知らない明石家さんま]]』13.9%(19:00 - 21:54)</ref>
|-
|日本テレビ||[[世界の果てまでイッテQ!]]||2018年{{0}}5月13日||19:58 - 20:54||22.4%||[[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]]||14.4%||『イッテQ』2018年最高
|-
|日本テレビ||[[ラグビーワールドカップ2019|ラグビーワールドカップ2019日本大会「日本×スコットランド」]]||2019年10月13日||19:30 - 21:54||39.2%||[[いだてん〜東京オリムピック噺〜|いだてん]]||{{0}}3.7%||NHK大河史上最低<ref group="注釈">同日放送、テレビ朝日『ポツンと一軒家』16.4%(19:00 - 20:56)</ref>
|-
|テレビ朝日||[[ポツンと一軒家]]||2020年{{0}}4月26日||19:58 - 20:56||22.9%||[[麒麟がくる]]||14.9%||番組最高{{Efn|同日放送、日本テレビ『[[明石家さんまの転職DE天職]]』13.1%(19:00 - 21:54)}}
|-
|テレビ朝日||[[2022 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ2022「日本×コスタリカ」]]||2022年11月27日||18:40 - 21:10||42.9%||[[鎌倉殿の13人]]||{{0}}6.2%||{{Efn|同日放送、日本テレビ『世界の果てまでイッテQ!』4.7%(19:58 - 20:54)、フジテレビ『[[逮捕の瞬間!密着24時|逮捕の瞬間!警察24時]]』3.8%(19:00 - 21:00)、TBSテレビ『[[坂上&指原のつぶれない店]]』3.6%(19:00 - 20:54)、テレビ東京『[[デカ盛りハンター]]』2.1%(18:30 - 20:55)}}
|}
</div></div>
<div class="NavFrame">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">日曜20時枠 放送番組の変遷</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;"
!NHK大河ドラマ!!colspan=2|年月!!日本テレビ!!NETテレビ→テレビ朝日!!TBSテレビ!!フジテレビ
|-
|rowspan=6 style="white-space:nowrap;"|[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]<br>平均31.2% / 最高39.7%
!rowspan=6|1965!!01
|rowspan=1|<!--4-->天下を取る
|rowspan=6|<!--5-->[[バージニアン]]
|rowspan=2|<!--6-->幕末
|rowspan=3|<!--8-->戦国群盗伝
|-
!02
|rowspan=1|<!--4-->[[大物養成計画]]
|-
!04
|rowspan=2|<!--4-->日曜ロードショー
|rowspan=2|<!--6-->[[S☆1 BASEBALL|プロ野球中継]]
|-
!06
|rowspan=3|<!--8-->[[テレビ電話リクエスト]]
|-
!10
|rowspan=6|<!--4-->[[青春とはなんだ]]
|rowspan=1|<!--6-->単発特別番組
|-
!12
|rowspan=2|<!--6-->[[FBIアメリカ連邦警察]]
|-
|rowspan=5|[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]<br>平均23.5% / 最高32.5%
!rowspan=5|1966!!01
|rowspan=1|<!--5-->[[火曜映画劇場|日曜映画劇場]]
|rowspan=2|<!--8-->[[花形歌手東西歌合戦]]
|-
!04
|rowspan=2|<!--5-->[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|パリーグ 日曜ナイター]]
|rowspan=9|<!--6-->[[泣いてたまるか]]
|-
!05
|rowspan=1|<!--8-->勢ぞろい清水港
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->凍原
|rowspan=3|<!--8-->[[ひばり・与一の花と剣]]
|-
!11
|rowspan=4|<!--4-->[[これが青春だ]]
|-
|rowspan=4|[[三姉妹]]<br>平均19.1% / 最高27.0%
!rowspan=4|1967!!01
|rowspan=1|<!--5-->[[警視庁物語]]
|-
!04
|rowspan=1|<!--5-->[[刑事さん]]
|rowspan=2|<!--8-->[[うちの大物]]
|-
!07
|rowspan=1|<!--5-->[[ターザン]]
|-
!10
|rowspan=3|<!--4-->[[でっかい青春]]
|rowspan=1|<!--5-->[[七つの顔の男]]
|rowspan=3|<!--8-->[[日曜映画劇場]]
|-
|rowspan=3|[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]<br>平均14.5% / 最高22.9%
!rowspan=3|1968!!01
|rowspan=1|<!--5-->[[:en:Garrison's Gorillas|特攻ギャリソン・ゴリラ]]
|-
!04
|rowspan=1|<!--5-->[[次郎長三国志 (1968年のテレビドラマ)|次郎長三国志]]
|rowspan=1|<!--6-->[[抜かれてたまるか]]
|-
!10
|rowspan=1|<!--4-->[[進め!青春]]
|rowspan=5|<!--5-->[[旅がらすくれないお仙]]
|rowspan=3|<!--6-->[[エプロン父さん]]
|rowspan=2|<!--8-->[[風来坊 (テレビドラマ)|風来坊]]
|-
|rowspan=5|[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]<br>平均25.0% / 最高32.4%
!rowspan=5|1969!!01
|rowspan=2|<!--4-->[[日曜スペシャル (日本テレビ)|サンデー・スペシャル]]
|-
!02
|rowspan=1|<!--8-->[[日曜映画劇場]]
|-
!04
|rowspan=3|<!--4-->[[コント55号の裏番組をぶっとばせ!|コント55号の<br>裏番組をぶっとばせ!]]
|rowspan=2|<!--6-->[[あいつの季節]]
|rowspan=1|<!--8-->[[渥美清の父ちゃんがゆく]]
|-
!07
|rowspan=1|<!--8-->[[すかぶら大将]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->[[緋剣流れ星お蘭]]
|rowspan=2|<!--6-->[[プロフェッショナル (テレビドラマ)|プロフェッショナル]]
|rowspan=1|<!--8-->[[サンデーヒットショー]]
|-
|rowspan=4|[[樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った]]<br>平均21.0% / 最高27.6%
!rowspan=4|1970!!01
|rowspan=3|<!--4-->[[姿三四郎 (テレビドラマ)|姿三四郎]]
|rowspan=1|<!--8-->[[:en:Custer (TV series)|壮烈!第7騎兵隊]]
|-
!04
|rowspan=1|<!--5-->[[丹下左膳 (1970年のテレビドラマ)|丹下左膳]]
|rowspan=2|<!--6-->[[ビッグ・プレゼント'70]]
|rowspan=2|<!--8-->[[祭りだ!ワッショイ!]]
|-
!07
|rowspan=13|<!--5-->[[遠山の金さん捕物帳]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--4-->闘魂
|rowspan=4|<!--6-->[[日曜8時、笑っていただきます]]
|rowspan=3|<!--8-->[[祭りだ!ワッショイ!|新・祭りだ!ワッショイ!]]
|-
|rowspan=4|[[春の坂道]]<br>平均21.7% / 最高27.5%
!rowspan=4|1971!!01
|-
!02
|rowspan=4|<!--4-->[[おれは男だ!]]
|-
!04
|rowspan=1|<!--8-->[[オレンジの季節]]
|-
!10
|rowspan=1|<!--6-->[[テレビはこれだ!ドラマが3つも]]
|rowspan=3|<!--8-->[[一心太助 (テレビドラマ)|一心太助]]
|-
|rowspan=4|[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]<br>平均21.4% / 最高27.2%
!rowspan=4|1972!!01
|rowspan=2|<!--6-->[[何がなんでも]]
|-
!02
|rowspan=4|<!--4-->[[飛び出せ!青春]]
|-
!04
|rowspan=4|<!--6-->[[サンデービッグプレゼント]]
|rowspan=1|<!--8-->[[世紀のびっくりショー]]
|-
!10
|rowspan=58|<!--8-->[[オールスター家族対抗歌合戦|オールスター<br>家族対抗歌合戦]]
|-
|rowspan=4|[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]<br>平均22.4% / 最高29.9%
!rowspan=4|1973!!01
|-
!02
|rowspan=2|<!--4-->[[おこれ!男だ]]
|-
!04
|rowspan=1|<!--6-->[[サンデービッグプレゼント|日曜ゴールデンシリーズ]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--4-->[[てんつくてん]]
|rowspan=3|<!--5-->[[ご存知遠山の金さん]]
|rowspan=1|<!--6-->[[人気スター今週のベストテン]]
|-
|rowspan=4|[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]<br>平均24.2% / 最高30.9%
!rowspan=4|1974!!01
|rowspan=1|<!--6-->[[人気スター今週のベストテン|爆笑 歌うスター選手権]]
|-
!04
|rowspan=2|<!--4-->[[われら青春!]]
|rowspan=2|<!--6-->[[日曜ワイドスペシャル]]
|-
!09
|rowspan=3|<!--5-->[[ご存じ金さん捕物帳]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--4-->[[水もれ甲介]]
|rowspan=2|<!--6-->[[日本沈没]]
|-
|rowspan=3|[[元禄太平記]]<br>平均24.7% / 最高41.8%
!rowspan=3|1975!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--4-->[[おふくろさん (テレビドラマ)|おふくろさん]]
|rowspan=1|<!--5-->[[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]]
|rowspan=4|<!--6-->[[サンデースペシャル]]
|-
!10
|rowspan=3|<!--4-->[[俺たちの旅]]
|rowspan=2|<!--5-->[[マチャアキの森の石松]]
|-
|rowspan=3|[[風と雲と虹と]]<br>平均24.0% / 最高30.1%
!rowspan=3|1976!!01
|-
!04
|rowspan=3|<!--5-->[[いたずらカメラだ!大成功]]
|-
!10
|rowspan=5|<!--4-->[[俺たちの朝]]
|rowspan=16|<!--6-->[[日曜☆特バン]]
|-
|rowspan=5|[[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]<br>平均19.0% / 最高25.9%
!rowspan=5|1977!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--5-->[[全員出動おじゃましま〜す!]]
|-
!08
|rowspan=1|<!--5-->[[あの手この手お隣りさん!]]
|-
!10
|rowspan=3|<!--5-->[[気になる季節]]
|-
!11
|rowspan=3|<!--4-->[[俺たちの祭]]
|-
|rowspan=4|[[黄金の日日]]<br>平均25.9% / 最高34.4%
!rowspan=4|1978!!01
|-
!04
|rowspan=2|<!--5-->[[浮浪雲]]
|-
!05
|rowspan=1|<!--4-->[[青春ド真中!]]
|-
!10
|rowspan=3|<!--4-->[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記]]
|rowspan=2|<!--5-->[[おはなちゃん繁昌記]]
|-
|rowspan=5|[[草燃える]]<br>平均26.3% / 最高34.7%
!rowspan=5|1979!!01
|-
!02
|rowspan=2|<!--5-->[[伝七捕物帳]]
|-
!04
|rowspan=2|<!--4-->[[俺たちは天使だ!]]
|-
!10
|rowspan=15|<!--5-->[[西部警察 (PART1)|西部警察]]
|-
!11
|rowspan=3|<!--4-->[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記II]]
|-
|rowspan=5|[[獅子の時代]]<br>平均21.0% / 最高26.7%
!rowspan=5|1980!!01
|-
!04
|rowspan=2|<!--6-->[[ミスターサンデー]]
|-
!05
|rowspan=2|<!--4-->[[猿飛佐助 (1980年のテレビドラマ)|猿飛佐助]]
|-
!07
|rowspan=1|<!--6-->[[海外取材ニッポンの実力]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--4-->[[黄土の嵐]]
|rowspan=3|<!--6-->[[天皇の料理番]]
|-
|rowspan=6|[[おんな太閤記]]<br>平均31.8% / 最高36.8%
!rowspan=6|1981!!01
|-
!02
|rowspan=2|<!--4-->[[宇宙空母ギャラクティカ|宇宙空母ギャラクチカ]]
|-
!04
|rowspan=2|<!--6-->[[日曜特集]]
|-
!05
|rowspan=1|<!--4-->[[日曜お笑い劇場]]
|-
!10
|rowspan=1|<!--4-->[[日曜8時!ドパンチ放送!!]]
|rowspan=1|<!--6-->[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]
|-
!12
|rowspan=2|<!--4-->[[俺はご先祖さま]]
|rowspan=3|<!--6-->鞍馬天狗
|-
|rowspan=5|[[峠の群像]]<br>平均23.7% / 最高33.8%
!rowspan=5|1982!!01
|-
!03
|rowspan=3|<!--4-->[[陽あたり良好!]]
|-
!05
|rowspan=4|<!--5-->[[西部警察 PART-II]]
|rowspan=1|<!--6-->[[刑事ヨロシク]]
|-
!08
|rowspan=1|<!--6-->[[幸福の黄色いハンカチ]]
|-
!10
|rowspan=9|<!--4-->[[久米宏のTVスクランブル|久米宏の<br>TVスクランブル]]
|rowspan=2|<!--6-->[[Gメン'82]]
|-
|rowspan=4|[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]<br>平均31.2% / 最高37.4%
!rowspan=4|1983!!01
|-
!04
|rowspan=5|<!--5-->[[西部警察 PART-III]]
|rowspan=1|<!--6-->[[TVジョーカーズ笑]]
|-
!07
|rowspan=1|<!--6-->単発特別番組
|-
!11
|rowspan=2|<!--6-->[[日曜ファミリードラマ]]
|-
|rowspan=3|[[山河燃ゆ]]<br>平均21.1% / 最高30.5%
!rowspan=3|1984!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--6-->[[諸君!スペシャルだ]]
|-
!10
|rowspan=6|<!--5-->[[私鉄沿線97分署]]
|rowspan=2|<!--6-->[[日曜ゴールデン特版]]
|-
|rowspan=3|[[春の波涛]]<br>平均18.2% / 最高24.7%
!rowspan=3|1985!!01
|-
!04
|rowspan=6|<!--4-->[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!|天才・たけしの<br>元気が出るテレビ!!]]
|rowspan=1|<!--6-->[[GOGOサンデー]]
|-
!11
|rowspan=2|<!--6-->[[ザ・スペシャル]]
|-
|rowspan=4|[[いのち (NHK大河ドラマ)|いのち]]<br>平均29.3% / 最高36.7%
!rowspan=4|1986!!01
|-
!02
|rowspan=2|<!--6-->[[世界No.1クイズ]]
|-
!09
|rowspan=3|<!--5-->[[どうぶつ通り夢ランド]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--6-->[[おんな風林火山]]
|rowspan=2|<!--8-->[[ザ・サンデー -THE SUNDAY-|ザ・サンデー<br>-THE SUNDAY-]]
|-
|rowspan=4|[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]<br>平均39.7% / 最高47.8%
!rowspan=4|1987!!01
|rowspan=2|<!--4-->[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!|元気が出るテレビ!!]]
|-
!04
|rowspan=2|<!--5-->[[痛快!婦警候補生やるっきゃないモン!|痛快!婦警候補生<br>やるっきゃないモン!]]
|rowspan=15|<!--6-->[[日曜特集・新世界紀行]]
|rowspan=2|<!--8-->[[TVハッカー]]
|-
!07
|rowspan=24|<!--4-->[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!|天才・たけしの<br>元気が出るテレビ!!]]
|-
!10
|rowspan=1|<!--5-->[[制作2部青春ドラマ班]]
|rowspan=2|<!--8-->[[七人のHOTめだま]]
|-
|rowspan=3|[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]<br>平均39.2% / 最高49.2%
!rowspan=3|1988!!01
|rowspan=1|<!--5-->[[ニュータウン仮分署]]
|-
!04
|rowspan=1|<!--5-->[[クイズMONOものがたり]]
|rowspan=1|<!--8-->[[ニュースバスターズ (日本のテレビ番組)|ニュースバスターズ]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->[[テレビ朝日日曜8時連続ドラマ|シリーズ・男の決断]]
|rowspan=4|<!--8-->[[なんてったって好奇心]]
|-
|rowspan=2|[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]<br>平均32.4% / 最高39.2%
!rowspan=2|1989!!01
|-
!04
|rowspan=2|<!--5-->[[ゴリラ・警視庁捜査第8班]]
|-
|rowspan=3|[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]<br>平均23.2% / 最高29.3%
!rowspan=3|1990!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--5-->[[ザ・刑事]]
|rowspan=4|<!--8-->[[世界の常識・非常識!]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->[[代表取締役刑事]]
|-
|rowspan=3|[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]<br>平均26.0% / 最高34.6%
!rowspan=3|1991!!01
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->[[ララバイ刑事|ララバイ刑事'91]]
|-
!12
|rowspan=18|<!--8-->[[ダウンタウンのごっつええ感じ|ダウンタウンの<br>ごっつええ感じ]]
|-
|rowspan=3|[[信長 KING OF ZIPANGU]]<br>平均24.6% / 最高33.0%
!rowspan=3|1992!!01
|rowspan=1|<!--5-->[[ララバイ刑事|ララバイ刑事'92]]
|-
!04
|rowspan=1|<!--5-->[[真夏の刑事]]
|rowspan=1|<!--6-->[[Goodジャパニーズ]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->[[愛しの刑事]]
|rowspan=11|<!--6-->[[THE・プレゼンター]]
|-
|rowspan=2|[[琉球の風 (NHK大河ドラマ)|琉球の風]]<br>平均17.3% / 最高24.1%
!rowspan=4|1993!!01
|-
!04
|rowspan=2|<!--5-->[[ララバイ刑事|ララバイ刑事'93]]
|-
|-
|rowspan=2|[[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]<br>平均17.7% / 最高21.6%
!07
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->[[世界とんでも!?ヒストリー]]
|-
|rowspan=2|[[花の乱]]<br>平均14.1% / 最高18.3%
!rowspan=2|1994!!04
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->[[TVダイジェスト]]
|-
|rowspan=3|[[八代将軍吉宗]]<br>平均26.4% / 最高31.4%
!rowspan=3|1995!!01
|-
!04
|rowspan=6|<!--5-->[[ザ・スーパーサンデー]]
|-
!10
|rowspan=3|<!--4-->[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!|超天才・たけしの<br>元気が出るテレビ!!]]
|-
|rowspan=3|[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]<br>平均30.5% / 最高37.4%
!rowspan=3|1996!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--6-->[[コロンブスのゆで卵]]
|-
!10
|rowspan=14|<!--4-->[[特命リサーチ200X]]
|rowspan=2|<!--6-->[[世界謎紀行・神々のいたずら]]
|-
|rowspan=3|[[毛利元就 (NHK大河ドラマ)|毛利元就]]<br>平均23.4% / 最高28.5%
!rowspan=3|1997!!01
|-
!10
|rowspan=3|<!--5-->[[ザ・スーパーサンデー|ザ・ゴールデンタイム]]
|rowspan=8|<!--6-->[[神々の詩]]
|-
!11
|rowspan=1|<!--8-->[[日曜ビッグウェーブ]]
|-
|rowspan=2|[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]<br>平均21.1% / 最高29.7%
!rowspan=2|1998!!01
|rowspan=4|<!--8-->[[ハッピーバースデー!]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--5-->[[ザ・スーパーサンデー|サンデーパワーTV]]
|-
|rowspan=3|[[元禄繚乱]]<br>平均20.2% / 最高28.5%
!rowspan=3|1999!!01
|-
!04
|rowspan=5|<!--5-->[[ロンドンハーツ|イナズマ!ロンドンハーツ]]
|-
!11
|rowspan=4|<!--8-->[[笑う犬|笑う犬の冒険]]
|-
|rowspan=2|[[葵 徳川三代]]<br>平均18.5% / 最高22.6%
!rowspan=2|2000!!01
|-
!04
|rowspan=22|<!--6-->[[どうぶつ奇想天外!]]
|-
|rowspan=2|[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]]<br>平均18.5% / 最高21.2%
!rowspan=2|2001!!01
|-
!10
|rowspan=3|<!--5-->[[弾丸!ヒーローズ|HAMADA COMPANY<br>弾丸!ヒーローズ]]
|rowspan=4|<!--8-->[[笑う犬|笑う犬の発見]]
|-
|rowspan=4|[[利家とまつ〜加賀百万石物語〜|利家とまつ<br>〜加賀百万石物語〜]]<br>平均22.1% / 最高27.6%
!rowspan=4|2002!!01
|-
!02
|rowspan=6|<!--4-->[[特命リサーチ200X|特命リサーチ200X-II]]
|-
!04
|rowspan=11|<!--5-->[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--8-->[[笑う犬|笑う犬の情熱]]
|-
|rowspan=2|[[武蔵 MUSASHI]]<br>平均16.7% / 最高24.6%
!rowspan=2|2003!!01
|-
!10
|rowspan=1|<!--8-->日曜特番
|-
|rowspan=2|[[新選組!]]<br>平均17.4% / 最高26.3%
!rowspan=2|2004!!01
|rowspan=16|<!--8-->[[ジャンクSPORTS]]
|-
!04
|rowspan=2|<!--4-->[[ワールド☆レコーズ]]
|-
|rowspan=4|[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]<br>平均19.5% / 最高26.9%
!rowspan=4|2005!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--4-->[[A (テレビ番組)|A]]
|-
!07
|rowspan=1|<!--4-->[[日曜スペシャル (日本テレビ)|SUNDAY SPECIAL]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--4-->[[ウタワラ|歌笑HOTヒット10]]
|-
|rowspan=2|[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]<br>平均20.9% / 最高24.4%
!rowspan=2|2006!!01
|-
!04
|rowspan=2|<!--4-->[[ウタワラ]]
|rowspan=3|<!--5-->[[笑いの金メダル]]
|-
|rowspan=3|[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]<br>平均18.7% / 最高22.9%
!rowspan=3|2007!!01
|-
!02
|rowspan=42|<!--4-->[[世界の果てまでイッテQ!|世界の果てまで<br>イッテQ!]]
|-
!07
|rowspan=1|<!--5-->[[サンデーデラックス]]
|-
|rowspan=1|[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]<br>平均24.5% / 最高29.2%
!rowspan=1|2008!!01
|rowspan=2|<!--5-->[[近未来×予測テレビ ジキル&ハイド]]
|-
|rowspan=3|[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]<br>平均21.2% / 最高26.0%
!rowspan=3|2009!!01
|-
!04
|rowspan=22|<!--5-->[[大改造!!劇的ビフォーアフター|大改造!!劇的ビフォーアフター<br>SEASON II]]
|rowspan=1|<!--6-->[[うたばん]]
|-
!10
|rowspan=3|<!--6-->[[オレたち!クイズMAN]]
|-
|rowspan=4|[[龍馬伝]]<br>平均18.7% / 最高24.4%
!rowspan=4|2010!!01
|-
!04
|rowspan=2|<!--8-->[[爆笑レッドカーペット]]
|-
!08
|rowspan=5|<!--6-->[[クイズ☆タレント名鑑]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--8-->[[G★ウォーズ]]
|-
|rowspan=2|[[江〜姫たちの戦国〜]]<br>平均17.7% / 最高22.6%
!rowspan=2|2011!!01
|-
!04
|rowspan=6|<!--8-->[[爆笑 大日本アカン警察]]
|-
|rowspan=3|[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]<br>平均12.0% / 最高17.8%
!rowspan=3|2012!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--6-->[[衝撃速報!アカルイ☆ミライ]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--6-->[[日曜ゴールデンで何やってんだテレビ|日曜ゴールデンで<br>何やってんだテレビ]]
|-
|rowspan=3|[[八重の桜]]<br>平均14.6% / 最高21.4%
!rowspan=3|2013!!01
|-
!06
|rowspan=8|<!--6-->[[駆け込みドクター!運命を変える健康診断|駆け込みドクター!<br>運命を変える健康診断]]
|-
!11
|rowspan=2|<!--8-->[[してみるテレビ!教訓のススメ|教訓のススメ]]
|-
|rowspan=3|[[軍師官兵衛]]<br>平均15.8% / 最高19.4%
!rowspan=3|2014!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--8-->[[クイズ30〜団結せよ!〜]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--8-->[[ニュースな晩餐会]]
|-
|rowspan=2|[[花燃ゆ]]<br>平均12.0% / 最高16.7%
!rowspan=2|2015!!01
|-
!10
|rowspan=3|<!--8-->[[日曜ファミリア]]
|-
|rowspan=3|[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]<br>平均16.6% / 最高20.1%
!rowspan=3|2016!!01
|-
!04
|rowspan=5|<!--6-->[[珍種目No.1は誰だ!? ピラミッド・ダービー|珍種目No.1は誰だ!?<br>ピラミッド・ダービー]]
|-
!11
|rowspan=2|<!--8-->[[フルタチさん]]
|-
|rowspan=2|[[おんな城主 直虎]]<br>平均12.8% / 最高16.9%
!rowspan=2|2017!!01
|rowspan=1|<!--5-->[[人生で大事なことは○○から学んだ]]
|-
!10
|rowspan=3|<!--5-->[[ビートたけしのスポーツ大将]]
|rowspan=5|<!--8-->[[ニチファミ!]]
|-
|rowspan=3|[[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]]<br>平均12.7% / 最高15.5%
!rowspan=3|2018!!01
|-
!04
|rowspan=1|<!--6-->[[坂上&指原のつぶれない店]]
|-
!10
|rowspan=12|<!--5-->[[ポツンと一軒家]]
|rowspan=3|<!--6-->[[消えた天才]]
|-
|rowspan=3|[[いだてん〜東京オリムピック噺〜|いだてん<br>〜東京オリムピック噺〜]]<br>平均{{0}}8.2% / 最高15.5%
!rowspan=3|2019!!01
|-
!02
|rowspan=1|<!--8-->[[でんじろうのTHE実験]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--6-->特別番組
|rowspan=3|<!--8-->[[日曜THEリアル!]]
|-
|rowspan=3|[[麒麟がくる]]<br>平均14.4% / 最高19.1%
!rowspan=3|2020!!01
|-
!04
|rowspan=5|<!--6-->[[バナナマンのせっかくグルメ!!]]
|-
!10
|rowspan=2|<!--8-->[[日曜ワンダー!]]
|-
|rowspan=2|[[青天を衝け]]<br>平均14.1% / 最高20.0%
!rowspan=2|2021!!02
|-
!04
|rowspan=3|<!--8-->[[日バラ8]]
|-
|rowspan=3|[[鎌倉殿の13人]]
!rowspan=3|2022!!01
|-
!04
|rowspan=2|<!--6-->坂上&指原のつぶれない店
|-
!05
|rowspan=1|<!--8-->[[千鳥の鬼レンチャン]]
|}
</div></div>
==== 平成令和日曜夜戦争 ====
日本テレビが1998年に深夜より昇格させた『[[ザ!鉄腕!DASH!!]]』と、2007年に放送開始した『[[世界の果てまでイッテQ!]]』は、それぞれが10年以上にわたって15%超え、回によっては20%に迫る視聴率を獲得する人気番組となった。
2000年代の他局は19時台に『[[さんまのSUPERからくりTV]]』(TBSテレビ)や『[[熱血!平成教育学院]]』(フジテレビ)、20時台に『[[どうぶつ奇想天外!]]』(TBSテレビ)や『[[ジャンクSPORTS]]』(フジテレビ)、『[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]』(テレビ朝日)などが放送されていたが、2010年代に入るとこれらの番組が視聴率低迷や不祥事などを理由に軒並み終了し、19時台には『[[シルシルミシルさんデー]]』や『[[日本人の3割しか知らないこと くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館]]』(共にテレビ朝日)、『[[この差って何ですか?]]』(TBSテレビ)、『[[ほこ×たて]]』(フジテレビ)、20時台には『[[クイズ☆タレント名鑑]]』や『[[駆け込みドクター!運命を変える健康診断]]』(共にTBSテレビ)、『[[爆笑 大日本アカン警察]]』(フジテレビ)などが放送されたが、どれも『DASH』『イッテQ』『行列』の牙城を崩すには至らなかった。
2016年に入るとこの時間帯の争いが激化。テレビ朝日が19時台に『[[アメトーーク!|日曜もアメトーーク!]]』をスタートさせたり、フジテレビがフリーアナウンサーの[[古舘伊知郎]]をメイン司会に据えた2時間番組の『[[フルタチさん]]』をスタート。さらにTBSも19時台に『タレント名鑑』の復活版『[[クイズ☆スター名鑑]]』、20時台に『[[珍種目No.1は誰だ!? ピラミッド・ダービー|ピラミッド・ダービー]]』を参入させたが、どれも思うほどの視聴率は獲得すらできず短期間で終了した。
しかし、2018年に入ると『DASH』は出演者の不祥事で、『イッテQ』は番組そのものに不祥事が発覚し視聴率に陰りが見え始める。そんな中、同年冬にはフジテレビが19時台に『ジャンク』を復活し一定の成果を収めた。秋にはテレビ朝日で『[[ナニコレ珍百景]]』と『[[ポツンと一軒家]]』(ABCテレビ制作)がスタート。特に『ポツン』については、中高年をターゲットにした戦略からレギュラー前から15%近い視聴率を稼いでおり、2019年冬頃には互角の勝負をするようになった。さらに時に20%超えの視聴率を稼ぐほど好調であり、『イッテQ』やNHK大河ドラマを抑えて同時間帯トップを獲得する回数も増えている。しかし、2020年春から本格的に導入された「個人視聴率」や若年層(13歳から49歳)をターゲットとしている「コア視聴率」では、『ポツン』が高齢者層向けの番組であることが仇となり、性別や年齢層別の集計によっては最下位に近い週も発生するなど同番組が苦戦を強いられている<ref>{{Cite web|和書|title=新指標「コア&個人視聴率」定着で明確にわかれた各テレビ局の明暗|url=https://friday.kodansha.co.jp/article/133327|website=FRIDAY|accessdate=2021-07-17|date=2020-09-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=テレビ朝日が絶不調?新基準の視聴率で“最下位目前”の日も|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1962400/|website=女性自身|accessdate=2021-07-17|date=2021-03-19|page=2}}</ref>。なお、TBSでは同時期に『[[消えた天才]]』を開始し、ある程度の成功を収めるが不適切な演出があったことが発覚したため、約1年後に打ち切られている。
==== 1993年10月28日 テレビ東京歴代最高 ====
[[ドーハの悲劇]]で知られる『1994 FIFAワールドカップアジア地区最終予選 日本×イラク』がテレビ東京歴代最高視聴率の番組平均48.1%、瞬間最高58.4%を獲得<ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2013/10/25/481/index_4.php|title=平均視聴率48.1%!ドーハの悲劇、テレビ東京の舞台裏|author=布施鋼治|work=Web Sportiva|publisher=集英社|accessdate=2022-11-20|date=2013-10-25}}</ref>。放送当日の1993年10月28日はテレビ東京開局以来初の「日別平均視聴率三冠王」(全日9.4%、ゴールデンタイム14.8%、プライムタイム22.8%)も獲得している。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!時間!!colspan=2|NHK総合テレビ!!colspan=2|日本テレビ!!colspan=2|TBSテレビ!!colspan=2|フジテレビ!!colspan=2|テレビ朝日!!colspan=2|テレビ東京!!時間
|-
|18:00
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[イブニングネットワーク (NHK総合)|イブニングネットワーク]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}6.6%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[NNNニュースプラス1]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}9.9%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[JNNニュースの森]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}7.4%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[FNNスーパータイム]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|14.0%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[ステーションEYE]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}6.7%
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[スーパーマリオスタジアム (テレビ番組)|スーパーマリオスタジアム]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}6.3%
|18:00
|-
|18:30
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[イブニングネットワーク首都圏]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|12.6%
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[楽しいウイロータウン]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}8.7%
|18:30
|-
|19:00
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[NHKニュース7]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|13.7%
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[追跡 (情報番組)|追跡]]「こっそり教える食べ放題でウマい店」||rowspan=1 style="border-left:none;"|14.0%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[上岡龍太郎がズバリ!|ザッツ!上岡龍太郎vs50人]]<br>「女性自衛官」||rowspan=2 style="border-left:none;"|15.7%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[クイズ!年の差なんて]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|12.0%
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[クッキングパパ]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}8.3%
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[ジャングルの王者ターちゃん]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|12.0%
|19:00
|-
|19:30
|rowspan=3 style="border-right:none;"|[[木曜スペシャル]]<br>「おまたせ'93秋の特選絶景グルメ・美人の湯<br>全国・各駅停車の旅」||rowspan=3 style="border-left:none;"|14.7%
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[バウ (漫画)|平成イヌ物語バウ]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}8.2%
|rowspan=3 style="border-right:none;"|[[TVチャンピオン]]<br>「すし職人にぎりワザ選手権」||rowspan=3 style="border-left:none;"|18.0%
|19:30
|-
|20:00
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[くらべてみれば]]「畳VSフローリング」||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}9.7%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[オレたちのオーレ!]]<br>「町から3億!今宵はサンバ」||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}5.7%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[ビートたけしのつくり方]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|13.4%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[名奉行 遠山の金さん]]<br>「馬と下郎と大福餅」||rowspan=2 style="border-left:none;"|15.2%
|20:00
|-
|20:40
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[ドラマ新銀河]]「親子は他人の始まり」||rowspan=1 style="border-left:none;"|13.2%
|20:40
|-
|21:00
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[NHKニュース9]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|12.1%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[板東英二のズバリ!直球勝負]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}6.9%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[渡る世間は鬼ばかり|橋田壽賀子ドラマ<br>渡る世間は鬼ばかり]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|23.5%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[とんねるずのみなさんのおかげです|とんねるずの<br>みなさんのおかげです]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|17.1%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[女検事の捜査ファイル]]<br>「連続レイプ魔!美人姉妹の復讐」||rowspan=2 style="border-left:none;"|14.1%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[ドーハの悲劇|ガンバレ日本!!W杯初出場へ<br>世紀の決戦まもなくキックオフ]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|11.0%
|21:00
|-
|21:30
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[クローズアップ現代+|クローズアップ現代]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}9.0%
|21:30
|-
|22:00
|rowspan=1 style="border-right:none;"|篠田正浩のオーケストラ見聞録||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}2.7%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[ダウンタウンDX]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}4.5%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[TVジェネレーション]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}7.7%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[都合のいい女]]<br>「傷跡」||rowspan=2 style="border-left:none;"|12.8%
|rowspan=3 style="border-right:none;"|[[ニュースステーション]]||rowspan=3 style="border-left:none;"|{{0}}8.7%
|rowspan=7 style="border-right:none;"|[[ドーハの悲劇|1994 FIFAワールドカップ<br>アジア地区最終予選<br>「日本×イラク」]]||rowspan=7 style="border-left:none;"|48.1%
|22:00
|-
|22:45
|rowspan=3 style="border-right:none;"|[[スポーツタイム]]||rowspan=3 style="border-left:none;"|{{0}}3.4%
|22:45
|-
|23:00
|rowspan=4 style="border-right:none;"|[[NNNきょうの出来事]]||rowspan=4 style="border-left:none;"|{{0}}2.4%
|rowspan=6 style="border-right:none;"|[[筑紫哲也 NEWS23]]||rowspan=6 style="border-left:none;"|{{0}}2.6%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[FNN NEWSCOM]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}3.8%
|23:00
|-
|23:25
|rowspan=3 style="border-right:none;"|[[KISS×KISS]]||rowspan=3 style="border-left:none;"|{{0}}3.2%
|23:25
|-
|23:30
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[NHKニュース]]◇[[視点・論点]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|
|rowspan=4 style="border-right:none;"|[[プロ野球ニュース]]||rowspan=4 style="border-left:none;"|{{0}}3.8%
|23:30
|-
|23:50
|rowspan=3 style="border-right:none;"|金の大びょうぶでアート||rowspan=3 style="border-left:none;"|{{0}}1.0%
|23:50
|-
|23:55
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[EXテレビ]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}2.2%
|rowspan=2 style="border-right:none;"|[[トゥナイト (テレビ番組)|トゥナイト]]||rowspan=2 style="border-left:none;"|{{0}}7.8%
|23:55
|-
|00:15
|rowspan=1 style="border-right:none;"|[[ワールドビジネスサテライト]]||rowspan=1 style="border-left:none;"|{{0}}7.3%
|00:15
|}
『1994 FIFAワールドカップアジア地区最終予選 日本×イラク』地区別番組平均視聴率
:{| class="wikitable" style="font-size:small"
!地区!!放送局!!視聴率
|-
|関東||テレビ東京||48.1%
|-
|関西||[[テレビ大阪]]||32.6%
|-
|名古屋||[[テレビ愛知]]||34.8%
|-
|北部九州||[[TVQ九州放送|TVQ TXN九州]]||37.9%
|-
|札幌||[[テレビ北海道]]||38.3%
|}
'''参考文献'''
* {{Cite book|和書|title= テレビ東京30年史|date=1994-4-12|publisher=[[テレビ東京]]|pages=138 - 140}}
* {{Cite book|和書|editor= [[日本民間放送連盟]]|title= [[日本民間放送年鑑|日本民間放送年鑑'94]]|date=1994-11-18|publisher=コーケン出版|pages=92}}
=== アメリカ合衆国 ===
==== マンデー・ナイト・ウォー ====
{{Main|マンデー・ナイト・ウォーズ}}
[[1990年代]]後半の[[アメリカ合衆国]]では、米国を二分するプロレス団体のWWF(現・[[WWE]])と[[WCW]](解散し現存しない)が、月曜夜の同じ時間帯にプロレス中継(WWFの『MONDAY NIGHT RAW』、WCWの『MONDAY NITRO』)を放送しており、熾烈な視聴率争いが発生していた<ref>『WWE マンデーナイトウォー』 [[ジェネオンエンタテインメント]]、2004年6月25日。ASIN B000244RVC</ref><ref>Rick Scaia,"[http://onlineonslaught.com/features/mnw-intro.shtml THE MONDAY NIGHT WARS: RAW vs. Nitro],"''[http://onlineonslaught.com/ ONLINE ONSLAUGHT]'',August 7, 2003.</ref>。
この視聴率争いは凄まじく、ライバル団体の放送を見て何の前触れもなしに対戦カードを変更する、視聴率で押されそうになると現地スタッフが[[プロレスラー|レスラー]]に乱入を指令するなど、常軌を逸した演出も日常茶飯事であった。
当初はWCWが人気レスラーを起用し[[ニュー・ワールド・オーダー|nWoブーム]]を生むなど優勢であったが、WWFが選手や社長一家の抗争を前面に出すアティテュード路線に変更することで巻き返し、ついにはWCWを解散に追い込んだ。
=== 選挙特番 ===
==== 日本 ====
国政選挙が行われるたびに[[選挙特別番組]]においても激しい視聴率争いが繰り広げられている。公共放送であるNHKに対抗すべく、民放では番組の演出に趣向を凝らすようになり、特に1970年代のフジテレビでは、選挙特番を放送するために休止する『[[唄子・啓助のおもろい夫婦]]』や『[[パンチDEデート]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作)の内容を流用、司会も[[京唄子]]・[[鳳啓助]]や[[桂文枝 (6代目)|桂三枝(現:六代目文枝)]]・[[西川きよし]]といった流用番組の司会者が務めた。
1980年代に日本テレビで放送された『[[久米宏のTVスクランブル|久米宏のTV選挙スクランブル]]』では落選した候補者には、「[[ピアノソナタ第2番 (ショパン)|葬送行進曲]]」を流し、候補者の顔写真が落ちていくという演出を行った。1989年以降、民放各局では視聴率獲得のため、スポーツ中継と開票速報を同時に行う番組編成を行ったり、多くのタレントや芸能人がコメンテーターとして出演させたりした。また、NHKをはじめ各局が[[出口調査]]などを元に独自の事前分析で他局より1秒でも早く選挙区の当落を判明させて放送するようになった。一方で、当落の誤報を起こすようになり番組内で謝罪したケースも存在した<ref>{{cite news|title=衆院選:当選誤報相次ぐ テレビ3局謝罪|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2014-12-16|url=http://senkyo.mainichi.jp/news/20141216ddm041040178000c.html|accessdate=2014-12-21}}</ref>。
2010年、テレビ東京が[[池上彰]]を司会に据えた『[[池上彰の選挙スペシャル]]』をスタートさせたところ、わかりやすい解説や[[公明党]]の幹部や候補者に[[創価学会]]との関係について質問する姿勢、また当選した候補者や有名候補者への鋭い切り口が視聴者の好評を獲て、2010年以降4回連続{{refnest|[[第22回参議院議員通常選挙|2010年参議院選挙]]、[[第46回衆議院議員総選挙|2012年総選挙]]、[[第23回参議院議員通常選挙|2013年参議院選挙]]、および[[第47回衆議院議員総選挙|2014年総選挙]]{{refnest|2014年はテレビ朝日と同率1位{{cite news|title=衆院選特番 池上テレ東と古舘テレ朝が民放トップ11・6%|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/12/15/kiji/K20141215009463580.html|newspaper=[[スポーツニッポン|スポニチアネックス]]|date=2014-12-15|accessdate=2014-12-21}}}}。}}で民放1位の視聴率を記録、2013年の特番では初の2桁視聴率も獲得している<ref>{{cite news|title=池上彰氏&テレ東が圧勝!民放選挙特番|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|date=2013-7-23|url=http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201307230005.html|accessdate=2014-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130729230540/http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201307230005.html|archivedate=2013-07-29}}</ref>。
== Twitter TV エコー ==
ビデオリサーチは番組価値を測る新たな指標として、「Twitter TV エコー」というサービスを開始した。[[Twitter]]における「インプレッションユーザー数」「インプレッション数」「1分あたりのツイート投稿数」「ツイート投稿ユーザー数」の4つを基本指標としている<ref>[http://www.videor.co.jp/tv-echo/index.htm#service サービス紹介] ビデオリサーチ(2015年12月21日閲覧)</ref>。インプレッション(ツイートの拡散)が多いのはバラエティ、ドラマなどで、少ないのはスポーツ番組、報道番組などで<ref>[https://www.videor.co.jp/vr-digest/pdf/vrd540_201411/vrd540_article1.pdf 「Twitter TV エコー」サービスはじまる 「みえていなかったものがみえてくる」] ビデオリサーチ(2015年12月21日閲覧)</ref>、高齢層より若年層で視聴率とツイートは高い相関関係、投稿よりもインプレッション(表示)において視聴率とツイートは高い相関関係にある<ref>[http://www.videor.co.jp/tv-echo/casestudy.htm#case01 高齢層より若年層で、視聴率とツイートは高い相関関係] ビデオリサーチ(2015年12月21日閲覧)</ref>。
{{節スタブ}}
== 視聴率を題材にしたフィクション ==
* 小説
**[[松本清張]]『[[渦 (松本清張)|渦]]』(1976年 - 1977年、[[日本経済新聞]])<ref group="注釈">この作品の連載終了後に、ビデオリサーチ社長時代の森崎実はコメントを発表し、会社創立以降、ミノル・メーター導入までの、視聴率調査の実態について自ら概説している。「『渦』を脱出 視聴率調査 - 小説に書かれなかった調査会社のあれこれ」(『[[日本経済新聞]]』1977年1月13日付掲載、また『松本清張全集 第40巻』(1982年、[[文藝春秋]])付属の月報に全文が再掲されている)参照。</ref>
* 映画
** [[ネットワーク (映画)|ネットワーク]](1976年、アメリカ映画)
** [[15ミニッツ]](2001年、アメリカ映画)
* ドラマ
** [[美女か野獣]](2003年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列)
* ゲーム
** [[スペースチャンネル5]](1999年、[[セガ]])
** [[笑う犬#ゲーム|笑う犬の冒険GB SILLY GO LUCKY!]](2001年、[[カプコン]])
** [[ドリームミックスTV ワールドファイターズ]](2003年、[[ハドソン]])
== 関連書籍 ==
いずれも日本における視聴率に関するもの。
* 「ビデオリサーチ」編 『視聴率の正体』 [[星雲社]]、1983年。ISBN 4795252084
* 藤平芳紀 『視聴率の謎にせまる―デジタル放送時代を迎えて テレビ社会と私たちの暮らしの関わりを探る格好のテレビ論』 [[ニュートンプレス]]、1999年。ISBN 4315515329
* 引田惣弥 『全記録 テレビ視聴率50年戦争-そのとき一億人が感動した』 [[講談社]]、2004年。ISBN 4062122227
* 藤平芳紀 『視聴率の正しい使い方』 [[朝日新聞社]]、2007年。ISBN 9784022731425
* 岩本太郎 「視聴率の歴史と『これから』」 『[[GALAC]]』2004年3月号。
** NPO法人放送批評懇談会50周年記念出版 『放送批評の50年』[[学文社]]、2013年、761-767頁。ISBN 978-4-7620-2380-4
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[キー局]]
* [[報道の自由]]
* [[視聴者]]
* [[視聴質]]
* [[改編]]
** [[打ち切り]]
* [[潜在視聴率]]
* [[日本テレビ視聴率買収事件]]
* [[聴取率]]
* [[景気後退]]
* [[インターネット視聴率]]
* [[スタグフレーション]]
* [[延べ視聴率]]
* [[放送倫理・番組向上機構]](BPO)
* [[BSパワー調査]]
* [[WWE#Monday Night Wars - アティテュード時代]]
* [[WCW#マンデー・ナイト・ウォー]]
* [[:en:Monday Night Wars|Monday Night Wars]]
* [[:en:Monday Night Wars: Ratings|Monday Night Wars: Ratings]]
* [[リサーチQ]]
* [[TVer]] - 民放公式の動画配信サービス。再生回数が視聴率とともに番組の指標となっている。
* [[torne]] - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]](SCE)の[[PlayStation]]各機種用テレビ視聴・録画アプリケーション。視聴者数や録画予約数を独自に計測している(トルミル情報)。
* [[レグザ|REGZA]] - [[東芝]]の[[液晶テレビ]]およびレコーダー。録画予約ランキングを独自に計測している(おすすめサービス)。また、そのランキングを[[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]から確認することもできる(RZスケジューラ)。
* [[探偵!ナイトスクープ]] - 番組放送時間内に多くの一般民家を訪問し、ナイトスクープを見ているかどうか確認する「ナイトスクープ視聴率調査」という不定期コーナーが存在する。
* [[TVおじゃマンボウ]] - 視聴率ランキングコーナーがあった。
== 外部リンク ==
* [https://www.videor.co.jp/ 株式会社ビデオリサーチ]
* [https://www.nhk.or.jp/bunken/ NHK放送文化研究所]
** [https://www.nhk.or.jp/bunken/yoron/rating/index.html 全国個人視聴率調査]
* [https://www.ntv.co.jp/info/news/20031118.html 日本テレビ-「視聴率操作」に関する調査報告書]
* {{Kotobank}}
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ニコライ・ロバチェフスキー
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ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー(Никола́й Ива́нович Лобаче́вский, Nikolai Ivanovich Lobachevsky, 1792年12月1日 - 1856年2月24日(グレゴリオ暦)/1792年11月20日 - 1856年2月12日(ユリウス暦))はロシアの数学者である。
カザン大学に学び、21歳で同大学教授となり、1827年から1846年には学長も兼ねていた。1826年に幾何学の基礎に関する論文をカザン大学の物理・数学科に提出したが、刊行されずに失われた。1829年に大学学報にその学説を発表しさらに『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』 (Новые начала геометрии с полною теорией параллельных) の中で詳しく展開した。ついで Geometrische Untersuchungen zur Theorie der Parallellinien (1840年) をベルリンで刊行した。これらによってロバチェフスキーはヤノーシュ・ボヤイとは独立に非ユークリッド幾何学の創始者となり、この新幾何学の自然的根拠についても深い省察を与えた。卓越した教育者であり、20年以上学長を務めたカザン大学で後進の指導を手がけ、レーニンの父であるイリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフはロバチェフスキーの推薦でドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師となった。
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ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーはロシアの数学者である。
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{{出典の明記|date=2020年6月10日 (水) 09:19 (UTC)}}
[[画像:Nikolay_Ivanovich_Lobachevsky.jpeg|thumb|N・I・ロバチェフスキー]] '''ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー'''({{lang|ru|''Никола́й Ива́нович Лобаче́вский''}}, {{lang|la|''Nikolai Ivanovich Lobachevsky''}}, [[1792年]][[12月1日]] - [[1856年]][[2月24日]]([[グレゴリオ暦]])/1792年[[11月20日]] - 1856年[[2月12日]]([[ユリウス暦]]))は[[ロシア]]の[[数学者の一覧#18世紀生まれの有名な数学者|数学者]]である。
== 生涯 ==
[[カザン大学]]に学び、21歳で同大学教授となり、1827年から1846年には学長も兼ねていた。1826年に幾何学の基礎に関する論文をカザン大学の物理・数学科に提出したが、刊行されずに失われた。1829年に大学学報にその学説を発表しさらに『幾何学の新原理並びに[[平行線]]の完全な理論』 ({{lang|ru|Новые начала геометрии с полною теорией параллельных}}) の中で詳しく展開した。ついで {{lang|de|''Geometrische Untersuchungen zur Theorie der Parallellinien''}} (1840年) をベルリンで刊行した。これらによってロバチェフスキーは[[ヤノーシュ・ボヤイ]]とは独立に非ユークリッド幾何学の創始者となり、この新幾何学の自然的根拠についても深い省察を与えた。卓越した教育者であり、20年以上学長を務めたカザン大学で後進の指導を手がけ、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の父である[[イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ]]はロバチェフスキーの推薦でドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師となった。
==業績==
* [[1835年]]から[[1837年]]にかけての論文「幾何学の新原理並びに[[非ユークリッド幾何学#平行線公準|平行線の完全な理論]]」において、[[非ユークリッド幾何学]]の1つである[[双曲幾何学]]を築いた。双曲幾何学は'''ロバチェフスキー幾何学'''とも呼ばれる。
== 文学 ==
* 大魔王作戦([[ポール・アンダースン]])
: 魔法が科学的に扱える世界のSF作品。作中、主人公たちが地獄に侵攻するにあたり、地獄の空間の歪みを想定し、道案内として非ユークリッド幾何学の大家の精霊を呼び出した際に出現する。ただし彼は徳が高すぎた為、地獄侵攻の先頭に立つに相応しくないとして助言役にとどまり、同時に出現したボヤイが案内役を引き受けた。
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ボーヤイ・ヤーノシュ
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ボーヤイ・ヤーノシュ(Bolyai János [ˈboːjɒiˌjɑ̈ːnoʃ], 1802年12月15日 - 1860年1月27日)はハンガリー領トランシルヴァニア(現ルーマニア領)出身のセーケイ人(ハンガリー人)数学者。
平行線公準を研究し、1835年、「ユークリッド第11公準を証明または反駁することの不可能の証明」において非ユークリッド幾何学の可能性を切り開き双曲幾何学を提唱した。現在、ニコライ・ロバチェフスキーと並んで、非ユークリッド幾何学の提唱者のひとりとして位置づけられている。
数学者・詩人のボーヤイ・ファルカシュの子として生まれる。幼いころから数学に異常な才能を示し、13、4歳のころにはファルカシュの代わりに講義を行い、好評を博したという。父ファルカシュは息子を数学者として育てようとしたが、暮し向きが楽ではなかったため学費を充分に工面することができず、ヤーノシュはウィーンの工兵学校に進学した(1818年~23年)。卒業後はハンガリー陸軍の職業軍人となり、剣とヴァイオリンの腕前ではハンガリー軍随一という評判をとった。
ヤーノシュは、軍務のかたわらで数学研究も続けていた。父のファルカシュはドイツの偉大な数学者であるガウスの同窓生でありまた友人であり、自身も平行線公準を研究していたが、自信作をガウスに見せて間違いを指摘されて以降、この問題からは遠ざかっていた。ところがヤーノシュは父ファルカシュの知らぬ間に平行線の問題に取り組み、いくつかの結果を出し始めた。研究内容をファルカシュに知らせたところ、父は自分がこの問題で手痛い打撃を受けたという経験から、なんとか息子にこの研究をやめさせようとしたが、それでもヤーノシュはひるまなかった。
1826年ころには現在双曲幾何学とよばれる非ユークリッド幾何学のひとつを不十分ながら建設することができた。それまで否定的だったファルカシュも研究が正しい方向に進んでいることを聞かされて息子を評価するようになり「結果が出たならすぐにでも発表しなさい。ほかにも同じことを考えている人はいるのだから一刻でも早い方がよい」と早く発表することをうながした。最終的にこの論文は父親の『試論』という書物の中の付録として収録され、発表された。
ファルカシュはその抜き刷りをガウスに送って批評を請うた。ただ、ガウスからの返事は「論文を発表した息子さんの勇気を誉めたい。しかし息子さんを誉めることは私自身を誉めることになるでしょう。なぜならこの論文に書かれていることを私は20年以上前に得ていたのです。騒ぐ人がいるので発表しなかっただけなのです」というものであった。ファルカシュは息子がガウスと同様の水準に達した数学者となったとして喜んだが、当のヤーノシュはガウスの評価に落胆し、ガウスが自分の手法を盗んだのではないかとさえ疑った。しかし、ガウスが独自に同様の手法を発見していた事実を知り、大きな衝撃を受ける。また、この平行線問題はロシアのロバチェフスキーも長年研究していており、ヤーノシュ論文の数年前に論文を発表していたことをガウスから知らされた。ヤーノシュの論文は用いていた記号や論述が独特で読みにくく、一般に広がるには難しい側面を持っていたのに対して、ロバチェフスキーの論文の完成度はヤーノシュの論文を遥かに凌駕していた。こうした事態に直面したヤーノシュは猜疑心のあまり、ロバチェフスキーなどという人物は実在せず、それはガウスが自分を陥れるために捏造した架空の存在であるとさえ疑った。しかし、ロバチェフスキー論文の真価に気づくと、この方面の研究自体を一切止めてしまう。
1833年、学問にも人生にも絶望したヤーノシュは軍を退役し、祖母が遺してくれた屋敷において隠遁生活にはいった。1849年には結婚するが、1852年に離婚。数学と一般認識論の研究だけは細々と続けて多くのメモを残したが、その後はついに死去まで論文を公表することはなかった。
1860年1月27日、肺炎のため57歳で死去する。このように、生前には彼の業績はほとんど評価されなかったが、その後に非ユークリッド幾何学の研究が進むにつれて再評価されてこの分野の先駆者と認められるようになり、現在では双曲幾何学は「ボーヤイ・ロバチェフスキー幾何学」とも呼ばれるようになっている。
ボーヤイ父子についてはStackelの"Wolfgang und Johann Bolyai"に詳しい。一般的な書としてはLiwanovaの『新しい幾何学の発見』(のちに『ロバチェフスキーの世界』と改題)(東京図書刊行)に詳しい。
なお、トランシルヴァニアのクルージュ=ナポカ市(コロジュヴァール市)の旧ハンガリー王立フェレンツ・ヨージェフ大学は、現在はルーマニア人の細菌学者ヴィクトル・バベシュとボーヤイ・ヤーノシュの名前に因んでルーマニア国立バベシュ=ボーヤイ大学と命名されている。
1832年に発表した「空間論」(父親の著書の補稿として書かれた「空間の絶対的真性科学の証明のための補遺」)が、2009年にハンガリーによってユネスコ記憶遺産に申請され登録された。
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ボーヤイ・ヤーノシュはハンガリー領トランシルヴァニア(現ルーマニア領)出身のセーケイ人(ハンガリー人)数学者。 平行線公準を研究し、1835年、「ユークリッド第11公準を証明または反駁することの不可能の証明」において非ユークリッド幾何学の可能性を切り開き双曲幾何学を提唱した。現在、ニコライ・ロバチェフスキーと並んで、非ユークリッド幾何学の提唱者のひとりとして位置づけられている。
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{{ハンガリー人の姓名| ボーヤイ|ヤーノシュ}}
[[Image:JanosBolyai.jpg|thumb|right|ボーヤイ・ヤーノシュ]]
'''ボーヤイ・ヤーノシュ'''(''Bolyai János'' {{IPA|ˈboːjɒiˌjɑ̈ːnoʃ}}, [[1802年]][[12月15日]] - [[1860年]][[1月27日]])は[[ハンガリー]]領[[トランシルヴァニア]](現[[ルーマニア]]領)出身の[[セーケイ人]](ハンガリー人)[[数学者]]。
[[平行線公準]]を研究し、[[1835年]]、「ユークリッド第11公準を証明または反駁することの不可能の証明」において[[非ユークリッド幾何学]]の可能性を切り開き[[双曲幾何学]]を提唱した。現在、[[ニコライ・ロバチェフスキー]]と並んで、非ユークリッド幾何学の提唱者のひとりとして位置づけられている。
== 業績 ==
数学者・詩人の[[ボーヤイ・ファルカシュ]]の子として生まれる。幼いころから数学に異常な才能を示し、13、4歳のころにはファルカシュの代わりに講義を行い、好評を博したという。父ファルカシュは息子を数学者として育てようとしたが、暮し向きが楽ではなかったため学費を充分に工面することができず、ヤーノシュはウィーンの工兵学校に進学した([[1818年]]~[[1823年|23年]])。卒業後はハンガリー陸軍の職業軍人となり、剣とヴァイオリンの腕前ではハンガリー軍随一という評判をとった。
ヤーノシュは、軍務のかたわらで数学研究も続けていた。父のファルカシュはドイツの偉大な数学者である[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]の同窓生でありまた友人であり、自身も平行線公準を研究していたが、自信作をガウスに見せて間違いを指摘されて以降、この問題からは遠ざかっていた。ところがヤーノシュは父ファルカシュの知らぬ間に平行線の問題に取り組み、いくつかの結果を出し始めた。研究内容をファルカシュに知らせたところ、父は自分がこの問題で手痛い打撃を受けたという経験から、なんとか息子にこの研究をやめさせようとしたが、それでもヤーノシュはひるまなかった。
1826年ころには現在[[双曲幾何学]]とよばれる[[非ユークリッド幾何学]]のひとつを不十分ながら建設することができた。それまで否定的だったファルカシュも研究が正しい方向に進んでいることを聞かされて息子を評価するようになり「結果が出たならすぐにでも発表しなさい。ほかにも同じことを考えている人はいるのだから一刻でも早い方がよい」と早く発表することをうながした。最終的にこの論文は父親の『試論』という書物の中の付録として収録され、発表された。
ファルカシュはその抜き刷りをガウスに送って批評を請うた。ただ、ガウスからの返事は「論文を発表した息子さんの勇気を誉めたい。しかし息子さんを誉めることは私自身を誉めることになるでしょう。なぜならこの論文に書かれていることを私は20年以上前に得ていたのです。騒ぐ人がいるので発表しなかっただけなのです」というものであった。ファルカシュは息子がガウスと同様の水準に達した数学者となったとして喜んだが、当のヤーノシュはガウスの評価に落胆し、ガウスが自分の手法を盗んだのではないかとさえ疑った。しかし、ガウスが独自に同様の手法を発見していた事実を知り、大きな衝撃を受ける。また、この平行線問題はロシアの[[ニコライ・ロバチェフスキー|ロバチェフスキー]]も長年研究していており、ヤーノシュ論文の数年前に論文を発表していたことをガウスから知らされた。ヤーノシュの論文は用いていた記号や論述が独特で読みにくく、一般に広がるには難しい側面を持っていたのに対して、ロバチェフスキーの論文の完成度はヤーノシュの論文を遥かに凌駕していた。こうした事態に直面したヤーノシュは猜疑心のあまり、ロバチェフスキーなどという人物は実在せず、それはガウスが自分を陥れるために捏造した架空の存在であるとさえ疑った。しかし、ロバチェフスキー論文の真価に気づくと、この方面の研究自体を一切止めてしまう。
1833年、学問にも人生にも絶望したヤーノシュは軍を退役し、祖母が遺してくれた屋敷において隠遁生活にはいった。1849年には結婚するが、1852年に離婚。数学と一般認識論の研究だけは細々と続けて多くのメモを残したが、その後はついに死去まで論文を公表することはなかった。
1860年1月27日、肺炎のため57歳で死去する。このように、生前には彼の業績はほとんど評価されなかったが、その後に[[非ユークリッド幾何学]]の研究が進むにつれて再評価されてこの分野の先駆者と認められるようになり、現在では[[双曲幾何学]]は「'''ボーヤイ・ロバチェフスキー幾何学'''」とも呼ばれるようになっている。
ボーヤイ父子についてはStackelの"Wolfgang und Johann Bolyai"に詳しい。一般的な書としてはLiwanovaの『新しい幾何学の発見』(のちに『ロバチェフスキーの世界』と改題)(東京図書刊行)に詳しい。
なお、トランシルヴァニアの[[クルージュ=ナポカ]]市([[コロジュヴァール]]市)の旧ハンガリー王立フェレンツ・ヨージェフ大学は、現在はルーマニア人の細菌学者ヴィクトル・バベシュとボーヤイ・ヤーノシュの名前に因んでルーマニア国立[[バベシュ=ボーヤイ大学]]と命名されている。
1832年に発表した「空間論」(父親の著書の補稿として書かれた「空間の絶対的真性科学の証明のための補遺」)が、2009年にハンガリーによって[[ユネスコ記憶遺産]]に申請され登録された<ref>[http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-4/janos-bolyai-appendix-scientiam-spatii-absolute-veram-exhibens-maros-vasarhelyini-1832/ UNESCO Memory of the World Archives]</ref>。
== 文学 ==
* 大魔王作戦([[ポール・アンダースン]])
: 魔法が科学的に扱える世界のSF作品。作中、主人公たちが地獄に侵攻することになるが、地獄の空間はゆがんでいることが予想され、道案内を頼むため非ユークリッド幾何学の大家の精霊を呼び出したときに彼が出現する。ちなみに同時にロバチェフスキーも出現、こちらは徳が高すぎるために地獄侵攻の表に立てず、ボヤイが猫に憑依して先頭に立つ。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[ボーヤイ賞]]
* [[ボーヤイ (小惑星)]]
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[[Category:ボーヤイ家|やあのしゆ]]
[[Category:ハンガリーの数学者]]
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[[Category:19世紀の数学者|021215]]
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ボーヤイ・ファルカシュ
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ボーヤイ・ファルカシュ(Bolyai Farkas [ˈboːjɒi ˈfɒrkɒʃ], 1775年2月9日 シビウ近郊ボーヤ(Bolya、現ルーマニア・ブヤ Buia) - 1856年11月20日 マロシュヴァーシャールヘイ(Marosvásárhely、現ルーマニア・トゥルグ・ムレシュ))はハンガリーのトランシルヴァニア(現ルーマニア領)のセーケイ人(ハンガリー人)の数学者にして詩人。ドイツ語ではファルカス・ヴォルフガング・ボーヤイ(Farkas Wolfgang Bolyai)と表記される。ボヤイの定理を証明した。非ユークリッド幾何学の提唱者のひとりとして知られるボーヤイ・ヤーノシュの父。
ボーヤイ家は名家であったが、ファルカシュの代には零落して経済的には豊かではなくなっていた。彼は経済的事情から大学進学を諦めかけたが、友人の父の貴族の援助によりゲッティンゲン大学に通うことができ、ここで、後に大数学者となるカール・フリードリヒ・ガウスの同窓生となり、彼と親交を結ぶ。
1798年にファルカシュは大学を卒業したが、その頃には貴族からの援助も途絶えており、再び経済的苦境におちいった。彼は故国ハンガリーに戻ってかろうじて大学の教職に就いたのであるが、それも薄給であり、息子のヤーノシュの学費の調達にも苦しんでいた。ただ、ファルカシュはヤーノシュが数学者としての才能を持っていることに気づき、自ら息子に数学の教育を施した。
数学者としてのファルカシュは平行線公準についての研究に熱中したが、その証明を果たすことはできなかった。のち、ファルカシュの息子のヤーノシュは父の影響のもとにこの問題に取り組み出した。ファルカシュは自分の失敗の経験から息子がこの研究を諦めるように諭したけれども、ヤーノシュはそれを聞くことはなかった。結局、ヤーノシュは父のように平行線公準を証明するのではなく、それは「証明もできないけれども、その一方で反駁もできない」ものであるという結論に達した。これは、平行線公準を前提としたユークリッド幾何学に対して、平行線公準を必要としないまったく新しい幾何学、つまり非ユークリッド幾何学の道を切り開いたものであった。息子が挙げた成果を見てファルカシュもそれを認め、早く発表することをうながした。こうしてヤーノシュの論文「空間論」(「空間の絶対的真性科学の証明のための補遺」)は、1832年にファルカシュの著書『試論』の付録として世にでることになる。
ファルカシュは息子の論文をガウスに送って評価を乞うたのであるが、ガウスの返事は「自分もずっと以前からそれに気がついていたのであるが、トラブルを恐れて発表しなかっただけである」というものであった。ファルカシュはこれを好意的に受け取り、息子がガウスと同列の数学者に成長したことを喜んだが、ヤーノシュ自身はガウスの評価を否定的なものと考えて衝撃を受け、研究の筆を折ってしまった。
1937年に発見されたボーヤイ (小惑星)は彼の名前に因んで命名された。
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ボーヤイ・ファルカシュはハンガリーのトランシルヴァニア(現ルーマニア領)のセーケイ人(ハンガリー人)の数学者にして詩人。ドイツ語ではファルカス・ヴォルフガング・ボーヤイと表記される。ボヤイの定理を証明した。非ユークリッド幾何学の提唱者のひとりとして知られるボーヤイ・ヤーノシュの父。 ボーヤイ家は名家であったが、ファルカシュの代には零落して経済的には豊かではなくなっていた。彼は経済的事情から大学進学を諦めかけたが、友人の父の貴族の援助によりゲッティンゲン大学に通うことができ、ここで、後に大数学者となるカール・フリードリヒ・ガウスの同窓生となり、彼と親交を結ぶ。 1798年にファルカシュは大学を卒業したが、その頃には貴族からの援助も途絶えており、再び経済的苦境におちいった。彼は故国ハンガリーに戻ってかろうじて大学の教職に就いたのであるが、それも薄給であり、息子のヤーノシュの学費の調達にも苦しんでいた。ただ、ファルカシュはヤーノシュが数学者としての才能を持っていることに気づき、自ら息子に数学の教育を施した。 数学者としてのファルカシュは平行線公準についての研究に熱中したが、その証明を果たすことはできなかった。のち、ファルカシュの息子のヤーノシュは父の影響のもとにこの問題に取り組み出した。ファルカシュは自分の失敗の経験から息子がこの研究を諦めるように諭したけれども、ヤーノシュはそれを聞くことはなかった。結局、ヤーノシュは父のように平行線公準を証明するのではなく、それは「証明もできないけれども、その一方で反駁もできない」ものであるという結論に達した。これは、平行線公準を前提としたユークリッド幾何学に対して、平行線公準を必要としないまったく新しい幾何学、つまり非ユークリッド幾何学の道を切り開いたものであった。息子が挙げた成果を見てファルカシュもそれを認め、早く発表することをうながした。こうしてヤーノシュの論文「空間論」(「空間の絶対的真性科学の証明のための補遺」)は、1832年にファルカシュの著書『試論』の付録として世にでることになる。 ファルカシュは息子の論文をガウスに送って評価を乞うたのであるが、ガウスの返事は「自分もずっと以前からそれに気がついていたのであるが、トラブルを恐れて発表しなかっただけである」というものであった。ファルカシュはこれを好意的に受け取り、息子がガウスと同列の数学者に成長したことを喜んだが、ヤーノシュ自身はガウスの評価を否定的なものと考えて衝撃を受け、研究の筆を折ってしまった。 1937年に発見されたボーヤイ (小惑星)は彼の名前に因んで命名された。
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1798年にファルカシュは大学を卒業したが、その頃には貴族からの援助も途絶えており、再び経済的苦境におちいった。彼は故国ハンガリーに戻ってかろうじて大学の教職に就いたのであるが、それも薄給であり、息子のヤーノシュの学費の調達にも苦しんでいた。ただ、ファルカシュはヤーノシュが数学者としての才能を持っていることに気づき、自ら息子に数学の教育を施した。
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ファルカシュは息子の論文をガウスに送って評価を乞うたのであるが、ガウスの返事は「自分もずっと以前からそれに気がついていたのであるが、トラブルを恐れて発表しなかっただけである」というものであった。ファルカシュはこれを好意的に受け取り、息子がガウスと同列の数学者に成長したことを喜んだが、ヤーノシュ自身はガウスの評価を否定的なものと考えて衝撃を受け、研究の筆を折ってしまった。
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== 脚注 ==
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1667年
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1667年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛文]]7年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2327年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]6年
*** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]21年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]8年
** [[檀君紀元|檀紀]]4000年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景治]]5年
* [[仏滅紀元]] : 2209年 - 2210年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1077年 - 1078年
* [[ユダヤ暦]] : 5427年 - 5428年
* [[ユリウス暦]] : 1666年12月22日 - 1667年12月21日
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[4月27日]] - [[ジョン・ミルトン]]、『[[失楽園]]』の[[著作権]]を10[[ポンド (通貨)|ポンド]]で売却。{{要出典|date=2021-04}}
* [[5月22日]] - [[徳川光貞]]が[[紀伊国|紀伊]][[和歌山藩]]主を相続。
* [[7月3日]] - [[ブレダの和約]]締結、第二次[[英蘭戦争]]終結。
* [[フランス]]、[[フランドル]]に侵攻。[[ネーデルラント継承戦争|南ネーデルラント継承戦争]]( - [[1668年]])。
* [[江南省]]が[[江蘇省]]と[[安徽省]]に分割された。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1667年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月]] - [[アントニオ・ロッティ]]、[[作曲家]](+ [[1740年]])
* [[2月4日]] - [[アレッサンドロ・マニャスコ]]、[[画家]](+ [[1749年]])
* [[3月28日]](寛文7年[[2月4日 (旧暦)|閏2月4日]]) - [[藤堂高睦]]、[[伊勢国]][[津藩]]第4代[[藩主]](+ [[1708年]])
* [[4月29日]]受洗 - [[ジョン・アーバスノット (著作家)|ジョン・アーバスノット]]([[w:John Arbuthnot|John Arbuthnot]])、[[医師]]、[[風刺]][[作家]](+ [[1735年]])
* [[5月26日]] - [[アブラーム・ド・モアブル]]、[[数学者]](+ [[1754年]])
* [[8月6日]] - [[ヨハン・ベルヌーイ]]、数学者(+ [[1748年]])
* [[8月11日]] - [[アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ]]、[[メディチ家]]の最後の人物(+ [[1743年]])
* [[9月5日]] - [[ジョヴァンニ・ジェローラモ・サッケーリ]]、数学者(+ [[1733年]])
* [[9月28日]](寛文7年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[浅野長矩]]、[[播磨国]][[赤穂藩]]主(+ [[1701年]])
* [[11月30日]] - [[ジョナサン・スウィフト]]、作家、[[政治家]](+ [[1745年]])
* [[12月4日]] - [[ミシェル・ピニョレ・ド・モンテクレール]]、作曲家(+ [[1737年]])
* [[12月15日]] - [[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|エルンスト・ルートヴィヒ]]、[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯]](+ [[1739年]])
* [[片岡高房]]、[[赤穂浪士]](+ [[1703年]])
* [[ヤン・クペツキー]]、画家(+ [[1740年]])
* [[ヨハン・クリストフ・ペープシュ]]、作曲家(+ [[1752年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1667年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月7日]] - [[ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー]]、作曲家(* [[1616年]])
* [[5月16日]] - [[サミュエル・ボシャール]]([[w:Samuel Bochart|Samuel Bochart]])、[[学者]](* [[1599年]])
* [[5月22日]] - [[アレクサンデル7世 (ローマ教皇)|アレクサンデル7世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1599年]])
* [[7月7日]] - [[ニコラ・サンソン]]、[[地図]]製作者(* [[1600年]])
* [[7月28日]] - [[エイブラハム・カウリー]]、[[詩人]](* [[1618年]])
* [[8月3日]] - [[フランチェスコ・ボッロミーニ]]、[[建築家]](* [[1599年]])
* [[10月3日]] - [[アロンゾ・カーノ]]([[w:Alonzo Cano|Alonzo Cano]])、画家(* [[1601年]])
* [[10月24日]] - [[ゴドフロイ・ウェンデリン]]([[w:Godefroy Wendelin|Godefroy Wendelin]])、[[天文学者]](* [[1580年]])
* [[10月27日]] - [[ハブリエル・メツー]]、画家(* [[1630年]])
* [[11月5日]] - [[フランツ・トゥーンダー]]、作曲家、[[オルガニスト]](* [[1614年]])
* [[逸然性融]]、中国から来日した僧(* [[1601年]])
* [[フランソワ・ロロネー]]、[[海賊]](* [[1635年]])
* [[松林蝙也斎]]、[[剣術家]](* [[1593年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
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<!-- == 外部リンク == -->
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世界銀行
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世界銀行(せかいぎんこう、英語: World Bank)とは、世界銀行グループが保有する5つの国際機関のうち、国際復興開発銀行(IBRD)と国際開発協会(IDA)の総称であり、低・中所得国の政府に対して資本プロジェクトを進めるために融資や助成金を提供する国際金融機関である。1944年のブレトン・ウッズ会議で、国際通貨基金とともに設立され、1947年にフランスに最初の融資を行った。1970年代は途上国への融資が中心だったが、1980年代には途上国への融資から脱却した。この30年間は、NGOや環境保護団体も融資対象に加えている。融資戦略は、ミレニアム開発目標や環境・社会保障制度の影響を受けている。
世界銀行は、総裁と25人の専務理事、29人の副総裁によって運営されている。IBRDとIDAはそれぞれ189カ国と174カ国が加盟している。米国、日本、中国、ドイツ、英国が最も多くの議決権を持っている。IBRDは貧困削減のために途上国への融資を目的としている。また、グローバルなパートナーシップやイニシアティブに参加し、気候変動への対応にも取り組んでいる。世界銀行は多くのトレーニングウィングを運営しており、クリーンエアイニシアチブや国連開発事業とも連携している。また、オープンデータイニシアティブの中で活動し、オープンナレッジリポジトリをホストしている。
世界銀行は、インフレを促進し、経済発展に害を与えていると批判されている。その統治方法も批判されている。世銀に対する大規模な抗議運動もあった。また、Covid-19パンデミックに対する世銀の対応にも批判がある。
1944年7月のブレトン・ウッズ会議で、国際通貨基金と共に設立が決定された国際復興開発銀行は、翌1945年に実際に設立され、1946年6月から業務を開始した。
設立当初、国際通貨基金は国際収支の危機に際しての短期資金供給、世界銀行は第二次世界大戦後の先進国の復興と発展途上国の開発を目的として、主に社会インフラ建設など開発プロジェクトごとに長期資金の供給を行う機関とされ、両者は相互に補完しあうよう設立された。ソビエト社会主義共和国連邦は決定には賛成したものの条約を批准せず、出資金を払い込まなかったために加盟できず、冷戦終結にいたるまで、世界銀行の社会主義圏における活動は低調なものとなった。
最初の融資は、フランスをはじめとする第二次世界大戦で戦災を受けた西ヨーロッパ諸国であったが、こうした先進諸国の復興は、設立間もない世界銀行の資金力では到底追いつかず、1947年にアメリカ合衆国によるマーシャル・プランが開始されると、世界銀行は発展途上国の開発資金援助に特化した。
1948年の世界銀行の融資額は3億7800万ドル、同年度のマーシャル・プランの融資額は40億ドルを超えており、アメリカが直接西欧諸国の復興に資金を供出した方がはるかに有効だったからである。またアメリカ合衆国が主導権を握っていることとソ連の不参加から、世界銀行の融資はそのまま西側の支援の一角となった。世界銀行はこの方針転換のため、一時直接的な融資よりもそのための調査を重点に行うようになり、1958年まで1948年度の融資額を越えた年が存在しないなど、1950年代を通じて融資額は低調となった。1950年代と1960年代を通じて、融資総額の半分以上がインフラストラクチャーへの投資で占められているなど、融資は大規模プロジェクトへのものが中心を占めていた。
1968年にロバート・マクナマラが第5代世界銀行総裁に就任すると、世界銀行の姿勢は大きく変化した。彼は1968年の総会で、融資の額を69年からの5年間で以前の5年間の倍にすると表明し、彼の元で世界銀行は急速に貸付を拡大し、それまでの22年間の総融資額よりも、マクナマラの最初の一期四年の融資総額の方が大きくなるなど大きな影響力を持つようになった。
それまでの財源の中心であった各国の拠出金に変わり、マクナマラは世界銀行債を積極的に発行することで市場から資金を調達することに成功し、以後世界銀行の独立性は高くなった。この拡大路線の中で、それまで融資対象に含まれていなかった教育など社会分野にも融資が行われるようになった。
また国際通貨基金も、1970年代以降為替変動相場制を採用する国が増加したのに伴い、加盟国の国際収支から国内金融秩序安定へその監視助言業務の比重を次第に移し、途上国への融資をその任務に含めるようになっていった。この融資拡大は各途上国の債務残高を増大させ、1980年代以降、開発途上国で債務問題がしばしば発生する原因となった。また旧社会主義諸国が次々と市場経済制度に移行するに至り、開発途上国の金融制度に関する分野では、その業務にIMFと一部重複も見られるようになった。
開発途上国の債務問題に関しては、世界銀行は1980年からIMFと共同で経済危機に陥った途上国に対し、経済支援の条件として構造調整政策の実施を行うよう求めた。これは、肥大化した公的セクターの縮小や各種補助金や公務員の給与の削減によって支出の削減を行うとともに、経済を自由化させて自由競争の下で経済を成長させようというものだった。
しかし、公的部門の縮小によって失業が増大し、教育や医療などの質的低下によって社会不安が増大するなどといった悪影響が大きく、特にアフリカにおいては多くの国で構造調整後も経済の沈滞は悪化する一方で、政策は必ずしも成果を挙げていない。さらに民間融資の低迷によって世界銀行及びIMFからの融資が後発途上国への融資の大部分を占めることとなってしまい、さらに先進国も融資条件として構造調整政策の実施を前提として求めたため、この両機関の意向が途上国経済を左右することが可能となってしまい、内政不干渉の原則にはずれるとの批判の声も上がった。
また、従来推進してきた大規模プロジェクトにおいて、その非効率性や環境への影響が指摘されるようになり、それへの対応策として世界銀行は各地のNGOと共同でプロジェクトを行うことが多くなっていった。この動きを推進したのが1995年に総裁に就任したジェームズ・ウォルフェンソンであり、またこの時期に組織改革も行われた。2005年にはポール・ウォルフォウィッツが総裁に就任したが、スキャンダルによって2007年に失脚した
世界銀行の規模が大きくなるにつれ、それを補完する機関が必要となっていき、その結果、1956年には世界銀行では融資できない民間企業に融資を行う国際金融公社が設立され、ついで1960年には世界銀行からの借り入れもできない貧しい発展途上国向け融資を目的とした国際開発協会ができ、1966年にはさらに発展途上国と外国投資家との紛争を仲裁する国際投資紛争解決センターが、最後に途上国への投資に対し保証を与え、さらにサービスや助言をも与える多国間投資保証機関が1988年に設立されて、現在の世界銀行グループが形成された。
1952年に世界銀行に加盟した後、1953年から日本の借り入れが始まり、合計8億6,000万ドルを借り入れ、その資金は東海道新幹線や名神高速道路・東名高速道路などのインフラの整備に充てられるなど、1960年代までの日本は主要な貸し出し国のひとつとなっていた。
やがて、日本の経済成長とともに、それにもかかわらず融資を受け続けていることへの批判が発展途上国から高まったことを受け、1967年には経済成長によって投資適格国から卒業し、以後新規融資は停止されることとなった。その後日本は世界銀行への純出資国となり、出資割合も経済の成長とともに急激に伸びていって、1971年には日本は5大出資国の1つとなって理事一人を自由に任命することができるようになった。世界銀行への残存債務も返済は順調であり、1990年7月には世界銀行からの借金を全額返済することとなった。
世銀には関連の国際機関が5つあり、それを総称して世界銀行グループと呼ばれている。
世界銀行グループを形成する機関は、以下の5つである。
主に中所得国に対して開発資金を融資する役割を持つ。開発資金の多くは金融市場にて世界銀行債を発行することによって調達される。最初に成立した世界銀行グループの機関であり、もっとも狭義の世界銀行という名称はこの銀行のみを指す。
国際復興開発銀行の融資基準に満たない貧しい国に開発資金を供給する。第二世界銀行とも呼ばれる。貧困国向けの融資であるため融資条件は国際復興開発銀行に比べ緩和されており、しばしば贈与も行われる。開発資金の多くは先進各国からの拠出金によってまかなわれている。世界銀行という呼び名が使用される場合、国際復興開発銀行と国際開発協会の両行を指して呼ぶことが一般的である。
国際復興開発銀行・国際開発協会の融資は政府向けのものに限られるため、そこからは融資できない途上国の民間企業向けの融資を行う機関である。
途上国への融資に保証を与えることで、外国からの融資を促進するための機関である。
発展途上国と外国投資家との投資紛争を仲裁するための機関である。
世界銀行の意思決定機関は、総務会である。総務会はすべての加盟国から総務1人と代理1人が参加する。総務と代理には、各国の蔵相や中央銀行総裁が選ばれることが多い。各国は出資比率にもとづき、保有する世界銀行株1株につき1票の投票権を持つ。2010年、もっとも票数が多いのはアメリカ合衆国で、総票数の15.85%を持つ。次いで票数が多いのは日本で6.84%を占め、以下、中国4.42%、ドイツ4.00%、イギリス3.75%、フランス3.75%、インド2.91%、ロシア2.77%、サウジアラビア2.77%、イタリア2.64%の順となっている。総務会は、国際復興開発銀行と国際開発協会、それに国際金融公社をまとめたものがひとつと、多国間投資保証機関のみを統括するものがひとつある。なお、各機構への出資額が違うため、同じ総務会でも機構ごとに各国の所持する票数は異なる。
総務会はIMFとともに年に一度総会を行い、ここで各種決定を行う。総会は3回のうち2回はIMFおよび世界銀行の所在地であるワシントンDCで行われ、1回、3年に1度はそれ以外の加盟国で行われるのが慣例となっている。2012年度の総会は開催されるはずであったエジプトでアラブの春による政情不安が起きて開催を返上したため、東日本大震災からの復興をアピールするために日本が立候補し、2011年6月6日に日本開催が決定された。こうして、2012年の10月12日から10月14日にかけて東京で総会が行われることとなった。
総務会は、権限のかなりを理事会に委任している。理事会は、最大出資国5カ国(2010年までは、アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス)から1人ずつと、そのほかの国から選ばれた19人のあわせて24人で構成される。この19人は加盟国を主に地域別にまとめた選挙区から選出される。中国やロシア、サウジアラビアといった拠出額の大きな国は単独の選挙区を持っているが、英語圏アフリカとフランス語圏アフリカはそれぞれひとつの選挙区となっているなど、出資額の少ない多くの国は大きな選挙区に属している。
世界銀行には各国が出資金を払い込んでいるが、実際には国際復興開発銀行は開発資金のほとんどすべてを、金融市場にて世界銀行債を発行することで調達している。これは、国際復興開発銀行の融資対象が中所得国が中心であり、創設以来黒字を上げ続けていることもあって融資の回収の見込みが立っているためである。それに対し、低所得国を融資対象とする国際開発協会は信用度が低く、資金の多くは参加国からの出資金によってまかなわれている。
国際復興開発銀行・国際開発協会ともに融資対象国のリストを作成しており、基本的に国際復興開発銀行は中所得国、国際開発協会は低所得国をその対象としているが、各国の信用度によっては中所得国が国際開発協会の対象となったり、逆に低所得国でも国際復興開発銀行からの融資しか受けられない場合が存在する。また、一定の所得水準や開発水準を満たしたと認められた国は投資適格国から「卒業」することとなり、以後新規融資が受けられなくなる。
総裁は、理事会によって選出される。総裁は世界銀行グループ5社のすべての総裁を兼任し、グループの実務をつかさどる。世界銀行の「President(総裁)」には米国出身者、国際通貨基金の専務理事には欧州出身者が選出されるのが暗黙の了解になっているが、2012年の総裁選においてはアメリカ国籍のジム・ヨン・キムに対し、発展途上国からコロンビアのホセ・アントニア・オカンポ(英語版)とナイジェリアのンゴジ・オコンジョ・イウェアラが擁立され、異例の選挙戦となった。この選挙はオカンポが発展途上国の候補一本化を目指して途中で撤退を表明し、イウェアラとキムの一騎打ちとなったが、最終的には発言権の強い先進諸国の推すキムが総裁に選出された。世界銀行の副総裁には日本人の服部正也(日本人初)、勝茂夫(生え抜きの日本人初)、西水美恵子、西尾昭彦等が選ばれたことがある。
次の表は、国際復興開発銀行(IBRD)、国際金融公社(IFC )、国際開発協会(IDA)、および多国間投資保証機関(MIGA)のそれぞれの機関において、2014年12月または2015年3月の時点での票数の多い20か国を示したものである。各国は資本への出資金によってまず最低250票を与えられ、次いで出資率に応じ票数を割り当てられている。
世界銀行の加盟国は189か国である。
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世界銀行とは、世界銀行グループが保有する5つの国際機関のうち、国際復興開発銀行(IBRD)と国際開発協会(IDA)の総称であり、低・中所得国の政府に対して資本プロジェクトを進めるために融資や助成金を提供する国際金融機関である。1944年のブレトン・ウッズ会議で、国際通貨基金とともに設立され、1947年にフランスに最初の融資を行った。1970年代は途上国への融資が中心だったが、1980年代には途上国への融資から脱却した。この30年間は、NGOや環境保護団体も融資対象に加えている。融資戦略は、ミレニアム開発目標や環境・社会保障制度の影響を受けている。 世界銀行は、総裁と25人の専務理事、29人の副総裁によって運営されている。IBRDとIDAはそれぞれ189カ国と174カ国が加盟している。米国、日本、中国、ドイツ、英国が最も多くの議決権を持っている。IBRDは貧困削減のために途上国への融資を目的としている。また、グローバルなパートナーシップやイニシアティブに参加し、気候変動への対応にも取り組んでいる。世界銀行は多くのトレーニングウィングを運営しており、クリーンエアイニシアチブや国連開発事業とも連携している。また、オープンデータイニシアティブの中で活動し、オープンナレッジリポジトリをホストしている。 世界銀行は、インフレを促進し、経済発展に害を与えていると批判されている。その統治方法も批判されている。世銀に対する大規模な抗議運動もあった。また、Covid-19パンデミックに対する世銀の対応にも批判がある。
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{{Infobox UN
|name = 世界銀行
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|caption2 = ワシントンD.C.の世界銀行本部
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'''世界銀行'''(せかいぎんこう、{{lang-en|World Bank}})とは、世界銀行グループが保有する5つの国際機関のうち、[[国際復興開発銀行]](IBRD)と[[国際開発協会]](IDA)の総称であり、低・中所得国の政府に対して資本プロジェクトを進めるために融資や助成金を提供する[[国際開発金融機関|国際金融機関]]である。1944年の[[ブレトン・ウッズ会議]]で、[[国際通貨基金]]とともに設立され、1947年にフランスに最初の融資を行った。1970年代は途上国への融資が中心だったが、1980年代には途上国への融資から脱却した。この30年間は、[[NGO]]や[[環境保護団体]]も融資対象に加えている。融資戦略は、[[ミレニアム開発目標]]や環境・社会保障制度の影響を受けている。
世界銀行は、総裁と25人の専務理事、29人の副総裁によって運営されている。IBRDとIDAはそれぞれ189カ国と174カ国が加盟している。[[米国]]、[[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[ドイツ]]、[[イギリス|英国]]が最も多くの議決権を持っている。IBRDは貧困削減のために途上国への融資を目的としている。また、グローバルなパートナーシップやイニシアティブに参加し、気候変動への対応にも取り組んでいる。世界銀行は多くのトレーニングウィングを運営しており、クリーンエアイニシアチブや国連開発事業とも連携している。また、オープンデータイニシアティブの中で活動し、オープンナレッジリポジトリをホストしている。
世界銀行は、[[インフレーション|インフレ]]を促進し、経済発展に害を与えていると批判されている。その統治方法も批判されている。世銀に対する大規模な抗議運動もあった。また、Covid-19パンデミックに対する世銀の対応にも批判がある。
==沿革==
[[1944年]]7月の[[ブレトン・ウッズ会議]]で、[[国際通貨基金]]と共に設立が決定された国際復興開発銀行は、翌1945年に実際に設立され<ref>国際復興開発銀行 (IBRD):http://www.worldbank.org/ja/country/japan/brief/international-bank-for-reconstruction-and-development</ref>、[[1946年]]6月から業務を開始した。
設立当初、国際通貨基金は[[国際収支]]の危機に際しての短期資金供給、世界銀行は第二次世界大戦後の[[先進国]]の復興と[[開発途上国|発展途上国]]の開発を目的として、主に社会インフラ建設など開発プロジェクトごとに長期資金の供給を行う機関とされ、両者は相互に補完しあうよう設立された。[[ソビエト社会主義共和国連邦]]は決定には賛成したものの条約を批准せず、出資金を払い込まなかったために加盟できず、[[冷戦]]終結にいたるまで、世界銀行の社会主義圏における活動は低調なものとなった。
最初の融資は、フランスをはじめとする[[第二次世界大戦]]で戦災を受けた[[西ヨーロッパ]]諸国であったが、こうした先進諸国の復興は、設立間もない世界銀行の資金力では到底追いつかず、[[1947年]]にアメリカ合衆国による[[マーシャル・プラン]]が開始されると、世界銀行は発展途上国の開発資金援助に特化した。
1948年の世界銀行の融資額は3億7800万ドル、同年度のマーシャル・プランの融資額は40億ドルを超えており<ref>『世界銀行 歴史・資金・組織』松本悟 (「NGOから見た世界銀行 市民社会と国際機構のはざま」所収) p26 松本悟・大芝亮編著 ミネルヴァ書房 2013年5月30日初版第1刷</ref>、アメリカが直接西欧諸国の復興に資金を供出した方がはるかに有効だったからである。またアメリカ合衆国が主導権を握っていることとソ連の不参加から、世界銀行の融資はそのまま西側の支援の一角となった。世界銀行はこの方針転換のため、一時直接的な融資よりもそのための調査を重点に行うようになり、1958年まで1948年度の融資額を越えた年が存在しないなど、1950年代を通じて融資額は低調となった<ref>『世界銀行 歴史・資金・組織』松本悟 (「NGOから見た世界銀行 市民社会と国際機構のはざま」所収) p28 松本悟・大芝亮編著 ミネルヴァ書房 2013年5月30日初版第1刷</ref>。1950年代と1960年代を通じて、融資総額の半分以上が[[インフラストラクチャー]]への投資で占められているなど、融資は大規模プロジェクトへのものが中心を占めていた。
[[1968年]]に[[ロバート・マクナマラ]]が第5代世界銀行総裁に就任すると、世界銀行の姿勢は大きく変化した。彼は1968年の総会で、融資の額を69年からの5年間で以前の5年間の倍にすると表明し<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1970/s44-2-3-3.htm 日本国外務省 わが外交の近況 昭和44年度(第14号) 第3節 経済協力のための国際協調]</ref>、彼の元で世界銀行は急速に貸付を拡大し、それまでの22年間の総融資額よりも、マクナマラの最初の一期四年の融資総額の方が大きくなるなど<ref>『世界銀行 歴史・資金・組織』松本悟 (「NGOから見た世界銀行 市民社会と国際機構のはざま」所収) p37-38 松本悟・大芝亮編著 ミネルヴァ書房 2013年5月30日初版第1刷</ref>大きな影響力を持つようになった。
それまでの財源の中心であった各国の拠出金に変わり、マクナマラは世界銀行債を積極的に発行することで市場から資金を調達することに成功し、以後世界銀行の独立性は高くなった<ref>「緑の帝国 世界銀行とグリーン・ネオリベラリズム」p57-61 マイケル・ゴールドマン著 山口富子監訳 京都大学学術出版会 2008年2月15日初版第1刷発行</ref>。この拡大路線の中で、それまで融資対象に含まれていなかった教育など社会分野にも融資が行われるようになった。
また国際通貨基金も、1970年代以降為替変動相場制を採用する国が増加したのに伴い、加盟国の国際収支から国内金融秩序安定へその監視助言業務の比重を次第に移し、途上国への融資をその任務に含めるようになっていった。この融資拡大は各途上国の債務残高を増大させ、[[1980年代]]以降、開発途上国で債務問題がしばしば発生する原因となった。また旧社会主義諸国が次々と市場経済制度に移行するに至り、開発途上国の金融制度に関する分野では、その業務にIMFと一部重複も見られるようになった。
開発途上国の債務問題に関しては、世界銀行は[[1980年]]からIMFと共同で経済危機に陥った途上国に対し、経済支援の条件として構造調整政策の実施を行うよう求めた。これは、肥大化した公的セクターの縮小や各種補助金や公務員の給与の削減によって支出の削減を行うとともに、経済を自由化させて自由競争の下で経済を成長させようというものだった。
しかし、公的部門の縮小によって[[失業]]が増大し、[[教育]]や[[医療]]などの質的低下によって社会不安が増大するなどといった悪影響が大きく、特に[[アフリカ]]においては多くの国で構造調整後も経済の沈滞は悪化する一方で、政策は必ずしも成果を挙げていない<ref>「図説アフリカ経済」(平野克己著、日本評論社、2002年)p22-23</ref>。さらに民間融資の低迷によって世界銀行及びIMFからの融資が後発途上国への融資の大部分を占めることとなってしまい、さらに先進国も融資条件として構造調整政策の実施を前提として求めたため<ref>「ケニアを知るための55章」pp136 松田素二・[[津田みわ]]編著 明石書店 2012年7月1日初版第1刷</ref>、この両機関の意向が途上国経済を左右することが可能となってしまい、[[内政不干渉の原則]]にはずれるとの批判の声も上がった<ref>「アフリカ経済論」p102 北川勝彦・高橋基樹編著 ミネルヴァ書房 2004年11月25日初版第1刷</ref>。
また、従来推進してきた大規模プロジェクトにおいて、その非効率性や環境への影響が指摘されるようになり、それへの対応策として世界銀行は各地の[[NGO]]と共同でプロジェクトを行うことが多くなっていった。この動きを推進したのが[[1995年]]に総裁に就任した[[ジェームズ・ウォルフェンソン]]であり、またこの時期に組織改革も行われた。[[2005年]]には[[ポール・ウォルフォウィッツ]]が総裁に就任したが、スキャンダルによって[[2007年]]に失脚した<ref>{{Cite web |url=https://edition.cnn.com/2012/12/31/us/paul-wolfowitz---fast-facts/index.html |title=ポール・ウォルフォウィッツの早わかり(タイトル自動和訳) |access-date=2023-2-23 |publisher=CNN}}</ref>
世界銀行の規模が大きくなるにつれ、それを補完する機関が必要となっていき、その結果、[[1956年]]には世界銀行では融資できない民間企業に融資を行う[[国際金融公社]]が設立され、ついで[[1960年]]には世界銀行からの借り入れもできない貧しい発展途上国向け融資を目的とした[[国際開発協会]]ができ、[[1966年]]にはさらに発展途上国と外国投資家との紛争を仲裁する[[国際投資紛争解決センター]]が、最後に途上国への投資に対し保証を与え、さらにサービスや助言をも与える[[多国間投資保証機関]]が[[1988年]]に設立されて、現在の世界銀行グループが形成された。
==日本との関係==
[[1952年]]に世界銀行に加盟した後、[[1953年]]から日本の借り入れが始まり、合計8億6,000万ドルを借り入れ、その資金は[[東海道新幹線]]や[[名神高速道路]]・[[東名高速道路]]などのインフラの整備に充てられ<ref>[http://worldbank.or.jp/31project/ 「日本が世界銀行からの貸し出しを受けた 31プロジェクト」] </ref>るなど、1960年代までの日本は主要な貸し出し国のひとつとなっていた。
やがて、日本の経済成長とともに、それにもかかわらず融資を受け続けていることへの批判が発展途上国から高まったことを受け、[[1967年]]には経済成長によって投資適格国から卒業し、以後新規融資は停止されることとなった。その後日本は世界銀行への純出資国となり、出資割合も経済の成長とともに急激に伸びていって、[[1971年]]には日本は5大出資国の1つとなって理事一人を自由に任命することができるようになった。世界銀行への残存債務も返済は順調であり、[[1990年]]7月には世界銀行からの借金を全額返済することとなった<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/hanashi/story/1_2.html 日本国外務省 ODAとは? ODAちょっといい話 第二話 戦後の灰燼からの脱却]</ref>。
== 世界銀行グループ ==
{{main|世界銀行グループ}}
世銀には関連の国際機関が5つあり、それを総称して'''世界銀行グループ'''と呼ばれている。
世界銀行グループを形成する機関は、以下の5つである。
* [[国際復興開発銀行]]({{lang-en|International Bank for Reconstruction and Development}}、IBRD)
主に中所得国に対して開発資金を融資する役割を持つ。開発資金の多くは金融市場にて世界銀行債を発行することによって調達される。最初に成立した世界銀行グループの機関であり、もっとも狭義の世界銀行という名称はこの銀行のみを指す。
* [[国際開発協会]]({{lang-en|International Development Association}}、IDA)
国際復興開発銀行の融資基準に満たない貧しい国に開発資金を供給する。第二世界銀行とも呼ばれる。貧困国向けの融資であるため融資条件は国際復興開発銀行に比べ緩和されており、しばしば贈与も行われる。開発資金の多くは先進各国からの拠出金によってまかなわれている。世界銀行という呼び名が使用される場合、国際復興開発銀行と国際開発協会の両行を指して呼ぶことが一般的である。
* [[国際金融公社]]({{lang-en|International Finance Corporation}}、IFC)
国際復興開発銀行・国際開発協会の融資は政府向けのものに限られるため、そこからは融資できない途上国の民間企業向けの融資を行う機関である。
* [[多国間投資保証機関]]({{lang-en|Multilateral Investment Guarantee Agency}}、MIGA)
途上国への融資に保証を与えることで、外国からの融資を促進するための機関である。
* [[投資紛争解決国際センター]]({{lang-en|International Center for Settlement of Investment Disputes}}、ICSID)
発展途上国と外国投資家との投資紛争を仲裁するための機関である。
== 組織 ==
世界銀行の意思決定機関は、総務会である。総務会はすべての加盟国から総務1人と代理1人が参加する。総務と代理には、各国の蔵相や中央銀行総裁が選ばれることが多い。各国は出資比率にもとづき、保有する世界銀行株1株につき1票の投票権を持つ。2010年、もっとも票数が多いのは[[アメリカ合衆国]]で、総票数の15.85%を持つ。次いで票数が多いのは[[日本]]で6.84%を占め、以下、[[中華人民共和国|中国]]4.42%、[[ドイツ]]4.00%、[[イギリス]]3.75%、[[フランス]]3.75%、[[インド]]2.91%、[[ロシア]]2.77%、[[サウジアラビア]]2.77%、[[イタリア]]2.64%の順となっている。総務会は、国際復興開発銀行と国際開発協会、それに国際金融公社をまとめたものがひとつと、多国間投資保証機関のみを統括するものがひとつある。なお、各機構への出資額が違うため、同じ総務会でも機構ごとに各国の所持する票数は異なる。
総務会はIMFとともに年に一度総会を行い、ここで各種決定を行う。総会は3回のうち2回はIMFおよび世界銀行の所在地であるワシントンDCで行われ、1回、3年に1度はそれ以外の加盟国で行われるのが慣例となっている。2012年度の総会は開催されるはずであった[[エジプト]]で[[アラブの春]]による政情不安が起きて開催を返上したため、[[東日本大震災]]からの復興をアピールするために日本が立候補し、[[2011年]][[6月6日]]に日本開催が決定された。こうして、[[2012年]]の[[10月12日]]から[[10月14日]]にかけて[[東京]]で総会が行われることとなった<ref>[http://www.mof.go.jp/international_policy/imf/what_is_imf/press_release/imf_231205.htm 日本国外務省 第67回(2012年)国際通貨基金・世界銀行年次総会の主催国公式ホームページを開設しました]</ref>。
総務会は、権限のかなりを理事会に委任している。理事会は、最大出資国5カ国(2010年までは、アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス)から1人ずつと、そのほかの国から選ばれた19人のあわせて24人で構成される。この19人は加盟国を主に地域別にまとめた選挙区から選出される。中国やロシア、サウジアラビアといった拠出額の大きな国は単独の選挙区を持っているが、英語圏アフリカとフランス語圏アフリカはそれぞれひとつの選挙区となっているなど、出資額の少ない多くの国は大きな選挙区に属している。
世界銀行には各国が出資金を払い込んでいるが、実際には国際復興開発銀行は開発資金のほとんどすべてを、金融市場にて世界銀行債を発行することで調達している。これは、国際復興開発銀行の融資対象が中所得国が中心であり、創設以来黒字を上げ続けていることもあって融資の回収の見込みが立っているためである。それに対し、低所得国を融資対象とする国際開発協会は信用度が低く、資金の多くは参加国からの出資金によってまかなわれている。
国際復興開発銀行・国際開発協会ともに融資対象国のリストを作成しており、基本的に国際復興開発銀行は中所得国、国際開発協会は低所得国をその対象としているが、各国の信用度によっては中所得国が国際開発協会の対象となったり、逆に低所得国でも国際復興開発銀行からの融資しか受けられない場合が存在する。また、一定の所得水準や開発水準を満たしたと認められた国は投資適格国から「卒業」することとなり、以後新規融資が受けられなくなる。
== 総裁 ==
{{main|世界銀行グループ総裁}}
総裁は、理事会によって選出される。総裁は世界銀行グループ5社のすべての総裁を兼任し、グループの実務をつかさどる。世界銀行の「{{lang|en|President}}(総裁)」には[[アメリカ合衆国|米国]]出身者、[[国際通貨基金]]の専務理事には[[ヨーロッパ|欧州]]出身者が選出されるのが暗黙の了解になっている<ref>「世界銀行ガイド」p10 世界銀行刊 田村勝省訳 シュプリンガー・フェアクラーク東京株式会社 2005年9月9日発行</ref>が、2012年の総裁選においてはアメリカ国籍の[[ジム・ヨン・キム]]に対し、発展途上国から[[コロンビア]]の{{仮リンク|ホセ・アントニア・オカンポ|en|José Antonio Ocampo}}と[[ナイジェリア]]の[[ンゴジ・オコンジョ・イウェアラ]]が擁立され、異例の選挙戦となった。この選挙はオカンポが発展途上国の候補一本化を目指して途中で撤退を表明し、イウェアラとキムの一騎打ちとなったが、最終的には発言権の強い先進諸国の推すキムが総裁に選出された<ref>「世界銀行の次期総裁にキム氏、初のアジア系」日テレNEWS24
2012年4月17日 2017年3月15日閲覧</ref><ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2872102 「世界銀行、次期総裁に米国のキム氏を選出」AFPBB 2012年04月17日 2017年3月15日閲覧</ref>。世界銀行の副総裁には日本人の[[服部正也]](日本人初)、[[勝茂夫]](生え抜きの日本人初)、[[西水美恵子]]、[[西尾昭彦]]等が選ばれたことがある。
{| class="wikitable"
|+ 歴代の世界銀行総裁
! 代
! 肖像
! 氏名
! 就任日
! 退任日
! 国籍
|-
! 1
| [[File:EugeneMeyer.jpg|60px]]
| [[ユージン・メイヤー]]
| 1946年6月18日
| 1947年3月17日
| {{USA}}
|-
! 2
| [[File:John J. McCloy - Project Gutenberg etext 20587.jpg|60px]]
| [[ジョン・ジェイ・マクロイ]]
| 1947年3月17日
| 1949年7月1日
| {{USA}}
|-
! 3
| [[File:Eugene_R_Black.jpg|60px]]
| {{仮リンク|ユージン・ロバート・ブラック|en|Eugene R. Black Sr.}}
| 1949年7月1日
| 1963年1月1日
| {{USA}}
|-
! 4
| [[File:Replace this image JA.svg|60px]]
| {{仮リンク|ジョージ・デビッド・ウッズ|en|George David Woods}}
| 1963年1月1日
| 1968年4月1日
| {{USA}}
|-
! 5
| [[File:Robert McNamara 1-1.jpg|60px]]
| [[ロバート・マクナマラ]]
| 1968年4月1日
| 1981年7月1日
| {{USA}}
|-
! 6
| [[File:Replace this image JA.svg|60px]]
| {{仮リンク|アルデン・ウィンシップ・クローセン|en|Alden W. Clausen}}
| 1981年7月1日
| 1986年7月1日
| {{USA}}
|-
! 7
| [[File:Barber Conable.jpg|60px]]
| {{仮リンク|バーバー・コナブル|en|Barber Conable}}
| 1986年7月1日
| 1991年9月1日
| {{USA}}
|-
! 8
| [[File:Replace this image JA.svg|60px]]
| {{仮リンク|ルイス・トンプソン・プレストン|en|Lewis Thompson Preston}}
| 1991年9月1日
| 1995年5月4日
| {{USA}}
|-
! 代行
| [[File:Replace this image JA.svg|60px]]
| [[リチャード・フランク]]
| 1995年5月4日
| 1995年6月1日
|
|-
! 9
| [[File:James Wolfensohn 1-1.jpg|60px]]
| [[ジェームズ・ウォルフェンソン]]
| 1995年6月1日
| 2005年6月1日
| {{USA}}
|-
! 10
| [[File:Paul-wolfowitz-dod 900x1200.jpg|60px]]
| [[ポール・ウォルフォウィッツ]]
| 2005年6月1日
| 2007年7月1日
| {{USA}}
|-
! 11
| [[File:Zoellick, Robert (official portrait 2008).jpg|60px]]
| [[ロバート・ゼーリック]]
| 2007年7月1日
| 2012年7月1日
| {{USA}}
|-
! 12
| [[File:Jim Yong Kim (cropped).jpg|60px]]
| [[ジム・ヨン・キム]]
| 2012年7月1日
| 2019年2月1日
| {{USA}}
|-
! 代行
| [[File:Kristalina Georgieva Headshot.jpg|60px]]
| {{仮リンク|クリスタリナ・ゲオルギエヴァ|en|Kristalina Georgieva}}
| 2019年2月1日
| 2019年4月8日
|{{BUL}}
|-
! 13
| [[File:David_Maplass_official_photo.jpg|60px]]
| {{仮リンク|デイヴィッド・マルパス|en|David Malpass}}
| 2019年4月9日
| 2023年6月1日
| {{USA}}
|-
! 14
| [[File:The_President,_Shri_Pranab_Mukherjee_presenting_the_Padma_Shri_Award_to_Shri_Ajaypal_Singh_Banga,_at_a_Civil_Investiture_Ceremony,_at_Rashtrapati_Bhavan,_in_New_Delhi_on_March_28,_2016_(cropped).jpg|60px]]
| [[アジェイ・バンガ]]
| 2023年6月2日
| (現職)
| {{USA}}
|}
== チーフエコノミスト ==
{{main|世界銀行チーフエコノミスト}}
{| class="wikitable"
|-
! チーフエコノミスト
! 任期
! 出身国
|-
| {{仮リンク|ホリス・チェネリー|en|Hollis B. Chenery}}
| 1972年-1982年
| {{USA}}
|-
| [[アン・クルーガー]]
| 1982年-1986年
| {{USA}}
|-
| [[スタンレー・フィッシャー]]
| 1988年-1990年
| {{USA}}
|-
| [[ローレンス・サマーズ]]
| 1991年-1993年
| {{USA}}
|-
| {{仮リンク|マイケル・ブルーノ|en|Michael Bruno}}
| 1993年-1996年
| {{ISR}}
|-
| [[ジョセフ・E・スティグリッツ]]
| 1997年-2000年
| {{USA}}
|-
| [[ニコラス・スターン]]
| 2000年-2003年
| {{GBR}}
|-
| [[フランソワ・ブルギニョン]]
| 2003年-2007年
| {{FRA}}
|-
| {{仮リンク|林毅夫|en|Justin Yifu Lin}}
| 2008年-2012年
| {{CHN}}
|-
| {{仮リンク|カウシィク・バス|en|Kaushik Basu}}
| 2012年-2016年
| {{IND}}
|-
| [[ポール・ローマー]]
| 2016年-2018年
| {{USA}}
|-
| {{仮リンク|シャンタ・デバラジャン|en|Shanta Devarajan}}(代行)
| 2018年
| {{IND}}
|-
| {{仮リンク|ピネロピ・コウジャノウ・ゴールドバーグ|en|Pinelopi Koujianou Goldberg}}
| 2018年-現職
| {{GRC}}
|}
== 投票権上位20か国 ==
次の表は、国際復興開発銀行(IBRD)、国際金融公社(IFC )、国際開発協会(IDA)、および多国間投資保証機関(MIGA)のそれぞれの機関において、2014年12月または2015年3月の時点での票数の多い20か国を示したものである。各国は資本への出資金によってまず最低250票を与えられ、次いで出資率に応じ票数を割り当てられている<ref>http://siteresources.worldbank.org/BODINT/Resources/278027-1215524804501/IBRDCountryVotingTable.pdf International Bank for Reconstruction and Development as of March 2015</ref><ref>http://siteresources.worldbank.org/BODINT/Resources/278027-1215524804501/IFCCountryVotingTable.pdf International Finance Corporation as of March 2015</ref><ref>http://siteresources.worldbank.org/BODINT/Resources/278027-1215524804501/IDACountryVotingTable.pdf International Development Association as of December 2014</ref><ref>http://siteresources.worldbank.org/BODINT/Resources/278027-1215524804501/MIGACountryVotingTable.pdf Multilateral Investment Guarantee Agency as of December 2014</ref>。
{| class="wikitable sortable" style="text-align: right"
|+ 世界銀行グループへの投票権の多い上位20か国
! 順位 !! 国 !! [[国際復興開発銀行|IBRD]] !! 国 !! [[国際金融公社|IFC]] !! 国 !! [[国際開発協会|IDA]] !! 国 !! [[多国間投資保証機関|MIGA]]
|-
!
| align=left|'''''総計''''' || 2,201,754 || align=left|'''''総計''''' || 2,653,476 || align=left|'''''総計''''' || 24,682,951 || align=left|'''''総計''''' || 218,237
|-
! 1
| align=left|{{USA}} || 358,498 || align=left|{{USA}} || 570,179 || align=left|{{USA}} || 2,546,503 || align=left|{{USA}} || 32,790
|-
! 2
| align=left|{{JPN}} || 166,094 || align=left|{{JPN}} || 163,334 || align=left|{{JPN}} || 2,112,243 || align=left|{{JPN}} || 9,205
|-
! 3
| align=left|{{CHN}} || 107,244 || align=left|{{DEU}} || 129,708 || align=left|{{GBR}} || 1,510,934 || align=left|{{DEU}} || 9,162
|-
! 4
| align=left|{{DEU}} || 97,224 || align=left|{{FRA}} || 121,815 || align=left|{{DEU}} || 1,368,001 || align=left|{{FRA}} || 8,791
|-
! 5
| align=left|{{FRA}} || 87,241 || align=left|{{GBR}} || 121,815 || align=left|{{FRA}} || 908,843 || align=left|{{GBR}} || 8,791
|-
! 6
| align=left|{{GBR}} || 87,241 || align=left|{{IND}} || 103,747 || align=left|{{SAU}} || 810,293 || align=left|{{CHN}} || 5,756
|-
! 7
| align=left|{{IND}} || 67,690 || align=left|{{RUS}} || 103,653 || align=left|{{IND}} || 661,909 || align=left|{{RUS}} || 5,754
|-
! 8
| align=left|{{SAU}} || 67,155 || align=left|{{CAN}} || 82,142 || align=left|{{CAN}} || 629,658 || align=left|{{SAU}} || 5,754
|-
! 9
| align=left|{{CAN}} || 59,004 || align=left|{{ITA}} || 82,142 || align=left|{{ITA}} || 573,858 || align=left|{{IND}} || 5,597
|-
! 10
| align=left|{{ITA}} || 54,877 || align=left|{{CHN}} || 62,392 || align=left|{{CHN}} || 521,830 || align=left|{{CAN}} || 5,451
|-
! 11
| align=left|{{RUS}} || 54,651 || align=left|{{NED}} || 56,931 || align=left|{{POL}} || 498,102 || align=left|{{ITA}} || 5,196
|-
! 12
| align=left|{{ESP}} || 42,948 || align=left|{{BEL}} || 51,410 || align=left|{{SWE}} || 494,360 || align=left|{{NED}} || 4,048
|-
! 13
| align=left|{{BRA}} || 42,613 || align=left|{{AUS}} || 48,129 || align=left|{{NED}} || 488,209 || align=left|{{BEL}} || 3,803
|-
! 14
| align=left|{{NED}} || 42,348 || align=left|{{CHE}} || 44,863 || align=left|{{BRA}} || 412,322 || align=left|{{AUS}} || 3,245
|-
! 15
| align=left|{{KOR}} || 36,591 || align=left|{{BRA}} || 40,279 || align=left|{{AUS}} || 312,566 || align=left|{{CHE}} || 2,869
|-
! 16
| align=left|{{BEL}} || 36,463 || align=left|{{ARG}} || 38,929 || align=left|{{CHE}} || 275,755 || align=left|{{BRA}} || 2,832
|-
! 17
| align=left|{{IRN}} || 34,718 || align=left|{{ESP}} || 37,826 || align=left|{{BEL}} || 275,474 || align=left|{{ESP}} || 2,491
|-
! 18
| align=left|{{CHE}} || 33,296 || align=left|{{IDN}} || 32,402 || align=left|{{NOR}} || 258,209 || align=left|{{ARG}} || 2,436
|-
! 19
| align=left|{{AUS}} || 30,910 || align=left|{{SAU}} || 30,862 || align=left|{{DEN}} || 231,685 || align=left|{{IDN}} || 2,075
|-
! 20
| align=left|{{TUR}} || 26,293 || align=left|{{KOR}} || 28,895 || align=left|{{PAK}} || 218,506 || align=left|{{SWE}} || 2,075
|}
== 融資内訳 ==
{| class="sortable wikitable"
!
! colspan="12" | 融資額 (百万アメリカドル)
|-
! 部門 !! 2007年以前 !! 2007 !! 2008 !! 2009 !! 2010 !! 2011 !! 2012 !! 2013 !! 2014 !! 2015 !! 2016 !! 計
|-
| 道路輸送
| style="text-align:right" | 4,654.2
| style="text-align:right" | 1,993.5
| style="text-align:right" | 1,501.8
| style="text-align:right" | 5,550.3
| style="text-align:right" | 4,032.3
| style="text-align:right" | 2,603.7
| style="text-align:right" | 3,852.5
| style="text-align:right" | 2,883.6
| style="text-align:right" | 3,081.7
| style="text-align:right" | 3,922.6
| style="text-align:right" | 723.7
| style="text-align:right" | 34,799.8
|-
| 社会福祉サービス
| style="text-align:right" | 613.1
| style="text-align:right" | 208.1
| style="text-align:right" | 185.5
| style="text-align:right" | 2,878.4
| style="text-align:right" | 1,477.4
| style="text-align:right" | 1,493.2
| style="text-align:right" | 1,498.5
| style="text-align:right" | 2,592.6
| style="text-align:right" | 2,745.4
| style="text-align:right" | 1,537.7
| style="text-align:right" | 73.6
| style="text-align:right" | 15,303.5
|-
| 送電/配電
| style="text-align:right" | 1,292.5
| style="text-align:right" | 862.1
| style="text-align:right" | 1,740.2
| style="text-align:right" | 2,435.4
| style="text-align:right" | 1,465.1
| style="text-align:right" | 907.7
| style="text-align:right" | 1,614.9
| style="text-align:right" | 395.7
| style="text-align:right" | 2,457.1
| style="text-align:right" | 1,632.2
| style="text-align:right" | 374.8
| style="text-align:right" | 15,177.8
|-
| 財政管理
| style="text-align:right" | 334.2
| style="text-align:right" | 223.1
| style="text-align:right" | 499.7
| style="text-align:right" | 129.0
| style="text-align:right" | 455.3
| style="text-align:right" | 346.6
| style="text-align:right" | 3,156.8
| style="text-align:right" | 2,724.0
| style="text-align:right" | 3,160.5
| style="text-align:right" | 2,438.9
| style="text-align:right" | 690.5
| style="text-align:right" | 14,158.6
|-
| 鉄道輸送
| style="text-align:right" | 279.3
| style="text-align:right" | 284.4
| style="text-align:right" | 1,289.0
| style="text-align:right" | 912.2
| style="text-align:right" | 892.5
| style="text-align:right" | 1,487.4
| style="text-align:right" | 841.8
| style="text-align:right" | 740.6
| style="text-align:right" | 1,964.9
| style="text-align:right" | 1,172.2
| style="text-align:right" | −1.6
| style="text-align:right" | 9,862.5
|-
| 農村開発
| style="text-align:right" | 335.4
| style="text-align:right" | 237.5
| style="text-align:right" | 382.8
| style="text-align:right" | 616.7
| style="text-align:right" | 2,317.4
| style="text-align:right" | 972.0
| style="text-align:right" | 944.0
| style="text-align:right" | 177.8
| style="text-align:right" | 380.9
| style="text-align:right" | 1,090.3
| style="text-align:right" | −2.5
| style="text-align:right" | 7,452.4
|-
| 都市開発と管理
| style="text-align:right" | 261.2
| style="text-align:right" | 375.9
| style="text-align:right" | 733.3
| style="text-align:right" | 739.6
| style="text-align:right" | 542.1
| style="text-align:right" | 1,308.1
| style="text-align:right" | 914.3
| style="text-align:right" | 258.9
| style="text-align:right" | 747.3
| style="text-align:right" | 1,122.1
| style="text-align:right" | 212.2
| style="text-align:right" | 7,214.9
|-
| ビジネス支援サービスと施設
| style="text-align:right" | 113.3
| style="text-align:right" | 20.8
| style="text-align:right" | 721.7
| style="text-align:right" | 181.4
| style="text-align:right" | 363.3
| style="text-align:right" | 514.0
| style="text-align:right" | 310.0
| style="text-align:right" | 760.1
| style="text-align:right" | 1,281.9
| style="text-align:right" | 1,996.0
| style="text-align:right" | 491.3
| style="text-align:right" | 6,753.7
|-
| エネルギー政策と行政管理
| style="text-align:right" | 102.5
| style="text-align:right" | 243.0
| style="text-align:right" | 324.9
| style="text-align:right" | 234.2
| style="text-align:right" | 762.0
| style="text-align:right" | 654.9
| style="text-align:right" | 902.1
| style="text-align:right" | 480.5
| style="text-align:right" | 1,594.2
| style="text-align:right" | 1,001.8
| style="text-align:right" | 347.9
| style="text-align:right" | 6,648.0
|-
| 農業用水資源
| style="text-align:right" | 733.2
| style="text-align:right" | 749.5
| style="text-align:right" | 84.6
| style="text-align:right" | 251.8
| style="text-align:right" | 780.6
| style="text-align:right" | 819.5
| style="text-align:right" | 618.3
| style="text-align:right" | 1,040.3
| style="text-align:right" | 1,214.8
| style="text-align:right" | 824.0
| style="text-align:right" | −105.8
| style="text-align:right" | 7,011.0
|-
| 地方分権化と地方政府への支援
| style="text-align:right" | 904.5
| style="text-align:right" | 107.9
| style="text-align:right" | 176.1
| style="text-align:right" | 206.7
| style="text-align:right" | 331.2
| style="text-align:right" | 852.8
| style="text-align:right" | 880.6
| style="text-align:right" | 466.8
| style="text-align:right" | 1,417.0
| style="text-align:right" | 432.5
| style="text-align:right" | 821.3
| style="text-align:right" | 6,597.3
|-
| 防災と準備
| style="text-align:right" | 66.9
| style="text-align:right" | 2.7
| style="text-align:right" | 260.0
| style="text-align:right" | 9.0
| style="text-align:right" | 417.2
| style="text-align:right" | 609.5
| style="text-align:right" | 852.9
| style="text-align:right" | 373.5
| style="text-align:right" | 1,267.8
| style="text-align:right" | 1,759.7
| style="text-align:right" | 114.2
| style="text-align:right" | 5,733.5
|-
| 大型衛生システム
| style="text-align:right" | 441.9
| style="text-align:right" | 679.7
| style="text-align:right" | 521.6
| style="text-align:right" | 422.0
| style="text-align:right" | 613.1
| style="text-align:right" | 1,209.4
| style="text-align:right" | 268.0
| style="text-align:right" | 55.4
| style="text-align:right" | 890.6
| style="text-align:right" | 900.8
| style="text-align:right" | 93.9
| style="text-align:right" | 6,096.3
|-
| 大型給水システム
| style="text-align:right" | 646.5
| style="text-align:right" | 438.1
| style="text-align:right" | 298.3
| style="text-align:right" | 486.5
| style="text-align:right" | 845.1
| style="text-align:right" | 640.2
| style="text-align:right" | 469.0
| style="text-align:right" | 250.5
| style="text-align:right" | 1,332.4
| style="text-align:right" | 609.9
| style="text-align:right" | 224.7
| style="text-align:right" | 6,241.3
|-
| 健康政策と行政管理
| style="text-align:right" | 661.3
| style="text-align:right" | 54.8
| style="text-align:right" | 285.8
| style="text-align:right" | 673.8
| style="text-align:right" | 1,581.4
| style="text-align:right" | 799.3
| style="text-align:right" | 251.5
| style="text-align:right" | 426.3
| style="text-align:right" | 154.8
| style="text-align:right" | 368.1
| style="text-align:right" | 496.0
| style="text-align:right" | 5,753.1
|-
! その他
! style="text-align:right" | 13,162.7
! style="text-align:right" | 6,588.3
! style="text-align:right" | 8,707.1
! style="text-align:right" | 11,425.7
! style="text-align:right" | 17,099.5
! style="text-align:right" | 11,096.6
! style="text-align:right" | 16,873.4
! style="text-align:right" | 13,967.1
! style="text-align:right" | 20,057.6
! style="text-align:right" | 21,096.5
! style="text-align:right" | 3,070.3
! style="text-align:right" | 140,074.5
|-
! 計
! style="text-align:right" | 24,602.6
! style="text-align:right" | 13,069.4
! style="text-align:right" | 17,712.6
! style="text-align:right" | 27,152.6
! style="text-align:right" | 33,975.6
! style="text-align:right" | 26,314.8
! style="text-align:right" | 34,248.6
! style="text-align:right" | 27,593.9
! style="text-align:right" | 43,748.8
! style="text-align:right" | 41,905.2
! style="text-align:right" | 7,624.5
! style="text-align:right" | 297,948.5
|}
== 加盟国一覧 ==
世界銀行の加盟国は189か国である。
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* {{flag|Afghanistan}}
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* {{flag|Croatia}}
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* {{flag|Vietnam}}
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* {{flag|Zimbabwe}}
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連書籍 ==
*『女ひとり世界に翔ぶ ― 内側からみた世界銀行28年』小野節子、講談社 (2005/8/30) - 著者は[[オノ・ヨーコ]]の妹で、[[アジア開発銀行]]初代総裁・[[渡辺武 (官僚)|渡辺武]]の推薦で入行(世界銀行入行に試験はなく推薦状のみ)。
== 関連項目 ==
* [[世界銀行チーフエコノミスト]]
* [[世界銀行奨学金]]
* [[国際農業研究協議グループ]]
* [[アジア開発銀行]](ADB)
* [[アジアインフラ投資銀行]](AIIB)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|World Bank}}
* [https://www.worldbank.org/ 世界銀行グループ]{{en icon}}
* [https://www.worldbank.org/ja/country/japan 世界銀行東京事務所]
* [https://www.worldbank.org/ja/country/japan/brief/world-bank-public-information-centers 世界銀行情報センター(PIC東京)](途上国について気軽に学べるセミナーを多数開催)
* [https://www.worldbank.org/en/topic/gender 女性の経済力促進]{{en icon}}
* {{Kotobank}}
{{coord|38|53|56|N|77|2|33|W|region:US|display=title}}
{{国際連合}}
{{中央銀行}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せかいきんこう}}
[[Category:世界銀行|*せかいきんこう]]
[[Category:1945年設立の組織]]
[[Category:ワシントンD.C.の組織]]
|
2003-07-12T12:22:52Z
|
2023-11-14T21:28:04Z
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[
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惑星間磁気圏 磁気圏物理学および現代占星学の概念
『スパイ大作戦』(テレビドラマ、映画)または『ミッション:インポッシブル (Mission:Impossible)』(映画)の主人公が属する秘密機関
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{{混同|INF}}
'''IMF'''
* [[国際通貨基金]] ('''I'''nternational '''M'''onetary '''F'''und)
* [[国際金属労連]] ('''I'''nternational '''M'''etalworkers' '''F'''ederation)
* [[初期質量関数]] ('''I'''nitial '''M'''ass '''F'''unction)
* [[国際ムエタイ連盟]] ('''I'''nternational '''M'''uay Thai '''F'''ederation)
* [[インディーズムービー・フェスティバル]]('''I'''ndies '''M'''ovie '''F'''estival)
* 惑星間磁気圏 ([[w:en:interplanetary magnetic field]]) 磁気圏物理学および現代占星学の概念
* 『[[スパイ大作戦]]』(テレビドラマ、映画)または『[[ミッション:インポッシブル]] (''Mission:Impossible'')』(映画)の主人公が属する秘密機関 ('''I'''mpossible '''M'''ission '''F'''orce)
*[[いしがきミュージックフェスティバル]] ('''I'''shigaki '''M'''usic '''F'''estival)
* Impact Master Finish - [[シュアラスター]]の中級グレードのワックス製品。パッケージにIMFと略称が書かれている。
*https://proarticles37.blogspot.com/2022/08/imf-approves-revival-of-pakistans-eff.html
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11,291 |
ヘクタール
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ヘクタール(hectare、記号:ha)は、メートル法における面積の単位のひとつであり、10000 平方メートルである。
SI単位ではなく、「SI単位と併用できる非SI単位」である。「SI単位と併用できる非SI単位」には、他に、時間の分・時・日、長さの天文単位、角度の度・分・秒、体積のリットル、質量のトン・ダルトン、エネルギーの電子ボルト、比の対数のネーパ・ベル・デシベルがある。
ヘクタールは、日本の計量法では特殊の計量である「土地の面積の計量」に限定して使用できる単位という扱いになっている。計量単位令では、かつてのメートル法の流れを汲んで、ヘクタールをアールの100倍と定義している。
名称の由来は100倍を表すヘクト(h, 10)とアール(a, 100 m)の組み合わせであった。しかし現在では、国際単位系でも計量法でもSI接頭語としてのヘクトとアールの組み合わせという扱いではなく、単独に特別の単位という扱いになっている。
なお、アールは、「SI単位と併用できる非SI単位」でさえもなく、国際単位系では使用が認められていないことに注意。そのために、ヘクタールの定義は、100 アールではなく、1 hm = 10 mとなっている。ただし計量法においては国際単位系とは異なって、アールを土地の面積の計量に用いることができる。
平方メートルと平方キロメートルの間には100万倍の開きがあるため、その間の面積を表すのに便利であり、また日本では尺貫法による町とほぼ等しい(1 町 = 120/121 ha ≒ 0.991736 ha)こともあって、土地面積を表す単位として平方キロメートルと共に広く使われている。
漢字表記は「獘屈跢列」「陌」がある。またアールを表す「安」や「亞」に「百」を付けた「𡩛」「𫡷」などの表記もある。
フランスでメートル法が導入された1795年に、アール (are) は 100 m と定義され、同時にヘクタール ("hecto-" + "are") が 100 a と定義されたのが最初である。
国際的には、アール (a) がメートル法の一部として1879年の国際度量衡委員会で採択された時に、ヘクタールはアールの補助単位とされた。そのときに、1 ha は 100 a と定義された。なお、現在の国際単位系では、「補助単位」という分類そのものが廃止されている。
Unicodeには、ヘクタールを表す上記の文字が収録されている。これらはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。
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ヘクタールは、メートル法における面積の単位のひとつであり、10000 平方メートルである。 SI単位ではなく、「SI単位と併用できる非SI単位」である。「SI単位と併用できる非SI単位」には、他に、時間の分・時・日、長さの天文単位、角度の度・分・秒、体積のリットル、質量のトン・ダルトン、エネルギーの電子ボルト、比の対数のネーパ・ベル・デシベルがある。
|
{{Redirect|Ha|その他のHA|HA}}
{{単位
| 名称 = ヘクタール
| 読み =
| フランス語 = hectare
| 英語 = hectare
| 英字 =
| 他言語 =
| 画像 =[[File:Hectare.png]]<br>ヘクタールとアールの関係
| 記号 = ha
| 度量衡 =
| 単位系 = [[メートル法]]、[[非SI単位]]、[[SI併用単位|SI単位と併用できる非SI単位]]
| 物理量 = [[面積]]
| SI = {{val|10000}} [[平方メートル|m{{sup|2}}]]
| 組立 =
| 定義 = {{val|10000}} m<sup>2</sup>
| 由来 =
| 語源 = [[ヘクト]] + [[アール (単位)|アール]]
}}
'''ヘクタール'''(hectare{{Refnest|group="†"|{{IPA-fr|ɛktaʁ}}}}{{Refnest|group="†"|<small>[[イギリス英語]]発音:</small>{{IPA-en|ˈhekteə(r)|}}、{{IPA-en|ˈhektɑː(r)|}}}}{{Refnest|group="†"|<small>[[アメリカ英語]]発音:</small>{{IPA-en|ˈhekter|}}}}、記号:ha)は、[[メートル法]]における[[面積]]の[[単位]]のひとつであり、{{val|10000}} [[平方メートル]]である。
[[SI単位]]ではなく、「[[SI併用単位|SI単位と併用できる'''非SI単位''']]」である<ref>SI国際文書第9版(2019)、「表8 SI単位と併用できる非SI単位」、p.114</ref>。「SI単位と併用できる'''非SI単位'''」には、他に、時間の[[分]]・[[時間 (単位)|時]]・[[日#時間の単位としての日|日]]、長さの[[天文単位]]、角度の[[度 (角度)|度]]・[[分 (角度)|分]]・[[秒 (角度)|秒]]、体積の[[リットル]]、質量の[[トン]]・[[ダルトン]]、エネルギーの[[電子ボルト]]、比の対数の[[ネーパ]]・[[デシベル|ベル]]・[[デシベル]]がある。
== 概要 ==
ヘクタールは、日本の[[計量法]]では特殊の計量である「土地の面積の計量」に限定して使用できる単位という扱いになっている{{Refnest|group="†"|計量単位令<ref name="計量単位令">{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82 |title=計量単位令 |accessdate=2020-04-25 |work=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局}}</ref>別表第6 項番7後段。}}。計量単位令では、かつてのメートル法の流れを汲んで、ヘクタールを[[アール (単位)|アール]]の100倍と定義している。
名称の由来は100倍を表す[[ヘクト]](h, 10<sup>2</sup>)と[[アール (単位)|アール]](a, 100 m<sup>2</sup>)の組み合わせであった。しかし現在では、国際単位系でも計量法でも[[SI接頭語]]としての[[ヘクト]]とアールの組み合わせという扱いではなく、単独に特別の単位という扱いになっている。
なお、アールは、「[[SI併用単位|SI単位と併用できる非SI単位]]」でさえもなく、[[国際単位系]]では使用が認められていないことに注意。そのために、ヘクタールの定義は、100 アールではなく、1 hm<sup>2</sup> = 10<sup>4</sup> m<sup>2</sup>となっている。ただし計量法においては国際単位系とは異なって、[[アール (単位)|アール]]を土地の面積の計量に用いることができる{{Refnest|group="†"|計量単位令<ref name="計量単位令" />別表第6 項番7前段。}}。
平方メートルと[[平方キロメートル]]の間には100万倍の開きがあるため、その間の面積を表すのに便利であり、また日本では[[尺貫法]]による[[町 (単位)|町]]とほぼ等しい(1 町 = 120/121 ha ≒ {{val|0.991736}} ha)こともあって、土地面積を表す単位として平方キロメートルと共に広く使われている。
漢字表記は「獘屈跢列」「陌」がある。また[[アール (単位)|アール]]を表す「安」や「亞」に「百」を付けた「𡩛」「𫡷」などの表記もある。
== 歴史 ==
フランスでメートル法が導入された1795年に、アール ({{lang|en|are}}) は 100 m<sup>2</sup> と定義され、同時にヘクタール ("{{lang|en|hecto-}}" + "{{lang|en|are}}") が 100 a と定義されたのが最初である。
国際的には、[[アール (単位)|アール]] (a) がメートル法の一部として[[1879年]]の[[国際度量衡委員会]]で採択された時に、ヘクタールはアールの[[補助単位]]とされた。そのときに、1 ha は 100 a と定義された。なお、現在の[[国際単位系]]では、「補助単位」という分類そのものが廃止されている。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13258|33CA|-|ヘクタール}}
{{CharCode|13110|3336|1-13-39|全角ヘクタール}}
|}
[[Unicode]]には、ヘクタールを表す上記の文字が収録されている。これらは[[CJK互換用文字]]であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite web|和書
|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf
|title=国際単位系 (SI) 国際文書第9版(2019年)日本語版
|accessdate=2020-09-26
|author=[[国際度量衡局]] (BIPM)
|coauthors=(独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター (NMIJ)(訳・監修)
|format=PDF
|ref=SI国際文書第9版(2019)
}}
==外部リンク==
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/%E3%83%98%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%9D%A2%E7%A9%8D%EF%BD%9C%E5%8D%98%E4%BD%8D%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8/ ヘクタール(面積)単位換算表]
== 関連項目 ==
* [[SI併用単位]]
* [[単位の換算一覧]]
* [[面積の比較]]
{{面積の単位}}
{{SI units navbox}}
{{DEFAULTSORT:へくたる}}
[[Category:面積の単位]]
[[Category:メートル法]]
[[Category:SI併用単位]]
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|
11,292 |
アール (単位)
|
アール(are、記号:a)は非SI単位であるが、計量法上、土地の計量にのみ用いることができる面積の法定計量単位である。1アールは100 mである。ヘクタール(ha)とは異なり、国際単位系の国際文書(第9版、2019年)においては全く認められていない。
アールは、1879年の国際度量衡総会において、1辺が 10 メートル(1デカメートル)の正方形の面積と定義された。すなわち、1 a = 1 dam (平方デカメートル)= 100 m(平方メートル)である。このアール (a) のかつての派生単位として、アールの100倍の面積を意味するヘクタール (ha) (= 10 m) がある。
漢字表記は、「安」、「亜」、「阿」などがある。
歴史的にはアールは、ヘクタールとともにメートル法の面積の単位として制定されたものである。しかし、今日の国際単位系(SI)においては、平方メートル(m)及びSI接頭語のキロによるその派生単位平方キロメートル(km)が正規の単位である。そして、ヘクタール(ha)の方は「SI単位と併用される非SI単位(SI併用単位)」として、時間の分・時・日やリットル、トンなどと共に、使用が許容されているが、アール(a)は使用することすらできない単位である。
しかしながら、国際単位系で推奨されている平方メートルとその倍量単位の平方キロメートルとの間には100万倍もの開きがあるので、この2つだけで面積を表そうとすると実務上、大変不都合である。また、アール・ヘクタールは、平方メートルの100倍がアール、アールの100倍がヘクタール、ヘクタールの100倍が平方キロメートルであり、平方メートルと平方キロメートルとの間をうまく埋める関係になっている。
日本の計量法においては、国際単位系における扱いとは異なり、アールとヘクタールは特殊の計量である「土地の面積の計量」にのみ限定して使用することができる。これはアールが元々使われていた尺貫法による畝とほぼ等しい面積の単位であるため(1畝 = 約 0.99173554 a)、実務上好都合であるという事情もある。
アールは計量法上、特殊の計量にのみ用いることができる単位と位置づけられているので、SI接頭語を付加することはできない。ヘクタール(ha)は由来的にはアール(a)に100を表す接頭語 h(ヘクト) を付加した単位であったが、現在では国際単位系でも計量法でもそのような扱いではなく、それぞれ単独の単位となっている。
|
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"text": "日本の計量法においては、国際単位系における扱いとは異なり、アールとヘクタールは特殊の計量である「土地の面積の計量」にのみ限定して使用することができる。これはアールが元々使われていた尺貫法による畝とほぼ等しい面積の単位であるため(1畝 = 約 0.99173554 a)、実務上好都合であるという事情もある。",
"title": "使用状況"
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"text": "アールは計量法上、特殊の計量にのみ用いることができる単位と位置づけられているので、SI接頭語を付加することはできない。ヘクタール(ha)は由来的にはアール(a)に100を表す接頭語 h(ヘクト) を付加した単位であったが、現在では国際単位系でも計量法でもそのような扱いではなく、それぞれ単独の単位となっている。",
"title": "SI接頭語との関係"
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] |
アールは非SI単位であるが、計量法上、土地の計量にのみ用いることができる面積の法定計量単位である。1アールは100 m2である。ヘクタール(ha)とは異なり、国際単位系の国際文書(第9版、2019年)においては全く認められていない。
|
{{単位
| 名称 = アール
| 読み =
| フランス語 = are
| 英語 = are
| 英字 =
| 他言語 =
| 画像 =
| 記号 = a
| 度量衡 = [[メートル法]]
| 単位系 = [[非SI単位]](特殊の計量に用いる[[法定計量単位]])
| 物理量 = [[面積]]
| SI = 100 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]] = 1 dam<sup>2</sup>
| 組立 =
| 定義 = 1辺が10mの正方形の面積
| 由来 =
| 語源 = [[ラテン語]] area(面積)
}}
'''アール'''(are<ref>{{IPA-fr|aʁ}}</ref><ref><small>[[イギリス英語]]発音:</small>{{IPA-en|eə(r)|}}、{{IPA-en|ɑː(r)|}}</ref><ref><small>[[アメリカ英語]]発音:</small>{{IPA-en|er|}}、{{IPA-en|ɑːr|}}</ref>、記号:a)は[[非SI単位]]であるが、[[計量法]]上、土地の計量にのみ用いることができる[[面積]]の[[法定計量単位]]である。1アールは100 m<sup>2</sup>である。[[ヘクタール]](ha)とは異なり、[[国際単位系]]の国際文書(第9版、2019年)においては全く認められていない。
== 概要 ==
アールは、1879年の[[国際度量衡総会]]において、1辺が 10 [[メートル]](1[[デカメートル]])の[[正方形]]の面積と定義された。すなわち、1 a = 1 dam<sup>2</sup> (平方デカメートル)= 100 m<sup>2</sup>([[平方メートル]])である。このアール (a) のかつての派生単位として、アールの100倍の面積を意味する[[ヘクタール]] (ha) (= 10<sup>4</sup> m<sup>2</sup>) がある。
{| class="wikitable"
|+単位の関係
!名称
!単位記号
!一辺の長さ
!m²換算
|-
|[[平方メートル]]
|m²
|1 [[メートル|m]]
|1
|-
|アール
|a
|10 m, 1 dam
|100
|-
|[[ヘクタール]]
|ha
|100 m, 1 [[ヘクトメートル|hm]]
|10 000
|-
|[[平方キロメートル]]
|km²
|1 000 m, 1 [[キロメートル|km]]
|1 000 000
|}
漢字表記は、「安」、「亜」、「阿」などがある。
== 使用状況 ==
歴史的にはアールは、[[ヘクタール]]とともに[[メートル法]]の面積の単位として制定されたものである。しかし、今日の[[国際単位系]](SI)においては、[[平方メートル]](m<sup>2</sup>)及び[[SI接頭語]]の[[キロ]]によるその派生単位[[平方キロメートル]](km<sup>2</sup>)が正規の単位である。そして、[[ヘクタール]](ha)の方は「SI単位と併用される非SI単位([[SI併用単位]])」として、時間の[[分]]・[[時]]・[[日]]や[[リットル]]、[[トン]]などと共に、使用が許容されているが<ref>SI国際文書第9版(2019)、p.114</ref>、アール(a)は使用することすらできない単位である。
しかしながら、[[国際単位系]]で推奨されている[[平方メートル]]とその倍量単位の[[平方キロメートル]]との間には100万倍もの開きがあるので、この2つだけで面積を表そうとすると実務上、大変不都合である。また、アール・ヘクタールは、平方メートルの100倍がアール、アールの100倍がヘクタール、ヘクタールの100倍が平方キロメートルであり、[[平方メートル]]と[[平方キロメートル]]との間をうまく埋める関係になっている。
日本の[[計量法]]においては、国際単位系における扱いとは異なり、アールと[[ヘクタール]]は特殊の計量である「土地の面積の計量」にのみ限定して使用することができる<ref>{{Cite web|和書|title=計量単位令(平成四年政令第三百五十七号)別表第6 第7号前段|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82|website=e-Gov法令検索|accessdate=2019-12-17|publisher=総務省行政管理局}}</ref>。これはアールが元々使われていた[[尺貫法]]による[[畝 (単位)|畝]]とほぼ等しい面積の単位であるため(1畝 = 約 0.99173554 a)、実務上好都合であるという事情もある。
== SI接頭語との関係 ==
アールは計量法上、特殊の計量にのみ用いることができる単位と位置づけられているので、[[SI接頭語]]を付加することはできない。[[ヘクタール]](ha)は由来的にはアール(a)に100を表す接頭語 h([[ヘクト]]) を付加した単位であったが、現在では[[国際単位系]]でも[[計量法]]でもそのような扱いではなく、それぞれ単独の単位となっている。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13059|3303|1-13-38|全角アール}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite web|和書
|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf
|title=国際単位系 (SI) 国際文書第9版(2019年)日本語版
|accessdate=2020-09-26
|author=[[国際度量衡局]] (BIPM)
|coauthors=(独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター (NMIJ)(訳・監修)
|format=PDF
|ref=SI国際文書第9版(2019)
}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|アール}}
* [[反]]
* [[非SI単位]]
* [[法定計量単位]]
* [[単位の換算一覧]]
* [[面積の比較]]
{| class="wikitable"
|+前後の単位
!10⁻⁴
!10⁻³
!10⁻²
!1
!10²
!10³
!10⁴
|-
|
|ミリアール
|センチアール
|アール
|ヘクタール
|キロアール
|
|-
|
|ma
|ca
|a
|ha
|ka
|
|-
|平方デシメートル
|
|平方メートル
|平方デカメートル
|平方ヘクトメートル
|
|平方キロメートル
|-
|dm²
|√10 dm²
|m²
|da²
|hm²
|√10 hm²
|km²
|}
{{面積の単位}}
{{DEFAULTSORT:あある}}
[[Category:面積の単位]]
[[Category:メートル法]]
[[en:Hectare#Are]]
|
2003-07-12T12:55:25Z
|
2023-10-07T11:50:41Z
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"Template:単位",
"Template:CharCode",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
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"Template:Wiktionary",
"Template:面積の単位"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB_(%E5%8D%98%E4%BD%8D)
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平方メートル
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平方メートル(へいほうメートル、square metre)は、計量法および国際単位系(SI)における面積の単位である。1平方メートルは、「辺の長さが一メートルの正方形の面積」と定義される。
日本では、メートルを「米」と書くことから、「平方米」を略して平米(へいべい、へーべー)と略したり発音される場合もある。ただし日本の計量法では、「平米」の表記も「へいべい」、「へーべー」の読みも認められていない。
平方メートルの単位記号は、mである。大文字によるMは用いることはできない(大文字のMはSI接頭語のメガである)。
1平方メートルは以下に等しい。
平方メートルの分量・倍量単位のSI接頭語は、「平方メートル」全体ではなく「メートル」部分のみに対してつけられるものであり、接頭語も2乗されている事に注意。 例えば kmは、(km)であり、k *(m)ではない。つまり1kmは、1辺が1kmの正方形の面積、すなわち m の1 000 000(=1000)倍の面積ということになる。
核物理学で用いられる反応断面積の単位にバーン(barn、b)があり、100平方フェムトメートル(fm)に等しい。
Unicodeには、平方メートルとその分量・倍量単位を表す上記の文字が収録されている。これらはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。(機種依存文字)
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"text": "平方メートルの分量・倍量単位のSI接頭語は、「平方メートル」全体ではなく「メートル」部分のみに対してつけられるものであり、接頭語も2乗されている事に注意。 例えば kmは、(km)であり、k *(m)ではない。つまり1kmは、1辺が1kmの正方形の面積、すなわち m の1 000 000(=1000)倍の面積ということになる。",
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平方メートル(へいほうメートル、square metre)は、計量法および国際単位系(SI)における面積の単位である。1平方メートルは、「辺の長さが一メートルの正方形の面積」と定義される。 日本では、メートルを「米」と書くことから、「平方米」を略して平米(へいべい、へーべー)と略したり発音される場合もある。ただし日本の計量法では、「平米」の表記も「へいべい」、「へーべー」の読みも認められていない。 平方メートルの単位記号は、m2である。大文字によるM2は用いることはできない(大文字のMはSI接頭語のメガである)。
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{{単位|名称=平方メートル|記号=m{{sup|2}}|単位系=[[国際単位系]]([[SI組立単位|組立単位]])|物理量=[[面積]]|定義=辺の長さが1[[メートル]]の[[正方形]]の面積|画像=}}
'''平方メートル'''(へいほうメートル、square metre)は、[[計量法]]および[[国際単位系]](SI)における[[面積]]の[[単位]]である。1平方メートルは、「辺の長さが一[[メートル]]の[[正方形]]の面積」と定義される<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#77 計量単位令 別表第一] 項番10、面積、平方メートルの欄、「辺の長さが一メートルの正方形の面積」</ref>。
日本では、メートルを「米」と書くことから、「平方米」を略して'''平米'''(へいべい、へーべー)と略したり発音される場合もある。ただし日本の計量法では、「平米」の表記も「へいべい」、「へーべー」の読みも認められていない。
平方メートルの[[単位記号]]は、'''m{{sup|2}}'''である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#91 計量単位規則 別表第2] 面積の欄</ref>。大文字によるM{{sup|2}}は用いることはできない(大文字のMは[[SI接頭語]]の[[メガ]]である)。
==換算==
1平方メートルは以下に等しい。
* 0.01 [[アール (単位)|アール]](a)
* 0.0001 [[ヘクタール]](ha)
* 約 1550.38 [[平方インチ]](in{{sup|2}})
* 約 10.764 [[平方フィート]](ft{{sup|2}})
* 約 1.196 [[平方ヤード]](yd{{sup|2}})
* '''正確に''' 0.3025 [[坪]](1 [[坪]] = 約 3.305 785 124 m{{sup|2}})
* 約 0.001 0083 [[反]]
== 分量・倍量単位 ==
{|class=infobox
|-
|{{SI multiples square
|symbol=m
|prefix=平方
|unit=メートル
|suffix=
|note=よく使われる単位を太字で示す
|m=|xm=[[平方ミリメートル]]
|c=|xc=[[平方センチメートル]]
|k=|xk=[[平方キロメートル]]
}}
|}
平方メートルの分量・倍量単位の[[SI接頭語]]は、「平方メートル」全体ではなく「メートル」部分のみに対してつけられるものであり、接頭語も2乗されている事に注意。
例えば km{{sup|2}}は、(km){{sup|2}}であり、k *(m{{sup|2}})ではない。つまり1km{{sup|2}}は、1辺が1kmの正方形の面積、すなわち m{{sup|2}} の1 000 000(=1000{{sup|2}})倍の面積ということになる。
; 平方ミリメートル(mm{{sup|2}})
: 1辺が1[[ミリメートル]] (mm) の正方形の面積。1 mm{{sup|2}} = 10{{sup|−6}} m{{sup|2}}。
; 平方センチメートル(cm{{sup|2}})
: 1辺が1[[センチメートル]] (cm) の正方形の面積。1 cm{{sup|2}} = 10{{sup|−4}} m{{sup|2}}。[[CGS単位系]]では面積の基本となる単位である。
; [[平方キロメートル]](km{{sup|2}})
: 1辺が1[[キロメートル]](km) の正方形の面積。1 km{{sup|2}} = 10{{sup|6}} m{{sup|2}} = 100 ha。[[都道府県]]や[[国]]の面積はこのスケールになる。
; 平方メガメートル(Mm{{sup|2}})
: 1辺が1[[メガメートル]](Mm)の正方形の面積。1 Mm{{sup|2}} = 10{{sup|6}} km{{sup|2}} = 10{{sup|12}} m{{sup|2}}。海や大陸の面積、惑星などの表面積はこのスケールになるが、あまり用いられない。
:* 1 Mm{{sup|2}}は[[エジプト]]のおよその面積
:* 日本の面積は、0.38 Mm{{sup|2}}
:* [[アフリカ]]の面積は 30.2 Mm{{sup|2}}
:* 月の表面積は 38 Mm{{sup|2}}
:* 地球上の陸地の面積は 149.8 Mm{{sup|2}}
:* [[太平洋]]の面積は 179.7 Mm{{sup|2}}
:* 地球の表面積は 510 Mm{{sup|2}}
[[核物理学]]で用いられる[[反応断面積]]の単位に[[バーン (単位)|バーン]](barn、b)があり、100平方フェムトメートル(fm{{sup|2}})に等しい。
== 符号位置 ==
{{特殊文字}}
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13215|339F|-|平方ミリメートル|font=MacJapanese}}
{{CharCode|13216|33A0|-|平方センチメートル|font=MacJapanese}}
{{CharCode|13176|3378|-|平方デシメートル|font=個別|family='源ノ角ゴシック Normal','源ノ角ゴシック JP Normal','Noto Sans Japanese DemiLight','メイリオ',Meiryo,'VL ゴシック','VL Gothic','花園明朝A',HanaMinA,'AR PL Ukai CN',Code2000,'和田研中丸ゴシック2004絵文字',WadaLabChuMaruGo2004Emoji,YOzFont,'和田研細丸ゴシック2004絵文字',WadaLabMaruGo2004Emoji,'Nishiki-teki'}}
{{CharCode|13217|33a1|1-13-54|平方メートル|font=JIS2004フォント}}
{{CharCode|13218|33A2|-|平方キロメートル|font=MacJapanese}}
|}
[[Unicode]]には、平方メートルとその分量・倍量単位を表す上記の文字が収録されている。これらは[[CJK互換用文字]]であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。([[機種依存文字]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
==外部リンク==
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/%E5%B9%B3%E7%B1%B3%EF%BD%9C%E5%B9%B3%E6%96%B9%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%9D%A2%E7%A9%8D%EF%BD%9C%E5%8D%98%E4%BD%8D%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8/ 平方メートル(面積)単位換算表]
== 関連項目 ==
* [[単位の換算一覧]]
* [[面積の比較]]
<div style="height:auto; overflow: auto; text-align: left">
{{面積の単位}}
</div>
{{デフォルトソート:へいほうめえとる}}
[[Category:面積の単位]]
[[Category:SI組立単位]]
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2023-04-27T10:56:46Z
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巨乳ハンター
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『巨乳ハンター』(きょにゅうハンター)は、安永航一郎によるギャグ漫画。「週刊少年サンデー」(小学館)に1989年16号より掲載された(終盤は「週刊少年サンデー増刊号」に掲載)。第1話は読み切りとして書かれたが、その後シリーズ化され、連載という形になった。
単行本は、右乳篇、左乳篇の全2巻で刊行されており、右乳篇が1巻に相当する。 1990年には少年サンデー3月20日増刊号として、巨乳ハンター特集号が発売され、安永の顔写真が掲載されている。
安永の同人誌『野蛮ゲリオン』で、『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレーが巨乳ハンターとして活躍する話を書いている。風景には、福岡サンパレスと、近くにあるバス停「石城町」、福岡ダイエーホークスをもじった「平和台ポークス」(本拠地は平和台球場だった)、姪浜七丁目など福岡市各所が描かれている。
2019年10月、新作の「巨乳ハンターG」(前後編)が「サンデーうぇぶり」上で公開された。
女子高生の恭塚まさ子は、容姿端麗、学業優秀、運動万能、裁縫も得意だが、貧乳である事が原因で、巨乳好きの板東英次に振られてしまう。まさ子は怒りを燃やし、保健室から「全校女生徒巨乳リスト」を盗み出す。巨乳への(逆)恨みから、巨乳の女生徒達の「パイ拓」を取るために、まさ子は貧乳に肉まんを詰め込み、巨乳ハンターへと変身する。
芸能人や力士をもじっている(カッコ内は名前のモデル)。
サブタイトルは、人気作品を巨乳に絡めたもの。「エイチマンIV」は安永の『エイチマン』とのコラボレーション。なお、『巨乳ハンター』と言うタイトルは、『刑事ハンター』が元ネタであるという。右乳篇の表紙には「乳」、左乳篇には「巨」の文字が大きく書かれており、左右を並べると「巨乳」となる。なお、裏表紙は、それぞれの文字を裏側から見た状態になっている。
右乳篇(第1巻)少年サンデーコミックス スペシャル ISBN 4-09-122861-5 1990年11月15日
巻末に「余談」の題で4コマ漫画が書き足されている。ネタは、オリジナルビデオ、『陸軍中野予備校』第6巻、『天と地と』のパロディ(『天と乳と』)など。
左乳篇(第2巻)少年サンデーコミックス スペシャル ISBN 4-09-122862-3 1991年1月15日
巻末に、『ナイジェル=マンセル物語』が書き足されている(『ウルトラセブン』最終回のパロディもある)。
実写オリジナルビデオ作品。
スタッフ:
キャスト:
スタッフ:
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"text": "『巨乳ハンター』(きょにゅうハンター)は、安永航一郎によるギャグ漫画。「週刊少年サンデー」(小学館)に1989年16号より掲載された(終盤は「週刊少年サンデー増刊号」に掲載)。第1話は読み切りとして書かれたが、その後シリーズ化され、連載という形になった。",
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"text": "芸能人や力士をもじっている(カッコ内は名前のモデル)。",
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『巨乳ハンター』(きょにゅうハンター)は、安永航一郎によるギャグ漫画。「週刊少年サンデー」(小学館)に1989年16号より掲載された(終盤は「週刊少年サンデー増刊号」に掲載)。第1話は読み切りとして書かれたが、その後シリーズ化され、連載という形になった。 単行本は、右乳篇、左乳篇の全2巻で刊行されており、右乳篇が1巻に相当する。 1990年には少年サンデー3月20日増刊号として、巨乳ハンター特集号が発売され、安永の顔写真が掲載されている。 安永の同人誌『野蛮ゲリオン』で、『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレーが巨乳ハンターとして活躍する話を書いている。風景には、福岡サンパレスと、近くにあるバス停「石城町」、福岡ダイエーホークスをもじった「平和台ポークス」(本拠地は平和台球場だった)、姪浜七丁目など福岡市各所が描かれている。 2019年10月、新作の「巨乳ハンターG」(前後編)が「サンデーうぇぶり」上で公開された。
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{{出典の明記|date=2023年1月}}
{{性的orange}}
『'''巨乳ハンター'''』(きょにゅうハンター)は、[[安永航一郎]]による[[ギャグ漫画]]。「[[週刊少年サンデー]]」([[小学館]])に[[1989年]]16号より掲載された(終盤は「[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]」に掲載)。第1話は読み切りとして書かれたが、その後シリーズ化され、連載という形になった。
単行本は、右乳篇、左乳篇の全2巻で刊行されており、右乳篇が1巻に相当する。 [[1990年]]には少年サンデー3月20日増刊号として、巨乳ハンター特集号が発売され、安永の顔写真が掲載されている<!--、非常に珍しいもの-->。
安永の同人誌『[[野蛮ゲリオン]]』で、『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』の[[新世紀エヴァンゲリオンの登場人物|惣流・アスカ・ラングレー]]が巨乳ハンターとして活躍する話を書いている。風景には、[[福岡サンパレス]]と、近くにあるバス停「石城町」、福岡ダイエーホークスをもじった「平和台ポークス」(本拠地は平和台球場だった)、姪浜七丁目など福岡市各所が描かれている。
[[2019年]]10月、新作の「巨乳ハンターG」(前後編)が「[[サンデーうぇぶり]]」上で公開された。
== あらすじ ==
女子高生の恭塚まさ子は、容姿端麗、学業優秀、運動万能、裁縫も得意だが、[[貧乳]]である事が原因で、[[巨乳]]好きの板東英次に振られてしまう。まさ子は怒りを燃やし、[[保健室]]から「全校女生徒巨乳リスト」を盗み出す。巨乳への(逆)恨みから、巨乳の女生徒達の「[[女拓|パイ拓]]」を取るために、まさ子は貧乳に肉まんを詰め込み、巨乳ハンターへと変身する。
== 登場人物 ==
芸能人や力士をもじっている(カッコ内は名前のモデル)。
; 恭塚まさ子([[京塚昌子]])
: 本作の主人公。巨乳コンプレックスが高じ、巨乳ハンターとなった。
; 板東英次([[板東英二]])
: まさ子が想いを寄せていた男子生徒。巨乳が好きで貧乳は眼中にない為、まさ子を相手にしなかった。
; 笠城しづ子([[笠置シヅ子]])
: 恭塚まさ子の友人。貧乳。
== 単行本・副題 ==
サブタイトルは、人気作品を巨乳に絡めたもの<!--(『[[県立地球防衛軍]]』以来の手法)-->。「エイチマンIV」は安永の『エイチマン』との[[コラボレーション]]。なお、『巨乳ハンター』と言うタイトルは、『[[刑事ハンター]]』が元ネタであるという。右乳篇の表紙には「乳」、左乳篇には「巨」の文字が大きく書かれており、左右を並べると「巨乳」となる。なお、裏表紙は、それぞれの文字を裏側から見た状態になっている。
右乳篇(第1巻)少年サンデーコミックス スペシャル ISBN 4-09-122861-5 1990年11月15日
{| class="wikitable" style="text-align: left;font-size:small"
|-
! サブタイトル !! 元ネタ !! ゲスト !! 用語・元ネタなど !! 初出
|-
| 巨乳ハンター
| [[刑事ハンター]]
| 矢智草香([[八千草薫]])、<br />清河虹子([[清川虹子]])、<br />市原越子([[市原悦子]])、<br />岸田鏡子([[岸田今日子]])、<br />右樹千穂([[樹木希林|悠木千帆]])、<br />森三津子([[森光子]])、<br />古林幸子([[小林幸子]])
|
| 週刊少年サンデー<br />平成1年<!--「1年」は原文ママ-->16号
|-
| 巨乳皇帝<br />(バストエンペラー)
| [[ラストエンペラー]]
| シャーロット・ラングレン<br />([[シャーロット・ランプリング]]、[[ドルフ・ラングレン]])
|
| 週刊少年サンデー<br />平成1年23号
|-
| ボインはV
| [[サインはV]]
| 水戸泉今日子<br />([[水戸泉政人|水戸泉]]、[[小泉今日子]])、<br />黒柳大徹子([[黒柳徹子]]、[[大徹忠晃|大徹]])
| 巨乳[[新幹線]]走法
| 週刊少年サンデー<br />平成1年33号
|-
| 巨ブラ
| [[コブラ (漫画)|コブラ]]
| 巨ブラ、<br />宇宙検事ヘース・ケスギ<br />([[杉兵助]])、<br />リュー・チシュー<br />([[笠智衆]])、<br />シャーロット・ラングレン
| バストガン([[コブラ (架空の人物)#サイコガン|サイコガン]])、<br />宇宙海賊バストロン<br />([[仮面ライダーV3#デストロン|デストロン]]、[[デストロン (トランスフォーマー)|デストロン]])、<br />スペルゲン盆地胸バリヤー<br />([[バルタン星人#二代目|スペルゲン反射鏡]])
| 週刊少年サンデー<br />平成1年34号
|-
| 黄金バスト
| [[黄金バット]]
| 甲杜先生
|
| 週刊少年サンデー<br />平成1年40号
|-
| ドプリンプリン物語
| [[プリンプリン物語]]
| シャーロット・ラングレン、<br />水戸泉今日子、<br />黒柳大徹子、<br />バンドー王子(板東英次)
| [[シンデレラ]]、<br />[[ウルトラマン]]
| 週刊少年サンデー<br />平成1年43号
|-
| 巨乳カーニバル
| [[恐竜カーニバル]]
| 前田日張([[前田美波里]])、<br />猫柳るみ子([[小柳ルミ子]])
| バストレイバー<br />([[パトレイバー]])
| 週刊少年サンデー<br />平成1年47号
|-
| エイチマンIV
|
| 福里浪花(エイチマン2号)
|
| 週刊少年サンデー<br />平成1年<br />スペシャル増刊4号
|}
巻末に「余談」の題で4コマ漫画が書き足されている。ネタは、オリジナルビデオ、『[[陸軍中野予備校]]』第6巻、『[[天と地と]]』のパロディ(『天と乳と』)など。
左乳篇(第2巻)少年サンデーコミックス スペシャル ISBN 4-09-122862-3 [[1991年]]1月15日
{| class="wikitable" style="text-align: left;font-size:small"
|-
! サブタイトル !! サブタイトルの元ネタ !! ゲスト(元になった人物) !! 用語・元ネタなど !! 初出
|-
| でかちち繁盛記
| [[細うで繁盛記]]
| ペギー双葉山<br />([[ペギー葉山]]、[[双葉山定次|双葉山]])
| ロワイヤルホルスト<br />([[ロイヤルホスト]])
| 週刊少年サンデー<br />平成2年13号
|-
| バスト★キッド
| [[ベスト・キッド]]
| ひろみ
| 松坂([[松坂季実子]])
| 週刊少年サンデー<br />平成1年35号
|-
| ぐらま天狗
| [[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]
| 佐賀良はる子<br />([[相楽晴子|相楽ハル子]])、<br />佐賀良なおみ<br />([[佐良直美]])、<br />ぐらま天狗
|
| 週刊少年サンデー<br />平成1年44号
|-
| 大霊パイ
| [[丹波哲郎|大霊界]]
| [[閻魔]]
|
| 週刊少年サンデー<br />平成2年5月増刊号
|-
| D-CUP <br />HIGH <br />SCHOOL
| [[ビー・バップ・ハイスクール]]
| 平和台レディース<br />([[平和台野球場|平和台球場]])、<br />山本([[山本和範]])、<br />岸川([[岸川勝也]])
| 破れブラ刀舟<br />でかパイ狩り<br />([[破れ傘刀舟悪人狩り]])<br />とんかつソース([[ポパイ]]、[[イカリソース]])<br />
| 週刊少年サンデー<br />平成2年6月増刊号
|-
| レッドブラ
| [[レッドブル (映画)|レッドブル]]
| ビクトリア・ダイバーゲン<br />([[ゼビオホールディングス|ヴィクトリア]])、<br />カラマゾフ博士<!--<br />([[カラマーゾフの兄弟]])-->、<br />トポス([[トポス (ディスカウントストア)|トポス]])、<br />ロヂャース([[ルミエール (ディスカウントストア)|ロヂャース]])
|
| 週刊少年サンデー<br />平成2年7月増刊号
|-
| ロボカップ2
| [[ロボコップ2]]
| 浅間巡査
|
| 週刊少年サンデー<br />平成2年8月増刊号
|-
| 西部パイ拓史
| [[西部開拓史 (1962年の映画)|西部開拓史]]
| バストラーデ<br />([[オレステス・デストラーデ|デストラーデ]])、<br />オッセージ<br />([[リッチ・ゴセージ]])、<br />西部オイランズ<br />([[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]])、<br />平和台ポークス<br />([[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]])、<br />チブタ([[田淵幸一]])、<br />盛監督([[森祇晶]])
| 巨乳大回転打法、<br />巨乳[[ハングオン]]走塁
| 週刊少年サンデー<br />平成2年9月増刊号
|-
| 妖パイハンター
| [[妖怪ハンター]]
| 静香([[工藤静香]])、<br />雄三([[加山雄三]])
| 新婚さん!来るならこい!<br />([[新婚さんいらっしゃい!]])
| 週刊少年サンデー<br />平成2年12月増刊号
|}
巻末に、『[[ナイジェル・マンセル|ナイジェル=マンセル]]<ref>[[1990年]]に引退を撤回した[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー。</ref>物語』が書き足されている(『[[ウルトラセブン]]』最終回のパロディもある)。
== オリジナルビデオ ==
実写[[オリジナルビデオ]]作品。
; 巨乳ハンター
: 1990年[[4月25日]]販売。製作・発売は[[東北新社]]、販売はビデオ・グラフ。定価12,000円(税別)。
スタッフ:
* 監督・脚本:[[渡辺寿 (映画監督)|渡辺寿]]
*製作:[[真木太郎]]
*制作プロデューサー:[[竹本克明]]
*音楽:小川洋一
*撮影:阿部淳
*照明:井上富夫
*録音:[[芦原邦雄]]([[サウンドライズ]])
*美術:山崎輝([[山崎美術]])
*特殊美術:松山仁、杉本末男(MOBY DICK)
*編集:奥原茂
*ネガ編:藤山伊世子
*助監督:[[竹下昌男]]
*監督助手:徳永斉、竹之内努
*撮影助手:大木純男、矢田美宏
*照明助手:江口和人、佐野誠、山木眞生、松岡慶子
*録音助手:大井徹、村上洋裕(サウンドライズ)
*編集助手:堀口正則
*選曲:[[合田豊]](ゴリラ・2)
*効果:渡部健一([[カモメファン|東洋音響カモメ]])
*記録:江原千登勢
*装飾:栗原牧子
*特効:LATHE
*CG:[[聖咲奇]]、時矢利昌
*スタイリスト:上野真利子、佐々木美由紀
*ヘアーメイク:岡野千江子、田代恵子
*製作宣伝:大沢信博
*製作主任:高橋憲行
*製作進行:塚内裕子、野崎哲司
キャスト:
* まさ子:かいはるみ
* パパ:[[峰岸徹]]
* ママ:[[桂木文]]
* 水戸泉今日子:広崎うらん
* えり子:吉永みのり
* 古林幸子:[[松本まりな]]
* 木島典子:[[樹まり子]]
* 琴ヶ梅静香:[[佐倉麻子]]
* 板東英次:[[あらい正和|新井昌和]]
* 保健の先生:[[天本英世]]
; 巨乳ハンター2 アドベンチャー・サマー
: 1990年[[12月25日]]販売。
* キャスト:[[中島ひろ子]]、三野輪有紀、[[五島めぐ]]、[[庄司みゆき]]、佐藤江珠、[[村上麗奈]]、[[三谷昇]]、[[アゴ勇]]
スタッフ:
* 監督:小林俊夫
* 脚本:小木曽豊斗
== 脚注 ==
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{{デフォルトソート:きよにゆうはんたあ}}
[[Category:安永航一郎の漫画作品]]
[[Category:漫画作品 き|よにゆうはんたあ]]
[[Category:1989年の漫画]]
[[Category:週刊少年サンデーの漫画作品]]
[[Category:週刊少年サンデー超]]
[[Category:乳房を題材とした漫画作品]]
[[Category:日本のオリジナルビデオ]]
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国際復興開発銀行
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国際復興開発銀行(こくさいふっこうかいはつぎんこう、International Bank for Reconstruction and Development, IBRD)は、第二次世界大戦後の各国の経済面での復興を援助するために設立された、本部をワシントンD.C.に置く国際金融機関。現在では世界銀行グループの一員である。一般に世界銀行という場合に本行を指すことがある。
1944年のブレトン・ウッズ協定によって設立が決まり、1946年に業務を開始、1947年からは国連の専門機関となった。
第二次世界大戦によって荒廃した、ヨーロッパなど戦勝国を中心に復興資金を援助するために設立された。貸付条件は緩く、長期融資で、無償か、または贈与率が高い。当初対象にしていた国々が復興を果たした現在では、主に開発途上国が対象になっている。
IMFとは違い、プロジェクト単位の融資を行うことが多く、便宜上民間機関へ貸付を行うこともある。
資金源は、世界銀行債券(IBRD債)が多くを占めている。このほかに、加盟国の出資金などもあるが、割合は低く、むしろ世界銀行債が投資家に返済できなくなった場合の保証の意味合いが強い(実際に債務不履行に陥ったことは今までにない)。
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'''国際復興開発銀行'''(こくさいふっこうかいはつぎんこう、'''International Bank for Reconstruction and Development''', IBRD)は、[[第二次世界大戦]]後の各国の経済面での復興を援助するために設立された、本部を[[ワシントンD.C.]]に置く国際金融機関。現在では'''[[世界銀行|世界銀行グループ]]'''の一員である。一般に世界銀行という場合に本行を指すことがある。
== 概要 ==
[[1944年]]の[[ブレトン・ウッズ協定]]によって設立が決まり、[[1946年]]に業務を開始、[[1947年]]からは[[国際連合|国連]]の[[国際連合の専門機関|専門機関]]となった。
第二次世界大戦によって荒廃した、[[ヨーロッパ]]など戦勝国を中心に復興資金を援助するために設立された。貸付条件は緩く、長期融資で、無償か、または[[贈与率]]が高い。当初対象にしていた国々が復興を果たした現在では、主に[[開発途上国]]が対象になっている。
[[国際通貨基金|IMF]]とは違い、プロジェクト単位の融資を行うことが多く、便宜上民間機関へ貸付を行うこともある。
資金源は、世界[[銀行]][[債券]](IBRD債)が多くを占めている。このほかに、加盟国の出資金などもあるが、割合は低く、むしろ世界銀行債が投資家に返済できなくなった場合の保証の意味合いが強い(実際に債務不履行に陥ったことは今までにない)。
<!--
== 脚注 ==
== 参考文献 ==
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== 外部リンク ==
*[https://www.worldbank.org/ja/country/japan 世界銀行東京事務所]
* {{Kotobank}}
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海底人類アンチョビー
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『海底人類アンチョビー』(かいていじんるいアンチョビー)は、安永航一郎による少年漫画。『週刊少年サンデー増刊号』に1992年から1994年にかけて連載。全4巻。SFギャグ海洋学園もの。
『陸軍中野予備校』の『少年サンデー』連載終了後、本誌で不定期連載だった『巨乳ハンター』に続いて『増刊サンデー』で連載される。
安永の作品はコミックスの発刊が途中で停止したり、期間が開くことも多いが、本作はさほど遅延なく全巻が発刊されている。
同時期に『少年キャプテン』で連載していた『頑丈人間スパルタカス』コミックスの巻末コメントでは、本作に対する『増刊サンデー』編集サイドからの圧力があったことを漏らしており、編集者から辞書を手渡されて「これに載っていない表現は使わないでください」と嫌がらせのような仕打ちを受けるなど、連載が非常に苦痛だったと記している。
安永にとっては、『県立地球防衛軍』以来続いていた『少年サンデー』系最後の連載作品となる。
手塚治虫の『海のトリトン』のオマージュないしはパロディであることが、第1話のセリフで明示されている。
平凡な中学生だった新巻圭(あらまき けい)は、ある日突然、海底国家・アンチョビー王国の王子だったと明かされ、家から放り出される。さらに王国はつい先日、宿敵ホンダワラ帝国の攻撃を受け壊滅したことを、すね毛の濃い腹心・スモークから知らされる。ほとんど孤立無援となったケイ王子たちだが、ホンダワラ帝国の地上侵攻計画を阻止するため、ホンダワラの王女・オキアミスたちと、しょーもないバトルを繰り広げる。しかし物語が進むにつれ、彼らにとって驚愕の事実が明らかになる。
超古代アトランティス文明の流れをくむ海底王国。アンチョビー「王国」だが国家元首が「皇帝」。ホンダワラとの戦争で滅亡したといわれていたが、実際には大勢生き残っており、地上でそれなりの地位に就くなどして溶け込んでいる。
急成長を遂げた海底国家。驚くべき速度で進化を続けるがそれにはある重大な秘密が隠されている。
序盤から登場するオキアミスの部下たち。ホンダワラ側ではオキアミスと共に帝国を離反した扱いになっている。
財団は隠れ蓑で実態は地底共和国カランバの地上侵攻部隊。
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『海底人類アンチョビー』(かいていじんるいアンチョビー)は、安永航一郎による少年漫画。『週刊少年サンデー増刊号』に1992年から1994年にかけて連載。全4巻。SFギャグ海洋学園もの。
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『'''海底人類アンチョビー'''』(かいていじんるいアンチョビー)は、[[安永航一郎]]による[[少年漫画]]。『[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]』に[[1992年]]から[[1994年]]にかけて連載。全4巻。SFギャグ海洋学園もの。
== 概要 ==
『[[陸軍中野予備校]]』の『[[週刊少年サンデー|少年サンデー]]』連載終了後、本誌で不定期連載だった『[[巨乳ハンター]]』に続いて『増刊サンデー』で連載される。
安永の作品はコミックスの発刊が途中で停止したり、期間が開くことも多いが、本作はさほど遅延なく全巻が発刊されている。
同時期に『[[少年キャプテン]]』で連載していた『[[頑丈人間スパルタカス]]』コミックスの巻末コメントでは、本作に対する『増刊サンデー』編集サイドからの圧力があったことを漏らしており、編集者から辞書を手渡されて「これに載っていない表現は使わないでください」と嫌がらせのような仕打ちを受けるなど、連載が非常に苦痛だったと記している。
安永にとっては、『[[県立地球防衛軍]]』以来続いていた『少年サンデー』系最後の連載作品となる。
[[手塚治虫]]の『[[海のトリトン]]』の[[オマージュ]]ないしは[[パロディ]]であることが、第1話のセリフで明示されている。
== あらすじ ==
平凡な中学生だった'''新巻圭'''(あらまき けい)は、ある日突然、海底国家・アンチョビー王国の王子だったと明かされ、家から放り出される。さらに王国はつい先日、宿敵ホンダワラ帝国の攻撃を受け壊滅したことを、すね毛の濃い腹心・スモークから知らされる。ほとんど孤立無援となったケイ王子たちだが、ホンダワラ帝国の地上侵攻計画を阻止するため、ホンダワラの王女・オキアミスたちと、しょーもないバトルを繰り広げる。しかし物語が進むにつれ、彼らにとって驚愕の事実が明らかになる。
== 登場人物 ==
=== 主要人物 ===
; 新巻 圭(あらまき けい) / アマジオ・サーモン・ケイ王子
: [[アトランティス]]の流れを汲み2万年の歴史を誇ったアンチョビー王国最後の王子。海仙中学2年生→3年生。14→15歳。
: 倫理観に著しく欠けるアンチョビー一族の中では比較的常識的でマトモだがバカ。通称も'''バカ王子'''。戦うのが大嫌い。泳ぎも魚も苦手だったが、スモークの特訓で克服した。バカだが根は真面目なようで、文化祭に向けて[[ヘチマ]]の研究をしている([[喫茶店]]の飾りとして貼り出された)。
: 全くの地上人として育つが、ある日エラと水かきが出来ると父親にアンチョビー王子であると打ち明けられて家を追い出される。やけくそになって'''[[玄界灘]]の[[海のトリトン]]'''になってやると豪語するが、海辺で出会ったスモークから王国の滅亡を伝えられ、中学2年1学期分、「アホな民族衣装着て盗んだ魚を食う[[ホームレス]]生活」を余儀なくされる。その間に泳ぎだけは達者になったが、結局育ての父が実の父かつアンチョビー皇帝であることが判明。「繁殖(ナンパ)」のため旅だった父に代わって新巻家に戻るものの、イールらに拉致されて捕虜となり、オキアミスと結婚させられそうになったり、海底金山掘りをやらされるなど散々な目に遭う。婚姻を妨害しようとしたイールの手引きで脱出したものの、皇帝に怒られてオキアミス救出に舞い戻る羽目に。だが、皇帝の仕返しでホンダワラが壊滅し、オキアミスとモルミルスが中学に編入したためしばらくはほのぼの学園生活を送っていたが、海底要塞モリアワセを完成させたホンダワラが地上侵攻を開始したため苦悩することに。だが、圭自身は結局ほぼなにもしないままホンダワラとの休戦が成立し、背後で糸を引いていた地底共和国カランバは自滅することになった。
: 最終的には新巻家で親子4人暮らすことになり、オキアミスから「ばか兄貴」と呼ばれるようになったことだけがちょっと嬉しいというオチがついた。
; オキアミス / [[アニサキス]]・サーモン・オキアミス王女
: ホンダワラ帝国の一の剣の使い手で第3<ref>第2王女が誰なのかは不明。</ref>王女。というのは真っ赤な嘘で実はアンチョビー王国最後の王女。年齢はおよそ14歳。
: 圭に負けず劣らぬバカ。馬鹿力だけが取り柄と思われ姉のモルミルスにホンダワラ帝国先遣隊としてアンチョビー残党狩り(と称する「左遷」)に向かうよう命じられ、前線基地として[[銭湯]]「龍宮湯」を建設。経営者兼看板娘として番台に座り、毎日爺さんたちの裸を見るハメになる。このため通称は'''銭湯王女'''。
: 圭に幾度となく戦いを挑むが毎度失敗。必殺剣をかわされ崖から海に蹴りこまれる、火炎放射器で焼かれる、オリハリセンでシバかれるなど散々な目に遭う。だが、オキアミスを慕うイールが夜道で圭を襲撃して捕虜にしたことで本国に戻れることになったが、そこで待っていたのは圭との政略結婚。圭の脱走でご破算になったが、実は圭とは兄妹であり、仇であるはずのアンチョビーの王女だと判明し混乱する。が、それも一時のことでオリハリセンで民家を破壊したり海仙中学に編入して圭たちと学園生活を送るなどそれなりに楽しく過ごす。一方で1ヶ月間の営業停止騒ぎ<ref>海底温泉の効果で元気になった爺さんたちが温泉を汲み上げすぎて町内を温泉浸しにした。</ref>のあった龍宮湯が経営危機に陥るが、スモーク直伝のサービスで立ち直った。終盤、危機を知らせるためイールら部下たちを引き連れてモリアワセに乗り込むが、船の外に逃げても結局全滅だとパニックを起こし、少しだけ期待したモルミルスを落胆させる。だが、裏切り者と誹られながらも民衆を前に演説をしたことでホンダワラ国王・王妃から支持されホンダワラ国民の説得には成功した。
: 第1巻の戦いは単なる兄妹ゲンカ。妹だとわかってからは圭から「オキちゃん」呼ばわりされている。だが、性格的に兄妹そっくりで本人は兄と認めないと主張していたものの、中盤以降は圭と息の合ったコンビになっている。
; スモーク・サーモン
: アンチョビー王国親衛隊長。家を叩き出された圭が海辺で出会ったアンチョビー人。下品なまでに濃いすね毛とオールバックのオカッパ頭が特徴。性格は滅茶苦茶で必要以上に高飛車。食糧調達のため養殖[[ハマチ]]を盗む、海仙中学に乱入して圭の担任教師を半殺しにする、鈴木地面の財布をくすねて3千円抜く、目の前で圭を拉致され捜索のため一直線に民家を破壊して突き進み貧しい一家のテレビを破壊する、魚屋の店先からアジを万引きして一人で食うなどやりたい放題。また、自分が地上に潜伏させた部下であるキザクラ姉弟のことをすっかり忘れ、ハザクラを[[相撲]]の反則技で叩きのめしている。挙げ句、当初スモークが圭に語っていた内容(アンチョビーは滅亡した、王族は戦いで死んだ、アンチョビー人は圭とサーモンしか残っていない、など)はすべて「嘘」という始末。
: やや男色の気があるため実は圭のことが好きで、女装もわりと好きというほんまものの変態。鱗が進化した全身の毛だけで泳ぐことが可能などと特技が下品。地上人に溶け込むため圭が民族衣装をやめたため、スモークも背広姿になる<ref>夏場には「省エネスーツ」を着ていた。</ref>。本気を出せばかなり強いが、ホンダワラとの戦いでは圭を前面に押し立てて応援しているだけ。それどころか、圭の正体をわざわざバラす、逃げ出す、相手を逆上させるなど足を引っ張りまくる。その上、毒殺対策と称して圭の食事に少しずつ毒を盛っている。
: 地底共和国カランバ殲滅後は海底要塞モリアワセによって壊滅した福岡市の復旧事業に参加している。巻末のおまけ漫画では主人公となっている。
=== 圭の頼りにならない仲間たち ===
; 海月 くらげ(みづき くらげ)
: 圭のガールフレンド。寿司屋「海月寿司」の一人娘。海仙中学2年生→3年生。14→15歳。髪型は少し長めのボブカット。父は寿司職人で寝たきりの祖父がいる。
: アンチョビーの民族衣装を着た圭を見てヘンタイ呼ばわりしてフッてしまうが、ドゴンとイールの上陸を目撃して襲われ圭に泣きつき、アンチョビーとホンダワラの戦いに巻き込まれていく。特技は「(作品の根幹を揺るがす)致命的なツッコミ」。イリコーン21号のマスクを取った素顔を気に入り助け、復活後は寿司屋で飼っている。
: 第1話でフッておきながら、圭のことが気になってなにかと世話を焼くことが多く、密かに対抗心を燃やすスモークとは若干折り合いが悪い。
; 戸仲井先生(となかいせんせい)
: 海仙中学理科担当教師。実は[[自衛隊]]関係者。30代後半。両脇が後退し襟足の長い頭髪と口ヒゲ、眼鏡が特徴。
: 乱入して騒動を起こしたスモークやドゴンたちが職員会議で問題になったところ全て自分に任せろと引き受けた奇特な人物。皇帝からオリハルコンを託されており圭に渡す。襲撃してきたオキアミスに[[火炎放射器]]を放つ、生徒相手にも「風邪を引くのは自己管理がなっていない」と居残りさせる、「[[トキ]]が絶滅するのは生き残る根性が足りないせい」と教えるなど過激な行動・言動が目立つ。1学期の大半を欠席して成績不振に陥った圭の夏休みの宿題を徹夜で手伝わされるなど、どうでも良いときには引っ張り出されるが、圭がイールに拉致されたことをスモークから聞いたのは「丸1日経ってから」で、[[ダウジング]]よりもアテにされていない。
: 実は東京湾大学で多々良川と同窓。浜辺で拾ったアンチョビー人について生態を調べて学会で発表しようとしていたが、それよりも人体実験に利用した方が良いという多々良川の悪魔の囁きに負けて途中までは一緒に研究していた、しかし、なにをどうしても半魚人しか作れず多々良川の研究が一時頓挫したときに協力関係を解消したようである。その後も研究を続けた多々良川が半魚人たちを人工進化させてホンダワラ帝国を産み出したことも知っている。また、皇帝や和白とは旧知の仲で多々良川に掠われたアニサキスの行方を探っていた。
; オリハルコン / オリハリセン
: 古代文明の遺産で強大な力を持つ思考金属。アンチョビー王族しか扱えず、所有者の望んだ形状の武器となる機能を備える。アンチョビー皇帝から戸仲井を通じて圭に渡されたが、戦いが嫌いな圭は武器を想像できず「金属バット」にしようとするがくらげたちから猛反対される。オキアミスとの一騎討ちで追い込まれた圭が「戦いはキライだがどつき漫才は大好き」との理由でハリセンにしてしまい地上最強のハリセン「オリハリセン」が誕生することになった。初登場のライマンダをシバくのに使って以降、圭から存在をすっかり忘れられ、ジーパンのポケットに仕舞い込まれていた。
: 圭がホンダワラの捕虜となった際にその力で脱出させるが、オリハリセンの忠告を無視した圭は「オキアミスに一撃くれてやる」などと欲をかき、水中であることを忘れてホンダワラ王宮の天井から飛び降りるという大失態を犯したせいで再び捕まる。再び脱走した圭と合流した皇帝の手に渡り本来の力を発揮。「海を真っ二つに切り裂く」、「ビームの逆噴射で地上まで猛スピードで移動する」、「オリハルコンビーム乱射で栄華を誇ったホンダワラ帝国を壊滅させる」と大活躍。その後、アンチョビー王族にしか使えないというのは「大嘘」で近所のおっさんでも使えることが判明。ビームで新巻家周辺の家屋に甚大な被害を出す。地面がフジツボで暴走した際には自爆させ、海底要塞モリアワセに乗り込んだ皇帝が要塞を外部から動かすコントローラーを狙うも大ハズレ。ただ、圭の部屋に設置された海底コンピューター「シーガイア」の起動装置として多々良川の計画を暴く役には立った。圭から「お仕置き」として股間に挟まれる屈辱を二度受けるなど不遇な扱い。また、一度だけ出た設定では地磁気を感知することで地球上なら自分がどこにいるかわかる。
; イリコーン21号
: 地上調査任務中に[[ダンプカー]]に轢かれ死にかけたところをくらげに助けられる。そのまま海仙中学の体育倉庫に匿われていたが、オキアミスから裏切り者の烙印を押され、どの道干からびて死ぬ運命だと悟り、ブチ切れて仲間のイリコーンたちに[[石灰]]をぶっかけて道連れにしようとする。干からびて死滅したかに思われたが、くらげが埋葬した墓に水をかけたところ復活。そのままレギュラーキャラクターとして定着。圭の仲間たちに加わるが台詞は少ない。
: 海底人の食事がわからないくらげに金魚や亀のエサを食わされる<ref>「亀のエサを食う」という設定は作者の後作『[[青空にとおく酒浸り]]』で実現した。</ref>が、不幸だったのはその程度。かつての仲間たちが悲惨な扱いを受け続ける中、お洒落な服を買ってもらい出番も多いなど優遇されている。オキアミスの離反などもあって敵味方の関係がグダグダになったこともあり、昔の仲間と世間話をするなど馴れ合っている。
; 鈴木 地面(すずき じめん)
: 競泳の[[近代オリンピック|五輪]]金メダリスト。赤潮大学生→海中自衛隊三尉→海仙中学水泳部コーチ→海仙中学生→海中自衛隊三尉と様々な変遷を辿る。「洗脳」「暴走」「自爆」に縁がある。正義感も腕っ節も強いものの頭は悪い。
: 川で溺れかけた子供を助けようとして流木で頭を打って失神し、圭とスモークに助けられる。だが、プライド故にその事実を認めようとせず練習に打ち込んでいたが、地上人の戦力を求めていたオキアミスに目をつけられ、キンメダインに洗脳される。同じく戦力を探していた圭とスモークが財布をくすねて訪ねてきたところを襲撃し、水中戦で圭を追い込むがキンメダインの「これでどう(銅)だ」という一言に暴走してキンメダインの目に掴みかかったことで洗脳が解け、キンメダインとオキアミスを撃退。ホンダワラの脅威を体感し、このままでは人類が危ないと危機感を抱き、次のオリンピック出場を断念して海中自衛隊に志願する。
: 幕僚長・和白の部下として海仙中学に潜入し、圭たちを支援してホンダワラと戦うはずが、ライマンダとの水泳対決に飛び込み失敗による自爆で敗れ、耳にフジツボを入れられモルミルスの手下にされてしまう。水泳部を乗っ取ったモルミルスが何を考えたのか県予選で勝つため地面を中学生だと偽って参加させたため優勝。その後、圭を兄と認めたくないオキアミスに操られて「お兄様」となるはずが、フジツボが繁殖しすぎて暴走。オキアミスと圭に襲いかかり、オリハリセンを奪取するも逆向きに発射して自爆した。その後、「脳味噌の筋肉でフジツボをたたき割る」という荒技で原隊に復帰し海底要塞モリアワセの設計図を奪取。潜入工作員としてモリアワセに乗り込むが結局なんの役にも立たなかった。
=== アンチョビー王国 ===
超古代アトランティス文明の流れをくむ海底王国。アンチョビー「王国」だが国家元首が「皇帝」。ホンダワラとの戦争で滅亡したといわれていたが、実際には大勢生き残っており、地上でそれなりの地位に就くなどして溶け込んでいる。
; アラスカ・サーモン・キング皇帝
: アンチョビー王国皇帝。劇中最強の人物。圭の「育ての親」で「実の親」。地上人に幼い我が子の養育を託すつもりが、親バカすぎて心配になり「先回りして地上人になりすまし、我が子を引き取って育てた」<ref>どうやって先回りしたかについてはオリハルコンの能力で説明がついた。</ref>。皇帝が国を空けている間にアンチョビーは滅んでしまったが、それは表向きの話で、実はアニサキス王妃とオキアミスが多々良川に拉致され、それぞれホンダワラとカランバの人質になっていたせいで迂闊に手出しができなかったというのが真相。オキアミスを取り返すや瞬く間にホンダワラを壊滅させた。女をたらし込むことに関しては超一流のケダモノ親父でご近所の奥さんとも懇ろの仲という。また[[バイセクシャル]]を思わせる描写があり、スモークとの背景には薔薇が描かれている。
: 地底共和国カランバ殲滅後は王家を解散させて[[サラリーマン]]になった。休日の家では和服で過ごす。
; アニサキス王妃
: アンチョビー王国王妃。その容姿はモルミルスが「老けただけ」というもので、母親の顔を知らない圭は再会するなりモルミルスの手の込んだ嫌がらせだと思い込み母親をしばき倒すことになった。それ以前にも事情を知らない圭からはアホ、マヌケ呼ばわりされている。対するアニサキスも圭を「みすぼらしい少年」などと言っている。本来は夫に負けず劣らぬ実力者だが幼いオキアミスを抱えた身では多々良川に逆らえず14年近く幽閉される。多々良川を恨んでおり「変態和尚」と呼んで「王家の呪い」をかける(=王妃自身によるヤキを入れる)つもりだった。見かけと王妃という身分からは想像できないほどガラが悪い。
: 日常生活では割と家庭的で面倒見も良く、カランバ殲滅後は普通の主婦になる。ただ、モルミルスから受け取った髪飾りが圭にとっては[[トラウマ]]。
; キザクラ姉弟
: 姉がキザクラ、弟がハザクラ。親衛隊員でスモーク直属の部下。キザクラは小柄でおしゃべり、ハザクラは巨漢で無口。
: ホンダワラから最も恐れられたアンチョビーの戦士で半魚人たちを捌きまくる。だが、スモークの命令で地上での潜伏生活を送ることになり、[[大濠公園]]で[[カッパ]]になりすまし[[美人局]]同然の相撲勝負を挑んでは財布を巻き上げるといういかにもスモークの部下らしいことをやっていた(圭たちは当然のようにスモークの仕業と疑う)。だが、海仙中学が海底人との共学校になったというニュースを知り、ホンダワラの侵略を受けたと勘違いして乗り込んでくる。その結果、ハザクラがスモークとの相撲対決に敗れ、お互いの正体を明かして圭たちに合流した。
: その後、半魚人を捌いていた経験が魚を捌く寿司職人として生かせるのではないかと考え、[[アルバイト]]として「海月寿司」で働くことになり、くらげの父を監禁して先輩店員に成りすまそうとしたライマンダを半殺しにした。ライマンダは突如戦線を離脱し所在不明となったキザクラ姉弟を討ち取ったと大嘘ついてボーナスをせしめ仲間との飲み会に使ったため正に自業自得の結果となる。終盤ではアニサキス救出や逃げた多々良川にトドメを刺すなど大活躍。終戦後は本格的に寿司職人を目指すことになった。
; 和白(わじろ)
: 自衛隊幕僚長。地面の上司として登場。海仙中学潜入中の地面にいちごを贈ってやるなど部下思いの上司。
: 後に彼自身もアンチョビーの一員と判明。ただ圭が王子だとは断固として認めたがらなかった。
=== ホンダワラ帝国 ===
急成長を遂げた海底国家。驚くべき速度で進化を続けるがそれにはある重大な秘密が隠されている。
; モルミルス
: ホンダワラ帝国第1王女。年齢は20歳ぐらい。特徴は黒目がちの眼とグリーンの髪、そしてトビウオ型(他にはうなぎ型)の髪飾り。もともと丈夫ではなく、地上の汚染された大気には弱く、乗り物酔いが酷いほどの胃弱。
: 傀儡に過ぎない両親(国王・王妃)に代わりカリスマ的リーダーとしてホンダワラを仕切っている。性格は腹黒で性悪。登場当初はツンと澄ましていたが、ホンダワラ壊滅以降はキャラが壊れはじめライマンダとコントを繰り広げるようになっていく。オキアミスの素性を知った上で、姉として散々イジメ抜いた。トドメに兄妹で結婚させようとしたが皇帝に阻止され、その仕返しでホンダワラは壊滅的打撃を被った。多々良川と手を組み海底資源の権利と引き替えに資金や資材の援助を受けていたがコケたため、再建までの期間、海仙中学に身を置くことになった。フジツボで配下にした水泳部を県予選で優勝させ、全国を狙うなどと言っている。完成したモリアワセに乗り込んだところ、乗り物酔いで活動不能状態に陥り、ゲロまみれに。モリアワセが当初の設計になかった足を持ち、操舵室がなく外部からコントロールされる仕様と知って多々良川に苦情を言いに行くが、その際に正体を現した多々良川から全てを明かされる。
: 彼女の正体は多々良川が作り出したアニサキスのクローン。遺伝子操作で作られたホンダワラ国民を統率するリーダーとして5歳児相当の年齢までカプセルで育成され、多々良川に洗脳・調整された。事実上同族であるためアンチョビーはホンダワラとの戦いを避けようとし、戦いに負けて滅亡したフリをした。感覚がアニサキスと繋がっているらしく、モルミルスが殴打されたときアニサキスは痛みを感じ、逆にアニサキスが圭に殴られたときはモルミルスが痛みを感じている。
: 多々良川の野望が失敗した後、ホンダワラ国民と共に海底に去る。その際、トレードマークの髪飾りはアニサキスに贈られた。
; ライマンダ
: カレイの遺伝子を持つ海底女忍者。左眼を隠す黒髪の長髪と真っ赤な忍者服が特徴。「主君にさえ恩を感じない」というのが自慢。服を脱ぐと擬態して透明同様になれるがパンツを脱ぐのを忘れたり、うっかり擬態を忘れたり、危機を切り抜けたと安堵して擬態を解き[[ストリーキング]]するハメになったりと基本的にドジで潜入は大体バレている。ナイスバディの持ち主だが、すぐ裸になるせいで[[上島竜兵]]や[[井手らっきょ]]と同類だと思われている。性格は主のモルミルスと同じくらいの腹黒で、アンチョビー親衛隊のキザクラ姉弟を討ち取ったと嘘をついてボーナスをせしめたり、前述のように野菜の高騰につけ込みイリコーンで一儲け企んだり、海仙中学の文化祭で“優勝するため”イカサマクイズで10クラスほど爆破するなどしている。胃弱の主と違って[[便秘]]症。
: 離反したオキアミスに替わって対アンチョビー戦の先頭に立つものの、思いつきでロクでもないことをしては失敗し、モルミルスから罰として傷口に「さしみ醤油」を塗られるオチがつく。海底要塞モリアワセ完成後はモルミルスの吐いたゲロの後始末ばかりしていたが、正体を現した多々良川に消されそうになり藤波の手を借りて脱走。他に行くアテがなく圭たちに合流してアニサキスの所在地を教えた。
; イリコーン
: 粉末もしくはカプセルを水に漬けることで誕生する人型戦闘員。深海の水圧で鍛えられているせいで筋肉質。ホンダワラ帝国民に服従するよう作られている。それぞれナンバーがあるらしいが前述の21号以外はレギュラーではないため何番がオキアミスの部下で、何番がモルミルスの部下かは不明。服従本能を使いライマンダがキャベツなどの野菜に仕立て上げてボロもうけしたが、調理すると元に戻るという特性で町内を混乱に陥れた。乾燥には滅法弱く干からびて崩れるが、水をかければ元通りになるという事実上不死の存在。だが、戦闘意欲は乏しく仕事もサボりがち。なお、オキアミスの部下は常時人型でいるが、手動ポンプで海底温泉の汲み出しをさせられたり、ライマンダには熱湯や便所の水で戻されたりとかなり不遇。
: 本来深海での活動に使われるため地上での戦闘力はやや落ちる。そこを勘違いして侮った圭はホンダワラ国内での戦闘で歯が立たずに完敗している。
==== オキアミスの部下 ====
序盤から登場するオキアミスの部下たち。ホンダワラ側ではオキアミスと共に帝国を離反した扱いになっている。
; イール
: オキアミスの部下の中では最も人間に近い姿。色黒で、頭髪の中央のみ白髪のモヒカンが特徴。イールと共に海仙中学を襲撃するが、愛刀ホンガツオの素材が魚のホネだったためあっさり敗退。その後は地上先遣隊の一員として「龍宮湯」での暮らしを余儀なくされる。オキアミスに惚れており、不遇な彼女のために頑張ろうとするが、当人同士以外には周知の事実。自室で独り言をつぶやいているのをオキアミス本人に聞かれてあっさりフラれ、圭を拉致すれば褒美をやると言われて一念発起し、夜道で圭を襲撃して掠うのに成功。褒美として「オキアミスを好きでいても良い」という許可を貰う。だが、自身の活躍で掠った圭がオキアミスと政略結婚させられると知り、婚姻を妨害するため圭を脱走させる。ドゴンたちと圭を地上まで送って本国に戻る途中、圭とアンチョビー皇帝が物凄い速度で追い抜いて行き、地上と海底を往復したアンチョビー皇帝によりホンダワラは壊滅することになったため、巻き込まれずに済んだ。
; ドゴン
: 首長竜型の怪物。イールと共に海仙中学を襲撃するが前述の通り失敗。事実上乗り物扱いでホンダワラとの行き来に利用される。おかしな風呂桶<ref>連載の少し前に話題になった事件に関連する。詳細は[[鈴木嘉和#ファンタジー号事件]]を参照。</ref>を馬車替わりに引いて泳いだこともある。胃弱で水圧の変化に弱く吐く。7人兄弟で弟は正義の宇宙人と戦ったというのが自慢。その後、経営不振に陥った銭湯を建て直すため、圭の思いつきで「[[テーマパーク]]」にする際の目玉として扱われる。
; キンメダイン
: 半魚人型で目が大きいのが特徴。目から怪光線を出すが、本来は「暗闇でも本が読める」程度にしか役に立たない。金メダル型のサングラスで地面を洗脳するが前述の通り余計な一言で作戦が失敗して敗れた。イール、ドゴンと並ぶ化け物トリオだが「コイツらと一緒にするな」と言った際に2人から「お前にだけは言われたくない」とツッコまれている。
=== 多々良川財団 ===
財団は隠れ蓑で実態は地底共和国カランバの地上侵攻部隊。
; 多々良川宗一(たたらがわ そういち)
: 多々良川財団会長。スキンヘッドに丸眼鏡で体格の良い男。重度のヘビースモーカーで銘柄はなんでも良く景気よく大量にふかしている。性格は豪快。その正体は地底共和国カランバ大統領。
: 東京湾大学在学中に戸仲井と共にアンチョビー人を発見。彼らを人体実験にかけ、進化の秘密を探ろうとするがどうやっても半魚人しか作れなかった。アンチョビーの秘密が進化を止める遺伝子にあると気づき、アニサキス王妃とオキアミス王女を拉致。王妃の遺伝子から本来通りの進化をするアンチョビー人(=モルミルス)を作り出し、彼女を使ってホンダワラ帝国を建国させる<ref>元々アトランティス文明崩壊の反省からアンチョビー王国は自ら進化を抑制していたが、多々良川の実験が原因でホンダワラ一族は進化速度が地上人と異なっている。そのため地上人と接触しても良い結果にはならないと判断し、海底に帰って行った。アンチョビー皇帝も「もう地上人とは接触しないだろう」と語った。</ref>。ホンダワラを利用して金などの海底資源を独占して巨万の富を築き、アンチョビー皇帝によりホンダワラが壊滅すると資金と資材を援助して「海底要塞モリアワセ」を作らせる。やがて、これを奪うためロシアから買い叩いた人工衛星「スパーシーボ」による[[ガッチン漁|ガッチン漁法]]でホンダワラ掃討とモリアワセによる地上侵攻を目論むも、彼の謀略を見抜いて阻止に動いたアンチョビーにより野望を挫かれる。逃亡を図ろうとするも、ハザクラの落とした自動車の下敷きになって死亡する。どの道肺ガンで長くはなかったらしい。
; 藤波(ふじなみ)
: 多々良川の会長秘書。唯々諾々と従っている様子だったが、ライマンダの逃亡を手助けし、モリアワセを狙った人工衛星の軌道プログラムをすり替えた。その正体はアンチョビーから送り込まれた工作員だった。
: 地底共和国カランバ殲滅後は海底要塞モリアワセによって壊滅した福岡市の復旧事業を指揮している。
; アイヤー
: 職業的殺し屋。糸目の中国人。モルミルスが圭やスモークに手を焼くのを見かね、多々良川が送り込んだ刺客。背後が見える能力を持つが、カタカナが読めないなど頭は弱い。報酬として年金の積み立てをするなど老後の心配をしている。[[ブルセラ]]親父を同業者と勘違いして変装。くらげとサーモンに立て続けに使用済みの下着を押しつけられて撃沈した。
: 元ネタは連載当時に週刊少年サンデーで連載していた「[[ジーザス (漫画)|ハードボイルド作品]]」から。
== コミックス、サブタイトル ==
; [[小学館]]少年サンデーコミックス スペシャル全4巻
:* 第1巻 ISBN 4-09-122863-1 1993年3月15日
:*# 海の底から来た男
:*# 急襲!ドゴンとイール
:*# 金目鯛へのターン
:*# 超金属オリハルコン
:*# 海底皇帝現る!
:*# プールでポン!
:*# 海底忍者ライマンダ
:* 第2巻 ISBN 4-09-122864-X 1993年8月15日
:*# イリコーンの秘密
:*# 禁断の海底温泉
:*# ばか王子さん誘拐事件
:*# ばか王子さん大脱走
:*# ばか王子さん救出作戦
:*# 海底帝国崩壊
:*# 町内あほんだら大会
:* 第3巻 ISBN 4-09-122865-8 1994年4月15日
:*# 恐怖!耳からフジツボ!!
:*# 超おにいさまへ…
:*# うっちゃれ屋根瓦!
:*# ライマンダの寿司
:*# 悶絶!ジュラシック銭湯
:*# ソイレント=グリーンマン
:*# 言語道断ウルトラクイズ
:*# 暗殺者・暁に滅す
:* 第4巻 ISBN 4-09-122866-6 [[1995年]]1月15日
:*# 海底要塞モリアワセ
:*# まんが日本海昔ばなし
:*# 荘厳{{ママ}}!モリアワセ要塞上陸!!
:*# 潜入!モリアワセ要塞!!
:*# モルミルス様鼻血をたらす!
:*# アニサキス様 救出大作戦
:*# 地底王国カランバ登場!!
:*# 地底王国カランバの最期
== 脚注 ==
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<references />
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{{DEFAULTSORT:かいていしんるいあんちよひい}}
[[Category:漫画作品 か|いていしんるいあんちよひい]]
[[Category:週刊少年サンデー超]]
[[Category:安永航一郎の漫画作品]]
[[Category:アトランティス文明を題材とした漫画作品]]
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戯曲
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戯曲(ぎきょく)は、演劇における脚本や台本のこと。また、そのかたちで執筆された文学作品。戯曲を書く者のことを「劇作家」と呼ぶ。
戯曲は、登場人物(キャラクターとも言う)と、彼らが舞台上で行う行為(アクションとも言う)によって構成される。登場人物の行為は通常、連鎖反応的に描かれる。つまり、ある行為が次の行為を誘発し、その繰り返しが劇の始まりから終わりまで続く。ただし、シュルレアリスム的世界観に基づいて書かれた戯曲など、手法によっては行為が連鎖的に発生しない場合もある。
舞台上で起きる行為は、舞台上実時間(劇世界上の時間ではない)の時系列順に記述される。その行為の記述方法には、ほとんどの場合、台詞およびト書きが用いられる。しかし実際のところ、戯曲の記述方法自体には厳密な決まりはない。
台詞には登場人物から発せられる言葉が、ト書きには登場人物の登場・退場や所作などが書かれる。ト書きにはこれらの他に、舞台進行に関する指示や、舞台装置(美術)、音響効果、照明効果、演出的な指示なども書かれることがある。
戯曲は演劇を作る上で、設計図的な役割を持つ。演出家・俳優・スタッフなど、作品づくりに携わる者たちは、戯曲に基づいて共通の目的・方向性・劇の完成イメージを形成していく。もちろん、戯曲を使わない即興劇や、即興をベースにした集団創作による劇などはこの限りではない。が、そのような場合でも、進行台本的なものを用意することもあり、その進行台本が後に戯曲化されるケースもある。
「戯曲」より一般的な呼称に、「劇文学」という語がある。劇文学という呼称の存在意義とは、次に述べるようなことである。ソフォクレスの作品などは図書館での分類上は戯曲であるが、戯曲と呼ばれるより、「悲劇」「劇詩」と呼ばれることが多い。近代以前の物語文学(『源氏物語』など)を「小説」と呼ぶのは近代的な分類をそれ以前の過去に投射する見方であるとの違和感を抱く人もおり、ギリシャ悲劇や能狂言の台本などを戯曲と呼ぶことにも同様の問題がある。また、後述するように、近代以降に生まれたシナリオ(映像劇の脚本)を戯曲と呼ぶことにも同様の違和感を抱かせる可能性がある。近代以前および以降の脚本(あるいはその形式で書かれた文学作品)までも射程に含めた場合、劇文学という、より一般的な呼称が適するであろう。
韻文で書かれた劇文学を劇詩というが、シェイクスピアの戯曲や近代に書かれた戯曲にも韻文を多用したものは多く、散文体だから戯曲、韻文体だから劇詩というような分類は成立しない。
劇映画やテレビドラマの脚本(シナリオ)を戯曲と呼べるかという問題がある。日常会話や文章などでは両者は区別されるのが普通である。しかし、シナリオを英語ではscreenplay(映画脚本の場合)やteleplay(テレビ脚本の場合)などと呼び、戯曲でplayであるので、これらは「映画用戯曲」「テレビ用戯曲」などとも翻訳可能である。また、公立図書館などでシナリオ本は戯曲に分類されている(本棚の“戯曲”と表示された場所に置いてある)という事実もある。以上から、シナリオもまた戯曲の一種であると考えて構わない、という見方も可能である。
筒井康隆は著書『文藝時評』(河出書房新社・刊)の中で、シナリオライター兼小説家である筒井ともみの作品を論評した際に、「戯曲=文学、シナリオ=非文学という区分けはもう意味が無い」という趣旨のことを書いている。これも、単なる映画作りのための設計図としかみなされていないシナリオと、すでに文学の一ジャンルとして認定されている戯曲との境界が曖昧であることを示すものであろう。
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戯曲(ぎきょく)は、演劇における脚本や台本のこと。また、そのかたちで執筆された文学作品。戯曲を書く者のことを「劇作家」と呼ぶ。
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'''戯曲'''(ぎきょく)は、[[演劇]]における[[脚本]]や[[台本]]のこと。また、そのかたちで執筆された[[文学]][[作品]]。戯曲を書く者のことを「[[劇作家]]」と呼ぶ。
== 特徴 ==
戯曲は、登場人物([[キャラクター]]とも言う)と、彼らが舞台上で行う行為(アクションとも言う)によって構成される。登場人物の行為は通常、連鎖反応的に描かれる。つまり、ある行為が次の行為を誘発し、その繰り返しが劇の始まりから終わりまで続く。ただし、[[シュルレアリスム]]的世界観に基づいて書かれた戯曲など、手法によっては行為が連鎖的に発生しない場合もある。
舞台上で起きる行為は、舞台上実時間(劇世界上の時間ではない)の時系列順に記述される。その行為の記述方法には、ほとんどの場合、[[台詞]]および[[ト書き]]が用いられる。しかし実際のところ、戯曲の記述方法自体には厳密な決まりはない。
台詞には登場人物から発せられる言葉が、ト書きには登場人物の登場・退場や所作などが書かれる。ト書きにはこれらの他に、舞台進行に関する指示や、舞台装置(美術)、音響効果、照明効果、演出的な指示なども書かれることがある。
戯曲は演劇を作る上で、設計図的な役割を持つ。[[演出家]]・[[俳優]]・[[スタッフ]]など、作品づくりに携わる者たちは、戯曲に基づいて共通の目的・方向性・劇の完成イメージを形成していく。もちろん、戯曲を使わない即興劇や、即興をベースにした集団創作による劇などはこの限りではない。が、そのような場合でも、進行台本的なものを用意することもあり、その進行台本が後に戯曲化されるケースもある。
== 呼称 ==
「戯曲」より一般的な呼称に、「'''劇文学'''」という語がある。劇文学という呼称の存在意義とは、次に述べるようなことである。[[ソフォクレス]]の作品などは[[図書館]]での[[図書分類法|分類上]]は戯曲であるが、戯曲と呼ばれるより、「[[悲劇]]」「[[劇詩]]」と呼ばれることが多い。[[近代]]以前の[[物語 (日本文学)|物語文学]](『[[源氏物語]]』など)を「[[小説]]」と呼ぶのは近代的な分類をそれ以前の過去に投射する見方であるとの違和感を抱く人もおり、[[ギリシャ悲劇]]や[[能]][[狂言]]の台本などを戯曲と呼ぶことにも同様の問題がある{{要出典|date= 2010年1月}}。また、後述するように、近代以降に生まれたシナリオ(映像劇の脚本)を戯曲と呼ぶことにも同様の違和感を抱かせる可能性がある。近代以前および以降の脚本(あるいはその形式で書かれた文学作品)までも射程に含めた場合、劇文学という、より一般的な呼称が適するであろう。
[[韻文]]で書かれた劇文学を劇詩というが、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の戯曲や近代に書かれた戯曲にも韻文を多用したものは多く、[[散文]]体だから戯曲、韻文体だから劇詩というような分類は成立しない。
=== 「シナリオ」は戯曲か? ===
劇映画やテレビドラマの脚本([[シナリオ]])を戯曲と呼べるかという問題がある。日常会話や文章などでは両者は区別されるのが普通である。しかし、シナリオを英語ではscreenplay(映画脚本の場合)やteleplay(テレビ脚本の場合)などと呼び、戯曲でplayであるので、これらは「映画用戯曲」「テレビ用戯曲」などとも翻訳可能である。また、[[公立図書館]]などでシナリオ本は戯曲に分類されている(本棚の“戯曲”と表示された場所に置いてある)という事実もある。以上から、シナリオもまた戯曲の一種であると考えて構わない、という見方も可能である。
[[筒井康隆]]は著書『文藝時評』([[河出書房新社]]・刊)の中で、シナリオライター兼小説家である[[筒井ともみ]]の作品を論評した際に、「戯曲=文学、シナリオ=非文学という区分けはもう意味が無い」という趣旨のことを書いている。{{独自研究範囲|これも、単なる映画作りのための設計図としかみなされていないシナリオと、すでに文学の一ジャンルとして認定されている戯曲との境界が曖昧であることを示すものであろう|date= 2018年11月}}。
== 関連項目 ==
* [[脚本]]、[[台本]]
* [[レーゼドラマ]]
* [[詩学]]
* [[対話体小説]] - [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の格言集に「こんにち戯曲と呼ばれているものには、“対話体の小説”でしかないようなものもある。これなら書簡体で戯曲を書くことも可能である」という言葉がある。これは、小説と戯曲の違いは表層的な違いではないところにあることを表した[[箴言]]である。
* [[吉本隆明]] - 『言語にとって美とはなにか』の「構成論」において、劇文学は、物語言語面からの上昇であると論じている。
* [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]] - [[中村三春]]によると、[[叙情]]文学を[[主観]]、叙事文学を[[客観]]、[[劇文学]]を[[主客合一]]という弁証法的図式で捉えた<ref>[https://web.archive.org/web/20130606144824/http://yaplog.jp/projectmannex/archive/106 中村三春・Mプロジェクト・サイト] {{リンク切れ|date= 2020年10月}}</ref>。
== 出典 ==
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豆板銀
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豆板銀(まめいたぎん)は、江戸時代に丁銀に対する少額貨幣として流通した銀貨であり秤量貨幣の一種。小粒銀(こつぶぎん)、小玉銀(こだまぎん)とも呼ばれる。通称は銀玉。当時、銀座において用いられた正式名称は「小玉銀」であり、『三貨図彙』にもこの名称で記述されている。一方、好事家による書である『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には「豆板銀」という名称で収録されている。
貨幣史研究が進んでいない段階の収集界の研究成果をそのまま拝借した日本の高等学校の日本史の教科書などでは「豆板銀」の名称が用いられ広く定着してきたが、江戸時代の幕府や銀座関係の文書ではこの名称は見えず、これら公文書などに記述されている「小玉銀」の名称に戻すべきであるとする意見がある。
形状は小粒の銀塊で、その名の通り豆のような形をしたものが多いが、変形したものも見られる。重量は不定だが、大半が10匁(37.3グラム)程度以下(標準的なものは5~7グラム程度)の秤量銀貨で、大小種々あり、実際には10匁を超える大型のものもあるが、そのようなものは稀である。豆板銀の中で特に小粒のもの(0.1~0.3匁、何分何厘程度。現代の古銭収集界では1グラム以下のものと定義している)は露銀(つゆぎん)と呼ばれ、僅かな目方の調整に用いられた。
表面には「常是」および「寳」に加えて慶長・享保銀以外には「元・宝・永・文・保・政」と年代つまり銀品位を現す文字極印が打たれた。二ツ宝銀・三ツ宝銀・四ツ宝銀は丁銀では「宝」字極印の数および書体で区別されるが、豆板銀では「宝」字の書体で区別される。宝永の四品の豆板銀には丁銀同様「常是」の極印は見られない。また元文銀と文政銀が「文」字の書体で区別されるのは丁銀も豆板銀も同じである。
また片面ないし両面に大黒像の極印が丁寧に打たれたものが存在し、恩賞および贈答用とされる。年代印は、大黒の腹部や、大黒および「寳」文字の周囲(「廻り文」「廻り保」など)に打たれたり、小さい文字の集合の形(群打ち。「群文」「群保」など)で打たれたり、大きく1文字(大字打ち。「大字文」「大字保」など)で打たれたりした。片面大黒(片面打ちで大黒像が70%以上識別できるもの)や両面打ちは他のものより存在が少ないことから現代の古銭市場では高値で取引されている。
それ自体を取引に利用するほか、丁銀に対する小額貨幣として補助的な役割をもつ。例えば、小型の丁銀に豆板銀を加えて重量を43匁(銀一枚、約160.4グラム)に合わせ、紙に包んで封印し、まとめて使用する事も行われた。これを包銀という。恩賞・贈答用の枚包(43匁(銀一枚)の包銀)や、商取引用の五百目包といった秤量銀貨による包銀で、丁銀に加える形で豆板銀が重量の調整用に使われたほか、豆板銀のみによる「豆板包」という包銀も存在した。
丁銀は包銀の形で大口取引に使用されることが多く日常生活で使用するには高額過ぎ、裸で使用されることはほとんどなかったが、豆板銀については持ち運び可能な銀秤(ぎんばかり)により随時秤量しての支払いが可能であり、また現金を銭緡(ぜにさし)で持ち歩くよりも携帯に便利で、適宜両替屋で銭に替えて使用するなど、重宝された。また、町奉行や代官が町人・百姓を褒賞する場合、熨斗紙の中央に銀貨をニカワで貼付けて包封し下賜された。
江戸時代当時には、物品を買う場合には、豆板銀を銭に替えてから使う場合がほとんどだったのに対し、今日いうサービスへの支払いには豆板銀がそのまま通用したとの説がある。
豆板銀は丁銀と同じ銀目建の銀貨であるが、慶長期まではまだ豆板銀がなく、端数は丁銀を切断(切遣い)して使っていた。元和期になって端数計算に便利なように小重量銀貨である豆板銀が作られるようになり、その頃に丁銀の切遣いは禁止されたとされ、これが豆板銀の始まりである。
元和6年(1620年)ごろに鋳造された慶長豆板銀に始まり、安政6年(1859年)の安政豆板銀まで常に丁銀と同じ銀品位で鋳造され、江戸時代を通じて発行された。慶応4年(1868年)の銀目廃止令で丁銀ともども通用停止となった。
豆板銀は重量が不揃いであるため、現代でも古銭商による買取の査定の際には重量の秤量が行われる場合があり、その場合には重量がそのまま買取価格に比例するわけではないが、査定の際の一つの買取価格の判定基準となる。
括弧内は発行年、銀含有率(規定)。鋳造量は丁銀に含まれる。
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豆板銀(まめいたぎん)は、江戸時代に丁銀に対する少額貨幣として流通した銀貨であり秤量貨幣の一種。小粒銀(こつぶぎん)、小玉銀(こだまぎん)とも呼ばれる。通称は銀玉。当時、銀座において用いられた正式名称は「小玉銀」であり、『三貨図彙』にもこの名称で記述されている。一方、好事家による書である『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には「豆板銀」という名称で収録されている。 貨幣史研究が進んでいない段階の収集界の研究成果をそのまま拝借した日本の高等学校の日本史の教科書などでは「豆板銀」の名称が用いられ広く定着してきたが、江戸時代の幕府や銀座関係の文書ではこの名称は見えず、これら公文書などに記述されている「小玉銀」の名称に戻すべきであるとする意見がある。
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'''豆板銀'''(まめいたぎん)は、[[江戸時代]]に[[丁銀]]に対する少額貨幣として流通した[[銀貨]]であり[[秤量貨幣]]の一種。'''小粒銀'''(こつぶぎん)、'''小玉銀'''(こだまぎん)とも呼ばれる。通称は銀玉<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/銀玉/ 銀玉] - Goo辞書(出典:デジタル大辞泉(小学館))</ref>。当時、[[銀座 (歴史)|銀座]]において用いられた正式名称は「小玉銀」であり<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p104-123.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p265-266.]]</ref><ref group="注釈">『[[#Nishiwaki2002|銀座御用留]]』・『[[#Nishiwaki2004|銀座万覚書(上)]]』・『[[#Nishiwaki2006|銀座万覚書(下)]]』のような銀座関連文書の翻刻版もある。</ref>、『三貨図彙』にもこの名称で記述されている<ref>[[#Kusama1815|草間(1815), p620.]]</ref>。一方、好事家による書である『[http://ue450s.imes.boj.or.jp/cm/digitalroom/senpu/ao1-1-1/index.htm 金銀図録]』および『大日本貨幣史』などの古銭書には「豆板銀」という名称で収録されている。
貨幣史研究が進んでいない段階の収集界の研究成果をそのまま拝借した日本の高等学校の日本史の教科書などでは「豆板銀」の名称が用いられ広く定着してきたが、江戸時代の幕府や銀座関係の文書ではこの名称は見えず、これら公文書などに記述されている「小玉銀」の名称に戻すべきであるとする意見がある<ref>西脇康, 江戸期の銀貨について-『銀座万覚書』と最新の分析科学の成果から-, 収集2004年11月号, p18-27.</ref>。
== 概要 ==
形状は小粒の銀塊で、その名の通り豆のような形をしたものが多いが、変形したものも見られる。重量は不定だが、大半が10[[匁]](37.3グラム<ref group="注釈" name="momme">1匁=3.75グラムと[[メートル法]]に基づいて規定されたのは明治24年(1891年)の[[度量衡法]]以降であり、江戸時代は幕末期を除き、[[唐]]代の1銭に等しい1匁=3.73グラム程度であったと推定される( {{Cite journal|和書|author=岩田重雄 |title=近世における質量標準の変化 |journal=計量史研究 |publisher=日本計量史学会 |year=1979 |volume=1 |issue=1 |pages=5-9 |naid=110002345649 |id={{NDLJP|10631741}} |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10631741}} , 花野韶「[http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/monmereki001.htm 貨幣から見た匁の変遷]」2008年)</ref>)程度以下(標準的なものは5~7グラム程度)の[[秤量銀貨]]で、大小種々あり、実際には10匁を超える大型のものもあるが、そのようなものは稀である<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p125.]]</ref><ref>[[#Tsuka1979|大蔵財務協会(1979), p7.]]</ref>。豆板銀の中で特に小粒のもの(0.1~0.3匁、何分何厘程度。現代の古銭収集界では1グラム以下のものと定義している)は'''露銀'''(つゆぎん)と呼ばれ、僅かな目方の調整に用いられた<ref name="Mikami1996-86">[[#Mikami1996|三上(1996), p86-87.]]</ref><ref name="JNDA2008-109">[[#JNDA2008|日本貨幣商協同組合(2008), p109.]]</ref>。
表面には「[[大黒常是|常是]]」および「寳」に加えて[[慶長丁銀|慶長]]・[[享保丁銀|享保銀]]以外には「元・宝・永・文・保・政」と年代つまり銀品位を現す文字極印が打たれた。[[宝永二ツ宝丁銀|二ツ宝銀]]・[[宝永三ツ宝丁銀|三ツ宝銀]]・[[宝永四ツ宝丁銀|四ツ宝銀]]は丁銀では「宝」字極印の数および書体で区別されるが、豆板銀では「宝」字の書体で区別される<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p119.]]</ref>。宝永の四品の豆板銀には丁銀同様「常是」の極印は見られない<ref name="JNDA2008-109" /><ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p185-186.]]</ref>。また[[元文丁銀|元文銀]]と[[文政丁銀|文政銀]]が「文」字の書体で区別されるのは丁銀も豆板銀も同じである。
また片面ないし両面に[[大黒天|大黒]]像の極印が丁寧に打たれたものが存在し、[[恩賞]]および贈答用とされる<ref>[[#Ishihara2003|石原(2003), p125.]]</ref><ref name="Nishiwaki1999-117">[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p117-118.]]</ref>。年代印は、大黒の腹部や、大黒および「寳」文字の周囲(「廻り文」「廻り保」など)に打たれたり、小さい文字の集合の形(群打ち。「群文」「群保」など)で打たれたり、大きく1文字(大字打ち。「大字文」「大字保」など)で打たれたりした。片面大黒(片面打ちで大黒像が70%以上識別できるもの)や両面打ちは他のものより存在が少ないことから現代の古銭市場では高値で取引されている<ref>[[#JNDA2008|日本貨幣商協同組合(2008), p96-109.]]</ref>。
それ自体を取引に利用するほか、[[丁銀]]に対する小額貨幣として補助的な役割をもつ。例えば、小型の丁銀に豆板銀を加えて重量を43匁(銀一枚、約160.4グラム<ref group="注釈" name="momme" />)に合わせ、紙に包んで封印し、まとめて使用する事も行われた。これを[[包銀]]という<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p113-114, p266-267.]]</ref>。恩賞・贈答用の枚包(43匁(銀一枚)の包銀)や、商取引用の五百目包といった秤量銀貨による包銀で、丁銀に加える形で豆板銀が重量の調整用に使われたほか、豆板銀のみによる「豆板包」という包銀も存在した<ref name="日本通貨図鑑">日本専門図書出版『カラー版 日本通貨図鑑』</ref>。
丁銀は包銀の形で大口取引に使用されることが多く日常生活で使用するには高額過ぎ、裸で使用されることはほとんどなかったが、豆板銀については持ち運び可能な[[銀秤]](ぎんばかり)により随時秤量しての支払いが可能であり、また現金を銭緡(ぜにさし)で持ち歩くよりも携帯に便利で、適宜[[両替商|両替屋]]で[[銭貨|銭]]に替えて使用するなど、重宝された<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p124-127.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p214-219.]]</ref><ref>[[#Zoheikyoku1940|造幣局(1940), p39.]]</ref>。また、町奉行や代官が町人・百姓を褒賞する場合、[[熨斗|熨斗紙]]の中央に銀貨を[[ゼラチン#膠(ニカワ)|ニカワ]]で貼付けて包封し下賜された<ref name="Nishiwaki1999-117" />。
江戸時代当時には、物品を買う場合には、豆板銀を銭に替えてから使う場合がほとんどだったのに対し、今日いうサービスへの支払いには豆板銀がそのまま通用したとの説がある<ref>西川裕一、{{PDFlink|[https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/00-J-24.pdf 江戸期秤量銀貨の使用状況 -重量ならびに小極印からみた若干の考察-]}}、金融研究、日本銀行金融研究所</ref>。
豆板銀は丁銀と同じ[[銀目]]建の銀貨であるが、[[慶長]]期まではまだ豆板銀がなく、端数は丁銀を[[貨幣の切断|切断]](切遣い)して使っていた。[[元和 (日本)|元和]]期になって端数計算に便利なように小重量銀貨である豆板銀が作られるようになり、その頃に丁銀の切遣いは禁止されたとされ、これが豆板銀の始まりである。
[[元和 (日本)|元和]]6年(1620年)ごろに鋳造された慶長豆板銀に始まり、[[安政]]6年(1859年)の安政豆板銀まで常に丁銀と同じ銀品位で鋳造され、江戸時代を通じて発行された<ref name="Mikami1996-86" /><ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p87.]]</ref>。[[慶応]]4年(1868年)の[[銀目廃止令]]で丁銀ともども通用停止となった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p465.]]</ref><ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p159.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p154-155.]]</ref>。
豆板銀は重量が不揃いであるため、現代でも古銭商による買取の査定の際には重量の秤量が行われる場合があり、その場合には重量がそのまま買取価格に比例するわけではないが、査定の際の一つの買取価格の判定基準となる。
== 種類 ==
括弧内は発行年、[[銀]]含有率(規定)。鋳造量は[[丁銀]]に含まれる<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p106-110, p170, p175-176, p443.]]</ref><ref>佐藤治左衛門 『貨幣秘録』 1843年</ref><ref>[[勝海舟]] 『吹塵録』 [[1887年]]</ref><ref>『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』 [[大蔵省]]、1875年</ref>。
* '''[[慶長丁銀#慶長豆板銀|慶長豆板銀]]'''([[元和 (日本)|元和]]6年ごろ(1620年)、80%)
* '''[[元禄丁銀#元禄豆板銀|元禄豆板銀]]'''([[元禄]]8年9月(1695年)、64%)
* '''[[宝永二ツ宝丁銀#宝永二ツ宝豆板銀|宝永二ツ宝豆板銀]]'''([[宝永]]3年7月(1706年)、50%)
* '''[[宝永永字丁銀#宝永永字豆板銀|宝永永字豆板銀]]'''(宝永7年3月(1710年)、40%)
* '''[[宝永三ツ宝丁銀#宝永三ツ宝豆板銀|宝永三ツ宝豆板銀]]'''(宝永7年4月(1710年)、32%)
* '''[[宝永四ツ宝丁銀#宝永四ツ宝豆板銀|宝永四ツ宝豆板銀]]'''([[正徳 (日本)|正徳]]元年8月(1711年)、20%)
* '''[[享保丁銀#享保豆板銀|享保豆板銀]]'''(正徳豆板銀)(正徳4年8月(1714年)、80%)
* '''[[元文丁銀#元文豆板銀|元文豆板銀]]'''([[元文]]元年6月(1736年)、46%)
* '''[[文政丁銀#文政豆板銀|文政豆板銀]]'''([[文政]]3年5月(1820年)、36%)
* '''[[天保丁銀#天保豆板銀|天保豆板銀]]'''([[天保]]8年11月(1837年)、26%)
* '''[[安政丁銀#安政豆板銀|安政豆板銀]]'''([[安政]]6年12月(1859年)、13%<ref group="注釈">『旧貨幣表』および『徳川氏貨幣一覧表』は13%と記すが(田谷博吉, 1973年, [https://doi.org/10.20624/sehs.39.3_261 江戸時代貨幣表の再検討], 社会経済史学, 39巻, 3号, p.261-279, {{doi|10.20624/sehs.39.3_261}}, 社会経済史学会)([[#RyogaeNendaiki-1|三井(1933),]] p777-801.)、[[#Taya1963|田谷(1963)]], p443.に記された銀座関係文書による品位表記である八割四分六厘引ヶに基づくならば14%である。(1-0.846)/1.1=0.14 )</ref>)
<Gallery>
画像:Keicho-mameitagin2.jpg|慶長豆板銀
画像:Genzi-mameitagin.jpg|元禄豆板銀
画像: |宝永二ツ宝豆板銀
画像:Eiji-mameitagin.jpg|宝永永字豆板銀
画像: |宝永三ツ宝豆板銀
画像:Yotsuho-mameitagin.jpg|宝永四ツ宝豆板銀
画像:Shotokukoki-mameitagin.jpg|享保豆板銀
画像:Bunzi-mameitagin.jpg|元文豆板銀
画像:Shinbunzi-mameitagin.jpg|文政豆板銀
画像:Hozi-mameitagin.jpg|天保豆板銀
画像:Seizi-mameitagin.jpg|安政豆板銀
</Gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=石原幸一郎 |title=日本貨幣収集事典 |edition= |series= |volume= |publisher=原点社] |date=2003 |isbn= |ref=Ishihara2003}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=草間直方 |title=三貨図彙 |publisher= |date=1815 |ref=Kusama1815}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn=978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|editor=三井高維 |title=新編両替年代記関鍵 巻一資料編 |edition= |series= |volume= |publisher=岩波書店 |date=1933 |ref=RyogaeNendaiki-1}}
* {{Cite book|和書|author1=瀧澤武雄|authorlink1=瀧澤武雄|author2=西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=西脇康校訂・補編 |title=銀座御用留(一) -銀座掛 葦名重次郎の手控- |publisher=書信館出版 |date=2004 |isbn=4-901553-04-6 |ref=Nishiwaki2002}}
* {{Cite book|和書|author=西脇康校訂・補編 |title=銀座万覚書(上) -京都銀座役所年寄の手帳- |publisher=書信館出版 |date=2004 |isbn=4-901553-11-9 |ref=Nishiwaki2004}}
* {{Cite book|和書|author=西脇康校訂・補編 |title=銀座万覚書(下) -京都銀座役所年寄の手帳- |publisher=書信館出版 |date=2006 |isbn=4-901553-14-3 |ref=Nishiwaki2006}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|author=清水恒吉 |title=南鐐蔵版 地方貨幣分朱銀判価格図譜 |publisher=南鐐コイン・スタンプ社 |date=1996 |isbn= |ref=Shimizu1996}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本貨幣カタログ |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=2008 |isbn= |ref=JNDA2008}}
* {{Cite book|和書|editor=財団法人 大蔵財務協会 |title=日本通貨變遷圖鑑 |edition= |series= |volume= |publisher=中国日日新聞社 |date=1974 |isbn= |ref=Tsuka1979}}
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省造幣局 |title=貨幣の生ひ立ち |edition= |series= |volume= |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1940 |isbn= |ref=Zoheikyoku1940}}
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11,302 |
100メートル競走
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100メートル競走(ひゃくメートルきょうそう、英語: 100 metres, 100-metre dash、フランス語: 100 mètres)は、100メートルをいかに短い時間で走るかを競う陸上競技で、短距離走に分類される。
日本語では、百メートル走(ひゃくメートルそう)、100メートル走、100m(ひゃくメートル)、100 、100米走 等々、さまざまな略語が用いられる。
陸上競技場では、メインスタンド前に当競技用の直線セパレートレーンが設置されている。陸上競技の中で人気が高く、花形競技である。特に男子の世界記録保持者は「人類最速の男」、夏季オリンピックでの優勝者は「世界一速い男」の称号が与えられる(優勝と世界新記録樹立は異なる)。100mを10秒で走ると平均速度は秒速10m、すなわち時速36kmであるが、2008年5月31日に9秒72で当時の世界新記録を打ち立てたウサイン・ボルトが、100mでは人類で初めて公式に時速37km以上の平均速度で走った。なお同じスプリント競走で、加速に必要な距離の比率が走行距離に対してより小さい200mでは、1996年にマイケル・ジョンソンが19秒32を記録し、100mよりも先に平均時速37kmを超えている(時速37.27 km)。ただ2010年現在では、100mの世界記録における平均速度(時速37.59km)が200mの世界記録における平均速度(時速37.52km)を上回っている。
100mで必要とされる能力は最高速と、より早く最高速に到達する加速である。長年にわたって190cmを超えるような長身・大型の選手は大きな加速度を得にくいという点で不利であるとされてきたが、21世紀に入ってからボルトやアサファ・パウエルら身長190cm台の選手が世界トップに名を連ねる時期があった。加速力の差で選手は前半逃げ切り型と後半追い込み型の2種類に大別されることが多い。
追い風により加速とトップスピードが向上し、一般に追い風1.0m/sで0.05秒から0.06秒の短縮が可能と言われる。そのため、追い風2.0m/sを超える場合は公式記録とはならず追い風参考記録となる。当然のことながら、世界記録の殆どが追い風の状況下で出されている。 風速計測は50m地点のコース脇に設置した風速計で、スタート時点から10秒間計測する(詳細は陸上競技参照)。
また、高所の方が気圧が低いために空気抵抗が少なく、短距離競技には好記録が出るとされている。しかし、風速と異なり明確な基準はないため「高地記録」と記載されるだけで公式記録として残る(公式記録に「A」と記載される)。
世界的に男子はジャマイカやアメリカ合衆国勢を中心としたアフリカ系アメリカ人選手がオリンピックや世界選手権で圧倒的に強く、欧州勢がそれを追う展開となっている。2020年東京オリンピックでは、父親がアフリカ系アメリカ人のマルセル・ジェイコブスが史上初めてイタリア選手として優勝した。2021年8月14日には、ケニアのファーディナンド・オムルワが東アフリカ勢として初の9秒台をマークした。急速にスピード化が進んだ1980年代以降は黒人選手の独壇場といっても過言ではない様相を呈しており、非黒人選手は決勝進出はおろか準決勝進出も困難となっている。中でもアジアの選手の目立った活躍は、1932年ロサンゼルスオリンピックで6位入賞を果たした吉岡隆徳ぐらいであり、以降は2021年東京オリンピックで蘇炳添がアジア新記録の9秒83をマークして決勝進出を決めていて(6位)、2023年現在の決勝進出者はその二人のみとなっる。2015年世界陸上北京大会において、蘇炳添が世界選手権ではアジア初となる決勝進出の快挙を果たした(決勝は9位)。その後は日本のサニブラウン・ハキームが2022年世界陸上オレゴン大会で決勝進出を果たし(7位)ている。これは女子部門でも例外ではなく、欧州勢がそれを追う展開となっている。男子ほどではないものの、非黒人選手が上位入賞するケースは稀である。アジアの選手の目立った活躍は、1928年5月20日の第15回日本陸上競技選手権大会で当時の世界記録(12秒2)を出した人見絹江と、1968年メキシコシティーオリンピックで決勝に進出し7位に入る健闘を見せた紀政ぐらいである(当時、オリンピックの入賞は6位までだった)。
太字'は樹立時の世界記録。
※樹立年の12月31日時点で年齢が18歳未満であるユース選手のみが対象となる。
※サニブラウン・アブデル・ハキームは日本学連に登録しておらず、所属が国外で出した記録のため、公式の日本学生記録ではない。
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100メートル競走は、100メートルをいかに短い時間で走るかを競う陸上競技で、短距離走に分類される。 日本語では、百メートル走(ひゃくメートルそう)、100メートル走、100m(ひゃくメートル)、100 、100米走 等々、さまざまな略語が用いられる。
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[[ファイル:London 2012 Olympic 100m final start.jpg|thumb|250px|[[2012年ロンドンオリンピックの陸上競技・男子100m|2012年ロンドンオリンピックの陸上競技、男子100m]]決勝のスタート場面]]
'''100メートル競走'''(ひゃくメートルきょうそう、{{lang-en|100 metres, 100-metre dash}}、{{lang-fr|100 mètres}})は、[[100]][[メートル]]をいかに短い時間で[[走る]]かを競う[[陸上競技]]で、[[短距離走]]に分類される。
[[日本語]]では、'''百メートル走'''(ひゃくメートルそう)<ref>『[[大辞泉]]』</ref>、'''100メートル走'''、'''100[[メートル|m]]'''(ひゃくメートル)、'''100''' 、'''100米走''' 等々、さまざまな[[略語]]が用いられる。
== 概要 ==
[[ファイル:Usain Bolt winning.jpg|thumb|250px|[[2008年北京オリンピック]] の100メートル走決勝戦(2008年8月16日)]]
[[陸上競技場]]では、メインスタンド前に当競技用の直線セパレートレーンが設置されている。陸上競技の中で人気が高く、花形競技である。特に男子の[[世界記録]]保持者は「人類最速の男」、[[夏季オリンピック]]での優勝者は「世界一速い男」の称号が与えられる{{要出典|date=2022年11月}}(優勝と世界新記録樹立は異なる)。100mを10秒で走ると平均速度は秒速10m、すなわち時速36kmであるが、[[2008年]]5月31日に9秒72で当時の世界新記録を打ち立てた[[ウサイン・ボルト]]が、100mでは人類で初めて公式に時速37km以上の平均速度で走った<ref group="†">9秒73が時速37kmの壁である。</ref>。なお同じスプリント競走で、加速に必要な距離の比率が走行距離に対してより小さい[[200メートル競走|200m]]では、[[1996年]]に[[マイケル・ジョンソン]]が19秒32を記録し、100mよりも先に平均時速37kmを超えている(時速37.27 km)。ただ2010年現在では、100mの世界記録における平均速度(時速37.59km)が200mの世界記録における平均速度(時速37.52km)を上回っている。
100mで必要とされる能力は最高速と、より早く最高速に到達する加速である。長年にわたって190cmを超えるような長身・大型の選手は大きな加速度を得にくいという点で不利であるとされてきた{{要出典|date=2016年1月}}が、21世紀に入ってからボルトや[[アサファ・パウエル]]ら身長190cm台の選手が世界トップに名を連ねる時期があった。加速力の差で選手は前半逃げ切り型と後半追い込み型の2種類に大別されることが多い。
追い風により加速とトップスピードが向上し、一般に追い風1.0m/sで0.05秒から0.06秒の短縮が可能と言われる<ref>[http://myweb.lmu.edu/jmureika/track/wind/index.html Wind/Altitude correction in the 100m sprint]</ref>。そのため、追い風2.0m/sを超える場合は公式記録とはならず[[追い風参考記録]]となる。当然のことながら、世界記録の殆どが追い風の状況下で出されている。
風速計測は50m地点のコース脇に設置した風速計で、スタート時点から10秒間計測する<ref group="†">ただしこの計測方法は10秒以内で走るランナーにとっては、ゴール後に風力が変わって追い風参考記録になる等の不当なことも稀にある。</ref>(詳細は[[陸上競技]]参照)。
また、[[高地|高所]]の方が[[気圧]]が低いために[[空気抵抗]]が少なく、短距離競技には好記録が出るとされている。しかし、風速と異なり明確な基準はないため「高地記録」と記載されるだけで公式記録として残る(公式記録に「A」と記載される)。
世界的に男子は[[ジャマイカ]]や[[アメリカ合衆国]]勢を中心とした[[アフリカ系アメリカ人]]選手がオリンピックや世界選手権で圧倒的に強く、欧州勢がそれを追う展開となっている。[[2020年東京オリンピック]]では、父親がアフリカ系アメリカ人の[[マルセル・ジェイコブス]]が史上初めてイタリア選手として優勝した。2021年8月14日には、[[ケニア]]の[[ファーディナンド・オムルワ]]が東アフリカ勢として初の9秒台をマークした。急速にスピード化が進んだ1980年代以降は黒人選手の独壇場といっても過言ではない様相を呈しており、非黒人選手は決勝進出はおろか準決勝進出も困難となっている。中でもアジアの選手の目立った活躍は、[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]で6位入賞を果たした[[吉岡隆徳]]ぐらいであり、以降は[[2020年東京オリンピック|2021年東京オリンピック]]で[[蘇炳添]]が[[アジア]][[新記録]]の9秒83をマークして決勝進出を決めていて(6位)、[[2023年]]現在の決勝進出者はその二人のみとなっる。[[2015年世界陸上競技選手権大会|2015年世界陸上北京大会]]において、[[蘇炳添]]が[[世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]ではアジア初となる決勝進出の快挙を果たした(決勝は9位)<!--(世界陸上の入賞枠は8位まで)--><!--オリンピックを併せると1932年ロサンゼルス五輪での吉岡隆徳以来83年ぶり-->。その後は[[日本]]の[[サニブラウン・アブデル・ハキーム|サニブラウン・ハキーム]]が[[2022年世界陸上競技選手権大会|2022年世界陸上オレゴン大会]]で決勝進出を果たし(7位)ている。これは女子部門でも例外ではなく、欧州勢がそれを追う展開となっている。男子ほどではないものの、非黒人選手が上位入賞するケースは稀である。アジアの選手の目立った活躍は、[[1928年]]5月20日の第15回[[日本陸上競技選手権大会]]で当時の世界記録(12秒2)を出した[[人見絹江]]と、[[1968年メキシコシティーオリンピック]]で決勝に進出し7位に入る健闘を見せた[[紀政]]ぐらいである(当時、オリンピックの入賞は6位までだった)。
== 世界記録 ==
=== 世界歴代10傑 ===
* 同タイムの場合は先に記録されたものを上に記載する。
* 風速([[メートル毎秒]])は追い風を+で表記、向かい風を-で表記する。
* タイム横にあるAの表記は、[[標高]]1000メートル以上の地点において記録された[[100メートル競走#概要|高地記録]]であることを意味する。
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||9秒58||style="text-align:right"|+0.9||[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[ベルリン]]||2009年8月16日
|-
|rowspan=2|2||rowspan=2|9秒69||style="text-align:right"|+2.0||[[タイソン・ゲイ]]||{{USA}}||[[上海]]||2009年9月20日
|-
|style="text-align:right"|-0.1||[[ヨハン・ブレーク]]||{{JAM}}||[[ローザンヌ]]||2012年8月23日
|-
|4||9秒72||style="text-align:right"|+0.2||[[アサファ・パウエル]]||{{JAM}}||ローザンヌ||2008年9月2日
|-
|5||9秒74||style="text-align:right"|+0.9||[[ジャスティン・ガトリン]]||{{USA}}||[[ドーハ]]||2015年5月15日
|-
|rowspan=3|6||9秒76||style="text-align:right"|+0.6||[[クリスチャン・コールマン]]||{{USA}}||ドーハ||2019年9月28日
|-
|9秒76A||style="text-align:right"|+1.2||[[トレイボン・ブロメル]]||{{USA}}||[[ナイロビ]]||2021年9月18日
|-
|9秒76||style="text-align:right"|+1.4||[[フレッド・カーリー (陸上選手)|フレッド・カーリー]]||{{USA}}||[[オレゴン]]||2022年6月24日
|-
|9||9秒77A||style="text-align:right"|+1.2||[[ファーディナンド・オムルワ]]||{{KEN}}||[[ナイロビ]]||2021年9月18日
|-
|10||9秒78||style="text-align:right"|+0.9||[[ネスタ・カーター]]||{{JAM}}||[[リエーティ]]||2010年8月29日
|-
|colspan=7 style="width:0em"|[[国際陸上競技連盟|世界陸連(IAAF)]]記録参照<ref name="top100men">{{cite web|url=http://www.iaaf.org/records/toplists/sprints/100-metres/outdoor/men/senior|title=Toplists 100 M|author=IAAF|date=2009-08-19|accessdate=2009-08-23 }}</ref>
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒49||style="text-align:right"|±0.0||[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]||{{USA}}||[[インディアナポリス]]||1988年7月16日
|-
|2||10秒54||style="text-align:right"|+0.9||[[エレーン・トンプソン]]||{{JAM}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2021年8月21日
|-
|3||10秒60||style="text-align:right"|+1.7||[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||[[ローザンヌ]]||2021年8月26日
|-
|4||10秒64||style="text-align:right"|+1.2||[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[上海]]||2009年9月20日
|-
|rowspan="3"|5||10秒65A||style="text-align:right"|+1.1||[[マリオン・ジョーンズ]]||{{USA}}||[[ヨハネスブルグ]]||1998年9月12日
|-
|10秒65||style="text-align:right"|+1.0||[[シェリカ・ジャクソン]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||2023年7月7日
|-
|10秒65||style="text-align:right"|-0.2||[[シャカリ・リチャードソン]]||{{USA}}||[[ブダペスト]]||2023年8月22日
|-
|8||10秒72||style="text-align:right"|+0.4||[[マリー=ジョゼ・タルー]]||{{CIV}}||[[モナコ]]||2022年8月10日
|-
|9||10秒73||style="text-align:right"|+2.0||[[クリスティーン・アーロン]]||{{FRA}}||[[ブダペスト]]||1998年8月19日
|-
|rowspan="2"|10||rowspan="2"|10秒74||style="text-align:right"|+1.3||[[マリーン・オッティ]]||{{JAM}}||[[ミラノ]]||1996年9月7日
|-
|style="text-align:right"|+1.0||[[イングリッシュ・ガードナー]]||{{USA}}||ユージーン||2016年7月3日
|-
|colspan=7 style="width:0em"|[[国際陸上競技連盟|世界陸連(IAAF)]]記録参照<ref name="top100women">{{Cite web|和書|url=http://www.iaaf.org/records/toplists/sprints/100-metres/outdoor/women/senior|title=国際陸上競技連盟・女子陸上100m記録|work=IAAF|accessdate=2008-08-17}}</ref>
|}
*ドーピング疑惑に伴い、マリオン・ジョーンズの2000年以降の記録は抹消されているが、1998年の公式記録は残っている。
=== 歴代パフォーマンス10傑 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子<ref name="IAAF-M">[http://www.iaaf.org/records/toplists/sprints/100-metres/outdoor/men/senior 100m men senior outdoor All time best] - IAAF</ref>
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||9秒58||style="text-align:right"|+0.9||[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[ベルリン]]||2009年8月16日
|-
|2||9秒63||style="text-align:right"|+1.5||ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[ロンドン]]||2012年8月5日
|-
|rowspan=3|3||rowspan=3|9秒69||style="text-align:right"|±0.0||ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[北京]]||2008年8月16日
|-
|style="text-align:right"|+2.0||[[タイソン・ゲイ]]||{{USA}}||[[上海]]||2009年9月20日
|-
|style="text-align:right"|-0.1||[[ヨハン・ブレーク]]||{{JAM}}||[[ローザンヌ]]||2012年8月23日
|-
|6||9秒71||style="text-align:right"|+0.9||タイソン・ゲイ||{{USA}}||ベルリン||2009年8月16日
|-
|rowspan=2|7||rowspan=2|9秒72||style="text-align:right"|+1.7||ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[ニューヨーク]]||2008年5月31日
|-
|style="text-align:right"|+0.2||[[アサファ・パウエル]]||{{JAM}}||ローザンヌ||2008年9月2日
|-
|rowspan=2|9||rowspan=2|9秒74||style="text-align:right"|+1.7||アサファ・パウエル||{{JAM}}||[[リエーティ]]||2007年9月9日
|-
|style="text-align:right"|+0.9||[[ジャスティン・ガトリン]]||{{USA}}||[[ドーハ]]||2015年5月15日
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子<ref name="IAAF-W">[http://www.iaaf.org/records/toplists/sprints/100-metres/outdoor/women/senior 100m women senior outdoor All time best] - IAAF</ref>
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒49||style="text-align:right"|±0.0||[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]||{{USA}}||[[インディアナポリス]]||1988年7月16日
|-
|2||10秒54||style="text-align:right"|+0.9||[[エレーン・トンプソン]]||{{JAM}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2021年8月21日
|-
|3||10秒60||style="text-align:right"|+1.7||[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||[[ローザンヌ]]||2021年8月26日
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|10秒61||style="text-align:right"|+1.2||フローレンス・グリフィス=ジョイナー||{{USA}}||[[インディアナポリス]]||1988年7月17日
|-
|style="text-align:right"|-0.6||エレーン・トンプソン||{{JAM}}||[[東京]]||2021年7月31日
|-
|rowspan="2"|6||rowspan="2"|10秒62||style="text-align:right"|+1.0||フローレンス・グリフィス=ジョイナー||{{USA}}||[[ソウル特別市|ソウル]]||1988年9月24日
|-
|style="text-align:right"|+0.4||シェリー=アン・フレーザー=プライス||{{JAM}}||[[モナコ]]||2022年8月10日
|-
|8||10秒63||style="text-align:right"|+1.3||シェリー=アン・フレーザー=プライス||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||2021年6月5日
|-
|rowspan="2"|9||rowspan="2"|10秒64||style="text-align:right"|+1.2||[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[上海]]||2009年9月20日
|-
|style="text-align:right"|+1.7||エレーン・トンプソン||{{JAM}}||[[ローザンヌ]]||2021年8月26日
|-
|}
*ドーピング疑惑に伴い、マリオン・ジョーンズの2000年以降の記録は抹消されているが、1998年の公式記録は残っている。
=== 抹消された主な記録 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子
!抹消理由!!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|ドーピング違反||9秒75||style="text-align:right"|+1.1||[[タイソン・ゲイ]]||{{USA}}||[[デモイン (アイオワ州)|デモイン]]||2013年6月21日
|-
|ドーピング違反||9秒77||style="text-align:right"|+1.7||[[ジャスティン・ガトリン]]||{{USA}}||[[ドーハ]]||2006年5月12日
|-
|ドーピング違反||9秒78||style="text-align:right"|+2.0||[[ティム・モンゴメリ]]||{{USA}}||[[パリ]]||2002年9月14日
|-
|ドーピング違反||9秒79||style="text-align:right"|+1.1||[[ベン・ジョンソン (陸上選手)|ベン・ジョンソン]]||{{CAN}}||[[ソウル特別市|ソウル]]||1988年7月16日
|-
|ドーピング違反||9秒87||style="text-align:right"|+2.0||[[ドウェイン・チェンバース]]||{{GBR}}||パリ||2002年9月14日
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子
!抹消理由!!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|ドーピング違反||10秒75||style="text-align:right"|-0.4||[[マリオン・ジョーンズ]]||{{USA}}||[[シドニー]]||2000年9月23日
|-
|ドーピング違反||10秒85||style="text-align:right"|+0.3||{{仮リンク|ケリー・ホワイト|en|Kelli White}}||{{USA}}||[[パリ]]||2003年8月23日
|-
|}
=== シーズン記録と世界記録の変遷 ===
''太字'''は樹立時の世界記録。
{|class="wikitable sortable"
|+ 男子<ref>[http://www.athletix.org/Statistics/wr100men.htm World Record Progression 100 m. men] athletix.org. 2011年10月6日閲覧 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110928024504/http://www.athletix.org/statistics/wr100men.htm|date=2011年09月28日 }}</ref><ref>[http://www.apulanta.fi/matti/yu/yt/index_Men.html Season Bests by Year (Men)] apulanta. 2012年2月13日閲覧</ref>
! 年||記録||class="unsortable"|風速||名前||所属||class="unsortable"|場所||class="unsortable"|日付
|-
|1964||{{none|1006}}'''10秒06'''||style="text-align:right"|+1.1||[[ボブ・ヘイズ]]||{{USA}}||[[東京]]||1964年10月15日
|-
|1968||{{none|1003}}'''10秒03'''||style="text-align:right"|+0.9||[[ジム・ハインズ]]||{{USA}}||[[サクラメント]]||1968年6月20日
|-
|1968||{{none|1002A}}'''10秒02A'''||style="text-align:right"|+2.0||[[チャールズ・エドワード・グリーン]]||{{USA}}||[[メキシコシティ]]||1968年10月13日
|-
|1968||{{none|0995A}}'''9秒95A'''||style="text-align:right"|+0.3||[[ジム・ハインズ]]||{{USA}}||[[メキシコシティ]]||1968年10月14日
|-
|1972||{{none|1007}}10秒07||style="text-align:right"|±0.0||[[ワレリー・ボルゾフ]]||{{URS}}||[[ミュンヘン]]||1972年8月31日
|-
|1975||{{none|1005}}10秒05||style="text-align:right"|-1.2||{{仮リンク|スティーブ・リディック|en|Steve Riddick}}||{{USA}}||[[チューリッヒ]]||1975年8月20日
|-
|1976||{{none|1006}}10秒06||style="text-align:right"|-0.1||[[ヘイズリー・クロフォード]]||{{TRI}}||[[モントリオール]]||1976年7月24日
|-
|1977||{{none|0998A}}9秒98A||style="text-align:right"|+0.6||[[シルビオ・レオナルド]]||{{CUB}}||[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]||1977年8月11日
|-
|1978||{{none|1007}}10秒07||style="text-align:right"|+1.7||{{仮リンク|クランシー・エドワーズ|en|Clancy Edwards}}||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||1978年6月2日
|-
|1978||{{none|1007A}}10秒07A||style="text-align:right"|+1.8||{{仮リンク|エドワード・ハート|en|Eddie Hart (athlete)}}||{{USA}}||[[コロラドスプリングス]]||1978年7月30日
|-
|1978||{{none|1007}}10秒07||style="text-align:right"|-0.1||{{仮リンク|スティーブ・ウィリアムズ|en|Steve Williams (athlete)}}||{{USA}}||[[チューリッヒ]]||1978年8月16日
|-
|1979||{{none|1001A}}10秒01A||style="text-align:right"|+0.9||[[ピエトロ・メンネア]]||{{ITA}}||[[メキシコシティ]]||1979年9月4日
|-
|1980||{{none|1002}}10秒02||style="text-align:right"|+1.0||{{仮リンク|ジェームズ・サンフォード|en|James Sanford (athlete)}}||{{USA}}||[[ウェストウッド]]||1980年5月11日
|-
|1981||{{none|1000}}10秒00||style="text-align:right"|±0.0||[[カール・ルイス]]||{{USA}}||[[ダラス]]||1981年5月16日
|-
|1982||{{none|1000}}10秒00||style="text-align:right"|+1.9||カール・ルイス||{{USA}}||[[モデスト (カリフォルニア州)|モデスト]]||1982年5月15日
|-
|1983||{{none|0993A}}'''9秒93A'''||style="text-align:right"|+1.4||[[カルヴィン・スミス]]||{{USA}}||[[コロラドスプリングス]]||1983年7月3日
|-
|1984||{{none|0996}}9秒96||style="text-align:right"|+0.1||{{仮リンク|メル・ラッタニー|en|Mel Lattany}}||{{USA}}||[[アテネ]]||1984年5月5日
|-
|1985||{{none|0998}}9秒98||style="text-align:right"|+1.6||カール・ルイス||{{USA}}||[[モデスト (カリフォルニア州)|モデスト]]||1985年5月11日
|-
|1986||{{none|1000}}10秒00||style="text-align:right"|+1.0||[[チディ・イモー]]||{{NGR}}||[[ベルリン]]||1986年8月15日
|-
|1987||{{none|0993}}'''9秒93'''||style="text-align:right"|+1.0||カール・ルイス||{{USA}}||[[ローマ]]||1987年8月30日
|-
|1988||{{none|0993}}'''9秒93'''||style="text-align:right"|+1.1||カール・ルイス||{{USA}}||[[チューリッヒ]]||1988年8月17日
|-
|1988||{{none|0992}}'''9秒92'''||style="text-align:right"|+1.1||カール・ルイス||{{USA}}||[[ソウル特別市|ソウル]]||1988年9月24日
|-
|1989||{{none|0994}}9秒94||style="text-align:right"|+0.8||[[リロイ・バレル]]||{{USA}}||[[ヒューストン]]||1989年6月16日
|-
|1990||{{none|0996}}9秒96||style="text-align:right"|+0.7||リロイ・バレル||{{USA}}||[[ヴィルヌーヴ=ダスク]]||1990年6月29日
|-
|1991||{{none|0990}}'''9秒90'''||style="text-align:right"|+1.9||リロイ・バレル||{{USA}}||[[ニューヨーク]]||1991年6月14日
|-
|1991||{{none|0986}}'''9秒86'''||style="text-align:right"|+1.2||カール・ルイス||{{USA}}||[[東京]]||1991年8月25日
|-
|1992||{{none|0993}}9秒93||style="text-align:right"|-0.6||[[マイク・マーシュ]]||{{USA}}||{{仮リンク|ウォルナット (カリフォルニア州)|label=ウォルナット|en|Walnut, California}}||1992年4月18日
|-
|1993||{{none|0997}}9秒87||style="text-align:right"|+0.3||[[リンフォード・クリスティ]]||{{GBR}}||[[シュトゥットガルト]]||1993年8月15日
|-
|1994||{{none|0985}}'''9秒85'''||style="text-align:right"|+1.2||リロイ・バレル||{{USA}}||[[ローザンヌ]]||1994年7月6日
|-
|1995||{{none|0991}}9秒91||style="text-align:right"|+1.3||[[ドノバン・ベイリー]]||{{CAN}}||[[モントリオール]]||1995年7月15日
|-
|1996||{{none|0984}}'''9秒84'''||style="text-align:right"|+0.7||ドノバン・ベイリー||{{CAN}}||[[アトランタ]]||1996年7月27日
|-
|1997||{{none|0986}}9秒86||style="text-align:right"|+0.2||[[モーリス・グリーン (陸上選手)|モーリス・グリーン]]||{{USA}}||[[アテネ]]||1997年8月3日
|-
|1998||{{none|0986}}9秒86||style="text-align:right"|+1.8||[[アト・ボルドン]]||{{TRI}}||{{仮リンク|ウォルナット (カリフォルニア州)|label=ウォルナット|en|Walnut, California}}||1998年4月19日
|-
|1999||{{none|0979}}'''9秒79'''||style="text-align:right"|+0.1||モーリス・グリーン||{{USA}}||[[アテネ]]||1999年6月16日
|-
|2000||{{none|0986}}9秒86||style="text-align:right"|-0.2||モーリス・グリーン||{{USA}}||[[ベルリン]]||2000年9月1日
|-
|2001||{{none|0982}}9秒82||style="text-align:right"|-0.2||モーリス・グリーン||{{USA}}||[[エドモントン]]||2001年8月5日
|-
|2002||{{none|0989}}9秒89||style="text-align:right"|+0.9||モーリス・グリーン||{{USA}}||[[ローマ]]||2002年7月12日
|-
|2003||{{none|0993}}9秒93||style="text-align:right"|+1.8||[[パトリック・ジョンソン]]||{{AUS}}||[[水戸市|水戸]]||2003年5月5日
|-
|2004||{{none|0985}}9秒85||style="text-align:right"|+0.6||[[ジャスティン・ガトリン]]||{{USA}}||[[アテネ]]||2004年8月22日
|-
|2005||{{none|0977}}'''9秒77'''||style="text-align:right"|+1.6||[[アサファ・パウエル]]||{{JAM}}||[[アテネ]]||2005年6月14日
|-
|2006||{{none|0977}}'''9秒77'''||style="text-align:right"|+1.5||アサファ・パウエル||{{JAM}}||[[ゲーツヘッド]]||2006年6月11日
|-
|2006||{{none|0977}}'''9秒77'''||style="text-align:right"|+1.0||アサファ・パウエル||{{JAM}}||[[チューリッヒ]]||2006年8月18日
|-
|2007||{{none|0974}}'''9秒74'''||style="text-align:right"|+1.7||アサファ・パウエル||{{JAM}}||[[リエーティ]]||2007年9月9日
|-
|2008||{{none|0972}}'''9秒72'''||style="text-align:right"|+1.7||[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[ニューヨーク]]||2008年5月31日
|-
|2008||{{none|0969}}'''9秒69'''||style="text-align:right"|±0.0||ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[北京]]||2008年8月16日
|-
|2009||{{none|0958}}'''9秒58'''||style="text-align:right"|+0.9||ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[ベルリン]]||2009年8月16日
|-
|2010||{{none|0978}}9秒78||style="text-align:right"|-0.4||[[タイソン・ゲイ]]||{{USA}}||[[ロンドン]]||2010年8月13日
|-
|2010||{{none|0978}}9秒78||style="text-align:right"|+0.9||[[ネスタ・カーター]]||{{JAM}}||[[リエーティ]]||2010年8月29日
|-
|2011||{{none|0976}}9秒76||style="text-align:right"|+1.3||ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[ブリュッセル]]||2011年9月16日
|-
|2012||{{none|0963}}9秒63||style="text-align:right"|+1.5||ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[ロンドン]]||2012年8月5日
|-
|2013||{{none|0977}}9秒77||style="text-align:right"|-0.3||ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[モスクワ]]||2013年8月11日
|-
|2014||{{none|0977}}9秒77||style="text-align:right"|+0.6||ジャスティン・ガトリン||{{USA}}||[[ブリュッセル]]||2014年9月5日
|-
|2015||{{none|0974}}9秒74||style="text-align:right"|+0.9||ジャスティン・ガトリン||{{USA}}||[[ドーハ]]||2015年5月15日
|-
|2016||{{none|0980}}9秒80||style="text-align:right"|+1.6||ジャスティン・ガトリン||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2016年7月3日
|-
|2017||{{none|0982}}9秒82||style="text-align:right"|+1.3||[[クリスチャン・コールマン]]||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2017年6月7日
|-
|2018||{{none|0979}}9秒79||style="text-align:right"|-0.3||クリスチャン・コールマン||{{USA}}||[[ブリュッセル]]||2018年8月31日
|-
|2019||{{none|0976}}9秒76||style="text-align:right"|+0.6||クリスチャン・コールマン||{{USA}}||[[ドーハ]]||2019年9月28日
|-
|2020||9秒86||style="text-align:right"|+1.6||[[マイケル・アーサー・ノーマン・ジュニア|マイケル・ノーマン]]||{{USA}}||[[フォートワース]]||2020年7月20日
|-
|2021||9秒76A||style="text-align:right"|+1.2||[[トレイボン・ブロメル]]||{{USA}}||[[ナイロビ]]||2021年9月18日
|-
|2022||9秒76||style="text-align:right"|+1.4||[[フレッド・カーリー (陸上選手)|フレッド・カーリー]]||{{USA}}||[[オレゴン]]||2022年6月24日
|}
{|class="wikitable sortable"
|+ 女子<ref>[http://www.athletix.org/Statistics/wr100women.html World Record Progression 100 m. women] athletix.org. 2011年10月6日閲覧 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080919070946/http://www.athletix.org/statistics/wr100women.html|date=2008年09月19日 }}</ref><ref>[http://www.apulanta.fi/matti/yu/yt/index_Women.html Season Bests by Year (Women)] apulanta. 2012年2月13日閲覧</ref>
! 年||記録||class="unsortable"|風速||名前||所属||class="unsortable"|場所||class="unsortable"|日付
|-
|1968||'''11秒21A'''||style="text-align:right"|±0.0||[[ワイオミア・タイアス]]||{{USA}}||[[メキシコシティ]]||1968年10月14日
|-
|1968||'''11秒12A'''||style="text-align:right"|+0.6||[[バーバラ・フェレル]]||{{USA}}||[[メキシコシティ]]||1968年10月14日
|-
|1968||'''11秒08A'''||style="text-align:right"|+1.2||ワイオミア・タイアス||{{USA}}||[[メキシコシティ]]||1968年10月15日
|-
|1972||'''11秒07'''||style="text-align:right"|-0.2||[[レナーテ・シュテヒャー]]||{{GDR}}||[[ミュンヘン]]||1972年9月2日
|-
|1973||'''11秒07'''||style="text-align:right"|+1.8||レナーテ・シュテヒャー||{{GDR}}||[[ドレスデン]]||1973年7月20日
|-
|1976||'''11秒04'''||style="text-align:right"|+0.6||[[インゲ・ヘルテン]]||{{FRG}}||[[フュルト]]||1976年6月13日
|-
|1976||'''11秒01'''||style="text-align:right"|+0.6||[[アンネグレート・リヒター]]||{{FRG}}||[[モントリオール]]||1976年7月25日
|-
|1977||'''10秒88'''||style="text-align:right"|+2.0||[[マルリース・ゲール|マルリース・エルスナー]]||{{GDR}}||[[ドレスデン]]||1977年7月1日
|-
|1978||10秒94||style="text-align:right"|+1.4||マルリース・ゲール||{{GDR}}||[[ドレスデン]]||1978年8月12日
|-
|1979||10秒97||style="text-align:right"|+0.8||マルリース・ゲール||{{GDR}}||[[ドレスデン]]||1979年6月13日
|-
|1979||10秒97||style="text-align:right"|+0.9||[[エベリン・アシュフォード]]||{{USA}}||{{仮リンク|ウォルナット (カリフォルニア州)|label=ウォルナット|en|Walnut, California}}||1979年6月16日
|-
|1980||10秒93||style="text-align:right"|+2.0||マルリース・ゲール||{{GDR}}||[[ドレスデン]]||1980年5月24日
|-
|1981||10秒90||style="text-align:right"|+0.6||エベリン・アシュフォード||{{USA}}||[[コロラドスプリングス]]||1981年7月22日
|-
|1982||'''10秒88'''||style="text-align:right"|+1.9||マルリース・ゲール||{{GDR}}||[[ケムニッツ]]||1982年7月6日
|-
|1983||'''10秒81'''||||マルリース・ゲール||{{GDR}}||[[ベルリン]]||1983年6月8日
|-
|1983||'''10秒79A'''||style="text-align:right"|+0.6||エベリン・アシュフォード||{{USA}}||[[コロラドスプリングス]]||1983年7月3日
|-
|1984||'''10秒76'''||style="text-align:right"|+1.7||エベリン・アシュフォード||{{USA}}||[[チューリッヒ]]||1984年8月22日
|-
|1985||10秒86||style="text-align:right"|+2.0||マルリース・ゲール||{{GDR}}||[[ベルリン]]||1985年9月22日
|-
|1986||10秒88||style="text-align:right"|+1.9||エベリン・アシュフォード||{{USA}}||[[リエーティ]]||1986年9月7日
|-
|1987||10秒86||style="text-align:right"|+0.8||アネリア・ヌネヴァ||{{BUL1971}}||[[ベオグラード]]||1987年6月17日
|-
|1987||10秒86||style="text-align:right"|+0.6||[[ジルケ・グラディッシュ=メラー|ジルケ・メラー]]||{{GDR}}||[[ポツダム]]||1987年8月20日
|-
|1988||'''10秒49'''||style="text-align:right"|±0.0||[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]||{{USA}}||[[インディアナポリス]]||1988年7月16日
|-
|1989||10秒78A||style="text-align:right"|+1.0||{{仮リンク|ドーン・ソウェル|en|Dawn Sowell}}||{{USA}}||[[プロボ (ユタ州)|プロボ]]||1989年6月3日
|-
|1990||10秒78||style="text-align:right"|+1.7||[[マリーン・オッティ]]||{{JAM}}||[[セビリア]]||1990年5月30日
|-
|1991||10秒79||style="text-align:right"|+1.7||マリーン・オッティ||{{JAM}}||[[ビーゴ (スペイン)|ビーゴ]]||1991年7月23日
|-
|1992||10秒80||style="text-align:right"|+1.6||マリーン・オッティ||{{JAM}}||[[サラマンカ]]||1992年7月13日
|-
|1993||10秒82||style="text-align:right"|+1.5||[[ゲイル・ディバース]]||{{USA}}||[[ローザンヌ]]||1993年7月7日
|-
|1993||10秒82||style="text-align:right"|+0.3||マリーン・オッティ||{{JAM}}||[[シュトゥットガルト]]||1993年8月16日
|-
|1994||10秒77||style="text-align:right"|+0.9||[[イリーナ・プリワロワ]]||{{RUS}}||[[ローザンヌ]]||1994年7月6日
|-
|1995||10秒84||style="text-align:right"|+1.4||[[グウェン・トーレンス]]||{{USA}}||[[ヨーテボリ|イェーテボリ]]||1995年8月7日
|-
|1996||10秒74||style="text-align:right"|+1.3||マリーン・オッティ||{{JAM}}||[[ミラノ]]||1996年9月7日
|-
|1997||10秒76||style="text-align:right"|+0.9||[[マリオン・ジョーンズ]]||{{USA}}||[[ブリュッセル]]||1997年8月22日
|-
|1998||10秒65A||style="text-align:right"|+1.1||マリオン・ジョーンズ||{{USA}}||[[ヨハネスブルグ]]||1998年9月12日
|-
|1999||10秒70||style="text-align:right"|-0.1||マリオン・ジョーンズ||{{USA}}||[[セビリア]]||1999年8月22日
|-
|2000||10秒78||style="text-align:right"|+1.1||マリオン・ジョーンズ||{{USA}}||[[ロンドン]]||2000年8月5日
|-
|2001||10秒82||style="text-align:right"|-0.3||{{仮リンク|ザンナ・ブロック|en|Zhanna Pintusevich-Block}}||{{UKR}}||[[エドモントン]]||2001年8月6日
|-
|2002||10秒83||style="text-align:right"|+0.4||ザンナ・ブロック||{{UKR}}||[[ヒュースデン=ゾルダー]]||2002年7月20日
|-
|2003||10秒86||style="text-align:right"|+1.2||[[クリスティ・ゲインズ]]||{{USA}}||[[モナコ]]||2003年9月14日
|-
|2004||10秒77||style="text-align:right"|+0.7||[[イベット・ラロワ]]||{{BUL}}||[[プロヴディフ]]||2004年6月16日
|-
|2005||10秒84||style="text-align:right"|+1.9||[[チャンドラ・スターラップ]]||{{BAH}}||[[ローザンヌ]]||2005年7月5日
|-
|2006||10秒82||style="text-align:right"|-0.7||[[シェローン・シンプソン]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||2006年6月24日
|-
|2007||10秒89||style="text-align:right"|+1.0||[[ベロニカ・キャンベル=ブラウン|ベロニカ・キャンベル]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||2007年6月23日
|-
|2008||10秒78||style="text-align:right"|+1.8||[[トーリ・エドワーズ]]||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2008年6月28日
|-
|2008||10秒78||style="text-align:right"|±0.0||[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||[[北京]]||2008年8月17日
|-
|2009||10秒64||style="text-align:right"|+1.2||[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[上海]]||2009年9月20日
|-
|2010||10秒78||style="text-align:right"|+0.8||ベロニカ・キャンベル=ブラウン||{{JAM}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2010年7月3日
|-
|2011||10秒70||style="text-align:right"|+2.0||カーメリタ・ジーター||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2011年6月4日
|-
|2012||10秒70||style="text-align:right"|+0.6||シェリー=アン・フレーザー=プライス||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||2012年6月29日
|-
|2013||10秒71||style="text-align:right"|-0.3||シェリー=アン・フレーザー=プライス||{{JAM}}||[[モスクワ]]||2013年8月12日
|-
|2014||10秒80||style="text-align:right"|+0.8||[[トリ・ボウイ]]||{{USA}}||[[モナコ]]||2014年7月18日
|-
|2015||10秒74||style="text-align:right"|+0.2||シェリー=アン・フレーザー=プライス||{{JAM}}||[[パリ]]||2015年7月4日
|-
|2016||10秒70||style="text-align:right"|+0.3||[[エレーン・トンプソン]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||2016年7月1日
|-
|2017||10秒71||style="text-align:right"|+0.8||エレーン・トンプソン||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||2017年6月23日
|-
|2018||10秒85||style="text-align:right"|+1.5||[[マリー・ジョゼ・タ・ルー]]||{{CIV}}||[[ドーハ]]||2018年5月4日
|-
|2018||10秒85||style="text-align:right"|±0.0||[[ディナ・アッシャー=スミス]]||{{GBR}}||[[ベルリン]]||2018年8月7日
|-
|2019||10秒71||style="text-align:right"|+0.1||シェリー=アン・フレーザー=プライス||{{JAM}}||[[ドーハ]]||2019年6月29日
|-
|2020||10秒85||style="text-align:right"|+0.2||エレーン・トンプソン||{{JAM}}||[[ローマ]]||2020年6月18日
|-
|2021||10秒54||style="text-align:right"|+0.9||エレーン・トンプソン||{{JAM}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2021年8月21日
|-
|2022||10秒62||style="text-align:right"|+0.4||シェリー=アン・フレーザー=プライス||{{JAM}}||[[モナコ]]||2022年8月10日
|}
=== 決勝での着順別最高記録 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子<ref name="All-M">[http://www.alltime-athletics.com/m_100ok.htm All-time men's best 100m Men] - www.alltime-athletics.com/</ref>
!着順!!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!大会!!日付
|-
|1||{{0}}9秒58||style="text-align:right"|+0.9||[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[ベルリン]]||[[2009年世界陸上競技選手権大会|ベルリン世界選手権]]||2009年8月16日
|-
|2||{{0}}9秒71||style="text-align:right"|+0.9||[[タイソン・ゲイ]]||{{USA}}||ベルリン||ベルリン世界選手権||2009年8月16日
|-
|3||{{0}}9秒79||style="text-align:right"|+1.5||[[ジャスティン・ガトリン]]||{{USA}}||[[ロンドン]]||[[2012年ロンドンオリンピックの陸上競技・男子100m|ロンドンオリンピック]]||2012年8月5日
|-
|4||{{0}}9秒80||style="text-align:right"|+1.5||[[タイソン・ゲイ]]||{{USA}}||ロンドン||ロンドンオリンピック||2012年8月5日
|-
|5||{{0}}9秒90||style="text-align:right"|+1.8||[[エリジャ・ホール=トンプソン (陸上選手)|エリジャ・ホール=トンプソン]]||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||全米選手権||2022年6月24日
|-
|6||{{0}}9秒94||style="text-align:right"|+1.5||[[チュランディ・マルティナ]]||{{NED}}||[[ロンドン]]||[[2012年ロンドンオリンピックの陸上競技・男子100m|ロンドンオリンピック]]||2012年8月5日
|-
|7||{{0}}9秒98||style="text-align:right"|+1.8||[[ケニー・ベドナレク]]||{{USA}}||[[ユージーン]]||[[全米選手権]]||2022年6月24日
|-
|8||10秒00||style="text-align:right"|-0.5||[[ジミー・ビコ]]||{{FRA}}||北京||北京世界選手権||2015年8月23日
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子<ref name="All-W">[http://www.alltime-athletics.com/w_100ok.htm All-time men's best 100m Women] - www.alltime-athletics.com/</ref>
!着順!!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!大会!!日付
|-
|1||10秒54||style="text-align:right"|+0.9||[[エレーン・トンプソン]]||{{JAM}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[プレフォンテーンクラシック]]||2021年8月21日
|-
|2||10秒64||style="text-align:right"|+1.7||エレーン・トンプソン||{{JAM}}||[[ローザンヌ]]||[[ダイヤモンドリーグ・ローザンヌ大会]]||2021年8月26日
|-
|3||10秒73||style="text-align:right"|+0.4||[[マリー=ジョゼ・タルー]]||{{CIV}}||[[モナコ]]||[[ダイヤモンドリーグ・モナコ大会]]||2022年8月10日
|-
|4||10秒81||style="text-align:right"|+0.4||[[ティアナ・マディソン]]||{{USA}}||[[モナコ]]||[[ダイヤモンドリーグ・モナコ大会]]||2022年8月10日
|-
|5||10秒88||style="text-align:right"|-1.0||[[マリーン・オッティ]]||{{JAM}}||[[バルセロナ]]||[[1992年バルセロナオリンピックの陸上競技|バルセロナオリンピック]]||1992年8月1日
|-
|6||10秒91||style="text-align:right"|+0.4||[[ディナ・アッシャー=スミス]]||{{GBR}}||[[モナコ]]||[[ダイヤモンドリーグ・モナコ大会]]||2022年8月10日
|-
|7||10秒94||style="text-align:right"|+0.5||[[イングリッシュ・ガードナー]]||{{USA}}||[[リオデジャネイロ]]||リオデジャネイロオリンピック||2016年8月13日
|-
|8||11秒01||style="text-align:right"|+1.5||[[ブレッシング・オカグバレ]]||{{NGR}}||ロンドン||ロンドンオリンピック||2012年8月4日
|}
== エリア記録 ==
{|class="wikitable"
|+ 男子<ref>[http://www.iaaf.org/records/by-discipline/sprints/100-metres/outdoor/men 100m men records by discipline] - IAAF</ref>
!エリア!!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|[[アフリカ]]||{{0}}9秒77A||style="text-align:right"|+1.2||[[ファーディナンド・オムルワ]]||{{KEN}}||[[ナイロビ]]||2021年9月18日
|-
|[[アジア]]||{{0}}9秒83||style="text-align:right"|+0.9||[[蘇炳添]]||{{CHN}}||[[新宿区|東京]]||2021年8月1日
|-
|[[北中米カリブ陸上競技連盟|北中米カリブ]]||{{0}}9秒58||style="text-align:right"|+0.9||[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[ベルリン]]||2009年8月16日
|-
|[[ヨーロッパ]]||{{0}}9秒80||style="text-align:right"|+0.1||[[マルセル・ジェイコブス]]||{{ITA}}||[[東京都|東京]]||2021年8月1日
|-
|[[南アメリカ]]||{{0}}9秒89|| style="text-align:right" |+0.8|| {{仮リンク|イサメド・アシンガ|en| Issam Asinga}} ||{{SUR}}||[[サンパウロ]]||2023年7月28日
|-
|[[オセアニア]]||{{0}}9秒93||style="text-align:right"|+1.8||[[パトリック・ジョンソン]]||{{AUS}}||[[水戸市|水戸]]||2003年5月5日
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子<ref>[http://www.iaaf.org/records/by-discipline/sprints/100-metres/outdoor/women 100m women records by discipline] - IAAF</ref>
!エリア!!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|[[アフリカ]]||10秒72||style="text-align:right"|+0.4||[[マリー=ジョゼ・タルー]]||{{CIV}}||[[モナコ]]||2022年8月10日
|-
|[[アジア]]||10秒79||style="text-align:right"|±0.0||[[李雪梅]]||{{CHN}}||[[上海市|上海]]||1997年10月18日
|-
|[[北中米カリブ陸上競技連盟|北中米カリブ]]||10秒49||style="text-align:right"|±0.0||[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]||{{USA}}||[[インディアナポリス]]||1988年7月16日
|-
|[[ヨーロッパ]]||10秒73||style="text-align:right"|+2.0||[[クリスティーン・アーロン]]||{{FRA}}||[[ブダペスト]]||1998年8月19日
|-
|[[南アメリカ]]||10秒91||style="text-align:right"|-0.2||{{仮リンク|ロサンジェラ・サントス|en|Rosângela Santos}}||{{BRA}}||[[ロンドン]]||2017年8月6日
|-
|[[オセアニア]]||10秒96||style="text-align:right"|+2.0||[[ゾーイ・ホッブス]]||{{NZL}}||[[ラ・ショー・ド・フォン]]||2023年7月2日
|}
=== アフリカ記録 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!属!!場所!!日付
|-
|1||9秒77A||style="text-align:right"|+1.2||[[ファーディナンド・オムルワ]]||{{KEN}}||[[ナイロビ]]||[[2021年]][[9月18日]]
|-
|2||9秒84||style="text-align:right"|+1.2||[[アカニ・シンビネ]]||{{RSA}}||[[セーケシュフェヘールヴァール]]||[[2021年]][[7月6日]]
|-
|3||9秒85||style="text-align:right"|+1.7||[[オルソジ・ファスバ]]||{{NGR}}||[[ドーハ]]||[[2006年]][[5月12日]]
|-
|rowspan=2|4||rowspan=2|9秒86||style="text-align:right"|+0.4||[[フランク・フレデリクス]]||{{NAM}}||[[ローザンヌ]]||[[1996年]][[7月3日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.8||[[ディバイン・オドゥドゥル]]||{{NGR}}||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2019年]][[6月7日]]
|-
|6||9秒88||style="text-align:right"|±0.0||[[レツィレ・テボゴ]]||{{BOT}}||[[ブダペスト]]||[[2023年]][[8月20日]]
|-
|7||9秒89||style="text-align:right"|+1.3||[[ヌゴニザシェ・マクシャ]]||{{ZIM}}||[[デモイン (アイオワ州)|デモイン]]||[[2011年]][[6月10日]]
|-
|rowspan="2"|8||rowspan="2"|9秒90||style="text-align:right"|+2.0||[[ベンジャミン・アザマティ]]||{{GHA}}||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2022年]][[3月25日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.8||[[ゴッドソン・オゲネブルーム]]||{{NGR}}||[[オースティン]]||[[2023年]][[6月9日]]
|-
|10||9秒91||style="text-align:right"|+1.8||[[ショーン・マスワンガニー]]||{{RSA}}||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2023年]][[6月9日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子歴代5傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒72||style="text-align:right"|+0.4||[[マリー=ジョゼ・タルー]]||{{CIV}}||[[モナコ]]||[[2022年]][[8月10日]]
|-
|2||10秒78||style="text-align:right"|+1.6||[[ミュリエル・アウレ]]||{{CIV}}||[[モンテベルデ (フロリダ州)|モンテベルデ]]||[[2016年]][[6月11日]]
|-
|3||10秒79||style="text-align:right"|+1.1||[[ブレッシング・オカグバレ]]||{{NGR}}||[[ロンドン]]||[[2013年]][[7月27日]]
|-
|4||10秒84||style="text-align:right"|+1.3||[[チオマ・アジュンワ]]||{{NGR}}||[[ラゴス]]||[[1992年]][[4月11日]]
|-
|5||10秒90||style="text-align:right"|+1.4||[[グローリー・アロジー]]||{{NGR}}||[[サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ|ラ・ラグーナ]]||[[1999年]][[6月5日]]
|-
|}
=== アジア記録 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||9秒83||style="text-align:right"|+0.9||[[蘇炳添]]||{{CHN}}||[[新宿区|東京]]||[[2021年]][[8月1日]]
|-
|2||9秒91||style="text-align:right"|+1.8<br>+0.6||[[フェミ・オグノデ]]||{{QAT}}||[[武漢]]<br>[[ゲインズビル (フロリダ州)|ゲインズビル]]||[[2015年]][[6月4日]]<br>[[2016年]][[4月22日]]
|-
|3||9秒95||style="text-align:right"|+2.0||[[山縣亮太]]||{{JPN}}||[[鳥取市|鳥取]]||[[2021年]][[6月6日]]
|-
|4||9秒96||style="text-align:right"|+1.6||{{仮リンク|ユプン・アベイコーン|en|Yupun Abeykoon}} ||{{SRI}}||[[ラ・ショー・ド・フォン]]||[[2022年]][[7月3日]]
|-
|rowspan="4"|5||rowspan="4"|9秒97||style="text-align:right"|+0.9||[[謝震業]]||{{CHN}}||[[パリ]]||[[2018年]][[6月19日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.7||[[バラカト・アル=ハルティ]]||{{OMA}}||[[アンマン]]||[[2018年]][[7月9日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.8||rowspan="2"|[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||rowspan="2"|{{JPN}}||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2019年]][[6月7日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.3||[[ブダペスト]]||[[2023年]][[8月20日]]
|-
|rowspan="2"|8||rowspan="2"|9秒98||style="text-align:right"|+1.8||[[桐生祥秀]]||{{JPN}}||[[福井市|福井]]||[[2017年]][[9月9日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.5||[[小池祐貴]]||{{JPN}}||[[ロンドン]]||[[2019年]][[7月20日]]
|-
|10||9秒99||style="text-align:right"|+0.9||[[サミュエル・フランシス]]||{{QAT}}||[[アンマン]]||[[2007年]][[7月26日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒79||style="text-align:right"|±0.0||[[李雪梅]]||{{CHN}}||[[上海]]||[[1997年]][[10月18日]]
|-
|2||10秒89||style="text-align:right"|±0.0||{{仮リンク|劉暁梅|en|Liu Xiaomei (athlete)}}||{{CHN}}||上海||[[1997年]][[10月18日]]
|-
|3||10秒99||style="text-align:right"|+1.2||[[韋永麗]]||{{CHN}}||[[ラ・ショー=ド=フォン]]||[[2018年]][[7月1日]]
|-
|rowspan="3"|4||rowspan="3"|11秒04||style="text-align:right"|+2.0||{{仮リンク|リュボフ・ペレペロワ|en|Lyubov Perepelova}}||{{UZB}}||[[ビシュケク]]||[[2000年]][[6月3日]]
|-
|style="text-align:right"|-0.3||[[スサンティカ・ジャヤシンゲ]]||{{SRI}}||[[横浜市|横浜]]||[[2000年]][[9月9日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.4||[[葛曼棋]]||{{CHN}}||[[ローザンヌ]]||[[2019年]][[6月5日]]
|-
|7||11秒05||style="text-align:right"|+0.9||[[エディディオン・オディオン]]||{{BHR}}||[[ダーラム]]||[[2022年]][[5月14日]]
|-
|8||11秒06||style="text-align:right"|-0.6||{{仮リンク|田玉梅|en|Tian Yumei}}||{{CHN}}||上海||[[1997年]][[10月17日]]
|-
|rowspan="2"|9||rowspan="2"|11秒09||style="text-align:right"|±0.0||{{仮リンク|裴芳|en|Pei Fang}}||{{CHN}}||上海||[[1997年]][[10月17日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.8||{{仮リンク|オルガ・サフロノワ|en|Olga Safronova}}||{{KAZ}}||[[アルマトイ]]||[[2016年]][[5月24日]]
|}
=== ヨーロッパ記録 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||9秒80||style="text-align:right"|+0.1||[[マルセル・ジェイコブス]]||{{ITA}}||[[東京]]||[[2021年]][[8月1日]]
|-
|2||9秒83||style="text-align:right"|+0.4||[[ツァーネル・ヒューズ]]||{{GBR}}||[[ニューヨーク]]||[[2023年]][[6月24日]]
|-
|rowspan="3"|3||rowspan="3"|9秒86||style="text-align:right"|+0.6||[[フランシス・オビクウェル]]||{{POR}}||[[アテネ]]||[[2004年]][[8月22日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.3||rowspan=2|[[ジミー・ヴィコ]]||rowspan=2|{{FRA}}||[[パリ]]||[[2015年]][[7月4日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.8||[[モントルイユ (セーヌ=サン=ドニ県)|モントルイユ]]||[[2016年]][[6月7日]]
|-
|5||9秒87||style="text-align:right"|+0.3||[[リンフォード・クリスティ]]||{{GBR}}||[[シュトゥットガルト]]||[[1993年]][[8月15日]]
|-
|rowspan="2"|6||rowspan="2"|9秒91||style="text-align:right"|+0.7||[[チュランディ・マルティナ]]||{{NED}}||[[ロンドン]]||[[2012年]][[8月5日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.1||[[ジェームズ・ダサオル]]||{{GBR}}||[[バーミンガム]]||[[2013年]][[7月13日]]
|-
|rowspan="2"|8||9秒92||style="text-align:right"|+2.0||[[クリストフ・ルメートル]]||{{FRA}}||[[アルビ]]||[[2011年]][[7月29日]]
|-
|9秒92A||style="text-align:right"|+0.9||[[ジャック・ハーヴェイ|ジャック・アリ・ハーヴェイ]]||{{TUR}}||[[エルズルム]]||[[2016年]][[6月12日]]
|-
|rowspan=2|10||9秒93||style="text-align:right"|-1.2||[[リース・プレスコード]]||{{GBR}}||[[オストラヴァ]]||[[2022年]][[5月31日]]
|-
|9秒93||style="text-align:right"|+0.1||[[ユージン・アモ・ダジー]]||{{GBR}}||[[グラーツ]]||[[2023年]][[1月16日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒73||style="text-align:right"|+2.0||[[クリスティーン・アーロン]]||{{FRA}}||[[ブダペスト]]||[[1998年]][[8月19日]]
|-
|rowspan=2|2||rowspan=2|10秒77||style="text-align:right"|+0.9||[[イリーナ・プリワロワ]]||{{RUS}}||[[ローザンヌ]]||[[1994年]][[7月6日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.7||[[イベット・ラロワ]]||{{BUL}}||[[プロヴディフ]]||[[2004年]][[6月19日]]
|-
|rowspan=2|4||rowspan=2|10秒81||style="text-align:right"|+1.7||[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[ベルリン]]||[[1983年]][[6月8日]]
|-
|style="text-align:right"|-0.3||[[ダフネ・シパーズ]]||{{NED}}||[[北京]]||[[2015年]][[8月24日]]
|-
|6||10秒82||style="text-align:right"|-0.3||{{仮リンク|ザンナ・ブロック|en|Zhanna Pintusevich-Block}}||{{UKR}}||[[エドモントン]]||[[2001年]][[8月6日]]
|-
|rowspan="3"|7||rowspan="3"|10秒83||style="text-align:right"|+1.7||[[マリタ・コッホ]]||{{GDR}}||ベルリン||[[1983年]][[6月8日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.1||[[エカテリーニ・タヌー]]||{{GRE}}||[[セビリア]]||[[1999年]][[8月22日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.1||[[ディナ・アッシャー=スミス]]||{{GBR}}||[[ライヤーン]]||[[2019年]][[9月28日]]
|-
|10||10秒85||style="text-align:right"|+2.0||{{enlink|Anelia Nuneva|p=off|s=off}}||{{BUL}}||[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]||[[1988年]][[9月2日]]
|}
=== 北中米カリブ記録 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||9秒58||style="text-align:right"|+0.9||[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[ベルリン]]||2009年8月16日
|-
|rowspan=2|2||rowspan=2|9秒69||style="text-align:right"|+2.0||[[タイソン・ゲイ]]||{{USA}}||[[上海]]||2009年9月20日
|-
|style="text-align:right"|-0.1||[[ヨハン・ブレーク]]||{{JAM}}||[[ローザンヌ]]||2012年8月23日
|-
|4||9秒72||style="text-align:right"|+0.2||[[アサファ・パウエル]]||{{JAM}}||ローザンヌ||2008年9月2日
|-
|5||9秒74||style="text-align:right"|+0.9||[[ジャスティン・ガトリン]]||{{USA}}||[[ドーハ]]||2015年5月15日
|-
|rowspan=3|6||9秒76||style="text-align:right"|+0.6||[[クリスチャン・コールマン]]||{{USA}}||[[ドーハ]]||2019年9月28日
|-
|9秒76A||style="text-align:right"|+1.2||[[トレイボン・ブロメル]]||{{USA}}||[[ナイロビ]]||2021年9月18日
|-
|9秒76||style="text-align:right"|+1.4||[[フレッド・カーリー (陸上選手)|フレッド・カーリー]]||{{USA}}||[[オレゴン]]||2022年6月24日
|-
|9||9秒78||style="text-align:right"|+0.9||[[ネスタ・カーター]]||{{JAM}}||[[リエーティ]]||2010年8月29日
|-
|10||9秒79||style="text-align:right"|+0.1||[[モーリス・グリーン]]||{{USA}}||[[アテネ]]||1999年1月16日
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒49||style="text-align:right"|±0.0||[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]||{{USA}}||[[インディアナポリス]]||1988年7月16日
|-
|2||10秒54||style="text-align:right"|+0.9||[[エレーン・トンプソン]]||{{JAM}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||2021年8月21日
|-
|3||10秒60||style="text-align:right"|+1.7||[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||[[ローザンヌ]]||2021年8月26日
|-
|4||10秒64||style="text-align:right"|+1.2||[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[上海]]||2009年9月20日
|-
|rowspan=3|5||10秒65A||style="text-align:right"|+1.1||[[マリオン・ジョーンズ]]||{{USA}}||[[ヨハネスブルグ]]||1998年9月12日
|-
|10秒65||style="text-align:right"|+1.0||[[シェリカ・ジャクソン]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ) |キングストン]]||2023年7月7日
|-
|10秒65||style="text-align:right"|-0.2||[[シャカリ・リチャードソン]]||{{USA}}||[[ブダペスト]]||2023年8月21日
|-
|rowspan=2|8||rowspan=2|10秒74||style="text-align:right"|+1.3||[[マリーン・オッティ]]||{{JAM}}||[[ミラノ]]||1996年9月7日
|-
|style="text-align:right"|+1.0||[[イングリッシュ・ガードナー]]||{{USA}}||[[オレゴン]]||2016年7月3日
|-
|10||10秒75||style="text-align:right"|+0.4||[[ケロン・スチュワート]]||{{JAM}}||[[ローマ]]||2009年7月10日
|}
=== 南アメリカ記録 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||9秒89||style="text-align:right" |+0.8||{{仮リンク|イサメド・アシンガ|en| Issam Asinga}}||{{SUR}}||[[サンパウロ]]||[[2023年]][[7月28日]]
|-
|2||9秒96||style="text-align:right"|+1.0||{{仮リンク|フェリペ・バルジ|en|Felipe Bardi}}||{{BRA}}||[[サン・ベルナルド・ド・カンポ]]||[[2023年]][[9月9日]]
|-
|3||9秒97||style="text-align:right"| +0.8||[[エリック・カルドーゾ]]||{{BRA}}||[[サンパウロ]]||[[2023年]][[7月28日]]
|-
|4||9秒99||style="text-align:right"| +0.8||{{仮リンク|ロナル・ロンガ|en| Ronal Longa}}||{{flagicon|Colombia}} [[コロンビア]]||[[サンパウロ]]||[[2023年]][[7月28日]]
|-
|5||10秒00A|| style="text-align:right" |+1.6||[[ロブソン・ダ・シルバ]]||{{BRA}}||[[メキシコシティ]]||[[1988年]][[7月22日]]
|-
|rowspan=2|6||rowspan=2|10秒01|| style="text-align:right"|-0.7||[[アロンソ・エドワード]]||{{PAN}}||[[コカバンバ]]||[[2018年]][[6月6日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.9||{{仮リンク|レナン・コレア|en|Renan Correa}} ||{{BRA}}||[[ボゴタ]]||[[2023年]][[5月19日]]
|-
|8||10秒02||style="text-align:right"|+1.5||[[パウロ・アンドレ・デ・オリベイラ|パウロ・アンドレ・カミロ]]||{{BRA}}||[[アズーサ]]||[[2019年]][[4月19日]]
|-
|9||10秒04||style="text-align:right"|+0.4||[[ロドリゴ・ド・ナシメント]]||{{BRA}}||[[リオデジャネイロ]]||[[2022年]][[6月22日]]
|-
|10||10秒06A||style="text-align:right"|+0.9||[[アンドレ・ダ・シルバ]]||{{BRA}}||[[ボゴタ]]||[[1999年]][[6月25日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子歴代10傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒91||style="text-align:right"|-0.2||{{仮リンク|ロサンジェラ・サントス|en|Rosângela Santos}}||{{BRA}}||[[ロンドン]]||[[2017年]][[8月6日]]
|-
|2||10秒99||style="text-align:right"|+0.9||{{仮リンク|アンジェラ・テノリオ|en|Ángela Tenorio}}||{{ECU}}||[[トロント]]||[[2015年]][[7月22日]]
|-
|3||11秒01||style="text-align:right"|+1.4||{{仮リンク|アナ・クラウディア・シルバ|en|Ana Cláudia Lemos}}||{{BRA}}||{{仮リンク|ウォルナット (カリフォルニア州)|label=ウォルナット|en|Walnut, California}}||[[2015年]][[4月18日]]
|-
|4||11秒03||style="text-align:right"|+0.3||[[ヴィトーリア・クリスチナ・ホーザ]]||{{BRA}}||[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]||[[2019年]][[8月9日]]
|-
|5||11秒07||style="text-align:right"|+0.4||[[ジャスミン・アブラムス]]||{{GUY}}||[[ポート・オブ・スペイン]]||[[2022年]][[6月25日]]
|-
|6||11秒12||style="text-align:right"|-0.7||[[マリソル・ランダスリ]]||{{ECU}}||[[コチャバンバ]]||[[2018年]][[6月6日]]
|-
|7||11秒13||style="text-align:right"|-0.7||[[フランシエラ・クラスキ]]||{{BRA}}||[[サンパウロ]]||[[2013年]][[6月6日]]
|-
|8||11秒14||style="text-align:right"|+1.8||[[ブレネッサ・トンプソン]]||{{GUY}}||[[レオノーラ]]||[[2016年]][[6月18日]]
|-
|rowspan=2|9||rowspan=2|11秒16||style="text-align:right"|+1.0||[[ガブリエラ・アナイ・スアレス]]||{{ECU}}||[[キト]]||[[2020年]][[12月12日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.1||[[ロレイン・マルティンス]]||{{BRA}}||[[クイアバ]]||[[2023年]][[7月6日]]
|}
=== オセアニア記録 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子歴代5傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||{{0}}9秒93||style="text-align:right"|+1.8||[[パトリック・ジョンソン]]||{{AUS}}||[[水戸市|水戸]]||[[2003年]]5月5日
|-
|2||10秒01||style="text-align:right"|+0.1||[[ローアン・ブラウニング]]||{{AUS}}||[[東京]]||[[2021年]]7月31日
|-
|3||10秒03||style="text-align:right"|-0.1||[[マット・シルビントン]]||{{AUS}}||[[クアラルンプール]]||[[1998年]]9月17日
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|10秒08||style="text-align:right"|+1.9||{{仮リンク|ジョシュア・ロス|en|Josh Ross}}||{{AUS}}||[[ブリスベン]]||[[2007年]]3月10日
|-
|style="text-align:right"|-0.3||[[エドワード・オセイ・ンケティア]]||{{NZL}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2022年]]7月15日
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子歴代5傑
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒96||style="text-align:right"|+2.0||[[ゾーイ・ホッブス]]||{{NZL}}||[[ラ・ショー・ド・フォン]]||[[2023年]]7月2日
|-
|2||11秒11||style="text-align:right"|+1.9||[[メリッサ・ブリーン]]||{{AUS}}||[[キャンベラ]]||[[2014年]]2月9日
|-
|3||11秒12A||style="text-align:right"|+1.9||{{仮リンク|メリンダ・ゲインズフォード=テイラー|en|Melinda Gainsford-Taylor}}||{{AUS}}||[[セストリエーレ]]||[[1994年]]7月31日
|-
|4||11秒14||style="text-align:right"|+1.7||[[サリー・ピアソン]]||{{AUS}}||[[大阪市|大阪]]||[[2007年]]8月26日
|-
|5||11秒16||style="text-align:right"|+1.8||[[ハナ・ベーシック]]||{{AUS}}||[[ビュル]]||[[2021年]]7月10日
|}
== エイジ記録 ==
*下記の記録の中で世界陸連が世界記録に公認しているのはU20記録だけである。
*U20世界記録は樹立年の12月31日時点で年齢が20歳未満である選手のみが対象となる。
{|class="wikitable"
|+ 男子<ref name="17SH">{{Cite web|和書|url=https://www.iaaf.org/ebooks/2017/WCH/index.html|title=IAAF World Championships London 2017 statistics handbook / WORLD AND CONTINENTAL RECORDS(男子465ページ、女子478ページ)|publisher=[[国際陸上競技連盟]]|date=2017|accessdate=2017-08-26 }}</ref>
!記録!!タイム!!風速!!名前!!所属!!年齢!!場所!!日付
|-
|U18世界最高記録||10秒06||style="text-align:right"|+2.0||[[Christian MILLER]]||{{USA}}||17歳||[[ユージーン]]||[[2023年]][[7月8日]]
|-
|U20世界記録||{{0}}9秒89|| style="text-align:right" |+0.8||[[Issamade ASINGA]]||{{SUR}}||18歳||[[サンパウロ]]||[[2023年]][[7月28日]]
|-
|35歳以上世界最高記録||{{0}}9秒87||style="text-align:right"|-0.1||[[ジャスティン・ガトリン]]||{{USA}}||37歳||[[パロアルト (カリフォルニア州)|パロアルト]]||[[2019年]][[6月30日]]
|-
|40歳以上世界最高記録||{{0}}9秒93||style="text-align:right"|+1.9||[[キム・コリンズ]]||{{SKN}}||40歳||[[ボトロップ]]||[[2016年]][[5月29日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子<ref name="17SH" />
!記録!!タイム!!風速!!名前!!所属!!年齢!!場所!!日付
|-
|U18世界最高記録||10秒98||style="text-align:right"|+2.0||[[キャンディス・ヒル]]||{{USA}}||16歳||[[ショアライン (ワシントン州)|ショアライン]]||[[2015年]][[6月20日]]
|-
|U20世界記録||10秒75||style="text-align:right"|+1.6||[[シャカリ・リチャードソン]]||{{USA}}||18歳||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2019年]][[6月8日]]
|-
|35歳以上世界最高記録||10秒62||style="text-align:right"|+0.4||[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||35歳||[[シレジア|モナコ]]||[[2022年]][[8月6日|8月10日]]
|-
|40歳以上世界最高記録||10秒99||style="text-align:right"|-1.2||マリーン・オッティ||{{JAM}}||40歳||[[テッサロニキ]]||[[2000年]][[8月30日]]
|}
=== U20世界記録 ===
*樹立年の12月31日時点で年齢が20歳未満選手のみが対象となる。
==== 歴代10傑 ====
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1
|9秒89
| +0.8
|[[Issamade ASINGA]]
|{{SUR}}
|[[サンパウロ]]
|[[2023年]][[7月28日]]
|-
|2||{{0}}9秒91|| style="text-align:right" |+0.8||[[レツィレ・テボゴ]]||{{BOT}}||[[カリ]]||[[2022年]][[8月2日]]
|-
|3||{{0}}9秒97|| style="text-align:right" |+1.8||[[トレイボン・ブロメル]]||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2014年]][[6月13日]]
|-
| rowspan="2" |4|| rowspan="2" |{{0}}9秒99|| style="text-align:right" |+0.3|||[[Bouwahjgie NKRUMIE]]||{{JAM}}||[[キングストン (オンタリオ州)|キングストン]]||[[2023年]][[3月29日]]
|-
| +0.8
|[[RonaLONGAl]]
|{{flagicon|Colombia}} [[コロンビア]]
|[[サンパウロ]]
|[[2023年]][[7月28日]]
|-
|6||10秒00|| style="text-align:right" |+1.6||{{仮リンク|トレンテイヴィス・フライデー|en|Trentavis Friday}}||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2014年]][[7月5日]]
|-
| rowspan="4" |10|| rowspan="4" |10秒01|| style="text-align:right" |±0.0||[[ダレル・ブラウン]]||{{TRI}}||[[パリ]]||[[2003年]][[8月24日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.6||{{仮リンク|ジェフリー・デンプス|en|Jeff Demps}}||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2008年]][[6月28日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.9||[[桐生祥秀]]||{{JPN}}||[[広島市|広島]]||[[2013年]][[4月29日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.9||[[Renan CORREA]]||{{BRA}}||[[ボゴタ]]||[[2023年]][[5月27日]]
|}
* 2001年8月4日、[[マーク・ルイス=フランシス]](当時18歳)がエドモントン世界陸上2次予選で9秒97を記録したが<ref>[http://www.iaaf.org/results/iaaf-world-championships-in-athletics/2001/8th-iaaf-world-championships-2639/men/100-metres/quarter-final/result 100 Metres Result - 8th IAAF World Championships|iaag.org]</ref>、風速計故障によるデータ不備で参考記録となり、世界ジュニア記録としても公認されなかった<ref name="月刊陸上2013年6月">『月刊陸上競技 第47巻第7号』 講談社、2013年、198-199頁。</ref>。
* 2008年6月28日に[[ジェフリー・デンプス]](当時18歳)が[[全米陸上競技選手権大会|全米選手権]]2次予選で10秒01を記録したが、ゼロコントロールテストが行われなかったのでジュニア世界記録として公認されていない<ref name="月刊陸上2013年6月"/><ref>{{cite web|url=http://www.iaaf.org/news/report/trayvon-bromell-world-junior-100m-record|title=Bromell equals world junior 100m record at Texas Relays|publisher=[[国際陸上競技連盟]]|date=2014-03-29|accessdate=2014-11-07 }}</ref>。
* 2013年4月29日に[[桐生祥秀]](当時17歳)が織田記念予選で10秒01を記録したが、世界記録の条件となる風速計の設置がなく、ジュニア世界記録としては公認されなかった。
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒75||style="text-align:right"|+1.6||[[シャカリ・リチャードソン]]||{{USA}}||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2019年]][[6月8日]]
|-
|2||10秒83||style="text-align:right"|+0.6||[[タマリ・デイヴィス]]||{{USA}}||[[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]||[[2022年]][[7月30日]]
|-
|3||10秒88||style="text-align:right"|+2.0||[[マルリース・ゲール]]||{{DDR}}||[[ドレスデン]]||[[1977年]][[7月1日]]
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|10秒89||style="text-align:right"|+1.8||[[カトリン・クラッベ]]||{{DDR}}||[[ベルリン]]||[[1988年]][[7月20日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.9||[[Shawnti JACKSON]]||{{USA}}||[[ナッシュビル]]||[[2023年]][[6月3日]]
|-
|6||10秒92||style="text-align:right"|+1.0||[[Alana REID]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||[[2023年]][[3月29日]]
|-
|7||10秒96||style="text-align:right"|+1.0||[[ティア・クレートン]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||[[2022年]][[6月26日]]
|-
|rowspan="2"|8||rowspan="2"|10秒97||style="text-align:right"|+1.2||[[ブリアナ・ウィリアムズ]]||{{JAM}}||[[ミラマー]]||[[2021年]][[6月5日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.6||[[クリスティン・ムボマ]]||{{NAM}}||[[ハボローネ]]||[[2022年]][[4月30日]]
|-
|10||10秒98||style="text-align:right"|+2.0||[[キャンディス・ヒル]]||{{USA}}||[[ショアライン (ワシントン州)|ショアライン]]||[[2015年]][[6月20日]]
|}
==== 歴代パフォーマンス10傑 ====
{|class="wikitable"
|+ 男子<ref>[http://www.iaaf.org/records/toplists/sprints/100-metres/outdoor/men/junior 100m men junior outdoor All time best] - IAAF</ref>
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||{{0}}9秒91||style="text-align:right"|+0.8||[[レツィレ・テボゴ]]||{{BOT}}||[[カリ]]||[[2022年]][[8月2日]]
|-
|2||{{0}}9秒94||style="text-align:right"|+1.1||レツィレ・テボゴ||{{BOT}}||[[ユージーン]]||[[2022年]][[7月15日]]
|-
|3||{{0}}9秒96||style="text-align:right"|+1.9||レツィレ・テボゴ||{{BOT}}||[[ガボロネ (ボツワナ)|ガボロネ]]||[[2022年]][[4月30日]]
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|{{0}}9秒97||style="text-align:right"|<!--不明--> <!--表の仕様上半角スペースを入れる-->||[[マーク・ルイス=フランシス]]||{{GBR}}||[[エドモントン]]||[[2001年]][[8月4日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.8||[[トレイボン・ブロメル]]||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2014年]][[6月13日]]
|-
|6||{{0}}9秒99||style="text-align:right"|+0.3||[[Bouwahjgie NKRUMIE]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||[[2023年]][[3月29日]]
|-
|rowspan="2"|7||rowspan="2"|10秒00||style="text-align:right"|+1.6||{{仮リンク|トレンテイヴィス・フライデー|en|Trentavis Friday}}||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2014年]][[7月5日]]
|-
|style="text-align:right"|-0.6||レツィレ・テボゴ||{{BOT}}||[[カリ]]||[[2022年]][[8月1日]]
|-
|rowspan="4"|9||rowspan="4"|10秒01||style="text-align:right"|±0.0||[[ダレル・ブラウン]]||{{TRI}}||[[パリ]]||[[2003年]][[8月24日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.6||{{仮リンク|ジェフリー・デンプス|en|Jeff Demps}}||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2008年]][[6月28日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.9||[[桐生祥秀]]||{{JPN}}||[[広島市|広島]]||[[2013年]][[4月29日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.5||トレイボン・ブロメル||{{USA}}||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2014年]][[3月29日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子<ref>[http://www.iaaf.org/records/toplists/sprints/100-metres/outdoor/women/junior 100m women junior outdoor All time best] - IAAF</ref>
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒75||style="text-align:right"|+1.6||[[シャカリ・リチャードソン]]||{{USA}}||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2019年]][[6月8日]]
|-
|2||10秒83||style="text-align:right"|+0.6||[[タマリ・デイヴィス]]||{{USA}}||[[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]||[[2022年]][[7月30日]]
|-
|3||10秒87||style="text-align:right"|+0.1||タマリ・デイヴィス||{{USA}}||[[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]||[[2022年]][[7月30日]]
|-
|4||10秒88||style="text-align:right"|+2.0||[[マルリース・ゲール]]||{{DDR}}||[[ドレスデン]]||[[1977年]][[7月1日]]
|-
|rowspan="2"|5||rowspan="2"|10秒89||style="text-align:right"|+1.8||[[カトリン・クラッベ]]||{{DDR}}||[[ベルリン]]||[[1988年]][[7月20日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.9||[[Shawnti JACKSON]]||{{USA}}||[[ナッシュビル]]||[[2023年]][[6月3日]]
|-
|7||10秒91||style="text-align:right"|+0.8||タマリ・デイヴィス||{{USA}}||[[ナッシュビル]]||[[2022年]][[6月5日]]
|-
|rowspan="3"|8||rowspan="3"|10秒92||style="text-align:right"|+1.8||タマリ・デイヴィス||{{USA}}||[[ユージーン]]||[[2022年]][[6月24日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.3||タマリ・デイヴィス||{{USA}}||[[セーケシュフェヘールバール]]||[[2022年]][[8月8日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.0||[[Alana REID]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||[[2023年]][[3月29日]]
|}
=== ユース世界最高記録 ===
※樹立年の12月31日時点で年齢が18歳未満であるユース選手のみが対象となる。
==== 歴代10傑 ====
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒06||style="text-align:right"|+2.0||[[Christian MILLER]]||{{USA}}||[[ユージーン]]||[[2023年]][[7月8日]]
|-
|2||10秒09||style="text-align:right"|+0.7||[[プリポールブーンソン]]||{{THA}}||[[カリ]]||[[2022年]][[8月2日]]
|-
|3||10秒15||style="text-align:right"|+2.0||{{仮リンク|アンソニー・シュワルツ|en|Anthony Schwartz (athlete)}}||{{USA}}||[[ゲインズビル (フロリダ州)|ゲインズビル]]||[[2017年]][[3月31日]]
|-
|4||10秒16||style="text-align:right"|−0.3||[[エリヨン・ナイトン]]||{{USA}}||[[ボストン]]||[[2021年]][[5月23日]]
|-
|5||10秒19||style="text-align:right"|+0.5||[[桐生祥秀]]||{{JPN}}||[[袋井市|袋井]]||[[2012年]][[11月3日]]
|-
|rowspan="4"|6||rowspan="4"|10秒20||style="text-align:right"|+1.4||[[Darryl Haraway]]||{{USA}}||[[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]||[[2014年]][[6月14日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.5||{{仮リンク|トロトリソ・レオトレラ|en|Tlotliso Leotlela}}||{{RSA}}||[[アピア]]||[[2015年]][[9月7日]]
|-
|style="text-align:right"|+2.0||[[Sachin Dennis]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||[[2018年]][[3月23日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.9||[[Bradley Botshelo NKOANA]]||{{RSA}}||[[マンハイム]]||[[2022年]][[7月2日]]
|-
|10||10秒21||style="text-align:right"|+1.9||[[Jordan ANTHONY]]||{{USA}}||[[ユージーン]]||[[2021年]][[6月2日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒98||style="text-align:right"|+2.0||[[キャンディス・ヒル]]||{{USA}}||[[ショアライン (ワシントン州)|ショアライン]]||[[2015年]][[6月20日]]
|-
|2||11秒02||style="text-align:right"|+0.8||[[ブリアナ・ウィリアムズ]]||{{JAM}}||[[アルバカーキ]]||[[2019年]][[6月8日]]
|-
|3||11秒09||style="text-align:right"|−0.6||[[ティア・クレートン]]||{{JAM}}||[[ナイロビ]]||[[2021年]][[8月19日]]
|-
|4||11秒10||style="text-align:right"|+0.9||[[ケイリン・ホイットニー]]||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2014年]][[7月5日]]
|-
|5||11秒11||style="text-align:right"|+1.7||[[Adaejah HODGE]]||{{VGB}}||[[ラボック]]||[[2023年]][[4月29日]]
|-
|rowspan="2"|6||rowspan="2"|11秒13||style="text-align:right"|+2.0||[[チャンドラ・チーズボロー]]||{{USA}}||ユージーン||[[1976年]][[6月21日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.6||[[タマリ・デイヴィス]]||{{USA}}||[[モントバード]]||[[2018年]][[6月9日]]
|-
|rowspan="2"|8||rowspan="2"|11秒14||style="text-align:right"|+1.7||[[マリオン・ジョーンズ]]||{{USA}}||[[ノーウォーク (カリフォルニア州)|ノーウォーク]]||[[1992年]][[6月6日]]
|-
|style="text-align:right"|-0.5||{{仮リンク|アンジェラ・ウィリアムス|en|Angela Williams (sprinter born 1980)}}||{{USA}}||[[エドワーズビル (イリノイ州)|エドワーズビル]]||[[1997年]][[6月21日]]
|-
|rowspan=2|10||rowspan=2|11秒16||style="text-align:right"|+1.2||{{仮リンク|ガブリエル・マヨ|en|Gabby Mayo}}||{{USA}}||[[インディアナポリス]]||[[2006年]][[6月22日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.9||Kevona Davis||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||[[2018年]][[3月23日]]
|}
==== 歴代パフォーマンス10傑 ====
{|class="wikitable"
|+ 男子<ref>[http://www.iaaf.org/records/toplists/sprints/100-metres/outdoor/men/youth 100m men youth outdoor All time best] - IAAF</ref>
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒09||style="text-align:right"|+0.7||[[プリポールブーンソン]]||{{THA}}||[[カリ]]||[[2022年]][[8月2日]]
|-
|2||10秒12||style="text-align:right"|+0.8||プリポールブーンソン||{{THA}}||[[カリ]]||[[2022年]][[8月2日]]
|-
|3||10秒15||style="text-align:right"|+2.0||{{仮リンク|アンソニー・シュワルツ|en|Anthony Schwartz (athlete)}}||{{USA}}||[[ゲインズビル (フロリダ州)|ゲインズビル]]||[[2017年]][[3月31日]]
|-
|4||10秒16||style="text-align:right"|−0.3||[[エリヨン・ナイトン]]||{{USA}}||[[ボストン]]||[[2021年]][[5月23日]]
|-
|rowspan="2"|5||rowspan="2"|10秒19||style="text-align:right"|+0.5||[[桐生祥秀]]||{{JPN}}||[[袋井市|袋井]]||[[2012年]][[11月3日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.1||プリポールブーンソン||{{THA}}||[[シーサケート]]||[[2022年]][[3月17日]]
|-
|rowspan="5"|7||rowspan="5"|10秒20||style="text-align:right"|+1.4||[[Darryl Haraway]]||{{USA}}||[[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]||[[2014年]][[6月14日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.5||{{仮リンク|トロトリソ・レオトレラ|en|Tlotliso Leotlela}}||{{RSA}}||[[アピア]]||[[2015年]][[9月7日]]
|-
|style="text-align:right"|+2.0||[[Sachin Dennis]]||{{JAM}}||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]||[[2018年]][[3月23日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.9||[[Bradley Botshelo NKOANA]]||{{RSA}}||[[マンハイム]]||[[2022年]][[7月2日]]
|-
|style="text-align:right"|-0.9||プリポールブーンソン||{{THA}}||[[カリ]]||[[2022年]][[8月1日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子<ref>[http://www.iaaf.org/records/toplists/sprints/100-metres/outdoor/women/youth 100m women youth outdoor All time best] - IAAF</ref>
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||10秒98||style="text-align:right"|+2.0||[[キャンディス・ヒル]]||{{USA}}||[[ショアライン (ワシントン州)|ショアライン]]||[[2015年]][[6月20日]]
|-
|2||11秒02||style="text-align:right"|+0.8||[[ブリアナ・ウィリアムズ]]||{{JAM}}||[[アルバカーキ]]||[[2019年]][[6月8日]]
|-
|3||11秒09||style="text-align:right"|-0.9||[[ティア・クレートン]]||{{JAM}}||[[ナイロビ]]||[[2021年]][[8月19日]]
|-
|4||11秒07||style="text-align:right"|+0.9||キャンディス・ヒル||{{USA}}||[[ブィドゴシュチュ]]||[[2016年]][[7月21日]]
|-
|5||11秒08||style="text-align:right"|±0.0||キャンディス・ヒル||{{USA}}||[[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]||[[2015年]][[7月16日]]
|-
|6||11秒09||style="text-align:right"|+1.9||キャンディス・ヒル||{{USA}}||[[クローヴィス (カリフォルニア州)|クローヴィス]]||[[2016年]][[6月24日]]
|-
|rowspan="2"|7||rowspan="2"|11秒10||style="text-align:right"|+0.9||[[ケイリン・ホイットニー]]||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2014年]][[7月5日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.2||[[ブリアナ・ウィリアムズ]]||{{JAM}}||[[ジャクソンビル]]||[[2019年]][[6月1日]]
|-
|8||11秒11||style="text-align:right"|+1.7||[[Adaejah HODGE]]||{{VGB}}||[[ラボック]]||[[2023年]][[4月29日]]
|-
|9||11秒12||style="text-align:right"|+2.0||キャンディス・ヒル||{{USA}}||[[ブィドゴシュチュ]]||[[2016年]][[7月21日]]
|-
|rowspan="2"|10||rowspan="2"|11秒13||style="text-align:right"|+2.0||[[チャンドラ・チーズボロー]]||{{USA}}||ユージーン||[[1976年]][[6月21日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.7||[[ブリアナ・ウィリアムズ]]||{{JAM}}||[[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]||[[2018年]][[3月17日]]
|-
|}
===マスターズ記録===
*各年齢別の世界記録<ref>{{PDFlink|[http://www.world-masters-athletics.org/records/outdoormen.pdf WMA RECORDS OUTDOOR - MEN]}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.world-masters-athletics.org/records/outdoorwomen.pdf WMA RECORDS OUTDOOR - WOMEN]}}</ref>。
{|class="wikitable"
|+男子
!部門||記録||選手||年
|-
|style="text-align:right"|35歳以上||{{0}}9秒87||{{Flagicon|USA}} [[ジャスティン・ガトリン]]||2019年
|-
|style="text-align:right"|40歳以上||{{0}}9秒93||{{Flagicon|SKN}} [[キム・コリンズ]]||2016年
|-
|style="text-align:right"|45歳以上||10秒72||{{Flagicon|USA}} [[ウィリー・ゴールト]]||2006年
|-
|style="text-align:right"|50歳以上||10秒88||{{Flagicon|USA}} ウィリー・ゴールト||2011年
|-
|style="text-align:right"|55歳以上||11秒30||{{Flagicon|USA}} ウィリー・ゴールト||2016年
|-
|style="text-align:right"|60歳以上||11秒70||{{Flagicon|GBR}} [[Ronald Taylor]]||1994年
|-
|style="text-align:right"|65歳以上||12秒31||{{Flagicon|USA}} [[ダミアン・リーク]]||2008年
|-
|style="text-align:right"|70歳以上||12秒75||{{Flagicon|USA}} [[Bobby Whilden]]||2005年
|-
|style="text-align:right"|75歳以上||13秒25||{{Flagicon|USA}} Kenton Brown||2020年
|-
|style="text-align:right"|80歳以上||14秒31||{{Flagicon|GER}} ハルトムート・クラメル||2022年
|-
|style="text-align:right"|85歳以上||15秒08||{{Flagicon|JPN}} [[田中博男]]||2017年
|-
|style="text-align:right"|90歳以上||16秒69||{{Flagicon|JPN}} [[田中博男]]||2021年
|-
|style="text-align:right"|95歳以上||20秒41||{{Flagicon|BRA}} Frederico Fischer||2012年
|-
|style="text-align:right"|100歳以上||26秒99||{{Flagicon|USA}} Don Pellmann||2015年
|-
|style="text-align:right"|105歳以上||34秒50||{{Flagicon|POL}} [[スタニスワフ・コワルスキー]]||2015年
|}
{|class="wikitable"
|+女子
!部門||記録||選手||年
|-
|style="text-align:right"|35歳以上||10秒62||{{Flagicon|JAM}} [[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||2022年
|-
|style="text-align:right"|40歳以上||10秒99||{{Flagicon|SLO}} マリーン・オッティ||2004年
|-
|style="text-align:right"|45歳以上||11秒34||{{Flagicon|SLO}} マリーン・オッティ||2006年
|-
|style="text-align:right"|50歳以上||11秒67||{{Flagicon|SLO}} マリーン・オッティ||2011年
|-
|style="text-align:right"|55歳以上||12秒24||{{Flagicon|AUS}} [[ジュリー・ブリムズ]]||2021年
|-
|style="text-align:right"|60歳以上||13秒20||{{Flagicon|FRA}} ニコル・アレクシス||2022年
|-
|style="text-align:right"|65歳以上||13秒91||{{Flagicon|CAN}} カーラ・デル・グランデ||2018年
|-
|style="text-align:right"|70歳以上||14秒73||{{Flagicon|GER}} [[イングリッド・マイヤー]]||2017年
|-
|style="text-align:right"|75歳以上||15秒03||{{Flagicon|CAN}} [[キャロル・ラファイエット・ボイト]]||2018年
|-
|style="text-align:right"|80歳以上||16秒26||{{Flagicon|USA}} {{仮リンク|キャシー・バーゲン|en|Kathy Bergen}}||2021年
|-
|style="text-align:right"|85歳以上||18秒49||{{Flagicon|CAN}} {{仮リンク|クリスタ・ボルティニョン|en|Christa Bortignon}}||2022年
|-
|style="text-align:right"|90歳以上||21秒82||{{Flagicon|JPN}} 齋藤恵美子||2021年
|-
|style="text-align:right"|95歳以上||28秒85||{{Flagicon|JPN}} 川本静子||2023年
|-
|style="text-align:right"|100歳以上||36秒71||{{Flagicon|USA}} [[ダイアン・フリードマン]]||2021年
|-
|style="text-align:right"|105歳以上||62秒95||{{Flagicon|USA}} [[ジュリア・ホーキンス]]||2021年
|}
== 日本記録 ==
=== 日本歴代10傑 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1|||{{0}}9秒95||style="text-align:right"|+2.0||[[山縣亮太]]||[[セイコー]]||[[鳥取市|鳥取]]||[[2021年]][[6月6日]]
|-
|rowspan="2"|2||rowspan="2"|{{0}}9秒97||style="text-align:right"|+0.8||rowspan="2"|[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[フロリダ大学]]||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2019年]][[6月7日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.3|||[[東レ]]||[[ブダペスト]]||[[2023年]][[8月20日]]
|-
|rowspan="2"|3||rowspan="2"|{{0}}9秒98||style="text-align:right"|+1.8||[[桐生祥秀]]||[[東洋大学]]||[[福井市|福井]]||[[2017年]][[9月9日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.5||[[小池祐貴]]||[[住友電工]]||[[ロンドン]]||[[2019年]][[7月20日]]
|-
||5||10秒00||style="text-align:right"|+1.9||[[伊東浩司]]||[[富士通]]||[[バンコク]]||[[1998年]][[12月13日]]
|-
|6||10秒01||style="text-align:right"|+2.0||[[多田修平]]||[[住友電工]]||[[鳥取市|鳥取]]||[[2021年]][[6月6日]]
|-
|rowspan=3|7||rowspan=3|10秒02||style="text-align:right"|+2.0||[[朝原宣治]]||[[大阪ガス]]||[[オスロ]]||[[2001年]][[7月13日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.1||[[坂井隆一郎]]||[[大阪ガス]]||[[鳥取]]||[[2022年]][[6月26日]]
|-
|style="text-align:right"|±0.0||[[柳田大輝]]||[[東洋大学]]||[[バンコク]]||[[2023年]][[7月14日]]
|-
|rowspan=2|10||rowspan=2|10秒03||style="text-align:right"|+1.8||[[末續慎吾]]||[[ミズノ]]||[[水戸市|水戸]]||[[2003年]][[5月5日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.0||[[ケンブリッジ飛鳥]]||[[ナイキ]]||[[福井市|福井]]||[[2020年]][[8月29日]]
|-
|}<br />
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||11秒21||style="text-align:right"|+1.7||[[福島千里]]||[[北海道ハイテクノロジー専門学校|北海道ハイテクAC]]||[[広島市|広島]]||[[2010年]][[4月29日]]
|-
|2||11秒24||style="text-align:right"|+1.3||[[兒玉芽生]]||[[ミズノ]]||[[岐阜市|岐阜]]||[[2022年]][[9月24日]]
|-
|3||11秒32||style="text-align:right"|+1.9||[[高橋萌木子]]||[[平成国際大学]]||[[鳥取市|鳥取]]||[[2009年]][[6月7日]]
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|11秒36||style="text-align:right"|+1.8||[[二瓶秀子]]||[[福島大学]]||[[北上市|北上]]||[[2001年]][[7月14日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.6||[[君嶋愛梨沙]]||[[土木管理総合]]||[[大阪市|大阪]]||[[2022年]][[6月10日]]
|-
|rowspan=2|6||rowspan=2|11秒39||style="text-align:right"|+1.1||[[坂上香織 (陸上選手)|坂上香織]]||[[三起商行|ミキハウス]]||[[鳥取市|鳥取]]||[[2004年]][[6月4日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.1||[[小島初佳]]||[[ピップフジモト]]||[[鳥取市|鳥取]]||[[2004年]][[6月4日]]
|-
|8||11秒42||style="text-align:right"|+1.7||[[北風沙織]]||[[北海道ハイテクノロジー専門学校|北海道ハイテクAC]]||[[広島市|広島]]||[[2008年]][[4月29日]]
|-
|rowspan=2|9||rowspan=2|11秒43||style="text-align:right"|+2.0||[[市川華菜]]||[[中京大学]]||[[広島市|広島]]||[[2011年]][[4月29日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.8||[[土井杏南]]||[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高等学校]]||[[熊谷市|熊谷]]||[[2012年]][[5月13日]]
|}
=== 日本歴代パフォーマンス10傑 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||{{0}}9秒95||style="text-align:right"|+2.0||[[山縣亮太]]||[[セイコー]]||[[鳥取市|鳥取]]||[[2021年]][[6月6日]]
|-
| rowspan="2" |2|| rowspan="2" |{{0}}9秒97||style="text-align:right"|+0.8||[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[フロリダ大学]]||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2019年]][[6月7日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.3||サニブラウン・アブデル・ハキーム||[[東レ]]||[[ブダペスト]]||[[2023年]][[8月20日]]
|-
| rowspan="3" |4|| rowspan="3" |{{0}}9秒98|| style="text-align:right" |+1.8||[[桐生祥秀]]||[[東洋大学]]||[[福井市|福井]]||[[2017年]][[9月9日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.5||[[小池祐貴]]||[[住友電工]]||[[ロンドン]]||[[2019年]][[7月20日]]
|-
|style="text-align:right"|-0.3||サニブラウン・アブデル・ハキーム||[[TumbleweedTC]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2022年]][[7月16日]]
|-
|7||{{0}}9秒99||style="text-align:right"|+1.8||サニブラウン・アブデル・ハキーム||フロリダ大学||[[フェイエットビル (アーカンソー州)|フェイエットビル]]||[[2019年]][[5月11日]]
|-
|rowspan="3"|8|| rowspan="3" |10秒00||style="text-align:right"|+1.9||[[伊東浩司]]||[[富士通]]||[[バンコク]]||[[1998年]][[12月13日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.2||山縣亮太||セイコー||[[大阪]]||[[2017年]][[9月24日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.8||山縣亮太||セイコー||[[ジャカルタ]]||[[2018年]][[8月26日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||11秒21||style="text-align:right"|+1.7||[[福島千里]]||[[北海道ハイテクノロジー専門学校#北海道ハイテクAC|北海道ハイテクAC]]||[[広島市|広島]]||[[2010年]][[4月29日]]
|-
|2||11秒23||style="text-align:right"|-0.5||福島千里||北海道ハイテクAC||[[北京市|北京]]||[[2015年]][[8月23日]]
|-
|rowspan=5|3||rowspan=5|11秒24||style="text-align:right"|+1.9||福島千里||北海道ハイテクAC||[[鳥取市|鳥取]]||[[2009年]][[6月7日]]
|-
|style="text-align:right"|+0.3||福島千里||北海道ハイテクAC||鳥取||[[2010年]][[6月27日]]
|-
|style="text-align:right"|-0.3||福島千里||北海道ハイテクAC||鳥取||[[2011年]][[6月25日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.6||福島千里||北海道ハイテクAC||[[山口市|山口]]||[[2011年]][[10月8日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.3||[[兒玉芽生]]||[[ミズノ]]||[[岐阜市|岐阜]]||[[2022年]][[9月24日]]
|-
|8||11秒25||style="text-align:right"|+1.7||福島千里||北海道ハイテクAC||[[マドリード]]||[[2015年]][[7月11日]]
|-
|9||11秒26||style="text-align:right"|+0.5||福島千里||北海道ハイテクAC||[[千葉市|千葉]]||[[2010年]][[10月2日]]
|-
|rowspan=2|10||rowspan=2|11秒27||style="text-align:right"|-1.0||福島千里||北海道ハイテクAC||[[広州市|広州]]||[[2009年]][[11月11日]]
|-
|style="text-align:right"|-0.1||福島千里||北海道ハイテクAC||[[大阪市|大阪]]||[[2010年]][[5月8日]]
|-
|}
=== 学生歴代10傑 ===
※サニブラウン・アブデル・ハキームは日本学連に登録しておらず、所属が国外で出した記録のため、公式の日本学生記録ではない。
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|||{{0}}9秒97||style="text-align:right"|+0.8||[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[フロリダ大学]]||[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||[[2019年]][[6月7日]]
|-
|1||{{0}}9秒98||style="text-align:right"|+1.8||[[桐生祥秀]]||[[東洋大学]]||[[福井市|福井]]||[[2017年]][[9月9日]]
|-
|2||10秒02||style="text-align:right"|±0.0||[[柳田大輝]]||[[東洋大学]]||[[バンコク]]||[[2023年]][[7月14日]]
|-
|3||10秒05||style="text-align:right"|+1.9||[[末續慎吾]]||[[東海大学]]||[[水戸市|水戸]]||[[2002年]][[5月6日]]
|-
|rowspan="3"|4||rowspan="3"|10秒07||style="text-align:right"|+1.9||[[江里口匡史]]||[[早稲田大学]]||[[広島市|広島]]||[[2009年]][[6月28日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.3||[[山縣亮太]]||[[慶應義塾大学]]||[[ロンドン]]||[[2012年]][[8月4日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.8||[[多田修平]]||[[関西学院大学]]||[[福井市|福井]]||[[2017年]][[9月9日]]
|-
|7||10秒10||style="text-align:right"|+2.0||和田遼||[[東洋大学]]||[[京都市|京都]]||[[2022年]][[7月16日]]
|-
|rowspan="2"|8||rowspan="2"|10秒11||style="text-align:right"|+0.3||[[川畑伸吾]]||[[法政大学]]||[[東京]]||[[2000年]][[9月2日]]
|-
|style="text-align:right"|+2.0||原田暁||[[福岡大学]]||[[福岡市|福岡]]||[[2022年]][[7月31日]]
|-
|rowspan="2"|10||rowspan="2"|10秒12||style="text-align:right"|+1.0||[[坂井隆一郎]]||[[関西大学]]||[[平塚市|平塚]]||[[2019年]][[6月8日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.4||本郷汰樹||[[名古屋大学]]||[[静岡市|静岡]]||[[2022年]][[11月3日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!風速!!名前!!所属!!場所!!日付
|-
|1||11秒32||style="text-align:right"|+1.9||[[高橋萌木子]]||[[平成国際大学]]||[[鳥取市|鳥取]]||[[2009年]][[6月7日]]
|-
|2||11秒35||style="text-align:right"|-0.2||[[兒玉芽生]]||[[福岡大学]]||[[新潟市|新潟]]||[[2020年]][[9月12日]]
|-
|3||11秒36||style="text-align:right"|+1.8||[[二瓶秀子]]||[[福島大学]]||[[北上市|北上]]||[[2001年]][[7月14日]]
|-
|4||11秒43||style="text-align:right"|+2.0||[[市川華菜]]||[[中京大学]]||[[広島市|広島]]||[[2011年]][[4月29日]]
|-
|5||11秒47||style="text-align:right"|+2.0||[[青山華依]]||[[甲南大学]]||[[平塚市|平塚]]||[[2022年]][[4月16日]]
|-
|6||11秒48||style="text-align:right"|+1.5||石川優||[[青山学院大学]]||[[平塚市|平塚]]||[[2021年]][[6月5日]]
|-
|7||11秒51||style="text-align:right"|+2.0||前山美優||[[新潟医療福祉大学]]||[[平塚市|平塚]]||[[2017年]][[6月10日]]
|-
|8||11秒52||style="text-align:right"|+1.8||[[北風沙織]]||[[北翔大学]]||[[袋井市|袋井]]||[[2007年]][[4月30日]]
|-
|rowspan=2|9||rowspan=2|11秒53||style="text-align:right"|+1.3||広沢真愛||[[日本体育大学]]||[[横浜市|横浜]]||[[2018年]][[8月4日]]
|-
|style="text-align:right"|+1.5||[[青野朱李]]||[[山梨学院大学]]||[[平塚市|平塚]]||[[2022年]][[4月16日]]
|-
|}
=== ジュニア日本歴代10傑 ===
*樹立年の12月31日時点で年齢が20歳未満であるジュニア選手のみが対象となる。
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||10秒01||[[桐生祥秀]]||[[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]]||[[2013年]][[4月29日]]
|-
|2||10秒05||[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||東京陸協||[[2017年]][[6月24日]]
|-
|3||10秒15||[[栁田大輝]]||[[東洋大学]]||[[2022年]][[8月2日]]
|-
|4||10秒19||黒木海翔||[[東福岡自彊館中学校・東福岡高等学校|東福岡高等学校]]||[[2023年]][[10月14日]]
|-
|5||10秒21||河田航典||[[立教大学]]||[[2022年]][[7月17日]]
|-
|rowspan="3"|6||rowspan="3"|10秒23||[[山縣亮太]]||[[慶應義塾大学]]||[[2011年]][[10月8日]]
|-
|[[大瀬戸一馬]]||[[福岡県立小倉東高等学校]]||[[2012年]][[4月29日]]
|-
|[[宮本大輔 (陸上選手)|宮本大輔]]||洛南高等学校||[[2017年]][[6月16日]]
|-
|9||10秒24||[[高橋和裕]]||[[奈良県立添上高等学校]]||[[1994年]][[8月2日]]
|-
|10||10秒25||田村和宏||[[早稲田大学]]||[[1997年]][[9月12日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒43||[[土井杏南]]||[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高等学校]]||[[2012年]][[5月13日]]
|-
|2||11秒46||[[御家瀬緑]]||[[北海道恵庭北高等学校]]||[[2019年]][[9月8日]]
|-
|3||11秒48||石川優||[[青山学院大学]]||[[2021年]][[6月5日]]
|-
|4||11秒50||山形愛羽||[[熊本中央高校]]||[[2023年]][[10月14日]]
|-
|5||11秒54||[[高橋萌木子]]||[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高等学校]]||[[2006年]][[9月10日]]
|-
|rowspan="2"|6||rowspan="2"|11秒56||石堂陽奈||[[立命館慶祥中学校・高等学校|立命館慶祥高等学校]]||[[2019年]][[8月5日]]
|-
|[[青山華依]]||[[大阪高等学校 (私立)|大阪高等学校]]||[[2021年]][[3月28日]]
|-
|8||11秒57||齋藤愛美||[[岡山県立倉敷中央高等学校]]||[[2016年]][[10月7日]]
|-
|9||11秒58||[[藏重みう]]||[[中京大学附属中京高等学校]]||[[2021年]][[10月2日]]
|-
|rowspan="2"|10||rowspan="2"|11秒60||[[福島千里]]||[[北海道ハイテクノロジー専門学校]]||[[2007年]][[6月29日]]
|-
|三浦由奈||[[宮城県柴田高等学校|宮城県立柴田高等学校]]||[[2019年]][[6月27日]]
|-
|}
=== 高校歴代10傑 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||10秒01||[[桐生祥秀]]||[[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]]||[[2013年]][[4月29日]]
|-
|2||10秒19||黒木海翔||[[東福岡自彊館中学校・東福岡高等学校|東福岡高等学校]]||[[2023年]][[10月14日]]
|-
|rowspan=2|3||rowspan=2|10秒22||[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[城西大学附属城西中学校・高等学校|城西大学附属城西高等学校]]||[[2016年]][[5月14日]]
|-
|[[柳田大輝|栁田大輝]]||[[東京農業大学第二高等学校]]||[[2021年]][[6月24日]]
|-
|rowspan=2|5||rowspan=2|10秒23||[[大瀬戸一馬]]||[[福岡県立小倉東高等学校]]||[[2012年]][[4月29日]]
|-
|[[宮本大輔 (陸上選手)|宮本大輔]]||洛南高等学校||[[2017年]][[6月16日]]
|-
|7||10秒24||[[高橋和裕]]||[[奈良県立添上高等学校]]||[[1994年]][[8月2日]]
|-
|8||10秒27||[[宮田英明]]||東京農業大学第二高等学校||[[1990年]][[10月22日]]
|-
|rowspan="2"|9||rowspan="2"|10秒28||[[宮崎久]]||[[福岡県立八女工業高等学校]]||[[1997年]][[6月29日]]
|-
|犬塚渉||[[静岡県立浜名高等学校]]||[[2015年]][[10月2日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒43||[[土井杏南]]||[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高等学校]]||[[2012年]][[5月13日]]
|-
|2||11秒46||[[御家瀬緑]]||[[北海道恵庭北高等学校]]||[[2019年]][[9月8日]]
|-
|3||11秒50||山形愛羽||[[熊本中央高校]]||[[2023年]][[10月14日]]
|-
|4||11秒54||[[高橋萌木子]]||埼玉栄高等学校||[[2006年]][[9月10日]]
|-
|rowspan="3"|5||rowspan="3"|11秒56||石堂陽奈||[[立命館慶祥中学校・高等学校|立命館慶祥高等学校]]||[[2019年]][[8月5日]]
|-
|石川優||[[相洋中学校・高等学校|相洋高等学校]]||[[2020年]][[10月24日]]
|-
|[[青山華依]]||[[大阪高等学校 (私立)|大阪高等学校]]||[[2021年]][[3月28日]]
|-
|8||11秒57||齋藤愛美||[[岡山県立倉敷中央高等学校]]||[[2016年]][[10月7日]]
|-
|9||11秒58||藏重みう||[[中京大学附属中京高等学校]]||[[2021年]][[10月2日]]
|-
|10||11秒60||三浦由奈||[[宮城県柴田高等学校|宮城県立柴田高等学校]]||[[2019年]][[6月27日]]
|-
|}
==== 高校学年別歴代記録 ====
{|class="wikitable"
|+ 男子・高校1年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||10秒45||[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[城西大学附属城西中学校・高等学校|城西大学附属城西高等学校]]||[[2014年]][[10月19日]]
|-
|2||10秒47||[[大瀬戸一馬]]||[[福岡県立小倉東高等学校]]||[[2010年]][[10月2日]]
|-
|3||10秒48||[[大嶋健太]]||[[東京高等学校]]||[[2013年]][[6月15日]]
|-
|4||10秒49||宮本大輔||[[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]]||[[2015年]][[10月17日]]
|-
|5||10秒51||[[荒川岳士]]||[[栃木県立宇都宮東高等学校・附属中学校|栃木県立宇都宮東高等学校]]||[[1990年]][[10月22日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子・高校1年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒60||[[土井杏南]]||[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高等学校]]||[[2011年]][[5月8日]]
|-
|2||11秒65||小針陽葉||[[富士市立高等学校]]||[[2022年]][[10月23日]]
|-
|3||11秒66||[[御家瀬緑]]||[[北海道恵庭北高等学校]]||[[2017年]][[10月8日]]
|-
|4||11秒71||木村茜||[[京都橘中学校・高等学校|京都橘高等学校]]||[[2009年]][[6月19日]]
|-
|5||11秒78||山形愛羽||[[熊本中央高等学校]]||[[2021年]][[10月31日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 男子・高校2年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||10秒19||[[桐生祥秀]]||[[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]]||[[2012年]][[11月3日]]
|-
|2||10秒27||栁田大輝||[[東京農業大学第二高等学校]]||[[2020年]][[8月23日]]
|-
|rowspan=2|3||rowspan=2|10秒28||[[宮崎久]]||[[福岡県立八女工業高等学校]]||[[1997年]][[6月29日]]
|-
|[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[城西大学附属城西中学校・高等学校|城西大学附属城西高等学校]]||[[2015年]][[7月15日]]
|-
|5||10秒29||黒木海翔||[[東福岡高等学校]]||[[2022年]][[9月17日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子・高校2年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒43||[[土井杏南]]||[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高等学校]]||[[2012年]][[5月13日]]
|-
|2||11秒56||石堂陽奈||[[立命館慶祥中学校・高等学校|立命館慶祥高等学校]]||[[2019年]][[8月5日]]
|-
|3||11秒57||齋藤愛美||[[岡山県立倉敷中央高等学校]]||[[2016年]][[10月7日]]
|-
|4||11秒58||藏重みう||[[中京大学附属中京高等学校]]||[[2021年]][[10月2日]]
|-
|5||11秒61||[[青山華依]]||[[大阪高等学校 (私立)|大阪高等学校]]||[[2019年]][[6月14日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 男子・高校3年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||10秒01||[[桐生祥秀]]||[[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]]||[[2013年]][[4月29日]]
|-
|2||10秒19||黒木海翔||[[東福岡自彊館中学校・東福岡高等学校|東福岡高等学校]]||[[2023年]][[10月14日]]
|-
|rowspan="2"|3||rowspan="2"|10秒22||[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[城西大学附属城西中学校・高等学校|城西大学附属城西高等学校]]||[[2016年]][[5月14日]]
|-
|栁田大輝||[[東京農業大学第二高等学校]]||[[2021年]][[6月24日]]
|-
|rowspan="2"|5||rowspan="2"|10秒23||[[大瀬戸一馬]]||[[福岡県立小倉東高等学校]]||[[2012年]][[4月29日]]
|-
|宮本大輔||洛南高等学校||[[2017年]][[6月16日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子・高校3年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒46||[[御家瀬緑]]||[[北海道恵庭北高等学校]]||[[2019年]][[9月8日]]
|-
|2||11秒50||山形愛羽||[[熊本中央高校]]||[[2023年]][[10月14日]]
|-
|3||11秒54||[[高橋萌木子]]||[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高等学校]]||[[2006年]][[9月10日]]
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|11秒56||石川優||[[相洋中学校・高等学校|相洋高等学校]]||[[2020年]][[10月24日]]
|-
|[[青山華依]]||[[大阪高等学校 (私立)|大阪高等学校]]||[[2021年]][[3月28日]]
|-
|}
=== 中学歴代10傑 ===
{|class="wikitable"
|+ 男子
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||10秒54||片山瑛太||[[鎌ケ谷市立第二中学校]]||[[2023年]][[10月14日]]
|-
|2||10秒56||[[宮本大輔 (陸上選手)|宮本大輔]]||[[周南市立周陽中学校]]||[[2014年]][[5月17日]]
|-
|3||10秒60||米山和磨||[[横浜市立茅ヶ崎中学校]]||[[2022年]][[10月1日]]
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|10秒61||年綱晃広||[[西宮市立塩瀬中学校]]|||[[2021年]][[8月6日]]
|-
|安田夢雄生||[[鹿児島市立星峯中学校]]||[[2023年]][[7月15日]]
|-
|6||10秒62||中山智貴||[[亀山市立中部中学校]]||[[2019年]][[7月29日]]
|-
|7||10秒63||矢澤煌希||[[川越市立城南中学校]]||[[2023年]][[6月13日]]
|-
|8||10秒64||[[日吉克実]]||[[伊豆市立修善寺中学校]]||[[2010年]][[8月23日]]
|-
|9||10秒66||土井カハル||[[枚方市立第一中学校]]||[[2023年]][[7月25日]]
|-
|10||10秒67||[[梨本真輝]]||[[流山市立南部中学校]]||[[2008年]][[7月28日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒61||[[土井杏南]]||[[朝霞市立朝霞第一中学校]]||[[2010年]][[8月23日]]
|-
|rowspan=2|2||rowspan=2|11秒73||竹内彩華||[[神戸市立御影中学校]]||[[2005年]][[7月28日]]
|-
|野林祐実||[[熊本市立桜木中学校]]||[[2010年]][[10月2日]]
|-
|4||11秒77||ロス瑚花アディア||世田谷区立駒沢中学校||[[2021年]][[10月22日]]
|-
|rowspan="2"|5||rowspan="2"|11秒79||[[金子朋未]]||[[さいたま市立大谷中学校|大宮市立大谷中学校]]||[[1991年]][[8月21日]]
|-
|鈴木くるみ||上富良野町立上富良野中学校||[[2016年]][[10月30日]]
|-
|7||11秒80||寺平祈愛||木祖村立木祖中学校||[[2022年]][[8月3日]]
|-
|8||11秒82||鈴木咲子||[[七飯町立大中山中学校]]||[[1991年]][[8月21日]]
|-
|rowspan="2"|9||rowspan="2"|11秒86||田路遥香||[[中央大学附属中学校・高等学校|中央大学附属中学校]]||[[2016年]][[8月25日]]
|-
|佐藤俐有||[[田原市立東部中学校]]||[[2021年]][[8月7日]]
|}
==== 中学学年別歴代記録 ====
{|class="wikitable"
|+ 男子・中学1年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒16||[[山本慎吾]]||[[島本町立第一中学校]]||[[1998年]][[10月4日]]
|-
|2||11秒20||鈴木祐太||[[豊橋市立本郷中学校]]||[[2007年]][[10月26日]]
|-
|3||11秒26||[[田嶋和也]]||白河市立白河第二中学校||[[2003年]][[8月9日]]
|-
|4||11秒28||[[宮本大輔 (陸上選手)|宮本大輔]]||[[周南市立周陽中学校]]||[[2013年]][[3月2日]]
|-
|5||11秒31||高琉斗||[[川崎市立宮崎中学校]]||[[2019年]][[10月11日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子・中学1年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒98||ハッサン・ナワール||[[松戸市立第五中学校]]||[[2017年]][[10月8日]]
|-
|2||12秒01||天城帆乃香||浜松市立天竜中学校||[[2011年]][[3月31日]]
|-
|3||12秒10||吉永ひまり||[[川崎市立御幸中学校]]||[[2022年]][[8月21日]]
|-
|4||12秒13||[[三好美羽]]||[[福山市立神辺西中学校]]||[[2022年]][[9月24日]]
|-
|rowspan="2"|5||rowspan="2"|12秒19||北祐子||[[足立区立蒲原中学校]]||[[1980年]][[11月3日]]
|-
|岡林結衣||高知市立大津中学校||[[2022年]][[9月17日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 男子・中学2年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||10秒75||[[宮本大輔 (陸上選手)|宮本大輔]]||[[周南市立周陽中学校]]||[[2014年]][[3月15日]]
|-
|2||10秒80||高柳靖||足利市立毛野中学校||[[1989年]][[8月9日]]
|-
|3||10秒83||田子大輔||[[市原市立八幡東中学校]]||[[2007年]][[7月29日]]
|-
|4||10秒86||[[日吉克実]]||[[伊豆市立修善寺中学校]]||[[2009年]][[8月11日]]
|-
|5||10秒87||藤井清雅||[[君津市立君津中学校]]||[[2019年]][[10月11日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子・中学2年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒87||秋澤理沙||燕市立吉田中学校||[[2021年]][[10月22日]]
|-
|rowspan="2"|2||rowspan="2"|11秒88||ハッサン・ナワール||[[松戸市立第五中学校]]||[[2018年]][[9月23日]]
|-
|三好美羽||[[福山市立神辺西中学校]]||[[2023年]][[9月24日]]
|-
|4||11秒89||[[土井杏南]]||[[朝霞市立朝霞第一中学校]]||[[2009年]][[8月24日]]
|-
|5||11秒97||岡林結衣||高知市立大津中学校||[[2023年]][[7月2日]]
|}
{|class="wikitable"
|+ 男子・中学3年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||10秒54||片山瑛太||[[鎌ケ谷市立第二中学校]]||[[2023年]][[10月14日]]
|-
|2|||10秒56||[[宮本大輔 (陸上選手)|宮本大輔]]||[[周南市立周陽中学校]]||[[2014年]][[5月17日]]
|-
|3||10秒60||米山和磨||[[横浜市立茅ヶ崎中学校]]||[[2022年]][[10月1日]]
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|10秒61||年綱晃広||[[西宮市立塩瀬中学校]]|||[[2021年]][[8月6日]]
|-
|安田夢雄生||[[鹿児島市立星峯中学校]]||[[2023年]][[7月15日]]
|-
|}
{|class="wikitable"
|+ 女子・中学3年歴代5傑
! !!タイム!!名前!!所属!!日付
|-
|1||11秒61||[[土井杏南]]||[[朝霞市立朝霞第一中学校]]||[[2010年]][[8月23日]]
|-
|rowspan=2|2||rowspan=2|11秒73||竹内彩華||[[神戸市立御影中学校]]||[[2005年]][[7月28日]]
|-
|野林祐実||[[熊本市立桜木中学校]]||[[2010年]][[10月2日]]
|-
|4||11秒77||ロス瑚花アディア||世田谷区立駒沢中学校||[[2021年]][[10月22日]]
|-
|rowspan="2"|5||rowspan="2"|11秒79||[[金子朋未]]||[[さいたま市立大谷中学校|大宮市立大谷中学校]]||[[1991年]][[8月21日]]
|-
|鈴木くるみ||上富良野町立上富良野中学校||[[2016年]][[10月30日]]
|}
== 五輪・世界選手権における日本人入賞者 ==
=== 五輪・世界選手権における日本人男子入賞者 ===
{|class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small"!年!!大会!!開催国!!選手名!!成績!!記録
|-
|1932||[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|第10回オリンピック競技大会(ロサンゼルス)]]||{{USA}}||[[吉岡隆徳]]||6位||10秒79
|-
|2022||[[2022年世界陸上競技選手権大会|第18回世界陸上競技選手権大会(オレゴン)]]||{{USA}}||[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||7位||10秒06
|-
|2023||[[2023年世界陸上競技選手権大会|第19回世界陸上競技選手権大会(ブダペスト)]]||{{HUN}}||[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||6位||10秒04
|}
*[[1932年]][[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]において[[吉岡隆徳]]が6位入賞を果たした。この種目では日本人初のファイナリストであり、アジア勢では初の快挙だった。
<!--
==年齢世代別世界記録==
*[[2013年]][[7月28日]]、第30回記念[[九州マスターズ陸上競技選手権大会]](鹿児島県立鴨池陸上競技場)で90歳代女子100メートル走で[[熊本県]][[八代市]]の90歳の女性が20秒80の日本新記録を出した<ref>[https://web.archive.org/web/20130807103321/http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20130806-OYT1T00354.htm 女子日本記録を20秒以上更新!「次は世界」]読売新聞2013年8月6日</ref>。この女性は85歳以上の世界記録19秒83を持っている。
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 記録年鑑2014、『月刊陸上競技』第49巻第5号、講談社、2015年4月号別冊付録。
== 関連項目 ==
* [[男子100メートル競走世界記録の推移]]
* [[女子100メートル競走世界記録の推移]]
* [[10秒の壁]]
* [[陸上競技の世界記録一覧]]
* [[陸上競技のオリンピック記録一覧]]
* [[世界陸上競技選手権大会#大会記録|世界陸上競技選手権大会 大会記録]]
* [[陸上競技の日本記録一覧]]
* [[日本陸上競技選手権大会の記録一覧 (男子)]]
* [[日本陸上競技選手権大会の記録一覧 (女子)]]
* [[オリンピックの陸上競技・男子メダリスト一覧]]
* [[オリンピックの陸上競技・女子メダリスト一覧]]
* [[ダイヤモンドリーグ]]
* [[100ヤード競走]]
== 外部リンク ==
* [http://www.iaaf.org/ 国際陸上競技連盟](IAAF)
* [http://www.jaaf.or.jp/fan 日本陸上競技連盟](JAAF)
* [http://www.world-masters-athletics.org/index.php 世界マスターズ陸上競技協会](WMA)
* [http://www.mastersathletics.net/ マスターズ陸上競技]
* [http://www.jaaf.or.jp/athlete/rule/ 日本陸上競技連盟 ルールブック]
* [https://web.archive.org/web/20110903223836/http://www.world-masters-athletics.org/records/outdoor-men 世代別世界記録(男子)]
* [https://web.archive.org/web/20110720232434/http://www.world-masters-athletics.org/records/outdoor-women 世代別世界記録(女子)]
* {{Cite web|和書|author=[[為末大]](スポーツコメンテーター)|date=2017年9月22日|url=https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/281504.html|title=「9秒台の未来へ」(視点・論点) - 解説アーカイブス|work=[[NHK解説委員室|解説委員室]]|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|accessdate=2018-04-08|ref=視論-2017 }}
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[[Category:陸上競技種目]]
[[Category:短距離走]]
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|
11,304 |
センチメートル
|
センチメートル(フランス語: centimètre、英語: centimetre、記号 cm)は、国際単位系 (SI) の長さの単位で、1/100メートル (m) に相当する。SI基本単位のメートルと1/100を表すSI接頭語であるセンチを組み合わせた分量単位である。
ミリメートル ≪ センチメートル ≪ デシメートル ≪ メートル
CGS単位系においては基本単位であった。
多くの物理量の表記では、SI接頭語としてナノ(n)、マイクロ(μ)、ミリ (m) 、キロ (k)、メガ (M)、ギガ(G)などの、10毎の倍数となっているものを使用することが技術者や科学者に好まれる(SI接頭語#103毎の倍数の推奨)が、日常的な長さの計量においてはセンチメートルがよく使われる。
国際単位系では、センチメートルに限らず「10 (百分の一)」を意味する単位の頭には「センチ (c)」が付くが、日本では、単に「センチ」というと「センチメートル」を指す例が見られる。
漢字(国字)では「糎」と表記する。「珊」と表記される例もみられる。
"cm"は口頭では「センチメーター」とも読まれることもあるが、この表記は日本の計量法上は認められない。
Unicodeには、CJK互換用文字として上記の文字が収録されている。これは、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであり、使用は推奨されない。
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センチメートルは、国際単位系 (SI) の長さの単位で、1/100メートル (m) に相当する。SI基本単位のメートルと1/100を表すSI接頭語であるセンチを組み合わせた分量単位である。 1 cm = 0.01 m = 10 mm
1 cm3 = 1 mL ミリメートル ≪ センチメートル ≪ デシメートル ≪ メートル
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}}
'''センチメートル'''({{lang-fr|centimètre}}、{{lang-en|centimetre}}、記号 '''cm''')は、[[国際単位系]] (SI) の[[長さの単位]]で、1/100[[メートル]] (m) に相当する。[[SI基本単位]]のメートルと1/100を表す[[SI接頭語]]である[[センチ]]を組み合わせた分量単位である<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.112、 [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月</ref>。
* 1 cm = 0.01 [[メートル|m]] = 10 [[ミリメートル|mm]]
* 1 cm<sup>3</sup> = 1 [[ミリリットル|mL]]
[[ミリメートル]] ≪ '''センチメートル''' ≪ [[デシメートル]] ≪ [[メートル]]
==概要==
[[CGS単位系]]においては[[基本単位]]であった。
多くの[[物理量]]の表記では、[[SI接頭語]]として[[ナノ]](n)、[[マイクロ]](µ)、[[ミリ]] (m) 、[[キロ]] (k)、[[メガ]] (M)、[[ギガ]](G)などの、10<sup>3</sup>毎の倍数となっているものを使用することが技術者や科学者に好まれる([[SI接頭語#103毎の倍数の推奨]])が、日常的な[[長さ]]の計量においてはセンチメートルがよく使われる。
[[国際単位系]]では、センチメートルに限らず「10<sup>-2</sup> (百分の一)」を意味する単位の頭には「センチ (c)」が付くが、日本では、単に「[[センチ]]」というと「センチメートル」を指す例が見られる。
漢字(国字)では「糎」と表記、「珊」と表記される例も見られたが、[[1950年]]([[昭和]]25年)以降は滅多に使われなくなった。
"cm"は口頭では「センチメーター」とも読まれることもあるが、この表記は[[日本]]の[[計量法]]上は認められない。{{main|[[メートル#日本語の表記]]}}
==長さ以外の使用法==
* [[CGS単位系]]では、センチメートルは[[静電容量]]の単位としても使用する。1センチメートルの静電容量は約{{val|1.113|e=-12}}[[ファラド]]に等しい<ref>[http://scienceworld.wolfram.com/physics/Capacitance.html Capacitance - from Eric Weisstein's World of Physics<!-- Bot generated title -->]</ref>。
==符号位置==
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[[Unicode]]には、[[CJK互換用文字]]として上記の文字が収録されている。これは、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであり、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[長さの比較]]
** [[1 E-2 m]] : 1 cm - 10 cm
* [[単位一覧]]
* [[単位の換算一覧]]
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おたく
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おたくとは、愛好者を指す呼称で、1980年代に日本のサブカルチャーから広まった言葉である。元来の「お宅」は相手の家や家庭を指す敬称の二人称代名詞であるが、ある特定のサブカルチャーの愛好者を指し示す、現在使われている言葉としての「おたく」の起源は、1983年にコラムニストの中森明夫が「コミックマーケット」に集うSFや漫画・アニメなどの若いファン達がお互いを「おたく」と呼び合っていた現象を揶揄して、彼らを「おたく」として分類したことにある。
1989年に発覚した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件において、犯人が収集していたアニメや特撮等の多数のビデオテープや漫画雑誌を、マスコミが事件と関連付けて盛んに報道したことで、世の中でオタクバッシングが起こり、皮肉にもその「おたく」の存在が世間一般に広く知られるようになった。そのため、当初は漫画やアニメ、コンピュータゲーム、アイドルなどの趣味を持つ人たちと、社会性が欠如している人間や対人コミュニケーションが不得意な人等を、十把一絡げにして指し示す否定的な意味合いを持つ言葉として使用されることが多かった。
その後、1990年代後半からのインターネットの普及やアニメや漫画、コンピュータゲーム、アイドルの社会的地位の向上によりおたくへの悪い印象は薄れ、現在では単なる「ファン」や「マニア」と同義で使われることも多い。
ただし、学校の校則において中高生に人気の容姿は規制される一方で、「おたく」のような容姿は定義しづらく規制されにくい傾向があり、生徒の目には不当に贔屓されているように映ることから、ブラック校則が「おたく」への嫌悪を生み出している場合がある。 オタクまたはヲタクとも表記される。
「おたく」の元の語源は、相手の家を指す敬称である「御宅」であり、転じて相手の家庭、夫を指す二人称代名詞として使われた。1950年代からの学生運動により、青年層を中心に、相手個人を指す敬称としても使われ始めた。「あなた」や「きみ」と比べて距離をおいた呼びかけとしてその後、若者言葉のような形で一般的に使われるようになった。
「おたく」が「おたく」と呼ばれる以前の歴史は、それほど研究されていない。内田樹は、「SF」から「オタク」へのテイクオフは1960年代後期の少年文化の「過政治化」に対する反動であり、自閉的で自分の立ち位置について客観的に語ることができないとしている。
1982年から放送されたロボットアニメ『超時空要塞マクロス』の中で、主人公の一条輝がリン・ミンメイ相手に「御宅(おたく)」という二人称を使う場面があり、ファンがコミケやSF大会などでこの呼び方を真似たことで 、アニメファンの中で相手を指し示す際の「おたく」という言葉の用法が広まったとされる。
ある特定のジャンルのサブカルチャーを好きな人そのものを指し示す、現在使われている意味・言葉としての「おたく」は、日本で2番目となるロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』(白夜書房、当時はセルフ出版)1983年6月号から8月号まで中森明夫が連載した『東京おとなクラブ』の出張コーナー『東京おとなクラブJr.』内のコラム「『おたく』の研究」が初出とされている。中森はコミックマーケット(コミケ)に集まる人々を「おたく」として活字で次のように表現した。
それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。(中略)もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたいが十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。(中略)
また、中森はコミケに集まる人々の他の特徴として、「ブルトレ撮りに行って線路上でひき殺されそうになる奴」(当時は「撮り鉄」という呼称はなかった)、「アニメ映画の公開前日に並んで待つ奴」、「マイコンショップでたむろってる牛乳ビン底メガネの理系少年」、「S-Fマガジンのバックナンバーとハヤカワ・SF・シリーズが本棚にビシーッと揃ってる奴」、「有名進学塾に通ってて、勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」などを挙げ、そうした普段は暗いのにコミケだとやたらにはしゃぐ少年少女、理系やガリ勉、そして対人コミュニケーションが不得意な人らを一括りにして、「おたく」と命名した。
中森が同連載で「中学生ぐらいのガキがコミケとかアニメ大会とかで友達に「おたくら さぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない」「けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、女なんか出来るわきゃないんだよね」といった差別的な文章を書いたことで、読者から怒り・反感の投書が殺到した。編集としても静観するわけにもいかず、1983年8月号で「『おたく』の研究」は休止となり、1983年9月号の読者投稿欄「新宿マイナークラブ」では、代表的な読者の反応を掲載するとともに、編集部の大塚英志は「相手の立場をからかうなら自分の立場をふまえてからでないと、単なる誹謗中傷に終わってしまいます。その意味で非生産的な中森君の文章は困ったものだと思い、改善を求めておりました」と中森を非難した。一方、雑誌内雑誌『東京おとなクラブJr.』の担当編集者であった小形克宏(旧・緒方源次郎)は「ちょっと後味悪いけど、まあ別にいいんじゃないって思ったのに、相棒だった大塚英志さんが許さず、彼との間で議論になりました。『ブリッコ』は僕と大塚さんとできっちり担当を分けていたので、僕のページに口を出されるのは心外だったんですけど、結局大塚さんに『読者の悪口は載せられない』と言い負かされました」と同人誌のインタビューで証言しており、大塚の一連の言動は、担当者の枠を超えた越権行為まがいの容喙であったとしている。
その後、「『おたく』の研究」は1984年1月号で終了したが、大塚は1984年6月号の読者投稿欄で再度、「おたく」についての立場表明を行い、「中森氏の『おたくの研究』についてぼくは担当の緒方に対し毎回、『不快感』を表明してきました。中森氏の文章は<健全な批判>ではなく<差別>を目的としたものと目に映ったからです」と改めて非難したが、その一方で「最終的には登場をご遠慮願うことになったのですが、意外だったのは中森氏の文章に読者を含めて、相当の支持者がいたことです。たしかに感情的な文章と<おたく>という語の差別用語としての秀逸さ(?)は無責任におもしろがるには充分のものだったといえます。結局のところ、<おたく>なる語はすっかり定着してしまいました」と述べた。
岡田斗司夫は、おたくを「収容所に入れられた囚人」であるとしてこう語っている。
それを外側からひとまとめにして、ああいう奴らを「おたく」と言うんだと決めつけられてから、私たちの民族が発生した。だから、正確に言うと民族じゃなくて私たちはもともとは他者から「強制収容所に入れられた囚人」でした。
なお、竹熊健太郎と『漫画ブリッコ』元編集部の小形克宏は、当時を振り返って「おたく」という造語がシニカルながらも秀逸なネーミングであったことを認めつつ、命名者の中森明夫に対して、ある種の違和感を抱いていたことを次のように語っている。
竹熊 中森氏の「おたくコラム」について、担当者としてはどう考えていたんですか? そう言えば聞いた事がなかったけど。小形 そうだなあ、「庇いきれなくてごめん」って感じだなあ。竹熊 あれ、「差別文章」だとは思いました? 僕はきついなあ、と思ったけど、げらげら大笑いした記憶があります。小形 そうだなあ、きつかったよねえ。でも中森氏の持ち味だからねえ。まあ、おれが感じたのは「中森くんだって、この中に書かれているおたくじゃないのかなあ」ってことかな。そして「おれもそうだなあ」ということ。そうでしょ?竹熊 中森くんも小形くんも、僕も、大塚さんだってオタクだよね。それで、本が出て2ヶ月後のコミケでは、もうみんな「おたく」って言い合ってました。最初はオタクが自分の事を自嘲するスラングでしたよね。小形 そうだね。でも、中森氏は一貫して「自分はオタクじゃない」って言ってる。すごい不思議だけど。大塚氏もきっと違うと思っていると思う。確かめたことないけど。竹熊 不思議だよねえ。周囲のオタクはむしろ喜んで使ってた感じだったけどねえ。とにかく「あ、それ!」と膝を打つぴったりなネーミングだった。小形 そうね、なんとなく意識していた程度のものに、名前が付いて以降意識せざるを得なくなった瞬間。竹熊 なんかもやもやとあったけど、名前がついて一挙に定着した感じだよね。でもオタクが一般化したのは、やはり7年後の宮崎事件でしたね。あれでマスコミが使い出して自嘲語から差別語になった印象があります。小形 あの時、中森氏が電話かけてきたんだよね。「大塚さんの連絡先教えて」って。「悪いけど今は知らないんだ」って答えたけど。自分から大塚氏に連携を呼びかけようとしていた。昔打ち切られたのに、偉いなあってすごく感心した。
—おたくの語源―”非”大塚英志史観の『漫画ブリッコ』再検証
1988年から1989年にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(以下「宮﨑勤事件」)において、犯人の宮崎勤が収集していた特撮やアニメ、ホラー映画のビデオテープ、漫画やアニメ雑誌などをマスコミ・メディアが取り上げ、「現実と虚構の区別が付かなくなり犯行に及んだ」として、センセーショナルに報じた。その際、宮崎の個室部屋が報道され、四台のビデオデッキと6000本近いビデオテープが万年床を乱雑に囲んだその部屋は、犯人の異常性を示すものとして注目を浴びた。当時まだ一般に浸透していなかった“おたく”という人格類型の呼称が定着したのも、この事件によるものだった。ただ、宮崎の部屋は殺人犯特有の特殊なものというよりは、オタクの部屋にしばしばみられる傾向として、オタクたち自身にも認識されている。
この事件により、「おたく=変質者・犯罪者予備軍」というイメージが定着し、おたくは印象の悪い言葉として広まった。この時期、「おたく」という言葉はNHKでは放送禁止用語とされ、使用できない言葉であった。現在でもこの影響は残っており、おたくを性犯罪と結びつける報道がなされることがある。
宮崎勤事件によって「おたく」に注目が集まる中、無署名で活動していたフリーライターが1990年に『週刊SPA!』上で、おたく評論家「宅八郎」としてデビュー。翌年の1991年にワンレングスの長髪に銀縁眼鏡、マジックハンドとアイドルのフィギュア、手提げ紙袋を持つという姿でテレビ番組に出演し、強烈なインパクトを残した。いわゆるオタク史の中の位置づけとして、宅八郎は宮崎勤事件と並んで「オタクの間違ったイメージを広めた」存在として語られることが多い。宅八郎と長年交流のあった大泉実成は、宅について、「彼にはオタクのプラス面をアピールしたいという思いがあった。ただ、その擁護の仕方がめちゃくちゃで、誤爆のようなところがあった」と振り返っている。宅のメディアでの風貌は作られたものであり、オタクに見える服を着て、おたくを演じていた。大泉は、「オタクと呼ばれていた当事者たちからは、演じていることはバレバレ。迷惑でもあっただろう」「オタクの歴史を語るうえでは、あだ花のような存在でしょう」と語る一方で、宅の著書『イカす!おたく天国』について、「負のイメージが強かったオタクを、特定の分野に特化した優秀な存在として社会に伝えた。その意味はあると思う」と評している。
1990年代前半には、依然として「おたく=変質者・犯罪者予備軍・社会不適応者」とみなす論調があり、1991年にはコミケ幕張メッセ追放事件が起きた。
一方で1990年代後半からは、海外で日本の漫画やアニメ、ゲーム等が流通していることが徐々に知られるようになり、1995年から放送された『新世紀エヴァンゲリオン』が、社会現象と評されるほどのヒットとなって多くのメディアで取り上げられたことや、一般向け作品ではあるが1997年のスタジオジブリ作品で宮崎駿監督の『もののけ姫』が、当時のアニメ映画としては異例の興行収入193億円のメガヒットを記録するなど、アニメや漫画などが公平に報道・評価されることも増えつつあった。
そのような流れもあり、1996年にはNHKBS2で、漫画を紹介・解説する『BSマンガ夜話』が放送を開始するなど、漫画やアニメといったサブカルチャーが、小説や実写映画等といったメインカルチャーと同じ土俵で語られることも徐々に増え始めた。
また、『AKIRA』(1986年)や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)といったアニメや漫画が海外のクリエイターにも大きな影響を与え、更にはその二作品にも影響を受けた、1999年公開のハリウッド映画『マトリックス』が、世界的に大ヒットを記録した事などがきっかけで、日本でも「ジャパニメーション(Japanimation)」が逆輸入的な形で評価され始めた。
岡田斗司夫は、1980年代後半から1990年代までのオタクを取り巻く状況について、こう語っている。
また、岡田はこのようなおたくへの評価が好転した要因として、「オタクたちの努力だけではなく、日本経済が行き詰まっていたことも挙げられる」と述べている。
漫画こそ、日本が世界に誇りうる独自の文化で、これからもっと世界に浸透していくだろう。マルチメディア時代になれば、コンビューターソフトと結びついておもしろい社会をつくると思う。世界に広がる漫画が、管理教育、官僚文化に風穴を開けてほしいものだ。
批評家の東浩紀も1990年代の不況と関連付けて分析をしている。
2005年(平成17年)には、アキバ系アニメオタクの青年が主人公である、2ちゃんねる発の恋愛小説『電車男』が映画化及びフジテレビのゴールデンタイムでドラマ化され、女性層や若年層を中心にヒットしたことで、宮崎事件以降長らく続いていた、オタクへの否定的なイメージが払拭されるきっかけとなった。この頃にようやく、変質者や犯罪者予備軍などといった、マイナスイメージではないオタク像が世間一般に広く認知されるようになり、マンガやアニメといった二次元文化が、カジュアルな趣味として市民権を得るようになったといえる。その市場規模については、2005年時点で4110億円(野村総研調べ)と推定され、有望な市場としても注目が集まった。
更には同年の流行語大賞に「萌え」や「メイドカフェ」がノミネートされるなど、オタク文化が世間一般に広まり始めた。
一方で、それまで副次的な要素にすぎなかった「萌え」文化も、おたく文化の主要な要素とみなされるようになり、「おたく=何かに萌えている人」「おたく=秋葉原にいる人」という偏見も生まれ、「オタク=アニメ・アイドルのオタク」というイメージがより一層強まる結果となった。
この頃には日本のアニメや漫画に強く影響された外国人の存在が徐々に知られるようになり、おたく文化が外国人から注目されていることが知られるようになったため、その評価が逆輸入される形でも地位は向上した。2003年(平成15年)には、おたく文化に強く影響を受けた外国人によって英語圏最大の匿名掲示板「4chan」が開設され、アニメや漫画に特化した大規模なコミュニティが英語圏にも生まれた。
2000年代後半からは動画投稿サイトにより、ゲームの「実況プレイ」や、『初音ミク』を使用したVOCALOID楽曲などが流行し、同時期の深夜アニメバブルを追い風に、2006年の『涼宮ハルヒの憂鬱』などの深夜アニメ作品がインターネットで人気を博した。
2007年(平成19年)に大学生を対象に行われた調査によると、おたくが受容される傾向にあることが示され、オタク文化への認知が進んだ。調査では、自らがおたくであると思い当たるフシがある、親しい友人におたく的な人がいると答えたものが増加しており、おたくの内集団化が進んだとされる。
また、2007年には、麻生太郎外務大臣(当時)がサブカルチャーを利用して日本を代表する外交活動を行い、外国人漫画家に贈られる「国際漫画賞」を創設した。
2007年放送の『らき☆すた』では、所謂「聖地巡礼」がブームとなり、それを地元の自治体が町おこしに活用するという現象も生まれた。そうした一連の流れを「萌えおこし」と称することもあり、以降、このような聖地巡礼や萌えおこしは他作品でも一般化していくことになる。
一方で大塚英志は、世間のオタク観をこう批判している。
2010年代以降、iPhoneやAndroidが普及し、PCよりもスマートフォンでインターネットに全世代が触れるようになった。テレビ、電子掲示板、動画共有サイト、TwitterなどのSNSなどでオタク文化が拡散したことで、マニアックな話題で交流を行うことが広く理解された。
2010年頃から、「AKB48」や「ももいろクローバーZ」などのブレイクによりアイドルブームが起こった。AKB48のヒットにより、「推し」という言葉が一般化し、女性アイドルだけではなく男性アイドルやアニメのキャラクターなど、様々なジャンルでも使用されるようになった。
オタクという呼称そのものも半ば陳腐化し、「オタ」と気軽な呼び方で使用されたほか、「鉄オタ」「特撮オタ」のようにファンやマニアと同義に使われることが増えた。
2010年代後半から、「Netflix」や「Amazonプライム・ビデオ」をはじめとした定額制動画配信サービスの台頭で、映像作品に触れる機会が多くなってきたことからオタクに憧れる若者も増えてきている。その背景として、博報堂DYメディアパートナーズの森永真弓は、世間からの「個性的でなければいけない」という外圧により、「無理して個性を作らなければいけない」と焦る若者が増えているとして、その理由を「カルチャーシーンから“メジャー”が消えてしまったから」だと分析し、「属するだけで安心できていたメジャーが消えてしまった今、彼らが探しているのは、要は“拠りどころ”なんだと思います。自分が属しているだけで、楽しいと思える場所。それが、オタクという属性です。(中略)推し活動をしているオタクはすごく輝いているから、自分もああなりたいと切望する。もしそうなれて、オタクという属性を手に入れられれば、結果的に自分は“個性的”にもなれる、と捉えている。だから正確に言えば、“オタクになりたい”んじゃなくて、“拠りどころになりうる、好きなものが欲しい”だし、それは“個性的な自分でありたい”だし、一番正直に言うなら“自己紹介欄に書く要素が欲しい”なんですよね」と語っている。
原田曜平は、非常に多くの若者たちが、自分のことを「オタク」と自称するようになっていることを挙げ、本来であれば、サブカルチャー好きを指す言葉である「オタク」というワードが、メジャーなカルチャーにまで使われるようになってきていることに驚いたと述べている。また、話題になった作品だけをチェックしており、オタク知識は総じてそう深くない「エセオタク」が増えており、濃度の高いオタク(ガチオタ)からは「にわかオタク」と揶揄されることもある。
また、日本政府が観光資源の一環として、国策で「クールジャパン」戦略を行うようになったのも2010年代からであり、迫害から一転し、おたく文化は政府お墨付きの“体制側”の文化になったとも言える。
オタク層は選挙の動きも左右するほどになっており、第25回参議院議員通常選挙で自民党の山田太郎が当選した際には、オタク票を味方につけたことが勝因と評された。第26回参議院議員通常選挙では漫画家の赤松健(自民党)が比例トップ当選し、自民党内の組織票系候補者すら軽く上回っている。
2016年に行われた調査によると、18歳から29歳の間で好きなテレビ番組のうち、10年前から大きく伸びているジャンルが「アニメ」であり、20pt以上増加しているのに対して、「音楽」「スポーツ」が10pt以上低下している。また、若者女性も男性と同様に、大きく伸びているのは「アニメ」で、「音楽」「現代ドラマ」が約10ptダウンするなど、若者の好きなテレビ番組を2006年と比較すると、男女ともに「アニメ」が大きく上昇している。一方で、「バラエティ番組」「音楽」「スポーツ」「テレビドラマ」が低下するなど、テレビ番組に対する好みが10年間で大きく変化しており、アニメとスポーツやテレビドラマ等といった大衆文化(メインカルチャー)との、人気の逆転現象が見受けられる。
「おたく」の意味や定義は世代によって大きく異なる。そのため、おたくを題材とした評論では、1960年前後生まれを第一世代として10年ごとに1970年前後生まれを第二世代、1980年前後生まれを第三世代と、世代で分類することが多い。世代が下がるにつれて「ライトなオタクが増えている」との指摘もある。ここでは個人の違いは捨象し、世代ごとの大まかな傾向を概観する。
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"text": "ある特定のジャンルのサブカルチャーを好きな人そのものを指し示す、現在使われている意味・言葉としての「おたく」は、日本で2番目となるロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』(白夜書房、当時はセルフ出版)1983年6月号から8月号まで中森明夫が連載した『東京おとなクラブ』の出張コーナー『東京おとなクラブJr.』内のコラム「『おたく』の研究」が初出とされている。中森はコミックマーケット(コミケ)に集まる人々を「おたく」として活字で次のように表現した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。(中略)もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたいが十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。(中略)",
"title": "歴史"
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"text": "また、中森はコミケに集まる人々の他の特徴として、「ブルトレ撮りに行って線路上でひき殺されそうになる奴」(当時は「撮り鉄」という呼称はなかった)、「アニメ映画の公開前日に並んで待つ奴」、「マイコンショップでたむろってる牛乳ビン底メガネの理系少年」、「S-Fマガジンのバックナンバーとハヤカワ・SF・シリーズが本棚にビシーッと揃ってる奴」、「有名進学塾に通ってて、勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」などを挙げ、そうした普段は暗いのにコミケだとやたらにはしゃぐ少年少女、理系やガリ勉、そして対人コミュニケーションが不得意な人らを一括りにして、「おたく」と命名した。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "中森が同連載で「中学生ぐらいのガキがコミケとかアニメ大会とかで友達に「おたくら さぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない」「けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、女なんか出来るわきゃないんだよね」といった差別的な文章を書いたことで、読者から怒り・反感の投書が殺到した。編集としても静観するわけにもいかず、1983年8月号で「『おたく』の研究」は休止となり、1983年9月号の読者投稿欄「新宿マイナークラブ」では、代表的な読者の反応を掲載するとともに、編集部の大塚英志は「相手の立場をからかうなら自分の立場をふまえてからでないと、単なる誹謗中傷に終わってしまいます。その意味で非生産的な中森君の文章は困ったものだと思い、改善を求めておりました」と中森を非難した。一方、雑誌内雑誌『東京おとなクラブJr.』の担当編集者であった小形克宏(旧・緒方源次郎)は「ちょっと後味悪いけど、まあ別にいいんじゃないって思ったのに、相棒だった大塚英志さんが許さず、彼との間で議論になりました。『ブリッコ』は僕と大塚さんとできっちり担当を分けていたので、僕のページに口を出されるのは心外だったんですけど、結局大塚さんに『読者の悪口は載せられない』と言い負かされました」と同人誌のインタビューで証言しており、大塚の一連の言動は、担当者の枠を超えた越権行為まがいの容喙であったとしている。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "その後、「『おたく』の研究」は1984年1月号で終了したが、大塚は1984年6月号の読者投稿欄で再度、「おたく」についての立場表明を行い、「中森氏の『おたくの研究』についてぼくは担当の緒方に対し毎回、『不快感』を表明してきました。中森氏の文章は<健全な批判>ではなく<差別>を目的としたものと目に映ったからです」と改めて非難したが、その一方で「最終的には登場をご遠慮願うことになったのですが、意外だったのは中森氏の文章に読者を含めて、相当の支持者がいたことです。たしかに感情的な文章と<おたく>という語の差別用語としての秀逸さ(?)は無責任におもしろがるには充分のものだったといえます。結局のところ、<おたく>なる語はすっかり定着してしまいました」と述べた。",
"title": "歴史"
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"text": "岡田斗司夫は、おたくを「収容所に入れられた囚人」であるとしてこう語っている。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "それを外側からひとまとめにして、ああいう奴らを「おたく」と言うんだと決めつけられてから、私たちの民族が発生した。だから、正確に言うと民族じゃなくて私たちはもともとは他者から「強制収容所に入れられた囚人」でした。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、竹熊健太郎と『漫画ブリッコ』元編集部の小形克宏は、当時を振り返って「おたく」という造語がシニカルながらも秀逸なネーミングであったことを認めつつ、命名者の中森明夫に対して、ある種の違和感を抱いていたことを次のように語っている。",
"title": "歴史"
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"text": "竹熊 中森氏の「おたくコラム」について、担当者としてはどう考えていたんですか? そう言えば聞いた事がなかったけど。小形 そうだなあ、「庇いきれなくてごめん」って感じだなあ。竹熊 あれ、「差別文章」だとは思いました? 僕はきついなあ、と思ったけど、げらげら大笑いした記憶があります。小形 そうだなあ、きつかったよねえ。でも中森氏の持ち味だからねえ。まあ、おれが感じたのは「中森くんだって、この中に書かれているおたくじゃないのかなあ」ってことかな。そして「おれもそうだなあ」ということ。そうでしょ?竹熊 中森くんも小形くんも、僕も、大塚さんだってオタクだよね。それで、本が出て2ヶ月後のコミケでは、もうみんな「おたく」って言い合ってました。最初はオタクが自分の事を自嘲するスラングでしたよね。小形 そうだね。でも、中森氏は一貫して「自分はオタクじゃない」って言ってる。すごい不思議だけど。大塚氏もきっと違うと思っていると思う。確かめたことないけど。竹熊 不思議だよねえ。周囲のオタクはむしろ喜んで使ってた感じだったけどねえ。とにかく「あ、それ!」と膝を打つぴったりなネーミングだった。小形 そうね、なんとなく意識していた程度のものに、名前が付いて以降意識せざるを得なくなった瞬間。竹熊 なんかもやもやとあったけど、名前がついて一挙に定着した感じだよね。でもオタクが一般化したのは、やはり7年後の宮崎事件でしたね。あれでマスコミが使い出して自嘲語から差別語になった印象があります。小形 あの時、中森氏が電話かけてきたんだよね。「大塚さんの連絡先教えて」って。「悪いけど今は知らないんだ」って答えたけど。自分から大塚氏に連携を呼びかけようとしていた。昔打ち切られたのに、偉いなあってすごく感心した。",
"title": "歴史"
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"text": "—おたくの語源―”非”大塚英志史観の『漫画ブリッコ』再検証",
"title": "歴史"
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"text": "1988年から1989年にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(以下「宮﨑勤事件」)において、犯人の宮崎勤が収集していた特撮やアニメ、ホラー映画のビデオテープ、漫画やアニメ雑誌などをマスコミ・メディアが取り上げ、「現実と虚構の区別が付かなくなり犯行に及んだ」として、センセーショナルに報じた。その際、宮崎の個室部屋が報道され、四台のビデオデッキと6000本近いビデオテープが万年床を乱雑に囲んだその部屋は、犯人の異常性を示すものとして注目を浴びた。当時まだ一般に浸透していなかった“おたく”という人格類型の呼称が定着したのも、この事件によるものだった。ただ、宮崎の部屋は殺人犯特有の特殊なものというよりは、オタクの部屋にしばしばみられる傾向として、オタクたち自身にも認識されている。",
"title": "歴史"
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"text": "この事件により、「おたく=変質者・犯罪者予備軍」というイメージが定着し、おたくは印象の悪い言葉として広まった。この時期、「おたく」という言葉はNHKでは放送禁止用語とされ、使用できない言葉であった。現在でもこの影響は残っており、おたくを性犯罪と結びつける報道がなされることがある。",
"title": "歴史"
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"text": "宮崎勤事件によって「おたく」に注目が集まる中、無署名で活動していたフリーライターが1990年に『週刊SPA!』上で、おたく評論家「宅八郎」としてデビュー。翌年の1991年にワンレングスの長髪に銀縁眼鏡、マジックハンドとアイドルのフィギュア、手提げ紙袋を持つという姿でテレビ番組に出演し、強烈なインパクトを残した。いわゆるオタク史の中の位置づけとして、宅八郎は宮崎勤事件と並んで「オタクの間違ったイメージを広めた」存在として語られることが多い。宅八郎と長年交流のあった大泉実成は、宅について、「彼にはオタクのプラス面をアピールしたいという思いがあった。ただ、その擁護の仕方がめちゃくちゃで、誤爆のようなところがあった」と振り返っている。宅のメディアでの風貌は作られたものであり、オタクに見える服を着て、おたくを演じていた。大泉は、「オタクと呼ばれていた当事者たちからは、演じていることはバレバレ。迷惑でもあっただろう」「オタクの歴史を語るうえでは、あだ花のような存在でしょう」と語る一方で、宅の著書『イカす!おたく天国』について、「負のイメージが強かったオタクを、特定の分野に特化した優秀な存在として社会に伝えた。その意味はあると思う」と評している。",
"title": "歴史"
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"text": "1990年代前半には、依然として「おたく=変質者・犯罪者予備軍・社会不適応者」とみなす論調があり、1991年にはコミケ幕張メッセ追放事件が起きた。",
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"text": "一方で1990年代後半からは、海外で日本の漫画やアニメ、ゲーム等が流通していることが徐々に知られるようになり、1995年から放送された『新世紀エヴァンゲリオン』が、社会現象と評されるほどのヒットとなって多くのメディアで取り上げられたことや、一般向け作品ではあるが1997年のスタジオジブリ作品で宮崎駿監督の『もののけ姫』が、当時のアニメ映画としては異例の興行収入193億円のメガヒットを記録するなど、アニメや漫画などが公平に報道・評価されることも増えつつあった。",
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"text": "そのような流れもあり、1996年にはNHKBS2で、漫画を紹介・解説する『BSマンガ夜話』が放送を開始するなど、漫画やアニメといったサブカルチャーが、小説や実写映画等といったメインカルチャーと同じ土俵で語られることも徐々に増え始めた。",
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"text": "また、『AKIRA』(1986年)や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)といったアニメや漫画が海外のクリエイターにも大きな影響を与え、更にはその二作品にも影響を受けた、1999年公開のハリウッド映画『マトリックス』が、世界的に大ヒットを記録した事などがきっかけで、日本でも「ジャパニメーション(Japanimation)」が逆輸入的な形で評価され始めた。",
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"text": "岡田斗司夫は、1980年代後半から1990年代までのオタクを取り巻く状況について、こう語っている。",
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"text": "また、岡田はこのようなおたくへの評価が好転した要因として、「オタクたちの努力だけではなく、日本経済が行き詰まっていたことも挙げられる」と述べている。",
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"text": "漫画こそ、日本が世界に誇りうる独自の文化で、これからもっと世界に浸透していくだろう。マルチメディア時代になれば、コンビューターソフトと結びついておもしろい社会をつくると思う。世界に広がる漫画が、管理教育、官僚文化に風穴を開けてほしいものだ。",
"title": "歴史"
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"text": "批評家の東浩紀も1990年代の不況と関連付けて分析をしている。",
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"text": "2005年(平成17年)には、アキバ系アニメオタクの青年が主人公である、2ちゃんねる発の恋愛小説『電車男』が映画化及びフジテレビのゴールデンタイムでドラマ化され、女性層や若年層を中心にヒットしたことで、宮崎事件以降長らく続いていた、オタクへの否定的なイメージが払拭されるきっかけとなった。この頃にようやく、変質者や犯罪者予備軍などといった、マイナスイメージではないオタク像が世間一般に広く認知されるようになり、マンガやアニメといった二次元文化が、カジュアルな趣味として市民権を得るようになったといえる。その市場規模については、2005年時点で4110億円(野村総研調べ)と推定され、有望な市場としても注目が集まった。",
"title": "歴史"
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"text": "更には同年の流行語大賞に「萌え」や「メイドカフェ」がノミネートされるなど、オタク文化が世間一般に広まり始めた。",
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"text": "一方で、それまで副次的な要素にすぎなかった「萌え」文化も、おたく文化の主要な要素とみなされるようになり、「おたく=何かに萌えている人」「おたく=秋葉原にいる人」という偏見も生まれ、「オタク=アニメ・アイドルのオタク」というイメージがより一層強まる結果となった。",
"title": "歴史"
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"text": "この頃には日本のアニメや漫画に強く影響された外国人の存在が徐々に知られるようになり、おたく文化が外国人から注目されていることが知られるようになったため、その評価が逆輸入される形でも地位は向上した。2003年(平成15年)には、おたく文化に強く影響を受けた外国人によって英語圏最大の匿名掲示板「4chan」が開設され、アニメや漫画に特化した大規模なコミュニティが英語圏にも生まれた。",
"title": "歴史"
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"text": "2000年代後半からは動画投稿サイトにより、ゲームの「実況プレイ」や、『初音ミク』を使用したVOCALOID楽曲などが流行し、同時期の深夜アニメバブルを追い風に、2006年の『涼宮ハルヒの憂鬱』などの深夜アニメ作品がインターネットで人気を博した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "2007年(平成19年)に大学生を対象に行われた調査によると、おたくが受容される傾向にあることが示され、オタク文化への認知が進んだ。調査では、自らがおたくであると思い当たるフシがある、親しい友人におたく的な人がいると答えたものが増加しており、おたくの内集団化が進んだとされる。",
"title": "歴史"
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"text": "また、2007年には、麻生太郎外務大臣(当時)がサブカルチャーを利用して日本を代表する外交活動を行い、外国人漫画家に贈られる「国際漫画賞」を創設した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "2007年放送の『らき☆すた』では、所謂「聖地巡礼」がブームとなり、それを地元の自治体が町おこしに活用するという現象も生まれた。そうした一連の流れを「萌えおこし」と称することもあり、以降、このような聖地巡礼や萌えおこしは他作品でも一般化していくことになる。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "一方で大塚英志は、世間のオタク観をこう批判している。",
"title": "歴史"
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"text": "2010年代以降、iPhoneやAndroidが普及し、PCよりもスマートフォンでインターネットに全世代が触れるようになった。テレビ、電子掲示板、動画共有サイト、TwitterなどのSNSなどでオタク文化が拡散したことで、マニアックな話題で交流を行うことが広く理解された。",
"title": "歴史"
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"text": "2010年頃から、「AKB48」や「ももいろクローバーZ」などのブレイクによりアイドルブームが起こった。AKB48のヒットにより、「推し」という言葉が一般化し、女性アイドルだけではなく男性アイドルやアニメのキャラクターなど、様々なジャンルでも使用されるようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "オタクという呼称そのものも半ば陳腐化し、「オタ」と気軽な呼び方で使用されたほか、「鉄オタ」「特撮オタ」のようにファンやマニアと同義に使われることが増えた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2010年代後半から、「Netflix」や「Amazonプライム・ビデオ」をはじめとした定額制動画配信サービスの台頭で、映像作品に触れる機会が多くなってきたことからオタクに憧れる若者も増えてきている。その背景として、博報堂DYメディアパートナーズの森永真弓は、世間からの「個性的でなければいけない」という外圧により、「無理して個性を作らなければいけない」と焦る若者が増えているとして、その理由を「カルチャーシーンから“メジャー”が消えてしまったから」だと分析し、「属するだけで安心できていたメジャーが消えてしまった今、彼らが探しているのは、要は“拠りどころ”なんだと思います。自分が属しているだけで、楽しいと思える場所。それが、オタクという属性です。(中略)推し活動をしているオタクはすごく輝いているから、自分もああなりたいと切望する。もしそうなれて、オタクという属性を手に入れられれば、結果的に自分は“個性的”にもなれる、と捉えている。だから正確に言えば、“オタクになりたい”んじゃなくて、“拠りどころになりうる、好きなものが欲しい”だし、それは“個性的な自分でありたい”だし、一番正直に言うなら“自己紹介欄に書く要素が欲しい”なんですよね」と語っている。",
"title": "歴史"
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"text": "原田曜平は、非常に多くの若者たちが、自分のことを「オタク」と自称するようになっていることを挙げ、本来であれば、サブカルチャー好きを指す言葉である「オタク」というワードが、メジャーなカルチャーにまで使われるようになってきていることに驚いたと述べている。また、話題になった作品だけをチェックしており、オタク知識は総じてそう深くない「エセオタク」が増えており、濃度の高いオタク(ガチオタ)からは「にわかオタク」と揶揄されることもある。",
"title": "歴史"
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"text": "また、日本政府が観光資源の一環として、国策で「クールジャパン」戦略を行うようになったのも2010年代からであり、迫害から一転し、おたく文化は政府お墨付きの“体制側”の文化になったとも言える。",
"title": "歴史"
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"text": "オタク層は選挙の動きも左右するほどになっており、第25回参議院議員通常選挙で自民党の山田太郎が当選した際には、オタク票を味方につけたことが勝因と評された。第26回参議院議員通常選挙では漫画家の赤松健(自民党)が比例トップ当選し、自民党内の組織票系候補者すら軽く上回っている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "2016年に行われた調査によると、18歳から29歳の間で好きなテレビ番組のうち、10年前から大きく伸びているジャンルが「アニメ」であり、20pt以上増加しているのに対して、「音楽」「スポーツ」が10pt以上低下している。また、若者女性も男性と同様に、大きく伸びているのは「アニメ」で、「音楽」「現代ドラマ」が約10ptダウンするなど、若者の好きなテレビ番組を2006年と比較すると、男女ともに「アニメ」が大きく上昇している。一方で、「バラエティ番組」「音楽」「スポーツ」「テレビドラマ」が低下するなど、テレビ番組に対する好みが10年間で大きく変化しており、アニメとスポーツやテレビドラマ等といった大衆文化(メインカルチャー)との、人気の逆転現象が見受けられる。",
"title": "歴史"
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"text": "「おたく」の意味や定義は世代によって大きく異なる。そのため、おたくを題材とした評論では、1960年前後生まれを第一世代として10年ごとに1970年前後生まれを第二世代、1980年前後生まれを第三世代と、世代で分類することが多い。世代が下がるにつれて「ライトなオタクが増えている」との指摘もある。ここでは個人の違いは捨象し、世代ごとの大まかな傾向を概観する。",
"title": "おたくの変遷"
}
] |
おたくとは、愛好者を指す呼称で、1980年代に日本のサブカルチャーから広まった言葉である。元来の「お宅」は相手の家や家庭を指す敬称の二人称代名詞であるが、ある特定のサブカルチャーの愛好者を指し示す、現在使われている言葉としての「おたく」の起源は、1983年にコラムニストの中森明夫が「コミックマーケット」に集うSFや漫画・アニメなどの若いファン達がお互いを「おたく」と呼び合っていた現象を揶揄して、彼らを「おたく」として分類したことにある。 1989年に発覚した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件において、犯人が収集していたアニメや特撮等の多数のビデオテープや漫画雑誌を、マスコミが事件と関連付けて盛んに報道したことで、世の中でオタクバッシングが起こり、皮肉にもその「おたく」の存在が世間一般に広く知られるようになった。そのため、当初は漫画やアニメ、コンピュータゲーム、アイドルなどの趣味を持つ人たちと、社会性が欠如している人間や対人コミュニケーションが不得意な人等を、十把一絡げにして指し示す否定的な意味合いを持つ言葉として使用されることが多かった。 その後、1990年代後半からのインターネットの普及やアニメや漫画、コンピュータゲーム、アイドルの社会的地位の向上によりおたくへの悪い印象は薄れ、現在では単なる「ファン」や「マニア」と同義で使われることも多い。 ただし、学校の校則において中高生に人気の容姿は規制される一方で、「おたく」のような容姿は定義しづらく規制されにくい傾向があり、生徒の目には不当に贔屓されているように映ることから、ブラック校則が「おたく」への嫌悪を生み出している場合がある。
オタクまたはヲタクとも表記される。
|
{{See Wiktionary}}
[[File:Mansei-bashi_Crossing,_21_July_2013.jpg|300px|thumb|東京・[[秋葉原]]の電気街。[[中央通り (東京都)|中央通り]]・[[万世橋]]から[[第一半田ビル]]を望む(2013年)]]
[[File:Akihabara_picture.jpg|300px|thumb|秋葉原駅頭。改装前の[[秋葉原ラジオ会館]]が見える(2003年)]]<!--外国語版にやはり象徴として掲げられているので-->
'''おたく'''とは、[[愛好者]]を指す呼称で、[[1980年代]]に[[日本]]の[[サブカルチャー]]から広まった言葉である。元来の「お宅」は相手の家や家庭を指す敬称の[[二人称]]代名詞であるが、ある特定の[[サブカルチャー]]の愛好者を指し示す、現在使われている言葉としての「おたく」の起源は、[[1983年]]に[[コラムニスト]]の[[中森明夫]]が「'''[[コミックマーケット]]'''」に集う[[サイエンス・フィクション|SF]]や[[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]などの若い[[ファン]]達がお互いを「おたく」と呼び合っていた現象を揶揄して、彼らを「おたく」として分類したことにある。
[[1989年]]に発覚した[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]において、[[宮崎勤|犯人]]が収集していた[[アニメーション|アニメ]]や[[特撮]]等の多数の[[ビデオテープ]]や[[漫画雑誌]]を、[[マスコミ]]が事件と関連付けて盛んに報道したことで、世の中でオタクバッシングが起こり、皮肉にもその「おたく」の存在が世間一般に広く知られるようになった。そのため、当初は[[漫画]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[コンピュータゲーム]]、[[アイドル]]などの[[趣味]]を持つ人たちと、[[社会性]]が欠如している人間や[[コミュニケーション障害|対人コミュニケーションが不得意]]な人等を、十把一絡げにして指し示す否定的な意味合いを持つ言葉として使用されることが多かった。
その後、[[1990年代]]後半からの[[インターネット]]の普及やアニメや漫画、コンピュータゲーム、アイドルの[[社会的地位]]の向上によりおたくへの悪い印象は薄れ、現在では単なる「[[ファン]]」や「[[マニア]]」と同義で使われることも多い。
ただし、[[学校]]の[[校則]]において中高生に人気の容姿は規制される一方で、「おたく」のような容姿は定義しづらく規制されにくい傾向があり、生徒の目には不当に贔屓されているように映ることから、[[ブラック校則]]が「おたく」への嫌悪を生み出している場合がある。
'''オタク'''または'''ヲタク'''とも表記される。
== 歴史 ==
=== 起源 ===
[[File:Ken Hirukogami.png|250px|thumb|最初期のロリコン同人誌『[[愛栗鼠]]』『[[シベール (同人誌)|シベール]]』『[[幼女嗜好]]』を創刊し、1980年代前半の[[コミックマーケット]]に[[変質者]]のコスプレで出没していた[[蛭児神建]]。[[大塚英志]]は「[[中森明夫]]が『おたく』の語をもって外からコミケに集う人々をカリカチュアライズするより前に蛭児神建の異装は既におたく自身による『批評』としてあった」と評している<ref>大塚英志「特集・真説おたくの精神史──解題」『[[comic新現実]]』第4巻、角川書店、2005年4月、76-77頁。</ref>。]]
「おたく」の元の語源は、相手の家を指す敬称である「御宅」であり、転じて相手の家庭、夫を指す二人称代名詞として使われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://kangaeruhito.jp/article/3575 |title=「おたく」分け入っても分け入っても日本語|publisher=新潮社|author=飯間浩明|accessdate=2022年11月23日}}</ref>。1950年代からの[[日本の学生運動|学生運動]]により、青年層を中心に、相手個人を指す敬称としても使われ始めた。「あなた」や「きみ」と比べて距離をおいた呼びかけ<ref>小林信彦『日本人は笑わない』新潮文庫、1994年、pp.45-46</ref>としてその後、若者言葉のような形で一般的に使われるようになった。
「おたく」が「おたく」と呼ばれる以前の歴史は、それほど研究されていない。[[内田樹]]は、「SF」から「オタク」へのテイクオフは1960年代後期の少年文化の「過政治化」に対する反動であり、自閉的で自分の立ち位置について客観的に語ることができないとしている<ref>[http://blog.tatsuru.com/2004/06/09_1054.html 「オタク」と司法] 内田樹の研究室</ref>。
[[1982年]]から放送された[[ロボットアニメ]]『'''[[超時空要塞マクロス]]'''』の中で、主人公の[[一条輝]]が[[リン・ミンメイ]]相手に「[[御宅]](おたく)」という二人称を使う場面があり、ファンがコミケやSF大会などでこの呼び方を真似たことで<ref name="Okada 1996">{{Cite book|author=岡田斗司夫|date=1996|title=オタク学入門|publisher=太田出版|isbn=4-87233-279-2|chapter=オタクの正体|url=http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakugaku/No1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20001216171500/http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakugaku/No1.html|archivedate=2000-12-16}}</ref><ref>[https://www.paradisearmy.com/doujin/pasok6n.htm おたく/ オタク/ Otaku]同人用語の基礎知識</ref>
、アニメファンの中で相手を指し示す際の「おたく」という言葉の用法が広まったとされる。
ある特定のジャンルのサブカルチャーを好きな人そのものを指し示す、現在使われている意味・言葉としての「おたく」は、日本で2番目となる[[ロリコン漫画]]雑誌『'''[[漫画ブリッコ]]'''』([[白夜書房]]、当時はセルフ出版)[[1983年]]6月号から8月号まで[[中森明夫]]が連載した『[[東京おとなクラブ]]』の出張コーナー『東京おとなクラブJr.』<ref>{{Cite web|和書|author=[[遠藤諭]]|date=2013年5月16日|url=https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/615/2615521|title=おたく30周年、発祥の地をご案内しましょう|work=[[週刊アスキー]]|publisher=角川アスキー総合研究所|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200624213725/https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/615/2615521|archivedate=2020-06-24|accessdate=2020-06-25|quote=「いまから30年前、私は、『[[東京おとなクラブ]]』という雑誌を作っていて、本の町こと[[神田神保町]]のはずれにあるビルのワンルームの部屋を借りていた。/当時は、『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』や『[[POPEYE|ポパイ]]』の元気があったし、『[[本の雑誌]]』や『[[広告批評]]』なんかも頑張っていた時代である。源喜堂でまとめ買いした『{{仮リンク|WET (雑誌)|label=WET|en|Wet (magazine)}}』や『[[全地球カタログ|Whole Earth Catalog]]』([[スティーブ・ジョブズ]]の[[スタンフォード大学|スタンフォード]]での講演の“Stay hungry,stay foolish”はこれからの引用なのですよ)を見ると、[[アメリカ合衆国|米国]]でも好きなように雑誌を作っている。[[新宿]]の[[紀伊國屋書店]]や神保町の[[書泉ブックマート]]など、全国の30くらいの書店が置いてくれた。そこで、もう少し真面目にやろうかなと思って、オフィスを借りたのだった。/ここの[[家賃]]を稼ぎだすために商業誌や[[自販機本]]のページ編集なんかをやることになった。その頃、ここによくいた数人の間でだけ使われていたのが『おたく』という言葉だった。それを、“東京おとなクラブ Jr.”という連載をやらせてもらっていた『[[漫画ブリッコ]]』に、[[中森明夫]]が“[http://www.burikko.net/people/otaku.html おたくの研究]”というのを書いたのだ。/クラスターとしてのおたくというのは、この部屋から広がったんだよ」}}</ref>内のコラム「'''『おたく』の研究'''」が初出とされている。中森は[[コミックマーケット]](コミケ)に集まる人々を「おたく」として活字で次のように表現した。
{{Quotation|その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。(中略)
それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。(中略)もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたいが十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。(中略)
それでこういった人達を、まあ普通、マニアだとか熱狂的ファンだとか、せーぜー[[ネクラ]]族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。|『漫画ブリッコ』1983年6月号|『おたく』の研究(1)街には『おたく』がいっぱい<ref>[http://www.burikko.net/people/otaku01.html 『おたく』の研究 第1回]漫画ブリッコの世界(再録サイト)</ref>}}
また、中森はコミケに集まる人々の他の特徴として、「[[鉄道撮影|ブルトレ撮りに行って]]線路上でひき殺されそうになる奴」(当時は「撮り鉄」という呼称はなかった)、「[[アニメーション映画|アニメ映画]]の公開前日に並んで待つ奴」、「[[パソコンショップ|マイコンショップ]]でたむろってる牛乳ビン底メガネの理系少年」、「[[S-Fマガジン]]のバックナンバーと[[ハヤカワ・SF・シリーズ]]が本棚にビシーッと揃ってる奴」、「有名進学塾に通ってて、勉強取っちゃったら単に[[マイワシ|イワシ]]目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」などを挙げ、そうした普段は暗いのにコミケだとやたらにはしゃぐ少年少女、理系や[[ガリ勉]]、そして対人コミュニケーションが不得意な人らを一括りにして、「おたく」と命名した。
中森が同連載で「中学生ぐらいのガキがコミケとかアニメ大会とかで友達に「おたくら さぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない」「けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、女なんか出来るわきゃないんだよね」<ref>[http://www.burikko.net/people/otaku02.html 『おたく』の研究 第2回] 漫画ブリッコの世界(再録サイト)</ref>といった差別的な文章を書いたことで、読者から怒り・反感の投書が殺到した。編集としても静観するわけにもいかず、1983年8月号で「『おたく』の研究」は休止となり、1983年9月号の読者投稿欄「新宿マイナークラブ」では、代表的な読者の反応を掲載するとともに、編集部の[[大塚英志]]は「相手の立場をからかうなら自分の立場をふまえてからでないと、単なる誹謗中傷に終わってしまいます。その意味で非生産的な中森君の文章は困ったものだと思い、改善を求めておりました」と中森を非難した<ref>[http://www.burikko.net/people/otaku06.html 『おたく』の研究への反応と反論 新宿マイナークラブ1983年9月号] 漫画ブリッコの世界(再録サイト)</ref>。一方、雑誌内雑誌『東京おとなクラブJr.』の担当編集者であった[[小形克宏]](旧・緒方源次郎)は「ちょっと後味悪いけど、まあ別にいいんじゃないって思ったのに、相棒だった大塚英志さんが許さず、彼との間で議論になりました。『ブリッコ』は僕と大塚さんとできっちり担当を分けていたので、僕のページに口を出されるのは心外だったんですけど、結局大塚さんに『読者の悪口は載せられない』と言い負かされました」と同人誌のインタビューで証言しており、大塚の一連の言動は、担当者の枠を超えた越権行為まがいの容喙であったとしている<ref>小形克宏「山田さんが声をかけてくれなかったら、今日の僕はなかった」『[https://twitter.com/ogwata/status/1689652428004831232 川本耕次に花束を]』迷路'23、2023年、16-30頁。</ref>。
その後、「『おたく』の研究」は1984年1月号で終了したが、大塚は1984年6月号の読者投稿欄で再度、「おたく」についての立場表明を行い、「中森氏の『おたくの研究』についてぼくは担当の[[小形克宏|緒方]]に対し毎回、『不快感』を表明してきました。中森氏の文章は<健全な批判>ではなく<差別>を目的としたものと目に映ったからです」と改めて非難したが、その一方で「最終的には登場をご遠慮願うことになったのですが、意外だったのは中森氏の文章に読者を含めて、相当の支持者がいたことです。たしかに感情的な文章と<おたく>という語の差別用語としての秀逸さ(?)は無責任におもしろがるには充分のものだったといえます。結局のところ、<おたく>なる語はすっかり定着してしまいました」と述べた<ref>[http://www.burikko.net/people/otaku07.html 『おたく』の研究 「妥協の森」1984年6月号] 漫画ブリッコの世界(再録サイト)</ref>。
[[岡田斗司夫]]は、おたくを「[[収容所]]に入れられた[[囚人]]」であるとしてこう語っている<ref>{{YouTube|xJcxKtBmrFw|オタク・イズ・デッド 岡田斗司夫クロニクル2006/5/24}}</ref>。
{{Quotation|「おたく」という言葉がない時代は、いろんな[[種族]]がいただけでした。SFファンとかアニメファンとかマンガファン、個別の作品とか個別のジャンルのファンがいたわけです。
それを外側からひとまとめにして、ああいう奴らを「おたく」と言うんだと決めつけられてから、私たちの民族が発生した。だから、正確に言うと民族じゃなくて私たちはもともとは他者から「強制収容所に入れられた囚人」でした。
あるときから、「ヘンなやつら[[強制収容所]]」が作られた。そこに収容される理由は様々でした。まずは「アニメ好き」「マンガ好き」「ゲーム好き」という人たちがぽんぽんと放り込まれた。それだけではなくて「なんか暗い」とか「なんか社会性がない」という人たちまでも、ぽんぽん放り込まれていった。この収容所の看板が「おたく」でした。|『オタクはすでに死んでいる』([[新潮新書]], 2008年) - p.52-53}}
なお、[[竹熊健太郎]]と『漫画ブリッコ』元編集部の[[小形克宏]]は、当時を振り返って「おたく」という造語がシニカルながらも秀逸なネーミングであったことを認めつつ、命名者の[[中森明夫]]に対して、ある種の違和感を抱いていたことを次のように語っている。
{{Bquote|'''竹熊''' 中森氏の「おたくコラム」について、担当者としてはどう考えていたんですか? そう言えば聞いた事がなかったけど。<br />'''小形''' そうだなあ、「庇いきれなくてごめん」って感じだなあ。<br />'''竹熊''' あれ、「差別文章」だとは思いました? 僕はきついなあ、と思ったけど、げらげら大笑いした記憶があります。<br />'''小形''' そうだなあ、きつかったよねえ。でも中森氏の持ち味だからねえ。まあ、おれが感じたのは「中森くんだって、この中に書かれているおたくじゃないのかなあ」ってことかな。そして「おれもそうだなあ」ということ。そうでしょ?<br />'''竹熊''' 中森くんも小形くんも、僕も、大塚さんだってオタクだよね。それで、本が出て2ヶ月後のコミケでは、もうみんな「おたく」って言い合ってました。最初はオタクが自分の事を自嘲するスラングでしたよね。<br />'''小形''' そうだね。でも、中森氏は一貫して「自分はオタクじゃない」って言ってる。すごい不思議だけど。大塚氏もきっと違うと思っていると思う。確かめたことないけど。<br />'''竹熊''' 不思議だよねえ。周囲のオタクはむしろ喜んで使ってた感じだったけどねえ。とにかく「あ、それ!」と膝を打つぴったりなネーミングだった。<br />'''小形''' そうね、なんとなく意識していた程度のものに、名前が付いて以降意識せざるを得なくなった瞬間。<br />'''竹熊''' なんかもやもやとあったけど、名前がついて一挙に定着した感じだよね。でもオタクが一般化したのは、やはり7年後の宮崎事件でしたね。あれでマスコミが使い出して自嘲語から差別語になった印象があります。<br />'''小形''' あの時、中森氏が電話かけてきたんだよね。「大塚さんの連絡先教えて」って。「悪いけど今は知らないんだ」って答えたけど。自分から大塚氏に連携を呼びかけようとしていた。昔打ち切られたのに、偉いなあってすごく感心した。|||[https://togetter.com/li/1518629 おたくの語源―”非”大塚英志史観の『漫画ブリッコ』再検証]}}
=== 宮崎勤事件 ===
[[1988年]]から[[1989年]]にかけて発生した[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]](以下「宮﨑勤事件」)において、犯人の[[宮崎勤]]が収集していた[[特撮]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[ホラー映画]]の[[ビデオテープ]]、漫画や[[アニメ雑誌]]などを[[マスメディア|マスコミ]]・[[メディア (媒体)|メディア]]が取り上げ、「現実と虚構の区別が付かなくなり犯行に及んだ」として、[[センセーショナル]]に報じた。その際、宮崎の個室部屋が報道され、四台の[[ビデオデッキ]]と6000本近いビデオテープが万年床を乱雑に囲んだその部屋は、犯人の異常性を示すものとして注目を浴びた。当時まだ一般に浸透していなかった“おたく”という人格類型の呼称が定着したのも、この事件によるものだった。ただ、宮崎の部屋は殺人犯特有の特殊なものというよりは、オタクの部屋にしばしばみられる傾向として、オタクたち自身にも認識されている{{Sfn|森川嘉一郎|2003|p=181-182}}。
この事件により、「おたく=[[変質者]]・犯罪者予備軍」というイメージが定着し、おたくは印象の悪い言葉として広まった。この時期、「おたく」という言葉は[[NHK]]では[[放送禁止用語]]とされ、使用できない言葉であった<ref name="Okada 1996" />。現在でもこの影響は残っており、おたくを[[性犯罪]]と結びつける報道がなされることがある<ref name="Kikuti 2007">{{Cite journal|和書|author=菊池聡|authorlink=菊池聡|coauthors=金田茂裕、守一雄|year=2007|month=4|title=FUMIEテストを用いた「おたく」に対する潜在的態度調査|journal=人文科学論集人間情報学科編|issue=41|pages=105-115|publisher=信州大学人文学部|issn=1342-2782|naid=110006389058|url=https://hdl.handle.net/10091/2780}}</ref>。
=== 自称おたく評論家「宅八郎」 ===
宮崎勤事件によって「おたく」に注目が集まる中、無署名で活動していた[[フリーランス|フリー]][[著作家|ライター]]が1990年に『[[週刊SPA!]]』上で、おたく[[評論家]]「'''[[宅八郎]]'''」としてデビュー。翌年の1991年に[[ワンレングス]]の長髪に銀縁[[眼鏡]]、[[マジックハンド]]と[[森高千里|アイドル]]の[[フィギュア]]、手提げ紙袋を持つという姿でテレビ番組に出演し、強烈なインパクトを残した。いわゆるオタク史の中の位置づけとして、宅八郎は宮崎勤事件と並んで「オタクの間違ったイメージを広めた」存在として語られることが多い。宅八郎と長年交流のあった[[大泉実成]]は、宅について、「彼にはオタクのプラス面をアピールしたいという思いがあった。ただ、その擁護の仕方がめちゃくちゃで、誤爆のようなところがあった」と振り返っている。宅のメディアでの風貌は作られたものであり、オタクに見える服を着て、おたくを演じていた。大泉は、「オタクと呼ばれていた当事者たちからは、演じていることはバレバレ。迷惑でもあっただろう」「オタクの歴史を語るうえでは、あだ花のような存在でしょう」と語る一方で、宅の著書『イカす!おたく天国』について、「負のイメージが強かったオタクを、特定の分野に特化した優秀な存在として社会に伝えた。その意味はあると思う」と評している<ref>{{cite news|url=https://book.asahi.com/article/14105708|title=オタク史に咲いた、宅八郎というあだ花 ノンフィクション作家・大泉実成さんと振り返る|publisher=好書好日([[朝日新聞]])|date=2021-01-16|accessdate=2021-11-22}}</ref>。
=== イメージの好転 ===
[[1990年代]]前半には、依然として「おたく=[[変質者]]・犯罪者予備軍・社会不適応者」とみなす論調があり、1991年には[[コミケ幕張メッセ追放事件]]が起きた。
一方で1990年代後半からは、海外で日本の漫画やアニメ、ゲーム等が流通していることが徐々に知られるようになり、1995年から放送された『'''[[新世紀エヴァンゲリオン]]'''』が、[[社会現象]]と評されるほどのヒットとなって多くのメディアで取り上げられたことや、一般向け作品ではあるが1997年の[[スタジオジブリ]]作品で[[宮崎駿]]監督の『'''[[もののけ姫]]'''』が、当時の[[アニメ映画]]としては異例の[[興行収入]]193億円のメガヒットを記録するなど、アニメや漫画などが公平に[[報道]]・評価されることも増えつつあった。
そのような流れもあり、1996年には[[NHKBS2]]で、漫画を紹介・解説する『[[BSマンガ夜話]]』が放送を開始するなど、[[漫画]]やアニメといった[[サブカルチャー]]が、[[小説]]や[[実写映画]]等といった[[メインカルチャー]]と同じ土俵で語られることも徐々に増え始めた。
また、『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』(1986年)や『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]]』(1995年)といったアニメや漫画が海外の[[クリエイター]]にも大きな影響を与え、更にはその二作品にも影響を受けた、1999年公開の[[ハリウッド映画]]『[[マトリックス (映画)|マトリックス]]』が、世界的に大ヒットを記録した事などがきっかけで、日本でも「'''ジャパニメーション'''('''Japanimation''')」が[[逆輸入]]的な形で評価され始めた。
[[岡田斗司夫]]は、1980年代後半から1990年代までのオタクを取り巻く状況について、こう語っている。
{{Quotation|(オタクに対する誤解をなんとかするためには)2つ方法がある。1つは魅力そのものを伝えてオタクというのは実は面白くて「こうだ」っていう方法。もう一つは、お前らは知らないだろうけど、海外では俺達ちょっとしたもんだぜっていうこの二面作戦でオタクって実は大したことあるよという底上げ作戦を展開したんですね。それはその後、海外でのオタク評価は本当に上がってきたりですね、「エヴァンゲリオン」が大ヒットしたりですね、ものすごい後押しがあったんですね。時代の後押しがあったおかげで、なんだかんだいってもオタクは80年代の暗黒の時代から90年代の後半になるにつれて、かなり楽な状況になってきた。<br>だから僕たちは、なんかこう「オタク」と言えるようになったんですね、自分のことを。[[ロフトプラスワン]]で「オタクのイベントだ」と言って人が来るようになったのそれのおかげなんですよ。それまでは「オタクのイベントだ」と言うと、何よりもオタクが来れなかったんですね。オタクと思われたら困るっていう風に思ってた。それがなんか90年代半ばのオタク状況。(中略)<br>世の中が急激にそのオタクを認めるようになった。1つは、お前らがやってることって案外面白いんだなってのが、ようやっと評価されてきた。それはエヴァンゲリオンとか色んな作品のヒットのおかげですね。あともう一つ、海外で一流の監督とかが皆オタクだと自分のことを言ったり、よその国では[[セーラームーン]]とかそういうコスプレしてる奴がガンガン出てきて、僕らのヘンテコさがなんとなく相対化されたんですね。僕らが相変わらずヘンテコなのは当たり前なんですけども、海外にもヘンテコな奴がいるからなんだこれ?って。日本の中の変な奴じゃなくて、世界でいえば普遍的な奴なんだ。あいつら面白かもわかんないなみたいな目線で見てもらえるようになったのが僕らがちょっとだけ生きやすくなった理由ですね。|『オタク・イズ・デッド』([[新宿ロフトプラスワン]], 2006年5月24日)}}
また、岡田はこのようなおたくへの評価が好転した要因として、「オタクたちの努力だけではなく、[[平成不況|日本経済が行き詰まっていた]]ことも挙げられる」と述べている{{Sfn|岡田斗司夫|2008|p=64}}。
{{Quotation|日本人は、日本発のものは世界に評価されるはずはないと思っている。[[桂離宮]]から[[浮世絵]]まで、外国人が評価したものだけを日本文化と称してきたが、それは違うのではないか。<br>
漫画こそ、日本が世界に誇りうる独自の文化で、これからもっと世界に浸透していくだろう。[[マルチメディア]]時代になれば、コンビューターソフトと結びついておもしろい社会をつくると思う。世界に広がる漫画が、管理教育、官僚文化に風穴を開けてほしいものだ。<br>
インターネットの他、ますます複雑・高度化する情報ネットワーク網の中で作品を作り続け、ヒットさせる実力を持つ者はオタク・クリエイターしかいない。現に、日本のアニメーターたちは日本よりもアメリカ等海外での評価が高い。本当の国際競争力を持つクリエイターとは、オタクの中からしか生まれないのだ。|岡田斗司夫『オタク学入門』<ref>岡田斗司夫『オタク学入門』 新潮社、pp.11-12.</ref> }}
批評家の[[東浩紀]]も[[バブル崩壊|1990年代の不況]]と関連付けて分析をしている。
{{Quotation|消費社会化が行くところまで行った今日、日本人が「日本的である」と思う風景は、もはや[[富士山|フジヤマ]]や[[芸者|ゲイシャ]]ではないでしょう。(中略)1990年代の[[失われた30年|長い不況]]のなかで、残ったのは[[コンビニ]]と[[フィーチャーフォン#日本|ケータイ]]ぐらい。『[[AKIRA|アキラ]]』のような格好いいサイバーシティはやってこなかった。そういう絶望と正面から付き合ってきたのが、オタクたちだったわけです。ニセモノとサブカルチャーしかない世界でどのように誇りをもって生きていけばいいのか。オタクたちはそんな物語ばかり紡いでいる。そしてそれはいまでは日本全体の問題でもある。|東浩紀、2002年<ref>[https://web.archive.org/web/20030218030926/http://www.mammo.tv/interview/086_AzumaH/ Mammo.tv >> 今週のインタビュー(2002.05.27-06.03号 Part1) 東 浩紀 さん]</ref>}}
=== 2000年代 オタクのカジュアル化 ===
[[2005年]](平成17年)には、[[アキバ系]]アニメオタクの青年が[[主人公]]である、[[2ちゃんねる]]発の[[恋愛小説]]『'''[[電車男]]'''』が映画化及び[[フジテレビ]]の[[ゴールデンタイム]]でドラマ化され、女性層や若年層を中心にヒットしたことで、宮崎事件以降長らく続いていた、オタクへの否定的なイメージが払拭されるきっかけとなった。この頃にようやく、[[変質者]]や[[犯罪者]]予備軍などといった、マイナスイメージではないオタク像が世間一般に広く認知されるようになり、[[マンガ]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]といった[[二次元]]文化が、カジュアルな趣味として市民権を得るようになったといえる<ref name="sekai">[http://wakusei2nd.com/archives/series/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%B2%BE%E8%8F%AF%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%80%88%E3%82%B5%E3%83%96%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E8%AB%96%E3%80%89%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E9%8C%B2-%E7%AC%AC18%E5%9B%9E-2 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第18回「世界の終わり」という想像力の敗北――東日本大震災と『Show must go on』(PLANETSアーカイブス) | PLANETS/第二次惑星開発委員会]</ref>。その市場規模については、2005年時点で4110億円([[野村総研]]調べ)と推定され、有望な市場としても注目が集まった<ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20051006/109426/ 「オタクの力を上手に使え」,野村総研が研究発表 | 日経クロステック(xTECH)]</ref>。
更には同年の[[流行語大賞]]に「'''[[萌え]]'''」や「'''[[メイドカフェ]]'''」がノミネートされるなど、オタク文化が世間一般に広まり始めた<ref name="Galbraith 2009">{{Cite journal |1 = 和書 |author = ガルバレス・パトリック・ウィリアム |year = 2009 |month = 1 |title = 公の「オタク」のイメージを左右する秋葉原 |url = http://www.otaku2.com/articleView.php?item=373 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20091008214954/http://www.otaku2.com/articleView.php?item=373 |archivedate = 2009年10月8日 |deadlinkdate = 2018年3月}}</ref><ref name="Kikuti 2007" />。
一方で、それまで副次的な要素にすぎなかった「萌え」文化も、おたく文化の主要な要素とみなされるようになり、「おたく=何かに萌えている人」「おたく=[[秋葉原]]にいる人」という偏見も生まれ、「オタク=アニメ・アイドルのオタク」というイメージがより一層強まる結果となった。
この頃には日本のアニメや漫画に強く影響された外国人の存在が徐々に知られるようになり、おたく文化が外国人から注目されていることが知られるようになったため、その評価が逆輸入される形でも地位は向上した。[[2003年]](平成15年)には、おたく文化に強く影響を受けた外国人によって英語圏最大の[[匿名掲示板]]「[[4chan]]」が開設され、アニメや漫画に特化した大規模な[[コミュニティ]]が[[英語圏]]にも生まれた。
2000年代後半からは[[動画投稿サイト]]により、ゲームの「[[実況プレイ]]」や、『'''[[初音ミク]]'''』を使用した[[VOCALOID]]楽曲などが流行し、同時期の[[深夜アニメ]]バブルを追い風に、2006年の『'''[[涼宮ハルヒの憂鬱 (アニメ)|涼宮ハルヒの憂鬱]]'''』などの[[深夜アニメ]]作品がインターネットで人気を博した<ref name="sekai"/><ref>[https://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY200905040063.html asahi.com(朝日新聞社):アニメバブル崩壊 DVD不振、新番組も減 - マンガ+ - 映画・音楽・芸能]</ref>。
[[2007年]](平成19年)に大学生を対象に行われた調査によると{{要出典|date=2022-09}}、おたくが受容される傾向にあることが示され、オタク文化への認知が進んだ。調査では、自らがおたくであると思い当たるフシがある、親しい友人におたく的な人がいると答えたものが増加しており、おたくの[[外集団同質性バイアス|内集団化]]が進んだとされる。
また、[[2007年]]には、[[麻生太郎]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]](当時)が[[サブカルチャー]]を利用して日本を代表する外交活動を行い、外国人[[漫画家]]に贈られる「[[国際漫画賞]]」を創設した<ref>{{Cite web|url=http://paper.wenweipo.com/2008/09/23/GJ0809230014.htm|title=「御宅族」行「漫畫外交」受年輕人追捧 - 香港文匯報|accessdate=October 22, 2022|date=2008-09-23|author=Wen Wei Po New Media Center}}</ref>。
2007年放送の『'''[[らき☆すた]]'''』では、所謂「'''[[聖地巡礼]]'''」がブームとなり、それを地元の[[自治体]]が[[町おこし]]に活用するという現象も生まれた。そうした一連の流れを「[[萌えおこし]]」と称することもあり、以降、このような聖地巡礼や萌えおこしは他作品でも一般化していくことになる。
一方で[[大塚英志]]は、世間のオタク観をこう批判している。
{{Quotation|「おたく」なる語が「オタク」と片仮名に書き換えられるあたりから[[文部科学省]]や[[経済産業省]]や、ナントカ財産の類がちょっとでもうっかりするとすり寄ってくる時代になった。ぼくのところでさえ[[文化庁メディア芸術祭|メディアなんとか芸術祭]]という国がまんがやアニメを勝手に「芸術」に仕立て上げようとするばかげた賞がもう何年も前から「ノミネートしていいか」と打診の書類を送ってくるし(ゴミ箱行き)、そりゃ[[村上隆]]や[[宮崎駿|宮崎アニメ]]は今や国家の誇りってことなんだろうが、しかし「オタク」が「おたく」であった時代をチャラにすることに加担はしたくない。国家や産業界公認の「オタク」と、その一方で見せしめ的な有罪判決が出ちまった「おたく」な[[エロマンガ|エロまんが]]はやっぱり同じなんだよ、と、その初まりの時にいたぼくは断言できる。国家に公認され現代美術に持ち上げられ「おたく」が「オタク」と書き換えられて、それで何かが乗り越えられたとはさっぱりぼくは思わない。|大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』著者からのコメント<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/4061497030 著者からのコメント](空白修正)</ref>}}
=== 2010年代 大衆文化との逆転現象 ===
2010年代以降、[[iPhone]]や[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]が普及し、[[パーソナルコンピューター|PC]]よりも[[スマートフォン]]で[[インターネット]]に全世代が触れるようになった。テレビ、[[電子掲示板]]、[[動画共有サイト]]、[[Twitter]]などの[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]などでオタク文化が拡散したことで、マニアックな話題で交流を行うことが広く理解された。
2010年頃から、「'''[[AKB48]]'''」や「[[ももいろクローバーZ]]」などのブレイクにより[[アイドル]]ブームが起こった。AKB48のヒットにより、「'''[[推し]]'''」という言葉が一般化し、女性アイドルだけではなく男性アイドルやアニメのキャラクターなど、様々なジャンルでも使用されるようになった。
オタクという呼称そのものも半ば陳腐化し、「オタ」と気軽な呼び方で使用されたほか、「[[鉄オタ]]」「特撮オタ」のようにファンやマニアと同義に使われることが増えた。
2010年代後半から、「[[Netflix]]」や「[[Amazonプライム・ビデオ]]」をはじめとした[[定額制動画配信サービス]]の台頭で、映像作品に触れる機会が多くなってきたことからオタクに憧れる若者も増えてきている。その背景として、[[博報堂DYメディアパートナーズ]]の[[森永真弓]]は、世間からの「個性的でなければいけない」という外圧により、「無理して個性を作らなければいけない」と焦る若者が増えているとして、その理由を「カルチャーシーンから“メジャー”が消えてしまったから」だと分析し<ref>{{citenews|url=https://gendai.media/articles/-/83898?page=4|title=「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由(稲田 豊史)|publisher=現代ビジネス|date=2021-06-07|accessdate=2021-10-23}}</ref>、「属するだけで安心できていたメジャーが消えてしまった今、彼らが探しているのは、要は“拠りどころ”なんだと思います。自分が属しているだけで、楽しいと思える場所。それが、オタクという属性です。(中略)推し活動をしているオタクはすごく輝いているから、自分もああなりたいと切望する。もしそうなれて、オタクという属性を手に入れられれば、結果的に自分は“個性的”にもなれる、と捉えている。だから正確に言えば、“オタクになりたい”んじゃなくて、“拠りどころになりうる、好きなものが欲しい”だし、それは“個性的な自分でありたい”だし、一番正直に言うなら“自己紹介欄に書く要素が欲しい”なんですよね」と語っている<ref>{{cite news|url=https://gendai.media/articles/-/83898?page=5|title=「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由(稲田 豊史)|publisher=現代ビジネス|date=2021-06-07|accessdate=2021-10-23}}</ref>。
[[原田曜平]]は、非常に多くの若者たちが、自分のことを「オタク」と自称するようになっていることを挙げ、本来であれば、サブカルチャー好きを指す言葉である「オタク」というワードが、メジャーなカルチャーにまで使われるようになってきていることに驚いたと述べている。また、話題になった作品だけをチェックしており、オタク知識は総じてそう深くない「エセオタク」が増えており、濃度の高いオタク(ガチオタ)からは「にわかオタク」と揶揄されることもある<ref>{{cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/92036|title=若者の間に「エセオタク」が激増しているワケ | さとり世代は日本を救うか?|publisher=東洋経済オンライン|date=2015-12-02|accessdate=2021-10-23}}</ref>。
また、[[日本政府]]が[[観光資源]]の一環として、[[国策]]で「[[クールジャパン]]」戦略を行うようになったのも[[2010年代]]からであり、迫害から一転し、おたく文化は政府お墨付きの“[[体制]]側”の文化になったとも言える。
オタク層は選挙の動きも左右するほどになっており、[[第25回参議院議員通常選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[山田太郎 (参議院議員)|山田太郎]]が当選した際には、オタク票を味方につけたことが勝因と評された<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1907/22/news090.html 「私の戦闘力は53万です」 表現規制反対派・山田太郎氏が当選 SNSフル活用、“オタク層”の支持集める - ITmedia NEWS]</ref>。[[第26回参議院議員通常選挙]]では漫画家の[[赤松健]]([[自由民主党 (日本)|自民党]])が比例トップ当選し、自民党内の組織票系候補者すら軽く上回っている<ref>
{{cite news|url=https://dot.asahi.com/articles/-/14948?page=1|title=マンガ、アニメ、コミケ…“オタク”集票力は宗教以上 漫画家の自民議員「もはや無視できない政治勢力」〈dot.〉|publisher=AERA|date=2022-08-14|accessdate=2022-08-14}}</ref>。
2016年に行われた調査によると、18歳から29歳の間で好きな[[テレビ番組]]のうち、10年前から大きく伸びているジャンルが「アニメ」であり、20pt以上増加しているのに対して、「[[J-POP|音楽]]」「[[スポーツ]]」が10pt以上低下している。また、若者女性も男性と同様に、大きく伸びているのは「アニメ」で、「音楽」「現代ドラマ」が約10ptダウンするなど、[[若者]]の好きなテレビ番組を2006年と比較すると、男女ともに「アニメ」が大きく上昇している。一方で、「[[バラエティ番組]]」「音楽」「スポーツ」「[[テレビドラマ]]」が低下するなど、テレビ番組に対する好みが10年間で大きく変化しており<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000038.000011405.html “ドラマよりもアニメ” 若者のテレビの好みが変わった!~若者のテレビ番組の好み 過去と現在を比較して~ - 『R&D若者ハンドブック2017』より(第2弾リリース)-]</ref>、アニメとスポーツやテレビドラマ等といった[[大衆文化]]([[メインカルチャー]])との、人気の逆転現象が見受けられる。
== おたくの変遷 ==
{{Anchors|世代的遷移}}
「おたく」の意味や定義は世代によって大きく異なる。そのため、おたくを題材とした評論では、1960年前後生まれを第一世代として10年ごとに1970年前後生まれを第二世代、1980年前後生まれを第三世代と、世代で分類することが多い。世代が下がるにつれて「ライトなオタクが増えている」との指摘もある<ref>{{cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/19/news027.html|title=オタク4世代論 アキバ王が語るオタクの“ライト化”|publisher=ITmedia NEWS|date=2008-03-19|accessdate=2021-10-21}}</ref>。ここでは個人の違いは捨象し、世代ごとの大まかな傾向を概観する。
=== オタク以前 ===
:おたくという言葉が生まれる以前は、おたくの同義語として、主に「[[マニア]]」や[[きちがい]]を略して「○○キチ」([[釣りキチ]]等)「[[ファンダム]]」等と呼ばれていた。
:基本的には[[サイエンスフィクション|SF]]と特撮ファンが中心で、流行した作品に『[[キング・コング]]』(1933年)や『[[原子怪獣現わる]]』(1953年)初代『'''[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]'''』(1954年)『[[キングコング対ゴジラ]]』(1962年)『[[大魔神]]』(1966年)『'''[[2001年宇宙の旅]]'''』(1968年)「[[猿の惑星シリーズ]]」(1968年~1973年)や、『[[鉄人28号]]』等がある。
=== オタク第一世代(1960年前後生まれ) ===
:[[テレビ]]の発展と共に育った世代で、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]に抵抗のない最初の世代といえる。
:幼少期、少年期に流行したテレビ番組に[[ウルトラシリーズ#昭和第1期ウルトラシリーズ(空想特撮シリーズ)|第1期『ウルトラシリーズ』]]([[ウルトラQ|Q]]・[[ウルトラマン|マン]]・[[ウルトラセブン|セブン]])のほか、『[[オバケのQ太郎]]』([[モノクロ]]版)、『[[魔法使いサリー]]』、『[[巨人の星]]』、『[[8時だョ!全員集合]]』、『[[仮面ライダー]]』、『[[天才バカボン]]』、『[[世界名作劇場]]』シリーズ、『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世]]』、『[[マジンガーZ]]』、『'''[[宇宙戦艦ヤマト]]'''』などがある。
:[[怪獣ブーム]]・[[変身ブーム]]を体験した世代であり、特撮オタクとなった者も多い。
:いわゆる[[断層の世代]](概ね[[中期しらけ世代]]の世代)、もしくは[[新人類]](概ね[[後期しらけ世代]]から[[バブル世代|前期バブル世代]]までの世代)である。
:「大人になったらアニメや漫画は卒業する」という考え方がまだ根強い時代でもあったため、同世代の大半は[[インドア]]なオタク文化ではなく、主に[[電通]]などの[[広告代理店]]や[[フジテレビ]]や[[ホイチョイ]]等が主導していた、[[ネアカ]]な[[恋愛至上主義]]的文化や、[[スキーブーム]]等の[[アウトドア]]を消費するのが主流であった。そのため、オタク文化がまだ珍しい[[サブカルチャー]]として[[ネクラ]]扱いされつつも容認されていた時代に青年期を過ごしている。
:しかし、1989年に発生した[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の犯人が同世代であったため、主に年長者やオタク趣味を持たない同世代から、[[偏見]]や[[差別]]を受ける原因にもなった。
{{seealso|断層の世代}}
=== オタク第二世代(1970年前後生まれ) ===
:前の世代が作り上げた爛熟し細分化したオタク系文化を10代で享受した世代{{Sfn|東浩紀|2001|p=13}}。
:いわゆる[[バブル世代|後期バブル世代]]から[[団塊ジュニア]]・[[就職氷河期|氷河期世代]]である。
:代表的な出来事として、『[[週刊少年マガジン]]』『[[週刊少年サンデー]]』『[[週刊少年ジャンプ]]』などの少年漫画誌の隆盛、『'''[[機動戦士ガンダム]]'''』や『'''[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]'''』『'''[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]'''』に代表される[[アニメブーム]]や[[ガンプラ]]ブーム、「[[ファミリーコンピュータ]]」(1983年)の大ヒットによる[[家庭用ゲーム機]]の普及、『[[ゼビウス]]』(1983年)などの[[アーケードゲーム]]のブーム、「[[PC-9800]]」や「[[MSX]]」等の[[ホビーパソコン]]([[マイコン]])ブーム、『[[スター・ウォーズ]]』(1977年)『[[E.T.]]』(1982年)『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』(1984年)『[[ブレードランナー]]』(1982年)などの[[SF映画]]や[[サイバーパンク]]作品の世界的なブームなどが挙げられる。
:[[アニメ雑誌]]の相次ぐ創刊、「[[アニメイト]]」などの専門店の創業、[[コミックマーケット]]の大規模化、[[美少女ゲーム]]や[[アダルトゲーム]]の登場など、オタク文化や二次元文化が急速に発展する一方で、オタク第一世代と同様に、青年期に発生した[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]によってオタクバッシングが激化し、偏見・差別に晒された世代であった。
=== オタク第三世代(1980年前後生まれ) ===
:[[ポスト団塊ジュニア|後期ポスト団塊ジュニア世代]]~プレッシャー世代。
:彼らの少年期は、[[1990年代]]初頭にかけて前述の連続幼女誘拐殺人事件によるオタクバッシングの余波が続き、[[神戸連続児童殺傷事件]]以降の[[少年犯罪]]報道の激化などいくつかの動きと重なってアニメの性的表現、残虐・暴力描写の[[自主規制]]が行われる時代であった{{Sfn|榎本秋|2009|p=58}}。また[[キレる17歳]]論や[[ゲーム脳]]論などにも晒された。
:1980年代から盛んに行われた小説、漫画、アニメ、ゲームなどの複数のメディアを通じて展開する“[[メディアミックス]]”が主流となり、ヒット作が複数のメディアに派生し、一つのメディアだけにとどまることが少なくなった。
:『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』(1995年)や「[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]」(1994年)の大ヒットで、アニメやコンピュータゲームが趣味の一つとして市民権を得るようになり、[[メインカルチャー]]と[[サブカルチャー]]の差が薄れ始めた世代といえる。
:「[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]」の日本語版発売もこの時期で、[[インターネット]]が個人にも普及し始めた世代でもある。
:ゲームでは『[[ストリートファイター2]]』(1991年)などの[[格闘ゲーム]]や、『'''[[ときめきメモリアル]]'''』(1994年)などの[[恋愛シミュレーションゲーム]]が多数ヒットするようになり、ゲームのキャラクターがアニメや漫画のキャラクターと同等の人気を博すようになった時代である。
=== オタク第四世代(1990年前後生まれ) ===
:[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]が普及し、[[家庭]]でのインターネット利用が一般的な環境の中に育った。「[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]」(2001年)世代でもある。
:この世代は[[ゆとり世代]]論により年少期からバッシングに晒され、また[[地上波テレビ]]等で[[自主規制]]が強まった後に育っている。
:一方で、インターネットにより「'''[[2ちゃんねる]]'''」(1999年)、2000年代前半から中盤の[[MADムービー|Flash動画]]黄金期、[[深夜アニメ]]の隆盛、「[[YouTube]]」(2005年)や「[[ニコニコ動画]]」(2006年)などの[[動画投稿サイト]]の台頭、[[実況プレイ]]などのネット動画ブーム、『[[初音ミク]]』(2007)等の[[VOCALOID]]ブーム、「'''[[ハルヒダンス]]'''」などの「踊ってみた」ブーム等、ネット発の様々な流行を体験した。
:2005年には、おたくを肯定的に描いた、2ちゃんねる発の恋愛作品『[[電車男]]』が映画化・ドラマ化され共に大ヒットしたことや、同年の[[流行語大賞]]に「[[萌え]]」及び「[[メイドカフェ]]」がノミネートされるなど、一般社会へオタク文化が急速に浸透し、10代でオタク趣味に傾倒する人が増えた。[[学校]]でアニメやゲームが話題に上がることも多く、宮崎事件の後に産まれていることもあって、オタク趣味やオタク文化に対する[[恥]]や後ろめたさがほとんどないことが特徴で、オタクの低年齢化が一気に進んだ。このため、かつての[[トレンディドラマ]]や[[J-POP]]、[[映画|洋画]]、[[スポーツ]]、[[車]]等といった、一般的な[[大衆文化]]([[メインカルチャー]])や[[アウトドア]]等と並んでオタク文化もごく普通に消費されるようになり、オタク文化が大衆文化やメインカルチャーに内包されるようになった最初の世代であるといえる。
{{seealso|Z世代}}
== おたくを題材とした作品 ==
{{See|Category:おたくを主題とする作品}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=東浩紀|authorlink=東浩紀|title=動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 |date= 2001-11-20 |publisher=講談社|isbn=978-4061495753|series=講談社現代新書 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=森川嘉一郎|authorlink=森川嘉一郎|title=趣都の誕生-萌える都市アキハバラ- |date=2003 |publisher=幻冬舎 |isbn=9784344002876 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=岡田斗司夫|authorlink=岡田斗司夫|title=オタクはすでに死んでいる |date=2008 |publisher=新潮社 |isbn=9784106102585 |series=新潮新書, 258 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=榎本秋|authorlink=榎本秋|title=オタクのことが面白いほどわかる本 日本の消費をけん引する人々 |date=2009 |publisher=中経出版 |isbn=9784806133582 |ref=harv}}
* 別冊宝島編集部編『おたくの本』宝島社〈別冊宝島104号〉、1989年12月
** 別冊宝島編集部編『「おたく」の誕生!!』宝島社〈宝島社文庫〉、2000年3月
== 関連項目 ==
* [[ナード]](欧米における“おたく”)
* [[数寄者]]、[[道楽|道楽者]] - より古い表現
* [[ファンダム]]
* [[萌え]]
* [[腐女子]]
* [[オタ芸]]
* [[大きいお友達]]
* [[推し]]
* [[同担拒否]]
* [[セカイ系]]
* [[担降り]]
* [[断層の世代]]/[[しらけ世代]]/[[新人類]]/[[W世代]]
* [[おたくのビデオ]]
* [[オタ卒]]
{{ファンダム}}
{{日本関連の項目}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おたく}}
[[Category:おたく|*]]
[[Category:ファンダム]]
[[Category:サブカルチャー]]
[[Category:日本の俗語]]
[[Category:人称]]
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[[Category:萌え]]
[[Category:趣味]]
[[Category:日本的価値観]]
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両
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両(りょう)は、尺貫法における質量の単位であり、また、近世の日本における金貨、および中国における秤量銀貨の通貨単位である。
質量の単位としての両は、匁の倍量(貫、斤の分量)単位で、日本では1両=10匁=1/100貫=1/16斤とされた。奈良時代に公布された大宝律令では隋代(唐代初期か)の一両に準じて、おおむね41〜42グラムくらいであったが、唐代になり11%程度減少し37.3グラムとなり、日本国内でもこれに近い値となった。明治時代以降、日本国内ではほとんど使用されていない。現代の中国の1市両は50グラムである。
金貨の通貨単位としての両は武田信玄により、鋳造を命じられた甲州金により確立され、江戸幕府に継承されたもので、1両は4分に等しく、また16朱に等しい。小判1枚の貨幣価値に相当し、したがって二分金2枚に、一分金、一分銀4枚に相当し、また二朱金、二朱銀8枚に、一朱金、一朱銀16枚に相当する。明治時代に通貨単位として圓(円)が導入されたが、切り替え時に「1圓は1両と等価」とされ、しばらくの間は「圓」のことを「両」とも呼んでいた。また江戸時代にも文政年間頃から「両」のことを俗称として「圓」と呼ぶ習慣が一部にあったという。
質量の単位としての両は、古代中国で生まれた。古代中国で流通した貨幣として半両銭がある。
漢代では『漢書律暦志』に
「権者銖・両・斤・鈞・石也。所以称物平施知軽重也。本起於黄鍾之重。一龠容千二百黍重十二銖。両之為両。二十四銖為両。十六両為斤。三十斤為鈞。四鈞為石。」
と記述があり、黄鍾管(当時の音律の基準となった黄鍾の音色の笛)の体積が一龠(やく)であり、これに入る黍1200粒を12銖(しゅ。朱はこれの略字)とし、これを二つ合わせた質量すなわち24銖を1両とした。「両」の漢字には「二つ」という意味がある。
中国の劉復が新の嘉量を計量したところ、その質量は13 600 g であった。一方、『漢書律暦志』には「嘉量の質量は「重二鈞」と記されている。これから、劉復は、漢代の1斤を226.67グラム、1両を14.167グラムと推算した。
南北朝時代になると南朝では質量は変化しなかったが北朝で1両の質量が増し、隋・唐では旧制の「小称両」とその3倍の「大称両」が定義された。呉承洛の『中国度量衡史』による隋代の「大称両」1両は41.762グラムで「小称両」1両の3倍である。唐代の1斤は約680gだったので(斤を参照)、「大称両」はその1/16で約42.5gとなる。
唐代に開元通宝が1/10両の基準で鋳造され、質量の単位は従来の「1両 = 24銖」から「1両 = 10銭 = 100分」という十進法の制度に改められた。
清代には目的によっていくつかの両があったが、庫平両が標準とされた。この庫平両とメートル法の対応は清朝滅亡後の1915年に定義され、それによれば、1庫平両 = 37.301g であった。国民革命後の1929年に庫平両は廃止され、新たに市制が導入されたが、その定義では1両 = 31.25g に減少した。これはメートル法との対応が計算しやすいように1斤 = 500gとしたためである。中華人民共和国では 1斤 = 10両に十進法化したため、1両は逆に 50g に増加した。ただし、この 50g の両は中華人民共和国以前にも使用例がある。満洲国でも1両を 50g としていた。
香港では、歴史的に1斤を常衡1+1⁄3ポンドと定めたため、それにしたがって現在も1斤=16両=604.78982グラム、1両=37.7994グラムである。これは「司馬両」と呼ばれる。貴金属の取引では、これとは少し異なる値の金衡両(37.429g)が使われる。
東南アジア諸国では、名称はさまざまだが同様の質量の単位が使われている。インドネシア・マレーシア・シンガポール・ブルネイでは tahil と呼び、それがポルトガルを経由して英語ではテール(tael)と呼ばれる。
日本には唐代の大小両方の「両」が伝わった。
江戸時代初期までは、唐代の「両」が日本に伝えられ用いられていたが、寛文元年(1661年)に度量衡の「衡」が統一され、両替商で用いられる分銅は後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。この分銅は「両」を基本単位としている。ただし秤量銀貨の通貨単位は日本では銀一両といえば銀4.3匁のことであり、さらに小判の通貨単位の「両」との混同を避ける意味から「匁」および「貫」が用いられた。すなわち、肆兩(しりょう)の分銅と釣合う丁銀は銀40匁と表した。江戸時代の1両は分銅および定位貨幣の実測による推定では平均して37.36グラム程度であり、江戸時代終盤にやや増加して37.5グラムを超えたという。
一方中国では秤量銀貨の実測値一両(大両)を銀一両(テール)と表した。このため、安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際、約8.6グラムの質量を持つ一分銀は偶然にも質量としての一両の約1/4であることから額面通り銀1/4両であり、中国の銀一両の約3/4の質量である1ドル銀貨=一分銀3枚という日本側に不利な交換比率を主張する口実をハリスに与えることになり、小判流出の一因となった。
明治4年(1871年)5月、新貨条例公布の際、当初1戔(匁)=3.756574グラムとされたが、同年9月に訂正され1戔=3.756521グラムと定められたため、1両=37.56521グラムとなる。
その後、換算の便宜のため、メートル法基準となり、明治24年(1891年)の度量衡法により1貫=3.75キログラムと定められたので、1両=37.5グラムとなる。しかし明治時代以降は日本国内では尺貫法としては専ら「貫」、「匁」が使用され、「両」は新貨条例にも度量衡法にも登場せず、ほとんど使用されなくなった。その度量衡法も昭和26年(1951年)に廃止され、その後の計量法ではメートル法に統一され公式には使用されなくなった。
江戸時代まで使用された後藤分銅の表示は「両」が基本質量単位であり、「匁」は分銅に記載すらなく代わりに「戔」と刻まれている。対して江戸時代の「匁」は銀目としての貨幣単位であり、大坂において商取引の相場は必ず銀目で表された。しかし、江戸幕府は南鐐二朱銀発行以降、銀貨=丁銀・豆板銀という従前の概念の意識抜き・洗脳を周到に行い、貨幣の機軸は「両」であるという既成事実を息長く積み上げ、また、明治以降は維新政府による1868年の銀目廃止、1891年の度量衡法施行以来、あたかも「両」は江戸時代の貨幣単位、「匁」は質量単位と一般には認識されるようになった。
薬種の量目としては1両を4匁(すなわち小両)とするのが一般的であったが、薬種によって4匁4分や5匁とするものもあった。馬一頭が運ぶ荷物の目方(質量)を表す駄法と関連があるとされる記事に、1300年頃に編纂されたとされる『拾芥抄』の中に、胡粉、白鑞(しろめ)、銅鉄、絲綿紅、蘇芳は大目を用い、金銀、水精、青木香、金青、緑青、陶砂は小目を用い、「6銖を1分、4分を1両、12両を1屯、16両を小1斤、3斤を大1斤」とする単位系が記述されている。
拾芥抄はこれは俗説であるとしているが、唐の駄法にも全く同一の単位系が存在するという。ここで言う1分とは1銭(匁)の1/10とは全く異なる。甲州金および江戸時代の通貨体系となった「両」および「分」は、これを基に定められた可能性が高く、薬種の量目も金銀の単位体系に準じている。
中国では、銀錠と呼ばれる銀の塊の質量を測り、それに基づいて貨幣としての価値を決定した(銀両/テール)。だが、銀錠は実質上の銀貨として市場において通用していたが、民間によって発行されていたため、時代や地域によって形状が異なっていた。これが完全に廃止されるのは1933年である(廃両改元)。
金一両は元来一両(大宝律令では小両、延喜式以降は10匁)の質量の砂金という意味であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり鎌倉時代には金一両は5匁、銀は4.3匁となり、鎌倉時代後期には金一両が4.5から4.8匁へと変化している。文明16年(1484年)、室町幕府により京目一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、安土桃山時代すなわち元亀、天正年間には、京目一両は4匁4分 (約16.4グラム)と変更され、京目以外の基準は田舎目と呼ばれた。甲州金は田舎目一両すなわち4匁(約14.9グラム)を基準としてつくられ、この通貨単位が江戸時代の小判の額面1両の基となった。甲州金の通貨単位は「1両=4分=16朱=64糸目」という四進法の単位系であった。これが江戸幕府に継承され、江戸時代の通貨の基軸となるよう幕府は政策に尽力を注ぎ続けた。
金拾両(じゅうりょう、44匁)は一裹(つつみ)あるいは一枚と呼ばれ、後に大判の量目(質量)の基準となり、銀拾両(43匁)は同じく一裹あるいは一枚と呼ばれ、後に丁銀の量目の基準となった。このような「枚」という単位は中世から江戸時代にかけて、主に恩賞および贈答用の通貨単位として用いられた。
慶長小判の質量は京目一両の金4.4匁に銀0.82匁を加え、金座の鋳造手数料0.44匁および吹減分0.02匁を引いて4.76匁と決められたとされる。この説に基けば慶長小判でさえ金含有量は金一両=金4.4匁とする金平価から乖離しているが、その後、改鋳により含有率、質・量とも劣る小判が発行される様になり、質量単位としての両と通貨単位としての両の乖離は拡大し、「両」の名目化が進行した。一方で慶長小判全体の量目4.76匁が田舎目の金一両であるとする説もある。
「両替」という言葉は、近世初期に金吹屋あるいは銀吹屋において砂金あるいは練金を引取り鑑定し、秤量貨幣としての灰吹銀と交換した、いわゆる南鐐替(なんりょうがえ)が変化したものであり、また金と銀の量目替(両目替、りょうめがえ)に由来する。また両替商で一両小判を秤量銀貨や銭貨に換(替)えたとする説もある。
天正年間の1両は米4石、永樂銭1貫文、鐚銭4貫文とほぼ等価であった。
江戸時代、金貨・銀貨・銭貨の為替レートは日々変動していた。一方江戸幕府は御定相場として慶長14年(1609年)に、金1両は、銀50匁(約187グラム)、銭4貫文(4,000文)に等価と布告し、後の元禄13年(1700年)に、金1両は、銀60匁(約225グラム)、銭4貫文と改正したが、幕府は相場が行き過ぎた場合のみ介入し、普段は市場経済に委ねていた。
また、貨幣吹替および飢饉の影響などによる変動はあったものの、米1石(当時の人一人の一年分の米消費量にほぼ相当する)の価格は1両前後であり、元禄年間から幕末の世情不安に至る前まで、ほぼこの前後の水準で推移した。
1両が現在の貨幣価値に換算したらどの程度になるかは諸説ある。相対的な価値は慶長期と急激な下落を見た幕末期では概ね一桁以上は異なる上に、生活様式が現在と全く異なるため物価基準であるか賃金基準であるかにより、さらに物価も品目により大きく異なる。中学校歴史教科書では「小判1両は、江戸時代初めには今の10万円ほどの価値があったが、幕末には3,000円-4,000円程度まで価値が下がってしまった」と記述しているものがある(五味文彦・高橋進・斎藤功ほか45名『新編新しい社会 歴史』東京書籍、2009年)。 総務省統計局の「小売物価統計調査」(2020年調査)を基に換算した場合、18世紀においては、どの物価を基準にするかによって変わってくる。
なお、日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、江戸時代の各時期における1両の価値は米量価で換算した場合、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほどに相当する。また、現在のように成人者で合法な売買ならば、誰でも自由にお金が使えたわけではない。身分とセットで考える必要もあるため、現在への換算は難しいのである。
1871年6月27日(明治4年5月10日)、新貨条例が公布され、『両』にかわって『円』が用いられるようになった。この時、一両は一円に等価であると設定され、旧通貨単位が新単位に切り替えられた。
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"text": "両(りょう)は、尺貫法における質量の単位であり、また、近世の日本における金貨、および中国における秤量銀貨の通貨単位である。",
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"text": "質量の単位としての両は、匁の倍量(貫、斤の分量)単位で、日本では1両=10匁=1/100貫=1/16斤とされた。奈良時代に公布された大宝律令では隋代(唐代初期か)の一両に準じて、おおむね41〜42グラムくらいであったが、唐代になり11%程度減少し37.3グラムとなり、日本国内でもこれに近い値となった。明治時代以降、日本国内ではほとんど使用されていない。現代の中国の1市両は50グラムである。",
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"text": "金貨の通貨単位としての両は武田信玄により、鋳造を命じられた甲州金により確立され、江戸幕府に継承されたもので、1両は4分に等しく、また16朱に等しい。小判1枚の貨幣価値に相当し、したがって二分金2枚に、一分金、一分銀4枚に相当し、また二朱金、二朱銀8枚に、一朱金、一朱銀16枚に相当する。明治時代に通貨単位として圓(円)が導入されたが、切り替え時に「1圓は1両と等価」とされ、しばらくの間は「圓」のことを「両」とも呼んでいた。また江戸時代にも文政年間頃から「両」のことを俗称として「圓」と呼ぶ習慣が一部にあったという。",
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"text": "質量の単位としての両は、古代中国で生まれた。古代中国で流通した貨幣として半両銭がある。",
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"text": "漢代では『漢書律暦志』に",
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"text": "「権者銖・両・斤・鈞・石也。所以称物平施知軽重也。本起於黄鍾之重。一龠容千二百黍重十二銖。両之為両。二十四銖為両。十六両為斤。三十斤為鈞。四鈞為石。」",
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"text": "と記述があり、黄鍾管(当時の音律の基準となった黄鍾の音色の笛)の体積が一龠(やく)であり、これに入る黍1200粒を12銖(しゅ。朱はこれの略字)とし、これを二つ合わせた質量すなわち24銖を1両とした。「両」の漢字には「二つ」という意味がある。",
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"text": "中国の劉復が新の嘉量を計量したところ、その質量は13 600 g であった。一方、『漢書律暦志』には「嘉量の質量は「重二鈞」と記されている。これから、劉復は、漢代の1斤を226.67グラム、1両を14.167グラムと推算した。",
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"text": "南北朝時代になると南朝では質量は変化しなかったが北朝で1両の質量が増し、隋・唐では旧制の「小称両」とその3倍の「大称両」が定義された。呉承洛の『中国度量衡史』による隋代の「大称両」1両は41.762グラムで「小称両」1両の3倍である。唐代の1斤は約680gだったので(斤を参照)、「大称両」はその1/16で約42.5gとなる。",
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"text": "唐代に開元通宝が1/10両の基準で鋳造され、質量の単位は従来の「1両 = 24銖」から「1両 = 10銭 = 100分」という十進法の制度に改められた。",
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"text": "清代には目的によっていくつかの両があったが、庫平両が標準とされた。この庫平両とメートル法の対応は清朝滅亡後の1915年に定義され、それによれば、1庫平両 = 37.301g であった。国民革命後の1929年に庫平両は廃止され、新たに市制が導入されたが、その定義では1両 = 31.25g に減少した。これはメートル法との対応が計算しやすいように1斤 = 500gとしたためである。中華人民共和国では 1斤 = 10両に十進法化したため、1両は逆に 50g に増加した。ただし、この 50g の両は中華人民共和国以前にも使用例がある。満洲国でも1両を 50g としていた。",
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"text": "香港では、歴史的に1斤を常衡1+1⁄3ポンドと定めたため、それにしたがって現在も1斤=16両=604.78982グラム、1両=37.7994グラムである。これは「司馬両」と呼ばれる。貴金属の取引では、これとは少し異なる値の金衡両(37.429g)が使われる。",
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"text": "東南アジア諸国では、名称はさまざまだが同様の質量の単位が使われている。インドネシア・マレーシア・シンガポール・ブルネイでは tahil と呼び、それがポルトガルを経由して英語ではテール(tael)と呼ばれる。",
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"text": "日本には唐代の大小両方の「両」が伝わった。",
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"text": "江戸時代初期までは、唐代の「両」が日本に伝えられ用いられていたが、寛文元年(1661年)に度量衡の「衡」が統一され、両替商で用いられる分銅は後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。この分銅は「両」を基本単位としている。ただし秤量銀貨の通貨単位は日本では銀一両といえば銀4.3匁のことであり、さらに小判の通貨単位の「両」との混同を避ける意味から「匁」および「貫」が用いられた。すなわち、肆兩(しりょう)の分銅と釣合う丁銀は銀40匁と表した。江戸時代の1両は分銅および定位貨幣の実測による推定では平均して37.36グラム程度であり、江戸時代終盤にやや増加して37.5グラムを超えたという。",
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"text": "一方中国では秤量銀貨の実測値一両(大両)を銀一両(テール)と表した。このため、安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際、約8.6グラムの質量を持つ一分銀は偶然にも質量としての一両の約1/4であることから額面通り銀1/4両であり、中国の銀一両の約3/4の質量である1ドル銀貨=一分銀3枚という日本側に不利な交換比率を主張する口実をハリスに与えることになり、小判流出の一因となった。",
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"text": "明治4年(1871年)5月、新貨条例公布の際、当初1戔(匁)=3.756574グラムとされたが、同年9月に訂正され1戔=3.756521グラムと定められたため、1両=37.56521グラムとなる。",
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"text": "その後、換算の便宜のため、メートル法基準となり、明治24年(1891年)の度量衡法により1貫=3.75キログラムと定められたので、1両=37.5グラムとなる。しかし明治時代以降は日本国内では尺貫法としては専ら「貫」、「匁」が使用され、「両」は新貨条例にも度量衡法にも登場せず、ほとんど使用されなくなった。その度量衡法も昭和26年(1951年)に廃止され、その後の計量法ではメートル法に統一され公式には使用されなくなった。",
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"text": "江戸時代まで使用された後藤分銅の表示は「両」が基本質量単位であり、「匁」は分銅に記載すらなく代わりに「戔」と刻まれている。対して江戸時代の「匁」は銀目としての貨幣単位であり、大坂において商取引の相場は必ず銀目で表された。しかし、江戸幕府は南鐐二朱銀発行以降、銀貨=丁銀・豆板銀という従前の概念の意識抜き・洗脳を周到に行い、貨幣の機軸は「両」であるという既成事実を息長く積み上げ、また、明治以降は維新政府による1868年の銀目廃止、1891年の度量衡法施行以来、あたかも「両」は江戸時代の貨幣単位、「匁」は質量単位と一般には認識されるようになった。",
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"text": "薬種の量目としては1両を4匁(すなわち小両)とするのが一般的であったが、薬種によって4匁4分や5匁とするものもあった。馬一頭が運ぶ荷物の目方(質量)を表す駄法と関連があるとされる記事に、1300年頃に編纂されたとされる『拾芥抄』の中に、胡粉、白鑞(しろめ)、銅鉄、絲綿紅、蘇芳は大目を用い、金銀、水精、青木香、金青、緑青、陶砂は小目を用い、「6銖を1分、4分を1両、12両を1屯、16両を小1斤、3斤を大1斤」とする単位系が記述されている。",
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"text": "拾芥抄はこれは俗説であるとしているが、唐の駄法にも全く同一の単位系が存在するという。ここで言う1分とは1銭(匁)の1/10とは全く異なる。甲州金および江戸時代の通貨体系となった「両」および「分」は、これを基に定められた可能性が高く、薬種の量目も金銀の単位体系に準じている。",
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"text": "中国では、銀錠と呼ばれる銀の塊の質量を測り、それに基づいて貨幣としての価値を決定した(銀両/テール)。だが、銀錠は実質上の銀貨として市場において通用していたが、民間によって発行されていたため、時代や地域によって形状が異なっていた。これが完全に廃止されるのは1933年である(廃両改元)。",
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"text": "金一両は元来一両(大宝律令では小両、延喜式以降は10匁)の質量の砂金という意味であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり鎌倉時代には金一両は5匁、銀は4.3匁となり、鎌倉時代後期には金一両が4.5から4.8匁へと変化している。文明16年(1484年)、室町幕府により京目一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、安土桃山時代すなわち元亀、天正年間には、京目一両は4匁4分 (約16.4グラム)と変更され、京目以外の基準は田舎目と呼ばれた。甲州金は田舎目一両すなわち4匁(約14.9グラム)を基準としてつくられ、この通貨単位が江戸時代の小判の額面1両の基となった。甲州金の通貨単位は「1両=4分=16朱=64糸目」という四進法の単位系であった。これが江戸幕府に継承され、江戸時代の通貨の基軸となるよう幕府は政策に尽力を注ぎ続けた。",
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"text": "金拾両(じゅうりょう、44匁)は一裹(つつみ)あるいは一枚と呼ばれ、後に大判の量目(質量)の基準となり、銀拾両(43匁)は同じく一裹あるいは一枚と呼ばれ、後に丁銀の量目の基準となった。このような「枚」という単位は中世から江戸時代にかけて、主に恩賞および贈答用の通貨単位として用いられた。",
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"text": "慶長小判の質量は京目一両の金4.4匁に銀0.82匁を加え、金座の鋳造手数料0.44匁および吹減分0.02匁を引いて4.76匁と決められたとされる。この説に基けば慶長小判でさえ金含有量は金一両=金4.4匁とする金平価から乖離しているが、その後、改鋳により含有率、質・量とも劣る小判が発行される様になり、質量単位としての両と通貨単位としての両の乖離は拡大し、「両」の名目化が進行した。一方で慶長小判全体の量目4.76匁が田舎目の金一両であるとする説もある。",
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"text": "「両替」という言葉は、近世初期に金吹屋あるいは銀吹屋において砂金あるいは練金を引取り鑑定し、秤量貨幣としての灰吹銀と交換した、いわゆる南鐐替(なんりょうがえ)が変化したものであり、また金と銀の量目替(両目替、りょうめがえ)に由来する。また両替商で一両小判を秤量銀貨や銭貨に換(替)えたとする説もある。",
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"text": "天正年間の1両は米4石、永樂銭1貫文、鐚銭4貫文とほぼ等価であった。",
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"text": "江戸時代、金貨・銀貨・銭貨の為替レートは日々変動していた。一方江戸幕府は御定相場として慶長14年(1609年)に、金1両は、銀50匁(約187グラム)、銭4貫文(4,000文)に等価と布告し、後の元禄13年(1700年)に、金1両は、銀60匁(約225グラム)、銭4貫文と改正したが、幕府は相場が行き過ぎた場合のみ介入し、普段は市場経済に委ねていた。",
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"text": "また、貨幣吹替および飢饉の影響などによる変動はあったものの、米1石(当時の人一人の一年分の米消費量にほぼ相当する)の価格は1両前後であり、元禄年間から幕末の世情不安に至る前まで、ほぼこの前後の水準で推移した。",
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"text": "1両が現在の貨幣価値に換算したらどの程度になるかは諸説ある。相対的な価値は慶長期と急激な下落を見た幕末期では概ね一桁以上は異なる上に、生活様式が現在と全く異なるため物価基準であるか賃金基準であるかにより、さらに物価も品目により大きく異なる。中学校歴史教科書では「小判1両は、江戸時代初めには今の10万円ほどの価値があったが、幕末には3,000円-4,000円程度まで価値が下がってしまった」と記述しているものがある(五味文彦・高橋進・斎藤功ほか45名『新編新しい社会 歴史』東京書籍、2009年)。 総務省統計局の「小売物価統計調査」(2020年調査)を基に換算した場合、18世紀においては、どの物価を基準にするかによって変わってくる。",
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"text": "なお、日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、江戸時代の各時期における1両の価値は米量価で換算した場合、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほどに相当する。また、現在のように成人者で合法な売買ならば、誰でも自由にお金が使えたわけではない。身分とセットで考える必要もあるため、現在への換算は難しいのである。",
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"text": "1871年6月27日(明治4年5月10日)、新貨条例が公布され、『両』にかわって『円』が用いられるようになった。この時、一両は一円に等価であると設定され、旧通貨単位が新単位に切り替えられた。",
"title": "通貨単位"
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両(りょう)は、尺貫法における質量の単位であり、また、近世の日本における金貨、および中国における秤量銀貨の通貨単位である。
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{{Otheruses|質量の単位と通貨の単位|その他}}
{{単位|
名称=両(りょう)|
単位系=[[尺貫法]]|
物理量=[[質量]]|
定義=(15/400)kg = (1/100)貫|
SI=0.0375 kg|
画像=[[Image:1ryo-hundo.jpg|250px|壹両分銅]]<br/>壹兩分銅。質量1両(実測37.484g)}}
'''両'''(りょう)は、[[尺貫法]]における[[質量]]の[[単位]]であり、また、[[近世]]の日本における[[金貨]]、および[[中国]]における[[秤量銀貨]]の[[通貨]]単位である。
== 概要 ==
質量の単位としての両は、[[匁]]の倍量([[貫]]、[[斤]]の分量)単位で、日本では1両=10匁=1/100貫=1/16斤とされた。[[奈良時代]]に公布された[[大宝律令]]では[[隋代]](唐代初期か)の一両に準じて、おおむね41〜42[[グラム]]くらいであったが、[[唐代]]になり11%程度減少し37.3グラムとなり、日本国内でもこれに近い値となった。[[明治時代]]以降、日本国内ではほとんど使用されていない。現代の[[中国]]の1市両は50グラムである。
金貨の通貨単位としての両は[[武田信玄]]により、[[鋳造]]を命じられた[[甲州金]]により確立され、[[江戸幕府]]に継承されたもので、1両は4[[分_(曖昧さ回避)|分]]に等しく、また16[[朱]]に等しい。[[小判]]1枚の貨幣価値に相当し、したがって[[二分金]]2枚に、[[一分金]]、[[一分銀]]4枚に相当し、また[[二朱金]]、[[南鐐二朱銀|二朱銀]]8枚に、[[一朱金]]、[[一朱銀]]16枚に相当する。明治時代に通貨単位として[[円 (通貨)|圓]](円)が導入されたが、切り替え時に「1圓は1両と等価」とされ、しばらくの間は「圓」のことを「両」とも呼んでいた。また江戸時代にも[[文政]]年間頃から「両」のことを俗称として「圓」と呼ぶ習慣が一部にあったという<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p291-292.]]</ref>。
==質量単位==
===中国===
質量の単位としての両は、古代中国で生まれた。古代中国で流通した貨幣として[[半両銭]]がある。
[[漢]]代では『[[漢書|漢書律暦志]]』に
「権者[[銖]]・両・[[斤]]・[[鈞]]・[[石 (単位)|石]]也。所以称物平施知軽重也。本起於黄鍾之重。一龠容千二百黍重十二銖。両之為両。二十四銖為両。十六両為斤。三十斤為鈞。四鈞為石。」
と記述があり、黄鍾管(当時の音律の基準となった[[黄鍾]]の音色の笛)の体積が一[[龠部|龠]](やく)であり、これに入る[[黍]]<ref group="注釈">当時は主に[[トウジンビエ|クロキビ]]であったという。</ref>1200粒を12銖(しゅ。朱はこれの略字)とし、これを二つ合わせた質量すなわち24銖を1両とした。「'''両'''」の[[漢字]]には「二つ」という意味がある<ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p253.]]</ref>。
中国の[[劉復]]が[[新]]の[[嘉量]]を計量したところ、その質量は13 600 g であった。一方、『漢書律暦志』には「[[嘉量]]の質量は「重二[[鈞]]」と記されている。これから、[[劉復]]は、[[漢]]代の1斤を226.67グラム、1両を14.167グラムと推算した<ref>岩田重雄, 「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10632045 新莽嘉量について]」『計量史研究』 26(2), p.93-99(p.95 表1 新莽嘉量の質量), 2004-12-01, 日本計量史学会</ref><ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p254.]]</ref>。
南北朝時代になると南朝では質量は変化しなかったが北朝で1両の質量が増し、[[隋]]・[[唐]]では旧制の「小称両」とその3倍の「大称両」が定義された。[[呉承洛]]の『[[中国度量衡史]]』による隋代の「大称両」1両は41.762グラムで「小称両」1両の3倍である。唐代の1斤は約680gだったので([[斤]]を参照)、「大称両」はその1/16で約42.5gとなる。
唐代に[[開元通宝]]が1/10両の基準で鋳造され、質量の単位は従来の「1両 = 24銖」から「1両 = 10銭 = 100分」という十進法の制度に改められた。
[[清]]代には目的によっていくつかの両があったが、庫平両が標準とされた。この庫平両とメートル法の対応は清朝滅亡後の1915年に定義され、それによれば、1庫平両 = 37.301g であった。[[北伐 (中国国民党)|国民革命]]後の1929年に庫平両は廃止され、新たに[[市制 (単位系)|市制]]が導入されたが、その定義では1両 = 31.25g に減少した。これはメートル法との対応が計算しやすいように1斤 = 500gとしたためである。[[中華人民共和国]]では 1斤 = 10両に十進法化したため、1両は逆に 50g に増加した。ただし、この 50g の両は中華人民共和国以前にも使用例がある。[[満洲国]]でも1両を 50g としていた<ref>{{cite book|和書
|title=大同三年時憲書
|year=1934
|page=49
|url={{NDLDC|1146622/28}}
}} (国会図書館 近代デジタルライブラリー)</ref>。
===香港など===
[[香港]]では、歴史的に1斤を[[常衡]]{{分数|1|1|3}}[[ポンド (質量)|ポンド]]と定めたため、それにしたがって現在も1斤=16両=604.78982グラム、1両=37.7994グラムである<ref>{{cite web|title = Weights and Measures Ordinance |work = The Law of Hong Kong | url = http://www.legislation.gov.hk/blis_ind.nsf/e1bf50c09a33d3dc482564840019d2f4/4ed2ff0cf02f2fd9c82564760077af3c?OpenDocument|accessdate=2010年10月5日 }}</ref><ref>{{cite web|title = Weights and Measures Act (CHAPTER 349) Third Schedule |work = Singapore Statues | url = http://statutes.agc.gov.sg/non_version/cgi-bin/cgi_getdata.pl?actno=1976-REVED-349&doctitle=WEIGHTS%20AND%20MEASURES%20ACT%0A&date=latest&method=part&sl=1&segid=888373245-001666|accessdate=2010年10月5日 }}</ref>。これは「司馬両」と呼ばれる。貴金属の取引では、これとは少し異なる値の金衡両(37.429g)が使われる。
東南アジア諸国では、名称はさまざまだが同様の質量の単位が使われている。[[インドネシア]]・[[マレーシア]]・[[シンガポール]]・[[ブルネイ]]では tahil と呼び、それがポルトガルを経由して英語ではテール({{en|tael}})と呼ばれる。
===日本===
[[画像:後藤分銅1.jpg|thumb|right|320px|江戸時代に両替商が用いた後藤分銅<br>參拾兩(1124.27g)、貳拾兩(749.45g)、拾兩(374.40g)、伍兩(187.45g)、肆兩(149.89g)、參兩(112.46g)、貳兩(75.01g)]]
日本には唐代の大小両方の「両」が伝わった。
[[江戸時代]]初期までは、唐代の「両」が日本に伝えられ用いられていたが、[[寛文]]元年([[1661年]])に[[度量衡]]の「衡」が統一され、[[両替商]]で用いられる[[分銅]]は[[後藤四郎兵衛]]家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。この分銅は「両」を基本単位としている。ただし[[秤量銀貨]]の通貨単位は日本では銀一両といえば銀4.3匁のことであり<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p78-79.]]</ref>、さらに[[小判]]の通貨単位の「両」との混同を避ける意味から「匁」および「貫」が用いられた。すなわち、肆兩(しりょう)の分銅と釣合う[[丁銀]]は銀40匁と表した。江戸時代の1両は分銅および定位貨幣の実測による推定では平均して37.36グラム程度であり、江戸時代終盤にやや増加して37.5グラムを超えたという<ref name=iwata>岩田重雄,「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10631741 近世における質量標準の変化]」『計量史研究』 , 日本計量史学会, 1979年, 1巻 1号 p.5-9, {{naid|110002345649}}</ref>。
一方中国では秤量銀貨の実測値一両(大両)を銀一両([[銀両|テール]])と表した。このため、[[安政]]5年([[1858年]])の[[日米修好通商条約]]締結の際、約8.6グラムの質量を持つ[[一分銀]]は偶然にも質量としての一両の約1/4であることから額面通り銀1/4両であり、中国の銀一両の約3/4の質量である1ドル銀貨=一分銀3枚という日本側に不利な交換比率を主張する口実を[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]に与えることになり、小判流出の一因となった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p425-467.]]</ref>。
明治4年([[1871年]])5月、[[新貨条例]]公布の際、当初1戔(匁)=3.756574グラムとされたが、同年9月に訂正され1戔=3.756521グラムと定められたため、1両=37.56521グラムとなる<ref name="Zaiseishi1939-11">[[#Zaiseishi1939|明治大正財政史(1939), p11-12, 138-146.]]</ref>。
その後、換算の便宜のため、[[メートル法]]基準となり、明治24年([[1891年]])の[[度量衡法]]により1貫=3.75[[キログラム]]と定められたので、1両=37.5グラムとなる。しかし明治時代以降は日本国内では尺貫法としては専ら「貫」、「匁」が使用され、「両」は新貨条例にも度量衡法にも登場せず、ほとんど使用されなくなった。その度量衡法も[[昭和]]26年([[1951年]])に廃止され、その後の[[計量法]]ではメートル法に統一され公式には使用されなくなった。
江戸時代まで使用された後藤分銅の表示は「両」が基本質量単位であり、「匁」は分銅に記載すらなく代わりに「戔」と刻まれている。対して江戸時代の「匁」は銀目としての貨幣単位であり、大坂において商取引の相場は必ず銀目で表された<ref>[[#Kokushi1992|『国史大辞典』「匁(銀貨の単位)」, p920.]]</ref>。しかし、江戸幕府は[[南鐐二朱銀]]発行以降、銀貨=丁銀・[[豆板銀]]という従前の概念の意識抜き・[[洗脳]]を周到に行い、貨幣の機軸は「両」であるという既成事実を息長く積み上げ<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p230-232.]]</ref>、また、明治以降は維新政府による1868年の銀目廃止、1891年の度量衡法施行以来、あたかも「両」は江戸時代の貨幣単位、「匁」は質量単位と一般には認識されるようになった。
薬種の量目としては1両を4匁(すなわち小両)とするのが一般的であったが、薬種によって4匁4分や5匁とするものもあった。[[馬]]一頭が運ぶ荷物の目方(質量)を表す[[駄法]]と関連があるとされる記事に、[[1300年]]頃に編纂されたとされる『[[拾芥抄]]』の中に、[[胡粉]]、[[白鑞]](しろめ)、[[銅]][[鉄]]、[[糸|絲]][[綿]][[紅色|紅]]、[[蘇芳色|蘇芳]]は大目を用い、[[金]][[銀]]、[[水晶|水精]]、青木[[香]]、[[ラピスラズリ|金青]]、[[緑青]]、[[陶器|陶砂]]は小目を用い、「6銖を1分、4分を1両、12両を1屯、16両を小1斤、3斤を大1斤」とする単位系が記述されている<ref>[[#Koizumi1974|小泉(1974), p351.]]</ref>。
[[拾芥抄]]はこれは俗説であるとしているが、唐の駄法にも全く同一の単位系が存在するという。ここで言う1分とは1銭(匁)の1/10とは全く異なる。[[甲州金]]および江戸時代の通貨体系となった「両」および「分」は、これを基に定められた可能性が高く、薬種の量目も金銀の単位体系に準じている。
==通貨単位==
===中国===
[[画像:Batei-gin-Sycee.jpg|thumb|right|200px|銀錠(約一両)]]
中国では、[[銀錠]]と呼ばれる銀の塊の質量を測り、それに基づいて貨幣としての価値を決定した('''銀両'''/'''テール''')。だが、銀錠は実質上の銀貨として市場において通用していたが、民間によって発行されていたため、時代や地域によって形状が異なっていた。これが完全に廃止されるのは[[1933年]]である([[廃両改元]])。
===日本===
{{Infobox Currency
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}}
金一両は元来一両([[大宝律令]]では小両、[[延喜式]]以降は10匁)の質量の[[砂金]]という意味であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり[[鎌倉時代]]には金一両は5匁、銀は4.3匁となり、鎌倉時代後期には金一両が4.5から4.8匁へと変化している。[[文明 (日本)|文明]]16年([[1484年]])、[[室町幕府]]により[[京目]]一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、[[安土桃山時代]]すなわち[[元亀]]、[[天正]]年間には、京目一両は4匁4[[分]] (約16.4グラム)と変更され、京目以外の基準は田舎目と呼ばれた<ref name="名前なし-1">[[#Mikami1996|三上(1996), p29-30.]]</ref>。[[甲州金]]は田舎目一両すなわち4匁(約14.9グラム)を基準としてつくられ、この通貨単位が江戸時代の[[小判]]の額面1両の基となった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p56-57.]]</ref>。甲州金の通貨単位は「1両=4[[分]]=16[[朱]]=64[[糸目]]」という四進法の単位系であった。これが江戸幕府に継承され、江戸時代の[[通貨]]の基軸となるよう幕府は政策に尽力を注ぎ続けた<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p132-133, 231.]]</ref>。
金拾両(じゅうりょう、44匁)は一裹(つつみ)あるいは一枚と呼ばれ、後に[[大判]]の量目(質量)の基準となり、銀拾両(43匁)は同じく一裹あるいは一枚と呼ばれ、後に[[丁銀]]の量目の基準となった<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p78-80.]]</ref>。このような「枚」という単位は中世から江戸時代にかけて、主に恩賞および贈答用の通貨単位として用いられた<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p124-143.]]</ref>。
[[慶長小判]]の質量は京目一両の金4.4匁に銀0.82匁を加え、[[金座]]の鋳造手数料0.44匁および吹減分0.02匁を引いて4.76匁と決められたとされる<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p69.]]</ref>。この説に基けば慶長小判でさえ金含有量は金一両=金4.4匁とする金平価から乖離しているが、その後、[[貨幣改鋳|改鋳]]により含有率、質・量とも劣る小判が発行される様になり、質量単位としての両と通貨単位としての両の乖離は拡大し、「両」の名目化が進行した<ref name="名前なし-1"/><ref name="Sakurai1996">桜井信哉、[https://doi.org/10.20624/sehs.62.4_486 江戸時代における貨幣単位と重量単位 : 大黒作右衛門の「匁」の名目化=貨幣単位化意図を事例に] 『社会経済史学』 1996年 62巻 4号 p.486-511,568, {{doi|10.20624/sehs.62.4_486}}</ref>。一方で慶長小判全体の量目4.76匁が田舎目の金一両であるとする説もある<ref>[[#Kokushi1993 |『国史大辞典』14巻「両」, p616.]]</ref>。
「[[両替]]」という言葉は、近世初期に金吹屋あるいは銀吹屋において砂金あるいは練金を引取り鑑定し、秤量貨幣としての[[灰吹銀]]と交換した、いわゆる'''南鐐替'''(なんりょうがえ)が変化したものであり、また金と銀の'''量目替'''(両目替、りょうめがえ)に由来する<ref>[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p7-8.]]</ref>。また両替商で一両小判を秤量銀貨や[[銭貨]]に換(替)えたとする説もある<ref>[http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history_08sub.htm 日本銀行金融研究所貨幣博物館 わが国の貨幣史]</ref>。
[[天正]]年間の1両は米4[[石 (単位)|石]]、[[永楽通宝|永樂銭]]1貫文、[[鐚銭]]4貫文とほぼ等価であった。
[[江戸時代]]、[[小判|金貨]]・[[丁銀|銀貨]]<ref group="注釈" name="銀貨">[[明和]]9年([[1772年]])[[南鐐二朱銀]]発行以降、ほとんどの銀貨は秤量ではなく、[[計数貨幣]]として「1両=4[[分]](銀)=16[[朱]](銀)」の体系に従った。</ref>・[[銭貨]]の為替レートは日々変動していた。一方[[江戸幕府]]は[[御定相場]]として[[慶長]]14年([[1609年]])に、金1両は、銀50匁(約187グラム)、銭4[[貫文]](4,000[[文 (通貨単位)|文]])に等価と布告し、後の[[元禄]]13年([[1700年]])に、金1両は、銀60匁(約225グラム)<ref group="注釈" name="銀貨"/>、銭4貫文と改正したが、幕府は[[相場]]が行き過ぎた場合のみ介入し、普段は[[市場経済]]に委ねていた<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p120-124.]]</ref>。
また、貨幣吹替および[[飢饉]]の影響などによる変動はあったものの、米1石(当時の人一人の一年分の米消費量にほぼ相当する)の価格は1両前後であり、[[元禄]]年間から[[幕末]]の世情不安に至る前まで、ほぼこの前後の水準で推移した。
1両が現在の貨幣価値に換算したらどの程度になるかは諸説ある。相対的な価値は[[慶長]]期と急激な下落を見た[[幕末]]期では概ね一桁以上は異なる上に、生活様式が現在と全く異なるため[[物価]]基準であるか[[賃金]]基準であるかにより、さらに物価も品目により大きく異なる。中学校歴史教科書では「小判1両は、江戸時代初めには今の10万円ほどの価値があったが、幕末には3,000円-4,000円程度まで価値が下がってしまった」と記述しているものがある(五味文彦・高橋進・[[斎藤功 (地理学者)|斎藤功]]ほか45名『新編新しい社会 歴史』東京書籍、2009年)。
[[総務省]][[統計局]]の「小売物価統計調査」([[2020年]]調査)を基に換算した場合、[[18世紀]]においては、どの物価を基準にするかによって変わってくる。
:1.米量価では1両=約5~7万円<ref>{{Cite web|和書|last=統計調査部消費統計課物価統計室|first=統計局|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200571&tstat=000000680001&cycle=7&year=20200&month=0&stat_infid=000032079672&result_back=1&tclass1val=0|title=小売物価統計調査(動向編) 調査品目の月別価格及び年平均価格【都道府県庁所在市及び人口15万以上の市】「1001 うるち米」 ~ 「1101 まぐろ」|date=2021-04-23|website=政府統計の総合窓口(e-Stat)|format=Excel|accessdate=2021-09-04}}</ref><ref>[[うるち米]]([[コシヒカリ]]以外)を1袋(5kg)購入した場合の価格(1,832円[佐倉]~2,481円[府中]、2020年平均)を基に計算した。計算例:150[kg]×(1,832~2,481[円]÷5[kg])=54,960~74,430[円]</ref>に相当
:2.[[大工]]の[[賃金]]を基準とした場合は1両=約35~68万円<ref name="都市別小売価格2">{{Cite web|和書|last=統計調査部消費統計課物価統計室|first=統計局|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200571&tstat=000000680001&cycle=7&year=20200&month=0&stat_infid=000032079685&result_back=1&tclass1val=0|title=小売物価統計調査(動向編) 調査品目の月別価格及び年平均価格【都道府県庁所在市及び人口15万以上の市】 「3001 民営家賃」 ~ 「3172 大工手間代」|date=2021-04-23|website=政府統計の総合窓口(e-Stat)|format=Excel|accessdate=2021-09-04}}</ref><ref>1日当たりの大工手間賃(15,000円[八戸、今治]~29,630円[川崎]、2020年平均)を基に計算した。計算例:23[人]×15,000~28,630[円]=345,000~681,490[円]</ref>に相当
:3.[[蕎麦]]を基準とした場合は1両=約19~31万円<ref>{{Cite web|和書|last=統計調査部消費統計課物価統計室|first=統計局|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200571&tstat=000000680001&cycle=7&year=20200&month=0&stat_infid=000032079683&result_back=1&tclass1val=0|title=小売物価統計調査(動向編) 調査品目の月別価格及び年平均価格【都道府県庁所在市及び人口15万以上の市】「2021 ビール」 ~ 「2134 ぎょうざ(外食)」|date=2021-04-23|website=政府統計の総合窓口(e-Stat)|format=Excel|accessdate=2021-09-04}}</ref><ref>日本そばを外食した場合の価格(463円[熊本]~767円[松江]、2020年平均)を基に計算した。計算例:6,500[文]×(463~767[円]÷16[文])≒188,094~311,594[円]</ref>に相当
なお、[[日本銀行金融研究所]][[貨幣博物館]]のサイトによると、[[江戸時代]]の各時期における1両の価値は米量価で換算した場合、[[江戸時代#初期・前期(1603年 - 1690年ごろ)|江戸初期]]で約10万円前後、[[江戸時代#江戸時代中期|中]]~[[江戸時代#江戸時代後期|後期]]で4~6万円、[[幕末]]で約4千円~1万円ほどに相当する<ref>{{Cite press release|和書|title=お金の歴史に関するFAQ「江戸時代の1両は今のいくら?―昔のお金の現在価値―」|publisher=日本銀行金融研究所 貨幣博物館|url=https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/mod/1ryou.pdf|date=2017-09|accessdate=2019-10-21}}</ref>。また、現在のように成人者で合法な売買ならば、誰でも自由にお金が使えたわけではない。身分とセットで考える必要もあるため、現在への換算は難しいのである。
[[1871年]][[6月27日]]([[明治]]4年[[5月10日]])、[[新貨条例]]が公布され、『両』にかわって『[[円 (通貨)|円]]』が用いられるようになった。この時、一両は一円に等価であると設定され、旧通貨単位が新単位に切り替えられた<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p158.]]</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist}}
==参考文献==
{{Wiktionary}}
* {{Cite book|和書|author=岩田重雄 |title=計量史研究「近世における質量標準の変化」 |publisher= 日本計量史学会 |date=1979 |isbn= |ref=Iwata1979}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=小泉袈裟勝|authorlink=小泉袈裟勝 |title=歴史の中の単位 |publisher= 総合科学出版 |date=1974-11-10 |isbn= |ref=Koizumi1974}}
* {{Cite book|和書|author=草間直方 |title=三貨図彙 |edition= |series= |volume= |publisher= |date=1815 |isbn= |ref=Kusama1815}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn= 978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|author1=瀧澤武雄|authorlink1=滝沢武雄|author2=西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn= 4-490-20353-5 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn= 978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|editor=国史大辞典編集委員会 |title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]14巻 |edition= |series= |volume= |publisher=吉川弘文館 |date=1993 |ref=Kokushi1993}}
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省編纂室 |title=明治大正財政史(第13巻)通貨・預金部資金 |edition= |series= |volume= |publisher=大蔵省 |date=1939 |isbn= |ref=Zaiseishi1939}}
* {{Cite book|和書|editor=江戸本両替仲間編、三井高維校註 |title=校註 両替年代記 原編 |edition= |series= |volume= |publisher=岩波書店 |date=1932 |ref=RyogaeNendaiki-0}}
* {{Cite book|和書|editor=三井高維 |title=新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇 |edition= |series= |volume= |publisher=岩波書店 |date=1933 |ref=RyogaeNendaiki-2}}
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数学の競技
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数学の競技(すうがくのきょうぎ)は、数学の問題を解くことを競うゲーム。複数の選択肢を選ぶ方法や、数値や数式の記入、証明の記述などがある。勝敗の基準は問題を解くまでの時間や方法、難問の場合は解くこと自体が加点とする。かつてルネサンス期のイタリアでは、代数方程式を解く数学競技が流行し、秘術とされた解法公式が世に出るきっかけとなり、その後の天文学や物理学の発展に大いに貢献した。
現代の数学の競技には以下のものがある。
主に整数問題、幾何、組合せ、式変形などが題材とされているものが多い。
算数の競技としては、以下のものがある。
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'''数学の競技'''(すうがくのきょうぎ)は、[[数学]]の問題を解くことを競う[[ゲーム]]。複数の選択肢を選ぶ方法や、数値や数式の記入、証明の記述などがある。勝敗の基準は問題を解くまでの時間や方法、難問の場合は解くこと自体が加点とする。かつて[[ルネサンス]]期の[[イタリア]]では、[[代数方程式]]を解く数学競技が流行し、秘術とされた[[代数方程式#解の公式|解法公式]]が世に出るきっかけとなり、その後の[[天文学]]や[[物理学]]の発展に大いに貢献した。
== 「数学の競技」の大会の一覧 ==
=== 国際大会(数学オリンピック) ===
現代の数学の競技には以下のものがある。
* [[国際数学オリンピック]](IMO)
* [[アジア太平洋数学オリンピック]](APMO)
* [[ヨーロッパ女子数学オリンピック]](EGMO)
=== 国内大会 ===
主に[[整数問題]]、[[幾何]]、[[組合せ (数学)|組合せ]]、式変形などが題材とされているものが多い。
* [[日本数学オリンピック]](JMO) - 国際数学オリンピックおよびヨーロッパ女子オリンピックの予選
* [[日本ジュニア数学オリンピック]](JJMO)
* [[広中杯]]
* [[広中杯|ジュニア広中杯]]
* [[近畿大学数学コンテスト]]
* [[人の最大の力を競う算数・数学の大会]]
* [[OnlineMathContest]]
'''算数の競技'''としては、以下のものがある。
*[[算数オリンピック]]
*[[算数オリンピック|ジュニア算数オリンピック]]
== 関連項目 ==
* [[マインドスポーツ]]
{{数学}}
{{DEFAULTSORT:すうかくのきようき}}
[[Category:数学の競技|*]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-07-12T16:19:27Z
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2023-11-01T06:21:48Z
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[
"Template:数学"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%AB%B6%E6%8A%80
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11,309 |
国際数学オリンピック
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国際数学オリンピック(こくさいすうがくオリンピック、英: International Mathematical Olympiad)とは、高校生などを対象に毎年行われる数学の問題を解く能力を競う数学の競技の国際大会である。略称はIMO、また単に数学オリンピック。
国際科学オリンピックの1種目。
日本代表の選手は日本数学オリンピックによって選抜される。
テストは2日間あり、出場者は各1日4時間30分で、3問ずつ挑戦する。各問題は7点満点で採点され、満点は42点(7点x3問x2日=42点)である。採点の結果、上位1/12位には金メダル、次の2/12位には銀メダル、次の3/12位には銅メダルが授与される。
出題範囲は国際バカロレアの基準による高校2年生程度までで、「整数問題、幾何、組合せ、式変形等の問題が題材」となる。「微積分、確率、統計、行列、空間ベクトル、複素平面、立体幾何、三角関数」は、2019年現在は含まれていない。ただし、日本の高校の学習指導要領からは外された「平面幾何」、「関数等式」、「組合せ数学」に関わっている問題が半分以上出題される。この出題範囲は本来満20歳以下の選手を対象として考案されているため、国際バカロレア基準で大学入試を行わない地域によっては大学の一年次で組合せ論や初等幾何学が課せられることに起因している。近年は複数の分野の融合問題が目立っており、選手のほとんど誰も解くことができない超難問も出題される。日本チームの問題が採用されたことが公表されている回は、第52回オランダ大会(第六問)と第54回コロンビア大会(第一問)のみである。
1カ国あたり、最大6人の選手が参加できる。日本選手の成績が最も良かった2009年のブレーメン(ドイツ)大会では、104カ国および地域565人が参加した。国別チームは必ず上限が6名なので「7位」だった人間は参加できない。このため国籍を参加者の親が買い、別の国籍で参加する例は枚挙に暇がない。
「国際数学オリンピック(IMO)代表資格は、日本国籍を有する高校2年生以下の者」となる。日本から参加するには、日本数学オリンピック(JMO)に参加し、上位入賞する必要がある。倍率は毎年高い。
旧共産圏から始まり、西側諸国そして中近東へと参加が拡大してきたが、数回の参加で点数が振るわないためにやめる国もある。2016年に出場中に選手の脱北者が出たことで翌2017年の参加をやめた北朝鮮のように政治的事情で出場中止に追い込まれる国や成績不振で参加を取りやめる国もあった。成績が振るわないと次年度から参加しない国もあるものの2023年の大会は過去最多の112カ国と6名のロシア連邦個別選手団が参加した。
日本は1990年の第31回北京大会より参加したが20位に終わった。この回の日本勢の成績は、新聞やラジオでも報じられたが、初参加だったためか詳細については触れられなかった。
社会主義国家でありソ連の衛星国であったルーマニアやハンガリーなどは当時高い順位を誇っていたものの、それらの政権の崩壊と同時に教育への支援も財政面から打ち切られ、現在の順位はそれほどではなくなった。その一方で中近東やアジアの熱意は目覚しいものがあり、これらの国と順位が入れ替わっている。ルーマニアは1959年の第1回で総合1位であったほどの有数の強豪国であったのに、2018年度は33位とワースト記録を更新した。そのような不始末があると団長や副団長の責任を問われるため、急激に順位がなぜか復活するのも特徴で、2023年度のルーマニアの成績は元に戻っている。
2022年はロシアがウクライナに軍事介入したため「ロシア連邦選手団」としての承認が却下されたが、選手は個別登録で参加し順位は反映されなかった。2023年以降もロシアが軍事介入をやめない限りこの方針が続く模様。
中国は毎年のようにトップ3にいて、全員金メダルという成績を過去に出し、金メダル数も世界一の強豪国であった。ロシア不参加といった変則的な体制とは言え、2022年には参加者全問満点の快挙を成し遂げている。しかしながら、大学数学以後の現代数学の展開に、中国人大学生はついていけていないことを指摘する中国人数学者もいる。2015年にアメリカが20年ぶりに中国に勝利した際は競争に批判的な中国の一部では歓迎する向きもあった。ただし、2019年に首位は中国に奪還され途上国のインドネシアが日本に迫る勢いを示すなど、競争は激化し続けている。
フィールズ賞受賞者には、過去に数学オリンピックで上位入賞した者も多い。年齢制限に下限は存在しないので、高校生以下の学生も参加可能。テレンス・タオは最年少メダル獲得者である。チプリアン・マノレスクは「三回出場し、三回全問満点」を成し遂げた唯一の出場者である。国家によって採点基準は微妙に異なり、部分点の授与で討論になることが多い。
中学生以下対象「国際数学競技会」は各国持ち回りの大会。略称は「IMC」。日本は2013年にチーム順位第1位に輝いた。台湾人が「コンペティション」と表記した会からの参加で、日本数学オリンピックのサイトにはそれが採用されているが、「コンテスト」表記を用いる国もあり一定していない。一カ国複数チームの応募が可能。2016年現在日本は参加していないが、一定数の国家が参加中である。
大学学部生対象「国際数学コンペティション」が存在する。コンペティションでは回答に用いる言語は英語である。アジア人の大学チームは、言語の問題からほとんど参加していない。おもに、東ヨーロッパとロシアの参加が目立つ。人数制限は全く存在しないが、所属大学と学部学科の明示が必要。出場条件は満23歳以下で下限はない。
中国女子数学オリンピック(英語: China Girls Mathematical Olympiad)は毎年中華人民共和国で開催されている女性限定の数学オリンピック。日本は2011年より参加していたが、鳥インフルエンザの問題などで、2013年以降日本選手は派遣されていない。テストは2日間であり、各1日4時間で4問ずつに挑戦する。メダル配分のルールは同じ。
ヨーロッパ女子数学オリンピックはヨーロッパの各都市が持ち回りで行い、2012年から毎年行われている。日本は2014年より参加。
出典:
(日本の順位、獲得メダル数)
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出典:
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"text": "「国際数学オリンピック(IMO)代表資格は、日本国籍を有する高校2年生以下の者」となる。日本から参加するには、日本数学オリンピック(JMO)に参加し、上位入賞する必要がある。倍率は毎年高い。",
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"text": "旧共産圏から始まり、西側諸国そして中近東へと参加が拡大してきたが、数回の参加で点数が振るわないためにやめる国もある。2016年に出場中に選手の脱北者が出たことで翌2017年の参加をやめた北朝鮮のように政治的事情で出場中止に追い込まれる国や成績不振で参加を取りやめる国もあった。成績が振るわないと次年度から参加しない国もあるものの2023年の大会は過去最多の112カ国と6名のロシア連邦個別選手団が参加した。",
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"text": "社会主義国家でありソ連の衛星国であったルーマニアやハンガリーなどは当時高い順位を誇っていたものの、それらの政権の崩壊と同時に教育への支援も財政面から打ち切られ、現在の順位はそれほどではなくなった。その一方で中近東やアジアの熱意は目覚しいものがあり、これらの国と順位が入れ替わっている。ルーマニアは1959年の第1回で総合1位であったほどの有数の強豪国であったのに、2018年度は33位とワースト記録を更新した。そのような不始末があると団長や副団長の責任を問われるため、急激に順位がなぜか復活するのも特徴で、2023年度のルーマニアの成績は元に戻っている。",
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"text": "中国は毎年のようにトップ3にいて、全員金メダルという成績を過去に出し、金メダル数も世界一の強豪国であった。ロシア不参加といった変則的な体制とは言え、2022年には参加者全問満点の快挙を成し遂げている。しかしながら、大学数学以後の現代数学の展開に、中国人大学生はついていけていないことを指摘する中国人数学者もいる。2015年にアメリカが20年ぶりに中国に勝利した際は競争に批判的な中国の一部では歓迎する向きもあった。ただし、2019年に首位は中国に奪還され途上国のインドネシアが日本に迫る勢いを示すなど、競争は激化し続けている。",
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"text": "フィールズ賞受賞者には、過去に数学オリンピックで上位入賞した者も多い。年齢制限に下限は存在しないので、高校生以下の学生も参加可能。テレンス・タオは最年少メダル獲得者である。チプリアン・マノレスクは「三回出場し、三回全問満点」を成し遂げた唯一の出場者である。国家によって採点基準は微妙に異なり、部分点の授与で討論になることが多い。",
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"text": "中学生以下対象「国際数学競技会」は各国持ち回りの大会。略称は「IMC」。日本は2013年にチーム順位第1位に輝いた。台湾人が「コンペティション」と表記した会からの参加で、日本数学オリンピックのサイトにはそれが採用されているが、「コンテスト」表記を用いる国もあり一定していない。一カ国複数チームの応募が可能。2016年現在日本は参加していないが、一定数の国家が参加中である。",
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"text": "大学学部生対象「国際数学コンペティション」が存在する。コンペティションでは回答に用いる言語は英語である。アジア人の大学チームは、言語の問題からほとんど参加していない。おもに、東ヨーロッパとロシアの参加が目立つ。人数制限は全く存在しないが、所属大学と学部学科の明示が必要。出場条件は満23歳以下で下限はない。",
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"text": "中国女子数学オリンピック(英語: China Girls Mathematical Olympiad)は毎年中華人民共和国で開催されている女性限定の数学オリンピック。日本は2011年より参加していたが、鳥インフルエンザの問題などで、2013年以降日本選手は派遣されていない。テストは2日間であり、各1日4時間で4問ずつに挑戦する。メダル配分のルールは同じ。",
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国際数学オリンピックとは、高校生などを対象に毎年行われる数学の問題を解く能力を競う数学の競技の国際大会である。略称はIMO、また単に数学オリンピック。 国際科学オリンピックの1種目。 日本代表の選手は日本数学オリンピックによって選抜される。
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{{国際科学オリンピック}}
[[File:IMO logo.svg|thumb|IMOのロゴ]]
'''国際数学オリンピック'''(こくさいすうがくオリンピック、{{lang-en-short|International Mathematical Olympiad}})とは、[[高校生]]などを対象に毎年行われる[[数学]]の問題を解く能力を競う[[数学の競技]]の[[世界選手権大会|国際大会]]である。略称は'''IMO'''、また単に'''数学オリンピック'''。
[[国際科学オリンピック]]の1種目。
[[日本代表]]の[[アスリート|選手]]は[[日本数学オリンピック]]によって選抜される。
== 概要 ==
=== ルール ===
==== 時間・点数・メダル ====
テストは2日間あり、出場者は各1日4時間30分で、3問ずつ挑戦する。各問題は7点満点で採点され、満点は42点(7点x3問x2日=42点)である。採点の結果、上位{{sfrac|1|12}}位には[[金メダル]]、次の{{sfrac|2|12}}位には[[銀メダル]]、次の{{sfrac|3|12}}位には[[銅メダル]]が授与される。
==== 出題範囲 ====
出題範囲は国際バカロレアの基準による高校2年生程度までで、「整数問題、幾何、組合せ、式変形等の問題が題材」となる<ref name=jmo_overview>{{Cite web|和書|url=https://www.imojp.org/domestic/jmo_overview.html#How_to_Apply|title=JMO 日本数学オリンピック 概要|publisher=数学オリンピック財団|accessdate=2023-05-28}}</ref>。「[[微分積分学|微積分]]、[[確率]]、[[統計]]、[[行列 (数学)|行列]]、[[空間ベクトル]]、[[複素平面]]、[[立体幾何]]、[[三角関数]]」は、[[2019年]]現在は含まれていない。ただし、日本の高校の学習指導要領からは外された「[[初等幾何学|平面幾何]]」、「関数等式」、「[[組合せ数学]]」に関わっている問題<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20170716161706/http://www.imojp.org/mo2010/imo2010/index.html |title=第51回2010年 国際数学オリンピック(IMO)カザフスタン大会大健闘!! 金メダル2個、国別順位7位 |publisher=www.imojp.org |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>が半分以上出題される。この出題範囲は本来満20歳以下<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20040714174526/http://www.maths.otago.ac.nz/home/schools/gifted_children/olympiad.pdf |title=International Mathematical Olympiad |publisher=www.maths.otago.ac.nz |date= |accessdate=2019-04-27}}</ref>の選手を対象として考案されているため、国際バカロレア基準で大学入試を行わない地域によっては大学の一年次で組合せ論や初等幾何学が課せられることに起因している。近年は複数の分野の融合問題が目立っており、選手のほとんど誰も解くことができない超難問<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.imo-official.org/year_individual_r.aspx?year=2017&column=p3&order=desc&gender=hide&nameform=western |title=第3問は、点数につながった生徒が7人だけ。 |publisher=www.imo-official.org |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>も出題される。日本チームの問題が採用されたことが公表されている回は<ref group="注">公開が見送られた年度については不明。</ref>、第52回オランダ大会(第六問)と第54回コロンビア大会(第一問)のみである。
==== 参加人数 ====
1カ国あたり、最大6人の選手が参加できる。日本選手の成績が最も良かった[[2009年]]の[[ブレーメン]]([[ドイツ]])大会では、104カ国および地域565人が参加した。国別チームは必ず上限が6名なので「7位」だった人間は参加できない。このため国籍を参加者の親が買い、別の国籍で参加する例は枚挙に暇がない。
==== 参加方法 ====
「国際数学オリンピック(IMO)代表資格は、日本国籍を有する高校2年生以下の者」となる<ref name=jmo_overview />。[[日本]]から参加するには、[[日本数学オリンピック]](JMO)に参加し、上位入賞する必要がある。倍率は毎年高い。
=== 国家間の競争 ===
==== 参加国 ====
旧[[共産圏]]から始まり、[[西側諸国]]そして[[中近東]]へと参加が拡大してきたが、数回の参加で点数が振るわないためにやめる国もある。[[2016年]]に出場中に選手の[[脱北者]]が出たことで翌[[2017年]]の参加をやめた[[北朝鮮]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160729060521/http://japanese.donga.com/List/3/01/27/690200/1 |title=北朝鮮の国際数学オリンピック参加者、香港の韓国領事館に駆け込み |publisher=japanese.donga.com |date=2016-07-29 |accessdate=2019-02-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20170909103415/http://news.livedoor.com/article/detail/13429019/ |title=北朝鮮、数学オリンピック不参加…「天才児」脱北の影響か |publisher=news.livedoor.com |date=2017-08-04 |accessdate=2019-02-05}}</ref>のように政治的事情で出場中止に追い込まれる国や成績不振で参加を取りやめる国もあった。成績が振るわないと次年度から参加しない国もあるものの2023年の大会は過去最多の112カ国と6名のロシア連邦個別選手団が参加した。
==== 日本 ====
{{main|#国際数学オリンピックの歴代開催地|#日本人の参加成績}}
日本は[[1990年]]の第31回[[北京]]大会より参加したが20位に終わった<ref>{{Cite web |url=https://www.imo-official.org/year_country_r.aspx?year=1990 |title=1990 |publisher=www.imo-official.org |date= |accessdate=2019-02-05}}</ref>。この回の日本勢の成績は、[[新聞]]や[[ラジオ]]でも報じられたが、初参加だったためか詳細については触れられなかった。
==== 東欧諸国 ====
[[社会主義国|社会主義国家]]であり[[ソビエト連邦|ソ連]]の衛星国であった[[ルーマニア]]や[[ハンガリー]]などは当時高い順位を誇っていた<ref>{{Cite web |url=https://www.imo-official.org/results.aspx |title=results |publisher=www.imo-official.org |date= |accessdate=2019-02-05}}</ref><ref group="注">旧東ドイツは1回だけ総合1位だったことがある。この発表を受けて西ドイツも総合1位を達成するなど、東西のいがみ合いに発展した。</ref>ものの、それらの政権の崩壊と同時に教育への支援も財政面から打ち切られ、現在の順位はそれほどではなくなった。その一方で中近東やアジアの熱意は目覚しいものがあり、これらの国と順位が入れ替わっている。ルーマニアは[[1959年]]の第1回で総合1位であったほどの有数の強豪国であったのに、[[2018年]]度は33位とワースト記録を更新した。そのような不始末があると団長や副団長の責任を問われるため、急激に順位がなぜか復活するのも特徴で、2023年度のルーマニアの成績は元に戻っている。
==== ロシア ====
[[2022年]]は[[ロシア]]が[[ウクライナ]]に軍事介入したため「ロシア連邦選手団」としての承認が却下されたが、選手は個別登録で参加し順位は反映されなかった。2023年以降もロシアが軍事介入をやめない限りこの方針が続く模様。
==== 中国 ====
[[中華人民共和国|中国]]は毎年のようにトップ3にいて、全員金メダルという成績を過去に出し、金メダル数も世界一の強豪国であった。ロシア不参加といった変則的な体制とは言え、2022年には参加者全問満点の快挙を成し遂げている。しかしながら、大学数学以後の現代数学の展開に、中国人大学生はついていけていないことを指摘する中国人数学者もいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190205003746/https://plaza.rakuten.co.jp/watam7/diary/201808150000/ |title=「数学オリンピックの大国」がなぜ数学の大きな賞を取れないのか? |publisher=plaza.rakuten.co.jp |date= |accessdate=2019-02-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190205004353/https://www.recordchina.co.jp/b29889-s0-c30-d0000.html |title=「学生の数学力は世界一」は思い込み?世界的学者が語る―中国 |publisher=www.recordchina.co.jp |date=2009-03-29 |accessdate=2019-02-05}}</ref>。[[2015年]]にアメリカが20年ぶりに中国に勝利した際は競争に批判的な中国の一部では歓迎する向きもあった<ref>{{Cite web |url=https://edition.cnn.com/2015/08/05/china/us-defeat-china-math-olympiad/index.html |title=China + math Olympiad = rare U.S. victory |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2015-08-05 |accessdate=2019-04-05}}</ref>。ただし、[[2019年]]に首位は中国に奪還され[[途上国]]の[[インドネシア]]が日本に迫る勢いを示すなど、競争は激化し続けている{{efn2|そもそも、国際数学競技者としての強さと数学研究者としての強さは、別の問題という見解もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190205035159/https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400004829.pdf |title=数学オリンピックで要求される能力と研究者向けの能力は違う。 |publisher=www.u-tokyo.ac.jp |date= |accessdate=2019-02-05}}</ref>。}}。
=== フィールズ賞受賞者 ===
{{main|#国際数学オリンピックに出場したフィールズ賞受賞者}}
[[フィールズ賞]]受賞者には、過去に数学オリンピックで上位入賞した者も多い。年齢制限に下限は存在しないので、高校生以下の学生も参加可能。[[テレンス・タオ]]は最年少メダル獲得者である。チプリアン・マノレスクは「三回出場し、三回全問満点」を成し遂げた唯一の出場者である。国家によって採点基準は微妙に異なり、部分点の授与で討論になることが多い。
== 開催 ==
=== 国際数学オリンピックの歴代開催地 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!rowspan="2"|回
!rowspan="2"|年
!rowspan="2"|参加<br />国数
!rowspan="2"|開催地
!colspan="5"|順位
|-
!1位!!2位!!3位!!4位!!5位
|-
|{{0}}1||nowrap="nowrap"|[[1959年]]||style="text-align:right"|7||[[ブラショヴ]]、[[ブカレスト]]([[ルーマニア]])||ルーマニア|| || || ||
|-
|{{0}}2||[[1960年]]||style="text-align:right"|5||[[シナヤ]](ルーマニア)||チェコスロバキア|| || || ||
|-
|{{0}}3||[[1961年]]||style="text-align:right"|6||[[ヴェスプレーム]]([[ハンガリー]])||ハンガリー|| || || ||
|-
|{{0}}4||[[1962年]]||style="text-align:right"|7||[[チェスケー・ブジェヨヴィツェ]]([[チェコスロバキア]])||ハンガリー|| || || ||
|-
|{{0}}5||[[1963年]]||style="text-align:right"|8||[[ワルシャワ]]、[[ヴロツワフ]]([[ポーランド]])||ソ連|| || || ||
|-
|{{0}}6||[[1964年]]||style="text-align:right"|9||[[モスクワ]]([[ソビエト連邦]])||ソ連|| || || ||
|-
|{{0}}7||[[1965年]]||style="text-align:right"|10||[[ベルリン]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])||ソ連|| || || ||
|-
|{{0}}8||[[1966年]]||style="text-align:right"|9||[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]([[ブルガリア]])||ソ連|| || || ||
|-
|{{0}}9||[[1967年]]||style="text-align:right"|13||[[ツェティニェ]]([[ユーゴスラビア]])||ソ連|| || || ||
|-
|10||[[1968年]]||style="text-align:right"|9||モスクワ(ソビエト連邦)||東ドイツ|| || || ||
|-
|11||[[1969年]]||style="text-align:right"|14||ブカレスト(ルーマニア)||ハンガリー|| || || ||
|-
|12||[[1970年]]||style="text-align:right"|14||[[ケストヘイ]](ハンガリー)||ハンガリー|| || || ||
|-
|13||[[1971年]]||style="text-align:right"|15||[[ジリナ]](チェコスロバキア)||ハンガリー|| || || ||
|-
|14||[[1972年]]||style="text-align:right"|15||[[トルン]](ポーランド)||ソ連|| || || ||
|-
|15||[[1973年]]||style="text-align:right"|16||モスクワ(ソビエト連邦)||ソ連|| || || ||
|-
|16||[[1974年]]||style="text-align:right"|16||[[エアフルト]]、ベルリン(東ドイツ)||ソ連|| || || ||
|-
|17||[[1975年]]||style="text-align:right"|17||[[ブルガス]]、ソフィア(ブルガリア)||ハンガリー|| || || ||
|-
|18||[[1976年]]||style="text-align:right"|19||[[リエンツ]]([[オーストリア]])||ソ連|| || || ||
|-
|19||[[1977年]]||style="text-align:right"|20||[[ベオグラード]](ユーゴスラビア)||アメリカ|| || || ||
|-
|20||[[1978年]]||style="text-align:right"|17||ブカレスト(ルーマニア)||ルーマニア|| || || ||
|-
|21||[[1979年]]||style="text-align:right"|23||[[ロンドン]]([[イギリス]])||ソ連|| || || ||
|-
|22||[[1981年]]||style="text-align:right"|27||[[ワシントンD.C.]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])||アメリカ|| || || ||
|-
|23||[[1982年]]||style="text-align:right"|30||ブダペスト(ハンガリー)||西ドイツ|| || || ||
|-
|24||[[1983年]]||style="text-align:right"|32||[[パリ]]([[フランス]])||西ドイツ|| || || ||
|-
|25||[[1984年]]||style="text-align:right"|34||[[プラハ]](チェコスロバキア)||ソ連|| || || ||
|-
|26||[[1985年]]||style="text-align:right"|38||[[ヨウツァ]]([[フィンランド]])||ルーマニア|| || || ||
|-
|27||[[1986年]]||style="text-align:right"|37||ワルシャワ(ポーランド)||ソ連/アメリカ|| || || ||
|-
|28||[[1987年]]||style="text-align:right"|42||[[ハバナ]]([[キューバ]])||ルーマニア|| || || ||
|-
|29||[[1988年]]||style="text-align:right"|49||[[シドニー]]、[[キャンベラ]]([[オーストラリア]])||ソ連|| || || ||
|-
|30||[[1989年]]||style="text-align:right"|52||[[ブラウンシュヴァイク]]([[西ドイツ]])||中国|| ||ソ連||アメリカ||
|-
|31||[[1990年]]||style="text-align:right"|54||[[北京市|北京]]([[中華人民共和国|中国]])||中国||ソ連||アメリカ||ルーマニア||フランス
|-
|32||[[1991年]]||style="text-align:right"|55||[[シグツーナ]]([[スウェーデン]])||ソ連||中国||ルーマニア||ドイツ||アメリカ
|-
|33||[[1992年]]||style="text-align:right"|56||モスクワ([[ロシア]])||中国||アメリカ||ルーマニア||CIS||イギリス
|-
|34||[[1993年]]||style="text-align:right"|73||[[イスタンブール]]([[トルコ]])||中国||ドイツ||ブルガリア||ロシア||台湾
|-
|35||[[1994年]]||style="text-align:right"|69||[[香港]]||アメリカ||中国||ロシア||ブルガリア||ハンガリー
|-
|36||[[1995年]]||style="text-align:right"|73||[[トロント]]([[カナダ]])||中国||nowrap="nowrap"|ルーマニア||ロシア||ベトナム||nowrap="nowrap"|ハンガリー
|-
|37||[[1996年]]||style="text-align:right"|75||[[ムンバイ]]([[インド]])||nowrap="nowrap"|ルーマニア||アメリカ||nowrap="nowrap"|ハンガリー||ロシア||イギリス
|-
|38||[[1997年]]||style="text-align:right"|82||nowrap="nowrap"|[[マルデルプラタ]]([[アルゼンチン]])||中国||ハンガリー||イラン||ロシア||アメリカ
|-
|39||[[1998年]]||style="text-align:right"|76||[[台北市|台北]]([[台湾]])||イラン||ブルガリア||アメリカ<br />ハンガリー||||台湾
|-
|40||[[1999年]]||style="text-align:right"|81||ブカレスト(ルーマニア)||中国<br />ロシア||||ベトナム||nowrap="nowrap"|ルーマニア||ブルガリア
|-
|41||[[2000年]]||style="text-align:right"|82||[[大田広域市|大田]]([[大韓民国|韓国]])||中国||ロシア||アメリカ||韓国||ブルガリア<br />ベトナム
|-
|42||[[2001年]]||style="text-align:right"|83||ワシントンD.C.(アメリカ)||中国||アメリカ||ロシア||ブルガリア<br />韓国||
|-
|43||[[2002年]]||style="text-align:right"|84||[[グラスゴー]](イギリス)||中国||ロシア||アメリカ||ブルガリア||ベトナム
|-
|44||[[2003年]]||style="text-align:right"|82||[[東京]]([[日本]])||ブルガリア||中国||アメリカ||ベトナム||ロシア
|-
|45||[[2004年]]||style="text-align:right"|89||[[アテネ]]([[ギリシャ]])||中国||アメリカ||ロシア||ベトナム||ブルガリア
|-
|46||[[2005年]]||style="text-align:right"|91||[[メリダ (ユカタン州)|メリダ]]([[メキシコ]])||中国||アメリカ||ロシア||イラン||韓国
|-
|47||[[2006年]]||style="text-align:right"|90||[[リュブリャナ]]([[スロベニア]])||中国||ロシア||韓国||ドイツ||アメリカ
|-
|48||[[2007年]]||style="text-align:right"|93||[[ハノイ]]([[ベトナム]])||ロシア||中国||ベトナム<br />韓国||||アメリカ
|-
|49||[[2008年]]||style="text-align:right"|97||[[マドリード]]([[スペイン]])||中国||ロシア||アメリカ<br />韓国||||イラン
|-
|50||[[2009年]]||style="text-align:right"|104||[[ブレーメン]]([[ドイツ]])||中国||日本||ロシア||韓国||北朝鮮
|-
|51||[[2010年]]||style="text-align:right"|96||[[アスタナ]]([[カザフスタン]])||中国||ロシア||アメリカ||韓国||カザフスタン<br />タイ
|-
|52||[[2011年]]||style="text-align:right"|101||[[アムステルダム]]([[オランダ]])||中国||アメリカ||シンガポール||ロシア||タイ
|-
|53||[[2012年]]||style="text-align:right"|100||[[マル・デル・プラタ]]([[アルゼンチン]])||韓国||中国||アメリカ||ロシア||カナダ<br />タイ
|-
|54||[[2013年]]||style="text-align:right"|97 ||[[サンタ・マルタ (コロンビア)|サンタ・マルタ]]([[コロンビア]])||中国||韓国||アメリカ||ロシア||北朝鮮
|-
|55||[[2014年]]||style="text-align:right"|101 ||[[ケープタウン]]([[南アフリカ]])||中国||アメリカ||台湾||ロシア||日本
|-
|56||[[2015年]]||style="text-align:right"|104 ||[[ムアンチエンマイ郡|チエンマイ]]([[タイ王国|タイ]])||アメリカ||中国||韓国||北朝鮮||ベトナム
|-
|57||[[2016年]]||style="text-align:right"|109||[[香港]]||アメリカ||韓国||中国||シンガポール||台湾
|-
|58||[[2017年]]||style="text-align:right"|111||[[リオデジャネイロ]]([[ブラジル]])||韓国||中国||ベトナム||アメリカ||イラン
|-
|59||[[2018年]]||style="text-align:right"|107||[[クルジュ=ナポカ]]([[ルーマニア]])||アメリカ||ロシア||中国||ウクライナ||タイ
|-
|60||[[2019年]]||style="text-align:right"|112||[[バース (イングランド)|バース]]([[イギリス]])||中国<br />アメリカ||||韓国||北朝鮮||タイ
|-
|61||[[2020年]]||style="text-align:right"|105||[[サンクトペテルブルク]]([[ロシア]])||中国||ロシア||アメリカ||韓国||タイ
|-
|62||[[2021年]]||style="text-align:right"|107||[[サンクトペテルブルク]]([[ロシア]])||中国||ロシア||韓国||アメリカ||カナダ
|-
|63||[[2022年]]||style="text-align:right"|104||[[オスロ]]([[ノルウェー]])||中国||韓国||アメリカ||ベトナム||ルーマニア
|-
|64||[[2023年]]||style="text-align:right"|112||[[千葉市|千葉]]{{efn2|2023年(令和5年)に日本で開催予定の第64回国際数学オリンピック({{Vanc|IMO2023}})は[[7月2日]]から[[7月13日]]まで[[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]の[[幕張メッセ]]で行われた<ref name="imo2023">{{Cite web|和書|date=2023-04-05 |url=https://resemom.jp/article/2023/04/05/71671.html |title=国際数学オリンピック、日本代表の高校生6名が決定 |publisher=リセマム |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230405084815/https://resemom.jp/article/2023/04/05/71671.html |archivedate=2023-04-05 |accessdate=2023-04-30}}</ref>。IMO2023に参加する日本代表選手は以下の6名。
* 古屋楽([[筑波大学附属駒場中学校・高等学校|筑波大学附属駒場高等学校]]3年)
* 林康生([[海城中学校・高等学校|海城高等学校]]3年)
* 狩野慧志([[長野県松本深志高等学校]]1年)
* 北村隆之介([[東京都立武蔵高等学校・附属中学校|東京都立武蔵高等学校]]3年)
* 小出慶介([[灘中学校・高等学校|灘高等学校]]3年)
* 若杉直音([[帝塚山学院泉ヶ丘中学校・高等学校|帝塚山学院泉ヶ丘高等学校]]1年)
ただし、学年は2023年(令和5年)4月現在のものである<ref name=imo2023 />。}}([[日本]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/shutoken/chiba/article/014/29/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230712235509/https://www.nhk.or.jp/shutoken/chiba/article/014/29/ |title=国際数学オリンピック 日本代表の結果 出題された問題は? 千葉 |website=www.nhk.or.jp |publisher=NHK |date=2023-07-12 |archivedate=2023-07-12 |accessdate=2023-07-13}}</ref>)||中国||アメリカ||韓国||ルーマニア||カナダ
|}
=== 国際数学オリンピックの開催予定地 ===
*第65回、[[2024年]] - [[バース (イングランド)|バース]] ([[イングランド]])<ref name=timeline>{{Cite web|url=http://www.imo-official.org/organizers.aspx|title=Timeline|publisher=International Mathematical Olympiad|accessdate=2023-05-04}}</ref>
*第66回、[[2025年]] - [[オーストラリア]] ([[メルボルン]])<ref name=timeline />
*第67回、[[2026年]] - [[中国]] ([[上海]])
=== 派生大会 ===
中学生以下対象「[[国際数学競技会]]」は各国持ち回りの大会。略称は「IMC」。日本は[[2013年]]にチーム順位第1位に輝いた。[[台湾]]人が「コンペティション」と表記した会からの参加で、日本数学オリンピックのサイトにはそれが採用されているが、「コンテスト」表記を用いる国もあり一定していない。一カ国複数チームの応募が可能。[[2016年]]現在日本は参加していないが、一定数の国家が参加中である。
大学学部生対象「[[国際数学コンペティション]]」が存在する。コンペティションでは回答に用いる言語は[[英語]]である。アジア人の大学チームは、言語の問題からほとんど参加していない。おもに、[[東ヨーロッパ]]と[[ロシア]]の参加が目立つ。人数制限は全く存在しないが、所属大学と学部学科の明示が必要。出場条件は満23歳以下で下限は'''ない'''。
{{日本語版にない記事リンク|中国女子数学オリンピック|en|China Girls Mathematical Olympiad}}は毎年[[中華人民共和国]]で開催されている女性限定の数学オリンピック。日本は[[2011年]]より参加していたが、鳥インフルエンザの問題などで<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.imojp.org/whatis/whatisEGMO.html |title=ヨーロッパ女子数学オリンピック(EGMO)について |publisher=公益財団法人 数学オリンピック財団 |accessdate=2014-02-10}}</ref>、[[2013年]]以降日本選手は派遣されていない。テストは2日間であり、各1日4時間で4問ずつに挑戦する。メダル配分のルールは同じ。
[[ヨーロッパ女子数学オリンピック]]は[[ヨーロッパ]]の各都市が持ち回りで行い、[[2012年]]から毎年行われている。日本は[[2014年]]より参加。
== 日本人の参加成績 ==
{{See also|国際科学オリンピックへの日本の参加}}
=== 日本の順位 ===
==== 国際数学オリンピック ====
出典:<ref>{{Cite web|和書|title=国際数学オリンピック 概要 |url=https://www.imojp.org/overseas/imo_statistics.html |website=www.imojp.org |accessdate=2021-07-25}}</ref>
(日本の順位、獲得メダル数)
*1990年 - 20位(銀2, 銅1)
*1991年 - 12位(銀3, 銅3)
*1992年 - 8位(金1, 銀3, 銅1)
*1993年 - 20位(銀2, 銅3)
*1994年 - 10位(金1, 銀2, 銅3)
*1995年 - 9位(金1, 銀3, 銅2)
*1996年 - 11位(金1, 銀3, 銅1)
*1997年 - 12位(金1, 銀3, 銅1)
*1998年 - 14位(金1, 銀1, 銅3)
*1999年 - 13位(金2, 銀4)
*2000年 - 15位(金1, 銀2, 銅3)
*2001年 - 13位(金1, 銀3, 銅2)
*2002年 - 16位(金1, 銀3, 銅1)
*2003年 - 9位(金1, 銀3, 銅2)
*2004年 - 8位(金2, 銀4)
*2005年 - 8位(金3, 銀1, 銅2)
*2006年 - 7位(金2, 銀3, 銅1)
*2007年 - 6位(金2, 銀4)
*2008年 - 11位(金2, 銀3, 銅1)
*2009年 - 2位(金5, 銅1)
*2010年 - 7位(金2, 銀3)
*2011年 - 12位(金2, 銀2, 銅2)
*2012年 - 17位(銀4, 銅1)
*2013年 - 11位(銀6)
*2014年 - 5位(金4, 銀1, 銅1)
*2015年 - 22位(銀3, 銅3)
*2016年 - 10位(金1, 銀4, 銅1)
*2017年 - 6位(金2, 銀2, 銅2)
*2018年 - 13位(金1, 銀3, 銅2)
*2019年 - 13位 (金2 , 銀2 , 銅2)
*2020年 - 18位(銀5, 銅1)
*2021年 - 25位(金1, 銀2, 銅3)
*2022年 - 8位(金1, 銀4, 銅1)
*2023年 - 6位(金2, 銀3, 銅1)
==== 中国女子数学オリンピック ====
出典:<ref>{{Cite web|和書|title=ヨーロッパ女子数学オリンピック 概要 |url=https://www.imojp.org/overseas/egmo_statistics.html |website=www.imojp.org |accessdate=2021-07-25}}</ref>
*2011年 - (金1, 銅1)
*2012年 - (金1, 銀1, 銅2)
==== ヨーロッパ女子数学オリンピック ====
出典:<ref>{{Cite web|和書|title=ヨーロッパ女子数学オリンピック 概要 |url=https://www.imojp.org/overseas/egmo_statistics.html |website=www.imojp.org |accessdate=2021-07-25}}</ref>
*2014年 - 10位(銀2, 銅1)
*2015年 - 8位(金1, 銅3)
*2016年 - 11位(金1, 銅2, 優秀賞1)
*2017年 - 21位(銅4)
*2018年 - 12位(金1, 銀1, 銅1)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.imojp.org/laureler/egmo/record_egmo.html |title=ヨーロッパ女子数学オリンピック(EGMO)における日本選手の成績 |publisher=www.imojp.org |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*2019年 - 13位(銀1, 銅3)
=== 日本人満点 ===
*片岡俊基(2005年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.imo-official.org/participant_r.aspx?id=7893 |title=片岡俊基 |publisher=www.imo-official.org |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*栗林司 (2005年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.imo-official.org/participant_r.aspx?id=7905 |title=栗林司 |publisher=www.imo-official.org |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*副島真(2009年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.imo-official.org/participant_r.aspx?id=8473 |title=副島真 |publisher=www.imo-official.org |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*沖祐也(2022年)
=== 日本人金メダリスト ===
==== 国際数学オリンピック ====
出典:<ref>{{Cite web |title=International Mathematical Olympiad |url=http://www.imo-official.org/results_year.aspx|website=www.imo-official.org |accessdate=2021-07-25}}</ref>
*児玉大樹([[筑波大学附属駒場中学校・高等学校|筑波大学附属駒場高等学校]]) - 1992年(11位)。現:[[東北大学]]材料科学高等研究所助教<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wpi-aimr.tohoku.ac.jp/jp/research/researcher/ |title=研究者・研究室一覧:研究者一覧|AIMR |publisher= |website=www.wpi-aimr.tohoku.ac.jp |date= |accessdate=2019-03-29}}</ref>
*高橋悟([[灘中学校・高等学校|灘高等学校]]) - 1994年(23位)。現:[[シンガポール国立大学]]教授<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20141017234707/http://profile.nus.edu.sg/fass/ecsst/stf_ecsst.htm |title=ASSOCIATE PROFESSOR SATORU TAKAHASHI |publisher= |website=profile.nus.edu.sg |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*丸岡哲之([[開成中学校・高等学校|開成高等学校]]) - 1995年(15位), 1997年(7位)。1994年に中学生で銀メダルを獲得する。
*[[中島さち子]]([[フェリス女学院中学校・高等学校|フェリス女学院高等学校]]) - 1996年(7位)。現在はジャズ・ピアニスト、steAm, Inc.代表取締役社長、STEAM Sports Laboratory取締役。日本人女性初めての金メダリスト。
*[[長尾健太郎 (数学者)|長尾健太郎]](開成高等学校) - 1998年(7位), 1999年(37位), 2000年(28位)。日本人初の3年連続金メダル。
*伊藤淳([[武蔵中学校・高等学校|武蔵高等学校]]) - 1999年(28位)
*尾高悠志(筑波大学附属駒場高等学校) - 2001年(38位)。現・京都大学大学院理学研究科数学教室准教授<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.math.kyoto-u.ac.jp/ja/people/profile/yodaka |title=尾高悠志 |publisher= |website=www.math.kyoto-u.ac.jp |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*今井直毅(灘高等学校) - 2002年(29位)。現:東京大学理学部数学科准教授<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/teacher/imai.html |title=今井直毅 |publisher=www.math.kyoto-u.ac.jp |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*西本将樹(灘高等学校) - 2003年(29位)、2004年(33位)。東京大学大学院数理科学専攻、現:河合塾講師<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kawai-juku.ac.jp/kkai/teacher.html |title=西本将樹 |publisher= |website=www.kawai-juku.ac.jp |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*清水俊宏([[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早稲田実業学校高等部]]) - 2004年(28位)
*栗林司(筑波大学附属駒場高等学校) - 2005年(1位)。東京大学・特別研究員DC1(~2015年3月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://research-er.jp/researchers/view/700525 |title=栗林 司 |publisher= |website=research-er.jp |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>。日本人初の世界1位(片岡と同年に1位タイ)。
*片岡俊基([[高田中学校・高等学校|高田高等学校]]) - 2005年(1位)、2007年(7位)。東京大学・特別研究員DC1(~2015年3月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://research-er.jp/researchers/view/714926 |title=片岡俊基 |publisher= |website=日本の研究.com |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>。日本人初の世界1位(栗林と同年に1位タイ)。
*渡部正樹(筑波大学附属駒場高等学校) - 2005年(23位), 2006年(21位)
*大橋祐太(筑波大学附属駒場高等学校) - 2006年(13位)
*副島真(筑波大学附属駒場高等学校) - 2007年(19位), 2008年(12位), 2009年(1位)、日本人2人目の3年連続金メダル。東京大学大学院情報理工学系研究科 コンピュータ科学専攻 今井研究室 修士課程<ref>{{Cite web|和書|url=http://www-imai.is.s.u-tokyo.ac.jp/members-j.html |title=今井研究室 修士課程 |publisher=www-imai.is.s.u-tokyo.ac.jp |date= |accessdate=2019-02-09}}</ref>
*関典史(灘高等学校) - 2008年(35位)。現:[[モルガン・スタンレー]]社員
*滝聞太基(筑波大学附属駒場高等学校) - 2009年(12位)。東大数学科から現:岡山大学で代数学の研究
*保坂和宏(開成高等学校) - 2009年(8位)
*今村志郎(灘高等学校) - 2009年(27位)
*岸川滉央([[久留米大学附設中学校・高等学校|久留米大学附設高等学校]]) - 2009年(4位), 2010年(9位)
*井上秀太郎(灘高等学校) - 2010年(27位)
*吉田健祐(筑波大学附属駒場高等学校) - 2011年(6位)
*北村拓真(灘高等学校) - 2011年(25位)。現:カラクリ株式会社、JCIMO委員
*山本悠時([[東海中学校・高等学校|東海高等学校]]) - 2014年(5位)
*隈部壮(筑波大学附属駒場高等学校) - 2014年(12位)
*早川知志([[洛星中学校・高等学校|洛星高等学校]]) - 2014年(26位)
*上苙隆宏([[早稲田中学校・高等学校|早稲田高等学校]]) - 2014年(40位)
*高谷悠太(開成高等学校) - 2016年(23位), 2017年(1位)。日本人3人目の世界1位。
*黒田直樹(灘高等学校) - 2017年(36位), 2018年(6位)
*兒玉太陽([[海陽中等教育学校]]) - 2019年(28位)
*坂本平蔵([[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大学附属高等学校]]) - 2019年(28位)
*町野有夏 ([[:en:Millfield|Millfield School]]) - 2020年(22位), 2021年(24位)日本人だがイギリス在住のため、イギリス代表として参加<ref>{{Cite web|和書|title=第62回 国際数学オリンピック(IMO20201 virtual ロシア大会 写真速報 |url=https://www.imojp.org/archive/mo2021/imo2021/flash_report/index.html|website=www.imojp.org |accessdate=2021-07-25}}</ref>。日本人女子2人目の金メダリストで、日本人女子史上初の2大会連続の金メダリスト。
*神尾悠陽(開成高等学校) - 2021年(48位)
*沖祐也(灘高等学校) - 2022年(1位)日本人4人目の世界1位。
*北村隆之介([[東京都立武蔵高等学校・附属中学校|東京都立武蔵高等学校]]) - 2023年(12位)
*古屋楽(筑波大学附属駒場高等学校) - 2023年(28位)
==== アジア太平洋数学オリンピック ====
*渡部正樹(筑波大学附属駒場高等学校) - 2005年
*片岡俊基(高田高等学校) - 2006年
*渡部正樹(筑波大学附属駒場高等学校) - 2007年
*副島真(筑波大学附属駒場高等学校) - 2008年, 2009年
*保坂和宏(開成高等学校) - 2010年
*岸川滉央([[久留米大学附設中学校・高等学校|久留米大学附設高等学校]]) - 2011年
*葛西祐美([[東京都立国立高等学校]])- 2012年
*[[山下真由子]]([[新宿山吹高等学校]])- 2013年, 2014年 現:[[京都大学数理解析研究所]] 助教
*井上卓哉(開成高等学校) - 2015年
==== 中国女子数学オリンピック ====
*葛西祐美(東京都立国立高等学校)- 2011年, 2012年
==== ヨーロッパ女子数学オリンピック ====
出典:<ref>{{Cite web |title=European Girls’ Mathematical Olympiad: Countries |url=https://www.egmo.org/countries/ |website=www.egmo.org |accessdate=2021-07-25 |language=en}}</ref>
*荻田真矢(愛光高等学校)- 2015年(11位), 2016年(9位)
*渡部由佳(洛南高等学校) - 2018年(9位)
*町野有夏(Millfield School) - 2019年(11位), 2020年(2位), 2021年(9位)。前述の理由により、イギリス代表として参加。
=== 日本人総出場回数上位者 ===
==== 5回出場 ====
*大島芳樹(筑波大学附属駒場中学・高等学校) - 1999, 2000, 2001, 2002, 2003年。東京大学[[カブリ数物連携宇宙研究機構]]フェロー (2013-14) 現:[[東京大学大学院数理科学研究科]]准教授
==== 4回出場 ====
*丸岡哲之(開成中学・高等学校) - 1994, 1995, 1996, 1997年
*[[長尾健太郎 (数学者)|長尾健太郎]](開成中学・高等学校) - 1997, 1998, 1999, 2000年
*今井直毅(灘中学・高等学校) - 1999, 2000, 2001, 2002年
*片岡俊基(高田中学・高等学校) - 2004, 2005, 2006, 2007年
*副島真(筑波大学附属駒場中学・高等学校) - 2005, 2007, 2008, 2009年
=== 高校別 IMO日本人金メダリスト数 ===
* 筑波大学附属駒場高等学校 - 10人
* 灘高等学校 - 9人
* 開成高等学校 - 5人
* フェリス女学院高等学校、武蔵高等学校、早稲田実業学校高等部、久留米大学附設高等学校、高田高等学校、東海高等学校、洛星高等学校、早稲田高等学校、筑波大学附属高等学校、海陽中等教育学校、Millfield School、東京都立武蔵高等学校 - 1人
== 国際数学オリンピックに出場したフィールズ賞受賞者 ==
*[[グレゴリー・マルグリス]] - 1962年:金
*[[ウラジーミル・ドリンフェルト]] - 1969年:金
*[[ジャン=クリストフ・ヨッコス]] - 1973年:銀, 1974年:金
*[[リチャード・ボーチャーズ]] - 1977年:銀, 1978年:金
*[[ウィリアム・ティモシー・ガワーズ]] - 1981年:金
*[[グリゴリー・ペレルマン]] - 1982年:金(ただし本人はフィールズ賞の受賞を辞退)
*[[ローラン・ラフォルグ]] - 1984年:銀, 1985年:銀
*[[スタニスラフ・スミルノフ]] - 1986年:金, 1987年:金
*[[テレンス・タオ]] - 1986年:銅, 1987年:銀, 1988年:金
*[[エロン・リンデンシュトラウス]] - 1988年:銅
*[[ゴ・バオ・チャウ]] - 1988年:金, 1989年:金
*[[マリアム・ミルザハニ]] - 1994年:金, 1995年:金
*[[アルトゥル・アビラ]] - 1995年:金
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書
|others=M.S.クラムキン/監修と解答
|translator=国際数学オリンピック日本委員会
|date=1990-07
|title=数学オリンピック問題集 アメリカ編
|publisher=[[東京図書]]
|isbn=978-4-489-00333-2
|ref={{Harvid|クラムキン|1990}}
}}
*{{Cite book|和書
|author1=秋山 仁
|authorlink1=秋山仁
|author2=ピーター・フランクル
|authorlink2=ピーター・フランクル
|date=1990-09
|title=数学オリンピック 全問題詳解 1984~1989
|publisher=[[日本評論社]]
|isbn=978-4-535-78177-1
|ref={{Harvid|秋山|フランクル|1990}}
}}
*{{Cite book|和書
|editor=梅向明 ほか
|translator=国際数学オリンピック日本委員会
|date=1991-09
|title=数学オリンピック問題集 中国編
|publisher=東京図書
|isbn=978-4-489-00366-0
|ref={{Harvid|梅 ほか|1991}}
}}
*{{Cite book|和書
|editor=Н.Б.ワシーリェフ、A.A.エゴーロフ
|translator=国際数学オリンピック日本委員会
|date=1992-11
|title=数学オリンピック問題集 旧ソ連編
|publisher=東京図書
|isbn=978-4-489-00394-3
|ref={{Harvid|ワシーリェフ|エゴーロフ|1992}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=小島 寛之
|authorlink=小島寛之
|date=1995-02
|title=数学オリンピック問題にみる現代数学 難問の奥にある“ほんもの”の香り
|series=[[ブルーバックス]] B-1054
|publisher=[[講談社]]
|isbn=978-4-06-257054-1
|ref={{Harvid|小島|1995}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=三石 由起子
|authorlink=三石由起子
|date=1995-04
|title=数学の天才児ができた! 数学オリンピックに出場した高校生六人の母親に訊く
|edition=増補
|publisher=蔵書房
|isbn=978-4-7952-0959-6
|ref={{Harvid|三石|1995}}
}}
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|date=1995-09
|title=数学オリンピック 1990~1994
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78222-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|1995}}
}} - 注釈:[[日本数学オリンピック]](JMO)および第30回(1989年)以後の国際数学オリンピック(IMO)で出題された全問題とその解答などを集めたもの。
*{{Cite book|和書
|author=J.コフマン
|translator=山下純一
|date=1995-11
|title=めざせ,数学オリンピック!
|publisher=現代数学社
|isbn=978-4-7687-0314-4
|ref={{Harvid|コフマン|1995}}
}}
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|date=1996-09
|title=数学オリンピック 1991~1996
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78233-4
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|1996}}
}} - 注釈:日本数学オリンピック(JMO)および第32回(1991年)以後の国際数学オリンピック(IMO)で出題された全問題とその解答などを集めたもの。
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|date=1997-09
|title=数学オリンピック 1992~1997
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78251-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|1997}}
}} - 注釈:第2回(1992年)以後の日本数学オリンピック(JMO)の予選・本選および第33回(1992年)以後の国際数学オリンピック(IMO)で出題された全問題とその解答などを集めたもの。
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|date=1998-11
|title=数学オリンピック 1993~1998
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78268-6
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|1998}}
}} - 注釈:第3回(1993年)以後の日本数学オリンピック(JMO)の予選・本選および第34回(1993年)以後の国際数学オリンピック(IMO)で出題された全問題とその解答などを集めたもの。
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|date=1999-09
|title=数学オリンピック 1994~1999
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78297-6
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|1999}}
}} - 注釈:第4回(1994年)以後の日本数学オリンピック(JMO)の予選・本選および第35回(1994年)以後の国際数学オリンピック(IMO)で出題された全問題とその解答などを集めたもの。
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|date=2000-09
|title=数学オリンピック 1995~2000
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78321-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2000}}
}} - 注釈:第5回(1995年)以後の日本数学オリンピック(JMO)の予選・本選および第36回(1995年)以後の国際数学オリンピック(IMO)で出題された全問題とその解答などを集めたもの。
*{{Cite book|和書
|author1=秋山 仁
|authorlink1=秋山仁
|author2=ピーター・フランクル
|authorlink2=ピーター・フランクル
|date=2000-11
|title=完全攻略数学オリンピック
|edition=増補版
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78320-1
|ref={{Harvid|秋山|フランクル|2000}}
}}
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|date=2001-09
|title=数学オリンピック 1996~2001
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78336-2
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2001}}
}} - 注釈:第6回(1996年)以後の日本数学オリンピック(JMO)の予選・本選および第37回(1996年)以後の国際数学オリンピック(IMO)で出題された全問題とその解答などを集めたもの。
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|others=[[野口廣]]/監修
|date=2001-09
|title=数学オリンピック事典 問題と解法
|volume=基礎編 演習編 2巻セット
|publisher=[[朝倉書店]]
|isbn=978-4-254-11087-6
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2001a}}
}} - 注釈:内外の数学オリンピックの問題を分野別に分類し詳しい解説を加えた。世界で初めての決定版。
*{{Cite book|和書
|author=野口広
|authorlink=野口廣
|date=2001-10
|title=数学オリンピック教室
|series=シリーズ数学の世界 7
|publisher=朝倉書店
|isbn=978-4-254-11567-3
|ref={{Harvid|野口|2001}}
}} - 注釈:数学オリンピック挑戦者に必要な数学を丁寧に解説しながら、問題を解くアイデアと道筋を示す。(教育図書総目録より)
*{{Cite book|和書
|editor=数学オリンピック財団
|date=2002-10
|title=数学オリンピック 1997~2002
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78359-1
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2002}}
}} - 注釈:第7回(1997年)以後の日本数学オリンピック(JMO)の予選・本選および第38回(1997年)以後の国際数学オリンピック(IMO)で出題された全問題とその解答などを集めたもの。
*{{Cite book|和書
|author=安藤哲哉
|date=2003-06
|title=世界の数学オリンピック
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78391-1
|ref={{Harvid|安藤|2003}}
}} - 注釈:第44回(2003年)国際数学オリンピック(IMO)が初めて日本で開催された。その参加選手たちを選抜した世界各地の国内大会や地域オリンピックの概要と過去問を紹介。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2003-09
|title=数学オリンピック 1998~2003
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78392-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2003}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「1998年台湾大会」から「2003年日本大会」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2004-09
|title=数学オリンピック 1999~2004
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78425-3
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2004}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「1999年ルーマニア大会」から「2004年アテネ大会」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|author=杉山 由美子
|authorlink=杉山由美子
|editor=数学オリンピック財団
|date=2005-05
|title=数学オリンピック選手を育てた母親たち
|publisher=[[小学館]]
|isbn=978-4-09-837671-1
|ref={{Harvid|杉山|2005}}
}}
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2005-09
|title=数学オリンピック 2000~2005
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78453-6
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2005}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2005年メキシコ大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2005年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2006-09
|title=数学オリンピック 2001~2006
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78474-1
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2006}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2006年スロベニア大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2006年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|author=安藤哲哉
|date=2006-10
|title=三角形と円の幾何学 数学オリンピック幾何問題完全攻略
|publisher=[[海鳴社]]
|isbn=978-4-87525-234-4
|ref={{Harvid|安藤|2006}}
}}
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2007-09
|title=数学オリンピック 2002~2007
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78496-3
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2007}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2007年ベトナム大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2007年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2008-09
|title=数学オリンピック 2004~2008
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78618-9
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2008}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2008年スペイン大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2008年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2009-09
|title=数学オリンピック 2005~2009
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78636-3
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2009}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2009年ドイツ大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2009年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|author1=Titu Andreescu
|author2=Zuming Feng
|others=小林一章・鈴木晋一/監訳
|translator=清水俊宏
|date=2010-03
|title=数学オリンピックへの道
|volume=1 組合せ論の精選102問
|publisher=朝倉書店
|isbn=978-4-254-11807-0
|ref={{Harvid|Andreescu|Feng|2010}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック・アメリカ代表チームのトレーニング問題から精選された組合せ論問題集(教育図書総目録より)
*{{Cite book|和書
|author1=Titu Andreescu
|author2=Zuming Feng
|others=小林一章・鈴木晋一/監訳
|translator=清水俊宏
|date=2010-03
|title=数学オリンピックへの道
|volume=2 三角法の精選103問
|publisher=朝倉書店
|isbn=978-4-254-11808-7
|ref={{Harvid|Andreescu|Feng|2010}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック・アメリカ代表チームのトレーニング問題から精選された三角法問題集(教育図書総目録より)
*{{Cite book|和書
|author1=Titu Andreescu
|author2=Dorin Andrica
|author3=Zuming Feng
|others=小林一章・鈴木晋一/監訳
|translator=清水俊宏・西本将樹
|date=2010-04
|title=数学オリンピックへの道
|volume=3 数論の精選104問
|publisher=朝倉書店
|isbn=978-4-254-11809-4
|ref={{Harvid|Andreescu|Andrica|Feng|2010}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック・アメリカ代表チームのトレーニング問題から精選された数論の問題集(教育図書総目録より)
*{{Cite book|和書
|author=テレンス・タオ
|authorlink=テレンス・タオ
|translator=寺嶋英志
|date=2010-08
|title=数学オリンピックチャンピオンの美しい解き方
|publisher=[[青土社]]
|isbn=978-4-7917-6561-4
|ref={{Harvid|タオ|2010}}
}} - 注釈:数学オリンピック最年少金メダリスト記録を持つタオ教授による、誰でも楽しめる理想の数学教室。原タイトル:''Solving Mathematical Problems: A Personal Perspective''
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2010-09
|title=数学オリンピック 2006~2010
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78655-4
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2010}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2010年カザフスタン大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2010年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2011-09
|title=数学オリンピック 2007~2011
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78674-5
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2011}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2011年オランダ大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2011年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=小林一章/監修
|date=2011-11
|title=獲得金メダル!国際数学オリンピック メダリストが教える解き方と技
|publisher=朝倉書店
|isbn=978-4-254-11132-3
|ref={{Harvid|小林|2011}}
}} - 注釈:数学オリンピック(JMO・IMO)出場者が問題の「考え方」を伝授する。類のない実践的な解説書(教育図書総目録より)
*{{Cite book|和書
|author=中島 さち子
|authorlink=中島さち子
|date=2012-07
|title=人生を変える「数学」そして「音楽」 教科書には載っていない絶妙な関係
|publisher=[[講談社]]
|isbn=978-4-06-217813-6
|ref={{Harvid|中島|2012}}
}} - 注釈:日本人女性唯一の数学オリンピック金メダリストにしてジャズピアニストが案内する学問の楽しみ方。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2012-09
|title=数学オリンピック 2008~2012
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78699-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2012}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2012年アルゼンチン大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2012年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2013-09
|title=数学オリンピック 2009~2013
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78730-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2013}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2013年コロンビア大会」とアジア太平洋数学オリンピック「2013年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2014-09
|title=数学オリンピック 2010~2014
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78762-9
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2014}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2014年南アフリカ大会」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|author1=Radmila Bulajich Manfrino
|author2=Jose Antonio Gomez Ortega
|author3=Rogelio Valdez Delgado
|translator=佐藤淳郎
|date=2013-01
|title=美しい不等式の世界 数学オリンピックの問題を題材として
|publisher=朝倉書店
|isbn=978-4-254-11137-8
|ref={{Harvid|Manfrino|Ortega|Delgado|2013}}
}} - 注釈:''Inequalities A Mathematical Olympiad Approach''の翻訳。数学全般で広く使われる有名な不等式や実用的テクニックを系統立てて、数学オリンピックの問題をふんだんに使って詳しく解説。多数の演習問題およびその解答付。
*{{Cite book|和書
|others=早稲田大学教育総合研究所/監修
|date=2014-03
|title=数学オリンピックにみる才能教育
|series=早稲田教育ブックレット No.10
|publisher=学文社
|isbn=978-4-7620-2445-0
|ref={{Harvid|早稲田大学教育総合研究所|2014}}
}}
*{{Cite book|和書
|editor=東京理科大学出版センター
|author1=渡辺 正
|author2=秋山 仁
|authorlink2=秋山仁
|author3=北原 和夫
|author4=松田 良一
|authorlink4=松田良一
|author5=齋藤 淳一
|author6=谷 聖一
|date=2014-04
|title=めざせ国際科学オリンピック!
|series=東京理科大学坊っちゃん科学シリーズ 8
|publisher=東京書籍
|isbn=978-4-487-80768-0
|ref={{Harvid|東京理科大学出版センター 編|2014}}
}} - 注釈:国際科学オリンピックの数学、物理、化学、生物学、情報の5教科をさまざまな角度から紹介。
*{{Cite book|和書
|author=安藤哲哉
|date=2016-02
|title=中学生からの数学オリンピック
|publisher=[[数学書房]]
|isbn=978-4-903342-47-4
|ref={{Harvid|安藤|2016}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=鈴木晋一
|date=2015-02
|title=平面幾何パーフェクト・マスター めざせ,数学オリンピック
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78590-8
|ref={{Harvid|鈴木|2015}}
}}
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2015-09
|title=数学オリンピック 2011~2015
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78795-7
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2015}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2015年タイ大会」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|author=鈴木晋一
|date=2016-05
|title=初等整数パーフェクト・マスター めざせ,数学オリンピック
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-79804-5
|ref={{Harvid|鈴木|2016}}
}}
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2016-09
|title=数学オリンピック 2012~2016
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78817-6
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2016}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2016年香港大会」と今回、アジア太平洋数学オリンピック「2017年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|author=鈴木晋一
|date=2017-05
|title=代数・解析パーフェクト・マスター めざせ,数学オリンピック
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-79811-3
|ref={{Harvid|鈴木|2017}}
}}
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2017-09
|title=数学オリンピック 2013~2017
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78855-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2017}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2017年ブラジル大会」と今回、ヨーロッパ女子数学オリンピック「2017年日本代表一次選抜試験+スイス大会」の問題・解答を初めて収録。
*{{Cite book|和書
|author=野村建斗
|author2=数理哲人
|authorlink2=米谷達也
|date=2018-01
|title=競技数学アスリートをめざそう 国際数学オリンピックへの道標
|volume=1 代数編
|publisher=現代数学社
|isbn=978-4-7687-0483-7
|ref={{Harvid|野村|数理哲人|2018}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=野村建斗
|author2=数理哲人
|authorlink2=米谷達也
|date=2018-03
|title=競技数学アスリートをめざそう 国際数学オリンピックへの道標
|volume=2 組合せ編
|publisher=現代数学社
|isbn=978-4-7687-0486-8
|ref={{Harvid|野村|数理哲人|2018a}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=野村建斗
|author2=数理哲人
|authorlink2=米谷達也
|date=2018-03
|title=競技数学アスリートをめざそう 国際数学オリンピックへの道標
|volume=3 幾何編
|publisher=現代数学社
|isbn=978-4-7687-0487-5
|ref={{Harvid|野村|数理哲人|2018b}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=野村建斗
|author2=数理哲人
|authorlink2=米谷達也
|date=2018-04
|title=競技数学アスリートをめざそう 国際数学オリンピックへの道標
|volume=4 数論編
|publisher=現代数学社
|isbn=978-4-7687-0489-9
|ref={{Harvid|野村|数理哲人|2018c}}
}}
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2018-09
|title=数学オリンピック 2014~2018
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78880-0
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2018}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2018年ルーマニア大会」とヨーロッパ女子数学オリンピック「2018年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|author=数理哲人
|authorlink=米谷達也
|date=2018-12
|title=数学オリンピックの表彰台に立て! 予選100問+オリジナル12問で突破
|publisher=[[技術評論社]]
|isbn=978-4-297-10285-2
|ref={{Harvid|数理哲人|2018}}
}} - 注釈:1990年以降の予選問題から100問を厳選し,さらに著者によるオリジナルの問題12問の合計112問で構成し,まずは予選突破ができる力をつけることを目標にする。
*{{Cite book|和書
|author=鈴木晋一
|date=2019-01
|title=組合せ論パーフェクト・マスター めざせ,数学オリンピック
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-79820-5
|ref={{Harvid|鈴木|2019}}
}}
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2019-09
|title=数学オリンピック 2015~2019
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78909-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2019}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック(2019年イギリス大会)とヨーロッパ女子数学オリンピック(2019年)の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2020-12
|title=数学オリンピック 2016~2020
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78931-9
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2020}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック(2020年ロシア大会)とヨーロッパ女子数学オリンピック(2020年)の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2021-09
|title=数学オリンピック 2017~2021
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78954-8
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2021}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック(2021年ロシア大会)とヨーロッパ女子数学オリンピック(2021年)の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|others=数学オリンピック財団/監修
|date=2022-09
|title=数学オリンピック 2018~2022
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78975-3
|ref={{Harvid|数学オリンピック財団|2022}}
}} - 注釈:国際数学オリンピック「2022年ノルウェー大会」とヨーロッパ女子数学オリンピック「2022年」の問題・解答を収録。
*{{Cite book|和書
|author=エヴァン・チェン
|others=[[森田康夫 (数学者)|森田康夫]]/監訳
|translator=兒玉太陽・熊谷勇輝・宿田彩斗・平山楓馬
|date=2023-02
|title=数学オリンピック幾何への挑戦 ユークリッド幾何学をめぐる船旅
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78978-4
|ref={{Harvid|チェン|2023}}
}} - 注釈:原タイトル:''Euclidean Geometry in Mathematical Olympiads''
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}}
{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}}
* [[日本ジュニア数学オリンピック]]
* [[日本数学オリンピック]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|International Mathematical Olympiad}}
*[http://www.imo-official.org/ 国際数学オリンピック]
*[https://imo2023.jp/en/ IMO2023]
*[https://www.imojp.org/ 数学オリンピック財団]
* {{Kotobank}}
{{DEFAULTSORT:こくさいすうかくおりんひつく}}
{{数学}}
{{Normdaten}}
[[Category:国際競技大会]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:数学の競技]]
[[Category:1959年開始のイベント]]
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2003-07-12T16:41:57Z
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2023-11-17T03:52:27Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF
|
11,310 |
状態数
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状態数(じょうたいすう、英: number of states)は、統計力学において、系のエネルギーが(マクロにみて)ある値をとるときに、系が取りうる(ミクロな)状態の数である。ミクロカノニカルアンサンブルにおける分布関数の正規化係数として現れる。
系が取り得る全ての状態の集合(標本空間)を Ω とする。系のエネルギーがマクロにみて E であるときに系が取り得る状態の集合を Ω(E) とするとき、状態数 W(E) は
W ( E ) = ∑ ω ∈ Ω χ Ω ( E ) ( ω ) = ∑ ω ∈ Ω ( E ) 1 {\displaystyle W(E)=\sum _{\omega \in \Omega }\chi _{\Omega (E)}(\omega )=\sum _{\omega \in \Omega (E)}1}
によって定義される。 ここで χ は部分集合 Ω(E) の指示関数で、ω が Ω(E) に属すならば 1 を、さもなくば 0 を返す関数である。
χ Ω ( E ) ( ω ) = { 1 ω ∈ Ω ( E ) 0 ω ∉ Ω ( E ) {\displaystyle \chi _{\Omega (E)}(\omega )={\begin{cases}1&\omega \in \Omega (E)\\0&\omega \notin \Omega (E)\\\end{cases}}}
系がミクロな状態 ω をとるときのエネルギーが E ( ω ) {\displaystyle {\mathcal {E}}(\omega )} により与えられるものとする。 系のエネルギーがマクロにみて E であるという条件を、エネルギー幅 δE の間に入ることとする。 すなわち、部分集合 Ω(E) が
Ω ( E ) = { ω ∈ Ω ; E − δ E < E ( ω ) ≤ E } {\displaystyle \Omega (E)=\{\omega \in \Omega ;E-\delta E<{\mathcal {E}}(\omega )\leq E\}}
で表される。このときディラックのデルタ関数を用いれば指示関数は
χ Ω ( E ) ( ω ) = ∫ E − δ E E δ ( E ′ − E ( ω ) ) d E ′ {\displaystyle \chi _{\Omega (E)}(\omega )=\int _{E-\delta E}^{E}\delta (E'-{\mathcal {E}}(\omega ))\,dE'}
と書き換えられる。
デルタ関数を用いて指示関数で書き換えるとき、マクロなエネルギー E の積分がミクロな状態 ω の和と入れ替え可能であると仮定すれば、状態数は
W ( E ) = ∫ E − δ E E D ( E ′ ) d E ′ {\displaystyle W(E)=\int _{E-\delta E}^{E}D(E')\,dE'}
と書き換えられる。 ここで被積分関数 D(E) は
D ( E ) = ∑ ω ∈ Ω δ ( E − E ( ω ) ) {\displaystyle D(E)=\sum _{\omega \in \Omega }\delta (E-{\mathcal {E}}(\omega ))}
であり、状態密度と呼ばれる。エネルギーの幅 δE を無限大へと拡張したときの状態数 N(E) は
N ( E ) = ∫ − ∞ E D ( E ) d E {\displaystyle N(E)=\int _{-\infty }^{E}D(E)\,dE}
で定義される。N(E) は系のエネルギーがマクロにみて E 以下である状態の数である。
量子系においては状態が離散的であり、状態数も離散的な数となる。しかし、通常の統計力学においては非常に膨大な数の状態を扱い、状態数は連続的な関数であるとみなすことができる。
ミクロな力学系が古典力学で記述される場合を考える。すなわち標本空間 Ω とは位相空間であり、ミクロな状態は正準変数の組 (p,q) により指定される。 位相空間の測度は、1対の正準変数 dp dq ごとにプランク定数 h で割る約束で、状態に対する和が
∑ ω ∈ Ω → 1 h f ∫ d f p d f q {\displaystyle \sum _{\omega \in \Omega }\to {\frac {1}{h^{f}}}\int d^{f}p\,d^{f}q}
で置き換えられる。ここで f は力学的自由度であり、3次元空間の N-粒子系であれば、f = 3N である。
ミクロな状態 (p,q) に対して、エネルギーはハミルトン関数 H ( p , q ) {\displaystyle {\mathcal {H}}(p,q)} で与えられる。 状態密度は
D ( E ) = 1 h f ∫ δ ( E − H ( p , q ) ) d f p d f q {\displaystyle D(E)={\frac {1}{h^{f}}}\int \delta (E-{\mathcal {H}}(p,q))\,d^{f}p\,d^{f}q}
として得られる。
ある1粒子系を考えたとき、1粒子状態密度 D1(E) はこの系のエネルギー準位の密度分布を表す。この系をn-粒子系に拡張したときにエネルギー準位の密度分布が変化しないとする。この系がフェルミ系であるとき、状態数 N(E) が粒子数 n と等しくなるエネルギー EF はフェルミエネルギーと呼ばれる。
n = N ( E F ) = ∫ − ∞ E F D 1 ( E ) d E {\displaystyle n=N(E_{\text{F}})=\int _{-\infty }^{E_{\text{F}}}D_{1}(E)\,dE}
フェルミ系において、各エネルギー準位には1つの粒子しか入らない。系が基底状態にあるときには粒子はエネルギーが小さい準位から占有していき、フェルミエネルギーに等しい準位までが占有される。
絶対零度において系は基底状態にある。エネルギー準位によって決まる物理量は
A = ∫ − ∞ E F A ( E ) D 1 ( E ) d E {\displaystyle A=\int _{-\infty }^{E_{\text{F}}}{\mathcal {A}}(E)D_{1}(E)\,dE}
となる。絶対零度において、フェルミエネルギーより上の準位には粒子が存在しないので、積分範囲はフェルミエネルギーまでとなる。これをヘヴィサイドの階段関数を用いて
A = ∫ − ∞ ∞ A ( E ) η ( E F − E ) D 1 ( E ) d E {\displaystyle A=\int _{-\infty }^{\infty }{\mathcal {A}}(E)\eta (E_{\text{F}}-E)D_{1}(E)\,dE}
と表す。有限温度においては、温度による励起の影響を反映して、階段関数が置き換えられて
A = ∫ − ∞ ∞ A ( E ) f ( E ) D 1 ( E ) d E {\displaystyle A=\int _{-\infty }^{\infty }{\mathcal {A}}(E)f(E)D_{1}(E)\,dE}
となる。このときの f(E) がフェルミ分布関数である。
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] |
状態数は、統計力学において、系のエネルギーが(マクロにみて)ある値をとるときに、系が取りうる(ミクロな)状態の数である。ミクロカノニカルアンサンブルにおける分布関数の正規化係数として現れる。
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{{出典の明記|date=2018年4月}}
'''状態数'''(じょうたいすう、{{lang-en-short|number of states}})は、[[統計力学]]において、[[系 (自然科学)|系]]のエネルギーが(マクロにみて)ある値をとるときに、系が取りうる(ミクロな)[[状態]]の数である。[[ミクロカノニカルアンサンブル]]における[[分布関数]]の[[正規化#数量|正規化]]係数として現れる。
== 定義 ==
系が取り得る全ての状態の集合([[標本空間]])を {{math|Ω}} とする。系の[[エネルギー]]がマクロにみて {{mvar|E}} であるときに系が取り得る状態の集合を {{math|Ω(''E'')}} とするとき、'''状態数''' {{math|''W''(''E'')}} は
{{Indent|
<math>W(E) =\sum_{\omega\in\Omega} \chi_{\Omega(E)}(\omega) =\sum_{\omega\in\Omega(E)} 1</math>
}}
によって定義される。
ここで {{mvar|χ}} は部分集合 {{math|Ω(''E'')}} の[[指示関数]]で、{{mvar|ω}} が {{math|Ω(''E'')}} に属すならば 1 を、さもなくば 0 を返す関数である。
{{Indent|
<math>\chi_{\Omega(E)}(\omega) =
\begin{cases}
1 & \omega\in\Omega(E) \\
0 & \omega\notin\Omega(E) \\
\end{cases}</math>
}}
系がミクロな状態 {{mvar|ω}} をとるときのエネルギーが <math>\mathcal{E}(\omega)</math> により与えられるものとする。
系のエネルギーがマクロにみて {{mvar|E}} であるという条件を、エネルギー幅 {{mvar|δE}} の間に入ることとする。
すなわち、部分集合 {{math|Ω(''E'')}} が
{{Indent|
<math>\Omega(E) =\{ \omega\in\Omega; E-\delta E< \mathcal{E}(\omega) \le E \}</math>
}}
で表される。このとき[[ディラックのデルタ関数]]を用いれば指示関数は
{{Indent|
<math>\chi_{\Omega(E)}(\omega) =\int_{E-\delta E}^E \delta(E' -\mathcal{E}(\omega))\, dE'</math>
}}
と書き換えられる。
=== 状態密度 ===
デルタ関数を用いて指示関数で書き換えるとき、マクロなエネルギー {{mvar|E}} の積分がミクロな状態 {{mvar|ω}} の和と入れ替え可能であると仮定すれば、状態数は
{{Indent|
<math>W(E) =\int_{E-\delta E}^E D(E')\, dE'</math>
}}
と書き換えられる。
ここで被積分関数 {{math|''D''(''E'')}} は
{{Indent|
<math>D(E) =\sum_{\omega\in\Omega} \delta(E -\mathcal{E}(\omega))</math>
}}
であり、[[状態密度]]と呼ばれる。エネルギーの幅 {{mvar|δE}} を無限大へと拡張したときの状態数 {{math|''N''(''E'')}} は
{{Indent|
<math>N(E) =\int_{-\infty}^E D(E)\, dE</math>
}}
で定義される。{{math|''N''(''E'')}} は系のエネルギーがマクロにみて {{mvar|E}} 以下である状態の数である。
量子系においては状態が離散的であり、状態数も離散的な数となる。しかし、通常の統計力学においては非常に膨大な数の状態を扱い、状態数は連続的な関数であるとみなすことができる。
== 古典系 ==
ミクロな力学系が[[古典力学]]で記述される場合を考える。すなわち標本空間 {{mvar|Ω}} とは[[位相空間 (物理学)|位相空間]]であり、ミクロな状態は[[正準変数]]の組 ({{mvar|p,q}}) により指定される。
位相空間の[[測度]]は、1対の正準変数 {{mvar|dp dq}} ごとに[[プランク定数]] {{mvar|h}} で割る約束で、状態に対する和が
{{Indent|
<math>\sum_{\omega\in\Omega} \to \frac{1}{h^f} \int d^fp\, d^fq</math>
}}
で置き換えられる。ここで {{mvar|f}} は力学的[[自由度]]であり、3次元空間の {{mvar|N}}-粒子系であれば、{{math|1=''f'' = 3''N''}} である。
ミクロな状態 ({{mvar|p,q}}) に対して、エネルギーは[[ハミルトン関数]] <math>\mathcal{H}(p,q)</math> で与えられる。
状態密度は
{{Indent|
<math>D(E) =\frac{1}{h^f} \int \delta(E -\mathcal{H}(p,q))\, d^fp\, d^fq</math>
}}
として得られる。
== フェルミ分布 ==
ある1粒子系を考えたとき、1粒子状態密度 {{math|''D''{{sub|1}}(''E'')}} はこの系の[[エネルギー準位]]の密度分布を表す。この系をn-粒子系に拡張したときにエネルギー準位の密度分布が変化しないとする。この系が[[フェルミ統計|フェルミ系]]であるとき、状態数 {{math|''N''(''E'')}} が粒子数 {{mvar|n}} と等しくなるエネルギー {{math|''E''{{sub|F}}}} は[[フェルミエネルギー]]と呼ばれる。
{{Indent|
<math>n =N(E_\text{F}) =\int_{-\infty}^{E_\text{F}} D_1(E)\, dE</math>
}}
フェルミ系において、各エネルギー準位には1つの粒子しか入らない。系が基底状態にあるときには粒子はエネルギーが小さい準位から占有していき、フェルミエネルギーに等しい準位までが占有される。
[[絶対零度]]において系は基底状態にある。エネルギー準位によって決まる物理量は
{{Indent|
<math>A =\int_{-\infty}^{E_\text{F}} \mathcal{A}(E) D_1(E)\, dE</math>
}}
となる。絶対零度において、フェルミエネルギーより上の準位には粒子が存在しないので、積分範囲はフェルミエネルギーまでとなる。これを[[ヘヴィサイドの階段関数]]を用いて
{{Indent|
<math>A =\int_{-\infty}^\infty \mathcal{A}(E) \eta(E_\text{F}-E) D_1(E)\, dE</math>
}}
と表す。有限温度においては、[[温度]]による励起の影響を反映して、階段関数が置き換えられて
{{Indent|
<math>A =\int_{-\infty}^\infty \mathcal{A}(E) f(E) D_1(E)\, dE</math>
}}
となる。このときの {{math|''f''(''E'')}} が[[フェルミ分布関数]]である。
== 関連項目 ==
* [[統計力学]]
* [[分配関数]](状態和)
* [[量子力学]]
* [[フェルミ・ディラック統計]]
{{DEFAULTSORT:しようたいすう}}
[[Category:統計力学]]
[[Category:量子力学]]
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2023-02-12T16:52:48Z
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"Template:Lang-en-short",
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"Template:出典の明記"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%B6%E6%85%8B%E6%95%B0
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11,311 |
日本数学オリンピック
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日本数学オリンピック(にほんすうがくオリンピック)とは、高校生などを対象に毎年行われる数学の問題を解く能力を競う数学の競技の国内選手権大会である。略称はJMO、また単に数学オリンピック。
毎年行われる国際数学オリンピックおよびヨーロッパ女子数学オリンピックの日本代表の選手を選抜する大会として開催される。
参加資格は、受験時点で大学教育(またはそれに相当する教育)を受けていない20歳未満の者であるが、日本代表の対象となるのは高校2年生以下の者だけである。例年、数千人の小中高生および高卒生が参加する。
予選・本選ともに、出題される範囲は世界各国の高校程度のものであり、主に整数問題・幾何・組み合わせ・式変形などが題材となっている(微積分・確率統計・行列は範囲外である)。
各都道府県に1箇所以上受験会場が存在する。制限時間3時間で12問を解答する。
解答欄は答のみを記述するものである。部分点は一切存在せず、1問1点である。予選の合格者が200人前後となるように、予選通過点数が定められる。それ以上の点数を取ればAランクとなり、本選に参加できる。また、予選不合格者も、点数に応じてBランクとCランクに分けられる(上位50%程度がBランク、残りがCランクとなる)。Aランク、Bランク者を優遇する大学もいくつか存在する。
難易度は毎年上下し、予選通過点数は5~8点と不安定である。
一般に最初の方にある問題ほど易しく、正答率は高い一方で、最後の方にある問題は正答率が0%となることも少なくない。
主要都市十数か所に受験会場が存在する。制限時間4時間で5問を解答する。
解答は記述式で各問8点である。本選の合格者が20人前後になるように、本選通過点数が定められる。それ以上の点数を取ればAAランクとなり、日本国籍を有する高校2年生以下であれば代表選考合宿に参加できる。
本選通過点数も毎年上下するが、10点台であることが多い。この本選で1位となった優勝者には川井杯が授与される。
日本数学オリンピックAAランク者20人前後と、日本ジュニア数学オリンピックaaランク者5人で行われる合宿である。そのうちの4日間で、各7点、12問の記述式試験を行い、上位6名が国際数学オリンピックの代表選手として派遣される。試験は1日4時間30分で3問という、本番の国際数学オリンピックと同じ形式で行われている。問題のレベルも国際数学オリンピックと同等である。
一時ノーベル経済学賞候補に上ったこともある宇沢弘文は、その著書『日本の教育を考える』(1998年 岩波新書)にて、数学オリンピック予選にて講演を頼まれた際に見聞したこととして、予選参加者の指導者・子供らは本当は数学が好きではないことを数学オリンピックのあり方を交えて批判的に述べていた。
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日本数学オリンピック(にほんすうがくオリンピック)とは、高校生などを対象に毎年行われる数学の問題を解く能力を競う数学の競技の国内選手権大会である。略称はJMO、また単に数学オリンピック。 毎年行われる国際数学オリンピックおよびヨーロッパ女子数学オリンピックの日本代表の選手を選抜する大会として開催される。
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'''日本数学オリンピック'''(にほんすうがくオリンピック)とは、[[高校生]]などを対象に毎年行われる[[数学]]の問題を解く能力を競う[[数学の競技]]の[[国内選手権大会]]である。[[略称]]は'''JMO'''、また単に'''数学オリンピック'''。
毎年行われる[[国際数学オリンピック]]および[[ヨーロッパ女子数学オリンピック]]の[[日本代表]]の[[アスリート|選手]]を選抜する大会として開催される。
== 概要 ==
参加資格は、受験時点で大学教育(またはそれに相当する教育)を受けていない20歳未満の者であるが、日本代表の対象となるのは高校2年生以下の者だけである。例年、数千人の小中高生および高卒生が参加する。
予選・本選ともに、出題される範囲は世界各国の高校程度のものであり、主に[[整数]]問題・[[幾何]]・[[組合せ (数学)|組み合わせ]]・式変形などが題材となっている([[微積分]]・[[確率統計]]・[[行列]]は範囲外である)。
=== 予選 ===
各都道府県に1箇所以上受験会場が存在する。制限時間3時間で12問を解答する。
解答欄は答のみを記述するものである。部分点は一切存在せず、1問1点である。予選の合格者が200人前後となるように、予選通過点数が定められる。それ以上の点数を取ればAランクとなり、本選に参加できる。また、予選不合格者も、点数に応じてBランクとCランクに分けられる(上位50%程度がBランク、残りがCランクとなる)。Aランク、Bランク者を優遇する大学もいくつか存在する。
難易度は毎年上下し、予選通過点数は5~8点と不安定である。
一般に最初の方にある問題ほど易しく、正答率は高い一方で、最後の方にある問題は正答率が0%となることも少なくない。
=== 本選 ===
主要都市十数か所に受験会場が存在する。制限時間4時間で5問を解答する。
解答は記述式で各問8点である。本選の合格者が20人前後になるように、本選通過点数が定められる。それ以上の点数を取ればAAランクとなり、日本国籍を有する高校2年生以下であれば代表選考合宿に参加できる。
本選通過点数も毎年上下するが、10点台であることが多い。この本選で1位となった優勝者には川井杯が授与される。
=== 代表選考合宿(春の合宿) ===
日本数学オリンピックAAランク者20人前後と、[[日本ジュニア数学オリンピック]]<nowiki/>aaランク者5人で行われる合宿である。そのうちの4日間で、各7点、12問の記述式試験を行い、上位6名が国際数学オリンピックの代表選手として派遣される。試験は1日4時間30分で3問という、本番の国際数学オリンピックと同じ形式で行われている。問題のレベルも国際数学オリンピックと同等である。
== 批判 ==
一時[[ノーベル経済学賞]]候補に上ったこともある[[宇沢弘文]]は、その著書『日本の教育を考える』(1998年 [[岩波新書]])にて、数学オリンピック予選にて講演を頼まれた際に見聞したこととして、予選参加者の指導者・子供らは本当は数学が好きではないことを数学オリンピックのあり方を交えて批判的に述べていた。<!--ただし、これは日本勢の実力が振るわなかった1990年代の話である。→妙な印象操作です。-->
== 関連項目 ==
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{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}}
*[[日本ジュニア数学オリンピック]]
*[[国際数学オリンピック]]
*[[数学の競技]]
==外部リンク==
*[https://www.imojp.org/ 数学オリンピック財団]
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[[Category:数学の競技|にほんすうかくおりんひつく]]
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構成要件
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構成要件(こうせいようけん、独:Tatbestand、英: Elements)とは、刑罰法規によって定義された犯罪行為の類型とされているものである。
構成要件とは、法律効果を発生させる前提と考えられるものであり、民法でいうところの「法律要件」のことを指すものである。これに対応する意味で用いれば、刑罰法規が類型化した犯罪行為の型のことをいう。
もっとも、刑法学上で構成要件という概念が重要な意味を持つのは、刑法各論で議論されるそれぞれの刑罰法規が類型化した各種の犯罪行為を解釈して導き出された、刑法総論で議論される犯罪の一般的成立要件となるからである。
したがって、構成要件の定義は、その学説がよって立つ解釈により異なる。
構成要件論とは、構成要件に該当することを犯罪の一般的成立要件の一つとした上で、これを犯罪論の中心的概念とすることで、犯罪論体系の構成を強固にするとともに、刑法総論と刑法各論の結びつきを密接なものにしようとする理論である。
構成要件論は、1906年に、ドイツの刑法学者エルンスト・ベーリングが提唱し、M・E・マイヤー、メツガーによって発展した理論である。
日本では、構成要件論は、昭和初期に小野清一郎、瀧川幸辰によってほぼ同時期に紹介されたが、日本の刑法の条文上は構成要件という用語はなく、理論上の概念である。
罪刑法定主義の観点から、構成要件は、条文に一般人が認識可能な形で定められていなくてはならないとされる。ただし、刑法の謙抑性の立場から、法の適用を限定するものについては法令に規定されず判例で認められるものがあり、これを記述されざる構成要件要素という。
構成要件の定義は、それが提唱されたものから3つに分類されている。構成要件は、例えば、違法や責任のよう直感によって或る程度の理解が得られるものとは異なり、法典や法および条文との関係から理論的に定義されるものである。
単なる行為の類型とする説である。構成要件の罪刑法定主義機能を重視し、構成要件を没却的記述的なものであるとする。構成要件は違法推定機能も責任推定機能も有さず、構成要件該当性とは別に違法性と有責性を確定する必要がある。この定義はベーリングにより提唱されたものであり、その実体的意義は、法の規定性への着目である。例えば、他人に権利があるものを無断で所持または処分する行為は、民法上は所有権に関して不法行為が、憲法上はプライバシーに関して基本的人権の侵害が、そして、刑法上は窃盗として規定されるが、この理論における構成要件は、ある行為が各法領域のいずれかに規定されたという規定性を示すものであり、行為の性質を明らかにするものである。この理論が行為論の後に説明されるのはこのためである。
故意・過失を責任要素であるとの立場から、構成要件を故意・過失を含まない「違法な行為の類型」と定義する見解。結果無価値論の立場から主張される。この見解においては、構成要件の故意規制機能が重視されており、故意の対象として構成要件を想定するため、構成要件概念から故意、過失といった責任要素を除外するのである。この有力説からは、故意または過失により構成要件該当事実を実現することが(違法性阻却事由、責任阻却事由および処罰阻却事由が存在しない限り)可罰的な犯罪事実であることになる。故意犯と過失犯が構成要件のレベルでは区別されないから、その限度では構成要件は犯罪個別化機能を有しない。通説が構成要件と呼んでいるものを犯罪類型と呼び、これが犯罪個別化機能を有することとなる。構成要件は、違法推定機能は有するが、責任推定機能は有しないとするのが一般である。 なお、行為無価値論の立場から、違法行為類型であるが、違法要素としての故意・過失を含むとする説もある。この定義はメツガー等により提唱されたものであり、その実体的意義は、法領域の性質への着目である。例えば、他人に権利があるものを無断で所持または処分する行為は、禁止規範体系の刑罰法規に規定されることで違法性を持ち、ここにおいて、この行為は民法でもなく、憲法でもなく、刑罰法規によって取り扱われるということである。構成要件はこの違法性という法領域の性質により、他の法領域における法律要件と区別される。この理論が行為論の後に説明されることがあるのは、法領域の性質により行為は分別されるからである。
構成要件を「違法かつ有責とされる行為の類型」であると定義する見解で、責任要素としての故意・過失は構成要件要素に含まれることとなる。この場合、構成要件は犯罪ごとに異なることとなるから、構成要件が犯罪個別化機能を有することとなる。また、一般的には、構成要件には違法推定機能と責任推定機能の双方が認められることになる。この定義は小野清一郎により提唱されたものであり、その実体的意義は、条文構造への着目である。例えば、他人に権利があるものを無断で所持または処分する行為が、どのように規律されるかは条文構造によるのであり、この構造の解釈によって、法の適用が行われる。行為における故意または過失が問題とされるのも体系上の条文構造が前提とされるのであり、解釈が行われる前の枠の意味として条文全体が構成要件とよばれる。
構成要件の要素は、客観的構成要件要素 ( objektives Tatbestandsmerkmal ) と主観的構成要件要素 ( subjektives Tatbestandsmerkmal ) に分けることができる。違法構成要件と責任構成要件に分ける見解もある。
上記のうち、実行行為と構成要件的故意または構成要件的過失はすべての犯罪について必要であるが、他の要素の要否は犯罪の種類によって異なる。
結果的加重犯は、基本犯が実現された後にさらに一定の結果が発生した場合に加重処罰されるものであり、基本犯の要件の他に、一定の重い結果と因果関係(結果的加重犯としての重い結果との因果関係)が必要である。ここでいう因果関係は、前述の客観的構成要件要素の一般論で述べた因果関係とはやや異なる概念の因果関係であることに注意を要する。
原則形態として刑罰法規に規定される犯罪類型の基本的構成要件に、他の規定により修正を加えた形で規定される犯罪類型の構成要件を、修正された構成要件という。
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"text": "構成要件を「違法かつ有責とされる行為の類型」であると定義する見解で、責任要素としての故意・過失は構成要件要素に含まれることとなる。この場合、構成要件は犯罪ごとに異なることとなるから、構成要件が犯罪個別化機能を有することとなる。また、一般的には、構成要件には違法推定機能と責任推定機能の双方が認められることになる。この定義は小野清一郎により提唱されたものであり、その実体的意義は、条文構造への着目である。例えば、他人に権利があるものを無断で所持または処分する行為が、どのように規律されるかは条文構造によるのであり、この構造の解釈によって、法の適用が行われる。行為における故意または過失が問題とされるのも体系上の条文構造が前提とされるのであり、解釈が行われる前の枠の意味として条文全体が構成要件とよばれる。",
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"text": "原則形態として刑罰法規に規定される犯罪類型の基本的構成要件に、他の規定により修正を加えた形で規定される犯罪類型の構成要件を、修正された構成要件という。",
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構成要件とは、刑罰法規によって定義された犯罪行為の類型とされているものである。
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{{otheruses|日本の刑法における用語|特許法や実用新案法における発明や考案の「構成要件」|特許請求の範囲}}
{{otheruses||コモンローにおける刑法の犯罪構成要件|犯罪構成要素}}
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'''構成要件'''(こうせいようけん、[[ドイツ語|独]]:Tatbestand、[[英語|英]]: Elements)とは、[[刑法|刑罰法規]]によって定義された[[犯罪行為]]の[[類型]]とされているものである。
== 解説 ==
{{see also|犯罪構成要素}}
構成要件とは、法律効果を発生させる前提と考えられるものであり、民法でいうところの「[[法律要件]]」のことを指すものである。これに対応する意味で用いれば、[[刑罰]]法規が類型化した犯罪行為の型のことをいう。
もっとも、[[刑法学]]上で構成要件という概念が重要な意味を持つのは、刑法各論で議論されるそれぞれの刑罰法規が類型化した各種の犯罪行為を解釈して導き出された、刑法総論で議論される[[犯罪]]の一般的成立要件となるからである。
したがって、構成要件の定義は、その学説がよって立つ解釈により異なる。
構成要件論とは、構成要件に該当することを犯罪の一般的成立要件の一つとした上で、これを犯罪論の中心的概念とすることで、犯罪論体系の構成を強固にするとともに、刑法総論と刑法各論の結びつきを密接なものにしようとする理論である。
構成要件論は、[[1906年]]に、[[ドイツ]]の[[刑法学]]者[[エルンスト・ベーリング]]が提唱し、[[M・E・マイヤー]]、[[メツガー]]によって発展した理論である<ref>板倉宏『新訂 刑法総論 補訂版』勁草書房、2001年、64頁。</ref>。
日本では、構成要件論は、昭和初期に[[小野清一郎]]、[[瀧川幸辰]]によってほぼ同時期に紹介されたが、日本の[[刑法 (日本)|刑法]]の条文上は構成要件という用語はなく、理論上の概念である。
[[罪刑法定主義]]の観点から、構成要件は、条文に一般人が認識可能な形で定められていなくてはならないとされる。ただし、刑法の謙抑性の立場から、法の適用を限定するものについては法令に規定されず判例で認められるものがあり、これを'''記述されざる構成要件要素'''という。
== 構成要件の機能 ==
*罪刑法定主義的機能 - 処罰される行為を明示する機能
*犯罪個別化機能 - 成立し得る犯罪の罪名を明らかにする機能
*違法推定機能-構成要件に該当する行為は原則として違法であり、違法阻却事由があれば例外的に違法性が阻却されるという機能
*責任推定機能-構成要件に該当する行為は原則として有責であり、責任阻却事由があれば例外的に責任が阻却されるという機能
*故意規制機能-故意があるというために認識の対象として必要とする客観的事実を示す機能
== 定義 ==
構成要件の定義は、それが提唱されたものから3つに分類されている。構成要件は、例えば、違法や責任のよう直感によって或る程度の理解が得られるものとは異なり、法典や法および条文との関係から理論的に定義されるものである。
=== 行為類型説 ===
単なる行為の類型とする説である。構成要件の罪刑法定主義機能を重視し、構成要件を没却的記述的なものであるとする。構成要件は違法推定機能も責任推定機能も有さず、構成要件該当性とは別に違法性と有責性を確定する必要がある。この定義はベーリングにより提唱されたものであり、その実体的意義は、法の規定性への着目である。例えば、他人に権利があるものを無断で所持または処分する行為は、民法上は所有権に関して不法行為が、憲法上はプライバシーに関して基本的人権の侵害が、そして、刑法上は窃盗として規定されるが、この理論における構成要件は、ある行為が各法領域のいずれかに規定されたという規定性を示すものであり、行為の性質を明らかにするものである。この理論が行為論の後に説明されるのはこのためである。
=== 違法行為類型説 ===
故意・過失を責任要素であるとの立場から、構成要件を故意・過失を含まない「違法な行為の類型」と定義する見解。[[結果無価値]]論の立場から主張される。この見解においては、構成要件の故意規制機能が重視されており、[[故意]]の対象として構成要件を想定するため、構成要件概念から故意、[[過失]]といった責任要素を除外するのである。この有力説からは、故意または過失により構成要件該当事実を実現することが([[違法性阻却事由]]、[[責任阻却事由]]および[[処罰阻却事由]]が存在しない限り)可罰的な犯罪事実であることになる。故意犯と過失犯が構成要件のレベルでは区別されないから、その限度では構成要件は犯罪個別化機能を有しない。通説が構成要件と呼んでいるものを犯罪類型と呼び、これが犯罪個別化機能を有することとなる。構成要件は、違法推定機能は有するが、責任推定機能は有しないとするのが一般である。
なお、[[行為無価値]]論の立場から、違法行為類型であるが、違法要素としての故意・過失を含むとする説もある。この定義はメツガー等により提唱されたものであり、その実体的意義は、法領域の性質への着目である。例えば、他人に権利があるものを無断で所持または処分する行為は、禁止規範体系の刑罰法規に規定されることで違法性を持ち、ここにおいて、この行為は民法でもなく、憲法でもなく、刑罰法規によって取り扱われるということである。構成要件はこの違法性という法領域の性質により、他の法領域における法律要件と区別される。この理論が行為論の後に説明されることがあるのは、法領域の性質により行為は分別されるからである。
=== 違法有責行為類型説 ===
構成要件を「[[違法性|違法]]かつ[[責任主義|有責]]とされる[[行為]]の類型」であると定義する見解で、責任要素としての故意・過失は構成要件要素に含まれることとなる。この場合、構成要件は犯罪ごとに異なることとなるから、構成要件が犯罪個別化機能を有することとなる。また、一般的には、構成要件には違法推定機能と責任推定機能の双方が認められることになる。この定義は小野清一郎により提唱されたものであり、その実体的意義は、条文構造への着目である。例えば、他人に権利があるものを無断で所持または処分する行為が、どのように規律されるかは条文構造によるのであり、この構造の解釈によって、法の適用が行われる。行為における故意または過失が問題とされるのも体系上の条文構造が前提とされるのであり、解釈が行われる前の枠の意味として条文全体が構成要件とよばれる。
== 構成要件の具体的内容 ==
構成要件の要素は、客観的構成要件要素 ( objektives Tatbestandsmerkmal ) と主観的構成要件要素 ( subjektives Tatbestandsmerkmal ) に分けることができる。違法構成要件と責任構成要件に分ける見解もある。
=== 客観的構成要件要素 ===
* [[行為性]]:行為性を構成要件外の要件とする少数説もある。
* [[行為|実行行為]]:「実行行為」概念については未遂論や共犯論との関係について議論がある。
* [[結果]]:結果を不要とする構成要件もある。
* 行為と結果の[[因果関係 (法学)|因果関係]]:結果を不要とする構成要件においては因果関係も不要である。また、[[詐欺罪]]など、構成要件によっては特定の因果経過に限定されているものもある。
=== 主観的構成要件要素 ===
*[[故意]]または[[過失]]:これを構成要件外の要件とする有力説もある。
*[[主観的超過要素]]:
**[[目的犯]]における目的 - 例・[[通貨偽造罪]]の「行使の目的」
**[[傾向犯]]における主観的傾向 - 例・[[強制わいせつ罪]]の性的衝動を満足させる心理的傾向
**[[表現犯]]における内心的状態 - 例・[[偽証罪]]の主観的な記憶に反するという心理状態
**[[領得罪]]における[[窃盗罪|不法領得の意思]]
**[[背任罪]]における図利加害目的
**[[未遂犯]]における既遂の故意
====犯罪の種類と構成要件要素====
上記のうち、'''実行行為'''と構成要件的故意または構成要件的過失はすべての犯罪について必要であるが、他の要素の要否は犯罪の種類によって異なる。
*'''[[故意犯]]'''では、主観的要素としては、構成要件的故意が必要である。
*'''[[過失犯]]'''では、主観的要素としては、構成要件的過失が必要である。
**(すべての犯罪は故意犯か過失犯かのいずれかにあたる。)
*'''[[結果犯]]'''では、客観的要素としては、実行行為に加えて結果と因果関係が必要である。
**殺人罪(殺人既遂罪)([[b:刑法第199条]])は、故意犯であり結果犯であり、客観的構成要件要素としては、実行行為(例:ナイフを持って人に襲いかかる)、結果の発生(人の死亡)、因果関係(行為と結果の間の因果関係)が必要であり、主観的構成要件要素としては、構成要件的故意(殺人の故意)が必要である。
**過失致傷罪は、過失犯であり結果犯であり、客観的構成要件要素としては、実行行為(例:ナイフが人に刺さる)、結果の発生(人が傷を負う)、因果関係(行為と結果の間の因果関係)が必要であり、主観的構成要件要素としては、構成要件的過失(不注意・注意義務違反)が必要である。
*'''[[挙動犯]]'''では、客観的要素としては、結果や因果関係は不要である。
**例えば、住居侵入罪は結果や因果関係の概念がなく、挙動犯である。ただし、侵入を企てる実行行為が開始されれば未遂罪が成立し、侵入という実行行為が完了すれば既遂罪となる。
**窃盗罪も挙動犯であり、物色行為等で実行行為の着手があり未遂罪となり、他人の財物の占有を取得することで実行行為が完了し既遂罪となる。
**暴行罪は、故意犯であり挙動犯であり、客観的構成要件要素としては、実行行為(暴行行為)が必要であり、主観的構成要件要素としては、構成要件的故意(暴行の故意)が必要である。
**殺人未遂罪は、結果や因果関係は不要であり、挙動犯に類するともいえる。殺人未遂罪は、客観的構成要件要素としては、実行行為(例:ナイフを持って人に襲いかかる)が必要であり、主観的構成要件要素としては、構成要件的故意(殺人の故意)が必要である。(人が死ぬあるいは人が傷つくという結果の発生は不要)
*'''[[身分犯]]'''では、客観的要素として身分が必要である。
**業務上過失致傷罪は、過失犯であり結果犯であり身分犯であり、客観的構成要件要素として身分(業務性)が必要である。
*'''[[目的犯]]'''では、主観的要素として目的が必要である。
**文書偽造罪は、故意犯であり挙動犯であり目的犯であり、主観的構成要件要素として構成要件的故意のほか目的(文書行使の目的)が必要である。
=====結果的加重犯の構成要件要素=====
'''[[結果的加重犯]]'''は、基本犯が実現された後にさらに一定の結果が発生した場合に加重処罰されるものであり、基本犯の要件の他に、一定の'''重い結果'''と'''因果関係'''(結果的加重犯としての重い結果との因果関係)が必要である。ここでいう因果関係は、前述の客観的構成要件要素の一般論で述べた因果関係とはやや異なる概念の因果関係であることに注意を要する。
*傷害罪は、暴行罪の結果的加重犯であり、暴行罪の要件と、さらに客観的構成要件要素として、重い結果(傷害)と、(結果的加重犯としての)因果関係が必要である。(ただし、傷害罪が暴行罪の結果的加重犯であることについては、刑法各論で詳細な議論がなされる)
== 日本法における修正された構成要件 ==
原則形態として[[刑罰法規]]に規定される犯罪類型の基本的構成要件に、他の規定により修正を加えた形で規定される犯罪類型の構成要件を、'''修正された構成要件'''という。
*[[共犯]]([[教唆犯]]・[[幇助犯]]) - 単独犯の修正
*[[未遂犯]](未遂罪) - 既遂犯の修正
*[[予備罪]] - 既遂犯([[実行の着手]]あり)の修正
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[犯罪構成要素]]
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[[Category:ドイツの刑法]]
[[Category:日本の刑法]]
[[Category:行為]]
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|
11,313 |
相沢まさき
|
相沢 まさき(あいざわ まさき、1965年1月19日 - )は、日本の男性声優。北海道出身。大沢事務所所属。旧芸名は相沢 正輝(読み同じ)。
北海道室蘭東高等学校(現:北海道室蘭東翔高等学校)卒業。
1983年、『ディ・ウォッチ』でデビュー。
かつてはぷろだくしょんバオバブ、ベルプロダクションに所属していた。
趣味は読書。
吹き替え出演も多く、イーサイ・モラレス、チョウ・ユンファなどを担当。またPDVD版作品ではクラーク・ゲーブルも担当している。
太字はメインキャラクター。
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相沢 まさきは、日本の男性声優。北海道出身。大沢事務所所属。旧芸名は相沢 正輝(読み同じ)。
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| 公称サイズ出典 = {{Cite book|和書|title=[[日本タレント名鑑|日本タレント名鑑 2012]]|page=3|publisher=株式会社VIPタイムズ社|year=2012|isbn=978-4-904674-03-1}}
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| 身長2 = 174<ref>{{Cite news |url= https://www.excite.co.jp/news/dictionary/person/PE493068ffd36b59679fb3f1f150108b5478da21c8/|title=相沢まさき|newspaper= Excite News |date= |agency=エキサイト株式会社|accessdate= 2022-03-18}}</ref>
| 体重 = 77
| 活動期間 = [[1983年]]{{R|vip-times}} -
| デビュー作 = 『ディ・ウォッチ』{{R|vip-times}}
| 活動 =
}}
'''相沢 まさき'''(あいざわ まさき、[[1965年]]{{R|meikan}}[[1月19日]]{{R|thetv}} - )は、[[日本]]の[[男性]][[声優]]。[[北海道]]出身{{R|thetv}}。[[大沢事務所]]所属{{R|oosawa}}。旧[[芸名]]は'''相沢 正輝'''(読み同じ)。
{{VOICE Notice Hidden|冒頭部分に記載する代表作は、編集合戦誘発の原因となりますので、多数の出典で確認できるものに限ってください。[[プロジェクト:芸能人#記事の書き方]]にてガイドラインが制定されていますので、そちらも参照して下さい。}}
== 略歴 ==
北海道室蘭東高等学校(現:[[北海道室蘭東翔高等学校]])卒業{{R|meikan}}。
[[1983年]]、『ディ・ウォッチ』でデビュー{{R|vip-times}}。
かつては[[ぷろだくしょんバオバブ]]<ref name="baobab">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20120205184334/http://www.pro-baobab.jp/men/aizawa_m/index.html|title=相沢 まさき – ぷろだくしょんバオバブ|accessdate=2021-04-14}}</ref>、[[ベルプロダクション]]<ref name="bellpro">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20150115160352/http://bellpro.jp/aizawa.html|title=相沢 まさき – ベルプロダクション|accessdate=2021-04-14}}</ref>に所属していた。
== 人物 ==
趣味は[[読書]]{{R|baobab}}。
[[吹き替え]]出演も多く、[[イーサイ・モラレス]]、[[チョウ・ユンファ]]などを担当。また[[パブリックドメイン|PDVD]]版作品では[[クラーク・ゲーブル]]も担当している。
== 出演 ==
'''太字'''はメインキャラクター。
=== テレビアニメ ===
{{定義リスト2
| 1985年 |
* [[おねがい!サミアどん]]
| 1992年 |
* [[宇宙の騎士テッカマンブレード]](兵士B)
| 1993年 |
* [[ジャングルの王者ターちゃん♡]](グレック)
* [[しましまとらのしまじろう]]
| 1994年 |
* [[きょうふのキョーちゃん]]([[古舘伊知郎|張出伊知郎]])
* [[サッカーフィーバー]](ブライアン・トンプソン、ラジオアナウンサー)
* [[とっても!ラッキーマン]](スライムマン)
* [[七つの海のティコ]](アントニオ、アーノルド)
* [[覇王大系リューナイト]](傭兵、兵士)
* [[マクロス7]](キャスター)
* [[レッドバロン (アニメ)|レッドバロン]](ノーマン)
| 1995年 |
* [[愛天使伝説ウェディングピーチ]](中年男)
* [[恐竜冒険記ジュラトリッパー]](シーザー)
* [[スレイヤーズ (アニメ)|スレイヤーズ]](男)
| 1996年 |
* [[家なき子レミ]](商人)
* [[快傑ゾロ (アニメ)|快傑ゾロ]](ハンサ、男、ギルル、子分、若者 他)
* [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]](1996年 - 2023年、サーモン紅鮭、あてずっぽう刑事)
* [[神秘の世界エルハザード]](面接官)
* [[逮捕しちゃうぞ (アニメ)|逮捕しちゃうぞ]](杉原刑事)
* [[B'T-X]](ロレッソ)
| 1997年 |
* [[アニメがんばれゴエモン]](魔戯神王マクアムーゲ、出加田刑事、プロデューサー)
* [[中華一番!]](レンの部下)
* [[マッハGoGoGo]](兵士)
* [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](1997年 - 2023年、堀田良二、平澤剛、並木段児、朴之木和雄、陸奥勲雄、内東徹人、佐々木博人、田分晋太郎、水沼郷司、板東勝 他)
| 1998年 |
* [[Weiß kreuz]](鷹取広史)
* [[カウボーイビバップ]](担当官)
* [[銀河漂流バイファム13]](スタッフA)
* [[センチメンタルジャーニー (アニメ)|センチメンタルジャーニー]](テレビ局の男)
* [[デビルマンレディー]](広川の同僚)
| 1999年 |
* [[神風怪盗ジャンヌ]](船長、ストーン大使)
* [[サイボーグクロちゃん]](1号車バス運転手、怪物、艦長)
* [[THE ビッグオー]](査問委員)
* [[それいけ!アンパンマン]](1999年 - 2023年、カップラーメンマン、クロワッサン王〈3代目〉、マイマイパパ〈2代目〉、ネコジャラシ〈2代目〉、町長、カステラ男爵〈3代目〉、そうめん和尚〈3代目〉)
* [[デジモンアドベンチャー]]([[ケンタルモン]])
* [[Bビーダマン爆外伝V]](ナレーション)
* [[モンスターファーム〜円盤石の秘密〜]](アベル、ポリトカ)
| 2000年 |
* [[人形草紙あやつり左近]](橘智則)
* [[金田一少年の事件簿 (アニメ)|金田一少年の事件簿]](水城龍壱〈モト〉、犬神拓郎)
* [[幻想魔伝 最遊記]](蝙蝠男爵)
* [[六門天外モンコレナイト]](ケンタウロス百戦王)
| 2001年 |
* [[X -エックス-]](志勇草薙)
* [[旋風の用心棒]](柳谷)
* [[爆転シュート ベイブレード (アニメ)|爆転シュート ベイブレード]](ダグラス長官)
* [[はじめの一歩]](2001年 - 2013年、'''[[伊達英二]]'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=はじめの一歩|title=キャラクター 伊達英二|url=http://www.ntv.co.jp/ippo/character/date.html|accessdate=2013-09-06}}</ref>) - 3シリーズ
* [[燃えろ!トップストライカー]](アラン)
| 2002年 |
* [[王ドロボウJING]](ギンジョウ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aniplex.co.jp/jing/LIST/index-31.html |title=手配者リスト GINJOU |work=KING OF BANDIT JING |publisher=アニプレックス |accessdate=2017-03-26}}</ref>)
* [[キディ・グレイド]](男、敵ES)
* [[十二国記]]('''延王尚隆'''<ref>{{Cite web|和書| url = http://pierrot.jp/archives/tv_list_2000/tv_059.html| title = 十二国記| publisher = ぴえろ公式サイト| accessdate = 2016-05-16}}</ref>)
* [[ちょびっツ]](大村鉄哉)
* [[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]](テレス)
| 2003年 |
* [[アストロボーイ・鉄腕アトム]](ダン)
* [[E'S OTHERWISE]](技師)
* [[F-ZERO ファルコン伝説]](ビリー)
* [[L/R -Licensed by Royal-]](ビンセント)
* [[キノの旅 -the Beautiful World-]](男A)
* [[コロッケ!]](梅にぎり)
* [[人間交差点]](吉村)
* [[LAST EXILE]](ベン、サニーボーイ、見張り塔員A)
* [[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]](2003年 - 2015年、ワイパー<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Wyper.html |title=ワイパー | キャラクター | アニメ | ONE PIECE.com(ワンピース ドットコム) |accessdate=2018-01-28}}</ref>、イデオ)<!-- 2003-05-04 -->
| 2004年 |
* [[双恋]](千草宣之)
* [[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]]([[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#アオギリ|アオギリ]])
* [[モンキーターン (漫画)|モンキーターン・シリーズ]](実況アナウンサー、江上修二)
* [[RAGNAROK THE ANIMATION]](ミゲル)
| 2005年 |
* [[ゾイドジェネシス]](ラージ・ファミロン)
* [[NARUTO -ナルト- (アニメ)|NARUTO -ナルト-]](ハンザキ)
* [[ブラック・ジャック (テレビアニメ)|ブラック・ジャック]](清田)
* [[雪の女王 (NHKアニメ)|雪の女王]](大臣、村人)
| 2006年 |
* [[いぬかみっ!]](親方)
* [[Gift〜eternal rainbow〜]](天海壮一)
* [[タマ&フレンズ 探せ!魔法のプニプニストーン]](ニャーリン)
* [[DEATH NOTE (アニメ)|DEATH NOTE]](2006年 - 2007年、アメリカ代表、捜査官B、捜査官D、樹多正彦、アンソニー・レスター、ロッド・ロス)
* [[パンプキン・シザーズ]](ホスロウ)
* [[BLACK LAGOON]](ローワン)
| 2007年 |
* [[おおきく振りかぶって]](桐青野球部監督)
* [[銀魂 (アニメ)|銀魂]](落さん〈初代〉)
* [[恋する天使アンジェリーク〜かがやきの明日〜]](前王)
* [[魔法少女リリカルなのはStrikerS]](ゼスト)
* [[流星のロックマン トライブ]](2007年 - 2008年、五里門次郎<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.production-ig.co.jp/xebec/anime/ryusei2/staff.html|title =「流星のロックマン トライブ」スタッフ & キャスト|publisher=[[ジーベック (アニメ制作会社)|XEBEC]]|accessdate=2022-10-11}}</ref>)<!-- 2007-12-01 -->
* [[ロミオ×ジュリエット]](男)
| 2008年 |
* [[ウルトラヴァイオレット コード044]](執行官)
* [[喰霊 -零-]](消防士)
* [[クリスタル ブレイズ]](ブランドン、スワ)
* [[獣神演武 -HERO TALES-]](若き慶狼)
* [[魍魎の匣]](川島新造)
| 2009年 |
* [[地獄少女 三鼎]](及川)
* [[蒼天航路]]([[孫堅]])
* [[東のエデン]](野党議員)
* [[ONE OUTS -ワンナウツ-]](ペドロ・ロドリゴ)
| 2010年 |
* [[それでも町は廻っている]](タイムトラベラー)
* [[BLEACH (アニメ)|BLEACH]](群青)
* [[ポケットモンスター ダイヤモンド&パール]](マスター)
| 2011年 |
* [[逆境無頼カイジ 破戒録篇]](施設長)
* [[GOSICK -ゴシック-]](中年客A)
* [[これはゾンビですか?]](魔装兵器)
* [[NARUTO -ナルト- 疾風伝]](牛鬼)
* [[HUNTER×HUNTER (2011年のアニメ)|HUNTER×HUNTER(第2作)]](2011年 - 2014年、ベンドット、ミズケン<ref>{{Cite web|和書|publisher=HUNTER×HUNTER|url=https://www.ntv.co.jp/hunterhunter/character/other_03.html|title=キャラクター 天空闘技場編|accessdate=2012-04-30}}</ref>、ブシドラ=アンビシャス)
| 2012年 |
* [[イナズマイレブンGO]](男、トウドウ議長) - 2シリーズ
* [[ダンボール戦機W]](アルフェルド・ガーダイン)
| 2013年 |
* [[ポケットモンスター ベストウイッシュ シーズン2 エピソードN]]('''[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#ゲーチス|ゲーチス]]'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=あにてれ「ポケットモンスター ベストウイッシュ シーズン2 エピソードN」|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/pokemon_bw/staff/index.html|title=スタッフ・キャスト|accessdate=2012-12-20}}</ref>)
* [[よんでますよ、アザゼルさん。Z]](貝藤館長)
| 2014年 |
* [[暁のヨナ]](イ・グンテ)
* [[寄生獣 セイの格率]](泉一之<ref>{{Cite web |url=http://www.kiseiju.jp/chara/kazuyuki.html |title=CHARACTER |work=アニメ『寄生獣 セイの格率』公式サイト |accessdate=2014-09-25}}</ref>、サラリーマン「A」)
* [[棺姫のチャイカ]](テオバルト・ゼトラ) - 2シリーズ
| 2015年 |
* [[うしおととら]](安部泰近)
* [[ポケットモンスター XY]](2015年 - 2016年、ケンゾウ) - 2シリーズ
* [[ONE PIECE エピソードオブサボ 〜3兄弟の絆 奇跡の再会と受け継がれる意志〜]](イデオ)
| 2017年 |
* [[鬼平 (アニメ)|鬼平]](沼田甚造)<!-- 2017-02-14 -->
* [[いぬやしき]](刑事)<!-- 2017-12-01 -->
| 2018年 |
* [[BORUTO-ボルト- NARUTO NEXT GENERATIONS]](2018年 - 2019年、牛鬼〈八尾〉)<!-- 2018-04-25 -->
* [[銀河英雄伝説 Die Neue These 邂逅]](シドニー・シトレ<ref>{{cite tweet|user=gineidenanime|number=974933364254887936|date=2018年3月17日 |title=【TOKYO MX放送開始まであと19日】本日の解禁はシドニー・シトレです。演じるのは相沢まさきさん!明日の解禁はドワイト・グリーンヒルです、お楽しみに。}}</ref>)<!-- 2018-05-01 -->
* [[ポケットモンスター サン&ムーン]](2018年 - 2019年、[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#クチナシ|クチナシ]])<!-- 2018-05-03 -->
* [[ONE PIECE エピソードオブ空島]](ワイパー)<!-- 2018-08-25 -->
| 2019年 |
* [[イナズマイレブン オリオンの刻印]](ヴァレンティン・ギリカナン)<!-- 2019-07-12 -->
| 2021年 |
* [[ふしぎ駄菓子屋 銭天堂]](刑事)<!-- 2021-11-30 -->
| 2022年 |
* [[咲う アルスノトリア すんっ!]](アルベリック・グリザール)<!-- 2022-09-07 -->
| 2023年 |
* [[アンデッドガール・マーダーファルス]](ジョン・H・ワトソン<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/523511|title=「アンデッドガール・マーダーファルス」ジョン・H・ワトソン役で相沢まさきが出演|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-05-05|accessdate=2023-05-05}}</ref>)<!-- 2023-08-03 -->
}}
=== 劇場アニメ ===
{{定義リスト2
| 1993年 |
* [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説 新たなる戦いの序曲]](エリクセン)
| 1994年 |
* ライヤンツリーのうた
| 1998年 |
* [[スプリガン (漫画)|SPRIGGAN]](発掘研究隊員A)
| 1999年 |
* [[逮捕しちゃうぞ (アニメ)#劇場版|逮捕しちゃうぞ the MOVIE]](杉原刑事)
| 2001年 |
* [[シャム猫 -ファーストミッション-]](国防官僚)
| 2005年 |
* [[ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-#映画|劇場版ツバサ・クロニクル 鳥カゴの国の姫君]]
* [[それいけ!アンパンマン ハピーの大冒険]](ハピジイ)
| 2007年 |
* [[いぬかみっ!|いぬかみっ! THE MOVIE 特命霊的捜査官・仮名史郎っ!]](親方)
* [[ストレンヂア 無皇刃譚]](月申)
| 2010年 |
* [[劇場版BLEACH 地獄篇]](群青)
| 2017年 |
* [[劇場版 魔法科高校の劣等生 星を呼ぶ少女]](ラルフ・ハーディ・ミルファク<ref>{{Cite web|和書|work=劇場版 魔法科高校の劣等生 星を呼ぶ少女|url=http://mahouka.jp/news/?article_id=43334|title=USNAのSTARSのメンバー3人追加&キャスト決定!|accessdate=2017-04-20}}</ref>)
}}
=== OVA ===
{{定義リスト2
| 1991年 |
* [[恐怖新聞]](中神記者)
| 1992年 |
* [[イース (OVA)|イース 天空の神殿 〜アドル・クリスティンの冒険〜]](若者)
* [[電影少女#OVA|電影少女 -VIDEO GIRL AI-]](男子生徒、従業員)
* [[東京BABYLON|東京BABYLON A SAVE FOR TOKYO CITY STORY]](男)
* [[ねこひきのオルオラネ]](中年男)
* [[バビル2世]](サイキストB)
* [[風魔の小次郎]] 最終章 風魔反乱篇(忍B<ref>{{Cite web|和書| url = http://jcstaff.co.jp/sakuhin/nenpyo/1992/11_FumaKojirou03/FumaKojirou03.htm| title = 風魔の小次郎 最終章 風魔反乱篇| publisher = [[ジェー・シー・スタッフ]] | accessdate = 2023-06-04}}</ref>)
* [[万能文化猫娘]](男A)
* [[ぷりんせすARMY|ぷりんせすARMY ウエディング☆COMBAT]]
* [[マグマ大使]](エイリアン、佐々木、井上)
| 1993年 |
* [[アル・カラルの遺産]](警備兵B)
* [[新造人間キャシャーン|キャシャーン]](報告ロボット)
* [[ブラック・ジャック (OVA)|ブラック・ジャック]](マスター)
* [[横浜ばっくれ隊]]
* [[流星機ガクセイバー]](異星人)
| 1994年 |
* [[I・R・I・A ZEIRAM THE ANIMATION|I・Я・I・A ZЁIЯAM THE ANIMATION]](討伐隊C)
* [[淫魔妖女]](カオス)
* [[宇宙の騎士テッカマンブレードII]](ゴリアテ・バージナル<ref>{{Cite web|和書| accessdate=2022-11-08 | publisher=[[タツノコプロ]] | title=作品データベース 宇宙の騎士テッカマンブレードII |url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/ova_tekkamanbrade2.html}}</ref>)
* [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説]](ラッツェル大佐)
* [[クローズ|高校武闘伝クローズ]]
* 埼玉県暴走最前線 フラッグ! 死にものぐるいの青春!!(川田)
* しばいたろか2(黒井)
* [[湘南純愛組!|湘南純愛組!2]](阿部ひろし)
| 1995年 |
* [[紺碧の艦隊]](1995年 - 2002年、寺島丑三郎〈2代目〉、井上門多、坂元良馬〈2代目〉、吉田稔麿、中野達也、桜木重雄、英軍参謀A、ネロヴィッチ・K・スターリン、クラウス・ヘルトヴィッヒ)
| 1996年 |
* [[機動戦士ガンダム 第08MS小隊]](ジオン兵、オペレーター)
| 1997年 |
* [[旭日の艦隊]](1997年 - 2002年、独先任将校、エーリッヒ・ホス、千葉州作、ヴィルヘルム・ラスク)
* [[ヴァンパイア (ゲーム)|ヴァンパイアハンター The Animated Series]]
* [[B'T-X#OVA|B'T-X NEO]](B'Tロレッソ)
| 1998年 |
* [[青の6号 (アニメ)|青の6号]](対潜哨戒機機長)
* [[MASTERキートン]](検死官、アル・フレア)
| 2000年 |
* [[超人ロック|超人ロック ミラーリング]](バノン)
| 2002年 |
* [[GUNDAM EVOLVE|GUNDAM EVOLVE 4 RX-78 GP03 DENDROBIUM]](ジオン残党MS指揮官)<!-- 2002-03 -->
* [[戦闘妖精・雪風|戦闘妖精雪風]](海図室オペレーター)
| 2011年 |
* [[スーパーナチュラル|SUPERNATURAL: THE ANIMATION]](ロッド署長)
| 2018年 |
* [[幽☆遊☆白書 (テレビアニメ)|幽☆遊☆白書 のるかそるか]](大竹)
}}
=== Webアニメ ===
* [[大工の源さん|いくぜっ! 源さん]](2008年、なにわ大介、トラトラ、虎之助、ボスカブト虫、FBI〈C〉)
=== ゲーム ===
{{定義リスト2
| 1993年 |
* ドラマティック・アドベンチャー・クイズ キース&ルーシィ('''キース''')
| 1995年 |
* [[ブランマーカー2]](ガーランテ)
| 1996年 |
* [[タクティクスオウガ]](ミルディン・ウォルホーン)
| 1998年 |
* [[ソニックウィングス|ソニックウィングス アサルト]](緋炎<ref>{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/19971015044821/http://www.dreamsquare.co.jp/sw2/aslt3.html|title=アサルト 声の出演(ウェブアーカイブによるキャッシュ)| publisher=[[ビデオシステム]]|accessdate=2023-01-07}}</ref>)<!-- 1998-03-19 -->
| 1999年 |
* [[マリア2 受胎告知の謎]](二階堂巌)
| 2000年 |
* [[どこでもいっしょ|こねこもいっしょ]]
* [[ヘキサムーン・ガーディアンズ]](岩馬厳次郎)
| 2001年 |
* [[グローランサーIII]](アルフレッド・バーンズ)
* [[シェンムーII]]
| 2003年 |
* [[アークザラッド 精霊の黄昏]](ヂーク・ベック)
* [[十二国記 -紅蓮の標 黄塵の路-]](延王尚隆)
* [[ONE PIECE グランドバトル! 3]](ワイパー)
| 2004年 |
* [[アークザラッドジェネレーション]](ヂーク・ベック)
| 2005年 |
* [[カウボーイビバップ 追憶の夜曲]](ロナルド・マッカーシー)
* [[ONE PIECE パイレーツカーニバル]](ワイパー)
| 2006年 |
* [[サモンナイト4]](ケンタロウ)
| 2007年 |
* [[スーパーロボット大戦OG ORIGINAL GENERATIONS]]
* [[スーパーロボット大戦OG外伝]]
* [[ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル リング・オブ・フェイト]](コルカ王)
| 2008年 |
* [[カヌチ|カヌチ 白き翼の章]](シン・アトベ)
* [[スーパーロボット大戦Z]]
| 2009年 |
* [[カヌチ|カヌチ 黒き翼の章]](シン・アトベ)
* [[ファイナルファンタジーXIII]](バルトロメイ・エストハイム)
| 2010年 |
* [[カヌチ|カヌチ 二つの翼]](シン・アトベ)
* [[ぱすてるチャイムContinue]](薙原シン)
| 2011年 |
* [[アンチャーテッド 砂漠に眠るアトランティス]]
* [[ONE PIECE ギガントバトル! 2 新世界]](ワイパー)
* [[ワンピーベリーマッチ|ONE PIECE ワンピーベリーマッチW]](ワイパー)
| 2012年 |
* [[イナズマイレブンGO|イナズマイレブンGO2 クロノ・ストーン ネップウ/ライメイ]](トウドウヘイキチ)
| 2013年 |
* [[The Last of Us]](ロバート)
| 2014年 |* [[第3次スーパーロボット大戦Z|第3次スーパーロボット大戦Z 時獄篇 / 天獄篇]](2014年 - 2015年、ネオ・ジオン兵) - 2作品
* [[バイオハザード (ゲーム)#バイオハザード HDリマスター|バイオハザード HDリマスター]](エンリコ・マリーニ)
* はじめの一歩 THE FIGHTING!(伊達英二<ref>{{Cite web|publisher=はじめの一歩 THE FIGHTING!|url=http://ippo.bngames.net/character/character08.html|title=CHARACTER|accessdate=2014-10-02}}</ref>)
| 2015年 |
* [[ワンピース 海賊無双3]](ワイパー)<!-- 2015-03-26 -->
| 2016年 |* [[バイオハザード0#バイオハザード0 HDリマスター|バイオハザード0 HDリマスター]](エンリコ・マリーニ)
* [[人喰いの大鷲トリコ]]
| 2019年 |
* [[ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S]](ラハディオ、セザール、エッケハルト<ref>{{Cite web|和書|work=ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|url=http://www.dq11.jp/s/characters/cast.html|title=キャスト一覧|accessdate=2019-04-02}}</ref>)<!-- 2019-09-27 -->
| 2021年 |
* [[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]](えむの父)<!-- 2021-02-28 -->
* 咲うアルスノトリア(アルベリック・グリザール)<!-- 2021-03-04 -->
* [[はじめの一歩|はじめの一歩 FIGHTING SOULS]](伊達英二<ref>{{Cite web|和書|date=2021-04-15|url=https://webnewtype.com/news/article/1028896/|title=スマホゲーム「はじめの一歩」キャストコメント第2弾到着!直筆サイン色紙が当たるキャンペーンが実施中!|work=WebNewtype|accessdate=2021-04-24}}</ref>)<!-- 2021-04-14 -->
* [[グランブルーファンタジー]](ウシュネ)<!-- 2021-08-29 -->
| 2022年 |
* [[刀剣乱舞無双]]([[明智光秀]])<!-- 2022-02-17 -->
* [[タクティクスオウガ リボーン]](アンドラス・ガフラヌ<ref>{{Cite web2|work=タクティクスオウガリボーン|url=https://mobile.twitter.com/TacticsOgre_PR/status/1585179422566522881|title=キャラクター紹介19|accessdate=2022-10-26}}</ref>)<!-- 2022-11-11 -->
}}
=== ドラマCD ===
* [[暁のヨナ]] 斉国編(イ・グンテ将軍)※[[花とゆめ]]付属
* [[宇宙の騎士テッカマンブレード]](ゴリアテ・バージナル)
* [[サイレントメビウス|サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記]]
* [[十二国記]] 夢三章(延王)
* [[天使禁猟区]](カマエル)
* [[ドラゴン騎士団 (漫画)|ドラゴン騎士団]](使用人)
* [[東京ジュリエット]]
* 東京探偵姫〜残光の剣士・沖田総司([[土方歳三]])
* [[覇王大系リューナイト]](兵隊)
=== BLCD ===
* [[イタズラなKiss]](琴子パパ)
* [[お金がないっ]](吉泉)
* 影の館2(サンダルフォン)
* 恋のためらい愛の罪(マスター)
=== 吹き替え ===
==== 担当俳優 ====
{{定義リスト2
| [[イーサイ・モラレス]] |
* [[感染]]('''マイク''')
* [[クリミナル・マインド FBI行動分析課|クリミナル・マインド9 FBI行動分析課]](マテオ・クルーズ)
* [[クリミナル・マインド 国際捜査班]](マテオ・クルーズ)
* [[ザ・ユニット]]('''フィリップ''')
| [[カイル・チャンドラー]] |
* [[グレイズ・アナトミー 恋の解剖学|グレイズ・アナトミー2 恋の解剖学]] #17(ディラン)
* [[シドニー・ホールの失踪]](刑事)
* [[BLOODLINE ブラッドライン]]('''ジョン・レイバーン''')
| [[クラーク・ゲーブル]] |
* [[或る夜の出来事]]('''ピーター・ウォーン''')※PDDVD版
* [[桑港 (映画)|桑港 サンフランシスコ]]('''ブラッキー・ノートン''')※PDDVD版
* [[戦艦バウンティ号の叛乱]](フレッチャー・クリスチャン副長)※PDDVD版
| [[ジョン・C・ライリー]] |
* [[今宵、フィッツジェラルド劇場で]](レフティ)
* [[シカゴ (2002年の映画)|シカゴ]](エイモス・ハート)
* [[ダーク・ウォーター]](マーレイ)
| [[スティーヴン・カルプ]] |
* [[CSI:科学捜査班|CSI:4 科学捜査班]](メレディス警部補)
* [[スターゲイト アトランティス]](ヘンリー・ウォレス)
* [[ビバリーヒルズ青春白書]](Mr.ドリーゼン)
| [[チョウ・ユンファ]] |
* [[男たちの挽歌]](マーク)※カルチュア・パブリッシャーズ版
* [[男たちの挽歌 II]](ケン)※カルチュア・パブリッシャーズ版
* [[アゲイン/明日への誓い]](マーク)※カルチュア・パブリッシャーズ版
* [[狼 男たちの挽歌・最終章]](ジェフリー)※カルチュア・パブリッシャーズ版
* [[コールド・ウォー 香港警察 堕ちた正義]](オズワルド・カン)
* [[プロジェクト・グーテンベルク 贋札王]](ン・フクサン)
* [[ラスト・シャンハイ]](チェン・ダーチー)
| [[デヴィッド・キース]] |
* [[エア・フォースII]](ウォーカー大統領)
* [[オデッセイ2001]](メイソン・ランド)
* [[ディープ・ショック]](アンディ・レインズ)
| [[ラウ・チンワン]] |
* [[コール・オブ・ヒーローズ/武勇伝]](ヨン・ハックナン)
* [[大魔術師"X"のダブル・トリック]](雷大牛)
* [[レクイエム 最後の銃弾]](ティン)
}}
==== 映画 ====
* [[アイス・プリンセス]]
* [[愛のトリートメント]](トニー〈[[ダニエル・ボールドウィン]]〉)
* [[アウト・オブ・サイト]](ケネス〈[[イザイア・ワシントン]]〉)※ソフト版
* [[悪女 (2004年の映画)|悪女]](ウィリアム・ドビン〈[[リス・エヴァンス]]〉)
* [[悪の法則]](ワイヤーマン〈サム・スプルエル〉)
* [[アサルト13 要塞警察]] ※テレビ朝日版
* [[アドレナリン (映画)|アドレナリン]](リッキー・ヴェローナ〈ホセ・パブロ・カンティーロ〉)
* [[あの頃ペニー・レインと]]
* [[アビス]] ※フジテレビ版
* [[アポロ13]](ディーク・スレイトン〈クリス・エリス〉)※ソフト版
* [[アメリカン・スプレンダー]](フレッド)
* [[アリゲーター/愛と復讐のワニ人間]](チャラワン〈ジェット・パドゥンタム〉)
* [[アルナーチャラム 踊るスーパースター]](アーティケシャヴァン〈ジャイシャンカール〉)
* [[アルマゲドン2010]](デヴィッド・デマッティ〈[[ジョー・ランドー]]〉)
* [[アンチグラビティ]](ヤン〈コンスタンチン・ラヴロネンコ〉)
* [[アンディ・ラウ アルマゲドン]](チウ〈[[アンソニー・ウォン (香港俳優)|アンソニー・ウォン]]〉)
* [[イズント・シー・グレート]](ブラッド・ブラッドバーン〈[[クリストファー・マクドナルド]]〉)
* [[痛み (映画)|痛み]](ボンノ〈[[マ・ドンソク]]〉)
* [[イップ・マン 完結]](ワン・ゾンホア〈[[呉樾 (俳優)|ウー・ユエ]]〉<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gaga.co.jp/dvd_blu_ray/%e3%82%a4%e3%83%83%e3%83%97%e3%83%bb%e3%83%9e%e3%83%b3-%e5%ae%8c%e7%b5%90/|title=イップ・マン 完結|publisher=ギャガ|accessdate=2020-09-01}}</ref>)
* [[インソムニア (2002年の映画)|インソムニア]](ハップ・エッカート〈[[マーティン・ドノヴァン]]〉)※ソフト版
* [[インティマシー/親密]](ヴィクター〈アラステア・ガルブレイス〉)
* [[インモラル女医]](アラン〈[[アンドリュー・スティーヴンス]]〉)
* [[ヴァンパイア・イン・ブルックリン]](アントニー)※VHS版
* [[ウィリアム・テル]]
* [[ウォルター少年と、夏の休日]](スタン〈ニッキー・カット〉)※テレビ東京版
* [[エージェント・スティール]](クランチ〈[[カート・ラッセル]]〉)
* [[エイリアン4]](ディステファノ〈[[レイモンド・クルス]]〉)※ソフト版
* [[エグゼクティブ・デシジョン]](ルーイ〈[[B・D・ウォン]]〉)※ソフト版
* [[エデンより彼方に]](レイモンド・ディーガン〈[[デニス・ヘイスバート]]〉)
* [[エニイ・ギブン・サンデー]](ジャック・ルーニー〈[[デニス・クエイド]]〉)※ソフト版
* [[エンバー 失われた光の物語]](ロリス・ハロー〈[[ティム・ロビンス]]〉)
* [[オーロラの彼方へ]] ※日本テレビ版
* [[追いつめられて]](スコット・プリチャード〈[[ウィル・パットン]]〉)※ソフト版
* [[狼たちの街]](アーサー・レルイ〈[[クリス・ペン]]〉)※ソフト版
* [[おじいちゃんはデブゴン]]([[胡軍|フー・ジュン]])
* [[ガーゴイル (映画)|ガーゴイル]](シェーン〈[[ヴィンセント・ギャロ]]〉)
* [[ガールファイト]](サンドロ・グズマン〈ポール・カルデロン〉)
* [[カンニング・モンキー 天中拳]](風太郎〈[[ディーン・セキ]]〉)※ブロードウェイ版
* {{仮リンク|ガーデン (1998年の映画)|uk|Садівник (фільм, 1998)|label=ガーデン}}(ディーン〈[[リチャード・グリエコ]]〉)
* [[カウボーイ・ウェイ/荒野のヒーローN.Y.へ行く]](ジョン・スタック〈[[ディラン・マクダーモット]]〉)
* [[合衆国壊滅 M10.5]](クラーク・ウィリアムズ〈[[ジョン・シュナイダー]]〉)※DVD版
* [[噛む女 (2008年の映画)|噛む女]](ロジャー〈リチャード・フィッツパトリック〉)
* [[奇蹟の詩 サード・ミラクル]]
* [[奇跡の旅2/サンフランシスコの大冒険]](ラルフ、スパーキー・マイケルズ)
* [[ギャング・オブ・ニューヨーク]] ※ソフト版
* [[キラー・エリート (2011年の映画)|キラー・エリート]](スパイク・ローガン〈[[クライヴ・オーウェン]]〉)
* [[キル・ザ・ギャング 36回の爆破でも死ななかった男]](ダニー・グリーン〈[[レイ・スティーヴンソン]]〉)
* [[キングコブラ]](ブラッド・ケイガン〈スコット・ブランドン〉)
* [[キンダガートン・コップ]] ※テレビ朝日版
* [[グース (映画)|グース]] ※日本テレビ版
* [[クラッシュ (2004年の映画)|クラッシュ]](ダニエル〈[[マイケル・ペーニャ]]〉)
* [[グラマー・エンジェル危機一発]]
* グリーン・ドラゴン(タイ・トラン〈ドン・デュオン〉)
* [[クリミナル・サイト 〜運命の暗殺者〜]](マーチェソン〈トム・バストウンズ〉)
* [[クリムゾン・タイド]](ウィリアム・バーンズ〈[[スティーヴ・ザーン]]〉)※ソフト版
* [[クレージーモンキー 笑拳]](八本足麒麟、棺桶屋〈ディーン・セキ〉)※ブロードウェイ版
* [[グレイテスト・ショーマン]](ハレット〈[[フレドリック・レーン]]〉<ref>{{cite news|url=https://www.fukikaeru.com/?p=9516|title=話題のふきカエ グレイテスト・ショーマン|newspaper=ふきカエル大作戦!!|date=2018-06-19|accessdate=2018-06-20}}</ref>)
* [[クロコダイル・ハンター ザ・ムービー]]([[スティーブ・アーウィン]])
* K-911(デヴォン・ラング〈[[ウェイド・ウィリアムズ]]〉)
* [[ケンタッキー・フライド・ムービー]](フランク)※ソフト版
* [[ゴールデンボーイ (映画)|ゴールデンボーイ]](エドワード・フレンチ〈[[デヴィッド・シュワイマー]]〉)
* [[恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ]](ジャック・ベイカー〈[[ジェフ・ブリッジス]]〉)※DVD・BD版
* [[恋人はゴースト]](ブレット〈ベン・シェンクマン〉)
* [[ゴッド・クローン]](レイ・コノリー神父〈[[リアム・カニンガム]]〉)
* [[コットンクラブ (映画)|コットンクラブ]](ヴィンス・ドワイヤー〈[[ニコラス・ケイジ]]〉)※ソフト版
* [[コン・エクスプレス]](アレックス〈[[ショーン・パトリック・フラナリー]]〉)
* [[コンスタンティン (映画)|コンスタンティン]](パパ・ミッドナイト〈[[ジャイモン・フンスー]]〉)※テレビ朝日版
* [[コンフィデンス (映画)|コンフィデンス]](トラヴィス〈[[モリス・チェストナット]]〉)
* [[サーティーン あの頃欲しかった愛のこと]](ブレイディ〈[[ジェレミー・シスト]]〉)
* [[最後の追跡]](アルベルト〈[[ギル・バーミンガム]]〉)
* [[ザ・シークレット・サービス]] ※ソフト版
* [[ザ・スクリュー]](ヤン・フェアマン〈ニック・ワイルダー〉)
* SURVIVOR/野獣地帯(ダネル)
* [[THE BATMAN-ザ・バットマン-]](アルフレッド・ペニーワース〈[[アンディ・サーキス]]〉<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/465594|title=「THE BATMAN」吹替に櫻井孝宏、ファイルーズあい出演、1分でわかる特別映像も|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-14|accessdate=2022-02-14}}</ref>)<!-- 2022-03-11 -->
* [[THE MYTH/神話]](チェ将軍〈[[チェ・ミンス]]〉)
* [[ザ・メキシカン]](ボビー・ヴィクトリー)※ソフト版
* [[31km (映画)|31km]](ウガルデ)
* サンドラ・ブロック in アマゾン(ヴァルデス)
* [[G.I.ジェーン]](マクール〈モリス・チェストナット〉)※ソフト版
* [[シーズ・オール・ザット]](ディーン・サンプソン〈[[ポール・ウォーカー]]〉)
* [[幸せのセラピー]](サージ・トンプソン〈[[クレイグ・ビアーコ]]〉)
* [[地獄の戦艦]](スケリー)
* [[7人の検事]]
* [[死の接吻 (1995年の映画)|死の接吻]](ロニー・ギャノン〈[[マイケル・ラパポート]]〉)
* [[ジャーヘッド -36時間-]](デイブ・トレース〈[[アマウリー・ノラスコ]]〉)
* [[シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム]](クロード・ラヴァシュ〈[[ティエリー・ヌーヴィック]]〉<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20150315092614/https://kinro.jointv.jp/lineup/141114/| title = シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム| publisher = 金曜ロードSHOW!| accessdate = 2016-06-21}}</ref>)
* シャーロック・ホームズVSモンスター(ワトソン〈[[ギャレス・デヴィッド=ロイド]]〉)
* [[ジャスティス (2002年の映画)|ジャスティス]](リンカーン・A・スコット少尉〈[[テレンス・ハワード]]〉)
* [[ジャッジ・ドレッド]] ※フジテレビ版
* [[ジャッジメント・ナイト]](ジョン・ワイアット〈[[スティーヴン・ドーフ]]〉)
* [[シャッフル (2007年の映画)|シャッフル]](ジム・ハンソン〈[[ジュリアン・マクマホン]]〉)
* [[シャンプー台のむこうに]](ルイス〈[[ヒュー・ボネヴィル]]〉)
* [[重要参考人]](ハリソン〈ブラッド・ハリソン〉)
* [[ジュニア (映画)|ジュニア]]
* [[消滅水域]](ギグリアーニ〈[[アンディ・ガルシア]]〉)
* [[少林寺 (映画)|少林寺]](禿鷹)※ソフト版
* [[少林寺2]](禿鷹)※ソフト版
* [[女優マルキーズ]](グロルネ〈パトリック・ティムシット〉)
* [[ジングル・オール・ザ・ウェイ2]](クロード〈[[サンティーノ・マレラ]]〉)
* [[スーパーエージェント 美女奪還大作戦!!]](イルカ)
* [[スターゲイト (映画)|スターゲイト]] ※フジテレビ版
* [[スティーヴン・キング ファミリー・シークレット]](ボブ〈[[アンソニー・ラパーリア]]〉)
* [[スティグマ 裂け目]](ブレディ〈[[エイドリアン・ポール]]〉)
* [[ステルス・フォース]](チーキ〈チック・ヴェネラ〉)
* [[スパイ・アサシン]](ニコラス・ピンター〈[[ヴァル・キルマー]]〉)
* [[スペース・トラッカー]](ケラー〈[[ジョージ・ウェント]]〉)
* [[スペイン一家監禁事件]]
* [[スペクトル (2016年の映画)|スペクトル]](オーランド大将〈[[ブルース・グリーンウッド]]〉)
* [[世界中がアイ・ラヴ・ユー]](スコット・ダンドリッジ〈[[ルーカス・ハース]]〉、ケン〈[[ビリー・クラダップ]]〉)
* [[鮮血ピエロの惨劇]](トム〈[[トッド・スタシュウィック]]〉)
* [[戦場のレクイエム]](リウ・ゾーシュイ〈フー・ジュン〉)
* [[センター・オブ・ジ・アース (テレビ映画)|センター・オブ・ジ・アース(TVM)]](セルゲイ・ペトコフ)
* [[ソードフィッシュ (映画)|ソードフィッシュ]](マルコ〈[[ヴィニー・ジョーンズ]]〉)※日本テレビ版
* [[ゾディアック (映画)|ゾディアック]]
* [[ダーティコップ 濡れたナイフ]]
* [[第三の男]](ハリー・ライム〈[[オーソン・ウェルズ]]〉)※PDDVD版
* [[ダイ・ハード]](ハインリッヒ)※フジテレビ版
* [[ダイ・ハード2]](マルキー)※フジテレビ版
* [[ダニエル・スティール/状況証拠]](テイラー〈[[ロバート・ヘイズ]]〉)
* [[地上最大のショウ]](ブラッド〈[[チャールトン・ヘストン]]〉)※PDVD版
* [[沈黙のステルス]](ラッチャー大佐〈スティーヴ・トゥーサント〉)
* [[沈黙の脱獄]](アイス・クール〈アンソニー・“トレッチ”・クリス〉)
* [[追跡者 (1998年の映画)|追跡者]](シャン・チェン〈[[マイケル・ポール・チャン]]〉)※テレビ朝日版
* [[冷たい月を抱く女]](デニス・ライリー〈[[ピーター・ギャラガー]]〉)※テレビ東京版
* [[ディス・イズ・ジ・エンド 俺たちハリウッドスターの最凶最期の日]]([[ダニー・マクブライド]])
* [[ディファイアンス]](ズシュ・ビエルスキ〈[[リーヴ・シュレイバー]]〉)
* [[デイブレイク (映画)|デイブレイク]](ディロン・ヨハンセン〈テッド・マッギンレー〉)
* [[テッド (映画)|テッド]](スティーヴ・ベネット〈[[ラルフ・ガーマン]]〉)
* [[デッド・カーム/戦慄の航海]]
* [[デモリションマン]] ※テレビ朝日版
* [[トータル・リアリティ]](チュニス将軍〈[[トーマス・クレッチマン]]〉)
* [[トイ・ソルジャー (1991年の映画)|トイ・ソルジャー]](ヘンリー・“ハング”・ガイルズ3世)※フジテレビ版
* [[トゥームレイダー (映画)|トゥームレイダー]](ヒラリー〈[[クリス・バリー]]〉)※ソフト版
* [[トゥームレイダー2 (映画)|トゥームレイダー2]](ヒラリー〈クリス・バリー〉)※ソフト版
* [[トエンティマン・ブラザーズ]](ターザン〈ドリアン・ヌコノ〉)
* [[ドッグレース]](ビル〈デヴィッド・フィールド〉)
* [[トランザム7000VS激突パトカー軍団]](ジャスティスJr.)※ソフト版
* [[トランザム7000 PART3]](ジャスティスJr.)
* [[ドリヴン]](ボー・ブランデンバーグ〈[[ティル・シュヴァイガー]]〉)※ソフト版
* [[ドリブルX]](ジェロームの父)
* [[ナイトフォール 夜来たる]](メトロン〈ジョセフ・ホッジ〉)
* [[ナイルの宝石]] ※テレビ朝日版
* [[ニューオーリンズ・トライアル]](フランク・ヘレイラ〈[[クリフ・カーティス]]〉)※ソフト版
* [[ニューヨークの恋人]] ※ソフト版
* [[ネバーエンディング・ストーリー3]] ※テレビ朝日版
* [[ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア]](カーチス〈[[ルトガー・ハウアー]]〉)
* [[ノッティングヒルの恋人]](バーニー〈[[ヒュー・ボネヴィル]]〉)※ソフト版
* [[野良犬たちの掟]](レバノン〈[[ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ]]〉)
* [[バースデイ・ガール (映画)|バースデイ・ガール]](アレクセイ〈[[ヴァンサン・カッセル]]〉)
* [[パーティー・ナイトはダンステリア]](ビル・フランクリン〈[[マイケル・ビーン]]〉)
* [[バーティカル・リミット]](カリーム〈[[アレクサンダー・シディグ]]〉)※ソフト版
* [[バイオハザード (映画)|バイオハザード]] ※フジテレビ版
* [[ハイスクール・ジャック 怒りの教室]](ケン・ノールズ〈[[ジャド・ネルソン]]〉)
* [[運び屋 (映画)|運び屋]](主任特別捜査官〈[[ローレンス・フィッシュバーン]]〉<ref>{{cite news|url=https://www.fukikaeru.com/?p=11973|title=運び屋|publisher=ふきカエル大作戦!!|date=2019-06-11|accessdate=2019-06-11}}</ref>)
* [[はじまりは5つ星ホテルから]](アンドレア〈[[ステファノ・アコルシ]]〉)
* [[パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー]](ミッチ・ローマン〈[[フィリップ・シーモア・ホフマン]]〉)
* [[バッド・ガールズ (1994年の映画)|バッド・ガールズ]] ※ソフト版
* [[バッファロー'66]](ビリー・ブラウン〈ヴィンセント・ギャロ〉)
* [[バレンタイン (映画)|バレンタイン]]
* [[PTU]](ロウ・サァ刑事〈[[林雪|ラム・シュー]]〉)
* [[ヒート (1995年の映画)|ヒート]](アルバート・トレナ)※テレビ朝日版
* [[ビバリーヒルズ・コップ]](ジョン・タガート〈[[ジョン・アシュトン]]〉)※Netflix版
* [[ビバリーヒルズ・コップ2]](ジョン・タガート〈ジョン・アシュトン〉)※Netflix版
* [[ファイアートラップ]](マックス〈[[ディーン・ケイン]]〉)
* [[ファイナル・ウォー]](ミュラン将軍〈ディーン・ケイン〉)
* [[ファム・ファタール (映画)|ファム・ファタール]](セラ警部)※ソフト版
* [[風雲 ストームライダーズ]](蝙蝠〈ディオン・ラム〉)
* [[風暴 ファイヤー・ストーム]](ツァオ〈フー・ジュン〉)
* [[フェア・ゲーム (2010年の映画)|フェア・ゲーム]](ルイス・“スクーター”・リビー〈デヴィッド・アンドリュース〉)
* [[フェイク (映画)|フェイク]](ニッキー・サントラ〈[[ブルーノ・カービー]]〉)※ポニーキャニオン版
* [[フェイク シティ ある男のルール]](ダンテ・デミル〈[[ジョン・コーベット]]〉)
* [[プッシャー (1996年の映画)|プッシャー]](フランク〈[[キム・ボドゥニア]]〉)
* [[プテラノドン]](ベルゲン大尉〈[[クーリオ]]〉)
* [[ブラザーフッド 殺人結社]](トム〈[[ウィリアム・ボールドウィン]]〉)
* [[ブラストシティ 連鎖爆破]](マクスウェル〈ソニー・スロウィエック〉)
* [[ブラック・ドッグ (映画)|ブラック・ドッグ]](アール〈[[ランディ・トラヴィス]]〉)※ソフト版
* [[フラッド (映画)|フラッド]](ハンク〈[[ウェイン・デュヴァル]]〉)※ソフト版
* [[プラトーン]](ビッグ・ハロルド〈[[フォレスト・ウィテカー]]〉)※ソフト版
* [[ブルー・エンカウンター]](バ・ケイワイ〈[[ロイ・チョン]]〉)
* ブルート(ブルート〈ティル・シュヴァイガー〉)
* [[プレデター2]] ※テレビ朝日版
* [[プレデターX]](ダグ・マッコイ〈スティーブ・ヒドゥン〉)
* [[プロテクター (映画)|プロテクター]](ボブ・カントレル)※ソフト版
* [[ボーイズ・ライフ (映画)|ボーイズ・ライフ]](ロイ〈[[クリス・クーパー]]〉)
* [[ボーン・アイデンティティー]](イーモン〈ティム・ダットン〉)※ソフト版
* [[暴走特急]](ボビー・ザックス〈モリス・チェストナット〉)※ソフト版
* [[ぼくとアールと彼女のさよなら]](グレッグの父親〈[[ニック・オファーマン]]〉)
* [[ぼくとボビーの大逆転]](ジョン・グレイ〈トーマス・ロッキャー〉)
* [[ボディ・バンク]](フランク・ヘアFBI捜査官〈[[デヴィッド・モース]]〉)
* [[ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター]](ブルーノ・ゲルッシ)
* [[ボルケーノ]](ゲイター・ハリス〈[[マイケル・リスポリ]]〉)※ソフト版
* [[香港国際警察/NEW POLICE STORY]](シウホンの父〈[[伍佰|ウー・バイ]]〉)
* [[マイティ・ソー/ダーク・ワールド]](マレキス〈[[クリストファー・エクルストン]]〉)
* [[マックス・ペイン (映画)|マックス・ペイン]](ジム・ブラヴーラ〈[[リュダクリス]]〉)
* [[マレフィク 呪われた監獄]](マルキュス〈[[クロヴィス・コルニアック]]〉)
* [[ミステリー、アラスカ]]
* [[ミステリー・メン]](キャプテン・アメージング / ランス・ハント〈[[グレッグ・キニア]]〉)
* [[ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち (映画)|ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち]](グリーソン)
* [[ミッションX]](トム〈[[サム・ロバーズ]]〉)
* [[ミニミニ大作戦 (2003年の映画)|ミニミニ大作戦]](レンチ〈[[フランキー・G]]〉)
* [[ムトゥ 踊るマハラジャ]](ラージャー〈サラット・バーブ〉<ref>{{Cite web|和書|publisher=|work=PONY CANYON NEWS|url=https://news.ponycanyon.co.jp/?p=29165|title=前人未踏の大ヒットを記録した伝説のインド映画が、奇跡の再誕!『ムトゥ 踊るマハラジャ ≪4K&5.1chデジタルリマスター版≫』Blu-ray&DVD発売決定!|accessdate=2019-01-21}}</ref>)
* [[メギド (映画)|メギド]](デイビッド・アレクサンダー〈マイケル・ビーン〉)
* [[メトロポリス2035]](マクダウェル〈マックスウェル・コールフィールド〉)
* [[メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬]](ベルモント〈[[ドワイト・ヨアカム]]〉)
* [[野獣教師]](ジョーイ・シックス〈レイモンド・クルス〉)※VHS版
* [[勇気あるもの]](ジャマール・モンゴメリー〈[[カディーム・ハーディソン]]〉)
* [[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]](スタンリー・コワルスキー〈[[マーロン・ブランド]]〉)※PDDVD版
* [[楽園をください]](ブラック・ジョン〈[[ジム・カヴィーゼル]]〉)
* [[ラッシュアワー2]](歌う男)
* [[ラブ・パンチ]](リチャード〈[[ピアース・ブロスナン]]〉)
* [[リーサル・ウェポン]](警官、TVの声)※テレビ朝日版
* [[理由 (1995年の映画)|理由]](ボビー・アール〈[[ブレア・アンダーウッド]]〉)※ソフト版
* [[レジョネア 戦場の狼たち]](ジュロ)※ソフト版
* [[REC:レック/ザ・クアランティン]](スコット・パーシヴァル〈[[スティーヴ・ハリス (俳優)|スティーヴ・ハリス]]〉)
* [[レッド・スコルピオン]] ※日本テレビ版
* レッド・ブラスト(クレイトン・ピアース〈[[ウィリアム・マクナマラ]]〉)
* [[レマゲン鉄橋]](ハートマン中尉〈[[ジョージ・シーガル (俳優)|ジョージ・シーガル]]〉)※テレビ東京新緑版
* [[ローズ家の戦争]] ※フジテレビ版
* [[ロード・レノックスと秘密の城]](スミス〈ダニエル・アレクサンダー〉)
* [[ローマン・エンパイア]](アントニウス)
* [[ローラーボール (2002年の映画)|ローラーボール]](オレグチ・デネキン〈[[オレッグ・タクタロフ]]〉)※ソフト版
* [[名誉と栄光のためでなく (映画)|ロスト・コマンド 名誉と栄光のためでなく]](マヒディ〈ジョージ・シーガル〉)※ソフト版
* [[ロスト・フューチャー]](アマル〈[[ショーン・ビーン]]〉)
* [[ロボコップ]](ウォーレン・リード巡査部長〈[[ロバート・ドクィ]]〉、ドナルド・ジョンソン、ケイシー・ウォン)※DVD版
* [[ロボコップ2]](ウォーレン・リード巡査部長〈ロバート・ドクィ〉、ドナルド・ジョンソン、ケイシー・ウォン)※旧DVD版
* [[ロマンスX]](パオロ〈[[ロッコ・シフレディ]]〉)
* [[ワイルド・アット・ハート]](セイラー〈ニコラス・ケイジ〉)
* [[ワイルド・エンジェル (2002年の映画)|ワイルド・エンジェル]](グロスマン〈フィリップ・ペータース〉)※ソフト版
* [[ワイルド・クライムズ]](ジョニー〈[[ロン・リビングストン]]〉)
* [[ワイルド・スピード MEGA MAX]](ヴィンス〈[[マット・シュルツ]]〉)※劇場公開版
* [[罠の女2]](マーク〈マイルズ・オブライエン〉)
* [[101 (映画)|101]] ※ソフト版
* ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地覇王(グアン・シンタオ副大臣〈ワン・チーウェン〉)
* [[ワンダーランド (2003年の映画)|ワンダーランド]](ジョン・ホームズ〈ヴァル・キルマー〉)
* [[ワンダーランド駅で]](ショーン〈フィリップ・シーモア・ホフマン〉)
==== ドラマ ====
* [[アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件]](ロバート・カーダシアン〈デヴィッド・シュワイマー〉)
* [[アンダーカバー・ボス 社長潜入調査|アンダーカバー・ボス4 社長潜入調査]](ロン・リンチ)
* [[アンフォゲッタブル 完全記憶捜査|アンフォゲッタブル3 完全記憶捜査]](マルコ・ランティーニ〈クレイグ・ビアーコ〉)
* [[イカゲーム]](チャン・ドクス〈[[ホ・ソンテ]]〉)
* [[ウルトラマンパワード]](ピート)
* [[X-ファイル]](トム・コルトンFBI捜査官〈[[ドナル・ローグ]]〉)※ソフト版
* [[NYPDブルー]](ジョン・ケリー刑事〈[[デヴィッド・カルーソ]]〉)
* [[L.A.大捜査線 マーシャル・ロー]](ルイス・マローン〈[[ルイス・マンディロア]]〉)
* [[L.A.ロー 七人の弁護士]]
* [[エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY|エレメンタリー2 ホームズ&ワトソン in NY]](ハンク・プリンス)
* エレメンタリー4 ホームズ&ワトソン in NY(ウォーレン・クリフト)
* [[キャシアン・アンドー (テレビドラマ)|キャシアン・アンドー]](キノ・ロイ〈[[アンディ・サーキス]]〉)
* [[キャロライン in N.Y.]](デル・キャシディー〈エリック・ルテス〉)
* [[グッド・ドクター 名医の条件]] シーズン2
* [[クリミナル・マインド FBI行動分析課]]
** シーズン1 #16(ジョン・ブラックウルフ)
** シーズン3 #4(ネリス)
** シーズン4 #12(ウィリアム)
** シーズン5 #19(ボイド)
** シーズン6 #23(ジャレット・フォアマン刑事)
** シーズン7 #2(マット・ブラッドストン〈[[デヴィッド・スターズィック]]〉)
** シーズン8(マイク・アクリン〈ジョッシュ・スタンバーグ〉)
* クロウ ウィッチクロウ(エリック〈[[マーク・ダカスコス]]〉)
* [[クワンティコ/FBIアカデミーの真実]](グレン・ワイアット)
* [[刑事ナッシュ・ブリッジス]](シェイン・ウェスト〈[[アリミ・バラード]]〉)
* [[ゴースト 〜天国からのささやき]] シーズン3(ウィリアム・テイラー〈マイケル・レイリー・バーク〉)
* [[コーリー ホワイトハウスでチョー大変!]](大統領)
* [[コールドケース 迷宮事件簿|コールドケース6]](チャック・ピアース〈[[グレッグ・エヴィガン]]〉)
* コールドケース7 ザ・ファイナル(トゥトゥ、ロイ・W・ダン〈[[ベイリー・チェイス]]〉)
* [[項羽と劉邦 King's War]](趙歇〈スー・マオ〉)
* [[孔子 (テレビドラマ)|孔子]](熊伯)
* [[荒野の七人]](エズラ・スタンディッシュ〈[[アンソニー・スターク]]〉)
* [[コバート・アフェア|コバート・アフェア/CIA諜報員アニー]](エイアル・ラヴィン〈[[オデッド・フェール]]〉)
* [[コンバット!]](カーター衛生兵〈コンラン・カーター〉)※ノーカット新吹替版
* [[ザ・プラクティス ボストン弁護士ファイル]](ジェリー・グリーン〈[[ティム・ディケイ]]〉)
* [[ザ・プリテンダー 仮面の逃亡者]](オープニングナレーター)
* [[三国志演義 (テレビドラマ)|三国志]](程咨)NHK-BS2版
* [[CIA:ザ・エージェンシー]](トム・ゲージ〈[[ボー・ブリッジス]]〉)
* [[CSI:科学捜査班|CSI:3 科学捜査班]](タイラー・リード)
* [[CSI:マイアミ|CSI:マイアミ2]](メイソン・ショー〈[[ドン・マイケル・ポール]]〉)
* CSI:マイアミ3(レイモンド・ケイン〈[[ディーン・ウィンタース]]〉)
* [[CSI:ニューヨーク|CSI:ニューヨーク5]](クリストス・テマス刑事〈ルイス・マンディロア〉)
* CSI:ニューヨーク7(アルディコット教授)
* [[CSI:サイバー|CSI:サイバー2]](ジュリアン・パーキンズ〈[[ロブ・エステス]]〉)
* [[シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ]](アメリカ合衆国大統領〈ジョン・ディアキーノ〉)
* [[シカゴ・ホープ]](ウィルクス〈[[ロッキー・キャロル]]〉)
* [[ジュビリー 〜ボリウッドの光と影〜]]('''ロイ''')
* [[新アウターリミッツ]](タリ〈[[ヒロ・カナガワ]]〉)
* [[新スーパーマン]](マックス・ディーター、ティム・レイク〈[[ジョナサン・フレイクス]]〉)
* [[新スタートレック]](分子生物学者〈[[ツィ・マー]]〉)
* [[神鵰侠侶 (2006年のテレビドラマ)|神鵰侠侶]](公孫止)
* [[SUPERGIRL/スーパーガール]](ノーン〈[[クリス・ヴァンス]]〉)
* [[スターゲイト SG-1]](クロノス〈ロン・ヘイルダー〉、ニック・マーロゥ〈[[マイケル・デルイーズ]]〉)
* [[STALKER : ストーカー犯罪特捜班]](ジャック・ラーセン〈ディラン・マクダーモット〉)
* ゾウズ・フー・キル3 殺意の深層(ソーレンセン)
* [[ハリーズ・ロー 裏通り法律事務所|続ハリーズ・ロー 裏通り法律事務所]](オリヴァー・リチャード〈[[マーク・バレー]]〉)※2代目
* [[ターザンの大冒険]](ナレーター)
* [[CHUCK/チャック]] ファイナルシーズン #8(キリアン・ライカー〈ティム・ディケイ〉)
* [[超感覚刑事ザ・センチネル]](デイブ・ベッカー〈[[マイケル・マグレイディ]]〉)
* [[フラッシュ (DCコミックス)#超音速ヒーロー ザ・フラッシュ|超音速ヒーロー ザ・フラッシュ]] ※日本テレビ版
* [[超能力ファミリー サンダーマン]] シーズン2(ミスター・イービルマン〈[[エリック・アラン・クレイマー]]〉)
* [[テイルズ・バイ・ライト:光の紡ぐ物語]](スティーヴン・デュポン)
* [[トータル・リコール・ザ・シリーズ|トータル・リコール Zero]](エアレンサル〈マイケル・ローリンズ〉)
* [[24 -TWENTY FOUR-]] シーズン6(アブ・ファイエド〈[[アドニ・マロピス]]〉)
* [[トレイター/TRAITOR 国を売った男]](ヨハン・ウェイツェンベルク〈マルゴ・ミット〉<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wowow.co.jp/detail/175322|title=トレイター/TRAITOR 国を売った男|website=WOWOW|accessdate=2023-02-25}}</ref>)
* [[ナイトシフト 真夜中の救命医|ナイトシフト4 真夜中の救命医 ザ・ファイナル]]
* [[9-1-1: LA救命最前線]](ロバート・“ボビー”・ナッシュ〈[[ピーター・クラウス]]〉)
* [[ネイキッド・ブラザーズ・バンド]](マイケル・ウォルフ)
* [[ノンストップ・スリラー「暴走地区-ZOO-」]](デイヴィス将軍〈[[ピーター・アウターブリッジ]]〉)
* [[バーン・ノーティス 元スパイの逆襲]]
* [[ハッピーエンディング]](キム・ドゥス〈チェ・ミンス〉)
* [[マイティ・モーフィン・パワーレンジャー|パワーレンジャー]](スニザード、ミュータイタス、ツインマン)
* [[バンド・オブ・ブラザーズ]](ジョン・マーティン〈[[デクスター・フレッチャー]]〉)
* [[ピケット・フェンス]](ケニー・ラコス〈[[コスタス・マンディロア]]〉)
* [[ビバリーヒルズ高校白書]](ダン・ルービン〈マシュー・ポレッタ〉)
* ビバリーヒルズ青春白書(ダン・ルービン〈マシュー・ポレッタ〉)
* [[ファーゴ (テレビドラマ)|FARGO/ファーゴ2]](ロナルド・レーガン〈[[ブルース・キャンベル]]〉)
* [[ダーマ&グレッグ|ふたりは最高!ダーマ&グレッグ]] シーズン3 #11(ジェイ)
* [[プライベート・プラクティス 迷えるオトナたち]](サム・ベネット〈[[テイ・ディグス]]〉)
* [[ブラザーズ&シスターズ]] シーズン4(サイモン・クレイン博士〈[[ジョン・テニー]]〉)
* [[フランク、アイルランドのダメ男。]](パドレイグ〈パット・ショート〉<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.star-ch.jp/drama/frankofireland/sid=1/p=c/|title=キャスト&スタッフ|publisher=[[スター・チャンネル]]|work=フランク、アイルランドのダメ男。|accessdate=2023-06-28}}</ref>)
* [[ブル〜ウォール街への挑戦〜]](コリー〈[[マリク・ヨバ]]〉)
* [[ベイツ・モーテル (テレビドラマ)|ベイツ・モーテル〜サイコキラーの衝動〜]](ケイレブ・カルフーン〈[[ケネス・ジョンソン (俳優)|ケニー・ジョンソン]]〉)
* [[ペニー・ドレッドフル 〜ナイトメア 血塗られた秘密〜]](ラスク〈ダグラス・ホッジ〉)
* [[ボードウォーク・エンパイア 欲望の街]]
* [[ボディ・オブ・プルーフ 死体の証言|ボディ・オブ・プルーフ3 死体の証言]](トミー・サリヴァン刑事〈マーク・バレー〉)
* [[ホワイトカラー (テレビドラマ)|ホワイトカラー]](ギャレット・ファウラー〈[[ノア・エメリッヒ]]〉)
* ホワイトカラー シーズン5(セルゲイ・ツルゲーネフ〈マイク・ドプド〉)
* [[マーダーズ・イン・ビルディング]](ジョナサン)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaeru.com/?p=18914|title=マーダーズ・イン・ビルディング -日本語吹き替え版|website=ふきカエル大作戦!!|date=2022-09-14|accessdate=2022-09-16}}</ref>
* [[マインドハンター (テレビドラマ)|マインドハンター]](ビル・テンチ〈[[ホルト・マッキャラニー]]〉)
* [[ミディアム 霊能者アリソン・デュボア|ミディアム7 最終章]](チャプマン医師〈マシュー・アーキン〉)
* [[メルローズ・プレイス]]
* [[メンタリスト (テレビドラマ)|THE MENTALIST メンタリストの捜査ファイル]](キース・ウォルコット〈サッシャ・ロイズ〉)
* THE MENTALIST メンタリストの捜査ファイル5(カーティス・ウィリー〈[[マイケル・グラディス]]〉)
* [[リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線]] #3(マルコム・セナ〈マイケル・ジェイス〉)
* [[ロードナンバーワン]](ユン・サムス〈チェ・ミンス〉)
* [[ワンダヴィジョン]](ヘイワード)<!-- 2021-01-29 -->
==== アニメ ====
* [[おまかせ!プルーデンスおばさん]](ニュートロン)
* [[マーベル・シネマティック・ユニバース]]([[トニー・スターク]] / [[アイアンマン]])
** アルティメット・アベンジャーズ
** アルティメット・アベンジャーズ2:ブラック・パンサー・ライジング
** [[アイアンマン: 鋼の戦士]]
** [[ネクスト・アベンジャーズ: 未来のヒーローたち]]
** 超人ハルク: サカールの預言
* [[くまのパディントン]]
* [[子猫になった少年]](マーク)
* [[スパイダーマン (アニメ)|スパイダーマン]]([[パニッシャー|フランク・キャッスル / パニッシャー]])
* [[タッドの大冒険〜失われたミダス王の秘宝〜]](ジャック・ラッカム)
* [[ティーン・タイタンズ (アニメ)|ティーン・タイタンズ]](メント)
* [[ドラゴンズドグマ]](宿屋の主人)<!-- 2020-09-17 -->
* [[トランスフォーマー ザ・リバース]]([[ウルトラマグナス]])
* [[トランスフォーマー アドベンチャー|トランスフォーマー アドベンチャー -マイクロンの章-]](オーバーロード)
* [[ドン・キホーテ (アニメ)|ドン・キホーテ]](キリスト教徒)
* [[バイオハザード: ヴェンデッタ]](ダミアン)
* [[バッグス・バニー・ショー|バッグス・バニーのぶっちぎりステージ]]
* [[バットマン (アニメ)|バットマン]]
* [[ヒックとドラゴン 聖地への冒険]](ホーク<ref>{{Cite web|和書|work=ふきカエル大作戦!!|url=https://www.fukikaeru.com/?p=12884|title=ヒックとドラゴン 聖地への冒険|date=2019-11-28|accessdate=2019-11-28}}</ref>)
* [[マジック・スクール・バス]](ジャンケット)
=== 特撮 ===
* [[超星艦隊セイザーX]](2005年、ナレーション(初代))
* [[宇宙戦隊キュウレンジャー ]](2017年、審判インダの声)
=== ナレーション ===
* ALIVE 奇跡の生還者たち(DVD)
* [[FNNスーパータイム]](フジテレビ)
* キサラギ(視覚障害者対応音声ガイド・DVD)
* ひと・ものがたり(JCNテレビ)
* ファイブ センス(BSフジ)
* [[ブレイブ 勇敢なる者]](NHK総合)
=== ボイスオーバー ===
* Dr.MITSUYA〜世界初のエイズ治療薬を発見した男〜(2015年、NHK)
* [[BS世界のドキュメンタリー]](NHK-BS1)
=== その他コンテンツ ===
* [[あすたむらんど徳島]]プラネタリウム ALMA 〜とどけたい未来の君へ〜(教授、ナレーション)
* [[キサラギ]](視覚障害者対応音声ガイド役。本編DVDに収録)
* [[トイ・ストーリー]] 20周年スペシャル:無限の彼方へ さぁ行くぞ!([[トム・ハンクス]])
* 二夜連続ドラマスペシャル アガサ・クリスティ [[そして誰もいなくなった#各国のテレビドラマ|そして誰もいなくなった]](レコードに録音された声)
* Biohazard 4D-Executer(クラウス)
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* {{Official|1=https://osawa-inc.co.jp/men/aizawamasaki/|name=相沢 まさき – 大沢事務所}}
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[[Category:日本の男性声優]]
[[Category:過去のぷろだくしょんバオバブ所属者]]
[[Category:過去のベルプロダクション所属者]]
[[Category:大沢事務所]]
[[Category:北海道出身の人物]]
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