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会津若松駅
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会津若松駅(あいづわかまつえき)は、福島県会津若松市駅前町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。
会津盆地の南東部に位置する、会津地方の中心都市・会津若松市の代表駅であり、開業時の同市市街地の北端に設置された。
当駅には磐越西線と只見線が乗り入れており、このうち磐越西線を所属線としている。また、磐越西線はJR貨物の第二種鉄道事業区間でもあり、当駅はJR貨物の貨物駅でもあるが、現在は後述のようにオフレールステーションに移行している。
磐越西線においては途中駅であるが、当駅から北東と北西へ線路が走っておりスイッチバック構造をしている。そのため磐越西線は当駅で系統分離されている。南方向に只見線が分岐し、同線西若松駅を起終点とする第3セクターの会津鉄道会津線の列車も只見線経由で当駅まで乗り入れている。
2002年、「歴史と文化、そして伝統が息づく街の玄関口の駅舎」として、東北の駅百選に選定された。
計3面5線のホームを有する地上駅。1番線は単式ホーム1面1線西若松方を行き止まりにし、留置線を挟み2・3番線島式ホーム1面2線と接続し頭端式ホーム化した形状になっており、連絡通路による平面移動が可能になっている。4・5番線は島式ホーム1面2線。その他、ホームのない留置線がある。跨線橋は1番線、2・3番線、4・5番線の各ホームを連絡しており、1番線と2・3番線にはエレベーターが、4・5番線には車椅子専用のリフト(駅員に依頼して利用することができる)が設置されている。
夜間滞泊が設定されている。
直営駅(駅長・管理助役・助役配置)であり、管理駅として、磐越西線の上戸駅 - 喜多方駅間、只見線の七日町駅 - 只見駅間の各駅を管理している。
みどりの窓口、指定席券売機が設置されている。駅舎中央に改札があり、入り口向かって左に土産物店やKIOSK、立ち食いそば「立ちあおい」、NEWDAYSがあり、駅弁も販売されている。また、改札と入り口左の売店の間には待合所が、改札口の手前にはVIEW ALTTE(改札外)がある。Suica対応自動改札機設置。
駅構内の広田/堂島方の本線西側に、下路式転車台と扇形庫が配置されている。磐越西線や只見線で使用するキハE120形の車両基地としての役割の他、両路線でのSL運行時にも使用されている。
* 参考資料:土屋武之「磐越西線会津若松駅」『鉄道ジャーナル』第45巻第2号、2011年2月。
磐越西線はこの駅でスイッチバックする構造となっており、郡山方面・新津方面とも北側から入線する。そのため、両方向とも只見線に向かって線路が続く配線となっている。郡山方面・新津方面の磐越西線はそれぞれ独立しているため、同時発車・並走運転も可能であり、SL列車同士による同時発車・並走運転のイベントも度々行われる。
ちなみに2014年の自動改札機供用開始以前は、有人改札で、改札付近に「あかべぇ」と485系のデザインがかかれていた。
会津若松オフレールステーション(略称:会津若松ORS)は、JR貨物会津若松駅に属し、駅東側にあるコンテナ集配基地である。コンテナ貨物(12フィートコンテナのみ)を取り扱っており、貨物列車代替のトラック便が郡山貨物ターミナル駅との間で1日2往復運行されている。
会津若松駅は、1996年より貨物列車の発着がない自動車代行駅になり、その後、2006年より一部がオフレールステーションとなっている。
1・2番線の行き止まりにはかつてNTT東日本福島支店のビデオカメラが設置されていた。当駅1・2番線から郡山・喜多方方面の現在の状況をほぼリアルタイムで確認することができたが、このサービスは2017年3月31日で終了している。
主な駅弁は下記の通り。
JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は1,964人である。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
「福島県統計年鑑」によると、2020年度(令和2年度)の発送貨物は11,500 tである。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
会津若松市役所、中心商店街の神明通りなどの市街地、鶴ヶ城などからは若干離れており、そちらは只見線七日町駅が最寄り駅となる。当駅と七日町駅、西若松駅が会津若松市街を囲みこむような形となっている。
近年、当駅付近にはビジネスホテル、大手居酒屋が相次いで進出している。
2020年6月12日には、会津若松市が円滑な交通環境実現やまちなか活性化を目指す五つの基本方針に基づき歩行者広場、交通広場、民間利活用用地に三区分して整備することを市議会建設委員会協議会で発表した。その上で、2020年度にJR東日本とJR貨物との整備に向けた基本協定締結を目指す、としている。
当駅発着の一般路線バスは会津乗合自動車と広田タクシー「エコろん号」が運行している。原則として、会津若松市街地各方面のバスは駅前広場から、それ以外のバス(高速含む)は駅前バスターミナルからの発車となる。
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"text": "会津若松オフレールステーション(略称:会津若松ORS)は、JR貨物会津若松駅に属し、駅東側にあるコンテナ集配基地である。コンテナ貨物(12フィートコンテナのみ)を取り扱っており、貨物列車代替のトラック便が郡山貨物ターミナル駅との間で1日2往復運行されている。",
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"text": "1・2番線の行き止まりにはかつてNTT東日本福島支店のビデオカメラが設置されていた。当駅1・2番線から郡山・喜多方方面の現在の状況をほぼリアルタイムで確認することができたが、このサービスは2017年3月31日で終了している。",
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"text": "2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。",
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"text": "会津若松市役所、中心商店街の神明通りなどの市街地、鶴ヶ城などからは若干離れており、そちらは只見線七日町駅が最寄り駅となる。当駅と七日町駅、西若松駅が会津若松市街を囲みこむような形となっている。",
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"text": "近年、当駅付近にはビジネスホテル、大手居酒屋が相次いで進出している。",
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"title": "駅周辺"
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会津若松駅(あいづわかまつえき)は、福島県会津若松市駅前町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。
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{{駅情報
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|駅名 = 会津若松駅
|画像 = JR East Aizu-Wakamatsu Station building.jpg
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|画像説明 = 駅舎(2022年9月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|37|30|29.18|N|139|55|48.86|E}}}}
|よみがな = あいづわかまつ
|ローマ字 = Aizu-Wakamatsu
|電報略号 = ワカ
|所属事業者= {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
* [[日本貨物鉄道]](JR貨物){{Refnest|group="*"|[[貨物列車]]の発着はなし。[[オフレールステーション]]を併設。}}
}}
|所在地 = [[福島県]][[会津若松市]][[駅前町 (会津若松市)|駅前町]]1-1<ref name="zeneki50-24">[[#zeneki50|全駅50号]]、p.24。</ref>
|座標 = {{Coord|37|30|29.18|N|139|55|48.86|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日= [[1899年]]([[明治]]32年)[[7月15日]]<ref name="eki"/>
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|所属路線1 = {{Color|#cb7b35|■}}[[磐越西線]]
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|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
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}}
'''会津若松駅'''(あいづわかまつえき)は、[[福島県]][[会津若松市]][[駅前町 (会津若松市)|駅前町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="eki">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=18 |title=JR東日本:各駅情報(会津若松駅) |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2014-10-23}}</ref><ref group="注釈">ただし、JR貨物の駅はオフレールステーションとなっている。</ref>。
== 概要 ==
[[会津盆地]]の南東部に位置する、[[会津]]地方の中心都市・会津若松市の代表駅であり、開業時の同市市街地の北端に設置された<ref>[http://www.nta.go.jp/ntc/sozei/tokubetsu/h16shiryoukan/02.htm 2.宅地地価修正の実施]([[国税庁]]) … 1910年(明治43年)頃の地図あり。</ref><ref>[http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2426.html 最新若松市地圖 : 大正改訂版]([[国際日本文化研究センター]]) … 1925年(大正14年)の地図あり。</ref>。
当駅には[[磐越西線]]と[[只見線]]が乗り入れており、このうち磐越西線を[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としている<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=516}}</ref>。また、磐越西線はJR貨物の[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業]]区間でもあり、当駅はJR貨物の貨物駅でもあるが、現在は[[#会津若松オフレールステーション|後述]]のようにオフレールステーションに移行している。
磐越西線においては途中駅であるが、当駅から北東と北西へ線路が走っており[[スイッチバック]]構造をしている。そのため磐越西線は当駅で系統分離されている。南方向に[[只見線]]が分岐し、同線[[西若松駅]]を起終点とする第3セクターの[[会津鉄道]][[会津鉄道会津線|会津線]]の列車も只見線経由で当駅まで乗り入れている<ref name="zeneki50-12">[[会津若松駅#zeneki50|全駅50号]]、p.12。</ref>。
[[2002年]]、「歴史と文化、そして伝統が息づく街の玄関口の駅舎」として、[[東北の駅百選]]に選定された。
== 歴史 ==
[[ファイル:Aizu-Wakamatsu Station in Taisho era.JPG|thumb|[[大正]]期の会津若松駅]]
* [[1899年]]([[明治]]32年)[[7月15日]]:[[岩越鉄道]]の'''若松駅'''として開業。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]で、当時は[[終着駅]]<ref name="zeneki50-13">[[#zeneki50|全駅50号]]、p.13。</ref>。
* [[1904年]](明治37年)[[1月20日]]:岩越鉄道線が[[喜多方駅]]まで開通<ref name="zeneki50-13"/>。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:岩越鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]<ref name="zeneki50-13"/>。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[鉄道路線の名称|線路名称]]制定、磐越西線所属駅となる<ref>[[#sone06|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号]]、14頁</ref>。
* [[1917年]]([[大正]]6年)[[5月21日]]:'''会津若松駅'''に改称<ref name="zeneki50-13"/>。
* [[1926年]](大正15年)[[10月15日]]:会津線(現在の只見線)が[[会津坂下駅]]まで開通<ref name="zeneki50-13"/>。
* [[1961年]]([[昭和]]36年):駅舎改築<ref group="新聞">{{Cite news |title=会津若松駅が駅構内改装 今月オープンセレモニー |newspaper=[[読売新聞]] |publisher=[[読売新聞東京本社]] |date=2004-03-03 |page=29 }}</ref>。
* [[1965年]](昭和40年)[[10月1日]]:みどりの窓口設置。
* [[1967年]](昭和42年)[[6月1日]]:会津若松運輸長を配置。
* [[1972年]](昭和47年)10月1日:会津若松駅旅行センター開設<ref group="新聞">{{Cite news |title=仙鉄の営業近代化計画 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-07-15 |page=1 }}</ref><ref group="新聞" name="交通1972-0830">{{Cite news |title=三線の営業体制近代化実施 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-08-30 |page=1 }}</ref>([[日本旅行]]と提携)。[[自動券売機]]を設置{{R|交通1972-0830|group="新聞"}}。
* [[1986年]](昭和61年)11月1日:[[チッキ|荷物]]の取扱を廃止{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、JR東日本・JR貨物の駅となる<ref name="zeneki50-13"/>。
* [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月16日]]:[[貨物列車]]の設定が廃止、自動車代行駅となる{{R|停車場}}。
* [[2001年]](平成13年)4月:[[若松城|鶴ヶ城]]の修復に合わせて、駅舎を城郭風に改装<ref name="zeneki50-13"/>。
* [[2002年]](平成14年)[[10月11日]]:[[発車メロディ]]に「AIZU その名の情熱」を使用開始。
* [[2004年]](平成16年)[[3月26日]]:駅舎改装<ref group="新聞">{{Cite news |title=会津若松駅リニューアル |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2004-03-31 |page=3 }}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=JR会津若松駅、43年ぶりに一新 |newspaper=[[読売新聞]] |publisher=[[読売新聞東京本社]] |date=2004-03-31 |page=33 }}</ref>。
* [[2005年]](平成17年):駅弁調製業者が[[ウェルネス伯養軒|伯養軒]]会津若松営業所の撤退に伴い、[[仁和食産]]に変更。
* [[2006年]](平成18年)4月1日:会津若松オフレールステーション開設。
* [[2008年]](平成20年)[[2月1日]]:駅弁調製業者が仁和食産から、[[ウェルネス伯養軒]]郡山支店に変更。
* [[2011年]](平成23年)[[3月11日]]:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により扇形庫が被災し使用不可となる。同時に転車台の見学も不可となる。
* [[2014年]](平成26年)[[4月1日]]:自動改札機運用開始、同時にICカード「[[Suica]]」が仙台エリアとして利用開始となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf|title=Suica の一部サービスをご利用いただける駅が増えます|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013-11-29|accessdate=2020-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200704060805/http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf|archivedate=2020-07-04}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年):[[転車台]]は「磐越西線鉄道施設群」の一部として、[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.general-museum.fks.ed.jp/02_moyoshi/09_other_kouza/20161210_2.pdf |title=平成28年度 土木学会選奨土木遺産 認定 磐越西線鉄道施設群 |access-date=2022年6月9日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180302164239/http://www.general-museum.fks.ed.jp/02_moyoshi/09_other_kouza/20161210_2.pdf |deadlinkdate=2022/06/09 |archive-date=2 Mar 2018 |publisher=[[福島県立博物館]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=土木学会 平成28年度選奨土木遺産 磐越西線鉄道施設群 |url=http://www.jsce.or.jp/contents/isan/files/2016_03.shtml |website=www.jsce.or.jp |access-date=2022-06-09}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[6月1日]]:会津坂下駅の管理業務を引き継ぎ、会津高田駅 - 只見駅間の各駅が当駅管理下となる。
** [[9月1日]]:[[大湊駅]]と姉妹駅協定を締結<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1567131233_1.pdf|title=大湊駅と会津若松駅の姉妹駅締結について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2019-08-30|accessdate=2020-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200730130823/https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1567131233_1.pdf|archivedate=2020-07-30}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20190902-410861.php|title=会津若松と大湊が「姉妹駅」締結 斗南藩が縁、交流人口拡大へ|newspaper=福島民友新聞|date=2019-09-02|accessdate=2019-09-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190904180301/https://www.minyu-net.com/news/news/FM20190902-410861.php|archivedate=2019-09-04|deadlinkdate=2020-07-30}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)10月1日:地区駅業務を郡山駅に移管し、会津若松地区センターを廃止。会津若松地区から郡山地区所属駅となり、郡山地区センター会津若松派出(現・郡山統括センター エリア管理会津若松在勤)を設置。
* [[2021年]](令和3年)[[3月31日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.v-travels.co.jp/mt/press_20201102.pdf|title=びゅうプラザ(高崎駅・八戸駅・一ノ関駅・会津若松駅)の閉店について|format=PDF|publisher=びゅうトラベルサービス|date=2020-11-02|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113133901/http://www.v-travels.co.jp/mt/press_20201102.pdf|archivedate=2020-11-13}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[6月1日]]:会津若松運輸区と融合し、あいづ統括センター発足。会津若松駅長はあいづ統括センター所長が兼務となる。
== 駅構造 ==
計3面5線の[[プラットホーム|ホーム]]を有する[[地上駅]]<ref name="zeneki50-24"/>。1番線は単式ホーム1面1線西若松方を行き止まりにし、留置線を挟み2・3番線島式ホーム1面2線と接続し頭端式ホーム化した形状になっており、連絡通路による平面移動が可能になっている。4・5番線は島式ホーム1面2線。その他、ホームのない[[車両基地#電留線・留置線|留置線]]がある。[[跨線橋]]は1番線、2・3番線、4・5番線の各ホームを連絡しており、1番線と2・3番線にはエレベーターが、4・5番線には車椅子専用のリフト(駅員に依頼して利用することができる)が設置されている。
[[夜間滞泊]]が設定されている。
[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]・管理[[助役 (鉄道)|助役]]・助役配置)であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として、磐越西線の[[上戸駅 (福島県)|上戸駅]] - [[喜多方駅]]間、只見線の[[七日町駅]] - [[只見駅]]間の各駅を管理している。
[[みどりの窓口]]、[[指定席券売機]]が設置されている。駅舎中央に改札があり、入り口向かって左に土産物店や[[キヨスク|KIOSK]]、[[立ち食いそば]]「立ちあおい」、[[NEWDAYS]]があり、[[駅弁]]も販売されている。また、改札と入り口左の売店の間には[[待合所]]が、改札口の手前には[[VIEW ALTTE]](改札外)がある。Suica対応[[自動改札機]]設置。
駅構内の広田/堂島方の本線西側に、下路式[[転車台]]と[[扇形庫]]が配置されている。磐越西線や只見線で使用する[[JR東日本キハE120形気動車|キハE120形]]の車両基地としての役割の他、両路線での[[蒸気機関車|SL]]運行時にも使用されている。
=== のりば ===
<!--方面表記は、会津鉄道線以外はJR東日本の駅の情報の「時刻表」の記載に準拠-->
<!--磐越西線のラインカラーは全区間で茶色である。-->
{| class="wikitable" rules="rows"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1
| rowspan="2" |{{color|#cb7b35|■}}磐越西線
|style="text-align:center"|上り
|[[郡山駅 (福島県)|郡山]]方面<ref name="timetable/list0018">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0018.html|title=時刻表 会津若松駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-13}}</ref>
|一部2・3番線
|-
!2・3
|style="text-align:center"|下り
|[[喜多方駅|喜多方]]・[[新津駅|新津]]方面<ref name="timetable/list0018" />
|
|-
!4
| {{color|#008dd1|■}}只見線
|style="text-align:center"|-
|[[会津川口駅|会津川口]]・[[只見駅|只見]]方面<ref name="timetable/list0018" />
|一部3番線
|-
!5
|{{Color|#ff9900|■}}会津鉄道線
|style="text-align:center"|-
|[[会津田島駅|会津田島]]・[[会津高原尾瀬口駅|会津高原尾瀬口]]方面
|一部4番線
|}
* 快速AIZUマウントエクスプレス1・4号は4番線発着
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JR East Aizu-Wakamatsu Station Gate.jpg|改札口(2022年9月)
JR East Aizu-Wakamatsu Station Ticket Counter.jpg|切符売り場(2022年9月)
JR East Aizu-Wakamatsu Station Platform 1.jpg|1番線ホーム(2022年9月)
JR East Aizu-Wakamatsu Station Platform 2・3.jpg|2・3番線ホーム(2022年9月)
JR East Aizu-Wakamatsu Station Platform 4・5.jpg|4・5番線ホーム(2022年9月)
JR East Aizu-Wakamatsu Station Car Stop.jpg|1・2番線ホームに設置されている車止め(2022年9月)
</gallery>
=== 構内配線・信号設備等 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!郡山方面着発!!新津方面着発!!会津川口方面着発
|-
|style="text-align:center"|下本||style="text-align:center"|1||style="text-align:right"|8両|||到着・出発可|||到着・出発可|||不可
|-
|style="text-align:center"|中||style="text-align:center"| ||style="text-align:right"|ホームなし|||到着・出発可|||到着・出発可|||不可
|-
|style="text-align:center"|上本||style="text-align:center"|2||style="text-align:right"|8両|||到着・出発可|||到着・出発可|||不可
|-
|style="text-align:center"|上1||style="text-align:center"|3||style="text-align:right"|6両|||到着・出発可|||到着・出発可|||到着・出発可
|-
|style="text-align:center"|只見||style="text-align:center"|4||style="text-align:right"|5両|||到着・出発可|||到着・出発可|||到着・出発可
|-
|style="text-align:center"|会津||style="text-align:center"|5||style="text-align:right"|3両|||不可|||不可|||到着・出発可
|-
|style="text-align:center"|上2||style="text-align:center"| ||style="text-align:right"|ホームなし||colspan=3|不明
|}
{{Smaller|* 参考資料:{{Cite journal |和書 |author=土屋武之 |title=磐越西線会津若松駅 |date=2011-02 |journal=鉄道ジャーナル |volume=45 |number=2}}}}
磐越西線はこの駅で[[スイッチバック]]する構造となっており、郡山方面・新津方面とも北側から入線する。そのため、両方向とも只見線に向かって線路が続く配線となっている。郡山方面・新津方面の磐越西線はそれぞれ独立しているため、同時発車・並走運転も可能であり、SL列車同士による同時発車・並走運転のイベントも度々行われる。
ちなみに[[2014年]]の[[自動改札機]]供用開始以前は、[[有人改札]]で、改札付近に「[[あかべぇ]]」と[[国鉄485系電車|485系]]のデザインがかかれていた。
== 会津若松オフレールステーション ==
[[ファイル:AizuORS&Sta.JPG|thumb|会津若松ORSと会津若松駅(2013年11月)]]
'''会津若松[[オフレールステーション]]'''(略称:会津若松ORS)は、JR貨物会津若松駅に属し、駅東側にある[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]集配基地である。コンテナ貨物(12[[フィート]]コンテナのみ)を取り扱っており、[[貨物列車]]代替の[[貨物自動車|トラック便]]が[[郡山貨物ターミナル駅]]との間で1日2往復運行されている。
会津若松駅は、[[1996年]]より貨物列車の発着がない自動車代行駅になり、その後、[[2006年]]より一部がオフレールステーションとなっている。
{{clear}}
== ライブカメラ ==
[[ファイル:AizuWakamatsu Camera.jpg|thumb|駅構内設置のライブカメラ(写真中央、2007年2月)]]
1・2番線の行き止まりにはかつて[[東日本電信電話|NTT東日本]]福島支店の[[カムコーダ|ビデオカメラ]]が設置されていた<ref>[https://www.ntt-east.co.jp/fukushima/mado/detail/jr_aizu.html ふくしまの窓から JR会津若松駅]</ref>。当駅1・2番線から郡山・喜多方方面の現在の状況をほぼリアルタイムで確認することができたが、このサービスは2017年3月31日で終了している<ref>[http://www.ntt-east.co.jp/fukushima/mado/ 「ふくしまの窓から」コンテンツ終了のお知らせ]</ref>。
== 駅弁 ==
主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=615}}</ref>。
* 小原庄助べんとう
* 会津を紡ぐわっぱめし
== 利用状況 ==
=== 旅客 ===
JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は'''1,964人'''である<ref group="旅客" name="passenger/2022_04" />。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="3"|乗車人員推移
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|2000年(平成12年)
|style="text-align:right;"|3,595
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|style="text-align:right;"|3,446
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|style="text-align:right;"|3,209
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|style="text-align:right;"|3,065
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|style="text-align:right;"|2,996
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|style="text-align:right;"|2,996
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|style="text-align:right;"|2,971
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|style="text-align:right;"|3,025
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|style="text-align:right;"|2,975
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|style="text-align:right;"|2,905
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|style="text-align:right;"|2,766
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|style="text-align:right;"|2,636
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|style="text-align:right;"|2,837
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_04.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|style="text-align:right;"|2,908
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_04.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|style="text-align:right;"|2,688
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_04.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|style="text-align:right;"|2,781
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_04.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|style="text-align:right;"|2,721
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_04.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|style="text-align:right;"|2,669
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_04.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-09}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|style="text-align:right;"|2,581
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_04.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-21}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|style="text-align:right;"|2,434
|<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_04.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-13}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|style="text-align:right;"|1,747
|<ref group="旅客" name="passenger/2020_04">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_04.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-25}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|style="text-align:right;"|1,774
|<ref group="旅客" name="passenger/2021_04">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_04.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-10}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|style="text-align:right;"|1,964
|<ref group="旅客" name="passenger/2022_04">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_04.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-12}}</ref>
|}
=== 貨物 ===
「福島県統計年鑑」によると、2020年度(令和2年度)の発送貨物は11,500 tである<ref group="貨物" name="fukushima-nenkan136" />。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="3"|貨物輸送推移
|-
!年度
!発送<br />(単位:t)
!出典
|-
|2000年(平成12年)
|style="text-align:right;"|27,927
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/19897.xls|title=97 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23525.html 第116回 福島県統計年鑑]|date=2002-11|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|style="text-align:right;"|26,763
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/20130.xls|title=97 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23526.html 第117回 福島県統計年鑑]|date=2003-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|style="text-align:right;"|25,659
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/20362.xls|title=97 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23527.html 第118回 福島県統計年鑑]|date=2004-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|style="text-align:right;"|19,634
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/20594.xls|title=95 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23528.html 第119回 福島県統計年鑑]|date=2005-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|style="text-align:right;"|21,946
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/20826.xls|title=95 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23529.html 第120回 福島県統計年鑑]|date=2006-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|style="text-align:right;"|29,850
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/21057.xls|title=95 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23530.html 第121回 福島県統計年鑑]|date=2007-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|style="text-align:right;"|30,879
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/21311.xls|title=98 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23531.html 第122回 福島県統計年鑑]|date=2008-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|style="text-align:right;"|35,688
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/21566.xls|title=98 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23532.html 第123回 福島県統計年鑑]|date=2009-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|style="text-align:right;"|33,145
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/21818.xls|title=96 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23533.html 第124回 福島県統計年鑑]|date=2010-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|style="text-align:right;"|28,404
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/22555.xls|title=95 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/28066.html 第125回 福島県統計年鑑]|date=2011-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|style="text-align:right;"|27,198
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/23496.xls|title=96 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/35366.html 第126回 福島県統計年鑑]|date=2012-03|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|style="text-align:right;"|14,303
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/19664.xls|title=96 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/23511.html 第127回 福島県統計年鑑]|date=2013-04|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|style="text-align:right;"|16,262
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/63656.xls|title=96 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/nenkan128.html 第128回 福島県統計年鑑]|date=2018-02-02|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|style="text-align:right;"|15,523
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/104840.xls|title=97 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/nenkan129.html 第129回 福島県統計年鑑]|date=2015-04-10|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|style="text-align:right;"|19,655
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/161504.xls|title=97 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/nenkan130.html 第130回 福島県統計年鑑]|date=2016-04-22|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|style="text-align:right;"|7,534
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/213603.xls|title=97 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/nenkan131.html 第131回 福島県統計年鑑]|date=2017-04-27|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
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|-
|2017年(平成29年)
|style="text-align:right;"|10,136
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|2018年(平成30年)
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|-
|2019年(令和元年)
|style="text-align:right;"|10,164
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|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|style="text-align:right;"|11,500
|<ref group="貨物" name="fukushima-nenkan136">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/519682.xls|title=97 鉄道輸送状況|format=Excel|publisher=福島県|work=[https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/nenkan136.html 第136回 福島県統計年鑑]|date=2022-06-30|accessdate=2023-05-30}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
会津若松市役所、中心[[商店街]]の[[神明通り]]などの市街地、[[若松城|鶴ヶ城]]などからは若干離れており、そちらは只見線[[七日町駅]]が最寄り駅となる。当駅と七日町駅、西若松駅が会津若松市街を囲みこむような形となっている。
近年、当駅付近には[[ビジネスホテル]]、大手[[居酒屋]]が相次いで進出している。
2020年6月12日には、会津若松市が円滑な交通環境実現やまちなか活性化を目指す五つの基本方針に基づき歩行者広場、交通広場、民間利活用用地に三区分して整備することを市議会建設委員会協議会で発表した。その上で、2020年度にJR東日本とJR貨物との整備に向けた基本協定締結を目指す、としている<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://minpo.jp/news/moredetail/2020061376292|title=市、基本構想まとめる JR会津若松駅の周辺整備|newspaper=福島民報|date=2020-06-13|accessdate=2020-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200730125456/https://minpo.jp/news/moredetail/2020061376292|archivedate=2020-07-30}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20200613-507029.php|title=若松駅前「道路と広場」一体整備 にぎわい創出へ混雑緩和など|newspaper=福島民友新聞|date=2020-06-1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200625045919/https://www.minyu-net.com/news/news/FM20200613-507029.php|archivedate=2020-06-25|accessdate=2021-12-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2020071600037/|title=会津若松駅前都市基盤整備事業について|publisher=会津若松市|date=2021-08-27|accessdate=2021-12-10}}</ref>。
{{columns-list|2|
; 事業所
* 会津若松[[消防署]]
* 若松駅前[[郵便局]]
* 会津若松警察署駅前交番
* [[三菱マテリアル]]若松製作所
; 教育機関
* [[会津大学]]
* [[会津大学短期大学部]]
* 会津若松市立第一中学校
* 会津若松市立城北小学校
* [[会津北嶺高等学校]]
* [[福島県立会津学鳳中学校・高等学校]]
; 金融機関
* [[会津信用金庫]]駅前支店
* [[福島銀行]]会津支店
; 商業施設
* [[リオン・ドール]]駅前店
* [[ダイユーエイト]]会津若松店
* [[岩瀬書店]]会津若松店
* 会津若松駅[[食品館ピボット]]
; 観光施設
* [[飯盛山 (福島県)|飯盛山]]<ref name="zeneki50-13"/>(約2 km)
* [[若松城|鶴ヶ城]](約3 km)
* 日帰り温泉富士の湯
; 宿泊施設
* 駅前フジグランドホテル
* [[ホテルアルファーワン]]会津若松
* 会津若松[[ワシントンホテル (藤田観光)|ワシントンホテル]]
; 道路
* [[野口英世青春通り]]<ref name="zeneki50-13"/>
* [[神明通り]]
* [[白虎通り]]
|}}
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Aizuwakamatsu Castle 03.jpg|鶴ヶ城(若松城)
Iimoriyama 1.jpg|飯盛山
</gallery>
=== かつて存在した施設 ===
; 商業施設
* [[会津サティ]]([[マイカル]]、現:[[イオンリテール]])
*: 建物の老朽化や売上減少などを理由に2009年6月30日閉店。現在は、建物は解体され、一時的に駐車場になっている。
*: サティの運営会社であったマイカル(現・イオンリテール)や地権者なども協力し、サティ周辺を含めた再開発の構想があったが、協議が難航したため2012年2月に結論が出ないまま協議会が解散となったが、協議は今後も継続するとしている。<ref group="新聞">「若松駅前再開発協が解散へ 協議は今後も継続」『福島民報』([[福島民報社]]) 2012年1月28日。</ref>
* [[ヨークベニマル]]駅前店
*: かつての地場スーパー「マルトミ」の店舗だった。現在は解体され、[[ホテルアルファーワン]]会津若松となっている。
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
当駅発着の一般路線バスは[[会津乗合自動車]]と広田タクシー「エコろん号」が運行している。原則として、会津若松市街地各方面のバスは駅前広場から、それ以外のバス(高速含む)は駅前バスターミナルからの発車となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aizubus.com/rosen/busstop|title=のりば案内|publisher=会津乗合自動車|accessdate=2017-05-07}}</ref>。
;駅前広場<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2007081000453/|title=河東地域コミュニティバス『みなづる号』トップページ|publisher=会津若松市|accessdate=2014-12-06}}</ref>
* '''1番のりば''' : [[会津中央病院|中央病院]]・居合団地線、千石・神明線、広田タクシー「エコろん号」
* '''2番のりば''' : 松長団地・西若松駅線、金堀線
* '''3番のりば''' : 米代二丁目行、西若松駅行、高速バス降車場
* '''4番のりば''' : [[まちなか周遊バス]]「ハイカラさん」「あかべぇ」
* '''公園側のりば''' :裏磐梯直通バス(五色沼入口行)※特定日のみ運行、星野リゾート・アルツ磐梯線 ※スキーシーズンのみ運行
;駅前バスターミナル
* '''路線バスのりば''':芦ノ牧温泉、高田・永井野、本郷、笈川、北会津支所、新鶴温泉、[[会津坂下町|坂下]]、[[塩川町|塩川]]・[[喜多方市|喜多方]]、広田駅・島、原・高坂
* '''高速バスのりば'''
** [[夢街道会津号]](喜多方・会津若松 - 東京・新宿線)
*** 昼行便:[[バスタ新宿|バスタ新宿(新宿駅)]]、[[東京駅のバス乗り場|東京駅]]
*** 夜行便:[[東京ディズニーランド]]行
** [[会津若松 - 郡山 - いわき線]]([[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]、[[いわき駅]]・上荒川・[[スパリゾートハワイアンズ|ハワイアンズ]]・[[小名浜]]行き)
** [[福島 - 会津若松線|会津若松 - 福島 - 仙台空港線]]([[福島駅 (福島県)|福島駅東口]]・福島競馬場・[[仙台空港]]行き)
** [[仙台 - 会津若松線|会津若松 - 仙台線]]([[仙台駅|仙台駅東口]]行き)
*** 宮城球場でプロ野球の試合開催日に部の便が[[宮城球場]]まで運行
** [[会津若松 - 新潟線]]([[新潟駅]]・[[万代シテイバスセンター]]・[[新潟空港]]<ref>新潟空港行きは3往復運行</ref> 行き)
** [[会津若松 - 新潟線|会津若松 - 野沢線]]([[野沢駅|野沢駅前]]行き)
* 会津若松駅前富士の湯: [[広田タクシー]]<ref group="注釈" name="ekimae-hiroba-1">会津若松市の公開している市内路線バス時刻表においては、駅前広場1番のりばは広田タクシー運行のまちなか循環バス「エコろん号」が使用すると記載されている。しかし広田タクシーの時刻表には近隣の「富士の湯」発着であると記載されている。{{Cite web|和書|url=http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2007081000569/files/ekimae_busnoriba.pdf |title=駅前バスのりばのご案内 |format=PDF |publisher=会津若松市地域公共交通会議 |accessdate=2017-05-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2007081000569/files/ekoron.pdf|title=路線バス時刻表|format=PDF|publisher=会津若松市地域公共交通会議|accessdate=2014-12-06}}</ref>
** まちなか循環バス「エコろん号」
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
AIZUBUS.JPG|駅前広場
Aizu_bus_Wakamatsu-bus-terminal.jpg|駅前バスターミナル
</gallery>
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{Color|#cb7b35|■}}磐越西線
:*臨時快速「[[SLばんえつ物語]]」発着駅
:*会津鉄道直通運転臨時快速(下りは「[[AIZUマウントエクスプレス]]1号」)停車駅
:: {{Color|red|□}}快速「[[あいづ]]」
::: [[磐梯町駅]] - '''会津若松駅'''
:: {{Color|red|□}}快速
::: 磐梯町駅 - (一部[[広田駅]]) - '''会津若松駅'''
:: {{Color|gray|■}}普通
::: 広田駅 - '''会津若松駅''' - *[[堂島駅]] - [[塩川駅]]
::: *:堂島駅・[[笈川駅]]は一部列車のみ停車
: {{color|#008dd1|■}}只見線
::: '''会津若松駅''' - [[七日町駅]]
; 会津鉄道
: {{color|#ff9900|■}}会津線(当駅 - 西若松駅はJR只見線)
:: {{color|#ff0000|□}}快速「AIZUマウントエクスプレス」・{{color|#ff0000|□}}快速「リレー号」・{{color|#999999|■}}普通(「リレー号」含む)
::: '''会津若松駅''' - 七日町駅
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|3}}
==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"}}
==== 新聞記事 ====
{{Reflist|group="新聞"|2}}
=== 利用状況 ===
==== 旅客 ====
{{Reflist|group="旅客"|3}}
==== 貨物 ====
{{Reflist|group="貨物"|3}}
== 参考文献 ==
* 交通新聞社「[http://www.toretabi.jp/history/vol16/01.html 鉄道遺産をたずねて]」2011年3月27日
* {{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =50号 郡山駅・会津若松駅・三春駅ほか |date =2013-8-4 |ref =zeneki50 }}
* {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=6 |title=磐越東線・只見線・磐越東線 |date=2009-08-16 |ref=sone06 }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=18|name=会津若松}}
* [http://www.ntt-east.co.jp/fukushima/mado/index.html NTT東日本 福島支店 ふくしまの窓から](JR会津若松駅など、福島県内各地の映像をリアルタイムで見ることができた。)
* [https://web.archive.org/web/20130406235055/http://www.ntt-east.co.jp/fukushima/mado/detail/jr_aizu.html NTT東日本 ふくしまの窓から「JR会津若松駅」会津若松駅構内 ホーム1,2番線のライブカメラ]
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[[Category:会津若松市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|いつわかまつ]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本貨物鉄道の鉄道駅]]
[[Category:オフレールステーション]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:岩越鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1899年開業の鉄道駅]]
[[Category:磐越西線]]
[[Category:土木学会選奨土木遺産]]
|
2003-07-15T08:24:21Z
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府中本町駅
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府中本町駅(ふちゅうほんまちえき)は、東京都府中市本町一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
南武線と武蔵野線の2路線が乗り入れており、このうち南武線を当駅の所属線としている。武蔵野線の定期旅客列車は当駅が起点となっている。当駅より鶴見側は貨物線(通称「武蔵野南線」)となっている。駅番号は南武線がJN 20、武蔵野線がJM 35。
鎌倉へ至る鎌倉街道のルート上で経済的にも重要拠点に位置し、中世には当地が「本町」と呼ばれていた。富士山まで見渡せる景勝地でもあることから府中御殿が建築され、その後も本町として発展してきた地であり、それらが当駅名の由来ともなっている(以前は駅前に説明の碑が設置されていたが、現在は本町一丁目公会堂の敷地内に移設されている)。
3面4線のホームを有する地上駅である。南武線は相対式ホーム2面2線で、のりばの番号は1・4番線である。武蔵野線の線路を潜るため、1番線ホーム(川崎方面)のみ他のホームと高さがずれている。
武蔵野線部分は島式ホーム1面2線を有する地上駅。南武線の相対式ホームの間に武蔵野線のホームが挟まれる形になっており、のりばの番号は2・3番線である。さらに1番線と2番線、3番線と4番線の間にそれぞれ武蔵野貨物線があり当駅を通過する。武蔵野線は貨物バイパス線目的で敷設された事情があり、南武線と武蔵野線間を乗り換える利用客はコンコースに出てからホーム間を移動することになる。
コンコースの改札向かい側(南側)に巨大な臨時改札口が設置されており、東京競馬場での競馬開催時(主に土日、パークウインズ含む)のみ営業するが、同競馬場で花火大会などの大きなイベントが行われる時は、その時間帯に合わせて臨時改札口を営業する。
立川営業統括センター管内の直営駅(駅長配置)で、話せる指定席券売機が設置されている。
お忘れ物承り所及び一部車両点検はJR東日本ステーションサービスが受託運営している。
駅カラーは南武線ホーム(1番線)が黒、武蔵野線ホームが水色。
南武線⇔武蔵野線間の旅客列車直通運転を考慮しない構造であるため、以下のような特徴がある。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は14,054人である。南武線では快速通過駅の矢向駅より少ないが、平日(特に朝夕)は南武線と武蔵野線の乗り換え客が多い。また武蔵野線内では全26駅中北府中駅に次ぐ第22位であり、武蔵野線の乗換駅の中では最下位となっている。
JR線を利用して東京競馬場へ行く際の最寄り駅になるため、土曜・休日などの競馬開催日には混雑する。
2016年度のデータでは駅利用者のうち定期券利用者の比率が南武線・武蔵野線内の駅では最も低い45%となっている。
近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
駅舎と小さな駅前広場は高架上にあり、線路を横断する高架道路に面している。徒歩でのアクセスは道路上の歩道および北東と西側からは線路脇の道から階段(府中市によりエレベータ設置)、南東側からは競馬場通路(非開催日は駅舎東側を通って改札口側に回る)を使用。駅前にはイトーヨーカドー府中店が立地していたが、2010年8月22日に閉店し、閉店後はラウンドワンが出店している。駅前ロータリーを出て鎌倉街道を東に向かうと府中街道のT字路となっており、正面が大國魂神社西参道、左は京王府中駅にかけて市役所や商店街など市中心部へ続き、右の南東側は東京競馬場である。駅西側は小規模な商店街がある。その他は主に住宅地である。
駅前広場西側(改札を出て左)に設置されている。
以前は、西武バス滝山営業所と小平営業所で運行していた。
改札を出て左に陸橋を降りた先に設置されている。
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府中本町駅(ふちゅうほんまちえき)は、東京都府中市本町一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
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{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 府中本町駅
|画像 = Fuchu-Hommachi_Station_20191005.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎とロータリー(2019年10月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|39|58.3|N|139|28|37.9|E}}}}
|よみがな = ふちゅうほんまち
|ローマ字 = Fuchūhommachi
|電報略号 = フチ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]本町一丁目29
|座標 = {{coord|35|39|58.3|N|139|28|37.9|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = {{Nowrap|[[1928年]]([[昭和]]3年)[[12月11日]]}}
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 3面6線
|乗車人員 = 14,054
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#ffd400|■}}[[南武線]]
|駅番号1 = {{駅番号r|JN|20|#ffd400|1}}
|前の駅1 = JN 19 [[南多摩駅|南多摩]]
|駅間A1 = 2.4
|駅間B1 = 0.9
|次の駅1 = [[分倍河原駅|分倍河原]] JN 21
|キロ程1 = 27.9
|起点駅1 = [[川崎駅|川崎]]
|所属路線2 = {{color|#f15a22|■}}[[武蔵野線]]
|駅番号2 = {{駅番号r|JM|35|#f15a22|1}}
|前の駅2 = [[梶ヶ谷貨物ターミナル駅|梶ヶ谷(タ)]]{{Refnest|group="*"|当駅より梶ヶ谷貨物ターミナル側は貨物線のため、定期旅客列車の運行はない。}}
|駅間A2 = 16.1
|駅間B2 = 1.7
|次の駅2 = [[北府中駅|北府中]] JM 34
|キロ程2 = 28.8 km([[鶴見駅|鶴見]]起点)<br />府中本町から0.0
|起点駅2 =
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd=1374" />}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
'''府中本町駅'''(ふちゅうほんまちえき)は、[[東京都]][[府中市_(東京都)|府中市]]本町一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
[[南武線]]と[[武蔵野線]]の2路線が乗り入れており、このうち南武線を当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としている<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>。武蔵野線の定期旅客列車は当駅が起点となっている。当駅より鶴見側は[[貨物線]](通称「武蔵野南線」)となっている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は南武線が'''JN 20'''、武蔵野線が'''JM 35'''。
== 歴史 ==
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[12月11日]]:南武鉄道線[[南多摩駅|大丸]] - [[分倍河原駅|屋敷分]]間の開通時に開業<ref name="jtb19">[[#jtb|武蔵野線まるごと探見]]、p.19。</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]]:南武鉄道の[[戦時買収私鉄|国有化]]により[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]南武線の駅となる<ref name="jtb19"/>。
* [[1962年]](昭和37年)[[8月1日]]:貨物取り扱い廃止。
* [[1973年]](昭和48年)4月1日:武蔵野線当駅 - [[新松戸駅]]間開業。同時に[[中央本線]]支線([[下河原線]])[[国分寺駅]] - [[東京競馬場前駅]]間が廃止され、当駅が東京競馬場駅の機能を事実上代替<ref name="jtb20">[[#jtb|武蔵野線まるごと探見]]、p.20。</ref><ref name="jtb25">[[#jtb|武蔵野線まるごと探見]]、p.25。</ref>。
* [[1975年]](昭和50年)[[12月1日]]:[[みどりの窓口]]が営業を開始<ref>{{Cite news |和書|title=府中本町駅に「みどりの窓口」 一日から営業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1975-12-03 |page=2 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=38号 青梅線・鶴見線・南武線・五日市線|date=2010-04-11|page=21}}</ref>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[9月16日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-29|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[4月9日]]:復活した南武線快速<ref>鉄道ファン No.213 p.172</ref>の停車駅となる。当初は[[3月12日]]から開始予定だったが、[[東日本大震災]]の影響により延期となった<ref>[http://railf.jp/news/2011/04/10/084800.html 南武線で快速列車の運転が始まる] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2011年4月10日</ref>。
** [[6月24日]]:平日の快速運転を休止<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2011/20110605.pdf 夏の特別ダイヤについて]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2011年6月16日</ref>。
** [[9月12日]]:平日の快速運転再開。
* [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:快速運転を立川 - 川崎間の全区間へ拡大することに伴い、当駅の快速停車は維持されたまま、隣の駅である南多摩駅が快速通過駅になる<ref group="報道">[https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20141219/20141219_info01a.pdf 2015年3月ダイヤ改正について] - JR東日本</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[11月25日]]:駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」のテレワークブース「STATION BOOTH」が開設<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/hachioji/20211018_hc002.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211018095955/https://www.jreast.co.jp/press/2021/hachioji/20211018_hc002.pdf|format=PDF|language=日本語|title=便利な駅の改札口付近に「STATION BOOTH」続々OPEN!|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2021-10-18|accessdate=2021-10-18|archivedate=2021-10-18}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** [[10月31日]]:みどりの窓口の営業を終了<ref name="StationCd=1374">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1374|title=駅の情報(府中本町駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-09-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220923043301/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1374|archivedate=2022-09-23}}</ref><ref name="jtsu-20220530">{{Cite web|和書|url=https://www.jtsu-e-hachioji.org/_files/ugd/7466df_7e0417f1fa55437a8f6216fae19517ad.pdf|title=「2022年度営業関係施策」提案を受ける!|format=PDF|publisher=輸送サービス労組八王子地本|date=2022-05-30|accessdate=2022-05-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220530123520/https://www.jtsu-e-hachioji.org/_files/ugd/7466df_7e0417f1fa55437a8f6216fae19517ad.pdf|archivedate=2022-05-30}}</ref>。
** [[11月1日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="StationCd=1374" /><ref name="jtsu-20220530" />。
=== 駅名の由来 ===
[[鎌倉]]へ至る[[鎌倉街道]]のルート上で経済的にも重要拠点に位置し、[[中世]]には当地が「本町」と呼ばれていた。[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]まで見渡せる[[景勝地]]でもあることから府中御殿が建築され、その後も本町として発展してきた地であり、それらが当駅名の由来ともなっている(以前は駅前に説明の碑が設置されていたが、現在は本町一丁目公会堂の敷地内に移設されている)。
== 駅構造 ==
3面4線のホームを有する[[地上駅]]である<ref name="jtb18-19">[[#jtb|武蔵野線まるごと探見]]、pp.18-19。</ref><ref name="jtb20"/>。南武線は[[相対式ホーム]]2面2線で、のりばの番号は1・4番線である<ref name="jtb18-19"/>。武蔵野線の線路を潜るため、1番線ホーム([[川崎駅|川崎]]方面)のみ他のホームと高さがずれている。
武蔵野線部分は[[島式ホーム]]1面2線を有する地上駅。南武線の相対式ホームの間に武蔵野線のホームが挟まれる形になっており、のりばの番号は2・3番線である<ref name="jtb18-19"/>。さらに1番線と2番線、3番線と4番線の間にそれぞれ武蔵野貨物線があり当駅を通過する<ref name="jtb18-19"/>。武蔵野線は貨物バイパス線目的で敷設された事情があり、南武線と武蔵野線間を乗り換える利用客はコンコースに出てからホーム間を移動することになる。
コンコースの改札向かい側(南側)に巨大な臨時[[改札|改札口]]が設置されており、[[東京競馬場]]での競馬開催時(主に土日、[[パークウインズ]]含む)のみ営業する<ref name="jtb20"/>が、同競馬場で花火大会などの大きなイベントが行われる時は、その時間帯に合わせて臨時改札口を営業する。
立川営業統括センター管内の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]配置)で、[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]<ref name="StationCd=1374" />が設置されている。
お忘れ物承り所及び一部車両点検は[[JR東日本ステーションサービス]]が受託運営している。
駅カラーは南武線ホーム(1番線)が黒、武蔵野線ホームが水色。
=== のりば ===
<!--JR東日本公式サイトの表記に合わせた(通過線を除く)-->
{|class="wikitable" rules="rows"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線
|style="text-align:center"|上り
|[[登戸駅|登戸]]・[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]・[[川崎駅|川崎]]方面<ref name="stations/1374">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1374.html|title=駅構内図(府中本町駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-28}}</ref>
|-
|style="background:beige;text-align:center"|{{Color|gray|通過線}}
|style="background:beige"|{{Color|gray|■ 武蔵野貨物線}}
|style="background:beige;text-align:center"|{{Color|gray|上り}}
|style="background:beige"|{{Color|gray|[[梶ヶ谷貨物ターミナル駅|梶ヶ谷貨物ターミナル]]・[[鶴見駅|鶴見]]・[[横浜駅|横浜]]方面}}
|-
!2
|rowspan=2|[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線
|style="text-align:center"|ー
|(降車ホーム)
|-
!3
|style="text-align:center"|下り
|[[西国分寺駅|西国分寺]]・[[南浦和駅|南浦和]]・[[新松戸駅|新松戸]]・[[西船橋駅|西船橋]]方面<ref name="stations/1374" />
|-
|style="background:beige;text-align:center"|{{Color|gray|通過線}}
|style="background:beige"|{{Color|gray|■ 武蔵野貨物線}}
|style="background:beige;text-align:center"|{{Color|gray|下り}}
|style="background:beige"|{{Color|gray|[[新座貨物ターミナル駅|新座]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面}}
|-
!4
|[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線
|style="text-align:center"|下り
|[[分倍河原駅|分倍河原]]・[[立川駅|立川]]方面<ref name="stations/1374" />
|}
<gallery>
JR Nambu-Line・Musashino-Line Fuchuhommachi Station Gates.jpg|改札口
JR Nambu-Line・Musashino-Line Fuchuhommachi Station Temporary Gates.jpg|臨時改札口(東京競馬場での競馬開催時のみ営業)
Fuchuhommach-Sta-Platform1.JPG|1番線ホームから2・3番線ホームを見上げる。
Fuchuhommachi-Sta-South.JPG|左から南武線上り、武蔵野線上り本線、上り旅客線(奧に引き上げ線)、下り旅客線、下り本線、南武線下り。
JR Nambu-Line・Musashino-Line Fuchuhommachi Station Platform 1.jpg|1番線(南武線)ホーム
JR Nambu-Line・Musashino-Line Fuchuhommachi Station Platform 2・3.jpg|2・3番線(武蔵野線)ホーム
JR Nambu-Line・Musashino-Line Fuchuhommachi Station Platform 4.jpg|4番線(南武線)ホーム
</gallery>
;特記事項
南武線⇔武蔵野線間の旅客列車直通運転を考慮しない構造であるため、以下のような特徴がある。
* 南武線の川崎方面は、武蔵野線の線路の下を交差する[[トンネル]]内にホームの半分があり、他のホームから若干ずれている。そのため、武蔵野線への乗り換えに必要な移動距離は長い。
* 武蔵野線の定期旅客列車は当駅が起点で、鶴見駅から当駅まで(通称[[武蔵野線|武蔵野南線]])は[[貨物線|貨物専用線]]となっている。北府中方に両渡り線を設置できないため、全列車がまず降車専用ホーム(2番線)で客を降ろした後一度[[引き上げ線]]に入り、折り返して乗車専用ホーム(3番線)に進入する。
* 武蔵野線は上り・下りともホームの北府中(下り)寄りで武蔵野貨物線の新鶴見方面と分岐し、ホーム上り側は引き上げ線のみにつながっている。一方、南武線と武蔵野貨物線は上り・下りとも[[南多摩駅|南多摩]]寄りでつながっている。構造上双方向に直通が可能であるが、[[臨時列車]]の当駅停車には以下のような制限がある。
** 南武線立川方面 - 武蔵野線新鶴見方面 - 南武線ホームにて停車可
** 南武線川崎方面 - 武蔵野線西国分寺方面 - いずれのホームも停車不可
** 武蔵野線西国分寺方面 - 武蔵野線新鶴見方面 - いずれのホームも停車不可<!--ホリデー快速鎌倉号等-->
** 当駅始発・終着 - 南武線と新鶴見方面は南武線ホーム使用<!--昔の南武線競馬臨、修学旅行臨等-->。西国分寺方面は武蔵野線ホーム使用<!--むさしの1号等-->。
* [[発車標]]は2番線以外のホームに設置されており、[[東京圏輸送管理システム|ATOS]]形式の表示が行われている。3番線の東京行については、「舞浜方面東京」と表示される。
* 武蔵野線開業以前、南武線では当駅を発着する電車が設定されていたが、駅構造の変更に伴い、[[稲城長沼駅]]発着に変更された。
* 1番線の線路の北側には通過線を敷設可能な用地がある。
=== 配線図 ===
{{駅配線図|image=Rail Tracks map JR-E Fuchu-Hommachi Station.svg
|title = JR東日本 府中本町駅 鉄道配線略図
|width = 400px
|up =[[立川駅|立川]]方面
|up-align =right
|left=[[梶ヶ谷貨物ターミナル駅|梶ヶ谷貨物T]]<br/>方面
|left-valign = top
|right=[[西国分寺駅|西国分寺]]<br/>方面
|right-valign = bottom
|down =[[登戸駅|登戸]]・[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]方面
|down-align = left
|source = <ref>高橋政士、「東京外環状線ジャンクション」、[[:ja:電気車研究会|電気車研究会]]、『[[:ja:鉄道ピクトリアル|鉄道ピクトリアル]]』、 第58巻9号 通巻第808号 2008年9月号、48頁、「図2-府中本町ジャンクション」。</ref>
|note =
}}
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''14,054人'''である。南武線では快速通過駅の[[矢向駅]]より少ないが、平日(特に朝夕)は南武線と武蔵野線の乗り換え客が多い。また武蔵野線内では全26駅中[[北府中駅]]に次ぐ第22位であり、武蔵野線の乗換駅の中では最下位となっている。
JR線を利用して東京競馬場へ行く際の最寄り駅になるため、土曜・休日などの競馬開催日には混雑する。
2016年度のデータでは駅利用者のうち定期券利用者の比率が南武線・武蔵野線内の駅では最も低い45%となっている<ref>{{Cite book|和書|title=Circulation/transit outdoor advertisements 2018 edition |publisher=株式会社オリコム|date=2018年6月}}</ref>。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/toke/tokeisyo/index.html 府中市統計書] - 府中市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|13,181
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|13,702
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|15,318
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|16,666
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|18,301
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|18,883
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|19,258
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|18,713
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|18,381
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|18,126
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>17,300
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>17,000
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>16,371
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>17,128
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>17,006
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>16,965
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>17,037
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>17,454
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>17,543
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>17,304
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>16,686
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>16,565
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>16,922
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>17,138
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>17,079
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>17,209
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>17,321
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>17,454
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>17,489
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>17,126
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>10,804
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>11,932
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>14,054
|
|}
== 駅周辺 ==
駅舎と小さな[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]は高架上にあり<ref name="jtb18-19"/>、線路を横断する高架道路に面している。徒歩でのアクセスは道路上の歩道および北東と西側からは線路脇の道から[[階段]](府中市によりエレベータ設置)、南東側からは競馬場通路(非開催日は駅舎東側を通って改札口側に回る)を使用。駅前には[[イトーヨーカドー府中店]]が立地していたが、2010年8月22日に閉店し、閉店後は[[ラウンドワン]]が出店している。駅前ロータリーを出て鎌倉街道を東に向かうと府中街道のT字路となっており、正面が大國魂神社西参道、左は京王府中駅にかけて市役所や商店街など市中心部へ続き、右の南東側は東京競馬場である。駅西側は小規模な商店街がある。その他は主に住宅地である。
; 周辺の駅
* [[京王線]] [[東府中駅]]・[[府中駅 (東京都)|府中駅]] - 府中駅へは徒歩15分程度
* [[京王競馬場線]] [[府中競馬正門前駅]]
; 行政
* 府中市役所
* 武蔵府中税務署
* 府中市立宮町図書館
; 史跡・公園など
{{columns-list|2|
* [[武蔵国府跡#国司館地区|武蔵国府国司居館]]跡
* [[大國魂神社]]
* ふるさと府中歴史館
* [[安養寺 (東京都府中市)|安養寺]]
* [[府中市郷土の森博物館]] - 博物館、[[プラネタリウム]](当駅・分倍河原駅より路線バスあり)
* [[府中市郷土の森公園]](旧・府中市民健康センター)- 総合体育館、運動場、市民プール、交通公園(同上)
* 府中市矢崎町防災公園
* 下河原緑道([[下河原線]]跡) - [[東京競馬場前駅]](廃駅)は当駅から南に200mほどの場所
* [[多摩川]]
|}}
<gallery>
Musashikokufuato 20191005.jpg|再現された武蔵国府国司居館
Ookunitama-jinjya.nishi-sando.torii.jpg|大國魂神社西参道
Fuchu.honmachi.iriguchi.tokyo.jpg|府中本町駅入口交差点(写真左側は再現工事中の国府国司居館)
</gallery>
; 郵便局・金融機関
* 府中本町二郵便局
* [[三菱UFJ銀行]]府中支店
* [[三井住友銀行]]府中支店
* [[多摩信用金庫]]府中支店
; 企業
* [[サントリー]] 武蔵野ビール工場
; 商業施設
* [[ミッテン府中]]
* [[フォーリス]]
* [[くるる (東京都府中市)|くるる]]
* 大東京綜合卸売センター
* 府中本町プラザ商店会 / 本町商店会 / 番場商交会
; 公営競技
* [[東京競馬場]]、[[JRA競馬博物館]](最寄駅は府中競馬正門前駅)
* [[多摩川競艇場]](最寄り駅は[[西武多摩川線]][[競艇場前駅 (東京都)|競艇場前駅]])
; 道路
* [[東京都道18号府中町田線]]([[鎌倉街道]]、[[東京都道20号府中相模原線]]との重複区間)
* [[東京都道9号川崎府中線]]([[府中街道]])
* [[埼玉県道・東京都道17号所沢府中線]](同上)
== バス路線 ==
<!-- [[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
; 府中本町駅
駅前広場西側(改札を出て左)に設置されている。
* [[京王電鉄バス]]
** [[多摩川競艇場]]行([[特定バス|特定輸送]]・[[競艇]]開催時の運行)
以前は、[[西武バス]][[西武バス滝山営業所|滝山営業所]]と[[西武バス小平営業所|小平営業所]]で運行していた。
<gallery>
Fuchu.honmachi.tamagawa.boat.bus.jpg|府中本町駅発多摩川競艇場行バス
</gallery>
; 本町二丁目
改札を出て左に陸橋を降りた先に設置されている。
* [[京王バス]]、府中市コミュニティバス「[[ちゅうバス]]」([[京王バス府中営業所]])
** [[京王バス府中営業所#郷土の森線|府52]]:郷土の森総合体育館行/府中駅行(京王バス)
** [[ちゅうバス#南町・四谷循環|南町・四谷循環]]:よつや苑西行/府中駅行(ちゅうバス)
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速
::: [[稲城長沼駅]] (JN 18) - '''府中本町駅 (JN 20)''' - [[分倍河原駅]] (JN 21)
:: {{Color|#ffd400|■}}各駅停車
::: [[南多摩駅]] (JN 19) - '''府中本町駅 (JN 20)''' - 分倍河原駅 (JN 21)
::* かつて、当駅南側の南武線下り線が武蔵野線をアンダークロスする地点に[[南武是政駅]]が置かれていた。
: [[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線
::: [[北府中駅]] (JM 34) - '''府中本町駅 (JM 35)'''
: 武蔵野線(貨物専用区間)
:::([[鉄道駅#貨物駅|貨]])[[梶ヶ谷貨物ターミナル駅]] - '''府中本町駅'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=三好好三 |author2=垣本泰宏 |title=武蔵野線まるごと探見 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |date=2010-02-01 |ref=jtb}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Fuchū-Hommachi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1374|name=府中本町}}
{{南武線}}
{{武蔵野線・京葉線}}
{{武蔵野線 (貨物線)}}
{{デフォルトソート:ふちゆうほんまち}}
[[Category:東京都府中市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ふ|ちゆうほんまち]]
[[Category:南武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:南武線|ふちゆうほんまちえき]]
[[Category:武蔵野線|ふちゆうほんまちえき]]
[[Category:1928年開業の鉄道駅]]
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2003-07-15T08:33:20Z
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2023-12-30T11:41:06Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E6%9C%AC%E7%94%BA%E9%A7%85
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11,463 |
愛称
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愛称(あいしょう)とは、とくに親しみを込めて対象を呼ぶために用いられる、本名以外の名前の一種である。あだな(渾名・綽名)、ニックネーム(英語:nickname)、ペットネーム(英語:petname)ともいう。なお、「仇名・徒名」も「あだな」と読むが、こちらは悪評、事実無根の評判、男女関係についての噂を意味する語で、「渾名・綽名」とは意味が異なる。
イヌに対する「ポチ」やネコに対する「タマ」など、本来の由来からはなれて、普遍的な愛称として定着しているものもある。
また、自衛隊の装備品にあるように現場での愛称と防衛省がイベント的な意味合いで公募した愛称がある。詳細は陸上自衛隊の装備品一覧を参照。
愛称がつけられる対象には、次のようなものがある。
アメリカではニューヨーク市を「ビッグ・アップル」、ニューヨーク州を「エンパイアー・ステート」、オレゴン州・カリフォルニア州・ワシントン州の西海岸三州を「レッドウッド・カーテンの向こう側」、コネチカット州・ニューハンプシャー州・バーモント州・マサチューセッツ州・メイン州・ロードアイランド州(旧13植民地のうちのニューヨーク以北6州)を「ニューイングランド」と称するように、都市や州などに愛称をつける場合がある。
広告業界においては、愛称を考案・普及させるのは、企業、マスメディア、特定の商品や場所の宣伝に関わる者などある場合が多い。また商品やサービス、キャラクターの場合は公募や選考委員会によって決定される場合もある。
E電 のように、考案、宣伝されながらも定着しないままに終わる愛称もある。
ヨーロッパ諸言語においては多くの場合、特定の名(ファーストネーム)に対応する短縮形が存在する。日本ではこれを「愛称形」と表現する場合もあるが、現地では「通称」として公式文書への署名などに使用できるものであり、本項の主旨である「愛称」(ニックネーム、あだ名)とは意味を異にする。たとえば格闘家ボブ・サップ(本名は「ロバート・マルコム・サップ・ジュニア」)の「ボブ」は「ロバート」の短縮形を用いて「ボブ・サップ」と呼ばれる。また彼の愛称(ニックネーム)は野獣を意味する「ザ・ビースト」である。ビル・ゲイツの本名も、ウィリアム・ヘンリー・ゲイツである。
「ニック」の語源は「...もまた」を意味する初期英語「eke」であり、渾名を「eke‐name」としていたものが、後に訛ったものとされる。
基本的には自己決定権によって自分に付けられた呼び名を拒否することが可能である。これは同意の範囲によって定めることができ、好意的な使われ方なら使用を許可でき、否定的や茶化す目的で使用するなら拒否することも可能であり、いじめ防止対策推進法や名誉毀損、肖像権の侵害など法的な対応も行われる。
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"text": "愛称(あいしょう)とは、とくに親しみを込めて対象を呼ぶために用いられる、本名以外の名前の一種である。あだな(渾名・綽名)、ニックネーム(英語:nickname)、ペットネーム(英語:petname)ともいう。なお、「仇名・徒名」も「あだな」と読むが、こちらは悪評、事実無根の評判、男女関係についての噂を意味する語で、「渾名・綽名」とは意味が異なる。",
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"text": "「ニック」の語源は「...もまた」を意味する初期英語「eke」であり、渾名を「eke‐name」としていたものが、後に訛ったものとされる。",
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"text": "基本的には自己決定権によって自分に付けられた呼び名を拒否することが可能である。これは同意の範囲によって定めることができ、好意的な使われ方なら使用を許可でき、否定的や茶化す目的で使用するなら拒否することも可能であり、いじめ防止対策推進法や名誉毀損、肖像権の侵害など法的な対応も行われる。",
"title": "仇名・徒名・嫌なあだ名"
}
] |
愛称(あいしょう)とは、とくに親しみを込めて対象を呼ぶために用いられる、本名以外の名前の一種である。あだな(渾名・綽名)、ニックネーム、ペットネームともいう。なお、「仇名・徒名」も「あだな」と読むが、こちらは悪評、事実無根の評判、男女関係についての噂を意味する語で、「渾名・綽名」とは意味が異なる。
|
{{Otheruses||人名の定型的な略称(例:William→Bill)|人名の短縮形}}
{{出典の明記|date=2021-06-09}}
'''愛称'''(あいしょう)とは、とくに親しみを込めて[[対象]]を呼ぶために用いられる、'''[[本名]]以外の[[名前]]'''の一種である。'''あだな'''(渾名・綽名)、'''ニックネーム'''([[英語]]:nickname)、'''ペットネーム'''(英語:petname)ともいう。なお、「仇名・徒名」も「あだな」と読むが、こちらは悪[[評価|評]]、事実無根の評判、男女関係についての[[噂]]を意味する語で、「渾名・綽名」とは意味が異なる。
== 愛称の付け方 ==
* [[本名]]からつける
* [[身体]]の特徴からつける
* 対象に関係する事柄からつける
* 対象が関係したエピソードからつける
* (対象が生物の場合)性格・気質からつける
* 自己紹介の聞き間違いからつける
[[イヌ]]に対する「[[ポチ (犬の名前)|ポチ]]」や[[ネコ]]に対する「[[タマ (猫の名前)|タマ]]」など、本来の由来からはなれて、普遍的な愛称として定着しているものもある。
また、[[自衛隊]]の装備品にあるように現場での愛称{{efn2|隊員により昔から付けられていた事実上の愛称。}}と防衛省がイベント的な意味合いで公募した愛称{{efn2|隊員からの募集でない点に着目。2001年以降導入装備品には公募愛称は存在しない。}}がある。詳細は[[陸上自衛隊の装備品一覧]]を参照。
== 対象となる物事 ==
愛称がつけられる対象には、次のようなものがある。
=== 人間 ===
* あだ名、ニックネーム - 本名以外の呼称、本来の芸名以外の呼称。[[小泉今日子]]の“キョンキョン”、[[近藤真彦]]の“マッチ”、[[岡田有希子]]の“ユッコ”のように自然発生的につく場合が多いが、[[AKB48]]およびその姉妹グループのメンバーのように、呼んで欲しい愛称を先に決めて公表している例もある。大人数グループだと同音異字の名のメンバーが複数いる場合もあり、重複しないよう考案するのに一苦労することもある{{efn2|AKB48は“はるか”だけで5人いた時期があり、“よこやまゆい”も2人いる。SKE48とNMB48、AKB48チーム8には“あかり”が1人ずつおり、全員が表記違いの「あかりん」。乃木坂46は“まい”が3人いた時期があった。}}。メンバー個々人でなくグループ全体を呼ぶ場合は「ちゃん」づけになる{{efn2|ribbonに対する「リボンちゃん」、CoCoに対する「ココちゃん」、乃木坂46に対する「乃木坂ちゃん」、欅坂46に対する「欅ちゃん」、日向坂46に対する「日向ちゃん」など。}}。
* コートネーム - 女子スポーツの世界でのニックネーム。主に[[バスケットボール]]や[[バレーボール]]でのみ使用され、他の集団競技には見られない。
* TACネーム - アメリカ空軍や航空自衛隊の[[パイロット (航空)|操縦士]](主に戦闘機パイロット)につけられる個人の愛称。階級の上下に関係なく、無線で呼びやすくするため用いられている。
* コールサイン - アメリカ海軍の[[パイロット (航空)|操縦士]]につけられる個人の愛称。階級の上下に関係なく、無線で呼びやすくするため用いられている。参考:[[:en:Aviator call sign|Aviator call sign]]
=== 動物(ヒト以外) ===
* [[ペット]] - 飼い主によって付けられる名前。
=== 乗り物 ===
* [[オートバイ|バイク]]、[[自動車]] - 所有者によって付けられる場合と販売時に付けられるペットネーム(例:[[ホンダ・N-BOX]]、[[ヤマハ・ジョグ]]など)がある。
* [[列車愛称]] - 「[[はやて (列車)|はやて]]」・「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」など。
* [[鉄道車両]] - [[国鉄D51形蒸気機関車|D51形蒸気機関車]]=デゴイチ、[[JR九州783系電車|783系電車]]=ハイパーサルーンなど。
* 鉄道の路線 - [[東北本線]]=[[宇都宮線]]、[[東海道本線]]=[[JR京都線]]、[[田沢湖線]]=[[秋田新幹線]]など。
* [[飛行機]] - [[ボーイング747]]=ジャンボジェット、[[ボーイング777]]=トリプルセブンなど。
=== 組織 ===
* スポーツ競技のチーム([[東洋の魔女]]、[[日の丸飛行隊]]、[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]、[[古橋廣之進|フジヤマのトビウオ]]など)
* [[スコットランドヤード]] - [[ロンドン警視庁]]の愛称
* 桜田門 - 東京[[警視庁]]の別名
* オルフェーブル河岸36番(更に略してフランス語で「36」) - [[パリ警視庁]]の別名
* ラングレー - [[CIA]]の別名(発足当時の所在地から)“ビューロー”[[FBI]]との対比で「カンパニー」と呼ばれることもある
* [[ファニー・メイ]] - [[連邦住宅抵当公庫]]の愛称
=== サービス名 ===
* [[商品]]やサービス名
* イベントやスポーツ大会の名称([[パラリンピック]]、[[第69回国民体育大会|長崎がんばらんば国体]]など)
* [[野球場]]などの[[施設]](近年では[[ネーミングライツ]]によるものが多い)
=== 地名 ===
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[ニューヨーク市]]を「ビッグ・アップル」{{efn2|{{lang-en-short|Big Apple}}}}、[[ニューヨーク州]]を「エンパイアー・ステート」{{efn2|{{lang-en-short|Empire State}}}}、[[オレゴン州]]・[[カリフォルニア州]]・[[ワシントン州]]の[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]三州を「レッドウッド・カーテンの向こう側」{{efn2|{{lang-en-short|behind the Redwood Curtain}}}}、[[コネチカット州]]・[[ニューハンプシャー州]]・[[バーモント州]]・[[マサチューセッツ州]]・[[メイン州]]・[[ロードアイランド州]](旧[[13植民地]]のうちのニューヨーク以北6州)を「[[ニューイングランド]]」と称するように、都市や州などに愛称をつける場合がある。
=== その他 ===
* 自然([[坂東太郎]]、[[筑紫二郎]]、[[四国三郎]]など)
* [[DNS]] - インターネット上のサーバ(ノード)は数字の羅列であるIPアドレスで区分されるが、覚えやすいように「ドメイン名」という名前からIPアドレスを調べる仕組みがある。
* [[景気]]の名称 - [[内閣府]]の[[景気基準日付]]([[景気循環]])の好景気の期間時に[[マスメディア|メディア]]等が名付けて世間に公表する名称([[通称]]・俗称とも呼ばれる)。代表の景気の名称は、[[神武景気]]、[[岩戸景気]]、[[いざなぎ景気]]、[[バブル景気]]([[四大景気]])である。
== 文学作品における愛称 ==
=== 日本 ===
* [[夏目漱石]]『[[坊っちゃん]]』は、「赤シャツ」、「野だいこ」、「マドンナ」、「山嵐」、「うらなり」など、あだ名が多い。
* 『[[源氏物語]]』の作中人物の名前も、本名、実名でなく、「[[光源氏]]」、「[[藤壺]]」、「[[紫の上]]」などいずれもあだ名である(当時の女性の地位は特に低く、実在の人物でも親の官職名で呼ばれる事がほとんど)。“[[源氏名]]”(げんじな)の呼称はここから生まれた。
=== 中国 ===
* [[水滸伝]]は[[宋江|呼保義]]、[[李俊|混江竜]]、 [[呼延灼|双鞭]]、[[楊志|青面獸]]、[[晁蓋|托塔天王]]などあだ名を持つ登場人物が多い。
== 愛称の考案・普及者 ==
[[広告]]業界においては、愛称を考案・普及させるのは、[[企業]]、[[マスメディア]]、特定の商品や場所の宣伝に関わる者などある場合が多い。また商品やサービス、キャラクターの場合は公募や選考委員会によって決定される場合もある。
[[E電]] のように、考案、宣伝されながらも定着しないままに終わる愛称もある。
== ヨーロッパ諸言語 ==
ヨーロッパ諸言語においては多くの場合、特定の名(ファーストネーム)に対応する短縮形が存在する。日本ではこれを「愛称形」と表現する場合もあるが、現地では「[[通称]]」として公式文書への署名などに使用できるものであり、本項の主旨である「愛称」(ニックネーム、あだ名)とは意味を異にする。たとえば格闘家[[ボブ・サップ]](本名は「ロバート・マルコム・サップ・ジュニア」)の「ボブ」は「ロバート」の短縮形を用いて「ボブ・サップ」と呼ばれる。また彼の愛称(ニックネーム)は野獣を意味する「ザ・ビースト」{{efn2|{{lang-en-short|The Beast}}}}である。ビル・ゲイツの本名も、ウィリアム・ヘンリー・ゲイツである。
{{main|人名の短縮形}}
== ニックネームの語源 ==
「ニック」の語源は「…もまた」を意味する初期英語「eke」であり、渾名を「eke‐name」としていたものが、後に訛ったものとされる。
== 仇名・徒名・嫌なあだ名 ==
基本的には[[自己決定権]]によって自分に付けられた呼び名を拒否することが可能である。これは同意の範囲によって定めることができ、好意的な使われ方なら使用を許可でき、否定的や茶化す目的で使用するなら拒否することも可能であり<ref name=dai>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/312967 |title=イヤな「あだ名」はお断り!法的視点から見たその理由 |access-date=2022-11-18 |date=2022-11-18 |website=ダイヤモンド・オンライン |language=ja}}</ref>、[[いじめ防止対策推進法]]や[[名誉毀損]]、[[肖像権]]の侵害など法的な対応も行われる<ref name=dai/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
[[ファイル:Many metal badges printed Japanese popular first names or nicknames.jpg|thumb|「〜ちゃん」 ネームバッチ]]
* [[字]](あざな)・[[諱]](いみな)・[[諡]](おくりな)
* [[命名]]・[[本名]]
* [[仮名 (通称)]]、[[雅号]]、筆名、[[ペンネーム]] ・[[ラジオネーム]]・[[ハンドルネーム]]、[[サインネーム]] [[w:Pseudonym|Pseudonym]], [[w:Allonym|Allonym]], [[w:Pen name|Pen name]]
* [[略語|略称]](英字略など)・[[登録名]]・[[商号|社名呼称・登記上社名]]・[[通称]]・[[侮蔑#侮蔑表現の分類と種類|蔑称]]
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ヴェルナー・フォン・ブラウン
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ヴェルナー(ヴェルンヘル)・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵)・フォン・ブラウン(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, 1912年3月23日 - 1977年6月16日)は、工学者であり、ロケット技術開発の最初期における最重要指導者のひとりである。第二次世界大戦後にドイツからアメリカ合衆国に移住し、研究活動を行った。ソ連のセルゲイ・コロリョフと共に米ソの宇宙開発競争の代名詞的な人物である。
ドイツ帝国東部ポーゼン(現ポーランド)近郊のヴィルジッツ(英語版)で貴族(ユンカー)の家に生まれた。父親はマグヌス・フォン・ブラウン(ドイツ語版)男爵。後のヴァイマル共和政末期にフランツ・フォン・パーペン内閣で食糧農業大臣となった人物である。母親は彼がルター派の堅信礼を行った時に望遠鏡を与えた。天文学と宇宙分野への関心が、彼を生涯にわたって動機付けた。
1920年、ヴィルジッツがヴェルサイユ条約に基づいてポーランド領になると、彼の一家は他の大勢と同様にドイツ領へ移住し、シュレージエン地方で新生活を始めた。ここで、彼は音楽家パウル・ヒンデミットにピアノを教わっている。
彼はロケットの先駆者ヘルマン・オーベルトの著した論文『惑星間宇宙へのロケット(ドイツ語版)(1923年)』を手に入れるまでは、物理学と数学が不得意であった。しかしその論文を手に入れてからの彼は数学に打ち込み、得意科目にするまで努力した。
1930年にベルリン工科大学に入学した。ドイツ宇宙旅行協会にも入会し、ヘルマン・オーベルトの液体燃料ロケットエンジンの試験を手伝った。
その後、工学士の学位を得てベルリン大学へ進み、陸軍兵器局のヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉のもとで研究するよう取り計らった。フォン・ブラウンはドルンベルガーがすでに持っていたクマースドルフ(ドイツ語版)の固体ロケット試験場の隣で研究を続け、2年後に物理学の博士号を受けた。しかし、このとき公表された博士論文は執筆された一部だけであり、完全な論文が公表されたのは1960年になってからであった。
1934年の暮れまでに、フォン・ブラウンのグループは2.4 km以上の高度に達するロケットを2基射ち上げることに成功したが、この頃すでにドイツロケット協会はなく、ロケットの実験は新たな体制では禁止されていた。軍用の開発だけが許可され、ドイツ北部のバルト海のペーネミュンデ村により大きな施設が建てられた。
第二次世界大戦においてドイツ軍が連合国軍に対して劣勢に傾いていた1943年、ドイツ国総統のアドルフ・ヒトラーはA-4(独:Aggregat 4型)ロケットを「報復兵器」として使うことを決定。フォン・ブラウンらのグループはロンドン攻撃のために、弾道ミサイルA-4の開発をすることになった。
ヒトラーの生産命令から14ヶ月後、最初の軍用A-4が、このころにはハインリヒ・ヒムラーの考えた名前の「V-2」と呼ばれることになっており、1944年9月7日にヨーロッパ西部に対し発射された。
その後ドルンベルガーは陸軍のロケット開発指揮官に、フォン・ブラウンは技術部長になった。彼らは航空機とジェット補助離陸(広義の「ジェット」の意味であり、空気を吸い込まないロケットも含む)用の液体燃料ロケットエンジン、長射程弾道ミサイル・A-4(V2ロケット)と、超音速対空ミサイル「ヴァッサーファル」を開発した。
SS(ナチ親衛隊)とゲシュタポ(国家秘密警察)は、「(軍事兵器の開発に優先して)フォン・ブラウンが地球を回る軌道に乗せるロケットや、おそらく月に向かうロケットを建造することについて語ることをやめない」、としてフォン・ブラウンを国家反逆罪で逮捕した。フォン・ブラウンの罪状は、「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、個人的な願望について語りすぎる」、というものであった。
ドルンベルガーは、「もしフォン・ブラウンがいなければV-2は完成しない、そうなればあなたたちは責任を問われるだろう」とゲシュタポを説得し、フォン・ブラウンを釈放させようとした。しかし、それでもゲシュタポは許そうとせず、最後はヒトラー自らがゲシュタポをとりなし、ようやくフォン・ブラウンは解放された。そのときヒトラーは「私でも彼を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。
1945年5月にドイツは連合国軍に敗北することが確実な状況となり、フォン・ブラウンはペーネミュンデに戻ると直ちに彼の計画スタッフを招集し、どの国に亡命すべきか、どうやって亡命するかを決めるよう求めた。科学者たちのほとんどはロシア人を恐れ、フランス人は彼らを奴隷のように扱うだろうし、イギリスにはロケット計画を賄うだけの十分な資力がないと感じていた。残ったのがアメリカ合衆国である。
偽造した書類で列車を盗み出した後、フォン・ブラウンはアメリカ軍に投降するためにペーネミュンデから500人を連れ出した。その頃SSは、ドイツ軍の管理から逃れて記録を坑道などに隠しアメリカ軍と接触を試みているドイツ人技術者を、殺すよう命令を受けていた。
ドイツが連合国軍に対し降伏した後、最終的にロケットチームはアメリカの民間人を見つけ投降した。技術者たちの重要性を知ると、アメリカ軍は即座にペーネミュンデとノルトハウゼンに向かい、残されたV-2ロケットとV-2の部品を全て捕獲して2つの施設を爆破破壊した。アメリカ人は貨車300両分以上のV-2用スペアパーツをアメリカに持っていった。しかしフォン・ブラウンの生産チームの大半は間もなく進駐してきたソ連赤軍の捕虜になった。
5月5日、フォン・ブラウンは当時アメリカ軍の大佐で後に中国の宇宙開発を担う銭学森から最初の尋問を受け、尋問の過程でフォン・ブラウンが作成した報告書「ドイツにおける液体燃料ロケット開発の調査とその将来の展望」は後のアメリカ合衆国の宇宙開発のロードマップを示すものだった。
6月20日に、アメリカのコーデル・ハル国務長官はフォン・ブラウンのロケット専門家達を移送することを承認した。この移送はペーパークリップ作戦として知られる。その理由は、多数のドイツ人技術者が陸軍兵器廠に配属され、合衆国に来るよう選ばれた者は紙クリップで印付けられたからである。彼らが移送されたのはデラウェア州ウィルミントンのすぐ南方にあるニューカッスル空軍基地であった。その後ボストン市を経由し、海路ボストン湾(英語版)のフォートストロング(英語版)にある陸軍情報部隊(英語版)の駐屯地に連れて行かれた。後に、フォン・ブラウンを除いた専門家たちはメリーランド州のアバディーン性能試験場に移され、そこでペーネミュンデの文書を整理させられた。これらの文書があれば、工学者たちが中断していたロケット実験を続けられるのであった。
最終的に、陸軍兵器技術情報チームの本部長オルガー・N・トフトイ陸軍大佐の副官であったジェイムズ・P・ハミル陸軍少佐の命令で、フォン・ブラウンと126人のペーネミュンデの技術者達は、エルパソのすぐ北にある大きな陸軍基地テキサス州フォートブリス(英語版)で、彼らに与えられた新たな家に移された。彼らは合衆国で新生活を始めるにあたり、奇妙な状況にあることに気づいた。彼らは軍人の護衛なしにフォートブリスを出ることができなかったことから、時には自らのことを「平時捕虜」(Prisoners of Peace)――戦時捕虜(Prisoners of War)に掛けた洒落――と呼んだ。
フォートブリスに滞在中、彼らは産・軍・学の要員に複雑なロケットや誘導ミサイルに関する訓練と、ドイツからニューメキシコ州ホワイトサンズ性能試験場に運ばれてきた多数のV-2ロケットを修理し、組立て、そして打ち上げる手伝いをする仕事を課せられた。さらに、彼らは軍事と研究へ応用するロケットが持つ将来的な可能性について学ぶことになった。
この時期、フォン・ブラウンは従妹で18歳のマリア・フォン・クヴィストルプ(英語版)に求婚する手紙を書いた。1947年3月1日、彼はマリアと、彼女の住む地域のルター派教会で結婚式を挙げた。1948年12月に最初の娘アイリスがフォートブリスの陸軍病院で誕生した。
1950年、フォン・ブラウンと彼のチームはアラバマ州ハンツヴィルに移され、そこがフォン・ブラウンの以後20年間の住みかとなった。
1950年から1956年にかけ、フォン・ブラウンはレッドストーン兵器廠で陸軍のロケット開発チームを率いて、兵器廠の名にちなんだレッドストーンロケットを生んだ。
1952年、フォン・ブラウンは、なおもロケットが平和的な探検に使用される世界を夢見て宇宙ステーションの概念を「コリアーズ(英語版)」誌(Collier's)に発表した。この宇宙ステーションは直径75mで、高度1700kmの軌道に置かれ、人工重力を発生するために自転するとされた。彼の予見では、ここは月探検のための理想的な出発点のはずだった。
フォン・ブラウンはまた、ウォルト・ディズニー率いるディズニー社の宇宙探検に関する3本のテレビ映画の制作に技術監督として参加した。フォン・ブラウンはその後何年も、未来の宇宙計画に対してより多数の公衆の興味を惹くことを望んで、ディズニー社との仕事を続けた。
陸軍弾道ミサイル局(ABMA)の開発オペレーション部門の長として、フォン・ブラウンのチームはレッドストーンを改良したジュピターCロケットを開発した。ジュピターCは1958年1月31日、西側諸国として初めての人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功した。この出来事は米国の宇宙計画の誕生を告げる物であった。
1958年7月29日にはアメリカ航空宇宙局(NASA)が法律上成立した。翌日、50番目のレッドストーンロケットが核実験ハードタック作戦の一部として南太平洋のジョンストン島から成功裏に打ち上げられた。
2年後、NASAはアラバマ州ハンツヴィルにマーシャル宇宙飛行センターを新設し、フォン・ブラウンと彼の開発チームをレッドストーン兵器廠からNASAに移籍させた。フォン・ブラウンは1960年から1970年まで同センターの初代所長を務めた。
マーシャル宇宙飛行センターの大きな初仕事は、1960年に就任したジョン・F・ケネディ大統領の指揮下で計画がスタートした、宇宙飛行士を月に運べるサターンロケットの開発であった。
フォン・ブラウンの子供時代の方針であった「時代を動かすこと」とその後の夢となっていた人類が月面を踏む手助けをすることは、1969年7月16日、マーシャル宇宙飛行センターが開発したサターンVロケットがアポロ11号の搭乗員を打ち上げた時に現実のものとなった。アポロ計画の過程で6組の宇宙飛行士チームが月面を探検した。
1970年フォン・ブラウンと家族はハンツヴィルからワシントンD.C.に移り、NASA本部の計画担当副長官補に任命され、テクノクラートとしての役割を果すが、アポロ計画後、フォン・ブラウンは彼の将来の宇宙飛行の方針がNASAのものとは違うと感じ、1972年6月にNASAを辞した。彼はメリーランド州ジャーマンタウンにあるフェアチャイルド社の副社長に就任し、米国宇宙研究所(英語版)(1987年に設立された現在の米国宇宙協会(英語版)の前身)を創立し振興する活動を行った。
宇宙協会の活動の頂点で、フォン・ブラウンは自分が癌であることを知った。手術を受けたが癌は進行し、1976年12月31日にフェアチャイルド社の辞職を余儀なくされた。1977年6月16日、バージニア州アレクサンドリアにて死去。65歳没。
フォン・ブラウンは第二次世界大戦中は、ナチス党政権下のドイツのために、V2号ミサイルの製作を指揮し、ナチス党員、親衛隊少佐でもあった。
戦後渡ったアメリカ合衆国では、その経歴のために様々な非難を受けたが、「ナチズムには前から反対だった」「宇宙に行く為なら悪魔に魂を売り渡してもよいと思った」と弁明した。
第二次世界大戦中は、ドイツ軍の勝利のために弾道ミサイルを開発し、ドイツの敗戦後には、第二次世界大戦中にドイツの敵国であったアメリカ合衆国の国家の威信のためにロケットを作るという変節は、両国の評論家よりしばしば非難される。
風刺家でシンガーソングライターのトム・レーラーは『ヴェルナー・フォン・ブラウンの歌』という曲を作り、フォン・ブラウンのことを「忠誠が便宜に支配された男」("A man whose allegiance is ruled by expedience")と評している。とはいえ、人生をロケットの研究にかけ、ドイツやアメリカのような一部の国家の発展にではなく、グレートジャーニー以来の生息域の拡大という、ホモ・サピエンスという生物種すなわち人類全体の発展に忠義を尽くしたともいえ、またフォン・ブラウンの西側諸国の科学・技術界における貢献は大きく、1962年にエリオット・クレッソン・メダル、1969年にヴィルヘルム・エクスナー・メダル、1975年にアメリカ国家科学賞を受賞している。
自伝を書いた作家によると「宇宙依存症」。
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ヴェルナー(ヴェルンヘル)・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵)・フォン・ブラウンは、工学者であり、ロケット技術開発の最初期における最重要指導者のひとりである。第二次世界大戦後にドイツからアメリカ合衆国に移住し、研究活動を行った。ソ連のセルゲイ・コロリョフと共に米ソの宇宙開発競争の代名詞的な人物である。
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{{Infobox 人物
|氏名 = Wernher von Braun
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|画像説明 = 1964年5月
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1912|3|23|no}}
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|出身校 = [[ベルリン工科大学]]<br />[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]
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|影響を受けたもの = [[ヘルマン・オーベルト]]
|肩書き = [[マーシャル宇宙飛行センター]]所長<br />[[アメリカ航空宇宙局]]計画担当副長官補<br />[[フェアチャイルド (航空機メーカー)|フェアチャイルド社]]副社長
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'''ヴェルナー(ヴェルンヘル)<ref>[http://www.duden.de/rechtschreibung/Wernher '''Wernher'''] は'''ヴェルンヘル'''と転写される ({{IPA-de|' vɛrnhɛr}}, {{Cite book | title = Das Aussprachewörterbuch | publisher = Duden | edition = 6 | page = 834 | isbn =978-3-411-04066-7}})。日本では'''ヴェルナー'''と表記されるが、関連はあるものの別の名前 ('''[http://www.duden.de/rechtschreibung/Werner Werner]''', {{IPA-de|' vɛrnɐ}}, {{Cite book | title = Das Aussprachewörterbuch | publisher = Duden | edition = 6 | page = 834 | isbn =978-3-411-04066-7}}) 。</ref>・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵)・フォン・ブラウン'''(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, [[1912年]][[3月23日]] - [[1977年]][[6月16日]])は、[[工学者]]であり、[[ロケット]]技術開発の最初期における最重要指導者のひとりである。[[第二次世界大戦]]後に[[連合軍軍政期 (ドイツ)|ドイツ]]から[[アメリカ合衆国]]に[[移住]]し、研究活動を行った。[[ソ連]]の[[セルゲイ・コロリョフ]]と共に米ソの[[宇宙開発競争]]の代名詞的な人物である。
== 出生・少年期 ==
[[ドイツ帝国]]東部[[ポーゼン]](現[[ポーランド]])近郊の{{仮リンク|ヴィジスク|label=ヴィルジッツ|en|Wyrzysk}}で貴族([[ユンカー]])の家に生まれた。父親は{{仮リンク|マグヌス・フォン・ブラウン|de|Magnus von Braun (Politiker)}}[[男爵]]。後の[[ヴァイマル共和政]]末期に[[フランツ・フォン・パーペン]]内閣で食糧農業大臣となった人物である。母親は彼が[[ルーテル教会|ルター派]]の[[堅信礼]]を行った時に[[望遠鏡]]を与えた。[[天文学]]と[[宇宙]]分野への関心が、彼を生涯にわたって動機付けた。
[[1920年]]、ヴィルジッツが[[ヴェルサイユ条約]]に基づいて[[ポーランド]]領になると、彼の一家は他の大勢と同様に[[ヴァイマル共和政|ドイツ領]]へ移住し、[[シレジア|シュレージエン]]地方で新生活を始めた。ここで、彼は音楽家[[パウル・ヒンデミット]]に[[ピアノ]]を教わっている。
彼はロケットの先駆者[[ヘルマン・オーベルト]]の著した論文『{{仮リンク|惑星間宇宙へのロケット|de|Die Rakete zu den Planetenräumen}}(1923年)』を手に入れるまでは、[[物理学]]と[[数学]]が不得意であった。しかしその論文を手に入れてからの彼は数学に打ち込み、得意科目にするまで努力した。
== ドイツ時代 ==
=== 学生時代 ===
[[1930年]]に[[ベルリン工科大学]]に入学した。[[ドイツ宇宙旅行協会]]にも入会し、[[ヘルマン・オーベルト]]の[[液体燃料ロケット]][[ロケットエンジン|エンジン]]の試験を手伝った。
その後、工学士の学位を得て[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]へ進み<ref>西條寿雄 「ロケットと火薬の歴史書:その起源から近代ロケットの誕生まで」によると、フォン・ブラウンはベルリン大学で学んだ形跡はなく、工学士も取得していない。</ref>、陸軍兵器局の[[ヴァルター・ドルンベルガー]]陸軍大尉のもとで研究するよう取り計らった。フォン・ブラウンはドルンベルガーがすでに持っていた{{仮リンク|陸軍クマースドルフ実験場|label=クマースドルフ|de|Heeresversuchsanstalt Kummersdorf}}の[[固体ロケット]]試験場の隣で研究を続け、2年後に物理学の博士号を受けた。しかし、このとき公表された博士論文は執筆された一部だけであり、完全な論文が公表されたのは1960年になってからであった。
=== ミサイル開発 ===
[[File:Peenemünde 2001 -V2- by-RaBoe 01.jpg|thumb|right|240px|ペーネミュンデの博物館に展示されるV-2]]
[[1934年]]の暮れまでに、フォン・ブラウンのグループは2.4 km以上の高度に達するロケットを2基射ち上げることに成功したが、この頃すでに[[宇宙旅行協会|ドイツロケット協会]]はなく、ロケットの実験は新たな体制では禁止されていた。軍用の開発だけが許可され、ドイツ北部の[[バルト海]]の[[ペーネミュンデ陸軍兵器実験場|ペーネミュンデ]]村により大きな施設が建てられた。
=== V2ロケット ===
[[第二次世界大戦]]において[[ドイツ軍]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍に対して劣勢に傾いていた[[1943年]]、ドイツ国総統の[[アドルフ・ヒトラー]]はA-4(独:[[アグリガット (ロケット)|Aggregat]] 4型)ロケットを「[[報復兵器]]」として使うことを決定。フォン・ブラウンらのグループは[[ロンドン]]攻撃のために、[[弾道ミサイル]]A-4の開発をすることになった。
ヒトラーの生産命令から14ヶ月後、最初の軍用A-4が、このころには[[ハインリヒ・ヒムラー]]の考えた名前の「[[V2ロケット|V-2]]」と呼ばれることになっており、[[1944年]][[9月7日]]にヨーロッパ西部に対し発射された。
その後ドルンベルガーは陸軍のロケット開発指揮官に、フォン・ブラウンは技術部長になった。彼らは航空機と[[JATO|ジェット補助離陸]](広義の「ジェット」の意味であり、空気を吸い込まないロケットも含む)用の[[液体燃料ロケット]]エンジン、長射程[[弾道ミサイル]]・A-4([[V2ロケット]])と、超音速[[対空ミサイル]]「[[ヴァッサーファル_(ミサイル)|ヴァッサーファル]]」を開発した。
=== 逮捕 ===
[[武装親衛隊|SS]]([[親衛隊 (ナチス)|ナチ親衛隊]])と[[ゲシュタポ]](国家秘密警察)は、{{要出典範囲|「(軍事兵器の開発に優先して)フォン・ブラウンが[[地球]]を回る軌道に乗せるロケットや、おそらく[[月]]に向かうロケットを建造することについて語ることをやめない」、として|date=2017年7月}}フォン・ブラウンを国家反逆罪で逮捕した。{{要出典範囲|フォン・ブラウンの罪状は、「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、個人的な願望について語りすぎる」、というものであった。|date=2017年7月}}
ドルンベルガーは、「もしフォン・ブラウンがいなければV-2は完成しない、そうなればあなたたちは責任を問われるだろう」とゲシュタポを説得し、フォン・ブラウンを釈放させようとした。しかし、それでもゲシュタポは許そうとせず、最後はヒトラー自らがゲシュタポをとりなし、ようやくフォン・ブラウンは解放された。そのときヒトラーは「私でも彼を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。<ref>[[武田知弘]]「ナチスの発明」45ページ</ref>
== アメリカへの亡命 ==
[[1945年]]5月にドイツは連合国軍に敗北することが確実な状況となり、フォン・ブラウンはペーネミュンデに戻ると直ちに彼の計画スタッフを招集し、どの国に亡命すべきか、どうやって亡命するかを決めるよう求めた。科学者たちのほとんどは[[ロシア人]]を恐れ、[[フランス人]]は彼らを奴隷のように扱うだろうし、[[イギリス]]にはロケット計画を賄うだけの十分な資力がないと感じていた。残ったのが[[アメリカ合衆国]]である。
偽造した書類で列車を盗み出した後、フォン・ブラウンは[[アメリカ軍]]に投降するためにペーネミュンデから500人を連れ出した。その頃SSは、ドイツ軍の管理から逃れて記録を坑道などに隠しアメリカ軍と接触を試みているドイツ人技術者を、殺すよう命令を受けていた。
ドイツが連合国軍に対し降伏した後、最終的にロケットチームはアメリカの民間人を見つけ投降した。技術者たちの重要性を知ると、アメリカ軍は即座にペーネミュンデと[[ノルトハウゼン]]に向かい、残されたV-2ロケットとV-2の部品を全て捕獲して2つの施設を爆破破壊した。アメリカ人は貨車300両分以上のV-2用スペアパーツをアメリカに持っていった。しかしフォン・ブラウンの生産チームの大半は間もなく進駐してきたソ連[[赤軍]]の[[捕虜]]になった。
[[5月5日]]、フォン・ブラウンは{{要出典|範囲=当時アメリカ軍の大佐|date=2022年9月}}で後に[[中国の宇宙開発]]を担う[[銭学森]]から最初の尋問を受け<ref name=xuesen2009>{{cite web|url = http://www.independent.co.uk/news/obituaries/qian-xuesen-scientist-and-pioneer-of-chinas-missile-and-space-programmes-1819724.html|title = Qian Xuesen: Scientist and pioneer of China's missile and space programmes|publisher = [[インデペンデント]]|language =|date=NOV 13, 2009|accessdate=2017-06-02}}</ref><ref>{{cite web|url = http://www.thespacereview.com/article/1035/1|title = A dragon in winter|publisher = Space Reviw|language =|date=2008-01-04|accessdate=2018-10-17}}</ref>、尋問の過程でフォン・ブラウンが作成した報告書「ドイツにおける液体燃料ロケット開発の調査とその将来の展望」は後の[[アメリカ合衆国の宇宙開発]]のロードマップを示すものだった<ref>Chang, Iris (1996). Thread of the Silkworm. Basic Books. p.112 ISBN 978-0-465-00678-6.</ref>。
[[画像:Project Paperclip Team at Fort Bliss.jpg|400px|thumb|ペーパークリップ作戦で渡米したドイツ人工学者達。最前列右から7番目のポケットに手を入れている人物がフォン・ブラウン博士。フォート・ブリスにて。]]
[[6月20日]]に、アメリカの[[コーデル・ハル]]国務長官はフォン・ブラウンのロケット専門家達を移送することを承認した。この移送は[[ペーパークリップ作戦]]として知られる。その理由は、多数のドイツ人技術者が陸軍兵器廠に配属され、合衆国に来るよう選ばれた者は紙クリップで印付けられたからである。彼らが移送されたのは[[デラウェア州]][[ウィルミントン (デラウェア州)|ウィルミントン]]のすぐ南方にある[[ニューカッスル空港|ニューカッスル空軍基地]]であった。その後[[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン市]]を経由し、海路{{仮リンク|ボストン湾|en|Boston Harbor}}の{{仮リンク|フォートストロング|en|Fort Strong}}にある{{仮リンク|陸軍情報部隊 (アメリカ合衆国)|label=陸軍情報部隊|en|Military Intelligence Corps (United States Army)}}の駐屯地に連れて行かれた。後に、フォン・ブラウンを除いた専門家たちは[[メリーランド州]]の[[アバディーン性能試験場]]に移され、そこでペーネミュンデの文書を整理させられた。これらの文書があれば、工学者たちが中断していたロケット実験を続けられるのであった。
最終的に、陸軍兵器技術情報チームの本部長[[オルガー・トフトイ|オルガー・N・トフトイ]]陸軍大佐の副官であったジェイムズ・P・ハミル陸軍少佐の命令で、フォン・ブラウンと126人のペーネミュンデの技術者達は、[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]]のすぐ北にある大きな陸軍基地[[テキサス州]]{{仮リンク|フォートブリス|en|Fort Bliss}}で、彼らに与えられた新たな家に移された。彼らは合衆国で新生活を始めるにあたり、奇妙な状況にあることに気づいた。彼らは軍人の護衛なしにフォートブリスを出ることができなかったことから、時には自らのことを「平時捕虜」(Prisoners of '''Peace''')――戦時捕虜(Prisoners of '''War''')に掛けた洒落――と呼んだ。
フォートブリスに滞在中、彼らは産・軍・学の要員に複雑なロケットや誘導ミサイルに関する訓練と、ドイツから[[ニューメキシコ州]][[ホワイトサンズ性能試験場]]に運ばれてきた多数のV-2ロケットを修理し、組立て、そして打ち上げる手伝いをする仕事を課せられた。さらに、彼らは軍事と研究へ応用するロケットが持つ将来的な可能性について学ぶことになった。
== アメリカ時代 ==
=== 結婚 ===
この時期、フォン・ブラウンは従妹で18歳の{{仮リンク|マリア・フォン・クヴィストルプ|en|Maria Luise von Quistorp}}に求婚する手紙を書いた。[[1947年]][[3月1日]]、彼はマリアと、彼女の住む地域の[[ルーテル教会|ルター派教会]]で結婚式を挙げた。[[1948年]]12月に最初の娘アイリスがフォートブリスの陸軍病院で誕生した。
[[1950年]]、フォン・ブラウンと彼のチームは[[アラバマ州]][[ハンツビル|ハンツヴィル]]に移され、そこがフォン・ブラウンの以後20年間の住みかとなった。
=== レッドストーンロケット ===
[[File:Walt Disney and Dr. Wernher von Braun - GPN-2000-000060.jpg|thumb|240px|ウォルト・ディズニー(左)とともに]]
[[1950年]]から[[1956年]]にかけ、フォン・ブラウンは[[レッドストーン兵器廠]]で陸軍のロケット開発チームを率いて、兵器廠の名にちなんだ[[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]]ロケットを生んだ。
=== 宇宙計画への関心 ===
[[1952年]]、フォン・ブラウンは、なおもロケットが平和的な探検に使用される世界を夢見て[[宇宙ステーション]]の概念を「{{仮リンク|コリアーズ|en|Collier's}}」誌({{lang|en|Collier's}})に発表した。この宇宙ステーションは直径75mで、高度1700kmの軌道に置かれ、人工重力を発生するために自転するとされた。彼の予見では、ここは月探検のための理想的な出発点のはずだった。
フォン・ブラウンはまた、[[ウォルト・ディズニー]]率いる[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー社]]の宇宙探検に関する3本のテレビ映画の制作に技術監督として参加した。フォン・ブラウンはその後何年も、未来の宇宙計画に対してより多数の公衆の興味を惹くことを望んで、ディズニー社との仕事を続けた。
=== ジュピターCロケット ===
[[アメリカ陸軍弾道ミサイル局|陸軍弾道ミサイル局(ABMA)]]の開発オペレーション部門の長として、フォン・ブラウンのチームはレッドストーンを改良した[[ジュピターC]]ロケットを開発した。ジュピターCは[[1958年]][[1月31日]]、西側諸国として初めての[[人工衛星]][[エクスプローラー1号]]の打ち上げに成功した。この出来事は米国の宇宙計画の誕生を告げる物であった。
=== NASA時代 ===
[[Image:S-IC engines and Von Braun.jpg|thumb|240px|背後はサターンV型ロケット第一段エンジン]]
[[1958年]][[7月29日]]には[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)が法律上成立した。翌日、50番目のレッドストーンロケットが核実験[[ハードタック作戦]]の一部として[[太平洋|南太平洋]]の[[ジョンストン島]]から成功裏に打ち上げられた。
2年後、NASAはアラバマ州[[ハンツビル|ハンツヴィル]]に[[マーシャル宇宙飛行センター]]を新設し、フォン・ブラウンと彼の開発チームをレッドストーン兵器廠からNASAに移籍させた。フォン・ブラウンは[[1960年]]から[[1970年]]まで同センターの初代所長を務めた。
マーシャル宇宙飛行センターの大きな初仕事は、1960年に就任した[[ジョン・F・ケネディ]][[大統領]]の指揮下で計画がスタートした、[[宇宙飛行士]]を月に運べる[[サターンロケット]]の開発であった。
フォン・ブラウンの子供時代の方針であった「時代を動かすこと」とその後の夢となっていた人類が月面を踏む手助けをすることは、[[1969年]][[7月16日]]、マーシャル宇宙飛行センターが開発した[[サターンVロケット]]が[[アポロ11号]]の搭乗員を打ち上げた時に現実のものとなった。[[アポロ計画]]の過程で6組の宇宙飛行士チームが月面を探検した。
[[1970年]]フォン・ブラウンと家族はハンツヴィルから[[ワシントンD.C.]]に移り、NASA本部の計画担当副長官補に任命され、[[テクノクラート]]としての役割を果すが、アポロ計画後、フォン・ブラウンは彼の将来の宇宙飛行の方針がNASAのものとは違うと感じ、[[1972年]]6月にNASAを辞した。彼は[[メリーランド州]][[ジャーマンタウン (メリーランド州)|ジャーマンタウン]]にある[[フェアチャイルド (航空機メーカー)|フェアチャイルド]]社の副社長に就任し、{{仮リンク|米国宇宙研究所|en|National_Space_Institute}}(1987年に設立された現在の{{仮リンク|米国宇宙協会|en|National_Space_Society}}の前身)を創立し振興する活動を行った。
== 死去 ==
宇宙協会の活動の頂点で、フォン・ブラウンは自分が[[悪性腫瘍|癌]]であることを知った。手術を受けたが癌は進行し、[[1976年]][[12月31日]]にフェアチャイルド社の辞職を余儀なくされた。[[1977年]][[6月16日]]、[[バージニア州]][[アレクサンドリア (バージニア州)|アレクサンドリア]]にて死去。{{没年齢|1912|3|23|1977|6|16}}。
== 評価 ==
{{出典の明記|date=2021年2月|section=1}}
[[File:Kennedy with von Braun.jpg|thumb|240px|ジョン・F・ケネディ大統領とともに]]
フォン・ブラウンは[[第二次世界大戦]]中は、[[ナチス・ドイツ|ナチス党政権下のドイツ]]のために、[[V2ロケット|V2号ミサイル]]の製作を指揮し、[[ナチス党]]員、[[親衛隊少佐]]でもあった。
戦後渡ったアメリカ合衆国では、その経歴のために様々な非難を受けたが、「[[ナチズム]]には前から反対だった」「[[宇宙]]に行く為なら[[悪魔]]に魂を売り渡してもよいと思った」と弁明した。
[[第二次世界大戦]]中は、[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の勝利のために[[弾道ミサイル]]を開発し、ドイツの敗戦後には、第二次世界大戦中にドイツの敵国であったアメリカ合衆国の国家の威信のために[[ロケット]]を作るという変節は、両国の評論家よりしばしば非難される。
風刺家でシンガーソングライターの[[トム・レーラー]]は『[[ヴェルナー・フォン・ブラウンの歌]]』という曲を作り、フォン・ブラウンのことを「忠誠が便宜に支配された男」("''A man whose allegiance is ruled by expedience''")と評している。とはいえ、人生をロケットの研究にかけ、ドイツやアメリカのような一部の国家の発展にではなく、[[アフリカ単一起源説|グレートジャーニー]]以来の生息域の拡大という、[[ホモ・サピエンス]]という生物種すなわち人類全体の発展に忠義を尽くしたともいえ、またフォン・ブラウンの西側諸国の科学・技術界における貢献は大きく、[[1962年]]に[[エリオット・クレッソン・メダル]]、[[1969年]]に[[ヴィルヘルム・エクスナー・メダル]]、[[1975年]]に[[アメリカ国家科学賞]]を受賞している。
自伝を書いた作家によると「宇宙依存症」<ref>[[フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿]]</ref>。
== 著作 ==
*[[Das Marsprojekt]]
== 演じた人物 ==
* [[:en:Richard Dillane|リチャード・ディレイン]] - 『[[宇宙へ 〜冷戦と二人の天才〜]]』
== 注釈・出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[西條寿雄]] 『ロケットと火薬の歴史書:その起源から近代ロケットの誕生まで』イーブックスパブリッシング 、 2014年 ASIN B00JT3OZ5A
== 関連項目 ==
{{Commons|Wernher von Braun}}
* [[ロケット・ミサイル技術の年表]]
* 『[[宇宙へ 〜冷戦と二人の天才〜]]』
* [[ヴェルナー・フォン・ブラウンの歌]]
* [[セルゲイ・コロリョフ]]
* [[銭学森]]
* [[宇宙開発]]
* [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]
* [[ロケット]]
* [[テクノクラート]]
* [[ディズニーランド]]
* [[遠い空の向こうに]](映画)
* [[フォン・ブラウン市]] - アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』に登場する架空の[[月面基地|月面都市]]。命名はフォン・ブラウンの名に由来する。
* [[プラネテス]](漫画、アニメ) - 木星往還船「フォン・ブラウン号」が登場する。またフォン・ブラウンをモチーフとした「ウェルナー・ロックスミス」なるキャラクターが登場する。
* [[三輪修平]]著「宇宙への飛翔」第三文明社刊『月刊第三文明』2012年1月号 No.625 - 2012年4月号 No.628に連載
* [[マッドサイエンティスト]]
* [[インディ・ジョーンズと運命のダイヤル]]
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[[Category:ヴェルナー・フォン・ブラウン|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の宇宙工学者]]
[[Category:ドイツの宇宙工学者]]
[[Category:エリオット・クレッソン・メダルの受賞者]]<!-- 1962年 -->
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11,470 |
国際連合開発計画
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国際連合開発計画(こくさいれんごうかいはつけいかく、英語: United Nations Development Programme、略称: UNDP)は、世界の開発とそれに対する援助のための国際連合総会の補助機関である。1965年設立。本部はニューヨーク。常設駐在所は世界132箇所。
開発途上国の経済、社会的発展のために、プロジェクト策定や管理を主に行っている。その中には、資金や技術援助を与えるための調査も含まれる。所得向上や健康改善、さらには民主的な政治、環境問題とエネルギーなど、あらゆる開発に関するプロジェクトが扱われる。実際のプロジェクト実施は、多くの組織や団体、機関などとの連携で行われる。
UNDPの活動に密接に関連する、国際連合ボランティア(UNV)、国際連合資本開発基金(英語版)(UNCDF)、国際連合婦人開発基金(UNIFEM)の3つは、UNDPに委託されている。
執行理事会は、36ヵ国で構成され、3年の任期で国際連合経済社会理事会より選出される。
1990年以降、毎年各国の開発進捗状況の調査結果をまとめた『人間開発報告書』が出版されている。
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'''国際連合開発計画'''(こくさいれんごうかいはつけいかく、{{lang-en|United Nations Development Programme}}、略称: '''UNDP''')は、世界の開発とそれに対する援助のための[[国際連合総会]]の補助機関である。[[1965年]]設立。本部は[[ニューヨーク]]。常設駐在所は世界132箇所。
[[開発途上国]]の経済、社会的発展のために、プロジェクト策定や管理を主に行っている。その中には、資金や技術援助を与えるための調査も含まれる。[[所得]]向上や[[健康]]改善、さらには[[民主主義|民主的]]な[[政治]]、[[環境問題]]と[[エネルギー]]など、あらゆる開発に関するプロジェクトが扱われる。実際のプロジェクト実施は、多くの組織や団体、機関などとの連携で行われる。
UNDPの活動に密接に関連する、国際連合ボランティア(UNV)、{{仮リンク|国際連合資本開発基金|en|United Nations Capital Development Fund}}(UNCDF)、[[国際連合婦人開発基金]](UNIFEM)の3つは、UNDPに委託されている<ref name="kiso">『国際連合の基礎知識』,国際連合広報局,関西学院大出版会,P73-74,2009年, ISBN 978-4-86283-042-5</ref>。
執行理事会は、36ヵ国で構成され、3年の任期で[[国際連合経済社会理事会]]より選出される。
[[1990年]]以降、毎年各国の開発進捗状況の調査結果をまとめた『[[人間開発報告書]]』が出版されている。
== 親善大使 ==
* [[紺野美沙子]] - 女優、エッセイスト(1998年)
* [[ロナウド]](2000年)
* [[ジネディーヌ・ジダン]](2001年)
* [[マリア・シャラポワ]](2007年)
* [[ディディエ・ドログバ]](2007年)
* [[ホーコン (ノルウェー王太子)]](2007年)
* [[アントニオ・バンデラス]](2010年)
== 日本人職員 ==
*[[岡井朝子]] 総裁補兼危機局長
*[[大塚玲奈]] 環境専門官
=== 元職員 ===
*[[中満泉]] 総裁補兼危機対応局長
*[[丹羽敏之]] 総裁補兼財務管理局長
*[[石榑利光]] 東京事務所長
*[[石弘之]] 上級顧問
*[[弓削昭子]] 総裁特別顧問、駐日代表
*[[齋藤雅男]] エグゼクティブアドバイザー
*[[長谷川祐弘]]
*[[西本伴子]]
*[[堀部伸子]]
*[[持田繁]]
*[[山脇啓造]]
*[[大村真樹子]]
*[[秋月弘子]]
*[[片田さおり]]
*{{仮リンク|緒方夕佳|en|Yuka Ogata}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[人道]]
* [[人間開発報告書]]
* [[国連国際学校ハノイ校]]
* [[ACジャパン]]([[2002年]]と[[2003年]]の公共広告機構時代、ロナウドとジネディーヌ・ジダンをCM出演させた。内容はサッカーの後に「手を差し伸べる」という関係でバスケットボールを行うというものだった)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|United Nations Development Programme}}
* [https://www.undp.org/ United Nations Development Programme] {{en icon}}
* [https://www.jp.undp.org/ 国連開発計画 駐日代表事務所]
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/undp/ 国連開発計画(UNDP)] - 外務省
* {{Kotobank|国連開発計画}}
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{{国際連合}}
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[[Category:国際連合開発計画|*]]
[[Category:国際連合総会の補助機関|かいはつけいかく]]
[[Category:1965年設立の組織]]
[[Category:ニューヨーク市の組織]]
[[Category:ウ・タント]]
[[Category:ACジャパン]]
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稲毛海岸駅
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稲毛海岸駅(いなげかいがんえき)は、千葉県千葉市美浜区高洲三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)京葉線の駅である。駅番号はJE 16。
元々は埋立地であったため、地名はなく、駅名の仮称は稲毛駅に因み「新稲毛」だった。千葉トヨタ自動車やカメラのきむら新稲毛店、京葉銀行・千葉銀行の新稲毛支店などは仮駅名の名残りで、開業後の駅名も「新稲毛」になるものと見越して使用していたものである。また、駅付近の高架にもその名残りがある。また、当駅の北側に稲毛海岸という地名が実在する。高架下にはかつてパターゴルフ場が存在していた。
なお、千葉都市モノレールを穴川駅から延伸させ、稲毛駅を経由して当駅に乗り入れる構想があった。しかし費用対効果が低いとして、2019年9月にこの計画は廃止となった。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅。高架下には駅舎がある他、駅ビル「ペリエ稲毛海岸」がある。外観は海岸の海をイメージした波模様があしらわれている。
千葉ステーションビルが駅業務を受託している新浦安営業統括センター(新浦安駅)管理の業務委託駅。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝は遠隔対応のため改札係員は不在となる。自動券売機(多機能券売機と指定席券売機を併設)・自動改札機・自動精算機が設置されている。かつては管理駅として、検見川浜駅と千葉みなと駅を管理していた。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2008年3月11日に放送装置がベルからメロディに更新された。メロディはテイチク製を使用している。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は18,519人である。
開業以後の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
海浜ニュータウン稲毛地区の中心である。
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稲毛海岸駅(いなげかいがんえき)は、千葉県千葉市美浜区高洲三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)京葉線の駅である。駅番号はJE 16。
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{{駅情報
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|駅名 = 稲毛海岸駅
|画像 = Inagekaigan Station, Keiyō Line 2016-03-29.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 南口(2016年3月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|37|46.2|N|140|4|26|E}}}}
|よみがな = いなげかいがん
|ローマ字 = Inagekaigan
|副駅名 =
|前の駅 = JE 15 [[検見川浜駅|検見川浜]]
|駅間A = 1.6
|駅間B = 3.7
|次の駅 = {{Refnest|group="*"|この間に[[新港信号場]]有り(当駅から1.5 km先)。}}[[千葉みなと駅#JR東日本|千葉みなと]] JE 17
|電報略号 = ナイ
|駅番号 = {{駅番号r|JE|16|#c9252f|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#c9252f|■}}[[京葉線]]
|キロ程 = 35.3
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|所在地 = [[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]高洲三丁目24-1
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|駅構造 = [[高架駅]]
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|開業年月日 = [[1986年]]([[昭和]]61年)[[3月3日]]<ref name="sone45">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=45号 埼京線・八高線・川越線・武蔵野線・京葉線 |date=2010-06-06 |page=27 }}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />18,519
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="pr20201119"/><ref name="outsourcing"/>
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=147_231102" />}}
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}}
[[File:Inage-Kaigan Station north.jpg|thumb|北口(2008年9月)]]
'''稲毛海岸駅'''(いなげかいがんえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]高洲三丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[京葉線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JE 16'''。
== 歴史 ==
元々は[[埋立地]]であったため、地名はなく、駅名の仮称は[[稲毛駅]]に因み「'''新稲毛'''」だった。[[トヨタ店|千葉トヨタ自動車]]や[[カメラのきむら]]新稲毛店、[[京葉銀行]]・[[千葉銀行]]の新稲毛支店などは仮駅名の名残りで、開業後の駅名も「新稲毛」になるものと見越して使用していたものである。また、駅付近の高架にもその名残りがある。また、当駅の北側に稲毛海岸という地名が実在する。高架下にはかつてパターゴルフ場が存在していた<ref name="kotsu19961022"/>。
なお、[[千葉都市モノレール]]を[[穴川駅 (千葉県)|穴川駅]]から延伸させ、稲毛駅を経由して当駅に乗り入れる構想があった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/a11vision-all.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210711010012/https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/a11vision-all.pdf|title=千葉市総合交通ビジョン 交通政策の基本指針|pages=40 - 41|date=2007-11|archivedate=2021-07-11|accessdate=2021-07-11|publisher=千葉市|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。しかし費用対効果が低いとして、2019年9月にこの計画は廃止となった<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/r01_monorail_drawing_verification_results.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210309125606/https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/r01_monorail_drawing_verification_results.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千葉都市モノレール延伸計画について|publisher=千葉市都市局都市部交通政策課|date=2019-09-04|accessdate=2021-07-11|archivedate=2021-03-09}}</ref>。{{Main|千葉都市モノレール稲毛駅・稲毛海岸駅への延伸構想}}
=== 年表 ===
* [[1986年]]([[昭和]]61年)[[3月3日]]:[[日本国有鉄道]](国鉄)京葉線の駅として開業<ref name="sone45"/>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone45"/>。
* [[1988年]](昭和63年):駅高架下にパターゴルフ場がオープン<ref name="kotsu19961022">{{Cite news |title=稲毛海岸駅ビルが開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-10-22 |page=3 }}</ref>。
* [[1996年]]([[平成]]8年)[[10月18日]]:パターゴルフ場跡地に駅ビル「いちばん鮮」が開業<ref name="kotsu19961022"/>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-28|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月11日]]:[[発車メロディ]]を導入。
* [[2012年]](平成26年)
** [[9月24日]]:「いちばん鮮」が閉店<ref>{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/101068|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201031114814/https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/101068|title=駅ビル「ペリエ」に刷新 鮮度重視の食品スーパー JR稲毛海岸駅|newspaper=千葉日報|date=2012-09-15|accessdate=2020-10-31|archivedate=2020-10-31}}</ref>。
** [[11月30日]]:「いちばん鮮」跡に「[[千葉ステーションビル|ペリエ]]稲毛海岸」が開業<ref name="chibanippo20121129">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/112103|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201031114628/https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/112103|title=本物志向の食料品提供 新規6店誘致、あすオープン ペリエ稲毛海岸|newspaper=千葉日報|date=2012-11-29|accessdate=2020-10-31|archivedate=2020-10-31}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[10月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="closed">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=147|title=駅の情報(稲毛海岸駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2020-09-30|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200930060024/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=147|archivedate=2020-09-30}}</ref><ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35c9764a22fe00e9f1e5d.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613143456/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35c9764a22fe00e9f1e5d.pdf|title=営業施策について提案を受ける!|archivedate=2020-06-13|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-13|publisher=JR東労組千葉地方本部|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
** [[12月1日]]:業務委託化<ref name="pr20201119">{{Cite press release|和書|title=「ペリエ」を運営する千葉ステーションビルが駅運営を受託 ペリエステーションから始まる新たな京葉沿線のくらしづくり|publisher=千葉ステーションビル|date=2020-11-19|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1605749465021886400.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201119221032/https://www.perie.co.jp/files/upload/1605749465021886400.pdf|archivedate=2020-11-19}}</ref><ref name="news20201203">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/745154|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210307160243/https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/745154|title=「ペリエ」の知見で駅運営 京葉線3駅 コロナで客減、魅力向上へ|newspaper=千葉日報|date=2020-12-03|accessdate=2021-03-07|archivedate=2021-03-07}}</ref><ref name="outsourcing"/>。
* [[2023年]](令和5年)12月1日:[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]を導入<ref name="StationCd=147_231102">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=147|title=駅の情報(稲毛海岸駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-11-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102104455/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=147|archivedate=2023-11-02}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]。高架下には駅舎がある他、駅ビル「ペリエ稲毛海岸」がある<ref name="chibanippo20121129"/>。外観は海岸の海をイメージした波模様があしらわれている。
[[千葉ステーションビル]]が駅業務を受託している新浦安営業統括センター([[新浦安駅]])管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="pr20201119"/><ref name="news20201203" /><ref name="outsourcing"/>。[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝は遠隔対応のため改札係員は不在となる<ref name="StationCd=147_231102" />。[[自動券売機]](多機能券売機と[[指定席券売機]]を併設<ref name="StationCd=147_231102" />)・[[自動改札機]]・[[自動精算機]]が設置されている。かつては管理駅として、[[検見川浜駅]]と[[千葉みなと駅]]を管理していた。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan=2| [[File:JR JE line symbol.svg|20px|JE]] 京葉線
|style="text-align:center"|下り
|[[千葉みなと駅|千葉みなと]]・[[蘇我駅|蘇我]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[南船橋駅|南船橋]]・[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/147.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Keiyo-Line Inagekaigan Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
JR Keiyo-Line Inagekaigan Station Platform.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
2008年3月11日に放送装置がベルからメロディに更新された。メロディは[[テイチク]]製を使用している。
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]]
|ドリームタイム
|-
!2
|美しき丘
|}
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''18,519人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
開業以後の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1985年(昭和60年)
|<ref group="備考">1986年3月3日開業。開業日から同年3月31日までの計29日間を集計したデータ。</ref>16,326
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和61年)]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|8,838
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和62年)]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|10,416
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和63年)]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|12,334
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成元年)]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|14,465
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|17,190
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|18,922
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|20,111
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|20,840
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|21,377
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|21,519
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|21,801
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|21,953
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|
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|2021年(令和{{0}}3年)
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|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[海浜ニュータウン]]稲毛地区の中心である。
{{columns-list|2|
* [[千葉市図書館|千葉市美浜図書館]]
* 千葉市高洲コミュニティセンター
* [[千葉市消防局#消防署|美浜消防署 高浜出張所]]
* 高洲公園
* 千葉市立高洲第三小学校
* 千葉市立高洲第三保育所
* [[千葉市立高浜中学校]]
* 千葉市立高浜海浜小学校
* 稲毛海岸駅前[[郵便局]]
* 千葉高浜郵便局
* 千葉高洲郵便局
* 千葉稲毛海岸郵便局
* 千葉真砂一郵便局
* マリンピア
** [[イオン (店舗ブランド)|イオン]] マリンピア店
** [[イオングループの商業ブランド|イオンマリンピア専門館]]
** [[ブックオフコーポレーション|ブックオフ]]・[[ハードオフコーポレーション|ハードオフ・ホビーオフ]]
** [[ノジマ]]
** [[タム・タム]]
* [[マツモトキヨシ]]稲毛海岸駅前店
* [[ベイマークスクエア]]
* [[稲毛海浜公園]]
** [[千葉市花の美術館]]
** [[稲毛海浜公園球技場]]
* [[東京歯科大学]]千葉キャンパス
* [[アクアリンクちば]] - [[アイススケート]]場・[[温浴施設]]
* [[千葉市立稲毛高等学校・附属中学校]]
|}}
<gallery>
AEON Marinpia 190813.jpg|[[イオングループの商業ブランド|イオンマリンピア]]
Bay mark square city court tower 20190813.jpg|[[ベイマークスクエア]]シティコートタワー
Floral Museum of Chiba2.jpg|[[千葉市花の美術館]]
</gallery>
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
!colspan="3"|稲毛海岸駅
|-
!rowspan="2"|0
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[京成バス]]|[[京浜急行バス]]|[[ちばシティバス]]|[[東京空港交通]]}}
|[[京成バス#羽田空港発着|'''高速''']]:[[東京国際空港|羽田空港]]
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|ちばシティバス|[[成田空港交通]]}}
|[[京成バス#成田空港発着便|'''高速''']]:[[成田国際空港|成田空港]]
|-
!rowspan="3"|1
|style="text-align:center;"|京成バス
|{{Unbulleted list|[[京成バス長沼営業所#稲毛海岸線|'''稲海01''']]:京成団地|'''稲海02'''・[[京成バス長沼営業所#あやめ台団地線|'''稲03''']]:草野車庫}}
|-
|style="text-align:center;"|[[小湊鉄道]]
|[[小湊鉄道塩田営業所#塩田本所 3|'''千42''']]:[[千葉駅]]
|-
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[千葉海浜交通]]
|[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]] / [[千葉市立海浜病院|海浜病院]] / 高浜車庫 / 千葉駅
|-
!rowspan="2"|2
|[[稲毛駅]] / アクアリンクちば / 海浜公園入口 / [[千葉県立磯辺高等学校|磯辺高校]]
|-
|style="text-align:center;"|ちばシティバス
|{{Unbulleted list|[[ちばシティバス#プラウドシティ線|'''稲52'''・'''稲56''']]:稲毛駅|'''稲54''':ルネグランマークス}}
|-
!3
|style="text-align:center;"|千葉海浜交通
|稲毛駅
|-
!4・5
|
|稲毛駅
|-
!rowspan="2"|-
|style="text-align:center;"|[[あすか交通]]
|[[あすか交通#稲毛海岸線|ベイタウン循環]]
|-
|style="text-align:center;"|[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]
|畑町ホームランド
|-
!colspan="3"|稲毛海岸駅北口
|-
!-
|style="text-align:center;"|千葉海浜交通
|高浜車庫
|}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JE line symbol.svg|20px|JE]] 京葉線
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速
:::; 通過
:: {{Color|#339966|■}}快速・{{Color|#0099ff|■}}各駅停車
::: [[検見川浜駅]] (JE 15) - '''稲毛海岸駅 (JE 16)''' - ([[新港信号場]]〔旧:[[千葉貨物ターミナル駅]]〕) - [[千葉みなと駅]] (JE 17)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
;JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
;千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Inagekaigan Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=147|name=稲毛海岸}}
{{京葉線}}
{{DEFAULTSORT:いなけかいかん}}
[[Category:千葉市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 い|なけかいかん]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:美浜区の建築物]]
[[Category:1986年開業の鉄道駅]]
[[Category:京葉線]]
|
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藤岡弘、
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藤岡 弘、(ふじおか ひろし、1946年〈昭和21年〉2月19日 - )は、日本の俳優、タレント、武道家、声優、歌手、探検家、実業家。本名は藤岡 邦弘(ふじおか くにひろ)。旧芸名は藤岡 弘(読み同じ)。
1971年から1973年にかけて放送された特撮テレビドラマ『仮面ライダー』の本郷猛役で主演を務め、一躍人気俳優となる。また、日本人として初めて全米映画俳優組合(SAG、現・SAG-AFTRA)のメンバーとなったことでも知られる。2002年(平成14年)に川口浩の後任として「藤岡弘、探検シリーズ」が開始されて以降、“藤岡隊長”が愛称になっている。
愛媛県上浮穴郡久万町(現・久万高原町)出身。松山聖陵高等学校卒業。個人事務所である株式会社SANKIワールドワイド所属。
1946年(昭和21年)2月19日、愛媛県警の警察官で全国的にも知られた柔道家、家伝の流派の古武道である「藤岡流」を継承する武道家でもあった父と、茶道や華道、琴の師範だった母との間に生まれる。当時の生家は駐在所で、近所には四国八十八箇所霊場の第四十四番札所である菅生山 大覚院 大寶寺があり、母はよくお遍路さんに「お接待」を施してもてなしていたのが印象的だったとしている。生まれたばかりのころは病弱で、肺炎を患ったときには「もうダメだろう」と医師から告げられる中、「遺影に...」と写真が撮影されたほどだった。この時は母の献身的な看病で一命を取り留めるが、小学校に上がってからも、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な線の細い子供だった。6歳のころから病弱を心配した父から武道の手ほどきを受け、肉体と精神の修行・鍛練の中、病弱を克服する。少年時代から滝行も経験している。
小学校時代は、父の仕事の都合で転校が多く、よくいじめの対象にされた。そんなある日、我慢できなくなって相手に反撃し、重傷を負わせる。すぐさま母の知るところとなり、帰宅するなり仏壇の前に連れて行かれ、凄まじい形相で「あなたがこれ以上、人様に迷惑をおかけするんだったら、私があなたの命をいただきます。そして私もあなたの後を追います。それでよろしいですか?」と、母子心中も辞さない覚悟を示され、反省を促された。弁解しようとすると「ならぬものはなりません! 先祖の血を汚してはいけません、ちゃんと先祖に謝りなさい!」と、一切の反論を認めなかった。その迫力に、武道の怖さとともに母の本気を知り、猛省したという。また、父との思い出としては、家の道場の掃除を言いつけられ、窓の桟や畳の縁など「手抜き」をして掃除をさぼると、父はそれを見抜き、その場所を指でなぞるとそれを舐め「馬鹿者! お前は自分の心を掃除しているということを忘れたのか! 掃除というのは己の心を掃除することなのだ。心を清らかに、掃除をしたところを舐めてもいいくらいの掃除をお前はしてるのか」と、よく怒鳴られたと述べている。また「一子相伝」とされる家伝の古武道について、「人に見せるな、教えるな、商いにするな」と、特に厳しく申し渡されていたという。
1957年(昭和32年)、小学校6年の時に父が突如失踪。その日から家族の暮らしは貧しさを極め、3度の食事にも事欠き、学校に給食費すら納められない状況に陥る。藤岡はこのころからアルバイトで生活を支える一方、惨めな生活を誰にも相談できず、後年まで父を許すことができなかったと語っている。
1961年、松山聖陵高等学校に入学。柔道部に在籍して主将を務めた。長身でその容姿・容貌が一際目立つこともあり、よく不良にからまれた。ある日、「5人以上はいた」という不良にからまれ、相手の攻撃は全て見切った上で、かわしたり間合いを外したりしていたが、止まらないために堪忍袋の緒が切れて、集団に1人で反撃する(逃げた者もいたが、全て撃退した)。ただ、武道を通じて我慢することや耐えることが日常だったため「堪忍袋の緒は(人より)長いですよ。物凄く我慢強いですよ」と語っている。
1964年に劇団NLT俳優教室に入所。1965年には松竹映画ニューフェイスとして入社。香山美子と都はるみの主演映画『アンコ椿は恋の花』(監督:桜井秀雄)でデビュー。同年、『若いしぶき』(監督:八木美津雄)で初主演。
1970年、アクションドラマ『ゴールドアイ』(日本テレビ系・東映制作)第12話「密売大組織」(5月1日放送分)より、「藤弘」役としてレギュラー出演。のちに『仮面ライダー』で共演する千葉治郎も同じ回からレギュラー入りしている。
1971年(25歳)、特撮テレビドラマ『仮面ライダー』(毎日放送 - NET系・東映制作)に、主人公・本郷猛 / 仮面ライダー役で出演。最高視聴率30%の大ヒットとなり、一躍人気スター俳優となる。この年、五社協定が事実上の崩壊となり、出演決定を契機に松竹との専属契約を正式に打ち切る。
1972年、NHKドラマ『赤ひげ』のオーディションを受けて合格したが、『仮面ライダー』の制作元である東映・毎日放送には無断でのことだったため、トラブルが発生。『赤ひげ』への出演は見送られることになった。藤岡は一時失踪。このことは『仮面ライダー』の第66 - 68話と劇場版『仮面ライダー対じごく大使』の制作に影響を及ぼしている(詳細は『藤岡弘の失踪と制作中断』を参照)。
同年7月1日、ファンクラブ「藤岡弘友の会」が発足。ひと月で5万人が入会したが、会員は子供がほとんどのため会費を多くとることができず赤字運営となり、スポンサーからの寄付金で賄われた。
1973年、12月29日公開の東宝映画『日本沈没』(監督:森谷司郎)で主演。1974年邦画部門興行収入第1位の大ヒットとなる。
1974年、大河ドラマ『勝海舟』の坂本龍馬役に抜擢。大河ドラマではこの作品を含め8作品に出演している。
1977年(31歳)、4月6日からテレビ朝日系でスタートした東映制作の刑事ドラマ『特捜最前線』に桜井哲男(哲夫)警部(第103話より警部補)役でレギュラー出演。途中、他作品への参加のため、一時降板しているが、その後復帰。10年間に及ぶ人気長寿番組となった今作品の中で、二谷英明、本郷功次郎らとともに「番組の顔」的存在として中枢を支えた。
1984年(38歳)、SFサムライ映画『SFソードキル』(制作国:アメリカ、監督:J・ラリー・キャロル)の主演を務め、国際俳優となる。日本人として初めて全米映画俳優組合へ加入する。この映画を見て感激したオーストラリアの総督(オーストラリアの名目上の元首であるエリザベス女王の代理人)は、後に結婚したばかりの藤岡夫妻に対して、新婚旅行先としてオーストラリアに招待したほどであった。
1986年には東京国際ファンタスティック映画祭でヒーロー賞を受賞。1987年、『白い牙』で共演した女優・鳥居恵子と結婚(3年3ヵ月後に離婚)。
これと前後して、本人いわく「最も信頼していた者達の裏切り」に遭い、多額の負債を抱える。また、同時期に健康を害したことでしばらく芸能活動を休止し、一時活動が停滞する事態となった。
1992年、統一教会の信者であると報じられたが、関与はないと語った。この件については「俳優以外の活動」を参照。
1997年、家庭用ゲーム機「セガサターン」のテレビCMでイメージ・キャラクター「せがた三四郎」に起用され、CMコピー「セガサターン、シロ!」とともに大人気となる。11月から1年間オンエアーされたこのCMを契機に本格的に芸能活動を再開。『仮面ライダー』のリバイバルブームも追い風となり、藤岡自身の再評価・本格復帰にもつながった。このセガサターンのCMと翌年のオートレースのCMが、ともにCM大賞を受賞している。
1999年、10月からNHK連続テレビ小説『あすか』に竹内結子演じるヒロインの父親役で出演。11月には「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」に招かれている。
2001年11月(55歳)、24歳年下の一般女性と再婚。同年12月には長女・愛理(天翔愛)が誕生している。
2002年、川口浩の後任として、藤岡が2代目隊長に起用された「藤岡弘、探検隊シリーズ」が開始。
2007年8月23日、知人から融資実態がないにもかかわらず、2億円の抵当権を設定され、民事訴訟を起こされる。最高裁の決定により藤岡への4億5000万円の支払い命令が確定する。
2008年、テレビ愛知 - テレビ東京系『トミカヒーロー レスキューフォース』の劇場版『トミカヒーロー レスキューフォース 爆裂MOVIE マッハトレインをレスキューせよ!』(監督:岩本晶、制作:ドッグシュガー、制作・配給:松竹)では、俳優としての古巣である松竹作品で、レスキューフォースR0こと世界消防庁長官・刑部零次役で出演。「37年ぶりに仮面ライダー以外のヒーローに変身する」として話題となった。この役についても、藤岡自身から「謎の男っぽさや過去の出来事をイメージ」して顔や手の傷、衣装、「変身後は(汚しや傷を入れて)少し古いデザインのスーツに変えてもらえないか」などスタッフに役作りのアイデアが出されている。また『レスキューフォース』の続編である『トミカヒーロー レスキューファイアー』(2009年4月 - 2010年3月、テレビ愛知 - テレビ東京系)でも同じ役を演じた。
2014年1月23日、33年ぶりに『徹子の部屋』にゲスト出演。この中で敬愛する母が2013年の春に103歳で他界したことを報告した。下積み時代には自分の着物を質草にし、『SFソードキル』でのハリウッド進出の際には既に高齢だったにもかかわらず自ら現地に足を運ぶなど、明治生まれの気丈さで藤岡をまさに物心両面で支え続けた。亡くなる直前まで意識が鮮明で「子供のことを考えて生きるように」と藤岡を諭した後、眠るように息を引き取ったという。
同年5月13日、自ら企画したフジテレビ系のドキュメンタリー番組『海を越えた侍たち〜藤岡弘、がブラジルで見つけた日本人の心〜』の取材・収録のため訪伯中、過去5回の訪伯でのボランティア支援で日本とブラジルの国際交流に貢献したことや、日系人社会を正しく伝えるための番組作りなどが評価され、ブラジル連邦議会より「感謝表彰」、名誉下院議員より「大十字勲章」が授与された。
2015年、ベストジーニスト2015(協議会選出部門)を受賞。
2020年、長男・藤岡真威人が俳優デビュー。
1984年(昭和59年)、アメリカ映画『SFソードキル』に出演し、パリ国際ファンタスティック&SF映画祭批評家賞を受賞。日本人として初めて全米映画俳優組合員となった。この出来事がきっかけとなり、「昔の武将は一度"、"を打って決意した。周囲に流されることなく立ち止まり自分を見つめる」という覚悟と、「『我未だ完成せず』との意味を込めて」芸名の最後に“読点”を付けることにした。その一方、「、」には「てんでダメな男」というシャレもかけられているという。
27、28歳のころに、空手の先輩がブラジルで空手の指導を行っていた縁で、ブラジルの軍隊で1か月半ほど訓練を受けたことがある。このとき教えられた銃器の扱いは、後に『野獣死すべし』など映画での銃を取り扱うシーンに活かされた。
お笑いコンビ、とんねるずやダウンタウンのバラエティ番組に出演するようになる。とんねるずは、『オールナイトフジ』で藤岡と初共演した際には狂喜乱舞、『とんねるずのみなさんのおかげです』では『仮面ライダー』のパロディ『仮面ノリダー』を演じる。また、『とんねるずの生でダラダラいかせて』では藤岡とカートレース対決を行っている。ダウンタウンは自身の番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』の1コーナー「藤岡弘と遊ぼう!」で藤岡と共演。鬼ごっこ、ドッジボール、ハンカチ落としなどの遊びを展開している。
世界各地の紛争地帯や被災地などへの救援ボランティアとしても精力的に活動している。1993年の北海道南西沖地震の際には「映画撮影の際にお世話になったので」と水などの援助物資を持てるだけ持って奥尻島に駆けつけ、当時の新聞もこの行動に「仮面ライダーは実在した」と大きく記事になった。また、2011年(平成23年)の東日本大震災の際にも、被災地へ1トンの米を寄付している。
1990年ごろより雑誌、新聞で統一教会との関連性が報道されるようになる。1992年(平成4年)9月、「東京スポーツ」などで「統一教会の信者」と報じられた。詳細は統一教会の名を隠した自己啓発セミナーの広告塔になっていただけであり、本人は全く関与がなかった。
1998年、「梁山泊空手道連盟(代表:富樫宜弘)」を中心に結成された「眞日本武道空手道連盟」・名誉会長に就任。
コーヒー豆などのインターネット販売を行っている(「人物」の項を参照)。
藤岡が上京したときは、養成所に入る予定はあったものの確かな当ては何もなく、泊まる場所もないため上智大学の横の土手で野宿するなどしていた。藤岡は後年のインタビューでこのころを振り返り、たった一人きりで世間と向き合う自身にとっては世間そのものがショッカーのようであったと述べている。
養成所入所後も東京の流れの速さについていくのが精一杯であり、周囲が優秀であったため劣等感を感じていた。
松竹時代は、社風により青春映画のお坊ちゃん役が多く、自身とはかけ離れた役柄に悩んでいた。出演作品には恵まれていたものの、次第に会社から与えられた仕事に甘んじていることや自身の役者としての方向性に疑問を感じるようになり、松竹を離れることを決意した。
当初、藤岡は本郷猛役だけでなく仮面ライダーのコスチュームも着用し、スーツアクターを兼任していた。危険度の高いアクションを除き、トランポリンを使用したアクションやオートバイで階段を登るバイクアクションなどもこなしている。藤岡はスーツアクションを行うことは特別なことではなく当然だと思っていたが、その苦労までは想像できておらず、後年のインタビューでは過酷な撮影ゆえに毎日現場へ向かう際に恐怖を感じていたことを明かしている。第1話の撮影では、マスクをつけてのアクションは自身の息で前が見えなくなり、革製のスーツも動きづらかったが、準備に忙しいスタッフに申し出ることはできなかったことを述べている。
こうして撮影に取り組んでいたが、第9話・第10話では下り坂をバイクで走り下りるシーンでコーナーを曲がる際、たまたま工事中だったために砂利が多い場所で、オーバースピードからスリップし、曲がりきれないまま電柱を支えるワイヤーに突っ込む。その際にワイヤーに足が引っかかってワイヤーが跳ね上がり、そのまま反動でバイクとともに飛ばされるというアクシデントに見舞われる。藤岡は路上を2 - 30メートル転がって動けなくなったが、事故直後はまだ意識があり、背中の後ろの方から肩越しに見えていた自分の左脚を元の位置に戻し、靴が脱げていたために親指が動くかを確認し、かすかに動いたことに安心したところで意識を失ったという。容体は全身打撲のうえに左大腿部の骨が粉砕して筋肉に刺さる複雑骨折の状態で、全治3か月 - 6か月の重傷と診断され、長期休養を余儀なくされる。この事故以降、仮面ライダーシリーズの主演俳優は演出上の一部例外を除いてスーツアクターを兼務することはなくなり、スーツアクターは全面的に大野剣友会やジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・JAE)所属のスタントマンが担当するようになった。
救急搬送後、最初に手術を受けた東京都町田市内の病院は骨の接合手術に関して旧態依然とした技術しか持っておらず、藤岡は同じ病院で手術を受けた患者から「大腿部を複雑骨折して同様の手術を受けて1年ほど入院しているが、まだ完治していない」と聞かされ、車椅子生活すら覚悟した。この状況を知った知人の紹介で、東京都渋谷区千駄ヶ谷(当時)の前田外科病院に転院できることとなったが、当初、最初の病院は転院希望を断り、転院が決定した後も「(転院に関して)当院は一切保証しない」と、移動のためのストレッチャーなどを用意することなく黙視し、カルテやレントゲン写真などの必要な情報提供も拒んだ。前田外科病院で行われた再手術では、ベトナム戦争の傷痍軍人のために開発されたという方法が用いられた。それは筋肉に刺さっていた左脚の骨片を丹念に全て拾い集め、大腿骨の骨髄に金属パイプを通してその周りに骨片を細いワイヤーで巻きつけるというものだった。それまで日本ではほとんど実例がなく、当時の最新技術だったこの手術は無事に成功したが、『仮面ライダー』第1話の放送は病室のベッドで観ざるを得なかった。ギプスが外れると、看護師の眼を盗んで筋肉がすっかり委縮して痩せ細った左脚の筋力強化のため、周囲が寝静まった時間帯にトレーニングを始めるが、その過酷さゆえに夜ごと床には汗だまりができたほか、時には発熱したため、日中になると疲れきって寝込むという「戦い」の日々を数か月送る。そんな当時のことを、藤岡は「看護婦さんとかに『この人は寝てばっかりだなぁ』って思われたのではないかなぁ」と振り返っている。藤岡は後年のインタビューで、このときの体を動かせない苦痛やスタッフに多大な迷惑をかけたという想いで気持ちが先走っていたが、長い思索と心身ともに痛みに堪えなければならないという状況で精神的な成長を遂げることができたと述べている。
ドラマ自体は基本的に2話を同時進行で撮影するため、第9・10話の藤岡の出演シーンはほぼ撮り終わっていた、そこで第11話からのドラマ展開を変更し、本郷猛の登場シーンを減らしたうえで、やむを得ない箇所だけをライブフィルムの使用で補うこととした。
放送開始前の大事故で主演俳優の重傷という事態は、番組の存続に関わる一大事であり、通常であれば即刻番組降板も止むなしという状況に、緊急企画会議では毎日放送側から本郷猛を死亡させる案も出たが、東映プロデューサー・平山亨は「子供たちのオールマイティーの夢を壊すことはできない」としてこれに強硬に反対すると、代案として2号ライダー登場のアイデアを取りまとめ、主役交代を機にこれまでの反省点を一気に修正し、番組をリニューアルすることで継続を決めた。これが功を奏し、番組は第14話から登板した藤岡の劇団NLT時代の同期である佐々木剛演じる一文字隼人 / 仮面ライダー2号の人気で社会現象となるほど、大ヒット作と化した。
『仮面ライダー』での本格復帰は第53話からだが、第40話・第41話にまだ足のケガが完治しない時期にゲスト出演という形で現場復帰を果たし、1971年末の桜島・阿蘇山でのロケに参加する。この時、骨折箇所にはまだ金属パイプと固定用のボルトが入っており、傷口は絆創膏と包帯で抑えた状態だった。主治医からは「下手すると脚のパイプが曲がって抜けなくなるばかりか、一生歩けなくなるかもしれない」と猛反対されたが、藤岡は「この舞台を用意してくれたスタッフのため、それでも構わない」とロケを強行する。ただ、最初の撮影シーンがバイクに乗るスタントシーンで、目の前に事故を起こしたバイクが置かれていた時は「頭が真っ白になった」と語っている。撮影中には足から鉄棒が出かかって出血するなどしていたが、東京へ戻ってすぐレントゲン撮影で曲がっていないことが確認され、無事に除去手術が行われた。回復後の左脚はわずかに長くなってしまい、長年の腰痛の元になってしまったと自伝で述べている。本格復帰前の客演時の藤岡の傷はまだ完全には癒えていなかったが、以前と変わらない演技を見せていた。
大きなアクシデントを乗り越えて『仮面ライダー』で全国的に知名度が上がったものの、藤岡はあまりの人気ぶりに、当初は自分自身がそのイメージで固定されてしまうのを怖れたほどだった。こうした理由もあり、後の仮面ライダーシリーズでは、本郷役での客演が実は少ない。
ただ、本人は自分の役者としての飛躍が『仮面ライダー』をきっかけにしたものであることは当時から忘れておらず、俳優として地歩を築くことに成功した現在では、「『仮面ライダー』は僕の青春でした」と語り、ゲームソフトなどでも本郷を演じている。また、「自分の代わりに怪我をしてくれたアクションチームの裏方のみんなを差し置いて、ヒーロー役だったということで今さら自分だけが表に出るわけにはいかないと思った」とも後年語っていた。
2001年、映画『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』では、本郷とは明示されていないものの警視総監役で出演し、主人公・津上翔一らに「今の俺にできないことをやってくれ」と激励するという、仮面ライダー1号からのメッセージともとれる意味深な台詞で話題となった。
2005年9月、11月11日から13日まで福岡市で開催されたイベント「FUKUOKAヒーローフェスタ2005 国際ヒーロー映画祭」の実行委員長に就任する。イベント前の記者会見では「子供たちに夢と希望と生きる勇気を与えてきたヒーローの復権を訴えたい」と語った。開催期間中に行われた屋外ステージでのセレモニーでは真剣で8本の巻藁を切り落とし、トークショーでは盟友ショッカーO野の進行で往年の映像を交えながら自らの人生を熱く振り返り、最後には「レッツゴー!! ライダーキック」を熱唱した。
2011年4月1日公開の『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』では、1号の声を担当する。声のみとはいえ、映像作品で1号を演じるのはテレビスペシャル『全員集合!7人の仮面ライダー』以来35年ぶりとなった。丸の内TOEIにて行われた舞台挨拶にも登壇してコメントを述べたが、壇上で同じく声の出演となった佐々木と宮内洋(風見志郎 / 仮面ライダーV3 役)がそれぞれ変身ポーズを披露した流れで、観客から「変身ポーズをみせてほしい」とのリクエストが出され始める。藤岡はうつむいて困ったような仕草を見せたが、ちょうど隣にいた1号(のスーツアクター)が機転を利かせ、藤岡に代わってポーズを披露して事なきを得る一幕があった。
2011年に発売された『ウルトラマンVS仮面ライダー』のBD/DVD版では、1993年のビデオ版発売当時には実現できなかった、ハヤタ隊員 / ウルトラマンを演じた黒部進との対談および記者会見の模様が収録された。
2014年3月29日公開の劇場版『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』では、『全員集合!7人の仮面ライダー!!』以来38年ぶりに本郷役を演じた。変身シーンでは「自分の歴史がよみがえり、血が騒いだ。不思議なもので体は覚えていたんですね。演じるというより、本郷はそのままの自分。何とも言えない感動がありました」と感慨深げに感想を語っている。
2016年3月26日公開の映画『仮面ライダー1号』では、本郷役で44年ぶりに出演したうえ、企画から参加した。撮影当時には69歳にしてスタントマンを使わずにアクションを演じており、本編冒頭で暴漢を返り討ちにしている。
2016年3月30日・4月8日に日本テレビで放送されたトーク番組『(秘)荷物!開封バラエティー ビックラコイタ箱』では、「歴代の仮面ライダー俳優」として藤岡が佐野岳(葛葉 紘汰 / 仮面ライダー鎧武 役)や竹内涼真(泊進ノ介 / 仮面ライダードライブ 役)と共に2週に渡って出演し、藤岡については『仮面ライダー1号』や45年前のバイクスタントにまつわる話題、ガンアクション作品や漫画家・村枝賢一との交流にまつわる話題が紹介された。なお、4月8日放送分の最後では、藤岡が佐野と竹内に「仮面ライダーの火を消すんじゃないぞ」と告げている。
2021年7月22日公開の映画セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記にて再び本郷猛/仮面ライダー1号を演じ、さらに同年12月17日公開の映画仮面ライダー ビヨンド・ジェネレーションズでは息子の藤岡真威人も本郷猛/仮面ライダー1号を演じ、親子揃って同じ役を演じる年となった。
1995年11月、愛媛県久万町で新たな2つの小惑星が発見され、2000年(平成12年)3月にそれぞれ「12408 Fujioka(藤岡)」「12796 Kamenrider(仮面ライダー)」と名付けられた。これは、藤岡が久万町出身であることと、『仮面ライダー』に因んだもの。
近年、藤岡の幅広い人気を決定的にしたのはテレビ朝日の『スイスペ!』枠で不定期に放送された「藤岡弘、探検シリーズ」である。もともと同局では1978年(昭和53年)3月から『水曜スペシャル』枠で俳優・川口浩を探検隊長に「川口浩探検隊シリーズ」が放送されており人気番組となったが、1985年(昭和60年)10月に同局の『アフタヌーンショー』で発覚した「やらせリンチ事件」の影響や、川口のがん発病もあり、同年11月に終了。その後、川口が1987年(昭和62年)11月17日に死去したことで自然消滅の状態になっていた。しかし、探検シリーズ復活を希望する声が途絶えないことと、藤岡のワイルドなイメージや以前から旅番組や海外紀行番組を通じて、旅好き・アウトドア好きは知られていたこともあり、藤岡を2代目隊長に起用し2002年(平成14年)12月25日に復活。「藤岡弘、探検隊」はこれまでに6度の探検を行っている。
全6回の平均視聴率(関東)が9.7%と、高視聴率には至らなかったが、これ以降、川口に代わり「隊長といえば藤岡弘、」と広く認知され、パブリック・イメージ、タレント・キャラとして浸透することとなった。バラエティ番組などに出演する際のスタイルとして、サファリ・ルックやサバイバルベストが定番となったのもこのころからである。結局、2005年(平成17年)3月19日の第6弾が事実上の最終作となった。また、2014年現在まで再放送などの機会は得られていない。単発では2009年(平成21年)2月1日に放送された『よゐこの無人島0円生活』(テレビ朝日開局50周年記念番組)内のコーナーとして4年振りに復活している。
また、『シルシルミシルさんデー』(テレビ朝日系)では探検シリーズのパロディとして、藤岡が企業や巷の謎を調査するコーナー「藤岡弘、探検隊」を、また同局の『ナニコレ珍百景』では自然界の珍百景を紹介する「探検珍百景」「ワイルド珍百景」、照英とコンビを組んでの「洞窟珍百景」などで藤岡がリポーターを務めている(どちらも不定期放送)。
『仮面ライダー』でアクションを担当した大野剣友会に対しては、番組上は敵であるショッカーを演じていたが、共にアクションを作り上げた本当の仲間であると述べている。
『特捜最前線』で共演した二谷英明や荒木しげる、東映プロデューサーの平山亨や阿部征司らが死去した際には追悼のコメントを寄せた。2012年10月2日にはスケジュールの合間を縫って、入院中の平山を見舞っており、既に認知症を発症していた平山もこの時は状態が安定し、満面の笑みだったことが伝えられている。
NHK
日本テレビ系列
TBS系列
フジテレビ系列
NET→テレビ朝日系列
テレビ東京
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"text": "藤岡 弘、(ふじおか ひろし、1946年〈昭和21年〉2月19日 - )は、日本の俳優、タレント、武道家、声優、歌手、探検家、実業家。本名は藤岡 邦弘(ふじおか くにひろ)。旧芸名は藤岡 弘(読み同じ)。",
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"text": "1971年から1973年にかけて放送された特撮テレビドラマ『仮面ライダー』の本郷猛役で主演を務め、一躍人気俳優となる。また、日本人として初めて全米映画俳優組合(SAG、現・SAG-AFTRA)のメンバーとなったことでも知られる。2002年(平成14年)に川口浩の後任として「藤岡弘、探検シリーズ」が開始されて以降、“藤岡隊長”が愛称になっている。",
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"text": "愛媛県上浮穴郡久万町(現・久万高原町)出身。松山聖陵高等学校卒業。個人事務所である株式会社SANKIワールドワイド所属。",
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"text": "1946年(昭和21年)2月19日、愛媛県警の警察官で全国的にも知られた柔道家、家伝の流派の古武道である「藤岡流」を継承する武道家でもあった父と、茶道や華道、琴の師範だった母との間に生まれる。当時の生家は駐在所で、近所には四国八十八箇所霊場の第四十四番札所である菅生山 大覚院 大寶寺があり、母はよくお遍路さんに「お接待」を施してもてなしていたのが印象的だったとしている。生まれたばかりのころは病弱で、肺炎を患ったときには「もうダメだろう」と医師から告げられる中、「遺影に...」と写真が撮影されたほどだった。この時は母の献身的な看病で一命を取り留めるが、小学校に上がってからも、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な線の細い子供だった。6歳のころから病弱を心配した父から武道の手ほどきを受け、肉体と精神の修行・鍛練の中、病弱を克服する。少年時代から滝行も経験している。",
"title": "略歴"
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"text": "小学校時代は、父の仕事の都合で転校が多く、よくいじめの対象にされた。そんなある日、我慢できなくなって相手に反撃し、重傷を負わせる。すぐさま母の知るところとなり、帰宅するなり仏壇の前に連れて行かれ、凄まじい形相で「あなたがこれ以上、人様に迷惑をおかけするんだったら、私があなたの命をいただきます。そして私もあなたの後を追います。それでよろしいですか?」と、母子心中も辞さない覚悟を示され、反省を促された。弁解しようとすると「ならぬものはなりません! 先祖の血を汚してはいけません、ちゃんと先祖に謝りなさい!」と、一切の反論を認めなかった。その迫力に、武道の怖さとともに母の本気を知り、猛省したという。また、父との思い出としては、家の道場の掃除を言いつけられ、窓の桟や畳の縁など「手抜き」をして掃除をさぼると、父はそれを見抜き、その場所を指でなぞるとそれを舐め「馬鹿者! お前は自分の心を掃除しているということを忘れたのか! 掃除というのは己の心を掃除することなのだ。心を清らかに、掃除をしたところを舐めてもいいくらいの掃除をお前はしてるのか」と、よく怒鳴られたと述べている。また「一子相伝」とされる家伝の古武道について、「人に見せるな、教えるな、商いにするな」と、特に厳しく申し渡されていたという。",
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"text": "1957年(昭和32年)、小学校6年の時に父が突如失踪。その日から家族の暮らしは貧しさを極め、3度の食事にも事欠き、学校に給食費すら納められない状況に陥る。藤岡はこのころからアルバイトで生活を支える一方、惨めな生活を誰にも相談できず、後年まで父を許すことができなかったと語っている。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1961年、松山聖陵高等学校に入学。柔道部に在籍して主将を務めた。長身でその容姿・容貌が一際目立つこともあり、よく不良にからまれた。ある日、「5人以上はいた」という不良にからまれ、相手の攻撃は全て見切った上で、かわしたり間合いを外したりしていたが、止まらないために堪忍袋の緒が切れて、集団に1人で反撃する(逃げた者もいたが、全て撃退した)。ただ、武道を通じて我慢することや耐えることが日常だったため「堪忍袋の緒は(人より)長いですよ。物凄く我慢強いですよ」と語っている。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1964年に劇団NLT俳優教室に入所。1965年には松竹映画ニューフェイスとして入社。香山美子と都はるみの主演映画『アンコ椿は恋の花』(監督:桜井秀雄)でデビュー。同年、『若いしぶき』(監督:八木美津雄)で初主演。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1970年、アクションドラマ『ゴールドアイ』(日本テレビ系・東映制作)第12話「密売大組織」(5月1日放送分)より、「藤弘」役としてレギュラー出演。のちに『仮面ライダー』で共演する千葉治郎も同じ回からレギュラー入りしている。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "1971年(25歳)、特撮テレビドラマ『仮面ライダー』(毎日放送 - NET系・東映制作)に、主人公・本郷猛 / 仮面ライダー役で出演。最高視聴率30%の大ヒットとなり、一躍人気スター俳優となる。この年、五社協定が事実上の崩壊となり、出演決定を契機に松竹との専属契約を正式に打ち切る。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1972年、NHKドラマ『赤ひげ』のオーディションを受けて合格したが、『仮面ライダー』の制作元である東映・毎日放送には無断でのことだったため、トラブルが発生。『赤ひげ』への出演は見送られることになった。藤岡は一時失踪。このことは『仮面ライダー』の第66 - 68話と劇場版『仮面ライダー対じごく大使』の制作に影響を及ぼしている(詳細は『藤岡弘の失踪と制作中断』を参照)。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "同年7月1日、ファンクラブ「藤岡弘友の会」が発足。ひと月で5万人が入会したが、会員は子供がほとんどのため会費を多くとることができず赤字運営となり、スポンサーからの寄付金で賄われた。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 13,
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"text": "1973年、12月29日公開の東宝映画『日本沈没』(監督:森谷司郎)で主演。1974年邦画部門興行収入第1位の大ヒットとなる。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "1974年、大河ドラマ『勝海舟』の坂本龍馬役に抜擢。大河ドラマではこの作品を含め8作品に出演している。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1977年(31歳)、4月6日からテレビ朝日系でスタートした東映制作の刑事ドラマ『特捜最前線』に桜井哲男(哲夫)警部(第103話より警部補)役でレギュラー出演。途中、他作品への参加のため、一時降板しているが、その後復帰。10年間に及ぶ人気長寿番組となった今作品の中で、二谷英明、本郷功次郎らとともに「番組の顔」的存在として中枢を支えた。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "1984年(38歳)、SFサムライ映画『SFソードキル』(制作国:アメリカ、監督:J・ラリー・キャロル)の主演を務め、国際俳優となる。日本人として初めて全米映画俳優組合へ加入する。この映画を見て感激したオーストラリアの総督(オーストラリアの名目上の元首であるエリザベス女王の代理人)は、後に結婚したばかりの藤岡夫妻に対して、新婚旅行先としてオーストラリアに招待したほどであった。",
"title": "略歴"
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"text": "1986年には東京国際ファンタスティック映画祭でヒーロー賞を受賞。1987年、『白い牙』で共演した女優・鳥居恵子と結婚(3年3ヵ月後に離婚)。",
"title": "略歴"
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"text": "これと前後して、本人いわく「最も信頼していた者達の裏切り」に遭い、多額の負債を抱える。また、同時期に健康を害したことでしばらく芸能活動を休止し、一時活動が停滞する事態となった。",
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"text": "1992年、統一教会の信者であると報じられたが、関与はないと語った。この件については「俳優以外の活動」を参照。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "1997年、家庭用ゲーム機「セガサターン」のテレビCMでイメージ・キャラクター「せがた三四郎」に起用され、CMコピー「セガサターン、シロ!」とともに大人気となる。11月から1年間オンエアーされたこのCMを契機に本格的に芸能活動を再開。『仮面ライダー』のリバイバルブームも追い風となり、藤岡自身の再評価・本格復帰にもつながった。このセガサターンのCMと翌年のオートレースのCMが、ともにCM大賞を受賞している。",
"title": "略歴"
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"text": "1999年、10月からNHK連続テレビ小説『あすか』に竹内結子演じるヒロインの父親役で出演。11月には「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」に招かれている。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "2001年11月(55歳)、24歳年下の一般女性と再婚。同年12月には長女・愛理(天翔愛)が誕生している。",
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"paragraph_id": 23,
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"text": "2002年、川口浩の後任として、藤岡が2代目隊長に起用された「藤岡弘、探検隊シリーズ」が開始。",
"title": "略歴"
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"text": "2007年8月23日、知人から融資実態がないにもかかわらず、2億円の抵当権を設定され、民事訴訟を起こされる。最高裁の決定により藤岡への4億5000万円の支払い命令が確定する。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "2008年、テレビ愛知 - テレビ東京系『トミカヒーロー レスキューフォース』の劇場版『トミカヒーロー レスキューフォース 爆裂MOVIE マッハトレインをレスキューせよ!』(監督:岩本晶、制作:ドッグシュガー、制作・配給:松竹)では、俳優としての古巣である松竹作品で、レスキューフォースR0こと世界消防庁長官・刑部零次役で出演。「37年ぶりに仮面ライダー以外のヒーローに変身する」として話題となった。この役についても、藤岡自身から「謎の男っぽさや過去の出来事をイメージ」して顔や手の傷、衣装、「変身後は(汚しや傷を入れて)少し古いデザインのスーツに変えてもらえないか」などスタッフに役作りのアイデアが出されている。また『レスキューフォース』の続編である『トミカヒーロー レスキューファイアー』(2009年4月 - 2010年3月、テレビ愛知 - テレビ東京系)でも同じ役を演じた。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "2014年1月23日、33年ぶりに『徹子の部屋』にゲスト出演。この中で敬愛する母が2013年の春に103歳で他界したことを報告した。下積み時代には自分の着物を質草にし、『SFソードキル』でのハリウッド進出の際には既に高齢だったにもかかわらず自ら現地に足を運ぶなど、明治生まれの気丈さで藤岡をまさに物心両面で支え続けた。亡くなる直前まで意識が鮮明で「子供のことを考えて生きるように」と藤岡を諭した後、眠るように息を引き取ったという。",
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"text": "同年5月13日、自ら企画したフジテレビ系のドキュメンタリー番組『海を越えた侍たち〜藤岡弘、がブラジルで見つけた日本人の心〜』の取材・収録のため訪伯中、過去5回の訪伯でのボランティア支援で日本とブラジルの国際交流に貢献したことや、日系人社会を正しく伝えるための番組作りなどが評価され、ブラジル連邦議会より「感謝表彰」、名誉下院議員より「大十字勲章」が授与された。",
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"text": "2015年、ベストジーニスト2015(協議会選出部門)を受賞。",
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"text": "2020年、長男・藤岡真威人が俳優デビュー。",
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"text": "1984年(昭和59年)、アメリカ映画『SFソードキル』に出演し、パリ国際ファンタスティック&SF映画祭批評家賞を受賞。日本人として初めて全米映画俳優組合員となった。この出来事がきっかけとなり、「昔の武将は一度\"、\"を打って決意した。周囲に流されることなく立ち止まり自分を見つめる」という覚悟と、「『我未だ完成せず』との意味を込めて」芸名の最後に“読点”を付けることにした。その一方、「、」には「てんでダメな男」というシャレもかけられているという。",
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"text": "27、28歳のころに、空手の先輩がブラジルで空手の指導を行っていた縁で、ブラジルの軍隊で1か月半ほど訓練を受けたことがある。このとき教えられた銃器の扱いは、後に『野獣死すべし』など映画での銃を取り扱うシーンに活かされた。",
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"text": "お笑いコンビ、とんねるずやダウンタウンのバラエティ番組に出演するようになる。とんねるずは、『オールナイトフジ』で藤岡と初共演した際には狂喜乱舞、『とんねるずのみなさんのおかげです』では『仮面ライダー』のパロディ『仮面ノリダー』を演じる。また、『とんねるずの生でダラダラいかせて』では藤岡とカートレース対決を行っている。ダウンタウンは自身の番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』の1コーナー「藤岡弘と遊ぼう!」で藤岡と共演。鬼ごっこ、ドッジボール、ハンカチ落としなどの遊びを展開している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "世界各地の紛争地帯や被災地などへの救援ボランティアとしても精力的に活動している。1993年の北海道南西沖地震の際には「映画撮影の際にお世話になったので」と水などの援助物資を持てるだけ持って奥尻島に駆けつけ、当時の新聞もこの行動に「仮面ライダーは実在した」と大きく記事になった。また、2011年(平成23年)の東日本大震災の際にも、被災地へ1トンの米を寄付している。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1990年ごろより雑誌、新聞で統一教会との関連性が報道されるようになる。1992年(平成4年)9月、「東京スポーツ」などで「統一教会の信者」と報じられた。詳細は統一教会の名を隠した自己啓発セミナーの広告塔になっていただけであり、本人は全く関与がなかった。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "1998年、「梁山泊空手道連盟(代表:富樫宜弘)」を中心に結成された「眞日本武道空手道連盟」・名誉会長に就任。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "コーヒー豆などのインターネット販売を行っている(「人物」の項を参照)。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "藤岡が上京したときは、養成所に入る予定はあったものの確かな当ては何もなく、泊まる場所もないため上智大学の横の土手で野宿するなどしていた。藤岡は後年のインタビューでこのころを振り返り、たった一人きりで世間と向き合う自身にとっては世間そのものがショッカーのようであったと述べている。",
"title": "エピソード"
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"text": "養成所入所後も東京の流れの速さについていくのが精一杯であり、周囲が優秀であったため劣等感を感じていた。",
"title": "エピソード"
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"text": "松竹時代は、社風により青春映画のお坊ちゃん役が多く、自身とはかけ離れた役柄に悩んでいた。出演作品には恵まれていたものの、次第に会社から与えられた仕事に甘んじていることや自身の役者としての方向性に疑問を感じるようになり、松竹を離れることを決意した。",
"title": "エピソード"
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"text": "当初、藤岡は本郷猛役だけでなく仮面ライダーのコスチュームも着用し、スーツアクターを兼任していた。危険度の高いアクションを除き、トランポリンを使用したアクションやオートバイで階段を登るバイクアクションなどもこなしている。藤岡はスーツアクションを行うことは特別なことではなく当然だと思っていたが、その苦労までは想像できておらず、後年のインタビューでは過酷な撮影ゆえに毎日現場へ向かう際に恐怖を感じていたことを明かしている。第1話の撮影では、マスクをつけてのアクションは自身の息で前が見えなくなり、革製のスーツも動きづらかったが、準備に忙しいスタッフに申し出ることはできなかったことを述べている。",
"title": "エピソード"
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"text": "こうして撮影に取り組んでいたが、第9話・第10話では下り坂をバイクで走り下りるシーンでコーナーを曲がる際、たまたま工事中だったために砂利が多い場所で、オーバースピードからスリップし、曲がりきれないまま電柱を支えるワイヤーに突っ込む。その際にワイヤーに足が引っかかってワイヤーが跳ね上がり、そのまま反動でバイクとともに飛ばされるというアクシデントに見舞われる。藤岡は路上を2 - 30メートル転がって動けなくなったが、事故直後はまだ意識があり、背中の後ろの方から肩越しに見えていた自分の左脚を元の位置に戻し、靴が脱げていたために親指が動くかを確認し、かすかに動いたことに安心したところで意識を失ったという。容体は全身打撲のうえに左大腿部の骨が粉砕して筋肉に刺さる複雑骨折の状態で、全治3か月 - 6か月の重傷と診断され、長期休養を余儀なくされる。この事故以降、仮面ライダーシリーズの主演俳優は演出上の一部例外を除いてスーツアクターを兼務することはなくなり、スーツアクターは全面的に大野剣友会やジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・JAE)所属のスタントマンが担当するようになった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "救急搬送後、最初に手術を受けた東京都町田市内の病院は骨の接合手術に関して旧態依然とした技術しか持っておらず、藤岡は同じ病院で手術を受けた患者から「大腿部を複雑骨折して同様の手術を受けて1年ほど入院しているが、まだ完治していない」と聞かされ、車椅子生活すら覚悟した。この状況を知った知人の紹介で、東京都渋谷区千駄ヶ谷(当時)の前田外科病院に転院できることとなったが、当初、最初の病院は転院希望を断り、転院が決定した後も「(転院に関して)当院は一切保証しない」と、移動のためのストレッチャーなどを用意することなく黙視し、カルテやレントゲン写真などの必要な情報提供も拒んだ。前田外科病院で行われた再手術では、ベトナム戦争の傷痍軍人のために開発されたという方法が用いられた。それは筋肉に刺さっていた左脚の骨片を丹念に全て拾い集め、大腿骨の骨髄に金属パイプを通してその周りに骨片を細いワイヤーで巻きつけるというものだった。それまで日本ではほとんど実例がなく、当時の最新技術だったこの手術は無事に成功したが、『仮面ライダー』第1話の放送は病室のベッドで観ざるを得なかった。ギプスが外れると、看護師の眼を盗んで筋肉がすっかり委縮して痩せ細った左脚の筋力強化のため、周囲が寝静まった時間帯にトレーニングを始めるが、その過酷さゆえに夜ごと床には汗だまりができたほか、時には発熱したため、日中になると疲れきって寝込むという「戦い」の日々を数か月送る。そんな当時のことを、藤岡は「看護婦さんとかに『この人は寝てばっかりだなぁ』って思われたのではないかなぁ」と振り返っている。藤岡は後年のインタビューで、このときの体を動かせない苦痛やスタッフに多大な迷惑をかけたという想いで気持ちが先走っていたが、長い思索と心身ともに痛みに堪えなければならないという状況で精神的な成長を遂げることができたと述べている。",
"title": "エピソード"
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"text": "ドラマ自体は基本的に2話を同時進行で撮影するため、第9・10話の藤岡の出演シーンはほぼ撮り終わっていた、そこで第11話からのドラマ展開を変更し、本郷猛の登場シーンを減らしたうえで、やむを得ない箇所だけをライブフィルムの使用で補うこととした。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "放送開始前の大事故で主演俳優の重傷という事態は、番組の存続に関わる一大事であり、通常であれば即刻番組降板も止むなしという状況に、緊急企画会議では毎日放送側から本郷猛を死亡させる案も出たが、東映プロデューサー・平山亨は「子供たちのオールマイティーの夢を壊すことはできない」としてこれに強硬に反対すると、代案として2号ライダー登場のアイデアを取りまとめ、主役交代を機にこれまでの反省点を一気に修正し、番組をリニューアルすることで継続を決めた。これが功を奏し、番組は第14話から登板した藤岡の劇団NLT時代の同期である佐々木剛演じる一文字隼人 / 仮面ライダー2号の人気で社会現象となるほど、大ヒット作と化した。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "『仮面ライダー』での本格復帰は第53話からだが、第40話・第41話にまだ足のケガが完治しない時期にゲスト出演という形で現場復帰を果たし、1971年末の桜島・阿蘇山でのロケに参加する。この時、骨折箇所にはまだ金属パイプと固定用のボルトが入っており、傷口は絆創膏と包帯で抑えた状態だった。主治医からは「下手すると脚のパイプが曲がって抜けなくなるばかりか、一生歩けなくなるかもしれない」と猛反対されたが、藤岡は「この舞台を用意してくれたスタッフのため、それでも構わない」とロケを強行する。ただ、最初の撮影シーンがバイクに乗るスタントシーンで、目の前に事故を起こしたバイクが置かれていた時は「頭が真っ白になった」と語っている。撮影中には足から鉄棒が出かかって出血するなどしていたが、東京へ戻ってすぐレントゲン撮影で曲がっていないことが確認され、無事に除去手術が行われた。回復後の左脚はわずかに長くなってしまい、長年の腰痛の元になってしまったと自伝で述べている。本格復帰前の客演時の藤岡の傷はまだ完全には癒えていなかったが、以前と変わらない演技を見せていた。",
"title": "エピソード"
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"text": "大きなアクシデントを乗り越えて『仮面ライダー』で全国的に知名度が上がったものの、藤岡はあまりの人気ぶりに、当初は自分自身がそのイメージで固定されてしまうのを怖れたほどだった。こうした理由もあり、後の仮面ライダーシリーズでは、本郷役での客演が実は少ない。",
"title": "エピソード"
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"text": "ただ、本人は自分の役者としての飛躍が『仮面ライダー』をきっかけにしたものであることは当時から忘れておらず、俳優として地歩を築くことに成功した現在では、「『仮面ライダー』は僕の青春でした」と語り、ゲームソフトなどでも本郷を演じている。また、「自分の代わりに怪我をしてくれたアクションチームの裏方のみんなを差し置いて、ヒーロー役だったということで今さら自分だけが表に出るわけにはいかないと思った」とも後年語っていた。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "2001年、映画『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』では、本郷とは明示されていないものの警視総監役で出演し、主人公・津上翔一らに「今の俺にできないことをやってくれ」と激励するという、仮面ライダー1号からのメッセージともとれる意味深な台詞で話題となった。",
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"paragraph_id": 49,
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"text": "2005年9月、11月11日から13日まで福岡市で開催されたイベント「FUKUOKAヒーローフェスタ2005 国際ヒーロー映画祭」の実行委員長に就任する。イベント前の記者会見では「子供たちに夢と希望と生きる勇気を与えてきたヒーローの復権を訴えたい」と語った。開催期間中に行われた屋外ステージでのセレモニーでは真剣で8本の巻藁を切り落とし、トークショーでは盟友ショッカーO野の進行で往年の映像を交えながら自らの人生を熱く振り返り、最後には「レッツゴー!! ライダーキック」を熱唱した。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "2011年4月1日公開の『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』では、1号の声を担当する。声のみとはいえ、映像作品で1号を演じるのはテレビスペシャル『全員集合!7人の仮面ライダー』以来35年ぶりとなった。丸の内TOEIにて行われた舞台挨拶にも登壇してコメントを述べたが、壇上で同じく声の出演となった佐々木と宮内洋(風見志郎 / 仮面ライダーV3 役)がそれぞれ変身ポーズを披露した流れで、観客から「変身ポーズをみせてほしい」とのリクエストが出され始める。藤岡はうつむいて困ったような仕草を見せたが、ちょうど隣にいた1号(のスーツアクター)が機転を利かせ、藤岡に代わってポーズを披露して事なきを得る一幕があった。",
"title": "エピソード"
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"text": "2011年に発売された『ウルトラマンVS仮面ライダー』のBD/DVD版では、1993年のビデオ版発売当時には実現できなかった、ハヤタ隊員 / ウルトラマンを演じた黒部進との対談および記者会見の模様が収録された。",
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"text": "2014年3月29日公開の劇場版『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』では、『全員集合!7人の仮面ライダー!!』以来38年ぶりに本郷役を演じた。変身シーンでは「自分の歴史がよみがえり、血が騒いだ。不思議なもので体は覚えていたんですね。演じるというより、本郷はそのままの自分。何とも言えない感動がありました」と感慨深げに感想を語っている。",
"title": "エピソード"
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"text": "2016年3月26日公開の映画『仮面ライダー1号』では、本郷役で44年ぶりに出演したうえ、企画から参加した。撮影当時には69歳にしてスタントマンを使わずにアクションを演じており、本編冒頭で暴漢を返り討ちにしている。",
"title": "エピソード"
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"text": "2016年3月30日・4月8日に日本テレビで放送されたトーク番組『(秘)荷物!開封バラエティー ビックラコイタ箱』では、「歴代の仮面ライダー俳優」として藤岡が佐野岳(葛葉 紘汰 / 仮面ライダー鎧武 役)や竹内涼真(泊進ノ介 / 仮面ライダードライブ 役)と共に2週に渡って出演し、藤岡については『仮面ライダー1号』や45年前のバイクスタントにまつわる話題、ガンアクション作品や漫画家・村枝賢一との交流にまつわる話題が紹介された。なお、4月8日放送分の最後では、藤岡が佐野と竹内に「仮面ライダーの火を消すんじゃないぞ」と告げている。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "2021年7月22日公開の映画セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記にて再び本郷猛/仮面ライダー1号を演じ、さらに同年12月17日公開の映画仮面ライダー ビヨンド・ジェネレーションズでは息子の藤岡真威人も本郷猛/仮面ライダー1号を演じ、親子揃って同じ役を演じる年となった。",
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"paragraph_id": 56,
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"text": "1995年11月、愛媛県久万町で新たな2つの小惑星が発見され、2000年(平成12年)3月にそれぞれ「12408 Fujioka(藤岡)」「12796 Kamenrider(仮面ライダー)」と名付けられた。これは、藤岡が久万町出身であることと、『仮面ライダー』に因んだもの。",
"title": "エピソード"
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"text": "近年、藤岡の幅広い人気を決定的にしたのはテレビ朝日の『スイスペ!』枠で不定期に放送された「藤岡弘、探検シリーズ」である。もともと同局では1978年(昭和53年)3月から『水曜スペシャル』枠で俳優・川口浩を探検隊長に「川口浩探検隊シリーズ」が放送されており人気番組となったが、1985年(昭和60年)10月に同局の『アフタヌーンショー』で発覚した「やらせリンチ事件」の影響や、川口のがん発病もあり、同年11月に終了。その後、川口が1987年(昭和62年)11月17日に死去したことで自然消滅の状態になっていた。しかし、探検シリーズ復活を希望する声が途絶えないことと、藤岡のワイルドなイメージや以前から旅番組や海外紀行番組を通じて、旅好き・アウトドア好きは知られていたこともあり、藤岡を2代目隊長に起用し2002年(平成14年)12月25日に復活。「藤岡弘、探検隊」はこれまでに6度の探検を行っている。",
"title": "エピソード"
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"text": "全6回の平均視聴率(関東)が9.7%と、高視聴率には至らなかったが、これ以降、川口に代わり「隊長といえば藤岡弘、」と広く認知され、パブリック・イメージ、タレント・キャラとして浸透することとなった。バラエティ番組などに出演する際のスタイルとして、サファリ・ルックやサバイバルベストが定番となったのもこのころからである。結局、2005年(平成17年)3月19日の第6弾が事実上の最終作となった。また、2014年現在まで再放送などの機会は得られていない。単発では2009年(平成21年)2月1日に放送された『よゐこの無人島0円生活』(テレビ朝日開局50周年記念番組)内のコーナーとして4年振りに復活している。",
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"text": "また、『シルシルミシルさんデー』(テレビ朝日系)では探検シリーズのパロディとして、藤岡が企業や巷の謎を調査するコーナー「藤岡弘、探検隊」を、また同局の『ナニコレ珍百景』では自然界の珍百景を紹介する「探検珍百景」「ワイルド珍百景」、照英とコンビを組んでの「洞窟珍百景」などで藤岡がリポーターを務めている(どちらも不定期放送)。",
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"text": "『仮面ライダー』でアクションを担当した大野剣友会に対しては、番組上は敵であるショッカーを演じていたが、共にアクションを作り上げた本当の仲間であると述べている。",
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"text": "『特捜最前線』で共演した二谷英明や荒木しげる、東映プロデューサーの平山亨や阿部征司らが死去した際には追悼のコメントを寄せた。2012年10月2日にはスケジュールの合間を縫って、入院中の平山を見舞っており、既に認知症を発症していた平山もこの時は状態が安定し、満面の笑みだったことが伝えられている。",
"title": "エピソード"
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"text": "NHK",
"title": "出演作品"
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"text": "日本テレビ系列",
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"text": "TBS系列",
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"text": "フジテレビ系列",
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"text": "NET→テレビ朝日系列",
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"text": "テレビ東京",
"title": "出演作品"
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藤岡 弘、は、日本の俳優、タレント、武道家、声優、歌手、探検家、実業家。本名は藤岡 邦弘。旧芸名は藤岡 弘(読み同じ)。 1971年から1973年にかけて放送された特撮テレビドラマ『仮面ライダー』の本郷猛役で主演を務め、一躍人気俳優となる。また、日本人として初めて全米映画俳優組合(SAG、現・SAG-AFTRA)のメンバーとなったことでも知られる。2002年(平成14年)に川口浩の後任として「藤岡弘、探検シリーズ」が開始されて以降、“藤岡隊長”が愛称になっている。 愛媛県上浮穴郡久万町(現・久万高原町)出身。松山聖陵高等学校卒業。個人事務所である株式会社SANKIワールドワイド所属。
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{{別人|藤岡洋|x1=[[音楽家|ミュージシャン]]、[[音楽プロデューサー]]の}}
{{ActorActress
| 芸名 = 藤岡 弘、
| ふりがな = ふじおか ひろし
| 画像ファイル = Fujioka_Hiroshi.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント = [[環境省]]より公開された肖像写真
| 本名 = 藤岡 邦弘(ふじおか くにひろ)
| 別名義 = 藤岡 弘(旧芸名)
| 出身地 = {{JPN}}・[[愛媛県]][[上浮穴郡]][[久万町]](現・[[久万高原町]])
| 死没地 =
| 国籍 =
| 民族 =
| 身長 = 180 [[センチメートル|cm]]
| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]
| 生年 = 1946
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| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = [[俳優]]、[[タレント]]、[[武道家]]、[[声優]]、[[歌手]]、[[探検家]]
| ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[コマーシャルメッセージ|CM]]
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| 活動内容 = {{Plainlist|
* 1965年:[[松竹]]入社・主演[[デビュー]]
* [[1984年]]:日本人初の[[全米映画俳優組合|SAG]]入会
* [[1998年]]:空手道連盟の名誉会長
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| 配偶者 = {{Plainlist|
* [[鳥居恵子]]([[1987年]] - [[1990年]])
* 一般人女性([[2001年]] - )
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| 著名な家族 = {{Plainlist|
* [[天翔愛]](長女)<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/news/detail/1014182/|title=藤岡弘、の長女&長男が父の子育てエピソード語る 藤岡弘、役はアルピー平子|publisher=WEBザテレビジョン|date=2020-12-15|accessdate=2021-05-24}}</ref>
* [[藤岡真威人]](長男)
* [[天翔天音]](次女)
* [[藤岡舞衣]](三女)
}}
| 事務所 = SANKIワールドワイド
| 公式サイト = {{Official|samurai-hiroshi.com/index.html}}
| 主な作品 = {{Plainlist| '''映画'''
* 『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』
* 『[[エスパイ]]』
* 『[[仮面ライダー1号 (映画)|仮面ライダー1号]]』
<hr />
'''テレビドラマ'''
* 『[[仮面ライダー]]』
* 『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』
* 『[[特捜最前線]]』
* 『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』
<hr />
'''CM'''
* 『[[せがた三四郎]]』
}}
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| エミー賞 =
| グラミー賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| ジェミニ賞 =
| セザール賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 = {{Plainlist|
* [[エランドール賞]] 新人賞(1973年)
* パリ国際ファンタスティック&SF映画祭批評家賞(1984年)
* ヒーロー賞(1986年)
* 大十字勲賞(2014年)
* [[ベストジーニスト]](2015年)
}}
| 備考 = {{Plainlist|
* 『グローバルレインボーシップ』理事
* 『[[全米映画俳優組合]]』会員
* 『[[水曜スペシャル#スイスペ!|スイスペ!]]』藤岡弘、探検隊隊長
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}}
{{Infobox YouTube personality
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'''藤岡 弘、'''(ふじおか ひろし{{R|VIP117}}、[[1946年]]〈[[昭和]]21年〉[[2月19日]]{{R|全史533|怪人大画報|VIP117}} - )は、[[日本]]の[[俳優]]、[[タレント]]、[[武道家]]{{R|怪人大画報}}、[[声優]]、[[歌手]]、[[探検家]]、[[実業家]]。本名は藤岡 邦弘(ふじおか くにひろ){{R|怪人大画報|profile1}}。旧芸名は藤岡 弘(読み同じ){{R|怪人大画報}}。
[[1971年]]から[[1973年]]にかけて放送された[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]『[[仮面ライダー]]』の本郷猛役で主演を務め、一躍人気俳優となる{{R|全史533|怪人大画報|VIP117}}。また、日本人として初めて[[映画俳優組合|全米映画俳優組合]](SAG、現・[[:en:SAG-AFTRA|SAG-AFTRA]])のメンバーとなったことでも知られる{{R|怪人大画報}}。[[2002年]]([[平成]]14年)に[[川口浩 (俳優)|川口浩]]の後任として「藤岡弘、探検シリーズ」が開始されて以降、“藤岡隊長”が[[愛称]]になっている{{R|pia_eiga}}。
[[愛媛県]]{{R|怪人大画報|VIP117}}[[上浮穴郡]][[久万町]](現・[[久万高原町]])出身{{efn|資料によっては、[[松山市]]と記載されている{{R|全史533}}。}}。[[松山聖陵高等学校]]卒業。個人事務所である株式会社SANKIワールドワイド{{R|star meikan}}所属。
== 略歴 ==
[[1946年]]([[昭和]]21年)[[2月19日]]、[[愛媛県警察|愛媛県警]]の[[日本の警察官|警察官]]で全国的にも知られた[[柔道]]家、家伝の流派の[[古武道]]である「藤岡流」を継承する武道家でもあった父と、[[茶道]]や[[華道]]、[[琴]]の師範だった母との間に生まれる。当時の生家は[[駐在所]]で、近所には[[四国八十八箇所|四国八十八箇所霊場]]の第四十四番[[札所]]である[[大寶寺|菅生山 大覚院 大寶寺]]があり、母はよくお遍路さんに「お接待」を施してもてなしていたのが印象的だったとしている。生まれたばかりのころは病弱で、[[肺炎]]を患ったときには「もうダメだろう」と医師から告げられる中、「[[遺影]]に…」と写真が撮影されたほどだった。この時は母の献身的な看病で一命を取り留めるが、小学校に上がってからも、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な線の細い子供だった。6歳のころから病弱を心配した父から武道の手ほどきを受け、肉体と精神の修行・鍛練の中、病弱を克服する。少年時代から[[滝行]]も経験している{{R|OCN page1}}。
小学校時代は、父の仕事の都合で転校が多く、よく[[いじめ]]の対象にされた。そんなある日、我慢できなくなって相手に反撃し、重傷を負わせる。すぐさま母の知るところとなり、帰宅するなり仏壇の前に連れて行かれ、凄まじい形相で「あなたがこれ以上、人様に迷惑をおかけするんだったら、私があなたの命をいただきます。そして私もあなたの後を追います。それでよろしいですか?」と、母子[[心中]]も辞さない覚悟を示され、反省を促された。弁解しようとすると「ならぬものはなりません! 先祖の血を汚してはいけません、ちゃんと先祖に謝りなさい!」と、一切の反論を認めなかった。その迫力に、武道の怖さとともに母の本気を知り、猛省したという。また、父との思い出としては、家の道場の掃除を言いつけられ、窓の桟や畳の縁など「手抜き」をして掃除をさぼると、父はそれを見抜き、その場所を指でなぞるとそれを舐め「馬鹿者! お前は自分の心を掃除しているということを忘れたのか! 掃除というのは己の心を掃除することなのだ。心を清らかに、掃除をしたところを舐めてもいいくらいの掃除をお前はしてるのか」と、よく怒鳴られたと述べている{{R|OCN page1}}。また「一子相伝」とされる家伝の古武道について、「人に見せるな、教えるな、商いにするな」と、特に厳しく申し渡されていたという{{R|産経関西}}。
[[1957年]](昭和32年)、小学校6年の時に父が突如[[失踪]]。その日から家族の暮らしは貧しさを極め、3度の食事にも事欠き、学校に給食費すら納められない状況に陥る。藤岡はこのころから[[アルバイト]]で生活を支える一方、惨めな生活を誰にも相談できず、後年まで父を許すことができなかったと語っている{{efn|その後、[[1980年]](昭和55年)ごろに父から突然電話が入る。父は静かな口調で「お前には財産も何も残してやれなかったが、地位や名誉という財産は他人に奪われることはあっても、『生き方』という財産は決して奪われない。だから、お前も誇りを持って生きなさい」と告げられた。しかし、突然のことでその言葉を理解しようとは思わなかった。その数日後、父の死を知らされて父の知人たちから失踪の真相を聞かされるうち、父に対する不信感は氷解したという。その真相については「差し障りがある」として明かしていないが、幼少時から父によく聞かされた「この国のために生きたい」との思いに、決して恥じないことだったとしている。}}<ref>{{Cite book |和書|author=週刊現代編集部|authorlink=週刊現代|year=2002|title=おやじ、ありがとう|pages=134-135|publisher=[[講談社]] |isbn=9784063389586}}</ref>。
[[1961年]]、松山聖陵高等学校に入学。柔道部に在籍して主将を務めた。長身でその容姿・容貌が一際目立つこともあり、よく[[不良行為少年|不良]]にからまれた。ある日、「5人以上はいた」という不良にからまれ、相手の攻撃は全て見切った上で、かわしたり間合いを外したりしていたが、止まらないために堪忍袋の緒が切れて、集団に1人で反撃する(逃げた者もいたが、全て撃退した)。ただ、武道を通じて我慢することや耐えることが日常だったため「堪忍袋の緒は(人より)長いですよ。物凄く我慢強いですよ」と語っている{{R|OCN page2}}。
[[1964年]]に[[劇団NLT#俳優教室で学んだ俳優|劇団NLT俳優教室]]に入所。[[1965年]]には[[松竹]]映画ニューフェイスとして入社{{R|怪人大画報}}。[[香山美子 (女優)|香山美子]]と[[都はるみ]]の主演映画『アンコ椿は恋の花』(監督:桜井秀雄)で[[デビュー]]{{R|怪人大画報|VIP117}}。同年、『若いしぶき』(監督:八木美津雄)で初主演{{R|VIP117}}。
[[1970年]]、アクションドラマ『[[ゴールドアイ]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系・東映制作)第12話「密売大組織」([[5月1日]]放送分)より、「藤弘」役としてレギュラー出演。のちに『仮面ライダー』で共演する[[矢吹二朗|千葉治郎]]も同じ回からレギュラー入りしている。
[[1971年]](25歳)、特撮テレビドラマ『[[仮面ライダー]]』([[毎日放送]] - [[テレビ朝日|NET]]系・[[東映]]制作)に、主人公・[[仮面ライダー1号|本郷猛 / 仮面ライダー]]役で出演。最高視聴率30%の大ヒットとなり、一躍人気スター俳優となる。この年、[[五社協定]]が事実上の崩壊となり、出演決定を契機に松竹との専属契約を正式に打ち切る。
[[1972年]]、[[日本放送協会|NHK]]ドラマ『[[赤ひげ (1972年のテレビドラマ)|赤ひげ]]』のオーディションを受けて合格したが、『仮面ライダー』の制作元である東映・毎日放送には無断でのことだったため、トラブルが発生。『赤ひげ』への出演は見送られることになった{{efn|ちなみに、藤岡が演じる予定だった保本登役には[[あおい輝彦]]が配役された。{{要出典範囲|この時、『赤ひげ』の合格に加え、[[1973年]]の[[大河ドラマ]]『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』のオーディションにも合格しており、[[織田信長]]役にキャスティングされていたが、信長役には改めて[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]がキャスティングされた。藤岡としてはあくまで「勉強のため」との意識であり、合格するつもりなどなかったという。|date=2021-11}}この作品での信長は高橋の当たり役となったが、藤岡は『おんな太閤記』([[1981年|1981年(昭和56年)]])や『春日局』([[1989年|1989年(平成元年)]])で信長役を演じることとなる。}}。藤岡は一時失踪。このことは『仮面ライダー』の第66 - 68話と劇場版『[[仮面ライダー対じごく大使]]』の制作に影響を及ぼしている(詳細は『[[仮面ライダー対じごく大使#藤岡弘の失踪と制作中断|藤岡弘の失踪と制作中断]]』を参照)。
同年7月1日、[[ファンクラブ]]「藤岡弘友の会」が発足{{R|変身大全集}}。ひと月で5万人が入会したが、会員は子供がほとんどのため会費を多くとることができず赤字運営となり、スポンサーからの寄付金で賄われた{{R|変身大全集}}。
[[1973年]]、[[12月29日]]公開の[[東宝]][[映画]]『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』([[監督]]:[[森谷司郎]])で主演。1974年邦画部門興行収入第1位の大ヒットとなる。
[[1974年]]、大河ドラマ『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』の[[坂本龍馬]]役に抜擢{{R|VIP117}}。大河ドラマではこの作品を含め8作品に出演している。
[[1977年]](31歳)、[[4月6日]]から[[テレビ朝日]]系でスタートした東映制作の[[刑事ドラマ]]『[[特捜最前線]]』に桜井哲男(哲夫)警部(第103話より警部補)役でレギュラー出演{{R|VIP117}}。途中、他作品への参加のため、一時降板しているが、その後復帰。10年間に及ぶ人気長寿番組となった今作品の中で、[[二谷英明]]、[[本郷功次郎]]らとともに「番組の顔」的存在として中枢を支えた。
[[1984年]](38歳)、SFサムライ映画『[[SFソードキル]]』(制作国:アメリカ、監督:J・ラリー・キャロル)の主演を務め、国際俳優となる{{R|怪人大画報|VIP117}}。日本人として初めて[[全米映画俳優組合]]へ加入する{{R|怪人大画報}}。この映画を見て感激した[[オーストラリアの総督]]([[オーストラリア]]の名目上の[[元首]]である[[エリザベス2世|エリザベス女王]]の代理人)は、後に結婚したばかりの藤岡夫妻に対して、新婚旅行先としてオーストラリアに招待したほどであった。
[[1986年]]には[[東京国際ファンタスティック映画祭]]でヒーロー賞を受賞。[[1987年]]、『白い牙』で共演した[[俳優|女優]]・[[鳥居恵子]]と結婚(3年3ヵ月後に離婚)。
これと前後して、本人いわく「最も信頼していた者達の裏切り」に遭い、多額の負債を抱える。また、同時期に健康を害した{{efn|2013年8月15日、産経新聞関西版に掲載された[[阿含宗]]管長・[[桐山靖雄]]との対談の中で、「睡眠時間を削るなどしてがむしゃらに仕事したあげく、肝臓を壊してしまった」と明かしている。}}{{R|産経関西}}ことでしばらく芸能活動を休止し、一時活動が停滞する事態となった。
[[1992年]]、[[統一教会]]の信者であると報じられたが、関与はないと語った。この件については「[[#俳優以外の活動|俳優以外の活動]]」を参照。
[[1997年]]、家庭用ゲーム機「[[セガサターン]]」の[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]でイメージ・キャラクター「[[せがた三四郎]]」に起用され、CMコピー'''「セガサターン、シロ!」'''とともに大人気となる{{efn|せがた三四郎人気は[[第49回NHK紅白歌合戦|NHK紅白歌合戦]]([[1998年]])に応援ゲストとして登場するまでの勢いを見せた。この時は舞台上で藤岡がコメントしていると、ショッカー怪人や戦闘員が現れ、舞台上でアクションを展開、ついに変身ポーズの末、仮面ライダーが登場し怪人らを一網打尽、という演出だった。}}。11月から1年間オンエアーされたこのCMを契機に本格的に芸能活動を再開。『仮面ライダー』のリバイバルブームも追い風となり、藤岡自身の再評価・本格復帰にもつながった。このセガサターンのCMと翌年の[[オートレース]]のCMが、ともにCM大賞を受賞している。
[[1999年]]、10月からNHK[[連続テレビ小説]]『[[あすか (テレビドラマ)|あすか]]』に[[竹内結子]]演じるヒロインの父親役で出演。11月には「[[天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典]]」に招かれている。
[[2001年]][[11月]](55歳)、24歳年下の一般女性と再婚。同年[[12月]]には長女・愛理(天翔愛)が誕生している。
[[2002年]]、川口浩の後任として、藤岡が2代目隊長に起用された「藤岡弘、探検隊シリーズ」が開始。
[[2007年]][[8月23日]]、知人から[[融資]]実態がないにもかかわらず、2億円の[[抵当権]]を設定され、[[民事訴訟]]を起こされる。[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]の決定により藤岡への4億5000万円の支払い命令が確定する{{efn|[[週刊ポスト]]2007年11月23日号より。知人と称するこの人物は、過去にも土地取引で問題を起こし、約6年の服役生活を送っていたなど、[[詐欺]]の常習者であったことと、別件で暴力行為による[[刑事訴訟|刑事事件]]も起こしており、藤岡自身も己の未熟さから騙されてしまったと告白している。この人物の娘の結婚式に藤岡が出席。程なく融資話を持ちかけられ、それに応じてしまい、金銭授受のない状態にもかかわらず、口車に乗せられ、先方へ借用証書、直筆の領収書、礼状の3点を予め提出してしまったことから敗訴判決が命じられる結果となった。最高裁の判決に対してはあくまで戦うという意志表示を行っている。}}。
[[2008年]]、[[テレビ愛知]] - [[テレビ東京]]系『[[トミカヒーロー レスキューフォース]]』の劇場版『[[トミカヒーロー レスキューフォース 爆裂MOVIE マッハトレインをレスキューせよ!]]』(監督:岩本晶、制作:ドッグシュガー、制作・配給:松竹)では、俳優としての古巣である松竹作品で、レスキューフォースR0こと世界消防庁長官・刑部零次役で出演{{R|VIP117}}。「37年ぶりに仮面ライダー以外のヒーローに変身する」として話題となった。この役についても、藤岡自身から「謎の男っぽさや過去の出来事をイメージ」して顔や手の傷、衣装、「変身後は(汚しや傷を入れて)少し古いデザインのスーツに変えてもらえないか」などスタッフに役作りのアイデアが出されている{{efn|ただ、変身後のスーツは「全員が同じスーツを着用する」という番組上の制約のためデザインの変更はされていない。}}。また『レスキューフォース』の続編である『[[トミカヒーロー レスキューファイアー]]』([[2009年]]4月 - [[2010年]]3月、テレビ愛知 - テレビ東京系)でも同じ役を演じた{{R|VIP117}}。
[[2014年]][[1月23日]]、33年ぶりに『[[徹子の部屋]]』にゲスト出演<ref>{{Cite web|和書|url=http://ameblo.jp/samurai-do/entry-11754840902.html|title=藤岡弘、が33年ぶりに「徹子の部屋」に出演 ! |publisher=藤岡弘、オフィシャルブログ「藤岡弘、の侍道」Powered by Ameba |date=2014-01-23|archiveurl=https://archive.is/V9eYb|archivedate=2014-02-20|accessdate=2014-02-19}}</ref>。この中で敬愛する母が[[2013年]]の春に103歳で他界したことを報告した。下積み時代には自分の着物を[[質屋|質草]]にし、『SFソードキル』でのハリウッド進出の際には既に高齢だったにもかかわらず自ら現地に足を運ぶなど、明治生まれの気丈さで藤岡をまさに物心両面で支え続けた。亡くなる直前まで意識が鮮明で「子供のことを考えて生きるように」と藤岡を諭した後、眠るように息を引き取ったという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/back2000/html/140123.html|title=徹子の部屋 / 今週の徹子の部屋 / 1月23日(木) / 出演 藤岡弘、 - 「103歳で逝った母の武勇伝」|publisher=[[テレビ朝日]] |date=2014-01-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140219150644/http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/back2000/html/140123.html|archivedate=2014-02-19|accessdate=2014-02-19}}</ref>。
同年[[5月13日]]、自ら企画したフジテレビ系のドキュメンタリー番組『海を越えた侍たち〜藤岡弘、が[[ブラジル]]で見つけた日本人の心〜』<ref>{{Cite web|和書|title=海を越えた侍たち〜藤岡弘、がブラジルで見つけた日本人の心〜 |url=http://www.fujitv.co.jp/samurai/index.html |publisher=[[フジテレビジョン]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140616142422/http://www.fujitv.co.jp/samurai/index.html |archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref>の取材・収録のため訪[[ブラジル|伯]]中、過去5回の訪伯でのボランティア支援で日本とブラジルの国際交流に貢献したことや、日系人社会を正しく伝えるための番組作りなどが評価され、ブラジル連邦議会より「感謝表彰」、名誉下院議員より「大十字勲章」が授与された<ref>{{Cite news |title=「日本の若者よ、日系社会見て」=藤岡弘、さんTV取材で来伯=〃バナナ王〃山田さんらと意気投合=「日本人の誇りを取り戻せ!」 |url=http://www.nikkeyshimbun.jp/2014/140516-71colonia.html |newspaper=JORNALニッケイ新聞 |date=2014-05-16 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140616140755/http://www.nikkeyshimbun.jp/2014/140516-71colonia.html|archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref>。
[[2015年]]、[[ベストジーニスト|ベストジーニスト2015]](協議会選出部門)を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2060266/full/|title=【ベストジーニスト】ローラ、V3で殿堂入り 7人目選出「本当にうれしい」|publisher=ORICON STYLE|date=2015-10-05|accessdate=2015-10-05}}</ref>。
[[2020年]]、長男・[[藤岡真威人]]が俳優デビュー<ref>{{Cite news|url= https://hochi.news/articles/20200325-OHT1T50233.html |title= 藤岡弘、の長男・真威人が「せが四郎」となって俳優デビュー!「せがた三四郎」に続いて親子2代で“セガ愛”炸裂 |newspaper= スポーツ報知 |publisher= 報知新聞社 |date= 2020-03-25 |accessdate= 2020-03-26 }}</ref>。
== 人物 ==
* {{要出典範囲|自宅地下には自身の主宰する「藤岡道場」を開設しており、現在の門下生は約20名である|date=2017年2月}}。
* 大好物は[[自然薯]]で、特に掘りたてを水で洗い、そのまま食べるのを好んでいる。煮物や[[ホヤ]]の[[膾|酢の物]]など和食全般のほか、[[クリ]]や[[羊羹]]などの甘い物も好物。嫌いなものは[[アスパラガス|ホワイトアスパラガス]]で、『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』の「[[とんねるずのみなさんのおかげでしたのコーナー一覧|新・食わず嫌い王選手権]]」で明らかになった。
* 所持している資格は[[調理師免許]]、[[普通自動車免許]]、[[小型船舶操縦士]]、[[特殊自動車|大型特殊自動車]]免許、[[大型自動二輪車|大型自動二輪]]免許、[[自家用操縦士]]免許、[[スキューバダイビング]]、[[無線従事者]]免許(アマチュア)、[[鉄砲]]、パワーボート免許、抜刀道四段、柔道三段、空手初段、小刀護身道四段、居合道初段など{{R|star meikan}}。このうち、大型自動二輪については750ccに乗ろうと教習所無しで受けた試験に3回の不合格を経て4回目で合格し、『仮面ライダー』の放送終了後に初めて[[ホンダ・CB750]]を購入したそうである<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20160322-kamenrider/|title=藤岡弘、大型自動二輪免許に何度もチャレンジした過去告白 - 公開記念トークショーにネオサイクロン号と登場|publisher=マイナビニュース|date=2016-03-22|accessdate=2016-03-25}}</ref>。この資格の多さは『[[幸せ!ボンビーガール]]』に出演した際にも特集された。
* 少年時代に[[ヘビ]]が[[カエル]]を飲み込む姿を見て以来、ヘビが[[トラウマ]]になっているという{{R|pia_eiga}}。
* [[コーヒー]]を愛飲しており、1日に5、6杯は飲むという。自ら汲みにいくほどのお気に入りの富士山系の自然水を沸かして「ありがとう」「おいしくなれ」と呟きながら、時間をかけて1滴ずつゆっくりドリップし、[[抹茶]]のように[[茶せん]]でかき回して十分に空気を含ませてから嗜むという独自の手法が、テレビで紹介されている<ref>{{Cite news |title=「仮面ライダー」から40年。藤岡弘、驚異の若さを語る|url=http://nikkan-spa.jp/45642|newspaper=[[SPA!|日刊SPA!]]|date=2011-08-23 |archiveurl=https://archive.is/vhdg |archivedate=2012-07-21|accessdate=2014-02-14}}</ref>。これ以外に、[[エチオピア]]で知ったという粗挽きしたコーヒー豆を[[薬缶]]で煮出すワイルドな飲み方を楽しむこともある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32356380Y8A620C1HF0A00/ 藤岡弘、さん「この無造作な味いいねぇ」/「俺のワイルド珈琲道」]『[[日経MJ]]』2018年6月29日(トレンド面)2018年7月15日閲覧。</ref>。自身の[[ホームページ]]では[[有機農産物|オーガニック]]の「藤岡、珈琲」やコーヒーカップなどを自身に関する各種グッズとともに販売している<ref>[http://www.samurai-hiroshi-shop.jp/ 有機栽培 藤岡、珈琲](2018年7月15日閲覧)。</ref>。
* 酒も嗜んでいたが、[[2013年]][[8月4日]]に行われた平山亨の「お別れ会」に参列した際、同席した[[堀田眞三]]に「期するところがあって酒を辞めました」と明かしたことが伝えられている{{R|hotta_shinzo}}。
* [[英会話]]を得意としており、アメリカ映画への出演を通じて知り合った映画監督の[[ジェームス・キャメロン]]とは「キャメロン」「サムライ」と呼び合うほど、親交が深い{{efn|ただし、キャメロンの作品に出たことは一度も無い。}}。[[2009年]]5月に出版された『藤岡弘、の[[武士道]]入門』([[並木書房]])は、著者の[[小峯隆生]]が、ある日、来日中だったキャメロンと[[浅草]]で蕎麦を食べている際にキャメロンから「明日サムライに会いに行くんだ」と、藤岡を紹介されたことがきっかけで小峯が藤岡に「弟子入り」し、出版に至った書籍である。また、この中で藤岡は元[[アメリカ陸軍]]大尉で軍事評論家の[[飯柴智亮]]と対談を行っており、その際に飯柴から[[アフガニスタン]]の戦場で実際に使用した[[ナイフ#戦闘用ナイフ|護身用ナイフ]]を譲られている。
* こうした藤岡のこだわりや暮らしぶりに関して[[2013年]][[7月3日]]放送のバラエティ番組『ドラゴンレイディSP』{{efn|制作:フジテレビバラエテイ制作センター、チーフプロデューサー・演出:挾間英行、演出:奥村達哉、森田篤、司会:[[バナナマン]]、[[生野陽子]] 出演者:[[デヴィ・スカルノ]]、[[淡路恵子]]、[[中尾ミエ]]、[[美川憲一]]、[[ミッツ・マングローブ]]ほか。}}([[フジテレビジョン|フジテレビ]])では「自称、現代の侍と豪語する藤岡弘、」と紹介、「藤岡がコーヒー1杯を淹れるのに30分、車移動込みだと合計2時間かかった」と誇張や虚偽、揶揄を加えて事実と異なる内容を放送。「侍」と自ら名乗ったこともなく、コーヒーの時間も大げさで、ロケ場所などは番組側の指定によるものだった<ref>{{Cite news |title=フジ、藤岡弘、に「誤った表現」し謝罪|url=http://www.oricon.co.jp/news/movie/2027902/full/|newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2013-08-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131108071452/http://www.oricon.co.jp/news/movie/2027902/full/ |archivedate=2013-11-08 |accessdate=2014-02-14}}</ref>。この事実についてフジは[[8月20日]]付けの同局の公式サイトで藤岡とその関係者、ならびに視聴者への「訂正とお詫び」のコメントを掲載<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fujitv.co.jp/kokuchi/130820.html|title=【フジテレビからのお知らせ】バラエティ番組「ドラゴンレイディ」藤岡弘、氏ご出演VTRに関する訂正とお詫び|publisher=[[フジテレビジョン]] |date=2013-08-20|archiveurl=https://archive.is/VTXyI|archivedate=2013-08-23|accessdate=2014-08-23}}</ref>。所属事務所も公式ブログでこのことに関する公式コメントを発表している<ref>{{Cite web|和書|url=http://ameblo.jp/samurai-do/entry-11598177439.html|title=フジテレビからの謝罪文の掲載について |publisher=藤岡弘、オフィシャルブログ「藤岡弘、の侍道」Powered by Ameba |date=2013-08-23|accessdate=掲載日と同日に}}</ref>。このトラブルをきっかけに、番組は打ち切りとなった。
* 「人間は窮地に追いやられたときに真価を発揮する」という考えを持っており、自身の作品も際どい生死を描いたものを好んで出演した{{R|VIP118}}。
* 歴史も好んでおり、坂本龍馬や織田信長など先人が困難をどう克服したかを知ることで、自身でも危険な仕事をやりたいと望むようになった{{R|VIP118}}。また、坂本龍馬や織田信長を演じたいと強く願っていると、実際にその役が来たという{{R|VIP118}}。
* 映画『[[ラストサムライ]]』のオーディションのオファーを引き受けたが、結果としては起用されなかった。
* 藤岡は自身の生き方について、過去を振り返らず失敗しても自身で納得いくまで追求する姿勢であることを述べている。何事に対しても全力で取り組む姿が笑い者にされていることも認識しているが、他者からどう思われるかよりも自身で納得できるかどうかを重視している{{R|71-84}}。信念を貫くことで灰汁の強い役者になったと自認しており、それによりクライアントから敬遠されることもあったと述べている{{R|怪人大全集202}}。
* [[NHK大河ドラマ]]において、[[織田信長]]役を二度演じている。1度目は[[1981年]]の『[[おんな太閤記]]』で、二度目は[[1989年]]の『[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]』である。また、[[2023年]]の『[[どうする家康]]』では、信長の父親・[[織田信秀]]役で出演。藤岡は出演決定に合わせて、「かつて大河にて若い頃、二度も演じさせていただいた信長であり、その父親役は感慨深いものがある」「信長を育て上げた父親とはどんな人物か、いろいろ想像すると楽しくなります」とコメントしている<ref name="Realsound">{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/movie/2022/07/post-1076253.html|title=藤岡弘、『どうする家康』で織田信長の父・信秀に 「色々想像すると楽しくなります」|publisher=リアルサウンド映画部|accessdate=2023-04-16}}</ref>。また、同作で信長を演じる[[岡田准一]]については「これからの映像界を背負ってかれる楽しみな青年と思っております」と期待を寄せている<ref name="Realsound"/>。
=== 芸名に読点(「、」)を付けるまで ===
1984年(昭和59年)、アメリカ映画『SFソードキル』に出演し、'''パリ国際ファンタスティック&SF映画祭批評家賞'''を受賞。日本人として初めて全米映画俳優組合員となった。この出来事がきっかけとなり、「''昔の武将は一度"、"を打って決意した。周囲に流されることなく立ち止まり自分を見つめる''」という覚悟と、「『''我未だ完成せず''』との意味を込めて」芸名の最後に“[[読点]]”を付けることにした。その一方、「、」には「てんでダメな男」という[[駄洒落|シャレ]]もかけられているという<ref>ゲーム雑誌「[[CONTINUE (雑誌)|CONTINUE]]」のインタビューより{{要ページ番号|date=2016-03-25}}。</ref>。
=== 俳優以外の活動 ===
27、28歳のころに、空手の先輩がブラジルで空手の指導を行っていた縁で、ブラジルの軍隊で1か月半ほど訓練を受けたことがある{{R|VIP118}}。このとき教えられた銃器の扱いは、後に『野獣死すべし』など映画での銃を取り扱うシーンに活かされた{{R|VIP118}}。
お笑いコンビ、[[とんねるず]]や[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]のバラエティ番組に出演するようになる。とんねるずは、『[[オールナイトフジ]]』で藤岡と初共演した際には狂喜乱舞、『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』では『仮面ライダー』のパロディ『[[仮面ノリダー]]』を演じる。また、『[[とんねるずの生でダラダラいかせて]]』では藤岡と[[レーシングカート#レース|カートレース]]対決を行っている。ダウンタウンは自身の番組『[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]』の1コーナー「藤岡弘と遊ぼう!」で藤岡と共演。鬼ごっこ、ドッジボール、ハンカチ落としなどの遊びを展開している。
世界各地の紛争地帯や被災地などへの救援ボランティアとしても精力的に活動している{{R|怪人大画報}}。[[1993年]]の[[北海道南西沖地震]]の際には「映画撮影の際にお世話になったので」と水などの援助物資を持てるだけ持って[[奥尻島]]に駆けつけ、当時の新聞もこの行動に「仮面ライダーは実在した」と大きく記事になった。また、[[2011年]](平成23年)の[[東日本大震災]]の際にも、被災地へ1トンの米を寄付している<ref>{{Cite news |title=藤岡弘、: 被災地へ1トンの米送る「仮面ライダーから勇気をもらって」とエール|url=http://mantan-web.jp/2011/04/02/20110401dog00m200033000c.html|newspaper=[[MANTANWEB]] |date=2011-04-02 |archiveurl=https://archive.is/cj7z |archivedate=2012-07-12|accessdate=}}</ref>。
[[1990年]]ごろより雑誌、新聞で統一教会との関連性が報道されるようになる。1992年(平成4年)9月、「[[東京スポーツ]]」などで「統一教会の信者」と報じられた。詳細は統一教会の名を隠した自己啓発セミナーの広告塔になっていただけであり、本人は全く関与がなかった{{要出典|date=2015年11月}}。
[[1998年]]、「梁山泊空手道連盟<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ryozanpaku-karate.com/profile/profile.html|title=梁山泊空手プロフィール|publisher=梁山泊空手道連盟|accessdate=2014-03-11}}</ref>(代表:富樫宜弘{{efn|「[[日本空手道無門会]]」代表・富樫宜資の実弟。}})」を中心に結成された「眞日本武道空手道連盟<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ryozanpaku-karate.com/renmei/renmei.html|title=加盟団体・会員募集|publisher=眞日本武道空手道連盟|accessdate=2014-03-11}}</ref>」・名誉会長に就任。
コーヒー豆などの[[電子商取引|インターネット販売]]を行っている(「[[#人物|人物]]」の項を参照)。
== エピソード ==
=== 上京・デビュー当初 ===
藤岡が上京したときは、養成所に入る予定はあったものの確かな当ては何もなく、泊まる場所もないため[[上智大学]]の横の土手で[[野宿]]するなどしていた{{R|OFM1}}。藤岡は後年のインタビューでこのころを振り返り、たった一人きりで世間と向き合う自身にとっては世間そのものが[[ショッカー]]のようであったと述べている{{R|OFM1}}。
養成所入所後も東京の流れの速さについていくのが精一杯であり、周囲が優秀であったため劣等感を感じていた{{R|OFM1}}。
松竹時代は、社風により青春映画のお坊ちゃん役が多く、自身とはかけ離れた役柄に悩んでいた{{R|OFM1}}。出演作品には恵まれていたものの、次第に会社から与えられた仕事に甘んじていることや自身の役者としての方向性に疑問を感じるようになり、松竹を離れることを決意した{{R|怪人大全集202}}。
=== 『仮面ライダー』関連 ===
==== 負傷降板 ====
当初、藤岡は本郷猛役だけでなく仮面ライダーのコスチュームも着用し、[[スーツアクター]]を兼任していた。危険度の高いアクションを除き、[[トランポリン]]を使用したアクションやオートバイで階段を登るバイクアクションなどもこなしている{{efn|シーンによっては、[[大野剣友会]]の[[岡田勝]]・[[中村文弥]]・[[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]]が演じ分けている。}}。藤岡はスーツアクションを行うことは特別なことではなく当然だと思っていたが、その苦労までは想像できておらず{{R|OFM1}}、後年のインタビューでは過酷な撮影ゆえに毎日現場へ向かう際に恐怖を感じていたことを明かしている{{R|71-84}}。第1話の撮影では、マスクをつけてのアクションは自身の息で前が見えなくなり、革製のスーツも動きづらかったが、準備に忙しいスタッフに申し出ることはできなかったことを述べている{{R|大全集226}}。
こうして撮影に取り組んでいたが、第9話・第10話{{efn|第9話「恐怖コブラ男」([[1971年]][[5月29日]]放送分)、第10話「よみがえるコブラ男」([[1971年]][[6月5日]]放送分)。}}では下り坂をバイクで走り下りるシーン{{efn|『創刊15周年記念テレビマガジン特別編集 仮面ライダー大全集』のモノクロページによると、本郷がコブラ男の乗った車をバイクで追跡するシーンの撮影だった<ref name="名前なし-20230316132816">{{Cite book|和書|year=1986|創刊15周年記念テレビマガジン特別編集 仮面ライダー大全集|page=135||publisher=講談社}}</ref>。{{要出典範囲|走り下りるシーンは第10話のラストカットとして使用されており、実際の第9話のコブラ男追跡シーンは、第4話のシーンが流用された。|date=2022年12月}}}}でコーナーを曲がる際、たまたま工事中だったために砂利が多い場所で、オーバースピードからスリップし、曲がりきれないまま電柱を支えるワイヤーに突っ込む。その際にワイヤーに足が引っかかってワイヤーが跳ね上がり、そのまま反動でバイクとともに飛ばされるという[[事故|アクシデント]]に見舞われる。藤岡は路上を2 - 30メートル転がって動けなくなったが、事故直後はまだ意識があり、背中の後ろの方から肩越しに見えていた自分の左脚を元の位置に戻し、靴が脱げていたために親指が動くかを確認し、かすかに動いたことに安心したところで意識を失ったという。容体は全身打撲のうえに左大腿部の骨が粉砕して筋肉に刺さる複雑骨折の状態で、全治3か月 - 6か月の重傷と診断され、長期休養を余儀なくされる{{R|OCN page3}}。この事故以降、[[仮面ライダーシリーズ]]の主演俳優は演出上の一部例外を除いてスーツアクターを兼務することはなくなり、スーツアクターは全面的に[[大野剣友会]]やジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAE]])所属の[[スタント]]マンが担当するようになった。
救急搬送後、最初に手術を受けた[[東京都]][[町田市]]内の病院は骨の接合手術に関して旧態依然とした技術しか持っておらず、藤岡は同じ病院で手術を受けた患者から「大腿部を複雑骨折して同様の手術を受けて1年ほど入院しているが、まだ完治していない」と聞かされ、[[車椅子]]生活すら覚悟した。この状況を知った知人の紹介で、東京都[[渋谷区]][[千駄ヶ谷]](当時)の[[赤坂見附前田病院|前田外科病院]]に転院できることとなったが、当初、最初の病院は転院希望を断り、転院が決定した後も「(転院に関して)当院は一切保証しない」と、移動のための[[ストレッチャー]]などを用意することなく黙視し、[[診療録|カルテ]]や[[単純X線撮影#外傷のX線写真|レントゲン写真]]などの必要な情報提供も拒んだ。前田外科病院で行われた再手術では、[[ベトナム戦争]]の[[傷痍軍人]]のために開発されたという方法が用いられた。それは筋肉に刺さっていた左脚の骨片を丹念に全て拾い集め、[[大腿骨]]の[[骨髄]]に金属パイプを通してその周りに骨片を細いワイヤーで巻きつけるというものだった。それまで日本ではほとんど実例がなく、当時の最新技術だったこの手術は無事に成功した{{R|OCN page3}}が、『仮面ライダー』第1話の放送は病室のベッドで観ざるを得なかった{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=57|loc=「制作第11話-第12話」}}。ギプスが外れると、[[看護師]]の眼を盗んで筋肉がすっかり委縮して痩せ細った左脚の筋力強化のため、周囲が寝静まった時間帯にトレーニングを始めるが、その過酷さゆえに夜ごと床には汗だまりができたほか、時には発熱したため、日中になると疲れきって寝込むという「戦い」の日々を数か月送る。そんな当時のことを、藤岡は「看護婦さんとかに『この人は寝てばっかりだなぁ』って思われたのではないかなぁ」と振り返っている{{R|OCN page3}}。藤岡は後年のインタビューで、このときの体を動かせない苦痛やスタッフに多大な迷惑をかけたという想いで気持ちが先走っていたが、長い思索と心身ともに痛みに堪えなければならないという状況で精神的な成長を遂げることができたと述べている{{R|怪人大全集202}}。
ドラマ自体は基本的に2話を同時進行で撮影するため、第9・10話の藤岡の出演シーンはほぼ撮り終わっていた、そこで第11話からのドラマ展開を変更し、本郷猛の登場シーンを減らしたうえで、やむを得ない箇所だけをライブフィルムの使用で補うこととした<ref name="名前なし-20230316132816"/>。
放送開始前の大事故で主演俳優の重傷という事態は、番組の存続に関わる一大事であり、通常であれば即刻番組降板も止むなしという状況に、緊急企画会議では[[毎日放送]]側から本郷猛を死亡させる案も出たが、東映プロデューサー・[[平山亨]]は「子供たちのオールマイティーの夢を壊すことはできない」としてこれに強硬に反対すると、代案として2号ライダー登場のアイデアを取りまとめ、主役交代を機にこれまでの反省点を一気に修正し、番組をリニューアルすることで継続を決めた。これが功を奏し、番組は第14話{{efn|第14話「魔人サボテグロンの襲来」([[1971年]][[7月3日]]放送分)。}}から登板した藤岡の劇団NLT時代の同期である[[佐々木剛]]演じる[[仮面ライダー2号|一文字隼人 / 仮面ライダー2号]]の人気で社会現象となるほど、大ヒット作と化した{{efn|佐々木は、藤岡の復帰が正式に決まった際にスタッフから「是非ダブルライダーで引き続き主演を」と依頼されたが、「藤岡君がカムバックするまでという約束で引き受けたのだから、藤岡君に返すべきだ。自分がいたままでは彼が付録のようになってしまう」と固辞すると、当初の約束どおりに第52話「おれの名は怪鳥人ギルガラスだ!」([[1972年]][[3月25日]]放送分)をもって降板した(詳細は[[仮面ライダー#本郷猛(仮面ライダー1号 / 新1号)の復帰]]を参照)。}}。
『仮面ライダー』での本格復帰は第53話{{efn|第53話「怪人ジャガーマン決死のオートバイ戦」([[1972年]][[4月1日]]放送分)から。}}からだが、第40話・第41話{{efn|第40話「死斗(しとう)! 怪人スノーマン対二人のライダー」([[1972年]][[1月1日]]放送分)、第41話「マグマ怪人ゴースター桜島大決戦」([[1972年]][[1月8日]]放送分)。}}にまだ足のケガが完治しない時期にゲスト出演<ref>{{Cite book|和書|year=1986|創刊15周年記念テレビマガジン特別編集 仮面ライダー大全集|page=33||publisher=講談社}}</ref>という形で現場復帰を果たし、1971年末の[[桜島]]・[[阿蘇山]]での[[ロケーション撮影|ロケ]]に参加する。この時、骨折箇所にはまだ金属パイプと固定用のボルトが入っており、傷口は[[絆創膏]]と包帯で抑えた状態だった{{R|大全集226}}。主治医からは「下手すると脚のパイプが曲がって抜けなくなるばかりか、一生歩けなくなるかもしれない」と猛反対されたが、藤岡は「この舞台を用意してくれたスタッフのため、それでも構わない」とロケを強行する{{R|大全集226}}。ただ、最初の撮影シーンがバイクに乗るスタントシーンで、目の前に事故を起こしたバイクが置かれていた時は「頭が真っ白になった」と語っている{{R|OCN page4}}。撮影中には足から鉄棒が出かかって出血するなどしていたが、東京へ戻ってすぐ[[X線撮影|レントゲン撮影]]で曲がっていないことが確認され、無事に除去手術が行われた{{R|大全集226}}。回復後の左脚はわずかに長くなってしまい、長年の腰痛の元になってしまったと自伝で述べている{{Full|date=2015年12月}}。本格復帰前の客演時の藤岡の傷はまだ完全には癒えていなかったが、以前と変わらない演技を見せていた<ref>{{Cite book|和書|year=1986|創刊15周年記念テレビマガジン特別編集 仮面ライダー大全集|page=137||publisher=講談社}}</ref>。
==== 後年の活動 ====
大きなアクシデントを乗り越えて『仮面ライダー』で全国的に知名度が上がったものの、{{要出典範囲|藤岡はあまりの人気ぶりに、当初は自分自身がそのイメージで固定されてしまうのを怖れたほどだった|date=2015年12月}}。こうした理由もあり、後の仮面ライダーシリーズでは、本郷役での客演が実は少ない{{efn|声のみの出演は『[[仮面ライダーV3]]』第21話と映画『[[仮面ライダーV3対デストロン怪人]]』、映画『[[五人ライダー対キングダーク]]』、『[[仮面ライダーストロンガー]]』第38話、映画『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』、顔出し出演は『仮面ライダーV3』第1話・第2話・第33話・第34話と『仮面ライダーストロンガー』第39話と[[全員集合!7人の仮面ライダー!!|正月特番]]だけである。『[[仮面ライダー (スカイライダー)]]』と『劇場版[[仮面ライダースーパー1]]』、『[[仮面ライダーZX]]』、『[[仮面ライダーBLACK RX]]』、『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』にも1号が登場しているが、藤岡自身は出演しておらず、素顔の本郷としての登場シーンはない。『オールライダー』では1号の声を声優・[[稲田徹]]が担当した。}}。
ただ、本人は自分の役者としての飛躍が『仮面ライダー』をきっかけにしたものであることは当時から忘れておらず、俳優として地歩を築くことに成功した現在では、「『仮面ライダー』は僕の青春でした」と語り、[[ゲームソフト]]などでも本郷を演じている。また、「自分の代わりに怪我をしてくれたアクションチームの裏方のみんなを差し置いて、ヒーロー役だったということで今さら自分だけが表に出るわけにはいかないと思った」とも後年語っていた<ref>帰ってきた怪獣BOW48ページ</ref>。
[[2001年]]、映画『[[劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4]]』では、本郷とは明示されていないものの[[警視総監]]役で出演し、主人公・津上翔一らに「今の俺にできないことをやってくれ」と激励するという、仮面ライダー1号からのメッセージともとれる意味深な台詞で話題となった。
[[2005年]][[9月]]、[[11月11日]]から13日まで[[福岡市]]で開催されたイベント「FUKUOKAヒーローフェスタ2005 国際ヒーロー映画祭」<ref>[https://web.archive.org/web/20080224084153/http://www.herofilm.jp/ FUKUOKAヒーローフェスタ2005 国際ヒーロー映画祭公式サイト](インターネットアーカイブ2008年2月24日分キャッシュ)</ref>の実行委員長に就任する。イベント前の記者会見では「子供たちに夢と希望と生きる勇気を与えてきたヒーローの復権を訴えたい」と語った<ref>[https://web.archive.org/web/20051117030111/http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_09/g2005092707.html ライダー、ウルトラ…福岡でヒーローをテーマに映画祭] - ZAKZAK</ref>。開催期間中に行われた屋外ステージでのセレモニーでは真剣で8本の巻藁を切り落とし<ref>[https://web.archive.org/web/20051125002422/http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_11/g2005111206.html 初代ライダー藤岡弘ら迎え「ヒーロー映画祭」が開幕] - ZAKZAK</ref>、{{要出典範囲|トークショーでは盟友[[ショッカーO野]]の進行で往年の映像を交えながら自らの人生を熱く振り返り、最後には「レッツゴー!! ライダーキック」を熱唱した|date=2015年12月}}。
[[2011年]][[4月1日]]公開の『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』では、1号の声を担当する。声のみとはいえ、映像作品で1号を演じるのはテレビスペシャル『全員集合!7人の仮面ライダー』以来35年ぶりとなった。丸の内TOEIにて行われた舞台挨拶にも登壇してコメントを述べたが、壇上で同じく声の出演となった佐々木と[[宮内洋]]([[仮面ライダーV3 (キャラクター)|風見志郎 / 仮面ライダーV3]] 役)がそれぞれ変身ポーズを披露した流れで、観客から「変身ポーズをみせてほしい」とのリクエストが出され始める。藤岡はうつむいて困ったような仕草を見せたが、ちょうど隣にいた1号(のスーツアクター)が機転を利かせ、藤岡に代わってポーズを披露して事なきを得る一幕があった<ref>{{Cite news |title=初代ライダーの藤岡弘、 日本にエール「今こそ“変身”のとき」|url=http://cinema.pia.co.jp/news/156075/42372/|newspaper=ぴあ映画生活 |date=2011-04-01 |archiveurl=https://archive.is/BM9ug |archivedate=2014-02-14|accessdate=2014-02-14}}</ref>。
2011年に発売された『[[ウルトラマンVS仮面ライダー]]』のBD/DVD版では、[[1993年]]のビデオ版発売当時には実現できなかった、[[ウルトラマン|ハヤタ隊員 / ウルトラマン]]を演じた[[黒部進]]との対談および記者会見の模様が収録された。
[[2014年]][[3月29日]]公開の劇場版『[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]]』では、『全員集合!7人の仮面ライダー!!』以来38年ぶりに本郷役を演じた。変身シーンでは「自分の歴史がよみがえり、血が騒いだ。不思議なもので体は覚えていたんですね。演じるというより、本郷はそのままの自分。何とも言えない感動がありました」と感慨深げに感想を語っている<ref>{{Cite news |title=藤岡弘、38年ぶりライダー変身!「平成 VS 昭和ライダー大戦」で|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20140117-OHT1T00002.htm|newspaper=スポーツ報知 |date=2014-01-17|archiveurl=https://archive.is/90X7k |archivedate=2014-02-14|accessdate=2014-02-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=藤岡弘、38年ぶりに仮面ライダー1号に変身!|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0059718|newspaper=シネマトゥデイ |date=2014-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140119182309/http://www.cinematoday.jp/page/N0059718 |archivedate=2014-01-19|accessdate=2014-01-20}}</ref>。
[[2016年]][[3月26日]]公開の映画『[[仮面ライダー1号 (映画)|仮面ライダー1号]]』では、本郷役で44年ぶりに出演したうえ、企画から参加した{{R|rbbtoday_139123}}。撮影当時には69歳にしてスタントマンを使わずにアクションを演じており、本編冒頭で暴漢を返り討ちにしている<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/225630 「1号」藤岡弘、が平成仮面ライダーに“注文”] - 東スポWeb</ref>。
2016年[[3月30日]]・[[4月8日]]に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送されたトーク番組『[[ビックラコイタ箱|(秘)荷物!開封バラエティー ビックラコイタ箱]]』では、「歴代の仮面ライダー俳優」として藤岡が[[佐野岳]]([[仮面ライダー鎧武/ガイム|葛葉 紘汰 / 仮面ライダー鎧武]] 役)や[[竹内涼真]]([[仮面ライダードライブ|泊進ノ介 / 仮面ライダードライブ]] 役)と共に2週に渡って出演し、藤岡については『仮面ライダー1号』や45年前のバイクスタントにまつわる話題、ガンアクション作品や漫画家・[[村枝賢一]]との交流にまつわる話題が紹介された。なお、4月8日放送分の最後では、藤岡が佐野と竹内に「仮面ライダーの火を消すんじゃないぞ」と告げている<ref>{{Cite web|和書|title=『(秘)荷物!開封バラエティー ビックラコイタ箱』 【歴代の仮面ライダー俳優に(秘)荷物】(2016年3月30日放送分)|url=https://web.archive.org/web/20160505223456/http://tvtopic.goo.ne.jp/program/ntv/55461/947502/ |date=2016-03-30 |accessdate=2016-04-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=『(秘)荷物!開封バラエティー ビックラコイタ箱』 【歴代の仮面ライダー俳優に(秘)荷物】(2016年4月8日放送分)|url=https://web.archive.org/web/20160505152736/http://tvtopic.goo.ne.jp/program/ntv/55461/949985/ |date=2016-04-08 |accessdate=2016-04-14}}</ref>。
[[2021年]]7月22日公開の映画[[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]]にて再び本郷猛/仮面ライダー1号を演じ<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0124664 『スーパーヒーロー戦記』仮面ライダー1号・藤岡弘、が参戦!]</ref>、さらに同年12月17日公開の映画[[仮面ライダー ビヨンド・ジェネレーションズ]]では息子の[[藤岡真威人]]も本郷猛/仮面ライダー1号を演じ<ref>[https://eiga.com/news/20211130/2/ 藤岡弘、の息子・藤岡真威人、仮面ライダー1号/本郷猛役に挑戦!「やらなきゃならない宿命」]</ref>、親子揃って同じ役を演じる年となった。
==== その他 ====
[[1995年]]11月、[[愛媛県]][[久万町]]で新たな2つの小惑星が発見され、[[2000年|2000年(平成12年)]]3月にそれぞれ「12408 Fujioka(藤岡)」「[[仮面ライダー (小惑星)|12796 Kamenrider(仮面ライダー)]]」と名付けられた。これは、藤岡が久万町出身であることと、『仮面ライダー』に因んだもの。
=== 藤岡弘、探検シリーズ ===
近年、藤岡の幅広い人気を決定的にしたのは[[テレビ朝日]]の『[[水曜スペシャル#スイスペ!|スイスペ!]]』枠で不定期に放送された「藤岡弘、探検シリーズ」である。もともと同局では[[1978年|1978年(昭和53年)]]3月から『[[水曜スペシャル]]』枠で[[俳優]]・川口浩を探検隊長に「[[水曜スペシャル#川口浩探検隊シリーズ|川口浩探検隊シリーズ]]」が放送されており人気番組となったが、[[1985年|1985年(昭和60年)]]10月に同局の『[[アフタヌーンショー]]』で発覚した「[[アフタヌーンショー#やらせリンチ事件|やらせリンチ事件]]」の影響や、川口のがん発病もあり、同年11月に終了。その後、川口が[[1987年|1987年(昭和62年)]][[11月17日]]に死去したことで自然消滅の状態になっていた。しかし、探検シリーズ復活を希望する声が途絶えないことと、藤岡のワイルドなイメージや以前から旅番組や海外紀行番組を通じて、旅好き・アウトドア好きは知られていたこともあり、藤岡を2代目隊長に起用し[[2002年|2002年(平成14年)]][[12月25日]]に復活。「藤岡弘、探検隊」はこれまでに6度の探検を行っている<ref>[[水曜スペシャル]]「[[水曜スペシャル#川口浩探検隊シリーズ|川口浩探検隊シリーズ]]」を参照のこと。</ref>。
全6回の平均視聴率(関東)が9.7%と、高[[視聴率]]には至らなかったが、これ以降、川口に代わり「隊長といえば藤岡弘、」と広く認知され、[[公共|パブリック]]・イメージ、[[タレント]]・[[キャラクター|キャラ]]として浸透することとなった。バラエティ番組などに出演する際のスタイルとして、サファリ・ルックやサバイバルベストが定番となったのもこのころからである{{efn|なお、隊長と初めて呼ばれたのは『[[深夜戦隊ガリンペロ]]』([[2002年]][[10月26日]] - [[2003年]][[3月22日]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)で、探検隊復活もこの番組がきっかけといわれている。}}。結局、[[2005年|2005年(平成17年)]]3月19日の第6弾が事実上の最終作となった。また、2014年現在まで再放送などの機会は得られていない。単発では[[2009年|2009年(平成21年)]]2月1日に放送された『[[よゐこの無人島0円生活]]』([[テレビ朝日]]開局50周年記念番組)内のコーナーとして4年振りに復活している。
# 今夜復活! あの伝説の探検隊が帰ってきた! アマゾン奥地1500km! テラプレータの密林に 謎の猿人 ジュンマは実在した!([[2002年]][[12月25日]]放送)
# ベトナム奥地ラオス国境密林地帯に呪われた竜の使い人食いヅォンドゥーは実在した([[2003年]][[4月9日]]放送)
# 失われた大地…南米ギアナ高地の洞穴に謎の地底人クルピラは実在した!([[2003年]][[10月1日]]放送)
# エチオピア奥地3000キロ!幻の[[白ナイル川|白ナイル]]源流地帯!!古代裸族に人類の原点を見た!!([[2004年]][[1月2日]]放送)
# アマゾン奥地6000km! 密林の恐怖 [[イプピアーラ]] 大追跡! これが半魚人伝説の正体だ!([[2004年]][[9月8日]]放送)
# ミャンマー奥地 赤い密林縦走3000km! 伝説の野人 ナトゥーを追え!([[2005年]][[3月19日]]放送)
* 番外. 衝撃!無人島の大蛇伝説! 松の木よりもでかい蛇!(『よゐこの無人島0円生活』内にて放送。隊員は[[内藤大助]]&[[よゐこ]])
また、『[[シルシルミシルさんデー]]』(テレビ朝日系)では探検シリーズのパロディとして、藤岡が企業や巷の謎を調査するコーナー「藤岡弘、探検隊」を、また同局の『[[ナニコレ珍百景]]』では自然界の珍百景を紹介する「探検珍百景」「ワイルド珍百景」、[[照英]]とコンビを組んでの「洞窟珍百景」などで藤岡がリポーターを務めている(どちらも不定期放送)。
=== 交友関係 ===
{{節スタブ|title=追悼コメントよりも生前の交流についてを|date=2015年12月}}
『仮面ライダー』でアクションを担当した[[大野剣友会]]に対しては、番組上は敵である[[ショッカー]]を演じていたが、共にアクションを作り上げた本当の仲間であると述べている{{R|OFM1}}。
『[[特捜最前線]]』で共演した[[二谷英明]]や[[荒木しげる]]<ref>{{Cite news |title=藤岡弘、「役者バカな人」…二谷英明さん死去|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120109-OHT1T00023.htm|newspaper=スポーツ報知 |date=2012-01-09 |archiveurl=https://archive.is/N0H55 |archivedate=2014-02-14|accessdate=2014-02-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=藤岡弘、「早すぎる。無念」…荒木しげるさん死去|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20120416-OHT1T00018.htm|newspaper=スポーツ報知 |date=2012-04-16|archiveurl=https://archive.is/FAT8I |archivedate=2013-08-15|accessdate=2013-08-15}}</ref>、東映プロデューサーの[[平山亨]]や[[阿部征司]]らが死去した際には追悼のコメントを寄せた<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/samurai-do/entry-11587913704.html|title=「祈り」|publisher=藤岡弘、オフィシャルブログ「藤岡弘、の侍道」Powered by Ameba|date=2013-08-07|accessdate=2013-08-15}}</ref>。2012年[[10月2日]]にはスケジュールの合間を縫って、入院中の平山を見舞っており、既に[[認知症]]を発症していた平山もこの時は状態が安定し、満面の笑みだったことが伝えられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://riderproducer.blog.fc2.com/blog-entry-342.html|title=泣き虫プロデューサーの「いいから、俺にしゃべらせろ !」|publisher=拡散希望 !!【待望の藤岡弘さんがお見舞いに !!】のはなし|date=2013-10-03|accessdate=2013-08-15}}</ref><ref>{{Cite news |title=「仮面ライダーの父・阿部征司さん死去…東映元チーフプロデューサー」|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20121231-OHT1T00108.htm|newspaper=スポーツ報知 |date=2013-01-01 |archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0101-0818-38/hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20121231-OHT1T00108.htm |archivedate=2013-01-01|accessdate=2014-02-14}}</ref>。
== 出演作品 ==
=== テレビドラマ ===
'''NHK'''
* NHK劇場 / マイ・ポンコツ車(1967年)
* はだれゆき(1973年)
* [[大河ドラマ]]
** [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]](1974年) - [[坂本龍馬|坂本竜馬]]
** [[草燃える]](1979年) - [[三浦義村]]
** [[おんな太閤記]](1981年) - [[織田信長]]
** [[春の波涛]](1985年) - [[奥宮健之|奥平剛史]]
** [[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]](1989年) - 織田信長
** [[花の乱]](1994年) - [[大内政弘]]
** [[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]](2016年) - [[本多忠勝]]
** [[どうする家康]](2023年) - [[織田信秀]]
* [[銀河テレビ小説]]
** さようならの夏(1975年) - 主演・二郎
** 海辺の家族(1980年) - 繁太郎
* [[いごっそう段六]](1976年) - 長谷山
* [[土曜ドラマ_(NHK)|土曜ドラマ]]
** [[高層の死角]](1977年) - 平賀高明
** [[一年半待て#1978年版|松本清張シリーズ・一年半待て]](1978年) - 岡島久男
** 魂の夏(1980年)
* [[ドラマ人間模様]] / [[海峡 (1981年のテレビドラマ)|海峡]](1981年) - 下館岩男
* [[雄気堂々|雄気堂々 若き日の渋沢栄一]](1982年) - [[尾高長七郎]]
* NHKファミリードラマ / 夢家族 (1985年 - 1986年) - 八木浩太郎
* [[ビジネスマン空手道]](1995年) - 秋葉勘九郎
* [[天才てれびくん]] / [[天才てれびくんシリーズのドラマ#ザ・ゴーストカンパニー|ザ・ゴーストカンパニー]] 第5話「ぼくは剣士だ!」 (1998年)
* [[NHKドラマ館]] / 余命半年(1998年) 岩田純朗
* [[ズッコケ三人組#ドラマ愛の詩『ズッコケ三人組』|ズッコケ三人組]](1999年) - [[平賀源内]]
* [[NHK朝の連続テレビ小説|連続テレビ小説]] / [[あすか (テレビドラマ)|あすか]] (1999年 - 2000年) - 宮内禄太郎
* [[ズッコケ三人組#ドラマ愛の詩『新・ズッコケ三人組』|新・ズッコケ三人組]](2002年) - 音羽警部補
* [[僕の島/彼女のサンゴ]](2008年) - 大城大吉
* [[Q.E.D. 証明終了]] 第6回「賢者の遺産」(2009年) - 龍門寺虎男
'''日本テレビ系列'''
* [[おんな川]] (1967年)
* [[ゴールドアイ]] (1970年) - 藤弘
* めくらのお市 第2話「荒野に赤い花が散る」(1971年) - 檜左近
* [[土曜ドラマ (日本テレビ)|グランド劇場]] / 三年前の約束 (1972年)
* 夫婦日記 ダーリンは意地っ張り(1973年)
* 人妻だから(1973年 - 1974年)
* [[白い牙 (テレビドラマ)|白い牙]](1974年) - 主演・有光洋介
* [[消えた巨人軍]](1978年) - 主演・[[左文字進#映像化|探偵 左文字進]]
* [[木曜ゴールデンドラマ]]
** [[大誘拐]](1981年)- 主演・戸並健次
** 北アルプス脱獄誘拐事件(1981年)
** 花嫁を求めて幾千里(1982年)
** 知床の子 (1983年)
* [[長七郎江戸日記|長七郎江戸日記スペシャル 天下を取れ! 仕掛けられた反乱]](1988年) - 別木軍兵衛
* [[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]](1988年) - [[松平太郎]]
* [[火曜サスペンス劇場]]
** 事件記者(1999年)- 堅田鉄平
** 事件記者2(1999年)- 堅田鉄平
* [[明日があるさ (テレビドラマ)|明日があるさ]] 第7話「健康ダイエット!!」(2001年) - マッスル佐々木
* [[ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語]](2018年8月25日) - 藤岡弘(本人) 役
'''TBS系列'''
* [[千葉周作 剣道まっしぐら]] (1970年 - 1971年)
* [[私は忘れたい]] (1972年 - 1973年) - 哲次
* [[思い橋]](1973年) - 北晴彦
* [[日曜劇場|東芝日曜劇場]] / でんでん太鼓2 冬の巻
* 東芝日曜劇場
** でんでん太鼓 結婚しますの巻(1974年)
** [[うちのホンカン]] (1975年)
** ガラスの向う側 (1979年)
** 夢の蘭子(1980年)
** 港町まごころ坂(1982年)
* [[白い華燭]](1975年) - 高木
* 平家伝説(1975年) - 浜田吾郎
* [[仮面ライダーシリーズ]] - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
** [[仮面ライダーストロンガー]] 第38話「出現! ライダー1号 2号!!」第39話「さようなら! 栄光の七人ライダー!」(1975年)
** [[全員集合!7人の仮面ライダー!!]](1976年)
* [[白い秘密]](1976年 - 1977年) - 藤田和久
* うさぎ飛ぶ海(1977年)
* 愛の殺意(1979年)
* [[熱い嵐]](1979年) - [[前田正名]]
* 望郷の星 長谷川テルの青春(1980年)
* [[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]](1981年) - [[加藤清正]]
* 義経北走(1986年)
* [[月曜ミステリー劇場]]
** [[上条麗子の事件推理|上条麗子の事件推理 死を呼ぶ離婚慰謝料!]] (2001年) - 吉川寛平
** 上条麗子の事件推理2 死を呼ぶ早期退職者(2002年) - 吉川寛平
** 上条麗子の事件推理3 死を呼ぶ遺産相続(2003年)
** 上条麗子の事件推理4 死を呼ぶ老後資金(2004年)
* [[3年B組金八先生]] 第6シリーズ(2001年 - 2002年) - 鶴本佑介
* [[水戸黄門 (第29-30部)#第30部|水戸黄門 第30部]] 第4話「殿を殴った指南役 -松島-」(2002年) - 又部弥七郎
'''フジテレビ系列'''
* 愛のはじまるとき(1973年)
* [[新選組_(テレビドラマ)|新選組]](1973年)- 藤田精一郎
** 第1話「芹沢鴨死す 豪雨止まず」
** 第6話「三条大橋に黒い人影」
* 霧氷(1977年)
* [[汽笛が響く!]](1978年) - 主演・[[宮崎康平]]
* [[時代劇スペシャル_(フジテレビ)|時代劇スペシャル]] / 二人の武蔵 - 岡本武蔵
* 望郷 美しき妻の別れ(1983年) - 石泊守幸
* [[カバチタレ!]] 第5話「免停と交通違反キップで警察と対決!」 第11話「セクハラ男に置き去られ結婚式で恥をかく」(2001年) - さわやかなライダー
* [[ルパンの娘]](2019年) - 桜庭和一
'''NET→テレビ朝日系列'''
* 仮面ライダーシリーズ
** [[仮面ライダー]](1971年 - 1973年)- 主演・[[仮面ライダー1号|本郷猛 / 仮面ライダー]]{{efn|第9・10話の撮影中にオートバイから転倒した事故で負傷降板するまではスーツアクターも兼任。第92・93話ではショッカーライダーの声も一部担当。第11 - 13話はライブラリー出演で実際には出演せず。第9 - 13話の声は[[納谷六朗]]による吹き替え。第14 - 39話は出演なし、第40 - 52話は不定期出演であり、この間は[[佐々木剛]]が主演扱いになっている。第66・67話は変身後の姿のみの登場で藤岡の出演はなく、声は[[市川治]]による吹き替え。}}
** [[仮面ライダーV3]](1973年 - 1974年) - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
* [[さすらいの狼]] 第13話「死の追跡」(1972年)
* [[ご存知時代劇]] / 赤城の子守唄 (1973年) - 板割りの浅太郎
* [[新・二人の事件簿 暁に駆ける!]] 第5話「眼には眼を」(1976年)
* 愛と死の夜間飛行 (1977年) - 主演・洋一
* [[特捜最前線]] (1977年 - 1987年) - 桜井哲夫
* [[土曜ワイド劇場]]
** ある誘拐 裁かれる刑事
** 白銀の死闘 鮮血のシュプール(1979年)
** 京都神戸殺人事件(1988年) - 中川
** おんな秘密調査員・立花江梨子(1992年) - 笠井実
* 鬼麿斬人剣 天下無双の刀鍛冶(1995年) - 清原彦右衛門
* [[熱血!周作がゆく]](2000年) - 中西忠兵衛
'''テレビ東京'''
* オジロの海(1990年) - 主演・龍岡逞也
* [[テレビ東京月曜9時枠の連続ドラマ|月曜・女のサスペンス]] / 復讐岬に舞う真紅のバラ(1990年7月)
* 平成就職物語(1992年)
* [[徳川剣豪伝 それからの武蔵]](1996年) - [[柳生三厳|柳生十兵衛]]
* [[事件・市民の判決]] 第10話「岐路」(1996年)
* [[ボイスラッガー]]第7話「危うしスーパーヒーロー! 吠える大捜査線」(1999年) - ヒロシ
* [[トミカヒーロー レスキューファイアー]](2009年 - 2010年) - 世界消防庁長官 刑部零次
=== 映画 ===
* [[アンコ椿は恋の花#映画|アンコ椿は恋の花]](1965年)- 猛{{efn|デビュー作。}}
* 若いしぶき(1965年)- 主演・夏川啓一
* 血と掟(1965年)- 町田雄一
* やさぐれの掟(1965年)- ツトム
* [[さよならはダンスの後に#映画|さよならはダンスの後に]](1965年)- 池原隆一
* 青雲やくざ(1965年)- 早川
* 続青雲やくざ 怒りの男(1965年)- 良太
* 日本ゼロ地帯 夜の狙え(1966年)- 恭二
* [[涙の連絡船#映画|涙の連絡船]](1966年)- 鈴木正太
* [[雨の中の二人#映画|雨の中の二人]](1966年)- 魚源ひろし
* [[天下の快男児]](1966年)- ゴン
* 東京無宿(1966年)- 伸一
* 「青春の言葉」より 風にきけ雲にきけ(1966年)- 汐見泰平
* [[かあちゃんと11人の子ども]](1966年)- 吉田耕
* 男の顔は履歴書(1966年)
* [[スチャラカ社員]](1966年)- テキサス・リース日本支社社員
* 熱い血の男(1966年)- 五郎
* [[シンガポールの夜は更けて#映画|シンガポールの夜は更けて]](1967年)- 陳
* あゝ君が愛(1967年)- 北村宏之
* 宴(1967年)- 小三郎
* [[宇宙大怪獣ギララ]](1967年)- 月ステーション通信員
* また逢う日まで 恋人の泉(1967年)- 藤浦昇
* [[小さなスナック#映画|小さなスナック]](1968年)- 三橋昭
* [[初恋宣言]](1968年)- 松岡
* コント55号と水前寺清子の神様の恋人(1968年)- 岩野純一
* [[落葉とくちづけ (映画)|落葉とくちづけ]](1969年) -ジュン
* コント55号と水前寺清子のワン・ツウー・パンチ 三百六十五歩のマーチ(1969年)- 谷口順吉
* チンチン55号ぶっ飛ばせ!! 出発進行(1969年)- ヘルメットの青年
* 夕陽が呼んだ男(1970年)- 相良秀司
* 仮面ライダーシリーズ
** [[仮面ライダー対ショッカー]](1972年)- 主演・本郷猛 / 仮面ライダー
** [[仮面ライダー対じごく大使]](1972年)- 主演・本郷猛 / 仮面ライダー
** [[仮面ライダーV3対デストロン怪人]](1973年)- 仮面ライダー1号の声
** [[劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4]](2001年)- 警視総監
** [[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]](2011年)- 仮面ライダー1号の声
** [[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]](2014年)- 本郷猛 / 仮面ライダー1号
** [[仮面ライダー1号 (映画)|仮面ライダー1号]](2016年)- 主演・本郷猛 / 仮面ライダー1号{{efn|企画と製作も担当。}}
** [[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]](2021年) - 本郷猛 / 仮面ライダー1号<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/436462|title=「スーパーヒーロー戦記」仮面ライダー1号役・藤岡弘、が出演|work=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-07-12|accessdate=2021-07-12}}</ref>
* [[野獣狩り]](1973年)- 主演・舟木明
* [[日本沈没]](1973年)- 小野寺俊夫{{R|全史537}}
* [[野獣死すべし|野獣死すべし 復讐のメカニック]](1974年)- 主演・伊達邦彦
* [[エスパイ]](1974年)- 主演・田村良夫{{R|全史537}}
* [[東京湾炎上]](1975年)- 館次郎{{R|全史537}}
* [[大空のサムライ]](1976年)- [[坂井三郎]]{{R|全史537}}
* [[恋の空中ぶらんこ]](1976年)- 松野英一郎
* 錆びた炎(1977年)- 北原警部
* [[SFソードキル]](1984年)- 主演・多賀義光
* 香港・東京特捜刑事(1988年)- 藤岡弘
* [[K2/ハロルドとテイラー]](1991年)- 清水タカネ
* [[ゴト師株式会社 悪徳ホールをぶっ潰せ!|ゴト師株式会社]](1993年)- 菅原
* [[愛について、東京]](1993年)- 遠藤
* [[ヤマトタケル (映画)|ヤマトタケル]](1994年)- [[熊襲|クマソタケル]]{{R|東宝特撮映画大全集241|VIP128}}
* La VIE 共生!(1995年)- 清石
* SHOGUN COP(1999年)- 真田
* [[さくや妖怪伝]](2000年)- 榊備前守芳明
* [[ホーム・スイートホーム|ホーム・スイート・ホーム2 日傘の来た道]](2003年)- 鉄庵
* [[ファンタスティポ]](2005年)- 武田芳郎
* [[逆境ナイン]](2005年)- 校長
* [[いらっしゃいませ、患者さま。]](2005年)- 三島武雄
* 恋まち物語(2005年)
* [[恋するトマト]](2006年)- 勇作
* [[I am 日本人]](2006年)- ジョージ
* [[かにゴールキーパー]](2006年)- 藤村
* [[日本以外全部沈没]](2006年)- 防衛庁長官・石山新三郎
* [[ユメ十夜]] 第八夜(2007年)- [[夏目漱石]]
* [[トミカヒーロー レスキューフォース 爆裂MOVIE マッハトレインをレスキューせよ!]](2008年)- 刑部零次 / R0
* [[ルパンの娘|劇場版 ルパンの娘]](2021年)- 桜庭和一
* SAMURAI SWORDFISH(2022年)
* [[近江商人、走る!]](2022年)- 大津藩主
* ひとつの空(公開予定)- 師範
=== オリジナルビデオ ===
* [[ウルトラマンG]](1990年) - ナレーター(第1話 - 第6話)
* 汚れし者の伝説(1991年)
* [[ブラック・ジャック_(実写版)|ブラック・ジャック]](1996年) - [[本間丈太郎]]
* [[仮面ライダー|仮面ライダー メモリアル]](1998年) - ナレーター
* 必殺! バトルロード 妖剣女刺客 (2005年)
=== 声優 ===
==== テレビアニメ ====
* [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]スペシャル 野原ひろし探検隊 秘境に秘書だけの村を見た(2003年) - 本人役
==== OVA ====
* [[仮面ライダー (漫画)|まんがビデオ 仮面ライダー]](1999年) - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
* [[アーケードゲーマーふぶき]](2002年) - ギュラシック団首領
* [[ラストオーダー ファイナルファンタジーVII|LAST ORDER FINAL FANTASY VII]](2005年) - ザンガン
==== 劇場アニメ ====
* [[劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション ポケモンレンジャーと蒼海の王子 マナフィ]](2006年) - ファントム・トループ
* [[真救世主伝説 北斗の拳|真救世主伝説 北斗の拳ZERO ケンシロウ伝]](2008年)- ナレーション
==== ゲーム ====
* [[せがた三四郎 真剣遊戯]](1998年) - [[せがた三四郎]]
* せがた三四郎 超人伝説(1998年) - せがた三四郎
* [[シェンムー|シェンムー 一章横須賀]](1999年) - 芭月巌
* 仮面ライダーシリーズ
** [[仮面ライダー (プレイステーション版)|仮面ライダー]](1998年) - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
** [[仮面ライダー (プレイステーション版)|仮面ライダーV3]](2000年) - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
** [[仮面ライダー 正義の系譜]](2003年) - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
** [[仮面ライダー バトライド・ウォー|仮面ライダー バトライド・ウォー創生]](2016年) - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
** [[仮面ライダーバトル ガンバライジング]](2016年) - 仮面ライダー1号
** [[仮面ライダーバトル ガンバレジェンズ]](2023年) - 仮面ライダー1号<!-- 2023-03-23 -->
* [[シェンムーII]](2001年) - 芭月巌
* [[フードフォース]](2005年) - 食糧援助チームの隊長<ref>{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/article/2005/10/17/foodforcejp.html|title=コナミ、藤岡弘、と平山あやを起用した「Food Force」の日本語版を無料公開|publisher=窓の杜|date=2005-10-17|accessdate=2020-11-5}}</ref>
* [[キングダム ハーツII]](2005年) - シャン・ユー
* [[PROJECT X ZONE 2:BRAVE NEW WORLD]](2015年) - せがた三四郎<ref>{{Cite web|和書|publisher=ファミ通.com|url=http://www.famitsu.com/news/201509/10087676.html|title=『PROJECT X ZONE 2:BRAVE NEW WORLD』せがた三四郎など新登場キャラクター続々、『TOV』ザギ、『.hack//G.U.』葬炎のカイトなども!?|accessdate=2015-09-09}}</ref>
==== パチンコ・パチスロ ====
* 仮面ライダーシリーズ - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
** CR仮面ライダー(2004年)
** [[仮面ライダーDX]](2007年)
** [[CRぱちんこ仮面ライダー ショッカー全滅大作戦]](2007年)
** [[CRぱちんこ仮面ライダーMAX Edition]](2009年)
** 仮面ライダー UNLIMITED(2014年)
** ぱちんこ 仮面ライダー 轟音(2020年)
* CR我 藤岡弘、柳生十兵衛見参(2008年) - [[柳生三厳|柳生十兵衛]]
==== 吹き替え ====
* [[ドラゴン危機一発]](チェン・チャオワン) - [[ブルース・リー]]
* [[ムーラン (1998年の映画)|ムーラン]](シャン・ユー) - [[ディズニー]]アニメーション。
=== 情報番組 ===
* [[第49回NHK紅白歌合戦]]([[日本放送協会|NHK]]、1998年) - せがた三四郎
* [[熱中時間 忙中"趣味"あり]](NHK、2004年 - 2010年)
* 藤岡弘、探検シリーズ([[テレビ朝日]]、2002年 - 2005年)
* [[おもいッきりイイ!!テレビ]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、2007年 - 2009年)月曜日『食材バカ一代』リポーター
* [[わけもん!GT]]([[宮崎放送]]、2011年 - )レギュラー<ref>{{Cite web|和書|url=http://mrt.jp/television/wakemongt/ |title=わけもん ! GT |publisher=[[宮崎放送|MRT宮崎放送]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140706122442/http://mrt.jp/television/wakemongt/ |archivedate=2014-07-06 |accessdate=2014-07-30 }}</ref>
=== バラエティ ===
* [[ダウンタウンのごっつええ感じ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、1997年11月終了)※コーナーレギュラー
* [[深夜戦隊ガリンペロ]](フジテレビ、2003年3月終了)
* [[@サプリッ!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、2005年9月終了)※「男前ニュースコーナー」に出演
* [[ヴァケスケ]](フジテレビ、2006年3月終了)※準レギュラー
* [[シルシルミシルさんデー]](テレビ朝日、2014年9月終了)※「藤岡弘、探検隊」コーナー レポーター
* [[ナニコレ珍百景]](テレビ朝日、2016年3月終了)※ワイルド珍百景、洞窟珍百景、他レポーター
* [[さよなら、フーテン人生〜フーテン達が自分を変える720時間山ごもり〜]](日本テレビ、2016年12月終了)※番組ナビゲーター
* [[I LOVE みんなのどうぶつ園]](日本テレビ、2020年-)※「日本犬を育てる」担当<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2172458/full/|title=相葉雅紀MC『I LOVE みんなのどうぶつ園』 番組ファミリーに那須雄登、藤岡弘、家族ら|publisher=ORICON NEWS|date=2020-09-20|accessdate=2020-09-21}}</ref>、準レギュラー
* [[秘密のケンミンSHOW]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])※不定期出演
* [[有吉反省会]](日本テレビ)※不定期出演
* [[えぇトコ]](NHK)※不定期出演
* [[サタデープラス]]([[TBSテレビ]])※「藤岡弘、の3分散歩」コーナー レポーター
=== ドキュメンタリー ===
* 海を越えた侍たち〜藤岡弘、がブラジルで見つけた日本人の心〜(2014年)
=== ラジオ ===
* コージー・ポップ・フィールド([[エフエム東京]])
=== CM ===
* [[シック・ジャパン]] - インジェクター(1972年)
* [[日産自動車]] - [[日産・バイオレット]](1976年)
* [[青山商事]](1980年)
* [[日本コカコーラ]] - [[リアルゴールド]](1982年)
* [[洋服の青山]]
* [[KIRIN]] - アイスビール(1995年)
* [[POLA]] - バランスアップ(1996年)
* [[フリスキー]] - ワンプチ(1997年)
* [[セガ]] [[セガサターン]] - せがた三四郎 役(1997年 - 1998年)
* [[オートレース]](1999年 - 2000年) -
* [[モランボン]] - キムチチゲの素(2000年)
* [[ネスカフェ]] - サンタマルタX(2003年)
* [[静岡県]] - 交通安全キャンペーン(2005年 - 2006年)
* [[資生堂]] - [[uno (化粧品)|uno]](2005年)
* [[京楽産業]] - CRぱちんこ仮面ライダーショッカー 全滅大作戦(2007年)
* [[サントリー]] - ゼロナマ・「ティザー」編、「居酒屋」編(2008年)
* [[ゆうちょ銀行]] - [[ゆうちょ家族]] (2010年)
* [[第一三共ヘルスケア]] - カロヤンアポジカ∑プラス「髪の教え篇」編、「髪に喝篇」編(2011年)
* [[日本広告審査機構|JARO]] - 「自己紹介」編、「電話」編(2012年 - 2013年)
* [[サントリー]] - ノコギリヤシ+セサミンE(2014年)
* [[JAR]] - 即PAT(2016年)
* 四電エナジーサービス株式会社 - でんのすけ・「でんのすけとの出会い」編、「歌うでんのすけ」編(2016年)
* [[ショップジャパン]] - デュアルソー ダブルカッター・「DIYオヤジ」編(2016年)
* [[エスビー食品]] - 濃い[[シチュー]](2016年)
* [[日清食品]] - [[日清焼そばU.F.O.]] 「エクストリーム!ヤキソボーイ」編、「未確認藤岡物体襲来」編、「エクストリーム!ヤキソボーイ2」編、「売上NO1」編、「チョモランマU.F.O.」編(2017年-) - レジェンド・クロオビ
* [[ミクシィ]] - [[モンスターストライク]]、夏だ!モンともミッションキャンペーン・「肉の希少部位」編、「身代わりロボ」編(2018年)
* [[ミスズ]] - HANDA Watch World・「時計男」編、「ダジャレ」編(2018年)
* [[東京都福祉保健局]] - 東京都子育て支援キャンペーン「テンシン!」・「藤岡弘、」編(2018年)
* [[THE KING OF FIGHTERS ALLSTAR]](2019年) - [[覇王丸]] 役
* [[サントリー]] - [[ボス (コーヒー)|クラフトボス]]「サテライトオフィス」篇(2019年)
* [[タウンワーク]] - タウンワーク誰かな?「遭遇」篇(2020年)
* [[カルビー]]×[[ロッテ]] - おかしな研究所(2020年) - 所長 役
* [[SEGA]] - セガ設立60周年プロジェクト「決意」篇(2020年) - セガハタンシロー(せがた三四郎)役
* [[メルカリ]] - 「メゾンメルカリ・心の中の男/メルカリ」篇、「メゾンメルカリ・心の中の男/まちのお店」篇(2020年)
* [[ソフトバンク]] - 5Gってドラえもん?「スタート」篇、「登場」篇、「インタビュー(ブルース・ウィリス)」篇、「タケコプター」篇、「タケコプター・大人ののび太」篇、「未来のしずか登場」篇、「未来のジャイアン・スネ夫登場」篇、「未来からの意見」篇、「スマホになったドラえもん」篇、「ドラミ登場」篇(2020年 -) - [[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]]〈[[ブルース・ウィリス]]〉の声
* 新日本エネックス - 「ならば太陽光とは」篇<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=xQeqKCRl2Ns 新日本エネックス公式Youtubeチャンネル「ならば太陽光とは」篇]</ref>、「さすが蓄電池」篇<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=5R-M5xlgZpQ 新日本エネックス公式Youtubeチャンネル「さすが蓄電池」篇]</ref>(2021年)
* [[リクルートホールディングス|リクルート]] - Airペイ「居酒屋」編 (2023年)
=== 玩具 ===
* COMPLETE SELECTION MODIFICATION 変身ベルト・タイフーン(2022年5月) - 本郷猛 / 仮面ライダー1号
== 音楽 ==
=== シングル ===
* [[レッツゴー!! ライダーキック]] (1971年)藤岡バージョンが収録されているのは初回盤のみ。
* 夕陽没ちても(1972年)
* 愛の挽歌(1976年)
* 右手に枯れたバラ(1985年)
* セガサターン、シロ!(1998年)
* レッツゴー!! ライダーキック 〜2000 Ver.〜(2000年)
* 荒野のサムライ〜明日に向って走れ〜(2006年)
=== アルバム ===
* 愛こそすべて 合掌、(2005年)
== 著書 ==
* 『仮面ライダー 本郷猛の真実』 [[ぶんか社]] 1999年 ISBN 978-4-8211-0640-0
* 『サムライ学』 [[アスペクト (企業)|アスペクト]] 1999年 ISBN 978-4-7572-0431-7
* 『熱血・藤岡弘の「人生に喝!」』 [[ビジネス社]] 2002年 ISBN 978-4-8284-0969-6
* 『実践・五輪書-武道を通して学んだ宮本武蔵』 [[ビジネス社]] 2002年 ISBN 978-4-8284-1014-2
* 『愛と勇気と夢を持て!』 [[ごま書房]] 2005年 ISBN 978-4-7771-0257-0
* 『藤岡弘、の武士道入門』 並木書房 2009年 ISBN 978-4-89063-243-5{{efn|聞き手:[[小峯隆生]]}}
* 『仮面ライダー=本郷猛』 [[扶桑社]] 2009年 ISBN 978-4-594-05661-2
* 『藤岡イズム。』 無双舎 [[2011年]] ISBN 978-4-86408-454-3
* 『藤岡弘、の人生はサバイバルだ。』 本の泉社 2012年 ISBN 978-4-7807-0748-9
* 『あきらめない』 メタモル出版 2014年 ISBN 978-4-89595-860-8
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2
|refs=
<ref name="star meikan">{{Cite web|和書|url=http://tvstars.jp/profile.php?id=2000008275|title=スタープロフィール / 藤岡 弘、|publisher=Web版TVスター名鑑|date=|accessdate=2013-01-07|deadlinkdate=2017-02-16 |archiveurl=https://archive.is/20130502060244/http://tvstars.jp/profile.php?id=2000008275 |archivedate=2013-05-02}}</ref>
<ref name="OCN page1">{{Cite web|和書|url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people01.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」1ページ|publisher=OCN TODAY |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131001011319/http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people01.html|archivedate=2013-10-01|accessdate=2014-01-21}}</ref>
<ref name="OCN page2">{{Cite web|和書|url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people02.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」2ページ|publisher=OCN TODAY|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131030225408/http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people02.html|archivedate=2013-10-30|accessdate=2014-01-21}}</ref>
<ref name="OCN page3">{{Cite web|和書|url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people03.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」3ページ|publisher=OCN TODAY|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029202517/http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people03.html |archivedate=2013-10-29|accessdate=2014-01-21}}</ref>
<ref name ="OCN page4">{{Cite web|和書|url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people04.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」4ページ|publisher=OCNTODAY|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131030225700/http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people04.html|archivedate=2013-10-30|accessdate=2014-01-21}}</ref>
<ref name ="hotta_shinzo">{{Cite web|和書|url=http://ameblo.jp/hottashinzo/entry-11586636714.html|title=〜〜平山亨;プロデューサー お別れ会〜〜|publisher=我が俳優人生 ここに記す 堀田眞三 |archiveurl=https://archive.is/S8Tpu|archivedate=2013-08-15|accessdate=2013-08-15}}</ref>
<ref name="pia_eiga">{{Cite news |title=“隊長”藤岡弘、実はヘビが嫌い! インディ・ジョーンズ顔負けの冒険談を披露|url=http://cinema.pia.co.jp/news/0/48071/|newspaper=ぴあ映画生活 |date=2012-09-12 |author=内田涼|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140214003943/http://cinema.pia.co.jp/news/0/48071/ |archivedate=2014-02-14|accessdate=2014-02-14}}</ref>
<ref name="産経関西">{{Cite news |title=桐山靖雄×藤岡弘、8月15日特別対談「命を敬い明日に進む」|url=http://www.sankei-kansai.com/2013/08/15/20130815-066298.php|newspaper=産経関西 |date=2013-08-15 |archiveurl=https://archive.is/8gubf |archivedate=2014-02-14|accessdate=2014-02-14}}</ref>
<ref name="rbbtoday_139123">[https://www.rbbtoday.com/article/2016/01/28/139123.html 藤岡弘、44年ぶりに「仮面ライダー1号」として映画主演] - RBB TODAY</ref>
<ref name="全史533">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|p=533|loc=「怪獣・SF映画俳優名鑑」}}</ref>
<ref name="全史537">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|pp=537-538|loc=「主要特撮作品配役リスト」}}</ref>
<ref name="大全集226">{{Harvnb|仮面ライダー大全集|1986|pp=226-231|loc=「スペシャルSTAFF CAST座談会 仮面ライダーを語る」}}</ref>
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<ref name="変身大全集">{{Cite book |和書|date=1995-11-30|title=[[テレビマガジン]]特別編集 変身ヒーロー大全集|publisher=[[講談社]] |pages=130-133|chapter=概説 変身ブームの変遷|isbn=4-06-178419-6 }}</ref>
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<ref name="VIP117">{{Harvnb|ゴジラとともに|2016|p=117|loc=「藤岡弘、」}}</ref>
<ref name="VIP118">{{Harvnb|ゴジラとともに|2016|pp=118-127|loc=構成・文 鷺巣義明、編集部「藤岡弘、」(『映画秘宝』2000年16号、2010年11月号の合併再編集)}}</ref>
<ref name="VIP128">{{Harvnb|ゴジラとともに|2016|pp=128-130|loc=「藤岡弘、ギャラリー」}}</ref>
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== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2014-11-20|title = 仮面ライダー1971-1984 <small>秘蔵写真と初公開資料で蘇る昭和ライダー10人</small>|publisher =講談社|isbn = 978-4-06-218566-0|ref = {{SfnRef|仮面ライダー1971-1984|2014}}}}
* {{Cite book|和書|title=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊 仮面ライダー怪人大画報2016|date=2016-03-28|publisher=[[ホビージャパン]]|series=ホビージャパンMOOK|isbn=978-4-7986-1202-7|ref={{SfnRef|仮面ライダー怪人大画報|2016}}}}
* {{Cite book|和書|editor=別冊[[映画秘宝]]編集部|title=ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集|publisher=[[洋泉社]]|date=2016-09-21|series=映画秘宝COLLECTION|isbn=978-4-8003-1050-7|ref={{SfnRef|ゴジラとともに|2016}}}}
== 外部リンク ==
* {{Official website| samurai-hiroshi.com/ | 藤岡弘、オフィシャルサイト}}
* {{URL| https://ameblo.jp/samurai-do/ | 藤岡弘、オフィシャルブログ「藤岡弘、の侍道」 }}
* {{Allcinema name|44225}}
* {{kinejun name|97610}}
* {{imdb name|id=0297800|name=藤岡弘、}}
* {{URL |www.tvdrama-db.com/name/p/key-%E8%97%A4%E5%B2%A1%E5%BC%98%E3%80%81 |藤岡弘、 - テレビドラマ人名録 - ◇テレビドラマデータベース◇ }}
* {{URL| grs-japan.net/ | GRS - グローバルレインボーシップ - }}
* {{Twitter|samuraihiroshi|藤岡弘、 侍語録}}
* {{Instagram|hiroshi_fujioka_official|藤岡弘、STAFF}}
* {{NHK人物録|D0009070925_00000}}
* {{YouTube|channel=UClXv7C8FmcTQKJh7O-PlDvA|藤岡弘、ファミリーChannel}}
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吉祥寺駅
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吉祥寺駅(きちじょうじえき)は、東京都武蔵野市吉祥寺南町一丁目および同二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄の駅である。
JR東日本の中央本線と、京王電鉄の井の頭線が乗り入れ、接続駅となっている。
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は中央本線のみであるが、一般列車の運転系統としては、急行線を走る中央線快速電車および緩行線を走る中央・総武線各駅停車の2系統が停車する。加えて成田空港駅へ直通する特急「成田エクスプレス」が停車する。
京王井の頭線は当駅を終点としている。
南北に自由通路があり、行き来ができる。
JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している三鷹営業統括センター管理の業務委託駅で、島式ホーム2面4線を有する高架駅である。エスカレーターとエレベーターが設置されている。
改札口は、中央にある中央口(北口)・公園口(南口)・アトレ本館口(西口)、および西荻窪寄りにあるアトレ東館口(東口)の4ヶ所である。
なお、東隣の西荻窪駅から東京都区部に入り、当駅が中央本線での八王子支社管内最東の駅となる。そのため、当駅と西荻窪駅の間に首都圏本部との境界標が設置されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
井の頭北管区所属。京王電鉄の駅で唯一、武蔵野市に所在する。頭端式ホーム2面2線を有する高架駅(地上3階)である。
改札は1ヶ所で、その脇にキラリナ京王吉祥寺への入口がある。正面にはエスカレーターがあり、降りるとJR公園口(南口)改札がある。
当駅は北口・南口ともに多くのバス路線が発着しており、当駅の所在地である武蔵野市民の他、三鷹市・練馬区・杉並区の住民および埼玉県新座市などからの利用も可能である。吉祥寺は多摩地区でも屈指の繁華街のため、隣接する市区以外からも多くの人が集まる。
各年度の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。
各年度の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。
駅周辺は武蔵野市の中心市街地であるだけでなく、周辺の市や区からも人をひきつける多摩地域有数の商業地域であり、立川、町田、八王子とともに多摩地域の4大繁華街の一角を占める。大型商業施設の他、オープンカフェ、飲食店、ブランドショップ、古着屋などが所狭しと立ち並んでいる。
駅から練馬区・杉並区・三鷹市の境界まで徒歩圏内である。
中央口(北口)は広く、メイン出口である。みどりの窓口があり、待ち合わせ場所として人が多い。公園口(南口)を出ると京王井の頭線の乗り場がある。
駅前は広いロータリーになっており、武蔵関、大泉、石神井、柳沢、西荻窪、中野方面(下記参照)の路線バスが発着している。
アーケード商店街としてサンロードとダイヤ街が駅前から伸びており、この2つが北口のメインストリートとなる。駅前から北西に伸びるダイヤ街 (East→West zone) を抜けた先に東急百貨店吉祥寺店がある。そのさらに北西側は急速に商業地化が進んだ一帯で、通称「東急裏」と呼ばれており、オープンカフェやブランドショップが密集している。
駅の北東にはヨドバシ吉祥寺があり、その東側の一帯は風俗店などが立ち並ぶ歓楽街となっている。現在のヨドバシ吉祥寺の建物はかつて近鉄百貨店東京店だったため、周辺一帯は通称「近鉄裏」と呼ばれていた。2000年代以降では東急裏をはじめとする他地区のテナント料高騰を嫌ったエスニックショップなどが進出している。
南口も商業地区だが、その範囲は北口側に比べて狭い。京王井の頭線の駅ビルであるキラリナ京王吉祥寺と直結している。南口のパークロード商店街はバスの通り道になっているにもかかわらず幅員が狭く、かつ人通りが昼夜を問わず多い。そのため、人や自転車すれすれの所をバスが徐行し、安全面で問題となっている。
駅から徒歩5分の場所に、行楽地である井の頭恩賜公園がある。特に花見の時期には多くの人が訪れる。駅から公園までの道(七井橋通り)沿いには焼き鳥店「いせや」をはじめ、飲食店やカフェ、古着屋も多い。東進ハイスクールや東進衛生予備校を展開するナガセの本社も位置しており、東進ハイスクールの本部もある。
のりばは、北口・中央口と公園口の2つに大別される。
駅近くの吉祥寺駅(当駅北口のロータリー)に関東バスと西武バスの路線が乗り入れる。主に北側に向かう路線と東側に向かう路線が発着する。
関東バスは五日市街道営業所・武蔵野営業所・青梅街道営業所、西武バスは上石神井営業所と滝山営業所(吉64のみ)がそれぞれ担当する。各路線の詳細は営業所記事を参照。
以下のバスの発着以外にも路線バスの降車専用停留所にもなっている。停車するのは小田急バスと京王バスの公園口から発車する便で、吉03は終日、宿44の一部の便、また、それ以外の便でも夕方以降はすべて中央口に到着する。なお、小田急バスの中央口に到着するバスの行先は「吉祥寺駅中央口」に設定されている。
駅近くの吉祥寺駅(当駅南口の井の頭通り沿い)に小田急バスと京王バスの路線が、同停留所近くの吉祥寺駅南口に関東バス(ムーバス)が乗り入れる。主に南西側に向かう路線が発着する。
小田急バスは吉祥寺営業所と武蔵境営業所(吉01系統の武蔵境駅南口行きのみ)、ムーバスは関東バスの武蔵野営業所、京王バスは調布営業所(吉14系統の一部)がそれぞれ担当する。各路線の詳細は営業所記事を参照。
2010年3月より、JR東日本が吉祥寺駅の高架橋耐震化と利便性改善のため、改修工事に着手、2014年に完成した。
改修内容としては、
中央改札口の工事期間中は北口歩道上に仮設駅舎が設置され、仮改札口から北口方面に出入りしていた。
高架橋となっている井の頭線の駅舎は、コンクリート躯体が井の頭公園・吉祥寺間開通時の1934年、鉄骨橋梁が1977年に構築されたもので、老朽化が進んでいたほか、耐震化工事も必要になっていた。そのため、2007年12月から2010年にかけて高架橋の改築とホームの改良工事を行った。工事の際には度々2つある井の頭線のホームのうち1つを閉鎖した。そして、2011年10月1日より公園口の南北自由通路の右側にエレベーターが新設され、2階の切符売り場・JR改札口だけでなく、3階の井の頭線の改札前へも運転されることとなった。
また、駅舎に隣接する京王吉祥寺駅ビルも1970年の建築から40年近く経過し老朽化が進んでいたこともあり、2010年4月上旬から建て替え工事を行い、2014年4月に完成した。工事の間、テナントであるユザワヤと啓文堂書店は丸井吉祥寺店内に仮移転していたが、新ビル完成後に各テナントとして再出店した。
※東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「成田エクスプレス」の隣の停車駅は列車記事を参照のこと。
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"text": "関東バスは五日市街道営業所・武蔵野営業所・青梅街道営業所、西武バスは上石神井営業所と滝山営業所(吉64のみ)がそれぞれ担当する。各路線の詳細は営業所記事を参照。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "以下のバスの発着以外にも路線バスの降車専用停留所にもなっている。停車するのは小田急バスと京王バスの公園口から発車する便で、吉03は終日、宿44の一部の便、また、それ以外の便でも夕方以降はすべて中央口に到着する。なお、小田急バスの中央口に到着するバスの行先は「吉祥寺駅中央口」に設定されている。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "駅近くの吉祥寺駅(当駅南口の井の頭通り沿い)に小田急バスと京王バスの路線が、同停留所近くの吉祥寺駅南口に関東バス(ムーバス)が乗り入れる。主に南西側に向かう路線が発着する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "小田急バスは吉祥寺営業所と武蔵境営業所(吉01系統の武蔵境駅南口行きのみ)、ムーバスは関東バスの武蔵野営業所、京王バスは調布営業所(吉14系統の一部)がそれぞれ担当する。各路線の詳細は営業所記事を参照。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2010年3月より、JR東日本が吉祥寺駅の高架橋耐震化と利便性改善のため、改修工事に着手、2014年に完成した。",
"title": "駅改良工事"
},
{
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"text": "改修内容としては、",
"title": "駅改良工事"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "中央改札口の工事期間中は北口歩道上に仮設駅舎が設置され、仮改札口から北口方面に出入りしていた。",
"title": "駅改良工事"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "高架橋となっている井の頭線の駅舎は、コンクリート躯体が井の頭公園・吉祥寺間開通時の1934年、鉄骨橋梁が1977年に構築されたもので、老朽化が進んでいたほか、耐震化工事も必要になっていた。そのため、2007年12月から2010年にかけて高架橋の改築とホームの改良工事を行った。工事の際には度々2つある井の頭線のホームのうち1つを閉鎖した。そして、2011年10月1日より公園口の南北自由通路の右側にエレベーターが新設され、2階の切符売り場・JR改札口だけでなく、3階の井の頭線の改札前へも運転されることとなった。",
"title": "駅改良工事"
},
{
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"text": "また、駅舎に隣接する京王吉祥寺駅ビルも1970年の建築から40年近く経過し老朽化が進んでいたこともあり、2010年4月上旬から建て替え工事を行い、2014年4月に完成した。工事の間、テナントであるユザワヤと啓文堂書店は丸井吉祥寺店内に仮移転していたが、新ビル完成後に各テナントとして再出店した。",
"title": "駅改良工事"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "※東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「成田エクスプレス」の隣の停車駅は列車記事を参照のこと。",
"title": "隣の駅"
}
] |
吉祥寺駅(きちじょうじえき)は、東京都武蔵野市吉祥寺南町一丁目および同二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄の駅である。
|
{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=駅}}
{{駅情報
|駅名 = 吉祥寺駅
|画像 = Kichijoji Station-2.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 中央線吉祥寺駅中央口(北口)<br />(2018年3月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300
|marker=rail|marker2=rail
|coord={{coord|35|42|11|N|139|34|48|E}}|title=JR 吉祥寺駅
|coord2={{coord|35|42|10|N|139|34|48|E}}|title2=京王 吉祥寺駅
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|よみがな = きちじょうじ
|ローマ字 = Kichijōji
|所在地 = [[東京都]][[武蔵野市]][[吉祥寺南町]]
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[京王電鉄]]([[#京王電鉄|駅詳細]])}}
}}
[[ファイル:吉祥寺駅周辺航空写真1989.jpg|thumb|周辺一帯の航空写真{{国土航空写真}}]]
'''吉祥寺駅'''(きちじょうじえき)は、[[東京都]][[武蔵野市]][[吉祥寺南町]]一丁目および同二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[京王電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本の[[中央本線]]と、京王電鉄の[[京王井の頭線|井の頭線]]が乗り入れ、接続駅となっている。
* JR東日本:各線(後述)
* 京王電鉄:[[File:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|15px|IN]] 井の頭線 - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''IN17'''」
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[中央本線]]のみであるが、一般列車の運転系統としては、[[急行線]]を走る[[中央線快速|中央線快速電車]]および[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]の2系統が停車する。加えて[[成田空港駅]]へ直通する特急「[[成田エクスプレス]]」が停車する。
* [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]]:[[急行線]]を走行する中央本線の近距離電車。[[八王子駅]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]方面の列車の他に、[[立川駅]]から[[青梅線]]へ直通する列車も運行 - 駅番号「'''JC 11'''」
* [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]:[[急行線|緩行線]]を走行する中央本線の近距離電車。新宿駅を経由する中央・総武線の他に、中野駅から[[東京メトロ東西線|地下鉄東西線]]へ直通する列車も運行。東京メトロ東西線直通列車は西船橋駅から[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]への直通運転を行っている他、平日の朝夕ラッシュ時のみ[[津田沼駅]]まで総武線(各駅停車)への直通も行っている。 - 駅番号「'''JB 02'''」
京王井の頭線は当駅を終点としている。
== 歴史 ==
[[File:Chuuousen kichijouji eki 1.jpg|thumb|旧駅舎]]
* [[1899年]]([[明治]]32年)[[12月30日]]:[[甲武鉄道]]の駅として開業<ref>[{{NDLDC|2948245/3}} 「停車場設置」『官報』1900年1月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。旅客および貨物の取り扱いを開始。
* [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:甲武鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]により[[鉄道省|官設鉄道]]の駅となる<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。
* [[1934年]]([[昭和]]9年)[[4月1日]]:帝都電鉄(現・[[京王電鉄]][[京王井の頭線|井の頭線]])が開業<ref name="keio-handbook2020" />。
* [[1940年]](昭和15年)[[5月1日]]:帝都電鉄が小田原急行鉄道に合併し、同社帝都線の駅となる。
* [[1942年]](昭和17年)5月1日:[[小田急電鉄]]が[[東京急行電鉄]]([[大東急]])に併合。
* [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]]:東急から京王帝都電鉄が分離し、同社井の頭線の駅となる。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。
* [[1965年]](昭和40年)[[4月5日]]:国鉄の貨物取り扱いを廃止。
* [[1967年]](昭和42年)[[10月29日]]:国鉄の駅が高架化される<ref>{{Cite news |和書|title=荻窪-三鷹間 二線高架、29日から使用 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1967-10-22 |page=3 }}</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[4月6日]]:中央・総武線(各駅停車)および営団地下鉄東西線直通電車が荻窪から三鷹まで延長(複々線化)。
** [[12月3日]]:北口に吉祥寺ステーションビル「[[吉祥寺ロンロン]]」開業。
** [[12月10日]]:旅行センターの営業を開始<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=吉祥寺駅にも旅行センター |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1969-12-07 |page=1 }}</ref>。
* [[1970年]](昭和45年)11月:南口の地上8階・地下2階建て駅ビル「[[京王吉祥寺駅ビル|ターミナルエコー]]」開業(その後[[ユザワヤ]]吉祥寺店)。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[3月21日]]:北口駅前広場が完成、記念式典・イベントを開催。
** 4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、中央本線の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[8月26日]]:「ロンロン」リニューアルオープン。
* [[1992年]](平成4年)[[6月17日]]:JR東日本の東改札で[[自動改札機]]を設置し、使用を開始する<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=182 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-27|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[4月21日]]:京王井の頭線のホームで防護枕木に列車が衝突する事故が発生<ref group="報道" name="press20060421">{{Cite press release|和書|url=http://www.keio.co.jp/press/release/060421v01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061008200753/http://www.keio.co.jp/press/release/060421v01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京王井の頭線吉祥寺駅における防護マクラギへの列車接触について(お詫び)|publisher=京王電鉄|date=2006-04-21|accessdate=2021-05-03|archivedate=2006-10-08}}</ref>。乗車していた乗客数人が怪我を負った<ref group="報道" name="press20060421" />。この日以降、渋谷寄りに1両分余分に設けられていたプラットホーム部分に停止位置を約5 m程ずらす措置が採られる<ref name="safetyreport2007">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/security_feature/safetyreport/pdf/2007keio-anzennhoukoku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210508110221/https://www.keio.co.jp/group/traffic/security_feature/safetyreport/pdf/2007keio-anzennhoukoku.pdf|title=安全報告書2007 > 3.輸送の安全の実態|date=2007-09|archivedate=2021-05-08|page=12|accessdate=2021-05-08|publisher=京王電鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:京王電鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-08|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)8月:JR東日本が吉祥寺駅の改修工事に着手。
* [[2010年]](平成22年)
** [[3月31日]]:京王吉祥寺駅ビルが閉店。同時に地下通路も閉鎖。
** 4月1日:吉祥寺ロンロンが「[[アトレ]]吉祥寺」に改称、第1期リニューアルオープン<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/148_kichijyouji2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170729223730/http://company.atre.co.jp/company/news/pict/148_kichijyouji2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2010年4月1日(木)AM10:00 『アトレ吉祥寺』誕生!吉祥寺ロンロンは『アトレ吉祥寺』としてリニューアルオープンします|publisher=atre|date=2010-01-26|accessdate=2020-03-29|archivedate=2017-07-29}}</ref>。
** 4月上旬:京王電鉄が吉祥寺駅の駅ビル建て替えに着手。
** [[9月21日]]:アトレ吉祥寺グランドオープン<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/168_0903kichikichi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200329012133/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/168_0903kichikichi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=『アトレ吉祥寺』2010年9月21日(火)AM10:00 グランドオープン!|publisher=atre|date=2010-09-03|accessdate=2020-03-29|archivedate=2020-03-29}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[4月23日]]:新京王吉祥寺駅ビル「キラリナ京王吉祥寺」オープン<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr140121_kirarinakeiokichijoji.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190506143506/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr140121_kirarinakeiokichijoji.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2014年4月23日(水)井の頭線吉祥寺駅に新駅ビルが登場!!「キラリナ京王吉祥寺」 出店店舗が決定 〜吉祥寺エリア初出店となる店舗が70店登場〜|publisher=京王電鉄|date=2014-01-21|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-05-06}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[12月6日]]:京王井の頭線1番線ホームで[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道" name="platform-door">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr151029_formdoor.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160326030638/http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr151029_formdoor.pdf|format=PDF|language=日本語|title=井の頭線吉祥寺駅にホームドアを設置します 〜ホームからの転落事故を未然に防止します〜|publisher=京王電鉄|date=2015-10-29|accessdate=2020-07-28|archivedate=2016-03-26}}</ref><ref name="keio-handbook2020">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/all_keiohandbook2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201208160854/https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/all_keiohandbook2020.pdf|title=京王ハンドブック2020 > 年表|date=2020-08|archivedate=2020-12-08|accessdate=2021-05-03|publisher=京王電鉄広報部|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[2月14日]]:京王井の頭線2番線ホームでホームドアの使用を開始<ref name="keio-handbook2020" />。
* [[2018年]](平成30年)[[12月1日]]:JR東日本の駅が業務委託化<ref name="outsource">{{Cite web|和書|url=http://jreu-h.jp/relays/download/21/55/171/313/?file=/files/libs/313//201805281320336181.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200329010816/http://jreu-h.jp/relays/download/21/55/171/313/?file=%2Ffiles%2Flibs%2F313%2F%2F201805281320336181.pdf|title=平成30年度営業関係施策(その2) 吉祥寺駅業務委託について提案を受ける!|format=PDF|language=日本語|archivedate=2020-03-29|accessdate=2020-03-29|publisher=JR東労組八王子地本|date=2018-05-25}}</ref>。併設の[[びゅうプラザ]]が[[びゅうトラベルサービス]](VTS)に運営を移管<ref name="outsource"/>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[9月30日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref name="closed-view">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=596|title=駅の情報(吉祥寺駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2020-07-24|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200724033055/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=596|archivedate=2020-07-24}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.v-travels.co.jp/mt/press_20200703.pdf|title=「びゅうプラザ吉祥寺駅」及び「びゅうプラザ錦糸町駅」の閉店について|format=PDF|publisher=びゅうトラベルサービス|date=2020-07-03|accessdate=2020-07-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200723023928/http://www.v-travels.co.jp/mt/press_20200703.pdf|archivedate=2020-07-23}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[11月9日]]:JR東日本の改札内に駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」のテレワークブース「STATION BOOTH」が開設<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/hachioji/20211018_hc002.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211018095955/https://www.jreast.co.jp/press/2021/hachioji/20211018_hc002.pdf|format=PDF|language=日本語|title=便利な駅の改札口付近に「STATION BOOTH」続々OPEN!|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2021-10-18|accessdate=2021-10-18|archivedate=2021-10-18}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[4月15日]]:京王電鉄の定期券売り場の営業を終了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/announce2021/20220315_teikikenhatsubaimadoguchi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220315121511/https://www.keio.co.jp/news/update/announce/announce2021/20220315_teikikenhatsubaimadoguchi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=定期券発売窓口営業終了・営業時間の変更について|publisher=京王電鉄|date=2022-03-15|accessdate=2022-03-15|archivedate=2022-03-15}}</ref>。
== 駅構造 ==
南北に[[自由通路]]があり、行き来ができる<ref>{{Cite web|和書|title=吉祥寺駅南北自由通路がリニューアル|武蔵野市公式ホームページ|url=http://www.city.musashino.lg.jp/shisei_joho/machizukuri/kichijoji_machizukuri/1024435/1008579.html|website=武蔵野市公式ホームページ|accessdate=2021-10-26|language=ja|last=武蔵野市役所}}</ref>。
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = JR 吉祥寺駅
|画像 = JR Chuo-Main-Line Kichijoji Station Central Gates.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 中央改札(2019年9月)
|よみがな = きちじょうじ
|ローマ字 = Kichijōji
|電報略号 = キチ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = 東京都武蔵野市吉祥寺南町一丁目1番24号
|座標 = {{coord|35|42|11|N|139|34|48|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 吉祥寺駅}}
|開業年月日 = [[1899年]]([[明治]]32年)[[12月30日]]
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|乗車人員 = 118,865
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#f15a22|■}}[[中央線快速|中央線(快速)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]])
|前の駅1 = {{Refnest|group="*"|name="boundary"|この間に[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]と[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から三鷹寄りは八王子支社管内)}}JC 10 [[西荻窪駅|西荻窪]]
|駅間A1 = 1.9
|駅間B1 = 1.6
|次の駅1 = [[三鷹駅|三鷹]] JC 12
|駅番号1 = {{駅番号r|JC|11|#f15a22|1}}
|キロ程1 = 12.2 km([[新宿駅|新宿]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から22.5
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は中央本線)
|前の駅2 = <ref group="*" name="boundary" />JB 03 西荻窪
|駅間A2 = 1.9
|駅間B2 = 1.6
|次の駅2 = 三鷹 JB 01
|駅番号2 = {{駅番号r|JB|02|#ffd400|1}}
|キロ程2 = 中央線(快速)に同じ<br />[[千葉駅|千葉]]から58.6
|起点駅2 =
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsource"/>
* [[みどりの窓口]] 有}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[三鷹駅|三鷹営業統括センター]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で<ref name="outsource"/>、[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]である。[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が設置されている。
[[改札]]口は、中央にある中央口(北口)・公園口(南口)・アトレ本館口(西口)、および西荻窪寄りにあるアトレ東館口(東口)の4ヶ所である。
なお、東隣の西荻窪駅から[[東京都区部]]に入り、当駅が中央本線での[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]管内最東の駅となる。そのため、当駅と西荻窪駅の間に[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]との[[JR支社境|境界標]]が設置されている。
==== のりば ====
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)
|style="text-align:center;"|西行
|[[三鷹駅|三鷹]]方面
|-
!2
|style="text-align:center;"|東行
|[[新宿駅|新宿]]・[[千葉駅|千葉]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] [[東京メトロ東西線]]方面
|-
!3
|rowspan="2"| [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速)
|style="text-align:center;"|下り
|[[立川駅|立川]]・[[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]方面
|-
!4
|style="text-align:center;"|上り
|[[中野駅 (東京都)|中野]]・新宿・[[東京駅|東京]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/596.html JR東日本:駅構内図])
* 中央線下り快速(3番線発)は当駅から先は各駅に停車するので「各駅停車」と案内され、[[JR東日本E233系電車|E233系]]では「快速」表示も行われない。なお、平日は中野駅から各駅に停車する。
* [[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正以降、早朝・深夜に設定されていた[[東京駅]]発着の各駅停車が消滅した<ref group="報道" name="pr20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-07-23|archivedate=2019-12-13}}</ref>。
* JR中央線は、[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに快速電車に2階建て[[グリーン車]]を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため、ホームの12両編成対応改築工事などが実施されている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-29|archivedate=2017-03-24}}</ref>。
<gallery>
JR Chuo-Main-Line Kichijoji Station South Gates (Park Entrance).jpg|南改札(公園口)(2019年9月)
JR Chuo-Main-Line Kichijoji Station West Gates (atre Main Entrance).jpg|西改札(アトレ本館口)(2019年9月)
JR Chuo-Main-Line Kichijoji Station East Gates (atre East Entrance).jpg|東改札(アトレ東館口)(2019年9月)
JR Chuo-Main-Line Kichijoji Station Platform 1・2.jpg|1・2番線(中央・総武線)ホーム(2019年9月)
JR Chuo-Main-Line Kichijoji Station Platform 3・4.jpg|3・4番線(中央快速線)ホーム(2019年9月)
</gallery>
==== 発車メロディ ====
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
|-
!1
|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) スプリングボックス
|-
!2
|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) 線路の彼方
|-
!3
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速) すすきの高原 V1
|-
!4
|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速) twillight
|}
=== 京王電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #dd0077
|文字色 =
|駅名 = 京王 吉祥寺駅
|画像 = Keio-Kichijoji-Sta-Gate.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = 改札口(2008年9月)
|よみがな = きちじょうじ
|ローマ字 = Kichijōji
|電報略号 =
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所在地 = 東京都武蔵野市吉祥寺南町二丁目1番25号
|座標 = {{coord|35|42|10|N|139|34|48|E|region:JP_type:railwaystation|name=京王 吉祥寺駅}}
|開業年月日 = [[1934年]]([[昭和]]9年)[[4月1日]]<ref name="keio-handbook2020" />
|廃止年月日 =
|駅構造 = 高架駅
|ホーム = 2面2線
|乗降人員 = 111,397
|統計年度 = 2021年
|所属路線 = {{color|#000088|■}}[[京王井の頭線|井の頭線]]
|隣の駅 =
|前の駅 = IN16 [[井の頭公園駅|井の頭公園]]
|駅間A = 0.6
|駅間B =
|次の駅 =
|駅番号 = {{駅番号r|IN|17|#000088|5}}
|キロ程 = 12.7
|起点駅 = [[渋谷駅|渋谷]]
|乗換 =
|備考 =
}}
井の頭北管区所属<ref name="RP893_43">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部管理課|title=駅管区・乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=43|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。京王電鉄の駅で唯一、武蔵野市に所在する。[[頭端式ホーム]]2面2線を有する高架駅(地上3階)である。
改札は1ヶ所で、その脇に[[京王吉祥寺駅ビル|キラリナ京王吉祥寺]]への入口がある。正面にはエスカレーターがあり、降りるとJR公園口(南口)改札がある。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1・2
|[[File:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|15px|IN]] 井の頭線
|[[久我山駅|久我山]]・[[永福町駅|永福町]]・[[明大前駅|明大前]]・[[下北沢駅|下北沢]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面
|}
* 片面ホームが2面で、双方のホーム間は改札口近くまで戻らないと行き来できない。
* [[2008年]]8月から[[2010年]]度末にかけて行われた当駅の高架橋改築工事では、早朝・深夜帯を片側のホームのみ使用した。また、それと合わせて8月に実施していた夏季特別ダイヤの際も終日片側のホームのみ使用していた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/nr080627v02/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081219041351/http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/nr080627v02/index.html|language=日本語|title=8月1日(金)と9月1日(月)に井の頭線でダイヤ改定を実施します ~平日夜間の増発と吉祥寺駅の高架橋改築工事にともなうダイヤ改定~|publisher=京王電鉄|date=2008-06-30|accessdate=2021-05-03|archivedate=2008-12-19}}</ref>。
* ホームの乗車位置には、渋谷駅と同様に緑色とオレンジ色のランプが設置され、それぞれ識別することにより乗車する電車がわかるようになっていたが、改良工事に伴って撤去されている。
<gallery>
KeioInokashiraLineKichijyojiStation.JPG|ホーム(2014年11月)
Keio Kichijoji Station Escalator.JPG|コンコース(2015年10月)
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
当駅は北口・南口ともに多くのバス路線が発着しており、当駅の所在地である武蔵野市民の他、[[三鷹市]]・[[練馬区]]・[[杉並区]]の住民および[[埼玉県]][[新座市]]などからの利用も可能である。吉祥寺は多摩地区でも屈指の繁華街のため、隣接する市区以外からも多くの人が集まる。
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''118,865人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
*: JR東日本全体では[[船橋駅]]に次いで第18位、[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]管内では[[立川駅]]に次いで2番目であり、[[中央特快|中央特快・青梅特快]]停車駅の[[三鷹駅]]や[[国分寺駅]]よりも多い。[[1990年代]]までは、中央線の多摩地域の駅として最多であったが、[[2000年代]]に入ると、[[多摩都市モノレール]]の開業や[[立川飛行場]](立川基地)跡地の再開発などにより利用者が躍進的に増加した[[立川駅]]にその座を譲った。
* '''京王電鉄''' - 2021年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''111,397人'''である<ref group="利用客数">[https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html 1日の駅別乗降人員] - 京王電鉄</ref>。
*: 京王電鉄の駅の中では新宿駅、[[渋谷駅]]に次いで3番目に多い。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="musashino">[http://www.city.musashino.lg.jp/shisei_joho/musashino_profile/1003659/index.html 統計でみる武蔵野市] - 武蔵野市</ref>
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|京王帝都電鉄<br />/ 京王電鉄
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|1948年(昭和23年)
|18,900
|
|-
|1955年(昭和30年)
|35,321
|
|-
|1960年(昭和35年)
|57,563
|
|-
|1965年(昭和40年)
|82,616
|
|-
|1970年(昭和45年)
|94,234
|
|-
|1975年(昭和50年)
|124,756
|
|-
|1980年(昭和55年)
|144,147
|
|-
|1985年(昭和60年)
|148,977
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|154,661
|
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|159,782
|3.3%
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|148,640
|
|-
|2000年(平成12年)
|141,415
|
|-
|2001年(平成13年)
|143,089
|1.2%
|-
|2002年(平成14年)
|143,166
|0.1%
|-
|2003年(平成15年)
|143,162
|0.0%
|-
|2004年(平成16年)
|142,522
|−0.4%
|-
|2005年(平成17年)
|143,122
|0.4%
|-
|2006年(平成18年)
|144,344
|0.9%
|-
|2007年(平成19年)
|147,424
|2.1%
|-
|2008年(平成20年)
|147,020
|−0.3%
|-
|2009年(平成21年)
|145,197
|−1.2%
|-
|2010年(平成22年)
|142,083
|−2.1%
|-
|2011年(平成23年)
|140,929
|−0.8%
|-
|2012年(平成24年)
|141,475
|0.4%
|-
|2013年(平成25年)
|139,679
|−1.3%
|-
|2014年(平成26年)
|140,880
|0.9%
|-
|2015年(平成27年)
|144,238
|2.4%
|-
|2016年(平成28年)
|145,460
|0.8%
|-
|2017年(平成29年)
|147,437
|1.4%
|-
|2018年(平成30年)
|148,187
|0.5%
|-
|2019年(令和元年)
|146,901
|−0.9%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|98,614
|−32.9%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|111,397
|13.0%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!甲武鉄道<br/>/ 国鉄
!帝都電鉄
!出典
|-
|1899年(明治32年)
|<ref group="備考">1899年12月30日開業。開業日から1900年3月31日までの計92日間を集計したデータ。</ref>3
|rowspan="30" style="text-align:center;"|未開業
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref>
|-
|1900年(明治33年)
|72
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref>
|-
|1901年(明治34年)
|80
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref>
|-
|1902年(明治35年)
|76
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref>
|-
|1903年(明治36年)
|79
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref>
|-
|1904年(明治37年)
|84
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref>
|-
|1905年(明治38年)
|86
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref>
|-
|1907年(明治40年)
|88
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/191?viewMode= 明治40年]</ref>
|-
|1908年(明治41年)
|94
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref>
|-
|1909年(明治42年)
|102
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref>
|-
|1911年(明治44年)
|132
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref>
|-
|1912年(大正元年)
|151
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref>
|-
|1913年(大正{{0}}2年)
|165
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref>
|-
|1914年(大正{{0}}3年)
|178
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref>
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|151
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref>
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|168
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|598
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|708
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|1,498
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|1,701
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|3,084
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|3,348
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|3,836
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|4,324
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|4,597
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|5,341
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|5,425
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|5,516
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|5,828
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|6,301
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|6,817
|<ref group="備考">1934年4月1日開業。</ref>577
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|7,352
|592
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!国鉄 /<br />JR東日本
!京王帝都電鉄<br />/ 京王電鉄
!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|35,140
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 11ページ</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|45,012
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 9ページ</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|40,217
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 9ページ</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|51,627
|19,823
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|55,338
|21,985
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|59,195
|13,769
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|68,174
|26,388
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|64,011
|28,882
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|75,716
|32,485
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|80,329
|35,941
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|84,287
|37,532
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|87,805
|39,693
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|87,524
|41,009
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|88,917
|41,222
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|90,721
|42,720
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|90,360
|43,534
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|87,736
|46,496
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|86,293
|47,290
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|85,068
|47,675
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|87,846
|54,159
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|91,066
|57,726
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|99,110
|61,597
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|100,082
|63,948
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|103,019
|64,466
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|102,230
|67,162
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|102,718
|69,737
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|102,574
|72,153
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|99,362
|72,685
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|101,041
|73,707
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|100,507
|73,833
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|105,735
|76,836
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|107,468
|76,107
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|103,255
|75,337
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|106,551
|76,099
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|106,396
|75,967
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|126,792
|77,000
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|130,731
|76,693
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qa0091.pdf 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|135,808
|77,786
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qa0091.pdf 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|139,917
|80,473
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qa0091.pdf 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|140,874
|78,740
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|140,622
|77,189
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|138,455
|75,975
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|137,109
|74,497
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|138,666
|72,137
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|136,039
|69,951
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|134,556
|70,677
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>135,017
|70,590
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>136,927
|70,984
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="musashino" />
!年度!!JR東日本!!京王電鉄!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>139,168
|71,836
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>139,356
|71,778
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>139,209
|71,582
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>138,644
|71,288
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>139,245
|71,452
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>140,155
|71,890
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>143,932
|72,702
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>143,178
|72,395
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>141,314
|71,468
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>138,420
|69,882
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>137,555
|69,172
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>138,483
|69,474
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>139,282
|68,455
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>139,580
|69,106
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>141,306
|70,661
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>141,640
|71,381
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>143,313
|72,414
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>143,685
|72,844
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>141,849
|72,087
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>99,319
|48,592
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>107,875
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>118,865
|
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[File:Kichijoji N-gate Square.JPG|thumb|駅前北口広場]]
{{See also|吉祥寺|吉祥寺本町|吉祥寺北町|吉祥寺東町|吉祥寺南町|御殿山 (武蔵野市)|井の頭}}
駅周辺は武蔵野市の[[中心市街地]]であるだけでなく、周辺の市や区からも人をひきつける[[多摩地域]]有数の商業地域であり、[[立川駅|立川]]、[[町田駅|町田]]、[[八王子駅|八王子]]とともに多摩地域の4大[[繁華街]]の一角を占める。大型商業施設の他、オープンカフェ、[[飲食店]]、ブランドショップ、古着屋などが所狭しと立ち並んでいる。
駅から練馬区・[[杉並区]]・[[三鷹市]]の境界まで徒歩圏内である。
中央口(北口)は広く、メイン出口である。[[みどりの窓口]]があり、待ち合わせ場所として人が多い。公園口(南口)を出ると京王井の頭線の乗り場がある。
=== 中央口(北口)===
駅前は広いロータリーになっており、武蔵関、大泉、石神井、柳沢、西荻窪、中野方面([[#バス路線|下記参照]])の[[路線バス]]が発着している。
[[アーケード (建築物)|アーケード]][[商店街]]として[[吉祥寺サンロード商店街|サンロード]]と[[吉祥寺ダイヤ街|ダイヤ街]]が駅前から伸びており、この2つが北口のメインストリートとなる。駅前から北西に伸びるダイヤ街 (East→West zone) を抜けた先に[[東急百貨店吉祥寺店]]がある。そのさらに北西側は急速に商業地化が進んだ一帯で、通称「東急裏」と呼ばれており、オープンカフェやブランドショップが密集している。
駅の北東には[[ヨドバシ吉祥寺]]があり、その東側の一帯は[[風俗店]]などが立ち並ぶ[[歓楽街]]となっている。現在のヨドバシ吉祥寺の建物はかつて[[近鉄百貨店]]東京店だったため、周辺一帯は通称「近鉄裏」と呼ばれていた<ref>{{Cite web|和書|title=武蔵野History 市民が団結して立ち向かった吉祥寺本町「近鉄裏」浄化運動|url=http://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/822/p10_11_history-shuusei.pdf|format=pdf|work=[http://www.city.musashino.lg.jp/koho/kikan_musashino/1001822.html 季刊むさしの 102号(2013年春号)]|pages=10-11|date=2013年|publisher=[[武蔵野市]]|accessdate=2017-12-02}}</ref>。[[2000年代]]以降では東急裏をはじめとする他地区の[[家賃|テナント料]]高騰を嫌ったエスニックショップなどが進出している。
;中央口・北口にある主な施設・店舗
{{columns-list|2|
* [[アトレ]]吉祥寺(駅ビル)
* 吉祥寺駅前北口広場
** 「[[はな子|ゾウのはな子]]」像
* [[三菱UFJ銀行]]吉祥寺支店
* 献血ルーム吉祥寺タキオン
* [[吉祥寺サンロード商店街]] - 全蓋式アーケード商店街。駅方向から入るとすぐに吉祥寺まち案内所があり、商店街のイメージチェンジに成功し、活性化させた。主な店舗については同項目を参照。
* [[ハーモニカ横丁]] - [[第二次世界大戦後|戦後]]の[[闇市]]から発展した昔ながらの商店街。吉祥寺で唯一戦後の面影を残す一帯。
* [[吉祥寺ダイヤ街]] (East zone, South zone, West zone) - 全蓋式アーケード商店街。主な店舗については同項目を参照。
* [[吉祥寺平和通り商店街]]
* ペニーレーン
* レンガ通り
* 本町新道
* 月窓寺
* 光専寺
* 蓮乗寺
* 安養寺
* 武蔵野市商工会館
** [[エフエムむさしの]] 本社・スタジオ
** 武蔵野市[[消費生活センター]]
** 武蔵野市役所 吉祥寺市政センター
* 吉祥寺[[パルコ]]
* [[ユニクロ]] 吉祥寺店
* [[三井住友銀行]]吉祥寺支店
* [[東急百貨店]] [[東急百貨店吉祥寺店|吉祥寺店]]
* 吉祥寺[[ロフト (雑貨店)|ロフト]]
* [[F&Fビル]]([[武蔵野市開発公社]]が管理・運営)
** [[F&Fビル#コピス吉祥寺|コピス吉祥寺]] - ショッピングセンター。主な店舗については「F&Fビル」を参照。
** [[F&Fビル#武蔵野市立吉祥寺美術館|武蔵野市立吉祥寺美術館]](A館7階)
* [[西友]] 吉祥寺店
* [[吉祥寺パーキングプラザ]] - 駐車場。主な店舗・施設については同項目を参照。
* [[ヨドバシ吉祥寺]]
** [[ヨドバシカメラ]] マルチメディア吉祥寺
* [[くら寿司]]吉祥寺駅前店
* [[スターバックス]]コーヒー吉祥寺駅前店
* [[東急ホテルズ|吉祥寺エクセルホテル東急]]
* [[マルエツ#マルエツプチ|マルエツプチ]] 吉祥寺店
* 吉祥寺プラザ([[映画館]])
* [[はるやま商事|紳士服のはるやま]] 吉祥寺店
* [[メガロス]]吉祥寺(スポーツクラブ)
* [[元町通り]]
* [[武蔵通り]]
* [[中道通り]]
* [[大正通り (武蔵野市)|大正通り]]
* [[五日市街道]]
* [[武蔵野八幡宮]]
* [[学校法人成蹊学園]]
** [[成蹊大学]]
** [[成蹊小学校]]
** [[成蹊中学校・高等学校]]
* [[武蔵野市立本宿小学校]]
* [[武蔵野市立第三中学校]]
* 駅前コミュニティセンター
* [[藤村女子中学校・高等学校]]
** 藤村水泳教室
* [[吉祥寺二葉栄養調理専門職学校]]
* [[武蔵野市立吉祥寺図書館]]
* 吉祥寺駅前[[郵便局]]
* 吉祥寺本町二郵便局
* 松井外科病院
* 吉祥寺あさひ病院
* [[吉祥寺シアター]]
* [[吉祥寺大通り]](市道第191号線)
* [[吉祥寺通り]]([[東京都道116号関町吉祥寺線]])
* [[関東バス]] 吉祥寺駅北口案内所
* [[小田急バス]] 吉祥寺駅北口案内所
<!--「かつて周辺にあった施設」は地域記事での言及が適切-->
|}}
=== 公園口(南口)===
{{multiple image
|align = right
|image1 = Kichijoji Station-South-20110104.jpg
|width1 = 200
|alt1 = 公園口(南口)
|caption1 = 公園口(南口)
|image2 = Odakyubus-A9196 Kichijoji-South.jpg
|width2 = 193
|alt2 = 商店街を徐行するバス
|caption2 = 商店街を徐行するバス
}}
南口も商業地区だが、その範囲は北口側に比べて狭い。京王井の頭線の[[駅ビル]]である[[京王吉祥寺駅ビル|キラリナ京王吉祥寺]]と直結している。南口のパークロード商店街はバスの通り道になっているにもかかわらず幅員が狭く、かつ人通りが昼夜を問わず多い。そのため、人や[[自転車]]すれすれの所をバスが徐行し、安全面で問題となっている。
駅から徒歩5分の場所に、行楽地である[[井の頭恩賜公園]]がある。特に[[花見]]の時期には多くの人が訪れる。駅から公園までの道(七井橋通り)沿いには[[焼き鳥]]店「[[いせや総本店|いせや]]」をはじめ、飲食店やカフェ、古着屋も多い。[[東進ハイスクール]]や東進衛生予備校を展開する[[ナガセ]]の本社も位置しており、東進ハイスクールの本部もある。
;公園口・南口にある主な施設・店舗
{{columns-list|2|
* 都立[[井の頭恩賜公園]]
** [[井の頭池]]
** [[井の頭自然文化園]]
* [[京王吉祥寺駅ビル]](駅ビル)
** [[ユザワヤ]]吉祥寺店(8階・9階)
* [[丸井]] 吉祥寺店
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]] 吉祥寺駅前店
* [[武蔵野公会堂]]
* [[山梨中央銀行]]吉祥寺支店
* 吉祥寺 [[東急ホテルズ|東急REIホテル]]
* [[ヤマダデンキ]]LABI吉祥寺(2014年10月31日開店)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yamada-denki.jp/store/new_shop/141031labi_kichijyoji/index.html|title=新店舗情報|publisher=[[ヤマダ電機]]|accessdate=2014-10-14}}</ref>
* [[ライフコーポレーション|ライフ]]吉祥寺駅南店
* [[天下一品]]吉祥寺駅店
* [[吉祥寺オデヲン]](映画館)
* [[七井橋通り]]([[七井橋]]は井の頭池に架かる橋)
* [[末広通り]]
* [[井ノ頭通り]]
* [[武蔵野市立第三小学校]]
* 御殿山コミュニティセンター
* 三鷹[[労働基準監督署]]
* 南町コミュニティセンター
* 武蔵野御殿山郵便局
* 公園通り([[東京都道114号武蔵野狛江線]])
* [[カトリック吉祥寺教会]]
* [[小田急バス吉祥寺営業所]]
* [[三鷹の森ジブリ美術館]]
* [[杏林大学]]井の頭キャンパス
<!--「かつて周辺にあった施設」は地域記事での言及が適切-->
|}}
== バス路線 ==
のりばは、北口・中央口と公園口の2つに大別される。
=== 北口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
駅近くの'''吉祥寺駅'''(当駅北口のロータリー)に[[関東バス]]と[[西武バス]]の路線が乗り入れる。主に北側に向かう路線と東側に向かう路線が発着する。
関東バスは[[関東バス五日市街道営業所|五日市街道営業所]]・[[関東バス武蔵野営業所|武蔵野営業所]]・[[関東バス青梅街道営業所|青梅街道営業所]]、西武バスは[[西武バス上石神井営業所|上石神井営業所]]と[[西武バス滝山営業所|滝山営業所]](吉64のみ)がそれぞれ担当する。各路線の詳細は営業所記事を参照。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!0
|style="text-align:center;"|[[ムーバス]]
|{{Unbulleted list|[[ムーバス#吉祥寺東循環(1号線)(関東バス)|'''東循環''']]・[[ムーバス#吉祥寺北西循環(2号線)(関東バス)|'''北西循環''']]:吉祥寺駅北口|[[ムーバス#三鷹・吉祥寺循環(6号線)(関東バス)|'''三鷹・吉祥寺循環''']]:[[三鷹駅]]北口}}
|
|-
!1
|rowspan="3" style="text-align:center;"|関東バス
|{{Unbulleted list|[[関東バス武蔵野営業所#吉祥寺線|'''吉54''']]:武蔵野市役所|'''吉55''':[[西武柳沢駅|柳沢駅]]|'''吉73''':向台町五丁目|'''吉74''':関前西公園|'''吉75''':ヴィーガーデン西東京}}
|
|-
!2
|{{Unbulleted list|'''吉50直行''':[[学校法人成蹊学園|成蹊学園]]|'''吉51''':武蔵野営業所|'''吉53''':柳沢駅|[[関東バス武蔵野営業所#台場線|'''湾01''']]:[[有明ガーデン]]<ref>[https://www.kanto-bus.co.jp/news/detail.php?id=29R2RE4 【お台場直行バス】10月9日~運行再開とダイヤ改正のお知らせ]</ref>|'''高速バス''':横浜・八景島シーパラダイス}}
|{{Unbulleted list|「吉50直行」は学休ダイヤ時と休日は全便運休|「湾01」「横浜・八景島シーパラダイス行き」は土休日のみ運行}}
|-
!3
|{{Unbulleted list|[[関東バス青梅街道営業所#女子大線|'''西10''']]:[[西荻窪駅]]|'''吉80''':青梅街道営業所|'''吉81''':[[上石神井駅]]|'''高速バス''':[[東京ディズニーリゾート]]|[[リムジンバス|'''空港連絡バス''']]:降車専用}}
|-
!4
|rowspan="2" style="text-align:center;"|西武バス
|{{Unbulleted list|[[西武バス上石神井営業所#吉祥寺線、車庫吉祥寺線|'''吉61''']]:都民農園[[セコニック]]|'''吉61-1''':新座栄|'''吉62''':西武車庫|'''吉62-1'''・'''深夜''':[[大泉学園駅]]南口|'''吉62-2''':[[武蔵関駅]]入口}}
|「吉62-2」は土曜のみ運行
|-
!5
|[[西武バス上石神井営業所#保谷線|'''吉63''']]:[[保谷駅]]南口
|
|-
!6
|style="text-align:center;"|関東バス
|{{Unbulleted list|[[関東バス五日市街道営業所#成宗線|'''中36''']]:[[中野駅 (東京都)|中野駅]]|'''高速バス''':[[草津温泉]]<ref>[https://www.kanto-bus.co.jp/news/detail.php?id=2BEKN4X 【11月20日(月)】吉祥寺駅から草津温泉まで高速バスの運行を開始いたします。!!]</ref>}}
|
|-
!7
|rowspan="2" style="text-align:center;"|西武バス
|{{Unbulleted list|[[西武バス上石神井営業所#成増吉祥寺線|'''吉60''']]:[[地下鉄成増駅|成増町]]|'''吉60-1''':西武車庫前|'''吉60-2''':谷原三丁目|'''吉60-3''':[[石神井公園駅]]北口|'''吉60-4''':上石神井駅|'''吉60-5''':立野橋}}
|{{Unbulleted list|「吉60-2」は夜のみ運行|「吉60-4」は平日のみ運行|「吉60-5」は平日朝のみ運行、年末年始期間は運休}}
|-
!8
|{{Unbulleted list|[[西武バス滝山営業所#小金井・吉祥寺線|'''吉64''']]:[[花小金井駅]]|'''吉66''':保谷駅南口}}
|
|}
=== 中央口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
以下のバスの発着以外にも路線バスの降車専用停留所にもなっている。停車するのは[[小田急バス]]と[[京王電鉄バス#京王バス|京王バス]]の公園口から発車する便で、吉03は終日、宿44の一部の便、また、それ以外の便でも夕方以降はすべて中央口に到着する。なお、小田急バスの中央口に到着するバスの行先は「吉祥寺駅中央口」に設定されている。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
!rowspan="3"|10
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|小田急バス|関東バス|[[京成バス]]|[[東京空港交通]]}}
|[[リムジンバス|'''空港連絡バス''']]:[[成田国際空港|成田空港]]
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|小田急バス|関東バス|[[京浜急行バス]]|東京空港交通}}
|'''空港連絡バス''':[[東京国際空港|羽田空港]]
|-
|
|'''臨時直通''':[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]
|}
=== 公園口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
駅近くの'''吉祥寺駅'''(当駅南口の井の頭通り沿い)に小田急バスと京王バスの路線が、同停留所近くの吉祥寺駅南口に関東バス(ムーバス)が乗り入れる。主に南西側に向かう路線が発着する。
小田急バスは[[小田急バス吉祥寺営業所|吉祥寺営業所]]と[[小田急バス武蔵境営業所|武蔵境営業所]](吉01系統の武蔵境駅南口行きのみ)、ムーバスは関東バスの武蔵野営業所、京王バスは[[京王バス調布営業所|調布営業所]](吉14系統の一部)がそれぞれ担当する。各路線の詳細は営業所記事を参照。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="7" style="text-align:center;"|小田急バス
|[[小田急バス吉祥寺営業所#新宿線|'''宿44''']]:[[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]
|
|-
!2
|{{Unbulleted list|[[小田急バス吉祥寺営業所#烏山線|'''吉02''']]:[[千歳烏山駅]]北口|[[小田急バス吉祥寺営業所#牟礼団地線|'''吉12''']]:北野}}
|
|-
!3
|{{Unbulleted list|[[小田急バス吉祥寺営業所#大沢線|'''吉01''']]:[[武蔵境駅]]南口|[[小田急バス吉祥寺営業所#新川循環|'''吉15''']]:吉祥寺駅(新川循環)}}
|
|-
!4
|{{Unbulleted list|[[小田急バス吉祥寺営業所#調布線|'''吉06''']]:[[調布駅]]北口|[[小田急バス吉祥寺営業所#明星線|'''吉11''']]:[[明星学園]]前}}
|
|-
!5
|'''吉13''':牟礼団地・三鷹イースト前 / [[杏林大学]]井の頭キャンパス行
|杏林大学井の頭キャンパス行は直行便も運行
|-
!6
|{{Unbulleted list|[[小田急バス吉祥寺営業所#野ヶ谷線|'''吉04''']]:野ヶ谷 / [[深大寺]]|'''吉05''':調布駅北口}}
|
|-
!7
|[[小田急バス吉祥寺営業所#仙川線|'''吉03''']]:杏林大学病院前 / 新川団地中央 / [[仙川駅|仙川]]
|
|-
!rowspan="2"|8
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|小田急バス|京王バス}}
|[[小田急バス吉祥寺営業所#布田線|'''吉14''']]:調布駅北口
| 休日の小田急バス運行便は国道20号を経由する
|-
|rowspan="2" style="text-align:center;"|小田急バス
|'''宿44''':武蔵境駅南口
|
|-
!11
|吉祥寺営業所前
|出入庫系統
|-
!12
|style="text-align:center;"|ムーバス
|'''三鷹・吉祥寺循環''':三鷹駅北口
|
|}
== 駅改良工事 ==
[[File:Kichijoji Station North gate.jpg|thumb|北口仮設駅舎(2011年3月)]]
[[File:Kichijoji Station North gate Part demolition version 1.JPG|thumb|工事中の駅北口(2013年4月)]]
[[File:KirarinaKeioKichijoji 201410.jpg|thumb|[[キラリナ京王吉祥寺]]]]
=== JR東日本 ===
[[2010年]]3月より、JR東日本が吉祥寺駅の高架橋耐震化と利便性改善のため、改修工事に着手、[[2014年]]に完成した<ref>{{Cite web|和書|title=吉祥寺駅改良工事|武蔵野市公式ホームページ|url=http://www.city.musashino.lg.jp/shisei_joho/machizukuri/kichijoji_machizukuri/1024435/index.html|website=武蔵野市公式ホームページ|accessdate=2021-10-26|language=ja|last=武蔵野市役所}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=吉祥寺駅改良工事(平成22年度から平成25年度)|武蔵野市公式ホームページ|url=http://www.city.musashino.lg.jp/shisei_joho/machizukuri/kichijoji_machizukuri/1024435/1008578.html|website=武蔵野市公式ホームページ|accessdate=2021-10-26|language=ja|last=武蔵野市役所}}</ref>。
改修内容としては、
* 北口と南口の[[自由通路]]を、現行の幅8メートルから倍の16メートルに拡幅・直線化し、構内の混雑緩和と利便性の向上を図る。
* 改札の内外に[[エレベーター]]計3基を新たに設置し、多機能トイレも改札内に設け、[[バリアフリー]]化を進める。緩行線側は[[2011年]][[2月26日]]から、快速線側は同年[[2月17日]]から使用を開始。
* 中央口を1階から2階に移設して3つの改札口をすべて2階に集約させ、移動しやすいように改良。京王吉祥寺駅ビル・井の頭線コンコースとの通路も新設する。
*[[びゅうプラザ]]は2階中央改札前に移設。
* 駅ビル「吉祥寺ロンロン」も開業以来初めて本格改修。店舗がリニューアルされ、耐震補強工事も実施される。第1期として本館2階部分が2010年4月に新装開業。第2期として他の部分が同年10月に新装開業。これに伴い名称が『[[アトレ]]吉祥寺』に変更された。
* 街の顔となる駅[[ファサード]]等を整備する。
中央改札口の工事期間中は北口歩道上に仮設駅舎が設置され、仮改札口から北口方面に出入りしていた。
=== 京王電鉄 ===
高架橋となっている井の頭線の駅舎は、コンクリート躯体が井の頭公園・吉祥寺間開通時の[[1934年]]、鉄骨橋梁が[[1977年]]に構築されたもので、老朽化が進んでいたほか、耐震化工事も必要になっていた。そのため、[[2007年]]12月から[[2010年]]にかけて高架橋の改築とホームの改良工事を行った。工事の際には度々2つある井の頭線のホームのうち1つを閉鎖した。そして、2011年[[10月1日]]より公園口の南北自由通路の右側にエレベーターが新設され、2階の切符売り場・JR改札口だけでなく、3階の井の頭線の改札前へも運転されることとなった。
また、駅舎に隣接する[[京王吉祥寺駅ビル]]も[[1970年]]の建築から40年近く経過し老朽化が進んでいたこともあり、2010年4月上旬から建て替え工事を行い、[[2014年]]4月に完成した。工事の間、テナントである[[ユザワヤ]]と[[啓文堂書店]]は[[丸井]]吉祥寺店内に仮移転していたが、新ビル完成後に各テナントとして再出店した。
== 隣の駅 ==
<!--テンプレートは不評意見が多いようです。もしご意見があれば [[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/各路線の駅一覧のテンプレート・隣りの駅]]で議論されています。-->
※東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「[[成田エクスプレス]]」の隣の停車駅は列車記事を参照のこと。
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速)
:* 特急「成田エクスプレス」停車駅
:: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」<!-- おくたま・あきがわは定期列車扱い --->・{{Color|#ff0066|■}}通勤特快・{{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#339966|■}}青梅特快
:::; 通過
:: {{Color|#990099|■}}通勤快速(平日下りのみ)・{{Color|#f15a22|■}}快速(土曜・休日、下り高尾方面は「各駅停車」扱い<ref>年末年始期間中([[12月30日]] - [[1月3日]]間)も含む。</ref>)
::: [[荻窪駅]] (JC 09) - '''吉祥寺駅 (JC 11)''' - [[三鷹駅]] (JC 12)
:: {{Color|#f15a22|■}}快速(平日、下り高尾方面は「各駅停車」扱い)
::: [[西荻窪駅]] (JC 10) - '''吉祥寺駅 (JC 11)''' - 三鷹駅 (JC 12)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)・[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線直通
::: 西荻窪駅 (JB 03) - '''吉祥寺駅 (JB 02)''' - 三鷹駅 (JB 01)
; 京王電鉄
: [[File:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|15px|IN]] 井の頭線
:: {{Color|lightseagreen|■}}急行
::: [[久我山駅]] (IN14) - '''吉祥寺駅 (IN17)'''
:: {{Color|gray|■}}各駅停車
::: [[井の頭公園駅]] (IN16) - '''吉祥寺駅 (IN17)'''
:* 沿線でのイベントなどの開催時には、通常の隣の停車駅との間にある以下の駅に停車することがある。
:** 花見シーズンの土曜・休日には、一部の急行が井の頭公園駅に臨時停車する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
{{Reflist|3}}
==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"|2}}
==== 新聞記事 ====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
;JR・私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
;JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|23em}}
;JR・私鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
;東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|16em}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|16em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5
|title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kichijoji Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[吉祥寺駅構内ビラ配布事件]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=596|name=吉祥寺}}
* [https://www.keio.co.jp/train/station/in17_kichijoji/ 京王電鉄 吉祥寺駅]
* {{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/hachioJi/info/090715/renewal_kichijoji.pdf 吉祥寺駅改良工事]}}
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{{総武・中央緩行線}}
{{京王井の頭線}}
{{鉄道路線フッター}}
{{吉祥寺}}
{{DEFAULTSORT:きちしようし}}
[[Category:東京都の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 き|ちしようし]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:中央線快速]]
[[Category:中央・総武緩行線]]
[[Category:甲武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:吉祥寺|*駅]]
[[Category:1899年開業の鉄道駅]]
[[Category:武蔵野市の建築物]]
[[Category:武蔵野市の交通]]
|
2003-07-15T12:49:20Z
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白色矮星
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白色矮星(はくしょくわいせい、英: white dwarf)は、大部分が電子が縮退した物質によって構成されている恒星の残骸であり(縮退星)、恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つである。白色矮星は非常に高密度であり、その質量は太陽と同程度であるにもかかわらず、体積は地球と同程度しかない。白色矮星の低い光度は天体に蓄えられた熱の放射に起因するものであり、白色矮星内では核融合反応は発生していない。白色矮星の異常な暗さが初めて認識されたのは1910年のことである。"White dwarf" という名称は1922年にウィレム・ヤコブ・ルイテンによって名付けられた。
知られている白色矮星の中で最も太陽系に近いものは、8.6光年の距離にある連星系シリウスの伴星であるシリウスBである。太陽に近い100個の恒星系には、8個の白色矮星が存在すると考えられている。また、太陽近辺の褐色矮星より質量が大きい天体のうち、4分の1が白色矮星に占められていると考えられている。
白色矮星は、質量がおよそ10太陽質量に満たず、中性子星になるほど重くはない恒星の進化の最終状態であり、銀河系にある恒星の97%以上がこのような進化をたどると考えられている。低質量から中質量の恒星が水素の核融合を起こす主系列星の段階を終えた後、恒星は膨張して赤色巨星となり、この段階では巨星内部でのトリプルアルファ反応によってヘリウムから炭素と酸素が合成される。赤色巨星の質量が軽く、コアが炭素の核融合を起こすのに必要な温度 (およそ10億K) に到達できない場合、核融合を起こせない炭素と酸素は恒星の中心部に蓄積する。このような恒星がその外層を放出して惑星状星雲を形成した後に、コアの部分が残される。これが残骸である白色矮星である。通常は、白色矮星は炭素と酸素で構成される。白色矮星の前駆天体の質量が太陽質量の8倍ないし10.5倍であった場合、コアの温度は炭素の核融合を起こすには十分だがネオンの核融合には不十分な程度の温度となり、この場合は酸素・ネオン・マグネシウムからなる白色矮星が形成される。非常に低質量の恒星はヘリウムの核融合を起こすことができないため、連星系における質量損失によってヘリウムの白色矮星が形成されると考えられる。
白色矮星の物質はもはや核融合反応を起こせないため、天体はエネルギー源を持たない。その結果として、恒星のように核融合によって生成される熱で重力収縮に対抗して自身を支えられないが、電子の縮退圧のみによって支えているため非常に密度が高い。縮退に関する物理学から、自転していない白色矮星に対してはチャンドラセカール限界という質量の上限値が得られており、これはおよそ1.44太陽質量である。この質量を超えると、天体を電子の縮退圧で支えられなくなる。この質量限界に近付いた炭素-酸素白色矮星は、典型的には伴星からの質量輸送によって、炭素爆発として知られる過程を介してIa型超新星として爆発を起こす。SN 1006はその有名な例である。
白色矮星は形成された時点では非常に高温であるがエネルギー源を持たないため、エネルギーを放射するのに伴って徐々に冷却する。これは、白色矮星からの放射は初期は高い色温度を持つが、時間の経過に伴って放射は弱く赤くなっていくことを意味する。長い時間をかけて白色矮星は冷えていき、物質はコアから結晶化を開始する。天体の温度が低くなるということは十分な熱や光を放射できなくなることを意味しており、このような天体は冷たい黒色矮星となる。白色矮星がこの状態に到達するのに必要な時間は現在の宇宙の年齢 (およそ138億年) よりも長いと計算されており、黒色矮星はまだ存在していないと考えられる。最も古い白色矮星は依然として数千ケルビンの温度での放射を行っている。
白色矮星は、エリダヌス座ο星 (エリダヌス座40番星) の三重星系において初めて発見された。この星系は比較的明るい主系列星であるエリダヌス座ο星Aと、その遠方を公転するBとCの近接連星からなり、Bが白色矮星、Cは主系列の赤色矮星である。エリダヌス座ο星BとCのペアは、1783年1月31日にウィリアム・ハーシェルによって発見された。1910年に、ヘンリー・ノリス・ラッセル、エドワード・ピッカリングとウィリアミーナ・フレミングは、エリダヌス座ο星Bは暗い天体であるにもかかわらず、スペクトル型がA型、あるいは白い天体であることを発見した。1939年にラッセルはこの発見を以下のように振り返っている。
私は友人であり寛大な支援者であるエドワード・C・ピッカリング教授の元を訪れていました。彼は持ち前の優しさで、ヒンクスと私がケンブリッジで行った恒星の年周視差の観測で観測した全ての星—比較星も含めて—を観測したいと申し出てくれました。この一見ルーチンワークに思える仕事は非常に実りの多いものであり、非常に暗い絶対等級を持つ全ての恒星はスペクトル型がM型であるという発見に繋がりました。この研究テーマについての会話の中で (私の記憶によれば)、私はピッカリングに私のリストに無い他の特定の暗い星について尋ね、特にエリダヌス座40番星Bに言及しました。いかにも彼らしいことですが、彼は天文台のオフィスにメモを送り、まもなくこの天体のスペクトル型はA型だったとの返事が来ました (フレミング夫人からだったと思います)。この大昔の時点においても、表面輝度と密度の「可能な」値と呼んでいたものの間には極端な矛盾があることが十分に分かりました。恒星の特徴の非常に優れた規則に見えたものに対するこの例外を前に、私は困惑しただけではなく意気消沈していたに違いありません。しかしピッカリングは私に微笑みかけ、「このような例外があるからこそ、我々の知識は進歩するのです」と言い、そして白色矮星は研究の領域に入ったのです!
エリダヌス座ο星Bのスペクトル型は、公式には1914年にウォルター・シドニー・アダムズによって記述された。
シリウスの伴星であるシリウスBは、エリダヌス座ο星Bの次に発見された白色矮星である。19世紀の間に、いくつかの恒星の位置測定はその位置の小さな変化を測定するのに十分な精度となった。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは位置測定を用いて、シリウスとプロキオンの位置が周期的に変化していることを突き止めた。1844年に、彼は双方の恒星が見えない伴星を持っていると予測した。
シリウスとプロキオンが連星であると考えれば、その運動の変化は驚くべきものではない。我々は必要に応じてそれを受け入れ、その量を観測によって調べれば良いのである。しかし光は質量の本当の特性ではない。無数の目に見える星の存在は、無数の目に見えない星の存在に対して何も証明することはできない。
ベッセルはシリウスの伴星の周期をおよそ半世紀と概算した。クリスチャン・A・F・ペーテルスは1851年にその軌道を計算した。1862年1月31日になって初めて、アルヴァン・グラハム・クラークがそれまで発見されていなかったシリウスに近い天体を観測し、これは後に存在が予測されていた伴星であることが確認された。1915年にはウォルター・シドニー・アダムズが、シリウスBのスペクトルはシリウスのものと類似していることを発見したと公表した。
1917年に、アドリアン・ヴァン・マーネンは孤立した白色矮星であるヴァン・マーネン星を発見した。これらの初めて発見された3つの白色矮星は、いわゆる「古典的な白色矮星」(classical white dwarfs) である。その後多数の暗く白い天体が発見され、これらの固有運動が大きいことから、これらの天体は地球に近い位置にある低光度の天体、すなわち白色矮星である可能性があることが示唆された。ウィレム・ヤコブ・ルイテンが1922年にこの分類の天体の調査を行った際に、"white dwarf" という用語を初めて用いたと考えられる。この名称は後にアーサー・エディントンによって普及された。これらの存在の疑いがあったにもかかわらず、最初の非古典的な白色矮星の存在が明確に同定されたのは1930年代になってからであった。1939年までに18個の白色矮星が発見された。ルイテンらは1940年代も白色矮星の探査を継続した。1950年までには100個を超える白色矮星が発見され、さらに1999年までには2000個以上の存在が知られていた。それ以降、スローン・デジタル・スカイサーベイが9000個を超える白色矮星を発見しており、その大部分は新しいものである。
白色矮星の推定質量は、小さいものは0.17太陽質量、大きいものは1.33太陽質量のものが知られているが、質量分布は0.6太陽質量に強い極大を持ち、また大多数が0.5〜0.7太陽質量の間にある。観測されている白色矮星の推定半径は、典型的には太陽半径の 0.8-2% であり、これは太陽半径のおよそ 0.9% である地球の半径と同程度である。すなわち白色矮星は、太陽と同程度の質量が太陽よりも典型的に100万倍も小さい体積の中に押し込められた天体である。したがって白色矮星の物質の平均密度は、非常に大まかには太陽の平均密度の100万倍大きく、およそ 10 グラム毎立方センチメートル、あるいは1立方センチメートルあたり1トンである。典型的な白色矮星の密度は、10-10 g/cm である。白色矮星は知られている中で最も高密度な物質からなる天体の一つであり、これを超える密度を持つのは、中性子星やクオーク星 (仮説上の天体)、そしてブラックホールといった他のコンパクト星のみである。
白色矮星は発見されてまもなく、非常に高密度であることが判明した。シリウスBやエリダヌス座ο星Bのように天体が連星系にある場合、連星軌道の観測から質量を推定することが可能となる。この観測は1910年にシリウスBに対して行われ、0.94太陽質量という値が得られた。この値は、より近代的な推定値である1.00太陽質量と比べても遜色のない推定値である。高温の天体は低温のものに比べてより多くのエネルギーを放射するため、恒星の表面光度はその有効温度とスペクトルから推定することができる。恒星の距離が分かっている場合、その絶対光度も推定できる。そして絶対光度と距離から、恒星の表面積と半径を計算することができる。シリウスBやエリダヌス座ο星Bは温度が比較的高く光度は比較的低いことから、これらの天体は非常に高密度であるはずだということが判明したが、この事実は当時の天文学者にとっては不可解なものであった。1916年にエルンスト・エピックが多くの実視連星の密度を推定した際、彼はエリダヌス座ο星Bの密度が太陽の25,000倍であることに気が付いたが、これは彼が「あり得ない」と言う程に高い値であった。アーサー・エディントンは後の1927年に以下のように記している。
我々は、星の光が我々にもたらすメッセージを受け取り、解釈することによって星について学ぶ。シリウスの伴星からのメッセージが解析されこう言った。「私はあなた方がこれまでに出会ったどんな物質よりも3000倍高密な物質でできています。私の物質1トン分は、マッチ箱に収まるくらいの小さな塊になるでしょう」。このようなメッセージに対してどう返答することができるだろうか?1914年の段階で我々のほとんどがした返事は、「黙れ。馬鹿なことを言うな」であった。
エディントンが1924年に指摘した通り、一般相対性理論に基づくと、天体がこのように高密度であることはシリウスBからの光は重力赤方偏移を示すはずであることを示唆する。これは1925年にウォルター・シドニー・アダムズが赤方偏移の測定を行った際に確認された。
白色矮星の物質は原子が化学結合で結び付いたものではなく、束縛されていない原子核と電子のプラズマで構成されているため、このような高密度となることができる。そのため、通常の物質であれば原子軌道によって制限されているよりも近くに原子核を配置することが可能となる。エディントンは、このプラズマが冷却して原子を電離した状態に保つことができないほどエネルギーが低くなった状態になると何が起きるのかという疑問を提起した。このパラドックスは、新しく考案された量子力学を適用することによって1926年にラルフ・ファウラー(英語版)によって解決された。電子はパウリの排他原理に従うため、2つの電子が同じ量子状態を占めることはない。また電子は、1926年に発表されたパウリの排他原理を満たす粒子の統計的分布を決めるフェルミ・ディラック統計に従う。そのためたとえゼロ温度であっても、電子は全てが最も低いエネルギー状態、つまり基底状態を占めることはできない。電子のいくらかはより高いエネルギー状態を占める必要があり、可能な最も低いエネルギー状態のバンドである「フェルミの海」を形成する。電子のこの状態は縮退と呼ばれ、白色矮星はゼロ温度まで冷えることができ、それでもなお高いエネルギーを持つ。
白色矮星を圧縮すると、体積あたりに含まれる電子の数は増加する。パウリの排他原理を適用すると、これは電子の運動エネルギーを増加させ、したがって圧力が増大することになる。白色矮星においては、この電子の縮退圧(英語版)が重力崩壊に対抗して天体を支えている。この圧力は密度のみに依存し、温度には依存しない。縮退した物質は比較的圧縮性であり、これは質量の大きい白色矮星の密度は低質量の白色矮星の密度よりもずっと大きく、白色矮星の半径は質量が増加するに伴って減少することを意味する。
白色矮星に、中性子星へと崩壊を起こさない限りは超えることができない限界質量が存在するという事実は、白色矮星が電子の縮退圧によって支えられているという事実の別の帰結である。このような限界質量は、理想化された一定密度の天体の場合に、1929年にヴィルヘルム・アンダーソンによって、1930年にはエドマンド・ストーナー(英語版)によって計算された。この値は密度分布に対して静水圧平衡を考慮することによって修正され、限界質量の現在知られている値はスブラマニアン・チャンドラセカールによる論文『The Maximum Mass of Ideal White Dwarfs』において1931年に初めて発表された。自転していない白色矮星の場合、限界質量はおよそ 5.7M☉/μe で表される。ここで μe は天体の電子あたりの平均分子量、M☉ は太陽質量である。炭素・酸素からなる白色矮星は大部分が炭素12と酸素16からなり、どちらの原子も原子番号は原子量の半分に等しいため、μe はこの天体では2に等しくなる。その結果、限界質量は一般に引用される値である1.4太陽質量となる。なお20世紀の初め頃には恒星は主に重元素からできていると信じるに足る理由があったため、1931年の論文では、チャンドラセカールは μe の値として2.5を採り、限界質量の値として0.91太陽質量を与えた。1983年、チャンドラセカールはファウラーと共に、白色矮星に関する研究やその他の研究でノーベル物理学賞を受賞した。この限界質量は、現在では「チャンドラセカール限界」と呼ばれている。
白色矮星の質量がチャンドラセカール限界を超え、かつ原子核反応が起きなかった場合、電子によってもたらされる圧力は重力に対抗することができなくなり、中性子星と呼ばれるより高密度の天体へと崩壊する。実際には、近傍の恒星から質量を降着して質量が増加している炭素・酸素白色矮星は、限界質量へと到達する前に暴走的な核融合反応を起こしてIa型超新星となり、これにより白色矮星は破壊されると考えられる。
新しい研究では、多くの白色矮星は少なくとも特定の種類の銀河においては、降着によっては限界質量には到達しないことが示唆されている。超新星になる白色矮星のうち少なくともいくつかは、連星になっている白色矮星同士が衝突・合体することによって必要な質量に到達すると仮定される。楕円銀河においては、このような衝突がIa型超新星の主要な原因である可能性がある。この仮説は、銀河から放射されるX線が、Ia型超新星が白色矮星の周囲にある伴星から物質を降着していることによって発生すると考えた場合の値より30〜50倍小さいという事実に基づいたものである。この仮説では、白色矮星への降着過程によって発生する超新星は、そのような銀河においては 5% を超えないと結論付けられている。この発見の重要な点は、白色矮星への降着によって限界質量に到達するものと、白色矮星同士の衝突合体によって限界質量に到達するものの、2つのタイプのIa型超新星が存在しうるということである。2つの衝突する白色矮星の質量の範囲を考えると、白色矮星が超新星になるのを決める際に常にチャンドラセカール限界が適用されるとは限らない。このことは、Ia型超新星を起こす白色矮星を距離決定の標準光源として用いることに混乱をもたらす可能性がある。
白色矮星の光度は小さいため、恒星の光度と色もしくは温度を示した図であるヘルツシュプルング・ラッセル図上では下方に帯状に分布する。コアが部分的に熱圧力によって支えられており、核融合反応を起こしている赤色矮星のように主系列星の低質量側の端に位置する低光度の天体や、さらに低温の褐色矮星とは異なる種類の天体である。
白色矮星の質量と半径の関係性は、エネルギー最小化の議論から導出することができる。白色矮星が持つエネルギーは、重力のポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの和であるとみなすことで概算することができる。白色矮星の単位質量片の重力ポテンシャルエネルギー Eg は、おおむね −G M ∕ R と表すことができる。ここで G は万有引力定数、M は白色矮星の質量、R は白色矮星の半径である。
単位質量当たりの運動エネルギー Ek については、これは主に電子の運動に起因するものであるため、N p ∕ 2m と近似することができる。ここで p は電子の平均運動量、m は電子の質量、N は単位質量あたりの電子の数である。電子は縮退しているため、p は電子の運動量の不確かさである Δp で近似されるとして推定することができる。この値は、Δp Δx は換算プランク定数 ħ で近似できるとする不確定性原理によって与えられる。Δx は電子間の平均距離と同程度であり、これはおおむね n,すなわち単位体積あたりの電子の数密度の立方根の逆数となる。白色矮星に含まれる電子の数は N·M 個であり、また体積は R のオーダーで表されることから、n は N M ∕ R のオーダーの値となる。
単位質量当たりの運動エネルギー Ek について解くことで、以下の式を得る。
白色矮星は、その合計エネルギー Eg + Ek が最小の時に平衡状態になると考えられる。この時点で運動エネルギーと重力ポテンシャルエネルギーは同程度であるはずなので、両者を等しいとみなすことでおおまかな質量と半径の関係を以下のように導出することができる。
これを半径 R について解くことで、次の式を得る。
この式において、白色矮星の組成のみに依存する量である N および普遍定数を除くと質量への依存性のみが残り、質量と半径の間に以下の関係があることが分かる。
すなわち、白色矮星の半径は、その質量の三乗根の逆数に比例する。
この解析は運動エネルギーについて非相対論的な表式 p ∕ 2m を用いているため、非相対論的なものである。白色矮星内の電子の速度が光速 c に近い状況について解析する場合は、運動エネルギー p ∕ 2m を極端な相対論的近似である p c で置き換える必要がある。これを代入することで、以下の式を得る。
これが Eg と等しいとすると、R が消え、質量 M は以下のように書き表すことができる。
この結果を解釈すると、白色矮星の質量を増加させると半径は減少し、そのため不確定性原理により電子の運動量は増加、すなわち速度は増加することになる。この速度が光速 c に近づくにつれて相対論的な解析がより正確になり、白色矮星の質量は限界質量の Mlimit に近づくはずである。したがって、この限界質量 Mlimit、つまり1.4太陽質量よりも重い白色矮星は存在しないことになる。
白色矮星の質量半径関係と限界質量のより正確な計算のためには、白色矮星の物質の密度と圧力の関係を記述する状態方程式の計算を行う必要がある。密度と圧力が共に天体の中心からの半径の関数に等しく設定されている場合、静力学方程式と状態方程式の連立方程式を解いて平衡状態の白色矮星の構造を決めることができる。非相対論的な場合でも、半径は質量の三乗根の逆数に比例することが分かる。相対論的な補正を行うと、質量が有限の値で半径がゼロになるように結果が変わる。この限界値はチャンドラセカール限界と呼ばれ、白色矮星が電子の縮退圧によって自らを支えられなくなる質量である。右のグラフはそのような計算の結果を示している。白色矮星の半径が質量に伴ってどう変化するか、非相対論的なモデル (青い線) と相対論的なモデル (緑の線) の両方が示されている。どちらのモデルも、白色矮星を静水圧平衡の状態にある冷たいフェルミ気体として扱っている。また電子あたりの平均分子量 μe は 2 として計算を行っている。グラフ中で、半径は太陽半径で、質量は太陽質量で規格化されている。
これらの計算は全て、白色矮星が自転していないことを仮定している。白色矮星が自転している場合、回転座標系における遠心力を考慮して静水圧平衡の方程式を修正する必要がある。一様に自転している白色矮星の場合、限界質量はわずかに大きくなるだけである。白色矮星の自転が非一様であり、また粘性を無視した場合は、1947年にフレッド・ホイルが指摘したように、白色矮星が静的平衡になることが可能な質量には限界値はなくなる。これら全てのモデル天体が動的に安定であるわけではない。
白色矮星の大部分を占める縮退した物質は、非常に不透明度(英語版)が小さい。これは、光子を吸収する際には電子は空いているより高い準位へと遷移する必要があり、光子のエネルギーがその電子にとって可能な量子状態と一致しなければその遷移が不可能である可能性があるからであり、そのため白色矮星内での輻射による熱輸送の効率は低い。しかし、熱伝導率は高くなる。結果として、白色矮星の内部はおよそ 10 K の一様な温度に保たれる。縮退していない物質でできている外殻は、10 K から 10 程度にまで冷える。この物質はおおむね黒体としての輻射を行う。白色矮星の形成後、通常の物質からなる希薄な大気外層はおよそ 10 K で輻射を始め、質量の大部分を占める内部は 10 K であるが外側の通常の物質でできた殻を通して放射することができないため、白色矮星は長い間にわたって放射を続けることができる。
白色矮星から放射される可視の放射は、O型主系列星の青白色からM型の赤色矮星の赤色まで、広い色の範囲を変化する。白色矮星の有効表面温度は、高いものは 150,000 K、低いものは 4,000 K をわずかに下回る程度にまで及ぶ。シュテファン=ボルツマンの法則に従い、天体の光度は表面温度が高いほど大きくなる。この表面温度の範囲は、白色矮星の光度は太陽の100倍を超えるものから 1/10,000 を下回るものまで存在することに対応している。表面温度が 30,000 K を超えるような高温の白色矮星は、軟X線 (比較的低エネルギーなX線) の放射源であることが観測されている。これにより、白色矮星大気の組成と構造を軟X線および極端紫外線での観測によって研究することが可能となる。
また、白色矮星はウルカ過程を介してニュートリノも放射している。
1952年に Leon Mestel によって説明されたように、白色矮星は伴星やその他の供給源から物質を降着していない限り、その放射は天体に蓄えられた熱が起源であり、その熱は補給されることはない。白色矮星は熱を放射するための表面積が極めて小さいため冷却はゆっくりとしたものとなり、長い時間にわたって高温であり続ける。白色矮星が冷えるに従って表面温度は低下し、放射する光は赤くなり、そして光度は減少する。白色矮星は放射以外でエネルギーを失う手段を持たないため、時間の経過とともに冷却は遅くなる。例として、水素大気を持つ0.59太陽質量の炭素白色矮星の冷却の経過は以下のように推定されている。この天体は最初に表面温度が 7,140 K まで冷えるのにおよそ15億年の時間を要した後、さらにおよそ 500 K 冷えて 6,590 K になるのには約3億年を要する。しかしその後およそ 500 K 冷えて 6,030 K になるには4億年、さらに約 500 K 冷えて 5,550 K となるには11億年の経過が必要である。
観測された白色矮星の大部分は 8,000 K から 40,000 K の比較的高い表面温度を持つ。しかし白色矮星は高温でいる期間よりもより低温でいる期間の方が長いため、高温の白色矮星よりも低温の白色矮星の方が多く存在することが予測される。より高温で明るい白色矮星は観測されやすいという観測選択効果を考えると、調査する温度領域を低くすることでより多くの白色矮星が発見されるという傾向がある。この傾向は、非常に低温な白色矮星に到達したところで終わる。表面温度が 4,000 K を下回る白色矮星はいくつか発見されており、観測されている中で最も低温な白色矮星のひとつである WD 0346+246(英語版) は表面温度が 3,900 K である。この傾向が終わるのは、宇宙の年齢が有限であることが理由である。すなわち、白色矮星がこの温度を下回るほどまだ十分な時間が経過していないということである。そのため、白色矮星の光度関数を用いるとその領域で恒星が形成され始めた時期を推定することができる。この手法を用いて推定された銀河系の銀河円盤の年齢は80億年である。白色矮星は何兆年もの時間をかけて、周囲および宇宙マイクロ波背景放射とおおむね熱平衡の、放射を行わない黒色矮星になる。ただし十分な時間が経過していないため、黒色矮星はまだ存在していないと考えられている。
白色矮星を構成する物質は、初めは原子核と電子からなる流体であるプラズマであるが、冷却の後期段階では天体の中心から結晶化を起こすことが1960年代に理論的に予測された。結晶構造は体心立方格子構造であると考えられる。1995年には脈動白色矮星の星震学観測によって結晶化理論の検証を行える可能性があることが示唆され、2004年にはケンタウルス座V886星の質量のおよそ90%が結晶化を起こしていることを示唆する観測結果が得られている。別の研究では結晶化を起こしているのは質量の32%から82%だとしている。白色矮星の核が結晶化を起こして固体に変化するに従って潜熱が解放され、これは白色矮星の冷却を遅らせる熱エネルギー源となる。この効果は、ガイアによる観測で15000個を超える白色矮星の冷却シーケンスに停滞が見られることが同定されたことにより、2019年に初めて確認された。
質量が0.20太陽質量未満の低質量のヘリウム白色矮星はしばしば超低質量白色矮星 (英: extremely low-mass white dwarfs, ELM WDs) と呼ばれ、連星系で形成される。これらの天体は水素豊富な外層を持つため、CNOサイクルを介した残余の水素燃焼が長い期間にわたって白色矮星を高温に保つ可能性がある。さらにこれらの白色矮星は、冷却経路に到達する前に最大で20億年もの間、膨張した前白色矮星段階に留まると考えられている。
大部分の白色矮星は炭素と酸素からなっていると考えられているが、分光観測では白色矮星から放射される光は、水素やヘリウムが主体である大気から来ていることが示されている。大気に含まれる主要な元素は一般に、その他全ての微量な元素の少なくとも1000倍も多く含まれている。1940年代にエヴリー・シャツマンが説明した通り、白色矮星は表面重力が大きく、重い元素は沈降し軽い元素は上昇するという重力的な分離が大気内で発生するため、このような純度が引き起こされていると考えられている。我々が観測できる白色矮星の唯一の部分であるこの大気は、漸近巨星分枝の段階にある恒星の外層の残骸であり、星間物質から降着した物質も含んでいると考えられる。この外層は、天体の総質量の100分の1未満の質量を持つヘリウム豊富な層と、もし大気が水素豊富であった場合はさらにその上に横たわる天体の総質量のおよそ1万分の1の水素豊富な層からなるとされている。
外層は薄いものの、白色矮星の熱進化を決定づけている。白色矮星の大部分を占める縮退した電子は熱をよく伝導する。そのため白色矮星の質量のほとんどは等温で、また高温である。表面温度が 8,000 K から 16,000 K の白色矮星は、コアの温度はおよそ 5,000,000 K から 20,000,000 K であると考えられる。白色矮星は、放射を行う外層の不透明度によってのみ、非常に急速な冷却を起こすことを回避している。
白色矮星のスペクトルを分類しようとする初めての試みは1941年のジェラルド・カイパーによって行われ、それ以降多数の分類法が提案され用いられている。現在用いられている分類体系は Edward M. Sion、Jesse L. Greenstein らによって1983年に導入されたものであり、これはその後何度か改定されている。この分類法では先頭の文字をDとし、スペクトルの主要な特徴を記述する文字、続いて任意でスペクトルの二次的な特徴を記述する文字を用いる (それぞれの特徴は表に記載)。さらにその後ろに、50,400 K を有効温度で割って計算される温度を示す指数を記すことで、白色矮星のスペクトルを記述する。以下はその一例である。
正しい分類が不明である場合は、"?" と ":" の記号も用いられる。
主要なスペクトル分類がDAである白色矮星は,水素が主体の大気を持つ。この種類の白色矮星は多数派であり、全ての観測されている白色矮星のおよそ80%を占める。これに次いで多いのがDBのスペクトル型を持つ白色矮星であり、およそ16%である。温度が 15,000 K を超える高温なDQ型の白色矮星 (全体のおよそ0.1%) は炭素主体の大気を持つ。スペクトル型がDB、DC、DO、DZ、および低温なDQであるものは、ヘリウム主体の大気を持つ。炭素と金属が存在しないと仮定すると、どのスペクトル分類が見られるかは天体の有効温度に依存する。有効温度がおよそ 100,000 K から 45,000 K の間の白色矮星は,スペクトルはDOに分類され、一階電離のヘリウム主体の大気を持つ。30,000 K から 12,000 K の間は、中性ヘリウムのスペクトル線を示すDBになる。12,000 K 未満の場合はスペクトルは特徴を欠いたものになり、DCに分類される。
いくつかの白色矮星の大気のスペクトルからは、水素分子が検出されている。
白色矮星のおよそ25–33%はスペクトル中に金属線を持つ。白色矮星中の重元素は、天体の寿命と比べるとごく短い時間で内部へと沈降してしまうはずであるため、これは特筆に値する特徴である。金属豊富な白色矮星の存在を説明する一般的な説は、最近になって岩石微惑星が降着したというものである。降着した天体の全体の組成は、金属線の強度から測定することができる。例えば、2015年に行われた白色矮星 Ton 345 に関する研究では、この天体の金属の存在度は、漸近巨星分枝の段階にある主星によってマントルが溶融した、分化した岩石惑星のものと整合的であると結論付けられた。
白色矮星はその表面でおよそ100万ガウス (100テスラ) の磁場を持つことが、1947年にパトリック・ブラケットによって予言された。これは彼が提唱した、電荷を持たず自転している天体はその角運動量に比例する磁場を生成するはずであるという物理法則に基づくものである。ときおりブラケット効果(英語版)とも呼ばれたこの仮説は一般に受け入れられず、1950年代までにはブラケット自身もこの説は反駁されたと感じていた。1960年代には、白色矮星はその前駆体である恒星に存在していた全表面磁束の保存に起因する磁場を持つという説が提唱された。元の恒星の表面磁場がおよそ100ガウス (0.01テスラ) であった場合、恒星が白色矮星となって半径が100分の1になることで表面磁場は集約されておよそ 100×100 = 100万ガウス (100テスラ) になる。初めて発見された磁場を持つ白色矮星はGRW +70 8247(英語版) (GJ 742) であり、1970年に放射光の円偏光の検出によって磁場を持つことが確認された。この天体の表面磁場はおよそ3億ガウス (30キロテスラ) であると考えられている。
1970年以降、200個を大幅に超える白色矮星で磁場が発見されており、その強度は 2×10 ガウスから 10 ガウス (0.2テスラから100キロテスラ) の範囲である。ほとんどの白色矮星は低解像度の分光観測によってその存在が同定されているが、この手法は白色矮星の1メガガウス以上の磁場の存在を明らかにすることができるため、磁場を持つことが知られている白色矮星の個数は多い。そのため、白色矮星の基本的な同定の過程で時折磁場が発見される。白色矮星の少なくとも10%は、100万ガウス (100テスラ) を超える磁場を持つと推定されている。
2016年には、さそり座AR星の連星系に強い磁場を持った白色矮星の存在が特定されている。この天体は、コンパクト星が中性子星ではなく白色矮星であるパルサーとしては初めての例である。
白色矮星の磁場は、イオン結合や共有結合に加えて垂直常磁性結合(英語版)という新しいタイプの化学結合の存在を可能にすると考えられる。その結果として、2012年に出版された研究において「磁化された物質」と初めて記述されたような状態の物質の存在が可能になる。
初期の計算では、10秒程度の周期で光度が変動する白色矮星が存在する可能性があることが示唆されたが、1960年代の探査ではこの変動は観測することが出来なかった。初めて発見された脈動白色矮星はおうし座V411星であり、およそ12.5分周期で変動していることが1965年と1966年に観測された。変動の周期が予測されていたものよりも長い理由は、おうし座V411星の変動は他の知られている脈動する白色矮星と同様に非動径方向の重力波による脈動に起因するためである。
脈動白色矮星の種類として知られているものには、DAV もしくは ZZ Ceti (くじら座ZZ星型) と呼ばれるものがあり、おうし座V411星もこの種類である。この天体は水素主体の大気を持ち、スペクトル型はDAである。DBV もしくは V777 Her (ヘルクレス座V777星型) と分類されるものはヘリウム主体の大気を持ち、スペクトル型はDBである。GW Vir (おとめ座GW星型) に分類されるものはヘリウム、炭素、酸素が主体の大気を持ち、しばしば DOV と PNNV に細分される。GW Vir の天体は厳密には白色矮星ではないが、ヘルツシュプルング・ラッセル図上において漸近巨星分枝と白色矮星の領域の間に位置する天体である。これらは "pre-white dwarfs" と呼ばれる場合がある。これらの脈動白色矮星は全て 1%–30% と小さい光度曲線の変動を示し、周期が数百秒から数千秒の振動モードの重ね合わせからなっている。これらの振動の観測から、白色矮星内部についての星震学的な証拠が得られる。
白色矮星は、質量がおよそ0.07–10太陽質量の主系列星の恒星進化の終着点であると考えられている。白色矮星の組成は元となる恒星の初期質量に依存すると考えられる。現在の銀河モデルは、銀河系には現在およそ100億個もの白色矮星が存在していることを示唆する。
主系列星の質量が太陽質量のおよそ半分よりも軽い場合、その核はヘリウムの核融合を起こすための十分な高温になることができない。この天体は宇宙の年齢 (138億年) を大きく超える主系列段階の寿命を持つと考えられている。このような天体はやがて全ての水素を燃焼し、青色矮星の段階を経て、主にヘリウム4で構成されるヘリウム白色矮星として進化を終える。この過程でヘリウム白色矮星が形成されるには非常に長い時間がかかるため、観測されているヘリウム白色矮星はこの過程で形成されたものではないと考えられる。その代わりに、連星系における質量放出の結果として形成されるか、大きな惑星による質量放出の結果として形成されると考えられる。
太陽のように主系列星の質量が 0.5–8 太陽質量の場合、核はトリプルアルファ反応を介してヘリウムから炭素と酸素を合成するのに十分な温度になるが、炭素の核融合によってネオンを生成するほどの十分な高温にはならない。核融合を起こす期間の終わりに近づくと、このような恒星は、核融合反応を起こさない炭素・酸素コアの周りを、内側のヘリウム燃焼殻と外側の水素燃焼殻が取り囲む構造を持つようになる。ヘルツシュプルング・ラッセル図においては、この段階の恒星は漸近巨星分枝の領域に位置する。その後天体はその外層の物質の大部分を放出して惑星状星雲を形成し、炭素・酸素の核のみが残される。観測されている白色矮星の圧倒的多数を占める炭素・酸素白色矮星は、この過程によって形成された。
恒星が十分に重い場合、その核はいずれ炭素核融合を起こしてネオンを合成するのに十分な高温となり、その後ネオンの核融合を起こして鉄を生成する。このような恒星では、初めのうちは電子の縮退圧によって支えられていた核融合を起こさない中心核の質量が、縮退圧で支えることが出来る最大質量をいずれ超えてしまうため、白色矮星になることはできない。この場合、恒星の核は重力崩壊を起こして超新星として爆発し、残骸として中性子星やブラックホール、あるいはより特異な形態のコンパクト星を残すと考えられる。8–10 太陽質量のいくつかの主系列星は炭素燃焼過程によってネオンやマグネシウムを生成するのに十分な質量を持つものの、ネオン燃焼を起こすには不十分である場合がある。このような恒星は、核が崩壊せず、また超新星で恒星を吹き飛ばすほどの激しい核融合が進行しない限り、酸素、ネオン、マグネシウムを主成分とする白色矮星を残す可能性がある。この種類に属する可能性がある白色矮星は少数確認されているが、この種の白色矮星が存在する最大の証拠は、ONeMg新星、あるいはネオン新星と呼ばれる新星の存在である。これらの新星のスペクトルは、ネオン、マグネシウムやその他の中間質量の元素が存在することを示し、これは酸素・ネオン・マグネシウム白色矮星への物質の降着のみによって説明可能であると考えられる。
白色矮星によるヘリウム降着を伴うIax型超新星は、恒星の残骸である白色矮星の状態を変化させ得る経路として存在が提唱されている。このシナリオでは、Ia型超新星で引き起こされる炭素爆発は白色矮星を破壊するには弱すぎるため質量のごく一部を放出するだけにとどまるが、しばしばゾンビ星(英語版)として知られている、天体に撃力を与える非対称な爆発を発生させ、その結果として超高速星を発生させる。この失敗した爆発によって生成された物質は白色矮星へとふたたび降着し、鉄などの重い元素がそのコアへと蓄積していく。このようにして形成された鉄コアを持つ白色矮星は、同じ質量の炭素・酸素からなる白色矮星と比べて小さくなり、また冷却と結晶化も早い。
白色矮星は一度形成されると安定であり、ほぼ際限なく冷却を続け、最終的には黒色矮星になると考えられる。宇宙が膨張を続けると仮定すると、10 から 10 年のうちに恒星が銀河間空間へ散逸するのに伴って銀河は消滅する。白色矮星は一般に銀河の散逸を生き延びるが、白色矮星同士の偶然の衝突によって、新たに核融合を起こす恒星が生成されたり、チャンドラセカール限界質量を超える質量を持つ白色矮星が形成され、その後Ia型超新星を起こしたりする可能性はある。
その後の白色矮星の寿命は仮説上の陽子の寿命と同程度と考えられており、これは少なくとも 10–10 年であることが知られている。大統一理論のモデルのいくつかでは、陽子の寿命は 10 から 10 年の間であると予測されている。これらの理論が正しくなかった場合でも、複雑な核反応や、仮想ブラックホール(英語版)を含む量子重力過程を介して陽子が崩壊する可能性はある。この場合、寿命は 10 年を超えないだろうと推定されている。陽子崩壊が起きる場合、白色矮星の質量は原子核の崩壊が進行するにつれて非常にゆっくりと減少していき、十分な質量を失って縮退していない物質の塊となり、そして最終的には完全に消滅すると考えられる。
白色矮星が伴星に共食いされたり蒸発させられたりすることによって質量を失い、惑星質量天体へと変化するという進化経路も考えられる。かつては伴星であり、現在では主星となった天体を公転することになるこの天体は、ヘリウム惑星やダイヤモンド惑星となる可能性がある。
稀に白色矮星で後期熱パルスが発生し、赤色巨星に戻ることがある。このような天体は桜井天体と呼ばれており、1996年に初めて存在が確認された。
白色矮星の恒星系および惑星系はその元となった恒星から引き継がれ、様々な形で白色矮星と相互作用を起こしうる。NASAのスピッツァー宇宙望遠鏡によって行われたらせん星雲の中心天体の赤外線分光観測からは、白色矮星の周囲にダスト雲が存在することが示唆されており、これは彗星の衝突によって生成されたものである可能性がある。このダスト雲中の物質が降着することによって、中心天体からのX線放射が引き起こされる場合があると考えられている。同様に、2004年に行われた観測では若い白色矮星 G 29-38(英語版) の周りにダスト雲の存在が示唆された。このダスト雲は白色矮星の近くを通過した彗星が潮汐破壊されることによって形成されたと考えられている。なお、この天体はおよそ5億年前に漸近巨星分枝から形成されたものだと推定されている。
白色矮星大気の金属成分に基づくいくつかの推定では、白色矮星の少なくとも15%は周囲を公転する惑星や小惑星、あるいは少なくともその破片を持つと考えられている。別の説では、白色矮星の周囲には、それらが赤色巨星だった段階を生き延びたが外層を剥ぎ取られた岩石惑星の核が公転している可能性があることが示唆されている。このような惑星の残骸は金属で出来ている可能性が高いことを考えると、白色矮星の磁場との相互作用の兆候を探すことで検出することが可能となる。
白色矮星がどのようにダストによって汚染されたかについては、惑星による小惑星の散乱や、惑星同士の散乱を介した過程が提案されている。太陽系外衛星の惑星からの離脱も白色矮星の汚染を引き起こしうる。惑星の重力を離脱した衛星は、白色矮星へと散乱させられたり、白色矮星のロッシュ限界半径へと散乱させられたりする。これらの系は大きな惑星を持たない可能性が高いため、連星中の白色矮星の汚染の背後にあるメカニズムについても研究が行われたが、この説は単独の白色矮星の周囲におけるダストの存在を説明できない。
年老いた白色矮星はダスト降着が起きた兆候を示す一方、10億年程度より年老いているか温度が 7000 K より高いものでダストによる赤外超過を示す白色矮星は、2018年の LSPM J0207+3331(英語版) の発見まで存在が知られていなかった。この白色矮星は冷却年齢がおよそ30億年である。LSPM J0207+3331 は2種類のダスト要素の特徴を示しており、これは異なる温度を持つ2つの環の存在によって説明される。
惑星を持つ白色矮星も複数発見が報告されており、例えば白色矮星とパルサーからなる連星系 PSR B1620-26 では、惑星 PSR B1620-26 b が発見されている。また、白色矮星と赤色矮星からなる連星系へび座NN星(英語版)の周りには、2つの周連星惑星が発見されている。
金属豊富な白色矮星 WD 1145+017(英語版) は、解体されつつある小惑星が天体をトランジットする様子が観測された初めての白色矮星である。微惑星の解体によってデブリの雲が形成され、それが白色矮星の手前を4.5時間ごとに通過することにより、白色矮星の可視光での明るさが5分間にわたって減光する。このトランジットの深さは非常に変動性が大きい。
WD 0145+234(英語版) では、中間赤外線での増光が NEOWISE の観測データ中に発見されたことが報告されている。この増光は2018年以前には見られなかったものであり、小惑星の潮汐破壊によるものであると解釈されている。報告した研究グループは、このような現象が観測されたのはこれが初めてであるとしている。
WD 0806-661 は、射影距離が 2500 au の大きく離れた軌道を公転するY型矮星 WD 0806-661B を持つ。この天体は質量が小さく遠方の軌道であることから、WD 0806-661B は準褐色矮星もしくは直接撮像された系外惑星だと解釈することができる。
WD J0914+1914(英語版) は、2019年に単独で存在する白色矮星としては初めて巨大惑星を持つ可能性が報告された天体である。この惑星は高温な白色矮星からの強い紫外線放射によって光蒸発を起こしている。蒸発した物質の一部は、白色矮星の周囲のガス円盤中を降着している。白色矮星のスペクトル中の弱いHα線およびその他のスペクトル線から、巨大惑星の存在が明らかにされた。
2020年9月には、WD 1856+534 を公転する非常に重い木星サイズの惑星 WD 1856+534 b の発見が初めて報告された。この惑星は白色矮星に非常に近い軌道を36時間で公転している。
表面温度が 10,000 K 未満の白色矮星はおよそ0.005から0.02 au の距離にハビタブルゾーンを持つ可能性が提唱されており、このハビタブルゾーンは最大で30億年にわたって維持されると考えられる。これは非常に近距離であるため、この中にある居住可能な惑星は潮汐固定される。このような内側の領域へ移動してきたか、あるいはその場で形成された仮説上の地球類似惑星のトランジットを探査することが研究目標の一つとなっている。白色矮星の大きさは惑星の大きさと同程度であるため、この種のトランジットでは深い食を起こすことが期待される。
しかし、より新しい研究では白色矮星周りの居住可能な惑星の存在について疑問が投げかけられている。このような非常に主星に近い軌道を公転する惑星は強い潮汐力にさらされ、温室効果が引き起こされることによって居住不可能な環境になる可能性があることが指摘されている。存在可能性への別の制約としては、このような惑星をどのようにして形成するかという点が挙げられている。白色矮星の周りの降着円盤の中で形成されるというシナリオの他に、惑星が白色矮星に近い軌道に到達するための2つのシナリオが提案されている。1つ目は、主星が赤色巨星となっている段階に、その外層に飲み込まれた状態を生き延びた後に内側へと移動するというもの、2つ目は白色矮星が形成された後に内側へと移動するというものである。低質量の惑星は恒星に飲み込まれている間を生き延びるのが困難であるため、前者の形成過程は非現実的である。後者の過程では、惑星は自身が持つ軌道エネルギーを白色矮星との潮汐相互作用を介して熱として捨てる必要があり、結果として惑星は居住不可能な燃えさしのような状態になる可能性が高いとされている。
白色矮星が連星系にあって伴星から物質を降着している場合、新星やIa型超新星などの様々な現象が発生しうる。また、白色矮星が表面での核融合を維持できるほどに十分急速に伴星から物質を降着することが出来る場合は、超軟X線源(英語版)になる可能性もある。一方で、潮汐相互作用や恒星と円盤の相互作用と言った連星系における現象は、磁場によって緩和されるかどうかに関わらず、降着する白色矮星の自転に作用する。実際に、確実に知られている中で最も高速で自転している種類の白色矮星は、連星系の一員である (そのうち CTCV J2056-3014 が最も高速である)。2つの白色矮星からなる近接連星系はエネルギーを重力波の形で放出することが出来るため、合体を起こすまでお互いの軌道は徐々に減衰する。
孤立した自転していない白色矮星の質量は、チャンドラセカール限界であるおよそ1.4太陽質量を超えることはできない。この限界質量は、白色矮星が高速で自転しており、非一樣である場合は大きくなりうる。連星を成す白色矮星は伴星から物質を降着し、質量と密度の両方が増大する可能性がある。このような白色矮星の質量がチャンドラセカール限界に近付くと、理論的には白色矮星中での核融合への爆発的な点火か、中性子星への崩壊へとつながる可能性がある。
白色矮星への降着は、Ia型超新星の起源として現在支持されている SD (single degenerate) モデルでの爆発をもたらす。このモデルでは、炭素・酸素白色矮星が伴星から質量を引き寄せることで、質量を降着しそのコアが圧縮される。質量がチャンドラセカール限界に近付くと、核の圧縮加熱によって炭素燃焼が点火すると考えられている。白色矮星は熱圧力ではなく量子縮退圧によって重力に対抗して自らを支えているため、天体の内部に熱が加えられた場合は温度は上昇するが圧力は増加しない。そのため白色矮星はそれに応じて膨張したり冷却したりしない。むしろ、温度の上昇は暴走的な過程で核融合の反応率を加速させる。この熱核反応は数秒のうちに白色矮星の大部分を燃料として消費し、天体を跡形もなく破壊するIa型超新星の爆発を引き起こす。
別のIa型超新星の候補メカニズムとしては、2つの白色矮星を必要とする DD (double degenerate) モデルと呼ばれるものがある。これは連星系にある2つの炭素・酸素白色矮星が合体し、炭素核融合が点火するチャンドラセカール限界質量よりも大きな質量を持つ天体が形成されるというものである。
Ia型超新星に至るまでの降着の兆候は、観測では記録されていない。これは現在では、降着によって天体は最初にチャンドラセカール限界質量を超える質量を獲得し、その一方で同じく降着によって自転が非常に高速に加速されたからだと考えられている。白色矮星への降着が止まると、爆発を妨げるのには不十分な速度になるまで天体の自転は徐々に減速していく。
歴史的な明るい超新星 SN 1006 は白色矮星によるIa型超新星であったと考えられており、おそらくは2つの白色矮星の合体によるものである。「ティコの超新星」として知られる1572年の SN 1572 もIa型超新星であり、爆発の残骸が検出されている。
白色矮星と、その近距離にある潮汐固定された赤色矮星からなる連星は、post-common envelope binary (PCEB) と呼ばれる。なお、赤色矮星の代わりに褐色矮星が公転している場合もある。これらの連星は、赤色矮星が赤色巨星に飲み込まれ、赤色矮星が共通外層の内部を公転するにつれてより高密度な環境で自転が減速を受けることによって形成されるものである。赤色矮星の公転が減速を受けると、赤色矮星と赤色巨星の核の軌道距離が減少することによって平衡が保たれる。赤色矮星は赤色巨星の核へと向かって螺旋を描いて落下していき、核と合体を起こし得る。合体が発生せず、かわりに共通外層が放出された場合、連星は最終的に白色矮星と赤色矮星が近接した軌道を持つこととなる。このような進化を経て形成された連星は PCEB と呼ばれる。PCEB は、磁気制動(英語版)や重力波の放出によって連星の間隔が徐々に小さくなっていくという進化が続く。PCEB はある段階で激変星へと進化する場合があるため、その前駆天体という意味で pre-cataclysmic variables と呼ばれることがある。
物質の降着によって白色矮星がチャンドラセカール限界質量に近付くよりも前に、表面に降着した水素が豊富な物質は、より破壊的ではないタイプの水素核融合の点火を起こす可能性がある。このような表面における爆発は、白色矮星の核が残存している限りは反復して発生しうる。この種の反復的な激変現象は (古典的な) 新星と呼ばれる。また、古典的新星よりもより小規模で、より頻繁な光度の極大を示す矮新星と呼ばれる現象も観測されている。これは核融合によるエネルギーの解放ではなく、降着円盤の一部が天体へと崩壊する際の重力エネルギーの解放による現象だと考えられている。一般に、伴星から質量を降着する白色矮星を持つ連星系は、激変星と呼ばれる。新星や矮新星と同様に、強磁場激変星 (ポーラー) や中間ポーラーなどのその他の種類の変光星も知られており、どちらも強い磁場を持つ白色矮星で発生する現象である。核融合に駆動される激変星も降着に駆動される激変星も、どちらもX線源として観測される。
その他の超新星に至らない種類の連星系は、白色矮星と主系列星、もしくは巨星から構成される。シリウスAとBの連星はその一例である。また白色矮星は、白色矮星しか存在しない連星系や多重星系として存在する場合もある。そのような白色矮星の三重連星系として、WD J1953−1019(英語版)がガイアのデータから発見されている。
白色矮星の周りの惑星系の残骸の研究も行われている。恒星は明るく、周囲を公転する系外惑星や褐色矮星よりも輝く一方で、白色矮星は暗い。そのためこれらの系外惑星や褐色矮星をより詳細に調査することが可能となる。WD 0806-661を公転する準褐色矮星 WD 0806-661 B はその一例である。
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"text": "白色矮星(はくしょくわいせい、英: white dwarf)は、大部分が電子が縮退した物質によって構成されている恒星の残骸であり(縮退星)、恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つである。白色矮星は非常に高密度であり、その質量は太陽と同程度であるにもかかわらず、体積は地球と同程度しかない。白色矮星の低い光度は天体に蓄えられた熱の放射に起因するものであり、白色矮星内では核融合反応は発生していない。白色矮星の異常な暗さが初めて認識されたのは1910年のことである。\"White dwarf\" という名称は1922年にウィレム・ヤコブ・ルイテンによって名付けられた。",
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"text": "知られている白色矮星の中で最も太陽系に近いものは、8.6光年の距離にある連星系シリウスの伴星であるシリウスBである。太陽に近い100個の恒星系には、8個の白色矮星が存在すると考えられている。また、太陽近辺の褐色矮星より質量が大きい天体のうち、4分の1が白色矮星に占められていると考えられている。",
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"text": "白色矮星は、質量がおよそ10太陽質量に満たず、中性子星になるほど重くはない恒星の進化の最終状態であり、銀河系にある恒星の97%以上がこのような進化をたどると考えられている。低質量から中質量の恒星が水素の核融合を起こす主系列星の段階を終えた後、恒星は膨張して赤色巨星となり、この段階では巨星内部でのトリプルアルファ反応によってヘリウムから炭素と酸素が合成される。赤色巨星の質量が軽く、コアが炭素の核融合を起こすのに必要な温度 (およそ10億K) に到達できない場合、核融合を起こせない炭素と酸素は恒星の中心部に蓄積する。このような恒星がその外層を放出して惑星状星雲を形成した後に、コアの部分が残される。これが残骸である白色矮星である。通常は、白色矮星は炭素と酸素で構成される。白色矮星の前駆天体の質量が太陽質量の8倍ないし10.5倍であった場合、コアの温度は炭素の核融合を起こすには十分だがネオンの核融合には不十分な程度の温度となり、この場合は酸素・ネオン・マグネシウムからなる白色矮星が形成される。非常に低質量の恒星はヘリウムの核融合を起こすことができないため、連星系における質量損失によってヘリウムの白色矮星が形成されると考えられる。",
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"text": "白色矮星の物質はもはや核融合反応を起こせないため、天体はエネルギー源を持たない。その結果として、恒星のように核融合によって生成される熱で重力収縮に対抗して自身を支えられないが、電子の縮退圧のみによって支えているため非常に密度が高い。縮退に関する物理学から、自転していない白色矮星に対してはチャンドラセカール限界という質量の上限値が得られており、これはおよそ1.44太陽質量である。この質量を超えると、天体を電子の縮退圧で支えられなくなる。この質量限界に近付いた炭素-酸素白色矮星は、典型的には伴星からの質量輸送によって、炭素爆発として知られる過程を介してIa型超新星として爆発を起こす。SN 1006はその有名な例である。",
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"text": "白色矮星は形成された時点では非常に高温であるがエネルギー源を持たないため、エネルギーを放射するのに伴って徐々に冷却する。これは、白色矮星からの放射は初期は高い色温度を持つが、時間の経過に伴って放射は弱く赤くなっていくことを意味する。長い時間をかけて白色矮星は冷えていき、物質はコアから結晶化を開始する。天体の温度が低くなるということは十分な熱や光を放射できなくなることを意味しており、このような天体は冷たい黒色矮星となる。白色矮星がこの状態に到達するのに必要な時間は現在の宇宙の年齢 (およそ138億年) よりも長いと計算されており、黒色矮星はまだ存在していないと考えられる。最も古い白色矮星は依然として数千ケルビンの温度での放射を行っている。",
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"text": "白色矮星は、エリダヌス座ο星 (エリダヌス座40番星) の三重星系において初めて発見された。この星系は比較的明るい主系列星であるエリダヌス座ο星Aと、その遠方を公転するBとCの近接連星からなり、Bが白色矮星、Cは主系列の赤色矮星である。エリダヌス座ο星BとCのペアは、1783年1月31日にウィリアム・ハーシェルによって発見された。1910年に、ヘンリー・ノリス・ラッセル、エドワード・ピッカリングとウィリアミーナ・フレミングは、エリダヌス座ο星Bは暗い天体であるにもかかわらず、スペクトル型がA型、あるいは白い天体であることを発見した。1939年にラッセルはこの発見を以下のように振り返っている。",
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"text": "私は友人であり寛大な支援者であるエドワード・C・ピッカリング教授の元を訪れていました。彼は持ち前の優しさで、ヒンクスと私がケンブリッジで行った恒星の年周視差の観測で観測した全ての星—比較星も含めて—を観測したいと申し出てくれました。この一見ルーチンワークに思える仕事は非常に実りの多いものであり、非常に暗い絶対等級を持つ全ての恒星はスペクトル型がM型であるという発見に繋がりました。この研究テーマについての会話の中で (私の記憶によれば)、私はピッカリングに私のリストに無い他の特定の暗い星について尋ね、特にエリダヌス座40番星Bに言及しました。いかにも彼らしいことですが、彼は天文台のオフィスにメモを送り、まもなくこの天体のスペクトル型はA型だったとの返事が来ました (フレミング夫人からだったと思います)。この大昔の時点においても、表面輝度と密度の「可能な」値と呼んでいたものの間には極端な矛盾があることが十分に分かりました。恒星の特徴の非常に優れた規則に見えたものに対するこの例外を前に、私は困惑しただけではなく意気消沈していたに違いありません。しかしピッカリングは私に微笑みかけ、「このような例外があるからこそ、我々の知識は進歩するのです」と言い、そして白色矮星は研究の領域に入ったのです!",
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"text": "エリダヌス座ο星Bのスペクトル型は、公式には1914年にウォルター・シドニー・アダムズによって記述された。",
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"text": "シリウスの伴星であるシリウスBは、エリダヌス座ο星Bの次に発見された白色矮星である。19世紀の間に、いくつかの恒星の位置測定はその位置の小さな変化を測定するのに十分な精度となった。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは位置測定を用いて、シリウスとプロキオンの位置が周期的に変化していることを突き止めた。1844年に、彼は双方の恒星が見えない伴星を持っていると予測した。",
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"text": "シリウスとプロキオンが連星であると考えれば、その運動の変化は驚くべきものではない。我々は必要に応じてそれを受け入れ、その量を観測によって調べれば良いのである。しかし光は質量の本当の特性ではない。無数の目に見える星の存在は、無数の目に見えない星の存在に対して何も証明することはできない。",
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"text": "ベッセルはシリウスの伴星の周期をおよそ半世紀と概算した。クリスチャン・A・F・ペーテルスは1851年にその軌道を計算した。1862年1月31日になって初めて、アルヴァン・グラハム・クラークがそれまで発見されていなかったシリウスに近い天体を観測し、これは後に存在が予測されていた伴星であることが確認された。1915年にはウォルター・シドニー・アダムズが、シリウスBのスペクトルはシリウスのものと類似していることを発見したと公表した。",
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"text": "1917年に、アドリアン・ヴァン・マーネンは孤立した白色矮星であるヴァン・マーネン星を発見した。これらの初めて発見された3つの白色矮星は、いわゆる「古典的な白色矮星」(classical white dwarfs) である。その後多数の暗く白い天体が発見され、これらの固有運動が大きいことから、これらの天体は地球に近い位置にある低光度の天体、すなわち白色矮星である可能性があることが示唆された。ウィレム・ヤコブ・ルイテンが1922年にこの分類の天体の調査を行った際に、\"white dwarf\" という用語を初めて用いたと考えられる。この名称は後にアーサー・エディントンによって普及された。これらの存在の疑いがあったにもかかわらず、最初の非古典的な白色矮星の存在が明確に同定されたのは1930年代になってからであった。1939年までに18個の白色矮星が発見された。ルイテンらは1940年代も白色矮星の探査を継続した。1950年までには100個を超える白色矮星が発見され、さらに1999年までには2000個以上の存在が知られていた。それ以降、スローン・デジタル・スカイサーベイが9000個を超える白色矮星を発見しており、その大部分は新しいものである。",
"title": "発見"
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"text": "白色矮星の推定質量は、小さいものは0.17太陽質量、大きいものは1.33太陽質量のものが知られているが、質量分布は0.6太陽質量に強い極大を持ち、また大多数が0.5〜0.7太陽質量の間にある。観測されている白色矮星の推定半径は、典型的には太陽半径の 0.8-2% であり、これは太陽半径のおよそ 0.9% である地球の半径と同程度である。すなわち白色矮星は、太陽と同程度の質量が太陽よりも典型的に100万倍も小さい体積の中に押し込められた天体である。したがって白色矮星の物質の平均密度は、非常に大まかには太陽の平均密度の100万倍大きく、およそ 10 グラム毎立方センチメートル、あるいは1立方センチメートルあたり1トンである。典型的な白色矮星の密度は、10-10 g/cm である。白色矮星は知られている中で最も高密度な物質からなる天体の一つであり、これを超える密度を持つのは、中性子星やクオーク星 (仮説上の天体)、そしてブラックホールといった他のコンパクト星のみである。",
"title": "組成と構造"
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"text": "白色矮星は発見されてまもなく、非常に高密度であることが判明した。シリウスBやエリダヌス座ο星Bのように天体が連星系にある場合、連星軌道の観測から質量を推定することが可能となる。この観測は1910年にシリウスBに対して行われ、0.94太陽質量という値が得られた。この値は、より近代的な推定値である1.00太陽質量と比べても遜色のない推定値である。高温の天体は低温のものに比べてより多くのエネルギーを放射するため、恒星の表面光度はその有効温度とスペクトルから推定することができる。恒星の距離が分かっている場合、その絶対光度も推定できる。そして絶対光度と距離から、恒星の表面積と半径を計算することができる。シリウスBやエリダヌス座ο星Bは温度が比較的高く光度は比較的低いことから、これらの天体は非常に高密度であるはずだということが判明したが、この事実は当時の天文学者にとっては不可解なものであった。1916年にエルンスト・エピックが多くの実視連星の密度を推定した際、彼はエリダヌス座ο星Bの密度が太陽の25,000倍であることに気が付いたが、これは彼が「あり得ない」と言う程に高い値であった。アーサー・エディントンは後の1927年に以下のように記している。",
"title": "組成と構造"
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"tag": "p",
"text": "我々は、星の光が我々にもたらすメッセージを受け取り、解釈することによって星について学ぶ。シリウスの伴星からのメッセージが解析されこう言った。「私はあなた方がこれまでに出会ったどんな物質よりも3000倍高密な物質でできています。私の物質1トン分は、マッチ箱に収まるくらいの小さな塊になるでしょう」。このようなメッセージに対してどう返答することができるだろうか?1914年の段階で我々のほとんどがした返事は、「黙れ。馬鹿なことを言うな」であった。",
"title": "組成と構造"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "エディントンが1924年に指摘した通り、一般相対性理論に基づくと、天体がこのように高密度であることはシリウスBからの光は重力赤方偏移を示すはずであることを示唆する。これは1925年にウォルター・シドニー・アダムズが赤方偏移の測定を行った際に確認された。",
"title": "組成と構造"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の物質は原子が化学結合で結び付いたものではなく、束縛されていない原子核と電子のプラズマで構成されているため、このような高密度となることができる。そのため、通常の物質であれば原子軌道によって制限されているよりも近くに原子核を配置することが可能となる。エディントンは、このプラズマが冷却して原子を電離した状態に保つことができないほどエネルギーが低くなった状態になると何が起きるのかという疑問を提起した。このパラドックスは、新しく考案された量子力学を適用することによって1926年にラルフ・ファウラー(英語版)によって解決された。電子はパウリの排他原理に従うため、2つの電子が同じ量子状態を占めることはない。また電子は、1926年に発表されたパウリの排他原理を満たす粒子の統計的分布を決めるフェルミ・ディラック統計に従う。そのためたとえゼロ温度であっても、電子は全てが最も低いエネルギー状態、つまり基底状態を占めることはできない。電子のいくらかはより高いエネルギー状態を占める必要があり、可能な最も低いエネルギー状態のバンドである「フェルミの海」を形成する。電子のこの状態は縮退と呼ばれ、白色矮星はゼロ温度まで冷えることができ、それでもなお高いエネルギーを持つ。",
"title": "組成と構造"
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"text": "白色矮星を圧縮すると、体積あたりに含まれる電子の数は増加する。パウリの排他原理を適用すると、これは電子の運動エネルギーを増加させ、したがって圧力が増大することになる。白色矮星においては、この電子の縮退圧(英語版)が重力崩壊に対抗して天体を支えている。この圧力は密度のみに依存し、温度には依存しない。縮退した物質は比較的圧縮性であり、これは質量の大きい白色矮星の密度は低質量の白色矮星の密度よりもずっと大きく、白色矮星の半径は質量が増加するに伴って減少することを意味する。",
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "白色矮星に、中性子星へと崩壊を起こさない限りは超えることができない限界質量が存在するという事実は、白色矮星が電子の縮退圧によって支えられているという事実の別の帰結である。このような限界質量は、理想化された一定密度の天体の場合に、1929年にヴィルヘルム・アンダーソンによって、1930年にはエドマンド・ストーナー(英語版)によって計算された。この値は密度分布に対して静水圧平衡を考慮することによって修正され、限界質量の現在知られている値はスブラマニアン・チャンドラセカールによる論文『The Maximum Mass of Ideal White Dwarfs』において1931年に初めて発表された。自転していない白色矮星の場合、限界質量はおよそ 5.7M☉/μe で表される。ここで μe は天体の電子あたりの平均分子量、M☉ は太陽質量である。炭素・酸素からなる白色矮星は大部分が炭素12と酸素16からなり、どちらの原子も原子番号は原子量の半分に等しいため、μe はこの天体では2に等しくなる。その結果、限界質量は一般に引用される値である1.4太陽質量となる。なお20世紀の初め頃には恒星は主に重元素からできていると信じるに足る理由があったため、1931年の論文では、チャンドラセカールは μe の値として2.5を採り、限界質量の値として0.91太陽質量を与えた。1983年、チャンドラセカールはファウラーと共に、白色矮星に関する研究やその他の研究でノーベル物理学賞を受賞した。この限界質量は、現在では「チャンドラセカール限界」と呼ばれている。",
"title": "組成と構造"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の質量がチャンドラセカール限界を超え、かつ原子核反応が起きなかった場合、電子によってもたらされる圧力は重力に対抗することができなくなり、中性子星と呼ばれるより高密度の天体へと崩壊する。実際には、近傍の恒星から質量を降着して質量が増加している炭素・酸素白色矮星は、限界質量へと到達する前に暴走的な核融合反応を起こしてIa型超新星となり、これにより白色矮星は破壊されると考えられる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "新しい研究では、多くの白色矮星は少なくとも特定の種類の銀河においては、降着によっては限界質量には到達しないことが示唆されている。超新星になる白色矮星のうち少なくともいくつかは、連星になっている白色矮星同士が衝突・合体することによって必要な質量に到達すると仮定される。楕円銀河においては、このような衝突がIa型超新星の主要な原因である可能性がある。この仮説は、銀河から放射されるX線が、Ia型超新星が白色矮星の周囲にある伴星から物質を降着していることによって発生すると考えた場合の値より30〜50倍小さいという事実に基づいたものである。この仮説では、白色矮星への降着過程によって発生する超新星は、そのような銀河においては 5% を超えないと結論付けられている。この発見の重要な点は、白色矮星への降着によって限界質量に到達するものと、白色矮星同士の衝突合体によって限界質量に到達するものの、2つのタイプのIa型超新星が存在しうるということである。2つの衝突する白色矮星の質量の範囲を考えると、白色矮星が超新星になるのを決める際に常にチャンドラセカール限界が適用されるとは限らない。このことは、Ia型超新星を起こす白色矮星を距離決定の標準光源として用いることに混乱をもたらす可能性がある。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の光度は小さいため、恒星の光度と色もしくは温度を示した図であるヘルツシュプルング・ラッセル図上では下方に帯状に分布する。コアが部分的に熱圧力によって支えられており、核融合反応を起こしている赤色矮星のように主系列星の低質量側の端に位置する低光度の天体や、さらに低温の褐色矮星とは異なる種類の天体である。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の質量と半径の関係性は、エネルギー最小化の議論から導出することができる。白色矮星が持つエネルギーは、重力のポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの和であるとみなすことで概算することができる。白色矮星の単位質量片の重力ポテンシャルエネルギー Eg は、おおむね −G M ∕ R と表すことができる。ここで G は万有引力定数、M は白色矮星の質量、R は白色矮星の半径である。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "単位質量当たりの運動エネルギー Ek については、これは主に電子の運動に起因するものであるため、N p ∕ 2m と近似することができる。ここで p は電子の平均運動量、m は電子の質量、N は単位質量あたりの電子の数である。電子は縮退しているため、p は電子の運動量の不確かさである Δp で近似されるとして推定することができる。この値は、Δp Δx は換算プランク定数 ħ で近似できるとする不確定性原理によって与えられる。Δx は電子間の平均距離と同程度であり、これはおおむね n,すなわち単位体積あたりの電子の数密度の立方根の逆数となる。白色矮星に含まれる電子の数は N·M 個であり、また体積は R のオーダーで表されることから、n は N M ∕ R のオーダーの値となる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "単位質量当たりの運動エネルギー Ek について解くことで、以下の式を得る。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "白色矮星は、その合計エネルギー Eg + Ek が最小の時に平衡状態になると考えられる。この時点で運動エネルギーと重力ポテンシャルエネルギーは同程度であるはずなので、両者を等しいとみなすことでおおまかな質量と半径の関係を以下のように導出することができる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "これを半径 R について解くことで、次の式を得る。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "この式において、白色矮星の組成のみに依存する量である N および普遍定数を除くと質量への依存性のみが残り、質量と半径の間に以下の関係があることが分かる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "すなわち、白色矮星の半径は、その質量の三乗根の逆数に比例する。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この解析は運動エネルギーについて非相対論的な表式 p ∕ 2m を用いているため、非相対論的なものである。白色矮星内の電子の速度が光速 c に近い状況について解析する場合は、運動エネルギー p ∕ 2m を極端な相対論的近似である p c で置き換える必要がある。これを代入することで、以下の式を得る。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "これが Eg と等しいとすると、R が消え、質量 M は以下のように書き表すことができる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "この結果を解釈すると、白色矮星の質量を増加させると半径は減少し、そのため不確定性原理により電子の運動量は増加、すなわち速度は増加することになる。この速度が光速 c に近づくにつれて相対論的な解析がより正確になり、白色矮星の質量は限界質量の Mlimit に近づくはずである。したがって、この限界質量 Mlimit、つまり1.4太陽質量よりも重い白色矮星は存在しないことになる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の質量半径関係と限界質量のより正確な計算のためには、白色矮星の物質の密度と圧力の関係を記述する状態方程式の計算を行う必要がある。密度と圧力が共に天体の中心からの半径の関数に等しく設定されている場合、静力学方程式と状態方程式の連立方程式を解いて平衡状態の白色矮星の構造を決めることができる。非相対論的な場合でも、半径は質量の三乗根の逆数に比例することが分かる。相対論的な補正を行うと、質量が有限の値で半径がゼロになるように結果が変わる。この限界値はチャンドラセカール限界と呼ばれ、白色矮星が電子の縮退圧によって自らを支えられなくなる質量である。右のグラフはそのような計算の結果を示している。白色矮星の半径が質量に伴ってどう変化するか、非相対論的なモデル (青い線) と相対論的なモデル (緑の線) の両方が示されている。どちらのモデルも、白色矮星を静水圧平衡の状態にある冷たいフェルミ気体として扱っている。また電子あたりの平均分子量 μe は 2 として計算を行っている。グラフ中で、半径は太陽半径で、質量は太陽質量で規格化されている。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "これらの計算は全て、白色矮星が自転していないことを仮定している。白色矮星が自転している場合、回転座標系における遠心力を考慮して静水圧平衡の方程式を修正する必要がある。一様に自転している白色矮星の場合、限界質量はわずかに大きくなるだけである。白色矮星の自転が非一様であり、また粘性を無視した場合は、1947年にフレッド・ホイルが指摘したように、白色矮星が静的平衡になることが可能な質量には限界値はなくなる。これら全てのモデル天体が動的に安定であるわけではない。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の大部分を占める縮退した物質は、非常に不透明度(英語版)が小さい。これは、光子を吸収する際には電子は空いているより高い準位へと遷移する必要があり、光子のエネルギーがその電子にとって可能な量子状態と一致しなければその遷移が不可能である可能性があるからであり、そのため白色矮星内での輻射による熱輸送の効率は低い。しかし、熱伝導率は高くなる。結果として、白色矮星の内部はおよそ 10 K の一様な温度に保たれる。縮退していない物質でできている外殻は、10 K から 10 程度にまで冷える。この物質はおおむね黒体としての輻射を行う。白色矮星の形成後、通常の物質からなる希薄な大気外層はおよそ 10 K で輻射を始め、質量の大部分を占める内部は 10 K であるが外側の通常の物質でできた殻を通して放射することができないため、白色矮星は長い間にわたって放射を続けることができる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "白色矮星から放射される可視の放射は、O型主系列星の青白色からM型の赤色矮星の赤色まで、広い色の範囲を変化する。白色矮星の有効表面温度は、高いものは 150,000 K、低いものは 4,000 K をわずかに下回る程度にまで及ぶ。シュテファン=ボルツマンの法則に従い、天体の光度は表面温度が高いほど大きくなる。この表面温度の範囲は、白色矮星の光度は太陽の100倍を超えるものから 1/10,000 を下回るものまで存在することに対応している。表面温度が 30,000 K を超えるような高温の白色矮星は、軟X線 (比較的低エネルギーなX線) の放射源であることが観測されている。これにより、白色矮星大気の組成と構造を軟X線および極端紫外線での観測によって研究することが可能となる。",
"title": "組成と構造"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また、白色矮星はウルカ過程を介してニュートリノも放射している。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1952年に Leon Mestel によって説明されたように、白色矮星は伴星やその他の供給源から物質を降着していない限り、その放射は天体に蓄えられた熱が起源であり、その熱は補給されることはない。白色矮星は熱を放射するための表面積が極めて小さいため冷却はゆっくりとしたものとなり、長い時間にわたって高温であり続ける。白色矮星が冷えるに従って表面温度は低下し、放射する光は赤くなり、そして光度は減少する。白色矮星は放射以外でエネルギーを失う手段を持たないため、時間の経過とともに冷却は遅くなる。例として、水素大気を持つ0.59太陽質量の炭素白色矮星の冷却の経過は以下のように推定されている。この天体は最初に表面温度が 7,140 K まで冷えるのにおよそ15億年の時間を要した後、さらにおよそ 500 K 冷えて 6,590 K になるのには約3億年を要する。しかしその後およそ 500 K 冷えて 6,030 K になるには4億年、さらに約 500 K 冷えて 5,550 K となるには11億年の経過が必要である。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "観測された白色矮星の大部分は 8,000 K から 40,000 K の比較的高い表面温度を持つ。しかし白色矮星は高温でいる期間よりもより低温でいる期間の方が長いため、高温の白色矮星よりも低温の白色矮星の方が多く存在することが予測される。より高温で明るい白色矮星は観測されやすいという観測選択効果を考えると、調査する温度領域を低くすることでより多くの白色矮星が発見されるという傾向がある。この傾向は、非常に低温な白色矮星に到達したところで終わる。表面温度が 4,000 K を下回る白色矮星はいくつか発見されており、観測されている中で最も低温な白色矮星のひとつである WD 0346+246(英語版) は表面温度が 3,900 K である。この傾向が終わるのは、宇宙の年齢が有限であることが理由である。すなわち、白色矮星がこの温度を下回るほどまだ十分な時間が経過していないということである。そのため、白色矮星の光度関数を用いるとその領域で恒星が形成され始めた時期を推定することができる。この手法を用いて推定された銀河系の銀河円盤の年齢は80億年である。白色矮星は何兆年もの時間をかけて、周囲および宇宙マイクロ波背景放射とおおむね熱平衡の、放射を行わない黒色矮星になる。ただし十分な時間が経過していないため、黒色矮星はまだ存在していないと考えられている。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "白色矮星を構成する物質は、初めは原子核と電子からなる流体であるプラズマであるが、冷却の後期段階では天体の中心から結晶化を起こすことが1960年代に理論的に予測された。結晶構造は体心立方格子構造であると考えられる。1995年には脈動白色矮星の星震学観測によって結晶化理論の検証を行える可能性があることが示唆され、2004年にはケンタウルス座V886星の質量のおよそ90%が結晶化を起こしていることを示唆する観測結果が得られている。別の研究では結晶化を起こしているのは質量の32%から82%だとしている。白色矮星の核が結晶化を起こして固体に変化するに従って潜熱が解放され、これは白色矮星の冷却を遅らせる熱エネルギー源となる。この効果は、ガイアによる観測で15000個を超える白色矮星の冷却シーケンスに停滞が見られることが同定されたことにより、2019年に初めて確認された。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "質量が0.20太陽質量未満の低質量のヘリウム白色矮星はしばしば超低質量白色矮星 (英: extremely low-mass white dwarfs, ELM WDs) と呼ばれ、連星系で形成される。これらの天体は水素豊富な外層を持つため、CNOサイクルを介した残余の水素燃焼が長い期間にわたって白色矮星を高温に保つ可能性がある。さらにこれらの白色矮星は、冷却経路に到達する前に最大で20億年もの間、膨張した前白色矮星段階に留まると考えられている。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "大部分の白色矮星は炭素と酸素からなっていると考えられているが、分光観測では白色矮星から放射される光は、水素やヘリウムが主体である大気から来ていることが示されている。大気に含まれる主要な元素は一般に、その他全ての微量な元素の少なくとも1000倍も多く含まれている。1940年代にエヴリー・シャツマンが説明した通り、白色矮星は表面重力が大きく、重い元素は沈降し軽い元素は上昇するという重力的な分離が大気内で発生するため、このような純度が引き起こされていると考えられている。我々が観測できる白色矮星の唯一の部分であるこの大気は、漸近巨星分枝の段階にある恒星の外層の残骸であり、星間物質から降着した物質も含んでいると考えられる。この外層は、天体の総質量の100分の1未満の質量を持つヘリウム豊富な層と、もし大気が水素豊富であった場合はさらにその上に横たわる天体の総質量のおよそ1万分の1の水素豊富な層からなるとされている。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "外層は薄いものの、白色矮星の熱進化を決定づけている。白色矮星の大部分を占める縮退した電子は熱をよく伝導する。そのため白色矮星の質量のほとんどは等温で、また高温である。表面温度が 8,000 K から 16,000 K の白色矮星は、コアの温度はおよそ 5,000,000 K から 20,000,000 K であると考えられる。白色矮星は、放射を行う外層の不透明度によってのみ、非常に急速な冷却を起こすことを回避している。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "白色矮星のスペクトルを分類しようとする初めての試みは1941年のジェラルド・カイパーによって行われ、それ以降多数の分類法が提案され用いられている。現在用いられている分類体系は Edward M. Sion、Jesse L. Greenstein らによって1983年に導入されたものであり、これはその後何度か改定されている。この分類法では先頭の文字をDとし、スペクトルの主要な特徴を記述する文字、続いて任意でスペクトルの二次的な特徴を記述する文字を用いる (それぞれの特徴は表に記載)。さらにその後ろに、50,400 K を有効温度で割って計算される温度を示す指数を記すことで、白色矮星のスペクトルを記述する。以下はその一例である。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "正しい分類が不明である場合は、\"?\" と \":\" の記号も用いられる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "主要なスペクトル分類がDAである白色矮星は,水素が主体の大気を持つ。この種類の白色矮星は多数派であり、全ての観測されている白色矮星のおよそ80%を占める。これに次いで多いのがDBのスペクトル型を持つ白色矮星であり、およそ16%である。温度が 15,000 K を超える高温なDQ型の白色矮星 (全体のおよそ0.1%) は炭素主体の大気を持つ。スペクトル型がDB、DC、DO、DZ、および低温なDQであるものは、ヘリウム主体の大気を持つ。炭素と金属が存在しないと仮定すると、どのスペクトル分類が見られるかは天体の有効温度に依存する。有効温度がおよそ 100,000 K から 45,000 K の間の白色矮星は,スペクトルはDOに分類され、一階電離のヘリウム主体の大気を持つ。30,000 K から 12,000 K の間は、中性ヘリウムのスペクトル線を示すDBになる。12,000 K 未満の場合はスペクトルは特徴を欠いたものになり、DCに分類される。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "いくつかの白色矮星の大気のスペクトルからは、水素分子が検出されている。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "白色矮星のおよそ25–33%はスペクトル中に金属線を持つ。白色矮星中の重元素は、天体の寿命と比べるとごく短い時間で内部へと沈降してしまうはずであるため、これは特筆に値する特徴である。金属豊富な白色矮星の存在を説明する一般的な説は、最近になって岩石微惑星が降着したというものである。降着した天体の全体の組成は、金属線の強度から測定することができる。例えば、2015年に行われた白色矮星 Ton 345 に関する研究では、この天体の金属の存在度は、漸近巨星分枝の段階にある主星によってマントルが溶融した、分化した岩石惑星のものと整合的であると結論付けられた。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "白色矮星はその表面でおよそ100万ガウス (100テスラ) の磁場を持つことが、1947年にパトリック・ブラケットによって予言された。これは彼が提唱した、電荷を持たず自転している天体はその角運動量に比例する磁場を生成するはずであるという物理法則に基づくものである。ときおりブラケット効果(英語版)とも呼ばれたこの仮説は一般に受け入れられず、1950年代までにはブラケット自身もこの説は反駁されたと感じていた。1960年代には、白色矮星はその前駆体である恒星に存在していた全表面磁束の保存に起因する磁場を持つという説が提唱された。元の恒星の表面磁場がおよそ100ガウス (0.01テスラ) であった場合、恒星が白色矮星となって半径が100分の1になることで表面磁場は集約されておよそ 100×100 = 100万ガウス (100テスラ) になる。初めて発見された磁場を持つ白色矮星はGRW +70 8247(英語版) (GJ 742) であり、1970年に放射光の円偏光の検出によって磁場を持つことが確認された。この天体の表面磁場はおよそ3億ガウス (30キロテスラ) であると考えられている。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1970年以降、200個を大幅に超える白色矮星で磁場が発見されており、その強度は 2×10 ガウスから 10 ガウス (0.2テスラから100キロテスラ) の範囲である。ほとんどの白色矮星は低解像度の分光観測によってその存在が同定されているが、この手法は白色矮星の1メガガウス以上の磁場の存在を明らかにすることができるため、磁場を持つことが知られている白色矮星の個数は多い。そのため、白色矮星の基本的な同定の過程で時折磁場が発見される。白色矮星の少なくとも10%は、100万ガウス (100テスラ) を超える磁場を持つと推定されている。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2016年には、さそり座AR星の連星系に強い磁場を持った白色矮星の存在が特定されている。この天体は、コンパクト星が中性子星ではなく白色矮星であるパルサーとしては初めての例である。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の磁場は、イオン結合や共有結合に加えて垂直常磁性結合(英語版)という新しいタイプの化学結合の存在を可能にすると考えられる。その結果として、2012年に出版された研究において「磁化された物質」と初めて記述されたような状態の物質の存在が可能になる。",
"title": "組成と構造"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "初期の計算では、10秒程度の周期で光度が変動する白色矮星が存在する可能性があることが示唆されたが、1960年代の探査ではこの変動は観測することが出来なかった。初めて発見された脈動白色矮星はおうし座V411星であり、およそ12.5分周期で変動していることが1965年と1966年に観測された。変動の周期が予測されていたものよりも長い理由は、おうし座V411星の変動は他の知られている脈動する白色矮星と同様に非動径方向の重力波による脈動に起因するためである。",
"title": "変動性"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "脈動白色矮星の種類として知られているものには、DAV もしくは ZZ Ceti (くじら座ZZ星型) と呼ばれるものがあり、おうし座V411星もこの種類である。この天体は水素主体の大気を持ち、スペクトル型はDAである。DBV もしくは V777 Her (ヘルクレス座V777星型) と分類されるものはヘリウム主体の大気を持ち、スペクトル型はDBである。GW Vir (おとめ座GW星型) に分類されるものはヘリウム、炭素、酸素が主体の大気を持ち、しばしば DOV と PNNV に細分される。GW Vir の天体は厳密には白色矮星ではないが、ヘルツシュプルング・ラッセル図上において漸近巨星分枝と白色矮星の領域の間に位置する天体である。これらは \"pre-white dwarfs\" と呼ばれる場合がある。これらの脈動白色矮星は全て 1%–30% と小さい光度曲線の変動を示し、周期が数百秒から数千秒の振動モードの重ね合わせからなっている。これらの振動の観測から、白色矮星内部についての星震学的な証拠が得られる。",
"title": "変動性"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "白色矮星は、質量がおよそ0.07–10太陽質量の主系列星の恒星進化の終着点であると考えられている。白色矮星の組成は元となる恒星の初期質量に依存すると考えられる。現在の銀河モデルは、銀河系には現在およそ100億個もの白色矮星が存在していることを示唆する。",
"title": "形成"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "主系列星の質量が太陽質量のおよそ半分よりも軽い場合、その核はヘリウムの核融合を起こすための十分な高温になることができない。この天体は宇宙の年齢 (138億年) を大きく超える主系列段階の寿命を持つと考えられている。このような天体はやがて全ての水素を燃焼し、青色矮星の段階を経て、主にヘリウム4で構成されるヘリウム白色矮星として進化を終える。この過程でヘリウム白色矮星が形成されるには非常に長い時間がかかるため、観測されているヘリウム白色矮星はこの過程で形成されたものではないと考えられる。その代わりに、連星系における質量放出の結果として形成されるか、大きな惑星による質量放出の結果として形成されると考えられる。",
"title": "形成"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "太陽のように主系列星の質量が 0.5–8 太陽質量の場合、核はトリプルアルファ反応を介してヘリウムから炭素と酸素を合成するのに十分な温度になるが、炭素の核融合によってネオンを生成するほどの十分な高温にはならない。核融合を起こす期間の終わりに近づくと、このような恒星は、核融合反応を起こさない炭素・酸素コアの周りを、内側のヘリウム燃焼殻と外側の水素燃焼殻が取り囲む構造を持つようになる。ヘルツシュプルング・ラッセル図においては、この段階の恒星は漸近巨星分枝の領域に位置する。その後天体はその外層の物質の大部分を放出して惑星状星雲を形成し、炭素・酸素の核のみが残される。観測されている白色矮星の圧倒的多数を占める炭素・酸素白色矮星は、この過程によって形成された。",
"title": "形成"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "恒星が十分に重い場合、その核はいずれ炭素核融合を起こしてネオンを合成するのに十分な高温となり、その後ネオンの核融合を起こして鉄を生成する。このような恒星では、初めのうちは電子の縮退圧によって支えられていた核融合を起こさない中心核の質量が、縮退圧で支えることが出来る最大質量をいずれ超えてしまうため、白色矮星になることはできない。この場合、恒星の核は重力崩壊を起こして超新星として爆発し、残骸として中性子星やブラックホール、あるいはより特異な形態のコンパクト星を残すと考えられる。8–10 太陽質量のいくつかの主系列星は炭素燃焼過程によってネオンやマグネシウムを生成するのに十分な質量を持つものの、ネオン燃焼を起こすには不十分である場合がある。このような恒星は、核が崩壊せず、また超新星で恒星を吹き飛ばすほどの激しい核融合が進行しない限り、酸素、ネオン、マグネシウムを主成分とする白色矮星を残す可能性がある。この種類に属する可能性がある白色矮星は少数確認されているが、この種の白色矮星が存在する最大の証拠は、ONeMg新星、あるいはネオン新星と呼ばれる新星の存在である。これらの新星のスペクトルは、ネオン、マグネシウムやその他の中間質量の元素が存在することを示し、これは酸素・ネオン・マグネシウム白色矮星への物質の降着のみによって説明可能であると考えられる。",
"title": "形成"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "白色矮星によるヘリウム降着を伴うIax型超新星は、恒星の残骸である白色矮星の状態を変化させ得る経路として存在が提唱されている。このシナリオでは、Ia型超新星で引き起こされる炭素爆発は白色矮星を破壊するには弱すぎるため質量のごく一部を放出するだけにとどまるが、しばしばゾンビ星(英語版)として知られている、天体に撃力を与える非対称な爆発を発生させ、その結果として超高速星を発生させる。この失敗した爆発によって生成された物質は白色矮星へとふたたび降着し、鉄などの重い元素がそのコアへと蓄積していく。このようにして形成された鉄コアを持つ白色矮星は、同じ質量の炭素・酸素からなる白色矮星と比べて小さくなり、また冷却と結晶化も早い。",
"title": "形成"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "白色矮星は一度形成されると安定であり、ほぼ際限なく冷却を続け、最終的には黒色矮星になると考えられる。宇宙が膨張を続けると仮定すると、10 から 10 年のうちに恒星が銀河間空間へ散逸するのに伴って銀河は消滅する。白色矮星は一般に銀河の散逸を生き延びるが、白色矮星同士の偶然の衝突によって、新たに核融合を起こす恒星が生成されたり、チャンドラセカール限界質量を超える質量を持つ白色矮星が形成され、その後Ia型超新星を起こしたりする可能性はある。",
"title": "最期"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "その後の白色矮星の寿命は仮説上の陽子の寿命と同程度と考えられており、これは少なくとも 10–10 年であることが知られている。大統一理論のモデルのいくつかでは、陽子の寿命は 10 から 10 年の間であると予測されている。これらの理論が正しくなかった場合でも、複雑な核反応や、仮想ブラックホール(英語版)を含む量子重力過程を介して陽子が崩壊する可能性はある。この場合、寿命は 10 年を超えないだろうと推定されている。陽子崩壊が起きる場合、白色矮星の質量は原子核の崩壊が進行するにつれて非常にゆっくりと減少していき、十分な質量を失って縮退していない物質の塊となり、そして最終的には完全に消滅すると考えられる。",
"title": "最期"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "白色矮星が伴星に共食いされたり蒸発させられたりすることによって質量を失い、惑星質量天体へと変化するという進化経路も考えられる。かつては伴星であり、現在では主星となった天体を公転することになるこの天体は、ヘリウム惑星やダイヤモンド惑星となる可能性がある。",
"title": "最期"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "稀に白色矮星で後期熱パルスが発生し、赤色巨星に戻ることがある。このような天体は桜井天体と呼ばれており、1996年に初めて存在が確認された。",
"title": "最期"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の恒星系および惑星系はその元となった恒星から引き継がれ、様々な形で白色矮星と相互作用を起こしうる。NASAのスピッツァー宇宙望遠鏡によって行われたらせん星雲の中心天体の赤外線分光観測からは、白色矮星の周囲にダスト雲が存在することが示唆されており、これは彗星の衝突によって生成されたものである可能性がある。このダスト雲中の物質が降着することによって、中心天体からのX線放射が引き起こされる場合があると考えられている。同様に、2004年に行われた観測では若い白色矮星 G 29-38(英語版) の周りにダスト雲の存在が示唆された。このダスト雲は白色矮星の近くを通過した彗星が潮汐破壊されることによって形成されたと考えられている。なお、この天体はおよそ5億年前に漸近巨星分枝から形成されたものだと推定されている。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "白色矮星大気の金属成分に基づくいくつかの推定では、白色矮星の少なくとも15%は周囲を公転する惑星や小惑星、あるいは少なくともその破片を持つと考えられている。別の説では、白色矮星の周囲には、それらが赤色巨星だった段階を生き延びたが外層を剥ぎ取られた岩石惑星の核が公転している可能性があることが示唆されている。このような惑星の残骸は金属で出来ている可能性が高いことを考えると、白色矮星の磁場との相互作用の兆候を探すことで検出することが可能となる。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "白色矮星がどのようにダストによって汚染されたかについては、惑星による小惑星の散乱や、惑星同士の散乱を介した過程が提案されている。太陽系外衛星の惑星からの離脱も白色矮星の汚染を引き起こしうる。惑星の重力を離脱した衛星は、白色矮星へと散乱させられたり、白色矮星のロッシュ限界半径へと散乱させられたりする。これらの系は大きな惑星を持たない可能性が高いため、連星中の白色矮星の汚染の背後にあるメカニズムについても研究が行われたが、この説は単独の白色矮星の周囲におけるダストの存在を説明できない。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "年老いた白色矮星はダスト降着が起きた兆候を示す一方、10億年程度より年老いているか温度が 7000 K より高いものでダストによる赤外超過を示す白色矮星は、2018年の LSPM J0207+3331(英語版) の発見まで存在が知られていなかった。この白色矮星は冷却年齢がおよそ30億年である。LSPM J0207+3331 は2種類のダスト要素の特徴を示しており、これは異なる温度を持つ2つの環の存在によって説明される。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "惑星を持つ白色矮星も複数発見が報告されており、例えば白色矮星とパルサーからなる連星系 PSR B1620-26 では、惑星 PSR B1620-26 b が発見されている。また、白色矮星と赤色矮星からなる連星系へび座NN星(英語版)の周りには、2つの周連星惑星が発見されている。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "金属豊富な白色矮星 WD 1145+017(英語版) は、解体されつつある小惑星が天体をトランジットする様子が観測された初めての白色矮星である。微惑星の解体によってデブリの雲が形成され、それが白色矮星の手前を4.5時間ごとに通過することにより、白色矮星の可視光での明るさが5分間にわたって減光する。このトランジットの深さは非常に変動性が大きい。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "WD 0145+234(英語版) では、中間赤外線での増光が NEOWISE の観測データ中に発見されたことが報告されている。この増光は2018年以前には見られなかったものであり、小惑星の潮汐破壊によるものであると解釈されている。報告した研究グループは、このような現象が観測されたのはこれが初めてであるとしている。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "WD 0806-661 は、射影距離が 2500 au の大きく離れた軌道を公転するY型矮星 WD 0806-661B を持つ。この天体は質量が小さく遠方の軌道であることから、WD 0806-661B は準褐色矮星もしくは直接撮像された系外惑星だと解釈することができる。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "WD J0914+1914(英語版) は、2019年に単独で存在する白色矮星としては初めて巨大惑星を持つ可能性が報告された天体である。この惑星は高温な白色矮星からの強い紫外線放射によって光蒸発を起こしている。蒸発した物質の一部は、白色矮星の周囲のガス円盤中を降着している。白色矮星のスペクトル中の弱いHα線およびその他のスペクトル線から、巨大惑星の存在が明らかにされた。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2020年9月には、WD 1856+534 を公転する非常に重い木星サイズの惑星 WD 1856+534 b の発見が初めて報告された。この惑星は白色矮星に非常に近い軌道を36時間で公転している。",
"title": "デブリ円盤と惑星"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "表面温度が 10,000 K 未満の白色矮星はおよそ0.005から0.02 au の距離にハビタブルゾーンを持つ可能性が提唱されており、このハビタブルゾーンは最大で30億年にわたって維持されると考えられる。これは非常に近距離であるため、この中にある居住可能な惑星は潮汐固定される。このような内側の領域へ移動してきたか、あるいはその場で形成された仮説上の地球類似惑星のトランジットを探査することが研究目標の一つとなっている。白色矮星の大きさは惑星の大きさと同程度であるため、この種のトランジットでは深い食を起こすことが期待される。",
"title": "居住可能性"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "しかし、より新しい研究では白色矮星周りの居住可能な惑星の存在について疑問が投げかけられている。このような非常に主星に近い軌道を公転する惑星は強い潮汐力にさらされ、温室効果が引き起こされることによって居住不可能な環境になる可能性があることが指摘されている。存在可能性への別の制約としては、このような惑星をどのようにして形成するかという点が挙げられている。白色矮星の周りの降着円盤の中で形成されるというシナリオの他に、惑星が白色矮星に近い軌道に到達するための2つのシナリオが提案されている。1つ目は、主星が赤色巨星となっている段階に、その外層に飲み込まれた状態を生き延びた後に内側へと移動するというもの、2つ目は白色矮星が形成された後に内側へと移動するというものである。低質量の惑星は恒星に飲み込まれている間を生き延びるのが困難であるため、前者の形成過程は非現実的である。後者の過程では、惑星は自身が持つ軌道エネルギーを白色矮星との潮汐相互作用を介して熱として捨てる必要があり、結果として惑星は居住不可能な燃えさしのような状態になる可能性が高いとされている。",
"title": "居住可能性"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "白色矮星が連星系にあって伴星から物質を降着している場合、新星やIa型超新星などの様々な現象が発生しうる。また、白色矮星が表面での核融合を維持できるほどに十分急速に伴星から物質を降着することが出来る場合は、超軟X線源(英語版)になる可能性もある。一方で、潮汐相互作用や恒星と円盤の相互作用と言った連星系における現象は、磁場によって緩和されるかどうかに関わらず、降着する白色矮星の自転に作用する。実際に、確実に知られている中で最も高速で自転している種類の白色矮星は、連星系の一員である (そのうち CTCV J2056-3014 が最も高速である)。2つの白色矮星からなる近接連星系はエネルギーを重力波の形で放出することが出来るため、合体を起こすまでお互いの軌道は徐々に減衰する。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "孤立した自転していない白色矮星の質量は、チャンドラセカール限界であるおよそ1.4太陽質量を超えることはできない。この限界質量は、白色矮星が高速で自転しており、非一樣である場合は大きくなりうる。連星を成す白色矮星は伴星から物質を降着し、質量と密度の両方が増大する可能性がある。このような白色矮星の質量がチャンドラセカール限界に近付くと、理論的には白色矮星中での核融合への爆発的な点火か、中性子星への崩壊へとつながる可能性がある。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "白色矮星への降着は、Ia型超新星の起源として現在支持されている SD (single degenerate) モデルでの爆発をもたらす。このモデルでは、炭素・酸素白色矮星が伴星から質量を引き寄せることで、質量を降着しそのコアが圧縮される。質量がチャンドラセカール限界に近付くと、核の圧縮加熱によって炭素燃焼が点火すると考えられている。白色矮星は熱圧力ではなく量子縮退圧によって重力に対抗して自らを支えているため、天体の内部に熱が加えられた場合は温度は上昇するが圧力は増加しない。そのため白色矮星はそれに応じて膨張したり冷却したりしない。むしろ、温度の上昇は暴走的な過程で核融合の反応率を加速させる。この熱核反応は数秒のうちに白色矮星の大部分を燃料として消費し、天体を跡形もなく破壊するIa型超新星の爆発を引き起こす。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "別のIa型超新星の候補メカニズムとしては、2つの白色矮星を必要とする DD (double degenerate) モデルと呼ばれるものがある。これは連星系にある2つの炭素・酸素白色矮星が合体し、炭素核融合が点火するチャンドラセカール限界質量よりも大きな質量を持つ天体が形成されるというものである。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "Ia型超新星に至るまでの降着の兆候は、観測では記録されていない。これは現在では、降着によって天体は最初にチャンドラセカール限界質量を超える質量を獲得し、その一方で同じく降着によって自転が非常に高速に加速されたからだと考えられている。白色矮星への降着が止まると、爆発を妨げるのには不十分な速度になるまで天体の自転は徐々に減速していく。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "歴史的な明るい超新星 SN 1006 は白色矮星によるIa型超新星であったと考えられており、おそらくは2つの白色矮星の合体によるものである。「ティコの超新星」として知られる1572年の SN 1572 もIa型超新星であり、爆発の残骸が検出されている。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "白色矮星と、その近距離にある潮汐固定された赤色矮星からなる連星は、post-common envelope binary (PCEB) と呼ばれる。なお、赤色矮星の代わりに褐色矮星が公転している場合もある。これらの連星は、赤色矮星が赤色巨星に飲み込まれ、赤色矮星が共通外層の内部を公転するにつれてより高密度な環境で自転が減速を受けることによって形成されるものである。赤色矮星の公転が減速を受けると、赤色矮星と赤色巨星の核の軌道距離が減少することによって平衡が保たれる。赤色矮星は赤色巨星の核へと向かって螺旋を描いて落下していき、核と合体を起こし得る。合体が発生せず、かわりに共通外層が放出された場合、連星は最終的に白色矮星と赤色矮星が近接した軌道を持つこととなる。このような進化を経て形成された連星は PCEB と呼ばれる。PCEB は、磁気制動(英語版)や重力波の放出によって連星の間隔が徐々に小さくなっていくという進化が続く。PCEB はある段階で激変星へと進化する場合があるため、その前駆天体という意味で pre-cataclysmic variables と呼ばれることがある。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "物質の降着によって白色矮星がチャンドラセカール限界質量に近付くよりも前に、表面に降着した水素が豊富な物質は、より破壊的ではないタイプの水素核融合の点火を起こす可能性がある。このような表面における爆発は、白色矮星の核が残存している限りは反復して発生しうる。この種の反復的な激変現象は (古典的な) 新星と呼ばれる。また、古典的新星よりもより小規模で、より頻繁な光度の極大を示す矮新星と呼ばれる現象も観測されている。これは核融合によるエネルギーの解放ではなく、降着円盤の一部が天体へと崩壊する際の重力エネルギーの解放による現象だと考えられている。一般に、伴星から質量を降着する白色矮星を持つ連星系は、激変星と呼ばれる。新星や矮新星と同様に、強磁場激変星 (ポーラー) や中間ポーラーなどのその他の種類の変光星も知られており、どちらも強い磁場を持つ白色矮星で発生する現象である。核融合に駆動される激変星も降着に駆動される激変星も、どちらもX線源として観測される。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "その他の超新星に至らない種類の連星系は、白色矮星と主系列星、もしくは巨星から構成される。シリウスAとBの連星はその一例である。また白色矮星は、白色矮星しか存在しない連星系や多重星系として存在する場合もある。そのような白色矮星の三重連星系として、WD J1953−1019(英語版)がガイアのデータから発見されている。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "白色矮星の周りの惑星系の残骸の研究も行われている。恒星は明るく、周囲を公転する系外惑星や褐色矮星よりも輝く一方で、白色矮星は暗い。そのためこれらの系外惑星や褐色矮星をより詳細に調査することが可能となる。WD 0806-661を公転する準褐色矮星 WD 0806-661 B はその一例である。",
"title": "連星と新星"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "外部リンク・参考文献"
}
] |
白色矮星は、大部分が電子が縮退した物質によって構成されている恒星の残骸であり(縮退星)、恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つである。白色矮星は非常に高密度であり、その質量は太陽と同程度であるにもかかわらず、体積は地球と同程度しかない。白色矮星の低い光度は天体に蓄えられた熱の放射に起因するものであり、白色矮星内では核融合反応は発生していない。白色矮星の異常な暗さが初めて認識されたのは1910年のことである。"White dwarf" という名称は1922年にウィレム・ヤコブ・ルイテンによって名付けられた。
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[[File:Sirius A and B Hubble photo.editted.PNG|thumb|[[ハッブル宇宙望遠鏡]]によって撮影された[[シリウス]]AとシリウスBの画像。白色矮星であるシリウスBは、明るいシリウスAの左下に暗い点として写っている。]]
'''白色矮星'''<ref name="ox"/><ref name="astrodic_wd"/>(はくしょくわいせい、{{lang-en-short|white dwarf}}<ref name="ox"/>)は、大部分が[[フェルミ縮退|電子が縮退した物質]]によって構成されている[[コンパクト星|恒星の残骸]]であり(縮退星)、[[恒星]]が[[恒星進化論|進化]]の終末期にとりうる形態の一つである。白色矮星は非常に高密度であり、その質量は[[太陽]]と同程度であるにもかかわらず、体積は[[地球]]と同程度しかない。白色矮星の低い[[光度 (天文学)|光度]]は天体に蓄えられた[[熱]]の[[熱放射|放射]]に起因するものであり、白色矮星内では[[核融合|核融合反応]]は発生していない<ref name="osln"/>。白色矮星の異常な暗さが初めて認識されたのは1910年のことである<ref name="schatzman"/>{{rp|1}}。"White dwarf" という名称は1922年に[[ウィレム・ヤコブ・ルイテン]]によって名付けられた。
== 概要 ==
知られている白色矮星の中で最も太陽系に近いものは、8.6[[光年]]の距離にある[[連星]]系シリウスの伴星である[[シリウス#シリウスB|シリウスB]]である。太陽に近い100個の恒星系には、8個の白色矮星が存在すると考えられている<ref name="Henry2009"/>。また、太陽近辺の[[褐色矮星]]より質量が大きい天体のうち、4分の1が白色矮星に占められていると考えられている<ref name="Ledrew"/>。
白色矮星は、[[質量]]がおよそ10[[太陽質量]]に満たず、[[中性子星]]になるほど重くはない[[恒星]]の[[恒星進化論|進化]]の最終状態であり、[[銀河系]]にある恒星の97%以上がこのような進化をたどると考えられている<ref name="cosmochronology"/>{{rp|§1}}。低質量から中質量の恒星が[[水素]]の[[恒星内元素合成|核融合]]を起こす[[主系列星]]の段階を終えた後、恒星は膨張して[[赤色巨星]]となり、この段階では巨星内部での[[トリプルアルファ反応]]によって[[ヘリウム]]から[[炭素]]と[[酸素]]が合成される。赤色巨星の質量が軽く、[[核 (天体)|コア]]が炭素の核融合を起こすのに必要な温度 (およそ10億[[ケルビン|K]]) に到達できない場合、核融合を起こせない炭素と酸素は恒星の中心部に蓄積する。このような恒星がその外層を放出して[[惑星状星雲]]を形成した後に、コアの部分が残される。これが残骸である白色矮星である<ref name="rln"/>。通常は、白色矮星は炭素と酸素で構成される。白色矮星の前駆天体の質量が[[太陽質量]]の8倍ないし10.5倍であった場合、コアの温度は炭素の核融合を起こすには十分だが[[ネオン]]の核融合には不十分な程度の温度となり、この場合は酸素・ネオン・[[マグネシウム]]からなる白色矮星が形成される<ref name="oxne"/>。非常に低質量の恒星はヘリウムの核融合を起こすことができないため<ref name="apj606_L147"/><ref name="he2"/>、連星系における質量損失によってヘリウムの白色矮星が形成されると考えられる。
白色矮星の物質はもはや核融合反応を起こせないため、天体はエネルギー源を持たない。その結果として、恒星のように核融合によって生成される熱で重力収縮に対抗して自身を支えられないが、[[フェルミ縮退|電子の縮退圧]]のみによって支えているため非常に密度が高い。縮退に関する物理学から、自転していない白色矮星に対しては[[チャンドラセカール限界]]という質量の上限値が得られており、これはおよそ1.44太陽質量である。この質量を超えると、天体を電子の縮退圧で支えられなくなる。この質量限界に近付いた炭素-酸素白色矮星は、典型的には伴星からの質量輸送によって、[[炭素爆発]]として知られる過程を介して[[Ia型超新星]]として爆発を起こす<ref name="osln"/><ref name="rln"/>。[[SN 1006]]はその有名な例である。
白色矮星は形成された時点では非常に高温であるがエネルギー源を持たないため、エネルギーを放射するのに伴って徐々に冷却する。これは、白色矮星からの放射は初期は高い[[色温度]]を持つが、時間の経過に伴って放射は弱く赤くなっていくことを意味する。長い時間をかけて白色矮星は冷えていき、物質はコアから結晶化を開始する。天体の温度が低くなるということは十分な熱や光を放射できなくなることを意味しており、このような天体は冷たい[[黒色矮星]]となる<ref name="rln"/>。白色矮星がこの状態に到達するのに必要な時間は現在の[[宇宙の年齢]] (およそ138億年) よりも長いと計算されており<ref name="aou"/>、黒色矮星はまだ存在していないと考えられる<ref name="osln"/><ref name="cosmochronology"/>。最も古い白色矮星は依然として数千[[ケルビン]]の温度での放射を行っている。
== 発見 ==
{{See also|コンパクト星の一覧#白色矮星}}
白色矮星は、[[エリダヌス座オミクロン2星|エリダヌス座ο{{sup|2}}星]] (エリダヌス座40番星) の三重星系において初めて発見された。この星系は比較的明るい[[主系列星]]であるエリダヌス座ο<sup>2</sup>星Aと、その遠方を公転するBとCの近接連星からなり、Bが白色矮星、Cは主系列の[[赤色矮星]]である。エリダヌス座ο<sup>2</sup>星BとCのペアは、1783年1月31日に[[ウィリアム・ハーシェル]]によって発見された<ref name="Herschel1785"/>。1910年に、[[ヘンリー・ノリス・ラッセル]]、[[エドワード・ピッカリング]]と[[ウィリアミーナ・フレミング]]は、エリダヌス座ο<sup>2</sup>星Bは暗い天体であるにもかかわらず、[[スペクトル分類|スペクトル型]]がA型、あるいは白い天体であることを発見した<ref name="holberg"/>。1939年にラッセルはこの発見を以下のように振り返っている<ref name="schatzman">''White Dwarfs'', E. Schatzman, Amsterdam: North-Holland, 1958.</ref>{{rp|1}}。
<blockquote>私は友人であり寛大な支援者であるエドワード・C・ピッカリング教授の元を訪れていました。彼は持ち前の優しさで、ヒンクス<ref group="注">{{仮リンク|アーサー・ロバート・ヒンクス|en|Arthur Robert Hinks}}</ref>と私がケンブリッジで行った恒星の年周視差の観測で観測した全ての星—比較星も含めて—を観測したいと申し出てくれました。この一見ルーチンワークに思える仕事は非常に実りの多いものであり、非常に暗い絶対等級を持つ全ての恒星はスペクトル型がM型であるという発見に繋がりました。この研究テーマについての会話の中で (私の記憶によれば)、私はピッカリングに私のリストに無い他の特定の暗い星について尋ね、特にエリダヌス座40番星Bに言及しました。いかにも彼らしいことですが、彼は天文台のオフィスにメモを送り、まもなくこの天体のスペクトル型はA型だったとの返事が来ました (フレミング夫人からだったと思います)。この大昔の時点においても、表面輝度と密度の「可能な」値と呼んでいたものの間には極端な矛盾があることが十分に分かりました。恒星の特徴の非常に優れた規則に見えたものに対するこの例外を前に、私は困惑しただけではなく意気消沈していたに違いありません。しかしピッカリングは私に微笑みかけ、「このような例外があるからこそ、我々の知識は進歩するのです」と言い、そして白色矮星は研究の領域に入ったのです!</blockquote>
エリダヌス座ο<sup>2</sup>星Bのスペクトル型は、公式には1914年に[[ウォルター・シドニー・アダムズ]]によって記述された<ref name="Adams1914"/>。
[[シリウス]]の伴星であるシリウスBは、エリダヌス座ο<sup>2</sup>星Bの次に発見された白色矮星である。19世紀の間に、いくつかの恒星の位置測定はその位置の小さな変化を測定するのに十分な精度となった。[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]は位置測定を用いて、シリウスと[[プロキオン]]の位置が周期的に変化していることを突き止めた。1844年に、彼は双方の恒星が見えない伴星を持っていると予測した<ref name="fwbessel"/>。
<blockquote>シリウスとプロキオンが連星であると考えれば、その運動の変化は驚くべきものではない。我々は必要に応じてそれを受け入れ、その量を観測によって調べれば良いのである。しかし光は質量の本当の特性ではない。無数の目に見える星の存在は、無数の目に見えない星の存在に対して何も証明することはできない。</blockquote>
ベッセルはシリウスの伴星の周期をおよそ半世紀と概算した<ref name="fwbessel"/>。[[クリスチャン・A・F・ペーテルス]]は1851年にその軌道を計算した<ref name="flammarion"/>。1862年1月31日になって初めて、[[アルヴァン・グラハム・クラーク]]がそれまで発見されていなかったシリウスに近い天体を観測し、これは後に存在が予測されていた伴星であることが確認された<ref name="flammarion"/>。1915年には[[ウォルター・シドニー・アダムズ]]が、シリウスBのスペクトルはシリウスのものと類似していることを発見したと公表した<ref name="Adams1915"/>。
1917年に、[[アドリアン・ヴァン・マーネン]]は孤立した白色矮星である[[ヴァン・マーネン星]]を発見した<ref name="van Maanen1917"/>。これらの初めて発見された3つの白色矮星は、いわゆる「古典的な白色矮星」(classical white dwarfs) である<ref name="schatzman"/>{{rp|2}}。その後多数の暗く白い天体が発見され、これらの[[固有運動]]が大きいことから、これらの天体は地球に近い位置にある低光度の天体、すなわち白色矮星である可能性があることが示唆された。[[ウィレム・ヤコブ・ルイテン]]が1922年にこの分類の天体の調査を行った際に、"white dwarf" という用語を初めて用いたと考えられる<ref name="holberg"/><ref name="Luyten1922"/><ref name="Luyten1922b"/><ref name="Luyten1922c"/><ref name="Aitken1922"/>。この名称は後に[[アーサー・エディントン]]によって普及された<ref name="holberg"/><ref name="eddington"/>。これらの存在の疑いがあったにもかかわらず、最初の非古典的な白色矮星の存在が明確に同定されたのは1930年代になってからであった。1939年までに18個の白色矮星が発見された<ref name="schatzman"/>{{rp|3}}。ルイテンらは1940年代も白色矮星の探査を継続した。1950年までには100個を超える白色矮星が発見され<ref name="Luyten1950"/>、さらに1999年までには2000個以上の存在が知られていた<ref name="villanovar4"/>。それ以降、[[スローン・デジタル・スカイサーベイ]]が9000個を超える白色矮星を発見しており、その大部分は新しいものである<ref name="sdssr4"/>。
== 組成と構造 ==
{{ヘルツシュプルング・ラッセル図}}
[[File:1e7m comparison Uranus Neptune Sirius B Earth Venus.png|thumb|right|250px|[[天王星]]、[[海王星]]、[[地球]]、[[金星]]などに囲まれている中央の白い星が白色矮星の[[シリウス]]B。地球とほぼ同じ大きさであるが、質量は[[太陽]]と同程度である。]]
白色矮星の推定質量は、小さいものは0.17[[太陽質量]]<ref name="KilicAllende Prieto2007"/>、大きいものは1.33太陽質量のものが知られているが<ref name="sdsswd"/>、質量分布は0.6太陽質量に強い極大を持ち、また大多数が0.5〜0.7太陽質量の間にある<ref name="sdsswd"/>。観測されている白色矮星の推定半径は、典型的には[[太陽半径]]の 0.8-2% であり<ref name="Shipman1979"/>、これは太陽半径のおよそ 0.9% である[[地球半径|地球の半径]]と同程度である。すなわち白色矮星は、[[太陽]]と同程度の質量が太陽よりも典型的に100万倍も小さい体積の中に押し込められた天体である。したがって白色矮星の物質の平均密度は、非常に大まかには太陽の平均密度の100万倍大きく、およそ 10<sup>6</sup> [[グラム]]毎[[立方センチメートル]]、あるいは1立方センチメートルあたり1[[トン]]である<ref name="osln"/>。典型的な白色矮星の密度は、10<sup>4</sup>-10<sup>7</sup> g/cm<sup>3</sup> である。白色矮星は知られている中で最も高密度な物質からなる天体の一つであり、これを超える密度を持つのは、[[中性子星]]や[[クオーク星]] (仮説上の天体)<ref name="Sandin2005"/>、そして[[ブラックホール]]といった他の[[コンパクト星]]のみである。
白色矮星は発見されてまもなく、非常に高密度であることが判明した。シリウスBやエリダヌス座ο<sup>2</sup>星Bのように天体が連星系にある場合、連星軌道の観測から質量を推定することが可能となる。この観測は1910年にシリウスBに対して行われ<ref name="Boss1910"/>、0.94太陽質量という値が得られた。この値は、より近代的な推定値である1.00太陽質量と比べても遜色のない推定値である<ref name="apj_630"/>。高温の天体は低温のものに比べてより多くのエネルギーを放射するため、恒星の表面光度はその[[有効温度]]と[[スペクトル]]から推定することができる。恒星の距離が分かっている場合、その[[絶対等級|絶対光度]]も推定できる。そして絶対光度と距離から、恒星の表面積と半径を計算することができる。シリウスBやエリダヌス座ο<sup>2</sup>星Bは温度が比較的高く光度は比較的低いことから、これらの天体は非常に高密度であるはずだということが判明したが、この事実は当時の天文学者にとっては不可解なものであった。1916年に[[エルンスト・エピック]]が多くの実視連星の密度を推定した際、彼はエリダヌス座ο<sup>2</sup>星Bの密度が[[太陽]]の25,000倍であることに気が付いたが、これは彼が「あり得ない」と言う程に高い値であった<ref name="Öpik1916"/>。[[アーサー・エディントン]]は後の1927年に以下のように記している<ref name="Eddington1927" />{{rp|50}}。
<blockquote>我々は、星の光が我々にもたらすメッセージを受け取り、解釈することによって星について学ぶ。シリウスの伴星からのメッセージが解析されこう言った。「私はあなた方がこれまでに出会ったどんな物質よりも3000倍高密な物質でできています。私の物質1トン分は、マッチ箱に収まるくらいの小さな塊になるでしょう」。このようなメッセージに対してどう返答することができるだろうか?1914年の段階で我々のほとんどがした返事は、「黙れ。馬鹿なことを言うな」であった。
</blockquote>
エディントンが1924年に指摘した通り、[[一般相対性理論]]に基づくと、天体がこのように高密度であることはシリウスBからの光は[[重力赤方偏移]]を示すはずであることを示唆する<ref name="eddington"/>。これは1925年に[[ウォルター・シドニー・アダムズ]]が[[赤方偏移]]の測定を行った際に確認された<ref name="Adams1925"/>。
{| class="wikitable sortable" style="width:50%; text-align:left; float:left; margin-right:1em;"
|-
! 物質 !! [[密度]] (kg/m<sup>3</sup>) !! 注釈
|-
| [[超大質量ブラックホール]] || 1,000 (概数)<ref name="CMS1999"/> || {{math| 10<sup>8</sup>}}太陽質量のブラックホールの臨界密度
|-
| 水 || 1,000 || [[標準状態]]での値
|-
| [[オスミウム]] || 22,610 || [[室温]]付近
|-
| [[太陽]]の[[核 (天体)|核]]|| 150,000 (概数) ||
|-
| 白色矮星 || {{math|1 × 10<sup>9</sup>}}<ref name="osln"/> ||
|-
| [[原子核]] || {{math|2.3 × 10<sup>17</sup>}}<ref name="Nave"/> || 原子核の大きさに強く依存しない
|-
| 中性子星の核 || {{math|8.4 × 10<sup>16</sup>}} – {{math|1 × 10<sup>18</sup>}} ||
|-
| ブラックホール || {{math|2 × 10<sup>30</sup>}}<ref name="adams1997"/> || 地球質量ブラックホールの臨界密度
|}
白色矮星の物質は[[原子]]が[[化学結合]]で結び付いたものではなく、束縛されていない[[原子核]]と[[電子]]の[[プラズマ]]で構成されているため、このような高密度となることができる。そのため、通常の物質であれば[[原子軌道]]によって制限されているよりも近くに原子核を配置することが可能となる<ref name="eddington"/>。エディントンは、このプラズマが冷却して原子を電離した状態に保つことができないほどエネルギーが低くなった状態になると何が起きるのかという疑問を提起した<ref name="fowler"/>。このパラドックスは、新しく考案された[[量子力学]]を適用することによって1926年に{{仮リンク|ラルフ・ファウラー|en|Ralph H. Fowler}}によって解決された。[[電子]]は[[パウリの排他原理]]に従うため、2つの電子が同じ[[量子状態]]を占めることはない。また電子は、1926年に発表されたパウリの排他原理を満たす粒子の統計的分布を決める[[フェルミ分布関数|フェルミ・ディラック統計]]に従う<ref name="Hoddeson1980"/>。そのためたとえゼロ温度であっても、電子は全てが最も低いエネルギー状態、つまり[[基底状態]]を占めることはできない。電子のいくらかはより高いエネルギー状態を占める必要があり、可能な最も低いエネルギー状態のバンドである「フェルミの海」を形成する。電子のこの状態は[[フェルミ縮退|縮退]]と呼ばれ、白色矮星はゼロ温度まで冷えることができ、それでもなお高いエネルギーを持つ<ref name="fowler"/><ref name="scibits"/>。
白色矮星を圧縮すると、体積あたりに含まれる電子の数は増加する。パウリの排他原理を適用すると、これは電子の運動エネルギーを増加させ、したがって圧力が増大することになる<ref name="fowler"/><ref name="Bean"/>。白色矮星においては、この{{仮リンク|電子の縮退圧|en|Electron degeneracy pressure}}が[[重力崩壊]]に対抗して天体を支えている。この圧力は密度のみに依存し、温度には依存しない。縮退した物質は比較的圧縮性であり、これは質量の大きい白色矮星の密度は低質量の白色矮星の密度よりもずっと大きく、白色矮星の半径は質量が増加するに伴って減少することを意味する<ref name="osln"/>。
白色矮星に、中性子星へと崩壊を起こさない限りは超えることができない限界質量が存在するという事実は、白色矮星が電子の縮退圧によって支えられているという事実の別の帰結である。このような限界質量は、理想化された一定密度の天体の場合に、1929年に[[ヴィルヘルム・アンダーソン]]によって<ref name="Anderson1929"/>、1930年には{{仮リンク|エドマンド・ストーナー|en|Edmund Clifton Stoner}}によって計算された<ref name="stoner"/>。この値は密度分布に対して[[静水圧平衡]]を考慮することによって修正され、限界質量の現在知られている値は[[スブラマニアン・チャンドラセカール]]による論文『The Maximum Mass of Ideal White Dwarfs』において1931年に初めて発表された<ref name="chandra4"/>。自転していない白色矮星の場合、限界質量はおよそ {{math|5.7{{solar mass}}/''μ''<sub>e</sub><sup>2</sup>}} で表される。ここで {{math|''μ''<sub>e</sub>}} は天体の電子あたりの平均分子量、{{solar mass}} は太陽質量である<ref name="chandra2"/>{{rp|式(63)}}。炭素・酸素からなる白色矮星は大部分が炭素12と酸素16からなり、どちらの原子も[[原子番号]]は[[原子量]]の半分に等しいため、{{math|''μ''<sub>e</sub>}} はこの天体では2に等しくなる<ref name="scibits"/>。その結果、限界質量は一般に引用される値である1.4太陽質量となる。なお20世紀の初め頃には恒星は主に重元素からできていると信じるに足る理由があったため<ref name="stoner" />{{rp|955}}、1931年の論文では、チャンドラセカールは {{math|''μ''<sub>e</sub>}} の値として2.5を採り、限界質量の値として0.91太陽質量を与えた。1983年、チャンドラセカールはファウラーと共に、白色矮星に関する研究やその他の研究で[[ノーベル物理学賞]]を受賞した<ref name="nobelprize"/>。この限界質量は、現在では「[[チャンドラセカール限界]]」と呼ばれている。
白色矮星の質量がチャンドラセカール限界を超え、かつ[[原子核反応]]が起きなかった場合、電子によってもたらされる圧力は[[重力]]に対抗することができなくなり、[[中性子星]]と呼ばれるより高密度の天体へと崩壊する<ref name="collapse"/>。実際には、近傍の恒星から質量を[[降着 (天文学)|降着]]して質量が増加している炭素・酸素白色矮星は、限界質量へと到達する前に暴走的な核融合反応を起こして[[Ia型超新星]]となり、これにより白色矮星は破壊されると考えられる<ref name="sniamodels"/>。
新しい研究では、多くの白色矮星は少なくとも特定の種類の[[銀河]]においては、降着によっては限界質量には到達しないことが示唆されている。超新星になる白色矮星のうち少なくともいくつかは、連星になっている白色矮星同士が衝突・合体することによって必要な質量に到達すると仮定される。[[楕円銀河]]においては、このような衝突がIa型超新星の主要な原因である可能性がある。この仮説は、銀河から放射される[[X線]]が、Ia型超新星が白色矮星の周囲にある伴星から物質を降着していることによって発生すると考えた場合の値より30〜50倍小さいという事実に基づいたものである。この仮説では、白色矮星への降着過程によって発生する超新星は、そのような銀河においては 5% を超えないと結論付けられている。この発見の重要な点は、白色矮星への降着によって限界質量に到達するものと、白色矮星同士の衝突合体によって限界質量に到達するものの、2つのタイプのIa型超新星が存在しうるということである。2つの衝突する白色矮星の質量の範囲を考えると、白色矮星が超新星になるのを決める際に常にチャンドラセカール限界が適用されるとは限らない。このことは、Ia型超新星を起こす白色矮星を距離決定の[[標準光源]]として用いることに混乱をもたらす可能性がある<ref name="GilfanovBogdán2010"/><ref name="Overbye2010"/>。
白色矮星の[[光度 (天文学)|光度]]は小さいため、恒星の光度と色もしくは温度を示した図である[[ヘルツシュプルング・ラッセル図]]上では下方に帯状に分布する。コアが部分的に熱圧力によって支えられており、[[核融合反応]]を起こしている[[赤色矮星]]のように[[主系列星]]の低質量側の端に位置する低光度の天体や<ref name="ChabrierBaraffe2000"/>、さらに低温の[[褐色矮星]]とは異なる種類の天体である<ref name="Kaler"/>。
=== 質量・半径の関係と質量限界 ===
白色矮星の質量と半径の関係性は、エネルギー最小化の議論から導出することができる。白色矮星が持つエネルギーは、重力の[[位置エネルギー|ポテンシャルエネルギー]]と[[運動エネルギー]]の和であるとみなすことで概算することができる。白色矮星の単位質量片の重力ポテンシャルエネルギー {{math|''E''<sub>g</sub>}} は、おおむね {{math|−''G'' ''M'' ∕ ''R''}} と表すことができる。ここで {{mvar|G}} は[[万有引力定数]]、{{mvar|M}} は白色矮星の質量、{{mvar|R}} は白色矮星の半径である。
:<math>E_g \approx \frac{-G M}{R} .</math>
単位質量当たりの運動エネルギー {{math|''E''<sub>k</sub>}} については、これは主に電子の運動に起因するものであるため、{{math|''N'' ''p''<sup>2</sup> ∕ 2''m''}} と近似することができる。ここで {{mvar|p}} は電子の平均[[運動量]]、{{mvar|m}} は[[電子質量|電子の質量]]、{{mvar|N}} は単位質量あたりの電子の数である。電子は縮退しているため、{{mvar|p}} は電子の運動量の不確かさである {{math|Δ''p''}} で近似されるとして推定することができる。この値は、{{math|Δ''p'' Δ''x''}} は[[ディラック定数|換算プランク定数]] ''ħ'' で近似できるとする[[不確定性原理]]によって与えられる。{{math|Δ''x''}} は電子間の平均距離と同程度であり、これはおおむね {{math|''n''<sup>−1/3</sup>}},すなわち単位体積あたりの電子の[[数密度]]の立方根の逆数となる。白色矮星に含まれる電子の数は {{math|''N''·''M''}} 個であり、また体積は {{math|''R''<sup>3</sup>}} の[[オーダー (物理学)|オーダー]]で表されることから、{{mvar|n}} は {{math|''N'' ''M'' ∕ ''R''<sup>3</sup>}} のオーダーの値となる<ref name="scibits"/>。
単位質量当たりの運動エネルギー ''E''<sub>k</sub> について解くことで、以下の式を得る。
:<math>E_k \approx \frac{N (\Delta p)^2}{2m} \approx \frac{N \hbar^2 n^{2/3}}{2m} \approx \frac{M^{2/3} N^{5/3} \hbar^2}{2m R^2}.</math>
白色矮星は、その合計エネルギー {{math|''E''<sub>g</sub> + ''E''<sub>k</sub>}} が最小の時に平衡状態になると考えられる。この時点で運動エネルギーと重力ポテンシャルエネルギーは同程度であるはずなので、両者を等しいとみなすことでおおまかな質量と半径の関係を以下のように導出することができる。
:<math>|E_g|\approx\frac{GM}{R} = E_k\approx\frac{M^{2/3} N^{5/3} \hbar^2}{2m R^2}.</math>
これを半径 {{mvar|R}} について解くことで、次の式を得る<ref name="scibits"/>。
:<math> R \approx \frac{N^{5/3} \hbar^2}{2m GM^{1/3}}.</math>
この式において、白色矮星の組成のみに依存する量である {{mvar|N}} および[[物理定数|普遍定数]]を除くと質量への依存性のみが残り、質量と半径の間に以下の関係があることが分かる。
:<math>R \propto M^{-1/3}.</math>
すなわち、白色矮星の半径は、その質量の三乗根の逆数に比例する。
この解析は運動エネルギーについて非相対論的な表式 {{math|''p''<sup>2</sup> ∕ 2''m''}} を用いているため、非相対論的なものである。白色矮星内の電子の速度が[[光速]] {{mvar|c}} に近い状況について解析する場合は、運動エネルギー {{math|''p''<sup>2</sup> ∕ 2''m''}} を極端な相対論的近似である {{math|''p'' ''c''}} で置き換える必要がある。これを代入することで、以下の式を得る。
:<math>E_{k\ {\rm relativistic}} \approx \frac{M^{1/3} N^{4/3} \hbar c}{R}.</math>
これが {{math|''E''<sub>g</sub>}} と等しいとすると、{{mvar|R}} が消え、質量 {{mvar|M}} は以下のように書き表すことができる<ref name="scibits"/>。
:<math>M_{\rm limit} \approx N^2 \left(\frac{\hbar c}{G}\right)^{3/2}.</math>
[[File:ChandrasekharLimitGraph.svg|thumb|upright=1.2|right|モデル白色矮星の半径-質量関係。{{math|''M''<sub>limit</sub>}} は M<sub>Ch</sub> で表されている。]]
この結果を解釈すると、白色矮星の質量を増加させると半径は減少し、そのため不確定性原理により電子の運動量は増加、すなわち速度は増加することになる。この速度が光速 {{mvar|c}} に近づくにつれて相対論的な解析がより正確になり、白色矮星の質量は限界質量の {{math|''M''<sub>limit</sub>}} に近づくはずである。したがって、この限界質量 {{math|''M''<sub>limit</sub>}}、つまり1.4太陽質量よりも重い白色矮星は存在しないことになる。
白色矮星の質量半径関係と限界質量のより正確な計算のためには、白色矮星の物質の密度と圧力の関係を記述する[[状態方程式 (熱力学)|状態方程式]]の計算を行う必要がある。密度と圧力が共に天体の中心からの半径の関数に等しく設定されている場合、[[流体静力学|静力学方程式]]と状態方程式の連立方程式を解いて平衡状態の白色矮星の構造を決めることができる。非相対論的な場合でも、半径は質量の三乗根の逆数に比例することが分かる<ref name="chandra2" />{{rp|式(80)}}。相対論的な補正を行うと、質量が有限の値で半径がゼロになるように結果が変わる。この限界値は[[チャンドラセカール限界]]と呼ばれ、白色矮星が電子の縮退圧によって自らを支えられなくなる質量である。右のグラフはそのような計算の結果を示している。白色矮星の半径が質量に伴ってどう変化するか、非相対論的なモデル (青い線) と相対論的なモデル (緑の線) の両方が示されている。どちらのモデルも、白色矮星を静水圧平衡の状態にある冷たい[[フェルミ気体]]として扱っている。また電子あたりの平均分子量 {{math|''μ''<sub>e</sub>}} は 2 として計算を行っている。グラフ中で、半径は太陽半径で、質量は太陽質量で規格化されている<ref name="chandra2"/><ref name="stds"/>。
これらの計算は全て、白色矮星が自転していないことを仮定している。白色矮星が自転している場合、[[回転座標系]]における[[遠心力]]を考慮して静水圧平衡の方程式を修正する必要がある<ref name="Tohline"/>。一様に自転している白色矮星の場合、限界質量はわずかに大きくなるだけである。白色矮星の自転が非一様であり、また[[粘度|粘性]]を無視した場合は、1947年に[[フレッド・ホイル]]が指摘したように<ref name="Hoyle1947"/>、白色矮星が静的平衡になることが可能な質量には限界値はなくなる。これら全てのモデル天体が動的に安定であるわけではない<ref name="OstrikerBodenheimer1968"/>。
=== 輻射と冷却 ===
白色矮星の大部分を占める縮退した物質は、非常に{{仮リンク|不透明度|en|Opacity (optics)}}が小さい。これは、光子を吸収する際には電子は空いているより高い準位へと遷移する必要があり、光子のエネルギーがその電子にとって可能な量子状態と一致しなければその遷移が不可能である可能性があるからであり、そのため白色矮星内での輻射による熱輸送の効率は低い。しかし、[[熱伝導率]]は高くなる。結果として、白色矮星の内部はおよそ 10<sup>7</sup> [[ケルビン|K]] の一様な温度に保たれる。縮退していない物質でできている外殻は、10<sup>7</sup> K から 10<sup>4</sup> 程度にまで冷える。この物質はおおむね[[黒体]]としての輻射を行う。白色矮星の形成後、通常の物質からなる希薄な大気外層はおよそ 10<sup>7</sup> K で輻射を始め、質量の大部分を占める内部は 10<sup>7</sup> K であるが外側の通常の物質でできた殻を通して放射することができないため、白色矮星は長い間にわたって放射を続けることができる<ref name="Kutner2003"/>。
白色矮星から放射される可視の放射は、[[O型主系列星|O型]][[主系列星]]の青白色からM型の[[赤色矮星]]の赤色まで、広い色の範囲を変化する<ref name="sionspectra"/>。白色矮星の[[有効温度|有効表面温度]]は、高いものは 150,000 K<ref name="villanovar4"/>、低いものは 4,000 K をわずかに下回る程度にまで及ぶ<ref name="cool"/><ref name="wden"/>。[[シュテファン=ボルツマンの法則]]に従い、天体の光度は表面温度が高いほど大きくなる。この表面温度の範囲は、白色矮星の光度は太陽の100倍を超えるものから 1/10,000 を下回るものまで存在することに対応している<ref name="wden"/>。表面温度が 30,000 K を超えるような高温の白色矮星は、軟[[X線]] (比較的低エネルギーなX線) の放射源であることが観測されている。これにより、白色矮星大気の組成と構造を軟[[X線天文学|X線]]および[[紫外線天文学|極端紫外線での観測]]によって研究することが可能となる<ref name="Heise1985"/>。
また、白色矮星は[[ウルカ過程]]を介して[[ニュートリノ]]も放射している<ref name="LesaffrePodsiadlowski2005"/>。
[[File:Size IK Peg.png|right|upright=1.2|thumb|白色矮星[[ペガスス座IK星]]B (中央) と、A型星である伴星のペガスス座IK星A (左)、および[[太陽]] (右) の比較。白色矮星の表面温度は 35,500 K ある。]]
1952年に [[:en:Leon Mestel|Leon Mestel]] によって説明されたように、白色矮星は伴星やその他の供給源から物質を[[降着 (天文学)|降着]]していない限り、その放射は天体に蓄えられた熱が起源であり、その熱は補給されることはない<ref name="Mestel1952"/><ref name="Kawaler1998"/>{{rp|§2.1}}。白色矮星は熱を放射するための表面積が極めて小さいため冷却はゆっくりとしたものとなり、長い時間にわたって高温であり続ける<ref name="rln"/>。白色矮星が冷えるに従って表面温度は低下し、放射する光は赤くなり、そして光度は減少する。白色矮星は放射以外でエネルギーを失う手段を持たないため、時間の経過とともに冷却は遅くなる。例として、[[水素]]大気を持つ0.59太陽質量の炭素白色矮星の冷却の経過は以下のように推定されている。この天体は最初に表面温度が 7,140 K まで冷えるのにおよそ15億年の時間を要した後、さらにおよそ 500 K 冷えて 6,590 K になるのには約3億年を要する。しかしその後およそ 500 K 冷えて 6,030 K になるには4億年、さらに約 500 K 冷えて 5,550 K となるには11億年の経過が必要である<ref name="BergeronRuiz1997"/>{{rp|表2}}。
観測された白色矮星の大部分は 8,000 K から 40,000 K の比較的高い表面温度を持つ<ref name="sdssr4"/><ref name="McCookSion1999"/>。しかし白色矮星は高温でいる期間よりもより低温でいる期間の方が長いため、高温の白色矮星よりも低温の白色矮星の方が多く存在することが予測される。より高温で明るい白色矮星は観測されやすいという[[観測選択効果]]を考えると、調査する温度領域を低くすることでより多くの白色矮星が発見されるという傾向がある<ref name="disklf"/>。この傾向は、非常に低温な白色矮星に到達したところで終わる。表面温度が 4,000 K を下回る白色矮星はいくつか発見されており<ref name="GatesGyuk2004"/>、観測されている中で最も低温な白色矮星のひとつである {{仮リンク|WD 0346+246|en|WD 0346+246}} は表面温度が 3,900 K である<ref name="cool"/>。この傾向が終わるのは、宇宙の年齢が有限であることが理由である<ref name="WingetHansen1987"/><ref name="Trefil2004"/>。すなわち、白色矮星がこの温度を下回るほどまだ十分な時間が経過していないということである。そのため、白色矮星の光度関数を用いるとその領域で恒星が形成され始めた時期を推定することができる。この手法を用いて推定された[[銀河系]]の[[銀河円盤]]の年齢は80億年である<ref name="disklf"/>。白色矮星は何兆年もの時間をかけて、周囲および[[宇宙マイクロ波背景放射]]とおおむね熱平衡の、放射を行わない[[黒色矮星]]になる。ただし十分な時間が経過していないため、黒色矮星はまだ存在していないと考えられている<ref name="osln"/>。
[[File:Gaia hrd wds2.png|thumb|ESA の[[ガイア計画|ガイア]]による白色矮星の冷却シーケンス。]]
白色矮星を構成する物質は、初めは原子核と電子からなる流体である[[プラズマ]]であるが、冷却の後期段階では天体の中心から[[結晶化]]を起こすことが1960年代に理論的に予測された<ref name="metcalfe1"/>。結晶構造は[[体心立方格子構造]]であると考えられる<ref name="cosmochronology"/><ref name="Barrat1988"/>。1995年には[[脈動白色矮星]]の[[星震学]]観測によって結晶化理論の検証を行える可能性があることが示唆され<ref name="Winget1995"/>、2004年には[[ケンタウルス座V886星]]の質量のおよそ90%が結晶化を起こしていることを示唆する観測結果が得られている<ref name="metcalfe1"/><ref name="lucy"/><ref name="KanaanNitta2005"/>。別の研究では結晶化を起こしているのは質量の32%から82%だとしている<ref name="Brassard"/>。白色矮星の核が結晶化を起こして固体に変化するに従って潜熱が解放され、これは白色矮星の冷却を遅らせる熱エネルギー源となる<ref name="HansenLiebert2003"/>。この効果は、[[ガイア計画|ガイア]]による観測で15000個を超える白色矮星の冷却シーケンスに停滞が見られることが同定されたことにより、2019年に初めて確認された<ref name="TremblayFontaine2019"/>。
質量が0.20太陽質量未満の低質量のヘリウム白色矮星はしばしば超低質量白色矮星 ({{lang-en-short|extremely low-mass white dwarfs, ELM WDs}}) と呼ばれ、連星系で形成される。これらの天体は水素豊富な外層を持つため、[[CNOサイクル]]を介した残余の水素燃焼が長い期間にわたって白色矮星を高温に保つ可能性がある。さらにこれらの白色矮星は、冷却経路に到達する前に最大で20億年もの間、膨張した前白色矮星段階に留まると考えられている<ref name="IstrateTauris2014"/>。
=== 大気とスペクトル ===
[[File:Artist’s impression of the WDJ0914+1914 system.tif|thumb|{{仮リンク|WD J0914+1914|en|WD J0914+1914}} 系の想像図<ref name="eso1919"/>。]]
大部分の白色矮星は炭素と酸素からなっていると考えられているが、[[分光法|分光観測]]では白色矮星から放射される光は、水素やヘリウムが主体である大気から来ていることが示されている。大気に含まれる主要な元素は一般に、その他全ての微量な元素の少なくとも1000倍も多く含まれている。1940年代に[[エヴリー・シャツマン]]が説明した通り、白色矮星は表面重力が大きく、重い元素は沈降し軽い元素は上昇するという重力的な分離が大気内で発生するため、このような純度が引き起こされていると考えられている<ref name="Schatzman1945"/><ref name="physrev"/>{{rp|§§5–6}}。我々が観測できる白色矮星の唯一の部分であるこの大気は、[[漸近巨星分枝]]の段階にある恒星の外層の残骸であり、[[星間物質]]から降着した物質も含んでいると考えられる。この外層は、天体の総質量の100分の1未満の質量を持つヘリウム豊富な層と、もし大気が水素豊富であった場合はさらにその上に横たわる天体の総質量のおよそ1万分の1の水素豊富な層からなるとされている<ref name="wden"/><ref name="kawaler"/>{{rp|§§4–5}}。
外層は薄いものの、白色矮星の熱進化を決定づけている。白色矮星の大部分を占める縮退した電子は熱をよく伝導する。そのため白色矮星の質量のほとんどは等温で、また高温である。表面温度が 8,000 K から 16,000 K の白色矮星は、コアの温度はおよそ 5,000,000 K から 20,000,000 K であると考えられる。白色矮星は、放射を行う外層の不透明度によってのみ、非常に急速な冷却を起こすことを回避している<ref name="wden"/>。
{| class="wikitable" style="float: right"
|+ 白色矮星のスペクトル分類<ref name="villanovar4" />
|-
! colspan="2" | 主要および二次的な特徴
|-
| A
| 水素の線が存在する
|-
| B
| ヘリウム線
|-
| C
| 連続スペクトルを示し、線なし
|-
| O
| 電離ヘリウムの線に、中性ヘリウムか水素の線が付随
|-
| Z
| 金属線
|-
| Q
| 炭素の線が存在
|-
| X
| 不明瞭もしくは分類不能なスペクトル
|-
! colspan="2" | 二次的特徴のみ
|-
| P
| 検出可能な偏光を伴った磁場を持つ白色矮星
|-
| H
| 検出可能な偏光を伴わない磁場を持つ白色矮星
|-
| E
| 輝線が存在
|-
| V
| 変光
|}
白色矮星のスペクトルを分類しようとする初めての試みは1941年の[[ジェラルド・カイパー]]によって行われ<ref name="sionspectra"/><ref name="Kuiper1941"/>、それ以降多数の分類法が提案され用いられている<ref name="Luyten1952"/><ref name="Greenstein1960"/>。現在用いられている分類体系は [[:en:Edward M. Sion|Edward M. Sion]]、Jesse L. Greenstein らによって1983年に導入されたものであり、これはその後何度か改定されている。この分類法では先頭の文字をDとし、スペクトルの主要な特徴を記述する文字、続いて任意でスペクトルの二次的な特徴を記述する文字を用いる (それぞれの特徴は表に記載)。さらにその後ろに、50,400 K を有効温度で割って計算される温度を示す指数を記すことで、白色矮星のスペクトルを記述する。以下はその一例である。
* スペクトル中に中性ヘリウム (He I) の線のみが見られ、有効温度が 15,000 K である白色矮星の分類は、DB3 となる。あるいは温度測定の精度が保証される場合は、DB3.5 となる。
* 白色矮星が偏光を伴う[[磁場]]を持ち、有効温度が 17,000 K で、スペクトルが中性ヘリウムの線で占められ、加えて水素も見られる場合、分類は DBAP3 となる。
正しい分類が不明である場合は、"?" と ":" の記号も用いられる<ref name="villanovar4"/><ref name="sionspectra"/>。
主要なスペクトル分類がDAである白色矮星は,水素が主体の大気を持つ。この種類の白色矮星は多数派であり、全ての観測されている白色矮星のおよそ80%を占める<ref name="wden"/>。これに次いで多いのがDBのスペクトル型を持つ白色矮星であり、およそ16%である<ref name="KeplerKleinman2007"/>。温度が 15,000 K を超える高温なDQ型の白色矮星 (全体のおよそ0.1%) は炭素主体の大気を持つ<ref name="DufourLiebert2007"/>。スペクトル型がDB、DC、DO、DZ、および低温なDQであるものは、ヘリウム主体の大気を持つ。炭素と金属が存在しないと仮定すると、どのスペクトル分類が見られるかは天体の[[有効温度]]に依存する。有効温度がおよそ 100,000 K から 45,000 K の間の白色矮星は,スペクトルはDOに分類され、一階電離のヘリウム主体の大気を持つ。30,000 K から 12,000 K の間は、中性ヘリウムのスペクトル線を示すDBになる。12,000 K 未満の場合はスペクトルは特徴を欠いたものになり、DCに分類される<ref name="kawaler"/>{{rp|§2.4}}<ref name="wden"/>。
いくつかの白色矮星の大気のスペクトルからは、水素分子が検出されている<ref name="XuJura2013"/>。
==== 金属豊富な白色矮星 ====
白色矮星のおよそ25–33%はスペクトル中に金属線を持つ。白色矮星中の重元素は、天体の寿命と比べるとごく短い時間で内部へと沈降してしまうはずであるため、これは特筆に値する特徴である<ref name=":0"/>。金属豊富な白色矮星の存在を説明する一般的な説は、最近になって岩石微惑星が降着したというものである<ref name=":0"/>。降着した天体の全体の組成は、金属線の強度から測定することができる。例えば、2015年に行われた白色矮星 Ton 345 に関する研究では、この天体の金属の存在度は、[[漸近巨星分枝]]の段階にある主星によってマントルが溶融した、分化した岩石惑星のものと整合的であると結論付けられた<ref name="WilsonGänsicke2015"/>。
=== 磁場 ===
白色矮星はその表面でおよそ100万[[ガウス (単位)|ガウス]] (100[[テスラ (単位)|テスラ]]) の[[磁場]]を持つことが、1947年に[[パトリック・ブラケット]]によって予言された。これは彼が提唱した、電荷を持たず自転している天体はその[[角運動量]]に比例する磁場を生成するはずであるという物理法則に基づくものである<ref name="Blackett1947"/>。ときおり{{仮リンク|ブラケット効果|en|Blackett effect}}とも呼ばれたこの仮説は一般に受け入れられず、1950年代までにはブラケット自身もこの説は反駁されたと感じていた<ref name="Lovell1975"/>{{rp|39–43}}。1960年代には、白色矮星はその前駆体である恒星に存在していた全表面[[磁束]]の保存に起因する磁場を持つという説が提唱された<ref name="Landstreet1967"/>。元の恒星の表面磁場がおよそ100ガウス (0.01テスラ) であった場合、恒星が白色矮星となって半径が100分の1になることで表面磁場は集約されておよそ 100×100<sup>2</sup> = 100万ガウス (100テスラ) になる<ref name="physrev"/>{{rp|§8}}<ref name="GinzburgZheleznyakov1969"/>{{rp|484}}。初めて発見された磁場を持つ白色矮星は{{仮リンク|GRW +70 8247|en|GRW +70 8247}} (GJ 742) であり、1970年に放射光の{{仮リンク|円偏光|en|Circular polarization}}の検出によって磁場を持つことが確認された<ref name="KempSwedlund1970"/>。この天体の表面磁場はおよそ3億ガウス (30キロテスラ) であると考えられている<ref name="physrev"/>{{rp|§8}}。
1970年以降、200個を大幅に超える白色矮星で磁場が発見されており、その強度は 2×10<sup>3</sup> ガウスから 10<sup>9</sup> ガウス (0.2テスラから100キロテスラ) の範囲である<ref name="Ferrariode Martino2015"/>。ほとんどの白色矮星は低解像度の分光観測によってその存在が同定されているが、この手法は白色矮星の1メガガウス以上の磁場の存在を明らかにすることができるため、磁場を持つことが知られている白色矮星の個数は多い。そのため、白色矮星の基本的な同定の過程で時折磁場が発見される<ref name="KeplerPelisoli2013"/>。白色矮星の少なくとも10%は、100万ガウス (100テスラ) を超える磁場を持つと推定されている<ref name="LandstreetBagnulo2012"/><ref name="LiebertBergeron2003"/>。
2016年には、[[さそり座AR星]]の連星系に強い磁場を持った白色矮星の存在が特定されている。この天体は、コンパクト星が[[中性子星]]ではなく白色矮星である[[パルサー]]としては初めての例である<ref name="BuckleyMeintjes2017"/>。
==== 化学結合 ====
白色矮星の磁場は、[[イオン結合]]や[[共有結合]]に加えて{{仮リンク|垂直常磁性結合|en|Perpendicular paramagnetic bond}}という新しいタイプの[[化学結合]]の存在を可能にすると考えられる。その結果として、2012年に出版された研究において「磁化された物質」と初めて記述されたような状態の物質の存在が可能になる<ref name="nature20120719"/><ref name="LangeTellgren2012"/>。
== 変動性 ==
{{Main|脈動白色矮星}}
{{See also|激変星}}
{| class="wikitable" style="float: right"
|+ 脈動白色矮星の種類<ref name="Strasbourg2007" /><ref name="quirion" />{{rp|§§1.1, 1.2}}
|-
| '''DAV''' ([[変光星総合カタログ|GCVS]]: ''ZZA'') || スペクトル型がDAで、<br>スペクトル中に水素の[[スペクトル線|吸収線]]のみを持つ
|-
| '''DBV''' (GCVS: ''ZZB'') || スペクトル型がDBで、<br>スペクトル中にヘリウムの吸収線のみを持つ
|-
| '''GW Vir''' (GCVS: ''ZZO'') || 大気は主にC、HeとO。<br>'''DOV''' や '''PNNV''' に分類される場合もある。
|}
初期の計算では、10秒程度の周期で[[光度 (天文学)|光度]]が[[変光星|変動]]する白色矮星が存在する可能性があることが示唆されたが、1960年代の探査ではこの変動は観測することが出来なかった<ref name="physrev"/>{{rp|§7.1.1}}<ref name="LawrenceOstriker1967"/>。初めて発見された[[脈動白色矮星]]は[[おうし座V411星]]であり、およそ12.5分周期で変動していることが1965年と1966年に観測された<ref name="Landolt1968"/>。変動の周期が予測されていたものよりも長い理由は、おうし座V411星の変動は他の知られている脈動する白色矮星と同様に非動径方向の[[重力波 (流体力学)|重力波]]による脈動に起因するためである<ref name="physrev"/>{{rp|§7}}。
脈動白色矮星の種類として知られているものには、''DAV'' もしくは ''ZZ Ceti'' ([[くじら座ZZ星]]型) と呼ばれるものがあり、おうし座V411星もこの種類である。この天体は水素主体の大気を持ち、スペクトル型はDAである<ref name="physrev" />{{rp|891, 895}}。''DBV'' もしくは ''V777 Her'' ([[ヘルクレス座V777星]]型) と分類されるものはヘリウム主体の大気を持ち、スペクトル型はDBである<ref name="wden"/>{{rp|3525}}。''GW Vir'' ([[おとめ座GW星]]型) に分類されるものはヘリウム、炭素、酸素が主体の大気を持ち、しばしば ''DOV'' と ''PNNV'' に細分される<ref name="quirion"/><ref name="NagelWerner2004"/>。GW Vir の天体は厳密には白色矮星ではないが、[[ヘルツシュプルング・ラッセル図]]上において[[漸近巨星分枝]]と白色矮星の領域の間に位置する天体である。これらは "pre-white dwarfs" と呼ばれる場合がある<ref name="quirion"/><ref name="O’Brien2000"/>。これらの脈動白色矮星は全て 1%–30% と小さい光度曲線の変動を示し、周期が数百秒から数千秒の振動モードの重ね合わせからなっている。これらの振動の観測から、白色矮星内部についての[[星震学]]的な証拠が得られる<ref name="Winget1998"/>。
== 形成 ==
白色矮星は、質量がおよそ0.07–10[[太陽質量]]の主系列星の[[恒星進化論|恒星進化]]の終着点であると考えられている<ref name="cosmochronology"/><ref name="evo"/>。白色矮星の組成は元となる恒星の初期質量に依存すると考えられる。現在の銀河モデルは、[[銀河系]]には現在およそ100億個もの白色矮星が存在していることを示唆する<ref name="Napiwotzki2009"/>。
=== 非常に低質量の恒星 ===
主系列星の質量が太陽質量のおよそ半分よりも軽い場合、その核はヘリウムの核融合を起こすための十分な高温になることができない。この天体は宇宙の年齢 (138億年) を大きく超える主系列段階の寿命を持つと考えられている<ref name="aou"/>。このような天体はやがて全ての水素を燃焼し、[[青色矮星 (赤色矮星の進化段階)|青色矮星]]の段階を経て、主にヘリウム4で構成されるヘリウム白色矮星として進化を終える<ref name="LaughlinBodenheimer1997"/>。この過程でヘリウム白色矮星が形成されるには非常に長い時間がかかるため、観測されているヘリウム白色矮星はこの過程で形成されたものではないと考えられる。その代わりに、連星系における質量放出の結果として形成されるか<ref name="rln"/><ref name="apj606_L147"/><ref name="he2"/><ref name="sj"/><ref name="SarnaErgma2001"/><ref name="BenvenutoDe Vito2005"/>、大きな惑星による質量放出の結果として形成されると考えられる<ref name="Nelemans1998"/><ref name="NewScientist20080118" />。
=== 低質量から中間質量の恒星 ===
[[太陽]]のように主系列星の質量が 0.5–8 太陽質量の場合、核は[[トリプルアルファ反応]]を介してヘリウムから[[炭素]]と[[酸素]]を合成するのに十分な温度になるが、炭素の核融合によって[[ネオン]]を生成するほどの十分な高温にはならない。核融合を起こす期間の終わりに近づくと、このような恒星は、核融合反応を起こさない炭素・酸素コアの周りを、内側のヘリウム燃焼殻と外側の水素燃焼殻が取り囲む構造を持つようになる。ヘルツシュプルング・ラッセル図においては、この段階の恒星は[[漸近巨星分枝]]の領域に位置する。その後天体はその外層の物質の大部分を放出して[[惑星状星雲]]を形成し、炭素・酸素の核のみが残される。観測されている白色矮星の圧倒的多数を占める炭素・酸素白色矮星は、この過程によって形成された<ref name="sj"/><ref name="vd1"/><ref name="vd2"/>。
=== 中間質量から大質量の恒星 ===
恒星が十分に重い場合、その核はいずれ炭素核融合を起こしてネオンを合成するのに十分な高温となり、その後ネオンの核融合を起こして鉄を生成する。このような恒星では、初めのうちは電子の縮退圧によって支えられていた核融合を起こさない中心核の質量が、縮退圧で支えることが出来る最大質量をいずれ超えてしまうため、白色矮星になることはできない。この場合、恒星の核は重力崩壊を起こして[[超新星]]として爆発し、残骸として[[中性子星]]や[[ブラックホール]]、あるいはより特異な形態の[[コンパクト星]]を残すと考えられる<ref name="evo"/><ref name="Schaffner-Bielich2005"/>。8–10 太陽質量のいくつかの主系列星は[[炭素燃焼過程]]によってネオンやマグネシウムを生成するのに十分な質量を持つものの、[[ネオン燃焼過程|ネオン燃焼]]を起こすには不十分である場合がある。このような恒星は、核が崩壊せず、また超新星で恒星を吹き飛ばすほどの激しい核融合が進行しない限り、酸素、ネオン、マグネシウムを主成分とする白色矮星を残す可能性がある<ref name="Nomoto1984"/><ref name="WoosleyHeger2002"/>。この種類に属する可能性がある白色矮星は少数確認されているが、この種の白色矮星が存在する最大の証拠は、ONeMg新星、あるいはネオン新星と呼ばれる[[新星]]の存在である。これらの新星のスペクトルは、ネオン、マグネシウムやその他の中間質量の元素が存在することを示し、これは酸素・ネオン・マグネシウム白色矮星への物質の降着のみによって説明可能であると考えられる<ref name="oxne"/><ref name="WernerRauch2004"/><ref name="LivioTruran1994"/>。
=== Iax型超新星 ===
白色矮星によるヘリウム降着を伴う[[Iax型超新星]]は、恒星の残骸である白色矮星の状態を変化させ得る経路として存在が提唱されている。このシナリオでは、[[Ia型超新星]]で引き起こされる[[炭素爆発]]は白色矮星を破壊するには弱すぎるため質量のごく一部を放出するだけにとどまるが、しばしば{{仮リンク|ゾンビ星|en|Zombie star}}として知られている、天体に撃力を与える非対称な爆発を発生させ、その結果として超高速星を発生させる。この失敗した爆発によって生成された物質は白色矮星へとふたたび降着し、[[鉄]]などの重い元素がそのコアへと蓄積していく<ref name="ironcore"/>。このようにして形成された鉄コアを持つ白色矮星は、同じ質量の炭素・酸素からなる白色矮星と比べて小さくなり、また冷却と結晶化も早い<ref name="ironcore2"/>。
== 最期 ==
[[File:White Dwarf Ages.ogv|thumb|白色矮星の進化の想像図]]
白色矮星は一度形成されると安定であり、ほぼ際限なく冷却を続け、最終的には[[黒色矮星]]になると考えられる。[[宇宙]]が膨張を続けると仮定すると、10<sup>19</sup> から 10<sup>20</sup> 年のうちに恒星が銀河間空間へ散逸するのに伴って[[銀河]]は消滅する<ref name="fate"/>{{rp|§IIIA}}。白色矮星は一般に銀河の散逸を生き延びるが、白色矮星同士の偶然の衝突によって、新たに核融合を起こす恒星が生成されたり、チャンドラセカール限界質量を超える質量を持つ白色矮星が形成され、その後Ia型超新星を起こしたりする可能性はある<ref name="fate"/>{{rp|§§IIIC, IV}}。
その後の白色矮星の寿命は仮説上の[[陽子]]の寿命と同程度と考えられており、これは少なくとも 10<sup>34</sup>–10<sup>35</sup> 年であることが知られている。[[大統一理論]]のモデルのいくつかでは、陽子の寿命は 10<sup>30</sup> から 10<sup>36</sup> 年の間であると予測されている。これらの理論が正しくなかった場合でも、複雑な核反応や、{{仮リンク|仮想ブラックホール|en|Virtual black hole}}を含む[[量子重力理論|量子重力]]過程を介して陽子が崩壊する可能性はある。この場合、寿命は 10<sup>200</sup> 年を超えないだろうと推定されている。陽子崩壊が起きる場合、白色矮星の質量は原子核の崩壊が進行するにつれて非常にゆっくりと減少していき、十分な質量を失って縮退していない物質の塊となり、そして最終的には完全に消滅すると考えられる<ref name="fate"/>{{rp|§IV}}。
白色矮星が伴星に共食いされたり蒸発させられたりすることによって質量を失い、[[惑星質量天体]]へと変化するという進化経路も考えられる。かつては伴星であり、現在では主星となった天体を公転することになるこの天体は、[[ヘリウム惑星]]や[[炭素惑星|ダイヤモンド惑星]]となる可能性がある<ref name="SeagerKuchner2007"/><ref name=TIME-2011-08-26/>。
さらに近年では、白色矮星自体が途方もない時間をかけて核融合を起こした末に超新星爆発を起こすという新説が[[イリノイ大学]]のマット・カプランにより提唱された。それによると、白色矮星を構成する原子核が[[量子トンネル効果]]により極めてスローペースで核融合を進行させ、最終的に超新星爆発を起こすという。この場合、寿命は10<sup>1100</sup>~10<sup>32000</sup> 年にも達するとされる<ref>[https://gigazine.net/news/20231124-last-thing-ever-happen-in-universe/ 「宇宙の最後」には一体どんなことが起きるのか?] [[GIGAZINE]]</ref><ref>[https://astropics.bookbright.co.jp/black-dwarf-supernova 10の32000乗年後、黒色矮星が宇宙最後の大爆発!?] [[astropics]]</ref><ref>[https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/082100484/ 宇宙が終わる前、死にゆく星は最後の花火を打ち上げる、新説] [[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナル ジオグラフィック]]</ref><ref>[https://karapaia.com/archives/52293791.html 科学者が「宇宙の終わり」を予測。それは悲しくて孤独な、黒色矮星の超新星爆発で幕を閉じる(米研究)] [[カラパイア]]</ref>。
稀に白色矮星で後期熱パルスが発生し、赤色巨星に戻ることがある。このような天体は[[桜井天体]]と呼ばれており、1996年に初めて存在が確認された<ref name="DuerbeckBenetti1996"/>。
== デブリ円盤と惑星 ==
[[File:Artist’s impression of debris around a white dwarf star.jpg|thumb|白色矮星周りのデブリ円盤の想像図<ref name="ESAHubble20130509"/>]]
[[File:Comet falling into white dwarf.jpg|thumb|白色矮星へと落下していく彗星の想像図<ref name="ESAHubble20170209"/>]]
白色矮星の[[恒星系]]および[[惑星系]]はその元となった恒星から引き継がれ、様々な形で白色矮星と相互作用を起こしうる。[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[スピッツァー宇宙望遠鏡]]によって行われた[[らせん星雲]]の中心天体の赤外線分光観測からは、白色矮星の周囲にダスト雲が存在することが示唆されており、これは彗星の衝突によって生成されたものである可能性がある。このダスト雲中の物質が降着することによって、中心天体からの[[X線]]放射が引き起こされる場合があると考えられている<ref name="BBC20070213"/><ref name="SuChu2007"/>。同様に、2004年に行われた観測では若い白色矮星 {{仮リンク|G 29-38|en|G 29-38}} の周りにダスト雲の存在が示唆された。このダスト雲は白色矮星の近くを通過した彗星が潮汐破壊されることによって形成されたと考えられている。なお、この天体はおよそ5億年前に[[漸近巨星分枝]]から形成されたものだと推定されている<ref name="ReachKuchner2005"/>。
白色矮星大気の金属成分に基づくいくつかの推定では、白色矮星の少なくとも15%は周囲を公転する[[惑星]]や[[小惑星]]、あるいは少なくともその破片を持つと考えられている<ref name="SionHolberg2009"/>。別の説では、白色矮星の周囲には、それらが赤色巨星だった段階を生き延びたが外層を剥ぎ取られた[[地球型惑星|岩石惑星]]の核が公転している可能性があることが示唆されている。このような惑星の残骸は[[金属]]で出来ている可能性が高いことを考えると、白色矮星の[[磁場]]との相互作用の兆候を探すことで検出することが可能となる<ref name="LiFerrario1998"/>。
白色矮星がどのようにダストによって汚染されたかについては、惑星による小惑星の散乱や<ref name="DebesWalsh2012"/><ref name="VerasGänsicke2015"/><ref name="FrewenHansen2014"/>、惑星同士の散乱を介した過程が提案されている<ref name="MustillVillaver2018"/>。[[太陽系外衛星]]の惑星からの離脱も白色矮星の汚染を引き起こしうる。惑星の重力を離脱した衛星は、白色矮星へと散乱させられたり、白色矮星の[[ロッシュ限界|ロッシュ限界半径]]へと散乱させられたりする<ref name="PayneVeras2016"/>。これらの系は大きな惑星を持たない可能性が高いため、連星中の白色矮星の汚染の背後にあるメカニズムについても研究が行われたが、この説は単独の白色矮星の周囲におけるダストの存在を説明できない<ref name="VerasXu (许偲艺)2018"/>。
年老いた白色矮星はダスト降着が起きた兆候を示す一方、10億年程度より年老いているか温度が 7000 K より高いものでダストによる赤外超過を示す白色矮星は、2018年の {{仮リンク|LSPM J0207+3331|en|LSPM J0207+3331}} の発見まで存在が知られていなかった<ref name="FarihiZuckerman2008"/>。この白色矮星は冷却年齢がおよそ30億年である。LSPM J0207+3331 は2種類のダスト要素の特徴を示しており、これは異なる温度を持つ2つの環の存在によって説明される<ref name="DebesThévenot2019"/>。
{{multiple image |header= WD 1856+534 を公転する系外惑星 |align=right |direction=vertical |width= |image1=Artist’s impression of WD 1856b (noirlab2023a).jpg |caption1= |width1=250 |image2=NASA-ExoplanetOrbitingWhiteDwarfStarWD1856+534.webm |caption2=<div align="center">([[:File:NASA-ExoplanetOrbitingWhiteDwarfStarWD1856+534.webm|NASA; video; 2:10]])</div> |width2=250 |footer= }}
惑星を持つ白色矮星も複数発見が報告されており、例えば白色矮星と[[パルサー]]からなる連星系 [[PSR B1620-26]] では、惑星 [[PSR B1620-26 b]] が発見されている<ref name="BackerFoster1993"/>。また、白色矮星と[[赤色矮星]]からなる連星系{{仮リンク|へび座NN星|en|NN Serpentis}}の周りには、2つの[[周連星惑星]]が発見されている<ref name="BeuermannHessman2010"/>。
金属豊富な白色矮星 {{仮リンク|WD 1145+017|en|WD 1145+017}} は、解体されつつある小惑星が天体を[[通過 (天文)|トランジット]]する様子が観測された初めての白色矮星である<ref name="natiogeo20151021"/><ref name="VanderburgJohnson2015"/>。微惑星の解体によってデブリの雲が形成され、それが白色矮星の手前を4.5時間ごとに通過することにより、白色矮星の可視光での明るさが5分間にわたって減光する<ref name="VanderburgJohnson2015"/>。このトランジットの深さは非常に変動性が大きい<ref name="VanderburgJohnson2015"/>。
{{仮リンク|WD 0145+234|en|WD 0145+234}} では、中間赤外線での増光が [[広域赤外線探査衛星|NEOWISE]] の観測データ中に発見されたことが報告されている。この増光は2018年以前には見られなかったものであり、小惑星の[[ロッシュ限界|潮汐破壊]]によるものであると解釈されている。報告した研究グループは、このような現象が観測されたのはこれが初めてであるとしている<ref name="Wang_arxiv"/>。
[[WD 0806-661]] は、射影距離が 2500 [[天文単位|au]] の大きく離れた軌道を公転する[[スペクトル分類#Y型星|Y型矮星]] WD 0806-661B を持つ。この天体は質量が小さく遠方の軌道であることから、WD 0806-661B は[[準褐色矮星]]もしくは直接撮像された系外惑星だと解釈することができる<ref name="LuhmanBurgasser2012"/>。
{{仮リンク|WD J0914+1914|en|WD J0914+1914}} は、2019年に単独で存在する白色矮星としては初めて巨大惑星を持つ可能性が報告された天体である<ref name="ESO20191204"/><ref name="GänsickeSchreiber2019"/>。この惑星は高温な白色矮星からの強い[[紫外線]]放射によって[[光蒸発]]を起こしている。蒸発した物質の一部は、白色矮星の周囲のガス円盤中を降着している。白色矮星のスペクトル中の弱い[[バルマー系列|Hα線]]およびその他のスペクトル線から、巨大惑星の存在が明らかにされた<ref name="GänsickeSchreiber2019"/>。
2020年9月には、[[WD 1856+534]] を公転する非常に重い木星サイズの惑星 [[WD 1856+534 b]] の発見が初めて報告された。この惑星は白色矮星に非常に近い軌道を36時間で公転している<ref name="NAT-20200916"/><ref name="NASA-20200916"/><ref name="BG-20200917"/>。
== 居住可能性 ==
表面温度が 10,000 K 未満の白色矮星はおよそ0.005から0.02 [[天文単位|au]] の距離に[[ハビタブルゾーン]]を持つ可能性が提唱されており、このハビタブルゾーンは最大で30億年にわたって維持されると考えられる。これは非常に近距離であるため、この中にある居住可能な惑星は[[自転と公転の同期|潮汐固定]]される。このような内側の領域へ移動してきたか、あるいはその場で形成された仮説上の地球類似惑星の[[通過 (天文)|トランジット]]を探査することが研究目標の一つとなっている。白色矮星の大きさは惑星の大きさと同程度であるため、この種のトランジットでは深い[[食 (天文)|食]]を起こすことが期待される<ref name="Agol2011"/>。
しかし、より新しい研究では白色矮星周りの居住可能な惑星の存在について疑問が投げかけられている。このような非常に主星に近い軌道を公転する惑星は強い[[潮汐力]]にさらされ、[[温室効果]]が引き起こされることによって居住不可能な環境になる可能性があることが指摘されている<ref name="BarnesHeller2013"/>。存在可能性への別の制約としては、このような惑星をどのようにして形成するかという点が挙げられている。白色矮星の周りの[[降着円盤]]の中で形成されるというシナリオの他に、惑星が白色矮星に近い軌道に到達するための2つのシナリオが提案されている。1つ目は、主星が赤色巨星となっている段階に、その外層に飲み込まれた状態を生き延びた後に内側へと移動するというもの、2つ目は白色矮星が形成された後に内側へと移動するというものである。低質量の惑星は恒星に飲み込まれている間を生き延びるのが困難であるため、前者の形成過程は非現実的である。後者の過程では、惑星は自身が持つ軌道エネルギーを白色矮星との潮汐相互作用を介して熱として捨てる必要があり、結果として惑星は居住不可能な燃えさしのような状態になる可能性が高いとされている<ref name="NordhausSpiegel2013"/>。
== 連星と新星 ==
[[File:White dwarfs circling each other and then colliding.gif|right|thumb|2つの共回転する白色矮星が[[重力波 (相対論)|重力波]]を生成する合体過程]]
白色矮星が[[連星]]系にあって伴星から物質を降着している場合、[[新星]]や[[Ia型超新星]]などの様々な現象が発生しうる。また、白色矮星が表面での核融合を維持できるほどに十分急速に伴星から物質を降着することが出来る場合は、{{仮リンク|超軟X線源|en|Super soft X-ray source}}になる可能性もある<ref name=di_stefano_et_al1997/>。一方で、潮汐相互作用や恒星と円盤の相互作用と言った連星系における現象は、磁場によって緩和されるかどうかに関わらず、降着する白色矮星の自転に作用する。実際に、確実に知られている中で最も高速で自転している種類の白色矮星は、連星系の一員である (そのうち CTCV J2056-3014 が最も高速である)<ref name="Lopes de OliveiraBruch2020"/>。2つの白色矮星からなる近接連星系はエネルギーを[[重力波 (相対論)|重力波]]の形で放出することが出来るため、合体を起こすまでお互いの軌道は徐々に減衰する<ref name=hscfa20101116/><ref name=hscfa20110713/>。
=== Ia型超新星 ===
{{Main|Ia型超新星}}
孤立した自転していない白色矮星の質量は、[[チャンドラセカール限界]]であるおよそ1.4太陽質量を超えることはできない。この限界質量は、白色矮星が高速で自転しており、非一樣である場合は大きくなりうる<ref name="YoonLanger2004"/>。[[連星]]を成す白色矮星は伴星から物質を降着し、質量と密度の両方が増大する可能性がある。このような白色矮星の質量がチャンドラセカール限界に近付くと、理論的には白色矮星中での核融合への爆発的な点火か、[[中性子星]]への崩壊へとつながる可能性がある<ref name="collapse"/>。
白色矮星への降着は、Ia型超新星の起源として現在支持されている SD (single degenerate) モデルでの爆発をもたらす。このモデルでは、炭素・酸素白色矮星が伴星から質量を引き寄せることで、質量を降着しそのコアが圧縮される<ref name="sniamodels" />{{rp|14}}。質量がチャンドラセカール限界に近付くと、核の圧縮加熱によって[[炭素燃焼過程|炭素燃焼]]が[[炭素爆発|点火]]すると考えられている<ref name="sniamodels"/>。白色矮星は熱圧力ではなく量子縮退圧によって重力に対抗して自らを支えているため、天体の内部に熱が加えられた場合は温度は上昇するが圧力は増加しない。そのため白色矮星はそれに応じて膨張したり冷却したりしない。むしろ、温度の上昇は暴走的な過程で核融合の反応率を加速させる。この熱核反応は数秒のうちに白色矮星の大部分を燃料として消費し、天体を跡形もなく破壊するIa型超新星の爆発を引き起こす<ref name="osln"/><ref name="sniamodels"/><ref name="BlinnikovRöpke2006"/>。
別のIa型超新星の候補メカニズムとしては、2つの白色矮星を必要とする DD (double degenerate) モデルと呼ばれるものがある。これは連星系にある2つの炭素・酸素白色矮星が合体し、炭素核融合が点火するチャンドラセカール限界質量よりも大きな質量を持つ天体が形成されるというものである<ref name="sniamodels" />{{rp|14}}。
Ia型超新星に至るまでの降着の兆候は、観測では記録されていない。これは現在では、降着によって天体は最初にチャンドラセカール限界質量を超える質量を獲得し、その一方で同じく降着によって自転が非常に高速に加速されたからだと考えられている。白色矮星への降着が止まると、爆発を妨げるのには不十分な速度になるまで天体の自転は徐々に減速していく<ref name="O'Neill"/>。
歴史的な明るい[[超新星]] [[SN 1006]] は白色矮星によるIa型超新星であったと考えられており、おそらくは2つの白色矮星の合体によるものである<ref name="Hernandez2012"/>。「ティコの超新星」として知られる1572年の [[SN 1572]] もIa型超新星であり、爆発の残骸が検出されている<ref name="Krause2008"/>。
=== 共通外層を持っていた連星 ===
{{Main|:en:Post common envelope binary}}
白色矮星と、その近距離にある潮汐固定された[[赤色矮星]]からなる連星は、post-common envelope binary (PCEB) と呼ばれる。なお、赤色矮星の代わりに[[褐色矮星]]が公転している場合もある。これらの連星は、赤色矮星が[[赤色巨星]]に飲み込まれ、赤色矮星が[[共通外層]]の内部を公転するにつれてより高密度な環境で自転が減速を受けることによって形成されるものである。赤色矮星の公転が減速を受けると、赤色矮星と赤色巨星の核の軌道距離が減少することによって平衡が保たれる。赤色矮星は赤色巨星の核へと向かって螺旋を描いて落下していき、核と合体を起こし得る。合体が発生せず、かわりに共通外層が放出された場合、連星は最終的に白色矮星と赤色矮星が近接した軌道を持つこととなる。このような進化を経て形成された連星は PCEB と呼ばれる。PCEB は、{{仮リンク|磁気制動|en|Magnetic braking (astronomy)}}や重力波の放出によって連星の間隔が徐々に小さくなっていくという進化が続く。PCEB はある段階で[[激変星]]へと進化する場合があるため、その前駆天体という意味で pre-cataclysmic variables と呼ばれることがある。
=== 激変星 ===
{{Main|激変星}}
物質の降着によって白色矮星がチャンドラセカール限界質量に近付くよりも前に、表面に降着した水素が豊富な物質は、より破壊的ではないタイプの水素核融合の点火を起こす可能性がある。このような表面における爆発は、白色矮星の核が残存している限りは反復して発生しうる。この種の反復的な激変現象は (古典的な) [[新星]]と呼ばれる。また、古典的新星よりもより小規模で、より頻繁な光度の極大を示す[[矮新星]]と呼ばれる現象も観測されている。これは核融合によるエネルギーの解放ではなく、[[降着円盤]]の一部が天体へと崩壊する際の重力エネルギーの解放による現象だと考えられている。一般に、伴星から質量を降着する白色矮星を持つ連星系は、[[激変星]]と呼ばれる。新星や矮新星と同様に、[[強磁場激変星]] (ポーラー) や中間ポーラーなどのその他の種類の変光星も知られており、どちらも強い磁場を持つ白色矮星で発生する現象である<ref name="osln"/><ref name="sniamodels"/><ref name="nasa1"/><ref name="nasa2"/>。核融合に駆動される激変星も降着に駆動される激変星も、どちらも[[X線]]源として観測される<ref name="nasa2"/>。
=== その他の連星 ===
その他の超新星に至らない種類の連星系は、白色矮星と[[主系列星]]、もしくは巨星から構成される。[[シリウス]]AとBの連星はその一例である。また白色矮星は、白色矮星しか存在しない連星系や多重星系として存在する場合もある。そのような白色矮星の三重連星系として、{{仮リンク|WD J1953−1019|en|WD J1953−1019}}が[[ガイア計画|ガイア]]のデータから発見されている<ref name="Mansergas2019"/>。
白色矮星の周りの惑星系の残骸の研究も行われている。恒星は明るく、周囲を公転する[[太陽系外惑星|系外惑星]]や[[褐色矮星]]よりも輝く一方で、白色矮星は暗い。そのためこれらの系外惑星や褐色矮星をより詳細に調査することが可能となる。[[WD 0806-661]]を公転する[[準褐色矮星]] WD 0806-661 B はその一例である。
== 近傍の白色矮星 ==
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|+25光年以内の白色矮星<ref name="GiammicheleBergeron2012"/>
! class="unsortable" | 名称
! WD番号
! 距離<br/>([[光年]])
! 型
! [[絶対等級|絶対<br/>等級]]
! 質量<br/>([[太陽質量|''M''{{sub|☉}}]])
! 光度<br />([[太陽光度|''L''{{sub|☉}}]])
! 年齢<br/>(億年)
! 系内の天体数
|-
|style="text-align: left;"| [[シリウス]]B
| 0642–166
| 8.66
| DA
| 11.18
| 0.98
| 0.0295
| 1.0
| 2
|-
|style="text-align: left;"| [[プロキオン]]B
| 0736+053
| 11.46
| DQZ
| 13.20
| 0.63
| 0.00049
| 13.7
| 2
|-
|style="text-align: left;"| [[ヴァン・マーネン星]]
| 0046+051
| 14.07
| DZ
| 14.09
| 0.68
| 0.00017
| 33.0
| 1
|-
|style="text-align: left;"| [[グリーゼ440]]
| 1142–645
| 15.12
| DQ
| 12.77
| 0.61
| 0.00054
| 12.9
| 1
|-
|style="text-align: left;"| [[エリダヌス座オミクロン2星|エリダヌス座ο<sup>2</sup>星]]B
| 0413-077
| 16.39
| DA
| 11.27
| 0.59
| 0.0141
| 1.2
| 3
|-
|style="text-align: left;"| [[:en:Stein 2051|Stein 2051]]B
| 0426+588
| 17.99
| DC
| 13.43
| 0.69
| 0.00030
| 20.2
| 2
|-
|style="text-align: left;"| [[:en:G 240-72|G 240-72]]
| 1748+708
| 20.26
| DQ
| 15.23
| 0.81
| 0.000085
| 56.9
| 1
|-
|style="text-align: left;"| [[:en:LP 658-2|LP 658-2]]
| 0552–041
| 21.01
| DZ
| 15.29
| 0.82
| 0.000062
| 78.9
| 1
|-
|style="text-align: left;"| {{仮リンク|GJ 3991|en|GJ 3991}}B<ref name="Delfosse1999"/>
| 1708+437
| 24.23
| D??
| >15
| 0.5
| <0.000086
| >60
| 2
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="ox">{{Cite book|和書
|author =
|year =
|title = オックスフォード天文学辞典
|edition = 初版第1刷
|publisher = 朝倉書店
|page = 313頁
|isbn = 4-254-15017-2
}}
</ref>
<ref name="astrodic_wd">{{Cite web|和書| url = http://astro-dic.jp/white-dwarf/ | title = 天文学辞典 » 白色矮星 | author = | authorlink = | coauthors = | date = | format = | work = 天文学辞典| publisher = [[日本天文学会]] | pages = | language = | archiveurl = | archivedate = | quote = | accessdate = 2020-11-24}}</ref>
<ref name="Henry2009">{{cite web
|last1=Henry
|first1=T. J.
|date= 2009-01-01
|title=The One Hundred Nearest Star Systems
|url=http://www.astro.gsu.edu/RECONS/TOP100.posted.htm
|publisher= Research Consortium on Nearby Stars
|accessdate= 2020-11-24
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071112173559/http://www.chara.gsu.edu/RECONS/TOP100.posted.htm
|archivedate=12 November 2007-11-12
|url-status=live
}}</ref>
<ref name="rln">{{cite web
|last1=Richmond
|first=M
|title=Late stages of evolution for low-mass stars
|url=http://spiff.rit.edu/classes/phys230/lectures/planneb/planneb.html
|work=Lecture notes, Physics 230
|publisher= Rochester Institute of Technology
|accessdate= 2007-03-03
|archiveurl= https://web.archive.org/web/20170904224040/http://spiff.rit.edu/classes/phys230/lectures/planneb/planneb.html
|archivedate= 2017-09-04
|url-status=live
}}</ref>
<ref name="oxne">{{cite journal
|last1=Werner |first1=K.
|last2=Hammer |first2=N. J.
|last3=Nagel |first3=T.
|last4=Rauch |first4=T.
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|date=2005
|title=On Possible Oxygen/Neon White Dwarfs: H1504+65 and the White Dwarf Donors in Ultracompact X-ray Binaries
|journal=14th European Workshop on White Dwarfs
|volume=334 |page=165
|arxiv=astro-ph/0410690
|bibcode=2005ASPC..334..165W
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<ref name="apj606_L147">{{cite journal
|last1=Liebert |first1=J.
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|last3=Eisenstein |first3=D.
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|date=2004
|title=A Helium White Dwarf of Extremely Low Mass
|journal=The Astrophysical Journal
|volume=606 |issue=2 |pages=L147
|arxiv=astro-ph/0404291
|bibcode=2004ApJ...606L.147L
|doi=10.1086/421462
|s2cid=118894713
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<ref name="he2">{{cite press
|date= 2007-04-17
|title=Cosmic weight loss: The lowest mass white dwarf
|url=http://spaceflightnow.com/news/n0704/17whitedwarf
|publisher= Harvard-Smithsonian Center for Astrophysics
|accessdate= 2007-04-20
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|archivedate= 2007-04-22
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<ref name="osln">{{cite web
|last=Johnson
|first=J.
|date=2007
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|title=Extreme Stars: White Dwarfs & Neutron Stars
|work=Lecture notes, Astronomy 162
|publisher= Ohio State University
|accessdate= 2011-10-17
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<ref name="aou">{{cite journal |last1=Spergel |first1=D. N. |last2=Bean |first2=R. |last3=Dore |first3=O. |last4=Nolta |first4=M. R. |last5=Bennett |first5=C. L. |last6=Dunkley |first6=J. |last7=Hinshaw |first7=G. |last8=Jarosik |first8=N. |last9=Komatsu |first9=E. |last10=Page |first10=L. |last11=Peiris |first11=H. V. |last12=Verde |first12=L. |last13=Halpern |first13=M. |last14=Hill |first14=R. S. |last15=Kogut |first15=A. |last16=Limon |first16=M. |last17=Meyer |first17=S. S. |last18=Odegard |first18=N. |last19=Tucker |first19=G. S. |last20=Weiland |first20=J. L. |last21=Wollack |first21=E. |last22=Wright |first22=E. L. |title=Three‐Year Wilkinson Microwave Anisotropy Probe (WMAP) Observations: Implications for Cosmology |journal=The Astrophysical Journal Supplement Series |volume=170 |issue=2 |year=2007 |pages=377–408 |issn=0067-0049 |doi=10.1086/513700 |arxiv=astro-ph/0603449 |bibcode=2007ApJS..170..377S}}</ref>
<ref name="cosmochronology">{{cite journal
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|journal=Publications of the Astronomical Society of the Pacific
|volume=113 |issue=782 |pages=409–435
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|doi=10.1086/319535
|doi-access=free
}}</ref>
<ref name="Herschel1785">{{cite journal|jstor=106749 |pages=40–126
|last1=Herschel |first1=W.
|title=Catalogue of Double Stars. By William Herschel, Esq. F. R. S
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|date=1785
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<ref name="holberg">{{cite journal
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|volume=207
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|conference=American Astronomical Society Meeting 207
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<ref name="Adams1914">{{cite journal |last1=Adams |first1=W. S. |title=An A-Type Star of Very Low Luminosity |journal=Publications of the Astronomical Society of the Pacific |volume=26 |year=1914 |pages=198 |issn=0004-6280 |doi=10.1086/122337 |bibcode=1914PASP...26..198A}}</ref>
<ref name="fwbessel">{{cite journal
|bibcode=1844MNRAS...6R.136B
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|last1=Bessel |first1=F. W.
|doi-access=free
}}</ref>
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<ref name="Adams1915">{{cite journal |last1=Adams |first1=W. S. |title=The Spectrum of the Companion of Sirius |journal=Publications of the Astronomical Society of the Pacific |volume=27 |year=1915 |pages=236 |issn=0004-6280 |doi=10.1086/122440 |bibcode=1915PASP...27..236A}}</ref>
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|url-status=live
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<ref name="Boss1910">{{cite book
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|title=Preliminary General Catalogue of 6188 stars for the epoch 1900
|url=https://archive.org/details/preliminarygene00obsegoog |publisher=[[Carnegie Institution of Washington]]
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|lccn=10009645
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|s2cid=8792889
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|last1=Eddington |first1=A. S.
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|title=Stars and Atoms
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<ref name="Ledrew">{{cite paper | author=Ledrew, Glenn | year=2001 | title=The Real Starry Sky | journal=Journal of the Royal Astronomical Society of Canada | volume=95 | issue= | pages=32 | url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2001JRASC..95...32L/abstract }}</ref>
<ref name="DuerbeckBenetti1996">{{cite journal |last1=Duerbeck |first1=Hilmar W. |last2=Benetti |first2=Stefano |title=Sakurai's Object—A Possible Final Helium Flash in a Planetary Nebula Nucleus |journal=The Astrophysical Journal |volume=468 |issue=2 |year=1996 |pages=L111–L114 |issn=0004637X |doi=10.1086/310241 |bibcode=1996ApJ...468L.111D}}</ref>
}}
==関連項目==
* [[恒星]]
* [[赤色巨星]]
* [[超新星]]
* [[コンパクト星]]
** [[中性子星]]
** [[ブラックホール]]
** [[黒色矮星]]
* [[フェルミ縮退]]
* [[チャンドラセカール限界]]
* [[惑星状星雲]]
* [[PG1159型星]]
* [[スペクトル分類]]
* [[コンパクト星の一覧#白色矮星|白色矮星の一覧]]
* [[超新星に関する年表]]
== 外部リンク・参考文献 ==
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** {{cite media |medium=photograph |website=Astronomy Picture of the Day |publisher=NASA |url=http://apod.nasa.gov/apod/ap090303.html |title=The Helix Nebula from La Silla Observatory |df=dmy-all |date=2009-03-03}}
** {{cite media |medium=photograph |website=Astronomy Picture of the Day |publisher=NASA |url=http://apod.nasa.gov/apod/ap080727.html |title=IC 4406: A Seemingly Square Nebula |df=dmy-all |date=2008-07-27}}
** {{cite media |medium=photograph |website=Astronomy Picture of the Day |publisher=NASA |url=http://apod.nasa.gov/apod/ap060307.html |title=A Nearby Supernova in Spiral Galaxy M100 |df=dmy-all |date=2006-03-07}}
** {{cite media |medium=photograph |website=Astronomy Picture of the Day |publisher=NASA |url=http://apod.nasa.gov/apod/ap050601.html |title=White Dwarf Star Spiral |df=dmy-all |date=2005-06-01}}
{{恒星}}
{{Good article}}
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[[Category:白色矮星|*]]
[[Category:暗黒物質]]
[[Category:恒星の種類]]
[[Category:天文学に関する記事]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%89%B2%E7%9F%AE%E6%98%9F
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釈迦族
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釈迦族(しゃかぞく、Śākyaシャーキヤ)とは、古代北インドの一部族・小国である。釋迦族やシャーキヤ族とも。仏教の開祖ガウタマ・シッダールタが属していたことで有名である。
インドではサンスクリット語で शाक्य (Śākya, シャーキヤ) 、パーリ語で sākiya(サーキヤ)と言い、「有能」という単語に由来する。
前6〜前5世紀ころ、インドの地には大小さまざまな国がひしめいていた。シャーキヤはカピラヴァストゥに都を置き、ヒマラヤ山麓にあった。(場所は現在のインドとネパールの国境地帯にあたる)。そして西隣のコーサラ国の支配下にあった。
シャーキヤ族は、政治形態としてはサンガを採用していた。つまり専制的な王を持たず、部族民の代表たちが集会堂に集まって政策を決定していたという。
伝説では、アーリヤ人のクシャトリヤ王統に属すると言われる。
一説には、日種 (梵: sūryavaṃśa, 巴: ādiccagotta) に属し、甘庶王(かんしょおう、オッカーカ)系といわれる。
『漢書』張騫伝の「塞王」について、顔師古による注は「即ち仏経に釈種と謂う所の者。塞・釈は声(発音)近く、もと一姓なるのみ。」とあり、塞(そく)と呼ばれる種族(サカ)と釈迦族がもとは同じ民族であったとしている。サンスクリット文法上は śākya(シャーキヤ)を śaka (シャカ(=サカの梵語形))の派生語とするのは自然であるが、サカ族がインドに到達したのは紀元前2世紀で、仏陀の時代よりはるかに後であるという問題がある。
歴史家の中には、チベット・ビルマ系だと見なす人もいる。
釈迦族の家系は、経典によって内容に差異があるが、国訳大蔵経『仏本行集経』によると、釈迦族の始まりは、この地に稲田を開いた大地主と記述されている。
「この賢劫の初め、地、建立しおわりて、一最尊、豪勝富貴の大首領人転輪王種あり。 名衆を集置して、すでに安置しおわる。 時に、諸々の大衆、地主にもうしていわく。 『我が大地主よ、まさに我らの為に、悪人を治罰し、良善を賞すべし。仁者、まさに稲田を分かって、我に与うべし。 我、おのおのこれに、種(う)え、種え終わりて、まさにおのおの割分して、仁者に奉輸すべし』と。 時に、彼の地主、大衆の請いを受け、すなわち為に法の如く、平によって検校し、悪しき者は治罰し、善き者は之を賞せり。 人、稲田を得て、おのおの守護を加え佃熟しおわりて後、分に随ってこれを受けぬ」 「時に、彼の大衆、是の如く集会、和合し、共に彼の仁者を推扶し、持して地主と為せり。 大衆の商量によりて挙げられしを以ての故に、彼を号して大衆平章(たいしゅうひょうしょう)と為しぬ。 また、彼の地主、諸々の大衆の為に、法の如く治化し、衆をして歓喜し、同心に愛楽し、共に和合するを得て、各々処分せしめたり。 ゆえに名けて王と為しぬ。 また、また、一切の稲田を守護し、熟すれば、衆人稲田の分を取るが故に、刹利王(せつりおう)と名づけぬ。 刹利王をば、名づけて田主(でんしゅ)となす。 汝ら、まさに知るべし。 この因縁をもって、劫の最初の時、大衆立つる所の王種は是なるを。」
『仏本行集経』賢劫王種品・第三での釈迦族の系譜の記述は次のとおり。
釈迦の祖父師子頬王(英語版)(ししきょうおう、Sīṃhahanu)には、次の四男一女がいたとされる。
『起生経』では次のとおり。
甘庶種王(不善長) - 足瞿 - 天城 - 牛城 - 広車 - 別車 - 堅車 - 住車 - 十車 - 百車 - 九(十)車 - 雑(色)車 - 智車 - 広弓 - 多弓 - 兼弓 - 住弓 - 十弓 - 百弓 - 九(十)弓 - 雑(色)弓 - 智弓 - 獅子頬 - 浄飯
なお浄飯(シュッドーダナ)を父としてゴウタマ・シッダールタは生まれた、とされる。
『律蔵』の「小品」には、釈迦族の青年たちの出家について述べている箇所があり、パッディヤ、アヌルッダがそろって出家したときの逸話なども書かれている。
釈迦族は自尊心が非常に強い民族だった、といわれる。釈迦が成道後、カピラ城に帰った際にクシャトリアである諸王子を差し置いてシュードラ出身の優波離が先ず弟子となった後に、諸王子が仏教の教団の伝統に基づき、阿難など諸王子達が優波離に礼拝して末席に連なったことから、釈迦仏が「よくぞシャカ族の高慢な心を打ち破った」と讃嘆したという。
釈迦族がコーサラ国の毘瑠璃王によって滅ぼされたのも、もとを正せば、この自尊心の強さによる高慢心が原因だったといわれる。
コーサラ国のヴィドゥーダバ王子は、コーサラ国のプラセーナジット王と釈迦族の女性との間に生まれた子であった。ヴィドゥーダバ王子は、ある時シャーキャ国の都カピラヴァストゥを旅していたが、その時釈迦族のなかに心ない陰口を言う者がいたという。「ヴィドゥーダバ王子の母親というのは、釈迦族指導者マハーナーマンが召使に生ませた娘だ」などと釈迦族の者が馬鹿にするように話すのがヴィドゥーダバ王子に聞こえ、それをきっかけにしてヴィドゥーダバは母親・父親・釈迦族を憎み、いつか釈迦族に復讐してやると心に決めた、という。やがてヴィドゥーダバは父であるコーサラ王プラセーナジットから王位を奪い、プラセーナジットは失意のうちに死去。王になったヴィドゥーダバは大軍を率いてカピラヴァストゥに攻め込み、釈迦族を老若男女関わらず皆殺しにしたという。
釈迦族は釈迦の晩年の時期、隣国コーサラ国の毘瑠璃王(びるりおう、ヴィドゥーダバ、 ヴィル ーダカ)の大軍に攻められ皆殺しにされたと仏教文献に伝わるが、異説も有り、完全に根絶やしにされたのではなく、四人の王族が生き残りヒンドゥー教に改宗して釈迦族は存続したという伝承も存在する。
シャカ族で生き残った4人の男子は、それぞれ他の国へ行って、みなその国の王になったと伝える説もある(cf. 上軍伝説)。
インドのウッタル・プラデーシュ州南部には釈迦族を自称する一族が現在も住んでいる。
ネパールのパタンにネワール族のサキヤ・カーストという職人たちが存在している。このサキヤ・カーストは、コーサラ国によって滅ぼされたサーキャ族の末裔だと信じられている。パタンではネパールの他の街にくらべて仏教徒の割合が高い、という。そしてこのサキヤ・カーストは仏像や彫刻を彫ることで、古代仏教の伝統を今に伝えている、という。
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"text": "『律蔵』の「小品」には、釈迦族の青年たちの出家について述べている箇所があり、パッディヤ、アヌルッダがそろって出家したときの逸話なども書かれている。",
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"title": "釈迦族のその後"
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"text": "ネパールのパタンにネワール族のサキヤ・カーストという職人たちが存在している。このサキヤ・カーストは、コーサラ国によって滅ぼされたサーキャ族の末裔だと信じられている。パタンではネパールの他の街にくらべて仏教徒の割合が高い、という。そしてこのサキヤ・カーストは仏像や彫刻を彫ることで、古代仏教の伝統を今に伝えている、という。",
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釈迦族(しゃかぞく、Śākyaシャーキヤ)とは、古代北インドの一部族・小国である。釋迦族やシャーキヤ族とも。仏教の開祖ガウタマ・シッダールタが属していたことで有名である。 インドではサンスクリット語で शाक्य 、パーリ語で sākiya(サーキヤ)と言い、「有能」という単語に由来する。 前6〜前5世紀ころ、インドの地には大小さまざまな国がひしめいていた。シャーキヤはカピラヴァストゥに都を置き、ヒマラヤ山麓にあった。(場所は現在のインドとネパールの国境地帯にあたる)。そして西隣のコーサラ国の支配下にあった。 シャーキヤ族は、政治形態としてはサンガを採用していた。つまり専制的な王を持たず、部族民の代表たちが集会堂に集まって政策を決定していたという。
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{{統合文字|迦}}
[[ファイル:Mahajanapadas (c. 500 BCE).png|350px|thumb|紀元前500年の[[十六大国]]の領域]]
'''釈迦族'''(しゃかぞく、{{IAST|Śākya}}シャーキヤ)とは、[[インドの歴史#十六大国|古代北インド]]の一部族・小国である。'''釋迦族'''や'''シャーキヤ族'''とも。[[仏教]]の開祖[[釈迦|ガウタマ・シッダールタ]]が属していたことで有名である。
インドでは[[サンスクリット語]]で {{lang|sa|शाक्य}} (Śākya, シャーキヤ) 、[[パーリ語]]で sākiya(サーキヤ)と言い、「有能」という単語に由来する。
[[紀元前6世紀|前6]]〜[[紀元前5世紀|前5世紀]]ころ、インドの地には大小さまざまな国がひしめいていた。シャーキヤは[[カピラヴァストゥ]]に都を置き、[[ヒマラヤ]]山麓にあった<ref name="s_pd">{{Kotobank|釈迦族|2=世界大百科事典}}</ref>。(場所は現在の[[インド]]と[[ネパール]]の国境地帯にあたる)。そして西隣の[[コーサラ国]]の支配下にあった<ref name="s_pd" />。
シャーキヤ族は、政治形態としては[[サンガ]]を採用していた<ref name="s_pd" />。つまり専制的な王を持たず、部族民の代表たちが集会堂に集まって政策を決定していたという<ref name="s_pd" /><ref name="malala-sakya">{{cite book|url=http://www.palikanon.com/english/pali_names/sa/sakya.htm|chapter=Sakyā, Sakka, Sākiyā|title=Dictionary of Pali Proper Names|author=G.P. Malalasekera|year=1937}}</ref>。
== 系統 ==
[[伝説]]では、[[アーリア人|アーリヤ人]]の[[クシャトリヤ]]王統に属すると言われる<ref name="s_pd" />。
一説には、[[日種]] ({{lang-sa-short|sūryavaṃśa}}, {{lang-pi-short|ādiccagotta}}) に属し、[[甘庶王]](かんしょおう、オッカーカ)系といわれる<ref name="malala-sakya"/><ref>{{cite book|url=http://www.palikanon.com/english/pali_names/o/okkaaka.htm|chapter=Okkāka|title=Dictionary of Pali Proper Names|author=G.P. Malalasekera|year=1937}}</ref>。
『[[漢書]]』[[張騫]]伝の「塞王」について、[[顔師古]]による注は「即ち[[仏典|仏経]]に釈種と謂う所の者。塞・釈は声(発音)近く、もと一姓なるのみ。」とあり、塞(そく)と呼ばれる種族([[サカ]])と釈迦族がもとは同じ民族であったとしている。[[サンスクリット]]文法上は {{unicode|śākya}}(シャーキヤ)を {{unicode|śaka}} (シャカ(=サカの梵語形))の派生語とするのは自然であるが<ref group="注釈">たとえば {{unicode|paṇḍita}}「学者」に対する {{unicode|pāṇḍitya}}「学識」のような派生語と構造が同じである。{{Cite book|和書|author=辻直四郎|authorlink=辻直四郎|title=サンスクリット文法|publisher=[[岩波全書]]|year=1974|page=220}}</ref>、サカ族がインドに到達したのは紀元前2世紀で、仏陀の時代よりはるかに後であるという問題がある。
歴史家の中には、[[チベット・ビルマ語族|チベット・ビルマ系]]だと見なす人もいる<ref name="s_pd" />。
== 系譜 ==
釈迦族の家系は、経典によって内容に差異があるが、[[国訳大蔵経]]『[[仏本行集経]]』によると、釈迦族の始まりは、この地に稲田を開いた大地主と記述されている{{Sfn|国訳大蔵経|1917|loc=経部、第13巻 仏本行集経 p.84}}。
{{Quote|
「この賢劫の初め、地、建立しおわりて、一最尊、豪勝富貴の大首領人転輪王種あり。<br>
名衆を集置して、すでに安置しおわる。<br>
時に、諸々の大衆、地主にもうしていわく。<br>
『我が大地主よ、まさに我らの為に、悪人を治罰し、良善を賞すべし。仁者、まさに稲田を分かって、我に与うべし。<br>
我、おのおのこれに、種(う)え、種え終わりて、まさにおのおの割分して、仁者に奉輸すべし』と。<br>
時に、彼の地主、大衆の請いを受け、すなわち為に法の如く、平によって検校し、悪しき者は治罰し、善き者は之を賞せり。<br>
人、稲田を得て、おのおの守護を加え佃熟しおわりて後、分に随ってこれを受けぬ」<br>
「時に、彼の大衆、是の如く集会、和合し、共に彼の仁者を推扶し、持して地主と為せり。<br>
大衆の商量によりて挙げられしを以ての故に、彼を号して大衆平章(たいしゅうひょうしょう)と為しぬ。<br>
また、彼の地主、諸々の大衆の為に、法の如く治化し、衆をして歓喜し、同心に愛楽し、共に和合するを得て、各々処分せしめたり。<br>
ゆえに名けて王と為しぬ。<br>
また、また、一切の稲田を守護し、熟すれば、衆人稲田の分を取るが故に、刹利王(せつりおう)と名づけぬ。<br>
刹利王をば、名づけて田主(でんしゅ)となす。<br>
汝ら、まさに知るべし。<br>
この因縁をもって、劫の最初の時、大衆立つる所の王種は是なるを。」
| [[仏本行集経]] - 賢劫王種品・第三 }}
『仏本行集経』賢劫王種品・第三{{Sfn|国訳大蔵経|1917|loc=経部、第13巻 仏本行集経 p.84-101}}<ref>東京大学 [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0190_,01,0669&nonum=&kaeri=大正新脩大藏經テキストデータベース], 佛本行集經賢劫王種品第三、T0190_.03.0672a12: なお(14)(15)(16)(30)は、名称の表記が、国訳大蔵経と、テキストデータベースに相違があるため、テキストデーターベースを主とし、国訳大蔵経での記述を<>内で併記。</ref>での釈迦族の系譜の記述は次のとおり。
{{Quote|
(1)大衆平章(刹利王、田主)、(2)真実、(3)意喜、(4)智者(受戒)、(5)頂生、(6)大海、(7)具足、(8)養育、(9)福車、(10)解脱、(11)善解脱、(12)逍遙、(13)大逍遙、(14)照曜(照耀)、(15)大照曜〈大照耀〉、(16)意喜〈意善〉、(17)善喜、(18)滿足、(19)養育、(20)福車、(21)人首領、(22)火質、(23)光炎、(24)善譬冠、(25)空冠、(26)善見、(27)大善見、(28)須勒、(29)大須勒[褒多那城]、一百一世代後、(30)師子乗[波羅㮈城〈阿踰闍城〉]、六十一世代後、(31)女乗[阿踰闍城]、五十六世代後、(32)厳熾生[迦毘梨耶城]、一千世代後、(33)梵徳[阿私帝那富羅城]、二十五世代後、(34)象将[徳叉尸羅城]、二十五世代後、(35)護[奢耶那城]、一千二百世代後、(36)能降伏[迦那鳩闍城]、九十世代後、(37)勝将[瞻波城]、二千五百世代後、(38)龍天[王舍城]、二十五世代後、(39)作闍[拘尸那竭城]、二十五世代後、(40)大自在天[菴婆羅劫波城]、二十五世代後、(41)大自在天[檀多富羅城]、二十五世代後、(42)善意[多摩婆頗梨多城]、二十五世代後、(43)無憂鬘[寐洟羅城]、八万千世代後、(44)毗紐天[毗褒多那城]、一百一世代後、(45)大自在天[寐洟羅城]、八万四千世代後、(46)魚王、(47)真生、(48)平等行、(49)闇火、(50)焔熾、(51)善譬、(52)虚空、(53)戒行、(54)無憂、(55)離憂、(56)除憂、(57)勝将、(58)大将、(59)胎生、(60)明星、(61)方主、(62)塵、(63)善意、(64)善住、(65)歓喜、(66)大力、(67)大光、(68)大名称、(69)十車、(70)二十車、(71)妙車、(72)歩車、(73)十弓、(74)百弓、(75)二十弓、(76)妙色弓、(77)罪弓、(78)海将、(79)難勝(80)茅草[褒多那城]、(81)大茅草、(82)苷蔗、(83)別成(尼拘羅)[迦毘羅城]、(84)拘盧、(85)瞿拘盧、(86)師子頬、(87)[[浄飯王|浄飯]](閲頭檀)、(88)成利([[釈迦]])}}
釈迦の祖父{{仮リンク|師子頬王|en|Sihahanu}}(ししきょうおう、Sīṃhahanu)には、次の四男一女がいたとされる{{Sfn|国訳大蔵経|1917|loc=経部、第13巻 仏本行集経 p.101}}。
{{Quote|
[[浄飯王]](じょうぼんのう、音訳:閲頭檀王;えつづだんおう, Śuddhodana)・白飯(はくぼん、音訳:輸拘盧檀那;しゅくるだんな,Śuklodana)・斛飯(こくぼん、音訳:途盧檀那;づだんな,Droṇodana)・甘露飯(かんろぼん、音訳:阿弥都檀那;あみつだんな,Amṛtārasa)・甘露味(かんろみ、Amṛtā)。}}
『起生経』では次のとおり。
{{Quote|
甘庶種王(不善長) - 足瞿 - 天城 - 牛城 - 広車 - 別車 - 堅車 - 住車 - 十車 - 百車 - 九(十)車 - 雑(色)車 - 智車 - 広弓 - 多弓 - 兼弓 - 住弓 - 十弓 - 百弓 - 九(十)弓 - 雑(色)弓 - 智弓 - 獅子頬 - 浄飯
}}
なお浄飯([[シュッドーダナ]])を父として[[釈迦|ゴウタマ・シッダールタ]]は生まれた、とされる。
== 逸話 ==
『[[律蔵]]』の「小品」には、釈迦族の青年たちの出家について述べている箇所があり、パッディヤ、アヌルッダがそろって出家したときの逸話なども書かれている<ref name="kotoba">[[菅沼晃]]『釈迦のことば』p.168</ref>。
釈迦族は自尊心が非常に強い民族だった、といわれる{{誰2|date=2013年3月}}。釈迦が成道後、[[カピラ城]]に帰った際に[[クシャトリア]]である諸王子を差し置いて[[シュードラ]]出身の[[優波離]]が先ず弟子となった後に、諸王子が仏教の教団の伝統に基づき、[[阿難]]など諸王子達が[[優波離]]に礼拝して末席に連なったことから、釈迦仏が「よくぞシャカ族の高慢な心を打ち破った」と讃嘆したという{{要出典|date=2010年3月}}。
釈迦族がコーサラ国の毘瑠璃王によって滅ぼされたのも、もとを正せば、この自尊心の強さによる高慢心が原因だったといわれる。
コーサラ国の[[ヴィドゥーダバ]]王子は、コーサラ国の[[プラセーナジット]]王と釈迦族の女性との間に生まれた子であった<ref name="murakoshi_toudou">村越英裕、藤堂憶人『完全図解 目で見る仏教小百科』p.69</ref>。ヴィドゥーダバ王子は、ある時シャーキャ国の都カピラヴァストゥを旅していたが、その時釈迦族のなかに心ない陰口を言う者がいたという<ref name="murakoshi_toudou" />。「ヴィドゥーダバ王子の母親というのは、釈迦族指導者マハーナーマンが召使に生ませた娘だ」などと釈迦族の者が馬鹿にするように話すのがヴィドゥーダバ王子に聞こえ、それをきっかけにしてヴィドゥーダバは母親・父親・釈迦族を憎み、いつか釈迦族に復讐してやると心に決めた、という<ref name="murakoshi_toudou" />。やがてヴィドゥーダバは父であるコーサラ王プラセーナジットから王位を奪い<ref name="murakoshi_toudou" />、プラセーナジットは失意のうちに死去。王になったヴィドゥーダバは大軍を率いてカピラヴァストゥに攻め込み、釈迦族を老若男女関わらず皆殺しにしたという<ref name="murakoshi_toudou" />。
== 釈迦族のその後 ==
釈迦族は釈迦の晩年の時期、隣国[[コーサラ国]]の[[毘瑠璃王]](びるりおう、ヴィドゥーダバ、 ヴィル ーダカ)の大軍に攻められ[[族滅|皆殺しにされた]]と仏教文献に伝わるが、異説も有り、完全に根絶やしにされたのではなく、四人の王族が生き残り[[ヒンドゥー教]]に改宗して釈迦族は存続したという伝承も存在する{{要出典|date=2021年10月}}。
シャカ族で生き残った4人の男子は、それぞれ他の国へ行って、みなその国の王になったと伝える説もある(cf. [[上軍伝説]])<ref>水谷真成訳『大唐西域記』p. 196。
また、参照せよ、定方 晟『上軍伝説について』印度學佛教學研究第36巻1号、p.418、1987。</ref>。
インドの[[ウッタル・プラデーシュ州]]南部には釈迦族を自称する一族が現在も住んでいる{{要出典|date=2013年3月}}。
ネパールの[[パタン]]に[[ネワール]]族のサキヤ・カーストという職人たちが存在している<ref name="patan">「アジア城市(まち)案内」制作委員会 『ネパール 4 パタン』(出版社)まちごとパブリッシング、p.3 Google Playで電子書籍として購入可能。[https://play.google.com/store/books/details?id=e5Wh8mkFRHEC&rdid=book-e5Wh8mkFRHEC&rdot=1&source=gbs_atb]</ref>。このサキヤ・カーストは、コーサラ国によって滅ぼされたサーキャ族の末裔だと信じられている<ref name="patan" />。パタンではネパールの他の街にくらべて仏教徒の割合が高い、という<ref name="patan" />。そしてこのサキヤ・カーストは仏像や彫刻を彫ることで、[[初期仏教|古代仏教]]の伝統を今に伝えている、という<ref name="patan" />。
{{Seealso|ネワール仏教}}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite|和書 |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション |author=国民文庫刊行会 |title=[[国訳大蔵経]] |date=1917 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207434 |ref={{SfnRef|国訳大蔵経|1917}}}}
== 関連項目 ==
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朱
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朱(しゅ、あけ、あか)
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朱(しゅ、あけ、あか) 色名のひとつで、帯黄赤色。赤、朱色を参照。
赤色顔料のひとつで硫化水銀。赤、辰砂を参照。
朱墨のこと。
朱で和歌や俳句に点をつけること。朱で詩文を訂正すること。
古代中国の重量単位「銖」の略体。日本にも伝えられ、大宝令に重量単位として定められた。
江戸時代の日本における通貨単位のひとつ。上記、重量単位を起源とする。一朱金、二朱金、一朱銀を参照。
義太夫節の三味線の紀譜法のこと。
朱 (姓)、漢姓の一つ。中国などにおける姓の一つ。明皇室の姓でもある。
朱熹
2003年発売のアダルトゲーム『朱 -Aka-』
奥井雅美のシングル「朱-AKA-」
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'''朱'''(しゅ、あけ、あか)
* [[色名]]のひとつで、帯黄赤色。[[赤]]、[[朱色]]を参照。
* [[赤色]][[顔料]]のひとつで[[硫化水銀]]。[[赤]]、[[辰砂]]を参照。
* [[朱墨]]のこと。
* 朱で[[和歌]]や[[俳句]]に点をつけること。朱で[[詩]][[文]]を訂正すること。
* 古代中国の重量単位「[[銖]]」の略体。日本にも伝えられ、[[大宝律令|大宝令]]に重量単位として定められた。
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* [[朱 (姓)]]、漢姓の一つ。中国などにおける姓の一つ。[[明]]皇室の姓でもある。
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南鐐二朱銀
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南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)とは、江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。
正式名称については『銀座書留』などに「貮朱之歩判(にしゅのぶばん)」あるいこれを略して「貮朱判(にしゅばん)」と記述しており、南鐐二朱判(なんりょうにしゅばん)と呼ばれる。幕府が敢えて「二朱銀」と云わず金貨特有の美称である「判」を付して「二朱判」と称したのは、金貨である一分判に類する二朱の分判であり小判に対する少額貨幣として流通を目論んでいたことが窺える。
本来江戸時代の銀貨は秤量貨幣(丁銀・小玉銀)であるが、南鐐二朱銀は金貨の通貨単位を担う計数貨幣として「金代わり通用の銀」と呼ばれ、「南鐐」という特別の銀を意味する呼称を冠した。
形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は98パーセントと当時としては極めて高いものであった。
南鐐二朱銀は明和9年9月(1772年)に勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。これは出目(でめ/改鋳利益)による収益を目的として含んでいたことは確かであるが、田沼時代の商業を重用した積極的経済策が背景にあったとされる。寛政の改革時に一旦鋳造停止されたが、程なく発行が再開された。文政7年(1824年)には改鋳されてほぼ同質の新型の南鐐二朱銀が発行された。
明和年間までは高額取引には、西日本で丁銀・小玉銀、東日本で小判・一分判が一般的に用いられ、しかも両者の為替レートは変動相場制で、不安定だった。幕府は当初から通貨の基軸を両を単位とする金貨(小判・一分判)に統一する構想を有していた。最初は秤量銀貨の定位貨幣化が目的の五匁銀の発行を企画したが、商人らに受け入れられなかった。そこで、次の段階として金貨の通貨単位である2朱に相当する銀貨を発行して、金貨と銀貨の為替レートを固定、事実上の通貨統一を果たし、従来の銀貨=秤量貨幣(丁銀・小玉銀)の概念の意識抜き、通貨の基軸は金貨という洗脳を用意周到に行うのが狙いだった。
文字銀と同位のものを異なった価値で同時通用させようとした五匁銀が普及しなかった反省から、銀純度を上げる、額面の代わりに「以南鐐八片換小判一両」(8枚で小判1両に換える)と表記するなどの工夫がされ発行されたのが明和南鐐二朱銀(めいわなんりょうにしゅぎん)であった。しかし、小判と丁銀相互の変動相場による両替を元に利益を上げていた両替商にとって南鐐二朱銀の発行は死活問題であり、両替商の抵抗は激しいものであった。すなわち南鐐二朱銀の小判および丁銀への両替に対し、2割5分の増歩を要求するというものであった。南鐐二朱銀一両の純銀量が21.6匁であるのに対し、通用銀(文字銀)は一両を60匁として、27.6匁の純銀量であったことから、実質を重視する商人にとって名目貨幣は受け入れ難く、含有銀量をもって取引しようとするものであった。
この通用銀に対する南鐐二朱銀の含有銀両の不足について幕府は安永2年10月(1773年)の触書で、純銀10匁は通用銀25匁で売り出していたから、金一両=通用銀60匁=純銀24匁となると説明した。一両が純銀24匁ならば、南鐐二朱銀は3.0匁であるが、実際は2.7匁であり、この10%不足分のうち銀座の手数料である分一銀が7%、および幕府の取り分が3%と解釈される。
京都、大坂においては「金百両に南鐐二朱廿五両差」と呼ばれる金100両中南鐐二朱銀を25両、差交通用させるものであった。二朱銀通用を半ば強制された両替屋はそのような方法を採らざるを得なかったが、廿五両差通用ならばよく通用した方であった。
そこで幕府は取り扱う両替商および商人への南鐐二朱銀に対する優遇措置を行った。例えば「売上四分、買上八分」すなわち、両替商が南鐐二朱銀を売るとき買手に一両当り銀四分を与え、買上げるときは南鐐二朱銀の売り手から銀八分を徴収するよう取り決めた。また商人に対して南鐐二朱銀による貸付の場合は江戸では一万両、大坂では四万両を限度として3年間、無利子、無担保とした。
その甲斐あってか、秤量銀貨に馴染んでいた西日本でも徐々に浸透、丁銀、豆板銀といった秤量銀貨を少しずつ駆逐していった。また、明和期以前は一分判より低額面のものは寛永通寳一文銭であったため、この中間を補佐する貨幣の需要が高かったことも流通が普及した要因である。 一方、丁銀から南鐐二朱銀への改鋳が進行するにつれ、市中における秤量銀貨の不足により銀相場の高騰を招き、天明6年(1786年)には金1両=銀50匁をつけるに至った。この様な銀相場の高騰は江戸の物価高につながるため、田沼意次の政治を批判する立場であった松平定信を中心に進められた、寛政の改革の一環として、天明8年4月(1788年)に南鐐二朱銀の鋳造を中断し、南鐐二朱銀から丁銀への改鋳が進行した。
しかし、このような一両あたりの含有銀量の高い丁銀への復帰は幕府の財政難を招き再び路線変更を余儀なくされる。寛政12年(1800年)の銀座改革以降、南鐐二朱銀の鋳造が再開され、この時点で発行されたものは寛政南鐐二朱銀(かんせいなんりょうにしゅぎん)と呼ばれるが、両者の間に銀品位および量目などの相違は認められず、表面の書体が後の新南鐐二朱銀に類似するものがそれであるとされるが中間的なものも存在する。明和南鐐二朱銀および寛政南鐐二朱銀を総称して古南鐐二朱銀(こなんりょうにしゅぎん)と呼ぶ。
古南鐐二朱銀の規定量目は本来二匁七分(10.12グラム)であるが、銀座における作業の都合などから五厘の過目(すぎめ)までは認められ過目分は銀座の負担とし、二匁七分五厘(10.30グラム)程度のものも少なくない。公儀灰吹銀および回収された旧銀から南鐐二朱銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は鋳造高の7%と設定された。
以後このような名目貨幣が丁銀の発行・流通を凌駕するようになった。
文政7年(1824年)には量目を減少させた、文政南鐐二朱銀/新南鐐二朱銀(ぶんせいなんりょうにしゅぎん/しんなんりょうにしゅぎん)を発行し、その後、天保8年(1837年)発行の天保一分銀に計数銀貨は完成を見ることになる。新南鐐二朱銀発行に際し、幕府の出した触書は流通の便宜を図るため小型化したという名目であったが、真の狙いは財政再建が目的の出目獲得にあった。このような名目貨幣は幕府に利益をもたらすものであり、慢性的な財政難に悩む幕府にとって、もはや名目貨幣の発行は止まる所を知らないものとなっていった。しかしこれは当時の国際情勢を考慮すれば鎖国の下でのみに通用する政策であり、そのことが開国後の金流出へと至る原因となった。すなわち当時は全国の金山、銀山を幕府の支配下に置き、金座、銀座という特定の組織のみに金銀の取り扱いを許可するという体制の下であるからこそ名目貨幣の発行が可能であった。
銀座人らの受け取る分一銀は文政南鐐二朱銀では鋳造高の3.5%と設定され、また丁銀および古南鐐二朱判などからの吹替えにより幕府が得た出目は『銀座年寄御賞筋願之義申上候書付』によれば1,705,191両であった。
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南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)とは、江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。 正式名称については『銀座書留』などに「貮朱之歩判(にしゅのぶばん)」あるいこれを略して「貮朱判(にしゅばん)」と記述しており、南鐐二朱判(なんりょうにしゅばん)と呼ばれる。幕府が敢えて「二朱銀」と云わず金貨特有の美称である「判」を付して「二朱判」と称したのは、金貨である一分判に類する二朱の分判であり小判に対する少額貨幣として流通を目論んでいたことが窺える。
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== 概要 ==
本来江戸時代の銀貨は[[秤量貨幣]]([[丁銀]]・[[豆板銀|小玉銀]])であるが、南鐐二朱銀は金貨の通貨単位を担う[[計数貨幣]]として「金代わり通用の銀」と呼ばれ、「南鐐」という特別の銀を意味する呼称を冠した。
形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の[[灰吹銀]]、すなわち純[[銀]]という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は98[[パーセント]]と当時としては極めて高いものであった<ref name="Hisamitsu1976-128">[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p128-129.]]</ref>。
南鐐二朱銀は[[明和]]9年9月(1772年)に[[勘定奉行]]の[[川井久敬]]の建策により創鋳される。これは出目(でめ/[[シニョリッジ|改鋳利益]])による収益を目的として含んでいたことは確かであるが、[[田沼時代]]の商業を重用した積極的経済策が背景にあったとされる<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p185-186.]]</ref>。[[寛政の改革]]時に一旦鋳造停止されたが、程なく発行が再開された。[[文政]]7年(1824年)には改鋳されてほぼ同質の新型の南鐐二朱銀が発行された。
== 古南鐐二朱銀 ==
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明和年間までは高額取引には、[[西日本]]で[[丁銀]]・[[豆板銀|小玉銀]]、[[東日本]]で[[小判]]・[[一分金|一分判]]が一般的に用いられ、しかも両者の為替レートは変動相場制で、不安定だった。幕府は当初から通貨の基軸を両を単位とする金貨(小判・一分判)に統一する構想を有していた。最初は秤量銀貨の定位貨幣化が目的の[[五匁銀]]の発行を企画したが、商人らに受け入れられなかった。そこで、次の段階として金貨の通貨単位である2[[朱]]に相当する銀貨を発行して、金貨と銀貨の為替レートを固定、事実上の通貨統一を果たし、従来の銀貨=秤量貨幣(丁銀・小玉銀)の概念の意識抜き、通貨の基軸は金貨という[[洗脳]]を用意周到に行うのが狙いだった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p230-232.]]</ref>。
文字銀と同位のものを異なった価値で同時通用させようとした五匁銀が普及しなかった反省から、銀純度を上げる、額面の代わりに「以南鐐八片換小判一両」(8枚で小判1[[両]]に換える)と表記するなどの工夫がされ発行されたのが'''明和南鐐二朱銀'''(めいわなんりょうにしゅぎん)であった<ref name="Hisamitsu1976-128" />。しかし、[[小判]]と[[丁銀]]相互の[[変動相場制|変動相場]]による[[両替]]を元に利益を上げていた[[両替商]]にとって南鐐二朱銀の発行は死活問題であり、両替商の抵抗は激しいものであった。すなわち南鐐二朱銀の小判および丁銀への両替に対し、2割5分の増歩を要求するというものであった。南鐐二朱銀一両の純銀量が21.6[[匁]]であるのに対し、通用銀([[元文丁銀|文字銀]])は一両を60匁として、27.6匁の純銀量であったことから、実質を重視する[[商人]]にとって名目貨幣は受け入れ難く、含有銀量をもって取引しようとするものであった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p224-227.]]</ref>。
この通用銀に対する南鐐二朱銀の含有銀両の不足について幕府は安永2年10月(1773年)の触書で、純銀10匁は通用銀25匁で売り出していたから、金一両=通用銀60匁=純銀24匁となると説明した。一両が純銀24匁ならば、南鐐二朱銀は3.0匁であるが、実際は2.7匁であり、この10%不足分のうち銀座の手数料である分一銀が7%、および幕府の取り分が3%と解釈される<ref name="Hisamitsu1976-128" />。
京都、大坂においては「金百両に南鐐二朱廿五両差」と呼ばれる金100両中南鐐二朱銀を25両、差交通用させるものであった。二朱銀通用を半ば強制された両替屋はそのような方法を採らざるを得なかったが、廿五両差通用ならばよく通用した方であった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p314-317.]]</ref>。
そこで[[江戸幕府|幕府]]は取り扱う両替商および商人への南鐐二朱銀に対する優遇措置を行った。例えば「売上四分、買上八分」すなわち、両替商が南鐐二朱銀を売るとき買手に一両当り銀四分を与え、買上げるときは南鐐二朱銀の売り手から銀八分を徴収するよう取り決めた。また商人に対して南鐐二朱銀による貸付の場合は[[江戸]]では一万両、[[大坂]]では四万両を限度として3年間、無[[利子]]、無[[担保]]とした<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p278-280.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p227-229.]]</ref><ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p229-230.]]</ref>。
その甲斐あってか、秤量銀貨に馴染んでいた[[西日本]]でも徐々に浸透、丁銀、[[豆板銀]]といった[[秤量銀貨]]を少しずつ駆逐していった。また、明和期以前は一分判より低額面のものは[[寛永通寳]]一[[文 (通貨単位)|文]]銭であったため、この中間を補佐する貨幣の需要が高かったことも流通が普及した要因である。
一方、丁銀から南鐐二朱銀への改鋳が進行するにつれ、市中における秤量銀貨の不足により銀相場の高騰を招き、[[天明]]6年(1786年)には金1両=銀50匁をつけるに至った。この様な銀相場の高騰は江戸の[[物価]]高につながるため、[[田沼意次]]の[[政治]]を批判する立場であった[[松平定信]]を中心に進められた、寛政の改革の一環として、天明8年4月(1788年)に南鐐二朱銀の鋳造を中断し、南鐐二朱銀から丁銀への改鋳が進行した<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p318-320.]]</ref>。
しかし、このような一両あたりの含有銀量の高い丁銀への復帰は幕府の財政難を招き再び路線変更を余儀なくされる。[[寛政]]12年(1800年)の[[銀座 (歴史)|銀座]]改革以降、南鐐二朱銀の鋳造が再開され<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p384-385.]]</ref><ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p230-231.]]</ref>、この時点で発行されたものは'''寛政南鐐二朱銀'''(かんせいなんりょうにしゅぎん)と呼ばれるが、両者の間に銀品位および量目などの相違は認められず、表面の書体が後の新南鐐二朱銀に類似するものがそれであるとされるが中間的なものも存在する<ref>清水恒吉 『再考 古南鐐二朱銀の分類』</ref>。明和南鐐二朱銀および寛政南鐐二朱銀を総称して'''古南鐐二朱銀'''(こなんりょうにしゅぎん)と呼ぶ。
古南鐐二朱銀の規定量目は本来二[[匁]]七分(10.12[[グラム]])であるが、銀座における作業の都合などから五厘の過目(すぎめ)までは認められ過目分は銀座の負担とし、二匁七分五厘(10.30グラム)程度のものも少なくない。[[灰吹銀|公儀灰吹銀]]および回収された旧銀から南鐐二朱銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は鋳造高の7%と設定された<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p310-313.]]</ref>。
以後このような名目貨幣が丁銀の発行・流通を凌駕するようになった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p230-239.]]</ref>。
== 新南鐐二朱銀 ==
[[画像:Bunsei-nanryo-2shu.jpg|thumb|right|220px|文政南鐐二朱銀]]
文政7年([[1824年]])には量目を減少させた、'''文政南鐐二朱銀'''/'''新南鐐二朱銀'''(ぶんせいなんりょうにしゅぎん/しんなんりょうにしゅぎん)を発行し、その後、[[天保]]8年(1837年)発行の天保[[一分銀]]に計数銀貨は完成を見ることになる。新南鐐二朱銀発行に際し、幕府の出した触書は流通の便宜を図るため小型化したという名目であったが、真の狙いは財政再建が目的の出目獲得にあった<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p280-281.]]</ref>。このような名目貨幣は幕府に利益をもたらすものであり、慢性的な財政難に悩む幕府にとって、もはや名目貨幣の発行は止まる所を知らないものとなっていった。しかしこれは当時の国際情勢を考慮すれば[[鎖国]]の下でのみに通用する政策であり、そのことが[[日米和親条約|開国]]後の[[幕末の通貨問題|金流出]]へと至る原因となった。すなわち当時は全国の金山、銀山を幕府の支配下に置き、金座、銀座という特定の組織のみに金銀の取り扱いを許可するという体制の下であるからこそ名目貨幣の発行が可能であった<ref name="sato">佐藤雅美 『大君の通貨 幕末「円ドル」戦争』 文藝春秋、2000年</ref>。
銀座人らの受け取る分一銀は文政南鐐二朱銀では鋳造高の3.5%と設定され、また丁銀および古南鐐二朱判などからの[[貨幣改鋳|吹替え]]により幕府が得た出目は『銀座年寄御賞筋願之義申上候書付』によれば1,705,191両であった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p396-397.]]</ref>。
== 一覧(鋳造開始・品位・量目・鋳造量) ==
{| class="wikitable" style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#ffffff"
|+
! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |名称
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造開始
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定品位<br>分析品位([[造幣局 (日本)|造幣局]])<ref name="koga">甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年</ref>
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定量目
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造量
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |明和南鐐二朱判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |[[明和]]9年<br>(1772年)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |上銀<br>金0.13%/銀97.81%/雑2.06%
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2.7[[匁]]<br>(10.12[[グラム]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |3,831,880[[両]]<br>(30,655,040枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |寛政南鐐二朱判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |[[寛政]]12年<br>(1800年)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |上銀<br>金0.13%/銀97.81%/雑2.06%
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2.7匁<br>(10.12グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2,101,162両<br>(16,809,296枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |文政南鐐二朱判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |[[文政]]7年<br>(1824年)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |上銀<br>金0.22%/銀97.96%/雑1.82%
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2匁<br>(7.49グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |7,587,035両2分<br>(60,696,284枚)
|}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=浅井晋吾 |title=新・一分銀分類譜 |publisher=書信館出版 |date=2003 |isbn=4-901553-07-0 |ref=Asai2003}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn=978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄 |title=日本の貨幣の歴史 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1996 |isbn=978-4-642-06652-5 |ref=Takizawa1996}}
* {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄,西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|author=清水恒吉 |title=南鐐蔵版 地方貨幣分朱銀判価格図譜 |publisher=南鐐コイン・スタンプ社 |date=1996 |isbn= |ref=Shimizu1996}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
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11,481 |
五匁銀
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五匁銀(ごもんめぎん)とは、江戸時代の一時期に発行された銀貨の一種。その形状から硯箱とも呼ばれる。
金貨と銀貨の為替レートの固定を狙った最初の銀貨。田沼意次の命を受けた川井久敬が考案、明和2年(1765年)9月4日に発行された。形状は長方形で、質量は5匁(約18.74グラム)。銀純度は46パーセント。表面には「文字銀五匁(ぶんじぎんごもんめ)」と表記されており、これは当時の通用銀貨(元文丁銀)と等品位であることを示しており、裏面には「常是」と表記されている。江戸時代の日本で、銀目の固定額面による金属貨幣として唯一のものである。
五匁銀の発行当初は通用銀である元文銀と同じ秤量貨幣扱いとして流通させ、やがて当時の公定レート(金貨1両=銀貨60匁)に従い、12枚で小判1枚と交換可能なものへと自然に移行し、銀貨の計数貨幣化を図ろうとする狙いがあった。しかし、当時の実勢レートは 小判1枚(貨幣価値1両)に対し銀貨63匁(約236.25グラム)前後であり、小判との交換規定は現実にそぐわないものであった。
また、当時の両替商は、金貨・銀貨の為替差益や為替手数料、銀貨の秤量手数料などで収入を得ており、額面の固定されている五匁銀は敬遠された。さらに市場では豆板銀同様の秤量貨幣としての扱いに変化は無く、豆板銀および一分判などよりもかさばることから流通不便貨幣の扱いを受けた。 こうした事情により、ほとんど流通しないまま、明和5年(1768年)7月23日には引換回収が開始され、通用停止などの布告は出されないまま市場からは自然に姿を消した。
これより先の明和4年(1767年)12月に幕府は12枚を一両で通用させるよう触書を出したが、同時に勘定奉行に対しては市中の五匁銀を小判へ引換させる旨、申し渡しており、この公定価格は事実上五匁銀の回収のために出されたものであった。
公儀灰吹銀および回収された旧銀から丁銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は五匁銀では元文銀と同じ鋳造高の7%と設定されたが、鋳造高が小額にとどまったため銀座は損失を被ったとされる。
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五匁銀(ごもんめぎん)とは、江戸時代の一時期に発行された銀貨の一種。その形状から硯箱とも呼ばれる。
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'''五匁銀'''(ごもんめぎん)とは、[[江戸時代]]の一時期に発行された[[銀貨]]の一種。その形状から[[硯箱]]とも呼ばれる。
== 概要 ==
[[画像:Bunzi-gin5monme.jpg|thumb|right|300px|明和五匁銀]]
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五匁銀の発行当初は通用銀である元文銀と同じ[[秤量貨幣]]扱いとして流通させ、やがて当時の公定レート(金貨1[[両]]=銀貨60匁)に従い、12枚で[[小判]]1枚と交換可能なものへと自然に移行し、銀貨の計数貨幣化を図ろうとする狙いがあった。しかし、当時の実勢レートは 小判1枚(貨幣価値1両)に対し銀貨63匁(約236.25グラム)前後であり、小判との交換規定は現実にそぐわないものであった<ref name="tebiki" /><ref name="tatani">田谷博吉 『近世銀座の研究』 [[吉川弘文館]]、[[1963年]]</ref>。
また、当時の[[両替商]]は、金貨・銀貨の為替差益や為替手数料、銀貨の秤量手数料などで収入を得ており、額面の固定されている五匁銀は敬遠された。さらに市場では[[豆板銀]]同様の[[秤量貨幣]]としての扱いに変化は無く、豆板銀および[[一分判]]などよりもかさばることから流通不便貨幣の扱いを受けた。
こうした事情により、ほとんど流通しないまま、明和5年([[1768年]])7月23日には引換回収が開始され、通用停止などの布告は出されないまま[[市場]]からは自然に姿を消した。
これより先の明和4年([[1767年]])12月に[[江戸幕府|幕府]]は12枚を一両で通用させるよう触書を出したが、同時に[[勘定奉行]]に対しては市中の五匁銀を小判へ引換させる旨、申し渡しており、この公定価格は事実上五匁銀の回収のために出されたものであった<ref name="tatani" />。
[[灰吹銀|公儀灰吹銀]]および回収された旧銀から丁銀を吹きたてる場合の[[銀座 (歴史)|銀座]]の収入である分一銀(ぶいちぎん)は五匁銀では元文銀と同じ鋳造高の7%と設定されたが、鋳造高が小額にとどまったため銀座は損失を被ったとされる<ref name="tatani" />。
== 鋳造開始・品位・量目・鋳造量 ==
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|+
! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |名称
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!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造量
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |明和五匁銀
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |明和2年<br>([[1765年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |四割九分四厘引ケ<br />銀46%/銅54%
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |5.0[[匁]]<br>(18.74[[グラム]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |1,806[[貫]]400匁<br>(361,280枚)
|}
== 参考文献 ==
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{{江戸時代の貨幣}}
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[[Category:江戸時代の銀貨]]
[[Category:田沼意次]]
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スロボダン・ミロシェヴィッチ
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スロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア語: Слободан Милошевић / Slobodan Milošević、1941年8月20日 - 2006年3月11日)は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア連邦共和国大統領(第3代)、セルビア共産主義者同盟(英語版)中央委員会幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。
欧州ではベラルーシのルカシェンコ大統領と並ぶ独裁者と見られ、いわゆる戦争犯罪に手を染めた人物として有名であった。1992年のユーゴスラビア社会主義連邦共和国崩壊後は一貫してNATO諸国と対立し、一連のユーゴスラビア紛争における戦争犯罪人として身柄を拘束された。第二次世界大戦の戦後処理を行った極東国際軍事裁判以来初の国際裁判での戦犯として国際連合が設置した旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で起訴されていたが、2006年3月11日に、「人道に対する罪」(欧州ではナチス・ドイツ関係者を裁いたニュルンベルク裁判以来の適用となるジェノサイド罪で被告となっていた)に対する国際検事団による協同審議中に持病が悪化し、収監先のハーグにて獄死した。冷戦時代を締めくくる戦犯として知られる。満64歳没。
ベオグラードの東約70キロの町ポジャレヴァツで生まれる。父親は家族を棄て、また母親、伯父も自殺している。少年時代は学校の共産主義科目を得意としており、「小レーニン」と呼ばれた。1964年にベオグラード大学法学部を卒業後、ガス会社のテクノガスに入社。1973年には社長となった。その後ベオグラード銀行に移り1978年に頭取となる。
政界に転身し、1978年 - 1982年、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となり、1987年4月にコソボを訪問した際には、アルバニア人から迫害されたセルビア人に対してコソヴォ・ポリェで演説を行い、セルビア人を守る旨の発言をした。それ以来、セルビア人の「守護神」としてセルビア民族主義者中で人気を獲得し始めた。1986年にセルビア共産主義者同盟(英語版)中央委員会幹部会議長に就任。自身の権力強化のために、セルビア民族主義を国民に扇動し、利用した。
1987年にイヴァン・スタンボリッチ(英語版)が辞任したのを受けて、セルビア共和国幹部会議長に就任した。スタンボリッチは2000年に何者かに誘拐され、2003年に死体で発見された。セルビア国家保安庁・特殊作戦部隊による犯行と見られている。
1990年には新設のセルビア共和国大統領に就任。1992年にミラン・パニッチ首相を破り再選された。1997年にはセルビア共和国大統領の任期切れを前にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)第3代大統領に就任した。大統領になってからは、治安機関から出される報告書に毎日目を通していたといわれ、情報・治安機関を使って政敵や野党勢力の動向監視や民主化運動を容赦なく弾圧していた。
1991年にはスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。また1998年以降激化したコソボ紛争を治安部隊により弾圧したが、1999年のNATOによるユーゴ空爆後、コソボの国連管理を容認することとなる。
2000年秋、再選を目指し国民による直接投票となったユーゴスラビア連邦大統領選挙の際、選挙不正に怒った国民の抗議行動、いわゆる「ブルドーザー革命」により退陣し、連邦大統領の座をセルビア民主野党連合のヴォイスラヴ・コシュトニツァに譲った。コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、経済援助を条件にするNATOの圧力の下、2001年4月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕・収監された。同年7月には同国憲法に違反して国連の設置した旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(オランダ・ハーグ)に身柄を移送され、以降人道に対する罪などで裁判が行われた。上記のスタンボリッチ殺害の容疑も、含まれている。
高血圧など体調の不具合という理由、また容疑事実の立証がなされなかったため、裁判は非常に長引いた。2006年3月11日朝、収監中の独房で死亡しているのが発見された。自殺説や毒殺説などが飛び交ったが、5月31日に公表された戦犯法廷の報告は持病の高血圧と心臓疾患による心臓発作が死因と結論付けた。64歳没。
今日、セルビア人の間ではミロシェヴィッチを評価する声は少ない。理由としてはミロシェヴィッチ政権下ではセルビアが国際的に孤立し、経済制裁によって市民生活が困窮したことや、周辺諸国の紛争に介入し、すべての戦争で“敗北”したことでセルビア人の利益を損ない、コソボ紛争ではNATOの空爆を招き、領土まで失ったと考えているからである。
しかし、現在でも経済的発展から取り残された年金生活の高齢者や失業者、セルビア民族主義者、コソボからのセルビア人難民の中には、ミロシェヴィッチを慕う者も多い。
妻のミリヤナ・マルコヴィッチとは、大学在籍中に知り合う。彼女は翼賛政党である「ユーゴスラビア左翼連合」の党首を務め、夫の権力を支えた。多くの人々は、彼女がミロシェヴィッチの行動、ユーゴスラビアの政治に大きな影響を与えたと考えている。
息子のマルコ・ミロシェビッチ(英語版)はその妻や子供とともにブルドーザー革命後にロシアのモスクワを経由してミロシェビッチ一家と親密な関係だった中国の北京首都国際空港まで逃げるも外交問題となることを懸念した中国当局から入国を拒否された。中国にはミロシェビッチの金庫番であるボルカ・ヴチッチ(英語版)によって巨額の財産がユーゴスラビアから持ち込まれていたとも報じられていた。
2007年3月5日、ミロシェヴィッチの墓にサンザシを突き刺し悪魔祓いの儀式を行う者が現れ、話題となった。この儀式は吸血鬼や悪霊を祓うことを目的としており、ユーゴスラビアに古くから伝わる伝統儀式である。犯人は、過去にミロシェヴィッチ政権打倒を呼びかけていたカメラマンであり、奇しくもミロシェヴィッチと同姓であった。犯人自ら警察に通報したものの、警察は特に法的措置は取らなかった。しかし、セルビア社会党は当該儀式を非難するコメントを発表している。
2016年3月24日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は元スルプスカ共和国大統領ラドヴァン・カラジッチに対し大量虐殺の関与、投獄や人道に反する罪で禁錮40年を言い渡す。カラジッチに対する判決文の文中に、ミロシェヴィッチに対して生前問われていた罪状について無罪とする内容が含まれていた。
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"text": "スロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア語: Слободан Милошевић / Slobodan Milošević、1941年8月20日 - 2006年3月11日)は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア連邦共和国大統領(第3代)、セルビア共産主義者同盟(英語版)中央委員会幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。",
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"text": "欧州ではベラルーシのルカシェンコ大統領と並ぶ独裁者と見られ、いわゆる戦争犯罪に手を染めた人物として有名であった。1992年のユーゴスラビア社会主義連邦共和国崩壊後は一貫してNATO諸国と対立し、一連のユーゴスラビア紛争における戦争犯罪人として身柄を拘束された。第二次世界大戦の戦後処理を行った極東国際軍事裁判以来初の国際裁判での戦犯として国際連合が設置した旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で起訴されていたが、2006年3月11日に、「人道に対する罪」(欧州ではナチス・ドイツ関係者を裁いたニュルンベルク裁判以来の適用となるジェノサイド罪で被告となっていた)に対する国際検事団による協同審議中に持病が悪化し、収監先のハーグにて獄死した。冷戦時代を締めくくる戦犯として知られる。満64歳没。",
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"text": "ベオグラードの東約70キロの町ポジャレヴァツで生まれる。父親は家族を棄て、また母親、伯父も自殺している。少年時代は学校の共産主義科目を得意としており、「小レーニン」と呼ばれた。1964年にベオグラード大学法学部を卒業後、ガス会社のテクノガスに入社。1973年には社長となった。その後ベオグラード銀行に移り1978年に頭取となる。",
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"text": "政界に転身し、1978年 - 1982年、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となり、1987年4月にコソボを訪問した際には、アルバニア人から迫害されたセルビア人に対してコソヴォ・ポリェで演説を行い、セルビア人を守る旨の発言をした。それ以来、セルビア人の「守護神」としてセルビア民族主義者中で人気を獲得し始めた。1986年にセルビア共産主義者同盟(英語版)中央委員会幹部会議長に就任。自身の権力強化のために、セルビア民族主義を国民に扇動し、利用した。",
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"text": "1987年にイヴァン・スタンボリッチ(英語版)が辞任したのを受けて、セルビア共和国幹部会議長に就任した。スタンボリッチは2000年に何者かに誘拐され、2003年に死体で発見された。セルビア国家保安庁・特殊作戦部隊による犯行と見られている。",
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"text": "1990年には新設のセルビア共和国大統領に就任。1992年にミラン・パニッチ首相を破り再選された。1997年にはセルビア共和国大統領の任期切れを前にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)第3代大統領に就任した。大統領になってからは、治安機関から出される報告書に毎日目を通していたといわれ、情報・治安機関を使って政敵や野党勢力の動向監視や民主化運動を容赦なく弾圧していた。",
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"text": "1991年にはスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。また1998年以降激化したコソボ紛争を治安部隊により弾圧したが、1999年のNATOによるユーゴ空爆後、コソボの国連管理を容認することとなる。",
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"title": "生涯"
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"text": "高血圧など体調の不具合という理由、また容疑事実の立証がなされなかったため、裁判は非常に長引いた。2006年3月11日朝、収監中の独房で死亡しているのが発見された。自殺説や毒殺説などが飛び交ったが、5月31日に公表された戦犯法廷の報告は持病の高血圧と心臓疾患による心臓発作が死因と結論付けた。64歳没。",
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"text": "今日、セルビア人の間ではミロシェヴィッチを評価する声は少ない。理由としてはミロシェヴィッチ政権下ではセルビアが国際的に孤立し、経済制裁によって市民生活が困窮したことや、周辺諸国の紛争に介入し、すべての戦争で“敗北”したことでセルビア人の利益を損ない、コソボ紛争ではNATOの空爆を招き、領土まで失ったと考えているからである。",
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"text": "しかし、現在でも経済的発展から取り残された年金生活の高齢者や失業者、セルビア民族主義者、コソボからのセルビア人難民の中には、ミロシェヴィッチを慕う者も多い。",
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"text": "妻のミリヤナ・マルコヴィッチとは、大学在籍中に知り合う。彼女は翼賛政党である「ユーゴスラビア左翼連合」の党首を務め、夫の権力を支えた。多くの人々は、彼女がミロシェヴィッチの行動、ユーゴスラビアの政治に大きな影響を与えたと考えている。",
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"text": "息子のマルコ・ミロシェビッチ(英語版)はその妻や子供とともにブルドーザー革命後にロシアのモスクワを経由してミロシェビッチ一家と親密な関係だった中国の北京首都国際空港まで逃げるも外交問題となることを懸念した中国当局から入国を拒否された。中国にはミロシェビッチの金庫番であるボルカ・ヴチッチ(英語版)によって巨額の財産がユーゴスラビアから持ち込まれていたとも報じられていた。",
"title": "人物"
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"text": "2007年3月5日、ミロシェヴィッチの墓にサンザシを突き刺し悪魔祓いの儀式を行う者が現れ、話題となった。この儀式は吸血鬼や悪霊を祓うことを目的としており、ユーゴスラビアに古くから伝わる伝統儀式である。犯人は、過去にミロシェヴィッチ政権打倒を呼びかけていたカメラマンであり、奇しくもミロシェヴィッチと同姓であった。犯人自ら警察に通報したものの、警察は特に法的措置は取らなかった。しかし、セルビア社会党は当該儀式を非難するコメントを発表している。",
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"title": "死後の出来事"
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スロボダン・ミロシェヴィッチは、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア連邦共和国大統領(第3代)、セルビア共産主義者同盟中央委員会幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。
|
{{出典の明記|date=2021-01-16}}
{{大統領
| 人名 = スロボダン・ミロシェヴィッチ
| 各国語表記 = {{lang|sr|Слободан Милошевић}}
| 画像 = Stevan Kragujevic, Slobodan Milosevic, portret.jpg
| 画像サイズ = 230px
| キャプション = 1988年
| 国名 = {{YUG}}
| 代数 = 第3
| 職名 = [[ユーゴスラビア#連邦共和国|大統領]]
| 就任日 = [[1997年]][[7月23日]]
| 退任日 = [[2000年]][[10月7日]]
| 国名2 = [[ファイル:Flag_of_Serbia_1992-2004.svg|25x20px]] [[セルビア共和国 (1992年-2006年)|セルビア共和国]]
| 代数2 = 初
| 職名2 = [[セルビアの大統領|大統領]]
| 就任日2 = 1990年9月28日
| 退任日2 = 1997年7月23日
| 国名3 = [[ファイル:Flag of the Socialist Republic of Serbia.svg|25x20px]] [[セルビア社会主義共和国]]
| 代数3 = 第7
| 職名3 = [[セルビアの大統領|幹部会議長(大統領)]]
| 就任日3 = 1989年5月8日
| 退任日3 = 1990年9月28日
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1941|8|20|no}}
| 生地 = {{YUG1918}}、[[ポジャレヴァツ]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1941|8|20|2006|3|11}}
| 没地 = {{NED}}、[[ハーグ]]
| 配偶者 = [[ミリヤナ・マルコヴィッチ]]
| 政党 = [[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]<br>({{仮リンク|セルビア共産主義者同盟|en|League of Communists of Serbia}})→[[セルビア社会党]]
| サイン = Slobodan Milosevic Signature.png
}}
[[ファイル:DaytonAgreement.jpg|thumb|right|250px|スロボダン・ミロシェヴィッチ(中央)。[[デイトン合意]]の調印の場にて]]
'''スロボダン・ミロシェヴィッチ'''({{lang-sr|Слободан Милошевић / Slobodan Milošević}}、[[1941年]][[8月20日]] - [[2006年]][[3月11日]]{{Sfn|月村太郎|2006|pp=23-26}})は、[[セルビア]]の政治家。[[セルビア社会主義共和国]]幹部会議長(大統領に相当・第7代)、[[セルビア共和国 (1990年-2006年)|セルビア共和国]]大統領(初代)、[[ユーゴスラビア連邦共和国]]大統領(第3代)、{{仮リンク|セルビア共産主義者同盟|en|League of Communists of Serbia}}中央委員会幹部会議長、[[セルビア社会党]]党首を歴任した。
== 概要 ==
欧州では[[ベラルーシ]]の[[アレクサンドル・ルカシェンコ|ルカシェンコ]]大統領と並ぶ[[独裁者]]と見られ、いわゆる[[戦争犯罪]]に手を染めた人物として有名であった。[[1992年]]の[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]崩壊後は一貫して[[北大西洋条約機構|NATO]]諸国と対立し、一連の[[ユーゴスラビア紛争]]における戦争犯罪人として身柄を拘束された。[[第二次世界大戦]]の戦後処理を行った[[極東国際軍事裁判]]以来初の国際裁判での戦犯として[[国際連合]]が設置した[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]で起訴されていたが、[[2006年]][[3月11日]]に、「人道に対する罪」(欧州では[[ナチス・ドイツ]]関係者を裁いた[[ニュルンベルク裁判]]以来の適用となる[[ジェノサイド]]罪で被告となっていた)に対する国際検事団による協同審議中に持病が悪化し、収監先のハーグにて獄死した。[[冷戦]]時代を締めくくる戦犯として知られる。満64歳没。
== 生涯 ==
[[ベオグラード]]の東約70キロの町[[ポジャレヴァツ]]で生まれる{{Sfn|月村太郎|2006|pp=23-26}}。父親は家族を棄て、また母親、伯父も自殺している。少年時代は学校の共産主義科目を得意としており、「小[[レーニン]]」と呼ばれた。[[1964年]]に[[ベオグラード大学]]法学部を卒業後、ガス会社のテクノガスに入社。[[1973年]]には社長となった。その後ベオグラード銀行に移り[[1978年]]に頭取となる{{Sfn|月村太郎|2006|pp=23-26}}。
政界に転身し、[[1978年]] - [[1982年]]、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となり、[[1987年]]4月に[[コソボ]]を訪問した際には、[[アルバニア人]]から迫害された[[セルビア人]]に対して[[コソヴォ・ポリェ]]で演説を行い、セルビア人を守る旨の発言をした{{Sfn|月村太郎|2006|pp=23-26}}。それ以来、セルビア人の「守護神」としてセルビア民族主義者中で人気を獲得し始めた。[[1986年]]に{{仮リンク|セルビア共産主義者同盟|en|League of Communists of Serbia}}中央委員会幹部会議長に就任。自身の権力強化のために、[[大セルビア主義|セルビア民族主義]]を国民に扇動し、利用した。
[[1987年]]に{{仮リンク|イヴァン・スタンボリッチ|en|Ivan Stambolić}}が辞任したのを受けて、セルビア共和国幹部会議長に就任した。スタンボリッチは2000年に何者かに誘拐され、2003年に死体で発見された。セルビア国家保安庁・特殊作戦部隊による犯行と見られている。
[[1990年]]には新設のセルビア共和国大統領に就任。[[1992年]]に[[ミラン・パニッチ]]首相を破り再選された。[[1997年]]にはセルビア共和国大統領の任期切れを前に[[ユーゴスラビア連邦共和国]](新ユーゴ)第3代大統領に就任した。大統領になってからは、治安機関から出される報告書に毎日目を通していたといわれ、情報・治安機関を使って政敵や野党勢力の動向監視や民主化運動を容赦なく弾圧していた。
1991年には[[スロベニア]]・[[クロアチア]]・[[マケドニア共和国]]独立に、[[1992年]]には[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]独立運動に軍事介入した。また[[1998年]]以降激化した[[コソボ紛争]]を治安部隊により弾圧したが、[[1999年]]の[[北大西洋条約機構|NATO]]によるユーゴ空爆後、[[コソボ]]の[[国際連合|国連]]管理を容認することとなる。
[[2000年]]秋、再選を目指し国民による直接投票となったユーゴスラビア連邦大統領選挙の際、選挙不正に怒った国民の抗議行動、いわゆる「[[ブルドーザー革命]]」により退陣し、連邦大統領の座をセルビア民主野党連合の[[ヴォイスラヴ・コシュトニツァ]]に譲った。[[コソボ紛争]]でのアルバニア人住民に対する[[ジェノサイド]]の責任者として'''[[人道に対する罪]]'''で起訴され、経済援助を条件にするNATOの圧力の下、[[2001年]][[4月]]に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕・収監された。同年[[7月]]には同国憲法に違反して国連の設置した'''[[旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所]]'''([[オランダ]]・[[デン・ハーグ|ハーグ]])に身柄を移送され、以降人道に対する罪などで裁判が行われた。上記のスタンボリッチ殺害の容疑も、含まれている。
[[高血圧]]など体調の不具合という理由、また容疑事実の立証がなされなかったため、裁判は非常に長引いた。2006年3月11日朝、収監中の独房で死亡しているのが発見された。[[自殺]]説や[[毒殺]]説などが飛び交ったが、5月31日に公表された戦犯法廷の報告は持病の高血圧と心臓疾患による[[心臓発作]]が死因と結論付けた<ref>{{Kotobank|ミロシェビッチ死去}}(柴宜弘)</ref>。64歳没。
== 評価 ==
今日、セルビア人の間ではミロシェヴィッチを評価する声は少ない。理由としてはミロシェヴィッチ政権下ではセルビアが国際的に孤立し、[[経済制裁]]によって市民生活が困窮したことや、周辺諸国の紛争に介入し、すべての戦争で“敗北”したことでセルビア人の利益を損ない、コソボ紛争ではNATOの空爆を招き、領土まで失ったと考えているからである。
しかし、現在でも経済的発展から取り残された[[年金]]生活の[[高齢者]]や[[失業者]]、セルビア[[民族主義]]者、コソボからのセルビア人[[難民]]の中には、ミロシェヴィッチを慕う者も多い。
== 人物 ==
妻の[[ミリヤナ・マルコヴィッチ]]とは、大学在籍中に知り合う。彼女は翼賛政党である「ユーゴスラビア左翼連合」の党首を務め、夫の権力を支えた。多くの人々は、彼女がミロシェヴィッチの行動、ユーゴスラビアの政治に大きな影響を与えたと考えている。
息子の{{仮リンク|マルコ・ミロシェビッチ|en|Marko Milošević}}はその妻や子供とともにブルドーザー革命後に[[ロシア]]の[[モスクワ]]を経由してミロシェビッチ一家と親密な関係<ref>Milošević's China dream flops, Chinatown-Belgrade booms , 5 March 2008</ref><ref>Eckholm, Erik (8 October 2000). "Showdown in Yugoslavia: An Ally". The New York Times.</ref>だった[[中華人民共和国|中国]]の[[北京首都国際空港]]まで逃げるも外交問題となることを懸念した中国当局から入国を拒否された<ref>{{cite news|title = Milosevic's Son Is Denied Entry Into China Despite Agreement
|url = https://www.wsj.com/articles/SB971122138606648914|publisher = [[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|date = 2000年10月10日|accessdate = 2019-04-12}}</ref><ref>{{cite news|title = Dictator's son turned away from Chinese refuge|url = https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/china/1369768/Dictators-son-turned-away-from-Chinese-refuge.html|publisher = [[デイリー・テレグラフ|テレグラフ]]|date = 2000年10月10日|accessdate = 2019-04-12}}</ref>。中国にはミロシェビッチの金庫番である{{仮リンク|ボルカ・ヴチッチ|en|Borka Vučić}}によって巨額の財産がユーゴスラビアから持ち込まれていたとも報じられていた<ref>{{cite news|title = Dictator's son turned away from Chinese refuge|url = https://www.theguardian.com/world/2000/oct/10/balkans1|publisher = [[ガーディアン]]|date = 2000年10月10日|accessdate = 2019-04-12}}</ref>。
== 死後の出来事 ==
[[2007年]][[3月5日]]、ミロシェヴィッチの墓に[[サンザシ]]を突き刺し[[悪魔祓い]]の儀式を行う者が現れ、話題となった。この儀式は[[吸血鬼]]や[[悪霊]]を祓うことを目的としており、ユーゴスラビアに古くから伝わる伝統儀式である。犯人は、過去にミロシェヴィッチ政権打倒を呼びかけていた[[カメラマン]]であり、奇しくもミロシェヴィッチと同姓であった。犯人自ら警察に通報したものの、警察は特に法的措置は取らなかった。しかし、[[セルビア社会党]]は当該儀式を非難するコメントを発表している。
[[2016年]][[3月24日]]、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は元[[スルプスカ共和国]]大統領[[ラドヴァン・カラジッチ]]に対し大量虐殺の関与、投獄や人道に反する罪で禁錮40年を言い渡す。カラジッチに対する判決文の文中に、ミロシェヴィッチに対して生前問われていた罪状について無罪とする内容が含まれていた<ref name="conpaper20160806">{{cite news|title = Serbian leader Slobodan Milosevic Found Not Guilty of War Crimes|url = http://conservativepapers.com/news/2016/08/06/serbian-leader-slobodan-milosevic-found-not-guilty-of-war-crimes/|publisher = The Conservative Papers|date = 2016年8月6日|accessdate = 2016年11月5日}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 出典 ==
* {{Cite book|和書|title=ユーゴ内戦ー政治リーダーと民族主義|date=2006年9月8日|year=2006|publisher=[[東京大学出版会]]|ref=久保 2006|author=月村太郎|authorlink=月村太郎}}
== 関連項目 ==
* [[江沢民]]
* [[オトポール!]]
* [[セルビア社会党]]
== 外部リンク ==
* [http://www.afri-ct.org/article.php3?id_article=1410 Le procès de Milošević] par Femke BLANQUAERT{{fr icon}}
* [http://csotan.org/textes/texte.php?art_id=253&type=TPI Milosevic à La Haye : plus c'est intéressant, moins on en parle] par Diana Johnstone{{fr icon}}
* [http://www.infocrise.org/article.php3?id_article=45 Procès de Slobodan Milosevic : un débat évité par les médias] par Jean-Léon Beauvois{{fr icon}}
* [http://www.un.org/icty/transf54/transf54.htm Minutes du procès]{{fr icon}}
* [http://www.michaelparenti.org/Milosevic.html The Demonization of Slobodan Milosevic]{{en icon}}
* [http://emperors-clothes.com/milo/gw.htm Discours de Milosevic du 28 avril 1989]{{fr icon}}
* {{Kotobank|ミロシェビッチ}}
{{S-start}}
{{S-off}}
{{Succession box
| title = {{flagicon|YUG}} [[ユーゴスラビア#連邦共和国|ユーゴスラビア連邦共和国大統領]]
| years = 第3代:1997年 - 2000年
| before = [[スルダ・ボゾヴィッチ]]
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| after = [[ヴォイスラヴ・コシュトニツァ]]
}}
{{Succession box
| title = [[File:Flag_of_Serbia_1992-2004.svg|25px]] [[セルビアの大統領|セルビア共和国大統領]]
| years = 初代:1990年 - 1997年
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| afternote = (代理)
}}
{{Succession box
| title = [[File:Flag of the Socialist Republic of Serbia.svg|25px]] [[セルビアの大統領|セルビア社会主義共和国<br />幹部会議長(大統領)]]
| years = 第7代:1989年 - 1990年
| before = [[リュビシャ・イギッチ]]
| beforenote = (代理)
| after = セルビア共和国に改称
}}
{{S-ppo}}
{{Succession box
| title = {{仮リンク|セルビア共産主義者同盟|en|League of Communists of Serbia}}<br>中央委員会幹部会議長
| years = 第11代∶1986年 - 1989年
| before = {{仮リンク|イヴァン・スタンボリッチ|en|Ivan Stambolić}}
| after = [[ボグダン・トリフノヴィッチ]]
}}
{{S-end}}
{{ユーゴスラビア紛争}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みろしえういつち すろほたん}}
[[Category:スロボダン・ミロシェヴィッチ|*]]
[[Category:ユーゴスラビアの大統領]]
[[Category:セルビアの大統領]]
[[Category:ユーゴスラビア紛争の人物]]
[[Category:旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追された人物]]
[[Category:人道に対する罪]]
[[Category:獄死した人物]]
[[Category:1941年生]]
[[Category:2006年没]]
|
2003-07-15T17:57:06Z
|
2023-09-16T22:06:47Z
| false | false | false |
[
"Template:Cite book",
"Template:Fr icon",
"Template:Succession box",
"Template:S-end",
"Template:Lang-sr",
"Template:Reflist",
"Template:S-start",
"Template:Kotobank",
"Template:S-ppo",
"Template:S-off",
"Template:ユーゴスラビア紛争",
"Template:出典の明記",
"Template:大統領",
"Template:Sfn",
"Template:仮リンク",
"Template:Cite news",
"Template:En icon",
"Template:Normdaten"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%81
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メヘル・バーバー
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メヘル・バーバー (Meher Baba, ウルドゥー語: مهر بابا, ヒンディー語: महर बाबा、1894年2月25日 - 1969年1月31日)、誕生名メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)は、インドのパールシーの出身で、インドの神秘家であり、1954年に今世代のアヴァターラと公衆に宣言した霊的指導者である。インドのマハラシュトラ州プネー市(旧称プーナ)で生まれ、マハーラーシュトラ州のメヘラザード(Meherazad)で肉体を離れたという。
メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)は1894年にインドのPuneで、ゾロアスター教徒の両親の元で生まれた。彼の霊的変遷は、彼が19歳の年に始まり7年間に及んだ。この間、5人の霊的マスターと接触し指導を受けた。彼が自分自身のミッションに目覚め、自分自身の弟子を集め始めたのは、1922年の初頭で、27歳の年齢であった。
1925年の7月10日から肉体としての生命を終えるまでずっとメヘル・ババは沈黙を維持し続け、アルファベットが書かれたボードや、独自の手を用いるジェスチャーで意志を疎通した。彼のマンダリ(弟子たちのサークル)とともに、彼は長い期間独居生活を送ったがその間はよく断食をした。彼はまた広く旅をした。また、公衆を集めるダルシャンやサハバスと呼ばれる集合を行い、ライ病患者や、貧乏な人々への慈善活動にも従事した。
1931年にメヘル・ババは、西洋諸国を初めて多数訪問した。その歴訪でババは沢山の弟子たちを魅了した。
1940年代は、ほとんどの間メヘル・ババは、マスト(masts)と呼ばれる霊的求道者の特殊な人々と仕事をした。ババの言葉に拠れば、彼らは内的な霊的体験によってトランス状態に或いは、神に酔える状態に入った人々であった。1942年に『ニューライフ』と彼が呼ぶ期間に入ると、選ばれたマンダリたちとのみ、ババは身分を隠してインド中を旅し、謎に満ちた大いに説明不能な時期を過ごしている。
2回に及ぶ深刻な自動車事故で乗客として負傷。一回は1952年にアメリカ合衆国で、一回はインドで1956年に負傷した。その後、歩行能力が酷く低下した。1962年にババは、『東洋と西洋の集合』と呼ばれる大きな大衆ダルシャンで西側から多数の弟子たちを招いた。LSDやサイケデリックドラックを大幅に使用することを危惧し、1966年にババは、それらの薬物が本物の利益にならないと述べた。健康状態の悪化にもかかわらずババは、彼が『ユニバーサル ワーク』と呼ぶものを続けた。その内容は、断食と独居を含んでいて、1969年1月31日の彼の死の直前まで続けられた。彼のサマディ-Samadi(霊廟)はインドのメヘラバッド(Meherabad)にあり、今では国際的な巡礼の地となっている。
メヘル・ババは、人生の大義や目的について数多くの講話を与えてきた。その中には輪廻転生の教えや、現象世界は幻影だという教えも含まれている。彼は宇宙は想像だ神こそが実際に存在すると、更にそれぞれの魂は、実際は神自身の神性を個別化して実現するために想像によって生じているが、実際は神であると教えている。それに加えて輪廻転生の生死を逃れ、”神-実現”を達成したいと望む求道者には実践的なアドバイスを与えている。彼はまたパーフェクト・マスターについての概念や、アヴァターについてや、彼が退縮と呼ぶ霊的な様々のステージについての概念も教えている。彼の最も重要な教えは、Discourses(メヘル・ババ講話集)とGod Speaks(神は語る)の二冊の重要な本の中に記録されている。
彼の遺産は、インドにババが設立したAvatar Meher Baba Charitable Trustに含まれている。その中には、いくつかの情報センターと巡礼の場、ポップカルチャーアーティストたちに及ぼした影響や、『心配するな。いつも幸せでいなさい。(Don't warry be happy)』というようなババが常に用いていた表現の紹介も含んでいる。メヘル・ババの沈黙は、世間の他の人々と同様に、彼の信者である人々の間にも神秘的な謎のまま残っている。
メヘル ババは、インドのプネーでゾロアスター系の家庭に生まれたイラン系インド人である。彼の俗名は、メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)といった。彼は、父シェリアル・イラニ(Sheriar Irani)の第二子である。シェリアル・イラニは、ペルシャ系のゾロアスター教徒で、プーナ(現在のプネー)に居住し、母シレーン・イラニ(Shireen Irani)と結婚する前は、霊的経験を探求し放浪の生活を何年も送っている。
少年時代にメルワンは『コスモポリタンクラブ』を創設した。このクラブの目的は、世界情勢に精通し慈善活動に資金を募ることであった。彼は、様々な楽器を奏で、詩を書く青年であった。いくつかの言語に通暁し、ハーフェズ、シェークスピア、及びシェリーの詩が特に好きであった。
若い時に、メルワンは全く神秘的傾向や経験を持たなかった。つまり、『まだ自分自身の運命の予感に惑わされることはなかった...』彼は何よりスポーツに関心があり、中学校のクリケットチームの副キャプテンをしていた。19歳の時に、プネーのデカン大学の2年生のときにメルワンは、非常に高齢の回教徒の女性に出会った。地元では聖者として尊敬されているハズラッド・ババジャン(Hazrat Babajan)と呼ばれる聖者が、メルワンの額にキスをした。この出来事が、彼に深遠な影響を及ぼした。そのキスはメルワンの目を眩ませることになり、彼は普通の活動ができなくなった。その後彼は、他の霊的指導者たちに接触することになる。その人々はババジャンの他に、その時代のパーフェクト・マスター達(Parfect Master)であった5人の人々だタジュディン・ババ(Tajuddin Baba)、ナラヤン・マハラジ(Narayan Maharaji)、 シルディ・サイ・ババ(Sai Baba of Shirdi)、及びウスパニ・マハラジ(Uspani Maharaji)であった。
ウスパニ・マハラジは、ババが後に語ったところによれば、メルワンが自分の神秘経験を普通の意識に統合する手助けをしてくれた。そのようにして、マハラジはババが神-実現の経験を減少させることなく世間で機能できるようにした。ウスパニと7年間ともに生活した後の、1921年後半の27歳の年に、メルワンは自分自身の従者を引き寄せ始めた。彼の初期の弟子たちは、彼に『メヘル・ババ』という名前を送った。それは、ペルシャ語で『慈愛深き父』という意味である。
1922年に、メヘル・ババと彼の弟子たちはボンベイ(現在のムンバイ)に“Manzil-e-Meem”(マスターの家)を設立した。其処でババは、自分の弟子に厳しい訓練と服従を強いる実践を始めた。一年経ちババとマンダリ(mandali)はアヘメドナガー(Ahmednagar)から2,3マイル離れたところへ移動し、そこを“Meherabad”(メヘルが栄える)と名付けた。このアシュラム(精神的な修行の場所)が後に、彼の仕事のセンターとなった。1920年代にメヘル・ババは、メヘラバッドに学校、病院と薬局を開いた。これらの3つの施設は、全てのカーストの人及び、全ての信仰の人に開放された。
1925年の7月にメヘル・ババは、一生続くことになる自ら課した沈黙を開始した。まずはチョークと黒板を用いて意思疎通し、やがてはアルファベット板や、彼独自の手によるジェスチャーを用いて意思の疎通をした。1927年の1月に、彼はペンや鉛筆を用いることも断念した。
1930年代にメヘル・ババは、広範に渡る世界旅行を開始した。その中には、数回に渡るヨーロッパとアメリカ合衆国への旅行を含んでいる。ババが最初の西洋の弟子たちの親しいグループと接触を確立したのはこの時期であった。彼は、ペルシャのパスポートで旅をした。理由は、この頃は話すだけでなく、書くことも断念していたので、インドの英国政府によって要求される書式に署名をしたくなかったからだ。
1931年の英国への最初の旅で、彼は「ラージプタナ」という船で旅をしたが、この同じ船にマハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)が乗船していた。ガンディーは、ロンドンでの第2回目の円卓会議へ向けて航海していた。ババとガンディーは船上で3回会談した。そのうち1回は、3時間にも及ぶものであった。英国の新聞はこれらの会談を特集した。だが、ガンディの秘書は『新聞は、ガンディがメヘル・ババに援助も、霊的アドバイスも、その他のアドバイスも決して求めなかったと強く書くべきだ。』と言った。
1932年5月20日にババは、ニューヨークに到着し、1000単語に及ぶメッセージを記者クラブに提供した。その内容は、ババの信者であるクエンティン・トッド(Quentin Tod)によってババの『アメリカへのメッセージ』として書かれている。その文章の中で、ババは自分は“全てのものの無限の源泉を持っている者”だと宣言し、自身の沈黙を破る意図も宣言している。『私が沈黙を破るときに、私の本来のメッセージが世界中に配信され、そのメッセージは受け入れられねばならないだろう。』インドと英国の政治的状況に関しては、彼は全くコメントしなかったが、彼の信者たちは、ババがガンディに政治を放棄するように告げたと説明していた。
西洋で、メヘル・ババは沢山の有名人や芸術家と会った。その中にはゲイリー・クーパー、チャールズ・ロートン、タルラー・バンクヘッド、ボリス・カーロフ、トム・ミックス(Tom Mix)、モーリス・シュヴァリエ、エルンスト・ルビッチやその他の人々が含まれている。1932年6月1日に、メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス・ジュニアが、ピックフェイア(Pickfair)でババのためのレセプションを開催した。そこでは、ババはハリウッドへのメッセージを配布した。結果として、メヘル・ババは、『30年代の様々な情熱の一つ』として登場した。
1934年にハリウッド・ボウルで自らに課した沈黙破りを行うつもりだと宣言した後に、ババは予定を突然変更して、エンプレス・オブ・カナダという船に乗って、説明もなくホンコンへと旅立ってしまった。新聞連合会は、『ババは、「状況が熟していない」という理由で沈黙破りを来年の2月まで決定した』と伝えた。
1930年代の後半に、メヘル・ババは、西洋人の女性グループをインドへ招待した。そこでは、ババはインドとセイロン(現在のスリランカ)を縦断する一連の旅をアレンジした。その旅は、ブルーバスツアー(Blue Bus Tours)として知られている。彼らが帰国した時には、多くの新聞が彼らの旅をスキャンダルの機会だと捉えていた。1936年のタイムマガジンの総編集に、〈神は私の冒険である〉というババの言葉を引用して、4年前の『長い髪の絹のようなペルシャ人、シリ・サッドガル・メヘル・ババ(Shri Sadgaru Meher Baba)』に対する合衆国の熱狂ぶりを揶揄しながら報じています。
1930年代と1940年代にメヘル・ババは、彼が『マスト(Masts)』と名付けたカテゴリーの人々と集中的に仕事をした。彼らは『神に酔える人々』だ。ババによれば、これらの人々は高次の霊的次元の魅力的な経験によって本質的に障害を抱えている。外形からみれば、マストは不合理的で、狂ってさえいるように見えるが、ババは彼らの霊的地位は実際に極めて高いと主張し、ババがマストに会うことによって彼らが霊的に進歩するように援助する。一方で、ババの霊的仕事に彼らの力を借りていた。これらのマストの中で最も良く知られた人は、モハンメド・マスト(Mohammed Mast)と呼ばれ、2003年に亡くなるまでメヘル・ババの施設内に同居していた。
1949年に、ババは『New Life』と呼んだ謎に満ちた時期を発足した。ババの最も難しい要求にさえ即座に対応できるか否かを試す様々な質問を投げかけた後に、ババは完全な『hopelessness(絶望)とhelplessness(無力)』の生活に参加する20人の従者を選んだ。
ババは、自分に依存して生活している人々のために準備をし、その日以後、ババと20人の選ばれたメンバーは、それ以外の目的での、全ての財産と、全ての金融的責任を断念した。やがて、彼らは『New Lifeの条件』という一連の厳格なルールに従い、食事を求めて乞食したり、ババの指示を実行したりしながら、身分を隠したままインド中を旅して回った。これらは、どんな状況でも絶対に受け入れ、どんな困難に直面しても、常に陽気さを失わないことを含んでいた。従うことができない仲間は、送り返された。
New Lifeについてメヘル ババは次のように記している。
『このNew Lifeは、終わりがない。私が肉体として死を迎えた後にも、New Lifeは、偽、嘘、憎しみ、怒り、強欲、欲情を完全に放棄する人生を生きる人々によって生き続けられるであろう。これらの人々は、完全な放棄の人生を達成するために、全く情欲も起こさず、誰にも害を与えず、陰口もきかず、物質的所有を求めず、権力も求めず、全く尊敬も受けず、名誉におもねらず、恥辱を否定せず、誰も何も恐れることがない。彼らは、全く、そして専ら神にのみ依存していて、愛するためにのみ純粋に神を愛している。彼らは、神を愛するものを信じていて、神の愛の顕示の真実を信じていて、全く何も霊的、物質的報酬を求めない。彼らは、真理を忠実に守り、悲惨な出来事に動揺せず、勇敢に全身全霊をもって100%の陽気さで全ての困難に直面する。彼らは、カーストや、教義や、宗教的セレモニーに全く重要性を置かない。このNew Lifeは、独力で永遠に継続し、その生活を誰も行わなくなっても、生き続けるであろう。』
Meher Babaは、1952年の2月にNew Lifeを終結し、インドと西洋で、大衆と接触する行事を再び始めた。
1950年代に、ババはインド以外に二つのセンターを設立した。その二つとは、アメリカ合衆国のサウスカロライナ州のマートルビーチにあるメヘルスピリチュアルセンター(Meher Spiritual Cente)とオーストラリアのブリスベンの近くにあるアヴァターズアボード(Avatar’s Abode)である。ババは、1952年の4月にメヘルスピリチュアルセンターを発足した。1952年の5月24日にこのスピリチュアルセンターから、カリフォルニア州のオウハイ(Ojai)にあるメヘル山(Meher Mount)へ向かう途中で、ババが乗り合わせた車がオクラホマ州のプラグー(Prague)の近くで正面衝突した。ババと同乗していた人々は車から投げ出され、多くの負傷をした。ババの脚は酷く骨折し、鼻の骨折を伴った顔面に重傷も負った。負傷者たちは、ノースカロライナ州のダーラムのDuke病院で治療を受けた。ヨーポン砂丘(Youpon Dunes)で静養中に、エリザベス・パターソンの所有の土地で、ババはスーフィズム・リオリエンテッド(Sufism Reoriented)という名前をババによってつけられたスーフィーのグループを指導することになった。
メヘル・ババは、1953年の8月に、彼の主要な本である『God Speaks』を口述筆記させ始めた。この本は、創造とその目的を主要なテーマとしており、デヘラードゥーンでアルファベット板を用いて行った。1954年の9月にメヘル・ババはメヘラバッドで男性のみのサハヴァス(sahavas)を行った。この集会は後に『3つの信じられない週』として知られている。この頃に、ババは『メヘル・ババの』という宣言を発している。その中に、ババは『様々な疑念と確信が』他の人々には存在するにもかかわらず、自分がアヴァター(Avatar)であることを再度宣言した。このサハヴァスの終わりに、アメリカで編集し出版するために、二人のスーフィズム・リオリエンテッドのメンバーである、Ludwig H. DimpflとDon E. StevensにGod Speaksの完成した草稿を手渡した。その本は結果としてDodd, Mead and Companyによって、翌年に出版されることになった。
1954年9月30日に、ババは、『最終宣言』メッセージを発した。この中で、彼は様々な謎に満ちた予言を残している。
1954年の10月に、メヘル・ババは、アルファベット板を廃止し、独自の手を用いるジェスチャーを使用し始めた。その後は亡くなるまでこのジェスチャーを用いた。
1956年12月2日にインドのサーターラーの郊外で、ババが同乗していた車が制御不能となり、2度目の深刻な自動車事故が起こった。ババは、骨盤を骨折するなど、他にも重傷を負った。ババのマンダリの一人であるNilu博士は事故死した。この衝突によって、ババの体は酷く不自由になった。外科医たちの予想を覆して、大いに努力した結果、ババは再び歩けるようになったが、その時以来ババは常に痛みに苦しみ、動き回る能力が極めて制限されることになった。実際に1958年の西洋への旅の際には、所々で介添えが必要だった。
1956年に、彼が5回目にアメリカ合衆国を訪れた日にババはニューヨークのデルモニコホテル(Hotel Delmonico )に滞在した後に、サウスカロライナ州のマートルビーチのメヘル・センターへ向かった。7月には、ワシントンD.C.に旅をし、James Terry(Ivy)Duce夫人の家で友人や弟子たちを迎えた。Duce夫人は、アラビア・アメリカ石油会社の副会長の夫人であった。その後にババはカリフォルニア州のメヘル山に向かい、さらにオーストラリアへと旅を続けた。アメリカ合衆国とオーストラリアへの最後の訪問は1958年に行われた。
1962年にババは、最後の国際貢献の一つとして、東洋、西洋集合と呼ばれる集会を何回か行った。これらの集会では、西洋の信者とインド人の弟子たちが出会うように招かれていたが、肉体的痛みを押して何千人もの人々にババはダルシャン(darshan)を与えた。
1960年代の半ばに、ババは西洋のますます流行するドラッグ文化に関心を持つようになり、ティモシー・リアリーやRichard Alpertらの西洋の学識経験者たちと通信をし始めた。その中で、彼は霊的な目的で全ての幻覚剤を使用することに強く反対の意を示した。1966年に、ドラッグに関するババへの質問の返事が、『God in Pill?』というタイトルのパンフレットで公表された。メヘル・ババはドラッグを用いることは、霊的にダメージを与え、もし、悟りがドラッグによって可能なら、『神は、神に値しないことになる』と述べた。メヘル・ババは、西洋人の若い弟子たちに指導して、このメッセージを広めさせた。そのようにすることで、この時期に若者たちの間にメヘル・ババの教えに対する認識が増大した。Frederick Chapmanとの会見の中で、ババはLSDは『肉体的に、精神的に、霊的に有害である。』と述べ、『LSDの継続的使用は、狂気や死に導く。』と警告した。このFrederick Chapmanはハーバード大の卒業生で、フルブライト・プログラムで奨学された学者であり、インドで一年研究した際にババに出会ったことがある。
このような背景で反ドラッグのキャンペーンは、合衆国、ヨーロッパや、オーストラリアのババ・ラヴァーズによって始められた。このキャンペーンの大部分はうまくいかなかったけれども、それは新しい信者たちの波を生み出し、ババの考え方のいくらかが幻覚剤の利点や危険についての学術的論争に反映される形となった。
1962年の東洋と西洋の集合以降に、ババの健康は着実に悪化した。肉体の衰えにもかかわらず、ババは、長い期間に渡って独居や断食を行い続けた。1968年7月の後半の特に過酷な独居の時期を完遂した後に、この時までにババの仕事を『100%以上の満足で完成した』と述べている。この時期は、ババは車椅子を用いていた。2,3ヶ月の間に彼の症状は悪化し、床に伏すようになった。彼の肉体は強い筋肉痙攣によって痛み、その原因は医学的には不明だった。数名の医師たちの手当にもかかわらず、痙攣はますます悪化した。
1969年1月31日に、ババは、メヘラバッドの自宅で息を引き取った。彼は、最後のジェスチャーで次のように伝えた。『私が、神であることを忘れてはならない。』と。当時、ババの熱心な信者たちは、彼の死の記念日をhis death Amartithi(deathless day)「死のない日」と呼んだ。ババの体は、メヘラバッドのに威儀堂々と安置された。バラで飾られ、氷で冷やされ、最後の埋葬まで一週間に渡って、大衆にお別れの機会が与えられた。ババの死の前に、メヘル・ババはプーナで行われる予定であった大衆に向けたダルシャンの企画に向けて熱心に準備していた。マンダリたちは、ホストが肉体では存在しないにもかかわらず計画通りに実行する決心をした。数千人の人々がこの最後のダルシャンに訪れ、合衆国、ヨーロッパ、オーストラリアからも何百という人々が献花した。
1925年7月10日から、1969年の死までメヘル・ババは、沈黙を守った。最初は、アルファベット板を用いてコミュニケーションを始めたが、後になってユニークな手のジェスチャーで意志を疎通した。その手振りを解釈し、言葉にできたのはマンダリの中でもただ一人だけだった。それは、ババの弟子Eruch Jessawalaだった。メヘル・ババは、自分の沈黙は霊的な鍛錬として理解されるべきではなく、唯一ユニバーサルワークに関係して理解されるべきだと述べた。
『人間が神の言葉に沿って生きることができないので、アヴァターの教えは嘲りの対象になりつつある。ババが教えた共感を実践する代わりに、人は彼の名前で戦争を始める。謙虚や、純粋さや、ババの言葉の真理を生きる代わりに人は憎しみや、強欲や、暴力に道を譲る。人は過去に神によって示された原理や教説に耳を貸してこなかったので、この現在の私のアヴァターとしての姿では、私は沈黙を守るしかない。』
メヘル・ババは、その言葉を全ての人の心(=heart)に語ることによって、全ての生きとし生けるものを霊的に進歩向上させるようにババが沈黙を破る瞬間がいつかについてシグナルを送ることがよくあった。
『私が沈黙を破る時に、私の愛の衝撃が普遍的なものであり、被造界の全ての生命がそれを理解し、感じ、受け取ることになる。その言葉は、全ての個人が、自分のやり方で自分自身の束縛から自由になる手助けができるようになるだろう。私は、君が自分を愛しているよりももっと深く君を愛している最愛のものだ。私の沈黙破りは、君が自分自身の大我を知ることによって自分を理解する役に立つであろう。』
メヘル・ババの沈黙破りは、この世の霊的進歩の画期的な出来事になるだろう。
『私がその言葉を話す時に、次の700年間に起こる予定の物事の基礎を形成するつもりである。』
多くの場合、メヘル・ババは死ぬ前に耳に聞こえる言葉によって沈黙を破ると約束した。そして、沈黙破りが起こる時に、特定の時と場所を告げることがあった。しかし、全ての現代に残された記事によればメヘル・ババは死ぬまで沈黙したままであった。彼が沈黙を破らなかったのは、信者のうちのあるものを失望させたし、他の信者はこの約束破りは彼らの信仰のテストとみなしている。信者の中には、『その言葉は、未だに話されていない』とい考えるものもいるし、メヘル・ババは、実際に沈黙を破ったが、物理的にではなく精神において破ったのだと考える人もいる。
何年にも渡って、ババは信者たちに7月10日は、沈黙を始めた記念の日であるので、沈黙や断食や、祈りを厳格に守るように求めていた。1968年の最後の沈黙の日の信者たちへの要求は、沈黙を守ることだけであった。ババの信者の多くは、彼を尊敬して沈黙を守ることによって、沈黙を祝福し続けている。
メヘル・ババの教えは、大きく二つのカテゴリーに分けることができる。魂の性質や、宇宙の性質に関する形而上学と、霊的求道者への実際的アドバイスである。二つは相互に関係し合っている。ババの形而上学は、God Speaksという主要な本の中にほとんど書いてある。その本は、魂の進歩についてと同様に、ババの宇宙観についての詳しい説明と、人生の目的についての説明を含んでいる。一方で、実際的な霊的生活の詳しい説明も、ほとんど講話集には含まれている。講話集には、God Speaksを鏡で映したり、拡大したような形而上学的部分がある。
God Speaksにおいて、メヘル・ババは、無意識の神の本来の状態から、意識のある神への究極的到達への魂の旅を描いている。全ての旅は、想像の旅である。その旅では、神の本来の分離不可能の状態が、数限りない個別化された魂になることを想像する。個別化された魂を、ババは無限の大洋の内部の泡に例えている。それぞれの魂が、自分が何か意識したいという欲望によって力を得て、意識の最も基本的形態の中でその旅を始める。この制限は、その形態をますます意識のある状態へ向かって進歩させるためにより進化した形態を必要とする。意識は、それぞれの形態が収集できる印象と関係して成長する。
ババによれば、それぞれの魂は、進化することによって意識的な神性を追求する。即ち、7つの段階つまり、石、金属、野菜、虫、鳥、動物、そして人間を経過して、想像した形態の連続の中に、魂それ自身を表現するのである。魂はそれ自身を進化の中で連続する形態と自己同一化している。そのようにして幻影の連続は続くのである。この形態の進化の中で、思考も増大し、遂には、人間の形態で思考は無限となる。人間の形態をとっている魂は、意識のある神と成ることができるが、その魂が進化の間に収集した全ての印象は幻影であり、魂が自分自身を理解するのを妨げる障壁を生み出している。この障壁を克服するためには、人間の形態で何回も生まれることが必要とされ、それは輪廻転生と名付けられている。
遂には魂があるステージに到達する。そのステージでは、以前に収集した印象が薄くなったり厚くなったりするので魂は退縮と呼ばれる最終段階に入る。このステージに入るためにも、何回もの生死が必要となる。その転生の間に、魂は、心の内側の旅を始める。その旅によって、魂は、神としての真の同一性を理解する。ババは、この内面の神実現への旅を彼が諸平面と呼ぶ7つの段階に分けている。この全プロセスは、神実現へ向かう第7段階へと上り詰めていく。この第7段階で個々の魂にとって人生のゴールが到達される。
メヘル・ババ講話集は、霊的求道者の進歩に関係する沢山のトピックスについてメヘル・ババが与えた説明や解説の集大成である。取り扱われている最も重要なトピックの幾つかは、sanskaras(精神における印象)、Maya(幻影の原理)、エゴの性質、輪廻転生、カルマ、暴力と非-暴力、冥想、愛、弟子であること、神実現である。ババの説明は、インドの伝説や、Sufi文化の伝説から取られた物語を含んでいることが多い。一つのそのような物語は、賢者と幽霊であるように、迷信が人に及ぼす影響についてであり、もう一つのものはMajnunとLaylaのような物語で、人間同士の関係においても、無私の愛がどのように子弟関係のような純粋な無私の愛へ人を導くかを示している。
そのようにメヘル・ババは、人を神実現へ向かい続けさせる多くの示唆を与えてくれる。これらの示唆は、理論を実践へと導くものや、欲望を内面的に放棄するものや、人類やマスターに対して無私の奉仕を与えることや、自発性を含んでいる。一方で、人を幻影に縛りつける行動を避けることも含んでいる。しかし、モラルのルールを列挙するよりむしろ、ババは、ある行動は、その人の解放に導くのに、何故ある行動はその人を縛ってしまうのかに関して理解する糸口を与えてくれる。多くの章が、意識が、喜びと痛みや、善と悪のような対立する経験の間に囚われてしまうかについてのメカニズムをよく理解できるように説明し、それらを超越する道を指摘している。
常に地球上には56人の神実現した魂が存在し、これらの魂のうちの5人がこの時代の『5人のパーフェクト・マスター達』を形成するとババは語っている。5人のパーフェクト・マスターの一人が死ぬと、56人の中でもう一人の魂がその人の後を継ぐことで取って代わるとババは語っている。
ババによれば、アヴァターは、特別なパーフェクト・マスターで、神実現を他のどんな魂より先に実現した最初の御魂だ。この魂は、大本のパーフェクト・マスター、或いは古代からのマスターと呼ばれ決して地上に下生するのを止めない。ババは、この特別の御魂が神の状態の化身となる。そのような存在は、ヒンズー教では、Vishnuと呼ばれ、スーフィズムではParvardigar、つまり神の状態の維持者であり、保持者である。メヘル・ババによれば、アヴァターは700年~1400年毎に地上に降臨し、神実現へ向かう決して終わらない旅において被造界が進歩するプロセスを手助けするために時代のマスター5人によって、人間の形態へと“引き降ろされる。” ババは、他の時代においてこの役割は、ザラスシュトラ、ラーマ、クリシュナ、釈迦、キリスト、そしてムハンマドによって成就されたと語っている。
ババは『Avatarは人が自分は何者かを計り、自分が何者に成り得るのか計ることができるものさしである。』と表現した。彼は、人間の価値基準を神的な人間の人生の観点で解釈することによって『人間の価値の基準を正しいものにする。』のである。
メヘル・ババの信者のほとんどは、アヴァターだとババが述べたことを受け入れ、ババはこの時代のAvatarとして、神実現した存在として、世界中で何百万もの人々によって尊敬されていると言われる。
ババの旅と教えは、世界中に弟子や熱心な信者を残した。
アヴァター・メヘル・ババ慈善トラストは、1959年にメヘル・ババによって設立された。無料の学校や、薬局、白内障クリニック、獣医学病院と同様に、ババの聖廟や、巡礼者の施設も維持している。トラストは、ババが存命中に残した規約に従って運営されている。だが、グループ全体の霊的な権威としては機能していない。同様にトラストは、宣伝に従事したり教義やドグマを守ったり転宗を勧めたりしない。ババは布教を行うには消極的で、『自分は宣伝や、有名になることには全く興味がない。』むしろ彼は、信者たちに『自分の人生それ自身がババの愛と真理を伝える他人へのメッセージとなるような生き方をしなさい』と励ましている。そして、『できるだけ遠くに、できるだけ広く私のメッセージが広がるように』せよと言っているのだ。メヘル・ババの信者たちは、全く確立された儀式をもたない。多くの人々が、しかし、プージャやaartis(聖なるものや神々を賛える歌)、祈り、音楽、演劇、ババの映画を見ること等、自由に選んで実践している。信者たちの大切にしていることは、メヘル・ババが承認するであろう人生を生きることにあり、例えば、幻覚剤の使用や、マリファナの使用を差し控え、愛を持って神を憶う努力をすることだ。
ババの信者が集会を行うことは、一般には非公式である。Amartithi(称賛の集い)、ババの死の記念日、ババの誕生日に集合することも、大いに努力を必要とする。多くのババの信者は7月10日は沈黙を守る。存命中にババが信者に命じたことを遵守する。インドのババの霊廟では、朝と夕方にAartiが行われている。またメヘラバッドでは、毎月の12日にはdhuniの火を灯す実践を彼の信者は維持している。
ババは早くも1932年に時の著名人たちとの接触の結果、初めから大衆の注目を受けていた。更に、Paul Brunton(A Search in Secret India, 1934)のかなり幻滅した記事などから、ババは、西洋のポップカルチャーにおける様々な言及によって、死後も注目されている。
イングランドのロック・バンドであるザ・フーのピート・タウンゼントは、1960年代末にババの信奉者となった。彼はユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグ(Universal Spiritual League)が制作したアルバム『ハッピー・バースデイ』(1970年)、『アイ・アム』(1972年)、『ウィズ・ラヴ』(1976年)に、他の信奉者と共に参加した。ザ・フーが1969年に発表したアルバム『トミー』はババに捧げられたレコードの巻頭を飾った。彼等の1971年のアルバム『フーズ・ネクスト』に収録された「ババ・オライリィ」(Baba O’Riley)の曲名はババにちなんだものである。
アメリカのシンガー・ソングライターであるメラニー・ソフィカは、1970年に発表したシングル“Lay Down (Candles in the Rain)”の中に、“Meher Baba lives again.”という叙事詩を盛り込んだ。アメリカのジャズ・シンガーであるボビー・マクファーリンが歌った1988年のグラミー賞受賞曲“Don’t Worry, Be Happy”はババのポスターやインスピレーションに影響するカードによく使われた人気のあるフレーズに影響されている。漫画家のJ. M. DeMatteisの"Doctor Fate"や"Seekers Into The Mystery"などの作品には、ババの哲学の概念同様に彼をモチーフにした名前無き人物像も頻繁に登場した。
2012年にオランダで公開されたドキュメンタリー・フィルム"Nema Aviona za Zagreb"には、1967年に撮影されたバーバーの独占インタビューが収録された。彼は神-実現と薬物による幻覚との相違点を説明しており、このインタビューはフィルムの中心的役割を担っている。
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"text": "メヘル・バーバー (Meher Baba, ウルドゥー語: مهر بابا, ヒンディー語: महर बाबा、1894年2月25日 - 1969年1月31日)、誕生名メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)は、インドのパールシーの出身で、インドの神秘家であり、1954年に今世代のアヴァターラと公衆に宣言した霊的指導者である。インドのマハラシュトラ州プネー市(旧称プーナ)で生まれ、マハーラーシュトラ州のメヘラザード(Meherazad)で肉体を離れたという。",
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"text": "メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)は1894年にインドのPuneで、ゾロアスター教徒の両親の元で生まれた。彼の霊的変遷は、彼が19歳の年に始まり7年間に及んだ。この間、5人の霊的マスターと接触し指導を受けた。彼が自分自身のミッションに目覚め、自分自身の弟子を集め始めたのは、1922年の初頭で、27歳の年齢であった。",
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"text": "1925年の7月10日から肉体としての生命を終えるまでずっとメヘル・ババは沈黙を維持し続け、アルファベットが書かれたボードや、独自の手を用いるジェスチャーで意志を疎通した。彼のマンダリ(弟子たちのサークル)とともに、彼は長い期間独居生活を送ったがその間はよく断食をした。彼はまた広く旅をした。また、公衆を集めるダルシャンやサハバスと呼ばれる集合を行い、ライ病患者や、貧乏な人々への慈善活動にも従事した。",
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"text": "1931年にメヘル・ババは、西洋諸国を初めて多数訪問した。その歴訪でババは沢山の弟子たちを魅了した。",
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"text": "1940年代は、ほとんどの間メヘル・ババは、マスト(masts)と呼ばれる霊的求道者の特殊な人々と仕事をした。ババの言葉に拠れば、彼らは内的な霊的体験によってトランス状態に或いは、神に酔える状態に入った人々であった。1942年に『ニューライフ』と彼が呼ぶ期間に入ると、選ばれたマンダリたちとのみ、ババは身分を隠してインド中を旅し、謎に満ちた大いに説明不能な時期を過ごしている。",
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"text": "2回に及ぶ深刻な自動車事故で乗客として負傷。一回は1952年にアメリカ合衆国で、一回はインドで1956年に負傷した。その後、歩行能力が酷く低下した。1962年にババは、『東洋と西洋の集合』と呼ばれる大きな大衆ダルシャンで西側から多数の弟子たちを招いた。LSDやサイケデリックドラックを大幅に使用することを危惧し、1966年にババは、それらの薬物が本物の利益にならないと述べた。健康状態の悪化にもかかわらずババは、彼が『ユニバーサル ワーク』と呼ぶものを続けた。その内容は、断食と独居を含んでいて、1969年1月31日の彼の死の直前まで続けられた。彼のサマディ-Samadi(霊廟)はインドのメヘラバッド(Meherabad)にあり、今では国際的な巡礼の地となっている。",
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"text": "メヘル・ババは、人生の大義や目的について数多くの講話を与えてきた。その中には輪廻転生の教えや、現象世界は幻影だという教えも含まれている。彼は宇宙は想像だ神こそが実際に存在すると、更にそれぞれの魂は、実際は神自身の神性を個別化して実現するために想像によって生じているが、実際は神であると教えている。それに加えて輪廻転生の生死を逃れ、”神-実現”を達成したいと望む求道者には実践的なアドバイスを与えている。彼はまたパーフェクト・マスターについての概念や、アヴァターについてや、彼が退縮と呼ぶ霊的な様々のステージについての概念も教えている。彼の最も重要な教えは、Discourses(メヘル・ババ講話集)とGod Speaks(神は語る)の二冊の重要な本の中に記録されている。",
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"text": "彼の遺産は、インドにババが設立したAvatar Meher Baba Charitable Trustに含まれている。その中には、いくつかの情報センターと巡礼の場、ポップカルチャーアーティストたちに及ぼした影響や、『心配するな。いつも幸せでいなさい。(Don't warry be happy)』というようなババが常に用いていた表現の紹介も含んでいる。メヘル・ババの沈黙は、世間の他の人々と同様に、彼の信者である人々の間にも神秘的な謎のまま残っている。",
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"text": "メヘル ババは、インドのプネーでゾロアスター系の家庭に生まれたイラン系インド人である。彼の俗名は、メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)といった。彼は、父シェリアル・イラニ(Sheriar Irani)の第二子である。シェリアル・イラニは、ペルシャ系のゾロアスター教徒で、プーナ(現在のプネー)に居住し、母シレーン・イラニ(Shireen Irani)と結婚する前は、霊的経験を探求し放浪の生活を何年も送っている。",
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"text": "少年時代にメルワンは『コスモポリタンクラブ』を創設した。このクラブの目的は、世界情勢に精通し慈善活動に資金を募ることであった。彼は、様々な楽器を奏で、詩を書く青年であった。いくつかの言語に通暁し、ハーフェズ、シェークスピア、及びシェリーの詩が特に好きであった。",
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"text": "若い時に、メルワンは全く神秘的傾向や経験を持たなかった。つまり、『まだ自分自身の運命の予感に惑わされることはなかった...』彼は何よりスポーツに関心があり、中学校のクリケットチームの副キャプテンをしていた。19歳の時に、プネーのデカン大学の2年生のときにメルワンは、非常に高齢の回教徒の女性に出会った。地元では聖者として尊敬されているハズラッド・ババジャン(Hazrat Babajan)と呼ばれる聖者が、メルワンの額にキスをした。この出来事が、彼に深遠な影響を及ぼした。そのキスはメルワンの目を眩ませることになり、彼は普通の活動ができなくなった。その後彼は、他の霊的指導者たちに接触することになる。その人々はババジャンの他に、その時代のパーフェクト・マスター達(Parfect Master)であった5人の人々だタジュディン・ババ(Tajuddin Baba)、ナラヤン・マハラジ(Narayan Maharaji)、 シルディ・サイ・ババ(Sai Baba of Shirdi)、及びウスパニ・マハラジ(Uspani Maharaji)であった。",
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"text": "ウスパニ・マハラジは、ババが後に語ったところによれば、メルワンが自分の神秘経験を普通の意識に統合する手助けをしてくれた。そのようにして、マハラジはババが神-実現の経験を減少させることなく世間で機能できるようにした。ウスパニと7年間ともに生活した後の、1921年後半の27歳の年に、メルワンは自分自身の従者を引き寄せ始めた。彼の初期の弟子たちは、彼に『メヘル・ババ』という名前を送った。それは、ペルシャ語で『慈愛深き父』という意味である。",
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"text": "1922年に、メヘル・ババと彼の弟子たちはボンベイ(現在のムンバイ)に“Manzil-e-Meem”(マスターの家)を設立した。其処でババは、自分の弟子に厳しい訓練と服従を強いる実践を始めた。一年経ちババとマンダリ(mandali)はアヘメドナガー(Ahmednagar)から2,3マイル離れたところへ移動し、そこを“Meherabad”(メヘルが栄える)と名付けた。このアシュラム(精神的な修行の場所)が後に、彼の仕事のセンターとなった。1920年代にメヘル・ババは、メヘラバッドに学校、病院と薬局を開いた。これらの3つの施設は、全てのカーストの人及び、全ての信仰の人に開放された。",
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"text": "1925年の7月にメヘル・ババは、一生続くことになる自ら課した沈黙を開始した。まずはチョークと黒板を用いて意思疎通し、やがてはアルファベット板や、彼独自の手によるジェスチャーを用いて意思の疎通をした。1927年の1月に、彼はペンや鉛筆を用いることも断念した。",
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"text": "1930年代にメヘル・ババは、広範に渡る世界旅行を開始した。その中には、数回に渡るヨーロッパとアメリカ合衆国への旅行を含んでいる。ババが最初の西洋の弟子たちの親しいグループと接触を確立したのはこの時期であった。彼は、ペルシャのパスポートで旅をした。理由は、この頃は話すだけでなく、書くことも断念していたので、インドの英国政府によって要求される書式に署名をしたくなかったからだ。",
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"text": "1931年の英国への最初の旅で、彼は「ラージプタナ」という船で旅をしたが、この同じ船にマハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)が乗船していた。ガンディーは、ロンドンでの第2回目の円卓会議へ向けて航海していた。ババとガンディーは船上で3回会談した。そのうち1回は、3時間にも及ぶものであった。英国の新聞はこれらの会談を特集した。だが、ガンディの秘書は『新聞は、ガンディがメヘル・ババに援助も、霊的アドバイスも、その他のアドバイスも決して求めなかったと強く書くべきだ。』と言った。",
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"text": "1932年5月20日にババは、ニューヨークに到着し、1000単語に及ぶメッセージを記者クラブに提供した。その内容は、ババの信者であるクエンティン・トッド(Quentin Tod)によってババの『アメリカへのメッセージ』として書かれている。その文章の中で、ババは自分は“全てのものの無限の源泉を持っている者”だと宣言し、自身の沈黙を破る意図も宣言している。『私が沈黙を破るときに、私の本来のメッセージが世界中に配信され、そのメッセージは受け入れられねばならないだろう。』インドと英国の政治的状況に関しては、彼は全くコメントしなかったが、彼の信者たちは、ババがガンディに政治を放棄するように告げたと説明していた。",
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"text": "西洋で、メヘル・ババは沢山の有名人や芸術家と会った。その中にはゲイリー・クーパー、チャールズ・ロートン、タルラー・バンクヘッド、ボリス・カーロフ、トム・ミックス(Tom Mix)、モーリス・シュヴァリエ、エルンスト・ルビッチやその他の人々が含まれている。1932年6月1日に、メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス・ジュニアが、ピックフェイア(Pickfair)でババのためのレセプションを開催した。そこでは、ババはハリウッドへのメッセージを配布した。結果として、メヘル・ババは、『30年代の様々な情熱の一つ』として登場した。",
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"text": "1934年にハリウッド・ボウルで自らに課した沈黙破りを行うつもりだと宣言した後に、ババは予定を突然変更して、エンプレス・オブ・カナダという船に乗って、説明もなくホンコンへと旅立ってしまった。新聞連合会は、『ババは、「状況が熟していない」という理由で沈黙破りを来年の2月まで決定した』と伝えた。",
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"text": "1930年代の後半に、メヘル・ババは、西洋人の女性グループをインドへ招待した。そこでは、ババはインドとセイロン(現在のスリランカ)を縦断する一連の旅をアレンジした。その旅は、ブルーバスツアー(Blue Bus Tours)として知られている。彼らが帰国した時には、多くの新聞が彼らの旅をスキャンダルの機会だと捉えていた。1936年のタイムマガジンの総編集に、〈神は私の冒険である〉というババの言葉を引用して、4年前の『長い髪の絹のようなペルシャ人、シリ・サッドガル・メヘル・ババ(Shri Sadgaru Meher Baba)』に対する合衆国の熱狂ぶりを揶揄しながら報じています。",
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"text": "1930年代と1940年代にメヘル・ババは、彼が『マスト(Masts)』と名付けたカテゴリーの人々と集中的に仕事をした。彼らは『神に酔える人々』だ。ババによれば、これらの人々は高次の霊的次元の魅力的な経験によって本質的に障害を抱えている。外形からみれば、マストは不合理的で、狂ってさえいるように見えるが、ババは彼らの霊的地位は実際に極めて高いと主張し、ババがマストに会うことによって彼らが霊的に進歩するように援助する。一方で、ババの霊的仕事に彼らの力を借りていた。これらのマストの中で最も良く知られた人は、モハンメド・マスト(Mohammed Mast)と呼ばれ、2003年に亡くなるまでメヘル・ババの施設内に同居していた。",
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"text": "1949年に、ババは『New Life』と呼んだ謎に満ちた時期を発足した。ババの最も難しい要求にさえ即座に対応できるか否かを試す様々な質問を投げかけた後に、ババは完全な『hopelessness(絶望)とhelplessness(無力)』の生活に参加する20人の従者を選んだ。",
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"text": "ババは、自分に依存して生活している人々のために準備をし、その日以後、ババと20人の選ばれたメンバーは、それ以外の目的での、全ての財産と、全ての金融的責任を断念した。やがて、彼らは『New Lifeの条件』という一連の厳格なルールに従い、食事を求めて乞食したり、ババの指示を実行したりしながら、身分を隠したままインド中を旅して回った。これらは、どんな状況でも絶対に受け入れ、どんな困難に直面しても、常に陽気さを失わないことを含んでいた。従うことができない仲間は、送り返された。",
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"text": "New Lifeについてメヘル ババは次のように記している。",
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"text": "『このNew Lifeは、終わりがない。私が肉体として死を迎えた後にも、New Lifeは、偽、嘘、憎しみ、怒り、強欲、欲情を完全に放棄する人生を生きる人々によって生き続けられるであろう。これらの人々は、完全な放棄の人生を達成するために、全く情欲も起こさず、誰にも害を与えず、陰口もきかず、物質的所有を求めず、権力も求めず、全く尊敬も受けず、名誉におもねらず、恥辱を否定せず、誰も何も恐れることがない。彼らは、全く、そして専ら神にのみ依存していて、愛するためにのみ純粋に神を愛している。彼らは、神を愛するものを信じていて、神の愛の顕示の真実を信じていて、全く何も霊的、物質的報酬を求めない。彼らは、真理を忠実に守り、悲惨な出来事に動揺せず、勇敢に全身全霊をもって100%の陽気さで全ての困難に直面する。彼らは、カーストや、教義や、宗教的セレモニーに全く重要性を置かない。このNew Lifeは、独力で永遠に継続し、その生活を誰も行わなくなっても、生き続けるであろう。』",
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"text": "Meher Babaは、1952年の2月にNew Lifeを終結し、インドと西洋で、大衆と接触する行事を再び始めた。",
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"text": "1950年代に、ババはインド以外に二つのセンターを設立した。その二つとは、アメリカ合衆国のサウスカロライナ州のマートルビーチにあるメヘルスピリチュアルセンター(Meher Spiritual Cente)とオーストラリアのブリスベンの近くにあるアヴァターズアボード(Avatar’s Abode)である。ババは、1952年の4月にメヘルスピリチュアルセンターを発足した。1952年の5月24日にこのスピリチュアルセンターから、カリフォルニア州のオウハイ(Ojai)にあるメヘル山(Meher Mount)へ向かう途中で、ババが乗り合わせた車がオクラホマ州のプラグー(Prague)の近くで正面衝突した。ババと同乗していた人々は車から投げ出され、多くの負傷をした。ババの脚は酷く骨折し、鼻の骨折を伴った顔面に重傷も負った。負傷者たちは、ノースカロライナ州のダーラムのDuke病院で治療を受けた。ヨーポン砂丘(Youpon Dunes)で静養中に、エリザベス・パターソンの所有の土地で、ババはスーフィズム・リオリエンテッド(Sufism Reoriented)という名前をババによってつけられたスーフィーのグループを指導することになった。",
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"text": "メヘル・ババは、1953年の8月に、彼の主要な本である『God Speaks』を口述筆記させ始めた。この本は、創造とその目的を主要なテーマとしており、デヘラードゥーンでアルファベット板を用いて行った。1954年の9月にメヘル・ババはメヘラバッドで男性のみのサハヴァス(sahavas)を行った。この集会は後に『3つの信じられない週』として知られている。この頃に、ババは『メヘル・ババの』という宣言を発している。その中に、ババは『様々な疑念と確信が』他の人々には存在するにもかかわらず、自分がアヴァター(Avatar)であることを再度宣言した。このサハヴァスの終わりに、アメリカで編集し出版するために、二人のスーフィズム・リオリエンテッドのメンバーである、Ludwig H. DimpflとDon E. StevensにGod Speaksの完成した草稿を手渡した。その本は結果としてDodd, Mead and Companyによって、翌年に出版されることになった。",
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"text": "1954年9月30日に、ババは、『最終宣言』メッセージを発した。この中で、彼は様々な謎に満ちた予言を残している。",
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"text": "1954年の10月に、メヘル・ババは、アルファベット板を廃止し、独自の手を用いるジェスチャーを使用し始めた。その後は亡くなるまでこのジェスチャーを用いた。",
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"text": "1956年12月2日にインドのサーターラーの郊外で、ババが同乗していた車が制御不能となり、2度目の深刻な自動車事故が起こった。ババは、骨盤を骨折するなど、他にも重傷を負った。ババのマンダリの一人であるNilu博士は事故死した。この衝突によって、ババの体は酷く不自由になった。外科医たちの予想を覆して、大いに努力した結果、ババは再び歩けるようになったが、その時以来ババは常に痛みに苦しみ、動き回る能力が極めて制限されることになった。実際に1958年の西洋への旅の際には、所々で介添えが必要だった。",
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"text": "1956年に、彼が5回目にアメリカ合衆国を訪れた日にババはニューヨークのデルモニコホテル(Hotel Delmonico )に滞在した後に、サウスカロライナ州のマートルビーチのメヘル・センターへ向かった。7月には、ワシントンD.C.に旅をし、James Terry(Ivy)Duce夫人の家で友人や弟子たちを迎えた。Duce夫人は、アラビア・アメリカ石油会社の副会長の夫人であった。その後にババはカリフォルニア州のメヘル山に向かい、さらにオーストラリアへと旅を続けた。アメリカ合衆国とオーストラリアへの最後の訪問は1958年に行われた。",
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"text": "1962年にババは、最後の国際貢献の一つとして、東洋、西洋集合と呼ばれる集会を何回か行った。これらの集会では、西洋の信者とインド人の弟子たちが出会うように招かれていたが、肉体的痛みを押して何千人もの人々にババはダルシャン(darshan)を与えた。",
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"text": "1960年代の半ばに、ババは西洋のますます流行するドラッグ文化に関心を持つようになり、ティモシー・リアリーやRichard Alpertらの西洋の学識経験者たちと通信をし始めた。その中で、彼は霊的な目的で全ての幻覚剤を使用することに強く反対の意を示した。1966年に、ドラッグに関するババへの質問の返事が、『God in Pill?』というタイトルのパンフレットで公表された。メヘル・ババはドラッグを用いることは、霊的にダメージを与え、もし、悟りがドラッグによって可能なら、『神は、神に値しないことになる』と述べた。メヘル・ババは、西洋人の若い弟子たちに指導して、このメッセージを広めさせた。そのようにすることで、この時期に若者たちの間にメヘル・ババの教えに対する認識が増大した。Frederick Chapmanとの会見の中で、ババはLSDは『肉体的に、精神的に、霊的に有害である。』と述べ、『LSDの継続的使用は、狂気や死に導く。』と警告した。このFrederick Chapmanはハーバード大の卒業生で、フルブライト・プログラムで奨学された学者であり、インドで一年研究した際にババに出会ったことがある。",
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"text": "このような背景で反ドラッグのキャンペーンは、合衆国、ヨーロッパや、オーストラリアのババ・ラヴァーズによって始められた。このキャンペーンの大部分はうまくいかなかったけれども、それは新しい信者たちの波を生み出し、ババの考え方のいくらかが幻覚剤の利点や危険についての学術的論争に反映される形となった。",
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"text": "1962年の東洋と西洋の集合以降に、ババの健康は着実に悪化した。肉体の衰えにもかかわらず、ババは、長い期間に渡って独居や断食を行い続けた。1968年7月の後半の特に過酷な独居の時期を完遂した後に、この時までにババの仕事を『100%以上の満足で完成した』と述べている。この時期は、ババは車椅子を用いていた。2,3ヶ月の間に彼の症状は悪化し、床に伏すようになった。彼の肉体は強い筋肉痙攣によって痛み、その原因は医学的には不明だった。数名の医師たちの手当にもかかわらず、痙攣はますます悪化した。",
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"text": "1969年1月31日に、ババは、メヘラバッドの自宅で息を引き取った。彼は、最後のジェスチャーで次のように伝えた。『私が、神であることを忘れてはならない。』と。当時、ババの熱心な信者たちは、彼の死の記念日をhis death Amartithi(deathless day)「死のない日」と呼んだ。ババの体は、メヘラバッドのに威儀堂々と安置された。バラで飾られ、氷で冷やされ、最後の埋葬まで一週間に渡って、大衆にお別れの機会が与えられた。ババの死の前に、メヘル・ババはプーナで行われる予定であった大衆に向けたダルシャンの企画に向けて熱心に準備していた。マンダリたちは、ホストが肉体では存在しないにもかかわらず計画通りに実行する決心をした。数千人の人々がこの最後のダルシャンに訪れ、合衆国、ヨーロッパ、オーストラリアからも何百という人々が献花した。",
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"text": "1925年7月10日から、1969年の死までメヘル・ババは、沈黙を守った。最初は、アルファベット板を用いてコミュニケーションを始めたが、後になってユニークな手のジェスチャーで意志を疎通した。その手振りを解釈し、言葉にできたのはマンダリの中でもただ一人だけだった。それは、ババの弟子Eruch Jessawalaだった。メヘル・ババは、自分の沈黙は霊的な鍛錬として理解されるべきではなく、唯一ユニバーサルワークに関係して理解されるべきだと述べた。",
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"text": "『人間が神の言葉に沿って生きることができないので、アヴァターの教えは嘲りの対象になりつつある。ババが教えた共感を実践する代わりに、人は彼の名前で戦争を始める。謙虚や、純粋さや、ババの言葉の真理を生きる代わりに人は憎しみや、強欲や、暴力に道を譲る。人は過去に神によって示された原理や教説に耳を貸してこなかったので、この現在の私のアヴァターとしての姿では、私は沈黙を守るしかない。』",
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"text": "メヘル・ババは、その言葉を全ての人の心(=heart)に語ることによって、全ての生きとし生けるものを霊的に進歩向上させるようにババが沈黙を破る瞬間がいつかについてシグナルを送ることがよくあった。",
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"text": "『私が沈黙を破る時に、私の愛の衝撃が普遍的なものであり、被造界の全ての生命がそれを理解し、感じ、受け取ることになる。その言葉は、全ての個人が、自分のやり方で自分自身の束縛から自由になる手助けができるようになるだろう。私は、君が自分を愛しているよりももっと深く君を愛している最愛のものだ。私の沈黙破りは、君が自分自身の大我を知ることによって自分を理解する役に立つであろう。』",
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"text": "メヘル・ババの沈黙破りは、この世の霊的進歩の画期的な出来事になるだろう。",
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"text": "『私がその言葉を話す時に、次の700年間に起こる予定の物事の基礎を形成するつもりである。』",
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"text": "多くの場合、メヘル・ババは死ぬ前に耳に聞こえる言葉によって沈黙を破ると約束した。そして、沈黙破りが起こる時に、特定の時と場所を告げることがあった。しかし、全ての現代に残された記事によればメヘル・ババは死ぬまで沈黙したままであった。彼が沈黙を破らなかったのは、信者のうちのあるものを失望させたし、他の信者はこの約束破りは彼らの信仰のテストとみなしている。信者の中には、『その言葉は、未だに話されていない』とい考えるものもいるし、メヘル・ババは、実際に沈黙を破ったが、物理的にではなく精神において破ったのだと考える人もいる。",
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "何年にも渡って、ババは信者たちに7月10日は、沈黙を始めた記念の日であるので、沈黙や断食や、祈りを厳格に守るように求めていた。1968年の最後の沈黙の日の信者たちへの要求は、沈黙を守ることだけであった。ババの信者の多くは、彼を尊敬して沈黙を守ることによって、沈黙を祝福し続けている。",
"title": "沈黙"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "メヘル・ババの教えは、大きく二つのカテゴリーに分けることができる。魂の性質や、宇宙の性質に関する形而上学と、霊的求道者への実際的アドバイスである。二つは相互に関係し合っている。ババの形而上学は、God Speaksという主要な本の中にほとんど書いてある。その本は、魂の進歩についてと同様に、ババの宇宙観についての詳しい説明と、人生の目的についての説明を含んでいる。一方で、実際的な霊的生活の詳しい説明も、ほとんど講話集には含まれている。講話集には、God Speaksを鏡で映したり、拡大したような形而上学的部分がある。",
"title": "教え"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "God Speaksにおいて、メヘル・ババは、無意識の神の本来の状態から、意識のある神への究極的到達への魂の旅を描いている。全ての旅は、想像の旅である。その旅では、神の本来の分離不可能の状態が、数限りない個別化された魂になることを想像する。個別化された魂を、ババは無限の大洋の内部の泡に例えている。それぞれの魂が、自分が何か意識したいという欲望によって力を得て、意識の最も基本的形態の中でその旅を始める。この制限は、その形態をますます意識のある状態へ向かって進歩させるためにより進化した形態を必要とする。意識は、それぞれの形態が収集できる印象と関係して成長する。",
"title": "教え"
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"tag": "p",
"text": "ババによれば、それぞれの魂は、進化することによって意識的な神性を追求する。即ち、7つの段階つまり、石、金属、野菜、虫、鳥、動物、そして人間を経過して、想像した形態の連続の中に、魂それ自身を表現するのである。魂はそれ自身を進化の中で連続する形態と自己同一化している。そのようにして幻影の連続は続くのである。この形態の進化の中で、思考も増大し、遂には、人間の形態で思考は無限となる。人間の形態をとっている魂は、意識のある神と成ることができるが、その魂が進化の間に収集した全ての印象は幻影であり、魂が自分自身を理解するのを妨げる障壁を生み出している。この障壁を克服するためには、人間の形態で何回も生まれることが必要とされ、それは輪廻転生と名付けられている。",
"title": "教え"
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"text": "遂には魂があるステージに到達する。そのステージでは、以前に収集した印象が薄くなったり厚くなったりするので魂は退縮と呼ばれる最終段階に入る。このステージに入るためにも、何回もの生死が必要となる。その転生の間に、魂は、心の内側の旅を始める。その旅によって、魂は、神としての真の同一性を理解する。ババは、この内面の神実現への旅を彼が諸平面と呼ぶ7つの段階に分けている。この全プロセスは、神実現へ向かう第7段階へと上り詰めていく。この第7段階で個々の魂にとって人生のゴールが到達される。",
"title": "教え"
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"text": "メヘル・ババ講話集は、霊的求道者の進歩に関係する沢山のトピックスについてメヘル・ババが与えた説明や解説の集大成である。取り扱われている最も重要なトピックの幾つかは、sanskaras(精神における印象)、Maya(幻影の原理)、エゴの性質、輪廻転生、カルマ、暴力と非-暴力、冥想、愛、弟子であること、神実現である。ババの説明は、インドの伝説や、Sufi文化の伝説から取られた物語を含んでいることが多い。一つのそのような物語は、賢者と幽霊であるように、迷信が人に及ぼす影響についてであり、もう一つのものはMajnunとLaylaのような物語で、人間同士の関係においても、無私の愛がどのように子弟関係のような純粋な無私の愛へ人を導くかを示している。",
"title": "教え"
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"text": "そのようにメヘル・ババは、人を神実現へ向かい続けさせる多くの示唆を与えてくれる。これらの示唆は、理論を実践へと導くものや、欲望を内面的に放棄するものや、人類やマスターに対して無私の奉仕を与えることや、自発性を含んでいる。一方で、人を幻影に縛りつける行動を避けることも含んでいる。しかし、モラルのルールを列挙するよりむしろ、ババは、ある行動は、その人の解放に導くのに、何故ある行動はその人を縛ってしまうのかに関して理解する糸口を与えてくれる。多くの章が、意識が、喜びと痛みや、善と悪のような対立する経験の間に囚われてしまうかについてのメカニズムをよく理解できるように説明し、それらを超越する道を指摘している。",
"title": "教え"
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"text": "常に地球上には56人の神実現した魂が存在し、これらの魂のうちの5人がこの時代の『5人のパーフェクト・マスター達』を形成するとババは語っている。5人のパーフェクト・マスターの一人が死ぬと、56人の中でもう一人の魂がその人の後を継ぐことで取って代わるとババは語っている。",
"title": "教え"
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"text": "ババによれば、アヴァターは、特別なパーフェクト・マスターで、神実現を他のどんな魂より先に実現した最初の御魂だ。この魂は、大本のパーフェクト・マスター、或いは古代からのマスターと呼ばれ決して地上に下生するのを止めない。ババは、この特別の御魂が神の状態の化身となる。そのような存在は、ヒンズー教では、Vishnuと呼ばれ、スーフィズムではParvardigar、つまり神の状態の維持者であり、保持者である。メヘル・ババによれば、アヴァターは700年~1400年毎に地上に降臨し、神実現へ向かう決して終わらない旅において被造界が進歩するプロセスを手助けするために時代のマスター5人によって、人間の形態へと“引き降ろされる。” ババは、他の時代においてこの役割は、ザラスシュトラ、ラーマ、クリシュナ、釈迦、キリスト、そしてムハンマドによって成就されたと語っている。",
"title": "教え"
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"text": "ババは『Avatarは人が自分は何者かを計り、自分が何者に成り得るのか計ることができるものさしである。』と表現した。彼は、人間の価値基準を神的な人間の人生の観点で解釈することによって『人間の価値の基準を正しいものにする。』のである。",
"title": "教え"
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"text": "メヘル・ババの信者のほとんどは、アヴァターだとババが述べたことを受け入れ、ババはこの時代のAvatarとして、神実現した存在として、世界中で何百万もの人々によって尊敬されていると言われる。",
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"text": "ババの旅と教えは、世界中に弟子や熱心な信者を残した。",
"title": "遺産"
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"text": "アヴァター・メヘル・ババ慈善トラストは、1959年にメヘル・ババによって設立された。無料の学校や、薬局、白内障クリニック、獣医学病院と同様に、ババの聖廟や、巡礼者の施設も維持している。トラストは、ババが存命中に残した規約に従って運営されている。だが、グループ全体の霊的な権威としては機能していない。同様にトラストは、宣伝に従事したり教義やドグマを守ったり転宗を勧めたりしない。ババは布教を行うには消極的で、『自分は宣伝や、有名になることには全く興味がない。』むしろ彼は、信者たちに『自分の人生それ自身がババの愛と真理を伝える他人へのメッセージとなるような生き方をしなさい』と励ましている。そして、『できるだけ遠くに、できるだけ広く私のメッセージが広がるように』せよと言っているのだ。メヘル・ババの信者たちは、全く確立された儀式をもたない。多くの人々が、しかし、プージャやaartis(聖なるものや神々を賛える歌)、祈り、音楽、演劇、ババの映画を見ること等、自由に選んで実践している。信者たちの大切にしていることは、メヘル・ババが承認するであろう人生を生きることにあり、例えば、幻覚剤の使用や、マリファナの使用を差し控え、愛を持って神を憶う努力をすることだ。",
"title": "遺産"
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"text": "ババの信者が集会を行うことは、一般には非公式である。Amartithi(称賛の集い)、ババの死の記念日、ババの誕生日に集合することも、大いに努力を必要とする。多くのババの信者は7月10日は沈黙を守る。存命中にババが信者に命じたことを遵守する。インドのババの霊廟では、朝と夕方にAartiが行われている。またメヘラバッドでは、毎月の12日にはdhuniの火を灯す実践を彼の信者は維持している。",
"title": "遺産"
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"text": "ババは早くも1932年に時の著名人たちとの接触の結果、初めから大衆の注目を受けていた。更に、Paul Brunton(A Search in Secret India, 1934)のかなり幻滅した記事などから、ババは、西洋のポップカルチャーにおける様々な言及によって、死後も注目されている。",
"title": "遺産"
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"text": "イングランドのロック・バンドであるザ・フーのピート・タウンゼントは、1960年代末にババの信奉者となった。彼はユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグ(Universal Spiritual League)が制作したアルバム『ハッピー・バースデイ』(1970年)、『アイ・アム』(1972年)、『ウィズ・ラヴ』(1976年)に、他の信奉者と共に参加した。ザ・フーが1969年に発表したアルバム『トミー』はババに捧げられたレコードの巻頭を飾った。彼等の1971年のアルバム『フーズ・ネクスト』に収録された「ババ・オライリィ」(Baba O’Riley)の曲名はババにちなんだものである。",
"title": "遺産"
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"text": "アメリカのシンガー・ソングライターであるメラニー・ソフィカは、1970年に発表したシングル“Lay Down (Candles in the Rain)”の中に、“Meher Baba lives again.”という叙事詩を盛り込んだ。アメリカのジャズ・シンガーであるボビー・マクファーリンが歌った1988年のグラミー賞受賞曲“Don’t Worry, Be Happy”はババのポスターやインスピレーションに影響するカードによく使われた人気のあるフレーズに影響されている。漫画家のJ. M. DeMatteisの\"Doctor Fate\"や\"Seekers Into The Mystery\"などの作品には、ババの哲学の概念同様に彼をモチーフにした名前無き人物像も頻繁に登場した。",
"title": "遺産"
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"text": "2012年にオランダで公開されたドキュメンタリー・フィルム\"Nema Aviona za Zagreb\"には、1967年に撮影されたバーバーの独占インタビューが収録された。彼は神-実現と薬物による幻覚との相違点を説明しており、このインタビューはフィルムの中心的役割を担っている。",
"title": "遺産"
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メヘル・バーバー 、誕生名メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)は、インドのパールシーの出身で、インドの神秘家であり、1954年に今世代のアヴァターラと公衆に宣言した霊的指導者である。インドのマハラシュトラ州プネー市(旧称プーナ)で生まれ、マハーラーシュトラ州のメヘラザード(Meherazad)で肉体を離れたという。
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{{出典の明記|date=2022年6月}}
[[ファイル:Ancient One.jpg|250px|right|thumb|メヘル・バーバー]]
'''メヘル・バーバー''' (Meher Baba, {{lang-ur|مهر بابا}}, {{lang-hi|महर बाबा}}、[[1894年]][[2月25日]] - [[1969年]][[1月31日]])、誕生名'''メルワン・シェリア・イラニー'''(Merwan Sheriar Irani)は、[[インド]]の[[パールシー]]の出身で、インドの神秘家であり、[[1954年]]に今世代の[[アヴァターラ]]と公衆に宣言した霊的指導者である。インドの[[マハラシュトラ州]][[プネー]]市(旧称プーナ)で生まれ、[[マハーラーシュトラ州]]の[[メヘラザード]](Meherazad)で肉体を離れたという。
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:'''''「私は知識を伝えるために来たのではない。あなたたちの目を覚ますために来た」'''''
== 概要 ==
'''メルワン・シェリア・イラニー'''(Merwan Sheriar Irani)は1894年にインドのPuneで、ゾロアスター教徒の両親の元で生まれた。彼の霊的変遷は、彼が19歳の年に始まり7年間に及んだ。この間、5人の霊的マスターと接触し指導を受けた。彼が自分自身のミッションに目覚め、自分自身の弟子を集め始めたのは、1922年の初頭で、27歳の年齢であった。
1925年の7月10日から肉体としての生命を終えるまでずっとメヘル・ババは沈黙を維持し続け、アルファベットが書かれたボードや、独自の手を用いるジェスチャーで意志を疎通した。彼のマンダリ(弟子たちのサークル)とともに、彼は長い期間独居生活を送ったがその間はよく断食をした。彼はまた広く旅をした。また、公衆を集めるダルシャンやサハバスと呼ばれる集合を行い、ライ病患者や、貧乏な人々への慈善活動にも従事した。
1931年にメヘル・ババは、西洋諸国を初めて多数訪問した。その歴訪でババは沢山の弟子たちを魅了した。
1940年代は、ほとんどの間メヘル・ババは、マスト(masts)と呼ばれる霊的求道者の特殊な人々と仕事をした。ババの言葉に拠れば、彼らは内的な霊的体験によってトランス状態に或いは、神に酔える状態に入った人々であった。1942年に『ニューライフ』と彼が呼ぶ期間に入ると、選ばれたマンダリたちとのみ、ババは身分を隠してインド中を旅し、謎に満ちた大いに説明不能な時期を過ごしている。
2回に及ぶ深刻な自動車事故で乗客として負傷。一回は1952年にアメリカ合衆国で、一回はインドで1956年に負傷した。その後、歩行能力が酷く低下した。1962年にババは、『東洋と西洋の集合』と呼ばれる大きな大衆ダルシャンで西側から多数の弟子たちを招いた。LSDやサイケデリックドラックを大幅に使用することを危惧し、1966年にババは、それらの薬物が本物の利益にならないと述べた。健康状態の悪化にもかかわらずババは、彼が『ユニバーサル ワーク』と呼ぶものを続けた。その内容は、断食と独居を含んでいて、1969年1月31日の彼の死の直前まで続けられた。彼のサマディ-Samadi(霊廟)はインドのメヘラバッド(Meherabad)にあり、今では国際的な巡礼の地となっている。
メヘル・ババは、人生の大義や目的について数多くの講話を与えてきた。その中には輪廻転生の教えや、現象世界は幻影だという教えも含まれている。彼は宇宙は想像だ神こそが実際に存在すると、更にそれぞれの魂は、実際は神自身の神性を個別化して実現するために想像によって生じているが、実際は神であると教えている。それに加えて輪廻転生の生死を逃れ、”神-実現”を達成したいと望む求道者には実践的なアドバイスを与えている。彼はまたパーフェクト・マスターについての概念や、アヴァターについてや、彼が退縮と呼ぶ霊的な様々のステージについての概念も教えている。彼の最も重要な教えは、Discourses(メヘル・ババ講話集)とGod Speaks(神は語る)の二冊の重要な本の中に記録されている。
彼の遺産は、インドにババが設立したAvatar Meher Baba Charitable Trustに含まれている。その中には、いくつかの情報センターと巡礼の場、ポップカルチャーアーティストたちに及ぼした影響や、『心配するな。いつも幸せでいなさい。(Don't warry be happy)』というようなババが常に用いていた表現の紹介も含んでいる。メヘル・ババの沈黙は、世間の他の人々と同様に、彼の信者である人々の間にも神秘的な謎のまま残っている。
==生涯と活動==
=== 若年期 ===
メヘル ババは、[[インド]]の[[プネー]]で[[ゾロアスター教|ゾロアスター]]系の家庭に生まれたイラン系インド人である。彼の俗名は、'''メルワン・シェリア・イラニー'''(Merwan Sheriar Irani)といった。彼は、父シェリアル・イラニ(Sheriar Irani)の第二子である。シェリアル・イラニは、ペルシャ系のゾロアスター教徒で、プーナ(現在の[[プネー]])に居住し、母シレーン・イラニ(Shireen Irani)と結婚する前は、霊的経験を探求し放浪の生活を何年も送っている。
少年時代にメルワンは『コスモポリタンクラブ』を創設した。このクラブの目的は、世界情勢に精通し慈善活動に資金を募ることであった。彼は、様々な楽器を奏で、詩を書く青年であった。いくつかの言語に通暁し、[[ハーフェズ]]、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェークスピア]]、及び[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]の詩が特に好きであった。
若い時に、メルワンは全く神秘的傾向や経験を持たなかった。つまり、『まだ自分自身の運命の予感に惑わされることはなかった…』彼は何よりスポーツに関心があり、中学校の[[クリケット]]チームの副キャプテンをしていた。19歳の時に、[[プネー]]のデカン大学の2年生のときにメルワンは、非常に高齢の[[ムスリム|回教徒]]の女性に出会った。地元では聖者として尊敬されているハズラッド・ババジャン([[:en:Hazrat_Babajan|Hazrat Babajan]])と呼ばれる聖者が、メルワンの額にキスをした。この出来事が、彼に深遠な影響を及ぼした。そのキスはメルワンの目を眩ませることになり、彼は普通の活動ができなくなった。その後彼は、他の霊的指導者たちに接触することになる。その人々はババジャンの他に、その時代のパーフェクト・マスター達([[:en:Perfect_Master_(Meher_Baba)|Parfect Master]])であった5人の人々だタジュディン・ババ([[:en:Tajuddin_Muhammad_Badruddin|Tajuddin Baba]])、ナラヤン・マハラジ([[:en:Narayan_Maharaj|Narayan Maharaji]])、 [[シルディ・サイ・ババ]]([[:en:Sai_Baba_of_Shirdi|Sai Baba of Shirdi]])、及びウスパニ・マハラジ([[:en:Upasni_Maharaj|Uspani Maharaji]])であった。
ウスパニ・マハラジは、ババが後に語ったところによれば、メルワンが自分の神秘経験を普通の意識に統合する手助けをしてくれた。そのようにして、マハラジはババが神-実現の経験を減少させることなく世間で機能できるようにした。ウスパニと7年間ともに生活した後の、1921年後半の27歳の年に、メルワンは自分自身の従者を引き寄せ始めた。彼の初期の弟子たちは、彼に『メヘル・ババ』という名前を送った。それは、[[ペルシャ語]]で『慈愛深き父』という意味である。
1922年に、メヘル・ババと彼の弟子たちは[[ボンベイ]](現在の[[ムンバイ]])に“Manzil-e-Meem”(マスターの家)を設立した。其処でババは、自分の弟子に厳しい訓練と服従を強いる実践を始めた。一年経ちババとマンダリ(mandali)はアヘメドナガー(Ahmednagar)から2,3マイル離れたところへ移動し、そこを“Meherabad”(メヘルが栄える)と名付けた。このアシュラム(精神的な修行の場所)が後に、彼の仕事のセンターとなった。1920年代にメヘル・ババは、メヘラバッドに学校、病院と薬局を開いた。これらの3つの施設は、全ての[[カースト]]の人及び、全ての信仰の人に開放された。
1925年の7月にメヘル・ババは、一生続くことになる自ら課した沈黙を開始した。まずはチョークと黒板を用いて意思疎通し、やがてはアルファベット板や、彼独自の手によるジェスチャーを用いて意思の疎通をした。1927年の1月に、彼はペンや鉛筆を用いることも断念した。
=== 1930年代――西洋との最初の接触 ===
1930年代にメヘル・ババは、広範に渡る世界旅行を開始した。その中には、数回に渡るヨーロッパとアメリカ合衆国への旅行を含んでいる。ババが最初の西洋の弟子たちの親しいグループと接触を確立したのはこの時期であった。彼は、ペルシャのパスポートで旅をした。理由は、この頃は話すだけでなく、書くことも断念していたので、インドの英国政府によって要求される書式に署名をしたくなかったからだ。
1931年の英国への最初の旅で、彼は「[[ラージプタナ (船)|ラージプタナ]]」という船で旅をしたが、この同じ船に[[マハトマ・ガンディー]](Mahatma Gandhi)が乗船していた。ガンディーは、ロンドンでの第2回目の円卓会議へ向けて航海していた。ババとガンディーは船上で3回会談した。そのうち1回は、3時間にも及ぶものであった。英国の新聞はこれらの会談を特集した。だが、ガンディの秘書は『新聞は、ガンディがメヘル・ババに援助も、霊的アドバイスも、その他のアドバイスも決して求めなかったと強く書くべきだ。』と言った。
1932年5月20日にババは、[[ニューヨーク]]に到着し、1000単語に及ぶメッセージを記者クラブに提供した。その内容は、ババの信者であるクエンティン・トッド([[:en:Quentin_Tod|Quentin Tod]])によってババの『アメリカへのメッセージ』として書かれている。その文章の中で、ババは自分は“全てのものの無限の源泉を持っている者”だと宣言し、自身の沈黙を破る意図も宣言している。『私が沈黙を破るときに、私の本来のメッセージが世界中に配信され、そのメッセージは受け入れられねばならないだろう。』インドと英国の政治的状況に関しては、彼は全くコメントしなかったが、彼の信者たちは、ババがガンディに政治を放棄するように告げたと説明していた。
西洋で、メヘル・ババは沢山の有名人や芸術家と会った。その中には[[ゲイリー・クーパー]]、[[チャールズ・ロートン]]、[[タルラー・バンクヘッド]]、[[ボリス・カーロフ]]、トム・ミックス([[:en:Tom_Mix|Tom Mix]])、[[モーリス・シュヴァリエ]]、[[エルンスト・ルビッチ]]やその他の人々が含まれている。1932年6月1日に、[[メアリー・ピックフォード]]と[[ダグラス・フェアバンクス・ジュニア]]が、ピックフェイア([[:en:Pickfair|Pickfair]])でババのためのレセプションを開催した。そこでは、ババは[[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド]]へのメッセージを配布した。結果として、メヘル・ババは、『30年代の様々な情熱の一つ』として登場した。
1934年に[[ハリウッド・ボウル]]で自らに課した沈黙破りを行うつもりだと宣言した後に、ババは予定を突然変更して、[[エンプレス・オブ・カナダ (客船・初代)|エンプレス・オブ・カナダ]]という船に乗って、説明もなくホンコンへと旅立ってしまった。新聞連合会は、『ババは、「状況が熟していない」という理由で沈黙破りを来年の2月まで決定した』と伝えた。
1930年代の後半に、メヘル・ババは、西洋人の女性グループをインドへ招待した。そこでは、ババはインドとセイロン(現在の[[スリランカ]])を縦断する一連の旅をアレンジした。その旅は、ブルーバスツアー(Blue Bus Tours)として知られている。彼らが帰国した時には、多くの新聞が彼らの旅をスキャンダルの機会だと捉えていた。1936年のタイムマガジンの総編集に、〈神は私の冒険である〉というババの言葉を引用して、4年前の『長い髪の絹のようなペルシャ人、シリ・サッドガル・メヘル・ババ(Shri Sadgaru Meher Baba)』に対する合衆国の熱狂ぶりを揶揄しながら報じています。
=== 1940年代――Mastsと新しい生活 ===
1930年代と1940年代にメヘル・ババは、彼が『マスト(Masts)』と名付けたカテゴリーの人々と集中的に仕事をした。彼らは『神に酔える人々』だ。ババによれば、これらの人々は高次の霊的次元の魅力的な経験によって本質的に障害を抱えている。外形からみれば、マストは不合理的で、狂ってさえいるように見えるが、ババは彼らの霊的地位は実際に極めて高いと主張し、ババがマストに会うことによって彼らが霊的に進歩するように援助する。一方で、ババの霊的仕事に彼らの力を借りていた。これらのマストの中で最も良く知られた人は、モハンメド・マスト(Mohammed Mast)と呼ばれ、2003年に亡くなるまでメヘル・ババの施設内に同居していた。
1949年に、ババは『New Life』と呼んだ謎に満ちた時期を発足した。ババの最も難しい要求にさえ即座に対応できるか否かを試す様々な質問を投げかけた後に、ババは完全な『hopelessness(絶望)とhelplessness(無力)』の生活に参加する20人の従者を選んだ。
ババは、自分に依存して生活している人々のために準備をし、その日以後、ババと20人の選ばれたメンバーは、それ以外の目的での、全ての財産と、全ての金融的責任を断念した。やがて、彼らは『New Lifeの条件』という一連の厳格なルールに従い、食事を求めて乞食したり、ババの指示を実行したりしながら、身分を隠したままインド中を旅して回った。これらは、どんな状況でも絶対に受け入れ、どんな困難に直面しても、常に陽気さを失わないことを含んでいた。従うことができない仲間は、送り返された。
New Lifeについてメヘル ババは次のように記している。<blockquote> 『このNew Lifeは、終わりがない。私が肉体として死を迎えた後にも、New Lifeは、偽、嘘、憎しみ、怒り、強欲、欲情を完全に放棄する人生を生きる人々によって生き続けられるであろう。これらの人々は、完全な放棄の人生を達成するために、全く情欲も起こさず、誰にも害を与えず、陰口もきかず、物質的所有を求めず、権力も求めず、全く尊敬も受けず、名誉におもねらず、恥辱を否定せず、誰も何も恐れることがない。彼らは、全く、そして専ら神にのみ依存していて、愛するためにのみ純粋に神を愛している。彼らは、神を愛するものを信じていて、神の愛の顕示の真実を信じていて、全く何も霊的、物質的報酬を求めない。彼らは、真理を忠実に守り、悲惨な出来事に動揺せず、勇敢に全身全霊をもって100%の陽気さで全ての困難に直面する。彼らは、カーストや、教義や、宗教的セレモニーに全く重要性を置かない。このNew Lifeは、独力で永遠に継続し、その生活を誰も行わなくなっても、生き続けるであろう。』</blockquote>
Meher Babaは、1952年の2月にNew Lifeを終結し、インドと西洋で、大衆と接触する行事を再び始めた。
=== 1950年代――God Speaksと交通事故 ===
1950年代に、ババはインド以外に二つのセンターを設立した。その二つとは、アメリカ合衆国の[[サウスカロライナ州]]の[[マートルビーチ]]にあるメヘルスピリチュアルセンター([[:en:Meher_Spiritual_Center|Meher Spiritual Cente]])と[[オーストラリア]]の[[ブリスベン]]の近くにあるアヴァターズアボード([[:en:Avatar's_Abode|Avatar’s Abode]])である。ババは、1952年の4月にメヘルスピリチュアルセンターを発足した。1952年の5月24日にこのスピリチュアルセンターから、[[カリフォルニア州]]のオウハイ([[:en:Ojai,_California|Ojai]])にあるメヘル山(Meher Mount)へ向かう途中で、ババが乗り合わせた車が[[オクラホマ州]]のプラグー([[:en:Prague,_Oklahoma|Prague]])の近くで正面衝突した。ババと同乗していた人々は車から投げ出され、多くの負傷をした。ババの脚は酷く骨折し、鼻の骨折を伴った顔面に重傷も負った。負傷者たちは、[[ノースカロライナ州]]の[[ダーラム (ノースカロライナ州)|ダーラム]]のDuke病院で治療を受けた。ヨーポン砂丘(Youpon Dunes)で静養中に、エリザベス・パターソンの所有の土地で、ババはスーフィズム・リオリエンテッド([[:en:Sufism_Reoriented|Sufism Reoriented]])という名前をババによってつけられた[[スーフィズム|スーフィー]]のグループを指導することになった。
メヘル・ババは、1953年の8月に、彼の主要な本である『God Speaks』を口述筆記させ始めた。この本は、創造とその目的を主要なテーマとしており、[[デヘラードゥーン]]でアルファベット板を用いて行った。1954年の9月にメヘル・ババはメヘラバッドで男性のみのサハヴァス(sahavas)を行った。この集会は後に『3つの信じられない週』として知られている。この頃に、ババは『メヘル・ババの』という宣言を発している。その中に、ババは『様々な疑念と確信が』他の人々には存在するにもかかわらず、自分がアヴァター(Avatar)であることを再度宣言した。このサハヴァスの終わりに、アメリカで編集し出版するために、二人のスーフィズム・リオリエンテッドのメンバーである、Ludwig H. DimpflとDon E. StevensにGod Speaksの完成した草稿を手渡した。その本は結果として[[:en:Dodd,_Mead_&_Co.|Dodd, Mead and Company]]によって、翌年に出版されることになった。
1954年9月30日に、ババは、『最終宣言』メッセージを発した。この中で、彼は様々な謎に満ちた予言を残している。
1954年の10月に、メヘル・ババは、アルファベット板を廃止し、独自の手を用いるジェスチャーを使用し始めた。その後は亡くなるまでこのジェスチャーを用いた。
1956年12月2日にインドの[[サーターラー]]の郊外で、ババが同乗していた車が制御不能となり、2度目の深刻な自動車事故が起こった。ババは、骨盤を骨折するなど、他にも重傷を負った。ババのマンダリの一人であるNilu博士は事故死した。この衝突によって、ババの体は酷く不自由になった。外科医たちの予想を覆して、大いに努力した結果、ババは再び歩けるようになったが、その時以来ババは常に痛みに苦しみ、動き回る能力が極めて制限されることになった。実際に1958年の西洋への旅の際には、所々で介添えが必要だった。
1956年に、彼が5回目にアメリカ合衆国を訪れた日にババはニューヨークのデルモニコホテル(Hotel Delmonico )に滞在した後に、サウスカロライナ州の[[マートルビーチ]]のメヘル・センターへ向かった。7月には、ワシントンD.C.に旅をし、James Terry(Ivy)Duce夫人の家で友人や弟子たちを迎えた。Duce夫人は、アラビア・アメリカ石油会社の副会長の夫人であった。その後にババはカリフォルニア州のメヘル山に向かい、さらにオーストラリアへと旅を続けた。アメリカ合衆国とオーストラリアへの最後の訪問は1958年に行われた。
=== 1960年代――晩年そして、ドラッグへのメッセージ ===
1962年にババは、最後の国際貢献の一つとして、東洋、西洋集合と呼ばれる集会を何回か行った。これらの集会では、西洋の信者とインド人の弟子たちが出会うように招かれていたが、肉体的痛みを押して何千人もの人々にババはダルシャン([[:en:Darśana|darshan]])を与えた。
1960年代の半ばに、ババは西洋のますます流行するドラッグ文化に関心を持つようになり、[[ティモシー・リアリー]]や[[:en:Ram_Dass|Richard Alpert]]らの西洋の学識経験者たちと通信をし始めた。その中で、彼は霊的な目的で全ての幻覚剤を使用することに強く反対の意を示した。1966年に、ドラッグに関するババへの質問の返事が、『God in Pill?』というタイトルのパンフレットで公表された。メヘル・ババはドラッグを用いることは、霊的にダメージを与え、もし、悟りがドラッグによって可能なら、『神は、神に値しないことになる』と述べた。メヘル・ババは、西洋人の若い弟子たちに指導して、このメッセージを広めさせた。そのようにすることで、この時期に若者たちの間にメヘル・ババの教えに対する認識が増大した。Frederick Chapmanとの会見の中で、ババはLSDは『肉体的に、精神的に、霊的に有害である。』と述べ、『LSDの継続的使用は、狂気や死に導く。』と警告した。このFrederick Chapmanはハーバード大の卒業生で、[[フルブライト・プログラム]]で奨学された学者であり、インドで一年研究した際にババに出会ったことがある。
このような背景で反ドラッグのキャンペーンは、合衆国、ヨーロッパや、オーストラリアのババ・ラヴァーズによって始められた。このキャンペーンの大部分はうまくいかなかったけれども、それは新しい信者たちの波を生み出し、ババの考え方のいくらかが幻覚剤の利点や危険についての学術的論争に反映される形となった。
1962年の東洋と西洋の集合以降に、ババの健康は着実に悪化した。肉体の衰えにもかかわらず、ババは、長い期間に渡って独居や断食を行い続けた。1968年7月の後半の特に過酷な独居の時期を完遂した後に、この時までにババの仕事を『100%以上の満足で完成した』と述べている。この時期は、ババは車椅子を用いていた。2,3ヶ月の間に彼の症状は悪化し、床に伏すようになった。彼の肉体は強い筋肉痙攣によって痛み、その原因は医学的には不明だった。数名の医師たちの手当にもかかわらず、痙攣はますます悪化した。
1969年1月31日に、ババは、メヘラバッドの自宅で息を引き取った。彼は、最後のジェスチャーで次のように伝えた。『私が、神であることを忘れてはならない。』と。当時、ババの熱心な信者たちは、彼の死の記念日をhis death Amartithi(deathless day)「死のない日」と呼んだ。ババの体は、メヘラバッドのに威儀堂々と安置された。バラで飾られ、氷で冷やされ、最後の埋葬まで一週間に渡って、大衆にお別れの機会が与えられた。ババの死の前に、メヘル・ババはプーナで行われる予定であった大衆に向けたダルシャンの企画に向けて熱心に準備していた。マンダリたちは、ホストが肉体では存在しないにもかかわらず計画通りに実行する決心をした。数千人の人々がこの最後のダルシャンに訪れ、合衆国、ヨーロッパ、オーストラリアからも何百という人々が献花した。
== 沈黙 ==
1925年7月10日から、1969年の死までメヘル・ババは、沈黙を守った。最初は、アルファベット板を用いてコミュニケーションを始めたが、後になってユニークな手のジェスチャーで意志を疎通した。その手振りを解釈し、言葉にできたのはマンダリの中でもただ一人だけだった。それは、ババの弟子Eruch Jessawalaだった。メヘル・ババは、自分の沈黙は霊的な鍛錬として理解されるべきではなく、唯一ユニバーサルワークに関係して理解されるべきだと述べた。<blockquote>『人間が神の言葉に沿って生きることができないので、アヴァターの教えは嘲りの対象になりつつある。ババが教えた共感を実践する代わりに、人は彼の名前で戦争を始める。謙虚や、純粋さや、ババの言葉の真理を生きる代わりに人は憎しみや、強欲や、暴力に道を譲る。人は過去に神によって示された原理や教説に耳を貸してこなかったので、この現在の私のアヴァターとしての姿では、私は沈黙を守るしかない。』</blockquote> メヘル・ババは、その言葉を全ての人の心(=heart)に語ることによって、全ての生きとし生けるものを霊的に進歩向上させるようにババが沈黙を破る瞬間がいつかについてシグナルを送ることがよくあった。<blockquote> 『私が沈黙を破る時に、私の愛の衝撃が普遍的なものであり、被造界の全ての生命がそれを理解し、感じ、受け取ることになる。その言葉は、全ての個人が、自分のやり方で自分自身の束縛から自由になる手助けができるようになるだろう。私は、君が自分を愛しているよりももっと深く君を愛している最愛のものだ。私の沈黙破りは、君が自分自身の大我を知ることによって自分を理解する役に立つであろう。』</blockquote>メヘル・ババの沈黙破りは、この世の霊的進歩の画期的な出来事になるだろう。<blockquote> 『私がその言葉を話す時に、次の700年間に起こる予定の物事の基礎を形成するつもりである。』</blockquote> 多くの場合、メヘル・ババは死ぬ前に耳に聞こえる言葉によって沈黙を破ると約束した。そして、沈黙破りが起こる時に、特定の時と場所を告げることがあった。しかし、全ての現代に残された記事によればメヘル・ババは死ぬまで沈黙したままであった。彼が沈黙を破らなかったのは、信者のうちのあるものを失望させたし、他の信者はこの約束破りは彼らの信仰のテストとみなしている。信者の中には、『その言葉は、未だに話されていない』とい考えるものもいるし、メヘル・ババは、実際に沈黙を破ったが、物理的にではなく精神において破ったのだと考える人もいる。
何年にも渡って、ババは信者たちに7月10日は、沈黙を始めた記念の日であるので、沈黙や断食や、祈りを厳格に守るように求めていた。1968年の最後の沈黙の日の信者たちへの要求は、沈黙を守ることだけであった。ババの信者の多くは、彼を尊敬して沈黙を守ることによって、沈黙を祝福し続けている。
== 教え ==
メヘル・ババの教えは、大きく二つのカテゴリーに分けることができる。魂の性質や、宇宙の性質に関する形而上学と、霊的求道者への実際的アドバイスである。二つは相互に関係し合っている。ババの形而上学は、God Speaksという主要な本の中にほとんど書いてある。その本は、魂の進歩についてと同様に、ババの宇宙観についての詳しい説明と、人生の目的についての説明を含んでいる。一方で、実際的な霊的生活の詳しい説明も、ほとんど講話集には含まれている。講話集には、God Speaksを鏡で映したり、拡大したような形而上学的部分がある。
=== God Speaks ===
God Speaksにおいて、メヘル・ババは、無意識の神の本来の状態から、意識のある神への究極的到達への魂の旅を描いている。全ての旅は、想像の旅である。その旅では、神の本来の分離不可能の状態が、数限りない個別化された魂になることを想像する。個別化された魂を、ババは無限の大洋の内部の泡に例えている。それぞれの魂が、自分が何か意識したいという欲望によって力を得て、意識の最も基本的形態の中でその旅を始める。この制限は、その形態をますます意識のある状態へ向かって進歩させるためにより進化した形態を必要とする。意識は、それぞれの形態が収集できる印象と関係して成長する。
ババによれば、それぞれの魂は、進化することによって意識的な神性を追求する。即ち、7つの段階つまり、石、金属、野菜、虫、鳥、動物、そして人間を経過して、想像した形態の連続の中に、魂それ自身を表現するのである。魂はそれ自身を進化の中で連続する形態と自己同一化している。そのようにして幻影の連続は続くのである。この形態の進化の中で、思考も増大し、遂には、人間の形態で思考は無限となる。人間の形態をとっている魂は、意識のある神と成ることができるが、その魂が進化の間に収集した全ての印象は幻影であり、魂が自分自身を理解するのを妨げる障壁を生み出している。この障壁を克服するためには、人間の形態で何回も生まれることが必要とされ、それは輪廻転生と名付けられている。
遂には魂があるステージに到達する。そのステージでは、以前に収集した印象が薄くなったり厚くなったりするので魂は退縮と呼ばれる最終段階に入る。このステージに入るためにも、何回もの生死が必要となる。その転生の間に、魂は、心の内側の旅を始める。その旅によって、魂は、神としての真の同一性を理解する。ババは、この内面の神実現への旅を彼が諸平面と呼ぶ7つの段階に分けている。この全プロセスは、神実現へ向かう第7段階へと上り詰めていく。この第7段階で個々の魂にとって人生のゴールが到達される。
=== Discourses(メヘル・ババ講話集) ===
メヘル・ババ講話集は、霊的求道者の進歩に関係する沢山のトピックスについてメヘル・ババが与えた説明や解説の集大成である。取り扱われている最も重要なトピックの幾つかは、sanskaras(精神における印象)、Maya(幻影の原理)、エゴの性質、輪廻転生、カルマ、暴力と非-暴力、冥想、愛、弟子であること、神実現である。ババの説明は、インドの伝説や、Sufi文化の伝説から取られた物語を含んでいることが多い。一つのそのような物語は、賢者と幽霊であるように、迷信が人に及ぼす影響についてであり、もう一つのものはMajnunとLaylaのような物語で、人間同士の関係においても、無私の愛がどのように子弟関係のような純粋な無私の愛へ人を導くかを示している。
そのようにメヘル・ババは、人を神実現へ向かい続けさせる多くの示唆を与えてくれる。これらの示唆は、理論を実践へと導くものや、欲望を内面的に放棄するものや、人類やマスターに対して無私の奉仕を与えることや、自発性を含んでいる。一方で、人を幻影に縛りつける行動を避けることも含んでいる。しかし、モラルのルールを列挙するよりむしろ、ババは、ある行動は、その人の解放に導くのに、何故ある行動はその人を縛ってしまうのかに関して理解する糸口を与えてくれる。多くの章が、意識が、喜びと痛みや、善と悪のような対立する経験の間に囚われてしまうかについてのメカニズムをよく理解できるように説明し、それらを超越する道を指摘している。
=== パーフェクト・マスター達とアヴァター ===
常に地球上には56人の神実現した魂が存在し、これらの魂のうちの5人がこの時代の『5人のパーフェクト・マスター達』を形成するとババは語っている。5人のパーフェクト・マスターの一人が死ぬと、56人の中でもう一人の魂がその人の後を継ぐことで取って代わるとババは語っている。
ババによれば、アヴァターは、特別なパーフェクト・マスターで、神実現を他のどんな魂より先に実現した最初の御魂だ。この魂は、大本のパーフェクト・マスター、或いは古代からのマスターと呼ばれ決して地上に下生するのを止めない。ババは、この特別の御魂が神の状態の化身となる。そのような存在は、ヒンズー教では、Vishnuと呼ばれ、スーフィズムではParvardigar、つまり神の状態の維持者であり、保持者である。メヘル・ババによれば、アヴァターは700年~1400年毎に地上に降臨し、神実現へ向かう決して終わらない旅において被造界が進歩するプロセスを手助けするために時代のマスター5人によって、人間の形態へと“引き降ろされる。” ババは、他の時代においてこの役割は、[[ザラスシュトラ]]、[[ラーマ]]、[[クリシュナ]]、[[釈迦]]、[[イエス・キリスト|キリスト]]、そして[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]によって成就されたと語っている。
ババは『Avatarは人が自分は何者かを計り、自分が何者に成り得るのか計ることができるものさしである。』と表現した。彼は、人間の価値基準を神的な人間の人生の観点で解釈することによって『人間の価値の基準を正しいものにする。』のである。
メヘル・ババの信者のほとんどは、アヴァターだとババが述べたことを受け入れ、ババはこの時代のAvatarとして、神実現した存在として、世界中で何百万もの人々によって尊敬されていると言われる。
== 遺産 ==
ババの旅と教えは、世界中に弟子や熱心な信者を残した。
アヴァター・メヘル・ババ慈善トラストは、1959年にメヘル・ババによって設立された。無料の学校や、薬局、白内障クリニック、獣医学病院と同様に、ババの聖廟や、巡礼者の施設も維持している。トラストは、ババが存命中に残した規約に従って運営されている。だが、グループ全体の霊的な権威としては機能していない。同様にトラストは、宣伝に従事したり教義やドグマを守ったり転宗を勧めたりしない。ババは布教を行うには消極的で、『自分は宣伝や、有名になることには全く興味がない。』むしろ彼は、信者たちに『自分の人生それ自身がババの愛と真理を伝える他人へのメッセージとなるような生き方をしなさい』と励ましている。そして、『できるだけ遠くに、できるだけ広く私のメッセージが広がるように』せよと言っているのだ。メヘル・ババの信者たちは、全く確立された儀式をもたない。多くの人々が、しかし、プージャやaartis(聖なるものや神々を賛える歌)、祈り、音楽、演劇、ババの映画を見ること等、自由に選んで実践している。信者たちの大切にしていることは、メヘル・ババが承認するであろう人生を生きることにあり、例えば、幻覚剤の使用や、マリファナの使用を差し控え、愛を持って神を憶う努力をすることだ。
ババの信者が集会を行うことは、一般には非公式である。Amartithi(称賛の集い)、ババの死の記念日、ババの誕生日に集合することも、大いに努力を必要とする。多くのババの信者は7月10日は沈黙を守る。存命中にババが信者に命じたことを遵守する。インドのババの霊廟では、朝と夕方にAartiが行われている。またメヘラバッドでは、毎月の12日にはdhuniの火を灯す実践を彼の信者は維持している。
ババは早くも1932年に時の著名人たちとの接触の結果、初めから大衆の注目を受けていた。更に、Paul Brunton(A Search in Secret India, 1934)のかなり幻滅した記事などから、ババは、西洋のポップカルチャーにおける様々な言及によって、死後も注目されている。
[[イングランド]]の[[ロック (音楽)|ロック]]・[[バンド (音楽)|バンド]]である[[ザ・フー]]の[[ピート・タウンゼント]]は、1960年代末にババの信奉者となった{{Sfb|Townshend|2012|p=110}}<ref group="注釈">きっかけは、[[:en:Charles_Purdom|Charles Purdom]]著の''The God-Man: The Life, Journeys & Work of Meher Baba with an Interpretation of His Silence & Spiritual Teachingを''友人から受け取ったことだった。</ref>。彼はユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグ(''Universal Spiritual League'')が制作したアルバム『[[ハッピー・バースデイ (メヘル・バーバー関連のアルバム)|ハッピー・バースデイ]]』(1970年)、『[[アイ・アム (メヘル・バーバー関連のアルバム)|アイ・アム]]』(1972年)、『[[ウィズ・ラヴ (メヘル・バーバー関連のアルバム)|ウィズ・ラヴ]]』(1976年)<ref>{{Cite web |url=https://www.meherbabatravels.com/music/records-cds-audio-books-cassette-tapes/avatar-cd-box-set/ |title=meherbabatravels.com |access-date=2023年8月5日}}</ref>に、他の信奉者と共に参加した。ザ・フーが1969年に発表したアルバム『[[トミー (アルバム)|トミー]]』<ref group="注釈">自らの意志で外界に対して三重苦になって、内なる世界で成長していく少年トミーを描いた架空の物語で、[[ロック・オペラ]]という分野を確立した作品されている。</ref>はババに捧げられた<ref group="注釈">レコードのジャケットに''Avatar: Meher Baba''と記されている。</ref>レコードの巻頭を飾った。彼等の1971年のアルバム『[[フーズ・ネクスト]]』に収録された「[[ババ・オライリィ]]」(Baba O’Riley)の曲名はババにちなんだものである<ref group="注釈">ババと音楽家の[[テリー・ライリー]]の名字に由来している。</ref>。
アメリカの[[シンガーソングライター|シンガー・ソングライター]]である[[メラニー・ソフィカ]]は、1970年に発表したシングル“[[:en:Lay_Down_(Candles_in_the_Rain)|Lay Down (Candles in the Rain)]]”の中に、“Meher Baba lives again.”という叙事詩を盛り込んだ<ref>{{Cite web |url=https://www.stlyrics.com/songs/m/melanie9179/laydowncandlesintherain2133161.html |title=stlyrics.com |access-date=2023年9月18日}}</ref>。アメリカのジャズ・シンガーである[[ボビー・マクファーリン]]が歌った1988年のグラミー賞受賞曲“[[:en:Don't_Worry,_Be_Happy|Don’t Worry, Be Happy]]”はババのポスターやインスピレーションに影響するカードによく使われた人気のあるフレーズに影響されている。漫画家の[[:en:J._M._DeMatteis|J. M. DeMatteis]]の"[[:en:Doctor_Fate|Doctor Fate]]"や"Seekers Into The Mystery"などの作品には、ババの哲学の概念同様に彼をモチーフにした名前無き人物像も頻繁に登場した。
2012年にオランダで公開されたドキュメンタリー・フィルム"[[:en:Nema_Aviona_za_Zagreb|Nema Aviona za Zagreb]]"には、1967年に撮影されたバーバーの独占インタビューが収録された。彼は神-実現と薬物による幻覚との相違点を説明しており、このインタビューはフィルムの中心的役割を担っている。
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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=== 注釈 ===
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== 参考文献 ==
* {{cite book|title=Who I Am|first=Pete|last=Townshend|year=2013|publisher=HarperCollins|ISBN=978-0-00-747916-0}}
==外部リンク==
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*[http://www.meherbaba.com/ 公式サイト(英文)]
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[[Category:1894年生]]
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ライト・ミルズ
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チャールズ・ライト・ミルズ(Charles Wright Mills、1916年8月28日 - 1962年3月20日)は、アメリカの社会学者。
1916年、テキサス州生まれ。1941年、ウィスコンシン大学で博士号を取得、メリーランド大学準教授となる。第二次世界大戦後の1946年から没年まで、コロンビア大学教授を務めた。
出世作『ホワイト・カラー』では、新中間層が増加した理由を述べ、さらにその政治的無関心を指摘した。続く『パワー・エリート』ではアメリカ社会の支配構造を分析し、激しく糾弾した。ミルズにはマルクス主義への接近もみられたものの、急逝のため、理論的な統合は実現しなかった。
パワー・エリートとはアメリカ社会の政策決定に対し、独占的な影響力を行使できるとされる権力層のことである。そうしたパワーエリートは、政治・経済・軍事の各分野に於けるヒエラルキーのトップであり(政府機関幹部、政治指導者、大企業幹部、軍幹部など)、ミルズは、これら権力層が権力構造維持による利益の一致から協力して大衆を操作していると分析した。パワー・エリートは必ずしも階級とは関係が無く、制度化されたポストに就いている人びとであるという点で、マルクス主義的な定式化とは異なり、経済一元論から脱して権力支配層を摘出した点で評価された。
また、パーソンズを頂点とするアメリカ社会学界の正統派(構造機能主義)への痛烈な批判の展開者としても知られる。このなかで提唱された「社会学的想像力」の概念は、社会学のあり方を考える上で重要な概念として、広い視野を持ち大きな問題と向き合うことの重要性を語った。このことは今日でも多くの社会学者によって言及されている。それは、「一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしにはそのどちらの一つも理解することができない」(『社会学的想像力』邦訳4頁)と考える想像力である。
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チャールズ・ライト・ミルズは、アメリカの社会学者。
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'''チャールズ・ライト・ミルズ'''(Charles Wright Mills、[[1916年]][[8月28日]] - [[1962年]][[3月20日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[社会学者の一覧|社会学者]]。
==経歴 ==
1916年、[[テキサス州]]生まれ。1941年、[[ウィスコンシン大学]]で博士号を取得、[[メリーランド大学]]準教授となる。[[第二次世界大戦]]後の1946年から没年まで、[[コロンビア大学]]教授を務めた。
== 研究内容・業績 ==
出世作『ホワイト・カラー』では、[[新中間層]]が増加した理由を述べ、さらにその[[政治的無関心]]を指摘した。続く『パワー・エリート』ではアメリカ社会の支配構造を分析し、激しく糾弾した。ミルズにはマルクス主義への接近もみられたものの、急逝のため、理論的な統合は実現しなかった。
=== パワー・エリート ===
パワー・エリートとはアメリカ社会の政策決定に対し、独占的な影響力を行使できるとされる権力層のことである。そうしたパワーエリートは、政治・経済・軍事の各分野に於けるヒエラルキーのトップであり(政府機関幹部、政治指導者、大企業幹部、軍幹部など)、ミルズは、これら権力層が権力構造維持による利益の一致から協力して大衆を操作していると分析した。パワー・エリートは必ずしも階級とは関係が無く、制度化されたポストに就いている人びとであるという点で、マルクス主義的な定式化とは異なり、経済一元論から脱して権力支配層を摘出した点で評価された。
=== パーソンズ批判と社会学的想像力 ===
また、[[タルコット・パーソンズ|パーソンズ]]を頂点とするアメリカ社会学界の正統派([[構造機能主義]])への痛烈な批判の展開者としても知られる。このなかで提唱された「[[社会学的想像力]]」の概念は、[[社会学]]のあり方を考える上で重要な概念として、広い視野を持ち大きな問題と向き合うことの重要性を語った。このことは今日でも多くの社会学者によって言及されている。それは、「一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしにはそのどちらの一つも理解することができない」(『社会学的想像力』邦訳4頁)と考える想像力である。
== 著作 ==
=== 単著 ===
* ''The New Men of Power: America's Labor Leaders'' (1948)
*:[[河村望]]・[[長沼秀世]]訳『新しい権力者――労働組合幹部論』青木書店、1975年
* ''White Collar: The American Middle Classes'' (1951)
*:杉政孝訳『ホワイト・カラー――中流階級の生活探究』[[東京創元社]]「現代社会科学叢書」、1957年、新版1978年
* ''The Power Elite'' (1956)
*:[[鵜飼信成]]・[[綿貫譲治]]訳『パワー・エリート〔上・下〕』[[東京大学出版会]]、1958年、UP選書判・1969年、のち新版/[[筑摩書房]]「ちくま学芸文庫」全1巻、2020年
* ''The Causes of World War Three'' (1958)
*:[[村上光彦]]訳『第三次世界大戦の原因』[[みすず書房]]、1959年
* ''Listen, Yankee'' (1960)
*:[[鶴見俊輔]]訳『キューバの声』みすず書房、1961年
* ''The Sociological Imagination'' (1959)
*:[[鈴木広 (社会学者)|鈴木広]]訳『社会学的想像力』[[紀伊國屋書店]]、1966年
*:[[伊奈正人]]・中村好孝訳『社会学的想像力』[[ちくま学芸文庫]]、2017年
* ''Images of Man: The Classic Tradition in Sociological Thinking'' (1960)
* ''The Marxists'' (1962)
*:陸井四郎訳『マルクス主義者たち〔上・下〕』[[青木書店]]、1964年、新版1971年
*''Sociology and pragmatism : higher learning in America'' (1966) - 学位論文
*:本間康平訳『社会学とプラグマティズム――アメリカ思想研究』紀伊國屋書店、1969年
*''Power, Politics and People the Collected Essays of C. Wright Mills'' (1967)
*:[[青井和夫]]・本間康平監訳『権力・政治・民衆』みすず書房、1971年、新版1984年
=== 共著ほか ===
* ''From Max Weber: Essays in Sociology'' (1946) was edited and translated in collaboration with Gerth.{{sfn|C. W. Mills|2000a}}{{page needed|date=May 2019}}
*:山口和男・犬伏宣宏訳『マックス・ウェーバー――その人と業績』[[ミネルヴァ書房]]、1962年
* ''The Puerto Rico|Puerto Rican Journey'' (1950) was written in collaboration with Clarence Senior and Rose Kohn Goldsen.
*:奥田憲昭・吉原直樹・堀田泉訳『プエルトリカン・ジャーニー――ニューヨークに惹きつけられた移民たち』[[恒星社厚生閣]]、1991年
* ''Character and Social Structure'' (1953) was co-authored with Gerth.
*:古城利明・杉森創吉訳『性格と社会構造――社会制度の心理学』[[青木書店]]、1970年、復刊2005年
*アプセーカー『ライト・ミルズの世界 大衆社会論批判』陸井三郎訳、青木書店、1962年。追悼出版
== 関連項目 ==
* [[軍産複合体]]
* [[権力]]
== 脚注 ==
<references/>
== 外部リンク ==
* [http://www.cwrightmills.org/ Official website]
* [http://www.faculty.rsu.edu/~felwell/Theorists/Mills/ Frank Elwell's page at Rogers State]
* [http://www.monthlyreview.org/1007dawson.htm An interview with Mills's daughters, Kathryn and Pamela]
* [http://www.thirdworldtraveler.com/Book_Excerpts/PowerElite.html C.Wright Mills, The Power Elite]
* [http://www.logosjournal.com/aronowitz.htm A Mills Revival?]
* [http://www.questia.com/library/book/the-causes-of-world-war-three-by-c-wright-mills.jsp C.Wright Mills,The Causes of World War Three]
* [http://www.marxists.org/subject/humanism/mills-c-wright/letter-new-left.htm C.Wright Mills, Letter to the New Left]
* [http://www.camden.rutgers.edu/~wood/207socimagination.htm C.Wright Mills, The Sociological Imagination]
* [https://web.archive.org/web/20061106060908/http://ddl.uwinnipeg.ca/res_des/files/readings/cwmills-intel_craft.pdf C.Wright Mills, On Intellectual Craftsmanship]
* [http://www.csub.edu/~akebede/SOC502Mills2.pdf C.W Mills,Structure of Power in American Society,British Journal of Sociology,Vol.9.No.1 1958]
* [http://www.uni-muenster.de/PeaCon/dgs-mills/Millspage-info.htm Sociology-Congress in Köln 2000 workshop: ''C. Wright Mills and his Power Elite: Actuality today?'']
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11,494 |
色 (仏教)
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インド哲学における色(しき、梵: रूप rūpa)とは、一般に言う物質的存在のこと。原義では色彩(カラー)よりも、容姿、色艶、美貌をさしている。
仏教においては、色は重要な枠組みとして3つの文脈で登場する。
「色・受・想・行・識」の五蘊(ごうん)の一要素。物質的存在としての「色」は五蘊の一要素であり、いろ、形あるもの。認識の対象となる物質的存在の総称。一定の空間を占めて他の存在と相容れないが、絶えず変化し、やがて消滅するもの。
現世の色も、来世の色も、現世の色想(rūpa-saññā)も、来世の色想も、これらの両者は無常である。
漢訳で「色」と訳されたサンスクリット語のルーパ(rūpa)は、「色彩」とともに「形」という意味も含んでいるため、「いろ」「かたち」で表現される物質的存在という意味が、すべて「色」という漢語の中に集約されている。最初は我々の肉体だけを指していたが、「変化して壊れゆくもの」「他物と同一空間を共有できないもの」「現象として顕現しているもの」などの意味をもち、現代の「物質」に近い概念となった。
『般若心経』においては、「色即是空 空即是色(色はこれ即ち空である。空はこれ即ち色である)」等の箇所に用いられている。
Katamañca bhikkhave, rūpaṃ: Cattaro ca mahābhūtā catunnañca mahābhūtānaṃ upādāya rūpaṃ.
比丘たちよ、いかなるものが色か。四大種、および四大種所造のもの。比丘たちよ、これらが色である。
四大種(mahābhūtānaṃ)には、地界、水界、火界、風界の4つの大色がある。四大種によって造られた、二次的派生の色のことを所造色、依止色(upādāya rūpa)という。
四大種には内なるものと、外なるものがあり、大象跡喩経では内なる四大種を以下と述べている。
依止色には、アビダンマッタ・サンガハによれば以下の24種類がある。
十二処の一要素としての「色」は、視覚(眼、眼識)の対象のこと。この色 のほか、声(聴覚)・香(嗅覚)・味(味覚)・触(触覚)・法(心によって考察される存在全般)を合わせて六境とし、それぞれを知覚する器官である眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と合わせて十二処と呼ぶ。また、六根・六境の諸要素が複合的に作用し合って現象が成り立つ場としての眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界の六識と合わせて十八界と呼ぶ。
五蘊・十二処・十八界のそれぞれは、世界の構成要素の軸としてのカテゴリー(範疇)の区分の方法である(五蘊、十二処、十八界を合わせて三科と呼ぶ)。五蘊の「色」は、十二処・十八界の「眼、耳、鼻、舌、身、色、声、香、味、触」に対応する。
『般若心経』においては、「無色声香味触法(色・声・香・味・触・法は無である)」等の箇所に用いられている。
また、顕色(けんじき。「いろ」の意)と形色(ぎょうしき。「かたち」の意)の2種に分たれ、さらに以下の20種に分たれる。
四色禅 (ruppihana)とは、三界の内の色界の禅定(ジャーナ)。
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インド哲学における色とは、一般に言う物質的存在のこと。原義では色彩(カラー)よりも、容姿、色艶、美貌をさしている。 仏教においては、色は重要な枠組みとして3つの文脈で登場する。 色蘊(rūpa-khandha) - 物質的存在として。世界すべての現象を分類することができる五蘊のひとつ。
色処(rūpa-āyatana) - 目から入ってくる情報。世界を認知する十二処、六境のひとつ。
名色(nāma-rūpa)- 「名前と形」もしくは「心と肉体」。十二因縁のひとつ。
|
{{Infobox Buddhist term
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[[インド哲学]]における'''色'''(しき、{{lang-sa-short|रूप}} rūpa)とは、一般に言う物質的[[存在]]のこと。原義では色彩(カラー)よりも、容姿、色艶、美貌をさしている<ref name= mura />。
[[仏教]]においては、色は重要な枠組みとして3つの文脈で登場する<ref>E.g., see Hamilton (2001), p. 3 and ''passim''.</ref>。
* 色蘊(rūpa-khandha) - 物質的存在として。世界すべての現象を分類することができる[[五蘊]]のひとつ。
* 色処(rūpa-āyatana) - 目から入ってくる情報。世界を認知する[[十二処]]、[[六境]]のひとつ。
* [[名色]](nāma-rūpa)- 「名前と形」もしくは「心と肉体」。[[十二因縁]]のひとつ。
== 色蘊==
{{五蘊}}
「'''色'''・[[受]]・[[想]]・[[サンカーラ|行]]・[[識]]」の[[五蘊]](ごうん)の一要素。物質的存在としての「色」は[[五蘊]]の一要素であり、いろ、形あるもの{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=342}}。認識の対象となる物質的存在の総称{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=342}}。一定の空間を占めて他の存在と相容れないが、絶えず変化し、やがて消滅するもの{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=342}}。
=== 諸色無常 ===
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現世の色も、来世の色も、現世の色[[想]](rūpa-saññā)も、来世の色想も、これらの両者は[[無常]]である。
| {{SLTP|[[中部 (パーリ)|中部]][[不動利益経]] }} }}
漢訳で「色」と訳された[[サンスクリット]]語のルーパ(rūpa)は、「色彩」とともに「形」という意味も含んでいるため、「いろ」「かたち」で表現される物質的存在という意味が、すべて「色」という漢語の中に集約されている{{sfn|頼富・今井・那須|2003|p=68}}。最初は我々の肉体だけを指していたが、「変化して壊れゆくもの」「他物と同一空間を共有できないもの」「現象として顕現しているもの」などの意味をもち、現代の「物質」に近い概念となった{{sfn|横山|1976|p=98}}。
『[[般若心経]]』においては、「色即是[[空 (仏教)|空]] 空即是色(色はこれ即ち空である。空はこれ即ち色である)」等の箇所に用いられている。
=== 四大種 ===
{{Main|四元素#仏教の四大}}
{{Quote|
Katamañca bhikkhave, rūpaṃ: Cattaro ca mahābhūtā catunnañca mahābhūtānaṃ upādāya rūpaṃ.
比丘たちよ、いかなるものが色か。四大種、および四大種所造のもの。比丘たちよ、これらが色である。
| {{SLTP|[[相応部]][[蘊相応]] 22-57 七処経}} <ref name=mura />}}
[[四大種]](mahābhūtānaṃ)には、地界、水界、火界、風界の4つの大色がある<ref name=abi>{{Citation |和書|author=アルボムッレ・スマナサーラ |title=ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析|date=2005|publisher=サンガ |isbn=978-4901679145}}</ref>。四大種によって造られた、二次的派生の色のことを'''所造色'''、'''依止色'''(upādāya rūpa)という<ref name=abi />{{sfn|櫻部|1981|p = 70}}<ref name= mura /><ref>{{Cite journal|和書|title=四大種に関する一考察 |author=阿部 真也 |journal=印度學佛教學研究 |volume=57 |issue=2 |pages=949-944 |date=2009 |naid=110007131029}}</ref><ref name=mura>{{Cite journal|和書|title=原始仏教研究法の検討に基づく五蘊説の考察 |author=村上 真完 |journal=印度學佛教學研究 |voliume=55 |issue=2 |pages=856-849,1269 |date=2007 |naid=110006272276}}</ref>。
[[四大種]]には内なるものと、外なるものがあり、[[大象跡喩経]]では内なる四大種を以下と述べている<ref name=mura />。
* 地 - 内臓に固定されたもの。たとえば頭髪、体毛、爪、歯、皮膚、筋肉、腱、骨、骨髄など。<ref name=mura />.
* 水 - 体内の液状のもの。たとえば胆汁・疾・血・汗・脂肪・膏・唾液・鼻汁など<ref name=mura />
* 火 - 体内で燃焼するもの。飲食によって消化されるもの。体温や老化や消化機能 <ref name=mura />
* 風 - 体内で気体であるもの。呼吸系など<ref name=mura />
依止色には、[[アビダンマッタ・サンガハ]]によれば以下の24種類がある<ref name=abi />。
* 5つの浄色 - 目色・耳色・鼻色・舌色・身色
* 7つの境色 - 色(姿形)、声、香、味、および地、火、風(=三大色)
* 2つの性色 - 女性、男性
* 1つの心色 - 心基
* 1つの命色 - 命根
* 1つの食色 - 段食
* 1つの分断色 - 虚空界
* 2つの表色 - 身表、語表
* 5つの変化色 - 色軽快性、色柔軟性、色適業性、および身・語の二表
* 4つの相色 - 色積集、色相続、色老性、色無常性
== 色処 ==
[[十二処]]の一要素としての「色」は、視覚(眼、眼識)の対象のこと。この'''色''' のほか、声(聴覚)・香(嗅覚)・味(味覚)・触(触覚)・法(心によって考察される存在全般)を合わせて六境とし、それぞれを知覚する器官である眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と合わせて[[十二処]]と呼ぶ。また、六根・六境の諸要素が複合的に作用し合って現象が成り立つ場としての眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界の六識と合わせて[[十八界]]と呼ぶ{{sfn|頼富・今井・那須|2003|p=94~97}}。
五蘊・十二処・十八界のそれぞれは、世界の構成要素の軸としてのカテゴリー(範疇)の区分の方法である(五蘊、十二処、十八界を合わせて[[三科]]と呼ぶ)。五蘊の「色」は、十二処・十八界の「眼、耳、鼻、舌、身、色、声、香、味、触」に対応する{{sfn|頼富・今井・那須|2003|p=97}}。
『[[般若心経]]』においては、「無色声香味触法(色・声・香・味・触・法は無である)」等の箇所に用いられている。
また、'''顕色'''(けんじき。「いろ」の意)と'''形色'''(ぎょうしき。「かたち」の意)の2種に分たれ、さらに以下の20種に分たれる{{sfn|櫻部|1981|p=64}}<ref>{{Kotobank|形色|2=精選版 日本国語大辞典}}</ref>。
{| class="wikitable" style="margin-left:1em; font-size:90%"
|+
!
!顕色
!形色
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|1 青
|◯
|
|-
|2 黄
|◯
|
|-
|3 赤
|◯
|
|-
|4 白
|◯
|
|-
|5 長
|
|◯
|-
|6 短
|
|◯
|-
|7 方
|
|◯
|-
|8 円
|
|◯
|-
|9 高(凸形)
|
|◯
|-
|10 下(凹形)
|
|◯
|-
|11 正(規則的な形)
|
|◯
|-
|12 不正(不規則な形)
|
|◯
|-
|13 雲
|◯
|◯
|-
|14 煙
|◯
|◯
|-
|15 塵
|◯
|◯
|-
|16 霧
|◯
|◯
|-
|17 影
|◯
|◯
|-
|18 光
|◯
|◯
|-
|19 明
|◯
|◯
|-
|20 闇
|◯
|◯
|}
== 色禅 ==
{{Main|四禅}}
四色禅 (ruppihana)とは、[[三界]]の内の[[色界]]の[[禅定]](ジャーナ)。
{{ジャーナ}}
{{-}}
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author=中村元他|authorlink=中村元 |year=1989 |title=岩波仏教辞典 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典|1989}} }}
*{{Cite book|和書|author = 頼富本宏 ; 今井浄圓 ; 那須真裕美|year = 2003|title = 図解雑学 般若心経|publisher = ナツメ社|isbn = 4-8163-3544-7|ref = {{SfnRef|頼富・今井・那須|2003}} }}
*{{Cite book|和書|author= 横山紘一|authorlink=横山紘一|year = 1976|title = 唯識思想入門|publisher = 第三文明社|isbn = 978-4-476-01066-4|ref = {{SfnRef|横山|1976}} }}
*{{Cite book |和書 |author=櫻部建|authorlink=櫻部建 |year=1981 |title=倶舎論 |publisher=[[大蔵出版]] |isbn=978-4-8043-5441-5 |ref={{SfnRef|櫻部|1981}} }}
* Hamilton, Sue (2001). ''Identity and Experience: The Constitution of the Human Being according to Early Buddhism''. Oxford: Luzac Oriental. {{ISBN2|1-898942-23-4}}.
==関連項目==
*[[五蘊]] / 色(本項)、[[受]]、[[想]]、[[サンカーラ|行]]、[[識]]
*[[色界]] / [[無色界]]
{{Buddhism-stub}}
{{DEFAULTSORT:しき}}
[[Category:仏教用語]]
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"Template:Citation"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
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11,496 |
観無量寿経
|
『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)は、大乗仏教の経典の一つ。別名『観無量寿仏経』、『無量寿仏観経』、『無量寿観経』ともいい、『観経』と略称される。
サンスクリット原典、チベット語訳が発見されていないため、中央アジア撰述説と中国撰述説のふたつがある。
ウイグル語訳は、残簡が大谷探検隊により敦煌にて発見されているが、漢訳経典からの翻訳とみられている(中央アジアもしくは中国で作られたとの説もある)。
阿闍世という名の太子が、悪友の提婆達多にそそのかされて、父の頻婆娑羅王を幽閉し餓死させようとした「王舎城の悲劇」を導入部として、王の后である韋提希夫人の願いにより釈迦が、極楽世界や阿弥陀仏、観音・勢至の二菩薩を観想する13の観法を説く。そして、極楽世界に往生する者を「上品上生」から「下品下生」まで九品に分類し、最後に釈迦が阿難に向って「無量寿仏の名号を、常に心にとどめ続けよ」と説く。 一方、極楽往生することよりも五悪に穢れた現世で精進することの方が功徳があると説く五悪段があるが、これは中国的な思想であるため、偽経説の拠り所の一つとなっている。
|
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『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)は、大乗仏教の経典の一つ。別名『観無量寿仏経』、『無量寿仏観経』、『無量寿観経』ともいい、『観経』と略称される。 サンスクリット原典、チベット語訳が発見されていないため、中央アジア撰述説と中国撰述説のふたつがある。
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{{特殊文字}}
『'''観無量寿経'''』(かんむりょうじゅきょう)は、[[大乗仏教]]の[[経典]]の一つ。別名『'''観無量寿仏経'''』、『'''無量寿仏観経'''』、『'''無量寿観経'''』ともいい、『'''観経'''』と略称される。
[[サンスクリット]]原典、[[チベット語]]訳が発見されていないため、中央アジア撰述説と中国撰述説のふたつがある<ref>[[藤田宏達]] [http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%97%E3%81%B3/%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%97%E3%81%B3%EF%BC%97%EF%BC%90%EF%BC%90%E5%8F%B0/%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%97%E3%81%B3%E7%AC%AC756%E5%8F%B7.PDF 浄土三部経と親鸞聖人]</ref>{{Sfn|藤田|1969|page=466}}。
== 訳本 ==
=== 漢訳 ===
==== 畺良耶舎訳の仏説観無量寿経 ====
[[File:活字《佛说观无量寿佛经》残叶.jpg|thumb|right|250px|現存最古の[[活字]]印刷物である『仏説観無量寿経』残頁。]]
{{Wikisource|仏説観無量寿経|『仏説観無量寿経』}}
* 『仏説観無量寿経』1巻 [[劉宋]]の[[畺良耶舎]]訳。
** [[浄土教#日本|日本の浄土教]]の根本聖典の一つ。
** [[法然]]により『'''[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]'''』([[康僧鎧]]訳)、『'''[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]'''』([[鳩摩羅什]]訳)とともに「'''[[浄土三部経]]'''」と称されている。
** 『[[大正新脩大蔵経]]』の収録名は『佛説觀無量壽佛經』である。
==== 曇摩蜜多の観無量寿経 ====
* 『観無量寿経』1巻 劉宋の曇摩蜜多訳。残存していない。
** 『[[開元釈教録]]』(編纂:智昇)に収録され存在したとの説もあるが、早く散逸した訳経録からの記載であり、『[[高僧伝]]』の曇摩蜜多の条にも訳出経典として挙げられていない。よって訳者の混同により二訳ありとの過失が生じたものと考えられ、[[#畺良耶舎訳の仏説観無量寿経|畺良耶舎訳]]のみが存在すると考えるのが通説である。
** その他に、後漢訳と東晋訳が存在したとの記録があるが、いずれも残存していない。
{{節スタブ}}
=== ウイグル語訳 ===
[[古ウイグル語|ウイグル語]]訳は、残簡が[[大谷探検隊]]により[[敦煌市|敦煌]]にて発見されているが、漢訳経典からの翻訳とみられている(中央アジアもしくは中国で作られたとの説もある)。
== 内容 ==
[[アジャータシャトル|阿闍世]]という名の太子が、悪友の[[提婆達多]]にそそのかされて、父の[[ビンビサーラ|頻婆娑羅王]]を幽閉し餓死させようとした「[[王舎城]]の悲劇」を導入部として、王の后である[[韋提希|韋提希夫人]]の願いにより[[釈迦]]が、極楽世界や阿弥陀仏、[[観音菩薩|観音]]・[[勢至菩薩|勢至]]の二菩薩を観想する13の観法を説く。そして、極楽世界に往生する者を「上品上生」から「下品下生」まで[[九品]]に分類し、最後に釈迦が[[阿難]]に向って「無量寿仏の名号を、常に心にとどめ続けよ」と説く。
== 注釈書 ==
* [[慧遠 (隋)|慧遠]] - 『観無量寿経義疏』2巻
* [[智顗]]
* [[吉蔵]] - 『観無量寿経義疏』1巻
* [[道綽]] - 『[[安楽集]]』2巻
* [[善導]] - 『[[観無量寿経疏]]』(『観経四帖疏』)4巻<ref>日本の浄土教においては、善導の撰述した書を、『観経』の注釈書とするのが通例である。</ref>
* [[法然]] - 『観無量寿経釈』
== 注・出典 ==
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== 参考文献 ==
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
* {{Cite book|和書
|editor=浄土宗総合研究所|editor-link=浄土宗
|date=初版2011年
|title=[現代語版]浄土三部経
|publisher=浄土宗出版
|id=ISBN 978-4-88363-052-3
}}
* {{Cite book|和書
|editor=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会|editor-link=浄土真宗
|date=初版1996年
|title=<浄土真宗聖典>浄土三部経 -現代語版-
|publisher=[[本願寺出版社]]
|id=ISBN 978-4-89416-601-1
}}
* {{Cite book|和書
|author=中村元|authorlink=中村元 (哲学者)
|coauthors=[[早島鏡正]]・[[紀野一義]] 訳注
|year=1990
|title=浄土三部経
|publisher=[[岩波書店]]
|series=[[岩波文庫]] 青306-2
|isbn=4-00-333062-5
|volume=下
}}
* {{Cite journal|和書
|author=[[藤田宏達]]
|title=『觀無量壽經』の撰述問題
|journal=印度學佛教學研究
|volume=17
|issue=2
|year=1969
|publisher=日本印度学仏教学会
|doi=10.4259/ibk.17.46
|pages=465-472
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<!-- *[[山口益]]・桜部建・[[森三樹三郎]]訳 『浄土三部経』<大乗仏典6>([[中公文庫]] 2002年) -->
<!-- 『浄土三部経』中公文庫が、いつの編集で参考文献として用いたか要約欄に明示してください。それまで、隠しコメントにします。 -->
== 関連項目 ==
* [[漢訳#仏典の漢訳]]
* [[当麻曼荼羅]] - 観無量寿経を図で表したもの
* [[旃陀羅]]
== 外部リンク ==
* [http://j-soken.jp/category/ask/ask_5 教学伝道研究センター「ダウンロード 『浄土真宗聖典』聖教データベース」] - 原典版と註釈版あり
* [http://www.icho.gr.jp/seiten/html/089.html 聖教電子化研究会『仏説観無量寿経』]
* [http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub27.htm 何で 何で ナモ なの(本願寺派・妙念寺ホームページ)] - 現代語訳
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有事法制
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有事法制(ゆうじほうせい)は、日本が外国から武力攻撃を受けた場合などの有事に対応するための法制。
本項では、主に日本の有事法制について概説する。
日本では、有事への対処を優先するために私権を制限することや憲法の平和主義との整合性で長年にわたり論議があったが、2003年(平成15年)6月13日に武力攻撃事態関連3法が成立し、有事法制の基本法である武力攻撃事態対処法が施行されたことで法制の枠組みが整備された。
その際に制定が先送りされた国民保護法等は、翌年6月18日に公布され、同年9月17日に施行された。これにより有事の危機対応における基本的法整備がなされ民間防衛の実施体制に向けた環境整備を進めるための足掛かりを築くことになった。さらに、こうした有事法制と自然災害やヒューマンエラーをも包括した、いわゆるマルチハザード型の法体系を確立すべくそれら緊急事態の法体系整備に向けた取り組みとして自民党、民主党、公明党の与野党3党は2005年以降の通常国会にて緊急事態基本法の成立に向けて調整を行うことで一致した。
1978年に防衛庁官房長として有事法制研究に参画した竹岡勝美によれば、有事法制とは「いずれかの国が日本と周辺の制空権、制海権を確保した上で、地上軍を日本本土に上陸侵攻させ、国土が戦場と化す事態を想定した法制」であるとされる。また、有事法制は立憲主義を基調とする国にあって、国及び国民にとり、急迫不正の侵害があり、通常の憲法秩序では国及び国民の安全を確保できない非常事態に際して憲法の一部または全部を停止し最終的に国及び国民の安全、憲法秩序の回復を図る国家緊急権の思想の中から生まれた非常事態立法の1つである。
今日、有事法制をめぐっては様々な見地から賛否があるが、とりわけ立憲主義の肯定的見地に基づく場合における有事法制の正当性及び使命は有事からの国民の保護にある。
有事に際して憲法の停止をするかどうかは国にもよるが、国によっては憲法上に国家緊急権を明記する場合、或いは慣習的に認めている場合、規定していない場合とがある。日本などでは規定していない部類に属する。
有事法制の整備に際しては、あくまで憲法の枠内法制整備が実施された。即ち、日本の有事法制は憲法の一部または全部を停止する権能を許容しておらず、またはそのような措置を予定していない。ちなみに憲法の枠内で非常事態に対処する権能を憲法学的には非常事態権、非常措置権ともいうが、日本においては憲法上、非常事態権の保有すら明記していない。このため、有事の場合の国家の指針については、解釈に委ねられることとなる。 そして、有事における国家の指針・行動については憲法上、
をどう解するか問題になる。
この点、有事法制を合憲とする立場からは、有事法制による1国民の人権制約根拠を「公共の福祉」と解する。 また、2自衛隊の武力行使等について、個別的自衛権をその根拠とする。 ちなみに、しばしば有識者であっても、口語では「自衛権」と「自衛戦争」を同意義のように用いているが、これらは講学上は全く異なる概念であることに注意する必要がある。
すなわち、現憲法9条1項2項の解釈として、「自衛権」は認めるが「自衛戦争」は否定する立場と、「自衛権」も「自衛戦争」も認める立場とでは、有事法制の位置づけを異とする余地があるといえる。
一般論として、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に必要な法制は、以下の3つが考えられる。
上記の3つの法制のうち、自衛隊の行動にかかわる法制については、「有事法制研究」として、1977(昭和52)年、福田総理(当時)の承認の下、三原防衛庁長官(当時)の指示により、近い将来の国会提出を予定した立法準備ではないという前提で開始された。この「有事法制研究」は、防衛庁が所管の法令(第1分類)、防衛庁所管以外の法令(第2分類)、所管省庁が明確でない事項に関する法令(第3分類)の3つに分類して行われた。
有事法制の研究は戦後、防衛庁が設置されて以来、長年の懸案であった。戦後、未だ自衛隊の合憲性を問う声や賛否をめぐる議論が根強かった時代にあって、第3次朝鮮戦争の勃発が懸念されたことを契機に1963年、防衛庁内において非公式かつ非公開で有事法制の研究が行われた。“三矢研究”こと「昭和38年総合防衛図上演習」である。
この研究が日本社会党の岡田春夫により国会にて暴露され、社会党と日本共産党から厳しく批判された。多くの法律を短期間で有事対応に変更することが設定されていたため、クーデターの研究だという批判もあった。時の首相・佐藤栄作は社会党の指摘を受けるまで把握していなかったことから「事実なら許せない」と答弁したが、後に前言を撤回し、首相が感知(関知?)していれば問題ないと再答弁した。これにより、いちおう有事法制研究そのものは違法ではないという体裁は保ったが、非公式な形で三矢研究がなされたことへの批判は払拭できず、研究に従事した自衛官らは「文書管理不備」で処罰された。
当時、有事法制は国民の理解を得るには困難が伴い、結局研究は頓挫することとなった。
1978年、栗栖弘臣統合幕僚会議議長による発言の中で、現行では有事に際して自衛隊は超法規的措置をとらざるを得ないという超法規的措置を許容する趣旨の発言が波紋を呼んだ。栗栖は発言を撤回しなかったため、野党の批判を呼び、罷免された。このときも賛否両論を招きながらも世論の中では時期尚早の感があった。
冷戦崩壊後、有事法制をめぐる動静は少しずつ進展を見せるようになる。日米同盟において対ソ連から冷戦後の新たな脅威に対する抑止力として再定義することが検討されたのである。1994年には日米両国の間で、ソ連崩壊後も極東において一党独裁による軍事優先の政治を行う北朝鮮情勢が大きな懸念として残っており、朝鮮半島有事に際しての日米協力のあり方を明確にすべきだという議論が起きた。この議論を契機として1996年には日米両国において日米防衛協力の指針(日米ガイドライン)見直しが検討された。
見直しが進められた背景としては
とされた。これは、世界的な武力紛争が発生する可能性が遠のいたという認識のもとに、しかしながら今日における日米両国の将来と繁栄がアジア・太平洋地域の安定的で繁栄した情勢を維持するためには、日米安全保障条約を基盤とした日米両国間の安全保障面の関係が基礎となるという日米双方の認識により進められたものであり、日本による国際秩序に対する安全保障上の貢献をより強く打ち出すことが大きな目的とされた。
特に冷戦後、南アジア以西から油田地帯である中東、アフリカに軍事力をシフトさせたいアメリカにとって、日本が極東の安全保障に一定の役割を果たすことで、アメリカの極東での防衛負担を軽減させ、不安定ながらも油田の豊富な中東に対する戦略を強化させることが大きな目的であった。日本にとっても、中東への石油依存度が高く、日本と中東をつなぐ地域の安定化は不可欠であり、そうした両国の国益から日米同盟を極東から地理的に限定されない周辺事態において協力する体制へと変化していった。
この新ガイドラインの見直しに先立ってジョセフ・ナイ国防次官補による「東アジア戦略構想」(ナイ・レポート)の中で日米両国の安全保障協力を地球規模の同盟として位置付けられたことにより同ガイドラインは旧来の対ソ連を軸とした極東地域における同盟関係の域を超えて、より広域な国際秩序の安定のための協力関係の構築が検討されたのである。
1998年、日米新ガイドラインに基づき、周辺事態における日米両国の具体的な協力について規定した周辺事態法が成立し、日米同盟は極東地域に限定された協力関係からより広域な同盟関係へと大きく変化を遂げることとなった。この法律は周辺事態に対応して日米が共同作戦により後方支援活動を実施できる体制を整えるものであったが、この共同作戦を日本国内で実施できる環境が必要とされてきた。
2000年にはリチャード・アーミテージ米国防副長官が対日外交の指針として作成した「アーミテージ・レポート」において日本に対して、有事法制の整備を要求する文言が盛り込まれた。これを契機に日本の政府与党は有事法制の整備に向けた検討を開始していく。
しかし、有事法制は長年、タブーとされてきた分野であり、依然と反対論の強いものであった。しかし、2001年まで続け様に北朝鮮の不審船事件が発覚、さらにはアメリカ同時多発テロ事件の発生により、世界的に国際テロの脅威が認識されるようになった。これにより、国内における有事法制の議論もにわかに高まった。これにより、政府与党においても有事法制の整備に向けて本格的に法制に向けて本格的に動きだすことになった。
2002年、小泉純一郎内閣の下で有事法制の基本的枠組みである武力攻撃事態対処法をはじめとする武力攻撃事態関連3法が提出され、法案が審議入りすることとなった。こうしたテロの不安の高まりと、小泉人気といわれる与党の自民公明優位の情勢、さらに野党第一党の民主党の有事法制への賛同もあり、2003年、大多数の議決をもって有事関連3法が成立を見た。もともと、防衛上の観点から要請された有事法制はテロという新たな脅威によって成立をみたのである。
この有事法制の持つ性格は主に3つある。即ち、「国家として基本的な対処要領に係る法制」、「自衛隊が行動することに係る法制」、「米軍が行動することに係る法制」である。これらの法制の柱を第1分類から第3分類に分け、整備されることとなった。この有事法制の第1段階ともいうべき有事関連3法で成立した法律の柱が有事の基本法ともいうべき武力攻撃事態対処法(武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律)である。この2003年の法制では、有事の国民保護を定める武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律の提出、即ち国民保護法制は与野党の調整がつかず先送りされた。
有事法制の基本法をなす武力攻撃事態対処法第14条では内閣総理大臣が兼務する武力攻撃事態対策本部長は地方公共団体の総合調整権に基づき、地方、民間(指定公共機関)により協力を求めるものである(但し、法律上の服務義務を持たないとされる)。この調整権に基づく措置が実施されない場合は、指示権を行使し、地方公共団体の首長に対処措置の実施を指示できる。この内閣総理大臣の指示権は服務義務のともなうもので、大規模な武力攻撃災害にも対応を可能とするため、政府の強い関与を確立するものである。また、武力攻撃事態対処法では内閣総理大臣は避難誘導、避難住民の受け入れ等で直接執行権を行使を可能とし、避難が確実に実施されるための措置をも定めている。
平成15年(2003年)6月6日に可決、成立した「武力攻撃事態関連3法」は以下の通り。
これら、武力攻撃事態関連3法の背景は、法制の基本的な概念及び枠組みを整備することを目的としている。 武力攻撃事態関連3法は政府が有事法制の基礎的な枠組みを整備するため、有事法制における基本理念及び有事の定義、国及び地方公共団体の責務などを定めるものとして整備された。そもそも、有事法制は昭和38年(1963年)の三矢研究以来、長年の懸案であった。しかし、日本国憲法第9条において戦争の放棄をしていながら有事を想定するという法的な論理矛盾、あるいは戦前の国家総動員体制を想起させるとの批判から、その法整備は事実上凍結されたままとなっていた。
アメリカ同時多発テロ事件を契機として、テロに対する不安が国内に高まったことを受け、政府与党を中心に有事法制の整備に向けた取り組みが加速したのである。しかし、一方で政府には法制に対する国民の理解を得られるという確信が充分ではなかったとされる。よって、政府与党は慎重に法制を実施することに念頭がおかれたのである。本来、有事法制においては国民の安全を確保するため、国民保護法制を中心に進めることが重要とされた。ところが、政府の側には国民保護法制よりも武力攻撃事態に対処するための法整備の方が困難をきわめるという懸念があり、国民のテロに対する不安の高い間に、有事法制の基本的な枠組みを整備することを優先した結果、武力攻撃事態関連3法が成立した(個々の法律の内容については各法律の項目を参照のこと)。
この武力攻撃事態関連3法案の中では、民主党から国内における武力攻撃に対する自衛隊や米軍の行動要領についての規定が中心であり、有事法制最大の使命であるはずの国民保護法制が先送りされているという批判が強くなされた。民主党は当初、国民保護法制も同時に進めることを主張していたが、与野党の修正協議の末、この武力攻撃事態関連3法成立の後、2年以内の法整備をすることとして、ひとまずこの関連3法を成立させた。この関連3法の成立後、政府与党及び民主党はすぐさま国民保護法制を含む有事の具体的な対処を定める事態対処法制の整備に向けて武力攻撃事態関連7法の審議を始めることとなった。
平成16年(2004年)6月14日に可決、成立した有事関連7法は以下の通り。
有事法制は戦争時の法律であり、憲法第9条をめぐる個別的自衛権の是非、あるいは国民(外国人を含む住民)の基本的人権の制限をめぐる懸念から反対の意見もある。憲法学研究者の間でも合憲性について議論がある。日本共産党、社会民主党、新左翼、反戦平和団体や労働組合などが強い反対の意を表明することもある。 その趣旨は
などである。
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"text": "有事法制の基本法をなす武力攻撃事態対処法第14条では内閣総理大臣が兼務する武力攻撃事態対策本部長は地方公共団体の総合調整権に基づき、地方、民間(指定公共機関)により協力を求めるものである(但し、法律上の服務義務を持たないとされる)。この調整権に基づく措置が実施されない場合は、指示権を行使し、地方公共団体の首長に対処措置の実施を指示できる。この内閣総理大臣の指示権は服務義務のともなうもので、大規模な武力攻撃災害にも対応を可能とするため、政府の強い関与を確立するものである。また、武力攻撃事態対処法では内閣総理大臣は避難誘導、避難住民の受け入れ等で直接執行権を行使を可能とし、避難が確実に実施されるための措置をも定めている。",
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有事法制(ゆうじほうせい)は、日本が外国から武力攻撃を受けた場合などの有事に対応するための法制。 本項では、主に日本の有事法制について概説する。
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'''有事法制'''(ゆうじほうせい)は、[[日本]]が外国から[[武力攻撃]]を受けた場合などの[[有事]]に対応するための法制<ref>{{コトバンク}}</ref>。
本項では、主に日本の有事法制について概説する。
== 概要 ==
日本では、有事への対処を優先するために[[私権]]を制限することや[[日本国憲法|憲法]]の[[平和主義]]との整合性で長年にわたり論議があったが、[[2003年]](平成15年)[[6月13日]]に[[#武力攻撃事態関連3法|武力攻撃事態関連3法]]が成立し、有事法制の基本法である[[武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律|武力攻撃事態対処法]]が施行されたことで法制の枠組みが整備された。
その際に制定が先送りされた[[武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律|国民保護法]]等は、翌年[[6月18日]]に公布され、同年[[9月17日]]に施行された。これにより有事の危機対応における基本的法整備がなされ[[民間防衛]]の実施体制に向けた環境整備を進めるための足掛かりを築くことになった。さらに、こうした有事法制と[[自然災害]]や[[ヒューマンエラー]]をも包括した、いわゆる[[マルチハザード]]型の法体系を確立すべくそれら緊急事態の法体系整備に向けた取り組みとして[[自由民主党 (日本)|自民党]]、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]、[[公明党]]の与野党3党は2005年以降の通常国会にて[[緊急事態基本法]]の成立に向けて調整を行うことで一致した。
== 政府による定義 ==
1978年に[[防衛庁]][[官房長]]として有事法制研究に参画した[[竹岡勝美]]によれば、有事法制とは「いずれかの国が日本と周辺の[[制空権]]、[[制海権]]を確保した上で、地上軍を日本本土に上陸侵攻させ、国土が戦場と化す事態を想定した法制」であるとされる<ref>2002年2月8日、[[参議院]]『第154回本会議における答弁』第7号7頁より</ref>。また、有事法制は[[立憲主義]]を基調とする国にあって、国及び国民にとり、急迫不正の侵害があり、通常の憲法秩序では国及び国民の安全を確保できない非常事態に際して憲法の一部または全部を停止し最終的に国及び国民の安全、憲法秩序の回復を図る[[国家緊急権]]の思想の中から生まれた非常事態立法の1つである。
=== 有事法制の目的===
今日、有事法制をめぐっては様々な見地から賛否があるが、とりわけ立憲主義の肯定的見地に基づく場合における有事法制の正当性及び使命は有事からの[[国民保護|国民の保護]]にある。
=== 有事法制の憲法上の論拠 ===
有事に際して憲法の停止をするかどうかは国にもよるが、国によっては憲法上に国家緊急権を明記する場合、或いは慣習的に認めている場合、規定していない場合とがある。日本などでは規定していない部類に属する。
有事法制の整備に際しては、あくまで憲法の枠内法制整備が実施された。即ち、日本の有事法制は憲法の一部または全部を停止する権能を許容しておらず、またはそのような措置を予定していない。ちなみに憲法の枠内で非常事態に対処する権能を憲法学的には非常事態権、非常措置権ともいうが、日本においては憲法上、非常事態権の保有すら明記していない。このため、有事の場合の国家の指針については、解釈に委ねられることとなる。
そして、有事における国家の指針・行動については憲法上、
* 国民の権利([[人権]])・[[自由]]の制約根拠
* 自衛隊の武力行使等の根拠
をどう解するか問題になる。
この点、有事法制を合憲とする立場からは、有事法制による①国民の人権制約根拠を「[[公共の福祉]]」と解する。
また、②自衛隊の武力行使等について、[[個別的自衛権]]をその根拠とする。
ちなみに、しばしば有識者であっても、口語では「自衛権」と「自衛戦争」を同意義のように用いているが、これらは講学上は全く異なる概念であることに注意する必要がある。
すなわち、現憲法9条1項2項の解釈として、「自衛権」は認めるが「自衛戦争」は否定する立場と、「自衛権」も「自衛戦争」も認める立場とでは、有事法制の位置づけを異とする余地があるといえる。
=== 有事法制の分類 ===
一般論として、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に必要な法制は、以下の3つが考えられる。
* '''自衛隊の行動にかかわる法制'''
* '''米軍の行動にかかわる法制'''
* '''自衛隊と米軍の行動に直接かかわらないが国民の生命、財産を保護するための法制'''
上記の3つの法制のうち、自衛隊の行動にかかわる法制については、「有事法制研究」として、1977(昭和52)年、福田総理(当時)の承認の下、三原防衛庁長官(当時)の指示により、近い将来の国会提出を予定した立法準備ではないという前提で開始された。この「有事法制研究」は、防衛庁が所管の法令(第1分類)、防衛庁所管以外の法令(第2分類)、所管省庁が明確でない事項に関する法令(第3分類)の3つに分類して行われた。
== 有事法制の歴史 ==
;1950年代から60年代 冷戦初期 朝鮮有事への対応のために検討
有事法制の研究は戦後、防衛庁が設置されて以来、長年の懸案であった。戦後、未だ自衛隊の合憲性を問う声や賛否をめぐる議論が根強かった時代にあって、第3次朝鮮戦争の勃発が懸念されたことを契機に[[1963年]]、防衛庁内において非公式かつ非公開で有事法制の研究が行われた。“三矢研究”こと「昭和38年総合防衛図上演習」である。{{seealso|三矢研究}}
この研究が[[日本社会党]]の[[岡田春夫]]により国会にて暴露され、社会党と[[日本共産党]]から厳しく批判された。多くの法律を短期間で有事対応に変更することが設定されていたため、[[クーデター]]の研究だという批判もあった。時の首相・[[佐藤栄作]]は社会党の指摘を受けるまで把握していなかったことから「事実なら許せない」と答弁したが、後に前言を撤回し、首相が感知(関知?)していれば問題ないと再答弁した。これにより、いちおう有事法制研究そのものは違法ではないという体裁は保ったが、非公式な形で三矢研究がなされたことへの批判は払拭できず、研究に従事した自衛官らは「文書管理不備」で処罰された。
当時、有事法制は国民の理解を得るには困難が伴い、結局研究は頓挫することとなった。
;1970年代から80年代 冷戦後期 ソ連軍侵攻の懸念から再燃した有事法制
[[1978年]]、[[栗栖弘臣]][[統合幕僚会議議長]]による発言の中で、現行では有事に際して自衛隊は超法規的措置をとらざるを得ないという超法規的措置を許容する趣旨の発言が波紋を呼んだ。栗栖は発言を撤回しなかったため、野党の批判を呼び、罷免された。このときも賛否両論を招きながらも世論の中では時期尚早の感があった。
;1990年代 冷戦崩壊後 周辺事態に飛躍する日米同盟と有事法制をめぐる情勢の変化
冷戦崩壊後、有事法制をめぐる動静は少しずつ進展を見せるようになる。日米同盟において対ソ連から冷戦後の新たな脅威に対する抑止力として再定義することが検討されたのである。[[1994年]]には日米両国の間で、ソ連崩壊後も極東において一党独裁による軍事優先の政治を行う北朝鮮情勢が大きな懸念として残っており、朝鮮半島有事に際しての日米協力のあり方を明確にすべきだという議論が起きた。この議論を契機として[[1996年]]には日米両国において日米防衛協力の指針(日米ガイドライン)見直しが検討された。
見直しが進められた背景としては
# 平素から並びに日本に対する武力攻撃及び周辺事態に際して、より効果的かつ信頼性ある日米協力を行うための堅固な基礎を構築すること
# 平素からの緊急事態における日米両国の役割並びに協力及び調整のあり方につき、一般的な大枠及び方向性を示すこと
とされた。これは、世界的な武力紛争が発生する可能性が遠のいたという認識のもとに、しかしながら今日における日米両国の将来と繁栄がアジア・太平洋地域の安定的で繁栄した情勢を維持するためには、日米安全保障条約を基盤とした日米両国間の安全保障面の関係が基礎となるという日米双方の認識により進められたものであり、日本による国際秩序に対する安全保障上の貢献をより強く打ち出すことが大きな目的とされた。
特に冷戦後、南アジア以西から油田地帯である中東、アフリカに軍事力をシフトさせたいアメリカにとって、日本が極東の安全保障に一定の役割を果たすことで、アメリカの極東での防衛負担を軽減させ、不安定ながらも油田の豊富な中東に対する戦略を強化させることが大きな目的であった。日本にとっても、中東への石油依存度が高く、日本と中東をつなぐ地域の安定化は不可欠であり、そうした両国の国益から日米同盟を極東から地理的に限定されない[[重要影響事態|周辺事態]]において協力する体制へと変化していった。
この新ガイドラインの見直しに先立ってジョセフ・ナイ国防次官補による「東アジア戦略構想」(ナイ・レポート)の中で日米両国の安全保障協力を地球規模の同盟として位置付けられたことにより同ガイドラインは旧来の対ソ連を軸とした極東地域における同盟関係の域を超えて、より広域な国際秩序の安定のための協力関係の構築が検討されたのである。
[[1998年]]、日米新ガイドラインに基づき、周辺事態における日米両国の具体的な協力について規定した[[重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律|周辺事態法]]が成立し、日米同盟は極東地域に限定された協力関係からより広域な同盟関係へと大きく変化を遂げることとなった。この法律は周辺事態に対応して日米が共同作戦により後方支援活動を実施できる体制を整えるものであったが、この共同作戦を日本国内で実施できる環境が必要とされてきた。
[[2000年]]には[[リチャード・アーミテージ]][[アメリカ合衆国国防副長官|米国防副長官]]が対日外交の指針として作成した「アーミテージ・レポート」において日本に対して、有事法制の整備を要求する文言が盛り込まれた。これを契機に日本の政府与党は有事法制の整備に向けた検討を開始していく。
;2000年代以降 [[テロリズム|テロ]]を契機に整備に至った有事法制
しかし、有事法制は長年、タブーとされてきた分野であり、依然と反対論の強いものであった。しかし、[[2001年]]まで続け様に[[九州南西海域工作船事件|北朝鮮の不審船事件]]が発覚、さらには[[アメリカ同時多発テロ事件]]の発生により、世界的に国際テロの脅威が認識されるようになった。これにより、国内における有事法制の議論もにわかに高まった。これにより、政府与党においても有事法制の整備に向けて本格的に法制に向けて本格的に動きだすことになった。
2002年、[[小泉純一郎内閣]]の下で有事法制の基本的枠組みである[[武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律|武力攻撃事態対処法]]をはじめとする武力攻撃事態関連3法が提出され、法案が審議入りすることとなった。こうしたテロの不安の高まりと、小泉人気といわれる与党の自民公明優位の情勢、さらに野党第一党の[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の有事法制への賛同もあり、[[2003年]]、大多数の議決をもって有事関連3法が成立を見た。もともと、防衛上の観点から要請された有事法制はテロという新たな脅威によって成立をみたのである。
この有事法制の持つ性格は主に3つある。即ち、「国家として基本的な対処要領に係る法制」、「自衛隊が行動することに係る法制」、「米軍が行動することに係る法制」である。これらの法制の柱を第1分類から第3分類に分け、整備されることとなった。この有事法制の第1段階ともいうべき有事関連3法で成立した法律の柱が有事の基本法ともいうべき武力攻撃事態対処法([[武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律|武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律]])である。この2003年の法制では、有事の国民保護を定める武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律の提出、即ち国民保護法制は与野党の調整がつかず先送りされた。
有事法制の基本法をなす武力攻撃事態対処法第14条では[[内閣総理大臣]]が兼務する武力攻撃事態対策本部長は[[地方公共団体]]の総合調整権に基づき、地方、民間(指定公共機関)により協力を求めるものである(但し、法律上の服務義務を持たないとされる)。この調整権に基づく措置が実施されない場合は、指示権を行使し、地方公共団体の首長に対処措置の実施を指示できる。この内閣総理大臣の指示権は服務義務のともなうもので、大規模な武力攻撃災害にも対応を可能とするため、政府の強い関与を確立するものである。また、武力攻撃事態対処法では内閣総理大臣は避難誘導、避難住民の受け入れ等で直接執行権を行使を可能とし、避難が確実に実施されるための措置をも定めている。
=== 2003年成立の武力攻撃事態関連3法 ===
平成15年(2003年)6月6日に可決、成立した「武力攻撃事態関連3法」は以下の通り。
# [[国家安全保障会議設置法|安全保障会議設置法]]の一部を改正する法律 (平成15年法律第78号)
# [[武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律|武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律]] (平成15年法律第79号)
#* [[2003年]]6月13日に公布・施行された。
#* [[2015年]]9月に改正・施行され、題名が「武力攻撃事態等'''及び存立危機事態'''における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」と改称された。
#* 武力攻撃事態、存立危機事態など、いわゆる有事となる事態を定義している(第2条)。
#* 有事において国や[[地方公共団体]]が必要な措置を取ることを明記している。また、国([[内閣総理大臣]])が地方公共団体(の長)に対して、必要な措置を取らせることができることも明記している。
#* 国や地方公共団体が取る措置に対し、国民は協力をするよう「努める」としている。
#* [[憲法]]で保障される国民の[[自由]]と[[人権]]は尊重されるべきとする一方で、それに制限が加えられうることも示されている。
#* 武力攻撃を排除するために必要限度の武力を行使することが示されている。
# 自衛隊法及び防衛庁の職員の給与等に関する法律の一部を改正する法律 (平成15年法律第80号)
これら、武力攻撃事態関連3法の背景は、法制の基本的な概念及び枠組みを整備することを目的としている。 武力攻撃事態関連3法は政府が有事法制の基礎的な枠組みを整備するため、有事法制における基本理念及び有事の定義、国及び地方公共団体の責務などを定めるものとして整備された。そもそも、有事法制は昭和38年([[1963年]])の[[三矢研究]]以来、長年の懸案であった。しかし、日本国憲法第9条において戦争の放棄をしていながら有事を想定するという法的な論理矛盾、あるいは戦前の国家総動員体制を想起させるとの批判から、その法整備は事実上凍結されたままとなっていた。
アメリカ同時多発テロ事件を契機として、テロに対する不安が国内に高まったことを受け、政府与党を中心に有事法制の整備に向けた取り組みが加速したのである。しかし、一方で政府には法制に対する国民の理解を得られるという確信が充分ではなかったとされる。よって、政府与党は慎重に法制を実施することに念頭がおかれたのである。本来、有事法制においては国民の安全を確保するため、国民保護法制を中心に進めることが重要とされた。ところが、政府の側には国民保護法制よりも武力攻撃事態に対処するための法整備の方が困難をきわめるという懸念があり、国民のテロに対する不安の高い間に、有事法制の基本的な枠組みを整備することを優先した結果、武力攻撃事態関連3法が成立した(個々の法律の内容については各法律の項目を参照のこと)。
この武力攻撃事態関連3法案の中では、民主党から国内における武力攻撃に対する自衛隊や米軍の行動要領についての規定が中心であり、有事法制最大の使命であるはずの国民保護法制が先送りされているという批判が強くなされた。民主党は当初、国民保護法制も同時に進めることを主張していたが、与野党の修正協議の末、この武力攻撃事態関連3法成立の後、2年以内の法整備をすることとして、ひとまずこの関連3法を成立させた。この関連3法の成立後、政府与党及び民主党はすぐさま国民保護法制を含む有事の具体的な対処を定める事態対処法制の整備に向けて武力攻撃事態関連7法の審議を始めることとなった。
=== 2004年成立の有事関連7法 ===
平成16年(2004年)6月14日に可決、成立した有事関連7法は以下の通り。
# [[武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律]](国民保護法)
# 武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律(米軍行動関連措置法)
# 武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律(特定公共施設利用法)
# 国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律(国際人道法違反処罰法)
# 武力攻撃事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律(海上輸送規制法)
# [[武力攻撃事態及び存立危機事態における捕虜等の取扱いに関する法律|武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律]](捕虜取扱い法)
# 自衛隊法の一部を改正する法律([[自衛隊法]]一部改正法)
== 有事法制への反対論 ==
有事法制は戦争時の法律であり、憲法第9条をめぐる個別的自衛権の是非、あるいは国民(外国人を含む住民)の基本的[[人権]]の制限をめぐる懸念から反対の意見もある。[[憲法学]]研究者の間でも合憲性について議論がある。[[日本共産党]]、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]、[[新左翼]]、[[反戦平和団体]]や[[労働組合]]などが強い反対の意を表明することもある。
その趣旨は
*アメリカの強い要請によって出来たもので、日本の国防に与するとは限らない
*発動は武力攻撃が予測される状況であり実際の攻撃を受けなくても発動可能である。そのため在日米軍が先制攻撃を行っただけでも有事法制の束縛を受ける<ref>「有事法制適用 米先制攻撃で石破長官『可能』」、東京新聞、2003年4月5日他</ref>
*[[防衛大臣]]が攻撃を予想しただけで土地や人、物の[[強制収用]]が可能になっており、強制収用した成果の米軍など外国軍への提供の制限も明文化されていない上に政府側も提供を否定しないので米軍の一方的な都合による戦争のために個人の財産権や基本的人権を大きく制約されかねない
*本当の目的は戦時体制への官民の動員にあり、一度有事が発令されると攻撃や災害の有無に関わらず多くの公共サービスや民間企業が自衛隊・米軍優先とされて日常生活が圧迫される
*そもそも、[[日本国憲法第9条]]第2項で否定されている「国の[[交戦権]]」を裏付けるための法整備であって違憲法制であり、立法自体が無効である
などである。
== 有事関連・安全保障関連の法律・条約等一覧 ==
===防衛省・自衛隊関連===
;法律(防衛2法)
*[[防衛省設置法]]
*[[自衛隊法]]
**[[警察予備隊令]]〈廃止〉
**[[保安庁法]]〈廃止〉
===日米安全保障条約関連===
;条約・協定等
*[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]
**[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|旧日米安全保障条約]]〈廃止〉
*[[日米地位協定]]
**[[日米行政協定]]〈廃止〉
*[[日米防衛協力のための指針]]
*[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定]](日米相互防衛援助協定)
*[[防衛目的のためにする特許権及び技術上の知識の交流を容易にするための日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定]](日米防衛特許協定)
*[[日本国の自衛隊とアメリカ合衆国軍隊との間における後方支援、物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定|日米ACSA]]
;法律
*[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法]]
*[[日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法]]
*[[駐留軍用地特措法]]
*[[駐留軍等の再編の円滑な実施に関する特別措置法]]
===国連軍関連===
;条約・協定等
*[[日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定]](国連軍地位協定)
;法律
*[[日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法]]
===その他の国向けの条約・協定等===
;地位協定等
*[[日本クウェート地位協定]]
*[[日本ジブチ地位協定]]
*[[日韓秘密軍事情報保護協定]]
;[[物品役務相互提供協定|物品役務協定]]
*[[日本国の自衛隊とオーストラリア国防軍との間における物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とオーストラリア政府との間の協定|日豪ACSA]]
*[[日本国の自衛隊と英国の軍隊との間における物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府と英国政府との間の協定|日英ACSA]]
*[[日本国の自衛隊とカナダ軍隊との間における物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とカナダ政府との間の協定|日加ACSA]]
*[[日本国の自衛隊とフランス共和国軍隊との間における物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とフランス共和国政府との間の協定|日仏ACSA]]
*[[日本国の自衛隊とインド軍隊との間における物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とインド共和国政府との間の協定|日印ACSA]]
;{{仮リンク|円滑化協定|en|Reciprocal Access Agreement}}
*[[日豪円滑化協定]]
*[[日英円滑化協定]]
===武力攻撃事態・重要影響事態関連法律===
*[[武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律]](事態対処法)
*[[武力攻撃事態等及び存立危機事態におけるアメリカ合衆国等の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律]]
*[[武力攻撃事態及び存立危機事態における捕虜等の取扱いに関する法律|捕虜取扱い法]]
*[[武力攻撃事態及び存立危機事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律]]
*[[武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律|国民保護法]]
*[[武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律]]
*[[重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律]](重要影響事態安全確保法)
*[[重要影響事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律]]
== 関連項目 ==
* [[国家緊急権]]
* [[戒厳令]]
* [[民間防衛]]
* [[周辺事態]]
* [[三矢研究]]
* [[国民保護]]
* [[緊急事態基本法]]
* [[平和安全法制]]
* [[特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法]](主として[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]船舶を想定したもの)
== 参考文献 ==
* 参議院『第154回本会議における答弁』第7号、平成14年2月8日。
* [[森本敏]]『有事法制』PHP研究所、2003年。
* [[郷田豊]]『世界に学べ! 日本の有事法制 ―普通の国になるために』芙蓉書房、2002年。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
{{DEFAULTSORT:ゆうしほうせい}}
[[Category:日本の軍事]]
[[Category:戦時体制]]
[[Category:防衛法|*ゆうしほうせい]]
[[Category:小泉純一郎]]
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名人戦 (将棋)
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名人戦(めいじんせん)は、毎日新聞社、朝日新聞社および日本将棋連盟主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。将棋界の近代化にあたり、江戸時代以来の終身位名人制を廃し、短期実力制によって名人を選ぶべく、1935年(昭和10年)に第1期が開始された(第1期リーグ戦は1935年から1937年にかけての2年間)。タイトル戦の中で一番長い歴史を有し、七番勝負の勝者は名人のタイトル称号を得る。名人位は竜王位とともに将棋界の頂点とされている。
名人と挑戦者とで行われる対局(七番勝負)のこと。名人戦七番勝負の勝者には、将棋界で最も格式と歴史のある(家元制として江戸時代初期の1612年(慶長年間)から、実力制タイトルとしては1937年から続く)「名人」のタイトル称号が与えられ、次期の七番勝負終了まで、そのタイトル保持者となる。毎日新聞社と朝日新聞社とが共催(2007年度から)し、大和証券グループから協賛を受けている(2005年度から)。
江戸時代以来、近代まで将棋の名人は世襲制(ただし血縁が絶対ではない、家元制・推挙制)であった。
1929年、読売新聞社による「第一回日本将棋選手権戦」開始にあたり、読売新聞社が行ったアンケートに、時の名人関根金次郎が「古来、名人の位は一生涯のものだが、私は時勢に鑑み適当な時期に退隠したいと思う」と回答。なお、この頃の関根は「名人」ではなく「九段制」を考えていた。
その後、日本将棋連盟顧問の中島富治の発案を受け、1934年(昭和9年)、東京日日新聞学芸部長の阿部眞之助が囲碁および将棋の「実力名人戦」を企画し、日本将棋連盟会長の金易二郎が1935年3月に「昭和12年(1937年)に300年続いた一世名人を廃する」と発表。同年、名人戦(当初は八段9名のリーグ戦)が開始。2年にわたる「第1期名人決定大棋戦」の結果、1937年の12月6日に木村義雄が花田長太郎に勝ち、翌年に予定されていた決勝六番勝負をへることはなく、初代の実力制名人に決定。1938年2月11日(当時の祝日・紀元節)、十三世名人の関根金次郎は1935年に提出した声明書に基づき名人位を返上し、木村が実力制名人位についた。
これにより初代大橋宗桂以来続いた一世名人制が廃止され、短期実力制名人位制度が開始された。なお、囲碁は名人戦ではなく本因坊戦とされ1939年に開始した。
名人戦の予選は順位戦と呼ばれ、A級順位戦の優勝者が挑戦者となる。名人と挑戦者が名人戦七番勝負を戦う。
詳しくは順位戦の項を参照のこと。持ち時間は各6時間。
名人とA級順位戦の優勝者が七番勝負を戦う。七番勝負は全国各地の旅館や料亭、あるいは文化的施設など格調高い場所で行われる。第66期(2008年)以降は第1局を東京都文京区の椿山荘で行い、第2局~第5局は全国の自治体からの公募により開催地が決定されるのが恒例となっている。
持ち時間は2日制の各9時間で、これは将棋の全タイトル戦のうち最長時間である。1日目の終わりには封じ手を行い、2日目の開始まで次の手を考えて有利になることがないようにする。昼食休憩(両日とも)は12時から1時間、夕食休憩(2日目のみ)は17時から30分間(いずれも第80期より)。なお、2日目に夕食休憩の時間があるのは、2018年現在タイトル戦の中では名人戦だけ(1日制のタイトル戦では王座戦がある)。ただ名人戦の夕食休憩について、渡辺明は「局面が勝負所に入っていてタイミングが悪いし、腹が減ればおやつを食べれば良い」「新聞社的にも休憩無しの方が助かる(翌朝の紙面に記事を間に合わせやすい)はずで、誰が得しているのかわからない」として「夕食休憩は不要」と主張している。
名人戦の賞金額は通常非公開だが、過去に『将棋世界』誌上でその一端が公開されたことがある。同記事によれば、1991年当時の名人および挑戦者の賞金額は以下のとおり。
従って名人位を防衛すると合計で約3,500万円ほどとなり、当時の竜王戦の賞金とほぼ並ぶ計算となる。
当初は1期2年であり、2年間かけて挑戦者を決め、偶数年に番勝負を開催していた。ただし、1938年、1944年、1946年は挑戦者不在などの理由により番勝負が開催されず、このうち1938年と1946年は、前年である奇数年のうちに名人が決まった。各期ごとに試行錯誤が重ねられ、挑戦者決定リーグの開催方式が変更された。
1946年に順位戦が始まったことで、1947年以降は1期1年となり、挑戦者決定方法も固定された。
名人位を通算5期以上獲得した棋士は、原則として引退後に、永世称号である永世名人を名乗ることができる。
他のタイトルの永世称号と異なり、「○世名人」という称号となる。これは、江戸時代から続く終世名人制を引き継ぐためであり、最初の永世名人である木村義雄は、関根金次郎十三世名人の次であるから十四世名人を名乗った。
永世名人の資格は、1949年に、名人戦主催者が翌年から朝日新聞社に変更となったのを機に制定された。当時の規約は、名人5期以上の棋士が失冠した際に、連盟がその棋士の人格などを審査し、永世名人に相応しい人物であれば永世名人の称号を贈るというものであった。
規約制定以前の1945年に木村義雄は既に規定の名人5期を達成していたため、当然この資格を獲得し、1952年に名人を失冠すると永世名人を襲位した。
なお、「木村の名人獲得期数5期は1949年に達成したものであり、戦前の獲得期数は実際は4期である」や「永世名人の規約ができたのは1952年である」などといった誤解がある。しかし、木村の名人獲得期数と規約制定年と襲位との関係を理解しないことから起きた誤りである。
この規定による永世名人の資格獲得者は、木村義雄(十四世名人)、大山康晴(十五世名人)、中原誠(十六世名人)、谷川浩司(十七世名人)、森内俊之(十八世名人)、羽生善治(十九世名人)の6名である。
木村は1952年の名人陥落後に引退して十四世名人を名乗った。大山は名人13連覇など数々の偉業を称えて、特例で現役でありながら十五世名人を名乗ることを許されていた。中原は2007年11月に、名人15期をはじめとする実績を称えて現役中に十六世名人に推戴された。谷川は、2022年4月に還暦を迎えたこととこれまでの実績・将棋界への貢献から推薦を受けて、現役中ながら十七世名人を襲位した。2022年現在、森内、羽生はまだ襲位していない。規定通り引退後に永世名人を名乗ったのは木村のみである。
上述の通り、第10期以降は名人戦挑戦のために、順位戦A級在位という前提を要する関係上、名人戦挑戦者の段位は必然的に八段以上となる。
1984年4月1日から改定施行された昇段規定により、八段の挑戦者が名人位を獲得した場合、九段に昇段する。
当規定が施行されて以降、名人位獲得に伴い九段に昇段した棋士は、谷川浩司・佐藤康光・丸山忠久・森内俊之・佐藤天彦・豊島将之の6名である。尚、谷川と丸山は、五段から八段までの全ての段位を順位戦の昇級に伴い昇段したので、名人位獲得をA級から名人への昇級と考えると五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したことになる。
A級順位戦の記録は、順位戦、および将棋棋士の在籍クラス を参照。
1978年のNHK特集で第36期名人戦を取材したドキュメンタリーがテレビ放送され、大きな反響を受けた。当時の開始されたばかりのBS放送は独自番組が少なく、棋戦の中継は貴重なコンテンツとなった。名人戦七番勝負(竜王戦七番勝負も同様)の模様は、2015年までNHK BSプレミアム(2010年まではNHK BS2)で「将棋名人戦」という番組名で放送されていた。
各局の1日目は17:00-18:00に、2日目は16:00-18:00に生放送されることが多い。結果はダイジェストとして2日目の夜遅く(翌日の0時台-1時台)に10分程度放送される。
司会をNHKの男性アナウンサーが、解説を棋士が、女流棋士が解説の聞き手を務めるという3人体制が長く続いているが、2011年は女流棋士が出演せず、第1局で磯辺真季(将棋普及指導員)が聞き手を務めた後、第2局からは男性アナウンサーが聞き手を兼ねる2人体制となった。
2010年度からは、番組の始めと終わりに初めてテーマ音楽が流されるようになった。ドラムセット付きのオーケストラに模したコンピュータミュージックである。「将棋竜王戦」、囲碁のタイトル戦番組でも同じ曲が使用されている。
また、この名人戦の挑戦権をかけた「A級順位戦」最終戦の実況中継も「将棋界の一番長い日」と題して、2012年までBSプレミアムで時間を区切っての長時間実況中継が行われていたが、2013年は放送チャンネルを囲碁・将棋チャンネルとBSスカパー!、スカチャンに移譲(囲碁・将棋チャンネル提供)して行われた。
ABEMA(2017年 - )による七番勝負の完全生中継が行われている。また朝日新聞囲碁将棋TVでは七番勝負の完全生中継が行われている。完全以前はニコニコ生放送(2012年 - 2019年)でも中継が行われていた。
当初の主催は東京日日新聞および大阪毎日新聞で、のちにこの二社が合併して毎日新聞社主催となった。第9期(1950年)から第35期(1976年)は朝日新聞社の主催に変わった。第36期(1977年)から再び毎日新聞社の主催となり、第66期(2008年)より毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。
順位戦#順位戦の歴史も参照。
この年、名人戦の契約が毎日新聞社から朝日新聞社に移っている(正確には、1949年の順位戦の中断中に、毎日新聞社と日本将棋連盟との交渉が決裂し、これ以降の順位戦、および翌1950年に開催される名人戦の主催者が朝日新聞社になった)。
名人戦を失った毎日新聞社は王将戦を創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社(スポーツニッポン新聞社と共催)として現在に至っている。
この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦である棋聖戦の契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。
朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。
その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。直後に行われた臨時の棋士総会で、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった。反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。
名人戦を失った朝日新聞社は、1977年から「朝日アマ名人戦」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は朝日オープン将棋選手権、2006年で終了)を主催している。
なお1991年11月ごろ、日本将棋連盟の理事会で、名人戦を朝日新聞社に移そうという動きが表面化していたという記録があるが、この時点では実現しなかった。1991年8月、日本将棋連盟渉外担当理事の大内延介が、朝日新聞社に名人戦主催に復帰する考えがあるか打診した。日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派は大内、二上達也、田丸昇の3名のみで、のこり5名は反対だった。その後、91年9月、92年3月、92年5月の棋士会でも、反対意見が多く、廃案となった。
2006年3月、日本将棋連盟理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。
問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した中原誠専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。その後、米長邦雄会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。また米長会長は、東京中日スポーツ紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判した。
2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。
通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。その後に行われた棋士総会において (1)毎日が単独での契約を望む場合、毎日の提示した契約条件を受諾するかどうかを棋士の表決で決定 (2)毎日が朝日との共催を望む場合、交渉は理事会に一任する――との案が採決された。
7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。羽生善治(当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、森内俊之(当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、渡辺明(当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。
8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。
12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。また、朝日新聞社が主催している朝日オープン選手権は朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「朝日杯将棋オープン戦」に改められた。毎日新聞社などが主催する王将戦(契約金は年7800万円)は継続して開催される。尚観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人を出すこととなった。
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"text": "ABEMA(2017年 - )による七番勝負の完全生中継が行われている。また朝日新聞囲碁将棋TVでは七番勝負の完全生中継が行われている。完全以前はニコニコ生放送(2012年 - 2019年)でも中継が行われていた。",
"title": "ネット配信"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "当初の主催は東京日日新聞および大阪毎日新聞で、のちにこの二社が合併して毎日新聞社主催となった。第9期(1950年)から第35期(1976年)は朝日新聞社の主催に変わった。第36期(1977年)から再び毎日新聞社の主催となり、第66期(2008年)より毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "順位戦#順位戦の歴史も参照。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "この年、名人戦の契約が毎日新聞社から朝日新聞社に移っている(正確には、1949年の順位戦の中断中に、毎日新聞社と日本将棋連盟との交渉が決裂し、これ以降の順位戦、および翌1950年に開催される名人戦の主催者が朝日新聞社になった)。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "名人戦を失った毎日新聞社は王将戦を創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社(スポーツニッポン新聞社と共催)として現在に至っている。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦である棋聖戦の契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。直後に行われた臨時の棋士総会で、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった。反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "名人戦を失った朝日新聞社は、1977年から「朝日アマ名人戦」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は朝日オープン将棋選手権、2006年で終了)を主催している。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお1991年11月ごろ、日本将棋連盟の理事会で、名人戦を朝日新聞社に移そうという動きが表面化していたという記録があるが、この時点では実現しなかった。1991年8月、日本将棋連盟渉外担当理事の大内延介が、朝日新聞社に名人戦主催に復帰する考えがあるか打診した。日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派は大内、二上達也、田丸昇の3名のみで、のこり5名は反対だった。その後、91年9月、92年3月、92年5月の棋士会でも、反対意見が多く、廃案となった。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2006年3月、日本将棋連盟理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した中原誠専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。その後、米長邦雄会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。また米長会長は、東京中日スポーツ紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判した。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。その後に行われた棋士総会において (1)毎日が単独での契約を望む場合、毎日の提示した契約条件を受諾するかどうかを棋士の表決で決定 (2)毎日が朝日との共催を望む場合、交渉は理事会に一任する――との案が採決された。",
"title": "名人戦の主催者"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。羽生善治(当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、森内俊之(当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、渡辺明(当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。",
"title": "名人戦の主催者"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。また、朝日新聞社が主催している朝日オープン選手権は朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「朝日杯将棋オープン戦」に改められた。毎日新聞社などが主催する王将戦(契約金は年7800万円)は継続して開催される。尚観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人を出すこととなった。",
"title": "名人戦の主催者"
}
] |
名人戦(めいじんせん)は、毎日新聞社、朝日新聞社および日本将棋連盟主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。将棋界の近代化にあたり、江戸時代以来の終身位名人制を廃し、短期実力制によって名人を選ぶべく、1935年(昭和10年)に第1期が開始された(第1期リーグ戦は1935年から1937年にかけての2年間)。タイトル戦の中で一番長い歴史を有し、七番勝負の勝者は名人のタイトル称号を得る。名人位は竜王位とともに将棋界の頂点とされている。
|
{{Infobox 棋戦
|イベント名称=名人戦
|画像 =File:Oyama vs Tsukada 1948.JPG
|画像サイズ =250px
|画像説明 =第7期名人戦の様子
|分類 =タイトル戦
|開催時期 =4月 - 6月
|初回開催 =1935年~1937年(第1期名人決定大棋戦は2年間)
|持ち時間 = 9時間(2日制)
|番勝負 =七番勝負
|主催 =[[毎日新聞社]]<br />[[朝日新聞社]]<br />[[日本将棋連盟]]
|協賛 =[[大和証券グループ本社]]
|URL =[https://www.shogi.or.jp/match/junni/index.html 名人戦・順位戦:日本将棋連盟]
|種類 =名人
|前期優勝 =[[藤井聡太]](第81期)
|永世資格 = [[木村義雄 (棋士)|木村義雄]](十四世名人)<br />[[大山康晴]](十五世名人)<br />[[中原誠]](十六世名人)<br />[[谷川浩司]](十七世名人)<br />[[森内俊之]](十八世名人資格)<br />[[羽生善治]](十九世名人資格)
|最多優勝 =大山康晴(18期)
|最長連覇 =大山康晴(13連覇)
|備考 = }}
'''名人戦'''(めいじんせん)は、[[毎日新聞社]]、[[朝日新聞社]]および[[日本将棋連盟]]主催の[[将棋]]の[[棋戦 (将棋)|棋戦]]で、[[棋戦 (将棋)#タイトル戦|タイトル戦]]のひとつ。[[将棋界]]の[[近代化]]にあたり、[[江戸時代]]以来の終身位名人制を廃し、短期実力制によって名人を選ぶべく、[[1935年]]([[昭和]]10年)に第1期が開始された(第1期[[リーグ戦]]は1935年から[[1937年]]にかけての2年間)。タイトル戦の中で一番長い歴史を有し、[[番勝負|七番勝負]]の勝者は'''[[名人 (将棋)|名人]]'''のタイトル称号を得る。名人位は[[竜王位]]とともに[[将棋界]]の頂点とされている。
== 概要 ==
名人と挑戦者とで行われる対局([[番勝負|七番勝負]])のこと。名人戦七番勝負の勝者には、[[将棋界]]で最も格式と歴史のある([[家元|家元制]]として江戸時代初期の[[1612年]]([[慶長]]年間)から、実力制タイトルとしては[[1937年]]から続く)「[[名人 (将棋)|名人]]」のタイトル称号が与えられ、次期の七番勝負終了まで、そのタイトル保持者となる。毎日新聞社と朝日新聞社とが共催(2007年度から)し、[[大和証券グループ]]から協賛を受けている(2005年度から)。
江戸時代以来、近代まで[[名人 (将棋)|将棋の名人]]は[[世襲]]制(ただし血縁が絶対ではない、家元制・推挙制)であった。
[[1929年]]、[[読売新聞社]]による「第一回[[日本将棋選手権戦]]」開始にあたり、読売新聞社が行ったアンケートに、時の名人[[関根金次郎]]が「古来、名人の位は一生涯のものだが、私は時勢に鑑み適当な時期に退隠したいと思う」と回答<ref name="名前なし-1">[[天狗太郎]]『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P.24</ref>。なお、この頃の関根は「名人」ではなく「九段制」を考えていた<ref name="名前なし-1"/>。
その後、[[日本将棋連盟]]顧問の中島富治の発案を受け、[[1934年]](昭和9年)、[[東京日日新聞]]学芸部長の[[阿部眞之助]]が囲碁および将棋の「実力名人戦」を企画し<ref>『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』([[林裕]])P.46</ref>、[[日本将棋連盟]]会長の[[金易二郎]]が1935年3月に「昭和12年(1937年)に300年続いた一世名人を廃する」と発表。同年、名人戦(当初は八段9名のリーグ戦)が開始。2年にわたる「第1期名人決定大棋戦」の結果、1937年の12月6日に[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]が[[花田長太郎]]に勝ち、翌年に予定されていた決勝六番勝負をへることはなく、初代の実力制名人に決定。1938年2月11日(当時の[[祝日]]・[[紀元節]]<ref>関根金次郎声明・『将棋世界「将棋名人戦」~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(マイナビ出版刊行)P.37 </ref>)、十三世名人の[[関根金次郎]]は1935年に提出した声明書に基づき名人位を返上し、木村が実力制名人位についた。
これにより[[大橋宗桂 (初代)|初代大橋宗桂]]以来続いた一世名人制が廃止され、短期実力制名人位制度が開始された。なお、囲碁は名人戦ではなく[[本因坊]]戦とされ1939年に開始した<ref>『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P.46</ref>。
== 方式 ==
名人戦の予選は[[順位戦]]と呼ばれ、A級順位戦の優勝者が挑戦者となる。名人と挑戦者が名人戦七番勝負を戦う。
=== A級順位戦 ===
詳しくは[[順位戦]]の項を参照のこと。[[持ち時間]]は各6時間。
=== 名人戦七番勝負 ===
名人とA級順位戦の優勝者が七番勝負を戦う。七番勝負は全国各地の旅館や料亭、あるいは文化的施設など格調高い場所で行われる。第66期(2008年)以降は第1局を東京都文京区の[[椿山荘]]で行い、第2局~第5局は全国の自治体からの公募により開催地が決定されるのが恒例となっている<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2015/07/74.html 第74期名人戦・開催地公募のお知らせ]日本将棋連盟・2015年8月21日閲覧</ref>。
持ち時間は2日制の各9時間で、これは将棋の全タイトル戦のうち最長時間である。1日目の終わりには[[封じ手]]を行い、2日目の開始まで次の手を考えて有利になることがないようにする。昼食休憩(両日とも)は12時から1時間、夕食休憩(2日目のみ)は17時から30分間(いずれも第80期より)<ref>[https://mainichi.jp/articles/20220403/k00/00m/040/063000c 「味が悪かった」規定変更 名人戦、今期から何が変わるのか] - 毎日新聞・2022年4月4日</ref>。なお、2日目に夕食休憩の時間があるのは、2018年現在タイトル戦の中では名人戦だけ(1日制のタイトル戦では[[王座戦 (将棋)|王座戦]]がある)。ただ名人戦の夕食休憩について、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]は「局面が勝負所に入っていてタイミングが悪いし、腹が減ればおやつを食べれば良い」「新聞社的にも休憩無しの方が助かる(翌朝の紙面に記事を間に合わせやすい)はずで、誰が得しているのかわからない」として「夕食休憩は不要」と主張している<ref>『[[将棋の渡辺くん]]』(伊奈めぐみ著、[[講談社]])第6巻 pp.52 - 53</ref>。
=== 賞金 ===
名人戦の賞金額は通常非公開だが、過去に『[[将棋世界]]』誌上でその一端が公開されたことがある<ref name="penclub131220">[https://shogipenclublog.com/blog/2013/12/20/%e5%90%8d%e4%ba%ba%e4%bd%8d%e3%81%ae%e8%b3%9e%e9%87%91%e7%b7%8f%e9%a1%8d%e3%82%92%e6%8e%a8%e8%a8%88%e3%81%99%e3%82%8b/ 名人位の賞金総額を推計する] - 将棋ペンクラブログ・2013年12月20日</ref>。同記事によれば、1991年当時の名人および挑戦者の賞金額は以下のとおり。
* 対局料 - 名人は1,050万円、挑戦者は450万円。
* 賞金 - 勝者(名人)は1,200万円、敗者は300万円。
* 名人手当 - 月に約100万円(名人は順位戦の対局がない(=対局料が発生しない)代わりに手当が上乗せされる)。
従って名人位を防衛すると合計で約3,500万円ほどとなり、当時の竜王戦の賞金とほぼ並ぶ計算となる<ref name="penclub131220" />。
== 変遷 ==
当初は1期2年であり、2年間かけて挑戦者を決め、偶数年に番勝負を開催していた。ただし、1938年、1944年、1946年は挑戦者不在などの理由により番勝負が開催されず、このうち1938年と1946年は、前年である奇数年のうちに名人が決まった。各期ごとに試行錯誤が重ねられ、挑戦者決定リーグの開催方式が変更された。
1946年に順位戦が始まったことで、1947年以降は1期1年となり、挑戦者決定方法も固定された。
=== 第1期名人戦 ===
; 第1期(番勝負:1938年、開催されず)
: 最初の実力制名人は、当時の最高段位であった八段の全棋士が名人候補者決定リーグに参加し、リーグを勝ち抜いた名人候補者2名による六番勝負(3勝3敗の場合は候補者決定リーグ1位の者が名人)で争うことになった。当初は、1935年から2年間のリーグを行い、1937年に番勝負を開催する予定だったが、'''[[神田事件 (将棋)|神田事件]]'''によってリーグが半年間中断され、番勝負は1938年に変更された。
: 名人候補者決定リーグの当初の参加者(八段)は、[[土居市太郎]]、[[大崎熊雄]]、[[金易二郎]]、[[木見金治郎]]、[[花田長太郎]]、[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]、[[金子金五郎]](八段昇段日順)の7名だった。しかし、[[神田辰之助]]の八段昇段(すなわちリーグ参加権)の是非を巡って紛糾し、神田の昇段を主張する棋士らが一時連盟から脱退する騒ぎとなった。結果的に連盟は神田の八段昇段を追認して決着。神田と[[萩原淳 (棋士)|萩原淳]]<ref group="注">萩原は、神田を支持した花田・金子が脱退した際に欠員補充として昇段した。なお、神田については脱退時に八段昇段したとする主張が連盟によって追認されているため、萩原の昇段日は神田よりも後である。</ref>の新八段2名が加わり、9名でリーグを行うこととなった。
: 名人候補者決定リーグは、八段全棋士が総当たりで2局ずつを指す特別リーグ戦の結果と、通常の棋戦における対八段・七段戦(普通戦)の結果をそれぞれ点数に換算して合算することで順位を決した(普通戦では、勝敗だけでなく、相手の段位や手合によって点数が定められた)。ただし、候補者決定リーグにおける1位と2位の点差が8点を越える大差となった場合には、2位の者の候補者資格を認めず、番勝負は行わずに1位の者が名人になることとしていた。また、第1期のリーグによる点数が40点を下回った棋士は、次期(第2期)の挑戦者決定リーグ参加権が停止されることとなっていた(第3期から復帰が可能)。
: リーグ戦の結果、1937年12月5日から<ref>週刊将棋編「名局紀行」毎日コミュニケーションズ P.101</ref>12月6日の最終局で木村が花田に勝利したため、リーグ戦の成績は木村と花田が13勝2敗で並んだが、点数が1位の木村が103.7点、2位の花田が95.6となり、8.1点差という大差が付いたため、規定により番勝負は実施されず、木村が名人につくことになった。翌1938年2月11日に、木村の名人就位式が実施された。また、木見と大崎が規定の40点を下回り、第2期の挑戦者決定リーグ参加資格がなくなった(なお、大崎は病気による途中棄権であり、第2期リーグの途中で死去したが<ref>『将棋名人戦 ~昭和・平成 時代を映す名勝負~』([[将棋世界]]編集部編、[[マイナビ]]、2014年)p.38</ref>、木見は規定により第3期からリーグに復帰した)。
=== 順位戦創設以前(第2期から第5期まで) ===
; 第2期(番勝負:1940年)
: 第2期からは、現在でもお馴染みの挑戦者決定リーグで選ばれた挑戦者が七番勝負で名人に挑戦する形式となる。挑戦者決定リーグは、前期のリーグで40点以上を獲得した名人以外の八段6名に加えて、新八段1名、八段格として特例で参加が認められた[[坂田三吉|阪田(坂田)三吉]](名人僭称問題によってそれまで連盟に所属していなかった)、七段全員による予選(総当たり2局ずつ)を勝ち抜いた1名の9名に参加資格が与えられた。
: 挑戦者決定リーグは、第1期にあった普通戦が廃止され、総当たりのリーグ戦を2回(第1次・第2次)行い、その合計の勝敗で挑戦者を決した。なお、第1次リーグで1勝以下の成績の者(花田が該当)は第2次リーグに参加できず、失格となった。番勝負は持ち時間各15時間の3日制にて実施された<ref name="名前なし-2">『将棋名人戦』p.43</ref>。
: 土居が13勝0敗で名人挑戦を決めたものの、番勝負で木村に敗退した。なお、特例として参加した阪田は7勝8敗であった。
; 第3期(番勝負:1942年)
: 挑戦者決定リーグは、八段の全棋士10名に、五段 - 七段の予選を通過した2名を加え、12名で行われた。
: 第3期は、2段階のリーグ戦によって挑戦者が決められることになった。まず、12名を4名ずつ3組に分けてリーグ戦を行った。各組の1位3名(土居・神田・渡辺)に加え、各組2位4名による敗者復活リーグを勝ち抜いた1名(塚田)の計4名により、決勝リーグを行った。決勝リーグを制した神田が挑戦者となったが、番勝負で木村に敗れた。
; 第4期(番勝負:1944年、開催されず)
: 挑戦者決定戦は、八段の全棋士12名に加え、五段 - 七段の予選を通過した4名の合計16名で行われた。
: これまでのリーグ戦方式を改め、半年ごと(2年間なので都合4回)に予備資格者決定トーナメントを行うことになった。各トーナメントの勝者が予備資格者として名人(木村義雄)と半香落ち(香落ちと平手を交互に指す)の[[将棋の手合割|手合い]]で予備手合三番勝負を戦い、これに勝ち越せば名人挑戦者として改めて名人戦七番勝負に進むことができる。
: しかし、予備手合は4回とも木村の勝ちとなり、名人挑戦資格者が出ず、七番勝負を行わずに木村の防衛となった。
:# 1943年前期 木村義雄 2-0 萩原淳
:# 1943年後期 木村義雄 2-1(1千日手) 大野源一
:# 1944年前期 木村義雄 2-0 花田長太郎
:# 1944年後期 木村義雄 2-0 坂口允彦
; 第5期(番勝負:1946年、開催されず)
: 戦時下につき、トーナメントが廃止され、近年の成績により予備資格者の7名が選出された。この7名が順に木村と予備手合三番勝負を行い、勝ち越した者が正式な挑戦者として名人戦七番勝負に進出することとなった<ref>将棋世界「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄vs倉島竹二郎」1985年7月。</ref>。
: しかし、戦争激化により、予備手合が中止され、特例として木村義雄の名人防衛の決定がなされた。
=== 順位戦創設以降(第6期から) ===
; 第6期(1947年)
: 前年から[[順位戦]]が開始され、A級順位戦の優勝者が名人挑戦資格を得るようになった。
: この年のA級順位戦は八段棋士14名によるリーグ戦(持ち時間は各7時間)で、順位が決定していなかったため、同率首位となった塚田正夫・大野源一・萩原淳の3者によるプレーオフが行われ、塚田が挑戦資格を得た。
: この期より番勝負のシステムが、それまでの3日制から「持ち時間各8時間の1日制」に変更された([[封じ手]]は行われない)<ref name="名前なし-2"/>。
; 第7期(1948年) - 第9期(1950年)
: 順位戦A級の上位3名と、B級の優勝者による4名がパラマス式トーナメントを行い(A級3位とB級優勝者が対局し、勝者がA級2位と、その勝者がA級1位と対局する)、トーナメント優勝者が名人挑戦資格を得る。
: 第7期では、第2期順位戦でB級七段だった[[大山康晴]]がパラマス式トーナメントを勝ち抜いて挑戦資格を得ており、名人戦唯一の七段の挑戦者となっている。
: 1949年の順位戦実行中に、日本将棋連盟と毎日新聞社との交渉が決裂し、第9期からの名人戦の主催者は朝日新聞社となった<ref>[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P.161</ref>。
: なお第9期から、番勝負のシステムが「持ち時間各10時間の2日制」に再度変更されている<ref>『将棋名人戦』p.49</ref>。
; 第10期(1951年) - 第26期(1967年)
: [[ファイル:Prince Chichibu in Shogi Contest 1952 Scan10009.JPG|サムネイル|第11期第2局を観戦する[[秩父宮雍仁親王]](右端)。]]A級順位戦の優勝者が挑戦資格を得るように改められた。
: 第11期第2局は愛棋家である[[秩父宮雍仁親王]]が観戦した。
; 第27期(1968年) -
: 持ち時間を「順位戦は各6時間、番勝負は各9時間」に短縮。以後現在までほぼ同じ形式を踏襲している。
== 永世名人 ==
{{main|名人 (将棋)}}
名人位を'''通算5期'''以上獲得した棋士は、原則として[[引退#将棋|引退]]後に、[[棋戦 (将棋)#永世称号|永世称号]]である'''永世名人'''を名乗ることができる。
他のタイトルの永世称号と異なり、「○世名人」という称号となる。これは、江戸時代から続く終世名人制を引き継ぐためであり、最初の永世名人である[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]は、[[関根金次郎]]十三世名人の次であるから十四世名人を名乗った。
永世名人の資格は、1949年に、名人戦主催者が翌年から朝日新聞社に変更となったのを機に制定された。当時の規約は、名人5期以上の棋士が失冠した際に、連盟がその棋士の人格などを審査し、永世名人に相応しい人物であれば永世名人の称号を贈るというものであった<ref>将棋世界2018年3月号。</ref>。
規約制定以前の1945年に木村義雄は既に規定の名人5期を達成していたため、当然この資格を獲得し、1952年に名人を失冠すると永世名人を襲位した。
なお、「木村の名人獲得期数5期は1949年に達成したものであり、戦前の獲得期数は実際は4期である」や「永世名人の規約ができたのは1952年である」などといった誤解がある。しかし、木村の名人獲得期数と規約制定年と襲位との関係を理解しないことから起きた誤りである。
この規定による永世名人の資格獲得者は、[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]](十四世名人)、[[大山康晴]](十五世名人)、[[中原誠]](十六世名人)、[[谷川浩司]](十七世名人)、[[森内俊之]](十八世名人)、[[羽生善治]](十九世名人)の6名である。
木村は1952年の名人陥落後に引退して十四世名人を名乗った。大山は名人13連覇など数々の偉業を称えて、特例で現役でありながら十五世名人を名乗ることを許されていた。中原は2007年11月に、名人15期をはじめとする実績を称えて現役中に十六世名人に推戴された。谷川は、2022年4月に還暦を迎えたこととこれまでの実績・将棋界への貢献から推薦を受けて、現役中ながら十七世名人を襲位した。2022年現在、森内、羽生はまだ襲位していない。規定通り引退後に永世名人を名乗ったのは木村のみである。
== 名人戦と段位 ==
{{see|将棋の段級#棋士の昇段規定}}
上述の通り、第10期以降は名人戦挑戦のために、順位戦A級在位という前提を要する関係上、名人戦挑戦者の段位は必然的に八段以上となる。
1984年4月1日から改定施行された昇段規定により、八段の挑戦者が名人位を獲得した場合、九段に昇段する<ref group="注">他の棋戦タイトルでは通算三期の獲得によって九段昇段の条件を得る。</ref>。
当規定が施行されて以降、名人位獲得に伴い九段に昇段した棋士は、[[谷川浩司]]・[[佐藤康光]]・[[丸山忠久]]・[[森内俊之]]・[[佐藤天彦]]・[[豊島将之]]の6名である。尚、谷川と丸山は、五段から八段までの全ての段位を順位戦の昇級に伴い昇段したので、名人位獲得をA級から名人への昇級と考えると五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したことになる。
== 歴代七番勝負・A級順位戦 ==
{| border="1" class="wikitable" style="font-size:80%;"
|
;番勝負勝敗(名人側から見た勝敗)
:○:勝ち ●:負け 千:[[千日手]] 持:[[持将棋]]
;名人戦七番勝負
:{|
| style="background-color:#ffcccc; border:1px solid #aaaaaa;"|'''太字'''||:名人獲得者(七番勝負勝者)
| style="background-color:#ff6699; border:1px solid #aaaaaa;" |'''太字'''{{sup|永}}|| :永世資格獲得者(七番勝負勝者)
| ▽:A級リーグ離脱者(引退)
|}
;順位戦A級リーグ
:◎:挑戦者 ○:挑戦者以外のプレーオフ進出者 ▼:降級者 ▽:降級者以外のリーグ離脱者(引退・死去) 全:全勝者 ():休場者
*順位は前期の成績によって決定したリーグ順位。
* 着色は名人獲得経験者。
|}
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small"
!rowspan="2"|期!!rowspan="2"|年度!!colspan="3"|名人戦七番勝負!!colspan="13"|挑戦者決定リーグ
|- style="line-height:110%"
!名人!!勝敗!!挑戦者!!colspan="12"|八段(昇段日順)!!予選通過者<br/>(七段以下)
|-
!rowspan="2"|[[第1期名人戦 (将棋)|1]]
|1937||rowspan="2" style="background-color: #ffcccc"|'''[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]'''||rowspan="2"|{{small|{{center|{{2rows-brackets|六番勝負|実施されず}}}}}}
|rowspan="2"|-
|[[土居市太郎|土居]]||style="white-space: nowrap"|[[大崎熊雄|大崎]]<sup>▼</sup>||[[金易二郎|金]]||style="white-space: nowrap"|[[木見金治郎|木見]]<sup>▼</sup>||[[花田長太郎|花田]]||style="background-color:#E3F2E8;line-height:110%"|[[木村義雄 (棋士)|木村雄]]<sup>◎</sup>||[[金子金五郎|金子]]||style="white-space: nowrap"|[[神田辰之助|神田辰]]||[[萩原淳 (棋士)|萩原]]||colspan="3"| ||
|-
|1938||colspan="13"|1位木村と2位花田が大差となったため、1938年の番勝負は行わずに1937年に名人決定。
|-
!rowspan="2"|[[第2期名人戦 (将棋)|2]]
|1939||rowspan="2" style="background-color: #ffcccc"|'''木村義雄'''
|rowspan="2"|{{table2|class=none|cols=7|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|○|[[千日手|千<br/>千]]<br/>●|○|○|-|-}}
|rowspan="2" style="white-space: nowrap"|[[土居市太郎]]
|style="line-height:110%"|土居<br/><sup>◎</sup><sup>全</sup>||金||花田||金子||style="white-space: nowrap"|神田辰||萩原||style="white-space: nowrap"|[[斎藤銀次郎|斎藤銀]]||style="line-height:110%"|[[坂田三吉|阪田]]<sup>▽</sup><ref group="注">八段格として特例による参加。なお、現役当時の表記は阪田ではなく坂田。</ref>||colspan="4"| ||[[渡辺東一|渡辺東]]
|-
|1940||colspan="13"|前期リーグで規定の点数を満たさなかった八段は出場資格なし。予選を通過した七段1名が出場。
|-
!rowspan="2"|[[第3期名人戦 (将棋)|3]]
|1941||rowspan="2" style="background-color: #ffcccc;white-space: nowrap"|'''木村義雄'''||rowspan="2"|○○○○---||rowspan="2"|[[神田辰之助]]
|style="white-space: nowrap"|土居<sup>○</sup>||金||木見||花田||金子||style="line-height:110%"|神田辰<sup>◎</sup>||萩原||斎藤銀||[[坂口允彦|坂口]]||style="background-color:#FFF8E7;line-height:110%"|[[塚田正夫|塚田正]]<sup>○</sup>||colspan="2"| ||style="line-height:110%"|渡辺東<sup>○</sup><br/>[[大野源一|大野源]]
|-
|1942||colspan="13"|出場者を3組に分けて1次リーグ戦を行い、各組1位の3名と2位から敗者復活戦を勝ち抜いた1名で決勝。
|-
!rowspan="2"|[[第4期名人戦 (将棋)|4]]
|1943||rowspan="2" style="background-color: #ffcccc"|'''木村義雄'''||rowspan="2"|-||rowspan="2"|-
|土居||金||style="white-space: nowrap"|木見<sup>▽</sup>||花田<sup>○</sup>||金子||style="line-height:110%"|神田辰<sup>▽</sup>||萩原<sup>○</sup>||斎藤銀||style="white-space: nowrap"|坂口<sup>○</sup>||style="background-color:#FFF8E7;white-space: nowrap"|塚田正||style="white-space: nowrap"|[[小泉雅信|小泉]]||style="white-space: nowrap"|渡辺東||style="white-space: nowrap;line-height:110%"|大野源<sup>○</sup>/[[村上真一|村上]]<br/>[[山本樟郎|山本樟]]/<span style="background-color: #C7E0F4;">[[大山康晴|大山]]</span>
|-
|1944||colspan="13"|トーナメント突破4名が木村と予備手合を行うも全員敗退。名人挑戦権獲得者なしで木村の名人防衛。
|-
!rowspan="2"|[[第5期名人戦 (将棋)|5]]
|1945||rowspan="2" style="background-color: #ff6699"|'''木村義雄'''{{sup|永}}||rowspan="2"|-||rowspan="2"|-
|花田||金子||萩原||坂口||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||style="white-space: nowrap"|大野源||colspan="6"| ||[[加藤治郎 (棋士)|加藤治]]<ref group="注">予選ではなく近年の好成績により七段ながらリーグ参加権が認められた。</ref>
|-
|1946||colspan="13"|近年の成績で選抜された7名が予備資格者となったが、予備手合が戦争で中止。特例として木村の防衛扱い。
|}
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;line-height:110%"
!rowspan="2"|期!!rowspan="2"|年度!!style="line-height:150%" colspan="3"|名人戦七番勝負!!colspan="12"|順位戦A級!!rowspan="2"|A級<br/>昇級者
|- style="line-height:150%"
!名人!!勝敗!!挑戦者!!{{縦書き|期数}}!!1位!!2位!!3位!!4位!!5位!!6位!!7位!!8位!!9位!!10位!!11位-
|- style="height:3em"
![[第1期順位戦|6]]
|1947||木村義雄
|{{center|{{table2|class=none|cols=4|style=border-spacing:0;line-height:90%|○○[[持将棋|持]]●●|[[千日手|千]]<br/>●|[[千日手|千]]<br/>●|-}}}}
|style="background-color: #ffcccc"|'''[[塚田正夫]]'''
![[第1期順位戦|1]]
|colspan="11"|土居/金<sup>▼</sup>/花田/金子<sup>▼</sup>/萩原<sup>○</sup>/斎藤銀<sup>▼</sup>/坂口/<span style="background-color: #FFF8E7;">塚田正<sup>◎</sup></span>/渡辺東<sup>▼</sup>/小泉<sup>▼</sup>[[梶一郎|梶]]<sup>▼</sup>/加藤治/大野源<sup>○</sup>/村上||<span style="background-color: #FDE9F1;">[[升田幸三|升田]]</span>
|-
![[第2期順位戦|7]]
|1948||style="background-color: #ffcccc"|'''塚田正夫'''
|{{center|{{table2|class=none|cols=7|style=border-spacing:0;line-height:90%|●|○|○|●|[[千日手|千]]<br/>○|○|-}}}}
|[[大山康晴]]
![[第2期順位戦|2]]
|style="background-color:#E3F2E8" style="white-space: nowrap"|木村雄||大野源<sup>○</sup>||萩原||土居||style="white-space: nowrap"|加藤治||(坂口)||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>○</sup>||花田<sup>○</sup><sup>▽</sup>||村上<sup>▼</sup>||colspan="2"| ||<span style="background-color: #C7E0F4;">大山{{sup|◎}}</span><br/>[[丸田祐三|丸田]]<br/>[[北楯修哉|北楯]]<br/>[[松田辰雄|松田辰]]
|-
![[第3期順位戦|8]]
|1949||塚田正夫||○●○●●<br/>{{small|(五番勝負)}}||style="background-color: #ffcccc"|'''木村義雄'''
![[第3期順位戦|3]]
|style="background-color:#FDE9F1"|升田||style="white-space: nowrap"|大野源||style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>○</sup>||土居<sup>▼</sup>||丸田||style="background-color:#E3F2E8"|木村雄<sup>◎</sup>||加藤治<sup>▼</sup>||北楯||萩原<sup>▼</sup>||松田辰<sup>○</sup>||(坂口)||style="white-space: nowrap"|[[五十嵐豊一|五十嵐]]<sup>○</sup><br/>[[高島一岐代|高島一]]<br/>[[原田泰夫|原田]]
|-
![[第4期順位戦|9]]
|[[1950年度の将棋界|1950]]||style="background-color: #ffcccc"|'''木村義雄'''||○○●●○○-||大山康晴
![[第4期順位戦|4]]
|style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>◎</sup>||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>○</sup>||丸田<sup>○</sup>||大野源||北楯<sup>▼</sup>||五十嵐||style="white-space: nowrap"|高島一||原田<sup>▼</sup>||style="white-space: nowrap"|{{small|(松田辰)}}||(坂口)||[[高柳敏夫|高柳]]<sup>○</sup><br/>[[板谷四郎|板谷四]]<br/>[[南口繁一|南口]]
|-
![[第5期順位戦|10]]
|[[1951年度の将棋界|1951]]||style="background-color: #ffcccc"|'''木村義雄'''||○●○○●○-||[[升田幸三]]
![[第5期順位戦|5]]
|style="background-color:#C7E0F4"|大山||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>◎</sup>||丸田||style="background-color:#FFF8E7;white-space: nowrap"|塚田正||高島一<sup>▼</sup>||五十嵐<sup>▼</sup>||大野源<sup>▼</sup>||高柳||style="white-space: nowrap"|板谷四||南口<sup>▼</sup>||style="white-space: nowrap"|坂口<br/>{{small|(松田辰)}}||原田<br/>[[松田茂役|松田茂]]<br/>[[荒巻三之|荒巻]]
|-
![[第6期順位戦|11]]
|[[1952年度の将棋界|1952]]||木村義雄<sup>▽</sup>||○●●●●--||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
![[第6期順位戦|6]]
|style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>○</sup>||style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>◎</sup>||丸田||坂口<sup>▼</sup>||(高柳)||style="background-color:#FFF8E7;white-space: nowrap"|塚田正||style="white-space: nowrap"|板谷四||原田||style="white-space: nowrap"|松田茂||荒巻<sup>▼</sup>||{{small|(松田辰)}}||[[花村元司|花村]]<br/>[[松下力|松下]]<br/>[[小堀清一|小堀]]
|-
![[第7期順位戦|12]]
|[[1953年度の将棋界|1953]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○●○○--||升田幸三
![[第7期順位戦|7]]
|style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>◎</sup>||丸田||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正<sup>○</sup>||板谷四<sup>▼</sup>||原田||松田茂<sup>○</sup>||花村||松下<sup>▼</sup>||小堀||(高柳)||{{small|(松田辰)}}<br/><sup>▼</sup>||[[灘蓮照|灘]]<br/>南口<br/>大野源
|-
![[第8期順位戦|13]]
|[[1954年度の将棋界|1954]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|{{center|{{table2|class=none|cols=2|style=border-spacing:0;line-height:90%|[[千日手|千]]<br/>○|○○●○--}}}}
|升田幸三
![[第8期順位戦|8]]
|style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>◎</sup>||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正<sup>○</sup>||style="white-space: nowrap"|松田茂||丸田||原田||花村||小堀<sup>▼</sup>||灘||南口<sup>▼</sup>||style="white-space: nowrap"|大野源||高柳<sup>▼</sup>||高島一<br/>[[松浦卓造|松浦卓]]
|-
![[第9期順位戦|14]]
|[[1955年度の将棋界|1955]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○●○○●○-||style="white-space: nowrap"|[[高島一岐代]]
![[第9期順位戦|9]]
|style="background-color:#FDE9F1"|(升田)||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||大野源||花村||灘||松田茂||丸田<sup>▼</sup>||原田||高島一<sup>◎</sup>||松浦卓||||松下<br/>五十嵐
|-
![[第10期順位戦|15]]
|[[1956年度の将棋界|1956]]||style="background-color: #ff6699"|'''大山康晴'''{{sup|永}}||○○○○---||[[花村元司]]
![[第10期順位戦|10]]
|高島一||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||大野源<sup>▼</sup>||花村<sup>◎</sup>||松田茂||灘||原田||松浦卓<sup>▼</sup>||松下<sup>▼</sup>||五十嵐||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>○</sup>||[[二上達也|二上]]<br/>坂口
|-
![[第11期順位戦|16]]
|[[1957年度の将棋界|1957]]||大山康晴||●○●●○●-||style="background-color: #ffcccc"|'''升田幸三'''
![[第11期順位戦|11]]
|花村||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>◎</sup>||松田茂<sup>▼</sup>||灘||原田||五十嵐||高島一<sup>▼</sup>||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正<sup>○</sup>||二上||坂口||||大野源<br/>丸田
|-
![[第12期順位戦|17]]
|[[1958年度の将棋界|1958]]||style="background-color: #ffcccc"|'''升田幸三'''||○○○持●●○-||大山康晴
![[第12期順位戦|12]]
|style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>◎</sup>||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||五十嵐||花村||灘||原田<sup>▼</sup>||二上||坂口<sup>▼</sup>||大野源<sup>○</sup>||丸田<sup>○</sup>||||高島一<br/><span style="background-color: #EFE4F0;">[[加藤一二三|加藤一]]</span>
|-
![[第13期順位戦|18]]
|[[1959年度の将棋界|1959]]||升田幸三
|{{center|{{table2|class=none|cols=2|style=border-spacing:0;line-height:90%|[[千日手|千]]<br/>○|●●●●--}}}}
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
![[第13期順位戦|13]]
|style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>◎</sup>||大野源||丸田||五十嵐<sup>▼</sup>||二上||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正<sup>○</sup>||灘||花村<sup>▼</sup>||高島一||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||||[[熊谷達人|熊谷]]<br/>[[加藤博二|加藤博]]
|-
![[第14期順位戦|19]]
|[[1960年度の将棋界|1960]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|{{center|{{table2|class=none|cols=3|style=border-spacing:0;line-height:90%|●○○○|[[千日手|千]]<br/>○|--}}}}
|[[加藤一二三]]
![[第14期順位戦|14]]
|style="background-color:#FDE9F1"|(升田)||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||大野源||丸田||二上||高島一||灘||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>◎</sup>||熊谷<sup>▼</sup>||加藤博||||花村<br/>松浦卓
|-
![[第15期順位戦|20]]
|[[1961年度の将棋界|1961]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○○●○--||[[丸田祐三]]
![[第15期順位戦|15]]
|style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>▼</sup>||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||灘||加藤博||高島一||大野源||丸田<sup>◎</sup>||二上||花村||松浦卓<sup>▼</sup>||style="background-color:#FDE9F1"|(升田)||[[芹沢博文|芹沢]]<br/>[[廣津久雄|廣津]]
|-
![[第16期順位戦|21]]
|[[1962年度の将棋界|1962]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○○○---||[[二上達也]]
![[第16期順位戦|16]]
|丸田||加藤博<sup>▼</sup>||二上<sup>◎</sup>||灘||高島一<sup>▽</sup>||花村||style="background-color:#FFF8E7;white-space: nowrap"|{{small|(塚田正)}}||大野源||芹沢||廣津||style="background-color:#FDE9F1"|升田||<span style="background-color: #EFE4F0;">加藤一</span><br/>熊谷
|-
![[第17期順位戦|22]]
|[[1963年度の将棋界|1963]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○○●○--||升田幸三
![[第17期順位戦|17]]
|二上||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>◎</sup>||丸田||灘||芹沢<sup>▼</sup>||廣津<sup>▼</sup>||花村<sup>▼</sup>||大野源||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||熊谷||style="background-color:#FFF8E7;white-space: nowrap"|塚田正||加藤博<br/>五十嵐
|-
![[第18期順位戦|23]]
|[[1964年度の将棋界|1964]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||●○○●○○-||二上達也
![[第18期順位戦|18]]
|style="background-color:#FDE9F1"|升田||二上<sup>◎</sup>||大野源||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||丸田||熊谷<sup>▼</sup>||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||灘<sup>▼</sup>||加藤博||五十嵐||||松田茂<br/>[[山田道美|山田]]
|-
![[第19期順位戦|24]]
|[[1965年度の将棋界|1965]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○○●○--||[[山田道美]]
![[第19期順位戦|19]]
|二上||style="background-color:#FDE9F1"|升田||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||丸田||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||大野源<sup>▼</sup>||加藤博<sup>○</sup>||五十嵐<sup>▼</sup>||松田茂||山田<sup>◎</sup>||||熊谷<br/>[[有吉道夫|有吉]]
|-
![[第20期順位戦|25]]
|[[1966年度の将棋界|1966]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||●●○○○○-||升田幸三
![[第20期順位戦|20]]
|山田||加藤博||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>◎</sup>||松田茂||丸田||二上||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>▼</sup>||熊谷<sup>▼</sup>||有吉||||灘<br/>花村
|-
![[第21期順位戦|26]]
|[[1967年度の将棋界|1967]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○○●○--||二上達也
![[第21期順位戦|21]]
|style="background-color:#FDE9F1"|(升田)||山田||加藤博||二上<sup>◎</sup>||丸田||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||有吉||松田茂||灘<sup>▼</sup>||花村||||<span style="background-color: #EFE4F0;">加藤一</span><br/>[[内藤國雄|内藤]]
|-
![[第22期順位戦|27]]
|[[1968年度の将棋界|1968]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○○○---||升田幸三
![[第22期順位戦|22]]
|二上||加藤博||山田||丸田||有吉||松田茂<sup>▼</sup>||花村||style="background-color:#FFF8E7;white-space: nowrap"|{{small|(塚田正)}}||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>▼</sup>||内藤||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>◎</sup>||[[大友昇|大友]]<br/>[[関根茂]]
|-
![[第23期順位戦|28]]
|[[1969年度の将棋界|1969]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||●○○●●○○||[[有吉道夫]]
![[第23期順位戦|23]]
|style="background-color:#FDE9F1"|升田||山田||二上||丸田||有吉<sup>◎</sup>||花村||内藤<sup>▼</sup>||加藤博||大友<sup>▼</sup>||関根茂<sup>▼</sup>||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||<span style="background-color: #EFE4F0;">加藤一</span><br/>灘
|-
![[第24期順位戦|29]]
|[[1970年度の将棋界|1970]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○●○○○--||[[灘蓮照]]
![[第24期順位戦|24]]
|有吉||style="background-color:#FDE9F1"|升田||山田<sup>▽</sup>||丸田||加藤博<sup>▼</sup>||二上||花村||style="background-color:#FFF8E7;white-space: nowrap"|{{small|(塚田正)}}||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||灘<sup>◎</sup>||||内藤<br/><span style="background-color: #F0E8DF;">[[中原誠|中原]]</span>
|-
![[第25期順位戦|30]]
|[[1971年度の将棋界|1971]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○●●○●○○||升田幸三
![[第25期順位戦|25]]
|灘||有吉||style="background-color:#FDE9F1"|升田<sup>◎</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||花村<sup>▼</sup>||二上<sup>○</sup>||(丸田)||内藤||style="background-color:#F0E8DF"|中原||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正||||原田<br/><span style="background-color: #F9FBE9;">[[米長邦雄|米長]]</span>
|-
![[第26期順位戦|31]]
|[[1972年度の将棋界|1972]]||大山康晴||●○○●○●●||style="background-color: #ffcccc"|'''[[中原誠]]'''
![[第26期順位戦|26]]
|style="background-color:#FDE9F1"|升田||二上||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||有吉||内藤||style="background-color:#F0E8DF"|中原<br/><sup>◎</sup><sup>全</sup>||(丸田)||(灘)||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正<sup>▼</sup>||原田||style="background-color:#F9FBE9"|米長||[[佐藤大五郎|佐藤大]]<br/>[[大内延介|大内]]
|-
![[第27期順位戦|32]]
|[[1973年度の将棋界|1973]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○○○---||加藤一二三
![[第27期順位戦|27]]
|style="background-color:#C7E0F4"|大山||style="background-color:#FDE9F1"|(升田)||style="background-color:#F9FBE9"|米長||二上||内藤||原田<sup>▼</sup>||丸田||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>◎</sup>||有吉||佐藤大||大内<sup>▼</sup><br/>灘||関根茂<br/><span style="background-color: #FFF8E7;">塚田正</span>
|-
![[第28期順位戦|33]]
|[[1974年度の将棋界|1974]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||●○○●○●○||大山康晴
![[第28期順位戦|28]]
|style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>◎</sup>||style="background-color:#F9FBE9"|米長||二上||内藤||丸田<sup>▼</sup>||有吉||佐藤大<sup>▼</sup>||灘<sup>▼</sup>||関根茂||<span style="background-color:#FFF8E7">塚田正</span><br/><span style="background-color:#FDE9F1">(升田)</span>||[[板谷進]]<br/>大内
|-
![[第29期順位戦|34]]
|[[1975年度の将棋界|1975]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|{{center|{{table2|class=none|cols=3|style=border-spacing:0;line-height:90%|●○○|[[千日手|千]]<br/>●|●○[[持将棋|持]]○}}}}
|[[大内延介]]
![[第29期順位戦|29]]
|style="background-color:#C7E0F4"|大山||内藤<sup>▼</sup>||二上||関根茂<sup>▼</sup>||style="background-color:#F9FBE9"|米長||有吉||style="background-color:#FFF8E7"|塚田正<sup>▼</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||板谷進||大内<sup>◎</sup>||style="background-color:#FDE9F1"|升田||[[桐山清澄|桐山]]<br/>熊谷
|-
![[第30期順位戦|35]]
|[[1976年度の将棋界|1976]]||style="background-color: #ff6699"|'''中原誠'''{{sup|永}}||○●●○○●○||[[米長邦雄]]
![[第30期順位戦|30]]
|大内<sup>▼</sup>||style="background-color:#C7E0F4"|大山||style="background-color:#FDE9F1"|升田||style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>◎</sup>||板谷進||二上||有吉||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||桐山||熊谷<sup>▼</sup>||||[[勝浦修|勝浦]]<br/>[[森雞二|森雞]]
|}
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;line-height:110%"
!rowspan="2"|期!!rowspan="2"|年度!!style="line-height:150%" colspan="3"|名人戦七番勝負!!colspan="11"|順位戦A級!!rowspan="2"|A級<br/>昇級者
|- style="line-height:150%"
!名人!!勝敗!!挑戦者!!1位!!2位!!3位!!4位!!5位!!6位!!7位!!8位!!9位!!10位!!11位-
|- style="line-height:150%"
!-
|[[1977年度の将棋界|1977]]||colspan="15" align="center"|[[#1976年|主催者移行問題]]により中止([[第36期順位戦]]を[[1976年度の将棋界|1976年度]]-1977年度に実施)
|-
![[第36期順位戦|36]]
|[[1978年度の将棋界|1978]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|{{center|{{table2|class=none|cols=7|style=border-spacing:0;line-height:90%|●|○|●|○|[[千日手|千]]<br/>○|○|-}}}}
|[[森雞二]]
|style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C7E0F4"|大山||有吉<sup>▼</sup>||二上||style="background-color:#FDE9F1"|(升田)||板谷進||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||桐山||勝浦||森雞<sup>◎</sup>||||大内<br/>花村
|-
![[第37期順位戦|37]]
|[[1979年度の将棋界|1979]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||●●○○○○-||米長邦雄
|森雞<sup>○</sup>||勝浦||style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>◎</sup>||style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>○</sup>||二上<sup>○</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||桐山||板谷進||大内<sup>▼</sup>||花村<sup>▼</sup>||style="background-color:#FDE9F1"|(升田)<br/><sup>▽</sup>||内藤<br/>[[石田和雄|石田和]]
|-
![[第38期順位戦|38]]
|[[1980年度の将棋界|1980]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○●持○○○--||米長邦雄
|style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>◎</sup>||森雞<sup>▼</sup>||style="background-color:#C7E0F4"|大山||二上<sup>▼</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||桐山||板谷進||勝浦||内藤||石田和||||[[木村義徳|木村徳]]<br/>[[森安秀光|森安秀]]
|-
![[第39期順位戦|39]]
|[[1981年度の将棋界|1981]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○○●○--||[[桐山清澄]]
|style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C7E0F4"|大山||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||桐山<sup>◎</sup>||板谷進<sup>▼</sup>||勝浦||内藤||石田和||木村徳<sup>▼</sup>||森安秀||||大内<br/>二上
|-
![[第40期順位戦|40]]
|[[1982年度の将棋界|1982]]||中原誠
|{{center|{{table2|class=none|cols=4|style=border-spacing:0;line-height:90%|[[持将棋|持]]○●○●|[[千日手|千]]<br/>●|○|[[千日手|千]]<br/>●}}}}
|style="background-color: #ffcccc"|'''加藤一二三'''
|桐山||style="background-color:#F9FBE9"|米長||勝浦<sup>▼</sup>||style="background-color:#C7E0F4"|大山||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>◎</sup>||内藤||石田和<sup>▼</sup>||森安秀||大内||二上||||森雞<br/><span style="background-color: #C9E8E6;">[[谷川浩司|谷川]]</span>
|-
![[第41期順位戦|41]]
|[[1983年度の将棋界|1983]]||style="white-space: nowrap"|加藤一二三||●●●○○●-||style="background-color: #ffcccc"|'''[[谷川浩司]]'''
|style="background-color:#F0E8DF"|中原<sup>○</sup>||森安秀||桐山||style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C7E0F4"|大山||内藤||大内<sup>▼</sup>||二上<sup>▼</sup>||森雞||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>◎</sup>||||[[青野照市|青野]]<br/>[[淡路仁茂|淡路]]
|-
![[第42期順位戦|42]]
|[[1984年度の将棋界|1984]]||style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司'''||○○○●○--||[[森安秀光]]
|style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||style="background-color:#F0E8DF"|中原||桐山||style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C7E0F4"|大山||内藤<sup>▼</sup>||森雞||森安秀<sup>◎</sup>||青野||淡路<sup>▼</sup>||||勝浦<br/>[[田中寅彦|田中寅]]
|-
![[第43期順位戦|43]]
|[[1985年度の将棋界|1985]]||谷川浩司||●●●○○●-||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|森安秀||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||style="background-color:#C7E0F4"|(大山)||森雞||style="background-color:#F0E8DF"|中原<sup>◎</sup>||桐山||style="background-color:#F9FBE9"|米長||青野||勝浦||田中寅<sup>▼</sup>||||有吉<br/>二上
|-
![[第44期順位戦|44]]
|[[1986年度の将棋界|1986]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○●○○--||大山康晴
|style="background-color:#C9E8E6"|谷川||森安秀<sup>▼</sup>||森雞||style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>○</sup>||勝浦<sup>▼</sup>||桐山||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>○</sup>||青野<sup>▼</sup>||有吉||二上||style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>◎</sup>||[[南芳一|南]]<br/>[[小林健二 (将棋棋士)|小林健]]
|-
![[第45期順位戦|45]]
|[[1987年度の将棋界|1987]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||●●○○○○-||米長邦雄
|style="background-color:#C7E0F4"|大山||style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>◎</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>○</sup>||森雞||桐山<sup>○</sup>||有吉||二上<sup>▼</sup>||南||小林健<sup>▼</sup>||||内藤<br/>青野
|-
![[第46期順位戦|46]]
|[[1988年度の将棋界|1988]]||中原誠||○●●●○●-||style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司'''
|style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>◎</sup>||桐山||style="background-color:#C7E0F4"|大山||森雞<sup>▼</sup>||南||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||有吉<sup>▼</sup>||内藤||青野||||[[塚田泰明|塚田泰]]<br/>[[真部一男|真部]]
|-
![[第47期順位戦|47]]
|[[1989年度の将棋界|1989]]||style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司'''||○○○○---||米長邦雄
|style="background-color:#F0E8DF"|中原||style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>◎</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>▼</sup>||桐山||南||青野||内藤||style="background-color:#C7E0F4"|大山||塚田泰||真部<sup>▼</sup>||||田中寅<br/>[[高橋道雄|高橋]]
|-
![[第48期順位戦|48]]
|[[1990年度の将棋界|1990]]||谷川浩司||●○●○●●-||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|style="background-color:#F9FBE9"|米長||桐山<sup>▼</sup>||内藤||style="background-color:#C7E0F4"|大山||style="background-color:#F0E8DF"|中原<sup>◎</sup>||青野||塚田泰||南||田中寅<sup>▼</sup>||高橋<sup>○</sup>||||有吉<br/>真部
|-
![[第49期順位戦|49]]
|[[1991年度の将棋界|1991]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○○●○--||米長邦雄
|style="background-color:#C9E8E6"|谷川||高橋||style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>◎</sup>||内藤||style="background-color:#C7E0F4"|大山||青野<sup>▼</sup>||塚田泰||南||有吉||真部<sup>▼</sup>||||小林健<br/>石田和
|-
![[第50期順位戦|50]]
|[[1992年度の将棋界|1992]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||●●○●○○○||[[高橋道雄]]
|style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>○</sup>||塚田泰||南<sup>○</sup>||内藤<sup>▼</sup>||高橋<sup>◎</sup>||style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>○</sup>||有吉||小林健||石田和<sup>▼</sup>||||田中寅<br/>[[田丸昇|田丸]]
|-
![[第51期順位戦|51]]
|[[1993年度の将棋界|1993]]||中原誠||●●●●---||style="background-color: #ffcccc"|'''米長邦雄'''
|高橋||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||南||style="background-color:#C7E0F4"|大山<sup>▽</sup>||有吉||小林健||style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>◎</sup>||塚田泰||田中寅||田丸<sup>▼</sup>||||<span style="background-color: #FCD3C1;">[[羽生善治|羽生]]</span><br/><span style="background-color: #EFE4F0;">加藤一</span>
|-
![[第52期順位戦|52]]
|[[1994年度の将棋界|1994]]||米長邦雄||●●●○○●-||style="background-color: #ffcccc"|'''[[羽生善治]]'''
|style="background-color:#F0E8DF"|中原||高橋||南||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>○</sup>||小林健<sup>▼</sup>||田中寅<sup>▼</sup>||有吉||塚田泰||style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>◎</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||||[[島朗|島]]<br/>[[森下卓|森下]]
|-
![[第53期順位戦|53]]
|[[1995年度の将棋界|1995]]||style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''||○○●○○--||[[森下卓]]
|style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#F0E8DF"|中原<sup>○</sup>||高橋||有吉||塚田泰<sup>▼</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||南<sup>▼</sup>||島||森下<sup>◎</sup>||||<span style="background-color: #FFF9AE;">[[森内俊之|森内]]</span><br/>[[村山聖]]
|-
![[第54期順位戦|54]]
|[[1996年度の将棋界|1996]]||style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''||○○○●○--||[[森内俊之]]
|森下||style="background-color:#F0E8DF"|中原||style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||高橋<sup>▼</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||島||有吉<sup>▼</sup>||style="background-color:#FFF9AE"|森内<sup>◎</sup>||村山聖||||<span style="background-color: #C7CDE7;">[[佐藤康光|佐藤康]]</span><br/>森雞
|-
![[第55期順位戦|55]]
|[[1997年度の将棋界|1997]]||羽生善治||●○●●○●-||style="background-color: #ff6699"|'''谷川浩司'''{{sup|永}}
|style="background-color:#FFF9AE"|森内||森下||style="background-color:#F9FBE9"|米長||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>◎</sup>||島||style="background-color:#F0E8DF"|中原||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||村山聖<sup>▼</sup>||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||森雞<sup>▼</sup>||||高橋<br/>[[井上慶太|井上慶]]
|-
![[第56期順位戦|56]]
|[[1998年度の将棋界|1998]]||谷川浩司||○●○●○●●||style="background-color: #ffcccc"|'''[[佐藤康光]]'''
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>○</sup>||style="background-color:#FFF9AE"|森内||森下||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康<sup>◎</sup>||島||style="background-color:#F0E8DF"|中原||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||style="background-color:#F9FBE9"|米長<sup>▼</sup>||高橋<sup>▼</sup>||井上慶||||<span style="background-color: #B3DCC0;">[[丸山忠久|丸山]]</span><br/>村山聖
|-
![[第57期順位戦|57]]
|[[1999年度の将棋界|1999]]||style="background-color: #ffcccc"|'''佐藤康光'''||○○●●●○○||谷川浩司
|style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>◎</sup>||style="background-color:#FCD3C1"|羽生||style="background-color:#FFF9AE"|森内<sup>○</sup>||森下||style="background-color:#F0E8DF"|中原||井上慶<sup>▼</sup>||島||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||{{small|(村山聖)}}<br/><sup>▽</sup>||<br/>||[[郷田真隆|郷田]]<br/>田中寅
|-
![[第58期順位戦|58]]
|[[2000年度の将棋界|2000]]||佐藤康光||●●○○○●●||style="background-color: #ffcccc"|'''[[丸山忠久]]'''
|style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#FFF9AE"|森内||style="background-color:#B3DCC0"|丸山<sup>◎</sup>||style="background-color:#FCD3C1"|羽生||森下||島||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||style="background-color:#F0E8DF"|中原<sup>▼</sup>||郷田<sup>▼</sup>||田中寅||||青野<br/>[[先崎学|先崎]]
|-
![[第59期順位戦|59]]
|[[2001年度の将棋界|2001]]||style="background-color: #ffcccc"|'''丸山忠久'''
|{{center|{{table2|class=none|cols=3|style=border-spacing:0;line-height:90%|○●|[[千日手|千]]<br/>●|○●○○}}}}
|谷川浩司
|style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||style="background-color:#FFF9AE"|森内||style="background-color:#FCD3C1"|羽生||森下||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>◎</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一||田中寅<sup>▼</sup>||島<sup>▼</sup>||青野||先崎||||[[藤井猛]]<br/>[[三浦弘行|三浦]]
|-
![[第60期順位戦|60]]
|[[2002年度の将棋界|2002]]||丸山忠久||●●●●---||style="background-color: #ffcccc"|'''森内俊之'''
|style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||style="background-color:#FCD3C1"|羽生||style="background-color:#FFF9AE"|森内<sup>◎</sup>||青野||森下||先崎<sup>▼</sup>||style="background-color:#EFE4F0"|加藤一<sup>▼</sup>||藤井猛||三浦||||島<br/>郷田
|-
![[第61期順位戦|61]]
|[[2003年度の将棋界|2003]]||森内俊之
|{{center|{{table2|class=none|cols=3|style=border-spacing:0;line-height:90%|●●●|[[千日手|千]]<br/>●|---}}}}
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|style="background-color:#B3DCC0"|丸山||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康<sup>○</sup>||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>◎</sup>||森下<sup>▼</sup>||藤井猛<sup>○</sup>||青野||三浦||島||郷田<sup>▼</sup>||||[[久保利明|久保]]<br/>[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大]]
|-
![[第62期順位戦|62]]
|[[2004年度の将棋界|2004]]||羽生善治||●●○●○●-||style="background-color: #ffcccc"|'''森内俊之'''
|style="background-color:#FFF9AE"|森内<br/><sup>◎</sup><sup>全</sup>||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||藤井猛||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||青野<sup>▼</sup>||三浦||島<sup>▼</sup>||久保||鈴木大||||[[深浦康市|深浦]]<br/>高橋
|-
![[第63期順位戦|63]]
|[[2005年度の将棋界|2005]]||style="background-color: #ffcccc"|'''森内俊之'''||●○○○●●○||羽生善治
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>◎</sup>||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||三浦||鈴木大||藤井猛||久保||深浦<sup>▼</sup>||高橋<sup>▼</sup>||||森下<br/>郷田
|-
![[第64期順位戦|64]]
|[[2006年度の将棋界|2006]]||style="background-color: #ffcccc"|'''森内俊之'''||○○●○●○-||谷川浩司
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>○</sup>||藤井猛||久保||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>◎</sup>||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||三浦||鈴木大<sup>▼</sup>||森下<sup>▼</sup>||郷田||||深浦<br/>[[阿部隆]]
|-
![[第65期順位戦|65]]
|[[2007年度の将棋界|2007]]||style="background-color: #ff6699"|'''森内俊之'''{{sup|永}}||●●○○○●○||[[郷田真隆]]
|style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#FCD3C1"|羽生||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||郷田<sup>◎</sup>||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||藤井猛||久保||三浦||深浦<sup>▼</sup>||阿部隆<sup>▼</sup>||||[[木村一基|木村一]]<br/>[[行方尚史|行方]]
|-
![[第66期順位戦|66]]
|[[2008年度の将棋界|2008]]||森内俊之||○●●●○●-||style="background-color: #ff6699"|'''羽生善治'''{{sup|永}}
|郷田||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>◎</sup>||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||藤井猛||久保<sup>▼</sup>||三浦||木村一||行方<sup>▼</sup>||||鈴木大<br/>深浦
|-
![[第67期順位戦|67]]
|[[2009年度の将棋界|2009]]||style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''||○●○●●○○||郷田真隆
|style="background-color:#FFF9AE"|森内||三浦||郷田<sup>◎</sup>||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||木村一||藤井猛||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||鈴木大<sup>▼</sup>||深浦<sup>▼</sup>||||高橋<br/>井上慶
|-
![[第68期順位戦|68]]
|[[2010年度の将棋界|2010]]||style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''||○○○○---||[[三浦弘行]]
|郷田||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康<sup>▼</sup>||style="background-color:#FFF9AE"|森内||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||木村一||藤井猛||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||三浦<sup>◎</sup>||高橋||井上慶<sup>▼</sup>||||<span style="background-color: #AAE0F9;">[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]</span><br/>久保
|-
![[第69期順位戦|69]]
|[[2011年度の将棋界|2011]]||羽生善治||●●●○○○●||style="background-color: #ffcccc"|'''森内俊之'''
|三浦||高橋||style="background-color:#FFF9AE"|森内<sup>◎</sup>||style="background-color:#B3DCC0"|丸山||木村一<sup>▼</sup>||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||郷田||藤井猛<sup>▼</sup>||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明||久保||||<span style="background-color: #C7CDE7;">佐藤康</span><br/>[[屋敷伸之|屋敷]]
|-
![[第70期順位戦|70]]
|[[2012年度の将棋界|2012]]||style="background-color: #ffcccc"|'''森内俊之'''||○●○●○○-||羽生善治
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生<br/><sup>◎</sup><sup>全</sup>||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明||高橋||郷田||三浦||style="background-color:#B3DCC0"|丸山<sup>▼</sup>||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||久保<sup>▼</sup>||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||屋敷||||[[橋本崇載|橋本崇]]<br/>深浦
|-
![[第71期順位戦|71]]
|[[2013年度の将棋界|2013]]||style="background-color: #ffcccc"|'''森内俊之'''||○○●○○--||羽生善治
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>◎</sup>||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明||三浦||style="background-color:#C9E8E6"|谷川||屋敷||郷田||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||高橋<sup>▼</sup>||橋本崇<sup>▼</sup>||深浦||||行方<br/>久保
|-
![[第72期順位戦|72]]
|[[2014年度の将棋界|2014]]||森内俊之||●●●●---||style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>◎</sup>||三浦||郷田||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明||屋敷<sup>▼</sup>||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||深浦||style="background-color:#C9E8E6"|谷川<sup>▼</sup>||行方||久保||||[[広瀬章人|広瀬]]<br/>[[阿久津主税|阿久津]]
|-
![[第73期順位戦|73]]
|[[2015年度の将棋界|2015]]||style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''||○●○○○--||[[行方尚史]]
|style="background-color:#FFF9AE"|森内||行方<sup>◎</sup>||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明<sup>○</sup>||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||深浦||三浦<sup>▼</sup>||久保<sup>○</sup>||郷田||広瀬<sup>○</sup>||阿久津<sup>▼</sup>||||<span style="background-color: #DEA6CB;">[[佐藤天彦|佐藤天]]</span><br/>屋敷
|-
![[第74期順位戦|74]]
|[[2016年度の将棋界|2016]]||羽生善治||○●●●●--||style="background-color: #ffcccc"|'''[[佐藤天彦]]'''
|行方||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明||久保<sup>▼</sup>||広瀬||深浦||郷田<sup>▼</sup>||style="background-color:#FFF9AE"|森内||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||style="background-color:#DEA6CB"|佐藤天<sup>◎</sup>||屋敷||||[[稲葉陽|稲葉]]<br/>三浦
|-
![[第75期順位戦|75]]
|[[2017年度の将棋界|2017]]||style="background-color: #ffcccc"|'''佐藤天彦'''||●○●○○○-||[[稲葉陽]]
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生||行方||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||屋敷||style="background-color:#FFF9AE"|森内<sup>▼</sup>||広瀬||深浦||稲葉<sup>◎</sup>||(三浦)<br/><ref group="注">[[将棋ソフト不正使用疑惑騒動]]により途中休場。三浦の地位保全のため、翌76期は三浦を含む11名で行われた。</ref>||||久保<br/><span style="background-color: #F8C1D9">[[豊島将之|豊島]]</span>
|-
![[第76期順位戦|76]]
|[[2018年度の将棋界|2018]]||style="background-color: #ffcccc"|'''佐藤天彦'''||●○●○○○-||羽生善治
|稲葉<sup>○</sup>||style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>◎</sup>||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明<sup>▼</sup>||広瀬<sup>○</sup>||行方<sup>▼</sup>||屋敷<sup>▼</sup>||深浦||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康<sup>○</sup>||久保<sup>○</sup>||style="background-color:#F8C1D9"|豊島<sup>○</sup>||三浦||[[糸谷哲郎|糸谷]]<br/>阿久津
|-
![[第77期順位戦|77]]
|[[2019年度の将棋界|2019]]
|佐藤天彦
|{{center|{{table2|class=none|cols=2|style=border-spacing:0;line-height:90%|[[千日手|千]]<br/>●|●●●---}}}}
|style="background-color: #ffcccc"|'''[[豊島将之]]'''
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生||稲葉||広瀬||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||久保||style="background-color:#F8C1D9"|豊島<sup>◎</sup>||深浦<sup>▼</sup>||三浦||糸谷||阿久津<sup>▼</sup>||||<span style="background-color: #AAE0F9;">渡辺明</span><br/>木村一
|-
![[第78期順位戦|78]]
|[[2020年度の将棋界|2020]]
|豊島将之
|●○○●●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''渡辺明'''
|style="background-color:#DEA6CB"|佐藤天||style="background-color:#FCD3C1"|羽生||広瀬||糸谷||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||久保<sup>▼</sup>||三浦||稲葉||style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明<sup>◎</sup><sup>全</sup>||木村一<sup>▼</sup>||||[[菅井竜也|菅井]]<br/>[[斎藤慎太郎|斎藤慎]]
|-
![[第79期順位戦|79]]
|[[2021年度の将棋界|2021]]||style="background-color: #ffcccc"|'''渡辺明'''||●○○○○--||[[斎藤慎太郎]]
|style="background-color:#F8C1D9"|豊島||広瀬||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||style="background-color:#DEA6CB"|佐藤天||style="background-color:#FCD3C1"|羽生||糸谷||三浦<sup>▼</sup>||稲葉<sup>▼</sup>||菅井||斎藤慎<sup>◎</sup>||||[[永瀬拓矢|永瀬]]<br/>[[山崎隆之|山崎]]
|-
![[第80期順位戦|80]]
|[[2022年度の将棋界|2022]]||style="background-color: #ffcccc"|'''渡辺明'''||○○●○○--||斎藤慎太郎
|斎藤慎<sup>◎</sup>||style="background-color:#F8C1D9"|豊島||広瀬||糸谷||菅井||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康||style="background-color:#DEA6CB"|佐藤天||style="background-color:#FCD3C1"|羽生<sup>▼</sup>||永瀬||山崎<sup>▼</sup>
|||<span style="background-color: #CFE5AE;">[[藤井聡太|藤井聡]]</span><br/>稲葉
|- style="line-height:150%"
![[第81期順位戦|81]]
|[[2023年度の将棋界|2023]]||渡辺明||●●○●●-- ||style="background-color: #ffcccc"|'''藤井聡太'''
| |斎藤慎||糸谷<sup>▼</sup>||style="background-color:#DEA6CB"|佐藤天||style="background-color:#F8C1D9"|豊島||広瀬<sup>○</sup>||永瀬||style="background-color:#C7CDE7"|佐藤康<sup>▼</sup>||菅井|| style="background-color:#CFE5AE"|藤井聡<sup>◎</sup>||稲葉||||[[佐々木勇気|佐々勇]]<br/>[[中村太地 (棋士)|中村太]]
|- style="line-height:150%"
![[第82期順位戦|82]]
|[[2024年度の将棋界|2024]]||藤井聡太||------- ||
|style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明||広瀬||style="background-color:#F8C1D9"|豊島||永瀬||斎藤慎||菅井||稲葉||style="background-color:#DEA6CB"|佐藤天||佐々勇||中村太||||
|}
== 記録 ==
{| class="wikitable"
!rowspan="2"|
!rowspan="2"|獲得
!rowspan="2"|出場
!rowspan="2"|挑戦
!colspan="2"|A級在籍(名人在位含む)
|-
!休場除く
!休場含む
|-
!最多
|[[大山康晴]] 18期
|大山康晴 25期
|升田幸三・羽生善治 8期
|大山康晴 43期
|大山康晴 44期
|-
!連続
|大山康晴 13連覇
|大山康晴 21連続
|羽生善治 3連続
|大山康晴 35期
|大山康晴 44期
|-
!最年少
|第81期 [[藤井聡太]]<br>{{age in years and days|2002|07|19|2023|06|01|age=yes|to=none}}
|colspan=2|第19期 [[加藤一二三]]<br>{{age in years and days|1940|01|01|1960|04|14|age=yes|to=none}}<ref group="注">番勝負1局目1日目時点。挑戦決定は[[丸田祐三]]戦(1960年3月21日)時の{{age in years and days|1940|01|01|1960|03|21|age=yes|to=none}}。</ref>
|colspan=2|第18期 加藤一二三<br>{{age in years and days|1940|01|01|1958|06|20|age=yes|to=none}}<ref group="注">1回戦時点。A級昇級が確定した高柳敏夫戦(1958年2月27日)時点では{{age in years and days|1940|01|01|1958|02|27|age=yes|to=none}}。</ref>
|-
!最年長
|第51期 [[米長邦雄]]<br>{{age in years and days|1943|06|10|1993|05|21|age=yes|to=none}}<ref group="注">在位は{{age in years and days|1943|06|10|1994|06|07|age=yes|to=none}}まで。</ref>
|colspan=2|第44期 大山康晴<br>{{age in years and days|1923|03|13|1986|04|10|age=yes|to=none}}<ref group="注">番勝負第1局1日目時点。挑戦決定は{{age in years and days|1923|03|13|1986|03|23|age=yes|to=none}}時点。番勝負最終局は{{age in years and days|1923|03|13|1986|06|03|age=yes|to=none}}まで。</ref>
|colspan=2|第51期 大山康晴<br>{{age in years and days|1923|03|13|1992|06|11|age=yes|to=none}}<ref group="注">1回戦時点。その後、1992年7月26日年没({{age in years and days|1923|03|13|1992|07|26|age=yes|to=none}})</ref>
|}
A級順位戦の記録は、''[[順位戦]]''、および''[[将棋棋士の在籍クラス]]'' を参照。
== 通算成績 ==
{| class="wikitable"
|
* 記載は名人獲得・挑戦者またはA級在籍10期以上に限る。
* '''太字'''は永世位獲得者または最多記録。「*」は現在A級在籍、継続中の記録。
* A級在籍は名人在位も含む。()は休場・戦争中止を除いた年数。
|}
{| class="sortable wikitable"
! rowspan="2" |棋士!! colspan="2" |名人在位<br />81期!! colspan="2" |七番勝負出場<br />81期!! colspan="2" |A級在籍<br />81期
|-
!通算!!連続!!通算!!連続!!通算!!連続
|-
|'''[[大山康晴]]'''||'''18'''||'''13'''||'''25'''||'''21'''||'''44'''(43)||'''44'''(35)
|-
|'''[[中原誠]]'''||15||9||18||10||29||29
|-
|'''[[羽生善治]]'''||9||3||17||9||29||29
|-
|'''[[森内俊之]]'''||8||4||12||7||22||22
|-
|'''[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]'''||8(7)||5(4)||10(9)||6(5)||6||6
|-
|'''[[谷川浩司]]'''||5||2||11||3||32||32
|-
|[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]*||3||3||4*||4*||12*||8
|-
|[[佐藤天彦]]*||3||3||4||4||8*||8*
|-
|[[升田幸三]]||2||2||10||3||31(23)||31(7)
|-
|[[塚田正夫]]||2||2||3||3||28(25)||26(15)
|-
|[[佐藤康光]]*||2||2||3||3||26*||14
|-
|[[丸山忠久]]||2||2||3||3||14||14
|-
|[[米長邦雄]]||1||1||8||2||26||26
|-
|[[加藤一二三]]||1||1||4||2||36||19
|-
|[[豊島将之]]*||1||1||2||2||6*||6*
|-
|[[藤井聡太]]*||1*||1*||1*||1*||1*||1*
|-
|[[二上達也]]||0||0||3||1||27||23
|-
|[[斎藤慎太郎]]*||0||0||2||2||3*||3*
|-
|[[郷田真隆]]||0||0||2||1||13||10
|-
|[[丸田祐三]]||0||0||1||1||24||17
|-
|[[有吉道夫]]||0||0||1||1||21||12
|-
|[[三浦弘行]]||0||0||1||1||19(18)||14
|-
|[[灘蓮照]]||0||0||1||1||17||11
|-
|[[花村元司]]||0||0||1||1||16||7
|-
|[[桐山清澄]]||0||0||1||1||14||14
|-
|[[高橋道雄]]||0||0||1||1||13||7
|-
|[[森雞二]]||0||0||1||1||10||6
|-
|[[森下卓]]||0||0||1||1||9||9
|-
|[[高島一岐代]]||0||0||1||1||9||4
|-
|[[森安秀光]]||0||0||1||1||6||6
|-
|[[山田道美]]||0||0||1||1||6||6
|-
|[[行方尚史]]||0||0||1||1||6||5
|-
|[[稲葉陽]]*||0||0||1||1||6*||5
|-
|[[大内延介]]||0||0||1||1||6||2
|-
|[[土居市太郎]]||0||0||1||1||3||3
|-
|[[神田辰之助]]||0||0||1||1||-||-
|-
|[[内藤國雄]]||0||0||0||0||17||5
|-
|[[大野源一]]||0||0||0||0||16||8
|-
|[[久保利明]]||0||0||0||0||13||5
|-
|[[青野照市]]||0||0||0||0||11||4
|-
|[[藤井猛]]||0||0||0||0||10||10
|-
|[[深浦康市]]||0||0||0||0||10||7
|}
== テレビ放送 ==
1978年の[[NHK特集]]で第36期名人戦を取材したドキュメンタリーがテレビ放送され、大きな反響を受けた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=大山康晴・羽生善治・藤井聡太…将棋の醍醐味、テレビで |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD275X40X20C23A1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-02-08 |access-date=2023-06-02 |language=ja}}</ref>。当時の開始されたばかりのBS放送は独自番組が少なく、棋戦の中継は貴重なコンテンツとなった<ref name=":0" />。名人戦七番勝負([[竜王戦]]七番勝負も同様)の模様は、2015年まで[[NHK BSプレミアム]](2010年までは[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]])で「将棋名人戦」という番組名で放送されていた。
各局の1日目は17:00-18:00に、2日目は16:00-18:00に生放送されることが多い。結果はダイジェストとして2日目の夜遅く(翌日の0時台-1時台)に10分程度放送される。
司会を[[日本放送協会|NHK]]の男性[[アナウンサー]]が、解説を棋士が、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]が解説の聞き手を務めるという3人体制が長く続いているが、2011年は女流棋士が出演せず、第1局で磯辺真季(将棋普及指導員<ref group="注">磯辺真季は、1995年1月 - 3月の[[将棋講座 (NHK)|NHK将棋講座]]で佐藤康光のアシスタントを務めている。</ref>)が聞き手を務めた後、第2局からは男性アナウンサーが聞き手を兼ねる2人体制となった<ref group="注">2011年名人戦の司会兼聞き手のアナウンサーは、第2局から局順に、[[堀伸浩]]・[[長野亮]]・[[後藤理]]・[[吉岡大輔 (アナウンサー)|吉岡大輔]]・[[泉浩司]]・長野亮([http://cgi2.nhk.or.jp/goshogi/titlematch/ NHK囲碁と将棋 タイトル戦中継] 2011年6月23日閲覧)。</ref>。
2010年度からは、番組の始めと終わりに初めてテーマ音楽が流されるようになった。[[ドラムセット]]付きの[[オーケストラ]]に模した[[コンピュータ音楽|コンピュータミュージック]]である。「将棋竜王戦」、囲碁のタイトル戦番組でも同じ曲が使用されている。
また、この名人戦の挑戦権をかけた「A級順位戦」最終戦の実況中継も'''「[[将棋界#「将棋界の一番長い日」|将棋界の一番長い日]]」'''と題して、2012年までBSプレミアムで時間を区切っての長時間実況中継が行われていたが、2013年は放送チャンネルを[[囲碁・将棋チャンネル]]と[[BSスカパー!]]、[[スカチャン]]に移譲(囲碁・将棋チャンネル提供)して行われた。<ref>[https://www.igoshogi.net/shogi/junisen.html 史上初!!全5対局完全生中継「将棋界の一番長い日」](囲碁・将棋チャンネル)</ref>
== ネット配信 ==
[[ABEMA]](2017年 - )による七番勝負の完全生中継が行われている。また朝日新聞囲碁将棋TVでは七番勝負の完全生中継が行われている。完全以前は[[ニコニコ生放送]](2012年 - 2019年)でも中継が行われていた。
== 名人戦の主催者 ==
当初の主催は[[東京日日新聞]]および[[大阪毎日新聞]]で、のちにこの二社が合併して[[毎日新聞社]]主催となった。第9期(1950年)から第35期(1976年)は[[朝日新聞社]]の主催に変わった。第36期(1977年)から再び毎日新聞社の主催となり、第66期(2008年)より毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。
[[順位戦#順位戦の歴史]]も参照。
=== 1950年 ===
この年、名人戦の契約が毎日新聞社から朝日新聞社に移っている(正確には、1949年の順位戦の中断中に、毎日新聞社と日本将棋連盟との交渉が決裂し、これ以降の順位戦、および翌1950年に開催される名人戦の主催者が朝日新聞社になった<ref>[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P.159-160</ref>)。
名人戦を失った毎日新聞社は[[王将戦]]を創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社([[スポーツニッポン]]新聞社と共催)として現在に至っている。
{{節スタブ}}
; 参考資料
: [[升田幸三]]『名人に香車を引いた男』(中央公論社、2003年、ISBN 412204247X)
=== 1976年 ===
この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦である[[棋聖 (囲碁)|棋聖戦]]の契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。
朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。
その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。直後に行われた臨時の[[日本将棋連盟#棋士総会|棋士総会]]で、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった。反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。
名人戦を失った朝日新聞社は、1977年から「[[将棋のアマチュア棋戦#朝日アマ名人戦|朝日アマ名人戦]]」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は[[朝日オープン将棋選手権]]、2006年で終了)を主催している。
なお1991年11月ごろ、日本将棋連盟の理事会で、名人戦を朝日新聞社に移そうという動きが表面化していたという記録があるが、この時点では実現しなかった<ref>[[週刊将棋]]編『将棋ファン読本』(毎日コミュニケーションズ)P.15 [[井口昭夫]]「不死鳥・大山の将棋人生」</ref>。1991年8月、日本将棋連盟渉外担当理事の[[大内延介]]が、朝日新聞社に名人戦主催に復帰する考えがあるか打診した<ref>[[田丸昇]]『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.65</ref>。日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派は大内、[[二上達也]]、[[田丸昇]]の3名のみで、のこり5名は反対だった<ref>[[田丸昇]]『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.66</ref>。その後、91年9月、92年3月、92年5月の棋士会でも、反対意見が多く、廃案となった<ref>[[田丸昇]]『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.70</ref>。
; 参考資料
: [http://shogi-pineapple.com/bbs/mibbs.cgi?mo=p&fo=pro&tn=0007&rs=122&re=135&rf=no 名人戦@将棋パイナップル]
: 「[[近代将棋]]」1976年12月号
=== 2006年 ===
2006年3月、[[日本将棋連盟]]理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。
問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した[[中原誠]]専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。その後、[[米長邦雄]]会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。また米長会長は、<!-- いつ頃の連載かわかりますか? -->[[東京中日スポーツ]]紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判した。
2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。
通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。その後に行われた棋士総会において (1)毎日が単独での契約を望む場合、毎日の提示した契約条件を受諾するかどうかを棋士の表決で決定 (2)毎日が朝日との共催を望む場合、交渉は理事会に一任する――との案が採決された。
7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。[[羽生善治]](当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、[[森内俊之]](当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]](当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。
8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。
12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。また、朝日新聞社が主催している[[朝日オープン選手権]]は朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「[[朝日杯将棋オープン戦]]」に改められた。毎日新聞社などが主催する[[王将戦]](契約金は年7800万円)は継続して開催される。尚観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人を出すこととなった。
; 参考資料
: {{Cite web|和書|url=http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/shougi/issue/ |archive-url=https://web.archive.org/web/20070603012627/http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/shougi/issue/ |title=名人戦問題:MSN毎日インタラクティブ |date=2006-12-28 |access-date=2007-06-03 |archive-date=2007-06-03}}
: {{Cite web|和書|url=http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/ocn/sample/keyword/060525.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070306001814/http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/ocn/sample/keyword/060525.html |title=日本の論点PLUS - 将棋名人戦の移籍問題|date=2006-05-25|access-date=2007-03-06|archive-date=2007-03-06}}
; 参考文献
: 『新潮45』2006年7月号(通巻291号)、「棋界激震! 名人戦争奪バトルの禁じ手」([[田丸昇]])
: 『[[将棋世界]]』2007年1月号、「名人戦の真実」
: {{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/shougi/meijin/66/a-class.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070713015454/http://www.asahi.com/shougi/meijin/66/a-class.html |title=asahi.com :挑戦権争うA級棋士に聞く「名人とは」 - 将棋 |access-date=2007-07-13 |archive-date=2007-07-13}}
: 『名人を獲る:評伝 米長邦雄』(著者: [[田丸昇]]、国書刊行会)
==書籍==
* 名人戦記 : 第10期 木村・升田激闘の全棋譜 [[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]] 解説,[[三象子]]観戦記 朝日新聞社 1951
* 将棋名人戦観戦記 [[倉島竹二郎]] 編 中央公論社 1957
* 勝負に生きる : 名人戦私記 [[金子金五郎]] 著 東都書房 1959
* 第三十一期将棋名人戦全記録 : 中原新名人生れる 朝日新聞学芸部 編 朝日ソノラマ 1972
* 第三十二期将棋名人戦全記録 : 中原名人初防衛成る 朝日新聞学芸部 編 朝日ソノラマ 1973
* 名人戦名局集 : 思い出の観戦記 1 [[吉井栄治]] 著 弘文社 1973
* 名人戦名局集 : 思い出の観戦記 2 [[田村孝雄]] 著 弘文社 1973
* 第三十三期将棋名人戦全記録 : 中原名人苦闘の防衛 朝日新聞学芸部 編 朝日ソノラマ 1974
* 名人戦名局集 : 思い出の観戦記 3 [[東公平]] 著 弘文社 1974
* 名人戦名局集 : 思い出の観戦記 4 [[金子金五郎]] 著 弘文社 1974
* 第三十四期将棋名人戦全記録 : 激闘九番,中原名人四連覇 朝日新聞学芸部 編 朝日ソノラマ 1975
* 第三十五期将棋名人戦全記録 : 中原名人,五連覇で永世名人に 朝日新聞学芸部 編 朝日ソノラマ 1976
* 将棋名人戦全集 全12巻 第1期から第35着まで 編者: 大山康晴 (将棋名人戦全集) 大修館書店 1977/1/1
* 第三十六期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1978
* 中原・森の第36期名人戦 [[中野英伴]] 撮影 日本将棋連盟 1978
* 第三十七期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1979
* 第三十八期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1980
* 第三十九期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1981
* 第四十期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1982
* 第四十一期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1983
* 第四十二期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1984
* 第四十三期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1985
* 決断の一手―第42期将棋名人戦各級順位戦 (リキトミブックス (15)) [[河口俊彦]] 1985/10/1
* 勝機を待つ―第43期将棋名人戦各級順位戦 (リキトミブックス (17)) 河口 俊彦 1985/11/1
* 第44期 将棋名人戦全記録 毎日新聞社 1986/9/1
* 中原誠自然流名人戦激闘譜 [[中原誠]] 著 池田書店 1987
* 勝因と敗因―第44期将棋名人戦各級順位戦 (リキトミブックス) 河口 俊彦 1987/7/1
* 第四十五期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 1987/9/1
* 第46期将棋名人戦全記録 毎日新聞社 1988/10/1
* 将棋名人戦全記録〈第47期〉 毎日新聞社 1989/10/1
* 将棋名人戦全記録〈第48期〉 毎日新聞社 1990/10/1
* 将棋名人戦全記録〈第49期〉 毎日新聞社 1991/8/1
* 将棋名人戦全記録〈第50期〉 毎日新聞社 1992/10/1
* 将棋名人戦全記録 第51期 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1993
* 将棋名人戦全記録 第52期 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1994
* 将棋名人戦 第53期 (名人・羽生善治/挑戦者・森下卓八段) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1995
* 名人戦・自戦記 第1期 [[土居市太郎]] 著 恒文社 1995
* 将棋名人戦 第54期 (名人・羽生善治/挑戦者・森内俊之八段) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1996
* 将棋名人戦 第55期 (名人・羽生善治/挑戦者・谷川浩司竜王) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1997
* 将棋名人戦 第56期 (名人・谷川浩司/挑戦者・佐藤康光八段) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1998
* 将棋名人戦 第57期 (名人・佐藤康光/挑戦者・谷川浩司九段) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 1999
* 将棋名人戦 第58期 (名人・佐藤康光/挑戦者・丸山忠久八段) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2000
* 将棋名人戦 第59期 (名人・丸山忠久/挑戦者・谷川浩司) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2001
* 将棋名人戦 第60期 (名人・丸山忠久/挑戦者・森内俊之) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2002
* 将棋名人戦 第61期 (名人・森内俊之/挑戦者・羽生善治) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2003
* 将棋名人戦 第62期 (名人・羽生善治/挑戦者・森内俊之) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2004
* 将棋名人戦 第63期 (名人・森内俊之/挑戦者・羽生義治) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2005
* 将棋名人戦七番勝負 第64期(名人森内俊之・挑戦者谷川浩司) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2006
* 将棋名人戦七番勝負 第65期(名人森内俊之・挑戦者郷田真隆) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2007
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第66期 (羽生十九世名人誕生) 朝日新聞文化グループ 編 朝日新聞社 2008
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第66期(名人森内俊之・挑戦者羽生義治) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2008
* 将棋名人戦七(なな)番勝負全記録 第67期 (羽生、名人位死守) 朝日新聞文化グループ 編 朝日新聞社 2009
* 第67期将棋名人戦七番勝負 : 名人羽生善治挑戦者郷田真隆 : 愛蔵版 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2009
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第68期 (名人羽生善治挑戦者三浦弘行) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2010
* 将棋名人戦七(なな)番勝負全記録 第68期 (羽生、2度目の3連覇) 朝日新聞文化グループ 編 朝日新聞社 2010
* 将棋名人戦七(なな)番勝負全記録 第69期 (森内、名人位奪還) 朝日新聞文化グループ 編 朝日新聞社 2011
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第69期 (名人羽生善治挑戦者森内俊之) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2011
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第70期 (名人400年目の防衛) 朝日新聞文化くらし報道部 編 朝日新聞社 2012
* 将棋名人戦七番勝負 第70期 (名人森内俊之 挑戦者羽生善治) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2012
* 将棋名人戦七番勝負 第71期 (名人森内俊之 挑戦者羽生善治) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2013
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第71期 (森内、歴代3位の8期目) 朝日新聞文化くらし報道部 編 朝日新聞社 2013
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第72期 (挑戦者羽生善治 名人森内俊之) 毎日新聞社 編 毎日新聞社 2014
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第72期 (羽生、3度目の返り咲き) 朝日新聞文化くらし報道部 編 朝日新聞社 2014
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第73期 (名人羽生善治 挑戦者行方尚史) 毎日新聞社 編 毎日新聞出版 2015
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第73期 (羽生、通算9期目の名人位) 朝日新聞文化くらし報道部 編 朝日新聞社 2015
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第74期 毎日新聞社 編 毎日新聞出版 2016
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第74期 朝日新聞文化くらし報道部 編 朝日新聞社 2016
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第75期 毎日新聞社 編 毎日新聞出版 2017
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第75期 朝日新聞文化くらし報道部 編 朝日新聞社 2017
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第76期 朝日新聞文化くらし報道部 編 朝日新聞社 2018
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第76期 毎日新聞社 編 毎日新聞出版 2018
* 将棋名人戦七番勝負全記録 第77期 朝日新聞文化くらし報道部 編 朝日新聞社 2019
* 将棋名人戦七番勝負 : 愛蔵版 第77期 毎日新聞社 編 毎日新聞出版 2019
==映像作品==
* 最強の二人、宿命の対決-名人戦森内俊之vs羽生善治 森内俊之, 羽生善治 出演 NHKエンタープライズ 2009(プロフェッショナル仕事の流儀 ; DVD-box 5)
* 勝負~将棋名人戦より~ NHKエンタープライズ 2011(NHK DVD. NHK特集)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[名人 (囲碁)]]・[[本因坊戦]]・[[王将戦]] - 毎日・朝日主催の囲碁将棋タイトル戦
* [[オセロ_(ボードゲーム)#オセロ日本国内タイトル|オセロ名人戦]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/match/junni/index.html 名人戦・順位戦:日本将棋連盟]
* [http://www.meijinsen.jp/ 名人戦棋譜速報]
* [https://www.ne.jp/asahi/yaston/shogi/ 将棋順位戦データベース]
* {{Abemaビデオ|268-2}}
** [https://abema.tv/video/title/268-2?s=268-2_s80 第80期]
{{将棋順位戦}}
{{棋戦 (将棋)}}
{{名人戦 (将棋)}}
{{将棋永世名人}}{{毎日新聞社}}{{朝日新聞社}}
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[[Category:名人 (将棋)|*]]
[[Category:将棋の棋戦]]
[[Category:毎日新聞社のイベント]]
[[Category:朝日新聞社のイベント]]
[[Category:1935年開始のイベント]]
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11,504 |
高井戸駅
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高井戸駅(たかいどえき)は、東京都杉並区高井戸西二丁目にある、京王電鉄井の頭線の駅である。井の頭北管区所属。駅番号はIN12。
島式ホーム1面2線を有する。井の頭線では数少ない高架駅であり、東京都道311号環状八号線(環八通り)上に位置している。ホーム幅(1番線と2番線の距離)は井の頭線の他の島式ホーム駅と比べて広めになっている。近年、吉祥寺側に防風柵が設置された(※渋谷側には設置されていなかったが、2019年冬頃から整備工事が始まっている。)。
2006年12月に駅舎と駅高架下の京王クラウン街のリニューアル工事が終わり、京王リトナード高井戸が完成した。
2022年度の1日平均乗降人員は35,673人である。利用者数は井の頭線内では渋谷、吉祥寺、明大前、下北沢に次いで5番目に多く、急行通過駅では利用者数が最も多い。
近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下表の通り。
東京23区有数の住宅地で、閑静な住宅街が広がる。駅に面して東京都道311号環状八号線道路が走っており、定期バス路線の停留所もある。
駅北側には杉並区立高井戸小学校や高井戸温泉美しの湯、日本年金機構本部がある。また、駅北東側にはケンコーマヨネーズ本社、杉並清掃工場及びその廃熱を利用した温水プールがある杉並区高井戸地域区民センター、高井戸保健センターがある。杉並清掃工場は、かつて美濃部都政時代に東京ゴミ戦争のきっかけとなった。杉並清掃工場内には、その歴史を伝える東京ごみ戦争歴史みらい館がある。また、かつては日本ヒューレット・パッカード (HP) の本社をはじめ、同社および同社から分離したアジレント・テクノロジーの事業所が散在していたが、2011年5月にHPの事業所が江東区大島に集約されたことにより、当駅周辺の事業所はすべて閉鎖された(閉鎖後、跡地には現在マンションが建てられている)。
南西側は神田川もある住宅地で、都営住宅が広がっている。また、徒歩5分の場所にテレビドラマのロケ撮影が度々行われる浴風会本館(社会福祉法人浴風会)がある。
南東側には高井戸駅前郵便局、大相撲の芝田山部屋(師匠は第62代横綱の大乃国康)がある。また、南東側線路沿いの神田川は桜の名所であり、ホーム上からも堪能できる。
最寄り停留所は駅高架下の環八通り上にある「高井戸駅」で、関東バスにより運行される以下の路線が発着する。なお、のりば番号については同社公式サイト「関東バスナビ」で表示されている便宜上の番号であり、実際は何も表記されていない。京王バスの高井戸駅入口は駅名を冠するが、駅からは450m程度離れている。
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高井戸駅(たかいどえき)は、東京都杉並区高井戸西二丁目にある、京王電鉄井の頭線の駅である。井の頭北管区所属。駅番号はIN12。
|
{{駅情報
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|文字色 =
|駅名 = 高井戸駅
|画像 = 京王井の頭線 高井戸駅外観.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 南側入口(2009年12月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = たかいど
|ローマ字 = Takaido
|副駅名 =
|前の駅 = IN11 [[浜田山駅|浜田山]]
|駅間A = 1.2
|駅間B = 0.8
|次の駅 = [[富士見ヶ丘駅|富士見ヶ丘]] IN13
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|IN|12|#000088|5}}
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所属路線 = {{color|#000088|■}}[[京王井の頭線|井の頭線]]
|キロ程 = 8.7
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|所在地 = [[東京都]][[杉並区]][[高井戸西]]二丁目1番26号
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|地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[高架駅]]
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|開業年月日 = [[1933年]]([[昭和]]8年)[[8月1日]]
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|乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />35,673
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
'''高井戸駅'''(たかいどえき)は、[[東京都]][[杉並区]][[高井戸西]]二丁目にある、[[京王電鉄]][[京王井の頭線|井の頭線]]の[[鉄道駅|駅]]である。井の頭北管区所属。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''IN12'''。
== 年表 ==
* [[1933年]]([[昭和]]8年)[[8月1日]] - [[東京山手急行電鉄|帝都電鉄]]の駅として開業。当時は[[盛土|築堤]]上の駅だった。
* [[1940年]](昭和15年)[[5月1日]] - [[小田急電鉄|小田原急行鉄道]]に合併し、同社帝都線の駅となる。
* [[1942年]](昭和17年)5月1日 - [[小田急電鉄]]<ref group="注釈">1941年3月、小田原急行電鉄は親会社へ合併するとともに、社名を小田急電鉄に変更している。 ''※詳細は[[小田急電鉄]]を参照。''</ref>が[[東京急行電鉄]](いわゆる[[大東急]])に併合される。
* [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - 東京急行電鉄から京王帝都電鉄が分離し、同社井の頭線の駅となる。
* [[1972年]](昭和47年)[[3月15日]] - 都道311号環状八号線の供用開始に伴い、高架化される。
* [[1989年]]([[平成]]元年)2月 - 同社初の冷暖房付き待合室が設置される<ref>{{Cite news |title=ホームの冷房化 普及状況は“西高東低” |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-05-06 |page=2 }}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する。井の頭線では数少ない[[高架駅]]であり、[[東京都道311号環状八号線]](環八通り)上に位置している。ホーム幅(1番線と2番線の距離)は井の頭線の他の島式ホーム駅と比べて広めになっている。近年、吉祥寺側に防風柵が設置された(※渋谷側には設置されていなかったが、2019年冬頃から整備工事が始まっている。)。
[[2006年]]12月に駅舎と駅高架下の[[京王クラウン街]]のリニューアル工事が終わり、京王リトナード高井戸が完成した。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|15px|IN]] 井の頭線
|style="text-align:center"|下り
|[[久我山駅|久我山]]・[[吉祥寺駅|吉祥寺]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[明大前駅|明大前]]・[[下北沢駅|下北沢]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面
|}
<gallery>
Takaido-STA North-Entrance.jpg|北側入口(2023年3月)
Takaido-STA Gate.jpg|改札口(2023年3月)
Takaido-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年3月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''35,673人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。利用者数は井の頭線内では渋谷、吉祥寺、明大前、下北沢に次いで5番目に多く、急行通過駅では利用者数が最も多い。
近年の1日平均'''乗降人員'''および'''乗車人員'''の推移は下表の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.suginami.tokyo.jp/kusei/toukei/toukei/index.html 杉並区統計書] - 杉並区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1955年(昭和30年)
|6,508
|
|
|-
|1960年(昭和35年)
|11,745
|
|
|-
|1965年(昭和40年)
|14,844
|
|
|-
|1970年(昭和45年)
|16,472
|
|
|-
|1975年(昭和50年)
|20,949
|
|
|-
|1980年(昭和55年)
|27,421
|
|
|-
|1985年(昭和60年)
|35,941
|
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
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|-
|1999年(平成11年)
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|-
|2009年(平成21年)
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|2011年(平成23年)
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|2022年(令和{{0}}4年)
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|}
== 駅周辺 ==
[[東京都区部|東京23区]]有数の[[住宅地]]で、閑静な住宅街が広がる。駅に面して[[東京都道311号環状八号線]]道路が走っており、定期バス路線の停留所もある。
駅北側には[[杉並区立高井戸小学校]]や高井戸温泉美しの湯、[[日本年金機構]]本部がある。また、駅北東側には[[ケンコーマヨネーズ]]本社、[[杉並清掃工場]]及びその廃熱を利用した温水[[プール]]がある杉並区[[高井戸地域区民センター]]、高井戸[[保健所|保健センター]]がある。杉並清掃工場は、かつて[[美濃部亮吉|美濃部]]都政時代に[[東京ゴミ戦争]]のきっかけとなった。杉並清掃工場内には、その歴史を伝える[[東京ごみ戦争歴史みらい館]]がある。また、かつては[[日本ヒューレット・パッカード]] (HP) の本社をはじめ、同社および同社から分離した[[アジレント・テクノロジー]]の事業所が散在していたが、[[2011年]]5月にHPの事業所が[[江東区]]大島に集約されたことにより、当駅周辺の事業所はすべて閉鎖された(閉鎖後、跡地には現在マンションが建てられている)。
南西側は[[神田川 (東京都)|神田川]]もある住宅地で、[[公営住宅|都営住宅]]が広がっている。また、徒歩5分の場所に[[テレビドラマ]]の[[ロケーション撮影|ロケ撮影]]が度々行われる[[浴風会本館]]([[社会福祉法人浴風会]])がある。
南東側には高井戸駅前[[郵便局]]、[[大相撲]]の[[芝田山部屋]](師匠は第62代[[横綱]]の[[大乃国康]])がある。また、南東側線路沿いの神田川は桜の名所であり、ホーム上からも堪能できる。
[[ファイル:Kanda-river Takaido.jpg|thumb|right|200px|駅の南西側を流れる[[神田川 (東京都)|神田川]]と高井戸橋]]
=== 商業施設 ===
* [[オオゼキ]](旧・[[東急ストア]])
* [http://utsukushi-yu.com/ 高井戸天然温泉「美しの湯」]
=== バス路線 ===
最寄り停留所は駅高架下の環八通り上にある「'''高井戸駅'''」で、[[関東バス]]により運行される以下の路線が発着する。なお、のりば番号については同社公式サイト「関東バスナビ」で表示されている便宜上の番号であり<ref>[http://www2.kanto-bus.co.jp/blsys/navi?EID=tm&GD=0&SC=5125 「関東バスナビ」での表示例]</ref>、実際は何も表記されていない。京王バスの'''高井戸駅入口'''は駅名を冠するが、駅からは450m程度離れている。
* のりば1(東側)
** [[関東バス五日市街道営業所#高井戸線|荻54]]:[[芦花公園駅]]行
** [[関東バス五日市街道営業所#高井戸線|荻58]]:[[千歳烏山駅]]経由 北野行
** [[関東バス五日市街道営業所#烏山線|烏01]]:千歳烏山駅経由 久我山病院行
** [[関東バス武蔵野営業所#台場線|湾01]]:お台場 [[グランドニッコー東京 台場]]・[[国際展示場駅|国際展示場駅前]]経由 [[有明ガーデン]]行(乗車専用、土曜・休日のみ)<ref name="kanto-bus20150716">{{cite_web|url=http://www.kanto-bus.co.jp/upload/news/odaiba_150716.pdf|title=お台場~吉祥寺 急行バスがもっと!ご利用しやすくなります。|publisher=関東バス|accessdate=2015-12-21}}</ref><ref>[https://www.kanto-bus.co.jp/news/detail.php?id=29R2RE4 【お台場直行バス】10月9日~運行再開とダイヤ改正のお知らせ
]</ref>
** 直行バス:[[八景島シーパラダイス|横浜・八景島シーパラダイス]]行
* のりば2(西側)
** 荻54・荻58:[[荻窪駅]]南口行
** 湾01:武蔵野営業所行(降車専用)<ref name="kanto-bus20150716" />
** 五日市街道営業所
* 京王バス(高井戸駅入口)
** [[京王バス東・永福町営業所#三鷹線|鷹64]](出入庫):久我山駅行、永福町行
** [[京王バス東・調布営業所#深夜急行バス|深夜急行バス・井の頭線沿線系統]]:渋谷駅発吉祥寺駅行(降車専用)
== 隣の駅 ==
; 京王電鉄
: [[File:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|15px|IN]] 井の頭線
:: {{Color|lightseagreen|■}}急行
:::; 通過
:: {{Color|gray|■}}各駅停車
::: [[浜田山駅]] (IN11) - '''高井戸駅 (IN12)''' - [[富士見ヶ丘駅]] (IN13)
== 舞台となった作品 ==
;映画
* [[ファンキーハットの快男児]] - [[主演]]:[[千葉真一]]・[[映画監督|監督]]:[[深作欣二]]による[[1961年]]の[[日本映画]]で、誘拐犯に騙されて高井戸駅におびき寄せられる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
;京王電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京王"|3}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Takaido Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[高井戸]]
* [[エイトライナー]]
* [[弾丸列車]] - 当駅を東京側の起点とする案があった。
== 外部リンク ==
* [https://www.keio.co.jp/train/station/in12_takaido/ 高井戸駅](電車・駅のご案内) - 京王グループ(京王電鉄)
{{京王井の頭線}}
{{DEFAULTSORT:たかいとえき}}
[[Category:杉並区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 た|かいと]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1933年開業の鉄道駅]]
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狭山市
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狭山市(さやまし)は、埼玉県の南西部に位置する市。
人口は約15万人で、久喜市に次ぐ県内12位。1954年(昭和29年)市制施行。
市域を西武鉄道の2路線が通る。1960年代以降東京郊外のベッドタウンとなり人口が急増した。近年では高度成長期に移り住んできた市民の高齢化(少子高齢化)が進む一方で、新規転入者は減少している。都心回帰現象の影響が大きい。2005年国勢調査では鳥取県を上回る社会人口減少率を記録した。2012年、西武新宿線狭山市駅西口地区再開発整備事業が完了した。航空自衛隊の入間基地は市役所の南に位置し、9割が狭山市域にある(1割は入間市域)。
市域の南西(入間・飯能方面)から北東(川越方面)にかけて一級河川の入間川が流れる。流域は沖積層の低地帯が広がっている。市の中心となる地域にも入間川という住所(旧入間川町の名残り)がついており、この川は街のシンボルにもなっている。
入間川両岸には河岸段丘が形成されており、右岸は武蔵野台地、左岸は入間台地と呼ばれる台地からなっており、狭山市はその2つの台地上に属する。どちらの台地も洪積層からなり、比較的平坦である。
市街地は、おもに国道16号と西武新宿線を軸として形成されている。市名の由来である「狭山茶」の茶畑は、入曽・堀兼地区に多い(なお、市名の由来ではあるものの、隣の入間市の方が生産量は多い)。また、奥富地区には田圃も多く見られる。
周りに遮蔽物が少ないようなところでは、北方に日光・那須、西方に秩父の各連山、西南方には、はるかに富士山を遠望することができる。
隣接している自治体は、入間市、川越市、所沢市、飯能市、日高市。
気候は温暖湿潤であるが、同じ県内西部の秩父や鳩山ほどではないものの県南東部(さいたま市など)よりも内陸性の特徴を持ち、最高気温は39.0°C、最低気温は-5.3°Cと寒暖差が大きい。年間平均気温は15.2°Cで、夏季は高温多湿、冬季は低温乾燥の傾向にある。また、年間総雨量は1260mmである。
狭山丘陵及び市内の特産物「狭山茶」に由来する。狭山市域に狭山丘陵は含まれていない。
「狭山」という地名の由来自体は判然としない。江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では狭山丘陵そのものを「狭山」と称しており、「狭山」という表現を地域呼称ではなく山の名称の如く用いている。
この構想は、かつての入間川町と豊岡町の合併構想にまで遡るものである。戦中の1943年(昭和18年)には2町と入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村、藤沢村(現在は入間市)、東金子村(現在は入間市)の7村による合併が内定(新市名は「入間市」)したが3ヶ月で頓挫、戦後の昭和の大合併が進展していた時期には現在の狭山市・入間市域に所在した町村全部を一つの市にまとめるという合併構想があり、埼玉県も推進していた。またこれとは別に、江戸時代の武蔵野の新田開発によって開墾されたという共通の歴史を持ち、いずれも不老川流域にあたる入間村、堀兼村、宮寺村(現在は入間市)、藤沢村(現在は入間市)の4村が「農業都市」として合併し、将来的には共に境を接する所沢市(隣接地域は同じく共通の歴史を持つ三富新田にあたる)への編入をも計画するという動きも見られた。しかし西武鉄道路線やバス路線・道路など交通事情との関わりもあり、結局関係が最も深かった町村がまとまって現在の形に落ち着き、狭山市市政施行後は合併構想が提起されることは少なくなっていた。しかし平成の大合併の流れを受け、2000年頃から入間市との合併が協議され、2006年1月1日に合併の予定となった(新市名は「狭山市」)。しかし2005年1月30日に行われた住民投票で合併反対が多数となり、一方の入間市でも住民へのアンケートで合併反対が多数となったため、合併協議会は解散した。
かつては郊外化やドーナツ化現象の影響で人口が増加傾向にあったが、都心回帰の影響を受けて1995年をピークに微減傾向にある。
狭山市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。
2009年4月1日、合併前の旧村名「入間村」に由来する名称「入間地区」より改めた。入間市との混同を避けるとともに、駅名とあわせ分かりやすくするため。以前から仲川市長が改称を提起しており、2008年には狭山市入間地区自治会連合会から要望書の提出もあった。市側の改称を受け、民間でも改称の動きが広がり、JAいるま野農業協同組合入間支店が2009年12月、村政時代以来の「入間農協」に由来する支店名を改め、「入曽支店」に名称変更している。2011年3月には狭山市立入間小学校が閉校となり、以後入曽地区内で村政以来の「入間」の呼称を残す公共施設・機関名は狭山市立入間中学校のみとなっていたが、同中学校も2015年3月に閉校した。また民間では入曽駅近くの旧入間村役場跡地に店舗を構えるAコープが現在も「入間店」(2016年4月より「JAファーマーズ入間」)を称している。同店舗駐車場脇には入間村政を記念する「入間村の碑」が狭山市史編纂委員会と住民有志によって建立されているほか、1915年11月の大正天皇即位礼を祝して村民により植えられたイチョウの木が大木となって記念碑「銀杏の碑」とともに現存しており、その歴史を伝えている。
郵便番号
郵便局
市外局番等
長らく地方交付税交付金不交付団体であり、市財政には余裕がある。高齢化と人口減少の影響による市税収入の減少から2010年代以降は近隣の川越市・入間市・所沢市等の自治体とともに地方交付税交付金交付団体に移行しているものの、なおも健全財政を維持している。市内に進出した本田技研工業を始めとする企業の工場・事業所から納入される固定資産税収入と、敷地の9割が狭山市域にある航空自衛隊入間基地が置かれていることによる国有提供施設等所在市町村助成交付金(基地交付金)及び特定防衛施設周辺整備調整交付金(防衛省補助金)が主要な財源である。
本田技研工業の企業城下町として知られ、1987年4月以来、市議会には同社労働組合の組織内議員1名がいる。ただ業種の異なるロッテ、コーセーなど別の大企業の工場も進出しており、航空自衛隊入間基地勤務の自衛官も多数在住していることから、本田技研工業一社が市の命運を握るほどの影響力を有しているわけではなく、茨城県日立市や愛知県豊田市のように市民の相当数が一企業グループに関わっているといった状況にはない。また市議会においても、本田技研工業労働組合に先立つ1975年4月からコーセー労働組合推薦の市議会議員1名が議席を維持していた。また他の首都圏ベッドタウン同様、農業は衰退傾向にあるものの、農産物に特産物があるため農業関係者の存在も大きく、前市長は「狭山茶」の製造販売業を営む人物であった。
市役所、市民会館や総合体育館などは立派な造りとなっており、また市内には所沢市や川越市等にあるドッグラン等のペット共生施設公園等は無いが、動物園や体育館併設の多目的公園の智光山公園や狭山稲荷山公園をはじめとするたくさんの公園が整備されている。入間川河川敷には川越市とともに川越狭山自転車道路(サイクリングロード)と広大な公園が整備されており、多くの市民にとって憩いの場となっている。
市役所の公式サイトとしては異例の公式モバイル版サイトを全国市町村に先駆け開設し、その取り組みが新聞などにも取り上げられた。2006年、狭山市は「携帯電話を活用した情報配信の取り組み」により、「平成18年度地域づくり総務大臣表彰」(情報化部門)を受賞した。狭山市では既に2001年から市消防本部が地元消防団員を対象に市内の災害情報を携帯電話のメールで伝達していたが、2007年2月からはこのシステムを全市民に拡大し、希望者に対し携帯メールで市内の災害情報を配信する新規事業を開始した。市の公式Twitterも早期に開設しており、2014年8月から公式ツイッターに大雨・洪水・地震などの気象情報を自動更新して配信する機能を追加、24時間運用を開始した。熊谷地方気象台から出された警報等の最新情報を自動的にツイッター用の短文に変換し、配信する。公式ツイッターにこうした機能を付加した地方公共団体は西日本では数例見られるが、東日本の自治体では初めてとなる。
2008年2月、新たな人口増及び少子化対策・子育て支援の一環として、市はこれまで未就学児童を対象に行っていた所得制限・費用上限無しの医療費助成の対象年齢を中学校3年生まで引き上げる方針を明らかにした。まず2008年10月に小学校3年生までに適用範囲を広げた後、2011年度までに中学校3年生へと段階的に拡大する。これにより今後狭山市では中学卒業時まで入院・通院とも保険診療の医療費は無料となった。また2008年10月から医療機関での窓口払いも廃止された。この施策は比較的余裕がある市の財源を市民に還元する目的もある。またこの施策は埼玉県内の他の市町村にも影響を及ぼし、現在県内32自治体が同様ないしは類似の政策を実施・計画するに至っている。
明治時代に開業した狭山市駅・入曽駅周辺の再開発について、1980年代より構想は存在していたが、1990年代に至っても事業は具体化せず、入間市・所沢市・飯能市など周辺各都市に遅れをとっていた。狭山市駅西口地区については2000年代に事業者・専門家・市民らの議論を経て事業化され、一時政治的困難が発生したものの、変更は一切なく当初の事業計画が貫徹され、総合的な調整により計画から設計施工まで一貫したデザインコンセプトを保ったまま2012年に完成に至った。狭山市駅東口地区については老朽化した駅ビルが改築されたほか、道路整備が継続して行われている。一方入曽駅周辺については開業後101年を経た1996年に西口を開設したものの、2013年、東口地区の大規模再開発を断念。規模を縮小の上改めて入曽駅周辺の再整備計画が立案されることになった。
一部事務組合
協議会
2023年4月10日現在
西4区。定数は2人。近年選出の議員は以下のとおり。
川越狭山と狭山の2つの工業団地があり、オデッセイやレジェンドなどを製造する本田技研工業 (ホンダ)の埼玉製作所(2021年閉鎖)を筆頭に、製造品出荷額県下1位と埼玉県一の工業都市となっている。
市制施行時は特産物「狭山茶」により農業都市というイメージが強かったが、市政施行後の1955年(昭和30年)12月「狭山市工場誘致条例」を制定し、積極的に企業誘致を行った。翌年9月には工場誘致第1号として日本クロス工業(現在のダイニック)が進出。以後工場誘致は順調に進み、市内各地に大企業の大型工場が進出した。1966年(昭和41年)に川越狭山工業団地、1973年(昭和48年)には狭山工業団地が相次いで完成。2つの大型工業団地を有する工業都市へと変貌した。1982年(昭和57年)以降現在まで製造品出荷額埼玉県内第1位となっており、県内最大の工業都市となっている。企業誘致は現在も行っている。首都圏中央連絡自動車道狭山日高インターチェンジの開設と埼玉県道126号所沢堀兼狭山線の全線開通を受け、2015年、狭山工業団地の2地区(東地区(柏原北)と西地区(上広瀬))の拡張と土地区画整理事業実施が決まった。
JA・いるま野農業協同組合管内である。地物の野菜が市内のスーパーの店頭に並んでいることも多いが農業は衰退している。
入曽駅近くに埼玉県内の狭山茶生産地域全域を管内とする狭山茶業農業協同組合があり、生産者約280名が加盟している。
商業圏では、国道16号線にイオン狭山店が存在する。
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"text": "狭山市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。",
"title": "地域"
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"text": "2009年4月1日、合併前の旧村名「入間村」に由来する名称「入間地区」より改めた。入間市との混同を避けるとともに、駅名とあわせ分かりやすくするため。以前から仲川市長が改称を提起しており、2008年には狭山市入間地区自治会連合会から要望書の提出もあった。市側の改称を受け、民間でも改称の動きが広がり、JAいるま野農業協同組合入間支店が2009年12月、村政時代以来の「入間農協」に由来する支店名を改め、「入曽支店」に名称変更している。2011年3月には狭山市立入間小学校が閉校となり、以後入曽地区内で村政以来の「入間」の呼称を残す公共施設・機関名は狭山市立入間中学校のみとなっていたが、同中学校も2015年3月に閉校した。また民間では入曽駅近くの旧入間村役場跡地に店舗を構えるAコープが現在も「入間店」(2016年4月より「JAファーマーズ入間」)を称している。同店舗駐車場脇には入間村政を記念する「入間村の碑」が狭山市史編纂委員会と住民有志によって建立されているほか、1915年11月の大正天皇即位礼を祝して村民により植えられたイチョウの木が大木となって記念碑「銀杏の碑」とともに現存しており、その歴史を伝えている。",
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"text": "郵便番号",
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"text": "郵便局",
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"text": "市外局番等",
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"text": "長らく地方交付税交付金不交付団体であり、市財政には余裕がある。高齢化と人口減少の影響による市税収入の減少から2010年代以降は近隣の川越市・入間市・所沢市等の自治体とともに地方交付税交付金交付団体に移行しているものの、なおも健全財政を維持している。市内に進出した本田技研工業を始めとする企業の工場・事業所から納入される固定資産税収入と、敷地の9割が狭山市域にある航空自衛隊入間基地が置かれていることによる国有提供施設等所在市町村助成交付金(基地交付金)及び特定防衛施設周辺整備調整交付金(防衛省補助金)が主要な財源である。",
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"text": "本田技研工業の企業城下町として知られ、1987年4月以来、市議会には同社労働組合の組織内議員1名がいる。ただ業種の異なるロッテ、コーセーなど別の大企業の工場も進出しており、航空自衛隊入間基地勤務の自衛官も多数在住していることから、本田技研工業一社が市の命運を握るほどの影響力を有しているわけではなく、茨城県日立市や愛知県豊田市のように市民の相当数が一企業グループに関わっているといった状況にはない。また市議会においても、本田技研工業労働組合に先立つ1975年4月からコーセー労働組合推薦の市議会議員1名が議席を維持していた。また他の首都圏ベッドタウン同様、農業は衰退傾向にあるものの、農産物に特産物があるため農業関係者の存在も大きく、前市長は「狭山茶」の製造販売業を営む人物であった。",
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"text": "市役所、市民会館や総合体育館などは立派な造りとなっており、また市内には所沢市や川越市等にあるドッグラン等のペット共生施設公園等は無いが、動物園や体育館併設の多目的公園の智光山公園や狭山稲荷山公園をはじめとするたくさんの公園が整備されている。入間川河川敷には川越市とともに川越狭山自転車道路(サイクリングロード)と広大な公園が整備されており、多くの市民にとって憩いの場となっている。",
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"text": "市役所の公式サイトとしては異例の公式モバイル版サイトを全国市町村に先駆け開設し、その取り組みが新聞などにも取り上げられた。2006年、狭山市は「携帯電話を活用した情報配信の取り組み」により、「平成18年度地域づくり総務大臣表彰」(情報化部門)を受賞した。狭山市では既に2001年から市消防本部が地元消防団員を対象に市内の災害情報を携帯電話のメールで伝達していたが、2007年2月からはこのシステムを全市民に拡大し、希望者に対し携帯メールで市内の災害情報を配信する新規事業を開始した。市の公式Twitterも早期に開設しており、2014年8月から公式ツイッターに大雨・洪水・地震などの気象情報を自動更新して配信する機能を追加、24時間運用を開始した。熊谷地方気象台から出された警報等の最新情報を自動的にツイッター用の短文に変換し、配信する。公式ツイッターにこうした機能を付加した地方公共団体は西日本では数例見られるが、東日本の自治体では初めてとなる。",
"title": "行政"
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"text": "2008年2月、新たな人口増及び少子化対策・子育て支援の一環として、市はこれまで未就学児童を対象に行っていた所得制限・費用上限無しの医療費助成の対象年齢を中学校3年生まで引き上げる方針を明らかにした。まず2008年10月に小学校3年生までに適用範囲を広げた後、2011年度までに中学校3年生へと段階的に拡大する。これにより今後狭山市では中学卒業時まで入院・通院とも保険診療の医療費は無料となった。また2008年10月から医療機関での窓口払いも廃止された。この施策は比較的余裕がある市の財源を市民に還元する目的もある。またこの施策は埼玉県内の他の市町村にも影響を及ぼし、現在県内32自治体が同様ないしは類似の政策を実施・計画するに至っている。",
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"text": "明治時代に開業した狭山市駅・入曽駅周辺の再開発について、1980年代より構想は存在していたが、1990年代に至っても事業は具体化せず、入間市・所沢市・飯能市など周辺各都市に遅れをとっていた。狭山市駅西口地区については2000年代に事業者・専門家・市民らの議論を経て事業化され、一時政治的困難が発生したものの、変更は一切なく当初の事業計画が貫徹され、総合的な調整により計画から設計施工まで一貫したデザインコンセプトを保ったまま2012年に完成に至った。狭山市駅東口地区については老朽化した駅ビルが改築されたほか、道路整備が継続して行われている。一方入曽駅周辺については開業後101年を経た1996年に西口を開設したものの、2013年、東口地区の大規模再開発を断念。規模を縮小の上改めて入曽駅周辺の再整備計画が立案されることになった。",
"title": "行政"
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"text": "一部事務組合",
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"text": "協議会",
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"text": "2023年4月10日現在",
"title": "議会"
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"text": "西4区。定数は2人。近年選出の議員は以下のとおり。",
"title": "議会"
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"text": "川越狭山と狭山の2つの工業団地があり、オデッセイやレジェンドなどを製造する本田技研工業 (ホンダ)の埼玉製作所(2021年閉鎖)を筆頭に、製造品出荷額県下1位と埼玉県一の工業都市となっている。",
"title": "経済"
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"text": "市制施行時は特産物「狭山茶」により農業都市というイメージが強かったが、市政施行後の1955年(昭和30年)12月「狭山市工場誘致条例」を制定し、積極的に企業誘致を行った。翌年9月には工場誘致第1号として日本クロス工業(現在のダイニック)が進出。以後工場誘致は順調に進み、市内各地に大企業の大型工場が進出した。1966年(昭和41年)に川越狭山工業団地、1973年(昭和48年)には狭山工業団地が相次いで完成。2つの大型工業団地を有する工業都市へと変貌した。1982年(昭和57年)以降現在まで製造品出荷額埼玉県内第1位となっており、県内最大の工業都市となっている。企業誘致は現在も行っている。首都圏中央連絡自動車道狭山日高インターチェンジの開設と埼玉県道126号所沢堀兼狭山線の全線開通を受け、2015年、狭山工業団地の2地区(東地区(柏原北)と西地区(上広瀬))の拡張と土地区画整理事業実施が決まった。",
"title": "経済"
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"text": "JA・いるま野農業協同組合管内である。地物の野菜が市内のスーパーの店頭に並んでいることも多いが農業は衰退している。",
"title": "経済"
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"text": "入曽駅近くに埼玉県内の狭山茶生産地域全域を管内とする狭山茶業農業協同組合があり、生産者約280名が加盟している。",
"title": "経済"
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"text": "商業圏では、国道16号線にイオン狭山店が存在する。",
"title": "経済"
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] |
狭山市(さやまし)は、埼玉県の南西部に位置する市。 人口は約15万人で、久喜市に次ぐ県内12位。1954年(昭和29年)市制施行。
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{{出典の明記|date=2020年8月}}
{{Otheruseslist|[[埼玉県]]の市|同市にある[[西武鉄道|西武]][[西武新宿線|新宿線]]の駅|狭山市駅|[[大阪府]]の市|大阪狭山市}}
{{日本の市
| 画像= Sayama-Inariyama-Park-200807.jpg
| 画像の説明 = [[狭山稲荷山公園]]
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Sayama, Saitama.svg|border|100px|狭山市旗]]
| 市旗の説明 = 狭山[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:埼玉県狭山市市章.svg|75px|狭山市章]]
| 市章の説明 = 狭山[[市町村章|市章]]
| 自治体名 = 狭山市
| 都道府県 = 埼玉県
| コード = 11215-1
| 隣接自治体 = [[入間市]]、[[川越市]]、[[所沢市]]、[[飯能市]]、[[日高市]]
| 木 = [[茶|茶の木]]
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| 鳥など = [[オナガ]]
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| 所在地 = 狭山市[[入間川 (狭山市)|入間川一丁目]]23番5号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-11|display=inline,title}}<br/>[[ファイル:Sayama city office.jpg|250px|center]]|
| 外部リンク = {{Official website}} {{ja icon}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|11|215|image=Sayama in Saitama Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
| 特記事項 = 狭山市公式イメージキャラクター「七夕の妖精おりぴぃ<ref>[https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/topics/oripi.html 狭山市公式イメージキャラクター「七夕の妖精おりぴぃ」 ] 狭山市ホームページ</ref>」
}}
'''狭山市'''(さやまし)は、[[埼玉県]]の南西部に位置する[[市]]。
人口は約15万人で、[[久喜市]]に次ぐ県内12位。1954年(昭和29年)[[市制]]施行。
== 概要 ==
[[ファイル:Saitamakendo no340 in sayamacity.jpg|thumb|250px|入間川七夕通り]]
市域を[[西武鉄道]]の2路線が通る。[[1960年代]]以降[[東京]]郊外の[[ベッドタウン]]となり人口が急増した。近年では[[高度成長期]]に移り住んできた市民の高齢化([[少子高齢化]]<ref>[[2006年]]度の狭山市の[[合計特殊出生率]]は1.10で、国(1.32)や埼玉県(1.24)全体に比べ低い。</ref>)が進む一方で、新規転入者は減少している。[[都心回帰]]現象の影響が大きい。2005年国勢調査では[[鳥取県]]を上回る社会人口減少率を記録した。[[2012年]]、[[西武新宿線]][[狭山市駅]]西口地区再開発整備事業が完了した。[[航空自衛隊]]の[[入間基地]]は市役所の南に位置し、9割が狭山市域にある(1割は入間市域)。
== 地理・気候 ==
市域の南西(入間・飯能方面)から北東(川越方面)にかけて一級河川の[[入間川 (埼玉県)|入間川]]が流れる。流域は沖積層の低地帯が広がっている。市の中心となる地域にも入間川という住所(旧[[入間川町]]の名残り)がついており、この川は街のシンボルにもなっている。
入間川両岸には河岸段丘が形成されており、右岸は[[武蔵野台地]]、左岸は入間台地と呼ばれる台地からなっており、狭山市はその2つの台地上に属する。どちらの台地も洪積層からなり、比較的平坦である。
市街地は、おもに[[国道16号]]と[[西武新宿線]]を軸として形成されている。市名の由来である「[[狭山茶]]」の茶畑は、入曽・堀兼地区に多い(なお、市名の由来ではあるものの、隣の[[入間市]]の方が生産量は多い)。また、奥富地区には田圃も多く見られる。
周りに遮蔽物が少ないようなところでは、北方に日光・那須、西方に秩父の各連山、西南方には、はるかに富士山を遠望することができる。
隣接している自治体は、[[入間市]]、[[川越市]]、[[所沢市]]、[[飯能市]]、[[日高市]]。
気候は温暖湿潤であるが、同じ県内西部の秩父や鳩山ほどではないものの県南東部(さいたま市など)よりも内陸性の特徴を持ち、最高気温は39.0℃、最低気温は-5.3℃と寒暖差が大きい。年間平均気温は15.2℃で、夏季は高温多湿、冬季は低温乾燥の傾向にある。また、年間総雨量は1260mmである。
* 河川: [[入間川 (埼玉県)|入間川]]、[[不老川]]
== 歴史 ==
* 古代 - [[武蔵国]][[入間郡]]に属する。
* 716年(霊亀2年)- 新たに[[高麗郡]]が設置される。[[中世]]以降、入間川西岸の一部地区が高麗郡に属する。
* 中世 - [[入間川宿]]が[[鎌倉街道上道]]の[[宿場町]]として栄える。鎌倉街道上道は入間川宿で[[上野国]]方面と[[下野国]]方面に分岐していた。
* 1353年 (正平8年/分和2年) - 鎌倉公方[[足利基氏]]が上杉氏勢力に対抗するため、一時的に鎌倉府を入間川の[[入間川御陣]](現在の徳林寺付近)に設置する。
* [[近世]] - [[川越藩]]領や[[天領]]となる。天領は[[旗本]][[知行地]]として旗本[[小笠原氏]]の所領となっていた。
* 近世中期 - [[武蔵野]]の[[新田開発]]により[[三富新田]]などとともに不老川流域が開墾され、入間・堀兼の住民が増える。
* 1868年(慶応4年)7月12日(旧暦5月23日) - [[渋沢成一郎]]の率いる振武軍と[[官軍|新政府軍]]が笹井河原で交戦。[[飯能戦争]]の発端となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/tokei/toukeisayama/14100020150324.files/1ryakunen.pdf|title=狭山の略年表|format=PDF|publisher=狭山市|accessdate=2021-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hanno.lg.jp/article/detail/4982|title=「飯能戦争」とは?|work=飯能と渋沢栄一|publisher=飯能市|date=2021-03-04|accessdate=2021-09-04}}</ref>。
* 1894年(明治27年) - [[川越鉄道]]が開通。入間川駅(現・[[狭山市駅]])・[[入曽駅]]開業。
* 1933年(昭和8年) - [[武蔵野鉄道]][[稲荷山公園駅]]が開業。
* 1938年(昭和13年) - [[陸軍航空士官学校]](現入間基地)が開設。
* 1945年(昭和20年) - 戦後進駐軍に接収され「[[ジョンソン基地]]」になる。
* 1954年(昭和29年)7月1日 - [[入間郡]][[入間川町]]・[[入間村 (埼玉県)|入間村]]・[[堀兼村]]・[[奥富村]]・[[柏原村 (埼玉県)|柏原村]]・[[水富村]]が新設合併し市制施行で、'''狭山市'''となる。合併当時の人口は31,030人<ref>新市の名称の候補として「狭山市」のほか「入間川市」「入間市」「武蔵市」「武蔵野市」が挙げられ対立したが、1町5村の町村長による投票で最多得票であった「狭山市」に決定された。→参考文献:「狭山市史 現代資料編」</ref>。
* 1958年(昭和33年) - ジョンソン基地の米軍機が市内で墜落事故を起こし、死傷者14名を出す。
* 1963年(昭和38年)
** [[狭山事件]]が発生。[[同和問題]]との関わりや[[日本の警察|警察]]の捜査のあり方などをめぐって注目された。
** ジョンソン基地が返還され、航空自衛隊入間基地となる。
* [[1960年代]]から、市内の工場・宅地開発が進み、人口が急速に増加する。
* 1964年(昭和39年) - [[新狭山駅]]が開業。
* 1966年(昭和41年) - 川越狭山工業団地が完成。
* 1970年(昭和45年) - [[日本住宅公団]](現:[[都市再生機構]])狭山台団地の造成開始。
* 1973年(昭和48年) - 狭山工業団地が完成。
* 1975年(昭和50年) - 日本住宅公団狭山台団地が完成、入居開始。
* 1977年(昭和52年) - 狭山市立中央児童館に埼玉県内初となる[[プラネタリウム]]を設置。
* 1978年(昭和53年)9月8日 - 狭山市上奥富の住宅地に[[航空自衛隊]][[T-33 (航空機)|T-33]]が墜落。乗員2人が死亡、住宅などが延焼<ref>新興住宅地 突然の恐怖 狭山の自衛隊機墜落 軒先かすめ大音響『朝日新聞』1978年(昭和53年)9月9日朝刊、13版、23面</ref>。
* 1979年(昭和54年) - 西武新宿線入間川駅が狭山市駅と改称。
* 1983年(昭和58年)4月1日 - 入間市との境界変更。現在の市域となる。
* 1984年(昭和59年) - 人口が15万人を突破。
* 1986年(昭和61年)4月1日 - 第2代市長町田佐一が死去、その後の市長選挙で第3代市長に[[大野松茂]]が選出される。
* 1999年(平成11年)11月22日 - [[T-33A入間川墜落事故|航空自衛隊のT-33Aが入間川河川敷に墜落]]し、殉職者2名を出す。
* 2000年(平成12年)6月9日 - 財団法人[[日本品質保証機構]](JQA)より市役所本庁舎を対象に[[ISO14001]]を認証取得。
* 2003年(平成15年)6月19日 - 第4代市長町田潤一が死去、その後の市長選挙で第5代市長に[[仲川幸成]]が選出される。
* 2005年(平成17年)1月30日 - 「入間市との合併に関して市民の意思を確認するための住民投票」が行われ、投票の結果、入間市との合併は中止になる。
* 2008年(平成20年) - 狭山市観光協会により狭山市中心市街地活性化推進事業イメージキャラクター([[ゆるキャラ]])・観光大使「七夕の妖精おりぴぃ」使用開始。
* 2010年(平成22年)2月1日 - [[全国瞬時警報システム]](J-ALERT)整備完了。
* 2012年(平成24年)7月18日 - 狭山市駅西口に狭山市市民交流センターが開所。これをもって狭山市駅西口地区再開発整備事業が完了した。
* 2013年(平成25年) - 「七夕の妖精おりぴぃ」を狭山市公式イメージキャラクターに制定。
* 2014年(平成26年)7月27日 - 市制施行60周年を記念し、狭山市民会館大ホールにて「[[NHKのど自慢]]」の公開放送が行われた<ref>[https://www6.nhk.or.jp/nodojiman/list/backnumber.html?i=140727 NHKのど自慢放送レポート 2014年7月27日] NHK</ref>。
* 2017年(平成29年) - 市内小中学校の全普通教室に[[エアコン]]を完備する。
=== 市名の由来 ===
[[狭山丘陵]]及び市内の[[特産物]]「[[狭山茶]]」に由来する。狭山市域に狭山丘陵は含まれていない。
「[[狭山]]」という地名の由来自体は判然としない。[[江戸時代]]後期に編纂された『[[新編武蔵風土記稿]]』では狭山丘陵そのものを「狭山」と称しており、「狭山」という表現を地域呼称ではなく[[山]]の名称の如く用いている<ref>同書における用例は「[[狭山]]」の項を参照。</ref>。
=== 入間市との合併構想 ===
この構想は、かつての[[入間川町]]と[[豊岡町 (埼玉県)|豊岡町]]の合併構想にまで遡るものである。戦中の1943年(昭和18年)には2町と入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村、[[藤沢村 (埼玉県入間郡)|藤沢村]](現在は入間市)、[[西武町|東金子村]](現在は入間市)の7村による合併が内定(新市名は「入間市」)したが3ヶ月で頓挫<ref>{{Cite report |language=ja |date=1973年11月20日 |title=狭山市文化財調査報告IV 狭山市関係歴史略年表 |url=https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/cp_survey_report.files/sayamaculturalpropertyreport04.pdf#page=31 |publisher=狭山市教育委員会社会教育課 |format=PDF |page=29 |accessdate=2021-09-11}}</ref>、戦後の[[昭和の大合併]]が進展していた時期には現在の狭山市・入間市域に所在した町村全部を一つの市にまとめるという合併構想があり、埼玉県も推進していた。またこれとは別に、江戸時代の武蔵野の新田開発によって開墾されたという共通の歴史を持ち、いずれも不老川流域にあたる入間村、堀兼村、[[宮寺村]](現在は入間市)、藤沢村(現在は入間市)の4村が「農業都市」として合併し、将来的には共に境を接する[[所沢市]](隣接地域は同じく共通の歴史を持つ三富新田にあたる)への編入をも計画するという動きも見られた。しかし西武鉄道路線やバス路線・道路など交通事情との関わりもあり、結局関係が最も深かった町村がまとまって現在の形に落ち着き、狭山市市政施行後は合併構想が提起されることは少なくなっていた。しかし[[平成の大合併]]の流れを受け、[[2000年]]頃から入間市との合併が協議され、[[2006年]][[1月1日]]に合併の予定となった(新市名は「狭山市」)。しかし[[2005年]][[1月30日]]に行われた住民投票で合併反対が多数となり、一方の入間市でも住民へのアンケートで合併反対が多数となったため、合併協議会は解散した。
== 人口 ==
{{人口統計|code=11215|name=狭山市|image=Population distribution of Sayama, Saitama, Japan.svg}}
かつては[[郊外化]]や[[ドーナツ化現象]]の影響で人口が増加傾向にあったが、[[都心回帰]]の影響を受けて1995年をピークに微減傾向にある。
== 地域 ==
=== 町名 ===
狭山市では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。
<!-- 町名の順序は、狭山市統計書等公的資料の順序による。 -->
{{hidden begin
|title = 町名一覧(57町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small;"
|-
!colspan="6"|[[入間川町|入間川地区]](17町丁)
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:36%;"|住居表示実施前の町名等
!style="width:16%;"|備考
|-
|'''沢'''
|さわ
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|'''狭山'''
|さやま
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|'''[[入間川 (狭山市)|入間川]]'''
|いるまがわ
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''[[入間川 (狭山市)|入間川一丁目]]'''
|rowspan="4"|いるまがわ
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|'''[[入間川 (狭山市)|入間川二丁目]]'''
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|'''[[入間川 (狭山市)|入間川三丁目]]'''
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|'''[[入間川 (狭山市)|入間川四丁目]]'''
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|rowspan="2"|'''鵜ノ木'''
|rowspan="2"|うのき
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|2001年11月3日
|2001年11月3日
|大字上広瀬、広瀬東2、入間川4
|
|-
|'''稲荷山一丁目'''
|rowspan="2"|いなりやま
|
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
|'''稲荷山二丁目'''
|
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
|rowspan="2"|'''[[祇園 (狭山市)|祇園]]'''
|rowspan="2"|ぎおん
|rowspan="2"|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|2015年11月1日
|祇園
|一部区域の街区符号変更
|-
|'''中央一丁目'''
|rowspan="4"|ちゅうおう
|1996年11月2日
|1996年11月2日
|大字入間川
|
|-
|'''中央二丁目'''
|1996年11月2日
|1996年11月2日
|大字入間川
|
|-
|'''中央三丁目'''
|1996年11月2日
|1996年11月2日
|大字入間川
|
|-
|'''中央四丁目'''
|1996年11月2日
|1996年11月2日
|大字入間川
|
|-
|'''富士見一丁目'''
|rowspan="2"|ふじみ
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
|'''富士見二丁目'''
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|大字入間川
|
|-
!colspan="6"|[[入間村 (埼玉県)|入曽地区]](3町丁)
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:36%;"|住居表示実施前の町名等
!style="width:16%;"|備考
|-
|'''北入曽'''
|きたいりそ
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''南入曽'''
|みなみいりそ
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''水野'''
|みずの
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
!colspan="6"|[[堀兼村|堀兼地区]](6町丁)
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:36%;"|住居表示実施前の町名等
!style="width:16%;"|備考
|-
|'''堀兼'''
|ほりがね(ほりかね)
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''上赤坂'''
|かみあかさか
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''中新田'''
|なかしんでん
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''青柳'''
|あおやぎ
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''加佐志'''
|かざし
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''東三ツ木'''
|ひがしみつぎ
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
!colspan="6"|[[奥富村|奥富地区]](3町丁)
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:36%;"|住居表示実施前の町名等
!style="width:16%;"|備考
|-
|'''上奥富'''
|かみおくどみ(かみおくとみ)
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''下奥富'''
|しもおくどみ(しもおくとみ)
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''柏原新田'''
|かしわばらしんでん
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
!colspan="6"|[[柏原村 (埼玉県)|柏原地区]](1町丁)
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:36%;"|住居表示実施前の町名等
!style="width:16%;"|備考
|-
|'''柏原'''
|かしわばら
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
!colspan="6"|[[水富村|水富地区]](20町丁)
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:36%;"|住居表示実施前の町名等
!style="width:16%;"|備考
|-
|'''上広瀬'''
|かみひろせ
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|rowspan="2"|'''広瀬台一丁目'''
|rowspan="6"|ひろせだい
|2003年11月1日
|2003年11月1日
|大字上広瀬
|
|-
|2009年7月4日<ref group="†" name="**" />
|2008年11月1日
|大字上広瀬
|
|-
|rowspan="2"|'''広瀬台二丁目'''
|2003年11月1日
|2003年11月1日
|大字上広瀬、大字下広瀬
|
|-
|2009年7月4日<ref group="†" name="**" />
|2008年11月1日
|大字上広瀬、大字下広瀬
|
|-
|rowspan="2"|'''広瀬台三丁目'''
|2003年11月1日
|2003年11月1日
|大字上広瀬、大字下広瀬
|
|-
|2009年7月4日<ref group="†" name="**" />
|2008年11月1日
|大字上広瀬、大字下広瀬
|
|-
|'''下広瀬'''
|しもひろせ
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''広瀬一丁目'''
|rowspan="4"|ひろせ
|2001年11月3日
|2001年11月3日
|大字上広瀬、大字下広瀬、大字根岸
|
|-
|'''広瀬二丁目'''
|2001年11月3日
|2001年11月3日
|大字上広瀬、大字下広瀬、大字根岸
|
|-
|rowspan="2"|'''広瀬三丁目'''
|2001年11月3日
|2001年11月3日
|大字上広瀬、大字下広瀬、大字根岸、大字笹井
|
|-
|2009年7月4日<ref group="†" name="**" />
|2008年11月1日
|大字上広瀬
|
|-
|'''広瀬東一丁目'''
|rowspan="5"|ひろせひがし
|2000年11月3日
|2000年11月3日
|大字上広瀬
|
|-
|'''広瀬東二丁目'''
|2000年11月3日
|2000年11月3日
|大字上広瀬、大字下広瀬
|
|-
|'''広瀬東三丁目'''
|2000年11月3日
|2000年11月3日
|大字上広瀬、大字下広瀬
|
|-
|rowspan="2"|'''広瀬東四丁目'''
|2000年11月3日
|2000年11月3日
|大字上広瀬
|
|-
|2009年7月4日<ref group="†" name="**" />
|2008年11月1日
|大字上広瀬
|
|-
|'''つつじ野'''
|つつじの
|2000年11月3日
|2000年11月3日
|大字上広瀬、大字下広瀬
|
|-
|'''根岸'''
|ねぎし
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''根岸一丁目'''
|rowspan="2"|ねぎし
|2002年11月2日
|2002年11月2日
|大字根岸、大字上広瀬
|
|-
|'''根岸二丁目'''
|2002年11月2日
|2002年11月2日
|大字根岸、大字上広瀬、大字笹井
|
|-
|'''笹井'''
|ささい
|1954年7月1日
|未実施
|
|
|-
|'''笹井一丁目'''
|rowspan="3"|ささい
|2002年11月2日
|2002年11月2日
|大字笹井、大字根岸
|
|-
|'''笹井二丁目'''
|2002年11月2日
|2002年11月2日
|大字笹井
|
|-
|'''笹井三丁目'''
|2002年11月2日
|2002年11月2日
|大字笹井
|
|-
!colspan="6"|新狭山地区(3町丁)
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:36%;"|住居表示実施前の町名等
!style="width:16%;"|備考
|-
|'''[[新狭山|新狭山一丁目]]'''
|rowspan="3"|しんさやま
|1966年2月1日<ref group="†" name="***" />
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
|'''[[新狭山|新狭山二丁目]]'''
|1966年2月1日<ref group="†" name="***" />
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
|'''[[新狭山|新狭山三丁目]]'''
|1966年2月1日<ref group="†" name="***" />
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
!colspan="6"|狭山台地区(4町丁)
|-
!style="width:12%;"|町名
!style="width:12%;"|町名の読み
!style="width:12%;"|町区域設定年月日
!style="width:12%;"|住居表示実施年月日
!style="width:36%;"|住居表示実施前の町名等
!style="width:16%;"|備考
|-
|'''狭山台一丁目'''
|rowspan="4"|さやまだい
|1974年4月3日<ref group="†" name="****" />
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
|'''狭山台二丁目'''
|1974年4月3日<ref group="†" name="****" />
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
|'''狭山台三丁目'''
|1974年4月3日<ref group="†" name="****" />
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
|'''狭山台四丁目'''
|1974年4月3日<ref group="†" name="****" />
|未実施<ref group="†" name="*" />
|
|
|-
|}
<references group="†">
<ref group="†" name="*">町名地番整理実施区域</ref>
<ref group="†" name="**">上広瀬土地区画整理事業換地処分公告があった日(2009年7月3日)の翌日。</ref>
<ref group="†" name="***">川越狭山工業開発土地区画整理事業換地処分公告があった日(1966年1月31日)の翌日。</ref>
<ref group="†" name="****">狭山台土地区画整理事業換地処分公告があった日(1974年4月2日)の翌日。</ref>
</references>
{{hidden end}}
==== 「入曽」の地区名称について ====
[[2009年]]4月1日、合併前の旧村名「入間村」に由来する名称「入間地区」より改めた。入間市との混同を避けるとともに、駅名とあわせ分かりやすくするため。以前から仲川市長が改称を提起しており、[[2008年]]には狭山市入間地区自治会連合会から要望書の提出もあった。市側の改称を受け、民間でも改称の動きが広がり、JAいるま野農業協同組合入間支店が2009年12月、村政時代以来の「入間農協」に由来する支店名を改め、「入曽支店」に名称変更している。2011年3月には狭山市立入間小学校が閉校となり、以後入曽地区内で村政以来の「入間」の呼称を残す公共施設・機関名は狭山市立入間中学校のみとなっていたが、同中学校も[[2015年]]3月に閉校した。また民間では入曽駅近くの旧[[入間村 (埼玉県)|入間村]]役場跡地に店舗を構える[[Aコープ]]が現在も「入間店」([[2016年]]4月より「[[農業協同組合|JA]]ファーマーズ入間」)を称している。同店舗駐車場脇には入間村政を記念する「入間村の碑」が狭山市史編纂委員会と住民有志によって建立されているほか、[[1915年]]11月の[[大正天皇]]即位礼を祝して村民により植えられた[[イチョウ]]の木が大木となって記念碑「銀杏の碑」とともに現存しており、その歴史を伝えている。
=== 郵便 ===
'''郵便番号'''
* '''350-13xx''' - [[狭山郵便局]]管轄(入間市の集配業務もおこなっている)
'''郵便局'''
* [[狭山郵便局]]
** 狭山入間川三郵便局
** 狭山柏原郵便局
** 新狭山駅前郵便局
** 狭山水野郵便局
** 狭山鵜ノ木郵便局
** 狭山北入曽郵便局
** 狭山台団地内郵便局
** 新狭山二郵便局
** 狭山入曾郵便局
** 狭山旭郵便局
** 狭山上広瀬郵便局
** 水富郵便局
=== 電話番号 ===
'''市外局番等'''
* '''04'''-200x・290x・292x〜296x・299x - 所沢[[単位料金区域|MA]]([[入間市]]、狭山市、[[所沢市]])
** 従来は「0429」であったが、[[電話番号逼迫対策]]のため、以下のように2度変更された。[[天気予報]]に関しては、従前と同じく「0429-177」となっている。
*** [[1998年]][[4月29日]] - 「0429-xx」から「042-9xx」へ。
*** [[2004年]][[1月11日]] - 「042-9xx」から「04-29xx」へ。
** 柏MA([[千葉県]][[柏市]]など)、鴨川MA([[鴨川市]])も市外局番は「04」であるが、MAが異なるため、発信時に市外局番「04」を付ける必要がある。
=== 住宅団地 ===
* 市営住宅18ヶ所
* 県営住宅3ヶ所
** 狭山鵜ノ木住宅(鵜ノ木)
* UR狭山台団地 (狭山台1・2・3)
* URつつじ野団地 (つつじ野)
* 西武狭山台ハイツ(中央3)
* 新狭山ハイツ(青柳)
* 狭山グリーンハイツ(笹井1)
* パイロットハウス狭山台(中央4)
== 行政 ==
長らく[[地方交付税]]交付金不交付団体であり<ref>[[2009年]]現在の埼玉県内の地方交付税交付金不交付団体は狭山市(1.14)の他[[戸田市]](1.49)・[[和光市]](1.31)・[[入間郡]][[三芳町]](1.24)・[[朝霞市]](1.14)・[[所沢市]](1.09)・[[八潮市]](1.09)・[[川越市]](1.07)・[[川口市]](1.06)・[[さいたま市]](1.03、旧[[岩槻市]]相当分を除く)・[[入間市]](1.02)の計11市町である(括弧内数値は2008年の[[財政力指数]])。地方交付税交付金不交付の基準については[[財政力指数]]を参照。</ref>、市財政には余裕がある<ref>『[[週刊ダイヤモンド]]』[[2007年]]3月10日号特集「全国市町村「倒産危険度」ランキング」において、狭山市は全国1821市町村のなかで1720位であった。また入間市1654位・川越市1660位・所沢市1719位であり、周辺の都市とともに「倒産危険度」は極めて低く、財政力のある市であると紹介された。なお1位は[[北海道]][[歌志内市]]、2位は[[夕張市]]・3位は[[空知郡]][[上砂川町]]であった。</ref>。高齢化と人口減少の影響による市税収入の減少から[[2010年代]]以降は近隣の[[川越市]]・[[入間市]]・[[所沢市]]等の自治体とともに地方交付税交付金交付団体に移行しているものの、なおも健全財政を維持している。市内に進出した[[本田技研工業]]を始めとする企業の工場・事業所から納入される[[固定資産税]]収入と、敷地の9割が狭山市域にある[[航空自衛隊]][[入間基地]]が置かれていることによる国有提供施設等所在市町村助成交付金(基地交付金)及び特定防衛施設周辺整備調整交付金([[防衛省]]補助金)が主要な財源である。
本田技研工業の[[企業城下町]]として知られ、[[1987年]]4月以来、市議会には同社労働組合の組織内議員1名がいる。ただ業種の異なる[[ロッテ]]、[[コーセー]]など別の大企業の工場も進出しており、航空自衛隊入間基地勤務の[[自衛官]]も多数在住していることから、本田技研工業一社が市の命運を握るほどの影響力を有しているわけではなく、[[茨城県]][[日立市]]や[[愛知県]][[豊田市]]のように市民の相当数が一企業グループに関わっているといった状況にはない。また市議会においても、本田技研工業労働組合に先立つ[[1975年]]4月からコーセー労働組合推薦の市議会議員1名が議席を維持していた<ref>コーセー労働組合は[[1995年]]以降組織的な選挙運動・政治活動を止めている。</ref>。また他の首都圏ベッドタウン同様、[[農業]]は衰退傾向にあるものの、農産物に[[特産物]]があるため農業関係者の存在も大きく、前市長は「狭山茶」の製造販売業を営む人物であった。
市役所、市民会館や総合[[体育館]]などは立派な造りとなっており、また市内には所沢市や川越市等にある[[ドッグラン]]等のペット共生施設公園等は無いが、動物園や体育館併設の多目的公園の[[智光山公園]]や[[狭山稲荷山公園]]をはじめとするたくさんの公園が整備されている。入間川河川敷には川越市とともに川越狭山自転車道路(サイクリングロード)と広大な公園が整備されており、多くの市民にとって憩いの場となっている。
市役所の公式サイトとしては異例の公式[[携帯電話|モバイル]]版サイトを全国市町村に先駆け開設し、その取り組みが[[新聞]]などにも取り上げられた。[[2006年]]、狭山市は「[[携帯電話]]を活用した情報配信の取り組み」により、「平成18年度地域づくり[[総務大臣]]表彰」([[情報化]]部門)を受賞した。狭山市では既に[[2001年]]から市[[消防]]本部が地元[[消防団]]員を対象に市内の[[災害]]情報を携帯電話のメールで伝達していたが、[[2007年]]2月からはこのシステムを全市民に拡大し、希望者に対し携帯メールで市内の災害情報を配信する新規事業を開始した。市の公式[[Twitter]]も早期に開設しており、[[2014年]]8月から公式ツイッターに大雨・洪水・地震などの気象情報を自動更新して配信する機能を追加、24時間運用を開始した<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20140805/CK2014080502000141.html 【埼玉】大雨情報など配信 狭山市 自動でツイート] - [[東京新聞]] 2014年8月5日</ref>。熊谷地方[[気象台]]から出された警報等の最新情報を自動的にツイッター用の短文に変換し、配信する。公式ツイッターにこうした機能を付加した[[地方公共団体]]は[[西日本]]では数例見られるが、[[東日本]]の自治体では初めてとなる。
[[2008年]]2月、新たな人口増及び少子化対策・子育て支援の一環として、市はこれまで未就学児童を対象に行っていた所得制限・費用上限無しの医療費助成の対象年齢を中学校3年生まで引き上げる方針を明らかにした<ref>[[2008年]]3月、[[福岡県]][[京都郡]][[苅田町]]が同様の方針を決めた。苅田町も財政力のある自治体として知られる。[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukuoka/news/20080303-OYT8T00692.htm 「医療費無料、中3まで・・・苅田町で、県内初」『読売新聞』西部本社版九州発福岡県2008年3月4日付]
</ref>。まず2008年10月に小学校3年生までに適用範囲を広げた後、[[2011年]]度までに中学校3年生へと段階的に拡大する。これにより今後狭山市では中学卒業時まで入院・通院とも保険診療の医療費は無料となった。また2008年10月から医療機関での窓口払いも廃止された。この施策は比較的余裕がある市の財源を市民に還元する目的もある。またこの施策は埼玉県内の他の[[市町村]]にも影響を及ぼし、現在県内32[[地方公共団体|自治体]]が同様ないしは類似の政策を実施・計画するに至っている。
=== 市長 ===
* [[小谷野剛]](こやの つよし・[[無所属]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[公明党]]推薦)、2期目、任期[[2019年]]([[令和]]元年)[[7月27日]] - [[2023年]]([[令和]]4年)[[7月26日]])
* 副市長:松本晴夫(元市[[教育委員会]][[教育長]])
==== 歴代市長 ====
* 初代 [[石川求助]] ([[1954年]]([[昭和]]29年)[[8月15日]] - [[1966年]](昭和41年)[[8月14日]]) 3期12年
* 2代 [[町田佐一]] (1966年(昭和41年)8月15日 - 1986年(昭和61年)4月1日) 5期20年 在任中死去
* 3代 [[大野松茂]] (1986年(昭和61年)5月15日 - [[1994年]]([[平成]]6年)5月17日) 2期8年
* 4代 [[町田潤一]] (1994年(平成6年)5月18日 - 2003年(平成15年)6月19日) 3期9年 在任中死去
* 5代 [[仲川幸成]] (2003年(平成15年)7月27日 - [[2015年]](平成27年)7月26日) 3期12年
* 6代 小谷野剛 (2015年(平成27年)7月27日 - ) 現職
=== 再開発事業 ===
[[明治|明治時代]]に開業した[[狭山市駅]]・[[入曽駅]]周辺の再開発について、[[1980年代]]より構想は存在していたが、[[1990年代]]に至っても事業は具体化せず、[[入間市]]・[[所沢市]]・[[飯能市]]など周辺各都市に遅れをとっていた。[[狭山市駅]]西口地区については[[2000年代]]に事業者・専門家・市民らの議論を経て事業化され、一時政治的困難が発生したものの、変更は一切なく当初の事業計画が貫徹され、総合的な調整により計画から設計施工まで一貫したデザインコンセプトを保ったまま[[2012年]]に完成に至った。[[狭山市駅]]東口地区については老朽化した駅ビルが改築されたほか、道路整備が継続して行われている。一方入曽駅周辺については開業後101年を経た[[1996年]]に西口を開設したものの、[[2013年]]、東口地区の大規模再開発を断念。規模を縮小の上改めて入曽駅周辺の再整備計画が立案されることになった。
==== 狭山市駅周辺 ====
; 狭山市駅西口地区再開発整備事業
: 狭山市駅西口周辺は、ロータリーが未整備で歩道も確保されていないため危険であったことから、再開発整備事業が計画された。[[1998年]]、狭山市駅西口地区再開発整備事業協議会において「他の沿線駅前とは明確に差別化し、自然と景観を取り込んだ狭山市らしい駅前整備を行う」方針が決定した。 しかし行政や施行予定者となった[[都市再生機構]]に対し、地権者や市議会議員を含んだ市民から見直しを求める運動が起き、このまま計画を進めることができるか、予断を許さない状況となった。計画見直し派の市民団体は[[狭山まちづくりネットワーク]](推進派の市民団体には狭山市駅西口再開発事業を推進する会がある)が中心となり、そこに複数の団体が所属した。見直しの主な要求は、予算規模の縮小。その中で2006年1月23日、地権者71名によるとする見直しを求める意見書が提出されたが、後に明らかになった名簿では実際には地権者は21名であり、物議を醸すこととなった。[[2007年]]4月17日、[[西武鉄道]]は「[http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2007/0417.pdf 2007年度鉄道事業設備投資計画]」を発表。この中で狭山市駅西口再開発事業に伴う狭山市駅駅舎改良工事は[[2007年]]度に調査・設計、[[2008年]]度着工、[[2009年]]度完成予定との計画が公表された。[[2007年]]4月の[[第16回統一地方選挙|狭山市議会議員選挙]]では再開発整備事業を掲げる市議会議員が多数を占める市議会の構成に変化はなく、計画推進の民意が示された。同年6月22日、狭山市駅西口再開発事業の権利変換計画が[[国土交通大臣]]から認可され、2007年9月着工・[[2009年]]まち開き・[[2011年]]完成予定で本格的に工事が開始されることになった([http://www.city.sayama.saitama.jp/kouhou/pdf/0707/0707_04-05.pdf 『広報さやま』平成19年7月号])。同年7月22日投開票の狭山市長選挙において、西口再開発事業の推進を掲げた現職の[[仲川幸成]]市長が再選され、西口再開発事業は引き続き推進されることになった。同年9月から駅舎の取り壊し工事が始まり、駅舎工事用地確保のため駅周辺の店舗閉鎖と住民の転居、整地も行われた。[[2008年]]11月から駅舎改築工事を開始。同月、道路の整備に伴い臨時バス乗降場を設置。同年11月から12月、「まちの愛称」が公募され、[[2009年]]3月、「スカイテラス」に決定。[[2010年]]3月25日、狭山市駅西口地区まち開きを行い、新駅舎と一部施設が供用開始。バス停留所整備等も[[2012年]]7月までに完了し、西口地区再開発事業が完成。同月14日から16日まで完成記念イベントを行った<ref>{{Cite web|和書|date=2012-07-17|url=http://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/photonews/others/kanseikinen201207.html|title=狭山市駅西口地区再開発事業 完成記念イベント|publisher=狭山市役所|accessdate=2012-07-17}}</ref>。同18日、複合型公益施設「狭山市市民交流センター」が開所、西口地区再開発事業によって整備された全施設が供用開始となり、事業は終了した。[[2014年]]5月12日、狭山市駅西口地区スカイテラスは平成26年度都市景観大賞都市空間部門において優秀賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|date=2014-05-12|url=https://www.mlit.go.jp/common/001039321.pdf|title=平成26年度都市景観大賞「都市空間部門」受賞地区の概要及び「景観教育・普及啓発部門」受賞団体の活動の概要|format=PDF|publisher=「都市景観の日」実行委員会|accessdate=2014-05-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2014-05-15|url=http://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/topics/skyterracejushou.html|title=狭山市駅西口地区スカイテラスが都市景観大賞「優秀賞」を受賞|publisher=狭山市役所|accessdate=2014-05-25}}</ref>。従来ほとんど同賞への応募の無かった私鉄沿線の駅前広場に関する事例であり、都市近郊において相次いでいる今後の市街地再開発はどうあるべきかという課題について新たなモデルを示すものとして注目された。「大型再開発ビルを建設しテナントを募集、人の流れの創出は入居した商業施設任せ」というような全国的にみられる既存の再開発事業が生んだ弊害を念頭におき、そうした没個性的な再開発の有り方とは一線を画し、狭山市の表玄関にふさわしい街づくりを模索。商業的価値の高い駅前広場にあえて大規模商業施設を誘致せず、既存市街地との接続を意識した「市民広場」を置き、新たな市民交流・回遊の場を確保、地形の高低差によって得られる[[秩父]]連山を望む遠景を生かし、環境・景観に配慮した街並みを創出したことが評価された。今後バス停等の更なる改善により歩行者視点での質的向上への期待が示された。更に同年10月1日には[[公益財団法人]][[日本デザイン振興会]]主催「2014年度[[グッドデザイン賞]](都市づくり、地域づくり、コミュニティ部門)を受賞した。複雑な敷地や地形的な特徴を計画に折り込み、多岐にわたる関係者を計画に参加させる仕組みを作った点などがくらしや産業や社会の質を向上させる優れたデザインとして評価を受けたものである<ref>{{Cite web|和書|date=2014-11-14|url=http://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/good_design.html|title=「狭山市駅西口地区スカイテラス」が、グッドデザイン賞を受賞|publisher=狭山市役所|accessdate=2014-12-24}}</ref>。一方再開発事業に合わせて狭山市駅駅舎が改築され、[[2011年]]6月8日には駅構内商業施設「[[Emio]]狭山市」が開業。同施設内に[[スーパーマーケット]]「ブルーミングブルーミー」([[いなげや|株式会社いなげや]]が運営)が[[テナント]]として入居したことにより業績不振となった[[西友]]狭山市駅前店が[[2015年]][[3月31日]]をもって閉店した<ref>[http://www.seiyu.co.jp/shop/%E8%A5%BF%E5%8F%8B%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E5%B8%82%E9%A7%85%E5%89%8D%E5%BA%97 西友狭山市駅前店]</ref>。[[1972年]]の開店以来40年以上にわたって営業していた西口の中核的商業施設が失われた。スカイテラスに大規模商業施設を誘致しなかったことから、駅前の買い物利便性の低下が懸念された。[[2019年]]2月、西口側にあった燃料会社の充填基地が[[日高市]]に移転し、新たに同社の本社屋を建設<ref>[http://www.tajima-nenryo.jp/access.html アクセス 田島燃料株式会社 狭山本社] 田島燃料株式会社</ref>。同建物にテナントとして[[ベルク (企業)|ベルク]]狭山入間川店が入居<ref>[https://www.belc.jp/topics/news/20190223_1 スーパーマーケット「ベルク狭山入間川店」 2/27(水)あさ9時 NewOpen!] 2019年2月22日 株式会社ベルク</ref>、再び西口側にも商業施設が立地するに至った。
; 狭山市駅東口土地区画整理事業
: 狭山市駅前東口周辺は区画が非常に入り組んでおり駅までのアクセスが悪いとされ、市の顔にふさわしい駅前を創出するべきであるとして、区画整理事業が長年に渡って議論された。立ち退きに難色を示す住民と行政の対立があったが、その後事業は進められ、道路の建設が行われた。2010年に道路の一部が開通し、2013年には工事箇所が東口駅前広場まで到達。2014年5月、東口駅前広場に通じる[[都市計画道路]]「狭山市駅加佐志線」が開通した。また西口地区再開発事業及び駅舎改築等に合わせ、東口駅前広場の再整備も行われ、2012年10月に完成した。2018年8月、[[埼玉県知事一覧|埼玉県知事]]による換地処分の公告が行われ<ref>[https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/sayamashieki-syuhen/higashiguchi-kukaku/horyuchi-shinki-.html 狭山市駅東口土地区画整理事業「換地処分の公告」のお知らせ] 2018年9月19日 狭山市</ref>、事業は完了した<ref>[https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/sayamashieki-syuhen/higashiguchi-kukaku/index.html 狭山市駅東口土地区画整理事業] 狭山市</ref>。2019年3月、祇園地内三柱神社横の下窪公園にて狭山市駅東口土地区画整理事業完成記念碑除幕式が挙行された<ref>[https://www.city.sayama.saitama.jp/shicho/komukiroku/3103l.html 市長の主な動き(2019年3月16日~31日)] 2019年4月15日 狭山市</ref>。
==== 入曽駅周辺 ====
; 入曽駅周辺地区整備事業
: 入曽駅は元々農村部であった地域に古い時期に開業しており、開業時には大掛かりな都市計画などもなく、駅周辺は商店や住宅が[[明治|明治時代]]・[[大正|大正時代]]以来混在・密集するようになったまま100年以上の時が過ぎていた。人や車の通行も多い一方で、駅前に通じる道路はいずれも狭隘であり、歩道も整備されていない。駅前は開業時以来の極めて狭い空間を有するのみであり、ロータリーや[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]がないことから、[[路線バス]]の進入も危険な状態となっている。このため[[1980年]]の跨線橋完成を機に、再開発の検討が始まったが、[[1996年]]の西口開設を経ても進展はなかった。西口側には[[武蔵野]]の面影を残す農地や[[雑木林]]が広がっていたが、駐車場や資材置き場に転用されるようになり、駅前にふさわしくない無秩序な土地利用が懸念されていた。
: [[2000年代]]に入り、入曽駅東口地区整備事業および入曽駅周辺地区区画整理事業が計画された。狭山市は[[1995年]]に狭山市立入間小学校(当時)の校地の一部を割いて「入曽駅周辺開発事務所」を設置し、地権者・住民との合意形成に努めたものの、一部地権者の反対が強く、具体的な進展は見られなかった。[[2008年]]10月には入曽駅東口地区約6.9ヘクタールを土地区画整理事業の手法で開発する基本構想を決定したが、その後も地権者との合意形成が進まなかったため、土地買収方式で事業を進める方針に転換。[[2011年]]3月には事業地内の[[狭山市立入間小学校]]を廃校とし、学校敷地(1万3千平方メートル)を再開発に伴う移転・代替用地に当て、再開発事業開始への準備を進めた。同年8月から11月にかけて全地権者に意向確認調査を実施。東口地区北側が南側に比して事業開始に賛同する意見が多く、[[いるま野農業協同組合]]・[[狭山茶]]業農業協同組合・[[飯能信用金庫]]入曽支店などが用地買収に同意の方向を示したことから、北側約4ヘクタールについて先行整備する方針を立てた。しかし事業地内の駅前大手地権者(1法人2個人)と土地買収金額などの面でなおも折り合わず、駅前大手地権者が事業反対の意向を示したため、ついに[[2013年]]5月、狭山市は地権者の協力が得られず今後の見通しが立たないことなどを理由に両計画の実施を断念し計画を凍結する方針を明らかにした<ref>[http://www.saitama-np.co.jp/news05/31/03.html 狭山市、入曽駅東口の再開発断念 地権者の合意得られず] 2013年5月31日 [[埼玉新聞]]</ref><ref>[https://r.nikkei.com/article/DGXNZO55879680V00C13A6L72000 狭山市、入曽駅周辺の市街地開発を断念 地権者の同意得られず] 2013年6月5日 日本経済新聞</ref>。「今後も整備を市の重要な政策課題として位置付けていく」(入曽駅周辺開発事務所)としながらも、同年10月、「入曽駅周辺開発事務所」は閉鎖され、狭山市役所内に移された。翌[[2014年]]3月31日をもって入曽駅周辺開発事務所は都市建設部都市計画課に統合され廃止となった。
: その後改めて再開発推進が図られることになり、市は[[2016年]]度予算に調査費を計上、再び計画が立てられることになった。[[2017年]]11月、市は凍結した前回の計画の規模を縮小し、駅周辺全体の大掛かりな区画整理は行わない新計画案を提示<ref>[https://mainichi.jp/articles/20171115/ddl/k11/020/171000c 狭山・入曽駅周辺の再開発 規模縮小し新計画案 市が提示へ/埼玉] 2017年11月15日 毎日新聞埼玉版</ref>、[[2018年]]2月、入曽駅周辺整備事業基本計画(案)<ref>[http://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/toshimasterplan2.files/irisokihonkeikaku.pdf 入曽駅周辺整備事業 基本計画(案)] 狭山市</ref>の具体的な内容が公表された。駅東口地区については、前回計画の段階で地権者との合意形成が出来ていた駅北側約4ヘクタールを中心に、合意形成可能な区域において再開発を行う方針が示された。当初再開発に伴う移転・代替用地に充てる予定であった狭山市立入間小学校跡地に民間事業者を誘致し、複合型商業施設等を建設、狭山茶業農業協同組合より買収した土地に駅前広場を整備、また既存道路とのアクセス道路を敷設する。また駅西口も再整備し、現在市営駐輪場として使用されている場所などに西口駅前広場を設け、アクセス道路を敷く。駅舎を改築し、狭山市駅側に橋上駅舎を建設、線路と既存の道路を跨ぐ東西自由通路を設けるという。市は既に狭山茶業農業協同組合より土地を取得、[[2016年]]度から駅前広場につながる道路の建設が始まっている。新たな開発範囲にかかる地権者からの同意も得ており、比較的広く取られている駅敷地を用い駅舎の全面改築等を行うため、西武鉄道側との協議に入っている。市は[[2018年]]2月から3月、[[パブリックコメント]]を募集<ref>[http://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/toshimasterplan2.html 入曽駅周辺整備事業基本計画(案)に関する意見を募集します] 2018年2月13日 狭山市</ref>、寄せられた意見に対する市の考えを公表した上で、入曽駅周辺整備事業基本計画を決定する。[[2018年]]度中の計画事業化を目指しており、事業完了は[[2020年]]度以降になる見通しという。
=== 広域行政 ===
'''[[一部事務組合]]'''
* [[広域飯能斎場組合]] - 飯能市、日高市とともに、[[火葬場]]・葬祭場・[[霊柩車]]の設置・運営事務を行なっている。
* [[埼玉西部消防組合]] - 当市、所沢市、入間市、飯能市、日高市の5市により組織された[[消防組合]]。
* [[埼玉県都市ボートレース企業団]] - 飯能市、[[加須市]]、[[本庄市]]、[[東松山市]]、入間市、[[春日部市]]、[[羽生市]]、[[鴻巣市]]、[[深谷市]]、[[上尾市]]、[[草加市]]、[[越谷市]]、[[朝霞市]]、[[さいたま市]]とともに[[戸田競艇]]の開催に関する事務を行っている。
'''[[協議会]]'''
* 埼玉県西部地域まちづくり協議会 ‐ 入間市、日高市、所沢市、飯能市とともに5市圏域の市民を対象とした交流事業(講演会やウォーキング大会などのイベント開催や、観光パンフレットの発行や[[図書館]]やスポーツ施設などの[[公共施設]]の相互利用及び広域での事業実施に向けた検討を行っている。
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{Main|狭山市議会}}
[[2023年]]4月10日現在
* 議員定数:22
* 議長:太田博希(改進)
* 副議長:[[土方隆司]](新政みらい)
* 任期:[[2019年]]5月1日 - [[2023年]]4月30日
* 会派:◎は会派代表者。( )内数字は当選回数。
** [[公明党]](4議席):◎齋藤誠(4)・加賀谷勉(4)・綿貫伸子(3)・広山清志(1)
** はつらつ創造(4議席):◎金子広和(3)・中村正義(9)・大島政教(8)・西塚和音(2)
** 改進(4議席):◎三浦和也(3)・太田博希(3)・笹本英輔(3)・福田正(1)
** [[日本共産党]](3議席): ◎大沢えみ子(日野恵美子)(7)・橋本亜矢(1)・衣川千代子(2)
** [[自由民主党 (日本)|自由民主党]](2議席):◎千葉良秋(2)・田村秀二(7)
** 新政みらい(2議席):◎内藤光雄(3)・土方隆司(八木隆幸)(3)
** 市民派無所属(2議席):◎高橋ブラクソン久美子(高橋久美子)(6)・田中寿夫(2)
** 欠員1
* [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]推薦<ref>[http://www.jimin-saitama.net/h31_senkyo/pdf/sayama_shigi.pdf 平成31年統一地方選挙狭山市議会議員選挙推薦候補者一覧] 2019年2月6日 自由民主党埼玉県支部連合会</ref>:田村秀二・太田博希・笹本英輔・土方隆司・千葉良秋
* [[日本労働組合総連合会|連合埼玉]]推薦<ref>[https://web.archive.org/web/20160806010843/http://www.rengo-saitama.jp/html/vote2011/sayama.html 連合埼玉推薦議員一覧 狭山市 狭山市議会] 2016年8月6日 日本労働組合総連合会埼玉県連合会</ref>:内藤光雄
=== 県議会 ===
西4区。定数は2人。近年選出の議員は以下のとおり。
* [[第20回統一地方選挙|埼玉県議会議員選挙]](2023年4月)
** 東山徹(1・自民党公認)
** 中川浩(4・無所属)
* [[第19回統一地方選挙|埼玉県議会議員選挙]](2019年4月)
** 本木茂(5・自民党公認)
** 中川浩(3・無所属)
* [[第18回統一地方選挙|埼玉県議会議員選挙]](2015年4月)
** 本木茂(4・自民党公認)
** 中川浩(2・無所属・プロジェクトせんたく推薦)
* [[第17回統一地方選挙|埼玉県議会議員選挙]](2011年4月)
** 本木茂(3・自民党公認)
** 中川浩(1・[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]公認)
* [[第16回統一地方選挙|埼玉県議会議員選挙]](2007年4月)
** 本木茂(2・自民党公認)
** 北村浩(1・無所属・民主党推薦・政治団体新風21推薦)
* [[第15回統一地方選挙|埼玉県議会議員選挙]](2003年4月)
** 本木茂(1・無所属・自民党推薦)
** 諸口高男(1・無所属・自民党推薦)
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[埼玉県第9区|埼玉9区]]([[飯能市]]、狭山市、[[入間市]]、[[日高市]]、[[入間郡]]([[毛呂山町]]、[[越生町]]))
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:404,689人
* 投票率:55.44%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[大塚拓]] || align="center" | 48 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 117,002票 || align="center" | ○
|-
| || 杉村慎治 || align="center" | 45 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] ||align="center" | 新 || align="right" | 80,756票 || align="center" | ○
|-
| || 神田三春 || align="center" | 67 || [[日本共産党]] ||align="center" | 新 || align="right" | 21,464票 ||
|}
== 経済 ==
=== 工業 ===
[[川越狭山工業団地|川越狭山]]と[[狭山工業団地|狭山]]の2つの[[工業団地]]があり、[[ホンダ・オデッセイ|オデッセイ]]や[[ホンダ・レジェンド|レジェンド]]<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC15A2F0V10C21A6000000/?unlock=1 ホンダ、FCV生産中止 販売低調で] - [[日本経済新聞]] (日経電子版) 2021.06.15 会員限定記事であるが、「クラリティ、レジェンド、オデッセイの打ち切りは、生産拠点である狭山工場(埼玉県狭山市)を21年度中に閉鎖することに伴う措置」という文言がある。</ref>などを製造する[[本田技研工業]] (ホンダ)の埼玉製作所(2021年閉鎖)を筆頭に、製造品出荷額県下1位と埼玉県一の[[工業都市]]となっている。
市制施行時は特産物「[[狭山茶]]」により[[農業]]都市というイメージが強かったが、市政施行後の[[1955年]](昭和30年)12月「狭山市工場誘致条例」を制定し、積極的に企業誘致を行った。翌年9月には工場誘致第1号として日本クロス工業(現在の[[ダイニック]])が進出<ref>[[1996年]]、[[深谷市]]の同社埼玉工場に統合移転。跡地には[[イオンマルシェ#カルフール・ジャパン時代|カルフール]]狭山が出店。</ref>。以後工場誘致は順調に進み、市内各地に[[大企業]]の大型工場が進出した。[[1966年]](昭和41年)に川越狭山工業団地、[[1973年]](昭和48年)には狭山工業団地が相次いで完成。2つの大型工業団地を有する工業都市へと変貌した。[[1982年]](昭和57年)以降現在まで製造品出荷額[[埼玉県]]内第1位となっており、県内最大の工業都市となっている。企業誘致は現在も行っている。[[首都圏中央連絡自動車道]][[狭山日高インターチェンジ]]の開設と[[埼玉県道126号所沢堀兼狭山線]]の全線開通を受け、[[2015年]]、狭山工業団地の2地区(東地区(柏原北)と西地区(上広瀬))の拡張と土地区画整理事業実施が決まった。
* 川越狭山工業団地 - [[本田技研工業]]埼玉製作所、[[ロッテ]]狭山工場、[[住友電装]]狭山工場、[[全酪]](ジャパンミルクネット)狭山工場、[[紀文フードケミファ]]埼玉工場・新埼玉工場、工進精工所・狭山工場など
* 狭山工業団地 - [[小岩井乳業]]東京工場、[[大日本印刷]]狭山工場、[[鷺宮製作所]]狭山事業所、[[八千代工業]]本社・柏原工場など。倉庫や配送・物流センターなども立地。
* [[コーセー]]狭山工場・入曽工場、[[入間川ゴム]]本社工場、[[シチズンマイクロ]]本社工場、山本製作所入間川事業所
=== 農業 ===
[[農業協同組合|JA]]・[[いるま野農業協同組合]]管内である。地物の野菜が市内のスーパーの店頭に並んでいることも多いが農業は衰退している。
入曽駅近くに埼玉県内の狭山茶生産地域全域を管内とする狭山茶業農業協同組合があり、生産者約280名が加盟している。
[[ファイル:A-Coop Iruma.jpg|thumb|200px|right|[[エーコープ]]JAファーマーズ入間]]
; 狭山茶 : [[茶]]は隣接する[[入間市]]などと共通の名産である。主産地は入間市。狭山市内では入曽・堀兼地区が主要産地であるが、茶畑は減少傾向にある。長らく入間市に次ぐ生産高を維持していたものの、1990年代以降は[[所沢市]]とほぼ同程度の数値となり、2000年代以降は所沢市の生産高をも下回るようになっている。
; [[さといも]] : 隣接する入間市や所沢市などと共通の名産。さといもをつくっている農家はかなり減少しているが、高級品として扱われており、[[東京]]や[[京都府|京都]]の高級料亭で使われる。ただ地元ではあまり知られていない。
; 入間[[ゴボウ|ごぼう]] : 主産地は狭山市。かつては[[東京]]から京都・[[大阪府|大阪]]まで広く出荷された特産物であったが現在作付面積は大幅に減少している。
; 入間[[ニンジン|にんじん]] : かつては非常に多く出荷されたが現在作付面積は大幅に減少している。
; 観光[[ブドウ|ぶどう]]園 : 入曽地区を中心に市内に点在。手軽なレジャーやイベント・学校の[[遠足]]などで利用されている。
=== 商業 ===
商業圏では、[[国道16号]]線にそよら武蔵狭山(イオンスタイル武蔵狭山)が存在する。
* そよら武蔵狭山(イオンスタイル武蔵狭山)
=== 金融 ===
* [[みずほ銀行]]新所沢支店狭山出張所<ref>[[2017年]]11月20日、新所沢支店内に移転([https://shop.www.mizuhobank.co.jp/b/mizuho/info/BA339049/ 狭山出張所] みずほ銀行 出張所店舗内にあった[[現金自動預け払い機|ATM]]は狭山市駅東口出張所に移転([https://shop.www.mizuhobank.co.jp/b/mizuho/info/BA842720/ 狭山市駅東口出張所(ATM)] みずほ銀行)。</ref>
* [[三菱UFJ銀行]]狭山支店<ref>[[2021年]]2月15日、所沢支店・所沢中央支店内に移転。跡地には[[現金自動預け払い機|ATM]]設置([https://map.bk.mufg.jp/b/bk_mufg/info/BA592409/ 狭山支店] ATM・店舗のご案内 三菱UFJ銀行)。</ref>
* [[埼玉りそな銀行]]
** 狭山支店
** 新狭山支店
* [[武蔵野銀行]]
** 狭山支店
** 入曽支店<ref>2021年7月12日、狭山支店内に移転([https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC208X90Q1A520C2000000/ 武蔵野銀行、狭山支店と入曽支店を集約 店舗内店舗4例目] 2021年5月21日 日本経済新聞 [http://www.musashinobank.co.jp/irinfo/news/pdf/2021/0514release.pdf 「入曽支店」の移転について ~ブランチ・イン・ブランチ方式で「狭山支店」内に移転~] 2021年5月14日 News Release 武蔵野銀行)。店舗跡地近隣の[[ヤオコー]]入曽店内に[[現金自動預け払い機|ATM]]設置。</ref>
** 狭山西支店<ref>2021年10月11日、狭山西支店と入間支店が[[丸広百貨店入間店]]内の同一店舗に移転([http://www.musashinobank.co.jp/irinfo/news/pdf/2021/newsrelease20210728.pdf 入間支店および狭山西支店のリニューアル移転について~当行初のインストアブランチとして丸広入間店内に移転します~] 2021年7月28日 News Release 武蔵野銀行)。狭山西支店跡地には[[現金自動預け払い機|ATM]]設置。</ref>
* [[埼玉縣信用金庫]]狭山支店
* [[飯能信用金庫]]
** 入曽支店
** 狭山西支店
** 狭山支店
**新狭山支店<ref>2021年6月7日、狭山支店と新狭山支店が狭山市立中央公民館跡地に移転。新店舗名称は「狭山支店」([https://www.shinkin.co.jp/hanno/news/20/20201127_1.pdf 狭山支店・新狭山支店は令和3年6月(予定)に移転いたします。新しい支店名は「狭山支店」となります。] 2020年10月11日 飯能信用金庫 [https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC076U20X00C21A6000000/ 飯能信用金庫、狭山市駅前に2支店移転 情報一元化] 2021年6月7日 日本経済新聞)。新狭山支店跡地には[[現金自動預け払い機|ATM]]設置([https://www.shinkin.co.jp/hanno/branch_atm/tenpo/023.html 新狭山支店(店外ATM)] 飯能信用金庫)。</ref>
* [[青梅信用金庫]]狭山支店<ref>[[2019年]]5月20日、富士見一丁目地内から祇園地内狭山市駅西口再開発地区に移転([https://www.aosyn.co.jp/content/files/news/sayama.pdf 狭山支店 新築移転オープン!] 2019年5月20日 青梅信用金庫 [https://www.aosyn.co.jp/content/files/news/190412sayama.pdf 青梅信用金庫狭山支店 移転オープンのお知らせ] 2019年4月 青梅信用金庫)。</ref>
* [[中央労働金庫]]狭山支店<ref>2019年2月12日、新狭山二丁目地内から入間川一丁目地内[[NTT東日本]]狭山ビルに移転([https://chuo.rokin.com/attention/__icsFiles/afieldfile/2019/01/22/20190122_sayama.pdf 「狭山支店」の店舗移転について] 2019年1月22日 中央労働金庫)。</ref>
* JA[[いるま野農業協同組合]]
** 狭山支店
** 柏原支店
** 水富支店
** 入曽支店
** 堀兼支店
** 奥富支店
=== その他の企業 ===
* [[狭山ケーブルテレビ]](S-CAT) - [[ケーブルテレビ]]局([[1992年]]設立・[[1995年]]開局・放送開始)
* [[八千代工業]]
* [[ランシステム]](本店、本社は[[池袋]]に所在)
== 姉妹都市・提携都市 ==
* {{Flagicon|JPN}}[[津南町]]([[新潟県]][[中魚沼郡]])
: [[1997年]][[1月30日]]友好都市提携
* {{Flagicon|JPN}}[[厚木市]]([[神奈川県]]) [[1996年]][[7月24日]]防災姉妹都市提携
* {{Flagicon|KOR}} [[統営市]]([[大韓民国]])
*:[[1973年]][[7月4日]]姉妹都市提携(当時は忠武市)。2005年、[[島根県]]で「竹島の日」条例が成立した事を受け、統営市側から交流を中断<ref>[[毎日新聞]]2005年3月18日</ref>。しかし、2006年10月24日には統営市国際交流協会訪問団が来訪した<ref>狭山市国際交流協会ニュースレターNo.162</ref>。
* {{Flagicon|USA}} [[ワージントン (オハイオ州)|ワージントン市]]([[アメリカ合衆国]][[オハイオ州]])
*: [[1999年]][[11月1日]]姉妹都市提携
* {{Flagicon|CHN}} [[杭州市]]([[中華人民共和国]])
*: [[1996年]][[7月8日]]友好都市提携
== 教育 ==
=== 小学校 ===
* 狭山市立入間川小学校
* 狭山市立入間川東小学校(狭山市立入間川小学校分教場を独立した小学校に改組)
* 狭山市立富士見小学校
* [[狭山市立南小学校]]
* [[狭山市立山王小学校]]
* 狭山市立入間野小学校
* 狭山市立御狩場小学校
* 狭山市立狭山台小学校
* 狭山市立堀兼小学校
* [[狭山市立新狭山小学校]]
* 狭山市立奥富小学校
* 狭山市立柏原小学校
* 狭山市立水富小学校
* 狭山市立広瀬小学校
* 狭山市立笹井小学校
* [[西武学園文理小学校]]
=== 中学校 ===
* [[狭山市立西中学校]]
* [[狭山市立入間川中学校]]
* 狭山市立中央中学校
* 狭山市立山王中学校
* 狭山市立入間野中学校
* 狭山市立狭山台中学校
* [[狭山市立堀兼中学校]]
* 狭山市立柏原中学校
* [[西武学園文理中学校・高等学校|西武学園文理中学校]]
=== 高等学校 ===
* [[埼玉県立狭山清陵高等学校]] - [[全日制]]。
* [[埼玉県立狭山工業高等学校]] - 全日制。
* [[埼玉県立狭山経済高等学校]] - 全日制。
* [[埼玉県立狭山緑陽高等学校]] - [[定時制]]。[[2008年]]4月、[[埼玉県立狭山高等学校]]の旧校地に新設。
* [[秋草学園高等学校]] - 全日制(女子のみ)。
* [[西武学園文理中学校・高等学校|西武学園文理高等学校]] - 全日制。
=== 特別支援学校 ===
* 埼玉県立狭山[[特別支援学校]]
=== 短期大学 ===
* [[武蔵野短期大学]]
=== 大学 ===
* [[東京家政大学]] 狭山キャンパス
**看護学部・こども学部の他、地域連携協力推進センターが設置されている。
* [[西武文理大学]]
* [[武蔵野学院大学]]
=== 各種学校 ===
* [[社団法人]]狭山市医師会立狭山准看護学校
==== かつて存在した学校 ====
===== 小学校 =====
* [[狭山市立入間小学校]]
**[[2011年]]3月閉校。学区は狭山市立入間野小学校・[[狭山市立南小学校]]の両校学区に分割編入。入間小学校跡地には[[道路]]や入曽駅前再開発にかかる複合型商業施設等を建設する計画が検討されている。
* 狭山市立狭山台北小学校
* 狭山市立狭山台南小学校
**[[2010年]]3月、狭山市立狭山台北小学校と狭山市立狭山台南小学校を閉校。同年4月、両校を統合し、旧狭山台南小学校校舎に「狭山市立狭山台小学校」を新規開校。[[2012年]]、旧狭山台北小学校校舎に生涯教育・社会教育等施設「狭山元気プラザ」、狭山市医師会立狭山准看護学校を移設した。
===== 中学校 =====
* [[狭山市立入間中学校]]
**[[2015年]]3月閉校。学区は[[狭山市立入間野中学校]]・[[狭山市立山王中学校]]の両校学区に分割編入。[[2020年]]4月、跡地に入曽公民館が移転し、入曽地域交流センターとして新たに開所した。今後防災公園も整備される。
* [[狭山市立東中学校]]
**[[2016年]]3月閉校。学区は狭山市立中央中学校・狭山市立狭山台中学校・[[狭山市立山王中学校]]の各校学区に分割編入。
===== 高等学校 =====
* [[埼玉県立狭山高等学校]] - 全日制・定時制併設。[[2008年]]3月閉校。
* [[埼玉県立川越高等学校]]入間川分校 - 定時制。跡地は旧中央公民館・旧中央図書館。
===== 短期大学 =====
* [[埼玉女子短期大学]] - [[1999年]]、全学[[日高市]]に移転。
* [[文理情報短期大学]] - [[1999年]]、4年制化し西武文理大学開校。
===== 専修学校 =====
* 駒野家政専修学校 - [[1965年]]10月設置認可、[[1966年]]4月開校、[[2006年]]3月廃校。
== 公共機関 ==
[[ファイル:Sayama health center 1.JPG|thumb|250px|狭山保健所]]
=== 消防 ===
* [[埼玉西部消防組合]]:狭山、所沢、入間、飯能、日高の5市で構成される。消防広域化前は[[狭山市消防本部]]であった。
** 狭山消防署(上奥富)
*** 富士見分署(中央4丁目)
*** 広瀬分署(広瀬2丁目)
*** 水野分署(水野)
* [[消防団|狭山市消防団]]
=== 警察 ===
* [[狭山警察署]]
* [[埼玉県警察]]地域部[[都道府県警察航空隊|航空隊]](狭山市稲荷山・航空自衛隊入間基地内)
=== 国の機関 ===
* [[防衛省]][[航空自衛隊]][[入間基地]]
* 防衛省航空自衛隊[[航空総隊]][[中部航空方面隊]][[司令部]]
* 防衛省航空自衛隊航空総隊[[航空救難団]]司令部
<!-- * [[法務省]] さいたま地方[[法務局]]狭山出張所([[2005年]][[5月2日]]廃止、所沢支局に統合) -->
=== 県の機関 ===
* 狭山[[保健所]]
== 交通 ==
=== 鉄道路線 ===
* [[西武鉄道]]
** [[File:SeibuShinjuku.svg|25px]][[西武新宿線|新宿線]]
*** [[入曽駅]] - '''[[狭山市駅]]''' - [[新狭山駅]]
** [[File:SeibuIkebukuro.svg|25px]][[西武池袋線|池袋線]]
*** [[稲荷山公園駅]]
==== かつて通っていた鉄道 ====
* [[入間馬車鉄道]]
* [[中武馬車鉄道]]
=== 路線バス ===
* [[西武バス]]:[[西武バス狭山営業所|狭山営業所]]のほか、[[西武バス川越営業所|川越営業所]]・[[西武バス飯能営業所|飯能営業所]]管轄路線が運行されている。
=== コミュニティバス ===
* [[狭山市内循環バス]]「茶の花号」
== 観光 ==
=== 名所 ===
* 狭山市立[[智光山公園]] : [[狭山市立智光山公園こども動物園|こども動物園]]・都市緑化植物園・菖蒲園・市民総合体育館・テニスコート・キャンプ場・狭山市営[[へら鮒]]釣場「智光山公園前山の池」
**園内にあった狭山市立「智光山荘」(宿泊施設)は施設老朽化等のため[[2018年]]3月31日をもって閉館となった<ref>[https://www.city.sayama.saitama.jp/shisetsuannai/sports/chikozanso/index.html 智光山荘 智光山荘の閉館のお知らせ] 2018年3月31日 狭山市</ref>。
* 埼玉県立[[狭山稲荷山公園]] : [[サクラ|桜]]の名所・[[狭山稲荷山公園#さやま大茶会|さやま大茶会]]会場([[11月]])
* 狭山市立博物館 : 埼玉県立狭山稲荷山公園内
* 武蔵野狭山林間コース入曽フィールドアスレチック : [[1976年]]9月開園。[[2001年]]廃園。廃園後跡地の一部は野外イベントスペース「ロッジ水野の森」となっている。
=== 史跡 ===
* 今宿遺跡:[[縄文時代]]住居跡
* [[広瀬神社 (狭山市)|広瀬神社]]:[[延喜式内社]]
* [[清水八幡宮]]:[[源義高 (清水冠者)|木曽義高]]墓所
* 福聚山徳林寺:[[新田義貞]]着陣、第十三代[[横綱]][[鬼面山谷五郎]](武隈家)墓所、綿貫家墓所
* 狭山八幡神社:八幡神社本殿、新田義貞「駒繋ぎの松」、[[足利基氏]][[入間川御陣]]跡<ref>入間川御陣の正確な位置は不明だが、徳林寺旧境内(入間川2丁目19番地北方)付近から八幡神社一帯にあったと見られている。</ref>
* 堀兼之井:埼玉県指定[[史跡]]、武蔵野台地に多く造られた「[[まいまいず井戸]]」の一つ
* 七曲井:埼玉県指定史跡、武蔵野台地に多く造られた「まいまいず井戸」の一つ
* 城山砦跡:中世城郭遺跡([[上杉憲政]]着陣)
* [[清水浜臣]]墓:旧・安穏寺境内跡
* 稲荷山公園古墳群 : 狭山稲荷山公園内
* 天岑寺惣門 : 天岑寺境内
* 広福寺山門:広福寺境内
=== 諸施設 ===
* 堀兼・上赤坂公園(旧称「赤坂の森公園」) : [[ちふれASエルフェン埼玉]]旧ホームグラウンド
* 狭山市市民健康文化センター「サンパーク奥富」・下奥富河川敷公園に隣接
* ふれあい健康センターサピオ稲荷山 : 温水プール・トレーニング施設等。埼玉県立狭山稲荷山公園に隣接
* 東京ゴルフ倶楽部 「東京ゴルフ倶楽部クラブハウス」は国の[[登録有形文化財]](建造物)<ref>[http://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/rekishi/tourokuyuukeibunkaza.html 「東京ゴルフ倶楽部クラブハウス」が国の登録有形文化財に登録] 2018年11月8日 狭山市</ref>
=== 催し ===
* [[狭山入間川七夕まつり]]([[8月]]第1[[土曜日]]・[[日曜日]]) [[関東三大七夕祭り]]として知られる。
* [[入間基地]]航空祭([[11月3日]])
* [[梅宮神社の甘酒祭り]]([[2月10日]]・[[2月11日|11日]])
== 狭山市在住・ゆかりのある人物 ==
* [[政治]](上記以外)
** [[清水宗徳 (政治家)|清水宗徳]]([[明治|明治時代]]の政治家・実業家 [[埼玉県議会]]議員を経て[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]][[衆議院議員]]、[[川越鉄道]]創立委員、[[入間馬車鉄道]]社長)
** [[清水逸平]](狭山市[[名誉市民]]。元衆議院議員、旧[[埼玉県第2区 (中選挙区)|埼玉2区]]選出 [[民主自由党 (日本)|民主自由党]]。入間川ゴム会長)
** [[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]](旧[[大日本帝国陸軍]]軍人、元[[陸軍中将]]、平和運動家。市内に在住)
** [[矢島恒夫]](元[[衆議院議員]] 旧[[埼玉県第2区 (中選挙区)|埼玉2区]]・[[比例代表]][[比例北関東ブロック|北関東ブロック]]選出 [[日本共産党]]所属)
** [[長谷川清 (政治家)|長谷川清]](元[[参議院議員]] [[比例代表]]選出 [[民社党]]・[[新進党]]・[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]所属 市内に在住)
** [[平山誠]](元[[参議院議員]] 比例代表選出 [[みどりの風]])
** [[増島徳]](元飯能市長)
* [[文学]]
** [[西沢正太郎 (作家)|西沢正太郎]]([[児童文学]][[作家]]・市内出身)
** [[津村節子]]([[作家]]・戦時中旧[[入間川町]]に疎開し、戦後もそのまま在住した)
** [[土家由岐雄]]([[児童文学]][[作家]]・市内に在住した)
** [[吉野弘]]([[詩人]]・市内に在住した)
** [[さねとうあきら]](児童文学作家・市内に在住)
** [[大道珠貴]](作家・市内に在住)
** [[青木淳悟]](作家)
* [[芸術]]
** [[池原昭治]]([[画家]]・市内に在住)
** [[津森千里]]([[ファッションデザイナー]]・市内出身<ref>『[http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201202090183.html 津森千里さんインタビュー ハッピーになれる服作る]』 2012年2月10日 [[朝日新聞デジタル]]</ref>)
** [[栗原大輔]](画家・[[指揮者]]・[[声楽家]]・市内に在住)
** [[鈴木エドワード]]([[建築家]])
** [[荒木哲郎]]([[アニメーション]]演出家・アニメーション監督)
** [[金山明博]]([[アニメーター]]・市内に在住)
** [[風間健介]]([[写真家]]・市内に在住)
* 芸能
**[[風間志織]]([[映画監督]])
** [[貴水博之]]([[歌手]])
** [[酒井法子]](タレント・小学生時代を過ごす)
** 首藤義勝(ミュージシャン・[[KEYTALK]]のベースボーカル)
** [[関口大輔]]([[映画プロデューサー]]、ドラマ[[プロデューサー]])
** [[小田崎諒平]]([[俳優]])
** [[塚本信夫]]([[俳優]]・市内に在住した)
** [[中島義実]]([[俳優]]([[子役]]))
** [[平山亨]]([[テレビプロデューサー]]・市内に在住)
** [[細野晴臣]](ミュージシャン・市内にあった[[米軍ハウス]](通称:[[狭山アメリカ村|アメリカ村]])に在住した<ref>アルバム「[[HOSONO HOUSE]]」のクレジットにローマ字で当時の自宅が狭山市鵜ノ木にあった事が書かれていた。「Record at Hosono House 所在番地Unoki Sayama Saitama」と記載されていた。</ref>。)
** [[宮田愛理]]([[俳優|女優]])
** [[吉沢秋絵]]([[俳優|女優]])
** [[りりィ]](歌手・市内に在住し、長男[[FUZZY CONTROL|JUON]](ミュージシャン)を育てた)
** [[ローラ (モデル)|ローラ]]([[ファッションモデル]]・狭山市生まれ)
** 麻田浩(シンガーソングライター、プロデューサー・市内にあった米軍ハウス(通称:アメリカ村)に在住した)
** [[小坂忠]](歌手・市内にあった米軍ハウス(通称:アメリカ村)に在住した)
** [[KINYA (タレント)|KINYA]](タレント、市内に在住した)
** [[だいたひかる]]([[お笑い芸人]]、小学生時代を過ごす)
** [[晋平太]]([[ラッパー]])
** [[長沢美月]](ファッションモデル・市内出身)
**浜田太一(ザ・ニュースペーパー)
**[[こじま観光]](お笑い芸人)
* [[アナウンサー]]
** [[塚田文]](現在[[ニチエンプロダクション]]所属、元・[[山口放送]])(元・西武ライオンズマスコットガール)([[埼玉県立狭山清陵高等学校]] 卒業 堀兼地区東三ツ木在住)
** [[鏡和臣]](NHKアナウンサー)
** [[加藤シルビア]]([[TBSテレビ|TBS]][[日本のアナウンサー|アナウンサー]]・狭山市生まれ)
* スポーツ
** [[河野友軌]](元・[[プロ野球選手]] [[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]])
** [[原田慎太郎 (サッカー選手)|原田慎太郎]]([[サッカー選手]])
** [[平原康多]]([[競輪選手]])※15歳(中学3年生)以降。
* その他
** 高篠静雄([[ウォークマン]]開発者)
** [[内野二朗]](キョードー・グループ創立者)
** [[池田邦吉]]([[ノストラダムス]]研究家・市内に在住)
** 前原タケル(漫画家・市内に在住)
== 特産 ==
; [[イワシ|いわし]][[ふりかけ]]「さやま」
: 通称「さやまふりかけ」。[[1979年]]、子供の[[カルシウム]]不足問題を解消するため、当時の市長町田佐一が自ら考案(町田は旧制[[東京農業大学]]出身で、[[農芸化学]]を専門としていた)し、[[丸美屋食品工業]]と共同開発・商品化したふりかけ。[[イワシ|いわし]]を利用したもの。市内小中学校の[[給食]]時の献立に使用。当時余剰政府米が盛んに[[学校給食]]に利用され、[[パン]]に代わって[[米飯]]が給食の主流となる中、一時は周辺市町村の学校給食の献立にも採用されていた。狭山市役所のほか市内の[[スーパーマーケット]]・[[茶]]店・[[農業協同組合|農協]]等で販売し、一般にも流通した。現在も給食で出されており、また販売もされている。ただし、[[ローカル]][[商品]]のため、市外での流通・販売はほとんどない。
; 狭山[[抹茶]]「明松」(みょうしょう)
: [[1990年]]、「さやま大茶会」開催に合わせ、狭山市において新たに商品化された抹茶。
;「さやまっ茶プリン」
: 狭山市内の小中学校の給食に出されている。
== 狭山市に本拠を置くスポーツ ==
* [[セコムラガッツ]]([[ジャパンラグビートップリーグ]])
* [[ASエルフェン埼玉|ちふれASエルフェン埼玉]]([[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]])
* [[Honda硬式野球部]](2022年に[[寄居町]]・[[小川町]]に登録を移転)
* [[鷺宮製作所硬式野球部#鷺宮製作所狭山硬式野球部|鷺宮製作所狭山硬式野球部]](2002年に解散)
* [[ホンダルミノッソ狭山FC]](2011年に解散)
== 狭山市を舞台にした作品 ==
* ドラマ
** 「[[さわやか3組]]」 - [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]で放映されている、[[小学生|小学3・4年生]]向けの学校[[教育]](教科は[[道徳教育|道徳]])[[テレビドラマ|ドラマ]]。狭山市立南小学校が1999年度放送分の舞台となった(2006年再放送)。
* 映画
** 「[[そうして私たちはプールに金魚を、]]」 - 狭山市内の中学校で実際に起きた事件を元にしている[[短編映画]]。
* 漫画
** 「[[椿ナイトクラブ]]」 - [[入曽駅]]付近がモデルとなっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[大阪狭山市]] - [[大阪府]]南河内地域の市である。[[1987年]]10月1日の市制施行日には狭山市と名乗っていたものの、当市と同一市名となるため、原則として同一市名を認めない[[自治省]]の方針に基づき即日現在の市名へ改名した。(参考 [[市#市の名称]])
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{Official website}}
* [https://www.sayama-kanko.jp/ 狭山市観光協会]
* {{Googlemap|狭山市}}
{{Geographic Location
|Centre = 狭山市
|North =
|Northeast = [[川越市]]
|East =
|Southeast = [[所沢市]]
|South =
|Southwest = [[入間市]]
|West = [[飯能市]]
|Northwest = [[日高市]]
}}
{{埼玉県の自治体}}
{{狭山市の町・字}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:さやまし}}
[[Category:埼玉県の市町村]]
[[Category:狭山市|*]]
[[Category:1954年設置の日本の市町村]]
|
2003-07-16T07:18:40Z
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E5%B8%82
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11,506 |
稲荷山公園駅
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稲荷山公園駅(いなりやまこうえんえき)は、埼玉県狭山市稲荷山一丁目にある、西武鉄道池袋線の駅である。駅番号はSI22。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。線路とホームは駅の東側で南向きにカーブしていて、その辺りには屋根はない。なお、ホームの一部に列車との間隙が広い箇所がある。
2番ホームに接した南口には自動券売機が設置されていないが、始発より終電車まで使用できる。トイレは1番ホーム側にあり、車椅子・オストメイトでの利用に対応した個室もある。
ホームの一部は航空自衛隊入間基地に面しており、直接出入りできる場所が確保されていて、毎年11月3日に開催される入間基地航空祭開催時にはその場所を臨時改札口として使用している。
(出典:西武鉄道:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は8,657人であり、西武鉄道全92駅中69位。池袋線内の急行停車駅としては元加治駅に次いで利用者が少ない。なお、毎年20万人以上の観客で賑わう入間基地航空祭当日は混雑する(後述)。一方、2019年度は池袋線のひばりヶ丘駅から飯能駅間の駅では唯一増加となった。
近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。
当駅は、自衛隊基地の中を旅客鉄道が通る区間にあるという日本では珍しい立地となっているが、もともとは1915年(大正14年)に武蔵野鉄道(現:西武鉄道)によって武蔵野線(現在の西武池袋線であり、JRの武蔵野線とは無関係)が開業し、1933年(昭和8年)に当駅が開業したのが先である。その後、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校分校が所沢陸軍飛行場から線路の東側に移転し、1940年(昭和15年)に豊岡陸軍飛行場(現:航空自衛隊入間基地)が完成した。その後も敷地の拡大が続き、線路を跨いだ西側も敷地に編入されていったことから、結果的に基地内を鉄道が走っているようになったのである。
なお、駅前の商業施設は改札脇にあるコンビニエンスストア「ポプラ」や駅出口近くの不動産店程度であり、付近の自衛隊官舎を除けば住宅は少なめである。一方、狭山稲荷山公園、狭山市立博物館、狭山市第二環境センター(稲荷山環境センター)、ふれあい健康センター サピオ稲荷山など、基地からの返還地を利用した公共施設がいくつか立地している。
西武新宿線の狭山市駅が当駅から約2 kmの場所にあり、路線バスで5分程で結ばれている。
毎年11月3日には、隣接する航空自衛隊入間基地において「入間基地航空祭」が開催されており、自衛隊機による展示飛行や、ブルーインパルスによるアクロバット飛行が見られる。2010年には動員数が過去最高の28万人に達した。
当日は入間市行の臨時列車が運行されるほか、特急が(2013年のみ快速急行も)臨時停車する。また、西武鉄道の社員が多数配置されて交通整理にあたるほか、ホームの所沢方面に臨時改札口が設けられて臨時の基地出入口に続いている。
当駅に隣接する踏切(稲荷山公園1号踏切)は、狭山市と入間市の中心市街地を結ぶ都市計画道路(入間狭山縦貫道路)のものである。同道路と並行する国道16号は入間市駅北口再開発の遅れにより道路の拡幅がなされていないことで慢性的に渋滞が発生するため、その迂回路としても利用されることから交通量が多く、国土交通省が実施した調査においても稲荷山公園1号踏切は「ボトルネック踏切」と指摘されている。
このような状況に鑑み、狭山市は関係各所に働きかけ、入間狭山縦貫道路の立体交差(アンダーパス)化による稲荷山公園1号踏切廃止案のほか、池袋線を掘割構造化し稲荷山公園1号踏切のほか入間基地内に位置する武蔵藤沢5号踏切の両踏切を廃止する案を提起した。
同案が実現した場合、国道16号を経由しないで入間市と狭山市の中心市街地を直接結ぶバス路線の開設が可能になるほか、交通渋滞が解消されることにより入間狭山縦貫道路が都市計画道路として本来の機能が発揮できるとされる。さらに、踏切によって分断されている入間基地敷地の一体化、およびホームの有効長や幅員に余裕を持たせたり、駅移設や線形改善による通過速度制限の緩和などの効果があるとしている。もっとも、両案ともに狭山市の財政事情や関係機関との調整不調により実現の目途は立っていない。
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"text": "当駅は、自衛隊基地の中を旅客鉄道が通る区間にあるという日本では珍しい立地となっているが、もともとは1915年(大正14年)に武蔵野鉄道(現:西武鉄道)によって武蔵野線(現在の西武池袋線であり、JRの武蔵野線とは無関係)が開業し、1933年(昭和8年)に当駅が開業したのが先である。その後、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校分校が所沢陸軍飛行場から線路の東側に移転し、1940年(昭和15年)に豊岡陸軍飛行場(現:航空自衛隊入間基地)が完成した。その後も敷地の拡大が続き、線路を跨いだ西側も敷地に編入されていったことから、結果的に基地内を鉄道が走っているようになったのである。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "なお、駅前の商業施設は改札脇にあるコンビニエンスストア「ポプラ」や駅出口近くの不動産店程度であり、付近の自衛隊官舎を除けば住宅は少なめである。一方、狭山稲荷山公園、狭山市立博物館、狭山市第二環境センター(稲荷山環境センター)、ふれあい健康センター サピオ稲荷山など、基地からの返還地を利用した公共施設がいくつか立地している。",
"title": "駅周辺"
},
{
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"tag": "p",
"text": "西武新宿線の狭山市駅が当駅から約2 kmの場所にあり、路線バスで5分程で結ばれている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "毎年11月3日には、隣接する航空自衛隊入間基地において「入間基地航空祭」が開催されており、自衛隊機による展示飛行や、ブルーインパルスによるアクロバット飛行が見られる。2010年には動員数が過去最高の28万人に達した。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "当日は入間市行の臨時列車が運行されるほか、特急が(2013年のみ快速急行も)臨時停車する。また、西武鉄道の社員が多数配置されて交通整理にあたるほか、ホームの所沢方面に臨時改札口が設けられて臨時の基地出入口に続いている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "当駅に隣接する踏切(稲荷山公園1号踏切)は、狭山市と入間市の中心市街地を結ぶ都市計画道路(入間狭山縦貫道路)のものである。同道路と並行する国道16号は入間市駅北口再開発の遅れにより道路の拡幅がなされていないことで慢性的に渋滞が発生するため、その迂回路としても利用されることから交通量が多く、国土交通省が実施した調査においても稲荷山公園1号踏切は「ボトルネック踏切」と指摘されている。",
"title": "駅周辺"
},
{
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"tag": "p",
"text": "このような状況に鑑み、狭山市は関係各所に働きかけ、入間狭山縦貫道路の立体交差(アンダーパス)化による稲荷山公園1号踏切廃止案のほか、池袋線を掘割構造化し稲荷山公園1号踏切のほか入間基地内に位置する武蔵藤沢5号踏切の両踏切を廃止する案を提起した。",
"title": "駅周辺"
},
{
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"tag": "p",
"text": "同案が実現した場合、国道16号を経由しないで入間市と狭山市の中心市街地を直接結ぶバス路線の開設が可能になるほか、交通渋滞が解消されることにより入間狭山縦貫道路が都市計画道路として本来の機能が発揮できるとされる。さらに、踏切によって分断されている入間基地敷地の一体化、およびホームの有効長や幅員に余裕を持たせたり、駅移設や線形改善による通過速度制限の緩和などの効果があるとしている。もっとも、両案ともに狭山市の財政事情や関係機関との調整不調により実現の目途は立っていない。",
"title": "駅周辺"
}
] |
稲荷山公園駅(いなりやまこうえんえき)は、埼玉県狭山市稲荷山一丁目にある、西武鉄道池袋線の駅である。駅番号はSI22。
|
{{駅情報
|社色= #36C
|文字色= white
|駅名= 稲荷山公園駅
|画像= Inariyamakoen-Sta.JPG
|pxl = 300px
|画像説明= 北口(2008年7月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail|coord={{coord|35|50|42.52|N|139|23|54.25|E}}}}<!--地図が表示されないバグを防止するため、暫定的に座標を挿入しています。-->
|よみがな= いなりやまこうえん
|ローマ字= Inariyama-kōen
|前の駅= SI21 [[武蔵藤沢駅|武蔵藤沢]]
|駅間A= 3.0
|駅間B= 0.9
|次の駅= [[入間市駅|入間市]] SI23
|所属事業者= [[西武鉄道]]
|所属路線= {{color|#f60|■}}[[西武池袋線|池袋線]]
|駅番号= {{駅番号r|SI|22|#ff6600|2}}
|キロ程= 35.9km([[池袋駅|池袋]]起点)<br/>[[小竹向原駅|小竹向原]]から32.5
|起点駅=
|所在地= [[埼玉県]][[狭山市]]稲荷山一丁目1
|緯度度=35|緯度分=50|緯度秒=42.52
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|地図国コード= JP
|座標右上表示= Yes
|駅構造= [[地上駅]]
|ホーム= 2面2線
|開業年月日= [[1933年]]([[昭和]]8年)[[4月1日]]
|乗降人員= <ref group="西武" name="seibu2022" />8,657
|統計年度= 2022年<!--リンク不要-->
|備考=
}}
[[ファイル:Seibu Railway Inariyama-kōen Station South Entrance.jpg|thumb|南口(2022年7月)]]
'''稲荷山公園駅'''(いなりやまこうえんえき)は、[[埼玉県]][[狭山市]]稲荷山一丁目にある、[[西武鉄道]][[西武池袋線|池袋線]]の[[鉄道駅|駅]]である。駅番号は'''SI22'''。
== 歴史 ==
* [[1933年]]([[昭和]]8年)[[4月1日]]:開業。当初の駅構造は[[単式ホーム]]1面1線<ref name="typ11">『写真で見る西武鉄道100年』([[ネコ・パブリッシング]])73ページ</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)[[11月13日]]:武蔵藤沢駅 - 入間市駅間複線化と共に、当駅の構造が[[相対式ホーム]]2面2線となる<ref name="typ11"/>。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月21日]]:駅舎改築に伴い、新設された[[跨線橋]]の使用を開始する。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。線路とホームは駅の東側で南向きにカーブしていて、その辺りには屋根はない。なお、ホームの一部に列車との間隙が広い箇所がある。<!--2009年末期より上り1番ホームにおいて注意喚起放送が導入されている。-->
2番ホームに接した南口には[[自動券売機]]が設置されていないが、始発より終電車まで使用できる<ref name="inariyamamap">[http://www.seibu-group.co.jp/railways/railway/ekimap/inariyama-koen/1187100_1583.html 稲荷山公園駅 構内マップ] - 西武鉄道</ref>。[[便所|トイレ]]は1番ホーム側にあり、[[車椅子]]・[[オストメイト]]での利用に対応した個室もある<ref name="inariyamamap"/>。
ホームの一部は[[航空自衛隊]][[入間基地]]に面しており、直接出入りできる場所が確保されていて、毎年11月3日に開催される入間基地航空祭開催時にはその場所を臨時改札口として使用している。
=== のりば ===
<!--方面表記は、西武鉄道の「駅構内図」の記載に準拠--->
{| class="wikitable"
!ホーム!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 池袋線
|style="text-align:center;"|上り
|[[所沢駅|所沢]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新木場駅|新木場]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[横浜駅|横浜]]方面
|-
!2
|style="text-align:center;"|下り
|[[飯能駅|飯能]]・[[西武秩父駅|西武秩父]]方面
|}
(出典:[https://www.seiburailway.jp/railway/station/inariyama-koen/ 西武鉄道:駅構内図])
* 副都心線直通列車は2013年3月16日実施のダイヤ改正で、日中は当駅に停車しなくなった<ref group="注釈">該当する時間帯は、副都心線経由[[東急東横線]]・[[みなとみらい線]]直通の快速急行が運転されており、当駅に来る列車全て西武線池袋発着のみである。</ref>。このため、日中時間帯に当駅から副都心線方面へ乗降する場合は、途中の[[小手指駅]]などで乗換える必要があり、該当する列車には接近時に流れる放送でその旨が伝えられる。ただし、入間基地航空祭開催時は一部の快速急行が急行・快速・準急として運行するため、副都心線直通列車に乗換なしで乗車できる。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Seibu Railway Inariyama-kōen Station North Gate.jpg|北口改札(2022年7月)
Seibu Railway Inariyama-kōen Station South Gate.jpg|南口改札(2022年7月)
Seibu Railway Inariyama-kōen Station Platform.jpg|ホーム(2022年7月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''8,657人'''であり、西武鉄道全92駅中69位<ref group="西武" name="seibu2022" />。池袋線内の急行停車駅としては[[元加治駅]]に次いで利用者が少ない<ref group="西武" name="seibu2022" />。なお、毎年20万人以上の観客で賑わう入間基地航空祭当日は混雑する(後述)。一方、2019年度は池袋線の[[ひばりヶ丘駅]]から[[飯能駅]]間の駅では唯一増加となった。
近年の1日平均'''乗降'''人員および[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下記の通り。
<!--埼玉県統計年鑑を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|-
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.iruma.saitama.jp/shisei/toukei/toukei_syo/index.html 入間市統計書] - 入間市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|11,143
|5,565<!--2,031,062÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 150ページ</ref>-->
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|11,500
|5,747<!--2,103,256÷366-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 150ページ</ref>-->
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|11,850
|5,940<!--2,168,094÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 160ページ</ref>-->
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|12,210
|6,114<!--2,231,635÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成6年) - 164ページ</ref>-->
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|11,937
|5,953<!--2,172,908÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成7年) - 164ページ</ref>-->
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|11,989
|5,937<!--2,172,956÷366-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成8年) - 170ページ</ref>-->
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|11,641
|5,814<!--2,122,030÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成9年) - 170ページ</ref>-->
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|11,410
|5,746<!--2,097,349÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成10年) - 176ページ</ref>-->
|-
|1998年(平成10年)
|11,303
|5,811<!--2,121,102÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成11年) - 184ページ</ref>-->
|-
|1999年(平成11年)
|11,000
|5,639<!--2,063,942÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|10,833
|5,500<!--2,007,419÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|11,175
|5,650<!--2,062,209÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref name="seibu2002-2006">{{Cite web|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2012/05/31/No1_ike2002-2006.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121101063612/http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/business/railway-business/data/five-years/__icsFiles/afieldfile/2012/05/31/No1_ike2002-2006.pdf|title= 「駅別乗降人員(一日平均)の推移」No.1 2002年度〜2006年度・池袋線・西武秩父線・西武有楽町線・豊島線・狭山線・山口線|archivedate=2012-11-01|accessdate=2021-07-30|publisher=西武鉄道|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2021年7月}}</ref>11,247
|5,706<!--2,082,553÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref name="seibu2002-2006" />11,321
|5,733<!--2,098,196÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref name="seibu2002-2006" />11,287
|5,721<!--2,088,307÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref name="seibu2002-2006" />11,429
|5,793<!--2,114,332÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref name="seibu2002-2006" />10,570
|5,360<!--1,956,367÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|9,486
|4,798<!--1,756,243÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|9,452
|4,772<!--1,741,626÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|8,463
|4,268<!--1,557,740÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|8,457
|4,253<!--1,552,378÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|8,396
|4,185<!--1,531,735÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|8,502
|4,264<!--1,556,529÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|8,780
|4,395<!--1,604,125÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|8,975
|4,492<!--1,639,617÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|9,503
|4,757<!--1,740,991÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|9,592
|4,803<!--1,753,171÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|9,896
|4,960<!--1,810,463÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|9,990
|5,011<!--1,829,160÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|10,053
|5,038<!--1,844,027÷366-->
|<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="西武" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月18日閲覧</ref>6,377
|3,207<!--1,170,391÷365-->
|<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="西武" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月18日閲覧</ref>7,518
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均)|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|page=|accessdate=2023-07-30|publisher=西武鉄道|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>8,657
|
|
|}
== 駅周辺 ==
当駅は、自衛隊基地<ref group="注釈">かつては[[陸軍航空士官学校]]、のちに[[在日米軍|米軍]]ジョンソン基地を経て航空自衛隊入間基地と変遷。</ref>の中を旅客鉄道が通る区間にあるという日本では珍しい立地となっているが、もともとは1915年(大正14年)に武蔵野鉄道(現:西武鉄道)によって武蔵野線(現在の西武池袋線であり、JRの[[武蔵野線]]とは無関係)が開業し、1933年(昭和8年)に当駅が開業したのが先である。その後、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校分校が所沢陸軍飛行場から線路の東側に移転し、1940年(昭和15年)に豊岡陸軍飛行場(現:航空自衛隊入間基地)が完成した。その後も敷地の拡大が続き、線路を跨いだ西側も敷地に編入されていったことから、結果的に基地内を鉄道が走っているようになったのである。
なお、駅前の商業施設は改札脇にある[[コンビニエンスストア]]「[[ポプラ (コンビニエンスストア)|ポプラ]]」<ref>[http://omise.seibupros.jp/shop/station/inariyama-koen/ 稲荷山公園駅の店舗情報]{{リンク切れ|date=2020年3月}} - [[西武プロパティーズ]]</ref>や駅出口近くの不動産店程度であり、付近の自衛隊官舎を除けば住宅は少なめである。一方、狭山稲荷山公園、狭山市立博物館、狭山市第二環境センター(稲荷山環境センター)、ふれあい健康センター サピオ稲荷山など、基地からの返還地を利用した公共施設がいくつか立地している。
[[西武新宿線]]の[[狭山市駅]]が当駅から約2 kmの場所にあり、路線バスで5分程で結ばれている。
=== 北口 ===
* [[タクシー]]乗り場
* [[航空自衛隊]][[入間基地]]
* [[狭山稲荷山公園|埼玉県営狭山稲荷山公園]]
** [[稲荷山公園古墳群]]
** [[狭山市立博物館]]
* 狭山市ふれあい健康センター サピオ稲荷山
* 狭山市立中央児童館
** 狭山市子育てプレイス稲荷山
* 狭山市第二環境センター(稲荷山環境センター)
* 西狭山病院
* 狭山鵜ノ木郵便局
=== 南口 ===
* [[狭山警察署|埼玉県狭山警察署]]
* 埼玉県狭山保健所
* [[東京家政大学]] 狭山キャンパス
* [[埼玉県立狭山経済高等学校]]
* [[埼玉県立入間向陽高等学校]]
* [[彩の森入間公園|埼玉県営彩の森入間公園]]
* [[ジョンソン・タウン]]
=== バス路線 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
* [[西武バス]]([[西武バス狭山営業所|狭山営業所]]担当)
** [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - 稲荷山公園駅方面|狭山28]]:狭山市駅西口
* [[狭山市内循環バス]]「茶の花号」(西武バス狭山営業所担当) ※駅前ロータリー北寄りのサピオ稲荷山側より発着。
** 通勤通学コース(稲荷山公園駅):日生団地
=== 入間基地航空祭 ===
毎年11月3日には、隣接する航空自衛隊入間基地において「入間基地航空祭」が開催されており、自衛隊機による展示飛行や、[[ブルーインパルス]]による[[曲技飛行隊#曲技飛行|アクロバット飛行]]が見られる。2010年には動員数が過去最高の28万人に達した<ref>[https://web.archive.org/web/20090614053411/http://www.mod.go.jp/asdf/iruma/events/festival.html 入間航空祭] - 航空自衛隊 入間基地</ref>。
当日は[[入間市駅|入間市]]行の[[臨時列車]]が運行されるほか、[[レッドアロー|特急]]が(2013年のみ快速急行も)[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|臨時停車]]する。また、西武鉄道の社員が多数配置されて交通整理にあたるほか、ホームの所沢方面に臨時改札口が設けられて臨時の基地出入口に続いている。
=== 踏切問題 ===
{{出典の明記|section=1|date=2011年2月}}<!--内容について、検証可能性を満たすソースを提示ください。-->
当駅に隣接する[[踏切]](稲荷山公園1号踏切)は、狭山市と[[入間市]]の中心市街地を結ぶ都市計画道路(入間狭山縦貫道路)のものである。同道路と並行する[[国道16号]]は入間市駅北口再開発の遅れにより道路の拡幅がなされていないことで慢性的に渋滞が発生するため、その迂回路としても利用されることから交通量が多く、[[国土交通省]]が実施した調査においても稲荷山公園1号踏切は「[[開かずの踏切|ボトルネック踏切]]」と指摘されている<ref name="PDF_ktr1">{{PDFLink|[https://web.archive.org/web/20130221225834/http://www.ktr.mlit.go.jp/oomiya/06info/0312outcom/pdf_plan/plan03-1.pdf 3-1 渋滞の解消・緩和]}} - 国土交通省 2012年10月11日閲覧</ref>。
このような状況に鑑み、狭山市は関係各所に働きかけ、入間狭山縦貫道路の[[立体交差]](アンダーパス)化による稲荷山公園1号踏切廃止案のほか<ref name="PDF_ktr2">{{PDFLink|[https://web.archive.org/web/20171115201223/http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-douro-keikaku/iken2/by_pref/pdf10/830566.pdf 狭都発 第168号 平成20年10月22日 今後の道路行政についての意見・提案について(回答)]}} - 国土交通省 2012年10月11日閲覧</ref>、池袋線を[[連続立体交差事業|掘割構造化し稲荷山公園1号踏切のほか入間基地内に位置する武蔵藤沢5号踏切の両踏切を廃止する案]]を提起した<ref name="PDF_ktr2" />。
同案が実現した場合、国道16号を経由しないで入間市と狭山市の中心市街地を直接結ぶバス路線の開設が可能になるほか、交通渋滞が解消されることにより入間狭山縦貫道路が都市計画道路として本来の機能が発揮できるとされる。さらに、踏切によって分断されている入間基地敷地の一体化、およびホームの[[有効長]]や幅員に余裕を持たせたり、駅移設や線形改善による通過速度制限の緩和などの効果があるとしている。もっとも、両案ともに狭山市の財政事情や関係機関との調整不調により実現の目途は立っていない<ref name="PDF_ktr2" />。
== 付記 ==
* [[1945年]]([[昭和]]20年)[[11月20日]]から[[1982年]](昭和57年)[[12月20日]]までは、当駅と[[武蔵藤沢駅]]との間に[[下原駅]]という貨物駅があった。同駅は、池袋線と入間基地への貨物輸送などに使用する専用線との分岐点であった。
* 両隣の[[入間市駅]]と武蔵藤沢駅は[[入間市]]内にあるが、当駅は狭山市内にある。
== 隣の駅 ==
; 西武鉄道
<!--有料特急の通過は記載しない-->
: [[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 池袋線
:: {{color|#c69|■}}快速急行
::: '''通過'''
:: {{color|#f60|■}}急行・{{color|#fc0|■}}通勤急行・{{color|#0cf|■}}快速・{{color|#0c9|■}}準急・{{color|#999|■}}各駅停車(通勤急行は上りのみ運転)
::: [[武蔵藤沢駅]] (SI21) - '''稲荷山公園駅 (SI22)''' - [[入間市駅]] (SI23)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;埼玉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
;西武鉄道の1日平均利用客数
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== 関連項目 ==
{{commonscat|Inariyama-kōen Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=inariyama-koen}}
{{西武池袋線}}
{{DEFAULTSORT:いなりやまこうえん}}
[[Category:埼玉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 い|なりやまこうえん]]
[[Category:西武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:武蔵野鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1933年開業の鉄道駅]]
[[Category:狭山市の交通|いなりやまこうえんえき]]
[[Category:狭山市の建築物|いなりやまこうえんえき]]
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狭山市駅
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狭山市駅(さやましえき)は、埼玉県狭山市入間川一丁目にある、西武鉄道新宿線の駅である。駅番号はSS26。
相対式ホーム2面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。
西武新宿寄りに下り線→上り線への片渡り線があるが、平日早朝に設定されていた当駅始発列車2本は2022年のダイヤ改正でそれぞれ新所沢始発と本川越始発に振り替えとなり、通常ダイヤでは使われない。緊急時には終着駅(南大塚駅の場合もあり)となる。なお、かつて南入曽車両基地でイベントが開催される際には当駅終着の電車が運転されることがあった。
東西自由通路を有する橋上駅舎は2010年3月26日に供用を開始した。新駅舎の建設に際し西武狭山ステーションビルは閉鎖・解体されている。
「狭山らしさの演出と街並み・賑わいの演出」を意識し、明るく開放的な狭山市の玄関口をコンセプトとする新駅舎は、賑わいを演出する目的で自由通路部の天井などには夏季に開催される「狭山入間川七夕まつり」に際して七夕の飾り付けが可能な仕掛けを設けている。さらにエスカレーター・エレベーター・多機能トイレ・待合室も新設されたほか、ホームの幅員も一部で拡幅している。待合室の椅子には飯能・西武の森の整備で伐採された間伐材を使用している。さらに「環境対策としてトイレの洗浄水に雨水を利用する」「コンコース部に膜屋根を設置」「自由通路の床にガラスブロックを使用する」「壁面を緑化する」などの工夫もなされている。これに伴い東西連絡地下通路は2010年3月25日に閉鎖された。東西自由通路は駅舎供用開始時は未完成部分があったが、2011年3月に完成した。
エスカレーターは、各ホームと改札内コンコース間に各2基、東口地上部と改札外コンコースに2基設置され、エレベーターは各ホームと改札内コンコース間に各1基、東口・西口地上部と改札外コンコース間に各1基設置されている。
トイレは2階改札内コンコースにあり、多機能トイレを併設する。なお、かつては西口地上部のバス停留所4番のりば奥・転回場付近に建つ狭山市管理の公衆トイレ内にも多目的トイレが併設されていた。
発車メロディは、橋上駅舎供用開始時に童謡「たなばたさま」を採用した。
商業施設としては、駅構内にはコンビニエンスストア「TOMONY」が新駅舎供用開始時に開業し、その後2011年6月8日に「Emio狭山市」が開業した。Emio出店店舗の詳細は西武プロパティーズ公式サイト「狭山市駅の店舗情報」を参照。
(出典:西武鉄道:駅構内図)
近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下記の通りである。
明治時代に開業した当駅の再開発について、1980年代より構想は存在していたが、1990年代に至っても事業は具体化せず、所沢駅・本川越駅・入間市駅・飯能駅など周辺各都市の中心駅に遅れをとっていた。西口地区については2000年代に事業者・専門家・市民らの議論を経て事業化され、一時政治的困難が発生したものの、変更は一切なく当初の事業計画が貫徹され、総合的な調整により計画から設計施工まで一貫したデザインコンセプトを保ったまま2012年に完成に至った。東口地区については老朽化した駅ビルの改築を行い、道路整備が継続して行われている。
狭山市駅西口周辺は、ロータリーが未整備で歩道も確保されていないため危険であったことから、再開発整備事業が計画された。1998年、狭山市駅西口地区再開発整備事業協議会において「他の沿線駅前とは明確に差別化し、自然と景観を取り込んだ狭山市らしい駅前整備を行う」方針が決定した。 しかし行政や施行予定者となった都市再生機構に対し、地権者や市議会議員を含んだ市民から見直しを求める運動が起き、このまま計画を進めることができるか、予断を許さない状況となった。計画見直し派の市民団体は狭山まちづくりネットワーク(推進派の市民団体には狭山市駅西口再開発事業を推進する会がある)が中心となり、そこに複数の団体が所属した。見直しの主な要求は、予算規模の縮小。その中で2006年1月23日、地権者71名によるとする見直しを求める意見書が提出されたが、後に明らかになった名簿では実際には地権者は21名であり、物議を醸すこととなった。
2007年4月17日、西武鉄道では「2007年度鉄道事業設備投資計画」を発表。この中で狭山市駅西口再開発事業に伴う駅舎改良工事は同年度に調査・設計、2008年度着工、2009年度完成予定との計画が公表された。同年6月22日、狭山市駅西口再開発事業の権利変換計画が国土交通大臣から認可され、2007年9月着工・2009年まち開き・2011年完成予定で本格的に工事が開始されることになった。同年7月22日施行の狭山市長選挙において、西口整備事業の推進を公約した現職の仲川幸成が再選され、同事業は予定通り継続されることになった。同年9月から駅舎の取り壊し工事が始まり、駅舎工事用地確保のため駅周辺の店舗閉鎖と住民の転居、整地も行われた。2008年11月から駅舎改築工事を開始。同月、道路の整備に伴い臨時バス乗降場を設置。同年11月から12月までペデストリアンデッキを含む「まちの愛称」が公募され、 2009年3月、「スカイテラス」に決定した。2010年3月25日、狭山市駅西口地区まち開きを行い、新駅舎と一部施設が供用開始。バス停留所整備等も2012年7月までに完了し、西口地区再開発事業が完成。同月14日から16日まで完成記念イベントを行った。同18日、複合型公益施設「狭山市市民交流センター」が開所、西口地区再開発事業によって整備された全施設が供用開始となり、事業は終了した。
2014年5月12日、狭山市駅西口地区スカイテラスは平成26年度都市景観大賞都市空間部門において優秀賞を受賞した。従来ほとんど同賞への応募の無かった私鉄沿線の駅前広場に関する事例であり、都市近郊において相次いでいる市街地再開発はどうあるべきかという課題について新たなモデルを示すものとして注目された。「大型再開発ビルを建設しテナントを募集、人の流れの創出は入居した商業施設任せ」というような全国的にみられる既存の再開発事業が生んだ弊害を念頭におき、そうした没個性的な再開発の有り方とは一線を画し、狭山市の表玄関にふさわしい街づくりを模索。商業的価値の高い駅前広場にあえて大規模商業施設を誘致せず、既存市街地との接続を意識した「市民広場」を置き、新たな市民交流・回遊の場を確保、地形の高低差によって得られる秩父連山を望む遠景を生かし、環境・景観に配慮した街並みを創出したことが評価された。今後バス停等の更なる改善により歩行者視点での質的向上への期待が示された。更に同年10月1日には公益財団法人日本デザイン振興会主催「2014年度グッドデザイン賞(都市づくり、地域づくり、コミュニティ部門)を受賞した。複雑な敷地や地形的な特徴を計画に折り込み、多岐にわたる関係者を計画に参加させる仕組みを作った点などがくらしや産業や社会の質を向上させる優れたデザインとして評価を受けたものである。
一方「Emio狭山市」にスーパーマーケット「ブルーミングブルーミー」((株)いなげやが運営)がテナントとして入居したことにより業績不振となった西友狭山市駅前店が2015年3月31日をもって閉店。1972年の開店以来40年以上にわたって営業していた西口の中核的商業施設が失われた。スカイテラスに大規模商業施設を誘致しなかったことから、駅前の買い物利便性の低下が懸念された。2019年2月、西口側にあった燃料会社の充填基地が日高市に移転し、新たに同社の本社屋を建設。同建物にテナントとしてベルク狭山入間川店が入居、再び西口側にも商業施設が立地するに至った。
狭山市駅前東口周辺は区画が非常に入り組んでおり駅までのアクセスが悪いとされ、市の顔にふさわしい駅前を創出するべきであるとして、区画整理事業が長年に渡って議論された。立ち退きに難色を示す住民と行政の対立があったが、その後事業は進められ、道路の建設が行われた。2010年に道路の一部が開通し、2013年には工事箇所が東口駅前広場まで到達。2014年5月、東口駅前広場に通じる都市計画道路「狭山市駅加佐志線」が開通した。また西口地区再開発事業及び駅舎改築等に合わせ、東口駅前広場の再整備も行われ、2012年10月に完成した。2018年8月、埼玉県知事による換地処分の公告が行われ、事業は完了した。2019年3月、祇園地内三柱神社横の下窪公園にて狭山市駅東口土地区画整理事業完成記念碑除幕式が挙行された。
すべて西武バスにより運行され、当駅を起・終点とする。
埼玉石心会病院の移転により、2017年11月2日からサイボク方面、西武柏原ニュータウン方面は全便市民会館経由に変更され、日中は埼玉石心会病院へ立ち寄る。
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狭山市駅(さやましえき)は、埼玉県狭山市入間川一丁目にある、西武鉄道新宿線の駅である。駅番号はSS26。
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{{混同|狭山駅|大阪狭山市駅}}
{{駅情報
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|駅名 = 狭山市駅
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'''狭山市駅'''(さやましえき)は、[[埼玉県]][[狭山市]]入間川一丁目にある、[[西武鉄道]][[西武新宿線|新宿線]]の[[鉄道駅|駅]]である。駅番号は'''SS26'''。
== 歴史 ==
* [[1895年]]([[明治]]28年)[[3月21日]] - '''入間川駅'''(いるまがわえき)として開業<ref>[{{NDLDC|2946789/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1895年3月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。元は[[西武国分寺線#歴史|川越鉄道]]の駅で、西武鉄道全駅の中で国分寺駅、小川駅、東村山駅(旧久米川仮駅)に次いで古い。同時に開業した駅には所沢駅、入曽駅、川越駅(現・本川越駅)がある。
* [[1975年]]([[昭和]]50年)[[3月]] - 東口を開設。
* [[1979年]]([[昭和]]54年)[[3月25日]] - 改装新駅舎の供用を開始し、駅名を'''狭山市駅'''に改称。同時に当駅を発着する路線バスの系統名も「入川××」から「狭山××」に改称された。池袋線入間市駅発着のバス系統名が「入××」や「入間××」ではなく「入市××」と称しているのはこの名残りである。同年[[4月27日]]、駅ビル「西武狭山ステーションビル」開店<ref>『会社要覧』西武鉄道株式会社、1999年、100 - 103頁では駅ビルの開店を4月27日としている。</ref>。
* [[1999年]]([[平成]]11年)[[3月16日]] - 狭山市が駅東口に「狭山市駅市民サービスコーナー」を開設。
* [[2007年]](平成19年)[[3月6日]] - ダイヤ改正により長らく多くの利用者から要望のあった[[西武新宿線#快速急行|快速急行]]の停車を開始。これにより当駅を通る営業列車はすべて停車するようになった。
* [[2008年]](平成20年)11月 - 再開発事業に伴う駅舎改築のため、旧駅舎および旧西武狭山ステーションビルの建物の解体作業が始まる。
* [[2010年]](平成22年)
** 3月25日 - 西口広場での再開発事業のまち開きを開催<ref name="press100323"/>。
** [[3月26日]] - 新駅舎と東西自由通路の一部を供用開始<ref name="press100225"/>。同時に発車メロディを童謡「たなばたさま」に変更<ref name="press100323"/>。
* [[2011年]](平成23年)[[6月8日]] - Emio狭山市開業<ref name="prospress110518"/>。
<gallery>
ファイル:Sayamashi-eki_20051209_097.jpg|2008年11月まで存在していた旧東口駅ビル(2005年12月)
ファイル:Sayama City-eki-2005-3-19 W.jpg|旧西口駅舎(2005年3月)
</gallery>
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線の[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する。
西武新宿寄りに下り線→上り線への[[分岐器#形状による分類|片渡り線]]があるが、平日早朝に設定されていた当駅始発列車2本は2022年のダイヤ改正でそれぞれ新所沢始発と本川越始発に振り替えとなり、通常ダイヤでは使われない。緊急時には終着駅(南大塚駅の場合もあり)となる。なお、かつて[[南入曽車両基地]]でイベントが開催される際には当駅終着の電車が運転されることがあった<ref>2011年時点では[[新所沢駅]]から臨時直通電車を運転することで対応している。</ref>。
東西自由通路を有する橋上駅舎は2010年3月26日に供用を開始した<ref name="press100225">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2010/02/26/20100225sayamasi_renewal_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160828224611/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2010/02/26/20100225sayamasi_renewal_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月26日(金)初電車より狭山市駅橋上駅舎の供用を開始します 〜駅直結の新たな商業施設は来年(2011年)春オープン〜|publisher=西武鉄道|date=2010-02-25|accessdate=2020-05-08|archivedate=2016-08-28}}</ref>。新駅舎の建設に際し[[西武狭山ステーションビル]]は閉鎖・解体されている。
「狭山らしさの演出と街並み・賑わいの演出」を意識し、明るく開放的な狭山市の玄関口をコンセプトとする新駅舎は、賑わいを演出する目的で自由通路部の天井などには夏季に開催される「[[狭山入間川七夕まつり]]」に際して七夕の飾り付けが可能な仕掛けを設けている<ref name="press100225"/>。さらに[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]・多機能トイレ・[[待合室]]も新設されたほか、ホームの幅員も一部で拡幅している<ref name="press100225"/>。待合室の椅子には飯能・西武の森の整備で伐採された<!--[[ヒノキ|檜]]-->[[間伐材]]を使用している<ref name="press100225"/>。さらに「環境対策として[[便所|トイレ]]の洗浄水に[[雨水]]を利用する」「コンコース部に膜屋根を設置」「自由通路の床にガラスブロックを使用する」「壁面を緑化する」などの工夫もなされている<ref name="press100225"/>。これに伴い東西連絡地下通路は2010年3月25日に閉鎖された<ref name="press100225"/>。東西自由通路は駅舎供用開始時は未完成部分があったが、2011年3月に完成した<ref>[http://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/seibi/ekisha.html 狭山市駅橋上駅舎・東西自由通路整備事業] - 狭山市役所</ref>。
エスカレーターは、各ホームと改札内コンコース間に各2基、東口地上部と改札外コンコースに2基設置され、エレベーターは各ホームと改札内コンコース間に各1基、東口・西口地上部と改札外コンコース間に各1基設置されている<ref>[http://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/seibi/ekisyaphoto.html 狭山市駅橋上駅舎・東西自由通路の写真など 駅舎・自由通路 立体図] - 狭山市役所</ref>。
トイレは2階改札内コンコースにあり、多機能トイレを併設する。なお、かつては西口地上部のバス停留所4番のりば奥・転回場付近に建つ狭山市管理の公衆トイレ内にも多目的トイレが併設されていた。
[[発車メロディ]]は、橋上駅舎供用開始時に童謡「[[七夕#音楽|たなばたさま]]」を採用した<ref name="press100323">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2010/03/23/20100323sayamasieki_hasshamelody_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160811161937/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2010/03/23/20100323sayamasieki_hasshamelody_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=橋上駅舎供用開始に合わせ狭山市駅の発車メロディを「七夕さま」に変更します 〜施設見学会を3月25日(木)実施(事前申し込み不要)〜|publisher=西武鉄道|date=2010-03-23|accessdate=2020-05-08|archivedate=2016-08-11}}</ref>。
商業施設としては、駅構内には[[コンビニエンスストア]]「[[TOMONY]]」が新駅舎供用開始時に開業し<ref name="press100225"/>、その後2011年6月8日に「[[Emio]]狭山市」が開業した<ref name="prospress110518">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibupros.jp/news/20110518.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110813020600/http://www.seibupros.jp/news/20110518.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西武線沿線 駅ナカ・駅チカ商業施設「Emio狭山市」6月8日(水)オープン!!|publisher=西武プロパティーズ|date=2011-05-18|accessdate=2020-05-08|archivedate=2011-08-13}}</ref>。Emio出店店舗の詳細は[[西武プロパティーズ]]公式サイト「[http://omise.seibupros.jp/shop/station/sayamashi/ 狭山市駅の店舗情報]{{リンク切れ|date=2020年3月}}」を参照。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!ホーム!!路線!!方向!!行先
|-
! 1
|rowspan=2|[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線
| style="text-align:center" | 下り
|[[新狭山駅|新狭山]]・[[本川越駅|本川越]]方面
|-
! 2
| style="text-align:center" | 上り
|[[所沢駅|所沢]]・[[高田馬場駅|高田馬場]]・[[西武新宿駅|西武新宿]]([[国分寺駅|国分寺]])方面
|}
(出典:[https://www.seiburailway.jp/railway/ekimap/sayamashi/ 西武鉄道:駅構内図])
<!--=== ダイヤ ===
平日早朝に上り始発列車(各停)が2本設定されている。すべての営業列車が停車するが、2面2線構造であること、本川越方に車両基地がないこと、および本川越付近の単線区間などの影響で、あまり本数は多くない。
なお、安比奈線と安比奈車両基地の動向次第では増発が可能となるために、狭山市ではこの計画に積極的に名乗りを挙げている(詳細は[[西武安比奈線]]の記事を参照)。-->
<gallery>
Sayamashi-STA Gate.jpg|改札口(2022年7月)
Sayamashi-STA Platforms.jpg|ホーム(2022年7月)
</gallery>
== 利用状況 ==
* '''西武鉄道''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''35,140人'''である<ref group="西武" name="seibu2022" />。
*: 西武鉄道全92駅中24位。人口ピーク時には1日5万人以上の乗降があったが、少子高齢化などの影響で減少している。しかしながら、4万1,000人という数字は[[西武池袋線|池袋線]]で都内ターミナル駅からの距離がほぼ同等かつ主要駅の[[入間市駅]]や[[飯能駅]]よりも多く、[[上石神井駅]]よりやや少ない程度である。8月第一土曜日、日曜日に行われる「入間川七夕祭り」と11月3日(文化の日)に行われる「入間航空祭」の時は年間で一番来客数が多い。
近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下記の通りである。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="*">[https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shiyakusho/tokei/14100020150324.html 統計さやま] - 狭山市</ref>
!年度
!1日平均<br>乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br>乗車人員<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|54,347
|27,300
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成3年 - 150ページ</ref>-->
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|57,042
|28,679
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成4年 - 150ページ</ref>-->
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|58,177
|29,280
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成5年 - 160ページ</ref>-->
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|58,951
|29,680
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成6年 - 164ページ</ref>-->
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|58,887
|29,664
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成7年 - 164ページ</ref>-->
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|58,081
|29,298
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成8年 - 170ページ</ref>-->
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|57,124
|28,728
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成9年 - 170ページ</ref>-->
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|56,331
|28,252
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成10年 - 176ページ</ref>-->
|-
|1998年(平成10年)
|55,675
|27,835
|<!--<ref group="埼玉県統計">平成11年 - 184ページ</ref>-->
|-
|1999年(平成11年)
|54,064
|27,008
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|52,551
|26,207
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 平成13年]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|51,682
|25,674
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|49,961
|24,852
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|48,992
|24,355
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|47,648
|23,670
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|46,263
|22,960
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|45,535
|22,560
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|45,021
|22,375
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|44,618
|22,160
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|43,516
|21,632
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|41,717
|20,848
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|40,847
|20,444
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|41,281
|20,647
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|41,463
|20,709
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|40,480
|20,232
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|40,592
|20,284
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|41,001
|20,482
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|41,832
|20,896
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|41,727
|20,842
|<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|41,050
|20,502
|<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="西武" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月20日閲覧</ref>29,740
|14,842
|<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 令和3年]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}2年)
|<ref group="西武" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月20日閲覧</ref>32,066
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均)|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|page=|accessdate=2023-07-30|publisher=西武鉄道|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>35,140
|
|
|}
== 駅周辺 ==
[[File:Sayamashi Station - SkyTerrace.jpg|thumb|スカイテラス 入口<br />(2011年3月)]]
=== 西口 ===
* 狭山市駅西口地区再開発区域(スカイテラス)内施設
**A1棟:商業施設棟
**A2棟:住宅棟「スカイテラス狭山」
*狭山市駅西口地区再開発区域(スカイテラス)内公益施設
**A3棟:狭山市駅西口駐車場
**A4棟:狭山市産業労働センター・狭山市駅西口第1自転車駐車場
**B棟:狭山市市民交流センター(狭山市役所入間川地区センター・狭山市立中央公民館併設)・狭山市駅西口第2自転車駐車場
* 狭山市立中央図書館
* 狭山市役所
* 狭山市市民会館
* 狭山市商工会館
* 狭山市社会福祉会館
* 狭山市立武道館
* 狭山商工会議所
* 狭山入間川三郵便局
* [[飯能信用金庫]] 狭山支店、新狭山支店(同一店舗での営業)
* 埼玉りそな銀行狭山支店入間川出張所
* [[埼玉石心会病院]]
* [[入間川ゴム]]本社
* ゴトー養殖研究所本社
* 西武通運本社
* ベルク狭山入間川店
* 新松本ビル (西友狭山市駅前店跡地)
* [[埼玉県立狭山緑陽高等学校]]
* 狭山市立入間川小学校
* 狭山市立入間川東小学校
* 入間川幼稚園
* [[西武池袋線]][[稲荷山公園駅]]
* 航空自衛隊入間基地
=== 東口 ===
* [[狭山郵便局]]
* 狭山市富士見集会所
* 入間川病院
* 狭山厚生病院
* 狭山中央病院
*ベスタ狭山
* [[ヤマダデンキ]]テックランド狭山富士見店
*シティホテル松井
*狭山ニューシティホテル
*シヴィック・イン
* [[埼玉県立狭山工業高等学校]]
*狭山市立中央中学校
* 狭山市立富士見小学校
* [[青梅信用金庫]] 狭山支店
=== 駅周辺再開発事業 ===
[[明治時代]]に開業した当駅の再開発について、1980年代より構想は存在していたが、1990年代に至っても事業は具体化せず、[[所沢駅]]・[[本川越駅]]・[[入間市駅]]・[[飯能駅]]など周辺各都市の中心駅に遅れをとっていた。西口地区については2000年代に事業者・専門家・市民らの議論を経て事業化され、一時政治的困難が発生したものの、変更は一切なく当初の事業計画が貫徹され、総合的な調整により計画から設計施工まで一貫したデザインコンセプトを保ったまま[[2012年]]に完成に至った。東口地区については老朽化した駅ビルの改築を行い、道路整備が継続して行われている。
==== 西口地区再開発事業 ====
[[File:Sayamashi-STA West-Rotary.jpg|thumb|right|西口駅前広場(2022年8月)]]
狭山市駅西口周辺は、ロータリーが未整備で歩道も確保されていないため危険であったことから、再開発整備事業が計画された。[[1998年]]、狭山市駅西口地区再開発整備事業協議会において「他の沿線駅前とは明確に差別化し、自然と景観を取り込んだ狭山市らしい駅前整備を行う」方針が決定した。 しかし行政や施行予定者となった[[都市再生機構]]に対し、地権者や市議会議員を含んだ市民から見直しを求める運動が起き、このまま計画を進めることができるか、予断を許さない状況となった。計画見直し派の市民団体は[[狭山まちづくりネットワーク]](推進派の市民団体には狭山市駅西口再開発事業を推進する会がある)が中心となり、そこに複数の団体が所属した。見直しの主な要求は、予算規模の縮小。その中で2006年1月23日、地権者71名によるとする見直しを求める意見書が提出されたが、後に明らかになった名簿では実際には地権者は21名であり、物議を醸すこととなった。
[[2007年]]4月17日、西武鉄道では「2007年度鉄道事業設備投資計画」<ref>{{Cite press release|和書|title=2007年度 鉄道事業設備投資計画|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2007/0417.pdf|date=2007年4月17日|publisher=西武鉄道株式会社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930181543/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2007/0417.pdf|archivedate=2007年9月30日}}</ref>を発表。この中で狭山市駅西口再開発事業に伴う駅舎改良工事は同年度に調査・設計、[[2008年]]度着工、[[2009年]]度完成予定との計画が公表された。同年6月22日、狭山市駅西口再開発事業の権利変換計画が[[国土交通大臣]]から認可され、2007年9月着工・2009年まち開き・[[2011年]]完成予定で本格的に工事が開始されることになった<ref>{{Cite web|和書|date=2008-07-10|url=http://www.city.sayama.saitama.jp/kouhou/pdf/0707/0707_04-05.pdf|title=「広報さやま」平成19年7月号|format=PDF|publisher=狭山市役所|accessdate=2010-02-26}}</ref>。同年7月22日施行の狭山市長選挙において、西口整備事業の推進を公約した現職の[[仲川幸成]]が再選され、同事業は予定通り継続されることになった。同年9月から駅舎の取り壊し工事が始まり、駅舎工事用地確保のため駅周辺の店舗閉鎖と住民の転居、整地も行われた。2008年11月から駅舎改築工事を開始。同月、道路の整備に伴い臨時バス乗降場を設置。同年11月から12月まで[[ペデストリアンデッキ]]を含む「まちの愛称」が公募され、 [[2009年]]3月、「スカイテラス」に決定した。[[2010年]]3月25日、狭山市駅西口地区まち開きを行い、新駅舎と一部施設が供用開始。バス停留所整備等も[[2012年]]7月までに完了し、西口地区再開発事業が完成。同月14日から16日まで完成記念イベントを行った<ref>{{Cite web|和書|date=2012-07-17|url=http://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/photonews/others/kanseikinen201207.html|title=狭山市駅西口地区再開発事業 完成記念イベント|publisher=狭山市役所|accessdate=2012-07-17}}</ref>。同18日、複合型公益施設「狭山市市民交流センター」が開所、西口地区再開発事業によって整備された全施設が供用開始となり、事業は終了した。
[[2014年]]5月12日、狭山市駅西口地区スカイテラスは平成26年度[[都市景観大賞]]都市空間部門において優秀賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|date=2014-05-12|url=https://www.mlit.go.jp/common/001039321.pdf|title=平成26年度都市景観大賞「都市空間部門」受賞地区の概要及び「景観教育・普及啓発部門」受賞団体の活動の概要|format=PDF|publisher=「都市景観の日」実行委員会|accessdate=2014-05-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2014-05-15|url=http://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/topics/skyterracejushou.html|title=狭山市駅西口地区スカイテラスが都市景観大賞「優秀賞」を受賞|publisher=狭山市役所|accessdate=2014-05-25}}</ref>。従来ほとんど同賞への応募の無かった私鉄沿線の駅前広場に関する事例であり、都市近郊において相次いでいる市街地再開発はどうあるべきかという課題について新たなモデルを示すものとして注目された。「大型再開発ビルを建設しテナントを募集、人の流れの創出は入居した商業施設任せ」というような全国的にみられる既存の再開発事業が生んだ弊害を念頭におき、そうした没個性的な再開発の有り方とは一線を画し、狭山市の表玄関にふさわしい街づくりを模索。商業的価値の高い駅前広場にあえて大規模商業施設を誘致せず、既存市街地との接続を意識した「市民広場」を置き、新たな市民交流・回遊の場を確保、地形の高低差によって得られる[[秩父]]連山を望む遠景を生かし、環境・景観に配慮した街並みを創出したことが評価された。今後バス停等の更なる改善により歩行者視点での質的向上への期待が示された。更に同年10月1日には[[公益財団法人]][[日本デザイン振興会]]主催「2014年度[[グッドデザイン賞]](都市づくり、地域づくり、コミュニティ部門)を受賞した。複雑な敷地や地形的な特徴を計画に折り込み、多岐にわたる関係者を計画に参加させる仕組みを作った点などがくらしや産業や社会の質を向上させる優れたデザインとして評価を受けたものである<ref>{{Cite web|和書|date=2014-11-14|url=http://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/good_design.html|title=「狭山市駅西口地区スカイテラス」が、グッドデザイン賞を受賞|publisher=狭山市役所|accessdate=2014-12-24}}</ref>。
一方「Emio狭山市」に[[スーパーマーケット]]「ブルーミングブルーミー」([[いなげや|(株)いなげや]]が運営)がテナントとして入居したことにより業績不振となった[[西友]]狭山市駅前店が[[2015年]]3月31日をもって閉店<ref>[http://www.seiyu.co.jp/shop/%E8%A5%BF%E5%8F%8B%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E5%B8%82%E9%A7%85%E5%89%8D%E5%BA%97 西友狭山市駅前店]</ref>。[[1972年]]の開店以来40年以上にわたって営業していた西口の中核的商業施設が失われた。スカイテラスに大規模商業施設を誘致しなかったことから、駅前の買い物利便性の低下が懸念された。[[2019年]]2月、西口側にあった燃料会社の充填基地が[[日高市]]に移転し、新たに同社の本社屋を建設<ref>[http://www.tajima-nenryo.jp/access.html アクセス 田島燃料株式会社 狭山本社]田島燃料株式会社</ref>。同建物にテナントとして[[ベルク (企業)|ベルク]]狭山入間川店が入居<ref>[https://www.belc.jp/topics/news/20190223_1 スーパーマーケット「ベルク狭山入間川店」 2/27(水)あさ9時 NewOpen!]2019年2月22日 株式会社ベルク</ref>、再び西口側にも商業施設が立地するに至った。
==== 狭山市駅東口土地区画整理事業 ====
狭山市駅前東口周辺は区画が非常に入り組んでおり駅までのアクセスが悪いとされ、市の顔にふさわしい駅前を創出するべきであるとして、区画整理事業が長年に渡って議論された。立ち退きに難色を示す住民と行政の対立があったが、その後事業は進められ、道路の建設が行われた。2010年に道路の一部が開通し、2013年には工事箇所が東口駅前広場まで到達。2014年5月、東口駅前広場に通じる[[都市計画道路]]「狭山市駅加佐志線」が開通した。また西口地区再開発事業及び駅舎改築等に合わせ、東口駅前広場の再整備も行われ、2012年10月に完成した。2018年8月、[[埼玉県知事]]による換地処分の公告が行われ<ref>[https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/sayamashieki-syuhen/higashiguchi-kukaku/horyuchi-shinki-.html 狭山市駅東口土地区画整理事業「換地処分の公告」のお知らせ]2018年9月19日 狭山市</ref>、事業は完了した<ref>[https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisaku/tosikeikaku/sayamashieki-syuhen/higashiguchi-kukaku/index.html 狭山市駅東口土地区画整理事業]狭山市</ref>。2019年3月、祇園地内三柱神社横の下窪公園にて狭山市駅東口土地区画整理事業完成記念碑除幕式が挙行された<ref>[https://www.city.sayama.saitama.jp/shicho/komukiroku/3103l.html 市長の主な動き(2019年3月16日~31日)]2019年4月15日 狭山市</ref>。
== バス ==
=== 路線バス ===
すべて[[西武バス]]により運行され、当駅を起・終点とする。
==== 西口 ====
===== 1番のりば =====
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - サイボク方面|狭山21]]:市民会館・埼玉石心会病院経由 [[埼玉種畜牧場|サイボク]]行
* 狭山21-1:市民会館経由 サイボク行
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - 西武柏原ニュータウン方面|狭山24]]:市民会館・埼玉石心会病院経由 西武柏原ニュータウン行
* 狭山24-1:市民会館経由 西武柏原ニュータウン行
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - つつじ野団地 - 日生団地方面|深夜バス]]:つつじ野団地・日生団地経由 西武柏原ニュータウン行(平日のみ)
埼玉石心会病院の移転により、2017年11月2日からサイボク方面、西武柏原ニュータウン方面は全便市民会館経由に変更され、日中は埼玉石心会病院へ立ち寄る。
===== 2番のりば =====
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - つつじ野団地 - 日生団地方面|狭山22]]:つつじ野団地経由 日生団地行
* 狭山22:(直通)日生団地行(つつじ野団地非経由)
* 狭山22-1:つつじ野団地・日生団地経由 [[武蔵野学院大学]]行
* 狭山22-1:(直通)日生団地経由 武蔵野学院大学行(つつじ野団地非経由)
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - つつじ野団地 - 日生団地方面|狭山29]]:つつじ野団地・日生団地経由 [[智光山公園]]行
* 狭山29:(直通)日生団地経由 智光山公園行(つつじ野団地非経由)
* 狭山29-1:つつじ野団地・日生団地経由 [[西武バス狭山営業所|狭山営業所]]行
===== 3番のりば =====
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - グリーンハイツ・飯能駅北口方面|狭山20]]:狭山グリーンハイツ行
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - グリーンハイツ・飯能駅北口方面|狭山25]]:下川崎・[[聖望学園中学校・高等学校|聖望学園入口]]経由 [[飯能駅]]北口行(ダイヤ注意)
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - グリーンハイツ・飯能駅北口方面|狭山26]]:笹井・[[東飯能駅]]東口経由 飯能駅北口行(ダイヤ注意)
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - 入間市駅方面|狭山27]]:さやま地域ケアクリニック経由 [[入間市駅]]行
===== 4番のりば =====
* [[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - 稲荷山公園駅方面|狭山28]]:[[稲荷山公園駅]]行
4番のりばは、ロータリー外の道路沿いにある。
==== 東口 ====
===== 1番のりば =====
* [[西武バス川越営業所#狭山市駅東口 - 狭山台団地方面|狭山30]]:井戸窪経由 狭山台団地行
* 狭山30-1:井戸窪・狭山台団地経由 [[新狭山駅]]南口行(ダイヤ注意)
===== 2番のりば =====
* [[西武バス川越営業所#狭山市駅東口 - 狭山台団地方面|狭山31]]:狭山台南経由 狭山台団地行
=== コミュニティバス ===
西口3番のりばから[[狭山市内循環バス]](運行受託・西武バス)が発着する。
* 奥富・狭山コース:田中・新狭山公民館経由 新狭山駅北口行
* 奥富・狭山コース:埼玉石心会病院・イオン狭山店・サンパーク奥富経由 西武柏原ニュータウン行
* 水富コース:さやま総合クリニック・つつじ野団地・日生団地・笹井経由 入間野田モール行
=== スクールバス ===
==== 西口 ====
*[[埼玉女子短期大学]]
* [[自由の森学園中学校・高等学校]]
==== 東口 ====
*[[東野高等学校]]
*[[埼玉平成中学校・高等学校]]
*[[狭山ヶ丘高等学校・付属中学校]]
== 隣の駅 ==
; 西武鉄道
: [[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線
:* {{color|#f33|■}}特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」停車駅<!--有料特急の隣駅は記載しない-->
:: {{color|#fc0|■}}通勤急行(上りのみ運転)
::: [[新所沢駅]] (SS24) ← '''狭山市駅 (SS26)''' ← [[本川越駅]] (SS29)
:: {{color|#c69|■}}快速急行・{{color|#f60|■}}急行・{{color|#0c9|■}}準急・{{color|#999|■}}各駅停車
::: [[入曽駅]] (SS25) - '''狭山市駅 (SS26)''' - [[新狭山駅]] (SS27)
<!--リンクは1か所に集約してください-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
;私鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
;埼玉県統計年鑑
{{Reflist|group="埼玉県統計"|16em}}
;西武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="西武"|3}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Sayamashi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=sayamashi}}
{{西武新宿線}}
{{DEFAULTSORT:さやまし}}
[[Category:埼玉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 さ|やまし]]
[[Category:西武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:西武鉄道 (初代)の鉄道駅]]
[[Category:川越鉄道]]
[[Category:1895年開業の鉄道駅]]
[[Category:狭山市の交通|さやましえき]]
[[Category:狭山市の建築物|さやましえき]]
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他力本願
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他力本願(たりきほんがん)
上記の双方の意味とも、『大辞林』・『広辞苑』などの辞書に採録される語意である。
本来の意味が用法1の意味であることに異論を示す資料は見られないが、用法2の意味については『岩波仏教辞典』では「語の本来の用法からして誤解である」、『大辞泉』では「誤用が定着したものか」と記載される他、『大辞林』のように意味の生じた経緯等について特に触れない辞書もある。また、『新明解四字熟語辞典』のように、用法2の意味のみを語意として記載した後に「本来は~」として用法1の意味を解説する辞書もある。
自らの修行によって悟りを得るのではなく、阿弥陀仏の本願に頼って成仏することを意味している。
ここでの「他力」の「他」とは、もっぱら阿弥陀如来を指し、「力」とは如来の本願力(はたらき)をいう。
「本願」とは、あらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことであり、人間の欲望を満たすような願いのことではないとされる。
親鸞は「正信偈」にて
彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯
(訓読) 弥陀仏の本願念仏は 邪見憍慢の悪衆生 信楽受持すること 甚だ以って難し 難の中之難 斯に過ぎたるは無し
と述べ、「邪見」や「憍慢」の心にとりつかれている私たちを「悪衆生」とし、その悪衆生が、本願の念仏を素直に喜び、いただき続けていくことは、「邪見」や「憍慢」が妨げとなり、はなはだ困難であり、困難なことの中でも、最も困難なことであって、これに過ぎた困難はない、つまりこれ以上の困難はないと述べている。そして、「正信偈」の上記部分に続く「依釈段」で七高僧の教えを説き、このような悪衆生たる私たちだからこそ、自らの力による修行によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられていて、また本願にかなうとしている。
主に、宗教的意味を伴わない文脈で、「ひと任せ」「他人依存」「第三者に任せっきりにして自分の手を一切汚さずに物事を完遂する」「(太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働きなどによる)成り行き任せ」などの意味で使用される。
浄土真宗や浄土宗では、これらの意味で「他力本願」の語を用いることは、誤用で誤解であると定義している。
キリスト教における「三位一体」同様、現在の日本語の中で、元々の宗教的概念や意味合いとは異なって、使用されることのある用語の一つである。
現在では「用法2」の意味も、国語辞典に掲載される一般的な用法である。しかし、用法2の意味で使った事例に対して、浄土真宗各派から抗議が行われたことがある。以下に、その事例を挙げる。
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他力本願(たりきほんがん) 仏教用語。阿弥陀仏の本願に頼って成仏すること。浄土教・阿弥陀信仰にて使用される用語。#用法1を参照。
人まかせ、他人依存、成り行き任せの意。#用法2を参照。
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'''他力本願'''(たりきほんがん)
#[[仏教用語]]。[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の[[本願]]に頼って[[成仏]]すること <ref name="daijirin3">『大辞林 第三版』「他力本願」</ref><ref name="daijisen3">『大辞泉』「他力本願」{{Full citation needed |date=2018-12-03 |title=第何版か不明。}}</ref><ref name="sinmeikai4">『新明解四字熟語辞典』「他力本願」{{Full citation needed |date=2018-12-03 |title=第何版か不明。}}</ref>。[[浄土教]]・阿弥陀信仰にて使用される用語。[[#用法1]]を参照。
#人まかせ、他人依存、成り行き任せの意<ref name="daijirin3" /><ref name="daijisen3" />。[[#用法2]]を参照。
== 概説 ==
上記の双方の意味とも、『[[大辞林]]』・『[[広辞苑]]』などの[[辞書]]に採録される語意である。
本来の意味が用法1の意味であることに異論を示す資料は見られないが、用法2の意味については『岩波仏教辞典』では「語の本来の用法からして誤解である」<ref>{{quotation|世間一般には、自己の主体性を放棄して他人の力だけを当てにしてものごとを成し遂げようとする依存主義・頼他主義に関して用いられることがあるが、これは語の本来の用法からして誤解である。|中村元ほか編 『岩波仏教辞典』第二版、岩波書店、2002年10月、p.689「他力本願」。}}</ref>、『大辞泉』では「誤用が定着したものか」<ref name="daijisen3" />と記載される他、『大辞林』のように意味の生じた経緯等について特に触れない辞書<ref>『大辞林』第二版「他力本願」。</ref>もある。また、『新明解四字熟語辞典』のように、用法2の意味のみを語意として記載した後に「本来は~」として用法1の意味を解説する辞書<ref>{{Cite web|和書|title=他力本願(たりきほんがん)の意味・使い方 - goo四字熟語辞典 |publisher=NTTレゾナント |accessdate=2018-12-03 |url=http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98/m0u/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98/}}</ref>もある。
== 用法1 ==
自らの修行によって悟りを得るのではなく、[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の本願に頼って成仏することを意味している<ref name="daijirin3" /><ref name="daijisen3" /><ref name="sinmeikai4" />。
ここでの「他力」の「他」とは、もっぱら[[阿弥陀如来]]を指し、「力」とは[[如来]]の本願力(はたらき)をいう<ref name="tariki">『大辞泉』「他力」。{{Full citation needed |date=2018-12-03 |title=第何版か不明。}}</ref><ref>『広辞苑』第五版、「他力」。</ref>。{{See also|他力}}「本願」とは、あらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことであり、人間の欲望を満たすような願いのことではないとされる。
[[親鸞]]は「[[正信念仏偈|正信偈]]」にて
{{quotation|
彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯
(訓読) 弥陀仏の本願念仏は 邪見憍慢の悪衆生 信楽{{efn2|信楽:「教えを聞いて信じ喜ぶこと、ひたすら信じて疑わず、おのずから心に歓喜が生じることをいう。(中略)浄土教では、弥陀の本願を深く信じて疑わず、救済されんことを願うことをいい(後略){{sfn|中村ほか|2002|p=565}}」。}}受持{{efn2|受持:〈受〉は受領。〈持〉は憶持の意。〈受け持(たも)つ〉と訓戒し、教えを受けて記憶すること{{sfn|中村ほか|2002|p=500}}。<br />憶持:記憶して心に持つこと。心に記憶して忘れないこと。翻訳語としては、憶念と同一{{sfn|中村ほか|2002|p=114}}。<br />憶念:東アジアの浄土教において憶念の語は、殊に、阿弥陀仏や阿弥陀仏の功徳、あるいはその本願を、思って忘れぬこと、しばしばそれを思い起こすことの意に用いられる事が多い{{sfn|中村ほか|2002|p=114}}。}}すること 甚だ以って{{ruby|難|かた}}し 難の中{{ruby|之|の}}難 {{ruby|斯|これ}}に過ぎたるは無し
}}
と述べ、「邪見{{efn2|真実に背いたよこしまな考え方。}}」や「憍慢{{efn2|自ら思い上がり、他を見下して満足する心。}}」の心にとりつかれている私たちを「悪衆生」とし、その悪衆生が、本願の念仏を素直に喜び、いただき続けていくことは、「邪見」や「憍慢」が妨げとなり、はなはだ困難であり、困難なことの中でも、最も困難なことであって、これに過ぎた困難はない、つまりこれ以上の困難はないと述べている。そして、「正信偈」の上記部分に続く「依釈段」で[[七高僧]]の教えを説き、このような悪衆生たる私たちだからこそ、自らの力による修行によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられていて、また本願にかなうとしている{{sfn|一楽|2007|pp=189-190}}{{sfn|浄土真宗教学編集所|2009|pp=43-44}}。
<!-- この項目で、宗派による差異が見られる点については、出典を明記した上でその詳細を記述してください。 -->
<!-- なお、[[仏教経典]]を集大成した[[大正新脩大蔵経]]では、他力本願の語は日本撰述の経解・[[論書]]にしか見られない<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98&mode=search 他力本願] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>{{要高次出典|date=2017年5月24日 (水) 05:01 (UTC)}}。また、他力門・自力門の語も中国撰述の経解・論書で極めてまれに用いられるだけで漢訳経典には見られない<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%BB%96%E5%8A%9B%E9%96%80&mode=search 他力門] (「續經疏部」と「續諸宗部」は日本撰述) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>{{要高次出典|date=2017年5月24日 (水) 05:01 (UTC)}}。-->
== 用法2 ==
主に、宗教的意味を伴わない文脈で、「ひと任せ」「他人依存」「第三者に任せっきりにして自分の手を一切汚さずに物事を完遂する」「(太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働きなどによる)成り行き任せ」などの意味で使用される。
[[浄土真宗]]や[[浄土宗]]では、これらの意味で「他力本願」の語を用いることは、[[誤用]]で誤解であると定義している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/word/word40.html#text05 |title=えっ!仏教語だったの?|website=東本願寺 |publisher=東本願寺 |accessdate=2018-12-03}}</ref>{{sfn|本多|2009|p=75}}{{sfn|坂東|2005|p=85}}<ref>{{Cite web|和書|title=他力本願の意味とは?|「他力本願-阿弥陀さまにゆだねる- み教えの言葉を学ぶ」より |url=https://tarikihongwan.net/category2/bukkyou/21093.html/ |website=他力本願.net |accessdate=2022-04-09 |language=ja}}</ref>。
[[キリスト教]]における「[[三位一体]]」同様、現在の日本語の中で、元々の宗教的概念や意味合いとは異なって、使用されることのある用語の一つである。
=== 抗議に至った事例 ===
現在では「用法2」の意味も、[[国語辞典]]に掲載される一般的な用法である。しかし、用法2の意味で使った事例に対して、浄土真宗各派から抗議が行われたことがある。以下に、その事例を挙げる。
* [[1968年]]には、[[農林水産大臣]][[倉石忠雄]]が、日本の軍備に触れ「今の[[世界]]は<!--親鸞のような-->他力本願では生きていけない」との意味の発言をして、浄土真宗各派から抗議されている。{{要出典|date=2018年12月3日 (月) 09:12 (UTC) |title=}}
* [[2002年]]5月、[[オリンパス|オリンパス光学工業]]が全国紙に「他力本願から抜け出そう」という[[キャッチコピー]]で広告を掲載した。それに対し[[浄土真宗|真宗教団連合]]が「広告の表現は多くの門徒の心を踏みにじる」と抗議をしている。その後オリンパスは、配慮が足りなかった点を謝罪した<ref>『朝日新聞』2005年5月28日号。</ref>。
== 関連文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=多屋頼俊|authorlink=多屋頼俊 |coauthors=[[横超慧日]]・舟橋一哉 編 |year=1995 |title=仏教学辞典 |edition=新版 |publisher=[[法藏館]] |isbn=4-8318-7009-9}}
* {{Cite book|和書 |author=河野法雲 |coauthors=雲山龍珠 監修 |year=1994 |title=真宗辞典 |edition=新装版 |publisher=法藏館 |isbn=4-8318-7012-9}}
* {{Cite book|和書 |author=瓜生津隆真|authorlink=瓜生津隆真 |coauthors=細川行信 編 |year=2000 |title=真宗小事典 |edition=新装版 |publisher=法藏館 |isbn=4-8318-7067-6}}
* {{Cite book|和書 |author=古田和弘 |year=2008 |title=正信偈の教え |publisher=真宗大谷派宗務所出版部 |isbn=978-4-8341-0397-7 |volume=上}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 「参考文献」という名前の節は本記事の出典である資料名を書くための節ですので、出典でなく関連しているだけの文献名は「関連文献」の節に載せてください。 -->
* {{Cite book |和書|author=中村元 |authorlink=中村元 (哲学者) |coauthors=[[福永光司]]・[[田村芳朗]]・[[末木文美士]]・今野達 編|date=2002-10 |title=岩波仏教事典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |isbn=4000802054 |ref={{SfnRef|中村ほか|2002}} }}
* {{Cite book|和書 |author=坂東浩 監修 |date=2005-07 |title=うちのお寺は真宗大谷派 |publisher=[[双葉社]] |isbn=4-575-29813-1 |ref={{SfnRef|坂東|2005}} }}
* {{Cite book|和書 |author=一楽真 |authorlink=一楽真 |year=2007 |title=親鸞聖人に学ぶ‐真宗入門 |publisher=真宗大谷派宗務所出版部 |isbn=978-4-8341-0373-1 |ref={{SfnRef|一楽|2007}} }}
* {{Cite book|和書 |author=浄土真宗教学編集所 聖典編纂監修委員会 編纂 |year=2009 |title=浄土文類聚鈔 入出二門偈頌 |publisher=本願寺出版社 |series=浄土真宗聖典 |isbn=978-4-89416-277-8 |volume=現代語版 |ref={{SfnRef|浄土真宗教学編集所|2009}} }}
* {{Cite book|和書 |author=本多弘之 監修 |date=2009-03 |title=知識ゼロからの親鸞入門 |publisher=[[幻冬舎]] |isbn=978-4-344-90148-3 |ref={{SfnRef|本多|2009}} }}
==関連項目==
{{Wiktionary}}
*[[他力]]
* [[悪人正機]]
* [[十二落抬]]
== 外部リンク ==
*[https://www.hongwanji.or.jp/mioshie/story/000182.html 他力本願とは] 浄土真宗 本願寺派
*[https://tarikihongwan.net/category2/bukkyou/21093.html/ 他力本願の意味とは?|「他力本願-阿弥陀さまにゆだねる- み教えの言葉を学ぶ」より] 他力本願ネット
{{浄土教2}}
{{Buddhism2}}
{{DEFAULTSORT:たりきほんかん}}
[[Category:浄土教]]
[[Category:浄土宗]]
[[Category:浄土真宗の用語]]
[[Category:浄土真宗の教義]]
[[Category:慣用句]]
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11,509 |
入間市駅
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入間市駅(いるましえき)は、埼玉県入間市河原町にある、西武鉄道池袋線の駅である。駅番号はSI23。
単式ホーム1面と島式ホーム2面4線、計3面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。1番ホーム(現在使用停止中)と2番ホームは同じ線路を共用している。
ホームと改札階との間は階段のほかエスカレーターとエレベーター(1番ホームを除く)により連絡している。トイレは2階改札内にあり、多機能トイレも設置されている。このほか改札外の南口駅前広場に公衆トイレがある。
駅の前後はS字型の急カーブになっている。
(出典:西武鉄道:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は28,740人であり、西武鉄道全92駅中29位。
近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。
2007年度までは概ね34,000人台で推移していたが、2008年度は三井アウトレットパーク 入間が開業したことなどもあり、利用者が前年度統計よりも約2千人以上増えた。2009年度以降は前年度統計より減少し、2011年度には34,000人台に戻っている。
入間市の行政・商業の中心で、市役所の最寄り駅であるが、市域の中では端に位置しており、北隣の狭山市との市境付近に位置する。実際、北東に900mしか離れていない東隣の稲荷山公園駅の所在地は狭山市である。
埼玉県西部地区有数の大型店・映画館集合地域である一方、駅前から集合住宅も多数立ち並び、その結果、西武入間ペペ・丸広百貨店入間店・サイオス・ipotなど商業施設を含むビルの群と集合住宅が混在する。
南口からは狭山市駅、河辺駅、箱根ケ崎駅、武蔵藤沢駅方面の路線バスが発着しているほか、2022年2月に閉店したザ・モールみずほ16の無料送迎バスも発着していた。
徒歩圏には豊岡・入間向陽の2校の県立高等学校があり、さらに私立の東野高等学校へのスクールバスが発着している。(東野高校へは路線バスでもアクセスことができる。)そのため、朝間は東京都心方面に向かう通勤・通学客とこれらへ通学する学生・生徒の流れの大部分が逆向きに合流し、階段や改札口が混雑する原因の一つとなっている。
コミュニティ放送局FM茶笛の最寄り駅でもある。
一般路線・コミュニティバスはいずれも西武バスが運行(ないし受託)。
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"text": "埼玉県西部地区有数の大型店・映画館集合地域である一方、駅前から集合住宅も多数立ち並び、その結果、西武入間ペペ・丸広百貨店入間店・サイオス・ipotなど商業施設を含むビルの群と集合住宅が混在する。",
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"text": "南口からは狭山市駅、河辺駅、箱根ケ崎駅、武蔵藤沢駅方面の路線バスが発着しているほか、2022年2月に閉店したザ・モールみずほ16の無料送迎バスも発着していた。",
"title": "駅周辺"
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"text": "徒歩圏には豊岡・入間向陽の2校の県立高等学校があり、さらに私立の東野高等学校へのスクールバスが発着している。(東野高校へは路線バスでもアクセスことができる。)そのため、朝間は東京都心方面に向かう通勤・通学客とこれらへ通学する学生・生徒の流れの大部分が逆向きに合流し、階段や改札口が混雑する原因の一つとなっている。",
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"text": "コミュニティ放送局FM茶笛の最寄り駅でもある。",
"title": "駅周辺"
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"text": "一般路線・コミュニティバスはいずれも西武バスが運行(ないし受託)。",
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入間市駅(いるましえき)は、埼玉県入間市河原町にある、西武鉄道池袋線の駅である。駅番号はSI23。
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{{駅情報
|社色 = #36C
|文字色 = white
|駅名 = 入間市駅
|画像 = SEIBU Irumashi Station South.jpg
|pxl = 300px
|画像説明= 南口(2019年7月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail|coord={{coord|35|50|31.15|N|139|23|22.35|E}}}}<!--地図が表示されないバグを防止するため、暫定的に座標を挿入しています。-->
|よみがな= いるまし
|ローマ字= Irumashi
|前の駅 = SI22 [[稲荷山公園駅|稲荷山公園]]
|駅間A = 0.9
|駅間B = 2.9
|次の駅 = [[仏子駅|仏子]] SI24
|所属事業者= [[西武鉄道]]
|所属路線 = {{color|#f60|■}}[[西武池袋線|池袋線]]
|駅番号 = {{駅番号r|SI|23|#ff6600|2}}
|キロ程 = 36.8 km([[池袋駅|池袋]]起点)<br/>[[小竹向原駅|小竹向原]]から33.4
|起点駅 =
|所在地 = [[埼玉県]][[入間市]][[河原町 (入間市)|河原町]]2-1
|緯度度=35|緯度分=50|緯度秒=31.15
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|地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 3面4線
|開業年月日= [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月15日]]
|乗降人員= <ref group="西武" name="seibu2022" />28,740
|統計年度= 2022年<!--リンク不要-->
|備考 =
}}
[[ファイル:Irumashi Station North Entrance 1.JPG|thumb|北口(2012年6月)]]
'''入間市駅'''(いるましえき)は、[[埼玉県]][[入間市]][[河原町 (入間市)|河原町]]にある、[[西武鉄道]][[西武池袋線|池袋線]]の[[鉄道駅|駅]]である。駅番号は'''SI23'''。
== 歴史 ==
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月15日]] - '''豊岡町駅'''(とよおかまちえき)として開業。
* [[1967年]]([[昭和]]42年)[[4月1日]] - '''入間市駅'''に改称。
* [[1974年]](昭和49年)[[4月27日]] - 新ホームおよび橋上駅舎使用開始。
* [[1983年]](昭和58年)[[12月28日]] - 南口交通広場利用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.iruma.saitama.jp/material/files/group/4/irumakichitai0312.pdf#page=19|title=入間市の基地対策|format=PDF|publisher=埼玉県入間市|page=19|date=2021-12|accessdate=2023-05-13}}</ref>。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[5月12日]] - 橋上駅舎改築使用開始。
* [[1993年]](平成5年)
** 4月1日 - [[ペデストリアンデッキ]]完成。
** [[9月11日]]<ref>『会社要覧』西武鉄道株式会社、1999年、100-103頁では9月14日。</ref> - 駅構内改良工事完了、ホーム3面4線化。
** [[9月22日]] - [[駅ビル]]「西武入間PePe」オープン。
** [[12月6日]] - 待避設備の使用開始に伴い停留場から停車場に昇格。特急列車の停車駅に加わる。
* [[2011年]](平成23年)[[4月28日]] - 定期券売場の営業が終了。
* [[2016年]](平成28年)[[4月16日]] - 発車メロディを「[[茶摘み]]」に変更<ref name=":01"/><ref name=":02"/>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月15日]] - この日をもって1番ホームが使用停止、特急券回収終了。翌16日から下り特急は2番ホームで客扱いを行う。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Limited Express Gate of Irumashi Station.JPG|中間改札(2015年4月)
15 Daniels Album Toyooka Railway Station.jpg|旧称の豊岡町駅として営業していた頃
</gallery>
== 駅構造 ==
[[単式ホーム]]1面と[[島式ホーム]]2面4線、計3面4線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。1番ホーム(現在使用停止中)と2番ホームは同じ線路を共用している。
ホームと[[改札]]階との間は階段のほか[[エスカレーター]]と[[エレベーター]](1番ホームを除く)により連絡している<ref name="irumashimap">[http://www.seibu-group.co.jp/railways/railway/ekimap/irumashi/index.html 入間市駅 駅構内マップ] - 西武鉄道</ref>。[[便所|トイレ]]は2階改札内にあり、多機能トイレも設置されている<ref name="irumashimap"/>。このほか改札外の南口駅前広場に[[公衆便所|公衆トイレ]]がある。
駅の前後はS字型の急カーブになっている。
=== のりば ===
<!--方面表記は、西武鉄道の「駅構内図」の記載に準拠--->
{| class="wikitable"
!ホーム!!路線!!方向!!行先
|-
!{{color|gray|1}}
|colspan="3" style="background:beige;"|{{color|gray|使用停止}}
|-
!2・3
|rowspan="2"|[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 池袋線
|style="text-align:center;"|下り
|[[飯能駅|飯能]]・[[西武秩父駅|西武秩父]]方面
|-
!4・5
|style="text-align:center;"|上り
|[[所沢駅|所沢]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新木場駅|新木場]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[横浜駅|横浜]]方面
|}
(出典:[https://www.seiburailway.jp/railway/station/irumashi/ 西武鉄道:駅構内図])
* 内側2線(3番ホームと4番ホーム)が主本線、外側2線(1・2番ホームと5番ホーム)が待避線である。
* 1番ホームは有効長が7両分で、下り特急専用ホームとして使用され、出入口には中間改札が設置されていた<ref name="irumashimap"/>。しかし、8両編成の[[西武001系電車|西武001系「Laview(ラビュー)」]]が運行開始された2019年3月16日のダイヤ改正以降、1番ホームは使用停止・閉鎖され、2番ホーム側で客扱いを行うように改められた。なお、上りの特急は5番ホームに停車する。
* [[2016年]][[4月16日]]より、発車メロディ「茶摘み」を導入している<ref name=":01">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2015/__icsFiles/afieldfile/2016/03/30/20160330_irumashi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160412130033/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2015/__icsFiles/afieldfile/2016/03/30/20160330_irumashi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=4月16日(土)初電車より 入間市駅の発車メロディを「茶つみ」に変更します|publisher=西武鉄道|date=2016-03-30|accessdate=2020-08-05|archivedate=2016-04-12}}</ref><ref name=":02">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/information/20170731_irumashichatsumi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190308182533/https://www.seiburailway.jp/news/information/20170731_irumashichatsumi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=入間市駅発車メロディ「茶つみ」の使用期間延長について|publisher=西武鉄道|date=2017-07-31|accessdate=2020-08-05|archivedate=2019-03-08}}</ref>。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Seibu Railway Irumashi Station Gate.jpg|改札口(2022年7月)
Seibu Railway Irumashi Station Platform 2・3.jpg|2・3番ホーム(2022年7月)
Seibu Railway Irumashi Station Platform 4・5.jpg|4・5番ホーム(2022年7月)
</gallery>
=== 特徴 ===
* かつては当駅を通過する旅客営業列車が設定されていたが、特急「ちちぶ」・「むさし」が当駅に停車し始めた以降も引き続き通過していた特急「[[ちちぶ (列車)|おくちちぶ]]」が2003年3月12日に廃止されたため、同日以降は特急を含む全旅客営業列車が停車するようになった。また、有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」は土曜・休日ダイヤのみ当駅に入線し、上下列車とも停車する<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181211204927/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有料座席指定列車の愛称・詳細が決定! 2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!|publisher=西武鉄道/東京地下鉄/東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2017-01-10|accessdate=2020-04-22|archivedate=2018-12-11}}</ref>。
* 通常、始発・終着列車は設定されていないが、毎年11月3日に開催される[[航空自衛隊]][[入間基地]]航空祭の開催時のみ臨時の始発・終着列車が設定されている。この際構内に[[引き上げ線|折り返し線]]が存在しないため、2番ホームに到着した当駅終着列車は[[仏子駅]]の中線まで[[回送]]の上折り返し、始発列車は5番ホームに入線する<ref group="注釈">なお、入間市駅 - 飯能駅間で列車の運行に支障があった場合も同様に行われる場合がある。</ref>。この列車はかつては仏子発着として運転されていたが、折返しが煩雑であるため、現在は入間市駅 - 仏子駅間は回送での運転に変更した。
* 急行以下の列車は、当駅で特急・快速急行・S-TRAINの待避を実施するものがある。
* 2022年ダイヤ改正より副都心線直通は朝夕のみの設定である。
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''28,740人'''であり、西武鉄道全92駅中29位<ref group="西武" name="seibu2022" />。
近年の1日平均'''乗降'''人員および[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下記の通り。
<!--埼玉県統計年鑑を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります-->
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|-
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.iruma.saitama.jp/shisei/toukei/toukei_syo/index.html 入間市統計書] - 入間市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|33,390
|16,694<!--6,093,183÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 150ページ</ref>-->
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|33,950
|16,991<!--6,218,548÷366-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 150ページ</ref>-->
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|34,538
|17,305<!--6,316,458÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 160ページ</ref>-->
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|35,746
|17,981<!--6,562,981÷365-->
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|-
|1994年(平成{{0}}6年)
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|-
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|33,713
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|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="西武" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月18日閲覧</ref>24,424
|12,169<!--4,441,787÷365-->
|<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="西武" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月18日閲覧</ref>26,651
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均)|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|page=|accessdate=2023-07-30|publisher=西武鉄道|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>28,740
|
|
|}
2007年度までは概ね34,000人台で推移していたが、2008年度は[[三井アウトレットパーク 入間]]が開業したことなどもあり、利用者が前年度統計よりも約2千人以上増えた。2009年度以降は前年度統計より減少し、2011年度には34,000人台に戻っている。
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Irumashi-Station-2006-03-12 2.jpg|thumb|駅前広場(2006年3月)]]
入間市の行政・商業の中心で、市役所の最寄り駅であるが、市域の中では端に位置しており、北隣の[[狭山市]]との市境付近に位置する。実際、北東に900[[メートル|m]]しか離れていない東隣の[[稲荷山公園駅]]の所在地は狭山市である。
埼玉県西部地区有数の大型店・[[映画館]]集合地域である一方、駅前から[[集合住宅]]も多数立ち並び、その結果、[[ペペ (商業施設)|西武入間ペペ]]・[[丸広百貨店入間店]]・[[入間ショッピングプラザ サイオス|サイオス]]・[[ipot]]など商業施設を含むビルの群と集合住宅が混在する。
南口からは[[狭山市駅]]、[[河辺駅]]、[[箱根ケ崎駅]]、[[武蔵藤沢駅]]方面の[[路線バス]]が発着しているほか、2022年2月に閉店した[[ザ・モールみずほ16]]の無料送迎バスも発着していた。
徒歩圏には[[埼玉県立豊岡高等学校|豊岡]]・[[埼玉県立入間向陽高等学校|入間向陽]]の2校の県立高等学校があり、さらに私立の[[東野高等学校]]への[[スクールバス]]が発着している。(東野高校へは路線バスでもアクセスことができる。)そのため、朝間は東京都心方面に向かう通勤・通学客とこれらへ通学する学生・生徒の流れの大部分が逆向きに合流し、階段や改札口が混雑する原因の一つとなっている。
コミュニティ放送局[[エフエム茶笛|FM茶笛]]の最寄り駅でもある。
; 南口
* 入間市役所
* 入間市市民会館・入間市立中央公民館
* 入間市運動公園
** 入間市市民体育館
* イルミン(入間市市民活動センター・入間市男女共同参画推進センター)
* 入間市産業文化センター
** 入間市立図書館 本館
** 入間市教育センター
* 入間市児童センター
* 入間市防災センター
* [[狭山警察署|埼玉県狭山警察署]](最寄り駅は稲荷山公園駅)
* 狭山保健所(最寄駅は稲荷山公園駅)
* [[航空自衛隊入間基地]](最寄り駅は稲荷山公園駅)
* 入間市立豊岡小学校
* 入間市立東町小学校
* 入間市立豊岡中学校
* 入間市立東町中学校
* [[埼玉県立豊岡高等学校]]
* [[埼玉県立入間向陽高等学校]]
* [[埼玉県立狭山経済高等学校]](最寄り駅は稲荷山公園駅)
* [[東京家政大学]] 狭山校舎(最寄り駅は稲荷山公園駅)
* [[ジョンソン・タウン]]
* [[彩の森入間公園|埼玉県営彩の森入間公園]]
* [[入間郵便局]]
* [[埼玉りそな銀行]] 入間支店
* [[武蔵野銀行]] 入間支店、狭山西支店(同一店舗での営業)
* [[飯能信用金庫]] 入間支店
* [[ペペ (商業施設)|西武入間ぺぺ]]
** <!--西武-->入間ぺぺ内郵便局
** [[いなげや]] ina21
** [[カーブス]]
** [[キャンドゥ]]
** [[銀座コージーコーナー]]
** [[ドラッグセイムス]]
** [[日高屋]]
** [[ポポラマーマ]]
** [[日本マクドナルド|マクドナルド]]
* [[丸広百貨店]]入間店
* [[ipot]]
* [[入間ショッピングプラザ サイオス]]
* [[しまむら|ファッションセンターしまむら]] 入間店
* 入間第一ホテル
; 北口
* [[旧石川組製糸西洋館]]
* 旧[[黒須銀行]]
* 飯能信用金庫 黒須支店
* 入間黒須郵便局
* 黒須公民館
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
一般路線・[[コミュニティバス]]はいずれも[[西武バス]]が運行(ないし受託)。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="4" style="text-align:center;"|西武バス
|[[西武バス飯能営業所#入間市駅 - 河辺・東青梅線|'''入市32''']]:'''入市32-1''':[[河辺駅]]北口<br />'''入市32-2''':七日市場<br />'''入市33''':中神<br />'''入市33-1''':南峯<br />'''入市34''':[[金子駅]]
|style="text-align:left;"|「入市32-2」は平日の夜1本のみ
|-
!2
|[[西武バス飯能営業所#入間市駅 - 箱根ケ崎線|'''入市40'''・'''入市40(直通)'''・'''入市40(準急)''']]:[[三井アウトレットパーク 入間|三井アウトレットパーク]]<br />'''入市51'''・'''入市51(準急)''':入間市博物館<br />'''入市53'''・'''入市53(準急)''':二本木地蔵前<br />'''入市54'''・'''入市54(準急)''':[[箱根ケ崎駅]]<br />'''入市61''':入間市博物館<br />'''入市62''':中村屋武蔵工場
|style="text-align:left;"|「入市61」は平日・土曜朝のみ<br />「入市62」は朝のみ運行
|-
!3
|[[西武バス狭山営業所#狭山市駅西口 - 入間市駅方面|'''狭山27''']]:[[狭山市駅]]西口
|
|-
!rowspan="2"|4
|[[西武バス狭山営業所#武蔵藤沢駅 - 入間扇町屋団地 - 入間市駅方面|'''藤01''']]:[[武蔵藤沢駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[入間市内循環バス]]
|[[入間市内循環バス#北コース|'''北コース''']]・[[入間市内循環バス#南コース|'''南コース''']]:入間市役所<br />'''北コース''':入間野田モール<br />'''南コース''':やまゆり荘<br />[[入間市内循環バス#健康福祉センターコース(新設)|'''健康福祉センターコース''']]:健康福祉センター
|style="text-align:left;"|「北コース」「南コース」は日曜・年末年始運休<br />「健康福祉センターコース」は年末年始運休
|-
!-
|colspan="2"|入間・豊岡第一病院行送迎バス<br />[[ラウンドワン]]入間店行シャトルバス
|
|}
== 隣の駅 ==
; 西武鉄道
: [[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 池袋線
:* {{color|#f33|■}}[[ちちぶ (列車)|特急「ちちぶ」「むさし」]]・{{Color|#0066cc|□}}[[S-TRAIN]]停車駅
:: {{color|#c69|■}}快速急行
::: [[小手指駅]] (SI19) - '''入間市駅 (SI23)''' - [[飯能駅]] (SI26)
:: {{color|#f60|■}}急行・{{color|#fc0|■}}通勤急行・{{color|#0cf|■}}快速・{{color|#0c9|■}}準急・{{color|#999|■}}各駅停車(通勤急行は上りのみ運転)
::: [[稲荷山公園駅]] (SI22) - '''入間市駅 (SI23)''' - [[仏子駅]] (SI24)
:* 当駅と[[仏子駅]]の間には、[[1917年]]([[大正]]6年)から[[1953年]]([[昭和]]28年)の間に[[黒須駅 (埼玉県豊岡町)|黒須駅]]という[[貨物駅]]が存在していた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
; 埼玉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
;西武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="西武"|30em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Irumashi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=irumashi}}
{{西武池袋線}}
{{DEFAULTSORT:いるまし}}
[[Category:埼玉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 い|るまし]]
[[Category:西武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:武蔵野鉄道の鉄道駅]]
[[Category:入間市の交通|いるましえき]]
[[Category:1915年開業の鉄道駅]]
|
2003-07-16T07:47:28Z
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11,512 |
アーサー・エドワード・ウェイト
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アーサー・エドワード・ウェイト(Arthur Edward Waite、1857年10月2日 - 1942年5月19日)は、隠秘学、秘教、魔術に関する多数の著書を執筆した文筆家。ウェイト版タロットの制作者として著名。隠秘学結社「黄金の夜明け団」等に所属していたが、儀式魔術からは距離を置いていた。
アメリカ合衆国に生まれイギリスに育ち、1891年1月に黄金の夜明け団に加入した。しかし1893年に説明もなく退団し、のちの1896年に復帰している。また、1902年に英国薔薇十字協会(英語版)にも加入した。黄金の夜明け団はその後内部抗争から分裂し、ウェイトとM・W・ブラックデンは(黄金の夜明け団創立時の最初のテンプルと同名の)イシス=ウラニア・テンプルを結成、儀式魔術を否定してキリスト教神秘主義色を強めた修正儀式を施行した。1914年にウェイトは自分の率いた黄金の夜明け団分派を去り、その翌年、キリスト教神秘主義を掲げる「薔薇十字友愛団」 (Fellowship of the Rosy Cross) を結成した。その時点でオリジナル黄金の夜明け団からの分派は6つばかり残存していたが、結局黄金の夜明け団がその後復活することはなかった。
ウェイトは隠秘学関係の著作を数多く執筆した。その題材は占い、薔薇十字、フリーメイソン、黒魔術と儀式魔術、 カバラ、錬金術などであった。ウェイトはまた、いくつかの重要な隠秘学や錬金術に関する著作を翻訳し、再版した。聖杯に関するウェイトの著作は、友人であったアーサー・マッケンに影響されたもので、とりわけ注目に値する。ウェイトの著作のうちいくつかは近年になっても出版されている。『儀式魔術の書』 (The Book of Ceremonial Magic)、『聖なるカバラ』 (The Holy Kabbalah)、『フリーメーソン新百科』 (A New Encyclopedia of Freemasonry) といった書物である。
ウェイトは、ウェイト版タロットの共同制作者として、またその解説書『タロット図解』 (The Pictorial Key to the Tarot) の著者として、最もよく知られている。この書は22枚の大アルカナだけではなく、78枚のカード全てを挿絵付きで説明した初めてのものとして注目に値する。カードのイラスト作製は黄金の夜明け団のパメラ・コールマン・スミスが行った。初版は1909年である。
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アーサー・エドワード・ウェイトは、隠秘学、秘教、魔術に関する多数の著書を執筆した文筆家。ウェイト版タロットの制作者として著名。隠秘学結社「黄金の夜明け団」等に所属していたが、儀式魔術からは距離を置いていた。 アメリカ合衆国に生まれイギリスに育ち、1891年1月に黄金の夜明け団に加入した。しかし1893年に説明もなく退団し、のちの1896年に復帰している。また、1902年に英国薔薇十字協会にも加入した。黄金の夜明け団はその後内部抗争から分裂し、ウェイトとM・W・ブラックデンは(黄金の夜明け団創立時の最初のテンプルと同名の)イシス=ウラニア・テンプルを結成、儀式魔術を否定してキリスト教神秘主義色を強めた修正儀式を施行した。1914年にウェイトは自分の率いた黄金の夜明け団分派を去り、その翌年、キリスト教神秘主義を掲げる「薔薇十字友愛団」 を結成した。その時点でオリジナル黄金の夜明け団からの分派は6つばかり残存していたが、結局黄金の夜明け団がその後復活することはなかった。 ウェイトは隠秘学関係の著作を数多く執筆した。その題材は占い、薔薇十字、フリーメイソン、黒魔術と儀式魔術、 カバラ、錬金術などであった。ウェイトはまた、いくつかの重要な隠秘学や錬金術に関する著作を翻訳し、再版した。聖杯に関するウェイトの著作は、友人であったアーサー・マッケンに影響されたもので、とりわけ注目に値する。ウェイトの著作のうちいくつかは近年になっても出版されている。『儀式魔術の書』、『聖なるカバラ』、『フリーメーソン新百科』 といった書物である。 ウェイトは、ウェイト版タロットの共同制作者として、またその解説書『タロット図解』 の著者として、最もよく知られている。この書は22枚の大アルカナだけではなく、78枚のカード全てを挿絵付きで説明した初めてのものとして注目に値する。カードのイラスト作製は黄金の夜明け団のパメラ・コールマン・スミスが行った。初版は1909年である。
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[[Image:ArthurEdwardWaite~1880.JPG|thumb|right|Arthur Edward Waite]]
'''アーサー・エドワード・ウェイト'''(Arthur Edward Waite、[[1857年]][[10月2日]] - [[1942年]][[5月19日]])は、[[神秘学|隠秘学]]、[[秘教]]、[[魔術]]に関する多数の著書を執筆した文筆家。[[ウェイト版タロット]]の制作者として著名。隠秘学結社「[[黄金の夜明け団]]」等に所属していたが、儀式魔術からは距離を置いていた。
[[アメリカ合衆国]]に生まれ[[イギリス]]に育ち、1891年1月に黄金の夜明け団に加入した。しかし1893年に説明もなく退団し、のちの1896年に復帰している。また、1902年に{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}にも加入した。黄金の夜明け団はその後内部抗争から分裂し、ウェイトとM・W・ブラックデンは(黄金の夜明け団創立時の最初のテンプルと同名の)イシス=ウラニア・テンプルを結成、儀式魔術を否定して[[キリスト教神秘主義]]色を強めた修正儀式を施行した。1914年にウェイトは自分の率いた黄金の夜明け団分派を去り、その翌年、キリスト教神秘主義を掲げる「薔薇十字友愛団」 (Fellowship of the Rosy Cross) を結成した。その時点でオリジナル黄金の夜明け団からの分派は6つばかり残存していたが、結局黄金の夜明け団がその後復活することはなかった。
ウェイトは隠秘学関係の著作を数多く執筆した。その題材は[[占い]]、[[薔薇十字団|薔薇十字]]、[[フリーメイソン]]、[[黒魔術]]と儀式魔術、 [[カバラ]]、[[錬金術]]などであった。ウェイトはまた、いくつかの重要な隠秘学や錬金術に関する著作を翻訳し、再版した。[[聖杯]]に関するウェイトの著作は、友人であった[[アーサー・マッケン]]に影響されたもので、とりわけ注目に値する。ウェイトの著作のうちいくつかは近年になっても出版されている。『儀式魔術の書』 (''The Book of Ceremonial Magic'')、『聖なるカバラ』 (''The Holy Kabbalah'')、『フリーメーソン新百科』 (''A New Encyclopedia of Freemasonry'') といった書物である。
ウェイトは、[[ウェイト版タロット]]の共同制作者として、またその解説書『[[タロット図解]]』 (''The Pictorial Key to the Tarot'') の著者として、最もよく知られている。この書は22枚の[[大アルカナ]]だけではなく、78枚のカード全てを挿絵付きで説明した初めてのものとして注目に値する。カードのイラスト作製は黄金の夜明け団の[[パメラ・コールマン・スミス]]が行った。初版は1909年である。
==関連項目==
* [[アーサー・マッケン]]
* [[タロット]]
== 外部リンク ==
*{{Wayback|url=http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/WAITE.htm |title=A. E. ウェイト |date=20020521234153}} - 魔術師綜覧の一部
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阿弥陀経
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『阿弥陀経』(あみだきょう)は、大乗仏教の聖典の一つ。原題は『スカーヴァティー・ヴィユーハ』(梵: Sukhāvatī-vyūha)で、「極楽の荘厳」「幸あるところの美しい風景」の意味である。サンスクリットでは同タイトルの『無量寿経』と区別して『小スカーヴァティー・ヴィユーハ』とも呼ぶ。略称は、『無量寿経』の『大経』に対して、『小経』と呼ばれる。『阿弥陀経』は、弟子の質問に答える形の経ではなく、釈迦自ら説く形式の経であるため浄土真宗では「無問自説経」(ウダーナ、優陀那経)に分類される。
1世紀頃、北インドで成立したと推定されている。サンスクリット写本、漢訳、チベット訳が現存する。
サンスクリット原典は古くから日本に伝えられ、円仁の請来目録に『梵漢両字阿弥陀経』という名が見られる。他に『弥陀経梵本承久本』という写本もあり、江戸時代から出版・研究されてきた。漢訳では、一般に『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)が流布している。サンスクリット本との比較では羅什訳、チベット語訳、玄奘訳の順に現存梵本に近い。
日本に伝えられていた原典が1894年に英訳され、フリードリヒ・マックス・ミュラーにより出版されている(「オクスフォード本」と称される『東方聖典叢書』第49巻)。
イェシェーデとダーナシーラによる『'phags pa bde ba can gyi bkod pa shes bya ba theg pa chen po'i mdo』(聖なる“極楽の荘厳”という名の大乗経)が伝わる。
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『阿弥陀経』(あみだきょう)は、大乗仏教の聖典の一つ。原題は『スカーヴァティー・ヴィユーハ』で、「極楽の荘厳」「幸あるところの美しい風景」の意味である。サンスクリットでは同タイトルの『無量寿経』と区別して『小スカーヴァティー・ヴィユーハ』とも呼ぶ。略称は、『無量寿経』の『大経』に対して、『小経』と呼ばれる。『阿弥陀経』は、弟子の質問に答える形の経ではなく、釈迦自ら説く形式の経であるため浄土真宗では「無問自説経」(ウダーナ、優陀那経)に分類される。
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{{Redirect|小経|中国語のアラビア文字表記|小児経}}
{{JIS2004}}
『'''阿弥陀経'''』(あみだきょう)は、[[大乗仏教]]の[[聖典]]の一つ。原題は『'''スカーヴァティー・ヴィユーハ'''』({{lang-sa-short|Sukhāvatī-vyūha}})で、「[[極楽]]の[[荘厳]]」「幸あるところの美しい風景<ref> 『浄土三部経』下〈岩波文庫版〉、133頁</ref>」の意味である。サンスクリットでは同タイトルの『[[無量寿経]]』と区別して『'''小スカーヴァティー・ヴィユーハ'''』とも呼ぶ。略称は、『無量寿経』の『大経』に対して、『'''小経'''』と呼ばれる。『阿弥陀経』は、弟子の質問に答える形の経ではなく、[[釈迦]]自ら説く形式の経であるため[[浄土真宗]]では「無問自説経」(ウダーナ、優陀那経)に分類される{{Sfn|平原|1997|pp=872-873}}。
== 概要 ==
[[File:梵漢阿弥陀経 Amida Sutra in Kanji and Sanskrit Characters.jpg|thumb|『梵漢両字阿弥陀経』。写真は安永2年(1773年)の刊本。[[梵字]]による[[サンスクリット|サンスクリット語]]原文を中心に、右脇にカタカナで発音を、左脇に漢字で意味を示す。]]
1世紀頃、[[北インド]]で成立したと推定されている。サンスクリット写本、[[漢訳#仏典の漢訳|漢訳]]、チベット訳が現存する。
サンスクリット原典は古くから日本に伝えられ、[[円仁]]の請来目録に『梵漢両字阿弥陀経』という名が見られる。他に『弥陀経梵本承久本』という写本もあり、江戸時代から出版・研究されてきた。漢訳では、一般に『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)が流布している。サンスクリット本との比較では羅什訳、チベット語訳、玄奘訳の順に現存梵本に近い<ref name="ニッポニカ_阿弥陀経"/>。
== サンスクリット原典 ==
日本に伝えられていた原典{{efn2|写本が『弥陀経梵本承久本』(1741年)として[[高貴寺]]に伝承されている。([[奥風栄弘]]「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007573653 高貴寺蔵梵文『阿弥陀経』について]」)}}が[[1894年]]に英訳され、[[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]により出版されている(「オクスフォード本」と称される『[[東方聖典叢書]]』第49巻)。
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== 漢訳 ==
=== 仏説阿弥陀経 ===
{{Wikisource|仏説阿弥陀経}}
[[ファイル:Amitabha Sutra book.jpg|200px|thumb|[[鳩摩羅什]]訳による仏説阿弥陀経]]
* 『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』1巻 [[後秦|姚秦]]の[[鳩摩羅什]]訳、[[402年]]ごろ訳出。
* [[浄土教#日本|日本の浄土教]]の根本聖典の一つで、『[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]』([[康僧鎧]]訳)、『[[観無量寿経|仏説観無量寿経]]』([[畺良耶舎]]訳)とともに「[[浄土三部経]]」と総称される。
* 本経を『阿弥陀経』と呼ぶのが定着したのは[[善導]]からで、それ以前では『無量寿経』という別名でも呼ばれていた<ref name="浄土宗_阿弥陀経">袖山榮輝[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E7%B5%8C 「阿弥陀経」 - 新纂浄土宗大辞典]、浄土宗。</ref>。[[曇鸞]]も[[道綽]]も本経を『無量寿経』という名前で呼んでいる<ref name="浄土宗_阿弥陀経"/>。
* 現存する漢訳本およびチベット訳本の中で、現存するサンスクリット原典に最も近い訳本である<ref name="ニッポニカ_阿弥陀経"/>。
* 「襄陽石刻阿弥陀経」という版では本文中に「一心不乱」に続いて、他本にない「<ins>専持名号以称名故諸罪消滅即是多善根福徳因縁</ins>」<ref name="浄土宗_阿弥陀経"/>という文が存在することが[[王日休]]『[[龍舒浄土文]]』で指摘される<ref name="浄土宗_襄陽石刻阿弥陀経"/>。[[法然]]はこの引文に依って<ref name="浄土宗_襄陽石刻阿弥陀経"/>、[[称名念仏|念仏]]の余行に優れて多善根であることを主張した<ref name="浄土宗_襄陽石刻阿弥陀経">林田康順[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A5%84%E9%99%BD%E7%9F%B3%E5%88%BB%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E7%B5%8C 「襄陽石刻阿弥陀経」 - 新纂浄土宗大辞典]、浄土宗。</ref><ref name="浄土宗_龍舒浄土文">林田康順[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%BE%8D%E8%88%92%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%96%87 「龍舒浄土文」 - 新纂浄土宗大辞典]、浄土宗。</ref><ref name="ニッポニカ_阿弥陀経"/>。
* 非常に短い経典のため、『四紙経』と別称される。
* 『[[大正新脩大蔵経]]』(以下、『大正蔵』) 第12巻 P346~P348。
==== 内容 ====
[[File:Birds AMIDA-KYŌ WAKUN ZUE 阿弥陀経和訓図会 迦陵頻伽 共命鳥.jpg|thumb|right|『阿弥陀経和訓図会』より。美しい声で鳴く[[迦陵頻伽]]と共命鳥]]
*まず[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の極楽[[浄土]]の[[荘厳]]を説き、次にその浄土に往生するために阿弥陀仏の名号を執持(しゅうじ)すること{{efn2|阿弥陀仏の[[名号]]を執持すること…「仏の名をしっかりと心に置くこと」だが、[[善導]]以降は特に[[称名念仏]]のことと解釈された。岩波版 175頁。}}を勧め、次に六方世界{{efn2|六方…東方世界・南方世界・西方世界・北方世界・下方世界・上方世界のこと。}}の諸仏がこの説を讃嘆・証誠して信ずることを勧めていることを話した後、極楽に生まれるように願いを起こすべきであることを再び説き、ブッダにとって、この乱れた世界の人々にこれらのことを信じてもらうことはとても困難な事だったと締め括られる。
*浄土の荘厳を説く部分に「極楽には多くの種類の美しい鳥がいる。これらは常に美しい声で鳴き尊い教えを説き述べている。その国の人々はみな、この鳴き声を聞き終わると仏法僧を念じるようになる。」とあるが、仏教では鳥を含む動物は、生前の悪行の報いとして[[畜生道]]に落ちた存在とされている。これについて阿弥陀経では「極楽には三悪趣(餓鬼道・畜生道・地獄道)は存在せず、そんな言葉もない。これらの鳥は阿弥陀仏が法を広めるために仮に作り出したものである。」としており、畜生である鳥がどうして極楽にいるのかという矛盾を回避している。
=== 小無量寿経 ===
* 『小無量寿経』1巻 [[宋 (南朝)|劉宋]]の求那跋陀羅(ぐなばだら)訳<ref name="浄土宗_阿弥陀経"/>、455年ごろ訳出。
* 欠本<ref name="浄土宗_阿弥陀経"/>。
=== 称讃浄土仏摂受経 ===
* 『称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶっしょうじゅきょう)』1巻 [[唐]]の[[玄奘三蔵|玄奘]](げんじょう)訳、筆受者は[[大乗詢]]{{Sfn|藤田|1998|pp=3-4}}{{efn2|藤田宏達はこの人物を大乗光、すなわち[[普光]]のような著名な人物ではなく、玄奘門下の無名の人としており{{Sfn|藤田|1998|pp=3-4}}、大乗詢が本訳経に大きな関わりを持ったことが、『称讃浄土仏摂受経』に見られる多数の疑問点と関わっていると指摘している{{Sfn|藤田|1998|pp=3-4}}。}}(だいじょうじゅん)、650年訳出。
* 『大正蔵』 第12巻 P348~P351。
* 鳩摩羅什訳「阿弥陀経」と比べて詳細な記述となっている。例をあげれば阿弥陀経では単に「有七寶池 八功德水」とある部分は、いちいち「七寶」や「八功德水」が何かを名を挙げて説明している。また、多くの諸仏が阿弥陀仏の説くことを信じるように薦める部分は、「阿弥陀経」は東・南・西・北・下・上の六方の世界の諸仏が登場するが、「称讃浄土仏摂受経」ではこれらに加えて東南・西南・西北・東北の世界の仏も登場し、合わせて十方世界となっている。ただし追加された世界に登場する仏は一人ずつである。
*また「若諸有情 生彼土者 皆不退転 必不復堕 諸険悪趣 辺地下賎 蔑戻車中」という部分が追加されている。「もし諸々の生きるものがその国土に生まれたなら、皆が不退転となり、絶対に畜生・餓鬼・地獄道にも「辺地」{{efn2|「へんじ」と読み、極楽の存在に疑いを持つものが生まれるという完全ではない浄土。極楽浄土の外れにあるとされることからこの名がある。}}にも「下賎」にも「蔑戻車」の中にも堕ちることはない」ということであるが、「下賎」は下層カーストに由来し、「蔑戻車」とは「ムレーッチャ」({{lang-sa-short|mleccha}})のことで古代インドにおける異民族の蔑称である。
*「辺地下賎 蔑戻車中」の部分は「辺境に住む卑しい異民族」とする説もあるが、「蔑戻車」だけでも蔑称であるため、それに加えて更に「下賎」という形容詞を付けるのかどうかという疑問もある。しかし、称讃浄土仏摂受経の原テキストとなったインド語原典が発見されていないため、本訳の経文に見える異民族に対する差別的な思想は原典由来なのか、訳者の付加なのかという点も含めて不明である。
== チベット語訳 ==
[[イェシェーデ]]とダーナシーラによる『{{Unicode|'phags pa bde ba can gyi bkod pa shes bya ba theg pa chen po'i mdo}}』(聖なる“極楽の荘厳”という名の大乗経)が伝わる<ref name="ニッポニカ_阿弥陀経">[[藤田宏達]][https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E7%B5%8C-27273#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「阿弥陀経」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。</ref><ref>[http://jinglu.cbeta.org/cgi-bin/tibet_detail.pl?lang=&id=0115 聖有樂莊嚴大乘經 - 漢籍全文.佛典經錄資料庫]</ref>。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典===
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== 参考文献 ==
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
* {{Cite book|和書|author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂|date=初版1996年|title=<浄土真宗聖典>浄土三部経 -現代語版-|publisher=本願寺出版社|id=ISBN 978-4-89416-601-1}}
* {{Cite book|和書|author=中村 元|authorlink=中村元 (哲学者)|coauthors=[[早島鏡正]]・[[紀野一義]] 訳注|year=1990|title=浄土三部経|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]] 青306-2|isbn=4-00-333062-5 |volume=下}}
*{{Cite journal|和書|last=藤田 |first=宏達 |title= 玄奘訳『称讃浄土仏摂受経』考 |url= |journal=印度哲学仏教学 = Hokkaido journal of Indological and Buddhist studies / 北海道印度哲学仏教学会 編 |volume= |issue=13 |date=1998 |publisher=北海道印度哲学仏教学会 |pages=1-35 |ref={{SfnRef|藤田|1998}} }}
*{{Cite journal|和書|last=平原 |first=晃宗 |title= 親鸞の『阿弥陀経』観 |url= |journal=宗教研究 |volume= |issue=311 |date=1997 |publisher=日本宗教学会 |pages=872-874 |ref={{SfnRef|平原|1997}} }}
<!-- *[[山口益]]・桜部建・[[森三樹三郎]]訳 『浄土三部経』<大乗仏典6>([[中公文庫]] 2002年) -->
<!-- 『浄土三部経』この文庫判が、いつの編集で参考文献として用いたか要約欄に明示してください。それまで、隠しコメントにします。 -->
== 関連項目 ==
* [[浄土教]]
* [[阿弥陀三尊]]
* [[六時礼讃]]
* [[七高僧]]
* [[七宝]]
* [[倶会一処]]
== 外部リンク ==
{{wikisource|仏説阿弥陀経 (昭和新纂経典部)|仏説阿弥陀経|3=和訳}}
* [http://www.terakoya.com/seiten/genten.html 本願寺派聖典]
* 聖教電子化研究会 [http://www.icho.gr.jp/seiten/html/125.html (冒頭~)]
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ 大正新脩大藏經]…『大正新脩大藏經』のオンライン検索(テキストデータによる閲覧)
* [http://dl.ndl.go.jp 国立国会図書館デジタルコレクション]…『大正新脩大藏經』と入力検索すると、同書が写真により閲覧ができる。
*[https://archive.org/details/BuddhistTextsFromJapanByGeorgBhler/page/n205/mode/2up?view=theater Buddhist Texts From Japan By Friedrich Max Müller (1881)]…デーヴァナーガリー表記による「梵文阿弥陀経」
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[[Category:七高僧]]
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後醍醐天皇
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉)は、日本の第96代天皇、および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉、治天:1321年12月28日〈元亨元年12月9日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。諱は尊治(たかはる)。
大覚寺統の天皇。クーデターにより鎌倉幕府を打倒した。その後軍事力の中核であった実子を粛清した事と失政により失脚。一地方政権の主として生涯を終える。
両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れなかった後醍醐天皇は、鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、倒幕運動を行った。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い(建武の乱)に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野で崩御した。
先代の花園院は、後醍醐天皇を「王家の恥」「一朝の恥辱」と日記に書いている。また、同時代の公卿からも否定的な評価を受けている。吉田定房は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている。北畠顕家は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている。また、同時代の中級実務貴族からの評判も悪く、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる。また、江戸中期を代表する政治家新井白石は「読史余論」で、「後醍醐中興の政、正しからず(建武の新政は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の三宅観瀾は「中興鑑言」で、頼山陽は「日本外史」で遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している。一方で、優れた統治者の一人であると室町幕府・南朝の後継指導者から評される。
室町幕府・南朝両政府の政策は、建武政権のものを多く基盤とした。特筆されるのは、氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである。裁判機構に一番一区制を導入したり、形骸化していた国や郡といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は、以降の全国政権の統治制度の基礎となった。その他には、土地の給付に強制執行を導入して弱小な勢力でも安全に土地を拝領できるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと(高師直へ継承)、官位を恩賞として用いたこと、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、陸奥将軍府や鎌倉将軍府など地方分権制の先駆けでもあることなどが挙げられる。
学問・宗教・芸術の諸分野で高い水準の業績を残した。儒学では宋学(新儒学)受容を進めた最初の君主である。また、有職故実の代表的研究書『建武年中行事』を著した。真言宗では父の後宇多上皇と同様に真言密教の庇護者で阿闍梨(師僧)の位を持っていた。禅宗では禅庭の完成者である夢窓疎石を発掘したことは、以降の日本の文化・美意識に影響を与えた。伊勢神道を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。宸翰様を代表する能書帝で、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(文観房弘真との合作)等4件の書跡が国宝に指定されている。二条派の代表的歌人で、親政中の勅撰和歌集は『続後拾遺和歌集』(撰者は二条為定)。『源氏物語』の研究者。雅楽では琵琶の神器「玄象」の奏者であり、笙の演奏にも秀でていた。茶道では、その前身である闘茶を最も早く主催した人物の一人ともいわれる。
結果的には敵同士になってしまった尊氏からも敬愛された。真言律宗の僧で、ハンセン病患者などの救済に生涯を尽くした忍性を再発見、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、文観房弘真らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である中宮の西園寺禧子は才色兼備の勅撰歌人で、おしどり夫婦として、『増鏡』終盤の題材の一つとなっている。
一方で、大塚紀弘は、後醍醐天皇は密教や寺社重宝がもたらす呪術的な力にすがらざるを得ない追い込まれた事情があったと、記している。
大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下。嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。
正安3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王に次ぐ系統(河内祥輔の表現では「准直系」)と位置付けられていた。「中継ぎ」の「一代の主」というきわめて脆弱な立場だったという旧説もあるが、これは対立皇統である持明院統由来の文書にしか見られず、そこまで弱い立場ではなかったようである。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。これには、後宇多が傾倒していた真言宗の修行に専念したかったという説(『増鏡』「秋のみ山」から続く有力説)や、後醍醐・邦良による大覚寺統体制を確立させて、持明院統への完全勝利を狙ったとする説(河内説)などがある。いずれにせよ、前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に、後醍醐天皇が治天の君となったのは、後宇多から後醍醐への信任があったからだと考えられている。
元亨2年(1322年)、後醍醐天皇が中宮の西園寺禧子の御産祈祷を名目に、鎌倉幕府に呪いをかけた とされるが、後述のように御産祈祷は真実(倒幕とは無関係)とする説もある。
正中元年(1324年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられ、六波羅探題が天皇の側近日野資朝を処分する正中の変が起こる。公式判決では、後醍醐は無罪として釈放された。
その後、嘉暦元年(1326年)6月からおよそ3年半余り、中宮である西園寺禧子への御産祈祷が行われた。主たる理由としては、仲睦まじい夫婦であるのに、子宝に恵まれないことを夫妻が心情的に不満に思ったことが挙げられる。特にこのタイミングで行われたことに関しては、3か月前である同年3月に後醍醐のライバルである邦良が急逝したため、有力権門である西園寺家所生の親王が誕生すれば、邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得ると考えたためとも推測されている(河内祥輔説)。なお、『太平記』では安産祈祷は幕府調伏の偽装だったと描かれているが、この説は2010年代後半時点でほぼ否定されている(西園寺禧子#『太平記』)。
邦良薨去後は、後醍醐一宮(第一皇子)の尊良親王ら4人が次の皇太子候補者に立ったが、最終的に勝利したのは持明院統の嫡子量仁親王(のちの光厳天皇)だったため、譲位の圧力は強まった。
元徳2年(1330年)には、「法曹一途の碩儒」と呼ばれ、「もし倒幕計画が失敗すれば朝儀は再び塗炭に堕ちるだろう」と関東征伐に反対していた中原章房を、瀬尾兵衛太郎に命じて清水寺参詣の際に暗殺させた。
元弘元年(1331年)、倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。髪を乱し、服装も整わないまま、山中に潜んでいたところを発見されたとのことで、花園院は「王家の恥」「一朝の恥辱」と『花園天皇宸記』(元弘元年10月1日条)に記している。このとき、後醍醐天皇は鎌倉幕府の取り調べに対し、「天魔の所為(悪魔のせいで、自分の責任ではない)」なので、許してもらいたいと訴えたという。
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。5月27日、後醍醐は圓教寺へ御幸し、大講堂に参籠して幕府滅亡を祈願した。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。
元弘3年6月5日(1333年7月17日)に帰京 した後醍醐天皇は、「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』上)と宣言し、建武の新政を開始した。なお、建武の新政については、当時から現在に至るまで多様な評価・解釈があり、その特徴や意義について一致した見解が得られていない。したがって、以下、本節では事象の列挙のみを行い、後醍醐天皇の政治思想やその意義・評価については「#評価(同時代)」の節に譲る。
まず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃した。両統迭立を廃止して皇統を大覚寺統に一統した。実子で元弘の乱に最初期から参戦した護良親王を征夷大将軍とし(数か月後に解任)、足利高氏を戦功第一とし自身の諱(本名)「尊治」からの偏諱「尊氏」の名を与えて鎮守府将軍や参議などに任じた。同年中に記録所・恩賞方・雑訴決断所・武者所(頭人(長官)は新田義貞)・窪所などの重要機関が再興もしくは新設された。また、地方政権としては、親房の子北畠顕家を東北・北関東に(陸奥将軍府)、尊氏の弟足利直義を鎌倉に配置した(鎌倉将軍府)。
翌年(1334年)に入るとまず1月23日、父の後宇多天皇が大覚寺統嫡流に指定した甥の邦良親王の血統ではなく、実子の恒良親王を皇太子に立てた。
同年1月29日(1334年3月5日)、簒奪者王莽を倒し後漢を開いた光武帝の元号の建武(けんぶ)の故事により、元号を建武(けんむ)に改元した。
同年中に、検非違使庁による徳政令(建武の徳政令)発布(5月3日)、恩賞方の再編(5月18日)、雑訴決断所の拡充(8月) などの政策が行われた。また、硬貨・楮幣(紙幣)併用とする官銭乾坤通宝を計画し、中御門宣明を鋳銭長官・五条頼元を鋳銭次官に任じた。10月後半から11月初頭、護良親王が失脚し、足利直義に預けられ、鎌倉に蟄居となった(『梅松論』『保暦間記』『大乗院日記目録』)。
建武2年(1335年)6月15日には造大内裏行事所始が行われた。6月22日、大納言西園寺公宗の謀反が発覚し、武者所職員の楠木正成・高師直らに捕縛された。
建武2年(1335年)、北条氏残党の北条時行が起こした中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えた。これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破った。しかし、「連絡して」とは言うものの、実際に足利軍を破ったのは後醍醐直属軍とも表せる新田軍や楠木軍ではなく、あくまでも奥州の北畠軍であり、建武政権に大きな政策転換を迫るものであった。つまり、後醍醐直属軍を倒した足利の「鎌倉小幕府」軍が、北畠の「奥州小幕府」軍に敗れたのであり、「幕府を置かない武家の活用」という後醍醐の政権構想は失敗に終わったのである。
『梅松論』によれば、この時、楠木正成は勝利した側であるにもかかわらず、後醍醐天皇に尊氏との早期講和を進言したが、公家たちによって退けられた。
尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、後に北朝となる持明院統の光厳上皇の院宣を得た後に再び上洛を目指した。尊氏率いる足利軍は、新田・楠木軍に湊川の戦いで勝利し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した。宝算52(満50歳没)。
摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天龍寺を造営している。
後醍醐を直に見たことがあると思われる『増鏡』作者の貴族(二条良基など諸説あり)は、天皇である後醍醐自身の容姿については余り直接語らない。『増鏡』作者は、後醍醐の逸話を光源氏になぞらえて叙述する傾向が多いが(『増鏡』「秋のみ山」「久米のさら山」等)、これはどちらかといえば王朝文学の雰囲気を出すためかともいう。
血族に関して言えば、後醍醐の長男である尊良親王は「ふりがたくなまめかし」(以前のまま優美である)と、流浪の身にあっても容姿に衰えのない美男子であると明言されている(『増鏡』「久米のさら山」)。次男の世良親王もまた「いときらきらし」(端正な美形)だったという(『増鏡』「春の別れ」)。尊良と世良、および親族の恒明親王の三人は一緒にいることが多かったが、三人が後醍醐の後ろに並んで歩く姿にさぞや若い女官たちは色めきだったのではないか、と『増鏡』作者は推測している(『増鏡』「春の別れ」)。
正妃である中宮・西園寺禧子とは小説的な逃避行で結ばれた仲であり、二人の熱愛と夫婦仲の睦まじさは『増鏡』などで名高い。後醍醐天皇は正妃を最も大切に扱って寵愛し、側室もないがしろにしない人物だった(#正妃を手厚く扱う)。
第一皇子の尊良親王には、中務卿など政界の重職での経験を積ませ、節会に出仕させるなど、自分自身の親王時代と同じキャリアを歩ませている。落選こそしてしまったものの、皇太子候補選に推挙したこともある。
第二皇子の世良親王は、後醍醐天皇が出御する時の御供として側に置くことが多かった。嘉暦3年(1328年)10月9日には、関白の二条道平に頼み、世良が議奏という重要な公務を行うのを支えて欲しいと言い、当日、世良が公務を大過なく果たしたのを見ると、後醍醐天皇は上機嫌になったという(『道平公記』)。
皇太子であった恒良親王は常に後醍醐天皇に振り回されていた。建武3年(1336年)に西国で勢力を盛り返した尊氏が京都を占拠すると、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。このとき後醍醐天皇へ尊氏から密使が来て、天皇が義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとしたため、激怒した堀口貞満が出発直前の天皇に「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、後醍醐天皇は皇位を恒良親王に譲り(『太平記』では三種の神器も恒良親王に渡ったという)、恒良親王と尊良親王を委任することで新田軍が官軍であることを保証してから下山した。これによって恒良親王は天皇となり、越前国へ下向し、「北陸朝廷」とも呼べる政権が誕生した。この時に天皇として発給した「綸旨」や、義貞が恒良親王の移動を「臨幸」と表現した書状が現存している。また、「白鹿」という私年号が用いられていたことも「得江文書」から判明している。しかし、比叡山を下山し花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は何の連絡も無しに突如吉野へと逃れ、自身が主宰する朝廷を開いたため、恒良親王の皇位継承は無意味となってしまった。義貞はこれを不快に思ったのか、恒良親王と共に越前国に下向した当時は建武政権下で叙された「左中将」と署名していたのが、後醍醐天皇出奔後は「源」とのみ署名していることが残存の書状から確認できる。このように、後醍醐は軽率な行動によって自らの身内から不信感を買ってしまうことも多々あった。
護良親王は、元弘の乱勃発当初は「後醍醐天皇の代行者」として、「将軍宮」を自称し、特に軍事面において活躍していた。しかし、六波羅探題攻略に際しては、後醍醐天皇自身が軍法を布告し、また4月10日前後から、それまで護良親王が担当していた軍勢催促も後醍醐天皇、自身が綸旨を発給することによって掌握し始め、護良親王の天皇代行者としての立場を回収しようとした。護良親王はこれを察し、軍事関連の令旨を発することはなくなった。 六波羅探題攻略後は、終始討幕戦の中心となり、血みどろの戦闘に身を投じ、本来であれば最大の殊勲者となるはずであった護良親王が、足利高氏のたった一度の六波羅探題攻略によって、その政治的存在をかき消されてしまい、護良親王ではなく高氏が大功労者として政界に踊り出、それを武家方の後伏見院でさえ疑問に思わなかった上に、「光明寺残篇」に見えるように、後醍醐天皇は護良親王を専ら仏教界に抑圧し、軍務や政治から遠ざけようとしていた 。さらに、同じく「光明寺残篇」に見えるように、護良親王の兵力になり得る山門武力を「違勅の北嶺法師」と呼び、武装蜂起を抑制しようとした。そうなってしまえば、護良親王は戦後処理をめぐる発言力を失い、新政権での政治方針も主張できなくなることは自明であった。この現実を前にして、護良親王は、高氏に烈しい憎悪と敵意を抱いた。護良親王は以上の理由により後醍醐に反発し、六波羅探題を攻略した後も京都に入らず、信貴山に登り、後醍醐天皇の説諭も拒否し、武士の求心点である征夷大将軍の地位を要求して信貴山から動かなくなってしまった。後醍醐天皇は護良親王に征夷大将軍の地位を与えることを嫌がったが、将軍となればすぐさま武家政権の成立に繋がる高氏のことを考慮し、護良親王を将軍に任じることで妥協した。 その後に護良親王は入京したが、『梅松論』に見えるように、「後醍醐天皇の叡慮」に従い行われようとしていた尊氏襲撃の計画が発覚してしまい、尊氏は慌てて後醍醐天皇や阿野簾子に取り入り、狭い私情の次元での護良親王敵視を煽り、結局は後醍醐天皇に裏切られる形で足利直義に預けられ、鎌倉に幽閉されることとなり、中先代の乱の際に時行方に担がれることを恐れた直義の命を受けた淵辺義博によって殺された。『梅松論』によれば、幽閉中に「武家(足利)よりも君(後醍醐)の恨めしく渡らせ給ふ」と述べていたという。
護良親王が後醍醐天皇や尊氏との政争に敗れたのは、謀略にたけ目的主義を身上とする後醍醐天皇や、一つ判断を誤れば族滅しかねない北条専制のもとでバランスと手練手管で生きてきた尊氏に対し、護良親王は専ら戦闘に明け暮れていたため、自身の行動がどのように相手に作用するかという政治力に対する知識が乏しかったからであると考えられる。 後醍醐天皇が護良親王を死なせたことについて、政権内部には驚愕と動揺が広がり、『太平記』「兵部卿親王流刑事付驪姫事」に見えるように、「いくら少しの過ちがあろうとも、宥めることもせずに敵人の手に渡してしまうのは如何なものか」という世論が形成された。 後に後醍醐天皇が尊氏の討伐を決意する際に影響を及ぼしたのは新田義貞であるが、義貞はその糾弾の際に、護良親王殺害の罪を全て足利尊氏の悪逆によるものと訴えたため、後醍醐天皇は政権に叛意を抱く尊氏の討伐を、護良親王殺害の復讐としての意味も持たせ、先述の世論や政権内の空気を一掃できると考え、義貞の訴えを受け入れた。 後醍醐天皇が護良親王を死なせたことが失敗であったことは、護良親王死後10ヶ月後には建武政権が崩壊したことからもわかる。楠木正成は後醍醐天皇が護良親王を失脚させたことに失望し、生彩を欠くようになってしまい、後醍醐天皇は正成を湊川の戦いで死なせてしまった。赤松円心は、護良親王に近い武将であったため、その大功績にもかかわらず、播磨国一国の守護職に宛てがわれただけにすぎず、しかも護良親王粛清に伴い、その守護職も解任され、所領は佐用荘地頭職だけという仕打ちを受けたために、後醍醐天皇や政権執行部に対して深い恨みを抱き、尊氏方についた。新田軍勢が円心の籠る白幡城を攻めた際に、円心は一族の者を遣わし、護良親王の御恩が忘れられないこと、恩賞の少なさへの不満、後醍醐天皇の綸旨によって自身が播磨国の守護職に任じられれば降伏することを主張した。義貞はこれを信じ、後醍醐の綸旨を取り寄せたが、その間に円心は戦備を整え、綸旨が到着すると、円心は「既に将軍様(尊氏)に播磨国の守護職に任じてもらったのに、手の裏を返すような綸旨など誰がいるか」と嘲笑った 。
護良親王の子である興良親王は、延文5年/正平15年(1360年)4月25日に、赤松円心の四男である赤松氏範の後援を得て、吉野十八郷の兵を引き連れ、南朝の拠点である賀名生を襲い、黒木内裏や宿所を悉く焼き払った。興良親王が軍事行動を開始したのは父・護良親王の死の翌年であり、父が後醍醐らによって捕まり、無惨な最期を遂げたその経緯を理解できる年齢であった。興良親王はこの経験を忘れず、後醍醐の正嫡である後村上天皇に恨みを抱き、それが爆発したのが賀名生の焼き討ちであった。この感覚は興良親王自身以外の誰にも理解されなかったため、当時の人間も『太平記』に見えるように「不思議なりし御謀反也。」と言った。
正妃の禧子との皇女である懽子内親王については、元徳3年(1331年)8月20日、元弘の乱で幕府と笠置山の戦いを起こすまでという緊迫した時期にもかかわらず、娘のためにわざわざ時間をとって伊勢神宮斎宮の儀式の一つである野宮(ののみや)入りの手続きを行っている(『増鏡』「久米のさら山」)。この時期に懽子が野宮入りしたことについて、井上宗雄によれば、挙兵前に娘の大事な儀式を完了しておきたかったのではないかという。懽子は光厳上皇妃だったにもかかわらず、26歳で出家しているが、安西奈保子の推測によれば、時期的に父の崩御を悼んでのものだったのではないか、という。
父の後宇多上皇とは、かつては仲が悪いとする説があった。しかし、その後、訴訟政策や宗教政策などに後宇多からの強い影響が指摘され、改めて文献を探ったところ、心情的にも父子は仲が良かったと見られることが判明したという。三条実躬の『実躬卿記』では、徳治2年(1307年)1月7日の白馬節会で同じ御所に泊まったのをはじめ、この頃から父子は一緒に活動することが多くなり、蹴鞠で遊んだ記録などが残っている。特に父子の愛情を示すのが、後宇多の寵姫だった遊義門院が危篤になった時で、石清水八幡宮への快癒祈願の代参という大任を尊治(後醍醐)が任された。尊治は途上で遊義門院崩御の知らせを聞いたが、それにもかかわらず父の期待に応えたいと思い、引き返さずに石清水八幡宮に参拝したという。後宇多の命で帝王学の書である『群書治要』を学んだりもしたところを見ると、政治の枢要に尊治(後醍醐)を置きたかったのではないかという。
母の五辻忠子には、践祚わずか2か月後に女院号の「談天門院」を贈り、自身の出世を支えてくれた母を労っている。
祖父の亀山上皇からは、母の忠子が後に亀山のもとに身を寄せたこともあって可愛がられており、亀山の崩御まで庇護を受けていた。最晩年の亀山に子の恒明親王が生まれてそちらに寵が移ったあとも、亀山は後醍醐天皇のことを気にかけており、忠子と後醍醐天皇に邸宅や荘園などの所領を残している。
同母姉である奨子内親王(達智門院)とは、20歳前後のころから『増鏡』「さしぐし」で和歌を贈り合う姿が描かれるなど、仲良し姉弟として当時から知られていた。後醍醐天皇が即位すると、非妻后の皇后に冊立されている。その後もたびたび和歌のやり取りをしたことが、『続千載和歌集』『新千載和歌集』などに入集している。『新葉和歌集』では後醍醐を追悼する和歌が2首収録されている。
大覚寺統正嫡で甥の邦良親王およびその系統とも仲が悪かった。中井の推測によれば、天皇として着々と実績を積んでいく後醍醐に、邦良の側が焦ったのではないか、という。また、後醍醐天皇の乳父である吉田定房と邦良派の中御門経継は犬猿の仲だったため(『花園天皇宸記』元応元年(1319年)10月28日条)、廷臣同士のいがみ合いが争いを加速させてしまった面もあるのではないか、という。
『増鏡』作者は、恒明親王(後醍醐天皇祖父の亀山上皇の最晩年に生まれた子)も後醍醐と交流が深く、特に後醍醐の子である尊良・世良と一緒にいることが多かったと描いている(『増鏡』「春の別れ」)。実際、恒明派から世良を通じて後醍醐派に転じた廷臣も多く、北畠親房はその代表例である。
血縁だけではなく、妻方の家族とも交流があった。中宮禧子の父の西園寺実兼や同母兄の今出川兼季から琵琶を学び、その名手だった。また、側室の二条為子の実家である二条派に学び、その代表的歌人でもある。
後醍醐は本来綸旨を貰う身分ではない土民や地侍、辺境の武装商人、農村武士にまで綸旨を与え、民衆世界にある反体制、あるいは体制外的な勢力を根こそぎ倒幕軍事力として動員しようとした。そこに伝統や故実への配慮は見られず、結果的に、天皇制の危機の克服を目指したはずの後醍醐が、王権の最も重要な道具立てである綸旨の権威を回復するどころか逆に失墜させてしまい、『二条河原の落書』にみえるように気軽に偽綸旨が作られるような空気感を生み出した。
建武の新政下においても後醍醐の綸旨乱発は変わらず、現実や伝統を無視し、綸旨によって物事を個人的に裁定し、これまでの政治の仕切り直しをしようとしたため、朝廷内部の政治行政のありようが破壊的打撃を被った。また、後醍醐自身も「建武以後の綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨を発しており、自分が綸旨を乱発し、しかもその内容が改変されたり誤っていたりすることを認めている。また雑訴決断所を開設し裁判の効率化を図ったものの、後醍醐の天皇絶対化の志向は変わらず、自身の理念的な無理から生じる政治の矛盾を解決するには至らず、多くの人物からの離反を招いた。
加えて、後醍醐はこの時代特有の法慣行(「古き良き法」の尊重)に対する配慮が足りず、元弘戦乱時に出された護良親王の令旨も否定した。
後醍醐の倒幕計画は、専ら悪党的民間武装民と寺院僧兵、一握りの鎌倉御家人に依拠していた。これは、11.12世紀の武士は在地支配力の弱さの分だけ中央権力に依存しなければならなかったのが、鎌倉幕府の成立によって、院や公卿の支配であった武士達は東国の部下として自立していたからである。
後宇多院政では、「治天の君」を補佐する側近集団である伝奏(花山院師信、六条有房、六条有忠、坊城定資、中御門経継、吉田定房、万里小路宣房)が重用され、綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文率は約71%であった。しかし、後醍醐親政においては綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文率は約4%であった。いくら天皇集権を目指す後醍醐であっても、側近無しに専制的な天皇権力を復活させることは不可能であったはずであるが、以上のように後醍醐には伝奏が集まらなかった。その理由は、伝奏となる名家層の人々が後醍醐への奉仕を嫌がり、距離を保とうとしたからであった。名家層の人々が後醍醐への奉仕を嫌った理由は2つ考えられる。1つ目の理由は、後醍醐が中継ぎの天皇であったからである。後宇多は後二条天皇の子や孫に皇位を継承させたいと望んでおり、後醍醐は中継ぎ役(一代主)として即位していたため、後醍醐と親密に接することは、後々に現れる正統な皇位継承者の機嫌を損ねる可能性があった。2つ目の理由は、後醍醐が倒幕を堅く決心していたからである。後宇多は歴代の治天の君の中でも、特に幕府との融和を心掛けていた。後宇多の腹心の六条有房は何度も鎌倉に下向しており、そのような親幕姿勢によって、文保の和談では皇位も東宮の地位も大覚寺統によって独占できた。それに対して、後醍醐は後の行動でも知られるように倒幕派であり、名家層の実務貴族は倒幕運動に巻き込まれることを「危険な暴挙」として嫌った。その著名な例として、吉田定房が後醍醐の倒幕を諌めた「吉田定房奏上」がある。
『太平記』流布本巻1「関所停止の事」では、即位直後・元弘の乱前の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、記録所(即位直後当時は紛争処理機関)に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだという描写がされている。しかし、20世紀までには裏付けとなる史料がほとんど発見されなかったため、これはただの物語で、後醍醐天皇の本当の興味は倒幕活動といった策謀にあり、実際は訴訟制度には余り関心を持たなかったのではないかと思われていた。
その後、2007年に久野修義によって『覚英訴訟上洛日記』が紹介されたことで、後醍醐天皇が裁判に臨席していたのが事実と思われることが判明した。これによれば、記録所の開廷は午前10時ごろ、一日数件の口頭弁論に後醍醐天皇は臨席、同日内に綸旨(天皇の命令文書)の形で判決文を当事者に発行し、すべての公務を終えるのは日付が変わる頃、という超人的なスケジュールだったという。その他の研究では、訴訟の処理だけではなく、制度改革についても、後醍醐天皇の独断専行ではなく、父の後宇多院ら大覚寺統が行ってきた訴訟制度改革を継承・発展させたものであることが指摘され、後醍醐天皇は訴訟問題に関して実行力・知識ともに一定の力量を有していたことがわかってきている。
しかし、先述のように、後醍醐は自身の個人的な裁断によって訴訟を解決しようとし、それは雑訴決断所開設後も本質的には変わらなかった(雑訴決断所は後醍醐の綸旨と決断所の牒をもって裁断されることになっていたが、このルールは建武2年(1335年)初頭には実行されなくなっていた)ため、社会の混乱は収まらず、むしろ拡大してしまった。
幕府を滅ぼしたことにより、後醍醐は武士に対して恩賞を与える立場となった。地方においては陸奥将軍府や鎌倉将軍府を開いてそのポストに武士を登用することで恩賞としたが、京には武士が新しく恩賞として獲得できるポストが存在しなかった。そのため、雑訴決断所を開設しそこに武士層を吸収させた。しかし、「二条河原の落書」に「器用の堪否沙汰もなく、もるる人なき決断所」と見えるように、才能の有無を考慮せずに任命が行われており、雑訴決断所は公家と武家を統合した権力組織として、後醍醐の専制政治の中核となるはずであったが、結果的に公家も武家も不満を募らせた。公家は家格から見れば極めて低い地位の執行官・吏僚にされてしまったことや、武家と共に働かねばならないことに納得ができず、武家は公家より立場が下であったことや、大して功も無いのに偉ぶっているのが気に食わなかった。つまり、決断所の人的構成(公家と武家)は「水と油の関係」であった。また、公家は訴訟関係の経験不足が著しく、そのような者を裁判機関の中に組み込んでも混乱が増すだけであった。
他にも後醍醐は、鎌倉幕府の御家人身分(御恩と奉公によって征夷大将軍に直属する武士の特権階級)を撤廃した。これは一つには当時御家人制度が社会の実態にそぐわなかったことが挙げられる。
また、恩賞として官位を与える制度を再興し、数々の武士を朝廷の高官に取り立てた。公卿の親房からは厳しく批難されたものの、後には親房自身がこの制度を利用して南朝運営に大きな成功を挙げている(→北畠親房からの評価)。
後醍醐天皇が好んでいたのは、行政的な実務手腕に優れた官僚型の武士であり、記録所・恩賞方・雑訴決断所といった新政権の重要機関に(特に雑訴決断所に)、鎌倉以来の実務官僚武家氏族が多く登用された。鎌倉幕府の本拠地鎌倉からよりも六波羅探題からの登用の方が多く、これは、鎌倉では北条氏と繋がりを持つ氏族からの縁故採用が多かったのに対し、六波羅探題には純粋に官僚的能力によって昇進した実力派が集っていたからではないか、という。また、森幸夫によれば、一般的には武将としての印象が強い楠木正成と名和長年だが、この二人は特に建武政権の最高政務機関である記録所寄人に大抜擢されていることから、実務官僚としても相応の手腕を有していたのではないか、という。
後醍醐天皇に抜擢され、地方から京に集った武家官僚たちは、京都という政治・文化の中枢に身を置くことで、能力や地位を向上させていった。例えば、諏訪円忠は、鎌倉幕府では一奉行人に過ぎなかったが、建武政権で雑訴決断所職員を経験して能力と人脈を磨いたのち、室町幕府では最高政務機関である評定衆の一人となっている。中でも著名なのが、後に室町幕府初代執事となる足利氏執事高師直で、亀田俊和によれば、地方の一勢力の家宰に過ぎなかった師直が、政治家としても武将としても全国的な水準で一流になることが出来たのは、建武政権下で楠木正成ら優秀な人材と交流できたからではないか、という。高師直は、後に、後醍醐天皇の政策の多くを改良した上で室町幕府に取り入れている。
また、(建武の乱が発生するまでは)足利尊氏をことのほか寵愛した。尊氏の名は初め「高氏」と表記したが(北条高時からの偏諱)、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降、足利尊氏と名乗るようになった。元弘の乱後の軍功認定は、尊氏と護良親王(後醍醐天皇の実子)が担ったが、護良親王が独自の権限で認定したのに対し、尊氏は後醍醐天皇の忠実な代行者として、護良親王以上の勤勉さで軍功認定を行った。後醍醐天皇は尊氏に30ヶ所の土地と、鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議など重要官職を惜しみなく与え、さらに鎮守府将軍として建武政権の全軍指揮権を委ねて、政治の中枢に取り入れた。鎮守府将軍はお飾りの地位ではなく、尊氏は九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限を行使した。弟の直義もまた、15ヶ所の土地と鎌倉将軍府執権(実質的な関東の指導者)など任じられた。なお、『梅松論』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏が政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、吉原弘道は、新研究の成果を踏まえ、尊氏が受けた異例の厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している。
後醍醐天皇は、既に倒れた得宗北条高時に対しては、その冥福を祈り、建武2年(1335年)3月ごろ、腹心の尊氏に命じて、鎌倉の高時屋敷跡に宝戒寺を建立することを企画した。その後の戦乱で造営は一時中断されていたが、観応の擾乱(1350–1352)を制して幕府の実権を握った尊氏は、円観を名義上の開山(二世の惟賢を実質的な開山)として、正平8年/文和2年(1353年)春ごろから造営を再開、翌年ごろには完成させ、後醍醐の遺志を完遂している。また、高時の遺児の北条時行は中先代の乱で一時は後醍醐天皇に反旗を翻したが、のち南北朝の内乱が始まると尊氏よりは後醍醐に付くことを望み、後醍醐もこれを許して、有力武将として重用した。
とはいえ、後醍醐天皇に対立し続けた武家氏族は、建武政権では信任されなかった。たとえば、摂津氏・松田氏・斎藤氏らは、鎌倉幕府・六波羅探題で代々実務官僚を務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇の好みに合っていたはずだが、北条氏に最後まで忠誠を尽くしたため、数人の例外を除き、建武政権下ではほぼ登用されることはなかった。
建武の乱の発生以降は、かつては寵遇した尊氏を「凶徒」と名指しするなど、対決路線を明確にした(『阿蘇文書』(『南北朝遺文 九州編一』514号))。その一方で、北畠親房や親房を信任した後村上天皇が偏諱の事実を拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し、後醍醐天皇は最期まで尊氏のことを一貫して「尊氏」と書き続けた。このことについて、森茂暁は「後醍醐のせめてもの配慮なのかもしれない」とし、岡野友彦もまた、尊氏を徹底的に嫌う親房とは温度差があり、建武の乱発生後も、後醍醐は親房ほどには尊氏を敵視していなかったのではないかとする。
鎌倉時代後期、徳政という思想が普及し、悪しき政治は天変地異に繋がると考えられたため(天人相関説)、為政者たちは善政に励み、天災を防ごうとした。徳政の最も重大な事項は訴訟制度改革であるが、それに次いで、朝儀(古代の朝廷儀礼)を復興させることも重要な課題と考えられていた。後醍醐天皇は特に延喜・天暦の治(10世紀の醍醐・村上両帝の治世)を復興すべき徳政・朝儀の理想像とした。朝儀復興者としての後醍醐は、鎌倉時代末期の世人に「聖代」と仰がれ(『後伏見天皇事書』)、南北朝時代には北朝の准三宮二条良基からも敬意を払われた。
後醍醐天皇は特に朝儀の研究面において、有職故実に精通し、自ら『建武年中行事』という書を著して、朝廷の権威高揚を図った。この書籍は、行事の起源などの逸話は省略され、いつどのように実行するかという次第が書かれた実践書となっており、酒井信彦は、建武の新政下での儀礼執行への手引書として実践目的で書かれたものではないかと推測している。「未来の先例たるべし」という新政の意気込みと対照的に、こちらの序文では「まあ後世の鑑(手本)というほどのものではないにしても、ひょっとしたら、この時代にはこんなことがあったのだなあと、〔後の世の人たちにとって〕何かの参考にはなるかもしれない」と述べている。
『建武年中行事』は宮中で高く評価された。後花園天皇(在位1428年 - 1464年)はこれを書写して註釈をつけ、廃れていた行事をこの書に倣って復興するよう、息子の後土御門天皇(在位1464年 - 1500年)に薦めた。のち自身も『後水尾院年中行事』を著した後水尾天皇(在位1611年 - 1629年)も、同書を順徳天皇の『禁秘抄』と並ぶ宝典とし、後世まで残る鑑だと称賛した。
また、後醍醐天皇は建武の新政下で大内裏造営を計画したが、甲斐玄洋は、これはただの権力誇示ではなく、「聖代の政務の場」を復興させることで、徳政を目指したのではないかと主張している。しかしその反面、大内裏造営計画は重税にも繋がることになった。公卿・鎮守府大将軍の北畠顕家(北畠親房の長男)は、『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年(1338年))で重税を諌めたが、これは一般に大内裏造営への批判も含まれていると考えられている。亀田俊和は、造営計画自体は間違いとは思わないが、元弘の乱による疲弊が回復しきっていない時期に行ったという点が問題であると指摘した。
後醍醐天皇は、建武の新政の後期には、綸旨(天皇の私的な命令文)の代わりに、太政官(律令制の最高機関)の正式な公文書である太政官符を多く発給した。甲斐は太政官符発給は朝儀復興の一環であり、公家徳政を志す後醍醐天皇の政治構想に沿ったものであると主張した。
後醍醐天皇は、両統迭立期(1242年 - 1392年)において最も禅宗を庇護した天皇だった。後嵯峨天皇から後亀山天皇の治世まで、仏僧に対する国師号授与は計25回行われ、うち20回が臨済宗の禅僧に対するものであるが、後醍醐天皇は計12回の国師号授与を行い、そのうちの10回が臨済宗へのものであり、単独でこの時期の全天皇の興禅事業の半数を占める。
中世日本では、天台宗や真言宗といった旧仏教は学問偏重の傾向にあり、しかも高貴な家柄に生まれた僧侶だけが要職に就くことが出来た。禅宗や律宗の僧侶はこれに異を唱え、戒律を重視したため、身分としては低かったが、武家や大衆から広く人気を集めた。後醍醐天皇の属する大覚寺統もまた禅宗に着目し、亀山上皇(後醍醐祖父)は京都南禅寺を開き、後宇多上皇(後醍醐父)は鎌倉幕府からの許可を取った上で南禅寺に鎌倉五山に准じる寺格を認めた。後醍醐の興禅事業は父祖の延長にあるものである。
以下が、後醍醐天皇の臨済宗における国師の一覧である。
この他、五山文学の旗手であり儒学者・数学者としても知られる中巌円月を召し出し、『上建武天子表』『原民』『原僧』といった政治論を献呈された。
元徳2年(1330年)、元から来訪した明極楚俊(みんきそしゅん)が鎌倉に向かう途上、明極を引き止めて御所に参内させたが、当時の天皇が外国人と直接対面するのは異例の事態である。明極の他、元の臨済僧としては清拙正澄も重用した。
後醍醐天皇の皇子の一人とも伝えられる無文元選は臨済宗の高僧として大成し、遠江国方広寺の開山となり、「聖鑑国師」「円明大師」の諡号を追贈された。
2018年、日本史研究者の保立道久が唱えた説によれば、後醍醐天皇の禅宗政策からは、後醍醐が融和路線を志向する政治家であることが見て取れ、皇統が分裂した両統迭立を友好的に解消するための手段として、禅宗を活用しようとした形跡が見られるという。また、その禅宗政策は、歴史的意義としても、鎌倉時代→建武政権→室町幕府→江戸幕府という連続性を見ることができ、公武を超えた国家統合の枠組みとして後醍醐が具体的に禅宗を提示したからこそ、その後、明治維新まで500年以上続く武家禅宗国家体制が成立したのではないか、という。
もともと禅宗はどちらかといえば後醍醐ら大覚寺統が支持する新興宗教であったが、持明院統でも例外的に花園天皇は禅宗に深く帰依し、特に大徳寺の宗峰妙超を崇敬していた。後醍醐の側も花園の姿勢に好意を持ち、花園を追って大徳寺と宗峰妙超を篤く敬い、両帝ともに大徳寺を祈願所と設定していた。その後、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すと、京に帰還して建武の新政を開始した翌々日の元弘3年/正慶2年(1333年)6月7日という早期の段階で、大徳寺に「大徳寺領事、管領不可有相違者」との綸旨(天皇の命令文)を発した(『大日本古文書 大徳寺文書』67、中御門宣明奉)。この後もたびたび、大徳寺は所領寄進などをすばやく受けており、その手篤さは真言律宗の本拠地である西大寺(後醍醐腹心の文観房弘真の支持母体)と並ぶほどであったという。 同年8月24日にはさらに後醍醐自筆の置文で「大徳禅寺者、宜為本朝無双禅苑」「門弟相承、不許他門住」(『大日本古文書 大徳寺文書』1)と日本最高の禅寺であることが明言され、10月1日には正式に綸旨で「五山之其一」(『大日本古文書 大徳寺文書』14)とされた。翌年1月26日に後醍醐は南禅寺(祖父の亀山天皇が開いた禅寺)を京都五山第一と定めると、2日後の28日に改めて大徳寺を南禅寺と並ぶ寺格とし「南宗単伝の浄場なり」と称した(『大日本古文書 大徳寺文書』15)。南宗云々とはつまり、大徳寺が国家寺院であると宣言したことと解釈可能である。
さて、大徳寺への寺領安堵の時期(6月7日)を見てみると、これは実は、持明院統への王家領安堵の時期と同日である。したがって、保立によれば、この二つは連動した政策であったのではないかという。最も注目されるのは、かつて花園上皇が大徳寺の宗峰妙超に寄進していた室町院領の「伴野床・葛西御厨」の安堵については、花園からの大徳寺への寄進を後伏見上皇に確認させる、という煩雑な手続きを踏んで行ったことである(『鎌倉遺文』32242・『大日本古文書 大徳寺文書』30)。この措置によって、大徳寺が改めて大覚寺統と持明院統の双方から崇敬を受けるという形式になったのである。室町院領はもともと大覚寺統・持明院統という天皇家内部の紛争の火種になっていた荘園群のため、これらが大徳寺という宗教的・中立的な組織に付けられたことの意味は大きい。つまり、後醍醐天皇は持明院統との融和路線を目指し、公家一統の象徴として大徳寺を表に立てたのではないか、という。
しかも、後醍醐天皇は、「本朝無双禅苑」「五山之其一」といったただの華やかな名目で大徳寺を飾り立てるだけではなく、実際の造営や寺地確保においても、他の仏教宗派との紛争が起こらないように、細やかに腐心した痕跡が見られる。たとえば、後醍醐が建武の新政時に大徳寺に与えた寺域は、天台宗の円融院・梶井門跡と接している。ここで、当時の梶井門跡を管領していたのは、後醍醐の皇子で天台座主の尊澄法親王(のちの征夷大将軍・宗良親王)だった。尊澄(宗良)は元弘の乱以前、自身と関連がある善持寺という寺院の土地が、開堂したばかりの大徳寺に流入してしまう件を快く了承したことがあるなど(『大日本古文書 大徳寺文書』1-168)、天台宗延暦寺最高の地位にある僧でありながら、禅宗にも理解のある人物だった。このように、首都・京都に新たに大きな禅宗の寺院を造営・拡大するにあたって、自身の人脈によって、最も強い障害と考えられる仏教界の旧勢力・天台宗との軋轢を起こさないように図っている。この後醍醐の融和的な姿勢は、建武政権期で一貫したものだったと見られ、建武元年(1334年)10月20日の綸旨で再度敷地の確認を行っている(『大日本古文書 大徳寺文書』50)。
無論、その後の建武の乱で建武政権が崩壊してしまったため、結果論としては、後醍醐の宥和計画である大徳寺を通じた公家一統そのものは成功しなかった。とはいえ、歴史的意義がなかったといえば、そうではなく、むしろ逆で、後醍醐の禅宗政策はその後の日本の歴史に決定的な影響を与えた。
宋学(新儒学)は、しばしば宋学の中の一つに過ぎない朱子学と同じものであると誤解されることが多いが、それは事実ではなく、この時代の宋学は禅宗とは不可分一体のものだった。鎌倉時代、日本がモンゴル帝国の脅威に晒されると、公武の各有識者は、それまでのナショナリズムを捨て、日本の近代化を図るべく、宋学と禅宗が一体になった思想を、南宋の禅僧である無準師範の門下や、南宋から日本に渡来した蘭渓道隆を通じて学んだ。この時点では、禅宗・宋学は諸勢力によってばらばらに学ばれるものに過ぎなかったが、後醍醐によって初めて禅律国家というものが具体的に提示され、国家統合の象徴として用いられることで、その後の隆盛が保証されることになった。保立によれば、後醍醐の肖像画が、律宗の西大寺出身の文観と、禅宗の大徳寺によって所持されたことがその端的な象徴ではないか、という。
ただし、後醍醐だけが宋学に傾倒していたわけではない。たとえば、元応3年(1321年)に「讖緯説」を基に元享へ改元する協議が為された際は、「讖緯説は『易緯度』や『詩緯』に依拠するものである」という宋学的な理由(欧陽脩や朱熹が同じような理由で讖緯説を否定している)で、大外記・中原師雄を始め、協議に参加した全員が「緯説用ふべからざる事」を主張した。また、北畠親房も讖緯説を「奇怪虚誕の事」と否定している。また、一条兼良の『尺素往来』によれば、儒学は従来は清原・中原両家によって「前後漢、晋、唐朝の博士」の旧注が用いられていたが、「近代」には玄恵が「程朱二公(宋学の大成者である程頤、朱熹のこと)」の「新釈」を用いて朝廷で「議席」を開いたという。加えて、『花園院宸記』元応3年(1319年)閏7月22日条によれば、持明院殿で行われた『論語』の談義に、日野資朝や菅原公時』らの学者官僚に混じって、玄恵らの宋学に通じた僧侶も参加し、花園院は特に玄恵の説くところを「誠に道に達するか」と讃えている。
後醍醐の政策は、建武政権崩壊後も、足利政権によって武家禅宗国家として発展的に受け継がれた、という説もある。足利尊氏・直義兄弟によって後醍醐の冥福のために天龍寺が創建されたのはあまりにも有名であり、足利義満もまた、後醍醐によって才覚を発掘された禅僧夢窓疎石を名目の開山とし、相国寺を建立している。このように、足利氏政権が禅宗・儒学を国家の理念と位置づけ、しかも禅宗寺院が宗教上だけではなく経済的・社会的にも大きな役割を果たすようになったのは、建武政権からの連続性を否定できない、という。その後、武家禅宗国家は江戸幕府が崩壊するまで500年以上続くことになるが、「禅宗は武家のもの」という認識は江戸幕府が禅宗を深化させたのを過去遡及的に当てはめた理解に過ぎず、実際は、公武を超えた国家的事業に禅を据えた後醍醐こそが、武家禅宗国家の成立を切り開いた人物であると言えるのではないか、という。
しかし、観念的な外来思想である宋学は王朝政治のためのものであり、室町時代においてそれは京都の朝廷での狭い世界でしか通用しないものであったため、尊氏自身はその思想に興味はなく、「三島神社文書」に見えるように、鎌倉以来の武家政治の中で培われた、個別具体的な主従制や、行政や裁判を通じて生活に密着した統治思想に重きを置いていた。
後醍醐天皇の祖父の亀山天皇は、真言律宗の開祖である叡尊に深く帰依したが、後醍醐もまた律宗の振興を図った。
律宗とは、特にその代表者である叡尊の活動について言えば、1. 仏教界の堕落に対処するため、戒律(仏教における規律・規範)を重視して復興を図ったこと(律宗)、2. 釈迦・文殊菩薩・舎利(しゃり、釈迦の遺骨)への信仰を重視し、荒廃した寺院を復興し、様々な仏像を作成させたこと、3. 大衆との関わりを重視し、貧民救済などの慈善事業を活発に行ったこと(忍性も参照)、4. 密教僧として、鎌倉時代を代表する密教美術の制作を多く指揮・監修したこと、などが挙げられる。
後醍醐は、嘉暦3年(1328年)5月26日から始まる元徳2年(1330年)までの3年間、真言律宗の忍性に「忍性菩薩」、信空に「慈真和尚」、唐招提寺中興の祖の覚盛に「大悲菩薩」の諡号を贈った(『僧官補任』)。これらは、真言宗の高僧でありながら真言律宗が出身母体である腹心の文観房弘真からの推挙が大きかったと見られる。
忍性は、貧民やハンセン病患者、非人の救済に生涯を捧げた律僧である。後伏見天皇から叡尊への「興正菩薩」が、正安2年(1300年)閏7月3日だから、律僧が諡号を贈られたのは約28年ぶりで、忍性の入滅からも25年が経っている。
後醍醐はまた、名誉を贈るだけではなく、各地の律宗の民衆救済事業に支援をしたと見られる。たとえば、東播磨(兵庫県東部)では、加古川水系の五ヶ井用水に対し、中世に何者かによって大規模な治水工事が行われ、その結果、700ヘクタールもの水田を潤す大型用水施設となり、加古川大堰が1989年に完成するまで、地域の富を生み出す心臓部になったことが知られている。金子哲は、同時代の記録を突き合わせて、この事業は当時まだ20代後半から30代だった文観によって開始されたのではないか、とした。そして、同時期の同地に、文観によって立てられた石塔群が大覚寺統の勢力範囲内にあり、「金輪聖王」(天皇)云々と掘られていることから、これらの事業には後宇多上皇(後醍醐父)や皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)からの支援があったのではないか、と推測した。
神道家としての後醍醐天皇は、大覚寺統の慣例に則り、当時廃れつつあった伊勢神宮を保護し、外宮の度会家行から伊勢神道を学んだ。この縁で、後醍醐天皇第一の側近であり中世最大の思想家・歴史家でもある北畠親房も伊勢神道の思想を取り込み、主著『神皇正統記』等に表現したため、日本の哲学・歴史学への思想的影響は大きい。
伊勢神宮は、古代日本では特殊な地位を築いていたが、律令制の崩壊や八幡宮・熊野神社の台頭によって、中世には権勢を失いかけていた。そこで、外宮の度会氏は伊勢神宮の独自性を保つため、独特の神道観を形成していった。ところが、後深草天皇を初め、持明院統の天皇は斎王(未婚の内親王もしくは女王を伊勢の斎宮に送り天照大神の御杖代(みつえしろ)=依り代の巫女として仕えさせること)の制度を無視したため、伊勢神宮はさらに打撃を受け、天皇家との繋がりさえも失いかけていた。このような中、大覚寺統の天皇たちはなるべく斎王を送る制度を尊重したため、度会氏の側でも見返りとして秘伝である伊勢神道の書物を献上するようになっていた。岡野友彦によれば、「神本仏迹」(しんぽんぶつじゃく)、つまり本地垂迹とは逆に、日本の神々の方が本体で仏がその化身であるという、伊勢神道独特の神道優位主義が、鎌倉幕府から自立したがる傾向にある大覚寺統の思想に相通じるものがあったのではないか、という。
度会氏は、元弘2年/正慶元年(1332年)までに、後宇多法皇(後醍醐の父)と後醍醐天皇へ、度会家行が編纂した『類聚神祇本源』を献上し、両帝は同書の叡覧(天子としての閲覧)をした。また、後醍醐天皇は大覚寺統の慣習通り、元徳2年(1330年)に、中宮の西園寺禧子との間に生まれた懽子内親王を斎王として卜定(ぼくじょう、指名)したが、この直後に後醍醐が元弘の乱で隠岐に流されたため、実際に懽子内親王が伊勢に赴くことはなかった。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開いた後醍醐は、寵姫阿野廉子との娘の祥子内親王を斎王に卜定したが、数年後に建武の乱で建武政権が崩壊したため、結局祥子内親王が歴史上最後の斎王となってしまった。
その後、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、後醍醐側近の北畠親房は、宗良親王を奉じて伊勢国に下向したが、このとき親房が頼ったのが、既に後醍醐天皇との繋がりがある度会家行だった。同地で、親房は家行から初めて伊勢神道を学び、特に伊勢神道の諸書の梗概を編集して成立した『類聚神祇本源』には興味を示して自らの筆で書写し始め、延元2年/建武4年(1337年)7月以降に書写し終わった。その後の親房の著作の中でも、特に『神皇正統記』『元々集』には伊勢神道からの影響が強く見られる。
小笠原春夫は、この時期の度会家行・度会常昌・北畠親房・慈遍らの学派の活動について、「神道史上画期的な一出発の趣をな[す]」と評し、中世末期の吉田神道や近世初期の儒家神道などの後世の神道に対する影響は多大であると述べている。
また、後醍醐天皇と伊勢神道の結びつきは南朝の軍事面にも貢献し、宗教権門として伊勢国の8郡を支配する伊勢神宮からの支援を得た北畠家は、伊勢国に地盤を築くことに成功し、伊勢国司北畠家として、戦国時代末期まで200年以上に渡り同地の大勢力として君臨した。
一方、伊勢神宮の全てが南朝に協力した訳ではなく、中には北朝側についた神主もいた。これは、神宮内部での派閥争いとも関連していると見られているが、詳細は不明であり、後醍醐天皇と伊勢神宮の関係は2010年代時点でも研究され尽くした訳ではない。
書家としては、和風の様式に、中国の宋風から派生した禅宗様を加え、「宸翰様」(しんかんよう)と呼ばれる書風を確立し(宸翰(しんかん)とは天皇の直筆文のこと)、新風を書道界にもたらした。財津永次によれば、後醍醐天皇は、北宋の文人で「宋の四大家」の一人である黄庭堅の書風を、臨済禅の高僧宗峰妙超(大燈国師)を介して習得したと思われるという。財津は後醍醐天皇の作を「覇気横溢した書として名高い」と評している。また、小松茂美は、後醍醐天皇を日本史上最も名高い能書帝としては伏見天皇に次いで取り上げ、「力に満ちた覇気あふれる書」を残したと評価している。
後醍醐天皇の書作品は、1951年から1955年にかけて、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』、『後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉』、『四天王寺縁起〈後醍醐天皇宸翰本〉』、『三朝宸翰』 (後醍醐天皇宸翰消息10通を含む) の4件が国宝に指定されている。
当時は後醍醐天皇に限らず南北両朝の天皇が競って書を研鑽したため、この時期の諸帝の宸翰は史料としてだけではなく、書道の芸術作品としても重要である。その一方、角井博によれば、宸翰様は書風そのものの芸術的価値という点では評価が高いものの、和様書道の一部と見なされ、後世の書道への影響という点では特筆することがないという。
後醍醐天皇は和歌にも造詣が深かった。『新後撰和歌集』から『新後拾遺和歌集』までの7つの勅撰和歌集に、多数の歌が入撰している。これらの勅撰集の中でも、第16となる『続後拾遺和歌集』(嘉暦元年(1326年)6月9日返納)は、後醍醐天皇が二条為定を撰者として勅撰したものである。実子で南朝征夷大将軍の宗良親王が撰者であった南朝の准勅撰集『新葉和歌集』にも当然ながら入撰しており、また宗良親王の家集『李花集』には、内面の心境を吐露した和歌が収録されている。南朝だけではなく、室町幕府初代将軍足利尊氏の執奏による北朝の勅撰集『新千載和歌集』でも24首が入撰しており、これは二条為世・二条為定・伏見院・後宇多院・二条為氏らに次いで6番目に多い。自身も優れた武家歌人であった尊氏は、後醍醐天皇を弔う願文の中で、「素盞嗚尊之詠、伝我朝風俗之往策」と、後醍醐の和歌の才能を歌神である素盞嗚尊(すさのおのみこと)になぞらえ、その詠み様は古い日本の歌風を再現するかのような古雅なものであったと評している。
後醍醐天皇は、当時の上流階級にとっての正統文芸であった和歌を庇護した有力なパトロンと見なされており、『増鏡』第13「秋のみ山」でも「当代(後醍醐)もまた敷島の道もてなさせ給」と賞賛されている。なお、鎌倉時代中期の阿仏尼『十六夜日記』に「やまとの歌の道は(中略)世を治め、物を和らぐるなかだち」とあるように、この当時の和歌はただの文芸ではなく、己の意志を表現して統治を円滑するための強力な政治道具とも考えられていた。
歌学上の業績としては、当時持明院統派閥の京極派に押されつつあった二条派を、大覚寺統の天皇として復興した。前述の『続後拾遺和歌集』の撰者に二条派の為定を採用したことが一例である。藤原北家御子左流は「歌聖」藤原定家などを輩出した歌学の家系であるが、当時の歌壇は、御子左流嫡流で政治的には大覚寺統側だった二条家の二条派と、その庶流で政治的には持明院統側だった京極派に二分していた(ここに鎌倉幕府と親しかった冷泉派を加えることもある)。歌風としては、二条派は伝統性と平明性を尊び、対する京極派は清新性を尊んだという違いがある。国文学研究者の井上宗雄および日本史研究者の森茂暁によれば、儒学を重んじる後醍醐天皇は、二条派の中でも、二条家当主ではあるが古儀に疎い二条為世よりも、その次男で儒学的色彩の濃い二条為藤の歌を好んだという。その論拠として、『花園天皇宸記』元亨4年(1324年)7月26日条裏書には、為藤の評伝記事について「主上(後醍醐)、儒教の義理をもつて、推して歌道の本意を知る」とあることが挙げられる。森の主張によれば、後醍醐天皇は歌学の教養を二条派から摂取しただけではなく、その逆方向に後醍醐天皇から為藤やその甥の為定の歌風に対する影響も大きく、二条派に儒風を導入させたという。
また、後醍醐天皇は婚姻上でも御子左流二条家を優遇し、為世の娘(為定の叔母)であり、「歌聖」藤原定家からは曾孫にあたる二条為子を側室として迎えた。為子との間に、尊良親王および後に二条派最大の歌人の一人として南朝歌壇の中心となった宗良親王の男子二人をもうけている。『増鏡』では、後醍醐と為子は仲睦まじい夫婦だったと描かれている。
後醍醐天皇が勅撰を命じた『続後拾遺和歌集』で抜擢された武家歌人には、まだ「高氏」と名乗っていた頃の若き足利尊氏もいた。尊氏は前回の『続千載和歌集』のときにも二条家に和歌を送っていたのだが、その時は不合格で入撰せず、送った和歌が突き返されてきた。そこで、後醍醐天皇の時代に「かきすつるもくづなりとも此度は かへらでとまれ和歌の浦波」という和歌を送ったところ、今度は二条為定の眼に止まり、採用となったのである(歌の大意:どうせ私の和歌など、紀伊国和歌の浦で掻き集めて捨てる藻屑のように、書き捨てた紙屑だから、和歌の浦の波のように返ってくるのだろうが、どうか今度こそは返却されずに採用されて欲しい)。
なお、森茂暁は、『続後拾遺和歌集』が四季部奏覧された正中2年(1325年)という時期に着目し、これは正中の変で後醍醐天皇の鎌倉幕府転覆計画が発覚し、多数の手駒を失った翌年に当たるから、後醍醐の側で目ぼしい武士に恩を売って、少しでも反幕勢力を増やしたいという政治的意図があったのではないか、と推測している。また、尊氏の側でも、政治的意図はまだ後醍醐ほどには強くなかっただろうにせよ、二条家の背後にいる後醍醐に接近したいという想いがあり、両者で利害が一致した結果の採用なのではないか、とも推測している。ただし、2000年代後半以降、河内祥輔らによって、正中の変では後醍醐は倒幕を考えておらず、本当に冤罪だったとする説も唱えられている(詳細は当該項目参照)。
いずれにせよ、尊氏が後醍醐天皇から受けた影響は、単なる政治的なものには留まらず、歌学上でも後醍醐の意志を引き継いで二条派を振興した。南北朝の内乱が発生し、足利氏内部の実権が弟の足利直義に移った後、北朝(持明院統)で最初に勅撰された光厳天皇の『風雅和歌集』は京極派寄りであり、一時的に二条派は衰えた。しかし、観応の擾乱で直義に勝利し将軍親政を開始した尊氏は、幕府・北朝安定政策の一環として、北朝の後光厳天皇に『新千載和歌集』を執奏した。ここで尊氏は、自分が最初に入撰した『続後拾遺和歌集』の時の撰者である二条為定を、再び撰者に推薦した。さらに、五摂家の一つ九条流二条家の当主で連歌の大成者でもある二条良基(これまで登場してきた御子左流二条家とは別の家柄)は、有職故実研究者としての後醍醐天皇を尊敬しており、皇統から言えば京極派であるはずの後光厳天皇にも、後醍醐天皇系の二条派を学ぶように説得し、後光厳天皇もこれに納得して二条派に転じた。こうして、尊氏・良基の努力により、『新千載和歌集』の撰者には再び二条派の為定が復帰した。
後醍醐天皇の二条派は最終的に京極派に勝利し、京極派が南北朝時代中期に滅んだのに対し、二条派は近世まで命脈を保った。その著名な伝承者としては、南朝の宗良親王や北朝の頓阿・兼好法師、室町後期の宗祇・三条西実隆、戦国時代の三条西公条・三条西実枝・細川幽斎などがいる。幽斎の門下からは智仁親王・中院通勝らの堂上派と松永貞徳らの地下派に分かれて江戸時代に続き、江戸中後期には地下派の香川景柄(1745–1821年)の養子となった香川景樹(1768–1843年)が古今伝授の権威主義を批判し、二条派を発展的に解消して、その後継として実践を重んじる桂園派を新たに創始した。さらに明治時代には明治21年(1888年)に宮内省の部局御歌所の初代所長となった桂園派の高崎正風らが御歌所派を形成して、昭和21年(1946年)の御歌所廃止まで存続した。
文人としての後醍醐天皇の業績には、紫式部の小説『源氏物語』(11世紀初頭)の研究がある。後醍醐天皇は『定家本源氏物語』や河内方の註釈書『水原抄』を読み込み、余白に自らの見解を書き入れた。また、四辻善成の『河海抄』(1360年代)の序文によれば、後醍醐天皇は即位後間もない頃、源氏物語の講演を開催して自説を展開し、これを聴講していた医師で歌人の丹波忠守(善成の師)と意気投合して、その門下に入ったという。さらに、『原中最秘抄』(1364年)によれば、建武の新政の初期、公務の合間を縫って、河内方の研究者である行阿に命じて『河内本源氏物語』を献上させたり、源氏物語の登場人物の系図を自ら作成したりと、最も多忙な時期でも『源氏物語』研究を怠らなかったという。後醍醐天皇の研究成果は、嫡孫の長慶天皇に直接継承され、長慶は『源氏物語』の註釈書『仙源抄』を著作している。
なお、後醍醐天皇の弟弟子にあたる四辻善成の『河海抄』は、当時までの『源氏物語』の既存研究を列挙・検討した集大成的な研究書であるが、それまでの研究に見られない特徴として、『源氏物語』の「延喜天暦準拠説」を主張したことが知られる。つまり、登場人物の桐壺帝・朱雀帝・冷泉帝を、それぞれの実在の醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇に結びつけ、『源氏物語』は「延喜・天暦の治」を踏まえて描かれたものとして解釈しようとしたのである。
そして、国文学研究者の加藤洋介の論説によれば、「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は四辻善成の独創ではなく、実は後醍醐天皇によって考え出されたものではないか、という。その論拠としては、以下のことが挙げられる。
そして、後醍醐天皇が考案した「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は、共通の師である丹波忠守を介して、四辻善成に伝わったのではないか、という。また、後醍醐天皇にとって『源氏物語』研究とはただの趣味ではなく、王権を回復するための事業の一部であり、したがってその意志を受け継いだ善成の『河海抄』も、文学的な知見だけではなく、建武政権の性質を理解すること無しに読み解くことはできないのではないか、としている。
以上の加藤の論説は、日本史研究者の森茂暁も「首肯される意見である」と賛同している。
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・皇族の間で習得が求められていた笛を粟田口嗣房、没後はその従兄弟の藤井嗣実から習得し、更に秘曲に関しては地下楽人の大神景光から習得していたとみられている。特に「羅陵王」という舞楽曲の一部で秘曲として知られた「荒序」という曲を愛好し、たびたびこの曲を演奏している。この曲は平時には太平を寿ぎ、非常時には勝利を呼ぶ曲と言われ、元寇の時にも宮廷でたびたび演奏されていた。このため、「荒序」と討幕を関係づける説もある。
更に後醍醐天皇は持明院統の天皇・皇族の間で習得が求められていた琵琶の習得にも積極的で、西園寺実兼に懇願して文保3年(1319年)1月10日には秘曲である慈尊万秋楽と揚真操を、元亨元年(1321年)6月15日には同じく秘曲の石上流泉と上原石上流泉の伝授を受け、翌元亨2年(1322年)5月26日には秘曲である啄木を実兼が進めた譜面を元に今出川兼季から伝授されている(実兼が病のため、息子の兼季が代理で教授した)。しかも天皇が伝授で用いたのは皇室の累代の名器とされた「玄上」であった。嘉暦3年(1328年)2月16日には、持明院統でも天皇しか伝授を受ける事が出来ないとされていた「啄木」の譜外口伝の伝授を兼季から受けていた。勅命である以上、兼季もこれを拒むことができず、その事情を伝えられた持明院統側では自らの系統を象徴する秘伝が大覚寺統の天皇に知られたことに衝撃が走った。後伏見上皇は日記の中で持明院統が守ってきた琵琶の道が今上(後醍醐天皇)に奪われてしまったと嘆いている。
更に綾小路有頼から催馬楽の秘曲を、二条資親からは神楽の秘曲の伝授を受けるなど積極的に各種の音楽の奥義を極めた他、西園寺家や平等院、東大寺正倉院から名器を召し上げて自らの物としており、物質面でも内容面でも両統迭立以来大覚寺統・持明院統で独自の文化を築きつつあった宮廷音楽の統一を図り、自らの権威を高めようとしていた。
中世には闘茶(茶道の前身)といって、茶の香りや味から産地を当てる遊びが流行したが、後醍醐天皇はそれを最も早く始めた人物の一人としても知られる。闘茶会であると明言されたものの史料上の初見は、後醍醐天皇の政敵である光厳天皇が元弘2年/正慶元年6月5日(1332年6月28日)に開いた茶寄合(『光厳天皇宸記』同日条)であるが、実際はそれに先立つ8年ごろ前に、後醍醐天皇の無礼講で開催された飲茶会(『花園院宸記』元亨四年十一月朔日条(1324年11月18日条))も闘茶であったろうと推測されている。
後醍醐天皇が開始した建武政権(1333–1336年)の下では、闘茶が貴族社会の外にも爆発的に流行した様子が、当時の風刺詩『二条河原の落書』に「茶香十炷」として記されている。さらに、武士の間でも広まり、室町幕府の『建武式目』(延元元年/建武3年11月7日(1336年12月10日))では茶寄合で賭け事をすることが禁じられ、『太平記』(1370年ごろ完成)でも、バサラ大名たちが豪華な室礼で部屋を飾り、大量の景品を積み上げて闘茶をしたという物語が描かれる。
また、茶器の一種で、金輪寺(きんりんじ/こんりんじ)茶入という薄茶器(薄茶を入れる容器)を代表する形式を考案した。これは、後醍醐天皇が大和吉野の金輪寺(修験道の総本山金峯山寺)で「一字金輪の法」を修行していた時に、蔦の木株から茶入を作り、天皇自ら修験僧らのために茶を立てて振る舞ったのが起源であるという。また、『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、戦国時代の武将織田信長は、後醍醐天皇御製の金輪寺の本歌(原品)であるという伝説の茶器を所持していたことがあり、天正7年(1579年)5月27日に、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に下賜した。
中国では、北宋(960–1127年)の頃から、盆石(現代日本語の水石)といって、山水の景色を想起させるような美石を愛でる趣味があり、日本へは鎌倉時代末期から南北朝時代ごろに、臨済宗の虎関師錬を代表とする禅僧によってもたらされた。唐物趣味で禅宗に深く帰依した後醍醐天皇もまた愛石家として「夢の浮橋」という名石を所持しており、徳川家康の手を経て、2019年現在は徳川美術館が所蔵している。名前の通り橋状の石で、一見すると底面が地に密着するように見えるが、実際は両端のわずかな部分が接地するだけで、しかも橋のように安定性がある。石底には朱漆で「夢の浮橋」の銘が書かれており、筆跡鑑定の結果、後醍醐天皇の自筆であると判明している。その銘は『源氏物語』最終巻の「夢浮橋」に由来すると考えられている。徳川美術館はこの石を「盆石中の王者」と評している。
伝承によれば、「夢の浮橋」は、中国江蘇省江寧山からもたらされた霊石であり、後醍醐天皇は元弘の乱で京都を離れた際にも、「夢の浮橋」を懐に入れて片時も手放さなかったと伝えられる。
後醍醐天皇が才覚を見出した石立僧(いしだてそう、自然石による作庭を得意とする仏僧)としては、臨済宗の夢窓疎石がいる。夢窓疎石はもと世俗での立身出世を嫌い、各地を転々として隠棲する禅僧であったが、正中2年(1325年)春、後醍醐天皇は夢窓を京都南禅寺に招こうとし、一度は断られたものの、再び執権北条高時を介して来京を願ったため、夢想はやむを得ず同年8月29日に上京し南禅寺に入った。この後、夢窓は執権高時の帰依をも受けるようになった。元弘の乱後、建武元年(1334年)9月に後醍醐天皇は正式に夢窓疎石に弟子入りし、建武2年(1335年)10月に「夢窓国師」の国師号を授けた。後醍醐天皇が崩御すると、夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟に後醍醐天皇への冥福を祈るように薦め、このため足利兄弟は夢窓を開山として天龍寺を創建した。夢窓は直義と協議して、天龍寺船を元に派遣して貿易の儲けで寺の建築費用を稼ぎ、自らの手で禅庭を設計した。1994年、夢窓疎石の天龍寺庭園は、「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」の一部として、ユネスコによって世界遺産に登録された。
践祚から『続後拾遺和歌集』成立までの間(1318年 - 1326年)に詠んだ歌。
『増鏡』「久米のさら山」によれば、鎌倉幕府に捕まって隠岐国に流される途中、美作国(岡山県東北部)に差し掛かった元弘2年/元徳4年(1332年)3月17日に詠んだ歌2首。
南朝を開いて吉野行宮にいた時代(1337年 - 1339年)に、五月雨が絶え間なく続いて、晴れの日がない頃に、雨の神を祀る丹生川上神社に勅使を立てて祈らせた時の歌。室町時代の説話文学である『吉野拾遺』にも、やや改変された形で引用された。
元弘の乱の初戦に敗北し、鎌倉幕府に捕まって隠岐国へ向けて京都を出立した元弘2年/元徳4年(1332年)3月7日に、道を先導する武士の佐々木導誉に向けて詠んだ歌。のち足利尊氏の側近のバサラ大名として権勢を誇る導誉だが、この頃はまだ一介の佐渡判官に過ぎなかった。そのように天皇からすれば弱小な地位の武士であったにもかかわらず、後醍醐はむかし導誉が石清水八幡宮に案内してくれた時のことを正確に記憶しており、その時のことを懐かしく思って導誉に親しく語りかけたのである。
後醍醐天皇が隠岐に流される途中、元弘2年/元徳4年(1332年)3月8日から11日ごろに、道を先導してくれた山人らに対し感謝して詠んだ歌。
後醍醐天皇が隠岐国を脱出して本州に辿り着いた際、最初に後醍醐に味方した伯耆国(鳥取県)の豪族・武将である名和長年のために詠んだ歌。准勅撰和歌集『新葉和歌集』羇旅歌の巻軸(その巻の末尾を飾る重要で優れた歌)である。長年は船上山の戦いで幕府軍に勝利し、その功績から、のち後醍醐の寵臣「三木一草」の一人になった。しかし、建武の乱で足利尊氏と戦い、討死した。
『新葉和歌集』で、この歌の後に撰者の宗良親王が書き加えた文によると、かつて、後醍醐天皇が名和長年の船上山での活躍を記した記録が存在した。そして、その記録の奥に付されたのがこの歌であったという。後醍醐による名和長年の伝記は散逸し、この歌のみが残る。
学問と芸術を愛好した皇帝らしく、後醍醐天皇は陰鬱でメランコリックな歌を得意とした。たとえば、自身の境遇を嘆いた和歌のうち2首が、歴史物語『増鏡』の巻名である「むら時雨」と「久米のさら山」に採用されている。天皇家になんか生まれなければ良かったという歌や(#上なき身)、私もきっともうすぐ死ぬのだろう、といった歌もある(#我が世の末)。後者は詠んだ後に実際すぐ崩御している。後醍醐が偏諱(尊治の「尊」)を与えるほどに寵愛した武家歌人の足利尊氏もまた、40代半ばでも迷いの多いことを嘆いて遁世を願う和歌を詠んでおり、このような打たれ弱さは、尊氏と似た者同士とも考えられる。
なお、2010年代時点で世間に流布される人物像としては、後醍醐は不撓不屈の精神を持った武闘派の天皇と描かれることが多い。しかし、日本史研究者の呉座勇一の主張によれば、このような人物像は崩御してから数十年後に完成した軍記物語である『太平記』に多くを依拠しており、歴史的実像としては疑問点が多いという。
鎌倉幕府との戦いである 元弘の乱の初戦の笠置山の戦いに敗北して捕縛された後醍醐天皇は、元弘元年/元徳3年(1331年)10月初頭、大勢の武士に囲まれて入京し、六波羅探題の南側にある、板葺きのみすぼらしい館に幽閉された(『増鏡』『花園天皇宸記』)。『増鏡』によれば、この歌はその幽閉中に詠まれた和歌であるという。『増鏡』「むら時雨」の巻名は、この和歌に由来する。
『増鏡』「久米のさら山」では、元弘の乱の初戦で敗北して隠岐国配流が決まり、都を出立する直前に詠んだ歌として配置されている。このようにはじめは落ち込んだ後醍醐だが、都を出てから隠岐にまで行く道中で、直に地方の民と触れ合うことができ、流刑というのも悪いことばかりではない、と思い直すことになる(#民のかまど)。
『増鏡』によれば、京都を出立して隠岐島に流されるまでの道中、美作国佐良山(岡山県津山市の南部にある山)を通りかかった時に詠んだ歌であるという。『増鏡』「久米のさら山」の巻名は、この歌に由来する。
最晩年の吉野行宮時代(1337年 - 1339年)に詠んだ歌。誰を悼んだ哀傷歌なのかは具体的に書かれていないが、一人に特定するならば、推定30代で崩御した最愛の妃である皇太后西園寺禧子(後京極院)などが考えられる。
延元3年/建武5年(1338年)初頭、側近の公卿である吉田定房・坊門清忠が相次いで薨去したのを悼んだ歌。後醍醐の予見通り、この翌年に自身もまた崩御する。
後醍醐の皇太子時代の最初の正妃は、二条派を代表する大歌人である二条為子だったが、応長元年(1311年)もしくは翌年ごろに死去した。それから20年以上後の元弘3年(1333年)9月13日の夜、為子の代表歌である「月ならで うつろふ色も 見えぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊」(『続後拾遺和歌集』秋歌下・381) を参考歌にして詠んだ一首である(為子の歌の詳細については、二条為子#白菊を参照)。
正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろ、皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)は、有力公家の西園寺家の姫君である西園寺禧子と密かに駆け落ちし、禧子を適当な場所に匿って、そのまま何も知らない振りをして朝廷に出仕しようとした。しかし、翌年1月にはやくも事件は露顕して、一騒動になった(『花園天皇宸記』正和3年(1314年)1月20日条)。上の後醍醐本人の証言によれば、後醍醐は恋愛関係でポーカーフェイスを保つことができない性格だったという。
皇太后禧子が崩御した同年の元弘3年12月7日(1334年1月13日)、新たな正妃として、対立皇統である持明院統の後伏見天皇第一皇女の珣子内親王が立てられた。これは、持明院統と西園寺家(珣子の従兄は西園寺家当主公宗)との融和路線を築くための政略結婚と見られ、しかも20歳以上の年齢差がある結婚だった。だが、後醍醐は珣子のために心を尽くし、立后屏風、つまり皇后が定まった時に有力歌人が歌を色紙に書いて屏風に貼る行事では、新郎であり二条派の大歌人でもある後醍醐自身も歌を詠んだ。そのうちの2首の両方ともが、北朝の勅撰和歌集と南朝の准勅撰和歌集の双方に同時入集するほどの秀歌だった(もう1首は珣子内親王#後醍醐から珣子への歌を参照)。
上記の歌は、『新葉和歌集』の版である「袖かへす 天津乙女も 思ひ出ずや 吉野の宮の 昔語りを」が刻まれた歌碑が、2012年時点で、奈良県吉野郡吉野町の吉野朝皇居跡に立てられている。
『増鏡』「久米のさら山」によれば、元弘の乱の笠置山の戦いに敗北し幕府に捕らえられた後醍醐天皇は、年が明けて元弘2年/正慶元年(1332年)2月頃になってもまだ、六波羅に囚われており、意気消沈する日々を送っていた。このとき、中宮の西園寺禧子は夫の慰めにと、後醍醐がかつて愛用していた琵琶を宮中から届けると、紙片に歌を書いて琵琶に添えた(『太平記』もほぼ同様の逸話を載せる)。
これに対し、後醍醐も雨垂れのようにはらはらと涙をこぼし、歌を詠んだという。
後醍醐天皇は琵琶の名手として著名であり、禧子の父である西園寺実兼や同母兄の今出川兼季に学び、その腕前は『増鏡』や、笙の名人であった将軍足利尊氏による弔文で絶賛されている。また、天皇家の神器である伝説の琵琶「玄象」(げんじょう)を初め、数多くの楽器の名物を所有していた。そうした天才音楽家としての名声や皇家累代の神宝、そして一国の皇帝たる自分自身の命よりも、最愛の正妃である禧子の存在と、禧子との永遠の契りの方が、はるかに尊い、と謳う歌である。
河内国の土豪の立場から、元弘の乱による功績によって多大な朝恩を誇った楠木正成は、後醍醐を評価した発言をあまり残していない。しかし、『梅松論』には、足利尊氏が九州に落ち延びた際に、「君の先代を亡ぼされしは併せて尊氏卿の忠功なり(天皇が鎌倉幕府を滅ぼすことができたのは悉く尊氏卿の忠功による)」と発言した記録が残されており、天下の大勢は後醍醐への信頼を失い、信頼が尊氏側に移っていることをはっきりと認識していたことがわかる。また、『太平記』西源院本によれば、尊氏東上の際に、後醍醐や公卿に「京中で尊氏を迎え撃つべき」という自身の進言が聞き入れられなかったことに対し、「討死せよとの勅命を下していただきたい」と発言しており、開き直った正成の悲痛な言葉や不満を伝えている。加えて、『梅松論』には、正成が兵庫に下向する途中、尼崎において「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前に命を落とすべき(足利勢を迎え撃つため、正成は和泉や河内の守護として勅命により軍勢を催しても、親類・一族でさえ難色を示す。ましてや一般の国人・土民はついてきません。天下が天皇に背を向けたことは明確です。正成の存命は無益ですので、激しく戦って死にましょう)。」という旨を後醍醐に上奏したことが記されている。尊氏との戦争の勝敗が人心にあると考えていた正成は、世の中の人々が天皇や建武政権に背を向け、民衆の支持を得られていない状況では、敗北は必至であると考えていた。
室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏は、後醍醐天皇をよく肯定した。よくそれを表す文書として、後醍醐崩御百日目に尊氏が著した「後醍醐院百ヶ日御願文」 が知られ、以下に大意を示す。
伏して考え申し上げるに、後醍醐院は期に応じて運を啓かれ、聖王たる「出震向離」の吉相をお持ちになり、その功は神にも等しく、徳は天にもお達しになられていました。それゆえ、陛下は代々の諸帝のご遺徳をお集めになり、君臨すること太陽のごとく、我らが仰ぎ見ること雲のごとくの王者となられたのです。またそれゆえ、陛下は古の聖王たちの栄える事業をお引き継ぎになり、神武天皇以来このかた90余代の遙かな系図を受け継がれ、元応以降、18年のご在位をお保ちになったのです。
陛下は、外には王道の大化をお成し遂げになりましたが、今の政治の道の本源はまさにここにありました。内には仏法の隆盛をお図らいになりましたが、その聖者のお心をどうして貴ばずにいられましょうか。陛下は神がかった書の才をお持ちになり、「書聖」王羲之にも迫るという唐太宗を超えるほどのものでいらっしゃいました。陛下の麗しい笙の響きさえあれば、いまさら漢高祖の伝説の笛を求める必要がありましょうや。陛下の和歌の才はまるで歌神の素盞鳴尊(すさのおのみこと)のようで、我が国古来の歌風を思い起こさせられました。陛下が琵琶の神器「玄象」(げんじょう)を取って奏でる秘曲の調べは、その初代の使い手である「聖王」村上帝の演奏にも等しい。究めるべき道をすべて究め、修めるべき徳をすべて修めた、それが後醍醐院というお方でいらっしゃいました。
しかるに、しばらく京の輝かしい宮廷を辞して、はるか吉野の都に行幸なさいました。その様は、龍馬が帰らず、聖なる白雲がそびえ立つこと峻厳なごとく。天子の輿は久しく外に留まり、ついに旅の中で崩御なされました。聖天子のような死ではなく、無念のうちに死んだ諸帝のように崩御なさったのは、ああ、なんとお痛ましいことでしょうか。
ここに、陛下の弟子であるわたくしは、畏れ多くも亜相(大納言)に進み、征夷大将軍の武職に至りました。この運の巡り合わせは、漢という国が興った歴史のような幸運を思い起こさせます。弓矢を袋に入れて(武器を収めて)、ただ安らかな平和を乞い願い、国家を護ることで君にお仕えし、民を労ることで仁義を尽くしたいと思っております。
わたくしは戦功しか取り柄がない者ではありますが、ただそれのみによって、ここまで幸運な繁栄を為すことができました。わたくしのような弱輩が、ここまで力を得ることができた理由をよくよく考え申し上げてみますと、まさに、先帝陛下が巨大な聖鳥である鴻(おおとり)のように力強くお羽ばたきになったことに端を発しているに違いありません。
陛下の穏やかで優しいお言葉が、今もなおわたくしの耳の奥底に留まっております。陛下を慕い敬うあまりに胸が苦しくなるこの気持ちを、いったいどうしたら書き尽くすことができましょうか。わたくしが授かった恩恵は無窮であり、感謝して報いることを決して疎かにはできません。
まず、七度の七日供養をつらつらと行い、追福を申し上げました。今、時の移り変わりを惜しみ、写経もいたしました。かつて、勝力菩薩陶弘景が入滅して百日後に、残された弟子たちは慕い上げ、唐太宗が崩御して百日後、官吏たちは先帝の余芳に従ったと言われています。しかし、はたしてその程度で済ますことができるでしょうか。
すなわちここに、図絵胎蔵界曼荼羅一鋪・金剛界曼荼羅一鋪、図絵観世音菩薩一鋪・摺写大日経三巻・理趣経四巻・随求陀羅尼経三巻を奉り、妙法蓮華経十部を転読させ、さらに五箇の禅室を加え、十人の僧に供養を行わせ、非人救済も実施しました。等持院に寄付も行い、密教の儀式の座も造り、前大僧正法印大和尚の主催で読経を行わせました。数多くの都人・僧・公卿・殿上人らが集まり、陛下の菩提を弔いました。全ての景色が荘厳で、陛下の威徳に相応しいものです。
陛下の聖霊は、この千五百秋之神州である日本より出でて、すみやかに阿彌陀如来の宝座へと向かわれるでしょう。三十六天の仙室へは向かわず、直ちに常寂光土、永遠の悟りを得た真理の絶対界へと到達なさるでしょう。そして、仏への敬いが足りない者に至るまで、あらゆる民を八正道へ、すなわち涅槃へ至るための正しい道へとお導きになるでしょう。
亀田俊和の主張によれば、尊氏から後醍醐への敬慕は実体を伴ったものであったという。亀田は、建武政権の諸政策は、尊氏の室町幕府も多くそれを受け継いでいた、と断定した。たとえば、後醍醐は、土地の給付の命令文書に追加の文書(雑訴決断所施行牒)を付けて、誤りがないか検査をすると共に、強制執行権を導入し、自前の強い武力を持たない弱小な武士・寺社でも安全に土地を拝領できるシステムを作った(ただし、後醍醐自身は建武元年(1334年)頃には既に施行牒を付けず綸旨のみで裁断を行い始めている上に、「建武以後の綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨を発しており、自分が綸旨を乱発し、しかもその内容が改変されたり誤っていたりすることを認めている)。これは、執事高師直を介して足利尊氏にも受け継がれ、のち正式に幕府の基本法の一つになったという。
ただし、尊氏や直義が理想と政治の参考としたのは建武政権ではなく、建武式目に見えるように「北条義時・北条泰時の執権政治」であった。
足利直義は、観応2年頃に、南朝方に与した際の関係を用いて、北畠親房と南北朝の講和交渉を行った。その際の往復書簡が「吉野御事書案」である。このとき、直義は後醍醐について「後醍醐が佞臣達を贔屓したので、事は大乱に及んだ」「光明は後醍醐から正式に三種の神器を譲られた上に、武家方は両統迭立の原則を守って光明の皇太子に成良親王を立て、皇位継承について十分配慮したにもかかわらず、後醍醐は独断で吉野に潜幸したのだから、武家方が天下を奪ったという批難は当たらない」と後醍醐の行動を批難している。
また、和睦の条件として公家一統を主張した親房に対し、「建武の新政の失敗を考えれば、それが無理なことは明らかであり、諸国の武士がそれを望むかどうかよく考えていただきたい」と答え、当時の武士、しかも武家方のナンバー2であり、後醍醐から多くの恩賞を賜った直義であっても、建武の新政は失敗であったと述べている。
北畠親房は、慈円と共に中世の歴史家の双璧とされる顕学であり、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられ、後醍醐天皇崩御後には南朝を主導し、南朝准三宮として皇后らに次ぐ地位にまで上り詰めた公卿である。主著『神皇正統記』で、後醍醐天皇崩御を記した段では「老体から溢れ出る涙をかきぬぐうこともできず、筆の流れさえ止まってしまった」と、実子の北畠顕家が戦死した段落以上に力を込めて、自身の嘆きを記した。「三房」の一人とされる北畠親房の真の主は、後醍醐天皇の父の後宇多上皇であり、「後醍醐天皇に仕えた」と強調される考えが妥当でなく、北畠親房が後醍醐天皇に辛辣なのはそのためであるという意見もある。
親房は、『神皇正統記』で、総合評価としては、後醍醐天皇を最も優れた天皇の一人だとした。たとえば、真言密教への帰依が深いだけではなく、それ以外の宗派、たとえば禅宗なども手厚く保護し、中国から来た禅僧でも参内させたことを高く評価している。親房が特に賞賛するのは学問的能力で、和漢の道に通じていたという面において、中比(中古)以来、後醍醐に匹敵する天皇はいないという。また、後宇多上皇が治天の君を辞して、後醍醐が初めて親政を開始した時の政治について、優れた訴訟処理を行ったので、天下の民が後醍醐を敬った、と主張している。
とはいえ、親房は後醍醐天皇の政策を支持している訳ではなかった。特に、『神皇正統記』では、建武政権の人事政策について、後醍醐天皇があまりに足利兄弟と武士全体に対し好意的に過ぎ、皇族・貴族の所領までもが武士の恩賞とされてしまったことが批判の的となっている。また、上横手雅敬が指摘するように、奥州合戦(文治5年(1189年))以降、恩賞として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた。このことも、親房から、「公家の世に戻ったと思ったのに、まるで武士の世になったみたいだ、と言う人までいる」と、猛烈な抗議の対象となった。親房がイメージしていた「公家一統」の世は、『神皇正統記』の「公家の古き御政にかへるべき世」であり、後醍醐の「新政」とは対立する立場であった(実際に親房は建武政権下で冷遇されており、その政治力を強く発揮したのは後村上天皇の時代であった)。
加えて、『太平記』によれば、建武2年(1335年)に尊氏が鎌倉に下向したまま召還命令に従わなかったことに対し、後醍醐が「たとひ其の忠功莫大なりとも、不義を重ねば逆臣たるべき条勿論也」として、直ちに追伐の宣旨を下そうとした際、親房ら公卿が「尊氏が不義、叡聞に達と雖も、未だ其の実を知らず。罪の疑わしきを以って功の誠あるを棄てられん事は仁政にあらず」と諫言しているが、これは親房が尊氏を弁護したのではなく、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐の朝令暮改ぶりに対して、「このままでは世論の信頼を失う可能性がある」というニュアンスで為された発言であった。
ところが、現実主義者・マキャベリストである親房は、政治思想上は後醍醐天皇を声高に批判しつつも、その裏で政治実務上は後醍醐天皇の政策を活用した。南朝の地方指揮官たちは、後醍醐天皇の政策を引き継ぎ、配下の武士に官位を授与する独自の裁量を与えられた。親房自身も、東国武士への官位推薦状を発することもあった(ただし、小田治久らの殆どの東国武士の再三の官位要求には、任官叙位の先例故実を根拠として、全く要求に応じておらず、結果的に親房の関東経営は失敗した)。
後醍醐とは思想的に対立することも多かった親房にとって、後醍醐の思想はやはり受け入れられないものであった。そのため、後醍醐自身は召し上げることの無かった足利尊氏の「尊」の字をついぞ親房は用いることは無く、『神皇正統記』では一貫して「高氏」と記している。また、後醍醐が亡くなり親房自身が南朝の主導者となった後は、後村上天皇の綸旨にも見えるように、親房の指針によって南朝全体で尊氏を「高氏」と呼ぶようになった。
北畠親房の子である南朝公卿・鎮守府大将軍の北畠顕家もまた、後醍醐天皇へ上奏した『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年5月15日(1338年6月3日))で、後醍醐への批評を残している。7条しか残存しないためその全容は明らかではないが、少なくとも残る箇所に関しては後醍醐天皇の政治への実質的な全否定である。
この諫奏状は、陸奥国司として奥州平定に苦心した顕家自身が奥州の地で苦労して学び、見聞きしたことに基づき、血の滲むような厳しい批判を展開している。
現存する7条を要約すると、「首都一極集中を止め地方分権を推進し各方面に半独立の大将を置くこと」「租税を下げ贅沢を止めること」「恩賞として官位を与える新政策の停止」「公卿・殿上人・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること」「たとえ京都を奪還できたとしても行幸・酒宴は控えること」「法令改革の頻度を下げること」「佞臣の排除」といったものになる。現存第1条は、後醍醐天皇の全国支配の統治機構に言及したものとして特に注目できる。また、残る6条のうちの半数が、人事政策への不満に集中していることも特徴である。
佐藤進一は、同時代人からの評価を知る上で『二条河原の落書』と並ぶ重要史料とし、後醍醐天皇を独裁的君主とする自身の説から、顕家の建武政権批判に原則的に同意した。
後醍醐方の公家達は、万里小路宣房や千種忠顕などの後醍醐の寵臣を除き、概ね建武政権に批判的であった。そのため、建武3年(1336年)2月29日には、洞院公賢を始めとした公卿層が、「延元」への改元を主張した。後醍醐は改元に消極的であったが、公卿達は「後醍醐が立てた『建武』の年号を降ろすことで、新政を批判することになる」として積極的に改元を働きかけた。また、同年正月には、後醍醐の寵臣である万里小路宣房と千種忠顕が相次いで出家に追い込まれており、これも後醍醐の新政への批判が相次いだためであった。そのため、後醍醐はこの後に、これまでの「新政」に手を染めておらず、むしろ「新政」に批判的であった親房を宣房や忠顕らに代わって登用することで、公卿層の批判を抑えようとした。
『梅松論』には「記録所と決断所を置いたと言っても、近臣が密かに訴えて判決を捻じ曲げてしまい、天皇の決定を示す綸旨が朝に変じて暮れに改まるような状況であり、諸人の浮き沈みは掌を返すようである」とか「武士たちは建武政権が益無しと思い始め、武家が公家に恨みを含み、公家と武家が水火の陣となった」とある。
成立までに多くの人が携わったと言われる『太平記』では、建武政権が「政道正しからず」と述べられており、これは当時生きていた人々の一般的な認識であったと言える。
後醍醐の政治は、武家や公家のみではなく、都市民や地方民にも批判された。都市民の批判として有名なものは「二条河原の落書」である。この落書の内容は、「御代に生てさまさまの、事をみきくそ不思議共、京童の口すさみ、十分一そもらすなり」という言葉で結ばれているように、当時の都市民の共通認識であった。
地方民の批判として有名なものは、建武元年(1334年)夏に若狭国の太良荘の農民が訴えた申状である。これは直接には荘園領主の当時に対して年貢が重くなったことを訴えたものであるが、この時期に年貢が重くなったのは、後醍醐が大内裏の造営等のために諸国に収入の20分の1を徴収する税をかけたことと関係しており、地方の人にとっても建武政権が期待外れであったことを示している。
連歌を完成した中世最大の文人であり、北朝において摂政・関白・太政大臣として位人臣を極めたどころか、准三宮として皇后らに准ずる地位にまで上った二条良基は、敵対派閥でありながら、生涯に渡り後醍醐天皇を尊敬し続けた。これは、『建武年中行事』を著した有職故実研究の大家・朝儀復興者としての後醍醐天皇を評価したものであるという。
中院通冬(極官は北朝大納言)は、後醍醐天皇崩御の速報を聞くと、「信用するに足らず」と半信半疑の念を示した(『中院一品記』延元4年8月19日条)。その後、室町幕府・北朝から公式な訃報を伝えられると、「天下の一大事であり、言葉を失う事件である。この後、公家が衰微することはどうしようもない。本当に悲しい。あらゆる物事の再興は、ひとえに後醍醐天皇陛下の御代にあった。陛下の賢才は、過去[の帝たち]よりも遥かに高く抜きん出たものであった。いったい、[陛下の崩御を]嘆き悲しまない者がいるであろうか」と評した(『中院一品記』延元4年8月28日条)。
また、歴史物語『増鏡』(14世紀半ば)の作者も、北朝の有力廷臣であるにもかかわらず、後醍醐天皇を賛美した。その正体は、前述した二条良基とする説が比較的有力である他、和田英松による二条為明説や、田中隆裕による洞院公賢説など、諸説ある。
一方、三条公忠(極官は北朝内大臣)は後醍醐天皇に批判的であり、「後醍醐院のなさった行いは、この一件(家格の低い吉田定房の内大臣登用)に限らず、毎事常軌を逸している(毎度物狂(ぶっきょう)の沙汰等なり)、どうして後世が先例として従おうか」と評した(『後愚昧記』応安3年(1370年)3月16日条)。
なお、北朝に対しては8月19日に南北両朝と関係のあった興福寺(大乗院・一乗院)から、室町幕府経由で奏聞があった。北朝では、後伏見法皇が崩御されたときに当時の後醍醐天皇が廃朝を行った例はあったものの、崇徳・安徳・後鳥羽・土御門・順徳など遠方で崩御した天皇のために諒闇を行った例はないということを理由に当初は何も行わない方針であった。『師守記』の暦応二年八月十九日条でも、光厳院とその周辺においては、後醍醐を崇徳以下の配流された天皇と同様に考えていたことがわかる。しかし、室町幕府は直ちに7日間の雑訴停止を決めた上に、朝廷に対しても廃朝を行うように武家執奏を行った。また、後醍醐天皇は光明天皇の外祖父にあたるという論もあり、最終的には四条隆蔭を上卿として廃朝・固関を行い、光明天皇は錫紵を着て外祖父に対する服喪を行った。この時の幕府の申し入れに対し、公家側は強い不満を抱いた。
北朝の治天の君であった光厳上皇は、政治的に対立してきた後醍醐天皇の国政レベルでの喪葬儀礼には反対していたが、義父であると共に同じ夢窓疎石を崇敬してきた者として、彼個人と室町幕府が主導する形での追善仏事が天龍寺にて行われている。これは後醍醐の怨霊化を防ぐと共に、持明院統(北朝)代々の流儀に縛られて実施が困難であった禅宗様式での追善仏事を無関係な後醍醐の追善の場で行おうという思惑も含まれていたとみられている。
『太平記』(1370年ごろ完成)の巻1「後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事」(流布本)では、後醍醐天皇は初め名君として登場し、「天に受けたる聖主、地に報ぜる明君」と賞賛される。ところが、巻12から13で、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開く段になると、今度は一転して完全なる暗君として描写されるようになる。例として、恩賞の配分に偏りがあったり、無思慮に大内裏造営を計画したり、地頭・御家人に重税を課したり、唐突な貨幣・紙幣発行を打ち出したり、武士の特権階級である御家人身分を取り上げたりと、頓珍漢な政策を繰り返し、さらに側近の公卿千種忠顕や仏僧文観が権勢に驕り高ぶり奢侈を極めるなど、人々の反感を買っていく。しかも、賢臣の万里小路藤房は後醍醐天皇にこうした悪政を諌めたが、全く聞き入れられなかったので、建武政権に失望し、僧侶となって遁世した、という物語が描かれる。
亀田俊和の主張によれば、このような「『太平記』史観」が後世を呪縛し続け、後醍醐天皇と建武政権への評価を固定的なものにしてしまったのだという。
その他にも、南北朝時代の作品で後醍醐天皇の暗君像に関与したものとして、『梅松論』、風刺文『二条河原の落書』といった文書等々を挙げることができる。
江戸時代になると、『太平記』史観を受け継いだ朱子学者・歴史家から、再び後醍醐天皇は厳しく批難された。新井白石『読史余論』(正徳2年(1712年))、三宅観瀾『中興鑑言』(江戸時代中期)、頼山陽『日本外史』(文政10年(1827年))など当時の主要政治書・歴史書は、ほとんど『太平記』通りの批判的評価を後醍醐天皇に与えた。観瀾と山陽は大義名分論(臣下はいかなる状況であっても盲目的に主君に服従すべきという江戸時代的儒学思想)の有力な論客であり、「忠臣」楠木正成を称揚し、南朝正統史観を広めた立役者であるが、彼らでさえ揃って後醍醐に「不徳の君主」の烙印を押した。
なぜ南朝正統史観でも後醍醐が批判されるという事態が起きたのかについて、亀田俊和は次のように説明する。南朝正統史観は「南朝正統」と名前があることから後醍醐天皇の政治的手腕が賛美されたと誤解されることがあるが、実は「南朝の正統性」「大義名分論」「忠臣論」と「後醍醐天皇の政権評価」は全くの別物として扱われていた。むしろ、後醍醐天皇が「暗愚で不徳の君主」であるからこそ、それでもなお正統であるがゆえに、この暗君に生死を賭し一身を捧げて仕えなければならなかった「忠臣」の「悲劇」が、判官贔屓の形で人々の共感を呼んだのだという 。こうして、後醍醐天皇が開いた南朝が正統とされ、南朝の忠臣が賛美されればされるほど、その対比として逆に後醍醐自身はさらに暗君として批難されるという、皮肉な状況となってしまった。
明治時代に入り、正式に南朝が正統であると政府から認められると、民間では大義名分論が主流であったが、逆に研究者の間では実証を重んじる気風が生まれ、日本史の多くの分野では研究に進展が見られた。ところが、建武政権・南北朝時代の政治研究については『太平記』史観からほとんど変化がなく、東京帝国大学や京都帝国大学の日本史研究者から、一貫して後醍醐天皇は批難された。久米邦武が臣下の無理解も指摘し、中村直勝が貨幣鋳造政策にやや好意的であるといった部分的な変化はあるものの、久米も中村も基本的には後醍醐天皇を酷評している。田中義成も黒板勝美も恩賞政策を中心に後醍醐批判を展開し、その内容はほぼ『太平記』と同じである。
このように、江戸時代的大義名分論からも、実証主義歴史学からも、後醍醐天皇愚君説が掲げられる中、1930年代、例外的に後醍醐を再評価した異端児が皇国史観の代表的研究者であった平泉澄である。
平泉は、『建武中興の本義』(1934年)において、建武政権の良い点については、多くの史料をあげ論証していき、特に『太平記』以来の定説である恩賞不公平説を退けた。亀田俊和の主張では、恩賞不公平説を反証する際に用いられた実証的手腕は、2016年時点の研究水準から見ても納得できるものであるという。
ところが、建武政権の失敗については、「腐敗」した人民と「逆賊」足利尊氏に全ての責任を一方的になすりつけた。その妥当性はともかく、実はそれまでにはなかった視点という意味では、研究の新規性はある。
亀田は、平泉の皇国史観では前近代的な大義名分論が復活したことにより、全体的な研究水準はかえって後退してしまった、とする。しかも、「逆賊」足利尊氏を排撃する余り、建武政権と室町幕府の倫理的な断絶性が強調されたため、実証的には弱い面があった。その上、このわずか10年余り後、1945年の第二次世界大戦の日本敗戦によって、平泉は公職を追放されて存在そのものがタブーとなり、独創的・画期的な部分もあったとはいえ、後世に影響力をほとんど持たなかった。
戦後すぐの1940年代後半には、松本新八郎らによってマルクス主義からの批判が試みられ、建武政権は反革命路線・復古主義を取った失政と否定的に評価された。
第二次世界大戦後、1960年代には、佐藤進一を中心として、後醍醐天皇は中国の皇帝を模倣した独裁者・専制君主であったという人物像が提唱され、建武政権についても、その政策は時代の流れや現実の問題を無視したものだったと否定的に評価された。佐藤進一の学説は定説として20世紀後半の南北朝時代研究の大枠を作り、こうした人物像や政権への否定的評価は、2010年代に入っても高校の歴史教科書(山川出版社『詳説日本史 日本史B』2012年など)で採用されるなど、高校教科書的な水準では定説としての地位は失っていない。しかし、後述するように、1990年代末からの新研究の潮流では複数の研究者から強い疑義が提出されている。
後醍醐天皇独裁君主説では、建武の新政の解釈と評価は、おおよそ以下のようなものとなる。
建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。
佐藤進一の進歩的暗君説を極限にまで発展させて、独自の説と言えるまで特異な論を為したのが、網野善彦による「異形の王権」論である。
網野は『異形の王権』(1986年)で、後醍醐天皇を「ヒットラーの如き」人物と評し、「異形」の天皇と呼んだ。そして、後醍醐天皇が「邪教」の仏僧文観や「悪党」楠木正成を従え、「異類異形の輩」や非人といった、本来は正道から外れた階層を取り込むことで強大な力を得たと主張する。また、元徳元年(1329年)に後醍醐が行った祈祷が「聖天供」(大聖歓喜天浴油供)であったことについて、大聖歓喜天は像頭人身の男女が抱き合う像で表されることを指摘し、「極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然――セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないだろうか」と述べ、これをもって「異類異形」の中心たる王に相応しい天皇としている。そしてまた、当時は下剋上の空気の中、天皇の位が「遷代の職」(世襲ではなく人々の間を移り変わる職)である「天皇職」と化しつつあり、天皇家以外の者が「天皇職」に「補任」される(就任する)可能性もあるような巨大な危機が迫っていた、と主張する。そして、花園と後醍醐の二人はそれをいち早く嗅ぎ取り、花園は道義を身につけることで、後醍醐は異形異類の力や貨幣の力といった「魔力」を身につけることで天皇家の危機に対抗しようとしたが、建武の新政後、後醍醐はたちまち現実の「きびしい復讐」に直面し、その後は佐藤進一の定説通りの没落をしたのだとする。
森茂暁は、網野説について、宗教面での実証的史料を掘り起こしたことや、硬直しつつあった後醍醐天皇観に新風を与えたことについては評価し、その密教修行にも異形と言ってよい面があることは認める。しかし、文観を異端僧とするのは政敵の僧侶からのレッテル張りではないかと疑問を示し、また『建武記』には「異形の輩」の侵入を禁じる文があるのだから、どちらかといえば後醍醐は「異形の輩」なるものとは距離を置いていたのではないか、と指摘している。また、亀田俊和は、網野説は建武政権を失政と捉え、その失敗を後醍醐天皇の個人的性格に求める点では、結局のところ『太平記』史観と変わるものがない、と指摘している。
戦後、建武政権の実証的研究は大きく進んだ。建武政権に対する歴史観そのものは、『太平記』・佐藤進一・網野善彦説を基本的に踏襲している。
とはいえ、著書の一つ『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(2000年)の中で、『太平記』史観とは違い、森は建武政権について3つの点に大きな歴史的意義を与えている。
一つ目には、建武政権の発足によって日本の中心が京都と明示されたことである。武士の本拠は鎌倉にすべしという弟の足利直義からの強い主張をはねのけ、尊氏もまた京都を室町幕府の拠点に定めた。この文化・政治・経済・流通の中心に足利将軍家が身を置くことで、足利氏政権がただの武家政権ではなく全国を統治する機構にまで成長することができたのである。
二つ目は、全国支配を視野に入れて法務機関の雑訴決断所に一番一区制を導入したことである(二番は東海道担当など)。これは後醍醐天皇以前の統治者には見られない発想であり、おそらくこの後醍醐の全国支配機構が以降の日本の全国政権の統治制度の基本になったのではないかと指摘し、「日本の国土に名実ともに成熟した全国政権を誕生させるうえで、建武の新政は重要な役割を果たした」と述べる。
三つ目は、鎌倉幕府では限定的な役割しか持たなかった守護を、その力を正しく認め、守護・国司併置制を採用することでその権限を増やし、室町幕府の守護制度に繋がる端緒を作ったことである。
総評として、森は後醍醐天皇に対し、(森自身はこのような性急で強い語を用いないものの)優れた革命家・早すぎた天才というような形の評価を与えた。つまり、森は鎌倉幕府→建武政権→室町幕府の間になめらかな連続性を認めることには消極的なものの、後醍醐天皇が停滞していた鎌倉幕府の政治に対し「突破口」としての役割を果たし、次代の室町的世界が成立する上での歯車を回したことについては評価した。またその政治構想もそれまでに言われていたほど悪いものではなく、60年ほど遅れて多くの部分が三代将軍の足利義満の頃に室町幕府の手で実現されたとした。
後醍醐天皇研究に視点の転換をもたらした3本の重要な論文は、市沢哲の「鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」」(1988年、『日本史研究』314)・「鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望――」(1992年、『日本史研究』355)および伊藤喜良の「建武政権試論―成立過程を中心として―」(1998年、『行政社会論集』第10巻第4号)である。
市沢の論文によって、建武政権の諸政策は、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革と密接な連続性があることが示された。また、伊藤の論文によって、それまで消極的にしか扱われてこなかった建武政権の諸機関が、実際には建武政権の中核であると見なされるようになり、建武政権の諸改革は挫折の過程ではなく、発展の過程であると認識されるようになった。
1988年、市沢は、後醍醐が進めた中央集権政策が、後醍醐個人の性格によるものや時代の流れから浮き出た特殊なものだったとする佐藤・網野説を否定した。つまり、鎌倉時代後期に朝廷の訴訟制度改革が行われたことで、治天の君(院(上皇)も天皇も含む)の権力に頼る事例が多くなり、後醍醐個人の思想・性格とは関係なく、そうした時代の流れが中央集権的な君主の誕生を促したのだとした。かつて後醍醐の特徴とされた抜擢人事も、別に後醍醐に限ったことではなく、対立する持明院統でも行われていたことも指摘した。
市沢が鎌倉時代後期の朝廷訴訟の事例を検証したところ、13世紀末ごろには貴族の家系が増えたために、家督・所領相続の訴訟が多くなってきた。また家系が増えたために貴族人口に対して割り当てられる官位・官職も少なくなり、この争奪戦も問題になっていた。貴族社会において、分家化の進行の圧力と抑制の圧力が拮抗し、衝突が訴訟問題として顕在化するようになったのである。
こうした訴訟の裁許者(判決を下す人物)として力があったのは治天の君である。古くは、「治天の君」という地位そのものに大した権威はなく、治天の君自身がしばしば強大な土地権利所有者であるため、その土地権利に拠る権力に基づいて土地紛争の訴訟を解決したのだと思われていた。しかし、市沢は、実際には土地問題以外の紛争でも治天の君が裁許を主導していることを指摘し、古説に疑問を示した。土地裁判についても、どちらかといえば土地の支配構造(歴史学用語で「職の体系」)の外からそれを庇護・調整する存在であったという。さらに、興福寺などの権門(巨大な権勢を有した半独立勢力)は独自の訴訟機構を有したが、その権威が弱まった時に、治天の君の名で権門の判決にテコ入れをして、権門を助けることがあった。また、南北朝時代には、権門から朝廷への起訴経路ができるが、これも鎌倉時代後期に権門ごとに担当奉行が割り当てられたことの発展型なのではないか、という。朝廷での訴訟問題が増えるにつれ、治天の君が果たす役割も大きくなっていった。
したがって、13世紀末から14世紀初頭という後醍醐天皇が生まれ育った時代には、天皇・上皇はただの土地所有者だった訳ではなく、その「治天の君」という地位そのものに、訴訟問題解決において、相当に強大な権威と権力があった。
さて、皇統が亀山→後醍醐ら大覚寺統と、それに対立する持明院統に分裂した両統迭立というのは、後嵯峨上皇が継承者を指定しないまま崩御しないため起こった偶発的事象であり、そこに強制力はなく、本来ならば自然に解消されるはずの事態である。これが何故が続いたかというと、当時の公家社会の分裂が、皇統の分裂を維持したからである。
たとえば、当初、大覚寺統有利で早期に終結しそうだったのに、持明院統が巻き返した背景には、有力公家の西園寺家内部での分裂が関わっていた。分裂が維持されると、二条派と京極派に分かれた御子左家や、その他にも山科家など、中小規模の公家もどちらの皇統に付くかで分裂するようになり、これが皇統の分裂を後押しさせた。女院領を各統が分割で相続したため、それぞれが荘園領主としても最大の存在となったことも、分裂を加速させた。
こうなれば、両統間で武力的な争いが起こり、普通はそこで解決するはずである。だが、当時最も大きな武力を持っていたのは鎌倉幕府であり、両統の戦いを抑止していたため戦いは起こらず、かえって両統の分裂が深刻化していくことになった。
「治天の君」という地位自体に訴訟解決の権能が備わっていたところに、両統の力が拮抗するようになると、皇統間で治天の君が変わるたびに、裁判の当事者のどちらが有利になるかが変わる、といった事態が起こるようになった。一度下した裁許に対しても、他統によって覆される事例まで出てくるようになり、後醍醐天皇と花園上皇の間で争った例もある。
また、両統は抗争に勝利するため、激しい人材獲得競争を繰り広げた。家格を越えた抜擢人事というと、後世の人間からは、建武政権の印象から後醍醐ら大覚寺統の特徴と思われがちだが、実際は対立する持明院統もほぼ等しく行っていたという。たとえば、後伏見上皇は日野俊光を、光厳天皇も日野資名を抜擢している。これは、同時代人の印象でもそうであったと思われ、『増鏡』の作者は、「久米のさら山」で、抜擢登用された人材について両統等しく記している。
訴訟問題に関する治天の君の権力は大きくなる一方なのに、皇統の交代によってそれに揺れが生じると、矛盾のひずみが大きくなっていった。これを解決するには、相手の皇統を倒すしかないが、その前にまず両統迭立の維持を支持する幕府を倒す必要がある。このようにして見ると、後醍醐に限らず、誰かがいつかは討幕をしなければ解決しない問題だった。ここに、当時たまたま、悪党という幕府に抵抗することを厭わない武士(楠木正成など)が発生していた。つまり、後醍醐天皇は討幕が必要であり、かつそれが可能な時代に、在位していた治天の君だっただけで、別に後醍醐個人が時代から外れた存在だった訳ではない。むしろその逆で、時代の流れこそが後醍醐に討幕を促したのである、という。
1992年、市沢はまず、佐藤進一説の問題点として、佐藤は平安時代後期の朝廷政治と建武政権の朝廷政治を比較しているが、中間の鎌倉時代の朝廷政治を無視していることを指摘した。直前の鎌倉時代後期の朝廷政治の研究も行わなければ、建武政権が本当に特異な政権だったのかどうかはわからない。
鎌倉時代後期は、都市領主、つまり京都など畿内に住みながら日本各地の荘園(土地)に利権を持つ大貴族・大寺社らが私兵を手駒に使って戦わせる戦争の時代だった。貴族社会の分家化や、武士の守護・地頭による押領によって、都市領主間の抗争が活発した。これらの抗争は、一つ目には既存の支配体制の強化、二つ目には他領主からの略奪によって起きた。
たとえば、正応3年(1290年)から翌年まで、紀伊国(和歌山県)荒川荘で高野合戦と呼ばれる戦いが起きた。これは真言宗高野山が、別の荘園の領主である三毛心浄の軍勢を送って荘園の支配体制を強化しようしたところ、それを察知した土着の豪族の源為時が先手を打って戦いを始めたものと見られる。為時は高野山の動きを山門(天台宗比叡山延暦寺)に訴えたので、宗教間の代理戦争の様相も呈した。他領主からの略奪としては、後宇多上皇が四辻宮から荘園の接収をしようとし、両者は同地にいわゆる「悪党」(悪人という意味ではなく、既存の支配体制の枠組みから外れた武士・豪族たち)と呼ばれる軍事力を送って戦いを繰り広げた。
とはいえ、軍事力による抗争はあくまで最終手段であり、できれば話し合いで解決したいという考え自体は誰もが持っていたと思われる。このように、武力抗争が活発化することで、かえって訴訟制度の重要性が公家社会で再認識され、抗争を回避・解決するために、制度の整備・改革が進められたと考えられる。
また、市沢は、裁判の当事者たちが、自分たちの主張に箔をつけるために、治天の君による勅を求める事例が多くなることを、前の論文に続き改めて指摘した。さらに、訴訟でしばしば「徳政」という語が用いられていることを論じた。当時の徳政とは、天人相関説による思想で、為政者が悪いことをすると天変地異が起こり、良いことをすると災害が治まる、という考え方である。つまり、訴訟問題を解決することが、治天の君にとっての徳政であり、朝廷での最重要課題だと考えられていたのである。土地の支配構造の変化に伴い、「治天の君」という超越的な立場を利用して、新たな秩序を創造することこそが、天皇家に求められる役割になった。
建武政権で、後醍醐がまず行った行動に個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)というものがある。この通達やそれに続く法令が言う所は、綸旨(天皇の私的命令文)によってそれぞれの領主に土地の権利を保証し、訴訟・申請の裁許も綸旨を必要とすると定めるものである。かつて、佐藤進一は、これを後醍醐の絶対的権力への執着欲と見なし、建武政権の異常性を示すものと考えた。ところが、上で見たように、実は鎌倉時代後期、治天の君権力によって土地問題に裁許を下すという発想は、既に後醍醐以前からあり、しかもそれは都市領主の側から求められたものだった。つまり、後醍醐の政策は、領主たちの要望に応えて、時代の流れに沿ったものだったのである。
しかし、このような「治天の君」権力の強化が、鎌倉時代後期には、逆に両統の分裂の矛盾を大きくすることになっていった。皇統の分裂は、誰かがいつかは解決しなければならない問題であり、こうした訴訟問題における要請が後醍醐の行動を促したと考えられる。
また、佐藤が「平安時代以来の秩序を破壊した」と主張する建武政権の他の政策についても、市沢は、平安時代ではなく、鎌倉時代後期の政治を考えれば、実は順当なものであることを指摘した。
たとえば佐藤は、知行国主(国司より上位で、特定の国を事実上支配する大貴族・大寺社)がそれまで特定の家に結び付けられていたのを、後醍醐が建武政権で新たな守護・国司制を作ったことで破壊したと主張した。しかし、実は鎌倉時代後期、両統迭立以来、天皇の皇統が変わるたびに知行国主が変わることが多く、既に特定の国=特定の家のものという認識は崩れていた。その点を考えると、後醍醐の守護・国司制はそこまで急進的な改革だった訳ではない。
また、佐藤は、後醍醐が「官司請負制の破壊」という政策を行ったと主張した。つまり、特定の官職が特定の家に結び付けられていたのを、宋朝型官僚制の影響を受けて破壊し、官司は全て後醍醐の支配下にあるという観念論的独裁政治を行ったのだという。しかし、市沢が調べてみたところ、官司請負制の破壊は全面的なものではなく、職務に能力が必要とされないものだけであった。つまり、官務・局務といった書記官や事務官など、能力が問われる職については、小槻氏など従来からの官僚的氏族がそのまま担当した。逆に、馬寮など、特に職務がなく、利益を受け取るだけの恩賞的な官職については、後醍醐は恩賞代わりに自由に配分した。しかも、これは後醍醐に特有なものではなく、13世紀半ばごろから、恩賞的な官職については特定の家に結びつかないことが徐々に増えていく傾向にあった。また、こうした鎌倉時代中期からの恩賞的官職の分配を左右できる力が、鎌倉時代後期の治天の君権力の強化に繋がったとも考えられる。
結論として、後醍醐・建武政権の中央集権政策は特異なものではなく、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革の中で、領主たちの求めに応じて生じた「治天の君」権力の強化の流れとその政策を、順当に発展させたものであるという。また、鎌倉幕府は武士の惣領の選定に原則干渉できなかったのに、室町幕府には相続法がなく、惣領選定に強い権力を有した。市沢によれば、これは、鎌倉時代後期の治天の君権力(朝廷政策)→建武政権の中央集権政策→室町幕府の中央集権政策というように受け継がれたものであり、したがって、建武政権と室町幕府の間にもその政策に連続性が見られるという。
1998年、伊藤喜良は佐藤進一の「綸旨万能主義」説を否定した。綸旨万能主義というのは、全てを天皇の私的文書である綸旨(りんじ)で決めるという主義である。佐藤は、後醍醐は綸旨万能主義を奉じる観念論的独裁者で、建武政権は、雑訴決断所など綸旨万能主義に制限を加える機関が設置されていくことで、後醍醐の理想主義が挫折していく過程だと捉えた。伊藤はこれに反対し、後醍醐は綸旨万能主義などは考えておらず、初期の綸旨乱発は機関がないための便宜上の措置に過ぎないとした。そして、雑訴決断所等の非人格機関こそが、政権の中央集権政治を補完するための中核機構であると位置付けた。建武政権はこれらの非人格機関が、現実的に整えられていく発展の過程であるとした。
伊藤はまず、「綸旨万能主義」説の最初の論拠とされた、個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)について検討を加えた。佐藤は、この文書を「旧領回復令」と解釈し、元弘の乱で誰かに奪われた所領は元の持ち主に返し、その後の土地所有権の変更は、綸旨(天皇の私的命令文)による個別の裁許を仰ぐように命令したものだと解釈した。
しかし、伊藤によれば、この文書はその前の4月から5月にかけて出された軍法と関連付けて考えるべきであるという。元弘の乱末期、幕府が劣勢なのが明らかになると、討幕にかこつけて略奪を行う不埒な輩が続出していた。後醍醐は、略奪を繰り返す自称討幕軍を「獣心人面」と厳しく非難し、厳罰に処すとした。ところが、兵糧米の徴収は現場の判断に任せるとするなど、命令文にも曖昧なところがあり、実際には元弘の乱が終結した後も中々略奪が収まらなかったと考えられる。伊藤によれば、6月15日の命令は、戦争が終結したので、軍法のうち「現場の判断」という事項を緊急的に停止し、濫妨狼藉の阻止を狙ったものではないか、という。つまり、「旧領回復」や「綸旨万能」とは全く関係がなく、そもそも後醍醐はそのようなことを考えてはいなかった。
実際、同年10月に、陸奥守北畠顕家が、六月十五日口宣案ともう一つの文書(後述の7月25日宣旨)に関連付けて発した陸奥国国宣では、濫妨狼藉を厳しく戒めることと、所領安堵の方針は原則として、(旧領ではなく)現在のものを認めることにしている。また、その後、顕家は当知行安堵(現在の実効所領を安堵)の方針で行動している。後醍醐の股肱の臣である顕家がこのように解釈するのだから、後醍醐の方針もこれと基本的に同じと考えるべきであるという。
6月からしばらくの間、佐藤の指摘のように、しばらく後醍醐は大量に綸旨を発給するようになる。しかし、伊藤によれば、これは新しい支配機構がまだ出来ていないのだから、私的文書で暫定的に対応をするのは当たり前のことであり、綸旨を万能と考えた訳ではなく、綸旨に頼るしかなかったというのが正解であろうという。
同年7月25日、後醍醐天皇は、宣旨(天皇の正式文書)を発し、朝敵を北条一族とその与党のみに限定し、当知行安堵(現在の実効支配領域を保証)の方針を明確に定め、また安堵の取り扱いを各国の国衙(県でいう県庁)に委任することにした。後醍醐が綸旨万能主義を志向したと主張する佐藤は、これを後醍醐の敗北と捉えた。しかし、伊藤によれば事実は逆で、この宣旨こそが建武政権の基本指針であり、本当の全国政権として活動し始めた端緒と見なされるのではないかという。これ以降、建武政権の諸政策はこの7月25日の宣旨の方向に沿って、新しい骨格が築き上げられていく。
8月から9月上旬にかけては、各国の国司に「後の三房」吉田定房や「三木一草」楠木正成など側近中の側近が割り当てられたが、これも7月の宣旨の内容を達成するために地方国衙を充実させようとしたものである。また、鎌倉幕府の御家人制も、一部の武士のみに特権を与えるという前時代的な制度なので廃止した。
最も重要なのが、裁判機関である雑訴決断所の設置である。後醍醐天皇が中央集権化を目指したのは明白だが、佐藤説の言うような綸旨万能主義(天皇個人が全てを裁許する主義)では、客観的に言って天皇の仕事量が多すぎて中央集権化を達成できる訳がないし、後醍醐もまたそうは考えなかったであろう。そうではなくて、統制の取れた非人格機関を設置し、その機関を通じて各国の国衙を効率的に支配することこそが、後醍醐の意図する中央集権化の完成形だったのではないか、とした。したがって、この雑訴決断所こそが建武政権の実体の出発点と言える。翌年1月まで次々と新政を補完するための新機関の設置が行われていった。
また、後醍醐は地方分権制を重視した先駆的な為政者でもあった。東北の半独立統治機構である陸奥将軍府について、伊藤は護良親王・北畠親房の主導によるものという『保暦間記』の説を否定し、後醍醐の主導によるものという当事者の親房自身の証言(『神皇正統記』)を信じるべきであろうとした。そして、後醍醐は、中央集権化を効率よく達成するためには、陸奥のように特色があり、反乱も続く地域に対しては、独自の裁量を持つ自治機関に任せた方が良いと考えたのではないか、という。実際、強大な権限を託された北畠顕家は、東北の乱を瞬く間に鎮めていった。
足利氏が任された鎌倉将軍府についても、この時点では後醍醐は足利氏に全面的な信頼を置いており、やはり東国の反乱に備えて、新政府の藩屏としたものではないかという。いわば中華の皇帝制の藩鎮のようなものではないかという。
また、後醍醐は、国より更に小さい地域単位である郡を重視して、郡に関する法令を度々発しており、郡政所もまた高い機能を有した。これによって、地方統治の階層構造が出来上がり、非人格機関を通して、地方の隅々まで掌握できるようになったのである。
伊藤は、物事を結果論から評価するのは危険であると指摘する。確かに上記の努力にもかかわらず、結果論としては、建武政権は短期間で崩壊した。しかし、崩壊したからと言って、常に歴史的意義がない訳ではなく、まず考察を深めてから判断する必要がある(なお、伊藤自身は後醍醐の政治的手腕の無さが短期間で崩壊した原因であるとしている)。また、建武政権の王権論については、佐藤は建武政権を官僚制・君主独裁制を目指したとしたが、伊藤は封建王制を目指したのではないか、とした。後醍醐が狙ったのは、君主個人の力による独裁ではなく、整備された官制組織と制度を作ることで、最終的な決裁を行うという形の政策だったと考えられる。他に、単に朝廷と幕府を統一したのを「公武一統」と言っただけではなく、本気で公家と武家の区別をなくすことを考えており、武家を多数裁判機関に登用したり、逆に北畠顕家のような文官公家層を武門に抜擢したのは、その一環であろうという。
加えて、伊藤は後醍醐が宋のような国を目指し、そして失敗したことを指摘している。当時の宋は君主専制体制であり、後醍醐は非人格的な機関(雑訴決断所や記録所)を設置し、彼が個別にこれらの統治機関を掌握することで専制体制を確立しようとしたが、このような複数機関の設置は混乱を招くだけであったとした。後醍醐が宋のような君主専制体制を目指し、そして失敗した理由について、伊藤は当時の中国と日本の支配のあり方が大きく異なる点を挙げている。中国では、唐が滅亡したことにより、貴族層が消滅し、五代十国時代を通して、地方に強大な権力を打ち立てていた武人の節度使も消え、宋代に権力基盤となったのは、科挙を経た士大夫と呼ばれる文人官僚達であった。しかし、日本では鎌倉幕府(武家政権・武士・武力)と朝廷(公家政権)という2つの統治機関(封建領主)が存在しており、この両政権が協力し合って中世国家を形成していた。そのため、封建領主階級が存在し、分権的志向が強く、官僚と呼べる層もほとんど存在していなかったため、宋の支配方法(君主専制体制)をそのまま日本に成立させようとした後醍醐の政策には無理があり、公武の対立意識が強いのにもかかわらず、強引に「公武一統」を進め、中央集権国家体制を確立し、官僚層を作り出そうとした建武政権は「物狂の沙汰」と称されるようになってしまったのである。
後醍醐天皇を宗教的・人格的な異常者と見なす網野善彦の「異形の王権」論に対しては、仏教美術研究者の内田啓一から疑問が提出された。内田は、『文観房弘真と美術』(2006年、法藏館)と『後醍醐天皇と密教』(2010年、法藏館)を発表し、網野説は根拠を欠き疑わしいことを指摘した。
内田はまず、後醍醐の仏教政策面での最大の腹心である文観房弘真の美術と経歴を調べた。文観は、網野によって、性的儀礼を信奉する武闘派の怪僧と定義された人物である。しかし、内田によればこのような人物像は敵対派閥による中傷文書と、『太平記』および後世の文書でしか確認できない。同時代の史料や美術作品に当たれば、文観は高徳の僧侶であり、さらに学僧としても画僧としても中世で最大級の業績をあげた人物であるという。また、文観は真言律宗の系譜の上では、後醍醐の祖父の亀山が帰依した叡尊の孫弟子に当たる。そして、真言宗の系譜の上では、後醍醐の父が帰依した道順の高弟であるから、文観と後醍醐の結びつきも突飛なものではなく、自然な流れであると考えられる。
網野らが幕府呪詛の像とした般若寺本尊の文殊像も、内田によれば、叡尊から続く真言律宗の伝統様式で作られており、銘文も定型句であり、そこに大げさな意味は見いだせない。また、『太平記』や網野は、後醍醐が正妃である中宮西園寺禧子の御産祈祷に偽装して、幕府へ呪詛の祈祷を行ったとする。しかし、安産祈祷で用いられた「聖天供」という儀式は仏教的にいえばあくまで息災法(除災や快癒を祈る祈祷)の儀式であり、幕府調伏の祈祷だとか性的儀礼だとかの、いかがわしい意味はとても考えにくいという。
内田は、後醍醐・文観が異形の人物であるという説を否定するとともに、後醍醐の親子関係にも焦点を当てた。佐藤や網野の説としては、後醍醐は朝廷の異端児であり、まともな父の後宇多上皇とは敵対したとされていた。しかし、実際に後醍醐の宗教活動を見てみると、灌頂(密教における授位の儀式)で、父の後宇多もかつて身につけたことがある「犍陀穀糸袈裟」(国宝)を使用するなど、父の足跡を辿っていることが多い。つまり、後宇多を敬愛し、その宗教政策を受け継いでいることを指摘した。また、異端かどうかについても、父の後宇多は、高野山の奥の院にこもったり、密教僧として弟子を取ったりなど大きな活動をしているが、後醍醐はそこまではしておらず、むしろ密教修行者としては父より穏健派であるという。
市沢・伊藤説ははじめそれほど注目を浴びなかったが、21世紀に入ると、鎌倉時代後期と室町時代初期の研究が進んだ結果、後醍醐天皇の諸政策は前後の時代と連続性が見られることが指摘されるようになった。これらは、市沢・伊藤説の想定と合致するものであった。
たとえば、2013年、亀田俊和は、室町幕府で初代執事高師直が行った改革の目玉である執事施行状というものが、後醍醐天皇が発案した(あるいは側近が発案して後醍醐が積極的に主導した)雑訴決断所施行牒というものを改良したものではないか、と主張した。これらは、土地を与える指示に、関連文書を添付することで、大元の指示に誤りがないか検査を行うと共に、不法占拠が行われている土地の引き渡しに、国からの強制執行権をもたせて、弱小な寺社や武家でも安全に土地が得られるようにした制度である。無論、これも無から出来た訳ではなく、鎌倉幕府によって局所的・部分的に用いられていた制度を、後醍醐が全国的・本質的なシステムとして構築し直したものである、とした。
その他の研究成果についても、2016年に『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(日本史史料研究会/呉座勇一編、洋泉社)によって一般向けに書籍の形で紹介されることになった。
2007年、河内祥輔は、『太平記』で「一回目の討幕計画」とされていた、いわゆる正中の変という事件が、歴史的には本当に冤罪だったという説を示した。後醍醐は関東申次(朝廷と幕府の折衝役)の娘の西園寺禧子を中宮(正妃)としており、幕府とは友好関係にあった、とした(ただし、大覚寺統で幕府と友好的であったのは後宇多であり、実際に後醍醐と幕府の友好関係を表す史料は無い)。相次ぐ御産祈祷なども、禧子との間に皇子さえ誕生すれば、幕府と戦わずとも自身の系統を存続させられるため、融和路線の一環ではないか、とした。2012年には、三浦龍昭によって、建武政権成立後も、後伏見皇女珣子内親王との婚姻や、娘の懽子内親王と光厳上皇との婚姻政策などで持明院統への懐柔政策を図っていたことが指摘された。2018年には、保立道久が、建武政権成立後3日目という早期の時点から、土地の安堵や禅宗政策などを通じて、持明院統との和解・統合の政策を実施していたことを指摘した(#禅律国家構想)。
呉座勇一もまた、「執念」「不撓不屈の精神」「独裁者」「非妥協的な専制君主」といった人物像は『太平記』以前には見られず、『太平記』とそれ以降に作られた後世のイメージであり、実際は少なくとも当初は鎌倉幕府との融和路線を目指していた協調的な人物であるというのが、後醍醐の歴史的実像であろうとしている。なぜこのような人物像が作られたかというと、その方がわかりやすいからだという。結果論として、後醍醐は武力で鎌倉幕府を倒し、しかも子孫を含めれば室町幕府と60年近い戦いを繰り広げることになる。融和路線を敷いていたのに、そこから様々な紆余曲折があって大戦に至った、というのは、結果を知っている後世の人からしてみると、直感的に理解しにくい。それよりも不撓不屈の好戦的な人間が、即位当初から討幕を計画していたという設定の方が、話としては理解しやすいため、それが広まってしまったのではないかという。
2018年、『太平記』研究者の兵藤裕己は、後醍醐天皇を主題にした書籍を岩波新書から著した。兵藤は、政治面については、1960年代の佐藤進一説をほぼそのまま用い、綸旨万能主義と宋朝型独裁君主制が挫折して云々という説明をする。その一方で、兵藤は、専門書でしか出されていなかった内田啓一の業績を一般向けに紹介し、後醍醐天皇や腹心の文観房弘真が異形の人間であるという中傷の解消に努めた。また、『太平記』では人格的に下劣に描かれる文観・寵姫阿野廉子らだが、兵藤によれば、これらの部分は玄恵らによる後世の改変が入っていると見られ、信用をおけないという。兵藤はまた、後醍醐という(人物そのものというよりは)人物像が、水戸学や明治政府、現代社会においてどのような影響を及ぼしたのかについても議論した。一方で、後醍醐の「新政」については、後醍醐が「新政」のモデルとした宋と14世紀の日本の政治的現実の違いを明らかにし、
とし、「新政」が失敗であったことを論じている 。
2020年には、中井裕子が、人格面から後醍醐の再評価を行った。森茂暁らの古い説では、傍系である後醍醐は父の後宇多から冷遇されて鬱屈した少年時代を過ごし、それで性格が捻じ曲がって討幕を考えるようになったのだと説明されていた。しかし、中井が、『実躬卿記』『道平公記』など当時の日記を当たったところ、実際には、後醍醐は父帝の後宇多を含めて親族からは愛情をかけて育てられており、後宇多とはしばしば私生活でも政治上でも協調して行動していたという。
一方で、深津睦夫は「吉田定房奏状」の存在を明らかにした。これは後醍醐の討幕計画を諌めた書であるが、その成立年次は、初稿が元応2年(1320年)6月、改稿が翌年冬と推定されることから、後醍醐は後宇多院から政務を譲られる前には既に討幕の意思を持っていたとした。
亀田俊和は総体的に見た場合、初期の室町幕府は先代鎌倉幕府の体制を模倣しており、独自の政治構造の創出に至っていなかったと結論付けている。中井裕子は、後醍醐天皇の政策がすでに前代からみられることが明らかになっており、後醍醐天皇が特異な存在という評価は見直されるべき、と述べている。
本郷和人は、後醍醐天皇が「院政を否定」して天皇親政を実現したことで、「英明な天皇」だと高く評価される傾向にあるが、後醍醐天皇は条件が整わなくて上皇になれなかったのであり、上皇として権力を握りたかったのだと指摘しており、また、後醍醐天皇の天皇親政は、後宇多上皇ら歴代上皇たちによって築かれた「徳政」を受け継いでおらず、「徳政」が断絶したことも指摘している。さらに、本郷和人は、明治以来の歴史学が大化の改新、建武の新政(建武の中興)、明治維新を三大画期と評価したことで後醍醐天皇が「英明な天皇」とされているが、むしろ「徳政」をよりよく実行してきた後宇多上皇や花園上皇が天皇家の歴史の中でも極めて優秀だと論じている。さらに、本郷和人は、後醍醐天皇が「英明な天皇」だから討幕に成功したのではなく、鎌倉幕府の内部がガタガタであり、きっかけさえあれば潰れる状況であり、後醍醐天皇のような人物でも討幕に成功できたのだと論じている。
亀田俊和は、後醍醐天皇の政権発足直後から、矛盾する論旨や偽物の論旨が大量に発給されたことで、新政権が大混乱に陥ったことは広く知られていると、著書に記している。また、亀田俊和は『二条河原落書』で「此頃都ニハヤル物、夜討、強盗、謀綸旨、(中略)本領ハナルル訴訟人」と後醍醐天皇が風刺されたのも史実であると、著書に記している。
呉座勇一は、後醍醐天皇の討幕計画の杜撰さは以前から指摘されており、後醍醐天皇の政治的資質の欠如を論じる研究者がいると、著書に記している。
本郷恵子は、花園天皇が謙虚に宋学を学び善政を追求していたのに対し、後醍醐天皇が宋学から学んだ徳は「肥大した自我」そのものであると、痛烈に批判している。また、建武政権で設けられた「窪所」という組織が鎌倉幕府の「問注所」の「問注」の草書が「窪」に似ているために言葉遊びで定められたという説を紹介し、驕りと鈍感力が見られると批判し、後醍醐天皇は伝統的公家政権のパロディに過ぎないとしている。建武政権の家格・先例にとらわれない人事についても、それらが有効に機能することなどなかったと論じている。また、後醍醐天皇は二人の天皇・二つの朝廷を生み出すことで、天皇の権威を決定的に下落させたと論じている。
天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、後醍醐天皇は、生前自ら後醍醐の号を定めていた。たとえば、輪王寺銅鋺延元元年付には「当今皇帝......後醍醐院自号焉」とあり、崩御3年前の延元元年/建武3年(1336年)時点で既に後醍醐の名が広く知られていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
20世紀時点での通説としては、後醍醐は延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇・村上天皇の治世を理想としており、そのため醍醐に後を付けて後醍醐にしたのだとされていた。一方、21世紀に入り、河内祥輔は、父の後宇多天皇も生前から追号を「後宇多」と定めていたことを指摘し、宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』にあやかって、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったのではないか、という説を唱えている。
崩御後、北朝では崇徳院・安徳天皇・顕徳院・順徳院などのように徳の字を入れて院号を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」としたという(一条経通『玉英記抄』「凶礼」暦応2年9月8日条)。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。
后妃・皇子女の数は諸説あるが、実在が確実な后妃は8人、皇子は8人、皇女は8人である(#確実な后妃・皇子女の一覧)。
とりわけ、正妃である中宮(のち皇太后)の西園寺禧子が一貫して絶大な寵愛と寵遇を受けた。元徳2年(1330年)11月23日、後醍醐天皇は、腹心の文観に無理を言って、禧子に当時の真言宗最高の神聖儀式である「瑜祇灌頂」を受けさせたため、禧子は聖界においても日本の頂点に立ったが、これほどの地位を与えられた妃は史上先例がない。この前月、後醍醐は自分も瑜祇灌頂を受けており、法服をまとった後醍醐天皇の著名な肖像画は、この時の後醍醐側を描いたものである。禧子の側でも後醍醐に深い愛情を寄せ、そのおしどり夫婦ぶりは『増鏡』などに取り上げられた。和歌が得意な夫妻はたびたび歌を贈り合い、3組が勅撰和歌集・准勅撰和歌集に入集している。
后妃8人というのは同時にいた訳ではなく、この数にまでなったのは、多くの妻が早逝したからという面が大きい。後醍醐自身、数えで52歳、満年齢で50歳という、当時としてもそこまで長い人生ではないが(父帝・祖父帝の宝算は50代後半)、3人の正妃全員に先立たれている。皇太子時代の最初の正妃である二条為子は応長元年(1311年)もしくはその翌年に薨去(享年不明)、天皇としての最初の正妃である禧子は元弘3年(1333年)に崩御(享年30代前半か)、その次に中宮になった珣子内親王は延元2年/建武4年(1337年)に崩御(享年数え27歳)している。
後醍醐は正妻を最も大切にする人物で、正妻に対しては常に、前例のほぼないほどの手厚い寵遇で尽くした。たとえば、後醍醐は即位して後、5年以上前に亡くなった最初の正妃である為子に、従三位を追贈した(『増鏡』「秋のみ山」等)。江戸時代後期の有職故実家である栗原信充によれば、天皇の妃ではなく、皇太子時代の妃が従三位を追贈されるという例はきわめて珍しく、後醍醐の為子への格別な想いのほどが窺えるのではないか、という。また、後醍醐は為子の死後20年以上経った後、建武の新政を開くと、二条派の大歌人だった為子の代表歌に倣う歌を詠んでいる(#白菊)。2人目の正妃である皇太后禧子については別段で述べた。3人目にして最後の正妃である中宮珣子に対しても、立后時に歴史的な秀歌2首を贈った(『新拾遺和歌集』冬・622/『新葉和歌集』冬・501、『新千載和歌集』神祇・982/『新葉和歌集』神祇・594)。さらに、珣子の妊娠・出産時には、歴代最高となる66回の御産祈祷を開催している。
また、側室もないがしろにせず、皇太子時代に早逝したと思われる遊義門院一条局を除けば、実在が確実な側室は全員が女御(中宮の次位の后)もしくは女御に相当する位階の従三位に叙されている(#確実な后妃・皇子女の一覧)。
なお、北朝で書かれた軍記物語『太平記』1巻では、南朝の後村上天皇の生母である阿野廉子が、禧子から帝の寵を奪った稀代の悪女とされているが、このような記述は『太平記』1巻以外には見られず、他の現存資料と一致しない。『太平記』内部でも4巻などでは後醍醐と禧子の仲睦まじさが描かれており、廉子悪女説は物語としても設定が破綻している。史実ではないことが描かれた理由として、『太平記』研究者の兵藤裕己は、一つ目には、編纂者が文学的効果を狙って白居易の漢詩「上陽白髪人」を下敷きに創作したことと、二つ目には、現行の『太平記』の1巻・12巻・13巻には、建武政権批判を意図して、室町幕府からの改竄が加えられていると見られることを指摘している。
後醍醐の好みは高い知性を持つ女性で、特に和歌の才能と官僚的能力に惹かれたと見られる。
皇后の西園寺禧子は、勅撰集に14首・准勅撰集に1首が入集した勅撰歌人である。また、『増鏡』で禧子の他に特に深い寵愛を受けたと描かれるのは、最初の正妃である二条為子と、側室の二条藤子および阿野廉子である。二条為子は、勅撰集に71首が入集した二条派の代表的歌人で、後二条天皇の典侍などを務め、書や漢学にも通じていたことから、『昭慶門院御屏風押色紙和歌』奥書で「名誉の女房」(「偉大な女性」)とまで称えられたほどの人だった。二条藤子も勅撰歌人(8首)で、禧子の中宮宣旨(筆頭女官)を務めた。阿野廉子も禧子の中宮内侍を務めた上級女官で、最晩年の3年ほどは「新待賢門院令旨」を発して南朝の国政に関わる政治家だった。廉子は歌人としては正規の勅撰集に入集こそしなかったものの、准勅撰集には20首が撰ばれている。
この一覧では、実在がほぼ確実な后妃・皇子女のみに絞って掲載する。実在が確実な生涯の后妃の数は8人、皇子は8人、皇女は8人である。皇子女の数が計16人というのは、南朝系図としては比較的古く信頼性の高い『帝系図』(#『帝系図』による一覧)と一致する。
皇子・皇女の順序については、『増鏡』は、尊良親王を第一皇子、世良親王を第二皇子、二条為子の皇女(瓊子内親王)を第三皇女としている(『増鏡』「秋のみ山」「春の別れ」)。また、腹心である北畠親房が著した『神皇正統記』では、義良親王(後村上天皇)は第七皇子であるとされている。『帝系図』(応安4年(1371年))では、欣子内親王が第二皇女で、祥子内親王が第七皇女。
前節の実在が確実な后妃・皇子女のみによって、後宮の変遷を書くと、
後醍醐に典侍(事実上の女官長で、側室になる場合も多いが、そうではない場合も多い)として仕えた「後醍醐天皇大納言典侍」(「権大納言典侍」「後醍醐院権大納言典侍」とも)という勅撰歌人がおり、『続千載和歌集』に1首(恋歌五・1601)、『新千載和歌集』に1首(恋歌五・1577)、『新葉和歌集』に2首(釈教・615と哀傷・1328)が載る。理由不明だが、深津睦夫と君嶋亜紀は、大納言典侍を公卿洞院公敏の娘であるとしている。大納言典侍はのち出家したが、後村上天皇と特に親しく、後村上はしばしば出家した彼女のもとを尋ねて和歌を贈り合っていたようである。
このほか、『増鏡』「久米のさら山」では、隠岐島に流される後醍醐に、阿野廉子に加えて「大納言君」と「小宰相」という2人の女房(女官)が付き添ったとされる。
この節では、『帝系図』(応安4年(1371年))による系図を掲載する。京都醍醐寺三宝院所蔵の文書で、長慶天皇(後醍醐の孫)の在位確定にも用いられた価値の高い史料である。以下の部分のうち、括弧(「」)で括られた部分は、応安4年(1371年)から後小松天皇(1382年 - 1412年)の代までの間に加筆されたと見られる部分。
この節では、『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))による系図を掲載する。後小松上皇の勅命による系図のため、一般論として、天皇家の系図では最も信頼性の高いものとされている。この系図では、20人の女性との間に、17人の皇子と15人の皇女、計32人の子を儲けたことになっている。
しかし、後醍醐とは違う皇統の北朝の系統で、後醍醐崩御の約90年後に編まれたものであることには注意する必要がある。問題点として、
などがある。
著名な歴史的人物のため、後世になるほど后妃・皇子女の「記録」が増えていく傾向にある。以下では、『本朝皇胤紹運録』にも現れない真偽不明のものを挙げる。
大覚寺統では後宇多天皇の子の代から通字ではなく輩行字を用い、男子の諱に同じ漢字を用いている。後醍醐の子には共通して「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。
江戸時代後期から第二次世界大戦までの時代には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(建武中興十五社)が次々と建立され、明治2年(1869年)には護良親王を祀る鎌倉宮、明治5年(1872年)に宗良親王を祀る井伊谷宮、明治17年(1884年)に懐良親王を祀る八代宮、明治23年(1890年)に尊良親王を祀る(明治25年(1892年)に恒良親王を合祀)金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、大正4年(1915年)に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。
一方、大正時代の頃(1920年代)から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年(1920年)には八代国治、昭和14年(1939年)には、平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものを含め、次のようなものがある。
以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。
※後醍醐の諱(実名)、「尊治」のいずれかの字を与えられた人物。
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。また、遺言に従って「御終焉ノ御形ヲ改ス」として、火葬は行われず土葬にて埋葬されたとされる。久水俊和は土葬を裏付ける史料はないものの、天皇が崩じた場合には土葬による山陵造営が通例であるため、後醍醐天皇の崩御後も院号を付けずに「天皇としての崩御(天皇崩)」に拘った南朝が土葬後に山陵を造営した可能性が高いとしている。
奈良県(大和国)内に葬られた最後の天皇である。
また明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に祀られている。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、昭和12年(1937年)に建立された。
足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した。
『太平記』では、崩御時に「北闕の天を望まん」と徹底抗戦を望み、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言したと描かれている。ただし史実としては、室町幕府に最大の敵意を持っていたのは腹心の北畠親房であり、後醍醐自身としてはそこまで大きな敵意を持っていた訳ではないようである(#武士への対応)。
軍記物『太平記』では、後醍醐天皇は武士に対して冷淡な人物として創作された。
たとえば、流布本巻12「公家一統政道の事」では、鎌倉武士の特権階級である御家人身分を撤廃、武士はみな奴婢雑人のように扱われるようになった、という。ただし、歴史的事実としてはこれと反対で、後醍醐天皇が御家人制を廃止した理由の一つは、彼らを直臣として取り立てるためであった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」)。
また、同巻では、後醍醐天皇は身内の公家・皇族を依怙贔屓し、彼らに領地を振る舞ったため、武士に与えられる地がなくなってしまった、という。ただし、歴史的事実としては、側近の北畠親房が『神皇正統記』において「後醍醐天皇は足利兄弟を始めとする武士を依怙贔屓し、彼らに恩賞を配りすぎたため、本来貴族・皇族に与えるべきであった土地さえなくなってしまった」と批判しており、全くあべこべである。
また、同巻では、身内の皇族を依怙贔屓した実例として、元弘の乱で失脚した北条泰家の所領をすべて実子の護良親王に与えたことが記されている。ただし、歴史的事実はこれと異なり、新田氏庶流で足利氏派閥の武将岩松経家に対しても、複数の北条泰家旧領が与えられている(『集古文書』)。
江戸時代後期、山田浅右衛門吉睦の『古今鍛冶備考』(文政13年(1830年))が語る伝説によれば、後醍醐天皇は鵜飼派(うかいは、宇甘派、雲類(うんるい)とも)の名工の雲生(うんしょう)・雲次(うんじ)兄弟が打った太刀を愛刀としていたという。鵜飼派は、備前国宇甘郷(うかいごう/うかんごう、岡山県岡山市北区御津)で、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工流派である。雲生と雲次は初め、長船派の鍛冶で、それぞれ国友と国吉という名前だったが、元亨年間(1321年 - 1324年)に入京し、後醍醐天皇の勅命で太刀を鍛刀することになった。そこで、天に対して、帝の叡慮に叶うような名剣が作れるように祈っていると、ある夜、浮雲を模した刃文を焼いた夢を、兄弟揃って見た。そこで、夢の通りの刃文を試してみると、比類ない見事さだった。兄弟が太刀を献上する時に浮雲の夢の話を後醍醐天皇にしてみたところ、帝は感じ入って、国友に「雲生」の名を、国吉に「雲次」に名を下賜した。そして、兄弟は長船派から独立して、新しく鵜飼派を立てたのだという。
しかし、そもそも後醍醐天皇即位以前から「雲生」銘の刀があるため、この伝説は実証的に否定される。刀剣研究家の福永酔剣は、このような伝説は『古今鍛冶備考』以前に見当たらないことを指摘し、山田浅右衛門自身による創作であろうと推測した。
伝承によれば、後醍醐天皇が京都市左京区下鴨の下鴨神社に行幸した際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つの大きな泡が出てきて、続いて4つの泡が出てきた。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を団子にしたのが、みたらし団子の起源であるという。
大鹿村の伝説によると、後醍醐天皇の10子に妙福院宮という人物がいたとされる。宮は応永4年7月7日に大鹿村で亡くなり、その墓は大鹿村釜沢の大嶋山にあるとされる。
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"text": "後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉)は、日本の第96代天皇、および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉、治天:1321年12月28日〈元亨元年12月9日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。諱は尊治(たかはる)。",
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"text": "大覚寺統の天皇。クーデターにより鎌倉幕府を打倒した。その後軍事力の中核であった実子を粛清した事と失政により失脚。一地方政権の主として生涯を終える。",
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"text": "両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れなかった後醍醐天皇は、鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、倒幕運動を行った。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い(建武の乱)に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野で崩御した。",
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"text": "先代の花園院は、後醍醐天皇を「王家の恥」「一朝の恥辱」と日記に書いている。また、同時代の公卿からも否定的な評価を受けている。吉田定房は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている。北畠顕家は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている。また、同時代の中級実務貴族からの評判も悪く、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる。また、江戸中期を代表する政治家新井白石は「読史余論」で、「後醍醐中興の政、正しからず(建武の新政は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の三宅観瀾は「中興鑑言」で、頼山陽は「日本外史」で遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している。一方で、優れた統治者の一人であると室町幕府・南朝の後継指導者から評される。",
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"text": "室町幕府・南朝両政府の政策は、建武政権のものを多く基盤とした。特筆されるのは、氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである。裁判機構に一番一区制を導入したり、形骸化していた国や郡といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は、以降の全国政権の統治制度の基礎となった。その他には、土地の給付に強制執行を導入して弱小な勢力でも安全に土地を拝領できるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと(高師直へ継承)、官位を恩賞として用いたこと、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、陸奥将軍府や鎌倉将軍府など地方分権制の先駆けでもあることなどが挙げられる。",
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"text": "学問・宗教・芸術の諸分野で高い水準の業績を残した。儒学では宋学(新儒学)受容を進めた最初の君主である。また、有職故実の代表的研究書『建武年中行事』を著した。真言宗では父の後宇多上皇と同様に真言密教の庇護者で阿闍梨(師僧)の位を持っていた。禅宗では禅庭の完成者である夢窓疎石を発掘したことは、以降の日本の文化・美意識に影響を与えた。伊勢神道を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。宸翰様を代表する能書帝で、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(文観房弘真との合作)等4件の書跡が国宝に指定されている。二条派の代表的歌人で、親政中の勅撰和歌集は『続後拾遺和歌集』(撰者は二条為定)。『源氏物語』の研究者。雅楽では琵琶の神器「玄象」の奏者であり、笙の演奏にも秀でていた。茶道では、その前身である闘茶を最も早く主催した人物の一人ともいわれる。",
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"text": "結果的には敵同士になってしまった尊氏からも敬愛された。真言律宗の僧で、ハンセン病患者などの救済に生涯を尽くした忍性を再発見、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、文観房弘真らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である中宮の西園寺禧子は才色兼備の勅撰歌人で、おしどり夫婦として、『増鏡』終盤の題材の一つとなっている。",
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"text": "一方で、大塚紀弘は、後醍醐天皇は密教や寺社重宝がもたらす呪術的な力にすがらざるを得ない追い込まれた事情があったと、記している。",
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"text": "大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下。嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。",
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"text": "正安3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王に次ぐ系統(河内祥輔の表現では「准直系」)と位置付けられていた。「中継ぎ」の「一代の主」というきわめて脆弱な立場だったという旧説もあるが、これは対立皇統である持明院統由来の文書にしか見られず、そこまで弱い立場ではなかったようである。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。これには、後宇多が傾倒していた真言宗の修行に専念したかったという説(『増鏡』「秋のみ山」から続く有力説)や、後醍醐・邦良による大覚寺統体制を確立させて、持明院統への完全勝利を狙ったとする説(河内説)などがある。いずれにせよ、前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に、後醍醐天皇が治天の君となったのは、後宇多から後醍醐への信任があったからだと考えられている。",
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"text": "元亨2年(1322年)、後醍醐天皇が中宮の西園寺禧子の御産祈祷を名目に、鎌倉幕府に呪いをかけた とされるが、後述のように御産祈祷は真実(倒幕とは無関係)とする説もある。",
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"text": "その後、嘉暦元年(1326年)6月からおよそ3年半余り、中宮である西園寺禧子への御産祈祷が行われた。主たる理由としては、仲睦まじい夫婦であるのに、子宝に恵まれないことを夫妻が心情的に不満に思ったことが挙げられる。特にこのタイミングで行われたことに関しては、3か月前である同年3月に後醍醐のライバルである邦良が急逝したため、有力権門である西園寺家所生の親王が誕生すれば、邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得ると考えたためとも推測されている(河内祥輔説)。なお、『太平記』では安産祈祷は幕府調伏の偽装だったと描かれているが、この説は2010年代後半時点でほぼ否定されている(西園寺禧子#『太平記』)。",
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"text": "邦良薨去後は、後醍醐一宮(第一皇子)の尊良親王ら4人が次の皇太子候補者に立ったが、最終的に勝利したのは持明院統の嫡子量仁親王(のちの光厳天皇)だったため、譲位の圧力は強まった。",
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"text": "元弘元年(1331年)、倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。髪を乱し、服装も整わないまま、山中に潜んでいたところを発見されたとのことで、花園院は「王家の恥」「一朝の恥辱」と『花園天皇宸記』(元弘元年10月1日条)に記している。このとき、後醍醐天皇は鎌倉幕府の取り調べに対し、「天魔の所為(悪魔のせいで、自分の責任ではない)」なので、許してもらいたいと訴えたという。",
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"text": "幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。5月27日、後醍醐は圓教寺へ御幸し、大講堂に参籠して幕府滅亡を祈願した。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。",
"title": "生涯"
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"text": "元弘3年6月5日(1333年7月17日)に帰京 した後醍醐天皇は、「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』上)と宣言し、建武の新政を開始した。なお、建武の新政については、当時から現在に至るまで多様な評価・解釈があり、その特徴や意義について一致した見解が得られていない。したがって、以下、本節では事象の列挙のみを行い、後醍醐天皇の政治思想やその意義・評価については「#評価(同時代)」の節に譲る。",
"title": "生涯"
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"text": "まず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃した。両統迭立を廃止して皇統を大覚寺統に一統した。実子で元弘の乱に最初期から参戦した護良親王を征夷大将軍とし(数か月後に解任)、足利高氏を戦功第一とし自身の諱(本名)「尊治」からの偏諱「尊氏」の名を与えて鎮守府将軍や参議などに任じた。同年中に記録所・恩賞方・雑訴決断所・武者所(頭人(長官)は新田義貞)・窪所などの重要機関が再興もしくは新設された。また、地方政権としては、親房の子北畠顕家を東北・北関東に(陸奥将軍府)、尊氏の弟足利直義を鎌倉に配置した(鎌倉将軍府)。",
"title": "生涯"
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"text": "翌年(1334年)に入るとまず1月23日、父の後宇多天皇が大覚寺統嫡流に指定した甥の邦良親王の血統ではなく、実子の恒良親王を皇太子に立てた。",
"title": "生涯"
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"text": "同年1月29日(1334年3月5日)、簒奪者王莽を倒し後漢を開いた光武帝の元号の建武(けんぶ)の故事により、元号を建武(けんむ)に改元した。",
"title": "生涯"
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"text": "同年中に、検非違使庁による徳政令(建武の徳政令)発布(5月3日)、恩賞方の再編(5月18日)、雑訴決断所の拡充(8月) などの政策が行われた。また、硬貨・楮幣(紙幣)併用とする官銭乾坤通宝を計画し、中御門宣明を鋳銭長官・五条頼元を鋳銭次官に任じた。10月後半から11月初頭、護良親王が失脚し、足利直義に預けられ、鎌倉に蟄居となった(『梅松論』『保暦間記』『大乗院日記目録』)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "建武2年(1335年)6月15日には造大内裏行事所始が行われた。6月22日、大納言西園寺公宗の謀反が発覚し、武者所職員の楠木正成・高師直らに捕縛された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "建武2年(1335年)、北条氏残党の北条時行が起こした中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えた。これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破った。しかし、「連絡して」とは言うものの、実際に足利軍を破ったのは後醍醐直属軍とも表せる新田軍や楠木軍ではなく、あくまでも奥州の北畠軍であり、建武政権に大きな政策転換を迫るものであった。つまり、後醍醐直属軍を倒した足利の「鎌倉小幕府」軍が、北畠の「奥州小幕府」軍に敗れたのであり、「幕府を置かない武家の活用」という後醍醐の政権構想は失敗に終わったのである。",
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"text": "『梅松論』によれば、この時、楠木正成は勝利した側であるにもかかわらず、後醍醐天皇に尊氏との早期講和を進言したが、公家たちによって退けられた。",
"title": "生涯"
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"text": "尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、後に北朝となる持明院統の光厳上皇の院宣を得た後に再び上洛を目指した。尊氏率いる足利軍は、新田・楠木軍に湊川の戦いで勝利し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。",
"title": "生涯"
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"text": "足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した。宝算52(満50歳没)。",
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"paragraph_id": 27,
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"text": "摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天龍寺を造営している。",
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"text": "後醍醐を直に見たことがあると思われる『増鏡』作者の貴族(二条良基など諸説あり)は、天皇である後醍醐自身の容姿については余り直接語らない。『増鏡』作者は、後醍醐の逸話を光源氏になぞらえて叙述する傾向が多いが(『増鏡』「秋のみ山」「久米のさら山」等)、これはどちらかといえば王朝文学の雰囲気を出すためかともいう。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "血族に関して言えば、後醍醐の長男である尊良親王は「ふりがたくなまめかし」(以前のまま優美である)と、流浪の身にあっても容姿に衰えのない美男子であると明言されている(『増鏡』「久米のさら山」)。次男の世良親王もまた「いときらきらし」(端正な美形)だったという(『増鏡』「春の別れ」)。尊良と世良、および親族の恒明親王の三人は一緒にいることが多かったが、三人が後醍醐の後ろに並んで歩く姿にさぞや若い女官たちは色めきだったのではないか、と『増鏡』作者は推測している(『増鏡』「春の別れ」)。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "正妃である中宮・西園寺禧子とは小説的な逃避行で結ばれた仲であり、二人の熱愛と夫婦仲の睦まじさは『増鏡』などで名高い。後醍醐天皇は正妃を最も大切に扱って寵愛し、側室もないがしろにしない人物だった(#正妃を手厚く扱う)。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "第一皇子の尊良親王には、中務卿など政界の重職での経験を積ませ、節会に出仕させるなど、自分自身の親王時代と同じキャリアを歩ませている。落選こそしてしまったものの、皇太子候補選に推挙したこともある。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "第二皇子の世良親王は、後醍醐天皇が出御する時の御供として側に置くことが多かった。嘉暦3年(1328年)10月9日には、関白の二条道平に頼み、世良が議奏という重要な公務を行うのを支えて欲しいと言い、当日、世良が公務を大過なく果たしたのを見ると、後醍醐天皇は上機嫌になったという(『道平公記』)。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "皇太子であった恒良親王は常に後醍醐天皇に振り回されていた。建武3年(1336年)に西国で勢力を盛り返した尊氏が京都を占拠すると、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。このとき後醍醐天皇へ尊氏から密使が来て、天皇が義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとしたため、激怒した堀口貞満が出発直前の天皇に「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、後醍醐天皇は皇位を恒良親王に譲り(『太平記』では三種の神器も恒良親王に渡ったという)、恒良親王と尊良親王を委任することで新田軍が官軍であることを保証してから下山した。これによって恒良親王は天皇となり、越前国へ下向し、「北陸朝廷」とも呼べる政権が誕生した。この時に天皇として発給した「綸旨」や、義貞が恒良親王の移動を「臨幸」と表現した書状が現存している。また、「白鹿」という私年号が用いられていたことも「得江文書」から判明している。しかし、比叡山を下山し花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は何の連絡も無しに突如吉野へと逃れ、自身が主宰する朝廷を開いたため、恒良親王の皇位継承は無意味となってしまった。義貞はこれを不快に思ったのか、恒良親王と共に越前国に下向した当時は建武政権下で叙された「左中将」と署名していたのが、後醍醐天皇出奔後は「源」とのみ署名していることが残存の書状から確認できる。このように、後醍醐は軽率な行動によって自らの身内から不信感を買ってしまうことも多々あった。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "護良親王は、元弘の乱勃発当初は「後醍醐天皇の代行者」として、「将軍宮」を自称し、特に軍事面において活躍していた。しかし、六波羅探題攻略に際しては、後醍醐天皇自身が軍法を布告し、また4月10日前後から、それまで護良親王が担当していた軍勢催促も後醍醐天皇、自身が綸旨を発給することによって掌握し始め、護良親王の天皇代行者としての立場を回収しようとした。護良親王はこれを察し、軍事関連の令旨を発することはなくなった。 六波羅探題攻略後は、終始討幕戦の中心となり、血みどろの戦闘に身を投じ、本来であれば最大の殊勲者となるはずであった護良親王が、足利高氏のたった一度の六波羅探題攻略によって、その政治的存在をかき消されてしまい、護良親王ではなく高氏が大功労者として政界に踊り出、それを武家方の後伏見院でさえ疑問に思わなかった上に、「光明寺残篇」に見えるように、後醍醐天皇は護良親王を専ら仏教界に抑圧し、軍務や政治から遠ざけようとしていた 。さらに、同じく「光明寺残篇」に見えるように、護良親王の兵力になり得る山門武力を「違勅の北嶺法師」と呼び、武装蜂起を抑制しようとした。そうなってしまえば、護良親王は戦後処理をめぐる発言力を失い、新政権での政治方針も主張できなくなることは自明であった。この現実を前にして、護良親王は、高氏に烈しい憎悪と敵意を抱いた。護良親王は以上の理由により後醍醐に反発し、六波羅探題を攻略した後も京都に入らず、信貴山に登り、後醍醐天皇の説諭も拒否し、武士の求心点である征夷大将軍の地位を要求して信貴山から動かなくなってしまった。後醍醐天皇は護良親王に征夷大将軍の地位を与えることを嫌がったが、将軍となればすぐさま武家政権の成立に繋がる高氏のことを考慮し、護良親王を将軍に任じることで妥協した。 その後に護良親王は入京したが、『梅松論』に見えるように、「後醍醐天皇の叡慮」に従い行われようとしていた尊氏襲撃の計画が発覚してしまい、尊氏は慌てて後醍醐天皇や阿野簾子に取り入り、狭い私情の次元での護良親王敵視を煽り、結局は後醍醐天皇に裏切られる形で足利直義に預けられ、鎌倉に幽閉されることとなり、中先代の乱の際に時行方に担がれることを恐れた直義の命を受けた淵辺義博によって殺された。『梅松論』によれば、幽閉中に「武家(足利)よりも君(後醍醐)の恨めしく渡らせ給ふ」と述べていたという。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "護良親王が後醍醐天皇や尊氏との政争に敗れたのは、謀略にたけ目的主義を身上とする後醍醐天皇や、一つ判断を誤れば族滅しかねない北条専制のもとでバランスと手練手管で生きてきた尊氏に対し、護良親王は専ら戦闘に明け暮れていたため、自身の行動がどのように相手に作用するかという政治力に対する知識が乏しかったからであると考えられる。 後醍醐天皇が護良親王を死なせたことについて、政権内部には驚愕と動揺が広がり、『太平記』「兵部卿親王流刑事付驪姫事」に見えるように、「いくら少しの過ちがあろうとも、宥めることもせずに敵人の手に渡してしまうのは如何なものか」という世論が形成された。 後に後醍醐天皇が尊氏の討伐を決意する際に影響を及ぼしたのは新田義貞であるが、義貞はその糾弾の際に、護良親王殺害の罪を全て足利尊氏の悪逆によるものと訴えたため、後醍醐天皇は政権に叛意を抱く尊氏の討伐を、護良親王殺害の復讐としての意味も持たせ、先述の世論や政権内の空気を一掃できると考え、義貞の訴えを受け入れた。 後醍醐天皇が護良親王を死なせたことが失敗であったことは、護良親王死後10ヶ月後には建武政権が崩壊したことからもわかる。楠木正成は後醍醐天皇が護良親王を失脚させたことに失望し、生彩を欠くようになってしまい、後醍醐天皇は正成を湊川の戦いで死なせてしまった。赤松円心は、護良親王に近い武将であったため、その大功績にもかかわらず、播磨国一国の守護職に宛てがわれただけにすぎず、しかも護良親王粛清に伴い、その守護職も解任され、所領は佐用荘地頭職だけという仕打ちを受けたために、後醍醐天皇や政権執行部に対して深い恨みを抱き、尊氏方についた。新田軍勢が円心の籠る白幡城を攻めた際に、円心は一族の者を遣わし、護良親王の御恩が忘れられないこと、恩賞の少なさへの不満、後醍醐天皇の綸旨によって自身が播磨国の守護職に任じられれば降伏することを主張した。義貞はこれを信じ、後醍醐の綸旨を取り寄せたが、その間に円心は戦備を整え、綸旨が到着すると、円心は「既に将軍様(尊氏)に播磨国の守護職に任じてもらったのに、手の裏を返すような綸旨など誰がいるか」と嘲笑った 。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "護良親王の子である興良親王は、延文5年/正平15年(1360年)4月25日に、赤松円心の四男である赤松氏範の後援を得て、吉野十八郷の兵を引き連れ、南朝の拠点である賀名生を襲い、黒木内裏や宿所を悉く焼き払った。興良親王が軍事行動を開始したのは父・護良親王の死の翌年であり、父が後醍醐らによって捕まり、無惨な最期を遂げたその経緯を理解できる年齢であった。興良親王はこの経験を忘れず、後醍醐の正嫡である後村上天皇に恨みを抱き、それが爆発したのが賀名生の焼き討ちであった。この感覚は興良親王自身以外の誰にも理解されなかったため、当時の人間も『太平記』に見えるように「不思議なりし御謀反也。」と言った。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "正妃の禧子との皇女である懽子内親王については、元徳3年(1331年)8月20日、元弘の乱で幕府と笠置山の戦いを起こすまでという緊迫した時期にもかかわらず、娘のためにわざわざ時間をとって伊勢神宮斎宮の儀式の一つである野宮(ののみや)入りの手続きを行っている(『増鏡』「久米のさら山」)。この時期に懽子が野宮入りしたことについて、井上宗雄によれば、挙兵前に娘の大事な儀式を完了しておきたかったのではないかという。懽子は光厳上皇妃だったにもかかわらず、26歳で出家しているが、安西奈保子の推測によれば、時期的に父の崩御を悼んでのものだったのではないか、という。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "父の後宇多上皇とは、かつては仲が悪いとする説があった。しかし、その後、訴訟政策や宗教政策などに後宇多からの強い影響が指摘され、改めて文献を探ったところ、心情的にも父子は仲が良かったと見られることが判明したという。三条実躬の『実躬卿記』では、徳治2年(1307年)1月7日の白馬節会で同じ御所に泊まったのをはじめ、この頃から父子は一緒に活動することが多くなり、蹴鞠で遊んだ記録などが残っている。特に父子の愛情を示すのが、後宇多の寵姫だった遊義門院が危篤になった時で、石清水八幡宮への快癒祈願の代参という大任を尊治(後醍醐)が任された。尊治は途上で遊義門院崩御の知らせを聞いたが、それにもかかわらず父の期待に応えたいと思い、引き返さずに石清水八幡宮に参拝したという。後宇多の命で帝王学の書である『群書治要』を学んだりもしたところを見ると、政治の枢要に尊治(後醍醐)を置きたかったのではないかという。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "母の五辻忠子には、践祚わずか2か月後に女院号の「談天門院」を贈り、自身の出世を支えてくれた母を労っている。",
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"paragraph_id": 40,
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"text": "祖父の亀山上皇からは、母の忠子が後に亀山のもとに身を寄せたこともあって可愛がられており、亀山の崩御まで庇護を受けていた。最晩年の亀山に子の恒明親王が生まれてそちらに寵が移ったあとも、亀山は後醍醐天皇のことを気にかけており、忠子と後醍醐天皇に邸宅や荘園などの所領を残している。",
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"text": "同母姉である奨子内親王(達智門院)とは、20歳前後のころから『増鏡』「さしぐし」で和歌を贈り合う姿が描かれるなど、仲良し姉弟として当時から知られていた。後醍醐天皇が即位すると、非妻后の皇后に冊立されている。その後もたびたび和歌のやり取りをしたことが、『続千載和歌集』『新千載和歌集』などに入集している。『新葉和歌集』では後醍醐を追悼する和歌が2首収録されている。",
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"paragraph_id": 42,
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"text": "大覚寺統正嫡で甥の邦良親王およびその系統とも仲が悪かった。中井の推測によれば、天皇として着々と実績を積んでいく後醍醐に、邦良の側が焦ったのではないか、という。また、後醍醐天皇の乳父である吉田定房と邦良派の中御門経継は犬猿の仲だったため(『花園天皇宸記』元応元年(1319年)10月28日条)、廷臣同士のいがみ合いが争いを加速させてしまった面もあるのではないか、という。",
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"paragraph_id": 43,
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"text": "『増鏡』作者は、恒明親王(後醍醐天皇祖父の亀山上皇の最晩年に生まれた子)も後醍醐と交流が深く、特に後醍醐の子である尊良・世良と一緒にいることが多かったと描いている(『増鏡』「春の別れ」)。実際、恒明派から世良を通じて後醍醐派に転じた廷臣も多く、北畠親房はその代表例である。",
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"text": "血縁だけではなく、妻方の家族とも交流があった。中宮禧子の父の西園寺実兼や同母兄の今出川兼季から琵琶を学び、その名手だった。また、側室の二条為子の実家である二条派に学び、その代表的歌人でもある。",
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"text": "後醍醐は本来綸旨を貰う身分ではない土民や地侍、辺境の武装商人、農村武士にまで綸旨を与え、民衆世界にある反体制、あるいは体制外的な勢力を根こそぎ倒幕軍事力として動員しようとした。そこに伝統や故実への配慮は見られず、結果的に、天皇制の危機の克服を目指したはずの後醍醐が、王権の最も重要な道具立てである綸旨の権威を回復するどころか逆に失墜させてしまい、『二条河原の落書』にみえるように気軽に偽綸旨が作られるような空気感を生み出した。",
"title": "人物"
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"text": "建武の新政下においても後醍醐の綸旨乱発は変わらず、現実や伝統を無視し、綸旨によって物事を個人的に裁定し、これまでの政治の仕切り直しをしようとしたため、朝廷内部の政治行政のありようが破壊的打撃を被った。また、後醍醐自身も「建武以後の綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨を発しており、自分が綸旨を乱発し、しかもその内容が改変されたり誤っていたりすることを認めている。また雑訴決断所を開設し裁判の効率化を図ったものの、後醍醐の天皇絶対化の志向は変わらず、自身の理念的な無理から生じる政治の矛盾を解決するには至らず、多くの人物からの離反を招いた。",
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"text": "加えて、後醍醐はこの時代特有の法慣行(「古き良き法」の尊重)に対する配慮が足りず、元弘戦乱時に出された護良親王の令旨も否定した。",
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"text": "後醍醐の倒幕計画は、専ら悪党的民間武装民と寺院僧兵、一握りの鎌倉御家人に依拠していた。これは、11.12世紀の武士は在地支配力の弱さの分だけ中央権力に依存しなければならなかったのが、鎌倉幕府の成立によって、院や公卿の支配であった武士達は東国の部下として自立していたからである。",
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"text": "後宇多院政では、「治天の君」を補佐する側近集団である伝奏(花山院師信、六条有房、六条有忠、坊城定資、中御門経継、吉田定房、万里小路宣房)が重用され、綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文率は約71%であった。しかし、後醍醐親政においては綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文率は約4%であった。いくら天皇集権を目指す後醍醐であっても、側近無しに専制的な天皇権力を復活させることは不可能であったはずであるが、以上のように後醍醐には伝奏が集まらなかった。その理由は、伝奏となる名家層の人々が後醍醐への奉仕を嫌がり、距離を保とうとしたからであった。名家層の人々が後醍醐への奉仕を嫌った理由は2つ考えられる。1つ目の理由は、後醍醐が中継ぎの天皇であったからである。後宇多は後二条天皇の子や孫に皇位を継承させたいと望んでおり、後醍醐は中継ぎ役(一代主)として即位していたため、後醍醐と親密に接することは、後々に現れる正統な皇位継承者の機嫌を損ねる可能性があった。2つ目の理由は、後醍醐が倒幕を堅く決心していたからである。後宇多は歴代の治天の君の中でも、特に幕府との融和を心掛けていた。後宇多の腹心の六条有房は何度も鎌倉に下向しており、そのような親幕姿勢によって、文保の和談では皇位も東宮の地位も大覚寺統によって独占できた。それに対して、後醍醐は後の行動でも知られるように倒幕派であり、名家層の実務貴族は倒幕運動に巻き込まれることを「危険な暴挙」として嫌った。その著名な例として、吉田定房が後醍醐の倒幕を諌めた「吉田定房奏上」がある。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "『太平記』流布本巻1「関所停止の事」では、即位直後・元弘の乱前の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、記録所(即位直後当時は紛争処理機関)に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだという描写がされている。しかし、20世紀までには裏付けとなる史料がほとんど発見されなかったため、これはただの物語で、後醍醐天皇の本当の興味は倒幕活動といった策謀にあり、実際は訴訟制度には余り関心を持たなかったのではないかと思われていた。",
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"tag": "p",
"text": "その後、2007年に久野修義によって『覚英訴訟上洛日記』が紹介されたことで、後醍醐天皇が裁判に臨席していたのが事実と思われることが判明した。これによれば、記録所の開廷は午前10時ごろ、一日数件の口頭弁論に後醍醐天皇は臨席、同日内に綸旨(天皇の命令文書)の形で判決文を当事者に発行し、すべての公務を終えるのは日付が変わる頃、という超人的なスケジュールだったという。その他の研究では、訴訟の処理だけではなく、制度改革についても、後醍醐天皇の独断専行ではなく、父の後宇多院ら大覚寺統が行ってきた訴訟制度改革を継承・発展させたものであることが指摘され、後醍醐天皇は訴訟問題に関して実行力・知識ともに一定の力量を有していたことがわかってきている。",
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"paragraph_id": 52,
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"text": "しかし、先述のように、後醍醐は自身の個人的な裁断によって訴訟を解決しようとし、それは雑訴決断所開設後も本質的には変わらなかった(雑訴決断所は後醍醐の綸旨と決断所の牒をもって裁断されることになっていたが、このルールは建武2年(1335年)初頭には実行されなくなっていた)ため、社会の混乱は収まらず、むしろ拡大してしまった。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "幕府を滅ぼしたことにより、後醍醐は武士に対して恩賞を与える立場となった。地方においては陸奥将軍府や鎌倉将軍府を開いてそのポストに武士を登用することで恩賞としたが、京には武士が新しく恩賞として獲得できるポストが存在しなかった。そのため、雑訴決断所を開設しそこに武士層を吸収させた。しかし、「二条河原の落書」に「器用の堪否沙汰もなく、もるる人なき決断所」と見えるように、才能の有無を考慮せずに任命が行われており、雑訴決断所は公家と武家を統合した権力組織として、後醍醐の専制政治の中核となるはずであったが、結果的に公家も武家も不満を募らせた。公家は家格から見れば極めて低い地位の執行官・吏僚にされてしまったことや、武家と共に働かねばならないことに納得ができず、武家は公家より立場が下であったことや、大して功も無いのに偉ぶっているのが気に食わなかった。つまり、決断所の人的構成(公家と武家)は「水と油の関係」であった。また、公家は訴訟関係の経験不足が著しく、そのような者を裁判機関の中に組み込んでも混乱が増すだけであった。",
"title": "人物"
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"text": "他にも後醍醐は、鎌倉幕府の御家人身分(御恩と奉公によって征夷大将軍に直属する武士の特権階級)を撤廃した。これは一つには当時御家人制度が社会の実態にそぐわなかったことが挙げられる。",
"title": "人物"
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"text": "また、恩賞として官位を与える制度を再興し、数々の武士を朝廷の高官に取り立てた。公卿の親房からは厳しく批難されたものの、後には親房自身がこの制度を利用して南朝運営に大きな成功を挙げている(→北畠親房からの評価)。",
"title": "人物"
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"text": "後醍醐天皇が好んでいたのは、行政的な実務手腕に優れた官僚型の武士であり、記録所・恩賞方・雑訴決断所といった新政権の重要機関に(特に雑訴決断所に)、鎌倉以来の実務官僚武家氏族が多く登用された。鎌倉幕府の本拠地鎌倉からよりも六波羅探題からの登用の方が多く、これは、鎌倉では北条氏と繋がりを持つ氏族からの縁故採用が多かったのに対し、六波羅探題には純粋に官僚的能力によって昇進した実力派が集っていたからではないか、という。また、森幸夫によれば、一般的には武将としての印象が強い楠木正成と名和長年だが、この二人は特に建武政権の最高政務機関である記録所寄人に大抜擢されていることから、実務官僚としても相応の手腕を有していたのではないか、という。",
"title": "人物"
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"text": "後醍醐天皇に抜擢され、地方から京に集った武家官僚たちは、京都という政治・文化の中枢に身を置くことで、能力や地位を向上させていった。例えば、諏訪円忠は、鎌倉幕府では一奉行人に過ぎなかったが、建武政権で雑訴決断所職員を経験して能力と人脈を磨いたのち、室町幕府では最高政務機関である評定衆の一人となっている。中でも著名なのが、後に室町幕府初代執事となる足利氏執事高師直で、亀田俊和によれば、地方の一勢力の家宰に過ぎなかった師直が、政治家としても武将としても全国的な水準で一流になることが出来たのは、建武政権下で楠木正成ら優秀な人材と交流できたからではないか、という。高師直は、後に、後醍醐天皇の政策の多くを改良した上で室町幕府に取り入れている。",
"title": "人物"
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"text": "また、(建武の乱が発生するまでは)足利尊氏をことのほか寵愛した。尊氏の名は初め「高氏」と表記したが(北条高時からの偏諱)、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降、足利尊氏と名乗るようになった。元弘の乱後の軍功認定は、尊氏と護良親王(後醍醐天皇の実子)が担ったが、護良親王が独自の権限で認定したのに対し、尊氏は後醍醐天皇の忠実な代行者として、護良親王以上の勤勉さで軍功認定を行った。後醍醐天皇は尊氏に30ヶ所の土地と、鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議など重要官職を惜しみなく与え、さらに鎮守府将軍として建武政権の全軍指揮権を委ねて、政治の中枢に取り入れた。鎮守府将軍はお飾りの地位ではなく、尊氏は九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限を行使した。弟の直義もまた、15ヶ所の土地と鎌倉将軍府執権(実質的な関東の指導者)など任じられた。なお、『梅松論』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏が政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、吉原弘道は、新研究の成果を踏まえ、尊氏が受けた異例の厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "後醍醐天皇は、既に倒れた得宗北条高時に対しては、その冥福を祈り、建武2年(1335年)3月ごろ、腹心の尊氏に命じて、鎌倉の高時屋敷跡に宝戒寺を建立することを企画した。その後の戦乱で造営は一時中断されていたが、観応の擾乱(1350–1352)を制して幕府の実権を握った尊氏は、円観を名義上の開山(二世の惟賢を実質的な開山)として、正平8年/文和2年(1353年)春ごろから造営を再開、翌年ごろには完成させ、後醍醐の遺志を完遂している。また、高時の遺児の北条時行は中先代の乱で一時は後醍醐天皇に反旗を翻したが、のち南北朝の内乱が始まると尊氏よりは後醍醐に付くことを望み、後醍醐もこれを許して、有力武将として重用した。",
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"paragraph_id": 60,
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"text": "とはいえ、後醍醐天皇に対立し続けた武家氏族は、建武政権では信任されなかった。たとえば、摂津氏・松田氏・斎藤氏らは、鎌倉幕府・六波羅探題で代々実務官僚を務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇の好みに合っていたはずだが、北条氏に最後まで忠誠を尽くしたため、数人の例外を除き、建武政権下ではほぼ登用されることはなかった。",
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"paragraph_id": 61,
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"text": "建武の乱の発生以降は、かつては寵遇した尊氏を「凶徒」と名指しするなど、対決路線を明確にした(『阿蘇文書』(『南北朝遺文 九州編一』514号))。その一方で、北畠親房や親房を信任した後村上天皇が偏諱の事実を拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し、後醍醐天皇は最期まで尊氏のことを一貫して「尊氏」と書き続けた。このことについて、森茂暁は「後醍醐のせめてもの配慮なのかもしれない」とし、岡野友彦もまた、尊氏を徹底的に嫌う親房とは温度差があり、建武の乱発生後も、後醍醐は親房ほどには尊氏を敵視していなかったのではないかとする。",
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"paragraph_id": 62,
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"text": "鎌倉時代後期、徳政という思想が普及し、悪しき政治は天変地異に繋がると考えられたため(天人相関説)、為政者たちは善政に励み、天災を防ごうとした。徳政の最も重大な事項は訴訟制度改革であるが、それに次いで、朝儀(古代の朝廷儀礼)を復興させることも重要な課題と考えられていた。後醍醐天皇は特に延喜・天暦の治(10世紀の醍醐・村上両帝の治世)を復興すべき徳政・朝儀の理想像とした。朝儀復興者としての後醍醐は、鎌倉時代末期の世人に「聖代」と仰がれ(『後伏見天皇事書』)、南北朝時代には北朝の准三宮二条良基からも敬意を払われた。",
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"text": "後醍醐天皇は特に朝儀の研究面において、有職故実に精通し、自ら『建武年中行事』という書を著して、朝廷の権威高揚を図った。この書籍は、行事の起源などの逸話は省略され、いつどのように実行するかという次第が書かれた実践書となっており、酒井信彦は、建武の新政下での儀礼執行への手引書として実践目的で書かれたものではないかと推測している。「未来の先例たるべし」という新政の意気込みと対照的に、こちらの序文では「まあ後世の鑑(手本)というほどのものではないにしても、ひょっとしたら、この時代にはこんなことがあったのだなあと、〔後の世の人たちにとって〕何かの参考にはなるかもしれない」と述べている。",
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"text": "『建武年中行事』は宮中で高く評価された。後花園天皇(在位1428年 - 1464年)はこれを書写して註釈をつけ、廃れていた行事をこの書に倣って復興するよう、息子の後土御門天皇(在位1464年 - 1500年)に薦めた。のち自身も『後水尾院年中行事』を著した後水尾天皇(在位1611年 - 1629年)も、同書を順徳天皇の『禁秘抄』と並ぶ宝典とし、後世まで残る鑑だと称賛した。",
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"text": "また、後醍醐天皇は建武の新政下で大内裏造営を計画したが、甲斐玄洋は、これはただの権力誇示ではなく、「聖代の政務の場」を復興させることで、徳政を目指したのではないかと主張している。しかしその反面、大内裏造営計画は重税にも繋がることになった。公卿・鎮守府大将軍の北畠顕家(北畠親房の長男)は、『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年(1338年))で重税を諌めたが、これは一般に大内裏造営への批判も含まれていると考えられている。亀田俊和は、造営計画自体は間違いとは思わないが、元弘の乱による疲弊が回復しきっていない時期に行ったという点が問題であると指摘した。",
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"paragraph_id": 66,
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"text": "後醍醐天皇は、建武の新政の後期には、綸旨(天皇の私的な命令文)の代わりに、太政官(律令制の最高機関)の正式な公文書である太政官符を多く発給した。甲斐は太政官符発給は朝儀復興の一環であり、公家徳政を志す後醍醐天皇の政治構想に沿ったものであると主張した。",
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"text": "後醍醐天皇は、両統迭立期(1242年 - 1392年)において最も禅宗を庇護した天皇だった。後嵯峨天皇から後亀山天皇の治世まで、仏僧に対する国師号授与は計25回行われ、うち20回が臨済宗の禅僧に対するものであるが、後醍醐天皇は計12回の国師号授与を行い、そのうちの10回が臨済宗へのものであり、単独でこの時期の全天皇の興禅事業の半数を占める。",
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"text": "中世日本では、天台宗や真言宗といった旧仏教は学問偏重の傾向にあり、しかも高貴な家柄に生まれた僧侶だけが要職に就くことが出来た。禅宗や律宗の僧侶はこれに異を唱え、戒律を重視したため、身分としては低かったが、武家や大衆から広く人気を集めた。後醍醐天皇の属する大覚寺統もまた禅宗に着目し、亀山上皇(後醍醐祖父)は京都南禅寺を開き、後宇多上皇(後醍醐父)は鎌倉幕府からの許可を取った上で南禅寺に鎌倉五山に准じる寺格を認めた。後醍醐の興禅事業は父祖の延長にあるものである。",
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"paragraph_id": 69,
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"text": "以下が、後醍醐天皇の臨済宗における国師の一覧である。",
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"text": "この他、五山文学の旗手であり儒学者・数学者としても知られる中巌円月を召し出し、『上建武天子表』『原民』『原僧』といった政治論を献呈された。",
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"paragraph_id": 71,
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"text": "元徳2年(1330年)、元から来訪した明極楚俊(みんきそしゅん)が鎌倉に向かう途上、明極を引き止めて御所に参内させたが、当時の天皇が外国人と直接対面するのは異例の事態である。明極の他、元の臨済僧としては清拙正澄も重用した。",
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"paragraph_id": 72,
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"text": "後醍醐天皇の皇子の一人とも伝えられる無文元選は臨済宗の高僧として大成し、遠江国方広寺の開山となり、「聖鑑国師」「円明大師」の諡号を追贈された。",
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{
"paragraph_id": 73,
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"text": "2018年、日本史研究者の保立道久が唱えた説によれば、後醍醐天皇の禅宗政策からは、後醍醐が融和路線を志向する政治家であることが見て取れ、皇統が分裂した両統迭立を友好的に解消するための手段として、禅宗を活用しようとした形跡が見られるという。また、その禅宗政策は、歴史的意義としても、鎌倉時代→建武政権→室町幕府→江戸幕府という連続性を見ることができ、公武を超えた国家統合の枠組みとして後醍醐が具体的に禅宗を提示したからこそ、その後、明治維新まで500年以上続く武家禅宗国家体制が成立したのではないか、という。",
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{
"paragraph_id": 74,
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"text": "もともと禅宗はどちらかといえば後醍醐ら大覚寺統が支持する新興宗教であったが、持明院統でも例外的に花園天皇は禅宗に深く帰依し、特に大徳寺の宗峰妙超を崇敬していた。後醍醐の側も花園の姿勢に好意を持ち、花園を追って大徳寺と宗峰妙超を篤く敬い、両帝ともに大徳寺を祈願所と設定していた。その後、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すと、京に帰還して建武の新政を開始した翌々日の元弘3年/正慶2年(1333年)6月7日という早期の段階で、大徳寺に「大徳寺領事、管領不可有相違者」との綸旨(天皇の命令文)を発した(『大日本古文書 大徳寺文書』67、中御門宣明奉)。この後もたびたび、大徳寺は所領寄進などをすばやく受けており、その手篤さは真言律宗の本拠地である西大寺(後醍醐腹心の文観房弘真の支持母体)と並ぶほどであったという。 同年8月24日にはさらに後醍醐自筆の置文で「大徳禅寺者、宜為本朝無双禅苑」「門弟相承、不許他門住」(『大日本古文書 大徳寺文書』1)と日本最高の禅寺であることが明言され、10月1日には正式に綸旨で「五山之其一」(『大日本古文書 大徳寺文書』14)とされた。翌年1月26日に後醍醐は南禅寺(祖父の亀山天皇が開いた禅寺)を京都五山第一と定めると、2日後の28日に改めて大徳寺を南禅寺と並ぶ寺格とし「南宗単伝の浄場なり」と称した(『大日本古文書 大徳寺文書』15)。南宗云々とはつまり、大徳寺が国家寺院であると宣言したことと解釈可能である。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "さて、大徳寺への寺領安堵の時期(6月7日)を見てみると、これは実は、持明院統への王家領安堵の時期と同日である。したがって、保立によれば、この二つは連動した政策であったのではないかという。最も注目されるのは、かつて花園上皇が大徳寺の宗峰妙超に寄進していた室町院領の「伴野床・葛西御厨」の安堵については、花園からの大徳寺への寄進を後伏見上皇に確認させる、という煩雑な手続きを踏んで行ったことである(『鎌倉遺文』32242・『大日本古文書 大徳寺文書』30)。この措置によって、大徳寺が改めて大覚寺統と持明院統の双方から崇敬を受けるという形式になったのである。室町院領はもともと大覚寺統・持明院統という天皇家内部の紛争の火種になっていた荘園群のため、これらが大徳寺という宗教的・中立的な組織に付けられたことの意味は大きい。つまり、後醍醐天皇は持明院統との融和路線を目指し、公家一統の象徴として大徳寺を表に立てたのではないか、という。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "しかも、後醍醐天皇は、「本朝無双禅苑」「五山之其一」といったただの華やかな名目で大徳寺を飾り立てるだけではなく、実際の造営や寺地確保においても、他の仏教宗派との紛争が起こらないように、細やかに腐心した痕跡が見られる。たとえば、後醍醐が建武の新政時に大徳寺に与えた寺域は、天台宗の円融院・梶井門跡と接している。ここで、当時の梶井門跡を管領していたのは、後醍醐の皇子で天台座主の尊澄法親王(のちの征夷大将軍・宗良親王)だった。尊澄(宗良)は元弘の乱以前、自身と関連がある善持寺という寺院の土地が、開堂したばかりの大徳寺に流入してしまう件を快く了承したことがあるなど(『大日本古文書 大徳寺文書』1-168)、天台宗延暦寺最高の地位にある僧でありながら、禅宗にも理解のある人物だった。このように、首都・京都に新たに大きな禅宗の寺院を造営・拡大するにあたって、自身の人脈によって、最も強い障害と考えられる仏教界の旧勢力・天台宗との軋轢を起こさないように図っている。この後醍醐の融和的な姿勢は、建武政権期で一貫したものだったと見られ、建武元年(1334年)10月20日の綸旨で再度敷地の確認を行っている(『大日本古文書 大徳寺文書』50)。",
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "無論、その後の建武の乱で建武政権が崩壊してしまったため、結果論としては、後醍醐の宥和計画である大徳寺を通じた公家一統そのものは成功しなかった。とはいえ、歴史的意義がなかったといえば、そうではなく、むしろ逆で、後醍醐の禅宗政策はその後の日本の歴史に決定的な影響を与えた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 78,
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"text": "宋学(新儒学)は、しばしば宋学の中の一つに過ぎない朱子学と同じものであると誤解されることが多いが、それは事実ではなく、この時代の宋学は禅宗とは不可分一体のものだった。鎌倉時代、日本がモンゴル帝国の脅威に晒されると、公武の各有識者は、それまでのナショナリズムを捨て、日本の近代化を図るべく、宋学と禅宗が一体になった思想を、南宋の禅僧である無準師範の門下や、南宋から日本に渡来した蘭渓道隆を通じて学んだ。この時点では、禅宗・宋学は諸勢力によってばらばらに学ばれるものに過ぎなかったが、後醍醐によって初めて禅律国家というものが具体的に提示され、国家統合の象徴として用いられることで、その後の隆盛が保証されることになった。保立によれば、後醍醐の肖像画が、律宗の西大寺出身の文観と、禅宗の大徳寺によって所持されたことがその端的な象徴ではないか、という。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 79,
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"text": "ただし、後醍醐だけが宋学に傾倒していたわけではない。たとえば、元応3年(1321年)に「讖緯説」を基に元享へ改元する協議が為された際は、「讖緯説は『易緯度』や『詩緯』に依拠するものである」という宋学的な理由(欧陽脩や朱熹が同じような理由で讖緯説を否定している)で、大外記・中原師雄を始め、協議に参加した全員が「緯説用ふべからざる事」を主張した。また、北畠親房も讖緯説を「奇怪虚誕の事」と否定している。また、一条兼良の『尺素往来』によれば、儒学は従来は清原・中原両家によって「前後漢、晋、唐朝の博士」の旧注が用いられていたが、「近代」には玄恵が「程朱二公(宋学の大成者である程頤、朱熹のこと)」の「新釈」を用いて朝廷で「議席」を開いたという。加えて、『花園院宸記』元応3年(1319年)閏7月22日条によれば、持明院殿で行われた『論語』の談義に、日野資朝や菅原公時』らの学者官僚に混じって、玄恵らの宋学に通じた僧侶も参加し、花園院は特に玄恵の説くところを「誠に道に達するか」と讃えている。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "後醍醐の政策は、建武政権崩壊後も、足利政権によって武家禅宗国家として発展的に受け継がれた、という説もある。足利尊氏・直義兄弟によって後醍醐の冥福のために天龍寺が創建されたのはあまりにも有名であり、足利義満もまた、後醍醐によって才覚を発掘された禅僧夢窓疎石を名目の開山とし、相国寺を建立している。このように、足利氏政権が禅宗・儒学を国家の理念と位置づけ、しかも禅宗寺院が宗教上だけではなく経済的・社会的にも大きな役割を果たすようになったのは、建武政権からの連続性を否定できない、という。その後、武家禅宗国家は江戸幕府が崩壊するまで500年以上続くことになるが、「禅宗は武家のもの」という認識は江戸幕府が禅宗を深化させたのを過去遡及的に当てはめた理解に過ぎず、実際は、公武を超えた国家的事業に禅を据えた後醍醐こそが、武家禅宗国家の成立を切り開いた人物であると言えるのではないか、という。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 81,
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"text": "しかし、観念的な外来思想である宋学は王朝政治のためのものであり、室町時代においてそれは京都の朝廷での狭い世界でしか通用しないものであったため、尊氏自身はその思想に興味はなく、「三島神社文書」に見えるように、鎌倉以来の武家政治の中で培われた、個別具体的な主従制や、行政や裁判を通じて生活に密着した統治思想に重きを置いていた。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 82,
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"text": "後醍醐天皇の祖父の亀山天皇は、真言律宗の開祖である叡尊に深く帰依したが、後醍醐もまた律宗の振興を図った。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "律宗とは、特にその代表者である叡尊の活動について言えば、1. 仏教界の堕落に対処するため、戒律(仏教における規律・規範)を重視して復興を図ったこと(律宗)、2. 釈迦・文殊菩薩・舎利(しゃり、釈迦の遺骨)への信仰を重視し、荒廃した寺院を復興し、様々な仏像を作成させたこと、3. 大衆との関わりを重視し、貧民救済などの慈善事業を活発に行ったこと(忍性も参照)、4. 密教僧として、鎌倉時代を代表する密教美術の制作を多く指揮・監修したこと、などが挙げられる。",
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "後醍醐は、嘉暦3年(1328年)5月26日から始まる元徳2年(1330年)までの3年間、真言律宗の忍性に「忍性菩薩」、信空に「慈真和尚」、唐招提寺中興の祖の覚盛に「大悲菩薩」の諡号を贈った(『僧官補任』)。これらは、真言宗の高僧でありながら真言律宗が出身母体である腹心の文観房弘真からの推挙が大きかったと見られる。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "忍性は、貧民やハンセン病患者、非人の救済に生涯を捧げた律僧である。後伏見天皇から叡尊への「興正菩薩」が、正安2年(1300年)閏7月3日だから、律僧が諡号を贈られたのは約28年ぶりで、忍性の入滅からも25年が経っている。",
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},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "後醍醐はまた、名誉を贈るだけではなく、各地の律宗の民衆救済事業に支援をしたと見られる。たとえば、東播磨(兵庫県東部)では、加古川水系の五ヶ井用水に対し、中世に何者かによって大規模な治水工事が行われ、その結果、700ヘクタールもの水田を潤す大型用水施設となり、加古川大堰が1989年に完成するまで、地域の富を生み出す心臓部になったことが知られている。金子哲は、同時代の記録を突き合わせて、この事業は当時まだ20代後半から30代だった文観によって開始されたのではないか、とした。そして、同時期の同地に、文観によって立てられた石塔群が大覚寺統の勢力範囲内にあり、「金輪聖王」(天皇)云々と掘られていることから、これらの事業には後宇多上皇(後醍醐父)や皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)からの支援があったのではないか、と推測した。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "神道家としての後醍醐天皇は、大覚寺統の慣例に則り、当時廃れつつあった伊勢神宮を保護し、外宮の度会家行から伊勢神道を学んだ。この縁で、後醍醐天皇第一の側近であり中世最大の思想家・歴史家でもある北畠親房も伊勢神道の思想を取り込み、主著『神皇正統記』等に表現したため、日本の哲学・歴史学への思想的影響は大きい。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "伊勢神宮は、古代日本では特殊な地位を築いていたが、律令制の崩壊や八幡宮・熊野神社の台頭によって、中世には権勢を失いかけていた。そこで、外宮の度会氏は伊勢神宮の独自性を保つため、独特の神道観を形成していった。ところが、後深草天皇を初め、持明院統の天皇は斎王(未婚の内親王もしくは女王を伊勢の斎宮に送り天照大神の御杖代(みつえしろ)=依り代の巫女として仕えさせること)の制度を無視したため、伊勢神宮はさらに打撃を受け、天皇家との繋がりさえも失いかけていた。このような中、大覚寺統の天皇たちはなるべく斎王を送る制度を尊重したため、度会氏の側でも見返りとして秘伝である伊勢神道の書物を献上するようになっていた。岡野友彦によれば、「神本仏迹」(しんぽんぶつじゃく)、つまり本地垂迹とは逆に、日本の神々の方が本体で仏がその化身であるという、伊勢神道独特の神道優位主義が、鎌倉幕府から自立したがる傾向にある大覚寺統の思想に相通じるものがあったのではないか、という。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "度会氏は、元弘2年/正慶元年(1332年)までに、後宇多法皇(後醍醐の父)と後醍醐天皇へ、度会家行が編纂した『類聚神祇本源』を献上し、両帝は同書の叡覧(天子としての閲覧)をした。また、後醍醐天皇は大覚寺統の慣習通り、元徳2年(1330年)に、中宮の西園寺禧子との間に生まれた懽子内親王を斎王として卜定(ぼくじょう、指名)したが、この直後に後醍醐が元弘の乱で隠岐に流されたため、実際に懽子内親王が伊勢に赴くことはなかった。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開いた後醍醐は、寵姫阿野廉子との娘の祥子内親王を斎王に卜定したが、数年後に建武の乱で建武政権が崩壊したため、結局祥子内親王が歴史上最後の斎王となってしまった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "その後、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、後醍醐側近の北畠親房は、宗良親王を奉じて伊勢国に下向したが、このとき親房が頼ったのが、既に後醍醐天皇との繋がりがある度会家行だった。同地で、親房は家行から初めて伊勢神道を学び、特に伊勢神道の諸書の梗概を編集して成立した『類聚神祇本源』には興味を示して自らの筆で書写し始め、延元2年/建武4年(1337年)7月以降に書写し終わった。その後の親房の著作の中でも、特に『神皇正統記』『元々集』には伊勢神道からの影響が強く見られる。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 91,
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"text": "小笠原春夫は、この時期の度会家行・度会常昌・北畠親房・慈遍らの学派の活動について、「神道史上画期的な一出発の趣をな[す]」と評し、中世末期の吉田神道や近世初期の儒家神道などの後世の神道に対する影響は多大であると述べている。",
"title": "人物"
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"text": "また、後醍醐天皇と伊勢神道の結びつきは南朝の軍事面にも貢献し、宗教権門として伊勢国の8郡を支配する伊勢神宮からの支援を得た北畠家は、伊勢国に地盤を築くことに成功し、伊勢国司北畠家として、戦国時代末期まで200年以上に渡り同地の大勢力として君臨した。",
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"text": "一方、伊勢神宮の全てが南朝に協力した訳ではなく、中には北朝側についた神主もいた。これは、神宮内部での派閥争いとも関連していると見られているが、詳細は不明であり、後醍醐天皇と伊勢神宮の関係は2010年代時点でも研究され尽くした訳ではない。",
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"text": "書家としては、和風の様式に、中国の宋風から派生した禅宗様を加え、「宸翰様」(しんかんよう)と呼ばれる書風を確立し(宸翰(しんかん)とは天皇の直筆文のこと)、新風を書道界にもたらした。財津永次によれば、後醍醐天皇は、北宋の文人で「宋の四大家」の一人である黄庭堅の書風を、臨済禅の高僧宗峰妙超(大燈国師)を介して習得したと思われるという。財津は後醍醐天皇の作を「覇気横溢した書として名高い」と評している。また、小松茂美は、後醍醐天皇を日本史上最も名高い能書帝としては伏見天皇に次いで取り上げ、「力に満ちた覇気あふれる書」を残したと評価している。",
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"text": "後醍醐天皇の書作品は、1951年から1955年にかけて、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』、『後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉』、『四天王寺縁起〈後醍醐天皇宸翰本〉』、『三朝宸翰』 (後醍醐天皇宸翰消息10通を含む) の4件が国宝に指定されている。",
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"text": "当時は後醍醐天皇に限らず南北両朝の天皇が競って書を研鑽したため、この時期の諸帝の宸翰は史料としてだけではなく、書道の芸術作品としても重要である。その一方、角井博によれば、宸翰様は書風そのものの芸術的価値という点では評価が高いものの、和様書道の一部と見なされ、後世の書道への影響という点では特筆することがないという。",
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"text": "後醍醐天皇は和歌にも造詣が深かった。『新後撰和歌集』から『新後拾遺和歌集』までの7つの勅撰和歌集に、多数の歌が入撰している。これらの勅撰集の中でも、第16となる『続後拾遺和歌集』(嘉暦元年(1326年)6月9日返納)は、後醍醐天皇が二条為定を撰者として勅撰したものである。実子で南朝征夷大将軍の宗良親王が撰者であった南朝の准勅撰集『新葉和歌集』にも当然ながら入撰しており、また宗良親王の家集『李花集』には、内面の心境を吐露した和歌が収録されている。南朝だけではなく、室町幕府初代将軍足利尊氏の執奏による北朝の勅撰集『新千載和歌集』でも24首が入撰しており、これは二条為世・二条為定・伏見院・後宇多院・二条為氏らに次いで6番目に多い。自身も優れた武家歌人であった尊氏は、後醍醐天皇を弔う願文の中で、「素盞嗚尊之詠、伝我朝風俗之往策」と、後醍醐の和歌の才能を歌神である素盞嗚尊(すさのおのみこと)になぞらえ、その詠み様は古い日本の歌風を再現するかのような古雅なものであったと評している。",
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"text": "後醍醐天皇は、当時の上流階級にとっての正統文芸であった和歌を庇護した有力なパトロンと見なされており、『増鏡』第13「秋のみ山」でも「当代(後醍醐)もまた敷島の道もてなさせ給」と賞賛されている。なお、鎌倉時代中期の阿仏尼『十六夜日記』に「やまとの歌の道は(中略)世を治め、物を和らぐるなかだち」とあるように、この当時の和歌はただの文芸ではなく、己の意志を表現して統治を円滑するための強力な政治道具とも考えられていた。",
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"text": "歌学上の業績としては、当時持明院統派閥の京極派に押されつつあった二条派を、大覚寺統の天皇として復興した。前述の『続後拾遺和歌集』の撰者に二条派の為定を採用したことが一例である。藤原北家御子左流は「歌聖」藤原定家などを輩出した歌学の家系であるが、当時の歌壇は、御子左流嫡流で政治的には大覚寺統側だった二条家の二条派と、その庶流で政治的には持明院統側だった京極派に二分していた(ここに鎌倉幕府と親しかった冷泉派を加えることもある)。歌風としては、二条派は伝統性と平明性を尊び、対する京極派は清新性を尊んだという違いがある。国文学研究者の井上宗雄および日本史研究者の森茂暁によれば、儒学を重んじる後醍醐天皇は、二条派の中でも、二条家当主ではあるが古儀に疎い二条為世よりも、その次男で儒学的色彩の濃い二条為藤の歌を好んだという。その論拠として、『花園天皇宸記』元亨4年(1324年)7月26日条裏書には、為藤の評伝記事について「主上(後醍醐)、儒教の義理をもつて、推して歌道の本意を知る」とあることが挙げられる。森の主張によれば、後醍醐天皇は歌学の教養を二条派から摂取しただけではなく、その逆方向に後醍醐天皇から為藤やその甥の為定の歌風に対する影響も大きく、二条派に儒風を導入させたという。",
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"paragraph_id": 100,
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"text": "また、後醍醐天皇は婚姻上でも御子左流二条家を優遇し、為世の娘(為定の叔母)であり、「歌聖」藤原定家からは曾孫にあたる二条為子を側室として迎えた。為子との間に、尊良親王および後に二条派最大の歌人の一人として南朝歌壇の中心となった宗良親王の男子二人をもうけている。『増鏡』では、後醍醐と為子は仲睦まじい夫婦だったと描かれている。",
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"paragraph_id": 101,
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"text": "後醍醐天皇が勅撰を命じた『続後拾遺和歌集』で抜擢された武家歌人には、まだ「高氏」と名乗っていた頃の若き足利尊氏もいた。尊氏は前回の『続千載和歌集』のときにも二条家に和歌を送っていたのだが、その時は不合格で入撰せず、送った和歌が突き返されてきた。そこで、後醍醐天皇の時代に「かきすつるもくづなりとも此度は かへらでとまれ和歌の浦波」という和歌を送ったところ、今度は二条為定の眼に止まり、採用となったのである(歌の大意:どうせ私の和歌など、紀伊国和歌の浦で掻き集めて捨てる藻屑のように、書き捨てた紙屑だから、和歌の浦の波のように返ってくるのだろうが、どうか今度こそは返却されずに採用されて欲しい)。",
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"paragraph_id": 102,
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"text": "なお、森茂暁は、『続後拾遺和歌集』が四季部奏覧された正中2年(1325年)という時期に着目し、これは正中の変で後醍醐天皇の鎌倉幕府転覆計画が発覚し、多数の手駒を失った翌年に当たるから、後醍醐の側で目ぼしい武士に恩を売って、少しでも反幕勢力を増やしたいという政治的意図があったのではないか、と推測している。また、尊氏の側でも、政治的意図はまだ後醍醐ほどには強くなかっただろうにせよ、二条家の背後にいる後醍醐に接近したいという想いがあり、両者で利害が一致した結果の採用なのではないか、とも推測している。ただし、2000年代後半以降、河内祥輔らによって、正中の変では後醍醐は倒幕を考えておらず、本当に冤罪だったとする説も唱えられている(詳細は当該項目参照)。",
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"text": "いずれにせよ、尊氏が後醍醐天皇から受けた影響は、単なる政治的なものには留まらず、歌学上でも後醍醐の意志を引き継いで二条派を振興した。南北朝の内乱が発生し、足利氏内部の実権が弟の足利直義に移った後、北朝(持明院統)で最初に勅撰された光厳天皇の『風雅和歌集』は京極派寄りであり、一時的に二条派は衰えた。しかし、観応の擾乱で直義に勝利し将軍親政を開始した尊氏は、幕府・北朝安定政策の一環として、北朝の後光厳天皇に『新千載和歌集』を執奏した。ここで尊氏は、自分が最初に入撰した『続後拾遺和歌集』の時の撰者である二条為定を、再び撰者に推薦した。さらに、五摂家の一つ九条流二条家の当主で連歌の大成者でもある二条良基(これまで登場してきた御子左流二条家とは別の家柄)は、有職故実研究者としての後醍醐天皇を尊敬しており、皇統から言えば京極派であるはずの後光厳天皇にも、後醍醐天皇系の二条派を学ぶように説得し、後光厳天皇もこれに納得して二条派に転じた。こうして、尊氏・良基の努力により、『新千載和歌集』の撰者には再び二条派の為定が復帰した。",
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"paragraph_id": 104,
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"text": "後醍醐天皇の二条派は最終的に京極派に勝利し、京極派が南北朝時代中期に滅んだのに対し、二条派は近世まで命脈を保った。その著名な伝承者としては、南朝の宗良親王や北朝の頓阿・兼好法師、室町後期の宗祇・三条西実隆、戦国時代の三条西公条・三条西実枝・細川幽斎などがいる。幽斎の門下からは智仁親王・中院通勝らの堂上派と松永貞徳らの地下派に分かれて江戸時代に続き、江戸中後期には地下派の香川景柄(1745–1821年)の養子となった香川景樹(1768–1843年)が古今伝授の権威主義を批判し、二条派を発展的に解消して、その後継として実践を重んじる桂園派を新たに創始した。さらに明治時代には明治21年(1888年)に宮内省の部局御歌所の初代所長となった桂園派の高崎正風らが御歌所派を形成して、昭和21年(1946年)の御歌所廃止まで存続した。",
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"text": "文人としての後醍醐天皇の業績には、紫式部の小説『源氏物語』(11世紀初頭)の研究がある。後醍醐天皇は『定家本源氏物語』や河内方の註釈書『水原抄』を読み込み、余白に自らの見解を書き入れた。また、四辻善成の『河海抄』(1360年代)の序文によれば、後醍醐天皇は即位後間もない頃、源氏物語の講演を開催して自説を展開し、これを聴講していた医師で歌人の丹波忠守(善成の師)と意気投合して、その門下に入ったという。さらに、『原中最秘抄』(1364年)によれば、建武の新政の初期、公務の合間を縫って、河内方の研究者である行阿に命じて『河内本源氏物語』を献上させたり、源氏物語の登場人物の系図を自ら作成したりと、最も多忙な時期でも『源氏物語』研究を怠らなかったという。後醍醐天皇の研究成果は、嫡孫の長慶天皇に直接継承され、長慶は『源氏物語』の註釈書『仙源抄』を著作している。",
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"paragraph_id": 106,
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"text": "なお、後醍醐天皇の弟弟子にあたる四辻善成の『河海抄』は、当時までの『源氏物語』の既存研究を列挙・検討した集大成的な研究書であるが、それまでの研究に見られない特徴として、『源氏物語』の「延喜天暦準拠説」を主張したことが知られる。つまり、登場人物の桐壺帝・朱雀帝・冷泉帝を、それぞれの実在の醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇に結びつけ、『源氏物語』は「延喜・天暦の治」を踏まえて描かれたものとして解釈しようとしたのである。",
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"paragraph_id": 107,
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"text": "そして、国文学研究者の加藤洋介の論説によれば、「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は四辻善成の独創ではなく、実は後醍醐天皇によって考え出されたものではないか、という。その論拠としては、以下のことが挙げられる。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 108,
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"text": "そして、後醍醐天皇が考案した「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は、共通の師である丹波忠守を介して、四辻善成に伝わったのではないか、という。また、後醍醐天皇にとって『源氏物語』研究とはただの趣味ではなく、王権を回復するための事業の一部であり、したがってその意志を受け継いだ善成の『河海抄』も、文学的な知見だけではなく、建武政権の性質を理解すること無しに読み解くことはできないのではないか、としている。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 109,
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"text": "以上の加藤の論説は、日本史研究者の森茂暁も「首肯される意見である」と賛同している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 110,
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"text": "後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・皇族の間で習得が求められていた笛を粟田口嗣房、没後はその従兄弟の藤井嗣実から習得し、更に秘曲に関しては地下楽人の大神景光から習得していたとみられている。特に「羅陵王」という舞楽曲の一部で秘曲として知られた「荒序」という曲を愛好し、たびたびこの曲を演奏している。この曲は平時には太平を寿ぎ、非常時には勝利を呼ぶ曲と言われ、元寇の時にも宮廷でたびたび演奏されていた。このため、「荒序」と討幕を関係づける説もある。",
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"text": "更に後醍醐天皇は持明院統の天皇・皇族の間で習得が求められていた琵琶の習得にも積極的で、西園寺実兼に懇願して文保3年(1319年)1月10日には秘曲である慈尊万秋楽と揚真操を、元亨元年(1321年)6月15日には同じく秘曲の石上流泉と上原石上流泉の伝授を受け、翌元亨2年(1322年)5月26日には秘曲である啄木を実兼が進めた譜面を元に今出川兼季から伝授されている(実兼が病のため、息子の兼季が代理で教授した)。しかも天皇が伝授で用いたのは皇室の累代の名器とされた「玄上」であった。嘉暦3年(1328年)2月16日には、持明院統でも天皇しか伝授を受ける事が出来ないとされていた「啄木」の譜外口伝の伝授を兼季から受けていた。勅命である以上、兼季もこれを拒むことができず、その事情を伝えられた持明院統側では自らの系統を象徴する秘伝が大覚寺統の天皇に知られたことに衝撃が走った。後伏見上皇は日記の中で持明院統が守ってきた琵琶の道が今上(後醍醐天皇)に奪われてしまったと嘆いている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 112,
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"text": "更に綾小路有頼から催馬楽の秘曲を、二条資親からは神楽の秘曲の伝授を受けるなど積極的に各種の音楽の奥義を極めた他、西園寺家や平等院、東大寺正倉院から名器を召し上げて自らの物としており、物質面でも内容面でも両統迭立以来大覚寺統・持明院統で独自の文化を築きつつあった宮廷音楽の統一を図り、自らの権威を高めようとしていた。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 113,
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"text": "中世には闘茶(茶道の前身)といって、茶の香りや味から産地を当てる遊びが流行したが、後醍醐天皇はそれを最も早く始めた人物の一人としても知られる。闘茶会であると明言されたものの史料上の初見は、後醍醐天皇の政敵である光厳天皇が元弘2年/正慶元年6月5日(1332年6月28日)に開いた茶寄合(『光厳天皇宸記』同日条)であるが、実際はそれに先立つ8年ごろ前に、後醍醐天皇の無礼講で開催された飲茶会(『花園院宸記』元亨四年十一月朔日条(1324年11月18日条))も闘茶であったろうと推測されている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "後醍醐天皇が開始した建武政権(1333–1336年)の下では、闘茶が貴族社会の外にも爆発的に流行した様子が、当時の風刺詩『二条河原の落書』に「茶香十炷」として記されている。さらに、武士の間でも広まり、室町幕府の『建武式目』(延元元年/建武3年11月7日(1336年12月10日))では茶寄合で賭け事をすることが禁じられ、『太平記』(1370年ごろ完成)でも、バサラ大名たちが豪華な室礼で部屋を飾り、大量の景品を積み上げて闘茶をしたという物語が描かれる。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "また、茶器の一種で、金輪寺(きんりんじ/こんりんじ)茶入という薄茶器(薄茶を入れる容器)を代表する形式を考案した。これは、後醍醐天皇が大和吉野の金輪寺(修験道の総本山金峯山寺)で「一字金輪の法」を修行していた時に、蔦の木株から茶入を作り、天皇自ら修験僧らのために茶を立てて振る舞ったのが起源であるという。また、『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、戦国時代の武将織田信長は、後醍醐天皇御製の金輪寺の本歌(原品)であるという伝説の茶器を所持していたことがあり、天正7年(1579年)5月27日に、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に下賜した。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 116,
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"text": "中国では、北宋(960–1127年)の頃から、盆石(現代日本語の水石)といって、山水の景色を想起させるような美石を愛でる趣味があり、日本へは鎌倉時代末期から南北朝時代ごろに、臨済宗の虎関師錬を代表とする禅僧によってもたらされた。唐物趣味で禅宗に深く帰依した後醍醐天皇もまた愛石家として「夢の浮橋」という名石を所持しており、徳川家康の手を経て、2019年現在は徳川美術館が所蔵している。名前の通り橋状の石で、一見すると底面が地に密着するように見えるが、実際は両端のわずかな部分が接地するだけで、しかも橋のように安定性がある。石底には朱漆で「夢の浮橋」の銘が書かれており、筆跡鑑定の結果、後醍醐天皇の自筆であると判明している。その銘は『源氏物語』最終巻の「夢浮橋」に由来すると考えられている。徳川美術館はこの石を「盆石中の王者」と評している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 117,
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"text": "伝承によれば、「夢の浮橋」は、中国江蘇省江寧山からもたらされた霊石であり、後醍醐天皇は元弘の乱で京都を離れた際にも、「夢の浮橋」を懐に入れて片時も手放さなかったと伝えられる。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 118,
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"text": "後醍醐天皇が才覚を見出した石立僧(いしだてそう、自然石による作庭を得意とする仏僧)としては、臨済宗の夢窓疎石がいる。夢窓疎石はもと世俗での立身出世を嫌い、各地を転々として隠棲する禅僧であったが、正中2年(1325年)春、後醍醐天皇は夢窓を京都南禅寺に招こうとし、一度は断られたものの、再び執権北条高時を介して来京を願ったため、夢想はやむを得ず同年8月29日に上京し南禅寺に入った。この後、夢窓は執権高時の帰依をも受けるようになった。元弘の乱後、建武元年(1334年)9月に後醍醐天皇は正式に夢窓疎石に弟子入りし、建武2年(1335年)10月に「夢窓国師」の国師号を授けた。後醍醐天皇が崩御すると、夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟に後醍醐天皇への冥福を祈るように薦め、このため足利兄弟は夢窓を開山として天龍寺を創建した。夢窓は直義と協議して、天龍寺船を元に派遣して貿易の儲けで寺の建築費用を稼ぎ、自らの手で禅庭を設計した。1994年、夢窓疎石の天龍寺庭園は、「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」の一部として、ユネスコによって世界遺産に登録された。",
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"paragraph_id": 119,
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"text": "践祚から『続後拾遺和歌集』成立までの間(1318年 - 1326年)に詠んだ歌。",
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"paragraph_id": 120,
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"text": "『増鏡』「久米のさら山」によれば、鎌倉幕府に捕まって隠岐国に流される途中、美作国(岡山県東北部)に差し掛かった元弘2年/元徳4年(1332年)3月17日に詠んだ歌2首。",
"title": "御製"
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"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "南朝を開いて吉野行宮にいた時代(1337年 - 1339年)に、五月雨が絶え間なく続いて、晴れの日がない頃に、雨の神を祀る丹生川上神社に勅使を立てて祈らせた時の歌。室町時代の説話文学である『吉野拾遺』にも、やや改変された形で引用された。",
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{
"paragraph_id": 122,
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"text": "元弘の乱の初戦に敗北し、鎌倉幕府に捕まって隠岐国へ向けて京都を出立した元弘2年/元徳4年(1332年)3月7日に、道を先導する武士の佐々木導誉に向けて詠んだ歌。のち足利尊氏の側近のバサラ大名として権勢を誇る導誉だが、この頃はまだ一介の佐渡判官に過ぎなかった。そのように天皇からすれば弱小な地位の武士であったにもかかわらず、後醍醐はむかし導誉が石清水八幡宮に案内してくれた時のことを正確に記憶しており、その時のことを懐かしく思って導誉に親しく語りかけたのである。",
"title": "御製"
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{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "後醍醐天皇が隠岐に流される途中、元弘2年/元徳4年(1332年)3月8日から11日ごろに、道を先導してくれた山人らに対し感謝して詠んだ歌。",
"title": "御製"
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"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "後醍醐天皇が隠岐国を脱出して本州に辿り着いた際、最初に後醍醐に味方した伯耆国(鳥取県)の豪族・武将である名和長年のために詠んだ歌。准勅撰和歌集『新葉和歌集』羇旅歌の巻軸(その巻の末尾を飾る重要で優れた歌)である。長年は船上山の戦いで幕府軍に勝利し、その功績から、のち後醍醐の寵臣「三木一草」の一人になった。しかし、建武の乱で足利尊氏と戦い、討死した。",
"title": "御製"
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"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "『新葉和歌集』で、この歌の後に撰者の宗良親王が書き加えた文によると、かつて、後醍醐天皇が名和長年の船上山での活躍を記した記録が存在した。そして、その記録の奥に付されたのがこの歌であったという。後醍醐による名和長年の伝記は散逸し、この歌のみが残る。",
"title": "御製"
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{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "学問と芸術を愛好した皇帝らしく、後醍醐天皇は陰鬱でメランコリックな歌を得意とした。たとえば、自身の境遇を嘆いた和歌のうち2首が、歴史物語『増鏡』の巻名である「むら時雨」と「久米のさら山」に採用されている。天皇家になんか生まれなければ良かったという歌や(#上なき身)、私もきっともうすぐ死ぬのだろう、といった歌もある(#我が世の末)。後者は詠んだ後に実際すぐ崩御している。後醍醐が偏諱(尊治の「尊」)を与えるほどに寵愛した武家歌人の足利尊氏もまた、40代半ばでも迷いの多いことを嘆いて遁世を願う和歌を詠んでおり、このような打たれ弱さは、尊氏と似た者同士とも考えられる。",
"title": "御製"
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{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "なお、2010年代時点で世間に流布される人物像としては、後醍醐は不撓不屈の精神を持った武闘派の天皇と描かれることが多い。しかし、日本史研究者の呉座勇一の主張によれば、このような人物像は崩御してから数十年後に完成した軍記物語である『太平記』に多くを依拠しており、歴史的実像としては疑問点が多いという。",
"title": "御製"
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{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "鎌倉幕府との戦いである 元弘の乱の初戦の笠置山の戦いに敗北して捕縛された後醍醐天皇は、元弘元年/元徳3年(1331年)10月初頭、大勢の武士に囲まれて入京し、六波羅探題の南側にある、板葺きのみすぼらしい館に幽閉された(『増鏡』『花園天皇宸記』)。『増鏡』によれば、この歌はその幽閉中に詠まれた和歌であるという。『増鏡』「むら時雨」の巻名は、この和歌に由来する。",
"title": "御製"
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{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "『増鏡』「久米のさら山」では、元弘の乱の初戦で敗北して隠岐国配流が決まり、都を出立する直前に詠んだ歌として配置されている。このようにはじめは落ち込んだ後醍醐だが、都を出てから隠岐にまで行く道中で、直に地方の民と触れ合うことができ、流刑というのも悪いことばかりではない、と思い直すことになる(#民のかまど)。",
"title": "御製"
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{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "『増鏡』によれば、京都を出立して隠岐島に流されるまでの道中、美作国佐良山(岡山県津山市の南部にある山)を通りかかった時に詠んだ歌であるという。『増鏡』「久米のさら山」の巻名は、この歌に由来する。",
"title": "御製"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "最晩年の吉野行宮時代(1337年 - 1339年)に詠んだ歌。誰を悼んだ哀傷歌なのかは具体的に書かれていないが、一人に特定するならば、推定30代で崩御した最愛の妃である皇太后西園寺禧子(後京極院)などが考えられる。",
"title": "御製"
},
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"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "延元3年/建武5年(1338年)初頭、側近の公卿である吉田定房・坊門清忠が相次いで薨去したのを悼んだ歌。後醍醐の予見通り、この翌年に自身もまた崩御する。",
"title": "御製"
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"paragraph_id": 133,
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"text": "後醍醐の皇太子時代の最初の正妃は、二条派を代表する大歌人である二条為子だったが、応長元年(1311年)もしくは翌年ごろに死去した。それから20年以上後の元弘3年(1333年)9月13日の夜、為子の代表歌である「月ならで うつろふ色も 見えぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊」(『続後拾遺和歌集』秋歌下・381) を参考歌にして詠んだ一首である(為子の歌の詳細については、二条為子#白菊を参照)。",
"title": "御製"
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"paragraph_id": 134,
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"text": "正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろ、皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)は、有力公家の西園寺家の姫君である西園寺禧子と密かに駆け落ちし、禧子を適当な場所に匿って、そのまま何も知らない振りをして朝廷に出仕しようとした。しかし、翌年1月にはやくも事件は露顕して、一騒動になった(『花園天皇宸記』正和3年(1314年)1月20日条)。上の後醍醐本人の証言によれば、後醍醐は恋愛関係でポーカーフェイスを保つことができない性格だったという。",
"title": "御製"
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"text": "皇太后禧子が崩御した同年の元弘3年12月7日(1334年1月13日)、新たな正妃として、対立皇統である持明院統の後伏見天皇第一皇女の珣子内親王が立てられた。これは、持明院統と西園寺家(珣子の従兄は西園寺家当主公宗)との融和路線を築くための政略結婚と見られ、しかも20歳以上の年齢差がある結婚だった。だが、後醍醐は珣子のために心を尽くし、立后屏風、つまり皇后が定まった時に有力歌人が歌を色紙に書いて屏風に貼る行事では、新郎であり二条派の大歌人でもある後醍醐自身も歌を詠んだ。そのうちの2首の両方ともが、北朝の勅撰和歌集と南朝の准勅撰和歌集の双方に同時入集するほどの秀歌だった(もう1首は珣子内親王#後醍醐から珣子への歌を参照)。",
"title": "御製"
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"text": "上記の歌は、『新葉和歌集』の版である「袖かへす 天津乙女も 思ひ出ずや 吉野の宮の 昔語りを」が刻まれた歌碑が、2012年時点で、奈良県吉野郡吉野町の吉野朝皇居跡に立てられている。",
"title": "御製"
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"paragraph_id": 137,
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"text": "『増鏡』「久米のさら山」によれば、元弘の乱の笠置山の戦いに敗北し幕府に捕らえられた後醍醐天皇は、年が明けて元弘2年/正慶元年(1332年)2月頃になってもまだ、六波羅に囚われており、意気消沈する日々を送っていた。このとき、中宮の西園寺禧子は夫の慰めにと、後醍醐がかつて愛用していた琵琶を宮中から届けると、紙片に歌を書いて琵琶に添えた(『太平記』もほぼ同様の逸話を載せる)。",
"title": "御製"
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"text": "これに対し、後醍醐も雨垂れのようにはらはらと涙をこぼし、歌を詠んだという。",
"title": "御製"
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"paragraph_id": 139,
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"text": "後醍醐天皇は琵琶の名手として著名であり、禧子の父である西園寺実兼や同母兄の今出川兼季に学び、その腕前は『増鏡』や、笙の名人であった将軍足利尊氏による弔文で絶賛されている。また、天皇家の神器である伝説の琵琶「玄象」(げんじょう)を初め、数多くの楽器の名物を所有していた。そうした天才音楽家としての名声や皇家累代の神宝、そして一国の皇帝たる自分自身の命よりも、最愛の正妃である禧子の存在と、禧子との永遠の契りの方が、はるかに尊い、と謳う歌である。",
"title": "御製"
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"paragraph_id": 140,
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"text": "河内国の土豪の立場から、元弘の乱による功績によって多大な朝恩を誇った楠木正成は、後醍醐を評価した発言をあまり残していない。しかし、『梅松論』には、足利尊氏が九州に落ち延びた際に、「君の先代を亡ぼされしは併せて尊氏卿の忠功なり(天皇が鎌倉幕府を滅ぼすことができたのは悉く尊氏卿の忠功による)」と発言した記録が残されており、天下の大勢は後醍醐への信頼を失い、信頼が尊氏側に移っていることをはっきりと認識していたことがわかる。また、『太平記』西源院本によれば、尊氏東上の際に、後醍醐や公卿に「京中で尊氏を迎え撃つべき」という自身の進言が聞き入れられなかったことに対し、「討死せよとの勅命を下していただきたい」と発言しており、開き直った正成の悲痛な言葉や不満を伝えている。加えて、『梅松論』には、正成が兵庫に下向する途中、尼崎において「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前に命を落とすべき(足利勢を迎え撃つため、正成は和泉や河内の守護として勅命により軍勢を催しても、親類・一族でさえ難色を示す。ましてや一般の国人・土民はついてきません。天下が天皇に背を向けたことは明確です。正成の存命は無益ですので、激しく戦って死にましょう)。」という旨を後醍醐に上奏したことが記されている。尊氏との戦争の勝敗が人心にあると考えていた正成は、世の中の人々が天皇や建武政権に背を向け、民衆の支持を得られていない状況では、敗北は必至であると考えていた。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 141,
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"text": "室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏は、後醍醐天皇をよく肯定した。よくそれを表す文書として、後醍醐崩御百日目に尊氏が著した「後醍醐院百ヶ日御願文」 が知られ、以下に大意を示す。",
"title": "評価(同時代)"
},
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"paragraph_id": 142,
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"text": "伏して考え申し上げるに、後醍醐院は期に応じて運を啓かれ、聖王たる「出震向離」の吉相をお持ちになり、その功は神にも等しく、徳は天にもお達しになられていました。それゆえ、陛下は代々の諸帝のご遺徳をお集めになり、君臨すること太陽のごとく、我らが仰ぎ見ること雲のごとくの王者となられたのです。またそれゆえ、陛下は古の聖王たちの栄える事業をお引き継ぎになり、神武天皇以来このかた90余代の遙かな系図を受け継がれ、元応以降、18年のご在位をお保ちになったのです。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 143,
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"text": "陛下は、外には王道の大化をお成し遂げになりましたが、今の政治の道の本源はまさにここにありました。内には仏法の隆盛をお図らいになりましたが、その聖者のお心をどうして貴ばずにいられましょうか。陛下は神がかった書の才をお持ちになり、「書聖」王羲之にも迫るという唐太宗を超えるほどのものでいらっしゃいました。陛下の麗しい笙の響きさえあれば、いまさら漢高祖の伝説の笛を求める必要がありましょうや。陛下の和歌の才はまるで歌神の素盞鳴尊(すさのおのみこと)のようで、我が国古来の歌風を思い起こさせられました。陛下が琵琶の神器「玄象」(げんじょう)を取って奏でる秘曲の調べは、その初代の使い手である「聖王」村上帝の演奏にも等しい。究めるべき道をすべて究め、修めるべき徳をすべて修めた、それが後醍醐院というお方でいらっしゃいました。",
"title": "評価(同時代)"
},
{
"paragraph_id": 144,
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"text": "しかるに、しばらく京の輝かしい宮廷を辞して、はるか吉野の都に行幸なさいました。その様は、龍馬が帰らず、聖なる白雲がそびえ立つこと峻厳なごとく。天子の輿は久しく外に留まり、ついに旅の中で崩御なされました。聖天子のような死ではなく、無念のうちに死んだ諸帝のように崩御なさったのは、ああ、なんとお痛ましいことでしょうか。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 145,
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"text": "ここに、陛下の弟子であるわたくしは、畏れ多くも亜相(大納言)に進み、征夷大将軍の武職に至りました。この運の巡り合わせは、漢という国が興った歴史のような幸運を思い起こさせます。弓矢を袋に入れて(武器を収めて)、ただ安らかな平和を乞い願い、国家を護ることで君にお仕えし、民を労ることで仁義を尽くしたいと思っております。",
"title": "評価(同時代)"
},
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"paragraph_id": 146,
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"text": "わたくしは戦功しか取り柄がない者ではありますが、ただそれのみによって、ここまで幸運な繁栄を為すことができました。わたくしのような弱輩が、ここまで力を得ることができた理由をよくよく考え申し上げてみますと、まさに、先帝陛下が巨大な聖鳥である鴻(おおとり)のように力強くお羽ばたきになったことに端を発しているに違いありません。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 147,
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"text": "陛下の穏やかで優しいお言葉が、今もなおわたくしの耳の奥底に留まっております。陛下を慕い敬うあまりに胸が苦しくなるこの気持ちを、いったいどうしたら書き尽くすことができましょうか。わたくしが授かった恩恵は無窮であり、感謝して報いることを決して疎かにはできません。",
"title": "評価(同時代)"
},
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"paragraph_id": 148,
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"text": "まず、七度の七日供養をつらつらと行い、追福を申し上げました。今、時の移り変わりを惜しみ、写経もいたしました。かつて、勝力菩薩陶弘景が入滅して百日後に、残された弟子たちは慕い上げ、唐太宗が崩御して百日後、官吏たちは先帝の余芳に従ったと言われています。しかし、はたしてその程度で済ますことができるでしょうか。",
"title": "評価(同時代)"
},
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"paragraph_id": 149,
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"text": "すなわちここに、図絵胎蔵界曼荼羅一鋪・金剛界曼荼羅一鋪、図絵観世音菩薩一鋪・摺写大日経三巻・理趣経四巻・随求陀羅尼経三巻を奉り、妙法蓮華経十部を転読させ、さらに五箇の禅室を加え、十人の僧に供養を行わせ、非人救済も実施しました。等持院に寄付も行い、密教の儀式の座も造り、前大僧正法印大和尚の主催で読経を行わせました。数多くの都人・僧・公卿・殿上人らが集まり、陛下の菩提を弔いました。全ての景色が荘厳で、陛下の威徳に相応しいものです。",
"title": "評価(同時代)"
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"text": "陛下の聖霊は、この千五百秋之神州である日本より出でて、すみやかに阿彌陀如来の宝座へと向かわれるでしょう。三十六天の仙室へは向かわず、直ちに常寂光土、永遠の悟りを得た真理の絶対界へと到達なさるでしょう。そして、仏への敬いが足りない者に至るまで、あらゆる民を八正道へ、すなわち涅槃へ至るための正しい道へとお導きになるでしょう。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 151,
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"text": "亀田俊和の主張によれば、尊氏から後醍醐への敬慕は実体を伴ったものであったという。亀田は、建武政権の諸政策は、尊氏の室町幕府も多くそれを受け継いでいた、と断定した。たとえば、後醍醐は、土地の給付の命令文書に追加の文書(雑訴決断所施行牒)を付けて、誤りがないか検査をすると共に、強制執行権を導入し、自前の強い武力を持たない弱小な武士・寺社でも安全に土地を拝領できるシステムを作った(ただし、後醍醐自身は建武元年(1334年)頃には既に施行牒を付けず綸旨のみで裁断を行い始めている上に、「建武以後の綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨を発しており、自分が綸旨を乱発し、しかもその内容が改変されたり誤っていたりすることを認めている)。これは、執事高師直を介して足利尊氏にも受け継がれ、のち正式に幕府の基本法の一つになったという。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 152,
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"text": "ただし、尊氏や直義が理想と政治の参考としたのは建武政権ではなく、建武式目に見えるように「北条義時・北条泰時の執権政治」であった。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 153,
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"text": "足利直義は、観応2年頃に、南朝方に与した際の関係を用いて、北畠親房と南北朝の講和交渉を行った。その際の往復書簡が「吉野御事書案」である。このとき、直義は後醍醐について「後醍醐が佞臣達を贔屓したので、事は大乱に及んだ」「光明は後醍醐から正式に三種の神器を譲られた上に、武家方は両統迭立の原則を守って光明の皇太子に成良親王を立て、皇位継承について十分配慮したにもかかわらず、後醍醐は独断で吉野に潜幸したのだから、武家方が天下を奪ったという批難は当たらない」と後醍醐の行動を批難している。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 154,
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"text": "また、和睦の条件として公家一統を主張した親房に対し、「建武の新政の失敗を考えれば、それが無理なことは明らかであり、諸国の武士がそれを望むかどうかよく考えていただきたい」と答え、当時の武士、しかも武家方のナンバー2であり、後醍醐から多くの恩賞を賜った直義であっても、建武の新政は失敗であったと述べている。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 155,
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"text": "北畠親房は、慈円と共に中世の歴史家の双璧とされる顕学であり、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられ、後醍醐天皇崩御後には南朝を主導し、南朝准三宮として皇后らに次ぐ地位にまで上り詰めた公卿である。主著『神皇正統記』で、後醍醐天皇崩御を記した段では「老体から溢れ出る涙をかきぬぐうこともできず、筆の流れさえ止まってしまった」と、実子の北畠顕家が戦死した段落以上に力を込めて、自身の嘆きを記した。「三房」の一人とされる北畠親房の真の主は、後醍醐天皇の父の後宇多上皇であり、「後醍醐天皇に仕えた」と強調される考えが妥当でなく、北畠親房が後醍醐天皇に辛辣なのはそのためであるという意見もある。",
"title": "評価(同時代)"
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"text": "親房は、『神皇正統記』で、総合評価としては、後醍醐天皇を最も優れた天皇の一人だとした。たとえば、真言密教への帰依が深いだけではなく、それ以外の宗派、たとえば禅宗なども手厚く保護し、中国から来た禅僧でも参内させたことを高く評価している。親房が特に賞賛するのは学問的能力で、和漢の道に通じていたという面において、中比(中古)以来、後醍醐に匹敵する天皇はいないという。また、後宇多上皇が治天の君を辞して、後醍醐が初めて親政を開始した時の政治について、優れた訴訟処理を行ったので、天下の民が後醍醐を敬った、と主張している。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 157,
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"text": "とはいえ、親房は後醍醐天皇の政策を支持している訳ではなかった。特に、『神皇正統記』では、建武政権の人事政策について、後醍醐天皇があまりに足利兄弟と武士全体に対し好意的に過ぎ、皇族・貴族の所領までもが武士の恩賞とされてしまったことが批判の的となっている。また、上横手雅敬が指摘するように、奥州合戦(文治5年(1189年))以降、恩賞として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた。このことも、親房から、「公家の世に戻ったと思ったのに、まるで武士の世になったみたいだ、と言う人までいる」と、猛烈な抗議の対象となった。親房がイメージしていた「公家一統」の世は、『神皇正統記』の「公家の古き御政にかへるべき世」であり、後醍醐の「新政」とは対立する立場であった(実際に親房は建武政権下で冷遇されており、その政治力を強く発揮したのは後村上天皇の時代であった)。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 158,
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"text": "加えて、『太平記』によれば、建武2年(1335年)に尊氏が鎌倉に下向したまま召還命令に従わなかったことに対し、後醍醐が「たとひ其の忠功莫大なりとも、不義を重ねば逆臣たるべき条勿論也」として、直ちに追伐の宣旨を下そうとした際、親房ら公卿が「尊氏が不義、叡聞に達と雖も、未だ其の実を知らず。罪の疑わしきを以って功の誠あるを棄てられん事は仁政にあらず」と諫言しているが、これは親房が尊氏を弁護したのではなく、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐の朝令暮改ぶりに対して、「このままでは世論の信頼を失う可能性がある」というニュアンスで為された発言であった。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 159,
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"text": "ところが、現実主義者・マキャベリストである親房は、政治思想上は後醍醐天皇を声高に批判しつつも、その裏で政治実務上は後醍醐天皇の政策を活用した。南朝の地方指揮官たちは、後醍醐天皇の政策を引き継ぎ、配下の武士に官位を授与する独自の裁量を与えられた。親房自身も、東国武士への官位推薦状を発することもあった(ただし、小田治久らの殆どの東国武士の再三の官位要求には、任官叙位の先例故実を根拠として、全く要求に応じておらず、結果的に親房の関東経営は失敗した)。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 160,
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"text": "後醍醐とは思想的に対立することも多かった親房にとって、後醍醐の思想はやはり受け入れられないものであった。そのため、後醍醐自身は召し上げることの無かった足利尊氏の「尊」の字をついぞ親房は用いることは無く、『神皇正統記』では一貫して「高氏」と記している。また、後醍醐が亡くなり親房自身が南朝の主導者となった後は、後村上天皇の綸旨にも見えるように、親房の指針によって南朝全体で尊氏を「高氏」と呼ぶようになった。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 161,
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"text": "北畠親房の子である南朝公卿・鎮守府大将軍の北畠顕家もまた、後醍醐天皇へ上奏した『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年5月15日(1338年6月3日))で、後醍醐への批評を残している。7条しか残存しないためその全容は明らかではないが、少なくとも残る箇所に関しては後醍醐天皇の政治への実質的な全否定である。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 162,
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"text": "この諫奏状は、陸奥国司として奥州平定に苦心した顕家自身が奥州の地で苦労して学び、見聞きしたことに基づき、血の滲むような厳しい批判を展開している。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 163,
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"text": "現存する7条を要約すると、「首都一極集中を止め地方分権を推進し各方面に半独立の大将を置くこと」「租税を下げ贅沢を止めること」「恩賞として官位を与える新政策の停止」「公卿・殿上人・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること」「たとえ京都を奪還できたとしても行幸・酒宴は控えること」「法令改革の頻度を下げること」「佞臣の排除」といったものになる。現存第1条は、後醍醐天皇の全国支配の統治機構に言及したものとして特に注目できる。また、残る6条のうちの半数が、人事政策への不満に集中していることも特徴である。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 164,
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"text": "佐藤進一は、同時代人からの評価を知る上で『二条河原の落書』と並ぶ重要史料とし、後醍醐天皇を独裁的君主とする自身の説から、顕家の建武政権批判に原則的に同意した。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 165,
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"text": "後醍醐方の公家達は、万里小路宣房や千種忠顕などの後醍醐の寵臣を除き、概ね建武政権に批判的であった。そのため、建武3年(1336年)2月29日には、洞院公賢を始めとした公卿層が、「延元」への改元を主張した。後醍醐は改元に消極的であったが、公卿達は「後醍醐が立てた『建武』の年号を降ろすことで、新政を批判することになる」として積極的に改元を働きかけた。また、同年正月には、後醍醐の寵臣である万里小路宣房と千種忠顕が相次いで出家に追い込まれており、これも後醍醐の新政への批判が相次いだためであった。そのため、後醍醐はこの後に、これまでの「新政」に手を染めておらず、むしろ「新政」に批判的であった親房を宣房や忠顕らに代わって登用することで、公卿層の批判を抑えようとした。",
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"text": "",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 167,
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"text": "『梅松論』には「記録所と決断所を置いたと言っても、近臣が密かに訴えて判決を捻じ曲げてしまい、天皇の決定を示す綸旨が朝に変じて暮れに改まるような状況であり、諸人の浮き沈みは掌を返すようである」とか「武士たちは建武政権が益無しと思い始め、武家が公家に恨みを含み、公家と武家が水火の陣となった」とある。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 168,
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"text": "成立までに多くの人が携わったと言われる『太平記』では、建武政権が「政道正しからず」と述べられており、これは当時生きていた人々の一般的な認識であったと言える。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 169,
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"text": "後醍醐の政治は、武家や公家のみではなく、都市民や地方民にも批判された。都市民の批判として有名なものは「二条河原の落書」である。この落書の内容は、「御代に生てさまさまの、事をみきくそ不思議共、京童の口すさみ、十分一そもらすなり」という言葉で結ばれているように、当時の都市民の共通認識であった。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 170,
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"text": "地方民の批判として有名なものは、建武元年(1334年)夏に若狭国の太良荘の農民が訴えた申状である。これは直接には荘園領主の当時に対して年貢が重くなったことを訴えたものであるが、この時期に年貢が重くなったのは、後醍醐が大内裏の造営等のために諸国に収入の20分の1を徴収する税をかけたことと関係しており、地方の人にとっても建武政権が期待外れであったことを示している。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 171,
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"text": "連歌を完成した中世最大の文人であり、北朝において摂政・関白・太政大臣として位人臣を極めたどころか、准三宮として皇后らに准ずる地位にまで上った二条良基は、敵対派閥でありながら、生涯に渡り後醍醐天皇を尊敬し続けた。これは、『建武年中行事』を著した有職故実研究の大家・朝儀復興者としての後醍醐天皇を評価したものであるという。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 172,
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"text": "中院通冬(極官は北朝大納言)は、後醍醐天皇崩御の速報を聞くと、「信用するに足らず」と半信半疑の念を示した(『中院一品記』延元4年8月19日条)。その後、室町幕府・北朝から公式な訃報を伝えられると、「天下の一大事であり、言葉を失う事件である。この後、公家が衰微することはどうしようもない。本当に悲しい。あらゆる物事の再興は、ひとえに後醍醐天皇陛下の御代にあった。陛下の賢才は、過去[の帝たち]よりも遥かに高く抜きん出たものであった。いったい、[陛下の崩御を]嘆き悲しまない者がいるであろうか」と評した(『中院一品記』延元4年8月28日条)。",
"title": "評価(同時代)"
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"paragraph_id": 173,
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"text": "また、歴史物語『増鏡』(14世紀半ば)の作者も、北朝の有力廷臣であるにもかかわらず、後醍醐天皇を賛美した。その正体は、前述した二条良基とする説が比較的有力である他、和田英松による二条為明説や、田中隆裕による洞院公賢説など、諸説ある。",
"title": "評価(同時代)"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "一方、三条公忠(極官は北朝内大臣)は後醍醐天皇に批判的であり、「後醍醐院のなさった行いは、この一件(家格の低い吉田定房の内大臣登用)に限らず、毎事常軌を逸している(毎度物狂(ぶっきょう)の沙汰等なり)、どうして後世が先例として従おうか」と評した(『後愚昧記』応安3年(1370年)3月16日条)。",
"title": "評価(同時代)"
},
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"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "なお、北朝に対しては8月19日に南北両朝と関係のあった興福寺(大乗院・一乗院)から、室町幕府経由で奏聞があった。北朝では、後伏見法皇が崩御されたときに当時の後醍醐天皇が廃朝を行った例はあったものの、崇徳・安徳・後鳥羽・土御門・順徳など遠方で崩御した天皇のために諒闇を行った例はないということを理由に当初は何も行わない方針であった。『師守記』の暦応二年八月十九日条でも、光厳院とその周辺においては、後醍醐を崇徳以下の配流された天皇と同様に考えていたことがわかる。しかし、室町幕府は直ちに7日間の雑訴停止を決めた上に、朝廷に対しても廃朝を行うように武家執奏を行った。また、後醍醐天皇は光明天皇の外祖父にあたるという論もあり、最終的には四条隆蔭を上卿として廃朝・固関を行い、光明天皇は錫紵を着て外祖父に対する服喪を行った。この時の幕府の申し入れに対し、公家側は強い不満を抱いた。",
"title": "評価(同時代)"
},
{
"paragraph_id": 176,
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"text": "北朝の治天の君であった光厳上皇は、政治的に対立してきた後醍醐天皇の国政レベルでの喪葬儀礼には反対していたが、義父であると共に同じ夢窓疎石を崇敬してきた者として、彼個人と室町幕府が主導する形での追善仏事が天龍寺にて行われている。これは後醍醐の怨霊化を防ぐと共に、持明院統(北朝)代々の流儀に縛られて実施が困難であった禅宗様式での追善仏事を無関係な後醍醐の追善の場で行おうという思惑も含まれていたとみられている。",
"title": "評価(同時代)"
},
{
"paragraph_id": 177,
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"text": "『太平記』(1370年ごろ完成)の巻1「後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事」(流布本)では、後醍醐天皇は初め名君として登場し、「天に受けたる聖主、地に報ぜる明君」と賞賛される。ところが、巻12から13で、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開く段になると、今度は一転して完全なる暗君として描写されるようになる。例として、恩賞の配分に偏りがあったり、無思慮に大内裏造営を計画したり、地頭・御家人に重税を課したり、唐突な貨幣・紙幣発行を打ち出したり、武士の特権階級である御家人身分を取り上げたりと、頓珍漢な政策を繰り返し、さらに側近の公卿千種忠顕や仏僧文観が権勢に驕り高ぶり奢侈を極めるなど、人々の反感を買っていく。しかも、賢臣の万里小路藤房は後醍醐天皇にこうした悪政を諌めたが、全く聞き入れられなかったので、建武政権に失望し、僧侶となって遁世した、という物語が描かれる。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "亀田俊和の主張によれば、このような「『太平記』史観」が後世を呪縛し続け、後醍醐天皇と建武政権への評価を固定的なものにしてしまったのだという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 179,
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"text": "その他にも、南北朝時代の作品で後醍醐天皇の暗君像に関与したものとして、『梅松論』、風刺文『二条河原の落書』といった文書等々を挙げることができる。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"text": "江戸時代になると、『太平記』史観を受け継いだ朱子学者・歴史家から、再び後醍醐天皇は厳しく批難された。新井白石『読史余論』(正徳2年(1712年))、三宅観瀾『中興鑑言』(江戸時代中期)、頼山陽『日本外史』(文政10年(1827年))など当時の主要政治書・歴史書は、ほとんど『太平記』通りの批判的評価を後醍醐天皇に与えた。観瀾と山陽は大義名分論(臣下はいかなる状況であっても盲目的に主君に服従すべきという江戸時代的儒学思想)の有力な論客であり、「忠臣」楠木正成を称揚し、南朝正統史観を広めた立役者であるが、彼らでさえ揃って後醍醐に「不徳の君主」の烙印を押した。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
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"text": "なぜ南朝正統史観でも後醍醐が批判されるという事態が起きたのかについて、亀田俊和は次のように説明する。南朝正統史観は「南朝正統」と名前があることから後醍醐天皇の政治的手腕が賛美されたと誤解されることがあるが、実は「南朝の正統性」「大義名分論」「忠臣論」と「後醍醐天皇の政権評価」は全くの別物として扱われていた。むしろ、後醍醐天皇が「暗愚で不徳の君主」であるからこそ、それでもなお正統であるがゆえに、この暗君に生死を賭し一身を捧げて仕えなければならなかった「忠臣」の「悲劇」が、判官贔屓の形で人々の共感を呼んだのだという 。こうして、後醍醐天皇が開いた南朝が正統とされ、南朝の忠臣が賛美されればされるほど、その対比として逆に後醍醐自身はさらに暗君として批難されるという、皮肉な状況となってしまった。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"text": "明治時代に入り、正式に南朝が正統であると政府から認められると、民間では大義名分論が主流であったが、逆に研究者の間では実証を重んじる気風が生まれ、日本史の多くの分野では研究に進展が見られた。ところが、建武政権・南北朝時代の政治研究については『太平記』史観からほとんど変化がなく、東京帝国大学や京都帝国大学の日本史研究者から、一貫して後醍醐天皇は批難された。久米邦武が臣下の無理解も指摘し、中村直勝が貨幣鋳造政策にやや好意的であるといった部分的な変化はあるものの、久米も中村も基本的には後醍醐天皇を酷評している。田中義成も黒板勝美も恩賞政策を中心に後醍醐批判を展開し、その内容はほぼ『太平記』と同じである。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"text": "このように、江戸時代的大義名分論からも、実証主義歴史学からも、後醍醐天皇愚君説が掲げられる中、1930年代、例外的に後醍醐を再評価した異端児が皇国史観の代表的研究者であった平泉澄である。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 184,
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"text": "平泉は、『建武中興の本義』(1934年)において、建武政権の良い点については、多くの史料をあげ論証していき、特に『太平記』以来の定説である恩賞不公平説を退けた。亀田俊和の主張では、恩賞不公平説を反証する際に用いられた実証的手腕は、2016年時点の研究水準から見ても納得できるものであるという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "ところが、建武政権の失敗については、「腐敗」した人民と「逆賊」足利尊氏に全ての責任を一方的になすりつけた。その妥当性はともかく、実はそれまでにはなかった視点という意味では、研究の新規性はある。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"paragraph_id": 186,
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"text": "亀田は、平泉の皇国史観では前近代的な大義名分論が復活したことにより、全体的な研究水準はかえって後退してしまった、とする。しかも、「逆賊」足利尊氏を排撃する余り、建武政権と室町幕府の倫理的な断絶性が強調されたため、実証的には弱い面があった。その上、このわずか10年余り後、1945年の第二次世界大戦の日本敗戦によって、平泉は公職を追放されて存在そのものがタブーとなり、独創的・画期的な部分もあったとはいえ、後世に影響力をほとんど持たなかった。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"paragraph_id": 187,
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"text": "戦後すぐの1940年代後半には、松本新八郎らによってマルクス主義からの批判が試みられ、建武政権は反革命路線・復古主義を取った失政と否定的に評価された。",
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},
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"paragraph_id": 188,
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"text": "第二次世界大戦後、1960年代には、佐藤進一を中心として、後醍醐天皇は中国の皇帝を模倣した独裁者・専制君主であったという人物像が提唱され、建武政権についても、その政策は時代の流れや現実の問題を無視したものだったと否定的に評価された。佐藤進一の学説は定説として20世紀後半の南北朝時代研究の大枠を作り、こうした人物像や政権への否定的評価は、2010年代に入っても高校の歴史教科書(山川出版社『詳説日本史 日本史B』2012年など)で採用されるなど、高校教科書的な水準では定説としての地位は失っていない。しかし、後述するように、1990年代末からの新研究の潮流では複数の研究者から強い疑義が提出されている。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"paragraph_id": 189,
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"text": "後醍醐天皇独裁君主説では、建武の新政の解釈と評価は、おおよそ以下のようなものとなる。",
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},
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"paragraph_id": 190,
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"text": "建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"paragraph_id": 191,
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"text": "佐藤進一の進歩的暗君説を極限にまで発展させて、独自の説と言えるまで特異な論を為したのが、網野善彦による「異形の王権」論である。",
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},
{
"paragraph_id": 192,
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"text": "網野は『異形の王権』(1986年)で、後醍醐天皇を「ヒットラーの如き」人物と評し、「異形」の天皇と呼んだ。そして、後醍醐天皇が「邪教」の仏僧文観や「悪党」楠木正成を従え、「異類異形の輩」や非人といった、本来は正道から外れた階層を取り込むことで強大な力を得たと主張する。また、元徳元年(1329年)に後醍醐が行った祈祷が「聖天供」(大聖歓喜天浴油供)であったことについて、大聖歓喜天は像頭人身の男女が抱き合う像で表されることを指摘し、「極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然――セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないだろうか」と述べ、これをもって「異類異形」の中心たる王に相応しい天皇としている。そしてまた、当時は下剋上の空気の中、天皇の位が「遷代の職」(世襲ではなく人々の間を移り変わる職)である「天皇職」と化しつつあり、天皇家以外の者が「天皇職」に「補任」される(就任する)可能性もあるような巨大な危機が迫っていた、と主張する。そして、花園と後醍醐の二人はそれをいち早く嗅ぎ取り、花園は道義を身につけることで、後醍醐は異形異類の力や貨幣の力といった「魔力」を身につけることで天皇家の危機に対抗しようとしたが、建武の新政後、後醍醐はたちまち現実の「きびしい復讐」に直面し、その後は佐藤進一の定説通りの没落をしたのだとする。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 193,
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"text": "森茂暁は、網野説について、宗教面での実証的史料を掘り起こしたことや、硬直しつつあった後醍醐天皇観に新風を与えたことについては評価し、その密教修行にも異形と言ってよい面があることは認める。しかし、文観を異端僧とするのは政敵の僧侶からのレッテル張りではないかと疑問を示し、また『建武記』には「異形の輩」の侵入を禁じる文があるのだから、どちらかといえば後醍醐は「異形の輩」なるものとは距離を置いていたのではないか、と指摘している。また、亀田俊和は、網野説は建武政権を失政と捉え、その失敗を後醍醐天皇の個人的性格に求める点では、結局のところ『太平記』史観と変わるものがない、と指摘している。",
"title": "評価(研究史)"
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{
"paragraph_id": 194,
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"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 195,
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"text": "戦後、建武政権の実証的研究は大きく進んだ。建武政権に対する歴史観そのものは、『太平記』・佐藤進一・網野善彦説を基本的に踏襲している。",
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"text": "とはいえ、著書の一つ『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(2000年)の中で、『太平記』史観とは違い、森は建武政権について3つの点に大きな歴史的意義を与えている。",
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},
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"paragraph_id": 197,
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"text": "一つ目には、建武政権の発足によって日本の中心が京都と明示されたことである。武士の本拠は鎌倉にすべしという弟の足利直義からの強い主張をはねのけ、尊氏もまた京都を室町幕府の拠点に定めた。この文化・政治・経済・流通の中心に足利将軍家が身を置くことで、足利氏政権がただの武家政権ではなく全国を統治する機構にまで成長することができたのである。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"text": "二つ目は、全国支配を視野に入れて法務機関の雑訴決断所に一番一区制を導入したことである(二番は東海道担当など)。これは後醍醐天皇以前の統治者には見られない発想であり、おそらくこの後醍醐の全国支配機構が以降の日本の全国政権の統治制度の基本になったのではないかと指摘し、「日本の国土に名実ともに成熟した全国政権を誕生させるうえで、建武の新政は重要な役割を果たした」と述べる。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "三つ目は、鎌倉幕府では限定的な役割しか持たなかった守護を、その力を正しく認め、守護・国司併置制を採用することでその権限を増やし、室町幕府の守護制度に繋がる端緒を作ったことである。",
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},
{
"paragraph_id": 200,
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"text": "総評として、森は後醍醐天皇に対し、(森自身はこのような性急で強い語を用いないものの)優れた革命家・早すぎた天才というような形の評価を与えた。つまり、森は鎌倉幕府→建武政権→室町幕府の間になめらかな連続性を認めることには消極的なものの、後醍醐天皇が停滞していた鎌倉幕府の政治に対し「突破口」としての役割を果たし、次代の室町的世界が成立する上での歯車を回したことについては評価した。またその政治構想もそれまでに言われていたほど悪いものではなく、60年ほど遅れて多くの部分が三代将軍の足利義満の頃に室町幕府の手で実現されたとした。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 201,
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"text": "後醍醐天皇研究に視点の転換をもたらした3本の重要な論文は、市沢哲の「鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」」(1988年、『日本史研究』314)・「鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望――」(1992年、『日本史研究』355)および伊藤喜良の「建武政権試論―成立過程を中心として―」(1998年、『行政社会論集』第10巻第4号)である。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 202,
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"text": "市沢の論文によって、建武政権の諸政策は、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革と密接な連続性があることが示された。また、伊藤の論文によって、それまで消極的にしか扱われてこなかった建武政権の諸機関が、実際には建武政権の中核であると見なされるようになり、建武政権の諸改革は挫折の過程ではなく、発展の過程であると認識されるようになった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "1988年、市沢は、後醍醐が進めた中央集権政策が、後醍醐個人の性格によるものや時代の流れから浮き出た特殊なものだったとする佐藤・網野説を否定した。つまり、鎌倉時代後期に朝廷の訴訟制度改革が行われたことで、治天の君(院(上皇)も天皇も含む)の権力に頼る事例が多くなり、後醍醐個人の思想・性格とは関係なく、そうした時代の流れが中央集権的な君主の誕生を促したのだとした。かつて後醍醐の特徴とされた抜擢人事も、別に後醍醐に限ったことではなく、対立する持明院統でも行われていたことも指摘した。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 204,
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"text": "市沢が鎌倉時代後期の朝廷訴訟の事例を検証したところ、13世紀末ごろには貴族の家系が増えたために、家督・所領相続の訴訟が多くなってきた。また家系が増えたために貴族人口に対して割り当てられる官位・官職も少なくなり、この争奪戦も問題になっていた。貴族社会において、分家化の進行の圧力と抑制の圧力が拮抗し、衝突が訴訟問題として顕在化するようになったのである。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 205,
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"text": "こうした訴訟の裁許者(判決を下す人物)として力があったのは治天の君である。古くは、「治天の君」という地位そのものに大した権威はなく、治天の君自身がしばしば強大な土地権利所有者であるため、その土地権利に拠る権力に基づいて土地紛争の訴訟を解決したのだと思われていた。しかし、市沢は、実際には土地問題以外の紛争でも治天の君が裁許を主導していることを指摘し、古説に疑問を示した。土地裁判についても、どちらかといえば土地の支配構造(歴史学用語で「職の体系」)の外からそれを庇護・調整する存在であったという。さらに、興福寺などの権門(巨大な権勢を有した半独立勢力)は独自の訴訟機構を有したが、その権威が弱まった時に、治天の君の名で権門の判決にテコ入れをして、権門を助けることがあった。また、南北朝時代には、権門から朝廷への起訴経路ができるが、これも鎌倉時代後期に権門ごとに担当奉行が割り当てられたことの発展型なのではないか、という。朝廷での訴訟問題が増えるにつれ、治天の君が果たす役割も大きくなっていった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "したがって、13世紀末から14世紀初頭という後醍醐天皇が生まれ育った時代には、天皇・上皇はただの土地所有者だった訳ではなく、その「治天の君」という地位そのものに、訴訟問題解決において、相当に強大な権威と権力があった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "さて、皇統が亀山→後醍醐ら大覚寺統と、それに対立する持明院統に分裂した両統迭立というのは、後嵯峨上皇が継承者を指定しないまま崩御しないため起こった偶発的事象であり、そこに強制力はなく、本来ならば自然に解消されるはずの事態である。これが何故が続いたかというと、当時の公家社会の分裂が、皇統の分裂を維持したからである。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "たとえば、当初、大覚寺統有利で早期に終結しそうだったのに、持明院統が巻き返した背景には、有力公家の西園寺家内部での分裂が関わっていた。分裂が維持されると、二条派と京極派に分かれた御子左家や、その他にも山科家など、中小規模の公家もどちらの皇統に付くかで分裂するようになり、これが皇統の分裂を後押しさせた。女院領を各統が分割で相続したため、それぞれが荘園領主としても最大の存在となったことも、分裂を加速させた。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "こうなれば、両統間で武力的な争いが起こり、普通はそこで解決するはずである。だが、当時最も大きな武力を持っていたのは鎌倉幕府であり、両統の戦いを抑止していたため戦いは起こらず、かえって両統の分裂が深刻化していくことになった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "「治天の君」という地位自体に訴訟解決の権能が備わっていたところに、両統の力が拮抗するようになると、皇統間で治天の君が変わるたびに、裁判の当事者のどちらが有利になるかが変わる、といった事態が起こるようになった。一度下した裁許に対しても、他統によって覆される事例まで出てくるようになり、後醍醐天皇と花園上皇の間で争った例もある。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "また、両統は抗争に勝利するため、激しい人材獲得競争を繰り広げた。家格を越えた抜擢人事というと、後世の人間からは、建武政権の印象から後醍醐ら大覚寺統の特徴と思われがちだが、実際は対立する持明院統もほぼ等しく行っていたという。たとえば、後伏見上皇は日野俊光を、光厳天皇も日野資名を抜擢している。これは、同時代人の印象でもそうであったと思われ、『増鏡』の作者は、「久米のさら山」で、抜擢登用された人材について両統等しく記している。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "訴訟問題に関する治天の君の権力は大きくなる一方なのに、皇統の交代によってそれに揺れが生じると、矛盾のひずみが大きくなっていった。これを解決するには、相手の皇統を倒すしかないが、その前にまず両統迭立の維持を支持する幕府を倒す必要がある。このようにして見ると、後醍醐に限らず、誰かがいつかは討幕をしなければ解決しない問題だった。ここに、当時たまたま、悪党という幕府に抵抗することを厭わない武士(楠木正成など)が発生していた。つまり、後醍醐天皇は討幕が必要であり、かつそれが可能な時代に、在位していた治天の君だっただけで、別に後醍醐個人が時代から外れた存在だった訳ではない。むしろその逆で、時代の流れこそが後醍醐に討幕を促したのである、という。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "1992年、市沢はまず、佐藤進一説の問題点として、佐藤は平安時代後期の朝廷政治と建武政権の朝廷政治を比較しているが、中間の鎌倉時代の朝廷政治を無視していることを指摘した。直前の鎌倉時代後期の朝廷政治の研究も行わなければ、建武政権が本当に特異な政権だったのかどうかはわからない。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "鎌倉時代後期は、都市領主、つまり京都など畿内に住みながら日本各地の荘園(土地)に利権を持つ大貴族・大寺社らが私兵を手駒に使って戦わせる戦争の時代だった。貴族社会の分家化や、武士の守護・地頭による押領によって、都市領主間の抗争が活発した。これらの抗争は、一つ目には既存の支配体制の強化、二つ目には他領主からの略奪によって起きた。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "たとえば、正応3年(1290年)から翌年まで、紀伊国(和歌山県)荒川荘で高野合戦と呼ばれる戦いが起きた。これは真言宗高野山が、別の荘園の領主である三毛心浄の軍勢を送って荘園の支配体制を強化しようしたところ、それを察知した土着の豪族の源為時が先手を打って戦いを始めたものと見られる。為時は高野山の動きを山門(天台宗比叡山延暦寺)に訴えたので、宗教間の代理戦争の様相も呈した。他領主からの略奪としては、後宇多上皇が四辻宮から荘園の接収をしようとし、両者は同地にいわゆる「悪党」(悪人という意味ではなく、既存の支配体制の枠組みから外れた武士・豪族たち)と呼ばれる軍事力を送って戦いを繰り広げた。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "とはいえ、軍事力による抗争はあくまで最終手段であり、できれば話し合いで解決したいという考え自体は誰もが持っていたと思われる。このように、武力抗争が活発化することで、かえって訴訟制度の重要性が公家社会で再認識され、抗争を回避・解決するために、制度の整備・改革が進められたと考えられる。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "また、市沢は、裁判の当事者たちが、自分たちの主張に箔をつけるために、治天の君による勅を求める事例が多くなることを、前の論文に続き改めて指摘した。さらに、訴訟でしばしば「徳政」という語が用いられていることを論じた。当時の徳政とは、天人相関説による思想で、為政者が悪いことをすると天変地異が起こり、良いことをすると災害が治まる、という考え方である。つまり、訴訟問題を解決することが、治天の君にとっての徳政であり、朝廷での最重要課題だと考えられていたのである。土地の支配構造の変化に伴い、「治天の君」という超越的な立場を利用して、新たな秩序を創造することこそが、天皇家に求められる役割になった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "建武政権で、後醍醐がまず行った行動に個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)というものがある。この通達やそれに続く法令が言う所は、綸旨(天皇の私的命令文)によってそれぞれの領主に土地の権利を保証し、訴訟・申請の裁許も綸旨を必要とすると定めるものである。かつて、佐藤進一は、これを後醍醐の絶対的権力への執着欲と見なし、建武政権の異常性を示すものと考えた。ところが、上で見たように、実は鎌倉時代後期、治天の君権力によって土地問題に裁許を下すという発想は、既に後醍醐以前からあり、しかもそれは都市領主の側から求められたものだった。つまり、後醍醐の政策は、領主たちの要望に応えて、時代の流れに沿ったものだったのである。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "しかし、このような「治天の君」権力の強化が、鎌倉時代後期には、逆に両統の分裂の矛盾を大きくすることになっていった。皇統の分裂は、誰かがいつかは解決しなければならない問題であり、こうした訴訟問題における要請が後醍醐の行動を促したと考えられる。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "また、佐藤が「平安時代以来の秩序を破壊した」と主張する建武政権の他の政策についても、市沢は、平安時代ではなく、鎌倉時代後期の政治を考えれば、実は順当なものであることを指摘した。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "たとえば佐藤は、知行国主(国司より上位で、特定の国を事実上支配する大貴族・大寺社)がそれまで特定の家に結び付けられていたのを、後醍醐が建武政権で新たな守護・国司制を作ったことで破壊したと主張した。しかし、実は鎌倉時代後期、両統迭立以来、天皇の皇統が変わるたびに知行国主が変わることが多く、既に特定の国=特定の家のものという認識は崩れていた。その点を考えると、後醍醐の守護・国司制はそこまで急進的な改革だった訳ではない。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "また、佐藤は、後醍醐が「官司請負制の破壊」という政策を行ったと主張した。つまり、特定の官職が特定の家に結び付けられていたのを、宋朝型官僚制の影響を受けて破壊し、官司は全て後醍醐の支配下にあるという観念論的独裁政治を行ったのだという。しかし、市沢が調べてみたところ、官司請負制の破壊は全面的なものではなく、職務に能力が必要とされないものだけであった。つまり、官務・局務といった書記官や事務官など、能力が問われる職については、小槻氏など従来からの官僚的氏族がそのまま担当した。逆に、馬寮など、特に職務がなく、利益を受け取るだけの恩賞的な官職については、後醍醐は恩賞代わりに自由に配分した。しかも、これは後醍醐に特有なものではなく、13世紀半ばごろから、恩賞的な官職については特定の家に結びつかないことが徐々に増えていく傾向にあった。また、こうした鎌倉時代中期からの恩賞的官職の分配を左右できる力が、鎌倉時代後期の治天の君権力の強化に繋がったとも考えられる。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 223,
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"text": "結論として、後醍醐・建武政権の中央集権政策は特異なものではなく、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革の中で、領主たちの求めに応じて生じた「治天の君」権力の強化の流れとその政策を、順当に発展させたものであるという。また、鎌倉幕府は武士の惣領の選定に原則干渉できなかったのに、室町幕府には相続法がなく、惣領選定に強い権力を有した。市沢によれば、これは、鎌倉時代後期の治天の君権力(朝廷政策)→建武政権の中央集権政策→室町幕府の中央集権政策というように受け継がれたものであり、したがって、建武政権と室町幕府の間にもその政策に連続性が見られるという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "1998年、伊藤喜良は佐藤進一の「綸旨万能主義」説を否定した。綸旨万能主義というのは、全てを天皇の私的文書である綸旨(りんじ)で決めるという主義である。佐藤は、後醍醐は綸旨万能主義を奉じる観念論的独裁者で、建武政権は、雑訴決断所など綸旨万能主義に制限を加える機関が設置されていくことで、後醍醐の理想主義が挫折していく過程だと捉えた。伊藤はこれに反対し、後醍醐は綸旨万能主義などは考えておらず、初期の綸旨乱発は機関がないための便宜上の措置に過ぎないとした。そして、雑訴決断所等の非人格機関こそが、政権の中央集権政治を補完するための中核機構であると位置付けた。建武政権はこれらの非人格機関が、現実的に整えられていく発展の過程であるとした。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "伊藤はまず、「綸旨万能主義」説の最初の論拠とされた、個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)について検討を加えた。佐藤は、この文書を「旧領回復令」と解釈し、元弘の乱で誰かに奪われた所領は元の持ち主に返し、その後の土地所有権の変更は、綸旨(天皇の私的命令文)による個別の裁許を仰ぐように命令したものだと解釈した。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 226,
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"text": "しかし、伊藤によれば、この文書はその前の4月から5月にかけて出された軍法と関連付けて考えるべきであるという。元弘の乱末期、幕府が劣勢なのが明らかになると、討幕にかこつけて略奪を行う不埒な輩が続出していた。後醍醐は、略奪を繰り返す自称討幕軍を「獣心人面」と厳しく非難し、厳罰に処すとした。ところが、兵糧米の徴収は現場の判断に任せるとするなど、命令文にも曖昧なところがあり、実際には元弘の乱が終結した後も中々略奪が収まらなかったと考えられる。伊藤によれば、6月15日の命令は、戦争が終結したので、軍法のうち「現場の判断」という事項を緊急的に停止し、濫妨狼藉の阻止を狙ったものではないか、という。つまり、「旧領回復」や「綸旨万能」とは全く関係がなく、そもそも後醍醐はそのようなことを考えてはいなかった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "実際、同年10月に、陸奥守北畠顕家が、六月十五日口宣案ともう一つの文書(後述の7月25日宣旨)に関連付けて発した陸奥国国宣では、濫妨狼藉を厳しく戒めることと、所領安堵の方針は原則として、(旧領ではなく)現在のものを認めることにしている。また、その後、顕家は当知行安堵(現在の実効所領を安堵)の方針で行動している。後醍醐の股肱の臣である顕家がこのように解釈するのだから、後醍醐の方針もこれと基本的に同じと考えるべきであるという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "6月からしばらくの間、佐藤の指摘のように、しばらく後醍醐は大量に綸旨を発給するようになる。しかし、伊藤によれば、これは新しい支配機構がまだ出来ていないのだから、私的文書で暫定的に対応をするのは当たり前のことであり、綸旨を万能と考えた訳ではなく、綸旨に頼るしかなかったというのが正解であろうという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "同年7月25日、後醍醐天皇は、宣旨(天皇の正式文書)を発し、朝敵を北条一族とその与党のみに限定し、当知行安堵(現在の実効支配領域を保証)の方針を明確に定め、また安堵の取り扱いを各国の国衙(県でいう県庁)に委任することにした。後醍醐が綸旨万能主義を志向したと主張する佐藤は、これを後醍醐の敗北と捉えた。しかし、伊藤によれば事実は逆で、この宣旨こそが建武政権の基本指針であり、本当の全国政権として活動し始めた端緒と見なされるのではないかという。これ以降、建武政権の諸政策はこの7月25日の宣旨の方向に沿って、新しい骨格が築き上げられていく。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "8月から9月上旬にかけては、各国の国司に「後の三房」吉田定房や「三木一草」楠木正成など側近中の側近が割り当てられたが、これも7月の宣旨の内容を達成するために地方国衙を充実させようとしたものである。また、鎌倉幕府の御家人制も、一部の武士のみに特権を与えるという前時代的な制度なので廃止した。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 231,
"tag": "p",
"text": "最も重要なのが、裁判機関である雑訴決断所の設置である。後醍醐天皇が中央集権化を目指したのは明白だが、佐藤説の言うような綸旨万能主義(天皇個人が全てを裁許する主義)では、客観的に言って天皇の仕事量が多すぎて中央集権化を達成できる訳がないし、後醍醐もまたそうは考えなかったであろう。そうではなくて、統制の取れた非人格機関を設置し、その機関を通じて各国の国衙を効率的に支配することこそが、後醍醐の意図する中央集権化の完成形だったのではないか、とした。したがって、この雑訴決断所こそが建武政権の実体の出発点と言える。翌年1月まで次々と新政を補完するための新機関の設置が行われていった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "また、後醍醐は地方分権制を重視した先駆的な為政者でもあった。東北の半独立統治機構である陸奥将軍府について、伊藤は護良親王・北畠親房の主導によるものという『保暦間記』の説を否定し、後醍醐の主導によるものという当事者の親房自身の証言(『神皇正統記』)を信じるべきであろうとした。そして、後醍醐は、中央集権化を効率よく達成するためには、陸奥のように特色があり、反乱も続く地域に対しては、独自の裁量を持つ自治機関に任せた方が良いと考えたのではないか、という。実際、強大な権限を託された北畠顕家は、東北の乱を瞬く間に鎮めていった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "足利氏が任された鎌倉将軍府についても、この時点では後醍醐は足利氏に全面的な信頼を置いており、やはり東国の反乱に備えて、新政府の藩屏としたものではないかという。いわば中華の皇帝制の藩鎮のようなものではないかという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 234,
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"text": "また、後醍醐は、国より更に小さい地域単位である郡を重視して、郡に関する法令を度々発しており、郡政所もまた高い機能を有した。これによって、地方統治の階層構造が出来上がり、非人格機関を通して、地方の隅々まで掌握できるようになったのである。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 235,
"tag": "p",
"text": "伊藤は、物事を結果論から評価するのは危険であると指摘する。確かに上記の努力にもかかわらず、結果論としては、建武政権は短期間で崩壊した。しかし、崩壊したからと言って、常に歴史的意義がない訳ではなく、まず考察を深めてから判断する必要がある(なお、伊藤自身は後醍醐の政治的手腕の無さが短期間で崩壊した原因であるとしている)。また、建武政権の王権論については、佐藤は建武政権を官僚制・君主独裁制を目指したとしたが、伊藤は封建王制を目指したのではないか、とした。後醍醐が狙ったのは、君主個人の力による独裁ではなく、整備された官制組織と制度を作ることで、最終的な決裁を行うという形の政策だったと考えられる。他に、単に朝廷と幕府を統一したのを「公武一統」と言っただけではなく、本気で公家と武家の区別をなくすことを考えており、武家を多数裁判機関に登用したり、逆に北畠顕家のような文官公家層を武門に抜擢したのは、その一環であろうという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 236,
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"text": "加えて、伊藤は後醍醐が宋のような国を目指し、そして失敗したことを指摘している。当時の宋は君主専制体制であり、後醍醐は非人格的な機関(雑訴決断所や記録所)を設置し、彼が個別にこれらの統治機関を掌握することで専制体制を確立しようとしたが、このような複数機関の設置は混乱を招くだけであったとした。後醍醐が宋のような君主専制体制を目指し、そして失敗した理由について、伊藤は当時の中国と日本の支配のあり方が大きく異なる点を挙げている。中国では、唐が滅亡したことにより、貴族層が消滅し、五代十国時代を通して、地方に強大な権力を打ち立てていた武人の節度使も消え、宋代に権力基盤となったのは、科挙を経た士大夫と呼ばれる文人官僚達であった。しかし、日本では鎌倉幕府(武家政権・武士・武力)と朝廷(公家政権)という2つの統治機関(封建領主)が存在しており、この両政権が協力し合って中世国家を形成していた。そのため、封建領主階級が存在し、分権的志向が強く、官僚と呼べる層もほとんど存在していなかったため、宋の支配方法(君主専制体制)をそのまま日本に成立させようとした後醍醐の政策には無理があり、公武の対立意識が強いのにもかかわらず、強引に「公武一統」を進め、中央集権国家体制を確立し、官僚層を作り出そうとした建武政権は「物狂の沙汰」と称されるようになってしまったのである。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 237,
"tag": "p",
"text": "後醍醐天皇を宗教的・人格的な異常者と見なす網野善彦の「異形の王権」論に対しては、仏教美術研究者の内田啓一から疑問が提出された。内田は、『文観房弘真と美術』(2006年、法藏館)と『後醍醐天皇と密教』(2010年、法藏館)を発表し、網野説は根拠を欠き疑わしいことを指摘した。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 238,
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"text": "内田はまず、後醍醐の仏教政策面での最大の腹心である文観房弘真の美術と経歴を調べた。文観は、網野によって、性的儀礼を信奉する武闘派の怪僧と定義された人物である。しかし、内田によればこのような人物像は敵対派閥による中傷文書と、『太平記』および後世の文書でしか確認できない。同時代の史料や美術作品に当たれば、文観は高徳の僧侶であり、さらに学僧としても画僧としても中世で最大級の業績をあげた人物であるという。また、文観は真言律宗の系譜の上では、後醍醐の祖父の亀山が帰依した叡尊の孫弟子に当たる。そして、真言宗の系譜の上では、後醍醐の父が帰依した道順の高弟であるから、文観と後醍醐の結びつきも突飛なものではなく、自然な流れであると考えられる。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"paragraph_id": 239,
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"text": "網野らが幕府呪詛の像とした般若寺本尊の文殊像も、内田によれば、叡尊から続く真言律宗の伝統様式で作られており、銘文も定型句であり、そこに大げさな意味は見いだせない。また、『太平記』や網野は、後醍醐が正妃である中宮西園寺禧子の御産祈祷に偽装して、幕府へ呪詛の祈祷を行ったとする。しかし、安産祈祷で用いられた「聖天供」という儀式は仏教的にいえばあくまで息災法(除災や快癒を祈る祈祷)の儀式であり、幕府調伏の祈祷だとか性的儀礼だとかの、いかがわしい意味はとても考えにくいという。",
"title": "評価(研究史)"
},
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"paragraph_id": 240,
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"text": "内田は、後醍醐・文観が異形の人物であるという説を否定するとともに、後醍醐の親子関係にも焦点を当てた。佐藤や網野の説としては、後醍醐は朝廷の異端児であり、まともな父の後宇多上皇とは敵対したとされていた。しかし、実際に後醍醐の宗教活動を見てみると、灌頂(密教における授位の儀式)で、父の後宇多もかつて身につけたことがある「犍陀穀糸袈裟」(国宝)を使用するなど、父の足跡を辿っていることが多い。つまり、後宇多を敬愛し、その宗教政策を受け継いでいることを指摘した。また、異端かどうかについても、父の後宇多は、高野山の奥の院にこもったり、密教僧として弟子を取ったりなど大きな活動をしているが、後醍醐はそこまではしておらず、むしろ密教修行者としては父より穏健派であるという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 241,
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"text": "市沢・伊藤説ははじめそれほど注目を浴びなかったが、21世紀に入ると、鎌倉時代後期と室町時代初期の研究が進んだ結果、後醍醐天皇の諸政策は前後の時代と連続性が見られることが指摘されるようになった。これらは、市沢・伊藤説の想定と合致するものであった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 242,
"tag": "p",
"text": "たとえば、2013年、亀田俊和は、室町幕府で初代執事高師直が行った改革の目玉である執事施行状というものが、後醍醐天皇が発案した(あるいは側近が発案して後醍醐が積極的に主導した)雑訴決断所施行牒というものを改良したものではないか、と主張した。これらは、土地を与える指示に、関連文書を添付することで、大元の指示に誤りがないか検査を行うと共に、不法占拠が行われている土地の引き渡しに、国からの強制執行権をもたせて、弱小な寺社や武家でも安全に土地が得られるようにした制度である。無論、これも無から出来た訳ではなく、鎌倉幕府によって局所的・部分的に用いられていた制度を、後醍醐が全国的・本質的なシステムとして構築し直したものである、とした。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 243,
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"text": "その他の研究成果についても、2016年に『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(日本史史料研究会/呉座勇一編、洋泉社)によって一般向けに書籍の形で紹介されることになった。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 244,
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"text": "2007年、河内祥輔は、『太平記』で「一回目の討幕計画」とされていた、いわゆる正中の変という事件が、歴史的には本当に冤罪だったという説を示した。後醍醐は関東申次(朝廷と幕府の折衝役)の娘の西園寺禧子を中宮(正妃)としており、幕府とは友好関係にあった、とした(ただし、大覚寺統で幕府と友好的であったのは後宇多であり、実際に後醍醐と幕府の友好関係を表す史料は無い)。相次ぐ御産祈祷なども、禧子との間に皇子さえ誕生すれば、幕府と戦わずとも自身の系統を存続させられるため、融和路線の一環ではないか、とした。2012年には、三浦龍昭によって、建武政権成立後も、後伏見皇女珣子内親王との婚姻や、娘の懽子内親王と光厳上皇との婚姻政策などで持明院統への懐柔政策を図っていたことが指摘された。2018年には、保立道久が、建武政権成立後3日目という早期の時点から、土地の安堵や禅宗政策などを通じて、持明院統との和解・統合の政策を実施していたことを指摘した(#禅律国家構想)。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "呉座勇一もまた、「執念」「不撓不屈の精神」「独裁者」「非妥協的な専制君主」といった人物像は『太平記』以前には見られず、『太平記』とそれ以降に作られた後世のイメージであり、実際は少なくとも当初は鎌倉幕府との融和路線を目指していた協調的な人物であるというのが、後醍醐の歴史的実像であろうとしている。なぜこのような人物像が作られたかというと、その方がわかりやすいからだという。結果論として、後醍醐は武力で鎌倉幕府を倒し、しかも子孫を含めれば室町幕府と60年近い戦いを繰り広げることになる。融和路線を敷いていたのに、そこから様々な紆余曲折があって大戦に至った、というのは、結果を知っている後世の人からしてみると、直感的に理解しにくい。それよりも不撓不屈の好戦的な人間が、即位当初から討幕を計画していたという設定の方が、話としては理解しやすいため、それが広まってしまったのではないかという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 246,
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"text": "2018年、『太平記』研究者の兵藤裕己は、後醍醐天皇を主題にした書籍を岩波新書から著した。兵藤は、政治面については、1960年代の佐藤進一説をほぼそのまま用い、綸旨万能主義と宋朝型独裁君主制が挫折して云々という説明をする。その一方で、兵藤は、専門書でしか出されていなかった内田啓一の業績を一般向けに紹介し、後醍醐天皇や腹心の文観房弘真が異形の人間であるという中傷の解消に努めた。また、『太平記』では人格的に下劣に描かれる文観・寵姫阿野廉子らだが、兵藤によれば、これらの部分は玄恵らによる後世の改変が入っていると見られ、信用をおけないという。兵藤はまた、後醍醐という(人物そのものというよりは)人物像が、水戸学や明治政府、現代社会においてどのような影響を及ぼしたのかについても議論した。一方で、後醍醐の「新政」については、後醍醐が「新政」のモデルとした宋と14世紀の日本の政治的現実の違いを明らかにし、",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "とし、「新政」が失敗であったことを論じている 。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "2020年には、中井裕子が、人格面から後醍醐の再評価を行った。森茂暁らの古い説では、傍系である後醍醐は父の後宇多から冷遇されて鬱屈した少年時代を過ごし、それで性格が捻じ曲がって討幕を考えるようになったのだと説明されていた。しかし、中井が、『実躬卿記』『道平公記』など当時の日記を当たったところ、実際には、後醍醐は父帝の後宇多を含めて親族からは愛情をかけて育てられており、後宇多とはしばしば私生活でも政治上でも協調して行動していたという。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "一方で、深津睦夫は「吉田定房奏状」の存在を明らかにした。これは後醍醐の討幕計画を諌めた書であるが、その成立年次は、初稿が元応2年(1320年)6月、改稿が翌年冬と推定されることから、後醍醐は後宇多院から政務を譲られる前には既に討幕の意思を持っていたとした。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "亀田俊和は総体的に見た場合、初期の室町幕府は先代鎌倉幕府の体制を模倣しており、独自の政治構造の創出に至っていなかったと結論付けている。中井裕子は、後醍醐天皇の政策がすでに前代からみられることが明らかになっており、後醍醐天皇が特異な存在という評価は見直されるべき、と述べている。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "本郷和人は、後醍醐天皇が「院政を否定」して天皇親政を実現したことで、「英明な天皇」だと高く評価される傾向にあるが、後醍醐天皇は条件が整わなくて上皇になれなかったのであり、上皇として権力を握りたかったのだと指摘しており、また、後醍醐天皇の天皇親政は、後宇多上皇ら歴代上皇たちによって築かれた「徳政」を受け継いでおらず、「徳政」が断絶したことも指摘している。さらに、本郷和人は、明治以来の歴史学が大化の改新、建武の新政(建武の中興)、明治維新を三大画期と評価したことで後醍醐天皇が「英明な天皇」とされているが、むしろ「徳政」をよりよく実行してきた後宇多上皇や花園上皇が天皇家の歴史の中でも極めて優秀だと論じている。さらに、本郷和人は、後醍醐天皇が「英明な天皇」だから討幕に成功したのではなく、鎌倉幕府の内部がガタガタであり、きっかけさえあれば潰れる状況であり、後醍醐天皇のような人物でも討幕に成功できたのだと論じている。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "亀田俊和は、後醍醐天皇の政権発足直後から、矛盾する論旨や偽物の論旨が大量に発給されたことで、新政権が大混乱に陥ったことは広く知られていると、著書に記している。また、亀田俊和は『二条河原落書』で「此頃都ニハヤル物、夜討、強盗、謀綸旨、(中略)本領ハナルル訴訟人」と後醍醐天皇が風刺されたのも史実であると、著書に記している。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "呉座勇一は、後醍醐天皇の討幕計画の杜撰さは以前から指摘されており、後醍醐天皇の政治的資質の欠如を論じる研究者がいると、著書に記している。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "本郷恵子は、花園天皇が謙虚に宋学を学び善政を追求していたのに対し、後醍醐天皇が宋学から学んだ徳は「肥大した自我」そのものであると、痛烈に批判している。また、建武政権で設けられた「窪所」という組織が鎌倉幕府の「問注所」の「問注」の草書が「窪」に似ているために言葉遊びで定められたという説を紹介し、驕りと鈍感力が見られると批判し、後醍醐天皇は伝統的公家政権のパロディに過ぎないとしている。建武政権の家格・先例にとらわれない人事についても、それらが有効に機能することなどなかったと論じている。また、後醍醐天皇は二人の天皇・二つの朝廷を生み出すことで、天皇の権威を決定的に下落させたと論じている。",
"title": "評価(研究史)"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、後醍醐天皇は、生前自ら後醍醐の号を定めていた。たとえば、輪王寺銅鋺延元元年付には「当今皇帝......後醍醐院自号焉」とあり、崩御3年前の延元元年/建武3年(1336年)時点で既に後醍醐の名が広く知られていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。",
"title": "諡号・追号・異名"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "20世紀時点での通説としては、後醍醐は延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇・村上天皇の治世を理想としており、そのため醍醐に後を付けて後醍醐にしたのだとされていた。一方、21世紀に入り、河内祥輔は、父の後宇多天皇も生前から追号を「後宇多」と定めていたことを指摘し、宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』にあやかって、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったのではないか、という説を唱えている。",
"title": "諡号・追号・異名"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "崩御後、北朝では崇徳院・安徳天皇・顕徳院・順徳院などのように徳の字を入れて院号を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」としたという(一条経通『玉英記抄』「凶礼」暦応2年9月8日条)。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。",
"title": "諡号・追号・異名"
},
{
"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "后妃・皇子女の数は諸説あるが、実在が確実な后妃は8人、皇子は8人、皇女は8人である(#確実な后妃・皇子女の一覧)。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "とりわけ、正妃である中宮(のち皇太后)の西園寺禧子が一貫して絶大な寵愛と寵遇を受けた。元徳2年(1330年)11月23日、後醍醐天皇は、腹心の文観に無理を言って、禧子に当時の真言宗最高の神聖儀式である「瑜祇灌頂」を受けさせたため、禧子は聖界においても日本の頂点に立ったが、これほどの地位を与えられた妃は史上先例がない。この前月、後醍醐は自分も瑜祇灌頂を受けており、法服をまとった後醍醐天皇の著名な肖像画は、この時の後醍醐側を描いたものである。禧子の側でも後醍醐に深い愛情を寄せ、そのおしどり夫婦ぶりは『増鏡』などに取り上げられた。和歌が得意な夫妻はたびたび歌を贈り合い、3組が勅撰和歌集・准勅撰和歌集に入集している。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 260,
"tag": "p",
"text": "后妃8人というのは同時にいた訳ではなく、この数にまでなったのは、多くの妻が早逝したからという面が大きい。後醍醐自身、数えで52歳、満年齢で50歳という、当時としてもそこまで長い人生ではないが(父帝・祖父帝の宝算は50代後半)、3人の正妃全員に先立たれている。皇太子時代の最初の正妃である二条為子は応長元年(1311年)もしくはその翌年に薨去(享年不明)、天皇としての最初の正妃である禧子は元弘3年(1333年)に崩御(享年30代前半か)、その次に中宮になった珣子内親王は延元2年/建武4年(1337年)に崩御(享年数え27歳)している。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 261,
"tag": "p",
"text": "後醍醐は正妻を最も大切にする人物で、正妻に対しては常に、前例のほぼないほどの手厚い寵遇で尽くした。たとえば、後醍醐は即位して後、5年以上前に亡くなった最初の正妃である為子に、従三位を追贈した(『増鏡』「秋のみ山」等)。江戸時代後期の有職故実家である栗原信充によれば、天皇の妃ではなく、皇太子時代の妃が従三位を追贈されるという例はきわめて珍しく、後醍醐の為子への格別な想いのほどが窺えるのではないか、という。また、後醍醐は為子の死後20年以上経った後、建武の新政を開くと、二条派の大歌人だった為子の代表歌に倣う歌を詠んでいる(#白菊)。2人目の正妃である皇太后禧子については別段で述べた。3人目にして最後の正妃である中宮珣子に対しても、立后時に歴史的な秀歌2首を贈った(『新拾遺和歌集』冬・622/『新葉和歌集』冬・501、『新千載和歌集』神祇・982/『新葉和歌集』神祇・594)。さらに、珣子の妊娠・出産時には、歴代最高となる66回の御産祈祷を開催している。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "また、側室もないがしろにせず、皇太子時代に早逝したと思われる遊義門院一条局を除けば、実在が確実な側室は全員が女御(中宮の次位の后)もしくは女御に相当する位階の従三位に叙されている(#確実な后妃・皇子女の一覧)。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "なお、北朝で書かれた軍記物語『太平記』1巻では、南朝の後村上天皇の生母である阿野廉子が、禧子から帝の寵を奪った稀代の悪女とされているが、このような記述は『太平記』1巻以外には見られず、他の現存資料と一致しない。『太平記』内部でも4巻などでは後醍醐と禧子の仲睦まじさが描かれており、廉子悪女説は物語としても設定が破綻している。史実ではないことが描かれた理由として、『太平記』研究者の兵藤裕己は、一つ目には、編纂者が文学的効果を狙って白居易の漢詩「上陽白髪人」を下敷きに創作したことと、二つ目には、現行の『太平記』の1巻・12巻・13巻には、建武政権批判を意図して、室町幕府からの改竄が加えられていると見られることを指摘している。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "後醍醐の好みは高い知性を持つ女性で、特に和歌の才能と官僚的能力に惹かれたと見られる。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "皇后の西園寺禧子は、勅撰集に14首・准勅撰集に1首が入集した勅撰歌人である。また、『増鏡』で禧子の他に特に深い寵愛を受けたと描かれるのは、最初の正妃である二条為子と、側室の二条藤子および阿野廉子である。二条為子は、勅撰集に71首が入集した二条派の代表的歌人で、後二条天皇の典侍などを務め、書や漢学にも通じていたことから、『昭慶門院御屏風押色紙和歌』奥書で「名誉の女房」(「偉大な女性」)とまで称えられたほどの人だった。二条藤子も勅撰歌人(8首)で、禧子の中宮宣旨(筆頭女官)を務めた。阿野廉子も禧子の中宮内侍を務めた上級女官で、最晩年の3年ほどは「新待賢門院令旨」を発して南朝の国政に関わる政治家だった。廉子は歌人としては正規の勅撰集に入集こそしなかったものの、准勅撰集には20首が撰ばれている。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "この一覧では、実在がほぼ確実な后妃・皇子女のみに絞って掲載する。実在が確実な生涯の后妃の数は8人、皇子は8人、皇女は8人である。皇子女の数が計16人というのは、南朝系図としては比較的古く信頼性の高い『帝系図』(#『帝系図』による一覧)と一致する。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "皇子・皇女の順序については、『増鏡』は、尊良親王を第一皇子、世良親王を第二皇子、二条為子の皇女(瓊子内親王)を第三皇女としている(『増鏡』「秋のみ山」「春の別れ」)。また、腹心である北畠親房が著した『神皇正統記』では、義良親王(後村上天皇)は第七皇子であるとされている。『帝系図』(応安4年(1371年))では、欣子内親王が第二皇女で、祥子内親王が第七皇女。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "前節の実在が確実な后妃・皇子女のみによって、後宮の変遷を書くと、",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 269,
"tag": "p",
"text": "後醍醐に典侍(事実上の女官長で、側室になる場合も多いが、そうではない場合も多い)として仕えた「後醍醐天皇大納言典侍」(「権大納言典侍」「後醍醐院権大納言典侍」とも)という勅撰歌人がおり、『続千載和歌集』に1首(恋歌五・1601)、『新千載和歌集』に1首(恋歌五・1577)、『新葉和歌集』に2首(釈教・615と哀傷・1328)が載る。理由不明だが、深津睦夫と君嶋亜紀は、大納言典侍を公卿洞院公敏の娘であるとしている。大納言典侍はのち出家したが、後村上天皇と特に親しく、後村上はしばしば出家した彼女のもとを尋ねて和歌を贈り合っていたようである。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "このほか、『増鏡』「久米のさら山」では、隠岐島に流される後醍醐に、阿野廉子に加えて「大納言君」と「小宰相」という2人の女房(女官)が付き添ったとされる。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "この節では、『帝系図』(応安4年(1371年))による系図を掲載する。京都醍醐寺三宝院所蔵の文書で、長慶天皇(後醍醐の孫)の在位確定にも用いられた価値の高い史料である。以下の部分のうち、括弧(「」)で括られた部分は、応安4年(1371年)から後小松天皇(1382年 - 1412年)の代までの間に加筆されたと見られる部分。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "この節では、『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))による系図を掲載する。後小松上皇の勅命による系図のため、一般論として、天皇家の系図では最も信頼性の高いものとされている。この系図では、20人の女性との間に、17人の皇子と15人の皇女、計32人の子を儲けたことになっている。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "しかし、後醍醐とは違う皇統の北朝の系統で、後醍醐崩御の約90年後に編まれたものであることには注意する必要がある。問題点として、",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "などがある。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 275,
"tag": "p",
"text": "著名な歴史的人物のため、後世になるほど后妃・皇子女の「記録」が増えていく傾向にある。以下では、『本朝皇胤紹運録』にも現れない真偽不明のものを挙げる。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 276,
"tag": "p",
"text": "大覚寺統では後宇多天皇の子の代から通字ではなく輩行字を用い、男子の諱に同じ漢字を用いている。後醍醐の子には共通して「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 277,
"tag": "p",
"text": "江戸時代後期から第二次世界大戦までの時代には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(建武中興十五社)が次々と建立され、明治2年(1869年)には護良親王を祀る鎌倉宮、明治5年(1872年)に宗良親王を祀る井伊谷宮、明治17年(1884年)に懐良親王を祀る八代宮、明治23年(1890年)に尊良親王を祀る(明治25年(1892年)に恒良親王を合祀)金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、大正4年(1915年)に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 278,
"tag": "p",
"text": "一方、大正時代の頃(1920年代)から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年(1920年)には八代国治、昭和14年(1939年)には、平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものを含め、次のようなものがある。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 279,
"tag": "p",
"text": "以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。",
"title": "后妃・皇子女"
},
{
"paragraph_id": 280,
"tag": "p",
"text": "※後醍醐の諱(実名)、「尊治」のいずれかの字を与えられた人物。",
"title": "偏諱を与えた人物"
},
{
"paragraph_id": 281,
"tag": "p",
"text": "陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 282,
"tag": "p",
"text": "通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。また、遺言に従って「御終焉ノ御形ヲ改ス」として、火葬は行われず土葬にて埋葬されたとされる。久水俊和は土葬を裏付ける史料はないものの、天皇が崩じた場合には土葬による山陵造営が通例であるため、後醍醐天皇の崩御後も院号を付けずに「天皇としての崩御(天皇崩)」に拘った南朝が土葬後に山陵を造営した可能性が高いとしている。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 283,
"tag": "p",
"text": "奈良県(大和国)内に葬られた最後の天皇である。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 284,
"tag": "p",
"text": "また明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に祀られている。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 285,
"tag": "p",
"text": "皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 286,
"tag": "p",
"text": "後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、昭和12年(1937年)に建立された。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 287,
"tag": "p",
"text": "足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した。",
"title": "陵・霊廟"
},
{
"paragraph_id": 288,
"tag": "p",
"text": "『太平記』では、崩御時に「北闕の天を望まん」と徹底抗戦を望み、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言したと描かれている。ただし史実としては、室町幕府に最大の敵意を持っていたのは腹心の北畠親房であり、後醍醐自身としてはそこまで大きな敵意を持っていた訳ではないようである(#武士への対応)。",
"title": "伝説・創作"
},
{
"paragraph_id": 289,
"tag": "p",
"text": "軍記物『太平記』では、後醍醐天皇は武士に対して冷淡な人物として創作された。",
"title": "伝説・創作"
},
{
"paragraph_id": 290,
"tag": "p",
"text": "たとえば、流布本巻12「公家一統政道の事」では、鎌倉武士の特権階級である御家人身分を撤廃、武士はみな奴婢雑人のように扱われるようになった、という。ただし、歴史的事実としてはこれと反対で、後醍醐天皇が御家人制を廃止した理由の一つは、彼らを直臣として取り立てるためであった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」)。",
"title": "伝説・創作"
},
{
"paragraph_id": 291,
"tag": "p",
"text": "また、同巻では、後醍醐天皇は身内の公家・皇族を依怙贔屓し、彼らに領地を振る舞ったため、武士に与えられる地がなくなってしまった、という。ただし、歴史的事実としては、側近の北畠親房が『神皇正統記』において「後醍醐天皇は足利兄弟を始めとする武士を依怙贔屓し、彼らに恩賞を配りすぎたため、本来貴族・皇族に与えるべきであった土地さえなくなってしまった」と批判しており、全くあべこべである。",
"title": "伝説・創作"
},
{
"paragraph_id": 292,
"tag": "p",
"text": "また、同巻では、身内の皇族を依怙贔屓した実例として、元弘の乱で失脚した北条泰家の所領をすべて実子の護良親王に与えたことが記されている。ただし、歴史的事実はこれと異なり、新田氏庶流で足利氏派閥の武将岩松経家に対しても、複数の北条泰家旧領が与えられている(『集古文書』)。",
"title": "伝説・創作"
},
{
"paragraph_id": 293,
"tag": "p",
"text": "江戸時代後期、山田浅右衛門吉睦の『古今鍛冶備考』(文政13年(1830年))が語る伝説によれば、後醍醐天皇は鵜飼派(うかいは、宇甘派、雲類(うんるい)とも)の名工の雲生(うんしょう)・雲次(うんじ)兄弟が打った太刀を愛刀としていたという。鵜飼派は、備前国宇甘郷(うかいごう/うかんごう、岡山県岡山市北区御津)で、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工流派である。雲生と雲次は初め、長船派の鍛冶で、それぞれ国友と国吉という名前だったが、元亨年間(1321年 - 1324年)に入京し、後醍醐天皇の勅命で太刀を鍛刀することになった。そこで、天に対して、帝の叡慮に叶うような名剣が作れるように祈っていると、ある夜、浮雲を模した刃文を焼いた夢を、兄弟揃って見た。そこで、夢の通りの刃文を試してみると、比類ない見事さだった。兄弟が太刀を献上する時に浮雲の夢の話を後醍醐天皇にしてみたところ、帝は感じ入って、国友に「雲生」の名を、国吉に「雲次」に名を下賜した。そして、兄弟は長船派から独立して、新しく鵜飼派を立てたのだという。",
"title": "伝説・創作"
},
{
"paragraph_id": 294,
"tag": "p",
"text": "しかし、そもそも後醍醐天皇即位以前から「雲生」銘の刀があるため、この伝説は実証的に否定される。刀剣研究家の福永酔剣は、このような伝説は『古今鍛冶備考』以前に見当たらないことを指摘し、山田浅右衛門自身による創作であろうと推測した。",
"title": "伝説・創作"
},
{
"paragraph_id": 295,
"tag": "p",
"text": "伝承によれば、後醍醐天皇が京都市左京区下鴨の下鴨神社に行幸した際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つの大きな泡が出てきて、続いて4つの泡が出てきた。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を団子にしたのが、みたらし団子の起源であるという。",
"title": "伝説・創作"
},
{
"paragraph_id": 296,
"tag": "p",
"text": "大鹿村の伝説によると、後醍醐天皇の10子に妙福院宮という人物がいたとされる。宮は応永4年7月7日に大鹿村で亡くなり、その墓は大鹿村釜沢の大嶋山にあるとされる。",
"title": "伝説・創作"
}
] |
後醍醐天皇は、日本の第96代天皇、および南朝初代天皇。諱は尊治(たかはる)。
|
{{基礎情報 天皇
| 名=後醍醐天皇
| 代数= 第96(南朝初代)
| 画像= Emperor Godaigo.jpg
| 画像幅= 250
| 説明= [[文観]]開眼『[[絹本著色後醍醐天皇御像]]』([[清浄光寺]]蔵、[[重要文化財]])
| 在位= [[1318年]][[3月29日]] - [[1339年]][[9月18日]]
| 和暦在位期間 = [[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]] - [[延元]]4年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]
| 即位礼 = 1318年[[4月30日]](文保2年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]])
| 大嘗祭 = 1318年[[12月15日]](文保2年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]])
| 元号= [[文保]]<br/>[[元応]]<br/>[[元亨]]<br/>[[正中 (日本)|正中]]<br/>[[嘉暦]]<br/>[[元徳]]<br/>[[元弘]]<br/>[[建武 (日本)|建武]]<br/>[[延元]]
| 時代 = [[鎌倉時代]]<br/>[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]
| 追号 = 後醍醐院<br/>(後醍醐天皇)
| 追号勅定年月日 = 1339年[[10月11日]](延元4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])
| 政府首脳官職 = [[関白]]
| 政府首脳人物 = [[二条道平]]→[[一条内経]]→[[九条房実]]<br/>→[[鷹司冬平]]→二条道平→[[近衛経忠]]<br/>→[[鷹司冬教]]→(廃止)
| 御名= 尊治
| 幼称=
| 異称= 吉野院、元徳院、元応帝
| 印 =
| 先代= [[花園天皇]]
| 次代= [[光厳天皇]]<br />[[光明天皇]]<br />[[恒良親王]]<br />[[後村上天皇]]{{efn|皇位継承が発生した年代順。後醍醐天皇は4回の皇位継承を行っており、そのうち光厳と光明の践祚は当初は後醍醐の意志でなく、それぞれ[[後伏見上皇]]と光厳上皇の詔で行われたものを追認したものである(その後再度否定)。また、『太平記』などに見える恒良親王の皇位継承も、恒良親王の「綸旨」が存在することから事実であるとされる。}}
| 誕生年月日時= [[1288年]][[11月26日]]([[正応]]元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]])
| 誕生場所=
| 崩御年月日時 = [[1339年]][[9月19日]]([[延元]]4年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]])
| 崩御場所 = [[吉野行宮]]
| 陵所 = 塔尾陵
| 元服= [[1304年]][[1月27日]]([[嘉元]]元年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]])
| 父親= [[後宇多天皇]]
| 母親= [[五辻忠子]]
| 皇后= [[西園寺禧子]]([[中宮]]→[[皇太后|皇太后宮]]、後京極院)
| 中宮= [[珣子内親王]](新室町院)
| 女御= [[二条栄子]]
| 子女=
一宮{{efn|name="princes-birth-order"|後醍醐天皇皇子のうち、上の三人の長幼について、定説では[[尊良親王]]を一宮(第一皇子)とし、その次に[[世良親王]]、[[護良親王]]と続く。しかし、護良親王を一宮とする説もある。詳細は[[尊良親王#誕生]]および[[護良親王]]を参照。}}:[[尊良親王]]([[中務卿]]、[[一品親王]]、[[上将軍]])<br/>
二宮:[[世良親王]]([[大宰帥]])<br/>
三宮:[[護良親王]]([[天台座主|座主]]、[[征夷大将軍]])<br/>
四宮:[[宗良親王]](座主、征夷大将軍)<br/>
五宮:[[恒良親王]]([[皇太子]])<br/>
六宮:[[成良親王]](征夷大将軍)<br/>
七宮:'''義良親王'''(皇太子、'''[[後村上天皇]]''')<br/>
八宮:[[懐良親王]]([[征西大将軍]]、[[明朝]][[日本国王]])<br/>
[[懽子内親王]]([[伊勢神宮]][[斎宮]])<br/>
[[祥子内親王]](最後の伊勢神宮斎宮)
[[#后妃・皇子女|他]]
| 皇居= 二条富小路内裏<br/>[[吉野行宮]]
| 親署= Go-Daigo Takaharu.png
| 注釈= [[治天の君|治天]]は[[元亨]]元年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]以降{{sfn|森|2012|loc=第2章第1節}}([[1321年]][[12月28日]])
}}
'''後醍醐天皇'''(ごだいごてんのう、[[1288年]][[11月26日]]〈[[正応]]元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]〉 - [[1339年]][[9月19日]]〈[[延元]]4年/暦応2年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]〉)は、[[日本]]の第96代[[天皇]]、および[[南朝 (日本)|南朝]]初代天皇(在位:[[1318年]][[3月29日]]〈[[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]〉 - [[1339年]][[9月18日]]〈延元4年/暦応2年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]〉{{efn|ただし、本文記述するとおり、[[持明院統]]=[[北朝 (日本)|北朝]]側の主張としては在位途中に2度の[[廃位]]と[[譲位]]を経ている。}}、治天:[[1321年]][[12月28日]]〈[[元亨]]元年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]{{sfn|森|2012|loc=第2章第1節}}〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。[[諱]]は'''尊治'''(たかはる)。
== 概要 ==
[[大覚寺統]]の天皇。天皇による親政を理想とし[[クーデター]]により武家政権の[[鎌倉幕府]]を打倒し[[建武の新政]]を行った。その後[[軍事力]]の中核であった実子を[[粛清]]した事と失政により[[失脚]]。一地方政権の主として生涯を終える。建武の新政は2年半で崩壊し、[[足利氏]]の武家政権に戻ることとなり、朝廷の支配力は鎌倉時代以上に弱まることとなる。
[[両統迭立]]により、実子に皇位を譲位できず、[[太上天皇|上皇]]になって[[院政]]を敷いて権力を握れなかった後醍醐天皇は、鎌倉幕府の[[両統迭立]]を壊すために、[[討幕運動|倒幕運動]]を行った<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=上皇の日本史 (中公新書ラクレ) Kindle版|date=2018/8/10|year=2018|publisher=中央公論新社|pages=1201,1218,1241,1242,1251,1258,2008}}</ref>。[[元弘の乱]]で鎌倉幕府を倒して[[建武の新政|建武新政]]を実施したものの、間もなく[[足利尊氏]]との戦い([[建武の乱]])に敗れたため、[[大和国|大和]][[吉野]]へ入り<ref>{{Cite web|和書|url=https://r.nikkei.com/article/DGXKZO54884720X20C20A1BC8000?s=5|title=装いがまとう意(7) 「後醍醐天皇像」(部分)|publisher=日本経済新聞|date=2020-01-28|accessdate=2020-10-25}}</ref>、[[南朝 (日本)|南朝]]政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の[[室町幕府]]が擁立した[[北朝 (日本)|北朝]]との間で、[[南北朝の内乱]]が勃発した。尊氏が[[征夷大将軍]]に就任した翌年、吉野で[[崩御]]した<ref name=":4" />。
先代の[[花園天皇|花園院]]は、後醍醐天皇を「王家の恥」「一朝の恥辱」と日記に書いている<ref name=":5" />。また、同時代の[[公卿]]からも否定的な評価を受けている。[[吉田定房]]は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=暴力と武力の日本中世史 (朝日文庫) Kindle版|date=2020/12/7|year=2020|publisher=朝日文庫|pages=2606,2715,2723,2733,2742,2750,2765}}</ref>。[[北畠顕家]]は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている<ref name=":0" />。また、同時代の中級実務[[貴族]]からの評判も悪く、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる<ref name=":1" />。また、[[江戸時代|江戸]]中期を代表する政治家[[新井白石]]は「読史余論」で、「後醍醐中興の政、正しからず([[建武の新政]]は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の[[三宅観瀾]]は「中興鑑言」で、[[頼山陽]]は「日本外史」で遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している<ref name=":0" />。一方で、優れた統治者の一人である<!--ここは尊氏・親房ともに「優れた」という程度ではなくそれよりも高い評価を与えています-->と室町幕府・南朝の後継指導者から評される{{efn|[[室町幕府]]を創設した初代[[征夷大将軍]]の[[足利尊氏]]は、後醍醐天皇を心情的にも政策的にも肯定した([[#足利尊氏からの評価]])。尊氏の腹心として改革を行った幕府初代[[執事]]の[[高師直]]は、後醍醐の政策の多くを方向性は正しいと認め、非効率的な部分に改良を加えた上で幕府に採用した([[亀田俊和]]説){{sfn|亀田|2014|pp=64–70}}。後醍醐崩御後に[[南朝 (日本)|南朝]]の実権を握った[[准三宮]]で[[歴史家]]・[[思想家]]の[[北畠親房]]は、人材政策面で後醍醐に苛烈な批判を展開しつつも、学芸の振興については高い評価を与え、また宗教政策・訴訟制度改革についても賞賛し、総評としては名君としている([[#北畠親房からの評価]])。また、親房は思想上は後醍醐の人材政策を嫌悪したが、実務上はその人材政策を積極的に採用している(同節参照)。}}。
室町幕府・南朝両政府の政策は、[[建武の新政|建武政権のもの]]を多く基盤とした。特筆されるのは、[[氏族]]支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。裁判機構に一番一区制を導入したり{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}、形骸化していた[[令制国|国]]や[[郡]]といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は{{sfn|伊藤|1999|pp=101–103}}、以降の全国政権の統治制度の基礎となった{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。その他には、土地の給付に[[強制執行]]を導入して弱小な勢力でも安全に土地を拝領できるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと([[高師直]]へ継承){{sfn|亀田|2013}}、[[官位]]を[[恩賞]]として用いたこと{{sfn|花田|2016|pp=199–200}}、[[武士]]に初めて全国的な政治権力を与えたこと、[[陸奥将軍府]]や[[鎌倉将軍府]]など[[地方分権]]制の先駆けでもあること{{sfn|伊藤|1999|pp=85–100}}などが挙げられる。
[[学問]]・[[宗教]]・[[芸術]]の諸分野で高い水準の業績を残した{{sfn|森|2000|loc=まえがき}}{{sfn|兵藤|2018|pp=29–114}}。[[儒学]]では[[宋学]](新儒学)受容を進めた最初の君主である{{sfn|楊|2016|pp=72–76}}{{sfn|兵藤|2018|pp=29–60}}。また、[[有職故実]]の代表的研究書『[[建武年中行事]]』を著した。[[真言宗]]では父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]と同様に[[真言密教]]の庇護者で[[阿闍梨]](師僧)の位を持っていた。[[禅宗]]では[[禅庭]]の完成者である[[夢窓疎石]]を発掘したことは、以降の[[日本の文化]]・[[美学|美意識]]に影響を与えた。[[伊勢神道]]を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。[[宸翰様]]を代表する能書帝で、『[[後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)]]』([[文観|文観房弘真]]との合作)等4件の書跡が[[国宝]]に指定されている。[[二条派]]の代表的歌人で、親政中の[[勅撰和歌集]]は『[[続後拾遺和歌集]]』(撰者は[[二条為定]])。『[[源氏物語]]』の研究者。[[雅楽]]では[[琵琶]]の神器「[[玄象]]」の奏者であり、[[笙]]の演奏にも秀でていた。[[茶道]]では、その前身である[[闘茶]]を最も早く主催した人物の一人ともいわれる。
結果的には敵同士になってしまった尊氏からも敬愛された。[[真言律宗]]の僧で、[[ハンセン病]]患者などの救済に生涯を尽くした[[忍性]]を再発見、「忍性菩薩」の[[諡|諡号]]を贈って称揚した。また、[[文観|文観房弘真]]らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である[[中宮]]の[[西園寺禧子]]は才色兼備の[[勅撰和歌集|勅撰]]歌人で、おしどり夫婦として、『[[増鏡]]』終盤の題材の一つとなっている。
一方で、大塚紀弘は、後醍醐天皇は密教や寺社重宝がもたらす[[呪術]]的な力にすがらざるを得ない追い込まれた事情があったと、記している<ref name=":4">{{Cite book|和書|title=朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで (朝日文庫) Kindle版|date=2020/11/6|year=2020|publisher=朝日新聞出版|pages=134,183,509,3247}}</ref>。
== 生涯 ==
=== 即位前 ===
[[大覚寺統]]・[[後宇多天皇]]の第二皇子。生母は、[[内大臣]][[花山院師継]]の養女・[[五辻忠子|藤原忠子]](談天門院、実父は[[参議]][[五辻忠継]])。[[正応]]元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]([[1288年]][[11月26日]])に誕生し、[[正安]]4年([[1302年]])6月16日に[[親王宣下]]。[[嘉元]]元年([[1303年]])12月20日に三品に叙品。嘉元2年([[1304年]])3月7日に[[大宰帥]]となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、[[徳治]]2年([[1307年]])5月15日には、中務卿を兼任している。
=== 即位 ===
[[ファイル:Emperor-Go-Daigo-by-Ogata-Gekko-1904.png|thumb|250px|『後醍醐天皇図』]]
正安3年([[1308年]])に[[持明院統]]の[[花園天皇]]の即位に伴って[[皇太子]]に立てられ、[[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1318年]][[3月29日]])花園天皇の[[譲位]]を受けて31歳で[[践祚]]、[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[4月30日]])に[[即位]]。30代での即位は[[1068年]]の[[後三条天皇]]の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が[[院政]]を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、後醍醐天皇は兄[[後二条天皇]]の遺児である皇太子[[邦良親王]]に次ぐ系統([[河内祥輔]]の表現では「准直系」)と位置付けられていた。「中継ぎ」の「一代の主」というきわめて脆弱な立場だったという旧説もあるが、これは対立皇統である[[持明院統]]由来の文書にしか見られず、そこまで弱い立場ではなかったようである。[[元亨]]元年([[1321年]])、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の[[親政]]が開始される。これには、後宇多が傾倒していた[[真言宗]]の修行に専念したかったという説(『増鏡』「秋のみ山」から続く有力説){{sfn|中井|2020|pp=28–29}}や、後醍醐・邦良による大覚寺統体制を確立させて、持明院統への完全勝利を狙ったとする説(河内説){{sfn|河内|2007|pp=332–333}}などがある。いずれにせよ、前年に邦良親王に男子([[木寺宮康仁親王|康仁親王]])が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に、後醍醐天皇が[[治天の君]]となったのは、後宇多から後醍醐への信任があったからだと考えられている{{sfn|河内|2007|pp=332–333}}{{sfn|中井|2020|pp=28–29}}。
[[元亨]]2年([[1322年]])、後醍醐天皇が中宮の[[西園寺禧子]]の御産祈祷を名目に、[[鎌倉幕府]]に呪いをかけた<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=陰謀の日本中世史 (角川新書) Kindle版|date=2018/3/10|year=2018|publisher=KADOKAWA|pages=1985,2079}}</ref> とされるが、後述のように御産祈祷は真実(倒幕とは無関係)とする説もある。
=== 正中の変 ===
[[ファイル:Emperor Godaigo02.jpg|thumb|300px|『[[太平記絵巻]]』第2巻(山中をさまよう後醍醐天皇)<br>[[埼玉県立歴史と民俗の博物館]]蔵]]
{{seealso|正中の変}}
[[正中 (元号)|正中]]元年([[1324年]])、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられ、[[六波羅探題]]が天皇の側近[[日野資朝]]を処分する[[正中の変]]が起こる。公式判決では、後醍醐は無罪として釈放された。
その後、[[嘉暦]]元年([[1326年]])6月からおよそ3年半余り、[[中宮]]である[[西園寺禧子]]への御産祈祷が行われた{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。主たる理由としては、仲睦まじい夫婦であるのに、子宝に恵まれないことを夫妻が心情的に不満に思ったことが挙げられる{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。特にこのタイミングで行われたことに関しては、3か月前である同年3月に後醍醐のライバルである邦良が急逝したため、有力権門である[[西園寺家]]所生の[[親王]]が誕生すれば、邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得ると考えたためとも推測されている([[河内祥輔]]説){{sfn|河内|2007|p=336}}。なお、『太平記』では安産祈祷は幕府調伏の偽装だったと描かれているが、この説は2010年代後半時点でほぼ否定されている([[西園寺禧子#『太平記』]])。
邦良薨去後は、後醍醐一宮(第一皇子)の[[尊良親王]]ら4人が次の皇太子候補者に立ったが、最終的に勝利したのは持明院統の嫡子量仁親王(のちの[[光厳天皇]])だったため、譲位の圧力は強まった。
[[元徳]]2年(1330年)には、「法曹一途の碩儒」と呼ばれ、「もし倒幕計画が失敗すれば朝儀は再び塗炭に堕ちるだろう」と関東征伐に反対していた[[中原章房]]を、瀬尾兵衛太郎に命じて清水寺参詣の際に暗殺させた<ref name="名前なし-1">新井孝重『護良親王:武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ』2016年 ミネルヴァ書房</ref>。
=== 元弘の乱 ===
[[File:On the Lamentation of the Empress.png|thumb|幕府に捕縛され幽閉中の後醍醐を心配に想い、牛車で駆けつけて一夜を語り明かす中宮[[西園寺禧子]]。『太平記絵巻』(17世紀ごろ)第2巻「中宮御嘆事」。[[埼玉県立歴史と民俗の博物館]]所蔵。]]
{{main|元弘の乱}}
[[元弘]]元年([[1331年]])、倒幕計画が側近[[吉田定房]]の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、[[三種の神器]]を持って挙兵した。はじめ[[比叡山]]に拠ろうとして失敗し、[[笠置山 (京都府)|笠置山]](現[[京都府]][[相楽郡]][[笠置町]]内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを[[元弘の乱]](元弘の変)と呼ぶ。髪を乱し、服装も整わないまま、山中に潜んでいたところを発見されたとのことで、[[花園天皇|花園院]]は「王家の恥」「一朝の恥辱」と『花園天皇宸記』(元弘元年10月1日条)に記している<ref name=":5" />。このとき、後醍醐天皇は鎌倉幕府の取り調べに対し、「天魔の所為(悪魔のせいで、自分の責任ではない)」なので、許してもらいたいと訴えたという<ref name=":5" />。
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王([[光厳天皇]])を即位させた。捕虜となった後醍醐は、[[承久の乱]]の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / [[正慶]]元年([[1332年]])[[隠岐島]]に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子[[護良親王]]や[[河内国|河内]]の[[楠木正成]]、[[播磨国|播磨]]の[[赤松則村]](円心)ら反幕勢力([[悪党]])が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年([[1333年]])、[[名和長年]]ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、[[伯耆国|伯耆]][[船上山]](現[[鳥取県]][[東伯郡]][[琴浦町]]内)で挙兵する。5月27日、後醍醐は[[圓教寺 (姫路市)|圓教寺]]へ御幸し、大講堂に参籠して幕府滅亡を祈願した。これを追討するため幕府から派遣された[[足利尊氏|足利高氏]](尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した[[新田義貞]]は鎌倉を陥落させて[[北条氏]]を滅亡させる。
=== 建武の新政 ===
[[ファイル:Emperor Go-Daigo.jpg|thumb|240px|後醍醐天皇像<br>([[三の丸尚蔵館]]蔵『[[天子摂関御影]]』より)]]
{{main|建武の新政}}
[[元弘]]3年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1333年]][[7月17日]])に帰京<ref name="dainihon-shiryo-6-1-80">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0080 『大日本史料』6編1冊80–86頁].</ref> した後醍醐天皇は、''「今の例は昔の新義<!--原文ママ-->なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」''(『梅松論』上{{sfn|梅松論上|1928|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/84 113]}})と宣言し、'''[[建武の新政]]'''を開始した。なお、建武の新政については、当時から現在に至るまで多様な評価・解釈があり、その特徴や意義について一致した見解が得られていない。したがって、以下、本節では事象の列挙のみを行い、後醍醐天皇の政治思想やその意義・評価については「[[#評価(同時代)]]」の節に譲る。
まず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃した。[[両統迭立]]を廃止して皇統を[[大覚寺統]]に一統した。実子で[[元弘の乱]]に最初期から参戦した[[護良親王]]を[[征夷大将軍]]とし(数か月後に解任)、[[足利尊氏|足利高氏]]を戦功第一とし自身の[[諱]](本名)「尊治」からの[[偏諱]]「尊氏」の名を与えて[[鎮守府将軍]]や[[参議]]などに任じた。同年中に[[記録所]]・[[恩賞方]]・[[雑訴決断所]]・[[武者所]](頭人(長官)は[[新田義貞]])・[[窪所]]などの重要機関が再興もしくは新設された。また、地方政権としては、親房の子[[北畠顕家]]を東北・北関東に([[陸奥将軍府]])、尊氏の弟[[足利直義]]を[[鎌倉]]に配置した([[鎌倉将軍府]])。
翌年([[1334年]])に入るとまず[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]、父の[[後宇多天皇]]が大覚寺統嫡流に指定した甥の[[邦良親王]]の血統ではなく、実子の[[恒良親王]]を皇太子に立てた<ref name="dainihon-shiryo-6-1-392">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0392 『大日本史料』6編1冊392–393頁].</ref>。
同年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1334年]][[3月5日]])、簒奪者[[王莽]]を倒し[[後漢]]を開いた[[光武帝]]の元号の[[建武 (漢)|建武]](けんぶ)の故事により、元号を'''[[建武 (日本)|建武]]'''(けんむ)に改元した<ref name="dainihon-shiryo-6-1-401">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0401 『大日本史料』6編1冊401–404頁].</ref>。
同年中に、[[検非違使庁]]による[[徳政令]]([[建武の徳政令]])発布([[5月3日 (旧暦)|5月3日]])<ref name="dainihon-shiryo-6-1-553">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0553 『大日本史料』6編1冊553–556頁].</ref>、恩賞方の再編([[5月18日 (旧暦)|5月18日]])<ref name="dainihon-shiryo-6-1-574">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0574 『大日本史料』6編1冊574–581頁].</ref>、雑訴決断所の拡充(8月)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-752">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0752 『大日本史料』6編1冊752–759頁].</ref> などの政策が行われた。また、硬貨・楮幣([[紙幣]])併用とする官銭[[乾坤通宝]]を計画し<ref name="dainihon-shiryo-6-1-505">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0505 『大日本史料』6編1冊505–506頁].</ref>、[[中御門宣明]]を鋳銭長官・[[五条頼元]]を鋳銭次官に任じた<ref name="dainihon-shiryo-6-1-713">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0713 『大日本史料』6編1冊713–714頁].</ref>。10月後半から11月初頭、護良親王が失脚し、足利直義に預けられ、鎌倉に[[蟄居]]となった(『梅松論』『[[保暦間記]]』『[[大乗院日記目録]]』)<ref name="dainihon-shiryo-6-2–52">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0602/0052 『大日本史料』6編2冊52–57頁].</ref>。
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]には造[[大内裏]]行事所始が行われた<ref name="dainihon-shiryo-6-2-430">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0602/0430 『大日本史料』6編2冊430–432頁].</ref>。[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]、[[大納言]][[西園寺公宗]]の謀反が発覚し、武者所職員の[[楠木正成]]・[[高師直]]らに捕縛された<ref name="dainihon-shiryo-6-2-439">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0602/0439 『大日本史料』6編2冊439–445頁].</ref>。
=== 足利尊氏との対立 ===
{{main|建武の乱}}
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])、北条氏残党の[[北条時行]]が起こした[[中先代の乱]]の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に[[鎌倉]]で独自に恩賞を与えた。これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は[[箱根・竹ノ下の戦い]]では敗れるものの、[[京都]]で楠木正成や[[北畠顕家]]らと連絡して足利軍を破った。しかし、「連絡して」とは言うものの、実際に足利軍を破ったのは後醍醐直属軍とも表せる新田軍や楠木軍ではなく、あくまでも奥州の北畠軍であり、建武政権に大きな政策転換を迫るものであった<ref name="名前なし-2">岡野友彦『北畠親房:大日本は神国なり』2009年 ミネルヴァ書房</ref>。つまり、後醍醐直属軍を倒した足利の「鎌倉小幕府」軍が、北畠の「奥州小幕府」軍に敗れたのであり、「幕府を置かない武家の活用」という後醍醐の政権構想は失敗に終わったのである<ref name="名前なし-2"/>。
『梅松論』によれば、この時、楠木正成は勝利した側であるにもかかわらず、後醍醐天皇に尊氏との早期講和を進言したが、公家たちによって退けられた。
尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、後に北朝となる持明院統の光厳上皇の[[院宣]]を得た後に再び上洛を目指した。尊氏率いる足利軍は、新田・楠木軍に[[湊川の戦い]]で勝利し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
=== 南北朝時代 ===
{{main|南北朝の内乱}}
足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて[[三種の神器]]を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から[[光明天皇]]を新天皇に擁立し、[[建武式目]]を制定して幕府を開設する(なお、[[太平記]]の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って[[恒良親王]]に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた[[花山院]]を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、[[吉野]](現[[奈良県]][[吉野郡]][[吉野町]])に自ら主宰する[[朝廷 (日本)|朝廷]]を開き、京都朝廷([[北朝 (日本)|北朝]])と吉野朝廷([[南朝 (日本)|南朝]])が並立する[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]が始まる。後醍醐天皇は、[[尊良親王]]や[[恒良親王]]らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、[[懐良親王]]を[[征西将軍]]に任じて[[九州]]へ、[[宗良親王]]を東国へ、[[後村上天皇|義良親王]]を[[陸奥国|奥州]]へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、[[延元]]4年 / [[暦応]]2年([[1339年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、[[崩御]]した。宝算52(満50歳没)。
[[摂津国]]の[[住吉行宮]]にあった後村上天皇は、南朝方の[[住吉大社]]の宮司である[[津守氏]]の[[荘厳浄土寺]]において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に[[天龍寺]]を造営している。
== 人物 ==
=== 容姿 ===
後醍醐を直に見たことがあると思われる『[[増鏡]]』作者の貴族([[二条良基]]など諸説あり)は、天皇である後醍醐自身の容姿については余り直接語らない。『増鏡』作者は、後醍醐の逸話を[[光源氏]]になぞらえて叙述する傾向が多いが(『増鏡』「秋のみ山」「久米のさら山」等)、これはどちらかといえば[[王朝物語|王朝文学]]の雰囲気を出すためかともいう{{sfn|井上|1983b|pp=67, 274–277, 280–284}}。
血族に関して言えば、後醍醐の長男である[[尊良親王]]は「ふりがたくなまめかし」(以前のまま優美である)と、流浪の身にあっても容姿に衰えのない美男子であると明言されている(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983b|p=262}}。次男の[[世良親王]]もまた「いときらきらし」(端正な美形)だったという(『増鏡』「春の別れ」){{sfn|井上|1983b|p=156}}。尊良と世良、および親族の[[恒明親王]]の三人は一緒にいることが多かったが、三人が後醍醐の後ろに並んで歩く姿にさぞや若い女官たちは色めきだったのではないか、と『増鏡』作者は推測している(『増鏡』「春の別れ」){{sfn|井上|1983b|p=163}}。
=== 家族について ===
正妃である[[中宮]]・[[西園寺禧子]]とは小説的な逃避行で結ばれた仲であり、二人の熱愛と夫婦仲の睦まじさは『[[増鏡]]』などで名高い{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。後醍醐天皇は正妃を最も大切に扱って寵愛し、側室もないがしろにしない人物だった([[#正妃を手厚く扱う]])。
第一皇子の[[尊良親王]]には、[[中務卿]]など政界の重職での経験を積ませ、節会に出仕させるなど、自分自身の親王時代と同じキャリアを歩ませている{{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。落選こそしてしまったものの、皇太子候補選に推挙したこともある{{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。
第二皇子の[[世良親王]]は、後醍醐天皇が出御する時の御供として側に置くことが多かった{{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。[[嘉暦]]3年([[1328年]])10月9日には、[[関白]]の[[二条道平]]に頼み、世良が[[議奏]]という重要な公務を行うのを支えて欲しいと言い、当日、世良が公務を大過なく果たしたのを見ると、後醍醐天皇は上機嫌になったという(『道平公記』){{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。
皇太子であった[[恒良親王]]は常に後醍醐天皇に振り回されていた。建武3年([[1336年]])に西国で勢力を盛り返した尊氏が[[京都]]を占拠すると、後醍醐天皇は[[比叡山]]に逃れた。このとき後醍醐天皇へ尊氏から密使が来て、天皇が義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとしたため、激怒した[[堀口貞満]]が出発直前の天皇に「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、後醍醐天皇は[[皇位]]を恒良親王に譲り(『太平記』では三種の神器も恒良親王に渡ったという)、恒良親王と[[尊良親王]]を委任することで新田軍が[[官軍]]であることを保証してから下山した。これによって恒良親王は天皇となり、[[越前国]]へ下向し、「[[北陸朝廷]]」とも呼べる政権が誕生した。この時に天皇として発給した「[[綸旨]]」や、義貞が恒良親王の移動を「臨幸」と表現した書状が現存している。また、「白鹿」という私年号が用いられていたことも「得江文書」から判明している。しかし、比叡山を下山し花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は何の連絡も無しに突如吉野へと逃れ、自身が主宰する朝廷を開いたため、恒良親王の皇位継承は無意味となってしまった。義貞はこれを不快に思ったのか、恒良親王と共に越前国に下向した当時は建武政権下で叙された「左中将」と署名していたのが、後醍醐天皇出奔後は「源」とのみ署名していることが残存の書状から確認できる。このように、後醍醐は軽率な行動によって自らの身内から不信感を買ってしまうことも多々あった<ref>田中大貴 『新田一族の中世: 「武家の棟梁」への道』 2015年 吉川弘文館 </ref>。
[[護良親王]]は、元弘の乱勃発当初は「後醍醐天皇の代行者」として、「将軍宮」を自称し、特に軍事面において活躍していた<ref name="名前なし-1"/>。しかし、六波羅探題攻略に際しては、後醍醐天皇自身が軍法を布告<ref>「鎌倉遺文」第四十一巻三二一二四号</ref>し、また4月10日前後から、それまで護良親王が担当していた軍勢催促も後醍醐天皇、自身が綸旨を発給することによって掌握し始め、護良親王の天皇代行者としての立場を回収しようとした<ref name="名前なし-1"/>。護良親王はこれを察し、軍事関連の令旨を発することはなくなった<ref name="名前なし-1"/>。
六波羅探題攻略後は、終始討幕戦の中心となり、血みどろの戦闘に身を投じ、本来であれば最大の殊勲者となるはずであった護良親王が、足利高氏のたった一度の六波羅探題攻略によって、その政治的存在をかき消されてしまい、護良親王ではなく高氏が大功労者として政界に踊り出、それを武家方の後伏見院でさえ疑問に思わなかった上に、「[[光明寺残篇]]」に見えるように、後醍醐天皇は護良親王を専ら仏教界に抑圧し、軍務や政治から遠ざけようとしていた{{efn|「[[光明寺残篇]]」「梨本青蓮院両門跡の竹園はこれを捕り奉るべし、彼の門跡方の事に於いては、諸事大塔二品親王の下知を相伺うべし、違勅の北嶺法師等は、仰せ下ささるの交名に任せ、時剋を廻らさず追罰すべし」}} <ref name="名前なし-1"/>。さらに、同じく「光明寺残篇」に見えるように、護良親王の兵力になり得る山門武力を「違勅の北嶺法師」と呼び、武装蜂起を抑制しようとした<ref name="名前なし-1"/>。そうなってしまえば、護良親王は戦後処理をめぐる発言力を失い、新政権での政治方針も主張できなくなることは自明であった。この現実を前にして、護良親王は、高氏に烈しい憎悪と敵意を抱いた<ref name="名前なし-1"/>。護良親王は以上の理由により後醍醐に反発し、六波羅探題を攻略した後も京都に入らず、[[信貴山]]に登り、後醍醐天皇の説諭も拒否し、武士の求心点である[[征夷大将軍]]の地位を要求して信貴山から動かなくなってしまった<ref name="名前なし-1"/>。後醍醐天皇は護良親王に征夷大将軍の地位を与えることを嫌がったが、将軍となればすぐさま武家政権の成立に繋がる高氏のことを考慮し、護良親王を将軍に任じることで妥協した<ref name="名前なし-1"/>。
その後に護良親王は入京したが、『[[梅松論]]』に見えるように、「後醍醐天皇の叡慮」に従い行われようとしていた尊氏襲撃の計画が発覚してしまい、尊氏は慌てて後醍醐天皇や阿野簾子に取り入り、狭い私情の次元での護良親王敵視を煽り、結局は後醍醐天皇に裏切られる形で[[足利直義]]に預けられ、鎌倉に幽閉されることとなり、[[中先代の乱]]の際に時行方に担がれることを恐れた直義の命を受けた[[淵辺義博]]によって殺された<ref name="名前なし-1"/>。『梅松論』によれば、幽閉中に「武家(足利)よりも君(後醍醐)の恨めしく渡らせ給ふ」と述べていたという{{efn|『梅松論』「宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども、御科を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座有りけるが、武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふと御独言有りけるとぞ承る。」}}。
護良親王が後醍醐天皇や尊氏との政争に敗れたのは、謀略にたけ目的主義を身上とする後醍醐天皇や、一つ判断を誤れば族滅しかねない北条専制のもとでバランスと手練手管で生きてきた尊氏に対し、護良親王は専ら戦闘に明け暮れていたため、自身の行動がどのように相手に作用するかという政治力に対する知識が乏しかったからであると考えられる<ref name="名前なし-1" />。
後醍醐天皇が護良親王を死なせたことについて、政権内部には驚愕と動揺が広がり、『太平記』「兵部卿親王流刑事付驪姫事」に見えるように、「いくら少しの過ちがあろうとも、宥めることもせずに敵人の手に渡してしまうのは如何なものか」という世論が形成された<ref name="名前なし-1" />。
後に後醍醐天皇が尊氏の討伐を決意する際に影響を及ぼしたのは新田義貞であるが、義貞はその糾弾の際に、護良親王殺害の罪を全て足利尊氏の悪逆によるものと訴えたため、後醍醐天皇は政権に叛意を抱く尊氏の討伐を、護良親王殺害の復讐としての意味も持たせ、先述の世論や政権内の空気を一掃できると考え、義貞の訴えを受け入れた<ref name="名前なし-1" />。
後醍醐天皇が護良親王を死なせたことが失敗であったことは、護良親王死後10ヶ月後には建武政権が崩壊したことからもわかる。楠木正成は後醍醐天皇が護良親王を失脚させたことに失望し、生彩を欠くようになってしまい、後醍醐天皇は正成を[[湊川の戦い]]で死なせてしまった<ref name="名前なし-1" />。[[赤松則村|赤松円心]]は、護良親王に近い武将であったため、その大功績にもかかわらず、播磨国一国の守護職に宛てがわれただけにすぎず、しかも護良親王粛清に伴い、その守護職も解任され、所領は佐用荘地頭職だけという仕打ちを受けたために、後醍醐天皇や政権執行部に対して深い恨みを抱き、尊氏方についた。新田軍勢が円心の籠る[[白幡城]]を攻めた際に、円心は一族の者を遣わし、護良親王の御恩が忘れられないこと、恩賞の少なさへの不満、後醍醐天皇の綸旨によって自身が播磨国の守護職に任じられれば降伏することを主張した{{efn|『太平記』巻第十六「円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。」}}。義貞はこれを信じ、後醍醐の綸旨を取り寄せたが、その間に円心は戦備を整え、綸旨が到着すると、円心は「既に将軍様(尊氏)に播磨国の守護職に任じてもらったのに、手の裏を返すような綸旨など誰がいるか」と嘲笑った{{efn|『太平記』巻第十六「(中略)手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。」}} <ref name="名前なし-1" />。
護良親王の子である[[興良親王]]は、[[延文]]5年/[[正平 (日本)|正平]]15年(1360年)4月25日に、赤松円心の四男である[[赤松氏範]]の後援を得て、吉野十八郷の兵を引き連れ、南朝の拠点である[[賀名生]]を襲い、黒木内裏や宿所を悉く焼き払った。興良親王が軍事行動を開始したのは父・護良親王の死の翌年であり、父が後醍醐らによって捕まり、無惨な最期を遂げたその経緯を理解できる年齢であった。興良親王はこの経験を忘れず、後醍醐の正嫡である後村上天皇に恨みを抱き、それが爆発したのが賀名生の焼き討ちであった。この感覚は興良親王自身以外の誰にも理解されなかったため、当時の人間も『太平記』に見えるように「不思議なりし御謀反也。」と言った<ref name="名前なし-1"/>。
正妃の禧子との皇女である[[懽子内親王]]については、[[元徳]]3年([[1331年]])[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]、[[元弘の乱]]で幕府と[[笠置山の戦い]]を起こすまでという緊迫した時期にもかかわらず、娘のためにわざわざ時間をとって[[伊勢神宮]][[斎宮]]の儀式の一つである[[野宮]](ののみや)入りの手続きを行っている(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983|pp=198–199}}。この時期に懽子が野宮入りしたことについて、[[井上宗雄]]によれば、挙兵前に娘の大事な儀式を完了しておきたかったのではないかという{{sfn|井上|1983|pp=198–199}}。懽子は[[光厳天皇|光厳上皇]]妃だったにもかかわらず、26歳で出家しているが、[[安西奈保子]]の推測によれば、時期的に父の崩御を悼んでのものだったのではないか、という{{sfn|安西|1987|pp=139–141}}。
父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]とは、かつては仲が悪いとする説があった{{sfn|中井|2020|p=12}}。しかし、その後、訴訟政策や宗教政策などに後宇多からの強い影響が指摘され、改めて文献を探ったところ、心情的にも父子は仲が良かったと見られることが判明したという{{sfn|中井|2020|pp=16–31}}。[[正親町三条実躬|三条実躬]]の『実躬卿記』では、徳治2年([[1307年]])1月7日の[[白馬節会]]で同じ御所に泊まったのをはじめ、この頃から父子は一緒に活動することが多くなり、蹴鞠で遊んだ記録などが残っている{{sfn|中井|2020|pp=16–31}}。特に父子の愛情を示すのが、後宇多の寵姫だった[[姈子内親王|遊義門院]]が危篤になった時で、石清水八幡宮への快癒祈願の代参という大任を尊治(後醍醐)が任された{{sfn|中井|2020|pp=19–20}}。尊治は途上で遊義門院崩御の知らせを聞いたが、それにもかかわらず父の期待に応えたいと思い、引き返さずに石清水八幡宮に参拝したという{{sfn|中井|2020|pp=19–20}}。後宇多の命で帝王学の書である『[[群書治要]]』を学んだりもしたところを見ると、政治の枢要に尊治(後醍醐)を置きたかったのではないかという{{sfn|中井|2020|pp=18–19}}。
母の[[五辻忠子]]には、[[践祚]]わずか2か月後に[[女院]]号の「談天門院」を贈り、自身の出世を支えてくれた母を労っている{{sfn|森|2000|loc=§2.1.3 母談天門院藤原忠子のこと}}。
祖父の[[亀山天皇|亀山上皇]]からは、母の忠子が後に亀山のもとに身を寄せたこともあって可愛がられており、亀山の崩御まで庇護を受けていた{{sfn|中井|2020|pp=15–18}}。最晩年の亀山に子の[[恒明親王]]が生まれてそちらに寵が移ったあとも、亀山は後醍醐天皇のことを気にかけており、忠子と後醍醐天皇に邸宅や荘園などの所領を残している{{sfn|中井|2020|pp=15–18}}。
同母姉である[[奨子内親王]](達智門院)とは、20歳前後のころから『増鏡』「さしぐし」で和歌を贈り合う姿が描かれるなど、仲良し姉弟として当時から知られていた{{sfn|安西|1987|pp=133–139}}。後醍醐天皇が即位すると、非妻后の[[皇后]]に冊立されている{{sfn|安西|1987|pp=133–139}}。その後もたびたび和歌のやり取りをしたことが、『[[続千載和歌集]]』『[[新千載和歌集]]』などに入集している{{sfn|安西|1987|pp=133–139}}。『[[新葉和歌集]]』では後醍醐を追悼する和歌が2首収録されている{{sfn|安西|1987|pp=133–139}}。
大覚寺統正嫡で甥の[[邦良親王]]およびその系統とも仲が悪かった。中井の推測によれば、天皇として着々と実績を積んでいく後醍醐に、邦良の側が焦ったのではないか、という{{sfn|中井|2020|pp=29–30}}。また、後醍醐天皇の乳父である[[吉田定房]]と邦良派の[[中御門経継]]は犬猿の仲だったため(『花園天皇宸記』[[元応]]元年([[1319年]])10月28日条)、廷臣同士のいがみ合いが争いを加速させてしまった面もあるのではないか、という{{sfn|中井|2020|pp=29–30}}。
『増鏡』作者は、[[恒明親王]](後醍醐天皇祖父の[[亀山天皇|亀山上皇]]の最晩年に生まれた子)も後醍醐と交流が深く、特に後醍醐の子である尊良・世良と一緒にいることが多かったと描いている(『増鏡』「春の別れ」){{sfn|井上|1983b|p=163}}。実際、恒明派から世良を通じて後醍醐派に転じた廷臣も多く、[[北畠親房]]はその代表例である{{sfn|亀田|2017|p=22}}。
血縁だけではなく、妻方の家族とも交流があった。中宮禧子の父の[[西園寺実兼]]や同母兄の[[今出川兼季]]から琵琶を学び、その名手だった{{sfn|森|2000|loc=§5.2.3 音楽・楽器への関心}}。また、側室の[[二条為子]]の実家である[[二条派]]に学び、その代表的歌人でもある{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。
=== 綸旨の乱発 ===
後醍醐は本来綸旨を貰う身分ではない土民や地侍、辺境の武装商人、農村武士にまで綸旨を与え、民衆世界にある反体制、あるいは体制外的な勢力を根こそぎ倒幕軍事力として動員しようとした。そこに伝統や故実への配慮は見られず、結果的に、天皇制の危機の克服を目指したはずの後醍醐が、王権の最も重要な道具立てである綸旨の権威を回復するどころか逆に失墜させてしまい、『[[二条河原の落書]]』にみえるように気軽に偽綸旨が作られるような空気感を生み出した<ref name="名前なし-1"/>。
建武の新政下においても後醍醐の綸旨乱発は変わらず、現実や伝統を無視し、綸旨によって物事を個人的に裁定し、これまでの政治の仕切り直しをしようとしたため、朝廷内部の政治行政のありようが破壊的打撃を被った<ref>佐藤進一『日本の中世国家』 2007年 岩波書店</ref>。また、後醍醐自身も「建武以後の綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨を発しており、自分が綸旨を乱発し、しかもその内容が改変されたり誤っていたりすることを認めている<ref name="名前なし-3">伊藤喜良『後醍醐天皇と建武政権』1999年 新日本出版社</ref>。また雑訴決断所を開設し裁判の効率化を図ったものの、後醍醐の天皇絶対化の志向は変わらず、自身の理念的な無理から生じる政治の矛盾を解決するには至らず、多くの人物からの離反を招いた<ref name="名前なし-1"/>。
加えて、後醍醐はこの時代特有の法慣行(「古き良き法」の尊重)に対する配慮が足りず、元弘戦乱時に出された護良親王の令旨も否定した<ref name="名前なし-1"/>。
=== 後醍醐の軍事力 ===
後醍醐の倒幕計画は、専ら悪党的民間武装民と寺院僧兵、一握りの鎌倉御家人に依拠していた。これは、11.12世紀の武士は在地支配力の弱さの分だけ中央権力に依存しなければならなかったのが、鎌倉幕府の成立によって、院や公卿の支配であった武士達は東国の部下として自立していたからである<ref name="名前なし-1"/>。
=== 綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文の少なさ ===
後宇多院政では、「治天の君」を補佐する側近集団である[[伝奏]]([[花山院師信]]、[[六条有房]]、[[六条有忠]]、[[坊城定資]]、[[中御門経継]]、[[吉田定房]]、[[万里小路宣房]])が重用され、綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文率は約71%であった<ref name="名前なし-4">本郷和人「天皇の思想: 闘う貴族北畠親房の思惑」2010年 山川出版社</ref>。しかし、後醍醐親政においては綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文率は約4%であった<ref name="名前なし-4"/>。いくら天皇集権を目指す後醍醐であっても、側近無しに専制的な天皇権力を復活させることは不可能であったはずであるが、以上のように後醍醐には伝奏が集まらなかった。その理由は、伝奏となる[[名家]]層の人々が後醍醐への奉仕を嫌がり、距離を保とうとしたからであった<ref name="名前なし-4"/>。名家層の人々が後醍醐への奉仕を嫌った理由は2つ考えられる。1つ目の理由は、後醍醐が中継ぎの天皇であったからである。後宇多は[[後二条天皇]]の子や孫に皇位を継承させたいと望んでおり、後醍醐は中継ぎ役(一代主)として即位していたため、後醍醐と親密に接することは、後々に現れる正統な皇位継承者の機嫌を損ねる可能性があった<ref name="名前なし-4"/>。2つ目の理由は、後醍醐が倒幕を堅く決心していたからである。後宇多は歴代の治天の君の中でも、特に幕府との融和を心掛けていた。後宇多の腹心の六条有房は何度も鎌倉に下向しており、そのような親幕姿勢によって、[[文保の和談]]では皇位も東宮の地位も大覚寺統によって独占できた。それに対して、後醍醐は後の行動でも知られるように倒幕派であり、名家層の実務貴族は倒幕運動に巻き込まれることを「危険な暴挙」として嫌った<ref name="名前なし-4"/>。その著名な例として、吉田定房が後醍醐の倒幕を諌めた「吉田定房奏上」がある<ref name="名前なし-4"/>。
=== 公務時間と訴訟制度への関心 ===
『[[太平記]]』流布本巻1「関所停止の事」では、即位直後・[[元弘の乱]]前の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、[[記録所]](即位直後当時は紛争処理機関{{efn|後醍醐天皇即位前後の記録所は、朝廷の問題から土地に関する民事まで幅広い訴訟に対応した。}})に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだという描写がされている<ref name="taiheiki-1-sekisho-choji-no-koto">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/11 3–4]}}.</ref>。しかし、20世紀までには裏付けとなる史料がほとんど発見されなかったため、これはただの物語で、後醍醐天皇の本当の興味は倒幕活動といった策謀にあり、実際は訴訟制度には余り関心を持たなかったのではないかと思われていた{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}。
その後、2007年に[[久野修義]]によって『覚英訴訟上洛日記』が紹介されたことで、後醍醐天皇が裁判に臨席していたのが事実と思われることが判明した{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}。これによれば、記録所の開廷は午前10時ごろ、一日数件の口頭弁論に後醍醐天皇は臨席、同日内に[[綸旨]](天皇の命令文書)の形で判決文を当事者に発行し、すべての公務を終えるのは日付が変わる頃、という超人的なスケジュールだったという{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}。その他の研究では、訴訟の処理だけではなく、制度改革についても、後醍醐天皇の独断専行ではなく、父の[[後宇多天皇|後宇多院]]ら[[大覚寺統]]が行ってきた訴訟制度改革を継承・発展させたものであることが指摘され{{sfn|中井|2016|pp=37–39}}、後醍醐天皇は訴訟問題に関して実行力・知識ともに一定の力量を有していたことがわかってきている{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}{{sfn|中井|2016|pp=37–39}}。
しかし、先述のように、後醍醐は自身の個人的な裁断によって訴訟を解決しようとし、それは雑訴決断所開設後も本質的には変わらなかった(雑訴決断所は後醍醐の綸旨と決断所の牒をもって裁断されることになっていたが、このルールは建武2年(1335年)初頭には実行されなくなっていた<ref name="名前なし-3"/>)ため、社会の混乱は収まらず、むしろ拡大してしまった<ref name="名前なし-1"/>。
=== 武士への対応 ===
{{seealso|建武の新政#御家人制の撤廃|建武の新政#足利兄弟の重用}}
幕府を滅ぼしたことにより、後醍醐は武士に対して恩賞を与える立場となった。地方においては[[陸奥将軍府]]や[[鎌倉将軍府]]を開いてそのポストに武士を登用することで恩賞としたが、京には武士が新しく恩賞として獲得できるポストが存在しなかった。そのため、雑訴決断所を開設しそこに武士層を吸収させた<ref name="名前なし-3"/>。しかし、「二条河原の落書」に「器用の堪否沙汰もなく、もるる人なき決断所」と見えるように、才能の有無を考慮せずに任命が行われており、雑訴決断所は公家と武家を統合した権力組織として、後醍醐の専制政治の中核となるはずであったが、結果的に公家も武家も不満を募らせた。公家は家格から見れば極めて低い地位の執行官・吏僚にされてしまったことや、武家と共に働かねばならないことに納得ができず、武家は公家より立場が下であったことや、大して功も無いのに偉ぶっているのが気に食わなかった<ref name="名前なし-3"/>。つまり、決断所の人的構成(公家と武家)は「水と油の関係」であった。また、公家は訴訟関係の経験不足が著しく、そのような者を裁判機関の中に組み込んでも混乱が増すだけであった<ref name="名前なし-3"/>。
他にも後醍醐は、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]身分([[御恩と奉公]]によって[[征夷大将軍]]に直属する武士の特権階級)を撤廃した{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}。これは一つには当時御家人制度が社会の実態にそぐわなかったことが挙げられる{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}。
また、恩賞として[[官位]]を与える制度を再興し、数々の武士を朝廷の高官に取り立てた{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。[[公卿]]の親房からは厳しく批難されたものの、後には親房自身がこの制度を利用して南朝運営に大きな成功を挙げている(''→[[#北畠親房からの評価|北畠親房からの評価]]'')。
後醍醐天皇が好んでいたのは、行政的な実務手腕に優れた官僚型の武士であり、[[記録所]]・[[恩賞方]]・[[雑訴決断所]]といった新政権の重要機関に(特に雑訴決断所に)、鎌倉以来の実務官僚武家氏族が多く登用された{{sfn|森|2016}}。鎌倉幕府の本拠地[[鎌倉]]からよりも[[六波羅探題]]からの登用の方が多く、これは、鎌倉では[[北条氏]]と繋がりを持つ氏族からの縁故採用が多かったのに対し、六波羅探題には純粋に官僚的能力によって昇進した実力派が集っていたからではないか、という{{sfn|森|2016}}。また、[[森幸夫]]によれば、一般的には武将としての印象が強い[[楠木正成]]と[[名和長年]]だが、この二人は特に建武政権の最高政務機関である[[記録所]]寄人に大抜擢されていることから、実務官僚としても相応の手腕を有していたのではないか、という{{sfn|森|2016|pp=65–68}}。
後醍醐天皇に抜擢され、地方から京に集った武家官僚たちは、京都という政治・文化の中枢に身を置くことで、能力や地位を向上させていった{{sfn|森|2016|pp=82–83}}。例えば、[[諏訪円忠]]は、鎌倉幕府では一[[奉行人]]に過ぎなかったが、建武政権で[[雑訴決断所]]職員を経験して能力と人脈を磨いたのち、室町幕府では最高政務機関である[[評定衆]]の一人となっている{{sfn|森|2016|pp=82–83}}。中でも著名なのが、後に室町幕府初代[[執事 (室町幕府)|執事]]となる[[足利氏]]執事[[高師直]]で、[[亀田俊和]]によれば、地方の一勢力の家宰に過ぎなかった師直が、政治家としても武将としても全国的な水準で一流になることが出来たのは、建武政権下で楠木正成ら優秀な人材と交流できたからではないか、という{{sfn|亀田|2015|loc=室町幕府発足以前の高師直>鎌倉幕府〜建武政権下の師直>武者所の師直}}。高師直は、後に、後醍醐天皇の政策の多くを改良した上で室町幕府に取り入れている{{sfn|亀田|2014|pp=64–70}}。
また、([[建武の乱]]が発生するまでは)[[足利尊氏]]をことのほか寵愛した{{sfn|花田|2016|pp=189–191}}{{efn|一方、[[細川重男]]は、後醍醐天皇が尊氏を寵遇したのは、「駒」の一つとしてであり、心の底からのものではなかったのではないか、としている{{sfn|細川|2016|pp=102–103}}。}}。尊氏の名は初め「高氏」と表記したが([[北条高時]]からの偏諱)、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降、足利尊氏と名乗るようになった<ref name="dainihon-shiryo-6-1-170">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0170 『大日本史料』6編1冊170–181頁].</ref>。元弘の乱後の軍功認定は、尊氏と[[護良親王]](後醍醐天皇の実子)が担ったが、護良親王が独自の権限で認定したのに対し、尊氏は後醍醐天皇の忠実な代行者として、護良親王以上の勤勉さで軍功認定を行った{{sfn|吉原|2002|pp=41–44}}。後醍醐天皇は尊氏に30ヶ所の土地と{{sfn|花田|2016|pp=187–189}}、[[鎮守府将軍]]・[[左兵衛督]]・[[武蔵守]]・[[参議]]など重要官職を惜しみなく与え{{sfn|花田|2016|pp=189–191}}、さらに鎮守府将軍として建武政権の全軍指揮権を委ねて、政治の中枢に取り入れた{{sfn|吉原|2002|pp=48–51}}。鎮守府将軍はお飾りの地位ではなく、尊氏は九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限を行使した{{sfn|吉原|2002|pp=48–51}}。弟の直義もまた、15ヶ所の土地{{sfn|花田|2016|pp=187–189}}と[[鎌倉将軍府]]執権(実質的な関東の指導者)など任じられた。なお、『[[梅松論]]』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏が政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、[[吉原弘道]]は、新研究の成果を踏まえ、尊氏が受けた異例の厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している{{sfn|吉原|2002|p=52}}。
後醍醐天皇は、既に倒れた[[得宗]][[北条高時]]に対しては、その冥福を祈り、[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])3月ごろ、腹心の尊氏に命じて、[[鎌倉]]の高時屋敷跡に[[宝戒寺]]を建立することを企画した<ref name="hokaiji">{{Citation | 和書 | title=日本歴史地名大系 | publisher=平凡社 | date=2006 | contribution = 神奈川県:鎌倉市 > 小町村 > 宝戒寺 }}</ref>{{efn|足利尊氏寄進状[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]付(『神奈川県史』資料編3所収)<ref name="hokaiji"/>}}。その後の戦乱で造営は一時中断されていたが、[[観応の擾乱]](1350–1352)を制して幕府の実権を握った尊氏は、[[円観]]を名義上の開山(二世の[[惟賢]]を実質的な開山)として、[[正平 (日本)|正平]]8年/[[文和]]2年([[1353年]])春ごろから造営を再開、翌年ごろには完成させ、後醍醐の遺志を完遂している<ref name="hokaiji"/>{{efn|「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)<ref name="hokaiji"/>}}。また、高時の遺児の[[北条時行]]は[[中先代の乱]]で一時は後醍醐天皇に反旗を翻したが、のち[[南北朝の内乱]]が始まると尊氏よりは後醍醐に付くことを望み、後醍醐もこれを許して、有力武将として重用した<ref>{{Citation | 和書 | last=鈴木 | first=由美 | author-link=鈴木由美 | editor=日本史史料研究会 | editor2-last=呉座 | editor2-first=勇一 | editor2-link=呉座勇一 | chapter=【北条氏と南朝】5 鎌倉幕府滅亡後も、戦いつづけた北条一族 | title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで | pages=110–128 | publisher=[[洋泉社]] | series=歴史新書y | year=2016 | isbn=978-4800310071 }}. pp. 119–126.</ref>。
とはいえ、後醍醐天皇に対立し続けた武家氏族は、建武政権では信任されなかった{{sfn|森|2016|pp=79–82}}。<!-- (場所が違うため一旦コメントアウト…別の箇所にやや改変して移動する予定)。後醍醐天皇は、自らの最大の敵である鎌倉幕府を「[[四夷|戎夷]]」(じゅうい、獣のような野蛮人)と蔑み、奴らが天下を治めるなどとんでもない、と言ってのけた(『[[花園天皇日記]]』正中元年([[1324年]])11月14日条){{sfn|細川|2016|pp=102–103}}。-->たとえば、[[摂津氏]]・[[松田氏]]・[[斎藤氏]]らは、鎌倉幕府・六波羅探題で代々実務官僚を務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇の好みに合っていたはずだが、北条氏に最後まで忠誠を尽くしたため、数人の例外を除き、建武政権下ではほぼ登用されることはなかった{{sfn|森|2016|pp=79–82}}。
建武の乱の発生以降は、かつては寵遇した尊氏を「凶徒」と名指しするなど、対決路線を明確にした(『阿蘇文書』(『[[南北朝遺文]] 九州編一』514号)){{sfn|森|2017|loc=終章 果たして尊氏は「逆賊」か>足利尊氏の死去}}。その一方で、北畠親房や親房を信任した[[後村上天皇]]が偏諱の事実を拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し、後醍醐天皇は最期まで尊氏のことを一貫して「尊氏」と書き続けた{{sfn|岡野|2009|pp=68-70}}{{sfn|森|2017|loc=終章 果たして尊氏は「逆賊」か>果たして尊氏は「逆賊」}}。このことについて、[[森茂暁]]は「後醍醐のせめてもの配慮なのかもしれない」{{sfn|森|2017|loc=終章 果たして尊氏は「逆賊」か>果たして尊氏は「逆賊」}}とし、[[岡野友彦]]もまた、尊氏を徹底的に嫌う親房とは温度差があり、建武の乱発生後も、後醍醐は親房ほどには尊氏を敵視していなかったのではないかとする{{sfn|岡野|2009|pp=68-70}}。
=== 朝儀復興者 ===
{{seealso|建武年中行事}}
[[鎌倉時代]]後期、[[徳政]]という思想が普及し、悪しき政治は天変地異に繋がると考えられたため([[天人相関説]])、為政者たちは善政に励み、天災を防ごうとした{{sfn|中井|2016|pp=27–28}}。徳政の最も重大な事項は訴訟制度改革であるが{{sfn|中井|2016|pp=30–32}}{{sfn|甲斐|2007|pp=30–31}}、それに次いで、[[朝儀]](古代の朝廷儀礼)を復興させることも重要な課題と考えられていた{{sfn|甲斐|2007|pp=30–31}}。後醍醐天皇は特に[[延喜・天暦の治]]([[10世紀]]の[[醍醐天皇|醍醐]]・[[村上天皇|村上]]両帝の治世)を復興すべき徳政・朝儀の理想像とした{{sfn|甲斐|2007|pp=28–30}}。朝儀復興者としての後醍醐は、鎌倉時代末期の世人に「聖代」と仰がれ(『[[後伏見天皇]]事書』)、南北朝時代には[[北朝 (日本)|北朝]]の[[准三宮]][[二条良基]]からも敬意を払われた{{sfn|甲斐|2007|pp=30–31}}。
後醍醐天皇は特に朝儀の研究面において、[[有職故実]]に精通し、自ら『[[建武年中行事]]』という書を著して、朝廷の権威高揚を図った。この書籍は、行事の起源などの逸話は省略され、いつどのように実行するかという次第が書かれた実践書となっており、[[酒井信彦]]は、建武の新政下での儀礼執行への手引書として実践目的で書かれたものではないかと推測している<ref>{{Citation | 和書 | last = 酒井 | first = 信彦 | author-link = 酒井信彦 | contribution = 建武年中行事 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。「未来の先例たるべし」という新政の意気込みと対照的に、こちらの序文では「まあ後世の鑑(手本)というほどのものではないにしても、ひょっとしたら、この時代にはこんなことがあったのだなあと、〔後の世の人たちにとって〕何かの参考にはなるかもしれない」{{efn|『[[建武年中行事]]』「行末のかゞみまではなくとも、おのづから、またその世にはかくこそ有けれ、などやうの物語のたよりには成なんかし」{{sfn|後醍醐天皇|和田|1930|p=3}}}}と述べている{{sfn|後醍醐天皇|和田|1930|p=3}}。
『建武年中行事』は宮中で高く評価された。[[後花園天皇]](在位1428年 - 1464年)はこれを書写して註釈をつけ、廃れていた行事をこの書に倣って復興するよう、息子の[[後土御門天皇]](在位1464年 - 1500年)に薦めた{{sfn|後醍醐天皇|和田|1930|p=3}}。のち自身も『[[後水尾院年中行事]]』を著した[[後水尾天皇]](在位1611年 - 1629年)も、同書を[[順徳天皇]]の『[[禁秘抄]]』と並ぶ宝典とし、後世まで残る鑑だと称賛した{{sfn|後醍醐天皇|和田|1930|loc=緒言}}。
また、後醍醐天皇は[[建武の新政]]下で[[大内裏]]造営を計画したが、[[甲斐玄洋]]は、これはただの権力誇示ではなく、「聖代の政務の場」を復興させることで、徳政を目指したのではないかと主張している{{sfn|甲斐|2007|pp=28–30}}。しかしその反面、大内裏造営計画は重税にも繋がることになった{{sfn|甲斐|2007|pp=28–30}}{{sfn|亀田|2014|pp=168–169}}。[[公卿]]・[[鎮守府大将軍]]の[[北畠顕家]]([[北畠親房]]の長男)は、『[[北畠顕家上奏文]]』([[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]]))で重税を諌めたが、これは一般に大内裏造営への批判も含まれていると考えられている{{sfn|亀田|2014|pp=168–169}}。[[亀田俊和]]は、造営計画自体は間違いとは思わないが、[[元弘の乱]]による疲弊が回復しきっていない時期に行ったという点が問題であると指摘した{{sfn|亀田|2014|pp=168–169}}。
後醍醐天皇は、建武の新政の後期には、[[綸旨]](天皇の私的な命令文)の代わりに、[[太政官]]([[律令制]]の最高機関)の正式な公文書である[[太政官符]]を多く発給した{{sfn|甲斐|2007|pp=18–19}}。甲斐は太政官符発給は朝儀復興の一環であり、公家徳政を志す後醍醐天皇の政治構想に沿ったものであると主張した{{sfn|甲斐|2007|pp=18–31}}。
=== 禅宗 ===
==== 概要 ====
後醍醐天皇は、[[両統迭立]]期([[1242年]] - [[1392年]])において最も[[禅宗]]を庇護した天皇だった{{sfn|内田|2010|pp=219–221}}。[[後嵯峨天皇]]から[[後亀山天皇]]の治世まで、仏僧に対する[[国師号]]授与は計25回行われ、うち20回が[[臨済宗]]の禅僧に対するものであるが、後醍醐天皇は計12回の国師号授与を行い、そのうちの10回が臨済宗へのものであり{{efn|例外の2回は、[[華厳宗]]の[[俊才 (華厳宗)|俊才]]に対する「俊才国師」と、[[浄土宗]]の[[如一 (浄土宗)|如一]]に対する「如一国師」(なお、内田 2010の本文では如一が臨済宗と誤植されている){{sfn|内田|2010|p=221}}。}}、単独でこの時期の全天皇の興禅事業の半数を占める{{sfn|内田|2010|pp=219–221}}。
中世日本では、[[天台宗]]や[[真言宗]]といった旧仏教は学問偏重の傾向にあり、しかも高貴な家柄に生まれた僧侶だけが要職に就くことが出来た{{sfn|大塚|2016|pp=236–238}}。[[禅宗]]や[[律宗]]の僧侶はこれに異を唱え、戒律を重視したため、身分としては低かったが、武家や大衆から広く人気を集めた{{sfn|大塚|2016|pp=236–238}}。後醍醐天皇の属する[[大覚寺統]]もまた禅宗に着目し、[[亀山天皇|亀山上皇]](後醍醐祖父)は[[京都]][[南禅寺]]を開き、[[後宇多天皇|後宇多上皇]](後醍醐父)は[[鎌倉幕府]]からの許可を取った上で南禅寺に[[鎌倉五山]]に准じる寺格を認めた{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。後醍醐の興禅事業は父祖の延長にあるものである{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。
以下が、後醍醐天皇の臨済宗における国師の一覧である。
* [[約翁徳倹]]([[元応]]2年([[1320年]])[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]{{efn|ただし、この時期の[[治天の君]]は[[後宇多天皇|後宇多法皇]]である{{sfn|森|2012|loc=第2章第1節}}。}}) - 「仏燈大光国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}
* [[無関玄悟]]([[元亨]]3年([[1324年]])[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - 「大明国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}
* [[潜渓処謙]]([[嘉暦]]3年([[1328年]])[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - 「普円国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}
* [[規庵祖円]](嘉暦3年(1328年)[[11月 (旧暦)|11月]]) - 「南院国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}
* [[無本覚心]]([[元徳]]2年([[1330年]])秋) - 「円明国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}
* [[夢窓疎石]]([[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[10月 (旧暦)|10月]]) - 「夢窓国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}、''→[[#愛石家|愛石家]]''
* [[孤峯覚明]](建武2年(1335年)[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - 「国済国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}、後醍醐は[[元弘の乱]]で[[隠岐国]]を脱出した直後の閏2月28日に、当時出雲にいた孤峯を呼んで面会した{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}
* [[宗峰妙超]]([[延元]]4年/[[暦応]]2年([[1339年]])[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - 「高照正燈国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}、なお「興善大燈国師」の略「大燈国師」の通称の方が著名
* 宗峰妙超(時期不明) - 「正燈国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}、前項と合わせ後醍醐から計二回の授与
* [[通翁鏡円]](時期不明) - 「普照大光国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}
この他、[[五山文学]]の旗手であり[[儒学者]]・[[数学者]]としても知られる[[中巌円月]]を召し出し、『上建武天子表』『原民』『原僧』といった政治論を献呈された<ref>{{Citation | 和書 | last = 蔭木 | first = 英雄 | author-link = 蔭木英雄 | title = 中世禅者の軌跡:中厳円月 | publisher = [[法蔵館]] | series = 法蔵選書 | date = 1987 | isbn=978-4831810427 }} pp. 118–121。</ref>。
元徳2年(1330年)、[[元 (王朝)|元]]から来訪した[[明極楚俊]](みんきそしゅん)が鎌倉に向かう途上、明極を引き止めて御所に参内させたが、当時の天皇が外国人と直接対面するのは異例の事態である{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。明極の他、元の臨済僧としては[[清拙正澄]]も重用した{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。
後醍醐天皇の皇子の一人とも伝えられる[[無文元選]]は臨済宗の高僧として大成し、[[遠江国]][[方広寺 (浜松市)|方広寺]]の開山となり、「聖鑑国師」「円明大師」の諡号を追贈された<ref name="mumon-gensen-kokushi">{{Citation | 和書 | last = 竹貫 | first = 元勝 | author-link = 竹貫元勝 | contribution = 無文元選 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。
* [[川瀬一馬]]は、夢窓疎石が[[南禅寺]]住職を固辞したとき、後醍醐が「仏法の隆替は人を得るか得ないかによる」と熱意をもって夢窓を説得した故事を取り上げ、禅宗が鎌倉時代に滅びずその後も続くことになったのは、この時の後醍醐天皇の人選のためであると、高く評価している<ref name="kawase-2000">{{Citation | 和書 | author = [[夢窓疎石]] | editor-last = 川瀬 | editor-first = 一馬 | editor-link = 川瀬一馬 | title = 夢中問答集 | publisher = [[講談社]] | series = 講談社学術文庫 | date = 2000 | isbn=978-4061594418 }} 解説。</ref>。また、以降の武家思想や武家文化が禅に根ざしてることを考えれば、これらの分野における後醍醐天皇の影響も小さくはない、としている<ref name="kawase-2000" />。
* [[大塚紀弘]]は、禅宗興行は大衆からの支持を集めるための政治的な意図も大きく、禅宗にもある程度の帰依はしていたとはいえ、基本路線としては密教の方を中心に据えていたのではないかという{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。
* [[内田啓一]]によれば、[[空海]]を頂点とする大きな三角形を為す[[真言密教]]に対し、後醍醐天皇の視点では、臨済禅は「小さな三角形」の集合体に見え、その各三角形の頂点に国師号を贈ることで禅宗界の掌握を図ったものではないかという{{sfn|内田|2010|p=222}}。
* [[保立道久]]は、宗教界の隆盛や大衆の人気取りといったものより、後醍醐はむしろ国家統合の象徴という、より大きな枠組みで禅を捉えていたのではないかとし、日本史に決定的な影響を与えたとして高く評価している(次節[[#禅律国家構想]]参照)。
==== 禅律国家構想 ====
2018年、[[日本史]]研究者の[[保立道久]]が唱えた説によれば、後醍醐天皇の禅宗政策からは、後醍醐が融和路線を志向する政治家であることが見て取れ、皇統が分裂した[[両統迭立]]を友好的に解消するための手段として、禅宗を活用しようとした形跡が見られるという。また、その禅宗政策は、歴史的意義としても、鎌倉時代→建武政権→室町幕府→江戸幕府という連続性を見ることができ、公武を超えた国家統合の枠組みとして後醍醐が具体的に禅宗を提示したからこそ、その後、[[明治維新]]まで500年以上続く武家禅宗国家体制が成立したのではないか、という。
もともと禅宗はどちらかといえば後醍醐ら[[大覚寺統]]が支持する新興宗教であったが、[[持明院統]]でも例外的に[[花園天皇]]は禅宗に深く帰依し、特に[[大徳寺]]の[[宗峰妙超]]を崇敬していた{{sfn|保立|2018|pp=266–283}}。後醍醐の側も花園の姿勢に好意を持ち、花園を追って大徳寺と宗峰妙超を篤く敬い、両帝ともに大徳寺を祈願所と設定していた{{sfn|保立|2018|pp=266–283}}。その後、後醍醐天皇は[[鎌倉幕府]]を倒すと、京に帰還して[[建武の新政]]を開始した翌々日の[[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]という早期の段階で、[[大徳寺]]に「大徳寺領事、管領不可有相違者」との[[綸旨]](天皇の命令文)を発した(『大日本古文書 大徳寺文書』67、中御門宣明奉){{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。この後もたびたび、大徳寺は所領寄進などをすばやく受けており、その手篤さは[[真言律宗]]の本拠地である[[西大寺 (奈良市)|西大寺]](後醍醐腹心の[[文観|文観房弘真]]の支持母体)と並ぶほどであったという{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。
同年8月24日にはさらに後醍醐自筆の[[置文]]で「大徳禅寺者、宜為本朝無双禅苑」「門弟相承、不許他門住」(『大日本古文書 大徳寺文書』1)と日本最高の禅寺であることが明言され{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}、10月1日には正式に綸旨で「[[京都五山|五山]]之其一」(『大日本古文書 大徳寺文書』14)とされた{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。翌年1月26日に後醍醐は[[南禅寺]](祖父の[[亀山天皇]]が開いた禅寺)を京都五山第一と定めると、2日後の28日に改めて大徳寺を南禅寺と並ぶ寺格とし「[[南宗]]単伝の浄場なり」と称した(『大日本古文書 大徳寺文書』15){{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。南宗云々とはつまり、大徳寺が国家寺院であると宣言したことと解釈可能である{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。
さて、大徳寺への寺領安堵の時期(6月7日)を見てみると、これは実は、[[持明院統]]への王家領安堵の時期と同日である{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。したがって、保立によれば、この二つは連動した政策であったのではないかという{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。最も注目されるのは、かつて[[花園天皇|花園上皇]]が大徳寺の[[宗峰妙超]]に寄進していた[[室町院領]]の「伴野床・葛西御厨」の安堵については、花園からの大徳寺への寄進を[[後伏見天皇|後伏見上皇]]に確認させる、という煩雑な手続きを踏んで行ったことである(『鎌倉遺文』32242・『大日本古文書 大徳寺文書』30){{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。この措置によって、大徳寺が改めて大覚寺統と持明院統の双方から崇敬を受けるという形式になったのである{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。室町院領はもともと大覚寺統・持明院統という天皇家内部の紛争の火種になっていた荘園群のため、これらが大徳寺という宗教的・中立的な組織に付けられたことの意味は大きい{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。つまり、後醍醐天皇は持明院統との融和路線を目指し、公家一統の象徴として大徳寺を表に立てたのではないか、という{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。
しかも、後醍醐天皇は、「本朝無双禅苑」「五山之其一」といったただの華やかな名目で大徳寺を飾り立てるだけではなく、実際の造営や寺地確保においても、他の仏教宗派との紛争が起こらないように、細やかに腐心した痕跡が見られる{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。たとえば、後醍醐が建武の新政時に大徳寺に与えた寺域は、[[天台宗]]の円融院・[[三千院|梶井門跡]]と接している{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。ここで、当時の梶井門跡を管領していたのは、後醍醐の皇子で[[天台座主]]の尊澄法親王(のちの征夷大将軍・[[宗良親王]])だった{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。尊澄(宗良)は元弘の乱以前、自身と関連がある善持寺という寺院の土地が、開堂したばかりの大徳寺に流入してしまう件を快く了承したことがあるなど(『大日本古文書 大徳寺文書』1-168)、天台宗[[延暦寺]]最高の地位にある僧でありながら、禅宗にも理解のある人物だった{{efn|[[保立道久]]は、さらに[[北畠親子]]([[北畠師親]]の娘)の大徳寺への寄進と、後醍醐・親子の子とされてきた天台座主・尊雲法親王([[護良親王]])との関係について論じている{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。しかし親子は護良の母ではないという説もあり([[護良親王#誕生]])、詳細は不明。}}{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。このように、首都・京都に新たに大きな禅宗の寺院を造営・拡大するにあたって、自身の人脈によって、最も強い障害と考えられる仏教界の旧勢力・天台宗との軋轢を起こさないように図っている{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。この後醍醐の融和的な姿勢は、建武政権期で一貫したものだったと見られ、建武元年(1334年)10月20日の綸旨で再度敷地の確認を行っている(『大日本古文書 大徳寺文書』50){{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。
無論、その後の[[建武の乱]]で建武政権が崩壊してしまったため、結果論としては、後醍醐の宥和計画である大徳寺を通じた公家一統そのものは成功しなかった{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。とはいえ、歴史的意義がなかったといえば、そうではなく、むしろ逆で、後醍醐の禅宗政策はその後の日本の歴史に決定的な影響を与えた{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。
[[宋学]](新[[儒学]])は、しばしば宋学の中の一つに過ぎない[[朱子学]]と同じものであると誤解されることが多いが、それは事実ではなく、この時代の宋学は禅宗とは不可分一体のものだった{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。[[鎌倉時代]]、日本が[[モンゴル帝国]]の脅威に晒されると、公武の各有識者は、それまでのナショナリズムを捨て、日本の近代化を図るべく、宋学と禅宗が一体になった思想を、[[南宋]]の禅僧である[[無準師範]]の門下や、南宋から日本に渡来した[[蘭渓道隆]]を通じて学んだ{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。この時点では、禅宗・宋学は諸勢力によってばらばらに学ばれるものに過ぎなかったが、後醍醐によって初めて禅律国家というものが具体的に提示され、国家統合の象徴として用いられることで、その後の隆盛が保証されることになった{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。保立によれば、後醍醐の肖像画が、律宗の西大寺出身の文観と、禅宗の大徳寺によって所持されたことがその端的な象徴ではないか、という{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。
ただし、後醍醐だけが宋学に傾倒していたわけではない。たとえば、[[元応]]3年([[1321年]])に「讖緯説」を基に[[元享]]へ改元する協議が為された際は、「讖緯説は『[[易緯度]]』や『[[詩緯]]』に依拠するものである」という宋学的な理由([[欧陽脩]]や[[朱熹]]が同じような理由で讖緯説を否定している)で、大外記・[[中原師雄]]を始め、協議に参加した全員が「緯説用ふべからざる事」を主張した。また、[[北畠親房]]も讖緯説を「奇怪虚誕の事」と否定している<ref name="名前なし-5">兵藤裕己『後醍醐天皇』2018年 岩波書店</ref>。また、[[一条兼良]]の『[[尺素往来]]』によれば、儒学は従来は清原・中原両家によって「前後漢、晋、唐朝の博士」の旧注が用いられていたが、「近代」には[[玄恵]]が「程朱二公(宋学の大成者である[[程頤]]、[[朱熹]]のこと)」の「新釈」を用いて朝廷で「議席」を開いたという<ref name="名前なし-5"/>。加えて、『花園院宸記』元応3年(1319年)閏7月22日条によれば、[[持明院殿]]で行われた『[[論語]]』の談義に、日野資朝や[[菅原公時]]』らの学者官僚に混じって、玄恵らの宋学に通じた僧侶も参加し、花園院は特に玄恵の説くところを「誠に道に達するか」と讃えている<ref name="名前なし-5"/>。
後醍醐の政策は、建武政権崩壊後も、足利政権によって武家禅宗国家として発展的に受け継がれた、という説もある{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。[[足利尊氏]]・[[足利直義|直義]]兄弟によって後醍醐の冥福のために[[天龍寺]]が創建されたのはあまりにも有名であり、[[足利義満]]もまた、後醍醐によって才覚を発掘された禅僧[[夢窓疎石]]を名目の開山とし、[[相国寺]]を建立している{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。このように、足利氏政権が禅宗・儒学を国家の理念と位置づけ、しかも禅宗寺院が宗教上だけではなく経済的・社会的にも大きな役割を果たすようになったのは、建武政権からの連続性を否定できない、という{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。その後、武家禅宗国家は[[江戸幕府]]が崩壊するまで500年以上続くことになるが、「禅宗は武家のもの」という認識は江戸幕府が禅宗を深化させたのを過去遡及的に当てはめた理解に過ぎず、実際は、公武を超えた国家的事業に禅を据えた後醍醐こそが、武家禅宗国家の成立を切り開いた人物であると言えるのではないか、という{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。
しかし、観念的な外来思想である宋学は王朝政治のためのものであり、室町時代においてそれは京都の朝廷での狭い世界でしか通用しないものであったため、尊氏自身はその思想に興味はなく、「三島神社文書」に見えるように、鎌倉以来の武家政治の中で培われた、個別具体的な主従制や、行政や裁判を通じて生活に密着した統治思想に重きを置いていた<ref name="名前なし-1"/>。
=== 律宗 ===
後醍醐天皇の祖父の[[亀山天皇]]は、[[真言律宗]]の開祖である[[叡尊]]に深く帰依したが、後醍醐もまた[[律宗]]の振興を図った。
律宗とは、特にその代表者である叡尊の活動について言えば、1. 仏教界の堕落に対処するため、[[戒律]](仏教における規律・規範)を重視して復興を図ったこと([[律宗]])、2. [[釈迦]]・[[文殊菩薩]]・[[仏舎利|舎利]](しゃり、釈迦の遺骨)への信仰を重視し、荒廃した寺院を復興し、様々な仏像を作成させたこと、3. 大衆との関わりを重視し、貧民救済などの慈善事業を活発に行ったこと([[忍性]]も参照)、4. 密教僧として、鎌倉時代を代表する密教美術の制作を多く指揮・監修したこと、などが挙げられる{{sfn|内田|2006|pp=4–5}}。
後醍醐は、嘉暦3年([[1328年]])5月26日から始まる[[元徳]]2年([[1330年]])までの3年間、真言律宗の[[忍性]]に「忍性菩薩」、[[信空 (真言律宗)|信空]]に「慈真和尚」、[[唐招提寺]]中興の祖の[[覚盛]]に「大悲菩薩」の諡号を贈った(『僧官補任』){{sfn|内田|2006|pp=133–134}}。これらは、[[真言宗]]の高僧でありながら真言律宗が出身母体である腹心の[[文観|文観房弘真]]からの推挙が大きかったと見られる{{sfn|内田|2006|pp=133–134}}。
忍性は、貧民や[[ハンセン病]]患者、[[非人]]の救済に生涯を捧げた律僧である<ref>{{Citation | 和書 | last=坂本 | first=正仁 | author-link=坂本正仁 | contribution=忍性 | title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] | publisher=[[吉川弘文館]] | year=1997 }}</ref>。[[後伏見天皇]]から[[叡尊]]への「興正菩薩」が、[[正安]]2年([[1300年]])閏7月3日だから、律僧が諡号を贈られたのは約28年ぶりで、忍性の入滅からも25年が経っている{{sfn|内田|2006|pp=133–134}}。
後醍醐はまた、名誉を贈るだけではなく、各地の律宗の民衆救済事業に支援をしたと見られる。たとえば、東[[播磨国|播磨]]([[兵庫県]]東部)では、[[加古川]]水系の[[草谷川#五ヶ井用水|五ヶ井用水]]に対し、中世に何者かによって大規模な治水工事が行われ、その結果、700ヘクタールもの水田を潤す大型用水施設となり、[[加古川大堰]]が[[1989年]]に完成するまで、地域の富を生み出す心臓部になったことが知られている<ref>{{Cite web|和書| author=水土の礎 | url=https://suido-ishizue.jp/kokuei/kinki/hyogo/touban/0101.html | title=日本一のため池地帯、東播磨 | publisher=農業農村整備情報総合センター | website=水土の礎 | year=2005 | accessdate=2020-06-03 | ref = {{harvid|水土の礎|2005}} }}</ref>。[[金子哲 (歴史学者)|金子哲]]は、同時代の記録を突き合わせて、この事業は当時まだ20代後半から30代だった文観によって開始されたのではないか、とした{{sfn|金子|2019|pp=13–15}}。そして、同時期の同地に、文観によって立てられた石塔群が大覚寺統の勢力範囲内にあり、「[[転輪聖王|金輪聖王]]」([[天皇]])云々と掘られていることから、これらの事業には[[後宇多天皇|後宇多上皇]](後醍醐父)や[[皇太子]]尊治親王(のちの後醍醐天皇)からの支援があったのではないか、と推測した{{sfn|金子|2019|pp=13–15}}。
=== 神道家 ===
神道家としての後醍醐天皇は、[[大覚寺統]]の慣例に則り、当時廃れつつあった[[伊勢神宮]]を保護し、[[外宮]]の[[度会家行]]から[[伊勢神道]]を学んだ。この縁で、後醍醐天皇第一の側近であり中世最大の思想家・歴史家でもある[[北畠親房]]も伊勢神道の思想を取り込み、主著『[[神皇正統記]]』等に表現したため、日本の哲学・歴史学への思想的影響は大きい。
伊勢神宮は、古代日本では特殊な地位を築いていたが、律令制の崩壊や[[八幡宮]]・[[熊野神社]]の台頭によって、中世には権勢を失いかけていた<ref name="ise-shintou-kokushi">{{Citation | 和書 | last = 大隅 | first = 和雄 | author-link = 大隅和雄 | contribution = 伊勢神道 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。そこで、外宮の度会氏は伊勢神宮の独自性を保つため、独特の神道観を形成していった<ref name="ise-shintou-kokushi"/>。ところが、[[後深草天皇]]を初め、[[持明院統]]の天皇は[[斎王]](未婚の内親王もしくは女王を伊勢の[[斎宮]]に送り[[天照大神]]の御杖代(みつえしろ)=依り代の巫女として仕えさせること)の制度を無視したため、伊勢神宮はさらに打撃を受け、天皇家との繋がりさえも失いかけていた{{sfn|岡野|2009|pp=106–108}}。このような中、大覚寺統の天皇たちはなるべく斎王を送る制度を尊重したため、度会氏の側でも見返りとして秘伝である伊勢神道の書物を献上するようになっていた{{sfn|岡野|2009|pp=106–108}}。[[岡野友彦]]によれば、「[[神本仏迹]]」(しんぽんぶつじゃく)、つまり[[本地垂迹]]とは逆に、日本の神々の方が本体で仏がその化身であるという、伊勢神道独特の神道優位主義が、鎌倉幕府から自立したがる傾向にある大覚寺統の思想に相通じるものがあったのではないか、という{{sfn|岡野|2009|pp=106–108}}。
度会氏は、[[元弘]]2年/[[正慶]]元年(1332年)までに、[[後宇多天皇|後宇多法皇]](後醍醐の父)と後醍醐天皇へ、度会家行が編纂した『[[類聚神祇本源]]』を献上し、両帝は同書の叡覧(天子としての閲覧)をした{{sfn|岡野|2009|pp=106–108}}。また、後醍醐天皇は大覚寺統の慣習通り、[[元徳]]2年(1330年)に、[[中宮]]の[[西園寺禧子]]との間に生まれた[[懽子内親王]]を斎王として卜定(ぼくじょう、指名)したが、この直後に後醍醐が[[元弘の乱]]で隠岐に流されたため、実際に懽子内親王が伊勢に赴くことはなかった{{sfn|岡野|2009|pp=106–108}}。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開いた後醍醐は、寵姫[[阿野廉子]]との娘の[[祥子内親王]]を斎王に卜定したが、数年後に[[建武の乱]]で建武政権が崩壊したため、結局祥子内親王が歴史上最後の斎王となってしまった{{sfn|岡野|2009|pp=106–108}}。
その後、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、後醍醐側近の北畠親房は、[[宗良親王]]を奉じて[[伊勢国]]に下向したが{{sfn|岡野|2009|pp=97–99}}、このとき親房が頼ったのが、既に後醍醐天皇との繋がりがある度会家行だった{{sfn|岡野|2009|pp=104–105}}{{efn|なお、[[岡野友彦]]は、後醍醐天皇と度会家行の間の良好な関係に加えて、「法楽舎」(中世の伊勢神宮に置かれた仏教施設)へは[[村上源氏]]支配の強い[[醍醐寺]]から僧侶が送られることが多かったことを指摘し、[[北畠家]]が村上源氏の一員であることも、[[北畠親房]]が伊勢神宮に地盤を築くことに間接的に寄与したのではないか、と述べている{{sfn|岡野|2009|pp=108–112}}。}}。同地で、親房は家行から初めて伊勢神道を学び{{efn|なお、[[佐藤進一]]の『南北朝の動乱』(1965年)など古い研究書では、親房は前もって伊勢神道を身につけており、その(親房自身の)縁で家行を頼ったのだと解説されていた{{sfn|岡野|2009|p=105}}。しかし、[[白山芳太郎]]の『北畠親房の研究』(1998年)は親房の思想形成史を調べ、伊勢下向以前に親房が伊勢神道を学んだことはないと結論付けており、岡野友彦も白山説を支持している{{sfn|岡野|2009|p=105}}。}}、特に伊勢神道の諸書の梗概を編集して成立した『類聚神祇本源』には興味を示して自らの筆で書写し始め、延元2年/建武4年(1337年)7月以降に書写し終わった{{sfn|岡野|2009|pp=103–105}}。その後の親房の著作の中でも、特に『神皇正統記』『[[元々集]]』には伊勢神道からの影響が強く見られる<ref name="ise-shintou-kokushi"/>。
[[小笠原春夫]]は、この時期の度会家行・[[度会常昌]]・北畠親房・[[慈遍]]らの学派の活動について、「神道史上画期的な一出発の趣をな[す]」と評し、中世末期の[[吉田神道]]や近世初期の[[儒家神道]]などの後世の神道に対する影響は多大であると述べている<ref>{{Citation | 和書 | last = 小笠原 | first = 春夫 | author-link = 小笠原春夫 | contribution = 伊勢神道 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。
また、後醍醐天皇と伊勢神道の結びつきは南朝の軍事面にも貢献し、宗教[[権門]]として伊勢国の8郡を支配する伊勢神宮からの支援を得た北畠家は、伊勢国に地盤を築くことに成功し、[[伊勢国司]]北畠家として、戦国時代末期まで200年以上に渡り同地の大勢力として君臨した{{sfn|岡野|2009|pp=112–126}}。
一方、伊勢神宮の全てが南朝に協力した訳ではなく、中には[[北朝 (日本)|北朝]]側についた神主もいた{{sfn|大薮|2016|p=164}}。これは、神宮内部での派閥争いとも関連していると見られているが、詳細は不明であり、後醍醐天皇と伊勢神宮の関係は2010年代時点でも研究され尽くした訳ではない{{sfn|大薮|2016|p=164}}。
=== 書家 ===
書家としては、和風の様式に、中国の宋風から派生した禅宗様を加え、「宸翰様」(しんかんよう)と呼ばれる書風を確立し([[宸翰]](しんかん)とは天皇の直筆文のこと)、新風を書道界にもたらした<ref name="kakui-2007">{{Citation | 和書 | last = 角井 | first = 博 | author-link = 角井博 | contribution = 宸翰様 | title = 改訂新版世界大百科事典 | publisher = 平凡社 | publication-date = 2007}}</ref><ref name="zaitsu-2007">{{Citation | 和書 | last = 財津 | first = 永次 | author-link = 財津永次 | contribution = 書:日本 | title = 改訂新版世界大百科事典 | publisher = 平凡社 | publication-date = 2007}}</ref>。[[財津永次]]によれば、後醍醐天皇は、[[北宋]]の文人で「宋の四大家」の一人である[[黄庭堅]]の書風を、[[臨済宗|臨済禅]]の高僧[[宗峰妙超]](大燈国師)を介して習得したと思われるという<ref name="zaitsu-2007"/>。財津は後醍醐天皇の作を「覇気横溢した書として名高い」と評している<ref name="zaitsu-2007"/>。また、[[小松茂美]]は、後醍醐天皇を日本史上最も名高い能書帝としては[[伏見天皇]]に次いで取り上げ、「力に満ちた覇気あふれる書」を残したと評価している<ref>{{Citation | 和書 | last = 小松 | first = 茂美 | author-link = 小松茂美 | contribution = 書:書道流派の発生 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。
後醍醐天皇の書作品は、1951年から1955年にかけて、『[[後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)]]』<ref>{{国指定文化財等データベース|201|813|後醍醐天皇宸翰天長印信(〓牋)}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NA002/NA002.html | title=醍醐寺文化財データベース:後醍醐天皇宸翰天長印信(蝋牋) | publisher=[[醍醐寺]] | year=2013 | accessdate=2019-11-27 }}</ref>、『後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉』<ref>{{国指定文化財等データベース|201|801|後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉}}</ref>、『四天王寺縁起〈後醍醐天皇宸翰本〉』<ref>{{国指定文化財等データベース|201|639|四天王寺縁起〈根本本/後醍醐天皇宸翰本〉}}</ref>、『三朝宸翰』 (後醍醐天皇宸翰消息10通を含む)<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/exhibition/7110/|title=前田家の名宝I|publisher=石川県立美術館|accessdate=2021-01-02}}</ref> の4件が[[国宝]]に指定されている。
当時は後醍醐天皇に限らず南北両朝の天皇が競って書を研鑽したため、この時期の諸帝の宸翰は史料としてだけではなく、書道の芸術作品としても重要である<ref name="kakui-2007"/><ref name="zaitsu-2007"/>。その一方、[[角井博]]によれば、宸翰様は書風そのものの芸術的価値という点では評価が高いものの、和様書道の一部と見なされ、後世の書道への影響という点では特筆することがないという<ref name="kakui-2007"/>。
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File:Go-Daigo Tennō Shinkan Tenchō Injin (Rōsen).jpg|『[[後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)]]』(料紙装飾は[[文観]]、[[国宝]]、[[醍醐寺]]蔵)
File:Shitennoji engi.jpg|『四天王寺縁起〈後醍醐天皇宸翰本〉』(国宝、[[四天王寺]]蔵)
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=== 歌人 ===
==== 二条派の振興 ====
後醍醐天皇は和歌にも造詣が深かった{{sfn|永原|1994}}{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。『[[新後撰和歌集]]』から『[[新後拾遺和歌集]]』までの7つの[[勅撰和歌集]]に、多数の歌が入撰している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。これらの勅撰集の中でも、第16となる『[[続後拾遺和歌集]]』([[嘉暦]]元年([[1326年]])[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]返納)は、後醍醐天皇が[[二条為定]]を撰者として勅撰したものである<ref name="higuchi-1997">{{Citation | 和書 | last = 樋口 | first = 芳麻呂 | author-link = 樋口芳麻呂 | contribution = 続後拾遺和歌集 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。実子で南朝[[征夷大将軍]]の[[宗良親王]]が撰者であった南朝の准勅撰集『[[新葉和歌集]]』にも当然ながら入撰しており{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}{{sfn|佐藤|1997}}、また宗良親王の[[家集]]『[[李花集]]』には、内面の心境を吐露した和歌が収録されている{{sfn|佐藤|1997}}。南朝だけではなく、室町幕府初代将軍[[足利尊氏]]の執奏による北朝の勅撰集『[[新千載和歌集]]』でも24首が入撰しており、これは[[二条為世]]・[[二条為定]]・[[伏見天皇|伏見院]]・[[後宇多天皇|後宇多院]]・[[二条為氏]]らに次いで6番目に多い<ref>{{Citation | 和書 | last = 樋口 | first = 芳麻呂 | author-link = 樋口芳麻呂 | contribution = 新千載和歌集 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。自身も優れた武家歌人であった尊氏は、後醍醐天皇を弔う願文の中で、「素盞嗚尊之詠、伝我朝風俗之往策」と、後醍醐の和歌の才能を歌神である[[素盞嗚尊]](すさのおのみこと)になぞらえ、その詠み様は古い日本の歌風を再現するかのような古雅なものであったと評している<ref name="dainihon-shiryo-6-5-816" />。
後醍醐天皇は、当時の上流階級にとっての正統文芸であった和歌を庇護した有力なパトロンと見なされており、『[[増鏡]]』第13「秋のみ山」でも「当代(後醍醐)もまた敷島の道もてなさせ給」と賞賛されている{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。なお、鎌倉時代中期の[[阿仏尼]]『[[十六夜日記]]』に「やまとの歌の道は(中略)世を治め、物を和らぐるなかだち」とあるように、この当時の和歌はただの文芸ではなく、己の意志を表現して統治を円滑するための強力な政治道具とも考えられていた{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。
歌学上の業績としては、当時[[持明院統]]派閥の[[京極派]]に押されつつあった[[二条派]]を、[[大覚寺統]]の天皇として復興した{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。前述の『続後拾遺和歌集』の撰者に二条派の為定を採用したことが一例である。[[藤原北家]][[御子左流]]は「歌聖」[[藤原定家]]などを輩出した歌学の家系であるが、当時の歌壇は、御子左流嫡流で政治的には大覚寺統側だった二条家の二条派と、その庶流で政治的には持明院統側だった京極派に二分していた(ここに[[鎌倉幕府]]と親しかった[[冷泉派]]を加えることもある)<ref name="inoue-1997">{{Citation | 和書 | last = 井上 | first = 宗雄 | author-link = 井上宗雄 | contribution = 二条派 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。歌風としては、二条派は伝統性と平明性を尊び、対する京極派は清新性を尊んだという違いがある<ref name="inoue-1997"/>。国文学研究者の[[井上宗雄]]および日本史研究者の[[森茂暁]]によれば、儒学を重んじる後醍醐天皇は、二条派の中でも、二条家当主ではあるが古儀に疎い[[二条為世]]よりも、その次男で儒学的色彩の濃い[[二条為藤]]の歌を好んだという{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。その論拠として、『[[花園天皇宸記]]』元亨4年(1324年)7月26日条裏書には、為藤の評伝記事について「主上(後醍醐)、儒教の義理をもつて、推して歌道の本意を知る」とあることが挙げられる{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。森の主張によれば、後醍醐天皇は歌学の教養を二条派から摂取しただけではなく、その逆方向に後醍醐天皇から為藤やその甥の為定の歌風に対する影響も大きく、二条派に儒風を導入させたという{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。
また、後醍醐天皇は婚姻上でも御子左流二条家を優遇し、為世の娘(為定の叔母)であり、「歌聖」藤原定家からは曾孫にあたる[[二条為子]]を側室として迎えた{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。為子との間に、[[尊良親王]]および後に二条派最大の歌人の一人として南朝歌壇の中心となった宗良親王の男子二人をもうけている{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。『増鏡』では、後醍醐と為子は仲睦まじい夫婦だったと描かれている{{sfn|井上|1983b|pp=69–73}}。
==== 足利尊氏の発掘 ====
後醍醐天皇が勅撰を命じた『続後拾遺和歌集』で抜擢された武家歌人には、まだ「高氏」と名乗っていた頃の若き足利尊氏もいた{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}。尊氏は前回の『[[続千載和歌集]]』のときにも二条家に和歌を送っていたのだが、その時は不合格で入撰せず、送った和歌が突き返されてきた{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}。そこで、後醍醐天皇の時代に「かきすつるもくづなりとも此度は かへらでとまれ和歌の浦波」という和歌を送ったところ、今度は二条為定の眼に止まり、採用となったのである{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}(歌の大意:どうせ私の和歌など、[[紀伊国]][[和歌の浦]]で掻き集めて捨てる藻屑のように、書き捨てた紙屑だから、和歌の浦の波のように返ってくるのだろうが、どうか今度こそは返却されずに採用されて欲しい)。
なお、[[森茂暁]]は、『続後拾遺和歌集』が四季部奏覧された正中2年(1325年)という時期に着目し、これは[[正中の変]]で後醍醐天皇の鎌倉幕府転覆計画が発覚し、多数の手駒を失った翌年に当たるから、後醍醐の側で目ぼしい武士に恩を売って、少しでも反幕勢力を増やしたいという政治的意図があったのではないか、と推測している{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}。また、尊氏の側でも、政治的意図はまだ後醍醐ほどには強くなかっただろうにせよ、二条家の背後にいる後醍醐に接近したいという想いがあり、両者で利害が一致した結果の採用なのではないか、とも推測している{{sfn|森|2017|第一章 鎌倉期の足利尊氏>二 足利尊氏の登場> 『続後拾遺和歌集』への入集}}。ただし、2000年代後半以降、[[河内祥輔]]らによって、正中の変では後醍醐は倒幕を考えておらず、本当に冤罪だったとする説も唱えられている{{sfn|河内|2007|pp=304–347}}(詳細は当該項目参照)。
いずれにせよ、尊氏が後醍醐天皇から受けた影響は、単なる政治的なものには留まらず、歌学上でも後醍醐の意志を引き継いで二条派を振興した。[[南北朝の内乱]]が発生し、足利氏内部の実権が弟の[[足利直義]]に移った後、北朝(持明院統)で最初に勅撰された[[光厳天皇]]の『[[風雅和歌集]]』は京極派寄りであり、一時的に二条派は衰えた{{sfn|田中|2010|p=3}}。しかし、[[観応の擾乱]]で直義に勝利し将軍親政を開始した尊氏は、幕府・北朝安定政策の一環として、北朝の[[後光厳天皇]]に『新千載和歌集』を執奏した{{sfn|田中|2010|p=3}}。ここで尊氏は、自分が最初に入撰した『続後拾遺和歌集』の時の撰者である二条為定を、再び撰者に推薦した<ref name="inoue-1997-tamesada">{{Citation | 和書 | last = 井上 | first = 宗雄 | author-link = 井上宗雄 | contribution = 二条為定 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。さらに、[[五摂家]]の一つ[[九条流]][[二条家]]の当主で[[連歌]]の大成者でもある[[二条良基]](これまで登場してきた御子左流二条家とは別の家柄)は、[[有職故実]]研究者としての後醍醐天皇を尊敬しており{{sfn|甲斐|2007|p=30}}、皇統から言えば京極派であるはずの後光厳天皇にも、後醍醐天皇系の二条派を学ぶように説得し、後光厳天皇もこれに納得して二条派に転じた{{sfn|田中|2010|p=16}}。こうして、尊氏・良基の努力により、『新千載和歌集』の撰者には再び二条派の為定が復帰した<ref name="inoue-1997-tamesada"/>。
後醍醐天皇の二条派は最終的に京極派に勝利し、京極派が南北朝時代中期に滅んだのに対し、二条派は近世まで命脈を保った<ref name="inoue-1997"/>。その著名な伝承者としては、南朝の宗良親王や北朝の[[頓阿]]・[[卜部兼好|兼好法師]]、室町後期の[[宗祇]]・[[三条西実隆]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[三条西公条]]・[[三条西実枝]]・[[細川幽斎]]などがいる<ref name="inoue-1997"/>。幽斎の門下からは[[八条宮智仁親王|智仁親王]]・[[中院通勝]]らの堂上派と[[松永貞徳]]らの地下派に分かれて江戸時代に続き<ref name="inoue-1997"/>、江戸中後期には地下派の[[香川景柄]](1745–1821年)の養子となった[[香川景樹]](1768–1843年)が[[古今伝授]]の権威主義を批判し、二条派を発展的に解消して、その後継として実践を重んじる[[桂園派]]を新たに創始した<ref>{{Citation | 和書 | last = 兼清 | first = 正徳 | author-link = 兼清正徳 | contribution = 香川景樹 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。さらに[[明治時代]]には明治21年(1888年)に[[宮内省]]の部局[[御歌所]]の初代所長となった桂園派の[[高崎正風]]らが御歌所派を形成して、昭和21年(1946年)の御歌所廃止まで存続した<ref>{{Citation | 和書 | last = 橋本 | first = 不美男 | author-link = 橋本不美男 | contribution = 御歌所 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。
=== 文人 ===
文人としての後醍醐天皇の業績には、[[紫式部]]の小説『[[源氏物語]]』(11世紀初頭)の研究がある{{sfn|加藤|1990}}{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>『源氏物語』への関心}}。後醍醐天皇は『定家本源氏物語』や[[河内方]]の註釈書『[[水原抄]]』を読み込み、余白に自らの見解を書き入れた{{sfn|加藤|1990|p=104}}。また、[[四辻善成]]の『[[河海抄]]』(1360年代)の序文によれば、後醍醐天皇は即位後間もない頃、源氏物語の講演を開催して自説を展開し、これを聴講していた医師で歌人の[[丹波忠守]](善成の師)と意気投合して、その門下に入ったという{{sfn|加藤|1990|p=104}}。さらに、『[[原中最秘抄]]』(1364年)によれば、[[建武の新政]]の初期、公務の合間を縫って、河内方の研究者である[[行阿]]に命じて『河内本源氏物語』を献上させたり、源氏物語の登場人物の系図を自ら作成したりと、最も多忙な時期でも『源氏物語』研究を怠らなかったという{{sfn|加藤|1990|p=104}}。後醍醐天皇の研究成果は、嫡孫の[[長慶天皇]]に直接継承され、長慶は『源氏物語』の註釈書『[[仙源抄]]』を著作している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>『源氏物語』への関心}}。
なお、後醍醐天皇の弟弟子にあたる四辻善成の『河海抄』は、当時までの『源氏物語』の既存研究を列挙・検討した集大成的な研究書であるが、それまでの研究に見られない特徴として、『源氏物語』の「延喜天暦準拠説」を主張したことが知られる{{sfn|加藤|1990|p=104}}。つまり、登場人物の[[桐壺帝]]・[[朱雀帝]]・[[冷泉帝]]を、それぞれの実在の[[醍醐天皇]]・[[朱雀天皇]]・[[村上天皇]]に結びつけ、『源氏物語』は「[[延喜・天暦の治]]」{{efn|[[延喜・天暦の治]]:[[醍醐天皇]]から[[村上天皇]]の治世である897–967年のこと。14世紀の人間はこの頃を日本の最盛期と考えていた。}}を踏まえて描かれたものとして解釈しようとしたのである{{sfn|加藤|1990|p=104}}。
そして、国文学研究者の[[加藤洋介]]の論説によれば、「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は四辻善成の独創ではなく、実は後醍醐天皇によって考え出されたものではないか、という{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。その論拠としては、以下のことが挙げられる。
* 後醍醐天皇は延喜・天暦の治を理想として掲げていた{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
* 「延喜天暦準拠説」は『[[紫明抄]]』から発展して成立したと思われるが、後醍醐天皇の師の丹波忠守は後醍醐に会う以前から既に『紫明抄』を手に入れていた史証があり、したがって後醍醐が忠守から『紫明抄』を学んだ可能性は高い{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
* 長慶天皇の『仙源抄』には後醍醐天皇の研究成果も記されているが、善成の『[[珊瑚秘抄]]』の解釈と一致しており、偶然とは考えにくい{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
* 善成は、後醍醐天皇の『源氏物語』講釈を、村上天皇が「[[梨壺の五人]]」(『[[万葉集]]』の解読と『[[後撰和歌集]]』の編纂を行った五人の研究者)を編成した事業に喩えており、後醍醐と延喜・天暦の治を結び付けようとする意志が善成にも感じられる{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
そして、後醍醐天皇が考案した「『源氏物語』延喜天暦準拠説」は、共通の師である丹波忠守を介して、四辻善成に伝わったのではないか、という{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。また、後醍醐天皇にとって『源氏物語』研究とはただの趣味ではなく、王権を回復するための事業の一部であり、したがってその意志を受け継いだ善成の『河海抄』も、文学的な知見だけではなく、建武政権の性質を理解すること無しに読み解くことはできないのではないか、としている{{sfn|加藤|1990|pp=106–107}}。
以上の加藤の論説は、日本史研究者の[[森茂暁]]も「首肯される意見である」と賛同している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>『源氏物語』への関心}}。
=== 楽人 ===
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・皇族の間で習得が求められていた笛を[[粟田口嗣房]]、没後はその従兄弟の[[藤井嗣実]]から習得し、更に秘曲に関しては地下楽人の[[大神景光]]から習得していたとみられている{{sfn|豊永|2006|pp=97–101}}。特に「羅陵王」という舞楽曲の一部で秘曲として知られた「荒序」という曲を愛好し、たびたびこの曲を演奏している。この曲は平時には太平を寿ぎ、非常時には勝利を呼ぶ曲と言われ、元寇の時にも宮廷でたびたび演奏されていた。このため、「荒序」と討幕を関係づける説もある{{sfn|豊永|2006|pp=102–105}}。
更に後醍醐天皇は持明院統の天皇・皇族の間で習得が求められていた琵琶の習得にも積極的で、[[西園寺実兼]]に懇願して文保3年(1319年)1月10日には秘曲である慈尊万秋楽と揚真操を、元亨元年(1321年)6月15日には同じく秘曲の石上流泉と上原石上流泉の伝授を受け、翌元亨2年(1322年)5月26日には秘曲である啄木を実兼が進めた譜面を元に[[今出川兼季]]から伝授されている(実兼が病のため、息子の兼季が代理で教授した)。しかも天皇が伝授で用いたのは皇室の累代の名器とされた「[[玄上]]」であった。嘉暦3年(1328年)2月16日には、持明院統でも天皇しか伝授を受ける事が出来ないとされていた「啄木」の譜外口伝の伝授を兼季から受けていた。勅命である以上、兼季もこれを拒むことができず、その事情を伝えられた持明院統側では自らの系統を象徴する秘伝が大覚寺統の天皇に知られたことに衝撃が走った。[[後伏見天皇|後伏見上皇]]は日記の中で持明院統が守ってきた琵琶の道が今上(後醍醐天皇)に奪われてしまったと嘆いている{{sfn|豊永|2006|pp=105–109}}。
更に[[綾小路有頼]]から[[催馬楽]]の秘曲を、[[二条資親]]からは[[神楽]]の秘曲の伝授を受けるなど積極的に各種の音楽の奥義を極めた他、西園寺家や[[平等院]]、[[東大寺]][[正倉院]]から名器を召し上げて自らの物としており、物質面でも内容面でも両統迭立以来大覚寺統・持明院統で独自の文化を築きつつあった宮廷音楽の統一を図り、自らの権威を高めようとしていた{{sfn|豊永|2006|pp=110–121}}。
=== 茶人 ===
中世には[[闘茶]]([[茶道]]の前身)といって、茶の香りや味から産地を当てる遊びが流行したが、後醍醐天皇はそれを最も早く始めた人物の一人としても知られる<ref name="tocha">{{Citation | 和書 | last = 熊倉 | first = 功夫 | author-link = 熊倉功夫 | contribution = 闘茶 | title = [[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。闘茶会であると明言されたものの史料上の初見は、後醍醐天皇の政敵である[[光厳天皇]]が[[元弘]]2年/[[正慶]]元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1332年]][[6月28日]])に開いた茶寄合(『光厳天皇宸記』同日条)であるが、実際はそれに先立つ8年ごろ前に、後醍醐天皇の[[無礼講]]で開催された飲茶会(『[[花園院宸記]]』[[元亨]]四年[[11月1日 (旧暦)|十一月朔日]]条([[1324年]][[11月18日]]条))も闘茶であったろうと推測されている<ref name="tocha" />。
後醍醐天皇が開始した[[建武政権]](1333–1336年)の下では、闘茶が貴族社会の外にも爆発的に流行した様子が、当時の風刺詩『[[二条河原の落書]]』に「茶香十炷」として記されている<ref name="tocha" />。さらに、武士の間でも広まり、室町幕府の『[[建武式目]]』([[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1336年]][[12月10日]]))では茶寄合で賭け事をすることが禁じられ、『[[太平記]]』(1370年ごろ完成)でも、バサラ大名たちが豪華な[[室礼]]で部屋を飾り、大量の景品を積み上げて闘茶をしたという物語が描かれる<ref name="tocha" />。
また、[[茶器]]の一種で、[[金輪寺 (茶器)|金輪寺]](きんりんじ/こんりんじ)茶入という[[薄茶器]]([[薄茶]]を入れる容器)を代表する形式を考案した<ref name="kinrinji">{{Citation | 和書 | last = 満岡 | first = 忠成 | author-link = 満岡忠成 | contribution = 金輪寺茶入 | title = [[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。これは、後醍醐天皇が大和吉野の金輪寺([[修験道]]の総本山[[金峯山寺]])で「一字金輪の法」を修行していた時に、蔦の木株から茶入を作り、天皇自ら修験僧らのために茶を立てて振る舞ったのが起源であるという<ref name="kinrinji" />。また、『[[信長公記]]』『[[太閤記]]』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将[[織田信長]]は、後醍醐天皇御製の金輪寺の本歌(原品)であるという伝説の茶器を所持していたことがあり、[[天正]]7年([[1579年]])5月27日に、[[安土宗論]]で勝利した[[浄土宗]]高僧の[[貞安]]に下賜した<ref>{{Citation | 和書 | last=松浦 | first=静山 | author-link=松浦静山 | editor-last=中村 | editor-first=幸彦 | editor-link=中村幸彦 | editor2-last=中野 | editor2-first=三敏 | editor2=中野三敏 | title=甲子夜話三篇 2 | publisher=[[平凡社]] | series=[[東洋文庫]] 415 | year=1982 | isbn= 978-4582804157 | page=234 }}</ref>{{信頼性要検証|date=2019-11}}。
=== 愛石家 ===
中国では、[[北宋]](960–1127年)の頃から、[[盆石]](現代日本語の[[水石]])といって、山水の景色を想起させるような美石を愛でる趣味があり、日本へは鎌倉時代末期から南北朝時代ごろに、[[臨済宗]]の[[虎関師錬]]を代表とする禅僧によってもたらされた<ref name="murata-1994">{{Citation | 和書 | last = 村田 | first = 圭司 | author-link = 村田圭司 | contribution = 水石 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。唐物趣味で禅宗に深く帰依した後醍醐天皇もまた愛石家として「夢の浮橋」という名石を所持しており、[[徳川家康]]の手を経て、2019年現在は[[徳川美術館]]が所蔵している<ref name="murata-1994"/><ref name="tam-yume">{{Cite web|和書| url=https://www.tokugawa-art-museum.jp/exhibits/collection/room3/post-3/ | title=盆石 銘 夢の浮橋名物 | 第3展示室室礼 | 名品コレクション展示室 | 展示 | 名古屋・徳川美術館 | publisher=[[徳川美術館]] | accessdate=2019-11-27 }}</ref>。名前の通り橋状の石で、一見すると底面が地に密着するように見えるが、実際は両端のわずかな部分が接地するだけで、しかも橋のように安定性がある<ref name="tam-yume"/>。石底には朱漆で「夢の浮橋」の銘が書かれており、筆跡鑑定の結果、後醍醐天皇の自筆であると判明している<ref name="tam-yume"/>。その銘は『[[源氏物語]]』最終巻の「夢浮橋」に由来すると考えられている<ref name="tam-yume"/>。徳川美術館はこの石を「盆石中の王者」と評している<ref name="tam-yume"/>。
伝承によれば、「夢の浮橋」は、中国[[江蘇省]][[江寧山]]からもたらされた霊石であり、後醍醐天皇は[[元弘の乱]]で京都を離れた際にも、「夢の浮橋」を懐に入れて片時も手放さなかったと伝えられる<ref name="tam-yume"/>。
後醍醐天皇が才覚を見出した[[石立僧]](いしだてそう、自然石による作庭を得意とする仏僧)としては、[[臨済宗]]の[[夢窓疎石]]がいる。夢窓疎石はもと世俗での立身出世を嫌い、各地を転々として隠棲する禅僧であったが、正中2年(1325年)春、後醍醐天皇は夢窓を[[京都]][[南禅寺]]に招こうとし、一度は断られたものの、再び[[執権]][[北条高時]]を介して来京を願ったため、夢想はやむを得ず同年8月29日に上京し南禅寺に入った<ref name="musou-soseki">{{Citation | 和書 | last = 葉貫 | first = 磨哉 | author-link = 葉貫磨哉 | contribution = 夢窓疎石 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。この後、夢窓は執権高時の帰依をも受けるようになった<ref name="musou-soseki"/>。[[元弘の乱]]後、建武元年(1334年)9月に後醍醐天皇は正式に夢窓疎石に弟子入りし、建武2年(1335年)10月に「夢窓国師」の[[国師号]]を授けた<ref name="musou-soseki"/>。後醍醐天皇が崩御すると、夢窓疎石は[[足利尊氏]]・[[足利直義|直義]]兄弟に後醍醐天皇への冥福を祈るように薦め、このため足利兄弟は夢窓を開山として[[天龍寺]]を創建した<ref name="tenryuji">{{Citation | 和書 | last = 平井 | first = 俊榮 | author-link = 平井俊榮 | contribution = 天竜寺 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。夢窓は直義と協議して、[[天龍寺船]]を[[元 (王朝)|元]]に派遣して貿易の儲けで寺の建築費用を稼ぎ、自らの手で[[禅庭]]を設計した<ref name="tenryuji"/>。1994年、夢窓疎石の天龍寺庭園は、「[[古都京都の文化財|古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)]]」の一部として、[[ユネスコ]]によって[[世界遺産]]に登録された<ref name="tenryuji"/>。
=== 逸話 ===
;唐物趣味
:[[元亨]]4年([[1324年]])[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]、後醍醐天皇は[[二条道平]]・[[北畠親房]]・[[洞院公敏]]・[[中院光忠]]・[[洞院公泰]]ら6人の[[公卿]]・[[殿上人]]を集めると、[[唐物]](大陸から輸入した貴重品)を自慢気に見せびらかし、1人5点までを上限として、それぞれに好きなものを取らせた(『後光明照院関白記』(『[[道平公記]]』)同日条){{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。一見、微笑ましい逸話だが、実は奇妙な点ばかりである。まず、後醍醐天皇が自慢の唐物を見せびらかし、気前よく配った理由が不明である{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。集まった面々が腹心であり、この翌月には後醍醐天皇の倒幕計画が鎌倉幕府に発覚して騒動となる([[正中の変]])という時期を考えれば、正中の変との関係を疑いたくなるが、これら6人は正中の変では幕府から特に問題視されていない{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。しかも、これだけ大量の唐物をどこから手に入れてきたのか、なぜこの時点で鎌倉幕府を差し置いてそれだけの力を持っていたのかも不明である{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。確実に言えるのは、当時、後醍醐天皇とその一派は唐物趣味に熱狂しており、後醍醐天皇は困難を排してそれらを大量に獲得するだけの熱意と力を持っていたということである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐政権の特質>海外へのまなざし>中国文物への関心}}。
;大脱走と山盛りのイカ
:[[元弘の乱]]で[[隠岐国]]に幽閉された後醍醐天皇は、[[富士名雅清]]の手引で船を盗み出し、腹心[[千種忠顕]]と共に隠岐を脱出した<ref name="ika">{{Harvnb|梅松論上|1928|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/82 108]}}</ref>。脱走に気付いた隠岐国守護[[佐々木清高]]は千艘の大船団を率い、後醍醐天皇を追跡。船頭がこれに恐怖して逃げようとすると、後醍醐天皇は「汝恐るる事なかれ。急漕向て釣をたるべし(急いで清高の船に向かって漕ぎ、その側で釣り糸を垂れよ)」と、逆にあえて追手に接近せよという詔勅を船頭に発した<ref name="ika" />。さらに、自らを古代中国の聖君[[周]][[文王 (周)|文王]]に、船頭を釣り人から軍師に抜擢された文王の賢臣[[太公望]]になぞらえて、船頭を元気付けた<ref name="ika" />。近づいてきた船頭に対し、清高が「怪しい船が通りかからなかったか」と聞くと、船頭は「今朝方、出雲に向かった船を見ました。順風なので、もう渡海したころでしょう」と嘘をついた<ref name="ika" />。清高軍は船頭を疑って船を点検したが、後醍醐天皇の姿が全く見えないので、納得してそのまま出雲に向かった<ref name="ika" />。なんと、後醍醐天皇は山盛りの[[イカ]]で自分の身を覆い、隠れていたのである<ref name="ika" />。天皇である後醍醐が、自身の「玉体」(天子の肉体を聖化して言う言葉)をイカに隠すような真似をする訳がない、という固定観念を逆手にとって、絶海の孤島からの脱出劇を成功させたのだった(以上、『[[梅松論]]』上)<ref name="ika" />。
;腹心の千種忠顕になりきる
:隠岐国を脱出し、[[船上山]]に籠城した後醍醐天皇は、籠城に功績のあった在地の武士[[巨勢宗国]]に対し、側近の[[千種忠顕]]を「[[綸旨]](命令文)の奉者」(天皇の意を受けて文書を発給する係)として、感状を与えた<ref name="rinji-genko-3-3-4">{{Cite web|和書|url=https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/godaigo.htm|last=本郷|first=和人|author-link=本郷和人|title=後醍醐天皇「自筆」綸旨について|access-date=2019-11-03}}</ref>。ところが、このとき忠顕は軍事行動に就いており、船上山にはいないので、彼に綸旨を書いて貰うのは物理的に不可能である<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。実は、この綸旨を書いたのは後醍醐天皇自身で、奉者となる資格を持つ臣下が側にいなかったため、部下の忠顕になりきり、忠顕の[[花押]](サイン)を真似してまで、天皇が自分で自分の綸旨の奉者を装った、という前例の無い事件である{{efn|昭和初期、[[平泉澄]]によってこの綸旨が後醍醐天皇自筆であることは既に指摘されていたが(『建武』8巻1号、昭和18年)、[[第二次世界大戦]]後、[[皇国史観]]への反動から平泉の学説と業績が忘れ去られると共に、この史料も長く埋もれていた<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。}}<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。さて、世間によくある、「破天荒な後醍醐天皇」と言う通俗的な人物像からは、これもその破天荒さの一環と考えがちである<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。しかし、[[本郷和人]]によれば、この文書はむしろ後醍醐天皇の保守的・形式主義的な一面を表しているのではないか、という<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。もし後醍醐天皇が過激な改革者であったとすれば、[[蔵人]](秘書官)・[[弁官]](庶務官)ではない臣下を奉者とするか、あるいは綸旨に代わる新しい文書形式を作っても良かったはずである<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。そうしなかったのは、創作上ではない歴史的人物としての後醍醐天皇は、従来の手続きを忠実に踏襲する人間であることを示しているのではないか、という<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。
== 御製 ==
=== 民を慈しむ歌 ===
==== 民やすかれと ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''世をさまり 民やすかれと 祈こそ 我身につきぬ 思ひなりけれ'''<ref>[https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000023886 世おさまり/民やすかれと/祈こそ/我身につきぬ/思ひなりけれ] - Snorql for Japan Search</ref>(大意:世が治まり、民が安らかであるように、と祈ることこそが、我が身に尽きぬ思いなのだ)|author=御製|source=『続後拾遺和歌集』雑中・1142}}
践祚から『[[続後拾遺和歌集]]』成立までの間([[1318年]] - [[1326年]])に詠んだ歌。
==== 民のかまど ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''あはれとは なれも見るらん 我民と 思ふ心は 今もかはらず'''{{sfn|井上|1983b|pp=271–280}}(大意:流刑者として連行される私のことを、「あはれ」(哀れ)と、あなた方も思うのだろう。だが、私もまた、あなた方を我が民として「あはれ」(尊い)と想う気持ちは、今も変わらないのだよ)|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「久米のさら山」}}
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見んとは'''{{sfn|井上|1983b|pp=271–280}}(大意:都にいたころは想像するしかなかった、民のかまどの煙を、これほど身近に見ることができるなんて。私が尊敬する[[仁徳天皇]]が、感極まって歌を詠んだ時に見たのも、このような光景だったのだろうか{{efn|伝・[[仁徳天皇]]御歌「高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり」(『新古今和歌集』賀・707)}}。こうしてみると、配流というのも悪いことばかりではないのだな)|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「久米のさら山」}}
『増鏡』「久米のさら山」によれば、[[鎌倉幕府]]に捕まって[[隠岐国]]に流される途中、[[美作国]]([[岡山県]]東北部)に差し掛かった[[元弘]]2年/[[元徳]]4年([[1332年]])3月17日に詠んだ歌2首{{sfn|井上|1983b|pp=271–280}}。
==== 祈らば晴れよ ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}吉野の行宮にて、五月雨晴れ間なかりける比、雨師の社へ止雨の奉幣使など立てられける時、おぼしめつゞけさせ給ける<br />'''この里は {{ruby|丹生|にふ}}の川上 程ちかし 祈らば晴れよ 五月雨の空'''{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/224 164]}}{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=203, 295}}(大意:この吉野の里は、[[ミヅハノメ|雨の神]]を祀る[[丹生川上神社]]に程近い。かつて、将軍[[源実朝]]は、雨も過ぎれば民の嘆きになる、と止雨を祈願したという{{efn|[[源実朝]]「時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八大竜王 雨やめたまへ」(『[[金槐和歌集]]』){{sfn|深津|君嶋|2014|pp=203, 295}}。}}。私もこのように祈るならば、晴れよ、憂鬱な五月雨の空よ)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』雑上・1072{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=203, 295}}}}
[[南朝 (日本)|南朝]]を開いて[[吉野行宮]]にいた時代([[1337年]] - [[1339年]])に、五月雨が絶え間なく続いて、晴れの日がない頃に、雨の神を祀る丹生川上神社に勅使を立てて祈らせた時の歌{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=203, 295}}。[[室町時代]]の説話文学である『[[吉野拾遺]]』にも、やや改変された形で引用された{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=203, 295}}。
=== 人を労る歌 ===
==== 佐々木導誉へ ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''しるべする 道こそあらず なりぬとも 淀のわたりは 忘れじもせじ'''{{sfn|井上|1983b|pp=258–259}}(大意:導誉よ、あなたが私を囚人として護送する道は、私が天皇だったそのむかし石清水八幡宮へ案内してくれた時とは、全く違ったものになってしまったね。そうだったとしても、この淀の渡し場は、あの時と変わらないのだから、私と同じくあなたもあの懐かしい日々を、きっと忘れてはいないだろうね)|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「久米のさら山」}}
[[元弘の乱]]の初戦に敗北し、[[鎌倉幕府]]に捕まって[[隠岐国]]へ向けて京都を出立した[[元弘]]2年/[[元徳]]4年([[1332年]])3月7日に、道を先導する武士の[[佐々木道誉|佐々木導誉]]に向けて詠んだ歌{{sfn|井上|1983b|pp=258–259}}。のち[[足利尊氏]]の側近の[[ばさら|バサラ大名]]として権勢を誇る導誉だが、この頃はまだ一介の佐渡判官に過ぎなかった{{sfn|井上|1983b|pp=258–259}}。そのように天皇からすれば弱小な地位の武士であったにもかかわらず、後醍醐はむかし導誉が[[石清水八幡宮]]に案内してくれた時のことを正確に記憶しており、その時のことを懐かしく思って導誉に親しく語りかけたのである{{sfn|井上|1983b|pp=258–259}}。
==== 山人へ ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''あと見ゆる 道のしをりの 桜花 この山人の 情けをぞ知る'''{{sfn|井上|1983b|pp=261–271}}(大意:大切な桜花の枝を折ってまで、私が行く道の栞としてくれた跡が見える。この辺りの山人(木こりや炭焼きなど)の方々は、なんと情け深いのだろうか)|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「久米のさら山」}}
後醍醐天皇が隠岐に流される途中、元弘2年/元徳4年(1332年)3月8日から11日ごろに、道を先導してくれた山人らに対し感謝して詠んだ歌{{sfn|井上|1983b|pp=261–271}}。
==== 名和長年へ ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''忘れめや よるべも波の 荒磯を 御船の上に とめし心は'''{{sfn|深津|君嶋|2014|p=112}}(大意:決して、忘れることはあるまい。荒い波の打ち寄せる磯辺で、船の上にたたずむ私を助けてくれた、あの日のことを。そして、寄る辺もない私のことを、船上山で護ってくれた、あの戦いのことを)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』羇旅・572}}
後醍醐天皇が隠岐国を脱出して本州に辿り着いた際、最初に後醍醐に味方した[[伯耆国]]([[鳥取県]])の豪族・武将である[[名和長年]]のために詠んだ歌{{sfn|深津|君嶋|2014|p=112}}。准勅撰和歌集『[[新葉和歌集]]』羇旅歌の巻軸(その巻の末尾を飾る重要で優れた歌)である{{sfn|深津|君嶋|2014|p=112}}。長年は[[船上山の戦い]]で幕府軍に勝利し、その功績から、のち後醍醐の寵臣「[[三木一草]]」の一人になった{{sfn|深津|君嶋|2014|p=112}}。しかし、[[建武の乱]]で[[足利尊氏]]と戦い、討死した{{sfn|深津|君嶋|2014|p=112}}。
『新葉和歌集』で、この歌の後に撰者の[[宗良親王]]が書き加えた文によると、かつて、後醍醐天皇が名和長年の船上山での活躍を記した記録が存在した{{sfn|深津|君嶋|2014|p=112}}。そして、その記録の奥に付されたのがこの歌であったという{{sfn|深津|君嶋|2014|p=112}}。後醍醐による名和長年の伝記は散逸し、この歌のみが残る。
=== 嘆きの歌 ===
==== 概要 ====
学問と芸術を愛好した皇帝らしく、後醍醐天皇は陰鬱でメランコリックな歌を得意とした。たとえば、自身の境遇を嘆いた和歌のうち2首が、[[歴史物語]]『[[増鏡]]』の巻名である「むら時雨」と「久米のさら山」に採用されている{{sfn|井上|1983b|pp=229, 244}}。天皇家になんか生まれなければ良かったという歌や([[#上なき身]])、私もきっともうすぐ死ぬのだろう、といった歌もある([[#我が世の末]])。後者は詠んだ後に実際すぐ崩御している。後醍醐が[[偏諱]](尊治の「尊」)を与えるほどに寵愛した武家歌人の[[足利尊氏]]もまた、40代半ばでも迷いの多いことを嘆いて遁世を願う和歌を詠んでおり{{sfn|森|2017|loc=§6.1 足利尊氏の死去}}、このような打たれ弱さは、尊氏と似た者同士とも考えられる。
なお、2010年代時点で世間に流布される人物像としては、後醍醐は不撓不屈の精神を持った武闘派の天皇と描かれることが多い{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.2 通説には数々の疑問符がつく}}。しかし、[[日本史]]研究者の[[呉座勇一]]の主張によれば、このような人物像は崩御してから数十年後に完成した[[軍記物語]]である『[[太平記]]』に多くを依拠しており、歴史的実像としては疑問点が多いという{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.2 通説には数々の疑問符がつく}}。
==== むら時雨 ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}題しらず<br />'''まだなれぬ 板屋の軒の 村時雨 音を聞にも 濡るゝ袖かな'''{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=211, 297}}{{sfn|井上|1983|pp=229–231}}(大意:まだ住み慣れない板葺きの粗末な館で、時折激しく軒を打つ時雨の音を聞くと、物悲しさから涙で袖が濡れてくることよ。[[藤原資忠]]が庵で時雨の音に袖を濡らしたのは、旅の中の一夜に過ぎないが{{efn|[[藤原資忠]]「旅寝する 庵を過る むらしぐれ なごりまでこそ 袖は濡れけれ」(『[[千載和歌集]]』羇旅・539)}}、私はいつまでこの館に幽閉されて、涙を流し続けることになるのだろうか?)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』雑上・1119{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=211, 297}}、『増鏡』「むら時雨」{{sfn|井上|1983|pp=229–231}}、『太平記』巻3{{sfn|井上|1983|pp=229–231}}}}
[[鎌倉幕府]]との戦いである [[元弘の乱]]の初戦の[[笠置山の戦い]]に敗北して捕縛された後醍醐天皇は、[[元弘]]元年/[[元徳]]3年([[1331年]])10月初頭、大勢の武士に囲まれて入京し、[[六波羅探題]]の南側にある、板葺きのみすぼらしい館に幽閉された(『増鏡』『花園天皇宸記』){{sfn|井上|1983|pp=229–231}}。『増鏡』によれば、この歌はその幽閉中に詠まれた和歌であるという{{sfn|井上|1983|pp=229–231}}。『増鏡』「むら時雨」の巻名は、この和歌に由来する{{sfn|井上|1983|p=229}}。
==== 上なき身 ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''つひにかく 沈み果つべき 報いあらば 上なき身とは 何生まれけむ'''{{sfn|井上|1983b|pp=249–251}}(大意:最期はこのように奈落の底に落ちて死ぬという、前世からの因果応報があるのならば、どうして私はこれより上のない身分――天子などに生まれてしまったのだろうか…)|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「久米のさら山」}}
『増鏡』「久米のさら山」では、[[元弘の乱]]の初戦で敗北して[[隠岐国]]配流が決まり、都を出立する直前に詠んだ歌として配置されている{{sfn|井上|1983b|pp=249–251}}。このようにはじめは落ち込んだ後醍醐だが、都を出てから隠岐にまで行く道中で、直に地方の民と触れ合うことができ、流刑というのも悪いことばかりではない、と思い直すことになる([[#民のかまど]])。
==== 久米のさら山 ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''聞きおきし 久米のさら山 越えいかむ 道とはかねて 思ひやはせし'''{{sfn|井上|1983|pp=271–280}}(大意:かの歌に名高い「久米のさら山」を、私自身が越え行く道だなどとは、思いも寄らなかった。あの歌のように、私もきっと世間からすぐに忘れ去られて、その名が万代まで届くことはさらさらないのだろう{{efn|読人知らず「美作や 久米のさら山 さらさらに わが名はたてじ 万代までに」(『[[古今和歌集]]』巻20){{sfn|井上|1983|pp=271–280}}}})|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「久米のさら山」}}
『増鏡』によれば、京都を出立して隠岐島に流されるまでの道中、[[美作国]]佐良山([[岡山県]][[津山市]]の南部にある山)を通りかかった時に詠んだ歌であるという{{sfn|井上|1983b|pp=249–251}}。『増鏡』「久米のさら山」の巻名は、この歌に由来する{{sfn|井上|1983b|p=244}}。
==== 徒に散る花 ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}よし野ゝ行宮にてよませ給うてける御歌中に<br />'''あだにちる 花を思の 種として この世にとめぬ 心なりけり'''{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/243 203]}}{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=252–253}}(大意:あの[[西行|西行法師]]の歌に言うように{{efn|[[西行|西行法師]]『[[山家集]]』「惜しめども 思ひげもなく あだに散る 花は心ぞ 畏かりける」(121)}}、桜の花は観る人がどれだけ愛しく想っても、それを何とも思わず儚く散ってしまう、その心こそ桜が真に神々しい理由なのだろう。しかし一人残された私の心と言えば、儚く散ってしまった桜の花のようなあの人のことが思い悩みの種になって、ああ、この世が本当に物憂い{{efn|[[藤原公衡]]「行末の おぼつかなさや 立ち返り この世にとまる 心なるらん」(『[[続拾遺和歌集]]』雑中){{sfn|深津|君嶋|2014|pp=252–253}}}})|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』哀傷・1338{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=252–253}}}}
最晩年の[[吉野行宮]]時代([[1337年]] - [[1339年]])に詠んだ歌。誰を悼んだ哀傷歌なのかは具体的に書かれていないが、一人に特定するならば、推定30代で崩御した最愛の妃である皇太后[[西園寺禧子]](後京極院)などが考えられる。
==== 我が世の末 ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}吉田前内大臣、右大弁清忠など打続きみまかりにける比、おぼしめしつゞけさせ給うける<br />'''事問はん 人さへまれに 成にけり 我世の末の 程ぞ知らるゝ'''{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/246 209]}}{{sfn|深津|君嶋|2014|p=260}}(大意:私と政治の問答を行った廷臣たちさえも少なくなってしまった――我が生涯の残りの命数も、もはや知れたものだ)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』哀傷・1376{{sfn|深津|君嶋|2014|p=260}}}}
[[延元]]3年/[[建武 (日本)|建武]]5年([[1338年]])初頭、側近の[[公卿]]である[[吉田定房]]・[[坊門清忠]]が相次いで薨去したのを悼んだ歌{{sfn|深津|君嶋|2014|p=260}}。後醍醐の予見通り、この翌年に自身もまた崩御する{{sfn|深津|君嶋|2014|p=260}}。
=== 恋の歌 ===
==== 白菊 ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}元弘三年九月十三夜三首歌講ぜられし時、月前菊花といへる事をよませ給うける<br />'''うつろはぬ 色こそみゆれ 白菊の 花と月との 同じ{{ruby|籬|まがき}}に'''{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/172 61]}}{{sfn|深津|君嶋|2014|p=76}}(大意:決して色褪せずに、移ろわないものも、この世にはある。粗い垣根の上、白く輝く月に照らされた白菊の花、そのように花と月がお互い支え合って光る姿は、美しい。為子、私はあれから20年以上経った今でも、あなたの「月ならで うつろふ色も…」という白菊の歌を覚えているよ。あなたは白菊がすぐに色褪せることを悲しんだが、嘆くには当たらない。たとえ花の色が移ろうとしても、人の想いは、歌という形で、永遠に受け継がれるのだから)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』秋下・386{{sfn|深津|君嶋|2014|p=76}}}}
後醍醐の皇太子時代の最初の正妃は、[[二条派]]を代表する大歌人である[[二条為子]]だったが、[[応長]]元年([[1311年]])もしくは翌年ごろに死去した{{sfn|森|2013|loc=§1.2.4 二条為子と和歌}}。それから20年以上後の[[元弘]]3年([[1333年]])9月13日の夜、為子の代表歌である「月ならで うつろふ色も 見えぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊」(『[[続後拾遺和歌集]]』秋歌下・381)<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000023125}}</ref> を参考歌にして詠んだ一首である(為子の歌の詳細については、[[二条為子#白菊]]を参照)。
==== いかにせよとて ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}顕恋を<br />'''忍べばと 思ひなすにも なぐさみき いかにせよとて もれしうき名ぞ'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000021727}}</ref>(大意:忍んでいるから大丈夫だろう、と初めは思い込んでいたのだが、心の中でにやけていたのを周りに隠すことはできなかった。一体私にどうせよ、と自問自答したら余計焦ってしまって、例の騒動だ)|author=今上御製|source=『続千載和歌集』恋一・1139}}
[[正和]]2年([[1313年]])秋(7月 - 9月)ごろ、[[皇太子]]尊治親王(のちの後醍醐天皇)は、有力公家の[[西園寺家]]の姫君である[[西園寺禧子]]と密かに駆け落ちし、禧子を適当な場所に匿って、そのまま何も知らない振りをして朝廷に出仕しようとした。しかし、翌年1月にはやくも事件は露顕して、一騒動になった(『[[花園天皇]]宸記』[[正和]]3年([[1314年]])[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]条){{sfn|兵藤|2018|pp=21–23}}。上の後醍醐本人の証言によれば、後醍醐は恋愛関係でポーカーフェイスを保つことができない性格だったという。
==== 天つ乙女 ====
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}元弘三年立后屏風に{{ruby|五節|ごせち}}をよませたもうける<br />'''袖かへす 天つ乙女も 思ひ{{ruby|出|いで}}よ 吉野の宮の むかし{{ruby|語|がたり}}を'''<ref name="shinshui-622">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000029334}}</ref>(大意:袖をひるがえして舞う[[五節舞]]の天女に等しいあなたも、どうか思い出して欲しい。[[吉野行宮|吉野の宮]]の昔語りを。時の帝である[[天武天皇]]が、吉野に舞い降りたあなたの優雅さに呆然として、「天つ乙女が 天女らしく舞うことよ 唐玉を 袂に巻いて 天女らしく舞うことよ」と高らかに歌った、あの日のことを{{efn|伝・[[天武天皇]]「をとめごが をとめさびすも からたまを たもとにまきて をとめさびすも」<ref>{{Citation | 和書 | last=田辺 | first=史郎 | author-link=田辺史郎 | contribution=五節舞 | title=改訂新版[[世界大百科事典]] | publisher=[[平凡社]] | publication-date=2007 }}</ref>。珣子を本物の天つ乙女(天女)に喩えると共に、天つ乙女に模した「五節舞姫」に選ばれた女性は、平安時代には天皇の正妃になることもあったので([[清和天皇]][[女御]]の[[藤原高子]]など)、両方の意を含んでいる。}})|author=後醍醐院御製|source=『新拾遺和歌集』冬・622(『新葉和歌集』冬・501にほぼ同一歌{{sfn|深津|君嶋|2014|p=96}}{{efn|『新葉和歌集』では、第2句が「思出(おもひいづ)や」(思い出すこともあるのだろうか)となっている{{sfn|深津|君嶋|2014|p=96}}。}})}}
皇太后禧子が崩御した同年の[[元弘]]3年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1334年]][[1月13日]])、新たな正妃として、対立皇統である[[持明院統]]の[[後伏見天皇]]第一皇女の[[珣子内親王]]が立てられた<ref name="dainihon-shiryo-6-1-321">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0321 『大日本史料』6編1冊321–323頁].</ref>。これは、持明院統と[[西園寺家]](珣子の従兄は西園寺家当主[[西園寺公宗|公宗]])との融和路線を築くための政略結婚と見られ{{sfn|三浦|2012|pp=521–523}}、しかも20歳以上の年齢差がある結婚だった。だが、後醍醐は珣子のために心を尽くし、立后屏風、つまり皇后が定まった時に有力歌人が歌を色紙に書いて[[屏風]]に貼る行事では、新郎であり二条派の大歌人でもある後醍醐自身も歌を詠んだ。そのうちの2首の両方ともが、北朝の勅撰和歌集と南朝の准勅撰和歌集の双方に同時入集するほどの秀歌だった(もう1首は[[珣子内親王#後醍醐から珣子への歌]]を参照)。
上記の歌は、『新葉和歌集』の版である「袖かへす 天津乙女も 思ひ出ずや 吉野の宮の 昔語りを」が刻まれた歌碑が、2012年時点で、[[奈良県]][[吉野郡]][[吉野町]]の吉野朝皇居跡に立てられている<ref>{{Cite web|和書| author=isozaki | url=http://yoshinostyle.jp/contents/arukikata/2012/09/吉野の後醍醐天皇⑥.html | title=吉野の後醍醐天皇⑥ | publisher=吉野スタイル | website=ディープな吉野の歩き方 | date=2012-09-12 | accessdate=2020-06-18}}</ref>。
==== 四つの緒 ====
『[[増鏡]]』「久米のさら山」によれば、[[元弘の乱]]の[[笠置山の戦い]]に敗北し幕府に捕らえられた後醍醐天皇は、年が明けて[[元弘]]2年/[[正慶]]元年([[1332年]])2月頃になってもまだ、六波羅に囚われており、意気消沈する日々を送っていた{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}。このとき、[[中宮]]の[[西園寺禧子]]は夫の慰めにと、後醍醐がかつて愛用していた[[琵琶]]を宮中から届けると、紙片に歌を書いて琵琶に添えた{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}(『太平記』もほぼ同様の逸話を載せる<ref name="taiheiki-3-kasagi">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/42 65]}}.</ref>)。
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''思ひやれ 塵のみつもる 四つの緒に はらひもあへず かかる涙を'''{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}(大意:思いやってください。塵ばかりが積もる四つの緒(四弦の琵琶)に、払いきることも出来ないほど、絶えず落ちかかる私の涙を。そのむかし[[隠岐島|隠岐]]に流された[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]のため、院の琵琶を塵一つなく手入れしていたら老いの涙がかかってしまった[[藤原孝道]]のように{{efn|『[[古今著聞集]] 』「和歌第六」:「後鳥羽院の御時、木工権頭孝道朝臣に、御琵琶をつくらせられけるを、世かはりにける時、やがてその御琵琶を、彼の朝臣にあづけられたりけるを、程経て御尋ありければ、御琵琶につけて奉りける。ちりをだに すゑじと思ひし 四の緒に 老のなみだを のごひつるかな」{{sfn|橘|1926|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018126/101 pp. 188–189].}}}}、私もあなたの帰りを待っている間に、きっとしわくちゃのおばあちゃんになってしまうでしょう)|author=中宮禧子|source=『増鏡』「久米のさら山」(『新葉和歌集』雑下にほぼ同一歌)}}
これに対し、後醍醐も雨垂れのようにはらはらと涙をこぼし、歌を詠んだという{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}。
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''涙ゆゑ 半ばの月は くもるとも なれて見しよの 影は忘れじ'''{{sfn|井上|1983|p=248}}{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=243–244}}(大意:涙のために、その半ばの月(琵琶)と、半ばの月(満月)のようなあなたが曇って見える。けれども、あなたと逢って共に何度も観た夜の美しい月影(月の光)と、そのときの月影のように永久に美しいあなたの面影のことは、決して忘れはしない。どうかあなたは、いつまでも、月のように長く生きて欲しい)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』雑下・1295(『太平記』流布本巻3「主上笠置を御没落の事」にほぼ同一歌<ref name="taiheiki-3-kasagi" />)}}
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''かきたてし {{ruby|音|ね}}をたちはてて 君恋ふる 涙の玉の 緒とぞなりける'''{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}{{efn|「緒」と「絶つ」は、和歌における[[縁語]]である{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}。内容だけではなく、和歌の技巧的にも、禧子の歌の詞「四つの緒」に意識的に寄り添うものとなっている。}}(大意:確かにかつて私は琵琶をかき鳴らしたものだが、その音はもう絶ってしまった。私自身の音楽の楽しみよりも、あなたとの想いの方がずっと大切なのだから。その琵琶の緒(弦)は、あなたを恋しく想って流れるこの涙の玉を、首飾りとして連ねるための緒(紐)として使おう。『[[源氏物語]]』の[[宇治の大君|大君]]は、自分の「玉の緒」(命)は涙の玉のように脆く儚いから緒を通せない、と言って、[[薫]]と永き契りを結ぶことを拒んだという{{efn|[[紫式部]]『[[源氏物語]]』「{{ruby|貫|ぬ}}きもあへず もろき涙の 玉の緒に 長き契りを いかが結ばむ」(総角)}}。だが、私はたとえこれから刑や戦で死ぬかもしれない脆く短い命であったとしても、あなたがくれた緒を通して、あなたとの契りは――幾たび生まれ変わっても、永遠だ)|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「久米のさら山」}}
後醍醐天皇は琵琶の名手として著名であり、禧子の父である[[西園寺実兼]]や同母兄の[[今出川兼季]]に学び、その腕前は『増鏡』や、[[笙]]の名人であった将軍[[足利尊氏]]による弔文で絶賛されている{{sfn|森|2000|loc=§5.2.3 音楽・楽器への関心}}。また、天皇家の神器である伝説の琵琶「[[玄象]]」(げんじょう)を初め、数多くの楽器の名物を所有していた{{sfn|森|2000|loc=§5.2.3 音楽・楽器への関心}}。そうした天才音楽家としての名声や皇家累代の神宝、そして一国の皇帝たる自分自身の命よりも、最愛の正妃である禧子の存在と、禧子との永遠の契りの方が、はるかに尊い、と謳う歌である。
== 評価(同時代) ==
=== 楠木正成からの評価 ===
[[河内国]]の土豪の立場から、元弘の乱による功績によって多大な朝恩を誇った[[楠木正成]]は、後醍醐を評価した発言をあまり残していない。しかし、『[[梅松論]]』には、足利尊氏が九州に落ち延びた際に、「君の先代を亡ぼされしは併せて尊氏卿の忠功なり(天皇が鎌倉幕府を滅ぼすことができたのは悉く尊氏卿の忠功による)」と発言した記録が残されており、天下の大勢は後醍醐への信頼を失い、信頼が尊氏側に移っていることをはっきりと認識していたことがわかる<ref name="名前なし-6">櫻井彦 樋口州男 錦昭江『足利尊氏のすべて』2008年 新人物往来社</ref>。また、『太平記』西源院本によれば、尊氏東上の際に、後醍醐や公卿に「京中で尊氏を迎え撃つべき」という自身の進言が聞き入れられなかったことに対し、「討死せよとの勅命を下していただきたい」と発言しており、開き直った正成の悲痛な言葉や不満を伝えている<ref name="名前なし-6"/>。加えて、『[[梅松論]]』には、正成が兵庫に下向する途中、尼崎において「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前に命を落とすべき(足利勢を迎え撃つため、正成は和泉や河内の守護として勅命により軍勢を催しても、親類・一族でさえ難色を示す。ましてや一般の国人・土民はついてきません。天下が天皇に背を向けたことは明確です。正成の存命は無益ですので、激しく戦って死にましょう)。」という旨を後醍醐に上奏したことが記されている<ref name="名前なし-6"/>。尊氏との戦争の勝敗が人心にあると考えていた正成は、世の中の人々が天皇や建武政権に背を向け、民衆の支持を得られていない状況では、敗北は必至であると考えていた<ref name="名前なし-6"/>。
=== 足利尊氏からの評価 ===
[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍]][[足利尊氏]]は、後醍醐天皇をよく肯定した{{sfn|亀田|2014|p=176}}。よくそれを表す文書として、後醍醐崩御百日目に尊氏が著した「後醍醐院百ヶ日御願文」<ref name="dainihon-shiryo-6-5-816">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0605/0816 『大日本史料』6編5冊816–819頁].</ref> が知られ、以下に大意を示す。
{{Quotation|style=font-size:1em;|古来より、大恩に報いることがないのは徳が無いと申します。かの『[[後漢書]]』「[[楊震]]伝」注に言うように、雀のような小鳥でさえ宝石の環をくわえて仁愛に感謝するのに、何も言わず恩を返さず、いったい我ら全ての民草が陛下の黄金のような君徳を忘れることがありましょうか。いいえ、決してありません。
伏して考え申し上げるに、後醍醐院は期に応じて運を啓かれ、聖王たる「出震向離」の吉相をお持ちになり、その功は神にも等しく、徳は天にもお達しになられていました。それゆえ、陛下は代々の諸帝のご遺徳をお集めになり、君臨すること太陽のごとく、我らが仰ぎ見ること雲のごとくの王者となられたのです。またそれゆえ、陛下は古の聖王たちの栄える事業をお引き継ぎになり、神武天皇以来このかた90余代の遙かな系図を受け継がれ、[[元応]]以降、18年のご在位をお保ちになったのです。
陛下は、外には王道の大化をお成し遂げになりましたが、今の政治の道の本源はまさにここにありました。内には仏法の隆盛をお図らいになりましたが、その聖者のお心をどうして貴ばずにいられましょうか。陛下は神がかった書の才をお持ちになり、「書聖」[[王羲之]]にも迫るという[[唐]][[太宗 (唐)|太宗]]を超えるほどのものでいらっしゃいました。陛下の麗しい[[笙]]の響きさえあれば、いまさら[[漢]][[劉邦|高祖]]の伝説の笛を求める必要がありましょうや。陛下の和歌の才はまるで歌神の[[スサノオ|素盞鳴尊]](すさのおのみこと)のようで、我が国古来の歌風を思い起こさせられました。陛下が琵琶の神器「[[玄象]]」(げんじょう)を取って奏でる秘曲の調べは、その初代の使い手である「聖王」[[村上天皇|村上帝]]の演奏にも等しい。究めるべき道をすべて究め、修めるべき徳をすべて修めた、それが後醍醐院というお方でいらっしゃいました。
しかるに、しばらく京の輝かしい宮廷を辞して、はるか[[吉野行宮|吉野の都]]に行幸なさいました。その様は、龍馬が帰らず、聖なる白雲がそびえ立つこと峻厳なごとく。天子の輿は久しく外に留まり、ついに旅の中で崩御なされました。聖天子のような死ではなく、無念のうちに死んだ諸帝のように崩御なさったのは、ああ、なんとお痛ましいことでしょうか。
ここに、陛下の弟子であるわたくしは、畏れ多くも亜相([[大納言]])に進み、[[征夷大将軍]]の武職に至りました。この運の巡り合わせは、[[漢]]という国が興った歴史のような幸運を思い起こさせます。弓矢を袋に入れて(武器を収めて)、ただ安らかな平和を乞い願い、国家を護ることで君にお仕えし、民を労ることで仁義を尽くしたいと思っております。
わたくしは戦功しか取り柄がない者ではありますが、ただそれのみによって、ここまで幸運な繁栄を為すことができました。わたくしのような弱輩が、ここまで力を得ることができた理由をよくよく考え申し上げてみますと、まさに、先帝陛下が巨大な聖鳥である[[鵬|鴻]](おおとり)のように力強くお羽ばたきになったことに端を発しているに違いありません。
陛下の穏やかで優しいお言葉が、今もなおわたくしの耳の奥底に留まっております。陛下を慕い敬うあまりに胸が苦しくなるこの気持ちを、いったいどうしたら書き尽くすことができましょうか。わたくしが授かった恩恵は無窮であり、感謝して報いることを決して疎かにはできません。
まず、七度の七日供養をつらつらと行い、追福を申し上げました。今、時の移り変わりを惜しみ、写経もいたしました。かつて、勝力菩薩[[陶弘景]]が入滅して百日後に、残された弟子たちは慕い上げ、唐太宗が崩御して百日後、官吏たちは先帝の余芳に従ったと言われています。しかし、はたしてその程度で済ますことができるでしょうか。
すなわちここに、図絵[[胎蔵界曼荼羅]]一鋪・[[金剛界曼荼羅]]一鋪、図絵[[観世音菩薩]]一鋪・摺写[[大日経]]三巻・[[理趣経]]四巻・[[大随求菩薩|随求陀羅尼経]]三巻を奉り、[[妙法蓮華経]]十部を転読させ、さらに五箇の禅室を加え、十人の僧に供養を行わせ、[[非人]]救済も実施しました。[[等持院]]に寄付も行い、密教の儀式の座も造り、前大僧正法印大和尚の主催で読経を行わせました。数多くの都人・僧・公卿・殿上人らが集まり、陛下の菩提を弔いました。全ての景色が荘厳で、陛下の威徳に相応しいものです。
陛下の聖霊は、この千五百秋之神州である日本より出でて、すみやかに[[阿彌陀如来]]の宝座へと向かわれるでしょう。三十六天の仙室へは向かわず、直ちに常寂光土、永遠の悟りを得た真理の絶対界へと到達なさるでしょう。そして、仏への敬いが足りない者に至るまで、あらゆる民を[[八正道]]へ、すなわち[[涅槃]]へ至るための正しい道へとお導きになるでしょう。
弟子 征夷大将軍正二位権大納言源朝臣尊氏 敬白|足利尊氏|「後醍醐院百ヶ日御願文」}}
[[亀田俊和]]の主張によれば、尊氏から後醍醐への敬慕は実体を伴ったものであったという{{sfn|亀田|2014|pp=62–70}}。亀田は、建武政権の諸政策は、尊氏の室町幕府も多くそれを受け継いでいた、と断定した{{sfn|亀田|2014|pp=62–70}}。たとえば、後醍醐は、土地の給付の命令文書に追加の文書([[雑訴決断所]]施行牒)を付けて、誤りがないか検査をすると共に、強制執行権を導入し、自前の強い武力を持たない弱小な武士・寺社でも安全に土地を拝領できるシステムを作った{{sfn|亀田|2014|pp=62–70}}(ただし、後醍醐自身は建武元年(1334年)頃には既に施行牒を付けず綸旨のみで裁断を行い始めている上に、「建武以後の綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨を発しており、自分が綸旨を乱発し、しかもその内容が改変されたり誤っていたりすることを認めている<ref name="名前なし-3"/>)。これは、[[執事]][[高師直]]を介して足利尊氏にも受け継がれ、のち正式に幕府の基本法の一つになったという{{sfn|亀田|2014|pp=62–70}}。
ただし、尊氏や直義が理想と政治の参考としたのは建武政権ではなく、[[建武式目]]に見えるように「[[北条義時]]・[[北条泰時]]の[[執権]]政治」であった<ref name="名前なし-6"/>。
=== 足利直義からの評価 ===
[[足利直義]]は、観応2年頃に、南朝方に与した際の関係を用いて、北畠親房と南北朝の講和交渉を行った。その際の往復書簡が「吉野御事書案」である<ref>{{Cite web|和書|url=https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000446760000/588952a8b3374561a56a15e9b2e840b1|title=吉野御事書案(観応元年)|work=書陵部所蔵資料目録・画像公開システム|publisher=宮内庁書陵部|accessdate=2021-12-30}}</ref>。このとき、直義は後醍醐について「'''後醍醐が佞臣達を贔屓した'''ので、事は大乱に及んだ」「光明は後醍醐から正式に三種の神器を譲られた上に、武家方は両統迭立の原則を守って光明の皇太子に成良親王を立て、皇位継承について十分配慮したにもかかわらず、後醍醐は独断で吉野に潜幸したのだから、武家方が天下を奪ったという批難は当たらない」と後醍醐の行動を批難している<ref name="名前なし-7">深津睦夫『光厳天皇:をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』2014年 ミネルヴァ書房</ref>。
また、和睦の条件として公家一統を主張した親房に対し、「建武の新政の'''失敗'''を考えれば、それが無理なことは明らかであり、諸国の武士がそれを望むかどうかよく考えていただきたい」と答え、当時の武士、しかも武家方のナンバー2であり、後醍醐から多くの恩賞を賜った直義であっても、建武の新政は失敗であったと述べている<ref name="名前なし-7"/>。
=== 北畠親房からの評価 ===
[[ファイル:Kitabatake Chikafusa.svg|thumb|『北畠親房』([[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』所収)]]
{{seealso|神皇正統記}}
[[北畠親房]]は、[[慈円]]と共に中世の歴史家の双璧とされる顕学であり、後醍醐天皇の側近「[[後の三房]]」の一人に数えられ、後醍醐天皇崩御後には[[南朝 (日本)|南朝]]を主導し、南朝[[准三宮]]として[[皇后]]らに次ぐ地位にまで上り詰めた公卿である。主著『[[神皇正統記]]』で、後醍醐天皇崩御を記した段では「老体から溢れ出る涙をかきぬぐうこともできず、筆の流れさえ止まってしまった」と、実子の[[北畠顕家]]が戦死した段落以上に力を込めて、自身の嘆きを記した{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。「三房」の一人とされる北畠親房の真の主は、後醍醐天皇の父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]であり、「後醍醐天皇に仕えた」と強調される考えが妥当でなく、北畠親房が後醍醐天皇に辛辣なのはそのためであるという意見もある<ref name=":0" />。
親房は、『神皇正統記』で、総合評価としては、後醍醐天皇を最も優れた天皇の一人だとした<ref name="jinno-godaigo">『神皇正統記』第九十五代・第四十九世後醍醐天皇</ref>。たとえば、[[真言密教]]への帰依が深いだけではなく、それ以外の宗派、たとえば[[禅宗]]なども手厚く保護し、中国から来た禅僧でも参内させたことを高く評価している<ref name="jinno-godaigo" />。親房が特に賞賛するのは学問的能力で、和漢の道に通じていたという面において、中比(中古)以来、後醍醐に匹敵する天皇はいないという<ref name="jinno-godaigo" />。また、後宇多上皇が治天の君を辞して、後醍醐が初めて親政を開始した時の政治について、優れた訴訟処理を行ったので、天下の民が後醍醐を敬った、と主張している<ref name="jinno-godaigo" />。
とはいえ、親房は後醍醐天皇の政策を支持している訳ではなかった。特に、『神皇正統記』では、[[建武政権]]の人事政策について、後醍醐天皇があまりに足利兄弟と武士全体に対し好意的に過ぎ、皇族・貴族の所領までもが武士の恩賞とされてしまったことが批判の的となっている{{sfn|亀田|2016|p=48}}。また、[[上横手雅敬]]が指摘するように、[[奥州合戦]]([[文治]]5年([[1189年]]))以降、[[恩賞]]として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を[[鎮守府将軍]]・[[左兵衛督]]・[[武蔵守]]・[[参議]]に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた{{efn|鎌倉幕府では、官位が恩賞として与えられることはなく、その代わり、[[成功 (任官)|成功]](じょうごう)といって、寺社に献金し、その見返りに官途奉行が任官を朝廷に推薦する、という手続きが、武士が官位を獲得する上で一般的だった{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。}}{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。このことも、親房から、「公家の世に戻ったと思ったのに、まるで武士の世になったみたいだ、と言う人までいる」と、猛烈な抗議の対象となった{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。親房がイメージしていた「公家一統」の世は、『神皇正統記』の「公家の古き御政にかへるべき世」であり、後醍醐の「新政」とは対立する立場であった<ref name="名前なし-5"/>(実際に親房は建武政権下で冷遇されており、その政治力を強く発揮したのは後村上天皇の時代であった<ref name="名前なし-5"/>)。
加えて、『太平記』によれば、建武2年(1335年)に尊氏が鎌倉に下向したまま召還命令に従わなかったことに対し、後醍醐が「たとひ其の忠功莫大なりとも、不義を重ねば逆臣たるべき条勿論也」として、直ちに追伐の宣旨を下そうとした際、親房ら公卿が「尊氏が不義、叡聞に達と雖も、未だ其の実を知らず。罪の疑わしきを以って功の誠あるを棄てられん事は仁政にあらず」と諫言しているが、これは親房が尊氏を弁護したのではなく、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐の朝令暮改ぶりに対して、「このままでは世論の信頼を失う可能性がある」というニュアンスで為された発言であった<ref name="名前なし-2"/>。
ところが、現実主義者・[[マキャベリスト]]である親房{{sfn|亀田|2014|p=98}}は、政治思想上は後醍醐天皇を声高に批判しつつも、その裏で政治実務上は後醍醐天皇の政策を活用した。南朝の地方指揮官たちは、後醍醐天皇の政策を引き継ぎ、配下の武士に官位を授与する独自の裁量を与えられた{{sfn|花田|2016|pp=197–199}}。親房自身も、東国武士への官位推薦状を発することもあった{{sfn|呉座|2014|loc=第五章 指揮官たちの人心掌握術>親房の「失敗の本質」}}(ただし、[[小田治久]]らの殆どの東国武士の再三の官位要求には、任官叙位の先例故実を根拠として、全く要求に応じておらず、結果的に親房の関東経営は失敗した<ref name="名前なし-5"/>)。
後醍醐とは思想的に対立することも多かった親房にとって、後醍醐の思想はやはり受け入れられないものであった。そのため、後醍醐自身は召し上げることの無かった足利尊氏の「尊」の字をついぞ親房は用いることは無く、『神皇正統記』では一貫して「高氏」と記している。また、後醍醐が亡くなり親房自身が南朝の主導者となった後は、後村上天皇の綸旨にも見えるように、親房の指針によって南朝全体で尊氏を「高氏」と呼ぶようになった<ref name="名前なし-2"/>。
=== 北畠顕家からの評価 ===
[[ファイル:北畠顕家.png|thumb|北畠顕家([[霊山神社]]蔵)]]
{{main|北畠顕家上奏文}}
北畠親房の子である[[南朝 (日本)|南朝]][[公卿]]・[[鎮守府大将軍]]の[[北畠顕家]]もまた、後醍醐天皇へ上奏した『[[北畠顕家上奏文]]』([[延元]]3年/[[暦応]]元年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1338年]][[6月3日]]))で、後醍醐への批評を残している。7条しか残存しないためその全容は明らかではないが{{sfn|黒板|1939|pp=621–624}}、少なくとも残る箇所に関しては後醍醐天皇の政治への実質的な全否定である{{sfn|亀田|2014|pp=167–171}}。
この諫奏状は、陸奥国司として奥州平定に苦心した顕家自身が奥州の地で苦労して学び、見聞きしたことに基づき、血の滲むような厳しい批判を展開している<ref name="名前なし-3"/>。
現存する7条を要約すると、「首都一極集中を止め[[地方分権]]を推進し各方面に半独立の大将を置くこと」「租税を下げ贅沢を止めること」「[[恩賞]]として[[官位]]を与える新政策の停止」「[[公卿]]・[[殿上人]]・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること」「たとえ京都を奪還できたとしても行幸・酒宴は控えること」「法令改革の頻度を下げること」「佞臣の排除」といったものになる。現存第1条は、後醍醐天皇の全国支配の統治機構に言及したものとして特に注目できる{{sfn|黒板|1939|p=621}}。また、残る6条のうちの半数が、人事政策への不満に集中していることも特徴である{{sfn|佐藤|2005|pp=109–114}}{{sfn|亀田|2014|pp=171–175}}。
[[佐藤進一]]は、同時代人からの評価を知る上で『[[二条河原の落書]]』と並ぶ重要史料とし、後醍醐天皇を独裁的君主とする自身の説から、顕家の建武政権批判に原則的に同意した{{sfn|佐藤|2005|pp=109–114}}。
=== 後醍醐方の公家からの評価 ===
後醍醐方の公家達は、[[万里小路宣房]]や[[千種忠顕]]などの後醍醐の寵臣を除き、概ね建武政権に批判的であった。そのため、建武3年(1336年)2月29日には、[[洞院公賢]]を始めとした公卿層が、「延元」への改元を主張した。後醍醐は改元に消極的であったが、公卿達は「後醍醐が立てた『建武』の年号を降ろすことで、新政を批判することになる」として積極的に改元を働きかけた。また、同年正月には、後醍醐の寵臣である万里小路宣房と千種忠顕が相次いで出家に追い込まれており、これも後醍醐の新政への批判が相次いだためであった。そのため、後醍醐はこの後に、これまでの「新政」に手を染めておらず、むしろ「新政」に批判的であった親房を宣房や忠顕らに代わって登用することで、公卿層の批判を抑えようとした<ref name="名前なし-2"/>。
=== 史書における評価 ===
『梅松論』には「記録所と決断所を置いたと言っても、近臣が密かに訴えて判決を捻じ曲げてしまい、天皇の決定を示す綸旨が朝に変じて暮れに改まるような状況であり、諸人の浮き沈みは掌を返すようである」とか「武士たちは建武政権が益無しと思い始め、武家が公家に恨みを含み、公家と武家が水火の陣となった」とある<ref name="名前なし-3"/>。
成立までに多くの人が携わったと言われる『太平記』では、建武政権が「政道正しからず」と述べられており、これは当時生きていた人々の一般的な認識であったと言える<ref name="名前なし-3"/>。
=== 庶民からの評価 ===
後醍醐の政治は、武家や公家のみではなく、都市民や地方民にも批判された。都市民の批判として有名なものは「二条河原の落書」である。この落書の内容は、「御代に生てさまさまの、事をみきくそ不思議共、京童の口すさみ、十分一そもらすなり」という言葉で結ばれているように、当時の都市民の共通認識であった<ref name="名前なし-3"/>。
地方民の批判として有名なものは、建武元年(1334年)夏に若狭国の[[太良荘]]の農民が訴えた申状である。これは直接には荘園領主の当時に対して年貢が重くなったことを訴えたものであるが、この時期に年貢が重くなったのは、後醍醐が大内裏の造営等のために諸国に収入の20分の1を徴収する税をかけたことと関係しており、地方の人にとっても建武政権が期待外れであったことを示している<ref name="名前なし-3"/>。
=== 北朝公家からの評価 ===
[[File:Yoshimoto Nijo.jpg|thumb|[[二条良基]]像(二條基敬蔵)]]
[[連歌]]を完成した中世最大の文人であり、[[北朝 (日本)|北朝]]において[[摂政]]・[[関白]]・[[太政大臣]]として位人臣を極めたどころか、[[准三宮]]として[[皇后]]らに准ずる地位にまで上った[[二条良基]]は、敵対派閥でありながら、生涯に渡り後醍醐天皇を尊敬し続けた{{sfn|甲斐|2007|p=30}}。これは、『[[建武年中行事]]』を著した[[有職故実]]研究の大家・朝儀復興者としての後醍醐天皇を評価したものであるという{{sfn|甲斐|2007|p=30}}。
[[中院通冬]](極官は北朝[[大納言]])は、後醍醐天皇崩御の速報を聞くと、「信用するに足らず」と半信半疑の念を示した(『中院一品記』延元4年8月19日条)<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0605/0661 『大日本史料』6編5冊661–662頁].</ref>{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。その後、室町幕府・北朝から公式な訃報を伝えられると、「天下の一大事であり、言葉を失う事件である。この後、公家が衰微することはどうしようもない。本当に悲しい。あらゆる物事の再興は、ひとえに後醍醐天皇陛下の御代にあった。陛下の賢才は、過去[の帝たち]よりも遥かに高く抜きん出たものであった。いったい、[陛下の崩御を]嘆き悲しまない者がいるであろうか」{{efn|原文:「天下之重事、言語道断之次第也、公家之衰微不能左右、愁歎之外無他事、諸道再興、偏在彼御代、賢才卓爍于往昔、衆人不可不悲歎者歟」<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661"/>}}と評した(『中院一品記』延元4年8月28日条)<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661"/>{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。
また、[[歴史物語]]『[[増鏡]]』(14世紀半ば)の作者も、北朝の有力廷臣であるにもかかわらず、後醍醐天皇を賛美した{{sfn|井上|1983b|p=396}}<ref name="ogawa-2000">{{Cite journal | 和書 | last=小川 | first=剛生 | authorlink=小川剛生 | title=北朝廷臣としての『増鏡』の作者 : 成立年代・作者像の再検討 | journal=三田國文 | issue=32 | pages=1–17 | url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00296083-20000900-0001 | year=2000 | ref={{harvid|小川|2000}} }} {{フリーアクセス}} pp. 8, 10</ref>。その正体は、前述した二条良基とする説が比較的有力である他{{sfn|井上|1983b|p=396}}、[[和田英松]]による[[二条為明]]説{{sfn|井上|1983b|pp=395–396}}や、[[田中隆裕]]による[[洞院公賢]]説<ref name="ogawa-2000" />など、諸説ある。
一方、[[三条公忠]](極官は北朝[[内大臣]])は後醍醐天皇に批判的であり、「後醍醐院のなさった行いは、この一件(家格の低い[[吉田定房]]の[[内大臣]]登用)に限らず、毎事常軌を逸している(毎度物狂(ぶっきょう)の沙汰等なり)、どうして後世が先例として従おうか」と評した(『[[後愚昧記]]』応安3年([[1370年]])3月16日条){{sfn|森|2000|loc=第一章 後醍醐政権成立の背景>「誡太子書」の世界>聖主・賢王待望論}}。
なお、北朝に対しては8月19日に南北両朝と関係のあった興福寺(大乗院・一乗院)から、室町幕府経由で奏聞があった。北朝では、後伏見法皇が崩御されたときに当時の後醍醐天皇が[[廃朝]]を行った例はあったものの、崇徳・安徳・後鳥羽・土御門・順徳など遠方で崩御した天皇のために[[諒闇]]を行った例はないということを理由に当初は何も行わない方針であった。『[[師守記]]』の暦応二年八月十九日条でも、光厳院とその周辺においては、後醍醐を崇徳以下の配流された天皇と同様に考えていたことがわかる。しかし、室町幕府は直ちに7日間の雑訴停止を決めた上に、朝廷に対しても廃朝を行うように[[武家執奏]]を行った。また、後醍醐天皇は光明天皇の外祖父にあたるという論{{efn|後醍醐天皇の第二皇女である宣政門院(懽子内親王)は光厳上皇の妃で、光明天皇も上皇の猶子であるため、宣政門院と光明天皇の間には母子の関係が成立するという見解に基づく。}}もあり、最終的には[[四条隆蔭]]を上卿として廃朝・[[固関]]を行い、光明天皇は[[錫紵]]を着て外祖父に対する服喪を行った{{sfn|久水|2020|p=126-127}}。この時の幕府の申し入れに対し、公家側は強い不満を抱いた<ref name="名前なし-7"/>。
北朝の治天の君であった光厳上皇は、政治的に対立してきた後醍醐天皇の国政レベルでの喪葬儀礼には反対していたが、義父であると共に同じ夢窓疎石を崇敬してきた者として、彼個人と室町幕府が主導する形での追善仏事が天龍寺にて行われている。これは後醍醐の怨霊化を防ぐと共に、持明院統(北朝)代々の流儀に縛られて実施が困難であった禅宗様式での追善仏事を無関係な後醍醐の追善の場で行おうという思惑も含まれていたとみられている{{sfn|久水|2020|p=131-133}}。
== 評価(研究史) ==
=== 『太平記』史観による暗君像 ===
『[[太平記]]』(1370年ごろ完成)の巻1「後醍醐天皇御治世の事<small>附</small>武家繁昌の事」(流布本)では、後醍醐天皇は初め名君として登場し、「天に受けたる聖主、地に報ぜる明君」と賞賛される<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/160 300–305]}}.</ref>。ところが、巻12から13で、[[元弘の乱]]で[[鎌倉幕府]]を打倒して[[建武の新政]]を開く段になると、今度は一転して完全なる暗君として描写されるようになる{{sfn|亀田|2016|pp=46–47}}。例として、恩賞の配分に偏りがあったり、無思慮に[[大内裏]]造営を計画したり、[[地頭]]・[[御家人]]に重税を課したり、唐突な貨幣・紙幣発行を打ち出したり、武士の特権階級である[[御家人]]身分を取り上げたりと、頓珍漢な政策を繰り返し、さらに側近の公卿[[千種忠顕]]や仏僧[[文観]]が権勢に驕り高ぶり奢侈を極めるなど、人々の反感を買っていく{{sfn|亀田|2016|pp=46–47}}。しかも、賢臣の[[万里小路藤房]]は後醍醐天皇にこうした悪政を諌めたが、全く聞き入れられなかったので、建武政権に失望し、僧侶となって遁世した、という物語が描かれる{{sfn|亀田|2016|pp=46–47}}。
[[亀田俊和]]の主張によれば、このような「『太平記』史観」が後世を呪縛し続け、後醍醐天皇と建武政権への評価を固定的なものにしてしまったのだという{{sfn|亀田|2016|pp=46–47}}。
その他にも、南北朝時代の作品で後醍醐天皇の暗君像に関与したものとして、『[[梅松論]]』、風刺文『[[二条河原の落書]]』といった文書等々を挙げることができる{{sfn|亀田|2016|pp=46–49}}。
=== 南朝正統史観・大義名分論からの批難 ===
[[江戸時代]]になると、『太平記』史観を受け継いだ朱子学者・歴史家から、再び後醍醐天皇は厳しく批難された。[[新井白石]]『[[読史余論]]』([[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]]))、[[三宅観瀾]]『[[中興鑑言]]』(江戸時代中期)、[[頼山陽]]『[[日本外史]]』([[文政]]10年(1827年))など当時の主要政治書・歴史書は、ほとんど『太平記』通りの批判的評価を後醍醐天皇に与えた{{sfn|亀田|2016|pp=49–50}}。観瀾と山陽は[[大義名分論]](臣下はいかなる状況であっても盲目的に主君に服従すべきという江戸時代的儒学思想)の有力な論客であり、「忠臣」[[楠木正成]]を称揚し、[[南北朝正閏論|南朝正統史観]]を広めた立役者であるが、彼らでさえ揃って後醍醐に「不徳の君主」の烙印を押した{{sfn|亀田|2016|pp=49–50}}。
なぜ南朝正統史観でも後醍醐が批判されるという事態が起きたのかについて、[[亀田俊和]]は次のように説明する{{sfn|亀田|2016|pp=45–46}}。南朝正統史観は「南朝正統」と名前があることから後醍醐天皇の政治的手腕が賛美されたと誤解されることがあるが、実は「南朝の正統性」「大義名分論」「忠臣論」と「後醍醐天皇の政権評価」は全くの別物として扱われていた{{sfn|亀田|2016|pp=45–46}}。むしろ、後醍醐天皇が「暗愚で不徳の君主」であるからこそ、それでもなお正統であるがゆえに、この暗君に生死を賭し一身を捧げて仕えなければならなかった「忠臣」の「悲劇」が、[[判官贔屓]]の形で人々の共感を呼んだのだという
{{sfn|亀田|2016|pp=45–46}}。こうして、後醍醐天皇が開いた南朝が正統とされ、南朝の忠臣が賛美されればされるほど、その対比として逆に後醍醐自身はさらに暗君として批難されるという、皮肉な状況となってしまった{{sfn|亀田|2016|pp=45–46}}。
=== 近代実証主義からの批難 ===
[[明治時代]]に入り、正式に南朝が正統であると政府から認められると、民間では大義名分論が主流であったが、逆に研究者の間では実証を重んじる気風が生まれ、日本史の多くの分野では研究に進展が見られた。ところが、建武政権・南北朝時代の政治研究については『太平記』史観からほとんど変化がなく、[[東京帝国大学]]や[[京都帝国大学]]の日本史研究者から、一貫して後醍醐天皇は批難された{{sfn|亀田|2016|pp=50–52}}。[[久米邦武]]が臣下の無理解も指摘し、[[中村直勝]]が貨幣鋳造政策にやや好意的であるといった部分的な変化はあるものの、久米も中村も基本的には後醍醐天皇を酷評している{{sfn|亀田|2016|pp=50–52}}。[[田中義成]]も[[黒板勝美]]も恩賞政策を中心に後醍醐批判を展開し、その内容はほぼ『太平記』と同じである{{sfn|亀田|2016|pp=50–52}}。
=== 平泉澄の皇国史観 ===
このように、江戸時代的大義名分論からも、実証主義歴史学からも、後醍醐天皇愚君説が掲げられる中、1930年代、例外的に後醍醐を再評価した異端児が[[皇国史観]]の代表的研究者であった[[平泉澄]]である{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。
平泉は、『[[建武中興の本義]]』(1934年)において、建武政権の良い点については、多くの史料をあげ論証していき、特に『太平記』以来の定説である恩賞不公平説を退けた{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。[[亀田俊和]]の主張では、恩賞不公平説を反証する際に用いられた実証的手腕は、2016年時点の研究水準から見ても納得できるものであるという{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。
ところが、建武政権の失敗については、「腐敗」した人民と「逆賊」足利尊氏に全ての責任を一方的になすりつけた{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。その妥当性はともかく、実はそれまでにはなかった視点という意味では、研究の新規性はある{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。
亀田は、平泉の皇国史観では前近代的な大義名分論が復活したことにより、全体的な研究水準はかえって後退してしまった、とする{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。しかも、「逆賊」足利尊氏を排撃する余り、建武政権と室町幕府の倫理的な断絶性が強調されたため、実証的には弱い面があった{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。その上、このわずか10年余り後、1945年の[[第二次世界大戦]]の日本敗戦によって、平泉は公職を追放されて存在そのものがタブーとなり、独創的・画期的な部分もあったとはいえ、後世に影響力をほとんど持たなかった{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。
=== マルクス主義歴史学からの批難 ===
戦後すぐの1940年代後半には、[[松本新八郎]]らによって[[マルクス主義]]からの批判が試みられ、建武政権は反革命路線・復古主義を取った失政と否定的に評価された{{sfn|亀田|2016|p=54}}。
=== 佐藤進一の宋朝皇帝型独裁君主説 ===
[[第二次世界大戦]]後、[[1960年]]代には、[[佐藤進一]]を中心として、後醍醐天皇は中国の皇帝を模倣した独裁者・専制君主であったという人物像が提唱され、建武政権についても、その政策は時代の流れや現実の問題を無視したものだったと否定的に評価された{{sfn|亀田|2016|pp=54–58}}。佐藤進一の学説は定説として20世紀後半の南北朝時代研究の大枠を作り{{sfn|亀田|2016|pp=54–56}}、こうした人物像や政権への否定的評価は、2010年代に入っても高校の歴史教科書([[山川出版社]]『詳説日本史 日本史B』2012年など)で採用されるなど、高校教科書的な水準では定説としての地位は失っていない{{sfn|亀田|2016|pp=43–45}}。しかし、後述するように、1990年代末からの新研究の潮流では複数の研究者から強い疑義が提出されている{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
後醍醐天皇独裁君主説では、[[建武の新政]]の解釈と評価は、おおよそ以下のようなものとなる。
建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、[[朝令暮改]]を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする[[大内裏]]建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など{{efn|ただし宋朝型独裁君主説の主要な論者である佐藤進一自身は、当時[[宋銭]]の普及によって貨幣経済が広まりつつあったことを指摘し、その後押しを図る紙幣発行計画には現実的な面もあったとして、ある程度高く評価している{{sfn|佐藤|2005|pp=65–68}}。}}、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、[[公家]]たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な[[二条河原の落書]]にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。
=== 網野善彦の「異形の王権」論===
[[佐藤進一]]の進歩的暗君説を極限にまで発展させて、独自の説と言えるまで特異な論を為したのが、[[網野善彦]]による「異形の王権」論である{{sfn|亀田|2016|p=56}}。
網野は『異形の王権』(1986年)で、後醍醐天皇を「[[ヒットラー]]の如き」人物と評し{{sfn|網野|1993|p=200}}、「異形」の天皇と呼んだ{{sfn|網野|1993|p=224}}。そして、後醍醐天皇が「邪教」の仏僧[[文観]]や「悪党」楠木正成を従え、「異類異形の輩」や[[非人]]といった、本来は正道から外れた階層を取り込むことで強大な力を得たと主張する{{sfn|網野|1993|pp=200–208}}。また、元徳元年(1329年)に後醍醐が行った祈祷が「聖天供」([[大聖歓喜天]]浴油供)であったことについて、大聖歓喜天は像頭人身の男女が抱き合う像で表されることを指摘し、「極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然――[[性行為|セックス]]そのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないだろうか」{{sfn|網野|1993|p=224}}と述べ、これをもって「異類異形」の中心たる王に相応しい天皇としている{{sfn|網野|1993|pp=218–226}}。そしてまた、当時は下剋上の空気の中、天皇の位が「遷代の職」(世襲ではなく人々の間を移り変わる職)である「天皇職」と化しつつあり、天皇家以外の者が「天皇職」に「補任」される(就任する)可能性もあるような巨大な危機が迫っていた、と主張する{{sfn|網野|1993|pp=230–231}}。そして、[[花園天皇|花園]]と後醍醐の二人はそれをいち早く嗅ぎ取り、花園は道義を身につけることで、後醍醐は異形異類の力や貨幣の力といった「魔力」を身につけることで天皇家の危機に対抗しようとしたが、建武の新政後、後醍醐はたちまち現実の「きびしい復讐」に直面し、その後は[[佐藤進一]]の定説通りの没落をしたのだとする{{sfn|網野|1993|pp=231–236}}。
[[森茂暁]]は、網野説について、宗教面での実証的史料を掘り起こしたことや、硬直しつつあった後醍醐天皇観に新風を与えたことについては評価し、その密教修行にも異形と言ってよい面があることは認める{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>王権としての後醍醐}}。しかし、文観を異端僧とするのは政敵の僧侶からのレッテル張りではないかと疑問を示し、また『[[建武記]]』には「異形の輩」の侵入を禁じる文があるのだから、どちらかといえば後醍醐は「異形の輩」なるものとは距離を置いていたのではないか、と指摘している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>王権としての後醍醐}}。また、[[亀田俊和]]は、網野説は建武政権を失政と捉え、その失敗を後醍醐天皇の個人的性格に求める点では、結局のところ『太平記』史観と変わるものがない、と指摘している{{sfn|亀田|2016|p=56}}。
=== 森茂暁の実証的研究 ===
戦後、建武政権の実証的研究は大きく進んだ{{sfn|亀田|2016|p=58}}。建武政権に対する歴史観そのものは、『[[太平記]]』・[[佐藤進一]]・[[網野善彦]]説を基本的に踏襲している{{sfn|亀田|2016|p=56}}。
とはいえ、著書の一つ『後醍醐天皇 <small>南北朝動乱を彩った覇王</small>』(2000年){{sfn|森|2000}}の中で、『太平記』史観とは違い、森は建武政権について3つの点に大きな歴史的意義を与えている。
一つ目には、建武政権の発足によって日本の中心が京都と明示されたことである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。武士の本拠は鎌倉にすべしという弟の[[足利直義]]からの強い主張をはねのけ、尊氏もまた京都を室町幕府の拠点に定めた{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。この文化・政治・経済・流通の中心に足利将軍家が身を置くことで、足利氏政権がただの武家政権ではなく全国を統治する機構にまで成長することができたのである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。
二つ目は、全国支配を視野に入れて法務機関の[[雑訴決断所]]に一番一区制を導入したことである(二番は[[東海道]]担当など){{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。これは後醍醐天皇以前の統治者には見られない発想であり、おそらくこの後醍醐の全国支配機構が以降の日本の全国政権の統治制度の基本になったのではないかと指摘し、「日本の国土に名実ともに成熟した全国政権を誕生させるうえで、建武の新政は重要な役割を果たした」と述べる{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。
三つ目は、鎌倉幕府では限定的な役割しか持たなかった[[守護]]を、その力を正しく認め、守護・国司併置制を採用することでその権限を増やし、室町幕府の守護制度に繋がる端緒を作ったことである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。
総評として、森は後醍醐天皇に対し、(森自身はこのような性急で強い語を用いないものの)優れた革命家・早すぎた天才というような形の評価を与えた。つまり、森は鎌倉幕府→建武政権→室町幕府の間になめらかな連続性を認めることには消極的なものの、後醍醐天皇が停滞していた鎌倉幕府の政治に対し「突破口」としての役割を果たし、次代の室町的世界が成立する上での歯車を回したことについては評価した{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。またその政治構想もそれまでに言われていたほど悪いものではなく、60年ほど遅れて多くの部分が三代将軍の[[足利義満]]の頃に室町幕府の手で実現されたとした{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。
=== 市沢哲・伊藤喜良の建武政権論再考 ===
==== 概要 ====
後醍醐天皇研究に視点の転換をもたらした3本の重要な論文は、[[市沢哲]]の「鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」」(1988年、『日本史研究』314){{sfn|市沢|1988}}・「鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望――」(1992年、『日本史研究』355){{sfn|市沢|1992}}および[[伊藤喜良]]の「建武政権試論―成立過程を中心として―」(1998年、『行政社会論集』第10巻第4号){{sfn|伊藤|1998}}である{{sfn|中井|2016|pp=37–41}}{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
市沢の論文によって、建武政権の諸政策は、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革と密接な連続性があることが示された{{sfn|中井|2016|pp=37–41}}{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。また、伊藤の論文によって、それまで消極的にしか扱われてこなかった建武政権の諸機関が、実際には建武政権の中核であると見なされるようになり、建武政権の諸改革は挫折の過程ではなく、発展の過程であると認識されるようになった{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
==== 市沢:鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」 ====
1988年、市沢は、後醍醐が進めた中央集権政策が、後醍醐個人の性格によるものや時代の流れから浮き出た特殊なものだったとする佐藤・網野説を否定した。つまり、[[鎌倉時代]]後期に朝廷の訴訟制度改革が行われたことで、[[治天の君]](院(上皇)も天皇も含む)の権力に頼る事例が多くなり、後醍醐個人の思想・性格とは関係なく、そうした時代の流れが中央集権的な君主の誕生を促したのだとした。かつて後醍醐の特徴とされた抜擢人事も、別に後醍醐に限ったことではなく、対立する持明院統でも行われていたことも指摘した。
市沢が[[鎌倉時代]]後期の朝廷訴訟の事例を検証したところ、13世紀末ごろには貴族の家系が増えたために、家督・所領相続の訴訟が多くなってきた{{sfn|市沢|1988|pp=25–31}}。また家系が増えたために貴族人口に対して割り当てられる官位・官職も少なくなり、この争奪戦も問題になっていた{{sfn|市沢|1988|pp=25–31}}。貴族社会において、分家化の進行の圧力と抑制の圧力が拮抗し、衝突が訴訟問題として顕在化するようになったのである{{sfn|市沢|1988|pp=25–31}}。
こうした訴訟の裁許者(判決を下す人物)として力があったのは治天の君である{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。古くは、「治天の君」という地位そのものに大した権威はなく、治天の君自身がしばしば強大な土地権利所有者であるため、その土地権利に拠る権力に基づいて土地紛争の訴訟を解決したのだと思われていた{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。しかし、市沢は、実際には土地問題以外の紛争でも治天の君が裁許を主導していることを指摘し、古説に疑問を示した{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。土地裁判についても、どちらかといえば土地の支配構造(歴史学用語で「[[職の体系]]」)の外からそれを庇護・調整する存在であったという{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。さらに、[[興福寺]]などの[[権門]](巨大な権勢を有した半独立勢力)は独自の訴訟機構を有したが、その権威が弱まった時に、治天の君の名で権門の判決にテコ入れをして、権門を助けることがあった{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。また、南北朝時代には、権門から朝廷への起訴経路ができるが、これも鎌倉時代後期に権門ごとに担当奉行が割り当てられたことの発展型なのではないか、という{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。朝廷での訴訟問題が増えるにつれ、治天の君が果たす役割も大きくなっていった{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。
したがって、13世紀末から14世紀初頭という後醍醐天皇が生まれ育った時代には、天皇・上皇はただの土地所有者だった訳ではなく、その「治天の君」という地位そのものに、訴訟問題解決において、相当に強大な権威と権力があった{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。
さて、皇統が亀山→後醍醐ら[[大覚寺統]]と、それに対立する[[持明院統]]に分裂した[[両統迭立]]というのは、[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]が継承者を指定しないまま崩御しないため起こった偶発的事象であり、そこに強制力はなく、本来ならば自然に解消されるはずの事態である{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。これが何故が続いたかというと、当時の公家社会の分裂が、皇統の分裂を維持したからである{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
たとえば、当初、大覚寺統有利で早期に終結しそうだったのに、持明院統が巻き返した背景には、有力公家の[[西園寺家]]内部での分裂が関わっていた{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。分裂が維持されると、[[二条派]]と[[京極派]]に分かれた[[御子左家]]や、その他にも[[山科家]]など、中小規模の公家もどちらの皇統に付くかで分裂するようになり、これが皇統の分裂を後押しさせた{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。[[女院]]領を各統が分割で相続したため、それぞれが荘園領主としても最大の存在となったことも、分裂を加速させた{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
こうなれば、両統間で武力的な争いが起こり、普通はそこで解決するはずである{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。だが、当時最も大きな武力を持っていたのは[[鎌倉幕府]]であり、両統の戦いを抑止していたため戦いは起こらず、かえって両統の分裂が深刻化していくことになった{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
「治天の君」という地位自体に訴訟解決の権能が備わっていたところに、両統の力が拮抗するようになると、皇統間で治天の君が変わるたびに、裁判の当事者のどちらが有利になるかが変わる、といった事態が起こるようになった{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。一度下した裁許に対しても、他統によって覆される事例まで出てくるようになり、後醍醐天皇と花園上皇の間で争った例もある{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
また、両統は抗争に勝利するため、激しい人材獲得競争を繰り広げた{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。家格を越えた抜擢人事というと、後世の人間からは、建武政権の印象から後醍醐ら大覚寺統の特徴と思われがちだが、実際は対立する持明院統もほぼ等しく行っていたという{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。たとえば、[[後伏見天皇|後伏見上皇]]は[[日野俊光]]を、[[光厳天皇]]も[[日野資名]]を抜擢している{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。これは、同時代人の印象でもそうであったと思われ、『増鏡』の作者は、「久米のさら山」で、抜擢登用された人材について両統等しく記している{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
訴訟問題に関する治天の君の権力は大きくなる一方なのに、皇統の交代によってそれに揺れが生じると、矛盾のひずみが大きくなっていった{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。これを解決するには、相手の皇統を倒すしかないが、その前にまず両統迭立の維持を支持する幕府を倒す必要がある{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。このようにして見ると、後醍醐に限らず、誰かがいつかは討幕をしなければ解決しない問題だった{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。ここに、当時たまたま、[[悪党]]という幕府に抵抗することを厭わない武士([[楠木正成]]など)が発生していた{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。つまり、後醍醐天皇は討幕が必要であり、かつそれが可能な時代に、在位していた治天の君だっただけで、別に後醍醐個人が時代から外れた存在だった訳ではない{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。むしろその逆で、時代の流れこそが後醍醐に討幕を促したのである、という{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。
==== 市沢:鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望―― ====
1992年、市沢はまず、[[佐藤進一]]説の問題点として、佐藤は[[平安時代]]後期の朝廷政治と[[建武政権]]の朝廷政治を比較しているが、中間の鎌倉時代の朝廷政治を無視していることを指摘した{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。直前の鎌倉時代後期の朝廷政治の研究も行わなければ、建武政権が本当に特異な政権だったのかどうかはわからない{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。
鎌倉時代後期は、都市領主、つまり[[京都]]など畿内に住みながら日本各地の[[荘園 (日本)|荘園]](土地)に利権を持つ大貴族・大寺社らが私兵を手駒に使って戦わせる戦争の時代だった{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。貴族社会の分家化や、武士の守護・地頭による[[押領]]によって、都市領主間の抗争が活発した{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。これらの抗争は、一つ目には既存の支配体制の強化、二つ目には他領主からの略奪によって起きた{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。
たとえば、[[正応]]3年(1290年)から翌年まで、[[紀伊国]]([[和歌山県]])荒川荘で高野合戦と呼ばれる戦いが起きた{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。これは[[真言宗]][[高野山]]が、別の荘園の領主である[[三毛心浄]]の軍勢を送って荘園の支配体制を強化しようしたところ、それを察知した土着の豪族の[[源為時]]が先手を打って戦いを始めたものと見られる{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。為時は高野山の動きを山門([[天台宗]][[比叡山]][[延暦寺]])に訴えたので、宗教間の代理戦争の様相も呈した{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。他領主からの略奪としては、[[後宇多天皇|後宇多上皇]]が[[四辻宮]]から荘園の接収をしようとし、両者は同地にいわゆる「[[悪党]]」(悪人という意味ではなく、既存の支配体制の枠組みから外れた武士・豪族たち)と呼ばれる軍事力を送って戦いを繰り広げた{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。
とはいえ、軍事力による抗争はあくまで最終手段であり、できれば話し合いで解決したいという考え自体は誰もが持っていたと思われる{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。このように、武力抗争が活発化することで、かえって訴訟制度の重要性が公家社会で再認識され、抗争を回避・解決するために、制度の整備・改革が進められたと考えられる{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。
また、市沢は、裁判の当事者たちが、自分たちの主張に箔をつけるために、治天の君による勅を求める事例が多くなることを、前の論文に続き改めて指摘した{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。さらに、訴訟でしばしば「[[徳政]]」という語が用いられていることを論じた{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。当時の徳政とは、[[天人相関説]]による思想で、為政者が悪いことをすると天変地異が起こり、良いことをすると災害が治まる、という考え方である。つまり、訴訟問題を解決することが、治天の君にとっての徳政であり、朝廷での最重要課題だと考えられていたのである{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。土地の支配構造の変化に伴い、「治天の君」という超越的な立場を利用して、新たな秩序を創造することこそが、天皇家に求められる役割になった{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。
[[建武政権]]で、後醍醐がまず行った行動に個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)というものがある{{sfn|佐藤|2005|pp=29–31}}。この通達やそれに続く法令が言う所は、[[綸旨]](天皇の私的命令文)によってそれぞれの領主に土地の権利を保証し、訴訟・申請の裁許も綸旨を必要とすると定めるものである{{sfn|佐藤|2005|pp=29–31}}。かつて、佐藤進一は、これを後醍醐の絶対的権力への執着欲と見なし、建武政権の異常性を示すものと考えた{{sfn|佐藤|2005|pp=29–31}}。ところが、上で見たように、実は鎌倉時代後期、治天の君権力によって土地問題に裁許を下すという発想は、既に後醍醐以前からあり、しかもそれは都市領主の側から求められたものだった{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。つまり、後醍醐の政策は、領主たちの要望に応えて、時代の流れに沿ったものだったのである{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。
しかし、このような「治天の君」権力の強化が、鎌倉時代後期には、逆に両統の分裂の矛盾を大きくすることになっていった{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。皇統の分裂は、誰かがいつかは解決しなければならない問題であり、こうした訴訟問題における要請が後醍醐の行動を促したと考えられる{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。
また、佐藤が「平安時代以来の秩序を破壊した」と主張する建武政権の他の政策についても、市沢は、平安時代ではなく、鎌倉時代後期の政治を考えれば、実は順当なものであることを指摘した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。
たとえば佐藤は、[[知行国主]](国司より上位で、特定の国を事実上支配する大貴族・大寺社)がそれまで特定の家に結び付けられていたのを、後醍醐が建武政権で新たな守護・国司制を作ったことで破壊したと主張した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。しかし、実は鎌倉時代後期、両統迭立以来、天皇の皇統が変わるたびに知行国主が変わることが多く、既に特定の国=特定の家のものという認識は崩れていた{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。その点を考えると、後醍醐の守護・国司制はそこまで急進的な改革だった訳ではない{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。
また、佐藤は、後醍醐が「[[官司請負制]]の破壊」という政策を行ったと主張した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。つまり、特定の官職が特定の家に結び付けられていたのを、宋朝型官僚制の影響を受けて破壊し、官司は全て後醍醐の支配下にあるという観念論的独裁政治を行ったのだという{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。しかし、市沢が調べてみたところ、官司請負制の破壊は全面的なものではなく、職務に能力が必要とされないものだけであった{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。つまり、[[官務]]・[[局務]]といった書記官や事務官など、能力が問われる職については、[[小槻氏]]など従来からの官僚的氏族がそのまま担当した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。逆に、[[馬寮]]など、特に職務がなく、利益を受け取るだけの恩賞的な官職については、後醍醐は恩賞代わりに自由に配分した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。しかも、これは後醍醐に特有なものではなく、13世紀半ばごろから、恩賞的な官職については特定の家に結びつかないことが徐々に増えていく傾向にあった{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。また、こうした鎌倉時代中期からの恩賞的官職の分配を左右できる力が、鎌倉時代後期の治天の君権力の強化に繋がったとも考えられる{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。
結論として、後醍醐・建武政権の中央集権政策は特異なものではなく、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革の中で、領主たちの求めに応じて生じた「治天の君」権力の強化の流れとその政策を、順当に発展させたものであるという{{sfn|市沢|1992|pp=50–51}}。また、[[鎌倉幕府]]は武士の惣領の選定に原則干渉できなかったのに、[[室町幕府]]には相続法がなく、惣領選定に強い権力を有した{{sfn|市沢|1992|pp=50–51}}。市沢によれば、これは、鎌倉時代後期の治天の君権力(朝廷政策)→建武政権の中央集権政策→室町幕府の中央集権政策というように受け継がれたものであり、したがって、建武政権と室町幕府の間にもその政策に連続性が見られるという{{sfn|市沢|1992|pp=50–51}}。
==== 伊藤:建武政権試論―成立過程を中心として― ====
1998年、[[伊藤喜良]]は[[佐藤進一]]の「綸旨万能主義」説を否定した{{sfn|伊藤|1999}}。綸旨万能主義というのは、全てを天皇の私的文書である[[綸旨]](りんじ)で決めるという主義である{{sfn|伊藤|1999}}。佐藤は、後醍醐は綸旨万能主義を奉じる観念論的独裁者で、建武政権は、雑訴決断所など綸旨万能主義に制限を加える機関が設置されていくことで、後醍醐の理想主義が挫折していく過程だと捉えた{{sfn|伊藤|1999}}。伊藤はこれに反対し、後醍醐は綸旨万能主義などは考えておらず、初期の綸旨乱発は機関がないための便宜上の措置に過ぎないとした{{sfn|伊藤|1999}}。そして、雑訴決断所等の非人格機関こそが、政権の中央集権政治を補完するための中核機構であると位置付けた{{sfn|伊藤|1999}}。建武政権はこれらの非人格機関が、現実的に整えられていく発展の過程であるとした{{sfn|伊藤|1999}}。
伊藤はまず、「綸旨万能主義」説の最初の論拠とされた、個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)について検討を加えた{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。佐藤は、この文書を「旧領回復令」と解釈し、[[元弘の乱]]で誰かに奪われた所領は元の持ち主に返し、その後の土地所有権の変更は、綸旨(天皇の私的命令文)による個別の裁許を仰ぐように命令したものだと解釈した{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。
しかし、伊藤によれば、この文書はその前の4月から5月にかけて出された軍法と関連付けて考えるべきであるという{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。元弘の乱末期、幕府が劣勢なのが明らかになると、討幕にかこつけて略奪を行う不埒な輩が続出していた{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。後醍醐は、略奪を繰り返す自称討幕軍を「獣心人面」と厳しく非難し、厳罰に処すとした{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。ところが、兵糧米の徴収は現場の判断に任せるとするなど、命令文にも曖昧なところがあり、実際には元弘の乱が終結した後も中々略奪が収まらなかったと考えられる{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。伊藤によれば、6月15日の命令は、戦争が終結したので、軍法のうち「現場の判断」という事項を緊急的に停止し、濫妨狼藉の阻止を狙ったものではないか、という{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。つまり、「旧領回復」や「綸旨万能」とは全く関係がなく、そもそも後醍醐はそのようなことを考えてはいなかった{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。
実際、同年10月に、[[陸奥守]][[北畠顕家]]が、六月十五日口宣案ともう一つの文書(後述の7月25日宣旨)に関連付けて発した陸奥国国宣では、濫妨狼藉を厳しく戒めることと、所領安堵の方針は原則として、(旧領ではなく)現在のものを認めることにしている{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。また、その後、顕家は[[当知行]]安堵(現在の実効所領を安堵)の方針で行動している{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。後醍醐の股肱の臣である顕家がこのように解釈するのだから、後醍醐の方針もこれと基本的に同じと考えるべきであるという{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。
6月からしばらくの間、佐藤の指摘のように、しばらく後醍醐は大量に綸旨を発給するようになる{{sfn|伊藤|1999|pp=73–74}}。しかし、伊藤によれば、これは新しい支配機構がまだ出来ていないのだから、私的文書で暫定的に対応をするのは当たり前のことであり、綸旨を万能と考えた訳ではなく、綸旨に頼るしかなかったというのが正解であろうという{{sfn|伊藤|1999|pp=73–74}}。
同年7月25日、後醍醐天皇は、[[宣旨]](天皇の正式文書)を発し、朝敵を北条一族とその与党のみに限定し、当知行安堵(現在の実効支配領域を保証)の方針を明確に定め、また安堵の取り扱いを各国の[[国衙]](県でいう県庁)に委任することにした{{sfn|伊藤|1999|pp=74–78}}。後醍醐が綸旨万能主義を志向したと主張する佐藤は、これを後醍醐の敗北と捉えた{{sfn|伊藤|1999|pp=74–78}}。しかし、伊藤によれば事実は逆で、この宣旨こそが建武政権の基本指針であり、本当の全国政権として活動し始めた端緒と見なされるのではないかという{{sfn|伊藤|1999|pp=74–78}}。これ以降、建武政権の諸政策はこの7月25日の宣旨の方向に沿って、新しい骨格が築き上げられていく{{sfn|伊藤|1999|pp=74–78}}。
8月から9月上旬にかけては、各国の国司に「[[後の三房]]」[[吉田定房]]や「[[三木一草]]」[[楠木正成]]など側近中の側近が割り当てられたが、これも7月の宣旨の内容を達成するために地方国衙を充実させようとしたものである{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。また、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]制も、一部の武士のみに特権を与えるという前時代的な制度なので廃止した{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。
最も重要なのが、裁判機関である[[雑訴決断所]]の設置である{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。後醍醐天皇が中央集権化を目指したのは明白だが、佐藤説の言うような綸旨万能主義(天皇個人が全てを裁許する主義)では、客観的に言って天皇の仕事量が多すぎて中央集権化を達成できる訳がないし、後醍醐もまたそうは考えなかったであろう{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。そうではなくて、統制の取れた非人格機関を設置し、その機関を通じて各国の国衙を効率的に支配することこそが、後醍醐の意図する中央集権化の完成形だったのではないか、とした{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。したがって、この雑訴決断所こそが建武政権の実体の出発点と言える{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。翌年1月まで次々と新政を補完するための新機関の設置が行われていった{{sfn|伊藤|1999|pp=82–85}}。
また、後醍醐は[[地方分権]]制を重視した先駆的な為政者でもあった{{sfn|伊藤|1999|pp=85–94}}。東北の半独立統治機構である[[陸奥将軍府]]について、伊藤は[[護良親王]]・[[北畠親房]]の主導によるものという『[[保暦間記]]』の説を否定し、後醍醐の主導によるものという当事者の親房自身の証言(『[[神皇正統記]]』)を信じるべきであろうとした{{sfn|伊藤|1999|pp=85–94}}。そして、後醍醐は、中央集権化を効率よく達成するためには、陸奥のように特色があり、反乱も続く地域に対しては、独自の裁量を持つ自治機関に任せた方が良いと考えたのではないか、という{{sfn|伊藤|1999|pp=85–94}}。実際、強大な権限を託された[[北畠顕家]]は、東北の乱を瞬く間に鎮めていった{{sfn|伊藤|1999|pp=85–94}}。
[[足利氏]]が任された[[鎌倉将軍府]]についても、この時点では後醍醐は足利氏に全面的な信頼を置いており、やはり東国の反乱に備えて、新政府の藩屏としたものではないかという{{sfn|伊藤|1999|pp=94–100}}。いわば中華の皇帝制の[[藩鎮]]のようなものではないかという{{sfn|伊藤|1999|pp=94–100}}。
また、後醍醐は、国より更に小さい地域単位である郡を重視して、郡に関する法令を度々発しており、郡政所もまた高い機能を有した{{sfn|伊藤|1999|pp=101–103}}。これによって、地方統治の階層構造が出来上がり、非人格機関を通して、地方の隅々まで掌握できるようになったのである{{sfn|伊藤|1999|pp=101–103}}。
伊藤は、物事を結果論から評価するのは危険であると指摘する{{sfn|伊藤|1999|pp=103–106}}。確かに上記の努力にもかかわらず、結果論としては、建武政権は短期間で崩壊した{{sfn|伊藤|1999|pp=103–106}}。しかし、崩壊したからと言って、常に歴史的意義がない訳ではなく、まず考察を深めてから判断する必要がある{{sfn|伊藤|1999|pp=103–106}}(なお、伊藤自身は後醍醐の政治的手腕の無さが短期間で崩壊した原因であるとしている<ref name="名前なし-8">伊藤喜良 『後醍醐天皇と建武政権』1999年 新日本出版社</ref>)。また、建武政権の王権論については、佐藤は建武政権を官僚制・君主独裁制を目指したとしたが、伊藤は封建王制を目指したのではないか、とした{{sfn|伊藤|1999|pp=103–106}}。後醍醐が狙ったのは、君主個人の力による独裁ではなく、整備された官制組織と制度を作ることで、最終的な決裁を行うという形の政策だったと考えられる{{sfn|伊藤|1999|pp=106–109}}。他に、単に朝廷と幕府を統一したのを「公武一統」と言っただけではなく、本気で公家と武家の区別をなくすことを考えており、武家を多数裁判機関に登用したり、逆に北畠顕家のような文官公家層を武門に抜擢したのは、その一環であろうという{{sfn|伊藤|1999|pp=109–111}}。
加えて、伊藤は後醍醐が宋のような国を目指し、そして失敗したことを指摘している<ref name="名前なし-8"/>。当時の宋は君主専制体制であり、後醍醐は非人格的な機関(雑訴決断所や記録所)を設置し、彼が個別にこれらの統治機関を掌握することで専制体制を確立しようとしたが、このような複数機関の設置は混乱を招くだけであったとした<ref name="名前なし-8"/>。後醍醐が宋のような君主専制体制を目指し、そして失敗した理由について、伊藤は当時の中国と日本の支配のあり方が大きく異なる点を挙げている<ref name="名前なし-8"/>。中国では、[[唐]]が滅亡したことにより、貴族層が消滅し、[[五代十国時代]]を通して、地方に強大な権力を打ち立てていた武人の節度使も消え、宋代に権力基盤となったのは、[[科挙]]を経た[[士大夫]]と呼ばれる文人官僚達であった。しかし、日本では鎌倉幕府(武家政権・武士・武力)と朝廷(公家政権)という2つの統治機関(封建領主)が存在しており、この両政権が協力し合って中世国家を形成していた。そのため、封建領主階級が存在し、分権的志向が強く、官僚と呼べる層もほとんど存在していなかったため、宋の支配方法(君主専制体制)をそのまま日本に成立させようとした後醍醐の政策には無理があり、公武の対立意識が強いのにもかかわらず、強引に「公武一統」を進め、中央集権国家体制を確立し、官僚層を作り出そうとした建武政権は「物狂の沙汰」と称されるようになってしまったのである<ref name="名前なし-8"/>。
=== 内田啓一の反「異形の王権」論 ===
後醍醐天皇を宗教的・人格的な異常者と見なす[[網野善彦]]の「異形の王権」論に対しては、[[仏教美術]]研究者の[[内田啓一]]から疑問が提出された。内田は、『文観房弘真と美術』(2006年、法藏館){{sfn|内田|2006}}と『後醍醐天皇と密教』(2010年、法藏館){{sfn|内田|2010}}を発表し、網野説は根拠を欠き疑わしいことを指摘した。
内田はまず、後醍醐の仏教政策面での最大の腹心である[[文観|文観房弘真]]の美術と経歴を調べた{{sfn|内田|2006}}。文観は、網野によって、性的儀礼を信奉する武闘派の怪僧と定義された人物である{{sfn|網野|1993|pp=200–208}}。しかし、内田によればこのような人物像は敵対派閥による中傷文書と、『太平記』および後世の文書でしか確認できない{{sfn|内田|2006}}。同時代の史料や美術作品に当たれば、文観は高徳の僧侶であり、さらに学僧としても画僧としても中世で最大級の業績をあげた人物であるという{{sfn|内田|2006}}。また、文観は[[真言律宗]]の系譜の上では、後醍醐の祖父の亀山が帰依した[[叡尊]]の孫弟子に当たる{{sfn|内田|2006|pp=214–218}}。そして、[[真言宗]]の系譜の上では、後醍醐の父が帰依した[[道順]]の高弟であるから、文観と後醍醐の結びつきも突飛なものではなく、自然な流れであると考えられる{{sfn|内田|2006|pp=116–117}}。
網野らが幕府呪詛の像とした[[般若寺]]本尊の文殊像も、内田によれば、叡尊から続く真言律宗の伝統様式で作られており、銘文も定型句であり、そこに大げさな意味は見いだせない{{sfn|内田|2006|pp=214–218}}。また、『太平記』や網野は、後醍醐が正妃である[[中宮]][[西園寺禧子]]の御産祈祷に偽装して、幕府へ呪詛の祈祷を行ったとする{{sfn|内田|2010|pp=104–109}}。しかし、安産祈祷で用いられた「聖天供」という儀式は仏教的にいえばあくまで息災法(除災や快癒を祈る祈祷)の儀式であり、幕府調伏の祈祷だとか性的儀礼だとかの、いかがわしい意味はとても考えにくいという{{sfn|内田|2010|pp=104–109}}。
内田は、後醍醐・文観が異形の人物であるという説を否定するとともに、後醍醐の親子関係にも焦点を当てた。佐藤や網野の説としては、後醍醐は朝廷の異端児であり、まともな父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]とは敵対したとされていた{{sfn|網野|1993|pp=221–222}}。しかし、実際に後醍醐の宗教活動を見てみると、[[灌頂]](密教における授位の儀式)で、父の後宇多もかつて身につけたことがある「[[犍陀穀糸袈裟]]」([[国宝]])を使用するなど、父の足跡を辿っていることが多い{{sfn|内田|2010|pp=101–102}}。つまり、後宇多を敬愛し、その宗教政策を受け継いでいることを指摘した{{sfn|内田|2010|pp=101–102}}。また、異端かどうかについても、父の後宇多は、[[金剛峯寺|高野山]]の奥の院にこもったり、密教僧として弟子を取ったりなど大きな活動をしているが、後醍醐はそこまではしておらず、むしろ密教修行者としては父より穏健派であるという{{sfn|内田|2010|pp=225–226}}。
=== その後 ===
市沢・伊藤説ははじめそれほど注目を浴びなかったが、21世紀に入ると、鎌倉時代後期と室町時代初期の研究が進んだ結果、後醍醐天皇の諸政策は前後の時代と連続性が見られることが指摘されるようになった{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。これらは、市沢・伊藤説の想定と合致するものであった{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
たとえば、2013年、[[亀田俊和]]は、[[室町幕府]]で初代[[執事]][[高師直]]が行った改革の目玉である執事施行状というものが、後醍醐天皇が発案した(あるいは側近が発案して後醍醐が積極的に主導した)[[雑訴決断所]]施行牒というものを改良したものではないか、と主張した{{sfn|亀田|2013|pp=119–121}}。これらは、土地を与える指示に、関連文書を添付することで、大元の指示に誤りがないか検査を行うと共に、不法占拠が行われている土地の引き渡しに、国からの強制執行権をもたせて、弱小な寺社や武家でも安全に土地が得られるようにした制度である{{sfn|亀田|2013}}。無論、これも無から出来た訳ではなく、[[鎌倉幕府]]によって局所的・部分的に用いられていた制度を、後醍醐が全国的・本質的なシステムとして構築し直したものである、とした{{sfn|亀田|2013|pp=119–121}}。
その他の研究成果についても、2016年に『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(日本史史料研究会/呉座勇一編、[[洋泉社]])によって一般向けに書籍の形で紹介されることになった{{sfn|日本史史料研究会|呉座勇一|2016}}。
2007年、[[河内祥輔]]は、『[[太平記]]』で「一回目の討幕計画」とされていた、いわゆる[[正中の変]]という事件が、歴史的には本当に冤罪だったという説を示した{{sfn|河内|2007|pp=304–347}}。後醍醐は[[関東申次]](朝廷と幕府の折衝役)の娘の[[西園寺禧子]]を[[中宮]](正妃)としており、幕府とは友好関係にあった、とした{{sfn|河内|2007|pp=304–347}}(ただし、大覚寺統で幕府と友好的であったのは後宇多であり、実際に後醍醐と幕府の友好関係を表す史料は無い<ref name="名前なし-2"/>)。相次ぐ御産祈祷なども、禧子との間に皇子さえ誕生すれば、幕府と戦わずとも自身の系統を存続させられるため、融和路線の一環ではないか、とした{{sfn|河内|2007|pp=304–347}}。2012年には、[[三浦龍昭]]によって、建武政権成立後も、[[後伏見天皇|後伏見]]皇女[[珣子内親王]]との婚姻や、娘の[[懽子内親王]]と[[光厳天皇|光厳上皇]]との婚姻政策などで[[持明院統]]への懐柔政策を図っていたことが指摘された{{sfn|三浦|2012}}。2018年には、[[保立道久]]が、建武政権成立後3日目という早期の時点から、土地の安堵や禅宗政策などを通じて、持明院統との和解・統合の政策を実施していたことを指摘した([[#禅律国家構想]]){{sfn|保立|2018}}。
[[呉座勇一]]もまた、「執念」「不撓不屈の精神」「独裁者」「非妥協的な専制君主」といった人物像は『太平記』以前には見られず、『太平記』とそれ以降に作られた後世のイメージであり、実際は少なくとも当初は鎌倉幕府との融和路線を目指していた協調的な人物であるというのが、後醍醐の歴史的実像であろうとしている{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.2 通説には数々の疑問符がつく}}{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。なぜこのような人物像が作られたかというと、その方がわかりやすいからだという{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。結果論として、後醍醐は武力で鎌倉幕府を倒し、しかも子孫を含めれば室町幕府と60年近い戦いを繰り広げることになる{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。融和路線を敷いていたのに、そこから様々な紆余曲折があって大戦に至った、というのは、結果を知っている後世の人からしてみると、直感的に理解しにくい{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。それよりも不撓不屈の好戦的な人間が、即位当初から討幕を計画していたという設定の方が、話としては理解しやすいため、それが広まってしまったのではないかという{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。
2018年、『[[太平記]]』研究者の[[兵藤裕己]]は、後醍醐天皇を主題にした書籍を岩波新書から著した{{sfn|兵藤|2018}}。兵藤は、政治面については、1960年代の[[佐藤進一]]説をほぼそのまま用い、綸旨万能主義と宋朝型独裁君主制が挫折して云々という説明をする{{sfn|兵藤|2018|pp=147–178}}。その一方で、兵藤は、専門書でしか出されていなかった[[内田啓一]]の業績を一般向けに紹介し、後醍醐天皇や腹心の[[文観|文観房弘真]]が異形の人間であるという中傷の解消に努めた{{sfn|兵藤|2018|pp=79–114}}。また、『太平記』では人格的に下劣に描かれる文観・寵姫[[阿野廉子]]らだが、兵藤によれば、これらの部分は[[玄恵]]らによる後世の改変が入っていると見られ、信用をおけないという{{sfn|兵藤|2018|pp=79–114}}。兵藤はまた、後醍醐という(人物そのものというよりは)人物像が、[[水戸学]]や[[明治政府]]、現代社会においてどのような影響を及ぼしたのかについても議論した{{sfn|兵藤|2018|pp=206–233}}。一方で、後醍醐の「新政」については、後醍醐が「新政」のモデルとした[[宋 (王朝)|宋]]と14世紀の日本の政治的現実の違いを明らかにし、
*天皇親政(王政)の理想は、一四世紀の日本の政治的現実をまえに、けっきょく『二条河原落書』が揶揄するような混乱をもたらすものでしかなかった。
*後醍醐天皇の『新政』にたいする不満は、既得権益を奪われた権門層のみならず、建武政権の恩恵を受けなかった広汎な武士層にも及んだ。
*後醍醐天皇の政治手法は、中国ふうの士大夫を自任する一部の中下層貴族には、「正理に叶ふ」と指示されたろうが、大方の公家からすれば、およそ「物狂の沙汰」としかいいようのない治世である。
とし、「新政」が失敗であったことを論じている{{sfn|兵藤|2018|pp=167–168}} {{sfn|兵藤|2018|pp=177}}。
2020年には、中井裕子が、人格面から後醍醐の再評価を行った{{sfn|中井|2020}}。[[森茂暁]]らの古い説では、傍系である後醍醐は父の後宇多から冷遇されて鬱屈した少年時代を過ごし、それで性格が捻じ曲がって討幕を考えるようになったのだと説明されていた{{sfn|2007|loc=§1.1.7 鬱屈した少年時代}}。しかし、中井が、『[[正親町三条実躬|実躬卿記]]』『[[二条道平|道平公記]]』など当時の日記を当たったところ、実際には、後醍醐は父帝の後宇多を含めて親族からは愛情をかけて育てられており、後宇多とはしばしば私生活でも政治上でも協調して行動していたという{{sfn|中井|2020|pp=16-30}}。
一方で、[[深津睦夫]]は「吉田定房奏状」の存在を明らかにした。これは後醍醐の討幕計画を諌めた書であるが、その成立年次は、初稿が[[元応]]2年(1320年)6月、改稿が翌年冬と推定されることから、後醍醐は後宇多院から政務を譲られる前には既に討幕の意思を持っていたとした<ref name="名前なし-7"/>。
=== 研究者からの否定的評価(21世紀以降)===
[[亀田俊和]]は総体的に見た場合、初期の[[室町幕府]]は先代[[鎌倉幕府]]の体制を模倣しており、独自の政治構造の創出に至っていなかったと結論付けている<ref name=":2" />。中井裕子は、後醍醐天皇の政策がすでに前代からみられることが明らかになっており、後醍醐天皇が特異な存在という評価は見直されるべき、と述べている<ref name=":4" />。
[[本郷和人]]は、後醍醐天皇が「[[院政]]を否定」して天皇親政を実現したことで、「英明な天皇」だと高く評価される傾向にあるが、後醍醐天皇は条件が整わなくて[[太上天皇|上皇]]になれなかったのであり、上皇として権力を握りたかったのだと指摘しており、また、後醍醐天皇の天皇親政は、[[後宇多天皇|後宇多上皇]]ら歴代上皇たちによって築かれた「徳政」を受け継いでおらず、「徳政」が断絶したことも指摘している<ref name=":1" />。さらに、[[本郷和人]]は、明治以来の歴史学が[[大化の改新]]、[[建武の新政]](建武の中興)、[[明治維新]]を三大画期と評価したことで後醍醐天皇が「英明な天皇」とされているが、むしろ「徳政」をよりよく実行してきた[[後宇多上皇]]や[[花園天皇|花園上皇]]が天皇家の歴史の中でも極めて優秀だと論じている<ref name=":1" />。さらに、[[本郷和人]]は、後醍醐天皇が「英明な天皇」だから討幕に成功したのではなく、[[鎌倉幕府]]の内部がガタガタであり、きっかけさえあれば潰れる状況であり、後醍醐天皇のような人物でも討幕に成功できたのだと論じている<ref name=":1" />。
[[亀田俊和]]は、後醍醐天皇の政権発足直後から、矛盾する論旨や偽物の論旨が大量に発給されたことで、新政権が大混乱に陥ったことは広く知られていると、著書に記している<ref name=":2">{{Cite book|和書|title=観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書) Kindle版|date=2017/7/25|year=2017|publisher=中央公論新社|pages=311,351,450}}</ref>。また、[[亀田俊和]]は『二条河原落書』で「此頃都ニハヤル物、夜討、強盗、謀綸旨、(中略)本領ハナルル訴訟人」と後醍醐天皇が風刺されたのも史実であると、著書に記している<ref name=":2" />。
[[呉座勇一]]は、後醍醐天皇の討幕計画の杜撰さは以前から指摘されており、後醍醐天皇の政治的資質の欠如を論じる研究者がいると、著書に記している<ref name=":3" />。
[[本郷恵子]]は、[[花園天皇]]が謙虚に宋学を学び善政を追求していたのに対し、後醍醐天皇が宋学から学んだ徳は「肥大した自我」そのものであると、痛烈に批判している<ref name=":5" />。また、建武政権で設けられた「窪所」という組織が鎌倉幕府の「問注所」の「問注」の草書が「窪」に似ているために言葉遊びで定められたという説を紹介し、驕りと鈍感力が見られると批判し、後醍醐天皇は伝統的公家政権のパロディに過ぎないとしている<ref name=":51">{{Cite book|和書|title=院政 天皇と上皇の日本史 (講談社現代新書) Kindle版|date=2019/5/15|year=2019|publisher=講談社|pages=2913,3018,3027,3049}}</ref>。建武政権の家格・先例にとらわれない人事についても、それらが有効に機能することなどなかったと論じている。また、後醍醐天皇は二人の天皇・二つの朝廷を生み出すことで、天皇の権威を決定的に下落させたと論じている<ref name=":5" />。
== 側近 ==
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[近衛経忠]]
* [[万里小路宣房]]
* [[北畠親房]]
* [[吉田定房]]
* [[日野資朝]]
* [[日野俊基]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[千種忠顕]]
* [[坊門清忠]]
* [[四条隆資]]
* [[洞院実世]]
* [[文観]]
* [[円観]]
</div>{{clear|left}}
== 諡号・追号・異名 ==
天皇の[[諡号]]や[[諡|追号]]は通常死後におくられるものであるが、後醍醐天皇は、生前自ら後醍醐の号を定めていた{{sfn|2005|p=22}}。たとえば、[[輪王寺]]銅鋺延元元年付には「当今皇帝……後醍醐院自号焉」とあり、崩御3年前の[[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])時点で既に後醍醐の名が広く知られていた{{sfn|2005|p=22}}。これを'''遺諡'''といい、[[白河天皇]]以後しばしば見られる。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
20世紀時点での通説としては、後醍醐は[[延喜・天暦の治]]と称され天皇親政の時代とされた[[醍醐天皇]]・[[村上天皇]]の治世を理想としており、そのため醍醐に後を付けて後醍醐にしたのだとされていた{{sfn|2005|p=22}}。一方、21世紀に入り、[[河内祥輔]]は、父の[[後宇多天皇]]も生前から追号を「後宇多」と定めていたことを指摘し、[[宇多天皇]]が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『[[寛平御遺誡]]』にあやかって、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったのではないか、という説を唱えている{{sfn|河内|2007|pp=292–293}}。
崩御後、北朝では[[崇徳天皇|崇徳院]]・[[安徳天皇]]・[[後鳥羽天皇|顕徳院]]・[[順徳天皇|順徳院]]などのように徳の字を入れて[[院号]]を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」としたという(一条経通『玉英記抄』「凶礼」暦応2年9月8日条){{sfn|久水|2020|pp=121}}。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。
== 系譜 ==
{{ahnentafel top|後醍醐天皇の系譜|width=100%}}
{{ahnentafel-compact5
|style=font-size: 90%; line-height: 110%;
|border=1
|boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0;
|boxstyle_1=background-color: #fcc;
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|boxstyle_3=background-color: #ffc;
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|1= 1. 第96代 後醍醐天皇
|2= 2. [[後宇多天皇|第91代 後宇多天皇]]
|3= 3. [[五辻忠子]]
|4= 4. [[亀山天皇|第90代 亀山天皇]]
|5= 5. [[洞院佶子]]
|6= 6. [[五辻忠継]]
|7= 7. 平高輔女
|8= 8. [[後嵯峨天皇|第88代 後嵯峨天皇]]
|9= 9. [[西園寺姞子]]
|10= 10. [[洞院実雄]]
|11= 11. 徳大寺栄子
|12= 12. [[五辻雅継]]
|13= 13. 安倍春元女
|14= 14. [[平高輔]]
|16= 16. [[土御門天皇|第83代 土御門天皇]]
|17= 17. [[源通子]]
|18= 18. [[西園寺実氏]]
|19= 19. [[四条貞子]]
|20= 20. [[西園寺公経]]
|21= 21. [[平親宗]]女
|22= 22. [[公審]]
|24= 24. [[五辻家経]]
|25= 25. [[藤原成親]]女
|26= 26. [[安倍春元]]
|28= 28. [[平範輔]]
}}</center>
{{ahnentafel bottom}}
=== 系図 ===
{{皇室鎌倉後期|next=1}}
{{皇室南北朝}}
== 后妃・皇子女 ==
=== 概要 ===
==== 正妃を手厚く扱う ====
后妃・皇子女の数は諸説あるが、実在が確実な后妃は8人、皇子は8人、皇女は8人である([[#確実な后妃・皇子女の一覧]])。
とりわけ、正妃である[[中宮]](のち[[皇太后]])の[[西園寺禧子]]が一貫して絶大な寵愛と寵遇を受けた{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。[[元徳]]2年([[1330年]])[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]、後醍醐天皇は、腹心の[[文観]]に無理を言って、禧子に当時の[[真言宗]]最高の神聖儀式である「[[瑜祇灌頂]]」を受けさせたため、禧子は聖界においても日本の頂点に立ったが、これほどの地位を与えられた妃は史上先例がない{{sfn|内田|2010|pp=94–97}}。この前月、後醍醐は自分も瑜祇灌頂を受けており、法服をまとった後醍醐天皇の著名な肖像画は、この時の後醍醐側を描いたものである{{sfn|内田|2010|pp=211–217}}。禧子の側でも後醍醐に深い愛情を寄せ、そのおしどり夫婦ぶりは『[[増鏡]]』などに取り上げられた{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。和歌が得意な夫妻はたびたび歌を贈り合い、3組が勅撰和歌集・准勅撰和歌集に入集している{{efn|『[[新千載和歌集]]』夏・194および195、『新千載和歌集』春下116・117、『[[新葉和歌集]]』雑下・1294および1295{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=243–244}}および『[[増鏡]]』「久米のさら山」{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}}}。
后妃8人というのは同時にいた訳ではなく、この数にまでなったのは、多くの妻が早逝したからという面が大きい。後醍醐自身、数えで52歳、満年齢で50歳という、当時としてもそこまで長い人生ではないが(父帝・祖父帝の宝算は50代後半)、3人の正妃全員に先立たれている。皇太子時代の最初の正妃である[[二条為子]]は[[応長]]元年([[1311年]])もしくはその翌年に薨去{{sfn|森|2013|loc=§1.2.4 二条為子と和歌}}(享年不明)、天皇としての最初の正妃である禧子は[[元弘]]3年([[1333年]])に崩御<ref name="dainihon-shiryo-6-1-243">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0243 『大日本史料』6編1冊243頁].</ref>(享年30代前半か)、その次に中宮になった[[珣子内親王]]は延元2年/建武4年(1337年)に崩御(享年数え27歳)している<ref name="dainihon-shiryo-6-4-227">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0604/0227 『大日本史料』6編4冊227–228頁].</ref>。
後醍醐は正妻を最も大切にする人物で、正妻に対しては常に、前例のほぼないほどの手厚い寵遇で尽くした。たとえば、後醍醐は即位して後、5年以上前に亡くなった最初の正妃である為子に、[[従三位]]を追贈した(『増鏡』「秋のみ山」等){{sfn|井上|1983b|pp=69–73}}。[[江戸時代]]後期の有職故実家である[[栗原信充]]によれば、天皇の妃ではなく、皇太子時代の妃が従三位を追贈されるという例はきわめて珍しく、後醍醐の為子への格別な想いのほどが窺えるのではないか、という{{sfn|栗原|1843|loc=9巻10冊34丁オ–ウ}}。また、後醍醐は為子の死後20年以上経った後、建武の新政を開くと、二条派の大歌人だった為子の代表歌に倣う歌を詠んでいる([[#白菊]])。2人目の正妃である皇太后禧子については別段で述べた。3人目にして最後の正妃である中宮珣子に対しても、立后時に歴史的な秀歌2首を贈った(『新拾遺和歌集』冬・622<ref name="shinshui-622" />/『新葉和歌集』冬・501、『新千載和歌集』神祇・982<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000027307}}</ref>/『新葉和歌集』神祇・594)。さらに、珣子の妊娠・出産時には、歴代最高となる66回の御産祈祷を開催している{{sfn|三浦|2012|pp=524–526}}。
また、側室もないがしろにせず、皇太子時代に早逝したと思われる[[遊義門院一条局]]を除けば、実在が確実な側室は全員が[[女御]](中宮の次位の后)もしくは女御に相当する位階の従三位に叙されている([[#確実な后妃・皇子女の一覧]])。
なお、[[北朝 (日本)|北朝]]で書かれた[[軍記物語]]『[[太平記]]』1巻では、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後村上天皇]]の生母である阿野廉子が、禧子から帝の寵を奪った稀代の悪女とされているが、このような記述は『太平記』1巻以外には見られず、他の現存資料と一致しない{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。『太平記』内部でも4巻などでは後醍醐と禧子の仲睦まじさが描かれており、廉子悪女説は物語としても設定が破綻している{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。史実ではないことが描かれた理由として、『太平記』研究者の[[兵藤裕己]]は、一つ目には、編纂者が文学的効果を狙って[[白居易]]の[[漢詩]]「上陽白髪人」を下敷きに創作したことと、二つ目には、現行の『太平記』の1巻・12巻・13巻には、建武政権批判を意図して、室町幕府からの改竄が加えられていると見られることを指摘している{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。
==== 好みの異性 ====
後醍醐の好みは高い知性を持つ女性で、特に和歌の才能と官僚的能力に惹かれたと見られる。
皇后の[[西園寺禧子]]は、勅撰集に14首・准勅撰集に1首が入集した勅撰歌人{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}である。また、『[[増鏡]]』で禧子の他に特に深い寵愛を受けたと描かれるのは、最初の正妃である[[二条為子]]と{{sfn|井上|1983b|pp=69–73}}、側室の[[二条藤子]]および[[阿野廉子]]である{{sfn|井上|1983b|pp=156–161}}。二条為子は、勅撰集に71首が入集した[[二条派]]の代表的歌人で、[[後二条天皇]]の[[典侍]]などを務め{{sfn|次田|1997}}、書や漢学にも通じていたことから、『[[憙子内親王|昭慶門院]]御屏風押色紙和歌』奥書で「名誉の女房」(「偉大な女性」)とまで称えられたほどの人だった{{sfn|昭慶門院御屏風押色紙和歌|1893|p=998}}。二条藤子も勅撰歌人(8首)で、禧子の[[宣旨 (役職)|中宮宣旨]](筆頭女官)を務めた{{sfn|小川|1996|p=173}}。阿野廉子も禧子の中宮[[掌侍|内侍]]を務めた上級女官で、最晩年の3年ほどは「新待賢門院令旨」を発して[[南朝 (日本)|南朝]]の国政に関わる政治家だった{{sfn|森|2013|loc=§2.2.1 女帝さながらの阿野廉子}}。廉子は歌人としては正規の勅撰集に入集こそしなかったものの、准勅撰集には20首が撰ばれている{{sfn|森|2013|loc=§2.2.1 女帝さながらの阿野廉子}}。
=== 確実な后妃・皇子女の一覧 ===
この一覧では、実在がほぼ確実な后妃・皇子女のみに絞って掲載する。実在が確実な生涯の后妃の数は8人、皇子は8人、皇女は8人である。皇子女の数が計16人というのは、南朝系図としては比較的古く信頼性の高い『帝系図』([[#『帝系図』による一覧]])と一致する。
* [[皇太后]](初め[[中宮]]):[[西園寺禧子|藤原(西園寺)禧子]](後京極院、? - 1333年) - [[西園寺実兼]]女
** 第四皇女(1314年 - ?) - 早逝?
** 第五皇女:[[懽子内親王]](宣政門院、1315年 - 1362年) - [[光厳天皇]]後宮
* [[中宮]]:[[珣子内親王]](新室町院、1311年 - 1337年) - [[後伏見天皇]]皇女
** 第七皇女(1335年 - ?) - 備考:『[[新葉和歌集]]』に[[幸子内親王]]という歌人がおり、近世系図類では幸子を珣子との皇女に当てるものがある
* [[准三宮]]:[[阿野廉子|藤原(阿野)廉子]](三位局、新待賢門院 1301-1359) - [[阿野公廉]]女、[[洞院公賢]]養女
** 第六皇女:[[祥子内親王]](1322年? - ?) - [[斎宮]]
** 第五皇子:[[恒良親王]](1325年 - ?) - 後醍醐天皇皇太子
** 第六皇子:[[成良親王]](1326年 - 1344年) - [[征夷大将軍]]・[[光明天皇]]皇太子
** '''第七皇子:義良親王([[後村上天皇]]、1328年 - 1368年)'''
** 第八皇女:[[惟子内親王]](1336年以後? - ?) - 南朝の女院・歌人である新宣陽門院と同一人物とする説が比較的有力
* [[女御]]:[[二条栄子|藤原(二条)栄子]](安福殿) - [[二条道平]]女
* 皇太子妃:[[二条為子|藤原(二条)為子]](権大納言局、贈従三位為子、? - 1311年?) - [[二条為世]]女
** 第一皇子:[[尊良親王]](1306年? - 1337年) - [[中務卿]]・[[一品親王]]・[[上将軍]]
** 第三皇女:[[瓊子内親王]](? – ?) - 『[[新葉和歌集]]』に尊良との贈答歌があるほか、勅撰集に多数入選
** 第四皇子:[[宗良親王]](尊澄法親王、1311年 - 1385年?) - [[天台座主]]・[[中務卿]]・[[征夷大将軍]]
* 後宮:藤原氏([[遊義門院一条局]]、? - 1308年?) - [[橋本実俊|西園寺実俊]](橋本実俊)女
** 第二皇子:[[世良親王]](1307年? - 1330年)
** 第二皇女:[[欣子内親王 (後醍醐天皇皇女)|欣子内親王]](1308年? - ?)
* 後宮:出自不詳([[民部卿三位]]、? - 1329年?)- 元[[亀山天皇|亀山上皇]]後宮、のち[[吉田定房]]室になったとする説もある
** 第一皇女:[[姚子内親王]]?(1307年? - ?) - 母を民部卿三位とするのは『本朝皇胤紹運録』によるものだが、第二皇女の欣子と第三皇女の瓊子の上にもう一人皇女がいたはずであるため、便宜上ここに掲載。
** 第三皇子:[[護良親王]](尊雲法親王・大塔宮、1308年 - 1335年) - [[梶井門跡]]・[[天台座主]]・[[征夷大将軍]]
* 後宮:[[二条藤子|藤原(二条)藤子]](宣旨三位・権大納言三位局・霊照院、? - 1351年) - [[二条為道]]女
** 第八皇子:[[懐良親王]](鎮西宮・筑紫宮、1329年? - 1383年) - [[征西大将軍]]・[[明]][[日本国王]]
皇子・皇女の順序については、『[[増鏡]]』は、尊良親王を第一皇子、世良親王を第二皇子、二条為子の皇女(瓊子内親王)を第三皇女としている(『[[増鏡]]』「秋のみ山」「春の別れ」){{sfn|井上|1983|pp=69–73, 161–162}}。また、腹心である[[北畠親房]]が著した『[[神皇正統記]]』では、義良親王(後村上天皇)は第七皇子であるとされている{{sfn|森|2007|p=244}}。『帝系図』([[応安]]4年([[1371年]]))では、欣子内親王が第二皇女で、祥子内親王が第七皇女{{sfn|帝系図|1915|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/21 25–27]}}。
=== 後宮の変遷 ===
前節の実在が確実な后妃・皇子女のみによって、後宮の変遷を書くと、
* 親王時代(1305年 - 1308年):[[二条為子]]・[[遊義門院一条局]]・[[民部卿三位]]
* 皇太子時代その1(1308年 - 1311年?):二条為子(側室なし)
* 皇太子時代その2(1313年 - 1318年):[[西園寺禧子]](側室なし)
* 中宮禧子冊立から建武の新政まで(1319年 - 1333年):西園寺禧子・[[二条藤子]]・[[阿野廉子]]
* 禧子崩御・藤子出家後(1334年 - 1337年):[[珣子内親王]]・阿野廉子・[[二条栄子]]
* 珣子崩御後(1337年 - 1339年):阿野廉子・二条栄子
=== 女官 ===
後醍醐に[[典侍]](事実上の女官長で、側室になる場合も多いが、そうではない場合も多い)として仕えた「後醍醐天皇大納言典侍」(「権大納言典侍」「後醍醐院権大納言典侍」とも)という勅撰歌人がおり、『[[続千載和歌集]]』に1首(恋歌五・1601)<ref name="shokusenzai-1601">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000022189}}</ref>、『[[新千載和歌集]]』に1首(恋歌五・1577)<ref name="shinsenzai-1577">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000027902}}</ref>、『[[新葉和歌集]]』に2首(釈教・615と哀傷・1328)が載る{{sfn|深津|君嶋|2014|p=353}}。理由不明だが、[[深津睦夫]]と[[君嶋亜紀]]は、大納言典侍を公卿[[洞院公敏]]の娘であるとしている{{sfn|深津|君嶋|2014|p=353}}。大納言典侍はのち出家したが、後村上天皇と特に親しく、後村上はしばしば出家した彼女のもとを尋ねて和歌を贈り合っていたようである{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=121–122, 250}}。
このほか、『増鏡』「久米のさら山」では、[[隠岐島]]に流される後醍醐に、阿野廉子に加えて「大納言君」と「小宰相」という2人の女房(女官)が付き添ったとされる{{sfn|井上|1983b|pp=251–257}}。
=== 『帝系図』による一覧 ===
この節では、『帝系図』([[応安]]4年([[1371年]]))による系図{{sfn|帝系図|1915|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/21 25–27]}}を掲載する。京都[[醍醐寺]][[三宝院]]所蔵の文書で、[[長慶天皇]](後醍醐の孫)の在位確定にも用いられた価値の高い史料である{{sfn|帝系図|1915|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/5 例言]}}。以下の部分のうち、括弧(「」)で括られた部分は、応安4年(1371年)から[[後小松天皇]]([[1382年]] - [[1412年]])の代までの間に加筆されたと見られる部分{{sfn|帝系図|1915|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/5 例言]}}。
* {{sup|第九十五}}後醍醐院〔「尊治、御子十六人、/母談天門院、参議忠継卿女」〕
** [[恒良親王]]
** [[後村上天皇|後村上院]]〔義儀/母後建礼門院/応安元三十一崩、/正平廿三年也〕
** [[成良親王]]
** [[懐良親王|懐良]]〔鎮西宮〕
** [[姚子内親王]]
** [[懽子内親王]]〔宣政門院/光厳院―/「母皇太后宮、実兼公女、弘徽殿、文法二八三備后妃位」〕
** [[欣子内親王 (後醍醐天皇皇女)|欣子内親王]]〔第二皇女/母前参議(正三<small>イ</small>)実俊女、橋本也〕
** [[祥子内親王]]〔第七、斎王/母従二位藤原廉子、従三公廉女〕
=== 『本朝皇胤紹運録』による一覧 ===
この節では、『[[本朝皇胤紹運録]]』([[応永]]33年([[1426年]]))による系図{{sfn|本朝皇胤紹運録|1930|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879733/249 449–451]}}を掲載する。[[後小松天皇|後小松上皇]]の勅命による系図のため、一般論として、天皇家の系図では最も信頼性の高いものとされている。この系図では、20人の女性との間に、17人の皇子と15人の皇女、計32人の子を儲けたことになっている{{sfn|亀田|2017|p=12}}。
しかし、後醍醐とは違う皇統の[[北朝 (日本)|北朝]]の系統で、後醍醐崩御の約90年後に編まれたものであることには注意する必要がある。問題点として、
* より古く信頼性の高い『帝系図』では、後醍醐の子は計16人とされているが([[#『帝系図』による一覧]])、数が急に倍に増えている。
* [[延慶 (日本)|延慶]]元年([[1308年]])生まれがほぼ確実な護良親王{{sfn|森|2007|p=231}}が、[[嘉暦]]3年([[1328年]])生まれがほぼ確実な義良親王(後村上天皇){{sfn|森|2007|p=244}}の弟になっている。
* 後醍醐の腹心の[[北畠親房]]は、『[[神皇正統記]]』で、義良親王(後村上天皇)が第七皇子であると主張している{{sfn|森|2007|p=244}}。しかし、『本朝皇胤紹運録』の皇子を全てを数え上げると(たとえば伝・[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])誕生の[[法仁法親王]])、義良が第七皇子にならない。
* [[亀山天皇|亀山上皇]]の皇子である[[尊珍法親王]](静尊法親王)が混ざっている。
* [[公家]]側の権威ある家系図である[[洞院公定]]編『[[尊卑分脈]]』(14世紀末)の方では、存在を確認されない女性もいる(下記で[[四条隆資]]の娘とされる少納言内侍など)。
などがある。
* [[尊良親王]]〔(略)母[[二条為子|贈従三位為子]]。[[二条為世|権大納言為世卿]]女〕
* [[世良親王]]〔太宰帥。上野太守。母[[橋本実俊|三木実俊卿]]女。[[遊義門院一条局|遊義門院一条]]〕
* [[恒良親王]]〔(略)母准宮[[阿野廉子|新待賢門院]]〕
* [[成良親王]]〔(略)母同〕
* [[後村上天皇|義良親王]]〔(略)号後村上天皇云々。母同〕
* [[護良親王]]〔(略)尊雲法親王(略)号大塔宮(略)母[[民部卿三位]][[北畠師親|大納言典源師親]]女〕
* <small>寺</small> [[尊珍法親王|静尊法親王]]〔(略)改恵尊又改尊珍。母同世良〕
** 聖護院尊珍法親王(静尊法親王)は、後醍醐の祖父の亀山上皇の皇子である(当該項目参照)。
* <small>山</small> [[宗良親王|尊澄法親王]]〔(略)還俗改宗良(略)母同尊良〕
* 僧[[奠真]]〔(略)母少納言内侍。[[四条隆資|隆資卿]]女〕
** 『尊卑分脈』では、四条隆資の娘として記載されるのは、[[西園寺実俊]]の妻で[[西園寺公永]]の母となった女性のみで、少納言内侍なる女性に相当する娘がいない{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991587/30 vol. 5, p. 56]}}。
** 南朝系図は[[杲尊法親王]]と同一人とする{{要出典|date=2020年6月}}。
* <small>寺</small> [[聖助法親王]]〔(略)母少将内侍。[[菅原在仲|菅在仲卿]]女〕
** 後醍醐の皇子ではなく、叔父の[[恒明親王]]の皇子である可能性がある。[[正平 (日本)|正平]]10年/[[文和]]4年([[1355年]])11月に薨去した恒明の皇子の法親王がおり、史料によって尊珍・聖珍など名前が一致しないが、『[[大日本史料]]』編纂者はこれを聖助法親王のことであるとしている<ref name="dainihon-shiryo-6-20-80">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0620/0080 『大日本史料』6編20冊80–82頁].</ref>。
* <small>仁</small> [[法仁法親王]]〔早世。母[[二条藤子|権大納言三位局]]。[[二条為道|為道朝臣]]女〕
** 法仁法親王という存在自体は、同時代の『[[新千載和歌集]]』哀傷・2269に言及される。だが、法仁の事績については、後醍醐の崩御から150年以上後の[[文亀]]4年([[1504年]])に書かれた『[[仁和寺]]史料寺誌編二』所収「仁和寺御伝」以外にまとまったものがない{{sfn|森|2007|pp=242–243}}。また、『増鏡』「久米のさら山」では、後醍醐の側室の[[二条藤子]]に、[[元弘の乱]]時点で皇子が一人しかいないかのような描写がされている{{sfn|井上|1983b|pp=251–257}}。系図類で藤子の子とされるのは法仁と懐良の2人だが、どちらか一人を選ぶなら、同時代に征西大将軍として記録が多数残る懐良の方とも考えられる。また、伝・[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])誕生の法仁{{sfn|森|2007|pp=242–243}}を後醍醐の皇子に入れると、それ以降の皇子の順序が一人ずれるため、義良親王(後村上天皇)が第八皇子となる。一方、義良は『神皇正統記』では第七皇子とされている{{sfn|森|2007|p=244}}。
* <small>興</small> [[玄円法親王]]〔一乗院。早世。母従二位守子。後山本左大臣女〕
** 後山本左大臣は[[洞院実泰]]。『尊卑分脈』では、実泰の娘として女子5人が記載されるが、いずれも記録に乏しく、天皇の室になった娘がいるとは書かれていない{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588/32 vol. 6, p. 60]}}。
* 皇子〔母中納言典侍親子。[[五辻宗親|宗親]]女〕
** 『尊卑分脈』の側では、五辻宗親には詳細不明の娘が1人いるのみ{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588/44 vol. 6, p. 84]}}。
** 南朝皇族で詳細の不明な「[[満良親王|花園宮]]」(常陸親王?)という軍事的指導者を、近世以降の所伝では「満良親王」としてこの人物に割り当てる場合が多い。
* 皇子〔[[恒性皇子|恒性]]。[[大覚寺]]。越中宮。延慶三十九配於越中国。当所守護名越於配所奉殺之。母亀山院皇女〕
** 後世の史料では、『大覚寺門跡次第』・『[[続史愚抄]]』([[江戸時代]])などにも登場する。
* 皇子〔母護良同〕
* 皇子〔[[懐良親王|阿蘇宮]]。母同法仁〕
* 皇子〔母昭訓門院近衛〕
** 知良王{{要出典|date=2020年6月}}。『[[南朝紹運図]]』は[[守永親王]]と同一人とする
* [[懽子内親王|宣政門院]]〔一品内親王懽子。母[[西園寺禧子|後京極院]]〕
* 前斎宮〔[[祥子内親王|祥子]]。母同前坊等〕
* [[姚子内親王]]〔今林尼衆。母同護良〕
* [[惟子内親王]]〔今林尼衆。鷲尾。母同前坊等〕
* 皇女〔今林尼衆。母同世良〕
* 皇女〔同尼衆。母遊義門院左衛門督局。[[二条為忠|為忠]](二条為忠<ref>御子左家[[二条為藤]]の息。南朝中納言、北朝従二位権中納言。[[二条道平]]の猶子。</ref>)女〕
* 皇女〔母同尊良〕
* 皇女〔母後宇多院権中納言局〕
* 皇女〔母基時朝臣女〕
* 皇女〔関白[[近衛基嗣|基嗣]]公室。離別。母民部卿局〕
* 皇女〔母一品実子。山階左大臣女〕
** 山階左大臣は[[洞院実雄]]。『尊卑分脈』には、実雄の末娘として「後宇多院・後醍醐院官女」という女性が記載される{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588/29 vol. 6, p. 55]}}。ただし、「室」「妃」とは記されず、また両帝との間に子がいたかどうかも不明{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588/29 vol. 6, p. 55]}}。
* 皇女〔母大納言局。実雅公女〕
* 皇女〔母坊門局〕
* 皇女〔母御室町院〕
* 皇女〔母同法仁〕
=== 真偽不明の后妃・皇子女 ===
著名な歴史的人物のため、後世になるほど后妃・皇子女の「記録」が増えていく傾向にある。以下では、『[[本朝皇胤紹運録]]』にも現れない真偽不明のものを挙げる。
* 典侍:源氏(大納言典侍) - [[北畠師重]]女
** 『[[増鏡]]』「秋のみ山」の登場人物{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。後醍醐の寵愛深かったが、側近の[[堀川具親]]が盗み出してしまった{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。愕然とした後醍醐だが、具親に重罪を与えるのは思い止め、官職をしばらく解いて謹慎させるだけで済ました{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。事件の後も大納言典侍から後醍醐への想いは戻らなかったので、次は大納言典侍と[[洞院公泰]]が一緒になることを許したという{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。朝廷の事実上の公式資料である『[[公卿補任]]』に、具親の解官について、「女の事に依る」と書いてあることが、この物語の一つの史証になる{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。しかしその一方で、不審な点もある。『尊卑分脈』では、師重の娘に大納言典侍に相当する人物がいない{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。また、劇中で大納言典侍が詠む歌が事件後わずか2年後の勅撰集『[[続千載和歌集]]』に、恋歌五・1601<ref name="shokusenzai-1601" /> として載せられており、不自然であることなどが挙げられる{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。また同じ女房名の別人である可能性もない訳ではないが、和歌に優れた「後醍醐天皇大納言典侍」なる人物は、『増鏡』の物語とは違って[[南朝 (日本)|南朝]]まで後醍醐に随行し、その嫡子の後村上天皇にも仕え、南朝で編まれた『[[新葉和歌集]]』にも歌が入集している([[#確実な后妃・皇子女の一覧]])。
* [[掌侍]]:藤原氏([[勾当内侍]]) - [[世尊寺経尹]]女:『[[太平記]]』の花形の登場人物のひとりで、[[新田義貞]]に下賜されてその愛妾となる。創作上では阿野廉子と並んで最も著名な後醍醐の側室の一人だが、実在不明。
* 典侍:藤原氏(新按察典侍) - [[持明院保藤]]女
* 後宮:[[民部卿三位]](再掲)
** 皇子 - 南朝系図は尊性法親王とする
* 後宮:[[洞院守子|藤原(洞院)守子]](1303年 - 1357年)
** 皇子?:[[最恵法親王]] - [[妙法院]]
* 後宮:[[憙子内親王]]?(昭慶門院、1270年 - 1324年) - [[亀山天皇]]皇女
** 皇子:[[無文元選]](1323年 - 1390年) - [[遠江国|遠江]][[方広寺 (浜松市)|方広寺]]開山
** 皇女
* 後宮:藤原氏(大納言局) - [[洞院公敏]]女、一説に[[正親町実明]]女
** 皇女 - 南朝系図は瑜子内親王とする
* 後宮:藤原氏(権中納言局) - [[洞院公泰]]女?
** 皇女 - 南朝系図は[[貞子内親王 (南朝)|貞子内親王]]とする
* 後宮:藤原氏 - [[吉田定房]]女
** 皇女:(用堂?)
* 後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - [[源康持]]女
* 後宮:源氏(若水局) - 源康持女、康子妹
* 後宮:源氏 - [[堀口貞義]]([[堀口貞満|貞満]]の父)女?
** 皇女 - [[吉水院宗信]]妻、尊寿丸母
* 生母不詳
** 皇女:[[用堂]](? - 1396年) - [[東慶寺]]5世住持
** 皇女 - [[六条有房]]室、上記いずれの皇女か不明
** 皇子?:[[龍泉令淬]](? - 1366年) - [[万寿寺]]住持
** 皇子:賢光 光遍寺5代住職
=== 皇子の名の読み ===
大覚寺統では後宇多天皇の子の代から[[通字]]ではなく[[輩行字]]を用い、男子の諱に同じ漢字を用いている<ref>{{Cite web|和書|title = 斎宮歴史博物館:斎宮千話一話|url = https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/senwa/journal.asp?record=397|author=榎村寛之|accessdate = 2023-10-30}}</ref>。後醍醐の子には共通して「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。
[[江戸時代]]後期から[[第二次世界大戦]]までの時代には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、[[一条兼良]]が著したと伝える『[[諱訓抄]]』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。[[明治維新]]後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社([[建武中興十五社]])が次々と建立され、[[明治]]2年([[1869年]])には護良親王を祀る[[鎌倉宮]]、明治5年([[1872年]])に宗良親王を祀る[[井伊谷宮]]、明治17年([[1884年]])に懐良親王を祀る[[八代宮]]、明治23年([[1890年]])に尊良親王を祀る(明治25年([[1892年]])に恒良親王を合祀)[[金崎宮]]の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、[[大正]]4年([[1915年]])に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『[[陵墓要覧]]』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。
一方、大正時代の頃([[1920年代]])から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年([[1920年]])には[[八代国治]]、[[昭和]]14年([[1939年]])には、[[平田俊春]]が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものを含め、次のようなものがある<ref>[[森茂暁]] 『皇子たちの南北朝 <small>後醍醐天皇の分身</small>』〈[[中公文庫]]、[[2007年]]〉 ISBN 978-4-12-204930-7</ref><ref>[[永積安明]]・[[上横手雅敬]]・[[桜井好朗]] 『太平記の世界 <small>変革の時代を読む</small>』([[日本放送出版協会]]、[[1987年]]) ISBN 4-14-008561-4 上横手雅敬執筆部分</ref>。
#『諱訓抄』の写本は多く残されているが、「モリナカ」の読みを載せるものは[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])に写されたものが最古であり「モリナカ」の読み仮名が一条兼良の生きた室町時代まで遡れるものかどうか疑問が残る。
#[[応安]]4年([[1371年]])に書写された「帝系図」([[国立歴史民俗博物館]]所蔵)では「後村上院」の名を「義儀」と記してある。これは本来「儀義」であって「のりよし」と読んだものと推測される。
#[[応永]]15年([[1408年]])に書写された「人王百代具名記」(茨城県那珂市の[[常福寺 (那珂市)|常福寺]]所蔵)では「後村上院」の名を「儀良」と記して「良」の字に「ヨシ」と振り仮名をしている。
#後醍醐天皇と政権を争った[[光厳天皇]]の曾孫[[後崇光院]]自筆の『[[増鏡]]』の写本([[尊経閣文庫]]所蔵)では「世良」に「ヨヨシ」「尊良」に「タカヨシ」と振り仮名をしている。
#[[永正]]年間([[1510年]]前後)に書写された『増鏡』の写本(学習院大学付属図書館所蔵)では「尊良」の名を平仮名で「たかよし」と書いている。
#江戸時代初期に書写された『[[保暦間記]]』の一写本([[内閣文庫]]所蔵)では「成良」の名を片仮名で「ナリヨシ」と書いている。
#[[寛永]]初年([[1625年]]前後)に書写された『[[神皇正統記]]』の写本([[青蓮院]]本。天理図書館所蔵)では「護良」に「モリヨシ」と振り仮名をしている。
以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。
* 代表的な歴史百科事典である『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』([[吉川弘文館]])において、たとえば護良親王の項目では、「もりよししんのう」で記事を立てて解説を記し、「もりながしんのう」の項には「⇒もりよししんのう」と記載している。
* 平成20年度([[2008年]]度)現在、[[高等学校]]の日本史B(高校の[[日本史]]の授業には、近現代史のみを扱うAと、[[古代]]から[[現代 (時代区分)|現代]]までの通史を扱うBとがある)の[[教科用図書|教科書]]で、[[文部科学省]]の[[教科用図書検定|検定]]に合格しているものは11種ある。後醍醐天皇の皇子で、そのすべてに登場しているのは護良親王と懐良親王の2人であるが、11種とも「もりよし」「かねよし」の表記がなされている。そのうち、11種のうち6種は「もりなが」「かねなが」の読みも括弧書きなどにより併記されている。系図などに記されるほかの皇子たちの名の扱いも同様である。
== 偏諱を与えた人物 ==
※後醍醐の[[諱]](実名)、「尊治」のいずれかの字を与えられた人物。
; 皇子
* [[尊良親王|'''尊'''良 親王]]
* [[護良親王|'''尊'''雲 法親王]](のちの護良親王)
* [[宗良親王|'''尊'''澄 法親王]](のちの宗良親王)
* [[尊珍法親王|静'''尊''' 法親王]]
* [[尊真|'''尊'''真]]
; 武士
* [[足利尊氏|足利'''尊'''氏]]{{efn|『[[太平記]]』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とある。但し、実際の改名時期については『[[公卿補任]]』([[国史大系|新訂増補国史大系本]])や『足利家官位記』(『[[群書類従]]』第四輯所収)が示す元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日が正確とされる<ref>[[後藤丹治]]・釜田喜三郎・[[岡見正雄]]校注 『太平記』、[[日本古典文学大系]]、[[岩波書店]]</ref>。}}(※足利高氏より改名(読み変更なし))
** [[饗庭氏直|饗庭'''尊'''宣]] - 別名、饗庭氏直。尊氏に近臣(寵童)として仕えて重用され、「尊」の字を賜う。
** [[吉良尊義|吉良'''尊'''義]] - 初め義貴、のち尊氏から「尊」の字を賜う。
* [[小田治久|小田'''治'''久]]<ref>『[[大日本史料]]』6-17 P.294(典拠は『常陸誌料』五 小田氏譜上)に「治久、初名高知、'''後醍醐天皇賜偏諱、因更治久'''、……(中略)……自延元元年至興國二年、……賜御諱…(以下略)」とある。</ref> (※小田高知より改名)
== 在位中の元号 ==
* [[文保]] ([[1318年]][[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[1319年]][[4月28日 (旧暦)|4月28日]]
* [[元応]] 1319年4月28日 - [[1321年]][[2月23日 (旧暦)|2月23日]]
* [[元亨]] 1321年2月23日 - [[1324年]][[12月9日 (旧暦)|12月9日]]
* [[正中 (元号)|正中]] 1324年12月9日 - [[1326年]][[4月26日 (旧暦)|4月26日]]
* [[嘉暦]] 1326年4月26日 - [[1329年]][[8月29日 (旧暦)|8月29日]]
* [[元徳]] 1329年8月29日 - [[1331年]][[8月9日 (旧暦)|8月9日]]
* [[元弘]] 1331年8月9日 - [[1334年]][[1月29日 (旧暦)|1月29日]]
* [[建武 (日本)|建武]] 1334年1月29日 - [[1336年]][[2月29日 (旧暦)|2月29日]]
* [[延元]] 1336年2月29日 - ([[1339年]][[8月26日 (旧暦)|8月26日]])
== 著作 ==
* 『[[建武年中行事]]』(新版は[[講談社学術文庫]]、[[和田英松]]注解・[[所功]]解説)
*: [[仮名交じり|漢字仮名交じり文]]で記された[[有職故実]]書。後世、[[朝廷 (日本)|朝廷]]で盛んに利用された。不明な点が多い中世の朝廷儀礼について伝える[[史料]]の一つとしても著名。『[[群書類従]]』公事部に収録されている。[[#朝儀復興者]]の節も参照のこと。
== 陵・霊廟 ==
[[ファイル:Godaigo tenno ryo.jpg|250px|thumb|後醍醐天皇塔尾陵]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[奈良県]][[吉野郡]][[吉野町]]大字吉野山字塔ノ尾の[[如意輪寺]]内にある'''塔尾陵'''(とうのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
通常[[天皇陵]]は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『[[太平記]]』では、後醍醐天皇は「'''玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン'''」と遺言したとされている。また、遺言に従って「'''御終焉ノ御形ヲ改ス'''」として、火葬は行われず土葬にて埋葬されたとされる。[[久水俊和]]は土葬を裏付ける史料はないものの、天皇が崩じた場合には土葬による山陵造営が通例であるため、後醍醐天皇の崩御後も院号を付けずに「天皇としての崩御(天皇崩)」に拘った南朝が土葬後に山陵を造営した可能性が高いとしている{{sfn|久水|2020|pp=120–126}}。
奈良県([[大和国]])内に葬られた最後の天皇である。
また[[明治]]22年([[1889年]])に同町に建てられた[[吉野神宮]]に祀られている。
[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
後醍醐天皇が[[紫衣]]を許して[[官寺]]とした[[總持寺]]([[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]])には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、[[昭和]]12年([[1937年]])に建立された。
足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために[[天龍寺]]を造営している。また[[足利義政]]は[[小槻雅久]]や[[吉田兼倶]]といった学者の意見に従い、東山山荘(現[[慈照寺]])の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した<ref>[[桜井英治]] 『室町人の精神 日本の歴史12』([[講談社学術文庫]])2009年(原著は2001年)ISBN 978-4062689120、361p</ref>。
== 伝説・創作 ==
=== 北闕の天を望まん ===
『[[太平記]]』では、崩御時に「北闕の天を望まん」と徹底抗戦を望み、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言したと描かれている。ただし史実としては、室町幕府に最大の敵意を持っていたのは腹心の[[北畠親房]]であり、後醍醐自身としてはそこまで大きな敵意を持っていた訳ではないようである([[#武士への対応]])。
=== 武士への冷遇 ===
[[軍記物]]『[[太平記]]』では、後醍醐天皇は武士に対して冷淡な人物として創作された。
たとえば、流布本巻12「公家一統政道の事」では、鎌倉武士の特権階級である[[御家人]]身分を撤廃、武士はみな[[奴婢]][[雑人]]のように扱われるようになった、という<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou"/>。ただし、歴史的事実としてはこれと反対で、後醍醐天皇が御家人制を廃止した理由の一つは、彼らを直臣として取り立てるためであった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」){{efn|name="yoshida-2008"}}{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}。
また、同巻では、後醍醐天皇は身内の公家・皇族を依怙贔屓し、彼らに領地を振る舞ったため、武士に与えられる地がなくなってしまった、という<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou" />。ただし、歴史的事実としては、側近の[[北畠親房]]が『[[神皇正統記]]』において「後醍醐天皇は足利兄弟を始めとする武士を依怙贔屓し、彼らに恩賞を配りすぎたため、本来貴族・皇族に与えるべきであった土地さえなくなってしまった」と批判しており、全くあべこべである{{sfn|亀田|2016|p=48}}。
また、同巻では、身内の皇族を依怙贔屓した実例として、元弘の乱で失脚した[[北条泰家]]の所領をすべて実子の[[護良親王]]に与えたことが記されている<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou" />。ただし、歴史的事実はこれと異なり、[[新田氏]]庶流で[[足利氏]]派閥の武将[[岩松経家]]に対しても、複数の北条泰家旧領が与えられている(『集古文書』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-141">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0141 『大日本史料』6編1冊141–142頁].</ref><ref>{{Citation | 和書 | title=[[日本歴史地名大系]] | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 静岡県:沼津市 > 旧駿東郡地区 > 大岡庄 }}</ref><ref>{{Citation | 和書 | title=[[日本歴史地名大系]] | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 静岡県:浜松市 > 旧長上郡・豊田郡地区 > 蒲御厨 }}</ref>。
=== 愛刀 ===
{{main|鵜飼派}}
[[File:Tachi Sword - Unsho.JPG|thumb|[[太刀]]〈銘[[雲生]]/〉([[重要文化財]]、[[東京国立博物館]]蔵)、雲生は後醍醐天皇の[[御番鍛冶]]という説が[[江戸時代]]にあったが、後に否定されている]]
[[江戸時代]]後期、[[山田浅右衛門]]吉睦の『[[古今鍛冶備考]]』([[文政]]13年([[1830年]]))が語る伝説によれば、後醍醐天皇は[[鵜飼派]](うかいは、宇甘派、雲類(うんるい)とも)の名工の[[雲生]](うんしょう)・[[雲次]](うんじ)兄弟が打った[[太刀]]を愛刀としていたという<ref name="fukunaga-ukai">{{Citation | 和書 | last=福永 | first=酔剣 | author-link=福永酔剣 | title=日本刀大百科事典 | publisher=[[雄山閣]] | year=1993 | isbn=4-639-01202-0 | volume=1 | pages=126, 160–161 }}</ref>。鵜飼派は、[[備前国]]宇甘郷(うかいごう/うかんごう、[[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]][[御津]])で、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて活躍した[[刀工]]流派である<ref name="fukunaga-ukai" />。雲生と雲次は初め、[[長船派]]の鍛冶で、それぞれ国友と国吉という名前だったが、[[元亨]]年間([[1321年]] - [[1324年]])に入京し、後醍醐天皇の勅命で太刀を鍛刀することになった<ref name="fukunaga-ukai" />。そこで、天に対して、帝の叡慮に叶うような名剣が作れるように祈っていると、ある夜、浮雲を模した刃文を焼いた夢を、兄弟揃って見た<ref name="fukunaga-ukai" />。そこで、夢の通りの刃文を試してみると、比類ない見事さだった<ref name="fukunaga-ukai" />。兄弟が太刀を献上する時に浮雲の夢の話を後醍醐天皇にしてみたところ、帝は感じ入って、国友に「雲生」の名を、国吉に「雲次」に名を下賜した<ref name="fukunaga-ukai" />。そして、兄弟は長船派から独立して、新しく鵜飼派を立てたのだという<ref name="fukunaga-ukai" />。
しかし、そもそも後醍醐天皇即位以前から「雲生」銘の刀があるため、この伝説は実証的に否定される<ref name="fukunaga-ukai" />。刀剣研究家の[[福永酔剣]]は、このような伝説は『古今鍛冶備考』以前に見当たらないことを指摘し、山田浅右衛門自身による創作であろうと推測した<ref name="fukunaga-ukai" />。
=== みたらし団子 ===
{{main|みたらし団子}}
[[File:Mitarashidango.jpg|thumb|[[みたらし団子]]]]
伝承によれば、後醍醐天皇が京都市[[左京区]]下鴨の[[下鴨神社]]に行幸した際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つの大きな泡が出てきて、続いて4つの泡が出てきた<ref name="mitarashi-dango">{{Citation | 和書 | last = 沢 | first = 史生 | author-link = 沢史生 | contribution = みたらしだんご | title = [[日本大百科全書]] | publisher = [[小学館]] | publication-date = 1994 }}</ref>。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を団子にしたのが、[[みたらし団子]]の起源であるという<ref name="mitarashi-dango" />。
=== 妙福院宮 ===
[[大鹿村]]の伝説によると、後醍醐天皇の10子に妙福院宮という人物がいたとされる。宮は[[応永]]4年7月7日に大鹿村で亡くなり、その墓は大鹿村釜沢の大嶋山にあるとされる<ref>[[市村咸人]]『市村咸人全集』第三巻 1980年 市村咸人全集刊行会、下伊那教育会 </ref>。
== 登場作品 ==
; 小説
* [[朝松健]]『邪曲回廊』-[[異形コレクション]]第33巻【[[オバケヤシキ]]】([[光文社]]、[[2005年]])
*: [[光厳天皇]]の杖が生み出した『世界』に出現。光厳天皇に対する恨みから[[活火山]]のように炎を撒き散らす生霊となり、光厳天皇の代役となった一休を追い回す。
; 漫画
* [[沢田ひろふみ]]『[[山賊王]]』 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]を描いた[[歴史漫画]]。[[楠木正成]]も認める威厳ある天皇として描かれている。
* [[河部真道]]『[[バンデット -偽伝太平記-]]』 - 南北朝時代を描いた歴史漫画。落人狩りを素手で狩る最強の天皇として描かれている。
* [[松井優征]]『[[逃げ上手の若君]]』 - 南北朝時代を描いた歴史漫画。御簾で顔は見えず激しい眼光と下半身部分だけの登場が主。
; テレビドラマ
* [[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]](1991年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[片岡仁左衛門 (15代目)|片岡孝夫]])
; 舞台
*[[桜嵐記]](2021年[[宝塚歌劇]]・[[月組]]公演、演:[[一樹千尋]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist|2|refs=
{{efn|name="yoshida-2008"|吉田賢司の指摘{{sfn|吉田|2008}}による{{sfn|花田|2016|pp=191–193}}。}}
}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em|refs=
<ref name=":5">{{Cite book|和書|title=院政 天皇と上皇の日本史 (講談社現代新書) Kindle版|date=2019/5/15|year=2019|publisher=講談社|pages=2008,2913,3018,3027,3049}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
=== 古典 ===
* 後醍醐天皇『[[建武年中行事]]』
** {{Citation | 和書
| author=後醍醐天皇
| last2=和田
| first2=英松
| author2-link=和田英松
| title=建武年中行事註解
| publisher=[[明治書院]]
| year=1930
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906594
| id={{NDLJP|1906594}}
}} {{OA}}
* 『[[増鏡]]』
** {{ Citation | 和書
| last=井上
| first=宗雄
| title=増鏡
| volume=中
| publisher=講談社
| series=講談社学術文庫
| year=1983a
| isbn=978-4061584495
}}
** {{Citation | 和書
| last=井上
| first=宗雄
| author-link=井上宗雄
| title=増鏡
| volume=下
| publisher=講談社
| series=講談社学術文庫
| year=1983b
| isbn=978-4061584501
}}
* 『[[梅松論]]』
** {{Citation | 和書
| editor=内外書籍株式会社
| title=新校群書類従
| volume=16
| publisher=内外書籍
| year=1928
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789
| doi=10.11501/1879789
| chapter=梅松論 上
| chapter-url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/78
| pages=100–121
| id={{NDLJP|1879789}}
| ref = {{harvid|梅松論上|1928}}
}} {{OA}}
*『[[太平記]]』
** {{Citation | 和書
| editor=博文館編輯局
| title=校訂 太平記
| edition=21
| publisher=博文館
| series=続帝国文庫 11
| year=1913
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211
| doi=10.11501/1885211
| id={{NDLJP|1885211}}
}} {{OA}}
* 『[[新葉和歌集]]』
** {{Citation | 和書
| editor-last=正宗
| editor-first=敦夫
| editor-link=正宗敦夫
| title=神皇正統記・新葉和歌集
| publisher=日本古典全集刊行会
| series=日本古典全集基本版 17
| year=1937
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755
| doi=10.11501/1207755
| id={{NDLJP|1207755}}
}}
** {{Citation | 和書
| editor-last=深津
| editor-first=睦夫
| editor-link=深津睦夫
| editor2-last=君嶋
| editor2-first=亜紀
| editor2-link=君嶋亜紀
| title=新葉和歌集
| publisher=[[明治書院]]
| series=和歌文学大系
| date=2014
| isbn=978-4625424168
}}
* 『[[尊卑分脈]]』
** {{ Citation | 和書
| editor-last=藤原
| editor-first=公定
| editor-link=洞院公定
| title=新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
| publisher=吉川弘文館
| year=1903
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991583
| doi=10.11501/991583
| id={{NDLJP|991583}}
}}
* 『帝系図』
** {{Citation | 和書
| editor=国書刊行会
| title=系図綜覧
| volume=1
| publisher=国書刊行会
| year=1915
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305
| chapter=帝系図
| chapter-url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/9
| pages=1–29
| id={{NDLJP|1879305/9}}
| ref = {{harvid|帝系図|1915}}
}} {{OA}}
* 『[[本朝皇胤紹運録]]』
** {{Citation | 和書
| editor=内外書籍株式会社
| title=新校群書類従
| volume=4
| publisher=内外書籍
| year=1930
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879733
| chapter=本朝皇胤紹運録
| chapter-url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879733/214
| pages=379–498
| id={{NDLJP|1879733/214}}
| ref = {{harvid|本朝皇胤紹運録|1930}}
}} {{OA}}
=== 主要文献 ===
* {{Citation | 和書
| last=網野
| first=善彦
| author-link=網野善彦
| title=異形の王権
| publisher=[[平凡社]]
| series=平凡社ライブラリー 951
| date=1993
| isbn=978-4582760101
}} - 初出は1986年。
* {{Cite journal | 和書
| last=市沢
| first=哲
| authorlink=市沢哲
| title=鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」
| journal=日本史研究
| publisher=[[日本史研究会]]
| number=314
| pages=23–45
| year=1988
| ref={{harvid|市沢|1988}}
}}
* {{Cite journal | 和書
| last=市沢
| first=哲
| title=鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望――
| journal=日本史研究
| publisher=日本史研究会
| number=355
| pages=30–54
| year=1992
| ref={{harvid|市沢|1992}}
}}
* {{Cite journal | 和書
| last=伊藤
| first=喜良
| authorlink=伊藤喜良
| title=建武政権試論―成立過程を中心として―
| journal=行政社会論集
| publisher=[[福島大学]]
| volume=10
| number=4
| year=1998
}}
** {{Citation | 和書
| last=伊藤
| first=喜良
| chapter=建武政権試論―成立過程を中心として―
| title=中世国家と東国・奥羽
| publisher=[[校倉書房]]
| year=1999
| pages=53–121
| isbn=978-4751729106
}} - 上記の刊本再録
* {{Citation | 和書
| last=内田
| first=啓一
| author-link=内田啓一
| title=文観房弘真と美術
| publisher=[[法藏館]]
| date=2006
| isbn=978-4831876393
}}
* {{Citation | 和書
| last=内田
| first=啓一
| title=後醍醐天皇と密教
| publisher=[[法藏館]]
| series=権力者と仏教 2
| date=2010
| isbn=978-4831875846
}}
* {{Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| author-link=亀田俊和
| title=室町幕府管領施行システムの研究
| publisher=[[思文閣出版]]
| year=2013
| isbn=978-4784216758
}}
* 建武義会編 『後醍醐天皇奉賛論文集』([[至文堂]]、[[1939年]]9月)
* {{Citation | 和書
| last = 佐藤
| first = 和彦
| author-link = 佐藤和彦
| contribution = 後醍醐天皇
| title = [[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]
| publisher = [[吉川弘文館]]
| publication-date = 1997
}}
* 佐藤和彦・樋口州男編 『後醍醐天皇のすべて』([[新人物往来社]]、[[2004年]]) ISBN 4404032129
* {{Citation | 和書
| last=佐藤
| first=進一
| author-link=佐藤進一
| title=南北朝の動乱
| publisher=[[中央公論社]]
| series=日本の歴史 9
| date=1965
}}
** {{Citation | 和書
| last=佐藤
| first=進一
| title=日本歴史9 南北朝の動乱
| publisher=中央公論社
| series=中公文庫
| edition=改
| year=2005
| isbn=978-4122044814
}} - 1965年版の単行本が1974年に文庫版となったものの改版。
* {{Citation | 和書
| last=中井
| first=裕子
| author-link=中井裕子
| editor-last=久水
| editor-first=俊和
| editor-link=久水俊和
| editor2-last=石原
| editor2-first=比伊呂
| editor2-link=石原比伊呂
| chapter=後醍醐天皇
| title=室町・戦国天皇列伝
| pages=11–32
| publisher=戎光祥出版
| year=2020
| isbn=978-4864033503
}}
* {{Citation | 和書
| last = 永原
| first = 慶二
| author-link = 永原慶二
| contribution = 後醍醐天皇
| title = [[日本大百科全書]]
| publisher = [[小学館]]
| publication-date = 1994
}}
* {{Citation | 和書
| last=兵藤
| first=裕己
| author-link=兵藤裕己
| title=後醍醐天皇
| publisher=[[岩波書店]]
| series=岩波新書 1715
| date=2018
| isbn=978-4004317159
}}
* [[平泉澄]] 『建武中興の本義』(至文堂、[[1934年]]9月)/新版・[[日本学協会]]、[[1983年]]5月
* 平泉澄 『明治の源流』([[時事通信社]]、[[1970年]]6月)
* [[村松剛]] 『帝王後醍醐 <small>「中世」の光と影</small>』中央公論新社、1978年、ISBN 4120008037。 後に[[中公文庫]]、[[1981年]] ISBN 412200828X
* {{Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| author-link=森茂暁
| title=建武政権―後醍醐天皇の時代
| publisher=[[教育社]]
| series=教育社歴史新書―日本史 60
| date=1980
}}
** {{Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| title=建武政権―後醍醐天皇の時代
| publisher=[[講談社]]
| series=講談社学術文庫
| date=2012
| isbn=978-4062921152
}}上記の再版。
* {{Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| title=後醍醐天皇 <small>南北朝動乱を彩った覇王</small>
| publisher=[[中央公論社]]
| series=中公新書 1521
| date=2000
| isbn=978-4121015211
}}
=== その他 ===
* {{Citation | 和書
| last=新井
| first=孝重
| author-link=新井孝重
| title=護良親王 <small>武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ</small>
| publisher=[[ミネルヴァ書房]]
| series=[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]
| date=2016-09-10
| isbn=978-4623078202
}}
* {{Cite journal | 和書
| last=安西
| first=奈保子
| authorlink=安西奈保子
| title=後醍醐天皇をめぐる三人の斎宮たち : 獎子内親王・懽子内親王・祥子内親王
| journal=日本文学研究
| publisher=梅光女学院大学日本文学会
| url=http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/metadata/938
| number=23
| pages=133–146
| year=1987
| ref={{harvid|安西|1987}}
}} {{フリーアクセス}}
* {{Citation | 和書
| last=岡野
| first=友彦
| author-link=岡野友彦
| title=北畠親房 <small>大日本は神国なり</small>
| publisher=[[ミネルヴァ書房]]
| series=ミネルヴァ日本評伝選
| date=2009
| isbn=978-4623055647
}}
* {{Citation | 和書
| last=小川
| first=剛生
| author-link=小川剛生
| title=拾遺現藻和歌集 本文と研究
| publisher=三弥井書店
| year=1996
| isbn=978-4-8382-3046-4
}}
* {{Cite journal | 和書
| last=甲斐
| first=玄洋
| authorlink=甲斐玄洋
| title=<論説> 建武政権の太政官符発給 : 政権の理念と構想の一断面
| journal=学習院史学
| url=https://hdl.handle.net/10959/1842
| volume=45
| pages=18–34
| year=2007
| ref={{harvid|甲斐|2007}}
}} {{フリーアクセス}}
* {{Cite journal | 和書
| last=加藤
| first=洋介
| authorlink=加藤洋介
| title=後醍醐天皇と源氏物語 : 『河海抄』延喜天暦准拠説の成立をめぐって
| journal=日本文学
| volume=39
| issue=3
| pages=104–107
| url=https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.39.3_104
| doi=10.20620/nihonbungaku.39.3_104
| year=1990
| publisher=日本文学協会
| ref={{harvid|加藤|1990}}
}} {{フリーアクセス}}
* {{Cite journal | 和書
| last=金子
| first=哲
| authorlink=金子哲 (歴史学者)
| title=東播磨における文観の活動――空白の11年間を中心とする石塔造立・耕地開発――
| journal=鎌倉遺文研究
| publisher=吉川弘文館
| number=44
| pages=1–27
| year=2019
| month=10
| ref={{harvid|金子|2019}}
}}
* {{Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| author-link=亀田俊和
| title=南朝の真実 忠臣という幻想
| publisher=[[吉川弘文館]]
| series=歴史文化ライブラリー 378
| year=2014
| isbn=978-4642057783
}}
* {{Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| title=高師直 室町新秩序の創造者
| publisher=吉川弘文館
| series=歴史文化ライブラリー 406
| year=2015
| isbn=978-4642058063
}}
* {{Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| title=征夷大将軍・護良親王
| publisher=[[戎光祥出版]]
| year=2017
| series=シリーズ・実像に迫る 007
| isbn=978-4-86403-239-1
}}
* {{Citation | 和書
| last=栗原
| first=信充
| author-link=栗原信充
| title=先進繍像玉石雑誌
| year=1843
| url=https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e1217/index.html
| publisher=知新堂
}} {{OA}}
* {{Citation | 和書
| last=黒板
| first=勝美
| author-link=黒板勝美
| title=虚心文集
| volume=2
| publisher=吉川弘文館
| year=1939
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266363
| doi=10.11501/1266363
| id={{NDLJP|1266363}}
| chapter-url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266363/322
| chapter=北畠顕家の上奏文に就いて
| pages=607–632
}}{{OA}} - 昭和4年(1929年)11月『[[歴史地理]]』54巻5号からの再録。
* {{Citation | 和書
| editor=経済雑誌社
| title=群書類従
| volume=7
| publisher=経済雑誌社
| year=1893
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879739/
| doi=10.11501/1879789
| chapter=昭慶門院御屏風押色紙和歌
| chapter-url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879739/504
| pages=996–998
| id={{NDLJP|1879739}}
| ref = {{harvid|昭慶門院御屏風押色紙和歌|1893}}
}} {{OA}}
* {{Citation | 和書
| last=河内
| first=祥輔
| author-link=河内祥輔
| title=日本中世の朝廷・幕府体制
| publisher=[[吉川弘文館]]
| date=2007
| isbn=978-4642028639
}}
* {{Citation | 和書
| last=呉座
| first=勇一
| author-link=呉座勇一
| title=戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか
| publisher=[[新潮社]]
| year=2014
| isbn=978-4106037399
}}
* {{ Citation | 和書
| last=呉座
| first=勇一
| title=陰謀の日本中世史
| publisher=[[KADOKAWA]]
| series=角川新書
| year=2018
| isbn=978-4040821221
}}
* {{Citation | 和書
| last=橘
| first=成季
| editor-last=塚本
| editor-first=哲三
| editor-link=塚本哲三
| title=古今著聞集
| publisher=有朋堂書店
| series=有朋堂文庫
| year=1926
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018126
| doi=10.11501/1018126
| id={{NDLJP|1018126}}
}} {{OA}}
* {{Cite journal | 和書
| last=田中
| first=奈保
| authorlink=田中奈保
| title=後光厳天皇親政期の勅撰和歌集と室町幕府
| journal=史観
| publisher=早稲田大学史学会
| url=https://hdl.handle.net/2065/00053168
| volume=162
| pages=1–18
| year=2010
| ref={{harvid|田中|2010}}
}}
* {{Citation | 和書
| last=次田
| first=香澄
| author-link=次田香澄
| contribution=藤原為子(二)
| title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]
| publisher=[[吉川弘文館]]
| publication-date=1997
}}
* {{Citation | 和書
| last=豊永
| first=聡美
| author-link=豊永聡美
| title=中世の天皇と音楽
| publisher=吉川弘文館
| chapter=後醍醐天皇と音楽
| pages=97–129
| year=2006
| isbn=4-642-02860-9
}}
* {{Citation | 和書
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| editor2-link=呉座勇一
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| publisher=[[洋泉社]]
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn=978-4800310071
}}
** {{Citation | 和書
| last=中井
| first=裕子
| author-link=中井裕子
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| chapter=【鎌倉時代後期の朝幕関係】1 朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった!
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=24–42
| publisher=洋泉社
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn=978-4800310071
}}
** {{Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| author-link=亀田俊和
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| chapter=【建武政権の評価】2 「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか?
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=43–63
| publisher=洋泉社
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn=978-4800310071
}}
** {{Citation | 和書
| last=森
| first=幸夫
| author-link=幸夫
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
| editor2-first=勇一
| chapter=【建武政権の官僚】3 建武政権を支えた旧幕府の武家官僚たち
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=64–83
| publisher=洋泉社
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn=978-4800310071
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** {{Citation | 和書
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| editor=日本史史料研究会
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| chapter=【後醍醐と尊氏の関係】4 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
| pages=84–108
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| chapter=【北畠氏と南朝】7 北畠親房は、保守的な人物だったのか?
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| chapter=【建武政権・南朝の恩賞政策】9 建武政権と南朝は、武士に冷淡だったのか?
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** {{Citation | 和書
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| chapter=【中世の宗教と王権】11 後醍醐は、本当に〈異形〉の天皇だったのか?
| title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで
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| publisher=洋泉社
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}}
* {{Citation | 和書
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| first=俊和
| author-link=久水俊和
| title=中世天皇制の作法と律令制の残像
| publisher=[[八木書店]]
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* {{Citation | 和書
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* {{Citation | 和書
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| chapter=新室町院珣子内親王の立后と出産
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| title=宇高良哲先生古稀記念論文集歴史と仏教
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* {{Citation | 和書
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| title=皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身
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}} - 上記の文庫化、改訂新版
* {{Citation | 和書
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| title=太平記の群像 軍記物語の虚構と真実
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** {{Citation | 和書
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| title=太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々
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}} - 上記の文庫化。
* {{Citation | 和書
| last=森
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| title=足利尊氏
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| isbn=978-4047035935
}}
* {{Citation | 和書
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| title=懐良親王 日にそへてのかれんとのみ思ふ身に
| publisher=ミネルヴァ書房
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}}
* {{Cite thesis | 和書
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| authorlink=楊洋 (思想史学者)
| degree=博士(文学)
| title=中世日本に於ける四書の受容と学風の転換
| publisher=[[京都大学]]
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* {{Citation | 和書
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| chapter=建武政権の御家人制「廃止」
| editor-last=上横手
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| title=鎌倉時代の権力と制度
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}}
* {{Cite journal | 和書
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| title=建武政権における足利尊氏の立場 : 元弘の乱での動向と戦後処理を中心として
| journal=史学雑誌
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}} {{フリーアクセス}}
== 関連項目 ==
* [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]
* [[建武の新政]]
* [[両統迭立]]
* [[大覚寺統]]
* [[北陸朝廷]]
* [[三河吉野朝]]
* [[後の三房]]
* [[三木一草]]
* [[ゴダイゴ]] - 後醍醐天皇をバンド名の由来の一つとしている
== 外部リンク ==
{{commonscat|Emperor Go-Daigo}}
* [https://www.naranet.co.jp/yoshinojingu/ 吉野神宮]
* [https://www.kinpusen.or.jp/index.html 金峯山寺]
* [http://www.tenryuji.com 天龍寺]
* [http://www.yoshimizu-shrine.com 吉水神社]
* {{Kotobank}}
{{歴代天皇一覧}}
{{Normdaten}}
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[[Category:後醍醐天皇|!]]
[[Category:鎌倉時代の天皇|こたいこ]]
[[Category:室町・安土桃山時代の天皇|こたいこ]]
[[Category:南北朝時代の人物 (日本)]]
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[[Category:日本の神 (人物神 建武中興)]]
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[[Category:1339年没]]
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11,516 |
1604年
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1604年(1604 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。
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1604年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。
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{{年代ナビ|1604}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[慶長]]9年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2264年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]32年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]37年
** [[檀君紀元|檀紀]]3937年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]5年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]12年
* [[仏滅紀元]] : 2146年 - 2147年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1012年 - 1013年
* [[ユダヤ暦]] : 5364年 - 5365年
* [[ユリウス暦]] : 1603年12月22日 - 1604年12月21日
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1604}}
== できごと ==
* [[10月9日]] - 超新星[[SN 1604]](通称ケプラーの星)がはじめて観測される。
* [[11月1日]] - [[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の[[戯曲]]「[[オセロー|オセロ]]」最古の上演が[[ホワイトホール宮殿]]で行われる。
* [[顧憲成]]ら[[東林学院|東林書院]]を設立し政治批判を行う。
* [[フランス]]による[[カナダ]]植民始まる。
* [[フランス東インド会社]]設立(まもなく廃止)。
* [[シク教]]の第5代法主[[アルナジュン]]が[[カービル]]や[[ナーク]]の宗教家の語録、讃歌を集めた根本聖典「アーディン・グラント」を編纂する。
=== 日本 ===
* [[3月4日]](慶長9年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[徳川家康]]が[[徳川秀忠|秀忠]]に命じて、東海・東山・北陸の3道に[[一里塚]]を設置{{要出典|date=2021-04}}。
* [[5月31日]](慶長9年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[江戸幕府]]が京都・堺・長崎の指定商人に[[生糸]]の独占輸入・卸売権を与える。([[糸割符]])
* 徳川家康が[[松前藩]]に[[蝦夷]]([[アイヌ]])交易独占権を認める。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1604年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[8月12日]](慶長9年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[徳川家光]]、[[江戸幕府]]第3代[[征夷大将軍]](+[[1651年]])
* 月日不明 - [[鄭芝龍]]、[[明]]末の[[武将]]・[[鄭成功]]の父(+[[1661年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1604年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月19日]](慶長9年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) - [[黒田孝高]](如水・官兵衛)、[[武将]]・[[キリシタン大名]](* [[1546年]])
* [[4月21日]](慶長9年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]) - [[小出秀政]]、戦国の[[武将]]、[[豊臣秀吉]]の叔父(叔母婿)(* [[1540年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1604}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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11,522 |
政策科学
|
政策科学(せいさくかがく、英: policy science)とは、政府などの公的機関が行う政策を改善するための学問である。
政策科学はその見方によってはさまざまに特徴付け、定義することが可能である。その研究領域の広さから政策研究(policy study)や政策分析(policy analysis)とも呼ばれる。政策科学を提唱した政治学者ハロルド・ラスウェルは、「社会における政策作成過程を解明し、政策問題についての合理的判断の作成に必要な資料を提供する科学」であると政策科学を定義している。またドロアは政策科学を「体系的な知識、構造化された合理性および組織化された創造性を政策決定の改善のために貢献させることに関わる科学」と定義する。したがって政策科学とは政策課題やその政策の費用対効果、また政策の適切な方法や社会的背景などを研究する学問であると捉えることができる。
政策科学の研究は法学、政治学、行政学、経済学、社会学などの社会科学の研究と重複する分野が特に多く、学際的なアプローチが採用される。研究者も、政治、法律、行政、経済などの知識の他、環境問題、医療・福祉問題、商取引、先端技術など政策課題に応じた様々な分野の知識を持つ者がこの分野の研究に携わることになる。ラスウェルによれば政策科学の基本的な方向は多様でありながらも、コンテクスト志向、問題志向、そして方法多様性志向の三種類が挙げられている。コンテクストを志向する政策科学では社会の制度や資源に作用しながらも価値を最適化しようとする人間の社会過程を研究するものである。問題を志向する政策科学では問題解決の一般的方法に基づいて専門的問題に対する解決策を考察する。そして方法多様性を志向する政策科学は複雑な政策過程を把握できるように複合的な研究方法を総合して研究する。
分野の成立については、第二次世界大戦中のアメリカが起源であるとする説がある。
アメリカの第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトによる、アメリカ史上初ともいわれる経済計画の「ニューディール政策」が行われた。そのなかで、国家復興法、農業調整法、テネシー渓谷開発公団の設立などの国家計画が次々と発表され、統計や科学的管理の手法を用いた政府の行政管理が行われた。このような積極的な政策介入が、政府部門に社会科学者の流入をもたらし、戦後の大統領経済諮問委員会設立へとつながった。
政策科学の最も顕著な成長は、60年代からである。ケネディ政権からジョンソン政権まで、行われた「偉大な社会(en:Great Society)」プログラムによって、史上まれに見るほどの社会実験が行われた、全米にシンクタンクや政策系大学の発展をもたらした。特に、ケネディ政権下で行われた、教育、住宅、保健政策は、完全雇用や黒人などのマイノリティーへの支援策は、「対貧困戦争」と呼称され、政策評価法などの法整備も進んだ。
|
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] |
政策科学とは、政府などの公的機関が行う政策を改善するための学問である。
|
'''政策科学'''(せいさくかがく、{{Lang-en-short|policy science}})とは、[[政府]]などの公的機関が行う[[政策]]を改善するための[[学問]]である。
== 概要 ==
政策科学はその見方によってはさまざまに特徴付け、定義することが可能である。その研究領域の広さから'''政策研究'''(policy study)や'''政策分析'''(policy analysis)とも呼ばれる。政策科学を提唱した[[政治学者]][[ハロルド・ラスウェル]]は、「社会における政策作成過程を解明し、政策問題についての合理的判断の作成に必要な資料を提供する科学<ref name="名前なし-1">宮川(2002) p.51</ref>」であると政策科学を定義している。またドロアは政策科学を「体系的な知識、構造化された合理性および組織化された創造性を政策決定の改善のために貢献させることに関わる科学<ref name="名前なし-1"/>」と定義する。したがって政策科学とは政策課題やその政策の費用対効果、また政策の適切な方法や社会的背景などを研究する学問であると捉えることができる。
政策科学の研究は[[法学]]、[[政治学]]、[[行政学]]、[[経済学]]、[[社会学]]などの[[社会科学]]の研究と重複する分野<ref>宮川(2002) p.72</ref>が特に多く、[[学際]]的なアプローチが採用される。研究者も、[[政治]]、[[法律]]、[[行政]]、[[経済]]などの知識の他、[[環境問題]]、[[医療]]・[[福祉]]問題、[[商行為|商取引]]、[[先端技術]]など政策課題に応じた様々な分野の知識を持つ者がこの分野の研究に携わることになる。ラスウェルによれば政策科学の基本的な方向は多様でありながらも、コンテクスト志向、問題志向、そして方法多様性志向の三種類<ref>宮川(2002) p.53</ref>が挙げられている。コンテクストを志向する政策科学では社会の制度や資源に作用しながらも価値を最適化しようとする人間の社会過程を研究する<ref>宮川(2002) pp.56-57</ref>ものである。問題を志向する政策科学では問題解決の一般的方法に基づいて専門的問題に対する解決策を考察する。そして方法多様性を志向する政策科学は複雑な政策過程を把握できるように複合的な研究方法を総合して研究する。
== 歴史 ==
分野の成立については、[[第二次世界大戦]]中の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が起源であるとする説がある。
アメリカの第32代大統領の[[フランクリン・ルーズベルト]]による、アメリカ史上初ともいわれる経済計画の「[[ニューディール政策]]」が行われた。そのなかで、国家復興法、農業調整法、テネシー渓谷開発公団の設立などの国家計画が次々と発表され、統計や科学的管理の手法を用いた政府の行政管理が行われた。このような積極的な政策介入が、政府部門に社会科学者の流入をもたらし<ref>宮川(2002) p.11</ref>、戦後の大統領経済諮問委員会設立へとつながった。
政策科学の最も顕著な成長は、60年代からである<ref>宮川(2002) p.29</ref>。[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]政権から[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]政権まで、行われた「偉大な社会([[:en:Great Society]])」プログラムによって、史上まれに見るほどの[[社会実験]]が行われた、全米にシンクタンクや政策系大学の発展をもたらした。特に、ケネディ政権下で行われた、教育、住宅、保健政策は、完全雇用や黒人などのマイノリティーへの支援策は、「対貧困戦争」と呼称され、政策評価法などの法整備も進んだ<ref>宮川(2002) pp.30-31</ref>。
== 政策科学に関する研究科・学部・学科を持つ大学・大学院 ==
=== 国公立大学 ===
* [[岩手県立大学]]総合政策学部
* [[高崎経済大学]][[地域政策学部]]
* [[千葉大学]][[法政経学部]]
* [[東京都立大学 (2020-)|東京都立大学]][[都市環境学部]]都市政策科学科
* [[山梨県立大学]]国際政策学部
* [[静岡文化芸術大学]]文化政策学部
* [[京都府立大学]]公共政策学部
* [[愛媛大学]][[法文学部]]総合政策学科
* [[島根県立大学]][[総合政策学部]]
* [[北九州市立大学]][[法学部]]政策科学科
=== 私立大学 ===
* [[東北文化学園大学]]総合政策学部
* [[獨協大学]]法学部総合政策学科
* [[城西大学]]現代政策学部
* [[淑徳大学]]コミュニティ政策学部
* [[千葉商科大学]][[政策情報学部]]
* [[慶應義塾大学総合政策学部]]
* [[中央大学]]総合政策学部
* [[津田塾大学]]総合政策学部
* [[法政大学]][[社会学部]]社会政策科学科
* [[早稲田大学社会科学部]]社会科学科
* [[南山大学]]総合政策学部
*[[中京大学]]総合政策学部
* [[関西大学]][[政策創造学部]]
* [[関西学院大学総合政策学部]]
* [[同志社大学政策学部]]
* [[立命館大学政策科学部]]
* [[龍谷大学]]政策学部
* [[京都産業大学]]法学部法政策学科
* [[徳島文理大学]]総合政策学部
=== 国公立大学大学院 ===
* [[政策研究大学院大学]]政策研究科
* [[筑波大学]]大学院経営・政策科学研究科
* [[岩手県立大学]]大学院総合政策研究科
* [[東北大学]]大学院公共政策大学院
* [[福島大学]]大学院地域政策科学研究科
* [[高崎経済大学]]大学院地域政策学研究科
* [[茨城大学]]大学院人文科学研究科地域政策専攻
* [[千葉大学]]大学院社会科学研究科総合政策専攻
* [[東京大学大学院公共政策学連携研究部・公共政策学教育部|東京大学公共政策大学院]]
* [[一橋大学大学院法学研究科・法学部|一橋大学大学院法学研究科]]租税・公共政策専攻
* [[京都大学大学院公共政策連携研究部・公共政策教育部|京都大学公共政策大学院]]
* [[大阪大学]]大学院国際公共政策研究科
* [[大阪市立大学]]大学院都市経営研究科都市政策専攻
* [[兵庫県立大学]]大学院経済学研究科地域公共政策専攻
* [[愛媛大学]]大学院法文学研究科総合法政策専攻
* [[北九州市立大学]]大学院法学研究科政策科学系
* [[熊本大学]]大学院法学研究科公共政策専攻
=== 私立大学大学院 ===
* [[旭川大学]]大学院経済学研究科地域政策専攻
* [[尚美学園大学]]大学院総合政策研究科
* [[聖学院大学]]大学院政治政策学研究科
* [[千葉商科大学]]大学院政策情報学研究科
* [[麗澤大学]]大学院国際経済研究科政策管理専攻
* [[専修大学]]大学院経済学研究科政策科学専修
* [[中央大学]]大学院総合政策研究科
* [[東洋大学]]大学院経済学研究科先端政策科学コース
* [[法政大学]]大学院公共政策研究科
* [[法政大学]]大学院[[政策創造研究科]]
* [[明治大学]]大学院ガバナンス研究科
* [[早稲田大学]]大学院社会科学研究科政策科学論専攻
* [[公共経営研究科|早稲田大学大学院政治学研究科公共経営専攻]]
* [[麻布大学]]大学院環境保健学研究科環境衛生政策専攻
* [[慶應義塾大学]]大学院政策・メディア研究科
* [[山梨学院大学]]大学院社会科学研究科 公共政策専攻
* [[静岡文化芸術大学]]大学院文化政策研究科
* [[愛知学院大学]]大学院総合政策研究科
* [[南山大学]]大学院総合政策研究科
* [[同志社大学]]大学院総合政策科学研究科
* [[立命館大学]]大学院政策科学研究科
* [[大阪商業大学]]大学院地域政策学研究科
* [[関西学院大学]]大学院総合政策研究科
* [[徳島文理大学]]大学院総合政策研究科
== 関連文献 ==
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** [[グレアム・アリソン|グレアム・T・アリソン]]著、[[宮里政玄]]訳『[[決定の本質|決定の本質 キューバ・ミサイル危機の分析]]』中央公論社、1977年
* Arrow, K. J. 1954. Social choice and individual values. 2nd edition. New York: John Wiley.
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== 参考文献 ==
* 宮川公男『政策科学入門』第2版、東洋経済新報社、2002
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[公共政策]]
* [[社会政策]]
* [[経済政策]]
* [[総合政策学]]
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失業
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失業(しつぎょう、英: unemployment)とは、職業(仕事)を失うこと、および労働の意志も能力もあるのに仕事に就けない状態を指す。特に、仕事が無い状態を指す無職(むしょく)のうち、就業に向けた職探しを行っている者の状態を指し、そのような状態の者を失業者(しつぎょうしゃ)と言う。
労働力人口に対する失業者数の割合を失業率と言う。完全雇用(Full employment)とは、労働力、技術、土地、資本、その他の生産要素を最大限に活用して、最大限の持続可能な生産能力を生み出している状態をさし、「失業者が一人もいない」ということではなく、一定の摩擦的失業の存在を含んだ状態のことをいう。
国際労働機関(ILO)によれば、2018年の時点では全世界で1億7200万人(報告された世界の労働力人口の5%)が無職であった。
15-24歳の労働力人口における失業を若年失業といい、日本など一部を除いて北欧の福祉国家でさえも若年失業率が20 %から下がらないことがOECD加盟国で大きな問題になっている。
失業には自発的失業、摩擦的失業、非自発的失業の3様態がある。この分類は、ジョン・メイナード・ケインズによってなされたものである。
失業者 = 自発的失業者 + 摩擦的失業者 + 非自発的失業者。
潜在産出量が、国内総生産と等しくなった場合、「非自発的失業」は無くなるとされている。
失業を発生要因別に、需要不足失業、摩擦的失業、構造的失業の3種類に分類できる。
新古典派経済学やマネタリストの見解では、市場経済が機能することで労働者の需要と供給は一致し、求職者はすべて職を得ることが可能となるとする。ただし、ケインズ経済学は市場メカニズムは短期的には上手く働かないと指摘しており、非自発的失業が発生するとしている。非自発的失業はケインズによって発見されたものであり、非自発的失業の存在を認めるかどうかについては、ケインズ経済学的立場と新古典派的立場の間で意見が分かれる。
労働市場では、家計が労働を供給し、企業が労働を需要する。労働の需給が一致するときに現実の雇用量と賃金が決まる。労働市場では、賃金が高ければ、企業は雇用を減らし労働者は供給を増やす。新古典派経済学は、賃金が労働の需給を一致させるように決まると考えるため、非自発的失業は存在しないとする。名目賃金の低下は、労働の供給が需要を上回るときに起こる。
これは新古典派が、価格の自在な伸縮によって全ての売れ残りの解消が可能とするセイの法則を前提として、失業者は現在雇用されている労働者よりも低い賃金を提示して職を見付けることが可能であるとするためである。賃金価格の下落によって失業が解消されないのは、その賃金以下では働かないという労働者の選択に唯一の原因があるとする。
これに対してジョン・メイナード・ケインズのマクロ経済学は、有効需要の不足が失業発生の理由とみなした。ケインズ経済学では、「賃金は硬直的なので、需要と供給が一致することはない」とされる。ケインズ経済学では、労働市場では賃金の下方硬直性があるため失業は存在する。また、財・サービス市場においても価格は硬直的であり、価格が瞬時に調整されるわけではない。価格・賃金は短期的にはゆっくりとしか調整されない。ケインズ経済学の賃金・価格の硬直性は短期の仮定であり、数年間かければ賃金・価格はやがて調整される。ただし、利子率の下方硬直性では、ケインズ的不況が短期ではなく中期(10年程度)に渡って継続される。
ケインズは、セイの法則と相対する有効需要の原理を提示し、社会全体の生産物に対する需要によって雇用量が決定されるとして、不完全雇用を伴う均衡の可能性を認める。そのさい有効需要の不足によって発生した非自発的失業は、総需要を拡大することによって解消されなければならないとした。
名目賃金の下方硬直性を説明する要因としては、相対賃金仮説、効率賃金仮説、インサイダー・アウトサイダー仮説など様々な理由が考えられている(詳しくは労働経済学を参照)。
循環的失業(Cyclical)はケインズ型失業(Keynesian unemployment)とも呼ばれ、働きたい者すべてに仕事を提供するのに十分な総需要が無いときに発生する。多くの財やサービスに対する需要が低下し、必要な生産量が減った結果として、必要な労働者も減るが、賃金には下方硬直性があるため均衡水準に達するまで下がらずに、失業が発生するのである。
構造的ないし摩擦的理由で失業している人の労働人口に対する割合を自然失業率(インフレ非加速的失業率、略してNAIRU)という。自然失業率(の解釈の1つ)は、経済が均衡状態にあるときの失業率である。
政府は公共政策により失業率を調整できるが、失業率を自然失業率以下にしようとすると、インフレが起こる。従って、インフレを起こさずに政策によって減らせる失業は循環的失業の部分だけである。
また、ジョージ・アカロフらによって、自然失業率の水準はインフレ率によって左右されることが指摘されている。これら研究によれば、インフレ率がある閾値から低下すればするほど、自然失業率の水準が高まっていくこととなる。よって、インフレ率が非常に低いないしデフレの経済において、失業率を低下させる政策が採られた場合、一時的には失業率が自然失業率を下回ってインフレを加速させるが、それによってインフレ率の水準が高まると自然失業率の水準が低下するため、失業率が自然失業率よりも高い状態になればインフレの加速も止む。このことはまた、インフレ率などを勘案せず、失業率の水準だけを見て循環的失業の規模を推計することや、産出量ギャップの大きさを判断することの危険性を示している。
失業率は総産出量(実質GDP)と潜在産出量との差をパーセント表示したもの(産出量ギャップ、GDPギャップ)に関係している事が知られている。
産出量ギャップが負の場合は、資源を完全には利用できていない状態なので、失業率は自然失業率よりも高くなる。逆に正であれば、失業率は自然失業率よりも低くなる。 なお、産出量ギャップが正の場合をインフレギャップといい、負の場合をデフレギャップという。
産出量ギャップが短期的には0にならない理由として、雇用契約が挙げられる。景気が悪化しても、企業は契約の関係上、短期的には社員の給料も下げない。したがって給料は完全雇用を達成する水準より高い水準となってしまい失業者が増加し、それにより産出量ギャップが生じる。
過去のデータから、産出量ギャップと失業率には次の関係があると推定されている(オークンの法則):
これらのように、景気は実質GDPによって決まるが、それに対し失業率は産出量ギャップによって決まる。したがって景気(実質GDP)が上昇したとしても、その上昇速度が潜在産出量のそれよりも緩やかなら、「雇用なき景気回復」(ジョブレス・リカバリー)が起こる。
最後に、失業率を自然失業率以下に下げようとし続けると何が起こるのかを見る。例えば2%のインフレを起こすと、失業率を自然失業率以下に下がる。しかししばらくすると、国民は2%のインフレ率を予想に織り込んで行動するようになる。したがって再び失業率が上昇する。失業率をもう一度下げるには、さらに高い率のインフレを起こさねばならない。しかしこの高いインフレ率もそのうち予想に織り込まれるので失業率が再び上昇してしまう。このように、失業率を自然失業率以下に抑えつづけるには、インフレを加速させ続けねばならない。
名目賃金の下方硬直性がある場合、労働需要を増加させるには物価の上昇が必要であるが、労働需要の増加によって完全雇用が達成されると、それ以上は需要が増えても物価が上昇するだけになってしまう。
公的統計においては、隠れた失業(潜在的失業)を考慮しないことにより、失業率が過小評価されることが多い。隠れた失業とは、統計の手法によって公式の失業統計に反映されていない潜在的な失業のことである。多くの国では、仕事はないが積極的に仕事を探している人(完全失業者)や、社会保障給付を受ける資格のある人のみが、失業者として数えられる。就業意欲喪失者や、政府の職業訓練プログラムに参加している人は、無職であっても公式には失業者として数えられない。
また不完全雇用(underemployed)と呼ばれる、希望する時間より少ない時間しか働けないパートタイマーや、自分の能力を十分に生かせない仕事をしている人(資格過剰)も統計には含まれない。さらに生産可能年齢に達しているが、現在フルタイムで教育を受けている人は、一般的には政府統計において失業者とはみなされない。原野で採集、狩猟、牧畜、農業を営むことで生計を立てている伝統的な先住民社会においては、失業者として統計に数えられる場合と、数えられない場合がある。
次のような失業も考えることができる。
中世キリスト教世界(=カトリックの世界)では、貧しいことは「神の心にかなうこと」とされ、そのような人に手を差し伸べることは善行であった。宗教改革(=プロテスタンティズムの登場)は、こういった見方を一変させ、「怠惰と貪欲は許されざる罪」で、物乞いは「怠惰の原因」として排斥し、労働を「神聖な義務」であるとした。プロテスタンティズムの流行は貧しいものへの視線を変容させ、「神に見放されたことを表す」という見方が広がり、都市を締め出された貧民は荒野や森林に住みつくか、浮浪者となって暴動を起こすようになった。
イギリスでは1531年に王令により貧民を、「病気等で働けない者」と、「怠惰ゆえに働かない者」に分類し、前者には物乞いの許可を下し、後者には鞭打ちの刑を加えることとした。1536年には成文化され救貧法となり、労働不能貧民には衣食の提供を行う一方、健常者には強制労働を課した。産業革命が加速する18世紀まで、健常者の「怠惰」は神との関係において罪として扱われ、救貧院の実態は刑務所そのものであった。18世紀以降、キリスト教の価値観を離れた救貧活動が広がり、ギルバート法の成立やスピーナムランド制度がイギリスで成立し、救貧や失業に対する価値観はようやく変転を見せた(救貧法参照)。
産業革命以後、賃労働者の比率が高くなったことから、失業は重大な社会問題として取り扱われることとなった。19世紀のイギリスにおいては、金融と設備投資の循環から、ほぼ10年おきに恐慌が発生しており、そのたびに失業率が10 %近くにまで上昇する循環があった。
20世紀に入って、この循環は次第に崩れ、1929年に発生した世界恐慌以後は、各国で失業が急増。アメリカ合衆国(以下アメリカ)では一時失業率が25 %に達し、社会革命が公然と叫ばれた。なお、この時の失業はニューディール政策により一時的に減少したが、政策が後退すると再び増加し、第二次世界大戦による大規模な軍需発生まで解決されなかった。
戦後、ブレトンウッズ体制の下で西側諸国は奇跡的な高度成長を達成。国家による経済政策への大幅な介入により完全雇用がほぼ達成された。1970年代に入ると、名目賃金の上昇とオイルショックの発生で供給構造が傷み、インフレーションの下で失業が増加した(スタグフレーション)。
1980年代に入ると不況からの脱出を図り新自由主義的経済政策(レーガノミクス、サッチャリズム、ロジャーノミクスなど)が導入され、労働市場が流動化した国々では経済成長率が高まったが、同時期にインフレ率抑制を目的にした金融政策が採用され、失業率は大幅に上昇した。
1990年代になり、アメリカ・イギリスは構造的な高失業から脱出したが、大陸欧州諸国は高い失業率に甘んじた。また、欧米に比べ低失業率だった日本においても、バブル経済崩壊以降の長期不況により失業が顕在化、社会問題となった。
2009年前後には世界金融危機がピークに達し、世界各国で高い失業率が記録された。
2020年には新型コロナウイルスの感染拡大により、各国で外出禁止令や都市のロックダウンが行われて経済活動が大きく減退した結果、失業率も大幅に上昇。アメリカは2020年4月に失業率14.7%、GDPは第二四半期に-32.9%を記録。その結果、新規失業者数も増加した。2020年2月から2020年4月が米国の景気後退期と認定された。その後、2020年4月以降は、米国では急速に回復し、2022年7月の失業率は3.5%と歴史的低水準(3.5%となったのは2020年とその前は1969年)となった。
失業を測る尺度である失業率(Unemployment rate)は、労働力人口に対する失業者数の割合パーセントで定義される。
国際労働機関の定義による失業者(unemployed workers)は、現在働いていないが、給与を得るために働く意思と能力があり、現在働くことが可能で、積極的に仕事を探している人をさす。
求職活動を積極的に行っている人とは、過去4週間以内に雇用主との接触、面接、職業紹介所への連絡、履歴書の送付、応募書類の提出、求人広告への問い合わせ、何らかの方法で積極的に就職活動を行う努力を行っている者のことである。単に求人広告を見るだけで問い合わせを行っていなければ、積極的に仕事を探しているとはみなされない。すべての失業者が政府機関によって把握されているとは限らないため、失業に関する公式統計は正確でない場合がある。
なお、仕事探しをあきらめた人は就業意欲喪失者 (discouraged worker)と呼ぶ。
アメリカ合衆国労働省労働統計局(BLS)では、失業率のほか、失業の異なる側面を測定する6つの代替指標U1~U6を定義している。
日本において失業率という場合、完全失業率を指す。失業者とは「働く意思と能力があるのに仕事に就けない状態にある人」を指すので、仕事探しをあきらめた人(就業意欲喪失者)は失業者には含まれない。
「働く意志がある」とは、労働力調査においては、ハローワークに通って職探しをするなど仕事を探す努力や事業開始の準備をしていること、とされている。仕事に就けない状態には仕事をしなくても職場から給与などを受け取っている場合を含まず、こうした場合は休業者として扱われる。
失業率は、国全体の景気動向を知る上で重要な指標となっている。不況による失業率の上昇は、労働力が有効に活用されていないという経済的な無駄が増えていることを意味する。
失業率は様々な経済活動と関連しながら変動する労働市場においての需給の引き締め度合いを表すシグナルとなる。
失業率の抑制は経済政策の重要な目標とされる。また、失業率を減らすことは、労働の経済学の重要な課題である。
失業率は、
というの二つの側面がある。
失業率は景気と相関があると言われているが、動きが一致するとは限らない。失業率は、景気循環要因以外にも、経済構造に関連する要因によっても動く。伝統的な日本的経営のもとでは、企業は従業員の雇用を守ることを企業の社会的使命の1つと考えており、整理解雇、特にリストラをなるべく忌避し、ぎりぎりまで状況を見極めようとするからである。その反面、採用についても、大企業になるほど、慎重で計画性や人員構成のバランスを重んじ、不要不急の採用は避ける傾向にある(一方で、近年非正規雇用の採用は柔軟に行っており、雇用関係指標を見る際にはその点も考慮に入れる必要がある)。
また、労働者側も、不況が長期化すると就業意欲喪失者が増加するが(不況で求人が少なくなり「どうせ就職できない」とあきらめる人が増える)、このため失業者数が減り、失業率を押し下げる要因になり、表面上は景気が回復したかに見える。逆に、景気回復局面では(景気が良くなって求人が増えるだろう、と)新規に仕事探しを始める人が現れるので、かえって就労を希望する「失業者」が増えて、失業率を押し上げることになる。
以上のようなことから、失業率は景気に対して遅行指標となっており、失業率のみならず他の景気指標を併せてみる必要がある。失業率は景気動向と比較して、通常1年から1年半送れて変動する。また、景気の先行指数の代表である株価と、遅行指数の一つである失業率は、一時的に正反対の動きを見せることがある。
高い失業率の問題は、国全体としての所得の低下にとどまらず、
といった痛みを人々に対して与える。
失業率と犯罪発生件数は相関があり、失業率が下がると犯罪発生件数が下がると2006年版犯罪白書で報告されている。
各国の失業率及び概況を示す。ただし算定基準は日本と異なる国も多い。
失業保険の給付期間の長い国ほど失業率が高い傾向があり、給付期間が短期なほど失業率が押し下げられる傾向が顕著となる。
研究チームの分析によると、2007年まで欧州では、相対的貧困レベルで世代間格差がなかった。しかし、2007年以降に欧州の65歳以上の高齢層の所得は10%増加した一方、同期間に15〜24歳の若年層の所得はむしろ激減した。研究チームはその背景に「若年失業」と指摘している。EU統計局によると、2007年にEU地域の若年失業率は15.6%だったが、2014年に23.8%まで急騰した後、2016年にも20.9%で長期間の高い若年失業率が続いている。若年失業問題が欧州で極限に達した2014年には南欧諸国でスペインの53.2%、ギリシャの52.4%、イタリアの42.7%で約半分の15才から25才が失業者であった。国際通貨基金の研究者は、「失業の呪いが長期間持続されたことで青年たちはより一層仕事を見つける難しくなっている」、「欧州の若年層は、全体の世代の中で資産に対する負債比率が最も高い世代であり、金融危機が再発した際に青年層が最も脆弱で打撃を受けることになる」と述べている。2017年に世界の若年失業率は二年連続で悪化し、13.1%だった。世界で15~24歳の若年労働者で失業中なのは2017年で7090万人、2018年には7110万人に増加することが予測されている。
高い若年失業率で若者が就職難である韓国と対照的で人手不足の日本に就職する韓国人が毎年増加している。日本の厚生労働省が発表した2017年の「外国人雇用現状」で2008年には約2万人だった日本で就業した韓国人が2017年10月時点で5万5900人になって、初めて5万人越えした。2016年からの増加幅は過去最大で1年間で約8000人増加し、2008年からの9年間で約2.7倍になった。2017年の韓国の若年失業率は2000年以降最も高い9.9%で、日本を就職先として注目する韓国人が増加し、日本語の学習熱が復調している。
アメリカの失業統計について、経済学者のスティーヴン・ランズバーグは「失業統計には、失業者の数だけでなく、平均失業期間も含まれる。こうした数値は、特定の日の失業者を調査し、失業期間を訊ねてその回答を平均して算出される。結果、過大となる。長期失業者が調査日に失業している確率は高く、短期失業者が調査日に失業している確率ははるかに小さい。よって、特定の日・週に集められたサンプルに長期失業者が相対的に多く含まれる」と指摘している。
厚生労働省の2002年度版『労働経済白書』では、2001年の完全失業率5%のうち、3.9%は構造的ミスマッチ失業であり、1.1%が需要不足による失業と推計されている。第一勧銀総合研究所の推計によると、2000年の労働需給のミスマッチによって発生した失業者数は、失業者全体の7割程度を占めているしており、雇用を改善させるためには景気回復によって労働需要を増加させるとともに、労働需給のミスマッチの解消が欠かせないとしている。
「雇用の流動化」とは、離職・転職のしやすさを示し、人的資源の効率的使用を意味する。
みずほ総合研究所は「欧州の例では、雇用保険を手厚くするとその分失業者の失業期間が長期化している。失業者が雇用機会を取得する努力を怠り、モラルハザードを引き起こす。失業給付が充実していれば失業状態を続けようとする意思が働いてしまう。失業保険を安易に拡大することは避けなければならない。欧州では、失業保険拡充の失敗を教訓に、雇用政策の重点を失業保険から教育訓練・職業紹介へ移行させている」と指摘している。
失業は社会や環境に起因するものであり、失業者本人の責任ではないため、失業者は自己同情を通じて、自分が置かれている状況をどのように受け止めているかを確認することができる。自分がどのように経験しているかを理解することで、再就職活動をより効果的に進めることができる。
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"text": "ケインズは、セイの法則と相対する有効需要の原理を提示し、社会全体の生産物に対する需要によって雇用量が決定されるとして、不完全雇用を伴う均衡の可能性を認める。そのさい有効需要の不足によって発生した非自発的失業は、総需要を拡大することによって解消されなければならないとした。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "名目賃金の下方硬直性を説明する要因としては、相対賃金仮説、効率賃金仮説、インサイダー・アウトサイダー仮説など様々な理由が考えられている(詳しくは労働経済学を参照)。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "循環的失業(Cyclical)はケインズ型失業(Keynesian unemployment)とも呼ばれ、働きたい者すべてに仕事を提供するのに十分な総需要が無いときに発生する。多くの財やサービスに対する需要が低下し、必要な生産量が減った結果として、必要な労働者も減るが、賃金には下方硬直性があるため均衡水準に達するまで下がらずに、失業が発生するのである。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "構造的ないし摩擦的理由で失業している人の労働人口に対する割合を自然失業率(インフレ非加速的失業率、略してNAIRU)という。自然失業率(の解釈の1つ)は、経済が均衡状態にあるときの失業率である。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "政府は公共政策により失業率を調整できるが、失業率を自然失業率以下にしようとすると、インフレが起こる。従って、インフレを起こさずに政策によって減らせる失業は循環的失業の部分だけである。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "また、ジョージ・アカロフらによって、自然失業率の水準はインフレ率によって左右されることが指摘されている。これら研究によれば、インフレ率がある閾値から低下すればするほど、自然失業率の水準が高まっていくこととなる。よって、インフレ率が非常に低いないしデフレの経済において、失業率を低下させる政策が採られた場合、一時的には失業率が自然失業率を下回ってインフレを加速させるが、それによってインフレ率の水準が高まると自然失業率の水準が低下するため、失業率が自然失業率よりも高い状態になればインフレの加速も止む。このことはまた、インフレ率などを勘案せず、失業率の水準だけを見て循環的失業の規模を推計することや、産出量ギャップの大きさを判断することの危険性を示している。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "失業率は総産出量(実質GDP)と潜在産出量との差をパーセント表示したもの(産出量ギャップ、GDPギャップ)に関係している事が知られている。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "産出量ギャップが負の場合は、資源を完全には利用できていない状態なので、失業率は自然失業率よりも高くなる。逆に正であれば、失業率は自然失業率よりも低くなる。 なお、産出量ギャップが正の場合をインフレギャップといい、負の場合をデフレギャップという。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "産出量ギャップが短期的には0にならない理由として、雇用契約が挙げられる。景気が悪化しても、企業は契約の関係上、短期的には社員の給料も下げない。したがって給料は完全雇用を達成する水準より高い水準となってしまい失業者が増加し、それにより産出量ギャップが生じる。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "過去のデータから、産出量ギャップと失業率には次の関係があると推定されている(オークンの法則):",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "これらのように、景気は実質GDPによって決まるが、それに対し失業率は産出量ギャップによって決まる。したがって景気(実質GDP)が上昇したとしても、その上昇速度が潜在産出量のそれよりも緩やかなら、「雇用なき景気回復」(ジョブレス・リカバリー)が起こる。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "最後に、失業率を自然失業率以下に下げようとし続けると何が起こるのかを見る。例えば2%のインフレを起こすと、失業率を自然失業率以下に下がる。しかししばらくすると、国民は2%のインフレ率を予想に織り込んで行動するようになる。したがって再び失業率が上昇する。失業率をもう一度下げるには、さらに高い率のインフレを起こさねばならない。しかしこの高いインフレ率もそのうち予想に織り込まれるので失業率が再び上昇してしまう。このように、失業率を自然失業率以下に抑えつづけるには、インフレを加速させ続けねばならない。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "名目賃金の下方硬直性がある場合、労働需要を増加させるには物価の上昇が必要であるが、労働需要の増加によって完全雇用が達成されると、それ以上は需要が増えても物価が上昇するだけになってしまう。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "公的統計においては、隠れた失業(潜在的失業)を考慮しないことにより、失業率が過小評価されることが多い。隠れた失業とは、統計の手法によって公式の失業統計に反映されていない潜在的な失業のことである。多くの国では、仕事はないが積極的に仕事を探している人(完全失業者)や、社会保障給付を受ける資格のある人のみが、失業者として数えられる。就業意欲喪失者や、政府の職業訓練プログラムに参加している人は、無職であっても公式には失業者として数えられない。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また不完全雇用(underemployed)と呼ばれる、希望する時間より少ない時間しか働けないパートタイマーや、自分の能力を十分に生かせない仕事をしている人(資格過剰)も統計には含まれない。さらに生産可能年齢に達しているが、現在フルタイムで教育を受けている人は、一般的には政府統計において失業者とはみなされない。原野で採集、狩猟、牧畜、農業を営むことで生計を立てている伝統的な先住民社会においては、失業者として統計に数えられる場合と、数えられない場合がある。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "次のような失業も考えることができる。",
"title": "失業の分類と理論"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "中世キリスト教世界(=カトリックの世界)では、貧しいことは「神の心にかなうこと」とされ、そのような人に手を差し伸べることは善行であった。宗教改革(=プロテスタンティズムの登場)は、こういった見方を一変させ、「怠惰と貪欲は許されざる罪」で、物乞いは「怠惰の原因」として排斥し、労働を「神聖な義務」であるとした。プロテスタンティズムの流行は貧しいものへの視線を変容させ、「神に見放されたことを表す」という見方が広がり、都市を締め出された貧民は荒野や森林に住みつくか、浮浪者となって暴動を起こすようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "イギリスでは1531年に王令により貧民を、「病気等で働けない者」と、「怠惰ゆえに働かない者」に分類し、前者には物乞いの許可を下し、後者には鞭打ちの刑を加えることとした。1536年には成文化され救貧法となり、労働不能貧民には衣食の提供を行う一方、健常者には強制労働を課した。産業革命が加速する18世紀まで、健常者の「怠惰」は神との関係において罪として扱われ、救貧院の実態は刑務所そのものであった。18世紀以降、キリスト教の価値観を離れた救貧活動が広がり、ギルバート法の成立やスピーナムランド制度がイギリスで成立し、救貧や失業に対する価値観はようやく変転を見せた(救貧法参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "産業革命以後、賃労働者の比率が高くなったことから、失業は重大な社会問題として取り扱われることとなった。19世紀のイギリスにおいては、金融と設備投資の循環から、ほぼ10年おきに恐慌が発生しており、そのたびに失業率が10 %近くにまで上昇する循環があった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入って、この循環は次第に崩れ、1929年に発生した世界恐慌以後は、各国で失業が急増。アメリカ合衆国(以下アメリカ)では一時失業率が25 %に達し、社会革命が公然と叫ばれた。なお、この時の失業はニューディール政策により一時的に減少したが、政策が後退すると再び増加し、第二次世界大戦による大規模な軍需発生まで解決されなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "戦後、ブレトンウッズ体制の下で西側諸国は奇跡的な高度成長を達成。国家による経済政策への大幅な介入により完全雇用がほぼ達成された。1970年代に入ると、名目賃金の上昇とオイルショックの発生で供給構造が傷み、インフレーションの下で失業が増加した(スタグフレーション)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1980年代に入ると不況からの脱出を図り新自由主義的経済政策(レーガノミクス、サッチャリズム、ロジャーノミクスなど)が導入され、労働市場が流動化した国々では経済成長率が高まったが、同時期にインフレ率抑制を目的にした金融政策が採用され、失業率は大幅に上昇した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1990年代になり、アメリカ・イギリスは構造的な高失業から脱出したが、大陸欧州諸国は高い失業率に甘んじた。また、欧米に比べ低失業率だった日本においても、バブル経済崩壊以降の長期不況により失業が顕在化、社会問題となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2009年前後には世界金融危機がピークに達し、世界各国で高い失業率が記録された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2020年には新型コロナウイルスの感染拡大により、各国で外出禁止令や都市のロックダウンが行われて経済活動が大きく減退した結果、失業率も大幅に上昇。アメリカは2020年4月に失業率14.7%、GDPは第二四半期に-32.9%を記録。その結果、新規失業者数も増加した。2020年2月から2020年4月が米国の景気後退期と認定された。その後、2020年4月以降は、米国では急速に回復し、2022年7月の失業率は3.5%と歴史的低水準(3.5%となったのは2020年とその前は1969年)となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "失業を測る尺度である失業率(Unemployment rate)は、労働力人口に対する失業者数の割合パーセントで定義される。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "国際労働機関の定義による失業者(unemployed workers)は、現在働いていないが、給与を得るために働く意思と能力があり、現在働くことが可能で、積極的に仕事を探している人をさす。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "求職活動を積極的に行っている人とは、過去4週間以内に雇用主との接触、面接、職業紹介所への連絡、履歴書の送付、応募書類の提出、求人広告への問い合わせ、何らかの方法で積極的に就職活動を行う努力を行っている者のことである。単に求人広告を見るだけで問い合わせを行っていなければ、積極的に仕事を探しているとはみなされない。すべての失業者が政府機関によって把握されているとは限らないため、失業に関する公式統計は正確でない場合がある。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "なお、仕事探しをあきらめた人は就業意欲喪失者 (discouraged worker)と呼ぶ。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国労働省労働統計局(BLS)では、失業率のほか、失業の異なる側面を測定する6つの代替指標U1~U6を定義している。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本において失業率という場合、完全失業率を指す。失業者とは「働く意思と能力があるのに仕事に就けない状態にある人」を指すので、仕事探しをあきらめた人(就業意欲喪失者)は失業者には含まれない。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "「働く意志がある」とは、労働力調査においては、ハローワークに通って職探しをするなど仕事を探す努力や事業開始の準備をしていること、とされている。仕事に就けない状態には仕事をしなくても職場から給与などを受け取っている場合を含まず、こうした場合は休業者として扱われる。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "失業率は、国全体の景気動向を知る上で重要な指標となっている。不況による失業率の上昇は、労働力が有効に活用されていないという経済的な無駄が増えていることを意味する。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "失業率は様々な経済活動と関連しながら変動する労働市場においての需給の引き締め度合いを表すシグナルとなる。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "失業率の抑制は経済政策の重要な目標とされる。また、失業率を減らすことは、労働の経済学の重要な課題である。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "失業率は、",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "というの二つの側面がある。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "失業率は景気と相関があると言われているが、動きが一致するとは限らない。失業率は、景気循環要因以外にも、経済構造に関連する要因によっても動く。伝統的な日本的経営のもとでは、企業は従業員の雇用を守ることを企業の社会的使命の1つと考えており、整理解雇、特にリストラをなるべく忌避し、ぎりぎりまで状況を見極めようとするからである。その反面、採用についても、大企業になるほど、慎重で計画性や人員構成のバランスを重んじ、不要不急の採用は避ける傾向にある(一方で、近年非正規雇用の採用は柔軟に行っており、雇用関係指標を見る際にはその点も考慮に入れる必要がある)。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、労働者側も、不況が長期化すると就業意欲喪失者が増加するが(不況で求人が少なくなり「どうせ就職できない」とあきらめる人が増える)、このため失業者数が減り、失業率を押し下げる要因になり、表面上は景気が回復したかに見える。逆に、景気回復局面では(景気が良くなって求人が増えるだろう、と)新規に仕事探しを始める人が現れるので、かえって就労を希望する「失業者」が増えて、失業率を押し上げることになる。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "以上のようなことから、失業率は景気に対して遅行指標となっており、失業率のみならず他の景気指標を併せてみる必要がある。失業率は景気動向と比較して、通常1年から1年半送れて変動する。また、景気の先行指数の代表である株価と、遅行指数の一つである失業率は、一時的に正反対の動きを見せることがある。",
"title": "計測"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "高い失業率の問題は、国全体としての所得の低下にとどまらず、",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "といった痛みを人々に対して与える。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "失業率と犯罪発生件数は相関があり、失業率が下がると犯罪発生件数が下がると2006年版犯罪白書で報告されている。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "各国の失業率及び概況を示す。ただし算定基準は日本と異なる国も多い。",
"title": "各国の失業率"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "失業保険の給付期間の長い国ほど失業率が高い傾向があり、給付期間が短期なほど失業率が押し下げられる傾向が顕著となる。",
"title": "各国の失業率"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "研究チームの分析によると、2007年まで欧州では、相対的貧困レベルで世代間格差がなかった。しかし、2007年以降に欧州の65歳以上の高齢層の所得は10%増加した一方、同期間に15〜24歳の若年層の所得はむしろ激減した。研究チームはその背景に「若年失業」と指摘している。EU統計局によると、2007年にEU地域の若年失業率は15.6%だったが、2014年に23.8%まで急騰した後、2016年にも20.9%で長期間の高い若年失業率が続いている。若年失業問題が欧州で極限に達した2014年には南欧諸国でスペインの53.2%、ギリシャの52.4%、イタリアの42.7%で約半分の15才から25才が失業者であった。国際通貨基金の研究者は、「失業の呪いが長期間持続されたことで青年たちはより一層仕事を見つける難しくなっている」、「欧州の若年層は、全体の世代の中で資産に対する負債比率が最も高い世代であり、金融危機が再発した際に青年層が最も脆弱で打撃を受けることになる」と述べている。2017年に世界の若年失業率は二年連続で悪化し、13.1%だった。世界で15~24歳の若年労働者で失業中なのは2017年で7090万人、2018年には7110万人に増加することが予測されている。",
"title": "各国の失業率"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "高い若年失業率で若者が就職難である韓国と対照的で人手不足の日本に就職する韓国人が毎年増加している。日本の厚生労働省が発表した2017年の「外国人雇用現状」で2008年には約2万人だった日本で就業した韓国人が2017年10月時点で5万5900人になって、初めて5万人越えした。2016年からの増加幅は過去最大で1年間で約8000人増加し、2008年からの9年間で約2.7倍になった。2017年の韓国の若年失業率は2000年以降最も高い9.9%で、日本を就職先として注目する韓国人が増加し、日本語の学習熱が復調している。",
"title": "各国の失業率"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "アメリカの失業統計について、経済学者のスティーヴン・ランズバーグは「失業統計には、失業者の数だけでなく、平均失業期間も含まれる。こうした数値は、特定の日の失業者を調査し、失業期間を訊ねてその回答を平均して算出される。結果、過大となる。長期失業者が調査日に失業している確率は高く、短期失業者が調査日に失業している確率ははるかに小さい。よって、特定の日・週に集められたサンプルに長期失業者が相対的に多く含まれる」と指摘している。",
"title": "失業に関する議論"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "厚生労働省の2002年度版『労働経済白書』では、2001年の完全失業率5%のうち、3.9%は構造的ミスマッチ失業であり、1.1%が需要不足による失業と推計されている。第一勧銀総合研究所の推計によると、2000年の労働需給のミスマッチによって発生した失業者数は、失業者全体の7割程度を占めているしており、雇用を改善させるためには景気回復によって労働需要を増加させるとともに、労働需給のミスマッチの解消が欠かせないとしている。",
"title": "失業に関する議論"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "「雇用の流動化」とは、離職・転職のしやすさを示し、人的資源の効率的使用を意味する。",
"title": "失業に関する議論"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "みずほ総合研究所は「欧州の例では、雇用保険を手厚くするとその分失業者の失業期間が長期化している。失業者が雇用機会を取得する努力を怠り、モラルハザードを引き起こす。失業給付が充実していれば失業状態を続けようとする意思が働いてしまう。失業保険を安易に拡大することは避けなければならない。欧州では、失業保険拡充の失敗を教訓に、雇用政策の重点を失業保険から教育訓練・職業紹介へ移行させている」と指摘している。",
"title": "失業に関する議論"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "失業は社会や環境に起因するものであり、失業者本人の責任ではないため、失業者は自己同情を通じて、自分が置かれている状況をどのように受け止めているかを確認することができる。自分がどのように経験しているかを理解することで、再就職活動をより効果的に進めることができる。",
"title": "失業に関する議論"
}
] |
失業とは、職業(仕事)を失うこと、および労働の意志も能力もあるのに仕事に就けない状態を指す。特に、仕事が無い状態を指す無職(むしょく)のうち、就業に向けた職探しを行っている者の状態を指し、そのような状態の者を失業者(しつぎょうしゃ)と言う。 労働力人口に対する失業者数の割合を失業率と言う。完全雇用とは、労働力、技術、土地、資本、その他の生産要素を最大限に活用して、最大限の持続可能な生産能力を生み出している状態をさし、「失業者が一人もいない」ということではなく、一定の摩擦的失業の存在を含んだ状態のことをいう。 国際労働機関(ILO)によれば、2018年の時点では全世界で1億7200万人(報告された世界の労働力人口の5%)が無職であった。 15-24歳の労働力人口における失業を若年失業といい、日本など一部を除いて北欧の福祉国家でさえも若年失業率が20 %から下がらないことがOECD加盟国で大きな問題になっている。
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[[ファイル:Unemployment rates of World (CIA Fact Book).png|thumb|450px|'''世界の失業率'(最新年度)'' 灰色は統計資料が入手できないことを表す。CIA World Factbook による<ref name="CIA Unemployment rate">{{Cite report|author=CIA|authorlink=中央情報局|year=2021|title=CIA Fact Book Field Listing :: Unemployment rate|url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/field/unemployment-rate/country-comparison|accessdate=2021-03-09}}</ref>]]
[[File:Unemployment rate in OECD.svg|thumb|right|450px|OECD各国の全[[労働力人口]]における失業者]]
[[File:Youth Unemployment rate in OECD.svg|thumb|right|450px|OECD各国の労働力人口における若年失業者(15-24歳)<ref>{{Cite |publisher=OECD |title= OECD Labour Force Statistics 2020| |date=2020 |doi=10.1787/23083387}}</ref>]]
'''失業'''(しつぎょう、{{lang-en-short|unemployment}})とは、[[職業]](仕事)を失うこと、および[[労働]]の[[意志]]も[[能力]]もあるのに仕事に就けない状態を指す。特に、仕事が無い状態を指す'''無職'''(むしょく)のうち、就業に向けた職探しを行っている者の状態を指し、そのような状態の者を'''失業者'''(しつぎょうしゃ)と言う。
'''[[労働力人口]]'''に対する失業者数の割合を'''失業率'''と言う。[[完全雇用]](Full employment)とは、労働力、技術、土地、資本、その他の生産要素を最大限に活用して、最大限の持続可能な生産能力を生み出している状態をさし<ref>{{Cite |publisher=OECD |title=OECD glossary - FULL EMPLOYMENT |date=2004-08 |url=https://stats.oecd.org/glossary/detail.asp?ID=6266}}</ref>、「失業者が一人もいない」ということではなく、一定の摩擦的失業の存在を含んだ状態のことをいう<ref>野口旭・田中秀臣 『構造改革論の誤解』 東洋経済新報社、2001年、37頁。</ref>。
[[国際労働機関]](ILO)によれば、2018年の時点では全世界で1億7200万人(報告された世界の[[労働力人口]]の5%)が無職であった<ref>{{Cite report|url=https://ilostat.ilo.org/data/ |publisher=International Labour Organization |title=ILOSTAT - Unemployment rate |date=2020-01}}</ref>。
15-24歳の[[労働力人口]]における失業を'''[[若年失業]]'''といい、[[日本]]など一部を除いて[[北欧]]の[[福祉国家]]でさえも若年失業率が20 %から下がらないことが[[経済協力開発機構|OECD]]加盟国で大きな問題になっている<ref>[http://www.sankei.com/economy/news/161202/ecn1612020025-n1.html 主要国の若年失業率、日本が5.3%と最少 OECD調査]産経新聞</ref><ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171215-00001816-chosun-kr 韓国がフィンランドに学ぶべきこと]朝鮮日報日本語版</ref>。
{{TOC limit|3}}
== 失業の分類と理論 ==
失業には'''自発的失業'''、'''摩擦的失業'''、'''[[非自発的失業]]'''の3様態がある<ref name="omoshiroi54">神樹兵輔 『面白いほどよくわかる 最新経済のしくみ-マクロ経済からミクロ経済まで素朴な疑問を一発解消(学校で教えない教科書)』 日本文芸社、2008年、54頁。</ref>。この分類は、[[ジョン・メイナード・ケインズ]]によってなされたものである<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%99%BA%E7%9A%84%E5%A4%B1%E6%A5%AD-74734#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 自発的失業 とは]コトバンク</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%91%A9%E6%93%A6%E7%9A%84%E5%A4%B1%E6%A5%AD-136072 摩擦的失業 とは]コトバンク</ref>。
; 自発的失業
: 景気の良し悪しとは無関係に存在する('''[[自然失業率]]''')<ref name="omoshiroi54" />。自己の意思により失業を選択している、あるいはより良い労働条件を求めて自分の意志で失業すること。
; 摩擦的失業
: 景気の良し悪しとは無関係に存在する(自然失業率)<ref name="omoshiroi54" />。後述を参照。
; [[非自発的失業]]
: 完全失業(完全失業率)<ref name="omoshiroi54" />。現行の[[賃金]]で就職を望んでいるにもかかわらず、自ら望まない形で失業していること。
'''失業者''' = 自発的失業者 + 摩擦的失業者 + 非自発的失業者<ref name="sekaiichi199">飯田泰之 『世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで』 エンターブレイン、2010年、199頁。</ref>。
[[潜在産出量]]が、[[国内総生産]]と等しくなった場合、「非自発的失業」は無くなるとされている<ref>岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、5頁。</ref>。
=== 失業の要因別分類 ===
失業を発生要因別に、'''需要不足失業'''、'''摩擦的失業'''、'''構造的失業'''の3種類に分類できる<ref>[https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/yasashii14/02.html 第2回 失業、原因別に3分類]RIETI 日本経済新聞 2013年10月18日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130121220346/http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpaa200201/b0061.html 平成14年版 労働経済の分析][[厚生労働省]](2013年1月21日時点の[[インターネットアーカイブ]])</ref>。
; 需要不足失業
: 景気の変動(循環)に伴って労働需要([[雇用]]の受け皿)が減少することにより生じる失業で、循環的失業とも呼ばれる。[[リアルビジネスサイクル理論]]などが例である。
; 摩擦的失業
: [[転職]]や新たに[[就職]]する際に、[[企業]]と求職者の互いの情報が不完全であるため両者が相手を探すのに時間がかかることや、[[労働者]]が地域間を移動する際に時間がかかることなどにより生じる失業。
; 構造的失業
: [[労働市場]]における需要と供給のバランスはとれているにもかかわらず、企業が求める[[人材]]と[[就職活動|求職]]者の持っている特性(職業能力や年齢など)などが異なるというミスマッチにより生じる失業。{{see also|ウィリアム・ベヴァリッジ#ベヴァリッジ曲線}}
=== 非自発的失業 ===
{{main|非自発的失業}}
[[新古典派経済学]]や[[マネタリスト]]の見解では、[[市場経済]]が機能することで労働者の需要と供給は一致し、求職者はすべて職を得ることが可能となるとする<ref>田中秀臣 『経済政策を歴史に学ぶ』 ソフトバンククリエイティブ〈ソフトバンク新書〉、2006年、23頁。</ref>。ただし、[[ケインズ経済学]]は市場メカニズムは短期的には上手く働かないと指摘しており、非自発的失業が発生するとしている。非自発的失業はケインズによって発見されたものであり、非自発的失業の存在を認めるかどうかについては、ケインズ経済学的立場と新古典派的立場の間で意見が分かれる。
[[労働市場]]では、[[家計]]が労働を供給し、企業が労働を需要する<ref name="keizaironsen43">田中秀臣 『経済論戦の読み方』 講談社〈講談社新書〉、2004年、43頁。</ref>。労働の需給が一致するときに現実の雇用量と賃金が決まる<ref name="keizaironsen43" />。労働市場では、賃金が高ければ、企業は雇用を減らし労働者は供給を増やす<ref name="sekaiwokaeta217">日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、217頁。</ref>。[[新古典派経済学]]は、賃金が労働の需給を一致させるように決まると考えるため、非自発的失業は存在しないとする<ref name="sekaiwokaeta217" />。名目賃金の低下は、労働の供給が需要を上回るときに起こる<ref name="sekaiwokaeta217" />。
これは[[新古典派経済学|新古典派]]が、価格の自在な伸縮によって全ての売れ残りの解消が可能とする[[セイの法則]]を前提として<ref>田中秀臣 『経済論戦の読み方』 講談社〈講談社新書〉、2004年、42頁。</ref>、失業者は現在雇用されている労働者よりも低い賃金を提示して職を見付けることが可能であるとするためである。賃金価格の下落によって失業が解消されないのは、その賃金以下では働かないという労働者の選択に唯一の原因があるとする。
これに対してジョン・メイナード・ケインズの[[マクロ経済学]]は、[[有効需要]]の不足が失業発生の理由とみなした<ref>日本経済新聞社編 『やさしい経済学』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、211頁。</ref>。[[ケインズ経済学]]では、「賃金は硬直的なので、需要と供給が一致することはない」とされる<ref>田中秀臣 『経済論戦の読み方』 講談社〈講談社新書〉、2004年、46頁。</ref>。ケインズ経済学では、労働市場では'''賃金の下方硬直性'''があるため失業は存在する<ref name="keizaironsen47">田中秀臣 『経済論戦の読み方』 講談社〈講談社新書〉、2004年、47頁。</ref>。また、財・サービス市場においても価格は硬直的であり、価格が瞬時に調整されるわけではない<ref name="keizaironsen47" />。価格・賃金は短期的にはゆっくりとしか調整されない<ref name="keizaironsen47" />。ケインズ経済学の賃金・価格の硬直性は短期の仮定であり、数年間かければ賃金・価格はやがて調整される<ref name="keizaironsen71">田中秀臣 『経済論戦の読み方』 講談社〈講談社新書〉、2004年、71頁。</ref>。ただし、利子率の下方硬直性では、ケインズ的不況が短期ではなく中期(10年程度)に渡って継続される<ref name="keizaironsen71" />。
ケインズは、セイの法則と相対する有効需要の原理を提示し、社会全体の生産物に対する需要によって雇用量が決定されるとして<ref group="注">この有効需要は、貨幣供給量・[[流動性選好説|貨幣選好]]・期待利潤率・消費性向に依存する。ケインズは、賃金切り下げの影響は、これらの要因に対する影響を通じて考慮されなければならないとし、新古典派の議論が、全産業での賃金切り下げには当てはまらないと考えていた。</ref>、[[不完全雇用]]を伴う均衡の可能性を認める。そのさい有効需要の不足によって発生した非自発的失業は、総需要を拡大することによって解消されなければならないとした。
名目賃金の下方硬直性を説明する要因としては、相対賃金仮説、効率賃金仮説、インサイダー・アウトサイダー仮説など様々な理由が考えられている(詳しくは[[労働経済学]]を参照)。
=== 循環的失業 ===
[[File:US Unemployment rate 1990 to present.png|thumb|upright=1.5|米国の失業率(1990—2022)。グレー部が循環的失業。]]
循環的失業(Cyclical)はケインズ型失業(Keynesian unemployment)とも呼ばれ、働きたい者すべてに仕事を提供するのに十分な[[総需要]]が無いときに発生する。多くの財やサービスに対する需要が低下し、必要な生産量が減った結果として、必要な労働者も減るが、賃金には下方硬直性があるため均衡水準に達するまで下がらずに、失業が発生するのである<ref name="Keynes 2007">{{cite book|title=The General Theory of Employment, Interest and Money |last=Keynes |first=John Maynard |year=2007 |orig-year=1936 |publisher=Palgrave Macmillan |location=Basingstoke, Hampshire |isbn=978-0-230-00476-4 |url=http://cepa.newschool.edu/het/essays/keynes/keynescont.htm |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090316094655/http://cepa.newschool.edu/het/essays/keynes/keynescont.htm |archive-date=16 March 2009}}</ref>。
=== 完全雇用の下での失業 ===
[[File:NAIRU-SR-and-LR.svg|thumb|right|短期[[フィリップス曲線]]はインフレ率と失業率の関係を示す]]
{{main|自然失業率|完全雇用|産出量ギャップ|オークンの法則}}
構造的ないし摩擦的理由で失業している人の労働人口に対する割合を'''[[自然失業率]]'''([[自然失業率#NAIRU等との関係|インフレ非加速的失業率]]、略してNAIRU)という<ref>この節はポール・クルーグマン『マクロ経済学』15章を参照。</ref>。自然失業率(の解釈の1つ)は、経済が均衡状態にあるときの失業率である。
政府は公共政策により失業率を調整できるが、失業率を自然失業率以下にしようとすると、インフレが起こる。従って、インフレを起こさずに政策によって減らせる失業は循環的失業の部分だけである。
また、[[ジョージ・アカロフ]]らによって、自然失業率の水準はインフレ率によって左右されることが指摘されている<ref>George A. Akerlof, William T. Dickens and George L. Perry (2000), "[http://elsa.berkeley.edu/~akerlof/docs/inflatn-employm.pdf Near-Rational Wage and Price Setting and the Optimal Rates of Inflation and Unemployment]"</ref><ref>ジョージ・A・アカロフ, ロバート・シラー(2009), 『アニマルスピリット』</ref><ref>黒田祥子・山本勲 (2003), "[http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/2003/03-J-10.pdf 名目賃金の下方硬直性が失業率に与える影響 ─ マクロ・モデルのシミュレーションによる検証 ─]"</ref>。これら研究によれば、インフレ率がある閾値から低下すればするほど、自然失業率の水準が高まっていくこととなる。よって、インフレ率が非常に低いないしデフレの経済において、失業率を低下させる政策が採られた場合、一時的には失業率が自然失業率を下回ってインフレを加速させるが、それによってインフレ率の水準が高まると自然失業率の水準が低下するため、失業率が自然失業率よりも高い状態になればインフレの加速も止む。このことはまた、インフレ率などを勘案せず、失業率の水準だけを見て循環的失業の規模を推計することや、産出量ギャップの大きさを判断することの危険性を示している。
失業率は総産出量(実質GDP)と潜在産出量との差をパーセント表示したもの([[産出量ギャップ]]、'''GDPギャップ''')に関係している事が知られている。
* 産出量ギャップ = 100 × (総産出量- 潜在産出量)/潜在産出量 (%)
産出量ギャップが負の場合は、資源を完全には利用できていない状態なので、失業率は自然失業率よりも高くなる。逆に正であれば、失業率は自然失業率よりも低くなる。
なお、産出量ギャップが正の場合を'''インフレギャップ'''といい、負の場合を'''デフレギャップ'''という。
産出量ギャップが短期的には0にならない理由として、雇用契約が挙げられる。景気が悪化しても、企業は契約の関係上、短期的には社員の給料も下げない。したがって給料は完全雇用を達成する水準より高い水準となってしまい失業者が増加し、それにより産出量ギャップが生じる。
過去のデータから、産出量ギャップと失業率には次の関係があると推定されている([[オークンの法則]]):
* 失業率 = 自然失業率 - 0.5 産出量ギャップ (%)
これらのように、景気は実質GDPによって決まるが、それに対し失業率は産出量ギャップによって決まる。したがって景気(実質GDP)が上昇したとしても、その上昇速度が潜在産出量のそれよりも緩やかなら、「雇用なき景気回復」('''ジョブレス・リカバリー''')が起こる。
最後に、失業率を自然失業率以下に下げようとし続けると何が起こるのかを見る。例えば2%のインフレを起こすと、失業率を自然失業率以下に下がる。しかししばらくすると、国民は2%のインフレ率を予想に織り込んで行動するようになる。したがって再び失業率が上昇する。失業率をもう一度下げるには、さらに高い率のインフレを起こさねばならない。しかしこの高いインフレ率もそのうち予想に織り込まれるので失業率が再び上昇してしまう。このように、失業率を自然失業率以下に抑えつづけるには、インフレを加速させ続けねばならない。
名目賃金の下方硬直性がある場合、労働需要を増加させるには物価の上昇が必要であるが、労働需要の増加によって完全雇用が達成されると、それ以上は需要が増えても物価が上昇するだけになってしまう<ref>田中秀臣・安達誠司 『平成大停滞と昭和恐慌〜プラクティカル経済学入門』NHK出版〈NHKブックス〉、2003年、42頁。</ref>。
=== 隠れた失業 ===
公的統計においては、隠れた失業(潜在的失業)を考慮しないことにより、失業率が過小評価されることが多い<ref>「平成14年版労働経済の分析」第7章過剰雇用と潜在失業[https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/02/7.html]</ref><ref>低開発国においては伝統部門(自給自足など)の就業者は「偽装的失業」者、ないし「潜在的失業」者と呼ばれる。佐藤泰久, 「[https://hdl.handle.net/2115/31626 低開発国における潜在的失業:停滞原因の一般均衡分析]」『經濟學研究』 33巻 3号 p.77-87, 北海道大学經濟學部。</ref>。隠れた失業とは、統計の手法によって公式の失業統計に反映されていない潜在的な失業のことである。多くの国では、仕事はないが積極的に仕事を探している人(完全失業者)や、社会保障給付を受ける資格のある人のみが、失業者として数えられる。[[就業意欲喪失者]]や、政府の職業訓練プログラムに参加している人は、無職であっても公式には失業者として数えられない。
また[[不完全雇用]](underemployed)と呼ばれる、希望する時間より少ない時間しか働けないパートタイマーや、自分の能力を十分に生かせない仕事をしている人(資格過剰)も統計には含まれない。さらに生産可能年齢に達しているが、現在フルタイムで教育を受けている人は、一般的には政府統計において失業者とはみなされない。原野で採集、狩猟、牧畜、農業を営むことで生計を立てている伝統的な先住民社会においては、失業者として統計に数えられる場合と、数えられない場合がある。
=== その他の失業の種類 ===
次のような失業も考えることができる。
* 季節的失業 - 季節的要因により発生する失業<ref>スティグリッツ『マクロ経済学』p102-103</ref>。
* 一時的失業 - 農業従事者の農閑期の失業。
* 産業予備軍 - 資本家にとって賃金抑制装置として必要とされる[[相対的過剰人口]]。
* 技術的失業 - 機械化・自動化により、特殊能力が不要となり発生する失業<ref>弘兼憲史・高木勝 『知識ゼロからの経済学入門』 幻冬舎、2008年、115頁。</ref>。
{{節スタブ}}
== 歴史 ==
[[中世]]キリスト教世界(=[[カトリック]]の世界)では、貧しいことは「神の心にかなうこと」とされ、そのような人に手を差し伸べることは[[善行]]であった。[[宗教改革]](=[[プロテスタント|プロテスタンティズム]]の登場)は、こういった見方を一変させ、「怠惰と貪欲は許されざる罪」で、[[乞食|物乞い]]は「怠惰の原因」として排斥し、[[労働]]を「神聖な[[義務]]」であるとした。プロテスタンティズムの流行は貧しいものへの視線を変容させ、「神に見放されたことを表す」という見方が広がり、都市を締め出された[[貧民]]は[[荒野]]や[[森林]]に住みつくか、[[浮浪者]]となって[[暴動]]を起こすようになった。
[[イギリス]]では[[1531年]]に王令により貧民を、「病気等で働けない者」と、「怠惰ゆえに働かない者」に分類し、前者には[[物乞い]]の許可を下し、後者には[[鞭打ち]]の[[刑罰|刑]]を加えることとした。[[1536年]]には成文化され[[救貧法]]となり、労働不能貧民には衣食の提供を行う一方、[[健常者]]には[[強制労働]]を課した。[[産業革命]]が加速する[[18世紀]]まで、健常者の「怠惰」は神との関係において罪として扱われ、[[救貧院]]の実態は[[刑務所]]そのものであった。[[18世紀]]以降、キリスト教の価値観を離れた救貧活動が広がり、[[救貧法|ギルバート法]]の成立や[[スピーナムランド制度]]がイギリスで成立し、救貧や失業に対する価値観はようやく変転を見せた([[救貧法]]参照)。
[[産業革命]]以後、賃労働者の比率が高くなったことから、失業は重大な[[社会問題]]として取り扱われることとなった。[[19世紀]]のイギリスにおいては、[[金融]]と[[設備投資]]の循環から、ほぼ10年おきに[[景気循環|恐慌]]が発生しており、そのたびに失業率が10 %近くにまで上昇する循環があった。
[[20世紀]]に入って、この循環は次第に崩れ、[[1929年]]に発生した[[世界恐慌]]以後は、各国で失業が急増。[[アメリカ合衆国]](以下アメリカ)では一時失業率が25 %に達し、[[社会革命]]が公然と叫ばれた。なお、この時の失業は[[ニューディール政策]]により一時的に減少したが、政策が後退すると再び増加し、[[第二次世界大戦]]による大規模な[[軍需産業|軍需]]発生まで解決されなかった。
戦後、[[ブレトン・ウッズ協定|ブレトンウッズ体制]]の下で[[西側諸国]]は奇跡的な高度成長を達成。国家による[[経済政策]]への大幅な介入により[[完全雇用]]がほぼ達成された。[[1970年代]]に入ると、名目賃金の上昇と[[オイルショック]]の発生で供給構造が傷み、インフレーションの下で失業が増加した([[スタグフレーション]])。
[[1980年代]]に入ると不況からの脱出を図り[[新自由主義]]的経済政策([[レーガノミクス]]、[[サッチャリズム]]、[[ロジャーノミクス]]など)が導入され、労働市場が流動化した国々では経済成長率が高まったが、同時期にインフレ率抑制を目的にした[[金融政策]]が採用され、失業率は大幅に上昇した。
[[1990年代]]になり、アメリカ・イギリスは構造的な高失業から脱出したが、[[大陸ヨーロッパ|大陸欧州]]諸国は高い失業率に甘んじた。また、欧米に比べ低失業率だった日本においても、[[バブル経済]]崩壊以降の[[失われた10年|長期不況]]により失業が顕在化、[[社会問題]]となった。
[[2009年]]前後には[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]がピークに達し、世界各国で高い失業率が記録された。
[[2020年]]には[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大により、各国で[[外出禁止令]]や都市の[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]]が行われて経済活動が大きく減退した結果、失業率も大幅に上昇。アメリカは2020年4月に失業率14.7%<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO58900350Y0A500C2MM8000/ 米失業率14.7%、戦後最悪: 日本経済新聞]</ref>、GDPは第二四半期に-32.9%を記録<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-30 |url= https://www.afpbb.com/articles/-/3296589?cx_part=top_category&cx_position=1|title=米GDP、過去最悪の-32.9% 失業者も増加 |publisher=AFP |accessdate=2020-05-08}}</ref>。その結果、新規失業者数も増加した。2020年2月から2020年4月が米国の[[景気後退]]期と認定された<ref>[https://www.nber.org/research/data/us-business-cycle-expansions-and-contractions US Business Cycle Expansions and Contractions | NBER]</ref>。その後、2020年4月以降は、米国では急速に回復し、2022年7月の失業率は3.5%と歴史的低水準(3.5%となったのは2020年とその前は1969年<ref>[https://fred.stlouisfed.org/series/UNRATE Unemployment Rate (UNRATE) | FRED | St. Louis Fed]</ref>)となった<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN00003_W2A800C2000000/ 「賃金インフレ」を恐れぬ米株市場(NY特急便): 日本経済新聞]</ref>。
== 計測 ==
[[ファイル:Arbeitslosigkeit 2020-10.png|thumb|250px|失業率は一国の地域によっても大きく異なる。失業率の高さは、紫<青<緑<黄<赤となっている。(ドイツ、2020年10月)]]
失業を測る尺度である'''失業率'''(Unemployment rate)は、[[労働力人口]]に対する失業者数の割合パーセントで定義される。
:<math>\text{Unemployment rate}=\frac{\text{Unemployed workers}}{\text{Total labor force}} \times 100</math>
[[国際労働機関]]の定義による失業者(unemployed workers)は、現在働いていないが、給与を得るために働く意思と能力があり、現在働くことが可能で、積極的に仕事を探している人をさす<ref>International Labour Organization, Bureau of Statistics,[http://www.ilo.org/public/english/bureau/stat/download/res/ecacpop.pdf The Thirteenth International Conference of Labour Statisticians], received 21 July 2007</ref>。
求職活動を積極的に行っている人とは、過去4週間以内に雇用主との接触、面接、職業紹介所への連絡、履歴書の送付、応募書類の提出、求人広告への問い合わせ、何らかの方法で積極的に就職活動を行う努力を行っている者のことである。単に求人広告を見るだけで問い合わせを行っていなければ、積極的に仕事を探しているとはみなされない。すべての失業者が政府機関によって把握されているとは限らないため、失業に関する公式統計は正確でない場合がある<ref name="sfgate.com">{{cite news |first=Sam |last=Zuckerman |url=http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/chronicle/archive/2002/11/17/BU239666.DTL |title=Official unemployment numbers omit discouraged seekers, part-time workers |work=San Francisco Chronicle |date=17 November 2002 |access-date=27 July 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20110629055550/http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=%2Fchronicle%2Farchive%2F2002%2F11%2F17%2FBU239666.DTL |archive-date=29 June 2011 |df=dmy-all }}</ref>。
なお、仕事探しをあきらめた人は[[就業意欲喪失者]] (discouraged worker)と呼ぶ。
=== 米国 ===
[[アメリカ合衆国労働省労働統計局]](BLS)では、失業率のほか、失業の異なる側面を測定する6つの代替指標U1~U6を定義している<ref>U.S. Department of Labor, Bureau of Labor Statistics, Table A-15. Alternative measures of labour underutilization Retrieved 5 August 2010.</ref>。
* U1: 15週間以上失業している労働力の割合<ref>{{cite web|url=http://www.bls.gov/webapps/legacy/cpsatab15.htm |title=Labor Force Statistics (CPS), Alternative Measures U-1 through U-6 |publisher=Bureau of Labor Statistics |date=6 January 2012 |access-date=6 January 2012}}</ref>。
* U2: 失業、もしくは[[パートタイム]]契約を満了した労働力人口の割合。
* U3: ILO定義による'''公式の失業率'''、すなわち無職であり、かつ過去4週間以内に積極的に仕事を探している場合<ref name=a>{{cite web|url=http://www.ilo.org/public/english/bureau/stat/download/res/ecacpop.pdf|author=International Labor Organization |title=Resolution concerning statistics of the economically active population, employment, unemployment, and underemployment, adopted by the Thirteenth International Conference of Labor Statisticians; see page 4 |date=October 1982 |access-date=26 November 2007 }}</ref>
* U4: U3に[[就業意欲喪失者]]を加えたもの。すなわち現在の経済状況から自分には仕事がないと考え、仕事を探すのをやめた者。
* U5: U4に、"marginally attached workers"、"loosely attached workers,"、働きたく考えているが仕事を最近は探していない者を加えたもの。
* U6: U5に、フルタイム雇用を希望するが、経済的理由で[[パートタイム]]で働いている[[不完全雇用]]者を加えたもの。
=== 日本 ===
{{Main2|日本における失業者や失業率の定義|労働力調査}}
{{労働力}}
日本において失業率という場合、'''完全失業率'''を指す<ref name="zukaiwakaru198">栗原昇・ダイヤモンド社 『図解 わかる!経済のしくみ[新版]』 ダイヤモンド社、2010年、198頁。</ref>。失業者とは「働く意思と能力があるのに仕事に就けない状態にある人」を指すので、仕事探しをあきらめた人([[就業意欲喪失者]])は失業者には含まれない。
「働く意志がある」とは、[[労働力調査]]においては、ハローワークに通って職探しをするなど仕事を探す努力や事業開始の準備をしていること、とされている。仕事に就けない状態には仕事をしなくても職場から給与などを受け取っている場合を含まず、こうした場合は休業者として扱われる。
=== 景気等との関係 ===
失業率は、国全体の景気動向を知る上で重要な指標となっている<ref name="zukaiwakaru198" />。不況による失業率の上昇は、労働力が有効に活用されていないという経済的な無駄が増えていることを意味する<ref>大竹文雄 『経済学的思考のセンス-お金がない人を助けるには』 中央公論新社〈中公新書〉、2005年、174頁。</ref>。
失業率は様々な経済活動と関連しながら変動する[[労働市場]]においての需給の引き締め度合いを表すシグナルとなる<ref>三菱総合研究所編 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、128 - 129頁。</ref>。
失業率の抑制は経済政策の重要な目標とされる<ref name="saishikeyword128" />。また、失業率を減らすことは、労働の経済学の重要な課題である<ref>佐藤雅彦・竹中平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 日本経済新聞社学〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、342 - 343頁。</ref>。
失業率は、
#様々な経済活動の「結果」
#失業率を契機とした景気変動などに影響を与える「要因」
というの二つの側面がある<ref name="saishikeyword128" />。
失業率は[[景気]]と相関があると言われているが、動きが一致するとは限らない。失業率は、景気循環要因以外にも、経済構造に関連する要因によっても動く<ref name="saishikeyword129">三菱総合研究所編 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、129頁。</ref>。伝統的な[[日本的経営]]のもとでは、企業は従業員の[[雇用]]を守ることを企業の社会的使命の1つと考えており、[[整理解雇]]、特に[[リストラ]]をなるべく忌避し、ぎりぎりまで状況を見極めようとするからである。その反面、採用についても、大企業になるほど、慎重で計画性や人員構成のバランスを重んじ、不要不急の採用は避ける傾向にある(一方で、近年[[非正規雇用]]の採用は柔軟に行っており、雇用関係指標を見る際にはその点も考慮に入れる必要がある)。
また、労働者側も、不況が長期化すると就業意欲喪失者が増加するが(不況で求人が少なくなり「どうせ就職できない」とあきらめる人が増える)、このため失業者数が減り、失業率を押し下げる要因になり、表面上は景気が回復したかに見える。逆に、景気回復局面では(景気が良くなって求人が増えるだろう、と)新規に仕事探しを始める人が現れるので、かえって就労を希望する「失業者」が増えて、失業率を押し上げることになる。
以上のようなことから、失業率は景気に対して'''遅行指標'''となっており<ref name="saishikeyword128">三菱総合研究所編 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、128頁。</ref>、失業率のみならず他の景気指標を併せてみる必要がある。失業率は景気動向と比較して、通常1年から1年半送れて変動する。また、景気の先行指数の代表である[[株価]]と、遅行指数の一つである失業率は、一時的に正反対の動きを見せることがある。
== 影響 ==
高い失業率の問題は、国全体としての所得の低下にとどまらず、
#所得分配の不平等化の要因となる
#貧困をもたらす
#人々の幸福感を大きく阻害する
#犯罪利率・自殺率を高める
といった痛みを人々に対して与える<ref>大竹文雄 『経済学的思考のセンス-お金がない人を助けるには』 中央公論新社〈中公新書〉、2005年、172-173頁。</ref>。
失業率と犯罪発生件数は相関があり、失業率が下がると犯罪発生件数が下がると2006年版犯罪白書で報告されている。
== 各国の失業率 ==
[[File:Map_-_Unemployment_rate_2019.jpg|thumb|right|欧州地域及びトルコの失業率(2019年,Eurostat.)<ref>{{Cite web|author=Eurostat|authorlink=ユーロスタット|url=https://ec.europa.eu/eurostat/statistics-explained/index.php/Unemployment_statistics_at_regional_level|title=Unemployment statistics at regional level|date=2020-04|accessdate=2021-03-09 }}</ref>]]
[[File:Unemployment_rates_EU,UK,USA,JPN.png|thumb|right|2000年1月-2021年1月の日本と米国とイギリス、欧州連合の失業率<ref>{{Cite web|author=Eurostate|url=https://ec.europa.eu/eurostat/databrowser/view/UNE_RT_M__custom_658225/default/table?lang=en|title=Unemployment by sex and age – monthly data|date=2021-03-04|accessdate=2021-03-09}}</ref>]]
[[File:アメリカ合衆国国内の失業率.gif|thumb|right|米国各州の失業率(2020年 年平均) <ref>{{Cite web|author=U.S. Bureau of Labor Statistics|authorlink=アメリカ合衆国労働省労働統計|url=https://www.bls.gov/lau/#tables|title=Local Area Unemployment Statistics >Tables and Maps Created by BLS>COUNTY DATA>Map|format=PDF,GIF|accessdate=2021-03-12}}</ref>]]
各国の失業率及び概況を示す。ただし算定基準は日本と異なる国も多い。
*[[アメリカ合衆国]] - 1970年代、高失業率に苦しんだアメリカだが、その後の[[情報革命|IT革命]]などにより失業率は改善した。FRBの金利判断の指標の一つとなるなど、世界でもっとも注目を集めている失業率。
*[[ドイツ]] - 1980年代までの旧西ドイツは失業率が高くなかったが、1989年の[[ベルリンの壁崩壊]]以降、旧東ドイツの高失業を抱え込んだため、失業率は高止まりをしていたが、EU加盟によるユーロ安の恩恵を受けて輸出経済が発展し、ユーロ導入国の中では一人勝ちと言っていいほどの低失業率となった。[[ドイツ#経済]]も参照。
*[[フランス]] - 高失業率に苦しんでおり、労働政策が政局にも影響を与えている。また、職を奪っているとして[[移民]]への風当たりも強い。[[フランス#高失業率]]、[[2005年パリ郊外暴動事件]]も参照。
*[[シンガポール]] 2.25% (2019年)<ref name="CIA Unemployment rate" />
*[[中華民国]]([[台湾]]) 3.73%(2019年)<ref name="CIA Unemployment rate" />
*[[ユーロ圏]]([[欧州連合|EU]]) 6.7% (2019年,15歳以上75歳未満)<ref>[https://ec.europa.eu/eurostat/statistics-explained/index.php?title=Unemployment_statistics_at_regional_level&oldid=431366#Long_term_unemployment_in_the_EU_regions Unemployment statistics at regional level(地域レベルの失業統計)] Eurostat,2020年4月</ref>
* [[ナウル]] - 経済崩壊と財政破綻により政府職員を除くほぼ全ての国民が失業状態のため、失業率は2004年時点で90%とされる。その後、失業率は2011年時点で23%とされる<ref name="CIA Unemployment rate" />。
* [[日本]] - 3.0%(2020年、[[完全失業率]])。
失業保険の給付期間の長い国ほど失業率が高い傾向があり、給付期間が短期なほど失業率が押し下げられる傾向が顕著となる。<ref>http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2010/12/labour_markets</ref><ref>http://www.reuters.com/article/2013/12/03/us-usa-economy-joblessbenefits-idUSBRE9B20XA20131203</ref><ref>http://ftp.iza.org/dp3570.pdf</ref>
[[File:Unemployment rate in Japan.svg|thumb|none|550px|日本の失業率(男女別、年齢別)。15-24歳の細線が[[若年失業者]]にあたる<ref name=OECDemp>{{Cite |publisher=OECD |title= OECD Labour Force Statistics 2020| |date=2020 |doi=10.1787/23083387}}</ref>。]]
=== 諸外国の高い若年失業率問題 ===
研究チームの分析によると、2007年まで欧州では、相対的貧困レベルで世代間格差がなかった。しかし、2007年以降に欧州の65歳以上の高齢層の所得は10%増加した一方、同期間に15〜24歳の若年層の所得はむしろ激減した。研究チームはその背景に「[[若年失業]]」と指摘している。EU統計局によると、2007年にEU地域の若年失業率は15.6%だったが、2014年に23.8%まで急騰した後、2016年にも20.9%で長期間の高い若年失業率が続いている。若年失業問題が欧州で極限に達した2014年には南欧諸国でスペインの53.2%、ギリシャの52.4%、イタリアの42.7%で約半分の15才から25才が失業者であった。国際通貨基金の研究者は、「失業の呪いが長期間持続されたことで青年たちはより一層仕事を見つける難しくなっている」、「欧州の若年層は、全体の世代の中で資産に対する負債比率が最も高い世代であり、金融危機が再発した際に青年層が最も脆弱で打撃を受けることになる」と述べている。2017年に世界の若年失業率は二年連続で悪化し、13.1%だった。世界で15~24歳の[[若年労働者]]で失業中なのは2017年で7090万人、2018年には7110万人に増加することが予測されている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23727430R21C17A1EAF000/]世界の若者失業率、17年は13.1% 2年連続で悪化、
2017年11月21日</ref>。
高い若年失業率で若者が就職難である韓国と対照的で人手不足の日本に就職する韓国人が毎年増加している。日本の厚生労働省が発表した2017年の「外国人雇用現状」で2008年には約2万人だった日本で就業した韓国人が2017年10月時点で5万5900人になって、初めて5万人越えした。2016年からの増加幅は過去最大で1年間で約8000人増加し、2008年からの9年間で約2.7倍になった。2017年の韓国の若年失業率は2000年以降最も高い9.9%で、日本を就職先として注目する韓国人が増加し、日本語の学習熱が復調している<ref>[http://world.kbs.co.kr/japanese/news/news_Dm_detail.htm?No=66791]日本の韓国人就業者 初めて5万人超え 2018年2月7日</ref>。
{{-}}
== 失業者の支援 ==
{{Main2|各国の失業保険給付期間|失業給付}}
=== 日本 ===
*ハローワークによるもの
**訓練・生活支援給付 - 生活費を支給。ただし訓練を受講することが条件
**長期失業者支援 - 民間事業者に委託して再就職を支援。生活資金を貸付
**就職困難者支援 - 民間事業者が住居を用意して再就職を支援。生活・就職活動費を給付
**就職安定資金融資 - 住宅入居費、家賃補助([[雇用保険]]非受給者のみ)、生活・就職活動費(同じ)を貸付
*福祉事務所などによるもの
**住宅手当緊急特別措置 - 生活保護に準じた住宅手当を支給
*[[社会福祉協議会]]によるもの
**総合支援資金 - 生活支援費、住宅入居費などを貸付
**臨時特例つなぎ資金貸付 - 生活費を貸付。公的な給付制度が決定されるまで
== 失業に関する議論 ==
=== 統計 ===
アメリカの失業統計について、経済学者のスティーヴン・ランズバーグは「失業統計には、失業者の数だけでなく、平均失業期間も含まれる。こうした数値は、特定の日の失業者を調査し、失業期間を訊ねてその回答を平均して算出される。結果、過大となる。長期失業者が調査日に失業している確率は高く、短期失業者が調査日に失業している確率ははるかに小さい。よって、特定の日・週に集められたサンプルに長期失業者が相対的に多く含まれる」と指摘している<ref>スティーヴン・ランズバーグ 『ランチタイムの経済学-日常生活の謎をやさしく解き明かす』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2004年、210頁。</ref>。
=== 日本の統計 ===
厚生労働省の2002年度版『労働経済白書』では、2001年の完全失業率5%のうち、3.9%は構造的ミスマッチ失業であり、1.1%が需要不足による失業と推計されている<ref>小泉祐一郎 『図解経済学者バトルロワイヤル』 ナツメ社、2011年、109頁。</ref>。第一勧銀総合研究所の推計によると、2000年の労働需給のミスマッチによって発生した失業者数は、失業者全体の7割程度を占めているしており、雇用を改善させるためには景気回復によって労働需要を増加させるとともに、労働需給のミスマッチの解消が欠かせないとしている<ref>第一勧銀総合研究所編 『基本用語からはじめる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、58頁。</ref>。
=== 雇用保護規制 ===
{{main|正規社員の解雇規制緩和論}}
「雇用の流動化」とは、離職・転職のしやすさを示し、人的資源の効率的使用を意味する<ref>田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、190頁。</ref>。
みずほ総合研究所は「欧州の例では、[[雇用保険]]を手厚くするとその分失業者の失業期間が長期化している。失業者が雇用機会を取得する努力を怠り、モラルハザードを引き起こす。失業給付が充実していれば失業状態を続けようとする意思が働いてしまう。失業保険を安易に拡大することは避けなければならない。欧州では、失業保険拡充の失敗を教訓に、雇用政策の重点を失業保険から教育訓練・職業紹介へ移行させている」と指摘している<ref>みずほ総合研究所編 『3時間でわかる日本経済-ポイント解説』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、152頁。</ref>。
=== 精神的影響 ===
失業は社会や環境に起因するものであり、失業者本人の責任ではないため、失業者は自己同情を通じて、自分が置かれている状況をどのように受け止めているかを確認することができる。自分がどのように経験しているかを理解することで、再就職活動をより効果的に進めることができる<ref>{{Cite journal|last=Houssemand|first=Claude|last2=Rosato|first2=Valeria|last3=Thill|first3=Steve|last4=Pignault|first4=Anne|date=2021-11-02|title=Normalization as a mediator of emotion during unemployment|url=https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/10615806.2021.1908540|journal=Anxiety, Stress, & Coping|volume=34|issue=6|pages=672–689|language=en|doi=10.1080/10615806.2021.1908540|issn=1061-5806}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* HMG(英国政府)[[柏野健三]]訳『新福祉契約 英国の野心』帝塚山大学出版会、2008年。
== 関連項目 ==
*[[完全雇用]] - [[フィリップス曲線]] - [[オークンの法則]] - [[サーチ理論]] - [[相対的過剰人口]]
*[[求人倍率|有効求人倍率]]
*[[失業保険制度]] - [[雇用保険]]
*[[社内失業]] - [[窓際族]] - [[社内ニート]]
*[[プレカリアート]]
*[[ニート]] - [[引きこもり]] - [[プータロー]]
*[[フリーター]]
*[[就職難]] - [[就職氷河期]]
*[[派遣切り]]
**[[年越し派遣村]] - 解雇された派遣労働者のためにボランティア団体が日比谷公園に設置した相談所、集会所。
== 外部リンク ==
* [https://www.stat.go.jp/data/roudou/index.html 労働力調査] - 総務省統計局
* [https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/9-23-1.html 雇用動向調査|厚生労働省]
* [http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0210.html 図10 入職率、離職率/早わかり グラフでみる長期労働統計|労働政策研究・研修機構(JILPT)]
* [http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0211.html 図11 性別入職率、離職率/早わかり グラフでみる長期労働統計|労働政策研究・研修機構(JILPT)]
* [https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/114-1.html 一般職業紹介状況(職業安定業務統計)|厚生労働省]
* [http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0301.html 図1 完全失業率、有効求人倍率/早わかり グラフでみる長期労働統計|労働政策研究・研修機構(JILPT)]
* [http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0302.html 図2 国勢調査ベース 失業者数/早わかり グラフでみる長期労働統計|労働政策研究・研修機構(JILPT)]
* [https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/ 統計局ホームページ/平成27年国勢調査]
* [http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0303_01.html 図3 年齢階級別完全失業者数、完全失業率/早わかり グラフでみる長期労働統計|労働政策研究・研修機構(JILPT)]
* [http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0303_02.html 図3-2 年齢階級別完全失業率(10歳階級)/早わかり グラフでみる長期労働統計|労働政策研究・研修機構(JILPT)]
* [http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0303_03.html 図3-3 年齢階級別完全失業率(5歳階級)/早わかり グラフでみる長期労働統計|労働政策研究・研修機構(JILPT)]
* [https://www.huffingtonpost.jp/2014/10/06/america-unemployment-map_n_5937630.html アメリカの失業率がこの24年でどう変化したか10秒でわかる地図] - ハフィントポスト
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労働組合
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労働組合(ろうどうくみあい、英語: trade union、labor union、workers union)とは、労働者の連帯組織であり、労働市場における賃労働の売手の自主的組織である。その目的は組合員の雇用条件を維持し改善することであり、誠実な契約交渉の維持・賃上げ・雇用人数の増加・労働環境の向上などの共通目標達成を目的とする。略称は、労組(ろうそ、ろうくみ)、ユニオン。単に組合と呼ぶこともある。社会的には労働者の利益団体としても機能している。
資本主義において賃労働は商品の一つであるため、労働者は「労働力の売り手」としてカルテルを結ぶことで、商品市場(労働市場)をコントロールし、より高い価格(賃金)で、かつ売れ残れないよう(完全雇用)な販売に努力する集団である。
OECD諸国においては、労働組合加入率は平均で17%であった(2017年)。加入率が50%を超えているのは"Ghent system"制度の国(組合傘下の機関が失業給付を管理する; デンマーク、フィンランド、アイスランド、スウェーデン、ベルギー)、およびノルウェーだけである。
労働組合(以下、単に「組合」と略することがある)の歴史は18世紀に遡り、産業革命によって女性・児童・農民労働者・移民労働者が多数労働市場に参加するようになった時代である。こういった非熟練労働者の集団が自主的に組織を編成したことが起源であり、後の労働組合として重要な役割を果たした。
カトリック教会などの承認を受けた労働組合は19世紀の終わりに登場した。ローマ教皇レオ13世は回勅「レールム・ノヴァールム」を公布して、教会としてこの問題にはじめてコミットし、労働者酷使問題について取り組み、労働者が妥当な権利と保護規制を受けられるようにすべきだと社会に要請した。
労働組合の基本的原則として、1948年(昭和23年)の結社の自由及び団結権の保護に関する条約(ILO第87号条約)により、労働組合を組織する権利(団結権)および組合活動をする権利(団体交渉権)は、2人以上の労働者が組合結成に合意することにより労働組合を結成でき、いかなる届出も認証も許可も必要ではない。
基本条約(Fundamental convention)のひとつであり、日本はこの条約を1965年(昭和40年)6月14日に批准している。
労働組合加入率は、 1998年にはOECD平均35.9%であったが、 2018年には 7.9%まで着実に減少している。これら主な理由は、製造業の衰退、グローバル化、政府の政策である。
製造業の衰退が最も直接的な影響となったのは、歴史的に労働組合が製造業従事者の利益にプラスであったためである。それゆえ、OECD諸国の製造業が国外に流出するにつれ、途上国の加入率が上昇する可能性がある。二つ目の理由は、グローバル化により労働組合が国をまたいで団結することが難しいためである。最後の理由は政府の政策であり、これらは政治的右派/左派の両者からのものである。英国と米国では、労働組合の結成を困難にしたり、労働組合の権力を制限したりする提案は主に右派からのものであった。その一方で、左派政府によって最低賃金、有給休暇、育児休暇などの社会政策が達成されると、労働組合に加入する必要性も減少するという。
最古の国際的組合には、1945年に設立された国際労働組合総連合(ITUC)がある。世界最大のものは、2006年に設立された世界労働組合連盟(WFTU)であり、ブリュッセルに本部を持ち、156の国と地域に約309の関連組織があり、加入者数は総計1億6600万人であった。
組合がどの範囲の労働者を組織対象とするかは歴史的な変遷がみられるし、現在でも多様である。組合員資格をどのように定めるかについては、法的な諸々の保護の関係で一定の制約を受けるほか、原則として組合の自治に委ねられている。主たる組合員の構成によって、以下のように分類される。
職能組合(craft union)は労働組合の最も古典的な形態で、同一職種の熟練工によって組織される。
初期の職能組合は、地域的もしくは全国的な熟練労働力の独占によって、労働条件の引き上げを図る点に特徴があった。そこでは、具体的な労働条件について組合員間で協定を結び、それを強い統制によって労働者に遵守させると同時に、その条件に同意しない使用者のもとでの労働を拒否することが、労働条件引き上げの主たる手段であった。きわめて強力な組織形態であるが、産業の発展により大量の未熟練工が輩出するようになると、労働力の独占を維持しにくくなる。
今日の欧米諸国における職種別組合は、職能組合の発展したものであるが、団体交渉・争議行為を労働条件改善の主たる手段としている。
産業別組合(industrial union)は職種別組合が次第に統合され、職種のいかんを問わず、同一産業に属する労働者をすべて組織対象にするようになったものである。今日の欧米諸国における最も代表的な組織形態である。
産業別組合では争議行為を含む団体交渉が目的達成の主たる手段となる。団体交渉は様々な次元で行われるが、最も代表的な形態は産業別組合と産業別使用者団体との地域的もしくは全国的な交渉である。この場合、団体交渉での合意を記録した労働協約は、通常、当該産業における一種の法規範のような役割を果たす。それを最低基準として、各企業単位で上積みを図るのが通常であり、協約賃金と企業別賃金との格差は賃金ドリフトと呼ばれる。
日本における代表的な産業別組合としては全日本海員組合などがあるが、日本では産業別組合は例外的な存在でしかない。
企業別組合(enterprise union、company union)は事業所もしくは企業を単位として、職種に関わらず、そこに属する労働者を一括して組織する形態である。
日本では大部分の組合がこの形態をとっている。欧米諸国では使用者が組合に対抗するために結成した企業別組織(黄色組合)との闘争という歴史から、企業別組合はほとんどみられない。産業別組合と比較すると、当該企業の実態に合った労使交渉が行われる反面、団体交渉の成果が当該企業内のみに留まるため、交渉に企業間競争を促す力が弱い。組合が企業意識に支配されやすく、企業間競争が激化するにしたがって、他の労働組合と連帯して行動するよりは、使用者と協力して企業の繁栄に努めるという行動をとりがちになる。その結果、労働条件の平準化という組合本来の機能の発揮において大きな限界をもつことになる。また、企業別組合においては、失業者を含む産業分野の労働者全体への関心が稀薄になる。
日本の企業別組合においては、組合員の資格を当該企業の従業員(特に、正社員であって一定以上の役職者でないこと)に限るとすること(いわゆる逆締付条項)を規約で定める組合が多い。
ジェイムズ・アベグレンが著書『日本の経営』(1958年)で、企業別労働組合を終身雇用、年功序列とともに、「日本的経営の三種の神器」であると示した。
企業別組合では対応できない課題に対応するため、企業別組合が産業別に集まった連合体。通称、単産(たんさん)。
一般組合(general union)は職種・産業のいかんを問わず、すべての労働者を組織対象とするものである。
19世紀末以来、イギリスにおいて非熟練工を組織するための形態として発展してきた。日本においては、零細企業に分散している労働者や、パートタイム労働者・派遣労働者・管理職など、企業別組合から事実上排除されている労働者を組織化するためにとられる形態である。
合同労働組合は企業別組合に組織しにくい労働者を地域ごとに個人加盟原則によって組織する点に特徴があるが、その組織形態は多様であり、産業別組合、職種別組合、一般組合などの形態をとる。一般組合の中にも、主要な産業別の労働者を主たる組織対象としつつそれ以外の労働者にも広げるものと、文字通り職種・産業を問わず広く労働者を組織する組合が存在する。
一般に中小零細企業では使用者の権力が強く、企業別組合さえ組織しえない場合が多い。1955年(昭和30年)の総評大会では、このような中小零細企業における組織化を方針として掲げ、それ以来合同労働組合の結成が推進されてきた。
労働組合と使用者との労使関係には、様々な形態がある。ここで言う「ショップ」とは、労使間で様々な約束事や取り決め事を交わす「協定」の意である。
日本では、その事業所で組織される労働組合が同事業所の労働者総数の過半数を代表する場合において、その組合の組合員であることを雇用条件とする労働協約を締結することができる(労働組合法第7条第1号但書)。
英国ではEU指令が出される以前に、1980年代のサッチャー政権によってクローズドショップ制とユニオンショップ制が規制された。
使用者が労働者を雇い入れるに際し、特に組合員であることを雇用条件としていないものである。基本的に組合員とそうでない者との労働条件等の処遇の違いは無い。
日本では、国家公務員・地方公務員の「職員団体」(民間企業の労働組合に相当)については、オープンショップでなければならないとされている(国家公務員法第108条の5第2項、地方公務員法第55条第2項)。
使用者が労働者を雇い入れるに際し、組合員から雇用しなければならないとする制度である。労働者が組合員である資格を失った時は使用者はその労働者を解雇しなければならない。この制度は産業別労働組合が存在する国々に見られるが、日本では見られない。
アメリカ合衆国では、タフト・ハートレー法によってクローズドショップ制を禁止している。
使用者が労働者を雇い入れるに際しては、組合員であってもそうでなくても構わないが、労働者は入社後、組合規約で定めた期間内に組合員にならなければならないとする制度である。期間内に組合員にならなかったり、あるいは後に組合員たる資格を失った時は、使用者はその労働者を解雇しなければならない。日本の大手企業に存在する主な組合に見られる。通常は当該組合を労働者の唯一の交渉代表として承認する「唯一交渉団体条項」と一緒に締結されることが多い(これにより、当該組合は使用者によって、全労働者が当然に加入する当該企業で唯一の組合としての地位を認められる)。但し、実際はいわゆる「尻抜けユニオン」という体制が敷かれていることが多く、組合員である資格を失っても雇用については別途労使間で協議し、決定することが多い。従って、組合を脱退したからと言って必ずしも退職しなければならないことはない。
日本においては、過去の判例で、ユニオンショップ協定下において組合から脱退した場合において、労働者の組合選択の自由及び他の組合の団結権を侵害する場合には、使用者の解雇義務は公序良俗に反し無効とされ、他の組合に加入した労働者は解雇されない。また、過去に組合を辞めない旨を特に合意していた場合でも「組合員は脱退の自由を有する」とされている。したがって組合の内部抗争において執行部派が解雇をちらつかせて反執行部派を抑え込むことは、事実上できなくなっている。
アメリカ合衆国では、州によっては労働権利法(Right-to-work law)を適用し、ユニオンショップ制を禁止している。
労働組合への加入は労働者の意志によるが、組合員でない者でも、団体交渉にかかる経費と苦情処理にかかる経費を会費として支払わなければならない。ただし、組合員でない者はそれ以外の経費(ロビー活動にかかる経費や、組合員のみに与えられる特権の経費など)を支払う必要はない。
日本における組合加入率は16.8%(2019年)であった。団体交渉は、主に地方または会社レベルで行われている。
米国では、組織率は1983年に20.1%の割合を占めて以降、徐々に低下しており、2012年の時点で11.3%となっている。組織率低下の要因として、国際競争が激しくなった結果、特に鉄鋼や自動車産業の工業部門において、かつては組合員によって行われていた仕事が人件費の安い海外で行われるようになったこと、生産の自動化によって、製造ラインで一部の労働者が必要無くなったこと、更に組合の力が強い州に所在する多くの企業が、労働権法が制定されていて組合がほとんど存在しない州に工場を移転したことなどが指摘されている。
公共部門と民間企業を比較した場合、公共部門の労働組合の組合員数は民間企業の5倍以上に達する。なお、日本とは異なり、警察や消防にも労働組合は存在する。
労働組合は、内部労働者の利益(職の維持)のために、そのコストを外部労働者・財やサービスの消費者・企業の株主に押しつけていると非難されている。公教育の分野においては、教師組合は、若い教師を辞めさせるよう仕向けることで、学校関係者に支持される老年教師ばかりになり、そのために優秀な教師が減ってきているといると非難されている。
アメリカのマクロ経済学者ミルトン・フリードマンは「労働組合は不要である」として「労働組合が組合員に対して獲得する賃上げは、主として組合の外にいる他の労働者の犠牲においてである」という言葉を残している。ある職種・産業において労働組合が賃上げに成功すると、その分野での雇用は減ることになり、結果としてその分の雇用が市場に放出されることで、他の産業・労働者の賃金が押し下げられる。結果として高賃金労働者の賃金は上昇し低賃金労働者の賃金は下落することで、賃金格差を拡大させるという。
中国においては、「工会」(zh:工会)と呼ばれており、「共産党の指導を受ける」ことが基本とされている。中国国内の企業(外商投資企業を含む)、事業単位、機関及びその他の社会組織の主に賃金収入により生活する労働者は、民族、人種、性別、職業、信条、教育程度を問わず、中国工会全国代表大会が定めた「中国工会規約」を承認すれば、全て「工会」に加入し、組合員となることができる。したがって従業員だけでなく、経営者も労働組合に加入することが可能となっている。
労働組合を表す(労)が「全角括弧付き労」としてUnicodeに含まれている。
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"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "労働組合(以下、単に「組合」と略することがある)の歴史は18世紀に遡り、産業革命によって女性・児童・農民労働者・移民労働者が多数労働市場に参加するようになった時代である。こういった非熟練労働者の集団が自主的に組織を編成したことが起源であり、後の労働組合として重要な役割を果たした。",
"title": "歴史"
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"text": "カトリック教会などの承認を受けた労働組合は19世紀の終わりに登場した。ローマ教皇レオ13世は回勅「レールム・ノヴァールム」を公布して、教会としてこの問題にはじめてコミットし、労働者酷使問題について取り組み、労働者が妥当な権利と保護規制を受けられるようにすべきだと社会に要請した。",
"title": "歴史"
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"text": "労働組合の基本的原則として、1948年(昭和23年)の結社の自由及び団結権の保護に関する条約(ILO第87号条約)により、労働組合を組織する権利(団結権)および組合活動をする権利(団体交渉権)は、2人以上の労働者が組合結成に合意することにより労働組合を結成でき、いかなる届出も認証も許可も必要ではない。",
"title": "国際労働条約"
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"text": "基本条約(Fundamental convention)のひとつであり、日本はこの条約を1965年(昭和40年)6月14日に批准している。",
"title": "国際労働条約"
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"text": "労働組合加入率は、 1998年にはOECD平均35.9%であったが、 2018年には 7.9%まで着実に減少している。これら主な理由は、製造業の衰退、グローバル化、政府の政策である。",
"title": "加入率"
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"text": "製造業の衰退が最も直接的な影響となったのは、歴史的に労働組合が製造業従事者の利益にプラスであったためである。それゆえ、OECD諸国の製造業が国外に流出するにつれ、途上国の加入率が上昇する可能性がある。二つ目の理由は、グローバル化により労働組合が国をまたいで団結することが難しいためである。最後の理由は政府の政策であり、これらは政治的右派/左派の両者からのものである。英国と米国では、労働組合の結成を困難にしたり、労働組合の権力を制限したりする提案は主に右派からのものであった。その一方で、左派政府によって最低賃金、有給休暇、育児休暇などの社会政策が達成されると、労働組合に加入する必要性も減少するという。",
"title": "加入率"
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"text": "最古の国際的組合には、1945年に設立された国際労働組合総連合(ITUC)がある。世界最大のものは、2006年に設立された世界労働組合連盟(WFTU)であり、ブリュッセルに本部を持ち、156の国と地域に約309の関連組織があり、加入者数は総計1億6600万人であった。",
"title": "国際労働組合連合組織"
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"text": "組合がどの範囲の労働者を組織対象とするかは歴史的な変遷がみられるし、現在でも多様である。組合員資格をどのように定めるかについては、法的な諸々の保護の関係で一定の制約を受けるほか、原則として組合の自治に委ねられている。主たる組合員の構成によって、以下のように分類される。",
"title": "構成形態"
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"text": "職能組合(craft union)は労働組合の最も古典的な形態で、同一職種の熟練工によって組織される。",
"title": "構成形態"
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"text": "初期の職能組合は、地域的もしくは全国的な熟練労働力の独占によって、労働条件の引き上げを図る点に特徴があった。そこでは、具体的な労働条件について組合員間で協定を結び、それを強い統制によって労働者に遵守させると同時に、その条件に同意しない使用者のもとでの労働を拒否することが、労働条件引き上げの主たる手段であった。きわめて強力な組織形態であるが、産業の発展により大量の未熟練工が輩出するようになると、労働力の独占を維持しにくくなる。",
"title": "構成形態"
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"text": "今日の欧米諸国における職種別組合は、職能組合の発展したものであるが、団体交渉・争議行為を労働条件改善の主たる手段としている。",
"title": "構成形態"
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"text": "産業別組合(industrial union)は職種別組合が次第に統合され、職種のいかんを問わず、同一産業に属する労働者をすべて組織対象にするようになったものである。今日の欧米諸国における最も代表的な組織形態である。",
"title": "構成形態"
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"text": "産業別組合では争議行為を含む団体交渉が目的達成の主たる手段となる。団体交渉は様々な次元で行われるが、最も代表的な形態は産業別組合と産業別使用者団体との地域的もしくは全国的な交渉である。この場合、団体交渉での合意を記録した労働協約は、通常、当該産業における一種の法規範のような役割を果たす。それを最低基準として、各企業単位で上積みを図るのが通常であり、協約賃金と企業別賃金との格差は賃金ドリフトと呼ばれる。",
"title": "構成形態"
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"text": "日本における代表的な産業別組合としては全日本海員組合などがあるが、日本では産業別組合は例外的な存在でしかない。",
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"text": "企業別組合(enterprise union、company union)は事業所もしくは企業を単位として、職種に関わらず、そこに属する労働者を一括して組織する形態である。",
"title": "構成形態"
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"text": "日本では大部分の組合がこの形態をとっている。欧米諸国では使用者が組合に対抗するために結成した企業別組織(黄色組合)との闘争という歴史から、企業別組合はほとんどみられない。産業別組合と比較すると、当該企業の実態に合った労使交渉が行われる反面、団体交渉の成果が当該企業内のみに留まるため、交渉に企業間競争を促す力が弱い。組合が企業意識に支配されやすく、企業間競争が激化するにしたがって、他の労働組合と連帯して行動するよりは、使用者と協力して企業の繁栄に努めるという行動をとりがちになる。その結果、労働条件の平準化という組合本来の機能の発揮において大きな限界をもつことになる。また、企業別組合においては、失業者を含む産業分野の労働者全体への関心が稀薄になる。",
"title": "構成形態"
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"text": "日本の企業別組合においては、組合員の資格を当該企業の従業員(特に、正社員であって一定以上の役職者でないこと)に限るとすること(いわゆる逆締付条項)を規約で定める組合が多い。",
"title": "構成形態"
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"text": "ジェイムズ・アベグレンが著書『日本の経営』(1958年)で、企業別労働組合を終身雇用、年功序列とともに、「日本的経営の三種の神器」であると示した。",
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},
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"text": "企業別組合では対応できない課題に対応するため、企業別組合が産業別に集まった連合体。通称、単産(たんさん)。",
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},
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"text": "一般組合(general union)は職種・産業のいかんを問わず、すべての労働者を組織対象とするものである。",
"title": "構成形態"
},
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"text": "19世紀末以来、イギリスにおいて非熟練工を組織するための形態として発展してきた。日本においては、零細企業に分散している労働者や、パートタイム労働者・派遣労働者・管理職など、企業別組合から事実上排除されている労働者を組織化するためにとられる形態である。",
"title": "構成形態"
},
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"text": "合同労働組合は企業別組合に組織しにくい労働者を地域ごとに個人加盟原則によって組織する点に特徴があるが、その組織形態は多様であり、産業別組合、職種別組合、一般組合などの形態をとる。一般組合の中にも、主要な産業別の労働者を主たる組織対象としつつそれ以外の労働者にも広げるものと、文字通り職種・産業を問わず広く労働者を組織する組合が存在する。",
"title": "構成形態"
},
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"text": "一般に中小零細企業では使用者の権力が強く、企業別組合さえ組織しえない場合が多い。1955年(昭和30年)の総評大会では、このような中小零細企業における組織化を方針として掲げ、それ以来合同労働組合の結成が推進されてきた。",
"title": "構成形態"
},
{
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"text": "労働組合と使用者との労使関係には、様々な形態がある。ここで言う「ショップ」とは、労使間で様々な約束事や取り決め事を交わす「協定」の意である。",
"title": "ショップ制"
},
{
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"text": "日本では、その事業所で組織される労働組合が同事業所の労働者総数の過半数を代表する場合において、その組合の組合員であることを雇用条件とする労働協約を締結することができる(労働組合法第7条第1号但書)。",
"title": "ショップ制"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "英国ではEU指令が出される以前に、1980年代のサッチャー政権によってクローズドショップ制とユニオンショップ制が規制された。",
"title": "ショップ制"
},
{
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"text": "使用者が労働者を雇い入れるに際し、特に組合員であることを雇用条件としていないものである。基本的に組合員とそうでない者との労働条件等の処遇の違いは無い。",
"title": "ショップ制"
},
{
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"text": "日本では、国家公務員・地方公務員の「職員団体」(民間企業の労働組合に相当)については、オープンショップでなければならないとされている(国家公務員法第108条の5第2項、地方公務員法第55条第2項)。",
"title": "ショップ制"
},
{
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"text": "使用者が労働者を雇い入れるに際し、組合員から雇用しなければならないとする制度である。労働者が組合員である資格を失った時は使用者はその労働者を解雇しなければならない。この制度は産業別労働組合が存在する国々に見られるが、日本では見られない。",
"title": "ショップ制"
},
{
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"text": "アメリカ合衆国では、タフト・ハートレー法によってクローズドショップ制を禁止している。",
"title": "ショップ制"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "使用者が労働者を雇い入れるに際しては、組合員であってもそうでなくても構わないが、労働者は入社後、組合規約で定めた期間内に組合員にならなければならないとする制度である。期間内に組合員にならなかったり、あるいは後に組合員たる資格を失った時は、使用者はその労働者を解雇しなければならない。日本の大手企業に存在する主な組合に見られる。通常は当該組合を労働者の唯一の交渉代表として承認する「唯一交渉団体条項」と一緒に締結されることが多い(これにより、当該組合は使用者によって、全労働者が当然に加入する当該企業で唯一の組合としての地位を認められる)。但し、実際はいわゆる「尻抜けユニオン」という体制が敷かれていることが多く、組合員である資格を失っても雇用については別途労使間で協議し、決定することが多い。従って、組合を脱退したからと言って必ずしも退職しなければならないことはない。",
"title": "ショップ制"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "日本においては、過去の判例で、ユニオンショップ協定下において組合から脱退した場合において、労働者の組合選択の自由及び他の組合の団結権を侵害する場合には、使用者の解雇義務は公序良俗に反し無効とされ、他の組合に加入した労働者は解雇されない。また、過去に組合を辞めない旨を特に合意していた場合でも「組合員は脱退の自由を有する」とされている。したがって組合の内部抗争において執行部派が解雇をちらつかせて反執行部派を抑え込むことは、事実上できなくなっている。",
"title": "ショップ制"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "アメリカ合衆国では、州によっては労働権利法(Right-to-work law)を適用し、ユニオンショップ制を禁止している。",
"title": "ショップ制"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "労働組合への加入は労働者の意志によるが、組合員でない者でも、団体交渉にかかる経費と苦情処理にかかる経費を会費として支払わなければならない。ただし、組合員でない者はそれ以外の経費(ロビー活動にかかる経費や、組合員のみに与えられる特権の経費など)を支払う必要はない。",
"title": "ショップ制"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本における組合加入率は16.8%(2019年)であった。団体交渉は、主に地方または会社レベルで行われている。",
"title": "各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "米国では、組織率は1983年に20.1%の割合を占めて以降、徐々に低下しており、2012年の時点で11.3%となっている。組織率低下の要因として、国際競争が激しくなった結果、特に鉄鋼や自動車産業の工業部門において、かつては組合員によって行われていた仕事が人件費の安い海外で行われるようになったこと、生産の自動化によって、製造ラインで一部の労働者が必要無くなったこと、更に組合の力が強い州に所在する多くの企業が、労働権法が制定されていて組合がほとんど存在しない州に工場を移転したことなどが指摘されている。",
"title": "各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "公共部門と民間企業を比較した場合、公共部門の労働組合の組合員数は民間企業の5倍以上に達する。なお、日本とは異なり、警察や消防にも労働組合は存在する。",
"title": "各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "労働組合は、内部労働者の利益(職の維持)のために、そのコストを外部労働者・財やサービスの消費者・企業の株主に押しつけていると非難されている。公教育の分野においては、教師組合は、若い教師を辞めさせるよう仕向けることで、学校関係者に支持される老年教師ばかりになり、そのために優秀な教師が減ってきているといると非難されている。",
"title": "各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "アメリカのマクロ経済学者ミルトン・フリードマンは「労働組合は不要である」として「労働組合が組合員に対して獲得する賃上げは、主として組合の外にいる他の労働者の犠牲においてである」という言葉を残している。ある職種・産業において労働組合が賃上げに成功すると、その分野での雇用は減ることになり、結果としてその分の雇用が市場に放出されることで、他の産業・労働者の賃金が押し下げられる。結果として高賃金労働者の賃金は上昇し低賃金労働者の賃金は下落することで、賃金格差を拡大させるという。",
"title": "各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "中国においては、「工会」(zh:工会)と呼ばれており、「共産党の指導を受ける」ことが基本とされている。中国国内の企業(外商投資企業を含む)、事業単位、機関及びその他の社会組織の主に賃金収入により生活する労働者は、民族、人種、性別、職業、信条、教育程度を問わず、中国工会全国代表大会が定めた「中国工会規約」を承認すれば、全て「工会」に加入し、組合員となることができる。したがって従業員だけでなく、経営者も労働組合に加入することが可能となっている。",
"title": "各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "労働組合を表す(労)が「全角括弧付き労」としてUnicodeに含まれている。",
"title": "記号"
}
] |
労働組合とは、労働者の連帯組織であり、労働市場における賃労働の売手の自主的組織である。その目的は組合員の雇用条件を維持し改善することであり、誠実な契約交渉の維持・賃上げ・雇用人数の増加・労働環境の向上などの共通目標達成を目的とする。略称は、労組(ろうそ、ろうくみ)、ユニオン。単に組合と呼ぶこともある。社会的には労働者の利益団体としても機能している。 資本主義において賃労働は商品の一つであるため、労働者は「労働力の売り手」としてカルテルを結ぶことで、商品市場(労働市場)をコントロールし、より高い価格(賃金)で、かつ売れ残れないよう(完全雇用)な販売に努力する集団である。 OECD諸国においては、労働組合加入率は平均で17%であった(2017年)。加入率が50%を超えているのは"Ghent system"制度の国、およびノルウェーだけである。
|
{{Redirect|ユニオン}}
{{Labor}}
'''労働組合'''(ろうどうくみあい、{{lang-en|trade union、labor union、workers union}})とは、[[労働者]]の連帯組織であり、労働市場における[[賃労働]]の売手の自主的組織である<ref name=fujiwara>{{Cite journal|和書|労働組合論・労働組合政策についての一考察 |author=藤原壮介 |journal=富大経済論集 |volume=10 |issue=4 |pages=382-414 |date=1965-01 |naid=110000328626}}</ref>。その目的は組合員の雇用条件を維持し改善することであり<ref name="webb">{{cite book |last=Webb |first=Sidney |last2=Webb|first2= Beatrice |title=History of Trade Unionism |publisher=Longmans and Co. London |year=1920 }} ch. I</ref>、誠実な契約交渉の維持・賃上げ・[[雇用]]人数の増加・労働環境の向上などの共通目標達成を目的とする。略称は、'''労組'''(ろうそ、ろうくみ)、'''ユニオン'''。単に'''組合'''と呼ぶこともある。社会的には労働者の[[利益団体]]としても機能している。
資本主義において賃労働は商品の一つであるため、労働者は「労働力の売り手」として[[カルテル]]を結ぶことで、商品市場(労働市場)をコントロールし、より高い価格([[賃金]])で、かつ売れ残れないよう([[完全雇用]])な販売に努力する集団である<ref name=fujiwara/>。
OECD諸国においては、労働組合加入率は平均で17%であった(2017年)<ref name=OECDoe2017 />。加入率が50%を超えているのは"Ghent system"制度の国(組合傘下の機関が[[失業給付]]を管理する; デンマーク、フィンランド、アイスランド、スウェーデン、ベルギー)、およびノルウェーだけである<ref name=OECDemp>{{Cite |publisher=OECD |title=OECD Employment Outlook 2018 |doi=10.1787/empl_outlook-2018-en |at=Chapt.3 }}</ref>。
== 歴史 ==
労働組合(''以下、単に「組合」と略することがある'')の歴史は18世紀に遡り、[[産業革命]]によって女性・児童・農民労働者・[[移民]]労働者が多数労働市場に参加するようになった時代である。こういった非熟練労働者の集団が自主的に組織を編成したことが起源であり<ref name="webb" />、後の労働組合として重要な役割を果たした。
[[カトリック教会]]などの承認を受けた労働組合は19世紀の終わりに登場した。[[レオ13世 (ローマ教皇)|ローマ教皇レオ13世]]は[[回勅]]「[[レールム・ノヴァールム]]」を公布して、教会としてこの問題にはじめてコミットし、労働者酷使問題について取り組み、労働者が妥当な権利と保護規制を受けられるようにすべきだと社会に要請した<ref>{{cite web|url=http://www.vatican.va/holy_father/leo_xiii/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_15051891_rerum-novarum_en.html |title=Rerum Novarum: Encyclical of Pope Leo XIII on Capital and Labor |publisher=Libreria Editrice Vaticana |date= |accessdate=July 27, 2011}}</ref>。
== 国際労働条約 ==
労働組合の基本的原則として、[[1948年]](昭和23年)の[[結社の自由及び団結権の保護に関する条約]](ILO第87号条約)により、労働組合を組織する権利([[団結権]])および組合活動をする権利(団体交渉権)は、2人以上の労働者が組合結成に合意することにより<ref group="注">[[組合]]契約は、「複数の当事者」が出資をして共同の事業を営むことを約することを指すため(日本法においては、[[w:民法第667条|民法第667条]]ほか)、いわゆる「一人労働組合」は法の要件を満たさない(「一人労働組合」を否定した判例として、友浦鉄工所事件(岡山地判昭和39年7月7日))。</ref>労働組合を結成でき、いかなる届出も[[認証]]も[[許可]]も必要ではない。
基本条約(Fundamental convention)のひとつであり、日本はこの条約を[[1965年]](昭和40年)6月14日に[[批准]]している。
== 加入率 ==
[[File:Trade union density rate map.svg|thumb|450px|ILOデータによる、労働組合加入率
<small>{{Columns-list|2|
{{Legend|#051d3b|90.0–99.0%}}
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{{Legend|#0c4389|70.0–79.0%}}
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{{Legend|#c4dcfa|0.0–9.0%}}
{{Legend|#c0c0c0|No data}}
}}</small>
]]
労働組合加入率は、 1998年にはOECD平均35.9%であったが、 2018年には 7.9%まで着実に減少している<ref name="OECDtud">{{cite web |title=Trade Union |url=https://stats.oecd.org/Index.aspx?DataSetCode=TUD# |access-date=2021-05-11 |publisher=OECD |series=OECD.stat}}</ref>。これら主な理由は、製造業の衰退、グローバル化、政府の政策である。
製造業の衰退が最も直接的な影響となったのは、歴史的に労働組合が製造業従事者の利益にプラスであったためである。それゆえ、OECD諸国の製造業が国外に流出するにつれ、途上国の加入率が上昇する可能性がある。二つ目の理由は、グローバル化により労働組合が国をまたいで団結することが難しいためである。最後の理由は政府の政策であり、これらは政治的右派/左派の両者からのものである。英国と米国では、労働組合の結成を困難にしたり、労働組合の権力を制限したりする提案は主に右派からのものであった。その一方で、左派政府によって最低賃金、有給休暇、育児休暇などの社会政策が達成されると、労働組合に加入する必要性も減少するという<ref>{{Cite news|date=2015-09-29|title=Why trade unions are declining|newspaper=The Economist|url=https://www.economist.com/the-economist-explains/2015/09/29/why-trade-unions-are-declining|access-date=2021-05-11|issn=0013-0613}}</ref>。
{{-}}
{| class="wikitable floatright" style="margin-left:1em; font-size:85%"
|+ グループ別 組合加入率<br>(OECD加重平均,2013年)<ref name=OECDoe2017>{{Cite |publisher=OECD |title=OECD Employment Outlook 2017 |date=2017 |doi=10.1787/empl_outlook-2017-en }}</ref>
! rowspan=2| 雇用契約
| 有期雇用 || 9%
|-
| 無期雇用 || 20%
|-
! rowspan=3| 教育レベル
| High-skilled || 20%
|-
| Medium-skilled || 17%
|-
| Low-skilled || 12%
|-
! rowspan=3| 年齢
| 高齢 (55-64歳) || 22%
|-
| 中年(25-54歳) || 18%
|-
| 若年 (15-24歳) || 7%
|-
! rowspan=2| 性別
| 女 || 16%
|-
| 男 || 18%
|-
! rowspan=3| 事業所規模
| 大規模 || 30%
|-
| 中規模 || 19%
|-
| 小規模 || 7%
|-
! rowspan=2|セクター
| 公企業 || 38%
|-
| 民間企業 || 12%
|-
! rowspan=4| 産業
| 社会的・個人サービス || 22%
|-
| 政府機関 || 34%
|-
| ビジネスサービス || 11%
|-
| 製造業 || 18%
|- style="background:#ccc; font-weight:bold"
| colspan=2| 総合平均 || 17%
|}
[[File:Trade union membership rate in OECD.svg|thumb|none|500px|OECD各国の労働組合加入率(従業員に占める割合%)<ref name=OECDtud />]]
{{-}}
== 国際労働組合連合組織 ==
最古の国際的組合には、1945年に設立された[[国際労働組合総連合]](ITUC)がある<ref>{{cite web |title=WFTU » History |url=http://www.wftucentral.org/history/ |access-date=202201-25 |language=en-US}}</ref>。世界最大のものは、2006年に設立された[[世界労働組合連盟]](WFTU)であり、ブリュッセルに本部を持ち、156の国と地域に約309の関連組織があり、加入者数は総計1億6600万人であった。
== 構成形態 ==
組合がどの範囲の労働者を組織対象とするかは歴史的な変遷がみられるし、現在でも多様である。組合員資格をどのように定めるかについては、法的な諸々の保護の関係で一定の制約を受けるほか、原則として組合の自治に委ねられている<ref>横浜地裁平成元年9月26日判決</ref>。主たる組合員の構成によって、以下のように分類される。
=== 職能組合 ===
'''職能組合'''(craft union)は労働組合の最も古典的な形態で、'''同一職種の熟練工'''によって組織される。
初期の職能組合は、地域的もしくは全国的な熟練労働力の独占によって、労働条件の引き上げを図る点に特徴があった。そこでは、具体的な労働条件について組合員間で協定を結び、それを強い統制によって労働者に遵守させると同時に、その条件に同意しない使用者のもとでの労働を拒否することが、労働条件引き上げの主たる手段であった。きわめて強力な組織形態であるが、産業の発展により大量の未熟練工が輩出するようになると、労働力の独占を維持しにくくなる<ref name="nisi">西谷、p.4~5</ref>。
今日の欧米諸国における'''職種別組合'''は、職能組合の発展したものであるが、[[団体交渉]]・[[争議行為]]を労働条件改善の主たる手段としている。
=== 産業別組合 ===
'''産業別組合'''(industrial union)は職種別組合が次第に統合され、'''職種のいかんを問わず、同一産業に属する労働者'''をすべて組織対象にするようになったものである。今日の欧米諸国における最も代表的な組織形態である。
産業別組合では争議行為を含む団体交渉が目的達成の主たる手段となる。団体交渉は様々な次元で行われるが、最も代表的な形態は産業別組合と産業別使用者団体との地域的もしくは全国的な交渉である。この場合、団体交渉での合意を記録した労働協約は、通常、当該産業における一種の法規範のような役割を果たす。それを最低基準として、各企業単位で上積みを図るのが通常であり、協約賃金と企業別賃金との格差は賃金ドリフトと呼ばれる<ref name="nisi"/>。
日本における代表的な産業別組合としては[[全日本海員組合]]などがあるが、日本では産業別組合は例外的な存在でしかない。
=== 企業別組合 ===
'''企業別組合'''(enterprise union、company union)は'''事業所もしくは企業を単位として、職種に関わらず、そこに属する労働者'''を一括して組織する形態である。
日本では大部分の組合がこの形態をとっている。欧米諸国では使用者が組合に対抗するために結成した企業別組織([[黄色組合]])との闘争という歴史から、企業別組合はほとんどみられない<ref name="nisi"/>。産業別組合と比較すると、当該企業の実態に合った労使交渉が行われる反面、団体交渉の成果が当該企業内のみに留まるため、交渉に企業間競争を促す力が弱い。組合が企業意識に支配されやすく、企業間競争が激化するにしたがって、他の労働組合と連帯して行動するよりは、使用者と協力して企業の繁栄に努めるという行動をとりがちになる。その結果、労働条件の平準化という組合本来の機能の発揮において大きな限界をもつことになる。また、企業別組合においては、失業者を含む産業分野の労働者全体への関心が稀薄になる<ref name="名前なし-2">西谷、p.8</ref>。
日本の企業別組合においては、組合員の資格を当該企業の従業員(特に、[[正社員]]であって一定以上の役職者でないこと)に限るとすること(いわゆる'''逆締付条項''')を規約で定める組合が多い<ref group="注">もっとも、労働組合は、組合員の範囲について逆締付条項によって拘束されるものではなく、組合が従業員以外の者を加入せしめても、[[債務不履行]]の責は負わない(昭和32年10月8日兵庫県商工労働部長あて労働省労政局労働法規課長通知)。</ref>。
[[ジェイムズ・アベグレン]]が著書『日本の経営』(1958年)で、企業別労働組合を[[終身雇用]]、[[年功序列]]とともに、「[[日本的経営]]の三種の神器」であると示した。
==== 単位産業別労働組合 ====
企業別組合では対応できない課題に対応するため、企業別組合が産業別に集まった連合体。通称、'''単産'''(たんさん)。
=== 一般組合 ===
'''一般組合'''(general union)は'''職種・産業のいかんを問わず、すべての労働者'''を組織対象とするものである。
19世紀末以来、イギリスにおいて非熟練工を組織するための形態として発展してきた。日本においては、零細企業に分散している労働者や、[[パートタイム労働者]]・[[派遣労働者]]・[[管理職]]など、企業別組合から事実上排除されている労働者を組織化するためにとられる形態である<ref name="nisi"/>。
==== 合同労働組合 ====
{{See also|合同労働組合}}
合同労働組合は企業別組合に組織しにくい労働者を地域ごとに個人加盟原則によって組織する点に特徴があるが、その組織形態は多様であり、産業別組合、職種別組合、一般組合などの形態をとる。一般組合の中にも、主要な産業別の労働者を主たる組織対象としつつそれ以外の労働者にも広げるものと、文字通り職種・産業を問わず広く労働者を組織する組合が存在する<ref name="nisi2">西谷、p.9</ref>。
一般に中小零細企業では使用者の権力が強く、企業別組合さえ組織しえない場合が多い。1955年(昭和30年)の[[日本労働組合総評議会|総評]]大会では、このような中小零細企業における組織化を方針として掲げ、それ以来合同労働組合の結成が推進されてきた<ref name="nisi2"/>。
== ショップ制 ==
労働組合と使用者との労使関係には、様々な形態がある。ここで言う「ショップ」とは、労使間で様々な約束事や取り決め事を交わす「協定」の意である。
[[日本]]では、その事業所で組織される労働組合が同事業所の労働者総数の過半数を代表する場合において、その組合の組合員であることを雇用条件とする[[労働協約]]を締結することができる([[労働組合法]]第7条第1号但書)。
[[イギリス|英国]]では[[欧州連合|EU]]指令が出される以前に、1980年代の[[マーガレット・サッチャー|サッチャー政権]]によってクローズドショップ制とユニオンショップ制が規制された。
=== オープンショップ制 ===
使用者が労働者を雇い入れるに際し、特に組合員であることを雇用条件としていないものである。基本的に組合員とそうでない者との[[労働条件]]等の処遇の違いは無い。
日本では、[[国家公務員]]・[[地方公務員]]の「[[職員団体]]」(民間企業の労働組合に相当)については、オープンショップでなければならないとされている([[国家公務員法]]第108条の5第2項、[[地方公務員法]]第55条第2項)。
=== クローズドショップ制 ===
使用者が労働者を雇い入れるに際し、組合員から雇用しなければならないとする制度である。労働者が組合員である資格を失った時は使用者はその労働者を[[解雇]]しなければならない。この制度は[[産業別労働組合]]が存在する国々に見られるが、日本では見られない<ref group="注">旧[[労働省]]はクローズドショップ制を「「既に一定の労働組合に加入している労働者でなければ採用せず、且つ当該組合を脱退した時は解雇する」という協定である。」と定義している(昭和22年10月13日鳥取県教育民生部長あて労働省労政局労政課長通知)。もっとも当時においても「今日かかる協定が純粋に締結されている実例は日本では皆無であり外国においても、土建業における[[大工]]、[[左官]]等の職業別組合の一部に存するのみである。」としていて、当初から極めて例外的な形態であると認識されていた。</ref>。
[[アメリカ合衆国]]では、[[全国労働関係法|タフト・ハートレー法]]によってクローズドショップ制を禁止している。
=== ユニオンショップ制 ===
{{See also|ユニオン・ショップ}}
使用者が労働者を雇い入れるに際しては、組合員であってもそうでなくても構わないが、労働者は入社後、組合[[規則|規約]]で定めた期間内に組合員にならなければならないとする制度である。期間内に組合員にならなかったり、あるいは後に組合員たる資格を失った時は、使用者はその労働者を解雇しなければならない。日本の[[大企業|大手企業]]に存在する主な組合に見られる。通常は当該組合を労働者の唯一の交渉代表として承認する「唯一交渉団体条項」と一緒に締結されることが多い(これにより、当該組合は使用者によって、全労働者が当然に加入する当該企業で唯一の組合としての地位を認められる)<ref group="注">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/18-27gaiyou02-5.pdf 平成27年 労使間の交渉等に関する実態調査 結果の概況][[厚生労働省]]の調査によれば、[[労働協約]]を締結している企業のうち約31.5%が唯一交渉団体条項を結んでいる。ただし、唯一交渉団体条項には法的効力はないので、別組合ができた場合、条項を盾にその別組合との団体交渉を拒否することはできない。</ref>。但し、実際はいわゆる「尻抜けユニオン」という体制が敷かれていることが多く、組合員である資格を失っても雇用については別途労使間で協議し、決定することが多い。従って、組合を脱退したからと言って必ずしも[[退職]]しなければならないことはない。
日本においては、過去の判例で、ユニオンショップ協定下において組合から脱退した場合において、労働者の組合選択の自由及び他の組合の[[団結権]]を侵害する場合には、使用者の解雇義務は[[公序良俗]]に反し無効とされ、他の組合に加入した労働者は解雇されない<ref>「三井倉庫港運事件」最高裁判所第1小法廷1989年12月14日判決 労働判例552号6頁</ref>。また、過去に組合を辞めない旨を特に合意していた場合でも「組合員は脱退の自由を有する」とされている<ref name="名前なし-1">「東芝労働組合小向支部事件」 最高裁判所第2小法廷2007年2月2日判決 労働判例933号5頁</ref>。したがって組合の内部抗争において執行部派が解雇をちらつかせて反執行部派を抑え込むことは、事実上できなくなっている。
アメリカ合衆国では、州によっては労働権利法(Right-to-work law)を適用し、ユニオンショップ制を禁止している。
=== エイジェンシーショップ制 ===
労働組合への加入は労働者の意志によるが、組合員でない者でも、団体交渉にかかる経費と苦情処理にかかる経費を会費として支払わなければならない。ただし、組合員でない者はそれ以外の経費([[ロビー活動]]にかかる経費や、組合員のみに与えられる特権の経費など)を支払う必要はない。
== 各国の状況 ==
=== 日本 ===
{{Main|日本の労働組合}}
日本における組合加入率は16.8%(2019年)であった<ref name=ICTWSS>{{Cite report|publisher=OECD |title=OECD/AIAS ICTWSS database |at=Country-Japan |date=2021-02 |url=https://www.oecd.org/employment/ictwss-database.htm}}</ref>。団体交渉は、主に地方または会社レベルで行われている<ref name=ICTWSS />。
=== アメリカ合衆国 ===
{{節スタブ}}
米国では、組織率は1983年に20.1%の割合を占めて以降、徐々に低下しており、2012年の時点で11.3%となっている。組織率低下の要因として、国際競争が激しくなった結果、特に鉄鋼や自動車産業の工業部門において、かつては組合員によって行われていた仕事が人件費の安い海外で行われるようになったこと、生産の自動化によって、製造ラインで一部の労働者が必要無くなったこと、更に組合の力が強い州に所在する多くの企業が、労働権法が制定されていて組合がほとんど存在しない州に工場を移転したことなどが指摘されている。
[[Image:Illegal Union Firing 1952 - 2007.svg|thumb|250px|米国における1980年代の違法闘争.<ref>{{cite news|last=Bernstein|first=Aaron|title=Why America Needs Unions But Not the Kind It Has Now|url=http://www.businessweek.com/archives/1994/b337360.arc.htm|newspaper=BusinessWeek|date=May 23, 1994}}</ref>]]
公共部門と民間企業を比較した場合、公共部門の労働組合の組合員数は民間企業の5倍以上に達する。なお、日本とは異なり、[[アメリカ合衆国の警察|警察]]や[[消防]]にも労働組合は存在する。
労働組合は、内部労働者の利益(職の維持)のために、そのコストを外部労働者・財やサービスの消費者・企業の[[株主]]に押しつけていると非難されている。公教育の分野においては、教師組合は、若い教師を辞めさせるよう仕向けることで、学校関係者に支持される老年教師ばかりになり、そのために優秀な教師が減ってきているといると非難されている<ref>Card David, Krueger Alan. (1995). Myth and measurement: The new economics of the minimum wage. Princeton, NJ. Princeton University Press.</ref>。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[マクロ経済学]]者[[ミルトン・フリードマン]]は「労働組合は不要である」として「''労働組合が組合員に対して獲得する賃上げは、主として組合の外にいる他の労働者の犠牲においてである''」<ref>{{cite book|last=Friedman|first=Milton|title=Price theory|year=2007|publisher=Transaction Publishers|location=New Brunswick, NJ|isbn=978-0-202-30969-9|url=https://books.google.co.jp/books?id=EhcI5-D9wREC&pg=PA164&redir_esc=y&hl=ja|edition=[New ed.], 3rd printing}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=東洋経済 |url=http://www.toyokeizai.net/business/management_business/detail/AC/591f3a90c8d5657db0047a520e631cc7/page/3/ |title=給料はなぜ上がらない−−6つの仮説を読み解く【下】 |date=2008年03月30日}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>という言葉を残している。ある職種・産業において労働組合が賃上げに成功すると、その分野での[[雇用]]は減ることになり、結果としてその分の雇用が市場に放出されることで、他の産業・労働者の[[賃金]]が押し下げられる。結果として高賃金労働者の賃金は上昇し低賃金労働者の賃金は下落することで、賃金格差を拡大させるという<ref>{{Cite |和書|author=ミルトン・フリードマン |title=資本主義と自由 |date=2008 |publisher=日経BP社 |publisher2=日経BP出版センター |isbn=9784822246419 |series=Nikkei BP classics |pages=234-235}}</ref>。
=== 中華人民共和国 ===
{{節スタブ}}
[[中華人民共和国|中国]]においては、「工会」([[:zh:工会]])と呼ばれており、「[[中国共産党|共産党]]の指導を受ける」ことが基本とされている。中国国内の企業(外商投資企業を含む)、事業単位、機関及びその他の社会組織の主に賃金収入により生活する[[労働者]]は、[[民族]]、[[人種]]、[[性別]]、[[職業]]、信条、[[教育]]程度を問わず、中国工会全国代表大会が定めた「中国工会規約」を承認すれば、全て「工会」に加入し、組合員となることができる。したがって従業員だけでなく、経営者も労働組合に加入することが可能となっている。
== 記号 ==
労働組合を表す'''㈸'''が「全角括弧付き労」として[[Unicode]]に含まれている。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|12856|3238|-|全角括弧付き労<br />PARENTHESIZED IDEOGRAPH LABOR}}
{{CharCode|12952|3298|-|丸労<br />CIRCLED IDEOGRAPH LABOR}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[西谷敏]]著「労働組合法 第3版」([[有斐閣]]、[[2012年]][[12月20日]]発行)
* [[木下武男]]著「労働組合とは何か」([[岩波新書]]、[[2021年]][[3月19日]]発行)
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
* [[ギルド]]
* [[国際労働機関]] / [[結社の自由]]
* [[剰余価値]] / [[搾取]] / [[工場制大工業]] / [[階級闘争]]
* [[労働運動]] / [[春闘]] / [[労働者福祉]] [[労働貴族]]
* [[労働基本権]] / [[労働権]] / [[ワグナー法]] / [[タフト・ハートレー法]] / [[労働災害]] / [[労働争議]]
* [[紅色組合]] / [[御用組合]] / [[労働金庫]] / [[ナショナルセンター (労働組合)]]
*{{仮リンク|雇用者団体|en|Employers' organization|preserve=1}}
*{{仮リンク|雇用者団体の一覧|en|List of employer associations|preserve=1}}
*[[業界団体]]
*[[事業者団体]]
*[[職能団体]]
*[[アドボカシー]]
== 外部リンク ==
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年金
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年金(ねんきん、英: pension、annuity)とは、毎年定期的・継続的に給付される金銭のことである。また、年金を保障する仕組みとして年金制度(ねんきんせいど)も指す。制度の運営手法によって、公的年金と私的年金に分類される。また個人年金は私的年金とは別に分類する場合が多い。
年金の主な給付事項は、老齢給付、障害給付、遺族給付の3つがある。給付者は年金者(Pensioner)と呼ばれ、典型的には引退した高齢者を指す。
年金の本質は定期金である。カスティーリャ王国の公債(フーロ、juro)としてカルロス1世のときに大量発行された。
民間人を対象とした強制加入の年金制度は、1889年に世界で初めてドイツ帝国初代首相オットー・フォン・ビスマルクが始めた。
年金の給付種類は以下の3つがある。
国際労働機関(ILO)128号条約では、給付開始決定の最低条件を以下と定めている。
受給者が掛け金や保険料を負担せず(拠出を条件としない)、一般税収を原資とする年金を無拠出制年金という。これに対して、保険者が掛け金や保険料を負担(拠出)し、その収入によって確立される年金を拠出制年金という。
各国の基礎年金においては税方式が一般的である。日本は社会保険方式である。民間保険会社や信託銀行、その他の会社や私的団体によって運営される年金においても、拠出制年金が採用される(養老保険など)。
各国における老齢年金制度は、以下の種類に分類される。
最低年金の支給額は、各国平均では平均所得の22%ほどであり、これは各国で韓国・トルコの6%から、ニュージーランドの40%まで幅がある。
そのほか国によっては、年金受給者を対象として、住居、光熱費、保健、介護、社会扶助などの補助が実施されることもある。社会的支援は、現金支給や、サービスの無料化や割引料金などである。例えばオーストリアでは光熱費や住宅費を部分的に補助したりする。
多くの国の公的年金は、一般税収を原資とする方式(ベバリッジ型)と、労使で保険料を拠出する方式(ビスマルク型, 社会保険方式)に分かれる。支給開始には社会保険方式では各国平均で20年以上の払込が、全額支給には平均で26年以上の払込が求められる。
アメリカ合衆国の公的年金は、職種などに関わらず「社会保障(Social Security)」に一本化されている。
なおアメリカ軍の退役軍人のためには独自の公的年金制度が整備されている(後述)。
社会保障局が所管。アメリカ合衆国内で所得のある国民、永住外国人などすべての納税者が加入しており、労役所得の一定割合(2015年現在課税上限年間所得118,500ドルまでの12.4%)を「社会保障税」として所得税などとともに内国歳入庁(IRS)に納付しなければならない直接目的税方式(給与税)なので、日本の国民年金保険料未納のような問題は起きにくい。納付された社会保障税は、国庫とは別会計の社会保障年金信託基金で運用・運営される。
自営業者は社会保障税を全額自己負担(日本の国民年金に相当)、会社員は雇用者と折半(日本の厚生年金に相当、税率6.2%+6.2%)であるが、税率、年間納税上限、退職後の支給額との関係などに差はない。軍人の場合は軍が負担する。研修(J-1)ビザなどで一時的に滞在する外国人は国内で所得を得ても社会保障税は免除される。社会保障税は労役所得にのみ課税されるので、株や不動産の売買益や利子・配当所得には課税されないが、例えば株式トレーディングを職業としている場合は課税される。
個人年金は、確定拠出型のIRA(個人退職基金口座)、401(k)、403(b)などが代表的であり、いずれも課税繰延べ(拠出金額は所得から控除され、運用益とともに実際に口座から引き出されるまで課税されない)や運用益非課税などの税制上の優遇措置がある反面、原則一定年齢(59歳半)になるまで引き出せない(59歳半以前の生存中に引き出した場合は、引き出した額について繰り延べられていた所得税と罰金10%が課せられる)、逆に72歳以降は税引き前拠出部分とその運用益の年齢(平均余命)に応じた一定割合を強制引出しなければならない(MRD、未引出額があると50%の課税)、口座間の資金の移動に制限がある、年間拠出額の上限がある、などの制約もあるが、年間拠出額の上限が比較的高く(2022年の401(k)の年間拠出限度額は20,500ドルに50歳以上は6,500ドルの「追付き拠出」を追加可、会社のマッチなどを合わせた絶対上限は61,000ドル)、その分節税になることもあり、社会保障だけでは退職後の生活費を賄えない中間層の重要な老後資金である。資金の管理及び運用に政府は関与せず、民間の銀行や証券会社などが開設する個人年金プログラムの下で口座を開き、複数の投資信託や個別株式などを組み合わせて個人の責任で運用するのが一般的である(複数口座、複数金融機関可)。
企業年金は、伝統的には従業員が在職中に拠出した年金資金を元に企業が運用し、一定年齢に達した退職した従業員に終身支給する確定給付年金が主流であるが、近年は、より長生きする退職した従業員への巨額の年金支払いがGMなどの巨大企業の破綻の原因となり、また労働者の就職スタイルの変化(転職を繰り返す)などで、企業にとって負担額が予測可能で労働者にとってポータビリティがある確定拠出型個人年金にシフトしつつある。
連邦政府の職員などの公務員は、州ごとに公務員の年金基金がある。基金の運営は比較的自由度が高く、カリフォルニア州のカルパースの様に積極的に投資を行う基金も存在する。
アメリカ国防総省では独自の年金制度を用意している。
勤務中に大事故に遭遇する可能性が高い鉄道職員のために鉄道退職者委員会が公的な障害・遺族年金を用意しており、これには退職者年金も含まれている。
アメリカ軍の退役軍人に対しては、アメリカ合衆国退役軍人省から勤務した期間や階級に応じた額の恩給年金が支給される。また年金の受給資格があれば退役後にもアメリカ国防厚生管理本部が提供する軍人向けの医療保険「TRICARE」に継続して加入する資格がある。
パープルハート章や善行章(名誉除隊)などの勲章を受けた者には規定に応じて年金額が加算されるが、一定以上の懲罰を受けた場合には逆に支給額が減らされることもある。また不名誉除隊の場合は年金の受給資格を失う。
日本の「個人年金」に似た、保険会社などの民間会社が販売する、保険料を予め払い込んだ後、毎月一定額を有期契約期間または契約者が死亡するまで終身受け取る確定給付型の私的(個人)年金も存在し、アニュイティ(annuity)と呼ばれており、投資と保険の双方の特徴を兼ね備えている。
アニュイティ商品の形態は様々で、保険料の支払方法だけをとっても以下の二種類の代表的な方法がある。
また、受給期間については
などがあり、さらに
のように生命保険を兼ね備えているものもある。
一定金額を契約期間あるいは終身受給できるので、契約者のリスクが少なく一見安心に見えるが
などのリスクがある。一定金額の支払いを保証する見返りに(見込み)投資益は低く、どちらかというと投資知識も老後資金も乏しい階層が一定金額の終身受給という(見かけの)絶対的な安心のために利用することが多いと言われる。
アニュイティの運営会社は、積立あるいは一括に関わらず、契約者から払い込まれた保険料を基にして契約者に長期間に渡って支払いをするので、形の上では契約者から借金をしてその分割返済をすると見ることもできる。払い込まれた保険料に対する払い戻し率は、上記の契約期間、生命保険の有無、契約者の年齢など様々な条件によって異なり、当然、(アニュイティの運営会社にとって)リスクの低い契約ほど払い戻し率が高い傾向にある。
総じて言えばアメリカの年金政策は、個人が自分で将来必要となる退職資金を貯蓄する自助努力に期待し、そのために解りやすく、影響が大きく、利用しやすい永続的で安定したタックス・インセンティブ(優遇税制)で個人年金を奨励して、退職者が公的年金(社会保障)に対する相対的な依存度を低く抑えようとしていると言える。例外的に退役軍人には手厚い年金制度が用意されているのが特徴である。
アメリカ合衆国大統領の年金は、閣僚の報酬額とリンクしているが、概ね現役時代の報酬額の半分相当である約20万ドルとなっている。建国以来、大統領の年金制度は存在していなかったが、1958年、ハリー・S・トルーマンが退職後に生活に困窮したことから創設された歴史がある。
労働年金省が所管。社会保険方式の年金として、強制加入の定額型基礎年金(国家年金, State Pension)と、所得比例年金(国家第二年金,SPS)があり、これらに国庫負担はないが、週給109ポンド以下の者は加入を免除される。
加えて租税を原資とした無拠出制年金である年金クレジット(英語版)が存在し、これはミーンズテストにより実施され収入に比例して減額される。さらに障害年金として、障害者生活扶助(英語版)(DLA)や、単身者自立手当(英語版)(PIP)が存在し、これは非拠出型・非ミーンズテスト型の公的扶助である。
基礎年金制度による国民皆年金が達成され、支給額は一律定額。財源は所得比例の保険料である。
2019年4月、ジュセッペ・コンテ政権は、左派の五つ星運動の公約であった年金受給開始年齢を62歳に引き下げる改革を行った。なお、財政負担は2019年から2021年の3年間で、約1330億ユーロが見込まれるが、必要な財源は確保されていない。
雇用・社会開発省(英語版)が所管。個人番号として社会保険番号(SIN)が付与される。
人的資源省が所管。配下の中央積立基金(Central Provident Fund, CPF)への個人積立方式であり、CPFに雇用主と雇用者が共同で拠出する。その積立プールは医療保険と共用である。
第一階部分は、雇用者と雇用主が拠出する賦課型の社会保険方式であり、所得比例年金だが最低額が設定されている。1948年より全国民に加入義務があり、また2割ほどの税収も投入されている。
スウェーデン保健・社会政策省が所管。賦課方式の所得比例年金(年金保険)と、ミーンズテストによる補助的な最低保証年金(一般税原資)の組み合わせである。最低保証年金は3年以上の居住歴が必要で、月収が18万円を超えると支給されなくなる。
大韓民国では、1988年に導入され、1999年に国民皆年金が実現した。
2000年代以降、韓国の出生数は急激に低下。フランスは超高齢社会に移るのに157年かかったが、韓国は27年しかかからないとする分析があり、年金の制度の取り巻く環境は厳しさを増している。一方、年金の制度改革は進んでおらず、2018年に見直した年金の財政計算は出生率を1.24人から1.38人と将来を楽観視したままの状態となっている。2020年の出生率は0.84人と前提条件から大きく下回り、今後も回復は見込まれないため将来的に制度破綻することが予測されている。
中華民国(台湾)では労働部労工保険局が所管。国民年金保険(National Pension)と、被用者年金である労保年金(旧制度)と労工退休金(2004年-)が存在する。旧制度は経過措置であり新規加入はできない。
連邦労働社会省が所管。強制加入の国営年金保険と、任意の企業年金、私的年金の3つにて構成される。国営年金は、雇用主と雇用者が折半して拠出し、2015年の保険料は18.7%であり、低所得者への減額制度がある。受給開始年齢は65歳であったが、67歳に順次引き上げられる見通し。原資は保険料のほか、24%ほどの国庫負担も行われている。
フランスは、1698年にルイ14世がバレエダンサーに年金制度を導入した経緯もある歴史の長い国の一つである。
フランスの公務員のうち、フランス国鉄、パリ交通公団、フランス電力公社、フランスガス公社、鉱山労働者、オペラ座の職員などは重労働者とみなされてきた。これら公的企業等の職員は、民間と比べて年金の負担金支払期間が軽減されており、55歳以下で年金を受給開始することが可能となっている。当然、現役世代の払込金だけ年金制度は維持できず、国庫からの補助金頼りとなっており、特定公務員の特別制度の解消は歴代政権の課題となってきた。ただし改革に対する公務員を中心とした労働者層の反発は大きく、制度改革が俎上にあがるたび大規模なストライキ(例:フランスのストライキ (1995年))を発生させている。
フランスには2019年現在、民間企業の従業員が参加する一般的な年金制度のほかに公務員の特別制度(後述)、農業従事者、自営業者など職業ごとに42の年金制度が存在する。民間企業の従業員の受給額の計算は、最も高給だった25年間の給与平均を基準に行うが、公務員は退職前6カ月の平均給与を基準に計算するなど、年金ごとに受給基準、拠出期間が異なる複雑なものとなっていた。2019年以降、エマニュエル・マクロン大統領は公約に沿って年金制度の改革に着手。複雑な年金制度を一本化すると表明したが、国内から強い反対に遭い、2023年現在もなお実現していない。しかし、 2023年には年金受給開始年齢を62歳から64歳に引き上げる法案を強行採択させることに成功した。
厚生労働省が所管。公的年金では以下が強制加入であり、国民皆年金が達成されている。
2006年(平成18年)3月末現在の公的年金の加入者数。
その他、以下の私的年金制度が存在し、税控除対象となっている。
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"text": "民間人を対象とした強制加入の年金制度は、1889年に世界で初めてドイツ帝国初代首相オットー・フォン・ビスマルクが始めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "年金の給付種類は以下の3つがある。",
"title": "給付事項"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "国際労働機関(ILO)128号条約では、給付開始決定の最低条件を以下と定めている。",
"title": "給付事項"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "受給者が掛け金や保険料を負担せず(拠出を条件としない)、一般税収を原資とする年金を無拠出制年金という。これに対して、保険者が掛け金や保険料を負担(拠出)し、その収入によって確立される年金を拠出制年金という。",
"title": "拠出制と無拠出制"
},
{
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"text": "各国の基礎年金においては税方式が一般的である。日本は社会保険方式である。民間保険会社や信託銀行、その他の会社や私的団体によって運営される年金においても、拠出制年金が採用される(養老保険など)。",
"title": "拠出制と無拠出制"
},
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"text": "各国における老齢年金制度は、以下の種類に分類される。",
"title": "老齢年金制度"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "最低年金の支給額は、各国平均では平均所得の22%ほどであり、これは各国で韓国・トルコの6%から、ニュージーランドの40%まで幅がある。",
"title": "老齢年金制度"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "そのほか国によっては、年金受給者を対象として、住居、光熱費、保健、介護、社会扶助などの補助が実施されることもある。社会的支援は、現金支給や、サービスの無料化や割引料金などである。例えばオーストリアでは光熱費や住宅費を部分的に補助したりする。",
"title": "老齢年金制度"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "多くの国の公的年金は、一般税収を原資とする方式(ベバリッジ型)と、労使で保険料を拠出する方式(ビスマルク型, 社会保険方式)に分かれる。支給開始には社会保険方式では各国平均で20年以上の払込が、全額支給には平均で26年以上の払込が求められる。",
"title": "各国の制度"
},
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"text": "アメリカ合衆国の公的年金は、職種などに関わらず「社会保障(Social Security)」に一本化されている。",
"title": "各国の制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "なおアメリカ軍の退役軍人のためには独自の公的年金制度が整備されている(後述)。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "社会保障局が所管。アメリカ合衆国内で所得のある国民、永住外国人などすべての納税者が加入しており、労役所得の一定割合(2015年現在課税上限年間所得118,500ドルまでの12.4%)を「社会保障税」として所得税などとともに内国歳入庁(IRS)に納付しなければならない直接目的税方式(給与税)なので、日本の国民年金保険料未納のような問題は起きにくい。納付された社会保障税は、国庫とは別会計の社会保障年金信託基金で運用・運営される。",
"title": "各国の制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "自営業者は社会保障税を全額自己負担(日本の国民年金に相当)、会社員は雇用者と折半(日本の厚生年金に相当、税率6.2%+6.2%)であるが、税率、年間納税上限、退職後の支給額との関係などに差はない。軍人の場合は軍が負担する。研修(J-1)ビザなどで一時的に滞在する外国人は国内で所得を得ても社会保障税は免除される。社会保障税は労役所得にのみ課税されるので、株や不動産の売買益や利子・配当所得には課税されないが、例えば株式トレーディングを職業としている場合は課税される。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "個人年金は、確定拠出型のIRA(個人退職基金口座)、401(k)、403(b)などが代表的であり、いずれも課税繰延べ(拠出金額は所得から控除され、運用益とともに実際に口座から引き出されるまで課税されない)や運用益非課税などの税制上の優遇措置がある反面、原則一定年齢(59歳半)になるまで引き出せない(59歳半以前の生存中に引き出した場合は、引き出した額について繰り延べられていた所得税と罰金10%が課せられる)、逆に72歳以降は税引き前拠出部分とその運用益の年齢(平均余命)に応じた一定割合を強制引出しなければならない(MRD、未引出額があると50%の課税)、口座間の資金の移動に制限がある、年間拠出額の上限がある、などの制約もあるが、年間拠出額の上限が比較的高く(2022年の401(k)の年間拠出限度額は20,500ドルに50歳以上は6,500ドルの「追付き拠出」を追加可、会社のマッチなどを合わせた絶対上限は61,000ドル)、その分節税になることもあり、社会保障だけでは退職後の生活費を賄えない中間層の重要な老後資金である。資金の管理及び運用に政府は関与せず、民間の銀行や証券会社などが開設する個人年金プログラムの下で口座を開き、複数の投資信託や個別株式などを組み合わせて個人の責任で運用するのが一般的である(複数口座、複数金融機関可)。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "企業年金は、伝統的には従業員が在職中に拠出した年金資金を元に企業が運用し、一定年齢に達した退職した従業員に終身支給する確定給付年金が主流であるが、近年は、より長生きする退職した従業員への巨額の年金支払いがGMなどの巨大企業の破綻の原因となり、また労働者の就職スタイルの変化(転職を繰り返す)などで、企業にとって負担額が予測可能で労働者にとってポータビリティがある確定拠出型個人年金にシフトしつつある。",
"title": "各国の制度"
},
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "連邦政府の職員などの公務員は、州ごとに公務員の年金基金がある。基金の運営は比較的自由度が高く、カリフォルニア州のカルパースの様に積極的に投資を行う基金も存在する。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "アメリカ国防総省では独自の年金制度を用意している。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "勤務中に大事故に遭遇する可能性が高い鉄道職員のために鉄道退職者委員会が公的な障害・遺族年金を用意しており、これには退職者年金も含まれている。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍の退役軍人に対しては、アメリカ合衆国退役軍人省から勤務した期間や階級に応じた額の恩給年金が支給される。また年金の受給資格があれば退役後にもアメリカ国防厚生管理本部が提供する軍人向けの医療保険「TRICARE」に継続して加入する資格がある。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "パープルハート章や善行章(名誉除隊)などの勲章を受けた者には規定に応じて年金額が加算されるが、一定以上の懲罰を受けた場合には逆に支給額が減らされることもある。また不名誉除隊の場合は年金の受給資格を失う。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "日本の「個人年金」に似た、保険会社などの民間会社が販売する、保険料を予め払い込んだ後、毎月一定額を有期契約期間または契約者が死亡するまで終身受け取る確定給付型の私的(個人)年金も存在し、アニュイティ(annuity)と呼ばれており、投資と保険の双方の特徴を兼ね備えている。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "アニュイティ商品の形態は様々で、保険料の支払方法だけをとっても以下の二種類の代表的な方法がある。",
"title": "各国の制度"
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{
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"tag": "p",
"text": "また、受給期間については",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "などがあり、さらに",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "のように生命保険を兼ね備えているものもある。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一定金額を契約期間あるいは終身受給できるので、契約者のリスクが少なく一見安心に見えるが",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "などのリスクがある。一定金額の支払いを保証する見返りに(見込み)投資益は低く、どちらかというと投資知識も老後資金も乏しい階層が一定金額の終身受給という(見かけの)絶対的な安心のために利用することが多いと言われる。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "アニュイティの運営会社は、積立あるいは一括に関わらず、契約者から払い込まれた保険料を基にして契約者に長期間に渡って支払いをするので、形の上では契約者から借金をしてその分割返済をすると見ることもできる。払い込まれた保険料に対する払い戻し率は、上記の契約期間、生命保険の有無、契約者の年齢など様々な条件によって異なり、当然、(アニュイティの運営会社にとって)リスクの低い契約ほど払い戻し率が高い傾向にある。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "総じて言えばアメリカの年金政策は、個人が自分で将来必要となる退職資金を貯蓄する自助努力に期待し、そのために解りやすく、影響が大きく、利用しやすい永続的で安定したタックス・インセンティブ(優遇税制)で個人年金を奨励して、退職者が公的年金(社会保障)に対する相対的な依存度を低く抑えようとしていると言える。例外的に退役軍人には手厚い年金制度が用意されているのが特徴である。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国大統領の年金は、閣僚の報酬額とリンクしているが、概ね現役時代の報酬額の半分相当である約20万ドルとなっている。建国以来、大統領の年金制度は存在していなかったが、1958年、ハリー・S・トルーマンが退職後に生活に困窮したことから創設された歴史がある。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "労働年金省が所管。社会保険方式の年金として、強制加入の定額型基礎年金(国家年金, State Pension)と、所得比例年金(国家第二年金,SPS)があり、これらに国庫負担はないが、週給109ポンド以下の者は加入を免除される。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "加えて租税を原資とした無拠出制年金である年金クレジット(英語版)が存在し、これはミーンズテストにより実施され収入に比例して減額される。さらに障害年金として、障害者生活扶助(英語版)(DLA)や、単身者自立手当(英語版)(PIP)が存在し、これは非拠出型・非ミーンズテスト型の公的扶助である。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "基礎年金制度による国民皆年金が達成され、支給額は一律定額。財源は所得比例の保険料である。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2019年4月、ジュセッペ・コンテ政権は、左派の五つ星運動の公約であった年金受給開始年齢を62歳に引き下げる改革を行った。なお、財政負担は2019年から2021年の3年間で、約1330億ユーロが見込まれるが、必要な財源は確保されていない。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "雇用・社会開発省(英語版)が所管。個人番号として社会保険番号(SIN)が付与される。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "人的資源省が所管。配下の中央積立基金(Central Provident Fund, CPF)への個人積立方式であり、CPFに雇用主と雇用者が共同で拠出する。その積立プールは医療保険と共用である。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "第一階部分は、雇用者と雇用主が拠出する賦課型の社会保険方式であり、所得比例年金だが最低額が設定されている。1948年より全国民に加入義務があり、また2割ほどの税収も投入されている。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "スウェーデン保健・社会政策省が所管。賦課方式の所得比例年金(年金保険)と、ミーンズテストによる補助的な最低保証年金(一般税原資)の組み合わせである。最低保証年金は3年以上の居住歴が必要で、月収が18万円を超えると支給されなくなる。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "大韓民国では、1988年に導入され、1999年に国民皆年金が実現した。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2000年代以降、韓国の出生数は急激に低下。フランスは超高齢社会に移るのに157年かかったが、韓国は27年しかかからないとする分析があり、年金の制度の取り巻く環境は厳しさを増している。一方、年金の制度改革は進んでおらず、2018年に見直した年金の財政計算は出生率を1.24人から1.38人と将来を楽観視したままの状態となっている。2020年の出生率は0.84人と前提条件から大きく下回り、今後も回復は見込まれないため将来的に制度破綻することが予測されている。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "中華民国(台湾)では労働部労工保険局が所管。国民年金保険(National Pension)と、被用者年金である労保年金(旧制度)と労工退休金(2004年-)が存在する。旧制度は経過措置であり新規加入はできない。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "連邦労働社会省が所管。強制加入の国営年金保険と、任意の企業年金、私的年金の3つにて構成される。国営年金は、雇用主と雇用者が折半して拠出し、2015年の保険料は18.7%であり、低所得者への減額制度がある。受給開始年齢は65歳であったが、67歳に順次引き上げられる見通し。原資は保険料のほか、24%ほどの国庫負担も行われている。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "フランスは、1698年にルイ14世がバレエダンサーに年金制度を導入した経緯もある歴史の長い国の一つである。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "フランスの公務員のうち、フランス国鉄、パリ交通公団、フランス電力公社、フランスガス公社、鉱山労働者、オペラ座の職員などは重労働者とみなされてきた。これら公的企業等の職員は、民間と比べて年金の負担金支払期間が軽減されており、55歳以下で年金を受給開始することが可能となっている。当然、現役世代の払込金だけ年金制度は維持できず、国庫からの補助金頼りとなっており、特定公務員の特別制度の解消は歴代政権の課題となってきた。ただし改革に対する公務員を中心とした労働者層の反発は大きく、制度改革が俎上にあがるたび大規模なストライキ(例:フランスのストライキ (1995年))を発生させている。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "フランスには2019年現在、民間企業の従業員が参加する一般的な年金制度のほかに公務員の特別制度(後述)、農業従事者、自営業者など職業ごとに42の年金制度が存在する。民間企業の従業員の受給額の計算は、最も高給だった25年間の給与平均を基準に行うが、公務員は退職前6カ月の平均給与を基準に計算するなど、年金ごとに受給基準、拠出期間が異なる複雑なものとなっていた。2019年以降、エマニュエル・マクロン大統領は公約に沿って年金制度の改革に着手。複雑な年金制度を一本化すると表明したが、国内から強い反対に遭い、2023年現在もなお実現していない。しかし、 2023年には年金受給開始年齢を62歳から64歳に引き上げる法案を強行採択させることに成功した。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "厚生労働省が所管。公的年金では以下が強制加入であり、国民皆年金が達成されている。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)3月末現在の公的年金の加入者数。",
"title": "各国の制度"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "その他、以下の私的年金制度が存在し、税控除対象となっている。",
"title": "各国の制度"
}
] |
年金とは、毎年定期的・継続的に給付される金銭のことである。また、年金を保障する仕組みとして年金制度(ねんきんせいど)も指す。制度の運営手法によって、公的年金と私的年金に分類される。また個人年金は私的年金とは別に分類する場合が多い。 年金の主な給付事項は、老齢給付、障害給付、遺族給付の3つがある。給付者は年金者(Pensioner)と呼ばれ、典型的には引退した高齢者を指す。
|
[[画像:Pension handbook (Japan).jpg|thumb|right|250px|[[日本]]の[[年金手帳]]]]
{{個人ファイナンス}}
'''年金'''(ねんきん、{{Lang-en-short|pension<ref group="注釈">[[英語]]などでは年金を[[pension]]と言い、また[[宿泊施設]]もpensionと言われるが、[[日本]]では「ペンション」と言えば宿泊施設を指す。</ref>、annuity}})とは、毎年定期的・継続的に[[給付]]される[[貨幣|金銭]]のことである。また、年金を保障する仕組みとして'''年金制度'''(ねんきんせいど)も指す。制度の運営手法によって、[[公的年金]]と[[私的年金]]に分類される。また[[年金保険|個人年金]]は私的年金とは別に分類する場合が多い。
年金の主な給付事項は、[[老齢年金|老齢給付]]、[[障害年金|障害給付]]、[[遺族年金|遺族給付]]の3つがある<ref name=hiraoka />。給付者は[[年金者]](Pensioner)と呼ばれ、典型的には引退した[[高齢者]]を指す。
{{TOC limit|3}}
== 歴史 ==
年金の本質は定期金である。[[カスティーリャ王国]]の公債(フーロ、juro)として[[カール5世_(神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]のときに大量発行された<ref>諸田實 「スペイン王室の銀行家」 その二 神奈川大学商経論叢 29巻1号 p.44.</ref>。
民間人を対象とした強制加入の年金制度は、1889年に世界で初めて[[ドイツ帝国]]初代首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]が始めた{{Sfn|OECD|2015|p=46}}。
== 給付事項 ==
{{色}}
[[File:Percentage of Population Above 65 - 2005.png|thumb|right|300px|各国の65歳以上人口割合]]
年金の給付種類は以下の3つがある<ref name=hiraoka />。
* [[老齢年金|老齢給付]] - 一定の年齢に達した場合
* [[障害年金|障害給付]] - 被保険者に障害が発生した場合
* [[遺族年金|遺族給付]] - 被保険者が死亡した場合、遺族に給付
[[国際労働機関]](ILO)128号条約では、給付開始決定の最低条件を以下と定めている<ref name=hiraoka />。
* 老齢給付 - 妻を有する男子、65歳以上、30年以上の保険料拠出もしくは20年以上の居住
* 障害給付 - 妻および2子を有する男子、5年以上の保険料拠出もしくは居住
* 遺族給付 - 2子を有する[[寡婦]]、5年以上の保険料拠出もしくは居住
== 拠出制と無拠出制 ==
受給者が掛け金や保険料を負担せず([[拠出]]を条件としない)、一般税収を原資とする年金を'''[[無拠出制年金]]'''という。これに対して、保険者が掛け金や保険料を負担(拠出)し、その収入によって確立される年金を'''拠出制年金'''という。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; margin:1em auto"
|+ 拠出制と無拠出制<ref name=hiraoka />
! !! 税方式([[無拠出制年金|無拠出制]]) !! 拠出制([[社会保険]]制度)
|-
|{{rh}}| 利点
|
* 徴収コストがかからない。年金未加入者が発生することがない
* 保険料免除により、年金減額されるということがなくなる
|
* 保険料拠出の見返りとして受給できるため、権利性が強い
* 景気変動に対して、比較的安定した財源である
* 所得比例年金制度と相性が良い
|-
|{{rh}}| 欠点
|
* 国家財政とリンクしており、財源確保の必要がある
* 所得比例年金制度への適応が難しい(給付と負担の関係がないため)
|
* 低所得などで拠出できていない者は、給付対象外となる
* 保険料の徴収コストがある{{Efn|日本の国民年金第1号加入者では、保険料の11%が徴収コスト}}
|}
各国の[[基礎年金]]においては税方式が一般的である<ref name=hiraoka />。日本は社会保険方式である<ref name=hiraoka />。民間[[保険会社]]や[[信託銀行]]、その他の[[会社]]や私的団体によって運営される年金においても、拠出制年金が採用される([[養老保険]]など)。
[[File:Pension system.svg|thumb|center|650px|'''各国の第一階部分の年金制度'''<ref>[https://www.ssa.gov/policy/docs/progdesc/ssptw/ Social Security Programs Throughout the World]</ref><ref>[http://www.pension-watch.net/ Pension Watch]</ref>
{{Legend|#7ce07eff|[[緑色|緑]]:[[無拠出制年金]]}}
{{Legend|#5599ffff|薄[[青色|青]]:個人別口座への強制貯蓄}}
{{Legend|#2c8cbeff|濃青:年金基金への積み立て}}
{{Legend|#ffdd55ff|[[黄色|黄]]:社会保険制度または個人口座制度から、雇用者が選択可能}}
{{Legend|#fd8c3cff|[[橙色|橙]]:[[社会保険]]制度}}
]]
== 老齢年金制度 ==
各国における老齢年金制度は、以下の種類に分類される{{Sfn|OECD|2015|p=46}}<ref name="shugiin">{{Cite press release|和書|author=内閣総理大臣 安倍晋三 |title=内閣衆質一九〇第一二九号 衆議院議員大串博志君提出諸外国における一階部分の年金積立金の運用状況に関する質問に対する答弁書 |date=2016-02-23 |url=https://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b190129.htm |publisher=衆議院}}</ref>。
;基礎年金
:居住要件、もしくは拠出要件を満たす者に給付される年金
;最低年金
:年金基金への拠出がなくとも給付される年金
;社会扶助
:[[ミーンズテスト]]対象者、特定階層向けの年金
最低年金の支給額は、各国平均では平均所得の22%ほどであり、これは各国で韓国・トルコの6%から、ニュージーランドの40%まで幅がある{{Sfn|OECD|2015|loc=Executive Summary}}。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; margin-left:1em; text-align:center"
|+ 各国の老年年金制度(第一階部分){{Sfn|OECD|2015|p=48}}
!国!!基礎年金!!最低年金!!国!!基礎年金!!最低年金
|-
|{{Rh}}|オーストラリア||居住(10年)|| ||{{Rh}}|日本||拠出(25年)||
|-
|{{Rh}}|ベルギー|| ||あり(30年)||{{Rh}}|ルクセンブルク||拠出(10年)||あり(20年)
|-
|{{Rh}}|カナダ||居住(10年)|| ||{{Rh}}|メキシコ|| ||あり(24年)
|-
|{{Rh}}|チリ||居住(20年)|| ||{{Rh}}|オランダ||居住(1年)||
|-
|{{Rh}}|チェコ||拠出(35年)||あり(35年) ||{{Rh}}|ニュージーランド||居住(10年)||
|-
|{{Rh}}|デンマーク||居住(10年)|| ||{{Rh}}|ノルウェー||居住(3年)||
|-
|{{Rh}}|エストニア||拠出(15年)|| ||{{Rh}}|ポーランド|| ||あり(25年)
|-
|{{Rh}}|フィンランド||居住(3年)|| ||{{Rh}}|ポルトガル|| ||あり(15年)
|-
|{{Rh}}|フランス|| ||あり(1年)||{{Rh}}|スロベニア|| ||あり(15年)
|-
|{{Rh}}|ギリシャ||居住(15年)|| ||{{Rh}}|スペイン|| ||あり(15年)
|-
|{{Rh}}|ハンガリー|| ||あり(20年)||{{Rh}}|スウェーデン||居住(3年)||
|-
|{{Rh}}|アイスランド||居住(3年)|| ||{{Rh}}|スイス|| ||あり(1年)
|-
|{{Rh}}|アイルランド||拠出(10年)|| ||{{Rh}}|トルコ|| ||あり(15年)
|-
|{{Rh}}|イスラエル||居住/拠出(10年)|| ||{{Rh}}|英国||拠出||
|-
|{{Rh}}|イタリア|| ||あり(20年) ||{{Rh}}|
|- style="background:#ddd; text-align:left"
|colspan=6|<small>※ 数字は、それを受け取るのに必要な居住年数、もしくは払込年数{{Sfn|OECD|2015|p=49,50}}</small>
|}
そのほか国によっては、年金受給者を対象として、住居、光熱費、保健、介護、社会扶助などの補助が実施されることもある{{Sfn|OECD|2015|p=58}}。社会的支援は、現金支給や、サービスの無料化や割引料金などである{{Sfn|OECD|2015|p=58}}。例えばオーストリアでは光熱費や住宅費を部分的に補助したりする{{Sfn|OECD|2015|p=58}}。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; margin-left:1em; text-align:center"
|+ 各国の年金受給者に対する補助的給付{{Sfn|OECD|2015|p=58}}
! !! 住宅/光熱 !! 医療 !! 社会的支援 !! !! 住宅/光熱 !! 医療 !! 社会的支援
|-
|{{rh}}| 豪州 || あり || あり || あり ||{{rh}}|日本 || あり || ||
|-
|{{rh}}| オーストリー || あり || || ||{{rh}}|韓国 || || || あり
|-
|{{rh}}| ベルギー || || || ||{{rh}}|ルクセンブルク || || ||
|-
|{{rh}}| カナダ || || || ||{{rh}}|メキシコ || || ||
|-
|{{rh}}| チリ || || || ||{{rh}}|オランダ || || ||
|-
|{{rh}}| チェコ || あり || || ||{{rh}}|ニュージーランド || あり || ||
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|}
== 各国の制度 ==
多くの国の公的年金は、一般税収を原資とする方式([[ベヴァリッジ報告書|ベバリッジ型]])と、労使で保険料を拠出する方式([[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク型]], [[社会保険]]方式)に分かれる<ref name="hiraoka">{{Cite |和書|title=社会福祉学 |author=平岡公一|publisher=有斐閣 |date=2011-12 |isbn=9784641053762 |at=Chapt.17}}</ref><ref name="ndl">{{Cite report|publisher=国立国会図書館 |title=社会保障財政の国際比較 : 給付水準と財源構造 |author=片山 信子 |journal=レファレンス |volume=58 |issue=10|pages= 73-103 |date=2008-10 |naid=40016298909}}</ref>。支給開始には社会保険方式では各国平均で20年以上の払込が、全額支給には平均で26年以上の払込が求められる{{Sfn|OECD|2015|loc=Executive Summary}}。
=== アメリカ合衆国 ===
{{出典の明記|date=2014年6月|section=1}}
[[アメリカ合衆国]]の公的年金は、職種などに関わらず「[[社会保障 (アメリカ合衆国)|社会保障]](Social Security)」に一本化されている。
*[[社会保障 (アメリカ合衆国)|社会保障]]:強制加入 社会保障税を[[所得税]]と同時に徴収
*[[年金保険|個人年金]]:任意 税制上の優遇措置あり
*[[企業年金]]:任意
*[[私的年金]]:任意
なお[[アメリカ軍]]の[[退役軍人]]のためには独自の公的年金制度が整備されている(後述)。
==== 社会保障 ====
{{Main|社会保障 (アメリカ合衆国)}}
[[Image:Social Security card.jpg|right|thumb|社会保障カード。このサンプルは10桁だが、実際のカードは9桁]]
[[社会保障局 (アメリカ合衆国)|社会保障局]]が所管。アメリカ合衆国内で所得のある国民、永住外国人などすべての納税者が加入しており、労役所得の一定割合(2015年現在課税上限年間所得118,500ドルまでの12.4%)を「社会保障税」として所得税などとともに[[内国歳入庁]](IRS)に納付しなければならない直接目的税方式([[給与税]])なので、日本の[[年金未納問題|国民年金保険料未納]]のような問題は起きにくい。納付された社会保障税は、国庫とは別会計の[[社会保障年金信託基金]]で運用・運営される。
自営業者は社会保障税を全額自己負担(日本の[[国民年金]]に相当)、会社員は雇用者と折半(日本の[[厚生年金]]に相当、税率6.2%+6.2%)であるが、税率、年間納税上限、退職後の支給額との関係などに差はない。軍人の場合は軍が負担する。研修(J-1)ビザなどで一時的に滞在する外国人は国内で所得を得ても社会保障税は免除される。社会保障税は労役所得にのみ課税されるので、株や不動産の売買益や利子・配当所得には課税されないが、例えば株式トレーディングを職業としている場合は課税される。
==== 個人年金 ====
個人年金は、[[確定拠出年金|確定拠出型]]のIRA(個人退職基金口座)、[[401k|401(k)]]、403(b)などが代表的であり、いずれも課税繰延べ(拠出金額は所得から控除され、運用益とともに実際に口座から引き出されるまで課税されない)や運用益非課税などの税制上の優遇措置がある反面、原則一定年齢(59歳半)になるまで引き出せない(59歳半以前の生存中に引き出した場合は、引き出した額について繰り延べられていた所得税と罰金10%が課せられる)、逆に72歳以降は税引き前拠出部分とその運用益の年齢(平均余命)に応じた一定割合を強制引出しなければならない(MRD、未引出額があると50%の課税)、口座間の資金の移動に制限がある、年間拠出額の上限がある、などの制約もあるが、年間拠出額の上限が比較的高く(2022年の401(k)の年間拠出限度額は20,500ドルに50歳以上は6,500ドルの「追付き拠出」を追加可、会社のマッチなどを合わせた絶対上限は61,000ドル)、その分節税になることもあり、社会保障だけでは退職後の生活費を賄えない[[中間層]]の重要な老後資金である。資金の管理及び運用に政府は関与せず、民間の[[銀行]]や[[証券会社]]などが開設する個人年金プログラムの下で口座を開き、複数の[[投資信託]]や個別[[株式]]などを組み合わせて個人の責任で運用するのが一般的である(複数口座、複数金融機関可)。
==== 企業年金 ====
{{Main|企業年金}}
企業年金は、伝統的には従業員が在職中に拠出した年金資金を元に企業が運用し、一定年齢に達した退職した従業員に終身支給する[[確定給付年金]]が主流であるが、近年は、より長生きする退職した従業員への巨額の年金支払いが[[ゼネラルモーターズ|GM]]などの巨大企業の破綻の原因となり、また労働者の就職スタイルの変化(転職を繰り返す)などで、企業にとって負担額が予測可能で労働者にとってポータビリティがある確定拠出型個人年金にシフトしつつある。
==== 公務員年金 ====
[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]の職員などの公務員は、州ごとに公務員の年金基金がある。基金の運営は比較的自由度が高く、[[カリフォルニア州]]の[[カルパース]]の様に積極的に投資を行う基金も存在する。
[[アメリカ国防総省]]では独自の年金制度を用意している<ref>[http://japanese.japan.usembassy.gov/j/acs/tacsj-fb-top.html]</ref>。
勤務中に大事故に遭遇する可能性が高い鉄道職員のために[[鉄道退職者委員会]]が公的な障害・遺族年金を用意しており、これには退職者年金も含まれている<ref>[https://secure.rrb.gov/ United States Railroad Retirement Board]</ref>。
==== 退役軍人 ====
[[アメリカ軍]]の[[退役軍人]]に対しては、[[アメリカ合衆国退役軍人省]]から勤務した期間や階級に応じた額の[[恩給]]年金が支給される。また年金の受給資格があれば退役後にも[[アメリカ国防厚生管理本部]]が提供する軍人向けの[[医療保険]]「TRICARE」に継続して加入する資格がある。
[[パープルハート章]]や[[善行章]]([[名誉除隊]])などの勲章を受けた者には規定に応じて年金額が加算されるが、一定以上の懲罰を受けた場合には逆に支給額が減らされることもある。また[[不名誉除隊]]の場合は年金の受給資格を失う。
==== その他 ====
日本の「個人年金」に似た、[[保険会社]]などの民間会社が販売する、保険料を予め払い込んだ後、毎月一定額を有期契約期間または契約者が死亡するまで終身受け取る確定給付型の私的(個人)年金も存在し、アニュイティ(annuity)と呼ばれており、投資と保険の双方の特徴を兼ね備えている。
アニュイティ商品の形態は様々で、保険料の支払方法だけをとっても以下の二種類の代表的な方法がある。
*保険料を受給開始前に長期間積み立てる
*契約時に保険料を一括払いして即受給開始となる
また、受給期間については
*契約時に定める一定有期期間(5年、10年など)
*契約者が死亡するまでの終身期間
などがあり、さらに
*受給開始後最初の一定期間(5年、10年など)内に契約者が死亡した場合は割増の一時金
のように[[生命保険]]を兼ね備えているものもある。
一定金額を契約期間あるいは終身受給できるので、契約者のリスクが少なく一見安心に見えるが
*「純粋終身」と呼ばれる商品は、受給開始後に契約者が死亡すると払込保険料と累積総支給額の差は全て運営会社のものとなり、遺族などが受け取ることはできない(その分、払込保険料に対する毎月の受給金額の率が高い)
*固定受給金額の場合は[[インフレーション|物価上昇]]により受給金の価値が段々目減りする
などのリスクがある。一定金額の支払いを保証する見返りに(見込み)投資益は低く、どちらかというと投資知識も老後資金も乏しい階層が一定金額の終身受給という(見かけの)絶対的な安心のために利用することが多いと言われる<ref>Ensuring your retirement savings last as long as you do [https://www.fidelity.com/insights/retirement/retirement-savings-immediate-annuity-2]</ref>。
アニュイティの運営会社は、積立あるいは一括に関わらず、契約者から払い込まれた保険料を基にして契約者に長期間に渡って支払いをするので、形の上では契約者から借金をしてその分割返済をすると見ることもできる。払い込まれた保険料に対する払い戻し率は、上記の契約期間、生命保険の有無、契約者の年齢など様々な条件によって異なり、当然、(アニュイティの運営会社にとって)リスクの低い契約ほど払い戻し率が高い傾向にある。
総じて言えばアメリカの年金政策は、個人が自分で将来必要となる退職資金を貯蓄する自助努力に期待し、そのために解りやすく、影響が大きく、利用しやすい永続的で安定したタックス・インセンティブ(優遇税制)で個人年金を奨励して、退職者が公的年金(社会保障)に対する相対的な依存度を低く抑えようとしていると言える。例外的に退役軍人には手厚い年金制度が用意されているのが特徴である。
[[アメリカ合衆国大統領]]の年金は、閣僚の報酬額とリンクしているが、概ね現役時代の報酬額の半分相当である約20万ドルとなっている。建国以来、大統領の年金制度は存在していなかったが、[[1958年]]、[[ハリー・S・トルーマン]]が退職後に生活に困窮したことから創設された歴史がある<ref>{{Cite web |date= 2017-1-21|url= https://www.cnn.co.jp/business/35095351.html?tag=mcol;relStories|title= オバマ氏が退任、年金生活へ その待遇内容は?|publisher= CNN|accessdate=2018-02-25}}</ref>。
=== イギリス ===
{{Main|イギリスの福祉#年金}}
[[労働年金省]]が所管。社会保険方式の年金として、強制加入の定額型基礎年金(国家年金, State Pension)と、所得比例年金(国家第二年金,SPS)があり、これらに国庫負担はないが、週給109ポンド以下の者は加入を免除される<ref>{{Cite press release|和書|title=State Pension coverage: Lower Earnings Limit and multiple jobs |publisher=[[労働年金省]] |date=2013-07 |url=https://www.gov.uk/government/statistics/state-pension-coverage-lower-earnings-limit-and-multiple-jobs}}</ref><ref name=kaigai /><ref name=ipss />。
加えて租税を原資とした[[無拠出制年金]]である{{仮リンク|年金クレジット|en|Pension Credit}}が存在し、これは[[ミーンズテスト]]により実施され収入に比例して減額される<ref name="ipss">{{Cite journal|title=イギリスの公的・私的年金制度改革 |journal=海外社会保障研究 |publisher=国立社会保障・人口問題研究所 |volume=169 |date=2009 |url=https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/19176203.pdf }}</ref>{{Sfn|OECD|2015|at=United KIngdom}}。さらに[[障害年金]]として、{{仮リンク|障害者生活扶助|en|Disability Living Allowance}}(DLA)や、{{仮リンク|単身者自立手当|en|Personal Independence Payment}}(PIP)が存在し、これは非拠出型・非ミーンズテスト型の公的扶助である。
{{Seealso|ベヴァリッジ報告書}}
=== オランダ ===
基礎年金制度による国民皆年金が達成され、支給額は一律定額{{Sfn|国立社会保障・人口問題研究所|2011|p=273}}。財源は所得比例の保険料である{{Sfn|国立社会保障・人口問題研究所|2011|p=273}}。
===イタリア===
[[2019年]]4月、[[ジュセッペ・コンテ]]政権は、左派の[[五つ星運動]]の[[公約]]であった年金受給開始年齢を62歳に引き下げる改革を行った。なお、財政負担は[[2019年]]から[[2021年]]の3年間で、約1330億ユーロが見込まれるが、必要な財源は確保されていない<ref>{{Cite web|和書|date=2019-06-13 |url=https://president.jp/articles/-/29003 |title="年金開始62歳"で大混乱のイタリア経済 |publisher=2019-06-13プレジデントオンライン |accessdate=2019-06-18}}</ref>。
=== カナダ ===
{{仮リンク|雇用・社会開発省|en|Employment and Social Development Canada}}が所管。個人番号として[[社会保険番号]](SIN)が付与される。
=== シンガポール ===
[[労働省 (シンガポール)|人的資源省]]が所管。配下の中央積立基金(Central Provident Fund, CPF)への個人積立方式であり、CPFに雇用主と雇用者が共同で拠出する<ref>{{Cite report |title=シンガポールにおける医療・社会福祉サービスに関する報告書 |date=2014-01 |publisher=独立行政法人[[日本貿易振興機構]] |url=http://www.jetro.go.jp/industry/service/reports/07001564 }}</ref>。その積立プールは[[シンガポールの医療|医療保険]]と共用である。
=== スイス ===
第一階部分は、雇用者と雇用主が拠出する賦課型の社会保険方式であり、所得比例年金だが最低額が設定されている{{Sfn|国立社会保障・人口問題研究所|2011|p=272}}。1948年より全国民に加入義務があり、また2割ほどの税収も投入されている{{Sfn|国立社会保障・人口問題研究所|2011|p=272}}。
=== スウェーデン ===
{{Main|スウェーデンの福祉#年金}}
[[スウェーデン保健・社会政策省]]が所管。[[賦課方式]]の所得比例年金([[年金保険]])と、ミーンズテストによる補助的な[[無拠出制年金|最低保証年金]](一般税原資)の組み合わせである{{Sfn|OECD|2015|p=46}}<ref name="kaigai">{{Cite report|title=2011~2012年 海外情勢報告 |publisher=厚生労働省 |date=2013-03 |url=https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kaigai/13/ |page=240}}</ref>。最低保証年金は3年以上の居住歴が必要で、月収が18万円を超えると支給されなくなる<ref name=hiraoka />。
=== 大韓民国 ===
[[大韓民国]]では、1988年に導入され、1999年に国民皆年金が実現した<ref>{{Cite news |language = | author = | url =http://www.news-postseven.com/archives/20140228_240923.html| title =韓国の平均年金月額支給額は4.4万円 生活保護の4.7万円下回る| publisher =| date= 2014-2-28| accessdate =2014-3-4}}</ref>。
2000年代以降、韓国の出生数は急激に低下。フランスは超高齢社会に移るのに157年かかったが、韓国は27年しかかからないとする分析があり、年金の制度の取り巻く環境は厳しさを増している。一方、年金の制度改革は進んでおらず、2018年に見直した年金の財政計算は出生率を1.24人から1.38人と将来を楽観視したままの状態となっている。2020年の出生率は0.84人と前提条件から大きく下回り、今後も回復は見込まれないため将来的に制度破綻することが予測されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.joins.com/JArticle/279977?sectcode=400&servcode=400 |title=「韓国の国民年金は事実上の詐欺」…次期年金学会長が衝撃の暴露 |publisher=中央日報 |date=2021-06-23 |accessdate=2021-06-24}}</ref>。
{{節スタブ}}
=== 台湾 ===
[[中華民国]]([[台湾]])では労働部労工保険局が所管。[[国民年金保険]](National Pension)と、被用者年金である労保年金(旧制度)と労工退休金(2004年-)が存在する。旧制度は経過措置であり新規加入はできない<ref>{{Cite report|publisher=JETRO |title=台湾 定年退職金制度 |date=2016-01 |url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/country/tw/invest_05/pdfs/tw10D010_retirement_system.pdf}}</ref>。
=== ドイツ ===
[[連邦労働社会省]]が所管。強制加入の国営年金保険と、任意の企業年金、私的年金の3つにて構成される<ref>Aegon, '[http://www.aegon.de/Documents/aegon-de/AGP-section/EN/Documents/Pension-provision-in-Germany-the-first-and-second-pillars-in-focus.pdf Pension provision in Germany: the first and second pillars in focus]'</ref><ref name="gr">{{Cite report|publisher=厚生労働省 |author=年金局数理課|title=ドイツ公的年金の財政検証について |date=2016-08 |url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/nenkin/nenkin/zaisei/index.html}}</ref>。国営年金は、雇用主と雇用者が折半して拠出し、2015年の保険料は18.7%であり、低所得者への減額制度がある<ref name=gr/>。受給開始年齢は65歳であったが、67歳に順次引き上げられる見通し<ref name=gr/>。原資は保険料のほか、24%ほどの国庫負担も行われている<ref name=gr/>。
===フランス===
フランスは、[[1698年]]に[[ルイ14世]]がバレエダンサーに年金制度を導入した経緯もある歴史の長い国の一つである<ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-29 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3261589 |title=仏政府、スト支持のオペラ座ダンサーらに譲歩案 |publisher=AFP |accessdate=2019-12-29}}</ref>。
====公務員特別年金制度====
フランスの公務員のうち、[[フランス国鉄]]、[[パリ交通公団]]、[[フランス電力公社]]、フランスガス公社、鉱山労働者、[[パリ国立オペラ|オペラ座]]の職員などは重労働者とみなされてきた。これら公的企業等の職員は、民間と比べて年金の負担金支払期間が軽減されており、55歳以下で年金を受給開始することが可能となっている。当然、現役世代の払込金だけ年金制度は維持できず、国庫からの補助金頼りとなっており、特定公務員の特別制度の解消は歴代政権の課題となってきた。ただし改革に対する公務員を中心とした労働者層の反発は大きく、制度改革が俎上にあがるたび大規模なストライキ(例:[[フランスのストライキ (1995年)]])を発生させている<ref>{{Cite web|和書|date=2007年11月 |url=https://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2007_11/france_01.html |title=大統領の社会改革案に猛反発、スト相次ぐ |publisher= 独立行政法人労働政策研究・研修機構|accessdate=2019-12-05}}</ref>。
==== エマニュエル・マクロンの年金改革 ====
[[フランス]]には2019年現在、民間企業の従業員が参加する一般的な年金制度のほかに[[公務員]]の特別制度(後述)、[[農業]]従事者、[[自営業]]者など職業ごとに42の年金制度が存在する。民間企業の従業員の受給額の計算は、最も高給だった25年間の給与平均を基準に行うが、公務員は退職前6カ月の平均給与を基準に計算するなど、年金ごとに受給基準、拠出期間が異なる複雑なものとなっていた。[[2019年]]以降、[[エマニュエル・マクロン]]大統領は公約に沿って年金制度の改革に着手。複雑な年金制度を一本化すると表明<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-24 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/09/ba381238697d01bf.html |title=42ある年金制度、2020年夏までに一本化を目指す |publisher=JETRO |accessdate=2019-12-11}}</ref>したが、国内から強い反対に遭い、2023年現在もなお実現していない。しかし、
[[2023年]]には年金受給開始年齢を62歳から64歳に引き上げる法案を強行採択させることに成功した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/64985606 |title=仏政府、年金改革法案を強硬採択 抗議デモで警察と衝突 |publisher=BBC |date=2023-03-17 |accessdate=2023-07-02}}</ref>。
=== 日本 ===
{{日本の年金制度}}
{{Seealso|日本の年金|日本の福祉}}
[[厚生労働省]]が所管。公的年金では以下が強制加入であり、国民皆年金が達成されている。
* 基礎年金(定額拠出型) - [[国民年金]]として政府が管掌。
* 被用者年金(所得比例年金)- 政府管掌の[[厚生年金]]と、[[共済組合]]管掌の年金とが併存していたが、[[2015年]](平成27年)に厚生年金に一元化された。
[[2006年]](平成18年)3月末現在の[[公的年金]]の加入者数<ref>厚生労働省資料であるとして報道の読売新聞夕刊 2007年10月18日2版 4ページの記事から引用。</ref>。
*第1号被保険者 - [[自営業]]者:400万人、無業者:700万人、パートなど:600万人、その他:600万人
*第2号被保険者 - 厚生年金:3,300万人、各種共済年金:500万人
*第3号被保険者 - 第2号被保険者の被[[扶養]][[配偶者]]:1,100万人
その他、以下の私的年金制度が存在し、税控除対象となっている。
* [[国民年金基金]]
* [[確定拠出年金]](401k)
* [[確定給付年金]]
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite |publisher=OECD |title=Pensions at a Glance 2015 |date=2015 |doi=10.1787/pension_glance-2015-en |isbn=9789264249189 |ref={{SfnRef|OECD|2015}} }}
*{{Cite journal|和書| title=特集:社会保障の50年―皆保険・皆年金の意義と課題 |volume=47 |issue=3 |date=2011-12 |publisher=[[国立社会保障・人口問題研究所]] |url=https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/sakuin/kikan/4703.htm |ref={{Sfnref|国立社会保障・人口問題研究所|2011}} }}
*HMG(英国政府)([[柏野健三]]訳) 『新福祉契約 英国の野心』[[帝塚山大学]]出版会 2008年
== 関連項目 ==
*[[議員年金]]
*[[企業戦士]]
*[[社会保険]] / [[年金保険]]
*[[年金危機]]
*[[ペンション#語源]]
*[[リバースモーゲージ]]
== 外部リンク ==
*[http://www.oecd.org/els/public-pensions/ Pension systems] - OECD
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ねんきん}}
[[Category:年金|*]]
[[Category:家計]]
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2003-07-17T02:26:03Z
|
2023-11-21T14:53:07Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%87%91
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世親
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世親(せしん、梵: Vasubandhu、蔵: dbyig gnyen)は、インド仏教瑜伽行唯識学派の僧である。世親はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の訳名であり、玄奘訳以降定着した。それより前には「天親」(てんじん)と訳されることが多い。「婆薮般豆」、「婆薮般頭」と音写することもある。4世紀頃の人。
唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、地論宗・摂論宗・法相宗・浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称される。また、インド論理学そのものの発展にも寄与した。
世親の伝記については、真諦訳『婆薮槃豆法師伝』、玄奘『大唐西域記』やその弟子・基の伝える伝承、ターラナータ『仏教史』中の伝記などがある。
『婆薮槃豆法師伝』によれば、世親は仏滅後900年にプルシャプラ(現在のパキスタン・ペシャーワル)で生まれた。三人兄弟の次男で、実兄は無著(アサンガ)、実弟は説一切有部のヴィリンチヴァッサ(比隣持跋婆)。兄弟全員が世親(ヴァスバンドゥ)という名前であるが、兄は無著、弟は比隣持跋婆という別名で呼ばれるため、「世親」という名は専ら本項目で説明する次男のことを指す。
初め部派仏教の説一切有部で学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄・無著の勧めによって大乗仏教に転向した。無著の死後、大乗経典の註釈、唯識論、諸大乗論の註釈などを行い、アヨーディヤーにて80歳で没した。
世親の伝記に関する諸伝承は、世親が説一切有部から大乗(唯識派)へと転向したという点で一致する。しかし近年、説一切有部時代に書いたとされる『阿毘達磨倶舎論』に伝えるPūrvācāryāḥ(先規範師、先旧諸師)の説および経量部説が、『瑜伽師地論』、『顕揚聖教論』など瑜伽行派の文献にトレースできることから、「ヴァスバンドゥの有部での得度まで否定する必要はないにせよ、彼は最初から瑜伽行派の学匠であったと仮定するほうが、はるかに合理的ではないか」という意見も出されている。
以下のリストは網羅的なものではない。
近年、松田和信らの研究によって、『倶舎論』→『釈軌論』→『大乗成業論』→『縁起経釈論』→『唯識二十論』 →『唯識三十頌』という著作の順番が確定しつつある。
その他、『婆藪槃豆法師伝』・ターラナータ『仏教史』には、『大乗涅槃経』『般若経』『維摩経』『勝鬘経』『五印経』に対する註釈書があったとされる。
また、チベット訳でのみ伝えられる『聖十万頌二万五千頌一万八千頌般若波羅蜜多広註』『聖無尽意所説経広註』『聖普賢行願讃広註』は、世親より後の人の作と考えられている。
その他、漢訳『中論』では「龍樹菩薩造・梵志青目釈」となっているが、僧祐『薩婆多師資伝』(逸文)の伝承では、青目を世親とする。また、『百論』では「提婆菩薩造 婆藪開士釈」となっているが、同様に僧祐『薩婆多師資伝』では婆藪開士を世親とする。
世親の生存年代については、仏滅後900年、1000年、1100年など、複数の伝承が存在した。また、ヤショーミトラによる『倶舎論』の注釈書や普光『倶舎論記』において、『倶舎論』の著者とは別の古師ヴァスバンドゥ(古世親、vṛddhācārya-vasubandhu)についての言及があることが、指摘されていた。
これらをふまえフラウヴァルナーが、ヴァスバンドゥには古師と新師の2人がいる、という説を唱えた。フラウヴァルナーは、僧肇『法華翻経後記』などに見える鳩摩羅什の伝承に基づき、古師ヴァスバンドゥを4世紀前半の人とし、『中辺分別論』『大乗荘厳経論』『摂大乗論釈』、大乗経典に対する註釈書などを古師ヴァスバンドゥの著作とする。一方、新師ヴァスバンドゥを、仏滅後1000年または1100年=5世紀の人とし、『倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『論軌』『論式』『論心』などの作者とした。
しかし、古師ヴァスバンドゥと新師ヴァスバンドゥの著作間の共通箇所が次々と指摘され、フラウヴァルナーが用いた史料の信頼性にも疑問が呈されたことから、現在では否定的に考えられている。
『阿毘達磨倶舎論』の現代語訳・訳注については『阿毘達磨倶舎論』を参照。
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"text": "世親(せしん、梵: Vasubandhu、蔵: dbyig gnyen)は、インド仏教瑜伽行唯識学派の僧である。世親はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の訳名であり、玄奘訳以降定着した。それより前には「天親」(てんじん)と訳されることが多い。「婆薮般豆」、「婆薮般頭」と音写することもある。4世紀頃の人。",
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"text": "これらをふまえフラウヴァルナーが、ヴァスバンドゥには古師と新師の2人がいる、という説を唱えた。フラウヴァルナーは、僧肇『法華翻経後記』などに見える鳩摩羅什の伝承に基づき、古師ヴァスバンドゥを4世紀前半の人とし、『中辺分別論』『大乗荘厳経論』『摂大乗論釈』、大乗経典に対する註釈書などを古師ヴァスバンドゥの著作とする。一方、新師ヴァスバンドゥを、仏滅後1000年または1100年=5世紀の人とし、『倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『論軌』『論式』『論心』などの作者とした。",
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世親は、インド仏教瑜伽行唯識学派の僧である。世親はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の訳名であり、玄奘訳以降定着した。それより前には「天親」(てんじん)と訳されることが多い。「婆薮般豆」、「婆薮般頭」と音写することもある。4世紀頃の人。 唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、地論宗・摂論宗・法相宗・浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称される。また、インド論理学そのものの発展にも寄与した。
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{{Infobox Buddhist
|名前 = 世親 (天親)
|生没年 = [[300年|300]] - [[400年]]頃
|尊称 = 世親菩薩、天親菩薩
|生地 = [[ペシャーワル|プルシャプラ]]
|没地 = アヨーディヤー
|画像 = [[画像:Seshin Vasubandhu Kofukuji.jpg|200px]]
|説明文 = [[興福寺]]北円堂の世親像
|宗旨 =
|宗派 = [[説一切有部]]<br />後に、[[瑜伽行唯識学派]]
|寺院 =
|師 = [[無著]](世親の実兄)
|弟子 =
|著作 =『[[倶舎論|阿毘達磨倶舎論]]』<br />『唯識二十論』<br />『[[唯識三十頌]]』<br />『[[無量寿経優婆提舎願生偈|浄土論]]』他
|廟 =
}}
'''世親'''(せしん、{{lang-sa-short|Vasubandhu}}、[[チベット語|蔵]]: {{Unicode|dbyig gnyen}})は、[[インド仏教]][[瑜伽行唯識学派]]の僧である。世親は[[サンスクリット]]名である「'''ヴァスバンドゥ'''」の訳名であり、[[玄奘]]訳以降定着した。それより前には「'''天親'''」(てんじん)と訳されることが多い。「'''婆薮般豆'''」、「'''婆薮般頭'''」と音写することもある。4世紀頃の人。
唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、[[地論宗]]・[[摂論宗]]・[[法相宗]]・[[浄土教]]をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。[[浄土真宗]]では[[七高僧]]の第二祖とされ「'''天親菩薩'''」と尊称される。また、[[インド論理学]]そのものの発展にも寄与した{{Sfn|桂|1998|p=228}}。
== 生涯 ==
世親の伝記については、[[真諦]]訳『[[婆薮槃豆法師伝]]』、玄奘『[[大唐西域記]]』やその弟子・[[基 (僧)|基]]の伝える伝承、[[ターラナータ]]『仏教史』中の伝記などがある。
『婆薮槃豆法師伝』によれば、世親は仏滅後900年にプルシャプラ(現在の[[パキスタン]]・[[ペシャーワル]])で生まれた。三人兄弟の次男で、実兄は[[無著|無著(アサンガ)]]、実弟は[[説一切有部]]のヴィリンチヴァッサ(比隣持跋婆)。兄弟全員が世親(ヴァスバンドゥ)という名前であるが、兄は無著、弟は比隣持跋婆という別名で呼ばれるため、「世親」という名は専ら本項目で説明する次男のことを指す。
初め[[部派仏教]]の[[説一切有部]]で学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄・無著の勧めによって[[大乗仏教]]に転向した。無著の死後、大乗経典の註釈、唯識論、諸大乗論の註釈などを行い、アヨーディヤーにて80歳で没した。
世親の伝記に関する諸伝承は、世親が説一切有部から大乗(唯識派)へと転向したという点で一致する。しかし近年、説一切有部時代に書いたとされる『[[阿毘達磨倶舎論]]』に伝える{{lang|sa|Pūrvācāryāḥ}}(先規範師、先旧諸師)の説{{Sfn|袴谷|1986|page=859}}および[[経量部]]説が、『[[瑜伽師地論]]』、『[[顕揚聖教論]]』{{Sfn|松田|1985|pages=751-750}}など瑜伽行派の文献にトレースできることから、「ヴァスバンドゥの有部での得度まで否定する必要はないにせよ、彼は最初から瑜伽行派の学匠であったと仮定するほうが、はるかに合理的ではないか」<ref>原田和宗「[http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e5%ad%a6%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%83%e3%83%88%e5%ad%a6%e7%a0%94%e7%a9%b6/%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e5%ad%a6%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%83%e3%83%88%e5%ad%a6%e7%a0%94%e7%a9%b6%20No.%201%20(1996)/%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e5%ad%a6%e3%83%81%e3%83%99%e3%83%83%e3%83%88%e5%ad%a6%e7%a0%94%e7%a9%b6%20No.%201%20(1996)%20005%e5%8e%9f%e7%94%b0%e5%92%8c%e5%ae%97%e3%80%8c%ef%bc%9c%e7%b5%8c%e9%87%8f%e9%83%a8%e3%81%ae%e3%80%8c%e5%8d%98%e5%b1%a4%e3%81%ae%e3%80%8d%e8%ad%98%e3%81%ae%e6%b5%81%e3%82%8c%ef%bc%9e%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e6%a6%82%e5%bf%b5%e3%81%b8%e3%81%ae%e7%96%91%e5%95%8f(I)%e3%80%8d.pdf <経量部の「単層の」識の流れ>という概念への疑問 (I)]」(『インド学チベット学研究』1、1996年、pp.144-145)</ref>という意見も出されている。
== 著作 ==
以下のリストは網羅的なものではない。
近年、[[松田和信]]らの研究によって、『倶舎論』→『[[釈軌論]]』→『[[大乗成業論]]』→『縁起経釈論』→『[[唯識二十論]]』 →『[[唯識三十頌]]』という著作の順番が確定しつつある<ref>{{Cite journal|和書|author=松田和信 |title=Vasubandhu 研究ノート (1)<!--『研究ンート』は Ci.nii やリポジトリの誤記である、本文の記述に合わせた--> |journal=印度學佛教學研究 |issn=0019-4344 |publisher=日本印度学仏教学会 |year=1984 |volume=32 |issue=2 |pages=1042-1039 |naid=130004024872 |doi=10.4259/ibk.32.1042 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.32.1042}} など。</ref>。
=== 説一切有部系の著作 ===
* 『勝義七十論』(『七十真実論』『勝義七十論』『第一義諦論』とも) - 各種伝記中に書名が見えるが現存せず。敦煌文献中に『真実論』として引かれる逸文が関係するか<ref>本多至成「敦煌文書に見る未伝論書について」(『相愛大学研究論集』11、1995年3月)</ref>。
* 『[[無依虚空論]]』漢訳『雑阿毘曇心論』中の帰敬偈において先行する『阿毘曇心論』の註釈書として登場し、その際に「和修槃頭(ヴァスバンドゥ?)」の著作として割注に示される<ref>T.28.869c17-c20</ref>。
* 『[[阿毘達磨倶舎論]]』(''Abhidharmakośabhāṣya'')
=== 経典の注釈 ===
{{Wikisource|無量寿経優婆提舎願生偈}}
* 『縁起初分分別経論』(縁起論・縁起経釈・''Pratītiyasamutpāda-vyākhyā'')
* 『金剛般若波羅蜜経論』 - 義浄訳では無著造頌・世親釈とする。
* 『妙法蓮華経優波提舎』(法華論)- インドにおける[[法華経]]の注釈書として唯一現存する<ref>{{Cite journal|和書|author=望月海慧, 金炳坤 |title=[妙法蓮華経優波提舎の文献学的研究] 表紙・目次・執筆者略歴・奥付 |month=apr |year=2020 |journal=法華経研究叢書 |publisher=身延山大学国際日蓮学研究所 |url=http://id.nii.ac.jp/1367/00002641/ |ISBN=9784905331131}}</ref>。
* 『十地経論』
* [[無量寿経優婆提舎願生偈|『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論・往生論)]] - 後に[[曇鸞]]が、『[[無量寿経優婆提舎願生偈註|浄土論註]]』を撰述し、本書を注解する<ref name="ib108">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=108 }}</ref>。[[浄土教]]所依の経論として[[浄土三部経]]と共に高く位置付けられている<ref name="ib108" />。日本の浄土教において、もっとも重要な論書とされる。
* 『文殊師利菩薩問菩提経論』
* 『勝思惟梵天所問経論』
* 『宝髻経四法憂波提舎』
* 『転法輪経憂波提舎』
* 『三具足経憂波提舎』
* 『金剛般若論』 - 漢訳では無著造とするが、チベット訳では世親造とする。
* 『六門陀羅尼経論』
* 『大乗四法経釈』
* 『仏随念広註』
* 『発菩提心経論』 - フラウヴァルナーは古師ヴァスバンドゥの著作とするが、中国撰述である可能性が高い 。
* 『涅槃論』 - 中国撰述である可能性が高いとされる。
* 『涅槃経本有今無偈論』 - 中国撰述である可能性が高いとされる。
* 『遺教経論』 - 中国撰述である可能性が高いとされる。
* 『菩提心憂波提舎』 - 『宝髻経四法憂波提舎』等に書名が見える。鳩摩羅什訳『発菩提心経論』とは異なる。
その他、『婆藪槃豆法師伝』・ターラナータ『仏教史』には、『大乗涅槃経』『般若経』『維摩経』『勝鬘経』『五印経』に対する註釈書があったとされる。
また、チベット訳でのみ伝えられる『聖十万頌二万五千頌一万八千頌般若波羅蜜多広註』『聖無尽意所説経広註』『聖普賢行願讃広註』は、世親より後の人の作と考えられている。
=== 大乗論書に対する注釈 ===
* 『摂大乗論釈』(''Mahāyānasaṃgraha-bhāṣya'') - 無著『摂大乗論』に対する注釈。
* 『大乗荘厳経論(''Mahāyānasūtrālaṃkāravyākhyā'') - 弥勒の頌に対する注釈。漢訳は無著造とする。
* 『中辺分別論』(弁中辺論・''Madhyāntavibhāga-bhāṣya'') - 弥勒の頌に対する注釈。
* 『六門教授習定論』 - 無著の頌に対する注釈。
* 『法法性分別論』(''Dharmadharmatā-vibhaṇga-vṛtti'') - 弥勒の著作に対する注釈。
* 『順中論義入大般若波羅蜜経初品法門』 - 漢訳は無著菩薩作とするが、吉蔵『中論序疏』の伝承では天親(世親)作。大竹晋は世親作とする。
その他、漢訳『中論』では「龍樹菩薩造・梵志青目釈」となっているが、僧祐『薩婆多師資伝』(逸文)の伝承では、青目を世親とする。また、『百論』では「提婆菩薩造 婆藪開士釈」となっているが、同様に僧祐『薩婆多師資伝』では婆藪開士を世親とする。
=== 唯識系の論書 ===
* 『唯識三十頌』(''Triṃśikā-vijñaptimātratāsiddhi'') - 後に多くの論師によって注釈書が作られ、唯識の基本的論書となる。
* 『唯識二十論』(''Viṃśatikā-vijñaptimātratāsiddhi'')
* 『大乗成業論』(業成就論・''Karmasiddhi'')
* 『大乗五蘊論』(''Pañcaskandhaka'')
* 『三性論』(''Trisvabhāva''[''-nirdeśa''])
* 『大乗百法明門論』 - [[玄奘]]の訳とするが諸説あり、また、内容的に世親ではなく後世の作である可能性もある。
* 『仏性論』 - この論は、内容的には『[[宝性論]]』の抄訳を解説したものなので、訳者の[[真諦]]またはその師[[僧]]の著作とする説もある。
=== 論理学関連 ===
* 『如実論』(''Tarkaśāstra'') - 漢訳(『如実論 反質難品』)は部分訳か。
* 『論軌』(''Vādavidhi'')
* 『論式』(''Vādavidhāna'')
* 『論心』
=== その他 ===
* 『釈軌論』(''Vyākhyā-yukti'') - 経典解釈の方法を説く。
* 『止観門論頌』 - 不浄観などを説く。
* ''Gāthāsaṃgraha'' - 寓話集的なもの。
* ''Śīlaparikathā''
== 世親二人説 ==
世親の生存年代については、仏滅後900年、1000年、1100年など、複数の伝承が存在した。また、ヤショーミトラによる『倶舎論』の注釈書や普光『倶舎論記』において、『倶舎論』の著者とは別の古師ヴァスバンドゥ(古世親、vṛddhācārya-vasubandhu)についての言及があることが、指摘されていた。
これらをふまえ{{仮リンク|エーリッヒ・フラウヴァルナー|en|Erich Frauwallner}}が、ヴァスバンドゥには古師と新師の2人がいる、という説を唱えた<ref>Erich Frauwallner. ''On the Date of the Buddhist Master of the Law Vasubandhu.'' Roma: Istituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente, 1951.</ref>。フラウヴァルナーは、[[僧肇]]『法華翻経後記<ref>{{Cite journal|和書|author=金炳坤(慧鏡) |url=http://id.nii.ac.jp/1367/00001114/ |title=僧肇記「法華翻経後記」偽撰説の全貌と解明 |journal=仏教学論集 |publisher=立正大学大学院仏教学研究会 |year=2009 |month=mar |issue=27 |pages=29-55 |naid=120006536756 |issn=0289-0267}}</ref>』などに見える鳩摩羅什の伝承に基づき、古師ヴァスバンドゥを4世紀前半の人とし、『中辺分別論』『大乗荘厳経論』『摂大乗論釈』、大乗経典に対する註釈書などを古師ヴァスバンドゥの著作とする。一方、新師ヴァスバンドゥを、仏滅後1000年または1100年=5世紀の人とし、『倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『論軌』『論式』『論心』などの作者とした。
しかし、古師ヴァスバンドゥと新師ヴァスバンドゥの著作間の共通箇所が次々と指摘され、フラウヴァルナーが用いた史料の信頼性にも疑問が呈されたことから、現在では否定的に考えられている。
== 著作 ==
=== 現代語訳・訳注 ===
『[[阿毘達磨倶舎論]]』の現代語訳・訳注については『[[阿毘達磨倶舎論]]』を参照。
* [[長尾雅人]]編、[[荒牧典俊]]・[[梶山雄一]]・桜部建 訳『世界の名著(2) 大乗仏典』(中公バックス版、[[1978年]]、ISBN 978-4124006124)
**『倶舎論』第1章・第2章、『唯識二十論』
* 長尾雅人・荒牧典俊・梶山雄一 訳注『[[仏典|大乗仏典]]15 世親論集』([[中公文庫]]、[[2005年]]、ISBN 4-12-204480-4)
**『唯識二十論』『唯識三十頌』『三性論』『中辺分別論』
* 三枝充悳『世親』(講談社学術文庫、2004年、ISBN 4-06-159642-X)
** 『婆薮槃豆法師伝』・ターラナータ『仏教史』所収の世親伝、『大乗成業論』『唯識二十論』『唯識三十頌』の現代語訳([[横山紘一]]訳)。
* [[兵藤一夫]]『唯識ということ 『唯識二十論』を読む』(春秋社、2006年、ISBN 4-393-13538-5)
* [[堀内俊郎]]『世親の大乗仏説論 『釈軌論』第四章を中心に』(山喜房佛書林、2009年、ISBN 9784796310130)
**『釈軌論』第四章の和訳。
* 大竹晋『元魏漢訳ヴァスバンドゥ釈経論群の研究』(大蔵出版、2013年3月)
**『三具足経憂波提舎』『転法輪経憂波提舎』『宝髻経四法憂波提舎』『順中論義入大般若波羅蜜経初品法門』の訳注。
* [[勝呂信静]]・[[下川邊季由]] 校註『新国訳大蔵経 インド撰述部 瑜伽・唯識部 摂大乗論釈 (世親釈,玄奘訳)』(大蔵出版、2007年、ISBN 978-4-8043-8039-1)
* [[袴谷憲昭]]・[[荒井裕明]] 校註『新国訳大蔵経 インド撰述部 瑜伽・唯識部 大乗荘厳経論』(大蔵出版、1993年、ISBN 4-8043-8001-9)
* [[高崎直道]]・[[柏木弘雄]] 校註『新国訳大蔵経 インド撰述部 論集部 仏性論・[[大乗起信論]](旧・新二訳)』(大蔵出版、2005年、ISBN 4-8043-8033-7)
* 大竹晋 校註『新国訳大蔵経 インド撰述部 釈経論部 十地経論 I』(大蔵出版、2005年、ISBN 4-8043-8034-5)
* 大竹晋 校註『新国訳大蔵経 インド撰述部 釈経論部 十地経論 II』(大蔵出版、2006年、ISBN 4-8043-8038-8)
* 大竹晋 校註『新国訳大蔵経 インド撰述部 釈経論部 法華経論・無量寿経論 他』(大蔵出版、2011年、ISBN 978-4-8043-8050-6)
**『文殊師利菩薩問菩提経論』『妙法蓮華経憂波提舎』『無量寿経優波提舎願生偈』『涅槃経本有今無偈論』『遺教経論』『涅槃論』の訳注。
* 大竹晋 校註『新国訳大蔵経 インド撰述部 釈経論部 能断金剛般若波羅蜜多経論釈 他』(大蔵出版、2009年、ISBN 978-4-8043-8048-3)
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Notelist}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=インド人の論理学|date=1998-10|year=1998|publisher=中央公論社〈[[中公新書]]〉|author=桂紹隆|authorlink=桂紹隆|ref={{SfnRef|桂|1998}}}}法蔵館文庫、2021年
* {{Cite journal |last=袴谷 |first=憲昭 |title= Pūrvācārya 考 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.34.866 |journal=印度學佛教學研究 |volume=34 |issue=2 |date=1986 |publisher=日本印度学仏教学会 |pages=866-859 |ref={{SfnRef|袴谷|1986}} }}
* {{Cite journal |last=松田 |first=和信 |title= Vyākhyāyukti の二諦説 -Vasubandhu 研究ノート (2)- |url=https://doi.org/10.4259/ibk.33.756 |journal=印度學佛教學研究 |volume=33 |issue=2 |date=1986 |publisher=日本印度学仏教学会 |pages=756-750 |ref={{SfnRef|松田|1985}} }}
* [[櫻部建|桜部建]]・[[上山春平]]『仏教の思想2 存在の分析<[[アビダルマ]]>』([[角川ソフィア文庫|角川文庫ソフィア]]、1996年)、ISBN 4-04-198502-1
* [[服部正明]]・上山春平『仏教の思想4 認識と超越<[[唯識]]>』(角川文庫ソフィア、1997年)、ISBN 4-04-198504-8
* [[塚本啓祥]]・[[松長有慶]]・磯田煕文 編著『梵語仏典の研究 III 論書篇』([[平楽寺書店]]、1990年)
* 大竹晋『元魏漢訳ヴァスバンドゥ釈経論群の研究』([[大蔵出版]]、2013年)
=== 伝記 ===
*武内紹晃『浄土仏教の思想 第3巻 [[龍樹]] 世親』([[講談社]]、1993年)。他にチベットの浄土教、[[慧遠 (東晋)|慧遠]]
*[[三枝充悳]]『世親』([[講談社学術文庫]]、2004年)。元版『人類の知的遺産14 ヴァスバンドゥ』講談社
* 船山徹『婆藪槃豆伝 インド仏教思想家ヴァスバンドゥの伝記』([[法藏館]]、2021年)
== 関連項目 ==
* [[唯識派]]
* [[成唯識論]]
* [[アビダルマ]](阿毘達磨)
* [[南都六宗]]
* [[法相宗]] [[薬師寺]]・[[興福寺]]
== 外部リンク ==
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/index.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1524_,26,0230c14:1524_,26,0233a29.html 釋經論部 Vol.26 無量壽經憂波提舍]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1558_,29,0001a04:1558_,29,0159b15.html 毘曇部 Vol.29 阿毘達磨倶舍論]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1559_,29,0161a04:1559_,29,0310c18.html 毘曇部 Vol.29 阿毘達磨倶舍釋論]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1586_,31,0060a17:1586_,31,0061b24.html 中觀部・瑜伽部 Vol.31 唯識三十論頌]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1590_,31,0074b24:1560_,31,0077b08.html 中觀部・瑜伽部 Vol.31 唯識二十論]
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社会政策
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社会政策(しゃかいせいさく、英: social policy)とは、社会において発生した問題を解決するための公共政策の体系をいう。
もっとも、上に示された定義は一例に過ぎず社会政策の意義については古くから論争がある。日本の社会政策学において示された社会政策の意義のうち著名なものだけで大河内理論、隅谷理論、荒又理論、岸本理論などが知られている。
産業革命により大量の労働者が生まれ、それに伴い都市、工業地帯に貧困者が発生し、また労働者の不満が発生しこれらの政策が必要になった。ビスマルクの工場法が有名である。労働環境改善の問題もあるが、やがて労働者の不満は労働争議のかたちをとるようになり、この政策も必要となる。
現代社会政策は、一般には労働問題と狭義の社会福祉から構成されているとされる。学問・研究分野としては、労働経済学、労使関係論、労働法、社会保障論、公的扶助論など幅広い分野を包摂している。
初期の社会政策は、ベヴァリッジ報告書にあるような「不衛生、低識字率、困窮、疾病、無為」の5項目の改善のための政策研究が中心だったが、現代においては、福祉に重点をおいた「貧困、疾病、劣悪な居住環境、不十分な教育制度、失業」への取り組みが中心となっている。また、性差別や人種差別なども取り組むべき課題として、社会政策の対象範囲は拡大している。
例えばニュージーランド政府が熱望する無償教育はお金に替えられない価値を持つ社会政策である。ニュージーランド労働党は、5歳から13歳までのニュージーランドの全ての子供達に2017年度までに無償でタブレットもしくはネット環境を与えると発表した。ニュージーランド労働党の党首デイヴィッド・カンリフによれば、政府の最近の調査で、生徒のいる世帯のおよそ15%がインターネットにアクセスできないことが判明し、ニュージーランド労働党は学校と協調して生徒が学校にいないときでもインターネットを使えるようにするという。
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社会政策とは、社会において発生した問題を解決するための公共政策の体系をいう。 もっとも、上に示された定義は一例に過ぎず社会政策の意義については古くから論争がある。日本の社会政策学において示された社会政策の意義のうち著名なものだけで大河内理論、隅谷理論、荒又理論、岸本理論などが知られている。 産業革命により大量の労働者が生まれ、それに伴い都市、工業地帯に貧困者が発生し、また労働者の不満が発生しこれらの政策が必要になった。ビスマルクの工場法が有名である。労働環境改善の問題もあるが、やがて労働者の不満は労働争議のかたちをとるようになり、この政策も必要となる。
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{{出典の明記|date=2011年12月}}
{{財政}}
'''社会政策'''(しゃかいせいさく、{{lang-en-short|social policy}})とは、[[社会]]において発生した問題を解決するための[[公共政策]]の体系をいう。
もっとも、上に示された定義は一例に過ぎず社会政策の意義については古くから論争がある。[[日本]]の社会政策学において示された社会政策の意義のうち著名なものだけで[[大河内一男|大河内]]理論、隅谷理論、荒又理論、岸本理論などが知られている。
[[産業革命]]により大量の[[労働者]]が生まれ、それに伴い都市、工業地帯に[[貧困]]者が発生し、また労働者の不満が発生しこれらの政策が必要になった。ビスマルクの工場法が有名である。労働環境改善の問題もあるが、やがて労働者の不満は労働争議のかたちをとるようになり、この政策も必要となる。
==研究領域==
現代社会政策は、一般には労働問題と狭義の[[社会福祉]]から構成されているとされる。学問・研究分野としては、[[労働経済学]]、労使関係論、[[労働法]]、[[社会保障]]論、公的扶助論など幅広い分野を包摂している。
初期の社会政策は、[[ベヴァリッジ報告書]]にあるような「不衛生、低識字率、困窮、疾病、無為」の5項目の改善のための政策研究が中心だったが、現代においては、福祉に重点をおいた「貧困、疾病、劣悪な居住環境、不十分な教育制度、[[失業]]<ref>[http://www.york.ac.uk/spsw/about/what-is-social-policy/ What is Social Policy?] Social Policy and Social Work, The University of York </ref>」への取り組みが中心となっている。また、性差別や人種差別なども取り組むべき課題として、社会政策の対象範囲は拡大している。
例えばニュージーランド政府が熱望する無償教育はお金に替えられない価値を持つ社会政策である。[[ニュージーランド労働党]]は、5歳から13歳までのニュージーランドの全ての子供達に2017年度までに無償でタブレットもしくはネット環境を与えると発表した<ref name=nzh2014july5 >[http://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=11288208 Labour launches bid to give all students portable computers] National, NZ Herald News, The New Zealand Herald, July 5, 2014</ref>。ニュージーランド労働党の党首[[デイヴィッド・カンリフ]]によれば、政府の最近{{いつ|date=2014年9月}}の調査で、生徒のいる世帯のおよそ15%がインターネットにアクセスできないことが判明し、ニュージーランド労働党は学校と協調して生徒が学校にいないときでもインターネットを使えるようにするという<ref name=nzh2014july5 />。
{{see also|情報格差}}
==関連項目==
* [[年金]]
* [[社会的不平等]]
* [[労働運動]] - [[労働基準法]]
* [[社会政策学会]]
* [[最低賃金]]
* [[ジニ係数]]
==脚注==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 駒村康平・山田篤裕・四方理人・田中聡一郎・丸山桂著『社会政策 福祉と労働の経済学』(有斐閣、2015年)
* 石畑良太郎・牧野富雄・伍賀一道'''『'''よくわかる社会政策 第3版』(ミネルヴァ書房、2019年)
* 玉井金五・大森真紀『三訂 社会政策を学ぶ人のために』(世界思想社、2007年)
==外部リンク==
*[http://jasps.org/ 社会政策学会公式サイト]
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曇鸞
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曇鸞(どんらん、拼音: Tánluán)は、中国南北朝時代の僧である。中国浄土教の開祖とされる。
浄土宗では、「浄土五祖」の第一祖とされる。
浄土真宗では、七高僧の第三祖とされ「曇鸞大師」・「曇鸞和尚」と尊称する。
五台山の近く雁門郡広武県(中華人民共和国山西省忻州市代県)の生まれ。生没年は不明だが、おおよそ北魏後半から北斉時代の人と思われる。
出家して、龍樹系の四論(『中論』、『十二門論』、『大智度論』、『百論』)や『涅槃経』の仏性義を学んだ。ところが『大集経』(だいじっきょう)の注釈の最中に病に倒れ、不老長寿の術を茅山の陶弘景について学び「仙経」を得て帰る途中、洛陽で菩提流支に出会い、仏教にこそ不死の教えがあると諭され、『観無量寿経』を授けられた。そこで、曇鸞は「仙経」を焼き捨てて、浄土教に入り研鑚に勤め、并州の大巌寺に住し、後に石壁山(山西省呂梁市交城県)の玄中寺に入り、さらに汾州平遥山(山西省晋中市平遥県)の遥山寺に移って没した。勅によって汾西の大陵の文谷(山西省呂梁市文水県)に葬られた。
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曇鸞は、中国南北朝時代の僧である。中国浄土教の開祖とされる。 浄土宗では、「浄土五祖」の第一祖とされる。 浄土真宗では、七高僧の第三祖とされ「曇鸞大師」・「曇鸞和尚」と尊称する。
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{{Infobox Buddhist
|名前= 曇鸞<br />(どんらん)
|生没年= [[476年]] - [[542年]][[7月7日 (旧暦)|7月7日]][[疑問符|?]]([[不可思議|不詳]])
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|宗旨= [[浄土教#中国|浄土教(中国)]]
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|著作= 『[[無量寿経優婆提舎願生偈註|浄土論註]]』<br />『讃阿弥陀仏偈』
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'''曇鸞'''(どんらん、{{ピン音|Tánluán}})は、[[中国]][[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[僧]]である。[[浄土教#中国|中国浄土教]]の開祖とされる。
[[浄土宗]]では、「浄土五祖{{efn2|浄土五祖…法然が浄土宗相承の祖師と定めた5人の高僧。(『岩波仏教辞典』P.539「浄土五祖」より引用。)}}」の第一祖とされる。
[[浄土真宗]]では、[[七高僧]]の第三祖とされ「'''曇鸞大師'''」・「'''曇鸞和尚'''」と[[敬称|尊称]]する。
== 生涯 ==
[[五台山 (中国)|五台山]]の近く[[雁門郡]]広武県([[中華人民共和国]][[山西省]][[忻州市]][[代県]])の生まれ。生没年は[[不可思議|不明]]だが、おおよそ[[北魏]]後半から[[北斉]]時代の人と思われる。
出家して、[[龍樹]]系の四論(『[[中論]]』、『[[十二門論]]』、『[[大智度論]]』、『[[百論]]』)や『[[大般涅槃経|涅槃経]]』の仏性義を学んだ。ところが『[[大集経]]』(だいじっきょう)の注釈の最中に病に倒れ、不老長寿の術を[[茅山]]の[[陶弘景]]について学び「仙経」を得て帰る途中、[[洛陽市|洛陽]]で[[菩提流支]]に出会い、仏教にこそ不死の教えがあると諭され、『[[観無量寿経]]』を授けられた。そこで、曇鸞は「仙経」を焼き捨てて、[[浄土教]]に入り研鑚に勤め、[[并州]]の大巌寺に住し、後に石壁山(山西省[[呂梁市]][[交城県]])の[[玄中寺]]に入り、さらに[[隰州|汾州]]平遥山(山西省[[晋中市]][[平遥県]])の遥山寺に移って没した。勅によって汾西の大陵の文谷(山西省呂梁市[[文水県]])に葬られた。
== 著作 ==
{{Wikisource|無量寿経優婆提舎願生偈註|『無量寿経優婆提舎願生偈註』}}
; 『'''[[無量寿経優婆提舎願生偈註]]'''』
: 一般には、略して『'''浄土論註'''』、『'''往生論註'''』と呼び、『論註』とも呼ぶ<ref name="ib108" />。[[世親|天親(世親)]]撰述の[[無量寿経優婆提舎願生偈|『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』)]]の註釈書である<ref name="ib108">{{Cite book |和書 |editor=中村元ほか|editor-link=中村元 (哲学者) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=[[岩波書店]] |page=108 }}</ref>。
: 正確には、『浄土論』自体が『[[無量寿経]]』の注釈書なので、復注釈書にあたる。
: [[末法]]無仏の[[時代]]には、[[他力]]の[[信心]]による浄土往生による成仏以外にないと説いたもので、ことに下巻の末尾にすべてが他力のはたらきであると明快に論証する。このため、続く[[道綽]]・[[善導]]、さらに[[日本]]の[[源信_(僧侶)|源信]]・[[法然]]・[[親鸞]]はこの論書によって論を進めている。ことに親鸞の教義の根幹を成している。
{{Wikisource|讃阿弥陀仏偈|『讃阿弥陀仏偈』}}
; 『讃阿弥陀仏偈』
: [[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]への讃美の偈文。「仏荘厳」で阿弥陀仏を、「菩薩荘厳」で浄土に生まれた衆生を、「国土荘厳」で極楽浄土を、美麗な文辞を以って賛嘆し、「結讃」で[[極楽|極楽浄土]]への帰依が、一切仏国土への帰依となると述べて、自身が阿弥陀一仏に帰命することを宣言する。
=== 疑義のあるもの ===
: 『'''略論安楽浄土義'''』
: 伝統的に曇鸞の撰述に帰せられる浄土教の重要典籍であるが{{Sfn|溪|2011|p=27}}、流布の経緯から曇鸞の著作かどうかが疑われている{{Sfn|溪|2011|p=27}}。なお[[浄土真宗]]の開祖[[親鸞]]は[[自著]]においてこの[[本|著作]]を[[引用]]しない{{Sfn|溪|2011|p=27}}。
== 関連項目 ==
* [[七高僧]]
* [[阿弥陀三尊]]
* [[往生]]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
<!-- 本記事を編集する際に出典として用いた文献 -->
* 『岩波仏教辞典』 [[岩波書店]]、第二版:[[2002年]]
=== 関連文献 ===
* [[早島鏡正]]・[[大谷光真]]訳著 『浄土論註 佛典講座』 [[大蔵出版]]、[[1987年]]、新装版:[[2003年]]
* [[神戸和麿]]訳注 『曇鸞 浄土論註』 <大乗仏典 中国・日本篇5>[[中央公論新社|中央公論社]]、[[1993年]]。現代語訳のみ、他に[[善導]]「[[観無量寿経疏|観経疏]]」、[[廣瀬杲]]訳注
* 『曇鸞 [[藤堂恭俊]] [[道綽]] [[牧田諦亮]] 浄土仏教の思想 第4巻』 [[講談社]]、[[1995年]]
* 『曇鸞の世界 往生論註の基礎的研究』 論註研究会編、[[永田文昌堂]]、[[1996年]]
* 『曇鸞浄土教形成論 その思想的背景』 石川琢道、[[法藏館|法蔵館]]、[[2009年]]
* {{Cite journal |和書|author =溪英俊 |authorlink = |title =『略論安楽浄土義』についての一考察 |date =2011 |publisher =日本印度学仏教学会 |journal =印度學佛教學研究 |volume =60 |issue =1 |url= https://doi.org/10.4259/ibk.60.1_27 |pages =27 - 30 |ref ={{SfnRef|溪|2011}} }}
== 外部リンク ==
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1819_,40,0826a24:1819_,40,0834c27.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース) 律疏部・論疏部 Vol.40 『無量壽經優婆提舍願生偈註』卷上]
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1819_,40,0835a03:1819_,40,0844b03.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース) 律疏部・論疏部 Vol.40 『無量壽經優婆提舍願生偈註』卷下]
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1978_,47,0420c14:1978_,47,0424b20.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース) 諸宗部 Vol.47 『讃阿彌陀佛偈』]
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11,532 |
道綽
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道綽(どうしゃく、ピンイン: dào-chuò)は、唐代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧侶。俗姓は衛氏。「西河禅師」とも。
浄土宗では、「浄土五祖」の第二祖とされる。
浄土真宗では、七高僧の第四祖とされ「道綽襌師」と尊称される。
陳:天嘉3年/北周:保定2年(562年)、并州受陽県(山西省呂梁市文水県)に生まれる。
14歳で出家し、『涅槃経』に精通。
30歳を過ぎて慧瓚(えさん)に師事し、戒律と禅定の実践に励む。
大業5年(609年)、48歳の時玄中寺の曇鸞の碑文を見て感じ、自力修行の道を捨て、浄土教に帰依し同寺に滞在する。出家者、在家者のために『観無量寿経』を200回以上講義。亡くなるまで念仏を日々7万遍称えたといわれる。念仏を小豆で数えながら称える「小豆念仏」を勧める(称名念仏)。
貞観15年(641年)、善導が、晋陽(山西省太原市)にいた道綽を訪ね師事した。そして道綽は没するまで、『観無量寿経』などの教えを授けた。 貞観19年(645年)4月27日、85歳にて逝去。
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道綽は、唐代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧侶。俗姓は衛氏。「西河禅師」とも。 浄土宗では、「浄土五祖」の第二祖とされる。 浄土真宗では、七高僧の第四祖とされ「道綽襌師」と尊称される。
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{{Infobox Buddhist
|名前= 道綽
|生没年= [[陳 (南朝)|陳]]:[[天嘉 (陳)|天嘉]]3年/[[北周]]:[[保定 (北周)|保定]]2年([[562年]]) <br/> - [[貞観 (唐)|貞観]]19年([[645年]])4月27日
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|著作= 『安楽集』
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'''道綽'''(どうしゃく、[[拼音|ピンイン]]: {{unicode|dào-chuò}})は、[[唐|唐代]]の[[浄土教#中国|中国浄土教(中国浄土宗)]]の[[僧|僧侶]]。俗姓は衛氏。「'''西河禅師'''」とも。
[[浄土宗]]では、「浄土五祖<ref>浄土五祖…法然が浄土宗相承の祖師と定めた5人の高僧。(『岩波仏教辞典』第二版、P.539「浄土五祖」より引用。)</ref>」の第二祖とされる。
[[浄土真宗]]では、[[七高僧]]の第四祖とされ「'''道綽襌師'''」と尊称される。
== 生涯 ==
[[陳 (南朝)|陳]]:[[天嘉 (陳)|天嘉]]3年/[[北周]]:[[保定 (北周)|保定]]2年([[562年]])、[[并州]]受陽県([[山西省]][[呂梁市]][[文水県]])に生まれる。
14歳で出家し、『[[大般涅槃経|涅槃経]]』に精通。
30歳を過ぎて慧瓚(えさん)に師事し、戒律と禅定の実践に励む。
[[大業]]5年(609年)、48歳の時[[玄中寺]]の[[曇鸞]]の碑文を見て感じ、自力修行の道を捨て、[[浄土教]]に帰依し同寺に滞在する。[[出家]]者、[[在家]]者のために『[[観無量寿経]]』を200回以上講義。亡くなるまで[[念仏]]を日々7万遍称えたといわれる。念仏を[[アズキ|小豆]]で数えながら称える「小豆念仏」を勧める([[称名念仏]])。
貞観15年(641年)、[[善導]]が、晋陽(山西省[[太原市]])にいた道綽を訪ね師事した。そして道綽は没するまで、『観無量寿経』などの教えを授けた。
[[貞観 (唐)|貞観]]19年([[645年]])4月27日、85歳にて逝去。
== 著書 ==
*『'''安楽集'''』 2巻 - 『[[観無量寿経#訳本|佛説観無量寿経]]』の解釈書。
== 参考文献 ==
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
*{{Cite book|和書
|author=中村元|authorlink=中村元 (哲学者)
|coauthors=[[福永光司]]・[[田村芳朗]]・[[末木文美士]]・今野 達 編
|year=2002
|title=岩波仏教辞典 第二版
|edition=
|publisher=岩波書店
|isbn=4-00-080205-4
}}
*{{Cite book|和書
|author=河野法雲
|coauthors=雲山龍珠 監修
|year=1994
|title=真宗辞典
|edition=新装版
|publisher=法藏館
|isbn=4-8318-7012-9
}}
*{{Cite book|和書
|author=瓜生津隆真|authorlink=瓜生津隆真
|coauthors=細川行信 編
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|title=真宗小事典
|edition=新装版
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*{{Cite book|和書
|author=勧学寮 編
|year=2008
|title=浄土三部経と七祖の教え
|publisher=本願寺出版社
|isbn=978-4-89416-792-6
}}
== 関連文献 ==
*『[[曇鸞]] [[藤堂恭俊]] 道綽 [[牧田諦亮]] 浄土仏教の思想 第4巻』 [[講談社]]、1995年
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[観無量寿経疏]]
* [[無量寿経優婆提舎願生偈|浄土論]] - [[無量寿経優婆提舎願生偈註|浄土論註]]
== 外部リンク ==
*[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/index.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)]
**[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1958_,47,0004a06:1958_,47,0022a11.html 『安樂集』(諸宗部 Vol.47)] - <small>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1958_,47,0004a06:1958_,47,0014a28.html 「卷上」]・[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1958_,47,0014b03:1958_,47,0022a11.html 「卷下」]</small>
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善導
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善導(ぜんどう、拼音: Shàndăo)は、中国浄土教(中国浄土宗)の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する。姓は朱氏。「終南大師」、「光明寺の和尚」とも呼ばれる。善導の伝記は大藏経 雑蔵 史伝部『往生西方浄土瑞応刪伝』、『続高僧伝』第27巻 「会通伝」、『仏祖統記』の巻26、巻27等にみえる。
浄土宗では、「浄土五祖」の第三祖とされる。
浄土真宗では、七高僧の第五祖とされ「善導大師」・「善導和尚」と尊称される。
同時代の人物には、『三論玄義』の著者で三論宗を大成させた吉蔵や、訳経僧で三蔵法師の1人である玄奘がいる。
開皇17年(597年)、天台宗の開祖・智顗が死去する。
大業5年(609年)、道綽が浄土教に帰依する。
大業9年(613年)、泗州夏丘県(安徽省宿州市泗県)、あるいは青州臨淄県(山東省淄博市臨淄区)に生まれる。幼くして、出家し諸所を遍歴した後、長安の南の終南山悟真寺に入寺する。
貞観15年(641年)、晋陽(山西省太原市)にいた道綽を訪ね師事した。そして貞観19年(645年)に道綽が没するまで、『観無量寿経』などの教えを受けた。30年余りにわたり別の寝床をもたず、洗浴の時を除き衣を脱がず、目を上げて女人を見ず、一切の名利を心に起こすことがなかったという。托鉢にすすんで行き、数多く写経をし、200枚あまり浄土変曼荼羅を描き、修行僧からの供物は「私は釈尊でないから」と受け取らず、塔や廟を見かけると修復した。道綽没後は、終南山悟真寺に戻り厳しい修行をおこなう。
その後長安に出て、『阿弥陀経』(10万巻)を書写して有縁の人々に与えたり、浄土の荘厳を絵図にして教化するなど、庶民の教化に専念する。一方で、龍門奉先寺の石窟造営の検校(けんぎょう)を勤めるなど、幅広い活動をする。長安では、光明寺・大慈恩寺・実際寺などに住する。
永隆2年3月14日(681年4月7日。3月27日(4月20日)とも)、69歳にて逝去。終南山の山麓に、弟子の懐惲らにより、崇霊塔(善導塔)と香積寺が建立された。皇帝高宗寂後、寺額を賜りて光明と号すようになった。
善導は中世日本の法然・親鸞に多大な影響を与えた。
法然が専修念仏を唱道したのは、善導の『観経正宗分散善義』巻第四(『観無量寿経疏』「散善義」)の中の、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文からである。
今日でも浄土真宗の勤行に使用される『正信偈』では善導に限りひとり誤りなく仏の正意をあかしたまえりという一節があり、法要の終わりに称える偈文(回向文)は、善導の『観無量寿経疏』「観経玄義分 巻第一」 から、「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」が使われ、仏事の功徳をその故人や己だけのものにすることなく、広く有縁の人々あるいは一切有情に向けて回向するために、読誦される。
大半が長安在住時の撰述である。中でも『観経疏』は、日本の浄土教において、『佛説観無量寿経』(『観経』)の解釈書として、非常に重要な文献である。
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善導は、中国浄土教(中国浄土宗)の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する。姓は朱氏。「終南大師」、「光明寺の和尚」とも呼ばれる。善導の伝記は大藏経 雑蔵 史伝部『往生西方浄土瑞応刪伝』、『続高僧伝』第27巻 「会通伝」、『仏祖統記』の巻26、巻27等にみえる。 浄土宗では、「浄土五祖」の第三祖とされる。 浄土真宗では、七高僧の第五祖とされ「善導大師」・「善導和尚」と尊称される。 同時代の人物には、『三論玄義』の著者で三論宗を大成させた吉蔵や、訳経僧で三蔵法師の1人である玄奘がいる。
|
{{Infobox Buddhist
|名前=善導
|生没年=[[大業]]9年([[613年]])<br /> - [[永隆 (唐)|永隆]]2年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[681年]][[4月7日]]。[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]([[4月20日]])とも)
|諡号=終南大師
|尊称=善導大師・善導和尚(かしょう)
|生地=[[泗州]][[泗県|夏丘県]](安徽省)<br />あるいは、[[青州 (山東省)|青州]][[臨淄区|臨淄県]]
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|画像=[[File:Two Patriarchs - Shandao (Otani University Museum).jpg|150px]]
|説明文=善導・法然二祖対面図(大谷大学博物館蔵)
|宗旨=[[浄土教#中国|浄土教(中国)]]
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}}
'''善導'''(ぜんどう、{{ピン音|Shàndăo}})は、[[浄土教#中国|中国浄土教(中国浄土宗)]]の[[僧]]。「[[称名念仏]]」を中心とする浄土思想を確立する。姓は朱氏。「'''終南大師'''」、「'''光明寺の和尚'''」とも呼ばれる。善導の伝記は大藏経 雑蔵 史伝部[[『往生西方浄土瑞応刪伝』]]、『続高僧伝』第27巻 「会通伝」、『仏祖統記』の巻26、巻27等にみえる。
[[浄土宗]]では、「浄土五祖<ref>浄土五祖…法然が浄土宗相承の祖師と定めた5人の高僧。(『岩波仏教辞典』P.539「浄土五祖」より引用)</ref>」の第三祖とされる。
[[浄土真宗]]では、[[七高僧]]の第五祖とされ「'''善導大師'''」・「'''善導和尚'''」と尊称される。
同時代の人物には、『三論玄義』の著者で[[三論宗]]を大成させた[[吉蔵]]や、訳経僧で[[三蔵法師]]の1人である[[玄奘三蔵|玄奘]]がいる。
== 生涯 ==
[[開皇]]17年([[597年]])、[[天台宗]]の開祖・[[智顗]]が死去する。
[[大業]]5年([[609年]])、[[道綽]]が浄土教に帰依する。
大業9年([[613年]])、[[泗州]]夏丘県([[安徽省]][[宿州市]][[泗県]])、あるいは[[青州 (山東省)|青州]]臨淄県([[山東省]][[淄博市]][[臨淄区]])に生まれる。幼くして、出家し諸所を遍歴した後、長安の南の終南山悟真寺に入寺する。
[[貞観 (唐)|貞観]]15年([[641年]])、晋陽([[山西省]][[太原市]])にいた道綽を訪ね師事した。そして貞観19年([[645年]])に道綽が没するまで、『[[観無量寿経]]』などの教えを受けた。30年余りにわたり別の寝床をもたず、洗浴の時を除き衣を脱がず、目を上げて女人を見ず、一切の名利を心に起こすことがなかったという。托鉢にすすんで行き、数多く写経をし、200枚あまり浄土変曼荼羅を描き、修行僧からの供物は「私は釈尊でないから」と受け取らず、塔や廟を見かけると修復した。道綽没後は、終南山悟真寺に戻り厳しい修行をおこなう。
その後[[長安]]に出て、『[[阿弥陀経]]』(10万巻)を書写して有縁の人々に与えたり、浄土の荘厳を絵図にして教化するなど、庶民の教化に専念する。一方で、[[龍門洞窟 |龍門]][[奉先寺]]の石窟造営の[[検校]](けんぎょう)を勤めるなど、幅広い活動をする。長安では、光明寺・[[大慈恩寺]]・実際寺などに住する。
[[永隆 (唐)|永隆]]2年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[681年]][[4月7日]]。[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]([[4月20日]])とも)、69歳にて逝去。[[終南山]]の山麓に、弟子の懐惲らにより、崇霊塔(善導塔)と[[香積寺 (西安市)|香積寺]]が建立された。皇帝[[高宗 (唐)|高宗]]寂後、寺額を賜りて光明と号すようになった。
善導は中世日本の[[法然]]・[[親鸞]]に多大な影響を与えた。
法然が専修念仏を唱道したのは、善導の[[観無量寿経疏#構成|『観経正宗分散善義』巻第四(『観無量寿経疏』「散善義」)]]の中の、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文からである。
今日でも[[浄土真宗]]の勤行に使用される『[[正信偈]]』では'''善導'''に限りひとり誤りなく仏の正意をあかしたまえりという一節があり、法要の終わりに称える偈文(回向文)は、'''善導'''の『観無量寿経疏』「観経玄義分 巻第一」 から、「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」が使われ、仏事の功徳をその故人や己だけのものにすることなく、広く有縁の人々あるいは一切有情に向けて回向するために、読誦される。
== 著作 ==
* [[観無量寿経疏|『観無量寿経疏』(『観経疏』)]]4巻 - 『観経玄義分 巻第一』、『観経序分義 巻第二』、『観経正宗分定善義 巻第三』、『観経正宗分散善義 巻第四』の4巻。
* 『往生礼讃』(『往生礼讃偈』)1巻
* 『法事讃』(『浄土法事讃』)2巻 - 上巻首題『転経行道願往生浄土法事讃』・上巻尾題『西方浄土法事讃』、下巻首題・尾題『安楽行道転経願生浄土法事讃』
* 『般舟讃』1巻 - 首題『依観経等明般舟三昧行道往生讃』、尾題『般舟三昧行道往生讃』
* 『観念法門』1巻 - 首題『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』、尾題『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経』
大半が[[長安]]在住時の撰述である。中でも『観経疏』は、日本の[[浄土教#日本|浄土教]]において、[[観無量寿経#訳本|『佛説観無量寿経』(『観経』)]]の解釈書として、非常に重要な文献である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
<!-- 本記事を編集する際に出典として用いた文献 -->
*『岩波仏教辞典』 [[岩波書店]]、1989年、第二版2002年
=== 関連文献 ===
<!-- 以下の「関連文献」を出典として本記事を編集した際は、「参考文献」の節に書籍情報を移動してください。 -->
* [[藤田宏達]] 『善導 人類の知的遺産18』 [[講談社]]、1985年
* [[廣瀬杲|広瀬杲]]訳注 『善導 観経疏 大乗仏典 中国・日本篇5』 [[中央公論新社|中央公論社]]、1993年。他に[[曇鸞]]「[[無量寿経優婆提舎願生偈註|浄土論註]]」、[[神戸和麿]]訳注
* [[牧田諦亮]] 『善導 浄土仏教の思想 第5巻』 [[講談社]]、2000年
* [[佐藤成順]] 『善導の宗教―中国仏教の革新』 [[浄土宗]]出版「浄土選書34」、2006年
== 関連項目 ==
* [[六時礼讃]]
* [[浄土三部経]]
== 外部リンク ==
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/index.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1753_,37,0245c08:1753_,37,0278c27.html 『觀無量壽佛經疏』(經疏部 Vol.37)] - <small>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1753_,37,0245c08:1753_,37,0251c03.html 『觀經玄義分卷第一』] ・[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1753_,37,0251c07:1753_,37,0261a28.html 『觀經序分義卷第二』] ・[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1753_,37,0261b03:1753_,37,0270b07.html 『觀經正宗分定善義卷第三』]・[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1753_,37,0270b11:1753_,37,0278c27.html 『觀經正宗分散善義卷第四』]</small>
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1980_,47,0438b14:1980_,47,0448a14.html 『往生禮讃偈』(諸宗部 Vol.47)]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1979_,47,0424b25:1979_,47,0438b08.html 『轉經行道願往生淨土法事讃』(諸宗部 Vol.47)] - <small>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1979_,47,0424b25:1979_,47,0430c02.html 『轉經行道願往生淨土法事讃卷上』]・[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1979_,47,0430c06:1979_,47,0438b08.html 『安樂行道轉經願生淨土法事讃卷下』]</small>
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1981_,47,0022b22:1981_,47,0456a26.html 『依觀經等明般舟三昧行道往生讃』(諸宗部 Vol.47)]
** [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1959_,47,0022b22:1959_,47,0030b01.html 『觀念阿彌陀佛相海三昧功徳法門』(諸宗部 Vol.47)]
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永世名人
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永世名人(えいせいめいじん)
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永世名人(えいせいめいじん) 将棋における称号のひとつ。名人 (将棋)#永世名人参照。
連珠における称号のひとつ。名人戦 (連珠)#永世名人参照。
競技かるたにおける称号のひとつ。名人・クイーン#永世名人・永世クイーン参照。
『プレバト!!』(毎日放送)における俳句査定ランキングの称号。プレバト!!#特待生制度参照。
永世名人 (ゲーム) - コナミ(現・コナミデジタルエンタテインメント)による、将棋ゲームソフトシリーズの名称。
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'''永世名人'''(えいせいめいじん)
*[[将棋]]における[[称号]]のひとつ。[[名人 (将棋)#永世名人]]参照。
*[[連珠]]における称号のひとつ。[[名人戦 (連珠)#永世名人]]参照。
*[[競技かるた]]における称号のひとつ。[[名人・クイーン#永世名人・永世クイーン]]参照。
*『[[プレバト!!]]』([[毎日放送]])における[[俳句]]査定ランキングの称号。[[プレバト!!#特待生制度]]参照。
*[[永世名人 (ゲーム)]] - [[コナミ]](現・[[コナミデジタルエンタテインメント]])による、将棋[[ゲームソフト]]シリーズの名称。
== 関連項目 ==
* [[名誉名人]]
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健康保険
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日本における健康保険(けんこうほけん、英語: Employee Health Insurance)とは、雇用者の福利厚生を目的に社会保険方式で運営される医療保険(被用者保険、職域保険)のうち、健康保険法に基づくもの。医療保険事務上の略称は社保(しゃほ)と言われ、国保(こくほ)と呼ばれる地域保険と区別される。なお、公務員などの共済組合加入者の被用者保険については、健康保険法ではなく国家公務員共済組合法などに基づく共済組合でカバーされる。
健康保険法については以下では条数のみ記す。
健康保険制度は、労働者 又はその被扶養者の業務災害以外の疾病、負傷若しくは死亡又は出産 に関して保険給付を行い、もって国民の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とする(第1条)。業務上の疾病等については労災保険の対象となる。業務上か業務外かはっきりしない場合は、一応業務上として取り扱い、最終的に業務外と判断された場合はさかのぼって健康保険を適用する(昭和28年4月9日保分発2014号)。健康保険と労災保険のどちらの給付も受けられないケースがあったことから、平成25年に第1条を改正し、広く医療を保障する観点から、労災保険の給付が受けられない場合には、原則として健康保険の給付が受けられることとするものである。 健康保険制度については、これが医療保険制度の基本をなすものであることにかんがみ、高齢化の進展、疾病構造の変化、社会経済情勢の変化等に対応し、その他の医療保険制度及び後期高齢者医療制度並びにこれらに密接に関連する制度と併せてその在り方に関して常に検討が加えられ、その結果に基づき、医療保険の運営の効率化、給付の内容及び費用の負担の適正化並びに国民が受ける医療の質の向上を総合的に図りつつ、実施されなければならない(第2条)。
日本の健康保険制度は、ドイツの疾病保険法をモデルとして、1926年(大正15年)(保険給付及び費用負担に関する規定は1927年(昭和2年))に施行された。当初は疾病保険と災害補償を兼ねた保険であり、工場法・鉱業法の適用のある事業所への適用とされた。
健康保険法の規定上は厚生労働大臣が幅広い権限を有しているが、実際の事務(次にあげる事務)は日本年金機構(1,2)、地方厚生局長又は地方厚生支局長(3)に委任・委託されている。
保険者(保険事業の経営主体として保険給付等の業務を行う者)は、全国健康保険協会及び健康保険組合とされる(第4条)。ただし、日雇特例被保険者については全国健康保険協会のみが保険者となり、健康保険組合が保険者となることはない。
加入は原則として事業所単位(本社・支社・工場など)で行われる。健康保険が適用となる事業所は、加入が義務付けられている事業所(強制適用事業所)と、厚生労働大臣の認可を受けて加入する事業所(任意適用事業所)がある。適用事業所は健康保険と厚生年金とで共通である。
「適用業種」とされるのは、以下の業種である。
労災保険や雇用保険とは異なり、適用事業所でない事業所が、被保険者となるべき者からの希望があっても適用事業所とする義務はないし、任意適用事業所に使用される被保険者からの希望があっても、事業主は任意適用取消の申請を行う義務もない。
2以上の事業主が同一である場合は、厚生労働大臣の承認を受けて当該2以上の事業所を一の適用事業所とでき(一括適用事業所、第34条。一般的には法人一括の単位で適用されている)、承認にあたっては以下の要件をすべて満たすことが必要となる。
もっとも中小の事業所では人事・設備等の面で一括適用事業所の承認を受けるための要件を満たせない場合も多いことから、人事や給与等の管理が本社で行われている被保険者については、その者が勤務する事業所にかかわらず、健康保険・厚生年金の手続きを本社において行う(本社における被保険者として取り扱う)ことが認められている(本社管理、平成18年3月15日庁保険発第0315002号)。これらの場合、被保険者が本社・支社間で転勤したとしても、その都度の被保険者資格の取得・喪失の手続きは不要となる。
事業主は、健康保険に関する書類を、その完結の日から2年間保存しなければならない(規則第34条)。初めて適用事業所となった事業主、事業の廃止等により適用事業所に該当しなくなった事業主、事業主の変更があった場合 は、当該事実のあった日から5日以内に所定の届出をしなければならない。
被保険者には、適用事業所に使用される者である「被保険者」(以下、「一般の被保険者」と表記)、及び「日雇特例被保険者」、適用事業所に使用されなくなった後に任意で加入する「任意継続被保険者」及び「特例退職被保険者」との4種類がある(第3条1項、2項、4項)。被保険者資格の取得・喪失は、原則として保険者等の確認によってその効力を生じ、事業主が資格取得の届出を行う前に生じた事故であっても、さかのぼって資格取得の確認が行われれば、保険事故となる。
一般の被保険者は、以下のいずれかに該当するに至った日から、被保険者の資格を取得する(第35条)。事業主は、一般の被保険者資格を取得した者があるときは、5日以内に、保険者が全国健康保険協会の場合は日本年金機構に、健康保険組合の場合は当該健康保険組合に(以下、「機構又は組合に」と略す)被保険者資格取得届(当該被保険者が被扶養者を有する場合は被扶養者届も併せて)を提出しなければならない。平成29年1月より、健康保険組合に提出する資格取得届には被保険者の個人番号を、日本年金機構に提出する資格取得届については被保険者の基礎年金番号を記入しなければならない。
同時に2以上の事業所に使用される被保険者(日雇特例被保険者を除く)は、2以上の事業所に使用されるに至った日から10日以内に、その被保険者が、その保険者(いずれも協会けんぽで業務が2以上の年金事務所に分掌されているときは、その年金事務所)を選択する。
事業所が適用事業所となった場合、労災保険や雇用保険とは異なり、法人から労働の対償として報酬を受け取っていれば、法人の代表者・役員も含むすべての被用者は原則として被保険者となる(昭和24年7月28日保発74号)。外国人であっても適法に就労していれば一般の被保険者となる。ただし個人事業主は「使用される者」とはみなされないので、被保険者とならない。また、被保険者・被扶養者が法人の役員(取締役、業務執行社員、執行役、ほか名称を問わずこれらに準ずる者と同等以上の支配力を有すると認められるものを含む)である場合に、その業務上の負傷については、使用者側の責めに帰すべきものであるため、労使折半の健康保険から保険給付を行うことは適当でなく、原則として保険給付の対象外とされる(第53条の2、平成25年8月14日事務連絡)。
被保険者が5人未満である小規模な適用事業所に所属する法人の代表者であって一般の労働者と著しく異ならないような労務に従事している者については業務上の事由による疾病等であっても健康保険による保険給付の対象とする(第53条の2、規則第52条の2)。従来、当面の暫定措置とされていて(平成15年7月1日保発0701002号)、さらに傷病手当金は当措置の対象外とされてきたが、平成25年の改正により第53条の2が追加され前述の通知が廃止されたことで、傷病手当金も含めて措置が恒久化された。
休職者については、休職期間中に給与の支給がなされているか、一時的に給与の支払いが停止されているにすぎない場合は、被保険者資格を存続させる。しかし休職中に給与が全く支給されず、実質的に使用関係が消滅している場合は、被保険者資格を喪失させる(昭和6年2月4日保発59号)。雇用契約は存続しても、事実上の使用関係がないものについては、被保険者資格を喪失させる(昭和25年4月14日保発20号)。
被保険者が解雇された場合においてその解雇の効力を争う場合、解雇行為が明らかに労働法規や労働協約に違反している場合を除き、事業主から資格喪失届の提出があったときは、たとえ当該事件が係争中であったとしても一応資格を喪失したものとして受理する扱いになっている(昭和25年10月9日保発68号)。
労働組合専従者については、従前の事業主との関係では被保険者資格を喪失するが、労働組合に使用される者として一般の被保険者となる(昭和24年7月7日職発921号)。なお、共済組合の組合員については、一般の被保険者であっても原則として健康保険法による保険給付は行わず、保険料も徴収しない。
同一の事業所において雇用契約上いったん退職した者が1日の空白もなく引き続き再雇用された場合には、事実上の使用関係は継続しているので、被保険者資格も継続する。有期の雇用契約又は任用が1日ないし数日の間を空けて再度行われる場合においても、雇用契約又は任用の終了時にあらかじめ、事業主と被保険者との間で次の雇用契約又は任用の予定が明らかであるような事実が認められるなど、事実上の使用関係が中断することなく存続していると、就労の実態に照らして判断される場合には、被保険者資格を喪失させることなく取り扱う必要がある(就労の実態に照らして個別具体的に判断する。平成26年1月17日保保発0117第2号)。ただし、60歳以上の者の再雇用については、使用関係をいったん中断したものとみなして取扱っても差し支えない(平成25年5月31日保発0531第1号)。そうすることで、再雇用に伴う給与の低下に即応して在職老齢年金の支給停止額を減額改定できる(特別支給の老齢厚生年金の受給額を多くできる)ため等である。
短時間労働者(パートタイム労働法第2条でいう「短時間労働者」)として使用される者の加入については、常用的雇用関係が認められるかにより判断される。具体的な取扱い基準については、就業規則や雇用契約書に基づき、次のいずれにも該当する場合、一般の被保険者となる。なお平成28年9月までは、これらの要件に加えて「就労形態や職務内容等を総合的に勘案して」 被保険者資格の取得の可否を判断していたが、平成28年10月以降は単に所定労働時間数・所定労働日数のみで判断する。
「4分の3」要件を満たさない場合であっても、以下の要件をすべて満たす短時間労働者は、平成28年10月以降、一般の被保険者とする。
所定労働時間・所定労働日数が4分の3に満たない場合でも、業務の都合等により恒常的に4分の3基準を満たすこととなる場合、実際の労働時間・労働日数が連続する2月に4分の3基準を満たし、引き続き同様の状態が続くと見込まれるときは、4分の3基準を満たした3月目の初日に被保険者資格を取得する。ただし前記の5要件をすべて満たす場合は、そのときから被保険者資格を取得する。また平成28年9月以前に被保険者資格を取得していた者が平成28年10月以降に4分の3要件に該当しなくなる場合でも、引き続き被保険者資格を有する。
短時間正社員(フルタイムの正社員と比してその所定労働時間が短い正規型の労働者であって、期間の定めのない労働契約を締結しているもの)については、次のいずれにも該当する場合、一般の被保険者となる。
派遣労働者は、派遣元の事業所における被保険者となる。
登録型派遣労働者の就業と就業の間の待機期間が、1月を超えないと確実に見込まれる場合は、待機期間中も引き続き被保険者資格を存続させて差し支えない。1月以内に次回の雇用契約(1月以上のものに限る)が締結されなかった場合には、その雇用契約が締結されないことが確実になった日又は当該1月が経過した日のいずれか早い日をもって使用関係が終了したものとして資格喪失する。
以下のいずれかに該当する者は、日雇特例被保険者となる場合(原則として1〜4。詳細は、日雇健康保険を参照)を除いて、被保険者となることができない(適用除外、第3条1項但書)。1~6は厚生年金と共通である。
被保険者によって生計を維持されている者で所定の要件を満たす者は、保険者の認定を受けることにより被扶養者としてその保険の適用を受けることができる。保険料免除の一類型(特約)であり、被扶養者に保険料の負担はなく、被扶養者の有無、増減で被保険者の保険料に変動はない。元来は収入を得られない子供や障害者、長期入院者、専業主婦、年老いた親などが想定されていたが、家族や社会環境の変化などにより、その態様は変化している(専業主夫、リストラされた夫、資格試験受験生、いわゆるフリーターなど)。20歳以上60歳未満の配偶者は、被扶養者認定があったときは国民年金第3号被保険者として取り扱うこととされる(昭和61年4月1日庁保険発18号)。事業主は、その使用する一般の被保険者が被扶養者を有するに至ったときは、5日以内に被扶養者異動届を機構又は組合に提出しなければならない。なお任意被保険者が被扶養者を有するに至った場合は、被保険者自らが提出する。
被扶養者として認定される要件としては、以下のように定められている(第3条7項)。ただし、日本国内に居住すること及び後期高齢者医療の被保険者等でないことが必要である。
「日本国内に居住」については、令和2年4月の改正法施行により新たに要件に加えられ、その確認は原則として住民基本台帳の記載に基づいて行う。例外的に、「日本国内に住所を有しないが渡航目的その他の事情を考慮して日本国内に生活の基礎があると認められるものとして厚生労働省令で定めるもの」については被扶養認定することとし、以下の者はそれぞれに掲げる添付書類によって「厚生労働省令で定めるもの」として認定される(規則第37条の2、令和元年11月13日保保発1113第1号)。
なお、以下の者は日本国内に住所を有しても被扶養認定しない。ただし、国内居住要件の導入により被扶養者でなくなる者であって、令和2年4月1日時点で保険医療機関に入院している者の被扶養者の資格について、入院期間中は継続させる経過措置が設けられている。
扶養状況を確認するために、保険者は被扶養者に係る確認(扶養現況調査)を行うことができるとされる(規則第50条)。調査票に回答と収入や居住状態の立証書類を添付して保険者に提出する。収入が多いなど上記法定の認定条件を満たさない場合、調査票の提出がない場合、勤務先の社会保険に加入していた場合は被扶養者資格がなくなる(国民健康保険などに加入する)。扶養現況調査は健康保険の適正な適用に関し重要な役割を果たしている(不当な社会保険料免除を防ぐ)が、膨大な数の被扶養者について確認を行うため、対応に苦慮している保険者も多い。厚生労働省は1年に1回以上(毎年一定の期日を定めて)実施するように保険者に指導している。
従来、被扶養者の認定、年収や同一世帯か否かの判定は、被保険者から要件に合致している旨の申し出があれば特に厳格な審査をすることなく認定していたが、平成30年10月より取り扱いが変更となり、新たな申請には公的な証明書(課税証明書、戸籍謄本等)の添付が義務づけられるようになった(既に身分関係を認定するための情報を保険者又は事業主が取得している場合(個人番号を用いて確認する場合等)を除く。平成30年8月29日保保発0829第1号)。
以下のすべての要件を満たす者は、保険者に申し出ることによって、被保険者資格喪失後も継続して当該保険者の被保険者となる(第37条。「任意継続被保険者」、「任意継続加入員」、「任意継続組合員」などと呼ばれるが、以下、本項では「任意継続被保険者」で統一する)。任意継続被保険者は一般の被保険者資格を喪失した日に、その資格を取得する。家族等も被扶養者として加入する事ができ、要件は基本的に在職中の被扶養者認定の場合と同様である。
任意継続被保険者は、以下のいずれかに該当するに至った場合、その資格を喪失する(第38条、カッコ内は資格喪失日)。
任意継続の保険料については、事業主負担がなくなるため、被保険者の全額負担となり、自己の負担する保険料を納付する義務を負う。基本的に天引きの金額の約2倍から2.5倍になる(徴収する保険料の上限を設定している保険者もある)。各種の届出も事業主経由ではなく自ら行わなければならない。
納付後、同月内に健康保険(協会けんぽ、共済組合、健康保険組合、国民健康保険組合(厚生年金適用事業所に限る))の被保険者となった場合には後日還付される(ただし資格取得月を除く)。
任意継続被保険者の制度は大正15年の健康保険法制定時より存在する仕組みであり、国民皆保険が未達成であった当時は退職による無保険の回避が主な狙いであった。当初の任意継続要件は「資格喪失の前1年内に180日以上、又は資格喪失の際に引き続き60日以上被保険者であった者」とされ、加入期間は最大6か月とされた。その後の法改正で要件の緩和や加入期間の延長がなされ、現行の規定に至る。
厚生労働大臣の認可を受けて、「特例退職被保険者」制度を設けている健康保険組合(特定健康保険組合)がある(附則第3条)。厚生年金受給権がある者で、被保険者期間が20年以上または40歳以降10年以上ある者が継続加入できる(任意継続被保険者と異なり、「2年間」といった期間制限はない)。なろうとする者は、年金証書等が到達した日の翌日から起算して3月以内に申し出なければならない(健保組合が新たに特定健保組合の認可を受けた場合はこの限りではない。規則第168条4項)。申出が受理された日に特例退職被保険者の資格を取得する。任意継続被保険者である者は特例退職被保険者となることはできない。任意性の保険であるため、保険料納付や資格喪失等に関しては任意継続被保険者と共通している。但し、この制度を持つ健康保険組合は全国約1,500組合のうち70弱の比較的大規模な組合だけである。現役世代を圧迫するとして廃止や廃止の検討をしている組合が出てきている。
一般の被保険者に係る保険料は、厚生年金保険料と同様、事業主と被保険者とで保険料を折半して負担する(第161条1項)。事業主は、その使用する被保険者及び自己の負担する保険料を納付する義務を負い(第161条2項)、被保険者に支払うべき報酬がなくても、事業主は被保険者分も含めた全額の支払い義務を負う(昭和2年2月18日保理578号)。事業主は原則として被保険者の負担すべき前月分(月の末日に退職し、報酬もその月に支払われる場合については前月分及び当月分)の標準報酬月額に係る保険料を報酬から控除することができる(第167条)。支払期日は翌月末日(前納不可)である。
任意継続被保険者に係る保険料は、本人が全額負担しなければならず、支払期日はその月の10日(初めて納付すべき保険料については、保険者が指定する日)である(第164条)。なお、任意継続被保険者は将来の一定期間(1年又は6か月)の保険料を前納することができる(第165条)。
健康保険組合は、規約で定めるところにより、一般保険料、介護保険料とも事業主の負担割合を増加させることができ(第162条)、協会けんぽに比べ保険料率が低い組合が多いが、中には協会けんぽの保険料率を超える財政基盤の脆弱な組合が存在する。なお事業主が負担割合を増加させた場合、その増加割合相当額は「報酬」には含まれない。
保険料は被保険者の標準報酬月額及び標準賞与額に保険料率を乗ずることにより計算される(第156条)。
一般保険料額 = 標準報酬月額 × 一般保険料率 (介護保険第2号被保険者については、これに介護保険料額(標準報酬月額 × 介護保険料率)が加算され、あわせて徴収される)
政管健保が2008年(平成20年)10月より全国健康保険協会に移管され、それに伴い全国一律だった一般保険料率も医療費に応じて各都道府県を単位に3.0%~13.0%(当初は3.0%~10.0%、平成28年3月までは3.0%~12.0%)の範囲内で協会が決定することとなった。ただ、地域の医療格差のみが反映されるようになっていて、年齢構成や所得水準の違いに起因する都道府県ごとの財政力の差については都道府県間で調整されるので保険料率には反映されない。協会が保険料率を変更するには厚生労働大臣の認可が必要で、大臣は保険料率が不適当であり事業の健全な運営に支障があると認めるときは協会に変更の認可を申請するよう命ずることができる(第160条)。
実際には2009年9月より各都道府県別の保険料率となり、8.26%(北海道)〜8.15%(長野県)と定められた。更にその半年後の2010年3月には全国平均で1.14%の大幅な保険料率引き上げが行われ、9.42%(北海道)〜9.26%(長野県)となり、その後も保険料率の引き上げが続いている。2018年4月以降については、10.75%(佐賀県)〜9.63%(新潟県)となっている。
健康保険組合においても、一般保険料率は3.0〜13.0%の範囲内で組合ごとに決定し、変更に際しては原則として厚生労働大臣の認可を受けなければならない。合併によって設立された健康保険組合においては、合併の翌5年度に限り、厚生労働大臣の認可を受けて不均一の一般保険料率を設定することができる。
保険料は原則として被保険者資格取得月から資格喪失月の前月まで徴収されるが、資格取得月にその資格を喪失した場合は、その月の保険料は徴収される。同一月に2回以上の資格の得喪があった場合は、1月につき2月分以上の保険料の徴収がありうる。
保険料は、以下の場合は納期前であってもすべて徴収することができる(繰上徴収、第172条)。
前月から引き続き一般の被保険者である者が少年院、刑事施設、労役場その他これらに準ずる施設に収容・拘禁された場合、その月以降該当しなくなる月の前月までの保険料は徴収されない(第158条)。ただし同月中に収容等されなくなった場合は保険料は徴収される。事業主は、被保険者がこれらに該当する(しなくなった)場合は、「第118条1項該当届(非該当届)」 を5日以内に機構又は組合に提出しなければならない。
育児休業等(育児介護休業法による育児休業もしくは同法による育児を理由とする所定労働時間の短縮等の措置等をいう。以下同じ)をしている一般の被保険者が使用される事業所の事業主が保険者等に申し出たときは、育児休業等開始日の属する月から、終了日の翌日が属する月の前月までの期間、当該被保険者に関する保険料は徴収されない(第159条)。被保険者が育児休業等期間を変更したとき、または育児休業等終了予定日の前日までに育児休業等を終了したときは、速やかに機構又は組合に届出なければならない。法人の代表取締役・専任役員たる被保険者は育児休業等による保険料免除は認められない(育児介護休業法は対象を「労働者」に限っているため。平成21年12月28日雇児発1228第2号)。なお労使協定により子が3歳に達する日以降の育児休業等を定めている場合であっても、免除は3歳未満の子を養育するための育児休業等に限られる。
平成26年4月30日以降に産前産後休業が終了となる一般の被保険者が使用される事業所の事業主が保険者等に申し出たときは、産前産後休業開始日の属する月から、終了日の翌日が属する月の前月までの期間、当該被保険者に関する保険料は徴収されない(第159条の3)。被保険者が産前産後休業期間を変更したとき、または産前産後休業終了予定日の前日までに産前産後休業を終了したときは、速やかに「産前産後休業取得者変更(終了)届」を機構又は組合へ提出する。育児休業等とは異なり、法人の代表取締役・専任役員たる被保険者も産前産後休業による保険料免除が認められる。
免除は事業主負担分、被保険者負担分双方について行われる。なお、任意継続被保険者、特例退職被保険者については免除は行われない(これらに該当しても保険料は徴収される)。
保険料その他健康保険法の規定による徴収金を滞納する者があるときは、保険者等は期限を指定して督促しなければならない。督促状により指定する期限は、督促状を発する日から起算して10日以上経過した日でなければならない(第180条1項~3項)。なお督促は規則に定められた様式の督促状(様式第20号)で行われ、口頭、電話または普通の書面で行われることはない(規則第153条)。繰上徴収に該当する場合であっても、既に納期の過ぎた分の保険料については督促しなければならない(この場合延滞金は徴収されない)。
保険者等は督促を受けた者がその指定の期限までに保険料その他この法律の規定による徴収金を納付しないときは、国税滞納処分の例によってこれを処分し、又は滞納者の居住地若しくはその者の財産所在地の市町村に対して、その処分を請求することができる(第180条5項)。市町村は市町村税の例によりこれを処分したときは徴収金の4%相当額が厚生労働大臣から当該市町村に交付される(第180条6項)。機構・協会・組合が滞納処分を行う場合は、あらかじめ厚生労働大臣の認可を受けなければならない。また滞納者が悪質な場合には当該権限を財務大臣を通して国税庁長官に委任することができる。「悪質な場合」とは、以下のいずれの要件も満たす場合とされる。
督促したときは、やむを得ない事情がある場合、公示送達による督促の場合等を除き、保険者等は、徴収金額(1,000円未満の端数は切り捨て)に、納期限の翌日から徴収金完納または財産差し押さえの日の前日までの期間の日数に応じて、年14.6%(督促が保険料に係るものである場合は、納期限の翌日から3月を経過する日までの期間については年7.3%)の割合を乗じて計算した額の延滞金(100円未満の端数は切り捨て)を徴収する(第181条)。なお現在の低金利の状況では年14.6%の延滞金は高すぎるとの問題意識から、事業主の負担軽減等を図るべく、当分の間特例が設けられ、各年の特例基準割合(租税特別措置法第93項2項の規定に基づき、「前々年10月から前年9月までの各月における銀行の新規の短期貸出約定平均金利の合計を12で除して得た割合」として財務大臣が告示した割合に年1%の割合を加算)が年7.3%に満たない場合は、
とされる。令和3年の場合、特例基準割合は年1.5%(告示割合年0.5%に年1%を加算)とされたので、実際には以下のようになる。
保険料等の先取特権の順位は、国税及び地方税に次ぐものとする(第182条)。
国庫は、毎年度、予算の範囲内において、健康保険事業の事務の執行に要する費用を負担する(第151条)。したがって事務費は全額国庫負担である。また、健康保険組合に対して交付する国庫負担金は、各健康保険組合における被保険者数を基準として、厚生労働大臣が算定することとされ、この国庫負担金については、概算払をすることができる(第152条)。
協会けんぽに対しては、主な保険給付の支給に要する額に給付費割合を乗じて得た額の合算額の13~20%を国庫が補助することとされ(第153条1項)、当面の間国庫補助率は16.4%とされる(附則第5条)。
これらのほか、国庫は、予算の範囲内において、健康保険事業の執行に要する費用のうち、特定健康診査及び特定保健指導の実施に要する費用の一部を補助することができる(第154条の2)。
下記に掲げるもののほか、健康保険組合の場合は規約に定めることで付加給付を行うことができる(第53条)。被保険者の資格取得が適正である限り、その資格取得前の疾病、負傷等に対しても、保険給付は行われる(昭和26年10月16日保文発4111号)。事業主が資格取得の届を行う前に生じた事故であっても、さかのぼって資格取得の確認が行われれば、保険事故となり給付の対象になる(昭和31年11月29日保文10148号)。
詳細は各記事を参照のこと。
被扶養者に関する保険給付(家族給付)は、あくまで保険料を負担している被保険者に対してなされるものである。したがって、被保険者が死亡した場合、その翌日から家族給付は打ち切られる。また、被保険者の資格喪失後の継続給付は、被扶養者に対しては行われない(昭和31年12月24日保文発11285号)。
詳細は各記事を参照のこと。
保険給付を受ける権利は、譲り渡し、担保に供し、又は差し押さえることができない(第61条)。租税その他の公課は、保険給付として支給を受けた金品を標準として課することができない(第62条)。健康保険に関する書類には、印紙税を課さない(第195条)。
なお、健康保険法には未支給の給付についての規定がないので、被保険者が未支給給付を残して死亡した場合は、民法の原則に従い、受給権者の相続人が未支給給付の請求権者となる(昭和2年2月18日保理719号)。
被保険者又は被保険者であった者が、自己の故意の犯罪行為により、又は故意に給付事由を生じさせたときは、当該給付事由に係る保険給付は行われない(絶対的給付制限、第116条)。被扶養者についても同様である(第112条)。ただしこれらの場合であっても、埋葬料(埋葬費)については支給する扱いとなっている。
被保険者が闘争、泥酔又は著しい不行跡によって給付事由を生じさせたときは、当該給付事由に係る保険給付はその全部又は一部を行わないことができる(相対的給付制限、第117条)。保険給付を受ける者が正当な理由なく文書その他の物件の提出若しくは提出命令に従わず、又は職員の質問若しくは診断に対し答弁もしくは受診を拒んだときも同様である。
被保険者又は被保険者であった者が、正当な理由なく療養に関する指示に従わないときは、保険給付の一部を行わないことができる(一部制限、第119条)。
保険者は、偽りその他不正行為により、保険給付を受け、または受けようとした者に対し、6月以内の期間を定め、その者に支給すべき傷病手当金又は出産手当金の全部または一部を支給しない旨の決定をすることができる。ただし、偽りその他不正行為があった日から1年を経過したときは、当該給付制限を行うことはできない(第120条)。
偽りその他不正の行為によって保険給付を受けた者があるときは、保険者は、その者からその給付の価額の全部又は一部を徴収することができる(第58条1項)。この場合において、事業主が虚偽の報告若しくは証明をし、又は保険医若しくは主治医が、保険者に提出されるべき診断書に虚偽の記載をしたため、その保険給付が行われたものであるときは、保険者は、当該事業主、保険医又は主治医に対し、保険給付を受けた者に連帯して前項の徴収金を納付すべきことを命ずることができる(第58条2項)。
保険者は、保険医療機関・保険薬局・指定訪問看護事業者が偽りその他不正の行為によって療養の給付等に関する費用の支払を受けたときは、当該保険医療機関・保険薬局・指定訪問看護事業者に対し、その支払った額につき返還させるほか、その返還させる額の40%を支払わせることができる(第58条3項)。
健康保険における被保険者の資格、保険料の納付については厚生年金とセットになっていることから、不服申立てについても厚生年金と手続が一元化されている。
被保険者の資格、標準報酬又は保険給付に関する処分に不服がある者は、各地方厚生局に置かれる社会保険審査官に対して審査請求をすることができる(第189条)。この審査請求は処分があったことを知った日の翌日から起算して3か月以内にしなければならない(社会保険審査官及び社会保険審査会法第4条)。また、被保険者の資格または標準報酬に関する処分に対する審査請求は、原処分のあった日の翌日から起算して2年を経過したときは、することができない。以上の処分については、当該審査請求に対する社会保険審査官の裁決を経た後でなければ、取消の訴えを提起することはできない(審査請求前置主義、第192条、行政事件訴訟法第8条1項但書)。
社会保険審査官の決定に不服がある者は、社会保険審査会に対して再審査請求をすることができる(二審制)。この再審査請求は、社会保険審査官の決定書の謄本が送付された日の翌日から起算して2か月以内にしなければならない(社会保険審査官及び社会保険審査会法第32条)。また、審査請求をした日から2か月以内に決定がないときは、審査請求人は、社会保険審査官が審査請求を棄却したものとみなして、社会保険審査会に再審査請求をすることができる。いずれの場合であっても、当該再審査請求は口頭で行うことができる。2016年の法改正により、再審査請求と処分の取消の訴えの提起のいずれを選択するかは申立人の任意となった。
保険料の賦課もしくは徴収の処分又は滞納処分に不服がある者は、社会保険審査会に対して審査請求をすることができる(一審制、第190条)。この場合は2016年の法改正により、審査請求前置主義は適用されなくなったので、審査請求をせずに処分の取消の訴えを提起することが可能である。
審査請求・再審査請求は、時効の中断に関しては裁判上の請求とみなされる。
保険料を徴収し、又はその還付を受ける権利及び保険給付を受ける権利は、これらを行使することができる時から2年を経過したときは時効により消滅する(第193条1項)。これは金銭の徴収・給付にかかる規定であるので、療養の給付のような現物給付については消滅時効の適用はない。保険料の納入の告知又は督促は、時効の更新の効力を有する(第193条2項)。
事業主から被保険者に還付すべき保険料過納分の被保険者の返還請求権については、健康保険法の適用はなく、民法の一般原則に従って10年の消滅時効にかかる(民法第167条)。
疾病や負傷が業務や通勤を原因とするために労働者災害補償保険(労災保険)または公務災害の補償が適用される場合、および介護保険の適用により支給がなされる場合には、同一の疾病・負傷については健康保険が適用されずその支給が全額カットされる場合がある。例えば傷病手当金はその全額が支給されない(第55条)。
少年院、刑事施設、労役場その他これらに準ずる施設に収容・拘禁された被保険者又は被保険者であった者については、疾病、負傷、出産につき、原則として保険給付は行われない(公費治療との調整、第118条)。ただしこの場合でも、死亡に関する給付及び被扶養者に係る保険給付は行われる。なお、未決勾留者については傷病手当金・出産手当金は支給される。また、結核、精神病、原爆症等、公費負担治療の対象となる疾病、負傷については、公費負担の範囲内で健康保険の保険給付は行わないこととされている。ただ、健康保険と公費負担が競合する場合、一般的には健康保険を優先して給付し、自己負担分について公費負担が行われている。
健康保険と、その他の保険・医療制度(労災、公務災害、介護保険、公費治療、公費負担治療)との関係については、いずれかの制度を選択したり、支給調整が行われると言った性格のものではなく、その他の保険の一からの給付を受けなければならない。例えば労災であるにもかかわらず健康保険での給付を受けると、その給付相当額を一旦保険者に返納した上で労災の申請をしなければならなくなる(労災は申請してもすぐには支給されない)ので、二度手間でありかつ一時的にでも療養費等の自己負担をすることになる。なお、「労災隠し」の問題については労働災害の項目を参照のこと。
疾病や負傷が交通事故などの第三者行為を原因とする場合、ただちに健康保険が適用できると言うわけではない。第三者行為による傷病に対して患者本人が健康保険による給付を希望する場合、第三者行為による被害の届出(通称「第三者行為の届出」)を行うことで、保険者による医療給付が行われる。保険者が給付した医療費は、求償を介して加害者から保険者へと弁済されるものと想定されている。具体的には、保険者は、その給付した金額を限度として、第三者行為の相手方に対する損害賠償請求権を代位取得する(第57条第1項)。第三者行為届の届出を行う義務者は被保険者で(患者本人とは必ずしも一致しない)、遅滞なく提出するものと定められている(施行規則第65条)。
第三者行為による傷病の場合には、疾病等の完治や症状固定などにより保険給付が終結するまでは、相手方との示談等を行うべきではなく、その旨、保険者からも指導がある。それは、被害者と相手方との示談等(口約束を含む)を先に行なうことにより、被害者の持つ損害賠償請求権が確定(限定)されてしまい、保険者が代位取得できる賠償請求権も限定されてしまうからである。訴訟外の先行賠償により(自動車保険の人身傷害など)賠償額を受領し、または訴訟等により賠償額が確定しその受領を受けた場合には、その受領額を限度として健康保険からの給付に対して支給調整が行われる(第57条第2項)。なお、第三者行為と各種保険との関係については、労災保険、公務災害による保険、介護保険においても同様である。
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"text": "日本における健康保険(けんこうほけん、英語: Employee Health Insurance)とは、雇用者の福利厚生を目的に社会保険方式で運営される医療保険(被用者保険、職域保険)のうち、健康保険法に基づくもの。医療保険事務上の略称は社保(しゃほ)と言われ、国保(こくほ)と呼ばれる地域保険と区別される。なお、公務員などの共済組合加入者の被用者保険については、健康保険法ではなく国家公務員共済組合法などに基づく共済組合でカバーされる。",
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"text": "健康保険法については以下では条数のみ記す。",
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"text": "健康保険制度は、労働者 又はその被扶養者の業務災害以外の疾病、負傷若しくは死亡又は出産 に関して保険給付を行い、もって国民の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とする(第1条)。業務上の疾病等については労災保険の対象となる。業務上か業務外かはっきりしない場合は、一応業務上として取り扱い、最終的に業務外と判断された場合はさかのぼって健康保険を適用する(昭和28年4月9日保分発2014号)。健康保険と労災保険のどちらの給付も受けられないケースがあったことから、平成25年に第1条を改正し、広く医療を保障する観点から、労災保険の給付が受けられない場合には、原則として健康保険の給付が受けられることとするものである。 健康保険制度については、これが医療保険制度の基本をなすものであることにかんがみ、高齢化の進展、疾病構造の変化、社会経済情勢の変化等に対応し、その他の医療保険制度及び後期高齢者医療制度並びにこれらに密接に関連する制度と併せてその在り方に関して常に検討が加えられ、その結果に基づき、医療保険の運営の効率化、給付の内容及び費用の負担の適正化並びに国民が受ける医療の質の向上を総合的に図りつつ、実施されなければならない(第2条)。",
"title": "目的"
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"text": "日本の健康保険制度は、ドイツの疾病保険法をモデルとして、1926年(大正15年)(保険給付及び費用負担に関する規定は1927年(昭和2年))に施行された。当初は疾病保険と災害補償を兼ねた保険であり、工場法・鉱業法の適用のある事業所への適用とされた。",
"title": "目的"
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"text": "健康保険法の規定上は厚生労働大臣が幅広い権限を有しているが、実際の事務(次にあげる事務)は日本年金機構(1,2)、地方厚生局長又は地方厚生支局長(3)に委任・委託されている。",
"title": "管掌"
},
{
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"text": "保険者(保険事業の経営主体として保険給付等の業務を行う者)は、全国健康保険協会及び健康保険組合とされる(第4条)。ただし、日雇特例被保険者については全国健康保険協会のみが保険者となり、健康保険組合が保険者となることはない。",
"title": "管掌"
},
{
"paragraph_id": 6,
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"text": "加入は原則として事業所単位(本社・支社・工場など)で行われる。健康保険が適用となる事業所は、加入が義務付けられている事業所(強制適用事業所)と、厚生労働大臣の認可を受けて加入する事業所(任意適用事業所)がある。適用事業所は健康保険と厚生年金とで共通である。",
"title": "適用事業所"
},
{
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"text": "「適用業種」とされるのは、以下の業種である。",
"title": "適用事業所"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "労災保険や雇用保険とは異なり、適用事業所でない事業所が、被保険者となるべき者からの希望があっても適用事業所とする義務はないし、任意適用事業所に使用される被保険者からの希望があっても、事業主は任意適用取消の申請を行う義務もない。",
"title": "適用事業所"
},
{
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"text": "2以上の事業主が同一である場合は、厚生労働大臣の承認を受けて当該2以上の事業所を一の適用事業所とでき(一括適用事業所、第34条。一般的には法人一括の単位で適用されている)、承認にあたっては以下の要件をすべて満たすことが必要となる。",
"title": "適用事業所"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "もっとも中小の事業所では人事・設備等の面で一括適用事業所の承認を受けるための要件を満たせない場合も多いことから、人事や給与等の管理が本社で行われている被保険者については、その者が勤務する事業所にかかわらず、健康保険・厚生年金の手続きを本社において行う(本社における被保険者として取り扱う)ことが認められている(本社管理、平成18年3月15日庁保険発第0315002号)。これらの場合、被保険者が本社・支社間で転勤したとしても、その都度の被保険者資格の取得・喪失の手続きは不要となる。",
"title": "適用事業所"
},
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"paragraph_id": 11,
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"text": "事業主は、健康保険に関する書類を、その完結の日から2年間保存しなければならない(規則第34条)。初めて適用事業所となった事業主、事業の廃止等により適用事業所に該当しなくなった事業主、事業主の変更があった場合 は、当該事実のあった日から5日以内に所定の届出をしなければならない。",
"title": "適用事業所"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "被保険者には、適用事業所に使用される者である「被保険者」(以下、「一般の被保険者」と表記)、及び「日雇特例被保険者」、適用事業所に使用されなくなった後に任意で加入する「任意継続被保険者」及び「特例退職被保険者」との4種類がある(第3条1項、2項、4項)。被保険者資格の取得・喪失は、原則として保険者等の確認によってその効力を生じ、事業主が資格取得の届出を行う前に生じた事故であっても、さかのぼって資格取得の確認が行われれば、保険事故となる。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "一般の被保険者は、以下のいずれかに該当するに至った日から、被保険者の資格を取得する(第35条)。事業主は、一般の被保険者資格を取得した者があるときは、5日以内に、保険者が全国健康保険協会の場合は日本年金機構に、健康保険組合の場合は当該健康保険組合に(以下、「機構又は組合に」と略す)被保険者資格取得届(当該被保険者が被扶養者を有する場合は被扶養者届も併せて)を提出しなければならない。平成29年1月より、健康保険組合に提出する資格取得届には被保険者の個人番号を、日本年金機構に提出する資格取得届については被保険者の基礎年金番号を記入しなければならない。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "同時に2以上の事業所に使用される被保険者(日雇特例被保険者を除く)は、2以上の事業所に使用されるに至った日から10日以内に、その被保険者が、その保険者(いずれも協会けんぽで業務が2以上の年金事務所に分掌されているときは、その年金事務所)を選択する。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "事業所が適用事業所となった場合、労災保険や雇用保険とは異なり、法人から労働の対償として報酬を受け取っていれば、法人の代表者・役員も含むすべての被用者は原則として被保険者となる(昭和24年7月28日保発74号)。外国人であっても適法に就労していれば一般の被保険者となる。ただし個人事業主は「使用される者」とはみなされないので、被保険者とならない。また、被保険者・被扶養者が法人の役員(取締役、業務執行社員、執行役、ほか名称を問わずこれらに準ずる者と同等以上の支配力を有すると認められるものを含む)である場合に、その業務上の負傷については、使用者側の責めに帰すべきものであるため、労使折半の健康保険から保険給付を行うことは適当でなく、原則として保険給付の対象外とされる(第53条の2、平成25年8月14日事務連絡)。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "被保険者が5人未満である小規模な適用事業所に所属する法人の代表者であって一般の労働者と著しく異ならないような労務に従事している者については業務上の事由による疾病等であっても健康保険による保険給付の対象とする(第53条の2、規則第52条の2)。従来、当面の暫定措置とされていて(平成15年7月1日保発0701002号)、さらに傷病手当金は当措置の対象外とされてきたが、平成25年の改正により第53条の2が追加され前述の通知が廃止されたことで、傷病手当金も含めて措置が恒久化された。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "休職者については、休職期間中に給与の支給がなされているか、一時的に給与の支払いが停止されているにすぎない場合は、被保険者資格を存続させる。しかし休職中に給与が全く支給されず、実質的に使用関係が消滅している場合は、被保険者資格を喪失させる(昭和6年2月4日保発59号)。雇用契約は存続しても、事実上の使用関係がないものについては、被保険者資格を喪失させる(昭和25年4月14日保発20号)。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "被保険者が解雇された場合においてその解雇の効力を争う場合、解雇行為が明らかに労働法規や労働協約に違反している場合を除き、事業主から資格喪失届の提出があったときは、たとえ当該事件が係争中であったとしても一応資格を喪失したものとして受理する扱いになっている(昭和25年10月9日保発68号)。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "労働組合専従者については、従前の事業主との関係では被保険者資格を喪失するが、労働組合に使用される者として一般の被保険者となる(昭和24年7月7日職発921号)。なお、共済組合の組合員については、一般の被保険者であっても原則として健康保険法による保険給付は行わず、保険料も徴収しない。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "同一の事業所において雇用契約上いったん退職した者が1日の空白もなく引き続き再雇用された場合には、事実上の使用関係は継続しているので、被保険者資格も継続する。有期の雇用契約又は任用が1日ないし数日の間を空けて再度行われる場合においても、雇用契約又は任用の終了時にあらかじめ、事業主と被保険者との間で次の雇用契約又は任用の予定が明らかであるような事実が認められるなど、事実上の使用関係が中断することなく存続していると、就労の実態に照らして判断される場合には、被保険者資格を喪失させることなく取り扱う必要がある(就労の実態に照らして個別具体的に判断する。平成26年1月17日保保発0117第2号)。ただし、60歳以上の者の再雇用については、使用関係をいったん中断したものとみなして取扱っても差し支えない(平成25年5月31日保発0531第1号)。そうすることで、再雇用に伴う給与の低下に即応して在職老齢年金の支給停止額を減額改定できる(特別支給の老齢厚生年金の受給額を多くできる)ため等である。",
"title": "被保険者"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "短時間労働者(パートタイム労働法第2条でいう「短時間労働者」)として使用される者の加入については、常用的雇用関係が認められるかにより判断される。具体的な取扱い基準については、就業規則や雇用契約書に基づき、次のいずれにも該当する場合、一般の被保険者となる。なお平成28年9月までは、これらの要件に加えて「就労形態や職務内容等を総合的に勘案して」 被保険者資格の取得の可否を判断していたが、平成28年10月以降は単に所定労働時間数・所定労働日数のみで判断する。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "「4分の3」要件を満たさない場合であっても、以下の要件をすべて満たす短時間労働者は、平成28年10月以降、一般の被保険者とする。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "所定労働時間・所定労働日数が4分の3に満たない場合でも、業務の都合等により恒常的に4分の3基準を満たすこととなる場合、実際の労働時間・労働日数が連続する2月に4分の3基準を満たし、引き続き同様の状態が続くと見込まれるときは、4分の3基準を満たした3月目の初日に被保険者資格を取得する。ただし前記の5要件をすべて満たす場合は、そのときから被保険者資格を取得する。また平成28年9月以前に被保険者資格を取得していた者が平成28年10月以降に4分の3要件に該当しなくなる場合でも、引き続き被保険者資格を有する。",
"title": "被保険者"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "短時間正社員(フルタイムの正社員と比してその所定労働時間が短い正規型の労働者であって、期間の定めのない労働契約を締結しているもの)については、次のいずれにも該当する場合、一般の被保険者となる。",
"title": "被保険者"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "派遣労働者は、派遣元の事業所における被保険者となる。",
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "登録型派遣労働者の就業と就業の間の待機期間が、1月を超えないと確実に見込まれる場合は、待機期間中も引き続き被保険者資格を存続させて差し支えない。1月以内に次回の雇用契約(1月以上のものに限る)が締結されなかった場合には、その雇用契約が締結されないことが確実になった日又は当該1月が経過した日のいずれか早い日をもって使用関係が終了したものとして資格喪失する。",
"title": "被保険者"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "以下のいずれかに該当する者は、日雇特例被保険者となる場合(原則として1〜4。詳細は、日雇健康保険を参照)を除いて、被保険者となることができない(適用除外、第3条1項但書)。1~6は厚生年金と共通である。",
"title": "被保険者"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "被保険者によって生計を維持されている者で所定の要件を満たす者は、保険者の認定を受けることにより被扶養者としてその保険の適用を受けることができる。保険料免除の一類型(特約)であり、被扶養者に保険料の負担はなく、被扶養者の有無、増減で被保険者の保険料に変動はない。元来は収入を得られない子供や障害者、長期入院者、専業主婦、年老いた親などが想定されていたが、家族や社会環境の変化などにより、その態様は変化している(専業主夫、リストラされた夫、資格試験受験生、いわゆるフリーターなど)。20歳以上60歳未満の配偶者は、被扶養者認定があったときは国民年金第3号被保険者として取り扱うこととされる(昭和61年4月1日庁保険発18号)。事業主は、その使用する一般の被保険者が被扶養者を有するに至ったときは、5日以内に被扶養者異動届を機構又は組合に提出しなければならない。なお任意被保険者が被扶養者を有するに至った場合は、被保険者自らが提出する。",
"title": "被保険者"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "被扶養者として認定される要件としては、以下のように定められている(第3条7項)。ただし、日本国内に居住すること及び後期高齢者医療の被保険者等でないことが必要である。",
"title": "被保険者"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "「日本国内に居住」については、令和2年4月の改正法施行により新たに要件に加えられ、その確認は原則として住民基本台帳の記載に基づいて行う。例外的に、「日本国内に住所を有しないが渡航目的その他の事情を考慮して日本国内に生活の基礎があると認められるものとして厚生労働省令で定めるもの」については被扶養認定することとし、以下の者はそれぞれに掲げる添付書類によって「厚生労働省令で定めるもの」として認定される(規則第37条の2、令和元年11月13日保保発1113第1号)。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、以下の者は日本国内に住所を有しても被扶養認定しない。ただし、国内居住要件の導入により被扶養者でなくなる者であって、令和2年4月1日時点で保険医療機関に入院している者の被扶養者の資格について、入院期間中は継続させる経過措置が設けられている。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "扶養状況を確認するために、保険者は被扶養者に係る確認(扶養現況調査)を行うことができるとされる(規則第50条)。調査票に回答と収入や居住状態の立証書類を添付して保険者に提出する。収入が多いなど上記法定の認定条件を満たさない場合、調査票の提出がない場合、勤務先の社会保険に加入していた場合は被扶養者資格がなくなる(国民健康保険などに加入する)。扶養現況調査は健康保険の適正な適用に関し重要な役割を果たしている(不当な社会保険料免除を防ぐ)が、膨大な数の被扶養者について確認を行うため、対応に苦慮している保険者も多い。厚生労働省は1年に1回以上(毎年一定の期日を定めて)実施するように保険者に指導している。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "従来、被扶養者の認定、年収や同一世帯か否かの判定は、被保険者から要件に合致している旨の申し出があれば特に厳格な審査をすることなく認定していたが、平成30年10月より取り扱いが変更となり、新たな申請には公的な証明書(課税証明書、戸籍謄本等)の添付が義務づけられるようになった(既に身分関係を認定するための情報を保険者又は事業主が取得している場合(個人番号を用いて確認する場合等)を除く。平成30年8月29日保保発0829第1号)。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "以下のすべての要件を満たす者は、保険者に申し出ることによって、被保険者資格喪失後も継続して当該保険者の被保険者となる(第37条。「任意継続被保険者」、「任意継続加入員」、「任意継続組合員」などと呼ばれるが、以下、本項では「任意継続被保険者」で統一する)。任意継続被保険者は一般の被保険者資格を喪失した日に、その資格を取得する。家族等も被扶養者として加入する事ができ、要件は基本的に在職中の被扶養者認定の場合と同様である。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "任意継続被保険者は、以下のいずれかに該当するに至った場合、その資格を喪失する(第38条、カッコ内は資格喪失日)。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "任意継続の保険料については、事業主負担がなくなるため、被保険者の全額負担となり、自己の負担する保険料を納付する義務を負う。基本的に天引きの金額の約2倍から2.5倍になる(徴収する保険料の上限を設定している保険者もある)。各種の届出も事業主経由ではなく自ら行わなければならない。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "納付後、同月内に健康保険(協会けんぽ、共済組合、健康保険組合、国民健康保険組合(厚生年金適用事業所に限る))の被保険者となった場合には後日還付される(ただし資格取得月を除く)。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "任意継続被保険者の制度は大正15年の健康保険法制定時より存在する仕組みであり、国民皆保険が未達成であった当時は退職による無保険の回避が主な狙いであった。当初の任意継続要件は「資格喪失の前1年内に180日以上、又は資格喪失の際に引き続き60日以上被保険者であった者」とされ、加入期間は最大6か月とされた。その後の法改正で要件の緩和や加入期間の延長がなされ、現行の規定に至る。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "厚生労働大臣の認可を受けて、「特例退職被保険者」制度を設けている健康保険組合(特定健康保険組合)がある(附則第3条)。厚生年金受給権がある者で、被保険者期間が20年以上または40歳以降10年以上ある者が継続加入できる(任意継続被保険者と異なり、「2年間」といった期間制限はない)。なろうとする者は、年金証書等が到達した日の翌日から起算して3月以内に申し出なければならない(健保組合が新たに特定健保組合の認可を受けた場合はこの限りではない。規則第168条4項)。申出が受理された日に特例退職被保険者の資格を取得する。任意継続被保険者である者は特例退職被保険者となることはできない。任意性の保険であるため、保険料納付や資格喪失等に関しては任意継続被保険者と共通している。但し、この制度を持つ健康保険組合は全国約1,500組合のうち70弱の比較的大規模な組合だけである。現役世代を圧迫するとして廃止や廃止の検討をしている組合が出てきている。",
"title": "被保険者"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一般の被保険者に係る保険料は、厚生年金保険料と同様、事業主と被保険者とで保険料を折半して負担する(第161条1項)。事業主は、その使用する被保険者及び自己の負担する保険料を納付する義務を負い(第161条2項)、被保険者に支払うべき報酬がなくても、事業主は被保険者分も含めた全額の支払い義務を負う(昭和2年2月18日保理578号)。事業主は原則として被保険者の負担すべき前月分(月の末日に退職し、報酬もその月に支払われる場合については前月分及び当月分)の標準報酬月額に係る保険料を報酬から控除することができる(第167条)。支払期日は翌月末日(前納不可)である。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "任意継続被保険者に係る保険料は、本人が全額負担しなければならず、支払期日はその月の10日(初めて納付すべき保険料については、保険者が指定する日)である(第164条)。なお、任意継続被保険者は将来の一定期間(1年又は6か月)の保険料を前納することができる(第165条)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "健康保険組合は、規約で定めるところにより、一般保険料、介護保険料とも事業主の負担割合を増加させることができ(第162条)、協会けんぽに比べ保険料率が低い組合が多いが、中には協会けんぽの保険料率を超える財政基盤の脆弱な組合が存在する。なお事業主が負担割合を増加させた場合、その増加割合相当額は「報酬」には含まれない。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "保険料は被保険者の標準報酬月額及び標準賞与額に保険料率を乗ずることにより計算される(第156条)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一般保険料額 = 標準報酬月額 × 一般保険料率 (介護保険第2号被保険者については、これに介護保険料額(標準報酬月額 × 介護保険料率)が加算され、あわせて徴収される)",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "政管健保が2008年(平成20年)10月より全国健康保険協会に移管され、それに伴い全国一律だった一般保険料率も医療費に応じて各都道府県を単位に3.0%~13.0%(当初は3.0%~10.0%、平成28年3月までは3.0%~12.0%)の範囲内で協会が決定することとなった。ただ、地域の医療格差のみが反映されるようになっていて、年齢構成や所得水準の違いに起因する都道府県ごとの財政力の差については都道府県間で調整されるので保険料率には反映されない。協会が保険料率を変更するには厚生労働大臣の認可が必要で、大臣は保険料率が不適当であり事業の健全な運営に支障があると認めるときは協会に変更の認可を申請するよう命ずることができる(第160条)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "実際には2009年9月より各都道府県別の保険料率となり、8.26%(北海道)〜8.15%(長野県)と定められた。更にその半年後の2010年3月には全国平均で1.14%の大幅な保険料率引き上げが行われ、9.42%(北海道)〜9.26%(長野県)となり、その後も保険料率の引き上げが続いている。2018年4月以降については、10.75%(佐賀県)〜9.63%(新潟県)となっている。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "健康保険組合においても、一般保険料率は3.0〜13.0%の範囲内で組合ごとに決定し、変更に際しては原則として厚生労働大臣の認可を受けなければならない。合併によって設立された健康保険組合においては、合併の翌5年度に限り、厚生労働大臣の認可を受けて不均一の一般保険料率を設定することができる。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "保険料は原則として被保険者資格取得月から資格喪失月の前月まで徴収されるが、資格取得月にその資格を喪失した場合は、その月の保険料は徴収される。同一月に2回以上の資格の得喪があった場合は、1月につき2月分以上の保険料の徴収がありうる。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "保険料は、以下の場合は納期前であってもすべて徴収することができる(繰上徴収、第172条)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "前月から引き続き一般の被保険者である者が少年院、刑事施設、労役場その他これらに準ずる施設に収容・拘禁された場合、その月以降該当しなくなる月の前月までの保険料は徴収されない(第158条)。ただし同月中に収容等されなくなった場合は保険料は徴収される。事業主は、被保険者がこれらに該当する(しなくなった)場合は、「第118条1項該当届(非該当届)」 を5日以内に機構又は組合に提出しなければならない。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "育児休業等(育児介護休業法による育児休業もしくは同法による育児を理由とする所定労働時間の短縮等の措置等をいう。以下同じ)をしている一般の被保険者が使用される事業所の事業主が保険者等に申し出たときは、育児休業等開始日の属する月から、終了日の翌日が属する月の前月までの期間、当該被保険者に関する保険料は徴収されない(第159条)。被保険者が育児休業等期間を変更したとき、または育児休業等終了予定日の前日までに育児休業等を終了したときは、速やかに機構又は組合に届出なければならない。法人の代表取締役・専任役員たる被保険者は育児休業等による保険料免除は認められない(育児介護休業法は対象を「労働者」に限っているため。平成21年12月28日雇児発1228第2号)。なお労使協定により子が3歳に達する日以降の育児休業等を定めている場合であっても、免除は3歳未満の子を養育するための育児休業等に限られる。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "平成26年4月30日以降に産前産後休業が終了となる一般の被保険者が使用される事業所の事業主が保険者等に申し出たときは、産前産後休業開始日の属する月から、終了日の翌日が属する月の前月までの期間、当該被保険者に関する保険料は徴収されない(第159条の3)。被保険者が産前産後休業期間を変更したとき、または産前産後休業終了予定日の前日までに産前産後休業を終了したときは、速やかに「産前産後休業取得者変更(終了)届」を機構又は組合へ提出する。育児休業等とは異なり、法人の代表取締役・専任役員たる被保険者も産前産後休業による保険料免除が認められる。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "免除は事業主負担分、被保険者負担分双方について行われる。なお、任意継続被保険者、特例退職被保険者については免除は行われない(これらに該当しても保険料は徴収される)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "保険料その他健康保険法の規定による徴収金を滞納する者があるときは、保険者等は期限を指定して督促しなければならない。督促状により指定する期限は、督促状を発する日から起算して10日以上経過した日でなければならない(第180条1項~3項)。なお督促は規則に定められた様式の督促状(様式第20号)で行われ、口頭、電話または普通の書面で行われることはない(規則第153条)。繰上徴収に該当する場合であっても、既に納期の過ぎた分の保険料については督促しなければならない(この場合延滞金は徴収されない)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "保険者等は督促を受けた者がその指定の期限までに保険料その他この法律の規定による徴収金を納付しないときは、国税滞納処分の例によってこれを処分し、又は滞納者の居住地若しくはその者の財産所在地の市町村に対して、その処分を請求することができる(第180条5項)。市町村は市町村税の例によりこれを処分したときは徴収金の4%相当額が厚生労働大臣から当該市町村に交付される(第180条6項)。機構・協会・組合が滞納処分を行う場合は、あらかじめ厚生労働大臣の認可を受けなければならない。また滞納者が悪質な場合には当該権限を財務大臣を通して国税庁長官に委任することができる。「悪質な場合」とは、以下のいずれの要件も満たす場合とされる。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "督促したときは、やむを得ない事情がある場合、公示送達による督促の場合等を除き、保険者等は、徴収金額(1,000円未満の端数は切り捨て)に、納期限の翌日から徴収金完納または財産差し押さえの日の前日までの期間の日数に応じて、年14.6%(督促が保険料に係るものである場合は、納期限の翌日から3月を経過する日までの期間については年7.3%)の割合を乗じて計算した額の延滞金(100円未満の端数は切り捨て)を徴収する(第181条)。なお現在の低金利の状況では年14.6%の延滞金は高すぎるとの問題意識から、事業主の負担軽減等を図るべく、当分の間特例が設けられ、各年の特例基準割合(租税特別措置法第93項2項の規定に基づき、「前々年10月から前年9月までの各月における銀行の新規の短期貸出約定平均金利の合計を12で除して得た割合」として財務大臣が告示した割合に年1%の割合を加算)が年7.3%に満たない場合は、",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "とされる。令和3年の場合、特例基準割合は年1.5%(告示割合年0.5%に年1%を加算)とされたので、実際には以下のようになる。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "保険料等の先取特権の順位は、国税及び地方税に次ぐものとする(第182条)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "国庫は、毎年度、予算の範囲内において、健康保険事業の事務の執行に要する費用を負担する(第151条)。したがって事務費は全額国庫負担である。また、健康保険組合に対して交付する国庫負担金は、各健康保険組合における被保険者数を基準として、厚生労働大臣が算定することとされ、この国庫負担金については、概算払をすることができる(第152条)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "協会けんぽに対しては、主な保険給付の支給に要する額に給付費割合を乗じて得た額の合算額の13~20%を国庫が補助することとされ(第153条1項)、当面の間国庫補助率は16.4%とされる(附則第5条)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "これらのほか、国庫は、予算の範囲内において、健康保険事業の執行に要する費用のうち、特定健康診査及び特定保健指導の実施に要する費用の一部を補助することができる(第154条の2)。",
"title": "保険料"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "下記に掲げるもののほか、健康保険組合の場合は規約に定めることで付加給付を行うことができる(第53条)。被保険者の資格取得が適正である限り、その資格取得前の疾病、負傷等に対しても、保険給付は行われる(昭和26年10月16日保文発4111号)。事業主が資格取得の届を行う前に生じた事故であっても、さかのぼって資格取得の確認が行われれば、保険事故となり給付の対象になる(昭和31年11月29日保文10148号)。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "詳細は各記事を参照のこと。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "被扶養者に関する保険給付(家族給付)は、あくまで保険料を負担している被保険者に対してなされるものである。したがって、被保険者が死亡した場合、その翌日から家族給付は打ち切られる。また、被保険者の資格喪失後の継続給付は、被扶養者に対しては行われない(昭和31年12月24日保文発11285号)。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "詳細は各記事を参照のこと。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "保険給付を受ける権利は、譲り渡し、担保に供し、又は差し押さえることができない(第61条)。租税その他の公課は、保険給付として支給を受けた金品を標準として課することができない(第62条)。健康保険に関する書類には、印紙税を課さない(第195条)。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "なお、健康保険法には未支給の給付についての規定がないので、被保険者が未支給給付を残して死亡した場合は、民法の原則に従い、受給権者の相続人が未支給給付の請求権者となる(昭和2年2月18日保理719号)。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "被保険者又は被保険者であった者が、自己の故意の犯罪行為により、又は故意に給付事由を生じさせたときは、当該給付事由に係る保険給付は行われない(絶対的給付制限、第116条)。被扶養者についても同様である(第112条)。ただしこれらの場合であっても、埋葬料(埋葬費)については支給する扱いとなっている。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "被保険者が闘争、泥酔又は著しい不行跡によって給付事由を生じさせたときは、当該給付事由に係る保険給付はその全部又は一部を行わないことができる(相対的給付制限、第117条)。保険給付を受ける者が正当な理由なく文書その他の物件の提出若しくは提出命令に従わず、又は職員の質問若しくは診断に対し答弁もしくは受診を拒んだときも同様である。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "被保険者又は被保険者であった者が、正当な理由なく療養に関する指示に従わないときは、保険給付の一部を行わないことができる(一部制限、第119条)。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "保険者は、偽りその他不正行為により、保険給付を受け、または受けようとした者に対し、6月以内の期間を定め、その者に支給すべき傷病手当金又は出産手当金の全部または一部を支給しない旨の決定をすることができる。ただし、偽りその他不正行為があった日から1年を経過したときは、当該給付制限を行うことはできない(第120条)。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "偽りその他不正の行為によって保険給付を受けた者があるときは、保険者は、その者からその給付の価額の全部又は一部を徴収することができる(第58条1項)。この場合において、事業主が虚偽の報告若しくは証明をし、又は保険医若しくは主治医が、保険者に提出されるべき診断書に虚偽の記載をしたため、その保険給付が行われたものであるときは、保険者は、当該事業主、保険医又は主治医に対し、保険給付を受けた者に連帯して前項の徴収金を納付すべきことを命ずることができる(第58条2項)。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "保険者は、保険医療機関・保険薬局・指定訪問看護事業者が偽りその他不正の行為によって療養の給付等に関する費用の支払を受けたときは、当該保険医療機関・保険薬局・指定訪問看護事業者に対し、その支払った額につき返還させるほか、その返還させる額の40%を支払わせることができる(第58条3項)。",
"title": "保険給付"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "健康保険における被保険者の資格、保険料の納付については厚生年金とセットになっていることから、不服申立てについても厚生年金と手続が一元化されている。",
"title": "不服申立て"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "被保険者の資格、標準報酬又は保険給付に関する処分に不服がある者は、各地方厚生局に置かれる社会保険審査官に対して審査請求をすることができる(第189条)。この審査請求は処分があったことを知った日の翌日から起算して3か月以内にしなければならない(社会保険審査官及び社会保険審査会法第4条)。また、被保険者の資格または標準報酬に関する処分に対する審査請求は、原処分のあった日の翌日から起算して2年を経過したときは、することができない。以上の処分については、当該審査請求に対する社会保険審査官の裁決を経た後でなければ、取消の訴えを提起することはできない(審査請求前置主義、第192条、行政事件訴訟法第8条1項但書)。",
"title": "不服申立て"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "社会保険審査官の決定に不服がある者は、社会保険審査会に対して再審査請求をすることができる(二審制)。この再審査請求は、社会保険審査官の決定書の謄本が送付された日の翌日から起算して2か月以内にしなければならない(社会保険審査官及び社会保険審査会法第32条)。また、審査請求をした日から2か月以内に決定がないときは、審査請求人は、社会保険審査官が審査請求を棄却したものとみなして、社会保険審査会に再審査請求をすることができる。いずれの場合であっても、当該再審査請求は口頭で行うことができる。2016年の法改正により、再審査請求と処分の取消の訴えの提起のいずれを選択するかは申立人の任意となった。",
"title": "不服申立て"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "保険料の賦課もしくは徴収の処分又は滞納処分に不服がある者は、社会保険審査会に対して審査請求をすることができる(一審制、第190条)。この場合は2016年の法改正により、審査請求前置主義は適用されなくなったので、審査請求をせずに処分の取消の訴えを提起することが可能である。",
"title": "不服申立て"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "審査請求・再審査請求は、時効の中断に関しては裁判上の請求とみなされる。",
"title": "不服申立て"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "保険料を徴収し、又はその還付を受ける権利及び保険給付を受ける権利は、これらを行使することができる時から2年を経過したときは時効により消滅する(第193条1項)。これは金銭の徴収・給付にかかる規定であるので、療養の給付のような現物給付については消滅時効の適用はない。保険料の納入の告知又は督促は、時効の更新の効力を有する(第193条2項)。",
"title": "時効"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "事業主から被保険者に還付すべき保険料過納分の被保険者の返還請求権については、健康保険法の適用はなく、民法の一般原則に従って10年の消滅時効にかかる(民法第167条)。",
"title": "時効"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "疾病や負傷が業務や通勤を原因とするために労働者災害補償保険(労災保険)または公務災害の補償が適用される場合、および介護保険の適用により支給がなされる場合には、同一の疾病・負傷については健康保険が適用されずその支給が全額カットされる場合がある。例えば傷病手当金はその全額が支給されない(第55条)。",
"title": "他の医療保険制度と健康保険の関係"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "少年院、刑事施設、労役場その他これらに準ずる施設に収容・拘禁された被保険者又は被保険者であった者については、疾病、負傷、出産につき、原則として保険給付は行われない(公費治療との調整、第118条)。ただしこの場合でも、死亡に関する給付及び被扶養者に係る保険給付は行われる。なお、未決勾留者については傷病手当金・出産手当金は支給される。また、結核、精神病、原爆症等、公費負担治療の対象となる疾病、負傷については、公費負担の範囲内で健康保険の保険給付は行わないこととされている。ただ、健康保険と公費負担が競合する場合、一般的には健康保険を優先して給付し、自己負担分について公費負担が行われている。",
"title": "他の医療保険制度と健康保険の関係"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "健康保険と、その他の保険・医療制度(労災、公務災害、介護保険、公費治療、公費負担治療)との関係については、いずれかの制度を選択したり、支給調整が行われると言った性格のものではなく、その他の保険の一からの給付を受けなければならない。例えば労災であるにもかかわらず健康保険での給付を受けると、その給付相当額を一旦保険者に返納した上で労災の申請をしなければならなくなる(労災は申請してもすぐには支給されない)ので、二度手間でありかつ一時的にでも療養費等の自己負担をすることになる。なお、「労災隠し」の問題については労働災害の項目を参照のこと。",
"title": "他の医療保険制度と健康保険の関係"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "疾病や負傷が交通事故などの第三者行為を原因とする場合、ただちに健康保険が適用できると言うわけではない。第三者行為による傷病に対して患者本人が健康保険による給付を希望する場合、第三者行為による被害の届出(通称「第三者行為の届出」)を行うことで、保険者による医療給付が行われる。保険者が給付した医療費は、求償を介して加害者から保険者へと弁済されるものと想定されている。具体的には、保険者は、その給付した金額を限度として、第三者行為の相手方に対する損害賠償請求権を代位取得する(第57条第1項)。第三者行為届の届出を行う義務者は被保険者で(患者本人とは必ずしも一致しない)、遅滞なく提出するものと定められている(施行規則第65条)。",
"title": "他の医療保険制度と健康保険の関係"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "第三者行為による傷病の場合には、疾病等の完治や症状固定などにより保険給付が終結するまでは、相手方との示談等を行うべきではなく、その旨、保険者からも指導がある。それは、被害者と相手方との示談等(口約束を含む)を先に行なうことにより、被害者の持つ損害賠償請求権が確定(限定)されてしまい、保険者が代位取得できる賠償請求権も限定されてしまうからである。訴訟外の先行賠償により(自動車保険の人身傷害など)賠償額を受領し、または訴訟等により賠償額が確定しその受領を受けた場合には、その受領額を限度として健康保険からの給付に対して支給調整が行われる(第57条第2項)。なお、第三者行為と各種保険との関係については、労災保険、公務災害による保険、介護保険においても同様である。",
"title": "他の医療保険制度と健康保険の関係"
}
] |
日本における健康保険とは、雇用者の福利厚生を目的に社会保険方式で運営される医療保険(被用者保険、職域保険)のうち、健康保険法に基づくもの。医療保険事務上の略称は社保(しゃほ)と言われ、国保(こくほ)と呼ばれる地域保険と区別される。なお、公務員などの共済組合加入者の被用者保険については、健康保険法ではなく国家公務員共済組合法などに基づく共済組合でカバーされる。
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{{Otheruseslist|日本における[[健康保険法]]に基づく被用者医療保険|総論|医療保険|普遍主義的医療制度|ユニバーサルヘルスケア|日本における地域保険|国民健康保険}}
{{law}}
[[日本]]における'''健康保険'''(けんこうほけん、{{lang-en|Employee Health Insurance}})とは、[[雇用者]]の[[福利厚生]]を目的に[[社会保険]]方式で運営される[[医療保険]](被用者保険、職域保険)のうち、[[健康保険法]]に基づくものを指す。[[医療保険事務]]上の略称は'''社保'''(しゃほ)。以下の二つに大別される:
* 「健康保険組合連合会」(組合健保、主に大企業被用者などを対象)
* 「全国健康保険組合」(協会けんぽ、主に中小企業被用者などを対象)
なお広義の日本の健康保険とは下記を含んだものを指す:
* 上記の健康保険:[[健康保険法]]に基づく
* [[船員保険]]:[[船員保険法]]に基づく
* [[共済組合]]加入者の被用者保険:主に公務員などを対象、[[国家公務員共済組合法]]などに基づく
* [[国民健康保険]]<ref group="*">国保(こくほ)と呼ばれる地域保険</ref>:主に自営業者、または年金受給者、無収入者などを対象、[[国民健康保険法]]に基づく
{{日本の医療財政}}
[[画像:HealthInsuranceCard.jpg|thumb|250px|[[健康保険証|健康保険被保険者証]]([[カード]]型)。いわゆる保険証。<br/>当時の<!-- あえてこっちに関連付け -->[[政府管掌健康保険]]のもの。同保険の後継である、[[全国健康保険協会]]各支部が発行する現行のカードは[[水色]]の[[カード]]となっている。<br/>(上:表、下:裏)]]
== 目的 ==
{{indent|''健康保険法については以下では条数のみ記す。''}}
健康保険制度は、'''労働者<ref group="*">平成14年の改正により、条文上の表記が「被保険者」から「労働者」に改められた。</ref> 又はその被扶養者'''の'''[[業務災害]]以外の'''疾病、負傷若しくは死亡又は[[出産]]<ref group="*">健康保険法において「出産」とは妊娠4月(85日)以上の分娩をいい、それが正常分娩であると死産、早産、[[流産]]、[[人工妊娠中絶]]であるとを問わない(昭和27年6月16日保文発2427号)。</ref> に関して保険給付を行い、もって'''国民の生活の安定と[[福利厚生|福祉の向上]]に寄与する'''ことを目的とする(第1条)。業務上の疾病等については[[労災保険]]の対象となる。業務上か業務外かはっきりしない場合は、一応業務上として取り扱い、最終的に業務外と判断された場合はさかのぼって健康保険を適用する(昭和28年4月9日保分発2014号)。健康保険と労災保険のどちらの給付も受けられないケースがあったことから<ref group="*">被保険者が副業として行う請負業務中に負傷した場合や、被扶養者が請負業務や[[インターンシップ]]中に負傷した場合などが考えられる(平成25年8月14日事務連絡)。</ref>、平成25年に第1条を改正し、広く医療を保障する観点から、'''労災保険の給付が受けられない場合には、原則として健康保険の給付が受けられることとする'''ものである<ref group="*">労災保険法における業務災害については健康保険の給付の対象外であり、また、労災保険法における通勤災害については労災保険からの給付が優先されるため、健康保険の保険者は、まずは労災保険の請求を促し、健康保険の給付を留保することができる。ただし、保険者において、健康保険の給付を留保するに当たっては、関係する医療機関等に連絡を行うなど、十分な配慮を行うこと(平成25年8月14日事務連絡)。もっとも、法人の役員としての業務の執行に起因する疾病等については原則として引き続き健康保険の対象にも労災保険の対象にはならない(健康保険法53条の2)。</ref>。
健康保険制度については、これが'''医療保険制度の基本をなすものである'''ことにかんがみ、高齢化の進展、疾病構造の変化、社会経済情勢の変化等に対応し、その他の医療保険制度及び[[後期高齢者医療制度]]並びにこれらに密接に関連する制度と併せてその在り方に関して常に検討が加えられ、その結果に基づき、[[医療保険]]の運営の効率化、給付の内容及び費用の負担の適正化並びに国民が受ける医療の質の向上を総合的に図りつつ、実施されなければならない(第2条)。
日本の健康保険制度は、[[ドイツ]]の疾病保険法をモデルとして、[[1926年]](大正15年)(保険給付及び費用負担に関する規定は[[1927年]](昭和2年))に施行された。当初は疾病保険と災害補償を兼ねた保険であり、[[工場法]]・[[鉱業法]]の適用のある事業所への適用とされた。
== 管掌 ==
健康保険法の規定上は[[厚生労働大臣]]が幅広い権限を有しているが、実際の事務(次にあげる事務)は[[日本年金機構]](1,2)、[[地方厚生局]]長又は地方厚生支局長(3)に委任・委託されている。
#被保険者の適用除外の承認、[[#適用事業所|任意適用事業]]に係る認可、被保険者資格得喪の確認、[[標準報酬月額]]・標準賞与額の決定、[[#滞納に対する措置|滞納処分]]の事務
#現物給与の価額の決定、保険料等の徴収・督促に係る事務について、その事前・事後の事務処理
#[[保険医療機関]]等及び[[訪問看護|指定訪問看護事業者]]に係る指定・指定取り消し、[[医師#医療保険制度と医師|保険医]]に係る登録等の権限
=== 保険者 ===
保険者(保険事業の経営主体として保険給付等の業務を行う者)は、[[全国健康保険協会]]及び[[健康保険組合]]とされる(第4条)。ただし、[[日雇健康保険|日雇特例被保険者]]については全国健康保険協会のみが保険者となり、健康保険組合が保険者となることはない。
{| class="wikitable" style="text-align:right; margin-left:3em; font-size:90%"
|+ 健康保険法に基づく保険者 (平成25)<ref>{{Cite report|publisher=厚生労働省 |title=平成25年版 厚生労働白書 |at=資料編 p26}}</ref>
!rowspan=2| 保険者 !! colspan=3| 加入者数 !! rowspan=2| 組合数
|-
! 加入者計 !! 本人(被保険者) !! 家族(被扶養者)
|-
|{{rh}}| [[全国健康保険協会]]
| 34877千人 || 19631千人 || 15246千人 || {{n/a}}
|-
|{{rh}}| [[健康保険組合]]
| 29504千人 || 15533千人 || 13951千人 || 1443組合
|-
|{{rh}}| [[日雇健康保険|日雇特例被保険者]]
| 18千人 || 12千人 || 6千人 || {{n/a}}
|}
== 適用事業所 ==
加入は原則として'''事業所単位'''(本社・支社・工場など)で行われる<ref group="*">都道府県を越えて事業所所在地が移転した場合には管轄の全国健康保険協会の支部が変わるので保険証を交換する。その他、同一都道府県内での事業所所在地の移転や、被保険者が(都道府県を越えるか否かに関係なく)[[転勤]]する場合には、基本的には保険証は交換しない。</ref>。健康保険が適用となる事業所は、加入が義務付けられている事業所('''強制適用事業所''')と、[[厚生労働大臣]]の[[認可]]を受けて加入する事業所('''任意適用事業所''')がある。適用事業所は健康保険と[[厚生年金]]とで共通である<ref group="*">厚生年金ではさらに、「[[船員法]]第1条に規定する船員として[[船員保険#船舶所有者|船舶所有者]]に使用される者が乗り組む[[船舶]]」も強制適用事業所とされる。</ref>。
;強制適用事業所
:*国・地方公共団体・[[法人|法人事業所]](法人の種類は問わない)で、常時従業員を使用するもの(第3条3項2号)
:*[[個人事業主|個人事業所]]のうち、'''適用業種'''である事業の事業所で、かつ常時5人以上の従業員を使用する事業所(第3条3項1号)
:**「5人」の算定に当たっては、被保険者となるべき者だけでなく、適用除外の規定によって被保険者とすることができない者であってもその事業所に常時使用されている者であればこれを算入する(昭和18年4月5日保発905号)。
:<!-- バグ回避のための行。[[Help:箇条書き]]を参照。 -->
;任意適用事業所
:*強制適用事業所に該当しない事業所であって、'''任意適用の申請'''をし、厚生労働大臣の認可を受けた事業所(第31条)
:**「強制適用事業所に該当しない事業所」とは、すなわち、個人事業所のうち、非適用業種(農林・水産・畜産業、理美容業、映画の製作その他興行の事業、接客娯楽業、法務の事業、宗教の事業、等々)の事業所、あるいは適用業種の事業所であっても'''常時5人未満'''の従業員を使用する事業所、を指す。
:**任意適用の認可を受けようとするときは、当該事業所に使用される者の2分の1以上の同意が必要である。「2分の1」の算定に当たっては被保険者となるべき者に限られる。
:**強制適用事業所がその要件に該当しなくなった場合、任意適用事業所の認可があったものとみなされる。
:<!-- バグ回避のための行 -->
;特定適用事業所
:*平成28年10月以降、同一事業主([[法人番号]]が同一)の適用事業所の被保険者数(短時間労働者を除き、共済組合員を含む)の合計が1年で6か月以上、500人を超えることが見込まれる事業所。後述の「短時間労働者」に対する適用が拡大される。
:**一度特定適用事業所となった事業所が、被保険者数が500人を下回ることとなっても、引き続き特定適用事業所となる。ただしこの場合、使用される被保険者の4分の3の同意を得て厚生労働大臣に申し出ることにより当該事業所を特定適用事業所でなくすることができる。
「適用業種」とされるのは、以下の業種である。
<blockquote>
{{Columns-list|2|
*物の製造、加工、選別、包装、修理又は解体の事業
*土木、建築その他工作物の建設、改造、保存、修理、変更、破壊、解体又はその準備の事業
*鉱物の採掘又は採取の事業
*電気又は動力の発生、伝導又は供給の事業
*貨物又は旅客の運送の事業
*貨物積卸しの事業
*焼却、清掃又はとさつの事業
*物の販売又は配給の事業
*金融又は保険の事業
*物の保管又は賃貸の事業
*媒介周旋の事業
*集金、案内又は広告の事業
*教育、研究又は調査の事業
*疾病の治療、助産その他医療の事業
*通信又は報道の事業
*[[社会福祉法]]に定める社会福祉事業及び[[更生保護事業法]]に定める更生保護事業
}}
</blockquote>
[[労災保険]]や[[雇用保険]]とは異なり、適用事業所でない事業所が、被保険者となるべき者からの希望があっても適用事業所とする義務はないし、任意適用事業所に使用される被保険者からの希望があっても、事業主は任意適用取消の申請を行う義務もない。
2以上の事業主が同一である場合は、厚生労働大臣の承認を受けて当該2以上の事業所を一の適用事業所とでき('''一括適用事業所'''、第34条。一般的には法人一括の単位で適用されている)、承認にあたっては以下の要件をすべて満たすことが必要となる。
#一の適用事業所にしようとする複数の事業所に使用されるすべての者の人事、労務及び給与に関する事務が'''電子計算組織により集中的に管理'''されており、適用事業所の事業主が行うべき事務が所定の期間内に適正に行われること。
#一括適用の承認により指定を受けようとする事業所において、1. の管理が行われており、かつ、当該事業所が一括適用の承認申請を行う事業主の主たる事業所(本社)であること。
#承認申請にかかる適用事業所について'''健康保険の保険者が同一である'''こと。
#協会けんぽの適用となる場合は、健康保険・厚生年金の一括適用の承認申請を合わせて行うこと。
#一括適用の承認によって厚生年金保険事業及び健康保険事業の運営が著しく阻害されないこと。
もっとも中小の事業所では人事・設備等の面で一括適用事業所の承認を受けるための要件を満たせない場合も多いことから<ref group="*">平成18年の時点で、一括適用事業所の承認を受けている企業は約440社にとどまる。</ref>、人事や給与等の管理が本社で行われている被保険者については、その者が勤務する事業所にかかわらず、健康保険・厚生年金の手続きを本社において行う('''本社における被保険者として取り扱う''')ことが認められている('''本社管理'''、平成18年3月15日庁保険発第0315002号)。これらの場合、被保険者が本社・支社間で転勤したとしても、その都度の被保険者資格の取得・喪失の手続きは不要となる。
事業主は、健康保険に関する書類を、その完結の日から2年間保存しなければならない(規則第34条)。初めて適用事業所となった事業主、事業の廃止等により適用事業所に該当しなくなった事業主、事業主の変更があった場合<ref group="*">変更後の事業主が届出る。従来は変更前・変更後の両事業主が連署で届出ることとされていたが、法改正により変更後の事業主のみに届出義務が課されることになった。</ref> は、当該事実のあった日から5日以内に所定の届出をしなければならない。
== 被保険者 ==
被保険者には、適用事業所に使用される者である「被保険者」(以下、「一般の被保険者」と表記<ref group="*">単に「被保険者」といった場合、健康保険法の条文上では4種類すべての被保険者を指すため、条文上「被保険者(日雇特例被保険者、任意継続被保険者及び特例退職被保険者を除く)」という表記を簡略化してある。</ref>)、及び「'''日雇特例被保険者'''」、適用事業所に使用されなくなった後に任意で加入する「'''任意継続被保険者'''」及び「'''特例退職被保険者'''」との4種類がある(第3条1項、2項、4項)。被保険者資格の取得・喪失は、原則として保険者等の確認によってその効力を生じ、事業主が資格取得の届出を行う前に生じた事故であっても、さかのぼって資格取得の確認が行われれば、保険事故となる。
=== 一般の被保険者 ===
一般の被保険者は、以下のいずれかに該当するに至った日から、被保険者の資格を取得する(第35条)。事業主は、一般の被保険者資格を取得した者があるときは、5日以内に、保険者が全国健康保険協会の場合は日本年金機構に、健康保険組合の場合は当該健康保険組合に(以下、「機構又は組合に」と略す)'''被保険者資格取得届'''(当該被保険者が被扶養者を有する場合は'''被扶養者届'''も併せて)を提出しなければならない。平成29年1月より、健康保険組合に提出する資格取得届には被保険者の[[個人番号]]を、日本年金機構に提出する資格取得届については被保険者の[[基礎年金番号]]を記入しなければならない<ref group="*">資格喪失届の場合はこれらの番号の記入は不要である。</ref>。
*適用事業所に使用されるに至ったとき
**「使用されるに至ったとき」とは、事実上の使用関係の発生した日をいう(昭和3年7月3日保発480号)。資格取得届のもれがあった場合でもすべて事実の日にさかのぼって資格取得させるべきものである。また、臨時や試用期間などの理由で雇用者の出入りが頻繁で永続するか不明といった理由で資格取得を遅延させることは出来ない。
*使用されている事業所が適用事業所になったとき
*適用除外に該当しなくなったとき
同時に2以上の事業所に使用される被保険者(日雇特例被保険者を除く)は、2以上の事業所に使用されるに至った日から10日以内に、その被保険者が、その保険者(いずれも協会けんぽで業務が2以上の年金事務所に分掌されているときは、その年金事務所)を選択する。
事業所が適用事業所となった場合、[[労災保険]]や[[雇用保険]]とは異なり、法人から労働の対償として報酬を受け取っていれば、'''法人の代表者・役員も含む'''すべての[[被用者]]は原則として被保険者となる(昭和24年7月28日保発74号)。外国人であっても適法に就労していれば一般の被保険者となる。ただし個人事業主は「使用される者」とはみなされないので、被保険者とならない。また、被保険者・被扶養者が法人の役員([[取締役]]、業務執行社員、[[執行役]]、ほか名称を問わずこれらに準ずる者と同等以上の支配力を有すると認められるものを含む)である場合に、その業務上の負傷については、使用者側の責めに帰すべきものであるため、労使折半の健康保険から保険給付を行うことは適当でなく、原則として保険給付の対象外とされる(第53条の2、平成25年8月14日事務連絡)<ref group="*">「法人の役員としての業務」とは、法人の役員がその法人のために行う業務全般を指し、特段その業務範囲を限定的に解釈するものではない(平成25年8月14日事務連絡)。</ref>。
被保険者が5人未満である小規模な適用事業所に所属する法人の代表者であって'''一般の労働者と著しく異ならないような労務に従事している者'''については業務上の事由による疾病等であっても健康保険による保険給付の対象とする(第53条の2、規則第52条の2)。従来、当面の暫定措置とされていて(平成15年7月1日保発0701002号)、さらに[[傷病手当金]]は当措置の対象外とされてきたが、平成25年の改正により第53条の2が追加され前述の通知が廃止されたことで、傷病手当金も含めて措置が恒久化された。
休職者については、休職期間中に給与の支給がなされているか、一時的に給与の支払いが停止されているにすぎない場合は、被保険者資格を存続させる。しかし休職中に給与が全く支給されず、実質的に使用関係が消滅している場合は、被保険者資格を喪失させる(昭和6年2月4日保発59号)。雇用契約は存続しても、事実上の使用関係がないものについては、被保険者資格を喪失させる(昭和25年4月14日保発20号)。
被保険者が[[解雇]]された場合においてその解雇の効力を争う場合、解雇行為が明らかに労働法規や[[労働協約]]に違反している場合を除き、事業主から資格喪失届の提出があったときは、たとえ当該事件が係争中であったとしても一応資格を喪失したものとして受理する扱いになっている(昭和25年10月9日保発68号)。
[[労働組合]]専従者については、従前の事業主との関係では被保険者資格を喪失するが、労働組合に使用される者として一般の被保険者となる(昭和24年7月7日職発921号)。なお、[[共済組合]]の組合員については、一般の被保険者であっても原則として健康保険法による保険給付は行わず、保険料も徴収しない。
同一の事業所において[[雇用]]契約上いったん退職した者が1日の空白もなく引き続き再雇用された場合には、事実上の使用関係は継続しているので、被保険者資格も継続する。有期の雇用契約又は任用が1日ないし数日の間を空けて再度行われる場合においても、雇用契約又は任用の終了時にあらかじめ、事業主と被保険者との間で次の雇用契約又は任用の予定が明らかであるような事実が認められるなど、'''事実上の使用関係が中断することなく存続している'''と、'''就労の実態に照らして'''判断される場合には、被保険者資格を喪失させることなく取り扱う必要がある(就労の実態に照らして個別具体的に判断する。平成26年1月17日保保発0117第2号)。ただし、60歳以上の者の再雇用については、使用関係をいったん中断したものとみなして取扱っても差し支えない(平成25年5月31日保発0531第1号)。そうすることで、再雇用に伴う給与の低下に即応して[[老齢年金#在職老齢年金|在職老齢年金]]の支給停止額を減額改定できる('''[[特別支給の老齢厚生年金]]の受給額を多くできる''')ため等である。
==== 短時間労働者 ====
{{日本の雇用者}}
[[非常勤|短時間労働者]]([[パートタイム労働法]]第2条でいう「短時間労働者」)として使用される者の加入については、'''常用的雇用関係'''が認められるかにより判断される。具体的な取扱い基準については、[[就業規則]]や雇用契約書に基づき、次のいずれにも該当する場合、一般の被保険者となる。なお平成28年9月までは、これらの要件に加えて「就労形態や職務内容等を総合的に勘案して」<ref group="*">昭和55年6月6日付け厚生省保険局保険課長・社会保険庁医療保険部健康保険課長・社会保険庁年金保険部厚生年金保険課長内かん。平成28年10月にこの内かんは廃止された。</ref> 被保険者資格の取得の可否を判断していたが、平成28年10月以降は単に所定労働時間数・所定労働日数のみで判断する。
*1週間の[[労働時間|所定労働時間]]が、同一の事業所で働いている通常の労働者の所定労働時間の'''4分の3'''以上であること。
**平成28年9月までは、「1日又は1週の所定労働時間」としていたが、平成28年10月以降は「1週の所定労働時間」のみで判断する。
*1か月の所定労働日数が、同一の事業所で働いている通常の労働者の所定労働日数の'''4分の3'''以上であること。
「4分の3」要件を満たさない場合であっても、以下の要件をすべて満たす短時間労働者は、平成28年10月以降、一般の被保険者とする。
*'''特定適用事業所に勤めていること'''
**平成29年4月以降は、特定適用事業所以外の適用事業所の事業主は、当該事業所にその事業所の労働者の過半数を組織する労働組合がある場合はその労働組合、無い場合は過半数労働者を代表する者の同意を得て、当該事業所に勤める4分の3要件を満たさない短時間労働者を一般の被保険者とする旨の申出をすることができる。またこの申し出をした事業主(事業所が特定適用事業所に該当する場合を除く)は、当該事業所にその事業所の労働者の4分の3以上を組織する労働組合がある場合はその労働組合、無い場合は4分の3以上の労働者を代表する者の同意を得て、当該事業所に勤める4分の3要件を満たさない短時間労働者を一般の被保険者としない旨の申出をすることができる。
*週の所定労働時間が20時間以上あること
**週の所定労働時間が短期的かつ周期的に変動し一定ではない場合等は、当該周期における1週間の所定労働時間を平均し、週の所定労働時間を算出する。所定労働時間が1か月単位で定められている場合、1か月の所定労働時間を12分の52で除して算出する。所定労働時間が1年単位で定められている場合、1年の所定労働時間を52で除して算出する。
*雇用期間が1年以上見込まれること
*賃金の月額が88,000円以上あること
**年収に換算すると106万円となるが(いわゆる「'''[[配偶者控除|106万円の壁]]'''」)、被保険者資格の取得の可否においては年収では判断せず、月額のみで判断する。
*学生(全日制課程)ではないこと
所定労働時間・所定労働日数が4分の3に満たない場合でも、業務の都合等により恒常的に4分の3基準を満たすこととなる場合、実際の労働時間・労働日数が連続する2月に4分の3基準を満たし、引き続き同様の状態が続くと見込まれるときは、4分の3基準を満たした3月目の初日に被保険者資格を取得する。ただし前記の5要件をすべて満たす場合は、そのときから被保険者資格を取得する。また平成28年9月以前に被保険者資格を取得していた者が平成28年10月以降に4分の3要件に該当しなくなる場合でも、引き続き被保険者資格を有する。
短時間正社員([[フルタイム]]の正社員と比してその所定労働時間が短い正規型の労働者であって、[[期間の定めのない労働契約]]を締結しているもの)については、次のいずれにも該当する場合、一般の被保険者となる。
*労働協約、就業規則及び給与規定等に、当該短時間正社員に係る規定があること。
*期間の定めのない労働契約が締結されていること。
*給与規定等における、時間当たりの基本給及び[[賞与]]・[[退職金]]等の算定方法等が同一事業所に雇用される同種フルタイムの正規型の労働者と同等であって、かつ就業実態も当該諸規定に即したものになっていること。
==== 派遣労働者 ====
派遣労働者は、派遣元の事業所における被保険者となる。
登録型派遣労働者の就業と就業の間の待機期間が、'''1月を超えないと確実に見込まれる場合'''は、待機期間中も引き続き被保険者資格を存続させて差し支えない。1月以内に次回の雇用契約(1月以上のものに限る)が締結されなかった場合には、その雇用契約が締結されないことが確実になった日又は当該1月が経過した日のいずれか早い日をもって使用関係が終了したものとして資格喪失する。
==== 適用除外 ====
以下のいずれかに該当する者は、日雇特例被保険者となる場合(原則として1〜4。詳細は、[[日雇健康保険]]を参照)を除いて、被保険者となることができない('''適用除外'''、第3条1項但書)。1~6は厚生年金と共通である。
#臨時に使用される者で、日々雇い入れられる者
#*ただし、その者が'''1月を超えて'''引き続き使用されるに至ったときは、'''その超えた日から'''一般の被保険者となる。
#臨時に使用される者で、2月以内の期間を定めて使用される者
#*ただし、その者が'''所定の期間を超えて'''引き続き使用されるに至ったときは、'''その超えた日から'''一般の被保険者となる。
#季節的業務に使用される者
#*ただし、その者が'''当初から継続して4月を超えて'''使用される'''予定'''である場合は、'''その当初から'''(使用されるに至った日から)一般の被保険者となる。業務の都合等によりたまたま継続して4月を超えて使用されるに至ったとしても一般の被保険者とはならない。
#*需要の関係で季節により繁閑の差がある事業は、「季節的事業」とはならないので、当該事業に使用される者は一般の被保険者となる。
#臨時的事業の事業所に使用される者
#*ただし、その者が'''当初から継続して6月を超えて'''使用される予定である場合は、'''その当初から'''(使用されるに至った日から)一般の被保険者となる。業務の都合等によりたまたま継続して6月を超えて使用されるに至ったとしても一般の被保険者とはならない。
#事務所で所在地が一定しないものに使用される者
#*この場合、その者はたとえその事業所に長期にわたって使用されたとしても被保険者とはならない。
#特定適用事業所以外の適用事業所に使用される、4分の3要件を満たさない短時間労働者
#*「当分の間」の措置とされる(附則第46条)
#[[船員保険]]の強制被保険者
#*この者は船員保険から給付を受けることができるため、健康保険の適用は除外される。船員保険の疾病任意継続被保険者(健康保険における任意継続被保険者に相当)については、健康保険の適用を除外されない(健康保険の適用事業所に使用されれば、健康保険の被保険者となり、疾病任意継続被保険者の資格を喪失する)。
#[[国民健康保険組合]]の事業所に使用される者
#*この者は国民健康保険から給付を受けることができるため、健康保険の適用は除外される。
#後期高齢者医療の被保険者
#*この者は後期高齢者医療から給付を受けることができるため、健康保険の適用は除外される。
#厚生労働大臣、健康保険組合又は共済組合の承認を受けた者
#*国民健康保険の事業運営上必要な人物については、当該承認により、国民健康保険の被保険者に移行することができる(国民健康保険の被保険者であるべき期間に限られる)。
=== 被扶養者 ===
被保険者によって'''生計を維持されている者'''で所定の要件を満たす者は、保険者の認定を受けることにより被[[扶養]]者としてその保険の適用を受けることができる。保険料免除の一類型(特約)であり、被扶養者に保険料の負担はなく、被扶養者の有無、増減で被保険者の保険料に変動はない。元来は収入を得られない子供や[[障害者]]、長期入院者、専業[[主婦]]、年老いた親などが想定されていたが、家族や社会環境の変化などにより、その態様は変化している(専業主夫、リストラされた夫、[[資格試験]]受験生、いわゆる[[フリーター]]など)。20歳以上60歳未満の[[配偶者]]は、被扶養者認定があったときは[[国民年金]]第3号被保険者として取り扱うこととされる(昭和61年4月1日庁保険発18号)。事業主は、その使用する一般の被保険者が被扶養者を有するに至ったときは、'''5日以内'''に被扶養者異動届を機構又は組合に提出しなければならない。なお任意被保険者が被扶養者を有するに至った場合は、被保険者自らが提出する。
被扶養者として認定される要件としては、以下のように定められている(第3条7項)。ただし、'''日本国内に居住すること'''及び'''後期高齢者医療の被保険者等でないこと'''が必要である。
#被保険者(日雇特例被保険者であった者を含む。以下同じ)の[[直系尊属]]、[[配偶者]]、子、孫及び兄弟姉妹であって、主としてその被保険者により生計を維持するもの (いわゆる'''[[配偶者控除|130万円の壁]]''')
#*「生計維持」が認定されるためには、認定対象者が被保険者と同一世帯の場合は、認定対象者の年収が130万円未満(認定対象者が60歳以上の者や障害者([[障害厚生年金]]の受給要件に該当する程度の障害であること)である場合については年収180万円未満)で、かつ被保険者の年収の1/2未満であること(平成5年3月5日保発15号)。なお、この要件に該当しない場合であっても、認定対象者の年収が130万円未満であって、かつ被保険者の年収を上回らない場合においては、被保険者がその世帯の生計維持の中心的役割を果たしていると認められれば、被扶養者として認定される。
#*「兄弟姉妹」について、平成28年9月までは「弟妹」のみであったが、平成28年10月以降は「兄姉」も加えられた。
#*認定対象者が被保険者と'''同一世帯に属していない'''場合は、年収130万円未満、かつ'''年収が被保険者からの援助による収入額より少ないこと'''。
#**「年収」とは、給与、年金、[[雇用保険#失業等給付|失業等給付]]、恩給、[[不動産]]収入等、定期的な収入である。給与の場合は、勤労の対価として支払われているものすべてが対象であり、諸手当・交通費込み、税引前の額である(被保険者の保険料算定における報酬と同様)。預貯金、[[相続]]による一時的な収入、負債などは収入条件の判定から除外される。
#**「同一世帯」に属する者とは、'''被保険者と住居及び家計を共同にする者'''をいう(昭和27年6月23日保文発3533号)。[[戸籍]]が同一であるか、また被保険者が[[世帯主]]であるかは問われない。また病気や就学等で一時的に別居している場合でも同一世帯と認められる。法所定の老人・障害者等の指定施設に入所している場合も「一時的別居」と考え、住居を共にしていることとして扱う(平成11年3月19日保険発24号)。
#*夫婦共同扶養の場合における被扶養者の認定については、夫婦とも被用者保険の被保険者の場合には、令和3年8月1日以降は以下の取扱いとする(令和3年4月30日保保発0430第2号/保国発0430第1号)。
#**被扶養者とすべき者の員数にかかわらず、被保険者の年間収入が多い方の被扶養者とする。
#**夫婦双方の年間収入の差額が年間収入の多い方の1割以内である場合は、被扶養者の地位の安定を図るため、届出により、主として生計を維持する者の被扶養者とする。
#**夫婦の双方又はいずれか一方が共済組合の組合員であって、その者に被扶養者とすべき者に係る扶養手当又はこれに相当する手当の支給が認定されている場合には、その認定を受けている者の被扶養者として差し支えない。なお、扶養手当等の支給が認定されていないことのみを理由に被扶養者として認定しないことはできない。
#**標準報酬月額が同額の場合は、被保険者の届出により、主として生計を維持する者の被扶養者とする。なお、標準報酬月額に遡及訂正があった結果、上記決定が覆る場合は、遡及が判明した時点から将来に向かって決定を改める。
#**夫婦の年間収入比較に係る添付書類は、保険者判断として差し支えない。
#被保険者の3[[親等]]内の親族で前号に掲げる者以外のものであって、その被保険者と同一の世帯に属し、主としてその被保険者により生計を維持するもの
#*「被保険者の父母」であれば同一世帯要件は不要であるが、「被保険者の配偶者の父母」であれば同一世帯要件が必要となる。
#被保険者の配偶者で'''届出をしていないが事実上[[結婚|婚姻]]関係と同様の事情にあるもの'''の父母及び子であって、その被保険者と同一の世帯に属し、主としてその被保険者により生計を維持するもの
#*届出上の配偶者の父母・子であれば「同一世帯」要件は不要であるが、届出ない配偶者の父母・子の場合は「同一世帯」要件が必要となるのである。
#*届出上の配偶者とは異なり、届出ない配偶者の祖父母、孫、兄弟姉妹は、「同一世帯・生計維持」であっても被扶養者とは認定されない。
#前号の配偶者の死亡後におけるその父母及び子であって、引き続きその被保険者と同一の世帯に属し、主としてその被保険者により生計を維持するもの
「日本国内に居住」については、令和2年4月の改正法施行により新たに要件に加えられ、その確認は原則として住民基本台帳の記載に基づいて行う。例外的に、「日本国内に住所を有しないが渡航目的その他の事情を考慮して日本国内に生活の基礎があると認められるものとして厚生労働省令で定めるもの」については被扶養認定することとし、以下の者はそれぞれに掲げる添付書類によって「厚生労働省令で定めるもの」として認定される(規則第37条の2、令和元年11月13日保保発1113第1号)。
*外国において留学をする学生 - [[査証]]、学生証、在学証明書、入学証明書等の写し
*日本からの海外赴任に同行する家族 - 査証、海外赴任辞令、海外の公的機関が発行する居住証明書等の写し
*海外赴任中の身分関係の変更により新たな同行家族とみなすことができる者(海外赴任中に生まれた被保険者の子ども、海外赴任中に結婚した被保険者の配偶者<ref group="*">海外赴任中に現地で結婚した配偶者の血族(被保険者の姻族)は、海外赴任後に被保険者の姻族という身分のみを以て発行されるビザがなく、今後日本で生活する蓋然性が高いとは言えないことから、配偶者と異なり、国内居住要件の例外としては位置づけない。ただし、配偶者の連れ子については、海外赴任後に「定住者」等の在留資格により日本で生活すると予定されているなど、今後日本で生活する蓋然性がある場合には、国内居住要件の例外に該当するものとして差し支えない。ただし、この場合においても、日本で結婚した配偶者の連れ子と同様に、被保険者と同居していることが必要となる(「国内居住要件に関するQ&A」)。</ref>、[[特別養子]]など) - 出生や婚姻等を証明する書類等の写し
*観光・保養やボランティアなど就労以外の目的で一時的<ref group="*">「一時的」の判断基準は、ビザに有効期限がある場合は、原則として「一時的」と判断して差し支えない(「国内居住要件に関するQ&A」)。</ref>に日本から海外に渡航している者 ([[ワーキングホリデー]]、[[青年海外協力隊]]など<ref group="*">[[リタイアメントビザ]]や[[ロングステイビザ]]などで長期渡航する家族は、基本的に一定の資産や収入が基準となっているため、そもそも生計維持要件を満たさない可能性が高いことが考えられる(「国内居住要件に関するQ&A」)。</ref>) - 査証、ボランティア派遣機関の証明、ボランティアの参加同意書等の写し
*その他日本に生活の基礎があると認められる特別な事情があるとして保険者が判断する者<ref group="*">留学等の国内居住要件の例外として認められる海外在住の被扶養者に子どもが生まれた場合(例:被保険者の孫)については、一般的には、子が生まれた被扶養者は新たな世帯を形成することが想定されるが(その時点で当該被扶養者の帰国の蓋然性や被保険者との生計維持関係を満たす可能性が低くなることが考えられる)、その子(被保険者の孫)についても、配偶者の就労実態や経済的援助の状況を踏まえ、被扶養者及びその配偶者がともに現地で就労できないビザで滞在しているなど、被保険者が扶養する必要がある特別な事情があり、「日本人の配偶者等」、「定住者」、「家族滞在」等の在留資格により日本で生活すると予定されているなど、今後日本で生活する蓋然性が高いと認められる場合には国内居住要件の例外として認めて差し支えない。(「国内居住要件に関するQ&A」)。</ref> - 保険者が個別に判断する
なお、以下の者は日本国内に住所を有しても被扶養認定しない。ただし、国内居住要件の導入により被扶養者でなくなる者であって、令和2年4月1日時点で保険医療機関に入院している者の被扶養者の資格について、入院期間中は継続させる経過措置が設けられている。
*「医療滞在ビザ」で来日した者
*「観光・保養を目的とするロングステイビザ」で来日した者(富裕層を対象とした最長1年のビザ)
扶養状況を確認するために、保険者は被扶養者に係る確認(扶養現況調査)を行うことができるとされる(規則第50条)。調査票に回答と収入や居住状態の立証書類を添付して保険者に提出する。収入が多いなど上記法定の認定条件を満たさない場合、調査票の提出がない場合、勤務先の[[社会保険]]に加入していた場合は被扶養者資格がなくなる(国民健康保険などに加入する)。扶養現況調査は健康保険の適正な適用に関し重要な役割を果たしている(不当な社会保険料免除を防ぐ)が、膨大な数の被扶養者について確認を行うため、対応に苦慮している保険者も多い。厚生労働省は'''1年に1回以上'''(毎年一定の期日を定めて)実施するように保険者に指導している。
従来、被扶養者の認定、年収や同一世帯か否かの判定は、被保険者から要件に合致している旨の申し出があれば特に厳格な審査をすることなく認定していたが、平成30年10月より取り扱いが変更となり、新たな申請には公的な証明書([[課税証明書]]、[[戸籍謄本]]等)の添付が義務づけられるようになった(既に身分関係を認定するための情報を保険者又は事業主が取得している場合([[個人番号]]を用いて確認する場合等)を除く。平成30年8月29日保保発0829第1号)<ref group="*">海外在住等で証明書等の提出が困難な場合においては、現況申立書の提出が必要となる(平成30年3月22日保保発0322第1号)</ref><ref>[https://www.nenkin.go.jp/oshirase/taisetu/2018/201809/20180905.html 健康保険被扶養者の認定について] 日本年金機構</ref>。
=== 任意継続被保険者 ===
以下のすべての要件を満たす者は、[[#保険者|保険者]]に申し出ることによって、被保険者資格喪失後も継続して当該保険者の被保険者となる(第37条。「任意継続被保険者」、「任意継続加入員」、「任意継続組合員」などと呼ばれるが、以下、本項では「'''任意継続被保険者'''」で統一する)。任意継続被保険者は'''一般の被保険者資格を喪失した日'''に、その資格を取得する。家族等も被扶養者として加入する事ができ、要件は基本的に在職中の被扶養者認定の場合と同様である。
*適用事業所に使用されなくなったため、又は適用除外の規定に該当するに至ったため一般の被保険者資格を喪失した者であること。
**任意適用事業所の取消によって資格を喪失した場合は任意継続被保険者となることはできない(昭和3年8月17日保理第2059号)。
*資格喪失の日の前日まで'''継続して'''2月以上一般の被保険者(共済組合の組合員である被保険者を除く)であったこと
**共済組合の組合員は、共済組合の任意継続組合員制度の適用を受けるため、任意継続被保険者となることはできない。なお、共済組合等は「2月以上」が「1年と1日以上」となる場合が多い。
**「2月以上」は、'''継続して2月以上であって、通算して2月以上でよいわけではない'''。原則として同一保険者であるが、加入していた健康保険組合が解散した場合には、保険者が自動的に全国健康保険協会に引き継がれるので「解散前後合わせて継続して2か月以上」ということになる。
*船員保険の被保険者又は後期高齢者医療の被保険者等でないこと
**それぞれ当該制度がら給付を受けることができる者については、任意継続被保険者となることはできない。
*資格喪失日(退職日の翌日)より20日以内に申し出ること
*初めて納付すべき保険料をその納付期日までに納付したこと
**初めて納付すべき保険料をその納付期日までに納付しなければ、その者は'''任意継続被保険者とならなかったものとみなされる'''。
**保険者は、正当な理由があると認めるときは、期間経過後の申出・納付の遅延であっても受理することができる。
**しかし、原則[[地震]]等により金融機関の機能が麻痺した場合など、天災地変等を理由<ref group="*">大きな被害が発生した地震などの際に[[厚生労働省]]から、被保険者からの申し出により、その資格の復活を認めるよう通知が保険者に出される。最近では[[新潟県中越沖地震]]([[2007年]])、[[岩手・宮城内陸地震]]([[2008年]])、[[2010年日本における口蹄疫の流行|宮崎県における口蹄疫の流行]]([[2010年]])の際に出された。</ref> とした未納以外は許容されないので、'''法律の不知'''<ref>最高裁判所判決昭和36年2月24日</ref>、単純な払い忘れ、勘違い、[[口座振替]]の場合の[[残高]]不足、最寄の金融機関の[[現金自動預け払い機|ATM]]が故障した、などの理由では被保険者資格の復活は認められない。これは、任意継続制度があくまでも''任意による継続''であるため、保険料納付の他各種届出等の事務を自ら行い、その結果(保険料の納付忘れ等の結果)はすべて自己に帰属するという一種の自己[[責任]]の法律論による。自己の責任または意思において資格が喪失したので、[[審査請求]]等法的な不服申し立ては正義に反し認められない。なお、総務省に対しあっせんの申し立てがあったため、1回目についてに資格の復活を認めやすくしている保険者もあるが、だからといって必ず認められるものではないことに留意すべきである。
任意継続被保険者は、以下のいずれかに該当するに至った場合、その資格を喪失する(第38条、カッコ内は資格喪失日)。
*任意継続被保険者となった日から起算して2年を経過したとき(被保険者証に表示されている予定年月日)
**つまり、退職後も引き続き健康保険に加入することができるのは、最長'''2年間'''ということになる。
*死亡したとき(死亡した日の翌日)
*保険料(初めて納付ずべき保険料を除く)を納付期日までに納付しなかったとき(納付期日の翌日)
**保険料滞納喪失後の保険料納付はできず(督促状が送られることもない)、一度資格を喪失すると再度任意継続被保険者となることはできないが、保険者が未納について相当な理由があると認めた場合にはこの限りでない。
*任意継続被保険者でなくなることを希望する旨を申し出たとき。(申出が受理された日の属する月の翌月1日)
**従来、一度任意継続被保険者となると、被保険者が任意に脱退することはできなかったが、2022年1月の改正法施行により、'''任意脱退が可能となった'''。任意継続から国民健康保険に切り替える場合や、被扶養者となる場合でも任意脱退を利用できる。従来の制度では、任意継続被保険者となって1年目は任意継続のほうが保険料が安かったのに2年目は国民健康保険のほうが保険料が安くなるケースがあったにもかかわらず被保険者が任意に切り替えることができなかった(国民健康保険は前年度の収入等により保険料を算定するため、退職直後は保険料が高くなり、収入がなければ次年度以降は安くなる場合がある。もっとも国民健康保険は市区町村ごとに保険料の計算方法が異なるため、任意継続といずれが有利であるかは旧制度であっても一概には言えなかった)。
*就職して、一般の被保険者、船員保険の被保険者、共済組合の組合員となったとき(被保険者資格を取得した日)
*後期高齢者医療の被保険者資格を取得したとき (被保険者資格を取得した日)
任意継続の保険料については、'''事業主負担がなくなる'''ため、被保険者の全額負担となり、自己の負担する保険料を納付する義務を負う。基本的に天引きの金額の約2倍から2.5倍になる(徴収する保険料の上限を設定している保険者もある)。'''各種の届出も事業主経由ではなく自ら行わなければならない'''。
納付後、同月内に健康保険(協会けんぽ、共済組合、健康保険組合、国民健康保険組合(厚生年金適用事業所に限る))の被保険者となった場合には後日還付される(ただし資格取得月を除く)。
任意継続被保険者の制度は大正15年の健康保険法制定時より存在する仕組みであり、国民皆保険が未達成であった当時は'''退職による無保険の回避'''が主な狙いであった。当初の任意継続要件は「資格喪失の前1年内に180日以上、又は資格喪失の際に引き続き60日以上被保険者であった者」とされ、加入期間は最大6か月とされた。その後の法改正で要件の緩和や加入期間の延長がなされ、現行の規定に至る<ref>[https://www.mhlw.go.jp/content/12401000/000568743.pdf 任意継続被保険者制度について]</ref>。
=== 特例退職被保険者 ===
厚生労働大臣の認可を受けて、「'''特例退職被保険者'''」制度を設けている健康保険組合('''特定健康保険組合''')がある(附則第3条)。厚生年金受給権がある者で、被保険者期間が20年以上または40歳以降10年以上ある者が継続加入できる(任意継続被保険者と異なり、「2年間」といった期間制限はない)。なろうとする者は、年金証書等が到達した日の翌日から起算して'''3月以内'''に申し出なければならない(健保組合が新たに特定健保組合の認可を受けた場合はこの限りではない。規則第168条4項)。'''申出が受理された日'''に特例退職被保険者の資格を取得する。任意継続被保険者である者は特例退職被保険者となることはできない。任意性の保険であるため、保険料納付や資格喪失等に関しては任意継続被保険者と共通している。但し、この制度を持つ健康保険組合は全国約1,500組合のうち70弱の比較的大規模な組合だけである。現役世代を圧迫するとして廃止や廃止の検討をしている組合が出てきている。
== 保険料 ==
一般の被保険者に係る保険料は、厚生年金保険料と同様、'''事業主と被保険者とで保険料を折半して負担する'''(第161条1項)。事業主は、その使用する被保険者及び自己の負担する保険料を納付する義務を負い(第161条2項)、被保険者に支払うべき[[標準報酬#用語の定義|報酬]]がなくても、事業主は被保険者分も含めた全額の支払い義務を負う(昭和2年2月18日保理578号)。事業主は原則として被保険者の負担すべき'''前月分'''(月の末日に退職し、報酬もその月に支払われる場合については前月分及び当月分)の標準報酬月額に係る保険料を報酬から控除することができる(第167条)。支払期日は翌月末日(前納不可)である。
'''任意継続被保険者に係る保険料は、本人が全額負担しなければならず'''、支払期日はその月の10日(初めて納付すべき保険料については、保険者が指定する日)である(第164条)。なお、任意継続被保険者は将来の一定期間(1年又は6か月)の保険料を前納することができる(第165条)。
健康保険組合は、規約で定めるところにより、一般保険料、介護保険料とも事業主の負担割合を増加させることができ(第162条)、協会けんぽに比べ保険料率が低い組合が多いが、中には協会けんぽの保険料率を超える財政基盤の脆弱な組合が存在する。なお事業主が負担割合を増加させた場合、その増加割合相当額は「報酬」には含まれない。
保険料は被保険者の[[標準報酬#標準報酬月額|標準報酬月額]]及び[[標準報酬#標準賞与額|標準賞与額]]に保険料率を乗ずることにより計算される(第156条)。
<blockquote>
'''一般保険料額 = 標準報酬月額 × 一般保険料率'''<br>
(介護保険第2号被保険者については、これに介護保険料額(標準報酬月額 × 介護保険料率)が加算され、あわせて徴収される)<br>
</blockquote>
=== 保険料率 ===
*一般保険料率:特定保険料率と基本保険料率との合算。
*特定保険料率:高齢者医療を支えるために使われる費用に充てる保険料(協会けんぽでは2019年度は全国一律3.51%)。
*基本保険料率:高齢者医療以外の健康保険事業に要する費用に充てる保険料(協会けんぽでは都道府県ごとに設定)。
*介護保険料率:保険者が納付すべき介護納付金に基づいて設定する(協会けんぽでは2019年度は全国一律1.73%)。
*調整保険料率:組合健保の財源の不均衡を調整するため、組合が連合会に拠出する費用に充てる保険料。
政管健保が2008年(平成20年)10月より[[全国健康保険協会]]に移管され、それに伴い全国一律だった一般保険料率も医療費に応じて各都道府県を単位に3.0%~13.0%(当初は3.0%~10.0%、平成28年3月までは3.0%~12.0%)の範囲内で協会が決定することとなった{{Sfn|OECD|2009|p=118}}。ただ、地域の医療格差のみが反映されるようになっていて、年齢構成や所得水準の違いに起因する都道府県ごとの財政力の差については都道府県間で調整されるので保険料率には反映されない。協会が保険料率を変更するには厚生労働大臣の認可が必要で、大臣は保険料率が不適当であり事業の健全な運営に支障があると認めるときは協会に変更の認可を申請するよう命ずることができる(第160条)。
実際には2009年9月より各都道府県別の保険料率となり、8.26%([[北海道]])〜8.15%([[長野県]])と定められた。更にその半年後の2010年3月には全国平均で1.14%の大幅な保険料率引き上げが行われ、9.42%(北海道)〜9.26%(長野県)となり、その後も保険料率の引き上げが続いている。2018年4月以降については、10.75%([[佐賀県]])〜9.63%([[新潟県]])となっている<ref>[https://www.kyoukaikenpo.or.jp/g3/cat330/sb3130/h31/310213 平成31年度の協会けんぽの保険料率は3月分(4月納付分)から改定されます] 全国健康保険協会</ref>。
健康保険組合においても、一般保険料率は3.0〜13.0%の範囲内で組合ごとに決定し、変更に際しては原則として厚生労働大臣の認可を受けなければならない<ref group="*">例外として、一般保険料率と調整保険料率とを合算した率の変更が生じない一般保険料率の変更については、組合は変更後の一般保険料率を厚生労働大臣に届け出ることで足りる。</ref>。合併によって設立された健康保険組合においては、合併の翌5年度に限り、厚生労働大臣の認可を受けて不均一の一般保険料率を設定することができる。
=== 保険料の徴収 ===
保険料は原則として被保険者資格取得月から'''資格喪失月の前月'''まで徴収されるが、資格取得月にその資格を喪失した場合は、その月の保険料は徴収される。同一月に2回以上の資格の得喪があった場合は、1月につき2月分以上の保険料の徴収がありうる。
保険料は、以下の場合は納期前であってもすべて徴収することができる(繰上徴収、第172条)。
*納付義務者が以下のいずれかに該当する場合
**国税、地方税その他の公課の滞納によって、滞納処分を受けるとき
**[[強制執行]]を受けるとき
**[[破産]]手続き開始の決定を受けたとき
**[[企業担保権]]の実行手続の開始があったとき
**[[競売]]の開始があったとき
*法人である納付義務者が、解散をした場合
*被保険者(日雇特例被保険者を含む)の使用される事業所が廃止された場合(事業主の変更があった場合を含む)
=== 保険料の免除 ===
前月から引き続き'''一般の被保険者'''である者が[[少年院]]、[[刑事施設]]、[[労役場]]その他これらに準ずる施設に収容・拘禁された場合、その月以降該当しなくなる月の前月までの保険料は徴収されない(第158条)。ただし同月中に収容等されなくなった場合は保険料は徴収される。事業主は、被保険者がこれらに該当する(しなくなった)場合は、「第118条1項該当届(非該当届)」<ref group="*">これらの者は第118条1項により、保険給付が制限されるため、このような名称となる。</ref> を5日以内に機構又は組合に提出しなければならない。
育児休業等([[育児介護休業法]]による[[育児休業]]もしくは同法による育児を理由とする所定労働時間の短縮等の措置等をいう。以下同じ<ref group="*">同法による[[介護休業]]もしくは介護を理由とする所定労働時間の短縮等の措置等の場合は対象とならない。</ref>)をしている'''一般の被保険者'''が使用される事業所の事業主が保険者等に申し出たときは、育児休業等開始日の属する月から、終了日の翌日が属する月の前月までの期間、当該被保険者に関する保険料は徴収されない(第159条)。被保険者が育児休業等期間を変更したとき、または育児休業等終了予定日の前日までに育児休業等を終了したときは、速やかに機構又は組合に届出なければならない。法人の代表取締役・専任役員たる被保険者は育児休業等による保険料免除は認められない(育児介護休業法は対象を「労働者」に限っているため。平成21年12月28日雇児発1228第2号)。なお[[労使協定]]により子が3歳に達する日以降の育児休業等を定めている場合であっても、免除は3歳未満の子を養育するための育児休業等に限られる。
平成26年4月30日以降に[[産前産後休業]]が終了となる一般の被保険者が使用される事業所の事業主が保険者等に申し出たときは、産前産後休業開始日の属する月から、終了日の翌日が属する月の前月までの期間、当該被保険者に関する保険料は徴収されない(第159条の3)。被保険者が産前産後休業期間を変更したとき、または産前産後休業終了予定日の前日までに産前産後休業を終了したときは、速やかに「産前産後休業取得者変更(終了)届」を機構又は組合へ提出する。育児休業等とは異なり、法人の代表取締役・専任役員たる被保険者も産前産後休業による保険料免除が認められる。
[[免除]]は事業主負担分、被保険者負担分双方について行われる。なお、'''任意継続被保険者、特例退職被保険者については免除は行われない'''(これらに該当しても保険料は徴収される)。
=== 滞納に対する措置 ===
保険料その他健康保険法の規定による徴収金を滞納する者があるときは、保険者等は期限を指定して督促しなければならない。督促状により指定する期限は、督促状を発する日から起算して10日以上経過した日でなければならない(第180条1項~3項)。なお督促は規則に定められた様式の督促状(様式第20号)で行われ、口頭、電話または普通の書面で行われることはない(規則第153条)。繰上徴収に該当する場合であっても、既に納期の過ぎた分の保険料については督促しなければならない(この場合延滞金は徴収されない)。
保険者等は督促を受けた者がその指定の期限までに保険料その他この法律の規定による徴収金を納付しないときは、[[国税徴収法|国税滞納処分]]の例によってこれを処分し、又は滞納者の居住地若しくはその者の財産所在地の市町村に対して、その処分を請求することができる(第180条5項)。市町村は市町村税の例によりこれを処分したときは徴収金の4%相当額が厚生労働大臣から当該市町村に交付される(第180条6項)。機構・協会・組合が滞納処分を行う場合は、あらかじめ厚生労働大臣の認可を受けなければならない。また滞納者が悪質な場合には当該権限を[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]を通して[[国税庁長官]]に委任することができる。「悪質な場合」とは、以下のいずれの要件も満たす場合とされる。
*納付義務者が24月以上保険料を滞納している。
*納付義務者が執行を免れる目的でその財産を隠蔽しているおそれがある。
*納付義務者が滞納している保険料その他の徴収金の額が5,000万円以上。
*納付義務者が納付について誠実な意思を有すると認められない。
督促したときは、やむを得ない事情がある場合、[[公示送達]]による督促の場合等を除き、保険者等は、徴収金額(1,000円未満の端数は切り捨て)に、'''納期限の翌日から'''徴収金完納または財産差し押さえの日の前日までの期間の日数に応じて、年14.6%('''督促が保険料に係るものである場合'''は、納期限の翌日から3月を経過する日までの期間については年7.3%)の割合を乗じて計算した額の'''延滞金'''(100円未満の端数は切り捨て)を徴収する(第181条)。なお現在の低金利の状況では年14.6%の延滞金は高すぎるとの問題意識から、事業主の負担軽減等を図るべく、'''当分の間特例が設けられ'''、各年の[[特例基準割合]]([[租税特別措置法]]第93項2項の規定に基づき、「前々年10月から前年9月までの各月における銀行の新規の短期貸出約定平均金利の合計を12で除して得た割合」として[[財務大臣 (日本)|財務大臣]]が告示した割合に年1%の割合を加算)が年7.3%に満たない場合は、
*「年7.3%の割合」とされる期間については、'''特例基準割合に年1%を加算'''した割合(加算した割合が年7.3%を超える場合は、年7.3%)
*「年14.6%の割合」とされる期間については、'''特例基準割合に年7.3%を加算'''した割合
とされる。令和3年の場合、特例基準割合は年1.5%(告示割合年0.5%に年1%を加算)とされたので<ref>令和2年11月30日財務省告示第281号</ref>、実際には以下のようになる。
*「年7.3%の割合」とされる期間については、年2.5%の割合
*「年14.6%の割合」とされる期間については、年8.8%の割合
保険料等の[[先取特権]]の順位は、国税及び地方税に次ぐものとする(第182条)。
=== 国庫の負担・補助 ===
国庫は、毎年度、'''予算の範囲内'''において、健康保険事業の事務の執行に要する費用を負担する(第151条)。したがって事務費は全額国庫負担である。また、健康保険組合に対して交付する国庫負担金は、'''各健康保険組合における被保険者数を基準として'''、厚生労働大臣が算定することとされ、この国庫負担金については、概算払をすることができる(第152条)。
協会けんぽに対しては、主な保険給付の支給に要する額に給付費割合を乗じて得た額の合算額の13~20%を国庫が補助することとされ(第153条1項)、当面の間国庫補助率は'''16.4%'''とされる(附則第5条)<ref group="*">協会けんぽへの財政支援措置の一つとして、協会けんぽの財政基盤の強化・安定化のため平成22年度から3年間の時限措置として行われたものであるが、2年間延長され、さらに法改正により期限の定めなく実施されることとなった。</ref><ref group="*">法改正により、後期高齢者支援金の納付に要する費用の額の国庫補助は平成29年4月から、協会が拠出すべき介護納付金の納付に要する費用の額の国庫補助は平成30年4月からは行われない。</ref>。
これらのほか、国庫は、予算の範囲内において、健康保険事業の執行に要する費用のうち、'''特定健康診査'''及び特定保健指導の実施に要する費用の一部を補助することができる(第154条の2)。
== 保険給付 ==
下記に掲げるもののほか、健康保険組合の場合は規約に定めることで'''付加給付'''を行うことができる(第53条)。被保険者の資格取得が適正である限り、その資格取得前の疾病、負傷等に対しても、保険給付は行われる(昭和26年10月16日保文発4111号)。事業主が資格取得の届を行う前に生じた事故であっても、さかのぼって資格取得の確認が行われれば、保険事故となり給付の対象になる(昭和31年11月29日保文10148号)。
=== 被保険者本人 ===
詳細は各記事を参照のこと。
*[[療養の給付]](第63条)
*[[入院時食事療養費]](第85条)
*[[入院時食事療養費#入院時生活療養費|入院時生活療養費]](第85条の2)
*[[保険外併用療養費]](第86条)
*[[療養費]](第87条)
*[[訪問看護療養費]](第88条)
*[[移送費]](第97条)
*[[傷病手当金]](第99条)
*[[埋葬料]]・[[埋葬費]]<ref group="*">「埋葬費」は実務上の用語であり、法文上は「埋葬に要した費用に相当する金額」。</ref>(第100条)
*[[出産育児一時金]](第101条)
*[[出産手当金]](第102条)
=== 被扶養者 ===
被扶養者に関する保険給付(家族給付)は、あくまで保険料を負担している被保険者に対してなされるものである。したがって、被保険者が死亡した場合、その翌日から家族給付は打ち切られる。また、被保険者の資格喪失後の継続給付は、被扶養者に対しては行われない(昭和31年12月24日保文発11285号)。
;家族療養費
:療養の給付、入院時食事療養費、入院時生活療養費、保険外併用療養費及び療養費に相当する給付は、被扶養者についてはすべて'''家族療養費'''として支給される(第110条)。
;家族訪問看護療養費
;家族移送費
;家族埋葬料
;家族出産育児一時金
:被保険者と同様の給付がなされる(第111〜114条)。ただし、家族埋葬料は、死産児に対しては支給されない(昭和23年12月2日保文発898号)。
=== 自己負担金軽減のための支給 ===
詳細は各記事を参照のこと。
*[[高額療養費]](第115条)
*[[高額療養費#高額介護合算療養費|高額介護合算療養費]](第115条の2)
{{See also|日本の医療#医療費負担の補助制度}}
=== 受給権の保護 ===
保険給付を受ける権利は、[[債権譲渡|譲り渡し]]、[[担保]]に供し、又は[[差し押さえ]]ることができない(第61条)。租税その他の公課は、保険給付として支給を受けた金品を標準として課することができない(第62条)。健康保険に関する書類には、[[印紙税]]を課さない(第195条)。
*保険医等が療養の給付をなした場合において、保険者からその診療報酬の支払を受けることは、保険給付として受けるものと直ちに解釈されないところであるが、その趣旨とするところは、被保険者に対し、保険給付を確保することにあることは、明白である。従って、基金を通してなす診療報酬の支払は、その他の保険給付と同様に、条理上差押又は譲渡の対象とならない(昭和25年6月13日保文発1331号)。
なお、健康保険法には'''未支給の給付についての規定がない'''ので、被保険者が未支給給付を残して死亡した場合は、[[民法]]の原則に従い、'''受給権者の[[相続人]]が未支給給付の請求権者となる'''(昭和2年2月18日保理719号)。
=== 給付制限・不正利得の徴収 ===
被保険者又は被保険者であった者が、自己の[[故意]]の[[犯罪]]行為により、又は故意に給付事由を生じさせたときは、当該給付事由に係る保険給付は行われない('''絶対的給付制限'''、第116条)。被扶養者についても同様である(第112条)。ただしこれらの場合であっても、埋葬料(埋葬費)については支給する扱いとなっている。
*絶対的給付制限を行うには、行為の遂行中に事故が発生したという関係のみでは不十分で、その行為が事故発生の主たる原因であると考える[[相当因果関係]]が両者の間にあることが必要である(昭和35年4月27日保分発3030号)。
*[[自殺未遂]]の場合は、保険給付は行わないが、精神疾患等に起因する自殺未遂については、「故意」にあたらないとして保険給付は行われる。
*被保険者が被扶養者を「自己の故意の犯罪行為」によって負傷させた場合、原則として被扶養者は保険給付の対象とならない。ただし[[ドメスティックバイオレンス|配偶者たる被保険者の暴力]]により負傷した被扶養者が申し出たときは、被扶養者から外れるまでの間に緊急的に受診した場合は保険給付の対象となる。
被保険者が闘争、泥酔又は著しい不行跡によって給付事由を生じさせたときは、当該給付事由に係る保険給付はその全部又は一部を行わないことができる(相対的給付制限、第117条)。保険給付を受ける者が正当な理由なく文書その他の物件の提出若しくは提出命令に従わず、又は職員の質問若しくは診断に対し答弁もしくは受診を拒んだときも同様である。
*ここでいう「給付事由」とは、「闘争、泥酔又は著しい不行跡」によってその際に生じさせた給付事由をいう。したがって、被保険者であり数日前闘争したことがあるも幸いにしてその当時においては何等の給付事由を生じなかった後に一方がこの怒りを晴らそうとして数日後に不意に危害を加えられたものについては「闘争によって給付事由を生じさせた」場合には該当しない(昭和2年4月27日保理1956号)。
被保険者又は被保険者であった者が、正当な理由なく療養に関する指示に従わないときは、保険給付の一部を行わないことができる(一部制限、第119条)。
保険者は、'''偽りその他不正行為'''により、保険給付を受け、または受けようとした者に対し、6月以内の期間を定め、その者に支給すべき'''傷病手当金又は出産手当金'''の全部または一部を支給しない旨の決定をすることができる。ただし、偽りその他不正行為があった日から1年を経過したときは、当該給付制限を行うことはできない(第120条)。
'''偽りその他不正の行為'''によって保険給付を受けた者があるときは、保険者は、その者からその給付の価額の全部又は一部を徴収することができる<ref group="*">「全部又は一部」とは、偽りその他の不正行為により受けた分が、その一部であることが考えられるので、全部又は一部としたものであって、詐欺その他の不正行為によって受けた分はすべてという趣旨である(昭和32年9月2日保発123号)。</ref>(第58条1項)。この場合において、事業主が虚偽の報告若しくは証明をし、又は保険医若しくは[[主治医]]が、保険者に提出されるべき診断書に虚偽の記載をしたため、その保険給付が行われたものであるときは、保険者は、当該事業主、保険医又は主治医に対し、保険給付を受けた者に[[連帯債務|連帯]]して前項の徴収金を納付すべきことを命ずることができる(第58条2項)。
保険者は、保険医療機関・[[保険薬局]]・指定訪問看護事業者が偽りその他'''不正の行為'''によって療養の給付等に関する費用の支払を受けたときは、当該保険医療機関・保険薬局・指定訪問看護事業者に対し、その支払った額につき返還させるほか、その返還させる額の40%を支払わせることができる(第58条3項)。
== 不服申立て ==
健康保険における被保険者の資格、保険料の納付については厚生年金とセットになっていることから、不服申立てについても厚生年金と手続が一元化されている。
被保険者の資格、標準報酬又は保険給付に関する処分に不服がある者は、各地方厚生局に置かれる[[社会保険審査官]]に対して[[審査請求]]をすることができる(第189条)。この審査請求は処分があったことを知った日の翌日から起算して3か月以内にしなければならない([[社会保険審査官及び社会保険審査会法]]第4条)。また、被保険者の資格または標準報酬に関する処分に対する審査請求は、原処分のあった日の翌日から起算して2年を経過したときは、することができない。以上の処分については、当該審査請求に対する社会保険審査官の裁決を経た後でなければ、取消の訴えを提起することはできない('''審査請求前置主義'''、第192条、[[行政事件訴訟法]]第8条1項但書)。
社会保険審査官の決定に不服がある者は、[[社会保険審査会]]に対して[[再審査請求]]をすることができる(二審制)。この再審査請求は、社会保険審査官の決定書の謄本が送付された日の翌日から起算して2か月以内にしなければならない(社会保険審査官及び社会保険審査会法第32条)。また、審査請求をした日から2か月以内に決定がないときは、審査請求人は、社会保険審査官が審査請求を棄却したものとみなして、社会保険審査会に再審査請求をすることができる。いずれの場合であっても、当該再審査請求は口頭で行うことができる。2016年の法改正により、再審査請求と処分の取消の訴えの提起のいずれを選択するかは申立人の任意となった。
保険料の賦課もしくは徴収の処分又は滞納処分に不服がある者は、社会保険審査会に対して審査請求をすることができる(一審制、第190条)。この場合は2016年の法改正により、審査請求前置主義は適用されなくなったので、審査請求をせずに処分の取消の訴えを提起することが可能である。
審査請求・再審査請求は、[[時効]]の中断に関しては裁判上の請求とみなされる。
== 時効 ==
保険料を徴収し、又はその還付を受ける権利及び保険給付を受ける権利は、これらを行使することができる時から2年を経過したときは[[時効]]により消滅する(第193条1項)。これは金銭の徴収・給付にかかる規定であるので、療養の給付のような現物給付については[[消滅時効]]の適用はない。保険料の納入の告知又は督促は、時効の更新の効力を有する(第193条2項)。
事業主から被保険者に還付すべき保険料過納分の被保険者の返還請求権については、健康保険法の適用はなく、[[民法 (日本)|民法]]の一般原則に従って10年の消滅時効にかかる(民法第167条)。
== 他の医療保険制度と健康保険の関係 ==
{{See also|労働者災害補償保険}}
疾病や負傷が業務や通勤を原因とするために[[労働者災害補償保険]](労災保険)または[[公務災害]]の補償が適用される場合、および[[介護保険]]の適用により支給がなされる場合には、同一の疾病・負傷については健康保険が適用されずその支給が全額カットされる場合がある。例えば[[傷病手当金]]はその全額が支給されない(第55条)。
少年院、刑事施設、労役場その他これらに準ずる施設に収容・拘禁された被保険者又は被保険者であった者については、疾病、負傷、出産につき、原則として保険給付は行われない('''公費治療'''との調整、第118条)。ただしこの場合でも、死亡に関する給付及び被扶養者に係る保険給付は行われる。なお、[[未決勾留]]者については傷病手当金・出産手当金は支給される。また、[[結核]]、[[精神病]]、[[原爆症]]等、'''[[公費負担医療#日本の制度|公費負担治療]]'''の対象となる疾病、負傷については、公費負担の範囲内で健康保険の保険給付は行わないこととされている。ただ、健康保険と公費負担が競合する場合、一般的には健康保険を優先して給付し、自己負担分について公費負担が行われている。
健康保険と、その他の保険・医療制度(労災、公務災害、介護保険、公費治療、公費負担治療)との関係については、いずれかの制度を選択したり、支給調整が行われると言った性格のものではなく、その他の保険の一からの給付を受けなければならない。例えば労災であるにもかかわらず健康保険での給付を受けると、その給付相当額を一旦保険者に返納した上で労災の申請をしなければならなくなる(労災は申請してもすぐには支給されない)ので、二度手間でありかつ一時的にでも療養費等の自己負担をすることになる。なお、「労災隠し」の問題については[[労働災害]]の項目を参照のこと。
=== 第三者行為との関係 ===
疾病や負傷が交通事故などの[[第三者]]行為を原因とする場合、ただちに健康保険が適用できると言うわけではない。第三者行為による傷病に対して患者本人が健康保険による給付を希望する場合、第三者行為による被害の届出(通称「第三者行為の届出」)を行うことで、保険者による医療給付が行われる<ref name="Yamazaki">山崎史郎:第三者行為(1). 國民健康保険, 30(7): 32-34 ,1979</ref>。保険者が給付した医療費は、求償を介して加害者から保険者へと[[弁済]]されるものと想定されている<ref name="Yamazaki" />。具体的には、保険者は、その給付した金額を限度として、第三者行為の相手方に対する損害賠償請求権を[[代位弁済|代位]]取得する(第57条第1項)。第三者行為届の届出を行う義務者は被保険者で(患者本人とは必ずしも一致しない)、遅滞なく提出するものと定められている(施行規則第65条)。
第三者行為による傷病の場合には、疾病等の完治や症状固定などにより保険給付が終結するまでは、相手方との[[示談]]等を行うべきではなく、その旨、保険者からも指導がある。それは、被害者と相手方との示談等(口約束を含む)を先に行なうことにより、被害者の持つ損害賠償請求権が確定(限定)されてしまい、保険者が代位取得できる賠償請求権も限定されてしまうからである。訴訟外の先行賠償により(自動車保険の人身傷害など)賠償額を受領し、または訴訟等により賠償額が確定しその受領を受けた場合には、その受領額を限度として健康保険からの給付に対して支給調整が行われる(第57条第2項)。なお、第三者行為と各種保険との関係については、労災保険、[[公務災害]]による保険、介護保険においても同様である。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite report |df=ja |publisher=OECD |date=2009-08-13 |title=OECD Economic Surveys: Japan 2009 |doi=10.1787/eco_surveys-jpn-2009-en |isbn=9789264054561 |at=Chapt.3 |ref={{SfnRef|OECD|2009}} }}
== 関連項目 ==
* [[福利厚生]]
* [[国民健康保険]] - [[国民健康保険法]] - [[国民健康保険税]]
* [[保険医療機関]] - [[保険薬局]]
* [[医師]] - [[歯科医師]] - [[薬剤師]]
* [[医療経済学]]
* [[診療報酬]] - [[レセプト]]
* [[健康保険証]]
* [[友納武人]]
; 課題
:* [[日本の医療#医療制度改革]]
:* [[健康保険組合#財政問題]]
:* [[全国健康保険協会#協会けんぽの財政悪化]]
:* [[コンビニ受診]]
:* [[医療詐欺]]
:* [[療養費詐欺]]
:* [[療養費の不正請求]]
==外部リンク==
*[https://www.kenporen.com/ 健康保険組合連合会]
*[https://www.kyoukaikenpo.or.jp/ 全国健康保険協会]
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[[Category:社会保険]]
[[Category:福利厚生]]
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国際関係
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国際関係(こくさいかんけい、英語: International relations, IR)とは、国家と国家の間に生じるさまざまな関係を指す。
二国間関係から多国間関係までを包括する概念であり、政治的、経済的、社会的、文化的及び軍事的な関係性を含んでいる。これを研究する学問に国際関係論がある。
国際関係は誰により動かされており、どのようなメカニズムで動いているのかを理解するためには、まず国際関係が国内政治と決定的に異なる本質を認識しなければならない。それは国際関係の無政府秩序性である。国家においては権力を一元的に掌握する政府機関が存在し、その政府機関によって制定された法に基づく秩序の下で社会が活動する。しかしながら複数の国家が存在する国際関係において一元的に権力を保有する超国家機関など存在しない。このことは国際関係が無政府状態(アナーキー)となることの自然な帰結だと考えられている。したがって国際関係は単一の主体により動かされているものではなく、複数の主体がそれぞれに動くことによって成り立っていると言える。
ただし無政府状態であることは無秩序状態とは異なったものである。国際関係はしばしば国際社会とも呼ばれるが、これは国際関係の主要な主体が国家であるということを示している。国家が保有するさまざまな権力の総体である主権は絶対的なものであり永久に不可分であると論じたのはジャン・ボダンであった。この近代的な主権の概念、さらに17世紀におけるヴェストファーレン条約は主権国家の国際的な地位を確立した。国家の要件を満たした場合のみ国家の承認明示的または黙示的方式で行われ、近代国家は独自の立法権や外交権などを行使する権限を獲得した。また国家と国家はそれぞれが承認しあうことによって外交関係を設立し、その関係性の中においてのみ国家は国家としての行為や権利を「主権の平等性」に基づいて均等に認められる。従って国家ではない単なる政治的共同体は国際社会の行為者となりえず、権限や影響力を持たない。これが国際社会の基本的な構造である。
しかしながら現代における国際関係は国家だけが重要な主体ではなくなってきている。国際機関や多国籍企業、非政府組織(NGO)などの新たな行為主体の出現がその原因である。国際関係が進展して国境の障害が取り払われていくと、それまで近代国家だけで構成されていた国際関係に民間団体が介入するようになった。特に多国籍企業は国際経済の飛躍的な発展をもたらした一方で、このような経済の国際化は国家の主権にとっての脅威とする見方も述べられている。また国家が盛んに二国間関係だけではなく多国間関係の構築の乗り出していることは国際機関の急速な発展をもたらしている。国際機関の下では国際法秩序の構築、平和問題や軍備管理、人権問題や環境対策など多様な分野にわたって活動が行われている。また欧州連合のような国際機関では国家が自らの主権の一部を委譲するような新たな連合の形態も現れており、伝統的な国際社会のシステムは転換しつつある。
歴史的には、「他国」と捉えられる存在が現れたときから国際関係とよびうる関係の萌芽が発生し、抗争、支配、従属、協力、連合など、その関係も多様なものであった。主権国家相互による国際関係は、17世紀のウェストファリア会議などによって成立し、近代的な意味での国際社会もそれを機に成立した。当初のように2か国間、3か国間などの限られた国家の間での関係から、交通や輸送、通信の発達した現代では、多くの国が同時に複雑に結びつくようになり、単に「二国間関係」「隣国関係」と呼ぶだけでは足りなくなった。
現代では、それを調整するために、国際機関が置かれたり、国際会議が開かれるなどされている。
国際関係はアナーキーであるが、完全な無秩序ではない。主権国家が並存することにより分権的な秩序が形成されている。しかし主権国家に優越する全世界的な統治機関がないために、その秩序はそれぞれの国家の対立関係や協力関係の帰結である。しかしこのような主権国家が形成する秩序は相互作用のまとまりと認識できる場合には国際システムと呼ばれる。
主権国家で構成される国際システムはヨーロッパにおいて三十年戦争後の1648年にウェストファリア条約に起源を持っている。しかしこれが世界中に定着するのは20世紀になってからであり、例えば東アジアでは中華秩序の下で国際関係が秩序付けられており、西アジアではイスラームに基づいた国際関係が形成されていた。19世紀初期には34カ国しかなかった主権国家も第二次世界大戦後には66カ国、ソビエト連邦の崩壊後には193カ国にまで増大し、主権国家の国際システムは普及した。
現代の国際システムは従来型の主権国家が主体となる秩序に加えて非国家主体が台頭しつつある。国際連合や世界銀行のような国際機構、国際的に経済活動を展開する多国籍企業、国境なき医師団のような非政府組織などがそれである。また欧州連合のような地域的な国家の連合体も登場しており、以前の主権国家を単位とするシステムは変容しつつある。これは関税や為替管理、出入国管理などによる交流の拡大、通信技術の発展による情報網の拡大などにより促進されていると考えられる。またそれまでナショナリズムによって統合されていた国民国家の中でも民族や部族などの単位に分離するエスノ・ナショナリズムが掲げられるようにもなっている。
紛争とは二者以上の当事者の間に、価値の対立状況の認識が相互にあり、かつ各当事者が自己の価値を実現するために競合する状況を意味し、物的な強制力を伴うような場合は狭義の武力紛争である。しかし対立関係と協力関係が完全に区分できるわけではなく、常に曖昧な要素が含まれる。国際紛争とは一義的に国家間に生じる紛争であるが、非国家主体との紛争をも近年では状況によって呼ばれる場合がある。政治紛争、経済紛争、民族紛争、武力紛争に分けられる。国際関係はこのような紛争により形成されるものと考え、国益や権力を重視する立場を現実主義と言う。
国際紛争を現実主義の立場から説明する場合には勢力均衡理論が適用される。勢力とは国家が保有する国力であり、均衡とは二国間または多国間で同等のものになることを指す。国家が外国の勢力下におかれることを避けるために、もし外国が勢力を増大させるとそれに対抗して国家も勢力を増強する動機づけが働く。この原理によって秩序は勢力の均衡によって形成されていく。勢力均衡は超大国の覇権主義や軍拡競争、同盟、戦争などの事象を合理的に説明することに役立つ理論である。
国際協力とは国際的に協力した活動であり、紛争の防止、人権の保障、国家建設の援助など幅広い。国際紛争を防止するための取り組みは大きく予防と対処の二つに分けられる。
紛争を予防するためのアプローチに集団安全保障がある。集団安全保障は国際連盟や国際連合による国際協力であり、体制の参加国で武力の不行使を承諾し、紛争は手続に則って平和的に処置、もしも特定の国家が武力を行使しすれば他の諸国が総力を挙げて制裁を加える。
これに加えて国際的な軍拡競争や兵器の拡散を防ぐための軍縮・軍備管理、不安定な地域における平和維持活動、また包括的な紛争防止のための開発援助、軍事支援などもあり、多様な国際協力が行われる。
国家と国家の間で、合意に基づいて、権利・義務を定めたもの 。 その主要な法源は条約と慣習国際法である。
松井芳郎ほかによれば、 国際法の古くからある第一の役割は、各国家の管轄の範囲と内容を規制することであったが、 近年では第二の役割として、諸国共通の目的を実現するための仕組みとなることがあり、その結果、国際法の主体(対象)が国家以外となる場合も出ている、とされる。
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国際関係とは、国家と国家の間に生じるさまざまな関係を指す。 二国間関係から多国間関係までを包括する概念であり、政治的、経済的、社会的、文化的及び軍事的な関係性を含んでいる。これを研究する学問に国際関係論がある。
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{{Otheruses|国際関係総論|日本の国際関係|日本の国際関係}}
{{政治}}
'''国際関係'''(こくさいかんけい、{{lang-en|International relations, IR}})とは、[[国家]]と国家の間に生じるさまざまな関係を指す。
二国間関係から多国間関係までを包括する概念であり、政治的、経済的、社会的、文化的及び軍事的な関係性を含んでいる。これを研究する学問に[[国際関係論]]がある。
== 概説 ==
国際関係は誰により動かされており、どのようなメカニズムで動いているのかを理解するためには、まず国際関係が国内政治と決定的に異なる本質を認識しなければならない。それは国際関係の無政府秩序性である。国家においては権力を一元的に掌握する政府機関が存在し、その政府機関によって制定された法に基づく秩序の下で社会が活動する。しかしながら複数の国家が存在する国際関係において一元的に権力を保有する超国家機関など存在しない。このことは国際関係が[[無政府状態]](アナーキー)となることの自然な帰結だと考えられている。したがって国際関係は単一の主体により動かされているものではなく、複数の主体がそれぞれに動くことによって成り立っていると言える。
ただし無政府状態であることは無秩序状態とは異なったものである。国際関係はしばしば国際社会とも呼ばれるが、これは国際関係の主要な主体が国家であるということを示している。国家が保有するさまざまな権力の総体である[[主権]]は絶対的なものであり永久に不可分であると論じたのは[[ジャン・ボダン]]であった。この近代的な主権の概念、さらに[[17世紀]]における[[ヴェストファーレン条約]]は主権国家の国際的な地位を確立した。[[国家の要件]]を満たした場合のみ[[国家の承認]]明示的または黙示的方式で行われ、近代国家は独自の立法権や外交権などを行使する権限を獲得した。また国家と国家はそれぞれが承認しあうことによって[[外交]]関係を設立し、その関係性の中においてのみ国家は国家としての行為や権利を「主権の平等性」に基づいて均等に認められる。従って国家ではない単なる政治的共同体は国際社会の行為者となりえず、権限や影響力を持たない。これが国際社会の基本的な構造である。
しかしながら現代における国際関係は国家だけが重要な主体ではなくなってきている。[[国際機関]]や多国籍企業、[[非政府組織]](NGO)などの新たな行為主体の出現がその原因である。国際関係が進展して国境の障害が取り払われていくと、それまで近代国家だけで構成されていた国際関係に民間団体が介入するようになった。特に多国籍企業は国際経済の飛躍的な発展をもたらした一方で、このような経済の国際化は国家の主権にとっての脅威とする見方も述べられている。また国家が盛んに二国間関係だけではなく多国間関係の構築の乗り出していることは国際機関の急速な発展をもたらしている。国際機関の下では国際法秩序の構築、平和問題や[[軍備管理]]、[[人権]]問題や環境対策など多様な分野にわたって活動が行われている。また[[欧州連合]]のような国際機関では国家が自らの主権の一部を委譲するような新たな連合の形態も現れており、伝統的な国際社会のシステムは転換しつつある。
== 国際関係史 ==
歴史的には、「他国」と捉えられる存在が現れたときから国際関係とよびうる関係の萌芽が発生し、抗争、支配、従属、協力、連合など、その関係も多様なものであった。主権国家相互による国際関係は、17世紀の[[ウェストファリア会議]]などによって成立し、近代的な意味での国際社会もそれを機に成立した。当初のように2か国間、3か国間などの限られた国家の間での関係から、交通や輸送、通信の発達した現代では、多くの国が同時に複雑に結びつくようになり、単に「二国間関係」「隣国関係」と呼ぶだけでは足りなくなった。
現代では、それを調整するために、[[国際機関]]が置かれたり、[[国際会議]]が開かれるなどされている。
== 国際政治 ==
{{Further|国際政治学}}
=== 国際システム ===
国際関係はアナーキーであるが、完全な無秩序ではない。主権国家が並存することにより分権的な秩序が形成されている。しかし主権国家に優越する全世界的な統治機関がないために、その秩序はそれぞれの国家の対立関係や協力関係の帰結である。しかしこのような主権国家が形成する秩序は相互作用のまとまりと認識できる場合には国際システムと呼ばれる。
主権国家で構成される国際システムは[[ヨーロッパ]]において[[三十年戦争]]後の[[1648年]]にウェストファリア条約に起源を持っている。しかしこれが世界中に定着するのは[[20世紀]]になってからであり、例えば[[東アジア]]では中華秩序の下で国際関係が秩序付けられており、[[西アジア]]では[[イスラム教|イスラーム]]に基づいた国際関係が形成されていた。[[19世紀]]初期には34カ国しかなかった主権国家も第二次世界大戦後には66カ国、[[ソビエト連邦の崩壊]]後には193カ国にまで増大し、主権国家の国際システムは普及した。
現代の国際システムは従来型の主権国家が主体となる秩序に加えて[[非国家主体]]が台頭しつつある。[[国際連合]]や[[世界銀行]]のような国際機構、国際的に経済活動を展開する多国籍企業、国境なき医師団のような非政府組織などがそれである。また欧州連合のような地域的な国家の連合体も登場しており、以前の主権国家を単位とするシステムは変容しつつある。これは関税や為替管理、[[出入国管理]]などによる交流の拡大、通信技術の発展による情報網の拡大などにより促進されていると考えられる。またそれまで[[ナショナリズム]]によって統合されていた[[国民国家]]の中でも民族や部族などの単位に分離するエスノ・ナショナリズムが掲げられるようにもなっている。
=== 国際紛争 ===
[[紛争]]とは二者以上の当事者の間に、価値の対立状況の認識が相互にあり、かつ各当事者が自己の価値を実現するために競合する状況を意味し、物的な強制力を伴うような場合は狭義の武力紛争である。しかし対立関係と協力関係が完全に区分できるわけではなく、常に曖昧な要素が含まれる。国際紛争とは一義的に国家間に生じる紛争であるが、非国家主体との紛争をも近年では状況によって呼ばれる場合がある。政治紛争、経済紛争、[[民族紛争]]、武力紛争に分けられる。国際関係はこのような紛争により形成されるものと考え、[[国益]]や権力を重視する立場を[[現実主義]]と言う。
国際紛争を現実主義の立場から説明する場合には[[勢力均衡]]理論が適用される。勢力とは国家が保有する国力であり、均衡とは二国間または多国間で同等のものになることを指す。国家が外国の勢力下におかれることを避けるために、もし外国が勢力を増大させるとそれに対抗して国家も勢力を増強する動機づけが働く。この原理によって秩序は勢力の均衡によって形成されていく。勢力均衡は超大国の覇権主義や[[軍拡競争]]、[[同盟]]、[[戦争]]などの事象を合理的に説明することに役立つ理論である。
=== 国際協力 ===
[[国際協力]]とは国際的に協力した活動であり、紛争の防止、[[人権]]の保障、国家建設の援助など幅広い。国際紛争を防止するための取り組みは大きく予防と対処の二つに分けられる。
紛争を予防するためのアプローチに[[集団安全保障]]がある。集団安全保障は[[国際連盟]]や国際連合による国際協力であり、体制の参加国で武力の不行使を承諾し、紛争は手続に則って平和的に処置、もしも特定の国家が武力を行使しすれば他の諸国が総力を挙げて制裁を加える。
これに加えて国際的な軍拡競争や[[兵器]]の拡散を防ぐための[[軍縮]]・[[軍備管理]]、不安定な地域における[[平和維持活動]]、また包括的な紛争防止のための開発援助、軍事支援などもあり、多様な国際協力が行われる。
== 安全保障 ==
{{節スタブ}}
== 国際経済 ==
{{節スタブ}}
== 国際法 ==
{{Further|国際法}}
[[国家]]と国家の間で、合意に基づいて、[[権利]]・[[義務]]を定めたもの
<ref>「デジタル大辞泉」2012年、小学館 </ref>
<ref>「明鏡国語辞典」第二版、2010年、大修館</ref>
<ref name="definition – international law">{{cite web|title=''international law''|url=http://www.thefreedictionary.com/international+law|publisher=Houghton Mifflin Company.|accessdate=13 September 2011}}</ref>
<ref>The term was first used by [[ジェレミ・ベンサム|Jeremy Bentham]] in his "[[道徳および立法の諸原理序説|Introduction to the Principles of Morals and Legislation]]" in 1780. See {{Citation
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}}</ref>。
その主要な[[法源]]は[[条約]]と[[慣習国際法]]である。
松井芳郎ほかによれば、
国際法の古くからある第一の役割は、各国家の管轄の範囲と内容を規制することであったが、
近年では第二の役割として、諸国共通の目的を実現するための仕組みとなることがあり、その結果、国際法の主体(対象)が国家以外となる場合も出ている、とされる<ref>
松井芳郎、佐分晴夫、坂元茂樹、小畑郁、松田竹男、田中則夫、岡田泉、薬師寺公夫、
「国際法」第4版、株式会社有斐閣、2002年
</ref>。
== 国際機関 ==
{{節スタブ}}
== 国際協力 ==
{{節スタブ}}
== 関連文献 ==
* [[高瀬淳一]]『初めて学ぶ国際関係』[[実務教育出版]],1996年
* 高瀬淳一『20日間で学ぶ国際関係の基礎』実務教育出版,2002年
== 関連項目 ==
* [[国際関係論]]
* [[政治学]]
* [[地政学]]
* [[国際法]]
** [[グロティウス]]
* [[異文化]]
* [[外交]]
* [[日本国際問題研究所]]
* [[主要国首脳会議]]
* [[世界都市]]
* [[国交]]
* [[多国間主義]]
* [[国際社会]]
==脚注==
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国際関係論
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国際関係論(こくさいかんけいろん、英語: International relations theory)は、国際関係についての学問。
国際関係論は国際社会において生起するさまざまな事象についての分析を行う研究領域である。政治学の一分野と考えられることが多い。これを既に独立した学問となっていると見なす立場からは国際関係学(こくさいかんけいがく)と呼ばれることもある。非常に総合的な社会科学としての性格を持っており、研究の方向性も社会科学的研究と地域研究に大別できる学問である。主要な研究対象は国家どうしの外交・安全保障・経済関係などだが、研究対象は必ずしも国際的な場面だけに限られるわけではなく、外交政策の決定過程などの国内問題も含まれる。また、伝統的な政治学の領域のみならず法学、経済学、社会学、心理学、歴史学、文化学、軍事学などの分野とも関連する学際的な研究分野であると言える。
国際関係論でもっとも大きな部分を占めるのが戦争の原因・過程と影響に関する研究である。最近ではゲーム理論などを応用した数理モデルを使って戦争の原理に関する理論が構築されており、定量的あるいは定性的な研究法を使った経験的な研究も盛んである。伝統的に、歴史上の影響の大きさから関心は国家間の戦争や世界戦争に向けられていたが、現在では内戦についての研究も盛んになってきている。
戦争・紛争以外の領域でも、様々な側面から国家の行動を説明しようとする試みが続けられている。その中でも、代表的なものはウォルツによる勢力均衡論である(国家戦略の類型としての勢力均衡とは別物)。突出した勢力を持つ国が現れるとそれに対抗する連合体が形成される傾向があるという仮説で、現在に至るまで修正を加えながら検討が重ねられているがはっきりと経験的に実証されてはいない。国家がどのような状況下で勢力均衡(バランシング)、追随(バンドワゴニング)、日和見(バックパシング)のような行動を取るかについては明確な結論は出ていない。
国際政治経済学(international political economy、略称:IPE)とは国家と国際市場の関係などの経済的な事象を分析する分野である。その起源は重商主義に求めることができる。これは貿易を保護しながら国富を拡大していくという考え方であり、18世紀のフランスやアメリカの国家政策でも新重商主義として採用された。またスミスやリカードなどによる正統学派の経済学は国際経済学の理論として比較優位説を構築し、政府の統制を受けない自由貿易は双方の貿易当事国に利益をもたらすことが可能であることを明らかにした。しかしマルクスの『資本論』によってマルクス主義 (Marxism) が登場し、政治学と経済学の理論的な合流を見ることができる。レーニンはマルクスの理論を発達させて資本主義が帝国主義にいたる過程を指摘してこれを非難した。この帝国論は従属論や世界システム論として発展を続けている。
日本における国際関係論は第二次世界大戦に敗北したことへの反省が出発点にある。つまり、敗戦の一因が、国際法・国際経済や各国事情を含む、広い意味での国際関係への多角的な理解を欠いていたことにあった、というものである。したがって、日本の国際関係論は少なくとも当初は広義の学際的なものとして構想された。その発祥の地である東京大学教養学部では当初、アメリカが主導するGHQの占領下という時代背景のもと、社会主義圏のソ連や中国を対象とする地域研究専攻が開設できなかった。そのため、専攻として開設できない地域についての社会科学的な研究、さらに既成の1つの社会科学分野に収まらない研究は全て国際関係論の対象となる、とされた時期もあった。しかしながら、広く解釈しても「国際的」とはいえないものまで国際関係論とすることへの違和感から、総合社会科学が派生することになった。
このような経緯から、日本において国際関係論は学際的なものであり単一の「学」ではありえない、またはあってはならない、という主張が、特に発祥の地である東京大学教養学部の国際関係論専攻出身者などに根強い。一方で広義の国際関係論にも既に相当の蓄積があり、独立した学問分野とみなしてよい、「学」となっているとみなす立場からは、「国際関係学」と呼ばれることもある。その他、一部では国際関係学を国際関係論と地域研究の総称として用いる場合もあるという。しかし広義の国際関係論には地域研究が含まれているという理解もあるので、国際関係論と国際関係学を使い分ける本質的な差とはいえない。なお、地域研究者の多くは、必ずしも国際関係論や国際関係学の一部として地域研究を行っているという認識を持ってはいない。
国際関係論では、世界をまず国家間システム=国際システム (inter-national system) と考えることが多い。国際システムは国家を基本単位とする体系であり、外交や経済などの複合的な関係性により構成されている。国家とは主権を保有する統治機構により支配された一定の領域(領土・領海・領空)と住民の総体である。住民は国家の管轄下に置かれているために国民と呼ばれる。この国民国家が並存するシステムは1648年に三十年戦争の講和条約として締結されたウェストファリア条約に基づいているためウェストファリア・システムとも呼ばれる。
また、国際関係についてのいろいろな哲学的・思想的立場も発展してきた。
リアリズム (realism) は国際政治には国内政治と異なって全システムを統制する一元的な権力機構が存在しないため、本質は無政府状態(アナーキー)であるとする思想。リアリズムは性悪説に基づく政治哲学に依拠する思想であり、理念や倫理の影響を重視せず価値判断を交えずに現実を直視して国際関係を客観視することを重視している。リアリズムは新現実主義 (neorealism)、さらに新古典現実主義 (neoclassical Realism) として発展している。
リベラリズム (liberalism) は国際法と国際制度が国家の行動や国際秩序に与える影響を重視する思想であり、リアリズムに対抗しながら発展してきた。その哲学的な基盤は多様であり、ベンサムの功利主義やカントの世界平和論などが挙げられる。最も初期のリベラリズムは理想主義 (idealism) でありその後に相互依存論、レジーム論、連邦主義、機能主義、新機能主義、交流主義などの展開を経てネオリベラル制度論 (neoliberal institutionalism) として現在でも主要な立場として位置付けられている。
コンストラクティビズム (constructivism)は理念という概念を中心とし、知識 (knowledge) や規範 (norm) などの集団的に保有される理念をもとに行為主体のアイデンティティと国益を考える立場である。コンストラクティビズムは合理主義 (rationalism) と省察主義 (reflectivism) の中間に位置する立場ともいえる。
批判的国際関係論 (critical international relations)は伝統的な主流思想であるリアリズムやリベラリズムなどを批判しながら発展してきた考え方で、フランクフルト学派による批判的社会理論を基礎としたものと、アントニオ・グラムシの思想に影響を受けたものがある。また、ポスト構造主義やフェミニズム思想からのアプローチも含まれる。
現在の国際情勢の変化を理解するため、また自国の国家政策のために活かすために研究する営みは古来より認められる。春秋時代における中国においては、国家の安全保障政策を論じた『孫子』が孫武によって記され、また古代ギリシアにおいてはペロポネソス戦争を叙述した『戦史』がトゥキディデスによって著された。さらに16世紀のイタリアにおいてはフィレンツェが生き残るためにマキャヴェリによって国家政策を論じた『君主論』が執筆され、これは国際関係論の主要な立場の一種である古典的リアリズム(現実主義)の基本的な考え方を確立した。
今日のような国際関係論が始まったのは20世紀であり、第一次世界大戦後の甚大な被害は国際秩序を構築するための研究の必要が広く認められるようになり、学問的な研究が本格化する。この研究はベンサムやカントなどの思想家たちによる政治哲学と合流した。そして従来の国家間の利害関係により左右される現実主義の立場とは別の流れを汲む世界平和を構築するための国際的な体制を構築する理想主義が出現することになる。カントは『永遠平和のために』の中で国際協調を推進する国際フォーラムの創設を論じており、これは1919年によって成立した国際連盟によって一応は実現された。この現実主義と理想主義の論争は国際関係論における第1の思想的論争として挙げられる。しかし第二次世界大戦の勃発は国際関係論における理想主義の立場を再構築させ、リベラリズムへの移行をもたらした。
1980年代には従来の二つの見方だけではなく合理主義やリフレクティビズムという立場が出現する。合理主義とは行為主体の利益最大化を基本的な原則として国際関係の因果関係や相関関係を論じる方法論である。反対にリフレクティビズムはその合理主義や実証主義に対して懐疑的な立場であり、行為主体の選好が変動することを十分に説明できないことを主張する。これは方法論を巡る第三の論争として行われ、さらに別の哲学的立場の構築をもたらすことになった。その新しい発展としてコンストラクティビズムがある。コンストラクティビズムは理念やアイデンティティなどの主観的な要素が関係性のなかで国際秩序を形成するという見方で、国益を絶対的な基準で測定することはできず視点の違いによって国益の定義は変化すると論じる。このような思想はソビエト連邦の崩壊や冷戦後の新思考外交に直面して考案されたものであり、現在の主要な哲学的立場のひとつとして位置付けられている。
国際関係学部・国際学部を有する大学と、国際関係論が専攻可能な学部学科(国際関係学科及びそれ以外を含む)を有する大学を挙げる。国際関係学部・国際学部はもちろんのこと、政治学や国際法や学際分野を学べる大学、すなわち法学部や政治経済学部や教養学部・国際教養学部等が設置されている大学でも学ぶことができる。また、入門的な講義であれば、国際関係論(学)や国際政治学といった名前の科目は、より多くの大学で開講されているはずである。しかし、特に広義の国際関係論(学)についての理解や領域は、大学あるいは研究者の観点によって大きく異なる場合がある点に留意されたい。
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国際関係論は、国際関係についての学問。
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{{複数の問題
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|独自研究=2016-10
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{{国際関係論}}
'''国際関係論'''(こくさいかんけいろん、{{lang-en|International relations theory}})は、[[国際関係]]についての[[学問]]。
== 概説 ==
国際関係論は国際社会において生起するさまざまな事象についての分析を行う研究領域である。[[政治学]]の一分野と考えられることが多い。これを既に独立した学問となっていると見なす立場からは'''国際関係学'''(こくさいかんけいがく)と呼ばれることもある。非常に総合的な社会科学としての性格を持っており、研究の方向性も[[社会科学|社会科学的]]研究と[[地域研究]]に大別できる学問である。主要な研究対象は国家どうしの[[外交]]・[[国家安全保障|安全保障]]・[[経済]]関係などだが、研究対象は必ずしも国際的な場面だけに限られるわけではなく、[[外交政策]]の決定過程などの国内問題も含まれる。また、伝統的な政治学の領域のみならず[[法学]]、[[経済学]]、[[社会学]]、[[心理学]]、[[歴史学]]、[[カルチュラル・スタディーズ|文化学]]、[[軍事学]]などの分野とも関連する学際的な研究分野であると言える。
== 主な研究領域 ==
=== 戦争・紛争研究 ===
国際関係論でもっとも大きな部分を占めるのが[[戦争]]の原因・過程と影響に関する研究である。最近では[[ゲーム理論]]などを応用した[[数理モデル]]を使って戦争の原理に関する理論が構築されており、[[定量的研究|定量的]]あるいは[[定性的研究|定性的]]な研究法を使った経験的な研究も盛んである。伝統的に、歴史上の影響の大きさから関心は国家間の戦争や世界戦争に向けられていたが、現在では内戦についての研究も盛んになってきている。
=== 国家の対外行動 ===
戦争・紛争以外の領域でも、様々な側面から国家の行動を説明しようとする試みが続けられている。その中でも、代表的なものはウォルツによる勢力均衡論である(国家戦略の類型としての[[勢力均衡]]とは別物)。突出した勢力を持つ国が現れるとそれに対抗する連合体が形成される傾向があるという仮説で、現在に至るまで修正を加えながら検討が重ねられているがはっきりと経験的に実証されてはいない。国家がどのような状況下で勢力均衡(バランシング)、追随(バンドワゴニング)、日和見(バックパシング)のような行動を取るかについては明確な結論は出ていない。
=== 国際政治経済学 ===
'''[[国際政治経済学]]'''(international political economy、略称:IPE)とは国家と国際市場の関係などの経済的な事象を分析する分野である。その起源は[[重商主義]]に求めることができる。これは[[貿易]]を保護しながら国富を拡大していくという考え方であり、[[18世紀]]の[[フランス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の国家政策でも新重商主義として採用された。また[[アダム・スミス|スミス]]や[[デヴィッド・リカード|リカード]]などによる正統学派の[[経済学]]は国際経済学の理論として[[比較優位]]説を構築し、政府の統制を受けない自由貿易は双方の貿易当事国に利益をもたらすことが可能であることを明らかにした。しかし[[カール・マルクス|マルクス]]の『[[資本論]]』によって[[マルクス主義]] (Marxism) が登場し、政治学と経済学の理論的な合流を見ることができる。[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]はマルクスの理論を発達させて[[資本主義]]が[[帝国主義]]にいたる過程を指摘してこれを非難した。この帝国論は[[従属理論|従属論]]や[[世界システム論]]として発展を続けている。
== 日本での発展 ==
[[日本]]における国際関係論は[[第二次世界大戦]]に敗北したことへの反省が出発点にある。つまり、敗戦の一因が、国際法・国際経済や各国事情を含む、広い意味での国際関係への多角的な理解を欠いていたことにあった、というものである。したがって、日本の国際関係論は少なくとも当初は広義の学際的なものとして構想された。その発祥の地である[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]]では当初、アメリカが主導する[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領下という時代背景のもと、[[社会主義]]圏の[[ソビエト連邦|ソ連]]や[[中華人民共和国|中国]]を対象とする地域研究専攻が開設できなかった。そのため、専攻として開設できない地域についての社会科学的な研究、さらに既成の1つの社会科学分野に収まらない研究は全て国際関係論の対象となる、とされた時期もあった。しかしながら、広く解釈しても「国際的」とはいえないものまで国際関係論とすることへの違和感から、総合社会科学が派生することになった。
このような経緯から、日本において国際関係論は学際的なものであり単一の「学」ではありえない、またはあってはならない、という主張が、特に発祥の地である東京大学教養学部の国際関係論専攻出身者などに根強い。一方で広義の国際関係論にも既に相当の蓄積があり、独立した学問分野とみなしてよい、「学」となっているとみなす立場からは、「国際関係学」と呼ばれることもある。その他、一部では国際関係学を国際関係論と地域研究の総称として用いる場合もあるという。しかし広義の国際関係論には地域研究が含まれているという理解もあるので、国際関係論と国際関係学を使い分ける本質的な差とはいえない。なお、地域研究者の多くは、必ずしも国際関係論や国際関係学の一部として地域研究を行っているという認識を持ってはいない。
== 国際関係論の思想的背景 ==
国際関係論では、世界をまず国家間システム='''国際システム''' (inter-national system) と考えることが多い。国際システムは国家を基本単位とする体系であり、外交や経済などの複合的な関係性により構成されている。[[国家]]とは[[主権]]を保有する統治機構により支配された一定の領域(領土・領海・領空)と住民の総体である。住民は国家の管轄下に置かれているために[[国民]]と呼ばれる。この国民国家が並存するシステムは[[1648年]]に[[三十年戦争]]の講和条約として締結された[[ウェストファリア条約]]に基づいているためウェストファリア・システムとも呼ばれる。
また、国際関係についてのいろいろな哲学的・思想的立場も発展してきた。
'''[[現実主義|リアリズム]]''' (realism) は国際政治には国内政治と異なって全システムを統制する一元的な権力機構が存在しないため、本質は'''[[無政府状態]]'''(アナーキー)であるとする思想。リアリズムは[[性悪説]]に基づく政治哲学に依拠する思想であり、理念や倫理の影響を重視せず価値判断を交えずに現実を直視して国際関係を客観視することを重視している。リアリズムは[[ネオリアリズム|新現実主義 (neorealism)]]、さらに[[新古典的現実主義|新古典現実主義]] (neoclassical Realism) として発展している。
'''[[リベラリズム (国際関係論)|リベラリズム]]''' (liberalism) は[[国際法]]と国際制度が国家の行動や国際秩序に与える影響を重視する思想であり、リアリズムに対抗しながら発展してきた。その哲学的な基盤は多様であり、ベンサムの[[功利主義]]やカントの世界平和論などが挙げられる。最も初期のリベラリズムは[[理想主義]] (idealism) でありその後に[[相互依存論]]、[[レジーム論]]、[[連邦主義]]、[[機能主義 (国際関係)|機能主義]]、[[新機能主義]]、交流主義などの展開を経てネオリベラル制度論 (neoliberal institutionalism) として現在でも主要な立場として位置付けられている。
'''[[社会構成主義 (国際関係学)|コンストラクティビズム]]''' (constructivism)は理念という概念を中心とし、[[知識]] (knowledge) や[[規範]] (norm) などの集団的に保有される理念をもとに行為主体の[[アイデンティティ]]と国益を考える立場である。コンストラクティビズムは[[合理主義]] (rationalism) と省察主義 (reflectivism) の中間に位置する立場ともいえる。
'''批判的国際関係論''' (critical international relations)は伝統的な主流思想であるリアリズムやリベラリズムなどを批判しながら発展してきた考え方で、フランクフルト学派による批判的社会理論を基礎としたものと、アントニオ・グラムシの思想に影響を受けたものがある。また、ポスト構造主義やフェミニズム思想からのアプローチも含まれる。
=== 思想史 ===
現在の国際情勢の変化を理解するため、また自国の国家政策のために活かすために研究する営みは古来より認められる。春秋時代における中国においては、国家の[[安全保障政策]]を論じた『[[孫子 (書物)|孫子]]』が[[孫武]]によって記され、また[[古代ギリシア]]においては[[ペロポネソス戦争]]を叙述した『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』が[[トゥキディデス]]によって著された。さらに[[16世紀]]の[[イタリア]]においてはフィレンツェが生き残るために[[ニッコロ・マキャヴェリ|マキャヴェリ]]によって国家政策を論じた『[[君主論]]』が執筆され、これは国際関係論の主要な立場の一種である古典的[[現実主義|リアリズム]](現実主義)の基本的な考え方を確立した。
今日のような国際関係論が始まったのは[[20世紀]]であり、[[第一次世界大戦]]後の甚大な被害は国際秩序を構築するための研究の必要が広く認められるようになり、学問的な研究が本格化する。この研究は[[ジェレミ・ベンサム|ベンサム]]や[[イマヌエル・カント|カント]]などの思想家たちによる[[政治哲学]]と合流した。そして従来の国家間の利害関係により左右される現実主義の立場とは別の流れを汲む世界平和を構築するための国際的な体制を構築する[[理想主義]]が出現することになる。カントは『[[永遠平和のために]]』の中で国際協調を推進する国際フォーラムの創設を論じており、これは[[1919年]]によって成立した国際連盟によって一応は実現された。この現実主義と理想主義の論争は国際関係論における第1の思想的論争として挙げられる。しかし第二次世界大戦の勃発は国際関係論における理想主義の立場を再構築させ、リベラリズムへの移行をもたらした。
[[1980年代]]には従来の二つの見方だけではなく[[合理主義]]やリフレクティビズムという立場が出現する。合理主義とは行為主体の利益最大化を基本的な原則として国際関係の[[因果関係]]や[[相関関係]]を論じる方法論である。反対にリフレクティビズムはその合理主義や実証主義に対して懐疑的な立場であり、行為主体の選好が変動することを十分に説明できないことを主張する。これは方法論を巡る第三の論争として行われ、さらに別の哲学的立場の構築をもたらすことになった。その新しい発展として[[社会構成主義 (国際関係学)|コンストラクティビズム]]がある。コンストラクティビズムは理念やアイデンティティなどの主観的な要素が関係性のなかで国際秩序を形成するという見方で、[[国益]]を絶対的な基準で測定することはできず視点の違いによって国益の定義は変化すると論じる。このような思想は[[ソビエト連邦の崩壊]]や[[冷戦]]後の新思考外交に直面して考案されたものであり、現在の主要な哲学的立場のひとつとして位置付けられている。
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
== 主要学術誌 ==
=== 国際誌 ===
*''European Journal of International Relations''
*''Foreign Policy Analysis''
*''International Organization''
*''International Security''
*''International Studies Quarterly''
*''Journal of Conflict Resolution''
*''Review of International Political Economy''
*''Security Studies''
*''World Politics''
=== 日本 ===
*''International Relations of the Asia-Pacific'' (日本国際政治学会)
*『国際安全保障』([http://wwwsoc.nii.ac.jp/is-japan/ 国際安全保障学会])
*『国際政治』([http://wwwsoc.nii.ac.jp/jair/ 日本国際政治学会])
*『国際問題』([http://www.jiia.or.jp/ 日本国際問題研究所])
*『平和研究』([http://www.psaj.org// 日本平和学会])
== 学会 ==
*[http://www.isanet.org/ International Studies Association] (ISA).
*[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jair/ 日本国際政治学会](Japan Association of International Relations).
== 大学 ==
[[国際関係学部]]・[[国際学部]]を有する大学と、国際関係論が専攻可能な学部学科(国際関係学科及びそれ以外を含む)を有する大学を挙げる。国際関係学部・国際学部はもちろんのこと、政治学や国際法や学際分野を学べる大学、すなわち[[法学部]]や[[政治経済学部]]や[[教養学部]]・[[国際教養学部]]等が設置されている大学でも学ぶことができる。また、入門的な講義であれば、国際関係論(学)や国際政治学といった名前の科目は、より多くの大学で開講されているはずである。しかし、特に広義の国際関係論(学)についての理解や領域は、大学あるいは研究者の観点によって大きく異なる場合がある点に留意されたい。
=== 国際関係学部 ===
==== 公立大学 ====
* [[静岡県立大学]]
==== 私立大学 ====
* [[亜細亜大学]]
* [[九州国際大学]]
* [[大東文化大学]]
* [[中部大学]]
* [[東京国際大学]]
* [[日本大学]]
* [[立命館大学]]
=== 国際学部 ===
==== 国立大学 ====
* [[宇都宮大学]]
==== 公立大学 ====
* [[広島市立大学]]
==== 私立大学 ====
* [[関西学院大学]]
* [[文教大学]]
* [[明治学院大学]]
* [[鈴鹿国際大学]]
* [[常磐大学]]
* [[拓殖大学]]
* [[敬愛大学]]
* [[大阪学院大学]]
* [[天理大学]]
=== 国際関係論が専攻可能な学部学科 ===
==== 国立大学 ====
* [[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]]後期課程教養学科総合社会科学分科国際関係論コース
* [[一橋大学大学院法学研究科・法学部|一橋大学法学部]]法律学科国際関係コース
* [[東京外国語大学]]国際社会学部
* [[筑波大学]]社会・国際学群国際総合学類
* [[埼玉大学]]教養学部グローバル・ガバナンス専修課程国際関係論専攻
* [[富山大学]]人文学部国際関係論分野
* [[金沢大学]]人間社会学域国際学類
* [[京都大学]]総合人間学部国際文明学系
* [[大阪大学大学院法学研究科・法学部|大阪大学法学部]]国際公共政策学科
* [[神戸大学大学院法学研究科・法学部|神戸大学法学部]]法律学科政治・国際コース
* [[神戸大学国際人間科学部]]グローバル文化学科
* [[琉球大学]][[人文社会学部]]国際法政学科
==== 省庁大学校 ====
* [[防衛大学校]]人文社会科学群国際関係学科
====公立大学====
* [[国際教養大学]]国際教養学部グローバル・スタディズ課程
* [[群馬県立女子大学]]国際コミュニケーション学部国際ビジネス課程
* [[横浜市立大学]]国際教養学部国際教養学科
* [[山梨県立大学]]国際政策学部総合政策学科
* [[新潟県立大学]]国際地域学部国際地域学科国際関係コース
* [[愛知県立大学]]外国語学部国際関係学科
* [[神戸市外国語大学]]外国語学部国際関係学科
* [[広島市立大学]]国際学部国際学科
* [[北九州市立大学]]外国語学部国際関係学科
* [[福岡女子大学]]国際文理学部国際教養学科
* [[長崎県立大学]]国際社会学部国際社会学科
* [[宮崎公立大学]]人文学部国際文化学科
* [[名桜大学]]国際学群国際学類国際文化専攻
==== 私立大学 ====
* [[立命館アジア太平洋大学]]アジア太平洋学部
* [[早稲田大学国際教養学部]]
* [[慶應義塾大学総合政策学部]]
*[[慶應義塾大学環境情報学部]]
* [[上智大学外国語学部]]
* [[上智大学国際教養学部]]
* [[上智大学総合グローバル学部]]
* [[上智大学法学部]]国際関係法学科
* [[国際基督教大学]]教養学部アーツ・サイエンス学科国際関係学メジャー
* [[獨協大学]]外国語学部
* 獨協大学国際教養学部
* 獨協大学法学部国際関係法学科
* 獨協大学経済学部国際環境経済学科
* [[明治大学]]国際日本学部
* [[青山学院大学]]国際政治経済学部
* [[中央大学法学部]]国際企業関係法学科
* [[法政大学]]法学部国際政治学科
* [[法政大学]]経済学部国際経済学科
* [[津田塾大学]]学芸学部国際関係学科
* [[東京女子大学]]現代教養学部国際社会学科
* [[日本大学生物資源科学部・大学院生物資源科学研究科及び獣医学研究科|日本大学生物資源科学部]]国際地域開発学科
* [[東洋大学]]国際学部
* [[東海大学]]教養学部国際学科
* [[桜美林大学]]リベラルアーツ学群
* [[城西大学]]現代政策学部社会経済システム学科国際文化政策コース
* [[二松学舎大学]]国際政治経済学部
* [[昭和女子大学]]人間文化学部国際学科
* [[同志社女子大学]]学芸学部国際教養学科
* [[京都産業大学]]国際関係学部国際関係学科
* [[大阪女学院大学]]国際・英語学部国際・英語学科
* [[神戸女学院大学]]文学部英文学科グローバル・スタディーズコース
* [[広島修道大学]]法学部国際政治学科
* [[西南学院大学]]法学部国際関係法学科
* [[松山大学]] 経済学部経済学科
== 関連項目 ==
* [[国際政治学]]
* [[国際政治学者]]
* [[開発学]](国際開発学) (International Development Studies)
* [[国際政治経済学]] (International Political Economy:IPE)
* [[国家安全保障|安全保障]] (Security)
* [[平和学]] (Peace Studies)
* [[政治学]] (Political Science)
* [[軍事学]] (Military Studies)
* [[地政学]] (Geopolitics)
* [[政治地理学]] (Political Geography)
* [[フォーリン・アフェアーズ]]
* [[世界都市]]
* [[主権]]
* [[覇権]]
* [[勢力均衡]]
* [[無政府状態]]
* [[ポスト構造主義]] (Post-structuralism)
* [[英国学派]] (English school)
== 外部リンク ==
* [http://internationalrelationstheory.googlepages.com/ International Relations Theory](国際関係論諸学説提唱者の関連論考・動画の一覧)
* [http://www.oxfordjournals.org/page/3064/7 オックスフォード・ジャーナル(Int'l Relations of the Asia-Pacific) (英語) ]
* [https://web.archive.org/web/20220505200715/https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/ 日本政治・国際関係データベース]
* [https://web.archive.org/web/20130604021715/http://www.diplo.jp/link2.html 国際関係おすすめリンク]
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ベルベル語派
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ベルベル語派(ベルベルごは)はアフロ・アジア語族に属する言語グループである。現在主にモロッコ、アルジェリア、リビアで話されている。
モロッコ、アルジェリアともアラビア語を重要視する政策をとるため、ベルベル語派の言語の話者は辺鄙な山間部の村などに多く、家庭の中でしか話さないこともある。しかし、アラビア語が広まる以前には、北アフリカで幅広く話されていた。
古代のヌミディアで使われたヌミディア語(英語版)はおそらくベルベル語派に属すると言われている。チュニジア・アルジェリア・モロッコに紀元前2世紀ごろの碑文が1000以上残されているが、充分に解読されていない。
モロッコで話されるベルベル語派の言語には、タリフィート(リーフ語)、タマジグト(中央アトラス・アマジグ語)、タシュリヒート(シルハ語)の3つの言語がある。タリフィートは北モロッコのリーフ地方、タマジグトは中央モロッコ、タシュリヒートは大アトラス山脈で話される。アルジェリアの主要な言語はカビル語であるが、シャウィーア語など、それ以外の言語もある。トゥアレグ語はアルジェリア・マリ・ニジェールで話される。より小さな言語がチュニジア、リビア、エジプト、モーリタニアで話されている。カナリア諸島で話されていたグアンチェ語は16世紀に消滅したが、おそらくベルベル語派の言語だった。
ベルベル語派の言語の話者は「ベルベル語」という呼称を一般に好まない。これはベルベルがギリシャ語で「言葉がわからない人」を意味するバルバロイから由来することによる。今日ヨーロッパ諸国で比較的よく用いられる言い換えは、本来北モロッコで話されるベルベル語を意味するタマジグト(タマズィグト)である。特に北部ベルベル語を指すときにはこの表現が好んで用いられる。
発話例
北アフリカ諸国ではベルベル語派の言語の話者を公式の人口統計で集計していないため、正確な話者人口を知ることは困難である。ベルベル語派の言語の話者はモロッコ、アルジェリアのほか、中央アフリカ諸国、エジプト、フランスなどに住む。1952年の A. バセットの概算によれば、全世界で約550万人である。1996年のジョン・A・グライムズの推計によるとベルベル語派の主要な7言語の合計は860万人ほどである。
永きに渡って他の民族による侵略と支配を受けてきたベルベル人の歴史を反映して、ベルベル語には多くの他の言語の痕跡が刻まれている。フェニキア語、ラテン語、ゲルマン語、ギリシャ語など古代にベルベルを征服した民族の言語からの借用語も少なくないが、もっともベルベル語に影響を与えたのはアラビア語である。イスラーム教徒の北アフリカ侵入とベルベル人居住地の征服により、ベルベル人はイスラーム化が進み、言語的にもアラビア語の強い影響を受けた。現在のベルベル語がアラビア文字で書かれることが多いのも、アラビア語の影響であることは言うまでもない。さらに近現代に入ると、スペインとさらにはフランスの侵略と植民地支配により、ベルベル語にはスペイン語やフランス語の単語が多く流入した。
ベルベル語はマグレブのアーンミーヤの基層言語として、これらの言語に影響を与えた。これはエジプト・アラビア語に対するコプト語の役割と類似している。またムスリムのイベリア半島支配の結果として、スペイン語やポルトガル語などのイベロ・ロマンス諸語にはアラビア語ほどではないにせよベルベル語の影響が見られる。そしてベルベル人とアラブ人のサハラを越えたブラックアフリカへの遠征と征服、およびイスラームの普及に伴って、いくつかのブラックアフリカの言語はアラビア語とともにベルベル語の影響を受けた。
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ベルベル語派(ベルベルごは)はアフロ・アジア語族に属する言語グループである。現在主にモロッコ、アルジェリア、リビアで話されている。
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[[ファイル:Central Morocco Tamazight in Tifinagh.svg|thumb|300px|TAMAZIGHT([[ティフィナグ文字]])]]
<!-- [[ファイル:Tamazgha.png|thumb|350px|TAMAZIGHT]] この画像は綴りが間違っています。 -->
'''ベルベル語派'''(ベルベルごは)は[[アフロ・アジア語族]]に属する言語グループである。現在主に[[モロッコ]]、[[アルジェリア]]、[[リビア]]で話されている。
== 概要 ==
モロッコ、アルジェリアとも[[アラビア語]]を重要視する政策をとるため、ベルベル語派の言語の話者は辺鄙な山間部の村などに多く、家庭の中でしか話さないこともある。しかし、アラビア語が広まる以前には、[[北アフリカ]]で幅広く話されていた。
古代の[[ヌミディア]]で使われた{{仮リンク|ヌミディア語|en|Numidian language}}はおそらくベルベル語派に属すると言われている。[[チュニジア]]・アルジェリア・モロッコに紀元前2世紀ごろの碑文が1000以上残されているが、充分に解読されていない<ref name="hueh">{{cite book|author=John Huehnergard|chapter=Afro-Asiatic|year=2004|editor=Roger D. Woodard|title=The Cambridge Encyclopedia of the World's Ancient Languages|publisher=Cambridge University Press|isbn=9780521562560|pages=138-139}}</ref>。
モロッコで話されるベルベル語派の言語には、タリフィート([[リーフ語]])、タマジグト([[中央アトラス・アマジグ語]])、タシュリヒート([[シルハ語]])の3つの言語がある。タリフィートは北モロッコの[[リーフ地方]]、タマジグトは中央モロッコ、タシュリヒートは大アトラス山脈で話される。アルジェリアの主要な言語は[[カビル語]]であるが、[[シャウィーア語]]など、それ以外の言語もある。[[トゥアレグ語]]はアルジェリア・[[マリ共和国|マリ]]・[[ニジェール]]で話される。より小さな言語がチュニジア、[[リビア]]、[[エジプト]]、[[モーリタニア]]で話されている。[[カナリア諸島]]で話されていた[[グアンチェ語]]は16世紀に消滅したが、おそらくベルベル語派の言語だった<ref name="hueh"/>。
ベルベル語派の言語の話者は「ベルベル語」という呼称を一般に好まない。これはベルベルが[[ギリシャ語]]で「言葉がわからない人」を意味する[[バルバロイ]]から由来することによる。今日ヨーロッパ諸国で比較的よく用いられる言い換えは、本来北モロッコで話されるベルベル語を意味する'''タマジグト(タマズィグト)'''である。特に北部ベルベル語を指すときにはこの表現が好んで用いられる。
''発話例''{{center|[[File:Tamazightchelha.ogg]]}}
北アフリカ諸国ではベルベル語派の言語の話者を公式の人口統計で集計していないため、正確な話者人口を知ることは困難である。ベルベル語派の言語の話者は[[モロッコ]]、[[アルジェリア]]のほか、中央アフリカ諸国、エジプト、フランスなどに住む。1952年の A. バセットの概算によれば、全世界で約550万人である。1996年のジョン・A・グライムズの推計によるとベルベル語派の主要な7言語の合計は860万人ほどである<ref>{{citation|url=http://www.isp.msu.edu/afrlang/Berber-root.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100420050102/http://www.isp.msu.edu/afrlang/Berber-root.html|archivedate=2010-04-20|title=Berber Language Page|publisher=African Languages at Michigan State University}}</ref>。
== 下位分類 ==
[[ファイル:berbers.png|350px|thumb|北アフリカにおけるベルベル語派の分布
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*[[グアンチェ語|グアンチェ諸語]] [[死語 (言語)|†]]
*{{仮リンク|ヌミディア語|en|Numidian language}}†
*{{仮リンク|東部ベルベル諸語|en|Eastern Berber languages}}
**[[シワ語]](オアシス・ベルベルとも)
**[[ソクナ語]]
**[[ナフサ語]]
**[[アウジラ語]]
**[[ガダミス語]]
*{{仮リンク|西部ベルベル諸語|en|Western Berber languages}}
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**[[ティンセルト語]]
*{{仮リンク|北部ベルベル諸語|en|Northern Berber languages}}
**[[シルハ語]](タシルハイト、タシュリヒート、タスースィッツとも)
**[[中央アトラス・アマジグ語]](タマジクト、タマジグトとも)
**{{仮リンク|ゼナタ諸語|en|Zenati languages}}
***{{仮リンク|リーフ諸語|en|Riff languages}}
****[[リーフ語]](タリフィート、タアリフィートとも)
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***[[ゴマラ語]]
***[[セネド語]]†
***{{仮リンク|ムザブ・ワルグラ諸語|en|Mzab–Wargla languages}}
****[[ムザブ語]]
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****[[トゥーグラ語]]
****[[南オラン・フィグイグ語]]
****[[サンハジャ語]]
**[[カビル語|カビール語]]
*[[トゥアレグ語|トゥアレグ諸語]](タマシェクとも)
==他の言語からの影響==
永きに渡って他の民族による侵略と支配を受けてきたベルベル人の歴史を反映して、ベルベル語には多くの他の言語の痕跡が刻まれている。フェニキア語、ラテン語、ゲルマン語、ギリシャ語など古代にベルベルを征服した民族の言語からの借用語も少なくないが、もっともベルベル語に影響を与えたのはアラビア語である。イスラーム教徒の北アフリカ侵入とベルベル人居住地の征服により、ベルベル人はイスラーム化が進み、言語的にもアラビア語の強い影響を受けた。現在のベルベル語がアラビア文字で書かれることが多いのも、アラビア語の影響であることは言うまでもない。さらに近現代に入ると、スペインとさらにはフランスの侵略と植民地支配により、ベルベル語にはスペイン語やフランス語の単語が多く流入した。
==他の言語への影響==
ベルベル語は[[マグリブ|マグレブ]]の[[アーンミーヤ]]の[[基層言語]]として、これらの言語に影響を与えた。これは[[エジプト・アラビア語]]に対する[[コプト語]]の役割と類似している。またムスリムのイベリア半島支配の結果として、スペイン語やポルトガル語などの[[イベロ・ロマンス語|イベロ・ロマンス諸語]]にはアラビア語ほどではないにせよベルベル語の影響が見られる。そしてベルベル人とアラブ人のサハラを越えた[[ブラックアフリカ]]への遠征と征服、およびイスラームの普及に伴って、いくつかのブラックアフリカの言語はアラビア語とともにベルベル語の影響を受けた。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*[[石原忠佳]]・[[新開正]] 『[[ベルベル人]]とベルベル語文法』[[新風舎]] 2006年 ISBN 4797476206
*石原忠佳 『ベルベル語と[[ティフィナグ文字]]の基礎』 春風社 2014年 ISBN 4861103940
== 関連項目 ==
{{wiktionary|ベルベル語}}
* [[ベルベル人]]
* [[ティフィナグ文字]]
* [[標準モロッコ・アマジグ語]]
* [[ユダヤ・ベルベル語]]
* [[ムールード・マムリ]]
== 外部リンク ==
{{Wikipedia|kab}}
{{Wikipedia|shi}}
{{Incubator|code=tzm|language=中央アトラス・タマジクト語}}
{{Incubator|code=rif|language=リーフ語}}
* [http://glottolog.org/resource/languoid/id/berb1260 Glottolog - Berber] {{en icon}}([[マックス・プランク進化人類学研究所]]によるデーターベース)
* [http://www.lexilogos.com/clavier/tamazight.htm ティフィナグ文字の入力フォーム] {{fr icon}}
* [https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E8%AA%9E-130763#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ベルベル語(ベルベルご)とは]{{ja icon}} - [[コトバンク]]
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新機能主義
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新機能主義(しんきのうしゅぎ、Neofunctionalism)とは、1950年代末にエルンスト・B・ハースらが機能主義を発展させて成立した国際関係論である。
新機能主義の考え方は、非政治的な領域において国際間の協力関係を築いていこうとする活動が、隣接する領域へと波及することになり、結果としてそれは政治的な領域に波及するというものである。この「ある非政治的な領域での協力関係が深まると次第に隣接領域に波及していく」という考えを、一般にスピルオーバー仮説という。
新機能主義は将来的に制度としての超国家機構の成立を目標としているため、国家主権の制約も可能としており、既存の国家の枠組みを徐々に弱めていき、制度として統合を試みるという方法を採ることを想定している。
この新機能主義を発展させた、非論争的な領域における国家間協力と論争的領域との間の中間領域における国家間協力をも重視する考えが、1951年のECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)設立条約調印に始まる欧州統合に寄与している。
1960年代後半以降の欧州統合の動きはハースの言う通りにはならなかった。経済面ではEC(欧州共同体)とEEA(欧州経済地域)ができ、安全保障面ではWEU(西欧同盟)とNATO(北大西洋条約機構)ができているように、当時の欧州は同じ領域も複数ある状況であったためである。ECでは、各国の国益が優先される外交が行われたために論理の停滞を余儀なくされたが、1990年代に入って、複数の統合主体が並存するというようにイメージが変化しつつも再評価されるようになってきている。
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新機能主義(しんきのうしゅぎ、Neofunctionalism)とは、1950年代末にエルンスト・B・ハースらが機能主義を発展させて成立した国際関係論である。
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'''新機能主義'''(しんきのうしゅぎ、Neofunctionalism)とは、[[1950年代]]末に[[エルンスト・B・ハース]]らが[[機能主義 (国際関係)|機能主義]]を発展させて成立した[[国際関係論]]である。
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この新機能主義を発展させた、非論争的な領域における国家間協力と論争的領域との間の中間領域における国家間協力をも重視する考えが、[[1951年]]の[[ECSC]](欧州石炭鉄鋼共同体)設立[[条約]]調印に始まる[[欧州統合]]に寄与している。
== 1960年代後半以降の新機能主義 ==
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片瀬江ノ島駅
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片瀬江ノ島駅(かたせえのしまえき)は、神奈川県藤沢市片瀬海岸二丁目にある、小田急電鉄江ノ島線の駅。江ノ島線の終着駅である。駅番号はOE 16。副駅名は「新江ノ島水族館 最寄駅」。
3社の路線(江ノ島電鉄線と湘南モノレールを含む)がある江の島地区の駅では唯一、東京都区部(新宿駅)への直通列車があり、江ノ島(江の島)と名が付く駅(片瀬江ノ島駅、江ノ島駅、湘南江の島駅)の中で当駅が最も江の島に近い。行楽地・観光地ということもあり、駅舎は竜宮城を模したユニークなデザインになっている。
関東の駅百選認定駅。
観光地たる江の島の玄関駅であるが、江ノ島電鉄(江ノ電)に「江ノ島駅」が既に設置されており、また片瀬海岸が近くにあることから、「片瀬江ノ島」と名付けられた。ちなみに、江ノ電は小田急線が開通する1か月前に「片瀬」駅を「江ノ島」駅に改名している。
なお、片瀬江ノ島駅行の列車の行先表示は、以前は「片瀬江ノ島」ではなく「江ノ島」と表示されていた。
2002年に営業運転を開始した3000形のLED式行先表示器から、「片瀬江ノ島」と表示されるようになった。また、2003年以降は方向幕の英字併記化と共にその他の車両も「片瀬江ノ島」と表示するようになった。
頭端式ホーム2面3線を有する地上駅。
駅前から改札口、プラットホームに至るまで段差がないため、階段・エスカレーター・エレベーターはない。トイレは改札を入って左側にあり、多目的トイレも併設されている。
主に海水浴シーズンやふじさわ江の島花火大会などの多客期に営業する臨時改札口は有人だが、PASMO・Suica利用者のために簡易ICカード改札機が設置されている。
2008年2月頃、行先案内表示器がフルカラーLED式に更新された。
2020年に完成した新駅舎は、先代の神殿調の駅舎デザインを引き継ぐとともに、社寺に用いられる「竜宮造り」の技法を取り入れて、江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ天女と龍の装飾を施している一方、イルカの像をしゃちほこのように設置するなどの品格と遊び心を共存させたデザインとなっている。また、コンコースには新江ノ島水族館の協力を得てクラゲ水槽を設置した。
のりばは北側を1番ホームとして、下表の通り。
閑散時間帯は2番ホーム到着時、降車専用ホームである3番ホームでの扉扱いを行わず、乗降とも2番ホームで行う形になる。
1番ホームに10両編成、2・3番ホームと4番ホームに6両編成の夜間留置がある。
2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は18,112人であり、小田急線全70駅中50位。
小田急線の特急ロマンスカー停車駅では最も少ないが、終端駅ということもあり、同じくロマンスカー始終着駅の箱根登山線箱根湯本駅を上回る数値を記録している。また、初日の出見物客が増える元旦と年2回の花火大会開催日は非常に混雑する。このため小田急江ノ島線では、定期列車の運転区間延長や列車の増発が行われる。
近年の乗降人員・乗車人員の推移は下表の通り。
※ いずれも当駅からは600メートルほど離れており、連絡運輸は行われていない。
境川に架かる弁天橋を渡った対岸の江の島入口交差点付近にある「江ノ島海岸」及び、徒歩5分程の場所にある新江ノ島水族館前の「江ノ島水族館前」の二箇所が最寄りバス停である。
竜宮城を模した駅舎が建てられた当初は、登記上は仮駅舎であった。これは、開業当時、駅の近くには東海土地電気株式会社(1922年(大正11年)12月22日に免許が公布された)による大船 - 江ノ島 - 茅ヶ崎間の路線が建設される予定があり、もし開業した場合は撤去しなければならなかったためである。
しかし、東海土地電気には路線の建設予算がなく、当初から免許が失効することは確実視されていた。そのため、駅舎建築には約18,000円という当時としては高額(同時期の省線電車初乗りは5銭)予算が投入され、実質的には本駅舎であった。
その後、東海土地電気の免許は1930年(昭和5年)1月に失効され、駅舎の登記は「仮設」から「本設」に書き換えられた。なお、東海土地電気は1926年(大正15年)7月に事業を新設会社の「江ノ島電気鉄道」(後に江ノ島電鉄と改称)に譲渡して解散しており、さらに江ノ島電気鉄道は1928年(昭和3年)7月に当時は東京電燈経営の軌道線であった現在の江ノ島電鉄線を買収している。
正面玄関にある駅名標は、竜宮城の入口に相応しい当駅オリジナルのものである。
2017年6月30日の『神奈川新聞』にて、片瀬江ノ島駅前の都市計画道路を拡張するにあたり、駅舎の一部分が重なるため、2020年に開催される東京オリンピック前の竣工予定で建て替えが決定されたことが報じられた。
新駅舎のデザイン・設計については2017年7月時点では、「藤沢市と検討を実施中で、今の雰囲気を生かし、愛されるデザインを目指す。」と小田急電鉄広報部が回答し、藤沢市計画建築部の江の島地区周辺整備担当が駅周辺の自治会から聞取を実施して、「竜宮城のデザインは残して欲しい」などの意見を得て、小田急側に伝達した。
2017年12月12日、小田急電鉄は駅舎の改良工事の概要を発表。竜宮城の雰囲気は踏襲し、竜宮造りといわれる神社仏閣の技法を取り入れた造りとすることが明らかとなった。2018年2月に工事に入り、2年余の期間を経て2020年2月より一部の供用を開始。同年5月に完成を予定していたが、7月30日の完成となった。
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"text": "その後、東海土地電気の免許は1930年(昭和5年)1月に失効され、駅舎の登記は「仮設」から「本設」に書き換えられた。なお、東海土地電気は1926年(大正15年)7月に事業を新設会社の「江ノ島電気鉄道」(後に江ノ島電鉄と改称)に譲渡して解散しており、さらに江ノ島電気鉄道は1928年(昭和3年)7月に当時は東京電燈経営の軌道線であった現在の江ノ島電鉄線を買収している。",
"title": "駅舎について"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "正面玄関にある駅名標は、竜宮城の入口に相応しい当駅オリジナルのものである。",
"title": "駅舎について"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2017年6月30日の『神奈川新聞』にて、片瀬江ノ島駅前の都市計画道路を拡張するにあたり、駅舎の一部分が重なるため、2020年に開催される東京オリンピック前の竣工予定で建て替えが決定されたことが報じられた。",
"title": "駅舎について"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "新駅舎のデザイン・設計については2017年7月時点では、「藤沢市と検討を実施中で、今の雰囲気を生かし、愛されるデザインを目指す。」と小田急電鉄広報部が回答し、藤沢市計画建築部の江の島地区周辺整備担当が駅周辺の自治会から聞取を実施して、「竜宮城のデザインは残して欲しい」などの意見を得て、小田急側に伝達した。",
"title": "駅舎について"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2017年12月12日、小田急電鉄は駅舎の改良工事の概要を発表。竜宮城の雰囲気は踏襲し、竜宮造りといわれる神社仏閣の技法を取り入れた造りとすることが明らかとなった。2018年2月に工事に入り、2年余の期間を経て2020年2月より一部の供用を開始。同年5月に完成を予定していたが、7月30日の完成となった。",
"title": "駅舎について"
}
] |
片瀬江ノ島駅(かたせえのしまえき)は、神奈川県藤沢市片瀬海岸二丁目にある、小田急電鉄江ノ島線の駅。江ノ島線の終着駅である。駅番号はOE 16。副駅名は「新江ノ島水族館 最寄駅」。 3社の路線(江ノ島電鉄線と湘南モノレールを含む)がある江の島地区の駅では唯一、東京都区部(新宿駅)への直通列車があり、江ノ島(江の島)と名が付く駅(片瀬江ノ島駅、江ノ島駅、湘南江の島駅)の中で当駅が最も江の島に近い。行楽地・観光地ということもあり、駅舎は竜宮城を模したユニークなデザインになっている。 関東の駅百選認定駅。
|
{{駅情報
|社色 = #2288CC
|文字色 =
|駅名 = 片瀬江ノ島駅
|画像 = Katase-Enoshima Station 2020-03-22 (1) sa.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎(2020年3月22日)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail|frame-latitude=35.308889|frame-longitude=139.483333}}
|よみがな = かたせえのしま
|ローマ字 = Katase-Enoshima
|副駅名 = 新江ノ島水族館 最寄駅
|隣の駅 =
|前の駅 = OE 15 [[鵠沼海岸駅|鵠沼海岸]]
|駅間A = 1.7
|駅間B =
|次の駅 =
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|OE|16|#2288CC|4||#2288CC}}
|所属事業者 = [[小田急電鉄]]
|所属路線 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]
|キロ程 = 27.6 km([[相模大野駅|相模大野]]起点)<br />[[新宿駅|新宿]]から59.9
|起点駅 =
|所在地 = [[神奈川県]][[藤沢市]][[片瀬海岸]]二丁目15番3号
|座標 = {{coord|35|18|32|N|139|29|0|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面3線
|開業年月日 = [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月1日]]
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="小田急" name="odakyu2022" />18,112
|統計年度 = 2022年
|備考 =
}}
'''片瀬江ノ島駅'''(かたせえのしまえき)は、[[神奈川県]][[藤沢市]][[片瀬海岸]]二丁目にある、[[小田急電鉄]][[小田急江ノ島線|江ノ島線]]の[[鉄道駅|駅]]。江ノ島線の[[終着駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''OE 16'''。副駅名は「'''[[新江ノ島水族館]] 最寄駅'''」<ref>{{Cite news|url=https://www.townnews.co.jp/0601/2022/04/08/620384.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220418204707/https://www.townnews.co.jp/0601/2022/04/08/620384.html|title=「えのすい」最寄り駅 片瀬江ノ島駅に副駅名看板|newspaper=タウンニュース|date=2022-04-08|accessdate=2022-04-18|archivedate=2022-04-18}}</ref>。
3社の路線([[江ノ島電鉄線]]と[[湘南モノレール]]を含む)がある[[江の島]]地区の駅では唯一、[[東京都区部]]([[新宿駅]])への直通列車があり、江ノ島(江の島)と名が付く駅(片瀬江ノ島駅、[[江ノ島駅]]、[[湘南江の島駅]])の中で当駅が最も江の島に近い。[[リゾート|行楽地]]・[[観光地]]ということもあり、[[駅舎]]は[[龍宮|竜宮城]]を模したユニークなデザインになっている。
[[関東の駅百選]]認定駅。
== 歴史 ==
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[4月1日]] - [[鎌倉郡]][[片瀬町|川口村]]西浜2932番地に開業。「直通」の発着駅となる。開設当時の各駅停車は新宿駅 - 稲田登戸駅(現・[[向ヶ丘遊園駅]])間のみで運行されていた。
* [[1945年]](昭和20年)[[6月]] - 「直通」が廃止。[[各駅停車]]が全線で運行されることとなる。
* [[1946年]](昭和21年)[[10月1日]] - [[小田急江ノ島線#準急|準急]]が設定される。
* [[1955年]](昭和30年)[[3月25日]] - 通勤急行が設定される。
* [[1957年]](昭和32年) - 夏季に[[海水浴]]客輸送用の[[臨時列車]]として快速急行が運行される。
* [[1959年]](昭和34年)[[4月]] - [[小田急江ノ島線#急行|急行]]が設定される。
* [[1999年]]([[平成]]11年)[[10月14日]] - [[関東の駅百選]]に選定される<ref name="stations" />。選定理由は「相模湾に『江の島』をのぞみ、竜宮城を思わせるより幻想的な駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=104 - 105・228頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[3月23日]] - [[湘南急行]]が設定される。
* [[2004年]](平成16年)[[12月11日]] - 湘南急行が廃止され、[[快速急行#小田急電鉄|快速急行]]に変更される。
* [[2008年]](平成20年)[[2月]] - [[発車標|行先案内表示器]]が[[フルカラー]][[発光ダイオード|LED]]式に更新される。
* [[2018年]](平成30年)
**[[1月31日]] - 駅建て替えに伴い駅の売店が閉店する。
** [[2月]] - 全てのホーム先端の車両が止まらない場所に、柵が設置される。
** [[3月17日]] - ダイヤ改正に伴い、6両編成の[[急行列車|急行]]廃止。また平日は早朝の急行新宿行き([[相模大野駅]]から快速急行)を除き各駅停車・[[特別急行列車|特急]]のみとなる。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[2月28日]] - 新駅舎の一部を供用開始<ref name="pr20200204">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001opz8-att/o5oaa1000001opzf.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200606211650/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001opz8-att/o5oaa1000001opzf.pdf|format=PDF|language=日本語|title=本格的な竜宮造りの技法で造られた駅舎外観がお目見え 2月28日、片瀬江ノ島駅新駅舎の一部供用を開始 〜品格ある駅舎と遊び心のある装飾が皆さまをお迎えします〜|publisher=小田急電鉄|date=2020-02-04|accessdate=2020-07-31|archivedate=2020-06-06}}</ref><ref name="railf-20200228">{{Cite news|url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-284466.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200301201129/https://www.kanaloco.jp/article/entry-284466.html|title=「竜宮造り」小田急・片瀬江ノ島駅新駅舎、一部供用を開始|newspaper=神奈川新聞|date=2020-02-28|accessdate=2020-03-01|archivedate=2020-03-01}}</ref>。
** [[7月30日]] - 新駅舎が完成<ref name="新駅舎完成">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001sio8-att/o5oaa1000001siof.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200731100806/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001sio8-att/o5oaa1000001siof.pdf|format=PDF|language=日本語|title=本格的な竜宮造りの駅舎に新江ノ島水族館による「クラゲ水槽」が登場! 7月30日「片瀬江ノ島駅 新駅舎」完成 〜四季にあわせたライトアップも行い昼夜ともに地域のシンボルを目指します〜|publisher=小田急電鉄|date=2020-07-30|accessdate=2020-07-31|archivedate=2020-07-31}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)3月12日 - 快速急行の発着が廃止。また、早朝の急行新宿行き(平日のみ相模大野駅から快速急行)を除き各駅停車・[[特別急行列車|特急]]のみとなる。
=== 駅名の由来と表記 ===
観光地たる江の島の玄関駅であるが、[[江ノ島電鉄]](江ノ電)に「江ノ島駅」が既に設置されており、また片瀬海岸が近くにあることから、'''「片瀬江ノ島」'''と名付けられた。ちなみに、江ノ電は小田急線が開通する1か月前に「片瀬」駅を「江ノ島」駅に改名している。
[[File:OER_5558_Express_Yumoto_Enoshima.jpg|thumb|250px|「[[箱根湯本駅|箱根湯本]]/'''江ノ島'''」の行先表示を掲出している[[小田急5000形電車 (初代)|5000形電車]]<br />(1993年、相模大野駅にて撮影)]]
なお、片瀬江ノ島駅行の列車の[[方向幕|行先表示]]は、以前は'''「片瀬江ノ島」'''ではなく'''「江ノ島」'''と表示されていた<ref group="注釈">ただし例外もあり、1960年代の夏季ダイヤで運転されていた快速急行(海水浴客輸送の臨時列車、現在の快速急行とは別のもの)専用の方向幕では「片瀬江ノ島」と表記されていた。</ref>。
[[2002年]]に営業運転を開始した[[小田急3000形電車 (2代)|3000形]]の[[発光ダイオード|LED]]式行先表示器から、「片瀬江ノ島」と表示されるようになった。また、2003年以降は方向幕の英字併記化と共にその他の車両も「片瀬江ノ島」と表示するようになった。
== 駅構造 ==
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br />片瀬江ノ島駅<br />配線図|#2288CC}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}↑[[鵠沼海岸駅]]
{{BS3text|4|3・2|1||||}}
{{BS3||STRg|STRf||||}}
{{BS3||KRWgl+l|KRWgr+r||||}}
{{BS3|KRW+l|KRWgr|STR+BSr||||}}
{{BS3|STR+BSl|STR+BSlr|STR+BSr||||}}
{{BS3|STR+BSl|STR+BSlr|STR+BSr||||}}
{{BS3|ENDEe+BSel|ENDEe+BSelr|ENDEe+BSr||||}}
|}
|}
[[頭端式ホーム]]2面3線を有する[[地上駅]]。
駅前から[[改札口]]、[[プラットホーム]]に至るまで段差がないため、[[階段]]・[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]はない。[[便所|トイレ]]は改札を入って左側にあり、[[ユニバーサルデザイン|多目的]]トイレも併設されている。
主に海水浴シーズンや[[ふじさわ江の島花火大会]]などの多客期に営業する臨時[[改札|改札口]]は有人だが、[[PASMO]]・[[Suica]]利用者のために簡易ICカード改札機が設置されている。
2008年2月頃、[[発車標|行先案内表示器]]が[[フルカラー]][[発光ダイオード|LED]]式に更新された。
2020年に完成した新駅舎は、先代の神殿調の駅舎デザインを引き継ぐとともに、社寺に用いられる「竜宮造り」の技法を取り入れて、江の島の「五頭龍と天女の伝説」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shonan-monorail.co.jp/news/2017/04/post-31.html|title=五頭龍伝説|accessdate=2021年8月21日|publisher=[[湘南モノレール]]}}</ref>にちなんだ天女と龍の装飾を施している一方、イルカの像を[[鯱|しゃちほこ]]のように設置するなどの品格と遊び心を共存させたデザインとなっている。また、[[コンコース]]には[[新江ノ島水族館]]の協力を得て[[クラゲ]][[水槽]]を設置した<ref name="新駅舎完成"/>。
=== のりば ===
のりばは北側を1番ホームとして、下表の通り。
{|class="wikitable"
!ホーム!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/katase_enoshima/ |title=片瀬江ノ島駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-04}}</ref>!!備考
|-
! 1
|rowspan=4|[[画像:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] 江ノ島線
|rowspan=2|[[相模大野駅|相模大野]]・[[新宿駅|新宿]]・[[画像:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]方面
|このホームのみ10両編成が入線可能
|-
! 2
|rowspan=2|線路は共通
|-
! 3
|(2番ホームの列車の降車ホーム)
|-
! 4
|相模大野・新宿・[[画像:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線方面
|
|}
閑散時間帯は2番ホーム到着時、降車専用ホームである3番ホームでの扉扱いを行わず、乗降とも2番ホームで行う形になる。
1番ホームに10両編成、2・3番ホームと4番ホームに6両編成の夜間留置がある。
<gallery widths="200">
OER_Katase-Enoshima_station.jpg|旧駅舎(2008年2月3日)
Katase-enoshima_station_concourse.jpg|コンコース(2007年9月30日)
Katase-enoshima_station_platform.JPG|プラットホーム(2007年9月26日)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''18,112人'''であり<ref group="小田急" name="odakyu2021" />、小田急線全70駅中50位。
小田急線の[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]停車駅では最も少ないが、終端駅ということもあり、同じくロマンスカー始終着駅の[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山線]][[箱根湯本駅]]を上回る数値を記録している。また、[[初日の出]]見物客が増える[[元旦]]と年2回の[[ふじさわ江の島花火大会|花火大会]]開催日は非常に混雑する。このため小田急江ノ島線では、定期列車の運転区間延長や列車の増発が行われる。
近年の乗降人員・乗車人員の推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="*">[http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/shise/toke/nenpo/index.html 統計年報] - 藤沢市</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!増加率
!順位
!1日平均<br />乗車人員<ref group="*">[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/yoran.html 神奈川県県勢要覧]</ref>
!出典
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|
|
|8,773
|<ref group="神奈川県統計">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移] - 22ページ</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|
|
|7,601
|<ref group="神奈川県統計">平成12年 - 223ページ</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="小田急" name="odakyu1999">{{Wayback|url=http://www.odakyu-co.com/comp/pple.html|title=1日平均乗降人数|date=20010127085400}}、2022年8月14日閲覧</ref>14,223
|0%
|57位 / 69駅
|7,595
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}} - 225ページ</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2000">{{Wayback|url=http://www.odakyu-co.com/comp/pple.html|title=1日平均乗降人数|date=20020402012232}}、2022年8月14日閲覧</ref>14,125
|−0.7%
|57位 / 69駅
|7,573
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2001">{{Wayback|url=http://www.odakyu-co.com/comp/pple.html|title=1日平均乗降人数|date=20021008011529}}、2022年8月14日閲覧</ref>14,146
|0.1%
|57位 / 69駅
|7,678
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2002">{{Wayback|url=http://www.odakyu-co.com/comp/pple.html|title=1日平均乗降人数|date=20030622034050}}、2022年8月14日閲覧</ref>14,002
|−1.0%
|58位 / 69駅
|7,622
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2003">{{Wayback|url=http://www.odakyu-co.com/company/jyokou.html|title=1日平均乗降人数|date=20040623111739}}、2022年8月14日閲覧</ref>14,234
|1.7%
|58位 / 69駅
|7,788
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2004">{{Wayback|url=http://www.odakyu-co.com/company/jyokou.html|title=1日平均乗降人数|date=20051128024504}}、2022年8月14日閲覧</ref>16,866
|18.5%
|55位 / 70駅
|9,095
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}} - 225ページ</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2005">{{Wayback|url=http://www.odakyu-co.com/company/jyokou.html|title=1日平均乗降人数|date=20060615224206}}、2022年8月14日閲覧</ref>17,024
|0.9%
|55位 / 70駅
|8,982
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}} - 225ページ</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2006">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/about/jyokou.html|title=1日平均乗降人数|date=20070623214713}}、2022年8月14日閲覧</ref>17,059
|0.2%
|55位 / 70駅
|9,031
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}} - 227ページ</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2007">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/about/jyokou.html|title=1日平均乗降人数|date=20080917135820}}、2022年8月14日閲覧</ref>17,873
|4.8%
|55位 / 70駅
|9,345
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}} - 231ページ</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2008">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/about/jyokou.html|title=1日平均乗降人数|date=20090920231841}}、2022年8月14日閲覧</ref>18,066
|1.1%
|55位 / 70駅
|9,467
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}} - 241ページ</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2009">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/about/jyokou.html|title=1日平均乗降人数|date=20100719232703}}、2022年8月14日閲覧</ref>18,239
|1.0%
|55位 / 70駅
|9,517
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}} - 239ページ</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2010">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/business/railways/users/|title=1日平均乗降人数|date=20111126212700}}、2022年8月14日閲覧</ref>18,391
|0.8%
|55位 / 70駅
|9,557
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}} - 239ページ</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2011">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/business/railways/users/|title=1日平均乗降人数|date=20120908075743}}、2022年8月14日閲覧</ref>17,260
|−6.1%
|55位 / 70駅
|8,939
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}} - 235ページ</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2012">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/business/railways/users/|title=1日平均乗降人数|date=20131019093045}}、2022年8月14日閲覧</ref>18,808
|9.0%
|55位 / 70駅
|9,760
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}} - 237ページ</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2013">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/business/railways/users/|title=1日平均乗降人数|date=20141006071846}}、2022年8月14日閲覧</ref>19,501
|3.7%
|55位 / 70駅
|10,115
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 239ページ</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2014">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/business/railways/users/|title=1日平均乗降人数|date=20151028220715}}、2022年8月14日閲覧</ref>19,979
|2.5%
|53位 / 70駅
|10,457
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 239ページ</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2015">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/business/railways/users/|title=1日平均乗降人数|date=20160902171144}}、2022年8月14日閲覧</ref>20,692
|3.6%
|53位 / 70駅
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|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 247ページ</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2016">{{Wayback|url=http://www.odakyu.jp/company/business/railways/users/|title=1日平均乗降人数|date=20171013231624}}、2022年8月14日閲覧</ref>21,440
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|11,330
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 239ページ</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2017">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20190515161655}}、2022年8月14日閲覧</ref>20,699
|−3.5%
|50位 / 70駅
|10,968
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2018">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20200408054507}}、2022年8月14日閲覧</ref>21,217
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|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/73942/15_2.pdf 令和元年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2019">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20200818043349}}、2022年8月14日閲覧</ref>19,828
|−6.5%
|54位 / 70駅
|10,483
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/85489/202015.pdf 令和2年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2020">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20211215224308}}、2022年8月14日閲覧</ref>13,306
|−32.9%
|54位 / 70駅
|6,890
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/96367/15.pdf 令和3年]}} - 215ページ</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Wayback|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:1日平均駅別乗降人員|date=20220801142718}}、2022年8月14日閲覧</ref>16,080
|20.8%
|54位 / 70駅
|8,346
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202215.pdf 令和4年]}} - 219ページ</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか|archivedate=2023-07-01|page=|accessdate=2023-10-06|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=}}</ref>18,112
|12.6%
|50位 / 70駅
|
|}
== 駅周辺 ==
* [[江ノ島駅]]([[江ノ島電鉄線]])
* [[湘南江の島駅]]([[湘南モノレール江の島線]])
※ いずれも当駅からは600メートルほど離れており、[[連絡運輸]]は行われていない。
* [[江の島]]([[江島神社]]、[[江の島灯台]]、[[江の島ヨットハーバー]]など)
* [[新江ノ島水族館]]
* [[片瀬東浜海水浴場]]
* [[片瀬西浜・鵠沼海水浴場]]
* [[湘南海岸公園 (藤沢市)|神奈川県立湘南海岸公園]]
* [[片瀬漁港]]
* 江ノ島[[ボウリング]]センター
* [[国道134号]]
=== バス路線 ===
[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]に架かる弁天橋を渡った対岸の江の島入口交差点付近にある「'''江ノ島海岸'''」及び、徒歩5分程の場所にある新江ノ島水族館前の「'''江ノ島水族館前'''」の二箇所が最寄りバス停である。
; 江ノ島海岸
* 北方向
** [[江ノ電バス]]
*** [[江ノ電バス湘南営業所#藤沢 - 江ノ島線|F3・F31]]・[[江ノ電バス湘南営業所#藤沢 - 辻堂線(江ノ島海岸経由)|F35]] - [[藤沢駅]]南口行
*** [[江ノ電バス湘南営業所#大船 - 江ノ島線|N3]] - [[大船駅]]東口交通広場行([[手広]]経由)
** [[京浜急行バス]]
*** [[京浜急行バス鎌倉営業所#大船線|船6]] - 大船駅行([[鎌倉山]]経由)
*** 鎌6 - [[鎌倉駅]]行 ※日中のみ
** [[神奈川中央交通|神奈川中央交通東]]
*** [[神奈川中央交通東・藤沢営業所#藤沢駅北口 - 江の島 - 辻堂駅方面(季節運行)|藤77]] - 藤沢駅北口行 ※季節限定
* 南方向
** 江ノ電バス
*** F3・N3 - 江ノ島行
*** F31 - [[湘南港]][[桟橋]]行 ※土休日朝1本
** 京浜急行バス
*** 船6・鎌6 - 江ノ島行 ※土休日朝夜以外
** 神奈川中央交通東
*** 藤77 - 藤沢駅北口行(江の島経由) / [[辻堂駅]]南口行(江の島経由) ※季節限定
** 神奈川中央交通西
*** [[神奈川中央交通西・平塚営業所#大磯駅 - 平塚駅 - 江の島方面(季節運行)|急行]] - 江の島行 ※季節限定
* 西方向
** 江ノ電バス
*** F35 - 辻堂駅行 ※土休日朝1本
** 神奈川中央交通東
*** 藤77 - 辻堂駅南口行 ※季節限定
** 神奈川中央交通西
*** 急行 - [[大磯駅]]行([[平塚駅]]南口経由) ※季節限定
; 江ノ島水族館前
* 江ノ電バス
** F35 - 藤沢駅南口行 / 辻堂駅行 ※土休日1本
* 神奈川中央交通東
** 藤77 - 藤沢駅北口行(江の島経由) / 辻堂駅南口行 ※季節限定
* 神奈川中央交通西
** 急行 - 江の島行 / 大磯駅(平塚駅南口経由) ※季節限定
== 駅舎について ==
竜宮城を模した駅舎が建てられた当初は、[[登記]]上は仮駅舎であった。これは、開業当時、駅の近くには東海土地電気株式会社([[1922年]]([[大正]]11年)[[12月22日]]に免許が公布された<ref>[{{NDLDC|974246/435}} 『鉄道省鉄道統計資料. 大正11年度』]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>)による大船 - 江ノ島 - [[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]間の路線が建設される予定があり、もし開業した場合は撤去しなければならなかったためである。
しかし、東海土地電気には路線の建設予算がなく、当初から免許が失効することは確実視されていた。そのため、駅舎建築には約18,000円という当時としては高額(同時期の[[国電|省線電車]]初乗りは5[[銭]])予算が投入され、実質的には本駅舎であった。
その後、東海土地電気の免許は[[1930年]](昭和5年)[[1月]]に失効され<ref>[{{NDLDC|2957392/8}} 「鉄道免許取消」『官報』1930年1月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、駅舎の登記は「仮設」から「本設」に書き換えられた。なお、東海土地電気は[[1926年]](大正15年)[[7月]]に事業を新設会社の「江ノ島電気鉄道」(後に江ノ島電鉄と改称)に譲渡して解散しており<ref>[{{NDLDC|1022003/12}} 『鉄道統計資料. 昭和元年 第3編 監督』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、さらに江ノ島電気鉄道は[[1928年]](昭和3年)7月に当時は[[東京電燈]]経営の軌道線であった現在の[[江ノ島電鉄線]]を買収している。
正面玄関にある[[駅名標]]は、竜宮城の入口に相応しい当駅オリジナルのものである。
=== 駅舎の建て替え ===
2017年6月30日の『[[神奈川新聞]]』にて、片瀬江ノ島駅前の[[都市計画道路]]を拡張するにあたり、駅舎の一部分が重なるため、[[2020年]]に開催される[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]前の竣工予定で建て替えが決定されたことが報じられた<ref>{{Cite news|url=http://www.kanaloco.jp/article/261175|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190228055423/http://www.kanaloco.jp/article/261175|title=片瀬江ノ島駅90年ぶり新駅舎へ 老朽化、東京五輪向け|newspaper=神奈川新聞|date=2017-06-30|accessdate=2020-07-31|archivedate=2019-02-28}}</ref>。
[[File:Katase Enoshima station being demolished.jpg|thumb|250px|解体中の駅舎(2019年2月撮影)]]
新駅舎のデザイン・設計については2017年7月時点では、「藤沢市と検討を実施中で、今の雰囲気を生かし、愛されるデザインを目指す。」と小田急電鉄広報部が回答し、藤沢市計画建築部の江の島地区周辺整備担当が駅周辺の[[町内会|自治会]]から聞取を実施して、「竜宮城のデザインは残して欲しい」などの意見を得て、小田急側に伝達した<ref>{{cite news|url=https://trafficnews.jp/post/75985/|title=小田急の「竜宮城」片瀬江ノ島駅が建て替えへ 築88年の名所、新デザインどうなる?|date=2017-07-16|accessdate=2017-07-19|publisher=乗りものニュース}}</ref>。
2017年12月12日、小田急電鉄は駅舎の改良工事の概要を発表。竜宮城の雰囲気は踏襲し、[[龍宮|竜宮]]造りといわれる[[神社仏閣]]の技法を取り入れた造りとすることが明らかとなった<ref name="Odakyu 20171212">{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8728_6535650_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180130143423/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8728_6535650_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=竜宮城の雰囲気を踏襲しながら、ますます便利で快適に 片瀬江ノ島駅の改良工事を実施します 〜2018年2月着工、2020年5月竣工予定〜|publisher=小田急電鉄|date=2017-12-12|accessdate=2020-07-31|archivedate=2018-01-30}}</ref>。2018年2月に工事に入り、2年余の期間を経て2020年2月より一部の供用を開始<ref name="pr20200204"/><ref name="railf-20200228" />。同年5月に完成を予定していたが<ref name="Odakyu 20171212" />、7月30日の完成となった<ref name="新駅舎完成"/>。
== 隣の駅 ==
<!--リンクは1ヶ所に集約してください-->
;小田急電鉄
:[[File:Odakyu enoshima.svg|15px|OE]] 江ノ島線
:*{{Color|#f64f4f|'''□'''}}特急ロマンスカー[[えのしま (列車)|「えのしま」「メトロえのしま」]]発着駅、「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ]]」終着駅
::{{Color|#ef4029|■}}急行(早朝上りのみ運転)
:::[[藤沢駅]] (OE 13) ← '''片瀬江ノ島駅 (OE 16)'''
::{{Color|#18469d|■}}各駅停車
:::[[鵠沼海岸駅]] (OE 15) - '''片瀬江ノ島駅 (OE 16)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
{{Reflist|2}}
; 小田急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="小田急"|3}}
; 小田急電鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
; 神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|26em}}
== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキ間リンク、ウィキリンク -->
{{Commonscat|Katase-Enoshima Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[片瀬江ノ島駅前暴走注意事件]]
== 外部リンク ==
{{Osm box|n|264240233}}
* [https://www.odakyu.jp/station/katase_enoshima/ 小田急電鉄 片瀬江ノ島駅]
{{小田急江ノ島線}}
{{関東の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:かたせえのしま}}
[[Category:藤沢市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 か|たせえのしま]]
[[Category:小田急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1929年開業の鉄道駅]]
[[Category:江の島]]
|
2003-07-17T03:52:55Z
|
2023-11-28T00:52:29Z
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11,544 |
第二次戦略兵器制限交渉
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第二次戦略兵器制限交渉(だいにじせんりゃくへいきせいげんこうしょう、英語: Strategic Arms Limitation Talks 2、SALT II)は、アメリカとソ連との間で行われた、互いの核兵器の数を制限する交渉、およびその結果締結された軍備制限条約のこと。
冷戦期において、米ソ両国は核兵器の開発・生産競争を行っていた。1972年に調印された第一次戦略兵器制限交渉(SALT I)の協定においては、両国の弾道ミサイル保有数の上限が定められていた。
この第二次交渉においては、第一次交渉に加え核兵器の運搬手段(ICBM、重爆撃機(Heavy bombers、戦略爆撃機を指す条約上の概念)、SLBM)の数量制限と、複数弾頭化の制限が盛りこまれた。
1979年6月18日、両国はウィーンで条約に調印したものの、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことを理由としてアメリカ議会の批准拒否により、そのまま1985年に期限切れになった。
条約については、この条約の目的(前文)、締約国の義務(第1条)、戦略核運搬手段の定義(第2条)、戦略核運搬手段の総数規制(第3条)、ICBMに関する細部規制(第4条)、MIRVに関する細部規制(第5条)、以下戦略核としてカウントされる条件、近代化の条件等等の細部規則条項からなる。
核戦争が全人類に壊滅的な結果をもたらす事と戦略的安定の強化が米ソ両国の利益や国際安全保障の利益に合致することを双方が認識し、全面的かつ完全な軍縮を達成するため、戦略攻撃兵器(ICBM、SLBM、重爆撃機及びASBM)の制限を達成する。
条約第2条に基づく定義は下記の通り。なお、下記定義は後の第一次戦略兵器削減条約において定義を修正されたものがある事に注意。
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第二次戦略兵器制限交渉は、アメリカとソ連との間で行われた、互いの核兵器の数を制限する交渉、およびその結果締結された軍備制限条約のこと。 冷戦期において、米ソ両国は核兵器の開発・生産競争を行っていた。1972年に調印された第一次戦略兵器制限交渉の協定においては、両国の弾道ミサイル保有数の上限が定められていた。 この第二次交渉においては、第一次交渉に加え核兵器の運搬手段(ICBM、重爆撃機、SLBM)の数量制限と、複数弾頭化の制限が盛りこまれた。 1979年6月18日、両国はウィーンで条約に調印したものの、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことを理由としてアメリカ議会の批准拒否により、そのまま1985年に期限切れになった。
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'''第二次戦略兵器制限交渉'''(だいにじせんりゃくへいきせいげんこうしょう、{{lang-en|Strategic Arms Limitation Talks 2}}、'''SALT II''')は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]との間で行われた、互いの[[核兵器]]の数を制限する交渉、およびその結果締結された軍備制限条約のこと。
冷戦期において、米ソ両国は核兵器の開発・生産競争を行っていた。[[1972年]]に調印された[[第一次戦略兵器制限交渉]](SALT I)の協定においては、両国の[[弾道ミサイル]]保有数の上限が定められていた。
この第二次交渉においては、第一次交渉に加え[[核兵器]]の[[核兵器運搬手段|運搬手段]]([[大陸間弾道ミサイル|ICBM]]、重爆撃機(Heavy bombers、[[戦略爆撃機]]を指す条約上の概念)、[[潜水艦発射弾道ミサイル|SLBM]])の数量制限と、[[MIRV|複数弾頭化]]の制限が盛りこまれた。
[[1979年]]6月18日、両国は[[ウィーン]]で条約に調印したものの、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連がアフガニスタンに侵攻]]したことを理由として[[アメリカ合衆国議会|アメリカ議会]]の批准拒否により、そのまま1985年に期限切れになった。
== 条約の内容 ==
条約については、この条約の目的(前文)、締約国の義務(第1条)、[[戦略核兵器|戦略核]]運搬手段の定義(第2条)、[[戦略核兵器|戦略核]]運搬手段の総数規制(第3条)、[[大陸間弾道ミサイル|ICBM]]に関する細部規制(第4条)、[[MIRV]]に関する細部規制(第5条)、以下[[戦略核兵器|戦略核]]としてカウントされる条件、近代化の条件等等の細部規則条項からなる。
===この条約の目的===
核戦争が全人類に壊滅的な結果をもたらす事と戦略的安定の強化が米ソ両国の利益や国際安全保障の利益に合致することを双方が認識し、全面的かつ完全な軍縮を達成するため、戦略攻撃兵器([[大陸間弾道ミサイル|ICBM]]、[[潜水艦発射弾道ミサイル|SLBM]]、重爆撃機及び[[空中発射弾道ミサイル|ASBM]]<ref>それぞれ本条約第3条1項及び第2項で列挙</ref>)の制限を達成する。
===戦略核運搬手段の定義===
条約第2条に基づく定義は下記の通り{{Sfn|Treaty|1979}}{{Sfn|日本国外務省|1979}}。なお、下記定義は後の[[第一次戦略兵器削減条約]]において定義を修正されたものがある事に注意。
*[[大陸間弾道ミサイル|ICBM]]…米本土及びソ連本土の最短距離である5500㎞以上の射程を持つ[[弾道ミサイル]]
*[[潜水艦発射弾道ミサイル|SLBM]]…射程に関わらず、[[原子力潜水艦]]又は[[通常動力型潜水艦]]から発射される[[弾道ミサイル]]
*重爆撃機…下記の条件のいずれかを満たすもの
**米国[[B-52 (航空機)|B-52]]、[[B-1 (航空機)|B-1]]、ソ連[[Tu-95 (航空機)|Tu-95]]、[[M-4 (航空機) |M4-バイソン(Myasishchev types)]]及びそれと同等又は以上の性能をもつ爆撃機
**射程600㎞を超える[[空中発射巡航ミサイル]]を装備できる爆撃機<ref>なお本条約締結時の1979年時点において米ソ両国で使用されていた射程600㎞超の空中発射巡航ミサイルは全て核搭載型であることに留意が必要である。後継条約であるSTARTI等では「長射程の空中発射型核巡航ミサイル」と再定義されている</ref>。
**[[空中発射弾道ミサイル|ASBM(空中発射式弾道ミサイル)]]搭載の爆撃機<ref>本条約上は「ASBM(Air-to-surface ballistic missiles)」と記述されており、ALBM(air-launched ballistic missile)ではない</ref>
*[[空中発射弾道ミサイル]](ASBM,Air-to-surface ballistic missiles)…射程600km以上の航空機搭載弾道ミサイル
*重[[大陸間弾道ミサイル|ICBM]]…米ソが本条約締約時に配備している最大のICBMと比較して、発射重量または投射重量が大きい物
*[[巡航ミサイル]]…飛行経路の大部分で空力・揚力を使用して飛行を維持し航空機に搭載され空中発射される、無人・自走式・被誘導式の兵器運搬手段
===戦略核総数の制限===
*各締約国は戦略核運搬手段(ICBM、SLBM、重爆撃機、ASBM)の総数を2400基以下に制限し、1981年1月1日から2250基へ削減を開始する。
*総数の中における組み合わせは各締約国の自由とする。
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=日本国外務省|date=1979/06/18|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1980/s55-shiryou-10503.htm|title=第2次戦略兵器制限条約(SALTII条約)骨子}}
* {{Citation|author=Treaty|date=1979/06/18|url=https://2001-2009.state.gov/t/ac/trt/5195.htm|title=Treaty Between The United States of America and The Union of Soviet Socialist Republics on the Limitation of Strategic Offensive Arms (SALT II)}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|第2次戦略兵器制限取決め}}
{{軍縮条約}}
{{DEFAULTSORT:せんりやくへいきせいけんこうしよう2}}
[[Category:米露二国間条約]]
[[Category:アメリカ合衆国の条約]]
[[Category:ソビエト連邦の条約]]
[[Category:核軍縮]]
[[Category:軍縮条約]]
[[Category:アメリカ合衆国の国際関係 (1945年-1989年)]]
[[Category:米ソ関係]]
[[Category:1979年の条約]]
[[no:Salt-avtalene]]
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核拡散防止条約
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核兵器の不拡散に関する条約(かくへいきのふかくさんにかんするじょうやく、英語:Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons、通称:Non-Proliferation Treaty、その略称:NPT)は、核軍縮を目的にアメリカ・フランス・イギリス・中国・ロシアの核所有5か国以外の核兵器の今後保有を禁止しようとする条約である。略称は核拡散防止条約(かくかくさんぼうしじょうやく)または核不拡散条約(かくふかくさんじょうやく)。
この条約は核兵器廃絶を主張する政府及び核兵器廃絶運動団体によって核兵器廃絶を目的として制定された。核保有国は核兵器の削減に加え、非保有国に対する保有国の軍事的優位の維持の思惑も含めて核保有国の増加すなわち核拡散を抑止することを目的として、1963年に国連で採択された。関連諸国による交渉・議論を経て1968年に最初の62か国による調印が行われ、1970年3月に発効した。通称でNPT体制とも言う。25年間の期限付きで導入されたため、発効から25年目に当たる1995年にNPTの再検討・延長会議が開催され、条約の無条件・無期限延長が決定された。なお採択・発効後も条約加盟国は増加し、2015年2月現在の締結国は191か国である。
条約では全加盟国を1967年1月1日の時点で核兵器を保有する国(=1966年12月31日までに核兵器保有を果たし、保持を許された核保有国)であると定められたアメリカ・イギリス・ロシア、1992年批准のフランスと中国の5か国と、それ以外の加盟国(保持しておらず、また許されない非核保有国)とに分けられる(第9条第3項)。旧ソ連構成共和国であったウクライナ・ベラルーシ・カザフスタンは核兵器をロシアに移転し、非核保有国として加盟。核保有国では無かったが核兵器を保有していた南アフリカは条約加盟前に核兵器を放棄し、1991年に非核保有国として加盟。
核保有国については核兵器の他国への譲渡を禁止し(第1条)、核軍縮のために「誠実に核軍縮交渉を行う義務」が規定されている(第6条)。しかしアメリカとソ連は核開発競争により「誠実に核軍縮交渉を行う義務」の実行どころか核兵器の保有数を大幅に増加させた。
非核保有国については核兵器の製造・取得を禁止し(第2条)、IAEAによる保障措置を受け入れることが義務付けられ、平和のための原子力については条約締結国の権利として認めること(第4条)、などを定めている。また5年ごとに会議を開き、条約の運営状況を検討すること(第8条第3項)を定めている。
5年に1回加盟国がNPTによって定められた核軍縮や不拡散が履行されているか確認する会議が開かれる。
2000年には「核廃絶の明確な約束」を盛り込んだ最終文書を採択し、2010年には核廃絶への具体的措置を含む行動計画を盛り込んだ最終文書を採択した一方で、1980年・1990年・1995年・2005年には最終文書は採択できなかった。
1995年には25年の期限付きだった条約を無期限で延長し、運用会議の5年ごとの開催を決定し、核廃絶を「究極的な目標」として掲げ、中東の非核地帯創設を目指す決議を採択し、2005年にはイランや北朝鮮の核開発疑惑に具体的な対策を示せず、2015年には中東非核地帯構想をめぐって意見が対立した。
2020年の再検討会議はアメリカのニューヨークで4月27日から5月22日までの日程で予定されていたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行拡大を受け、2020年3月27日に再検討会議の開催を1年延期することを決定した。しかし、その後も流行状況が改善せず、2021年末には4度目の延期が決定し、2022年8月に開催されたものの、最終文書の採択はできなかった。
加盟国であるイラクは国際社会より核開発疑惑を受け、1991年に起きた湾岸戦争に敗北し、核を含む大量破壊兵器の廃棄と将来に渡っても開発しないことなどを条件に和平する国連安保理決議687を受け入れた。しかし核開発計画の存在が明らかになった他、生物・化学兵器の廃棄が確認できない等の問題がある。
またNPTに1970年より加盟しているイランも核兵器を開発しているとみられている。
未加盟国はインド・パキスタン・イスラエル・南スーダンの4か国である。なおインドとパキスタンは条約が制定時の5か国の核保有国にのみ保有の特権を認め、それ以外の国々には保有を禁止する不平等条約であると主張し、批准を拒否している。
イスラエル政府は核兵器の保有を肯定も否定もせず、疑惑への指摘に沈黙を続けている。2010年9月3日にIAEA事務局長の天野之弥が、条約に加盟し全ての核施設についてIAEAの査察を受けるようイスラエルに対し求めたことを報告書で明らかにした。イスラエルはこの要請を拒否している。
南スーダンは2011年に建国されたばかりの新国家で体制が整っていない。
北朝鮮は加盟国(特にアメリカ)とIAEAからの核開発疑惑の指摘と査察要求に反発して1993年3月12日に脱退を表明し、翌1994年にIAEAからの脱退を表明したことで国連安保理が北朝鮮への制裁を検討する事態となった。その後、北朝鮮がNPTにとどまることで米朝が合意し、日米韓3か国の署名によりKEDOが発足した。しかし北朝鮮が協定を履行しなかったためKEDOが重油供与を停止。これに対し北朝鮮は2003年1月、再度NPT脱退を表明した。
第6条は締約国に「誠実に核軍縮交渉を行う」ことを義務付けている。しかし、締約国のうち5か国の核保有国の核軍縮交渉や実行・実績は1987年に締結され、その後2019年2月にアメリカによって破棄され失効したINF(1991年に廃棄完了を確認)、1991年に締結されたSTART I(2001年に廃棄完了を確認)に限定され、現在に至るまで核兵器の全廃は実現していない。
核保有国の目的はコスト削減と核保有の寡占の固定永続化が目的であることから、核兵器の数量削減や、核実験をコンピューターシミュレーションに置き換えることを進めている。
「リーチング・クリティカル・ウィル」のレイ・アチソン代表は、核兵器の近代化や投資を終わらせる第6条の義務に反し、全核保有国が自国の核兵器及び関連施設を今後数十年で近代化する計画に着手するか、あるいはそうした計画を持っていると主張。また核拡散を抑制しようとする一方で、自らの核兵器は強化しようとする核保有国の姿勢はダブルスタンダードであり、「核兵器なき世界」を追求するという約束が裏切られている、と述べた。
また村田良平(1930 - 2010元外務事務次官)も「不平等条約である」と主張している。
2014年4月にマーシャル諸島共和国は、核拡散防止条約に違反しているとして9か国の核保有国を国際司法裁判所に提訴した。加盟する5か国(アメリカ・フランス・イギリス・中国・ロシア)は核軍縮交渉の義務を履行しておらず、加盟していない3か国(インド・パキスタン・イスラエル)と条約脱退を表明した北朝鮮についても、慣習的な国際法により同じ義務があるべきところ、それを果たしていないというのがマーシャル諸島の主張である。6月には、国際司法裁判所の強制管轄を受け入れているイギリスとインドについて、審理に入ることが決まった。
日本は1970年2月にNPTを署名し、1976年6月に批准した。NPTを国際的な核軍縮・不拡散を実現するための最も重要な基礎であると位置付け、また、IAEA保障措置(「平和のための原子力」実現のための協定)や包括的核実験禁止条約をNPT体制を支える主要な柱としている。署名にあたり政府は、条約第10条が自国の利益を危うくする事態と認めた時は脱退する権利を有するとしていることに留意するとし、「条約が二十五年間わが国に核兵器を保有しないことを義務づけるものである以上,この間日米安全保障条約が存続することがわが国の条約加入の前提」「日米安全保障条約が廃棄されるなどわが国の安全が危うくなつた場合には条約第十条により脱退し得ることは当然」との声明を発表していた。
なお、NPTを批准するまでの過程には様々な葛藤があり、1974年11月20日に通商産業大臣の中曽根康弘(当時)は来日中のアメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャーに対し、アメリカとソ連の自制に関連して「米ソは非核国に核兵器を使ったり、核兵器で脅迫したりしないと確約できますか」と問うと、キッシンジャーは、「ソ連は欧州の国々を上回る兵力を、中国も隣国を上回る兵力を持っている。核兵器がなければ、ソ連は通常兵力で欧州を蹂躙できます。中国も同様です」という見解を示しながら、もしもアメリカが非核国への核使用を放棄すれば、ソ連の東欧の同盟国にも使用できなくなるとの懸念を示して、中曽根の要求を拒否した。
2009年5月5日、国連本部ビルで開かれたNPT再検討会議の準備委員会に広島市長の秋葉忠利と長崎市長の田上富久が出席。秋葉は2020年までの核兵器廃絶を強く訴え、各国政府が核兵器廃絶への行動を直ちに起こすよう呼びかけた。また田上は、アメリカ大統領のバラク・オバマが提唱した世界核安全サミットを長崎で開くよう要請した(しかしこの願いは果たされなかった)。
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核兵器の不拡散に関する条約は、核軍縮を目的にアメリカ・フランス・イギリス・中国・ロシアの核所有5か国以外の核兵器の今後保有を禁止しようとする条約である。略称は核拡散防止条約(かくかくさんぼうしじょうやく)または核不拡散条約(かくふかくさんじょうやく)。
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|画像キャプション =
|通称 = 核拡散防止条約
|起草 =
|署名 = 1968年7月1日
|署名場所 = [[ワシントンD.C.]]、[[ロンドン]]、[[モスクワ]]
|効力発生 = 1970年3月5日(日本について発効:1976年6月8日<ref>1976年(昭和51年)6月8日外務省告示第112号「核兵器の不拡散に関する条約の日本国による批准に関する件」</ref>)
|寄託者 = [[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]、[[ロシア連邦政府|ロシア政府]]、[[イギリス政府]]
|文献情報 = 昭和51年6月8日官報第14824号条約第6号
|言語 = 英語、フランス語、スペイン語、中国語、ロシア語
|内容 = 核軍縮を目的に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ロシア]]・[[イギリス]]・[[フランス]]・[[中華人民共和国|中国]]の5か国、及び非批准国以外の[[核兵器]]の保有を禁止する
|関連 = [[部分的核実験禁止条約]]、[[包括的核実験禁止条約]]
|ウィキソース = 核兵器の不拡散に関する条約
|リンク = {{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S51-0403.pdf 核兵器の不拡散に関する条約]}} - 外務省
}}
'''核兵器の不拡散に関する条約'''(かくへいきのふかくさんにかんするじょうやく、英語:{{en|'''Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons'''}}、通称:'''Non-Proliferation Treaty'''、その略称:{{en|'''NPT'''}}<ref name=gaiyou></ref>)は、核軍縮を目的に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フランス]]・[[イギリス]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[ロシア]]の核所有5か国以外の[[核兵器]]の今後保有を禁止しようとする[[条約]]である。略称は'''核拡散防止条約'''(かくかくさんぼうしじょうやく)または'''核不拡散条約'''(かくふかくさんじょうやく)。
== 概要 ==
この条約は核兵器廃絶を主張する政府及び核兵器廃絶運動団体によって核兵器廃絶を目的として制定された。核保有国は核兵器の削減に加え、非保有国に対する保有国の軍事的優位の維持の思惑も含めて核保有国の増加すなわち核拡散を抑止することを目的として、[[1963年]]に[[国際連合|国連]]で採択された。関連諸国による交渉・議論を経て[[1968年]]に最初の62か国による調印が行われ、[[1970年]]3月に発効した。通称で{{en|'''NPT体制'''}}とも言う。25年間の期限付きで導入されたため、発効から25年目に当たる[[1995年]]にNPTの再検討・延長会議が開催され、条約の無条件・無期限延長が決定された。なお採択・発効後も条約加盟国は増加し、2015年2月現在の締結国は191か国である<ref name=gaiyou></ref>。
== 条約の内容 ==
条約では全加盟国を[[1967年]][[1月1日]]の時点で[[核兵器]]を保有する国(=[[1966年]][[12月31日]]までに核兵器保有を果たし、保持を許された'''核保有国''')であると定められた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]・[[ロシア]]、[[1992年]]批准の[[フランス]]と[[中華人民共和国|中国]]の5か国{{refnest|group="注釈"|この5か国は'''[[国際連合安全保障理事会常任理事国|国連安保理の常任理事国]]'''である}}と、それ以外の加盟国(保持しておらず、また許されない'''非核保有国''')とに分けられる(第9条第3項)。旧[[ソビエト連邦構成共和国|ソ連構成共和国]]であった[[ウクライナ]]・[[ベラルーシ]]・[[カザフスタン]]は核兵器をロシアに移転し、非核保有国として加盟<ref name="gaiyou">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/gaiyo.html 核兵器不拡散条約(NPT)の概要]外務省 2015年6月</ref>。核保有国では無かったが核兵器を保有していた{{refnest|group="注釈"|1967年1月1日以降に核兵器を保有するようになったということ}}[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]は条約加盟前に核兵器を放棄し、1991年に非核保有国として加盟<ref name=gaiyou />。
核保有国については核兵器の他国への譲渡を禁止し(第1条)、核軍縮のために「誠実に核軍縮交渉を行う義務」が規定されている(第6条)<ref name=gaiyou></ref>。しかしアメリカとソ連は核開発競争により「誠実に核軍縮交渉を行う義務」の実行どころか核兵器の保有数を大幅に増加させた。{{see also|ニュークリア・シェアリング#NPTをめぐる考察}}
非核保有国については核兵器の製造・取得を禁止し(第2条)、[[国際原子力機関|IAEA]]による保障措置を受け入れることが義務付けられ、[[平和のための原子力]]については条約締結国の権利として認めること(第4条)、などを定めている。また5年ごとに会議を開き、条約の運営状況を検討すること(第8条第3項)を定めている。
=== 再検討会議 ===
5年に1回加盟国がNPTによって定められた核軍縮や不拡散が履行されているか確認する会議が開かれる。
2000年には「核廃絶の明確な約束」を盛り込んだ最終文書を採択し、2010年には核廃絶への具体的措置を含む行動計画を盛り込んだ最終文書を採択した一方で、1980年・1990年・1995年・2005年には最終文書は採択できなかった。
1995年には25年の期限付きだった条約を無期限で延長し、運用会議の5年ごとの開催を決定し、核廃絶を「究極的な目標」として掲げ、中東の非核地帯創設を目指す決議を採択し、2005年にはイランや北朝鮮の核開発疑惑に具体的な対策を示せず、2015年には中東非核地帯構想をめぐって意見が対立した。
2020年の再検討会議はアメリカのニューヨークで4月27日から5月22日までの日程で予定されていたが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行拡大]]を受け、2020年3月27日に再検討会議の開催を1年延期することを決定した<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14421459.html?|title=NPT会議、最長1年延期 国連で核軍縮議論 被団協「残念」|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2020-03-29}}</ref>。しかし、その後も流行状況が改善せず、2021年末には4度目の延期が決定し<ref>{{Cite web|和書|title=NPT再検討会議、22年8月の開催検討 4度目の延期 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN300870Q1A231C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2021-12-31 |accessdate=2022-01-29 |language=ja}}</ref>、2022年8月に開催されたものの、最終文書の採択はできなかった<ref>{{Cite news |title=NPT再検討会議 ロシアの反対で「最終文書」採択できず |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220827/k10013790091000.html |publisher=NHK |date=2022-08-27 |accessdate=2022-08-28 |language=ja}}</ref>。
* 第7回:2005年5月2日 - 5月27日<ref>{{Cite web|和書|title=2005年核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議の概要と評価 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/kaigi05_gh.html |website=外務省 |date=2005-05-28 |accessdate=2022-08-28 |language=ja}}</ref>
* 第8回([[:en:2010 NPT Review Conference|英語版]]):2010年5月3日 - 5月28日<ref>{{Cite web|和書|title=2010年核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議の概要と評価 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/kaigi10_gh.html |website=外務省 |date=2010-05-28 |accessdate=2022-08-28 |language=ja}}</ref>
* 第9回:2015年4月27日 - 5月22日<ref>{{Cite web|和書|title=2015年核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議の概要と評価 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/dns/ac_d/page4_001201.html |website=外務省 |date=2015-05-23 |accessdate=2022-08-28 |language=ja}}</ref>
* 第10回:2022年8月1日 - 8月27日
== 当条約上の「核保有国」以外の核保有国または疑惑国 ==
{{main|核保有国の一覧}}
=== 加盟国 ===
加盟国である[[イラク]]は国際社会より核開発疑惑を受け、1991年に起きた[[湾岸戦争]]に敗北し、核を含む大量破壊兵器の廃棄と将来に渡っても開発しないことなどを条件に和平する[[国際連合安全保障理事会決議687|国連安保理決議687]]を受け入れた。しかし核開発計画の存在が明らかになった他、生物・化学兵器の廃棄が確認できない等の問題がある<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/th_heiki.html イラクにおける大量破壊兵器問題(参考)]外務省 2003年10月</ref>。
{{main|イラク武装解除問題|イラク戦争}}
またNPTに1970年より加盟している[[イラン]]も核兵器を開発しているとみられている。
{{main|イランの核開発問題}}
=== 未加盟国 ===
未加盟国は[[インド]]・[[パキスタン]]・[[イスラエル]]・[[南スーダン]]の4か国である。なおインドとパキスタンは条約が制定時の5か国の核保有国にのみ保有の特権を認め、それ以外の国々には保有を禁止する不平等条約であると主張し、批准を拒否している。
イスラエル政府は核兵器の保有を肯定も否定もせず、疑惑への指摘に沈黙を続けている。[[2010年]][[9月3日]]にIAEA事務局長の[[天野之弥]]が、条約に加盟し全ての核施設についてIAEAの査察を受けるようイスラエルに対し求めたことを報告書で明らかにした。イスラエルはこの要請を拒否している。
{{main|インドの核実験|パキスタンの核実験 (1998年)|イスラエルの大量破壊兵器}}
南スーダンは[[2011年]]に建国されたばかりの新国家で体制が整っていない。
=== 脱退国 ===
[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]は加盟国(特に[[アメリカ合衆国|アメリカ]])とIAEAからの核開発疑惑の指摘と査察要求に反発して[[1993年]][[3月12日]]に脱退を表明し<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2009/02/18/0800000000AJP20090218004000882.HTML 今日の歴史(3月12日)] 聯合ニュース 2009/03/12</ref>、翌1994年にIAEAからの脱退を表明したことで[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]が北朝鮮への制裁を検討する事態となった。その後、北朝鮮がNPTにとどまることで米朝が合意し、日米韓3か国の署名により[[朝鮮半島エネルギー開発機構|KEDO]]が発足した。しかし北朝鮮が協定を履行しなかったためKEDOが重油供与を停止。これに対し北朝鮮は2003年1月、再度NPT脱退を表明した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/kedo/index.html 朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)]外務省 2006年6月</ref>。
{{main|北朝鮮の核実験 (2006年)|北朝鮮の核実験 (2009年)|北朝鮮核問題}}
== 核軍縮交渉義務 ==
{{Main|核兵器#核兵器削減への取り組み}}
第6条は締約国に「誠実に核軍縮交渉を行う」ことを義務付けている。しかし、締約国のうち5か国の核保有国の核軍縮交渉や実行・実績は1987年に締結され、その後2019年2月にアメリカによって破棄され失効した[[中距離核戦力全廃条約|INF]](1991年に廃棄完了を確認)、1991年に締結された[[第一次戦略兵器削減条約|START I]](2001年に廃棄完了を確認)に限定され、現在に至るまで核兵器の全廃は実現していない。
核保有国の目的はコスト削減と核保有の[[寡占]]の固定永続化が目的であることから、核兵器の数量削減や、核実験をコンピューターシミュレーションに置き換えることを進めている。
「リーチング・クリティカル・ウィル」のレイ・アチソン代表は、核兵器の近代化や投資を終わらせる第6条の義務に反し、全核保有国が自国の核兵器及び関連施設を今後数十年で近代化する計画に着手するか、あるいはそうした計画を持っていると主張。また核拡散を抑制しようとする一方で、自らの核兵器は強化しようとする核保有国の姿勢はダブルスタンダードであり、「核兵器なき世界」を追求するという約束が裏切られている、と述べた<ref>[http://nuclearabolition.net/documents/Japanese/Japanese_The_Double_Standards_of_Nuclear_Powers.pdf 核保有国のダブル・スタンダード]ニュークリア・アボリション・ニュース・アンド・アナリシス。NPO法人 インタープレスサービス・ジャパンによる翻訳</ref>。
また[[村田良平]](1930 - 2010元外務事務次官)も「[[不平等条約]]である」と主張している<ref>『村田良平回想録 上巻』 ミネルヴァ書房、2008年、212頁</ref>。
2014年4月に[[マーシャル諸島共和国]]は、核拡散防止条約に違反しているとして9か国の核保有国を[[国際司法裁判所]]に提訴した<ref>『朝日新聞』2014年4月27日付朝刊「軍縮求め、核保有9カ国提訴 マーシャル諸島」([http://www.asahi.com/articles/ASG4V540VG4VUHBI00S.html 電子版])。</ref>。加盟する5か国(アメリカ・フランス・イギリス・中国・ロシア)は核軍縮交渉の義務を履行しておらず、加盟していない3か国(インド・パキスタン・イスラエル)と条約脱退を表明した北朝鮮についても、慣習的な国際法により同じ義務があるべきところ、それを果たしていないというのがマーシャル諸島の主張である<ref>『しんぶん赤旗』日曜版2014年8月3日付「島は核実験場だった 核保有国を提訴 駐日大使トム・キジナーさん語る」。</ref>。6月には、国際司法裁判所の強制管轄を受け入れているイギリスとインドについて、審理に入ることが決まった<ref>『毎日新聞』2014年6月21日付朝刊「マーシャル諸島:核軍縮訴訟、審理入りへ 国際司法裁、英・印に書面提出命令」。</ref>。
== 日本 ==
[[日本]]は[[1970年]]2月にNPTを[[署名]]し、[[1976年]]6月に[[批准]]した。NPTを国際的な核軍縮・不拡散を実現するための最も重要な基礎であると位置付け、また、IAEA保障措置(「[[平和のための原子力]]」実現のための協定)や[[包括的核実験禁止条約]]をNPT体制を支える主要な柱としている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/gun_hakusho/2008/ 日本の軍縮・不拡散外交](外務省)</ref>。[[署名]]にあたり政府は、条約第10条が自国の利益を危うくする事態と認めた時は脱退する権利を有するとしていることに留意するとし、「条約が二十五年間わが国に核兵器を保有しないことを義務づけるものである以上,この間[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]が存続することがわが国の条約加入の前提」「日米安全保障条約が廃棄されるなどわが国の安全が危うくなつた場合には条約第十条により脱退し得ることは当然」との声明を発表していた<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku_hokoku/pdfs/kaku_hokoku00.pdf 「“核”を求めた日本」報道において取り上げられた文書等に関する外務省調査報告書] 外務省</ref>。
なお、NPTを批准するまでの過程には様々な[[葛藤]]があり、1974年11月20日に[[経済産業大臣|通商産業大臣]]の[[中曽根康弘]](当時)は来日中の[[アメリカ合衆国国務長官|アメリカ国務長官]]の[[ヘンリー・キッシンジャー]]に対し、アメリカとソ連の自制に関連して「'''米ソは非核国に核兵器を使ったり、[[核兵器]]で脅迫したりしないと確約できますか'''」と問うと<ref name="houki">「『核の先行使用』放棄探る――佐藤元首相が提案、米は拒絶」(朝日新聞、2016年3月14日号 1面・3面)</ref>、キッシンジャーは、「ソ連は欧州の国々を上回る兵力を、中国も隣国を上回る兵力を持っている。核兵器がなければ、ソ連は通常兵力で欧州を蹂躙できます。中国も同様です」という見解を示しながら、もしもアメリカが非核国への核使用を放棄すれば、ソ連の東欧の同盟国にも使用できなくなるとの懸念を示して、中曽根の要求を拒否した<ref name="houki"/>{{refnest|group="注釈"|この会談の内容は、2008年(平成20年)に早稲田大学客員教授・[[春名幹男]]が[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]大統領図書館で確認した記録に残されている<ref name="houki"/>。}}。
[[2009年]][[5月5日]]、[[国際連合本部ビル|国連本部ビル]]で開かれたNPT再検討会議の準備委員会に広島市長の[[秋葉忠利]]と長崎市長の[[田上富久]]が出席。秋葉は2020年までの核兵器廃絶を強く訴え、各国政府が核兵器廃絶への行動を直ちに起こすよう呼びかけた<ref>[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20090507132132807_ja 『核兵器はなくせる』 オバマ声明 大多数が支持 NPT準備委で秋葉市長らが訴え]中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター 2009年5月8日</ref>。また田上は、アメリカ大統領の[[バラク・オバマ]]が提唱した[[核セキュリティ・サミット|世界核安全サミット]]を長崎で開くよう要請した<ref>{{PDFlink|[https://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/710000/713001/p022956_d/fil/nptsiryou.pdf 田上富久長崎市長の演説 NPT再検討会議]}}長崎市</ref>(しかしこの願いは果たされなかった)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[核兵器]]
* [[核実験]]
* [[国際原子力機関]] (IAEA)
* [[包括的核実験禁止条約]] (CTBT)
* {{仮リンク|NPT加盟国の一覧|en|List of parties to the Nuclear Non-Proliferation Treaty}}
* [[ザンガー委員会]]
* [[反核運動]]
* [[非核地帯]]
* [[核安全サミット]]
* [[核物質不明量]]
* [[日本の核武装論]]
* [[非核三原則]]
* [[檄 (三島由紀夫)]] - 「国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての[[ワシントン海軍軍縮条約|五・五・三の不平等条約]]の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた」と[[三島由紀夫]]は死の前にばら撒いた文書でこの条約を批判した。
== 外部リンク ==
{{Wikisourcelang|en|Nuclear Non-Proliferation Treaty}}
* {{Cite wikisource|和書|title=核兵器の不拡散に関する条約の説明書|author=外務省|date=1975年4月|wslanguage=ja}}
* [http://www.jaea.go.jp/04/np/archive/infcirc140/ 核拡散防止条約(全文)] - 原子力機構 核物質管理科学技術推進部のWebサイト
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/gaiyo.html 核兵器不拡散条約 (NPT) の概要] - 外務省
* {{PDFlink|[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/pdfs/npt_teiketsu.pdf NPT締約国とIAEA保障措置協定締結国]}}(2010年5月13日更新) - 外務省
* [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_13-04-01-01.html 核兵器不拡散条約 (NPT)](原子力百科事典 ATOMICA) - (財)高度情報科学技術研究機構
* [http://npt-tv.net NPT TV](英語) ※NPT再検討会議での各国担当者、NGO関係者のビデオインタビュー。
* {{Kotobank}}
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[[Category:国際連合の条約]]
[[Category:軍縮条約]]
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狭山稲荷山公園
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狭山稲荷山公園(さやまいなりやまこうえん)は、埼玉県狭山市稲荷山一丁目にある埼玉県営の都市公園(総合公園)である。
稲荷山公園駅前に位置し、戦後米軍が使用していたジョンソン空軍基地(現 航空自衛隊入間基地)の一部が返還されたもの。1945年(昭和20年)、米軍がこの地を接収した際、基地内の公園として整備したもので、米軍管理下の時代には「ハイドパーク」(Hyde Park)という英語名があり、返還後も周辺住民には長く同名で呼ばれていた。敷地内は近接する周辺地域と同じく主に基地で働く軍人や関係者の住宅用地(housing area)として利用されていたため、1990年代まではアメリカ風建築の廃屋が点在していたが、今は取り壊されている。建築物による異国情緒は無くなったが、造成がアメリカ人の主導によって行われたため、今でもアメリカの公園のような雰囲気を持つ。2003年に市営公園から、県営公園に管轄が変更された。管轄の変更にともない開園時間の限定がなくなり、現在は原則として夜間の立ち入りも禁止されていない。園内には、喫茶店、園外にもレストランが1軒程度ある。春には桜(主にソメイヨシノ)の名所になる。アカマツ・コナラなど木々も多い。また災害時において避難地となる防災公園としての機能も持っている。
1990年より毎年11月上旬の日曜日に「さやま大茶会」が開催されている。狭山抹茶「明松」(みょうしょう)を用いた埼玉県主催の野点による茶会で、製茶実演や茶及び和菓子・茶を使ったアイデア商品等の茶関連製品販売など物産展も兼ねる。狭山茶の生産地全体の茶会でもあり、地元の茶農家・製茶・販売業者・茶道家らが勢揃いして来場者に茶を振舞う。俳句や生け花発表・尺八や箏曲などの邦楽演奏等も披露される当園最大の行事である。
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狭山稲荷山公園(さやまいなりやまこうえん)は、埼玉県狭山市稲荷山一丁目にある埼玉県営の都市公園(総合公園)である。
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{{公園
|名称 = 狭山稲荷山公園
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|国 = {{JPN}}
|都市 = [[埼玉県]][[狭山市]]稲荷山1-23-1
|位置情報 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|50|48.6|N|139|23|50.9|E|region:JP}}
|分類 = [[都市公園]](総合公園)
|面積 = 16.5ha
|前身 =
|開園 = 2002年(平成14年)4月1日
|運営者 = 埼玉県([[指定管理者]]:狭山稲荷山公園・西武パートナーズ<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/kaikaku-shitei/shiteikanrisyaichiran.html 指定管理者一覧]</ref>)
|年来園者数 =
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|設備・遊具 =
|駐車場 =
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|建築家と技術者 =
|告示 =
|事務所 = 狭山稲荷山公園管理事務所
|事務所所在地 = 公園内
|アクセス =
|備考 =
|公式サイト = [http://www.pref.saitama.lg.jp/page/910-20091203-45.html 埼玉県のサイト]
}}
[[ファイル:Sayama-Inariyama-Park.JPG|thumb|right|190px|公園看板]]
[[ファイル:埼玉県営狭山稲荷山公園航空写真1990.jpg|thumb|right|190px|1990年度撮影の航空写真。右下が稲荷山公園駅。{{国土航空写真}}。]]
[[ファイル:Sayama-City-Museum.JPG|thumb|right|190px|狭山市立博物館]]
'''狭山稲荷山公園'''('''さやまいなりやまこうえん''')は、[[埼玉県]][[狭山市]]稲荷山一丁目にある埼玉県営の[[都市公園]](総合公園)である<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/page/910-20091204-118.html 埼玉県公園整備に関するデータ]</ref>。
== 概要・歴史 ==
[[稲荷山公園駅]]前に位置し、戦後米軍が使用していたジョンソン空軍基地(現 [[航空自衛隊]][[入間基地]])の一部が返還されたもの。[[1945年]](昭和20年)、米軍がこの地を接収した際、基地内の公園として整備したもので、米軍管理下の時代には「ハイドパーク」(Hyde Park)という英語名があり、返還後も周辺住民には長く同名で呼ばれていた。敷地内は近接する周辺地域と同じく主に基地で働く軍人や関係者の住宅用地(housing area)として利用されていたため、1990年代まではアメリカ風建築の廃屋が点在していたが、今は取り壊されている。建築物による異国情緒は無くなったが、造成がアメリカ人の主導によって行われたため、今でもアメリカの公園のような雰囲気を持つ。[[2003年]]に[[狭山市|市]]営公園から、[[埼玉県|県]]営公園に管轄が変更された。管轄の変更にともない開園時間の限定がなくなり、現在は原則として夜間の立ち入りも禁止されていない。園内には、喫茶店、園外にもレストランが1軒程度ある。[[春]]には[[サクラ|桜]](主に[[ソメイヨシノ]])の名所になる<ref name="yahoo2013">[http://sakura.yahoo.co.jp/spot/detail/c26f6a6282f7048966deb9c88dc2f4160d7b0b3e/ 県営狭山稲荷山公園 お花見特集2013] - Yahoo! JAPAN</ref>。[[アカマツ]]・[[コナラ]]など木々も多い。また災害時において避難地となる防災公園としての機能も持っている。
== 交通 ==
* 電車:[[西武池袋線]][[稲荷山公園駅]]北口(有人改札側)下車、直ぐ
* 路線バス:[[西武バス狭山営業所|西武バス]]・[[狭山市駅]]西口~稲荷山公園駅線にて、「稲荷山公園入口」若しくは「稲荷山公園駅」バス停下車
* 車:[[首都圏中央連絡自動車道]][[狭山日高インターチェンジ|狭山日高IC]]から3km
== 施設 ==
* [[狭山市立博物館]] 館内にレストラン「コメと茶」が併設されている。
* 桜並木 [[ソメイヨシノ]]を中心に約300本の桜がある<ref name="yahoo2013"/>。桜の開花時期にあわせて夜桜のライトアップも行われる。
* 芝生広場
* 駐車場(101台)
* 障害者用[[便所|トイレ]]([[水洗式便所|水洗式]]一部[[汲み取り式便所|汲み取り式]])
== 行事 ==
=== さやま大茶会 ===
[[1990年]]より毎年11月上旬の日曜日に「さやま大茶会」が開催されている。狭山抹茶「明松」(みょうしょう)を用いた[[埼玉県]]主催の野点による茶会で、製茶実演や茶及び[[和菓子]]・茶を使ったアイデア商品等の茶関連製品販売など物産展も兼ねる。[[狭山茶]]の生産地全体の茶会でもあり、地元の茶農家・製茶・販売業者・茶道家らが勢揃いして来場者に茶を振舞う。[[俳句]]や[[生け花]]発表・[[尺八]]や[[箏曲]]などの[[邦楽]]演奏等も披露される当園最大の行事である。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[稲荷山公園古墳群]]
* [[ジョンソン・タウン]]
* [[ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル]]
== 外部リンク ==
* [http://www.pref.saitama.lg.jp/a1105/910-20091203-45.html 狭山稲荷山公園](埼玉県のサイト)
* [http://www.seibu-la.co.jp/inariyama/ 狭山稲荷山公園](指定管理者のサイト)
* [http://sayama-city-museum.com/ 狭山市立博物館](指定管理者のサイト)
{{Commonscat|Sayama Inariyama Park}}
{{Wikinews|旧米軍ハウスで、ロックフェスティバルが開催される}}
{{埼玉県立公園}}
{{Pref-stub|pref=埼玉県}}
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[[Category:埼玉県の公園]]
[[Category:狭山市の地理]]
[[Category:2002年開業の施設]]
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11,547 |
国連開発の十年
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国連開発の十年(こくれんかいはつのじゅうねん)とは、国際連合の開発戦略のことで、現在まで継続されており、第5次を数えている。もともとは、アメリカ合衆国のケネディ大統領の提案。国際の十年の一つ。
長らく植民地支配を受けてきた発展途上地域(多くは独立し、発展途上国へ移行)の貧困問題などを受け、1961年から1970年までの10年間において、発展途上地域の経済成長率を年率5%に向上させることを主眼においた、国際的な枠組みに基づいた開発戦略。初めて南北問題に光を当てた国際的な取り組みとして知られる。
1971年以降は数次計画に移行し、2008年現在は第5次国連開発の10年の期間中。
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国連開発の十年(こくれんかいはつのじゅうねん)とは、国際連合の開発戦略のことで、現在まで継続されており、第5次を数えている。もともとは、アメリカ合衆国のケネディ大統領の提案。国際の十年の一つ。
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'''国連開発の十年'''(こくれんかいはつのじゅうねん)とは、[[国際連合]]の[[開発]]戦略のことで、現在まで継続されており、第5次を数えている。もともとは、[[アメリカ合衆国]]の[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]][[大統領]]の提案。[[国際年|国際の十年]]の一つ。
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== 関連項目 ==
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* [[国際年]]
* [[国際協力]]
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デヴィッド・リカード
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デヴィッド・リカード(英: David Ricardo、1772年4月18日/19日 - 1823年9月11日)は、自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。スミス、マルクス、ケインズと並ぶ経済学の黎明期の重要人物とされるが、その中でもリカードは特に「近代経済学の創始者」として評価されている。
リカードは17人兄弟の3番目としてロンドンで生まれた。彼の家はスペイン系およびポルトガル系のユダヤ人で、彼が生まれるほんの少し前に、オランダからイギリスへ移住して来た。14歳のとき、リカードはロンドン証券取引所で父親エイブラハム・リカードの仕事に加わった。21歳のとき、リカードは家族の正統派ユダヤ教の信仰を拒絶し、クエーカー教徒のプリシラ・アン・ウィルキンソンと駆け落ちする。これによって父親から勘当されることになり、ケンブリッジ大学を中退して、自ら株式仲買人として独立することになった。その後リカードはユニテリアン派の教徒となっている。
リカードの証券取引所での成功は彼を裕福にし、42歳となった1814年に仕事を引退。グロスター州のギャトコム・パーク(英語版)に邸宅を購入し、生涯の住処とした。1819年にはアイルランドの都市選挙区であるポーターリングトンから庶民院(下院)に出馬、当選して代議士として自由貿易を主張し、また、穀物法の廃止を主張した。1821年にはトーマス・トゥックやジェームズ・ミル、トマス・ロバート・マルサスやジェレミ・ベンサムなど著名な経済学者とともに、政治経済クラブ(英語版)の設立に尽力した。
1823年、耳の伝染病のため51歳で急逝、遺産として7500万ポンド(約150億円)を残した。
リカードは、ジェームズ・ミルの親友であり、ミルは彼に政治への大志や経済学の著述を勧めた。他の著名な友人の中にマルサスやベンサムがいる。死の10日前、論敵でもあったマルサスに対して手紙で「議論が私たちの友情を決して傷つけなかった。君が私の説に賛成してくれたとしても、そのことで今以上にあなたを好きになることはありません」と記している。
リカードは、1799年にアダム・スミスの『国富論』を読み、経済学に興味を持つようになった。そのほんの少し前、1797年にイングランド銀行が金本位制を停止し不換紙幣の増発からインフレーションを招来することになったが、これについて1810年にリカードは『白石高騰について--紙幣暴落の証明』という小論を発表、貨幣数量説に立って金本位制への復帰を主張した。
リカードは、『経済学および課税の原理』の第7章で比較優位理論による自由貿易の利益を論証した。また、リカードは『経済学および課税の原理』の第3版の第31章「機械について」で、固定資本(機械)が導入されることによって労働者が失業する可能性はあるかという問題を取り上げた。リカードは、『経済学および課税の原理』の第2版まで、機械の導入による失業の可能性はなく、機械の導入は労働者にとって利益になると考えていたが、1821年に刊行した『経済学および課税の原理』の第3版では、短期的には失業の可能性を認めている。
リカードで特に有名なのが、穀物法をめぐるマルサスとの論争から生まれた自由貿易の主張と地代論であり、自由貿易による利潤蓄積の増大→国富の増進と労働価値説に拠った収穫逓減による結果としての地代の形成を『経済学および課税の原理』で主張した。ただ、論争する点が多かったマルサスの主張についても、彼が『人口論』で言及した人口に対する見解については同意し、『経済学および課税の原理』の議論で前提としている。
日本を代表する経済学者である森嶋通夫は経済学史における「特別な巨人」としてアダム・スミス、リカード、カール・マルクス、ケインズの四人を挙げているが、特にリカードを「近代経済学の父」として評価している。
リカードの学説はマルクスとワルラスによって後世の経済学に影響を与えている。リカードの労働価値説はマルクスの経済学の中心的枠組みになっており、ヒルファディングやローザ・ルクセンブルクなどのマルクス主義者によって発展させられた。また、リカードの差額地代論は希少性理論としてワルラスによって発展させられ、後の新古典派経済学に貢献した。
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デヴィッド・リカードは、自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。スミス、マルクス、ケインズと並ぶ経済学の黎明期の重要人物とされるが、その中でもリカードは特に「近代経済学の創始者」として評価されている。
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{{Infobox_経済学者
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|特記すべき概念=[[比較生産費説]]を主張し、[[労働価値説]]の立場に立つ。[[自由貿易]]を擁護
|
}}
'''デヴィッド・リカード'''({{Lang-en-short|David Ricardo}}、[[1772年]][[4月18日]]/[[4月19日|19日]] - [[1823年]][[9月11日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/David-Ricardo David Ricardo British economist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[自由貿易]]を擁護する理論を唱えた[[イギリス]]の[[経済学者]]。各国が[[比較優位]]に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「[[比較生産費説]]」を主張した。[[アダム・スミス|スミス]]、[[カール・マルクス|マルクス]]、[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]と並ぶ経済学の黎明期の重要人物とされるが、その中でもリカードは特に「近代経済学の創始者」として評価されている{{Sfn|森嶋|1994|p=3}}。
==生涯==
[[File:Ricardo - Opere, 1852 - 5181784.tif|thumb|''Works'', 1852]]
リカードは17人兄弟の3番目として[[ロンドン]]で生まれた。彼の家はスペイン系およびポルトガル系の[[ユダヤ人]]で、彼が生まれるほんの少し前に、オランダからイギリスへ移住して来た。14歳のとき、リカードは[[ロンドン証券取引所]]で父親[[エイブラハム・リカード]]の仕事に加わった。21歳のとき、リカードは家族の[[正統派ユダヤ教]]の信仰を拒絶し、[[クエーカー|クエーカー教徒]]のプリシラ・アン・ウィルキンソンと駆け落ちする。これによって父親から勘当されることになり、[[ケンブリッジ大学]]を中退して、自ら株式仲買人として独立することになった。その後リカードは[[ユニテリアン主義|ユニテリアン派]]の教徒となっている。
リカードの証券取引所での成功は彼を裕福にし、42歳となった1814年に仕事を引退。[[グロスタシャー|グロスター州]]の{{仮リンク|ギャトコム・パーク|en|Gatcombe Park}}に邸宅を購入し、生涯の住処とした。1819年には[[アイルランド]]の都市選挙区であるポーターリングトンから[[庶民院 (イギリス)|庶民院]](下院)に出馬、当選して[[代議士]]として自由貿易を主張し、また、[[穀物法]]の廃止を主張した。1821年には[[トーマス・トゥック]]や[[ジェームズ・ミル]]、[[トマス・ロバート・マルサス]]や[[ジェレミ・ベンサム]]など著名な経済学者とともに、{{仮リンク|政治経済クラブ|en|Political Economy Club}}の設立に尽力した。
1823年、耳の伝染病のため51歳で急逝、遺産として7500万ポンド(約150億円)を残した<ref>中矢俊博 『やさしい経済学史』 日本経済評論社、2012年、30頁。</ref>。
リカードは、ジェームズ・ミルの親友であり、ミルは彼に政治への大志や経済学の著述を勧めた。他の著名な友人の中にマルサスやベンサムがいる。死の10日前、論敵でもあったマルサスに対して手紙で「議論が私たちの友情を決して傷つけなかった。君が私の説に賛成してくれたとしても、そのことで今以上にあなたを好きになることはありません」と記している<ref>日本経済新聞社編 『経済学をつくった巨人たち-先駆者の理論・時代・思想』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、52頁。</ref>。
==思想==
リカードは、[[1799年]]に[[アダム・スミス]]の『[[国富論]]』を読み、経済学に興味を持つようになった。そのほんの少し前、[[1797年]]に[[イングランド銀行]]が[[金本位制]]を停止し[[不換紙幣]]の増発から[[インフレーション]]を招来することになったが、これについて[[1810年]]にリカードは『白石高騰について--紙幣暴落の証明』<ref>{{Lang-en-short|The High Price of Bullion, a Proof of the Depreciation of Bank Notes}}</ref>という小論を発表、[[貨幣数量説]]に立って金本位制への復帰を主張した。
リカードは、『[[経済学および課税の原理]]』の第7章で[[比較優位]]理論による自由貿易の利益を論証した<ref name="syosainomado">[http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1405/08.html 経済学史の窓から 第8回 リカードウは技術的失業の予言者か?] 書斎の窓</ref>。また、リカードは『経済学および課税の原理』の第3版の第31章「機械について」で、固定資本(機械)が導入されることによって労働者が失業する可能性はあるかという問題を取り上げた<ref name="syosainomado" />。リカードは、『経済学および課税の原理』の第2版まで、機械の導入による失業の可能性はなく、機械の導入は労働者にとって利益になると考えていたが、1821年に刊行した『経済学および課税の原理』の第3版では、短期的には失業の可能性を認めている<ref name="syosainomado" />。
リカードで特に有名なのが、穀物法をめぐるマルサスとの論争から生まれた自由貿易の主張と地代論であり、自由貿易による利潤蓄積の増大→国富の増進と[[労働価値説]]に拠った[[収穫逓減]]による結果としての地代の形成を『経済学および課税の原理』で主張した。ただ、論争する点が多かったマルサスの主張についても、彼が『[[人口論]]』で言及した人口に対する見解については同意し、『経済学および課税の原理』の議論で前提としている。
{{Main|経済学および課税の原理}}
===リカードに関連した他の思想===
*'''[[リカードの等価定理|リカードの等価命題]]''' - [[国債]]の発行は将来の増税を予想させるため、人々はこれを織り込み、消費を抑制するため、財政支出による経済効果は現時点で増税することと変わらないとする仮説<ref>日本経済新聞社編著 『経済学をつくった巨人たち-先駆者の理論・時代・思想』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、51頁。</ref>。[[ロバート・バロー]]の提起によって有名になったことから、「'''リカード=バローの中立命題'''(等価命題、等価原理、等価定理)」とも呼ばれる。
*[[賃金の鉄則]] - [[賃金]]を上げようとするいかなる試みにもかかわらず、[[労働者]]の[[実質賃金]]は生活できる最低のレベルの金額にとどまるだろう、という主張。[[フェルディナント・ラッサール]]による。
*[[労働価値説]]
==評価==
日本を代表する経済学者である[[森嶋通夫]]は経済学史における「特別な巨人」として[[アダム・スミス]]、リカード、[[カール・マルクス]]、[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]の四人を挙げているが、特にリカードを「近代経済学の父」として評価している{{Sfn|森嶋|1994|p=3}}。
リカードの学説はマルクスと[[レオン・ワルラス|ワルラス]]によって後世の経済学に影響を与えている。リカードの労働価値説はマルクスの経済学の中心的枠組みになっており、[[ヒルファディング]]や[[ローザ・ルクセンブルク]]などのマルクス主義者によって発展させられた{{Sfn|森嶋|1994|p=4}}。また、リカードの差額地代論は希少性理論としてワルラスによって発展させられ、後の新古典派経済学に貢献した{{Sfn|森嶋|1994|p=4}}。
==著作==
*『{{Lang|en|The High Price of Bullion, a Proof of the Depreciation of Bank Notes}}』(1810年)、金属通貨の採用を提唱した。
*『{{Lang|en|Essay on the Influence of a Low Price of Corn on the Profits of Stock}}』(1815年)、穀物法の廃止が、社会の生産的構成員に、より多くの富を分配するだろうと主張した。
**農業保護政策批判 地代論 [[大川一司]]訳 岩波文庫、1948年
**農業経済論集 [[服部一馬]]訳 春秋社 1950
*『{{Lang|en|Principles of Political Economy and Taxation}}』(1817年、『経済学および課税の原理』)、地代が人口増加につれて成長すると結論付けた分析。また、ある国がすべての財の生産においてその貿易相手国ほど効率的でなかったとしても、すべての国が自由貿易から利益を得ることができる、ということを示す「比較生産費説」を明確に展開した。
**経済学及課税之原理 [[小泉信三]]訳 岩波文庫、1928年
**経済学及び課税の原理 [[竹内謙二]]訳 東大出版会 1973年
**経済学および課税の原理 [[羽鳥卓也]]、[[吉沢芳樹]]訳 岩波文庫、1987年
*マルサスへの手紙 中野正訳 岩波文庫、1949年
*リカアドオのマカロックへの手紙 [[中野正]]訳 岩波文庫、1949年
*リカアドオのトラワアへの手紙 ジェイムズ・ボナア、ジェイコブ・H.ホランダア編 中野正訳 岩波文庫、1955年
*デイヴィド・リカードウ全集 全11巻 雄松堂書店 1971 - 1999年
:第1巻 経済学および課税の原理 [[堀経夫]]訳
:第2巻 マルサス経済学原理評注 [[鈴木鴻一郎]]訳
==脚注==
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==参考文献==
*{{Citation| 和書
| first = 通夫
| last = 森嶋
| author-link = 森嶋通夫
| title = 思想としての近代経済学
| publisher = 岩波書店
| series = 岩波新書
| issue =
| year = 1994
| isbn = 978-4004303213
}}
==外部リンク==
*{{青空文庫著作者|1164|リカード デイヴィッド}}
*{{Wayback |url=http://klug-fx.jp/ogasawara/ricardo1.pdf |title=経済学及び課税の原理 }}{{Ja icon}} 「[[経済学および課税の原理|経済学及び課税の原理]]」翻訳([[小笠原誠治]])文
*{{PDFlink|[https://socserv.mcmaster.ca/econ/ugcm/3ll3/ricardo/Principles.pdf {{Lang|en|On The Principles of Political Economy and Taxation}}]}}{{En icon}} 「[[経済学および課税の原理|経済学及び課税の原理]]」原文
* [https://www.findai.com/yogow/w00168.htm リカード - 金融大学]
* {{Kotobank|リカード}}
{{経済学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りかあと てひつと}}
[[Category:デヴィッド・リカード|*]]
[[Category:イギリスの経済学者]]
[[Category:18世紀の経済学者]]
[[Category:19世紀の経済学者]]
[[Category:国際経済学者]]
[[Category:功利主義者]]
[[Category:キングス・カウンティ選出のイギリス庶民院議員 (1801年-1922年)]]
[[Category:クイーンズ・カウンティ選出のイギリス庶民院議員 (1801年-1922年)]]
[[Category:ユダヤ系イギリス人]]
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[[Category:古典派経済学の人物]]
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11,551 |
プラザ合意
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プラザ合意(プラザごうい、英: Plaza Accord)とは、1985年9月22日、先進5か国(G5)財務大臣・中央銀行総裁会議により発表された、主に日本の対米貿易黒字の削減の合意の通称。その名は会議の会場となったアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のプラザホテルにちなむ。
会議に出席したのは、アメリカ財務長官のジェイムズ・ベイカー、イギリス蔵相のナイジェル・ローソン、西ドイツ財務相のゲルハルト・シュトルテンベルク、フランス経済財政相のピエール・ベレゴヴォワ、そして日本の竹下登蔵相である。以後の世界経済に大きな影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、この会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。
1980年代前半、レーガン政権下(レーガノミクス)のアメリカ合衆国では、前政権から引き継いだ高インフレ抑制政策として、厳しい金融引締めを実施していた。1980年には米ドル金利は20%にまで達し、インフレ率は落ち着き始めた。しかしその後、金融政策の影響により急激に米ドルが高くなり、同時に日本の伸び続ける生産と輸出もあり、アメリカは輸出の減少と輸入の拡大による大幅な貿易赤字が国内で問題視されるようになった。同時にアメリカ経済は旺盛な内需により1984年には経済成長率7.2%を達成し好況でもあった。結果として、1980年代のアメリカは、インフレの問題も解決し経済も好況であったが、日本の存在感の高まりがアメリカの国際収支の大幅な赤字となって注目され、その流れでGDP比で2%前後と小さめのアメリカの財政赤字も大きな問題として扱われるようになり、世論の「貿易と財政の双子の赤字」の声の高まりはアメリカ政府の対日行動を促すに至った。
またこうした状況に至る前、1970年代末期にはドル危機が起きており、先進国間には、自由貿易を維持するために協調して為替操作に介入することへの抵抗感は無かった。しかしとりわけ、アメリカの対日貿易赤字が大きな問題として扱われていたため、先進5か国間で結ばれたプラザ合意とは、実質的に円高ドル安へ誘導する合意であった。
発表翌日の9月23日の1日24時間で、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落した。1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになった。
日本においては急速な円高によって円高不況が起きると懸念された。しかし国家間の合意に基づき、日本銀行は公定歩合を引き下げずに5%のまま据え置き、逆に無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという短期市場金利の「高目放置」を行った。その後、疲弊を見せた国内経済への対処として公定歩合の引き下げに動いたのは翌1986年になってからだった。このため、プラザ合意の成された1985年の日本は非常に金融引き締め的な経済環境となっていたと推測される。プラザ合意による極端な円高と金融引き締めにより日本ではインフレ率が低迷した。また、公定歩合の引き下げ長期化予想により名目金利は低下しカネ余りから不動産や株式に対する投機を促した。
円高により、「半額セール」とまでいわれた米国資産の買い漁りや海外旅行のブームが起き、賃金の安い国に工場を移転する企業が増えた。とりわけ東南アジアに直接投資する日本企業が急増したため、「奇跡」ともいわれる東南アジアの経済発展をうながすことになった。
1987年には進みすぎたドル安に歯止めをかけるべく、為替レートを安定させるため再び各国が協調介入することをうたったルーブル合意が結ばれた。
本来、為替レートなどを誘導する場合はソフトランディングへ誘導するのが一般的である。すなわち、実体経済への急激なインパクトを避け、投機的な資金の流出、流入を防止することで市場の安定性を確保し、同時に市場需給に基づく自由かつ柔軟な取引によって自律的に国際収支調整されることが期待される。
しかしある特別な場合において、複数の国間で為替レートを一定の水準まで誘導するよう、市場介入を協力して行う場合がある。協調介入といわれるこの手法は、自国の通貨の安定性を保つために行われる自国通貨への介入、すなわち単独介入とはその目的において大きく異なる。単独介入とは、急激な為替レートの変動があったとき、これによって実体経済への悪影響が懸念されるため、これを安定させる目的で行われるものであり、為替レートを一定の方向へ誘導する目的で行われるものではない。これに対し、協調介入はある種の経済的なゆがみ・不均衡があり、それによって複数の国の利害が総合的に悪いと判断されるときに当該国間で協議し行うものであり、為替レートを人為的に一方向へ操作するほどの強い影響力がある。ただし協調介入を行ってもマーケットがこれを予測してすでに織り込んでいる場合があり、サプライズ感がとぼしく大きな影響を与えない場合もありえる。
協調介入が特殊なものだとみなされる理由として、為替レートの誘導目標をあらかじめ公開する点があげられる。これは一般に単独介入が誘導目標を公開しないのと対照的であり、このため市場参加者の思惑売買を誘導することが可能となる。プラザ合意後、竹下が「円-ドルレートは1ドル=190円でもかまわない」と声明したことを受けて一気に円高が進んだことなどからも、市場参加者の思惑を誘う協調介入は大きな影響力があることがわかる。また協調介入が実施されるケースはごくまれであり、プラザ合意が行われた当時は大きな経済的ゆがみが認識されていたことが窺える。
こうした性格上、協調介入に関してはソフトランディングが非常に難しいという意見と、一方で経済のねじれを一気に解消する手法として積極的に活用するべきとの意見が拮抗する。ただし変動相場制における国際収支調整機能は、金融政策が経済調整を担う現代においてはほとんど失われている。これは金融政策で物価変動を抑制する限りマクロバランスの対外不均衡が調整されないためである。
プラザ合意について多くの議論がなされたが、失われた10年から失われた30年へと続く長期経済低迷の起点ではないかとの見解がある。
協調介入によって円高に導いた結果、物価と賃金はマイナスへと落ち込み、貿易では農林水産物も、鉱工業製品も、日本人労働も、全ての日本産品は競争力を相対的に失い、それまでの経済成長リズムの瓦解へ繋がった。
日本にとって不利になるこの合意がなされた背景には、日本のGDPがアメリカを追い抜き世界一となることへの米国の危惧、以前からの日米貿易摩擦、米軍の統括した新技術であるインターネットとその分野における日本との競争への畏れがあった。米国政府の思惑通り、日本の産業の象徴であった民生用電子機器をはじめ、日本の多くの産業は1985年を境に急激に落ち込み、衰退の道を歩んでいくこととなった。
戦後、長らく日本経済を後押しした輸出は、1980年代前半にはアメリカの莫大な経常赤字、一方の日本の莫大な経常黒字へと育っていた。日本では輸出産業を中心に著しい好業績の企業が相次いだ(ハイテク景気)。一方、アメリカ国内では、財政赤字と貿易赤字という、いわゆる双子の赤字が盛んに問題視されていた。また、欧州においてはアメリカによりもたらされる経常黒字が物価上昇圧力になっているという指摘があった。さらに欧州もアメリカ同様、日本との貿易競争における敗けが目立ち始めていた。そのためプラザ合意は欧州の不満も是正するための策であった面がある。日本経済の衰退に伴い、1996年以降のアメリカにおける日本への好感度も、中立から1991年までの圧倒的な好感度に戻った。
プラザ合意は中曽根康弘首相・竹下蔵相・澄田智日銀総裁らによって決断されたが、この決断は、日本がアメリカの要求を全面的に容認した対米妥協策との解釈が一般的である。
2018年から米中貿易戦争が起きた中国では日本のプラザ合意が再び注目されており、日本の福田康夫元首相やプラザ合意当時に官僚だった元日本銀行副総裁の岩田一政などが人民元切り上げを求めるアメリカの圧力に応じないよう助言したことが反響を呼び、国営メディアの新華社も「プラザ合意で米国に屈した日本の経済低迷を忘れるべきではない」と主張した。アメリカも中国が通貨安誘導を行っているとして相殺関税の導入や25年ぶりの為替操作国の認定でこれに対抗している。
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"text": "プラザ合意(プラザごうい、英: Plaza Accord)とは、1985年9月22日、先進5か国(G5)財務大臣・中央銀行総裁会議により発表された、主に日本の対米貿易黒字の削減の合意の通称。その名は会議の会場となったアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のプラザホテルにちなむ。",
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"text": "会議に出席したのは、アメリカ財務長官のジェイムズ・ベイカー、イギリス蔵相のナイジェル・ローソン、西ドイツ財務相のゲルハルト・シュトルテンベルク、フランス経済財政相のピエール・ベレゴヴォワ、そして日本の竹下登蔵相である。以後の世界経済に大きな影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、この会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。",
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"text": "1980年代前半、レーガン政権下(レーガノミクス)のアメリカ合衆国では、前政権から引き継いだ高インフレ抑制政策として、厳しい金融引締めを実施していた。1980年には米ドル金利は20%にまで達し、インフレ率は落ち着き始めた。しかしその後、金融政策の影響により急激に米ドルが高くなり、同時に日本の伸び続ける生産と輸出もあり、アメリカは輸出の減少と輸入の拡大による大幅な貿易赤字が国内で問題視されるようになった。同時にアメリカ経済は旺盛な内需により1984年には経済成長率7.2%を達成し好況でもあった。結果として、1980年代のアメリカは、インフレの問題も解決し経済も好況であったが、日本の存在感の高まりがアメリカの国際収支の大幅な赤字となって注目され、その流れでGDP比で2%前後と小さめのアメリカの財政赤字も大きな問題として扱われるようになり、世論の「貿易と財政の双子の赤字」の声の高まりはアメリカ政府の対日行動を促すに至った。",
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"text": "またこうした状況に至る前、1970年代末期にはドル危機が起きており、先進国間には、自由貿易を維持するために協調して為替操作に介入することへの抵抗感は無かった。しかしとりわけ、アメリカの対日貿易赤字が大きな問題として扱われていたため、先進5か国間で結ばれたプラザ合意とは、実質的に円高ドル安へ誘導する合意であった。",
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"text": "日本においては急速な円高によって円高不況が起きると懸念された。しかし国家間の合意に基づき、日本銀行は公定歩合を引き下げずに5%のまま据え置き、逆に無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという短期市場金利の「高目放置」を行った。その後、疲弊を見せた国内経済への対処として公定歩合の引き下げに動いたのは翌1986年になってからだった。このため、プラザ合意の成された1985年の日本は非常に金融引き締め的な経済環境となっていたと推測される。プラザ合意による極端な円高と金融引き締めにより日本ではインフレ率が低迷した。また、公定歩合の引き下げ長期化予想により名目金利は低下しカネ余りから不動産や株式に対する投機を促した。",
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"text": "協調介入が特殊なものだとみなされる理由として、為替レートの誘導目標をあらかじめ公開する点があげられる。これは一般に単独介入が誘導目標を公開しないのと対照的であり、このため市場参加者の思惑売買を誘導することが可能となる。プラザ合意後、竹下が「円-ドルレートは1ドル=190円でもかまわない」と声明したことを受けて一気に円高が進んだことなどからも、市場参加者の思惑を誘う協調介入は大きな影響力があることがわかる。また協調介入が実施されるケースはごくまれであり、プラザ合意が行われた当時は大きな経済的ゆがみが認識されていたことが窺える。",
"title": "協調介入の効果"
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"text": "こうした性格上、協調介入に関してはソフトランディングが非常に難しいという意見と、一方で経済のねじれを一気に解消する手法として積極的に活用するべきとの意見が拮抗する。ただし変動相場制における国際収支調整機能は、金融政策が経済調整を担う現代においてはほとんど失われている。これは金融政策で物価変動を抑制する限りマクロバランスの対外不均衡が調整されないためである。",
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"text": "プラザ合意について多くの議論がなされたが、失われた10年から失われた30年へと続く長期経済低迷の起点ではないかとの見解がある。",
"title": "議論・評価"
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"text": "協調介入によって円高に導いた結果、物価と賃金はマイナスへと落ち込み、貿易では農林水産物も、鉱工業製品も、日本人労働も、全ての日本産品は競争力を相対的に失い、それまでの経済成長リズムの瓦解へ繋がった。",
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"text": "日本にとって不利になるこの合意がなされた背景には、日本のGDPがアメリカを追い抜き世界一となることへの米国の危惧、以前からの日米貿易摩擦、米軍の統括した新技術であるインターネットとその分野における日本との競争への畏れがあった。米国政府の思惑通り、日本の産業の象徴であった民生用電子機器をはじめ、日本の多くの産業は1985年を境に急激に落ち込み、衰退の道を歩んでいくこととなった。",
"title": "議論・評価"
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"text": "戦後、長らく日本経済を後押しした輸出は、1980年代前半にはアメリカの莫大な経常赤字、一方の日本の莫大な経常黒字へと育っていた。日本では輸出産業を中心に著しい好業績の企業が相次いだ(ハイテク景気)。一方、アメリカ国内では、財政赤字と貿易赤字という、いわゆる双子の赤字が盛んに問題視されていた。また、欧州においてはアメリカによりもたらされる経常黒字が物価上昇圧力になっているという指摘があった。さらに欧州もアメリカ同様、日本との貿易競争における敗けが目立ち始めていた。そのためプラザ合意は欧州の不満も是正するための策であった面がある。日本経済の衰退に伴い、1996年以降のアメリカにおける日本への好感度も、中立から1991年までの圧倒的な好感度に戻った。",
"title": "議論・評価"
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"text": "プラザ合意は中曽根康弘首相・竹下蔵相・澄田智日銀総裁らによって決断されたが、この決断は、日本がアメリカの要求を全面的に容認した対米妥協策との解釈が一般的である。",
"title": "議論・評価"
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"text": "2018年から米中貿易戦争が起きた中国では日本のプラザ合意が再び注目されており、日本の福田康夫元首相やプラザ合意当時に官僚だった元日本銀行副総裁の岩田一政などが人民元切り上げを求めるアメリカの圧力に応じないよう助言したことが反響を呼び、国営メディアの新華社も「プラザ合意で米国に屈した日本の経済低迷を忘れるべきではない」と主張した。アメリカも中国が通貨安誘導を行っているとして相殺関税の導入や25年ぶりの為替操作国の認定でこれに対抗している。",
"title": "議論・評価"
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プラザ合意とは、1985年9月22日、先進5か国(G5)財務大臣・中央銀行総裁会議により発表された、主に日本の対米貿易黒字の削減の合意の通称。その名は会議の会場となったアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のプラザホテルにちなむ。 会議に出席したのは、アメリカ財務長官のジェイムズ・ベイカー、イギリス蔵相のナイジェル・ローソン、西ドイツ財務相のゲルハルト・シュトルテンベルク、フランス経済財政相のピエール・ベレゴヴォワ、そして日本の竹下登蔵相である。以後の世界経済に大きな影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、この会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。
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{{出典の明記|date=2019年4月}}
{{外国為替}}
[[Image:plaza hotel.jpg|thumb|180px|会議の会場となった、ニューヨークのプラザホテル]]
'''プラザ合意'''(プラザごうい、{{lang-en-short|Plaza Accord}})とは、[[1985年]][[9月22日]]、先進5か国([[五大国#G5|G5]])[[財務大臣・中央銀行総裁会議]]により発表された、主に日本の対米貿易黒字の削減の[[合意]]の通称。その名は会議の会場となった[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]][[ニューヨーク市]]の[[プラザホテル]]にちなむ。
会議に出席したのは、アメリカ財務長官の[[ジェイムズ・ベイカー (国務長官)|ジェイムズ・ベイカー]]、[[イギリス]]蔵相の[[ナイジェル・ローソン]]、[[西ドイツ]]財務相の[[ゲルハルト・シュトルテンベルク]]、[[フランス]]経済財政相の[[ピエール・ベレゴヴォワ]]、そして[[日本]]の[[竹下登]]蔵相である。以後の世界経済に大きな影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、この会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。
== 概要 ==
[[File:USD-JPY (Plaza Accord).svg|thumb|300px|1985年~1988年までの為替レート(日次)。プラザ合意が行われてから数日間で、急激に円高が進行している。]]
[[File:Foreign Exchange Rate (DEM,FRF,GBP,JPY vs USD).png|thumb|300px|1981年1月~1990年12月までの[[ドイツ・マルク|DEM]]/[[ドル|USD]]、[[フランス・フラン|FRF]]/USD、[[スターリング・ポンド|GBP]]/USD、[[円 (通貨)|JPY]]/USDの推移。1980年代前半は主要通貨安ドル高であり、プラザ合意前後にドル安に転じている<ref>{{cite web |url=http://www.research.stlouisfed.org/ |title=Fed of St. Louis HP |accessdate=2009-05-04}}</ref>。]]
[[1980年代]]前半、[[ロナルド・レーガン|レーガン]]政権下([[レーガノミクス]])の[[アメリカ合衆国]]では、前政権から引き継いだ[[インフレーション|高インフレ]]抑制政策として、<!--後にレーガノミックスと呼ばれる、-->厳しい[[金融政策|金融引締め]]を実施していた。1980年には[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]金利は20%にまで達し、インフレ率は落ち着き始めた。しかしその後、金融政策の影響により急激に米ドルが高くなり、同時に日本の伸び続ける生産と輸出もあり、アメリカは輸出の減少と輸入の拡大による大幅な貿易赤字が国内で問題視されるようになった。同時にアメリカ経済は旺盛な内需により1984年には経済成長率7.2%を達成し好況でもあった。結果として、1980年代のアメリカは、インフレの問題も解決し経済も好況であったが、日本の存在感の高まりがアメリカの[[国際収支]]の大幅な赤字となって注目され、その流れでGDP比で2%前後と小さめのアメリカの財政赤字も大きな問題として扱われるようになり、世論の「貿易と財政の[[双子の赤字]]」の声の高まりはアメリカ政府の対日行動を促すに至った。
[[ファイル:スクリーンショット 2023-08-06 113709.png|サムネイル|プラザ合意前後のアメリカの貿易収支]]
またこうした状況に至る前、[[1970年代]]末期には[[ドル危機]]が起きており、先進国間には、[[自由貿易]]を維持するために[[協調介入|協調して為替操作に介入すること]]への抵抗感は無かった。しかしとりわけ、アメリカの対日貿易赤字が大きな問題として扱われていたため、先進5か国間で結ばれたプラザ合意とは、実質的に円高ドル安へ誘導する合意であった。
発表翌日の9月23日の1日24時間で、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落した。1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになった<ref>[http://www.federalreserve.gov/releases/H10/hist/dat89_ja.txt 為替の日次データ(1970年~1989年)]、[[連邦準備制度理事会]]。2009年1月25日閲覧。</ref>。
日本においては急速な円高によって[[円高不況]]が起きると懸念された。しかし国家間の合意に基づき、[[日本銀行]]は[[公定歩合]]を引き下げずに5%のまま据え置き、逆に[[無担保コールレート]]を6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという短期市場金利の「[[高目放置]]」を行った<ref>{{Cite journal|和書 |author=黒田晁生 |title=日本銀行の金融政策(1984年~1989年)--プラザ合意と「バブル」の生成 |journal=明治大学社会科学研究所紀要 |issn=03895971 |publisher=明治大学社会科学研究所 |year=2008 |month=oct |volume=47 |issue=1 |pages=213-231 |naid=120001941255 |url=https://hdl.handle.net/10291/7202}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www3.boj.or.jp/josa/past_release/chosa198602a.pdf 最近における短期金融市場の動向について]}}, 日本銀行調査月報:1986年2月号</ref>。その後、疲弊を見せた国内経済への対処として公定歩合の引き下げに動いたのは翌1986年になってからだった。このため、プラザ合意の成された1985年の日本は非常に金融引き締め的な経済環境となっていたと推測される<ref group="注釈">{{PDFLink|[http://www.esri.go.jp/jp/others/kanko_sbubble/analysis_01_12.pdf わが国の均衡実質金利]}}, 図表12-15によると、この時期には金融引き締め度合いを示す金利ギャップが非常に大きくなっている。</ref>。プラザ合意による極端な円高と金融引き締めにより日本ではインフレ率が低迷した。また、[[公定歩合]]の引き下げ長期化予想により[[名目金利]]は低下しカネ余りから[[不動産]]や[[株式]]に対する[[投機]]を促した。
円高により、「半額セール」とまでいわれた米国資産の買い漁りや海外旅行のブームが起き、賃金の安い国に工場を移転する企業が増えた。とりわけ東南アジアに[[直接投資]]する日本企業が急増したため、「奇跡」ともいわれる東南アジアの経済発展をうながすことになった。
1987年には進みすぎたドル安に歯止めをかけるべく、為替レートを安定させるため再び各国が協調介入することをうたった[[ルーブル合意]]が結ばれた。
== 協調介入の効果 ==
本来、為替レートなどを誘導する場合はソフトランディングへ誘導するのが一般的である。すなわち、実体経済への急激なインパクトを避け、投機的な資金の流出、流入を防止することで市場の安定性を確保し、同時に市場需給に基づく自由かつ柔軟な取引によって自律的に国際収支調整されることが期待される。
しかしある特別な場合において、複数の国間で為替レートを一定の水準まで誘導するよう、市場介入を協力して行う場合がある。[[協調介入]]といわれるこの手法は、自国の通貨の安定性を保つために行われる自国通貨への介入、すなわち単独介入とはその目的において大きく異なる。単独介入とは、急激な為替レートの変動があったとき、これによって実体経済への悪影響が懸念されるため、これを安定させる目的で行われるものであり、為替レートを一定の方向へ誘導する目的で行われるものではない。これに対し、協調介入はある種の経済的なゆがみ・不均衡があり、それによって複数の国の利害が総合的に悪いと判断されるときに当該国間で協議し行うものであり、為替レートを人為的に一方向へ操作するほどの強い影響力がある。ただし協調介入を行ってもマーケットがこれを予測してすでに織り込んでいる場合があり、サプライズ感がとぼしく大きな影響を与えない場合もありえる。
協調介入が特殊なものだとみなされる理由として、為替レートの誘導目標をあらかじめ公開する点があげられる。これは一般に単独介入が誘導目標を公開しないのと対照的であり、このため市場参加者の思惑売買を誘導することが可能となる。プラザ合意後、竹下が「円-ドルレートは1ドル=190円でもかまわない」と声明したことを受けて一気に円高が進んだことなどからも、市場参加者の思惑を誘う協調介入は大きな影響力があることがわかる。また協調介入が実施されるケースはごくまれであり、プラザ合意が行われた当時は大きな経済的ゆがみが認識されていたことが窺える。
こうした性格上、協調介入に関してはソフトランディングが非常に難しいという意見と、一方で経済のねじれを一気に解消する手法として積極的に活用するべきとの意見が拮抗する。ただし変動相場制における国際収支調整機能は、金融政策が経済調整を担う現代においてはほとんど失われている。これは金融政策で物価変動を抑制する限り[[マクロバランス]]の対外不均衡が調整されないためである。
== 議論・評価 ==
プラザ合意について多くの議論がなされたが、[[失われた10年]]から[[失われた30年]]へと続く長期経済低迷の起点ではないかとの見解がある。
協調介入によって円高に導いた結果、物価と賃金はマイナスへと落ち込み、貿易では農林水産物も、鉱工業製品も、日本人労働も、全ての日本産品は競争力を相対的に失い、それまでの経済成長リズムの瓦解へ繋がった。
日本にとって不利になるこの合意がなされた背景には、日本のGDPがアメリカを追い抜き世界一となることへの米国の危惧、以前からの[[日米貿易摩擦]]、米軍の統括した新技術である[[インターネット]]とその分野における日本との競争への畏れがあった。米国政府の思惑通り、日本の産業の象徴であった民生用電子機器をはじめ、日本の多くの産業は1985年を境に急激に落ち込み、衰退の道を歩んでいくこととなった<ref name="tokuju">[https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1103J_R10C14A7000000/ 予測できた「地デジ特需」終了 テレビ巨額投資の謎 - 日本経済新聞]</ref>。
戦後、長らく日本経済を後押しした輸出は、1980年代前半にはアメリカの莫大な経常赤字、一方の日本の莫大な経常黒字へと育っていた。日本では輸出産業を中心に著しい好業績の企業が相次いだ([[ハイテク景気]])。一方、アメリカ国内では、財政[[黒字と赤字|赤字]]と貿易赤字という、いわゆる[[双子の赤字]]が盛んに問題視されていた。また、欧州においてはアメリカによりもたらされる経常黒字が物価上昇圧力になっているという指摘があった。さらに欧州もアメリカ同様、日本との貿易競争における敗けが目立ち始めていた。そのためプラザ合意は欧州の不満も是正するための策であった面がある。日本経済の衰退に伴い、1996年以降のアメリカにおける日本への好感度も、中立から1991年までの圧倒的な好感度に戻った<ref>{{Cite web |title=Favorable Views of Japan, China Keep Climbing |url=https://news.gallup.com/poll/228638/favorable-views-japan-china-keep-climbing.aspx |website=Gallup.com |date=2018-03-06 |accessdate=2022-03-31 |language=en |first=Gallup |last=Inc}}</ref>。
[[ファイル:Wp-je82bun-2-3-10z.gif|サムネイル|各国の貿易の変化]]
プラザ合意は[[中曽根康弘]]首相・竹下蔵相・[[澄田智]]日銀総裁らによって決断されたが、この決断は、日本がアメリカの要求を全面的に容認した対米妥協策との解釈が一般的である。
[[加藤紘一]]の回想によると、(プラザ合意で)帰国報告した[[竹下登]]・蔵相に向かい、[[宮澤喜一]]は「竹下さん、あなたいったい何をしてきたのですか。自分がやってきたことがわかっているのですか」と面罵した。
[[安竹宮]]で次期首相を争っていた時期なので、宮澤は痛烈に非難を受けた。「同僚の面前でライバルの総理候補をあそこまで非難するような人間は、人間ではない。器が見えた。あれで宮澤さんはおしまいだ」
だが、いまにして思えば、プラザ合意の重さというものを唯一理解していたがゆえに、彼はあのような激しい言葉を吐いたのだ。その言葉は政策マン宮澤を象徴するものであり、あの場面は、戦後の日本経済にとってターニングポイントになる、決定的瞬間だった。<ref>加藤紘一 『テロルの真犯人』 p.143, 2006年
</ref>
2018年から[[米中貿易戦争]]が起きた[[中華人民共和国|中国]]では日本のプラザ合意が再び注目されており<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20190816-IXWL6K6KYRMK5AMSDSKPVD4Q7I/|title=【中国観察】中国が学ぶ日米貿易摩擦の教訓 「人民元版・プラザ合意」警戒 |accessdate=2019-08-22|date=2019-08-16|publisher=[[産経デジタル|産経ニュース]]}}</ref>、日本の[[福田康夫]]元首相やプラザ合意当時に[[官僚]]だった元[[日本銀行]]副総裁の[[岩田一政]]などが[[人民元]]切り上げを求めるアメリカの圧力に応じないよう助言したことが反響を呼び<ref>{{Cite web|和書|date = 2018-04-10|url = https://www.recordchina.co.jp/b180372-s0-c20-d0035.html|title = 「中国は日本から教訓を得るべき」、福田元首相の発言が中国で反響|publisher = [[Record China]]|accessdate = 2018-04-10}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-04-11/P70E4N6KLVR401|title=通貨高求める米圧力で日本の経験中国に伝授-岩田元日銀副総裁 |accessdate=2018-04-11|date=2018-04-11|publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]}}</ref>、国営メディアの[[新華社]]も「プラザ合意で米国に屈した日本の経済低迷を忘れるべきではない」と主張した<ref>{{Cite news|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-08-17/PDLHFT6JTSE801|title=プラザ合意で苦しんだ日本に学べー米国との協議巡り中国メディア主張 |accessdate=2019-08-27|date=2018-08-17|publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]}}</ref>。アメリカも中国が通貨安誘導を行っているとして相殺関税の導入や25年ぶりの[[為替操作国]]の認定でこれに対抗している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45217240U9A520C1EA1000/ |title= 米、為替介入に相殺関税検討 人民元安誘導をけん制 |newspaper= [[日本経済新聞]]|date=2019-05-24|accessdate=2019-08-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-05-23/PRZCDV6JIJUO01 |title= 米、通貨安誘導する国々に相殺関税へ-商務省が発表 |newspaper= [[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2019-05-24|accessdate=2019-08-27}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48250880W9A800C1000000/|title=米、中国を為替操作国に指定 圧力を強化 |newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-08-06|accessdate=2019-08-27}}</ref>。
== 関連人物 ==
* {{仮リンク|フレッド・バーグステン|en|C. Fred Bergsten}} - [[経済学者]]、[[政策]]アドバイザー、作家。主に[[フォーリン・アフェアーズ]]誌に寄稿。1971年の[[ニクソン・ショック]]と1985年のプラザ合意の[[シナリオライター]]の一人とされ、1990年前後まで[[バブル景気]]だった日本に対しては[[ジャパン・バッシング]]の急先鋒だった。しかし、[[米中貿易戦争|米中貿易摩擦]]では日本とやや似た状況にある中国のことは(2010年時点では)持ち上げていた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXDZO08724420V00C10A6M10700/ 提唱者が見る「G2」 米中摩擦、多国間で解消 ピーターソン国際経済研究所所長フレッド・バーグステン氏 連携で経済効率化 (一部記事引用)] [[日本経済新聞]] 2010年6月7日 4:00</ref>。
* [[大場智満]] - [[行天豊雄]]
* [[山口光秀]]
* [[澄田智]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[レーガノミクス]]
* [[為替操作国]] - [[ジャパンバッシング]] - [[日米貿易摩擦]]
* [[外国為替平衡操作|為替介入]] - [[協調介入]]
* [[円相場#円高シンドローム]] - [[円高不況]] - [[金融緩和政策]] - [[バブル景気]]
* [[第3次中曽根内閣]] - [[第2次中曽根内閣]]時代よりプラザ合意後の円高不況と[[日米貿易摩擦]]への対策として[[内需]]拡大政策を打ち出し、バブル景気に突入した。
* [[ブラックマンデー]]
* [[人民元改革]] - [[米中貿易戦争]]
== 外部リンク ==
* [https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19850922.D1J.html データベース「世界と日本」(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室)]
* {{Cite journal|和書 |author=木地孝之 |title=プラザ合意後のわが国経済構造の変化 |journal=産業連関 |issn=1341-9803 |publisher=環太平洋産業連関分析学会 |year=1991 |volume=2 |issue=2 |pages=36-43 |naid=130005095445 |doi=10.11107/papaios.2.36 |url=https://doi.org/10.11107/papaios.2.36}}
* {{Kotobank}}
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国際連合事務局
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国際連合事務局(こくさいれんごうじむきょく、英語: United Nations Secretariat)は、国際連合の主要機関の一つ。
各国の利害を離れて中立的な立場から国際連合の諸機関が決定した活動計画や政策を実施する機関。国際連合事務総長が統括する。
本部はニューヨークにあり、また各地に事務所があり、その中で中心的な役割を担うのはジュネーヴ事務局(UNOG)、ウィーン事務局(UNOV)、ナイロビ事務局(UNON)である。
事務局職員(Staff)には以下がある。
また以下に分類されている。
事務局は以下で組織されている。
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国際連合事務局は、国際連合の主要機関の一つ。 各国の利害を離れて中立的な立場から国際連合の諸機関が決定した活動計画や政策を実施する機関。国際連合事務総長が統括する。 本部はニューヨークにあり、また各地に事務所があり、その中で中心的な役割を担うのはジュネーヴ事務局(UNOG)、ウィーン事務局(UNOV)、ナイロビ事務局(UNON)である。
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'''国際連合事務局'''(こくさいれんごうじむきょく、{{lang-en|United Nations Secretariat}})は、[[国際連合]]の主要機関の一つ。
各国の利害を離れて中立的な立場から国際連合の諸機関が決定した活動計画や[[政策]]を実施する機関。[[国際連合事務総長]]が統括する。
[[国際連合本部ビル|本部]]はニューヨークにあり、また各地に事務所があり、その中で中心的な役割を担うのは[[国際連合ジュネーヴ事務局|ジュネーヴ事務局]](UNOG)、[[国際連合ウィーン事務局|ウィーン事務局]](UNOV)、[[国際連合ナイロビ事務局|ナイロビ事務局]](UNON)である。
== 職員 ==
事務局職員(Staff)には以下がある。
{{see also|国際公務員}}
* [[国際連合事務総長]](Secretary-General of the United Nations:SG)
* [[国際連合副事務総長]](Deputy Secretary-General of the United Nations:DSG)
* [[国際連合事務次長]](Under-Secretary-General of the United Nations:USG)
* 国際連合事務次長補(Assistant Secretary-General of the United Nations:ASG)
また以下に分類されている。
* 専門または高等職(Professional and higher categories)
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:*P-7/D-2 (ICS-14):部長
:*P-6/D-1 (ICS-13):次長
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:*P-4/NO-D (ICS-11)
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* 総合職(General Service and related categories:G, TC, S, PIA, LT)
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* 各国勤務(National Professional Officers:NO)
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**NO - E
* 現地勤務(Field Service:FS)
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**FS-1
== 組織 ==
事務局は以下で組織されている。
=== 事務局(Office) ===
* 事務総長室
: Executive Office of the Secretary-General of the United Nations|Secretary-General (EOSG)
* 内部監査室
: United Nations Office of Internal Oversight Services (OIOS)
* 法務室
: United Nations Office of Legal Affairs (OLA)
* 軍縮室
: United Nations Office for Disarmament Affairs (ODA)
* [[国際連合人道問題調整事務所|人道問題調整事務室]]
: United Nations Office for the Coordination of Humanitarian Affairs (OCHA)
* [[国連防災機関|防災機関]]
: United Nations Office for Disaster Risk Reduction (UNDRR)
* [[国際連合人権高等弁務官事務所|人権高等弁務官事務室]]
: United Nations Human Rights Office/Office of the High Commissioner for Human Rights (OHCHR)
* [[国連難民高等弁務官事務所|難民高等弁務官事務室]]
: United Nations High Commissioner for Refugees (UNHCR)
* [[国連薬物犯罪事務所|薬物犯罪室]]
: United Nations Office on Drugs and Crime (UNODC)
* [[後発開発途上国、内陸開発途上国、小島嶼開発途上国担当上級代表事務所]]
: United Nations Office of the High Representative for the Least Developed Countries, Landlocked Developing Countries and Small Island Developing States (OHRLLS)
* [[国際連合宇宙局|圏外空間(宇宙)事務室]]
: United Nations Office for Outer Space Affairs (UNOOSA)
=== 部局(Department) ===
* [[国際連合政治・平和構築局|政治平和構築局]]
: United Nations Department of Political Affairs|United Nations Department of Political and Peacebuilding Affairs (DPPA)
* [[国際連合平和活動局|平和活動局]]
: Department of Peacekeeping Operations|United Nations Department of Peace Operations (DPO)
* [[国際連合経済社会局|経済社会局]]
: United Nations Department of Economic and Social Affairs (DESA)
* 現地支援局
: United Nations Department of Field Support (DFS)
* 管理局
: United Nations Department of Management (DM)
* 総会/会議管理局
: United Nations Department of General Assembly and Conference Management (DGACM)
* [[国際連合グローバル・コミュニケーション局]]
: United Nations Department of Global Communications (DGC)
* [[国際連合安全保安局|安全保安局]]
: United Nations Department for Safety and Security (DSS)
=== 地域本部(Offices away from headquarters) ===
* [[国際連合ジュネーヴ事務局|ジュネーヴ事務局]]
: United Nations Office at Geneva (UNOG)
* [[国際連合ナイロビ事務局|ナイロビ事務局]]
: United Nations Office at Nairobi (UNON)
* [[国際連合ウィーン事務局|ウィーン事務局]]
: United Nations Office at Vienna (UNOV)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|United Nations Secretariat}}
* [[国際連合本部ビル]]
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[[Category:国際連合事務局|*]]
[[Category:国際連合の組織|しむきよく]]
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11,555 |
営団
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営団(えいだん)とは、1941年(昭和16年)以後、近衛内閣における国家総動員体制の下、国策会社とともに誕生した「官民協力」の性格を有する、公法人でも私法人でもない中間形態の特殊法人をいう。個別に制定される特別法により設立された。
営団の語源は、経営財団を略したものである。厚生省所管の住宅営団、鉄道省所管の帝都高速度交通営団(営団地下鉄)、農林水産省所管の食糧増産政策を目的とする農地開発営団(以上を便宜上、三営団と呼ぶ。以下同じ)に始まり、戦時下において他にも設立された。帝都高速度交通営団を除き、終戦後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の方針の下で国策会社とともに廃止され、一部の業務はその後設立された行政機関としての公団に引き継がれた。唯一法人名として存続した帝都高速度交通営団も、2004年(平成16年)4月1日に東京地下鉄(通称・東京メトロ)の発足により消滅し、「営団」と称する法人は現存しない。
営団が発案されたのは、住宅政策の分野からとされる。戦前の住宅政策は内務省社会局(のちの厚生省→厚生労働省)が所管していたが、社会政策的あるいは後に転じて国策としての観点から住宅供給を進める必要に迫られた。その過程で住宅供給の実施主体が議論され、国策住宅会社、公共団体、公益法人、住宅組合、住宅会社などの各種の供給主体において、官民協力による住宅供給の拡充が検討された。その結果、住宅供給目的の特殊法人の設立が検討され、この結果として当時の厚生省は1940年(昭和15年)7月11日、厚生省の住宅対策委員会第2回特別委員会において、厚生省住宅課から「住宅営団法案要綱」という文書が提示され、初めて行政文書において新型の法人形態である「営団」という用語が登場した。営団とは「住宅経営財団を略称したるものにして(中略)仮に名付けたるもの」という。
一方、東京の都市化による交通調整問題に端を発して設立された帝都高速度交通営団は、鉄道省における原案作成過程においては特殊法人である「帝都交通局」という名称で法案化が検討され、その後「帝都高速度交通局」法案として内閣法制局と打ち合わせが行われていた。しかし、法制局の法案審査の過程において「帝都高速度交通局」法案が「帝都高速度交通営団」法案に名称変更され、帝国議会に提出されることとなる。
1941年(昭和16年)3月の第76回帝国議会において、住宅営団法(住宅営団)、帝都高速度交通営団法(帝都高速度交通営団)、農地開発法(農地開発営団)が成立し、初めて営団が誕生した。その後、戦時体制下で各省がこの枠組みを活用し、商工省所管の産業設備営団、重要物資管理営団、交易営団、農林水産省所管の食糧配給などの食糧統制を目的とした食糧営団が設立された。また外地においても、たとえば住宅営団と同じ住宅供給機関として朝鮮住宅営団、台湾住宅営団、関東州住宅営団が設立されている。
終戦後、GHQの指令によりほとんどの営団が解散または公団へと改組された。廃止された一例としては住宅営団である。また帝都高速度交通営団は、その運営が戦時統制目的ではないために唯一そのまま存続され、2004年(平成16年)4月1日の民営化で国と東京都が株式を保有する東京地下鉄(東京メトロ)となるまで、法人名での「営団」として残った。そうした経緯から一般的に「営団」といえば帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の略称として定着している。
営団が設立された当初の特徴としては
以上から出資は政府、公共団体、民間等の共同で行われており、例えば設立当初の帝都高速度交通営団の場合、資本金6,000万円の内訳は国4,000万円、東京市1,000万円、東京急行電鉄など私鉄事業者・国鉄共済連合1,000万円となっていた。配当については「民」である私鉄事業者に優先配当するとしていたように、官民協力という性格を反映した仕組みをとっていった。
営団と国策会社は、「官民協力」で生産力拡充と国家総動員体制を推進するという点で共通していたが、「営団」として設立されたのはその目的とする事業が非採算事業であるため、国策会社の設立が困難な場合に、その例外的な企業形態として選択されたものである。特に当初設立された三営団は、そうした特徴を有していた。しかし、その後に続いて設立された営団は採算事業の分野にも拡大し、若干その特徴が変容しつつあったとされる。例えば、食糧営団の全国法人である中央食糧営団は国策会社などを母体として設立された。
戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領政策により私的独占を排除する観点から、統制経済の中心をなした統制会、国策会社の閉鎖(解散)が進められ、営団も同様に閉鎖の道をたどった。唯一の営団として帝都高速度交通営団(以下、交通営団)は存続したが、これは交通営団側がGHQに対し、「交通営団は戦時体制下の統制組織ではなく、1930年代当時世界的なトレンドであった交通事業再編の流れの中で設立された組織」であると主張し、それが認められたために実現したものとされる(テネシー川流域開発公社 (TVA) との類似性を強調し交渉したことによって実現したともいわれている)。その結果、民間の出資を排除した公法人となった。つまり戦後の交通営団は、「営団」の看板はそのままに、実態は官民協力の中間法人から純粋な公法人に衣替えし、この結果その後誕生する「公団」・「公社」との区別はあいまいになってしまった。
なお、民間出資を排除した後の交通営団は、東京都と三公社の一角であった日本国有鉄道(国鉄分割民営化以降は大蔵省→財務省)による出資であり、現在の東京地下鉄でも東京都と財務省が株主になっている。
など
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営団(えいだん)とは、1941年(昭和16年)以後、近衛内閣における国家総動員体制の下、国策会社とともに誕生した「官民協力」の性格を有する、公法人でも私法人でもない中間形態の特殊法人をいう。個別に制定される特別法により設立された。 営団の語源は、経営財団を略したものである。厚生省所管の住宅営団、鉄道省所管の帝都高速度交通営団(営団地下鉄)、農林水産省所管の食糧増産政策を目的とする農地開発営団(以上を便宜上、三営団と呼ぶ。以下同じ)に始まり、戦時下において他にも設立された。帝都高速度交通営団を除き、終戦後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の方針の下で国策会社とともに廃止され、一部の業務はその後設立された行政機関としての公団に引き継がれた。唯一法人名として存続した帝都高速度交通営団も、2004年(平成16年)4月1日に東京地下鉄(通称・東京メトロ)の発足により消滅し、「営団」と称する法人は現存しない。
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{{otheruses|特殊法人の一種としての営団|本項の「営団」の1つで、営団地下鉄を運営していた団体([[東京地下鉄]]に引き継がれる)|帝都高速度交通営団}}
'''営団'''(えいだん)とは、[[1941年]]([[昭和]]16年)以後、[[近衛内閣]]における国家総動員体制の下、[[国策会社]]とともに誕生した「官民協力」の性格を有する、公法人でも私法人でもない中間形態の[[特殊法人]]をいう。個別に制定される特別法により設立された。
営団の語源は、'''経営財団'''を略したものである。[[厚生省]]所管の[[住宅営団]]、[[鉄道省]]所管の[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)、[[農林水産省]]所管の食糧増産政策を目的とする[[農地開発営団]](以上を便宜上、三営団と呼ぶ。以下同じ)に始まり、戦時下において他にも設立された。帝都高速度交通営団を除き、終戦後に[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) の方針の下で国策会社とともに廃止され、一部の業務はその後設立された行政機関としての[[公団]]に引き継がれた。唯一法人名として存続した帝都高速度交通営団も、[[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]に[[東京地下鉄]](通称・東京メトロ)の発足により消滅し、「営団」と称する法人は現存しない。
== 沿革 ==
営団が発案されたのは、住宅政策の分野からとされる。戦前の住宅政策は[[内務省 (日本)|内務省]]社会局(のちの[[厚生省]]→[[厚生労働省]])が所管していたが、社会政策的あるいは後に転じて国策としての観点から住宅供給を進める必要に迫られた。その過程で住宅供給の実施主体が議論され、国策住宅会社、公共団体、[[公益法人]]、住宅組合、住宅会社などの各種の供給主体において、官民協力による住宅供給の拡充が検討された。その結果、住宅供給目的の特殊法人の設立が検討され、この結果として当時の厚生省は[[1940年]](昭和15年)[[7月11日]]、厚生省の住宅対策委員会第2回特別委員会において、厚生省住宅課から「住宅営団法案要綱」という文書が提示され、初めて行政文書において新型の法人形態である「営団」という用語が登場した。営団とは「住宅経営財団を略称したるものにして(中略)仮に名付けたるもの」という。
一方、東京の都市化による交通調整問題に端を発して設立された[[帝都高速度交通営団]]は、[[鉄道省]]における原案作成過程においては特殊法人である「帝都交通局」という名称で法案化が検討され、その後「帝都高速度交通局」法案として内閣法制局と打ち合わせが行われていた。しかし、法制局の法案審査の過程において「帝都高速度交通局」法案が「帝都高速度交通営団」法案に名称変更され、[[帝国議会]]に提出されることとなる。
[[1941年]](昭和16年)3月の第76回帝国議会において、住宅営団法(住宅営団)、[[帝都高速度交通営団法]](帝都高速度交通営団)、農地開発法(農地開発営団)が成立し、初めて'''営団'''が誕生した。その後、戦時体制下で各省がこの枠組みを活用し、[[商工省]]所管の[[産業設備営団]]、[[重要物資管理営団]]、[[交易営団]]、農林水産省所管の食糧配給などの食糧統制を目的とした[[食糧営団]]が設立された。また外地においても、たとえば住宅営団と同じ住宅供給機関として朝鮮住宅営団、台湾住宅営団、関東州住宅営団が設立されている。
終戦後、GHQの指令によりほとんどの営団が解散または[[公団]]へと改組された。廃止された一例としては[[住宅営団]]である。また帝都高速度交通営団は、その運営が戦時統制目的ではないために唯一そのまま存続され、[[2004年]](平成16年)4月1日の[[民営化]]で国と[[東京都]]が[[株式]]を保有する東京地下鉄(東京メトロ)となるまで、法人名での「営団」として残った。そうした経緯から一般的に「営団」といえば帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の略称として定着している。
== 「営団」の特徴 ==
営団が設立された当初の特徴としては
* 第一に、会社形態になじみにくい非採算事業を実施するために設立されたこと。
* 第二に、官民協力であるため、公法人でもなく、私法人でもない中間形態の企業形態をとったことである。
* 第三には、帝都高速度交通営団のような採算事業であり、かつ参入すれば莫大な利益が得られる故に多数の参入希望者があり、また公益との調整のための緩衝材として公権力の監視下にある組織形態として設立されている。
以上から出資は政府、公共団体、民間等の共同で行われており、例えば設立当初の帝都高速度交通営団の場合、資本金6,000万円の内訳は国4,000万円、[[東京市]]1,000万円、[[東急|東京急行電鉄]]など私鉄事業者・国鉄共済連合1,000万円となっていた。[[配当]]については「民」である私鉄事業者に優先配当するとしていたように、官民協力という性格を反映した仕組みをとっていった。
== 「営団」と「国策会社」の違い ==
営団と国策会社は、「官民協力」で生産力拡充と国家総動員体制を推進するという点で共通していたが、「営団」として設立されたのはその目的とする事業が非採算事業であるため、国策会社の設立が困難な場合に、その'''例外的な'''企業形態として選択されたものである。特に当初設立された三営団は、そうした特徴を有していた。しかし、その後に続いて設立された営団は採算事業の分野にも拡大し、若干その特徴が変容しつつあったとされる。例えば、食糧営団の全国法人である中央食糧営団は国策会社などを母体として設立された。
== 戦後の「営団」(公団との相違) ==
戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) の占領政策により私的独占を排除する観点から、統制経済の中心をなした統制会、国策会社の閉鎖(解散)が進められ、営団も同様に閉鎖の道をたどった。唯一の営団として[[帝都高速度交通営団]](以下、交通営団)は存続したが、これは交通営団側がGHQに対し、「交通営団は戦時体制下の統制組織ではなく、1930年代当時世界的なトレンドであった交通事業再編の流れの中で設立された組織」であると主張し、それが認められたために実現したものとされる<ref name=diamond210802>[https://diamond.jp/articles/-/278256 「帝都高速度交通営団」設立80年、戦争に翻弄された歴史とは] - ダイヤモンド・オンライン(2021年8月2日)、2023年3月11日閲覧</ref>([[テネシー川流域開発公社]] (TVA) との類似性を強調し交渉したことによって実現したともいわれている)。その結果、民間の出資を排除した公法人となった。つまり戦後の交通営団は、「営団」の看板はそのままに、実態は官民協力の中間法人から純粋な公法人に衣替えし、この結果その後誕生する「公団」・「[[公社]]」との区別はあいまいになってしまった。
なお、民間出資を排除した後の交通営団は、東京都と[[三公社五現業|三公社]]の一角であった[[日本国有鉄道]]([[国鉄分割民営化]]以降は[[大蔵省]]→[[財務省]])による出資であり、現在の東京地下鉄でも東京都と財務省が[[株主]]になっている。
== 実在した営団 ==
=== 三営団 ===
* 住宅営団 - 住宅営団法
* [[帝都高速度交通営団]] - [[帝都高速度交通営団法]]
* 農地開発営団 - 農地開発法
=== その他の営団 ===
* 中央食糧営団 - [[食糧管理法]]
* 地方食糧営団:東京府食糧営団や[[樺太食糧営団]]など - 食糧管理法
* 産業設備営団 - 産業設備営団法
* 重要物資管理営団 - 重要物資管理営団法
* 交易営団 - 交易営団法
* 朝鮮住宅営団
* 台湾住宅営団
* 関東州住宅営団
== 設立が提唱されたが実現しなかった営団 ==
* 倉庫営団
* 取引所営団
* 石油営団
* 大東亜海運通商営団
など
== 参考文献 ==
魚住弘久『公企業の成立と展開 戦時期・戦後復興期の営団・公団・公社』([[岩波書店]]、2009年、ISBN 978-4000228893)
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[法人]]
* [[特殊法人]]
* [[特殊会社]]
* [[公社]]
* [[公団]]
* [[公共企業体]]
* [[第三セクター]]
* [[独立行政法人]]
* [[帝都高速度交通営団]] - [[東京地下鉄]]
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西武国分寺線
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国分寺線(こくぶんじせん)は、東京都国分寺市の国分寺駅から東京都東村山市の東村山駅までを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSK。
起点の国分寺駅はJR中央本線(中央線快速)と並列になっており、1面1線である。過去には国鉄との間で貨物列車を継走していた。多摩湖線とも乗換可能であるが一段高い場所にホームがあり、線路もつながっていない。
国分寺駅を出ると西に向かってしばらく中央線と並走したのち右にカーブを切る。野川の源流となる池や日立製作所の中央研究所が線路右側にあり、カーブを曲がり切ったところに羽根沢信号場が設置され、ここで単線から複線となる。北西方向へ直進する途中で府中街道と踏切で交差(この先、終点の東村山まで府中街道と並走する)、そのすぐ先でJR武蔵野線と立体交差する。武蔵野線は小平トンネルの南坑口にあたり、南側にのみ線路が見える。直進のまま恋ヶ窪駅に到着。
恋ヶ窪駅からは単線となりしばらく直進し事業中の新道・新府中街道が直下をトンネルで通過する形で立体交差したのち、右カーブを描き五日市街道と交差し北上、さらに玉川上水を渡り鷹の台駅に到着。交換可能な2面2線で、周辺は学校が多いため生徒や学生で賑わう。再び単線となり北上し、青梅街道と踏切で交差し、左からカーブを描いて拝島線が合流すると小川駅に到着する。
小川駅は2面4線で中央の2本に国分寺線、両側の2本に拝島線が発着する。駅の東側にはブリヂストン東京工場がある。小川駅を出ると拝島線は複線で右カーブを描き萩山駅方向へ分かれていき、国分寺線は単線となって直進する。その先で多摩湖線が築堤で当線の上を直交するが駅はなく乗換不可である(多摩湖線は交差地点の少し東に八坂駅がある)。多摩湖線のすぐ先で多摩湖自転車歩行者道と踏切で交差する。さらに北上して空堀川、続いて新青梅街道を橋梁で渡り、右側からカーブを描いて新宿線が合流し東村山駅に到着する。
全列車が各駅停車で、国分寺駅 - 東村山駅間の折り返し運転が基本である。本数は平日朝ラッシュ時毎時8往復(7-8分間隔)、平日日中は毎時5往復(12分間隔)、土休日及び平日夕方は毎時6往復(10分間隔)である。2022年3月のダイヤ改正までは平日日中も毎時6往復運行されていたが、小川駅構内で一部線路を共有する拝島線の減便に合わせ毎時1往復削減された。
2019年3月16日ダイヤ改正以前は、日中に新宿線へ直通する本川越駅(夕方は新所沢駅)発着列車があったが、東村山駅周辺の高架化工事に伴い直通運転は休止された。また、早朝には西武園線へ直通する西武園駅発着列車が運転されていたが、2022年3月12日ダイヤ改正以降はすべて東村山駅発着となった。新宿線西武新宿駅方面への直通列車は設定されていない。
2018年3月9日まで、競輪開催時には朝と日中にも西武園駅発着列車が運転されていたが、2018年3月10日のダイヤ改正よりこれらの列車は東村山駅発着の西武園線内運転となり運転区間が短縮された。
2019年3月16日のダイヤ改正以降、前述の新宿線直通休止に伴って、車両の入出庫場所が南入曽車両基地から拝島線玉川上水車両基地へ変更された。そのため、車両の向きがダイヤ改正以降と以前で異なっている。
国分寺線内は、各駅のホーム長が6両分までしかない関係上、原則、6両編成を組成できる車両に限定されている。
それ以前の車両については省略。
その他、臨時列車として4000系や、10000系が国分寺まで入線したことがある。
国分寺線は、西武鉄道で最も歴史の古い路線であり、1894年に川越鉄道が敷設した路線である。当初は、国分寺駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間が本線であった。なお、川越鉄道は甲武鉄道の子会社であり、現在の中央本線と直通する飯田町駅 - 川越駅(国分寺駅経由)間運転の列車も設定されていた。
1920年に武蔵水電に合併後、1922年に鉄軌道事業が分離されて(旧)西武鉄道の路線となった。1927年に東村山駅 - 高田馬場駅間(村山線、現在の新宿線)が開業すると国分寺駅 - 東村山駅間は分離され支線となり、現在の形態となった。
1945年に(旧)西武鉄道は本路線開業後に創業した武蔵野鉄道に合併され、西武農業鉄道(1946年に西武鉄道に社名変更)の路線となった。
国分寺線の距離を示すキロポストは、新宿線本川越駅から東村山駅(本川越起点21.9km)を経て当路線国分寺駅(本川越起点29.7km)までの通算となっている。これは川越鉄道時代のキロポストを流用しているためで、国分寺ではなく本川越起点で計算されており、路線の上下方向(国分寺→東村山方面が下り)とは逆になっている。
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"text": "全列車が各駅停車で、国分寺駅 - 東村山駅間の折り返し運転が基本である。本数は平日朝ラッシュ時毎時8往復(7-8分間隔)、平日日中は毎時5往復(12分間隔)、土休日及び平日夕方は毎時6往復(10分間隔)である。2022年3月のダイヤ改正までは平日日中も毎時6往復運行されていたが、小川駅構内で一部線路を共有する拝島線の減便に合わせ毎時1往復削減された。",
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"text": "2019年3月16日ダイヤ改正以前は、日中に新宿線へ直通する本川越駅(夕方は新所沢駅)発着列車があったが、東村山駅周辺の高架化工事に伴い直通運転は休止された。また、早朝には西武園線へ直通する西武園駅発着列車が運転されていたが、2022年3月12日ダイヤ改正以降はすべて東村山駅発着となった。新宿線西武新宿駅方面への直通列車は設定されていない。",
"title": "運転"
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"text": "2018年3月9日まで、競輪開催時には朝と日中にも西武園駅発着列車が運転されていたが、2018年3月10日のダイヤ改正よりこれらの列車は東村山駅発着の西武園線内運転となり運転区間が短縮された。",
"title": "運転"
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"text": "2019年3月16日のダイヤ改正以降、前述の新宿線直通休止に伴って、車両の入出庫場所が南入曽車両基地から拝島線玉川上水車両基地へ変更された。そのため、車両の向きがダイヤ改正以降と以前で異なっている。",
"title": "運転"
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"text": "国分寺線内は、各駅のホーム長が6両分までしかない関係上、原則、6両編成を組成できる車両に限定されている。",
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"text": "それ以前の車両については省略。",
"title": "使用車両"
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"text": "その他、臨時列車として4000系や、10000系が国分寺まで入線したことがある。",
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"text": "国分寺線は、西武鉄道で最も歴史の古い路線であり、1894年に川越鉄道が敷設した路線である。当初は、国分寺駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間が本線であった。なお、川越鉄道は甲武鉄道の子会社であり、現在の中央本線と直通する飯田町駅 - 川越駅(国分寺駅経由)間運転の列車も設定されていた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1920年に武蔵水電に合併後、1922年に鉄軌道事業が分離されて(旧)西武鉄道の路線となった。1927年に東村山駅 - 高田馬場駅間(村山線、現在の新宿線)が開業すると国分寺駅 - 東村山駅間は分離され支線となり、現在の形態となった。",
"title": "歴史"
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"text": "1945年に(旧)西武鉄道は本路線開業後に創業した武蔵野鉄道に合併され、西武農業鉄道(1946年に西武鉄道に社名変更)の路線となった。",
"title": "歴史"
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"text": "国分寺線の距離を示すキロポストは、新宿線本川越駅から東村山駅(本川越起点21.9km)を経て当路線国分寺駅(本川越起点29.7km)までの通算となっている。これは川越鉄道時代のキロポストを流用しているためで、国分寺ではなく本川越起点で計算されており、路線の上下方向(国分寺→東村山方面が下り)とは逆になっている。",
"title": "キロポストについて"
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国分寺線(こくぶんじせん)は、東京都国分寺市の国分寺駅から東京都東村山市の東村山駅までを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSK。
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<!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください-->
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 国分寺線
|路線色=#0c6
|ロゴ=File:SeibuKokubunji.svg
|ロゴサイズ=50px
|画像=Seibu kokubunji line 20190922.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=国分寺線の主力車両である[[西武2000系電車#新2000系|新2000系]]<br />(2019年9月22日 [[国分寺駅]] - [[羽根沢信号場]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]][[国分寺市]]、[[小平市]]、[[東村山市]]
|起点=[[国分寺駅]]
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|駅数=5駅
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|開業={{start date and age|1894|12|21}}
|休止=
|廃止=
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|運営者=西武鉄道
|車両基地=
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=7.8 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]](羽根沢信号場 - 恋ヶ窪駅間)、[[単線]](前記以外)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
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|保安装置=
|最高速度=85 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="zukai">『徹底カラー図解 西武鉄道のしくみ』 - マイナビ出版編集部</ref>
|路線図=
|路線図名=
|路線図表示=<!--collapsed-->
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#0c6}}
{{BS-table}}
{{BS3|BHFq|O1=HUBa|STRq||||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[中央線快速|中央線]]|}}
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{{BS3||ABZg+r||||←[[西武新宿線|新宿線]]|}}
{{BS3||BHF||7.8|SK05 [[東村山駅]]||}}
{{BS3||ABZgl|STR+r|||[[西武西武園線|西武園線]]→|}}
{{BS3||STR|KHSTe|||[[西武園駅]]}}
{{BS3||LSTR||||↓新宿線||}}
{{BS3||KHSTe||||[[本川越駅]]}}
|}
|}
'''国分寺線'''(こくぶんじせん)は、[[東京都]][[国分寺市]]の[[国分寺駅]]から東京都[[東村山市]]の[[東村山駅]]までを結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SK'''。
== 路線データ ==
*路線距離([[営業キロ]]):7.8km
*[[軌間]]:1067mm
*駅数:5駅(起終点駅含む)
*複線区間:羽根沢信号場 - 恋ヶ窪駅 (1.2km)
*電化区間:全線([[直流電化|直流]]1500[[ボルト (単位)|V]][[架空電車線方式]])
*[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
*最高速度:85km/h<ref name="zukai" />
*編成両数:6両
== 沿線風景 ==
起点の[[国分寺駅]]は[[東日本旅客鉄道|JR]][[中央本線]]([[中央線快速]])と並列になっており、1面1線である。過去には[[日本国有鉄道|国鉄]]との間で貨物列車を継走していた。[[西武多摩湖線|多摩湖線]]とも乗換可能であるが一段高い場所にホームがあり、線路もつながっていない。
国分寺駅を出ると西に向かってしばらく中央線と並走したのち右にカーブを切る。[[野川 (東京都)|野川]]の源流となる池や[[日立製作所]]の中央研究所が線路右側にあり、カーブを曲がり切ったところに[[羽根沢信号場]]が設置され、ここで単線から複線となる。北西方向へ直進する途中で[[埼玉県道・東京都道17号所沢府中線|府中街道]]と踏切で交差(この先、終点の東村山まで府中街道と並走する)、そのすぐ先でJR[[武蔵野線]]と立体交差する。武蔵野線は小平トンネルの南坑口にあたり、南側にのみ線路が見える。直進のまま[[恋ヶ窪駅]]に到着。
恋ヶ窪駅からは単線となりしばらく直進し事業中の新道・[[新府中街道]]が直下をトンネルで通過する形で立体交差したのち、右カーブを描き[[東京都道7号杉並あきる野線|五日市街道]]と交差し北上、さらに[[玉川上水]]を渡り[[鷹の台駅]]に到着。交換可能な2面2線で、周辺は学校が多いため生徒や学生で賑わう。再び単線となり北上し、[[青梅街道]]と踏切で交差し、左からカーブを描いて[[西武拝島線|拝島線]]が合流すると[[小川駅 (東京都)|小川駅]]に到着する。
小川駅は2面4線で中央の2本に国分寺線、両側の2本に拝島線が発着する。駅の東側には[[ブリヂストン]]東京工場がある。小川駅を出ると拝島線は複線で右カーブを描き[[萩山駅]]方向へ分かれていき、国分寺線は単線となって直進する。その先で多摩湖線が築堤で当線の上を直交するが駅はなく乗換不可である(多摩湖線は交差地点の少し東に[[八坂駅 (東京都)|八坂駅]]がある)。多摩湖線のすぐ先で[[東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線|多摩湖自転車歩行者道]]と踏切で交差する。さらに北上して[[空堀川]]、続いて[[新青梅街道]]を橋梁で渡り、右側からカーブを描いて[[西武新宿線|新宿線]]が合流し[[東村山駅]]に到着する。
== 運転 ==
全列車が各駅停車で、国分寺駅 - [[東村山駅]]間の折り返し運転が基本である。本数は平日朝ラッシュ時毎時8往復(7-8分間隔)、平日日中は毎時5往復(12分間隔)、土休日及び平日夕方は毎時6往復(10分間隔)である。2022年3月のダイヤ改正までは平日日中も毎時6往復運行されていたが、小川駅構内で一部線路を共有する拝島線の減便に合わせ毎時1往復削減された。
2019年3月16日ダイヤ改正以前は、日中に[[西武新宿線|新宿線]]へ直通する[[本川越駅]](夕方は[[新所沢駅]])発着列車があったが、東村山駅周辺の高架化工事に伴い直通運転は休止された。また、早朝には[[西武西武園線|西武園線]]へ直通する[[西武園駅]]発着列車が運転されていたが、2022年3月12日ダイヤ改正以降はすべて東村山駅発着となった。新宿線[[西武新宿駅]]方面への直通列車は設定されていない。
2018年3月9日まで、[[競輪]]開催時には朝と日中にも西武園駅発着列車が運転されていたが、2018年3月10日のダイヤ改正よりこれらの列車は東村山駅発着の西武園線内運転となり運転区間が短縮された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/2018daiyakaisei.pdf|title=2018年3月10日(土)ダイヤ改正を実施します|accessdate=2018-04-13|format=PDF|publisher=西武鉄道|page=9}}</ref>。
2019年3月16日のダイヤ改正以降、前述の新宿線直通休止に伴って、車両の入出庫場所が[[南入曽車両基地]]から[[西武拝島線|拝島線]][[玉川上水車両基地]]<ref group="注">小川駅から国分寺線へ入る</ref>へ変更された。そのため、車両の向きがダイヤ改正以降と以前で異なっている<ref group="注">従来は国分寺方が1号車(本線での西武新宿方)であったものが、2019年3月の改正以降は東村山方が1号車となっている。</ref>。
== 使用車両 ==
国分寺線内は、各駅のホーム長が6両分までしかない関係上、原則、6両編成を組成できる車両に限定されている。
=== 現在の車両 ===
*[[西武2000系電車|2000系・新2000系]] - 定期列車は2014年11月28日以降、この系列に限って運行されている。原則6両固定編成による運転だが、検査などで不足する場合は2両編成と4両編成を連結した6両編成に組成する。この場合、弱冷房車は設定されない。
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Seibu-Series2000 Kokubunji-Line.jpg|新2000系(2021年4月21日 小川駅)
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=== 過去の車両 ===
*[[西武3000系電車|3000系]] - 6両編成化された編成が2010年から2014年まで運用されていた<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-20 |url=http://railf.jp/news/2010/11/21/065400.html |title=西武「いぬでん」運転 |work=『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 railf.jp 鉄道ニュース |publisher=[[交友社]] |accessdate=2017-10-14 |quote=現在は国分寺線を中心に運用されていますので,}}</ref>。
*[[西武101系電車|101系・新101系]]
*[[西武701系電車|701系・801系]]
*[[西武411系電車|401系]]
それ以前の車両については省略。
その他、臨時列車として[[西武4000系電車|4000系]]や、[[西武10000系電車|10000系]]が国分寺まで入線したことがある。
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Seibu-Kuha3006-6cars.jpg|6両編成化された3000系(2010年11月27日 小川駅)
Kawagoe Railway.jpg|電化前のSL列車(国分寺駅)
</gallery>
=== 導入予定 ===
*[[小田急8000形電車]](西武での形式は未定) - 2024年度以降[[小田急電鉄]]より譲渡を受け投入予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?newsroom/news/file/20230926_sasutenatrain.pdf |title=西武鉄道と東急電鉄・小田急電鉄 「サステナ車両(※)」を授受 各社連携して、SDGsへの貢献を加速してまいります |access-date=2023-9-30|publisher=西武鉄道}}</ref>。
<gallery>
Odakyu 8000Seris Express.jpg|小田急8000形電車
</gallery>
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}
国分寺線は、西武鉄道で最も歴史の古い路線であり、[[1894年]]に'''川越鉄道'''が敷設した路線である。当初は、国分寺駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間が本線であった。なお、川越鉄道は[[甲武鉄道]]の子会社であり、現在の[[中央本線]]と直通する[[飯田町駅]] - 川越駅(国分寺駅経由)間運転の列車も設定されていた。
[[1920年]]に[[西武大宮線#沿革|武蔵水電]]に合併後、1922年に鉄軌道事業が分離されて(旧)西武鉄道の路線となった。[[1927年]]に東村山駅 - [[高田馬場駅]]間([[西武村山線|村山線]]、現在の[[西武新宿線|新宿線]])が開業すると国分寺駅 - 東村山駅間は分離され支線となり、現在の形態となった。
[[1945年]]に(旧)西武鉄道は本路線開業後に創業した[[武蔵野鉄道]]に合併され、西武農業鉄道(1946年に西武鉄道に社名変更)の路線となった。
=== 年表 ===
* [[1891年]]([[明治]]24年)[[4月11日]] - 川越鉄道に対し鉄道布設仮免状下付<ref>[{{NDLDC|2945594/4}} 「鉄道布設仮免状下付」『官報』1891年4月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1892年]](明治25年)[[6月21日]] - 鉄道布設免許状下付<ref>[{{NDLDC|2945965/5}} 「鉄道布設免許状下付」『官報』1892年6月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1894年]](明治27年)[[12月21日]] - '''川越鉄道川越線'''国分寺駅 - 久米川(仮)駅(現在の[[東村山駅]])間 (8.0km) 開業<ref>[{{NDLDC|2946717/6}} 「運輸開業免許状」『官報』1894年12月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(非電化)
* [[1895年]](明治28年)
**[[3月21日]] - 久米川(仮)駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間 (21.7km) 開業<ref>[{{NDLDC|2946789/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1895年3月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(非電化)
**[[4月16日]] - 鉄道郵便路線開設<ref name="tetuyu">{{Cite Journal|和書|author=岡藤政人|title=震災郵券拾話余滴(7)西武鉄道国分寺線と[[近江鉄道]]の[[鉄郵印]]|journal=月刊たんぶるぽすと|volume=41|issue=4|year=2017|pages=4-5|publisher=[[株式会社鳴美]]|issn=13423754|ref=harv}}</ref>
* [[1911年]](明治44年)[[2月16日]]軽便鉄道指定<ref name="kap110221">[{{NDLDC|2951652/10}} 「軽便鉄道指定」『官報』1911年2月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** 4月16日 - 東村山駅 - 川越駅間電化(直流1500V)
** 4月16日 - '''村山線'''高田馬場(仮)駅 - 東村山駅間開業。高田馬場駅 - 川越駅間で[[直通運転]]開始。
** 4月16日 - 鉄道郵便路線廃止<ref name="tetuyu"/>
* [[1948年]](昭和23年)[[11月5日]] - 国分寺駅 - 東村山駅間電化(直流1500V)
* [[1952年]](昭和27年)[[3月25日]] - 東村山駅 - 本川越駅間を新宿線に編入、国分寺駅 - 東村山駅間を'''国分寺線'''に改称
* [[1968年]](昭和43年)[[11月12日]] - 羽根沢信号場 - 恋ヶ窪駅間複線化
* [[1990年]]代前半 - 線内運転車両4両編成を6両編成にして輸送力増強する。
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月11日]] - 川越鉄道敷設100周年を記念して、旧川越鉄道線内の国分寺駅 - 本川越駅間にて記念列車が運転される([[西武4000系電車|4000系]]を使用)。
* [[2003年]](平成15年)[[3月12日]] - ダイヤ改正により、新宿線[[新所沢駅]]までの昼間時の直通運転が開始。
* [[2006年]](平成18年)
** [[9月24日]] - 新宿線の運行管理システム更新に伴い国分寺線でも更新。各駅に新型のLED案内表示機が設置される。
** [[11月11日]] - 川越鉄道敷設111周年を記念して、旧川越鉄道線内にて記念列車(本川越駅 - 所沢駅間快速急行、東村山駅 - 国分寺駅間各駅停車)が運転される([[西武2000系電車|旧2000系]]を使用)。また、国分寺駅 - 本川越駅の各駅にて記念乗車券が限定発売される。
* [[2008年]](平成20年)[[6月14日]] - ダイヤ改正により日中の新宿線新所沢駅までの直通運転列車を[[本川越駅]]まで延長。
* [[2014年]](平成26年)[[11月1日]]・[[11月2日]] - 「食と音と灯りの融合 Kawagoe REMIX」の開催を記念して、国分寺駅 → 本川越駅間に4000系を使用したイベント臨時電車“アニバーサリートレイン”が運行される。
* [[2015年]](平成27年)
** 1月 - 東村山駅付近高架橋工事に着手<ref>{{Cite report |和書 |title=東村山駅周辺まちづくりニュース 第33号 |url=https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/machi/machidukuri/higashimurayama_inde/news.files/higashimurayama_news33.pdf |publisher=東村山市 |date=2015-1-29 |accessdate=2022-4-12}}</ref>。
** [[3月21日]] - 川越鉄道敷設120周年を記念して、本川越駅 - 国分寺駅間で特急が2往復運転される([[西武10000系電車|10000系]]を使用)。また、国分寺駅 - 本川越駅の13駅にて記念乗車券が限定発売される<ref>[http://response.jp/article/2015/03/03/245559.html 西武、国分寺線で特急運行…120周年記念切符限定] - レスポンス、2015年3月3日</ref><ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/693993.html 西武鉄道、 国分寺〜本川越駅間開業120周年記念電車に乗ってみた] - トラベルWatch、2015年3月23日</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]] - 東村山駅周辺の高架化工事進捗に伴い、ダイヤ改正により新宿線への直通運転を休止<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/2019daiyakaisei.pdf 2019年3月16日(土)ダイヤ改正を実施します]}} - 西武鉄道、2019年1月29日</ref>。
* 2024年(令和6年)度第2四半期 - 東村山駅付近を高架に切り替える予定<ref name="東村山駅付近連立事計変更">{{PDFlink|[https://assess-toshokohyo.metro.tokyo.lg.jp/uploads/web_public/286_seibusen/41/41202128621.pdf 「西武鉄道新宿線、国分寺線及び西武園線(東村山駅付近)連続立体交差事業」変更届]}} - 東京都環境局総務部 環境政策課、2021年12月2日閲覧。</ref>。事業調査計画変更前は、2023年度第2四半期の予定だった<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />
== キロポストについて ==
国分寺線の距離を示す[[距離標|キロポスト]]は、[[西武新宿線|新宿線]][[本川越駅]]から東村山駅(本川越起点21.9km)を経て当路線国分寺駅(本川越起点29.7km)までの通算となっている。これは川越鉄道時代のキロポストを流用しているためで、国分寺ではなく本川越起点で計算されており、[[ダイヤグラム#上りと下り|路線の上下方向]](国分寺→東村山方面が下り<ref>[https://www.seiburailway.jp/railway/ekimap/kokubunji/ 国分寺駅] - 西武鉄道</ref>)とは逆になっている<ref>小松丘「西武鉄道 沿線観察」 - 『[[鉄道ピクトリアル]]』No.716 2002年4月臨時増刊号 特集・西武鉄道 P.128-130 2002年4月10日発行 [[電気車研究会]]</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[東京都]]内に所在。
* 全列車がすべての駅に停車する。
* 線路
** ◇:単線区間([[列車交換]]可能)、|:単線区間(列車交換不可)、∧:これより下は複線、∨:これより下は単線
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref>。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #0c6;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #0c6;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0c6; width:2.5em;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0c6; width:2.5em;"|累計キロ
!style="border-bottom:solid 3px #0c6;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0c6;"|{{縦書き|線路}}
!style="border-bottom:solid 3px #0c6;"|所在地
|-
!SK01
|[[国分寺駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[西武鉄道]]:[[ファイル:SeibuTamako.svg|15px|ST]] [[西武多摩湖線|多摩湖線]] (ST01)<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[中央線快速|中央線]] (JC16)
|style="text-align:center;"||
|rowspan="3"|[[国分寺市]]
|-
!
|[[羽根沢信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|(0.9)
|
|style="text-align:center;"|∧
|-
!SK02
|[[恋ヶ窪駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|2.1
|
|style="text-align:center;"|∨
|-
!SK03
|[[鷹の台駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|3.6
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="2"|[[小平市]]
|-
!SK04
|[[小川駅 (東京都)|小川駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|5.1
|西武鉄道:[[ファイル:SeibuShinjuku.svg|15px|SS]] [[西武拝島線|拝島線]] (SS31)
|style="text-align:center;"|◇
|-
!SK05
|[[東村山駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|7.8
|西武鉄道:[[ファイル:SeibuShinjuku.svg|15px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]] (SS21)・[[ファイル:SeibuKokubunji.svg|15px|SK]] [[西武西武園線|西武園線]]
|style="text-align:center;"|◇
|[[東村山市]]
|}
*小川駅‐東村山駅間(八坂駅から多摩湖駅方向へ約200mの地点)で多摩湖線と立体交差するが、駅は設けられていない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Seibu Kokubunji Line}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
{{西武鉄道の路線}}
{{デフォルトソート:せいふこくふんしせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|こくふんしせん]]
[[Category:西武鉄道の鉄道路線|こくふんし]]
[[Category:西武鉄道 (初代)|路せいふこくふんしせん]]
[[Category:川越鉄道|路]]
[[Category:東京都の交通]]
|
2003-07-17T05:07:50Z
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11,560 |
西武西武園線
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西武園線(せいぶえんせん)は、東京都東村山市の東村山駅から西武園駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSK。
西武鉄道(旧)が村山線の延伸部として免許を取得していた東村山駅 - 箱根ケ崎駅間の通称「箱根ヶ崎線」が当線の母体である。免許自体は1915年に取得していたが、延々と工事を先延ばしにしたまま、昭和まで持ち越したものである。
その塩漬け状態の計画が活用されるきっかけとなったのが、1927年に村山貯水池こと多摩湖が竣工し、身近な観光地として東京などから観光客が集まるようになったことである。これに目をつけた武蔵野鉄道が西所沢から路線を建設。また同社に出資し後に同社の親会社となる箱根土地(後のコクド)も国分寺から多摩湖へ向かう路線を建設して子会社「多摩湖鉄道」(現在の多摩湖線)に譲渡して運営させた。
武蔵野鉄道とは不倶戴天の仲であり、ライバル関係にあった西武鉄道(旧)は、箱根ヶ崎線がちょうど貯水池の近くを通る予定であることを利用して1929年に計画の微調整を行い、貯水池そばまでの1駅間のみの建設に着手。その結果、1930年4月5日に東村山駅 - 村山貯水池前駅間が村山線の一部として開業するに至る。多摩湖鉄道の予定線の横合いからぶつけるような形の路線であり、かなり同社を意識した路線形態となった。なお、この直後の1931年、母体である箱根ヶ崎線はたびたびの延長に業を煮やした鉄道省によって免許取消処分に付されることとなり、会社としてはこの1区間を観光路線として活用せざるを得なくなった。
この西武鉄道(旧)と多摩湖鉄道→武蔵野鉄道多摩湖線(1940年合併)との競争は、多摩湖鉄道が予定線を全通させるに至って激化した。1936年に開業した多摩湖鉄道の終点駅は村山貯水池前駅のすぐそばであり、さらに駅名も「村山貯水池駅」と類似の駅名をつけていた。その後も1941年の改称の時に同様のことを行うなど、駅名からして張り合いの意識をむき出しにしていた。このように加熱した対抗意識のもと、当線の終点周辺である村山貯水池附近では、多摩湖へ向かう観光客をめぐって壮絶な客の奪い合いが行われることになる。
第二次世界大戦が激化すると次第に観光客の客足も遠のき、このような競争も鎮静化に向かった。その後1943年に1年間の期限付きで東京市からの委託を受けて空襲防護用の資材輸送を請け負うなどしていたが、元が観光路線ということで政府から不要不急線に指定されて1944年5月10日に休止され、路線ごと撤去された。さらに、戦時体制の中、ライバルだった西武鉄道(旧)と武蔵野鉄道も陸上交通事業調整法により統合へと向かい、審査の遅れがあったものの1945年9月22日には「西武農業鉄道」となり、翌年に西武鉄道へ改称した。
戦後、当線が復活したのは1948年4月1日である。この復活の背景には、この前年の1947年に西武鉄道が貯水池周辺の広大な土地を手に入れたことがある。西武はこの土地を開発して「東村山文化園」という総合娯楽施設を建設することを計画し、観光輸送にその資材や人員輸送の目的を兼ねて路線を復活させた。かくして当線は、戦前に狭山公園駅と改称した終点駅を、村山貯水池駅と元の駅名に近い形に戻しての再起となった。
その後、「東村山文化園」内へ村山競輪場(現在の西武園競輪場)が開設されることになった。当初競輪場の計画は「東村山文化園」構想には存在しなかったが、この頃各地で競輪が大量の観客を動員し、また地方自治体も財源として開催地を求めていたため、これに乗る形で競輪場建設を組み込んだ。そして交通路確保のため、既存の路線の途中に野口信号所を設けて競輪場のそばへ向かう支線を敷設、西武園駅を開業させた。
競輪開催時のみに営業する臨時駅でしかなかった西武園駅を、やがて会社は「東村山文化園」構想の担い手として重要視するようになった。一方、従来の終点である村山貯水池駅は、半ばライバル会社に負けまいとして開業させた駅であり、そのライバル会社同士が同じ西武鉄道となっていることを考えれば全くの無駄である。また西武園方面と村山貯水池方面で両方列車を運転すると野口信号所がトラブルを起こす点でも望ましくないとして、西武園駅に統合して常設駅化という話が起こった。
これに地元である東村山町(現在の東村山市)の町長も賛同し、1951年3月1日をもって野口信号所 - 村山貯水池間は廃止され、村山貯水池駅は西武園駅に統合されるという形で廃駅となった。同時に西武園駅は常設駅とされ、現在の路線ができた。
路線名称の改正が行われた翌1952年3月25日、この区間が村山線から分離され、現在のように独立した路線となった。
現行ダイヤでは全列車が東村山駅 - 西武園駅間の線内運転であり、日中は毎時3本、朝夕は毎時4 - 5本の運行本数となる。ワンマン運転は行っていない。かつては国分寺線に直通する国分寺駅発着列車が早朝にわずかながら存在していたが、2022年3月12日ダイヤ改正で設定が無くなった。なお、大半の列車が東村山駅で国分寺線や新宿線の列車(日中は急行)に接続している。休日や催し物がない限り4両編成で運転されている。
2018年3月9日まで競輪開催時には国分寺線への直通列車が随時運転されていたが、2018年3月10日のダイヤ改正以降は廃止された。
ダイヤ上、上りだけ新宿線へ直通する列車も(休日は定期、平日は不定期で)存在していたが、2011年12月24日に東村山駅で直通列車による脱線事故が発生し、翌日は直通列車の運転を行ったものの同月30日から直通運転が休止された。その後、新宿線直通列車は2012年6月30日のダイヤ改正で設定そのものが廃止されている。最終的に新宿線直通列車は各駅停車西武新宿行きのみであったが、過去には急行、さらには臨時で快速急行の設定もあった。
かつては、主に101系のほか国分寺線などからの直通列車として401系・701系・3000系・新101系などが運用されていた時期があった。
当線のキロポストは、元が村山線の延長として開業したという歴史的経緯から、新宿線高田馬場駅起点のキロ数で東村山→西武園の方向に打たれている。西武園駅構内には「3」「4」と書かれたキロポストが存在するが、これは高田馬場起点26.3km、26.4kmを示すものである。
なお高田馬場起点のキロポストは新宿線側でも所沢駅の手前、26.472km地点まで打たれているため、全体で見た場合同じ起点の同じキロ数を示すキロポストが2つ存在していることになる。
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"text": "武蔵野鉄道とは不倶戴天の仲であり、ライバル関係にあった西武鉄道(旧)は、箱根ヶ崎線がちょうど貯水池の近くを通る予定であることを利用して1929年に計画の微調整を行い、貯水池そばまでの1駅間のみの建設に着手。その結果、1930年4月5日に東村山駅 - 村山貯水池前駅間が村山線の一部として開業するに至る。多摩湖鉄道の予定線の横合いからぶつけるような形の路線であり、かなり同社を意識した路線形態となった。なお、この直後の1931年、母体である箱根ヶ崎線はたびたびの延長に業を煮やした鉄道省によって免許取消処分に付されることとなり、会社としてはこの1区間を観光路線として活用せざるを得なくなった。",
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"text": "当線のキロポストは、元が村山線の延長として開業したという歴史的経緯から、新宿線高田馬場駅起点のキロ数で東村山→西武園の方向に打たれている。西武園駅構内には「3」「4」と書かれたキロポストが存在するが、これは高田馬場起点26.3km、26.4kmを示すものである。",
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] |
西武園線(せいぶえんせん)は、東京都東村山市の東村山駅から西武園駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSK。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 西武園線
|路線色=#0c6
|ロゴ=File:SeibuKokubunji.svg
|ロゴサイズ=50px
|画像=西武2000系(2513F編成・西武園線).jpg
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|画像説明=西武園線
|国={{JPN}}
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|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
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'''西武園線'''(せいぶえんせん)は、[[東京都]][[東村山市]]の[[東村山駅]]から[[西武園駅]]を結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SK'''。
== 路線データ ==
*路線距離([[営業キロ]]):2.4km
*[[軌間]]:1067mm
*駅数:2駅(起終点駅含む)
*複線区間:なし(全線[[単線]])
*電化区間:全線(直流1500V[[架空電車線方式]])
*最高速度:90 km/h<ref name="datebook"/>
== 歴史 ==
[[File:Seibuen-Station-premises.JPG|thumb|250px|西武園線[[西武園駅]]]]
[[File:Higashimurayama-Station-2005-8-28.jpg|thumb|250px|[[東村山駅]]西武園線列車]]
[[File:Seibuenvelodrome.jpg|thumb|250px|[[西武園競輪場]]]]
西武鉄道(旧)が村山線の延伸部として免許を取得していた[[東村山駅]] - [[箱根ケ崎駅]]間の通称'''「[[西武村山線|箱根ヶ崎線]]」'''が当線の母体である。免許自体は[[1915年]]に取得していたが、延々と工事を先延ばしにしたまま、昭和まで持ち越したものである。
その[[塩漬け]]状態の計画が活用されるきっかけとなったのが、[[1927年]]に[[村山貯水池]]こと多摩湖が竣工し、身近な観光地として東京などから観光客が集まるようになったことである。これに目をつけた武蔵野鉄道が西所沢から路線を建設。また同社に出資し後に同社の親会社となる箱根土地(後の[[コクド]])も国分寺から多摩湖へ向かう路線を建設して子会社「多摩湖鉄道」(現在の[[西武多摩湖線|多摩湖線]])に譲渡して運営させた。
武蔵野鉄道とは不倶戴天の仲であり、ライバル関係にあった西武鉄道(旧)は、箱根ヶ崎線がちょうど貯水池の近くを通る予定であることを利用して[[1929年]]に計画の微調整を行い、貯水池そばまでの1駅間のみの建設に着手。その結果、[[1930年]][[4月5日]]に東村山駅 - [[村山貯水池駅|村山貯水池前駅]]間が村山線の一部として開業するに至る。多摩湖鉄道の予定線の横合いからぶつけるような形の路線であり、かなり同社を意識した路線形態となった。なお、この直後の[[1931年]]、母体である箱根ヶ崎線はたびたびの延長に業を煮やした[[鉄道省]]によって免許取消処分に付されることとなり、会社としてはこの1区間を観光路線として活用せざるを得なくなった。
この西武鉄道(旧)と多摩湖鉄道→武蔵野鉄道多摩湖線([[1940年]]合併)との競争は、多摩湖鉄道が予定線を全通させるに至って激化した。[[1936年]]に開業した多摩湖鉄道の終点駅は村山貯水池前駅のすぐそばであり、さらに駅名も「村山貯水池駅」と類似の駅名をつけていた。その後も[[1941年]]の改称の時に同様のことを行うなど、駅名からして張り合いの意識をむき出しにしていた。このように加熱した対抗意識のもと、当線の終点周辺である村山貯水池附近では、多摩湖へ向かう観光客をめぐって壮絶な客の奪い合いが行われることになる。
[[第二次世界大戦]]が激化すると次第に観光客の客足も遠のき、このような競争も鎮静化に向かった。その後[[1943年]]に1年間の期限付きで東京市からの委託を受けて空襲防護用の資材輸送を請け負うなどしていたが、元が観光路線ということで政府から[[不要不急線]]に指定されて[[1944年]][[5月10日]]に休止され、路線ごと撤去された。さらに、戦時体制の中、ライバルだった西武鉄道(旧)と武蔵野鉄道も[[陸上交通事業調整法]]により統合へと向かい、審査の遅れがあったものの[[1945年]][[9月22日]]には「西武農業鉄道」となり、翌年に西武鉄道へ改称した。
戦後、当線が復活したのは[[1948年]][[4月1日]]である。この復活の背景には、この前年の[[1947年]]に西武鉄道が貯水池周辺の広大な土地を手に入れたことがある。西武はこの土地を開発して「東村山文化園」という総合娯楽施設を建設することを計画し、観光輸送にその資材や人員輸送の目的を兼ねて路線を復活させた。かくして当線は、戦前に狭山公園駅と改称した終点駅を、村山貯水池駅と元の駅名に近い形に戻しての再起となった。
その後、「東村山文化園」内へ村山競輪場(現在の[[西武園競輪場]])が開設されることになった。当初競輪場の計画は「東村山文化園」構想には存在しなかったが、この頃各地で[[競輪]]が大量の観客を動員し、また地方自治体も財源として開催地を求めていたため、これに乗る形で競輪場建設を組み込んだ。そして交通路確保のため、既存の路線の途中に[[野口信号所]]を設けて競輪場のそばへ向かう支線を敷設、[[西武園駅]]を開業させた。
競輪開催時のみに営業する臨時駅でしかなかった西武園駅を、やがて会社は「東村山文化園」構想の担い手として重要視するようになった。一方、従来の終点である村山貯水池駅は、半ばライバル会社に負けまいとして開業させた駅であり、そのライバル会社同士が同じ西武鉄道となっていることを考えれば全くの無駄である。また西武園方面と村山貯水池方面で両方列車を運転すると野口信号所がトラブルを起こす点でも望ましくないとして、西武園駅に統合して常設駅化という話が起こった。
これに地元である東村山町(現在の[[東村山市]])の町長も賛同し、[[1951年]][[3月1日]]をもって野口信号所 - 村山貯水池間は廃止され、村山貯水池駅は西武園駅に統合されるという形で廃駅となった。同時に西武園駅は常設駅とされ、現在の路線ができた。
路線名称の改正が行われた翌[[1952年]][[3月25日]]、この区間が村山線から分離され、現在のように独立した路線となった。
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Changes of the the Station in the Murayama Reservoir.gif|村山貯水池(多摩湖)周辺に展開する鉄道路線・駅の変遷<ref name="地図帳">{{Cite book|和書|author= 今尾恵介(監)|title= 日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2|publisher= 新潮社|date= 2008-08|isbn=978-4107900227|pages=52-53頁}}</ref><ref name="2021変更">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200305/k00/00m/040/209000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200314182252/https://mainichi.jp/articles/20200305/k00/00m/040/209000c|language=日本語|title=西武遊園地駅、40年ぶり「多摩湖駅」に 駅そばの西武園中央口閉鎖で|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2020-03-05|accessdate=2021-11-14|archivedate=2020-03-14}}</ref>
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=== 年表 ===
* [[1930年]](昭和5年)[[4月5日]] - '''西武鉄道(旧)[[西武新宿線|村山線]]'''の延伸という形で東村山 - 村山貯水池前(仮)間(2.8km)開業。
* [[1939年]](昭和14年)[[1月27日]] - 村山貯水池前駅が正式駅に昇格。
* [[1941年]](昭和16年)[[3月1日]] - 村山貯水池前駅を狭山公園駅に改称。
* [[1943年]](昭和18年)[[10月27日]] - 東京市の委託により狭山公園駅に資材運搬用の引込線を設置。
* [[1944年]](昭和19年)[[5月10日]] - 東村山 - 狭山公園間休止。
* [[1945年]](昭和20年)[[9月22日]] - '''武蔵野鉄道'''に合併し'''西武農業鉄道'''(1946年'''西武鉄道'''に改称)の路線となる。
* [[1948年]](昭和23年)[[4月1日]] - 東村山 - 村山貯水池間営業再開。狭山公園駅を村山貯水池駅に改称。
* [[1950年]](昭和25年)[[5月23日]] - 野口信号所(東村山起点1.9km(1.8kmとの説もあり)) - 西武園間 (0.5km) 開業。西武園駅は臨時駅。村山貯水池駅と西武園駅は1951年3月までの10か月間、同時に営業。
* [[1951年]](昭和26年)3月1日 - 野口信号所 - 村山貯水池間 (0.9km(1.0km?)) 廃止、村山貯水池駅を西武園駅に統合。西武園駅常設駅化。
* [[1952年]](昭和27年)[[3月25日]] - 村山線東村山 - 西武新宿間の新宿線への改称に伴い、'''西武園線'''に改称。
* [[2011年]](平成23年)
** [[12月24日]] - 16時39分頃に東村山駅で列車脱線事故が発生し、終電まで運休。
** [[12月30日]] - 新宿線との直通運転を休止(翌[[2012年]]〈平成24年〉6月30日のダイヤ改正で正式に廃止)。
* 2015年(平成27年)1月 - 東村山駅付近高架橋工事に着手<ref>{{Cite report |和書 |title=東村山駅周辺まちづくりニュース 第33号 |url=https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/machi/machidukuri/higashimurayama_inde/news.files/higashimurayama_news33.pdf |publisher=東村山市 |date=2015-1-29 |accessdate=2022-4-12}}</ref>。
* 2024年(令和6年)度第2四半期 - 東村山駅付近を高架に切り替える予定<ref name="東村山駅付近連立事計変更">{{PDFlink|[https://assess-toshokohyo.metro.tokyo.lg.jp/uploads/web_public/286_seibusen/41/41202128621.pdf 「西武鉄道新宿線、国分寺線及び西武園線(東村山駅付近)連続立体交差事業」変更届]}} - 東京都環境局総務部 環境政策課、2021年12月2日閲覧。</ref>。事業調査計画変更前は、2023年度第2四半期の予定だった<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。
== 運転 ==
現行ダイヤでは全列車が東村山駅 - 西武園駅間の線内運転であり、日中は毎時3本、朝夕は毎時4 - 5本の運行本数となる。[[ワンマン運転]]は行っていない。かつては[[西武国分寺線|国分寺線]]に直通する[[国分寺駅]]発着列車が早朝にわずかながら存在していたが、2022年3月12日ダイヤ改正で設定が無くなった。なお、大半の列車が東村山駅で国分寺線や[[西武新宿線|新宿線]]の列車(日中は急行)に接続している。休日や催し物がない限り4両編成で運転されている。
2018年3月9日まで[[競輪]]開催時には国分寺線への直通列車が随時運転されていたが、2018年3月10日のダイヤ改正以降は廃止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/2018daiyakaisei.pdf|title=2018 年 3 月 10 日(土)ダイヤ改正を実施します|accessdate=2018-04-09|format=PDF|publisher=西武鉄道|page=9}}</ref>。
ダイヤ上、上りだけ新宿線へ直通する列車も(休日は定期、平日は不定期で)存在していたが、2011年12月24日に東村山駅で[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#西武新宿線東村山駅列車脱線事故|直通列車による脱線事故]]が発生し、翌日は直通列車の運転を行ったものの同月30日から直通運転が休止された。その後、新宿線直通列車は2012年6月30日のダイヤ改正で設定そのものが廃止されている<ref>{{Cite book |和書 |date=2012年6月25日 |title=西武時刻表 第24号 |publisher=西武鉄道}}</ref>。最終的に新宿線直通列車は各駅停車西武新宿行きのみであったが、過去には急行、さらには臨時で快速急行の設定もあった。
== 使用車両 ==
* [[西武9000系電車|9000系]] - 多摩湖線用のワンマン改造車両が運用されるが、通常通り車掌が乗務する。新101系は2019年3月16日ダイヤ改正より東村山駅付近周辺の高架化工事進捗に伴い正式に定期運用が復活していたが、2020年3月14日ダイヤ改正以降は編成数減少により時折運用に入るのみである。同年11月以降、多摩湖線用9000系4両編成も入線するようになった。
* [[西武2000系電車|2000系・新2000系]] - 現在の主力車両。基本的に新2000系4連が往復運用に使用される。2019年3月16日から2020年3月13日までは、原則として初電から午前中まで運用していたが、新101系ワンマン車が多摩川線車両との交換・甲種輸送牽引対応などで使用する車両が不足されると予想される場合、同じ編成が終電まで運用された。
かつては、主に101系のほか国分寺線などからの直通列車として[[西武401系電車 (2代)|401系]]・[[西武701系電車|701系]]・[[西武3000系電車|3000系]]・[[西武101系電車|新101系]]などが運用されていた時期があった。
<gallery widths="200px">
西武新101系(1259F)@西武鉄道西武園線.jpg|[[西武101系電車|新101系]]
西武2000系(2513F編成・西武園線).jpg|[[西武2000系電車|2000系]]
Seibu_401series.jpg|西武園線臨時快速急行に充当された[[西武411系電車|401系]]
</gallery>
== 駅一覧 ==
* 全駅[[東京都]][[東村山市]]内に所在。
* 各駅停車のみの運行である。
* 全区間単線。両駅ともに[[列車交換]]は可能。
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref>。番号は国分寺線からの続きとなっている。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #0c6;"|駅番号
!style="width:5em; border-bottom:solid 3px #0c6;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0c6;"|累計キロ
!style="border-bottom:solid 3px #0c6;"|接続路線
|-
!SK05
|style="text-align:left;"|[[東村山駅]]
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:left;"|[[西武鉄道]]:[[ファイル:SeibuShinjuku.svg|15px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]] (SS21)・[[ファイル:SeibuKokubunji.svg|15px|SK]] [[西武国分寺線|国分寺線]]
|-
!SK06
|style="text-align:left;"|[[西武園駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:left;"|
|}
=== 廃駅・廃止信号所 ===
* [[野口信号所]] - 支線の駅として開業した西武園駅への分岐を行っていた信号所。[[1951年]][[3月1日]]に廃止。
* [[村山貯水池駅]] - 開業当初の終点駅。1951年3月1日に西武園駅へ統合され廃駅。
== キロポストについて ==
当線の[[距離標|キロポスト]]は、元が村山線の延長として開業したという歴史的経緯から、新宿線[[高田馬場駅]]起点のキロ数で東村山→西武園の方向に打たれている。[[西武園駅]]構内には「3」「4」と書かれたキロポストが存在するが、これは高田馬場起点26.3km、26.4kmを示すものである<ref name="RP716-pp128">小松丘「西武鉄道 沿線観察」 - 『[[鉄道ピクトリアル]]』No.716 2002年4月臨時増刊号 特集・西武鉄道 P.128-131 2002年4月10日発行 [[電気車研究会]]</ref>。
なお高田馬場起点のキロポストは[[西武新宿線|新宿線]]側でも[[所沢駅]]の手前、26.472km地点まで打たれているため、全体で見た場合同じ起点の同じキロ数を示すキロポストが2つ存在していることになる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考資料 ==
*野田正穂「西武鉄道と狭山丘陵開発 —東村山文化園から西武園へ—」(『東村山市史研究』第13号・東村山ふるさと歴史館、2004年3月)
*鉄道省編『西武鉄道(西武農業鉄道)4・昭和4-9年』(鉄道省文書)
*鉄道省編『西武鉄道・昭和14-15年』(鉄道省文書)
*運輸通信省編『西武鉄道・昭和16-18年』(運輸通信省文書)
*運輸省編『西武鉄道(武蔵野鉄道)・昭和19-23年』(運輸省文書)
*運輸省編『西武鉄道・昭和24-26年』(運輸省文書)
== 関連項目 ==
*[[西武村山線]] - 当線の母体となった「箱根ヶ崎線」の正式名称
{{西武鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:せいふせいふえんせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|せいふえん]]
[[Category:西武鉄道の鉄道路線|せいふえん]]
[[Category:西武鉄道 (初代)|路むらやま]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:部分廃止路線]]
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練馬駅
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練馬駅(ねりまえき)は、東京都練馬区にある西武鉄道・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
西武鉄道の池袋線・豊島線・西武有楽町線と、東京都交通局の都営地下鉄大江戸線が乗り入れている。
西武鉄道の駅については、豊島線と西武有楽町線の起点となっているが、豊島線は池袋線池袋方面と、西武有楽町線は池袋線飯能方面と、それぞれ直通運転を行っており、4方向の列車が相互に直通し合うジャンクション駅として機能している。また、西武有楽町線の列車は、小竹向原駅経由で東京メトロ有楽町線、および副都心線経由で東急電鉄東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線とも直通運転を行っている。
島式ホーム2面6線を有する高架駅。上下とも最も外側の1線ずつは池袋線の通過線である(配線図参照)。なお、桜台寄りには引き上げ線があるが、有効長は4両編成分であり、使用頻度は少ない。
各ホームと改札口、改札口と地上との間にはエレベーターとエスカレーターが設置されている。
2006年11月、両ホームに待合室が設置された。
トイレは2階改札内にある。「だれでもトイレ」が併設されているほか、男女各トイレに1室ずつ車椅子での使用に対応した個室がある。
管区長・駅長配置駅であり、「練馬駅管区」として、江古田駅 - 富士見台駅間の各駅と豊島園駅、新桜台駅を管理している。
(出典:西武鉄道:駅構内図)
構内店舗の詳細は西武プロパティーズ公式サイト「練馬駅の店舗情報」を参照。
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。
ホームと改札口、改札口とA2出入口との間にはエレベーターが設置されている。またホームと改札口、改札口とA1出入口・西武線連絡口との間にはエスカレーターが設置されている。
トイレは地下1階改札口内にある。「だれでもトイレ」も設置されている。
都庁前駅務管区練馬駅務区として、光が丘駅 - 東中野駅間の各駅を管理している。
(出典:都営地下鉄:駅構内図)
各年度の1日平均乗降人員数は下表の通りである。
各年度の1日平均乗車人員数は下表の通りである。
1920年から1970年まで、駅前に鐘淵紡績練馬工場があった。その跡地は更地を経て練馬文化センターやロータリーなどに転用されている。
千川通りに面しており、駅周辺には飲食店などの商店が多く立地し、商業集積地となっている。
かつては南口の千川通りから路線バスが発着していた。2003年に北口ロータリーが完成してからは、都営バス新江62系統練馬車庫入庫便(2013年3月31日廃止)のみが南口から発車となっていたほか、すべて北口ターミナルが起・終点となった。
関越自動車道を走行する高速バスの停留所は南口から徒歩約5分程にある目白通り上の「練馬区役所前」バス停に併設されており、高速バスの案内では練馬駅(練馬区役所前)となっている。下りは乗車専用、上りは降車専用である。なお、利用者向けの待合室や公衆電話などは設置されていない。
この他、同停留所には一般路線バスも発着するが、ここでは割愛する。
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練馬駅(ねりまえき)は、東京都練馬区にある西武鉄道・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
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{{Otheruses|練馬区にある西武鉄道・東京都交通局の駅|[[板橋区]]にある[[東武鉄道]]の駅|東武練馬駅}}
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|駅名 = 練馬駅
|よみがな = ねりま
|ローマ字 = Nerima
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[[ファイル:Seibu Nerima-STA Central-north-Entrance.jpg|thumb|北口(2023年4月)]]
'''練馬駅'''(ねりまえき)は、[[東京都]][[練馬区]]にある[[西武鉄道]]・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]{{Refnest|group="注釈"|[[東武東上本線|東武東上線]]に[[東武練馬駅]]があるが、同駅の所在地は[[板橋区]][[徳丸]]であり、場所が大きく離れた別の駅である。詳細は[[東武練馬駅#駅名の由来|「東武練馬駅」中にある「駅名の由来」]]も参照のこと。}}である。
== 乗り入れ路線 ==
西武鉄道の[[西武池袋線|池袋線]]・[[西武豊島線|豊島線]]・[[西武有楽町線]]と、東京都交通局の都営地下鉄[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]が乗り入れている。
* 西武鉄道:[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 池袋線・豊島線・西武有楽町線 - 駅番号「'''SI06'''」
* 東京都交通局:[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 大江戸線 - 駅番号「'''E 35'''」
西武鉄道の駅については、豊島線と西武有楽町線の起点となっているが、豊島線は池袋線池袋方面と、西武有楽町線は池袋線飯能方面と、それぞれ直通運転を行っており、4方向の列車が相互に直通し合うジャンクション駅として機能している。また、西武有楽町線の列車は、小竹向原駅経由で[[東京メトロ有楽町線]]、および[[東京メトロ副都心線|副都心線]]経由で[[東急東横線|東急電鉄東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]とも直通運転を行っている。
== 歴史 ==
=== 西武鉄道 ===
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月15日]]:武蔵野鉄道武蔵野線の駅として、[[東京府]][[北豊島郡]][[下練馬村]]字栗山大門6082番地に開業する。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[10月15日]]:豊島線(現 西武豊島線)が開業する。
* [[1945年]](昭和20年)[[9月22日]]:西武農業鉄道の駅となる。
* [[1946年]](昭和21年)[[11月15日]]:西武鉄道の駅となる。
* [[1964年]](昭和39年):[[島式ホーム]]1面2線の構造を、島式ホーム2面4線に変更する<ref name="typ11">『写真で見る西武鉄道100年』([[ネコ・パブリッシング]])60ページ</ref>。
* [[1965年]](昭和40年)[[4月25日]]:[[橋上駅]]舎の供用を開始する<ref name="typ11"/>。
* [[1966年]](昭和41年)[[10月]]:北口を開設する<ref name="typ11"/>。
* [[1972年]](昭和47年)[[2月5日]]:貨物営業が廃止され、貨物取扱が無くなる<ref name="typ11"/>。
* [[1988年]](昭和63年):高架化工事着工<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/368746?page=5|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220117132412/https://toyokeizai.net/articles/-/368746?page=5|title=月末閉園「としまえん」を支えた豊島園駅の素顔 遊園地と高級住宅地が共存、独自の発展遂げる|date=2020-08-14|publisher=東洋経済新報社|website=東洋経済オンライン|accessdate=2022-04-03|page=5|archivedate=2022-01-17}}</ref>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[12月6日]]:[[西武池袋線#準急|準急]]が終日停車となる(従来は、平日通勤時間帯に運転されていた池袋行と[[1988年]](昭和63年)まで通勤時間帯に運転されていた豊島園行のみの停車となっていた)。
* [[1994年]](平成6年)
** [[10月8日]]:下り線高架化<ref>{{Cite news|title=西武池袋線の桜台-練馬駅付近の高架工事が完成|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=1994-10-02|page=29 朝刊}}</ref>。
** 12月6日:西武有楽町線当駅・新桜台駅間が単線暫定開業。[[小竹向原駅]]経由で[[帝都高速度交通営団]][[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]と相互直通運転を開始する。
* [[1997年]](平成9年)[[8月2日]]:上り線高架化<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/0715/0715.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980202021515/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/0715/0715.html|language=日本語|title=池袋線・桜台~石神井公園間複々線・高架化工事 桜台~練馬間の上り線が8月2日(土)から高架化 ーこの区間の踏切7ヵ所がすべてなくなりますー|publisher=西武鉄道|date=1997-07-15|accessdate=2022-04-03|archivedate=1998-02-02}}</ref><ref>{{Cite news |title=桜台-練馬間、高架に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-07-24 |page=1 }}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)[[3月26日]]:西武有楽町線当駅・新桜台駅間が[[複線]]での供用を開始し、池袋線との直通運転を開始する。
* [[2000年]](平成12年)
** [[3月24日]]:都営12号線との地下連絡通路を供用開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/nerima.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000606160245/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/nerima.html|language=日本語|title=池袋線・練馬駅 都営12号線との地下連絡通路を3月24日(金)より使用開始します。|publisher=西武鉄道|date=2000-02-15|accessdate=2022-04-03|archivedate=2000-06-06}}</ref>。
** [[12月14日]]:駅高架下の商業施設が開業し、同時に西口を開設する<ref name="交通20001215">{{Cite news |title=西武練馬駅高架下に商業施設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-12-15 |page=1}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[12月15日]]:池袋線の[[西武池袋線#快速|快速]]が新たに当駅に停車となる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2001/diakaise.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020209162558/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2001/diakaise.html|language=日本語|title=12月15日(土) 池袋線・新宿線・拝島線のダイヤを改正します。朝間ラッシュ時間帯のスピードアップと増発を中心に利便性をさらに向上|publisher=西武鉄道|date=2001-11-06|accessdate=2022-04-03|archivedate=2002-02-09}}</ref>。
* [[2003年]](平成15年)[[3月12日]]:当駅と[[練馬高野台駅]]間が[[複々線]]化される。
* [[2007年]](平成19年)
** [[7月3日]]:駅構内に「TOMONY」第1号店が開店する。
** [[8月31日]]:都営地下鉄地下連絡通路に商業施設「Emio」が開業する。
* [[2008年]](平成20年)[[6月14日]]:池袋線の[[西武池袋線#通勤準急|通勤準急]]が新たに当駅に停車となる。同日開業の[[東京地下鉄]](東京メトロ)副都心線と西武有楽町線経由で小竹向原駅経由で相互直通運転を開始する。
* [[2012年]](平成24年)[[3月2日]]:定期券発売窓口の営業を終了する<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/information/__icsFiles/afieldfile/2012/02/08/20120208madoguchisyuryou.pdf 練馬駅および上石神井駅における定期券発売窓口の営業終了について]}} - 西武鉄道(2012年2月8日付、同年3月14日閲覧)</ref>(特急券発売業務は継続)。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:[[東急東横線]]、[[みなとみらい線]]、地下鉄副都心線を経由し[[飯能駅]]と[[元町・中華街駅]]間の直通運転が開始されたことに伴い、[[西武池袋線#快速急行|快速急行]]のうち地下鉄線直通列車([[Fライナー]])に限り、新たに当駅に停車となる<ref>[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/information/1197911_2234.html 2013年3月16日(土)ダイヤ改正について] - 西武鉄道</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)3月16日:平日地下鉄有楽町線からの下り[[S-TRAIN]]が、新たに当駅停車となる。
=== 都営地下鉄 ===
* [[1991年]](平成3年)[[12月10日]]:都営地下鉄12号線の駅として、光が丘駅と当駅間が開業する<ref name="yomiuri-news-yearbook-1991">『読売ニユース総覧 1991年版』 [[読売新聞社]]、1992年4月。ISBN 978-4643920338</ref>。
* [[1997年]](平成9年)[[12月19日]]:当駅と[[新宿駅]]間が延伸開業する<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1998-3 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 32 |issue = 3 |page = 86 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]]}}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[4月20日]]:都営地下鉄12号線が大江戸線に改称する。
* [[2007年]](平成19年)[[8月31日]]:西武線・大江戸線地下連絡通路に、駅構内商業施設「Emio」が開業する。
== 駅構造 ==
=== 配線図 ===
{{出典の明記|section=1|date=2011年3月|ソートキー=駅}}<!--配線図の出典が無いため。(観察記録による作成の可能性。)-->
[[画像:Nerima-Platform.PNG|thumb|left|507px|練馬駅配線図。上段は西武線、下段は都営大江戸線。<br />西武線は高架駅、大江戸線は地下駅である。]]
{{-}}
=== 西武鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = #36C
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|駅名 = 西武 練馬駅
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|画像説明 = 中央口改札(2023年4月)
|よみがな = ねりま
|ローマ字 = Nerima
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|駅番号 = {{駅番号r|SI|06|#ff6600|2}}
|所属事業者 = [[西武鉄道]]
|所在地 = [[東京都]][[練馬区]][[練馬 (練馬区)|練馬]]一丁目3-5
|座標 = {{coord|35|44|16.1|N|139|39|12.8|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=西武 練馬駅}}
|開業年月日 = [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月15日]]
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線(他に通過線2本)
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|乗降人員 =<ref group="西武" name="seibu2022" />110,966
|統計年度 = 2022年<!--リンク不要-->
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{color|#f60|■}}[[西武池袋線|池袋線]]
|前の駅1 = SI05 [[桜台駅 (東京都)|桜台]]
|駅間A1 = 0.8
|駅間B1 = 1.5
|次の駅1 = [[中村橋駅|中村橋]] SI07
|駅番号1 =
|キロ程1 = 6.0
|起点駅1 = [[池袋駅|池袋]]
|所属路線2 = {{color|#f60|■}}[[西武豊島線|豊島線]]
|隣の駅2 =
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 1.0
|次の駅2 = [[豊島園駅|豊島園]] SI39
|駅番号2 =
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|前の駅3 = SI38 [[新桜台駅|新桜台]]
|駅間A3 = 1.4
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|次の駅3 =
|キロ程3 = 0.0 km(練馬起点)<br/>[[小竹向原駅|小竹向原]]から2.6
|駅番号3 =
|起点駅3 =
|乗換 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]]<ref name="RP884" />
}}
[[島式ホーム]]2面6線を有する[[高架駅]]。上下とも最も外側の1線ずつは池袋線の通過線である([[#配線図|配線図]]参照)。なお、[[桜台駅 (東京都)|桜台]]寄りには[[引き上げ線]]があるが、[[有効長]]は4両編成分であり、使用頻度は少ない{{Refnest|group="注釈"|2008年6月13日までは、豊島線の区間運転の折り返しの時にこの引き上げ線が使われていた。また、2011年3月11日に[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生したことに伴い、一時的な暫定特別ダイヤが組まれた同年3月下旬には、豊島線内の区間運転が約3年ぶりに復活し、この時にも引き上げ線が使用された。2016年4月以降は「[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|52席の至福]]」運転日にこの引き上げ線を使用して、豊島園駅へ一旦回送する際に錆取りを兼ねて使われる。}}。
各ホームと[[改札|改札口]]、改札口と地上との間には[[エレベーター]]と[[エスカレーター]]が設置されている。
[[2006年]]11月、両ホームに[[待合室]]が設置された。
[[便所|トイレ]]は2階改札内にある。「だれでもトイレ」が併設されているほか、男女各トイレに1室ずつ[[車椅子]]での使用に対応した[[個室]]がある。
[[区長|管区長]]・[[駅長]]配置駅であり、「練馬駅管区」として、[[江古田駅]] - [[富士見台駅]]間の各駅と[[豊島園駅]]、[[新桜台駅]]を管理している<ref name="RP884">{{Cite journal|和書|author=田中孝憲(西武鉄道鉄道本部運輸部管理課)|title=駅・乗務所のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2013-12-10|volume=63|issue=第12号(通巻884号)|page=50|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
==== のりば ====
<!--方面表記は、西武鉄道の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!ホーム<!-- 事業者側による呼称。西武は「○番ホーム」と表現する -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1
|[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 池袋線
|rowspan="2" style="text-align:center;"|下り
|[[所沢駅|所沢]]・[[飯能駅|飯能]]方面
|地下鉄線 新木場・横浜・渋谷・新桜台方面から
|-
!2
|[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 池袋線・豊島線
|所沢・飯能方面 / [[豊島園駅|豊島園]]方面
|池袋線 池袋方面から
|-
!3
|[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 池袋線
|style="text-align:center;"|上り
|[[桜台駅 (東京都)|桜台]]・[[池袋駅|池袋]]方面
|
|-
!4
|[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 西武有楽町線
|style="text-align:center;"| -
|[[新桜台駅|新桜台]]・[[新木場駅|新木場]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[横浜駅|横浜]]方面
|他社線 直通
|}
(出典:[https://www.seiburailway.jp/railway/station/nerima/ 西武鉄道:駅構内図])
* 西武有楽町線については、当駅到着時の自動放送では「西武有楽町線」とは案内されず、直通先の「地下鉄有楽町線・副都心線」と案内される。
* [[レッドアロー|特急]][[ちちぶ (列車)|「ちちぶ」「むさし」]]の定期列車は全列車が当駅を通過するが、[[巾着田]][[ヒガンバナ|曼珠沙華]]・秩父芝桜開花時には一部列車が臨時停車するほか、[[西武ドーム]]で「国際バラとガーデニングショウ」が開催される時に運転される[[臨時列車]]「ドーム(ローズエクスプレス)」は当駅に停車する。ただし、当駅と池袋・所沢の間の利用はできない。特急券は定期列車を含めて当駅で発売している。なお近年は当駅を通過している。
* 快速急行は地下鉄線直通のみ停車し、西武線池袋駅発着列車は急行・通勤急行とともに全列車通過する。したがって、当駅に停車する飯能方面行き快速急行は、1番線のみの発着となる。なお、2020年3月14日の改正で、西武線池袋駅始発の快速急行の設定がなくなったため、下りの快速急行は全列車が当駅に停車することとなった。2022年3月12日改正で、当駅を通過する池袋駅行きの快速急行は平日朝1本のみとなった。
* 高架化以前{{Refnest|group="注釈"|高架化される前の当駅には「[[開かずの踏切]]」と現在の西口の向かい側に成人向けの練馬映画劇場が存在していた。同地区で学生時代を過ごした[[大槻ケンヂ]]の小説などでは度々「開かずの踏み切り」と「エロ映画館」が登場する。}}は島式ホーム2面4線の形態であり、豊島線には2・4番ホームからのみ出入りが可能だった。優等列車の待避は比較的少なく、[[1980年代]]前半に下り線の配線変更が行われている。
* 高架化工事中は2面3線の形態で、1番ホームが欠番となっていた。豊島線は池袋線池袋方面ホームの反対側にホームがあり、区間運転を行っていた。この時は池袋直通を中止していた。
* 2012年5月に、全番線で案内表示器が更新され、また改札口コンコースに液晶ディスプレイが設置された。
* 8両編成の列車は、ホームの真ん中付近に停車する。(※前後1両ずつ停車しない)
* 豊島線当駅始発豊島園駅行きの1番列車は、3番ホームから発車する。この列車のために、3番ホームの豊島園側にも出発信号機が設置されている。
* 有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」は、平日ダイヤの下り(所沢方面行き)のみ'''[[降車専用駅]]'''として停車する<ref>[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200129diagram.pdf 2020年3月14日(土) ダイヤ改正を実施します] 2020年1月29日 西武鉄道</ref>。これ以外の列車も、当駅で保安装置を[[自動列車停止装置|ATS]]⇔[[自動列車制御装置|ATC]]へ切り替える関係で運転停車するが、ドアは開かず乗降できない<ref>[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2016/__icsFiles/afieldfile/2017/01/10/s-train.pdf 2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!] 西武鉄道株式会社 2017年1月10日</ref>。このため接近放送では、回送列車と同様に「この電車にはお乗りになれません。」を含めた[[自動放送]]を流す。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Seibu Nerima-STA West-Gate.jpg|西口改札(2023年4月)
Seibu Nerima-STA Platform1-2.jpg|1・2番ホーム(2023年4月)
Seibu Nerima-STA Platform3-4.jpg|3・4番ホーム(2023年4月)
</gallery>
==== 駅構内施設 ====
<!--面積の広いテナントのほか、著名性のあるテナント、話題性のあるテナント、老舗を特筆性についての出典がある場合に記載。レストラン街・フードコートの飲食専業店は原則記載していません-->
構内店舗の詳細は[[西武プロパティーズ]]公式サイト「[http://www.seibu-shop.jp/emio/floorguide/?fcd=12 練馬駅の店舗情報]」を参照。
* 改札階
** [[TOMONY]](第1号店{{Refnest|group="注釈"|[[ファミリーマート#交通機関|SR練馬駅店]]が西武鉄道との業務提携で、駅構内に設置されるファミリーマートの第1号店として開業している。}})
* 地下連絡通路
** [[Emio]]練馬 - 練馬区観光案内所など。
=== 東京都交通局 ===
{{駅情報
|社色 = #009f40
|文字色 =
|駅名 = 東京都交通局 練馬駅
|画像 = Toei Nerima-STA A1-Entrance.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = A1出入口(2023年4月)
|よみがな = ねりま
|ローマ字 = Nerima
|副駅名 =
|前の駅 = E 34 [[新江古田駅|新江古田]]
|駅間A = 1.6
|駅間B = 0.9
|次の駅 = [[豊島園駅|豊島園]] E 36
|電報略号 = 練(駅名略称)
|駅番号 = {{駅番号r|E|35|#ce045b|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>
|所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])
|所属路線 = {{color|#ce045b|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]
|キロ程 = 36.9
|起点駅 = [[都庁前駅|都庁前]]
|所在地 = [[東京都]][[練馬区]][[豊玉北]]五丁目17-12
|座標 = {{coord|35|44|14|N|139|39|13|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 練馬駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[12月10日]]<ref name="yomiuri-news-yearbook-1991" />
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />69,511
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]である。
ホームと改札口、改札口とA2出入口との間にはエレベーターが設置されている。またホームと改札口、改札口とA1出入口・西武線連絡口との間にはエスカレーターが設置されている。
トイレは地下1階改札口内にある。「だれでもトイレ」も設置されている。
都庁前駅務管区練馬駅務区として、[[光が丘駅]] - [[東中野駅]]間の各駅を管理している。
==== のりば ====
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称。都営は「○番線」と表現 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/oedo/E35BD.html |title=練馬 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線
|[[六本木駅|六本木]]・[[大門駅 (東京都)|大門]]方面
|-
! 2
|[[光が丘駅|光が丘]]方面
|}
(出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/nerima.html 都営地下鉄:駅構内図])
* ホームの柱に掲げている乗り換え案内の「西武有楽町線」の下部には、「東京メトロ線[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡乗車券]]では乗り換えできません」という注意書きが掲出されている。
* 豊島園方に非常用の片渡り線が設けられている。1991年の当駅 - [[光が丘駅|光が丘]]間開業から1997年の[[新宿駅|新宿]]延伸までは1番線のみを使用し<ref>JR・私鉄全線各駅停車 別巻1 東京・横浜・千葉・名古屋の私鉄([[小学館]] 1993年10月20日第1版)171頁</ref>、この片渡り線を使って折り返していた。当時2番線は未使用だったため、方面標識と[[駅名標]]の下部に「このホームには電車が来ません」という注意書きが掲出されていた。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Toei Nerima-STA Gate.jpg|改札口(2023年4月)
Toei Nerima-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年3月)
</gallery>
==== 駅構内施設 ====
* 売店([[東京都営交通協力会|メルシー]]、Tomoni)
* [[神戸屋]]
* 西友スーパー
* モスバーガー
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''西武鉄道''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''110,966人'''である<ref group="西武" name="seibu2022" />。
*: 西武鉄道全92駅の中では[[池袋駅]]、[[高田馬場駅]]、[[西武新宿駅]]、[[小竹向原駅]]に次いで第5位。
* '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''69,511人'''([[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]:34,840人、[[乗降人員#降車人員|降車人員]]:34,671人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。
*: 大江戸線では[[新宿駅]]、[[大門駅 (東京都)|大門駅]]、[[勝どき駅]]、[[六本木駅]]に次ぐ第5位。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員数は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="nerima">[http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/tokei/tokeisho/ 練馬区統計書] - 練馬区</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|西武鉄道
!colspan=2|都営地下鉄
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|<ref group="西武" name="seibu20010211">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/tet/tet01_1.html |title=駅別乗降人員 池袋線 |publisher=西武鉄道 |accessdate=2016-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010210090302/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/tet/tet01_1.html |archivedate=2001-02-11}}</ref>74,713||
| ||
|-
|1998年(平成10年)
|<ref group="西武" name="seibu20010211"/>70,201||−6.0%
| ||
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="西武" name="seibu20020218">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/tet/tet01_1.html |title=駅別乗降人員 池袋線 |publisher=西武鉄道 |accessdate=2016-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020218220741/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/tet/tet01_1.html |archivedate=2002-02-18}}</ref>68,985||−1.7%
| ||
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="西武" name="seibu20020218"/>70,403||2.1%
|44,879||
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="西武" name="seibu20040612">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/2003PDF/2003_13.pdf |page=2 |format=PDF |title=旅客輸送 駅別乗降人員(1日平均) |publisher=西武鉄道 |accessdate=2016-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040612223416/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/youran/2003PDF/2003_13.pdf |archivedate=2004-06-12}}</ref>75,928||7.8%
|56,456||25.8%
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="西武" name="seibu20040612"/>77,906||2.6%
|59,812||5.9%
|-
|2003年(平成15年)
|81,734||4.9%
|63,736||6.6%
|-
|2004年(平成16年)
|83,638||2.3%
|65,401||2.6%
|-
|2005年(平成17年)
|85,908||2.7%
|67,318||2.9%
|-
|2006年(平成18年)
|88,728||3.3%
|69,488||3.2%
|-
|2007年(平成19年)
|94,653||6.7%
|73,613||5.9%
|-
|2008年(平成20年)
|99,013||4.6%
|72,026||−2.2%
|-
|2009年(平成21年)
|100,760||1.8%
|70,677||−1.9%
|-
|2010年(平成22年)
|109,231||8.4%
|70,915||0.3%
|-
|2011年(平成23年)
|109,306||0.1%
|69,631||−1.8%
|-
|2012年(平成24年)
|113,851||4.2%
|71,848||3.2%
|-
|2013年(平成25年)
|118,601||4.2%
|73,396||2.2%
|-
|2014年(平成26年)
|121,472||2.4%
|74,506||1.5%
|-
|2015年(平成27年)
|125,478||3.3%
|76,875||3.2%
|-
|2016年(平成28年)
|127,818||1.9%
|78,525||2.1%
|-
|2017年(平成29年)
|130,934||2.4%
|80,302||2.3%
|-
|2018年(平成30年)
|132,938||1.5%
|81,459||1.4%
|-
|2019年(令和元年)
|133,700||0.6%
|82,576||1.4%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="西武" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月17日閲覧</ref>{{0}}96,962||−27.5%
|<ref group="都交" name="toei2020" />62,604||−24.2%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="西武" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月17日閲覧</ref>101,327||4.5%
|<ref group="都交" name="toei2021" />64,586||3.2%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均)|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|page=|accessdate=2023-07-15|publisher=西武鉄道|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>110,966||9.5%
|<ref group="都交" name="toei2021" />69,511||7.6%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1910年代 - 1930年代) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員数は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!武蔵野鉄道!!出典
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|<ref group="備考">1915年4月15日、池袋線開業。</ref>
|
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|93
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|178
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/267?viewMode= 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|254
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/303?viewMode= 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|406
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/304?viewMode= 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|678
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/295?viewMode= 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|910
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/293?viewMode= 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|616
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/327?viewMode= 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|1,137
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/317?viewMode= 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|<ref group="備考">1927年10月15日、豊島線開業。</ref>1,223
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/315?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|1,628
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/347?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|1,497
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/335?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|950
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/341?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|926
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/344?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|1,153
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/317?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|1,302
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/335?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|1,381
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/343?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|1,430
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/341?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1956年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!rowspan=2|年度
!colspan=3|西武鉄道
!rowspan=2|都営地下鉄
!rowspan=2|出典
|-
!池袋線
!豊島線
!西武<br />有楽町線
|-
|1956年(昭和31年)
|11,350
|
|rowspan=38 style="text-align:center"|未開業
|rowspan=35 style="text-align:center"|未開業
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 14ページ</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|19,666
|
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 14ページ</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|13,725
|177
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 14ページ</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|24,516
|
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|16,554
|218
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|17,695
|259
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|19,025
|262
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|20,680
|331
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|22,566
|327
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|23,921
|375
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|23,187
|318
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|23,284
|289
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|22,829
|300
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|22,452
|373
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|22,321
|852
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|22,383
|1,055
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|22,715
|1,038
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|23,038
|1,025
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|24,279
|
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|24,107
|
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|23,301
|
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|23,041
|633
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|22,564
|622
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|22,527
|560
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|22,364
|521
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|22,175
|479
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|22,288
|482
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|22,063
|514
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|21,614
|499
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|21,729
|501
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|22,118
|575
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|22,232
|563
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|22,416
|721
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|22,416
|773
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|22,362
|729
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|24,546
|661
|<ref group="備考">1991年12月10日開業。開業日から1992年3月31日までの計113日間を集計したデータ。</ref>8,566
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|29,877
|518
|6,241
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|30,721
|510
|11,512
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|31,622
|507
|<ref group="備考">1994年12月6日、西武有楽町線開業。</ref>
|12,677
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|31,795
|481
|3,820
|13,790
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|32,690
|460
|3,888
|14,123
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|32,852
|425
|4,052
|15,619
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|30,934
|208
|3,899
|18,964
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|30,615
|205
|3,617
|19,355
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|31,959
|216
|3,384
|22,168
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="nerima" />
!rowspan=2|年度
!colspan=3|西武鉄道
!rowspan=2|都営地下鉄
!rowspan=2|出典
|-
!池袋線
!豊島線
!西武<br />有楽町線
|-
|2001年(平成13年)
|35,090
|222
|3,173
|27,715
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|35,866
|214
|3,315
|29,156
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|37,708
|224
|3,566
|30,989
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|38,474
|241
|3,721
|31,899
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|39,414
|249
|3,866
|32,855
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|40,762
|260
|4,008
|34,030
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|42,489
|333
|4,757
|36,293
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|42,786
|356
|6,532
|35,636
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|42,926
|370
|7,110
|35,124
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|42,542
|340
|10,901
|35,268
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|42,273
|339
|11,475
|34,671
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|42,992
|364
|12,934
|35,765
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|43,739
|369
|14,550
|36,555
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|44,468
|389
|15,299
|37,149
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|45,656
|407
|16,057
|38,356
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|46,553
|414
|16,312
|39,212
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|47,296
|408
|17,101
|40,128
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|47,625
|433
|17,712
|40,735
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|47,869
|413
|17,885
|41,313
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|
|
|<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>31,326
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|
|
|<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>32,368
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|
|
|<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>34,840
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|練馬 (練馬区)|豊玉北|豊玉上|桜台 (練馬区)|中村北}}
=== 高架下 ===
* [[西友]] 練馬店<ref name="交通20001215"/>
* プラザときわ
=== 北口 ===
[[ファイル:Nerima-Bunka-Center.JPG|thumb|練馬文化センター]]
1920年から1970年まで、駅前に[[鐘淵紡績練馬工場]]があった。その跡地は[[宅地#更地|更地]]を経て[[練馬文化センター]]やロータリーなどに転用されている。
* 練馬区立練馬文化センター
* 練馬駅北口地下駐車場
* ねりまタウンサイクル練馬
* [[練馬総合運動場]]
* [[広徳寺 (練馬区) |広徳寺]]
* 練馬区立南町小学校
* [[練馬区立開進第二中学校]]
* ココネリ(Coconeri)
=== 中央口・南口 ===
[[東京都道439号椎名町上石神井線|千川通り]]に面しており、駅周辺には[[飲食店]]などの商店が多く立地し、商業集積地となっている。
* [[練馬区役所]]
** 練馬区民事務所
** 練馬区防災センター
** 練馬総合福祉事務所
** 練馬区区民相談所
** 練馬区保健所
* 練馬区立練馬公民館・[[練馬区立練馬図書館]]
* 豊玉すこやかセンター
** 練馬区豊玉保健相談所
* [[練馬警察署|警視庁練馬警察署]] - [[1980年代]]後半に改築工事を行った際は、北口前に[[プレハブ工法|プレハブ造り]]の仮庁舎が設置されていた。
* [[練馬消防署|東京消防庁練馬消防署]]
* 東京都練馬都税事務所
* [[東京都水道局]]練馬営業所
* [[練馬郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]]練馬店
* [[三井住友銀行]]練馬支店・氷川台支店(店舗内店舗)
* [[三菱UFJ銀行]]練馬支店・練馬駅前支店・練馬光が丘支店・江古田支店(店舗内店舗)
* [[りそな銀行]]練馬支店
* [[巣鴨信用金庫]]練馬支店
* 練馬駅前商店街
== バス路線 ==
かつては南口の千川通り{{Refnest|group="注釈"|[[1970年代]]半ばまでは、現在の南口交番の向いに西武バス専用のターミナルが存在していた。}}から[[路線バス]]が発着していた。2003年に北口[[ロータリー交差点|ロータリー]]が完成してからは、都営バス新江62系統練馬車庫入庫便(2013年3月31日廃止)のみが南口から発車となっていたほか、すべて北口ターミナルが起・終点となった。
[[関越自動車道]]を走行する[[高速バス]]の[[バス停留所|停留所]]は南口から徒歩約5分程にある[[東京都道8号千代田練馬田無線|目白通り]]上の「練馬区役所前」バス停に併設されており、高速バスの案内では'''練馬駅(練馬区役所前)'''となっている。下りは乗車専用、上りは降車専用である。なお、利用者向けの[[待合室]]や[[公衆電話]]などは設置されていない。
=== 北口ロータリー発着 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
{| class="wikitable" style=font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!rowspan="3"|1
|style="text-align:center;"|[[都営バス]]
|[[都営バス練馬支所#白61系統|'''白61''']]:[[新宿駅]]西口<br />[[都営バス練馬支所#練68系統|'''練68''']]:[[目白駅]]<ref>{{PDFlink|[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2019/bus_i_201909178757_h_02.pdf お知らせ]}} - 都営バス、2019年9月17日、同年10月1日閲覧</ref><ref>{{Cite web|和書|title=バスのりば-練馬駅|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/noriba/nerima.html|work=東京都交通局|accessdate=2019-10-01}}</ref>
|
|-
|style="text-align:center;"|[[国際興業バス]]
|[[国際興業バス練馬営業所#赤羽駅 - 平和台駅 - 練馬駅線|'''赤01''']]:[[赤羽駅]]西口<br />'''練95''':[[国際興業バス練馬営業所|練馬北町車庫]]{{Refnest|group="注釈"|上板01 [[上板橋駅]]行は2010年2月7日に廃止。}}
|
|-
|style="text-align:center;"|[[みどりバス]]<br />(練馬区コミュニティバス)
|[[みどりバス#氷川台ルート|'''氷川台ルート''']]:練馬光が丘病院 / 練馬北町車庫循環
|
|-
!2
|style="text-align:center;"|[[京王電鉄バス#京王バス東|京王バス]]
|[[京王バス東・中野営業所#練馬線|'''中92''']]:[[中野駅 (東京都)|中野駅]]南口 / 南蔵院
|南蔵院行は深夜バス
|-
!3
|rowspan="2" style="text-align:center;"|西武バス
|[[西武バス練馬営業所#谷原線|'''練41''']]:[[西武バス練馬営業所|南田中車庫]]<br />'''練42''':[[地下鉄成増駅|成増町]]
|
|-
!4
|'''練43''':南田中車庫<br />[[西武バス練馬営業所#成増線|'''練47''']]:[[成増駅]]南口<br />'''練48''':[[新江古田駅]] / [[大泉学園駅]]北口
|
|-
!5
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[関東バス]]
|[[関東バス阿佐谷営業所#日大線|'''荻07''']]:[[荻窪駅]]<br />[[関東バス阿佐谷営業所#野方線|'''中03''']]:[[中野駅 (東京都)|中野駅]]<br />[[関東バス丸山営業所#練馬線|練21]]:[[江古田の森]]<br />[[関東バス丸山営業所#練馬線|'''練22''']]:南蔵院循環<br />丸山営業所
|「練21」系統は平日朝夕のみ運行
|-
!rowspan="2"|6
|[[関東バス五日市街道営業所#高円寺線|'''高10'''・'''高60''']]:[[高円寺駅]]
|「高10」系統は平日朝1本のみ運行<br />「高60」系統の最終便は高円寺駅南口まで運行
|-
|style="text-align:center;"|関東バス・[[豊鉄バス]]
|[[三河田原駅|田原駅前]]行([[新宿・豊橋エクスプレス ほの国号]])
|
|}
=== 南口発着 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
* 国際興業バス
** 終着
* 西武バス
** 降車専用(北口での降車も可能)
* 関東バス
** '''荻07''':降車専用(北口での降車も可能)
* 京王バス
** 降車専用(北口での降車も可能)
=== 練馬駅(練馬区役所前)発着 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
{| class="wikitable" style=font-size:80%;"
!運行事業者!!路線・行先!!備考
|-
|style="text-align:center;"|西武バス・[[越後交通]]・[[新潟交通]]
|[[東京 - 新潟線|'''新宿・池袋・大宮 - 長岡・新潟線''']]
|
|-
|style="text-align:center;"|西武バス・越後交通・[[頸城自動車]]
|[[東京 - 上越線|'''新宿・池袋 - 上越(直江津)線''']]
|
|-
|style="text-align:center;"|西武バス・[[富山地方鉄道]]
|'''新宿・池袋 - 富山・高岡・氷見線'''
|
|-
|style="text-align:center;"|[[京王バス]]・[[アルピコ交通]]・[[長電バス]]
|[[中央高速バス|'''新宿・池袋 - 長野線''']]
|
|-
|style="text-align:center;"|西武バス・[[西武観光バス]]・[[千曲バス]]
|'''[[池袋 - 軽井沢・佐久・小諸・上田線]]'''
|
|-
|style="text-align:center;"|[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]
|'''東京・新宿 - 伊香保・草津温泉線([[上州ゆめぐり号]])'''<br />[[ジェイアールバス関東小諸支店#現在の所管路線|'''新宿 - 佐久・小諸線''']]
|
|-
|style="text-align:center;"|JRバス関東・[[群馬中央バス]]
|[[ジェイアールバス関東長野原支店#現在の所管路線|'''新宿 - 本庄・伊勢崎・前橋駒形線''']]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[日本中央バス]]
|[[日本中央バス#前橋・高崎 - 池袋・新宿・秋葉原・東京駅線|'''前橋・高崎 - 新宿・秋葉原線''']]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[関越交通]]
|'''湯けむりライナー みなかみ温泉号''':新宿 - 水上線
|季節運行
|-
|style="text-align:center;"|[[関越交通]]
|'''尾瀬号''':新宿・川越 - 尾瀬線
|季節運行
|-
|style="text-align:center;"|[[東京空港交通]]
|[[東京国際空港|羽田空港]]
|練馬区役所の反対側に停車する。(東京方面高速バス降車場と同じ)
|}
この他、同停留所には一般路線バスも発着するが、ここでは割愛する。
== 隣の駅 ==
; 西武鉄道
;<!-- 表記を簡易化するため、池袋線の欄は線内停車駅のみ記載。豊島線と西武有楽町線との直通は両路線の欄でフォロー -->
: [[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 西武池袋線
:* {{Color|#0066cc|□}}[[S-TRAIN]]一部停車駅(平日下りのみ、降車専用)
:* {{Color|#f33|■}}特急(臨時)「ちちぶ」「ドーム(ローズエクスプレス)」停車駅(「ドーム」は池袋 - 当駅間および当駅 - 所沢間の利用は不可)
:: {{Color|#c69|■}}快速急行 (西武池袋発着)・{{Color|#f60|■}}急行{{Refnest|group="注釈"|[[1960年代]]から運転されていた[[西武狭山線|狭山線]]直通の不定期急行のみが停車していたが、1998年に廃止された。}}・{{Color|#fc0|■}}通勤急行
::: '''通過'''
:: {{Color|#c69|■}}Fライナー快速急行
::: (西武有楽町線) - '''練馬駅 (SI06)''' - [[石神井公園駅]] (SI10)
:: {{Color|#0cf|■}}快速・{{Color|#0c9|■}}準急 (一部は西武有楽町線直通)
::: [[池袋駅]] (SI01) - '''練馬駅 (SI06)''' - [[石神井公園駅]] (SI10)
:: {{Color|#06c|■}}通勤準急
::: 池袋駅 (SI01) - '''練馬駅 (SI06)''' - [[大泉学園駅]] (SI11)
:: {{Color|#999|■}}各駅停車 (一部は西武有楽町線又は豊島線直通)
::: [[桜台駅 (東京都)|桜台駅]] (SI05) - '''練馬駅 (SI06)''' - [[中村橋駅]] (SI07)
: [[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 豊島線
:: {{Color|#999|■}}各駅停車
::: (池袋線) - '''練馬駅 (SI06)''' - [[豊島園駅]] (SI39)
: [[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 西武有楽町線
:: {{Color|#c69|■}}快速急行
::: [[小竹向原駅]] (SI37) - '''練馬駅 (SI06)''' - (池袋線)
::{{Color|#0cf|■}}快速・{{Color|#0c9|■}}準急・{{Color|#999|■}}各駅停車
::: [[新桜台駅]] (SI38) - '''練馬駅(SI06)''' - (池袋線)
; 東京都交通局(都営地下鉄)
: [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線
::: [[新江古田駅]] (E 34) - '''練馬駅 (E 35)''' - 豊島園駅 (E 36)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
==== 利用状況に関する出典 ====
;西武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="西武"|3}}
;東京都交通局 各駅乗降人員
{{Reflist|group="都交"|3}}
; 私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|17em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nerima Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=nerima}}
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/nerima.html 練馬駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局]
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{西武池袋線}}
{{西武池袋線|mode=1}}
{{西武有楽町線}}
{{都営地下鉄大江戸線}}
{{鉄道路線フッター}}
{{DEFAULTSORT:ねりま}}
[[Category:練馬区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ね|りま]]
[[Category:西武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:武蔵野鉄道の鉄道駅]]
[[Category:都営地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1915年開業の鉄道駅]]
[[Category:練馬]]
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11,563 |
役職
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役職(やくしょく、official position)とは、役目や職務のこと。特に管理職のことを指す。
特に組織の最上位の意思決定機関(例:取締役会)の構成員である場合には、「役員」と呼ばれることも多い。
一般論として言えば、役職は一般に何らかの責任と職権を伴う、と言うことはできるが、実際には、すっかり形骸化してしまっていて、それらが実際に伴っていないお飾り役職も世には存在する。
法人については次のような役職が法律で定められている。
日本の商法、会社法(329条)では株式会社における役員は次のようになっている。
日本の会社法上の規定は規定として厳に存在し、実際、会社法が関わるような場面ではそれが一般に守られるように事務が進められているが、日常の業務運営に関しては、どのような役職・呼称を設置して用いるかについては、各企業の裁量に任されている面が大きい。
次に挙げるのは、運営上用いられることのある(あるいは、しばしば用いられる)役職名である。例えば「会長」「専務」「常務」「部長」「課長」「主任」などは、いずれも会社法上は何ら定め・規定のない役職である。したがって、課長の下に部長を設けたり、常務の下に専務を置いたりすることも全くの自由であるが、強い社会通念のもとで混乱を招きやすいこともあって、実行している企業は滅多にみられない。
一方で「室長」のような十分に社会通念が浸透していない役職の扱いは千差万別で、公務員では課長の下に置かれることが多いのに対し、民間では課長の上であることが多く、専務取締役室長のような肩書きすら見られる。「主任」にも同じ傾向が見られ、主任教授、主任研究員など他の肩書きと結びついて大きな権限を持つケースもある。厳密には外国語であるが、中国などでは国家最高権力者が主任の肩書きという場合すらある。
また役職に伴う権限と責任も企業によって様々である。例えば、専務と常務の違いは特定の業務に専任しているか否かの違いだけであり、法的にはどちらが上との決まりもない。またこれらの役職に「上席」・「補佐」・「代理」・「代行」・「副」・「心得」などを付けた役職を設置する場合もある(例: 課長補佐)。もっともその業務をするというよりは人間関係や給与差などの意味合いが大きい。
他に「グループリーダー」という役職が途中に入り込む企業もある。
欧米の企業では最高経営責任者 (CEO)、最高執行責任者 (COO) 、最高財務責任者(CFO)、最高技術責任者(CTO)、最高知識責任者(CKO)、最高情報責任者(CIO)、最高戦略責任者(CSO)といった役職が責任範囲を非常に明快にした形で存在するが、日本でもそれに倣って「CEO」「COO」を定める企業も最近では出てきている。
上述のごとく、日常の業務運営上は役職の名称は組織ごとに自由であるので、各組織はその業務内容に応じた様々な役職を設置している。例えばシンクタンクでは「フェロー」「主幹研究員」「主任研究員」「研究員」などの役職が主に採用されている。また、しばしば「マネージャー」「チーフ」など、各組織や各部門の独自の論理で柔軟に名称をつけている例は多い。
中央官庁(本省)では、
その他それぞれの職場における役職は特定の階級や職責等で任用される場合があるが、課長・係長等における相応の階級等で任用されずにそれ以上の階級である者が便宜上下級クラスの役職を拝命する場合もある(部長相当級の階級であるが、係長として任用されている例など)。
地方公務員の場合は国家公務員ほど採用試験を受けた時点で将来に差が出ることはあまりないが、入庁後の昇進試験等により明確な差が出る役所もある(東京都など)。
日本の行政系の団体などでは次のような役職が存在する。
理事長と会長が並存する場合もある。理事のうち、常勤のものが、 専務理事、 常務理事、となり有給とされることが多い。所管の官庁から天下りした者は、多くが専務理事、常務理事となる。業界団体では他の理事は、加盟している企業の代表者が非常勤、無給で就任し、年数回の理事会に出席するだけのことが多い。また、他に学識経験者がやはり名を連ねているだけのことも多い。天下りの役員でもほとんど仕事らしい仕事しないで退職する場合と、団体の事務としての仕事はかなりある場合とさまざまである。
その他、独立行政法人通則法に独立行政法人の役員として「法人の長」が、地方道路公社法に地方道路公社の役員として「理事長」「副理事長」が規定されるなど、法律ごとに上記以外の役員が存在する場合がある。
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"text": "地方公務員の場合は国家公務員ほど採用試験を受けた時点で将来に差が出ることはあまりないが、入庁後の昇進試験等により明確な差が出る役所もある(東京都など)。",
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"text": "理事長と会長が並存する場合もある。理事のうち、常勤のものが、 専務理事、 常務理事、となり有給とされることが多い。所管の官庁から天下りした者は、多くが専務理事、常務理事となる。業界団体では他の理事は、加盟している企業の代表者が非常勤、無給で就任し、年数回の理事会に出席するだけのことが多い。また、他に学識経験者がやはり名を連ねているだけのことも多い。天下りの役員でもほとんど仕事らしい仕事しないで退職する場合と、団体の事務としての仕事はかなりある場合とさまざまである。",
"title": "日本の行政組織の代表的な役職"
},
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"text": "その他、独立行政法人通則法に独立行政法人の役員として「法人の長」が、地方道路公社法に地方道路公社の役員として「理事長」「副理事長」が規定されるなど、法律ごとに上記以外の役員が存在する場合がある。",
"title": "日本の行政組織の代表的な役職"
}
] |
役職とは、役目や職務のこと。特に管理職のことを指す。 特に組織の最上位の意思決定機関の構成員である場合には、「役員」と呼ばれることも多い。 一般論として言えば、役職は一般に何らかの責任と職権を伴う、と言うことはできるが、実際には、すっかり形骸化してしまっていて、それらが実際に伴っていないお飾り役職も世には存在する。
|
'''役職'''(やくしょく、{{lang|en|official position}})とは、役目や[[職務]]のこと<ref name="kojien5">広辞苑 第五版 p.2,674「役職」</ref>。特に[[管理職]]のことを指す<ref name="kojien5" />。
<!--{{要出典|date=2013年6月}}[[組織 (社会科学)|組織]]を運営するために使われる地位。--><!--{{要出典|date=2020年8月}} たいていは[[公権|職権]]を伴う。-->特に[[組織 (社会科学)|組織]]の最上位の意思決定機関(例:[[取締役会]])の構成員である場合には、「[[役員 (会社)|役員]]」と呼ばれることも多い。
一般論として言えば、役職は一般に何らかの[[責任]]と[[公権|職権]]を伴う、と言うことはできるが、実際には、すっかり形骸化してしまっていて、それらが実際に伴っていないお飾り役職も世には存在する。
== 法律による法人の役職 ==
[[法人]]については次のような役職が法律で定められている。
===法律上の役員===
日本の[[商法]]、[[会社法]](329条)では[[株式会社 (日本)|株式会社]]における役員は次のようになっている。
* [[取締役]]および[[代表取締役]]
* [[会計参与]]
* [[監査役]]
=== 日本の民間企業のいわゆる「役職」 ===
日本の会社法上の規定は規定として厳に存在し、実際、会社法が関わるような場面ではそれが一般に守られるように事務が進められているが、日常の業務運営に関しては、どのような役職・呼称を設置して用いるかについては、各企業の裁量に任されている面が大きい。
次に挙げるのは、運営上用いられることのある(あるいは、しばしば用いられる)役職名である。例えば「会長」「専務」「常務」「部長」「課長」「主任」などは、いずれも会社法上は何ら定め・規定のない役職である。したがって、課長の下に部長を設けたり、常務の下に専務を置いたりすることも全くの自由であるが、強い社会通念のもとで混乱を招きやすいこともあって、実行している企業は滅多にみられない。
一方で「室長」のような十分に社会通念が浸透していない役職の扱いは千差万別で、公務員では課長の下に置かれることが多いのに対し、民間では課長の上であることが多く、専務取締役室長のような肩書きすら見られる。「主任」にも同じ傾向が見られ、主任教授、主任研究員など他の肩書きと結びついて大きな権限を持つケースもある。厳密には外国語であるが、中国などでは国家最高権力者が主任の肩書きという場合すらある。
また役職に伴う権限と責任も企業によって様々である。例えば、専務と常務の違いは特定の業務に専任しているか否かの違いだけであり、法的にはどちらが上との決まりもない。またこれらの役職に「上席」・「補佐」・「代理」・「代行」・「副」・「心得」などを付けた役職を設置する場合もある(例: 課長補佐)。もっともその業務をするというよりは人間関係や給与差などの意味合いが大きい。
====主な役職名の一覧====
* 1.[[名誉顧問]]
* 2.[[最高顧問]]
* 3.[[顧問]]
* 4.[[役員 (会社)#相談役・顧問|相談役]]
* 5.[[名誉会長]]
* 6.[[会長]]
* 7.[[社長]]
* 8.[[役員 (会社)#副社長|副社長]]([[代表取締役#表見代表取締役|表見代表取締役]]<ref>[[会社法#会社法の意義等]]第 354 条</ref>)
* 9.[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|専務取締役]](旧商法では、専務取締役、常務取締役とも「表見代表取締役」として例示されていたが、2006 年施行の[[会社法#会社法の意義等|会社法]]では例示から外され、必ずしも「その他株式会社を代表すると認められる名称」では無くなった。<ref>旧商法第 262 条、会社法第 354 条</ref>)
* 10.[[取締役|常務取締役]]
* 11.[[監査役]]
* 12.[[役員 (会社)#執行役員|執行役員]]
* 13.[[社外取締役]]
* 14.[[本部長]]
* 15.[[事業部制|事業部長]]
* 16.[[参与]]
* 17.[[局長]]
* 18.[[部長]]
* 19.[[次長]]
* 20.[[課長]]
* 21.[[課長補佐]]
* 22.[[室長]]
* 23.[[班長]]
*24.[[係長]]
*25.[[主任]]
他に「グループリーダー」という役職が途中に入り込む企業もある。
====欧米====
[[欧米]]の企業では[[最高経営責任者]] (CEO)、[[最高執行責任者]] (COO) 、[[最高財務責任者]](CFO)、[[最高技術責任者]](CTO)、[[最高知識責任者]](CKO)、[[最高情報責任者]](CIO)、[[最高戦略責任者]](CSO)といった役職が[[責任]]範囲を非常に明快にした形で存在するが、日本でもそれに倣って「CEO」「COO」を定める企業も最近では出てきている。
====その他====
上述のごとく、日常の業務運営上は役職の名称は組織ごとに自由であるので、各組織はその業務内容に応じた様々な役職を設置している。例えば[[研究所|シンクタンク]]では「[[フェロー]]」「主幹研究員」「主任研究員」「[[研究員]]」などの役職が主に採用されている。また、しばしば「[[マネージャー]]」「[[チーフ]]」など、各組織や各部門の独自の論理で柔軟に名称をつけている例は多い。
== 日本の行政組織の代表的な役職 ==
=== 中央官庁 ===
[[日本の行政機関|中央官庁]](本省)では、
* [[事務次官]]
* [[審議官#次官級|省名審議官]]
* [[大臣官房#官房長|官房長]]、[[局長]]、[[統括官|政策統括官]]、[[本部長]]
* [[部長]]、[[審議官#大臣官房総括審議官|総括審議官]]
* [[次長]]、[[審議官#局次長級|審議官]]
* [[官房三課長]]
* [[課長]]、[[参事官#日本の行政機関における参事官|参事官]]
* [[室長]]、企画官、調査官
* [[上席〇〇専門官]]、[[課長|課長補佐]]、専門官、[[主幹]]
* [[係長]]、[[主査]]、専門職
* [[主任]]
* 係員
その他それぞれの職場における役職は特定の階級や職責等で任用される場合があるが、課長・係長等における相応の階級等で任用されずにそれ以上の階級である者が便宜上下級クラスの役職を拝命する場合もある(部長相当級の階級であるが、係長として任用されている例など)。
=== 地方公共団体 ===
==== 東京都 ====
* 局長
* 本部長、次長、[[技監]]、[[理事]]
* 部長、担当部長
* 統括課長
* 課長、担当課長、専門課長
* 統括課長代理
* 課長代理
* 主任
* [[主事]]
==== 道府県 ====
* 部長、本部長又は局長、参事、理事など
* 次長又は局長、参事、副理事など
* 課長、副参事、参事など
* 課長補佐、[[主幹]]、副参事など
* 係長、副主幹、[[主査]]など
* 主任
* 主事、技師
地方公務員の場合は国家公務員ほど採用試験を受けた時点で将来に差が出ることはあまりないが、入庁後の昇進試験等により明確な差が出る役所もある([[東京都]]など)。
=== 行政系の団体 ===
日本の行政系の団体などでは次のような役職が存在する。
* [[名誉理事長]]、[[名誉総裁]]
* [[理事|理事長]](株式会社の[[代表取締役]]におおむね相当)
* [[会長]](株式会社の[[代表取締役]]におおむね相当)
* [[理事]]([[取締役]])
理事長と会長が並存する場合もある。理事のうち、常勤のものが、 [[理事|専務理事]]、 [[常務理事]]、となり有給とされることが多い。所管の官庁から[[天下り]]した者は、多くが専務理事、常務理事となる。業界団体では他の理事は、加盟している企業の代表者が非常勤、無給で就任し、年数回の理事会に出席するだけのことが多い。また、他に学識経験者がやはり名を連ねているだけのことも多い。天下りの役員でもほとんど仕事らしい仕事しないで退職する場合と、団体の事務としての仕事はかなりある場合とさまざまである。
* [[監事]]([[監査役]]におおむね相当)
* [[会計参与]] - 理事と共同して計算書類等を作成する
その他、[[独立行政法人通則法]]に[[独立行政法人]]の役員として「法人の長」が、[[地方道路公社法]]に[[地方道路公社]]の役員として「理事長」「副理事長」が規定されるなど、法律ごとに上記以外の役員が存在する場合がある。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
* [[官職]]
* [[公職]]
* [[役員 (会社)]]
* [[栄誉職]]
* [[名誉職]]
* [[分掌官]]
* [[管理職]]
* [[希望降任制度]]
* [[職階制]]
{{企業の役職}}
{{デフォルトソート:やくしよく}}
[[Category:役職|*]]
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虚数
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虚数(きょすう、英: imaginary number)とは、実数ではない複素数のことである。すなわち、虚数単位 i = √−1 を用いて表すと、
と表される数のことである。
実数直線上にはないため、感覚的には存在しない数ととらえられがちであるが、実数の対、実二次正方行列、多項式環の剰余環の元として実現できる(複素数#形式的構成を参照)。
複素数平面上では、虚数全体は複素数平面から実軸を除いた部分である。
実係数の三次方程式を解の公式により解くと、相異なる3個の実数解をもつ場合、虚数の立方根が現れ、係数の加減乗除と冪根だけでは表せない(還元不能)。虚数はこの過程で認識されるようになった。ルネ・デカルトは1637年に、複素数の虚部を 仏: "nombre imaginaire"(「想像上の数」)と名付けた。
「虚数」と訳したのは、1873年の中国数学書『代数術』(John Fryer(zh:傅兰雅), 華蘅芳著)である。
日本では、東京数学物理学会が1885年に記事で "Impossible or Imaginary Quantity" を「虚数」と訳している。
ただし、「虚数」と訳されている英語の "imaginary number" は、しばしば「2乗した値が 0 以下の実数になる複素数」を意味する場合がある。
虚数とは、実数でない複素数のことである。すなわち、虚数単位 i = √−1 を用いると
と表せる数のことである。特に、実部が 0 である虚数を純虚数という。
英語の "imaginary number" はふつうは虚数を意味するが、これはしばしば「2乗した値が 0 以下の実数になる複素数」を表すことがある。この定義によれば、複素数 z に対して、
ならば、(z + yi)(z − yi) = 0, ∴ z = ±yi。ゆえに、この意味での imaginary number とは、0 または純虚数 (imaginary number) である。
実数直線を拡張した複素数平面では、純虚数は、虚軸上の原点を除く部分の点である。虚数は、実数と純虚数の線型結合である。虚数全体は複素数平面から実軸を除いた部分である。
虚数の導入により、cos θ + i sin θ を作用させることは、複素数平面上での、原点を中心とする θ 回転に相当する。i = −1 より、虚数単位 i は、複素数平面上では、実数単位 1 を原点中心に 90° 回転した位置にある。
虚数に通常の大小関係を入れることはできない。つまり、複素数体 C は順序体でない。
(証明)
辞書式順序は全順序であるが、複素数に入れると +, × と両立しない。
通常は、様々なデータの表現に実数が用いられることが多い。しかし人の数を数えるのには役に立たない分数も石の大きさを比べるのには役立つし、物体の重量を記述するには役に立たない負の数も借金の額を表すのには不可欠である。同様に、信号処理、制御理論、電磁気学、量子力学、地図学等の分野を記述するには虚数が必要となる。
例えば電子工学では、電池の生み出す直流電圧は+12ボルトや−12ボルト等と実数で表すが、家庭用の交流電圧を表すには2つのパラメータが必要となる。1つは、120ボルト等という振幅で、もう1つが位相と呼ばれる角である。このような2次元の値は数学的には平面ベクトルか複素数で表される。ベクトル表現では、直交座標系は通常X成分とY成分で表される。一方、フェーザ表示と呼ばれる複素数表現では、2つの値は実部、虚部となる。例えば実部が 0 で虚部が 120 の純虚数は、位相が90度で120ボルトの電圧を意味する。
いくつかのプログラミング言語は複素数を扱うことができる。例えば、Pythonでは虚数単位に j を用いて次のように記述する(1行目の記号 > は入力であることを示すプロンプトであって、式の一部ではない。また、* は掛け算を表す記号である)。
MATLAB での例:
虚数を発見したのはカルダーノで、1545年の代数の本には、数「10」を、和が 10 かつ積が 40 である2数の組に分ける問題が載せられている。
この問題を現代的に書き下すと次のようになる。
根と係数の関係を用いて解くと、
カルダーノは、この問題は不可能だが形式的に解を求めれば
の2つであると書いている。
同じイタリアのラファエル・ボンベリは、1572年の代数の本で、三次方程式 x = 15x + 4 を、カルダーノが発見した解の公式で解くと
という奇妙な式になることに気付いた。この三次方程式の解が 4, −3 + √3, −3 − √3 であることを知っていたボンベリは
となることを発見し、カルダーノの解の公式から導かれる解が実数 x = 4 を表すことを実証した。
しかし当時は、0 や負の数ですら架空のもの、役に立たないものと考えられており、負の数の平方根である虚数はなおさらであった。ルネ・デカルトも否定的にとらえ、1637年の著書『La Géométrie(幾何学)』で初めて 仏: "nombre imaginaire"(「想像上の数」)と名付けた。これが英語の "imaginary number"、日本語の「虚数」の語源になった。
その後、オイラーによる虚数単位 i = √−1 の導入(1770年頃)、ガウスによる複素数平面の導入(1831年公表)、代数学の基本定理の証明(1799年)を経て、徐々に多くの数学者、人々に受け入れられるようになった。
1843年にウィリアム・ローワン・ハミルトンは、複素数平面にもう一つの虚数単位を添加して3次元に拡張することを試みた結果、全部で3個の虚数単位を添加して得られる四元数の集合が自然な体系であることを発見した。
虚数単位 i の整数乗 i は、整数 n を 4 で割った余りを n mod 4 で表すことにすると、次のように簡潔に表現できる:
i n = i n mod 4 {\displaystyle i^{\,n}=i^{\ n\,{\bmod {\,}}4}}
すなわち、k を整数として次が成り立つ。
i 4 k = 1 i 4 k + 1 = i i 4 k + 2 = − 1 i 4 k + 3 = − i {\displaystyle {\begin{array}{lcl}i^{\,4k}&=&1\\i^{\,4k+1}&=&i\\i^{\,4k+2}&=&-1\\i^{\,4k+3}&=&-i\end{array}}}
|
[
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"text": "虚数(きょすう、英: imaginary number)とは、実数ではない複素数のことである。すなわち、虚数単位 i = √−1 を用いて表すと、",
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"text": "複素数平面上では、虚数全体は複素数平面から実軸を除いた部分である。",
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"text": "実係数の三次方程式を解の公式により解くと、相異なる3個の実数解をもつ場合、虚数の立方根が現れ、係数の加減乗除と冪根だけでは表せない(還元不能)。虚数はこの過程で認識されるようになった。ルネ・デカルトは1637年に、複素数の虚部を 仏: \"nombre imaginaire\"(「想像上の数」)と名付けた。",
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"text": "「虚数」と訳したのは、1873年の中国数学書『代数術』(John Fryer(zh:傅兰雅), 華蘅芳著)である。",
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"text": "日本では、東京数学物理学会が1885年に記事で \"Impossible or Imaginary Quantity\" を「虚数」と訳している。",
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"text": "ただし、「虚数」と訳されている英語の \"imaginary number\" は、しばしば「2乗した値が 0 以下の実数になる複素数」を意味する場合がある。",
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"text": "虚数とは、実数でない複素数のことである。すなわち、虚数単位 i = √−1 を用いると",
"title": "用語について"
},
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"text": "と表せる数のことである。特に、実部が 0 である虚数を純虚数という。",
"title": "用語について"
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"text": "英語の \"imaginary number\" はふつうは虚数を意味するが、これはしばしば「2乗した値が 0 以下の実数になる複素数」を表すことがある。この定義によれば、複素数 z に対して、",
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"text": "ならば、(z + yi)(z − yi) = 0, ∴ z = ±yi。ゆえに、この意味での imaginary number とは、0 または純虚数 (imaginary number) である。",
"title": "用語について"
},
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"text": "実数直線を拡張した複素数平面では、純虚数は、虚軸上の原点を除く部分の点である。虚数は、実数と純虚数の線型結合である。虚数全体は複素数平面から実軸を除いた部分である。",
"title": "複素数平面における虚数"
},
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"text": "虚数の導入により、cos θ + i sin θ を作用させることは、複素数平面上での、原点を中心とする θ 回転に相当する。i = −1 より、虚数単位 i は、複素数平面上では、実数単位 1 を原点中心に 90° 回転した位置にある。",
"title": "複素数平面における虚数"
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"text": "虚数に通常の大小関係を入れることはできない。つまり、複素数体 C は順序体でない。",
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"title": "虚数の大小"
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"text": "辞書式順序は全順序であるが、複素数に入れると +, × と両立しない。",
"title": "虚数の大小"
},
{
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"text": "通常は、様々なデータの表現に実数が用いられることが多い。しかし人の数を数えるのには役に立たない分数も石の大きさを比べるのには役立つし、物体の重量を記述するには役に立たない負の数も借金の額を表すのには不可欠である。同様に、信号処理、制御理論、電磁気学、量子力学、地図学等の分野を記述するには虚数が必要となる。",
"title": "虚数の応用"
},
{
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"text": "例えば電子工学では、電池の生み出す直流電圧は+12ボルトや−12ボルト等と実数で表すが、家庭用の交流電圧を表すには2つのパラメータが必要となる。1つは、120ボルト等という振幅で、もう1つが位相と呼ばれる角である。このような2次元の値は数学的には平面ベクトルか複素数で表される。ベクトル表現では、直交座標系は通常X成分とY成分で表される。一方、フェーザ表示と呼ばれる複素数表現では、2つの値は実部、虚部となる。例えば実部が 0 で虚部が 120 の純虚数は、位相が90度で120ボルトの電圧を意味する。",
"title": "虚数の応用"
},
{
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"tag": "p",
"text": "いくつかのプログラミング言語は複素数を扱うことができる。例えば、Pythonでは虚数単位に j を用いて次のように記述する(1行目の記号 > は入力であることを示すプロンプトであって、式の一部ではない。また、* は掛け算を表す記号である)。",
"title": "虚数の応用"
},
{
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"text": "MATLAB での例:",
"title": "虚数の応用"
},
{
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"text": "虚数を発見したのはカルダーノで、1545年の代数の本には、数「10」を、和が 10 かつ積が 40 である2数の組に分ける問題が載せられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "この問題を現代的に書き下すと次のようになる。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "根と係数の関係を用いて解くと、",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "カルダーノは、この問題は不可能だが形式的に解を求めれば",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "の2つであると書いている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "同じイタリアのラファエル・ボンベリは、1572年の代数の本で、三次方程式 x = 15x + 4 を、カルダーノが発見した解の公式で解くと",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "という奇妙な式になることに気付いた。この三次方程式の解が 4, −3 + √3, −3 − √3 であることを知っていたボンベリは",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "となることを発見し、カルダーノの解の公式から導かれる解が実数 x = 4 を表すことを実証した。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "しかし当時は、0 や負の数ですら架空のもの、役に立たないものと考えられており、負の数の平方根である虚数はなおさらであった。ルネ・デカルトも否定的にとらえ、1637年の著書『La Géométrie(幾何学)』で初めて 仏: \"nombre imaginaire\"(「想像上の数」)と名付けた。これが英語の \"imaginary number\"、日本語の「虚数」の語源になった。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "その後、オイラーによる虚数単位 i = √−1 の導入(1770年頃)、ガウスによる複素数平面の導入(1831年公表)、代数学の基本定理の証明(1799年)を経て、徐々に多くの数学者、人々に受け入れられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1843年にウィリアム・ローワン・ハミルトンは、複素数平面にもう一つの虚数単位を添加して3次元に拡張することを試みた結果、全部で3個の虚数単位を添加して得られる四元数の集合が自然な体系であることを発見した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "虚数単位 i の整数乗 i は、整数 n を 4 で割った余りを n mod 4 で表すことにすると、次のように簡潔に表現できる:",
"title": "虚数単位の性質"
},
{
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"text": "i n = i n mod 4 {\\displaystyle i^{\\,n}=i^{\\ n\\,{\\bmod {\\,}}4}}",
"title": "虚数単位の性質"
},
{
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"text": "すなわち、k を整数として次が成り立つ。",
"title": "虚数単位の性質"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "i 4 k = 1 i 4 k + 1 = i i 4 k + 2 = − 1 i 4 k + 3 = − i {\\displaystyle {\\begin{array}{lcl}i^{\\,4k}&=&1\\\\i^{\\,4k+1}&=&i\\\\i^{\\,4k+2}&=&-1\\\\i^{\\,4k+3}&=&-i\\end{array}}}",
"title": "虚数単位の性質"
}
] |
虚数とは、実数ではない複素数のことである。すなわち、虚数単位 i = √−1 を用いて表すと、 と表される数のことである。 実数直線上にはないため、感覚的には存在しない数ととらえられがちであるが、実数の対、実二次正方行列、多項式環の剰余環の元として実現できる(複素数#形式的構成を参照)。 複素数平面上では、虚数全体は複素数平面から実軸を除いた部分である。 実係数の三次方程式を解の公式により解くと、相異なる3個の実数解をもつ場合、虚数の立方根が現れ、係数の加減乗除と冪根だけでは表せない(還元不能)。虚数はこの過程で認識されるようになった。ルネ・デカルトは1637年に、複素数の虚部を 仏: "nombre imaginaire"(「想像上の数」)と名付けた。 「虚数」と訳したのは、1873年の中国数学書『代数術』である。 日本では、東京数学物理学会が1885年に記事で "Impossible or Imaginary Quantity" を「虚数」と訳している。 ただし、「虚数」と訳されている英語の "imaginary number" は、しばしば「2乗した値が 0 以下の実数になる複素数」を意味する場合がある。
|
'''虚数'''(きょすう、{{lang-en-short|imaginary number}})とは、[[実数]]ではない[[複素数]]のことである。すなわち、[[虚数単位]] {{math|''i'' {{=}} {{sqrt|−1}}}} を用いて表すと、
:{{math|1=''z'' = ''a'' + ''bi''}}({{math2|''a'', ''b''}} は実数、{{math2|''b'' ≠ 0}})
と表される[[数]]のことである。
[[実数直線]]上にはないため、感覚的には存在しない数ととらえられがちであるが、実数の対、[[実二次正方行列]]、[[多項式環]]の[[剰余環]]の[[元 (数学)|元]]として実現できる([[複素数#形式的構成]]を参照)。
[[複素平面|複素数平面]]上では、虚数全体は複素数平面から実軸を除いた部分である。
実係数の[[三次方程式]]を解の公式により解くと、相異なる3個の実数解をもつ場合、虚数の[[立方根]]が現れ、係数の[[算術|加減乗除]]と[[冪根]]だけでは表せない([[還元不能]])。虚数はこの過程で認識されるようになった。[[ルネ・デカルト]]は[[1637年]]に、複素数の虚部を {{lang-fr-short|"nombre imaginaire"}}(「想像上の数」)と名付けた<ref name="x_seek">[https://xseek-qm.net/Matrix_complex.htm#_Toc526806433 なぜ虚数単位iの2乗は-1になるのか?#6.3.2. 虚数の由来] x_seek</ref>。
「虚数」と訳したのは、1873年の中国数学書『代数術』(John [[フライヤー#姓|Fryer]]([[:zh:傅兰雅]]), [[華蘅芳]]著)である<ref>{{Cite book|和書 |author=片野善一郎 |title=数学用語と記号ものがたり |publisher=[[裳華房]] |date=2003-08-25 |page=63}}</ref>。
日本では、東京数学物理学会が1885年に記事で "Impossible or Imaginary Quantity" を「虚数」と訳している<ref>{{Cite journal|和書|title=HONKWAI KIJI 3 |author=<!--記載無し--> |journal=Tokyo Sugaku-Butsurigaku Kwai Kiji |url=https://doi.org/10.11429/subutsukiji1885b.3.172 |日本物理学会、日本数学会 |volume=3 |issue=3 |pages=172-233 |year=1885 |doi=10.11429/subutsukiji1885b.3.172}}</ref>。
ただし、「虚数」と訳されている英語の "imaginary number" は、しばしば「2乗した値が {{math|0}} 以下の実数になる複素数」を意味する場合がある<ref>{{Cite book |last=Ahlfors |first=Lars V. |title=Complex Analysis. |edition=3 |year=1979 |publisher=McGraw-Hill|ISBN=978-0070006577 |pages=1-4 |location=New York}}</ref>。
== 用語について ==
'''虚数'''とは、実数でない'''[[複素数]]'''のことである<ref>{{Cite book|和書 |author= |editor=日本数学会 |title=[[岩波数学辞典]] |edition=4 |year=2007 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000803090}}</ref>。すなわち、'''[[虚数単位]]''' {{math2|''i'' {{=}} {{sqrt|−1}}}} を用いると
:{{math|''a'' + ''bi''}}({{math2|''a'', ''b''}} は実数、{{math|''b'' ≠ 0}})
と表せる[[数]]のことである。特に、実部が {{math|0}} である虚数を'''純虚数'''という。
英語の "imaginary number" はふつうは虚数を意味するが、これはしばしば「2乗した値が {{math|0}} 以下の実数になる複素数」を表すことがある。この定義によれば、複素数 {{mvar|z}} に対して、
:{{math2|1=''z''{{sup|2}} = −''y''{{sup|2}} (''y'' ≥ 0)}}
ならば、{{math2|(''z'' + ''yi'')(''z'' − ''yi'') {{=}} 0}}, {{math2|∴ ''z'' {{=}} ±''yi''}}。ゆえに、この意味での {{lang|en|imaginary number}} とは、{{math|0}} または純虚数 ({{lang|en|imaginary number}}) である<ref>{{Cite book |last=Weissteinn |first=Eric W. |title=The CRC concise encyclopedia of mathematics |year=1998 |publisher=CRC Press |ISBN=978-0849396403}}</ref><ref>{{Cite book |last=Hazewinkel |first=Michiel |title=Encyclopaedia of Mathematics |year=1989 |publisher=Springer |ISBN=978-1556080043}}</ref>。
== 複素数平面における虚数 ==
[[画像:Complex conjugate picture.svg|200px|thumb|[[複素数平面]]において、純虚数は虚軸上の原点を除く部分にある。]]
[[実数直線]]を拡張した[[複素数平面]]では、純虚数は、虚軸上の原点を除く部分の点である。虚数は、実数と純虚数の[[線型結合]]である。虚数全体は複素数平面から実軸を除いた部分である。
虚数の導入により、{{math|cos ''θ'' + ''i'' sin ''θ''}} を[[作用 (数学)|作用]]させることは、複素数平面上での、原点を中心とする {{mvar|θ}} [[回転 (数学)|回転]]に相当する。{{math|''i''{{sup|2}} {{=}} −1}} より、[[虚数単位]] {{mvar|i}} は、複素数平面上では、実数単位 {{math|1}} を原点中心に {{math|90°}} 回転した位置にある。
== 虚数の大小 ==
虚数に通常の大小関係を入れることはできない<ref name="NEW_ACTION _2B">{{Cite book|和書 |title=NEW ACTION LEGEND数学2+B―思考と戦略 数列・ベクトル |author=ニューアクション編集委員会 |publisher=[[東京書籍]] ||edition=単行本 |date=2019-02-01 |isbn=978-4487379927 |page=53}}</ref><ref>{{Mathworld |urlname=ComplexNumber |title=Complex Number}}</ref>。つまり、複素数体 {{mathbf|C}} は[[順序体]]でない。
(証明)<ref name="NEW_ACTION _2B"/>
:[[背理法]]で示す。
:[[虚数単位]] {{mvar|i}} と実数の間に、{{math2|+, ×}} と両立する[[全順序]]があると仮定する。
:{{math2|''i''{{sup|2}} {{=}} −1}} より、{{math2|''i'' ≠ 0}}
:{{math|∴ ''i'' > 0}} or {{math|''i'' < 0}}
:{{math2|''i'' > 0}} ならば、両辺に {{mvar|i}} を掛けると、{{math2|−1 > 0}} となり矛盾。
:{{math2|''i'' < 0}} ならば、両辺に {{mvar|i}} を掛けると、{{math2|−1 > 0}} となり矛盾。
:故に {{mvar|i}} と実数の間に通常の大小関係はない。
:故に、虚数にも通常の大小関係はない。(証明終)
[[辞書式順序]]は全順序であるが、複素数に入れると {{math|+, ×}} と両立しない。
{{See|順序集合#直積集合上の順序}}
== 虚数の応用 ==
通常は、様々なデータの表現に実数が用いられることが多い。しかし人の数を数えるのには役に立たない[[分数]]も石の大きさを比べるのには役立つし、物体の重量を記述するには役に立たない負の数も借金の額を表すのには不可欠である<ref name="Martinez">{{Cite book |last=Martinez |first=Albert A. |title=Negative Math: How Mathematical Rules Can Be Positively Bent |year=2005 |publisher=Princeton University Press|ISBN=978-0691123097}}<br />邦訳{{Cite book|和書 |author= |translator=小屋良祐 |title=負の数学―マイナスかけるマイナスはマイナスになれるか? |date=2006-12-01 |publisher=[[青土社]] |ISBN=978-4791763139}}</ref>。同様に、[[信号処理]]、[[制御理論]]、[[電磁気学]]、[[量子力学]]、[[地図学]]等の分野を記述するには虚数が必要となる。
例えば[[電子工学]]では、電池の生み出す[[直流]]電圧は+12ボルトや−12ボルト等と実数で表すが、家庭用の[[交流]]電圧を表すには2つのパラメータが必要となる。1つは、120ボルト等という振幅で、もう1つが[[位相]]と呼ばれる角である。このような2次元の値は数学的には[[空間ベクトル|平面ベクトル]]か複素数で表される。ベクトル表現では、[[直交座標系]]は通常X成分とY成分で表される。一方、[[フェーザ表示]]と呼ばれる複素数表現では、2つの値は実部、虚部となる。例えば実部が {{math|0}} で虚部が {{math|120}} の純虚数は、位相が90度で120ボルトの電圧を意味する。
いくつかの[[プログラミング言語]]は複素数を扱うことができる。例えば、[[Python]]では虚数単位に j を用いて次のように記述する(1行目の記号 <code>></code> は入力であることを示す[[コマンドプロンプト|プロンプト]]であって、式の一部ではない。また、<code>*</code> は掛け算を表す記号である)。
>>> (5+2j) * (8+5j)
(30+41j)
[[MATLAB]] での例:
>> (5+2j) * (8+5j)
ans =
30.0000 +41.0000i
>> (5+i*2) * (8+5j)
ans =
30.0000 +41.0000i
== 歴史 ==
虚数を発見したのは[[ジェロラモ・カルダーノ|カルダーノ]]で、1545年の代数の本<ref>{{Cite book|和書 |author=片野善一郎 |title=数学用語と記号ものがたり |publisher=[[裳華房]] |date=2003-08-25 |page=60}}</ref>には、数「10」を、和が 10 かつ積が 40 である2数の組に分ける問題が載せられている。
この問題を現代的に書き下すと次のようになる。
::<math>\begin{cases}
\; \, \displaystyle (x,y) \in \Complex ^2 \\
\; \, \displaystyle x+y=10 \\
\; \, \displaystyle xy=40 \\
\end{cases}</math>
:なる組 ''(x,y)'' を求めよ。
[[根と係数の関係]]を用いて解くと、
:::''(x,y)'' は ''t(∈ℂ)'' に関する二次方程式
::::<math>t^2-10t+40=0</math>
:::の2解の組である。
:<math>\Leftrightarrow (x,y)=(5 \pm \sqrt{15} i, 5 \mp \sqrt{15} i). \; \blacksquare </math>
カルダーノは、この問題は不可能だが形式的に解を求めれば
:{{math2|5 + {{sqrt|−15}}}} と {{math2|5 − {{sqrt|−15}}}}
の2つであると書いている。
同じイタリアの[[ラファエル・ボンベリ]]は、[[1572年]]の代数の本で、[[三次方程式]] {{math2|''x''{{sup|3}} {{=}} 15''x'' + 4}} を、カルダーノが発見した解の公式で解くと
:<math>x = \sqrt[3]{2+11\sqrt{-1}} + \sqrt[3]{2-11\sqrt{-1}}</math>
という奇妙な式になることに気付いた。この三次方程式の解が {{math2|4, −3 + {{sqrt|3}}, −3 − {{sqrt|3}}}} であることを知っていたボンベリは
:<math>\sqrt[3]{2+11\sqrt{-1}} = 2 + \sqrt{-1}</math>
:<math>\sqrt[3]{2-11\sqrt{-1}} = 2 - \sqrt{-1}</math>
となることを発見し、カルダーノの解の公式から導かれる解が実数 {{math2|''x'' {{=}} 4}} を表すことを実証した。
しかし当時は、{{math|[[0]]}} や[[正の数と負の数|負の数]]ですら架空のもの、役に立たないものと考えられており、負の数の[[平方根]]である虚数はなおさらであった。[[ルネ・デカルト]]も否定的にとらえ、[[1637年]]の著書『{{lang|fr|La Géométrie}}(幾何学)』で初めて {{Lang-fr-short|"nombre imaginaire"}}(「想像上の数」)と名付けた。これが英語の "imaginary number"、日本語の「虚数」の語源になった。
その後、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]による[[虚数単位]] {{math2|''i'' {{=}} {{sqrt|−1}}}} の導入(1770年頃)、[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]による[[複素数平面]]の導入(1831年公表)、[[代数学の基本定理]]の証明(1799年)を経て、徐々に多くの数学者、人々に受け入れられるようになった。
[[1843年]]に[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]は、複素数平面にもう一つの虚数単位を添加して[[3次元]]に拡張することを試みた結果、全部で3個の虚数単位を添加して得られる[[四元数]]の集合が自然な体系であることを発見した。
== 虚数単位の性質 ==
[[虚数単位]] {{mvar|i}} の整数[[冪乗|乗]] {{mvar|i{{sup|n}}}} は、[[整数]] {{mvar|n}} を 4 で割った余りを {{math|''n'' mod 4}} で表すことにすると、次のように簡潔に表現できる:
{{indent|<math>i^{\,n}=i^{\ n\,\bmod\,4}</math>}}
すなわち、{{mvar|k}} を[[整数]]として次が成り立つ。
{{indent|<math>\begin{array}{lcl}
i^{\,4k}&=&1\\
i^{\,4k+1}&=&i\\
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\end{array}</math>}}
{{main|虚数単位}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*Paul Nahin, ''An Imaginary Tale: The Story of the Square Root of Minus One'', Princeton University Press, 1998. ISBN 978-0691027951.
== 関連項目 ==
* [[複素数]]
* [[四元数]]
* [[八元数]]
* [[十六元数]]
* [[ド・モアブルの定理#適用例]] - 虚数の指数
== 外部リンク ==
*{{MathWorld|title=Imaginary Number|urlname=ImaginaryNumber}}
*{{MathWorld|title=Purely Imaginary Number|urlname=PurelyImaginaryNumber}}
*[http://www.math.toronto.edu/mathnet/answers/imaginary.html Why imaginary numbers really do exist]
*{{Kotobank}}
{{複素数}}
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[[Category:複素数]]
[[Category:初等数学]]
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聖蹟桜ヶ丘駅
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聖蹟桜ヶ丘駅(せいせきさくらがおかえき)は、東京都多摩市関戸一丁目にある、京王電鉄京王線の駅である。京王西管区所属。駅番号はKO27。
駅前には京王電鉄の本社ビルが所在する。
駅開設当時の「関戸」は駅所在地の地名から。現在の「聖蹟桜ヶ丘」は、駅周辺が桜の名所であることに由来する地名「桜ヶ丘」(当駅南部)と、明治天皇の御狩場が連光寺付近にあったことに由来する「聖蹟」(天皇が行幸した土地のこと)を合わせたものである。
当駅は分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅であり、下りMt.TAKAO号を除く全ての定期営業列車が停車する(同列車は客扱いを行わない運転停車)。京王線新宿 - 京王八王子間の特急運行開始時からの特急停車駅でもある。ホームの幅は広く採られているが、駅がカーブの中に位置するため、下りホームでは電車とホームとの間が広く開いている箇所がある。
ホームは2階に、改札口(東口と西口の2か所)および駅事務室は1階にある。中2階のコンコースが各ホームと両改札とを結んでいる。エスカレーターは上りのみ、エレベーターはコンコース階で乗り継ぐことによってホームに行けるようになっている。トイレ(だれでもトイレ併設)は西口側改札内にある。
各ホーム中央に京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンターに直結している出口があり、4階A・B館連絡ブリッジに設けている出口専用改札口(係員は不在)へ通じる上りエスカレーターのみが設置されている。誤ってこのエスカレーターで改札口まで上ってしまうとホームに戻れなくなるので注意が必要である。
ホームの発車標は、京王線の駅としては最後まで反転フラップ式が使用されていたが、2005年11月にLED式に更新された。
2012年4月8日初電より、当駅周辺を舞台とするスタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』の主題歌「カントリー・ロード」をオルゴール調にアレンジした接近メロディの使用を開始した。流れるメロディは1番線ホームと2番線ホームとで異なる。但し、上り京王ライナー及びMt.TAKAO号は京王線新宿駅と同じ京王ライナー入線曲が鳴動し、運転停車扱いとなる下り高尾山口行Mt.TAKAO号はどちらも鳴動しない。
2022年度の1日平均乗降人員は54,749人である。単独駅ながら、同じく特急停車駅で乗換駅の高幡不動駅より多い。朝夕は上り新宿方面への通勤客と、当駅で下車し京王電鉄系列の本社(後述)などへの通勤客で混雑する。ここ数年はやや減少傾向にあり、かつての特急通過駅の千歳烏山駅や特急・急行通過駅の仙川駅よりも少ない。
近年の1日平均乗降人員及び乗車人員の推移は下表の通りである。
当駅周辺は「聖蹟桜ヶ丘地区」として、東京都の「一般拠点地区」に位置付けられている。
駅北東の京王電鉄本社をはじめ、当駅周辺には京王グループ各社の本社が多く所在するほか、京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター(せいせきSC)を中心とした商業施設や飲食店街が発達している。
バスターミナルは、駅北側の京王百貨店建屋の吹き抜けになっている1階部分に設置されており、京王電鉄バスなどの多数のバス路線のハブとして機能している。また聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンターA館1階には京王電鉄バスの案内所が設けられている。立体駐車場も設置されており、線路南側の東京都道41号稲城日野線(川崎街道)から出入りすることができる。
当駅の南側から京王永山駅の北側にかけては、当時の京王帝都電鉄の田園都市建設部によって開発された大規模な住宅地(桜ケ丘住宅地)が広がっている。同住宅地は多摩川に面した低地に位置する当駅から坂を上った多摩丘陵北端にあるため、眺望良好な宅地が多い。
当駅は多摩市の北部にあり、多摩市の南部には多摩ニュータウンが造成されているが、1974年に京王相模原線が京王多摩センター駅へ延伸されるまで、当時の京王帝都電鉄では多摩ニュータウンへの唯一のアクセス駅となっていた。
戦前には未成線に終わった南津電気鉄道が、一ノ宮付近に駅を設置し、由木・相原を経て相模川尻に至る路線を計画していた。京王相模原線の建設に際してはそうした経緯もあり、当初は当駅から多摩ニュータウン方面へ直通するルートも検討されていた。しかしニュータウン全域をカバーできないことや、将来的に調布 - 当駅間の輸送需要が増大した場合に複々線化の用地買収が困難であるなど、様々な理由から却下されている。
京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンターB館1階にバスターミナルは位置している。
永山駅まで京王相模原線・小田急多摩線が開業する以前は、多摩ニュータウンの唯一の入り口として機能し、聖蹟桜ヶ丘駅から多摩ニュータウンへのバスが運行された。現在でも永山、豊ヶ丘、多摩センター方面に数多くの路線が運行されている。
多摩市ミニバスは聖蹟桜ヶ丘駅には乗り入れないが、日野市ミニバスの2路線が当駅と高幡不動駅を結んでいる。
『耳をすませば』による町おこしについては「聖蹟桜ヶ丘#『耳をすませば』による町おこし」、上記以外の作品については「聖蹟桜ヶ丘#その他のコンテンツ」を参照。
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聖蹟桜ヶ丘駅(せいせきさくらがおかえき)は、東京都多摩市関戸一丁目にある、京王電鉄京王線の駅である。京王西管区所属。駅番号はKO27。 駅前には京王電鉄の本社ビルが所在する。
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{{otheruses|京王電鉄の駅|駅周辺|聖蹟桜ヶ丘}}
{{駅情報
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|駅名 = 聖蹟桜ヶ丘駅
|画像 = 多摩市にある聖蹟桜ヶ丘駅の西口170215.jpg
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|画像説明 = 駅西口(2017年2月15日)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = せいせきさくらがおか
|ローマ字 = Seiseki-sakuragaoka
|副駅名 = 帝京大学 最寄駅
|前の駅 = KO26 [[中河原駅|中河原]]
|駅間A = 1.6
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|次の駅 = [[百草園駅|百草園]] KO28
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王線]]
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|駅構造 = [[高架駅]]
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|乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />54,749
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|備考 =
}}
'''聖蹟桜ヶ丘駅'''(せいせきさくらがおかえき)は、[[東京都]][[多摩市]][[関戸 (多摩市)|関戸]]一丁目にある、[[京王電鉄]][[京王線]]の[[鉄道駅|駅]]である。京王西管区所属<ref name="RP893_43">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部管理課|title=駅管区・乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=43|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO27'''。
駅前には京王電鉄の本社ビルが所在する<ref name="keio-handbook2020-p106">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/2020_p106_p124.pdf |title=京王ハンドブック2020「年表」|pages=106-124 |date=2020-08 |accessdate=2021-07-13 |publisher=京王電鉄広報部 |format=PDF |language=日本語}}</ref>。
== 歴史 ==
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[3月24日]] - 玉南電気鉄道の'''関戸駅'''として開業<ref name="keio-handbook2020-p100">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2020/2020_p100_p105.pdf|title=京王ハンドブック2020「駅の変遷」|date=2020-08 |pages=100-105 |accessdate=2021-07-13 |publisher=京王電鉄広報部 |format=PDF |language=日本語}}</ref>
* [[1926年]](大正15年)[[12月1日]] - 合併により京王電気軌道の駅となる<ref name="RP893_10">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄広報部|title=総説:京王電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=10|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1937年]](昭和12年)[[5月1日]] - '''聖蹟桜ヶ丘駅'''に改称<ref name="keio-handbook2020-p100" />。
* [[1944年]](昭和19年)[[5月31日]] - [[陸上交通事業調整法]]による戦時合併により[[東京急行電鉄]]([[大東急]])の駅となる<ref name="RP893_10" />。
* [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - 東急からの分離独立により京王帝都電鉄(現:京王電鉄)の駅となる<ref name="RP893_10" />。
* [[1953年]](昭和28年) - モデル撮影会が開催され、[[新宿駅]] - 当駅間を[[京王2700系電車|2700系]]を使用した「カメラハイキング号」が走った<ref>京王電鉄広報部『京王の電車・バス100年のあゆみ』p.28、ネコ・パブリッシング、2013年9月20日。ISBN 978-4-777014972</ref>。
* [[1964年]](昭和39年)[[4月21日]] - 当駅から[[中河原駅]]間が[[多摩川]][[鉄橋]]の[[複線]]化[[工事]]竣工に伴い複線化<ref name="keio-handbook2020-p106" />。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[5月29日]] - 高架駅となる<ref name="keio-handbook2020-p100" />。高架化前の駅は南に100[[メートル|m]]程の所にあり、ホームは急カーブ上にあった<ref name="RP893_140" />。高架化の際に、ホーム部を20 m車6両分程の直線を確保出来るように改修された<ref name="RP893_140">{{Cite journal|和書|author=山田康介|title=1970年代から1980年代の京王線の思い出 今、これから|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=140|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
** [[6月1日]] - 聖蹟桜ヶ丘駅バスターミナルが完成(現在の[[京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター]]1階のバスターミナルとは異なる))<ref>京王電鉄広報部『京王の電車・バス100年のあゆみ』p.23、ネコ・パブリッシング、2013年9月20日。ISBN 978-4-777014972</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)2月 - 京王グループで「聖蹟桜ヶ丘駅周辺総合開発」に着手。
* [[1986年]](昭和61年)[[3月28日]] - [[京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター]](せいせきA・B館)がオープン<ref name="keio-handbook2020-p106" />。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月14日]] - 京王帝都電鉄本社を新宿三丁目から移転<ref name="keio-handbook2020-p106" />。
* [[2012年]]([[平成]]24年)[[4月8日]] - [[発車メロディ#接近メロディ|列車接近メロディ]]を[[アニメーション映画|アニメ映画]]『[[耳をすませば]]』の主題歌である「[[カントリー・ロード (本名陽子の曲)|カントリー・ロード]]」に変更<ref name="melody">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2011/nr120223v02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140717164959/https://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2011/nr120223v02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=アニメ映画の主題歌「カントリー・ロード」が聖蹟桜ヶ丘駅の列車接近メロディーになります!|publisher=京王電鉄|date=2012-02-23|accessdate=2020-04-12|archivedate=2014-07-17}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[2月22日]] - [[ダイヤ改正]]により下り[[京王ライナー]]が新設され、停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191014150927/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2月22日(木)始発から京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜京王ライナーの運行開始や、平日朝間時間帯の速達性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2018-01-24|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-10-14}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[2月22日]] - ダイヤ改正により上り京王ライナーが新設され、停車駅となる<ref name="Keio20190122">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191014155008/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2月22日(金)始発から京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜朝間時間帯上り「京王ライナー」の運行開始や、平日朝間時間帯の利便性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2019-01-22|accessdate=2020-04-12|archivedate=2019-10-14}}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
駅開設当時の「'''関戸'''」は駅所在地の地名から。現在の「'''聖蹟桜ヶ丘'''」は、駅周辺が[[サクラ|桜]]の名所であることに由来する地名「[[桜ヶ丘 (多摩市)|桜ヶ丘]]」(当駅南部)と、[[明治天皇]]の御狩場が[[連光寺]]付近にあったことに由来する「聖蹟」([[天皇]]が[[行幸]]した土地のこと)を合わせたものである<ref>あいぼりー特別号 「京王線・井の頭線 むかし物語」総集編 2003年12月9日、京王電鉄発行</ref>。
{{See also|聖蹟桜ヶ丘#聖蹟桜ヶ丘の名前の由来|明治天皇聖蹟#聖蹟桜ヶ丘}}
== 駅構造 ==
当駅は[[分岐器]]や[[日本の鉄道信号#主信号機|絶対信号機]]を持たないため、[[停車場#停車場の定義|停留所]]に分類される。
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]であり、下り[[京王ライナー#Mt.TAKAO号|Mt.TAKAO号]]を除く全ての定期営業列車が停車する(同列車は客扱いを行わない運転停車)。[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王線新宿]] - [[京王八王子駅|京王八王子]]間の[[特急]]運行開始時からの特急停車駅でもある。[[プラットホーム|ホーム]]の幅は広く採られているが、駅がカーブの中に位置するため、下りホームでは電車とホームとの間が広く開いている箇所がある。
ホームは2階に、[[改札|改札口]](東口と西口の2か所)および駅事務室は1階にある。中2階の[[コンコース]]が各ホームと両改札とを結んでいる。[[エスカレーター]]は上りのみ、[[エレベーター]]はコンコース階で乗り継ぐことによってホームに行けるようになっている。[[便所|トイレ]](だれでもトイレ併設)は西口側改札内にある。
各ホーム中央に京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンターに直結している出口があり、4階A・B館連絡ブリッジに設けている出口専用改札口(係員は不在)へ通じる上りエスカレーターのみが設置されている。誤ってこのエスカレーターで改札口まで上ってしまうとホームに戻れなくなるので注意が必要である。
ホームの[[発車標]]は、京王線の駅としては最後まで[[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ式]]が使用されていたが、2005年11月に[[発光ダイオード|LED]]式に更新された。
[[2012年]][[4月8日]]初電より、当駅周辺を舞台とする[[スタジオジブリ]]の[[アニメ映画]]『[[耳をすませば]]』の主題歌「[[カントリー・ロード (本名陽子の曲)|カントリー・ロード]]」を[[オルゴール]]調にアレンジした[[発車メロディ|接近メロディ]]の使用を開始した<ref name="melody"/><ref name="mimisuma_kurou">{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1372962323341/|title=今夜金曜ロードSHOW「耳をすませば」の舞台、聖蹟桜ヶ丘の知られざる苦労(エキサイトレビュー)|website=エキサイトニュース |publisher=[[エキサイト]] |date=2013-07-05 |accessdate=2013-12-30}}</ref>。流れるメロディは1番線ホームと2番線ホームとで異なる<ref name="melody"/>。但し、上り京王ライナー及びMt.TAKAO号は[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王線新宿駅]]と同じ京王ライナー入線曲が鳴動し、運転停車扱いとなる下り[[高尾山口駅|高尾山口]]行Mt.TAKAO号はどちらも鳴動しない。
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|rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線
|style="text-align:center"|下り
|[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]・[[多摩動物公園駅|多摩動物公園]]方面
|-
! 2
|style="text-align:center"|上り
|[[府中駅 (東京都)|府中]]・[[調布駅|調布]]・[[明大前駅|明大前]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]][[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]方面
|}
<gallery>
多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅前20170812.jpg|聖蹟桜ヶ丘駅前の様子(2017年8月12日)
Keio-railway-KO27-Seiseki-sakuragaoka-station-platform-20130801-134428.jpg|下りホームから新宿方面を臨む(2013年8月1日)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''54,749人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。単独駅ながら、同じく特急停車駅で乗換駅の高幡不動駅より多い。朝夕は上り新宿方面への通勤客と、当駅で下車し京王電鉄系列の本社(後述)などへの通勤客で混雑する。ここ数年はやや減少傾向にあり、かつての特急通過駅の[[千歳烏山駅]]や特急・急行通過駅の[[仙川駅]]よりも少ない。
近年の1日平均'''乗降'''人員及び[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.tama.lg.jp/0000008571.html 統計たま] - 多摩市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1955年(昭和30年)
|3,676
|
|
|-
|1960年(昭和35年)
|6,574
|
|
|-
|1965年(昭和40年)
|16,426
|
|
|-
|1970年(昭和45年)
|31,892
|
|
|-
|1975年(昭和50年)
|43,854
|
|
|-
|1980年(昭和55年)
|48,022
|
|
|-
|1985年(昭和60年)
|54,246
|
|
|-
|1986年(昭和61年)
|60,741
|
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|72,811
|37,063
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|39,202
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|39,679
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|78,737
|40,238
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|39,863
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|78,386
|39,943
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|38,888
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|37,304
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|36,299
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|35,475
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref name="RP734_24">{{Cite journal|和書|author=田中健輔(京王電鉄鉄道運転部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=鉄道ピクトリアル|date=2003-07-10|volume=53|issue=第7号(通巻734号)|page=24|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>68,103
|33,929
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref name="RP893_27">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部運転課|title=輸送と運転 近年の動向|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=27|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>66,981
|33,268
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|
|32,882
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|66,369
|32,861
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|65,506
|32,419
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|65,697
|32,529
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|65,707
|32,630
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|68,362
|33,869
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|68,690
|34,030
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|67,747
|33,542
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|66,384
|32,841
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|65,731
|32,486
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|65,164
|32,252
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref name="RP893_27" />65,739
|32,534
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|64,893
|32,101
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|65,248
|32,224
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|64,376
|31,855
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|64,142
|31,745
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|65,131
|32,247
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|65,246
|32,254
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|47,521
|23,545
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>51,363
|25,619
|<ref group="*>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2021/tn21q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和3年)]</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>54,749
|
|
|}
== 駅周辺 ==
{{出典の明記| date = 2020年7月| section = 1}}
{{Main|聖蹟桜ヶ丘}}
当駅周辺は「聖蹟桜ヶ丘地区」として、[[東京都]]の「一般拠点地区」に位置付けられている。
駅北東の京王電鉄本社をはじめ、当駅周辺には[[京王グループ]]各社の本社が多く所在するほか、[[京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター|京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター(せいせきSC)]]を中心とした[[商業施設]]や飲食店街が発達している。
[[バスターミナル]]は、駅北側の[[京王百貨店]]建屋の吹き抜けになっている1階部分に設置されており、[[京王電鉄バス]]などの多数のバス路線のハブとして機能している。また聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンターA館1階には京王電鉄バスの案内所が設けられている。[[立体駐車場]]も設置されており、線路南側の[[東京都道41号稲城日野線]](川崎街道)から出入りすることができる。
当駅の南側から[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]の北側にかけては、当時の京王帝都電鉄の[[田園都市]]建設部によって開発された大規模な住宅地([[桜ヶ丘 (多摩市)|桜ケ丘住宅地]])が広がっている。同住宅地は[[多摩川]]に面した低地に位置する当駅から坂を上った[[多摩丘陵]]北端にあるため、眺望良好な宅地が多い。
当駅は[[多摩市]]の北部にあり、多摩市の南部には[[多摩ニュータウン]]が造成されているが、[[1974年]]に[[京王相模原線]]が[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]へ延伸されるまで、当時の京王帝都電鉄では多摩ニュータウンへの唯一のアクセス駅となっていた。
戦前には[[未成線]]に終わった[[南津電気鉄道]]が、[[一ノ宮 (多摩市)|一ノ宮]]付近に駅を設置し、[[由木村|由木]]・[[相原駅|相原]]を経て[[川尻 (相模原市)|相模川尻]]に至る路線を計画していた。京王相模原線の建設に際してはそうした経緯もあり、当初は当駅から多摩ニュータウン方面へ直通するルートも検討されていた。しかしニュータウン全域をカバーできないことや、将来的に[[調布駅|調布]] - 当駅間の輸送需要が増大した場合に[[複々線]]化の用地買収が困難であるなど、様々な理由から却下されている。
; 主な商業施設
* [[京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター]]
** [[京王百貨店]]聖蹟桜ヶ丘店
** [[京王ストア]]桜ヶ丘店
** [[京王アートマン]]聖蹟桜ヶ丘店
** [[ビックカメラ]]聖蹟桜ヶ丘店
** [[京王クラウン街|Seiseki京王クラウン街]]
** [[せいせきさくらゲート]]
* 聖蹟桜ヶ丘[[OPA]]
* ザ・スクエア
<gallery>
Seiseki-sakuragaoka.jpg|京王百貨店
Seiseki.sakuragaoka.jpg|駅周辺
聖蹟桜ヶ丘の北を流れる多摩川130805.jpg|駅付近を流れる多摩川
</gallery>
; 主な企業
* [[京王グループ]]の企業
** 京王電鉄本社
** 京王ストア本社(京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンターC館に隣接)
** 京王アートマン本社(京王聖蹟桜ヶ丘東口ビル)
** [[京王自動車]]本社(せいせきさくらゲート)
** [[京王食品]]本社(せいせきさくらゲート)
** [[京王運輸]]本社(多摩市一ノ宮)
* [[あいおいニッセイ同和損害保険]]桜ヶ丘センター
* ムラキ本社<ref>[https://muraki.co.jp/hp/company/profile/ 会社情報] ムラキ株式会社</ref>
* [[トヨタ西東京カローラ]]本社
<gallery>
多摩市にある京王電鉄本社140514.jpg|京王電鉄本社
</gallery>
; 公的施設
* ヴィータ聖蹟桜ヶ丘(聖蹟桜ヶ丘OPA)
** 多摩市役所 聖蹟桜ヶ丘出張所
** 関戸公民館
* 関戸図書館(ザ・スクエア)
* 聖蹟桜ヶ丘郵便局
* せいせきC館内郵便局
; 金融機関
* [[三菱UFJ銀行]]
** 多摩支店
** 聖蹟桜ヶ丘支店
* [[三井住友銀行]] 多摩支店
* [[みずほ銀行]] 多摩支店
* [[三井住友信託銀行]] 多摩桜ヶ丘支店
* [[多摩信用金庫]] 桜ケ丘支店
; その他
* [[多摩川]]
* 関戸城跡
* [[関戸の戦い|関戸古戦場]]跡
* [[小野神社 (多摩市)|小野神社]]
* 都立[[桜ヶ丘公園]]
** [[旧多摩聖蹟記念館]]
== バス路線 ==
[[京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター]]B館1階にバスターミナルは位置している。
[[永山駅 (東京都)|永山駅]]まで京王相模原線・小田急多摩線が開業する以前は、多摩ニュータウンの唯一の入り口として機能し、聖蹟桜ヶ丘駅から多摩ニュータウンへのバスが運行された。現在でも永山、豊ヶ丘、多摩センター方面に数多くの路線が運行されている。
[[多摩市ミニバス]]は聖蹟桜ヶ丘駅には乗り入れないが、[[日野市ミニバス]]の2路線が当駅と[[高幡不動駅]]を結んでいる。
=== バスのりば ===
{{Main|京王電鉄バス桜ヶ丘営業所|京王バス多摩営業所|京王バス南大沢営業所|神奈川中央交通多摩営業所}}
{|class=wikitable style="font-size:80%;"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者!!備考
|-
!rowspan="5"|1番
|高22|||{{small|[[百草団地]]・高幡台団地}}|| rowspan="2" |[[高幡不動駅]]||rowspan="2"|{{Color|blue|■}}京王バス<br/>{{Color|deeppink|■}}京王電鉄バス||
|-
|高27|||{{small|高幡台団地}}||夜間と休日の朝のみ運行
|-
|桜80|||{{small|帝京大学入口・由木折返場}}||[[南大沢駅]]||rowspan="4"|{{Color|blue|■}}京王バス||深夜バスあり(平日のみ)
|-
|桜83|||{{small|帝京大学入口}}||由木折返場||平日朝1本と土休日深夜のみ運行
|-
|桜88|||{{small|帝京大学入口・大竹橋・フェアヒルズ入口}}||[[京王堀之内駅]]||
|-
!rowspan="7"|2番
|高52(O)|||{{small|百草園駅北・金田公園}}|| rowspan="2" |高幡不動駅||[[日野市ミニバス]]落川路線
|-
|高20(W)|||{{small|百草園住宅・三沢台}}|| rowspan="2" |{{Color|deeppink|■}}京王電鉄バス||日野市ミニバス三沢台路線
|-
| rowspan="3" |桜87|||{{small|一の宮}}|| rowspan="2" |[[帝京大学|帝京大学構内]]||
|-
|{{small|直行}}|| rowspan="2"|{{Color|blue|■}}京王バス
|-
|{{small|直行}}||[[帝京大学小学校]]||平日・土曜の朝1本のみ運行
|-
|桜84|||{{small|帝京大学入口・板橋・南大沢駅}}||[[相模原駅]]||rowspan="1"|{{Color|blue|■}}京王バス<br/>{{Color|darkorange|■}}神奈中||
|-
|空港||||[[成田空港]]||{{Color|blue|■}}京王バス<br/>{{Color|gold|■}}東京空港交通||成田多摩センター線。<br />一部便は3番乗り場から発車。
|-
!rowspan="7"|3番
|桜81||{{small|一の宮}}||[[東電学園|東京電力総合研修センター]]||rowspan="1"|{{Color|deeppink|■}}京王電鉄バス||平日朝に急行便あり
|-
|rowspan="2"|国18|||{{small|[[府中四谷橋]]北・[[谷保駅]]}}||[[国立駅]]||rowspan="5"|{{Color|blue|■}}京王バス||
|-
|{{small|府中四谷橋北}}||日新町二丁目||平日朝1本(8:06発)のみ運行。
|-
|桜18|||{{small|府中四谷橋北・[[東京都立府中西高等学校|府中西高校]]入口}}|| rowspan="2" |都営泉二丁目||平日の朝・夜のみの運行
|-
|桜19|||{{small|府中四谷橋北・デュオヒルズ前}}||
|-
|高速||||[[名鉄バスセンター]]||新宿名古屋線
|-
|空港||||[[羽田空港]]||rowspan="1"|{{Color|Blue|■}}京王バス<br/>{{Color|gold|■}}東京空港交通||羽田多摩センター線
|-
!rowspan="2"|4番
|桜91||||桜ヶ丘二丁目||rowspan="3"|{{Color|blue|■}}京王バス||
|-
|桜92|||{{small|桜ヶ丘二丁目}}||[[永山駅 (東京都)|永山駅]]||
|-
! rowspan="2" |7番
|桜46||{{small|多摩市役所・大橋・豊ヶ丘四丁目}}||[[多摩センター駅]]||
|-
|桜65||{{small|聖ヶ丘病院前}}||永山駅|| rowspan="1" |{{Color|deeppink|■}}京王電鉄バス||
|-
!rowspan="3"|8番
|桜47||{{small|多摩市役所・大橋}}||[[京王バス多摩営業所|京王多摩車庫前]]||rowspan="3"|{{Color|blue|■}}京王バス||
|-
|桜62||{{small|多摩市役所・愛宕東公園}}||多摩センター駅||
|-
|桜63||{{small|多摩市役所・愛宕東公園・多摩センター駅}}||鶴牧団地循環||
|-
!rowspan="3"|9番
| rowspan="2" |桜72|| rowspan="2" |{{small|愛宕東}}||多摩センター駅||rowspan="3"|{{Color|deeppink|■}}京王電鉄バス||
|-
|鹿島||平日の23時台のみ運行
|-
|桜73||{{small|愛宕東・多摩センター駅}}||[[東京都立多摩南部地域病院|多摩南部地域病院]]||
|-
! rowspan="6" |11番
| rowspan="2" |桜22|| rowspan="3"|{{small |車橋・永山駅}}||諏訪四丁目循環||rowspan="2"|{{Color|blue|■}}京王バス<br/>{{Color|darkorange|■}}神奈中||
|-
|諏訪三丁目||
|-
|桜23||永山五丁目||rowspan="2"|{{Color|darkorange|■}}神奈中||
|-
|桜24||{{small|車橋・永山駅・永山五丁目・京王多摩車庫前}}||[[鶴川駅]]||
|-
|桜25||{{small|車橋・永山駅・永山五丁目}}||京王多摩車庫前|| rowspan="3" |{{Color|blue|■}}京王バス||
|-
|桜28||{{small|車橋・多摩東公園}}||[[若葉台駅]]||休日のみ運行
|-
! rowspan="4" |12番
|稲22||{{small|連光寺坂・[[稲城市立病院]]・[[南多摩駅]]}}||[[稲城駅]]||
|-
| rowspan="2" |桜06|| rowspan="2" |{{small|連光寺坂・記念館前・聖ヶ丘団地}}||永山駅||rowspan="3" |{{Color|blue|■}}京王バス<br />{{Color|deeppink|■}}京王電鉄バス||
|-
|[[多摩大学]]||平日1本のみ運行
|-
|桜07||{{small|連光寺坂・記念館前・連光寺・多摩東公園}}||永山駅||1日1本のみ運行
|}
* 5・6・10・13・14番は降車場。この他、路上の一部にも降車場が設置されている。
== 隣の駅 ==
;京王電鉄
:[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線
:*{{Color|#d07|□}}「[[京王ライナー]]」(上りは乗車のみ)、{{Color|#9acd32|□}}「[[京王ライナー#Mt.TAKAO号|Mt.TAKAO号]]」(上りのみ乗車可)停車駅
::{{Color|#ff1493|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行<ref group="注釈">下り:早朝のみ、上り:平日早朝・深夜のみ、それぞれ運転。</ref>
:::[[分倍河原駅]] (KO25) - '''聖蹟桜ヶ丘駅 (KO27)''' - [[高幡不動駅]] (KO29)
::{{Color|olive|■}}区間急行<ref group="注釈">平日朝上りのみ運転。</ref>・{{Color|blue|■}}快速<ref group="注釈">平日昼下りのみ運転。</ref>・{{Color|gray|■}}各駅停車
:::[[中河原駅]] (KO26) - '''聖蹟桜ヶ丘駅 (KO27)''' - [[百草園駅]] (KO28)
*イベントなどの開催時には、通常の隣の停車駅との間にある以下の駅に停車することがある。
**百草園での「梅ライトアップ」開催時に、一部の特急・急行が隣の百草園駅に停車する。
== 当駅周辺を舞台とする作品 ==
<!--京王電鉄が正式にコラボしていない作品については「聖蹟桜ヶ丘」の記事に記載して下さい。-->
* [[耳をすませば]] - 作中に登場する「杉の宮駅」のモデルになっている。周辺には他にも同作の舞台のモデル地が点在し、[[町おこし]]の取り組みが行われている。
* [[一週間フレンズ。]] - 作中の舞台が当駅周辺となっており、京王電鉄が宣伝協力を行った。またアニメ放映期間中には、当駅西口正面にある[[京王食品|ベーカリー&カフェ ルパ]]桜ヶ丘店にて[[コラボレーション|コラボ]]メニューの販売などが行われた。実写[[映画]]化の際も当駅周辺で[[ロケーション撮影]]が行われた。
『耳をすませば』による町おこしについては「[[聖蹟桜ヶ丘#『耳をすませば』による町おこし]]」、上記以外の作品については「[[聖蹟桜ヶ丘#その他のコンテンツ]]」を参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
;京王電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京王"|3}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Seiseki-Sakuragaoka Station}}
* [[聖蹟桜ヶ丘]]
* [[多摩ニュータウン]]
* [[日本の鉄道駅一覧]]
{{-}}
== 外部リンク ==
* [https://www.keio.co.jp/train/station/ko27_seiseki-sakuragaoka/ 聖蹟桜ヶ丘駅] - 京王電鉄
* [http://seiseki.happy-town.net/ 街はぴ 聖蹟桜ヶ丘駅] - 京王沿線口コミ情報サイト
{{京王線}}
{{DEFAULTSORT:せいせきさくらかおか}}
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:東京都の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 せ|いせきさくらかおか]]
[[Category:1925年開業の鉄道駅]]
[[Category:多摩市の交通|せいせきさくらかおかえき]]
[[Category:聖蹟桜ヶ丘]]
[[Category:多摩ニュータウン]]
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ハンカチ
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ハンカチとは、主に身だしなみとして日常的に用いられる、正方形や長方形の布のことで、ハンカチーフ(handkerchief)の省略形である。手巾(しゅきん)とも書く。
元は発音そのままにハンケチーフと呼ばれ、ハンチと略称されていた。
ハンカチは、洗った手を拭く、汗を拭うなどに使われる。欧米では洟をかむことなどにも使われる。たとえば、フランス語のmouchoirは動詞のmoucher(洟をかむ)から来ているし、ロシア語のносовой платокは「鼻のスカーフ」の意味だが、どちらも、手拭きなどにも用いられる。
ハンカチの起源は現在よりも遥かに遡り、紀元前3000年頃のエジプト文明の頃には存在していたとされる。飾りのされた麻製と思われる布の発掘が認められ、ハンカチがこの時代の身分の高い人物の持ち物であったことが推測された。
その正方形の形状は、フランスのルイ16世王妃マリー・アントワネットが規格として統一させたことが始まりとされる。それ以前のハンカチの形態は円形や長方形など様々であり、貴族たちが刺繍や豪華な飾りで贅を競う持ち物のひとつでもあった。
日本におけるハンカチの普及は、洋装が導入された明治時代以降である。
ハンカチの素材は、綿、絹及び麻(リネン)などの吸水性に優れた織物素材が主に用いられる。近年の清潔志向を反映し、抗菌加工を施した素材もある。
白生地にスワトウ刺繍をほどこした優美なレース風のものなどは細工の良さからフォーマルの席で現在も珍重される。
ハンカチの大きさは標準で45cm、大きいもので50cm、小さいもので25cmから20cmがある。
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ハンカチとは、主に身だしなみとして日常的に用いられる、正方形や長方形の布のことで、ハンカチーフ(handkerchief)の省略形である。手巾(しゅきん)とも書く。 元は発音そのままにハンケチーフと呼ばれ、ハンチと略称されていた。
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[[画像:Handkerchief.jpg|right|thumb|250px|ハンカチ]]
'''ハンカチ'''とは、主に身だしなみとして日常的に用いられる、[[正方形]]や[[長方形]]の[[布]]のことで、[[手|ハン]][[カーチフ|カチーフ]](''handkerchief'')の省略形である。'''手巾'''(しゅきん)とも書く。
元は発音そのままに'''ハンケチーフ'''と呼ばれ、'''ハンチ'''と略称されていた。
== 用途 ==
ハンカチは、洗った手を拭く、[[汗]]を拭うなどに使われる。[[欧米]]では{{ルビ|[[洟]]|はな}}を[[擤鼻|かむ]]ことなどにも使われる。たとえば、フランス語の{{lang|fr|mouchoir}}は動詞の{{lang|fr|moucher}}(洟をかむ)から来ているし、ロシア語の{{lang|ru|носовой платок}}は「[[鼻]]の[[スカーフ]]」の意味だが、どちらも、手拭きなどにも用いられる。
== 歴史 ==
ハンカチの起源は現在よりも遥かに遡り、紀元前3000年頃の[[エジプト文明]]の頃には存在していたとされる。飾りのされた[[麻 (繊維)|麻]]製と思われる布の発掘が認められ、ハンカチがこの時代の身分の高い人物の持ち物であったことが推測された。
その正方形の形状は、[[フランス]]の[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]王妃[[マリー・アントワネット]]が規格として統一させたことが始まりとされる。それ以前のハンカチの形態は円形や長方形など様々であり、貴族たちが刺繍や豪華な飾りで贅を競う持ち物のひとつでもあった。
[[日本]]におけるハンカチの普及は、洋装が導入された[[明治時代]]以降である。
== 素材 ==
ハンカチの素材は、[[綿]]、[[絹]]及び[[麻 (繊維)|麻]]([[リンネル|リネン]])などの吸水性に優れた織物素材が主に用いられる。近年の清潔志向を反映し、[[殺菌#その他の概念|抗菌]]加工を施した素材もある。
白生地に[[汕頭|スワトウ]]刺繍をほどこした優美な[[レース (手芸)|レース]]風のものなどは細工の良さからフォーマルの席で現在も珍重される。
== ハンカチに関する作品 ==
* [[芥川龍之介]]の『[[手巾 (小説)|手巾]]』。手巾はハンケチと読む。
* 小説『[[不如帰 (小説)]]』 - [[徳冨蘆花]]作の小説で、1898年-1899年に新聞連載された。別れの場面でハンカチを振るしぐさを日本で初めて描いた小説となっている<ref>林えり子『暮しの昭和史』pp.185 海竜社 2009年</ref>。
* 映画『[[幸福の黄色いハンカチ]]』 ([[映画監督|監督]] - [[山田洋次]])- [[1977年]]に上映された[[日本映画]]。
* 劇場版[[それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ]] - [[2013年]]に上映された[[アニメーション]]映画。
* 歌『[[水色のワルツ]]』(作詞 - [[藤浦洸]]、作曲 - [[高木東六]]、歌 - [[二葉あき子]]) - [[1950年]]に[[シングル]]発売の[[ヒット]]曲で、歌詞の中には水色のハンカチが重要な位置を占める。
* 歌『[[赤いハンカチ]]』(歌 - [[石原裕次郎]]、監督 - [[舛田利雄]]) - [[1962年]]にシングル発売されたヒット曲、及び[[1964年]]に同シングルの題名を[[主題歌]]に上映された日本映画。
* 歌『[[木綿のハンカチーフ]]』(作詞 - [[松本隆]]、作曲 - [[筒美京平]]、歌 - [[太田裕美]]) - [[1975年]]末に[[アルバム]]『[[心が風邪をひいた日]]』から[[シングルカット]]で発売され、翌[[1976年]]にヒットした曲。
* 歌『[[白いハンカチーフ]]』(作詞 - [[大津あきら]]、作曲 - [[網倉一也]]、歌 - [[堀ちえみ]]) - [[1984年]]にシングル発売された曲。
== ハンカチの大きさ ==
ハンカチの大きさは標準で45cm、大きいもので50cm、小さいもので25cmから20cmがある。
== 本来の使い方以外の使い方 ==
<!--50音順に並べてください。-->
* [[アマチュアレスリング]]
*: 競技に際して選手は必ず白色のハンカチを携行しなければならないルールがある。
* [[シルクマジック]]
*: 絹製のハンカチ(シルクと呼ばれる)は[[奇術]]の小道具として用いられる。
* [[ハンカチ落とし]]
*: ハンカチを用いた[[こどもの文化|子供の遊び]]のひとつ。
* ハンカチテスト
*: ハンカチテストとは、ヒトを仰向けに寝かせて、その顔に、光を通さず、それでいて窒息する恐れのない大きさの布、例えば、厚手のハンカチのような布をかぶせた時、被験者が自力で布を払いのけられるかどうかを確認する試験のことである。主に乳児に対して行われる試験であり、日本では7ヶ月齢の乳幼児健診の際に行うことがある。このテストによって、視界を遮っている原因を取り除くだけの知能に達しているかどうか、布を取り除くために適切な動作が可能なだけの運動能力があるかどうかなどを確認する。
== ギャラリー ==
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画像:Stofftaschentuch.jpg|模様や色で趣向を凝らした物も多い
画像:Chustka_do_nosa3.jpg|縞模様やチェックのハンカチ
画像:Chustka do nosa2.jpg|
画像:Chustka_do_nosa1.jpg|丸く縁取られたハンカチ
</gallery>
==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ポケットチーフ]]
* [[手拭]]
* [[タオルハンカチ]]
* [[バンダナ]] - ハンカチの代用に使う人もいる。
* [[マリー・アントワネット]] - ハンカチの形状を正方形に規格した。
* [[藤山愛一郎]] - 出自や人当たりの良さから「絹のハンカチ」と呼ばれた。
* [[斎藤佑樹]] - [[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早稲田実高校]]3年生時、[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]で試合中[[マウンド]]上で折り畳んだハンカチで汗を拭う仕草をした事から、マスコミ各社が挙って「ハンカチ[[王子]]」と呼び集めた。
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[[Category:夏の季語]]
[[Category:リネン]]
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棋聖戦 (将棋)
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棋聖戦(きせいせん)は、産業経済新聞社及び日本将棋連盟主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。五番勝負の勝者は棋聖のタイトル(称号)を得る。
産経新聞社主催の棋戦としては、1951年に開始した一般棋戦の産経杯が源流である。産経杯は1954年に準タイトル戦の早指し王位決定戦となり、さらに1960年からはブロック紙三社連合の協力を得てタイトル戦の王位戦に格上げとなった。1962年に産経新聞は王位戦を離脱し、新たに棋聖戦を開始した。当初は年2回(前期・後期)開催だったが、1995年からは年1回に変更。2018年4月からはヒューリックが特別協賛に入り、正式名称をヒューリック杯棋聖戦とすることとなった。
タイトル名の「棋聖」は、本来は将棋・囲碁に抜群の才能を示す者への尊称であった。将棋では、特に、江戸時代末期に現れた、不世出の天才棋士・天野宗歩を指すことが多く、天野には十三世名人の関根金次郎によって棋聖の称号が贈られている。また、護国寺には、小菅剣之助・関根金次郎らによって八代伊藤宗印を記念する「棋聖宗印之碑」が建立されている。
1962年の創設当初から1994年度までは、タイトル戦の中では唯一、1年に2期行われていた(五番勝負は6~7月と12月~2月)。現行の年1期制となったのは1995年度である(ちょうど羽生善治が七冠独占を果たした年度に当たる)。
第81期より挑戦者決定のシステムが変更され、一次予選・二次予選・決勝トーナメントの3段階で挑戦者を決定する。
2021年2月より、女流棋士が決勝トーナメントベスト8まで勝ち進んだ場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった。
シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士と、女流棋士2人によりトーナメント形式で行われる。8人が二次予選に進む。なお、シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士であっても、前期の戦績によっては二次予選からの出場となる場合がある。
第81期より持ち時間が1時間(チェスクロック使用)に短縮され(短縮前は3時間)、1日に2局指す場合もある。棋聖戦と同様に1日に2局指す棋戦は、タイトル戦予選では他に叡王戦(段位別予選)がある。テレビ棋戦以外の一般棋戦では朝日杯将棋オープン戦、女流タイトル戦では女流王将戦(予選・本戦)がある。
一次予選の勝ち抜き者8人と、本戦(決勝トーナメント)のシード者以外の棋士によりトーナメント形式で行われる。持ち時間は各3時間。前期の本戦進出者および棋聖戦五番勝負出場経験者は、C級1組以下であっても二次予選からの出場となる。82期より本戦シード人数が変動することになり、二次予選の勝ち抜け枠は8~12人の範囲で毎年変動するようになった。
シード者(4~8人、前期ベスト4以上+タイトルホルダー上位者4人)、二次予選の勝ち抜き者(8~12人)の計16人が参加する。持ち時間は各4時間。トーナメントの勝者が棋聖と五番勝負を戦う。
棋聖と挑戦者が五番勝負を戦う。他のタイトル戦と同様、五番勝負は、全国各地の旅館・ホテルや料亭などで実施される。1996年以降、五番勝負のうち1局がホテルニューアワジで開催されることが恒例となっている。持ち時間は各4時間で、1日制である。
番勝負の模様は、現在はABEMA 将棋チャンネルで完全生中継される。2019年まではニコニコ生放送でも配信されていた。
創設から第65期までは年に前期後期の2期制で行われていた。
第81期からは「最終予選」が廃止された。
永世称号である永世棋聖は、棋聖位を通算5期以上保持した棋士に与えられる。2023年7月現在、永世棋聖を獲得したのは合わせて5名で、永世棋聖の称号を付される棋士は大山康晴・中原誠・米長邦雄の3名、永世棋聖の資格を持つ棋士は羽生善治・佐藤康光の2名である。なお、米長はフリークラス転出時に現役のまま永世棋聖を呼称。また、中原も60歳になった年度に現役のまま永世棋聖を呼称した。
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棋聖戦(きせいせん)は、産業経済新聞社及び日本将棋連盟主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。五番勝負の勝者は棋聖のタイトル(称号)を得る。 産経新聞社主催の棋戦としては、1951年に開始した一般棋戦の産経杯が源流である。産経杯は1954年に準タイトル戦の早指し王位決定戦となり、さらに1960年からはブロック紙三社連合の協力を得てタイトル戦の王位戦に格上げとなった。1962年に産経新聞は王位戦を離脱し、新たに棋聖戦を開始した。当初は年2回(前期・後期)開催だったが、1995年からは年1回に変更。2018年4月からはヒューリックが特別協賛に入り、正式名称をヒューリック杯棋聖戦とすることとなった。 タイトル名の「棋聖」は、本来は将棋・囲碁に抜群の才能を示す者への尊称であった。将棋では、特に、江戸時代末期に現れた、不世出の天才棋士・天野宗歩を指すことが多く、天野には十三世名人の関根金次郎によって棋聖の称号が贈られている。また、護国寺には、小菅剣之助・関根金次郎らによって八代伊藤宗印を記念する「棋聖宗印之碑」が建立されている。
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{{Infobox 棋戦
|イベント名称 = 棋聖戦
|分類 = タイトル戦
|正式名称 = ヒューリック杯棋聖戦
|開催時期 = 予選:5月 - 翌年1月<br>本戦:2月 - 4月<br>タイトル戦:6月 - 7月
|初回開催 = 1962年度(第1期)
|持ち時間 = 一次予選:1時間(チェスクロック使用)<br>二次予選:3時間<br>本戦・タイトル戦:4時間
|番勝負 =五番勝負
|優勝賞金 =
|主催 = [[産経新聞社]]、[[日本将棋連盟]]
|協賛 = [[ヒューリック]](特別協賛)
|URL = [https://www.shogi.or.jp/match/kisei/ 棋聖戦:日本将棋連盟]
|種類 = 棋聖
|前期優勝 = [[藤井聡太]](第94期)
|永世資格 = [[大山康晴]](永世棋聖)<br>[[中原誠]](永世棋聖)<br>[[米長邦雄]](永世棋聖)<br>[[羽生善治]](永世棋聖資格)<br>[[佐藤康光]](永世棋聖資格)
|最多優勝 = 大山康晴・中原誠・羽生善治(16期)
|最長連覇 = 羽生善治(10連覇)
|備考 = }}
'''棋聖戦'''(きせいせん)は、[[産業経済新聞社]]及び[[日本将棋連盟]]主催<ref group="注">2021年現在、棋聖戦中継サイトのトップページには主催として両者が併記されており、日本将棋連盟のサイトでも「日本将棋連盟主催棋戦一覧」のページに棋聖戦を載せている。</ref>の[[将棋]]の[[棋戦 (将棋)|棋戦]]で、[[棋戦 (将棋)#タイトル戦|タイトル戦]]のひとつ。[[番勝負|五番勝負]]の勝者は'''棋聖'''のタイトル(称号)を得る。
産経新聞社主催の棋戦としては、[[1951年]]に開始した一般棋戦の'''産経杯'''が源流である。産経杯は[[1954年]]に準タイトル戦の'''[[早指し王位決定戦]]'''となり、さらに[[1960年]]からはブロック紙三社連合の協力を得てタイトル戦の王位戦に格上げとなった。[[1962年]]に産経新聞は王位戦を離脱し、新たに棋聖戦を開始した<ref>『将棋八大棋戦秘話』(河出書房新社)P.104</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202106060000878.html|title=藤井聡太棋聖が渡辺明名人との“どつき合い”制す、初防衛へ90手で先勝|publisher=日刊スポーツ|date=2021-06-06|accessdate=2021-06-07 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210619060736/https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202106060000878.html |archive-date=2021-06-19}}</ref>。当初は年2回(前期・後期)開催だったが、1995年からは年1回に変更。2018年4月からは[[ヒューリック]]が特別協賛に入り、正式名称を'''ヒューリック杯棋聖戦'''とすることとなった<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2018/03/post_1667.html 「棋聖戦」ヒューリック株式会社の特別協賛が決定] 日本将棋連盟、2018年3月27日(同日閲覧)。</ref>。
タイトル名の「棋聖」は、本来は将棋・[[囲碁]]に抜群の才能を示す者への尊称であった。将棋では、特に、江戸時代末期に現れた、不世出の天才棋士・[[天野宗歩]]を指すことが多く、天野には十三世名人の[[関根金次郎]]によって'''棋聖'''の称号が贈られている。また、護国寺には、[[小菅剣之助]]・関根金次郎らによって[[伊藤宗印 (8代)|八代伊藤宗印]]を記念する「棋聖宗印之碑」が建立されている。
== 方式 ==
1962年の創設当初から1994年度までは、タイトル戦の中では唯一、1年に2期行われていた(五番勝負は6~7月と12月~2月)。現行の年1期制となったのは1995年度である(ちょうど[[羽生善治]]が七冠独占を果たした年度に当たる)。
第81期より挑戦者決定のシステムが変更され、一次予選・二次予選・決勝トーナメントの3段階で挑戦者を決定する。
2021年2月より、女流棋士が決勝トーナメントベスト8まで勝ち進んだ場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった<ref>{{Cite web|和書|title=女流棋士・奨励会員・アマチュアにおける 棋戦優秀者への対応について|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/02/post_1989.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2021-02-07|language=ja}}</ref>。
=== 一次予選 ===
シード者以外の[[順位戦]]C級1組以下の棋士と、女流棋士2人によりトーナメント形式で行われる。8人が二次予選に進む。なお、シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士であっても、前期の戦績によっては二次予選からの出場となる場合がある。
第81期より[[持ち時間]]が1時間([[対局時計|チェスクロック]]使用)に短縮され(短縮前は3時間)、1日に2局指す場合もある。棋聖戦と同様に1日に2局指す棋戦は、タイトル戦予選では他に[[叡王戦]](段位別予選)がある。テレビ棋戦以外の一般棋戦では[[朝日杯将棋オープン戦]]、女流タイトル戦では[[女流王将戦]](予選・本戦)がある。
=== 二次予選 ===
一次予選の勝ち抜き者8人と、本戦(決勝トーナメント)のシード者以外の棋士によりトーナメント形式で行われる。持ち時間は各3時間。前期の本戦進出者および棋聖戦五番勝負出場経験者<ref group="注">現役では中村修・南芳一・屋敷伸之・森下卓・谷川浩司・郷田真隆・羽生善治・島朗・三浦弘行・佐藤康光・丸山忠久・森内俊之・鈴木大介・渡辺明・木村一基・深浦康市・中村太地・豊島将之・永瀬拓矢・斎藤慎太郎・藤井聡太・佐々木大地が該当する。</ref>は、C級1組以下であっても二次予選からの出場となる。82期より本戦シード人数が変動することになり、二次予選の勝ち抜け枠は8~12人の範囲で毎年変動するようになった。
=== 決勝トーナメント ===
シード者(4~8人、前期ベスト4以上+タイトルホルダー上位者4人)、二次予選の勝ち抜き者(8~12人)の計16人が参加する<ref>{{Cite web|和書|title=第91期ヒューリック杯棋聖戦 本戦組み合わせ決まる 藤井七段の初戦は斎藤八段|url=https://www.sankei.com/life/news/200228/lif2002280007-n1.html|website=産経ニュース|date=2020-02-28|accessdate=2020-06-08|language=ja|first=|last=|publisher=[[産経新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200308041457/https://www.sankei.com/life/news/200228/lif2002280007-n1.html|archivedate=2020-3-8}}</ref>。持ち時間は各4時間。トーナメントの勝者が棋聖と五番勝負を戦う。
;在籍期限を満了したフリークラス編入棋士の特例参加
:決勝トーナメント準決勝進出者(ベスト4)が、[[順位戦#フリークラス|フリークラス規定]]の在籍期限を満了したフリークラス編入棋士である場合<ref group="注">順位戦C級2組からの降級・棋士編入試験の合格・奨励会三段リーグで次点(リーグ3位)2回獲得によりフリークラスに編入した棋士が対象となる。60歳以上で順位戦C級2組から降級した棋士を含む。ただし「フリークラス宣言」による転出者については含まれない。</ref>、その在籍期限満了者は他棋戦については出場資格がなくなるが、棋聖戦については次年度の棋戦に参加が可能となり、引退とはならない(2010年7月9日以降)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2010/07/post_307.html |title=フリークラス棋士の引退について|将棋ニュース|日本将棋連盟 |date=2010-07-14 |access-date=2010-07-14}}</ref><ref group="注">他棋戦においても同様の規定があるが、2022年時点での適用例は竜王戦のみとなっている。</ref>。
=== 棋聖戦五番勝負 ===
棋聖と挑戦者が五番勝負を戦う。他のタイトル戦と同様、五番勝負は、全国各地の[[旅館]]・[[ホテル]]や[[料亭]]などで実施される。[[1996年]]以降、五番勝負のうち1局が[[ホテルニューアワジ]]で開催されることが恒例となっている<ref>[https://www.shogi.or.jp/column/2016/09/5.html 将棋ファンなら一度は訪れたい。あの歴史的名局が生まれた「5つの有名旅館」を紹介] 日本将棋連盟(直江雨続)、2016年9月27日(2018年3月25日閲覧)。</ref><ref group="注">[[2020年]]の第91期は当初は予定されていたが、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]による会場変更で、開催されないこととなった。</ref>。持ち時間は各4時間で、1日制である。
番勝負の模様は、現在は[[ABEMA 将棋チャンネル]]で完全生中継される。2019年までは[[ニコニコ生放送]]でも配信されていた。
=== 方式の遍歴 ===
==== 第1期-第65期:年2期制時代 ====
創設から第65期までは年に前期後期の2期制で行われていた。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; white-space:nowrap;"
! rowspan="3" |期
! rowspan="3" |期間
! rowspan="2" colspan="1" |棋聖戦<br />五番勝負<br />(1日制)
! colspan="4" |決勝トーナメント
! colspan="2" |二次予選
! colspan="2" |一次予選
|- style="line-height:120%"
! rowspan="2" |決勝<br />挑戦者<br />決定戦
! rowspan="2" |持ち<br />時間
! rowspan="2" |出場<br />人数
! rowspan="2" |シード条件
! rowspan="2" |通過<br />人数
! rowspan="2" |シード条件
! rowspan="2" |通過<br>人数
! rowspan="2" |出場条件
|-
!持ち時間
|-
!1
| rowspan="9" |'''半年<br/>(前期/後期)'''<br/>(年2期制)
| rowspan="4" |'''7時間'''
| colspan="8" |当時のトップ棋士3名([[大山康晴]]・[[升田幸三]]・[[塚田正夫]])のリーグ戦。'''成績上位者2名が棋聖戦五番勝負'''に進出。
|-
!2
| rowspan="3" |'''三番勝負'''
| rowspan="3" |'''7時間'''
| rowspan="8" |'''16名'''
|style="text-align:left;"|'''8名'''<br>・第1期敗者<br>・順位戦'''A級7位以上'''
| rowspan="8" |{{0}}'''8名'''
| style="text-align:left;"|順位戦'''<br>{{0}}A級8位以下<br>{{0}}B級2組以上'''
| rowspan="2" |{{0}}'''2名'''
| rowspan="8" style="text-align:left;"|非シードで<br>'''C級1組以下'''の<br>棋士全員
|-
!3
|第2期'''ベスト8'''
| rowspan="6" |順位戦'''B級2組以上'''
|-
!{{0}}4-10
| rowspan="3" style="text-align:left;"|{{0}}'''8名'''<ref group="注">第17期はシード者2名欠員の為、前期棋聖戦敗者を2回戦から、順位戦A級上位5名をシードとした</ref><br>・前期'''ベスト4'''<br>・順位戦'''A級上位4名'''
| rowspan="6" |{{0}}'''4名'''
|-
!11-16
|'''6時間'''
| rowspan="5" |'''一番勝負'''
|'''6時間'''
|-
!17-25
| rowspan="4" |'''5時間'''
|'''5時間'''
|-
!26-31
| rowspan="3" |'''4時間'''
| rowspan="3" style="text-align:left;"|'''8名'''<br>・前期'''ベスト4'''<br>・'''タイトルホルダー'''<br>・'''永世称号'''保持者<br>・順位戦'''A級上位'''
|-
!32-56
|-
!57-65
|style="text-align:left;"|・'''前期決勝出場者'''<br>・順位戦'''B級2組以上'''
|}
==== 第66期-第80期:三次予選時代 ====
*第66期からは年1期制となった。
*決勝トーナメントの前に「三次予選」(第72期からは「最終予選」の名称)が行われた。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; white-space:nowrap;"
|- style="line-height:120%"
! rowspan="3" |期
! rowspan="2" colspan="1" |棋聖戦<br>五番勝負<br>(1日制)
! colspan="3" |決勝トーナメント
! colspan="4" |66-71期:三次予選<br>72-80期:最終予選
! colspan="3" |二次予選
! colspan="3" |一次予選
|- style="line-height:120%"
! rowspan="2" |決勝<br />挑戦者<br />決定戦
! rowspan="2" |持ち<br>時間
! rowspan="2" |出場<br>人数
! rowspan="2" |持ち<br>時間
! rowspan="2" |出場<br />人数
! rowspan="2" |シード条件
! rowspan="2" |方式
! rowspan="2" |持ち<br>時間
! rowspan="2" |通過<br>人数
! rowspan="2" |シード条件
! rowspan="2" |持ち<br>時間
! rowspan="2" |通過<br>人数
! rowspan="2" |出場条件
|-
!持ち時間
|-
!66-71
| '''5時間'''
| rowspan="2" |'''一番勝負'''
| rowspan="2" |'''4時間'''
| rowspan="2" |{{0}}'''8名'''
| rowspan="2" |'''3時間'''
| rowspan="2" |'''16名'''
| style="text-align:left;"|'''8名'''<br><各リーグ1位><br>'''・前期ベスト4'''<br><各リーグ2位><br>・'''タイトルホルダー'''<br>・'''永世称号'''保持者<br>・順位戦'''A級上位'''
| style="text-align:left;"|'''4人×4組の<br>リーグ戦'''<br>'''各組上位2人'''が<br>決勝進出<ref group="注">同率の場合、順位が高い者が進出。二次予選突破者(順位3位)同士が、2位タイで並んだ場合、直接対決の際勝利していた者が進出。</ref>
| rowspan="2" |'''3時間'''
| rowspan="2" |{{0}}'''8名'''
| rowspan="2" style="text-align:left;"|・'''前期三次予選'''<br>''' /最終予選進出者'''<br>・過去'''棋聖戦'''<br> 五番勝負'''進出者'''<br>・順位戦'''B級2組以上'''
| rowspan="2" |'''3時間'''
| rowspan="2" |{{0}}'''8名'''
| rowspan="2" style="text-align:left;"|・非シードで<br>{{0|_}}'''C級1組以下'''の<br>{{0|_}}棋士全員<br>・'''女流棋士2名'''<br>{{0|_}}<ref group="注" name="aa">女流棋士から、複数タイトルホルダー・女流名人・女流王将・その他タイトルホルダー・成績上位者の優先順位で2名を決定。女流タイトルを持つ奨励会員が出場することもある(第92期の[[西山朋佳]])</ref>
|-
!72-80
| '''4時間'''
| style="text-align:left;"| '''8名'''<br>'''・前期ベスト4'''<ref group="注">72期のみ前期三次予選1位通過</ref><br>・'''タイトルホルダー'''<br>・'''永世称号'''保持者<br>・順位戦'''A級かつ<br>{{0|_}}前期ベスト8'''
| style="text-align:left;"| '''4人×4組'''で<br>'''[[トーナメント方式#ダブルイリミネーション方式|ダブル<br>イリミネーション<br>トーナメント]]'''<br>2敗で脱落
|}
==== 第81期以降 ====
第81期からは「最終予選」が廃止された。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; white-space:nowrap;"
! rowspan="3" |期
! rowspan="2" colspan="1" |棋聖戦<br>五番勝負<br>(1日制)
! colspan="4" |決勝トーナメント
! colspan="3" |二次予選
! colspan="3" |一次予選
|- style="line-height:120%"
! rowspan="2" |決勝<br />挑戦者<br />決定戦
! rowspan="2" |持ち<br>時間
! rowspan="2" |出場<br>人数
! rowspan="2" |シード条件
! rowspan="2" |持ち<br>時間
! rowspan="2" |通過<br>人数
! rowspan="2" |シード条件
! rowspan="2" |持ち<br>時間
! rowspan="2" |通過<br>人数
! rowspan="2" |出場条件
|-
!持ち時間
|-
!81
| rowspan="3" |'''4時間'''
| rowspan="3" |'''一番勝負'''
| rowspan="3" |'''4時間'''
| rowspan="3" |'''16名'''
| style="text-align:left;"|'''8名'''<br>・前期'''ベスト4'''<br>・'''タイトルホルダー'''<br>・'''永世棋聖'''<br>・順位戦'''A級上位'''
| rowspan="3" |'''3時間'''
| {{00}}'''8名'''
| style="text-align:left;"| ・'''前期三次予選'''<br>''' /最終予選進出者'''<br>・過去'''棋聖戦'''五番勝負'''進出者'''<br>・順位戦'''B級2組以上'''
| rowspan="3" |'''1時間'''
| rowspan="3" |{{0}}'''8名'''
| rowspan="3" style="text-align:left;"|・非シードで<br>{{0|_}}'''C級1組以下'''の<br>{{0|_}}棋士全員<br>・'''女流棋士2名'''<br>{{0|_}}<ref group="注" name="aa"/>
|-
!82-91
| style="text-align:left;"|'''下の順に8名まで'''<br>・前期'''ベスト4'''<br>・'''タイトルホルダー'''<br>・'''永世棋聖'''
| rowspan="2" | '''8-12名'''
| rowspan="2" style="text-align:left;"|・'''前期決勝トーナメント出場者'''<br>・過去'''棋聖戦'''五番勝負'''進出者'''<br>・順位戦'''B級2組以上'''
|-
!{{0}}92-{{0}}
| style="text-align:left;"|'''下の順に8名まで'''<ref group="注">永世棋聖シードの扱いについてはアナウンスされていないが、第92期にて決勝トーナメントシードが6名で、永世棋聖資格者の羽生善治と佐藤康光は二次予選から出場している。</ref><br>・前期'''ベスト4'''<br>・'''タイトルホルダー'''
|}
== 永世棋聖 ==
[[棋戦 (将棋)#永世称号|永世称号]]である'''永世棋聖'''は、'''棋聖位を通算5期以上保持した棋士'''に与えられる。2023年7月現在、永世棋聖を獲得したのは合わせて5名で、永世棋聖の称号を付される棋士は[[大山康晴]]・[[中原誠]]・[[米長邦雄]]の3名、永世棋聖の資格を持つ棋士は[[羽生善治]]・[[佐藤康光]]の2名である。なお、米長は[[順位戦#フリークラス|フリークラス]]転出時に現役のまま永世棋聖を呼称。また、中原も60歳になった年度に現役のまま永世棋聖を呼称した。
== エピソード ==
*創設当時のタイトル戦は[[名人戦 (将棋)|名人戦]]・[[十段戦 (将棋)|十段戦]]・[[王将戦]]・[[王位戦 (将棋)|王位戦]]とすべて2日~3日制のものであったが、初めての1日制のタイトル戦となった。体調にすぐれなかった[[升田幸三]]のために、1日制のタイトルとしてつくられた棋戦といわれた<ref>米長邦雄「将棋の天才たち」[[講談社]]、2013年、P172</ref>。しかし、升田は2回挑戦するも、ついに一度も獲得することはなかった。一方、[[大山康晴]]は創設当初から連覇を重ね(7連覇)、早々に永世棋聖の資格を獲得した。
*かつて年に2回行われていたこともあり「初タイトルが棋聖」という例も他のタイトルより多く、第91期(2020年)の[[藤井聡太]]まで13人が初タイトルを棋聖で獲得している<ref>[https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180715/soc1807150001-n1.html 棋士が初めて奪取したタイトル、圧倒的に多いのは? (1/2ページ)] zakzak by [[夕刊フジ]]([[青野照市]])、2018年7月15日(2018年12月1日閲覧)。</ref>。
*大山康晴にとっては、全盛期は(比較的)不得意な棋戦だったが、全盛期を過ぎてからは得意な棋戦となった。1956年度の[[第6期王将戦]]から1972年度の[[第22期王将戦]]まで、棋聖戦を除くと約16年間全てのタイトル戦(名人・十段・王将・王位)に登場しているが、この期間の棋聖戦では第1期(1962年・後)から第10期(1967年・前)までは7連覇を含み全て登場しているものの、翌第11期(1967年・後)<ref group="注">この第11期に登場を逃したことでタイトル戦連続登場記録は50回でストップした。</ref>から第21期(1972年・後)までは過半数の7回登場を逃している。一方、一冠(十段)で臨んだ第24期(1974年・前)で棋聖を奪取するとここから7連覇しており、1974年度の[[第13期十段戦 (将棋)|第13期十段戦]]で失冠してからは保持タイトルは棋聖のみとなった。
*第18期(1971年・前)で[[中原誠]]は大山康晴を相手に防衛に成功。これで通算5期獲得となり、史上最年少(23歳11か月)の永世称号資格者となる。
*第37期(1980年・後)に[[二上達也]]が29期ぶりに棋聖位を獲得した。「29期ぶり」は、タイトルの復位としては史上最長記録<ref group="注">復位までの'''期間'''としては14年半ぶりの復位である。この記録は、[[羽生善治]]が[[第30期竜王戦]]で15年ぶりに復位して破っている。</ref>である(2019年度終了時点)。
*第45期(1984年・後)の五番勝負は、勝てば通算5期で永世棋聖の資格獲得となる[[米長邦雄]]に対して、タイトル戦初登場となる[[中村修 (棋士)|中村修]]が挑んだが、フルセットの末に米長が防衛。永世棋聖の資格を獲得した。なお、この五番勝負はすべての対局で後手番が勝利という結果に終わっている(すべてのタイトル戦を見ても、後手番全勝での決着は現時点ではこの五番勝負と第35期[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]五番勝負のみ)。
*第46期(1985年・前)の五番勝負第2局は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ロサンゼルス]][[リトルトーキョー]](ホテルニューオータニ)で行われた。1975年の[[第1期棋王戦]]以来、将棋界2度目の日本国外での対局となる。
*第55期(1989年・後)に挑戦した[[屋敷伸之]]は17歳で全タイトル戦の最年少挑戦記録(当時)を樹立。加えて棋聖戦史上初の一次予選からの挑戦者となった。翌56期で18歳でタイトル奪取とこれも全タイトル戦最年少記録であったが、挑戦・奪取ともに後述のように藤井聡太によって更新された。
*第67期(1996年)は、タイトル七冠を独占していた[[羽生善治]]が挑戦者の[[三浦弘行]]に敗れた。「羽生善治七冠」の期間は、2月14日の王将位獲得による七冠独占から7月30日の棋聖位失冠までの167日間であった。
*第67期(1996年)〜第73期(2002年)の連続7期、棋聖が防衛に失敗している(挑戦者が奪取している)<ref group="注">この間、[[郷田真隆]]は棋聖を2度奪取しているがいずれも防衛に失敗している。</ref>。これはタイトル戦においての連続防衛失敗最長記録である(2019年度終了時点)。
*第57期(1990年)屋敷伸之棋聖vs[[森下卓]]挑戦者と、第68期(1997年)三浦弘行棋聖vs屋敷伸之挑戦者は、タイトル保持者と挑戦者の[[順位戦]]在籍クラスが共にC級1組であった。タイトル戦で番勝負の登場棋士が共にC級1組以下の事例は、2018年4月現在においては棋聖戦の2例と第3期(2018年)[[叡王戦]]<ref group="注">決勝七番勝負進出者の[[金井恒太]]がC級1組、[[高見泰地]]がC級2組に在籍。なお、第3期叡王戦は、この期からタイトル戦昇格のため、金井と高見は共にタイトル挑戦者の扱いとなる。</ref>の3例のみ。
*2009年8月に、[[日本将棋連盟]]の公式サイトで7つのタイトル(当時)の並び順が変更され、棋聖戦は3番目(竜王・名人の次)から6番目に下がった<ref>[https://web.archive.org/web/20090808004329/http://www.shogi.or.jp/kisen/index.html 棋戦情報:日本将棋連盟(2009年8月8日のアーカイブ)]および[https://web.archive.org/web/20090814202159/http://www.shogi.or.jp/kisen/index.html 棋戦情報:日本将棋連盟(2009年8月14日のアーカイブ)]を参照。</ref>。さらに2010年10月には7番目(一番下)に下がった<ref>[https://web.archive.org/web/20101003141940/http://www.shogi.or.jp/kisen/index.html 棋戦情報:日本将棋連盟(2010年10月3日のアーカイブ)]および[https://web.archive.org/web/20101012071340/http://www.shogi.or.jp/kisen/index.html 棋戦情報:日本将棋連盟(2010年10月12日のアーカイブ)]を参照。</ref>{{Refnest|group="注"|タイトル序列の基準は公式には発表されていなかったが、2017年、第3期叡王戦タイトル昇格の記者会見の際に「契約金の多寡」によって決まっていることが明らかにされた<ref>[https://live.nicovideo.jp/watch/lv290110261 第3期叡王戦発表記者会見―ニコニコ生放送(第2期電王戦 二番勝負 第2局 佐藤天彦叡王 vs PONANZA 終了後)]における佐藤会長の発言より、2017年5月20日</ref>。}}。叡王戦がタイトル戦に昇格し序列3位となった際には各棋戦の序列が順に下がり{{Refnest|group="注"|その後、叡王戦を含む複数棋戦間において序列の入替えが生じている。}}、2018年以降の棋聖戦は8番目の序列(2022年時点)である。
:各棋士の紹介ページ(棋聖と他のタイトルの両方の経験者)での記載も同様に変更された。
:*変更前 1.[[竜王戦]]、2.[[名人戦 (将棋)|名人戦]]、'''3.棋聖戦'''、4.[[王位戦 (将棋)|王位戦]]、5.[[王座戦 (将棋)|王座戦]]、6.[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]、7.[[王将戦]]
:*2009年変更後 1.竜王戦、2.名人戦、3.王位戦、4.王座戦、5.棋王戦、'''6.棋聖戦'''、7.王将戦
:*2010年変更後 1.竜王戦、2.名人戦、3.王位戦、4.王座戦、5.棋王戦、6.王将戦、'''7.棋聖戦'''
:*2018年以降 1.竜王戦、2.名人戦、<u>3.叡王戦</u>、4.王位戦、5.王座戦、6.棋王戦、7.王将戦、'''8.棋聖戦'''(叡王戦タイトル昇格に伴う)
:*2020年以降 1.竜王戦、2.名人戦、3.王位戦、4.王座戦、5.棋王戦、<u>6.叡王戦</u>、7.王将戦、'''8.棋聖戦'''(叡王戦主催者変更に伴う)
:*2022年以降 1.竜王戦、2.名人戦、3.王位戦、<u>4.叡王戦</u>、5.王座戦、6.棋王戦、7.王将戦、'''8.棋聖戦'''(序列変更に伴う)
*第84期(2013年)は棋聖・王位・王座の羽生善治に、竜王・棋王・王将の[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]が挑戦した。将棋のタイトル戦史上、三冠を保持する者同士が対戦するのは初のケースであった<ref>[https://web.archive.org/web/20130510001520/http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/05/08/kiji/K20130508005760590.html 渡辺明王将 羽生善治3冠と史上初の3冠対決] [[スポーツニッポン]] 2013年5月8日</ref>(結果は3勝1敗で羽生が防衛)。なお同年11月28日に第63期(2014年)王将戦の挑戦権を羽生が獲得し、竜王戦の最中だった渡辺が防衛すれば棋聖戦に続く三冠対決が実現していたが、翌日渡辺が竜王を失冠したため幻となった。
*第85期(2014年)・第86期(2015年)には、高級洋菓子店の[[吉田菊次郎|ブールミッシュ]]が協賛に入ったため、全局で同社の菓子類が対局者に提供されたほか<ref>[https://kifulog.shogi.or.jp/kisei/2014/06/post-4d49.html 前夜祭(5)] - 棋聖戦中継Plus・2014年6月1日</ref>、将棋ファン向けに[[詰将棋]]が印刷された棋聖戦限定のパッケージも発売された<ref>[https://kifulog.shogi.or.jp/kisei/2014/06/post-6dea.html 将棋と洋菓子――インタビュー] - 棋聖戦中継Plus・2014年6月21日</ref>。
*第89期(2018年)は、棋聖と竜王の二冠を保持していた羽生善治が挑戦者の[[豊島将之]]に敗れたことで、8つのタイトルを8人が1つずつ持ち合う「戦国時代」さながらの状態になった<ref group="注">竜王:羽生善治、名人:佐藤天彦、叡王:高見泰地、王位:菅井竜也、棋王:渡辺明、王将:久保利明、棋聖:豊島将之</ref>。このような事例は、7タイトル時代に7人でタイトルを分け合った1987年以来、31年ぶりの出来事であった。また、7月17日に行われた第5局では、羽生の手番である48手目に火災警報が鳴り響くアクシデントが発生した。これは、対局の行われた都市センターホテルが消防訓練を行ったために起こったが、対局者には事前に知らされていなかったようで、10時47分から10時49分まで時計を止めて羽生・豊島・記録係がいったん室外に出ることになった。その後安全が確認されたため対局が再開された。
*第91期(2020年)は、藤井聡太が一次予選から準決勝まで勝ち上がり、タイトル挑戦の最年少記録の更新が期待されたが、[[新型コロナウイルス感染症]]の影響で棋聖戦も延期となり、記録更新の可能性は消滅したと思われた<ref>[https://hochi.news/articles/20200505-OHT1T50016.html 藤井聡太七段、最年少タイトル挑戦消滅] - スポーツ報知・2020年5月5日</ref>。しかし、緊急事態宣言解除後、本戦準決勝が6月2日、決勝は中1日で6月4日、第1局は挑戦者決定から4日後の6月8日という、異例の日程が組まれた<ref>[https://www.sankei.com/article/20200525-CLIKYZZGEJLV7AAKFAS6E5Z224/ 将棋・棋聖戦の準決勝6月2日に 五番勝負は6月8日開幕] - 産経新聞・2020年5月25日</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/843685 藤井聡太タイトル挑戦へ超異例日程] - Number・2020年5月30日</ref>。藤井は準決勝で[[佐藤天彦]]、挑戦者決定戦で[[永瀬拓矢]]を破り、屋敷伸之の最年少タイトル挑戦記録を31年ぶりに4日更新した。棋聖戦史上初めて一次予選からの勝ち上がりで渡辺明から棋聖位を獲得し、最年少タイトル獲得記録を30年ぶりに更新した。
*第92期(2021年)は、女流三冠(奨励会三段)の[[西山朋佳]]が棋士以外で初めて(女性としても初)棋戦の一次予選を突破した<ref>[https://www.sankei.com/article/20200730-WZXGXPNZ2NPFTBIAWOHATAXHCE/ 西山女流三冠、棋戦で女性初の1次予選突破 第92期ヒューリック杯棋聖戦] - 産経新聞・2020年7月30日</ref>。二次予選では、初戦の準決勝は勝利<ref>[https://www.sankei.com/article/20210107-AP6NZE3XA5IKJBYDVKYHBIPWYE/ 西山女流三冠、ヒューリック杯棋聖戦2次予選で決勝進出] - 産経新聞・2021年1月7日</ref>したが、決勝戦で敗れ、本戦進出とはならなかった<ref>[https://hochi.news/articles/20210127-OHT1T50126.html 西山朋佳女流三冠、女性初の公式戦本戦進出はならず 強豪・屋敷伸之九段に敗れる] - スポーツ報知・2021年1月27日</ref>。
*第93期(2022年)は、藤井聡太vs[[永瀬拓矢]]となった。第1局は二度の千日手が成立し、タイトル棋戦として史上初の「二度の同日指し直し局」の末に永瀬が勝利した。第2局以降は藤井が巻き返し、3連勝で藤井が3連覇を達成した。3連覇を達成した第4局は藤井にとって10代最後の対局、かつ、地元愛知でタイトル9期目を獲得した<ref>[https://web.archive.org/web/20220718065200/https://www.sanspo.com/article/20220718-CWKT375XIZDXXPSUUHZKQIOOAQ/link-39Y84Z8XPH75D9MMAT67W11N8C/ 藤井聡太棋聖が3連覇! 10代ラスト、地元愛知で防衛果たす 19日でハタチに/将棋] - サンケイスポーツ・2022年7月18日</ref>。
* 第94期(2023年)の第1局は[[ベトナム]]([[ダナン]])で行なわれることになった。[[第4期叡王戦]]第1局の台湾での対局以来、4年ぶりの将棋タイトル戦海外対局となる。
== 歴代五番勝負 ==
{| border="1" class="wikitable" style="font-size:80%;"
|
;番勝負勝敗(棋聖・挑戦者決定戦勝者側から見た勝敗)
:○:勝ち ●:負け 千:[[千日手]] 持:[[持将棋]]
;棋聖戦五番勝負
:{|
| style="background-color:#ffcccc; border:1px solid #aaaaaa;"|'''太字'''||:棋聖獲得者(五番勝負勝者)
| style="background-color:#ff6699; border:1px solid #aaaaaa;" |'''太字'''{{sup|永}}|| :永世資格獲得者(五番勝負勝者)
|}
;年度(第65期までは年2回開催)
:前:前期(6~7月) 後:後期(12月~2月)
|}
=== 創設~第10期(年2期開催) ===
{| class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|期!!rowspan="2" colspan="2"|年度!!colspan="3"|棋聖戦五番勝負!!colspan="4"|予選リーグ
|-
!予選1位!!勝敗!!予選2位!!結果!!予選敗者!! colspan="2" |
|-
![[第1期棋聖戦 (将棋)|1]]
|[[1962年度の将棋界|1962]]||後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''[[大山康晴]]'''
|○●○○-
|[[塚田正夫]]
|'''大山4-2'''<br/>'''塚田3-3'''<br/>升田2-4
|[[升田幸三]]
| colspan="2" |
|-
!rowspan="2"|期!!rowspan="2" colspan="2"|年度!!colspan="3"|棋聖戦五番勝負!!colspan="4"|挑戦者決定トーナメント
|-
!棋聖!!勝敗!!挑戦者!!三番勝負!!挑決敗者!! colspan="2" |ベスト4
|-
![[第2期棋聖戦 (将棋)|2]]
|rowspan="2"|[[1963年度の将棋界|1963]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○○○--
|[[二上達也]]
|○●○
|[[花村元司]]
|升田幸三
|[[丸田祐三]]
|-
![[第3期棋聖戦 (将棋)|3]]
|<!-- 1963|| -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○○●○-
|升田幸三
|○●○
|[[山田道美]]
|[[有吉道夫]]
|[[加藤一二三]]
|-
![[第4期棋聖戦 (将棋)|4]]
|rowspan="2"|[[1964年度の将棋界|1964]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|●○●○○
|[[関根茂]]
|○○-
|[[本間爽悦]]
|山田道美
|丸田祐三
|-
![[第5期棋聖戦 (将棋)|5]]
|<!-- 1964|| -->後期
|style="background-color: #ff6699"|'''大山康晴'''{{sup|永}}
|○○○--
|本間爽悦
|○○-
|関根茂
|塚田正夫
|丸田祐三
|-
![[第6期棋聖戦 (将棋)|6]]
|rowspan="2"|[[1965年度の将棋界|1965]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|●○●○○
|升田幸三
|○○-
|丸田祐三
|加藤一二三
|[[大野源一]]
|-
![[第7期棋聖戦 (将棋)|7]]
|<!-- 1965|| -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○●●○○
|二上達也
|●○○
|加藤一二三
|山田道美
|升田幸三
|-
![[第8期棋聖戦 (将棋)|8]]
|rowspan="2"|[[1966年度の将棋界|1966]]||前期
|大山康晴
|●○●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''二上達也'''
|○○-
|[[長谷部久雄]]
|[[佐藤大五郎]]
|[[中原誠]]
|-
![[第9期棋聖戦 (将棋)|9]]
|<!-- 1966|| -->後期
|二上達也
|●●●--
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○○-
|山田道美
|花村元司
|[[佐藤庄平]]
|-
![[第10期棋聖戦 (将棋)|10]]
|[[1967年度の将棋界|1967]]||前期
|大山康晴
|{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|千<br/>●|●|○|●|-}}
|style="background-color: #ffcccc"|'''山田道美'''
|○○-
|丸田祐三
|[[灘蓮照]]
|[[北村昌男]]
|}
=== 第11期~第65期(年2期開催) ===
{| style="background-color: transparent; width:100%;"
| style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" |
{| class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;text-align:center;margin-right:1em;"
!rowspan="2"|期!!rowspan="2" colspan="2"|年度!!colspan="3"|棋聖戦五番勝負!!colspan="3"|挑戦者決定トーナメント
|-
!棋聖!!勝敗!!挑戦者!!挑決敗者!! colspan="2" |ベスト4
|-
![[第11期棋聖戦 (将棋)|11]]
|[[1967年度の将棋界|1967]]||後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''[[山田道美]]'''
|●●○○○
|[[中原誠]]
|[[板谷進]]
|[[大山康晴]]
|[[関根茂]]
|-
![[第12期棋聖戦 (将棋)|12]]
|rowspan="2"|[[1968年度の将棋界|1968]]||前期
|山田道美
|○●●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|[[高島弘光]]
|[[升田幸三]]
|大山康晴
|-
![[第13期棋聖戦 (将棋)|13]]
|<!-- 1968 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|○●○○-
|大山康晴
|[[二上達也]]
|升田幸三
|高島弘光
|-
![[第14期棋聖戦 (将棋)|14]]
|rowspan="2"|[[1969年度の将棋界|1969]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|○○○--
|山田道美
|[[内藤國雄]]
|升田幸三
|大山康晴
|-
![[第15期棋聖戦 (将棋)|15]]
|<!-- 1969 -->後期
|中原誠
|○●●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''内藤國雄'''
|[[北村昌男]]
|二上達也
|[[有吉道夫]]
|-
![[第16期棋聖戦 (将棋)|16]]
|rowspan="2"|[[1970年度の将棋界|1970]]||前期
|内藤國雄
|●●○●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|山田道美<ref group="注">山田道美は、1970年6月6日に行われた大山康晴との挑戦者決定戦が公式戦最期の対局となり、同年6月18日に急逝した。</ref>
|[[桐山清澄]]
|[[丸田祐三]]
|-
![[第17期棋聖戦 (将棋)|17]]
|<!-- 1970 -->後期
|大山康晴
|●●●--
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|二上達也
|[[板谷進]]
|升田幸三
|-
![[第18期棋聖戦 (将棋)|18]]
|rowspan="2"|[[1971年度の将棋界|1971]]||前期
|style="background-color: #ff6699"|'''中原誠'''{{sup|永}}
|○○●○-
|大山康晴
|[[西村一義]]
|[[大野源一]]
|[[大友昇]]
|-
![[第19期棋聖戦 (将棋)|19]]
|<!-- 1971 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|○●○○-
|二上達也
|有吉道夫
|大山康晴
|内藤國雄
|-
![[第20期棋聖戦 (将棋)|20]]
|rowspan="2"|[[1972年度の将棋界|1972]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|○○●○-
|内藤國雄
|[[佐藤大五郎]]
|二上達也
|[[加藤一二三]]
|-
![[第21期棋聖戦 (将棋)|21]]
|<!-- 1972 -->後期
|中原誠
|○○●●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''有吉道夫'''
|佐藤大五郎
|[[大内延介]]
|[[佐伯昌優]]
|-
![[第22期棋聖戦 (将棋)|22]]
|rowspan="2"|[[1973年度の将棋界|1973]]||前期
|有吉道夫
|○●●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''[[米長邦雄]]'''
|桐山清澄
|大山康晴
|加藤一二三
|-
![[第23期棋聖戦 (将棋)|23]]
|<!-- 1973 -->後期
|米長邦雄
|○○●●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''内藤國雄'''
|中原誠
|大山康晴
|有吉道夫
|-
![[第24期棋聖戦 (将棋)|24]]
|rowspan="2"|[[1974年度の将棋界|1974]]||前期
|内藤國雄
|○●●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|中原誠
|米長邦雄
|大内延介
|-
![[第25期棋聖戦 (将棋)|25]]
|<!-- 1974 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○○○--
|米長邦雄
|中原誠
|内藤國雄
|二上達也
|-
![[第26期棋聖戦 (将棋)|26]]
|rowspan="2"|[[1975年度の将棋界|1975]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○●○○-
|二上達也
|内藤國雄
|[[桜井昇]]
|関根茂
|-
![[第27期棋聖戦 (将棋)|27]]
|<!-- 1975 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○○○--
|二上達也
|[[吉田利勝]]
|大内延介
|内藤國雄
|-
![[第28期棋聖戦 (将棋)|28]]
|rowspan="2"|[[1976年度の将棋界|1976]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○●○○-
|桐山清澄
|大内延介
|西村一義
|[[淡路仁茂]]
|-
![[第29期棋聖戦 (将棋)|29]]
|<!-- 1976 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|●○○●○
|米長邦雄
|有吉道夫
|大内延介
|[[森雞二]]
|-
![[第30期棋聖戦 (将棋)|30]]
|rowspan="2"|[[1977年度の将棋界|1977]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''
|○●○○-
|森雞二
|米長邦雄
|加藤一二三
|有吉道夫
|-
![[第31期棋聖戦 (将棋)|31]]
|<!-- 1977 -->後期
|大山康晴
|○○●●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|[[森安秀光]]
|米長邦雄
|森雞二
|-
![[第32期棋聖戦 (将棋)|32]]
|rowspan="2"|[[1978年度の将棋界|1978]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|○○○--
|有吉道夫
|二上達也
|森安秀光
|関根茂
|-
![[第33期棋聖戦 (将棋)|33]]
|<!-- 1978 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|○●○○-
|二上達也
|森安秀光
|桐山清澄
|板谷進
|-
![[第34期棋聖戦 (将棋)|34]]
|rowspan="2"|[[1979年度の将棋界|1979]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|○●○○-
|加藤一二三
|大山康晴
|[[谷川浩司]]
|[[勝浦修]]
|-
![[第35期棋聖戦 (将棋)|35]]
|<!-- 1979 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|○○○--
|淡路仁茂
|西村一義
|二上達也
|森雞二
|-
![[第36期棋聖戦 (将棋)|36]]
|rowspan="2"|[[1980年度の将棋界|1980]]||前期
|中原誠
|●●○●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''米長邦雄'''
|[[佐藤義則 (棋士)|佐藤義則]]
|加藤一二三
|内藤國雄
|-
![[第37期棋聖戦 (将棋)|37]]
|<!-- 1980 -->後期
|米長邦雄
|○●●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''二上達也'''
|大山康晴
|[[花村元司]]
|加藤一二三
|-
![[第38期棋聖戦 (将棋)|38]]
|rowspan="2"|[[1981年度の将棋界|1981]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''二上達也'''
|○○○--
|中原誠
|大内延介
|勝浦修
|大山康晴
|-
![[第39期棋聖戦 (将棋)|39]]
|<!-- 1981 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''二上達也'''
|○○○--
|加藤一二三
|淡路仁茂
|森雞二
|内藤國雄
|-
![[第40期棋聖戦 (将棋)|40]]
|rowspan="2"|[[1982年度の将棋界|1982]]||前期
|二上達也
|●●●--
|style="background-color: #ffcccc"|'''森雞二'''
|[[真部一男]]
|勝浦修
|[[土佐浩司]]
|-
![[第41期棋聖戦 (将棋)|41]]
|<!-- 1982 -->後期
|森雞二
|●○●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|森安秀光
|谷川浩司
|[[田中寅彦]]
|-
![[第42期棋聖戦 (将棋)|42]]
|rowspan="2"|[[1983年度の将棋界|1983]]||前期
|中原誠
|○○●●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''森安秀光'''
|桐山清澄
|内藤國雄
|森雞二
|-
![[第43期棋聖戦 (将棋)|43]]
|<!-- 1983 -->後期
|森安秀光
|●○●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''米長邦雄'''
|中原誠
|加藤一二三
|[[石田和雄]]
|-
![[第44期棋聖戦 (将棋)|44]]
|rowspan="2"|[[1984年度の将棋界|1984]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''米長邦雄'''
|○○○--
|谷川浩司
|桐山清澄
|大山康晴
|加藤一二三
|-
![[第45期棋聖戦 (将棋)|45]]
|<!-- 1984 -->後期
|style="background-color: #ff6699"|'''米長邦雄'''{{sup|永}}
|●○●○○
|[[中村修 (棋士)|中村修]]
|森安秀光
|加藤一二三
|大山康晴
|-
![[第46期棋聖戦 (将棋)|46]]
|rowspan="2"|[[1985年度の将棋界|1985]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''米長邦雄'''
|○●○○-
|勝浦修
|谷川浩司
|桐山清澄
|森雞二
|-
![[第47期棋聖戦 (将棋)|47]]
|<!-- 1985 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''米長邦雄'''
|○○○--
|中村修
|勝浦修
|森安秀光
|桐山清澄
|-
![[第48期棋聖戦 (将棋)|48]]
|rowspan="2"|[[1986年度の将棋界|1986]]||前期
|米長邦雄
|●●○●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''桐山清澄'''
|谷川浩司
|中村修
|淡路仁茂
|-
![[第49期棋聖戦 (将棋)|49]]
|<!-- 1986 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''桐山清澄'''
|○○●○-
|[[南芳一]]
|加藤一二三
|大山康晴
|森安秀光
|-
![[第50期棋聖戦 (将棋)|50]]
|rowspan="2"|[[1987年度の将棋界|1987]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''桐山清澄'''
|○○○--
|西村一義
|[[小林健二 (将棋棋士)|小林健二]]
|中村修
|大山康晴
|-
![[第51期棋聖戦 (将棋)|51]]
|<!-- 1987 -->後期
|桐山清澄
|●●●--
|style="background-color: #ffcccc"|'''南芳一'''
|[[田中寅彦]]
|小林健二
|[[二上達也]]
|-
![[第52期棋聖戦 (将棋)|52]]
|rowspan="2"|[[1988年度の将棋界|1988]]||前期
|南芳一
|●○○●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''田中寅彦'''
|[[谷川浩司]]
|[[田丸昇]]
|[[中原誠]]
|-
![[第53期棋聖戦 (将棋)|53]]
|<!-- 1988 -->後期
|田中寅彦
|●○○●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|[[高橋道雄]]
|[[塚田泰明]]
|谷川浩司
|-
![[第54期棋聖戦 (将棋)|54]]
|rowspan="2"|[[1989年度の将棋界|1989]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|●○○○-
|南芳一
|[[淡路仁茂]]
|塚田泰明
|[[羽生善治]]
|-
![[第55期棋聖戦 (将棋)|55]]
|<!-- 1989 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''
|●○○●○
|[[屋敷伸之]]
|高橋道雄
|塚田泰明
|[[加藤一二三]]
|-
![[第56期棋聖戦 (将棋)|56]]
|rowspan="2"|[[1990年度の将棋界|1990]]||前期
|中原誠
|○○●●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''屋敷伸之'''
|塚田泰明
|[[青野照市]]
|高橋道雄
|-
![[第57期棋聖戦 (将棋)|57]]
|<!-- 1990 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''屋敷伸之'''
|●○○○-
|[[森下卓]]
|[[郷田真隆]]
|[[中村修 (棋士)|中村修]]
|小林健二
|-
![[第58期棋聖戦 (将棋)|58]]
|rowspan="2"|[[1991年度の将棋界|1991]]||前期
|屋敷伸之
|○●●○●
|style="background-color: #ffcccc"|'''南芳一'''
|郷田真隆
|中原誠
|谷川浩司
|-
![[第59期棋聖戦 (将棋)|59]]
|<!-- 1991 -->後期
|南芳一
|●●●--
|style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司'''
|[[阿部隆]]
|屋敷伸之
|[[内藤國雄]]
|-
![[第60期棋聖戦 (将棋)|60]]
|rowspan="2"|[[1992年度の将棋界|1992]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司'''
|●○○○-
|郷田真隆
|阿部隆
|中原誠
|[[神崎健二]]
|-
![[第61期棋聖戦 (将棋)|61]]
|<!-- 1992 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司'''
|○持○○--
|郷田真隆
|塚田泰明
|神崎健二
|南芳一
|-
![[第62期棋聖戦 (将棋)|62]]
|rowspan="2"|[[1993年度の将棋界|1993]]||前期
|谷川浩司
|○●●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|[[福崎文吾]]
|[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]]
|高橋道雄
|-
![[第63期棋聖戦 (将棋)|63]]
|<!-- 1993 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|○|千<br/>千<br/>●|●|○}}
|谷川浩司
|福崎文吾
|[[米長邦雄]]
|[[森内俊之]]
|-
![[第64期棋聖戦 (将棋)|64]]
|rowspan="2"|[[1994年度の将棋界|1994]]||前期
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○●○○-
|谷川浩司
|中原誠
|森内俊之
|[[島朗]]
|-
![[第65期棋聖戦 (将棋)|65]]
|<!-- 1994 -->後期
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○○○--
|島朗
|谷川浩司
|森内俊之
|[[三浦弘行]]
|}
|}
=== 第66期~現在 ===
{| class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;text-align:center"
!rowspan="2"|期!!rowspan="2"|年度!!colspan="3"|棋聖戦五番勝負!!colspan="3"|挑戦者決定トーナメント
|-
!棋聖!!勝敗!!挑戦者!!挑決敗者!! colspan="2" |ベスト4
|-
![[第66期棋聖戦 (将棋)|66]]
|[[1995年度の将棋界|1995]]
|style="background-color: #ff6699"|'''羽生善治'''{{sup|永}}
|○○○--
|三浦弘行
|森下卓
|谷川浩司
|[[村山聖]]
|-
![[第67期棋聖戦 (将棋)|67]]
|[[1996年度の将棋界|1996]]
|羽生善治
|●○○●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''三浦弘行'''
|屋敷伸之
|[[藤井猛]]
|米長邦雄
|-
![[第68期棋聖戦 (将棋)|68]]
|[[1997年度の将棋界|1997]]
|三浦弘行||●○●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''屋敷伸之'''
|郷田真隆
|中原誠
|森内俊之
|-
![[第69期棋聖戦 (将棋)|69]]
|[[1998年度の将棋界|1998]]
|屋敷伸之
|●●●--
|style="background-color: #ffcccc"|'''郷田真隆'''
|藤井猛
|谷川浩司
|村山聖<ref group="注">村山聖は病気入院により準決勝で郷田真隆に不戦敗。1998年8月8日に逝去した。</ref>
|-
![[第70期棋聖戦 (将棋)|70]]
|[[1999年度の将棋界|1999]]
|郷田真隆
|●●●--
|style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司'''
|森内俊之
|羽生善治
|[[行方尚史]]
|-
![[第71期棋聖戦 (将棋)|71]]
|[[2000年度の将棋界|2000]]
|谷川浩司||○●○●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|森内俊之
|中原誠
|[[佐藤康光]]
|-
![[第72期棋聖戦 (将棋)|72]]
|[[2001年度の将棋界|2001]]
|羽生善治
|○●●○●
|style="background-color: #ffcccc"|'''郷田真隆'''
|[[深浦康市]]
|[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]
|行方尚史
|-
![[第73期棋聖戦 (将棋)|73]]
|[[2002年度の将棋界|2002]]
|郷田真隆
|○○●●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''佐藤康光'''
|[[丸山忠久]]
|[[久保利明]]
|[[木村一基]]
|-
![[第74期棋聖戦 (将棋)|74]]
|[[2003年度の将棋界|2003]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''佐藤康光'''
|○○○--
|丸山忠久
|郷田真隆
|木村一基
|鈴木大介
|-
![[第75期棋聖戦 (将棋)|75]]
|[[2004年度の将棋界|2004]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''佐藤康光'''
|{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|千<br/>○|○|-|-}}
|森内俊之
|木村一基
|羽生善治
|久保利明
|-
![[第76期棋聖戦 (将棋)|76]]
|[[2005年度の将棋界|2005]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''佐藤康光'''
|●○○●○
|羽生善治
|三浦弘行
|[[堀口一史座]]
|森内俊之
|-
![[第77期棋聖戦 (将棋)|77]]
|[[2006年度の将棋界|2006]]
|style="background-color: #ff6699"|'''佐藤康光'''{{sup|永}}
|○○○--
|鈴木大介
|羽生善治
|森内俊之
|森下卓
|-
![[第78期棋聖戦 (将棋)|78]]
|[[2007年度の将棋界|2007]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''佐藤康光'''
|○○●○-
|[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]
|久保利明
|鈴木大介
|丸山忠久
|-
![[第79期棋聖戦 (将棋)|79]]
|[[2008年度の将棋界|2008]]
|佐藤康光
|○○●●●
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|久保利明
|郷田真隆
|木村一基
|-
![[第80期棋聖戦 (将棋)|80]]
|[[2009年度の将棋界|2009]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○●●○○
|木村一基
|[[稲葉陽]]
|谷川浩司
|久保利明
|-
![[第81期棋聖戦 (将棋)|81]]
|[[2010年度の将棋界|2010]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○○○--
|深浦康市
|渡辺明
|郷田真隆
|稲葉陽
|-
![[第82期棋聖戦 (将棋)|82]]
|[[2011年度の将棋界|2011]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|千<br/>○|○|-|-}}
|深浦康市
|[[佐藤天彦]]
|郷田真隆
|佐藤康光
|-
![[第83期棋聖戦 (将棋)|83]]
|[[2012年度の将棋界|2012]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○○○--
|[[中村太地 (棋士)|中村太地]]
|深浦康市
|佐藤天彦
|郷田真隆
|-
![[第84期棋聖戦 (将棋)|84]]
|[[2013年度の将棋界|2013]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○○●○-
|渡辺明
|郷田真隆
|久保利明
|中村太地
|-
![[第85期棋聖戦 (将棋)|85]]
|[[2014年度の将棋界|2014]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○○○--
|森内俊之
|[[村山慈明]]
|[[菅井竜也]]
|稲葉陽
|-
![[第86期棋聖戦 (将棋)|86]]
|[[2015年度の将棋界|2015]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○●○○-
|[[豊島将之]]
|佐藤天彦
|村山慈明
|佐藤康光
|-
![[第87期棋聖戦 (将棋)|87]]
|[[2016年度の将棋界|2016]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|千<br/>●|○|●|○|○}}
|[[永瀬拓矢]]
|村山慈明
|[[糸谷哲郎]]
|三浦弘行
|-
![[第88期棋聖戦 (将棋)|88]]
|[[2017年度の将棋界|2017]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治'''
|○○●○-
|[[斎藤慎太郎]]
|糸谷哲郎
|佐藤康光
|郷田真隆
|-
![[第89期棋聖戦 (将棋)|89]]
|[[2018年度の将棋界|2018]]
|羽生善治
|●○●○●
|style="background-color: #ffcccc"|'''豊島将之'''
|三浦弘行
|稲葉陽
|[[阿部光瑠]]
|-
![[第90期棋聖戦 (将棋)|90]]
|[[2019年度の将棋界|2019]]
|豊島将之||○●●●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''渡辺明'''
|郷田真隆
|菅井竜也
|久保利明
|-
![[第91期棋聖戦 (将棋)|91]]
|[[2020年度の将棋界|2020]]
|渡辺明||●●○●-
|style="background-color: #ffcccc"|'''[[藤井聡太]]'''
|永瀬拓矢
|佐藤天彦
|[[山崎隆之]]
|-
![[第92期棋聖戦 (将棋)|92]]
|[[2021年度の将棋界|2021]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''藤井聡太'''
|○○○--||渡辺明
|永瀬拓矢
|中村太地
|山崎隆之
|-
![[第93期棋聖戦 (将棋)|93]]
|[[2022年度の将棋界|2022]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''藤井聡太'''
|{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|千<br/>千<br/>●|○|○|○|-}}
|永瀬拓矢
|渡辺明
|久保利明
|[[佐々木大地 (棋士)|佐々木大地]]
|-
![[第94期棋聖戦 (将棋)|94]]
|[[2023年度の将棋界|2023]]
|style="background-color: #ffcccc"|'''藤井聡太'''
|{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|●|○|○|-}}
|佐々木大地
|永瀬拓矢
|渡辺明
|[[佐々木勇気]]
|-
![[第95期棋聖戦 (将棋)|95]]
|[[2024年度の将棋界|2024]]
|藤井聡太
|{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|-|-|-|-|-}}
|
|
|
|
|}
== 記録 ==
{| class="wikitable" style="font-size:90%; margin-right:1em;"
!
!永世称号獲得
!タイトル獲得
!五番勝負出場
!ベスト16以上<ref group="注" name="ベスト16">66~80期はリーグ進出、それ以外は決勝T進出。</ref>
|-
!最多
|{{center|-}}
|style="text-align:right"|[[大山康晴]] 通算16期(半期制 16期)<br>[[中原誠]] 通算16期(半期制 16期)<br>[[羽生善治]] 通算16期(半期制 {{0}}4期)
|中原誠 通算23期<br/>{{align|right|(半期制 23期){{0}}}}
|中原誠 通算71期<br/>{{00}}(半期制 57期)<!-- 第8期-第9期、第11期-第79期 -->
|- style="text-align:center;"
!連続
|{{center|-}}
|羽生善治 10連覇
|羽生善治 11期連続
|中原誠 69期連続<br/>(半期制 55期連続){{0}}<!-- 第11期-第79期 -->
|- style="text-align:center;"
!最年少
|第18期 中原誠<br>{{age in years and days|1947|09|02|1971|08|03|age=yes|to=none}}
|第91期 [[藤井聡太]]<br>{{age in years and days|2002|07|19|2020|07|16|age=yes|to=none}}
|第91期 藤井聡太<br>{{age in years and days|2002|07|19|2020|06|08|age=yes|to=none}}<ref group="注">タイトル戦1局目時点。挑戦決定は{{age in years and days|2002|07|19|2020|06|04|age=yes|to=none}}であり、第55期の[[屋敷伸之]]の記録{{age in years and days|1972|01|18|1989|11|27|age=yes|to=none}}が最年少。</ref>
|第34期 [[谷川浩司]]<br>{{age in years and days|1962|4|6|1979|3|23|age=yes|to=none}}<ref group="注">1979年3月23日第34期本戦1回戦[[板谷進]]戦時点。二次予選決勝時点では{{age in years and days|1962|4|6|1979|02|10|age=yes|to=none}}。</ref>
|- style="text-align:center;"
!最年長
|第5期 大山康晴<br>{{age in years and days|1923|03|13|1965|01|11|age=yes|to=none}}
|第30期 大山康晴<br>{{age in years and days|1923|3|13|1977|7|18|age=yes|to=none}}<ref group="注">在位は{{age in years and days|1923|3|13|1978|2|6|age=yes|to=none}}まで。</ref>
|第31期 大山康晴<br>{{age in years and days|1923|3|13|1977|12|13|age=yes|to=none}}<ref group="注">タイトル戦1局目時点。最終局時点では{{age in years and days|1923|3|13|1978|2|6|age=yes|to=none}}。</ref>
|第81期 [[加藤一二三]]<br>{{age in years and days|1940|1|1|2010|2|24|age=yes|to=none}}<ref group="注">2010年2月24日第81期本戦1回戦深浦康市戦時点(敗退)。二次予選決勝時点では{{age in years and days|1940|1|1|2010|1|13|age=yes|to=none}}。</ref>
|}
== 通算成績 ==
*第94期終了時点
*永世棋聖と永世棋聖資格者、最多記録の数字は太字表記
*棋聖在位者は{{bgcolor|#FCC|*}}で注記
{| class="sortable wikitable"" style="font-size:90%; margin-right:1em;text-align:center;"
|+
! rowspan="2" |氏名
! colspan="2" |棋聖在位
! colspan="2" |五番勝負出場<br><small>(在位・挑戦者問わず)</small>
! colspan="2" |挑戦者決定戦進出<br>(棋聖在位含む)
! colspan="2" |ベスト16以上<ref group="注" name="ベスト16" /><br>(棋聖在位含む)
|-
!通算
!連続
!通算
!連続
!通算
!連続
!通算
!連続
|- style="height:1.0em"
! !! !! !! !! !! !! !! !!
|-
|'''[[羽生善治]]'''
|'''16'''
|'''10'''
|20
|'''11'''
|22
|'''11'''
|35
|32
|-
|'''[[大山康晴]]'''
|'''16'''
|7
|22
|10
|23
|10
|52
|51
|-
|'''[[中原誠]]'''
|'''16'''
|5
|'''23'''
|6
|'''28'''
|6
|'''71'''
|'''69'''
|-
|'''[[米長邦雄]]'''
|7
|5
|12
|6
|13
|6
|50
|18
|-
|'''[[佐藤康光]]'''
|6
|6
|7
|7
|7
|7
|25
|20
|-style="background-color:#FCC;"
|[[藤井聡太]]*
|4
|4
|4
|4
|4
|4
|4
|4
|-
|[[二上達也]]
|4
|3
|12
|4
|15
|4
|46
|41
|-
|[[谷川浩司]]
|4
|3
|9
|6
|10
|7
|41
|34
|-
|[[桐山清澄]]
|3
|3
|5
|4
|7
|3
|40
|13
|-
|[[屋敷伸之]]
|3
|2
|6
|4
|7
|4
|21
|6
|-
|[[山田道美]]
|2
|2
|4
|3
|7
|4
|14
|10
|-
|[[南芳一]]
|2
|1
|6
|2
|6
|2
|23
|16
|-
|[[郷田真隆]]
|2
|1
|6
|2
|12
|3
|28
|13
|-
|[[内藤國雄]]
|2
|1
|5
|2
|7
|3
|38
|11
|-
|[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]
|1
|1
|5
|3
|7
|4
|19
|19
|-
|[[三浦弘行]]
|1
|1
|3
|3
|3
|3
|19
|6
|-
|[[有吉道夫]]
|1
|1
|3
|2
|5
|2
|39
|18
|-
|[[森雞二]]
|1
|1
|3
|2
|3
|2
|27
|9
|-
|[[豊島将之]]
|1
|1
|3
|2
|3
|2
|7
|5
|-
|[[森安秀光]]
|1
|1
|2
|2
|6
|3
|17
|11
|-
|[[田中寅彦]]
|1
|1
|2
|2
|3
|3
|14
|4
|-
|[[深浦康市]]
|0
|0
|2
|1
|4
|3
|13
|6
|-
|[[永瀬拓矢]]
|0
|0
|2
|1
|5
|4
|7
|5
|-
|[[森内俊之]]
|0
|0
|2
|1
|4
|2
|22
|7
|-
|[[加藤一二三]]
|0
|0
|2
|1
|4
|1
|54
|14
|-
|[[中村修 (棋士)|中村修]]
|0
|0
|2
|1
|2
|1
|14
|7
|-
|[[西村一義]]
|0
|0
|1
|1
|3
|1
|18
|4
|-
|[[淡路仁茂]]
|0
|0
|1
|1
|3
|1
|14
|2
|-
|[[勝浦修]]
|0
|0
|1
|1
|2
|2
|27
|10
|-
|[[関根茂]]
|0
|0
|1
|1
|2
|2
|24
|4
|-
|[[丸山忠久]]
|0
|0
|1
|1
|2
|2
|10
|3
|-
|[[本間爽悦]]
|0
|0
|1
|1
|2
|2
|5
|4
|-
|[[木村一基]]
|0
|0
|1
|1
|2
|1
|17
|5
|-
|[[森下卓]]
|0
|0
|1
|1
|2
|1
|11
|3
|-
|[[島朗]]
|0
|0
|1
|1
|1
|1
|13
|3
|-
|[[塚田正夫]]
|0
|0
|1
|1
|1
|1
|12
|5
|-
|[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]
|0
|0
|1
|1
|1
|1
|11
|5
|-
|[[中村太地 (棋士)|中村太地]]
|0
|0
|1
|1
|1
|1
|6
|3
|-
|[[斎藤慎太郎]]
|0
|0
|1
|1
|1
|1
|4
|2
|-
|[[佐々木大地 (棋士)|佐々木大地]]
|0
|0
|1
|1
|1
|1
|2
|2
|}
{| class="sortable wikitable" style="text-align:center; font-size:90%"
|+ style="text-align:left;"|女流推薦出場 (第66期以降、各期女流2名出場)
!rowspan="2"|氏名!!colspan="3"|出場回数!!rowspan="2"|通算<br/>勝数!!rowspan="2"|最高<br/>勝数!!rowspan="2"|最高成績
|-
!通算!!連続!!出場期 {{small|('''太字'''は直近期)}}
|- style="height:1.0em"
! !! !! !!class="unsortable"| !! !! !!
|-
|[[清水市代]]||'''16'''||'''12'''||67-78,80-82,85||5||1||{{sort|1.0|}}{{align|left|一次予選 2回戦進出 (第70,76,77,78,82期)}}
|-
|[[中井広恵]]||8||4||66,68-69,71,74-77||4||1||{{sort|1.0|}}{{align|left|一次予選 2回戦進出 (第66,68,69,76期)}}
|-
|[[里見香奈]]||7||6||82,90-'''95'''||9||3||{{sort|1.9|}}{{align|left|一次予選 決勝進出{{0}} (第91期)}}
|-
|[[矢内理絵子]]||4||4||78-81||0||0||{{sort|0|}}未勝利
|-
|[[西山朋佳]]||4||4||92-'''95'''||'''12'''||'''5'''||{{sort|2.9|}}{{align|left|'''二次予選 決勝進出'''{{0}} (第92期)}}
|-
|[[斎田晴子]]||4||2||66-67,70,73||1||1||{{sort|1.0|}}{{align|left|一次予選 2回戦進出 (第66期)}}
|-
|[[甲斐智美]]||4||2||83-84,86-87||1||1||{{sort|1.0|}}{{align|left|一次予選 2回戦進出 (第86期)}}
|-
|[[上田初美]]||3||3||83-85||0||0||{{sort|0|}}未勝利
|-
|[[伊藤沙恵]]||3||3||88-90||1||1||{{sort|1.0|}}{{align|left|一次予選 2回戦進出 (第88期)}}
|-
|[[香川愛生]]||3||2||86-87,89||0||0||{{sort|0|}}未勝利
|-
|[[石橋幸緒]]||1||1||72||0||0||{{sort|0|}}未勝利
|-
|[[千葉涼子]]||1||1||79||0||0||{{sort|0|}}未勝利
|-
|[[室谷由紀]]||1||1||88||0||0||{{sort|0|}}未勝利
|-
|[[渡部愛]]||1||1||91||0||0||{{sort|0|}}未勝利
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|1}}
== 関連項目 ==
* [[十段 (囲碁)]] - 産経新聞社主催の囲碁の棋戦「十段戦」のタイトル称号
* [[棋聖 (囲碁)]] - 読売新聞社主催の囲碁の最高棋戦「棋聖戦」のタイトル称号
* [[白玲戦]](女流順位戦) - ヒューリック主催の将棋の女流最高棋戦
* [[清麗戦]] - 将棋の女流棋戦。第1期開催時はヒューリックが主催していた。
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/match/kisei/index.html 棋聖戦:日本将棋連盟]
*[https://www.sankei.com/life/shogi/ 将棋](産経ニュース)
* [http://live.shogi.or.jp/kisei/ 棋聖戦中継サイト:日本将棋連盟]
* {{Abemaビデオ|268-13}}
{{棋戦 (将棋)}}
{{産業経済新聞社}}
{{棋聖戦 (将棋)}}
{{各期の棋聖戦 (将棋)}}
{{デフォルトソート:きせいせん}}
[[Category:棋聖戦 (将棋)|*]]
[[Category:将棋の棋戦]]
[[Category:将棋のタイトル]]
[[Category:産経新聞社のイベント]]
[[Category:1962年開始のイベント]]
|
2003-07-17T10:50:59Z
|
2023-11-25T17:19:56Z
| false | false | false |
[
"Template:Age in years and days",
"Template:Bgcolor",
"Template:Infobox 棋戦",
"Template:Table2",
"Template:Align",
"Template:Reflist",
"Template:Abemaビデオ",
"Template:棋聖戦 (将棋)",
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"Template:Refnest",
"Template:Center",
"Template:Small",
"Template:棋戦 (将棋)",
"Template:00",
"Template:Sup",
"Template:Sort",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:産業経済新聞社",
"Template:各期の棋聖戦 (将棋)"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%8B%E8%81%96%E6%88%A6_(%E5%B0%86%E6%A3%8B)
|
11,575 |
摂動
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摂動(せつどう、 英語: perturbation)とは、一般に力学系において、主要な力の寄与(主要項)による運動が、他の副次的な力の寄与(摂動項)によって乱される現象である。摂動という語は元来、古典力学において、ある天体の運動が他の天体から受ける引力によって乱れることを指していたが、その類推から量子力学において、粒子の運動が複数粒子の間に相互作用が働くことによって乱れることも指すようになった。なお、転じて摂動現象をもたらす副次的な力のことを摂動と呼ぶ場合がある。
上記のような複数天体間、複数粒子間に相互作用が働くときの運動は数学的に厳密に解くことができないことが知られている(多体問題)。これらの数学的に厳密に解くことのできない問題の近似解を求める手法の1つに、摂動論(せつどうろん、 英語: perturbation theory)がある。具体的には、次のような手順で近似解を求める。
天体の運行において、月と地球、太陽と地球などを扱う二体問題は厳密に解くことができるが、三体以上の多体問題を厳密に解くことは不可能である。ただし、月と地球、太陽と地球の問題では、他の天体からの引力による相互作用の効果は近似的に非常に小さいとして、これら二体問題に他の天体からの効果を補正項として考慮することによって十分精度の高い近似解を得ることができる。
量子力学における多体問題を解く上においても摂動論は重要な近似解法である。
無摂動部分(無摂動項)のハミルトニアンを H 0 {\displaystyle {\mathcal {H}}_{0}} とし、摂動部分(摂動項)を H ′ {\displaystyle {\mathcal {H}}'} とすると、全体のハミルトニアン H {\displaystyle {\mathcal {H}}} は、
となる。この時、ゼロ次(無摂動項)のハミルトニアン H 0 {\displaystyle {\mathcal {H}}_{0}} については、すべての固有値(固有エネルギー) { ε n ( 0 ) } {\displaystyle \{\epsilon _{n}^{(0)}\}} と、対応する固有ベクトル { | Ψ n ( 0 ) ⟩ } {\displaystyle \{|\Psi _{n}^{(0)}\rangle \}} が完全に分かっているとする。ここで「対応する」とは固有値方程式
を満たす関係にあるという意味である。 H 0 {\displaystyle {\mathcal {H}}_{0}} はエルミート演算子である(つまりエネルギーはオブザーバブルである)ので、その固有ベクトル { | Ψ n ( 0 ) ⟩ } {\displaystyle \{|\Psi _{n}^{(0)}\rangle \}} は完全系を成している。また { | Ψ n ( 0 ) ⟩ } {\displaystyle \{|\Psi _{n}^{(0)}\rangle \}} は規格直交化されているとする。
ハミルトニアン H {\displaystyle {\mathcal {H}}} の固有ベクトル { | Ψ n ⟩ } {\displaystyle \{|\Psi _{n}\rangle \}\ } と、対応する固有値 { ε n } {\displaystyle \{\epsilon _{n}\}} を求めたい。ここで { | Ψ n ⟩ } {\displaystyle \{|\Psi _{n}\rangle \}\ } と { ε n } {\displaystyle \{\epsilon _{n}\}} は
つまり
を満たさなければならない。
摂動論では、未知の H ′ {\displaystyle {\mathcal {H}}'} 、 | Ψ n ⟩ {\displaystyle |\Psi _{n}\rangle \ } 、 ε n {\displaystyle \epsilon _{n}} を、既知の V {\displaystyle V\ } 、 | Ψ n ( 0 ) ⟩ {\displaystyle |\Psi _{n}^{(0)}\rangle } 、 ε n ( 0 ) {\displaystyle \epsilon _{n}^{(0)}} と、未知の { | Ψ n ( 1 ) ⟩ , | Ψ n ( 2 ) ⟩ , ... } {\displaystyle \{|\Psi _{n}^{(1)}\rangle ,|\Psi _{n}^{(2)}\rangle ,\dotsc \}} 、 { ε n ( 1 ) , ε n ( 2 ) , ... } {\displaystyle \{\epsilon _{n}^{(1)},\epsilon _{n}^{(2)},\dotsc \}} 、微小係数 λ {\displaystyle \lambda \ } を用いて
と表す。べき級数の中で既知であるのは、第1項目だけであることに注意。 これで、 | Ψ n ⟩ {\displaystyle |\Psi _{n}\rangle \ } 、 ε n {\displaystyle \epsilon _{n}} を求める問題は { | Ψ n ( 1 ) ⟩ , | Ψ n ( 2 ) ⟩ , ... } {\displaystyle \{|\Psi _{n}^{(1)}\rangle ,|\Psi _{n}^{(2)}\rangle ,\dotsc \}} 、 { ε n ( 1 ) , ε n ( 2 ) , ... } {\displaystyle \{\epsilon _{n}^{(1)},\epsilon _{n}^{(2)},\dotsc \}} を求める問題に変換された。
これらを(0)式に代入し、任意の λ {\displaystyle \lambda \ } で成立すると仮定すると、
⋮ {\displaystyle \vdots }
が得られ、未知数を分離することができる。 これらを(1)式、(2)式、・・・の順に解いていくと、 { | Ψ n ( 1 ) ⟩ , | Ψ n ( 2 ) ⟩ , ... } {\displaystyle \{|\Psi _{n}^{(1)}\rangle ,|\Psi _{n}^{(2)}\rangle ,\dotsc \}} 、 { ε n ( 1 ) , ε n ( 2 ) , ... } {\displaystyle \{\epsilon _{n}^{(1)},\epsilon _{n}^{(2)},\dotsc \}} が求まる。
これらの式は、未知の { | Ψ n ( 1 ) ⟩ , | Ψ n ( 2 ) ⟩ , ... } {\displaystyle \{|\Psi _{n}^{(1)}\rangle ,|\Psi _{n}^{(2)}\rangle ,\dotsc \}} を、既知の完全系 { | Ψ n ( 0 ) ⟩ } {\displaystyle \{|\Psi _{n}^{(0)}\rangle \}} の線形結合(重ね合わせ)で展開して、その展開係数 c i {\displaystyle c_{i}\ } を求める問題に変換することで解ける。
エネルギーの一次の摂動は、 | Ψ n ( 0 ) ⟩ = | n ⟩ {\displaystyle |\Psi _{n}^{(0)}\rangle =|n\rangle } とすると、
固有ベクトルの一次の摂動の展開係数は、 i ≠ n {\displaystyle i\neq n} とすると
二次の摂動エネルギーは、
ここで、 λ ⟨ n | V | n ⟩ = ⟨ n | λ V | n ⟩ = ⟨ n | H ′ | n ⟩ {\displaystyle \lambda \langle n|V|n\rangle =\langle n|\lambda V|n\rangle =\langle n|{\mathcal {H}}'|n\rangle } である(他の項も同様)。
固有値が縮退している場合は、i ≠ n、m ≠ nの場合でもεi = εn、εm = εnとなる場合が存在し、この場合上式二次摂動エネルギーや、一次の摂動波動関数の係数の分母部分が零となり発散してしまう。従って、縮退のある場合には、このような発散を回避する手段を施す必要がある(ほとんど自由な電子参照)。
摂動は普通、一次の項まで考慮すれば十分であるが、より高次な項を考える必要がある場合も多い(例:近藤効果は摂動の二次の項まで考慮しないと説明できない)。
(摂動のない)シュレディンガー方程式
の固有値 E n {\displaystyle E_{n}} がk重縮退していて、その対応する固有状態を | n i ⟩ ( i = 1 , 2 , 3 , . . . , k , k ∈ N ) {\displaystyle |n_{i}\rangle \;(i=1,2,3,...,k,k\in N)} と表す。
微小な摂動 g V {\displaystyle gV} ( g {\displaystyle g} は無次元の微小項)を加えた後、エネルギー固有値 E n {\displaystyle E_{n}} を持っていた状態に関するシュレディンガー方程式は
となる。
ここで
と展開できるとして、前述のシュレディンガー方程式の0次項を取り出して、
を得るが、摂動がない時のシュレディンガー方程式より
とおくことができる。
次に、シュレディンガー方程式の1次項を取り出すと、
これに左から ⟨ n j | {\displaystyle \langle n_{j}|} をかけて
よって
が成り立つ。
これをすべての j {\displaystyle j} について出すと、 n {\displaystyle n} 個の n + 1 {\displaystyle n+1} 元方程式が得られるが、規格化を考えていないため、この n + 1 {\displaystyle n+1} 個の方程式を解くて、エネルギーの一時摂動及び縮退が解ける様子がわかる。
ここまでに挙げたのは状態ベクトルに対する摂動論であるが、系が時間に依存する場合など、演算子に対する摂動論も便利である。
演算子に対する摂動論として、グリーン関数を使う方法が知られている。
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"text": "摂動(せつどう、 英語: perturbation)とは、一般に力学系において、主要な力の寄与(主要項)による運動が、他の副次的な力の寄与(摂動項)によって乱される現象である。摂動という語は元来、古典力学において、ある天体の運動が他の天体から受ける引力によって乱れることを指していたが、その類推から量子力学において、粒子の運動が複数粒子の間に相互作用が働くことによって乱れることも指すようになった。なお、転じて摂動現象をもたらす副次的な力のことを摂動と呼ぶ場合がある。",
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"text": "上記のような複数天体間、複数粒子間に相互作用が働くときの運動は数学的に厳密に解くことができないことが知られている(多体問題)。これらの数学的に厳密に解くことのできない問題の近似解を求める手法の1つに、摂動論(せつどうろん、 英語: perturbation theory)がある。具体的には、次のような手順で近似解を求める。",
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"text": "天体の運行において、月と地球、太陽と地球などを扱う二体問題は厳密に解くことができるが、三体以上の多体問題を厳密に解くことは不可能である。ただし、月と地球、太陽と地球の問題では、他の天体からの引力による相互作用の効果は近似的に非常に小さいとして、これら二体問題に他の天体からの効果を補正項として考慮することによって十分精度の高い近似解を得ることができる。",
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"text": "これをすべての j {\\displaystyle j} について出すと、 n {\\displaystyle n} 個の n + 1 {\\displaystyle n+1} 元方程式が得られるが、規格化を考えていないため、この n + 1 {\\displaystyle n+1} 個の方程式を解くて、エネルギーの一時摂動及び縮退が解ける様子がわかる。",
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"text": "ここまでに挙げたのは状態ベクトルに対する摂動論であるが、系が時間に依存する場合など、演算子に対する摂動論も便利である。",
"title": "量子力学における摂動論"
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"text": "演算子に対する摂動論として、グリーン関数を使う方法が知られている。",
"title": "量子力学における摂動論"
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] |
摂動とは、一般に力学系において、主要な力の寄与(主要項)による運動が、他の副次的な力の寄与(摂動項)によって乱される現象である。摂動という語は元来、古典力学において、ある天体の運動が他の天体から受ける引力によって乱れることを指していたが、その類推から量子力学において、粒子の運動が複数粒子の間に相互作用が働くことによって乱れることも指すようになった。なお、転じて摂動現象をもたらす副次的な力のことを摂動と呼ぶ場合がある。
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{{Otheruses|力学における摂動論|天文学の摂動|摂動 (天文学)}}
{{出典の明記|date=2014年11月}}
'''摂動'''(せつどう、 {{lang-en|perturbation}})とは、一般に力学系において、主要な力の寄与('''主要項''')による運動が、他の副次的な力の寄与('''摂動項''')によって乱される現象である。摂動という語は元来、[[古典力学]]において、ある天体の運動が他の天体から受ける引力によって乱れることを指していたが、その類推から[[量子力学]]において、粒子の運動が複数粒子の間に[[相互作用]]が働くことによって乱れることも指すようになった。なお、転じて摂動現象をもたらす副次的な力のことを摂動と呼ぶ場合がある。
==摂動論==
上記のような複数天体間、複数粒子間に相互作用が働くときの運動は数学的に厳密に解くことができないことが知られている([[多体問題]])。これらの数学的に厳密に解くことのできない問題の近似解を求める手法の1つに、'''摂動論'''(せつどうろん、 {{lang-en|perturbation theory}})がある。具体的には、次のような手順で近似解を求める。
* 考えている問題Aを、厳密に解ける問題Bに小さな変更('''摂動''')が加えられた問題であるとみなす。
* 問題Aの近似解は、問題Bの厳密解に、摂動が加わったことによって生じる小さな補正('''摂動項''')を加えたものであると考える。
*ここで求めるべき摂動項は、問題Bの厳密解の組み合わせ、すなわち[[線型結合|一次結合]]の形で表現出来ると考え、その係数を与えられた条件から順次求める。
== 古典力学における摂動論 ==
天体の運行において、[[月]]と[[地球]]、[[太陽]]と[[地球]]などを扱う[[二体問題]]は厳密に解くことができるが、三体以上の[[多体問題]]を厳密に解くことは不可能である。ただし、月と地球、太陽と地球の問題では、他の天体からの引力による相互作用の効果は近似的に非常に小さいとして、これら二体問題に他の天体からの効果を補正項として考慮することによって十分精度の高い近似解を得ることができる。
== 量子力学における摂動論 ==
量子力学における多体問題を解く上においても摂動論は重要な近似解法である。
=== 時間に依存せず、[[縮退]]のない場合 ===
==== 前提 ====
無摂動部分(無摂動項)の[[ハミルトニアン]]を<math>\mathcal{H}_0</math>とし、摂動部分(摂動項)を<math>\mathcal{H}'</math>とすると、全体のハミルトニアン<math>\mathcal{H}</math>は、
:<math> \mathcal{H} = \mathcal{H}_0 + \mathcal{H}' </math>
となる。この時、ゼロ次(無摂動項)のハミルトニアン<math>\mathcal{H}_0</math>については、すべての[[固有値]](固有エネルギー)<math>\{\epsilon_n^{(0)}\}</math>と、対応する[[固有ベクトル]]<math>\{|\Psi_n^{(0)}\rangle\}</math>が完全に分かっているとする。ここで「対応する」とは固有値方程式
:<math> \mathcal{H}_0 |\Psi_n^{(0)}\rangle = \epsilon_n^{(0)} |\Psi_n^{(0)}\rangle </math>
を満たす関係にあるという意味である。
<math>\mathcal{H}_0</math>は[[エルミート演算子]]である(つまりエネルギーは[[オブザーバブル]]である)ので、その固有ベクトル<math>\{|\Psi_n^{(0)}\rangle\}</math>は[[完全系]]を成している。また<math>\{|\Psi_n^{(0)}\rangle\}</math>は規格直交化されているとする。
ハミルトニアン<math>\mathcal{H}</math>の固有ベクトル<math>\{|\Psi_n\rangle\} \ </math>と、対応する固有値<math>\{\epsilon_n\}</math>を求めたい。ここで<math>\{|\Psi_n\rangle\} \ </math>と<math>\{\epsilon_n\}</math>は
:<math> \mathcal{H} |\Psi_n\rangle = \epsilon_n |\Psi_n\rangle </math>
つまり
:<math> (\mathcal{H}_0 + \mathcal{H}') |\Psi_n\rangle = \epsilon_n |\Psi_n\rangle \cdots (0)</math>
を満たさなければならない。
==== 摂動論 ====
摂動論では、未知の<math>\mathcal{H}'</math>、<math>|\Psi_n\rangle \ </math>、<math>\epsilon_n</math>を、既知の<math>V \ </math>、<math>|\Psi_n^{(0)}\rangle</math>、<math>\epsilon_n^{(0)}</math>と、未知の<math>\{ |\Psi_n^{(1)}\rangle, |\Psi_n^{(2)}\rangle ,\dotsc \} </math>、<math>\{\epsilon_n^{(1)}, \epsilon_n^{(2)} , \dotsc \} </math>、微小係数<math>\lambda \ </math>を用いて
:<math>\begin{align}
\mathcal{H}' &= \lambda V \\
|\Psi_n\rangle &= |\Psi_n^{(0)}\rangle + \lambda |\Psi_n^{(1)}\rangle + \lambda^2 |\Psi_n^{(2)}\rangle + \dotsb \\
\epsilon_n &= \epsilon_n^{(0)} + \lambda \epsilon_n^{(1)} + \lambda^2 \epsilon_n^{(2)} + \dotsb
\end{align}</math>
と表す。べき級数の中で既知であるのは、第1項目だけであることに注意。
これで、<math>|\Psi_n\rangle \ </math>、<math>\epsilon_n</math>を求める問題は<math>\{ |\Psi_n^{(1)}\rangle, |\Psi_n^{(2)}\rangle ,\dotsc \} </math>、<math>\{\epsilon_n^{(1)}, \epsilon_n^{(2)} , \dotsc \} </math>を求める問題に変換された。
これらを(0)式に代入し、任意の<math>\lambda \ </math>で成立すると仮定すると、
* 未知の<math>(|\Psi_n^{(1)}\rangle, \epsilon_n^{(1)})</math>だけを含む方程式 <math>\cdots (1)</math>
* 未知の<math>(|\Psi_n^{(2)}\rangle, \epsilon_n^{(2)})</math>と<math>(|\Psi_n^{(1)}\rangle, \epsilon_n^{(1)})</math>だけを含む方程式 <math>\cdots (2)</math>
* 未知の<math>(|\Psi_n^{(3)}\rangle, \epsilon_n^{(3)})</math>と<math>(|\Psi_n^{(2)}\rangle, \epsilon_n^{(2)})</math>と<math>(|\Psi_n^{(1)}\rangle, \epsilon_n^{(1)})</math>だけを含む方程式 <math>\cdots (3)</math>
<math>\vdots</math>
が得られ、未知数を分離することができる。
これらを(1)式、(2)式、・・・の順に解いていくと、<math>\{ |\Psi_n^{(1)}\rangle, |\Psi_n^{(2)}\rangle ,\dotsc \} </math>、<math>\{\epsilon_n^{(1)}, \epsilon_n^{(2)} , \dotsc \} </math>が求まる。
これらの式は、未知の<math>\{ |\Psi_n^{(1)}\rangle, |\Psi_n^{(2)}\rangle ,\dotsc \} </math>を、既知の完全系<math>\{|\Psi_n^{(0)}\rangle\}</math>の線形結合(重ね合わせ)で展開して、その展開係数<math>c_i \ </math>を求める問題に変換することで解ける。
:<math> |\Psi_n^{1}\rangle = c_1 |\Psi_1^{(0)}\rangle + c_2 |\Psi_2^{(0)}\rangle + c_3 |\Psi_3^{(0)}\rangle + \dotsb = \sum_i c_i |\Psi_i^{(0)}\rangle </math>
==== 結果 ====
エネルギーの一次の摂動は、<math>|\Psi_n^{(0)}\rangle = |n \rangle</math>とすると、
:<math> \epsilon_n^{(1)} = \langle n|\mathcal{H}'|n\rangle </math>
固有ベクトルの一次の摂動の展開係数は、<math>i \neq n</math>とすると
:<math> c_i = - { \langle i|\mathcal{H}'|n\rangle \over { \epsilon_i^{(0)} - \epsilon_n^{(0)} } } </math>
二次の摂動エネルギーは、
:<math> \epsilon_n^{(2)} = - \sum_{\{m|m\neq n\}} { \langle n|\mathcal{H}'|m\rangle\langle m|\mathcal{H}'|n\rangle \over { \epsilon_m^{(0)} - \epsilon_n^{(0)} } } </math>
ここで、<math>\lambda\langle n|V|n \rangle = \langle n|\lambda V|n \rangle = \langle n|\mathcal{H}'|n \rangle</math>である(他の項も同様)。
=== 縮退のある場合 ===
固有値が縮退している場合は、''i'' ≠ ''n''、''m'' ≠ ''n''の場合でも''ε<SUB>i</SUB>'' = ''ε<SUB>n</SUB>''、''ε<SUB>m</SUB>'' = ''ε<SUB>n</SUB>''となる場合が存在し、この場合上式二次摂動エネルギーや、一次の摂動波動関数の係数の分母部分が零となり発散してしまう。従って、縮退のある場合には、このような発散を回避する手段を施す必要がある([[ほとんど自由な電子]]参照)。
摂動は普通、一次の項まで考慮すれば十分であるが、より高次な項を考える必要がある場合も多い(例:[[近藤効果]]は摂動の二次の項まで考慮しないと説明できない)。
=== 縮退のある場合の一次摂動 ===
(摂動のない)シュレディンガー方程式
:<math>H|\psi\rangle = E|\psi\rangle</math>
の固有値<math>E_{n}</math>がk重縮退していて、その対応する固有状態を<math>|n_{i}\rangle \; (i = 1,2,3,...,k, k\in N)</math>と表す。
微小な摂動<math>gV</math>(<math>g</math>は無次元の微小項)を加えた後、エネルギー固有値<math>E_{n}</math>を持っていた状態に関するシュレディンガー方程式は
:<math>(H+gV)|\psi_{n}(g)\rangle=E_{n}(g)|\psi_{n}(g)\rangle</math>
となる。
ここで
:<math>\begin{align}
E_{n}(g) &= E_{n}^{(0)} + gE_{n}^{(1)}+ \dotsb \\
|\psi_{n}(g)\rangle &= |\psi_{n}^{(0)}\rangle + g|\psi_{n}^{(1)}\rangle + \dotsb
\end{align}</math>
と展開できるとして、前述のシュレディンガー方程式の0次項を取り出して、
:<math>H|\psi_{n}^{(0)}\rangle=E_{n}^{(0)}|\psi_{n}^{(0)}\rangle</math>
を得るが、摂動がない時のシュレディンガー方程式より
:<math>|\psi_{n}^{(0)}\rangle=\sum_{i}c_i|n_{i}\rangle</math>
とおくことができる。
次に、シュレディンガー方程式の1次項を取り出すと、
:<math>\begin{align}
H|\psi_{n}^{(1)}\rangle + V|\psi_{n}^{(0)}\rangle &= E_{n}^{(0)}|\psi_{n}^{(1)}\rangle+E_{n}^{(1)}|\psi_{n}^{(0)}\rangle \\
(V - E_{n}^{(1)}) |\psi_{n}^{(0)}\rangle &= (E_{n}^{(0)} - H) |\psi_{n}^{(1)}\rangle
\end{align}</math>
これに左から<math>\langle n_j|</math>をかけて
:<math>\langle n_j|(V-E_{n}^{(1)})|\psi_{n}^{(0)}\rangle=0</math>
よって
:<math>c_jE_{n}^{(1)}=\sum_{i}\langle n_j|V|n_i\rangle c_i</math>
が成り立つ。
これをすべての<math>j</math>について出すと、<math>n
</math>個の<math>n+1</math>元方程式が得られるが、規格化を考えていないため、この<math>n+1</math>個の方程式を解くて、エネルギーの一時摂動及び縮退が解ける様子がわかる。
=== グリーン関数による方法 ===
{{See also|グリーン関数 (多体理論)}}
ここまでに挙げたのは状態ベクトルに対する摂動論であるが、系が時間に依存する場合など、演算子に対する摂動論も便利である。
演算子に対する摂動論として、[[グリーン関数]]を使う方法が知られている。
== 外部リンク ==
{{Spedia|Perturbation_methods|Perturbation methods|摂動法}}
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[[Category:力学]]
[[Category:量子力学]]
[[Category:計算物理学]]
[[Category:常微分方程式]]
[[Category:数学に関する記事]]
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辻元清美
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辻元 清美(つじもと きよみ、1960年〈昭和35年〉4月28日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の参議院議員(1期)。
衆議院議員(7期)、国土交通副大臣(鳩山由紀夫内閣)、内閣総理大臣補佐官(災害ボランティア活動担当)(菅直人第2次改造内閣)、社会民主党政策審議会長(第5代)、同国会対策委員長(第8代)、民進党幹事長代行(初代)、旧立憲民主党政務調査会長 (初代)、同副代表兼国会対策委員長(初代)、同幹事長代行、立憲民主党副代表などを歴任。ピースボート設立者のひとり。
奈良県吉野郡大淀町に生まれ、大阪府高槻市で育つ。名古屋大学教育学部附属高校卒業。高校3年生のとき、代々木ゼミナール名古屋校で英語の講師をしていた小田実の講演を聞く。講演後、喫茶店で小田と話し込み、意気投合したことが市民活動に関わるきっかけとして大きかったと辻元は述べている。卒業後、デパートで2年間販売員として働いた。
1981年4月、早稲田大学教育学部に入学。1980年代初め、小田の市民運動を手伝うようになる。代々木公園でビラまきをしているとき、反核運動の集会で同じくビラまきをしていた土井たか子に強烈な印象を受ける。この日、土井と秘書の五島昌子と昼食をともにした。
1983年、その前年に起きた歴史教科書問題に触発され、大学の仲間4人で、アジア諸国と日本の交流の活性化を目的としたNGO「ピースボート」を設立した。1987年、早稲田大学卒業。
1992年6月、リオ・デ・ジャネイロで開かれた地球サミットにNGOの一員として参加。その後も市民運動に関わり、1993年にはエイボン女性大賞教育賞を受賞。
1996年9月27日、衆議院解散。翌9月28日、社会民主党の党首に土井たか子が復帰。10月4日、同党は「土井たか子を支える会」からメンバー3人を擁立することを決定。記者会見で、辻元、市民団体「宝塚学校給食を考える会」代表の中川智子は比例近畿ブロックから、ジャーナリストの保坂展人は比例東京ブロックから出馬することが発表された。それから4日後の10月8日、第41回衆議院議員総選挙が公示。党は辻元を比例の1位、中川を2位に登載した。保坂は東京22区に転じた。10月20日、投開票。社民党は近畿ブロックで2議席獲得。辻元と中川は初当選。保坂は小選挙区で敗れるも、比例復活で初当選した。
1998年1月に党幹事長代理に就任。枝野幸男らと推し進めた特定非営利活動促進法(NPO法)が同年3月に成立。9月、党広報委員長就任。
そのほか、被災者生活再建支援法、情報公開法、児童買春・児童ポルノ禁止法などの制定に取り組んだ。COP3「地球温暖化防止」プロジェクトチーム、男女共同参画社会基本法、環境アセスメント法審議に関わる。
当時、社民党は自社さ連立政権の一翼をになう与党であったが、社民党・新党さきがけ2党は総選挙直前に大量の離党者を出し(その多くが旧民主党結党に参加)、第41回衆議院議員総選挙で惨敗を喫した。第41回衆議院議員総選挙を経て発足した第2次橋本内閣では社民・さきがけは閣僚を出さず、閣外協力に転じ、後に正式に連立政権を離脱する。なお、辻元は一般に「自社さ」と呼ばれた連立の枠組みを「社自さ」と呼んでいた。
2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では大阪10区から社民党公認で出馬し、公明党の石垣一夫、民主党の肥田美代子らを破り、再選。同年7月、社会民主党政策審議会長に就任。
辻元は詐欺事件をおこしたことを新潮によって発覚し、2002年3月28日、衆議院議員を辞職。直後に瀬戸内寂聴から「あなた行くところないでしょう。私のところに来なさい」との電話を受け、京都市嵯峨野の寂庵で約1カ月間、庭の掃除をしながら暮らした。同年7月18日、辻元本人・初代政策秘書・土井たか子党首の元秘書で指南役の五島昌子ら4人が秘書給与詐欺容疑で警視庁に逮捕された。逮捕後は口裏合わせをして証拠隠滅を図った事実及び詐欺容疑を全面的に認めた。
2004年2月、東京地裁は、秘書給与1840万円を騙し取った詐欺の罪で、懲役2年・執行猶予5年の有罪判決を下した(2009年、猶予期間満了)。判決後、何をすべきか迷っていたときに、瀬戸内寂聴に四国お遍路の旅を勧められるが、経済的な余裕がなかったため大阪府全市町村を日帰りで歩く旅に出た。同年6月に社民党を離党。同年7月の第20回参議院議員通常選挙に大阪府選挙区から無所属で立候補したが、次点で落選(同選挙の全国最高得票数落選者)。
2005年7月5日、郵政民営化法案が衆議院で可決するが、翌7月6日、小泉純一郎首相は、参議院で否決された場合ただちに衆議院を解散して総選挙を行うと明言。同月末、福島瑞穂から「また一緒にやろう」との電話を受ける。土井たか子からも8月8日の解散直前に「もう一度腹をくくってがんばれ」と励まされ、衆院選出馬の意思を固める。8月15日、社民党大阪府連は辻元を大阪10区に同党公認で擁立する方針を決めたと明らかにした。9月11日、第44回衆議院議員総選挙執行。大阪10区は自由民主党元職の松浪健太が当選。社民党は比例近畿ブロックで1議席を獲得し、登載順位1位の辻元は比例復活で3選。比例単独5位の土井はこの選挙で議席を失った。
2006年2月、社民党女性青年委員長に就任。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では前回敗れた松浪を大阪10区で破り、4選。選挙後の同年9月、党国会対策委員長に就任した。早野透によれば、三党連立政権の発足時には水面下での交渉を担当したとされ、辺野古基地建設を「見直し」対象とする連立政権合意を成立させたという。
同年9月に発足した民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣において、国土交通副大臣に就任する。当初、国対委員長の職にあった辻元は党務に携わるため就任の要請を固辞したが、福島瑞穂党首が既に閣議で辻元の国交副大臣就任を含む政務三役の人事案に同意し署名していたため、最終的には就任を受け入れた。国対委員長の職務は重野安正幹事長が代行し、2010年1月に後任の国対委員長に照屋寛徳が就任するまで国対委員長と国交副大臣の兼務が続くこととなった。国対委員長退任後、新たに設けられた社民党特命常任幹事に就任し、党執行部には残留している。
なお国会議員時代の刑事事件で有罪判決を受けた者が刑の効力が失われた後に行政府の役職に就くのは、1997年に第2次橋本改造内閣で総務庁長官に就任した佐藤孝行以来12年ぶり。ただし、佐藤孝行は、当時閣外協力をしていた社民党からの辞任要求によって、わずか12日間で辞任に追い込まれている。
2009年10月30日、JAL再生タスクフォースの解散後に設置された日本航空再建対策本部(本部長・前原誠司)の事務局長に就任した。大鹿靖明によれば、辻元は「JALの破綻はこれまで日本が経験したことのない国際大型倒産である」という認識から政府内やメガバンクとの調整にまわり、メガバンクとの会談では「いま、ここにいる人が大喧嘩したら日本の経済に大打撃を与えます。みなさんが鍵を握っているのです。100%納得するのはありえないでしょうから、歩み寄ってほしいのです」と説得した。しかし、11月6日に日航再建対策本部が日本政策投資銀行など日航の主力取引銀行幹部に1000億円規模の「つなぎ融資」を要請した際、銀行側は辻元からの要請を留保するだけではなく、反対に日航への融資に対する保証を政府が確保することを要請し、辻元は「政府保証などで、われわれも頑張るので、協力をお願いしたい」と述べて譲歩する姿勢を示した。最終的に日航は2010年1月19日に会社更生法の適用を申請した。
2009年12月1日、観光立国推進本部の事務局長に就任。中国人の観光ビザ取得要件の緩和に取り組み、発給条件の年収25万元(約320万円)以上を過度な所得制限と述べ、年収6万元(約80万円)に引き下げた。2010年度の中国人観光客数の前年比41%増加を実現したことから、辻元は予算のいらない経済刺激策と自賛している。
2010年2月4日、国土交通省が関連する公共事業の予算配分に関する情報を民主党の地方組織に漏洩させた馬淵澄夫国土交通副大臣の更迭を求めた自民党に対し、「(自民党は)過剰反応している」と退けた。
副大臣在任当時、大型巡視船は1隻のみだった。海上保安庁の警備力をあげるため、辻元は新たに「あきつしま」の導入を訴えた。
2010年5月28日、沖縄県の普天間基地移設問題で、日米の政府間合意に閣議決定で反対し署名を拒否した福島瑞穂内閣府特命担当相が鳩山由紀夫首相に閣僚を罷免され、連立政権を離脱するか否かが問題となった。当時フランスのパリに外遊中だった辻元は、連立離脱に慎重とされていたが、「政治的に一つの曲がり角ですけど、日本に帰って社民党の仲間と話し合って、今後の対応を決めていきたい」と述べて自身の進退につき明言を避けた。前原誠司国交相は5月29日に辻元に副大臣続投を要請したが、社民党が5月30日に連立離脱を決定したことを受け、辻元は同日中に辞任の意向を伝達し、5月31日に辞表を提出して受理された。辞表提出後のインタビューでは、「国交省は利権の巣窟というイメージがあったが、そうではなかった。不安いっぱいだったが、多くの職員が変えていこうという思いに賛同してくれた。辞めるのは寂しいしつらい」と涙ながらに語った。
連立離脱について辻元は「鳩山政権離脱という選択が良かったのかどうかは、迷う。離脱することによって、自民党政権が復活したり、改憲への道が開けたりする恐れがある。肝心の普天間基地の問題かって、どうしようもないカッコ悪さに耐えながら、政権に残っていた方が余地が大きかったんと違うかなあ。『地獄への道は善意で舗装されている』という言葉があるように、正しい選択が正しい結果を導くとは限らんやろ」と述べ、「当時、日米合意があっても沖縄の合意がなければ辺野古移設は実現しないという閣議決定はできないか、と折衝していました。私はその歯止めができないかと考えていたんです」と主張している。
同年7月26日夜、重野安正幹事長と会談し、その席で離党の意向を伝えた。7月27日の午前中には福島党首から離党を思い留まるよう慰留されるも、福島の説得を受け入れず、離党届提出後の記者会見で次期衆議院議員総選挙に無所属で出馬する考えを表明した。離党理由については「現実との格闘から逃げずに国民のための仕事を一つずつ進めていきたい」としている。福島との面談が重野との会談の翌日となった理由については、福島が辻元との対話をたびたびキャンセルしたことを挙げている。
同年8月19日、社民党は辻元の離党届を受理した。地元の党大阪府連合の要請により、除名などの処分は見送られた。
同年9月28日、衆議院会派「民主党・無所属クラブ」に入会し、国土交通委員会与党筆頭理事に就任した。9月29日には中国建国記念レセプションに出席した。
2011年3月13日、東日本大震災を受け、災害ボランティア担当の内閣総理大臣補佐官に就任。
同年9月5日、野田内閣の発足を受け、首相補佐官を退任。9月7日には民主党入りの意向が報じられ、社民党の福島党首は記者会見で「応援した人を裏切っていくことは、一人の政治家として良いことではない。理念より権力に近寄る方を選択すると思ってしまう。すごく残念だ」と批判した。9月10日には民主党大阪府連に入党届を提出して了承され、9月27日に党本部の常任幹事会の了承を経て正式に入党した(同時に衆院大阪府第10区支部長に就任)。
同年10月20日、民主党政調副会長に就任。10月24日には前原誠司政調会長により「提言型政策仕分け」の「仕分け人」に選ばれる。
2012年4月19日、「秋の大型連休」導入を検討するプロジェクトチームの座長として初会合を開いた。4月24日の政調役員会で、消費増税法案の閣議決定に抗議し辞表を提出した松崎哲久国土交通部門会議座長の後任に起用されることが決まった。
同年12月の第46回衆議院議員総選挙で大阪10区より出馬、松浪に敗れたものの比例近畿ブロックで復活し5選。同選挙で大阪の選挙区から出馬して当選した民主党の候補者が他にいなかったため当時は民主党大阪府連に属する唯一の衆議院議員であった。
2013年9月、民主党幹事長代理に就任。
2014年4月4日、衆議院本会議でトルコとアラブ首長国連邦への原発輸出を可能にする原子力協定の承認案の採決が行われた際、賛成とする党議に反して欠席したが、辻元は欠席につき国対委員長の許可を得ていたため、不問に付された。
同年9月、民主党ネクスト内閣府特命大臣(新しい公共・社会的包摂・消費者および食品安全・男女共同参画・子供の貧困・自殺対策・NPO)・民主党新しい公共・社会的包摂総合調査会長に就任。安倍政権の目玉政策である、いわゆる「女性活躍」法案について、政策担当として修正案策定に携わった。
同年12月14日の第47回衆議院議員総選挙で大阪10区より出馬し、自治労などの政策協力候補者として支援を受けて当選。この選挙で民主党代表の海江田万里が落選。海江田の辞任に伴い2015年1月18日に行われた代表選挙では、岡田克也の推薦人に名を連ねた。岡田が代表に選出された後、政調会長代理に就任した。
2015年12月、民主党役員室長に就任。
2016年3月27日、民主党と維新の党が合流して民進党が結成される。同党に参加し、民進党執行部発足後も役員室長に留任した。
同年7月の第24回参議院議員通常選挙の大阪府選挙区で民進党所属の現職尾立源幸が落選。これに伴い辻元は民進党大阪府連に所属する唯一の選挙区選出の国会議員となった。
2017年7月27日、民進党代表の蓮舫が、同月の東京都議会議員選挙の結果を受けて辞任を表明。8月21日、蓮舫の辞任に伴う代表選挙が告示され、辻元は枝野幸男の推薦人に名を連ねた。9月1日、前原誠司が代表に当選。9月8日、民進党は常任幹事会を開き、幹事長代行に辻元を充てる人事案を了承した。辻元は、閣僚や党要職の経験がない大島敦幹事長を党務で補佐することとなった。
2017年9月25日、希望の党が設立。9月27日、希望の党と日本維新の会が候補者すみ分けの検討に入ったと報じられた。同日夜、希望の党代表の小池百合子はBSフジの番組に出演し、同党への参加の条件について、憲法改正と安保法制への姿勢を重視する考えを示した。
同年9月28日、衆議院解散。同日、民進党両院議員総会で希望の党への事実上の合流方針が了承された。総会後、辻元は報道陣に「私は執行部なので発言はしていません」と険しい表情で一言だけ答えたが、希望の党と日本維新の会のすみ分けの方針や、安保法制に関する考え方の相違などから、辻元が希望の党の公認を得るのは厳しい状況と報じられた。
同年9月30日未明、共同通信が「枝野が無所属で出馬する方向で検討に入った。考え方の近い前議員らとの新党結成も視野に入れている」と報道。同日午後3時、民進党本部で全国幹事会・選挙対策担当者会議が開かれた。午後7時過ぎまで4時間以上にわたって行われた同会議を辻元は途中で退席。記者団に囲まれた辻元は「リベラルの力と重要性を信じている」と述べ、希望の党には公認申請せず、無所属で出馬する意向を表明した。小池の発言に端を発した民進党の前職、元職計15人の「排除リスト」が出回り、同日夜、枝野幸男、長妻昭、辻元、近藤昭一、参議院議員の福山哲郎らは都内のホテルに集まり、対策を協議。
同年10月1日、「無所属で戦わざるを得ない人たちが全て当選できるような受け皿ができれば」と述べてリベラル系の新党参加の可能性に言及した。10月2日、枝野が新党「立憲民主党」の設立を表明。これを受けて10月3日に立憲民主党への参加を表明し、10月4日には民進党に離党届を提出した。10月6日、立憲民主党政務調査会長に就任した。
同年10月22日の第48回衆議院議員総選挙に大阪10区より立候補し、自民党の大隈和英、日本維新の会の松浪を破り、7選。選挙後の10月24日、立憲民主党両院議員総会で国会対策委員長に就任することが決まった(10月26日まで政調会長を兼務)。
2018年11月17日、立憲民主党大阪府連代表に就任。
2019年2月、外国籍の人物から1万円の政治献金を受けていた疑惑が報じられた。辻元は疑惑が事実と認めたうえで、「寄付金は外国籍の方からはできません」と明記された用紙であったものの、「さかのぼって確認していなかった。再発防止の対応策を考える」旨や「返金し、速やかに適正な訂正処理を行った」旨を報道各社に説明し、国対委員長辞任については否定した。9月19日、国会対策委員長を退任し、幹事長代行に就任。
2020年8月24日、旧立憲民主党と旧国民民主党は、2つの無所属グループを加えた形で合流新党を結成することで合意した。同年9月10日に行われた新「立憲民主党」の代表選挙では枝野幸男の推薦人に名を連ねた。
2021年10月31日に行われた第49回衆議院議員総選挙の大阪10区には辻元、日本維新の会新人の池下卓、自民党現職の大隈の3人が立候補。選挙戦終盤の10月27日には山崎拓元自民党幹事長が辻元の応援演説に来たものの小選挙区では日本維新の会新人の池下卓が初当選。辻元は次点で敗れ(惜敗率82.715%)、比例復活もできず落選した。
同年11月13日、立憲民主党大阪府総支部連合会で「力不足で厳しい結果になった」と述べ、府連代表を辞任する意向を表明した。
2022年1月21日、立憲民主党は、次期参院選比例代表に辻元を擁立する方向で最終調整に入った。同年1月31日、辻元はオンラインで支援者向けの報告会を開き、正式に出馬表明した。同日、党本部で党代表泉健太と面会し、参院選比例代表での公認を申請。2月8日、立憲民主党は参院選女性候補者の公募を開始し、辻元を日本私鉄労働組合総連合会の「準組織内」候補として比例区での擁立を決定した。
同年7月の第26回参議院議員通常選挙で、立憲民主党は比例代表で7議席を獲得。辻元は党内得票数1位で当選した。第211回国会では参議院環境委員会、予算委員会、憲法審査会に所属。
2011年3月16日の産経新聞記事において、記者の阿比留瑠比が、「13日に(中略)辻元清美元国土交通副大臣を災害ボランティア担当の首相補佐官に任命したことにも必然性は感じられない。(中略)辻元氏は平成7年の阪神淡路大震災の際、被災地で反政府ビラをまいた。2人の起用はブラックジョークなのか。」と報道。
2011年3月21日の産経新聞記事において、記者の阿比留瑠比が、「カメラマンの宮嶋茂樹氏の著書によると、辻元氏は平成4年にピースボートの仲間を率いてカンボジアの自衛隊情勢を視察し、復興活動でへとへとになっている自衛官にこんな言葉をぶつけたという。『あんた!そこ(胸ポケット)にコンドーム持っているでしょう』(中略)こんな人物がボランティア部隊の指揮を執るとは。被災地で命がけで活動している自衛隊員は一体どんな思いで受け止めているだろうか。」と報道している。
辻元は、阿比留が根拠とした宮嶋茂樹の著書に実際には辻元がそのような発言をしたとの記述はなかったとし、辻元自身もホームページで「この非常時に公器としての報道機関がデマを拡散させたことに、厳重に抗議いたします」と批判した。
2012年1月19日、産経新聞の2011年3月16日と3月21日にの阿比留の記事について、名誉毀損の損害賠償請求を産経新聞社および記者の阿比留に対して東京地裁に提訴した。2013年3月22日、「被告側は原告らに一切取材しておらず、記事が指摘した事実が真実とは認められない」として産経新聞社に80万円の賠償を命令、原告・被告とも控訴せず、この判決は確定した。
2017年3月24日に公開された学校法人森友学園前理事長籠池泰典の妻による首相夫人の安倍昭恵宛のメールに、「辻元清美共産党今はぐっと辛抱です(笑)」、「辻元清美が幼稚園に侵入しかけ 私達を怒らせようとしました嘘の証言した男は辻元と仲良しの関西生コンの人間でしたさしむけたようです」、「三日だけきた作業員が辻元清美が潜らせた関西なんとか連合に入っている人間らしい(略)下請け業者の社長は現場もマスコミに写し全くうめてないことをしっていて三日だけきた作業員を辻元清美は送り込みました」、「辻元清美生コンをみればある関西こうえき連合の人間をマスコミに出し社長の言い分はのせなかったそうです 国会議員の犯罪じゃないですか」などと書かれていたと産経新聞は報じている(毎日新聞はインターネットで全文公開した後、この部分を削除して再公開している)。これについて、民進党は、辻元が幼稚園に侵入したとする事実はなく、作業員を下請け業者に送り込んだことは虚偽であると反論している。この疑惑について、官房長官の菅義偉は、民進党から辻元の名が出ていることについての説明があるのではないか、という見解を述べている。
後に菅野完が籠池の妻にインタビューした際に、籠池の妻は辻元の塚本幼稚園への侵入を確認せずにメールを書いたと述べた。
2017年3月24日の午後におこなわれた内閣官房長官記者会見で、記者から「メールの公開に官邸の意向も働いたのか」と質問された菅義偉は、「政府としては、メールを公開することによってひとつの物的証拠にもなるわけですよね。(中略)客観的なひとつの証拠になるんだろうと思って、公開をおこなうことを先方の了解をいただいて決断した」と回答。さらに、メールの証拠性について問われると、「それはご覧になった方が判断するんじゃないでしょうか」と返答し、裏付けがないことを認めている。
2017年3月28日に、産経新聞は、「民進・辻元清美氏に新たな「3つの疑惑」民進党「拡散やめて」メディアに忖度要求」と題し、(1)塚本幼稚園に侵入したのか、(2)小学校の建設現場へ作業員を派遣したのか、(3)辻元が民主党政権で国交副大臣であった時期に森友学園の隣接地「野田中央公園」(14億2386万3000円)購入時に計14億262万円の補助金支給があり、豊中市負担は2134万3000円のみで国有地払い下げが行われた事実に関する疑惑を報じ、辻元について「籠池氏の発言に依拠して首相らを追及しながら、都合の悪い妻の言葉は封じようとする矛盾に陥っている。」と批判した。なお、(1)(2)はメール籠池妻のメールから出てきたものだが、(3)についてはメールに記載はなく、保守系のサイトなどで飛び交っていたものである。
国有地払い下げがあった年の10月の豊中市議会で「政権が代わったからこうなったのか」という質問も出ていた。
産経新聞への質問について、民進党役員室は3月24日に(1)(2)について「一切ない」、28日に辻元は「塚本幼稚園に入っておりませんし、入ろうとした事実もございません」、「マスコミで証言をした人物は、辻元清美とは面識がございません」「送り込んだなどということも一切ございません」、「野田中央公園の用地取得に関する補助金等は、麻生政権下の21年第一次補正予算で決定されたものを鳩山政権下で引き継いで執行したものです」と回答している。
3月29日に民進党は、28日付けの産経新聞の報道は事実ではないとして産経新聞宛に「抗議文」を送り、民進党代表の蓮舫は「3つの疑惑」報道を「ガセネタ」とし「法的措置も含めて検討している」と述べた。ただ、その時点では事務所と党の対応には違いがあったのか、産経新聞はそのあと「辻元事務所の職員の対応は実に丁寧で感謝しています」と述べている。一方、4月6日の記者会見において、蓮舫は、産経新聞の報道について、「報道の自由は保障されておりますので、産経新聞が自らの責任で見解を表明することには何ら反対はいたしません」と述べ、疑惑報道に関して反論はあるかとの産経新聞の質問についても、「特段ありません」と答えている。
産経新聞の報道に多くのジャーナリスト等が疑問を呈した。
(1)について、後に著述家の菅野完が籠池の妻、娘にインタビューした際に、籠池の妻は辻元の塚本幼稚園への侵入を確認せずにメールを書いたと述べた、娘も思い込みだったと認めた 。
(2)については、評論家の荻上チキが“辻元が送り込んだ”とされる作業員へのインタビューを敢行。産経報道の翌日の2017年3月29日に、自らが司会を務めるラジオ番組において、作業員が「辻元とまったく接点がない」、「生コン会社で働いていないので生コンの関連組合に入れるはずもない」などの証言を行い、産経記事に基づいて報道したテレビ局に抗議し謝罪があったことを明らかにした。
ジャーナリストの江川紹子は、産経新聞が一連のメールが公開されてから4日後に記事を掲載するまでに、作業員に一切確認取材がされなかったこと、作業員が辻元清美と面識がないという事実が明らかになった後も、記事の訂正がなされていないことを指摘している。
(3)については、辻元のスタッフが検証を行っており、麻生政権時の2009年5月(辻元が国土交通副大臣に就任する以前)、政府が豊中市に対して予算配分をする旨及び金額を内示した趣旨の国会答弁を国土交通省はしている。また、それを裏付ける資料の存在が確認されている。
また、ノンフィクションライターの常井健一は辻元が籠池妻のメール内容を否定する記者会見や法的措置を講じなかった理由について辻元に尋ね、「籠池夫人が、公開を前提としないメールで私の名前を出したこと自体は名誉棄損だとは思っていません。こんなことで民間人が国会議員に記者会見を開かれて噛みつかれたら、そんな社会は気持ち悪いと思う。それより、中身を知りながらメールの公開を決めた人のほうが気になる。私は籠池夫人の内心の自由も守りたいから、あまり騒ぎたくないんだけどな」という回答を得ている。
著書の中でネットからデマ被害を受けていると訴えている。もともとネットはあまり見なかったのでデマを深刻に考えておらず放置していたというが、近年デマ対策に乗り出すようになった。その理由について辻元は著書の中で次のように述べている。
カンボジアPKOで派遣された自衛官に「あんた、そこにコンドームを持っているでしょう」と暴言を吐いたとされる件や阪神淡路大震災の被災地で反政府ビラをまいたとされる件については「震災に関するデマ」、日本赤軍と関係があるとされる件については「日本赤軍、過激派に関するデマ」、ピースボートが過激派の資金源になっているとされる件については「ピースボートに関するデマ」、ネット上に辻元のバイブレーターの写真が出回っている件については「バイブレーターに関するデマ」、東日本大震災の現地視察で辻元が豪勢な出張旅行を行ったとされる件については「東日本大震災時の現地視察に関するデマ」、東日本大震災の際に辻元が福島県いわき市への支援物資を止めてピースボートに横流ししたとされる件については「支援物資を横流ししたというデマ」、金正日に会えると号泣しているところとされる辻元の写真がネットに出回っている件については「金正日に逢えると号泣したというデマ」、自衛隊は必要ないと主張したとされる件については「自衛隊への認識に関するデマ」、辻元が在日朝鮮人や帰化日本人であるとされる件については「民族を理由とするデマ」、内縁の夫がいてそれが過激派であるとされる件については「内縁の夫のデマ」 でそれぞれ否定している。さらに2017年3月24日付けで「安倍昭恵夫人と籠池夫人とのメールにおける辻元清美に関するデマ」を加えて、自身のサイトに、合計10の「デマ」に関する否定文を掲載している。辻元は街頭演説中に「デマ」を信じた人間から襲撃された被害にも遭ったと主張している。
特記なき物は第三書館刊
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"text": "辻元 清美(つじもと きよみ、1960年〈昭和35年〉4月28日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の参議院議員(1期)。",
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"text": "衆議院議員(7期)、国土交通副大臣(鳩山由紀夫内閣)、内閣総理大臣補佐官(災害ボランティア活動担当)(菅直人第2次改造内閣)、社会民主党政策審議会長(第5代)、同国会対策委員長(第8代)、民進党幹事長代行(初代)、旧立憲民主党政務調査会長 (初代)、同副代表兼国会対策委員長(初代)、同幹事長代行、立憲民主党副代表などを歴任。ピースボート設立者のひとり。",
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"text": "奈良県吉野郡大淀町に生まれ、大阪府高槻市で育つ。名古屋大学教育学部附属高校卒業。高校3年生のとき、代々木ゼミナール名古屋校で英語の講師をしていた小田実の講演を聞く。講演後、喫茶店で小田と話し込み、意気投合したことが市民活動に関わるきっかけとして大きかったと辻元は述べている。卒業後、デパートで2年間販売員として働いた。",
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"text": "1981年4月、早稲田大学教育学部に入学。1980年代初め、小田の市民運動を手伝うようになる。代々木公園でビラまきをしているとき、反核運動の集会で同じくビラまきをしていた土井たか子に強烈な印象を受ける。この日、土井と秘書の五島昌子と昼食をともにした。",
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"text": "1983年、その前年に起きた歴史教科書問題に触発され、大学の仲間4人で、アジア諸国と日本の交流の活性化を目的としたNGO「ピースボート」を設立した。1987年、早稲田大学卒業。",
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"text": "1992年6月、リオ・デ・ジャネイロで開かれた地球サミットにNGOの一員として参加。その後も市民運動に関わり、1993年にはエイボン女性大賞教育賞を受賞。",
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"text": "1996年9月27日、衆議院解散。翌9月28日、社会民主党の党首に土井たか子が復帰。10月4日、同党は「土井たか子を支える会」からメンバー3人を擁立することを決定。記者会見で、辻元、市民団体「宝塚学校給食を考える会」代表の中川智子は比例近畿ブロックから、ジャーナリストの保坂展人は比例東京ブロックから出馬することが発表された。それから4日後の10月8日、第41回衆議院議員総選挙が公示。党は辻元を比例の1位、中川を2位に登載した。保坂は東京22区に転じた。10月20日、投開票。社民党は近畿ブロックで2議席獲得。辻元と中川は初当選。保坂は小選挙区で敗れるも、比例復活で初当選した。",
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"text": "1998年1月に党幹事長代理に就任。枝野幸男らと推し進めた特定非営利活動促進法(NPO法)が同年3月に成立。9月、党広報委員長就任。",
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"text": "そのほか、被災者生活再建支援法、情報公開法、児童買春・児童ポルノ禁止法などの制定に取り組んだ。COP3「地球温暖化防止」プロジェクトチーム、男女共同参画社会基本法、環境アセスメント法審議に関わる。",
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"text": "当時、社民党は自社さ連立政権の一翼をになう与党であったが、社民党・新党さきがけ2党は総選挙直前に大量の離党者を出し(その多くが旧民主党結党に参加)、第41回衆議院議員総選挙で惨敗を喫した。第41回衆議院議員総選挙を経て発足した第2次橋本内閣では社民・さきがけは閣僚を出さず、閣外協力に転じ、後に正式に連立政権を離脱する。なお、辻元は一般に「自社さ」と呼ばれた連立の枠組みを「社自さ」と呼んでいた。",
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"text": "2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では大阪10区から社民党公認で出馬し、公明党の石垣一夫、民主党の肥田美代子らを破り、再選。同年7月、社会民主党政策審議会長に就任。",
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"text": "辻元は詐欺事件をおこしたことを新潮によって発覚し、2002年3月28日、衆議院議員を辞職。直後に瀬戸内寂聴から「あなた行くところないでしょう。私のところに来なさい」との電話を受け、京都市嵯峨野の寂庵で約1カ月間、庭の掃除をしながら暮らした。同年7月18日、辻元本人・初代政策秘書・土井たか子党首の元秘書で指南役の五島昌子ら4人が秘書給与詐欺容疑で警視庁に逮捕された。逮捕後は口裏合わせをして証拠隠滅を図った事実及び詐欺容疑を全面的に認めた。",
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"text": "2004年2月、東京地裁は、秘書給与1840万円を騙し取った詐欺の罪で、懲役2年・執行猶予5年の有罪判決を下した(2009年、猶予期間満了)。判決後、何をすべきか迷っていたときに、瀬戸内寂聴に四国お遍路の旅を勧められるが、経済的な余裕がなかったため大阪府全市町村を日帰りで歩く旅に出た。同年6月に社民党を離党。同年7月の第20回参議院議員通常選挙に大阪府選挙区から無所属で立候補したが、次点で落選(同選挙の全国最高得票数落選者)。",
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"text": "2005年7月5日、郵政民営化法案が衆議院で可決するが、翌7月6日、小泉純一郎首相は、参議院で否決された場合ただちに衆議院を解散して総選挙を行うと明言。同月末、福島瑞穂から「また一緒にやろう」との電話を受ける。土井たか子からも8月8日の解散直前に「もう一度腹をくくってがんばれ」と励まされ、衆院選出馬の意思を固める。8月15日、社民党大阪府連は辻元を大阪10区に同党公認で擁立する方針を決めたと明らかにした。9月11日、第44回衆議院議員総選挙執行。大阪10区は自由民主党元職の松浪健太が当選。社民党は比例近畿ブロックで1議席を獲得し、登載順位1位の辻元は比例復活で3選。比例単独5位の土井はこの選挙で議席を失った。",
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"text": "2006年2月、社民党女性青年委員長に就任。",
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"text": "2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では前回敗れた松浪を大阪10区で破り、4選。選挙後の同年9月、党国会対策委員長に就任した。早野透によれば、三党連立政権の発足時には水面下での交渉を担当したとされ、辺野古基地建設を「見直し」対象とする連立政権合意を成立させたという。",
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"text": "同年9月に発足した民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣において、国土交通副大臣に就任する。当初、国対委員長の職にあった辻元は党務に携わるため就任の要請を固辞したが、福島瑞穂党首が既に閣議で辻元の国交副大臣就任を含む政務三役の人事案に同意し署名していたため、最終的には就任を受け入れた。国対委員長の職務は重野安正幹事長が代行し、2010年1月に後任の国対委員長に照屋寛徳が就任するまで国対委員長と国交副大臣の兼務が続くこととなった。国対委員長退任後、新たに設けられた社民党特命常任幹事に就任し、党執行部には残留している。",
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"text": "なお国会議員時代の刑事事件で有罪判決を受けた者が刑の効力が失われた後に行政府の役職に就くのは、1997年に第2次橋本改造内閣で総務庁長官に就任した佐藤孝行以来12年ぶり。ただし、佐藤孝行は、当時閣外協力をしていた社民党からの辞任要求によって、わずか12日間で辞任に追い込まれている。",
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"text": "2009年10月30日、JAL再生タスクフォースの解散後に設置された日本航空再建対策本部(本部長・前原誠司)の事務局長に就任した。大鹿靖明によれば、辻元は「JALの破綻はこれまで日本が経験したことのない国際大型倒産である」という認識から政府内やメガバンクとの調整にまわり、メガバンクとの会談では「いま、ここにいる人が大喧嘩したら日本の経済に大打撃を与えます。みなさんが鍵を握っているのです。100%納得するのはありえないでしょうから、歩み寄ってほしいのです」と説得した。しかし、11月6日に日航再建対策本部が日本政策投資銀行など日航の主力取引銀行幹部に1000億円規模の「つなぎ融資」を要請した際、銀行側は辻元からの要請を留保するだけではなく、反対に日航への融資に対する保証を政府が確保することを要請し、辻元は「政府保証などで、われわれも頑張るので、協力をお願いしたい」と述べて譲歩する姿勢を示した。最終的に日航は2010年1月19日に会社更生法の適用を申請した。",
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"text": "2009年12月1日、観光立国推進本部の事務局長に就任。中国人の観光ビザ取得要件の緩和に取り組み、発給条件の年収25万元(約320万円)以上を過度な所得制限と述べ、年収6万元(約80万円)に引き下げた。2010年度の中国人観光客数の前年比41%増加を実現したことから、辻元は予算のいらない経済刺激策と自賛している。",
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"text": "2010年2月4日、国土交通省が関連する公共事業の予算配分に関する情報を民主党の地方組織に漏洩させた馬淵澄夫国土交通副大臣の更迭を求めた自民党に対し、「(自民党は)過剰反応している」と退けた。",
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"text": "副大臣在任当時、大型巡視船は1隻のみだった。海上保安庁の警備力をあげるため、辻元は新たに「あきつしま」の導入を訴えた。",
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"text": "2010年5月28日、沖縄県の普天間基地移設問題で、日米の政府間合意に閣議決定で反対し署名を拒否した福島瑞穂内閣府特命担当相が鳩山由紀夫首相に閣僚を罷免され、連立政権を離脱するか否かが問題となった。当時フランスのパリに外遊中だった辻元は、連立離脱に慎重とされていたが、「政治的に一つの曲がり角ですけど、日本に帰って社民党の仲間と話し合って、今後の対応を決めていきたい」と述べて自身の進退につき明言を避けた。前原誠司国交相は5月29日に辻元に副大臣続投を要請したが、社民党が5月30日に連立離脱を決定したことを受け、辻元は同日中に辞任の意向を伝達し、5月31日に辞表を提出して受理された。辞表提出後のインタビューでは、「国交省は利権の巣窟というイメージがあったが、そうではなかった。不安いっぱいだったが、多くの職員が変えていこうという思いに賛同してくれた。辞めるのは寂しいしつらい」と涙ながらに語った。",
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"text": "連立離脱について辻元は「鳩山政権離脱という選択が良かったのかどうかは、迷う。離脱することによって、自民党政権が復活したり、改憲への道が開けたりする恐れがある。肝心の普天間基地の問題かって、どうしようもないカッコ悪さに耐えながら、政権に残っていた方が余地が大きかったんと違うかなあ。『地獄への道は善意で舗装されている』という言葉があるように、正しい選択が正しい結果を導くとは限らんやろ」と述べ、「当時、日米合意があっても沖縄の合意がなければ辺野古移設は実現しないという閣議決定はできないか、と折衝していました。私はその歯止めができないかと考えていたんです」と主張している。",
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"text": "同年7月26日夜、重野安正幹事長と会談し、その席で離党の意向を伝えた。7月27日の午前中には福島党首から離党を思い留まるよう慰留されるも、福島の説得を受け入れず、離党届提出後の記者会見で次期衆議院議員総選挙に無所属で出馬する考えを表明した。離党理由については「現実との格闘から逃げずに国民のための仕事を一つずつ進めていきたい」としている。福島との面談が重野との会談の翌日となった理由については、福島が辻元との対話をたびたびキャンセルしたことを挙げている。",
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"text": "同年8月19日、社民党は辻元の離党届を受理した。地元の党大阪府連合の要請により、除名などの処分は見送られた。",
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"text": "同年9月28日、衆議院会派「民主党・無所属クラブ」に入会し、国土交通委員会与党筆頭理事に就任した。9月29日には中国建国記念レセプションに出席した。",
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"text": "2011年3月13日、東日本大震災を受け、災害ボランティア担当の内閣総理大臣補佐官に就任。",
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"text": "同年9月5日、野田内閣の発足を受け、首相補佐官を退任。9月7日には民主党入りの意向が報じられ、社民党の福島党首は記者会見で「応援した人を裏切っていくことは、一人の政治家として良いことではない。理念より権力に近寄る方を選択すると思ってしまう。すごく残念だ」と批判した。9月10日には民主党大阪府連に入党届を提出して了承され、9月27日に党本部の常任幹事会の了承を経て正式に入党した(同時に衆院大阪府第10区支部長に就任)。",
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"text": "同年10月20日、民主党政調副会長に就任。10月24日には前原誠司政調会長により「提言型政策仕分け」の「仕分け人」に選ばれる。",
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"text": "2012年4月19日、「秋の大型連休」導入を検討するプロジェクトチームの座長として初会合を開いた。4月24日の政調役員会で、消費増税法案の閣議決定に抗議し辞表を提出した松崎哲久国土交通部門会議座長の後任に起用されることが決まった。",
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"text": "同年12月の第46回衆議院議員総選挙で大阪10区より出馬、松浪に敗れたものの比例近畿ブロックで復活し5選。同選挙で大阪の選挙区から出馬して当選した民主党の候補者が他にいなかったため当時は民主党大阪府連に属する唯一の衆議院議員であった。",
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"text": "2013年9月、民主党幹事長代理に就任。",
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"text": "2014年4月4日、衆議院本会議でトルコとアラブ首長国連邦への原発輸出を可能にする原子力協定の承認案の採決が行われた際、賛成とする党議に反して欠席したが、辻元は欠席につき国対委員長の許可を得ていたため、不問に付された。",
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"text": "同年9月、民主党ネクスト内閣府特命大臣(新しい公共・社会的包摂・消費者および食品安全・男女共同参画・子供の貧困・自殺対策・NPO)・民主党新しい公共・社会的包摂総合調査会長に就任。安倍政権の目玉政策である、いわゆる「女性活躍」法案について、政策担当として修正案策定に携わった。",
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"text": "同年12月14日の第47回衆議院議員総選挙で大阪10区より出馬し、自治労などの政策協力候補者として支援を受けて当選。この選挙で民主党代表の海江田万里が落選。海江田の辞任に伴い2015年1月18日に行われた代表選挙では、岡田克也の推薦人に名を連ねた。岡田が代表に選出された後、政調会長代理に就任した。",
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"text": "2015年12月、民主党役員室長に就任。",
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"text": "2016年3月27日、民主党と維新の党が合流して民進党が結成される。同党に参加し、民進党執行部発足後も役員室長に留任した。",
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"text": "同年7月の第24回参議院議員通常選挙の大阪府選挙区で民進党所属の現職尾立源幸が落選。これに伴い辻元は民進党大阪府連に所属する唯一の選挙区選出の国会議員となった。",
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"text": "2017年7月27日、民進党代表の蓮舫が、同月の東京都議会議員選挙の結果を受けて辞任を表明。8月21日、蓮舫の辞任に伴う代表選挙が告示され、辻元は枝野幸男の推薦人に名を連ねた。9月1日、前原誠司が代表に当選。9月8日、民進党は常任幹事会を開き、幹事長代行に辻元を充てる人事案を了承した。辻元は、閣僚や党要職の経験がない大島敦幹事長を党務で補佐することとなった。",
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"text": "2017年9月25日、希望の党が設立。9月27日、希望の党と日本維新の会が候補者すみ分けの検討に入ったと報じられた。同日夜、希望の党代表の小池百合子はBSフジの番組に出演し、同党への参加の条件について、憲法改正と安保法制への姿勢を重視する考えを示した。",
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"text": "同年9月28日、衆議院解散。同日、民進党両院議員総会で希望の党への事実上の合流方針が了承された。総会後、辻元は報道陣に「私は執行部なので発言はしていません」と険しい表情で一言だけ答えたが、希望の党と日本維新の会のすみ分けの方針や、安保法制に関する考え方の相違などから、辻元が希望の党の公認を得るのは厳しい状況と報じられた。",
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"text": "同年9月30日未明、共同通信が「枝野が無所属で出馬する方向で検討に入った。考え方の近い前議員らとの新党結成も視野に入れている」と報道。同日午後3時、民進党本部で全国幹事会・選挙対策担当者会議が開かれた。午後7時過ぎまで4時間以上にわたって行われた同会議を辻元は途中で退席。記者団に囲まれた辻元は「リベラルの力と重要性を信じている」と述べ、希望の党には公認申請せず、無所属で出馬する意向を表明した。小池の発言に端を発した民進党の前職、元職計15人の「排除リスト」が出回り、同日夜、枝野幸男、長妻昭、辻元、近藤昭一、参議院議員の福山哲郎らは都内のホテルに集まり、対策を協議。",
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"text": "同年10月1日、「無所属で戦わざるを得ない人たちが全て当選できるような受け皿ができれば」と述べてリベラル系の新党参加の可能性に言及した。10月2日、枝野が新党「立憲民主党」の設立を表明。これを受けて10月3日に立憲民主党への参加を表明し、10月4日には民進党に離党届を提出した。10月6日、立憲民主党政務調査会長に就任した。",
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"text": "同年10月22日の第48回衆議院議員総選挙に大阪10区より立候補し、自民党の大隈和英、日本維新の会の松浪を破り、7選。選挙後の10月24日、立憲民主党両院議員総会で国会対策委員長に就任することが決まった(10月26日まで政調会長を兼務)。",
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"text": "2018年11月17日、立憲民主党大阪府連代表に就任。",
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"text": "2019年2月、外国籍の人物から1万円の政治献金を受けていた疑惑が報じられた。辻元は疑惑が事実と認めたうえで、「寄付金は外国籍の方からはできません」と明記された用紙であったものの、「さかのぼって確認していなかった。再発防止の対応策を考える」旨や「返金し、速やかに適正な訂正処理を行った」旨を報道各社に説明し、国対委員長辞任については否定した。9月19日、国会対策委員長を退任し、幹事長代行に就任。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "2020年8月24日、旧立憲民主党と旧国民民主党は、2つの無所属グループを加えた形で合流新党を結成することで合意した。同年9月10日に行われた新「立憲民主党」の代表選挙では枝野幸男の推薦人に名を連ねた。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "2021年10月31日に行われた第49回衆議院議員総選挙の大阪10区には辻元、日本維新の会新人の池下卓、自民党現職の大隈の3人が立候補。選挙戦終盤の10月27日には山崎拓元自民党幹事長が辻元の応援演説に来たものの小選挙区では日本維新の会新人の池下卓が初当選。辻元は次点で敗れ(惜敗率82.715%)、比例復活もできず落選した。",
"title": "来歴"
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"text": "同年11月13日、立憲民主党大阪府総支部連合会で「力不足で厳しい結果になった」と述べ、府連代表を辞任する意向を表明した。",
"title": "来歴"
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"text": "2022年1月21日、立憲民主党は、次期参院選比例代表に辻元を擁立する方向で最終調整に入った。同年1月31日、辻元はオンラインで支援者向けの報告会を開き、正式に出馬表明した。同日、党本部で党代表泉健太と面会し、参院選比例代表での公認を申請。2月8日、立憲民主党は参院選女性候補者の公募を開始し、辻元を日本私鉄労働組合総連合会の「準組織内」候補として比例区での擁立を決定した。",
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"text": "同年7月の第26回参議院議員通常選挙で、立憲民主党は比例代表で7議席を獲得。辻元は党内得票数1位で当選した。第211回国会では参議院環境委員会、予算委員会、憲法審査会に所属。",
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"text": "2011年3月16日の産経新聞記事において、記者の阿比留瑠比が、「13日に(中略)辻元清美元国土交通副大臣を災害ボランティア担当の首相補佐官に任命したことにも必然性は感じられない。(中略)辻元氏は平成7年の阪神淡路大震災の際、被災地で反政府ビラをまいた。2人の起用はブラックジョークなのか。」と報道。",
"title": "報道"
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"text": "2011年3月21日の産経新聞記事において、記者の阿比留瑠比が、「カメラマンの宮嶋茂樹氏の著書によると、辻元氏は平成4年にピースボートの仲間を率いてカンボジアの自衛隊情勢を視察し、復興活動でへとへとになっている自衛官にこんな言葉をぶつけたという。『あんた!そこ(胸ポケット)にコンドーム持っているでしょう』(中略)こんな人物がボランティア部隊の指揮を執るとは。被災地で命がけで活動している自衛隊員は一体どんな思いで受け止めているだろうか。」と報道している。",
"title": "報道"
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"text": "辻元は、阿比留が根拠とした宮嶋茂樹の著書に実際には辻元がそのような発言をしたとの記述はなかったとし、辻元自身もホームページで「この非常時に公器としての報道機関がデマを拡散させたことに、厳重に抗議いたします」と批判した。",
"title": "報道"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "2012年1月19日、産経新聞の2011年3月16日と3月21日にの阿比留の記事について、名誉毀損の損害賠償請求を産経新聞社および記者の阿比留に対して東京地裁に提訴した。2013年3月22日、「被告側は原告らに一切取材しておらず、記事が指摘した事実が真実とは認められない」として産経新聞社に80万円の賠償を命令、原告・被告とも控訴せず、この判決は確定した。",
"title": "報道"
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"text": "2017年3月24日に公開された学校法人森友学園前理事長籠池泰典の妻による首相夫人の安倍昭恵宛のメールに、「辻元清美共産党今はぐっと辛抱です(笑)」、「辻元清美が幼稚園に侵入しかけ 私達を怒らせようとしました嘘の証言した男は辻元と仲良しの関西生コンの人間でしたさしむけたようです」、「三日だけきた作業員が辻元清美が潜らせた関西なんとか連合に入っている人間らしい(略)下請け業者の社長は現場もマスコミに写し全くうめてないことをしっていて三日だけきた作業員を辻元清美は送り込みました」、「辻元清美生コンをみればある関西こうえき連合の人間をマスコミに出し社長の言い分はのせなかったそうです 国会議員の犯罪じゃないですか」などと書かれていたと産経新聞は報じている(毎日新聞はインターネットで全文公開した後、この部分を削除して再公開している)。これについて、民進党は、辻元が幼稚園に侵入したとする事実はなく、作業員を下請け業者に送り込んだことは虚偽であると反論している。この疑惑について、官房長官の菅義偉は、民進党から辻元の名が出ていることについての説明があるのではないか、という見解を述べている。",
"title": "報道"
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"text": "後に菅野完が籠池の妻にインタビューした際に、籠池の妻は辻元の塚本幼稚園への侵入を確認せずにメールを書いたと述べた。",
"title": "報道"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "2017年3月24日の午後におこなわれた内閣官房長官記者会見で、記者から「メールの公開に官邸の意向も働いたのか」と質問された菅義偉は、「政府としては、メールを公開することによってひとつの物的証拠にもなるわけですよね。(中略)客観的なひとつの証拠になるんだろうと思って、公開をおこなうことを先方の了解をいただいて決断した」と回答。さらに、メールの証拠性について問われると、「それはご覧になった方が判断するんじゃないでしょうか」と返答し、裏付けがないことを認めている。",
"title": "報道"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "2017年3月28日に、産経新聞は、「民進・辻元清美氏に新たな「3つの疑惑」民進党「拡散やめて」メディアに忖度要求」と題し、(1)塚本幼稚園に侵入したのか、(2)小学校の建設現場へ作業員を派遣したのか、(3)辻元が民主党政権で国交副大臣であった時期に森友学園の隣接地「野田中央公園」(14億2386万3000円)購入時に計14億262万円の補助金支給があり、豊中市負担は2134万3000円のみで国有地払い下げが行われた事実に関する疑惑を報じ、辻元について「籠池氏の発言に依拠して首相らを追及しながら、都合の悪い妻の言葉は封じようとする矛盾に陥っている。」と批判した。なお、(1)(2)はメール籠池妻のメールから出てきたものだが、(3)についてはメールに記載はなく、保守系のサイトなどで飛び交っていたものである。",
"title": "報道"
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"text": "国有地払い下げがあった年の10月の豊中市議会で「政権が代わったからこうなったのか」という質問も出ていた。",
"title": "報道"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "産経新聞への質問について、民進党役員室は3月24日に(1)(2)について「一切ない」、28日に辻元は「塚本幼稚園に入っておりませんし、入ろうとした事実もございません」、「マスコミで証言をした人物は、辻元清美とは面識がございません」「送り込んだなどということも一切ございません」、「野田中央公園の用地取得に関する補助金等は、麻生政権下の21年第一次補正予算で決定されたものを鳩山政権下で引き継いで執行したものです」と回答している。",
"title": "報道"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "3月29日に民進党は、28日付けの産経新聞の報道は事実ではないとして産経新聞宛に「抗議文」を送り、民進党代表の蓮舫は「3つの疑惑」報道を「ガセネタ」とし「法的措置も含めて検討している」と述べた。ただ、その時点では事務所と党の対応には違いがあったのか、産経新聞はそのあと「辻元事務所の職員の対応は実に丁寧で感謝しています」と述べている。一方、4月6日の記者会見において、蓮舫は、産経新聞の報道について、「報道の自由は保障されておりますので、産経新聞が自らの責任で見解を表明することには何ら反対はいたしません」と述べ、疑惑報道に関して反論はあるかとの産経新聞の質問についても、「特段ありません」と答えている。",
"title": "報道"
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"text": "産経新聞の報道に多くのジャーナリスト等が疑問を呈した。",
"title": "報道"
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"text": "(1)について、後に著述家の菅野完が籠池の妻、娘にインタビューした際に、籠池の妻は辻元の塚本幼稚園への侵入を確認せずにメールを書いたと述べた、娘も思い込みだったと認めた 。",
"title": "報道"
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"text": "(2)については、評論家の荻上チキが“辻元が送り込んだ”とされる作業員へのインタビューを敢行。産経報道の翌日の2017年3月29日に、自らが司会を務めるラジオ番組において、作業員が「辻元とまったく接点がない」、「生コン会社で働いていないので生コンの関連組合に入れるはずもない」などの証言を行い、産経記事に基づいて報道したテレビ局に抗議し謝罪があったことを明らかにした。",
"title": "報道"
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"text": "ジャーナリストの江川紹子は、産経新聞が一連のメールが公開されてから4日後に記事を掲載するまでに、作業員に一切確認取材がされなかったこと、作業員が辻元清美と面識がないという事実が明らかになった後も、記事の訂正がなされていないことを指摘している。",
"title": "報道"
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"text": "(3)については、辻元のスタッフが検証を行っており、麻生政権時の2009年5月(辻元が国土交通副大臣に就任する以前)、政府が豊中市に対して予算配分をする旨及び金額を内示した趣旨の国会答弁を国土交通省はしている。また、それを裏付ける資料の存在が確認されている。",
"title": "報道"
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"text": "また、ノンフィクションライターの常井健一は辻元が籠池妻のメール内容を否定する記者会見や法的措置を講じなかった理由について辻元に尋ね、「籠池夫人が、公開を前提としないメールで私の名前を出したこと自体は名誉棄損だとは思っていません。こんなことで民間人が国会議員に記者会見を開かれて噛みつかれたら、そんな社会は気持ち悪いと思う。それより、中身を知りながらメールの公開を決めた人のほうが気になる。私は籠池夫人の内心の自由も守りたいから、あまり騒ぎたくないんだけどな」という回答を得ている。",
"title": "報道"
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"text": "著書の中でネットからデマ被害を受けていると訴えている。もともとネットはあまり見なかったのでデマを深刻に考えておらず放置していたというが、近年デマ対策に乗り出すようになった。その理由について辻元は著書の中で次のように述べている。",
"title": "デマ被害"
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"text": "カンボジアPKOで派遣された自衛官に「あんた、そこにコンドームを持っているでしょう」と暴言を吐いたとされる件や阪神淡路大震災の被災地で反政府ビラをまいたとされる件については「震災に関するデマ」、日本赤軍と関係があるとされる件については「日本赤軍、過激派に関するデマ」、ピースボートが過激派の資金源になっているとされる件については「ピースボートに関するデマ」、ネット上に辻元のバイブレーターの写真が出回っている件については「バイブレーターに関するデマ」、東日本大震災の現地視察で辻元が豪勢な出張旅行を行ったとされる件については「東日本大震災時の現地視察に関するデマ」、東日本大震災の際に辻元が福島県いわき市への支援物資を止めてピースボートに横流ししたとされる件については「支援物資を横流ししたというデマ」、金正日に会えると号泣しているところとされる辻元の写真がネットに出回っている件については「金正日に逢えると号泣したというデマ」、自衛隊は必要ないと主張したとされる件については「自衛隊への認識に関するデマ」、辻元が在日朝鮮人や帰化日本人であるとされる件については「民族を理由とするデマ」、内縁の夫がいてそれが過激派であるとされる件については「内縁の夫のデマ」 でそれぞれ否定している。さらに2017年3月24日付けで「安倍昭恵夫人と籠池夫人とのメールにおける辻元清美に関するデマ」を加えて、自身のサイトに、合計10の「デマ」に関する否定文を掲載している。辻元は街頭演説中に「デマ」を信じた人間から襲撃された被害にも遭ったと主張している。",
"title": "デマ被害"
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"text": "",
"title": "議員連盟"
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"text": "特記なき物は第三書館刊",
"title": "著作"
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] |
辻元 清美は、日本の政治家。立憲民主党所属の参議院議員(1期)。 衆議院議員(7期)、国土交通副大臣(鳩山由紀夫内閣)、内閣総理大臣補佐官(災害ボランティア活動担当)(菅直人第2次改造内閣)、社会民主党政策審議会長(第5代)、同国会対策委員長(第8代)、民進党幹事長代行(初代)、旧立憲民主党政務調査会長 (初代)、同副代表兼国会対策委員長(初代)、同幹事長代行、立憲民主党副代表などを歴任。ピースボート設立者のひとり。
|
{{しんにょう|辻|1}}
{{政治家
| 人名 = 辻元 清美
| 各国語表記 = つじもと きよみ
| 画像 = Kiyomi Tsujimoto 20120520.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = [[国立女性教育会館]]より公表された肖像
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1960|4|28}}
| 出生地 = {{JPN1947}} [[奈良県]][[吉野郡]][[大淀町]]
| 没年月日 =
| 死没地 =
| 出身校 = [[早稲田大学大学院教育学研究科・教育学部|早稲田大学教育学部]]
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| 所属政党 = ([[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]→)<br />([[無所属]]→)<br />(社会民主党→)<br />(無所属→)<br />([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]→)<br />([[民進党]]→)<br />([[立憲民主党 (日本 2017)|旧立憲民主党]]→)<br />[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]
| 称号・勲章 = [[学士(社会科学)|社会科学士]]([[早稲田大学]]・[[1987年]])
| 親族(政治家) =
| 配偶者 =
| サイン =
| ウェブサイト = https://www.kiyomi.gr.jp/
| サイトタイトル = 辻元清美公式サイト
| 国旗 = JPN
| 職名 = [[内閣総理大臣補佐官]]<br />(災害ボランティア活動担当)
| 内閣 = [[菅直人内閣 (第2次改造)|菅直人第2次改造内閣]]
| 就任日 = [[2011年]][[3月13日]]
| 退任日 = 2011年[[9月5日]]
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| 職名2 = [[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]]
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| 職名3 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]
| 選挙区3 = ([[比例近畿ブロック]]→)<br />([[大阪府第10区|大阪10区]]→)<br />(比例近畿ブロック→)<br />(大阪10区→)<br />(比例近畿ブロック→)<br />大阪10区
| 当選回数3 = 7回
| 就任日3 = [[1996年]] - [[2002年]][[3月28日]]<ref name="kokkai154">{{cite conference|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=115405254X01720020328|date=2002-03-28|title=衆議院本会議|volume=17|conference=第154回国会}}</ref><br />[[2005年]][[9月11日]]
| 退任日3 = [[2021年]][[10月14日]]
}}
'''辻元 清美'''(つじもと きよみ、[[1960年]]〈[[昭和]]35年〉[[4月28日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]所属の[[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]](1期)。
[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](7期)、[[国土交通副大臣]]([[鳩山由紀夫内閣]])、[[内閣総理大臣補佐官]](災害ボランティア活動担当)([[菅直人内閣 (第2次改造)|菅直人第2次改造内閣]])、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]][[政策部会|政策審議会長]](第5代)、同[[国会対策委員会|国会対策委員長]](第8代)、[[民進党]][[民主党幹事長|幹事長代行]](初代)、[[立憲民主党 (日本 2017)|旧立憲民主党]]政務調査会長 (初代)、同副代表兼国会対策委員長(初代)、同幹事長代行、立憲民主党副代表などを歴任。[[ピースボート]]設立者のひとり{{Sfn|秋山|2018|p=102}}。
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[奈良県]][[吉野郡]][[大淀町]]に生まれ、[[大阪府]][[高槻市]]で育つ<ref name="profile">{{wayback|url=http://www5.sdp.or.jp/central/giin/tsujimoto.html|title=辻元清美プロフィール - 社民党|date=20051026041619}}</ref><ref>{{official website|http://www.kiyomi.gr.jp/#s_6}}</ref><ref>[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_giinprof.nsf/html/profile/286.html 辻元清美君]、衆議院</ref><ref name=":1">[http://www.jiji.com/jc/giin?c=syu&d=7c86af97cae773d040f6042be85d8ae2 辻元清美]、時事通信国会議員情報</ref>。[[名古屋大学教育学部附属中学校・高等学校|名古屋大学教育学部附属高校]]卒業。高校3年生のとき、[[代々木ゼミナール]]名古屋校で英語の講師をしていた[[小田実]]の講演を聞く。講演後、喫茶店で小田と話し込み、意気投合したことが市民活動に関わるきっかけとして大きかったと辻元は述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kiyomi.gr.jp/blog/4267/ | title=新しい政治の波を起こす起爆剤、接着剤でありたい――『世界』(岩波書店)10月号にインタビューが掲載されました | work=辻元清美公式サイト | date=2010-9-17 | accessdate=2021-11-24 }}</ref>。卒業後、[[百貨店|デパート]]で2年間販売員として働いた<ref>{{Cite book|和書|author=早野透|authorlink=早野透|year=2002-04|title=政治家の本棚|publisher=朝日新聞|page=421|isbn=9784022577467}}</ref>。
[[1981年]]4月、[[早稲田大学大学院教育学研究科・教育学部|早稲田大学教育学部]]に入学<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kushiro.lg.jp/common/000066097.pdf | title=出張報告書(平成26年4月28日) | publisher=北海道釧路市ホームページ | date= | accessdate=2021-11-23 }}</ref>。1980年代初め、小田の市民運動を手伝うようになる。[[代々木公園]]でビラまきをしているとき、反核運動の集会で同じくビラまきをしていた[[土井たか子]]に強烈な印象を受ける。この日、土井と秘書の五島昌子と昼食をともにした<ref>{{cite news |url=https://www.kiyomi.gr.jp/wp/wp-content/uploads/2015/12/20141210i_onna_no_shinbun.pdf | title=ありがとう、土井たか子さん | newspaper=[[I女性会議|I女のしんぶん]] | date=2014-12-10 | accessdate=2021-11-24 }}</ref>。
[[1983年]]、その前年に起きた[[歴史教科書問題]]に触発され、大学の仲間4人で、[[アジア|アジア諸国]]と日本の交流の活性化を目的とした[[NGO]]「[[ピースボート]]」を設立した<ref name="profile" />。1987年、早稲田大学卒業<ref name=":1" />。
[[1992年]]6月、[[リオ・デ・ジャネイロ]]で開かれた[[環境と開発に関する国際連合会議|地球サミット]]にNGOの一員として参加<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114004006X00219970221 | title=第140回国会 衆議院 環境委員会 第2号 平成9年2月21日 | website=国会会議録検索システム |date= | accessdate=2022-7-5 }}</ref>。その後も市民運動に関わり、[[1993年]]にはエイボン女性大賞教育賞を受賞<ref name="profile" />。
=== 政界入り ===
[[1996年]]9月27日、衆議院解散。翌9月28日、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]の党首に[[土井たか子]]が復帰。10月4日、同党は「土井たか子を支える会」からメンバー3人を擁立することを決定。記者会見で、辻元、市民団体「宝塚学校給食を考える会」代表の[[中川智子]]は[[比例近畿ブロック]]から、ジャーナリストの[[保坂展人]]は[[比例東京ブロック]]から出馬することが発表された<ref>『朝日新聞』1996年10月5日付朝刊、政治、7面、「社民党が衆院選比例区で保坂展人ら公認(政治短信)」。</ref><ref>『朝日新聞』1996年10月5日付朝刊、2社、34面、「市民運動家、土井氏支える会から立候補(どこへ 96年秋・新選挙)」。</ref>。それから4日後の10月8日、[[第41回衆議院議員総選挙]]が公示。党は辻元を比例の1位、中川を2位に登載した。保坂は[[東京都第22区|東京22区]]に転じた。10月20日、投開票。社民党は近畿ブロックで2議席獲得。辻元と中川は初当選。保坂は小選挙区で敗れるも、比例復活で初当選した。
[[1998年]]1月に党幹事長代理に就任。[[枝野幸男]]らと推し進めた[[特定非営利活動促進法]](NPO法)が同年3月に成立<ref>『朝日新聞』1998年4月6日付朝刊、2総、2面、「議員『立法』ブーム NPO法成立、買春規制・3連休促進も準備」。</ref>。9月、党広報委員長就任<ref name=":1" />。
そのほか、[[被災者生活再建支援法]]、[[情報公開法]]、[[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律|児童買春・児童ポルノ禁止法]]などの制定に取り組んだ。[[COP3]]「地球温暖化防止」プロジェクトチーム、[[男女共同参画社会基本法]]、[[環境アセスメント法]]審議に関わる<ref name="profile" />。
当時、社民党は[[自社さ連立政権]]の一翼をになう[[与党]]であったが、社民党・[[新党さきがけ]]2党は総選挙直前に大量の離党者を出し(その多くが[[民主党 (日本 1996-1998)|旧民主党]]結党に参加)、[[第41回衆議院議員総選挙]]で惨敗を喫した。第41回衆議院議員総選挙を経て発足した[[第2次橋本内閣]]では社民・さきがけは[[国務大臣|閣僚]]を出さず、[[閣外協力]]に転じ、後に正式に[[連立政権]]を離脱する。なお、辻元は一般に「自社さ」と呼ばれた連立の枠組みを「社自さ」と呼んでいた。
[[2000年]]6月の[[第42回衆議院議員総選挙]]では[[大阪府第10区|大阪10区]]から社民党公認で出馬し、[[公明党]]の[[石垣一夫]]、民主党の[[肥田美代子]]らを破り、再選。同年7月、社会民主党政策審議会長に就任<ref name=":1" />。
=== 逮捕・議員辞職から政界復帰まで ===
{{main|辻元清美秘書給与流用事件}}
辻元は詐欺事件をおこしたことを新潮によって発覚し、[[2002年]]3月28日、衆議院議員を辞職<ref name="kokkai154" />。直後に[[瀬戸内寂聴]]から「あなた行くところないでしょう。私のところに来なさい」との電話を受け、京都市[[嵯峨野]]の寂庵で約1カ月間、庭の掃除をしながら暮らした<ref>{{cite news |author=西田理人 |url=https://www.asahi.com/articles/ASPCK5723PCDPTFC008.html | title=「どん底の私を救ってくれた」 辻元清美さんの選ぶ、寂聴さんの1冊 | newspaper=朝日新聞 | date=2021-11-19 | accessdate=2021-11-24 }}</ref>。同年7月18日、辻元本人・初代政策秘書・[[土井たか子]]党首の元秘書で指南役の五島昌子ら4人が秘書給与[[詐欺罪|詐欺]]容疑で[[警視庁]]に[[逮捕]]された。逮捕後は口裏合わせをして証拠隠滅を図った事実及び詐欺容疑を全面的に認めた。
[[2004年]]2月、東京地裁は、秘書給与1840万円を騙し取った詐欺の罪で、[[懲役]]2年・[[執行猶予]]5年の有罪判決を下した<ref>{{cite 判例検索システム|事件名=[[辻元清美秘書給与流用事件]]|法廷名=[[東京地方裁判所]]|裁判形式=判決|裁判年=平成16|裁判月=2|裁判日=12|判例集=|事件番号=平成15刑(わ)2860|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail4?id=5580}}</ref>([[2009年]]、猶予期間満了)。判決後、何をすべきか迷っていたときに、瀬戸内寂聴に四国お遍路の旅を勧められるが、経済的な余裕がなかったため大阪府全市町村を日帰りで歩く旅に出た<ref>市川真「彼女たちのストーリー 辻元清美さん(46)衆議院議員 大阪歩き庶民の痛み知る」 『朝日新聞』2006年7月24日付朝刊、9面。</ref>。同年6月に社民党を離党<ref name=":1" />。同年7月の[[第20回参議院議員通常選挙]]に[[大阪府選挙区]]から[[無所属]]で立候補したが、次点で落選(同選挙の全国最高得票数落選者)。
[[2005年]]7月5日、[[郵政民営化法|郵政民営化法案]]が衆議院で可決するが、翌7月6日、[[小泉純一郎]]首相は、参議院で否決された場合ただちに衆議院を[[郵政解散|解散]]して総選挙を行うと明言<ref name="meiji20091010">{{Cite web|和書|author=井田正道 |url=https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/15040/1/shakaikagakukiyo_48_1_125.pdf | title=2005年解散・総選挙と新聞報道 | publisher=明治大学社会科学研究所紀要 |format=PDF |date=2009-10-10 | accessdate=2021-11-24 }}</ref>。同月末、[[福島瑞穂]]から「また一緒にやろう」との電話を受ける。土井たか子からも8月8日の解散直前に「もう一度腹をくくってがんばれ」と励まされ、衆院選出馬の意思を固める<ref>『朝日新聞』2005年8月17日付朝刊、2社会、30面、「激動 05年衆院選 辻元氏出馬へ 『敗者復活きく社会に』『参院選の次点が励み』」。</ref>。8月15日、社民党大阪府連は辻元を大阪10区に同党公認で擁立する方針を決めたと明らかにした<ref>『東京新聞』2005年8月16日付朝刊、2面、「社民・辻元氏が 重複立候補へ 土井氏は比例単独」。</ref>。9月11日、[[第44回衆議院議員総選挙]]執行。大阪10区は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]元職の[[松浪健太]]が当選。社民党は[[比例近畿ブロック]]で1議席を獲得し、登載順位1位の辻元は比例復活で3選<ref name=":1" />。比例単独5位の土井はこの選挙で議席を失った<ref>{{cite news |author= |url=https://www.asahi.com/senkyo2005/news/OSK200509110061.html | title=土井たか子氏、議席失う 辻元氏は比例復活 | newspaper=朝日新聞 | date=2005-9-12 | accessdate=2021-11-24 }}</ref>。
[[2006年]]2月、社民党女性青年委員長に就任<ref name=":1" />。
[[2009年]]8月の[[第45回衆議院議員総選挙]]では前回敗れた松浪を大阪10区で破り、4選。選挙後の同年9月、党[[国会対策委員会|国会対策委員長]]に就任した<ref>{{cite news|title=社民・国対委員長に辻元清美氏、阿部知子政審会長は続投|newspaper=産経新聞|date=2009-09-02|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090902/stt0909021426010-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090905062955/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090902/stt0909021426010-n1.htm|archivedate=2009-09-05}}</ref><ref>{{cite news|title=社民・辻元国対委員長「与党の横暴許さない」?|newspaper=産経新聞|date=2009-09-03|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090903/plc0909031907013-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090906104708/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090903/plc0909031907013-n1.htm|archivedate=2009-09-06}}</ref>。[[早野透]]によれば、三党連立政権の発足時には水面下での交渉を担当したとされ、[[辺野古]]基地建設を「見直し」対象とする[[連立政権]]合意を成立させたという<ref>{{cite news|title=ポリティカにっぽん 民社国政権発足|newspaper=朝日新聞|date=2009-09-17}}</ref>。
=== 国土交通副大臣 ===
[[ファイル:Kiyomi Tsujimoto Kokudokoutsuufukudaijin.jpg|サムネイル|国土交通副大臣時の公式肖像写真]]
同年9月に発足した[[民社国連立政権]]の[[鳩山由紀夫内閣]]において、[[国土交通副大臣]]に就任する<ref>{{cite news|title=馬淵澄夫氏と辻元清美氏、国交副大臣に|newspaper=朝日新聞|date=2009-09-18|url=http://www.asahi.com/politics/update/0918/TKY200909180108.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090922185625/http://www.asahi.com/politics/update/0918/TKY200909180108.html|archivedate=2009-09-22}}</ref><ref>{{cite news|title=社民・辻元氏が国土交通副大臣 副大臣22人を閣議決定|newspaper=日本経済新聞|date=2009-09-18|url=http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090918AT3S1800Q18092009.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090922194724/http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090918AT3S1800Q18092009.html|archivedate=2009-09-22}}</ref>。当初、国対委員長の職にあった辻元は党務に携わるため就任の要請を固辞したが、[[福島瑞穂]]党首が既に[[閣議 (日本)|閣議]]で辻元の国交副大臣就任を含む政務三役の人事案に同意し署名していたため、最終的には就任を受け入れた<ref>{{cite news|title=副大臣就任に「やだ、やだ、やだ!」 社民ドタバタ劇に民主が溜息|newspaper=産経新聞|date=2009-09-20|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090920/stt0909201806007-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090924120213/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090920/stt0909201806007-n1.htm|archivedate=2009-09-24}}</ref>。国対委員長の職務は[[重野安正]]幹事長が代行し<ref>{{cite news|title=社民、辻元副大臣に代わり重野幹事長が国対委員長を代行|newspaper=産経新聞|date=2009-09-24|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090924/stt0909241532007-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090927075035/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090924/stt0909241532007-n1.htm|archivedate=2009-09-27}}</ref>、[[2010年]]1月に後任の国対委員長に[[照屋寛徳]]が就任するまで国対委員長と国交副大臣の兼務が続くこととなった<ref>{{cite news|title=社民党:幹部ポスト3日空席、「党首の調整不足」の批判も|newspaper=毎日新聞|date=2010-01-27|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100128k0000m010109000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100130112612/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100128k0000m010109000c.html|archivedate=2010-01-30}}</ref>。国対委員長退任後、新たに設けられた社民党特命常任幹事に就任し<ref>{{wayback|title=社民党OfficialWeb┃議員┃役員一覧|date=20100206100546|url=http://www5.sdp.or.jp/member/director2008.htm}}</ref>、党執行部には残留している。
なお[[日本の国会議員|国会議員]]時代の刑事事件で有罪判決を受けた者が刑の効力が失われた後に行政府の役職に就くのは、[[1997年]]に[[第2次橋本内閣 (改造)|第2次橋本改造内閣]]で[[総務庁#国務大臣総務庁長官|総務庁長官]]に就任した[[佐藤孝行]]以来12年ぶり。ただし、佐藤孝行は、当時[[閣外協力]]をしていた社民党からの辞任要求によって、わずか12日間で辞任に追い込まれている。
2009年10月30日、[[JAL再生タスクフォース]]の解散後に設置された日本航空再建対策本部(本部長・[[前原誠司]]<ref>{{cite news|title=JAL再建で「政府対策本部」が初会合、定期的に協議へ|agency=ロイター|date=2009-10-30|url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-12223620091030|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091031172647/http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-12223620091030|archivedate=2009-10-31}}</ref>)の事務局長に就任した<ref>{{cite news|title=日航支援、来週に方向性 年金減額「国民目線で」|newspaper=日本経済新聞|date=2009-11-05|url=http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091105AT3S0500805112009.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091108034029/http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091105AT3S0500805112009.html|archivedate=2009-11-08}}</ref><ref>{{cite news|title=辻元副国交相:JAL再建策、来週中に方向性示す|newspaper=毎日新聞|date=2009-11-05|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091105k0000e020058000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091108052729/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091105k0000e020058000c.html|archivedate=2009-11-08}}</ref>。[[大鹿靖明]]によれば、辻元は「[[日本航空|JAL]]の[[破綻]]はこれまで日本が経験したことのない国際大型[[倒産]]である」という認識から政府内や[[メガバンク]]との調整にまわり、メガバンクとの会談では「いま、ここにいる人が大喧嘩したら[[日本の経済]]に大打撃を与えます。みなさんが鍵を握っているのです。100%納得するのはありえないでしょうから、歩み寄ってほしいのです」と説得した<ref>{{Cite book|和書|author=大鹿靖明|authorlink=大鹿靖明|year=2010-04-30|title=堕ちた翼——ドキュメントJAL倒産|publisher=朝日新聞出版|isbn=9784023308107}}</ref>。しかし、11月6日に日航再建対策本部が日本政策投資銀行など日航の主力[[取引]]銀行幹部に1000億円規模の「つなぎ融資」を要請した際、銀行側は辻元からの要請を留保するだけではなく、反対に日航への[[融資]]に対する保証を[[日本国政府|政府]]が確保することを要請し、辻元は「政府保証などで、われわれも頑張るので、協力をお願いしたい」と述べて譲歩する姿勢を示した<ref>{{cite news|title=辻元副国交相:日航つなぎ融資 銀行団呼び要請|newspaper=毎日新聞|date=2009-11-06|url=http://mainichi.jp/select/biz/news/20091106k0000e020054000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091107095959/http://mainichi.jp/select/biz/news/20091106k0000e020054000c.html|archivedate=2009-11-07}}</ref><ref>{{cite news|title=JAL再建 1千億円超のつなぎ融資で最終調整|newspaper=朝日新聞|date=2009-11-07|url=http://www.asahi.com/business/update/1107/TKY200911060484.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091110075145/http://www.asahi.com/business/update/1107/TKY200911060484.html|archivedate=2009-11-10}}</ref><ref>{{cite news|title=日航つなぎ融資、政投銀頼み 政府保証ネック 3メガ難色|newspaper=フジサンケイ ビジネスアイ|date=2009-11-07|url=http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200911070098a.nwc|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091108035010/http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200911070098a.nwc|archivedate=2009-11-08}}</ref>。最終的に日航は2010年1月19日に[[会社更生法]]の適用を申請した<ref name="mainichi20100531" />。
2009年12月1日、観光立国推進本部の事務局長に就任<ref>{{cite news|title=中国人旅行客のビザ条件緩和、1月中に中間報告|newspaper=産経新聞|date=2009-12-09|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091209/plc0912091219008-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091216212556/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091209/plc0912091219008-n1.htm|archivedate=2009-12-16}}</ref>。[[中国人]]の[[観光ビザ]]取得要件の緩和に取り組み、発給条件の年収25万元(約320万円)以上を過度な所得制限と述べ、年収6万[[人民元|元]](約80万[[円 (通貨)|円]])に引き下げた。[[2010年]]度の中国人[[観光客]]数の前年比41%増加を実現したことから、辻元は[[予算]]のいらない経済刺激策と自賛している<ref>{{bloglink|url=https://archive.fo/vchj|who=辻元清美|title=観光でまちづくり・仕事づくり!|date=2012-08-03}}</ref>。
[[2010年]]2月4日、[[国土交通省]]が関連する[[公共事業]]の予算配分に関する情報を[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の地方組織に漏洩させた[[馬淵澄夫]]国土交通副大臣の更迭を求めた[[自由民主党 (日本)|自民党]]に対し、「(自民党は)過剰反応している」と退けた<ref>{{cite news|title=辻元副大臣、予算配分伝達の馬淵氏の更迭要求は「過剰反応」|newspaper=産経新聞|date=2010-02-04|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100204/plc1002042105020-n1.htm}}</ref>。
副大臣在任当時、大型巡視船は1隻のみだった。海上保安庁の警備力をあげるため、辻元は新たに「[[あきつしま (巡視船)|あきつしま]]」の導入を訴えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buzzfeed.com/jp/daisukefuruta/tsujimoto-liberal|title=リベラル・辻元氏が前原氏の決断に理解を示す理由 現実的であるということ|accessdate=2021-12-18|publisher=BuzzFeed}}</ref>。
=== 社民党離党から民主党入党まで ===
2010年5月28日、[[沖縄県]]の[[普天間基地移設問題]]で、日米の政府間合意に閣議決定で反対し署名を拒否した[[福島瑞穂]][[内閣府特命担当大臣|内閣府特命担当相]]が[[鳩山由紀夫]][[内閣総理大臣|首相]]に[[国務大臣|閣僚]]を[[罷免]]され、[[連立政権]]を離脱するか否かが問題となった<ref>{{cite news|title=福島消費者相を罷免、社民の離脱は不可避|newspaper=読売新聞|date=2010-05-28|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100528-OYT1T00955.htm|archiveurl=https://archive.fo/Ro82J|archivedate=2013-07-02}}</ref><ref>{{cite news|title=社民、連立離脱論強まる 福島氏「沖縄を裏切れない」|newspaper=朝日新聞|date=2010-05-28|url=http://www.asahi.com/politics/update/0528/TKY201005280442.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100529162554/http://www.asahi.com/politics/update/0528/TKY201005280442.html|archivedate=2010-05-29}}</ref>。当時フランスのパリに外遊中だった辻元は、連立離脱に慎重とされていたが、「政治的に一つの曲がり角ですけど、日本に帰って社民党の仲間と話し合って、今後の対応を決めていきたい」と述べて自身の進退につき明言を避けた<ref>{{cite news|title=福島氏「罷免は社民の切り捨て」 連立離脱30日に判断|newspaper=朝日新聞|date=2010-05-29|url=http://www.asahi.com/politics/update/0529/TKY201005290156.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100531145244/http://www.asahi.com/politics/update/0529/TKY201005290156.html|archivedate=2010-05-31}}</ref><ref>{{cite news|title=福島党首の罷免 閣僚や野党から発言相次ぐ|newspaper=日本テレビ|date=2010-05-29|url=http://www.news24.jp/articles/2010/05/29/04160052.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100601075158/http://www.news24.jp/articles/2010/05/29/04160052.html|archivedate=2010-06-01}}</ref>。[[前原誠司]][[国土交通大臣|国交相]]は5月29日に辻元に副大臣続投を要請したが<ref>{{cite news|title=「首相を支持」と前原氏 辻元副大臣には続投要請|newspaper=産経新聞|date=2010-05-29|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100529/stt1005292003008-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100601035535/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100529/stt1005292003008-n1.htm|archivedate=2010-06-01}}</ref><ref>{{cite news|title=国交相、副大臣続投を辻元氏に要請|newspaper=日本経済新聞|date=2010-05-29|url=http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819481E0EBE2E3918DE0EBE2E7E0E2E3E28297EAE2E2E2;at=ALL|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100601110758/http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819481E0EBE2E3918DE0EBE2E7E0E2E3E28297EAE2E2E2;at=ALL|archivedate=2010-06-01}}</ref><ref>{{cite news|title=「辻元さん辞めないで」コール…民主つなぎ留め必死|newspaper=読売新聞|date=2010-05-30|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100529-00000787-yom-pol|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100603030337/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100529-00000787-yom-pol|archivedate=2010-06-03}}</ref>、社民党が5月30日に連立離脱を決定したことを受け、辻元は同日中に辞任の意向を伝達し<ref>{{cite news|title=福島氏「首相退陣でも離脱」 辻元副大臣は辞任へ|newspaper=日本経済新聞|date=2010-05-30|url=http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C93819481E1E2E2E2EB8DE1E2E2E7E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;bm=96958A9C93819481E1E2E2E2E58DE1E2E2E7E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100602020945/http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C93819481E1E2E2E2EB8DE1E2E2E7E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;bm=96958A9C93819481E1E2E2E2E58DE1E2E2E7E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2|archivedate=2010-06-02}}</ref><ref>{{cite news|title=辻元国交副大臣が辞意伝達 国交相31日受理へ|newspaper=産経新聞|date=2010-05-30|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100530/stt1005301923007-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100531193343/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100530/stt1005301923007-n1.htm|archivedate=2010-05-31}}</ref><ref>{{cite news|title=社民党:鳩山政権と一定の距離置く 連立離脱を決定|newspaper=毎日新聞|date=2010-05-30|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100531k0000m010076000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100603202244/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100531k0000m010076000c.html|archivedate=2010-06-03}}</ref>、5月31日に辞表を提出して受理された<ref>{{cite news|title=辻元国交副大臣が辞表提出 「社民党にも責任」|newspaper=産経新聞|date=2010-05-31|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100531/stt1005311322008-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100603030334/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100531/stt1005311322008-n1.htm|archivedate=2010-06-03}}</ref><ref>{{cite news|title=社民、内閣不信任に賛成で一致 首相は続投決意|agency=共同通信|date=2010-05-31|url=http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010053101000107.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100601150109/http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010053101000107.html|archivedate=2010-06-01}}</ref><ref>{{cite news|title=福島・社民党首:内閣不信任「反対困難」 民主と対決姿勢|newspaper=毎日新聞|date=2010-05-31|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100531dde001010009000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100603120231/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100531dde001010009000c.html|archivedate=2010-06-03}}</ref>。辞表提出後の[[インタビュー]]では、「国交省は利権の巣窟というイメージがあったが、そうではなかった。不安いっぱいだったが、多くの職員が変えていこうという思いに賛同してくれた。辞めるのは寂しいしつらい」と涙ながらに語った<ref>{{cite news|title=辻元・国交副大臣が辞表提出、号泣「さみしい、つらい」|newspaper=朝日新聞|date=2010-05-31|url=http://www.asahi.com/politics/update/0531/TKY201005310102.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100603024734/http://www.asahi.com/politics/update/0531/TKY201005310102.html|archivedate=2010-06-03}}</ref><ref>{{cite news|title=さばさば辞任、涙も=辻元氏「ちょっと悔しい」―国交省|agency=時事通信|newspaper=Yahoo!ニュース|date=2010-05-31|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100531-00000052-jij-soci|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100604133828/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100531-00000052-jij-soci|archivedate=2010-06-04}}</ref><ref name="mainichi20100531">{{cite news|title=辻元副国交相:辞表提出「辞めるのは寂しい」と涙見せる|newspaper=毎日新聞|date=2010-05-31|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100601k0000m010069000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100602034543/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100601k0000m010069000c.html|archivedate=2010-06-02}}</ref>。
連立離脱について辻元は「鳩山政権離脱という選択が良かったのかどうかは、迷う。離脱することによって、自民党政権が復活したり、改憲への道が開けたりする恐れがある。肝心の[[普天間飛行場|普天間基地]]の問題かって、どうしようもないカッコ悪さに耐えながら、[[政権]]に残っていた方が余地が大きかったんと違うかなあ。『[[地獄への道は善意で舗装されている]]』という言葉があるように、正しい選択が正しい結果を導くとは限らんやろ」と述べ<ref>{{cite news|title=耕論|newspaper=朝日新聞|date=2010-06-04}}</ref>、「当時、日米合意があっても沖縄の合意がなければ[[辺野古]]移設は実現しないという閣議決定はできないか、と折衝していました。私はその歯止めができないかと考えていたんです」と主張している<ref>{{cite news|title=福島瑞穂VS辻元清美|newspaper=AERA|date=2011-09-26}}</ref>。
同年7月26日夜、重野安正幹事長と会談し、その席で離党の意向を伝えた<ref>{{cite news|title=辻元衆院議員:社民離党へ 連立離脱などで執行部に不満?|newspaper=毎日新聞|date=2010-07-26|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100727k0000m010120000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100727011946/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100727k0000m010120000c.html|archivedate=2010-07-27}}</ref><ref>{{cite news|title=「福島さんはわかってない」社民・辻元議員、離党会見へ|newspaper=朝日新聞|date=2010-07-26|url=http://www.asahi.com/politics/update/0726/TKY201007260519.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100727193908/http://www.asahi.com/politics/update/0726/TKY201007260519.html|archivedate=2010-07-27}}</ref><ref>{{cite news|title=社民・辻元氏、離党の意向|newspaper=産経新聞|date=2010-07-26|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100726/stt1007262328004-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100729034358/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100726/stt1007262328004-n1.htm|archivedate=2010-07-29}}</ref>。7月27日の午前中には福島党首から離党を思い留まるよう慰留されるも、福島の説得を受け入れず<ref>{{cite news|title=「辻元氏の離党決意固い」福島党首の慰留は不発|newspaper=産経新聞|date=2010-07-27|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100727/stt1007271109003-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100730104536/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100727/stt1007271109003-n1.htm|archivedate=2010-07-30}}</ref><ref>{{cite news|title=辻元衆院議員:福島社民党首が会談 慰留難しいとの認識|newspaper=毎日新聞|date=2010-07-27|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20100727k0000e010055000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100729125046/http://mainichi.jp/select/today/news/20100727k0000e010055000c.html|archivedate=2010-07-29}}</ref>、離党届提出後の[[記者会見]]で次期衆議院議員総選挙に[[無所属]]で出馬する考えを表明した<ref>{{cite news|title=辻元氏が社民離党表明=野党に限界、無所属で活動|agency=時事通信|newspaper=Yahoo!ニュース|date=2010-07-27|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100727-00000077-jij-pol|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100730065105/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100727-00000077-jij-pol|archivedate=2010-07-30}}</ref><ref>{{cite news|title=辻元衆院議員:社民党に離党届を提出 無所属で活動|newspaper=毎日新聞|date=2010-07-27|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100727k0000e010084000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100727181537/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100727k0000e010084000c.html|archivedate=2010-07-27}}</ref>。離党理由については「現実との格闘から逃げずに国民のための仕事を一つずつ進めていきたい」としている<ref>{{bloglink|url=https://archive.is/OgN9|who=辻元清美|title=私の離党届提出について|date=2010-07-27}}</ref>。福島との面談が重野との会談の翌日となった理由については、福島が辻元との対話をたびたびキャンセルしたことを挙げている<ref>{{cite news|title=体重5キロ減りました|newspaper=AERA|date=2010-08-09|url=http://www.kiyomi.gr.jp/media/pdf/20100809AERA.pdf}}</ref>。
同年8月19日、社民党は辻元の離党届を受理した<ref>{{cite news|title=辻元氏離党、ようやく了承=社民|agency=時事通信|newspaper=Yahoo!ニュース|date=2010-08-19|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100819-00000046-jij-pol|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100823095304/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100819-00000046-jij-pol|archivedate=2010-08-23}}</ref>。地元の党大阪府連合の要請により、[[除名]]などの処分は見送られた<ref>{{cite news|title=社民党が辻元氏の離党届を受理|newspaper=産経新聞|date=2010-08-19|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100819/stt1008191306003-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100822161350/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100819/stt1008191306003-n1.htm|archivedate=2010-08-22}}</ref><ref>{{cite news|title=辻元議員の離党届受理 社民、除名処分は見送り|newspaper=朝日新聞|date=2010-08-19|url=http://www.asahi.com/politics/update/0819/TKY201008190344.html|archiveurl=https://archive.fo/FRBbh|archivedate=2010-08-22}}</ref>。
同年9月28日、[[衆議院]][[院内会派|会派]]「民主党・[[無所属クラブ]]」に入会し、[[国土交通委員会]]与党筆頭理事に就任した<ref>{{cite news|title=辻元氏、衆院国交委筆頭理事就任へ 民主会派入りで|newspaper=産経新聞|date=2010-09-28|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100928/stt1009281404008-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101001184507/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100928/stt1009281404008-n1.htm|archivedate=2010-10-01}}</ref><ref>{{cite news|title=民主 辻元氏を筆頭理事起用へ|newspaper=NHK|date=2010-09-28|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100928/k10014247471000.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101001234258/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100928/k10014247471000.html|archivedate=2010-10-01}}</ref><ref>{{cite news|title=社民離党の辻元氏、民主会派入り 入党への布石か|newspaper=朝日新聞|date=2010-09-28|url=http://www.asahi.com/politics/update/0928/TKY201009280357.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100929170559/http://www.asahi.com/politics/update/0928/TKY201009280357.html|archivedate=2010-09-29}}</ref><ref>{{cite news|title=辻元清美氏、民主会派入り…国交委筆頭理事に|newspaper=読売新聞|date=2010-09-28|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100928-OYT1T00999.htm|archiveurl=https://archive.fo/YgBuV|archivedate=2010-09-29}}</ref>。9月29日には中国建国記念レセプションに出席した<ref>{{cite news|title=中国建国記念レセプション 日本の議員50人出席もあいさつなし|newspaper=産経新聞|date=2010-09-30|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100930/plc1009300024000-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101002000215/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100930/plc1009300024000-n1.htm|archivedate=2010-10-02}}</ref>。
[[ファイル:Yukio Edano and Kiyomi Tsujimoto.jpg|thumb|2011年8月7日、[[枝野幸男]][[内閣官房長官]]と共に気仙沼市を視察した辻元(当時内閣総理大臣補佐官)]]
[[2011年]]3月13日、[[東日本大震災]]を受け、災害ボランティア担当の[[内閣総理大臣補佐官]]に就任<ref>{{cite news|title=【東日本大震災】蓮舫氏を節電担当相、辻元氏をボランティア担当首相補佐官に|newspaper=産経新聞|date=2011-03-13|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110313/plc11031317120014-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110317093038/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110313/plc11031317120014-n1.htm|archivedate=2011-03-17}}</ref><ref>{{cite news|title=首相補佐官に辻元清美氏 被災地支援の基盤整備|newspaper=朝日新聞|date=2011-03-13|url=http://www.asahi.com/politics/update/0313/TKY201103130151.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110314212815/http://www.asahi.com/politics/update/0313/TKY201103130151.html|archivedate=2011-03-14}}</ref><ref>{{cite news|title=東日本大震災:節電啓発相に蓮舫氏 辻元氏は首相補佐官|newspaper=毎日新聞|date=2011-03-13|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110314k0000m010046000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110315204921/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110314k0000m010046000c.html|archivedate=2011-03-15}}</ref>。
同年9月5日、[[野田内閣]]の発足を受け、首相補佐官を退任。9月7日には民主党入りの意向が報じられ<ref>{{cite news|title=辻元氏、民主党に入党へ 次期衆院選は公認候補|newspaper=産経新聞|date=2011-09-07|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110907/stt11090722120006-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110908183413/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110907/stt11090722120006-n1.htm|archivedate=2011-09-08}}</ref>、社民党の福島党首は[[記者会見]]で「応援した人を裏切っていくことは、一人の政治家として良いことではない。理念より権力に近寄る方を選択すると思ってしまう。すごく残念だ」と批判した<ref>{{cite news|title=辻元氏の民主入党「裏切り」=福島社民党首|agency=時事通信|date=2011-09-08|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011090800607|archiveurl=http://ceron.jp/url/www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011090800607|archivedate=2011-09-02}}</ref><ref>{{cite news|title=「理念より権力選んだ」 福島氏、離党の辻元氏を批判|newspaper=産経新聞|date=2011-09-08|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110908/stt11090819190006-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110908160908/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110908/stt11090819190006-n1.htm|archivedate=2011-09-08}}</ref>。9月10日には民主党大阪府連に入党届を提出して了承され<ref>{{bloglink|url=http://www.kiyomi.gr.jp/blog/2011/09/10-2186.html|who=辻元清美|title=この危機を乗り越えるために━━民主党に入党届を提出しました|date=2011-09-10}}</ref><ref>{{cite news|title=辻元氏入党を了承 民主大阪府連|newspaper=産経新聞|date=2011-09-10|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110910/stt11091019290009-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110910145749/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110910/stt11091019290009-n1.htm|archivedate=2011-09-10}}</ref>、9月27日に党本部の常任幹事会の了承を経て正式に入党した(同時に衆院大阪府第10区支部長に就任)<ref>{{cite news|title=辻元氏が民主入り|newspaper=産経新聞|date=2011-09-26|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110926/stt11092623140007-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110926233117/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110926/stt11092623140007-n1.htm|archivedate=2011-09-26}}</ref><ref>{{cite news|title=民主、辻元清美氏の入党了承 党常任幹事会|newspaper=朝日新聞|date=2011-09-27|url=http://www.asahi.com/politics/update/0927/TKY201109270424.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110927205548/http://www.asahi.com/politics/update/0927/TKY201109270424.html|archivedate=2011-09-27}}</ref>。
同年10月20日、民主党政調副会長に就任<ref>{{cite news|title=民主入党の辻元氏、政調副会長に|newspaper=産経新聞|date=2011-10-20|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111020/stt11102019030009-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111020150205/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111020/stt11102019030009-n1.htm|archivedate=2011-10-20}}</ref><ref>{{cite news|title=民主、政調副会長に辻元氏を起用|newspaper=朝日新聞|date=2011-10-20|url=http://www.asahi.com/politics/update/1020/TKY201110200484.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111020153928/http://www.asahi.com/politics/update/1020/TKY201110200484.html|archivedate=2011-10-20}}</ref><ref>{{cite news|title=民主政調副会長に辻元氏|newspaper=日本経済新聞|date=2011-10-20|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2002J_Q1A021C1PE8000/}}</ref>。10月24日には[[前原誠司]]政調会長により「[[事業仕分け (行政刷新会議)|提言型政策仕分け]]」の「仕分け人」に選ばれる<ref>{{cite news|title=「仕分け人」に仙谷、辻元両氏|newspaper=産経新聞|date=2011-10-22|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111022/stt11102200180001-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111021163128/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111022/stt11102200180001-n1.htm|archivedate=2011-10-21}}</ref><ref>{{cite news|title=仕分け人に仙谷氏や辻元氏ら 民主、長妻氏は起用見送り|newspaper=朝日新聞|date=2011-10-24|url=http://www.asahi.com/politics/update/1024/TKY201110240553.html|archiveurl=https://archive.fo/oJeC|archivedate=2012-07-19}}</ref>。
[[2012年]]4月19日、「秋の大型連休」導入を検討するプロジェクトチームの座長として初会合を開いた<ref>{{cite news|title=民主、分散型「秋の連休」導入へPT発足|newspaper=産経新聞|date=2012-04-19|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120419/stt12041922580012-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120419224025/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120419/stt12041922580012-n1.htm|archivedate=2012-04-19}}</ref>。4月24日の政調役員会で、[[消費増税]]法案の閣議決定に抗議し辞表を提出した[[松崎哲久]]国土交通部門会議座長の後任に起用されることが決まった<ref>{{cite news|title=辻元氏を国交部門座長に=民主|agency=時事通信|date=2012-04-24|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012042400915}}</ref>。
同年12月の[[第46回衆議院議員総選挙]]で大阪10区より出馬、松浪に敗れたものの[[比例近畿ブロック]]で復活し5選。同選挙で大阪の選挙区から出馬して当選した民主党の候補者が他にいなかったため当時は民主党大阪府連に属する唯一の衆議院議員であった。
=== 民主党下野後 ===
[[File:Kiyomi Tsujimoto Minshu IMG 6111 20130720.JPG|180px|thumb|2013年7月20日]]
[[2013年]]9月、民主党幹事長代理に就任。
[[2014年]]4月4日、衆議院本会議で[[トルコ]]と[[アラブ首長国連邦]]への[[原子力発電|原発]][[輸出]]を可能にする[[原子力協定]]の承認案の採決が行われた際、賛成とする党議に反して欠席したが<ref>{{cite news|title=衆院本会議で原子力協定承認 菅元首相や石原共同代表ら欠席|newspaper=産経新聞|date=2014-04-04|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140404/plc14040414080015-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140404103131/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140404/plc14040414080015-n1.htm|archivedate=2014-04-04}}</ref>、辻元は欠席につき国対委員長の許可を得ていたため、不問に付された<ref>{{cite news|title=近藤・生方氏の役職解任=原子力協定造反、菅氏は注意-民主|agency=時事通信|date=2014-04-15|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2014041500806|archiveurl=https://archive.fo/hG7NK|archivedate=2014-04-15}}</ref>。
同年9月、民主党ネクスト内閣府特命大臣(新しい公共・社会的包摂・消費者および食品安全・男女共同参画・子供の貧困・自殺対策・NPO)・民主党新しい公共・社会的包摂総合調査会長に就任。[[第2次安倍内閣 (改造)|安倍政権]]の目玉政策である、いわゆる「女性活躍」法案について、政策担当として修正案策定に携わった<ref>{{cite news|newspaper=日本経済新聞|date=2014-11-12}}</ref>。
同年12月14日の[[第47回衆議院議員総選挙]]で大阪10区より出馬し、自治労などの政策協力候補者として支援を受けて当選。この選挙で民主党代表の[[海江田万里]]が落選。海江田の辞任に伴い2015年1月18日に行われた[[2015年1月民主党代表選挙|代表選挙]]では、[[岡田克也]]の推薦人に名を連ねた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dpj.or.jp/global/images/presidentialelection201501/okada_katsuya_suisen.pdf | title=岡田克也 推薦人名簿 | publisher=民主党 |format=PDF |date=2015-1-7 | accessdate=2021-11-29 }}</ref>。岡田が代表に選出された後、政調会長代理に就任した。
2015年12月、民主党役員室長に就任<ref>{{cite news|title=民主党人事、大畠氏が副代表 辻元氏は役員室長に|newspaper=産経新聞|date=2015-12-14|url=https://www.sankei.com/article/20151214-EC2WCJUU55I3XF6HCZOBJAMSKY/}}</ref>。
=== 民進党 ===
[[2016年]]3月27日、民主党と[[維新の党]]が合流して[[民進党]]が結成される。同党に参加し、[[民主党執行部|民進党執行部]]発足後も役員室長に留任した。
同年7月の[[第24回参議院議員通常選挙]]の[[大阪府選挙区]]で民進党所属の現職[[尾立源幸]]が落選。これに伴い辻元は民進党大阪府連に所属する唯一の選挙区選出の国会議員となった。
2017年7月27日、民進党代表の[[蓮舫]]が、[[2017年東京都議会議員選挙|同月の東京都議会議員選挙]]の結果を受けて辞任を表明<ref>{{Cite news|title=民進 蓮舫代表 記者会見で辞任を表明|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170727/k10011076661000.html?utm_int=all_side_ranking-access_004|newspaper=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会]]|date=2017-07-27|accessdate=2017-07-28|archiveurl=https://archive.is/hJ7sa|archivedate=2017-07-28}}</ref>。8月21日、蓮舫の辞任に伴う[[2017年9月民進党代表選挙|代表選挙]]が告示され、辻元は[[枝野幸男]]の推薦人に名を連ねた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.minshin.or.jp/assets/leadership-election/2017/candidates/pdf/edano_suisen.pdf | title=枝野幸男 推薦人名簿 | publisher=[[民進党]] |format=PDF |date=2017-8-21 | accessdate=2021-11-26 }}</ref><ref>{{Cite news |url = https://www.asahi.com/sp/articles/ASK8P41N1K8PUTFK00P.html |title = 前原・枝野両氏の会見要旨と推薦人 民進代表選 |agency = [[朝日新聞]] |date = 2017-8-21 |accessdate = 2017-12-25}}</ref>。9月1日、[[前原誠司]]が[[民主党代表|代表]]に当選。9月8日、民進党は常任幹事会を開き、[[民主党幹事長|幹事長代行]]に辻元を充てる人事案を了承した。辻元は、閣僚や党要職の経験がない[[大島敦]]幹事長を党務で補佐することとなった<ref>{{cite news|title=<民進党>「幹事長代行に辻元氏」など党役員人事を了承|newspaper=毎日新聞|date=|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170908-00000052-mai-pol|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170913061604/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170908-00000052-mai-pol|archivedate=2017-09-13}}</ref>。
=== 立憲民主党 ===
2017年9月25日、[[希望の党 (日本 2017)|希望の党]]が設立<ref name="MIC20170925">{{Cite press release|和書|title=政治資金規正法に基づく政治団体の届出|publisher=総務省|date=2017-09-25|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000509359.pdf|accessdate=2017-09-26|format=PDF}}</ref>。9月27日、希望の党と日本維新の会が候補者すみ分けの検討に入ったと報じられた<ref name="mainichi20170927">{{cite news |url=https://mainichi.jp/articles/20170927/k00/00m/010/197000c | title=小池新党、維新と協力検討 候補者すみ分け | newspaper=毎日新聞 | date=2017-9-27 | accessdate=2022-2-21 }}</ref>。同日夜、希望の党代表の[[小池百合子]]は[[BSフジ]]の番組に出演し、同党への参加の条件について、[[憲法改正論議|憲法改正]]と[[平和安全法制|安保法制]]への姿勢を重視する考えを示した<ref>{{cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASK9W7HDWK9WUTIL065.html | title=希望への参加条件、安全保障と憲法への姿勢重視 小池氏 | newspaper=朝日新聞 | date=2017-9-27 | accessdate=2022-2-21 }}</ref>。
同年[[9月28日]]、衆議院解散。同日、民進党両院議員総会で希望の党への事実上の合流方針が了承された。総会後、辻元は報道陣に「私は執行部なので発言はしていません」と険しい表情で一言だけ答えたが<ref>{{cite news|title=【衆院解散】辻元氏、険しい表情で「私は発言してません」…“解党”民進で希望合流難しい大物議員に動揺広がる|newspaper=産経新聞|date=2017-09-29|url=https://www.sankei.com/article/20170929-UFLYEQR7VRPYNEUEMW5EC6TFZE/}}</ref>、希望の党と日本維新の会のすみ分けの方針や<ref name="mainichi20170927"/>、安保法制に関する考え方の相違などから、辻元が希望の党の公認を得るのは厳しい状況と報じられた<ref>{{cite news|title=無所属?希望? 辻元氏陣営「一両日中に決めないと」|newspaper=朝日新聞|date=2017-09-29|url=http://www.asahi.com/articles/ASK9Y3K0QK9YPPTB001.html}}</ref><ref>{{cite news|title=【衆院解散】どうなる安保反対派辻元氏…週末スケジュール全キャンセル、単独で“潜行”中|newspaper=産経新聞|date=2017-09-29|url=https://www.sankei.com/article/20170929-BYNRXWRSIVNT5AAIU6BQ7NPCDA/}}</ref>。
同年9月30日未明、[[共同通信]]が「枝野が無所属で出馬する方向で検討に入った。考え方の近い前議員らとの新党結成も視野に入れている」と報道<ref>{{cite news |author= |url=https://www.kanaloco.jp/article/281133 |title=小池氏、憲法・安保で選別 枝野氏は無所属、新党視野 |newspaper=共同通信 |publisher=神奈川新聞 |date=2017-9-30 |accessdate=2022-2-21 |archivedate=2017-10-3 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171003080206/https://www.kanaloco.jp/article/281133 }}</ref>。同日午後3時、民進党本部で全国幹事会・選挙対策担当者会議が開かれた。午後7時過ぎまで4時間以上にわたって行われた同会議を辻元は途中で退席<ref>{{cite news |author=[[安積明子]] |url=https://toyokeizai.net/articles/-/191183 | title=希望の党、突っ走った挙句に早くも息切れ 「小池一極集中」でも矛盾は隠しきれない | newspaper=東洋経済オンライン | date=2017-10-1 | accessdate=2022-2-10 }}</ref>。記者団に囲まれた辻元は「リベラルの力と重要性を信じている」と述べ、希望の党には公認申請せず、無所属で出馬する意向を表明した<ref>{{cite news |url=https://www.sankei.com/article/20170930-U3JFMYFI7ZOHXBQREILQUEJJ6E/ | title=【衆院解散】民進・辻元清美氏、希望の党に公認申請せず 「リベラルの力を信じる」と無所属出馬の意向 | newspaper=産経新聞 | date=2017-9-30 | accessdate=2022-2-7 }}</ref><ref>{{cite news|title=民進・辻元氏「私は行かない」 希望からの立候補否定|newspaper=朝日新聞|date=2017-09-30|url=http://www.asahi.com/articles/ASK9Z677YK9ZUTFK00Q.html|accessdate=2017-10-15}}</ref>。小池の発言に端を発した民進党の前職、元職計15人の「排除リスト」が出回り{{Refnest|group="注"|2017年9月30日に出回った「排除リスト」15人の内訳は以下のとおり。前職は[[安住淳]](宮城5区)、[[枝野幸男]](埼玉5区)、[[野田佳彦]](千葉4区)、[[長妻昭]](東京7区)、[[初鹿明博]](東京16区)、[[菅直人]](東京18区)、[[阿部知子]](神奈川12区)、[[篠原孝]](長野1区)、[[近藤昭一]](愛知3区)、[[赤松広隆]](愛知5区)、[[岡田克也]](三重3区)、辻元清美(大阪10区)。元職は[[海江田万里]](東京1区)、[[手塚仁雄]](東京5区)、[[櫛渕万里]](東京23区、報道時)<ref>{{cite news |author= |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/214651/2 | title=「希望の党」公認拒否 民進“排除名簿”に載る15人の名前 (2ページ目) | newspaper=日刊ゲンダイ | date=2017-9-30 | accessdate=2022-2-4 }}</ref><ref>{{cite news |url=https://mainichi.jp/articles/20171001/ddm/003/010/056000c | title=衆院選2017:民進分裂、新党模索も 希望が「排除リスト」 | newspaper=毎日新聞 | date=2017-10-1 | accessdate=2022-2-23 }}</ref>。}}、同日夜、[[枝野幸男]]、[[長妻昭]]、辻元、[[近藤昭一]]、参議院議員の[[福山哲郎]]らは都内のホテルに集まり、対策を協議<ref>{{cite news |author=南彰 |url=https://www.asahi.com/articles/ASKCN43HTKCNUTFK00B.html | title=「前原のクーデターだ」 長妻氏、枝野氏らに結党を主張 | newspaper=朝日新聞 | date=2017-11-21 | accessdate=2022-2-4 }}</ref><ref name="mainichi20171203">{{cite news |author= |url=https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171203/ddm/010/010/165000c | title=野党第1党、枝野氏の戦い(その2止)「旗への結集」可視化 | newspaper=毎日新聞 | date=2017-12-3 | accessdate=2022-2-4 }}</ref>。
同年10月1日、「無所属で戦わざるを得ない人たちが全て当選できるような受け皿ができれば」と述べてリベラル系の新党参加の可能性に言及した<ref>{{cite news|title=辻元清美氏「1人からの出発、受け皿できればいいが…」|newspaper=朝日新聞|date=2017-10-01|url=http://www.asahi.com/articles/ASKB15RH2KB1PPTB002.html}}</ref>。[[10月2日]]、枝野が新党「[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]」の設立を表明<ref>{{cite news|title=【衆院選】辻元氏、枝野氏の結党会見をテレビで見守る 「無所属の受け皿ができれば」|newspaper=産経新聞|date=2017-10-02|url=https://www.sankei.com/article/20171002-RAVVLACKKNK2VHL4DQ7ATTQUEI/}}</ref>。これを受けて[[10月3日]]に立憲民主党への参加を表明し<ref>{{cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171003/k10011166191000.html|title=民進 辻元氏 「立憲民主党」から衆院選立候補へ|newspaper=NHK|accessdate=2017-10-03}}</ref>、[[10月4日]]には民進党に離党届を提出した<ref>{{cite news|title=【衆院選】枝野新党立憲民主党入りの民進・辻元清美幹事長代行が離党届提出|newspaper=産経新聞|date=2017-10-04|url=http://www.sankei.com/politics/news/171004/plt1710040087-n1.html}}</ref>。[[10月6日]]、立憲民主党[[政策部会|政務調査会長]]に就任した<ref>{{cite news|title=立憲民主党、政調会長に辻元氏|newspaper=日本経済新聞|date=2017-10-06|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO21992320W7A001C1EA3000/|accessdate=2017-10-07}}</ref>。
同年10月22日の[[第48回衆議院議員総選挙]]に大阪10区より立候補し、自民党の[[大隈和英]]、日本維新の会の松浪を破り、7選。選挙後の[[10月24日]]、立憲民主党両院議員総会で[[国会対策委員会|国会対策委員長]]に就任することが決まった<ref>{{cite news|title=立憲国対委員長に辻元清美氏 政権への対決姿勢、鮮明に|newspaper=朝日新聞|date=2017-10-24|url=http://www.asahi.com/articles/ASKBS5CVDKBSUTFK00S.html|accessdate=2017-10-24}}</ref>([[10月26日]]まで政調会長を兼務<ref>{{cite news|title=立憲民主党、政調会長は長妻昭代表代行が兼務 選対委員長に近藤昭一副代表|newspaper=産経新聞|date=2017-10-26|url=http://www.sankei.com/politics/news/171026/plt1710260029-n1.html}}</ref><ref>{{cite news|title=立民政調会長は長妻氏兼務 選対委員長に近藤副代表|agency=共同通信|newspaper=日本経済新聞|date=2017-10-26|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22752840W7A021C1000000/}}</ref>)。
[[2018年]][[11月17日]]、立憲民主党大阪府連代表に就任<ref>[http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/181118/20181118035.html 代表に辻元氏 立民府連大会]大阪日日新聞 </ref>。
[[2019年]]2月、外国籍の人物から1万円の政治献金を受けていた疑惑が報じられた<ref>{{Cite news |url=https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190206/soc1902060027-n1.htm |title=立民・辻元清美氏、韓国籍弁護士から「外国人献金」 |date=2019/02/06 |accessdate=2019/02/08 |work=zakzak by 夕刊フジ |publisher=産経新聞社}}</ref>。辻元は疑惑が事実と認めたうえで、「寄付金は外国籍の方からはできません」と明記された用紙であったものの、「さかのぼって確認していなかった。再発防止の対応策を考える」旨や「返金し、速やかに適正な訂正処理を行った」旨を報道各社に説明し、国対委員長辞任については否定した<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASM265TVRM26UTFK01L.html |title=立憲・辻元氏、外国人から献金1万円 「すでに返金」 |date=2019/02/06 |accessdate=2019/02/08 |publisher=朝日新聞デジタル}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40980020W9A200C1PP8000/ |title=辻元氏、外国籍男性から献金 |date=2019/02/06 |accessdate=2019/02/08 |publisher=日本経済新聞社}}</ref><ref>{{Cite news |url=|https://www.kiyomi.gr.jp/blog/15379/title= 平成25年に外国籍の方から後援会に寄付金として1万円の入金があったことが確認されたので、速やかに返金し訂正等の手続きに入りました|date=2019/02/06 |accessdate=2019/02/21 |publisher=活動ブログ 辻元清美WEB}}</ref>。9月19日、国会対策委員長を退任し、幹事長代行に就任<ref>{{Cite news |title=安住氏が立民入党、国対委員長に |newspaper=日本経済新聞 |date=2019-09-19 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49984950Z10C19A9PP8000/ |accessdate=2019-09-19}}</ref>。
[[File:Kiyomi Tsujimoto with Renho 2022-5-7(2).jpg|thumb|2022年5月7日、[[三軒茶屋駅]]前にて。[[蓮舫]]と]]
2020年8月24日、旧立憲民主党と[[国民民主党 (日本 2018)|旧国民民主党]]は、2つの無所属グループを加えた形で合流新党を結成することで合意した<ref>{{cite news |author=山下龍一、小林豪 |url=https://www.asahi.com/articles/ASN8S6TNFN8SUTFK00J.html | title=立国の新党、無所属2グループも合流へ 150人前後に | newspaper=朝日新聞 | date=2020-8-24 | accessdate=2021-11-9 }}</ref>。同年9月10日に行われた新「[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]」の[[2020年新党代表・党名選挙|代表選挙]]では[[枝野幸男]]の推薦人に名を連ねた<ref>{{cite news |url=https://www.sankei.com/article/20200907-FZVL7WX7CBPEZAF3QMXBUHBOEI/ | title=【合流新党】立民・枝野代表推薦人名簿 | newspaper=産経新聞 | date=2020-9-7 | accessdate=2021-11-26 }}</ref>。
[[2021年]][[10月31日]]に行われた[[第49回衆議院議員総選挙]]の[[大阪府第10区|大阪10区]]には辻元、[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]新人の[[池下卓]]、自民党現職の大隈の3人が立候補。選挙戦終盤の10月27日には[[山崎拓]]元[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]が辻元の応援演説に来たものの小選挙区では日本維新の会新人の池下卓が初当選。辻元は次点で敗れ(惜敗率82.715%)、比例復活もできず落選した<ref>{{Cite web|和書|title=立憲副代表・辻元清美氏が落選 比例も復活当選できず:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASPBX3G0DPBSPTIL006.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-11-01|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/shugiin/2021/27/ | title=衆議院選挙2021 大阪(堺・岸和田など)開票速報・選挙結果 |website=衆議院選挙2021特設サイト | publisher=NHK | date= | accessdate=2021-11-1 }}</ref>{{Refnest|group="注"|立憲民主党は比例近畿ブロックで3議席を獲得し、3位の[[滋賀県第4区|滋賀4区]]の[[徳永久志]]の惜敗率は83.119%であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/senkyo/shuinsen/2021/kaihyo/O08.html | title=【2021年 衆院選】近畿ブロック(比例区)開票速報 |website=衆議院選挙(2021年総選挙)特設サイト | publisher=朝日新聞社 | date= | accessdate=2021-11-18 }}</ref>。}}。
同年[[11月13日]]、立憲民主党大阪府総支部連合会で「力不足で厳しい結果になった」と述べ、府連代表を辞任する意向を表明した<ref>{{Cite web|和書|title=辻元氏、府連代表辞任へ 「立民の立ち位置不明確」|url=https://www.sankei.com/article/20211113-TQCQ2FD7JJJAJLUONQQ5WVQAZA/|website=産経ニュース|date=2021-11-13|accessdate=2021-11-13|publisher=産経新聞社}}</ref>。
2022年1月21日、立憲民主党は、次期参院選比例代表に辻元を擁立する方向で最終調整に入った<ref>{{cite news |author= |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/636446 | title=辻元氏を参院比例に擁立へ 衆院落選、立憲目玉候補に | newspaper=北海道新聞 | date=2022-1-22 | accessdate=2022-1-22 }}</ref>。同年1月31日、辻元はオンラインで支援者向けの報告会を開き、正式に出馬表明した<ref>{{cite news |author=野田樹 |url=https://mainichi.jp/articles/20220131/k00/00m/010/056000c | title=立憲・辻元清美前副代表、参院選比例代表に出馬表明 | newspaper=毎日新聞 | date=2022-1-31 | accessdate=2022-1-31 }}</ref>。同日、党本部で党代表[[泉健太]]と面会し、参院選比例代表での公認を申請<ref>{{Cite web|和書|title=辻元氏「黙っとられへん」 立民に参院選公認を申請|url=https://www.sankei.com/article/20220131-HMXUG7PLYZL4HCEAWNPXYPDHEE/|work=産経新聞|date=2022-01-31|accessdate=2022-02-01}}</ref>。2月8日、立憲民主党は参院選女性候補者の公募を開始し、辻元を[[日本私鉄労働組合総連合会]]の「準組織内」候補として比例区での擁立を決定した<ref>{{cite news |author=横山翼、茶井祐輝 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ286HP1Q28UTFK01M.html | title=辻元清美氏「もう一度国会で『総理』と言わせて」立憲が参院選に擁立 | newspaper=朝日新聞 | date=2022-2-8 | accessdate=2022-2-9 }}</ref><ref>[https://www.pru.or.jp/%e6%aa%84/ 2022/06/28 檄]</ref>。
同年7月の[[第26回参議院議員通常選挙]]で、立憲民主党は比例代表で7議席を獲得。辻元は党内得票数1位で当選した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/sangiin/00/hmb12_195.html | title=比例代表 立憲民主党 参議院選挙結果・開票速報 |website=参議院選挙2022特設サイト | publisher=NHK | date= | accessdate=2022-7-11 }}</ref>。[[第211回国会]]では参議院[[環境委員会]]、[[予算委員会]]、[[憲法審査会]]に所属<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/giin/profile/7022025.htm 議員情報] 参議院公式サイト 2023年1月24日閲覧。</ref>。
== 政策・主張 ==
=== 憲法 ===
* [[日本国憲法|憲法]][[憲法改正論議|改正]]について、2012年の毎日新聞社のアンケートで「反対」と回答<ref name="mainichi2012">{{Cite web|和書|url=http://senkyo.mainichi.jp/46shu/kaihyo_area_meikan.html?mid=A27010002002 | title=大阪10区 辻元清美 |website=2012衆院選 | publisher=毎日新聞社 | date= | accessdate=2022-5-19 }}</ref>。2014年の朝日新聞社のアンケートで「反対」と回答<ref name="asahi-todai2014">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/senkyo/sousenkyo47/asahitodai/ | title=政策課題 政党・候補者のスタンスは |website=朝日・東大谷口研究室共同調査 - 2014衆院選 | publisher=朝日新聞社 | date= | accessdate=2022-5-19 }}</ref>。2017年のアンケートで「どちらかと言えば反対」と回答<ref name="asahi-todai2017">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/senkyo/senkyo2017/asahitodai/koho.html?k=ZZZZZ12Z | title=辻元清美 |website=2017衆院選 候補者アンケート(朝日・東大谷口研究室共同調査) | publisher=朝日新聞社 | date= | accessdate=2021-10-22 }}</ref>。2021年のアンケートで「反対」と回答<ref name="asahi-todai2021">{{Cite web|和書|url=https://digital.asahi.com/senkyo/shuinsen/2021/asahitodai/koho/ZZZZZ12Z.html | title=辻元清美 |website=朝日・東大谷口研究室共同調査 - 2021衆議院選挙 | publisher=朝日新聞社 | date= | accessdate=2021-10-22 }}</ref>。2022年のNHKのアンケートで「反対」と回答<ref name="NHK2022">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/sangiin/survey/hirei.html?kohoId=2150 | title=比例代表 辻元清美 | website=候補者アンケート - 参院選2022 |publisher=NHK | date= | accessdate=2022-6-27 }}</ref>。
* [[日本国憲法第9条|9条]]改憲について、2014年、2022年の毎日新聞社のアンケートで「反対」と回答<ref name="mainichi2014">{{Cite web|和書|url=http://senkyo.mainichi.jp/47shu/meikan.html?mid=A27010001001&st=tk | title=大阪10区 辻元清美 |website=2014衆院選 | publisher=毎日新聞社 | date= | accessdate=2022-5-19 }}</ref><ref name="mainichi2022">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/senkyo/26san/meikan/?mid=C00027015015 | title=辻元清美 立憲 比例 |website=第26回参院選 | publisher=毎日新聞社 | date= | accessdate=2022-6-28 }}</ref>。憲法9条への自衛隊の明記について、2021年、2022年のNHKのアンケートで「反対」と回答<ref name="NHK2021"/><ref name="NHK2022"/>。
* 2014年7月1日、政府は従来の憲法解釈を変更し、[[日本の集団的自衛権|集団的自衛権]]の行使を容認することを[[閣議 (日本)|閣議]]で決定<ref>{{cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0103O_R00C14A7MM8000/ | title=憲法解釈変更を閣議決定 集団的自衛権の行使容認 | newspaper=日本経済新聞 | date=2014-7-1 | accessdate=2022-5-19 }}</ref>。この閣議決定を評価するかとの問いに対し、同年の朝日新聞社のアンケートで「まったく評価しない」と回答<ref name="asahi-todai2014"/>。集団的自衛権の行使に賛成かとの問いに対し、同年の毎日新聞社のアンケートで「反対」と回答<ref name="mainichi2014"/>。
* 憲法を改正し[[国家緊急権|緊急事態条項]]を設けることについて、2021年の毎日新聞社、2022年のNHKのアンケートで「反対」と回答<ref name="mainichi2021">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/senkyo/49shu/meikan/?mid=A27010001001 | title=立憲 大阪10区 辻元清美 |website=第49回衆院選 | publisher=毎日新聞社 | date= | accessdate=2022-6-7 }}</ref><ref name="NHK2022"/>。
=== 外交・安全保障 ===
* [[普天間基地移設問題|普天間基地の移設問題]]について、2012年の毎日新聞社のアンケートで「国外に移設すべき」と回答<ref name="mainichi2012"/>。普天間基地の[[辺野古]]移設について、2022年の毎日新聞社のアンケートで「反対」と回答<ref name="mainichi2022"/>。
*「政府が[[尖閣諸島国有化|尖閣諸島を国有化]]したことを評価するか」との問いに対し、2012年の毎日新聞社のアンケートで「評価しない」と回答<ref name="mainichi2012"/>。
* 日本による過去の植民地支配と侵略を認めて謝罪した「[[村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」|村山談話]]」の見直し論議について、2014年の毎日新聞社のアンケートで「見直すべきでない」と回答<ref name="mainichi2014"/>。
* [[日本の慰安婦|従軍慰安婦]]に対する旧日本軍の関与を認めた「[[慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話|河野談話]]」の見直し論議について、2014年の毎日新聞社のアンケートで「見直すべきでない」と回答<ref name="mainichi2014"/>。
* [[第2次安倍内閣]]が2013年に提出した[[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]案は同年12月6日に可決成立した<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/focus/631.html | title=特定秘密保護法 参院で可決・成立 | publisher=NHK | date= | accessdate=2023-10-14 }}</ref>。「こうした法律が日本に必要と思うか」との2014年の毎日新聞社のアンケートに対し、「必要でない」と回答<ref name="mainichi2014"/>。
* 安全保障関連法の成立について、2017年のアンケートで「評価しない」と回答<ref name="asahi-todai2017"/>。
* 「他国からの攻撃が予想される場合には敵基地攻撃もためらうべきではない」との問題提起に対し、2021年のアンケートで「反対」と回答<ref name="asahi-todai2021"/>。[[敵基地攻撃能力]]を持つことについて、2022年のNHKのアンケートで「反対」と回答<ref name="NHK2022"/>。
* ロシアは2022年2月24日、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナへの全面的な軍事侵攻]]を開始した<ref>{{Cite web|和書|author= |url=https://jp.reuters.com/article/ukraine-russia-invasion-kuleba-idJPKBN2KT0DR | date=2022-2-24 |title=ロシアが全面侵攻開始、ウクライナは自国を防衛=クレバ外相 |publisher=[[ロイター]] | accessdate=2022-2-28 }}</ref>。日本政府が行ったロシアに対する制裁措置についてどう考えるかとの問いに対し、2022年のNHKのアンケートで回答しなかった<ref name="NHK2022"/>。同年の毎日新聞社のアンケートで「今の制裁で妥当だ」と回答<ref name="mainichi2022"/>。
* 2022年6月7日、政府は経済財政運営の指針「骨太方針」を[[閣議 (日本)|閣議]]決定した。[[北大西洋条約機構|NATO]]加盟国が[[軍事費|国防費]]の目標としている「GDP比2%以上」が例示され、防衛力を5年以内に抜本的に強化する方針が明記された<ref>{{cite news |author=川田篤志、柚木まり |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/182147 | title=防衛費や子ども関連費倍増も 財源検討は参院選後に先送り 政府が「骨太方針」閣議決定 | newspaper=東京新聞 | date=2022-6-8 | accessdate=2022-6-27 }}</ref>。「防衛費を今後どうしていくべきだと考えるか」との問いに対し、2022年のNHKのアンケートで「ある程度減らすべき」と回答<ref name="NHK2022"/>。
* [[徴用工訴訟問題]]や[[日本の慰安婦問題|慰安婦問題]]などをめぐり[[日韓関係|日韓]]の対立が続くなか、関係改善についてどう考えるかとの問いに対し、2022年の毎日新聞社のアンケートで「互いに譲歩すべきだ」と回答<ref name="mainichi2022"/>。
=== ジェンダー ===
* 選択的[[夫婦別姓]]制度の導入について、2014年、2017年、2021年、2022年のアンケートで「賛成」と回答<ref name="asahi-todai2014"/><ref name="asahi-todai2017"/><ref name="asahi-todai2021"/><ref name="NHK2022"/>。2015年には「上司の判断で許可されない会社もまだ多いため、通称使用では本質的な解決にはならない」と述べている<ref>{{cite news|title=女性国会議員に「選択的夫婦別姓」の賛否を聞いてみた|newspaper=女性自身|date=2015-12-25|url=https://jisin.jp/domestic/1621403/}}</ref>。
* [[同性結婚|同性婚]]を可能とする法改正について、2017年、2021年、2022年のアンケートで「賛成」と回答<ref name="asahi-todai2017"/><ref name="asahi-todai2021"/><ref name="NHK2022"/>。
* 「[[LGBT]]など[[性的少数者]]をめぐる理解増進法案を早期に成立させるべきか」との問題提起に対し、2021年のアンケートで「賛成」と回答<ref name="asahi-todai2021"/>。
* [[クオータ制]]の導入について、2021年、2022年のアンケートで「賛成」と回答<ref name="NHK2021">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/shugiin/2021/survey/47540.html | title=大阪10区 | website=NHK 衆議院選挙2021 候補者アンケート | date= | accessdate=2021-10-21 }}</ref><ref name="NHK2022"/>。
* 2021年5月12日、超党派の女性議員による「クオータ制実現に向けての勉強会」の第1回の会合に立憲民主党を代表して参加した<ref name="nikkei20210513">{{cite news |author=市川礼子 |url=https://woman.nikkei.com/atcl/aria/column/19/091300133/051300014/ | title=クオータ制実現へ 超党派勉強会に野田聖子、辻元清美ら | newspaper=日経xwoman | date=2021-5-13 | accessdate=2021-9-18}}</ref>。
=== その他 ===
* 1996年の衆院選では「[[NPO法]]の制定」と「[[行政機関の保有する情報の公開に関する法律|情報公開法]]の制定」を公約に掲げ初当選した<ref>{{Cite web|和書|url=http://npolaw-archive.jp/?page_id=522 | title=辻元清美氏インタビュー |website= NPO法(特定非営利活動促進法)制定10年の記録 |publisher=認定NPO法人まちぽっと | date= | accessdate=2021-11-11 }}</ref>。法案成立に尽力し、前者は1998年に公布され、後者は1999年に公布された。
* [[アベノミクス]]について、2014年の毎日新聞社のアンケートで「評価しない」と回答<ref name="mainichi2014"/>。2017年のアンケートでは「どちらかと言えば評価しない」と回答<ref name="asahi-todai2017"/>。2022年の毎日新聞社のアンケートで「評価できず、見直すべきだ」と回答<ref name="mainichi2022"/>。
* 安倍内閣による[[森友学園問題]]・[[加計学園問題]]への対応について、2017年のアンケートで「評価しない」と回答<ref name="asahi-todai2017"/>。
* [[学校法人森友学園|森友学園]]への国有地売却をめぐる公文書改竄問題で、2021年5月6日、国は「赤木ファイル」の存在を初めて認めた<ref>{{Cite web|和書| author= | url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/102572 | title=「赤木ファイル」の存在、国側が認める 森友文書改ざん訴訟 確認に1年以上 | publisher=東京新聞 | date=2021-5-6 | accessdate=2023-5-8 }}</ref>。しかし5月13日、[[菅義偉]]首相はファイルの存在を踏まえた再調査を行わない考えを報道各社に書面で示した<ref>{{Cite web|和書| author=石井潤一郎 | url=https://www.asahi.com/articles/ASP5F61XXP5FUTFK007.html | title=菅首相、再調査を否定 「赤木ファイル」所在確認も | publisher=朝日新聞 | date=2021-5-13 | accessdate=2023-5-12 }}</ref>。[[2021年自由民主党総裁選挙|9月の自民党総裁選挙]]で総裁に選出された[[岸田文雄]]も10月11日、衆議院本会議の代表質問で再調査の実施を否定した<ref>{{Cite web|和書| author=皆川剛 | url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/136218 | title=岸田首相、森友問題再調査を否定 赤木さん妻「再調査を期待していたので残念」| publisher=東京新聞 | date=2021-10-11 | accessdate=2023-5-12 }}</ref>。国の対応をどう考えるかとの同年の毎日新聞社のアンケートに対し「さらに調査や説明をすべきだ」と回答<ref name="mainichi2021"/>。
*「[[原子力発電所]]は日本に必要だと思うか」との問いに対し、2014年、2021年の毎日新聞社のアンケートで「必要ない」と回答<ref name="mainichi2014"/><ref name="mainichi2021"/>。
* 「[[原子力発電]]への依存度について今後どうするべきか」との問題提起に対し、2021年、2022年のアンケートで「ゼロにすべき」と回答<ref name="NHK2021"/><ref name="NHK2022"/>。
* 「『[[道徳教育|道徳]]』を小中学校の授業で教え、子供を評価することに賛成か、反対か」との問いに対し、2014年の毎日新聞社のアンケートで「反対」と回答<ref name="mainichi2014" />。
* 首相の[[靖国神社問題|靖国神社参拝]]について、2014年のアンケートで「反対」と回答<ref name="asahi-todai2014"/>。2017年のアンケートで「どちらとも言えない」と回答<ref name="asahi-todai2017"/>。
* [[2012年]]6月に[[消費税]]増税法案の採決で賛成した<ref>{{Cite book|和書|year=2012-09|title=ZAITEN|publisher=財界展望新社|page=86}}</ref>。
== 支持団体 ==
* 市民活動家出身だが、鳩山内閣時に国交副大臣を務めた際に私鉄総連と関係ができたことから、以降は「準組織内」議員として扱われている<ref>[https://www.pru.or.jp/%E7%AC%AC85%E5%9B%9E%E5%AE%9A%E6%9C%9F%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%89%B9%E9%9B%86-2/ 第85回定期大会特集]</ref><ref group="注">名鉄など一部の私鉄労組は[[森屋隆]]と同じく組織内議員としている。</ref><ref>[https://www.meipru.jp/giin.html 組織内議員]</ref>。参議院に転出後は比例区において準組織内候補として支援を受けている<ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2022/02220556/?all=1 辻元清美は“敵前逃亡”、蓮舫は社長業に? 八方ふさがりの立憲民主党はどこに向かうのか]</ref><ref>[https://www.pru.or.jp/6%e6%9c%8824%e6%97%a5%ef%bc%88%e9%87%91%ef%bc%89%e3%80%80%e3%81%a4%e3%81%98%e3%82%82%e3%81%a8%e6%b8%85%e7%be%8e%e6%ba%96%e7%b5%84%e7%b9%94%e5%86%85%e5%80%99%e8%a3%9c/ 6月24日(金) つじもと清美準組織内候補]</ref><ref group="注">[[森屋隆]]とは改選期が異なる。</ref>。
== 人物・評価 ==
*著書の中で自分の政治家としての原点として「家計が苦しくなると私と弟はしばしば奈良の親戚の家に預けられたのだが、そこでも重層的な差別があった。『部落の子供と遊んだらあかん』被差別部落を差別する大人たち。『朝鮮人帰れ』さらに在日の子を差別する子どもたち。『部落の子も朝鮮人も私らもみんな同じや。なんでそんなことを言うんや』私は大人たちに突っかかっていくような子だった。トクさん(大阪で辻元がお世話になったという在日韓国人)はじめ一生懸命生きている人たちが私の周りにたくさんいたから、子ども心にそのような反発を感じていたのだ。子どもの頃のこんな体験は、その後の私の考え方や生き方に大きく影響した」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=辻元清美|year=2005|title=へこたれへん|publisher=角川書店|page=107|isbn=9784048839310}}</ref>。
* 弟がおり、辻元の私設秘書として10年以上活動した後、現在辻元の公設第一秘書になっている<ref>{{Cite web|和書|title=岸田首相がベテラン秘書を辞任させて起用した長男・翔太郎氏 仕事はツイッター更新か |url=https://www.news-postseven.com/archives/20221017_1802868.html/2 |website=NEWSポストセブン |access-date=2022-10-18 |language=ja}}</ref>。
* 1987年に開催された[[三里塚芝山連合空港反対同盟|成田空港反対派]]との交流イベント「三里塚わくわくツアー」の呼びかけ人となったほか<ref>朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、110頁。</ref>、[[成田空港問題シンポジウム]]開催に向けて動いていた青年行動隊に「何か行動を起こすときには、まずお金です。予算化しなさい」とアドバイスした。これを受けて、青年行動隊は[[東峰十字路事件]]の裁判費用の為にプールしていた資金の一部をシンポジウムの運営費に充当している<ref>伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、105頁。</ref>。
* [[小泉純一郎]]内閣の頃、当時社民党議員だった辻元は集団的自衛権の問題の追及で「ソーリ」を12回連呼したことで話題となり、「社民党の[[ジャンヌ・ダルク]]」と呼ばれた<ref name="sankei20170422">{{cite news|title=自分のデマをも武器にする? 辻元清美元国交副大臣を蓮舫代表も見習おう|newspaper=産経新聞|date=2017-04-22|url=https://www.sankei.com/article/20170422-RSS4BASIHRLFRIUPN3JYO7PZC4/}}</ref>。
* 2017年にジャーナリストの常井健一から受けた取材の中で「多様性を唱える割に異なる考えに不寛容なリベラル言論人のような人だったのにずいぶんと変わった」と指摘されると、議員秘書給与事件で失脚したこと、[[東日本大震災]]の際に菅内閣の総理補佐官として自衛隊とともに仕事したこと、国土交通副大臣として海上保安庁を担当したこと、『[[朝まで生テレビ!]]』で討論した際に「もしかしたら、私の場合は[[左翼|左]]の[[政治活動家]]の発想で政治をやっているんじゃないか!?」と気づいたことなどをきっかけとして「考えの違う人と対立するのではなく、その意見も聞いて命や人権を守るのが政治家の仕事」というスタンスに変わっていったと述べている<ref name="bunshun20170401">{{cite news|title=渦中の辻元清美に訊く「デマと保守」|newspaper=週刊文春|date=2017-04-01|url=https://bunshun.jp/articles/-/1908}}</ref>。
* かつて辻元を間抜けな「お花畑キャラ」として漫画で描いた<ref name="bunshun20170401" />[[小林よしのり]]と対談し、小林から「よく勉強している」「これで改憲派だったら、わしは首相に推したいくらいだ。だが例え護憲派でも、わしは辻元議員には注目していきたい。」と高く評価された<ref>{{bloglink|url=https://yoshinori-kobayashi.com/8926/|who=小林よしのり|title=辻元清美議員はよく勉強している|date=2015-11-05}}</ref>。小林との関係について辻元は「なんか最近、波長が合うんですよ(笑)」と述べている<ref name="bunshun20170401" />。
* [[保守]]派の論客であった [[勝谷誠彦]]や[[一水会]]の[[鈴木邦男]]が応援弁士として街頭に立ったことがあり、ブロガーの[[山本一郎 (実業家)|山本一郎]]や一水会代表の[[木村三浩]]とも親交がある<ref name="bunshun20170401-2">{{cite news|title=渦中の辻元清美に訊く「デマと保守」|newspaper=週刊文春|date=2017-04-01|url=https://bunshun.jp/articles/-/1908?page=2}}</ref>。
* 私淑する知識人に元文藝春秋編集長で作家の[[半藤一利]]やノンフィクション作家の[[保阪正康]]をあげている<ref name="bunshun20170401-2"/>。
* 在日コリアン3世の[[辛淑玉]]は自身についての言及の中で、「朝鮮人であるだけでなく、女であることはそんなに叩かれやすいのか。辻元清美もそう。[[福島瑞穂]](参院議員)もそう。」と述べている<ref>{{cite news|title=MXテレビをBPOに訴えた辛淑玉氏講演「沖縄の人も朝鮮人も差別されている」|newspaper=産経新聞|date=2017-04-05|url=http://news.livedoor.com/article/detail/12896193/|archiveurl=https://archive.fo/463qp|archivedate=2017-04-07}}</ref>。
* 連帯労働組合関西地区生コン支部(関西生コン)と密接な関係にあるとされる<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=辻元清美議員に“ブーメラン”? 生コン業界の“ドン”逮捕で永田町に衝撃|url=https://dot.asahi.com/articles/-/115390|website=AERA dot.|date=2018-8-31|accessdate=2019-08-18|publisher=週刊朝日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=関西生コン事件~逮捕されたのは立憲民主党・辻元清美議員と親密な人物|url=https://news.1242.com/article/160012|accessdate=2019-08-17|publisher=ニッポン放送|date=2018-11-05}}</ref><ref name=":5">{{Cite web|和書|title=全日建近畿地方本部・4支部合同 2017年新春旗開き|url=https://www.rentai.org/news/2017/02/2017.02.02.html|website=www.rentai.org|accessdate=2019-08-18|publisher=連帯ユニオン 近畿地区トラック支部}}</ref>。{{see also|全日本建設運輸連帯労働組合#連帯労働組合関西地区生コン支部}}
* [[山崎拓]]元[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]と政治思想は全く異なるものの親交がある。2015年12月9日には[[憲政記念館]]において、山崎は辻元の「政治活動20年へ、感謝と飛躍の集い in 東京」という[[政治資金パーティー]]に参加している<ref>[http://blog.goo.ne.jp/lebenstaff/e/61b8abaa833ca2e03e38713c1fd15cec 辻元清美 政治活動20年へ、感謝と飛躍の集い in 東京]</ref>。2021年10月の[[第49回衆議院議員総選挙]]の選挙戦終盤の10月27日、[[大阪府第10区|大阪10区]]には自民党前職の[[大隈和英]]も立候補しているにも関わらず、山崎は辻元の応援演説を行い「小選挙区は辻元清美、比例区は自民党」と発言した<ref>{{Cite web|和書|title=山崎拓氏「小選挙区は辻元清美、比例は自民」|url=https://www.sankei.com/article/20211027-VIKXWBNYMJP3FERBQV6NLYH3GE/|website=産経ニュース|date=2021-10-27|accessdate=2021-10-27|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>(しかし山崎はこの行動が問題となり、同年12月13日の自民党党紀委員会で党の規律を乱したとして党員資格停止1年の処分が決まった<ref name="20211213tsujimoto">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/m/general/news/amp/202112130000985.html|title=自民、山崎拓氏の党員資格停止 衆院選で辻元清美氏応援「除名」求める声も|publisher=日刊スポーツ|date=2021-12-13 |accessdate=2021-12-13}}</ref>)。山崎が辻元の応援に来た理由は「一言でいえば友情だ。立民の応援に行ったわけではなく、辻元氏個人の応援に行った」<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20211111002025/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/211111/mca2111110731002-n1.htm|title=山崎拓元自民副総裁、辻元清美氏応援は「一言でいえば友情」|publisher=SankeiBiz|date=2021-11-11|accessdate=2021-12-14}}</ref>、「野党第一党は立憲民主党ですよ、立憲の議席というのは、与野党伯仲、自公政権と対峙するのは大事だと思うから、辻元は個人として国会の中にいた方がいいから、私は来ました」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_617e99d2e4b0931432199ece|title=辻元清美氏が明かした。元自民党副総裁の山崎拓氏が応援演説した理由とは?【衆院選2021】|publisher=ハフポスト日本版|date=2021-10-31 |accessdate=2021-12-14}}</ref>。
* 元[[内閣総理大臣]][[森喜朗]]も、同上の政治資金パーティーに参加し、2012年の政界引退時の最後の本会議場で労いを受けたと明かし、「心をつかむ人柄だ。自民党にきてくれていたらよかったなと思うこともあった」と述べた<ref>{{Cite web|和書|title=森喜朗氏から穀田恵二氏まで!? 辻元清美氏のパーティーに与野党大物が続々(1/2ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20171202-2I7BTUZVOZKORE65BX36KZ43VY/ |website=産経ニュース |date=2017-12-02 |access-date=2023-08-21 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。
* [[国際政治学者]]の[[三浦瑠麗]]は、辻元について「安保や経済まで大概意見は食い違うけれど、『なにか』あると思う。彼女のコアに[[多様性]]に対するパッションがあることは明白です。そのテーマの時は顔つきが違うもの」と評価している<ref>『それでも、逃げない』文春新書 162頁</ref>。
* [[瀬戸内寂聴]]と親交があった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202112090000380.html|title=辻元清美氏「心の支えであり命の恩人。感謝しかない」瀬戸内寂聴さんしのぶ|publisher=日刊スポーツ|date=2021-12-09|accessdate=2021-12-09}}</ref>。
* 2023年11月、辻元に似た人物が赤信号で停車中のタクシーから下車し、[[中央分離帯]]を乗り越えて反対車線の車道を渡っているような動画が投稿され、「[[道路交通法]]違反ではないか」などと指摘された。同月21日に辻元は公式サイトに「猛省しています」というタイトルの記事を投稿。「[[東京駅]]に行く途中、議員会館に忘れ物をしてしまった事に気がつきました。列車の時刻があったので、あせってしまい、(中略)[[横断歩道]]を渡らずに道路を横断してしまいました」と経緯を説明した<ref>{{Cite news|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20231124-V6A5O3NKYJMD5FTUW66JLSZKWM/|title=「猛省しています」立民・辻元清美議員、横断歩道渡らず車道を横断で謝罪 SNSでは「道交法違反ではないか」指摘も|newspaper=ZakZak|date=2023-11-24|accessdate=2023-11-28}}</ref>。
== 発言 ==
* [[1987年]](昭和62年)([[浅田彰]]との[[皇室]]に関する話題にて)
** 「生理的に嫌だと思わない?ああいう人達というか、ああいうシステム、ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない」
** (1986年10月に行われた天皇在位60年を祝う[[銀座]]大パレード及び提灯行列について)「ものすごく気持ち悪い。」
** 「天皇(の存在)っていうのも、日本がいやだというひとつの理由でしょ。」
** (日本のスポーツ界を天皇と皇族に関連させて)「人生訓とか、道徳を押し付けたがるし。 でも、そういうのって、天皇とあの一族の気持ち悪さに直結してるよね。[[天皇制]]ってなくなるかな。」
** (浅田の「なくならないと思う。終戦の時に、きちっと責任追及があってしかるべきだった」との返答に対して)「これはもう、悪の根源。」<ref>{{Cite book|和書|author=辻元清美|year=1987|title=清美するで!! 新人類が船(ピースボート)を出す!|publisher=第三書館|page=147|isbn=9784807487042}}</ref><ref>{{cite news|title=「辻元清美さんは皇室を『生理的に嫌だ。同じ空気を吸いたくない』と書いた」日本維新の会・足立康史氏が攻撃、辻元氏の“言い訳”は|newspaper=産経新聞|date=2017-06-08|url=https://www.sankei.com/article/20170608-EEKFAWJ65BP2ZDUA5AUOTGGDEM/}}</ref>
*** 2017年6月8日の衆院憲法審査会で、辻元は、これらを約30年前の学生時代の発言とした上で「私の考えが一面的だったと痛感し、深く反省をいたしました」と述べた<ref>{{Cite web|和書|title=土井たか子氏が辻元氏をたしなめた一言 象徴天皇制:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASM52622MM52ULZU002.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-12-03|language=ja}}</ref><ref name="sankei20170610">{{cite news|title=【産経抄】辻元清美氏の反省に疑問 12年の著作に「憲法から天皇に関する規定をはずす」とある 規定がある以上は尊重するが、本心は別ということか 6月10日|newspaper=産経新聞|date=2017-06-10|url=https://www.sankei.com/article/20170610-4CVG2U2F2NPKRHP26DN353YNEA/|accessdate=2017-07-02}}</ref>。産経新聞は、学生時代だけでなく衆院議員となった後の1998年に出版している『辻元清美の永田町航海記』で「(憲法)第一条から第八条までの天皇に関する規定を削除すべきだ」、「天皇制について、私は個人的に反対。やっぱり抵抗がある」、2000年出版している『辻元清美の「今からでも、変えられる」』にも「憲法第一章の天皇に関する規定、第一条から八条までを削除したらいい」、「正確には『天皇制廃止』ではない。憲法から天皇に関する規定をはずす」と著書に書いていることから憲法に規定がある以上は『天皇制』として天皇を尊重するが、本心は天皇を無くしたいということかと疑念を呈した<ref name="sankei20170610"/>。
* [[1990年]](平成2年)
** 「まだまだ真の意味での『国際化』はなっていない。よく外国人労働者が入ってくると日本文化が脅かされるのではないかという意見を耳にするが、それは全く逆。外国文化が入ってきて衝突することによって、日本の文化に対する認識は高まる。日本人の生き方のワクも広がっていく。」<ref name="tsujimoto1990">{{Cite book|和書|author=辻元清美|year=1990|title=ありのまま主義宣言っ!―うどん屋の娘に国境はいらない|publisher=芸文社|pages=181,189|isbn=9784874651964}}</ref>
** 「(日本の難民受け入れが少ないことと日系企業による[[ボルネオ島]]での熱帯雨林伐採を論じたうえで)汚されるのは嫌だと言って他人を自分の家には上げないくせに、他人の家にはずけずけ上がり込み、荒らしまわって平気な顔をしている。それが今のこの国(日本)の素顔」<ref name="tsujimoto1990" />
* [[1998年]](平成10年)
** 「私は天皇制は憲法の主権在民、法の下の平等の精神とは相いれない物だとずっと思っていた。だから[[天皇]]という存在を国家の枠組みから外し、国家が法律によって維持する制度をなくす。そうすれば天皇イコール神であっても問題ないから『人間宣言』なんてものも必要ではない。神道の儀式を行って政治上の問題になることもない。いわゆる『民族派』の人々にしても、アメリカ人の指示によってできたと彼らが主張する憲法に『象徴』などという収まりの悪い表現で規定される天皇を快く思っていなかったはず。『憲法で規定されるからではなく、日本人が自然の気持ちで崇拝するもの』と考える人々にとって、天皇がその行動を法律によって縛られ、経済的なことも皇室会議などというところで決定されることを潔しとしていないだろう。憲法1条から8条までを削除することで戦後の多くの難題も片付くのではないか。税金で維持されることがなくなっても多くの支持者・崇拝者たちが支えればいい。」<ref>{{Cite book|和書|author=辻元清美|year=1998|title=辻元清美の永田町航海記|publisher=第三書館|page=86|isbn=9784807498147}}</ref>
* [[2000年]](平成12年)
** 「憲法について言えば、私はいま『護憲派』と言われているわけですが、本当のことを言えば、1条から8条はいらないと思っています。天皇制を廃止しろとずっと言っています。天皇制を廃止する、女が総理大臣になる、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|安保]]を廃棄する、この3つで日本は大きく舵を切れると10年前にテレビで言った(略)[[日本国憲法]]は9条から始め、天皇は[[伊勢神宮|伊勢]]にでも行ってもらって、[[特殊法人]]か何かになってもらう。財団法人でも宗教法人でもいいけど。そして、皇居をセントラルパークにし、アジア平和記念館とかをつくり、アジアの留学生を呼ぶという計画を立てている」<ref name="goken-osaka20001027">{{ウェブアーカイブ|deadlink=yes|title=憲法公布54周年 -憲法を守り暮らしに生かす- 護憲の集い|url=http://homepage2.nifty.com/goken-osaka/1027zdoi.htm|archiveurl=https://megalodon.jp/2011-0515-0740-30/homepage2.nifty.com/goken-osaka/1027zdoi.htm|archiveservice=[[ウェブ魚拓]]|archivedate=2011-05-15}}</ref>
** 「[[金大中]]大統領は『アジアの中で日本にお願いしたいこと、アジアの中でいっしょにやっていくためにお願いしたいことは三つある。憲法9条を守ってほしい、非核三原則を守ってほしい、専守防衛に徹してほしい、この三つです』と言ったわけです。やはり私たちは、憲法9条の理念を守らないといけない。とくに、北東アジアで緊張が低下しようとしているときに、憲法9条を変えますということを世界に発信するというのは、この緊張緩和の流れに反することです。私は『国益』なんていう言葉は大嫌いですけど、あえて使えば、『日本の国益を考えた場合、いま、北東アジアがこれだけ緊張緩和に向かっているときに、憲法9条を変えるなんていうことを日本が言うことは、日本の国益に反するじゃないか』と改憲派の人に言っているわけです。『国益』という言葉は嫌いだけど、相手は好きだから、その言葉をあえて使って反論しているわけです 」<ref name="goken-osaka20001027"/>
* [[2001年]](平成13年)
** 「[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]との[[国交]]正常化のなかでは、[[戦後補償]]が出てくるでしょう。日本は、かつて[[朝鮮半島]]を[[植民地]]にして言葉まで奪ったことに対して、北朝鮮には補償を何もしていないのだから、あたりまえの話です。そのこととセットにせずに、「9人、10人返せ!」ばかり言ってもフェアではない」<ref name="cafeglobe20011112">{{cite news|title=GIRLS BE POLITICAL! 1-1|newspaper=cafeglobe|date=2001-11-12|url=http://www.cafeglobe.com/special/01_nov/girls/g011112.html|archiveurl=https://archive.li/yWQkB|archivedate=2007-10-09}}</ref>
* [[2002年]](平成14年)
** 「留学生の受け入れを活発にするほか途上国やアジアの言うことを聞くというところに軸足を置く。日本は小国でいいと思っているんです。先進国グループから離脱した方がいい。」「日本は地政学的に大国になり得ない。現在も虚勢を張っている小国に過ぎない。」「日本はジャイアン(米国)にいじめられるのび太か、と言えば(ジャイアンにすり寄る)スネ夫なんです。私は日本はのび太でいいと思う。ドラえもんという憲法9条があるんだから」<ref>{{cite news|title=特集 小泉外交 私はこう思う|newspaper=日本経済新聞|date=2002-05-23}}</ref>
* [[2005年]](平成17年)
**「国会議員っていうのは、国民の生命と財産を守るといわれてるけど、私はそんなつもりでなってへん。私は国家の枠をいかに崩壊させるかっていう役割の国壊議員や」(東京・渋谷で開かれた女性限定アダルトイベント「女祭」にて)<ref>{{cite news|title=辻元氏は“国壊”議員か 皇室「生理的にいや」から「天皇を尊重しなければ」に変化|author=ケント・ギルバート|newspaper=zakzak|date=2017-06-17|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20170617-QK77ZCCPQZLINBYLURVX4QDRII/}}</ref>
* [[2008年]](平成20年)
** 「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」に参加し、「[[日本の慰安婦問題|慰安婦問題]]を[[日本国政府|日本政府]]が『[[女性のためのアジア平和国民基金|国民基金]]』で解決しようとしたことを反省する必要がある」旨を発言<ref>{{cite news|title=第22回「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」報告|agency=JCA-NET|date=2008-08-10|url=http://www.jca.apc.org/ianfu_ketsugi/22th_kizamu.html|archiveurl=https://archive.fo/tCWX|archivedate=2012年-08-03}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)
** (2009年11月13日の宮中茶会で[[小林よしのり]]からの「ブッタマゲタ!辻元、何でお前がここにいるんだ!」との問いに対する回答)「なんで?私は日本国憲法に天皇が規定されているから来たのよ」「憲法を守ってるだけ」<ref>{{cite news|title=新ゴーマニズム宣言|newspaper=SAPIO|date=2010-01-27}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=小林よしのり|authorlink=小林よしのり|year=2010|title=新天皇論|publisher=小学館|page=26|isbn=9784093897334}}</ref>
* [[2013年]](平成25年)
** 「(安倍政権による[[慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話|河野談話]]の[[河野談話作成過程等に関する検討チーム|見直し検討]]に対して)[[内閣総理大臣|総理]]自身が不名誉を作っている。[[外交]]問題として今後深刻化していく」(2013年3月8日衆議院[[予算委員会]]の質疑)<ref>{{cite news|title=河野談話見直しは「総理自身が不名誉作ってる」と辻元氏|newspaper=アメーバニュース|date=2013-03-08|url=http://yukan-news.ameba.jp/20130308-311/|archiveurl=https://archive.fo/bw3cv|archivedate=2013-07-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=予算委員会における辻元清美の慰安婦問題についての質疑に係る安倍首相の答弁に対する質問主意書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a183075.htm|website=www.shugiin.go.jp|accessdate=2021-03-30|publisher=衆議院}}</ref>
* [[2017年]](平成29年)
**「自民党と民進党の何人かで外交安保の勉強会を開こうと準備しています。自民党のちゃんとした保守の人たちは今弾圧されていますから、水面下で非合法組織のようにじっくりやろうと思っています」<ref name="bunshun20170401" />
** 「もう、国会うんざりですわ。[[安倍晋三]]の顔を見るだけでいやになるというか。考えられないような政治の私物化。今、アベトモファースト。安倍さんの友達がファーストになっているんではないでしょうか。『アベトモ政治』に終止符を打ちたいと思っている」<ref>{{cite news|title=【加計学園】民進・蓮舫代表、安倍晋三首相と「同じ空気を吸うのがつらい」 辻元清美氏は「アベトモファースト」党会合が悪口大会に|newspaper=産経新聞|date=2017-05-31|url=https://www.sankei.com/article/20170531-OPRXYT363ZJSDKXGVLASGLW3KY/}}</ref>
* [[2022年]](令和4年)
**「岸田政権が決めた敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有は、軍拡競争を招くリスクがある。本当に抑止力になるのかも疑問だ。日本は狭い国土に多くの原発がある。「反撃」をしても、相手から原発を一斉に狙われたら終わり。ミサイルを全部撃ち落とすことはできない。 」「最大の防御は外交しかない。中国との対話の機会を増やしたり、北東アジアで多国間の外交の枠組みをつくる努力をするべきだろう。 」<ref>{{cite news|title=「反撃しても、原発狙われたら終わり」立憲民主党・辻元清美参院議員 安保3文書改定、与党だけの決定に怒り |newspaper=東京新聞|date=2022-12-20|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/220940}}</ref>
== 報道 ==
=== 国土交通副大臣就任における産経新聞の報道 ===
[[2011年]][[3月16日]]の産経新聞記事において、記者の[[阿比留瑠比]]が、「13日に(中略)辻元清美元国土交通副大臣を災害ボランティア担当の首相補佐官に任命したことにも必然性は感じられない。(中略)辻元氏は平成7年の阪神淡路大震災の際、被災地で反政府ビラをまいた。2人の起用はブラックジョークなのか。」と報道<ref>{{cite news|title=【放射能漏れ】この期に及んで責任転嫁とは… 首相、東電幹部に「撤退すれば100%潰れる!」|newspaper=産経新聞|date=2011-03-15|author=[[阿比留瑠比]]|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110315/plc11031521100044-n3.htm}}</ref>。
2011年[[3月21日]]の産経新聞記事において、記者の[[阿比留瑠比]]が、「カメラマンの宮嶋茂樹氏の著書によると、辻元氏は平成4年に[[ピースボート]]の仲間を率いてカンボジアの自衛隊情勢を視察し、復興活動でへとへとになっている自衛官にこんな言葉をぶつけたという。『あんた!そこ(胸ポケット)にコンドーム持っているでしょう』(中略)こんな人物がボランティア部隊の指揮を執るとは。被災地で命がけで活動している自衛隊員は一体どんな思いで受け止めているだろうか。」と報道している<ref>{{cite news|title=【政論】首相は自衛隊員の気持ちを分かっているのか|newspaper=産経新聞|date=2011-03-21|author=[[阿比留瑠比]]|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110320/plc11032021460029-n1.htm}}</ref>。
辻元は、阿比留が根拠とした[[宮嶋茂樹]]の著書に実際には辻元がそのような発言をしたとの記述はなかったとし、辻元自身もホームページで「この非常時に公器としての報道機関が[[噂|デマ]]を拡散させたことに、厳重に抗議いたします」と批判した<ref>{{bloglink|url=http://www.kiyomi.gr.jp/news/2011/03/23-2132.html|who=辻元清美|title=辻元清美に関するデマについて|date=2011-03-23}}</ref><ref name="tsujimoto20141202">{{bloglink|url=http://www.kiyomi.gr.jp/info/14/|who=辻元清美|title=震災に関するデマについて|date=2014-12-02}}</ref>。
[[2012年]][[1月19日]]、産経新聞の[[2011年]][[3月16日]]と[[3月21日]]にの阿比留の記事について、[[名誉毀損]]の損害賠償請求を[[産業経済新聞社|産経新聞社]]および記者の阿比留に対して[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[提訴]]した<ref>{{cite news|title=辻元衆院議員が産経新聞を提訴 「虚偽報道で名誉毀損」|agency=共同通信|date=2012-01-19|url=http://www.47news.jp/CN/201201/CN2012011901001540.html|accessdate=2012-09-27}}</ref>。[[2013年]][[3月22日]]、「[[被告]]側は[[原告]]らに一切取材しておらず、記事が指摘した事実が真実とは認められない」として産経新聞社に80万円の賠償を命令<ref>{{cite news|title=産経新聞に賠償命令、辻元議員への名誉毀損認定|newspaper=読売新聞|date=2013-03-22|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130322-OYT1T01135.htm|archiveurl=https://archive.fo/kk0Li|archivedate=2013-05-01}}</ref>、原告・被告とも[[控訴]]せず、この判決は確定した<ref>{{cite news|title=辻元清美議員の名誉毀損訴訟、産経の賠償確定|newspaper=読売新聞|date=2013-04-09|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130409-OYT1T00662.htm|archiveurl=https://archive.fo/lxzq5|archivedate=2013-04-12}}</ref>。
=== その他の産経新聞による報道 ===
* [[2011年]][[5月10日]]産経新聞で「災害ボランティア活動担当、辻元清美首相補佐官の出張関連費は114万円」と、6日の出張のための費用が高額なのではないかという批判記事が報道されている<ref>{{cite news|title=締めて6日間114万円ナリ 辻元氏被災地入り費用 政府答弁書|newspaper=産経新聞|date=2011-05-10|author=|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110510/plc11051011300008-n1.htm}}</ref>。同日、辻元は、事実誤認であると産経新聞に申し入れをしている。
=== 森友学園問題 ===
[[2017年]][[3月24日]]に公開された[[学校法人森友学園]]前理事長[[籠池泰典]]の妻による首相夫人の[[安倍昭恵]]宛のメールに、「辻元清美[[日本共産党|共産党]]今はぐっと辛抱です(笑)」、「辻元清美が[[塚本幼稚園幼児教育学園|幼稚園]]に侵入しかけ 私達を怒らせようとしました嘘の証言した男は辻元と仲良しの[[全日本建設運輸連帯労働組合|関西生コン]]の人間でしたさしむけたようです」、「三日だけきた作業員が辻元清美が潜らせた[[全日本建設運輸連帯労働組合|関西なんとか連合]]に入っている人間らしい(略)下請け業者の社長は現場もマスコミに写し全くうめてないことをしっていて三日だけきた作業員を辻元清美は送り込みました」、「辻元清美生コンをみればある関西こうえき連合の人間をマスコミに出し社長の言い分はのせなかったそうです 国会議員の犯罪じゃないですか」などと書かれていたと産経新聞は報じている<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170324-HYDIQV3OCFJRTLDLSGV2KN3PN4/3/ |title=安倍昭恵首相夫人と籠池泰典氏妻のメールやりとり詳報(3)「私は講演の謝礼を頂いた記憶がなく…」「あまりにひどい、絶対におかしい!」 |publisher=[[産経新聞]] |date=2017-03-24 |accessdate=2017-03-25 }}</ref>(毎日新聞はインターネットで全文公開した後、この部分を削除して再公開している)。これについて、民進党は、辻元が幼稚園に侵入したとする事実はなく、作業員を下請け業者に送り込んだことは虚偽であると反論している<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170324-7HKFLWZZVNOK7MQS5DBA2NMVQI/ |title=「辻元清美議員は幼稚園に侵入していない!」民進党が籠池氏妻のメールに反論 |publisher=[[産経新聞]] |date=2017-03-24 |accessdate=2017-03-25 }}</ref>。この疑惑について、官房長官の[[菅義偉]]は、民進党から辻元の名が出ていることについての説明があるのではないか、という見解を述べている<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170327-NT3V264QZFPQXPJ37N72U7Q3RY/ |title=菅義偉官房長官、「民進党において説明されるのではないか」メールに辻元清美氏の名前記述 |publisher=[[産経新聞]] |date=2017-03-27 |accessdate=2017-03-28 }}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.j-cast.com/2017/03/27294088.html?p=all |title=民進党の「二重基準」をネット指摘 メディアに「(籠池側情報)拡散するな」 |publisher=J-CAST |date=2017-03-27 |accessdate=2017-03-28 }}</ref>。
後に[[菅野完]]が籠池の妻にインタビューした際に、籠池の妻は辻元の[[塚本幼稚園幼児教育学園|塚本幼稚園]]への侵入を確認せずにメールを書いたと述べた<ref name="biz-journal20170406">{{Cite web|和書|author=[[江川紹子]] |date=2017-04-06 |url=http://biz-journal.jp/2017/04/post_18585.html |title=江川紹子がフェイクニュース騒動を検証…産経新聞の「辻元清美の3つの疑惑」に異議あり! |work= |publisher=[[サイゾー|ビジネスジャーナル]] |accessdate=2017-04-18}}</ref><ref name="bunshun20170401" />。
==== 首相官邸の関与 ====
2017年[[3月24日]]の午後におこなわれた内閣官房長官記者会見で、記者から「メールの公開に官邸の意向も働いたのか」と質問された菅義偉は、「政府としては、メールを公開することによってひとつの物的証拠にもなるわけですよね。(中略)客観的なひとつの証拠になるんだろうと思って、公開をおこなうことを先方の了解をいただいて決断した」と回答<ref>{{cite news|title=安倍夫人メールの読みどころ 籠池氏妻に送った34通|newspaper=J-CASTニュース|date=2017-03-24|url=https://www.j-cast.com/2017/03/24293949.html?p=all}}</ref>。さらに、メールの証拠性について問われると、「それはご覧になった方が判断するんじゃないでしょうか」と返答し、裏付けがないことを認めている<ref>{{cite report|author=政府インターネットテレビ|date=2017-03-24|title=内閣官房長官記者会見|url=https://nettv.gov-online.go.jp/mobile/prg.php?p=15135|publisher=政府インターネットテレビ|accessdate=2017-10-10}}</ref>。
==== 産経新聞「3つの疑惑」報道 ====
[[2017年]][[3月28日]]に、産経新聞は、「民進・辻元清美氏に新たな「3つの疑惑」民進党「拡散やめて」メディアに忖度要求」と題し、(1)塚本幼稚園に侵入したのか、(2)[[学校法人森友学園|小学校]]の建設現場へ作業員を派遣したのか、(3)辻元が民主党政権で国交副大臣であった時期に森友学園の隣接地「野田中央公園」(14億2386万3000円)購入時に計14億262万円の補助金支給があり、豊中市負担は2134万3000円のみで国有地払い下げが行われた事実に関する疑惑を報じ、辻元について「籠池氏の発言に依拠して首相らを追及しながら、都合の悪い妻の言葉は封じようとする矛盾に陥っている。」と批判した<ref name="20170328sankei">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170328-QK7T27G4ONLXVD6QMFTKXKWX2Q/3/|title=民進・辻元清美氏に新たな「3つの疑惑」 民進党「拡散やめて」メディアに忖度要求|publisher=産経新聞|accessdate=2017年4月11日|date=2017年3月28日}}</ref>。なお、(1)(2)はメール籠池妻のメールから出てきたものだが、(3)についてはメールに記載はなく、保守系のサイトなどで飛び交っていたものである<ref>{{cite news|url=http://www.kiyomi.gr.jp/info/13243/|title=(検証)辻元清美をめぐる「3つの疑惑」嘘を作り上げられ拡散される手法についての検証(スタッフより)|publisher=辻元清美WEB|date=2017-10-08 |accessdate=2017-10-12}}</ref>。
==== 豊中市の反応 ====
国有地払い下げがあった年の10月の豊中市議会で「政権が代わったからこうなったのか」という質問も出ていた<ref name="20170328sankei"/>。
==== 辻元と民進党の反応 ====
産経新聞への質問について、民進党役員室は[[3月24日]]に(1)(2)について「一切ない」、28日に辻元は「塚本幼稚園に入っておりませんし、入ろうとした事実もございません」、「マスコミで証言をした人物は、辻元清美とは面識がございません」「送り込んだなどということも一切ございません」、「野田中央公園の用地取得に関する補助金等は、麻生政権下の21年第一次補正予算で決定されたものを鳩山政権下で引き継いで執行したものです」と回答している<ref name="sankei20170422" />。
[[3月29日]]に民進党は、28日付けの産経新聞の報道は事実ではないとして産経新聞宛に「抗議文」を送り<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170329-7VE2ZR3LM5P7PORDMPVNCJZVWY/|title=辻元清美氏「3つの疑惑」報道で民進党が産経新聞に抗議文 「流言飛語を疑惑扱い」「首相夫人とは事柄の本質異なる」|publisher=産経新聞|accessdate=2017年4月11日|date=2017年3月29日}}</ref>、民進党代表の[[蓮舫]]は「3つの疑惑」報道を「ガセネタ」とし「法的措置も含めて検討している」と述べた<ref>{{cite news|title=民進・蓮舫代表、本紙の辻元清美氏「3つの疑惑」報道を「ガセネタ」と批判|newspaper=産経新聞|date=2017-03-30|url=https://www.sankei.com/article/20170330-MRO435ZQW5OY7KCV3QWOA4IZUQ/}}</ref>。ただ、その時点では事務所と党の対応には違いがあったのか、産経新聞はそのあと「辻元事務所の職員の対応は実に丁寧で感謝しています」と述べている<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170329-7VE2ZR3LM5P7PORDMPVNCJZVWY/|title=拝啓 蓮舫様 辻元清美氏の「3つの疑惑」記事の抗議ですが、何か勘違いされていませんか?」|publisher=産経新聞|accessdate=2017年4月2日|date=2017年10月10日}}</ref>。一方、[[4月6日]]の記者会見において、蓮舫は、[[産経新聞]]の報道について、「報道の自由は保障されておりますので、産経新聞が自らの責任で見解を表明することには何ら反対はいたしません」と述べ、疑惑報道に関して反論はあるかとの[[産経新聞]]の質問についても、「特段ありません」と答えている<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170406-Z3STC5EVDJPKNPZOWBD5ODQFXA/|title=民進・蓮舫代表 本紙政治部長の反論文への反論「特段ありません」記者会見やりとり詳報|publisher=産経新聞|accessdate=2017-04-11|date=2017-04-06}}</ref>{{要高次出典|date=2017-04}}。
==== 発端となった産経新聞の報道そのものに対する疑問と検証 ====
産経新聞の報道に多くのジャーナリスト等が疑問を呈した。
(1)について、後に著述家の[[菅野完]]が籠池の妻、娘にインタビューした際に、籠池の妻は辻元の[[塚本幼稚園幼児教育学園|塚本幼稚園]]への侵入を確認せずにメールを書いたと述べた、娘も思い込みだったと認めた
<ref name="dot20170403">{{Cite web|和書|author= |date=2017-04-03 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/111584 |title=辻元議員への攻撃がブーメランした安倍首相の焦り |work=週刊朝日オンライン |publisher=朝日新聞出版 |accessdate=2017-04-14}}</ref><ref name="biz-journal20170406" /><ref name="bunshun20170401" />。
(2)については、評論家の[[荻上チキ]]が“辻元が送り込んだ”とされる作業員へのインタビューを敢行。産経報道の翌日の2017年[[3月29日]]に、自らが司会を務めるラジオ番組において、作業員が「辻元とまったく接点がない」、「生コン会社で働いていないので生コンの関連組合に入れるはずもない」などの証言を行い、産経記事に基づいて報道したテレビ局に抗議し謝罪があったことを明らかにした<ref>{{cite episode|title=【森友学園問題】「まったく面識もない」〜辻元清美議員に関する“疑惑”報道で「工作員」とされた作業員が証言【音声配信&書き起こし】|series=荻上チキ・Session-22|network=TBSラジオ|airdate=2017-03-30|url=https://web.archive.org/web/20170329211055/https://www.tbsradio.jp/133056}}</ref>。
ジャーナリストの[[江川紹子]]は、産経新聞が一連のメールが公開されてから4日後に記事を掲載するまでに、作業員に一切確認取材がされなかったこと、作業員が辻元清美と面識がないという事実が明らかになった後も、記事の訂正がなされていないことを指摘している<ref name="biz-journal20170406" />。
(3)については、辻元のスタッフが検証を行っており、麻生政権時の[[2009年]]5月(辻元が国土交通副大臣に就任する以前)、政府が豊中市に対して予算配分をする旨及び金額を内示した趣旨の国会答弁を国土交通省はしている<ref>{{bloglink|url=http://www.kiyomi.gr.jp/blog/13236/|who=辻元清美|title=(検証)辻元清美をめぐる「3つの疑惑」:嘘を作り上げられ拡散される手法についての検証(スタッフより)|date=2017-10-08}}</ref>。また、それを裏付ける資料の存在が確認されている<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2017-04-03 |url=http://www.mlit.go.jp/common/000041152.pdf#search=%27平成21年度住宅局関係補正予算配分概要%27 |title=平成21年度 住宅局関係補正予算配分概要 |format=PDF |work=国土交通省 |publisher=国土交通省住宅局 |accessdate=2017-10-11}}</ref>。
また、ノンフィクションライターの常井健一は辻元が籠池妻のメール内容を否定する記者会見や法的措置を講じなかった理由について辻元に尋ね、「籠池夫人が、公開を前提としないメールで私の名前を出したこと自体は名誉棄損だとは思っていません。こんなことで民間人が国会議員に記者会見を開かれて噛みつかれたら、そんな社会は気持ち悪いと思う。それより、中身を知りながらメールの公開を決めた人のほうが気になる。私は籠池夫人の内心の自由も守りたいから、あまり騒ぎたくないんだけどな」という回答を得ている<ref name="bunshun20170401" />。
=== 旧統一教会との関係 ===
*2022年9月27日に辻元清美氏は、2012年に'''統一教会'''(現[[世界平和統一家庭連合]])の関連組織[[世界平和女性連合]]の勉強会に参加していたことを明らかにした<ref>{{bloglink|url=https://www.kiyomi.gr.jp/blog/16782/|who=辻元清美|title=2012年に参加した郷土史勉強会の領収書について|date=2022-10-26}}</ref>。かねてより、統一教会と自民党との癒着を激しく非難してきた辻元清美氏は、ジャーナリストの[[有田芳生]]氏の統一協会に関する勉強会に参加<ref>[https://twitter.com/tsujimotokiyomi/status/1560653150029512706?s=46&t=uwDjf4JggVmKmQM-fFK9Tg 2022年8月20日0:41分の投稿。辻元清美氏の公式Twitterアカウント]</ref>するなど精力的に同組織と政治との関係性を突き止めるべく活動してきていた。9月9日には、故[[安倍晋三]]元内閣総理大臣の国葬開催に対して、統一教会と深い関係があったとされる同氏の[[国葬]]に強く反対する<ref>[https://twitter.com/tsujimotokiyomi/status/1568086424255361025?s=46&t=uwDjf4JggVmKmQM-fFK9Tg 2022年9月9日12:58の投稿。辻元清美氏の公式Twitterアカウント]</ref>などしていた。
*
== 議員連盟 ==
<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kiyomi.gr.jp/|title=辻元清美オフィシャルサイト|accessdate=2021年5月13日}}</ref>
* NPO議員連盟(共同代表)
* 立憲フォーラム(幹事長)
* 官製ワーキングプア問題解決促進議員連盟(副会長)
* コロナと闘う病院を支援する議員連盟
* 災害医療船舶利活用推進議員連盟
* 原発ゼロの会
* LGBT問題を考える議員連盟
* 地域共生社会推進に向けての福祉専門職支援議員連盟
* 障がい者の安定雇用・安心就労の促進をめざす議員連盟
* 発達障害の支援を考える議員連盟
* 政治分野における女性の参画と活躍を推進する議員連盟
* 水俣病被害者とともに歩む国会議員連絡会
* ダンス文化推進議員連盟
* 日中友好議員連盟
* 日韓議員連盟
* 日米国会議員連盟
* 核軍縮・不拡散議員連盟
* 在外被爆者に援護法適用を実現させる議員懇談会(幹事長)
* 沖縄等米軍基地問題議員懇談会
* 私鉄交通政策議員懇談会(幹事長)
* 交運労協政策推進議員懇談会(事務局長)
* タクシー政策議員連盟
* 休眠預金活用推進議員連盟
== 著作 ==
=== 単著 ===
特記なき物は[[第三書館]]刊
* 『清美するで!!——新人類が船を出す』[[1987年]]。
* 『ありのまま主義宣言っ!——うどん屋の娘に国境はいらない』[[芸文社]]、[[1990年]]。
* 『転職して、国会議員になった』[[1997年]]。
* 『辻元清美の永田町航海記』[[1998年]]。
* 『辻元清美の「今からでも、変えられる」』[[2000年]]。
* 『総理、総理、総理!!——“小泉現象”におそれず、ひるまず、とらわれず』[[2001年]]。
* 『なんでやねん』[[2002年]]。
* 『へこたれへん。』[[角川書店]]、[[2005年]]。
* 『いま、「政治の質」を変える』[[岩波書店]]、[[2012年]]。
* 『デマとデモクラシー』[[イースト新書]]、[[2016年]]。
* {{Cite book|和書 |author= |title=国対委員長 |publisher=[[集英社]] |series=[[集英社新書]] |date=2020-9-17 |isbn=978-4087211368 }}
* {{Cite book|和書 |author= |title=声をつなぐ―崖っぷちで見つけた「希望のデモクラシー」 |publisher=[[中央公論新社]] |date=2022年12月20日 |isbn=978-4120056147 }}
=== 共著 ===
* 大阪ボランティア協会編『ザ・ピースボート——今、 あぶないことがオモシロイ』大阪ボランティア協会出版部、[[1992年]]。
* [[村山富市]]談、インタビュー『そうじゃのう…―村山富市「首相体験」のすべてを語る』[[第三書館]]、[[1998年]]。
* [[早瀬昇]]・松原明『NPOはやわかりQ&A』[[岩波書店]]、[[2000年]]。
* [[斎藤貴男]]ほか『憲法を決めるのは誰ですか?』労働大学出版センター、[[2006年]]。
* [[上野千鶴子]]『世代間連帯』岩波書店、[[2009年]]。
== 選挙歴 ==
{{選挙歴
|衆|当落1=当|選挙名1=41|選挙区1=[[比例近畿ブロック|比例近畿]]|政党名1=[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]|得票数1=|得票率1=|定数1=33|比例順1=1|当選数1=2|年齢1=36
|衆|当落2=当|選挙名2=42|選挙区2=[[大阪府第10区|大阪10区]]|政党名2=社会民主党|得票数2=55,839|得票率2=29.70%|定数2=1|得票順2=1|候補者2=5|年齢2=40
|参|当落3=落|選挙名3=20|選挙区3=[[大阪府選挙区]]|政党名3=[[無所属]]|得票数3=718,125|得票率3=19.67%|定数3=3|得票順3=4|候補者3=7|年齢3=44
|衆|当落4=比当|選挙名4=44|選挙区4=大阪10区|政党名4=社会民主党|得票数4=68,614|得票率4=31.53%|定数4=1|得票順4=2|候補者4=4|年齢4=45|比例順4=1|当選数4=1
|衆|当落5=当|選挙名5=45|選挙区5=大阪10区|政党名5=社会民主党|得票数5=109,693|得票率5=50.53%|定数5=1|得票順5=1|候補者5=4|年齢5=49
|衆|当落6=比当|選挙名6=46|選挙区6=大阪10区|政党名6=[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]|得票数6=65,411|得票率6=33.29%|定数6=1|得票順6=2|候補者6=4|年齢6=52|比例順6=3|当選数6=3
|衆|当落7=当|選挙名7=47|選挙区7=大阪10区|政党名7=民主党|得票数7=61,725|得票率7=34.35%|定数7=1|得票順7=1|候補者7=4|年齢7=54
|衆|当落8=当|選挙名8=48|選挙区8=大阪10区|政党名8=[[立憲民主党 (日本 2017)|旧立憲民主党]]|得票数8=75,788|得票率8=42.77%|定数8=1|得票順8=1|候補者8=3|年齢8=57
|衆|当落9=落|選挙名9=49|選挙区9=大阪10区|政党名9=[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]|得票数9=66,943|得票率9=33.35%|定数9=1|得票順9=2|候補者9=3|年齢9=61
|参|当落10=当|選挙名10=26|選挙区10=[[参議院比例区|比例区]]|政党名10=立憲民主党|得票数10=428,859|得票率10=|比例順10=1|当選数10=7|定数10=50|得票順10=|候補者10=|年齢10=62
}}
== 出演 ==
=== 映画 ===
* [[劇場版 センキョナンデス]](2023年2月18日、監督:[[ダースレイダー]]、[[プチ鹿島]])
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3|refs=
<ref name="yamamotoichiro20141201">{{bloglink|url=http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20141201-00041143/|who=山本一郎|title=辻元清美女史とリベラルの復権その他で対談をしたんですが、話が噛み合いませんでした|date=2014-12-01}}{{リンク切れ|date=2021-12-19}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|date=2018-5-30|author=秋山訓子|title=女は「政治」に向かないの?|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-511764-4|ref={{SfnRef|秋山|2018}}}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kiyomi Tsujimoto}}
* {{Official website|name=辻元清美公式サイト}}
* {{Twitter|tsujimotokiyomi}}
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* {{Instagram|tsujimotokiyomi}}
* {{YouTube|channel=UC-84sDq7sDPeRhG_W9vH8VQ|清美チャンネル}}
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{{Succession box
| title = {{flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣補佐官]]<br />(災害ボランティア活動担当)
| years = 2011年
| before =
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{{Succession box
| title = {{flagicon|JPN}} [[国土交通副大臣]]<br />[[馬淵澄夫]]と共同
| years = 2009年 - 2010年
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{{S-ppo}}
{{Succession box
| title = [[立憲民主党_(日本_2017)#執行役員会|立憲民主党幹事長代行]]
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{{Succession box
| title = [[立憲民主党_(日本_2017)#執行役員会|立憲民主党国会対策委員長]]
| years = 初代:2017年 - 2019年
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{{Succession box
| title = [[立憲民主党_(日本_2017)#執行役員会|立憲民主党政務調査会長]]
| years = 初代:2017年
| before = (結成)
| after = [[長妻昭]]
}}
{{Succession box
| title = [[民主党幹事長|民進党幹事長代行]]
| before = (新設)
| years = 初代:2017年
| after = (廃止)
}}
{{Succession box
| title = [[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]国会対策委員長
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{{Succession box
| title = [[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]政策審議会長
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}}
{{S-end}}
{{国土交通副大臣}}
{{大阪小選挙区選出衆議院議員(1996-)}}
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{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:つしもと きよみ}}
[[Category:日本の内閣総理大臣補佐官経験者]]
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[[Category:有罪判決を受けた日本の政治家]]
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国鉄旧形電車の車両形式
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国鉄旧形電車の車両形式(こくてつきゅうがたでんしゃのしゃりょうけいしき)では、日本国有鉄道における新性能電車以前の旧形電車の称号方式について述べる。
日本国有鉄道(国鉄)における「旧形電車」とは、1959年(昭和34年)5月30日付総裁達第237号(同年6月1日施行)による車両称号規程改正時に初めて現れた概念である。
この改正で独自の称号規程を制定された新形電車(新性能電車)に対し、それ以前のものが「旧形電車」とされた。ここで「旧形」とされた電車は、1906年(明治39年)に国有化された甲武鉄道引継ぎの二軸車以来の伝統式な駆動方式である吊り掛け式を採用する電車群であり、旧形国電(旧国)とも呼ばれる。
したがってここで扱う規程の対象は、この改正以前については国鉄の全電車であり、以後については上記のカテゴリのものとなる。本項目では、度重なる改正の最終形態である国鉄末期のもの(まだわずかに旧形電車が残存していた)についてまず説明し、「歴史」節でそれ以前の変遷について解説する。なお日本の電車そのものの発展の概略は、日本の電車史を参照されたい。
電車の形式称号は、1959年に称号改正された101系電車、151系電車、153系電車、155系電車等以降の新性能電車とそれ以前の旧形電車とで称号方式が異なる。なお、本節ではJR化以前、国鉄末期の後者について記す。前者は国鉄新性能電車の車両形式を参照されたい。
このうち、○については、電車の車種を表す記号を表し、●については用途を、標準形電車のAは車体長、Bは電動車か制御車・付随車の別によって区分され、ABによって形式を示し、C-Eについては製造番号を表す。雑形電車のB-Eについては下記を参照されたい。
車両の種類を表す記号は、次のとおりである。
単独で使用する場合が多いが、合造車の場合は下記の順番で重ねて使用される。
旧形電車の形式数字は桁位置により次のような分類がある。標準型電車は番号の万位および千位の数字を、雑形電車は千位から一位までの4桁の最初の番号を形式数字とする。形式は記号と形式数字を合わせて表される。
標準型電車の場合は下記の表のように万位が車長・使用目的、千位が電動車か否かを表す、なお、新型電車の「系」と異なり、旧型電車では違う形式同士を連結しても走行は可能である。
国有鉄道の車両の統一的な形式番号付与基準が初めて制定されたのは、1911年(明治44年)1月16日付達第20号によってである。このとき電車は、汽動車(蒸気動車)とともに、客車の一部として扱われている。
電車が電車として独自の形式番号体系を獲得するのは、1928年(昭和3年)5月17日付達第380号(同年10月1日施行)による称号規程改正時である。このときの称号規程が、以後、数回の改正を重ねながらも、現在につながる旧形電車の形式番号の基本となっている。
それ以後、比較的大きな称号規程改正が行われたのは、1953年(昭和28年)4月8日付総裁達第225号(同年6月1日施行)である。このときは、17m級電車の形式整理、改造車への形式付与整理、戦時買収によって国有鉄道に編入された私鉄からの引継ぎ車への国鉄式形式番号の付与等が実施されている。
そして、先述の1959年改正による称号規程が現在まで使用されているものである。
以下、順にそれぞれの形式称号規程について解説を加えることとする。
1911年(明治44年)1月16日付達第20号により制定された車両称号規程により、電車は客車の形式番号体系に含められた。電車の番号は、客車の二等車と三等車の間に設定され、二軸車は950 - 999、ボギー車は6100 - 6499が割り当てられている(後に番号の範囲は追加)。形式は、一連で付される同一形式車の最初の番号をとることとされ、「車両の重量(換算両数)を表す記号(ボギー車のみ、詳細は国鉄客車の重量記号を参照)+電車の記号『デ』」という表記が原則になった。通常の営業用客車の場合ここに等級を表す記号「イ、ロ、ハ」もつくが、この頃の国鉄電車はすべて3等車モノクラス(甲武時代には2・3等車の合造電車もあったが、1909年(明治42年)6月に2等料金自体が廃止され、2等室部分を手荷物室に改造して「ニデ950形」になっている)で等級区分の必要がなかったためこの表記はつけられず、「職用車のヤ」などの旅客以外用途の記号がつく場合に表記される 。
なお、緩急車を表す記号「フ」は、電車には使用しないこととされた。
この称号規程により、甲武鉄道引継ぎの二軸車は、950形ニデ950 - 952、960形デ960 - 962、963形デ963 - 988に、1909年(明治42年)に製造された国有鉄道初のボギー電車1 - 10は、6100形ホデ6100 - 6109となった。
1913年(大正2年)4月22日付達第301号により、換算両数の算出方法が変更され、また同日付達第302号により、ボギー車の重量記号の規程が変更になった。この時ボギー電車の増備車で重量が25tを越えたものがあったため、重量記号が「ホ」から1ランク上の「ナ」にされ「ホデ」が「ナデ」に改称された 。
主電動機を持たない付随電車の登場に伴い、1914年(大正3年)4月7日付達第322号により、付随電車を表す記号「トデ」が追加された。なお、ここでいう付随電車とは、現在でいう制御車のことである 。
1914年(大正3年)8月29日付達第794号により、記号の設定方法が変更され、従来の重量記号を併記する方式から、主電動機を持つ電車を表す記号「デ」、主電動機を持たない電車を表す記号「ク」に等級記号を組み合わせる方式に変更され、「ナデ」は「デハ」に、「ナトデ」は「クハ」となった。なお、従来二等車と三等車の中間とされていた電車の等級が三等車と規定されたことに伴い、形式と番号の変更が実施されている 。
1917年(大正6年)9月1日付達第833号により、付随電車の記号が制御器を持つもの「ク」と制御器を持たないもの「サ」に分離された。これにより、「クロハ」と称していた6190 - 6199が「サロハ」に、「クハ」と称していた6410、6420 - 6423が「サハ」に変更されている。
1928年(昭和3年)10月1日に施行された車両称号規程改正は、ほとんどの車種に及ぶ大規模なものであったが、この時、電車の形式番号は、客車から分離され、電車独自のものが定められた。種類を表す記号は、電動車を表す「デ」が「モ」に改められたが、制御車を表す「ク」と付随車を表す「サ」は、そのまま使用された。従来、事業用車の用途記号については、職用車の「ヤ」と試験車の「ケン」が存在していたが、この称号規定では「ヤ」に統合された。番号は、1001 - 39999(後年、99999まで拡大)が割り当てられ、番号の万位および千位の数字を形式として用いることとされた。従来、番号は形式ごとに末尾0から付されていたが、この改正により1から付すように改められている。
万位の数字は、装備する主電動機の出力並びに車体の構造に応じて次のとおりとされた。
千位の数字は、0 - 4が電動車、5 - 9が制御車または付随車とされた。
また、記号および形式は、右のように記号と番号を横書きに上下2列に標記するよう改められた。
1939年(昭和14年)以来、電動車や制御車でありながら、主電動機や制御器を装備しないまま営業につく車が出現するようになり、戦後の63形に至っては、未電装車が大量に発生するようになった。また、在来車も戦中戦後の酷使により修繕ができないまま転用せざるを得ない車が多数に上ったため、1948年(昭和23年)4月、こうした車を運用上区別する必要から、電動車で主電動機のないものを「モハ」、さらに主幹制御器のないものを「モハ」、制御車で主幹制御器のないものを「クハ」とし、「ク」「サ」は記号の左上に小さく表示することとされた。
1928年に制定された電車の称号規程は、改造や新造により早くも行き詰まりを見せていた。また、私鉄の買収によって形式数は膨れあがり、戦前の買収による3社については国有鉄道の形式番号を与えられたものの、戦時買収私鉄からの引継ぎ車は私鉄時代の番号のまま使用され、重複番号も生じていた。
1953年(昭和28年)6月1日付けで実施された車両称号規程(昭和28年4月8日総裁達第225号)では、これらの問題の解決を主眼に次の内容で実施された。
なお、千位の数字は引き続き0 - 4が電動車、5 - 9が制御車または付随車とされている。1959年の規程改正直前には、新性能電車の暫定形式としてこの称号規程の空番に押し込まれたが、151系(20系)の万位に2を用いたこと以外、この原則は踏襲されている。
※括弧書きは改番前に廃車となったもので、予定されていた形式番号
1959年(昭和34年)6月1日に施行された称号規程改正(昭和34年5月30日総裁達第237号)では、新形電車並びに交流用電車および交流直流両用電車の付番体系が制定され、便宜的に旧称号規程に則って形式付与されていた新性能電車(101系(90系)、151系(20系)、153系(91系)、155系(82系))などが新体系に分離された。交流用電車、交流直流両用電車においては、吊り掛け駆動の旧形電車に属するものも存在したが、こちらは、新形電車用の規程によって付番される。
記号については、電動車は運転台の有無にかかわらずすべて「モ」であったが、80系の登場で中間電動車が発生したため、運転台を有しない中間電動車を「モ」とし、運転台付きの制御電動車を「クモ」とするよう改められた。
また、従来は電車の付番体系においては記号のみが異なる同番号車は存在しないのが鉄則であったが、この称号規程では、従来の「モハ」等の記号と形式番号を合わせて形式とするものとされた。これ以後、記号のみが異なる同番号車が発生している。標記方法も従来は記号と番号を上下2列書きにしていたが、記号番号を1列に標記するものとされた。
事業用車については、国鉄標準形改造車も雑形扱いされていたが、本改正において標準型由来のものは相当の形式番号体系に移されている。
なお、1953年改正の際、2200番台、6200番台を与えられた旧阪和形電車(上表で「南海鉄道」とされたグループ)については、国鉄車と同等の装備への標準化工事を経て、本改正後の1959年12月22日付け工車第1528号通知で、本改正で空いた番号を用いクモハ20形・クハ25形として、国鉄制式車と同格の扱いとされた。詳細は阪和電気鉄道の車両#旧・阪和形車両の推移を参照。また、同通知では、一部の形式(クモハ14形、クハ16形→クハニ19形、クモハユニ44形、サロ46形→サロ75形、クハ47形)で形式や番号の整理による改番が行われている。
この規定はJR発足後も引き継がれ、既存形式の他に、新形式クモハ84形が発生している。
|
[
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"text": "国鉄旧形電車の車両形式(こくてつきゅうがたでんしゃのしゃりょうけいしき)では、日本国有鉄道における新性能電車以前の旧形電車の称号方式について述べる。",
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"text": "日本国有鉄道(国鉄)における「旧形電車」とは、1959年(昭和34年)5月30日付総裁達第237号(同年6月1日施行)による車両称号規程改正時に初めて現れた概念である。",
"title": "国鉄の旧形電車"
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"text": "この改正で独自の称号規程を制定された新形電車(新性能電車)に対し、それ以前のものが「旧形電車」とされた。ここで「旧形」とされた電車は、1906年(明治39年)に国有化された甲武鉄道引継ぎの二軸車以来の伝統式な駆動方式である吊り掛け式を採用する電車群であり、旧形国電(旧国)とも呼ばれる。",
"title": "国鉄の旧形電車"
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"text": "したがってここで扱う規程の対象は、この改正以前については国鉄の全電車であり、以後については上記のカテゴリのものとなる。本項目では、度重なる改正の最終形態である国鉄末期のもの(まだわずかに旧形電車が残存していた)についてまず説明し、「歴史」節でそれ以前の変遷について解説する。なお日本の電車そのものの発展の概略は、日本の電車史を参照されたい。",
"title": "国鉄の旧形電車"
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"text": "電車の形式称号は、1959年に称号改正された101系電車、151系電車、153系電車、155系電車等以降の新性能電車とそれ以前の旧形電車とで称号方式が異なる。なお、本節ではJR化以前、国鉄末期の後者について記す。前者は国鉄新性能電車の車両形式を参照されたい。",
"title": "国鉄末期の称号"
},
{
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"text": "このうち、○については、電車の車種を表す記号を表し、●については用途を、標準形電車のAは車体長、Bは電動車か制御車・付随車の別によって区分され、ABによって形式を示し、C-Eについては製造番号を表す。雑形電車のB-Eについては下記を参照されたい。",
"title": "国鉄末期の称号"
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"text": "車両の種類を表す記号は、次のとおりである。",
"title": "国鉄末期の称号"
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"text": "単独で使用する場合が多いが、合造車の場合は下記の順番で重ねて使用される。",
"title": "国鉄末期の称号"
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{
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"text": "旧形電車の形式数字は桁位置により次のような分類がある。標準型電車は番号の万位および千位の数字を、雑形電車は千位から一位までの4桁の最初の番号を形式数字とする。形式は記号と形式数字を合わせて表される。",
"title": "国鉄末期の称号"
},
{
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"text": "標準型電車の場合は下記の表のように万位が車長・使用目的、千位が電動車か否かを表す、なお、新型電車の「系」と異なり、旧型電車では違う形式同士を連結しても走行は可能である。",
"title": "国鉄末期の称号"
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{
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"text": "国有鉄道の車両の統一的な形式番号付与基準が初めて制定されたのは、1911年(明治44年)1月16日付達第20号によってである。このとき電車は、汽動車(蒸気動車)とともに、客車の一部として扱われている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "電車が電車として独自の形式番号体系を獲得するのは、1928年(昭和3年)5月17日付達第380号(同年10月1日施行)による称号規程改正時である。このときの称号規程が、以後、数回の改正を重ねながらも、現在につながる旧形電車の形式番号の基本となっている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "それ以後、比較的大きな称号規程改正が行われたのは、1953年(昭和28年)4月8日付総裁達第225号(同年6月1日施行)である。このときは、17m級電車の形式整理、改造車への形式付与整理、戦時買収によって国有鉄道に編入された私鉄からの引継ぎ車への国鉄式形式番号の付与等が実施されている。",
"title": "歴史"
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"text": "そして、先述の1959年改正による称号規程が現在まで使用されているものである。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "以下、順にそれぞれの形式称号規程について解説を加えることとする。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1911年(明治44年)1月16日付達第20号により制定された車両称号規程により、電車は客車の形式番号体系に含められた。電車の番号は、客車の二等車と三等車の間に設定され、二軸車は950 - 999、ボギー車は6100 - 6499が割り当てられている(後に番号の範囲は追加)。形式は、一連で付される同一形式車の最初の番号をとることとされ、「車両の重量(換算両数)を表す記号(ボギー車のみ、詳細は国鉄客車の重量記号を参照)+電車の記号『デ』」という表記が原則になった。通常の営業用客車の場合ここに等級を表す記号「イ、ロ、ハ」もつくが、この頃の国鉄電車はすべて3等車モノクラス(甲武時代には2・3等車の合造電車もあったが、1909年(明治42年)6月に2等料金自体が廃止され、2等室部分を手荷物室に改造して「ニデ950形」になっている)で等級区分の必要がなかったためこの表記はつけられず、「職用車のヤ」などの旅客以外用途の記号がつく場合に表記される 。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "なお、緩急車を表す記号「フ」は、電車には使用しないこととされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "この称号規程により、甲武鉄道引継ぎの二軸車は、950形ニデ950 - 952、960形デ960 - 962、963形デ963 - 988に、1909年(明治42年)に製造された国有鉄道初のボギー電車1 - 10は、6100形ホデ6100 - 6109となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1913年(大正2年)4月22日付達第301号により、換算両数の算出方法が変更され、また同日付達第302号により、ボギー車の重量記号の規程が変更になった。この時ボギー電車の増備車で重量が25tを越えたものがあったため、重量記号が「ホ」から1ランク上の「ナ」にされ「ホデ」が「ナデ」に改称された 。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "主電動機を持たない付随電車の登場に伴い、1914年(大正3年)4月7日付達第322号により、付随電車を表す記号「トデ」が追加された。なお、ここでいう付随電車とは、現在でいう制御車のことである 。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "1914年(大正3年)8月29日付達第794号により、記号の設定方法が変更され、従来の重量記号を併記する方式から、主電動機を持つ電車を表す記号「デ」、主電動機を持たない電車を表す記号「ク」に等級記号を組み合わせる方式に変更され、「ナデ」は「デハ」に、「ナトデ」は「クハ」となった。なお、従来二等車と三等車の中間とされていた電車の等級が三等車と規定されたことに伴い、形式と番号の変更が実施されている 。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1917年(大正6年)9月1日付達第833号により、付随電車の記号が制御器を持つもの「ク」と制御器を持たないもの「サ」に分離された。これにより、「クロハ」と称していた6190 - 6199が「サロハ」に、「クハ」と称していた6410、6420 - 6423が「サハ」に変更されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1928年(昭和3年)10月1日に施行された車両称号規程改正は、ほとんどの車種に及ぶ大規模なものであったが、この時、電車の形式番号は、客車から分離され、電車独自のものが定められた。種類を表す記号は、電動車を表す「デ」が「モ」に改められたが、制御車を表す「ク」と付随車を表す「サ」は、そのまま使用された。従来、事業用車の用途記号については、職用車の「ヤ」と試験車の「ケン」が存在していたが、この称号規定では「ヤ」に統合された。番号は、1001 - 39999(後年、99999まで拡大)が割り当てられ、番号の万位および千位の数字を形式として用いることとされた。従来、番号は形式ごとに末尾0から付されていたが、この改正により1から付すように改められている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "万位の数字は、装備する主電動機の出力並びに車体の構造に応じて次のとおりとされた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "千位の数字は、0 - 4が電動車、5 - 9が制御車または付随車とされた。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、記号および形式は、右のように記号と番号を横書きに上下2列に標記するよう改められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1939年(昭和14年)以来、電動車や制御車でありながら、主電動機や制御器を装備しないまま営業につく車が出現するようになり、戦後の63形に至っては、未電装車が大量に発生するようになった。また、在来車も戦中戦後の酷使により修繕ができないまま転用せざるを得ない車が多数に上ったため、1948年(昭和23年)4月、こうした車を運用上区別する必要から、電動車で主電動機のないものを「モハ」、さらに主幹制御器のないものを「モハ」、制御車で主幹制御器のないものを「クハ」とし、「ク」「サ」は記号の左上に小さく表示することとされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "1928年に制定された電車の称号規程は、改造や新造により早くも行き詰まりを見せていた。また、私鉄の買収によって形式数は膨れあがり、戦前の買収による3社については国有鉄道の形式番号を与えられたものの、戦時買収私鉄からの引継ぎ車は私鉄時代の番号のまま使用され、重複番号も生じていた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1953年(昭和28年)6月1日付けで実施された車両称号規程(昭和28年4月8日総裁達第225号)では、これらの問題の解決を主眼に次の内容で実施された。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "なお、千位の数字は引き続き0 - 4が電動車、5 - 9が制御車または付随車とされている。1959年の規程改正直前には、新性能電車の暫定形式としてこの称号規程の空番に押し込まれたが、151系(20系)の万位に2を用いたこと以外、この原則は踏襲されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "※括弧書きは改番前に廃車となったもので、予定されていた形式番号",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1959年(昭和34年)6月1日に施行された称号規程改正(昭和34年5月30日総裁達第237号)では、新形電車並びに交流用電車および交流直流両用電車の付番体系が制定され、便宜的に旧称号規程に則って形式付与されていた新性能電車(101系(90系)、151系(20系)、153系(91系)、155系(82系))などが新体系に分離された。交流用電車、交流直流両用電車においては、吊り掛け駆動の旧形電車に属するものも存在したが、こちらは、新形電車用の規程によって付番される。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "記号については、電動車は運転台の有無にかかわらずすべて「モ」であったが、80系の登場で中間電動車が発生したため、運転台を有しない中間電動車を「モ」とし、運転台付きの制御電動車を「クモ」とするよう改められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "また、従来は電車の付番体系においては記号のみが異なる同番号車は存在しないのが鉄則であったが、この称号規程では、従来の「モハ」等の記号と形式番号を合わせて形式とするものとされた。これ以後、記号のみが異なる同番号車が発生している。標記方法も従来は記号と番号を上下2列書きにしていたが、記号番号を1列に標記するものとされた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "事業用車については、国鉄標準形改造車も雑形扱いされていたが、本改正において標準型由来のものは相当の形式番号体系に移されている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "なお、1953年改正の際、2200番台、6200番台を与えられた旧阪和形電車(上表で「南海鉄道」とされたグループ)については、国鉄車と同等の装備への標準化工事を経て、本改正後の1959年12月22日付け工車第1528号通知で、本改正で空いた番号を用いクモハ20形・クハ25形として、国鉄制式車と同格の扱いとされた。詳細は阪和電気鉄道の車両#旧・阪和形車両の推移を参照。また、同通知では、一部の形式(クモハ14形、クハ16形→クハニ19形、クモハユニ44形、サロ46形→サロ75形、クハ47形)で形式や番号の整理による改番が行われている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "この規定はJR発足後も引き継がれ、既存形式の他に、新形式クモハ84形が発生している。",
"title": "歴史"
}
] |
国鉄旧形電車の車両形式(こくてつきゅうがたでんしゃのしゃりょうけいしき)では、日本国有鉄道における新性能電車以前の旧形電車の称号方式について述べる。
|
{{出典の明記|date=2015年8月17日 (月) 07:49 (UTC)|ソートキー=鉄}}
'''国鉄旧形電車の車両形式'''(こくてつきゅうがたでんしゃのしゃりょうけいしき)では、[[日本国有鉄道]]における[[新性能電車]]以前の旧形電車の[[形式称号|称号]]方式について述べる。
[[ファイル:JNR 40 kumoha40074 20070526.jpg|thumb|right|320 px|クモハ40形電車]]
== 国鉄の旧形電車 ==
[[日本国有鉄道]](国鉄)における「旧形電車」とは、[[1959年]](昭和34年)5月30日付総裁達第237号(同年6月1日施行)による[[#1959年(昭和34年)車両称号規程|車両称号規程改正]]時に初めて現れた概念である。
この改正で独自の[[形式称号|称号]]規程を制定された[[国鉄新性能電車の車両形式|新形電車]]([[新性能電車]])に対し、それ以前のものが「旧形電車」とされた。ここで「旧形」とされた電車は、[[1906年]](明治39年)に[[鉄道国有法|国有化]]された[[甲武鉄道]]引継ぎの[[甲武鉄道の電車|二軸車]]以来の伝統式な駆動方式である[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け式]]を採用する電車群であり、旧形[[国電]](旧国)とも呼ばれる。
したがってここで扱う規程の対象は、この改正以前については国鉄の全電車であり、以後については上記のカテゴリのものとなる。本項目では、度重なる改正の最終形態である国鉄末期のもの(まだわずかに旧形電車が残存していた)についてまず説明し、「[[#歴史|歴史]]」節でそれ以前の変遷について解説する。なお日本の電車そのものの発展の概略は、[[日本の電車史]]を参照されたい。
== 国鉄末期の称号 ==
[[電車]]の形式称号は、1959年に称号改正された[[国鉄101系電車|101系電車]]、[[国鉄181系電車#151系|151系電車]]、[[国鉄153系電車|153系電車]]、[[国鉄155系・159系電車|155系電車]]等以降の[[新性能電車]]とそれ以前の旧形電車とで称号方式が異なる。なお、本節ではJR化以前、国鉄末期の後者について記す。前者は[[国鉄新性能電車の車両形式]]を参照されたい。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
|-
!style="text-align:center;"|記号事例
!style="text-align:center;"|○
!style="text-align:center;"|●
!
!A
!B
!C
!D
!E
!style="text-align:center;"|車両形式
|-
!style="text-align:left;"|1.標準形電車
| align="center"|ク
| align="center"|ハ
| align="center"|
|6
|8
|0
|5
|8
|style="text-align:left;"|[[国鉄51系電車|クハ68形]]制御車
|-
!style="text-align:left;"|2.雑形
| align="center"|サ
| align="center"|エ
| align="center"|
|
| 9
| 3
| 2
| 0
|style="text-align:left;"|[[伊那電気鉄道の電車#サ100形|サエ9320形]]救援付随車
|}
このうち、○については、電車の車種を表す記号を表し、●については用途を、標準形電車のAは車体長、Bは電動車か制御車・付随車の別によって区分され、ABによって形式を示し、C-Eについては製造番号を表す。雑形電車のB-Eについては[[#1953年(昭和28年)車両称号規程|下記]]を参照されたい。
=== 車両の種類を表す記号 ===
'''車両の種類を表す記号'''は、次のとおりである。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!記号
!車種
!車種解説(記号の由来<ref>[[#福原2007|(福原2007)p.55・80「国鉄電車の形式称号の変遷(その2)」・「(その3)」]]</ref>)
|-
|style="text-align:center;"|クモ
|制御電動車
|運転台と動力装置のある車両。
|-
|style="text-align:center;"|モ
|[[動力車|電動車]]
|動力装置(モーター)のある車両('''モ'''ーターの'''モ''')
|-
|style="text-align:center;"|ク
|[[制御車]]||運転台のある車両(「電動車に'''ク'''っついて走る」の'''ク'''と一般に言われる<ref group="注釈">、コントロール由来で「コ」が客車の重量記号にすでにあったので「'''ク'''ォントロール」と呼んだ」という説もある。<br>なお、[[福原俊一 (電車発達史研究家)|福原俊一]]は[[#福原2007|『日本の電車物語 旧性能電車編』p.55]]で「「ク」は「駆動制御」由来」という説について触れ「俗説であり正しくない」としている。</ref>)
|-
|style="text-align:center;"|サ
|[[付随車]]||運転台も動力装置もない車両(電動車に'''サ'''し込むの'''サ'''と一般に言われる<ref group="注釈">挟むという意味の英語の'''サ'''ース、もしくは(走行・制御のための機器がないので)ギ装が'''サ'''っぱりからという説もある。</ref>)
|}
=== 車両の設備を表す記号 ===
単独で使用する場合が多いが、[[旅客車#合造車|合造車]]の場合は下記の順番で重ねて使用される。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!種別
!記号
!1969年5月10日以降
!1969年5月10日前
!1960年6月1日前
!備考
|-
| rowspan="4"|営業用
| align="center"|ロ
| align="center"| - <ref group="注釈">グリーン車となった旧形電車は存在しない(旧形電車における一等車は1968年までに全て二等車に格下げ)。</ref>
|[[一等車]]<ref group="注釈">等級制の改訂経緯については[[等級 (鉄道車両)]]を参照。</ref>
|[[二等車]]
|
|-
| align="center"|ハ
|[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]
|二等車
|三等車
|
|-
| align="center"|ユ
| colspan="3"|[[郵便車]]
|
|-
| align="center"|ニ
| colspan="3"|[[荷物車]]
|
|-
| rowspan="3"|事業用
| align="center"|ヤ
| colspan="3"|[[職用車]]
|試験車・牽引車・教習車等<ref group="注釈">語源は「乗客ではなく職員('''ヤ'''クニン)が使用する」とされる。([[#福原2007|(福原2007)p.80「国鉄電車の形式称号の変遷(その3)」]])</ref>
|-
| align="center"|エ
| colspan="3"|[[救援車]]
|
|-
| align="center"|ル
| colspan="3"|[[配給車]]
|
|}
=== 形式数字 ===
旧形電車の形式数字は桁位置により次のような分類がある。標準型電車は番号の万位および千位の数字を、雑形電車は千位から一位までの4桁の最初の番号を形式数字とする。形式は記号と形式数字を合わせて表される。
標準型電車の場合は下記の表のように万位が車長・使用目的、千位が電動車か否かを表す<ref>萩原政男 『学研の図鑑 機関車・電車』 株式会社学習研究社、(改訂)1977、p.120。</ref>、なお、新型電車の「系」と異なり、旧型電車では違う形式同士を連結しても走行は可能である<ref>萩原政男 『学研の図鑑 機関車・電車』 株式会社学習研究社、(改訂)1977、p.121。</ref><!--タイトルとそろえるべきか迷ったが『学研の図鑑 機関車・電車』p.120-123の電車に関する説明では全部「旧型電車」や「新型電車」と「型」表記なのでこちらにした。-->。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! 数字 !! 万位 !! 千位
|-
| 0 || - ||rowspan="5"| 電動車
|-
| 1 ||rowspan="2"| 車長20m未満<ref group="注釈">『機関車・電車』のp.120原文では「20m以下」だが、これではちょうど20mの車両も入ってしまうので「20m未満」の誤記と判断した。</ref>
|-
| 2
|-
| 3 ||rowspan="5"| 車長20m近・中距離用
|-
| 4
|-
| 5 ||rowspan="5"| 制御車・付随車
|-
| 6
|-
| 7
|-
| 8 || 車長20m遠距離用
|-
| 9 || 事業用・その他
|}
== 歴史 ==
国有鉄道の車両の統一的な形式番号付与基準が初めて制定されたのは、[[1911年]](明治44年)1月16日付達第20号によってである<ref group="注釈">これ以前は甲武鉄道時代はただ単に番号(1から通し)、明治39年(1906)に国有化後は「デ」('''デ'''んしゃの'''デ''')の記号が付けられ、2軸車であったこれらの車両と区別するため明治42年に製造されたボギーの電車(後のホデ6100形)は「ホデ」と呼ばれた([[#福原2007|(福原2007)p.52「国鉄電車の形式称号の変遷(その1)」]])。</ref>。このとき電車は、汽動車([[蒸気動車]])とともに、[[客車]]の一部として扱われている。
電車が電車として独自の形式番号体系を獲得するのは、[[1928年]](昭和3年)5月17日付達第380号(同年10月1日施行)による[[#1928年(昭和3年)車両称号規程|称号規程改正]]時である。このときの称号規程が、以後、数回の改正を重ねながらも、現在につながる旧形電車の形式番号の基本となっている。
それ以後、比較的大きな称号規程改正が行われたのは、[[1953年]](昭和28年)4月8日付[[#1953年(昭和28年)車両称号規程|総裁達第225号(同年6月1日施行)]]である。このときは、17m級電車の形式整理、改造車への形式付与整理、[[戦時買収私鉄|戦時買収]]によって国有鉄道に編入された私鉄からの引継ぎ車への国鉄式形式番号の付与等が実施されている。
そして、先述の1959年改正による称号規程が現在まで使用されているものである。
以下、順にそれぞれの形式称号規程について解説を加えることとする。
=== 1911年(明治44年)車両称号規程 ===
[[1911年]](明治44年)1月16日付達第20号により制定された車両称号規程により、電車は客車の形式番号体系に含められた。電車の番号は、客車の[[二等車]]と[[普通車 (鉄道車両)|三等車]]の間に設定され、[[二軸車]]は950 - 999、[[ボギー台車|ボギー車]]は6100 - 6499が割り当てられている(後に番号の範囲は追加)。形式は、一連で付される同一形式車の最初の番号をとることとされ、「車両の重量([[換算両数]])を表す記号(ボギー車のみ、詳細は[[国鉄客車の車両形式#重量記号|国鉄客車の重量記号]]を参照)+電車の記号『デ』」という表記が原則になった。通常の営業用客車の場合ここに等級を表す記号「イ、ロ、ハ」もつくが、この頃の国鉄電車はすべて3等車モノクラス(甲武時代には2・3等車の合造電車もあったが、1909年(明治42年)6月に2等料金自体が廃止され、2等室部分を手荷物室に改造して「ニデ950形」になっている<ref>[[#寺田2007|(寺田2007)p.156-157]]</ref>)で等級区分の必要がなかったためこの表記はつけられず、「職用車の'''ヤ'''」などの旅客以外用途の記号がつく場合に表記される<ref>[[#福原2007|(福原2007)p.52・55・80「国鉄電車の形式称号の変遷(その1)」「(その2)」「(その3)」]]</ref> 。
なお、[[緩急車]]を表す記号「フ」は、電車には使用しないこととされた。
この称号規程により、[[甲武鉄道の電車|甲武鉄道引継ぎの二軸車]]は、950形ニデ950 - 952、960形デ960 - 962、963形デ963 - 988に、[[1909年]](明治42年)に製造された[[国鉄デハ6250形電車|国有鉄道初のボギー電車]]1 - 10は、6100形ホデ6100 - 6109となった。
==== 換算両数算出法の変更による重量記号の変更 ====
[[1913年]](大正2年)4月22日付達第301号により、[[換算両数#1913年改正|換算両数の算出方法が変更]]され、また同日付達第302号により、[[国鉄客車の車両形式#1913年改正|ボギー車の重量記号の規程が変更]]になった。この時ボギー電車の増備車で重量が25tを越えたものがあったため、重量記号が「ホ」から1ランク上の「ナ」にされ「ホデ」が「ナデ」に改称された<ref>[[#福原2007|(福原2007)p.52「国鉄電車の形式称号の変遷(その1)」]]</ref> 。
==== 付随電車の記号の追加 ====
主電動機を持たない付随電車の登場に伴い、[[1914年]](大正3年)4月7日付達第322号により、付随電車を表す記号「トデ<ref group="注釈">「ト」の語源は「トレーラーの'''ト'''」とされる。([[#福原2007|(福原2007)p.55「国鉄電車の形式称号の変遷(その2)」]])</ref>」が追加された。なお、ここでいう付随電車とは、現在でいう[[制御車]]のことである<ref group="注釈">私鉄も同じようなことを考えており、南海電鉄に初めて出た制御車の称号は「電'''附'''1形」である(なお電動車は「電○形」)。([[#福原2007|(福原2007)p.49]])</ref> 。
==== 電車の記号付与方法の変更 ====
[[画像:jnr-sharyou-hyouki-ec-1101.jpg|right|標記の一例]]
[[1914年]](大正3年)8月29日付達第794号により、記号の設定方法が変更され、従来の重量記号を併記する方式から、主電動機を持つ電車を表す記号「デ」、主電動機を持たない電車を表す記号「ク」に等級記号を組み合わせる方式に変更され、「ナデ」は「デハ」に、「ナトデ」は「クハ」となった。なお、従来二等車と三等車の中間とされていた電車の等級が三等車と規定されたことに伴い、形式と番号の変更が実施されている<ref name="大正3年と6年の改正">[[#福原2007|(福原2007)p.55「国鉄電車の形式称号の変遷(その2)」]]</ref> 。
==== 制御車と付随車の分離 ====
[[1917年]](大正6年)9月1日付達第833号により、付随電車の記号が制御器を持つもの「ク」と制御器を持たないもの「サ」に分離された。これにより、「クロハ」と称していた6190 - 6199が「サロハ」に、「クハ」と称していた6410、6420 - 6423が「サハ」に変更されている<ref name="大正3年と6年の改正"/>。
=== 1928年(昭和3年)車両称号規程 ===
[[画像:jnr-sharyou-hyouki-ec-2810.jpg|right|標記の一例]]
[[1928年]](昭和3年)10月1日に施行された車両称号規程改正は、ほとんどの車種に及ぶ大規模なものであったが、この時、電車の形式番号は、客車から分離され、電車独自のものが定められた。種類を表す記号は、電動車を表す「デ」が「モ」に改められた<ref group="注釈">当時は電動車は必ず運転台があったので、この「モ」は後の「クモ」にあたる。</ref>が、制御車を表す「ク」と付随車を表す「サ」は、そのまま使用された。従来、事業用車の用途記号については、職用車の「ヤ」と試験車の「ケン」が存在していたが、この称号規定では「ヤ」に統合された。番号は、1001 - 39999(後年、99999まで拡大)が割り当てられ、番号の万位および千位の数字を形式として用いることとされた。従来、番号は形式ごとに末尾0から付されていたが、この改正により1から付すように改められている<ref name="昭和3年の改正">[[#福原2007|(福原2007)p.55「国鉄電車の形式称号の変遷(その2)」]]</ref>。
万位の数字は、装備する[[主電動機]]の出力並びに車体の構造に応じて次のとおりとされた。
*ないもの : 70[[ワット|kW]]主電動機を装備する木製[[動力車|電動車]]とそれに連結すべき制御車および[[付随車]]
*1 - 2 : 100kW主電動機を装備する木製電動車とそれに連結すべき制御車および付随車
*3(- 9) : 100kW主電動機を装備する鋼製電動車とそれに連結すべき制御車および付随車
千位の数字は、0 - 4が電動車、5 - 9が制御車または付随車とされた。
また、記号および形式は、右のように記号と番号を横書きに上下2列に標記するよう改められた。
==== 制御車代用車、付随車代用車に関する特別措置 ====
[[1939年]](昭和14年)以来、電動車や制御車でありながら、主電動機や制御器を装備しないまま営業につく車が出現するようになり、戦後の[[国鉄63系電車|63形]]に至っては、未電装車が大量に発生するようになった。また、在来車も戦中戦後の酷使により修繕ができないまま転用せざるを得ない車が多数に上ったため、[[1948年]](昭和23年)4月、こうした車を運用上区別する必要から、電動車で主電動機のないものを「<sup>ク</sup>モハ」、さらに[[マスターコントローラー|主幹制御器]]のないものを「<sup>サ</sup>モハ」、制御車で主幹制御器のないものを「<sup>サ</sup>クハ」とし、「ク」「サ」は記号の左上に小さく表示することとされた。
=== 1953年(昭和28年)車両称号規程 ===
1928年に制定された電車の称号規程は、改造や新造により早くも行き詰まりを見せていた。また、私鉄の買収によって形式数は膨れあがり、戦前の買収による3社については国有鉄道の形式番号を与えられたものの、[[戦時買収私鉄]]からの[[買収国電|引継ぎ車]]は私鉄時代の番号のまま使用され、重複番号も生じていた。
[[1953年]](昭和28年)6月1日付けで実施された車両称号規程(昭和28年4月8日総裁達第225号)では、これらの問題の解決を主眼に次の内容で実施された。
* 在籍車のほとんどなくなった標準形木製車は雑形に編入し、買収私鉄引継ぎ車とともに1000 - 9999に付番し、その最初の番号(一位の端数は使用しない)を形式とした。旧会社別の付番基準は下記のとおりで、買収順に付番されている。
* 車体長17m級の標準形電車は、木造車の雑形編入により空き番となった10000 - 29999に整理、改番した。形式は従来と同様番号の万位と千位を使用するが、番号は0から付番することとした。
* 車体長20m級の標準形電車は30000 - 99999に付番することとし、一部の形式で整理統合を行なった他は、従来の番号を引き続いて使用することとした。そのため、改番の対象にならなかった形式では、従来どおり1から始まっている。
* 営業用以外の事業用車については、種車が木造車であるか鋼製車であるか、標準形であるか雑形であるかにかかわらず、4000 - 4999(電動車)、9000 - 9999(制御車・付随車)とした。
* 事業用車は、従来の記号「ヤ」の他に、「エ」:[[救援車]]、「ル」:[[配給車]]を制定した。
* 改番対象車が多数にのぼるため、過渡的な措置として新旧の番号を車内外に併記し、改番期日後に旧番号を消去する方法がとられた。車外の旧番号は下線付き、車内の旧番号は括弧書きで標記された。
なお、千位の数字は引き続き0 - 4が電動車、5 - 9が制御車または付随車とされている。1959年の規程改正直前には、[[新性能電車]]の暫定形式としてこの称号規程の空番に押し込まれたが、151系(20系)の万位に2を用いたこと以外、この原則は踏襲されている。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center;"
|+ 雑形電車の形式付与基準
|-
!rowspan="2" style="width:7em;"| 旧所有会社
!colspan="2"| 電動車
!colspan="2"| 制御車・付随車
|-
!style="width:7em;"| 旅客専用車
!style="width:7em;"| 郵便荷物車・<br />合造車等
!style="width:7em;"| 旅客専用車
!style="width:7em;"| 郵便荷物車・<br />合造車等
|-
|[[可部線|広浜鉄道]]||(10xx)||-||-||-
|-
|[[信濃鉄道]]||11xx||31xx||51xx||71xx
|-
|[[身延線|富士身延鉄道]]||12xx||-||-||72xx
|-
|[[宇部鉄道]]||13xx||-||53xx||-
|-
|[[富山地方鉄道]]||-||-||(54xx)||-
|-
|[[鶴見臨港鉄道]]||15xx||-||55xx||-
|-
|[[豊川鉄道]]||16xx||-||56xx||-
|-
|[[鳳来寺鉄道]]||17xx||-||-||-
|-
|[[三信鉄道]]||-||-||58xx||-
|-
|[[伊那電気鉄道]]||19xx||-||59xx||79xx
|-
|[[太平洋不動産|南武鉄道]]||20xx||-||60xx||-
|-
|[[青梅線|青梅電気鉄道]]||-||-||61xx||-
|-
|[[阪和電気鉄道|南海鉄道]]||22xx||32xx||62xx||-
|-
|[[宮城電気鉄道]]||23xx||-||63xx||73xx
|-
|国鉄(雑形)||24xx||34xx||64xx||-
|-
|職用車
|colspan="2"|4xxx
|colspan="2"|9xxx
|}
※括弧書きは改番前に廃車となったもので、予定されていた形式番号
=== 1959年(昭和34年)車両称号規程 ===
[[1959年]](昭和34年)6月1日に施行された称号規程改正(昭和34年5月30日総裁達第237号)では、新形電車並びに交流用電車および交流直流両用電車の付番体系が制定され、便宜的に旧称号規程に則って形式付与されていた新性能電車([[国鉄101系電車|101系]](90系)、[[国鉄181系電車#151系|151系]](20系)、[[国鉄153系電車|153系]](91系)、[[国鉄155系・159系電車#155系|155系]](82系))などが新体系に分離された。交流用電車、交流直流両用電車においては、吊り掛け駆動の旧形電車に属するものも存在したが、こちらは、新形電車用の規程によって付番される。
記号については、電動車は運転台の有無にかかわらずすべて「モ」であったが、[[国鉄80系電車|80系]]の登場で中間電動車が発生したため、運転台を有しない中間電動車を「モ」とし、運転台付きの制御電動車を「クモ」とするよう改められた。
また、従来は電車の付番体系においては記号のみが異なる同番号車は存在しないのが鉄則であったが、この称号規程では、従来の「モハ」等の記号と形式番号を合わせて形式とするものとされた。これ以後、記号のみが異なる同番号車が発生している。標記方法も従来は記号と番号を上下2列書きにしていたが、記号番号を1列に標記するものとされた。
事業用車については、国鉄標準形改造車も雑形扱いされていたが、本改正において標準型由来のものは相当の形式番号体系に移されている。
なお、1953年改正の際、2200番台、6200番台を与えられた[[阪和電気鉄道の車両|旧阪和形電車]](上表で「南海鉄道」とされたグループ)については、国鉄車と同等の装備への標準化工事を経て、本改正後の1959年12月22日付け工車第1528号通知で、本改正で空いた番号を用いクモハ20形・クハ25形として、国鉄制式車と同格の扱いとされた。詳細は[[阪和電気鉄道の車両#旧・阪和形車両の推移]]を参照。また、同通知では、一部の形式(クモハ14形、クハ16形→クハニ19形、クモハユニ44形、サロ46形→サロ75形、クハ47形)で形式や番号の整理による改番が行われている。
この規定は[[国鉄分割民営化|JR発足]]後も引き継がれ、既存形式の他に、新形式[[国鉄72系電車#クモハ84形|クモハ84形]]が発生している。
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注釈" />
<!--注釈内に出典表記が付くこともあるのでこっちが上の方が良い-->
== 出典 ==
<references />
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|和書| author = 寺田貞夫|editor = 岡田秀樹| title =幻の国鉄車両| publisher = JTBパブリッシング| isbn = 978-4-533-06906-2|pages =157「幻のデハニ735850」 | ref = 寺田2007}}
* {{Cite book|和書| author = 福原俊一 | year =2007 | title = 日本の電車物語 旧性能電車編 <small>創業時から初期高性能電車まで</small>|publisher = JTBパブリッシング|isbn=978-4-533-06867-6| ref =福原2007}}
== 関連項目 ==
*[[形式称号]]
*[[国鉄機関車の車両形式]]
*[[国鉄新性能電車の車両形式]]
*[[国鉄気動車の車両形式]]
*[[国鉄客車の車両形式]]
*[[国鉄貨車の車両形式]]
*[[:Category:日本国有鉄道の旧形電車]]
{{DEFAULTSORT:こくてつきゆうかたてんしやのしやりようけいしき}}
[[Category:日本国有鉄道の旧形電車|*]]
[[Category:鉄道車両の形式称号]]
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11,579 |
リカード
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リカード、リッカード
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リカード、リッカード ジョーイ・リッカード (Rickard) - アメリカの野球選手。
デヴィッド・リカード (Ricardo) - イギリスの経済学者。
ブレントン・リカード (Rickard) - オーストラリアの競泳選手。
|
'''リカード'''、'''リッカード'''
* [[ジョーイ・リッカード]] (Rickard) - アメリカの野球選手。
* [[デヴィッド・リカード]] (Ricardo) - イギリスの経済学者。
* [[ブレントン・リカード]] (Rickard) - オーストラリアの競泳選手。
{{人名の曖昧さ回避}}
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"Template:人名の曖昧さ回避"
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11,580 |
慣性
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慣性(かんせい、英: inertia)とは、ある物体が外力を受けないとき、その物体の運動状態は慣性系に対して変わらないという性質を表す。惰性ともいう。
ある基準系(観測者)に対して慣性の法則が成り立つ。慣性の法則が成立する系を慣性系と呼び、それ以外を非慣性系と呼ぶ。 慣性の法則は次のように説明される:(ある慣性系を基準とし)基準慣性系に対して静止している物体は、その物体に力が働かない限り、基準慣性系に対し静止を続ける。また同様に、基準慣性系に対して運動する物体は、その物体に力が働かない限り、基準慣性系に対する運動状態を一定に保つ(等速直線運動する)。
例えばニュートンの運動方程式について、運動方程式を非慣性系に対する物体の運動にそのまま適用することはできない。仮に対象の非慣性系の慣性系に対する加速度が分かるとすれば、慣性系における運動方程式をもとに座標変換することで、非慣性系における運動方程式が得られる。ニュートンの運動方程式の場合、座標変換の結果は、慣性系における運動方程式と形式上同じであり、非慣性系の慣性系に対する相対運動は、見かけの力(慣性力)として現れる。 見かけの力が充分小さいと見なせるなら、その非慣性系は近似的に慣性系と見なせる。非慣性系が近似的に慣性系とみなせるかは、対象となる物体の運動に依存する。
外力に対する応答として、物体の速度の変化がある。外力に対し、速度変化が乏しく慣性運動を継続する性質が強いことを、俗に「慣性」が大きいと表現する。 物体の速度変化の激しさは加速度によって表される。ニュートンの運動方程式より質量を持つ物体に加わる加速度は、物体に加わる力と質量の比で表される。
外力 F → {\displaystyle {\vec {F}}} を固定すると、質量 m {\displaystyle m} が大きいほど加速度 a → {\displaystyle {\vec {a}}} は小さくなる。従って質量が大きいほど、「慣性」が大きいと感じられる。
物体の回転を考えるときにも、回転のしやすさの大小(慣性モーメント)として、広い意味での慣性を定義することが出来る。
物体がニュートンの運動方程式に従って運動するのは、その物体を慣性系から見た場合だけである。観測者が非慣性系にいる場合、すなわち観測者が慣性系に対して加速もしくは回転もしくはこの両方をしている場合には、慣性系から観測した場合に見られる力の他に、観測者の運動に依存した見掛け上の力が働く。この見掛けの力(英: fictitious force)を慣性力(英: inertial force)という。
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慣性とは、ある物体が外力を受けないとき、その物体の運動状態は慣性系に対して変わらないという性質を表す。惰性ともいう。 ある基準系(観測者)に対して慣性の法則が成り立つ。慣性の法則が成立する系を慣性系と呼び、それ以外を非慣性系と呼ぶ。
慣性の法則は次のように説明される:(ある慣性系を基準とし)基準慣性系に対して静止している物体は、その物体に力が働かない限り、基準慣性系に対し静止を続ける。また同様に、基準慣性系に対して運動する物体は、その物体に力が働かない限り、基準慣性系に対する運動状態を一定に保つ(等速直線運動する)。 例えばニュートンの運動方程式について、運動方程式を非慣性系に対する物体の運動にそのまま適用することはできない。仮に対象の非慣性系の慣性系に対する加速度が分かるとすれば、慣性系における運動方程式をもとに座標変換することで、非慣性系における運動方程式が得られる。ニュートンの運動方程式の場合、座標変換の結果は、慣性系における運動方程式と形式上同じであり、非慣性系の慣性系に対する相対運動は、見かけの力(慣性力)として現れる。
見かけの力が充分小さいと見なせるなら、その非慣性系は近似的に慣性系と見なせる。非慣性系が近似的に慣性系とみなせるかは、対象となる物体の運動に依存する。 外力に対する応答として、物体の速度の変化がある。外力に対し、速度変化が乏しく慣性運動を継続する性質が強いことを、俗に「慣性」が大きいと表現する。
物体の速度変化の激しさは加速度によって表される。ニュートンの運動方程式より質量を持つ物体に加わる加速度は、物体に加わる力と質量の比で表される。 外力 F → を固定すると、質量 m が大きいほど加速度 a → は小さくなる。従って質量が大きいほど、「慣性」が大きいと感じられる。 物体の回転を考えるときにも、回転のしやすさの大小(慣性モーメント)として、広い意味での慣性を定義することが出来る。
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{{出典の明記|date=2011年10月}}
{{古典力学}}
{{物理学}}
'''慣性'''(かんせい、{{lang-en-short|inertia}})とは、ある[[物体]]が[[外力]]を受けないとき、その物体の運動状態は[[慣性系]]に対して変わらないという[[性質]]を表す。'''惰性'''ともいう。
ある基準系(観測者)に対して[[慣性の法則]]が成り立つ。慣性の法則が成立する系を慣性系と呼び、それ以外を非慣性系と呼ぶ。
慣性の法則は次のように説明される:(ある慣性系を基準とし)基準慣性系に対して静止している物体は、その物体に[[力 (物理学)|力]]が働かない限り、基準慣性系に対し静止を続ける。また同様に、基準慣性系に対して運動する物体は、その物体に力が働かない限り、基準慣性系に対する運動状態を一定に保つ([[等速直線運動]]する)。
例えば[[ニュートンの運動方程式]]について、運動方程式を非慣性系に対する物体の運動にそのまま適用することはできない。仮に対象の非慣性系の慣性系に対する加速度が分かるとすれば、慣性系における運動方程式をもとに座標変換することで、非慣性系における運動方程式が得られる。ニュートンの運動方程式の場合、座標変換の結果は、慣性系における運動方程式と形式上同じであり、非慣性系の慣性系に対する相対運動は、見かけの力([[慣性力]])として現れる。
見かけの力が充分小さいと見なせるなら、その非慣性系は近似的に慣性系と見なせる。非慣性系が近似的に慣性系とみなせるかは、対象となる物体の運動に依存する。
外力に対する応答として、物体の速度の変化がある。外力に対し、速度変化が乏しく慣性運動を継続する性質が強いことを、俗に「慣性」が大きいと表現する。
物体の速度変化の激しさは[[加速度]]によって表される。ニュートンの運動方程式より[[質量]]を持つ物体に加わる加速度は、物体に加わる力と質量の比で表される。
:<math>\vec{a}=\frac{\vec{F}}{m}</math>
外力 <math>\vec{F}</math> を固定すると、質量 <math> m </math> が大きいほど加速度 <math>\vec{a}</math> は小さくなる。従って質量が大きいほど、「慣性」が大きいと感じられる。
物体の[[回転]]を考えるときにも、回転のしやすさの大小([[慣性モーメント]])として、広い意味での慣性を定義することが出来る。
== 慣性力 ==
{{Main|慣性力}}
物体が[[ニュートンの運動方程式]]に従って運動するのは、その物体を慣性系から見た場合だけである。観測者が非慣性系にいる場合、すなわち観測者が慣性系に対して加速もしくは回転もしくはこの両方をしている場合には、慣性系から観測した場合に見られる力の他に、観測者の運動に依存した見掛け上の力が働く。この見掛けの力({{lang-en-short|fictitious force}})を'''慣性力'''({{lang-en-short|inertial force}})という{{efn2|慣性系から[[加速]]している観測者側の非慣性系への[[座標変換]]を施すことで慣性力が求められる。}}。
== 関連項目 ==
* [[慣性系]](ガリレイ系)
* [[慣性質量]]
* [[運動の第1法則]](慣性の法則)
* [[運動の第2法則]](運動の法則)
* [[運動の第3法則]](作用・反作用の法則)
* [[慣性モーメント]]
* [[慣性計測装置]]
* 一般に、ある定常状態を破ろうとする作用に逆らい、定常状態を維持しようとする、慣性に類似した現象がある{{sfn|菅野|2007|p=231}}:
** [[ルシャトリエの原理]]
** [[レンツの法則]]
** [[南部・ゴールドストーン粒子|南部・ゴールドストーンの定理]]
== 注釈 ==
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{{Notelist2}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* {{cite book|和書
|last=菅野
|first=礼司
|title=ゲージ理論の解析力学
|publisher=吉岡書店
|year=2007
|isbn=978-4-8427-0342-8
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菩薩
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菩薩(ぼさつ)とは、ボーディ・サットヴァ(梵: बोधिसत्त्व, bodhisattva, 巴: bodhisatta)の音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり、仏教において一般的には菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する。仏教では、声聞や縁覚とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた。
梵名ボーディ・サットヴァのbodhiとは漢訳「菩提」であり、「菩提薩埵」の「埵」とは、「枝が垂れたように延びている、土を盛り上げて固くしたもの」を表している。
菩薩という用語が仏教成立以前から存在したか否かについての定説はないが、仏教で初めて菩薩という用語が用いられたのは釈迦の前世譚(ジャータカ)であり、釈迦が前世で辿りついた境地の意味だったとする説が有力である。
初期仏教、パーリ仏典において菩薩(巴: bodhisatta)は悟りを開く前の釈迦本人を指している。パーリ仏典では、四門出遊を経て出家した直後の釈迦(ヴィパッシン王子)はヴィパッシン菩薩(vipassī bodhisatto)と記載されている.
釈迦は説法の中で、若き求道者であった頃の自身を語るときには「私が啓示を得ていない bodhisatta であったころは...」というフレーズをたびたび使用していた。
Mayhampi kho, mahānāma, pubbeva sambodhā, anabhisambuddhassa bodhisattasseva sato... マハーナーマ(人名)よ、私が菩提を得る前、いまだ成道していない菩薩であったとき ...
Ahampi sudaṃ bhikkhave pubbeva sambodhā anabhisambuddho bodhisattova samāno ... 比丘たちよ、私もまた正覚以前のころ、未だ正覚を得ていない菩薩であったとき ...
大乗仏教は『ジャータカ』の慈悲行を行う釈迦を理想とし、修行者自身が「仏陀」になることを目ざした。このため大乗仏教の修行者はすべて菩薩と呼ばれるようになった。これら修行者が守るべき戒律は菩薩戒と呼ばれる。また竜樹や世親といった高僧を菩薩号で呼ぶことも行われている。
玄奘訳の般若心経には前段に菩薩、後段に菩提薩埵と音写した2種の訳語が使い分けられている。般若心経にこのような用語が使われているのは漢訳における語源学風解釈(nirukti, etymology)で、意図的に〈菩提+薩埵〉と分割したという説がある 。
華厳十地経は序章において、「十種の無上の徳あるもっともすぐれた菩薩行」を十波羅蜜としている。
『華厳経』及び『菩薩瓔珞本業經』では、菩薩の境涯、あるいは修行の階位は、上から妙覚、等覚、十地、十廻向、十行、十住、十信の52の位にまで分けて52位を採用することが多い。
なお、十信を外凡、十住~十廻向までを内凡あるいは三賢と称し、十信~十廻向までを凡と総称する。また十地と等覚を因、妙覚を果と称し、十地~妙覚までを聖と総称し、凡と相対する。
初期から、悟りを開く前の修行時代の仏陀のことを菩薩と呼んでいた。さらに釈迦の前生物語である本生話(ジャータカ)では、釈迦の前生の姿も菩薩と呼んでいる。
すでに悟りを得ているにもかかわらず、成仏を否定した菩薩も創造された。これは仏陀自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。
この代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩と普賢菩薩である。彼らは、釈迦のはたらきを象徴するたけでなく、はたらきそのものとして活動するのである。他にも、観世音菩薩、勢至菩薩なども、自らの成仏とはかかわりなく、活動を続ける菩薩である。
中国では、インドの有様が詳細に伝わったわけではないので、ことに初期大乗仏教の学僧たちを菩薩と尊称した。龍樹菩薩、世親菩薩などとするのがこれである。
神仏習合の一段階として、日本の神も人間と同様に罪業から逃れ自らも悟りをひらくことを望んでいるという思想が生まれた。それに基づき、仏道に入った日本の神の号として菩薩号が用いられた。天応元年 (781年) から菩薩号で呼ばれた八幡神の「八幡大菩薩」が代表的である。しかしこれらの菩薩号は明治の神仏分離令によって廃された。
また高僧が「菩薩」号で呼ばれることもしばしばあり、朝廷より諡号として贈られるものもあった。
菩薩の像容は、出家前の釈迦の姿、すなわち、古代インドの王族のイメージが根底にある。髪は結い上げられ、結い残した髪は垂髪(すいほつ)といって肩を覆う。額には如来と同じく白毫がある。下半身には裳(も)あるいは裙(くん)と呼ばれる巻きスカート状の衣を纏い、左肩と右腰を巻くように条帛(じょうはく)と呼ばれるたすき状の飾り布を掛ける。さらにその上に宝冠、瓔珞(ようらく、貴金属や宝石をつないだ飾り)、臂釧(ひせん、 アームレット)、腕釧(わんせん、 ブレスレット)、足釧(そくせん、 アンクレット)、耳璫(じとう、 イヤリング)、天衣(てんね、肩や腕に掛ける細長い飾り布)といった装身具を身につける。また、光り輝く身体を表現する光背を背後に負う。
さらに菩薩は蓮華座というハスの花を象った台座の上に座り、または立つ。一部、禽獣座(きんじゅうざ)といって動物の背に乗る場合もあるが(文殊菩薩の獅子や普賢菩薩の象など)、この場合でも動物の背の上に蓮華を載せ、その上に座る。
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"text": "また高僧が「菩薩」号で呼ばれることもしばしばあり、朝廷より諡号として贈られるものもあった。",
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"text": "菩薩の像容は、出家前の釈迦の姿、すなわち、古代インドの王族のイメージが根底にある。髪は結い上げられ、結い残した髪は垂髪(すいほつ)といって肩を覆う。額には如来と同じく白毫がある。下半身には裳(も)あるいは裙(くん)と呼ばれる巻きスカート状の衣を纏い、左肩と右腰を巻くように条帛(じょうはく)と呼ばれるたすき状の飾り布を掛ける。さらにその上に宝冠、瓔珞(ようらく、貴金属や宝石をつないだ飾り)、臂釧(ひせん、 アームレット)、腕釧(わんせん、 ブレスレット)、足釧(そくせん、 アンクレット)、耳璫(じとう、 イヤリング)、天衣(てんね、肩や腕に掛ける細長い飾り布)といった装身具を身につける。また、光り輝く身体を表現する光背を背後に負う。",
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菩薩(ぼさつ)とは、ボーディ・サットヴァの音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり、仏教において一般的には菩提を求める衆生を意味する。仏教では、声聞や縁覚とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた。
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{{otheruses|[[仏教]]の菩薩|片手[[数珠]]の菩薩(ボサ)|数珠|[[ウイグル]]の部族長|菩薩 (ウイグル)}}
{{統合文字|薩|[[画像:Kanji for another OS version - satu.svg|20px]]}}
{{Infobox Buddhist term
|title=菩薩
|en=enlightenment being
|pi=बोधिसत्त
|sa=बोधिसत्त्व
|bn=বোধিসত্ত্ব
|si= [[:si:බෝධිසත්ත්ව|බෝධි සත්ත්ව]]
|vi=Bồ Tát
|zh=菩提薩埵(菩薩), 菩提萨埵(菩萨)
|zh-Latn=pútísàduǒ (púsà) )<br />([[Wade–Giles]]: p'u<sup>2</sup>-sa<sup>4</sup>)<br/>([[Jyutping]]: pou4 tai4 saat3 do3)
|ja=菩薩
|ja-Latn=bosatsu
|ko=보살, 菩薩
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|mnw-Latn=kraoh kəmo caik
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|bo-Latn=byang chub sems dpa
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}}
'''菩薩'''(ぼさつ)とは、'''ボーディ・サットヴァ'''({{lang-sa-short|बोधिसत्त्व}}, bodhisattva, {{lang-pi-short|bodhisatta}})の音写である'''菩提薩埵'''(ぼだいさった)の略であり<ref name="ib922">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=922 |isbn=}}</ref>{{efn|菩薩という漢語は、bodhisattvaの短縮された俗語形から音写されたと見なされている<ref name="ib922" />。}}、[[仏教]]において一般的には[[菩提]](bodhi, [[悟り]])を求める[[衆生]](薩埵, sattva)を意味する<ref name="ib922" />。仏教では、[[声聞]]や[[縁覚]]とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた<ref name="wbk">[http://kobun.weblio.jp/content/%E7%B8%81%E8%A6%9A 縁覚] - 学研全訳古語辞典 (weblio古語辞典)。</ref><ref>[http://www.weblio.jp/content/%E3%83%93%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%96%E3%83%84 辟支仏] - 日外アソシエーツ 難読語辞典 (weblio辞書)。</ref>。
== 原語・原義 ==
梵名ボーディ・サットヴァのbodhiとは漢訳「[[菩提]]」であり、「菩提薩埵」の「埵」とは、「[[枝]]が垂れたように延びている、[[土]]を盛り上げて固くしたもの」を表している。
菩薩という用語が仏教成立以前から存在したか否かについての定説はないが、仏教で初めて菩薩という用語が用いられたのは[[釈迦]]の前世譚([[ジャータカ]])であり、釈迦が前世で辿りついた境地の意味だったとする説が有力である{{efn|[[パーリ語仏典]]の『大猿本生物語』では、釈迦の前世のひとつは大猿であったとされている<ref>『パーリ仏教辞典』 村上真完, 及川真介著 (春秋社)1485頁。</ref>。}}{{要検証|date=2017年8月7日 (月) 00:34 (UTC)|title=「菩薩という用語が〜有力である」というこの文の出典とみられる文献は、文末に書いてある『パーリ仏教辞典』 p.1485のみである。これが出典たりうるか検証が必要。}}。
== 初期仏教・上座部仏教 ==
[[初期仏教]]、[[パーリ仏典]]において菩薩({{lang-pi-short|bodhisatta}})は悟りを開く前の[[釈迦]]本人を指している<ref>Basham, A.L. (1981). The evolution of the concept of the bodhisattva. In: Leslie S Kawamura, The Bodhisattva doctrine in Buddhism, Published for the Canadian Corporation for Studies in Religion by Wilfred Laurier University Press, p.19</ref>。パーリ仏典では、[[四門出遊]]を経て出家した直後の釈迦(ヴィパッシン王子)はヴィパッシン菩薩(vipassī bodhisatto)と記載されている<ref>{{SLTP|[[長部 (パーリ)|長部]]14,[[大本経]]}}, "mahajanakāyo caturāsītipāṇasahassāni kesamassuṃ ohāretvā kāsāyāni vatthāni acchādetvā vipassiṃ bodhisattaṃ agārasmā anagāriyaṃ pabbajitaṃ anupabbajiṃsu" - (釈迦の出家を目にした)8万4千人の群衆は、髪と髭を剃り袈裟をまとい、出家したヴィパッシン菩薩を追従して出家した。</ref>.
釈迦は説法の中で、若き求道者であった頃の自身を語るときには「私が啓示を得ていない bodhisatta であったころは...」というフレーズをたびたび使用していた<ref name="seikyu" />。
{{Quote|
Mayhampi kho, mahānāma, pubbeva sambodhā, anabhisambuddhassa bodhisattasseva sato... <ref>{{SLTP| 中部[[苦蘊小経]]}}</ref><br>
マハーナーマ(人名)よ、私が[[菩提]]を得る前、いまだ成道していない菩薩であったとき ...
Ahampi sudaṃ bhikkhave pubbeva sambodhā anabhisambuddho bodhisattova samāno ... <ref name="seikyu">{{SLTP| [[中部 (パーリ)|中部]][[聖求経]] }}</ref><br>
比丘たちよ、私もまた[[正覚]]以前のころ、未だ正覚を得ていない菩薩であったとき ...
}}
== 大乗仏教 ==
[[File:Standing Kannon Bosatsu (Avalokitesvara), Heian period, Japan.jpg|thumb|[[観音菩薩]]、12世紀、[[平安時代]]、[[東京国立博物館]]蔵]]
[[File:Bodhisattva, Kamakura period, Japan.jpg|thumb|[[弥勒菩薩]]立像、13世紀、[[鎌倉時代]]、[[重要文化財]]、東京国立博物館蔵]]
大乗仏教は『[[ジャータカ]]』の慈悲行を行う釈迦を理想とし、修行者自身が「仏陀」になることを目ざした。このため大乗仏教の修行者はすべて菩薩と呼ばれるようになった<ref name="kotobank">{{Cite Kotobank |word=菩薩 |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) 加藤純章 |accessdate=2023-02-03}}</ref>。これら修行者が守るべき戒律は[[菩薩戒]]と呼ばれる。また[[竜樹]]や[[世親]]といった高僧を菩薩号で呼ぶことも行われている<ref name="kotobank" />。
===般若心経===
[[玄奘]]訳の[[般若心経]]には前段に'''菩薩'''、後段に'''菩提薩埵'''と音写した2種の訳語が使い分けられている{{efn|大部の経典である『[[大般若波羅蜜多経]]』にも'''菩薩摩訶薩'''とは別に、僅かだが'''菩提薩埵'''の訳語が6箇所で見られる。}}。般若心経にこのような用語が使われているのは漢訳における語源学風解釈(nirukti, etymology)で、意図的に〈菩提+薩埵〉と分割したという説がある<ref>[[真野龍海]] 『[http://www.evam.ne.jp/tenkoin/data/study08.html 万人看過の心経「菩提-薩埵」のニルクティ]』</ref> 。
=== 十地経 ===
{{一次資料|date=2017年7月23日 (日) 04:29 (UTC)|section=1}}
華厳[[十地経]]は序章において、「十種の無上の徳あるもっともすぐれた菩薩行」を十[[波羅蜜]]としている<ref name="juchi">『大乗仏典 8巻 十地経』 荒牧典俊訳、中央公論社、1974年11月、7頁。</ref>。
=== 菩薩五十二位 ===
{{一次資料|date=2017年7月23日 (日) 04:29 (UTC)|title=|section=1}}
{{Anchors|五十二位}}『'''華厳経'''』及び『'''菩薩瓔珞本業經'''』では、菩薩の境涯、あるいは修行の階位は、上から妙覚、等覚、十地、十廻向、十行、十住、十信の52の位にまで分けて52位を採用することが多い。
; [[妙覚]](みょうかく)
: 菩薩修行の階位である52位の最後の位で、等覚位の菩薩が、さらに一品(いっぽん)の無明を断じて、この位に入る。なお一切の煩悩を断じ尽くした位で、仏・如来と同一視される。
; [[等覚]](とうかく)
: 菩薩修行の階位である52位の中、51位であり菩薩の極位で、その智徳が略万徳円満の仏、妙覚と等しくなったという意味で等覚という。
; [[十地]](じっち、じゅうぢ)
: 菩薩修行の階位である52位の中、第41~50位まで。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位。仏智を生成し、よく住持して動かず、あらゆる衆生を荷負し教下利益することが、大地が万物を載せ、これを潤益するからに似ているから「地」と名づく。
; [[十廻向]](じゅうえこう)
: 菩薩修行の位階である52位の中、第31~40位まで。上から入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の10位。十行を終わって更に今迄に修した自利・利他のあらゆる行を、一切衆生の為に廻施すると共に、この功徳を以って仏果に振り向けて、悟境に到達せんとする位。
; [[十行]](じゅうぎょう)
: 菩薩修行の位階である52位の中、第21~30位まで。上から真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜の10位。菩薩が、十住位の終に仏子たる印可を得た後、更に進んで利他の修行を完うせん為に衆生を済度することに努める位。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・方便・願・力・智の十波羅密のこと。
; [[十住]](じゅうじゅう)
: 菩薩修行の位階である52位の中、第11~20位まで。上から灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心の10位。十信位を経て心が真諦(しんたい)の理に安住する、という意味で「住」と名づく。あるいは菩薩の十地を十住という説もある。
; [[十信]](じゅうしん)
: 菩薩修行の位階である52位の中、第1~10位まで。上から願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の10位。仏の教法を信じて疑心のない位。
なお、十信を'''外凡'''、十住~十廻向までを'''内凡'''あるいは'''三賢'''と称し、十信~十廻向までを'''凡'''と総称する。また十地と等覚を'''因'''、妙覚を'''果'''と称し、十地~妙覚までを'''聖'''と総称し、凡と相対する。
== 様々な菩薩 ==
{{See also|仏の一覧#菩薩部}}
===修行者としての菩薩===
{{出典の明記|date=2017年7月7日 (金) 01:04 (UTC)|section=1}}
初期から、悟りを開く前の修行時代の仏陀のことを菩薩と呼んでいた。さらに釈迦の前生物語である'''本生話'''(ジャータカ)では、釈迦の前生の姿も菩薩と呼んでいる。
===現世で活動するための菩薩===
{{出典の明記|date=2017年7月7日 (金) 01:04 (UTC)|section=1}}
すでに[[悟り]]を得ているにもかかわらず、成仏を否定した菩薩も創造された。これは仏陀自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。
この代表者が、[[釈迦三尊]]の[[文殊菩薩]]と[[普賢菩薩]]である。彼らは、釈迦の''はたらき''を象徴するたけでなく、''はたらきそのもの''として活動するのである。他にも、[[観音菩薩|観世音菩薩]]、[[勢至菩薩]]なども、自らの成仏とはかかわりなく、活動を続ける菩薩である。
===大乗僧としての菩薩===
{{出典の明記|date=2017年7月7日 (金) 01:04 (UTC)|section=1}}
中国では、インドの有様が詳細に伝わったわけではないので、ことに初期大乗仏教の学僧たちを菩薩と尊称した。[[龍樹]]菩薩、[[世親]]菩薩などとするのがこれである。
==日本における菩薩==
{{出典の明記|date=2017年7月7日 (金) 01:04 (UTC)|section=1}}
[[神仏習合]]の一段階として、日本の神も人間と同様に罪業から逃れ自らも悟りをひらくことを望んでいるという思想が生まれた。それに基づき、仏道に入った日本の神の号として菩薩号が用いられた。[[天応]]元年 (781年) から菩薩号で呼ばれた[[八幡神]]の「八幡大菩薩」が代表的である。しかしこれらの菩薩号は明治の[[神仏分離令]]によって廃された<ref>{{Cite Kotobank |word=八幡大菩薩 |encyclopedia=精選版日本国語大辞典 |accessdate=2023-02-03}}</ref>。
また高僧が「菩薩」号で呼ばれることもしばしばあり、[[朝廷 (日本)|朝廷]]より諡号として贈られるものもあった。
===菩薩号で呼ばれる高僧===
*[[行基]] …8世紀後半には「行基菩薩」と呼称されていた<ref>{{Cite journal|和書|title = 草創期神宮寺の神像について|volume = 045|issue=10|issn = 0491-3329|url = https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_DBd0451001|author = 河音能平|authorlink = 河音能平|publisher = 大阪市立大学|journal = 人文研究|page=938}}</ref>
*[[叡尊]] …正安2年7月(1300年)に[[亀山天皇|亀山法皇]]並びに[[後伏見天皇]]より『興正菩薩』の号を贈られる<ref>{{Cite web|和書|title = 興正菩薩叡尊上人 - 真言律宗総本山 西大寺|url = http://saidaiji.or.jp/history/h02/|website = 真言律宗総本山 西大寺|accessdate = 2023-2-3}}</ref>。
*[[日蓮]]、[[日朗]]、[[日像]] …1358年(延文3年)、[[大覚]]の雨乞いの功により、[[後光厳天皇]]から日蓮に大菩薩、日朗と日像に菩薩の号が贈られた<ref>{{Cite web|和書|title = 大覚大僧正妙實上人の活躍|url = https://www.kyoto-kitano-hokkeji.com/縁-起/大覚大僧正妙實上人の活躍/|website = 京都 北野 法華寺|accessdate = 2023-2-3}}</ref>。
*[[役小角]]…寛政2年(1799年)、[[光格天皇]]から神変大菩薩の号が贈られた<ref>{{Cite web|和書|title = 神変大菩薩 {{Pipe}} 一陽来福 創始の寺 放生寺 公式ホームページ|url = https://houjou.or.jp/index.html|accessdate = 2023-2-3}}</ref>。
==菩薩の像容==
{{出典の明記|date=2017年7月7日 (金) 01:04 (UTC)|section=1}}
菩薩の像容は、出家前の釈迦の姿、すなわち、古代インドの王族のイメージが根底にある。髪は結い上げられ、結い残した髪は垂髪(すいほつ)といって肩を覆う。額には如来と同じく[[白毫]]がある。下半身には裳(も)あるいは裙(くん)と呼ばれる巻きスカート状の衣を纏い、左肩と右腰を巻くように条帛(じょうはく)と呼ばれるたすき状の飾り布を掛ける。さらにその上に宝冠、[[瓔珞]](ようらく、貴金属や宝石をつないだ飾り)、臂釧(ひせん、 アームレット)、腕釧(わんせん、 [[ブレスレット]])、足釧(そくせん、 [[アンクレット]])、耳璫(じとう、 [[イヤリング]])、天衣(てんね、肩や腕に掛ける細長い飾り布)といった装身具を身につける。また、光り輝く身体を表現する[[光背]]を背後に負う。
さらに菩薩は蓮華座という[[ハス]]の花を象った[[台座]]の上に座り、または立つ。一部、禽獣座(きんじゅうざ)といって動物の背に乗る場合もあるが(文殊菩薩の獅子や普賢菩薩の象など)、この場合でも動物の背の上に蓮華を載せ、その上に座る。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[地涌の菩薩]]
* [[兜率天]]
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[[Category:仏教の称号・役職]]
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法用語一覧
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法用語一覧(ほうようごいちらん)は、法用語に関する一覧である。
相対売買 - 悪意 - 悪意の抗弁 - 握取行為 - 朝日訴訟 - 預合 - 新しい人権
委員会設置会社 - 家制度 - 異議申立て - 生ける法 - 違憲審査基準 - 違憲審査制 - 違憲判決 - 遺言 - 遺産 - 遺贈 - 意思 - 意思主義 - 意思表示 - 委託 - 一院制 - 一事不再議 - 一事不再理 - 一身専属 - 一般意思 - 一般概括主義 - 一般国家学 - 一般法 - 一方的行為 - 違法性阻却事由 - 囲繞地 - 囲繞地通行権 - 委任 - 違法性 - 入会権 - 遺留分 - 医療法 - 淫行条例 - インコタームズ
ウィーン条約法条約 - ウェーバー条項 - ヴェーバーの概括的故意 - 請負 - 受戻 - 氏 - 疑わしきは罰せず - 宇宙条約 - 宇宙法 - 訴え - 訴えの交換的変更 - 訴えの追加的変更 - 訴えの併合 - 訴えの変更 - 訴えの利益 - 裏書 - 裏書禁止裏書 - 裏書の連続 - 売渡担保 - 権限踰越 - 上乗せ条例 - 運行供用者 - 運送営業 - 運用違憲
営業 - 営業譲渡 - 営業の自由 - 永小作権 - 営利法人 - エクイティ - 依用 - 援用 - 冤罪
黄犬契約 - 応報刑論 - 横領罪 - おとり捜査 - 恩赦
外患罪 - 会計監査 - 会計監査人 - 会計参与 - 外国会社 - 外国国章損壊罪 - 外国倒産処理手続 - 介護保険 - 会社 - 会社法 - 解除 - 解除条件 - 海難審判 - 概念 - 概念法学 - 買戻 - 海洋法 - 学説彙纂 - 確認訴訟 - 学問の自由 - 閣令 - 加工 - 瑕疵 - 瑕疵ある意思表示 - 家事審判 - 過失 - 果実 - かすがい現象 - 家族法 - 家庭裁判所 - カノン法 - 株式 - 株式会社 - 株主 - 株主総会 - 株主代表訴訟 - 仮差押 - 仮出獄(仮釈放) - 仮処分 - 仮登記 - 仮登記担保契約 - 為替手形 - 簡易の引渡し - 管轄 - 環境権 - 環境法 - 観光法 - 監査役 - 慣習法 - 間接正犯 - 観念的競合 - 官報
議院内閣制 - 帰化 - 機関 - 機関方式 - 棄却 - 議決権の不統一行使 - 期限 - 起訴 - 擬制 - 偽造文書 - 貴族院 (日本) - 貴族院 (イギリス) - 既判力 - 忌避 - 寄附行為 - 義務 - 却下 - 求刑 - 休息権 - 旧訴訟物理論 - 給付行政 - 教育法 - 教会法 - 競業避止義務 - 教唆犯 - 行政 - 行政委員会 - 強制採尿 - 行政強制 - 行政契約 - 行政権の濫用 - 行政行為 - 行政国家 - 行政指導 - 行政上の強制執行 - 強制処分法定主義 - 行政審判 - 行政訴訟 - 行政代執行 - 行政調査 - 行政手続 - 行政罰 - 行政不服申立 - 共同正犯 - 共同訴訟 - 共同抵当 - 共謀共同正犯 - 共犯 - 共犯従属性説 - 共犯独立性説 - 共有 - 共和制 - 許可 - 虚偽表示 - 居住移転の自由 - 御名御璽 - 規律 - 緊急逮捕 - 緊急避難 - 禁錮 - 欽定憲法 - 禁反言の法則 - 勤労の義務
空法 - 楔形文字法 - 君主 - 君主制 - 軍法会議
経過措置 - 経済法 - 警察行政 - 刑事学 - 形式的形成訴訟 - 刑事施設 - 刑事政策 - 刑事訴訟法 - 刑事法 - 刑事免責制度 - 継受 - 形成権 - 形成訴訟 - 係属 - 境内地 - 競売 - 刑罰 - 刑法 - 契約 - 契約締結上の過失 - 契約法 - 結果無価値論 - 血統主義 - 原因において自由な行為 - 欠缺 - 権原 - 検察官 - 現実の引渡し - 限時法 - 元首 - 建築確認 - 憲法 - 憲法改正 - 憲法義解 - 憲法裁判所 - 憲法撮要 - 憲法制定権力 - 憲法訴訟 - 憲法の変遷 - 原始取得 - 権利 - 権利質 - 権利能力 - 権利能力なき社団 - 牽連犯
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訴因 - 捜査 - 相殺 - 捜索 - 総則 - 相続 - 相続登記 - 相続人 - 送達 - 争点効 - 双方代理 - 贈与 - 騒乱罪 - 総論 - 即時取得 - 即成犯 - 訴権 - 訴訟 - 訴訟条件 - 訴訟物 - 租税法 - 疎明
対抗 - 対抗要件 - 第三者 - 大審院 - 対世効 - 代替的作為義務 - 大統領制 - 代表 - 代表取締役 - 代物弁済 - 逮捕前置主義 - 題名 - 代理 - 代理権 - 代理占有 - 蛸配当 - ただし書き - 弾劾裁判所 - 男女同一賃金 - 男女同権 - 担税力 - 担保 - 担保物権
地位協定 - 地役権 - 地上権 - 父を定める訴え - 秩序 - 地方公共団体 - 地方自治 - 嫡出否認 - 中止犯 - 中断 - 懲罰的損害賠償 - 徴兵制度 - 聴聞 - 直接主義 - 勅令 - 著作権 - 著作隣接権 - 直系卑属 - 忠実義務 - 調書
追認 - 通謀虚偽表示 - 通過通航権 - 津地鎮祭訴訟
定款 - 停止 - 停止条件 - 抵当権 - 定立行為 - 手形 - 手形法 - 手形理論 - 手形行為独立の原則 - 手形抗弁 - 滌除 - 添付(添附) - 天然果実 - 天皇 - 天皇機関説 - 天皇制 - 伝聞法則
問屋 - 問屋営業 - 倒産 - 動産 - 動産質 - 同時傷害の特例 - 同時履行の抗弁権 - 同意 - 登記 - 統治 - 統治行為論 - 道徳 - 当番弁護士制度 - 独占禁止法 - 特定調停 - 独立行政法人 - 特別区 - 特別措置法 - 特別養子 - 特例有限会社 - 特許 - 取消 - 取消権 - 取締役 - 取次ぎ - 取戻権
内縁 - 内閣 - 内閣総理大臣 - 内閣不信任決議 - 内閣法 - 内水 - 名板貸 - 内乱罪 - 仲立営業 - 長沼ナイキ事件 - 軟性憲法 - 難民 - 内政不干渉の原則 - 内容証明郵便
二院制 - 肉体刑 - 二重譲渡 - 二重の基準論 - 二重無権の抗弁 - 日照権 - 日本法 - 認可 - 認知
根抵当権 - 根保証
ノモス - ノモス主権論 - ノン・ルフールマン原則
配偶者 - 排他的経済水域 - 破産 - 柱書 - 八月革命説 - 罰金 - パブリックコメント - 反証 - 反訴 - 反則金 - 反対解釈 - 反致 - パンデクテン方式 - パンデクテンの現代的慣用 - パンデクテン法学 - 万民法 - 判例
被疑者 - 引渡し - 被告 - 被告人 - 非債弁済 - 批准 - 非訟事件 - 筆界 - 人 - 否認 - 否認権 - 比附 - 被保佐人 - 被補助人 - 百条委員会 - 評議 - 表見代理 - 表見代表取締役 - 表見的取締役 - 表現の自由 - 平等原則 - 比例原則
フォーラム・ショッピング - 不可抗力 - 不可分債権 - 不可分債務 – 付款 - 武器対等の原則 - 福祉国家 - 袋地 - 不真正不作為犯 - 物 - 物上保証人 - 付合 (附合) - 不作為義務 - 附則 - 普通裁判籍 - 普通法 - 物権 - 物権的請求権 - 物権法定主義 - 物上保証人 - 物的抗弁 - 不貞行為 - 不動産 - 不当 –不当利得 - 不法原因給付 - 不法行為 - プライバシー - 不利益処分 - 扶養 - 文化財 - 文明国 - 文面上の訴え
併合罪 - 閉鎖会社 - 別除権 - 弁解録取手続 - 弁護士 - 弁護人 - 弁済 - 変造 - 弁明手続 - 弁理士 - 弁論 - 弁論主義
法 - 法医学 - 法解釈 - 妨害排除請求権 - 法学検定 - 法学者 - 法学提要 - 法学部 - 法科大学院 - 法規 - 防御権 - 法系 - 法圏 - 法源 - 保護 - 法三章 - 法実証主義 - 幇助犯 - 法人 - 法人格 - 法人格否認の法理 - 法制度 - 包摂 - 法曹 - 放送法 - 法定果実 - 法定代理 - 法定地上権 - 法廷侮辱罪 - 法的確信 - 法哲学 - 法と経済学 - 法と文学 - 法の下の平等 - 法命題 - 法律 - 法律回避 - 法律行為 - 法律の留保 - 法令 - 法例 - 法令番号 - 補強法則 - 保佐 - 保佐人 - 保釈 - 補充権 - 補助 - 補償 - 保証 - 保証債務 - 補助証拠 - 補助人 - 堀木訴訟 - 保全命令 - 本則
埋蔵文化財 - マグナ・カルタ - 松川事件 - 抹消登記 - 満期 - 満年齢
未決 - 未遂 - 未遂罪 - 未遂の教唆 - 未成年者 - 見せ金 - 三鷹事件 - 見出し - 三菱樹脂事件 - 未必の故意 - 身分 - 身分犯 - 明法官人 - ミランダ警告 - 民事再生 - 民事執行 - 民事訴訟 - 民事訴訟法 - 民事法 - 民事保全 - 民衆訴訟 - 民主主義 - 民主制 - 民定憲法 - 民法 - 民法典論争
無因行為 - ムートネスの法理 - 無害通航 - 無過失責任 - 無期刑 - 無限責任 - 無権代理 - 無権利の抗弁 - 無効 - 無罪 - 無主地 - 無主物先占 - 無体財産権 - 無能力者 - 無名契約
明治憲法 - 迷信犯 - 明認方法 - 明白かつ現在の危険 - 名目的取締役 - 命令 - 名誉毀損 - 名誉毀損罪 - 名誉法 - 免許 - 免除
黙示 - 目的効果基準 - 目的論的解釈 - 黙秘権 - 持株会社 - 持分 - 持分会社
約定利息 - 約束手形 - 約款 - 八幡製鉄事件
有価証券 - 有限会社 - 有権解釈 - 優先株式 - 融通手形 - ユニオン・ショップ
要件事実 - 養子 - 要素従属性 - 予算 - 与信 - 予備罪
濫用
リアリズム法学 - リース契約 - 利益衡量論 - 利益相反取引 - 利益法学 - 離縁 - 履行遅滞 - 履行不能 - リコール (地方公共団体) - リコール (自動車) - 離婚 - 理事 - 理性法 - 利息 - 立憲君主制 - 立憲主義 - 立法 - 立法裁量論 - 立法の不作為 - 律令 - 利得償還請求権 - 留置権 - 両院制 - 領海 - 領空 - 良心の自由 - 領土 - 両罰規定 - 臨時会
類推解釈 - 累積投票 - 累犯
礼金 - 令状 - 歴史法学 - レセプツム責任 - レモン・テスト - 連結点 - 連鎖販売取引(通称「マルチ商法」) - 連帯債務 - 連帯責任 - 連帯保証
労役場 - ロー・スクール - ローマ法 - 労働基本権 - 労働審判 - 労働災害 - 労働法 - 六法 - ロマニスト
わいせつ - ワイマール憲法 - 賄賂 - 和解 - 和議 - 忘れられる権利
actio - CIF - FOB - LLC - LLP - LRAの基準 - ultra viresの法理
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"text": "故意 - 故意ある道具 - 項 - 号 - 行為 - 行為能力 - 行為無価値論 - 公益法人 - 効果 - 更改 - 公開会社 - 公共の福祉 - 公権 - 後見 - 黄犬契約 - 合憲限定解釈 - 後見人 - 合資会社 - 公示催告 - 公示送達 - 皇室 - 後者の抗弁 - 公衆衛生法 - 公証人 - 公序 - 公序良俗 - 硬性憲法 - 公正証書 - 厚生法 - 構成要件 - 控訴 - 公訴 - 公訴棄却 - 公訴事実 - 公訴事実の同一性 - 公訴時効 - 公定力 - 合同会社 - 公布 - 公布文 - 公物 - 抗弁 - 抗弁権 - 抗弁権の接続 - 公務員 - 合名会社 - 公用負担 - 勾留 - 効力要件 - 小切手 - 国外犯 - 国際経済法 - 国際私法 - 国際司法共助 - 国際司法裁判所 - 国際機関 - 国際協調主義 - 国際刑事裁判所 - 国際組織 - 国際法 - 国事行為 - 国親思想 - 国政調査権 - 国籍 - 国籍法 - 国民 - 国務大臣 - 個人 - 個人の尊厳 - 戸籍 - 国家 - 国歌 - 国会 - 国会議員 - 国家公務員 - 国家賠償法 - 国家補償法 - 国家法人説 - 国旗 - 国庫 - コモン・ロー - 混合政 - コンセイユ・デタ - 混同 - 混和",
"title": "か行"
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"text": "罪刑法定主義 - 債権 - 債権者代位権 - 債権者取消権 - 債権譲渡 - 最高裁判所 - 最高裁判所規則 - 最高法規 - 催告 - 財産 - 財産権 - 財産法 - 再審 - 罪数 - 財政法 - 財政民主主義 - 再売買一方の予約 - 裁判 - 裁判外紛争解決手続 - 裁判官 - 裁判所 - 裁判法 - 財物 - 債務 - 債務不履行 - 債務名義 - 債務引受 - 裁量 - 詐害行為取消権 - 詐欺 - 詐欺罪 - 先取特権 - 錯誤 (刑法) - 錯誤 (民法) - 指図による占有移転 - 差止請求権 - 参加 - 参議院 - 産業法 - 参政権 - サンセット条項",
"title": "さ行"
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"text": "自衛隊 - 敷金 - 死刑 - 私権 - 事件 - 時効 - 自己株式 - 自己契約 - 事実行為 - 使者 - 事情変更の原則 - 私人間効力 - 自然債務 - 自然人 - 自然法 - 思想の自由 - 質権 - 執行官 - 実行の着手 - 執行罰 - 執行役 - 執行猶予 - 失踪宣告 - 私的独占 - 児童買春 - 児童ポルノ - 自白 - 自白法則 - 司法 - 司法共助 - 司法警察職員 - 司法試験 - 司法積極主義 - 市民法 - 市民法大全 - 事務管理 - 氏名冒用訴訟 - 社会国家 - 社会権 - 社会法 - 社会保障法 - 借地借家法 - 自由 - 宗教法人 - 自由刑 - 自由権 - 自由権的基本権 - 自由主義 - 自由心証主義 - 住所 - 住所地法 - 終身定期金 - 衆議院 - 集団安全保障 - 周知の埋蔵文化財包蔵地 - 住民基本台帳法 - 受継 - 酒税 - 主張自体失当 - 出生地主義 - 取得時効 - 受領遅滞 - 種類債権 - 準拠法 - 純粋法学 - 準正 - 準占有 - 準用 - 条 - 場屋営業 - 場屋寄託 - 傷害 - 召喚令状 - 試用期間 - 商業用レコード - 承継取得 - 条件 - 商号 - 商行為 - 譲渡担保 - 商人 - 少年法 - 商標 - 商標権 - 商法 - 情報公開 - 情報公開法 - 商法特例法 - 条名 - 証明責任 - 消滅時効 - 条約 - 上諭 - 条例 - 除斥 - 除斥期間 - 処分権主義 - 処分的法律 - 所有権 - 所有権留保 - 白地手形 - 事理弁識能力 - 書面によらざる贈与 - 知る権利 - 侵害行政 - 新株引受権 - 新株予約権 - 信義則 - 信義誠実の原則 - 審級 - 信教の自由 - 親権 - 人権 - 親告罪 - 審尋 - 人身の自由 - 人身保護法 (イギリス) - 人身保護法 (日本) - 親族 - 親族相盗例 - 新訴訟物理論 - 身体刑 - 信託 - 人的抗弁 - 信頼の原則 - 心裡留保 - 審判",
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"text": "随意契約 - 推定 - 枢密院 - ストックオプション - 砂川事件",
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"text": "請願 - 請願権 - 正義 - 正義論 - 請求 - 請求権 - 政教分離 - 制限行為能力者 - 性交類似行為 - 生産管理 - 製造物責任 - 生存権 - 生存権的基本権 - 制定文 - 政党 - 正統性 - 正当性 - 正当防衛 - 制度的保障 - 成年後見制度 - 成年後見人 - 成年被後見人 - 正犯 - 成文法 - 責任 - 施行 - 接見交通権 - 窃盗罪 - 善意 - 善意支払 - 善意取得 - 善管注意義務 - 選挙 - 線引小切手 - 前文 - 占有 - 占有改定 - 占有権 - 占有訴権",
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"text": "訴因 - 捜査 - 相殺 - 捜索 - 総則 - 相続 - 相続登記 - 相続人 - 送達 - 争点効 - 双方代理 - 贈与 - 騒乱罪 - 総論 - 即時取得 - 即成犯 - 訴権 - 訴訟 - 訴訟条件 - 訴訟物 - 租税法 - 疎明",
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"text": "対抗 - 対抗要件 - 第三者 - 大審院 - 対世効 - 代替的作為義務 - 大統領制 - 代表 - 代表取締役 - 代物弁済 - 逮捕前置主義 - 題名 - 代理 - 代理権 - 代理占有 - 蛸配当 - ただし書き - 弾劾裁判所 - 男女同一賃金 - 男女同権 - 担税力 - 担保 - 担保物権",
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"text": "地位協定 - 地役権 - 地上権 - 父を定める訴え - 秩序 - 地方公共団体 - 地方自治 - 嫡出否認 - 中止犯 - 中断 - 懲罰的損害賠償 - 徴兵制度 - 聴聞 - 直接主義 - 勅令 - 著作権 - 著作隣接権 - 直系卑属 - 忠実義務 - 調書",
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"text": "追認 - 通謀虚偽表示 - 通過通航権 - 津地鎮祭訴訟",
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"text": "定款 - 停止 - 停止条件 - 抵当権 - 定立行為 - 手形 - 手形法 - 手形理論 - 手形行為独立の原則 - 手形抗弁 - 滌除 - 添付(添附) - 天然果実 - 天皇 - 天皇機関説 - 天皇制 - 伝聞法則",
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"text": "問屋 - 問屋営業 - 倒産 - 動産 - 動産質 - 同時傷害の特例 - 同時履行の抗弁権 - 同意 - 登記 - 統治 - 統治行為論 - 道徳 - 当番弁護士制度 - 独占禁止法 - 特定調停 - 独立行政法人 - 特別区 - 特別措置法 - 特別養子 - 特例有限会社 - 特許 - 取消 - 取消権 - 取締役 - 取次ぎ - 取戻権",
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"text": "内縁 - 内閣 - 内閣総理大臣 - 内閣不信任決議 - 内閣法 - 内水 - 名板貸 - 内乱罪 - 仲立営業 - 長沼ナイキ事件 - 軟性憲法 - 難民 - 内政不干渉の原則 - 内容証明郵便",
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"text": "二院制 - 肉体刑 - 二重譲渡 - 二重の基準論 - 二重無権の抗弁 - 日照権 - 日本法 - 認可 - 認知",
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"text": "根抵当権 - 根保証",
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"text": "ノモス - ノモス主権論 - ノン・ルフールマン原則",
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"text": "配偶者 - 排他的経済水域 - 破産 - 柱書 - 八月革命説 - 罰金 - パブリックコメント - 反証 - 反訴 - 反則金 - 反対解釈 - 反致 - パンデクテン方式 - パンデクテンの現代的慣用 - パンデクテン法学 - 万民法 - 判例",
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"text": "被疑者 - 引渡し - 被告 - 被告人 - 非債弁済 - 批准 - 非訟事件 - 筆界 - 人 - 否認 - 否認権 - 比附 - 被保佐人 - 被補助人 - 百条委員会 - 評議 - 表見代理 - 表見代表取締役 - 表見的取締役 - 表現の自由 - 平等原則 - 比例原則",
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"text": "フォーラム・ショッピング - 不可抗力 - 不可分債権 - 不可分債務 – 付款 - 武器対等の原則 - 福祉国家 - 袋地 - 不真正不作為犯 - 物 - 物上保証人 - 付合 (附合) - 不作為義務 - 附則 - 普通裁判籍 - 普通法 - 物権 - 物権的請求権 - 物権法定主義 - 物上保証人 - 物的抗弁 - 不貞行為 - 不動産 - 不当 –不当利得 - 不法原因給付 - 不法行為 - プライバシー - 不利益処分 - 扶養 - 文化財 - 文明国 - 文面上の訴え",
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{
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"text": "併合罪 - 閉鎖会社 - 別除権 - 弁解録取手続 - 弁護士 - 弁護人 - 弁済 - 変造 - 弁明手続 - 弁理士 - 弁論 - 弁論主義",
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{
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"text": "法 - 法医学 - 法解釈 - 妨害排除請求権 - 法学検定 - 法学者 - 法学提要 - 法学部 - 法科大学院 - 法規 - 防御権 - 法系 - 法圏 - 法源 - 保護 - 法三章 - 法実証主義 - 幇助犯 - 法人 - 法人格 - 法人格否認の法理 - 法制度 - 包摂 - 法曹 - 放送法 - 法定果実 - 法定代理 - 法定地上権 - 法廷侮辱罪 - 法的確信 - 法哲学 - 法と経済学 - 法と文学 - 法の下の平等 - 法命題 - 法律 - 法律回避 - 法律行為 - 法律の留保 - 法令 - 法例 - 法令番号 - 補強法則 - 保佐 - 保佐人 - 保釈 - 補充権 - 補助 - 補償 - 保証 - 保証債務 - 補助証拠 - 補助人 - 堀木訴訟 - 保全命令 - 本則",
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"text": "埋蔵文化財 - マグナ・カルタ - 松川事件 - 抹消登記 - 満期 - 満年齢",
"title": "ま行"
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"text": "未決 - 未遂 - 未遂罪 - 未遂の教唆 - 未成年者 - 見せ金 - 三鷹事件 - 見出し - 三菱樹脂事件 - 未必の故意 - 身分 - 身分犯 - 明法官人 - ミランダ警告 - 民事再生 - 民事執行 - 民事訴訟 - 民事訴訟法 - 民事法 - 民事保全 - 民衆訴訟 - 民主主義 - 民主制 - 民定憲法 - 民法 - 民法典論争",
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"text": "無因行為 - ムートネスの法理 - 無害通航 - 無過失責任 - 無期刑 - 無限責任 - 無権代理 - 無権利の抗弁 - 無効 - 無罪 - 無主地 - 無主物先占 - 無体財産権 - 無能力者 - 無名契約",
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"text": "明治憲法 - 迷信犯 - 明認方法 - 明白かつ現在の危険 - 名目的取締役 - 命令 - 名誉毀損 - 名誉毀損罪 - 名誉法 - 免許 - 免除",
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"text": "黙示 - 目的効果基準 - 目的論的解釈 - 黙秘権 - 持株会社 - 持分 - 持分会社",
"title": "ま行"
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"text": "約定利息 - 約束手形 - 約款 - 八幡製鉄事件",
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"text": "有価証券 - 有限会社 - 有権解釈 - 優先株式 - 融通手形 - ユニオン・ショップ",
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"text": "要件事実 - 養子 - 要素従属性 - 予算 - 与信 - 予備罪",
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"text": "濫用",
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"text": "リアリズム法学 - リース契約 - 利益衡量論 - 利益相反取引 - 利益法学 - 離縁 - 履行遅滞 - 履行不能 - リコール (地方公共団体) - リコール (自動車) - 離婚 - 理事 - 理性法 - 利息 - 立憲君主制 - 立憲主義 - 立法 - 立法裁量論 - 立法の不作為 - 律令 - 利得償還請求権 - 留置権 - 両院制 - 領海 - 領空 - 良心の自由 - 領土 - 両罰規定 - 臨時会",
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"text": "類推解釈 - 累積投票 - 累犯",
"title": "ら行"
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"text": "礼金 - 令状 - 歴史法学 - レセプツム責任 - レモン・テスト - 連結点 - 連鎖販売取引(通称「マルチ商法」) - 連帯債務 - 連帯責任 - 連帯保証",
"title": "ら行"
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"text": "労役場 - ロー・スクール - ローマ法 - 労働基本権 - 労働審判 - 労働災害 - 労働法 - 六法 - ロマニスト",
"title": "ら行"
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"text": "わいせつ - ワイマール憲法 - 賄賂 - 和解 - 和議 - 忘れられる権利",
"title": "わ行"
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{
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"text": "actio - CIF - FOB - LLC - LLP - LRAの基準 - ultra viresの法理",
"title": "英字"
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] |
法用語一覧(ほうようごいちらん)は、法用語に関する一覧である。 日本の(形式的意義における)法律については、日本の法律一覧を参照。
ラテン語の成句については、法学のラテン語成句の一覧を参照。
|
'''法用語一覧'''(ほうようごいちらん)は、[[法 (法学)|法]]用語に関する一覧である。
* 日本の(形式的意義における)[[法律]]については、[[日本の法律一覧]]を参照。
* ラテン語の成句については、[[法学のラテン語成句の一覧]]を参照。
{| id="toc" class="toc"
| <div style="text-align: center;">'''INDEX'''</div>
|-
| [[#あ|あ]] [[#い|い]] [[#う|う]] [[#え|え]] [[#お|お]]
|-
| [[#か|か]] [[#き|き]] [[#く|く]] [[#け|け]] [[#こ|こ]]
|-
| [[#さ|さ]] [[#し|し]] [[#す|す]] [[#せ|せ]] [[#そ|そ]]
|-
| [[#た|た]] [[#ち|ち]] [[#つ|つ]] [[#て|て]] [[#と|と]]
|-
| [[#な|な]] [[#に|に]] [[#ぬ|ぬ]] [[#ね|ね]] [[#の|の]]
|-
| [[#は|は]] [[#ひ|ひ]] [[#ふ|ふ]] [[#へ|へ]] [[#ほ|ほ]]
|-
| [[#ま|ま]] [[#み|み]] [[#む|む]] [[#め|め]] [[#も|も]]
|-
| [[#や|や]]{{0| い}} [[#ゆ|ゆ]]{{0| え}} [[#よ|よ]]
|-
| [[#ら|ら]] [[#り|り]] [[#る|る]] [[#れ|れ]] [[#ろ|ろ]]
|-
| [[#わ|わ]]
|-
| [[#英字|英字]]
|-
| [[#関連項目|関連項目]]
|}__NOTOC__
==あ行==
===あ===
[[相対売買]] - [[悪意]] - [[悪意の抗弁]] - [[握取行為]] - [[朝日訴訟]] - [[預合]] - [[新しい人権]]
===い===
[[委員会設置会社]] - [[家制度]] - [[異議申立て]] - [[生ける法]] - [[違憲審査基準]] - [[違憲審査制]] - [[違憲判決]] - [[遺言]] - [[遺産]] - [[遺贈]] - [[意思]] - [[意思主義]] - [[意思表示]] - [[委託]] - [[一院制]] - [[一事不再議]] - [[一事不再理]] - [[一身専属]] - [[一般意思]] - [[一般概括主義]] - [[一般国家学]] - [[一般法]] - [[一方的行為]] - [[違法性阻却事由]] - [[囲繞地]] - [[囲繞地通行権]] - [[委任]] - [[違法性]] - [[入会権]] - [[遺留分]] - [[医療法]] - [[淫行条例]] - [[インコタームズ]]
===う===
[[条約法に関するウィーン条約|ウィーン条約法条約]] - [[ウェーバー条項]] - [[ヴェーバーの概括的故意]] - [[請負]] - [[受戻]] - [[氏]] - [[疑わしきは罰せず]] - [[宇宙条約]] - [[宇宙法]] - [[訴え]] - [[訴えの変更|訴えの交換的変更]] - [[訴えの変更|訴えの追加的変更]] - [[訴えの併合]] - [[訴えの変更]] - [[訴えの利益]] - [[裏書]] - [[裏書禁止裏書]] - [[裏書の連続]] - [[売渡担保]] - [[権限踰越]] - [[上乗せ条例]] - [[運行供用者]] - [[運送営業]] - [[運用違憲]]
<!-- 訴えの交換的変更・訴えの追加的変更について独自項目を立てた場合には上記も編集すること。 -->
===え===
[[営業]] - [[営業譲渡]] - [[営業の自由]] - [[永小作権]] - [[営利法人]] - [[エクイティ]] - [[依用]] - [[援用]] - [[冤罪]]
===お===
[[黄犬契約]] - [[応報刑論]] - [[横領罪]] - [[おとり捜査]] - [[恩赦]]
==か行==
===か===
[[外患罪]] - [[会計監査]] - [[会計監査人]] - [[会計参与]] - [[外国会社]] - [[外国国章損壊罪]] - [[外国倒産処理手続]] - [[介護保険]] - [[会社]] - [[会社法]] - [[解除]] - [[解除条件]] - [[海難審判]] - [[概念]] - [[概念法学]] - [[買戻]] - [[海洋法]] - [[学説彙纂]] - [[確認訴訟]] - [[学問の自由]] - [[閣令]] - [[加工 (法律)|加工]] - [[瑕疵]] - [[瑕疵ある意思表示]] - [[家事審判]] - [[過失]] - [[果実 (法律用語)|果実]] - [[かすがい現象]] - [[家族法]] - [[家庭裁判所]] - [[カノン法]] - [[株式]] - [[株式会社]] - [[株主]] - [[株主総会]] - [[株主代表訴訟]] - [[仮差押]] - [[仮出獄]]([[仮釈放]]) - [[仮処分]] - [[仮登記]] - [[仮登記担保|仮登記担保契約]] - [[為替手形]] - [[簡易の引渡し]] - [[管轄]] - [[環境権]] - [[環境法]] - [[観光法]] - [[監査役]] - [[慣習法]] - [[間接正犯]] - [[観念的競合]] - [[官報]]
===き===
[[議院内閣制]] - [[帰化]] - [[機関 (法)|機関]] - [[機関方式]] - [[棄却]] - [[議決権の不統一行使]] - [[期限]] - [[起訴]] - [[擬制]] - [[偽造文書]] - [[貴族院 (日本)]] - [[貴族院 (イギリス)]] - [[既判力]] - [[忌避]] - [[寄附行為]] - [[義務]] - [[却下]] - [[求刑]] - [[休息権]] - [[旧訴訟物理論]] - [[給付行政]] - [[教育法]] - [[教会法]] - [[競業避止義務]] - [[教唆犯]] - [[行政]] - [[行政委員会]] - [[強制採尿]] - [[行政上の強制執行|行政強制]] - [[行政契約]] - [[行政権の濫用]] - [[行政行為]] - [[行政国家]] - [[行政指導]] - [[行政上の強制執行]] - [[強制処分法定主義]] - [[行政審判]] - [[行政訴訟]] - [[行政代執行]] - [[行政調査]] - [[行政手続]] - [[行政罰]] - [[行政不服申立]] - [[共同正犯]] - [[共同訴訟]] - [[共同抵当]] - [[共謀共同正犯]] - [[共犯]] - [[共犯#共犯の従属性|共犯従属性説]] - [[共犯独立性説]] - [[共有]] - [[共和制]] - [[許可]] - [[虚偽表示]] - [[居住移転の自由]] - [[御名御璽]] - [[規律]] - [[緊急逮捕]] - [[緊急避難]] - [[禁錮]] - [[欽定憲法]] - [[禁反言の法則]] - [[勤労の義務]]
===く===
[[空法]] - [[楔形文字法]] - [[君主]] - [[君主制]] - [[軍法会議]]
===け===
[[経過措置]] - [[経済法]] - [[警察行政]] - [[刑事学]] - [[形式的形成訴訟]] - [[刑事施設]] - [[刑事政策]] - [[刑事訴訟法]] - [[刑事法]] - [[刑事免責制度]] - [[継受]] - [[形成権]] - [[形成訴訟]] - [[係属]] - [[境内地]] - [[競売]] - [[刑罰]] - [[刑法]] - [[契約]] - [[契約締結上の過失]] - [[契約法]] - [[結果無価値論]] - [[血統主義]] - [[原因において自由な行為]] - [[欠缺]] - [[権原]] - [[検察官]] - [[現実の引渡し]] - [[限時法]] - [[元首]] - [[建築確認]] - [[憲法]] - [[憲法改正]] - [[憲法義解]] - [[憲法裁判所]] - [[憲法撮要]] - [[憲法制定権力]] - [[憲法訴訟]] - [[憲法の変遷]] - [[原始取得]] - [[権利]] - [[権利質]] - [[権利能力]] - [[権利能力なき社団]] - [[牽連犯]]
===こ===
[[故意]] - [[故意ある道具]] - [[法令の基本形式#項|項]] - [[法令の基本形式#号|号]] - [[行為]] - [[行為能力]] - [[行為無価値論]] - [[公益法人]] - [[効果]] - [[更改]] - [[公開会社]] - [[公共の福祉]] - [[公権]] - [[後見]] - [[黄犬契約]] - [[合憲限定解釈]] - [[後見人]] - [[合資会社]] - [[公示催告]] - [[公示送達]] - [[皇室]] - [[後者の抗弁]] - [[公衆衛生法]] - [[公証人]] - [[公序]] - [[公序良俗]] - [[硬性憲法]] - [[公正証書]] - [[厚生法]] - [[構成要件]] - [[控訴]] - [[公訴]] - [[公訴棄却]] - [[公訴事実]] - [[公訴事実の同一性]] - [[公訴時効]] - [[公定力]] - [[合同会社]] - [[公布]] - [[法令の基本形式#公布文|公布文]] - [[公物]] - [[抗弁]] - [[抗弁権]] - [[抗弁権の接続]] - [[公務員]] - [[合名会社]] - [[公用負担法|公用負担]] - [[勾留]] - [[法律要件|効力要件]] - [[小切手]] - [[国外犯]] - [[国際経済法]] - [[国際私法]] - [[国際司法共助]] - [[国際司法裁判所]] - [[国際機関]] - [[国際協調主義]] - [[国際刑事裁判所]] - [[国際組織]] - [[国際法]] - [[国事行為]] - [[国親思想]] - [[国政調査権]] - [[国籍]] - [[国籍法]] - [[国民]] - [[国務大臣]] - [[個人]] - [[個人の尊厳]] - [[戸籍]] - [[国家]] - [[国歌]] - [[国会]] - [[国会議員]] - [[国家公務員]] - [[国家賠償法]] - [[国家補償法]] - [[国家法人説]] - [[国旗]] - [[国庫]] - [[コモン・ロー]] - [[混合政]] - [[コンセイユ・デタ]] - [[混同]] - [[混和]]
==さ行==
===さ===
[[罪刑法定主義]] - [[債権]] - [[債権者代位権]] - [[債権者取消権]] - [[債権譲渡]] - [[最高裁判所]] - [[最高裁判所規則]] - [[最高法規]] - [[催告]] - [[財産]] - [[財産権]] - [[財産法]] - [[再審]] - [[罪数]] - [[財政法]] - [[財政民主主義]] - [[再売買一方の予約]] - [[裁判]] - [[裁判外紛争解決手続]] - [[裁判官]] - [[裁判所]] - [[裁判法]] - [[財物]] - [[債務]] - [[債務不履行]] - [[債務名義]] - [[債務引受]] - [[裁量]] - [[詐害行為取消権]] - [[詐欺]] - [[詐欺罪]] - [[先取特権]] - [[錯誤 (刑法)]] - [[錯誤 (民法)]] - [[指図による占有移転]] - [[差止請求権]] - [[参加]] - [[参議院]] - [[産業法]] - [[参政権]] - [[サンセット条項]]
===し===
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===そ===
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===ち===
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===ら===
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==わ行==
===わ===
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登記
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登記(とうき、英語: registration)について解説する。
イギリスにおいて、登記は公的な機関が所有権などを保証することであり、権利の侵害を防止するために必要な手続きである。イギリスでは、不動産登記、会社登記、車両登録などの種類がある。イギリスで活動しようとすると不動産、会社、車両などの資産やその所有権を正式に登記することは重要である。 イギリスにはen:General Register Office(GRO)という公的事務所があり、不動産登記や会社登記などを管理している。
イギリスの不動産登記は、その所有権を正式に登録し証明するために必要な手続きであり、Land Registry(土地登記簿)に不動産の所有者、担保権者、借り手の情報を登録する。Land Registryに書かれた情報にもとづき「所有権の証明書」を発行しており、不動産の取引や法的手続きなどに使われる。
Companies House(会社登記簿)には、会社名、登録住所、取締役や株主の情報などが登録される。会社登記は、会社を正式に設立し、法人としての資格を得るのに必要な手続きであり、その後も会社の法的権利の保護に役立つ。
「車両登録」は英語で「vehicle registration」というが、これに関してはGeneral Register Officeではなく、en:Driver and Vehicle Licensing Agency(DVLA)という機関が管理を行っている。イギリスのDVLAは、車両の登録、課税、免許の発行を行っており、ドライバーのリスク評価なども行う。 車両登録はイギリスの道路交通法を守って道路を走行するためには必要な手続きであり、車両所有者の情報や車両の登録番号を登録する。車両登録情報は、車両所有者の変更にも使われ、また警察などが必要な情報を確認するためにも使う。
イギリス連邦や連邦だった国(つまりオーストラリアやインドなど)でも同様に、General Register Office(GRO)が様々な種類の登記を管理している。オーストラリアでは、不動産登記、会社登記、車両登録のほかに、誕生証明書や結婚証明書、死亡証明書の発行なども行われる。インドでも不動産登記や会社登記に加えて、誕生・死亡・結婚などを登録しており、誕生証明書や死亡証明書、結婚証明書、公正証書などを発行する。
日本の行政上の仕組みの一つであり、個人、法人、動産、不動産、物権、債権など実体法上の重要な権利や義務を、不動産登記法や商業登記法などの手続法により保護するとともに、円滑な取引を実現する。不動産の権利関係、会社の役員などは公示により周知される。法の支配並びに法治国家を支える法制度の一つである。
登記制度は裁判制度とともに明治維新以降、日本国及び国民の権利を保護している。登記制度開始当初は裁判所が登記所として事務を所管していたが、現在は法務局の所管となっている。具体的には、実体法及び手続法を順守した登記申請が法務局あるいは地方法務局にて受理されることで、効力の発生並びに対抗要件を備えることができる。
登記全般の専門職として1872年に代書人(現在の司法書士)が創設され、昭和に入って表題登記の専門職として土地家屋調査士が創設された。2016年時点では不動産登記、商業登記、法人登記、動産譲渡登記、債権譲渡登記、成年後見登記、船舶登記などの種類があり、申請件数としては不動産登記が最も多い。
実体法や手続法、司法書士法、土地家屋調査士法に違反する申請行為などは刑事罰が科される。
歴史的には、律令制時代の公地公民制に基づく管理から、中世・近世の検地などを経て明治初期に地券制度が導入され、明治19年に登記法が公布(翌年施行)されたことで登記制度が確立した。以後、登記制度は国家及び国民の権利並びに取引活動を支えている。
不動産登記とは、不動産(土地・建物)の物理的現況及び私法上の権利関係を公示することを目的とする登記で、取引の安全を保護するのに役立つ(公示力)。不動産の物理的現況を公示する「表示に関する登記」と、権利関係を公示する(登記により効力が発生する場合もある)「権利に関する登記」の2種類に分かれる。 「表示に関する登記」に関しては土地家屋調査士が、「権利に関する登記」に関しては司法書士が他人から依頼を受け業務を行う事ができる。
不動産に関する物権の得喪変更(物権変動)を第三者に対抗するためには、不動産登記(権利に関する登記)をする必要がある(民法177条)。例えば、不動産を購入した者は、売買契約によって所有権を取得する(民法176条。意思主義)が、その登記を怠ると、第三者に所有権を対抗できない(主張できない)という不利益を受ける(場合によっては所有権を失うこともある)。これは、登記を信頼して取引に入った第三者を保護するとともに、このような不利益を受けないために権利者が登記を具備するよう促すことによって、実際の権利関係と登記が一致する状態を維持するためである。これによって、登記を信頼して取引関係に入ることが可能になり、取引の安全が担保されるのである。
ただし、以上とは逆に、実際には無権利者であるのに、権利者であるかのような登記がされていたとしても、これを信頼して無権利者から買い受けた者は保護されない(不動産登記には公信力がない)。もっとも、真の権利者が虚偽の登記の作出に自ら関与していたり、虚偽の登記を知りながら放置していたりして、真の権利者に帰責性がある場合には、民法94条2項(虚偽表示)を類推適用し、登記名義人から善意で取得した第三者は、権利を取得するとする判例がある。これは、一定の場合に限って公信力を認めたのと同様の効果を生むこととなる。
登記上の利益を受ける者を登記権利者,不利益を受ける者を登記義務者といい、登記権利者が登記義務者に対して登記を請求できる権利のこと。
商業登記とは、民法、会社法、商法、商業登記法などの規定により、会社を成立させる登記から始まり、会社や商人に関する現在および過去の権利義務を公示し、事業を終了するまで継続して行う登記である。司法書士が商業登記の申請や相談などの業務を行うことができる。会社の設立や組織再編の多くは登記によってその効力が発生し、それらを含めた会社に関する様々な事項(商号、本店、株式、新株予約権、各種制度、機関、役員など)を公示することで法令上、また取引上の対抗要件を得る。取引の相手方は、商業登記簿の閲覧により、円滑な商行為が可能となるため、商業登記簿は取引の安全を重視する商法の世界を支えるインフラの役目を果たしている。そのため、登記を怠ると過料が科せられる。
商業登記簿に記載すべき事項については、原則として、登記の後でなければ、善意の第三者(その事実を知らずに取引関係に入った者)に対抗できない(消極的公示力、商法9条1項前段)。一方、登記の後であれば、商業登記簿に記載すべき事項について、第三者は悪意(知っていたもの)とみなされる(積極的公示力、通説)。ただし、第三者に「正当な事由」がある場合は、当事者はその善意の第三者に対抗できない(9条1項後段)。この「正当な事由」は、災害による交通の途絶や登記簿の滅失・汚損などの場合のみしか認められず、ほとんど認められる余地はない。さらに、故意又は過失で不実の登記(真実と異なる登記)をした者は、不実を理由として善意の第三者に対抗できない(9条2項)という公信力もある。
商業登記に関する手続は商業登記法や商業登記規則などに定められている。同法において、登記所には次の商業登記簿を備えることとされている(同法6条)。
役員全員解任の登記が申請された場合、登記官は株主総会議事録や新任役員の印鑑証明などの書類を審査して虚偽がないかをチェックするが、登記変更前に当該会社へ連絡するのは有名な上場企業などに限られ、中小企業では虚偽登記により会社が乗っ取られかけた事件が2022年に発生している。
会社代表者の住所が公示されることに対しては防犯やプライバシー保護といった面での懸念があり、法務省は2022年、インターネット上での開示をやめることを発表した。
法務省はこのほか、日本で事業を展開する外国企業、特にIT大手に対して日本でも法人登記するよう2022年に要請し、複数の企業が応じた。
船舶登記は、商法、船舶法などの規定により、船舶の所有権、賃借権、抵当権の公示のための登記をいう。
司法省の部局であった区裁判所・司法事務局(出張所)保管の登記簿の滅失や滅失の疑いにより、司法大臣が、少なくとも1件の転写を行うことを告知した『官報』は、1899年(明治32年)から1949年の50年間のあいだに180冊以上存在する(年平均 3.6冊)。
1898年、明治31年式戸籍が作成され始めてから、1914年に大正3年戸籍法が施行されるまでは、身分登記簿が存在した。
法務局、登記事項、登記事項 (不動産登記)、司法書士、土地家屋調査士、海事代理士、商業登記ソフトウェア、企業コード、会社法人等番号、法人番号、個人番号
アメリカ合衆国にも様々な種類の登記制度があるが、アメリカ合衆国はそもそも「United States」なので(つまりStateが結合しているという法的なしくみの国家なので)、イギリスとは異なってGeneral Register Officeのような中央集権的な登記機関は存在せず、登記はそれぞれの州政府や地方政府によって管理されている。(そして州ごとに制度が微妙に、あるいはそれなりに異なる)
例えば、不動産登記に関しては各州の地方裁判所が管理している。各州の土地登記簿には、不動産の所有者や担保権者、抵当権の有無などが登録される。また、車両登録に関しても各州の運輸局が管理している。運輸局には、車両所有者の情報や車両の登録番号などが登録される。
会社登記に関しては、州政府の事務所が管理しており、会社名、登録住所、取締役名や主要な株主の情報などが登録される。州ごとに会社登記の制度が微妙に異なる場合がある。
アメリカ合衆国では、選挙、出生、死亡、結婚などに関しても、registration(登記)の制度がある。これらの登記も、州や地方自治体によってそれなりに異なる場合がある。
アメリカの車両の登記に関しては、各州政府の中の「Department of Motor Vehicles(DMV)」などという名の部門が管理しており、車両の登録、登録番号の発行、車両の検査だけでなく、運転免許証の発行や更新、違反の処理なども担当している。なお、州によっては「Registry of Motor Vehicles(RMV)」や「Department of Revenue(DOR)」など、DMVとは異なる名称の部署で管理が行われている場合がある。
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"text": "登記全般の専門職として1872年に代書人(現在の司法書士)が創設され、昭和に入って表題登記の専門職として土地家屋調査士が創設された。2016年時点では不動産登記、商業登記、法人登記、動産譲渡登記、債権譲渡登記、成年後見登記、船舶登記などの種類があり、申請件数としては不動産登記が最も多い。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "実体法や手続法、司法書士法、土地家屋調査士法に違反する申請行為などは刑事罰が科される。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "歴史的には、律令制時代の公地公民制に基づく管理から、中世・近世の検地などを経て明治初期に地券制度が導入され、明治19年に登記法が公布(翌年施行)されたことで登記制度が確立した。以後、登記制度は国家及び国民の権利並びに取引活動を支えている。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "不動産登記とは、不動産(土地・建物)の物理的現況及び私法上の権利関係を公示することを目的とする登記で、取引の安全を保護するのに役立つ(公示力)。不動産の物理的現況を公示する「表示に関する登記」と、権利関係を公示する(登記により効力が発生する場合もある)「権利に関する登記」の2種類に分かれる。 「表示に関する登記」に関しては土地家屋調査士が、「権利に関する登記」に関しては司法書士が他人から依頼を受け業務を行う事ができる。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "不動産に関する物権の得喪変更(物権変動)を第三者に対抗するためには、不動産登記(権利に関する登記)をする必要がある(民法177条)。例えば、不動産を購入した者は、売買契約によって所有権を取得する(民法176条。意思主義)が、その登記を怠ると、第三者に所有権を対抗できない(主張できない)という不利益を受ける(場合によっては所有権を失うこともある)。これは、登記を信頼して取引に入った第三者を保護するとともに、このような不利益を受けないために権利者が登記を具備するよう促すことによって、実際の権利関係と登記が一致する状態を維持するためである。これによって、登記を信頼して取引関係に入ることが可能になり、取引の安全が担保されるのである。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ただし、以上とは逆に、実際には無権利者であるのに、権利者であるかのような登記がされていたとしても、これを信頼して無権利者から買い受けた者は保護されない(不動産登記には公信力がない)。もっとも、真の権利者が虚偽の登記の作出に自ら関与していたり、虚偽の登記を知りながら放置していたりして、真の権利者に帰責性がある場合には、民法94条2項(虚偽表示)を類推適用し、登記名義人から善意で取得した第三者は、権利を取得するとする判例がある。これは、一定の場合に限って公信力を認めたのと同様の効果を生むこととなる。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "登記上の利益を受ける者を登記権利者,不利益を受ける者を登記義務者といい、登記権利者が登記義務者に対して登記を請求できる権利のこと。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "商業登記とは、民法、会社法、商法、商業登記法などの規定により、会社を成立させる登記から始まり、会社や商人に関する現在および過去の権利義務を公示し、事業を終了するまで継続して行う登記である。司法書士が商業登記の申請や相談などの業務を行うことができる。会社の設立や組織再編の多くは登記によってその効力が発生し、それらを含めた会社に関する様々な事項(商号、本店、株式、新株予約権、各種制度、機関、役員など)を公示することで法令上、また取引上の対抗要件を得る。取引の相手方は、商業登記簿の閲覧により、円滑な商行為が可能となるため、商業登記簿は取引の安全を重視する商法の世界を支えるインフラの役目を果たしている。そのため、登記を怠ると過料が科せられる。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "商業登記簿に記載すべき事項については、原則として、登記の後でなければ、善意の第三者(その事実を知らずに取引関係に入った者)に対抗できない(消極的公示力、商法9条1項前段)。一方、登記の後であれば、商業登記簿に記載すべき事項について、第三者は悪意(知っていたもの)とみなされる(積極的公示力、通説)。ただし、第三者に「正当な事由」がある場合は、当事者はその善意の第三者に対抗できない(9条1項後段)。この「正当な事由」は、災害による交通の途絶や登記簿の滅失・汚損などの場合のみしか認められず、ほとんど認められる余地はない。さらに、故意又は過失で不実の登記(真実と異なる登記)をした者は、不実を理由として善意の第三者に対抗できない(9条2項)という公信力もある。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "商業登記に関する手続は商業登記法や商業登記規則などに定められている。同法において、登記所には次の商業登記簿を備えることとされている(同法6条)。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "役員全員解任の登記が申請された場合、登記官は株主総会議事録や新任役員の印鑑証明などの書類を審査して虚偽がないかをチェックするが、登記変更前に当該会社へ連絡するのは有名な上場企業などに限られ、中小企業では虚偽登記により会社が乗っ取られかけた事件が2022年に発生している。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "会社代表者の住所が公示されることに対しては防犯やプライバシー保護といった面での懸念があり、法務省は2022年、インターネット上での開示をやめることを発表した。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "法務省はこのほか、日本で事業を展開する外国企業、特にIT大手に対して日本でも法人登記するよう2022年に要請し、複数の企業が応じた。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "船舶登記は、商法、船舶法などの規定により、船舶の所有権、賃借権、抵当権の公示のための登記をいう。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "司法省の部局であった区裁判所・司法事務局(出張所)保管の登記簿の滅失や滅失の疑いにより、司法大臣が、少なくとも1件の転写を行うことを告知した『官報』は、1899年(明治32年)から1949年の50年間のあいだに180冊以上存在する(年平均 3.6冊)。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1898年、明治31年式戸籍が作成され始めてから、1914年に大正3年戸籍法が施行されるまでは、身分登記簿が存在した。",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "法務局、登記事項、登記事項 (不動産登記)、司法書士、土地家屋調査士、海事代理士、商業登記ソフトウェア、企業コード、会社法人等番号、法人番号、個人番号",
"title": "日本の登記"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国にも様々な種類の登記制度があるが、アメリカ合衆国はそもそも「United States」なので(つまりStateが結合しているという法的なしくみの国家なので)、イギリスとは異なってGeneral Register Officeのような中央集権的な登記機関は存在せず、登記はそれぞれの州政府や地方政府によって管理されている。(そして州ごとに制度が微妙に、あるいはそれなりに異なる)",
"title": "アメリカにおける登記"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "例えば、不動産登記に関しては各州の地方裁判所が管理している。各州の土地登記簿には、不動産の所有者や担保権者、抵当権の有無などが登録される。また、車両登録に関しても各州の運輸局が管理している。運輸局には、車両所有者の情報や車両の登録番号などが登録される。",
"title": "アメリカにおける登記"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "会社登記に関しては、州政府の事務所が管理しており、会社名、登録住所、取締役名や主要な株主の情報などが登録される。州ごとに会社登記の制度が微妙に異なる場合がある。",
"title": "アメリカにおける登記"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国では、選挙、出生、死亡、結婚などに関しても、registration(登記)の制度がある。これらの登記も、州や地方自治体によってそれなりに異なる場合がある。",
"title": "アメリカにおける登記"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "アメリカの車両の登記に関しては、各州政府の中の「Department of Motor Vehicles(DMV)」などという名の部門が管理しており、車両の登録、登録番号の発行、車両の検査だけでなく、運転免許証の発行や更新、違反の処理なども担当している。なお、州によっては「Registry of Motor Vehicles(RMV)」や「Department of Revenue(DOR)」など、DMVとは異なる名称の部署で管理が行われている場合がある。",
"title": "アメリカにおける登記"
}
] |
登記について解説する。
|
'''登記'''(とうき、{{lang-en|[[:wikt:registration|registration]]}}<ref>[http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?id=2016&vm=&re= 日本法令外国語訳データベースシステム]</ref>)について解説する。
== イギリスやイギリス連邦における登記 ==
イギリスにおいて、登記は公的な機関が所有権などを[[保証]]することであり、権利の侵害を防止するために必要な[[手続き]]である。イギリスでは、不動産登記、会社登記、車両登録などの種類がある。イギリスで活動しようとすると不動産、会社、車両などの資産やその所有権を正式に登記することは重要である。
イギリスには[[:en:General Register Office]](GRO)<ref>日本語に翻訳すると「総合登記所」など。</ref>という公的事務所があり、不動産登記や会社登記などを管理している。
イギリスの不動産登記は、その所有権を正式に登録し証明するために必要な手続きであり、Land Registry(土地登記簿)に不動産の[[所有権|所有]]者、[[担保]]権者、借り手の情報を登録する。Land Registryに書かれた情報にもとづき「所有権の証明書」を発行しており、不動産の取引や法的手続きなどに使われる。
Companies House(会社登記簿)には、会社名、登録住所、取締役や株主の情報などが登録される。会社登記は、会社を正式に設立し、[[法人]]としての資格を得るのに必要な手続きであり、その後も会社の法的権利の保護に役立つ。
「車両登録」は英語で「vehicle registration」というが、これに関してはGeneral Register Officeではなく、[[:en:Driver and Vehicle Licensing Agency]]([[DVLA]])という機関が管理を行っている。イギリスのDVLAは、車両の登録、課税、免許の発行を行っており、ドライバーのリスク評価なども行う。
車両登録はイギリスの道路交通法を守って道路を走行するためには必要な手続きであり、車両所有者の情報や車両の登録番号を登録する。車両登録情報は、車両所有者の変更にも使われ、また警察などが必要な情報を確認するためにも使う。
イギリス連邦や連邦だった国(つまり[[オーストラリア]]や[[インド]]など)でも同様に、General Register Office(GRO)が様々な種類の登記を管理している。オーストラリアでは、不動産登記、会社登記、車両登録のほかに、[[誕生証明書]]や[[結婚証明書]]、[[死亡証明書]]の発行なども行われる。インドでも不動産登記や会社登記に加えて、誕生・死亡・結婚などを登録しており、誕生証明書や死亡証明書、結婚証明書、[[公正証書]]などを発行する。
{{節スタブ|section=1|date=2023年3月}}
== 日本の登記 ==
日本の[[行政]]上の[[しくみ|仕組み]]の一つであり、[[個人]]、[[法人]]、[[動産]]、[[不動産]]、[[物権]]、[[債権]]など[[法 (法学)#実体法と手続法|実体法]]上の重要な[[権利]]や[[義務]]を、[[不動産登記法]]や[[商業登記法]]などの[[法 (法学)#実体法と手続法|手続法]]により保護するとともに、円滑な取引を実現する。不動産の権利関係、[[会社#日本|会社]]の[[役員 (会社)|役員]]などは[[公示#公の機関が行う公示|公示]]により周知される<ref name="読売20221118">「会社乗っ取り」知らぬ間に役員なりすまし 「社長解任」既に登記完了後/申請段階で通知なし 制度の穴『[[読売新聞]]』朝刊2022年11月18日(社会面)</ref>。[[法 (法学)|法]]の支配並びに[[法治国家]]を支える法制度の一つである。
登記制度は[[裁判]]制度とともに[[明治維新]]以降、日本国及び国民の権利を保護している。登記制度開始当初は[[裁判所]]が[[登記所]]として事務を所管していたが、現在は[[法務局]]の所管となっている。具体的には、実体法及び手続法を順守した登記申請が法務局あるいは地方法務局にて受理されることで、効力の発生並びに[[対抗要件]]を備えることができる。
登記全般の専門職として1872年に[[司法書士|代書人]](現在の[[司法書士]])が創設され、[[昭和]]に入って表題登記の専門職として[[土地家屋調査士]]が創設された。2016年時点では[[不動産登記]]、[[商業登記]]、[[法人登記]]、[[動産譲渡登記制度|動産譲渡登記]]、[[債権譲渡登記制度|債権譲渡登記]]、[[成年後見制度|成年後見登記]]、[[船舶登記]]などの種類があり、申請件数としては不動産登記が最も多い。
実体法や手続法、[[司法書士法]]、[[土地家屋調査士法]]に違反する申請行為などは[[刑罰|刑事罰]]が科される。
歴史的には、[[律令制]]時代の[[公地公民]]制に基づく管理から、中世・近世の[[検地]]などを経て[[明治]]初期に[[地券]]制度が導入され、明治19年に登記法が公布(翌年施行)されたことで登記制度が確立した。以後、登記制度は国家及び国民の権利並びに取引活動を支えている。
=== 日本の登記の種類 ===
; [[不動産登記]]:表題部で不動産([[土地]]や[[建物]])の物理的現況などを公示し、権利部で[[所有権]]や[[抵当権]]などの権利を公示するとともに、効力発生や対抗要件を得ることができる登記である。根拠となる法令・規則は[[民法 (日本)|民法]]、[[借地借家法]]、[[信託法]]、[[不動産登記法]]、不動産登記規則、不動産登記令など。
; [[商業登記]]:会社や[[商人 (商法)|商人]]を対象として、会社の設立や新設合併などで効力を発生させ、それらを含めた会社や商人の幅広い権利義務を公示して法令上、また取引上の対抗要件を得る登記である。根拠となる法令・規則は民法、[[商法]]、[[会社法]]、[[商業登記法]]、商業登記規則など。
; [[法人登記]]:会社以外の[[法人]]についての登記である。根拠となる法令・規則は民法、法人法ほか。
; 外国法人の登記:外国会社が日本で継続して取引を行う場合、会社法に基づき、日本における代表者を定めるか営業所を設けて登記する必要がある。
; [[船舶登記]]:[[船舶]]に関する[[私法]]上の権利関係を公示するための登記。商法、[[船舶法]]による。
; 成年後見登記:[[成年後見制度]]において、成年後見人などの権限や任意後見契約の内容などを登記する<ref>[http://houmukyoku.moj.go.jp/homu/static/goannai_index_seinenkouken.html 成年後見登記]</ref>。
; 動産登記:特別法で登記がされることが定められている動産(農業用動産信用法に基づく農業用動産の登記、建設機械抵当法に基づく建設機械の登記)。
; [[動産譲渡登記]]:[[債権]]譲渡登記とともに[[平成]]17年から始まった制度。[[動産及び債権の譲渡の対抗要件に関する民法の特例等に関する法律|動産・債権譲渡対抗要件特例法]]による。
; [[債権譲渡登記]] :平成17年から始まった制度。動産・債権譲渡対抗要件特例法による。
; [[質権]]設定登記(債権質):債権譲渡登記の規定を準用する。
; 各種財団登記:工場財団に関する登記、鉱業財団に関する登記、漁業財団に関する登記、港湾運送事業財団に関する登記、道路交通事業財団に関する登記、観光施設財団に関する登記
; 企業担保権登記:企業担保権を設定・変更するときの登記。[[企業担保法]]による。
; 夫婦財産契約登記:[[夫婦]]が法定財産制と異なる契約をしたときにする登記。
; 立木に関する登記:立木は所有権保存登記の対象である。[[立木ニ関スル法律]]による。
=== 不動産登記 ===
{{main|不動産登記}}
[[不動産登記]]とは、不動産(土地・建物)の物理的現況及び私法上の権利関係を公示することを目的とする登記で、取引の安全を保護するのに役立つ(公示力)。不動産の物理的現況を公示する「[[不動産登記#表示に関する登記|表示に関する登記]]」と、権利関係を公示する(登記により効力が発生する場合もある)「[[不動産登記#権利に関する登記|権利に関する登記]]」の2種類に分かれる。
「表示に関する登記」に関しては土地家屋調査士が、「権利に関する登記」に関しては司法書士が他人から依頼を受け業務を行う事ができる。
==== 不動産登記の効力 ====
不動産に関する[[物権]]の得喪変更(物権変動)を第三者に対抗するためには、不動産登記(権利に関する登記)をする必要がある([[b:民法第177条|民法177条]])。例えば、不動産を購入した者は、[[売買契約]]によって所有権を取得する([[b:民法第176条|民法176条]]。[[意思主義]])が、その登記を怠ると、第三者に所有権を対抗できない(主張できない)という不利益を受ける(場合によっては所有権を失うこともある)。これは、登記を信頼して取引に入った第三者を保護するとともに、このような不利益を受けないために権利者が登記を具備するよう促すことによって、実際の権利関係と登記が一致する状態を維持するためである。これによって、登記を信頼して取引関係に入ることが可能になり、取引の安全が担保されるのである。
ただし、以上とは逆に、実際には無権利者であるのに、権利者であるかのような登記がされていたとしても、これを信頼して無権利者から買い受けた者は保護されない(不動産登記には公信力がない)。もっとも、真の権利者が虚偽の登記の作出に自ら関与していたり、虚偽の登記を知りながら放置していたりして、真の権利者に帰責性がある場合には、[[b:民法第94条|民法94条]]2項([[虚偽表示]])を[[類推適用]]し、登記名義人から善意で取得した第三者は、権利を取得するとする[[判例]]がある<ref>[[最高裁判所 (日本)|最判]]昭和37年9月14日民集16巻9号(1935頁)、最判昭和41年3月18日民集24巻4号(266頁)、最判昭和45年9月22日民集24巻10号(1424頁)など。</ref>。これは、一定の場合に限って公信力を認めたのと同様の効果を生むこととなる。
==== 登記請求権 ====
{{main|登記請求権}}
登記上の利益を受ける者を登記権利者,不利益を受ける者を登記義務者といい、登記権利者が登記義務者に対して登記を請求できる権利のこと。
* 物権的登記請求権
* 物権変動的登記請求権
* 債権的登記請求権
=== 商業登記 ===
{{main|商業登記|登記事項 (商業登記)}}
商業登記とは、民法、会社法、商法、[[商業登記法]]などの規定により、会社を成立させる登記から始まり、会社や[[商人 (商法)|商人]]に関する現在および過去の権利義務を公示し、事業を終了するまで継続して行う登記である。司法書士が商業登記の申請や相談などの業務を行うことができる。会社の設立や組織再編の多くは登記によってその効力が発生し、それらを含めた会社に関する様々な事項(商号、本店、株式、新株予約権、各種制度、機関、役員など)を公示することで法令上、また取引上の対抗要件を得る。取引の相手方は、商業登記簿の閲覧により、円滑な商行為が可能となるため、商業登記簿は取引の安全を重視する商法の世界を支えるインフラの役目を果たしている。そのため、登記を怠ると過料が科せられる。
==== 商業登記の効力 ====
商業登記簿に記載すべき事項については、原則として、登記の後でなければ、[[善意]]の第三者(その事実を知らずに取引関係に入った者)に対抗できない(消極的公示力、[[b:商法第9条|商法9条]]1項前段)。一方、登記の後であれば、商業登記簿に記載すべき事項について、第三者は[[悪意]](知っていたもの)とみなされる(積極的[[公示力]]、[[通説]])。ただし、第三者に「正当な事由」がある場合は、当事者はその善意の第三者に対抗できない(9条1項後段)。この「正当な事由」は、災害による交通の途絶や[[登記簿]]の滅失・汚損などの場合のみしか認められず、ほとんど認められる余地はない。さらに、[[故意]]又は[[過失]]で不実の登記(真実と異なる登記)をした者は、不実を理由として善意の第三者に対抗できない(9条2項)という[[公信力]]もある。
==== 商業登記簿 ====
商業登記に関する手続は[[商業登記法]]や商業登記規則などに定められている。同法において、登記所には次の商業登記簿を備えることとされている([[s:商業登記法#6|同法6条]])。
* [[商号]]登記簿
* [[未成年者]]登記簿
* [[後見人]]登記簿
* [[支配人]]登記簿
* [[株式会社]]登記簿
* [[合名会社]]登記簿
* [[合資会社]]登記簿
* [[合同会社]]登記簿
* [[外国会社]]登記簿
==== 商業登記の問題点 ====
役員全員解任の登記が申請された場合、登記官は[[株主総会]]議事録や新任役員の[[印鑑証明]]などの書類を審査して虚偽がないかをチェックするが、登記変更前に当該会社へ連絡するのは有名な[[上場企業]]などに限られ、中小企業では虚偽登記により会社が乗っ取られかけた事件が2022年に発生している<ref name="読売20221118"/>。
会社代表者の[[住所]]が公示されることに対しては防犯や[[プライバシー]]保護といった面での懸念があり、[[法務省]]は2022年、[[インターネット]]上での開示をやめることを発表した<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA219G40R20C22A1000000/ 社長の住所、ネット上は非開示 登記情報で法務省 DV被害者も]」[[日本経済新聞]](2022年2月15日)2022年11月20日閲覧</ref>。
法務省はこのほか、日本で事業を展開する外国企業、特に[[情報技術|IT]]大手に対して日本でも法人登記するよう2022年に要請し、複数の企業が応じた<ref>「[https://web.archive.org/web/20220725121412/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022072500938&g=soc 海外IT 13企業が登記申請 グーグル、マイクロソフトなど―法務省]」[[時事通信]](2022年7月25日)2022年11月20日閲覧</ref>。
=== 船舶登記 ===
{{main|船舶登記}}
船舶登記は、商法、船舶法などの規定により、船舶の所有権、[[賃借権]]、抵当権の公示のための登記をいう。
=== かつて存在した登記 ===
;登記簿中滅失
[[司法省 (日本)|司法省]]の部局であった[[区裁判所]]・司法事務局(出張所)保管の登記簿の滅失や滅失の疑いにより、[[司法大臣]]が、少なくとも1件の転写を行うことを告知した『[[官報]]』は、1899年(明治32年)から1949年の50年間のあいだに180冊以上存在する(年平均 3.6冊)。
;身分登記簿
1898年、明治31年式[[戸籍]]が作成され始めてから、1914年に大正3年[[戸籍法]]が施行されるまでは、[[身分登記簿]]が存在した。
=== 日本の登記 関連項目 ===
[[法務局]]、[[登記事項]]、[[登記事項 (不動産登記)]]、[[司法書士]]、[[土地家屋調査士]]、[[海事代理士]]、[[商業登記ソフトウェア]]、[[企業コード]]、[[会社法人等番号]]、[[法人番号]]、[[個人番号]]
== アメリカにおける登記 ==
アメリカ合衆国にも様々な種類の登記制度があるが、アメリカ合衆国はそもそも「United States」なので(つまりStateが結合しているという法的なしくみの国家なので)、イギリスとは異なってGeneral Register Officeのような中央集権的な登記機関は存在せず、登記はそれぞれの州政府や地方政府によって管理されている。(そして州ごとに制度が微妙に、あるいはそれなりに異なる)
例えば、不動産登記に関しては各州の地方裁判所が管理している。各州の土地登記簿には、不動産の所有者や担保権者、抵当権の有無などが登録される。また、車両登録に関しても各州の運輸局が管理している。運輸局には、車両所有者の情報や車両の登録番号などが登録される。
会社登記に関しては、州政府の事務所が管理しており、会社名、登録住所、取締役名や主要な株主の情報などが登録される。州ごとに会社登記の制度が微妙に異なる場合がある。
アメリカ合衆国では、選挙、出生、死亡、結婚などに関しても、registration(登記)の制度がある。これらの登記も、州や地方自治体によってそれなりに異なる場合がある。
アメリカの車両の登記に関しては、各州政府の中の「Department of Motor Vehicles(DMV)」などという名の部門が管理しており、車両の登録、登録番号の発行、車両の検査だけでなく、運転免許証の発行や更新、違反の処理なども担当している。なお、州によっては「Registry of Motor Vehicles(RMV)」や「Department of Revenue(DOR)」など、DMVとは異なる名称の部署で管理が行われている場合がある。
{{節スタブ|section=1|date=2023年3月}}
=== アメリカの登記の関連項目 ===
* [[社会保障番号]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
== 外部リンク ==
{{wiktionary}}
* [https://www.moj.go.jp/MINJI/fudousantouki.html 法務省:登記 -不動産登記-]
* [https://www.moj.go.jp/MINJI/houjintouki.html 法務省:登記-商業・法人登記-]
* [http://houmukyoku.moj.go.jp/homu/static/info-top.html 登記・供託インフォメーションサービス:法務局]
* [https://www.touki-kyoutaku-online.moj.go.jp/ 登記・供託オンライン申請システム 登記ねっと 供託ねっと]
* [http://www1.touki.or.jp/gateway.html 登記情報提供サービス]
* [http://xknowledge-books.jp/ipscs-image/9784767817613-3.jpg 登記情報を調べる] 建築・都市・不動産 企画開発マニュアル入門版 2014-15 エクスナレッジ
* {{kotobank}}
{{DEFAULTSORT:とうき}}
[[Category:登記|*]]
|
2003-07-18T01:06:17Z
|
2023-12-29T20:10:26Z
| false | false | false |
[
"Template:Reflist",
"Template:Wiktionary",
"Template:Kotobank",
"Template:Lang-en",
"Template:節スタブ",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E8%A8%98
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11,628 |
郡山駅 (福島県)
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郡山駅(こおりやまえき)は、福島県郡山市字燧田(ひうちだ)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。
JR東日本の新幹線と在来線各線が乗り入れ、東西南北へ向かう路線の結節点となっている。
新幹線は、線路名称上は東北新幹線のみであるが、新幹線ホームには同新幹線の列車のほか、山形新幹線の列車も停車する。
在来線は、線路名称上は東北本線・磐越西線・磐越東線の3路線が乗り入れている。このうち東北本線を当駅の所属線とし、また磐越西線は当駅が起点、磐越東線は当駅が終点である。このほか、水戸駅を起点とし、東北本線の当駅の南隣にある安積永盛駅を終点とする水郡線の列車も当駅まで乗り入れており、前述の各線と合わせると5方面の列車が当駅を発着している。
直営駅(駅長・副駅長配置)であり、管理駅として以下の駅を管理している。
新幹線は、構内西側の3階にある島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線、合計2面3線のホームを使用する。両ホームの間には通過線2線が引かれている。在来線は、構内東側の1階にある島式ホーム2面4線と単式ホーム1面1線、また島式ホームの南側・安積永盛方にある切欠きホーム1線、合計3面6線のホームを使用する。線名は駅舎側から、下り4番線(1番線ホーム)、下り3番線、磐越西線(2番線ホーム)、水郡線(3番線ホーム、切欠き)、下り東北本線(4番線ホーム)、上り東北本線(5番線ホーム)、磐越東線(6番線ホーム)、(以下側線)となっている。2番線の上り方面先端の西側が切り欠かれており、ここが3番線ホームとなっている。
以前は改札口 - 1番線 - 島式ホーム(1・2番) - 2番線という構成であったが、1番線の線路を撤去後しばらくしてから中央改札口から2番線ホーム(現在の1番ホーム)に直接移動できるように改修され、単式ホームとなった。旧1番線撤去後しばらくの間、番線表示は2 - 6番線と水郡ホーム(当時は番線表示がなかった)となっていたが、2007年春のダイヤ改正で1番線 - 6番線となった。
1階在来線中央口に繋がる地下道と、2階新幹線乗り換え・北口改札に繋がる跨線橋で各ホームは行き来できる。ただし、地下道は階段のみ、跨線橋には上下エスカレータとエレベーターも設置されている。各線の上野方には荷物運搬用のエレベーターと跨線橋(テルハ)が残されている。
改札内にNEWDAYS、無人型のNewDays KIOSK(ホーム上)などの売店や立食いそば店(新幹線改札内、かつては在来線ホーム上にもあった)があり、改札外ではエキナカやエスパル、ピボットなどの商業施設のほかJR東日本の子会社や技術センターなどが入っている。
2015年4月からは「JR東日本郡山駅発車メロディ変更プロジェクト」の一環で、郡山ゆかりのアーティスト、GReeeeNの楽曲に変更された。新幹線ホームは「キセキ」、在来線ホームは「扉」が使用されている。
JR貨物の駅は、専用線発着車扱貨物の取扱駅となっている。
旅客ホーム6番線の外側から、磐越東線に並走し1.5kmほど北上した場所にある日本オイルターミナル郡山営業所へ続く専用線が存在する。日本石油輸送がこの路線を保有しており、日本オイルターミナル向けの石油輸送に使用されている。また、専用線の終端には「郡山ヤード」と呼ばれる操車場があり、貨車の留置線として使用されている。駅構内の入換作業は、新鶴見機関区に所属するHD300形ハイブリッド機関車が担当している。
貨物列車は、千葉貨物駅との間に2往復、川崎貨物駅・仙台北港駅との間に1往復ずつ運行されている。千葉貨物駅との間の1往復は専用貨物列車、それ以外の列車はタキ1000形貨車のみで編成された高速貨物列車となっている。
かつては、駅東側の保土谷化学工業郡山工場への専用線も存在し、化学薬品の出荷などで使用されていたが、2001年9月に廃止された。また、1980年代までは日東紡績富久山事業センターや住友セメント郡山サービスステーションへ続く専用線も存在した。
主な駅弁は下記の通り。
2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は14,310人で、このうち新幹線の1日平均乗車人員は6,847人である。駅利用者数は、福島県内では1位である。
1935年度時点、および2000年度以降の推移は以下の通りである。
「郡山市統計書」によると、2018年度(平成30年度)のJR貨物の発送貨物は65,010トン、到着貨物は684,126トンである。1935年度(昭和10年度)には石材・米など226トンを送り出し、石炭・人造肥料など364トンを受け入れた。
近年の推移は以下のとおりである。
複合施設・百貨店
宿泊施設
教育施設
郵便局・金融機関
その他
複合商業施設
宿泊施設
教育施設
郵便局・金融機関
その他
「郡山駅前」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する。なお、1 - 11番ポールは、全て西口に設置されている。
このほか、スキー場直行臨時バスが6 - 7番ポールの間より発着する。
※山形新幹線の隣の駅の停車駅は列車記事もしくは山形新幹線を参照のこと。
|
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"text": "郡山駅(こおりやまえき)は、福島県郡山市字燧田(ひうちだ)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。",
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"text": "JR東日本の新幹線と在来線各線が乗り入れ、東西南北へ向かう路線の結節点となっている。",
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"text": "新幹線は、線路名称上は東北新幹線のみであるが、新幹線ホームには同新幹線の列車のほか、山形新幹線の列車も停車する。",
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"text": "在来線は、線路名称上は東北本線・磐越西線・磐越東線の3路線が乗り入れている。このうち東北本線を当駅の所属線とし、また磐越西線は当駅が起点、磐越東線は当駅が終点である。このほか、水戸駅を起点とし、東北本線の当駅の南隣にある安積永盛駅を終点とする水郡線の列車も当駅まで乗り入れており、前述の各線と合わせると5方面の列車が当駅を発着している。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "直営駅(駅長・副駅長配置)であり、管理駅として以下の駅を管理している。",
"title": "駅構造"
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"text": "新幹線は、構内西側の3階にある島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線、合計2面3線のホームを使用する。両ホームの間には通過線2線が引かれている。在来線は、構内東側の1階にある島式ホーム2面4線と単式ホーム1面1線、また島式ホームの南側・安積永盛方にある切欠きホーム1線、合計3面6線のホームを使用する。線名は駅舎側から、下り4番線(1番線ホーム)、下り3番線、磐越西線(2番線ホーム)、水郡線(3番線ホーム、切欠き)、下り東北本線(4番線ホーム)、上り東北本線(5番線ホーム)、磐越東線(6番線ホーム)、(以下側線)となっている。2番線の上り方面先端の西側が切り欠かれており、ここが3番線ホームとなっている。",
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"text": "以前は改札口 - 1番線 - 島式ホーム(1・2番) - 2番線という構成であったが、1番線の線路を撤去後しばらくしてから中央改札口から2番線ホーム(現在の1番ホーム)に直接移動できるように改修され、単式ホームとなった。旧1番線撤去後しばらくの間、番線表示は2 - 6番線と水郡ホーム(当時は番線表示がなかった)となっていたが、2007年春のダイヤ改正で1番線 - 6番線となった。",
"title": "駅構造"
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"text": "1階在来線中央口に繋がる地下道と、2階新幹線乗り換え・北口改札に繋がる跨線橋で各ホームは行き来できる。ただし、地下道は階段のみ、跨線橋には上下エスカレータとエレベーターも設置されている。各線の上野方には荷物運搬用のエレベーターと跨線橋(テルハ)が残されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "改札内にNEWDAYS、無人型のNewDays KIOSK(ホーム上)などの売店や立食いそば店(新幹線改札内、かつては在来線ホーム上にもあった)があり、改札外ではエキナカやエスパル、ピボットなどの商業施設のほかJR東日本の子会社や技術センターなどが入っている。",
"title": "駅構造"
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"text": "2015年4月からは「JR東日本郡山駅発車メロディ変更プロジェクト」の一環で、郡山ゆかりのアーティスト、GReeeeNの楽曲に変更された。新幹線ホームは「キセキ」、在来線ホームは「扉」が使用されている。",
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"text": "JR貨物の駅は、専用線発着車扱貨物の取扱駅となっている。",
"title": "貨物取扱・専用線"
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"text": "旅客ホーム6番線の外側から、磐越東線に並走し1.5kmほど北上した場所にある日本オイルターミナル郡山営業所へ続く専用線が存在する。日本石油輸送がこの路線を保有しており、日本オイルターミナル向けの石油輸送に使用されている。また、専用線の終端には「郡山ヤード」と呼ばれる操車場があり、貨車の留置線として使用されている。駅構内の入換作業は、新鶴見機関区に所属するHD300形ハイブリッド機関車が担当している。",
"title": "貨物取扱・専用線"
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"text": "貨物列車は、千葉貨物駅との間に2往復、川崎貨物駅・仙台北港駅との間に1往復ずつ運行されている。千葉貨物駅との間の1往復は専用貨物列車、それ以外の列車はタキ1000形貨車のみで編成された高速貨物列車となっている。",
"title": "貨物取扱・専用線"
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"text": "かつては、駅東側の保土谷化学工業郡山工場への専用線も存在し、化学薬品の出荷などで使用されていたが、2001年9月に廃止された。また、1980年代までは日東紡績富久山事業センターや住友セメント郡山サービスステーションへ続く専用線も存在した。",
"title": "貨物取扱・専用線"
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"text": "主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅弁"
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"text": "2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は14,310人で、このうち新幹線の1日平均乗車人員は6,847人である。駅利用者数は、福島県内では1位である。",
"title": "利用状況"
},
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"text": "1935年度時点、および2000年度以降の推移は以下の通りである。",
"title": "利用状況"
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"text": "「郡山市統計書」によると、2018年度(平成30年度)のJR貨物の発送貨物は65,010トン、到着貨物は684,126トンである。1935年度(昭和10年度)には石材・米など226トンを送り出し、石炭・人造肥料など364トンを受け入れた。",
"title": "利用状況"
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"text": "近年の推移は以下のとおりである。",
"title": "利用状況"
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"text": "複合施設・百貨店",
"title": "駅周辺"
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"text": "宿泊施設",
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"text": "その他",
"title": "駅周辺"
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"text": "複合商業施設",
"title": "駅周辺"
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"text": "宿泊施設",
"title": "駅周辺"
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"text": "教育施設",
"title": "駅周辺"
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"text": "郵便局・金融機関",
"title": "駅周辺"
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"text": "その他",
"title": "駅周辺"
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"text": "「郡山駅前」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する。なお、1 - 11番ポールは、全て西口に設置されている。",
"title": "バス路線"
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"text": "このほか、スキー場直行臨時バスが6 - 7番ポールの間より発着する。",
"title": "バス路線"
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"text": "※山形新幹線の隣の駅の停車駅は列車記事もしくは山形新幹線を参照のこと。",
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郡山駅(こおりやまえき)は、福島県郡山市字燧田(ひうちだ)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。
|
{{駅情報
|社色= #008000
|文字色=
|駅名= 郡山駅
|画像= JREastKoriyamaStn201504.JPG
|pxl= 300
|よみがな= こおりやま
|ローマ字= Kōriyama
|画像説明= 西口(2015年4月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|37|23|52|N|140|23|18|E}}}}
|電報略号= コリ
|所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br /> [[日本貨物鉄道]](JR貨物)
|所在地= [[福島県]][[郡山市]]字燧田195
|座標= {{Coord|37|23|52|N|140|23|18|E|region:JP-07_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日= [[1887年]]([[明治]]20年)[[7月16日]]<ref name="zeneki50-10">[[#zeneki50|全駅50号]]、p.10。</ref>
|廃止年月日=
|駅構造= [[高架駅]](新幹線)<br />[[橋上駅]](在来線)
|ホーム= 2面3線(新幹線)<ref name="zeneki50-5">[[#zeneki50|全駅50号]]、p.5。</ref><br />3面6線(在来線)<ref name="zeneki50-5"/>
|乗車人員= {{Smaller|(新幹線)-2022年-}}<br />6,847人/日(降車客含まず)<hr />{{Smaller|(合計)-2022年-}}<br />14,310
|統計年度=
|乗入路線数= 6
|所属路線1= {{Color|green|■}}[[東北新幹線]]<br />({{Color|#ee7b28|■}}[[山形新幹線]])
|前の駅1= [[新白河駅|新白河]]
|駅間A1= 41.3
|駅間B1= 46.1
|次の駅1= [[福島駅 (福島県)|福島]]
|キロ程1= 226.7
|起点駅1= [[東京駅|東京]]
|所属路線2= {{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]]<br />({{Color|#368c44|■}}[[水郡線]]直通含む)
|前の駅2= {{Refnest|group="*"|この間に[[郡山貨物ターミナル駅]]有り<ref name="zeneki50-5"/>(東京起点 223.4 km)。}}[[安積永盛駅|安積永盛]]
|駅間A2= 4.9
|駅間B2= 5.7
|次の駅2= [[日和田駅|日和田]]
|キロ程2= 226.7
|起点駅2= 東京
|所属路線3= {{Color|#cb7b35|■}}[[磐越西線]]
|前の駅3=
|駅間A3=
|駅間B3= 3.4
|次の駅3= [[郡山富田駅|郡山富田]]
|キロ程3= 0.0
|起点駅3= 郡山
|所属路線4= {{Color|mediumvioletred|■}}[[磐越東線]]
|前の駅4= [[舞木駅|舞木]]
|駅間A4= 5.8
|駅間B4=
|次の駅4=
|キロ程4= 85.6
|起点駅4= [[いわき駅|いわき]]
|備考= [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有
|備考全幅= {{Reflist|group="*"}}
}}
[[ファイル:JR East Kōriyama Station East Exit.jpg|thumb|東口(2022年9月)]]
'''郡山駅'''(こおりやまえき)は、[[福島県]][[郡山市]]字燧田(ひうちだ)にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本の新幹線と在来線各線が乗り入れ、東西南北へ向かう路線の結節点となっている。
新幹線は、線路名称上は[[東北新幹線]]のみであるが、新幹線ホームには同新幹線の列車のほか、[[山形新幹線]]の列車も停車する。
在来線は、線路名称上は[[東北本線]]・[[磐越西線]]・[[磐越東線]]の3路線が乗り入れている<ref name="zeneki50-5"/>。このうち東北本線を当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]とし、また磐越西線は当駅が起点、磐越東線は当駅が終点である。このほか、[[水戸駅]]を起点とし、東北本線の当駅の南隣にある[[安積永盛駅]]を終点とする[[水郡線]]の列車も当駅まで乗り入れており、前述の各線と合わせると5方面の列車が当駅を発着している。
== 歴史 ==
[[ファイル:Fukushima Koriyama Station in 1935.JPG|thumb|駅舎(1935年)]]
[[ファイル:Kōriyama Station.1975.jpg|thumb|駅周辺の空中写真(1975年11月)<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1887年]]([[明治]]20年)
** [[7月16日]]:[[日本鉄道]]の駅([[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]])として開業<ref name="zeneki50-10"/>。当時は[[終着駅]]<ref name="zeneki50-10"/>。
** [[12月15日]]:日本鉄道線が[[仙台駅]]方面まで開業<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1898年]](明治31年)[[7月26日]]:[[岩越鉄道]]の駅が開業、同社線が[[中山宿駅]]まで開業<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1900年]](明治33年):駅舎改築(二代目)<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道・岩越鉄道が[[鉄道国有法]]により国有化、[[官設鉄道]]の駅となる<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により、東北本線所属駅となる<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[7月23日]]:洋風木造駅舎に改築(三代目)<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1914年]](大正3年)[[7月21日]]:平郡西線(現在の磐越東線)が[[三春駅]]まで開業<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1945年]]([[昭和]]20年)[[4月12日]]:[[郡山空襲]]で死者10名を出す惨事<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1951年]](昭和26年)[[1月30日]]<ref group="注">『仙台鉄道管理局40年史』によれば2月</ref>:鉄筋コンクリート造2階建ての駅舎に改築(四代目)<ref name="zeneki50-10"/><ref>『仙台鉄道管理局40年史』仙台鉄道管理局、1960年、216頁</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)[[12月19日]]:日本オイルターミナル郡山営業所が営業開始<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1970年]](昭和45年)5月:日本石油輸送が郡山ヤードを設置<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1975年]](昭和50年)[[10月1日]]:現駅舎のうち1・2階部分のみ開業<ref group="新聞">{{Cite news |title=郡山新駅舎が開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1975-10-04 |page=1 }}</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)[[7月1日]]:現駅舎に改築(五代目)<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1982年]](昭和57年)[[6月23日]]:東北新幹線が開業<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]によりJR東日本・JR貨物の駅となる<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[4月17日]]:駅構内に[[食品館ピボット|ピボット]]が開業<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)[[12月9日]]:新幹線改札口に自動改札機を導入。
* [[2004年]](平成16年)[[11月20日]]:1階にあったみどりの窓口とびゅうプラザを2階に移転<ref name="zeneki50-10"/>。
* [[2005年]](平成17年)
** [[3月1日]]:みどりの窓口内に指定席券売機を導入。
** [[3月19日]]:[[エキナカ]]がオープン<ref name="zeneki50-10"/>。
** [[3月21日]]:フードバザーがオープン。
** 4月1日:在来線の1階中央改札口に自動改札機を導入。
* [[2006年]](平成18年)2月:在来線連絡橋にエレベーターが完成。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:ダイヤ改正により在来線のホーム番線の変更<ref name="zeneki50-10"/>。2 - 6番線・水郡ホームから1 - 6番線に改称。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:[[モバイルSuica]]特急券のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071215.pdf|title=2008年3月15日(土)、モバイルSuica特急券のサービス開始!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2007-12-21|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161002133542/https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071215.pdf|archivedate=2020-05-25}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)
** 1月30日:2階在来線エスパル改札口(北口)に自動改札機を導入。
** [[3月14日]]:在来線(東北本線・磐越東線)における[[ICカード]]「[[Suica]]」及び東北新幹線郡山 - 仙台間のSuica [[FREX]]定期券・Suica FREXパル定期券と、新幹線停車駅が2駅以上含まれるSuica定期券のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|title=Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2008-12-22|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200524150337/https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|archivedate=2020-05-25}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)4月1日:磐越西線の一部の駅でICカード「Suica」が利用可能になる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf|title=Suicaの一部サービスをご利用いただける駅が増えます|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013-11-29|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200525143648/https://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf|archivedate=2020-05-25}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** 4月1日:[[発車メロディ]]が[[GReeeeN]]の楽曲に変更になる<ref name="melody">{{Cite web|和書|url=http://greeeen.co.jp/news/2624.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201031090734/http://greeeen.co.jp/news/2624.html|title=GReeeeN「キセキ」と「扉」がJR郡山駅の新幹線・在来線の発車メロディに決定!|date=2015-03-27|archivedate=2020-10-31|accessdate=2020-11-07|website=[http://greeeen.co.jp/ GReeeeN オフィシャルサイト]|language=日本語}}</ref><ref group="新聞" name="news20150402">{{Cite news|url=http://www.minpo.jp/news/detail/2015040221915|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150403074545/http://www.minpo.jp/news/detail/2015040221915|title=JR郡山駅の発車メロディー変更祝う|newspaper=福島民報|date=2015-04-02|accessdate=2020-11-07|archivedate=2015-04-03}}</ref>。
** 10月1日:須賀川駅委託化に伴い、[[鏡石駅]]・[[須賀川駅]]が当駅管理となる。
* [[2016年]](平成28年)
** 4月1日:三春駅委託化に伴い、[[赤井駅]] - [[舞木駅]]間の[[磐越東線]]各駅が当駅管理となる。
** 同年:[[転車台]]は「磐越西線鉄道施設群」の一部として、[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.general-museum.fks.ed.jp/02_moyoshi/09_other_kouza/20161210_2.pdf |title=平成28年度 土木学会選奨土木遺産 認定 磐越西線鉄道施設群 |access-date=2022年6月9日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180302164239/http://www.general-museum.fks.ed.jp/02_moyoshi/09_other_kouza/20161210_2.pdf |deadlinkdate=2022/06/09 |archive-date=2 Mar 2018 |publisher=[[福島県立博物館]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=土木学会 平成28年度選奨土木遺産 磐越西線鉄道施設群 |url=http://www.jsce.or.jp/contents/isan/files/2016_03.shtml |website=www.jsce.or.jp |access-date=2022-06-09}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[2月1日]]:びゅうプラザを[[びゅうトラベルサービス]]に移管する。
** 11月1日:北口改札、新幹線乗換口、乗換窓口が業務委託化。
* [[2019年]]([[令和]]元年)6月:新白河駅・福島駅・小野新町駅の無人駅管理業務を当駅に移管。
* [[2020年]](令和2年)
** [[2月29日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=675 |title=駅の情報(郡山駅):JR東日本|accessdate=2020-02-14|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://archive.ph/EHgq7|archivedate=2020-02-14}}</ref>。
** 3月14日:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/北海道旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226110513/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-02-26}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
** [[1月14日]]:中央口改札外に駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」のブース型「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 1/14(木) 郡山駅にSTATION BOOTHが2台開業しました!|publisher=STATION WORK|date=2021-01-14|accessdate=2021-02-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128150907/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2021-01-28}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/sendai/20201223_s02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201223091624/https://www.jreast.co.jp/press/2020/sendai/20201223_s02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が郡山駅へ拡大|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2020-12-23|accessdate=2020-12-23|archivedate=2020-12-23}}</ref>。
** [[2月13日]]:同日発生した[[福島県沖地震 (2021年)|福島県沖地震]]の影響により、駅構内が漏水する被害が発生<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210214_ho01.pdf|title=福島県沖で発生した地震による東北新幹線の被災状況と今後の見通しについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-02-14|accessdate=2021-03-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210214184015/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210214_ho01.pdf|archivedate=2021-02-14}}</ref>。
** [[3月13日]]:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113025314/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|archivedate=2020-11-13}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)10月1日:福島統括センター発足に伴い、旧福島駅管理エリアを再移管。
== 駅構造 ==
[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]・[[助役 (鉄道)|副駅長]]配置)であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として以下の駅を管理している。
* [[東北本線]]:[[白坂駅|白坂]] - [[本宮駅 (福島県)|本宮駅]](自駅管理の[[新白河駅]]を除く)
* [[磐越西線]]:[[郡山富田駅|郡山富田]] - [[中山宿駅]]
* [[磐越東線]]:[[赤井駅|赤井]] - [[舞木駅]]<ref group="注">水戸支社管轄のいわき駅を除く全駅</ref>
新幹線は、構内西側の3階にある島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線、合計2面3線のホームを使用する<ref name="zeneki50-9"/>。両ホームの間には通過線2線が引かれている。在来線は、構内東側の1階にある[[島式ホーム]]2面4線と[[単式ホーム]]1面1線、また島式ホームの南側・安積永盛方にある[[切欠きホーム]]1線、合計3面6線のホームを使用する<ref name="zeneki50-9">[[#zeneki50|全駅50号]]、p.9。</ref>。線名は駅舎側から、下り4番線(1番線ホーム)、下り3番線、磐越西線(2番線ホーム)、水郡線(3番線ホーム、切欠き)、下り東北本線(4番線ホーム)、上り東北本線(5番線ホーム)、磐越東線(6番線ホーム)、(以下側線)となっている<ref name="zeneki50-5"/><ref name="zeneki50-9"/>。2番線の上り方面先端の西側が切り欠かれており、ここが3番線ホームとなっている<ref name="zeneki50-5"/><ref name="zeneki50-9"/>。
以前は改札口 - 1番線 - 島式ホーム(1・2番) - 2番線という構成であったが、1番線の線路を撤去後しばらくしてから中央改札口から2番線ホーム(現在の1番ホーム)に直接移動できるように改修され、単式ホームとなった。旧1番線撤去後しばらくの間、番線表示は2 - 6番線と水郡ホーム(当時は番線表示がなかった)となっていたが、2007年春のダイヤ改正で1番線 - 6番線となった。
1階在来線中央口に繋がる地下道と、2階新幹線乗り換え・北口改札に繋がる[[跨線橋]]で各ホームは行き来できる<ref name="zeneki50-9"/>。ただし、地下道は階段のみ、跨線橋には上下[[エスカレータ]]と[[エレベーター]]も設置されている<ref name="zeneki50-9"/>。各線の上野方には荷物運搬用のエレベーターと跨線橋([[テルハ]])が残されている<ref name="zeneki50-8"/>。
改札内に[[NewDays|NEWDAYS]]、無人型の[[キヨスク|NewDays KIOSK]](ホーム上)などの売店や立食いそば店(新幹線改札内、かつては在来線ホーム上にもあった)があり、改札外ではエキナカや[[エスパル]]<ref name="zeneki50-8">[[#zeneki50|全駅50号]]、p.8。</ref>、[[食品館ピボット|ピボット]]<ref name="zeneki50-8"/>などの商業施設のほかJR東日本の子会社や技術センターなどが入っている。
2015年4月からは「JR東日本郡山駅[[発車メロディ]]変更プロジェクト」の一環で、郡山ゆかりのアーティスト、[[GReeeeN]]の楽曲に変更された。新幹線ホームは「[[キセキ (GReeeeNの曲)|キセキ]]」、在来線ホームは「[[扉 (GReeeeNの曲)|扉]]」が使用されている<ref name="melody"/><ref group="新聞" name="news20150402"/>。
=== のりば ===
<!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
|colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;"|'''在来線 地上ホーム'''
|-
! 1
|{{Color|#cb7b35|■}}磐越西線
| style="text-align:center" | 下り
|[[猪苗代駅|猪苗代]]・[[会津若松駅|会津若松]]方面<ref name="stations/675">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/stations/675.html|title=駅構内図(郡山駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-05}}</ref>
|
|-
!rowspan="2"| 2・4・5
|rowspan="2"|{{Color|mediumseagreen|■}}東北本線
| style="text-align:center" | 上り
|[[白河駅|白河]]・[[黒磯駅|黒磯]]方面<ref name="stations/675" />
|一部1・6番線
|-
| style="text-align:center" | 下り
|[[二本松駅|二本松]]・[[福島駅 (福島県)|福島]]方面<ref name="stations/675" />
|
|-
! 3
|{{Color|#368c44|■}}水郡線
| style="text-align:center" | -
|[[磐城石川駅|磐城石川]]・[[水戸駅|水戸]]方面<ref name="stations/675" />
|
|-
! 6
|{{Color|mediumvioletred|■}}磐越東線
| style="text-align:center" | 上り
|[[三春駅|三春]]・[[いわき駅|いわき]]方面<ref name="stations/675" />
|
|-
|colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;"|'''新幹線 高架ホーム'''
|-
! 11
|rowspan="2"|[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北新幹線
| style="text-align:center" | 上り
|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[東京駅|東京]]方面<ref name="stations/675" />
|当駅始発の「なすの」
|-
!rowspan="2"| 12
|rowspan="2" style="text-align:center" |下り
|福島・[[仙台駅|仙台]]・[[盛岡駅|盛岡]]方面<ref name="stations/675" />
|rowspan="2"|
|-
|[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 山形新幹線
|[[米沢駅|米沢]]・[[山形駅|山形]]・[[新庄駅|新庄]]方面<ref name="stations/675" />
|-
! 13
|[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北新幹線
| style="text-align:center" | 上り
|大宮・東京方面<ref name="stations/675" />
|「やまびこ」・「つばさ」
|}
<gallery caption="新幹線" widths="200" style="font-size:90%;">
JR Koriyama Station Shinkansen Central Gates.jpg|新幹線中央改札(2021年10月)
JR Koriyama Station Shinkansen North Exit (S-PAL Exit) Gates and JR Line・Shinkansen Transfer Gates.jpg|新幹線北口(エスパル口)改札(左)と在来線・新幹線乗換改札口(右)(2021年10月)
JR Koriyama Station Shinkansen North Exit (S-PAL Exit) Gates.jpg|新幹線北口(エスパル口)改札(2021年10月)
JR Koriyama Station Shinkansen Platform 11・12.jpg|新幹線11・12番線ホーム(2021年10月)
JR Koriyama Station Shinkansen Platform 13.jpg|新幹線13番線ホーム(2021年10月)
</gallery>
<gallery caption="在来線" widths="200" style="font-size:90%;">
JR Koriyama Station JR Line Central Gates.jpg|在来線中央改札(2021年10月)
JR Koriyama Station JR Line North Exit (S-PAL Exit) Gates.jpg|在来線北口(エスパル口)改札(2021年10月)
JR Koriyama Station JR Line Platform 1.jpg|在来線1番線ホーム(2021年10月)
JR Koriyama Station JR Line Platform 2・4.jpg|在来線2・4番線ホーム(2021年10月)
JR Kōriyama Station Platform 3.jpg|在来線3番線ホーム(2022年5月)
JR Koriyama Station JR Line Platform 5・6.jpg|在来線5・6番線ホーム(2021年10月)
</gallery>
== 貨物取扱・専用線 ==
[[ファイル:20090715日本オイルターミナル郡山.jpg|thumb|日本オイルターミナル専用線]]
JR貨物の駅は、[[専用鉄道|専用線]]発着[[車扱貨物]]の取扱駅となっている。
旅客ホーム6番線の外側から、磐越東線に並走し1.5kmほど北上した場所にある[[日本オイルターミナル]]郡山営業所へ続く専用線が存在する<ref name="zeneki50-5"/>。[[日本石油輸送]]がこの路線を保有しており、日本オイルターミナル向けの[[石油]]輸送に使用されている。また、専用線の終端には「郡山ヤード」と呼ばれる[[操車場 (鉄道)|操車場]]があり、[[貨車]]の留置線として使用されている。駅構内の入換作業は、[[新鶴見機関区]]に所属する[[JR貨物HD300形ハイブリッド機関車|HD300形ハイブリッド機関車]]が担当している。
[[貨物列車]]は、[[千葉貨物駅]]との間に2往復、[[川崎貨物駅]]・[[仙台北港駅]]との間に1往復ずつ運行されている。千葉貨物駅との間の1往復は[[専用貨物列車]]、それ以外の列車は[[JR貨物タキ1000形貨車|タキ1000形貨車]]のみで編成された[[高速貨物列車]]となっている。
かつては、駅東側の[[保土谷化学工業]]郡山工場への専用線も存在し、化学薬品の出荷などで使用されていたが、[[2001年]]9月に廃止された。また、[[1980年代]]までは[[日東紡績]]富久山事業センターや[[住友大阪セメント|住友セメント]][[セメント包装所|郡山サービスステーション]]へ続く専用線も存在した。
== 駅弁 ==
主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=77,585}}</ref>。
{{Div col||20em}}
* 海苔のり弁887
* 福豆屋の牛めし
* 小原庄助べんとう
* 会津を紡ぐわっぱめし
* 海苔のりべん
{{Div col end}}
== 利用状況 ==
=== 旅客 ===
2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は'''14,310人'''<ref group="旅客" name="passenger/2022_02" />で、このうち新幹線の1日平均乗車人員は'''6,847人'''<ref group="新幹線" name="passenger/2022_shinkansen" />である。駅利用者数は、福島県内では1位である<ref>{{Cite web|和書|title=トップ10に意外な駅も!?1日平均乗客数 福島県 {{!}} 福島のニュース│TUF (1ページ) |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tuf/589913 |website=TUF NEWS |date=2023-07-08 |access-date=2023-09-23 |language=ja}}</ref>。
1935年度時点、および2000年度以降の推移は以下の通りである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="3"|1日平均乗車人員推移
|-
!年度
!計
!新幹線
|-
|1935年(昭和10年)
|2,215<ref name="鉄道省・編『改版日本案内紀・東北篇』、博文館、1937年、55頁。">鉄道省・編『改版日本案内紀・東北篇』、博文館、1937年、55頁。</ref>
|
|-
|2000年(平成12年)
|18,834<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2001年(平成13年)
|18,931<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2002年(平成14年)
|18,415<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2003年(平成15年)
|18,353<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2004年(平成16年)
|18,434<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2005年(平成17年)
|18,355<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2006年(平成18年)
|18,380<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2007年(平成19年)
|18,249<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2008年(平成20年)
|17,716<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2009年(平成21年)
|17,217<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2010年(平成22年)
|16,417<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2011年(平成23年)
|15,904<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|
|-
|2012年(平成24年)
|17,382<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|8,597<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|17,931<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|8,988<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|17,747<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|8,952<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|18,142<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|9,221<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|18,110<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|9,242<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|18,071<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|9,283<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-12}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|18,009<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref>
|9,302<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|17,508<ref group="旅客">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-10}}</ref>
|9,024<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-10}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|11,438<ref group="旅客" name="passenger/2020_02">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|4,669<ref group="新幹線" name="passenger/2020_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|12,429<ref group="旅客" name="passenger/2021_02">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref>
|5,322<ref group="新幹線" name="passenger/2021_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|14,310<ref group="旅客" name="passenger/2022_02">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-12}}</ref>
|6,847<ref group="新幹線" name="passenger/2022_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-12}}</ref>
|}
=== 貨物 ===
「郡山市統計書」によると、2018年度(平成30年度)のJR貨物の発送貨物は65,010トン、到着貨物は684,126トンである<ref group="貨物" name="toukeisyo2019" />。1935年度(昭和10年度)には石材・米など226トンを送り出し、石炭・人造肥料など364トンを受け入れた<ref name="鉄道省・編『改版日本案内紀・東北篇』、博文館、1937年、55頁。"/>。
近年の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="4"|貨物輸送推移
|-
!年度
!発送
!到着
!出典
|-
|2002年(平成14年)
|71,312
|718,243
|rowspan="5"|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=http://www.city.koriyama.fukushima.jp/061000/toke/documents/2511_19tk08unnyutuusin.pdf|title=8.運輸・通信|format=PDF|page=136,137|publisher=郡山市|work=[http://www.city.koriyama.fukushima.jp/061000/toke/tokesho.html 郡山市統計書 平成19年版]|date=2008-03|accessdate=2019-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190212075055/http://www.city.koriyama.fukushima.jp/061000/toke/documents/2511_19tk08unnyutuusin.pdf|archivedate=2019-02-12}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|69,262
|697,298
|-
|2004年(平成16年)
|67,836
|690,608
|-
|2005年(平成17年)
|70,182
|721,947
|-
|2006年(平成18年)
|65,113
|680,000
|-
|2007年(平成19年)
|62,965
|660,272
|rowspan="5"|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=http://www.city.koriyama.fukushima.jp/061000/toke/documents/2511_24tk08unyutuusin_2.pdf|title=8.運輸・通信|format=PDF|page=134,135|publisher=郡山市|work=[http://www.city.koriyama.fukushima.jp/061000/toke/tokesho.html 郡山市統計書 平成24年版]|date=2013-03|accessdate=2019-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190212074518/http://www.city.koriyama.fukushima.jp/061000/toke/documents/2511_24tk08unyutuusin_2.pdf|archivedate=2019-02-12}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|53,817
|569,248
|-
|2009年(平成21年)
|54,539
|577,394
|-
|2010年(平成22年)
|56,544
|602,144
|-
|2011年(平成23年)
|60,757
|644,861
|-
|2012年(平成24年)
|62,902
|666,317
|rowspan="5"|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=https://www.city.koriyama.lg.jp/material/files/group/45/h29toukei.pdf|title=郡山市統計書 平成29年版|format=PDF|publisher=郡山市|page=120,121|date=2018-03|accessdate=2020-08-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200811074402/https://www.city.koriyama.lg.jp/material/files/group/45/h29toukei.pdf|archivedate=2020-08-11}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|64,344
|683,959
|-
|2014年(平成26年)
|61,452
|653,396
|-
|2015年(平成27年)
|61,628
|657,398
|-
|2016年(平成28年)
|63,243
|673,776
|-
|2017年(平成29年)
|65,402
|696,170
|<ref group="貨物">{{Cite web|和書|url=http://www.city.koriyama.lg.jp/material/files/group/45/H30toukei.pdf|title=郡山市統計書 平成30年版|format=PDF|page=120,121|publisher=郡山市|date=2019-03|accessdate=2019-07-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190709044044/https://www.city.koriyama.lg.jp/material/files/group/45/H30toukei.pdf|archivedate=2019-07-09}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|65,010
|684,126
|<ref group="貨物" name="toukeisyo2019">{{Cite web|和書|url=https://www.city.koriyama.lg.jp/material/files/group/45/toukeisyo2019.pdf|title=郡山市統計書 令和元年版|format=PDF|page=120,121|publisher=郡山市|date=2020-03|accessdate=2020-08-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200811074201/https://www.city.koriyama.lg.jp/material/files/group/45/toukeisyo2019.pdf|archivedate=2020-08-11}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
{{ambox
| type = content
| section =
| text = このセクションは周辺施設の[[Wikipedia:雑多な内容を箇条書きした節を避ける|雑多な箇条書き]]で構成されており、内容も現在に偏り歴史的見地にも欠けています。文章による解説を中心に据え、施設の箇条書きは解説に必要な程度に絞り込む必要があります。
}}
[[ファイル:KoriyamaCity.jpg|thumb|駅周辺。手前が東口、奥が西口。]]
=== 西口 ===
'''複合施設・百貨店'''
* [[郡山ビッグアイ|ビッグアイ]]
** [[モルティ]](商業施設)
** [[福島県立郡山萌世高等学校]]
** [[郡山市ふれあい科学館]] - 展示の一つに当駅の歴代駅舎を再現した鉄道ジオラマがある<ref name="zeneki50-9"/>
* [[Ati郡山]](商業施設)
* [[うすい百貨店]]
* [[郡山スクエアビル]]
* ホテルプリシード郡山(2023年5月末閉館)<ref>{{Cite web|和書|date=2023-12-29|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20231229-828498.php|title=旧ホテルプリシード郡山に来春新規出店 東京のリオ・ホテルズ|publisher=福島民友新聞|accessdate=2023-12-29}}</ref>
* [[ダイワロイネットホテルズ|ダイワロイネットホテル]]郡山駅前 - 低層階に商業施設。[[丸井]]郡山店撤退後にビルを解体撤去し、跡地に[[大和ハウス工業]]が複合商業ビルを建設したもの<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.minpo.jp/news/detail/2014102518852|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129022013/https://www.minpo.jp/news/detail/2014102518852|title=郡山丸井跡地に複合商業施設 216室、テナント15区画|newspaper=福島民報|date=2014-10-25|accessdate=2020-11-07|archivedate=2014-11-29}}</ref>。
'''宿泊施設'''
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* 郡山シティホテル
* [[東横イン]]郡山
* [[チサンホテル]]郡山
* [[郡山ビューホテルアネックス]]
* [[郡山ビューホテル]]
* 郡山[[ワシントンホテル (藤田観光)|ワシントンホテル]]
* [[アパホテル]]郡山駅前
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* ホテルクラウンヒルズ郡山<!--(旧ホテルリッチフィールド郡山)-->
* ホテルグローバルビュー郡山
* セントラルホテル
* ホテル増花
* [[ドーミーイン]]EXPRESS郡山
</div>{{clear|left}}
'''教育施設'''
* 郡山情報ビジネス専門学校
* 今泉女子専門学校
* [[駿優予備学校]]郡山校
* 福島高等予備校郡山校
* [[東日本学院]]郡山本部校
'''郵便局・金融機関'''
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* 郡山駅前大通り郵便局
* 郡山駅前郵便局
* 郡山中町郵便局
* [[ゆうちょ銀行]][[郵便貯金福島県サポートセンター|郡山店]]
* [[ウリ信用組合]]福島支店
* [[郡山信用金庫]]本店
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[みずほ銀行]]郡山支店
* [[東邦銀行]]郡山駅前支店
* [[大東銀行]]本店
* [[秋田銀行]]郡山支店
* [[常陽銀行]]郡山支店
</div>{{clear|left}}
'''その他'''
* [[郡山テアトル]]1 - 8([[映画館]])
* [[郡山地方広域消防組合消防本部]]
** 郡山地方広域消防組合郡山消防署
* [[福島県道17号郡山停車場線]](駅前大通り)
* [[GReeeeN]]モニュメント『夢を開くこころの扉~扉の向こうには…笑顔~』 - 西口駅前広場内<ref name="zeneki50-9"/>
=== 東口 ===
'''複合商業施設'''
* [[イオンタウン郡山]]
* [[郡山駅東ショッピングセンター]]
'''宿泊施設'''
* [[ホテルアルファーワン]]郡山東口
* [[コンフォートホテル]]郡山
'''教育施設'''
* [[国際情報工科自動車大学校]]
* [[国際アート&デザイン専門学校]]
* [[国際ビューティ&フード大学校]]
* [[国際医療看護福祉大学校]]
* ケイセン公務員ビジネス専門学校
'''郵便局・金融機関'''
* 郡山方八町郵便局
* 大東銀行方八町支店
'''その他'''
* [[保土谷化学工業]]郡山工場
* [[ゲオフィットネス|SDフィットネス]](旧ビッグバンスポーツクラブ)郡山
* [[郡山総合車両センター#郡山派出所|郡山総合車両センター郡山派出所]]
* [[福島交通郡山支社]]
* [[公共職業安定所|ハローワーク]]郡山
* [[丘灯至夫]]作詞『[[高校三年生 (舟木一夫の曲)|高校三年生]]』歌碑 - 東口駅前広場内
* [[ヨークベニマル]]本社
* [[いわき平競輪場|いわき平競輪]]郡山場外
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
<!--1 - 11番ポールの系統・行先は、出典の福島交通の記載に準拠しています。ただし、経由地については[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載していません。-->
「郡山駅前」停留所にて、以下の路線バスや高速バスが発着する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukushima-koutu.co.jp/bus/bus_pool/koriyama/|title=福島交通 - 郡山駅前 バス乗り場|publisher=福島交通|accessdate=2022-05-04}}</ref>。なお、1 - 11番ポールは、全て西口に設置されている。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!ポール<!--福島交通の記載に準拠-->!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[福島交通]]
|向陽台団地<br />南タウン<br />柴宮団地<br />清陵情報高校<br />[[須賀川市|須賀川]]・並木町
|
|-
!2
|東山霊園<br />六軒<br />蓬田<br />安積団地<br />まちなか循環(南回り / 北回り)
|まちなか循環は土休日のみ運行
|-
!3
|小野駅前<br />日本大学<br />東部ニュータウン<br />荒井<br />まちなか循環(方八町回り / 方八町・イオンタウン回り)<br />星総合病院
|まちなか循環は平日のみ運行
|-
!rowspan="10"|4
|style="text-align:center;"|福島交通<br />[[宮城交通]]
|高速バス「[[仙台 - 郡山線|須賀川 - 郡山・仙台]]」:[[仙台駅のバス乗り場|仙台駅]]方面
|
|-
|style="text-align:center;"|福島交通<br />[[新潟交通]]
|高速バス「[[郡山 - 新潟線|郡山 - 新潟]]」:[[新潟駅]]方面
|
|-
|style="text-align:center;|福島交通<br />[[会津乗合自動車]]<br />[[新常磐交通]]
|高速バス「[[会津若松 - 郡山 - いわき線]]」:[[いわき駅]]方面 / [[会津若松駅]]方面
|
|-
|style="text-align:center;"|福島交通<br />[[近鉄バス]]
|高速バス「[[ギャラクシー号|福島 - 京都・大阪(ギャラクシー号)]]」:[[京都駅]]・[[東梅田駅|大阪梅田(東梅田駅)]]・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]方面
|
|-
|style="text-align:center;"|福島交通<br />[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]
|高速バス「[[あぶくま号|福島・郡山 - 新宿(あぶくま号)]]」:[[バスタ新宿]]方面
|
|-
|style="text-align:center;"|福島交通<br />[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]]
|高速バス「[[あだたら号|郡山 - 佐野・新越谷(あだたら号)]]」:[[佐野新都市バスターミナル]]・[[新越谷駅]]方面
|
|-
|style="text-align:center;"|福島交通<br />[[名鉄バス]]<br />[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]
|夜行高速バス「福島・郡山・宇都宮 - 名古屋」:[[名鉄バスセンター|名古屋・名鉄バスセンター]]方面
|
|-
|style="text-align:center;"|会津乗合自動車
|高速バス「喜多方・郡山線(喜多方ラーメンバス)」:塩川グリーンプラザ・喜多方営業所方面
|
|-
|style="text-align:center;"|会津乗合自動車
|高速バス「郡山・裏磐梯直通バス」:リステル猪苗代・裏磐梯高原・大塩裏磐梯温泉・喜多方営業所方面
|
|-
|rowspan="9" style="text-align:center;"|福島交通
|リムジンバス「郡山 - 福島空港」:[[福島空港]]
|
|-
!5
|百合ヶ丘<br />東部ニュータウン<br />あぶくま台
|
|-
!6
|八山田循環<br />フェスタ・[[本宮駅 (福島県)|本宮駅]]西口<br />富久山循環<br />宝沢レイクタウン<br />[[三春町|三春]]<br />[[船引駅]]前
|
|-
!7
|さくら循環<br />免許センター<br />カルチャーパーク
|
|-
!8
|百合ヶ丘<br />希望が丘・うねめ団地<br />[[磐梯熱海温泉|熱海]]<br />郡山西部工業団地<br />八山田循環
|
|-
!9
|あすなろ循環<br />免許センター<br />大槻<br />希望ヶ丘<br />新池下団地<br />静団地<br />尚志高校
|
|-
!10
|あすなろ循環<br />コスモス循環<br />大槻<br />希望ヶ丘・うねめ団地
|
|-
!11
|コスモス循環<br />鎗ヶ池団地<br />静団地<br />大槻<br />尚志高校
|
|-
!rowspan="2"|東口
|まちなか循環(南回り / 北回り)
|土休日のみ運行
|-
|style="text-align:center;"|[[桜交通]]
|高速バス:京都・大阪方面 / 新宿・東京・二俣新町方面
|
|}
このほか、スキー場直行臨時バスが6 - 7番ポールの間より発着する。
* [[裏磐梯]]線<ref>[https://www.fukushima-koutu.co.jp/upd/detail.php?update_id=2768&t=&f=2 グランデコスノーリゾートへのスキーバス「郡山~裏磐梯線」を運行いたします(2023年12月16日より)]</ref>(冬季運行、予約制)[[猪苗代駅]]経由グランデコスキーセンター・裏磐梯グランデコ東急ホテル(福島交通)
* あだたらスキー場シャトルバス<ref>[http://www.fukushima-koutu.co.jp/upd/detail.php?update_id=1339&t=&f=2 あだたら高原スキー場シャトルバスの運行]</ref>(冬季運行、予約制)あだたら高原スキー場(福島交通)
* 箕輪スキー場<ref>[http://www.fukushima-koutu.co.jp/upd/detail.php?update_id=1337&t=&f=2 箕輪スキー場線(福島交通)]</ref>(スキーシーズンのみ運行、予約制(福島交通)
* ネコママウンテン・磐梯山温泉ホテル<ref>[https://www.aizubus.com/sightseeing/bus/nekoma-line 会津バスでネコマ マウンテンへ行こう!(会津バス)]</ref>(スキーシーズンのみ運行、予約制(会津バス)
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
郡山駅 - panoramio_(9).jpg|西口バスのりば(2013年11月)
</gallery>
== その他 ==
* 「機能的かつ都会的な美しい駅前広場」として、[[2002年]](平成14年)、[[東北の駅百選]]に認定された。
* [[奈良県]][[大和郡山市]]の[[関西本線]][[郡山駅 (奈良県)|郡山駅]]と区別するため、近距離および新幹線停車駅発着の乗車券類には以前「(北)郡山」と印字されていたが、新型の自動券売機に更新された際に印字は廃止され、「郡山」と印字されている。最近までは、2階の新幹線中央改札口にある自動券売機は、従来のまま「(北)郡山」と印字されていたが、リニューアル工事に伴った券売機更新によって、「(北)郡山」の印字は廃止された。それ以外の長距離乗車券は「(北)郡山」の印字がされる。
* 東口は40分まで駐車料金が無料の駐車場がある。(西口駐車場は駅前広場改修工事の為2015年10月1日廃止。)
* [[2009年]][[3月14日]]より、東北新幹線(郡山 - 仙台間)のSuicaFREX定期券、東北本線(矢吹 - 白石間)、磐越東線(郡山 - 船引間)に、[[2014年]][[4月1日]]より磐越西線(郡山 - 喜多方間)のうち、磐梯熱海、猪苗代、会津若松、喜多方の各相互駅間で[[Suica]]が導入された。なお新幹線は2008年3月15日に[[モバイルSuica]]特急券のサービスを開始している。
*[[事務管理コード]]は▲231007<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref> を使用している。
== 隣の駅 ==
※山形新幹線の隣の駅の停車駅は列車記事もしくは[[山形新幹線]]を参照のこと。<!--東北新幹線内のうち大宮駅 - 仙台駅間で全ての列車が停車しない駅が存在するため、両隣の停車駅および通過するものの記載はなしでお願いします。列車記事ならびに路線記事へのリンクのみにしてください。-->
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北新幹線
::: [[新白河駅]] - '''郡山駅''' - [[福島駅 (福島県)|福島駅]]
: {{Color|mediumseagreen|■}}東北本線
::: [[安積永盛駅]] - (貨)[[郡山貨物ターミナル駅]] - '''郡山駅''' - [[日和田駅]]
: {{Color|#368c44|■}}水郡線(安積永盛駅 - 当駅間東北本線)
::: 安積永盛駅 - (貨)郡山貨物ターミナル駅 - '''郡山駅'''
: {{Color|#cb7b35|■}}磐越西線
:: {{Color|red|□}}快速(「[[あいづ]]」を含む)・{{Color|gray|■}}普通
::: '''郡山駅''' - [[郡山富田駅]]
: {{Color|mediumvioletred|■}}磐越東線 <!-- 起点(いわき駅)側を左に配置 -->
::: [[舞木駅]] - '''郡山駅'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2|refs=
<ref name="zeneki50-9">[[#zeneki50|全駅50号]]、p.9。</ref>
}}
==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"}}
==== 新聞記事 ====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
==== 旅客 ====
{{Reflist|group="旅客"|3}}
; 新幹線
{{Reflist|group="新幹線"|3}}
==== 貨物 ====
{{Reflist|group="貨物"}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =50号 郡山駅・会津若松駅・三春駅ほか |date =2013-8-4 |ref =zeneki50 }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[郡山駅 (奈良県)]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=675|name=郡山}}
* [https://www.s-pal.jp/koriyama/ S-PAL郡山]
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{東北新幹線}}
{{山形新幹線}}
{{東北本線}}
{{水郡線}}
{{磐越西線}}
{{磐越東線}}
{{鉄道路線フッター}}
{{東北の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:こおりやまえき}}
[[Category:郡山駅 (福島県)|*]]
[[Category:郡山市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 こ|おりやま]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本貨物鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東北本線]]
[[Category:東北新幹線]]
[[Category:日本鉄道の鉄道駅]]
[[Category:岩越鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1887年開業の鉄道駅]]
[[Category:磐越西線]]
[[Category:磐越東線]]
[[Category:土木学会選奨土木遺産]]
[[Category:1880年代日本の設立]]
|
2003-07-18T01:37:53Z
|
2023-12-29T05:11:14Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E5%B1%B1%E9%A7%85_(%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C)
|
11,630 |
磐越西線
|
磐越西線(ばんえつさいせん)は、福島県郡山市の郡山駅から福島県会津若松市の会津若松駅を経由して新潟県新潟市秋葉区の新津駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。名称の由来については「磐越」を参照。
歴史は古く当初、郡山駅 - 喜多方駅間は民間資本の岩越鉄道によって路線開設がなされた(「歴史」の節を参照)。会津若松駅 - 新津駅間には、「森と水とロマンの鉄道」という愛称が付けられている。
国土交通省鉄道局監修の『鉄道要覧』やJR東日本の『会社要覧』では磐越西線を郡山駅 - 新津駅間としており、本項では主に郡山駅 - 新津駅間について記述する。但し一部の列車は新津駅から信越本線経由で新潟駅まで直通していることから、JR東日本の公式サイトでは新潟駅までの信越本線の各駅を磐越西線の駅としても表示している。
磐越西線は、路線全区間で福島県・新潟県それぞれの地域輸送を担うとともに、関東方面・仙台方面・新潟方面などと福島県会津地方を結ぶ観光路線の役割も果たしており、東側は食をテーマとした観光列車が、西側は蒸気機関車が牽引する観光列車が運行されている。郡山市と新潟市を最短距離で結ぶ鉄道路線ではあるが、この両都市間の輸送に関しては東北・上越新幹線の大宮駅での乗り継ぎや高速バス(磐越道経由)に対して所要時間の面で劣っている。
定期旅客列車は、電化されている郡山駅 - 会津若松駅間では普通列車および快速列車が近郊形電車で運転されており、会津若松駅 - 新津駅間では気動車で運転されている。なお、会津若松駅 - 喜多方駅間も電化区間であり、2022年3月12日のダイヤ改正までは電車を使用した列車が設定されていたが、その後は電車による定期列車は無くなっており、2021年には2022年度から同区間の電化設備を廃止して架線・電柱・配電線などを撤去していく計画があると報じられている。
かつては広田駅や塩川駅からセメント輸送のための定期貨物列車が運行されていたが、2007年3月18日のダイヤ改正にて廃止された。ただし、現在も不定期で甲種車両鉄道輸送列車が運転されることがあるほか、後述のように災害発生時に貨物列車が当線を迂回して運転されることがある。
当線の両端部は旅客営業規則の定める大都市近郊区間に指定されており、郡山駅 - 喜多方駅間は「仙台近郊区間」、五泉駅 - 新津駅間は「新潟近郊区間」に含まれている。いずれもIC乗車カード「Suica」の仙台エリアおよび新潟エリアに含まれ、仙台エリアでは郡山駅 - 郡山富田駅間と磐梯熱海駅・猪苗代駅・会津若松駅・喜多方駅の6駅のみにおいて、新潟エリアでは区間内全駅においてSuica及び相互利用を実施しているICカードが利用できる。ただし2017年時点で仙台エリアについては、郡山富田駅以西の区間内各駅ではサービスを行っていないほか、定期券などは発行されない。また仙台エリアと新潟エリア相互間でのICカードの利用は不可能となっている。
郡山駅 - 喜多方駅間が東北本部、山都駅 - 新津駅間が新潟支社(阿賀野ライン営業所:五泉駅に併設)の管轄であり、喜多方駅 - 山都駅間に支社境界がある。
日本鉄道の開通に伴い、郡山駅と新潟駅を会津駅経由で結ぶ鉄道の建設運動が起こった。1892年に公布された鉄道敷設法に「新潟県下新津ヨリ福島県下若松ヲ経テ白河、本宮近傍ニ至ル鉄道」として規定されたが、1896年1月20日に郡山駅 - 若松駅 - 新津駅を結ぶ路線の仮免許が交付され、1897年5月26日に鉄道を建設するため岩越鉄道(がんえつてつどう)が設立された。1898年に郡山駅 - 中山宿駅間が開業し、翌1899年には若松駅に、1904年には喜多方駅まで開業した。
1906年には、鉄道国有法により岩越鉄道は買収・国有化され、官設鉄道の岩越線(がんえつせん)となった。喜多方駅以西は官設線として延長され、新津側からも信越線(信越本線)の支線として順次延伸された。1914年には野沢駅 - 津川駅間が開業して全通し、郡山駅 - 新津駅間が岩越線となったが、1917年に平郡線が全通して磐越東線と改称されたのと同時に磐越西線と改称された。
なお、同線が全通した1914年から清水トンネルの開通で上越線が全通した1931年までは、それまで東京から新潟へ向かう唯一のルートであった高崎線・信越本線に加えて同区間の第2ルートとされた。東北本線・磐越西線経由のルートには碓氷峠のような難所がなかったこともあり、1930年10月のダイヤ改正時には上野駅から信越本線経由で新潟駅へ向かう最速の下り夜行急行列車が全線に11時間6分、夜行普通列車だと13時間56分を要していたのに対し、同区間を磐越西線経由で結ぶ夜行普通列車は11時間58分で走破していた。
上越線全通以降も、会津地方と福島県中通り、さらには首都圏を結ぶ重要路線であり、そのため1967年には郡山駅 - 喜多方駅間が交流電化された。このように、一定の利用客があったことから、1980年の国鉄再建法に基づく路線の区分では幹線となった。
基本的に、会津若松駅を境に運転系統が分かれている。
列車の大半は郡山駅 - 会津若松駅間の運転である。この区間は交流電化区間であり、E721系電車が使用されている。ワンマン運転を行う列車が多い(多客時は、ワンマン運転を解除し、車掌が乗務する)。なお、朝に郡山駅 - 磐梯熱海駅間の区間列車が1往復運行されている。
郡山駅 - 会津若松駅間は対東京輸送も含めて高速バスとの激しい競合に晒されている。このためWきっぷが設定されており、サービス改善を目的に2020年3月14日のダイヤ改正より、郡山駅 - 会津若松駅間の一部列車に、リクライニングシートが付いた指定席車両が導入された。
普通列車は、2両・4両で運転されている。
快速列車は上野からの急行列車「ばんだい」の区間短縮、格下げにより1984年(昭和59年)2月1日から運転を開始した。その後、後述の特急「あいづ」などを吸収し、2022年3月12日改正時点で7往復が運転されている。なお、「ばんだい」の愛称は2004年10月15日まで郡山駅 - 会津若松駅・喜多方駅間運転の快速列車の愛称として使われた。
2015年から2018年秋までの土曜・休日などには、快速列車の一部が観光列車「フルーティアふくしま」を連結して運転することがあった。2017年3月4日改正以降、多客時を除き719系電車を使用するのはこれらの快速列車のみであった。
2020年3月14日のダイヤ改正より、7往復のうち3往復が指定席を設定した快速「あいづ」として運行されている。一部にリクライニングシートの指定席区画を設けたE721系4両編成(あいづ2号・5号は2両編成/リクライニングシート設置はP-12編成)が使用されている。
なお、快速列車には特急「あいづ(ビバあいづ)」を前身とし、指定席を連結した「あいづライナー」が2007年3月18日から2015年3月13日まで郡山駅 - 会津若松駅間で3往復運転されていた(詳細は列車の項目を参照)。廃止以降も「あいづ」の愛称名で繁忙期を中心に運転が行われていた。
このほか、観光シーズンなどには臨時列車として以下の列車が運転された。
また、運転日数は少ないが、郡山駅 - 会津若松駅間にも蒸気機関車牽引列車が設定されることがある。
非電化であるため、気動車が使用されており、GV-E400系またはキハ110系による2 - 4両編成で運転されている。なお、一部の列車は堂島駅・笈川駅・姥堂駅・会津豊川駅を通過する。
会津若松駅 - 新津駅間を直通運転する列車(2 - 4時間に1本程度)のほか、会津若松駅 - 野沢駅間と津川駅・馬下駅・五泉駅 - 新津駅間の区間列車も設定されている。信越本線の新津駅 - 新潟駅間に直通する列車もある。新潟近郊の馬下駅・五泉駅 - 新津駅は1時間に1本程度で、平日・土曜日朝には新津経由で新潟行きが約10 - 20分間隔で設定されている。なお、会津若松駅 - 野沢駅間、津川駅・馬下駅・五泉駅 - 新津駅・新潟駅間の一部の区間列車ではワンマン運転が行われている。
大半の列車が普通列車として運行されているが、朝に新潟行きの下り快速列車が2本設定されており、どちらも磐越西線内は各駅に停車する。馬下始発は休日運休で、信越本線内は途中亀田駅と越後石山駅に停車する。五泉始発は毎日運転で、信越本線内は途中亀田駅にのみ停車する。
かつては会津若松駅 - 新潟駅間で快速「あがの」が運転されていたが2022年3月12日のダイヤ改正で廃止された。(詳細は「あがの」の項を参照)
観光列車として蒸気機関車C57 180牽引の快速「SLばんえつ物語」が会津若松駅 - 新津駅間において4月 - 11月の土曜・休日を中心に半定期的に運転されている。
2003年10月4日からは、土休日に会津若松駅 - 喜多方駅間にて、会津鉄道の車両を使用する快速「AIZUマウントエクスプレス」の延長運転が実施されている。なお、2022年3月12日以降は「AIZUマウントエクスプレス」の減便に伴い、同列車の延長運転は下りのみとなり、上りは代わりに折り返しの会津田島行き普通列車が延長運転を行う(磐越西線内は従来通り塩川駅のみ停車)。
2004年10月23日に発生した新潟県中越地震では、上越線が不通になったため、郡山経由での迂回ルートとして客貨ともに臨時列車が運行された。
旅客の臨時列車は、新潟駅 - 会津若松駅の直通快速が1往復と、所定では野沢駅止まりの各駅停車を津川駅まで延長運転し、同駅発着の列車に接続をとる形で行われたが、平日の乗車率はそれほど良くなかったようで、11月中旬には直通快速は運休の日が多くなっていた。また、これらの列車を運転するために秋田支社・盛岡支社から応援車両としてキハ40形が来ていたため、他線区の塗装と本来の新潟支社の塗装の混結編成を見ることができた。
貨物の臨時列車は、11月12日より運転が開始された。新潟 - 東京間の紙輸送の迂回によるもので、1日1往復をDD51形(会津若松以西)がワム80000形380000番台貨車6 - 14両を牽引するかたちで行われていた。この列車が運転されているダイヤは本来セメント輸送列車のためのものであったが、そのセメント列車運転日にはセメント列車をSLばんえつ物語のダイヤで運転する措置がとられた。
2011年3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)によって、郡山駅 - 津川駅が運転見合わせとなったが、3月26日に全線で運転を再開した。
この地震による被災地での燃料不足を受けて、JR貨物はJX日鉱日石エネルギー(当時:現在のENEOS)根岸製油所にて精製した石油製品を輸送する臨時石油輸送列車を根岸駅から郡山駅へ運行することを決め、3月25日から根岸駅発にて運転を開始。東北本線が不通であるため、高崎線 - 上越線 - 信越本線 - 当線経由で迂回するルートで運行された。1日1往復(4月からは2往復)の運行で、新潟まで電気機関車が牽引してきたタキ1000形貨車20両を、急勾配のある磐越西線内は貨車を10両ずつに分割してDD51形が重連で牽引する形で行われた。それでも悪条件が重なり急勾配で立ち往生したため、JR東日本のDE10形が後方から押し上げて通過した。なお、かつて当線の貨物列車を牽引していた東新潟機関区のDD51形は2010年3月13日のダイヤ改正で運用を失い、他線区へ転出していたため、門司機関区や吹田機関区などから機関車を借りて運行された。貸し出されたDD51形の中には、東新潟機関区へ、いわば「里帰り」となった車両もあった。この臨時石油輸送列車は4月16日まで運転され、4月17日からは東北本線黒磯駅 - 安積永盛駅間の復旧に伴い東北本線経由に変更された。
これに関しては、震災から4年後の2015年3月15日にNHK総合テレビで放送された『明日へ -支えあおう-』で取り上げられたほか、この実話をもとにした『はしれ ディーゼルきかんしゃデーデ』という絵本が童心社より刊行されている。
定期運用を持つ車両のほか、定期的に設定される臨時列車への使用車両も記載する。
気動車は全て2ドア車となっている。
郡山駅は、東北本線、東北新幹線、磐越東線、水郡線(東北本線直通列車)との乗り換え駅で、周辺地域の中心駅の役割を果たしている。郡山駅を北へ出ると、僅かの間東北本線と並行した後、逢瀬川を渡って西向きのカーブで進路を変える。沿線は、商業施設や住宅などが多い。2017年に開業した郡山富田駅を過ぎて北に進路を変えると、喜久田駅に着く。
喜久田駅、安子ケ島駅付近は、比較的上り下りが少なく、耕作地帯や、住宅地の間を通る区間が多い。前方に見える高塚山や額取山が次第に近づいてくると磐梯熱海駅である。磐梯熱海駅は、磐梯熱海温泉街の最寄り駅で、周辺にも温泉施設などが多く見られる。磐梯熱海駅を出発すると、登り区間が多くなる。そのまましばらく登っていくと、かつてスイッチバックがあった中山宿駅である。スイッチバック時代の旧駅跡にはプラットホームが残されており、鉄道遺産として見学用に整備されている。現在の駅はその先の上り勾配の途中にあり、駅のすぐ西側はトンネルである。中山宿駅を出発してさらに登り、沼上トンネルで中山峠を越えると列車は会津地方に入る。現在のトンネルは電化に備えて1967年(昭和42年)に建設されたもので、隣には1899年(明治32年)開通の旧トンネルが残されている。
沼上トンネルを出ですぐの沼上信号場を過ぎ、上戸駅に着く。上戸駅から先の区間の一部では、線路は猪苗代湖に接近し、関都駅との間には、臨時駅の猪苗代湖畔駅(休止中)がある。川桁駅付近から、列車は猪苗代盆地の中を走る。また、ここから、翁島駅付近までは直線区間が多く、列車は農地の間を快走する。猪苗代駅は、磐梯高原などへの玄関口として、多くの観光客が利用している。翁島駅から先は一転して羊腸のような曲線区間が続き、磐梯山の見える方向が刻々と変化する。磐梯町駅との間は約10 kmと長いが、ほぼ中間に更科信号場がある。磐梯町駅を出ると、列車はさらに下り、東長原駅を過ぎて、進路を南向きに変え、広田駅に着く。広田駅からは、会津盆地の中を走り、喜多方方面からの線路が西から見えてくると、やがて列車は会津若松駅に着く。
会津若松駅の構内が郡山・新津両方面から只見線に向かって線路が続く配線となっているため、同駅でスイッチバックが行われ、進行方向が変わる。また、新津方面のキロポストは会津若松駅からの距離が示されている。磐越西線は会津若松駅をスイッチバックして新津駅方面へ向かうが、すぐに一面田園が広がる。電化区間は堂島・笈川・塩川・姥堂・会津豊川そして喜多方駅まで続くが、塩川・喜多方以外は停留所であり、一日に停車するのは上下4 - 5本程度と少ない。笈川駅は会津盆地のヘソともいうべき古刹勝常寺も近い。目と鼻の先日橋川の傍らにあるのが塩川駅で暖簾(のれん)とナマズの街の玄関である。
喜多方市は喜多方ラーメン・長床(新宮熊野神社)で有名であり、峠を越えれば線路は阿賀川沿いに走り、明治時代の遺産一ノ戸川橋梁を渡り、蕎麦で有名な山都駅になる。次が化石の街「高郷」の玄関・荻野駅で、塩川駅からここまでは喜多方市に含まれている。尾登をすぎると会津ころり三観音の一つ鳥追観音と大山祇神社の最寄り野沢駅となる。次が名勝「銚子の口」がある上野尻駅をすぎると徳沢駅で飯豊山弥平四郎登山口がある。新潟県境に接していてすぐ阿賀町に入ると、豊実・日出谷・鹿瀬・津川と続く。阿賀野川および国道49号線と併走する山間部に入るが、国道は度重なる災害により阿賀野川の対岸に付け替えられる(揚川改良を参照)など防災上の難所となっており、磐越西線も45km/hなど低速の速度制限がかかる区間が断続的に続く。
日出谷駅 - 鹿瀬駅間では、日本の改軌論争に関連する平瀬トンネルと、落下式架け替え工法が使われたことで知られる阿賀野川深戸橋梁を通る。津川駅は阿賀町役場も近く古くから舟運で栄え、「狐の嫁入り行列」で有名な街でもある。さらに三川・五十島・東下条・咲花駅と続くが、咲花駅前には今も咲花温泉の湯花の香りが漂う。さらに馬下・猿和田・五泉駅と続く五泉市は切花やニットなど繊維産業の街であるが、1970年代以降は新潟市のベッドタウンとして住宅地開発も盛んである。さらに線路は西へ北五泉・新関・東新津と続き、終点の新津駅へと至るが、半数近くの列車は信越本線・新潟駅まで直通している。
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の対象駅は郡山駅・磐梯熱海駅・猪苗代駅・磐梯町駅・会津若松駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の対象駅は会津若松駅・塩川駅・喜多方駅・山都駅・荻野駅・野沢駅・五泉駅・新津駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。
各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。
五泉駅 - 新津駅間は、JR東日本管内で3ドア以上の車両が運行されていない区間としては、左沢線の北山形駅 - 寒河江駅間に次いで平均通過人員が多い。
|
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"text": "磐越西線(ばんえつさいせん)は、福島県郡山市の郡山駅から福島県会津若松市の会津若松駅を経由して新潟県新潟市秋葉区の新津駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。名称の由来については「磐越」を参照。",
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"text": "歴史は古く当初、郡山駅 - 喜多方駅間は民間資本の岩越鉄道によって路線開設がなされた(「歴史」の節を参照)。会津若松駅 - 新津駅間には、「森と水とロマンの鉄道」という愛称が付けられている。",
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"text": "国土交通省鉄道局監修の『鉄道要覧』やJR東日本の『会社要覧』では磐越西線を郡山駅 - 新津駅間としており、本項では主に郡山駅 - 新津駅間について記述する。但し一部の列車は新津駅から信越本線経由で新潟駅まで直通していることから、JR東日本の公式サイトでは新潟駅までの信越本線の各駅を磐越西線の駅としても表示している。",
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"text": "磐越西線は、路線全区間で福島県・新潟県それぞれの地域輸送を担うとともに、関東方面・仙台方面・新潟方面などと福島県会津地方を結ぶ観光路線の役割も果たしており、東側は食をテーマとした観光列車が、西側は蒸気機関車が牽引する観光列車が運行されている。郡山市と新潟市を最短距離で結ぶ鉄道路線ではあるが、この両都市間の輸送に関しては東北・上越新幹線の大宮駅での乗り継ぎや高速バス(磐越道経由)に対して所要時間の面で劣っている。",
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"text": "定期旅客列車は、電化されている郡山駅 - 会津若松駅間では普通列車および快速列車が近郊形電車で運転されており、会津若松駅 - 新津駅間では気動車で運転されている。なお、会津若松駅 - 喜多方駅間も電化区間であり、2022年3月12日のダイヤ改正までは電車を使用した列車が設定されていたが、その後は電車による定期列車は無くなっており、2021年には2022年度から同区間の電化設備を廃止して架線・電柱・配電線などを撤去していく計画があると報じられている。",
"title": "概要"
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"text": "かつては広田駅や塩川駅からセメント輸送のための定期貨物列車が運行されていたが、2007年3月18日のダイヤ改正にて廃止された。ただし、現在も不定期で甲種車両鉄道輸送列車が運転されることがあるほか、後述のように災害発生時に貨物列車が当線を迂回して運転されることがある。",
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"text": "当線の両端部は旅客営業規則の定める大都市近郊区間に指定されており、郡山駅 - 喜多方駅間は「仙台近郊区間」、五泉駅 - 新津駅間は「新潟近郊区間」に含まれている。いずれもIC乗車カード「Suica」の仙台エリアおよび新潟エリアに含まれ、仙台エリアでは郡山駅 - 郡山富田駅間と磐梯熱海駅・猪苗代駅・会津若松駅・喜多方駅の6駅のみにおいて、新潟エリアでは区間内全駅においてSuica及び相互利用を実施しているICカードが利用できる。ただし2017年時点で仙台エリアについては、郡山富田駅以西の区間内各駅ではサービスを行っていないほか、定期券などは発行されない。また仙台エリアと新潟エリア相互間でのICカードの利用は不可能となっている。",
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"text": "郡山駅 - 喜多方駅間が東北本部、山都駅 - 新津駅間が新潟支社(阿賀野ライン営業所:五泉駅に併設)の管轄であり、喜多方駅 - 山都駅間に支社境界がある。",
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"text": "日本鉄道の開通に伴い、郡山駅と新潟駅を会津駅経由で結ぶ鉄道の建設運動が起こった。1892年に公布された鉄道敷設法に「新潟県下新津ヨリ福島県下若松ヲ経テ白河、本宮近傍ニ至ル鉄道」として規定されたが、1896年1月20日に郡山駅 - 若松駅 - 新津駅を結ぶ路線の仮免許が交付され、1897年5月26日に鉄道を建設するため岩越鉄道(がんえつてつどう)が設立された。1898年に郡山駅 - 中山宿駅間が開業し、翌1899年には若松駅に、1904年には喜多方駅まで開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "1906年には、鉄道国有法により岩越鉄道は買収・国有化され、官設鉄道の岩越線(がんえつせん)となった。喜多方駅以西は官設線として延長され、新津側からも信越線(信越本線)の支線として順次延伸された。1914年には野沢駅 - 津川駅間が開業して全通し、郡山駅 - 新津駅間が岩越線となったが、1917年に平郡線が全通して磐越東線と改称されたのと同時に磐越西線と改称された。",
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"text": "なお、同線が全通した1914年から清水トンネルの開通で上越線が全通した1931年までは、それまで東京から新潟へ向かう唯一のルートであった高崎線・信越本線に加えて同区間の第2ルートとされた。東北本線・磐越西線経由のルートには碓氷峠のような難所がなかったこともあり、1930年10月のダイヤ改正時には上野駅から信越本線経由で新潟駅へ向かう最速の下り夜行急行列車が全線に11時間6分、夜行普通列車だと13時間56分を要していたのに対し、同区間を磐越西線経由で結ぶ夜行普通列車は11時間58分で走破していた。",
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"text": "上越線全通以降も、会津地方と福島県中通り、さらには首都圏を結ぶ重要路線であり、そのため1967年には郡山駅 - 喜多方駅間が交流電化された。このように、一定の利用客があったことから、1980年の国鉄再建法に基づく路線の区分では幹線となった。",
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"text": "基本的に、会津若松駅を境に運転系統が分かれている。",
"title": "運行形態"
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"text": "列車の大半は郡山駅 - 会津若松駅間の運転である。この区間は交流電化区間であり、E721系電車が使用されている。ワンマン運転を行う列車が多い(多客時は、ワンマン運転を解除し、車掌が乗務する)。なお、朝に郡山駅 - 磐梯熱海駅間の区間列車が1往復運行されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "郡山駅 - 会津若松駅間は対東京輸送も含めて高速バスとの激しい競合に晒されている。このためWきっぷが設定されており、サービス改善を目的に2020年3月14日のダイヤ改正より、郡山駅 - 会津若松駅間の一部列車に、リクライニングシートが付いた指定席車両が導入された。",
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"text": "普通列車は、2両・4両で運転されている。",
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"text": "快速列車は上野からの急行列車「ばんだい」の区間短縮、格下げにより1984年(昭和59年)2月1日から運転を開始した。その後、後述の特急「あいづ」などを吸収し、2022年3月12日改正時点で7往復が運転されている。なお、「ばんだい」の愛称は2004年10月15日まで郡山駅 - 会津若松駅・喜多方駅間運転の快速列車の愛称として使われた。",
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"text": "2015年から2018年秋までの土曜・休日などには、快速列車の一部が観光列車「フルーティアふくしま」を連結して運転することがあった。2017年3月4日改正以降、多客時を除き719系電車を使用するのはこれらの快速列車のみであった。",
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"text": "2020年3月14日のダイヤ改正より、7往復のうち3往復が指定席を設定した快速「あいづ」として運行されている。一部にリクライニングシートの指定席区画を設けたE721系4両編成(あいづ2号・5号は2両編成/リクライニングシート設置はP-12編成)が使用されている。",
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"text": "なお、快速列車には特急「あいづ(ビバあいづ)」を前身とし、指定席を連結した「あいづライナー」が2007年3月18日から2015年3月13日まで郡山駅 - 会津若松駅間で3往復運転されていた(詳細は列車の項目を参照)。廃止以降も「あいづ」の愛称名で繁忙期を中心に運転が行われていた。",
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"text": "このほか、観光シーズンなどには臨時列車として以下の列車が運転された。",
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"text": "非電化であるため、気動車が使用されており、GV-E400系またはキハ110系による2 - 4両編成で運転されている。なお、一部の列車は堂島駅・笈川駅・姥堂駅・会津豊川駅を通過する。",
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"text": "会津若松駅 - 新津駅間を直通運転する列車(2 - 4時間に1本程度)のほか、会津若松駅 - 野沢駅間と津川駅・馬下駅・五泉駅 - 新津駅間の区間列車も設定されている。信越本線の新津駅 - 新潟駅間に直通する列車もある。新潟近郊の馬下駅・五泉駅 - 新津駅は1時間に1本程度で、平日・土曜日朝には新津経由で新潟行きが約10 - 20分間隔で設定されている。なお、会津若松駅 - 野沢駅間、津川駅・馬下駅・五泉駅 - 新津駅・新潟駅間の一部の区間列車ではワンマン運転が行われている。",
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"text": "大半の列車が普通列車として運行されているが、朝に新潟行きの下り快速列車が2本設定されており、どちらも磐越西線内は各駅に停車する。馬下始発は休日運休で、信越本線内は途中亀田駅と越後石山駅に停車する。五泉始発は毎日運転で、信越本線内は途中亀田駅にのみ停車する。",
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"text": "かつては会津若松駅 - 新潟駅間で快速「あがの」が運転されていたが2022年3月12日のダイヤ改正で廃止された。(詳細は「あがの」の項を参照)",
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"text": "観光列車として蒸気機関車C57 180牽引の快速「SLばんえつ物語」が会津若松駅 - 新津駅間において4月 - 11月の土曜・休日を中心に半定期的に運転されている。",
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"text": "2004年10月23日に発生した新潟県中越地震では、上越線が不通になったため、郡山経由での迂回ルートとして客貨ともに臨時列車が運行された。",
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"text": "旅客の臨時列車は、新潟駅 - 会津若松駅の直通快速が1往復と、所定では野沢駅止まりの各駅停車を津川駅まで延長運転し、同駅発着の列車に接続をとる形で行われたが、平日の乗車率はそれほど良くなかったようで、11月中旬には直通快速は運休の日が多くなっていた。また、これらの列車を運転するために秋田支社・盛岡支社から応援車両としてキハ40形が来ていたため、他線区の塗装と本来の新潟支社の塗装の混結編成を見ることができた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "貨物の臨時列車は、11月12日より運転が開始された。新潟 - 東京間の紙輸送の迂回によるもので、1日1往復をDD51形(会津若松以西)がワム80000形380000番台貨車6 - 14両を牽引するかたちで行われていた。この列車が運転されているダイヤは本来セメント輸送列車のためのものであったが、そのセメント列車運転日にはセメント列車をSLばんえつ物語のダイヤで運転する措置がとられた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)によって、郡山駅 - 津川駅が運転見合わせとなったが、3月26日に全線で運転を再開した。",
"title": "運行形態"
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"text": "この地震による被災地での燃料不足を受けて、JR貨物はJX日鉱日石エネルギー(当時:現在のENEOS)根岸製油所にて精製した石油製品を輸送する臨時石油輸送列車を根岸駅から郡山駅へ運行することを決め、3月25日から根岸駅発にて運転を開始。東北本線が不通であるため、高崎線 - 上越線 - 信越本線 - 当線経由で迂回するルートで運行された。1日1往復(4月からは2往復)の運行で、新潟まで電気機関車が牽引してきたタキ1000形貨車20両を、急勾配のある磐越西線内は貨車を10両ずつに分割してDD51形が重連で牽引する形で行われた。それでも悪条件が重なり急勾配で立ち往生したため、JR東日本のDE10形が後方から押し上げて通過した。なお、かつて当線の貨物列車を牽引していた東新潟機関区のDD51形は2010年3月13日のダイヤ改正で運用を失い、他線区へ転出していたため、門司機関区や吹田機関区などから機関車を借りて運行された。貸し出されたDD51形の中には、東新潟機関区へ、いわば「里帰り」となった車両もあった。この臨時石油輸送列車は4月16日まで運転され、4月17日からは東北本線黒磯駅 - 安積永盛駅間の復旧に伴い東北本線経由に変更された。",
"title": "運行形態"
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"text": "これに関しては、震災から4年後の2015年3月15日にNHK総合テレビで放送された『明日へ -支えあおう-』で取り上げられたほか、この実話をもとにした『はしれ ディーゼルきかんしゃデーデ』という絵本が童心社より刊行されている。",
"title": "運行形態"
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"tag": "p",
"text": "定期運用を持つ車両のほか、定期的に設定される臨時列車への使用車両も記載する。",
"title": "使用車両"
},
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"tag": "p",
"text": "気動車は全て2ドア車となっている。",
"title": "使用車両"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "郡山駅は、東北本線、東北新幹線、磐越東線、水郡線(東北本線直通列車)との乗り換え駅で、周辺地域の中心駅の役割を果たしている。郡山駅を北へ出ると、僅かの間東北本線と並行した後、逢瀬川を渡って西向きのカーブで進路を変える。沿線は、商業施設や住宅などが多い。2017年に開業した郡山富田駅を過ぎて北に進路を変えると、喜久田駅に着く。",
"title": "沿線概況"
},
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"text": "喜久田駅、安子ケ島駅付近は、比較的上り下りが少なく、耕作地帯や、住宅地の間を通る区間が多い。前方に見える高塚山や額取山が次第に近づいてくると磐梯熱海駅である。磐梯熱海駅は、磐梯熱海温泉街の最寄り駅で、周辺にも温泉施設などが多く見られる。磐梯熱海駅を出発すると、登り区間が多くなる。そのまましばらく登っていくと、かつてスイッチバックがあった中山宿駅である。スイッチバック時代の旧駅跡にはプラットホームが残されており、鉄道遺産として見学用に整備されている。現在の駅はその先の上り勾配の途中にあり、駅のすぐ西側はトンネルである。中山宿駅を出発してさらに登り、沼上トンネルで中山峠を越えると列車は会津地方に入る。現在のトンネルは電化に備えて1967年(昭和42年)に建設されたもので、隣には1899年(明治32年)開通の旧トンネルが残されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "沼上トンネルを出ですぐの沼上信号場を過ぎ、上戸駅に着く。上戸駅から先の区間の一部では、線路は猪苗代湖に接近し、関都駅との間には、臨時駅の猪苗代湖畔駅(休止中)がある。川桁駅付近から、列車は猪苗代盆地の中を走る。また、ここから、翁島駅付近までは直線区間が多く、列車は農地の間を快走する。猪苗代駅は、磐梯高原などへの玄関口として、多くの観光客が利用している。翁島駅から先は一転して羊腸のような曲線区間が続き、磐梯山の見える方向が刻々と変化する。磐梯町駅との間は約10 kmと長いが、ほぼ中間に更科信号場がある。磐梯町駅を出ると、列車はさらに下り、東長原駅を過ぎて、進路を南向きに変え、広田駅に着く。広田駅からは、会津盆地の中を走り、喜多方方面からの線路が西から見えてくると、やがて列車は会津若松駅に着く。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "会津若松駅の構内が郡山・新津両方面から只見線に向かって線路が続く配線となっているため、同駅でスイッチバックが行われ、進行方向が変わる。また、新津方面のキロポストは会津若松駅からの距離が示されている。磐越西線は会津若松駅をスイッチバックして新津駅方面へ向かうが、すぐに一面田園が広がる。電化区間は堂島・笈川・塩川・姥堂・会津豊川そして喜多方駅まで続くが、塩川・喜多方以外は停留所であり、一日に停車するのは上下4 - 5本程度と少ない。笈川駅は会津盆地のヘソともいうべき古刹勝常寺も近い。目と鼻の先日橋川の傍らにあるのが塩川駅で暖簾(のれん)とナマズの街の玄関である。",
"title": "沿線概況"
},
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"tag": "p",
"text": "喜多方市は喜多方ラーメン・長床(新宮熊野神社)で有名であり、峠を越えれば線路は阿賀川沿いに走り、明治時代の遺産一ノ戸川橋梁を渡り、蕎麦で有名な山都駅になる。次が化石の街「高郷」の玄関・荻野駅で、塩川駅からここまでは喜多方市に含まれている。尾登をすぎると会津ころり三観音の一つ鳥追観音と大山祇神社の最寄り野沢駅となる。次が名勝「銚子の口」がある上野尻駅をすぎると徳沢駅で飯豊山弥平四郎登山口がある。新潟県境に接していてすぐ阿賀町に入ると、豊実・日出谷・鹿瀬・津川と続く。阿賀野川および国道49号線と併走する山間部に入るが、国道は度重なる災害により阿賀野川の対岸に付け替えられる(揚川改良を参照)など防災上の難所となっており、磐越西線も45km/hなど低速の速度制限がかかる区間が断続的に続く。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "日出谷駅 - 鹿瀬駅間では、日本の改軌論争に関連する平瀬トンネルと、落下式架け替え工法が使われたことで知られる阿賀野川深戸橋梁を通る。津川駅は阿賀町役場も近く古くから舟運で栄え、「狐の嫁入り行列」で有名な街でもある。さらに三川・五十島・東下条・咲花駅と続くが、咲花駅前には今も咲花温泉の湯花の香りが漂う。さらに馬下・猿和田・五泉駅と続く五泉市は切花やニットなど繊維産業の街であるが、1970年代以降は新潟市のベッドタウンとして住宅地開発も盛んである。さらに線路は西へ北五泉・新関・東新津と続き、終点の新津駅へと至るが、半数近くの列車は信越本線・新潟駅まで直通している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の対象駅は郡山駅・磐梯熱海駅・猪苗代駅・磐梯町駅・会津若松駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の対象駅は会津若松駅・塩川駅・喜多方駅・山都駅・荻野駅・野沢駅・五泉駅・新津駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。",
"title": "平均通過人員"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "五泉駅 - 新津駅間は、JR東日本管内で3ドア以上の車両が運行されていない区間としては、左沢線の北山形駅 - 寒河江駅間に次いで平均通過人員が多い。",
"title": "平均通過人員"
}
] |
磐越西線(ばんえつさいせん)は、福島県郡山市の郡山駅から福島県会津若松市の会津若松駅を経由して新潟県新潟市秋葉区の新津駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。名称の由来については「磐越」を参照。 歴史は古く当初、郡山駅 - 喜多方駅間は民間資本の岩越鉄道によって路線開設がなされた(「歴史」の節を参照)。会津若松駅 - 新津駅間には、「森と水とロマンの鉄道」という愛称が付けられている。 国土交通省鉄道局監修の『鉄道要覧』やJR東日本の『会社要覧』では磐越西線を郡山駅 - 新津駅間としており、本項では主に郡山駅 - 新津駅間について記述する。但し一部の列車は新津駅から信越本線経由で新潟駅まで直通していることから、JR東日本の公式サイトでは新潟駅までの信越本線の各駅を磐越西線の駅としても表示している。
|
{{Otheruses|鉄道路線}}
{{画像提供依頼|磐越西線内を走行するキハ52形・キハ58系|date=2021-05|cat=鉄道}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 磐越西線
|路線色=#cb7b35
|路線色2=
|ロゴ=
|ロゴサイズ=
|画像=JNR C61 20 20150509 01.jpg
|画像サイズ=
|画像説明=[[一ノ戸川橋梁]]を渡る「[[SLばんえつ物語]]」
|通称=森と水とロマンの鉄道(会津若松駅 - [[新津駅]])
|国={{JPN}}
|所在地=[[福島県]]、[[新潟県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]<ref name="youran">{{Cite book|和書 |others=国土交通省鉄道局(監修)|title=平成28年度 [[鉄道要覧]]|year=2016|publisher=[[電気車研究会|電気車研究会・鉄道図書刊行会]]|pages=30頁|isbn=978-4-88548-127-7}}</ref><ref name="jre-yoran">{{Cite book |和書 |title=会社要覧 2019-2020 |url=https://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2019-2020/jre_youran_shogen_p88.pdf |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |page=88 |quote=磐越西線(郡山)〜(新津)}}</ref>
|終点=新津駅<ref name="youran" /><ref name="jre-yoran" />
|駅数=43駅
|電報略号 = ハサセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p23">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=23}}</ref>
|開業=[[1898年]][[7月26日]]<ref name="sone06-14">[[#sone06|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号]]、14頁</ref>
|全通=[[1914年]][[11月1日]]{{R|sone06-14}}
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)<br>[[日本貨物鉄道]](JR貨物)
|車両基地=
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=175.6 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[単線]]
|電化方式=[[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]<br>[[架空電車線方式]]<br>(郡山駅 - [[喜多方駅]]間)
|最大勾配=25 [[パーミル|‰]]
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式(郡山駅 - 喜多方駅間)<br>特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)(喜多方駅 - 新津駅間)
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]<ref name="ats">[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2019/all.pdf サステナビリティレポート2019] 38頁 - JR東日本、2019年9月</ref>
|最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=File:JR Banetsu Line linemap.svg
}}
'''磐越西線'''(ばんえつさいせん)は、[[福島県]][[郡山市]]の[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]<ref name="youran" /><ref name="jre-yoran" />から福島県[[会津若松市]]の[[会津若松駅]]を経由して[[新潟県]][[新潟市]][[秋葉区]]の[[新津駅]]<ref name="youran" /><ref name="jre-yoran" />までを結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。名称の由来については「[[磐越]]」を参照。
歴史は古く当初、郡山駅 - 喜多方駅間は民間資本の岩越鉄道によって路線開設がなされた(「[[#歴史|歴史]]」の節を参照)。会津若松駅 - 新津駅間には、「'''森と水とロマンの鉄道'''」という[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]が付けられている。
国土交通省鉄道局監修の『[[鉄道要覧]]』やJR東日本の『会社要覧』では磐越西線を郡山駅 - 新津駅間としており<ref name="youran" /><ref name="jre-yoran" />、本項では主に郡山駅 - 新津駅間について記述する。但し一部の列車は新津駅から[[信越本線]]経由で[[新潟駅]]まで[[直通運転|直通]]していることから、JR東日本の公式サイトでは新潟駅までの信越本線の各駅を磐越西線の駅としても表示している<ref>[https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=60=1=%94%d6%89z%90%bc%90%fc&token==&city=&ekimei=&kana=&pc=2 検索結果(磐越西線の駅)]{{リンク切れ|date=2023年4月}}東日本旅客鉄道(2020年2月5日閲覧)</ref>。
== 概要 ==
[[File:JR East Fruitea 101.jpg|thumb|300px|観光列車「[[フルーティアふくしま]]」と[[磐梯山]]]]
磐越西線は、路線全区間で福島県・新潟県それぞれの地域輸送を担うとともに、[[関東地方|関東]]方面・[[仙台市|仙台]]方面・新潟方面などと福島県[[会津地方]]を結ぶ観光路線の役割も果たしており、東側は食をテーマとした[[観光列車]]が、西側は[[蒸気機関車]]が牽引する観光列車が運行されている。郡山市と新潟市を最短距離で結ぶ鉄道路線ではあるが、この両都市間の輸送に関しては[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]での乗り継ぎや[[高速バス]]([[磐越自動車道|磐越道]]経由)に対して所要時間の面で劣っている。
定期旅客列車は、[[鉄道の電化|電化]]されている郡山駅 - 会津若松駅間では[[普通列車]]および[[快速列車]]が[[近郊形車両|近郊形電車]]で運転されており、会津若松駅 - 新津駅間では[[気動車]]で運転されている。なお、会津若松駅 - [[喜多方駅]]間も電化区間であり、[[2022年]]3月12日のダイヤ改正までは電車を使用した列車が設定されていたが、その後は電車による定期列車は無くなっており、2021年には2022年度から同区間の[[鉄道の電化#電化設備の撤去|電化設備を廃止]]して架線・電柱・配電線などを撤去していく計画があると報じられている<ref group="新聞" name="minyu20210804">{{Cite news|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20210804-644218.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210804101457/https://www.minyu-net.com/news/news/FM20210804-644218.php|title=会津若松-喜多方間「非電力化」磐越西線でJR東日本が計画|newspaper=福島民友|date=2021-08-04|accessdate=2021-08-04|archivedate=2021-08-04}}</ref>。
かつては[[広田駅]]や[[塩川駅]]から[[セメント]]輸送のための定期[[貨物列車]]が運行されていたが、2007年3月18日のダイヤ改正にて廃止された。ただし、現在も不定期で[[車両輸送#甲種輸送|甲種車両鉄道輸送]]列車が運転されることがあるほか、後述のように災害発生時に貨物列車が当線を迂回して運転されることがある。
当線の両端部は[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]に指定されており、郡山駅 - 喜多方駅間は「仙台近郊区間」<ref group="報道" name="jreast20131129">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf Suicaの一部サービスをご利用いただける駅が増えます]}} - 東日本旅客鉄道、2013年11月29日。</ref><ref>『JTB時刻表』2014年4月号 988頁・1004頁</ref>、[[五泉駅]] - 新津駅間は「新潟近郊区間」に含まれている。いずれも[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の仙台エリアおよび新潟エリアに含まれ、仙台エリアでは郡山駅 - [[郡山富田駅]]間と[[磐梯熱海駅]]・[[猪苗代駅]]・会津若松駅・喜多方駅の6駅のみにおいて、新潟エリアでは区間内全駅においてSuica及び相互利用を実施しているICカードが利用できる。ただし2017年時点で仙台エリアについては、郡山富田駅以西の区間内各駅ではサービスを行っていないほか、[[定期乗車券|定期券]]などは発行されない。また仙台エリアと新潟エリア相互間でのICカードの利用は不可能となっている。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):175.6 km <ref name="youran" /><ref name="jre-yoran" />
*管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])・[[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])
*[[軌間]]:1,067 mm <ref name="youran" />
* 駅数:43(起終点駅・臨時駅含む。ほかに[[信号場]]2か所)
** 磐越西線所属駅に限定する場合、[[東北本線]]所属の郡山駅、[[信越本線]]所属の新津駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。ISBN 978-4-533-02980-6。</ref>が除外され、41駅となる。
*信号場数:2
*[[鉄道の電化|電化]]区間:郡山駅 - 喜多方駅間 81.2km([[交流電化|交流]]20,000 V・50 Hz)<ref name="youran" /><ref group="注釈">会津若松駅 - 喜多方駅間において電車を使用した定期列車の設定は無い。</ref>
* 複線区間:なし(全線[[単線]])<ref name="youran" />
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]
** 自動閉塞式:郡山駅 - 喜多方駅間
** 特殊自動閉塞式(軌道回路検知式):喜多方駅 - 新津駅間
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]<ref name="ats">[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2019/all.pdf サステナビリティレポート2019] 38頁 - JR東日本、2019年9月</ref>
* 最高速度:95 km/h
* [[運転指令所]]
** 会津若松[[列車集中制御装置|CTC]]:郡山駅 - 喜多方駅間
** 新潟総合指令室:喜多方駅 - 新津駅間
*** 運転取扱駅(駅が信号を制御):郡山駅・会津若松駅
*** 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):津川駅・新津駅
* [[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]
** 郡山駅 - 喜多方駅間(仙台近郊区間)
** 五泉駅 - 新津駅間(新潟近郊区間)
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間
** 郡山駅・郡山富田駅・磐梯熱海駅・猪苗代駅・会津若松駅・喜多方駅([[Suica]]仙台エリア)
** 五泉駅 - 新津駅間(Suica新潟エリア)
郡山駅 - 喜多方駅間が[[東日本旅客鉄道東北本部|東北本部]]、[[山都駅]] - 新津駅間が[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]](阿賀野ライン営業所:[[五泉駅]]に併設)の管轄であり、喜多方駅 - 山都駅間に[[JR支社境|支社境界]]がある。
== 歴史 ==
{{Main2|愛称付き速達列車の詳細な沿革|あいづ|快速「あがの」とその前身の急行列車|あがの (列車)|SL列車|SLばんえつ物語}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 岩越鉄道
|ロゴ = [[File:Gan'etsuRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[東京府]][[東京市]][[下谷区]]北大門町<ref name="NDLDC780118"/>
|設立 = [[1897年]](明治30年)5月<ref name="NDLDC780118"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 取締役会長 [[渋沢栄一]]<ref name="NDLDC780118"/><br />専務取締役 [[前田青莎]]<ref name="NDLDC780118"/>
|資本金 = 6,000,000円<ref name="NDLDC780118"/><br />(払込高:2,400,000円)<ref name="NDLDC780118"/>
|特記事項 = 上記データは1903年(明治36年)現在<ref name="NDLDC780118">[{{NDLDC|780118/108}} 『日本全国諸会社役員録. 明治36年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
[[日本鉄道]]の開通に伴い、郡山駅と新潟駅を会津駅経由で結ぶ鉄道の建設運動が起こった。1892年に公布された[[鉄道敷設法]]に「新潟県下[[新津市|新津]]ヨリ福島県下[[会津若松市|若松]]ヲ経テ[[白河市|白河]]、[[本宮市|本宮]]近傍ニ至ル鉄道」として規定されたが、1896年1月20日に郡山駅 - 若松駅 - 新津駅を結ぶ路線の仮免許が交付され、1897年5月26日に鉄道を建設するため'''岩越鉄道'''(がんえつてつどう)が設立された{{R|sone06-14}}。1898年に郡山駅 - [[中山宿駅]]間が開業し、翌1899年には若松駅に、1904年には喜多方駅まで開業した{{R|sone06-14}}。
1906年には、[[鉄道国有法]]により岩越鉄道は買収・国有化され、官設鉄道の'''岩越線'''(がんえつせん)となった{{R|sone06-14}}。喜多方駅以西は官設線として延長され、新津側からも'''信越線'''([[信越本線]])の[[支線]]として順次延伸された{{R|sone06-14}}。1914年には[[野沢駅]] - [[津川駅]]間が開業して全通し、郡山駅 - 新津駅間が岩越線となったが、1917年に平郡線が全通して[[磐越東線]]と改称されたのと同時に'''磐越西線'''と改称された<ref name="sone06-15">[[#sone06|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号]]、15頁</ref>。
なお、同線が全通した1914年から[[清水トンネル]]の開通で[[上越線]]が全通した1931年までは、それまで東京から新潟へ向かう唯一のルートであった[[高崎線]]・信越本線に加えて同区間の第2ルートとされた{{R|sone06-15}}<ref group="注釈">これ以降も上越線や上越新幹線の不通時には、迂回路として使われることがあった([[あいづ#その他]] / [[#新潟県中越地震による影響]])。</ref>。[[東北本線]]・磐越西線経由のルートには[[碓氷峠]]のような難所がなかったこともあり、1930年10月の[[ダイヤ改正]]時には[[上野駅]]から信越本線経由で[[新潟駅]]へ向かう最速の下り[[夜行列車|夜行]][[急行列車]]が全線に11時間6分、夜行[[普通列車]]だと13時間56分を要していたのに対し、同区間を磐越西線経由で結ぶ夜行普通列車は11時間58分で走破していた<ref group="注釈">半車の[[A寝台|二等寝台]]を連結。『時刻表』昭和9年(1934年)12月号([[鉄道省]])によれば、昼行は全て[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]での乗り換えであったが、この夜行は上越線の全通以降も同区間を約11時間で走破している。なお戦前は当線に優等列車の設定はなかった。</ref>。
上越線全通以降も、会津地方と福島県[[中通り]]、さらには[[首都圏 (日本)|首都圏]]を結ぶ重要路線であり、そのため1967年には郡山駅 - 喜多方駅間が[[交流電化]]された。このように、一定の利用客があったことから、1980年の[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]に基づく路線の区分では[[幹線]]となった。
=== 岩越鉄道→岩越線 ===
* [[1897年]]([[明治]]30年)11月21日:岩越鉄道が郡山 - 新津間、および新津 - 酒屋間の敷設免許を受け工事開始、郡山にて起工式{{R|sone06-14}}。
* [[1898年]](明治31年)7月26日:'''岩越鉄道''' 郡山駅 - 中山宿(仮)駅間 (21.5 km) 開業、堀ノ内駅(現・[[喜久田駅]])、[[安子ケ島駅]]、熱海駅(現・[[磐梯熱海駅]])、中山宿(仮)駅を新設{{R|sone06-14}}。
* [[1899年]](明治32年)
** 3月10日:中山宿(仮)駅 - 山潟駅(現・[[上戸駅 (福島県) |上戸駅]])間 (6.5 km) 延伸開業{{R|sone06-14}}。[[中山宿駅]]、山潟駅を新設<ref>[{{NDLDC|2948002/6}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年3月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。中山宿(仮)駅廃止{{R|sone06-14}}。
** 7月15日:山潟駅 - 若松駅(現・[[会津若松駅]])間 (37.3 km) 延伸開業{{R|sone06-14}}。[[関都駅]]、[[猪苗代駅]]、[[翁島駅]]、大寺駅(現・[[磐梯町駅]])、広田駅、若松駅を新設{{R|sone06-14}}。
** 8月4日:(貨)[[川桁駅]]新設{{R|sone06-14}}。
* [[1900年]](明治33年)11月3日:川桁駅を貨物駅から一般駅に変更{{R|sone06-14}}。
* [[1904年]](明治37年)1月20日:若松駅 - [[喜多方駅]]間 (16.6 km) 延伸開業{{R|sone06-14}}。[[塩川駅]]、喜多方駅を新設{{R|sone06-14}}。
* [[1906年]](明治39年)11月1日:郡山駅 - 喜多方駅間 (49.5 M≒81.9 km) 買収・国有化{{R|sone06-14}}。
* [[1907年]](明治40年)
** 5月19日:若松駅 - 塩川駅間に木流仮停車場新設<ref group="注釈">木流在[[馬頭観音|馬頭観世音]]縁日に限り。 [{{NDLDC|1351351/63}} 『鉄道法規類抄追録 <nowiki>: [明治44年11月1日-45年4月20日]</nowiki>』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 7月5日:岩越線延伸工事のため若松建設事務所設置{{R|sone06-14}}
* [[1909年]](明治42年)10月12日:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定 '''岩越線'''{{R|sone06-14}}。
* [[1910年]](明治43年)12月15日:喜多方駅 - [[山都駅]]間 (9.9 km) 延伸開業、山都駅新設{{R|sone06-14}}。
* [[1912年]]([[大正]]元年)12月26日:木流仮停車場廃止。
* [[1913年]](大正2年)8月1日:山都駅 - 野沢駅 (15.1 km) 延伸開業、[[荻野駅]]、野沢駅新設{{R|sone06-14}}。
=== 信越本線(支線) ===
* 1910年(明治43年)10月25日:'''信越線'''(支線) 新津駅 - [[馬下駅]]間 (17.2 km) 開業{{R|sone06-14}}。[[五泉駅]]、馬下駅新設。
* 1913年(大正2年)6月1日:馬下駅 - [[津川駅]]間 (21.4 km) 延伸開業。[[五十島駅]]、白崎駅(現・[[三川駅 (新潟県)|三川駅]])、津川駅新設{{R|sone06-14}}。
* [[1914年]](大正3年)6月1日:'''信越本線'''に線名を改称{{R|sone06-14}}([[羽越本線|村上線]]分離による)。
=== 全通後 ===
* 1914年(大正3年)11月1日:野沢駅 - 津川駅間 (30.8 km) 延伸開業、信越本線新津駅 - 津川駅間を岩越線に編入し、郡山駅 - 新津駅を'''岩越線'''とする{{R|sone06-14}}。[[上野尻駅]]、[[徳沢駅]]、[[豊実駅]]、[[日出谷駅]]、[[鹿瀬駅]]を新設{{R|sone06-14}}<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100108673|title=岩越線全通 (一〜完)|oldmeta=00099003}} 1914年10月26日-11月1日付『中外商業新報』]([[神戸大学]]附属図書館新聞記事文庫)</ref>。
* [[1915年]](大正4年)
** 4月10日:堀ノ内駅を喜久田駅に改称{{R|sone06-15}}。
** 6月1日 山潟駅を上戸駅に改称{{R|sone06-15}}。
* [[1917年]](大正6年)
** 3月26日:地滑りにより松野隧道(喜多方駅 - 山都駅間)が埋没{{R|sone06-15}}。新線により復旧するまでの間、旅客は徒歩連絡、貨物は[[索道]]によって中継輸送(8月17日 - 1918年6月)。詳細は「[[松野トンネル崩壊事故]]」を参照。
** 5月21日:若松駅を会津若松駅に改称{{R|sone06-15}}。
** 10月10日:'''磐越西線'''に線名を改称{{R|sone06-15}}。
* [[1918年]](大正7年)6月12日:喜多方駅 - 山都駅間が新線に切り替えられ復旧{{R|sone06-15}}。
* [[1925年]](大正14年)3月20日:熱海駅を岩代熱海駅に改称{{R|sone06-15}}。
* [[1934年]]([[昭和]]9年)11月1日 会津若松駅-喜多方駅間で[[気動車#機関|ガソリンカー]]運転開始<ref>[{{NDLDC|1114644/103}} 『鉄道省年報. 昭和10年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。[[堂島駅]]、[[笈川駅]]、[[姥堂駅]]、[[会津豊川駅]]を新設{{R|sone06-15}}。
* [[1940年]](昭和15年)12月20日:[[東長原駅]]新設{{R|sone06-15}}。
* [[1951年]](昭和26年)4月1日?:熊渡仮乗降場新設{{R|sone06-15}}。
* [[1952年]](昭和27年)2月20日:[[北五泉駅]]、[[東新津駅]]新設{{R|sone06-15}}。
* [[1953年]](昭和28年)1月10日:熊渡仮乗降場を[[東下条駅]]に改称{{R|sone06-15}}。
* [[1954年]](昭和29年)4月15日:[[新関駅]]新設<ref name="sone06-16">[[#sone06|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号]]、16頁</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)
** 8月15日:[[猿和田駅]]新設{{R|sone06-16}}。
** 10月1日:[[尾登駅]]新設{{R|sone06-16}}。
* [[1961年]](昭和36年)
**7月1日:新潟支社が管理長制度を導入、[[津川駅]]に磐越西線管理長を置く<ref group="新聞">『津川駅に管理長 磐越西線 列車二本を新設』昭和36年7月2日読売新聞新潟読売B
</ref>。
**11月1日:[[咲花駅]]新設{{R|sone06-16}}。
* [[1962年]](昭和37年)
** 6月4日:沼上信号場新設{{R|sone06-16}}。
** 7月20日:志田浜仮乗降場新設(上戸駅 - 関都駅間){{R|sone06-16}}。
** 12月20日:更科信号場新設{{R|sone06-16}}。
* [[1965年]](昭和40年)
** 6月1日:岩代熱海駅を磐梯熱海駅に、大寺駅を[[磐梯町駅]]に改称{{R|sone06-16}}。
** 10月1日:[[国鉄キハ80系気動車|キハ82系]]気動車による[[上野駅]] - [[山形駅]]間の特急「[[つばさ (列車)#「つばさ」の登場|やまばと]]」に併結で上野駅 - 会津若松駅間編成を新設{{R|sone06-16}}。
* [[1967年]](昭和42年)
** 6月15日:郡山駅 - 喜多方駅[[鉄道の電化|電化]](交流50 Hz・20 kV)、同時に同区間が単線自動閉塞化{{R|sone06-16}}。[[中山峠_(福島県)#鉄道|中山峠]]を抜ける沼上トンネル(1899年〈明治32年〉開通。延長約900 m)を新トンネルに付け替え。旧トンネルと前後の旧線跡は現存。
** 7月1日:[[国鉄455系電車|455系]]電車による急行「[[あいづ#準急109 - 209・210 - 110列車「ばんだい」(上野駅 - 喜多方駅間)の登場|ばんだい]]」運転開始{{R|sone06-16}}。
** 8月21日:志田浜仮乗降場廃止{{R|sone06-16}}。
* [[1968年]](昭和43年)
** 9月18日:特急「やまばと」から会津若松編成を分離し、[[国鉄485系電車|485系]]電車による特急「会津やまばと」運転開始{{R|sone06-16}}。
** 9月28日:特急「会津やまばと」を「[[あいづ]]」に改称{{R|sone06-16}}。
* [[1980年]](昭和55年)10月1日?:[[国鉄50系客車|50系]]客車運用開始。
* [[1982年]](昭和57年)11月15日:上野駅 - 新潟駅間の急行「いいで」を廃止<ref name="sone06-17">[[#sone06|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号]]、17頁</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)
** 2月28日:喜多方駅 - 新津駅間[[列車集中制御装置|CTC]]使用開始<ref group="新聞">{{Cite news |title=国鉄各線CTC化急ピッチ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-03-01 |page=1 }}</ref>。
** 3月10日:郡山駅 - 喜多方駅間CTC使用開始。
* [[1984年]](昭和59年)
** 2月1日:急行「ばんだい」廃止、[[快速列車]]に移行{{R|sone06-17}}。
** 9月26日:[[昭和天皇]]の結婚60周年記念旅行に際し、[[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[翁島駅]]間で[[お召し列車]]を運転。翌27日には磐梯熱海駅 - [[原宿駅]]間で運転された。
* [[1985年]](昭和60年)3月14日:白崎駅を三川駅に改称。急行「[[あがの (列車)|あがの]]」廃止、快速列車に移行。
* [[1986年]](昭和61年)7月20日:(臨)[[猪苗代湖畔駅]]新設{{R|sone06-17}}。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:東日本旅客鉄道(JR東日本)が第1種鉄道事業者として継承、日本貨物鉄道(JR貨物)が第2種鉄道事業者となる{{R|sone06-17}}。
* [[1991年]]([[平成]]3年)
** 7月1日:新潟支社管内を統括する「阿賀野ライン営業所」を五泉駅構内に設置<ref>『JR東日本新潟、五泉駅に営業所磐越西線を統括』平成3年6月30日日本経済新聞地方経済面新潟</ref>。
** 10月1日:馬下駅 - 新津駅間でワンマン運転を開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** 9月6日:1967年の電化以来磐越西線用の[[電気機関車]]として郡山駅 - 会津若松駅間の貨物列車と一部の旅客列車を牽引していた[[国鉄ED77形電気機関車|ED77形]]が[[国鉄ED75形電気機関車|ED75形]]に置き換えられる<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1993年12月号、120-121P、[[交友社]]</ref>。
** 12月1日:上野駅 - 会津若松駅間の特急「あいづ」廃止{{R|sone06-17}}。郡山駅 - 会津若松駅間に特急「ビバあいづ」運転開始{{R|sone06-17}}。
* [[1994年]](平成6年)10月17日:六丁道[[踏切]]で[[列車脱線事故]]。下り快速「ばんだい1号」が会津若松駅 - 堂島駅間の六丁道踏切で重機のアームが架線につかえて立ち往生していたトレーラと衝突、快速の前2両が脱線、乗客8名と当該運転士が怪我。
* [[1995年]](平成7年)
** 11月26日:新津駅 - 会津若松駅間で客車列車の[[さよなら運転]]。
** 12月1日:ダイヤ改正により50系による客車列車が廃止<ref>{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)3月16日:会津若松駅を発着する[[貨物列車]]の設定が廃止、[[自動車代行駅]]となる。
* [[1997年]](平成9年)3月22日:中山宿駅スイッチバック廃止に伴い磐梯熱海駅 - 中山宿駅 - 上戸駅間改キロ (-0.7 km){{R|sone06-17}}。
* [[1998年]](平成10年)
** [[8月12日]]:集中豪雨により喜多方駅 - 新津駅間で運転を見合わせ<ref group="新聞">“東北などに大雨、JR在来線影響” [[毎日新聞]] ([[毎日新聞社]]): p9. (1998年8月12日 東京夕刊)</ref>。
** [[8月13日]]:津川駅 - 新津駅間の運転を再開<ref group="新聞">{{Cite news |title=JR磐越西線一部区間不通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-14 |page=3 }}</ref>。
** [[8月14日]]:野沢駅 - 津川駅間の運転を再開<ref group="新聞">{{Cite news |title=野沢-喜多方間不通 JR磐越西線 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-17 |page=3 }}</ref>。
** [[8月15日]]:喜多方駅 - 野沢駅間の運転を再開<ref group="新聞">{{Cite news |title=JR磐越西線が復旧 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-18 |page=3 }}</ref>。
** [[8月17日]]:大雨のため喜多方駅 - 馬下駅間で運転を見合わせ<ref group="新聞">“またも大雨被害--上越地方、浸水100世帯” [[毎日新聞]] ([[毎日新聞社]]): 地方版/新潟面 (1998年8月18日 朝刊)</ref><ref name="毎日980825" group="新聞">“きょう運転再開--土砂崩れで不通の磐越西線” [[毎日新聞]] ([[毎日新聞社]]): 地方版/新潟面. (1998年8月25日 朝刊)</ref>。
** [[8月19日]]:津川駅 - 馬下駅間では終日の運転を再開<ref name="交通980820" group="新聞">{{Cite news |title=復旧工事以前続く JR磐越西線 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-20 |page=3 }}</ref>。喜多方駅 - 野沢駅間では朝夕に限り運転を再開{{R|group="新聞"|交通980820}}。
** [[8月25日]]:喜多方駅 - 津川駅間で運転を再開し、全線が復旧<ref group="新聞">{{Cite news |title=始発から平常ダイヤに JR磐越西線 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-26 |page=3 }}</ref>{{R|group="新聞"|毎日980825}}。
* [[1999年]](平成11年)4月29日:「SLばんえつ物語号」(現・SLばんえつ物語)運転開始{{R|sone06-17}}。
* [[2002年]](平成14年)12月1日:特急「ビバあいづ」を「あいづ」に改称{{R|sone06-17}}。同時に快速「あがの」2往復のうち夕方の1往復が普通列車と統合されて「あがの」が1往復運転になり、野沢駅 - 馬下駅間の列車が1往復減となる。
* [[2003年]](平成15年)10月1日:特急「あいづ」を廃止し、快速列車に格下げ{{R|sone06-17}}。
* [[2004年]](平成16年)10月16日:快速「ばんだい」の愛称が廃止。
* [[2007年]](平成19年)6月30日:[[JR東日本719系電車|719系]]電車運用開始{{R|sone06-17}}。
* [[2008年]](平成20年)
** 3月14日:455系電車運転終了。
** 3月15日:五泉駅 - 新津駅間が新潟近郊区間に追加され、同区間でICカード乗車券「[[Suica]]」が利用可能になる。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月11日:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により郡山駅 - 津川駅間が不通となる。
** 3月25日:東日本大震災による燃料不足を受け、[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]重連による臨時石油輸送を開始(磐越西線走行は26日から)。
** 3月26日:全線で運転再開。「あいづライナー」については4月29日より運転再開。
** 4月7日:[[宮城県沖地震 (2011年)|東北地方太平洋沖地震の余震]]発生により郡山駅 - 会津若松駅間が再び不通となる。
** 4月9日:全線で運転再開。
** 4月16日:[[東北本線]]復旧により、DD51形[[重連運転|重連]]による臨時石油輸送を終了。石油輸送列車は、翌17日から東北本線経由で運転開始。
** 7月14日:徳沢駅構内で西川トンネル上部からの落石による脱線事故発生。翌日復旧。
** 7月30日:[[平成23年7月新潟・福島豪雨|新潟・福島を襲った豪雨]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bousai.go.jp/h23_08ooame/11080108ooame09.pdf |title=平成23年7月新潟・福島豪雨による被害状況等について |publisher=[[内閣府]] |format=PDF |date=2011-08-04 |accessdate=2011-08-20 }}</ref>により豊実駅 - 日出谷駅間、三川駅 - 咲花駅間の路盤が流出。喜多方駅 - 馬下駅間が不通となる。
** 8月6日:午後より喜多方駅 - 野沢駅間が復旧。
** 8月21日:夜より野沢駅 - 津川駅間が復旧。[[バス代行|代行バス]]は津川駅 - 五泉駅間で運転。
** 10月14日:午後より津川駅 - 馬下駅間が復旧し、全線で運転再開となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=http://www.jrniigata.co.jp/slbanetsu/20111007bansaiuntensaikai.pdf |title=磐越西線の運転再開予定について |publisher=[[東日本旅客鉄道新潟支社]] |format=PDF |date=2011-10-07 |accessdate=2011-10-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111016161318/http://jrniigata.co.jp/slbanetsu/20111007bansaiuntensaikai.pdf|archivedate=2011-10-16}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** 4月1日:郡山駅 - 喜多方駅間が新設の仙台近郊区間となり、同区間の一部駅(磐梯熱海駅・猪苗代駅・会津若松駅・喜多方駅)でICカード乗車券「Suica」の一部サービスが利用可能になる<ref group="報道" name="jreast20131129" />。
** 7月9日:[[平成26年台風第8号|台風8号]]の豪雨により喜多方駅 - 馬下駅間で不通となる<ref name="milt001047547">{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001047547.pdf#page=13 台風第8号及び梅雨前線等による被害状況について(第7報) ]}} - 国土交通省 災害情報、2014年7月10日 12:00現在</ref>。
** 7月10日:津川駅 - 馬下駅間が運転再開<!--この区間は被害があったのか不明なので単に「運転再開」とだけとした。--><ref name="milt001047547" />。
** 7月11日:山都駅 - 津川駅間が昼に復旧<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001047761.pdf#page=12 台風第8号及び梅雨前線等による被害状況について(第10報) ]}} - 国土交通省 災害情報、2014年7月14日 7:00現在</ref>。
** 7月12日:喜多方駅 - 山都駅・津川駅間で代行バス運転開始<ref group="報道">{{Wayback|date=20140728040055|url=http://www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/20140714banetsusaisenbasudaikoannai.pdf|title=磐越西線の列車の区間運休とバスによる代行輸送について - 東日本旅客鉄道新潟支社}}</ref>。
** 8月8日:13時頃より喜多方駅 - 山都駅が復旧し、全線で運転再開<ref group="報道">{{Wayback|date=20140809224700|url=http://www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/bansaiunntennsaikai.pdf|title=磐越西線の運転再開について - 東日本旅客鉄道新潟支社}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:ダイヤ改正で快速「あいづライナー」が定期運転終了。改正後は無愛称の快速となり719系で運用。
* [[2016年]](平成28年):「磐越西線鉄道施設群」が[[土木学会選奨土木遺産]]に選定。明治・大正期の多様な[[橋梁]]群、[[隧道]]、駅舎、[[転車台]]群、東日本大震災発生時に[[ライフライン]]として東北と関東を繋いだことが評価されたもの<ref>{{Cite web|和書|date= 2016|url= http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/895|title= 磐越西線鉄道施設群|publisher= [[土木学会]]|accessdate=2018-03-16}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** [[3月4日]]:ダイヤ改正から電化区間の一部列車にE721系を投入<ref group="注釈">4日のダイヤ改正に備え、実際には3日午後から順次運行を開始した。</ref>。郡山駅 - 会津若松駅・喜多方駅間でのワンマン運転を開始<ref group="報道" name="jr-sendai20161216">{{Cite web|和書|url=http://jr-sendai.com/upload-images/2016/12/20161216.pdf|title=2017年3月ダイヤ改正および新駅開業等について|accessdate=2016-12-16|date=2016-12-16|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社}}</ref>。
** [[4月1日]]:郡山富田駅開業。同駅でもSuicaのサービスを開始し、郡山駅 - 郡山富田駅間に限り郡山方面各駅との定期券サービスを開始する<ref group="報道" name="jr-sendai20161216" />。
* [[2019年]]([[令和]]元年)7月15日:「磐越西線開通120周年号」が会津若松駅→郡山駅で運転<ref>[https://railf.jp/news/2019/07/16/143000.html 『磐越西線開通120周年号』運転] 鉄道ファン railf.jp(2019年7月16日)2020年1月22日閲覧</ref>。
* [[2020年]](令和2年)3月14日:郡山駅 - 会津若松駅間の一部列車に、[[座席指定席|指定席]]を設定した快速「[[あいづ]]」の運行を開始<ref group="報道" name="jr-sendai20191025" /><ref group="報道" name="jr-sendai201912131"/>。新津運輸区、郡山車両センターのキハ40、47、48の全ての気動車が置き換えられた。
* [[2021年]](令和3年)3月13日 : 会津若松駅 - 野沢駅間の一部列車でキハE120形の運用開始<ref group="報道" name="jr-sendai20201218">{{Cite web|和書|url= https://www.jreast.co.jp/press/2020/sendai/20201218_s01.pdf|title=2021年3月ダイヤ改正について|accessdate=2020-12-19|date=2020-12-18|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社}} </ref>。
*[[2022年]](令和4年)
** [[3月12日]]:ダイヤ改正をもって、会津若松駅 - 喜多方駅間における電車列車の運転と快速「あがの」の運行を廃止<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=2022年3月ダイヤ改正について|publisher=JR東日本 仙台支社|date=2021-12-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20211217_s01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217064304/https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20211217_s01.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。
** [[8月4日]]:[[令和4年8月豪雨|大雨]]の影響で喜多方駅 - 山都駅間にある[[濁川橋梁]]の支柱が下流側に倒されて崩落していることが判明<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://kahoku.news/articles/20220804khn000051.html |title=福島・喜多方 橋りょう崩落、線路宙づり 通勤・通学に打撃|date=2022-08-05 |accessdate=2022-08-05 |newspaper=河北新報 |publisher=河北新報社}}</ref>。喜多方駅 - 野沢駅間、同じく大雨の影響で野沢駅 - 馬下駅間が不通となる。
** [[8月6日]]:野沢駅 - 馬下駅間が始発より復旧。
** [[8月25日]]:山都駅 - 野沢駅間が復旧<ref group="新聞">{{Cite news|title=JR仙台・新潟支社 磐越西線 25日から山都―野沢間再開|newspaper=交通新聞|publisher=交通新聞社|date=2022-8-24|url=https://news.kotsu.co.jp/Contents/20220824/3f94888b-836b-43e8-b06c-659ddd2c105f|access-date=2022-8-28}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=磐越西線 山都駅~野沢駅間 一部列車の運転再開と代行バスの増便について|publisher=JR東日本 仙台支社|date=2022-08-23|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/sendai/20220823_s01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2022-09-14}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[3月18日]]:津川駅 - 馬下駅間でワンマン運転を開始。
** [[4月1日]]:喜多方駅 - 山都駅間の濁川橋梁の復旧工事が完了し全線復旧<ref group="新聞">{{Cite news |title=磐越西線4月1日再開通へ 22年大雨被災、不通の喜多方-山都間 |newspaper=福島民友新聞 |date=2023-02-17 |url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20230217-758765.php |access-date=2023-02-18 |publisher=福島民友新聞社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=磐越西線 全線運転再開について(全2頁)|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/sendai/20230222_s01.pdf|work=JR東日本ニュース|date=2023-02-22|accessdate=2023-02-22}}</ref>。喜多方駅 - 野沢駅間でワンマン運転開始。
== 運行形態 ==
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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{{BS4|KDSTa|STR||||[[郡山総合車両センター]]||}}
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{{BS2|BHF||20.8|[[中山宿駅]]|(2) 1997-|}}
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{{BS4|exKBHFa|BHF|||33.4|[[川桁駅]]||}}
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{{BS4||ABZl+l|ABZq+l|BHFq|64.6|[[会津若松駅]]|[[只見線]]|}}
{{BS2|STR|KDSTe||[[郡山総合車両センター#会津若松派出|会津若松派出]]<ref group="*">郡山総合車両センター会津若松派出</ref>||}}
{{BS2|eHST|||''木流仮駅''|-1912|}}
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{{BS2|TUNNEL1|||西海枝トンネル|297m|}}
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{{BS2|hKRZWae|||[[安座川橋梁]]||}}
{{BS2|BHF||111.3|[[上野尻駅]]||}}
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{{BS2|TUNNEL1|||徳沢トンネル|115m|}}
{{BS2|BHF||118.0|[[徳沢駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||奥川トンネル|130m|}}
{{BS2|hKRZWae+GRZq|||[[阿賀野川徳沢橋梁|徳沢橋梁]]|[[福島県]]/[[新潟県]]|}}
{{BS2|TUNNEL1|||船渡トンネル|724m|}}
{{BS2|BHF||121.3|[[豊実駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae|||[[沢尻橋梁]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||豊実トンネル||}}
{{BS2|hKRZWae|||[[実川橋梁]]||}}
{{BS2|BHF||128.4|[[日出谷駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae|||[[阿賀野川当麻橋梁|当麻橋梁]]|173m|}}
{{BS2|TUNNEL1|||[[平瀬トンネル]]|2006m}}
{{BS2|hKRZWae|||[[阿賀野川深戸橋梁|深戸橋梁]]|252m|}}
{{BS2|BHF||133.6|[[鹿瀬駅]]||}}
{{BS2|BHF||137.0|[[津川駅]]||}}
{{BS2|TUNNEL1|||白崎トンネル|563m|}}
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{{BS2|hKRZWae|||[[阿賀野川御前橋梁|御前橋梁]]|235m|}}
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{{BS2|TUNNEL1|||五十島トンネル|252m|}}
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----
{{Reflist|group="*"}}
}}
基本的に、[[会津若松駅]]を境に運転系統が分かれている。
=== 郡山駅 - 会津若松駅間 ===
列車の大半は郡山駅 - 会津若松駅間の運転である。この区間は[[交流電化]]区間であり、[[JR東日本E721系電車|E721系]]電車が使用されている。[[ワンマン運転]]を行う列車が多い(多客時は、ワンマン運転を解除し、車掌が乗務する)。なお、朝に郡山駅 - [[磐梯熱海駅]]間の区間列車が1往復運行されている。
郡山駅 - 会津若松駅間は対東京輸送も含めて高速バスとの激しい競合に晒されている。このため[[Wきっぷ]]が設定されており、サービス改善を目的に2020年3月14日のダイヤ改正より、郡山駅 - 会津若松駅間の一部列車に、[[リクライニングシート]]が付いた指定席車両が導入された<ref group="報道" name="jr-sendai20191025">{{Cite press release|和書|url=http://jr-sendai.com/upload-images/2019/10/201910253.pdf|title=磐越西線への指定席着席サービスの導入について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2019-10-25|accessdate=2019-10-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191025050716/http://jr-sendai.com/upload-images/2019/10/201910253.pdf|archivedate=2019-10-25}}</ref><ref group="報道" name="jr-sendai201912131" />。
==== 普通列車 ====
[[普通列車]]は、2両・4両で運転されている。
==== 快速列車 ====
[[快速列車]]は上野からの急行列車「[[あいづ|ばんだい]]」の区間短縮、格下げにより[[1984年]](昭和59年)2月1日から運転を開始した。その後、後述の特急「あいづ」などを吸収し、2022年3月12日改正時点で7往復<ref>『JTB時刻表』2022年3月号、pp.614-615</ref>が運転されている。なお、「ばんだい」の愛称は2004年10月15日まで郡山駅 - 会津若松駅・喜多方駅間運転の快速列車の愛称として使われた。
2015年から2018年秋までの土曜・休日などには、快速列車の一部が観光列車「[[フルーティアふくしま]]」を連結して運転することがあった<ref group="注釈">当初は普通1往復・快速1往復、2017年から快速2往復に連結。2019年度以降、「フルーティアふくしま」は単独で運転。</ref>。2017年3月4日改正以降、多客時を除き[[JR東日本719系電車|719系]]電車を使用するのはこれらの快速列車のみであった。
2020年3月14日のダイヤ改正より、7往復のうち3往復が指定席を設定した快速「[[あいづ]]」として運行されている。一部にリクライニングシートの指定席区画を設けた[[JR東日本E721系電車|E721系]]4両編成(あいづ2号・5号は2両編成/リクライニングシート設置はP-12編成)が使用されている<ref group="報道" name="jr-sendai201912131">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/sendai/upload-images/2019/12/201912131.pdf 2020年3月ダイヤ改正について JR東日本仙台支社]}}</ref>。
; 停車駅
:: [[郡山駅 (福島県)|郡山駅]] - [[郡山富田駅]] - [[喜久田駅]] - [[磐梯熱海駅]] - [[猪苗代駅]] - [[磐梯町駅]] - [[会津若松駅]]
::* 愛称のない快速のうち1往復は[[川桁駅]] - 会津若松駅間各駅停車
なお、快速列車には特急「[[あいづ]](ビバあいづ)」を前身とし、指定席を連結した「[[あいづ|あいづライナー]]」が2007年3月18日から2015年3月13日まで郡山駅 - 会津若松駅間で3往復運転されていた(詳細は列車の項目を参照)。廃止以降も「あいづ」の愛称名で繁忙期を中心に運転が行われていた。
このほか、観光シーズンなどには[[臨時列車]]として以下の列車が運転された。
* 快速「白虎」(仙台駅 - 会津若松駅・喜多方駅間)
* 快速「[[フェアーウェイ (列車)|フェアーウェイ]]」(新宿駅 - 会津若松駅間、ただし新宿駅 - 黒磯駅間は毎週末運転)
また、運転日数は少ないが、郡山駅 - 会津若松駅間にも[[蒸気機関車]]牽引列車が設定されることがある。
=== 会津若松駅 - 新津駅間 ===
[[非電化]]であるため、[[気動車]]が使用されており、[[JR東日本GV-E400系気動車|GV-E400系]]または[[JR東日本キハ110系気動車|キハ110系]]による2 - 4両編成で運転されている。なお、一部の列車は堂島駅・笈川駅・姥堂駅・会津豊川駅を通過する。
[[File:NiigataSta RouteDiagram 20161227.jpg|thumb|none|新潟駅に掲示されている案内図。信越本線の新津駅 - 新潟駅間に乗り入れる列車が存在することが示されている。(2016年12月)]]
==== 普通列車・快速列車 ====
会津若松駅 - 新津駅間を直通運転する列車(2 - 4時間に1本程度)のほか、会津若松駅 - 野沢駅間と津川駅・馬下駅・五泉駅 - 新津駅間の区間列車も設定されている。[[信越本線]]の新津駅 - [[新潟駅]]間に直通する列車もある。新潟近郊の馬下駅・五泉駅 - 新津駅は1時間に1本程度で、平日・土曜日朝には新津経由で新潟行きが約10 - 20分間隔で設定されている。なお、会津若松駅 - 野沢駅間、津川駅・馬下駅・五泉駅 - 新津駅・新潟駅間の一部の区間列車ではワンマン運転が行われている。
大半の列車が普通列車として運行されているが、朝に新潟行きの下り快速列車が2本設定されており、どちらも磐越西線内は各駅に停車する。馬下始発は休日運休で、信越本線内は途中亀田駅と越後石山駅に停車する。五泉始発は毎日運転で、信越本線内は途中亀田駅にのみ停車する。
かつては会津若松駅 - 新潟駅間で快速「あがの」が運転されていたが2022年3月12日のダイヤ改正で廃止された。(詳細は「[[あがの (列車)|あがの]]」の項を参照)
<gallery>
ファイル:Rapid"agano”train.jpg|キハ110系による快速「あがの」(2006年11月3日 猿和田駅 - 馬下駅間)
</gallery>
==== 臨時列車 ====
観光列車として[[蒸気機関車]][[国鉄C57形蒸気機関車180号機|C57 180]]牽引の快速「[[SLばんえつ物語]]」が会津若松駅 - 新津駅間において4月 - 11月の土曜・休日を中心に半定期的に運転されている。
[[2003年]]10月4日からは、土休日に会津若松駅 - 喜多方駅間にて、[[会津鉄道]]の車両を使用する快速「[[AIZUマウントエクスプレス]]」の延長運転が実施されている。なお、[[2022年]]3月12日以降は「AIZUマウントエクスプレス」の減便に伴い、同列車の延長運転は下りのみとなり、上りは代わりに折り返しの会津田島行き普通列車が延長運転を行う(磐越西線内は従来通り塩川駅のみ停車)。
=== 新潟県中越地震による影響 ===
[[2004年]]10月23日に発生した[[新潟県中越地震]]では、[[上越線]]が不通になったため、郡山経由での迂回ルートとして客貨ともに臨時列車が運行された。
旅客の臨時列車は、新潟駅 - 会津若松駅の直通快速が1往復と、所定では野沢駅止まりの各駅停車を津川駅まで延長運転し、同駅発着の列車に接続をとる形で行われたが、平日の乗車率はそれほど良くなかったようで、11月中旬には直通快速は運休の日が多くなっていた。また、これらの列車を運転するために[[東日本旅客鉄道秋田支社|秋田支社]]・[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡支社]]から応援車両としてキハ40形が来ていたため、他線区の塗装と本来の新潟支社の塗装の混結編成を見ることができた。
貨物の臨時列車は、11月12日より運転が開始された。新潟 - 東京間の紙輸送の迂回によるもので、1日1往復を[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]](会津若松以西)が[[国鉄ワム80000形貨車 |ワム80000形380000番台]]貨車6 - 14両を牽引するかたちで行われていた。この列車が運転されているダイヤは本来セメント輸送列車のためのものであったが、そのセメント列車運転日にはセメント列車をSLばんえつ物語のダイヤで運転する措置がとられた。<!-- (鉄道ファンからはセメント物語号と呼ばれていた) -->
=== 東日本大震災による影響 ===
[[ファイル:2011_banetsu_sekiyu.jpg|200px|thumb|DD51の重連(833号機 + 1027号機)で運転された臨時石油輸送列車(2011年4月2日 喜多方 - 山都)]]
[[2011年]]3月11日に発生した[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])によって、郡山駅 - 津川駅が運転見合わせとなったが、3月26日に全線で運転を再開した。
この地震による被災地での燃料不足を受けて、JR貨物はJX日鉱日石エネルギー(当時:現在の[[ENEOS]])[[ENEOS根岸製油所|根岸製油所]]にて精製した石油製品を輸送する臨時石油輸送列車を[[根岸駅 (神奈川県)|根岸駅]]から郡山駅へ運行することを決め、3月25日から根岸駅発にて運転を開始。[[東北本線]]が不通であるため、[[高崎線]] - 上越線 - 信越本線 - 当線経由で迂回するルートで運行された<ref group="新聞">{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819696E0E1E2E1858DE0E1E2E1E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2|title=JR貨物、横浜─郡山の石油専用列車を運行|publisher=日本経済新聞社|date=2011-03-23|accessdate=2011-04-15}}</ref><ref group="新聞">{{Cite web|和書|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201103/2011032300770|title=福島・郡山に石油輸送=横浜から臨時運行-JR貨物|publisher=時事通信|date=2011-03-23|accessdate=2011-04-15}}</ref>。1日1往復(4月からは2往復)の運行で<ref group="新聞">[http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/earthquake0416/126911.html 東日本大震災4月16日「被災地へ石油輸送道内機関車も 登別から参加きょうで終了」] - 北海道新聞</ref>、新潟まで電気機関車が牽引してきた[[JR貨物タキ1000形貨車|タキ1000形]]貨車20両を、急勾配のある磐越西線内は貨車を10両ずつに分割してDD51形が[[重連運転|重連]]で牽引する形で行われた。それでも悪条件が重なり急勾配で立ち往生したため、JR東日本の[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形]]が後方から押し上げて通過した<ref group="新聞">{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXMZO84187920Q5A310C1000000/?df=2|title=ガソリンがない、被災地へ石油を運んだ男たち|publisher=日本経済新聞社|date=2015-03-11|accessdate=2015-03-11}}</ref>。なお、かつて当線の貨物列車を牽引していた[[東新潟機関区]]のDD51形は[[2010年]]3月13日のダイヤ改正で運用を失い、他線区へ転出していたため、[[門司機関区]]や[[吹田機関区]]などから機関車を借りて運行された。貸し出されたDD51形の中には、東新潟機関区へ、いわば「里帰り」となった車両もあった。この臨時石油輸送列車は4月16日まで運転され、4月17日からは東北本線[[黒磯駅]] - [[安積永盛駅]]間の復旧に伴い東北本線経由に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mlit.go.jp/common/000141752.pdf|title=鉄道の復旧状況(平成23年4月14日14時30分現在)|publisher=[[国土交通省]]|date=2011-04-15|accessdate=2011-04-17}}</ref>。<!-- 映像作品の件は記事の最後の方に移しました。-->
これに関しては、震災から4年後の[[2015年]][[3月15日]]に[[日本放送協会|NHK]][[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]で放送された『[[明日へ -支えあおう-]]』で取り上げられた<ref>[http://www.nhk.or.jp/ashita/bangumi/archives/archives2014.html これまでの放送 | 明日へ つなげよう] - 日本放送協会、2016年11月12日閲覧</ref>ほか、この実話をもとにした『はしれ ディーゼルきかんしゃデーデ』という絵本が[[童心社]]より刊行されている<ref>[https://www.doshinsha.co.jp/search/info.php?isbn=9784494025619 はしれ ディーゼルきかんしゃデーデ (絵本・こどものひろば) :すとうあさえ/鈴木まもる] - 童心社</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現在の車両 ===
定期運用を持つ車両のほか、定期的に設定される臨時列車への使用車両も記載する。
==== 電車 ====
* [[JR東日本E721系電車|E721系]]0番台
** 仙台車両センター所属。郡山駅 - 会津若松駅間で運用される。「フルーティアふくしま」以外の全ての運用を担う。なお、磐越西線専用のあかべぇ塗装は本系列では採用されず、東北本線と同じ緑と赤の帯色となっている。
<gallery>
E721Ban-etsu.jpg|2017年3月4日より運転されているE721系(2017年8月16日 郡山駅)
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==== 気動車 ====
[[File:JRNiigataUsage_Latest.svg|thumb|270px|2020年3月改正時点での使用車両(会津若松駅以西)]]
気動車は全て2ドア車となっている。
* [[JR東日本キハ110系気動車|キハ110系]]
** [[新潟車両センター]][[新津運輸区|新津派出所]]所属。会津若松駅 - 新津駅間で運用される。
**2020年3月ダイヤ改正まではキハE120形との混結や3-5両編成、快速列車の運用もあったが、大半はGV-E400系に置き換えられた。
**2022年3月ダイヤ改正で3両編成、五泉駅 - 新潟駅間での快速列車の運用に復帰した。
* [[JR東日本GV-E400系気動車|GV-E400系]]
** 新潟車両センター新津派出所所属。2019年8月19日から新津駅 - 馬下駅間で運行を開始した[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式|電気式]]気動車<ref>[https://railf.jp/news/2019/08/20/170000.html GV-E400系が営業運転を開始] - 鉄道ニュース 鉄道ファン・railf.jp、2019年8月20日</ref>。2018年度から2019年度にかけて導入され<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2017/20170706.pdf 八戸線および新潟・秋田地区への車両新造計画について]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2017年7月4日</ref>、2020年3月のダイヤ改正以降は会津若松駅 - 新津駅間の主力車両となった。なお、2022年3月ダイヤ改正までは快速「[[あがの (列車)|あがの]]」にも充当されていた。
* [[JR東日本キハE120形気動車|キハE120形]]
** 郡山総合車両センター会津若松派出所属。会津若松駅 - 野沢駅間で運用される<ref group="報道" name="jr-sendai20201218" />。
** [[2008年]]から[[2020年]]までは新津運輸区に配置され、キハ110系とともに会津若松駅 - 新津駅間で使用されていた<ref group="注釈">2018年3月改正前まではキハ110系と共通運用であり混結も多く見られたが、同改正以降は新潟駅の[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]導入の都合から運用が分離され、当線内の運用は朝晩の5両編成を組成する列車の中間に連結されるのみとなっていた</ref>。2020年3月に只見線用として郡山総合車両センター会津若松派出に転属した。転属当初は同線専属だったが、2021年3月ダイヤ改正より会津若松駅 - 野沢駅間の下り1本で間合い運用を開始した。
* 会津鉄道[[会津鉄道AT-700形気動車|AT-700形・AT-750形]]
** 快速「[[AIZUマウントエクスプレス]]」として土休日を中心に会津若松駅 - 喜多方駅間に乗り入れる。
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Kiha110-204.JPG|キハ110系(2013年10月 山都駅)
Gosen_Station_-E120.jpg|新津運輸区時代、キハ110系と共通で運用されていた頃のキハE120形(2009年12月 五泉駅)
</gallery>
=== 過去の車両 ===
==== 電車 ====
* [[国鉄457系電車|455系・457系]]
** 1996年8月9日から、通常塗装の車両のほか赤をベースとした専用塗装の車両が運用されていた<ref name="rf_199611">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年11月号 通巻427号 p.128</ref>。
** 2007年に仙台地区へ[[JR東日本E721系電車|E721系0番台]]が投入された玉突き転配で同年7月に455系・457系の運用がすべて719系へ置き換えられた。その後も、2007年9月2日に2か月ぶりに455系(S-2・6編成)が入線し、臨時列車「さよなら455系あかべぇ」号に使用された。その8日後の9月10日から運用の都合で455系の運用が再び復活したが、あかべぇ編成ではなく東北色の車両が使用された。この455系は[[2008年]]3月14日まで使用された。
** 本路線では快速「[[ばんだい (列車)|ばんだい]]」の専用車両として、[[国鉄457系電車#クロハ455-1|クロハ455-1]]を組み込んだS40編成が運用された。
* [[JR東日本719系電車|719系]]0番台
** [[仙台車両センター]]所属。磐越西線で使用する車両は[[郡山総合車両センター]]の会津若松派出所に常駐していた。
** 455系・457系から引き続き専用塗装とした通称「[[あかべぇ]]編成」も運用していた。
** 2017年3月のダイヤ改正でワンマン運転が開始されたことと、E721系の増備に伴い、運用が激減し、同改正以降は郡山駅 - 会津若松駅間の快速列車のみで運用されていた。
* [[国鉄485系電車|485系]]
** 特急「[[あいづ]]」や後身の特急「ビバあいづ」、快速「[[あいづ|あいづライナー]]」などで使用。
* [[国鉄583系電車|583系]]
** 快速「白虎」などの臨時列車や快速「あいづライナー」で使用。
*[[JR東日本719系電車|719系]][[JR東日本719系電車#700番台「フルーティア」|700番台]]
** 仙台車両センター所属。土休日を中心に観光列車「[[フルーティアふくしま]]」として運行されていたが、2023年12月24日をもって運行終了となった。
<gallery>
JNR455(JR East) Banetsu West Line Akabe at Koriyama 2006 1224size.jpg|455系(2006年12月23日 郡山駅)<br>
KuRoHa 455-1 Koriyama 20060816.JPG|クロハ455-1
Banetsu719.jpg|2007年6月30日より運転されていた719系(2007年8月13日 郡山駅)
719Akabee.jpg|2007年7月より運転されていた磐越西線塗色719系(2018年4月29日 郡山駅)
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==== 気動車 ====
[[File:JRNiigataUsage_2014.svg|thumb|270px|2014年7月時点での使用車両(会津若松駅以西)]]
* 会津鉄道[[名鉄キハ8500系気動車|キハ8500系]]
** 快速「[[AIZUマウントエクスプレス]]」で使用された。
* [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系(キハ40・47・48形)]]
** 会津若松駅 - 新津駅間で[[新津運輸区]]所属車が運用されたほか、会津若松駅 - 喜多方駅・野沢駅間の一部列車には[[郡山総合車両センター]]会津若松常駐の[[只見線]]用の車両が間合いで使用されていた。2020年のダイヤ改正で全ての車両が置き換えられた。
* [[国鉄キハ20系気動車#キハ52形|キハ52形]]
** 会津若松駅 - 新津駅間で新津運輸区所属車が運用されていたが、2008年にキハE120形・キハ110系に置き換えられた。
* [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]
** 会津若松駅 - 新津駅間で新津運輸区所属車が運用されていたが、2008年にキハE120形・キハ110系に置き換えられた。
==== 電気機関車 ====
* [[国鉄ED77形電気機関車|ED77形]]
** 東北地方の亜幹線向けに開発され、[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]] - [[喜多方駅]]間の[[鉄道の電化|電化]]時に投入された。その後の他線区への導入はなく、結果的に本路線のみの投入・運用となった。全車とも福島機関区に配置され、会津若松運転区に常駐して運用された<ref group="注釈">検査・修繕は福島機関区で施工し、通常の運用・管理は会津若松区が担当する形が採られた。</ref>。
** 磐越西線の軌道強化によってED75形が走行可能となったことで[[1993年]]までに運用を終了し全車廃車・廃形式となった。
* [[国鉄ED75形電気機関車|ED75形]]
** 先述の軌道強化により入線が可能となった。なお、1998年の電化区間の貨物列車廃止後も事業用列車などで入線している。
==== ディーゼル機関車 ====
* [[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]
** 客車列車や貨物列車を牽引していた。
==== 蒸気機関車 ====
{{節スタブ}}
==== 客車 ====
* 一般形客車
** [[日本国有鉄道|国鉄]]時代末期まで[[国鉄60系客車|オハ61]]、[[国鉄スハ32系客車|スハ32]]、[[国鉄オハ35系客車|オハ35]]などを中心に使用された。現在JR東日本で使用されている[[国鉄スハ32系客車#動態保存|スハフ32 2357号]]も郡山客貨車区(仙コリ)時代、磐越西線で運用されている。昭和50年代前半までの臨時急行「ばんだい」も仙台鉄道管理局の一般形客車を中心に運用された。
* [[国鉄50系客車|50系]]
** [[1995年]](平成7年)12月1日のダイヤ改正による客車列車運転終了まで運転された。
<gallery>
Series485-A1A2.jpg|2015年3月まで定期運転されていた485系による快速「あいづライナー」(2016年6月18日 川桁駅 - 猪苗代駅間)
Series583 AIZU LINER.jpg|2016年8月16日まで快速「あいづライナー」に使用されていた583系(2016年8月13日 翁島駅-磐梯町駅間)
Kiha 40 at Aizuwakamatsu Station in Spring.jpg|会津若松駅 - 新津駅間で使用されていたキハ40系新潟色(2010年5月5日 会津若松駅)
Igashima kiha40 2014.jpg|キハ40形とキハ47形、複数の塗色がランダムに混結して運行されていたキハ40系使用列車(2014年11月 五十島駅)
Nozawa 3.JPG|磐越西線の運用に就く只見線用キハ40系(2013年7月 野沢駅)
DD51 756 Kami-Nojiri 19870804.jpg|50系客車をけん引するDD51形ディーゼル機関車(1987年 上野尻駅)
</gallery>
== 沿線概況 ==
=== 郡山駅 - 会津若松駅間 ===
[[ファイル:West_Ban'etsu_Line_with_Mount_Bandai.jpg|thumb|[[川桁駅]] - [[猪苗代駅]]間、磐越西線と[[磐梯山]]]]
[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]は、[[東北本線]]、[[東北新幹線]]、[[磐越東線]]、[[水郡線]](東北本線直通列車)との乗り換え駅で、周辺地域の中心駅の役割を果たしている。郡山駅を北へ出ると、僅かの間東北本線と並行した後、[[逢瀬川]]を渡って西向きのカーブで進路を変える。沿線は、商業施設や住宅などが多い。2017年に開業した[[郡山富田駅]]を過ぎて北に進路を変えると、[[喜久田駅]]に着く。
喜久田駅、[[安子ケ島駅]]付近は、比較的上り下りが少なく、耕作地帯や、住宅地の間を通る区間が多い。前方に見える[[高塚山]]や[[額取山]]が次第に近づいてくると[[磐梯熱海駅]]である。磐梯熱海駅は、[[磐梯熱海温泉]]街の最寄り駅で、周辺にも温泉施設などが多く見られる。磐梯熱海駅を出発すると、登り区間が多くなる。そのまましばらく登っていくと、かつて[[スイッチバック]]があった[[中山宿駅]]である。スイッチバック時代の旧駅跡にはプラットホームが残されており、鉄道遺産として見学用に整備されている。現在の駅はその先の上り勾配の途中にあり、駅のすぐ西側はトンネルである。中山宿駅を出発してさらに登り、沼上トンネルで[[中山峠 (福島県)|中山峠]]を越えると列車は会津地方に入る。現在のトンネルは電化に備えて[[1967年]](昭和42年)に建設されたもので、隣には[[1899年]]([[明治]]32年)開通の旧トンネルが残されている。
沼上トンネルを出ですぐの[[沼上信号場]]を過ぎ、[[上戸駅 (福島県)|上戸駅]]に着く。上戸駅から先の区間の一部では、線路は[[猪苗代湖]]に接近し、[[関都駅]]との間には、臨時駅の[[猪苗代湖畔駅]]([[休止駅|休止中]])がある。[[川桁駅]]付近から、列車は[[猪苗代盆地]]の中を走る。また、ここから、[[翁島駅]]付近までは直線区間が多く、列車は農地の間を快走する。[[猪苗代駅]]は、[[磐梯高原]]などへの玄関口として、多くの観光客が利用している。翁島駅から先は一転して羊腸のような曲線区間が続き、[[磐梯山]]の見える方向が刻々と変化する。[[磐梯町駅]]との間は約10 kmと長いが、ほぼ中間に[[更科信号場]]がある。磐梯町駅を出ると、列車はさらに下り、[[東長原駅]]を過ぎて、進路を南向きに変え、[[広田駅]]に着く。広田駅からは、[[会津盆地]]の中を走り、喜多方方面からの線路が西から見えてくると、やがて列車は[[会津若松駅]]に着く。
=== 会津若松駅 - 新津駅間 ===
[[ファイル:Ban-etsu monogatari crossing Ichinotogawa river bridge 20090920.jpg|thumb|[[喜多方駅]]と[[山都駅]]間にある[[一ノ戸川橋梁]]を渡る[[SLばんえつ物語]]号]]
会津若松駅の構内が郡山・新津両方面から[[只見線]]に向かって線路が続く配線となっているため、同駅で[[スイッチバック]]が行われ、進行方向が変わる。また、新津方面の[[距離標|キロポスト]]は会津若松駅からの距離が示されている。磐越西線は会津若松駅をスイッチバックして新津駅方面へ向かうが、すぐに一面田園が広がる。[[鉄道の電化|電化]]区間は堂島・笈川・塩川・姥堂・会津豊川そして[[喜多方駅]]まで続くが、塩川・喜多方以外は[[停車場|停留所]]であり、一日に停車するのは上下4 - 5本程度と少ない。[[笈川駅]]は[[会津盆地]]のヘソともいうべき古刹[[勝常寺]]も近い。目と鼻の先[[日橋川]]の傍らにあるのが[[塩川駅]]で[[暖簾]](のれん)と[[ナマズ]]の街の玄関である。
[[喜多方市]]は[[喜多方ラーメン]]・長床([[新宮熊野神社]])で有名であり、峠を越えれば線路は[[阿賀川]]沿いに走り、[[明治|明治時代]]の遺産[[一ノ戸川橋梁]]を渡り、[[蕎麦]]で有名な[[山都駅]]になる。次が[[化石]]の街「高郷」の玄関・[[荻野駅]]で、塩川駅からここまでは喜多方市に含まれている。尾登をすぎると[[会津ころり三観音]]の一つ鳥追観音と大山祇神社の最寄り[[野沢駅]]となる。次が名勝「[[銚子の口]]」がある[[上野尻駅]]をすぎると[[徳沢駅]]で[[飯豊山]]弥平四郎登山口がある。新潟県境に接していてすぐ[[阿賀町]]に入ると、豊実・日出谷・鹿瀬・津川と続く。[[阿賀野川]]および[[国道49号線]]と併走する山間部に入るが、国道は度重なる災害により阿賀野川の対岸に付け替えられる([[揚川改良]]を参照)など防災上の難所となっており、磐越西線も45km/hなど低速の速度制限がかかる区間が断続的に続く。
[[日出谷駅]] - [[鹿瀬駅]]間では、[[日本の改軌論争]]に関連する[[平瀬トンネル]]と、落下式架け替え工法が使われたことで知られる[[阿賀野川深戸橋梁]]を通る。[[津川駅]]は阿賀町役場も近く古くから舟運で栄え、「[[狐の嫁入り行列]]」で有名な街でもある。さらに三川・五十島・東下条・[[咲花駅]]と続くが、咲花駅前には今も[[咲花温泉]]の[[湯花]]の香りが漂う。さらに馬下・猿和田・[[五泉駅]]と続く[[五泉市]]は切花やニットなど繊維産業の街であるが、[[1970年代]]以降は[[新潟市]]の[[ベッドタウン]]として住宅地開発も盛んである。さらに線路は西へ北五泉・新関・東新津と続き、終点の[[新津駅]]へと至るが、半数近くの列車は[[信越本線]]・[[新潟駅]]まで直通している。
== 駅一覧 ==
* 駅名 … (臨):[[臨時駅]]、◆・◇・■:貨物取扱駅(◇は定期貨物列車の発着なし、■は[[オフレールステーション]])
* 線路(全線単線) … ◇・◆・∨・∧:[[列車交換]]可(◆はスイッチバック駅)、|:列車交換不可
=== 郡山駅 - 会津若松駅間 ===
* この区間は交流電化。全駅が[[福島県]]内に所在。
* 普通列車は臨時駅を除く全ての旅客駅に停車する。
* 快速列車の一部は列車名「[[あいづ]]」
** ●:停車駅、◯:無愛称の一部快速列車が停車、|:快速通過駅
{| class="wikitable" rules="all"
|- <!--ラインカラーはJR仙台支社のHPでは全線茶色でした(08年10月現在)←新潟支社HPの路線図でも同系統の色ですので、公式色とみなしてトレースしました-->
!rowspan="2" style="width:10em; border-bottom:3px solid #cb7b35;"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #cb7b35;width:1em"|{{縦書き|快速}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #cb7b35;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #cb7b35;"|{{縦書き|線路}}
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:3px solid #cb7b35;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #cb7b35;"|駅間
!style="width:3em; border-bottom:3px solid #cb7b35;"|累計
|-
|[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]◆
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] [[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・{{Color|mediumseagreen|■}} [[東北本線]]・{{Color|mediumvioletred|■}} [[磐越東線]]・{{Color|#368c44|■}} [[水郡線]]<ref group="*">水郡線の正式な終点は東北本線[[安積永盛駅]]だが、列車はすべて郡山駅に乗り入れる</ref>
|∨
|colspan="2" rowspan="6"|[[郡山市]]
|-
|[[郡山富田駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|3.4
|●
|
||
|-
|[[喜久田駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|7.9
|●
|
|◇
|-
|[[安子ケ島駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|11.8
||
|
|◇
|-
|[[磐梯熱海駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|15.4
|●
|
|◇
|-
|[[中山宿駅]]
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|20.8
||
|
||
|-
|[[沼上信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|25.0
||
|
|◇
|rowspan="9" style="width:1em; text-align:center; line-height:2;"|{{縦書き|[[耶麻郡]]|height=5em}}
|rowspan="7" style="white-space:nowrap;"|[[猪苗代町]]
|-
|[[上戸駅 (福島県)|上戸駅]]
|style="text-align:right;"|6.5
|style="text-align:right;"|27.3
||
|
||
|-
|(臨)[[猪苗代湖畔駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|29.3
||
|(休止中)
||
|-
|[[関都駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|31.0
||
|
|◇
|-
|[[川桁駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|33.4
|◯
|
|◇
|-
|[[猪苗代駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|36.7
|●
|
|◇
|-
|[[翁島駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|41.1
|◯
|
|◇
|-
|[[更科信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|45.6
||
|
|◇
|rowspan="2"|[[磐梯町]]
|-
|[[磐梯町駅]]
|style="text-align:right;"|10.1
|style="text-align:right;"|51.2
|●
|
|◇
|-
|[[東長原駅]]
|style="text-align:right;"|6.0
|style="text-align:right;"|57.2
|◯
|
|◇
|colspan="2" rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[会津若松市]]
|-
|[[広田駅]]◇
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|60.0
|◯
|
|◇
|-
|[[会津若松駅]]■
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|64.6
|●
|東日本旅客鉄道:{{color|#008dd1|■}} [[只見線]]<br>[[会津鉄道]]:[[会津鉄道会津線|会津線]]<ref group="*">会津鉄道会津線の正式な起点は只見線[[西若松駅]]だが、列車はすべて会津若松駅に乗り入れる。</ref>
|◆
|}
{{Reflist|group="*"}}
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の対象駅は郡山駅・磐梯熱海駅・猪苗代駅・磐梯町駅・会津若松駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。
=== 会津若松駅 - 新津駅間 ===
* この区間は「森と水とロマンの鉄道」の路線愛称名がある。
* 定期列車はすべて気動車で運転(ただし、会津若松駅 - 喜多方駅間は交流電化設備あり)。
* 累計営業キロは郡山駅からのもの。
* 定期列車は普通列車・快速列車(馬下始発・五泉始発の各下り1本)ともに、基本的に下表区間のすべての駅に停車するが、※の駅は一部の普通列車のみ停車する。
** 臨時列車である快速「[[SLばんえつ物語]]」「[[AIZUマウントエクスプレス]]」の停車駅は列車記事を参照
{| class="wikitable" rules="all"
|- <!--ラインカラーはJR仙台支社のHPでは全線茶色でした(08年10月現在)←新潟支社HPの路線図でも同系統の色ですので、公式色とみなしてトレースしました-->
!rowspan="2" style="width:10em; border-bottom:3px solid #cb7b35;"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #cb7b35;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #cb7b35;"|{{縦書き|線路}}
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:3px solid #cb7b35;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #cb7b35;"|駅間
!style="width:3em; border-bottom:3px solid #cb7b35;"|累計
|-
|[[会津若松駅]]■
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|64.6
|東日本旅客鉄道:{{color|#008dd1|■}} [[只見線]]<br>[[会津鉄道]]:[[会津鉄道会津線|会津線]]<ref group="*">会津鉄道会津線の正式な起点は只見線[[西若松駅]]だが、列車はすべて会津若松駅に乗り入れる。</ref>
|◆
|rowspan="13" style="width:1em; text-align:center; line-height:4;"|{{縦書き|[[福島県]]}}
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[会津若松市]]
|-
|[[堂島駅]]※
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|70.1
|
||
|-
|[[笈川駅]]※
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|73.2
|
||
|colspan="2"|[[河沼郡]]<br>[[湯川村]]
|-
|[[塩川駅]]◇
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|75.1
|
|◇
|rowspan="6"|[[喜多方市]]
|-
|[[姥堂駅]]※
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|77.5
|
||
|-
|[[会津豊川駅]]※
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|79.5
|
||
|-
|[[喜多方駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|81.2
|
|◇
|-
|[[山都駅]]
|style="text-align:right;"|9.9
|style="text-align:right;"|91.1
|
|◇
|-
|[[荻野駅]]
|style="text-align:right;"|6.1
|style="text-align:right;"|97.2
|
||
|-
|[[尾登駅]]
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|101.0
|
||
|rowspan="4"|耶麻郡<br>[[西会津町]]
|-
|[[野沢駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|106.2
|
|◇
|-
|[[上野尻駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|111.3
|
||
|-
|[[徳沢駅]]
|style="text-align:right;"|6.7
|style="text-align:right;"|118.0
|
|◇
|-
|[[豊実駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|121.3
|
||
|rowspan="15" style="width:1em; text-align:center; line-height:2;"|{{縦書き|[[新潟県]]}}
|rowspan="7"|[[東蒲原郡]]<br>[[阿賀町]]
|-
|[[日出谷駅]]
|style="text-align:right;"|7.1
|style="text-align:right;"|128.4
|
||
|-
|[[鹿瀬駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|133.6
|
||
|-
|[[津川駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|137.0
|
|◇
|-
|[[三川駅 (新潟県)|三川駅]]
|style="text-align:right;"|7.4
|style="text-align:right;"|144.4
|
||
|-
|[[五十島駅]]
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|148.6
|
|◇
|-
|[[東下条駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|152.5
|
||
|-
|[[咲花駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|155.6
|
||
|rowspan="5"|[[五泉市]]
|-
|[[馬下駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|158.4
|
|◇
|-
|[[猿和田駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|161.9
|
||
|-
|[[五泉駅]]
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|165.7
|
|◇
|-
|[[北五泉駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|167.5
|
||
|-
|[[新関駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|170.0
|
|◇
|rowspan="3"|[[新潟市]]<br/>[[秋葉区]]
|-
|[[東新津駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|172.8
|
||
|-
|[[新津駅]]◇
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|175.6
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2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の対象駅は会津若松駅・塩川駅・喜多方駅・山都駅・荻野駅・野沢駅・五泉駅・新津駅である。それ以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。
=== 過去の接続路線 ===
* 郡山駅:[[三春馬車鉄道]] - 1914年10月16日廃止
* 川桁駅:[[磐梯急行電鉄]](日本硫黄沼尻鉄道)- 1968年10月14日休止、1969年4月1日廃止
* 喜多方駅:[[日中線]] - 1984年4月1日廃止
* 五泉駅:[[蒲原鉄道線]] - 1999年10月4日廃止
=== 新線付け替え区間 ===
* 磐梯熱海駅 - 中山宿駅間(小福山トンネル電化対応)
* 中山宿駅 - 上戸駅間(中山トンネル・[[沼上トンネル]]電化対応)
* 上戸駅 - 関都駅間(小坂山トンネル電化対応)
* 翁島駅 - 磐梯町駅間(更科信号場付近の線形改良)
* 喜多方駅 - 山都駅間(松野隧道崩壊による迂回)
* 日出谷駅 - 鹿瀬駅間([[阿賀野川当麻橋梁]]架け替え)
* 三川駅 - 五十島駅間([[阿賀野川御前橋梁]]架け替え、御前トンネル<!--吉津トンネルが正しい?-->老朽化対応)
== 平均通過人員 ==
各年度の[[輸送密度|平均通過人員]](人/日)は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf|format=PDF|title=路線別ご利用状況(2009〜2013年度)|accessdate=2019-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004015258/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf|archivedate=2019-10-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2012-2016.pdf |format=PDF |title=路線別ご利用状況(2012〜2016年度) |accessdate=2023-02-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230222003948if_/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2012-2016.pdf |archivedate=2023-02-22 |publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf |format=PDF |title=路線別ご利用状況(2017〜2021年度) |accessdate=2023-02-15 |publisher= |archive-url=https://web.archive.org/web/20220801113624/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf |archive-date=2022-08-01}}</ref>。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!年度
!全線
!郡山 - 会津若松
!会津若松 - 喜多方
!喜多方 - 野沢
!野沢 - 津川
!津川 - 五泉
!五泉 - 新津
|-
|rowspan="2" |1987 || rowspan="2" | '''3,803'''|| colspan="2" | 5,551 || colspan="3"| 1,764 || rowspan="2" | 6,252
|-
| 5,948 || 3,987 || 1,992 || 1,142 || 2,233
|-
|2009
|'''2,018'''
| colspan="2" |3,207
| colspan="3" |618
|4,212
|-
|2010 || '''1,935'''|| colspan="2" | 3,097 || colspan="3" | 556 || 4,175
|-
|2011 || '''1,773'''|| colspan="2" | 2,862 || colspan="3"| 456 || 4,084
|-
|2012 || '''1,910'''|| colspan="2" | 3,083 || colspan="3"| 508 || 4,248
|-
|2013 || '''1,973'''|| colspan="2" | 3,182 || colspan="3"| 527 || 4,390
|-
|2014 || '''1,834'''|| colspan="2" | 2,978 || colspan="3"| 465 || 4,144
|-
|2015 || '''1,877'''|| colspan="2" | 3,055 || colspan="3"| 479 || 4,152
|-
|2016 || '''1,810'''|| 3,142 || 2,129 || 612 || 159 || 634 || 4,161
|-
|2017 || '''1,803'''|| 3,114 || 2,082 || 624 || 163 || 652 || 4,195
|-
|2018 || '''1,745'''|| 3,077 || 1,940 || 569 || 133 || 587 || 4,066
|-
|2019 || '''1,643'''|| 2,904 || 1,790 || 534 || 124 || 528 || 3,921
|-
|2020 || '''1,073'''|| 1,638 || 1,509 || 429 || 69 || 408 || 3,325
|-
|2021 || '''1,132'''|| 1,820 || 1,500 || 402 || 80 || 413 || 3,221
|}
五泉駅 - 新津駅間は、JR東日本管内で3ドア以上の車両が運行されていない区間としては、[[左沢線]]の北山形駅 - [[寒河江駅]]間に次いで平均通過人員が多い。
== 関連作品 ==
; 楽曲
:* [[2006年]]に兄弟デュオである[[狩人]]の曲として『[[磐越西線 (狩人の曲)|磐越西線]]』が発表された。作曲・[[市川昭介]]、作詞・[[木下龍太郎]]。歌詞には[[磐梯山]]、[[猪苗代湖]]など沿線(電化区間)の情景が織り込まれている<ref group="新聞">[https://web.archive.org/web/20060629050401/http://www.fukushima-minpo.co.jp/news/kennai/20060521/kennai-20060521100748.html 「磐越西線」狩人が歌う/活性化の夢発進/誘客と連携期待/郡山出身 市川昭介さん作曲、福島出身芸能プロ社長 石田重広さん企画] (Internet Archive) - 『[[福島民報]]』2006年5月21日。</ref>
:* [[2023年]]7月5日に、演歌歌手の梅谷心愛のデビュー曲『磐越西線ひとり』が発売された。(作詞:[[石原信一]]、作曲:[[弦哲也]]、編曲:[[猪股義周]])福島県側(電化区間)の情景が織り込まれている。
:
; 映像作品
: [[東日本大震災]]時に運転された[[#東日本大震災による影響|燃料輸送列車]]の映像を収録したDVD『たちあがろう東北 DD51重連牽引燃料輸送列車』がピーエスジーから発売されている。
; 絵本
: 東日本大震災時、磐越西線経由で運転された燃料輸送列車が、雪で立ち往生したものの無事に燃料を届けることができたという実話に基づく[[絵本]]『はしれ ディーゼルきかんしゃデーデ』が[[童心社]]から出版されている。第7回住田物流奨励賞特別賞受賞作品。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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=== 報道発表資料 ===
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=== 新聞記事 ===
{{Reflist|group="新聞"}}
== 参考文献 ==
* 日本国有鉄道百年史 年表 復刻版(成山堂書店)
* {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=6 |title=磐越東線・只見線・磐越東線 |date=2009-08-16 |ref=sone06 }}
; 経路図における参考文献
:*[[今尾恵介]]監修『[[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線』2 東北、[[新潮社]]、2006年。ISBN 978-4-10-790020-3。
:* [[川島令三]]編著『東北ライン - 全線・全駅・全配線』5 福島エリア、[[講談社]]、2014年。ISBN 978-4-06-295172-2。
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[日本の鉄道]]
*[[あいづ]]
*[[SLばんえつ物語]]
*[[松野トンネル崩壊事故]]
*[[磐越東線]]
*[[磐越自動車道]]
*競合する高速バス路線
**[[会津若松 - 郡山 - いわき線]]
**[[会津若松 - 新潟線|会津若松 - 野沢・新潟線]]
**[[郡山 - 新潟線]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=60=1=%94%d6%89z%90%bc%90%fc 検索結果(磐越西線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
* {{Wayback|url=www.jrniigata.co.jp/map/JRniigata_map.pdf|title=JR新潟支社路線図|date=20101215183448}}
* [https://gozzo-line.com 会津・新潟ごっつぉライン] - 新潟県新潟地域振興局 企画振興部
* {{Wayback|url=www.kimamani.com/banetsu/|title=磐越西線鉄道写真撮影地情報|date=20000919173300}}
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新津駅
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新津駅(にいつえき)は、新潟県新潟市秋葉区新津本町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。
信越本線を所属線としており、磐越西線と羽越本線を加えた3路線が乗り入れている。磐越西線は線路名称上は当駅が終点であるが、一部の列車は信越本線を通して新潟駅まで乗り入れる。また、羽越本線も当駅が起点である。いずれの路線もJR貨物の第二種鉄道事業区間にもなっている。
新潟近郊区間に含まれ、信越本線の当駅 - 新潟駅間の普通列車は朝夕のラッシュ時5 - 10分間隔、昼間20分間隔で運転されている。また当駅には、特急列車を含む全ての定期列車が停車する。
かつては駅機能のほか、機関区、工場、そして東西南北の4つに分かれた操車場を有し、新潟県下越地方の鉄道の要衝として機能する「鉄道の街」であった。
2010年代以降の近年も寝台特急「あけぼの」などが発着しており、特に大阪駅 - 札幌駅間を結んでいた寝台特急「トワイライトエクスプレス」は、当駅が本州側最北の停車駅となっており、下り列車は当駅を出ると次の停車駅は北海道の洞爺駅であり、この通過区間は距離・時間ともにJRグループの旅客列車では最長であった。(現在は寝台特急サンライズ瀬戸・出雲の下り浜松-姫路間)
その後1982年(昭和57年)11月15日の上越新幹線・大宮駅 - 新潟駅間開業、さらには2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線・長野駅 - 金沢駅間延伸開業などを経て、長距離列車の本数は大幅に減少したが、一方で新津地区や周辺市町が新潟市中心部勤務者のベッドタウンとして発展を遂げたことから、現在もJR東日本新潟支社管内の拠点駅の一つとして、また新潟市のベッドタウン各方面とを結ぶターミナル駅として機能し続けている。
広大な駅構内の北西側には、新潟支社管内の気動車・機関車の基地である新津運輸区が設けられている。磐越西線の快速列車「SLばんえつ物語」を牽引する蒸気機関車・C57 180はこの運輸区に所属している。また駅の南西側には、総合車両製作所・新津事業所(旧:JR東日本 新津車両製作所)が隣接する。
新津車両製作所時代より私鉄向けの甲種車両輸送列車が運行されているため、当駅はJR貨物の駅扱いとなっている。なお、車両輸送列車以外の貨物列車は発着していない。
単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、計3面5線のホームを持つ地上駅で橋上駅舎を有する。
新潟営業統括センター傘下の直営駅(駅長配置)で、周辺駅を統括管理する管理駅を兼ねており、信越本線の羽生田駅 - 荻川駅間、磐越西線の山都駅 - 東新津駅間、羽越本線の京ケ瀬駅 - 中浦駅間の各駅が当駅の管理下にある。
2階のコンコースに設けられた改札口には自動改札機が設置されており、有人改札横には自動精算機が設けられている。
改札内には屋内待合室・化粧室・自動販売機が、改札外にはみどりの窓口・タッチパネル式自動券売機・コンビニエンスストア「NewDays」などがある。
またバリアフリー対策として、改札内コンコースと各ホームを連絡するエレベーター計3基とエスカレーター(上り専用)計3基や多機能トイレが設けられている。
ホームを効率的に運用するため、ホームの方面別の振り分けは特に決まっていない。ただし、構造上2番線は羽越本線の列車の発着ができない。
当駅では発車メロディは使用されていないが、列車到着前には入線警告音(接近メロディ)が放送される。これは、1998年に新潟県で開催された全国都市緑化フェア「にいがた緑ものがたり'98」の開催に合わせ導入されたもので、導入当時は1番線から5番線まで別々の曲が流されていた。1番線では『あなたに出逢えたこの町で~にいつのうた~』、2・4番線では蒸気機関車の汽笛の音、3・5番線では(旧)小鹿村出身の吉田千秋が作曲した『ひつじ草』 が放送される。
1番線と2番線の間には中線があり、貨物列車の待避などに使用される。また5番線の西側には留置線と、新津運輸区およびJ-TREC新津事業所への回送線を兼ねる側線が設置されている。
橋上駅舎化される前の1番線については、向かい側に新潟・新発田方が頭端式の「0番線」が設けられていた。主に磐越西線の列車が発着していたが、既に廃止され線路・架線とも撤去されており、使用していない。
自由通路(新津駅東西自由通路)は新潟市秋葉区建設課が管理しており、駅舎はこの自由通路に面する2階に設けられている。東口・西口双方の出入口はいずれも、先代2代目駅舎のファサードの三角屋根をモチーフにデザインされている。
バリアフリー対策の一環で多機能トイレとエレベーターが東西にそれぞれ設置されている。
元々出入口が設けられていたのは東口側で、新津の旧市街地側に面している。2006年(平成18年)6月末に駅前広場の整備が完了し、路線バス、タクシー等が乗り入れている。北側には2018年からの社会実験によりカーシェア駐車場を兼ねたパークアンドライド用の駐車場が設置されている(以前は西口にあった)。
東口駅前広場の南階段横には秋葉警察署新津駅前交番などがある。反対側の北階段横には新津駅バス停留所(後述)のほか、同階段下には新潟市新津鉄道資料館の分館「新津駅中サテライト」(愛称「ていしゃば」)が設けられ、本館の所蔵品の一部が展示されているのをはじめ、本館へのアクセスや区内観光に関する各種案内が行われている。
西口は、橋上化事業に先行して2001年(平成13年)に設置された。西口駅前には有料駐車場が設置されている。
当駅はエコステモデル駅として、2017年3月にリニューアル開業した。工期は2016年8月〜2017年3月までの7ヶ月間 で、省エネや環境調和をコンセプトにリニューアルが計画された。
新津駅の駅弁は、神尾商事神尾弁当部が調製を行っている。かつては三新軒の調製もあった。新駅舎竣工後から、当駅では両社とも移動販売を実施している。旧駅舎時代、両社のうち三新軒は当時のキヨスク隣に自社売店「ときの店」を設けていたが閉店し、以後はキヨスクに販売を委託していた。また改築中の仮駅舎では両社とも改札口横で立ち売りを実施していた。
主な駅弁は下記の通り。
新津駅の駅売りの名物として「三色だんご」が販売されている。これは東口側の新津本町一丁目にある菓子店「羽入(はにゅう)」の調製によるもので、同社創業の1916年(大正5年)に発売が開始された。
JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は3,608人である。
1981年度(昭和56年度)、2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
東口側は古くからの新津の市街地である。駅から東へ250 mほど離れた南北方向の通りには国鉄特急色を模した塗装の片持ち式アーケードが架かる「にいつ鉄道商店街」が形成されており、シャッターアートや踏切警報機、動輪の展示など随所に鉄道にちなんだ要素が見られる。
駅のすぐ南側には新潟薬科大学新津駅東キャンパスや後述の新津地域交流センターがある。
また、南東へ1 kmほど離れた地域には商業施設「ベルシティ新津」(旧 長崎屋 新津店)や油臭で知られる新津温泉がある。
西口は新興住宅地となっており、南北方向に走る国道403号新津バイパス沿いやその東側には郊外型商業施設のほか、区役所や公共施設などが集中する。
J-TREC新津事業所は西口から南側(長岡寄り)へ徒歩約15分の位置にある。同事業所の一般公開イベント(5月の「にいつまるごと鉄道フェスタ」、8月下旬の「『鉄道のまち にいつ』で鉄道三昧」、10月中旬の鉄道の日記念イベント等、年数回実施)の際には、東口もしくは西口発着の無料シャトルバスが運行される。
東口・西口双方のロータリー内にはバス停留所が設置されており、各方面への路線バスとコミュニティバスが発着している。
新津地区の一般路線バス・自治体共同運行バスは新潟交通グループの新潟交通観光バス、および2019年7月に同社から路線を移管された泉観光バス、さくら交通により運転されており、全便が東口から発着している。なお、新潟交通グループの路線のみ、IC乗車カード「りゅーと」とSuicaほか全国10種類の交通系ICカードが利用できる。亀田・横越線(沢海・二本木の2系統)は当駅を起終点とせず区役所および新潟中心部の両方面に通し運行しているが、その他の路線は当駅を起終点としている。
また、このほか市のコミュニティバス「秋葉区区バス」が、秋葉区南部の主要施設や観光地を経由して循環するルートにより運転されている(詳細は秋葉区#コミュニティバスを参照)。精算は現金のみで、交通系ICカードや新潟交通グループの乗車券類(りゅーと・バスカード・回数券等)は利用できない。
高速バスは、西口から泉観光バスが東京方面へ1日1便運行している。
2019年8月現在の運行情報を以下に示す。
停留所名は区バスが新津駅東口、その他が新津駅だが位置は同一で、いずれも東口の北側階段そばに設けられている。下表の色および系統番号・行先はバス停の表示に基づく。
停留所名は新津駅西口である。
かつて東口駅前には新潟交通の新津営業所が設けられており、バスターミナルとして機能していた。また営業所着のバスについては、新津駅前交差点付近に「新津駅前」バス停(降車専用)があり、バスと列車相互間の乗継ぎの利便性が保たれていた。しかし1990年代半ば、新潟交通は手狭となった新津営業所と、北蒲原郡水原町下条町(現在の阿賀野市下条町)に所在した水原営業所を移転・統合し、双方の中間点にあたる同郡京ヶ瀬村大字下里(現在の阿賀野市京ヶ瀬工業団地)で造成が進められていた京ヶ瀬工業団地内に京ヶ瀬営業所を開設し、新津・水原の両営業所は廃止された。これに伴い、新津営業所と新津駅前バス停に代わる停留所として、新津市本町二番館前に「新津」バス停が設置されたが、新津バス停は東口から歩いて5分ほどかかる上、路地を1本入った煩雑な立地で分かりづらいなど、乗り継ぎの利便性が著しく低下した。
こうしたことから現駅舎の改築事業の際、駅前への路線バス乗り入れ再開が盛り込まれ、2006年(平成18年)7月1日、東口駅前広場の完工に伴って東口ロータリー内にバス停が移設され、利便性がようやく改善された。
なお、旧新潟交通新津営業所の建物は京ヶ瀬営業所の統合開設後に福祉作業所へ転用されたが、老朽化のため2008年に解体・撤去され、跡地には2010年、市の公民館施設「新潟市新津地域交流センター」が竣工した。また旧新津バス停前に所在した本町二番館(新潟市編入、政令指定都市移行などを経て新潟市秋葉区新津本町二番館に改称)は元々新津市役所庁舎として建設され、1988年に新市庁舎(現在の秋葉区役所庁舎)が竣工した後に公民館施設に転用されたものだが、前述の新津地域交流センター竣工後に解体・撤去され、多目的スペースを備えた公園「新津本町中央公園」が整備された。この公園はC57形蒸気機関車に因んだ「しごなな公園」という愛称を持つ。
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"text": "ホームを効率的に運用するため、ホームの方面別の振り分けは特に決まっていない。ただし、構造上2番線は羽越本線の列車の発着ができない。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "当駅では発車メロディは使用されていないが、列車到着前には入線警告音(接近メロディ)が放送される。これは、1998年に新潟県で開催された全国都市緑化フェア「にいがた緑ものがたり'98」の開催に合わせ導入されたもので、導入当時は1番線から5番線まで別々の曲が流されていた。1番線では『あなたに出逢えたこの町で~にいつのうた~』、2・4番線では蒸気機関車の汽笛の音、3・5番線では(旧)小鹿村出身の吉田千秋が作曲した『ひつじ草』 が放送される。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1番線と2番線の間には中線があり、貨物列車の待避などに使用される。また5番線の西側には留置線と、新津運輸区およびJ-TREC新津事業所への回送線を兼ねる側線が設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "橋上駅舎化される前の1番線については、向かい側に新潟・新発田方が頭端式の「0番線」が設けられていた。主に磐越西線の列車が発着していたが、既に廃止され線路・架線とも撤去されており、使用していない。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "自由通路(新津駅東西自由通路)は新潟市秋葉区建設課が管理しており、駅舎はこの自由通路に面する2階に設けられている。東口・西口双方の出入口はいずれも、先代2代目駅舎のファサードの三角屋根をモチーフにデザインされている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "バリアフリー対策の一環で多機能トイレとエレベーターが東西にそれぞれ設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "元々出入口が設けられていたのは東口側で、新津の旧市街地側に面している。2006年(平成18年)6月末に駅前広場の整備が完了し、路線バス、タクシー等が乗り入れている。北側には2018年からの社会実験によりカーシェア駐車場を兼ねたパークアンドライド用の駐車場が設置されている(以前は西口にあった)。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "東口駅前広場の南階段横には秋葉警察署新津駅前交番などがある。反対側の北階段横には新津駅バス停留所(後述)のほか、同階段下には新潟市新津鉄道資料館の分館「新津駅中サテライト」(愛称「ていしゃば」)が設けられ、本館の所蔵品の一部が展示されているのをはじめ、本館へのアクセスや区内観光に関する各種案内が行われている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "西口は、橋上化事業に先行して2001年(平成13年)に設置された。西口駅前には有料駐車場が設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "当駅はエコステモデル駅として、2017年3月にリニューアル開業した。工期は2016年8月〜2017年3月までの7ヶ月間 で、省エネや環境調和をコンセプトにリニューアルが計画された。",
"title": "エコステモデル駅への移行"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "新津駅の駅弁は、神尾商事神尾弁当部が調製を行っている。かつては三新軒の調製もあった。新駅舎竣工後から、当駅では両社とも移動販売を実施している。旧駅舎時代、両社のうち三新軒は当時のキヨスク隣に自社売店「ときの店」を設けていたが閉店し、以後はキヨスクに販売を委託していた。また改築中の仮駅舎では両社とも改札口横で立ち売りを実施していた。",
"title": "駅弁"
},
{
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"text": "主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅弁"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "新津駅の駅売りの名物として「三色だんご」が販売されている。これは東口側の新津本町一丁目にある菓子店「羽入(はにゅう)」の調製によるもので、同社創業の1916年(大正5年)に発売が開始された。",
"title": "駅弁"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は3,608人である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1981年度(昭和56年度)、2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "東口側は古くからの新津の市街地である。駅から東へ250 mほど離れた南北方向の通りには国鉄特急色を模した塗装の片持ち式アーケードが架かる「にいつ鉄道商店街」が形成されており、シャッターアートや踏切警報機、動輪の展示など随所に鉄道にちなんだ要素が見られる。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "駅のすぐ南側には新潟薬科大学新津駅東キャンパスや後述の新津地域交流センターがある。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "また、南東へ1 kmほど離れた地域には商業施設「ベルシティ新津」(旧 長崎屋 新津店)や油臭で知られる新津温泉がある。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "西口は新興住宅地となっており、南北方向に走る国道403号新津バイパス沿いやその東側には郊外型商業施設のほか、区役所や公共施設などが集中する。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "J-TREC新津事業所は西口から南側(長岡寄り)へ徒歩約15分の位置にある。同事業所の一般公開イベント(5月の「にいつまるごと鉄道フェスタ」、8月下旬の「『鉄道のまち にいつ』で鉄道三昧」、10月中旬の鉄道の日記念イベント等、年数回実施)の際には、東口もしくは西口発着の無料シャトルバスが運行される。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "東口・西口双方のロータリー内にはバス停留所が設置されており、各方面への路線バスとコミュニティバスが発着している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "新津地区の一般路線バス・自治体共同運行バスは新潟交通グループの新潟交通観光バス、および2019年7月に同社から路線を移管された泉観光バス、さくら交通により運転されており、全便が東口から発着している。なお、新潟交通グループの路線のみ、IC乗車カード「りゅーと」とSuicaほか全国10種類の交通系ICカードが利用できる。亀田・横越線(沢海・二本木の2系統)は当駅を起終点とせず区役所および新潟中心部の両方面に通し運行しているが、その他の路線は当駅を起終点としている。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、このほか市のコミュニティバス「秋葉区区バス」が、秋葉区南部の主要施設や観光地を経由して循環するルートにより運転されている(詳細は秋葉区#コミュニティバスを参照)。精算は現金のみで、交通系ICカードや新潟交通グループの乗車券類(りゅーと・バスカード・回数券等)は利用できない。",
"title": "バス路線"
},
{
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"text": "高速バスは、西口から泉観光バスが東京方面へ1日1便運行している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2019年8月現在の運行情報を以下に示す。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "停留所名は区バスが新津駅東口、その他が新津駅だが位置は同一で、いずれも東口の北側階段そばに設けられている。下表の色および系統番号・行先はバス停の表示に基づく。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "停留所名は新津駅西口である。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "かつて東口駅前には新潟交通の新津営業所が設けられており、バスターミナルとして機能していた。また営業所着のバスについては、新津駅前交差点付近に「新津駅前」バス停(降車専用)があり、バスと列車相互間の乗継ぎの利便性が保たれていた。しかし1990年代半ば、新潟交通は手狭となった新津営業所と、北蒲原郡水原町下条町(現在の阿賀野市下条町)に所在した水原営業所を移転・統合し、双方の中間点にあたる同郡京ヶ瀬村大字下里(現在の阿賀野市京ヶ瀬工業団地)で造成が進められていた京ヶ瀬工業団地内に京ヶ瀬営業所を開設し、新津・水原の両営業所は廃止された。これに伴い、新津営業所と新津駅前バス停に代わる停留所として、新津市本町二番館前に「新津」バス停が設置されたが、新津バス停は東口から歩いて5分ほどかかる上、路地を1本入った煩雑な立地で分かりづらいなど、乗り継ぎの利便性が著しく低下した。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "こうしたことから現駅舎の改築事業の際、駅前への路線バス乗り入れ再開が盛り込まれ、2006年(平成18年)7月1日、東口駅前広場の完工に伴って東口ロータリー内にバス停が移設され、利便性がようやく改善された。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、旧新潟交通新津営業所の建物は京ヶ瀬営業所の統合開設後に福祉作業所へ転用されたが、老朽化のため2008年に解体・撤去され、跡地には2010年、市の公民館施設「新潟市新津地域交流センター」が竣工した。また旧新津バス停前に所在した本町二番館(新潟市編入、政令指定都市移行などを経て新潟市秋葉区新津本町二番館に改称)は元々新津市役所庁舎として建設され、1988年に新市庁舎(現在の秋葉区役所庁舎)が竣工した後に公民館施設に転用されたものだが、前述の新津地域交流センター竣工後に解体・撤去され、多目的スペースを備えた公園「新津本町中央公園」が整備された。この公園はC57形蒸気機関車に因んだ「しごなな公園」という愛称を持つ。",
"title": "バス路線"
}
] |
新津駅(にいつえき)は、新潟県新潟市秋葉区新津本町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。
|
{{Otheruses|[[新潟県]][[新潟市]]にある駅|[[中華人民共和国|中国]][[四川省]][[成都市]][[新津県]]にある駅|新津駅 (四川省)}}
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = 新津駅
|よみがな = にいつ
|ローマ字 = Niitsu
|画像 = Niitsu Station East 2018.09.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 東口(2018年9月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|37|48|0.1|N|139|7|16.3|E}}}}
|電報略号 = ニツ
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
* [[日本貨物鉄道]](JR貨物)}}
|所在地 = [[新潟市]][[秋葉区]][[新津本町]]一丁目1-1
|座標 = {{Coord|37|48|0.1|N|139|7|16.3|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日= [[1897年]]([[明治]]30年)[[11月20日]]<ref name="sone06-14">[[#sone06|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号]]、14頁</ref>
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])<ref name="zeneki14-12">[[#zeneki14|全駅14号]]、p.12。</ref>
|ホーム = 3面5線<ref name="zeneki14-12"/>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 3,608
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{Color|#00b3e6|■}}[[信越本線]]
|隣の駅1 =
|前の駅1 = [[古津駅|古津]]
|駅間A1 = 3.2
|駅間B1 = 1.5
|次の駅1 = [[さつき野駅|さつき野]]
|キロ程1 = 121.1
|起点駅1 = [[直江津駅|直江津]]
|所属路線2 = {{Color|#cb7b35|■}}[[磐越西線]]
|隣の駅2 =
|前の駅2 = [[東新津駅|東新津]]
|駅間A2 = 2.8
|駅間B2 = -
|次の駅2 = (さつき野){{Refnest|group="*"|一部列車が信越本線を通して[[新潟駅]]まで乗り入れ。}}
|キロ程2 = 175.6
|起点駅2 = [[郡山駅 (福島県)|郡山]]
|所属路線3 = {{Color|#16c0e9|■}}[[羽越本線]]
|隣の駅3 =
|前の駅3 =
|駅間A3 =
|駅間B3 = 6.1
|次の駅3 = [[京ケ瀬駅|京ケ瀬]]
|キロ程3 = 0.0
|起点駅3 = 新津
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[ファイル:Niitsu Station West 2018.09.jpg|thumb|西口(2018年9月)]]
'''新津駅'''(にいつえき)は、[[新潟県]][[新潟市]][[秋葉区]][[新津本町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
[[信越本線]]を[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としており<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=588}}</ref>、[[磐越西線]]と[[羽越本線]]を加えた3路線が乗り入れている。磐越西線は線路名称上は当駅が終点であるが、一部の列車は信越本線を通して[[新潟駅]]まで乗り入れる。また、羽越本線も当駅が起点である。いずれの路線もJR貨物の[[鉄道事業者|第二種鉄道事業]]区間にもなっている。
[[東日本旅客鉄道新潟支社#新潟近郊区間|新潟近郊区間]]に含まれ、信越本線の当駅 - [[新潟駅]]間の普通列車は朝夕のラッシュ時5 - 10分間隔、昼間20分間隔で運転されている。また当駅には、特急列車を含む全ての定期列車が停車する{{refnest|group="注"|過去には快速の通過事例があり、[[1989年]][[3月11日]]ダイヤ改正から[[1997年]][[3月22日]]ダイヤ改正前日までは朝の新潟行快速2本が通過していた。1本は1989年から設定された[[柏崎駅|柏崎]]発新潟行で[[矢代田駅]]から新潟駅まで無停車(後に[[越後石山駅]]にも停車)、1本は[[1991年]][[3月16日]]ダイヤ改正で設定された矢代田発新潟行(休日運休)で[[古津駅]]から[[亀田駅]]まで無停車であった<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1989 |publisher=[[弘済出版社]] |journal=JR時刻表 |issue=1989年1月号 |number= |pages=496-497}} - この時は未設定。</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1989 |publisher=弘済出版社 |journal=JR時刻表 |issue=1989年3月号 |number= |page=512}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1991 |publisher=弘済出版社 |journal=JR時刻表 |issue=1991年3月号 |number= |page=523}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1995 |publisher=弘済出版社 |journal=JR時刻表 |issue=1995年12月号 |number= |page=543}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1997 |publisher=弘済出版社 |journal=JR時刻表 |issue=1997年3月号 |number= |pages=542-543}} - 2本とも新津駅停車となる。</ref>。}}。
かつては駅機能のほか、[[機関区]]、[[工場]]、そして東西南北の4つに分かれた[[操車場 (鉄道)|操車場]]を有し、新潟県[[下越地方]]の鉄道の要衝として機能する「鉄道の街」であった。
2010年代以降の近年も[[寝台特急]]「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」などが発着しており、特に[[大阪駅]] - [[札幌駅]]間を結んでいた寝台特急「[[トワイライトエクスプレス]]」は、当駅が本州側最北の停車駅となっており、下り列車は当駅を出ると次の停車駅は北海道の[[洞爺駅]]であり、この通過区間は距離・時間ともにJRグループの旅客列車では最長であった。(現在は[[寝台特急]][[サンライズ瀬戸|サンライズ瀬戸・出雲]]の下り[[浜松駅|浜松]]-[[姫路駅|姫路]]間)
その後[[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]の[[上越新幹線]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - 新潟駅間開業、さらには[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]の[[北陸新幹線]]・[[長野駅]] - [[金沢駅]]間延伸開業などを経て、長距離列車の本数は大幅に減少したが、一方で新津地区や周辺市町が新潟市中心部勤務者の[[ベッドタウン]]として発展を遂げたことから、現在も[[東日本旅客鉄道新潟支社|JR東日本新潟支社]]管内の拠点駅の一つとして、また新潟市のベッドタウン各方面とを結ぶターミナル駅として機能し続けている。
広大な駅構内の北西側には、新潟支社管内の[[気動車]]・[[機関車]]の基地である[[新津運輸区]]が設けられている<ref name="zeneki14-12"/>。磐越西線の快速列車「[[SLばんえつ物語]]」を牽引する蒸気機関車・[[国鉄C57形蒸気機関車180号機|C57 180]]はこの運輸区に所属している。また駅の南西側には、[[総合車両製作所新津事業所|総合車両製作所・新津事業所]](旧:JR東日本 新津車両製作所)が隣接する<ref name="zeneki14-13">[[#zeneki14|全駅14号]]、p.13。</ref>。
新津車両製作所時代より[[私鉄]]向けの[[車両輸送|甲種車両輸送列車]]が運行されているため、当駅はJR貨物の駅扱いとなっている。なお、車両輸送列車以外の[[貨物列車]]は発着していない。
== 歴史 ==
[[ファイル:Niitsu Station circa 1928.JPG|thumb|2代目新津駅舎(1928年頃撮影)。この駅舎はその後も改修や補修を経て、現駅舎着工まで使用された。]]
[[ファイル:Niitsu station 198905.JPG|thumb|2代目新津駅舎(1989年撮影)。上写真から60年を経ているが、大きな改修が行われていないことがわかる。]]
* [[1897年]]([[明治]]30年)[[11月20日]]:[[北越鉄道]][[沼垂駅]] - [[東三条駅]]間開通にあわせて開業<ref name="zeneki14-13"/><ref name="K820"/>{{R|sone06-14}}。
* [[1907年]](明治40年)[[8月1日]]:北越鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]<ref name="K820"/>。
* [[1910年]](明治43年)[[10月25日]]:信越線支線(現:[[磐越西線]])が[[馬下駅]]まで開通<ref name="K820"/>{{R|sone06-14}}。
* [[1912年]]([[大正]]元年)[[9月2日]]:信越線支線(現:[[羽越本線]])が[[新発田駅]]まで開通<ref name="K820"/>。
* [[1913年]](大正2年)
** 5月:第一種連動装置竣工<ref>『要覧』新津運輸事務所 昭和3年4月 P38</ref>。
** [[10月1日]]:新津機関庫(現:[[新津運輸区]])設置<ref name="zeneki14-13" />{{R|sone06-14}}。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[7月15日]]:2代目の駅舎に改築<ref name="zeneki14-13"/>。
* [[1960年]](昭和35年)[[3月]]:時刻改正に合わせてホームの番号を変更、2番線が1番線に、1番線が0番線となる<ref>読売新聞 昭和35年4月26日新潟読売B</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)[[12月5日]]:自動券売機4台新設<ref>『おつり出る乗車券自動発売機 新潟など三駅に新設 乗客、便利だと大喜び 新潟支社』昭和44年12月11日読売新聞新潟県民版</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)[[10月1日]]:[[操車場 (鉄道)|操車場]]機能を廃止。
* [[1985年]](昭和60年)
** [[3月14日]]:特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」が再度停車するようになる<ref>『「白鳥」が再び停車 新津駅 ささやかな出発式』昭和60年3月15日新潟日報下越版</ref>。
** [[10月1日]]:駅脇に[[ドムドムハンバーガー]]開店<ref>『”国鉄商法”ハンバーガーショップ きょう新津駅わきに開店』昭和60年10月1日新潟日報下越版</ref>。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[10月20日]]:貨物の取扱を廃止<ref name="zeneki14-13"/>。
** [[11月1日]]:[[チッキ|荷物]]の取扱を廃止<ref name="zeneki14-13"/>。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[3月31日]]:貨物の取扱を再開。
** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)と日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる<ref>[[#sone06|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 6号]]、17頁</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)8月:駅舎内改装<ref>『新津駅 切符売り場と旅行センター連結 “便利な駅舎”へ改装工事』昭和63年7月15日新潟日報下越版</ref>。
* [[1998年]]([[平成]]10年)8月1日:入線警告音([[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]])を導入<ref name="交通980730">{{Cite news |title=列車到着をメロディーに JR新津駅 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-07-30 |page=5 }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[5月16日]]:橋上駅舎化を前に、新津駅東西自由通路が先行して開通<ref>{{Cite news |title=東西通路、広場が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-05-24 |page=3 }}</ref><ref name="K842"/><ref name="K914"/>。また東口側では旧職員詰所を転用した仮駅舎での営業を開始し、2代目駅舎撤去及び東西自由通路の東口側部分の建設に着手。
* [[2003年]](平成15年)[[12月6日]]:東西自由通路の東口側および橋上駅舎(3代目の現:駅舎)が竣工し、営業を開始<ref name="zeneki14-13"/><ref name="K969"/>。
* [[2004年]](平成16年)
** 9月25日:東口駅前広場にコンビニ「デイリーヤマザキ新津駅前店」開店<ref group="JR" name="P040915"/>。
** [[12月2日]]:[[自動改札機]]の供用を開始<ref group="JR" name="P041201"/>。
* [[2006年]](平成18年)[[1月21日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる(信越本線のみ)<ref name="zeneki14-13"/><ref group="JR" name="P050921"/>。
* [[2008年]](平成20年)
** [[3月15日]]:羽越本線(新発田駅まで)および磐越西線(五泉駅まで)でICカード「Suica」の利用が可能となる<ref group="JR" name="press/20071214" />。
** [[12月16日]]:指定席券売機導入。
* [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:新津地区センターを設置し、地区駅となる(新津駅長が新津地区駅長を兼務)。新潟地区新津駅・長岡地区燕三条駅の管理エリアが新津地区となる。
* [[2016年]](平成28年):[[転車台]]は「磐越西線鉄道施設群」の一部として、[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.general-museum.fks.ed.jp/02_moyoshi/09_other_kouza/20161210_2.pdf |title=平成28年度 土木学会選奨土木遺産 認定 磐越西線鉄道施設群 |access-date=2022年6月9日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180302164239/http://www.general-museum.fks.ed.jp/02_moyoshi/09_other_kouza/20161210_2.pdf |deadlinkdate=2022/06/09 |archive-date=2 Mar 2018 |publisher=[[福島県立博物館]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=土木学会 平成28年度選奨土木遺産 磐越西線鉄道施設群 |url=http://www.jsce.or.jp/contents/isan/files/2016_03.shtml |website=www.jsce.or.jp |access-date=2022-06-09}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[4月8日]]:「エコステ」(ecoste)モデル駅としてリニューアルされる<ref>{{Cite news |title=JR新潟支社 新津駅「エコステ」化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2017-04-11 }}</ref>。駅構内の案内標がすべてLED型もしくはecosteと書かれた非電照型に統一され、壁面には石炭や木材を随所に取り入れた構造となった<ref>駅構内設置の案内掲示に準拠</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月30日]]:びゅうプラザが閉店<ref>[https://www.jrniigata.co.jp/travel/ 旅行商品] - 東日本旅客鉄道 新潟支社.2019年6月4日閲覧。</ref>。
* [[2020年]](令和2年)[[9月30日]]:新津地区センターを廃止(新津駅長の新津地区駅長兼務も廃止)。新津管理駅は新潟地区、燕三条管理駅(吉田駅を含む)は長岡地区へ編入となる。
* [[2023年]](令和5年)[[3月1日]]:新潟営業統括センター発足に伴い、その傘下となる。新津駅長は新潟営業統括センター副所長兼務となる。
== 駅構造 ==
[[単式ホーム]]1面1線と[[島式ホーム]]2面4線、計3面5線のホームを持つ[[地上駅]]で[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する<ref name="zeneki14-12"/><ref name="K969"/>。
新潟営業統括センター傘下の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]配置)で、周辺駅を統括管理する[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]を兼ねており、信越本線の[[羽生田駅]] - [[荻川駅]]間、磐越西線の[[山都駅]] - [[東新津駅]]間、羽越本線の[[京ケ瀬駅]] - [[中浦駅]]間の各駅が当駅の管理下にある。
2階のコンコースに設けられた改札口には[[自動改札機]]が設置されており、有人改札横には自動精算機が設けられている。
改札内には屋内[[待合所|待合室]]・化粧室・自動販売機が、改札外には[[みどりの窓口]]・タッチパネル式[[自動券売機]]・[[コンビニエンスストア]]「NewDays」などがある。
また[[バリアフリー]]対策として、改札内コンコースと各ホームを連絡する[[エレベーター]]計3基と[[エスカレーター]](上り専用)計3基や多機能トイレが設けられている<ref name="K969"/>。
=== のりば ===
{| class="wikitable" rules="rows"
!番線<!-- 事業者側による呼称-->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
! rowspan="4" |1 - 5
|{{Color|#00b3e6|■}}信越本線
| style="text-align:center" | 上り
|[[長岡駅|長岡]]・[[柏崎駅|柏崎]]方面<ref name="timetable/list1142">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list1142.html|title=時刻表 新津駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-12}}</ref>
|
|-
|{{Color|#00b3e6|■}}信越本線<br /><small>({{Color|#cb7b35|■}}磐越西線含む)</small>
| style="text-align:center" | 下り
|[[新潟駅|新潟]]方面<ref name="timetable/list1142" />
|
|-
|{{Color|#16c0e9|■}}羽越本線
| style="text-align:center" |下り
|[[村上駅 (新潟県)|村上]]・[[鶴岡駅|鶴岡]]方面<ref name="timetable/list1142" />
|2番線を除く
|-
|{{Color|#cb7b35|■}}磐越西線
| style="text-align:center" |上り
|[[喜多方駅|喜多方]]・[[会津若松駅|会津若松]]方面<ref name="timetable/list1142" />
|
|}
ホームを効率的に運用するため、ホームの方面別の振り分けは特に決まっていない。ただし、構造上2番線は羽越本線の列車の発着ができない<ref>川島令三「全国鉄道事情大研究 東北・西部篇」草思社・刊 P207</ref>。
当駅では[[発車メロディ]]は使用されていないが、列車到着前には入線警告音([[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]])が放送される。これは、1998年に新潟県で開催された[[全国都市緑化フェア]]「にいがた緑ものがたり'98」の開催に合わせ導入されたもので、導入当時は1番線から5番線まで別々の曲が流されていた{{R|交通980730}}。1番線では『あなたに出逢えたこの町で~にいつのうた~』<ref group="JR" name="P170223"/>、2・4番線では蒸気機関車の汽笛の音、3・5番線では(旧)[[小鹿村 (新潟県)|小鹿村]]出身の吉田千秋が作曲した『ひつじ草』<ref group="注">『ひつじ草』のメロディは、のちに『[[琵琶湖周航の歌]]』の原曲となった。</ref> が放送される。
1番線と2番線の間には[[停車場#本線|中線]]があり、貨物列車の待避などに使用される。また5番線の西側には留置線と、新津運輸区およびJ-TREC新津事業所への回送線を兼ねる側線が設置されている。
橋上駅舎化される前の1番線については、向かい側に新潟・新発田方が頭端式の「0番線」が設けられていた。主に磐越西線の列車が発着していたが、既に廃止され線路・架線とも撤去されており、使用していない。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JR East Niitsu Station Gate, Niigata Pref 20230422.jpg|改札口(2023年4月)
JR East Niitsu Station Ticket Counter, Niigata Pref.jpg|切符売り場(2023年4月)
JR East Niitsu Station Platform 1, Niigata Pref 20230422.jpg|1番線ホーム(2023年4月)
JR East Niitsu Station Platform 2・3, Niigata Pref 20230422.jpg|2・3番線ホーム(2023年4月)
JR East Niitsu Station Platform 4・5, Niigata Pref 20230422.jpg|4・5番線ホーム(2023年4月)
Niitsu unyuku 20040925.jpg|西口側北寄り(往:新潟)には、新潟支社管内の気動車基地である新津運輸区が置かれている。(2004年9月)
</gallery>
=== 駅出入口・自由通路 ===
[[ファイル:JR East Niitsu Station East-West Free Passage, Niigata Pref.jpg|thumb|東西自由通路(2023年4月)]]
自由通路(新津駅東西自由通路)は新潟市秋葉区建設課が管理しており、駅舎はこの自由通路に面する2階に設けられている。東口・西口双方の出入口はいずれも、先代2代目駅舎の[[ファサード]]の三角屋根をモチーフにデザインされている。
バリアフリー対策の一環で多機能トイレとエレベーターが東西にそれぞれ設置されている。
==== 東口 ====
元々出入口が設けられていたのは東口側で、新津の旧市街地側に面している。2006年(平成18年)6月末に駅前広場の整備が完了し、[[路線バス]]、[[タクシー]]等が乗り入れている。北側には2018年からの社会実験により[[カーシェア]]駐車場を兼ねた[[パークアンドライド]]用の駐車場が設置されている<ref>[https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/doro/kotsu/mm/park-ride.html パークアンドライドの取り組み] - 新潟市.2019年6月4日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20180719407230.html |title=新津駅でもパーク&ライド社会実験 新潟市 二輪、カーシェアも |publisher=新潟日報 |date=2018-07-19 |accessdate=2019-06-04 |deadlinkdate=2022-05 |archive-date=2018-07-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180720112501/http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20180719407230.html}}</ref>(以前は西口にあった<ref group="JR" name="P080110"/>)。
東口駅前広場の南階段横には[[秋葉警察署]]新津駅前交番などがある。反対側の北階段横には新津駅バス停留所([[#バス路線|後述]])のほか、同階段下には[[新潟市新津鉄道資料館]]の分館「新津駅中サテライト」(愛称「ていしゃば」)が設けられ、本館の所蔵品の一部が展示されているのをはじめ、本館へのアクセスや区内観光に関する各種案内が行われている。
==== 西口 ====
西口は、橋上化事業に先行して2001年(平成13年)に設置された<ref name="K842"/><ref name="K914"/>。西口駅前には有料駐車場が設置されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrniigata.co.jp/guidance/station/line_shinetsu/sta_niitsu/ |title=JR新津駅 |access-date=2019-06-04 |website=JR東日本 新潟支社 |deadlinkdate=2022-05 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180323201552/https://www.jrniigata.co.jp/guidance/station/line_shinetsu/sta_niitsu/ |archive-date=2018-03-23}}</ref>。
== エコステモデル駅への移行 ==
当駅はエコステモデル駅として、2017年3月にリニューアル開業した<ref group="JR" name="P160927"/><ref group="JR" name="P170223"/><ref group="JR" name="P170327"/>。工期は2016年8月〜2017年3月までの7ヶ月間<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aran.or.jp/works/10922.html |title=一般社団法人 鉄道建築協会 |access-date=2019-06-04 |deadlinkdate=2022-05 |archive-date=2019-04-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190406121813/http://www.aran.or.jp/works/10922.html |website=一般社団法人鉄道建築協会}}</ref> で、省エネや環境調和をコンセプトにリニューアルが計画された。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Niitsu Station Take and Sumi Panel.jpg|化粧室や待合室に設置された竹炭パネル(2018年9月)
Niitsu_Station_Renraku.jpg|ホーム連絡通路には随所にエコステをイメージした木のアクセントが取り入れられている。(2018年9月)
Niitsu Station Bansen eco sta Hyouji Hyo.jpg|省エネのため光源を廃した「eco ste」デザインの番線表示(2018年9月)
Niitsu Station Mokusei Suisou.jpg|雨水貯水用の木製水槽(2018年8月)
Niitsu Station Chiku Denthi Ekisya Hozyo Dengen.jpg|列車が発電する回生電力を利用する蓄電池付き駅舎補助電源装置(2018年8月)
</gallery>
== 駅弁 ==
[[ファイル:niitsu sanshoku dango 20041129.jpg|thumb|三色だんご、上からごま餡・白餡・こし餡(2004年11月)]]
新津駅の[[駅弁]]は、神尾商事神尾弁当部が調製を行っている。かつては[[三新軒]]の調製もあった。新駅舎竣工後から、当駅では両社とも移動販売を実施している。旧駅舎時代、両社のうち三新軒は当時のキヨスク隣に自社売店「ときの店」を設けていたが閉店し、以後はキヨスクに販売を委託していた。また改築中の仮駅舎では両社とも改札口横で立ち売りを実施していた。
主な駅弁は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=504}}</ref>。
* えんがわ押し寿司(金曜を除き販売)
* SLばんえつ物語弁当(金曜を除き販売)
=== 三色だんご ===
新津駅の駅売りの名物として「三色だんご」が販売されている。これは東口側の新津本町一丁目にある菓子店「羽入(はにゅう)」の調製によるもので、同社創業の[[1916年]]([[大正]]5年)に発売が開始された。
== 利用状況 ==
JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は'''3,608人'''である<ref group="利用客数" name="passenger/2022_03" />。
1981年度(昭和56年度)、2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="3"|乗車人員推移
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1981年(昭和56年)
|style="text-align:right;"|8,300
|
|-
|2000年(平成12年)
|style="text-align:right;"|4,403
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|style="text-align:right;"|4,314
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|style="text-align:right;"|4,220
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|style="text-align:right;"|4,201
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|style="text-align:right;"|4,153
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|style="text-align:right;"|4,146
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|style="text-align:right;"|4,150
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|style="text-align:right;"|4,218
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|style="text-align:right;"|4,203
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|style="text-align:right;"|4,092
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|style="text-align:right;"|4,109
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|style="text-align:right;"|4,101
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|style="text-align:right;"|4,190
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_03.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|style="text-align:right;"|4,364
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_03.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|style="text-align:right;"|4,203
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_03.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|style="text-align:right;"|4,250
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_03.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|style="text-align:right;"|4,343
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_03.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|style="text-align:right;"|4,341
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_03.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-25}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|style="text-align:right;"|4,265
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_03.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-16}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|style="text-align:right;"|4,115
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_03.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-13}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|style="text-align:right;"|3,415
|<ref group="利用客数" name="passenger/2020_03">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_03.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-25}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|style="text-align:right;"|3,464
|<ref group="利用客数" name="passenger/2021_03">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_03.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-08}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|style="text-align:right;"|3,608
|<ref group="利用客数" name="passenger/2022_03">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_03.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-12}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
=== 東口 ===
東口側は古くからの新津の市街地である。駅から東へ250 mほど離れた南北方向の通りには国鉄特急色を模した塗装の片持ち式[[アーケード (建築物)|アーケード]]が架かる「にいつ鉄道商店街」が形成されており、シャッターアートや踏切警報機、動輪の展示など随所に鉄道にちなんだ要素が見られる<ref>[http://www.ncnrm.com/townmap/ 鉄道のまちMAP] - 新津鉄道資料館.2019年6月4日閲覧。</ref><ref>[https://www.niitsu.info/report/report03/ 鉄道の街新津 イラストルポ 報告書 その3] - にいつ鉄道商店街.2019年6月4日閲覧。</ref>。
駅のすぐ南側には[[新潟薬科大学]]新津駅東キャンパスや[[#駅周辺のバス運行と関連施設の沿革|後述]]の新津地域交流センターがある。
また、南東へ1 kmほど離れた地域には商業施設「ベルシティ新津」(旧 [[長崎屋]] 新津店)や油臭で知られる[[新津温泉]]がある。
=== 西口 ===
西口は新興住宅地となっており、南北方向に走る[[国道403号]][[新津バイパス]]沿いやその東側には郊外型商業施設のほか、区役所や公共施設などが集中する。
J-TREC新津事業所は西口から南側(長岡寄り)へ徒歩約15分の位置にある。同事業所の一般公開イベント(5月の「にいつまるごと鉄道フェスタ」、8月下旬の「『鉄道のまち にいつ』で鉄道三昧」、10月中旬の鉄道の日記念イベント等、年数回実施)の際には、東口もしくは西口発着の無料シャトルバスが運行される。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Niitsu_Station_East_Ekimae.jpg|東口駅前風景(2018年9月 アーケード撤去後)
Niitsu Railway Shopping Street March2020.jpg|にいつ0番線商店街(2020年3月)
BellCityNiitsu March2020.jpg|ベルシティ新津(旧 [[長崎屋]] 新津店、2020年3月)
</gallery>
== バス路線 ==
東口・西口双方のロータリー内には[[バス停留所]]が設置されており、各方面への[[路線バス]]と[[コミュニティバス]]が発着している。
=== 概略 ===
新津地区の一般路線バス・自治体共同運行バスは[[新潟交通]]グループの[[新潟交通観光バス]]、および2019年7月に同社から路線を移管された[[泉観光バス (新潟県)|泉観光バス]]、さくら交通により運転されており、全便が東口から発着している。なお、新潟交通グループの路線のみ、IC乗車カード「[[りゅーと]]」とSuicaほか全国10種類の交通系ICカードが利用できる。亀田・横越線(沢海・二本木の2系統)は当駅を起終点とせず区役所および新潟中心部の両方面に通し運行しているが、その他の路線は当駅を起終点としている。
また、このほか市のコミュニティバス「秋葉区区バス」が、秋葉区南部の主要施設や観光地を経由して循環するルートにより運転されている(詳細は[[秋葉区#コミュニティバス]]を参照)。精算は現金のみで、交通系ICカードや新潟交通グループの乗車券類(りゅーと・バスカード・回数券等)は利用できない。
高速バスは、西口から泉観光バスが東京方面へ1日1便運行している。
=== 路線 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に準拠したものとしています。これに伴い、各系統の行先・経由地の違いについては、バス事業者等の記事を参照する形式としています。-->
2019年8月現在の運行情報を以下に示す。
==== 東口側 ====
停留所名は区バスが'''新津駅東口'''、その他が'''新津駅'''だが位置は同一で、いずれも東口の北側階段そばに設けられている。下表の色および系統番号・行先はバス停の表示に基づく。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!事業者名(・方面)!!路線名!!(系統番号)・行先
|-style="border-top:solid 3px #00aa33;"
|rowspan="3"|新潟交通観光バス<br />(新潟・五泉方面)
|{{Font color|#00bb00|■}}[[新潟交通のバス路線一覧#S9|S9:亀田・横越線]]
|'''S94・S96''':[[新潟駅#万代口バスターミナル|新潟駅前]]・[[万代シテイバスセンター|万代シテイ]]
|-
|{{Font color|#ff88aa|■}}[[新潟交通観光バス#京ヶ瀬営業所|中新田線]]
|'''SK1''':[[下越病院]]・京ヶ瀬営業所
|-
|{{Font color|#aaaaaa|■}}大関線
|'''G1''':五泉行
|-
|rowspan="3"|新潟交通観光バス<br />(区役所・矢代田方面)
||{{Font color|#00bb00|■}}S9:亀田・横越線
|'''S94・S96''':秋葉区役所
|-
|{{Font color|#aa00aa|■}}[[新潟交通観光バス#潟東営業所|臼井線]]
|'''SW1''':白根・潟東営業所<br />'''SW2''':白根
|-
|{{Font color|#aa00aa|■}}矢代田線
|'''SW3''':白根・潟東営業所<br />'''SW4''':白根
|-
|さくら交通
|下新線
|下新(旧・新潟交通観光バス[[新潟交通観光バス#京ヶ瀬営業所管内|SK2系統]])
|-
|[[泉観光バス (新潟県)|泉観光バス]]
|金津線
|金津(旧・新潟交通観光バス[[新潟交通観光バス#京ヶ瀬営業所管内|SW6系統]])
|-
|区バス
|{{Font color|#ff3355|■}}[[秋葉区#コミュニティバス|秋葉区区バス]]
|新津駅小須戸循環ルート:新津駅西口
|}
* この他、東口ロータリーの神尾商事前からは、[[新津鉄道資料館]]本館への無料シャトルバスが運転されている(夏休みなど特定時期の土曜・休日、イベント開催時等)。
==== 西口側 ====
停留所名は'''新津駅西口'''である。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!事業者名!!路線名!!系統・行先
|-style="border-top:solid 3px #00aa33;"
|区バス
|{{Font color|#ff3355|■}}秋葉区区バス
|新津駅小須戸循環ルート:新津駅東口
|-
|泉観光バス
|[[泉観光バス_(新潟県)#高速バス(県外路線)|NETWORK]]
|夜行高速バス:[[東京ディズニーシー]]
|}
* この他、西口ロータリーからは阿賀野市内にある[[遊園地]]「[[サントピアワールド]]」への無料シャトルバスが土休日を中心に1往復運転されている<ref>[https://suntopi.sakura.ne.jp/#access アクセス] - サントピアワールド.2019年6月5日閲覧。</ref>。
=== 駅周辺のバス運行と関連施設の沿革 ===
かつて東口駅前には新潟交通の新津営業所が設けられており、[[バスターミナル]]として機能していた。また営業所着のバスについては、新津駅前交差点付近に「新津駅前」バス停(降車専用)があり、バスと列車相互間の乗継ぎの利便性が保たれていた。しかし1990年代半ば、新潟交通は手狭となった新津営業所と、[[北蒲原郡]][[水原町]]下条町(現在の[[阿賀野市]]下条町)に所在した水原営業所を移転・統合し、双方の中間点にあたる同郡[[京ヶ瀬村]]大字下里(現在の阿賀野市京ヶ瀬工業団地)で造成が進められていた京ヶ瀬工業団地内に京ヶ瀬営業所を開設し、新津・水原の両営業所は廃止された。これに伴い、新津営業所と新津駅前バス停に代わる停留所として、新津市本町二番館前に「新津」バス停が設置されたが、新津バス停は東口から歩いて5分ほどかかる上、路地を1本入った煩雑な立地で分かりづらいなど、乗り継ぎの利便性が著しく低下した。
こうしたことから現駅舎の改築事業の際、駅前への路線バス乗り入れ再開が盛り込まれ、2006年(平成18年)7月1日、東口駅前広場の完工に伴って東口ロータリー内にバス停が移設され、利便性がようやく改善された。
なお、旧新潟交通新津営業所の建物は京ヶ瀬営業所の統合開設後に福祉作業所へ転用されたが、老朽化のため2008年に解体・撤去され、跡地には2010年、市の公民館施設「新潟市新津地域交流センター」が竣工した<ref>{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10205551/www.city.niigata.lg.jp/akiha/kohoshi/kouhou/h22/20100117.files/20100117_01.pdf あきは区役所だより 平成22年1月17日 No.67 1面]}} - 新潟市秋葉区</ref><ref>{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10205551/www.city.niigata.lg.jp/akiha/kohoshi/kouhou/h22/20100404.files/20100404_01.pdf あきは区役所だより 平成22年4月4日 No.72 1面]}} - 新潟市秋葉区</ref>。また旧新津バス停前に所在した本町二番館(新潟市編入、[[政令指定都市]]移行などを経て新潟市秋葉区新津本町二番館に改称)は元々新津市役所庁舎として建設され、[[1988年]]に新市庁舎(現在の秋葉区役所庁舎)が竣工した後に公民館施設に転用されたものだが、前述の新津地域交流センター竣工後に解体・撤去され、多目的スペースを備えた公園「新津本町中央公園」が整備された<ref>{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10205551/www.city.niigata.lg.jp/akiha/kohoshi/kouhou/h23/20111016.files/20111016_01.pdf あきは区役所だより 平成23年10月16日 No.109 1面]}} - 新潟市秋葉区</ref>。この公園は[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形蒸気機関車]]に因んだ「しごなな公園」という愛称を持つ。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{Color|#00b3e6|■}}信越本線
:* 特急「[[しらゆき (列車)|しらゆき]]」、臨時快速「[[越乃Shu*Kura|柳都Shu*Kura]]」停車駅
:* 臨時快速「SLリレー号」終着駅
:: {{Color|red|■}}快速
::: [[矢代田駅]] - '''新津駅''' - [[亀田駅]]
:: {{Color|#00b3e6|■}}普通
::: [[古津駅]] - '''新津駅''' - [[さつき野駅]]
: {{Color|#cb7b35|■}}磐越西線
:* 臨時快速「[[SLばんえつ物語]]」発着駅
:: {{Color|red|■}}快速(下りのみ運転)・ {{Color|gray|■}}普通
::: [[東新津駅]] - '''新津駅''' - (信越本線さつき野・亀田方面)
: {{Color|#16c0e9|■}}羽越本線
::: '''新津駅''' - [[京ケ瀬駅]]
== 脚注 ==
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=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
==== 出典(JRプレスリリース) ====
{{Reflist|group="JR"|3|refs=
<ref name="P040915">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrniigata.co.jp/press/200409niitsu-daily.pdf|title=新津駅東口にコンビニがオープン!|publisher=東日本旅客鉄道 新潟支社|date=2004-09-15|accessdate=2022-05-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050305171540/http://www.jrniigata.co.jp/press/200409niitsu-daily.pdf|archivedate=2005-03-05}}</ref>
<ref name="P041201">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrniigata.co.jp/information/20041127jidoukaisatsu.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060108154725/http://www.jrniigata.co.jp/information/20041127jidoukaisatsu.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成16年11月27日(土)新潟駅で自動改札使用開始!|publisher=東日本旅客鉄道新潟支社|date=2004-11-27|accessdate=2021-01-08|archivedate=2006-01-08}}</ref>
<ref name="P050921">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrniigata.co.jp/information/20050921suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060105212914/http://www.jrniigata.co.jp/information/20050921suica.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2006年1月21日(土)新潟エリアSuicaデビュー!|publisher=東日本旅客鉄道新潟支社|date=2005-09-21|accessdate=2021-01-08|archivedate=2006-01-05}}</ref>
<ref name="press/20071214">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071214.pdf|title=2008年3月 Suicaがますます便利になります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2007-12-21|accessdate=2020-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304095817/https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071214.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref>
<ref name="P080110">{{Cite press release|和書|url=http://jrniigata.co.jp/080110nitsuekipr.pdf|title=新津駅西口パーク&ライド駐車場移転のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道 新潟支社|date=2008-01-10|accessdate=2022-05-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101030153306/http://jrniigata.co.jp/080110nitsuekipr.pdf|archivedate=2010-10-30}}</ref>
<ref name="P160927">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrniigata.co.jp/press/20160927niituecostute.pdf|title=新津駅「エコステ」モデル駅整備について|publisher=東日本旅客鉄道 新潟支社|date=2016-09-27|accessdate=2022-05-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181223055946/http://www.jrniigata.co.jp/press/20160927niituecostute.pdf|archivedate=2018-12-23}}</ref>
<ref name="P170223">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrniigata.co.jp/press/20170223niitsuecost.pdf|title=新津駅が「エコステ」モデル駅として生まれ変わります!|publisher=東日本旅客鉄道 新潟支社|date=2017-02-23|accessdate=2022-05-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181223055553/http://www.jrniigata.co.jp/press/20170223niitsuecost.pdf|archivedate=2018-12-23}}</ref>
<ref name="P170327">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrniigata.co.jp/press/20170327ecost.pdf|title=新津駅「エコステ」PRイベント開催のご案内!|publisher=東日本旅客鉄道 新潟支社|date=2017-03-27|accessdate=2022-05-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181223054423/http://www.jrniigata.co.jp/press/20170327ecost.pdf|archivedate=2018-12-23}}</ref>
}}
==== 出典(その他) ====
{{Reflist|3|refs=
<ref name="K820">[http://opac.niigatacitylib.jp/shisei/koho/akiha/koho_niitsu/1997/bn_1997.html#no820 広報にいつ 第820号 1997年3月1日 pp.6-7 鉄道のまち新津 100年のあゆみ] - 新津市</ref>
<ref name="K842">[http://opac.niigatacitylib.jp/shisei/koho/akiha/koho_niitsu/1998/1998pdf/842GOU/00000462.PDF 広報にいつ 第842号 1998年3月1日 p.5 新津駅歩行者道工事 いよいよスタート] - 新津市</ref>
<ref name="K914">[http://opac.niigatacitylib.jp/shisei/koho/akiha/koho_niitsu/2001/2001pdf/914GOU/00000216.PDF 広報にいつ 第914号 2001年6月1日 pp.2-3 新津駅東西歩行者道が開通] - 新津市</ref>
<ref name="K969">[http://opac.niigatacitylib.jp/shisei/koho/akiha/koho_niitsu/2003/2003pdf/1201/20031201_12~13.pdf 広報にいつ 第969号 2003年12月1日 p.13 新津橋上駅竣工記念イベントを開催] - 新津市</ref>
}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="利用客数"|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =14号 長野駅・新津駅・高田駅ほか |date =2012-11-11 |ref =zeneki14 }}
* {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=6 |title=磐越東線・只見線・磐越東線 |date=2009-08-16 |ref=sone06 }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[新津運輸区]]
* [[総合車両製作所新津事業所]]
* [[新津鉄道資料館]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1142|name=新津}}
* [http://www.ncnrm.com/exhibition/facility/ 新津駅中サテライト(ていしゃば)] - 新潟市新津鉄道資料館
* [https://www.city.niigata.lg.jp/akiha/about/kankou/rail/index.html 鉄道のまち] - 新潟市秋葉区
* [https://www.city.niigata.lg.jp/akiha/torikumi/kotsu/kubus/kubus.html 秋葉区公共交通ガイド] - 新潟市秋葉区
*: 当駅に乗り入れる列車および路線バス・コミュニティバスの時刻表が掲載されている。
* [http://www.bentou.net/ 神尾弁当 新潟県新津駅の駅弁] - 神尾商事株式会社 神尾弁当部
=== 駅周辺の地図 ===
* [https://www.niitsu.info/report/ 鉄道の街新津 イラストルポ 報告書] - にいつ鉄道商店街
* [http://www.ncnrm.com/townmap/ 鉄道のまちMAP] - 新津鉄道資料館
* [http://niitsu.or.jp/?page_id=698 新津まちなか"てくてく"マップ(新津商店街MAP)] - 新津商工会議所
* [https://www.city.niigata.lg.jp/akiha/torikumi/seisaku/combura/index.html にいつ街なか歴史ぶら散歩(新津中央コミュニティ協議会)] - 新潟市秋葉区
広域の地図は[[秋葉区#区内の地図]]を参照。
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大山康晴
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大山 康晴(おおやま やすはる、1923年(大正12年)3月13日 - 1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。
主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。
順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。岡山県倉敷市出身で、倉敷市および青森県上北郡おいらせ町の名誉市民・名誉町民。
1923年(大正12年)3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。5歳頃から将棋を覚え始める。
才能を注目されて、1935年(昭和10年)に大阪に出て、同じく岡山県出身の木見金治郎八段(当時)に入門し、内弟子となる。同1935年、創設されたばかりの関西奨励会に6級で参加。順調に昇段し、1937年(昭和12年)には二段になった。
二段時代に、中外商業新報(のちの日本経済新聞)の主催の若手勝ち抜き棋戦において、初の公式戦を体験する。
木見門下の兄弟子に大野源一、角田三男、そして終生のライバル升田幸三がいた。内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。
しかし1938年(昭和13年)には、師匠の弟であり、木見家に居候していた木見栄次郎(中将棋の名手、将棋と囲碁はセミプロの腕前)と、中将棋と囲碁に明け暮れる毎日を送り、この年は二段のままであった。
一方で、この時期に中将棋を学んだことで、駒の連携を重視する、用心深く、粘りのある大山の棋風が生まれたと大山自身が述べている。また、この時期に囲碁を本気で勉強したことは、大山が戦時中に兵役に就いた際に身を助けた(後述)。晩年に至るまで大山は囲碁を趣味としており、1950年代には日本棋院からアマ五段の免状を受けていた。
1940年(昭和15年)2月に四段、1941年(昭和16年)に五段、1943年(昭和18年)に六段(前年の昭和17年に六段への昇段点を満たしたが、早すぎるとして昇段を保留された)。1942年(昭和17年)には、大阪毎日新聞(戦後の毎日新聞大阪本社)の嘱託となり、月額100円の手当を支給されるようになった。本来この嘱託の話は升田に持ち込まれていたが、升田が出征中だったため大山に話が回ってきたとも言われ、後に大山と升田が対立する原因の一つとなったとされる。
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に召集され、5月1日に、岡山市北部に兵営があった陸軍の「四十八部隊」に入営した。大山は、4月18日に倉敷の自宅で召集令状を受け取った時点で、六段で11勝3敗の成績であり、あと4勝で七段に昇段できる状況であった。大山は直ちに大阪に行き、入営の前に4局指させて欲しい(全て勝って七段になって入営したい)と師匠の木見に願い出た。大山の希望は叶えられ、4月20日から23日の間に、大野源一・八段、高島一岐代六段、松浦卓造四段、星田啓三・四段(段位はいずれも当時)と4局を指したが、松浦四段に1敗を喫し、3勝1敗の成績で昇段はできなかった。
将棋大成会(日本将棋連盟の前身)は、出征すれば生還を望めない状況を鑑み、出征が決まった棋士を無条件に昇段させていた。河口俊彦は、大山も何もしなくても七段に昇段できたはずなのに、あくまでも実力での昇段を望んだのは、真の将棋指しであった大山の人柄を表している、と評している。
同じく河口俊彦は、当時の大山に勝てる棋士は関西に存在せず(升田幸三・七段は、昭和18年11月に二度目の召集を受けて出征していた)、そもそも、死にに行く出征棋士に勝とうなどと思う棋士がいる訳もなく、大山が1敗を喫したのは不思議である。大山は勝つのが当然と油断しており、その隙を松浦四段に突かれて負けたのだろうと推定している。
入営して二等兵(歩兵)となった大山は、厳しい初年兵訓練を1カ月受けたが、その後に縫工(ミシンを使って裁縫作業をする配置)に回された。同僚の兵は多くが沖縄戦に投入され、生還できなかったが、大山は戦地への動員を免れて岡山に残留した。岡山県出身の上官(氏名は出典に記載なし)が、特殊技能を持つ兵は岡山に残す、と判断した結果のようであった。
1945年(昭和20年)4月25日に大山の所属部隊が再編成され、本土決戦に備えて南九州に進出した。そこで所属部隊を離れて上級部隊である第154師団の司令部附となり、宮原健雄大佐(第154師団参謀長、陸士36期・陸大47期)の当番兵となり、終戦を迎えた。
以下は、宮原健雄大佐の戦後の証言による。
戦後に復員して棋士に戻り、創設された順位戦にB級六段として出場。1947年(昭和22年)に七段昇段。同年、妻・(旧姓・中山)昌子と結婚。1948年(昭和23年)、時の塚田正夫名人への挑戦者は升田幸三八段と見られていたが、大山はB級1位ながら当時の変則運用によりA級棋士を連破して、A級1位の升田にも「高野山の決戦」(第7期名人挑戦者決定三番勝負)で辛勝して初めて名人挑戦者となる。25歳での名人挑戦は、当時の史上最年少記録であった。また、20代での名人戦登場は史上初のことであった。しかし、第7期名人戦は2勝4敗1千日手で敗れる。この年、A級八段に昇段。
1950年(昭和25年)、A級順位戦に優勝し名人挑戦者決定戦も制して、第9期名人戦で木村義雄名人に挑戦するも2勝4敗で敗れる。その後、新設された、第1期九段戦で、優勝して、初タイトルとなる九段を獲得。27歳でのタイトルホルダーは、当時の最年少記録であり、20代でのタイトル獲得も史上初のことであった。
1951年 九段のタイトルを防衛。 1952年(昭和27年)、29歳の大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝1敗で勝利し、当時の史上最年少名人が誕生した。20代での名人獲得は史上初であった。また、九段のタイトルも保持していたため、史上初の二冠達成。ただし、九段位は直後に塚田正夫挑戦者に奪われる。「名人位の箱根越え」は坂田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げたことは、象徴的な場面として知られる)。以後、5連覇して1956年(昭和31年)には永世名人(十五世名人)の資格を得る。1952年 - 1954年には名人・王将の二冠を3年間保持した。1956年以前の九段戦は名人不参加であったため、当時の大山は全冠独占とは扱われないものの、出場しているタイトルは全て獲得していることとなる。
関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す。
「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝していた升田幸三であったが、「新手一生」「名人に香車を引いて勝つ」 を標榜しながら巻き返しを狙っていた。1955年(昭和30年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。このとき、王将戦の規定(指し込み制)で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成している。この時の心境を大山は『ハラワタがちぎれるほど悔しかった』と言っている。1956年(昭和31年)の第16期名人戦において、第12期・第13期と升田を退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、無冠に転落した。升田は、名人・九段・王将の全冠を独占して、棋界初の三冠王となった。
その後大山は、1957年(昭和32年)度の王将戦、1958年(昭和33年)の九段戦、1959年(昭和34年)の名人戦と、升田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋界2人目の三冠王(全冠独占)となった。この頃の「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、扇子の揮毫などでよく知られている。以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。
1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、1960年(昭和35年)創設の王位戦で王位を獲得して初の四冠独占をし、そして1962年(昭和37年)創設の棋聖戦で棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たした。
1959年 - 1966年(昭和34年 - 昭和41年、36歳 - 43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年 - 1970年(昭和37年 - 昭和45年)頃も四度、五冠王になった。特に、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてはタイトルを19期連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。大山の全盛期は、1950年代後半 - 1960年代の日本の高度経済成長期とほぼ重なっている。
二上達也・山田道美・加藤一二三・内藤國雄といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「盤外戦」を駆使したといわれている。
しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた中原誠が台頭してきた。山田は夭折したが、中原は大山攻略術を編み出した。桂馬を巧く使うことが、大山の堅い囲いを崩すのに有効だったという。あるいは、中原には大山の盤外戦が通じなかったともいわれ、大山は中原だけには非常に相性が悪かった。中原とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山の獲得数は4、中原の獲得数は16である。1968年 - 1972年(昭和43年 - 昭和47年)度にかけて、大山は中原によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の1973年(昭和48年)王将戦で無冠となった。大山が無冠となったのは16年ぶり。中原はこの年に四冠王(後に五冠王)になり、「棋界の太陽」と呼ばれ、「大山時代」が終わって「中原時代」が来たと言われるようになった。
その1973年(昭和48年)、無冠になった大山は特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることが認められ、1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位した。これらの永世称号を名乗るのは原則として引退後であるが、大山が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの「九段」とは呼べないという連盟側の配慮であった。
しかしながら「中原時代」の大山も、分の悪い対・中原戦を除けば依然として強さを発揮し、50歳代にもかかわらず十段1期・棋聖7期・王将3期の計11期を獲得した(59歳の王将位獲得は、タイトル獲得の最年長記録)。また、谷川浩司によれば、通算成績においても、20歳代の時より50歳代の時の方が多く勝っているとのこと。その他では谷川、羽生善治などにも負け越している。
1974年(昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって日本将棋連盟本部である「将棋会館」の建設に、1977年(昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設に尽力。1976年12月から1989年5月(昭和51年 - 平成元年)には、第一線のA級棋士で王将を3期連覇しながら日本将棋連盟の会長を務め、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事した。戦後に日本将棋連盟が発足して以来、会長とタイトルホルダーが兼ねていた唯一の事例である。
会長に就任した頃から、将棋の普及活動に、ひときわ熱心に取り組むようになった。
大山は、1978年(昭和53年)4月、55歳の時に、将棋普及のために青森県上北郡百石町(現・おいらせ町)を初めて訪れた。それ以来、大山は同町を繰り返し訪問し、「第二の故郷」と呼ぶほどの深い交流を持った。
1989年(平成元年)には百石町名誉町民の称号を贈られ(2005年(平成17年)に「おいらせ町」が発足してからは、おいらせ町名誉町民)、没後の2004年(平成16年)には大山を顕彰する町立の施設「大山将棋記念館」が建てられている。
出身地である倉敷市からは、1953年(昭和28年)に倉敷市文化賞を、1970年(昭和45年)に倉敷市名誉市民の称号を贈られ、没後の1993年(平成5年)には「倉敷市大山名人記念館」が建てられ、同じく1993年に女流棋士のタイトル戦として「大山名人杯倉敷藤花戦」(倉敷市ほか主催)が創設されている。
また、参加対象者を中国地方の小学生に限定して1995年(平成7年)より開始した「倉敷王将戦」は、後に参加対象者を西日本地区から全国の小学生にまで拡大、2012年(平成24年)からは「大山名人杯争奪全国小学生倉敷王将戦」の冠大会となっており、優勝経験者や上位入賞経験者からプロ棋士になった方も多数出している。
1990年(平成2年)には、将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。
このほかの大山の表彰・顕彰としては、次のようなものがある。
また、現役棋士としても、以下の賞を受賞している。
晩年期の大山は、肝臓がんと闘病しながら何度も復帰してA級順位戦を闘い、さらにはタイトル獲得に挑み続けた。還暦を過ぎた60歳でNHK杯テレビ将棋トーナメントで優勝し、63歳となった1986年(昭和61年)に名人戦で中原名人に挑戦し、平成元年度の1990年(平成2年)には棋王戦で66歳にして南芳一棋王に挑戦した。この棋王挑戦は、タイトル挑戦の最高齢記録である(五番勝負は0-3で奪取ならず)。
この年代になって、順位戦で降級の危機に瀕することはあった。「A級から落ちたら引退する」という大山の決意はファンにも知れ渡っており注目を集めたが、A級の地位を維持した。1987年(昭和62年)度は、生涯最低の3勝6敗の成績ながらも、最終戦を待たずして残留が決定していた。1990年(平成2年)度は、最初に5連敗したが、その後4連勝して降級を免れた。
さらに1991年(平成3年)度(1992年(平成4年)3月まで)の順位戦(第50期)では、がん治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの谷川浩司四冠王(当時)を最終9回戦で破って、6勝3敗の4人でのプレーオフに持ち込んだ。プレーオフはパラマストーナメントのため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要があったが、プレーオフ初戦の高橋道雄との対局で敗れ(勝勢になったが決め手を見逃して敗局)、これが大山がフル出場した最期の順位戦となった。
大山は最期まで現役を貫いた。没年となった1992年(平成4年)度の順位戦も休場せず、A級1回戦で田中寅彦との対局(1992年6月11日)に臨んだ。その3日後、1992年6月14日に高松市「高松市民会館」で行われた第13回将棋日本シリーズ1回戦(公開対局)での小林健二との対局において勝利し(147手)、公式戦通算成績を1433勝とした。これが大山の棋士人生最後の勝利となった。
1992年6月25日の棋聖戦二次予選での中村修との対局(146手で中村の勝ち)が大山の生涯最期の公式戦対局となり、53年間余りの公式戦通算成績を1433勝781敗(勝率0.647)として棋士人生を終えた。それから1ヶ月後の7月26日、大山はA級の地位を守ったまま死去した。A級在籍のまま死去した将棋棋士は山田道美に続き史上2人目であり、後に村山聖もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。大山が残した69歳4ヵ月のA級在籍記録は将棋史上最年長であり、現在も破られていない。
米長邦雄は、大山の、終盤での強靭な粘り、最善手ではない、敢えて相手の悪手や疑問手を誘うよう手を指す逆転術を「終盤が二度ある」「二枚腰」と評した。
同じく米長邦雄は、大山将棋の神髄は受けにあり、守りの要となる金の使い方の巧みさでは並ぶ者がない、と評している。
大山が1992年に死去した後、藤井猛が大山の棋譜を徹底的に研究して藤井システムを創案し、それを駆使して1998年度に初タイトルとなる竜王を獲得した際に、藤井の将棋と大山の将棋が酷似していると感じた米長邦雄は、「嫌な者」(大山)が生き返ってきたかのようだ、という趣旨の発言をしたという(河口俊彦による)。
羽生善治は、大山の棋風について「読んでいないのに急所に手が行く」「最善手を追求しない」と評している。大山との実戦では「まあこんなところだろう」という感じで手が伸びてくるのがピッタリ当たり、まさに名人芸という指しまわしであったと評している。
若い頃の大山は、その当時の主流であった矢倉や腰掛銀などの居飛車が多かったが、突如振り飛車党に転向、特に美濃囲いでの四間飛車とツノ銀中飛車を好んで指した。この転向について、勝又清和は「ファンに喜ばれる将棋を指そうと考えたため」と説明しているが、大山の場合は多忙の中、兄弟子の大野源一から序盤がある程度決まっている(序盤の研究を省略できる)振り飛車を勧められたためとも言われている。
しかしその一方で相振り飛車は極端に嫌っていて、相手が飛車を振った場合は必ず居飛車で指していた(大山が公式戦で相振り飛車を指した棋譜は1局しか残っていない)。
鈴木大介は、大山が相振り飛車を嫌っていた理由として、当時の相振り飛車で一般的に使われていた金無双の右銀の使い方に苦心していたためではないかと話している。その根拠として、大山が最後に指した相振り飛車の対局では、大山は二枚金の形にはしたものの右銀は2八に上げずに3九に置いたまま戦い、最終的に終盤で取られてしまうまで3九から動かすことは無かった。
相手の手番のときには、相手が盤上のどこを見て考えているか視線の方向を観察していた。
対局相手に無形の圧力を加えるなど、いわゆる「盤外戦」を駆使した面がしばしば強調される。
例えば有名な高野山の決戦である。A級1位だった升田が塚田正夫への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた毎日新聞社は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には、対局の日程も場所も事前に通知がなく、真冬の高野山に行く升田に同行者を出さないという冷遇をした。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたが、毎日新聞社は寒冷な高野山を選ぶなど、升田は対局する以前に大山側から強烈な盤外戦を喰らっていたという説もある。
一方、河口俊彦は、毎日新聞社が、朝日新聞社の嘱託棋士であった升田に悪意のある仕打ちをしていたというのは、升田の考えすぎであろう、という趣旨を述べている。
1948年(昭和23年)の「高野山の決戦」の後の1953年(昭和28年)に毎日新聞社に入社し、長く観戦記者を務めた井口昭夫は、下記のように述べている。
敗戦から3年を経た1948年、未だ日本の食糧事情は厳しく、「高野山の決戦」については、対局の前夜に供されるすき焼きの材料は主催社の毎日新聞社が提供し、高野山滞在中に関係者が食べる白米(出典には「銀飯」とある)は高野山が提供し、左党の升田に欠かせない酒は後援者が提供した。食糧確保のための関係者の努力は多大なものであった。
なお、大山の側も、朝日新聞社が名人戦を主催するようになって以降は相当の盤外の圧力を被っていたという説もある。升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰った、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するよう迫ったという逸話が伝えられている。これで奮起した大山は2期後に名人位を升田から取り戻し13期連続、通算18期名人位を獲得し、その後二度と終生のライバルであった升田にタイトルを譲ることはなかった。
日本の古典将棋である中将棋の権威でもあり、さらにはチェスでも日本チャンピオンになり、日中国交正常化の翌年1973年に日中象棋協会(後に日本シャンチー協会に改名)を設立して会長職を務めてシャンチー(中国象棋)の普及にも努め、日中協会の役員 にもなって日本将棋の中国への普及にも努めた。
登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。
詳細は大山康晴の戦績を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照
合計44回(歴代2位)
この他、東西対抗勝継戦5勝以上 1回(1955(第4回))がある。本棋戦は本来は名人の参加しない一般棋戦だが、この年は「特別模範勝抜戦」と題して名人の大山が特別に参加した。この優勝相当成績は日本将棋連盟の公式の一般棋戦優勝回数には含まれていない。
生涯成績 1433勝781敗 勝率0.647
※升田と二上の対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。
※有吉、米長、谷川、羽生の対局数と敗数は、大山の死去に伴う不戦敗扱いを各1局ずつ含む。
(2019年11月14日現在)
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"text": "大山 康晴(おおやま やすはる、1923年(大正12年)3月13日 - 1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。",
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"text": "主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。",
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"text": "順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。岡山県倉敷市出身で、倉敷市および青森県上北郡おいらせ町の名誉市民・名誉町民。",
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"text": "1923年(大正12年)3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。5歳頃から将棋を覚え始める。",
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"text": "才能を注目されて、1935年(昭和10年)に大阪に出て、同じく岡山県出身の木見金治郎八段(当時)に入門し、内弟子となる。同1935年、創設されたばかりの関西奨励会に6級で参加。順調に昇段し、1937年(昭和12年)には二段になった。",
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"text": "二段時代に、中外商業新報(のちの日本経済新聞)の主催の若手勝ち抜き棋戦において、初の公式戦を体験する。",
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"text": "木見門下の兄弟子に大野源一、角田三男、そして終生のライバル升田幸三がいた。内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。",
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"text": "しかし1938年(昭和13年)には、師匠の弟であり、木見家に居候していた木見栄次郎(中将棋の名手、将棋と囲碁はセミプロの腕前)と、中将棋と囲碁に明け暮れる毎日を送り、この年は二段のままであった。",
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"text": "一方で、この時期に中将棋を学んだことで、駒の連携を重視する、用心深く、粘りのある大山の棋風が生まれたと大山自身が述べている。また、この時期に囲碁を本気で勉強したことは、大山が戦時中に兵役に就いた際に身を助けた(後述)。晩年に至るまで大山は囲碁を趣味としており、1950年代には日本棋院からアマ五段の免状を受けていた。",
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"text": "1940年(昭和15年)2月に四段、1941年(昭和16年)に五段、1943年(昭和18年)に六段(前年の昭和17年に六段への昇段点を満たしたが、早すぎるとして昇段を保留された)。1942年(昭和17年)には、大阪毎日新聞(戦後の毎日新聞大阪本社)の嘱託となり、月額100円の手当を支給されるようになった。本来この嘱託の話は升田に持ち込まれていたが、升田が出征中だったため大山に話が回ってきたとも言われ、後に大山と升田が対立する原因の一つとなったとされる。",
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"text": "太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に召集され、5月1日に、岡山市北部に兵営があった陸軍の「四十八部隊」に入営した。大山は、4月18日に倉敷の自宅で召集令状を受け取った時点で、六段で11勝3敗の成績であり、あと4勝で七段に昇段できる状況であった。大山は直ちに大阪に行き、入営の前に4局指させて欲しい(全て勝って七段になって入営したい)と師匠の木見に願い出た。大山の希望は叶えられ、4月20日から23日の間に、大野源一・八段、高島一岐代六段、松浦卓造四段、星田啓三・四段(段位はいずれも当時)と4局を指したが、松浦四段に1敗を喫し、3勝1敗の成績で昇段はできなかった。",
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"text": "将棋大成会(日本将棋連盟の前身)は、出征すれば生還を望めない状況を鑑み、出征が決まった棋士を無条件に昇段させていた。河口俊彦は、大山も何もしなくても七段に昇段できたはずなのに、あくまでも実力での昇段を望んだのは、真の将棋指しであった大山の人柄を表している、と評している。",
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"text": "同じく河口俊彦は、当時の大山に勝てる棋士は関西に存在せず(升田幸三・七段は、昭和18年11月に二度目の召集を受けて出征していた)、そもそも、死にに行く出征棋士に勝とうなどと思う棋士がいる訳もなく、大山が1敗を喫したのは不思議である。大山は勝つのが当然と油断しており、その隙を松浦四段に突かれて負けたのだろうと推定している。",
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"text": "入営して二等兵(歩兵)となった大山は、厳しい初年兵訓練を1カ月受けたが、その後に縫工(ミシンを使って裁縫作業をする配置)に回された。同僚の兵は多くが沖縄戦に投入され、生還できなかったが、大山は戦地への動員を免れて岡山に残留した。岡山県出身の上官(氏名は出典に記載なし)が、特殊技能を持つ兵は岡山に残す、と判断した結果のようであった。",
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"text": "1945年(昭和20年)4月25日に大山の所属部隊が再編成され、本土決戦に備えて南九州に進出した。そこで所属部隊を離れて上級部隊である第154師団の司令部附となり、宮原健雄大佐(第154師団参謀長、陸士36期・陸大47期)の当番兵となり、終戦を迎えた。",
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"text": "以下は、宮原健雄大佐の戦後の証言による。",
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"text": "戦後に復員して棋士に戻り、創設された順位戦にB級六段として出場。1947年(昭和22年)に七段昇段。同年、妻・(旧姓・中山)昌子と結婚。1948年(昭和23年)、時の塚田正夫名人への挑戦者は升田幸三八段と見られていたが、大山はB級1位ながら当時の変則運用によりA級棋士を連破して、A級1位の升田にも「高野山の決戦」(第7期名人挑戦者決定三番勝負)で辛勝して初めて名人挑戦者となる。25歳での名人挑戦は、当時の史上最年少記録であった。また、20代での名人戦登場は史上初のことであった。しかし、第7期名人戦は2勝4敗1千日手で敗れる。この年、A級八段に昇段。",
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"text": "1950年(昭和25年)、A級順位戦に優勝し名人挑戦者決定戦も制して、第9期名人戦で木村義雄名人に挑戦するも2勝4敗で敗れる。その後、新設された、第1期九段戦で、優勝して、初タイトルとなる九段を獲得。27歳でのタイトルホルダーは、当時の最年少記録であり、20代でのタイトル獲得も史上初のことであった。",
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"text": "1951年 九段のタイトルを防衛。 1952年(昭和27年)、29歳の大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝1敗で勝利し、当時の史上最年少名人が誕生した。20代での名人獲得は史上初であった。また、九段のタイトルも保持していたため、史上初の二冠達成。ただし、九段位は直後に塚田正夫挑戦者に奪われる。「名人位の箱根越え」は坂田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げたことは、象徴的な場面として知られる)。以後、5連覇して1956年(昭和31年)には永世名人(十五世名人)の資格を得る。1952年 - 1954年には名人・王将の二冠を3年間保持した。1956年以前の九段戦は名人不参加であったため、当時の大山は全冠独占とは扱われないものの、出場しているタイトルは全て獲得していることとなる。",
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"text": "関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す。",
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"text": "「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝していた升田幸三であったが、「新手一生」「名人に香車を引いて勝つ」 を標榜しながら巻き返しを狙っていた。1955年(昭和30年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。このとき、王将戦の規定(指し込み制)で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成している。この時の心境を大山は『ハラワタがちぎれるほど悔しかった』と言っている。1956年(昭和31年)の第16期名人戦において、第12期・第13期と升田を退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、無冠に転落した。升田は、名人・九段・王将の全冠を独占して、棋界初の三冠王となった。",
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"text": "その後大山は、1957年(昭和32年)度の王将戦、1958年(昭和33年)の九段戦、1959年(昭和34年)の名人戦と、升田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋界2人目の三冠王(全冠独占)となった。この頃の「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、扇子の揮毫などでよく知られている。以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。",
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"text": "1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、1960年(昭和35年)創設の王位戦で王位を獲得して初の四冠独占をし、そして1962年(昭和37年)創設の棋聖戦で棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たした。",
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"text": "1959年 - 1966年(昭和34年 - 昭和41年、36歳 - 43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年 - 1970年(昭和37年 - 昭和45年)頃も四度、五冠王になった。特に、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてはタイトルを19期連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。大山の全盛期は、1950年代後半 - 1960年代の日本の高度経済成長期とほぼ重なっている。",
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"text": "二上達也・山田道美・加藤一二三・内藤國雄といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「盤外戦」を駆使したといわれている。",
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"text": "しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた中原誠が台頭してきた。山田は夭折したが、中原は大山攻略術を編み出した。桂馬を巧く使うことが、大山の堅い囲いを崩すのに有効だったという。あるいは、中原には大山の盤外戦が通じなかったともいわれ、大山は中原だけには非常に相性が悪かった。中原とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山の獲得数は4、中原の獲得数は16である。1968年 - 1972年(昭和43年 - 昭和47年)度にかけて、大山は中原によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の1973年(昭和48年)王将戦で無冠となった。大山が無冠となったのは16年ぶり。中原はこの年に四冠王(後に五冠王)になり、「棋界の太陽」と呼ばれ、「大山時代」が終わって「中原時代」が来たと言われるようになった。",
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"text": "その1973年(昭和48年)、無冠になった大山は特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることが認められ、1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位した。これらの永世称号を名乗るのは原則として引退後であるが、大山が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの「九段」とは呼べないという連盟側の配慮であった。",
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"text": "しかしながら「中原時代」の大山も、分の悪い対・中原戦を除けば依然として強さを発揮し、50歳代にもかかわらず十段1期・棋聖7期・王将3期の計11期を獲得した(59歳の王将位獲得は、タイトル獲得の最年長記録)。また、谷川浩司によれば、通算成績においても、20歳代の時より50歳代の時の方が多く勝っているとのこと。その他では谷川、羽生善治などにも負け越している。",
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"text": "1974年(昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって日本将棋連盟本部である「将棋会館」の建設に、1977年(昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設に尽力。1976年12月から1989年5月(昭和51年 - 平成元年)には、第一線のA級棋士で王将を3期連覇しながら日本将棋連盟の会長を務め、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事した。戦後に日本将棋連盟が発足して以来、会長とタイトルホルダーが兼ねていた唯一の事例である。",
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"text": "会長に就任した頃から、将棋の普及活動に、ひときわ熱心に取り組むようになった。",
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"text": "大山は、1978年(昭和53年)4月、55歳の時に、将棋普及のために青森県上北郡百石町(現・おいらせ町)を初めて訪れた。それ以来、大山は同町を繰り返し訪問し、「第二の故郷」と呼ぶほどの深い交流を持った。",
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"text": "1989年(平成元年)には百石町名誉町民の称号を贈られ(2005年(平成17年)に「おいらせ町」が発足してからは、おいらせ町名誉町民)、没後の2004年(平成16年)には大山を顕彰する町立の施設「大山将棋記念館」が建てられている。",
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"text": "出身地である倉敷市からは、1953年(昭和28年)に倉敷市文化賞を、1970年(昭和45年)に倉敷市名誉市民の称号を贈られ、没後の1993年(平成5年)には「倉敷市大山名人記念館」が建てられ、同じく1993年に女流棋士のタイトル戦として「大山名人杯倉敷藤花戦」(倉敷市ほか主催)が創設されている。",
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"text": "また、参加対象者を中国地方の小学生に限定して1995年(平成7年)より開始した「倉敷王将戦」は、後に参加対象者を西日本地区から全国の小学生にまで拡大、2012年(平成24年)からは「大山名人杯争奪全国小学生倉敷王将戦」の冠大会となっており、優勝経験者や上位入賞経験者からプロ棋士になった方も多数出している。",
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"text": "晩年期の大山は、肝臓がんと闘病しながら何度も復帰してA級順位戦を闘い、さらにはタイトル獲得に挑み続けた。還暦を過ぎた60歳でNHK杯テレビ将棋トーナメントで優勝し、63歳となった1986年(昭和61年)に名人戦で中原名人に挑戦し、平成元年度の1990年(平成2年)には棋王戦で66歳にして南芳一棋王に挑戦した。この棋王挑戦は、タイトル挑戦の最高齢記録である(五番勝負は0-3で奪取ならず)。",
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"text": "この年代になって、順位戦で降級の危機に瀕することはあった。「A級から落ちたら引退する」という大山の決意はファンにも知れ渡っており注目を集めたが、A級の地位を維持した。1987年(昭和62年)度は、生涯最低の3勝6敗の成績ながらも、最終戦を待たずして残留が決定していた。1990年(平成2年)度は、最初に5連敗したが、その後4連勝して降級を免れた。",
"title": "生涯"
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"text": "さらに1991年(平成3年)度(1992年(平成4年)3月まで)の順位戦(第50期)では、がん治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの谷川浩司四冠王(当時)を最終9回戦で破って、6勝3敗の4人でのプレーオフに持ち込んだ。プレーオフはパラマストーナメントのため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要があったが、プレーオフ初戦の高橋道雄との対局で敗れ(勝勢になったが決め手を見逃して敗局)、これが大山がフル出場した最期の順位戦となった。",
"title": "生涯"
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"text": "大山は最期まで現役を貫いた。没年となった1992年(平成4年)度の順位戦も休場せず、A級1回戦で田中寅彦との対局(1992年6月11日)に臨んだ。その3日後、1992年6月14日に高松市「高松市民会館」で行われた第13回将棋日本シリーズ1回戦(公開対局)での小林健二との対局において勝利し(147手)、公式戦通算成績を1433勝とした。これが大山の棋士人生最後の勝利となった。",
"title": "生涯"
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"text": "1992年6月25日の棋聖戦二次予選での中村修との対局(146手で中村の勝ち)が大山の生涯最期の公式戦対局となり、53年間余りの公式戦通算成績を1433勝781敗(勝率0.647)として棋士人生を終えた。それから1ヶ月後の7月26日、大山はA級の地位を守ったまま死去した。A級在籍のまま死去した将棋棋士は山田道美に続き史上2人目であり、後に村山聖もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。大山が残した69歳4ヵ月のA級在籍記録は将棋史上最年長であり、現在も破られていない。",
"title": "生涯"
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"text": "米長邦雄は、大山の、終盤での強靭な粘り、最善手ではない、敢えて相手の悪手や疑問手を誘うよう手を指す逆転術を「終盤が二度ある」「二枚腰」と評した。",
"title": "棋風"
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"text": "同じく米長邦雄は、大山将棋の神髄は受けにあり、守りの要となる金の使い方の巧みさでは並ぶ者がない、と評している。",
"title": "棋風"
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"text": "大山が1992年に死去した後、藤井猛が大山の棋譜を徹底的に研究して藤井システムを創案し、それを駆使して1998年度に初タイトルとなる竜王を獲得した際に、藤井の将棋と大山の将棋が酷似していると感じた米長邦雄は、「嫌な者」(大山)が生き返ってきたかのようだ、という趣旨の発言をしたという(河口俊彦による)。",
"title": "棋風"
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"text": "羽生善治は、大山の棋風について「読んでいないのに急所に手が行く」「最善手を追求しない」と評している。大山との実戦では「まあこんなところだろう」という感じで手が伸びてくるのがピッタリ当たり、まさに名人芸という指しまわしであったと評している。",
"title": "棋風"
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"text": "若い頃の大山は、その当時の主流であった矢倉や腰掛銀などの居飛車が多かったが、突如振り飛車党に転向、特に美濃囲いでの四間飛車とツノ銀中飛車を好んで指した。この転向について、勝又清和は「ファンに喜ばれる将棋を指そうと考えたため」と説明しているが、大山の場合は多忙の中、兄弟子の大野源一から序盤がある程度決まっている(序盤の研究を省略できる)振り飛車を勧められたためとも言われている。",
"title": "棋風"
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"text": "しかしその一方で相振り飛車は極端に嫌っていて、相手が飛車を振った場合は必ず居飛車で指していた(大山が公式戦で相振り飛車を指した棋譜は1局しか残っていない)。",
"title": "棋風"
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"text": "鈴木大介は、大山が相振り飛車を嫌っていた理由として、当時の相振り飛車で一般的に使われていた金無双の右銀の使い方に苦心していたためではないかと話している。その根拠として、大山が最後に指した相振り飛車の対局では、大山は二枚金の形にはしたものの右銀は2八に上げずに3九に置いたまま戦い、最終的に終盤で取られてしまうまで3九から動かすことは無かった。",
"title": "棋風"
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"text": "相手の手番のときには、相手が盤上のどこを見て考えているか視線の方向を観察していた。",
"title": "棋風"
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"text": "対局相手に無形の圧力を加えるなど、いわゆる「盤外戦」を駆使した面がしばしば強調される。",
"title": "盤外戦"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "例えば有名な高野山の決戦である。A級1位だった升田が塚田正夫への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた毎日新聞社は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には、対局の日程も場所も事前に通知がなく、真冬の高野山に行く升田に同行者を出さないという冷遇をした。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたが、毎日新聞社は寒冷な高野山を選ぶなど、升田は対局する以前に大山側から強烈な盤外戦を喰らっていたという説もある。",
"title": "盤外戦"
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"tag": "p",
"text": "一方、河口俊彦は、毎日新聞社が、朝日新聞社の嘱託棋士であった升田に悪意のある仕打ちをしていたというのは、升田の考えすぎであろう、という趣旨を述べている。",
"title": "盤外戦"
},
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"tag": "p",
"text": "1948年(昭和23年)の「高野山の決戦」の後の1953年(昭和28年)に毎日新聞社に入社し、長く観戦記者を務めた井口昭夫は、下記のように述べている。",
"title": "盤外戦"
},
{
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"tag": "p",
"text": "敗戦から3年を経た1948年、未だ日本の食糧事情は厳しく、「高野山の決戦」については、対局の前夜に供されるすき焼きの材料は主催社の毎日新聞社が提供し、高野山滞在中に関係者が食べる白米(出典には「銀飯」とある)は高野山が提供し、左党の升田に欠かせない酒は後援者が提供した。食糧確保のための関係者の努力は多大なものであった。",
"title": "盤外戦"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "なお、大山の側も、朝日新聞社が名人戦を主催するようになって以降は相当の盤外の圧力を被っていたという説もある。升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰った、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するよう迫ったという逸話が伝えられている。これで奮起した大山は2期後に名人位を升田から取り戻し13期連続、通算18期名人位を獲得し、その後二度と終生のライバルであった升田にタイトルを譲ることはなかった。",
"title": "盤外戦"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "日本の古典将棋である中将棋の権威でもあり、さらにはチェスでも日本チャンピオンになり、日中国交正常化の翌年1973年に日中象棋協会(後に日本シャンチー協会に改名)を設立して会長職を務めてシャンチー(中国象棋)の普及にも努め、日中協会の役員 にもなって日本将棋の中国への普及にも努めた。",
"title": "その他の棋類"
},
{
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"text": "登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "詳細は大山康晴の戦績を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "合計44回(歴代2位)",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この他、東西対抗勝継戦5勝以上 1回(1955(第4回))がある。本棋戦は本来は名人の参加しない一般棋戦だが、この年は「特別模範勝抜戦」と題して名人の大山が特別に参加した。この優勝相当成績は日本将棋連盟の公式の一般棋戦優勝回数には含まれていない。",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "生涯成績 1433勝781敗 勝率0.647",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "※升田と二上の対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "※有吉、米長、谷川、羽生の対局数と敗数は、大山の死去に伴う不戦敗扱いを各1局ずつ含む。",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "(2019年11月14日現在)",
"title": "弟子"
}
] |
大山 康晴は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。 主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。 順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。岡山県倉敷市出身で、倉敷市および青森県上北郡おいらせ町の名誉市民・名誉町民。
|
{{参照方法|date=2014-5}}
{{Infobox 将棋棋士
|image = [[File:New Shogi Champion Yasuharu Oyama 1952 Scan10007.JPG|250px]]
|caption = 第11期名人戦を制して新名人となる<br />(1952年7月16日)
|名前 = 大山康晴
|棋士番号 = 26
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1923|3|13|no}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1923|3|13|1992|7|26}}
|プロ年度 = {{年月日|year=1940|month=2|day=25}}<!--({{年数|1923|3|13|1940|2|25}}歳)<ref group="注釈">四段昇段年</ref>-->
|引退年度 = {{年月日|year=1992|month=7|day=26}}<br />(現役のまま死去)
|出身地 = [[岡山県]][[倉敷市]]
|所属 = 将棋大成会(関西)<br />→[[日本将棋連盟]](関西)<br />→日本将棋連盟(関東)
|師匠 = [[木見金治郎]]九段
|弟子 = [[市川伸]]、[[有吉道夫]]、[[中田功]]、[[行方尚史]]
|肩書 = 十五世名人
|永世 = 十五世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将
|段位 = 九段
|タイトル合計 = 80期(歴代2位)
|優勝回数 = 44回(歴代2位)
|通算成績 = {{勝率|1433|781|record=y}}
|順位戦クラス =A級(44期<ref group="注釈">名人18期を含む</ref>)
|作成日時 =2023年12月21日
}}
'''大山 康晴'''(おおやま やすはる、[[1923年]]([[大正]]12年)[[3月13日]] - [[1992年]]([[平成]]4年)[[7月26日]])は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。'''[[名人 (将棋)|十五世名人]]'''。棋士番号26。[[木見金治郎]]九段門下。
主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、[[棋戦 (将棋)|一般棋戦]]優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世[[名人 (将棋)|名人]]・永世[[十段戦 (将棋)|十段]]・永世[[王位戦 (将棋)|王位]]・永世[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]・永世[[王将戦|王将]]の5つの永世称号を保持。
[[順位戦]]A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで[[日本将棋連盟]]会長を務めた<ref name="名前なし-1">https://www.shogi.or.jp/about/history.html 将棋連盟について 創立・沿革</ref>。弟子には[[有吉道夫]]、[[中田功]]、[[行方尚史]]などがいる。[[1990年]](平成2年)には[[将棋界]]から初めて[[文化功労者]]に選ばれた。[[正四位]][[勲二等]][[瑞宝章]]。[[岡山県]][[倉敷市]]出身で、倉敷市および[[青森県]][[上北郡]][[おいらせ町]]の[[名誉市民]]・名誉町民。
== 生涯 ==
=== 生い立ち - 戦前期 ===
[[1923年]](大正12年)3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。5歳頃から将棋を覚え始める。
才能を注目されて、[[1935年]](昭和10年)に[[大阪市|大阪]]に出て、同じく岡山県出身の木見金治郎八段(当時)に入門し、内弟子となる。同1935年、創設されたばかりの関西[[奨励会]]に6級で参加<ref>[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]] 監修 『[写真でつづる]将棋昭和史』 毎日コミュニケーションズ P.26</ref>。順調に昇段し、1937年(昭和12年)には二段になった<ref name="2-木見道場のころ" />。
二段時代に、[[中外商業新報]](のちの[[日本経済新聞]])の主催の若手勝ち抜き棋戦において、初の公式戦を体験する<ref>『勝負の世界2 将棋VS囲碁対談五番勝負』(毎日コミュニケーションズ)P.33-34</ref>。
木見門下の兄弟子に[[大野源一]]、[[角田三男]]、そして終生のライバル[[升田幸三]]がいた。内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。
しかし1938年(昭和13年)には、師匠の弟であり、木見家に居候していた木見栄次郎([[中将棋]]の名手、将棋と囲碁はセミプロの腕前)と、中将棋と囲碁に明け暮れる毎日を送り、この年は二段のままであった<ref name="2-木見道場のころ">{{Harvnb|井口|1992|p=|pp=20-31|loc=2-木見道場のころ}}</ref>。
一方で、この時期に[[中将棋]]を学んだことで、駒の連携を重視する、用心深く、粘りのある大山の[[棋風]]が生まれたと大山自身が述べている。また、この時期に囲碁を本気で勉強したことは、大山が戦時中に兵役に就いた際に身を助けた(後述)。晩年に至るまで大山は囲碁を趣味としており<ref>{{Cite web|和書|url=http://tamarunoboru.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-b7af.html|title=昭和棋界の双璧だった大山と升田の珍しいツーショット写真|accessdate=2017-09-27|date=2011-10-20|publisher=[[田丸昇]]公式ブログ「と金横歩き」|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170927123849/http://tamarunoboru.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-b7af.html|archivedate=2017-09-27}}</ref>、1950年代には日本棋院からアマ五段の免状を受けていた<ref>{{Harvnb|中山|2003|p=|pp=22-40|loc=第三話-秒針の轟き}}
</ref>。
[[1940年]](昭和15年)2月に四段、1941年(昭和16年)に五段、1943年(昭和18年)に六段(前年の昭和17年に六段への昇段点を満たしたが、早すぎるとして昇段を保留された<ref name="第2章-将棋の道を歩き始める-攻めと受け">{{Harvnb|大山|1992|p=|pp=61-64|loc=第2章-将棋の道を歩き始める-攻めと受け}}</ref>)<ref name="3-戦中戦後">{{Harvnb|井口|1992|p=|pp=32-47|loc=3-戦中戦後}}</ref>。1942年(昭和17年)には、[[大阪毎日新聞]](戦後の[[毎日新聞大阪本社]])の嘱託となり、月額100円の手当を支給されるようになった{{Refnest|group="注釈"|戦前、「月給100円」は相当な価値とステータスを有していた<ref>{{Citation |和書 |last=岩瀬 |first=彰 |authorlink= |year=2006 |title=「月給百円」のサラリーマン-戦前日本の「平和」な生活 |volume= |publisher=[[講談社]](講談社現代新書)}}</ref>。}}<ref name="3-戦中戦後" />。本来この嘱託の話は升田に持ち込まれていたが、升田が出征中だったため大山に話が回ってきたとも言われ、後に大山と升田が対立する原因の一つとなったとされる<ref name="number231129">{{Cite web |title=藤井聡太も達成の全冠制覇者・大山康晴だが…「見込みがない。田舎にさっさと帰りなさい」“兄弟子”升田幸三との確執が生まれるまで(田丸昇) |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/859683 |website=Number Web - ナンバー |access-date=2023-11-30 |language=ja |publisher=株式会社文藝春秋 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231130121757/https://number.bunshun.jp/articles/-/859683 |archive-date=2023-11-30}}</ref>。
=== 戦中 - 終戦 ===
[[太平洋戦争]]中の[[1944年]](昭和19年)に召集され、5月1日に、岡山市北部に兵営があった陸軍の「四十八部隊」に入営した<ref name="3-戦中戦後" />。大山は、4月18日に倉敷の自宅で[[召集令状]]を受け取った時点で、六段で11勝3敗の成績であり、あと4勝で七段に昇段できる状況であった<ref name="3-戦中戦後" />{{Refnest|group="注釈"|大山康晴『棋風堂々』(PHP研究所、1992年)には、召集令状を受け取った時点で六段で10勝2敗の成績で、後6勝すれば七段に昇段できるので、師匠の木見に頼み込んで20日から25日までに6局指したが、4勝2敗で昇段が成らなかった、とある<ref name="第2章-将棋の道を歩き始める-攻めと受け" />。}}。大山は直ちに大阪に行き、入営の前に4局指させて欲しい(全て勝って七段になって入営したい)と師匠の木見に願い出た<ref name="3-戦中戦後" />。大山の希望は叶えられ、4月20日から23日の間に、大野源一・八段、[[高島一岐代]]六段、[[松浦卓造]]四段、[[星田啓三]]・四段(段位はいずれも当時)と4局を指したが、松浦四段に1敗を喫し<ref>{{Harvnb|河口|2003|p=|pp=71-73|loc=2章-生い立ちから名人まで-十二歳で木見八段門へ}}</ref>、3勝1敗の成績で昇段はできなかった<ref name="3-戦中戦後" />。
将棋大成会([[日本将棋連盟]]の前身)は、出征すれば生還を望めない状況を鑑み、出征が決まった棋士を無条件に昇段させていた<ref name="勝負に徹した巨人-大山康晴">{{Harvnb|河口|2013|p=|pp=6-15|loc=勝負に徹した巨人-大山康晴}}</ref>。[[河口俊彦]]は、大山も何もしなくても七段に昇段できたはずなのに、あくまでも実力での昇段を望んだのは、真の将棋指しであった大山の人柄を表している、と評している<ref name="勝負に徹した巨人-大山康晴" />。
同じく河口俊彦は、当時の大山に勝てる棋士は関西に存在せず(升田幸三・七段は、昭和18年11月に二度目の召集を受けて出征していた<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=185-188|loc=強運に恵まれれて死地より生還-(冒頭)}}</ref>)、そもそも、死にに行く出征棋士に勝とうなどと思う棋士がいる訳もなく、大山が1敗を喫したのは不思議である<ref name="勝負に徹した巨人-大山康晴" />。大山は勝つのが当然と油断しており、その隙を松浦四段に突かれて負けたのだろうと推定している<ref name="勝負に徹した巨人-大山康晴" />。
{{Quotation|負けたとき、大山は自分が仲間に嫌われていること、勝負は油断してはならないことを身にしみて感じたであろう。この事件が後の大山の生き方に大きな影響を与えたのは間違いない。|河口俊彦|<ref name="勝負に徹した巨人-大山康晴" />}}
入営して二等兵(歩兵)となった大山は<ref name="3-戦中戦後" />、厳しい初年兵訓練を1カ月受けたが<ref name="第2章-将棋の道を歩き始める-攻めと受け" />、その後に縫工(ミシンを使って裁縫作業をする配置)に回された<ref name="第2章-将棋の道を歩き始める-攻めと受け" />。同僚の兵は多くが[[沖縄戦]]に投入され<ref name="第2章-将棋の道を歩き始める-参謀長付当番兵">{{Harvnb|大山|1992|p=|pp=64-67|loc=第2章-将棋の道を歩き始める-参謀長付当番兵}}</ref>、生還できなかったが<ref name="3-戦中戦後" />、大山は戦地への動員を免れて岡山に残留した<ref name="第2章-将棋の道を歩き始める-参謀長付当番兵" />。岡山県出身の上官(氏名は出典に記載なし)が、特殊技能を持つ兵は岡山に残す、と判断した結果のようであった<ref name="第2章-将棋の道を歩き始める-参謀長付当番兵" />。
{{Quotation|私は、小学校時代から将棋の師につき、木見門に入り、永世名人になって百二十四回の優勝をかさねてきた。そのためには自分なりに努力をしたつもりだが、ひとつには運に恵まれていたと感謝する。ことに軍隊では幸運をつかんでいなければ、沖縄戦に参加して、おそらくは生きて帰れなかっただろう。|大山康晴|<ref name="第2章-将棋の道を歩き始める-参謀長付当番兵" />}}
1945年(昭和20年)4月25日に大山の所属部隊が再編成され、[[本土決戦]]に備えて南九州に進出した<ref name="3-戦中戦後" />。そこで所属部隊を離れて上級部隊である[[第154師団 (日本軍)|第154師団]]の司令部附となり、宮原健雄[[大佐]](第154師団参謀長<ref name="陸軍大学校卒業生" />、[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]36期・[[陸軍大学校|陸大]]47期<ref name="陸軍大学校卒業生">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=545-611|loc=陸軍大学校卒業生}}</ref>)の当番兵となり、終戦を迎えた<ref name="3-戦中戦後" />。
以下は、宮原健雄大佐の戦後の証言による<ref name="3-戦中戦後" />。
{{Cquote|終戦の1か月前、昭和20年7月16日付で第154師団長が交代し<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=381|pp=|loc=第154師団長}}</ref>、[[二見秋三郎]][[少将]](陸士28期・陸大37期<ref name="陸軍大学校卒業生" />)が着任した。二見師団長は囲碁が趣味で、「囲碁の強い兵隊を探せ」と部下に指示した。条件を満たす大山が所属部隊を離れて第154師団司令部附となり、師団長の囲碁の相手をすることになった。しかし、昭和13年に1年かけて囲碁と中将棋を学んだ(前述)大山は囲碁が強すぎ、全く勝てない師団長が閉口して、大山はお役御免となった。大山はここで所属部隊に戻される筈であったが、それは大山が可哀想だと同情され、大山は宮原参謀長の当番兵になった。なお、参謀長は将棋の心得があったが、大山が将棋の専門棋士だとは知らず、大山と将棋を指すことはなかった。(要約)}}
=== 20代初のタイトルホルダーに ===
戦後に復員して棋士に戻り、創設された[[順位戦]]にB級六段として出場。[[1947年]](昭和22年)に七段昇段。同年、妻・(旧姓・中山)昌子と結婚<ref>{{Cite book|和書| | editor = [[江藤茂博]] | editor2 = 山口直孝 | editor3 = [[浜田知明]] | title = [[横溝正史]]研究 6 | quote = 連載 横溝正史年譜事典 第五回(1939年~1948年) | page=288 | publisher = [[戎光祥出版|戎光祥出版株式会社]]| date = 2017-03-28}}</ref>。[[1948年]](昭和23年)、時の[[塚田正夫]]名人への挑戦者は升田幸三八段と見られていたが、大山はB級1位ながら当時の変則運用によりA級棋士を連破して、A級1位の升田にも「[[高野山]]の決戦」(第7期名人挑戦者決定三番勝負)で辛勝して初めて名人挑戦者となる。25歳での名人挑戦は、当時の史上最年少記録であった<ref group="注釈">のちに[[加藤一二三]]がこの記録を更新した。</ref>。また、20代での名人戦登場は史上初のことであった。しかし、第7期[[名人戦 (将棋)|名人戦]]は2勝4敗1[[千日手]]で敗れる。この年、A級八段に昇段。
[[1950年]](昭和25年)、A級順位戦に優勝し名人挑戦者決定戦も制して、第9期名人戦で[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]名人に挑戦するも2勝4敗で敗れる。その後、新設された、第1期九段戦で、優勝して、初タイトルとなる九段を獲得<ref group="注釈">当時、段位は最高で八段までで、九段はタイトルであった。その後、九段のタイトルは十段、竜王へと移行し現在に至る。詳しくは[[十段戦 (将棋)|十段戦]]を参照。</ref>。27歳でのタイトルホルダーは、当時の最年少記録であり、20代でのタイトル獲得も史上初のことであった<ref group="注釈">のちに中原誠が、当時の最年少となる20歳で棋聖を獲得し、大山の記録を塗り替えた。</ref>。
=== 史上最年少名人の誕生 ===
1951年 九段のタイトルを防衛。
[[1952年]](昭和27年)、29歳の大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝1敗で勝利し、当時の史上最年少名人が誕生した。20代での名人獲得は史上初であった。また、九段のタイトルも保持していたため、史上初の二冠達成。ただし、九段位は直後に塚田正夫挑戦者に奪われる。「名人位の[[箱根]]越え」は[[坂田三吉]]以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げたことは、象徴的な場面として知られる)。以後、5連覇して[[1956年]](昭和31年)には'''[[棋戦 (将棋)#永世称号|永世名人]]'''('''十五世名人''')の資格を得る。1952年 - 1954年には名人・[[王将戦|王将]]の二冠を3年間保持した。1956年以前の九段戦は名人不参加であったため、当時の大山は全冠独占とは扱われないものの、出場しているタイトルは全て獲得していることとなる。
関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す<ref group="注釈">。升田も同年に東京に転居している。</ref><ref>週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.148</ref>。
=== 升田幸三との闘争 ===
「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝していた升田幸三であったが、「新手一生」「名人に[[香車]]を引いて勝つ」<ref group="注釈">[[将棋の手合割|香落ち]](自分の香車を落とすハンディ戦)にしてまでも勝つこと。</ref> を標榜しながら巻き返しを狙っていた。[[1955年]](昭和30年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。このとき、王将戦の規定([[王将戦#指し込み制|指し込み制]])で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成している。この時の心境を大山は『ハラワタがちぎれるほど悔しかった』と言っている。[[1956年]](昭和31年)の第16期名人戦において、第12期・第13期と升田を退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、無冠に転落した。升田は、名人・九段・王将の全冠を独占して、棋界初の三冠王となった。
その後大山は、[[1957年]](昭和32年)度の王将戦、[[1958年]](昭和33年)の九段戦、[[1959年]](昭和34年)の名人戦と、升田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋界2人目の三冠王(全冠独占)となった。この頃の「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、[[扇子]]の[[揮毫]]などでよく知られている。以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。
=== 五冠王時代 ===
1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、[[1960年]](昭和35年)創設の王位戦で[[王位戦 (将棋)|王位]]を獲得して初の四冠独占をし、そして[[1962年]](昭和37年)創設の棋聖戦で[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]位を獲得して初の五冠独占(名人・[[十段戦 (将棋)|十段]]・王将・王位・棋聖)を果たした。
1959年 - 1966年(昭和34年 - 昭和41年、36歳 - 43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年 - 1970年(昭和37年 - 昭和45年)頃も四度、五冠王になった。特に、[[1963年]](昭和38年)から[[1966年]](昭和41年)にかけてはタイトルを19期連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。大山の全盛期は、1950年代後半 - 1960年代の日本の[[高度経済成長]]期とほぼ重なっている。
[[二上達也]]・[[山田道美]]・[[加藤一二三]]・[[内藤國雄]]といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「[[盤外戦]]」を駆使したといわれている。
=== 中原誠ら次世代の台頭、記録への挑戦 ===
しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた[[中原誠]]が台頭してきた。山田は夭折したが、中原は大山攻略術を編み出した。[[桂馬]]を巧く使うことが、大山の堅い[[将棋の戦法一覧|囲い]]を崩すのに有効だったという。あるいは、中原には大山の盤外戦が通じなかったともいわれ、大山は中原だけには非常に相性が悪かった。中原とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山の獲得数は4、中原の獲得数は16である。1968年 - 1972年(昭和43年 - 昭和47年)度にかけて、大山は中原によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の[[1973年]](昭和48年)王将戦で無冠となった。大山が無冠となったのは16年ぶり。中原はこの年に四冠王(後に五冠王)になり、「棋界の太陽」と呼ばれ、「大山時代」が終わって「中原時代」が来たと言われるようになった。
その1973年(昭和48年)、無冠になった大山は特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることが認められ、[[1976年]](昭和51年)には同じく現役のまま「[[名人 (将棋)|十五世名人]]」を襲位した。これらの永世称号を名乗るのは原則として[[引退]]後であるが、大山が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの「九段」とは呼べないという連盟側の配慮であった<ref group = "注釈">後に中原も同様の理由で現役のまま永世十段を名乗ることとなった。</ref>。
しかしながら「中原時代」の大山も、分の悪い対・中原戦を除けば依然として強さを発揮し、50歳代にもかかわらず十段1期・棋聖7期・王将3期の計11期を獲得した(59歳の王将位獲得は、タイトル獲得の最年長記録)。また、[[谷川浩司]]によれば、通算成績においても、20歳代の時より50歳代の時の方が多く勝っているとのこと<ref>将棋世界2008年7月号「イメージと読みの将棋観」より。</ref><!-- できる方は、実際の勝敗を確認して数えて下さい -->。その他では谷川、[[羽生善治]]などにも負け越している。
=== 連盟の運営、将棋の普及、顕彰 ===
[[画像:Oyama Meijin Memorial Hall.jpg|300px|thumb|[[倉敷市芸文館]]に併設されている、倉敷市大山名人記念館]]
[[1974年]](昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって[[日本将棋連盟]]本部である「[[将棋会館]]」の建設に、[[1977年]](昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「[[将棋会館#関西将棋会館|関西将棋会館]]」の建設に尽力。1976年12月から1989年5月(昭和51年 - 平成元年)<ref name="名前なし-1"/>には、第一線のA級棋士で[[王将戦|王将]]を3期連覇しながら日本将棋連盟の会長を務め、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事した。戦後に日本将棋連盟が発足して以来、会長とタイトルホルダーが兼ねていた唯一の事例である。
会長に就任した頃から、将棋の普及活動に、ひときわ熱心に取り組むようになった<ref name="六章 会長就任と永世名人-五十歳以降の勝ち星がすごい!" />。{{Quotation|少なくとも名人でいる間は、大山は悪役だった。棋士の大半が好感を持っていなかった。しかし、五十歳を過ぎ、会長になってから人間が少し変わった。ファンに誠意を持って接し、サービスの限りを尽くした。晩年はファンからの大山の悪口を聞いたことがない。|[[河口俊彦]]<ref name="六章 会長就任と永世名人-五十歳以降の勝ち星がすごい!">{{Harvnb|河口|2003|pp=223-230|loc=6章-会長就任と永世名人-五十歳以降の勝ち星がすごい!}}</ref>}}
大山は、1978年(昭和53年)4月、55歳の時に、将棋普及のために[[青森県]][[上北郡]][[百石町]](現・[[おいらせ町]])を初めて訪れた<ref name="oirase-shogi">{{Cite web|和書|url=https://www.town.oirase.aomori.jp/site/shougi/oirasesyougirekisi.html|title=おいらせ町の将棋の歴史|accessdate=2017-07-05|date=|publisher=[[おいらせ町]]公式サイト|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170705132117/https://www.town.oirase.aomori.jp/site/shougi/oirasesyougirekisi.html|archivedate=2017-07-05}}</ref>。それ以来、大山は同町を繰り返し訪問し、「第二の故郷」と呼ぶほどの深い交流を持った<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanyonews.jp/article/583276|title=伊藤女流二段が2年連続4強入り 藤花戦挑戦者決定トーナメント|accessdate=2017-08-21|date=2017-08-20|publisher=[[山陽新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170821111538/http://www.sanyonews.jp/article/583276|archivedate=2017-08-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toonippo.co.jp/toosho/toosho2003/gyouseki.html|title=第56回東奥賞|accessdate=2019-1-2|date=|publisher=[[東奥日報]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170911084539/https://www.toonippo.co.jp/toosho/toosho2003/gyouseki.html|archivedate=2017-09-11|deadlinkdate=2019-1-2}}</ref>。
1989年(平成元年)には'''百石町[[名誉市民|名誉町民]]'''の称号を贈られ([[2005年]](平成17年)に「おいらせ町」が発足してからは<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.oirase.aomori.jp/soshiki/4/kinenshikiten.html|title=おいらせ町誕生10周年記念式典|accessdate=2017-07-05|date=2015-12-01|publisher=[[おいらせ町]]公式サイト|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170705132726/https://www.town.oirase.aomori.jp/soshiki/4/kinenshikiten.html|archivedate=2017-07-05}}</ref>、'''おいらせ町名誉町民'''<ref name="oirase-shogi" />{{Refnest|group= "注釈"|おいらせ町が発足した2005年に制定された「おいらせ町名誉町民条例」には、附則2として「この条例の施行の際、合併前の百石町名誉町民条例(昭和38年百石町条例第18号)の規定により名誉町民の称号を贈られた者は、この条例の規定により名誉町民の称号を贈られた者とみなす。」とある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.oirase.aomori.jp/reiki/reiki_honbun/r235RG00000564.html|title=おいらせ町名誉町民条例|accessdate=2017-07-05|date=2015-12-08|publisher=[[おいらせ町]]公式サイト|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141014015132/https://www.town.oirase.aomori.jp/reiki/reiki_honbun/r235RG00000564.html|archivedate=2014-10-14}}</ref>。よって、大山は、おいらせ町名誉町民である。}})、没後の[[2004年]](平成16年)には大山を顕彰する町立の施設「'''大山将棋記念館'''」が建てられている<ref name="oirase-shogi" />。
出身地である[[倉敷市]]からは、1953年(昭和28年)に'''倉敷市文化賞'''を<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kurashiki.okayama.jp/5699.htm|title=倉敷市文化章 これまでの受章者|accessdate=2017-08-24|date=|publisher=[[倉敷市]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170824025713/http://www.city.kurashiki.okayama.jp/5699.htm|archivedate=2017-08-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2009/10/post_229.html|title=有吉道夫九段が「平成21年度倉敷市文化章」を受章|accessdate=2017-08-24|date=2009-10-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170824025532/https://www.shogi.or.jp/news/2009/10/post_229.html|archivedate=2017-08-24}}</ref>、[[1970年]](昭和45年)に'''倉敷市[[名誉市民]]'''の称号を贈られ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kurashiki.okayama.jp/hisyo/87672/|title=倉敷市名誉市民|accessdate=2017-08-24|date=|publisher=[[倉敷市]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170824030820/http://www.city.kurashiki.okayama.jp/hisyo/87672/|archivedate=2017-08-24}}</ref>{{Refnest|group= "注釈"|47歳の若さで名誉市民になるのは全国的にも異例であり、棋士が名誉市民になるのは史上初であった<ref>{{Harvnb|大山|1992|pp=127-130|loc=名誉市民}}</ref>。}}、没後の1993年(平成5年)には「'''[[倉敷市芸文館|倉敷市大山名人記念館]]'''」が建てられ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pal.pref.okayama.jp/child/kanko/oyamameijin/index.html|title=倉敷市大山名人記念館(くらしきしおおやまめいじんきねんかん)|accessdate=2017-08-24|date=|publisher=[[岡山県]]生涯学習センター|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170824030440/http://www.pal.pref.okayama.jp/child/kanko/oyamameijin/index.html|archivedate=2017-08-24}}</ref>、同じく1993年に[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]の[[棋戦 (将棋)|タイトル戦]]として「[[大山名人杯倉敷藤花戦]]」(倉敷市ほか主催)が創設されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://kifulog.shogi.or.jp/kurashikitouka/2018/11/post-792e.html|title=倉敷藤花戦中継Blog: 歓迎会(1)|accessdate=2018-12-05T10:43:14Z|website=|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181124102717/http://kifulog.shogi.or.jp/kurashikitouka/2018/11/post-792e.html|archivedate=2018-11-24}}</ref>。
また、参加対象者を中国地方の小学生に限定して1995年(平成7年)より開始した「倉敷王将戦」は、後に参加対象者を西日本地区から全国の小学生にまで拡大、2012年(平成24年)からは「大山名人杯争奪全国小学生倉敷王将戦」の冠大会となっており、優勝経験者や上位入賞経験者からプロ棋士になった方も多数出している<ref>[https://www.city.kurashiki.okayama.jp/23684.htm 大山名人杯争奪全国小学生倉敷王将戦] - 倉敷市公式</ref>。
[[1990年]](平成2年)には、将棋界から初めて[[文化功労者]]に選ばれた。
このほかの大山の表彰・顕彰としては、次のようなものがある。
* [[1979年]] [[NHK放送文化賞]]
* [[1979年]] [[紫綬褒章]]
* [[1987年]] 第3回[[東京都文化賞]]
* [[1987年]] [[菊池寛賞]]
* [[1992年]] [[正四位]][[勲二等]][[瑞宝章]]
また、現役棋士としても、以下の賞を受賞している。
* [[1965年]] [[将棋栄誉賞]](通算600勝達成)
* [[1972年]] [[将棋栄誉敢闘賞]](通算800勝達成)
* [[1977年]] [[特別将棋栄誉賞]](通算1000勝達成)
* [[1982年]] 通算1200勝達成の表彰
=== 晩年期の闘い ===
晩年期の大山は、[[肝癌|肝臓がん]]と闘病しながら何度も復帰してA級順位戦を闘い、さらにはタイトル獲得に挑み続けた。[[還暦]]を過ぎた60歳で[[NHK杯テレビ将棋トーナメント]]で優勝し<ref name = nhk>『NHK杯 伝説の名勝負』</ref>、63歳となった[[1986年]](昭和61年)に名人戦で中原名人に挑戦し、平成元年度の[[1990年]](平成2年)には[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]で66歳にして[[南芳一]]棋王に挑戦した<ref group = "注釈">この棋王戦挑戦者決定トーナメントにおいて、19歳で[[竜王戦|竜王]]にあった[[羽生善治]]に勝っている。</ref>。この棋王挑戦は、タイトル挑戦の最高齢記録である(五番勝負は0-3で奪取ならず)<ref group = "注釈">このため[[谷川浩司]]は『NHK杯 伝説の名勝負』 p.88で、''「大山先生の60歳は晩年と言うイメージではなかった。」''と、その後の名人挑戦、棋王戦にも言及しつつ語っている。</ref>。
この年代になって、順位戦で降級の危機に瀕することはあった。「A級から落ちたら[[引退#将棋|引退]]する」という大山の決意はファンにも知れ渡っており注目を集めたが、A級の地位を維持した。1987年(昭和62年)度は、生涯最低の3勝6敗の成績ながらも、最終戦を待たずして残留が決定していた。1990年(平成2年)度は、最初に5連敗したが、その後4連勝して降級を免れた。
さらに1991年(平成3年)度(1992年(平成4年)3月まで)の順位戦(第50期)では、がん治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの[[谷川浩司]]四冠王(当時)を最終9回戦で破って、6勝3敗の4人での[[プレーオフ]]に持ち込んだ。プレーオフは[[トーナメント方式#パラマストーナメント(ステップラダー)|パラマストーナメント]]のため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要があったが、プレーオフ初戦の[[高橋道雄]]との対局で敗れ(勝勢になったが決め手を見逃して敗局)、これが大山がフル出場した最期の順位戦となった。
大山は最期まで現役を貫いた。没年となった[[1992年]](平成4年)度の[[第51期順位戦|順位戦]]も休場せず、A級1回戦で[[田中寅彦]]との対局(1992年6月11日)に臨んだ。その3日後、1992年6月14日に高松市「高松市民会館」で行われた[[将棋日本シリーズ#エピソード|第13回将棋日本シリーズ]]1回戦(公開対局)での[[小林健二 (将棋棋士)|小林健二]]との対局において勝利し(147手)<ref group="注釈">大山の死後、羽生善治との日本シリーズ2回戦の対戦予定(8月30日)は羽生の不戦勝扱いとなった。</ref>、公式戦通算成績を1433勝とした。これが大山の棋士人生最後の勝利となった。
1992年6月25日の[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]二次予選での[[中村修 (棋士)|中村修]]との対局(146手で中村の勝ち)が大山の生涯最期の公式戦対局となり、53年間余りの公式戦通算成績を1433勝781敗(勝率0.647)として棋士人生を終えた。それから1ヶ月後の7月26日、大山はA級の地位を守ったまま死去した<ref>[https://www.shogi.or.jp/player/pro/26.html 大山康晴|棋士データベース|日本将棋連盟]</ref>。A級在籍のまま死去した将棋棋士は[[山田道美]]に続き史上2人目であり、後に[[村山聖]]もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。大山が残した69歳4ヵ月のA級在籍記録は将棋史上最年長であり、現在も破られていない。
== 棋風 ==
{{Quotation|史上最強の棋士は誰かと聞かれれば、「大山康晴」と私は答えることにしている。実績において大山を破る者があるとすれば羽生善治だろうが、それでもまだ今後の活躍次第と言っていいだろう。|[[米長邦雄]](2012年没)の遺稿より|<ref name="米長 大山康晴(二)">{{Harvnb|米長|2013|pp=238-240|loc=大山康晴(二)}}</ref>{{Refnest|group= "注釈"|name=米長と大山|[[河口俊彦]]によると、米長邦雄は大山と気性が合わず、仲が良くなかったという<ref>{{Harvnb|河口|2003|pp=254-263|loc=7章-A級残留への執念-対米長戦}}</ref>。}}}}
[[米長邦雄]]は、大山の、終盤での強靭な粘り、最善手ではない、敢えて相手の悪手や疑問手を誘うよう手を指す逆転術を「終盤が二度ある」「二枚腰」と評した<ref>米長邦雄『逆転のテクニック—悪い将棋はこう指せ!』(日本将棋連盟、上巻、ISBN 978-4819701112)</ref>{{要ページ番号|date=2014-5}}。
同じく米長邦雄は、大山将棋の神髄は受けにあり、守りの要となる[[金将|金]]の使い方の巧みさでは並ぶ者がない、と評している<ref name="米長 大山康晴(二)" />。
大山が1992年に死去した後、[[藤井猛]]が大山の棋譜を徹底的に研究して[[藤井システム]]を創案し、それを駆使して1998年度に初タイトルとなる[[竜王戦|竜王]]を獲得した際に、藤井の将棋と大山の将棋が酷似していると感じた米長邦雄は、「嫌な者」(大山)が生き返ってきたかのようだ、という趣旨の発言をしたという([[河口俊彦]]による)<ref>{{Harvnb|河口|2003|pp=7-13|loc=序章-甦った大山将棋}}</ref><ref group= "注釈" name="米長と大山" />。
[[羽生善治]]は、大山の棋風について「読んでいないのに急所に手が行く」「最善手を追求しない」と評している<ref>『[[将棋世界]]』、2006年8月号</ref>{{要ページ番号|date=2017-8}}。大山との実戦では「まあこんなところだろう」という感じで手が伸びてくるのがピッタリ当たり、まさに名人芸という指しまわしであったと評している<ref>{{Harvnb|羽生|2005|p=|loc=}}</ref>{{要ページ番号|date=2017-8}}。
若い頃の大山は、その当時の主流であった矢倉や腰掛銀などの居飛車が多かったが、突如振り飛車党に転向、特に[[美濃囲い]]での[[四間飛車]]とツノ銀[[中飛車]]を好んで指した<ref group = "注釈">振り飛車は、当時のアマチュアには棒銀と並んで人気があった一方で、プロ棋界ではいきなり角道を止める振り飛車は受け身で消極的とされ、若手棋士が指すと年輩棋士から叱責を受けるほどだった。そのような風潮の中で、升田・大山の両巨匠が振り飛車党に転向したことは衝撃的なことだった。</ref>。この転向について、[[勝又清和]]は「ファンに喜ばれる将棋を指そうと考えたため」と説明しているが、大山の場合は多忙の中、兄弟子の[[大野源一]]から序盤がある程度決まっている(序盤の研究を省略できる)振り飛車を勧められたためとも言われている<ref>藤井猛・鈴木宏彦著『現代に生きる大山振り飛車』日本将棋連盟 2006年 p.142-143 </ref>。
しかしその一方で[[相振り飛車]]は極端に嫌っていて、相手が飛車を振った場合は必ず居飛車で指していた(大山が公式戦で相振り飛車を指した棋譜は1局しか残っていない)。
[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]は、大山が相振り飛車を嫌っていた理由として、当時の相振り飛車で一般的に使われていた[[金無双]]の右銀の使い方に苦心していたためではないかと話している。その根拠として、大山が最後に指した相振り飛車の対局では、大山は二枚金の形にはしたものの右銀は2八に上げずに3九に置いたまま戦い、最終的に終盤で取られてしまうまで3九から動かすことは無かった<ref>[[将棋ニュースプラス]]2007年8月3日配信分「将棋列伝」より</ref>。
相手の手番のときには、相手が盤上のどこを見て考えているか視線の方向を観察していた。
== 盤外戦 ==
[[File:Oyama Yasuharu and Takashima Kazukiyo.JPG|250px|thumb|[[高島一岐代]](右)とともに(1955年)]]
対局相手に無形の圧力を加えるなど、いわゆる「'''[[盤外戦]]'''」を駆使した面がしばしば強調される。
例えば有名な[[高野山]]の決戦である。A級1位だった升田が[[塚田正夫]]への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた[[毎日新聞社]]は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。[[朝日新聞社]]の嘱託棋士であった升田には<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=207‐209|loc=怨敵・木村との五番勝負―嘱託で朝日に再入社}}</ref>、対局の日程も場所も事前に通知がなく<ref name="悲憤忘られぬ高野山の決戦―この将棋は指すまい">{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=207‐209|loc=悲憤忘られぬ高野山の決戦―この将棋は指すまい}}</ref>、真冬の高野山に行く升田に同行者を出さないという冷遇をした<ref name="悲憤忘られぬ高野山の決戦―この将棋は指すまい" />。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたが、毎日新聞社は寒冷な高野山を選ぶなど、升田は対局する以前に大山側から強烈な盤外戦を喰らっていたという説もある。
一方、河口俊彦は、毎日新聞社が、朝日新聞社の嘱託棋士であった升田に悪意のある仕打ちをしていたというのは、升田の考えすぎであろう、という趣旨を述べている<ref>{{Harvnb|河口|2003|loc=|p=107}}</ref>。
1948年(昭和23年)の「高野山の決戦」の後の1953年(昭和28年)に毎日新聞社に入社し、長く観戦記者を務めた井口昭夫は、下記のように述べている<ref>{{Harvnb|井口|1992|p=|pp=48-68|loc=4‐高野山の対決}}</ref>。
*「B級1位を参画」という制度変更は、「順位戦の開始前」にされていたはずだ。(升田は知らなかったかもしれないが)順位戦が終わった段階での、制度変更は考えられない。なお「B級1位を参画」は七段時代の升田が、木村名人との五番勝負に勝った結果として「B級の逸材にも挑戦のチャンスを与えよう」という流れである。
*井口は、高野山での対局を毎日新聞社で担当した者に話を聞いた。当時は食糧難で対局場所を探すのも困難であり、食糧が十分確保されている高野山が対局場所として適所としてあげられた。なお、「途中は寒くても、寺に入ってしまえば防寒の用意は発達している」と高野山側の説明を受けていた。
*毎日側は升田に連絡しようとしたが、升田の所在がわからず困惑していた。朝日新聞側の担当者も、升田に連絡がつかないことを心配していた。
敗戦から3年を経た1948年、未だ日本の食糧事情は厳しく、「高野山の決戦」については、対局の前夜に供される[[すき焼き]]の材料は主催社の毎日新聞社が提供し、高野山滞在中に関係者が食べる白米(出典には「銀飯」とある)は高野山が提供し、左党の升田に欠かせない酒は後援者が提供した<ref name=":1">{{Cite journal ja-jp|author=小笠原輝|year=|title=連載コラム "将棋めし"いま、むかし - 【第6回】戦後混乱期の将棋めし|journal=[[将棋世界]]|serial=2019年5月号|publisher=[[日本将棋連盟]]|pages=176}}</ref>。食糧確保のための関係者の努力は多大なものであった<ref name=":1" />。
なお、大山の側も、朝日新聞社が名人戦を主催するようになって以降は相当の盤外の圧力を被っていたという説もある。升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰った、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も[[投了]]の瞬間を再現するよう迫ったという逸話が伝えられている<ref>{{Harvnb|河口|2003|loc=|pp=107‐108}}</ref>。これで奮起した大山は2期後に名人位を升田から取り戻し13期連続、通算18期名人位を獲得し、その後二度と終生のライバルであった升田にタイトルを譲ることはなかった。
== その他の棋類 ==
日本の古典将棋である[[中将棋]]の権威でもあり、さらには[[チェス]]でも日本チャンピオンになり、[[日中国交正常化]]の翌年[[1973年]]に日中象棋協会(後に日本シャンチー協会に改名)を設立して会長職を務めて[[シャンチー]](中国象棋)の普及にも努め、[[日中協会]]の役員<ref>{{Cite web|和書
| url = http://jcs.or.jp/kojin_member.html | title =一般社団法人 日中協会 (故人)役員
| publisher = [[日中協会]]
| accessdate = 2017-12-03
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20160226180951/http://jcs.or.jp/kojin_member.html
| archivedate =2016-02-26
}}</ref> にもなって日本将棋の[[中華人民共和国|中国]]への普及にも努めた<ref>[[鈴木宏彦]]著「将棋界の巨人 大山康晴忍の一手」226頁 将棋連盟文庫、2016年</ref>。
== 昇段履歴、永世称号襲名・襲位 ==
* [[1935年]]{{color|#FFF|{{00}}月{{00}}日}} : 入門
* [[1940年]]{{0}}[[1月1日|1月{{0}}1日]] : 四段
* [[1941年]]{{color|#FFF|{{00}}月{{00}}日}} : 五段
* [[1943年]]{{color|#FFF|{{00}}月{{00}}日}} : 六段(B級)
* [[1947年]]{{0}}[[5月10日]] : 七段
* [[1948年]]{{0}}[[4月1日|4月{{0}}1日]] : 八段(A級)
* [[1958年]]{{0}}[[4月17日]] : 九段(1954年時点での名人3期達成による)
* [[1973年]][[10月31日]] : 永世王将を名乗る(特例)
* [[1976年]][[11月17日]] : 十五世名人を襲位(特例、[[将棋の日]])
* [[1992年]]{{0}}[[7月26日]] : A級現役のまま逝去({{没年齢|1923|3|13|1992|7|26}})
== 主な成績 ==
===タイトル・永世称号===
登場・連覇の{{Color box|white|'''太字'''}}は歴代最多記録。
詳細は''[[大山康晴の戦績]]''を参照。他の棋士との比較は、[[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|タイトル獲得記録]]、[[将棋のタイトル在位者一覧]]を参照
{| border="1" class="wikitable" style="text-align:center;"
|- style="background-color: #ccf;"
|'''タイトル'''
|獲得年度
|登場
|'''獲得期数'''
|連覇
|永世称号(備考)
|-
|'''[[竜王戦|竜王]]'''
|-
|<!--登場-->0
|<!--獲得-->-
|<!--連覇-->-
|
|-
|'''[[名人戦 (将棋)|名人]]'''
|align="left"|1952 - 1956、1959 - 1971
|<!--登場-->'''25'''
|<!--獲得-->'''18期'''<br/>(歴代1位)
|<!--連覇-->'''13'''<br/>(歴代1位)
|align="left"|[[名人 (将棋)|十五世名人]]<br/>[[1976年]][[11月17日]]襲位
|-
|'''[[王位戦 (将棋)|王位]]'''
|align="left"|1960 - 1971
|<!--登場-->15
|<!--獲得-->'''12期'''<br/>(歴代2位)
|<!--連覇-->'''12'''<br/>(歴代1位)
|align="left"|永世王位
|-
|'''[[王座戦 (将棋)|王座]]'''
|-
|<!--登場-->0
|<!--獲得-->-
|<!--連覇-->-
|align="left"|一般棋戦時代の優勝9回
|-
|'''[[棋王戦 (将棋)|棋王]]'''
|-
|<!--登場-->2
|<!--獲得-->-
|<!--連覇-->-
|
|-
|'''[[王将戦|王将]]'''
|align="left"|1952 - 1954、1957 - 1961、<br/>1963 - 1971、1979 - 1981
|<!--登場-->'''26'''
|<!--獲得-->'''20期'''<br/>(歴代1位)
|<!--連覇-->'''9'''<br/>(歴代1位)
|align="left"|永世王将<br/>[[1973年]][[10月31日]]襲位
|-
|'''[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]'''
|align="left"|1962後 - 1965後、1966後、<br/>1970前、1974前 - 1977前
|<!--登場-->'''22'''
|<!--獲得-->'''16期'''<br/>(歴代1位タイ)
|<!--連覇-->7(2度)<br/>(歴代2位)
|align="left"|永世棋聖<br/>1965年付け
|- style="background-color: #ccf;"
|'''旧タイトル'''
|獲得年度
|登場
|'''獲得期数'''
|連覇
|永世称号(備考)
|-
|'''[[十段戦 (将棋)|九段]]'''
|align="left"|1950 - 1951、1958 - 1961
|<!--登場-->'''8'''
|<!--獲得-->'''6期'''<br/>(歴代1位)
|<!--連覇-->'''4'''<br/>(歴代1位タイ)
|
|-
|'''[[十段戦 (将棋)|十段]]'''
|align="left"|1962 - 1967、1969、1973
|<!--登場-->14
|<!--獲得-->'''8期<br />'''(歴代2位)
|<!--連覇-->'''6'''<br/>(歴代1位タイ)
|align="left"|永世十段<br/>1988年付け
|-
|colspan="6"|登場回数合計112、 獲得合計'''80期''' ([[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|歴代2位]])
|-
|}
{|
|{{将棋タイトル獲得記録}}
|}
=== 一般棋戦優勝 ===
* [[王座戦 (将棋)|王座戦]] 9回(1953 - 1955、1959、1964、1966、1968、1980 - 1981年度)
* [[NHK杯テレビ将棋トーナメント]] 8回 = 歴代2位(1954 - 1955、1961、1964、1970、1972、1979、1983年度)
* [[十段戦 (将棋)#全日本選手権戦|全日本選手権戦]](名人九段五番勝負) 4回(1950 - 1951、1953、1955年度)
* [[名人A級勝抜戦]]5勝以上 4回(1952後期=6連勝、1954後期=5連勝、1956前期=7連勝、1958前期=7連勝)<ref name=":0">{{Cite journal ja-jp|author=|year=|title=|journal=将棋世界|serial=1955年5月号|publisher=日本将棋連盟|naid=|pages=68}}</ref>
* [[早指し王位決定戦]] 4回 = 歴代1位(1954 - 1957年度)
* [[日本将棋連盟杯争奪戦]] 4回 = 歴代1位(1972、1975、1978 - 1979年度)
* [[早指し将棋選手権]] 4回 = 歴代1位タイ(1973年度前期、1974年度前期、1975年度後期、1976年度後期)
* [[東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦]] 2回 = 歴代1位タイ(1960 - 1961年度)
* [[全八段戦]] 1回(1952年度)
* [[産経杯争奪トーナメント]] 1回(1953年度)
* [[名将戦]] 1回(1979年度)
* [[JT将棋日本シリーズ]] 1回(1982年度)
* [[オールスター勝ち抜き戦]]5勝以上 1回(1985年度=5連勝)
合計44回(歴代2位)
この他、東西対抗勝継戦5勝以上 1回(1955(第4回))がある。本棋戦は本来は名人の参加しない一般棋戦だが、この年は「特別模範勝抜戦」と題して名人の大山が特別に参加した。この優勝相当成績は日本将棋連盟の公式の一般棋戦優勝回数には含まれていない。
=== 将棋大賞 ===
* 第1回(1973年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞
* 第2回(1974年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞
* 第3回(1975年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞
* 第4回(1976年度) 連勝賞
* 第7回(1979年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞(いずれも最年長記録、56歳)
* 第13回(1985年度) 特別賞
* 第19回(1991年度) 特別賞
* 第20回(1992年度) 東京将棋記者会賞
=== 主な記録 ===
生涯成績 1433勝781敗 勝率0.647
* 通算勝数:1433勝(歴代2位)
* 通算優勝回数:124回(歴代2位、タイトル戦80・一般棋戦44・非公式戦0)
* 通算公式戦優勝回数:124回(歴代2位、タイトル戦80・一般棋戦44)
* タイトル戦獲得:通算80期(歴代2位)
* 登場タイトル戦連続獲得:連続19期(歴代1位タイ、1963年度[[第17期順位戦#第22期名人戦七番勝負|名人戦]] - 1966年度[[第20期順位戦#第27期名人戦七番勝負|名人戦]] / [[第8期棋聖戦_(将棋)|第8期棋聖戦]]での失冠で連続記録途絶)<ref name="大山19期連続">大山康晴による「全(登場)タイトル戦連続獲得記録」(19期)の内訳は、{{リスト|1963年度の6棋戦([[第17期順位戦#第22期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第2期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(前期)]]、[[第4期王位戦|王位戦]]、[[第2期十段戦 (将棋)|十段戦]]、[[第3期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(後期)]]、[[第13期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1964年度の6棋戦([[第18期順位戦#第23期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第4期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(前期)]]、[[第5期王位戦|王位戦]]、[[第3期十段戦 (将棋)|十段戦]]、[[第5期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(後期)]]、[[第14期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1965年度の6棋戦([[第19期順位戦#第24期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第6期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(前期)]]、[[第5期王位戦|王位戦]]、[[第4期十段戦 (将棋)|十段戦]]、[[第7期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(後期)]]、[[第15期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1966年度 [[第20期順位戦#第25期名人戦七番勝負|名人戦]](全6棋戦中1棋戦)}}まで。大山の記録は「'''登場タイトル戦'''連続獲得19期」および「'''全タイトル戦'''連続獲得19期」で成立。</ref>
* 全タイトル戦連続獲得:連続19期(歴代1位、同上)<ref name="大山19期連続"/>
* 全タイトル戦連続登場:連続50回(歴代1位、1957年度[[第11期順位戦#第16期名人戦七番勝負|名人戦]] - 1967年度[[第6期十段戦 (将棋)|十段戦]] / [[第11期棋聖戦_(将棋)|第11期棋聖戦]]の本戦敗退で連続記録途絶)<ref name="大山50期連続">大山康晴によるタイトル戦連続登場記録(50期)の内訳は、{{リスト|1957年度の3棋戦([[第11期順位戦#第16期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第8期九段戦|九段戦]]、[[第7期王将戦|王将戦]]の全3棋戦)、|1958年度の3棋戦([[第12期順位戦#第17期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第9期九段戦|九段戦]]、[[第8期王将戦|王将戦]]の全3棋戦)、|1959年度の3棋戦([[第13期順位戦#第18期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第10期九段戦|九段戦]]、[[第9期王将戦|王将戦]]の全3棋戦)、|1960年度の4棋戦([[第14期順位戦#第19期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第1期王位戦|王位戦]]、[[第11期九段戦|九段戦]]、[[第10期王将戦|王将戦]]の全3棋戦)、|1961年度の4棋戦([[第15期順位戦#第20期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第2期王位戦|王位戦]]、[[第12期九段戦|九段戦]]、[[第11期王将戦|王将戦]]の全4棋戦)、|1962年度の5棋戦([[第16期順位戦#第21期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第3期王位戦|王位戦]]、[[第1期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[第1期棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]、[[第12期王将戦|王将戦]]の全5棋戦)、|1963年度の6棋戦([[第17期順位戦#第22期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第4期王位戦|王位戦]]、[[第2期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]<[[第2期棋聖戦_(将棋)|前期]]/[[第3期棋聖戦_(将棋)|後期]]>、[[第13期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1964年度の6棋戦([[第18期順位戦#第23期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第5期王位戦|王位戦]]、[[第3期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]<[[第4期棋聖戦_(将棋)|前期]]/[[第5期棋聖戦_(将棋)|後期]]>、[[第14期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1965年度の6棋戦([[第19期順位戦#第24期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第6期王位戦|王位戦]]、[[第4期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]<[[第6期棋聖戦_(将棋)|前期]] / [[第7期棋聖戦_(将棋)|後期]]>、[[第15期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1966年度の6棋戦([[第20期順位戦#第25期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第7期王位戦|王位戦]]、[[第5期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]<[[第8期棋聖戦_(将棋)|前期]] / [[第9期棋聖戦_(将棋)|後期]]>、[[第16期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1967年度の4棋戦([[第21期順位戦#第26期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第10期棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]、[[第8期王位戦|王位戦]]、[[第6期十段戦_(将棋)|十段戦]]の全6棋戦中4棋戦)}}まで。</ref><!---51回ではありません。1956年度王将戦は同年度九段戦(2 - 4月、大山登場せず)より前なので、起算は1956年度王将戦ではなく1957年度名人戦になります。by Jbg --->
*名人在位:通算18期(歴代1位)
*名人連続在位:連続13期(歴代1位、[[第13期順位戦#第18期名人戦七番勝負|第18期]] - [[第25期順位戦#第30期名人戦七番勝負|第30期]])
* [[十段戦 (将棋)|十段]]位在位(九段戦含む):通算14期(歴代1位)
* [[十段戦 (将棋)|十段]]位連続在位(九段戦含む):連続14期(歴代1位、[[第9期九段戦]] - [[第12期九段戦]] - [[第1期十段戦 (将棋)|第1期十段戦]] - [[第6期十段戦 (将棋)|第6期十段戦]])
* 同一タイトル戦連覇:連続13期(歴代2位、[[名人戦 (将棋)|名人戦]] / [[第13期順位戦#第18期名人戦七番勝負|第18期]] - [[第25期順位戦#第30期名人戦七番勝負|第30期]])
* 同一タイトル戦連続登場:連続21期(歴代2位{{=}}2度、名人戦 / [[第6期順位戦#第11期名人戦七番勝負|第11期]] - [[第26期順位戦#第31期名人戦七番勝負|第31期]]、[[王将戦]] / [[第2期王将戦|第2期]] - [[第22期王将戦|第22期]])
* タイトル戦最年長奪取:56歳11か月(歴代1位、[[第29期王将戦]])
* タイトル戦最年長防衛:59歳{{0}}0か月(歴代1位、[[第31期王将戦]])
* タイトル戦最年長失冠:59歳11か月(歴代1位、[[第32期王将戦]])
* タイトル戦最年長挑戦:66歳11か月(歴代1位、[[第15期棋王戦]])
* 名人最年長防衛:48歳{{0}}3か月(歴代1位、[[第25期順位戦#第30期名人戦七番勝負|第30期名人戦]])
* 名人最年長挑戦:63歳{{0}}2か月(歴代1位、[[第44期順位戦#第44期名人戦七番勝負|第44期名人戦]])
* [[順位戦]]A級在籍(名人在位含む):連続44期 / 連続45年(歴代1位、[[第3期順位戦]] - [[第30期順位戦]] / [[第36期順位戦]] - [[第51期順位戦]])
* 最年長A級:69歳{{0}}4か月(歴代1位、[[第51期順位戦]] A級在籍のまま死去)
=== 主な対戦相手との勝敗 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!対戦相手!!対局!!勝!!敗!!タイトル戦
|-
|[[土居市太郎]]||{{00}}2||{{00}}2||{{00}}0||
|-
|[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]||{{0}}27||{{0}}16||{{0}}11||獲得{{0}}1 敗退{{0}}1
|-
|[[塚田正夫]]||{{0}}75||{{0}}45||{{0}}30||獲得{{0}}2 敗退{{0}}2
|-
|[[升田幸三]]||167||{{0}}96||{{0}}70||獲得15 敗退{{0}}5
|-
|[[花村元司]]||{{0}}52||{{0}}43||{{00}}9||獲得{{0}}2 敗退{{0}}0
|-
|[[丸田祐三]]||{{0}}69||{{0}}45||{{0}}24||獲得{{0}}3 敗退{{0}}0
|-
|[[二上達也]]||162||116||{{0}}45||獲得18 敗退{{0}}2
|-
|[[加藤一二三]]||125||{{0}}78||{{0}}47||獲得{{0}}7 敗退{{0}}1
|-
|[[有吉道夫]]||{{0}}69||{{0}}40||{{0}}29||獲得{{0}}4 敗退{{0}}0
|-
|[[内藤國雄]]||{{0}}68||{{0}}50||{{0}}18||獲得{{0}}3 敗退{{0}}1
|-
|[[米長邦雄]]||104||{{0}}58||{{0}}46||獲得{{0}}4 敗退{{0}}2
|-
|[[中原誠]]||162||{{0}}55||107||獲得{{0}}4 敗退16
|-
|[[谷川浩司]]||{{0}}22||{{00}}6||{{0}}16||
|-
|[[羽生善治]]||{{00}}9||{{00}}3||{{00}}6||
|-
|[[佐藤康光]]||{{00}}2||{{00}}1||{{00}}1||
|-
|[[森内俊之]]||{{00}}2||{{00}}1||{{00}}1||
|}
※升田と二上の対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。
※有吉、米長、谷川、羽生の対局数と敗数は、大山の死去に伴う不戦敗扱いを各1局ずつ含む。
=== 在籍クラス ===
{{将棋棋士年別在籍クラスA}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1946|JJ=1|j=#|#=六・七段戦2位|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1947|JJ=2|j=#|#={{colorbox||B級3位}}|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1948|JJ=3|j=A|#=03|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1949|JJ=4|j=A|#=02|CJ=1|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1950|JJ=5|j=A|#=01|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1951|JJ=6|j=A|#=02|CJ=1|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1952|JJ=7|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1953|JJ=8|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
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{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1966|JJ=21|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
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{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1968|JJ=23|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1969|JJ=24|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1970|JJ=25|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1971|JJ=26|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1972|JJ=27|j=A|#=01|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1973|JJ=28|j=A|#=02|CJ=1|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1974|JJ=29|j=A|#=01|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1975|JJ=30|j=A|#=02|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=0|JJ=|j=#|#=第30期の翌期は第36期/31-35期は回次省略}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=36|j=A|#=02|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1978|JJ=37|j=A|#=04|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1979|JJ=38|j=A|#=03|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1980|JJ=39|j=A|#=02|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1981|JJ=40|j=A|#=04|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1982|JJ=41|j=A|#=05|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1983|JJ=42|j=A|#=05|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1984|JJ=43|j=A|#=03|RR=|r=##|##={{align|left|([[第43期順位戦]]は休場)}}}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1985|JJ=44|j=A|#=11|CJ=1|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1986|JJ=45|j=A|#=01|RR=|r=##|##=棋戦創設前}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1987|JJ=46|j=A|#=04|RR=1|r=1}}
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== 人物 ==
* 大の[[麻雀]]好き。タイトル戦を戦っている最中にも控室に顔を出し、その場にいる棋士や[[観戦記者]]達に「早く仕事(=麻雀)をしなさい」と場を立てさせようとするほどで、2日制のタイトル戦では毎夜雀卓を囲むことが珍しくなかった<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2016/09/29/ooyama-18/ 大山康晴十五世名人「盤を出して調べるような暇はない」] - 将棋ペンクラブログ・2016年9月29日</ref>。そのため[[立会人]]を務める棋士についても「麻雀を打てる人にして欲しい」とリクエストしていたほどで、時には[[封じ手]]の時間を「みなし長考」扱いにして繰り上げてまで麻雀を打ったこともあるという<ref name=tamaru>[http://tamarunoboru.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-71df.html 全盛時代の大山康晴十五世名人はタイトル戦の対局が麻雀旅行] - 田丸昇のと金横歩き・2009年11月9日</ref>。[[田丸昇]]はこれらの行動について「対局場を仕切って自分のペースにするのも戦略だと思っていた。麻雀はその小道具だった。ひとつの盤外戦術といえる」と分析している<ref name=tamaru />。
* 「[[ゴルフ]]を初めてやった大山は、「こんな面白いものが将棋に悪くないはずがない」と言ってきっぱりやめてしまった」と伝えられることも多いが、実際はゴルフもある程度、熱心にたしなんだ後に、「将棋によくない」ときっぱりやめた<ref>[[井口昭夫]]『名人の譜』(日本将棋連盟)P.139</ref> とされる。しかし河口俊彦『大山康晴の晩節』によると、晩年の大山は「健康のためのゴルフ」を熱心に行っていた。
* 大山は健啖家だったが、酒は好きではなかった。大山の盟友であった[[丸田祐三]]も酒を嗜まなかった。
* 持っていたタイトルを全部失って途方に暮れていたとき、無性に[[横溝正史]]に会いたくなり、一升ビンを持って正月早々に横溝家に押しかけたことがある<ref name="人生の師">{{Cite book|和書| editor = [[水谷隼]] | title = 横溝正史追憶集 | quote = 盤外、人生の師 大山康晴 | pages= 61-64 | publisher = 横溝孝子 | date = 1982-12}}</ref>。社交性がなく、仕事以外で他人と酒を酌み交わした覚えがないと自認する大山は、「この様な事は、横溝正史先生以外の人にした事がない」と記している<ref name="人生の師"/>。
* 妻・(旧姓:中山)昌子の実家がある[[吉備郡]]岡田村(現・[[倉敷市]][[真備町]]岡田)に[[横溝正史疎開宅|疎開していた]]横溝正史は、たまたま昌子との見合いに来ていた大山を見かけ、東京に戻ってから「まあちゃんのお婿さん」というエッセイを[[時事新報]]に載せたところ、それを読んだ大山夫妻が横溝家を訪ねてきて以来、両家の親交が続くこととなった<ref>{{Cite book|和書| author = [[横溝正史]] | title = 金田一耕助のモノローグ | pages=106-109 | publisher = [[角川書店]] | series = [[角川文庫]] | date = 1993-11-10}}</ref>。
* 食べ物では「嫌いなものは特にない」一方で「辛いものが好き」。[[カレーライス]]では30倍カレーを普通に平らげるほど辛さに強く、同じく激辛好きの[[林葉直子]]と意気投合することが多かった<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2013/10/22/%e6%9e%97%e8%91%89%e7%9b%b4%e5%ad%90%e5%a5%b3%e6%b5%81%e5%90%8d%e4%ba%ba%e3%83%bb%e7%8e%8b%e5%b0%86%ef%bc%88%e5%bd%93%e6%99%82%ef%bc%89%e3%80%8c%e5%a4%a7%e5%b1%b1%e5%85%88%e7%94%9f%e3%81%a3%e3%81%a6/ 林葉直子女流名人・王将(当時)「大山先生ってば、ほんとうに可愛いんだわ」] - 将棋ペンクラブログ・2013年10月22日</ref>。
* [[NHK杯テレビ将棋トーナメント]]や[[テレビ将棋対局]]では、非常にわかりやすい解説に定評があった。
* 自宅最寄り駅の[[荻窪駅]]から自宅へ帰る途中や将棋会館最寄り駅の[[千駄ケ谷駅]]から将棋会館へ歩いて向かう途中、人に追い越されると悔しくて抜き返したという。
* 升田とは兄弟弟子でありながら、お互いにトップ棋士となった頃には、上記の通り盤外戦でも嫌がらせの応酬に終始したと伝えられる。1970年代には関係が修復され、1974年には[[将棋会館]]建設を巡り日本将棋連盟執行部の退陣を求め共闘したほか、同年の[[日本棋院]]主催の囲碁団体戦では共に「日本将棋連盟チーム」の一員として参加するなど一時蜜月関係となるが、1976年の名人戦の主催者移行(朝日→毎日)を巡り再び対立し関係が悪化するなど、その仲は二転三転した<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/859686 羽生善治「大山康晴先生は晩年も迫力と強さが」と感服、69歳死去直前の名人戦PO進出…竜王・谷川浩司戦での“大山将棋の神髄”とは] - NumberWeb・2023年11月29日</ref>。ただ升田が逝去したときには真っ先に駆け付け、「面会謝絶」と留められるのを振り切って死に顔に面会した。
== その他 ==
* 1968年に[[ビクターレコード]]よりリリースされた[[三沢あけみ]]の楽曲「勝負」を作詞した。
* [[河口俊彦]]が大山の人物像を描いた「大山康晴の晩節」は、第15回(2002年度)[[将棋ペンクラブ大賞]]を受賞している。
* 河口俊彦によると、大山に禁煙を勧められた河口が「(やめた方がいいのは)わかってはいるんですけどねえ」と答えると、「わかっているのに実行しないとは信じられない」というような目で見られたという。
* [[藤井猛]]九段は『大山康晴全集』の全棋譜を並べるほど熱心に大山将棋を学んだという。このため、藤井の指し手には大山将棋の影響が表れていると言われる。
* [[坂口安吾]]の小説『九段』には、若き大山九段のウヌボレ屋な一面と、坂口安吾との偶然の縁が描かれている。
* [[バトルロイヤル風間]]の将棋[[4コマ漫画]]にも初期にはよく登場し、将棋と全然関係ないシーンで大山が「ワシにまかせろ!」なる怒号と共に出てきて、強引に片付けてしまうのが定番のギャグだった。風間によると「ネタに詰まるとすぐ大山」だったとの事で、これが縁で大山と風間の対談も実現している。対談は漫画にされ将棋マガジンに掲載された。風間は「大山は将棋しか考えない鉄人だった」と語っている。この時、国会議員に立候補しないのかと風間が聞いたところ、大山は「たとえなっても歩にすぎないので馬鹿馬鹿しい。王将にだったらなるが」という意味の返答をした。<!-- なおその後は「ネタに詰まるとすぐ[[羽生善治]]」になったと言う。 -->
* 55年組の強豪の[[南芳一]]九段は、かつて「リトル大山」の異名を取った。
* [[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]は、その風貌、終盤の強さや逆転術などから、四段時代より「大山の再来」といわれてきた。
* [[コンピュータ将棋]]については、まだ本将棋を指せず、[[詰将棋]]プログラムが先行して研究されていた頃から反対していた。「人間が負けるに決まってるじゃないか」<ref>[[東公平]]『升田式石田流の時代』[[河出書房新社]]、2000年9月25日初版、102頁</ref> というのがその理由である。また、「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」が口癖だった<ref>[https://news.nicovideo.jp/watch/nw579724 第2回将棋電王戦 第3局 電王戦記(筆者:大崎善生) 2013年4月11日(木)22時40分配信] - [[ニコニコニュース]] [[大崎善生]]</ref>。大山の生前はコンピュータ将棋はプロの棋力には遠かったが、[[2013年]]の[[将棋電王戦|第2回将棋電王戦]]で、初めて公にプロ棋士がコンピュータに敗れた。
* コンピュータ将棋『[[森田将棋|早指し 二段森田将棋]]』の題字は大山の筆である。発売されたのは、大山の死後である[[1993年]][[6月18日]]だった。
== 主な出演 ==
=== CM ===
* [[多胡本家酒造場]] - 『加茂五葉(かもいつは)』([[昭和40年代]]:[[岡山県]]ローカル。地方[[ローカル局]]([[RSK山陽放送|山陽放送]])のみ)
: (※当時、同時期のCMで[[俳優]]・[[長門勇]]の「『[[辻本店|御前酒]]』(加茂五葉同様、岡山県の[[地酒]])飲まにゃあ、ええ酒じゃ」が流れていたので、それに対抗して大山名人曰く「酒は断然!『加茂五葉』ですね」が決まり文句だった)
* [[ライオン (企業)|ライオン]] - 『[[エメロン]]石鹸』([[1974年]]:ACC CMフェスティバル 第14回テレビフィルムCM部門秀作賞)
* [[毎日新聞]](1979年)
* [[箱根湯本温泉]]『[[天成園]]』([[1980年代]])
== 主な著書 ==
* 『将棋・勝つ受け方』(1984年6月、[[池田書店]]、ISBN 4-262-10263-7)
* 『大山流勝負哲学』(1985年4月、産能大学出版局、ISBN 4-382-04856-7)
* 『四間飛車のポイント 大山流振飛車の真髄』(1987年6月、[[日本将棋連盟]]、ISBN 4-8197-0116-9)
* 『背水の陣で生きる―ガンを克服した63歳の挑戦者』(1986年7月、[[光文社]]カッパ・ホームス、ISBN 4-334-05129-4)
* 『昭和将棋史』(1988年1月、[[岩波新書]]、ISBN 4-00-430007-X)
* 『大山康晴全集』(1991年5月、[[毎日コミュニケーションズ]]、ISBN 978-4-89563-546-2)
** 第1巻 五冠王まで(昭和11年 - 37年)
** 第2巻 無敵時代(昭和38年 - 46年)
** 第3巻 記録への挑戦(昭和47年 - 平成3年)
* 『棋風堂堂―将棋と歩んだ六十九年間の軌跡』([[天狗太郎]]編集、1992年10月、[[PHP研究所]])
*新版『大山康晴 人生に勝つ』(1999年12月、[[日本図書センター]]、ISBN 4-8205-5767-X)
*新版『勝負のこころ』(2009年2月、PHP研究所)
*新版『不動心論 あるがままに身を置いて心ゆるがず』(2017年6月、[[ロングセラーズ]]、ISBN 4-8454-5024-0)
== 弟子 ==
===棋士===
{| class="wikitable"
|-
! 名前 !! 四段昇段日!!段位、主な活躍
|-
| [[市川伸]] || 1954年
|五段
|-
| [[有吉道夫]] || 1955年5月15日
|九段、棋聖1期、一般棋戦優勝9回、A級在籍21期
|-
| [[中田功]] || 1986年4月30日
|八段
|-
| [[行方尚史]] || 1993年10月1日
|九段、タイトル挑戦2回、一般棋戦優勝2回、A級在籍6期
|}
(2019年11月14日現在)
*市川は1967年に将棋連盟を退会<ref>{{Cite book|和書|title=将棋年鑑 昭和43年版 |chapter=43年の引退棋士 |page=293 |publisher=日本将棋連盟 |year=1968}}「''五段 市川 伸''……''24年大山名人の門に入り''……''42年一身上の都合により退会''」とある。</ref>。
*有吉は大山とのタイトル戦で4度の「師弟対決」。大山・有吉以外で、タイトル戦の師弟対決は起きていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/36372?page=2|title=将棋界の「師弟戦」はなぜ尊いのか、そのドラマを振り返る|publisher=文春オンライン|date=2020-2-29|accessdate=2021-12-07}}</ref>。
*中田の弟子・大山の孫弟子に当たる[[佐藤天彦]]が実力制第十三代の名人となり、3期在位。名人の孫弟子が名人になったのは初めて<ref>「大山将棋 強さの秘密 —— 一門現役棋士が分析——」『将棋世界』(2016年10月号)、日本将棋連盟pp.114</ref>。
*行方は大山死去後の1993年にプロ四段昇段。名人戦挑戦1回。
*有吉の門下として、[[坪内利幸]](1970年プロデビュー)、[[有森浩三]](1983年プロデビュー)がいる。この2人は大山の孫弟子にあたるが、いずれも大山が現役中にプロ入りを果たしているため、大山は「自身が現役中に孫弟子がプロデビュー」という珍しい快挙を達成したことになる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group = "注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書 |last=井口 |first=昭夫 |authorlink= |year=1992 |title=名人の譜-大山康晴 |volume= |publisher=日本将棋連盟}}
* {{Citation |和書 |last=大山 |first=康晴 |authorlink= |year=1992 |title=棋風堂々-将棋と歩んだ六十九年間の軌跡 |volume= |publisher=PHP研究所}}
* {{Citation |和書 |last=河口 |first=俊彦 |authorlink=河口俊彦 |year=2003 |title=大山康晴の晩節 |volume= |publisher=飛鳥新社}}新潮文庫、ちくま文庫で再刊
* {{Citation |和書 |last=河口 |first=俊彦 |authorlink= |year=2013 |title=最後の握手-昭和を創った15人のプロ棋士 |volume= |publisher=マイナビ}}
* {{Citation |editor=週刊将棋| title = 役に立つ将棋の格言99 | year = 2004 | publisher = [[毎日コミュニケーションズ]]}}
* {{Citation | title = NHK杯伝説の名勝負 次の一手 | series = NHK将棋シリーズ | year = 2013 | editor = NHK出版 | publisher = NHK出版 | author = [[内藤國雄]]、[[加藤一二三]]、[[谷川浩司]]、[[羽生善治]]、[[森内俊之]]、[[佐藤康光]]、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]] (監修)}}
* {{Citation |和書 |last=中山 |first=典之 |authorlink=中山典之 |year=2003 |title=完本-実録囲碁講談 |volume= |publisher=岩波現代文庫}}
* 『平凡は妙手にまさる―大山康晴名言集』(永井英明著、1993年2月、[[佼成出版社]]、ISBN 4-333-01627-4)
* {{Citation |和書 |last=秦 |first=郁彦 編著 |authorlink=秦郁彦 |year=2005 |title=日本陸海軍総合事典 |edition=第2 |publisher=東京大学出版会}}
* {{Citation|和書 |title=決断力|year=2005|last=羽生|first=善治|authorlink=羽生善治|pages=|edition=|publisher=角川書店(角川oneテーマ21新書)}}
* 『現代に生きる大山振り飛車』([[藤井猛]]・[[鈴木宏彦]]著、2006年12月、日本将棋連盟、ISBN 978-4-8197-0232-4)
* {{Citation |和書 |last=升田 |first=幸三 |authorlink=升田幸三 |year=2003 |title=名人に香車を引いた男 升田幸三自伝 |edition= |publisher=中公文庫 |isbn=}}
* {{Citation |和書 |last=米長 |first=邦雄 |authorlink=米長邦雄 |year=2013 |title=将棋の天才たち |edition= |publisher=講談社}}
== 関連項目 ==
* [[将棋棋士一覧]]
* [[名人 (将棋)]]
* [[棋戦 (将棋)]]
* [[将棋のタイトル在位者一覧]]
* [[大山康晴の戦績]]
* [[棋風]]
* [[文化功労者の一覧]]
* [[岡山県出身の人物一覧]]
* [[大山康晴賞]] - 日本将棋連盟が、将棋の普及や文化の振興のため貢献した個人・団体に与える賞。大山の死去した翌々年、1994年(平成6年)に第1回が授与された。
* 岡山県[[倉敷市]] - 名誉市民、「[[倉敷市芸文館|倉敷市大山名人記念館]]」がある。
* [[大山名人杯倉敷藤花戦]] - 大山の功績を讃えるために創設された女流タイトル戦。
* 青森県上北郡[[おいらせ町]] - 名誉町民、「大山将棋記念館」がある。
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/player/pro/26.html 大山康晴|棋士データベース|日本将棋連盟]
* [https://web.archive.org/web/20040820074957/http://www.city.kurashiki.okayama.jp/koho/meiyosimin/ooyamameijin/meijin.htm 名誉市民シリーズ(6) 大山康晴](倉敷市)
* [https://arsk.jp/oyama/ 倉敷市立大山名人記念館]
* [https://momo-oirase.jp/oyama-shogi/ 大山将棋記念館]
*{{NHK人物録|D0009072163_00000}}
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{{将棋永世名人|十五世}}
{{日本将棋連盟会長|1977-88}}
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化学に関する記事の一覧
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カーバイド - カーボランダム - カーボンナノチューブ - カーボンナノホーン - カーボンファイバー - カーボン60 - ポール・カーラー - リチャード・カーワン - ヨハン・ゴットリーブ・ガーン - カーン・インゴルド・プレローグ順位則 - 開環重合 - 海人草 - 回転準位 - 回転状態 - 回転数 - 回転遷移 - 回転速度 - 解糖 - 解糖系 - カイニン酸 - カイニンソウ - 界面 - 界面化学 - 界面活性剤 - 界面活性作用 - 界面準位 - カイモトリプシン - 海洋汚染 - 海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律 - 海洋化学 - 解離 (化学) - ガウス基底 - 過塩素酸 - 過塩素酸アンモニウム - 過塩素酸カリウム - 過塩素酸ナトリウム - カオトロピック - カオトロピック剤 - カオリナイト - 化学 - 化学エネルギー - 化学オリンピック - 化学気相蒸着 - 化学気相蒸着法 - 化学気相成長 - 化学気相成長法 - 化学グランプリ - 化学結合 - 化学元素 - 化学元素発見の年表 - 化学工学 - 化学工学会 - 化学工業 - 化学合成 - 化学式 - 化学式量 - 化学システム工学 - 化学シフト - 化学者 - 化学者の一覧 - 化学責任者 - 化学接頭辞・接尾辞一覧 - 化学繊維 - 化学データベース - 化学的酸素要求量 - 化学電池 - 化学動力学 - 化学当量 - 化学に関する記事の一覧 - 化学の分野一覧 - 化学発光 - 化学反応 - 化学反応式 - 化学反応の一覧 - 化学反応論 - 化学戦(英語版) - 化学品 - 化学品の分類および表示に関する国際調和システム - 化学品の分類および表示に関する世界調和システム - 化学品の分類と表示に関する国際調和 - 化学品の分類と表示に関する世界調和システム - 化学物質 - 化学物質安全性データシート - 化学物質関連法規の一覧 - 化学物質審査規制法 - 化学物質等安全データシート - 化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律 - 化学物質排出把握管理促進法 - 化学分解 - 化学分析技能士 - 化学兵器禁止条約 - 化学平衡 - 化学変化 - 化学防御 - 化学ポテンシャル - 化学略語一覧 - 化学量論 - 化管法 - 可逆 - 可逆反応 - 架橋 - 核外電子 - 核化学 - 核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律 - 核構造物理学 - 過臭素酸 - 核酸 - 拡散 - 核酸塩基 - 拡散モンテカルロ法 - 核子 - 核磁気共鳴 - 核磁気共鳴分光法 - 核種 - 核スピン異性体 - 角閃石 - 拡張周期表 - 核燃料取扱主任者 - 核燃料物質等取扱業務従事者 - 攪拌 - 撹拌 - 攪拌子 - 核反応 - 陰イオン - 懸濁液 - 化合 - 化合物 - 化合物一覧 - カコジル - 過酢酸 - 加里 - 過酸 - 過酸化アセトン - 過酸化アセトン製造法 - 過酸化カリウム - 過酸化カルシウム - 過酸化脂質 - 過酸化水素 - 過酸化水素水 - 過酸化ナトリウム - 過酸化バリウム - 過酸化物 - 過酸化ベンゾイル - 過酸化マグネシウム - 過酸化リチウム - 可視 - カジキ - 可視光 - 可視光線 - カシュー - 過剰摂取 - 化審法 - 加水分解 - ガス遠心分離装置 - ガスクロマトグラフ - ガスクロマトグラフィー - ガス定数 - ガス電子増幅器 - カスパーゼ - ガスバーナー - 苛性カリ - カセイソーダ - 苛性ソーダ - か性ソーダ - カゼイン - 過石 - 仮想結晶近似 - カソード - 可塑剤 - カタ - カタール (単位) - カダベリン - カタラーゼ - 過炭酸ナトリウム - カチオン - カチオン重合 - 香月・シャープレス酸化 - 香月・シャープレス不斉エポキシ化 - 活字合金 - 活性化 - 活性化エネルギー - 活性錯合体 - 活性酸素 - 活性炭 - 活性中心 - 滑石 - カッセキ - 褐炭 - ベルンハルト・カッツ - 褐鉄鉱 - 活動度 - カップリング反応 - 活量 - カテキン - カテコール - カテコールオキシダーゼ - カテナン - 価電子帯 - 価電子 - 荷電粒子 - 果糖 - 果糖ブドウ糖液糖 - カドニウム - カドヘリン - カドミウム - カドミウムイェロー - カドミウム・イェロー - カドミウムイエロー - カドミウム・イエロー - カドミウムエロー - カドミウム・エロー - カドミウム黄 - カドモポンイェロー - カドモポン・イェロー - カドモポンイエロー - カドモポン・イエロー - カドモポンエロー - カドモポン・エロー - カドモポン黄 - ガドリニウム - ヨハン・ガドリン - ガドレイン酸 - カニゼンメッキ - カニツァロ - カニツァロ反応 - スタニズラオ・カニッツァーロ - カニッツァーロ反応 - カネボウ薬品 - 可燃性 - 可燃性物質 - 可燃物 - かび毒 - カビ毒 - カフェイン - カプサイシン - カプセーフ - ガブリエル合成 - ガブリエル反応 - カプロラクタム - カプロン酸 - カプロン酸エチル - 過マンガン酸 - 過マンガン酸亜鉛 - 過マンガン酸アンモニウム - 過マンガン酸イオン - 過マンガン酸塩 - 過マンガン酸塩類 - 過マンガン酸カリウム - 過マンガン酸カルシウム - 過マンガン酸銀 - 過マンガン酸ナトリウム - 過マンガン酸バリウム - 過マンガン酸マグネシウム - 上垣外正己 - 雷酸水銀 - カメレオン液 - カメレオン溶液 - 火薬 - 火薬類取締法 - 火薬類保安責任者 - 過ヨウ素酸 - 過ヨウ素酸ナトリウム - カラギーナン - ガラクトース - カラゲナン - カラゲニン - カラジーナン - ガラス - 硝子 - ガラス器具 - ガラス転移 - ガラス転移温度 - ガラス転移点 - カラムクロマトグラフィー - カリアント - カリアント錠 - カリアントTPカプセル - カリウム - ガリウム - カリオストロ - カリクレイン - カリホルニウム - 加硫 - 過硫酸 - 過量服用 - 過リン酸石灰 - 過リンサン石灰 - ガリンスタン - メルヴィン・カルヴィン - カルコゲン - カルシウム - カルシウムシアナミド - カルシューム - カルセドニー - 過ルテニウム酸テトラプロピルアンモニウム - カルニチン - マリー・アドルフ・カルノー - カルノーサイクル - カルバニオン - カルバミン酸エチル - カルバメート - ガルバリウム - カルビン - ベンソン回路 - カルビン-ベンソン回路 - カルベニウムイオン - カルベノイド - カルベン - カルベン錯体 - カルボアニオン - カルボカチオン - カルボカチオン転位 - カルボキシ基 - カルボキシル基 - カルボキシル末端 - カルボジイミド - カルボニウムイオン - カルボニル - カルボニル化合物 - カルボニル基 - カルボニルジイミダゾール - カルボニル炭素 - カルボプラチン - カルボメルク - カルボン - カルボン酸 - カルボン酸アンハイドライド - カルボン酸クロリド - カルボン酸ハライド - カルボン酸ハロゲン化物 - カルボン酸無水物 - 過冷却 - 過冷却現象 - 過冷却状態 - カロザース - ウォーレス・カロザース - カロチノイド - カロチン - カロテノイド - カロテン - カロメル - カロリック - カロリック説 - 岩塩 - 環化反応 - 環境化学 - 環境ホルモン - 還元 - 還元剤 - 還元的脱離 - 還元糖 - 還元反応 - 甘汞 - 甘こう - 環式有機化合物 - ガンシクロビル - 環状アデノシン一リン酸 - 環状AMP - 環状エーテル - 緩衝液 - 環状化合物 - 緩衝作用 - 環状電子反応 - 環状有機化合物 - 緩衝溶液 - 完全結晶 - 乾燥 - 乾燥剤 - カンタリジン - 環電流 - カンナビノイド - 官能基 - カンファー - カンプト - カンプト注 - カンフル - カンフル剤 - γ-アミノ酪酸 - Γカロテン - Γ崩壊 - ガンマ崩壊 - Γ-リノレン酸 - 慣用名 - 慣用命名法 - カンラン石 - 還流 - 乾留 - 顔料 -
基 - 気圧 - 輝安鉱 - 黄色5号 - 黄色4号 - 気化 - 幾何異性体 - 気化熱 - 機器分析化学 - 貴金属 - キク酸 - 菊酸 - 危険有害性 - 偽コリンエステラーゼ - ギ酸 - 蟻酸 - キサンタンガム - キサントフィル - キサントフィルサイクル - キサントプロテイン反応 - 基質特異性 - 基質特異的 - 気象化学 - 岸義人 - キシリトール - XYLITOL - キシレン - キシロース - 規制物質法 - 規制薬物法 - 輝石 - キセノン - キセロゲル - 気相 - 規則合金 - 気体 - 気態 - 気体定数 - 気体の法則 - 気体反応の法則 - 気体分子運動論 - 北野大 - キチン - キチンキトサン - キチン質 - 吉草酸 - 基底状態 - 規定度 - 規定濃度 - 軌道角運動量 - 軌道対称性保存則 - 軌道秩序 - キトサン - 希土類 - 希土類金属 - 希土類元素 - キナーゼ - キナ酸 - キニーネ - キヌクリジン - キネシン - キノリン - キノン - キノン類 - 揮発性 - 揮発性有機塩素化合物 - 揮発性有機化合物 - 揮発油等の品質の確保等に関する法律 - ギブズ - ウィラード・ギブズ - ギブスエネルギー - ギブズエネルギー - ギブス自由エネルギー - ギブズ自由エネルギー - ギブズ-ヘルムホルツの式 - 擬ポテンシャル - キムワイプ - キモトリプシン - キモパパイン - ヘンリー・キャヴェンディッシュ - 逆カルノーサイクル - 逆供与 - 逆合成 - 逆合成法 - 逆浸透 - 逆浸透膜 - 逆相クロマトグラフィー - CAS登録番号 - CAS番号 - キャタライザー - ギャバ - キャビテーション - CAM型光合成 - キャラメライゼーション - キャラメル化 - キャリィ・B・マリス - 吸引ビン - QSAR - 吸エルゴン反応 - 求核剤 - 求核試薬 - 嗅覚受容体 - 求核性 - 求核置換反応 - 求核付加反応 - 吸光度 - 吸収線 - 吸着 - 吸着等温式 - 求電子剤 - 求電子試薬 - 求電子置換反応 - 求電子付加反応 - 求電子芳香族置換反応 - 吸熱反応 - 吸光 - 9-フルオレニルメチルオキシカルボニル基 - 9-フルオレニルメトキシカルボニル基 - キューポラ - 球面調和関数 - キューリー温度 - キューリー点 - キュバン - キュプラ - キュプラート - キュベット - マリ・キュリー - キュリー温度 - キュリー値 - キュリー点 - キュリー夫妻 - キュリウム - 共晶 - 共役ジエン - 強化ガラス - 凝固 - 凝固点 - 凝固点降下 - 凝固熱 - 強磁性 - 強磁性体 - 凝集 - 凝縮 - 凝縮熱 - 凝析 - 鏡像 - 鏡像異性体 - 鏡像体 - 鏡像体過剰率 - 共沸 - 共鳴 - 共鳴効果 - 共鳴理論 - 共有結合 - 共有結合結晶 - 共有結合半径 - 極限構造 - 局在基底 - 局在軌道 - 局所密度近似 - 玉髄 - 極性 - 極性転換 - 極性分子 - 極性変換 - 極性溶媒 - キラリティ - キラリティー - 希硫酸 - 黄リン - グスタフ・キルヒホフ - キルヒホッフの第一法則 - キルヒホッフの第二法則 - キルヒホッフの法則 - アルフレッド・ギルマン - アルフレッド・G・ギルマン - ヘンリー・ギルマン - ギルマン試薬 - キレート - キレート滴定 - キロサイド - 金 - 銀 - 金雲母 - 禁止帯 - 禁止帯幅 - 金塊 - 金紅石 - 金鉱石 - 禁制帯 - 禁制帯幅 - 金属 - 金属アミド - 金属間化合物 - 金属樹 - 金属結合 - 金属結晶 - 金属元素 - 金属工学 - 金属光沢 - 金属粉 - 金属錯体 - 金属ナトリウム - 金属疲労 - キンディー - 金箔 - 金緑石 -
グアーガム - グアニジン - グアニン - グアニンヌクレオチド結合タンパク質 - グアノ - グアノシン三リン酸 - 空間群 - 空気 - 空気亜鉛電池 - 空気浴 - クーゲルロール - 空中窒素固定 - ベルナール・クールトア - シャルル・ド・クーロン - クーロン項 - リヒャルト・クーン - クエチアピン - クエルセチン - クエン酸 - クエン酸回路 - クエン酸シルデナフィル - クエン酸フェンタニル - クエン酸リチウム - 苦灰石 - 孔雀石 - グスタフ・キルヒホフ - クセノン - 苦土 - 配向性 - 配座異性体 - クプラート - グペリース - クマリン - 組み換えタンパク質 - クメン - クメンヒドロペルオキシド - クメン法 - く溶性 - クラーク数 - クライオポンプ - クライゼン縮合 - クライゼン転位 - クラウジウス - ルドルフ・クラウジウス - クラウジウス・クラペイロンの式 - クラウジウス-クラペイロンの式 - カール・クラウス (化学者) - グラウバー塩 - クラウンエーテル - グラスウール - クラスリン - クラッキング (化学) - グラファイト - ロバート・グラブス - ジェームス・クラフツ - マルティン・ハインリヒ・クラプロート - ベノワ・クラペイロン - クラペイロン・クラウジウスの式 - クラペイロン-クラウジウスの式 - クラム則 - グラム当量 - グラモキソン - クラリシッド - クラリスロマイシン - クラリチン - グランドカノニカルモンテカルロ法 - グリース - グリーンケミストリー - グリーンサスティナブルケミストリー - Green Fluorescent Protein - グリオキサール - グリオキザール - グリオキシル酸回路 - グリコーゲン - グリコール - グリココル - グリコサミノグリカン - グリコシド - グリコシド結合 - グリシン - クリスタリン - クリストファー・インゴルド - グリセオール - グリセリン - グリセルアルデヒド - グリセロール - クリソベリル - フランシス・クリック - ヴィクトル・グリニャール - フランソワ・グリニャール - グリニャール試薬 - グリニャール反応 - クリプトン - アーロン・クルーグ - グルカゴン - グルクロン酸 - グルコース - グルコサミン - グルコセレブロシダーゼ - グルコセレブロシド - グルコン酸クロルヘキシジン - グルタールアルデヒド - グルタチオン - グルタミン - グルタミン酸 - グルタミン酸ソーダ - グルタミン酸ナトリウム - グルタラール - グルタルアルデヒド - グルタル酸 - クルチウス転位 - クルックス - ウィリアム・クルックス - ウイリアム・クルックス - クレアチン - クレアチンキナーゼ - グレイ (単位) - クレーガー=ビンクの表記法 - エドヴィン・クレープス - クレオソート - ウィリアム・グレゴール - クレスチン - クレゾール - クレゾールレッド - ハンス・クレブス - クレブス回路 - クレメンス・ウィンクラー - クレメンゼン還元 - グレリン - 黒雲母 - ジョルジュ・クロード - クローム - クロールピクリン - アクセル・フレドリク・クローンステッド - クロスカップリング - クロスカップリング反応 - グロスパール - クロトンアルデヒド - クロトン酸 - グロビン - クロベート - クロマイト - GROMACS - クロマチン - クロマトグラフィー - クロマトグラフィー法 - クロマトグラム - クロミズム - クロム - クロム・イェロー - クロム・イエロー - クロム・エロー - クロム・グリーン - クロムイェロー - クロムイエロー - クロムエロー - クロムグリーン - クロム酸化 - クロム酸カリウム - クロム酸酸化 - クロムチタンイェロー - クロムチタンイエロー - クロムチタンエロー - クロムチタン黄 - クロム鉄鉱 - クロメル - クロラール - クロラミン - クロラムフェニコール - 黒リン - 黒燐 - クロルピクリン - クロルプロマジン - クロルヘキシジン - クロロエチレン - クロロオキシダン - クロロキン - クロロクロム酸ピリジニウム - クロロゲン酸 - クロロピクリン - クロロフィル - クロロフェノールレッド - クロロフルオロカーボン - クロロプレン - クロロプレンゴム - クロロホルム - クロロメタン - 桑嶋功 - 菫青石 -
ゲイ=リュサック - 珪化木 - ケイ皮アルデヒド - ケイ皮酸 - ケイ皮酸エステル - ケイ皮酸エチル - ケイ皮酸n-ブチル - ケイ皮酸ブチル - ケイ皮酸無水物 - ケイ皮酸メチル - 軽金属 - 軽金属学会 - 経験的分子軌道法 - 蛍光 - 蛍光剤 - 蛍光染料 - ケイ酸 - 珪酸 - 計算化学 - 計算機化学 - ケイ酸ナトリウム - 珪酸ナトリウム - 形状記憶合金 - ケイ素 - けい素 - 硅素 - 軽水素 - ケイ素鋼 - ケイ素樹脂 - 珪素 - ケイソウ土 - 珪藻土 - ケイヒアルデヒド - ケイヒ酸 - 桂皮酸 - 桂皮酸メチル - 軽油 - ゲイリュサック - ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック - Kerkerの方法 - KS鋼 - ゲート絶縁膜 - ゲオルク・ウィッティヒ - ゲオルク・ヴィティッヒ - 劇物 - 劇物毒物取扱法 - 劇薬 - ケクレ - フリードリヒ・ケクレ - ケクレ構造式 - ケタール - ケタミン - 欠陥 - 欠陥化学 - 結合エネルギー - 結合解離エネルギー - 結晶 - 結晶学 - 結晶構造 - 結晶場 - 結晶場理論 - 結晶面 - 結晶粒界 - ゲッターポンプ - 月長石 - 結露 - ケテン - ケト - ケト・エノール互変異性 - ケトース - ケト形 - ケト基 - ケト原性アミノ酸 - ケトン - ケトン基 - アグフア・ゲバルト - ゲフィチニブ - ケブラー - ゲベル - ゲベルス - ケミカルアブストラクツ - Chemical Abstracts - ケミカルアブストラクト - ゲムシタビン - ケモインフォマティクス - ケラチン - ゲラニオール - ゲル (化学) - ケルヴィン - ケルヴィン卿 - ルイ・ケルヴラン - ゲル化剤 - ケルク・インゴルド - ゲル浸透クロマトグラフィー - ケルセチン - オスカー・ケルナー - オスカル・ケルネル - ゲルハルト・ヘルツベルク - ケルビン - ハンス・オイラー=ケルピン - ゲルマニウム - ゲル濾過クロマトグラフィー - ゲルろ過クロマトグラフィー - 減圧蒸留 - 減圧蒸留装置 - 鹸化 - けん化 - 鹼化 - 限外ろ過 - 限外濾過 - 限外ろ過膜 - 限外濾過膜 - 幻覚剤 - 幻覚作用 - 嫌気呼吸 - 嫌気状態 - 嫌気的 - 原子 - 原子価 - 原子価殻電子対反発則 - 原子価殻電子対反発理論 - 原子核 - 原子核反応 - 原子核崩壊 - 原子核崩壊図 - 原子価結合法 - 原子記号 - 原子軌道 - 原子吸光 - 原子吸光法 - 原子空孔 - 原子質量単位 - 原子説 - 原子挿入法 - 原子団 - 原子単位 - 原子半径 - 原子番号 - 原子模型 - 賢者の石 - 原子量 - 原子力 - 原子炉主任技術者 - 原子論 - 元素 - 元素一覧 - 元素記号 - 元素群 - 元素周期表 - 元素の一覧 - 元素の記号順一覧 - 元素の系統名 - 元素の周期 - 元素の族 - 元素の名前順一覧 - 元素の番号順一覧 - 元素のブロック - 元素の分類 - 元素分析 - 元素名 - ジョン・ケンドリュー - 顕熱
五員複素環式化合物 - 鋼 - 澒 - 高圧ガス移動監視者 - 高圧ガス販売主任者 - 高イオン伝導体 - 高エネルギー結合 - 高エネルギーリン酸化合物 - 高エネルギーリン酸結合 - 光延反転 - 光延反応 - 光化学系 - 光化学反応 - 光学異性体 - 光学活性 - 光学活性体 - 光学分割 - 交換・相関項 - 高吸水性高分子 - 工業化学 - 合金 - 合金鋼 - 工具鋼 - 高校化学グランプリ - 光合成 - 格子エンタルピー - 格子間領域 - 格子欠陥 - コウジ酸 - 格子振動 - 鉱質コルチコイド - 格子定数 - 甲状腺ホルモン - 合成化学 - 合成化合物 - 合成計画 - 合成ゴム - 合成樹脂 - 合成繊維 - 合成洗剤 - 合成戦略 - 合成ダイヤモンド - 合成ピレスロイド - 合成有機化学 - 鉱石 - 硬石膏 - 酵素 - 構造異性体 - 構造化学 - 構造活性相関 - 構造キー - 構造決定 - 構造式 - 構造式エディタ - 構造生物学 - 構造相転移 - 構造定数 (バンド計算) - 高速液体クロマトグラフィー - 高速液体クロマトグラフィー法 - 高速度鋼 - 幸田清一郎 - 高炭素鋼 - 好中球アルカリホスファターゼ - 高張力鋼 - 光電子 - 高度希釈法 - 鉱物 - 鉱物学 - 鉱物の一覧 - 高分子 - 高分子化学 - 高分子化合物 - 高分子学会 - 高分子ゲル - 高分子物質 - 高分子物理学 - 向山光昭 - 香料 - 高炉 - 5-FU - 5-MeO-DIPT - コエンザイム - コエンザイムA - コエンザイムQ - コエンザイムQ10 - コークス - ゴーシュ型 - コーヒー酸 - コープ転位 - Cope転位 - 氷 - イライアス・コーリー - コーリー・バクシ・柴田還元 - コーリー・フックス反応 - 氷酢酸 - コール酸 - コールタール - ジョーゼフ・ゴールドスタイン - ゴールドストーン - コールラウシュの法則 - ジョージ・コーワン - 固化 - コカイン - 呼吸鎖複合体 - 黒鉛 - 国際化学オリンピック - 国際純粋・応用化学連合 - 国際純正・応用化学連合 - 国際純正応用化学連合 - 国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図るための麻薬及び向精神薬取締法等の特例等に関する法律 - 黒曜石 - 五酸化二窒素 - 五酸化二リン - 五酸化バナジウム - 五酸化リン - 五炭糖 - 固相 - 固相焼結 - 固体 - 固態 - 固体化学 - 固体高分子型燃料電池 - 固体高分子形燃料電池 - 固体電解質 - コチニール - コチニール・レーキ - コチニール色素 - コチニールレーキ - 固定バンドモデル - コデイン - 粉粒体 - ゴナドトロピン放出ホルモン - コニイン - 5-ニトロフェナントロリン鉄(II) - コバール - コハク - コハク酸 - 琥珀酸 - コバルト - コバルト爆弾 - コバルト60 - コヒーシン - コフィリン - 五フッ化アンチモン - 互変異性 - コペンハーゲン解釈 - 駒込ピペット - ゴム - ゴム状硫黄 - 5-メチルフェナントロリン鉄(II) - 5-メチルフェロイン - 固有関数 - 固有振動 - 固溶体 - コランダム - 孤立電子対 - コリンエステラーゼ - コリンズ酸化 - コルタン - コルチコイド - コルチゾール - コルヒチン - ヘルマン・コルベ - コレシストキニン - コレステロール - コロイド - コロイド化学 - コロイド分散体 - コロイド溶液 - 5,6-ジメチルフェナントロリン鉄(II) - 5,6-ジメチルフェロイン - コロジオン - コロネン - コロンビウム - 金剛石 - 混合物 - 混合希土 - コンゴー・レッド - コンゴーレッド - 混酸 - 紺青 - コンスタンタン - コンスピット - コンスピット錠 - 混成軌道 - 近赤外線分光法 - コンタミ - コンタミネーション - コンデンシン - コントミン - コンドロイチン硫酸 - コンドロイチン硫酸ナトリウム - コンビナトリアル化学 - コンビナトリアルケミストリー - コンフォーマー - コンフォメーション - アーサー・コンプトン - A.H.コンプトン - コンプトン効果 - コンプトン散乱 - コンホマー - 混和(現在法律用語) -
サークレス - サークレス注 - サートラリン - サーファクタント - サーメット - サイアミン - サイエンス - 最外殻 - 最外殻電子 - 催奇形性 - 催奇性 - サイクリックボルタンメトリー - サイクリック・ボルタンメトリー - 再結晶 - 最高被占軌道 - サイズ排除クロマトグラフィー - 再生繊維 - 再沈殿 - ザイツェフ則 - 最低空軌道 - サイトカイン - サイトクロム - サイラゼパム - サイレース - 坂本和彦 (環境化学者) - サキシトキシン - 作業環境測定士 - 砂金 - 錯イオン - 錯塩 - 錯塩化学 - 酢酸 - 醋酸 - 酢酸アンモニウム - 酢酸イソアミル - 酢酸イソペンチル - 酢酸エステル - 酢酸エチル - 酢酸カルシウム - 酢酸3-メチルブチル - 酢酸ソーダ - 酢酸タリウム - 酢酸銅 - 酢酸ナトリウム - 酢酸ビニール - 酢酸ビニル - 錯体 - 錯体化学 - 桜井反応 - 桜田一郎 - 柘榴石 - サザンブロッティング - サスティナブルケミストリー - サスペンジョン - 定容比熱 - 定比例の法則 - サッカリン - サッカリンナトリウム - 砂鉄 - ザナミビル - ポール・サバティエ - サハの電離公式 - サハの電離式 - 錆 - サポニン - サマコバ磁石 - サマリウム - サマリウム・コバルト磁石 - サマリウムコバルト磁石 - サマリウム-コバルト磁石 - サマリウム磁石 - サマリュウム・コバルト磁石 - サマリュウムコバルト磁石 - ベンクト・サミュエルソン - ジェームズ・サムナー - さらし粉 - サリチル酸 - サリチル酸メチル - サリドマイド - サリン - サルバルサン - サレット酸化 - サレン - Salen - サワドール - サワドールL錠 - サワドールテープS - 酸 - サンアシル - 酸アミド - 散逸構造 - 三塩化アルミニウム - 酸塩化物 - 三塩化リン - 酸塩基指示薬 - 酸化 - フレデリック・サンガー - 酸化亜鉛 - 酸化アルミニウム - 酸化エチレン - 酸化カリウム - 酸化カルシウム - 酸化還元 - 酸化還元指示薬 - 酸化還元電位 - 酸化還元反応 - 酸化銀 - 酸化銀(I) - 酸化銀電池 - 三角フラスコ - 酸化クロム - 酸化コバルト - 酸化剤 - 酸化ジルコニウム - 酸化水銀 - 酸化水素 - 酸化数 - 酸化スズ - 酸化セレン - 酸化第一鉄 - 酸化第一銅 - 酸化第二銅 - 酸化タンタルリチウム - 酸化チタン - 酸化窒素 - 酸化的付加 - 酸化的リン酸化 - 酸化鉄 - 酸化鉄赤 - 酸化電位 - 酸化銅 - 酸化銅(I) - 酸化銅(II) - 酸化反応 - 酸化物 - 酸化マグネシウム - 酸化マンガン(IV) - 産業廃棄物 - 酸クロリド - 三元触媒 - III-V化合物 - III-V族化合物 - 三酸化硫黄 - 三酸化クロム - 三酸化セレン - 三酸化テルル - 三酸化二窒素 - 三酸化レニウム - サンジェルマン伯爵 - 三重点 - 三硝酸グリセリン - サンセットイエロー - サンセットイエローFCF - 酸素 - 酸素欠乏危険作業者 - 酸素欠乏危険作業主任者 - 酸素原子 - 酸素族原子の水素化物 - 三態 - 酸と塩基 - サンドマイヤー反応 - ザンドマイヤー反応 - 酸ハライド - 3-ヒドロキシブタナール - 三フッ化塩素 - サンプラチナ - 3-ペンタノン - 三方晶系 - 酸無水物 - 残留オーステナイト -
ジアステレオトピック - ジアステレオマー - ジアゼパム - ジアセラ - ジアセラL錠 - ジアゾ化 - ジアゾ化合物 - ジアゾカップリング - ジアゾ化反応 - ジアゾジニトロフェノール - ジアゾメタン - シアナミド - シアノ - シアノ基 - シアノコバラミン - シアノマイド - シアノメタン - ジアリールエテン - シアン化カリウム - シアン化水素 - シアン化水素酸 - シアン化ナトリウム - シアン化ビニール - シアン化ビニル - シアン化物イオン - シアン化メチル - シアン基 - シアン酸 - CRP - CIP則 - ChE - GHS - CH4 - CAMP - CS2 - GnRH - CNT - GFC - CMC値 - Gln - GLN - GLC - Glu - Gly - GLY - CoQ10 - CO中毒 - CO2 - GGA - ジイソプロピルエチルアミン - GW近似 - Gタンパク質 - G蛋白質 - CDI - CDNA - CDスペクトル - CT遷移 - CDDP - C反応性蛋白 - CBS還元 - CBN - GPC - CBDCA - CPT-11 - C4型光合成 - C4植物 - Gブロック元素 - シーボーギウム - シーボーグ - グレン・シーボーグ - シーマン反応 - GUS - Cys - CYS - C1化学 - ジェイゾロフト - JILM - カール・シェーレ - カール・ウィルヘルム・シェーレ - カール・ヴィルヘルム・シェーレ - クリスチアン・シェーンバイン - ジエチルエーテル - ジエチルケトン - ジエノン-フェノール転位 - ジェムザール - ジエン - 四塩化炭素 - ウイリアム・ジオーク - ジオキサン - 磁化 - 紫外可視近赤外分光光度計 - 紫外・可視・近赤外分光法 - 紫外可視分光法 - 紫外線 - シガトキシン - 磁化率 - 時間依存平均場理論 - 時間依存密度汎関数法 - 脂環式有機化合物 - 磁気 - 色原体 - 色素 - シキミ酸 - シキミ酸経路 - 式量 - 磁気量子数 - 軸受合金 - シクトキシン - シグマ因子 - Σ軌道 - シグマ軌道 - Σ結合 - Σ電子 - シグマトロピー転位 - リヒャルト・ジグモンディ - シクラン - シクロアルカン - シクロアワオドリン - シクロオクタン - シクロデキストリン - シクロテトラメチレンテトラニトラミン - シクロパラフィン - シクロブタン - シクロプロパン - シクロヘキサノール - シクロヘキサン - シクロヘキシルスルファミン酸 - シクロヘキセン - シクロヘプタン - シクロペンタジエン - シクロペンタン - シクロホスファミド - ジクロロエタン - ジクロロベンゼン - ジクロロホルムアルデヒド - ジクロロメタン - ジクワット - 試験管 - 時効 (金属) - 自己解離 - 仕事関数 - ジシアン - ジシアンジアミジン - ジシアンジアミド - ジシクロヘキシルカルボジイミド - 脂質 - 脂質二重層 - 指示薬 - 磁石 - 指示薬の一覧 - シス体 - シスチン - システイン - シスプラチン - ジスプロシウム - ジスルフィド - ジスルフィド結合 - ジスルフィラム - 磁性 - 磁性材料 - 磁性体 - 磁性流体 - 自然エネルギー - シゾフィラン - 四大元素 - シタラビン - ジチオン酸 - 七酸化二塩素 - シチジル酸 - 実験器具 - 実験器具の一覧 - 実験式 - 実在気体 - 質量 - 質量作用の法則 - 質量数 - 質量パーセント濃度 - 質量分析 - 質量分析器 - 質量分析計 - 質量分析法 - 質量保存の法則 - 質量モル濃度 - 時定数 - 磁鉄鉱 - ジデヒドロベンゼン - 自動車NOx・PM法 - 自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法 - 自動車排ガス規制 - 自動車排気ガス規制 - 自動車排出ガス規制 - シトクローム - シトクロム - シトクロムcオキシダーゼ - シトクロムP450 - シトシン - シドニー・チャップマン - シトルリン - シナバー・グリーン - シナバーグリーン - ジニトロエチレン尿素 - ジニトロジメチルオキサミド - ジニトロジメチルスルファミド - シネリン - シネリンI - シネリンII - 柴崎正勝 - 柴田雄次 - 自発核分裂 - ジフェニル - ジフェニルアミン - ジフェニルアミンスルホン酸 - ジフェニルベンジジン - ジフェニルリン酸アジド - シフェノトリン - ジフルオロメタン - シフルトリン - ジプレキサ - ジベ処理 - 視紅 - ジベレリン - ジベレリン処理 - ジベレリン水溶液 - ジベンゾフラン - 脂肪 - 脂肪酸 - 脂肪酸合成系 - ジボラン - ジムロート - ジムロート冷却器 - ジムロート冷却管 - 示性式 - ジメチルアミノピリジン - ジメチルエーテル - ジメチルオキサミド - ジメチルケトン - ジメチル酢酸 - ジメチルジオキシラン - ジメチルスルファミド - ジメチルスルホキシド - ジメチルホルムアミド - ジメチル硫酸 - ジメルカプロール - シモンズ・スミス反応 - ジャービル・イブン・ハイヤーン - バリー・シャープレス - シャープレス酸化 - シャープレス不斉エポキシ化 - シャープレス不斉ジヒドロキシ化 - シャーレ - 斜方硫黄 - 斜方晶系 - 斜方立方八面体 - 試薬 - 赤銅 (合金) - ジャスモリン - ジャスモリンI - ジャスモリンII - ジャスモン酸 - ジャビール・ハイヤーン - ジャビル・イブン・ハイヤン - シャペロン - ジャボチンスキー反応 - 舎密 - ジャック・シャルル - シャルル・ヴュルツ - シャルル・ウルツ - シャルル・ヴルツ - シャルル・クーロン - シャルル・ビュルツ - シャルル・ブルツ - シャルルの法則 - 重い電子系 - 自由エネルギー - 臭化アリル - 臭化エチジウム - 臭化カリウム - 臭化銀 - 臭化水素 - 周期 (元素) - 臭気指数 - 周期表 - 周期表 (2) - 周期律 - 周期律表 - 重金属 - 重クロム酸 - 重クロム酸アンモニウム - 重クロム酸カリウム - 重原子 - 重元素 - 重合 - 重合体 - 重合反応 - シュウ酸 - 蓚酸 - シュウ酸アルデヒド - 蓚酸アルデヒド - 十酸化四リン - 重晶石 - 重水 - 重水素 - 集積型金属錯体 - 臭素 - 重曹 - 臭素系ダイオキシン類 - 臭素酸 - 臭素酸カリウム - 重炭酸イオン - 重炭酸塩 - 重炭酸ソーダ - 重炭酸ナトリウム - ジューテリウム - 自由電子 - 自由電子近似 - 自由度 - 18電子則 - 充満帯 - 重油 - 重量パーセント濃度 - 重量モル濃度 - ジュール=トムソン効果 - ジュール損 - ジュール熱 - ジュールの法則 - 縮合 - 縮合重合 - 縮合反応 - 縮退 - 朱砂 - 酒精 - 酒石酸 - ゲオルク・シュタール - ヘルマン・シュタウディンガー - シュテルン=ゲルラッハの実験 - フリードリヒ・シュトロマイヤー - シュミット転位 - シュミット反応 - ジュラルミン - シュレーディンガーの猫 - シュレーディンガーの波動方程式 - シュレーディンガー方程式 - シュレディンガー方程式 - シュレンク管 - リチャード・シュロック - 準安定状態 - 準結晶 - 純水 - 順相クロマトグラフィー - 純物質 - 常圧 - 常圧蒸留装置 - 小員環 - 常温 - 硝化 - 昇華 (化学) - 消化酵素 - 硝化作用 - 昇華熱 - 笑気 - 蒸気 - 蒸気圧 - 蒸気圧降下 - 笑気ガス - 蒸気浴 - 賞金 - 焼結 - 硝酸 - 硝酸アンモニウム - 硝酸イオン - 硝酸イソソルビド - 硝酸イソソルビド錠 - 硝酸イソソルビドテープ - 硝酸ウラニル - 硝酸エステル - 硝酸塩 - 硝酸塩類 - 硝酸カリウム - 硝酸銀 - 硝酸グアニジン - 硝酸でんぷん - 硝酸ナトリウム - 硝酸鉛 - 硝酸鉛(II) - 硝酸尿素 - 常磁性 - 焼成 - 脂溶性ビタミン - 硝石 - 生石灰 - 消石灰 - 状態 - 状態数 - 状態式 - 状態ベクトル - 状態変化 - 状態変数 - 状態方程式 (化学) - 状態密度 - 状態量 - 状態和 - 蒸着 - 少糖 - 少糖類 - 樟脳 - ショウノウ - 蒸発 - 蒸発熱 - 上皮成長因子 - 生分解性プラスチック - 生分解プラスチック - 硝安 - 蒸留 - 蒸留塔 - イヴ・ショーヴァン - ジョーンズ酸化 - Jones酸化 - 食塩 - 触媒 - 触媒化学 - 植物ホルモン - 植物油 - 食用油 - 女性ホルモン - ジョセフ・プルースト - ジョゼフ・ルイ・ゲイ=リュサック - ジョセフ・ルイ・プルースト - ジョゼフ・ルイ・プルースト - ショッテン・バウマン条件 - ショッテン・バウマン反応 - ショッテン・バウマン法 - フリードリッヒ・オットー・ショット - ショットキー欠陥 - 蔗糖 - ショ糖 - エティーヌ・F・ジョフロア - クロード・F・ジョフロア - イレーヌ・ジョリオ=キュリー - フレデリック・ジョリオ=キュリー - ジョン・クラーク・スレーター - ジョン・ケンドール - ジョン・ケンドルー - ジョン・ダルトン - ジョン・ドールトン - 白川英樹 - シラン (化合物) - シリカ - シリカゲル - シリコーン - シリコマンガン - シリコンカーバイド - シリルエーテル - ジルコニア - ジルコニウム - シルデナフィル - シルミン - 白雲母 - シロシビン - 銀鏡反応 - 白リン - 新Mosher法 - リチャード・シング - ジンク・イェロー - ジンク・イエロー - ジンク・エロー - ジンク・クロメート - ジンクイェロー - ジンクイエロー - 真空蒸着 - 真空ポンプ - ジンクエロー - ジンククロメート - シンクリナル - シングルスキン構造 - 神経伝達物質 - 神経ペプチドY - 人工元素 - 人工ダイヤモンド - 人工放射性元素 - シンジオタクチック - 辰砂 - 親水親油バランス - 親水基 - 親水コロイド - 親水性 - 真性コリンエステラーゼ - 人造繊維 - 親電子置換反応 - 浸透 - 浸透圧 - シンナムアルデヒド - Simplified molecular input line entry specification - シンペリプラナー - 心房性ナトリウム利尿ペプチド - 人名反応 - 人名反応の一覧 - シンメトリー - シンメトレル - 新モッシャー法 -
水銀 - 水銀電池 - 水酸化アルミニウム - 水酸化アンモニウム - 水酸化カリウム - 水酸化カルシウム - 水酸化ナトリウム - 水酸化物 - 水酸化物イオン - 水酸化マグネシウム - 水酸基 - 水質汚染 - 水質汚濁防止法 - 水質関係公害防止管理者 - 水蒸気蒸留 - 水性ガスシフト反応 - 水素 - 水素イオン - 水素イオン指数 - 水素イオン濃度 - 水素化 - 水素化アモルファスシリコン - 水素化アルミニウム - 水素化アルミニウムリチウム - 水素化アンチモン - 水素化ゲルマニウム - 水素化合物 - 水素化ジイソブチルアルミニウム - 水素化シリコン - 水素化スズ - 水素化脱硫 - 水素化ナトリウム - 水素化物 - 水素化ホウ素 - 水素化ホウ素ナトリウム - 水素化リチウムアルミニウム - 水素吸蔵合金 - 水素結合 - 水素結合結晶 - 水素原子 - 水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解 - 水素添加 - 水素分子 - 水熱合成 - 水分 - 水平化効果 - 水溶液 - 水溶性ビタミン - 水浴 - 水和 - テオドール・スヴェドベリ - スーネ・ベルクストローム - スーパーオキシドアニオン - スーパーオキシドディスムターゼ - スカンジウム - スカンジウム族元素 - スカンディウム - 杉原儀昭 - スクアラン - スクアリン酸 - スクアレン - スクラロース - スクロース - スクワラン - スクワレン - 助色団 - スズ - 錫 - 鈴木・宮浦カップリング - 鈴木・宮浦反応 - 鈴木梅太郎 - 鈴木カップリング - 芒硝 - 鈴木反応 - 鈴木-宮浦カップリング - スターリングシルバー - レオ・スターンバック - スタッキング相互作用 - スタナン - スタニスラオ・カニツァロ - スタニスラロ・カニッツァーロ - ウェンデル・スタンリー - スチバン - スチビン - スチレン - スチレン・ブタジエンゴム - スチレンブタジエンゴムスチロール樹脂 - ステアリドン酸 - ステアリン酸 - ステアリン酸カルシウム - ステアリン酸ナトリウム - スティーグリッツ - アルフレッド・スティーグリッツ - スティルカップリング - ステライト - ステルコビリン - ステロイド - ステロイドアルカロイド - ステロイドホルモン - ステンレス - ステンレス鋼 - Stranski-Krastanovモード - ストリキニーネ - ストリキニン - ストレッカー合成 - ストレッカー反応 - ストレプトマイシン - ストロンシャン・イェロー - ストロンシャン・イエロー - ストロンシャン・エロー - ストロンシャンイェロー - ストロンシャンイエロー - ストロンシャンエロー - ストロンチウム - ストロンチウム・イェロー - ストロンチウム・イエロー - ストロンチウム・エロー - ストロンチウム・クロメート - ストロンチウムイェロー - ストロンチウムイエロー - ストロンチウムエロー - ストロンチウム黄 - ストロンチウムクロメート - 砂浴 - スネ・カール・ベリストローム - スパーテル - スパチュラ - 素反応 - スピーゲル - スピネル - スピラン - スピン角運動量 - スピン軌道相互作用 - スピン量子数 - スプレー - スペキュラム合金 - スペクトル - スペクトル線 - スペルミジン - スペルミン - スポイト - スポンジ触媒 - SMARTS - SMARTS記法 - SMILES - SMILES記法 - 炭カル - 炭安 - スメクティック液晶 - スメクティック相 - リチャード・スモーリー - スラグ - すり合わせ - ズルチン - スルピリド - スルファン - スルフィド - スルフィド結合 - スルフォニル基 - スルフォラファン - スルフヒドリル基 - スルホ基 - スルホキシド - スルホニル基 - スルホン - スルホンアミド - スルホン化 - スルホン化反応 - スルホン酸 - スルホン酸化合物 - ジョン・クラーク・スレイター - スレイター行列式 - スレーター軌道 - スレーター行列式 - スレオニン - スワーン酸化 - Swern酸化 - スワン酸化 -
生化学 - 青化ソーダ - 星間分子の一覧 - 正極 - 生気論 - 制限酵素 - 製鋼 - 生合成 - 青酸 - 青酸加里 - 青酸カリ - 青酸ナトリウム - 静止質量 - 青色一号 - 青色1号 - 生殖腺刺激ホルモン放出ホルモン - 青色二号 - 青色2号 - 精製 - 生成物 - 性腺刺激ホルモン - 性腺刺激ホルモン放出ホルモン - 成層化合物 - 生体高分子 - 生体材料 - 生体物質 - 成長ホルモン - 製鉄 - 製鉄業 - 製鉄所 - 正電荷 - 青銅 - 製品安全データシート - 生物化学 - 生物化学者 - 生物学と化学の歴史のタイムライン - 生物学と有機化学に関する年表 - 生物学と有機化学の年表 - 生物学に関する年表 - 生物物理化学 - 生物無機化学 - 生物有機化学 - 成分本質 (原材料) では医薬品でないもの-植物由来物等-後半 - 成分本質 (原材料) では医薬品でないもの-植物由来物等-前半 - 正方晶系 - 性ホルモン - 精密化学 - 精密合成化学 - 精密有機化学 - 精密濾過膜 - 精密ろ過膜 - 生命力説 - 製油 - 製錬 - ゼーマン効果 - ゼオライト - 石英 - 石英ガラス - 石英セル - 赤外吸収 - 赤外分光法 - 析出 - 赤色3号 - 赤色三号 - 赤色2号 - 赤色二号 - 赤色105号 - 赤色102号 - 赤色104号 - 赤色106号 - 赤色40号 - 石炭 - 石炭化学 - 石炭酸 - 赤鉄鉱 - 赤銅鉱 - 石墨 - 石油エーテル - 石油化学 - 赤燐 - セグレ - エミリオ・セグレ - セクレチン - セシウム - セタノール - セタン価 - 石灰 - 石灰岩 - 石灰水 - 石鹸 - 接触改質 - 接触分解 - 絶対温度 - 絶対配置 - 絶対立体配置 - 絶対零度 - 接着 - 接着剤 - Zr - 摂動 - 摂動論 - Zn - Zosuquidar - Z基 - Z体 - セデコパン - セバシン酸ジオクチル - セファクロル - セファゾリン - セファマイシン - セファマンドール - セファレキシン - セファロスポリン - セファロチン - セファロリジン - セフェピム - セフェム系 - セフェム系抗生物質 - セフォチアム - セフォテタン - セフタジジム - セフトリアキソン - セフブペラゾン - セフラジン - ニコライ・セミョーノフ - セメンタイト - セライト - ゼラチン - セラミック - セラミックス - セラミド - セラン - セリウム - セリン - セリンプロテアーゼ - セルシン - セルトラリン - セルラーゼ - セルロイド - セルロース - セルロースエーテル - セルロプラスミン - セレザイム - Cerezyme - セレノシステイン - セレノプロテインP - セレン - セレン化水素 - セレン酸 - セレン酸塩 - セレン酸化 - セロトニン - セロトニン受容体 - セロビアーゼ - セロビオース - 全圧 - 遷移 - 繊維 - 遷移金属 - 遷移元素 - 遷移状態 - 遷移状態理論 - 全エネルギー - 前期量子論 - 船型 - 線欠陥 - 全合成 - 全国高校化学グランプリ - 尖晶石 - 染色 - 染色体凝縮 - センダスト - 銑鉄 - 仙人 - 潜熱 - 閃マンガン鉱 - 染料 - 閃緑岩 -
相 - 層間化合物 - 造岩鉱物 - 相関相互作用 - 双極子 - 双極子モーメント - 相互作用 - 相コロイド - 相図 - 相対原子質量 - 相対配置 - 相対立体配置 - 相対論効果 - 相対論的量子力学 - 相転移 - 相反定理 - 相平衡 - 相変化 - 相間移動触媒 - 相律 - ソーダ石灰ガラス - ソープションポンプ - ゾーンメルティング - ゾーンメルト - ゾーンメルト法 - ゾーン融解 - 速度定数 - 速度論的同位体効果 - 束縛エネルギー - 疎水結合 - 疎水コロイド - 疎水性 - 疎水相互作用 - 疎水基 - 塑性 - 組成式 - 粗大ゴミ - SOx - ソックスレー - ソディ - フレデリック・ソディ - ソディー - 外丹術 - ソニフィラン - 薗頭・萩原カップリング - 薗頭・萩原反応 - 薗頭カップリング - 薗頭反応 - ゾビアトロン - ゾビクロビル - ゾビラックス - ソフトダイポールモード - ソフトマター - ソプレロール - ソプレロール錠 - ソマトスタチン - ソマン - ソラニン - ゾル - ソルビトール - ソルビン酸 - ソルビン酸K - エルネスト・ソルベー - ソルベー法 - ゾロフト -
ターキー赤 - ターコイズ - Tert-ブタノール - Tert-ブチル基 - Tert-ブトキシカルボニル基 - タートラジン - ターボ分子ポンプ - ターボポンプ - ダームスタチウム - ターンブル青 - ターンブルブルー - 第10周期元素 - 第10周期の元素 - 第10族元素 - 第10族の元素 - 第11族元素 - 第11族の元素 - 第12族元素 - 第12族の元素 - 第13族元素 - 第14族元素 - 第15族元素 - 第16族元素 - 第17族元素 - 第18族元素 - 第1周期元素 - 第1周期の元素 - 第1族元素 - 第2周期元素 - 第2周期の元素 - 第2族元素 - 第2族の元素 - 第3周期元素 - 第3周期の元素 - 第3族元素 - 第3族の元素 - 第4周期元素 - 第4周期の元素 - 第4族元素 - 第4族の元素 - 第5周期元素 - 第5周期の元素 - 第5族元素 - 第6周期元素 - 第6周期の元素 - 第6族元素 - 第7周期元素 - 第7周期の元素 - 第7族元素 - 第8周期元素 - 第8周期の元素 - 第8族元素 - 第8族の元素 - 第9周期元素 - 第9周期の元素 - 第9族元素 - 第9族の元素 - ダイアップ - ダイアモンド - 帯域溶融 - 第一原理計算 - 第一原理経路積分分子動力学法 - 大員環 - ダイオキシン - ダイオキシン類 - ダイオキシン類対策特別措置法 - 大気圧 - 大気汚染 - 大気化学 - 大気関係公害防止管理者 - 耐候鋼 - 耐候性鋼 - 体心立方 - 体心立方晶 - 体心立方格子 - 体心立方構造 - 代謝 - 代謝マップ - 対照実験 - 対称性 - タイシロール錠 - 体心立方格子構造 - 体積パーセント濃度 - 体積モル濃度 - 代替フロン - 対掌体 - 耐糖因子 - 第二量子化 - ダイニン - 耐熱ガラス - 耐熱性 - 耐燃性 - ダイヤモンド - ダイヤモンドライクカーボン - 帯融解 - 帯溶融 - 大理石 - ダイレクト・ジメチルエーテル燃料電池 - ダイレクト・メタノール形燃料電池 - ダイレクト・メタノール型燃料電池 - ダイレクト・メタノール燃料電池 - ダイレクトジメチルエーテル燃料電池 - ダイレクトDME燃料電池 - ダイレクトメタノール形燃料電池 - ダイレクトメタノール型燃料電池 - ダイレクトメタノール燃料電池 - 代わりの生化学 - ダウサムA - タウリン - 高田十志和 - 高峰譲吉 - 多環芳香族炭化水素 - タキソール - タキソール全合成 - 焚火 - ダクタイル鋳鉄 - タクロリムス - 多結晶 - 多結晶体 - 多原子分子 - 多座配位子 - 脱酸素剤 - 脱水 - 脱水作用 - 脱水縮合 - 脱水反応 - 脱炭酸 - 脱炭酸反応 - 脱保護 - 脱保護反応 - 脱離 - 脱離反応 - 脱離基 - 脱硫 - タデウシ・ライヒシュタイン - タデウシュ・ライヒシュタイン - タデウス・ライヒシュタイン - 多糖 - 田中耕一 - 田辺・菅野ダイアグラム - 田辺・菅野ダイヤグラム - ジョン・フレデリック・ダニエル - ダニエル電池 - ダニシェフスキージエン - 束一的性質 - 田原良純 - タブン - 玉井尚登 - 玉入り冷却器 - 玉入り冷却管 - 玉鋼 - 球対称 - タミフル - タリウム - タルク - ダルツェン縮合 - 炭化 - 炭化ケイ素 - 炭化硅素 - 炭化珪素 - 炭化水素 - 炭化チタン - 炭化物 - タングステン - タングステン鋼 - ダングリングボンド - 単結合 - 単結晶 - 単原子分子 - 炭酸 - 炭酸アンモニウム - 炭酸イオン - 炭酸エステル - 炭酸塩 - 炭酸ガス - 炭酸カリウム - 炭酸カルシウム - 炭酸固定 - 炭酸水素アンモニウム - 炭酸水素カリウム - 炭酸水素ナトリウム - 炭酸ソーダ - 炭酸同化 - 炭酸同化作用 - 炭酸ナトリウム - 炭酸バリウム - 炭酸ビス(トリクロロメチル) - 炭酸ビス(トリクロロメチル) - 炭酸マグネシウム - 炭酸リチウム - 単斜硫黄 - 単斜晶系 - 胆汁酸 - 単純タンパク質 - 単純分子軌道法 - たん白質 - タン白質 - 炭水化物 - 男性ホルモン - 炭素 - 炭素12 - 炭素14 - 炭素化合物 - 炭素原子 - 炭素鋼 - 炭素固定 - 炭素循環 - 炭素スケール - 炭素繊維 - 炭素同化 - 炭素当量 - 単体 - 担体 - タンタル - タンタル酸リチウム - 単糖 - 単糖類 - タンニン - 断熱過程 - タンパク - 蛋白質 - タンパク質 - たんぱく質 - 蛋白質構造データバンク - タンパク質構造予測 - タンパク質ホルモン - 単分子磁石 - 単離 - 単量体 -
チアゾール - チアミン - 地域活性化 - チーグラー・ナッタ触媒 - チウラム - トーマス・チェック - チオアミド - チオエステル - チオエステル結合 - チオール - チオール基 - チオケトン - チオシアン酸カリウム - チオジグリコール - チオフェノール - チオフェン - チオペンタール - チオペンタールナトリウム - チオ硫酸 - チオ硫酸ナトリウム - アーロン・チカノーバー - 置換基 - 置換反応 - チキソトロピー - 地球化学 - 蓄光 - チクロ - 血色素 - 血朱 - チタニウム - チタン - チタン黄 - チタン酸ジルコン酸鉛 - チタン酸バリウム - チタン族元素 - チタン鉄鉱 - チチバビン反応 - 乳棒 - 窒化アルミニウム - 窒化ガリウム - 窒化ケイ素 - 窒化水素 - 窒化物 - 窒化物半導体 - 窒化ホウ素 - 窒化リチウム - チッ素 - 窒素 - 窒素化合物 - 窒素固定 - 窒素酸化物 - 窒素分子 - チトクローム - チトクロム - チトクロムオキシターゼ - チミン - チモールフタレイン - チモールブルー - チャージアップ - チャート (岩石) - チャイニーズブルー - シドニー・チャップマン - チャンドラセカール・ラーマン - 中員環 - 注射器 - 抽出 - 中性 (酸塩基) - 中性子 - 中性子回折 - 中性子回折法 - 中性子過剰核 - 中性脂質 - 鋳造 - 鋳鉄 - チューブリン - 中和 (化学) - 中和滴定 - 超アクチノイド元素 - 超イオン伝導体 - 超ウラン元素 - 超遠心機 - 潮解 - 潮解性 - 超強酸 - 超共役 - 超合金 - 超硬合金 - 超格子 - 超高速レーザー分光法 - 超酸 - 超重元素 - 超純水 - 長石 - 超塑性 - 超分子 - 張力説 - 超臨界状態 - 超臨界流体 - 超ろ過膜 - 調和振動子 - 直鎖 - 直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム - 直接型メタノール燃料電池 - 直接形メタノール燃料電池 - 直接ギャップ - 直接ジメチルエーテル燃料電池 - 直接DME燃料電池 - 直接メタノール形燃料電池 - 直接メタノール型燃料電池 - 直接メタノール燃料電池 - チラム - チリ硝石 - チロシン - チンダル現象 - 沈殿 - 沈澱 - 沈でん - チンワルド雲母 -
カール・ツィーグラー - ツィーグラー・ナッタ触媒 - ツィグラー・ナッタ触媒 - ミハイル・ツヴェット - 2C-I - 次亜塩素酸 - 次亜塩素酸カルシウム - 次亜塩素酸ソーダ - 次亜塩素酸ナトリウム - 次亜臭素酸 - 次亜硝酸 - 次亜フッ素酸 - 次亜ヨウ素酸 - 常磁性体 - 強相関電子系 - ツヨン - ツリウム -
ファウスト・デ・エルヤル - テアニン - TRNA - Trp - TRP - DIBAH - DIBAL - DIBAL-H - 呈味性ヌクレオチド - 定圧過程 - 定圧比熱 - 定圧モル比熱 - ジョン・ディー - DEET - TED - TEDA - ティーエスワン - ディークマン縮合 - ディート - オットー・ディールス - ディールス・アルダー反応 - ディールスアルダー反応 - ディーン・スターク管 - ディーン・スターク装置 - DHA - THF - THC - DABCO - DXR - TS-1 - DNA - DNAシーケンサー - DNAトポイソメラーゼ - DNAプライマーゼ - DNAヘリカーゼ - DNAポリメラーゼ - DNAリガーゼ - TNT火薬 - DFPT法 - DME燃料 - DMAP - DMSO - DMF - DMFC - D軌道 - T-CHO - TCA回路 - TCAサイクル - 定常状態 - 定常状態法 - 定性分析 - 定積過程 - 定積比熱 - 定積モル比熱 - Tz - ウィルヘルム・ティセリウス - D体 - DWNT - 低炭素鋼 - DDNP - DDFC - TDLDA - DDQ - DDT - TDDFT - D電子 - 低排出ガス車認定制度 - TPAP - TB-LMTO - DPPA - Dブロック元素 - 定量的構造活性相関 - 定量分析 - Tyr - TYR - リオ・ティント - デーヴィー - ヘンリー・デーキン - デーキン・ウェスト反応 - デーキン反応 - ハンフリー・デービー - ヨハン・デーベライナー - デーリタ・ドレヴェシーナ - デーリタ・ドレヴェスィーナ - ウィリアム・デーリング - デオキシリボース - デオキシリボ核酸 - デオキシリボヌクレアーゼ - デカン - 滴下漏斗 - 滴下ロート - デキストリン - 滴定 - テクネチウム - アルフレッド・デクロワゾー - デザイナー・ドラッグ - デザイナーズ・ドラッグ - デザイナーズドラッグ - デザイナードラッグ - デシケーター - デス・マーチン・ペルヨージナン - デス・マーチン酸化 - テストステロン - デスミン - デゾラム - テタヌストキシン - テタノスパスミン - 鉄 - 鉄系形状記憶合金 - 鉄鉱石 - 鉄朱 - 鉄族元素 - 鉄丹 - 鉄分 - デッラ・ポルタ - テトラカルボニルニッケル - テトラクロロエチレン - テトラクロロ金酸 - テトラクロロメタン - テトラヒドリドホウ酸ナトリウム - テトラヒドロカンナビノール - テトラヒドロフラン - テトラヒドロほう酸ナトリウム - テトラヒドロホウ酸ナトリウム - テトラフルオロホウ酸 - デトリタス - テトリル - テトロドトキシン - ルイ・テナール - デナトニウム - スミソン・テナント - テネシン - デノシン - デバイ - ピーター・デバイ - デバイの比熱式 - デバイ比熱 - デバイ-ヒュッケルの式 - デパス - デプロメール - テフロン - デムナット - デモクリトス - ヴィンセント・デュ・ヴィニョー - デュアー - デュロテップパッチ - デュロン=プティの法則 - デュワー - ジェイムス・デュワー - ジェイムズ・デュワー - ジェームス・デュワー - ジェームズ・デュワー - デュワーベンゼン - テラ・ローザ - 照沼大陽 - ウォーレン・デラルー - テラローザ - テラン - デリタ・ドレヴェシーナ - デリタ・ドレヴェシナ - アンドレ・デル・リオ - アンドレス・マヌエル・デル・リオ - 輝銀鉱 - 輝線 - デルタ・ウッド - デルタ・ドレヴェシーナ - デルタ・ドレヴェシナ - デルタウッド - ΔFe - Δカロテン - デルタ合板 - Δ鉄 - デルタフェライト - デルタ木材 - ヨハン・テルデ - 輝銅鉱 - テルビウム - テルペノイド - テルペン - テルペンアルカロイド - テルミット - テルミット法 - デルモルフィン - テルリド - テルル - テルル化水素 - テレビン油 - テレピン油 - テレフタル酸 - 転移点 - 転移熱 - 転位反応 - 転移反応 - 電位-pH図 - 電位窓 - 電荷 - 電解 - 電解液 - 電解質 - 電解質溶液 - 電解精錬 - 電荷移動吸収帯 - 電荷移動錯体 - 電荷移動遷移 - 電解の法則 - 転化糖 - 電荷の保存則 - 電荷密度の混合の仕方 - 電気陰性度 - 電気泳動 - 電気化学 - 電気化学ポテンシャル - 電気銅 - 電気分解 - 電気鍍金 - 電極 - 電気量 - 点群 - 典型元素 - 点欠陥 - 電子 - 電子移動反応 - 電子ガス - 電子殻 - 電子環状反応 - 電子気体 - 電子軌道 - 電子吸引性 - 電子求引性基 - 電子供与性 - 電子供与性基 - 電子供与体 - 電磁鋼 - 電子構造 - 電磁鋼板 - 電子受容体 - 電子常磁性共鳴 - 電子状態 - 電子状態計算 - 電子親和力 - 電子スピン共鳴 - 電子対 - 電子対反発理論 - 電子伝達系 - 電子伝達体 - 天使の梯子 - 電子配置 - 電子捕獲 - 電子求引性 - 展延性 - 天青石 - 電池 - 伝導帯 - 伝導電子 - デンドリマー - 天然化合物 - 天然ゴム - 天然樹脂 - 天然存在比 - 天然物 - 天然物化学 - 電媒定数 - デンプン - 電離 - 転炉 -
ベギエ・ド・シャンクルトワ - テオフィル・ド・ドンデ - ルイ・ド・ブロイ - ド・ブロイ波 - 糖 - 銅 - 等温過程 - 等温変化 - 糖アルコール - 銅アンモニアレーヨン - 同位元素 - 同位体 - 同位体効果 - 同化反応 - 糖鎖 - 凍結乾燥 - 東国製鋼 - 銅酸化物 - 糖脂質 - 糖質 - 糖質コルチコイド - 同重体 - 透析 - 同素体 - 糖蛋白 - 糖タンパク質 - 糖蛋白質 - 同定 - 等電点 - 糖原性アミノ酸 - 糖分 - ドウモイ酸 - 当量 - 糖類 - 登録システム - ドーパミン - ドープ - ゲルハルト・ドーマク - G. ドーマク - ドキソルビシン - 毒劇物取締法 - 毒劇法 - 特性基 - 特性基順位一覧 - 特定化学物質及び四アルキル鉛等作業主任者技能講習 - 特定化学物質作業主任者 - 特定化学物質等作業主任者 - 特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律 - 特定製品に係るフロン類の回収及び破壊の実施の確保等に関する法律 - 特定石油製品輸入暫定措置法 - 特定有害廃棄物等の輸出入等の規制に関する法律 - 毒物 - 毒物および劇物取締法 - 毒物及び劇物取締法 - 毒物劇物取扱者 - 毒物劇物取扱責任者 - 毒物劇物取扱法 - ドグマチール - 時計皿 - ドコサヘキサエン酸 - ト字管 - 土壌汚染対策法 - トシル酸 - トスフロキサシン - ドセタキセル - トタン - アレクサンダー・トッド - ドデカン - ドパミン - ドパミン受容体 - アンドレ=ルイ・ドビエルヌ - ドブニウム - トポイソメラーゼ - トポテシン - ウジェーヌ・ドマルセー - ユージェン・ドマルセー - ドミトリー・メンデレーエフ - ウィリアム・トムソン - トムソン効果 - トムバック - 共洗い - 共重合 - 共沈 - ドライアイス - トライボロジー - マーク・ドラフォンテーヌ - ドラフトチャンバー - ドラム缶 - トランス (化学) - トランス脂肪酸 - トランス体 - トランスフェラビリティー - トリアシルグリセロール - トリアジン - トリアゾール - トリアゾラム - トリアムシノロン - トリウム - トリエチルアミン - トリエチレンジアミン - ドリエル - トリエン - トリグリセリド - トリクレン - トリクロサン - トリクロル酢酸 - トリクロロエチレン - トリクロロ酢酸 - トリクロロニトロメタン - トリクロロメタン - トリコテセン - トリゴネリン - ヘルメス・トリスメギストス - トリチウム - トリテルペン - トリニトロトルエン - トリニトロフェノール - トリハロメタン - トリフェニルホスフィン - トリプシン - トリプトファン - トリフルオロ酢酸 - トリブロモメタン - トリヘキスビウム - トリホスゲン - トリメチルシリルジアゾメタン - トリメチルベンゼン - トリメチレントリニトロアミン - トリヨードメタン - トルートンの規則 - トルエン - トルコ石 - ドルトン (単位) - ジョン・ドルトン - ドルトンの法則 - トルマリン - トレーサー - トレハロース - トロンビン - トロンボキサン -
ナイアシン - 内殻電子 - 内丹術 - ナイトロジェンマスタード - 内部エネルギー - 内分泌攪乱化学物質 - 内分泌撹乱化学物質 - 内分泌攪乱物質 - 内分泌撹乱物質 - 内分泌かく乱物質 - ナイロン - ナイロン11 - ナイロン12 - ナイロン6 - ナイロン610 - ナイロン612 - ナイロン66 - ナイロン6I - ナイロン6T - ナイロン9T - ナイロンM5T - ナイロン-12 - 中井直正 - 中炭素鋼 - 中西準子 - 中原弘雄 - 中村栄一 - なすフラスコ - ジュリオ・ナッタ - ナトリウム - ナトリウム・硫黄電池 - ナトリウムフェノキシド - ナノカー - ナノテク - ナノテクノロジー - ナノホーン - ナフサ - ナフタリン - ナフタレン - ナフチルアミン - ナフチル基 - ナフトール - ナプロキセン - 鉛 - 鉛作業主任者 - 鉛蓄電池 - 鉛フリーはんだ - ナメキール - ナメトックス -
2,4-ジニトロフェノール - 2-アザナフタレン - 二亜硫酸 - 2-イミダゾリジノン - ニオブ - ニオブ酸リチウム - 膠質 - 膠化体 - ニキシー管 - ニクロム - 二クロム酸アンモニウム - 二クロム酸カリウム - ニクロム線 - ニコチン - ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド - ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸 - ニコラス=ルイ・ボークラン - 二酸化硫黄 - 二酸化ウラン - 二酸化塩素 - 二酸化ケイ素 - 二酸化硅素 - 二酸化珪素 - 二酸化水素 - 二酸化セレン - 二酸化炭素 - 二酸化炭素固定 - 二酸化チタン - 二酸化窒素 - 二酸化テルル - 二酸化鉛 - 二酸化マンガン - 2,3-ジクロロ-5,6-ジシアノ-1,4-ベンゾキノン - 二次イオン質量分析 - 二次イオン質量分析法 - 2次元周期的境界条件 - 二次代謝 - 西塚泰美 - 二重結合 - 二重水素 - 仁田勇 - ニッケル - ニッケルイエロー - ニッケル・カドミウム蓄電池 - ニッケルカルボニル - ニッケル乾電池 - ニッケル系一次電池 - ニッケル・水素蓄電池 - ニッケルチタンイェロー - ニッケルチタンイエロー - ニッケルチタンエロー - ニッケルチタン黄 - ニッポニウム - 二糖 - 丹銅 - 二糖類 - ニトラス - ニトラステープ - ニトリル - ニトル基 - ニトロール - ニトロールRカプセル - ニトロール錠 - ニトロールスプレー - ニトロール注 - ニトロ化 - ニトロ化合物 - ニトロ基 - ニトログアニジン - ニトログリコール - ニトログリセリン - ニトロセルロース - ニトロソ化合物 - ニトロソ基 - ニトロソグアニジン - ニトロナフタリン - ニトロバイド - ニトロバイド錠 - ニトロフィックス - ニトロフェロイン - ニトロベンゼン - ニトロメタン - 2-ニトロナフタレン - ニホニウム - 2-ブタノン - 二フッ化キセノン - 二フッ化クリプトン - 2-プロパノール - 2-ベンズアジン - 二ホウ化マグネシウム - 日本化学会 - 日本の化学に関する資格一覧 - 日本薬局方 - 2-メチル-1-プロパノール - 2-メチル-2-プロパノール - 2-メルカプトエタノール - 二面角 - 乳化剤 - ニューコクシン - 乳酸 - 乳酸脱水素酵素 - 乳濁液 - 乳糖 - ニュートラルレッド - ニュートンの冷却の法則 - 乳鉢 - ニューマン投影式 - ニューマン投影図 - ジョン・ニューランズ - 尿酸 - 尿素 - 尿素回路 - 尿素サイクル - 2,4,5-T - 2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 - 二硫化炭素 - 二硫化モリブデン - 二硫酸 - ニルソン図 - ニンヒドリン - ニンヒドリン反応 -
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ネオジム - ネオジム磁石 - ネオペンタン - ネオン - 熱化学 - 熱化学方程式 - 熱交換器 - 熱振動 - 熱浸透率 - 熱素説 - 熱電効果 - 熱電子 - 熱伝導 - 熱電能 - 熱濃硫酸 - 熱媒 - 熱媒体 - 熱放射 - 熱容量 - 熱力学 - 熱力学・統計力学の年表 - 熱力学温度 - 熱力学第三法則 - 熱力学的平衡 - ネプツニウム - ネマティック液晶 - ネルボン酸 - ヴァルター・ネルンスト - ネルンストの式 - 燃焼 - 燃素 - 燃素説 -
カール・ノイベルグ - ノイベルグの発酵形式 - 農芸化学 - 濃硝酸 - 濃度 - 脳内麻薬 - 農薬取締法 - 農用地の土壌の汚染防止等に関する法律 - 濃硫酸 - ノーザンブロッティング - ジョン・ノースロップ - ノーベリウム - アルフレッド・ノーベル - ノーベル化学賞 - 野崎・檜山・岸・高井反応 - 野崎・檜山・岸反応 - 野崎・檜山反応 - 野崎一 - 野副鉄男 - ワルター・ノダック - ノックビン - ノナン - 昇汞 - ノメックス - 野依良治 - 糊 - 糊精 - ノルアドレナリン - ノルエピネフリン - ノルディック・ゴールド - ノルマル吉草酸 - ノルマルバレルアルデヒド - ノルマルブチルアルデヒド - ノルマル酪酸 - ノンネルブ -
パーキン - ウィリアム・パーキン - バークリウム - パークロロエチレン - ウォルター・ハース - ハース投影式 - バーチ還元 - バーチャルライブラリー - アーサー・ハーデン - ハートリー原子単位 - ハートリー項 - ハートリー-フォック法 - ハートリー-フォック方程式 - ハートレー・フォック方程式 - バーナー - バーナード・カッツ - フリッツ・ハーバー - ハーバー・ボッシュ法 - ハーバー法 - パープリン - パーフルオロメタン - パーマロイ - パーメンジュール - パーメンデュール - パーライト - パーライト (岩石) - オットー・ハーン - バイアグラ - 配位 - 配位化学 - 配位結合 - 配位子 - 配位高分子 - 配位子吸収帯 - 配位子場 - 配位子場理論 - 配位子理論 - バイオセンサー - バイオプラスチック - バイオマテリアル - バイオリアクター - 砒化水素 - 排ガス規制 - 排気ガス規制 - 排気ガス処理 - 廃棄物 - 廃棄物等 - Π結合 - 媒質 - 倍数比例の法則 - Πスタッキング - ハイゼンベルクの運動方程式 - Π電子 - 配糖体 - ハイドロクロロフルオロカーボン - ハイドロフルオロカーボン - ハイネ-アバレンコフの擬ポテンシャル - Heine-Abarenkovの擬ポテンシャル - Π-π* 遷移 - Π-π相互作用 - パイプ - ハイブリッド法 - ハイポ - バイメタル - アドルフ・バイヤー - アドルフ・フォン・バイヤー - バイヤー・ビリガー酸化 - バイヤー・ビリガー転位 - バイヤー・ビリガー反応 - フリードリヒ・バイルシュタイン - バイルシュタイン・データベース - バイルシュタイン試験 - バイルシュタインテスト - ハイン-アバレンコフの擬ポテンシャル - パウリ - ヴォルフガンク・パウリ - ヴォルフガング・パウリ - ヴォルフガンク・エルンスト・パウリ - ヴォルフガング・エルンスト・パウリ - パウリ常磁性 - パウリの原理 - パウリの排他原理 - パウリの排他律 - パキシル - 麦芽糖 - 爆轟 - 爆轟特徴数の簡易推定法 - バクセン酸 - 薄層クロマトグラフィー - 爆速 - バグダッド電池 - バクテリオロドプシン - 白銅 - 爆発 - 爆発限界 - 爆発物 - 爆薬 - パクリタキセル - ルイ・パスツール - ハステロイ - 長谷川登志夫 - バソプレッシン - 八隅説 - 発エルゴン反応 - 発煙硝酸 - 発煙硫酸 - 発火点 - 発癌性 - 発ガン性 - 発がん性 - 発癌性物質 - 発ガン性物質 - 発癌物質 - 発がんプロモーション - 発がんプロモーター - バッキーボール - 白金 - 白金永久磁石 - 白金磁石 - 白金鉄系磁石 - 白金鉄磁石 - 発光 - 発光酵素 - 発光素 - ハッシウム - 発色団 - オッド・ハッセル - ハッチ - スリャック経路 - 発熱反応 - 発熱量 - 発泡スチロール - 波動関数 - バトラコトキシン - バナジウム - バナジウム鋼 - バニリン - パパイン - バビットメタル - ハフニウム - ハミック反応 - ハミルトニアン - ハミルトン関数 - パム - ハメット則 - ハメットの置換基定数 - ハモンドの仮説 - パラ・ジ・クロロベンゼン - P-α-ナフトールフタレイン - パラオキシ安息香酸エステル - パラケルスス - パラコート - パラジウム - バラシクロビル - パラジクロルベンゼン - パラジクロロベンゼン - パラゼット - 原田明 (超分子化学者) - パラチオン - パラトルエンスルホン酸 - P-トルエンスルホン酸 - P-ニトロフェノール - パラフィン - P-フェニルアゾフェノール - パラプラチン - パラベン - ハリースオゾン分解 - バリウム - バリキサ - パリトキシン - バリン - バル - パルギン - バルビタール - バルマー系列 - パルミチン酸 - パルミトレイン酸 - パロキセチン - ハロゲノ基 - ハロゲン - ハロゲン化 - ハロゲン化アシル - ハロゲン化アルキル - ハロゲン化合物 - ハロゲン化水素 - ハロゲン化反応 - ハロゲン化物 - ハロゲン系炭化水素 - ハロゲン置換体 - ハロホルム反応 - ハワース投影式 - 攀枝花新鋼バナジウム - 反強磁性 - 半金属 - 半合成繊維 - バンコマイシン - 反磁性 - 反射高速電子線回折 - ハンス・クレプス - 反水素 - ハンスディーカー反応 - はんだ - はんだ付け - ハンダ付け - 半田付け - 反電子 - ティモシー・ハント - バンド間遷移 - 半透膜 - バンドギャップ - バンド計算 - バンド計算での単位 - バンド構造 - パントテン酸 - バンド端発光 - バンド理論 - 反応機構 - 反応経路 - 反応式 - 反応速度 - 反応速度論 - 反応中間体 - 反応熱 - 反応名 - 反応物 - バンバーガー転位 - 反物質 - ハンフリー・デーヴィ - ハンフリー・デーヴィー -
ヒアルロン酸 - Pro - PRO - PRTR - PRTR制度 - PRTR法 - BINAP - BioDME - Bio-DME - PEFC - PEO - PEG - PETN - Phe - PHE - PH試験紙 - PH指示薬 - ピーエッチ - PMSF - BLAST - Polymer Electrolyte Fuel Cell - ビーカー - P軌道 - PKa - PCC酸化 - PCB処理特別措置法 - ウィルヘルム・ヒージンガー - PZT - BZ反応 - C.J. ピーダーセン - PDC酸化 - P電子 - ビードロ - PBDE - PBB - PVA - PVC - PVD - PVDF - Pブロック元素 - Pu - Pulay補正 - Bulletin of the Chemical Society of Japan - BuChE - ビールーニー - ビウンウニウム - ビウンエンニウム - ビウンオクチウム - ビウンクアジウム - ビウンセプチウム - ビウントリウム - ビウンニリウム - ビウンビウム - ビウンヘキシウム - ビウンペンチウム - ビエンウニウム - ビエンニリウム - ビオクトエンニウム - ビオチン - ヒ化ガリウム - 光化学 - 光呼吸 - 光触媒 - 光電流 - 非共有電子対 - 日局 - 非局在化 - 非極性溶媒 - 卑金属 - 非金属 - 非金属元素 - ビクトル・マイヤー - ビグリューカラム - ピクリン酸 - ビクロックス - 微細構造定数 - 菱苦土鉱 - 非磁性体 - ピシバニール - 比重 - 非晶質シリコン - 非晶質半導体 - ヒ素 - ヒスイ - ヒスイ輝石 - ビスコース - ヒスタミン - ヒスチジン - ビスフェノールA - ビスマス - ビスムタン - ビスムチン - ビセプトビウム - 砒素 - 非対称ジメチルヒドラジン - ビタミン - ビタミンE - ビタミンA - ビタミンF - ビタミンM - ビタミンQ - ビタミンK - ビタミンC - ビタミンD - ビタミンB1 - ビタミンB2 - ビタミンB3 - ビタミンB6 - ビタミンB群 - 必須アミノ酸 - 必須脂肪酸 - ジョージ・ヒッチングス - ヴィルヘルム・ヒットルフ - 非鉄金属材料 - 一重結合 - 一重項酸素 - ヒト絨毛性ゴナドトロピン - ヒドラジン - ヒドリド - ヒドリド還元 - ビトレックス - ヒドロキシカルボン酸 - ヒドロキシ基 - ヒドロキシ酸 - ヒドロキシラジカル - ヒドロキシラミン - ヒドロキシルアミン - ヒドロキシル基 - ヒドロキシルラジカル - ヒドロキノン - ヒドロゲル - ヒドロニウムイオン - ヒドロホウ素化 - ヒドロ硼素化 - ヒドロホルミル化 - ヒドロン - ピナコール転位 - ピナコール-ピナコロン転位 - ピナコリン転位 - ピナコロン転位 - ビニール - ビニルアルコール - ビニルウニウム - ビニルエンニウム - ビニルオクチウム - ビニル基 - ビニルクアジウム - ビニルセプチウム - ビニルトリウム - ビニルニリウム - ビニルビウム - ビニルヘキシウム - ビニルペンチウム - ビニロン - 比熱 - 比熱比 - 比熱容量 - ヒビテン - ビピリジン - ビフェニル - ピペット - ピペラジン - ピペリジン - ひまし油 - ビメンチン - ピューター - ヒューニッヒベース - Hunig's Base - ヒューム・ロザリー則 - ヒューム・ロザリーの規則 - ヒューム・ロザリーの法則 - ヒューム‐ロザリー則 - ヒューム‐ロザリーの規則 - ヒューム‐ロザリーの法則 - ウィリアム・ヒューム=ロザリー - アントワーヌ・ビュシー - ヒュッケル - エーリヒ・ヒュッケル - エリッヒ・ヒュッケル - ヒュッケル則 - ヒュッケル法 - ビュレット - 標準酸化還元電位 - 標準自由エネルギー変化 - 標準状態 - 標準大気圧 - 氷点 - 表面準位 - 表面第一層 - 表面張力 - ピラジン - ピラゾール - ピラン - ビリジアン - ピリジニウム - ピリジン - ピリダジン - ピリミジン - ピリミジン塩基 - ビリヤルの式 - 微量元素 - 微量放射性同位体 - ビリルビン - ペーター・ヒルシュ - ビルスマイヤー・ハック反応 - ビルスマイヤー反応 - アルトゥーリ・ビルタネン - ビルトリシド - ピルビン酸 - ビルヘキサル - ピレスロイド - ピレスロロン - ピレトリン - ピレトリンI - ピレトリンII - ピレン - ピロール - ピロール環 - ピロガロール - ヒロポン - ピロ硫酸 - ピロリン酸 - ビンクリスチン - シリル・ヒンシェルウッド - ビンデシン - ビンブラスチン - 貧溶媒 -
ロバート・ファーチゴット - ファヴォルスキー転位 - ファウスト・デルイヤール - ウィリアム・ファウラー - ファストグリーン - ファストグリーンFCF - ファセオリン - ファボルスキー転位 - ファラデー - マイケル・ファラデー - ファラデー回転 - ファラデー効果 - ファラデー定数 - ファラデーの電気分解の法則 - ファルネソール - ファン・デル・ワールス - ヨハネス・ファン・デル・ワールス - ファン・デル・ワールス吸着 - ファン・デル・ワールスクラスター - ファン・デル・ワールス結合 - ファン・デル・ワールス錯体 - ファン・デル・ワールス力 - ファンデアワールス力 - ファンデルワールス - ファンデルワールス吸着 - ファンデルワールスクラスター - ファンデルワールス結合 - ファンデルワールス錯体 - ファンデルワールス力 - ファンデルワールスの状態方程式 - ファンデルワールス半径 - ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ - ファント・ホッフ - ファントホッフ - ファンネル - フィードバック阻害 - Val - Valine - VSEPR - VSEPR則 - VSEPR理論 - VLDL受容体 - VOC - VOCs - フィコシアニン - フィチン - フィチン酸 - エドモンド・フィッシャー - エミール・フィッシャー - エルンスト・フィッシャー - ハンス・フィッシャー - フィッシャーエステル合成反応 - フィッシャー投影式 - フィッシャー投影図 - フィッシャーのインドール合成 - フィトクロム - VBL - フィブリン - フィブロイン - フィルスマイヤー・ハーク反応 - フィルスマイヤー反応 - フィルタープレス - フィルデシン - フィンガープリント - 風化 - 風解 - 風化作用 - アドルフ・ブーテナント - プールベ - マルセル・プールベ - プールベ図 - プールベダイアグラム - プーレイ補正 - フェーリング液 - フェーリング試薬 - フェーリング反応 - フェオフィチン - フェナントレン - フェナントロリン - フェナントロリン鉄(II) - フェニルアラニン - フェニルエチルアミン - フェニル基 - フェニルプロパノイド - フェニルメタノール - フェニルメタンスルホニルフルオリド - フェネチラミン - フェネチルアミン - フェノール - フェノール樹脂 - フェノールフタレイン - フェノールレッド - フェノサフラニン - フェノトリン - フェノバール - フェノバルビタール - フェライト (磁性材料) - フェライト磁石 - フエライト磁石 - フェライト相 - フェリシアン化カリウム - フェリ磁性 - フェルキン-アーンのモデル - フェルプスドッジ - フェルミウム - フェルミエネルギー - フェルミ準位 - フェルミ速度 - フェルミ面 - フェルミレベル - フェレドキシン - フェロアロイ - フェロイン - フェロクロム - フェロ磁性 - フェロセン - フェロマンガン - フェロモン - フェンサイクリジン - フェンタニル - フェンタネスト - フォールディング - フォトニック結晶 - フォトニックバンド - フォノンバンド - フォン・リヒター反応 - 不可逆反応 - 不可視光線 - フガシティー - 付加重合 - 付加脱離反応 - 付加反応 - 不完全燃焼 - 不規則合金 - 不揮発性 - 負極 - 福井謙一 - 複合タンパク質 - 複酸化物 - 輻射能 - 副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン - 副腎皮質ステロイド - 複素環 - 複素環式化合物 - 複素環状化合物 - 福山還元 - 福山透 - フコース - ジャン・バティスト・ブサンゴー - 藤井紀子 - 不純物 - 不純物準位 - 腐食 - 不斉 - 不斉合成 - 不斉炭素 - 不斉炭素原子 - プタキロサイド - ブタジエン - ブタノール - ブタノン - 二又アダプター - 不均化 - フタルイミド - フタル酸 - フタル酸エステル - フタルスリン - フタロシアニン - ブタン - プチリルコリンエステラーゼ - ブチルゴム - ブチルパラベン - ブチルリチウム - ブチレン - 不対電子 - 普通鋼 - フッ化塩素 - フッ化カリウム - フッ化カルシウム - フッ化銀(I) - フッ化水素 - フッ化水素酸 - フッ化セシウム - フッ化フェニルメチルスルホニル - フッ化物 - フッ酸 - 物質 - 物質分類の一覧 - 物質量 - フッ素 - 物性 - 物性値 - 沸石 - 弗素 - 沸点 - 沸点上昇 - 沸騰 - 物理化学 - 物理気相成長 - 物理気相成長法 - 物理吸着 - 不定比化合物 - ブテン - 負電荷 - 不動態 - ブドウ糖 - ぶどう糖 - 葡萄糖 - ブドウ糖果糖液糖 - プトレシン - プトレッシン - ふね型 - 舟型 - 不働態 - ブフナー - エドゥアルト・ブフナー - エドュアルト・ブフナー - ブフナーろうと - ブフナーロート - 不飽和 - 不飽和化合物 - 不飽和結合 - 不飽和脂肪酸 - 不飽和炭化水素 - フマル酸 - フミン酸 - プメラー転位 - 浮遊粉塵 - フラーレン - リチャード・ブライト - ハーバート・ブラウン - ブラウン運動 - フラウンホーファー線 - アンリ・ブラコノー - プラジカンテル - ブラジキニン - ブラシノステロイド - プラス極 - フラスコ - プラスチック - プラスチック磁石 - プラスティック - プラスミン - プラセオ黄 - プラセオジム - プラセオジム・イェロー - プラセオジム・イエロー - プラセオジム・エロー - プラセオジムイェロー - プラセオジムイエロー - プラセオジムエロー - プラセオジム黄 - プラセオジム磁石 - プラチナ - プラチナ磁石 - ローレンス・ブラッグ - プラッチック - フラバン - フラビン - フラビンアデニンジヌクレオチド - フラビンモノヌクレオチド - フラボノイド - フラボン - フラメトリン - ニコラ・フラメル - プラリドキシムヨウ化メチル - ブラレトリン - フラン (化学) - マックス・プランク - プランク定数 - エドワード・フランクランド - アーシュラ・フランクリン - ロザリンド・フランクリン - プランケット - ロイ・プランケット - フランシウム - ブランスィック・グリーン - ブランスイック・グリーン - ブランスィックグリーン - ブランスイックグリーン - ブランスィック緑 - ブランスイック緑 - フランツ・ジョセフ・ミュラー - フランツ・ヨーゼフ・ミュラー・フォン・ライヒェンシュタイン - フランツ・ヨーゼフ・ミュラー・フォン・ライヘンシュタイン - イェオリ・ブラント - ヘニッヒ・ブラント - プラント・オパール - フランドルテープS - フリーズドライ - ジョゼフ・プリーストリー - シャルル・フリーデル - フリーデル・クラフツ反応 - フリーデルクラフツ反応 - フリードリッヒ・ウェーラー - フリードリッヒ・ヴェーラー - フリードリヒ・ウェーラー - フリーラジカル - プリオン - ブリキ - イリヤ・プリゴジン - プリズマン - ブリプラチン - ブリュースター角 - ブリリアントブルーFCF - プリン (化学) - プリン塩基 - プリンス反応 - プリン体 - ブルースター角 - ジョゼフ・プルースト - フルオキセチン - フルオレニルメチルオキシカルボニル基 - フルオレニルメトキシカルボニル基 - フルオロウラシル - フルオロカーボン - フルオロホウ酸 - フルオロメタン - フルクトース - プルシアンブルー - スタンリー・B・プルシナー - ブルシン - プルトニウム - フルトプラゼパム - フルニトラゼパム - フルバミド - ブルバレン - ブルフェン - フルフラール - プルプリン - フルボキサミン - フルボ酸 - フリッツ・プレーグル - フレーム発光 - フレオン - エイブラハム・フレクスナー - サイモン・フレクスナー - ブレット則 - フレデリック・アーベル - フレデリック・ソディー - プレポリマー - アレキサンター・フレミング - アレクサンダー・フレミング - フレンケル欠陥 - ヨハンス・ブレンステッド - フロキシン - フロギストン - フロギストン説 - プロキラリティ - プロキラリティー - プロキラル - プロゲステロン - プロザック - プロジェステロン - キャサリン・ブロジェット - プロス - プロスタグランジン - プロスタグランディン - フロセミド - プロタミン - ブロック重合 - コンラート・ブロッホ - ブロッホ関数 - ブロッホの定理 - プロテアーゼ - プロテイン - プロテオグリカン - プロトアクチニウム - プロパナール - プロパノン - プロパン - プロパン酸 - プロピオンアルデヒド - プロピオン酸 - プロビタミンA - プロピルパラベン - プロピレン - プロペナール - プロペン - プロメチウム - プロメデス - ブロメライン - フロモキセフ - ブロモクレゾールグリーン - ブロモクレゾールパープル - ブロモチモールブルー - ブロモフェノールブルー - ブロモホルム - プロリン - フロン - フロン回収破壊法 - フロンガス - フロン類 - フロンティア軌道 - フロンティア軌道理論 - フロンティア軌道論 - フロンティア電子理論 - 分圧 - 分液 - 分液漏斗 - 分液ロート - 分解点 - カシミール・フンク - 分光 - 分光学 - 分光法 - 分散系 - 分散媒 - 分子 - 分子間力 - 分子軌道 - 分子軌道法 - 分子結晶 - 分子構造 - 分子コロイド - 分子式 - 分子磁石 - 分子性結晶 - 分子性物質 - 分子力場 - 分子力場計算 - 分子動力学法 - 分子排斥 - 分子物理学 - 分子篩 - 分子ふるい - 分子マシン -分子模型- 分子力学 - 分子力学法 - 分子量 - 分析化学 - 分析手法 - ロベルト・ブンゼン - ブンゼンバーナー - フントの規則 - 粉末冶金 - プンメラー転位 - 分留 -
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ポアソンの法則 - ポール・ボアボードラン - ロバート・ボイル - ボイル=シャルルの法則 - ボイル・シャルルの法則 - ボイルの法則 - 方位量子数 - 崩壊 - 崩壊エネルギー - 方解石 - ホウ化水素 - 芳香環 - 芳香性 - 芳香族 - 芳香族化合物 - 芳香族多環化合物 - 芳香族炭化水素 - ホウ酸 - 硼酸 - 硼砂 - 放射化 - 放射化分析 - 放射壊変 - 放射性 - 放射性核種 - 放射性原子 - 放射性元素 - 放射性壊変 - 放射性同位元素 - 放射性同位体 - 放射性物質 - 放射性崩壊 - 放射能 - ボウショウ - ボウ硝 - ホウ素 - 抱水クロラール - ホウ水素化 - ホウ砂 - 硼素 - 琺瑯 - ほうろう - 飽和 - 飽和脂肪酸 - 飽和蒸気圧 - 飽和水蒸気量 - 飽和炭化水素 - ボーア・モデル - ボーアの原子模型 - ボーアの原子モデル - ボーア半径 - ボーア模型 - ボーアモデル - ボーキサイト - ホーナー・ワズワース・エモンズ反応 - ジョン・ポープル - ボーリウム - ライナス・ポーリング - ホール・エルー法 - ボールドウィン則 - ホールピペット - ボールミル - ホーロー - 補酵素 - 補酵素A - 補酵素Q - 保護基 - 保護コロイド - 保護反応 - ドロシー・ホジキン - ポジトロニウム - ホスゲン - ホスファン - ホスフィン - 保存力 - 保存力場 - ポタシウム - 蛍石 - Boc基 - カール・ボッシュ - 没食子酸 - ボツリヌストキシン - ポテンシャル - ポテンシャルエネルギー - ボトックス - 瓶 - 炎 - ボパール化学工場事故 - ホプキンソン効果 - ホフマイスター系列 - アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン - ロアルド・ホフマン - ホフマン則 - ホフマン脱離 - ホフマン転位 - ホフマン分解 - ホムンクルス - ホモキラリティ - ホモシステイン - ポラーニ・ミハーイ - ボラジン - ボラゾン - ボラン - マイケル・ポランニー - ポリアセタール - ポリアセチレン - ポリアミド - ポリアミド系樹脂 - ポリアミド樹脂 - ポリアミン - ポリイソブチレン - ポリイミド - ポリウレタン - ポリエステル - ポリエステル樹脂 - ポリエチ - ポリエチレン - ポリエチレン・テレフタレート - ポリエチレンオキシド - ポリエチレングリコール - ポリエチレンテレフタラート - ポリエチレンテレフタレート - ポリエチレンナフタレート - ポリエン - ポリ塩化ビニル - ポリ塩化ビフェニル - ポリ塩化ビフェニル廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法 - ポリオキシエチレン硬化ひまし油 - ポリオキソメタレート - ポリカーボネイト - ポリカーボネート - ポリカーボネート樹脂 - ポリケタイド - ポリケチド - ポリ酢酸ビニル - ポリ酸 - ポリ臭化ジフェニルエーテル - ポリ臭化ビフェニル - ポリシラン - ポリスチレン - ポリスルホン - ホリゾン - ポリタンク - ポリチオン酸 - ポリトリメチレンテレフタレート - ポリ乳酸 - ポリビニルアルコール - ポリビニルピロリドン - ポリフェノール - ポリブチレンテレフタレート - ポリブチレンナフタレート - ポリフッ化ビニリデン - ポリプロ - ポリプロピレン - ポリブロモジフェニルエーテル - ポリブロモビフェニル - ポリマー - ポリマーアロイ - ポリマーブレンド - ポリメタクリル酸メチル - ポリメチレン - アレッサンドロ・ボルタ - ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ - ボルタ電池 - ボルツマン - ルートヴィッヒ・ボルツマン - ボルツマン定数 - ホルトンのタキソール全合成 - ホルナー・エモンス試薬 - ホルナー・エモンズ試薬 - ホルナー・エモンス反応 - ホルナー・エモンズ反応 - ホルナー・ワズワース・エモンズ反応 - ボルネオール - ボルネオショウノウ - ポルフィリン - ポルフィリン環 - ポルフィン - ホルマリン - ホルマル基 - ホルミウム - ホルミル基 - ホルムアルデヒド - ボルン・オッペンハイマー近似 - ボルンオッペンハイマー近似 - ボルン-オッペンハイマー近似 - ホルンフェルス - ホロ酵素 - アレクサンドル・ボロディン - ポロニウム - ボロン - ホワイトゴールド - ホワイトメタル - 本多光太郎 - ボンド磁石 - ボンベ -
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三重結合 - 三重水素 - ミオグロビン - ミオシン - ミカエリス・アルブーゾフ反応 - ミカエリス・メンテン式 - ミカエリス・メンテン定数 - ミカエリス-メンテンの式 - ミキソロジー - 右田・小杉・スティルカップリング - 三島徳七 - 水 - 水ガラス - 水酸化銅(II) - ミセル - 溝呂木・ヘック反応 - ミッシュメタル - 密度行列 - 密度勾配遠心法 - 密度汎関数法 - 密度汎関数理論 - 光延旺洋 - ミノキシジル - 未発見元素の一覧 - ミューオニウム - ミュオニック原子 - ミュオンスピン回転 - ミュラー・フォン・ライヘンシュタイン - ミョウバン - ミラー指数 - ルイス・ミラモンテス - ミリスチン酸 - ミリスチン酸亜鉛 - ミリスチン酸ナトリウム - ミリストレイン酸 - ミロリーブルー - ミロリブルー -
無煙炭 - 無機化学 - 無機化合物 - 無機化合物の一覧 - 無機過酸化物 - 無機シアン - 無機触媒 - 無機生化学 - 無機物 - 無極性溶媒 - ムコ多糖 - 無酸素銅 - 無色鉱物 - 無水コハク酸 - 無水酢酸 - 無水フタル酸 - 無水プロピオン酸 - 無水マレイン酸 - 無水硫酸 - ムスカリン - ムスコン - ムチン - ムッシモール - 紫リン - 紫燐 - ムレイン -
明反応 - 命名法 - メイラード反応 - メーヤワイン・ポンドルフ・ヴァーレイ還元 - メーヤワイン・ポンドルフ・バーレイ還元 - メールワイン・ポンドルフ・バーレー還元 - メールワイン・ポンドルフ還元 - 旋光度 - 旋光 - 旋光性 - メサドン - メシチレン - メシル基 - メスカリン - メスシリンダー - メスバウアー効果 - メスピペット - メスフラスコ - メソ化合物 - メソ体 - メソトレキセート - メタ - メタアルデヒド - メタクリル酸メチル樹脂 - メタクロロ過安息香酸 - メタセシス反応 - メサドン - メタな - メタノール - メタマテリアル - メタロセン - メタロチオネイン - メタン - メタンガス - メタン生成経路 - メタンハイドレート - メタンフェタミン - メチオニン - メチルアミン - メチルアルコール - メチルイエロー - メチルイソブチルケトン - メチルエチルケトン - メチルエチルケトンパーオキサイド - メチルオレンジ - メチル基 - メチル水銀 - メチルターシャリーブチルエーテル - メチルパープル - メチルパラベン - メチルビオローゲン - メチルピロリドン - メチルフェニデート - メチルプレドニゾロン - メチルプロパン - メチルプロペン - メチルメルカプタン - メチルレッド - メチレン - メチレン青 - メチレン基 - メチレンブルー - めっき - 鍍金 - メッキ - メディピース - メトカチノン - メトトレキサート - メトトレキサート・ロイコボリン救援療法 - MEDLINE - メノウ - メバロン酸 - メバロン酸経路 - メラトニン - メラニン - メラニン色素 - ロバート・メリフィールド - メルカプタン - メルカプト基 - メルブロミン液 - 免疫グロブリン - 面欠陥 - 面心立方 - 面心立方格子 - 面心立方格子構造 - 面心立方構造 - メンソール - メンデレーエフ - ドミトリ・メンデレーエフ - メンデレビウム - メントール - メンブランフィルター -
アンリ・モアッサン - 毛細管 - 毛細管現象 - 燃える氷 - モーヴ - モース硬度 - ヘンリー・モーズリー (物理学者) - モーズン - モーダント・レッド - モーブ - モーベイン - モキシフロキサシン - 木材化学 - 木精 - モスコビウム - モダフィニル - 餅鉄 - モッシャー法 - Mosher法 - モット絶縁体 - モット転移 - 本野英吉郎 - モネル - モノ - モノアミンオキシダーゼ - モノアミン酸化酵素 - モノゲルマン - モノフルオロ酢酸 - モノマー - モノメチルヒドラジン - モノレイヤ - 催畸性 - 森田・ベイリス・ヒルマン反応 - 森野米三 - モリブデン - モル - Mol - モル数 - モル体積 - モル当量 - モル濃度 - モルヒネ - モル分率 - モルホリン - Mol/l - モレキュラーシーブ - モレキュラーシーブス - 諸熊奎治 - モンテカルロ法 - ルードウィッヒ・モンド - モントリオール議定書 -
ヤーン・テラー効果 - ヤーン・テラー歪み - 焼入れ性 - 焼き入れ性 - 冶金学 - YAG - 薬化学 - 薬剤 - 薬剤師国家試験 - 薬剤師法 - 薬さじ - 薬匙 - 薬事法 - 薬品 - 薬物代謝 - 薬包紙 - ヤコブ・ベルセリウス - ヤコブス・ヘンリクス・ファントホッフ - 薬局方 - ヤナックの定理 - 山口ラクトン化反応 - 山田興一 -
遊色効果 - UFT - UF膜 - Ullmann反応 - 融解 - 有害液体汚染防止管理者 - 融解塩電解 - 融解熱 - 有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律 - 誘起 - 有機硫黄化合物 - 有機塩 - 有機化学 - 有機化学反応 - 有機化合物 - 有機ガラス - 有機金属 - 有機金属化学 - 有機金属化合物 - 有機金属気相成長法 - 有機ケイ素化合物 - 誘起効果 - 有機合成 - 有機合成化学 - 有機酸 - 有機水銀 - 有機地球化学 - 有機電子論 - 有機物 - 有機分子 - 有機溶剤 - 有機溶媒 - 有機リチウム - 有限温度への拡張 - 有効原子番号則 - 融剤 - 融剤法 - 有色鉱物 - ユーストゥス・フォン・リービッヒ - 融点 - 融点測定 - 誘電体 - 誘電分極 - 誘電率 - 誘導結合プラズマ - 誘導体 - 誘導放出 - Ubh - Ubn - Ubq - Ubt - Ubb - Ubp - Ubu - UV-Vis - Uue - Uus - Uuu - ハロルド・ユーリー - 遊離基 - 遊離酸 - ユーロジン - ユウロピウム - 油脂 - ユストゥス・フォン・リービヒ - ユストゥス・リービッヒ - ユストゥス・リービヒ - ユビキノール - ユビキノン - 湯浴 - 油浴 - ジョルジュ・ユルバン -
陽イオン - 溶液 - 溶解 - 溶解性パラメータ - 溶解性パラメーター - 溶解度 - 溶解度積 - 溶解度定数 - 溶解度パラメーター - 溶解パラメーター - ヨウ化カリウム - ヨウ化銀 - ヨウ化水素 - ヨウ化メチル - 陽極 - 溶剤 - 葉酸 - 陽子 - 溶質 - 幼若ホルモン - 洋白 - ヨウ素 - よう素価 - ヨウ素価 - ヨウ素デンプン反応 - ヨウ素ヨウ化カリウム溶液 - 沃素 - 沃素価 - ヨウ素酸 - 陽電子 - 溶媒 - 溶媒抽出法 - 溶媒和 - 容量パーセント濃度 - 葉緑素 - ヨードホルム - ヨードホルム反応 - ヨードメタン - 吉野彰 - ヨハン・オルフガング・デーベライナー - 4-アミノ酪酸 - 四アルキル鉛等作業主任者 - 四エチル鉛 - 四塩化チタン - 四元素説 - 四酸化オスミウム - 四酸化二窒素 - 4-ジメチルアミノピリジン - 四臭化炭素 - 四水素化スズ - 四フッ化キセノン - 四フッ化炭素 -
チンターマニー・ラーオ - ラーデンブルクベンゼン - ライト・レッド - ライトレッド - ミュラー・フォン・ライヒェンシュタイン - タデウシュ・ライヒスタイン - ライマー・チーマン反応 - ライマー・ティーマン反応 - ラウールの法則 - ラウエ - マックス・フォン・ラウエ - ラヴォアジェ - ラヴォアジエ - アントワーヌ・ラヴォアジェ - アントワーヌ・ラヴォアジエ - ラヴォワジェ - ラヴォワジエ - アントワーヌ・ラヴォワジェ - アントワーヌ・ラヴォワジエ - ポール・ラウターバー - ラウリル硫酸ナトリウム - ラウリン酸 - ラウレス硫酸ナトリウム - 酪酸 - ラクタム - ラクチド - ラクチム - ラクトース - ラクトフェリン - ラクトン - アーネスト・ラザフォード - ダニエル・ラザフォード - ラザホージウム - ラジウム - ラジオアイソトープ - ラジカル (化学) - ラジカル重合 - ラジカル置換 - ラジカル置換反応 - ラジカル反応 - ラジカル付加 - ラジカル付加反応 - ラシックス - ラセミ化 - ラセミ体 - ラタモキセフ - ラヂウム - ラドン - ラネー合金 - ラネー触媒 - ラネーニッケル - ラネーニッケル触媒 - ラノステロール - ラピスラズリ - ラボアジェ - ラボアジエ - アントワーヌ・ラボアジエ - ラボナール - ラボワジェ - ラボワジエ - チャンドラセカール・ラマン - ラマン効果 - ラマン散乱 - ラミブジン - ラムスデン現象 - ウィリアム・ラムゼー - ランキンサイクル - アーヴィング・ラングミュア - ラングミュアの等温吸着式 - 乱雑位相近似 - ランジュバン方程式 - ランダウアーの原理 - ランタノイド - ランタノイド収縮 - ランタン - ランナーズハイ - ランバート・ベールの法則 - 卵白質 - ランベルトの法則 - ランベルト-ベールの法則 - 卵胞刺激ホルモン -
REACCS - リアップ - リアルタイムPCR - RHEED - リートベルト法 - リービッヒ - ユストゥス・フォン・リービッヒ - リービッヒ冷却器 - リービッヒ冷却管 - リービヒ - リウマトレックス - 李遠哲 - 理科年表 - リグニン - リコピン - リコペン - リコリン - リジッドバンドモデル - リシン - リジン - リシン (毒物) - リスパダール - リスペリドン - リゼルギン酸ジエチルアミド - 理想気体 - 理想気体の状態式 - 理想気体の状態方程式 - 理想溶液 - リゾチーム - リタリン - リチウム - リチウムイオン二次電池 - リチウムイオンポリマー二次電池 - リチウム塩 - リチウムジイソプロピルアミド - リチウム電池 - セオドア・リチャーズ - リチャード・クーン - リチャード・ジョン・ロバーツ - 律速段階 - 立体異性体 - 立体化学 - 立体配座 - 立体構造 - 立体障害 - 立体選択性 - 立体電子効果 - 立体特異性 - 立体配置 - 立方晶 - 立方晶窒化ホウ素 - 立方最密充填構造 - リドカイン - リトマス - リトマス紙 - リトマス試験紙 - リニアポリエチレン - リノール酸 - リノレン酸 - リパーゼ - ウィラード・リビー - イェレミアス・リヒター - テオドール・リヒター - リピンスキーの法則 - リピンスキールール - リファタック - リファタックL錠 - リファタックテープS - リブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ - リボース - リホーミング - リボ核酸 - リポ蛋白 - リボヌクレアーゼ - リボフラビン - リモネン - 略称・略号の一覧 (化合物名) - 硫安 - 硫加 - 硫化アリル - 硫化アンチモン - 硫化カドミウム - 硫化水銀 - 硫化水素 - 硫化スズ - 硫化第二水銀 - 硫化窒素 - 硫化鉄 - 硫化銅 - 硫化物 - 硫化リン - 硫酸 - 硫酸アトロピン - 硫酸アルミニウム - 硫酸アンモニウム - 硫酸イオン - 硫酸エーテル - 硫酸塩 - 硫酸カリ - 硫酸カリウム - 硫酸ジメチル - 硫酸水素ニトロシル - 硫酸鉄 - 硫酸銅 - 硫酸銅(II) - 硫酸ナトリウム - 硫酸ニコチン - 硫酸ニッケル - 硫酸バリウム - 硫酸ビンデシン - 硫酸ビンブラスチン - 硫酸マグネシウム - 流動接触分解 - リュードベリ定数 - 竜脳 - 硫砒鉄鉱 - 硫ヒ鉄鉱 - 量子化学 - 量子化学的手法 - 量子モンテカルロ法 - 量子論 - 両性酸化物 - 菱鉄鉱 - 良溶媒 - 緑色3号 - 緑閃石 - 緑柱石 - リレンザ - 理論化学 - 理論段 - 理論段数 - リン - 燐 - 燐灰石 - 臨界点 - 臨界ミセル濃度 - リン化カルシウム - リン化水素 - 燐光 - リン鉱石 - リンゴ酸 - リン酸 - 燐酸 - りん酸 - リン酸塩 - 燐酸塩 - リン酸オセルタミビル - リン酸化酵素 - リン酸緩衝生理食塩水 - リン酸三ナトリウム - リン酸トリクロリド - リン脂質 - リンドラー触媒 - りん光 -
ル・シャトリエ - ル・シャトリエ=ブラウンの原理 - ル・シャトリエの原理 - ルイ=ニコラ・ボークラン - ルイ・ジャック・テナール - ルイ・ド=ブロイ - 類似麻薬 - ギルバート・ルイス - ルイス塩基 - ルートヴィヒ・ボルツマン - レオポルト・ルジチカ - レオポルト・ルジツカ - ルシフェラーゼ - ルシフェリン - ルシフェレース - アンリ・ルシャトリエ - アンリ・ル・シャトリエ - アンリ・ルイ・ル・シャトリエ - ルシャトリエ=ブラウンの原理 - ルシャトリエ・ブラウンの原理 - ルシャトリエの原理 - ルチル - ルチン - るつぼ - 坩堝 - ルテイン - ルテチウム - ルテニウム - ルトサイド - アンリ・ヴィクトル・ルニョー - ルビジウム - Rubisco - RuBisCO - ルビスコ - RubisCO - ルミネセンス - ルミネッセンス - ルミノール - ルミノール反応 - LUMO -
レアアース - レアメタル - 励起 - 励起状態 - 0°C - レイノルズ数 - 冷媒 - レイリー散乱 - プリーモ・レーヴィ - レーヨン - ジャン=マリー・レーン - レオロジー - 瀝青炭 - レクチン - レシチン - レスタス - レスメトリン - レゾルシノール - レゾルシン - レチナール - レチノール - レドックス - レドックス電位 - レナカット - レニウム - レニン - レプチン - レフラー・ハモンドの仮説 - レボフロキサシン - 錬金 - 錬金術 - 錬金術師 - 錬丹術 - レンチナン - 錬鉄 - レントゲニウム - 煉丹術 - レンネット -
ロイコトリエン - ロイシン - 蝋 - 蠟 - ろう石 - 漏斗 - ろうと - ローズベンガル - ローゼムント還元 - ローゼンムント還元 - ローソン試薬 - ロータリーエバポレーター - ロータリーポンプ - ロープストン - シャーウッド・ローランド - フランク・シャーウッド・ローランド - マーチン・ローリー - ローレンシウム - ローレンス・ブラック - ろ過 - 濾過 - ろ過ビン - ろ紙 - 六価クロム - 六員複素環式化合物 - 緑青 - 六炭糖 - 6-ナイロン - LogP - 六フッ化硫黄 - 六フッ化ウラニウム - 六フッ化ウラン - 六フッ化キセノン - 六フッ化テルル - 六フッ化リン酸リチウム - 6,6-ナイロン - ロゲイン - 濾紙 - ロジウム - ヨハン・ロシュミット - ロタキサン - 6価クロム - マーティン・ロッドベル - 六方晶構造 - 六方最密構造 - 六方最密充填 - 六方最密充填構造 - ロドプシン - リチャード・ロバーツ - ロヒプノール - ロバート・ロビンソン - ロビンソン・アヌレーション - ロビンソン・アネレーション - ロビンソン環化 - ロビンソン環化反応 - ロビンソン環形成反応 - ロラゼパム - ロラタジン - ロラメット - ロルメタゼパム - フリッツ・ロンドン -
ワーグナー・メーヤワイン転位 - ワーファリン - ワーリン - ワイパックス - ワインレブアミド - 和鋼 - 綿火薬 - 渡辺順次 - ワッカー酸化 - ワッカー反応 - ワッカー法 - ワックス - ジェームズ・ワトソン - ワルデン反転 - ワルファリン - ワルファリンカリウム - ワルファリンK -
(2006年9月27日時点6545項目)
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"text": "化学に関する記事の一覧(かがくにかんするきじのいちらん)の目的は、化学に関係するすべてのウィキペディアの記事の一覧を作ることです。この話題に興味のある方はサイドバーの「リンク先の更新状況」をクリックすることで、変更を見ることが出来ます。",
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"text": "化学の分野一覧と重複することもあるかもしれませんが、化学分野の項目一覧です。化学で検索して出てきたものです。数字、英字、五十音順に配列してあります。濁音・半濁音は無視し同音がある場合は清音→濁音→半濁音の順、長音は無視、拗音・促音は普通に(ゃ→や、っ→つ)変換です。例:グリニャール反応→くりにやるはんのう",
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"text": "†印はその内容を内含する記事へのリダイレクトになっています。",
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"text": "註) Portal:化学#新着記事の一部は、ノート:化学に関する記事の一覧/化学周辺に属する記事に分離されています。",
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"text": "アート錯体 - Ate錯体 - R/S - RS表記法 - RS表示法 - RNアーゼ - RNase - RNAポリメラーゼ - RoHS - RoHS指令 - RKKY相互作用 - RDX - アーント・アイシュタート合成 - IARC発がん性リスク一覧 - アイオライト - I効果 - IChO - ICP-AES - ICP-MS - アイスラール錠 - Isentris - アイソトープ - アイソマー - アイトロール錠 - IUPAC - IUPAC組織名 - IUPAC名 - IUPAC命名法 - IUPAC命名法勧告一覧 - アイラックス - ヘンリー・アイリング - アイロクール錠 - アインスタイニウム - アヴォガドロ - アメデオ・アヴォガドロ - 亜鉛 - 亜鉛華 - 亜鉛黄 - 亜鉛族 - 亜鉛族元素 - 亜塩素酸 - 亜塩素酸ナトリウム - 蒼鉛 - 青葉アルコール - 赤血塩 - 赤チン - アカネ色素 - 赤堀四郎 - 赤リン - アガロース - アキシアル - 悪臭防止法 - ジュリアス・アクセルロッド - アクチオス - アクチダス - アクチニウム - アクチノイド - アクチノイド元素 - アクチノン - アクチビン - アクチン - アグファ - アグフア - アクリノール - アクリル - アクリルアミド - アクリルアルデヒド - アクリル酸 - アクリル酸ニトリル - アクリル樹脂 - アクリル繊維 - アクリルニトリル - アクリロニトリル - アクロレイン - アゴニスト - アコニチン - アザン - 亜酸化塩素 - 亜酸化窒素 - アジ化水素 - アジ化水素酸 - アジ化ナトリウム - アジ化鉛 - アジ化物 - アジ基 - アシクロビル - アシクロビン - アジスロマイシン - 芦田実 - 亜ジチオン酸 - アシッドレッド - アジド - アシ-ニトロ基 - アシビル - アジピン酸 - 亜臭素酸 - アシュクロフトの擬ポテンシャル - Ashcroftの擬ポテンシャル - 亜硝酸 - 亜硝酸アミル - 亜硝酸イオン - 亜硝酸イソアミル - 亜硝酸イソブチル - 亜硝酸イソプロピル - 亜硝酸エステル - 亜硝酸エチル - 亜硝酸塩 - 亜硝酸カリウム - 亜硝酸カルシウム - 亜硝酸銀 - 亜硝酸ナトリウム - 亜硝酸バリウム - 亜硝酸ブチル - 亜硝酸プロピル - アシル基 - アシロイン縮合 - アシロベック - アシロミン - アスコルビン酸 - アスタキサンチン - アスタチン - フランシス・アストン - アスパラギン - アスパラギン酸 - アスパラギン酸アミノ基転移酵素 - アスパラギンシンテターゼ - アスパルテーム - アスピリン - アズレン - アセタール - アセチル基 - アセチルCoA - アセチルコリン - アセチルコリンエステラーゼ - アセチルサリチル酸 - アセチルセルロース - アセチレン - アセテート - アセテート繊維 - アセトアミド - アセトアミノフェン - アセトアルデヒド - アセトアルデヒドジエチルアセタール - アセトアルデヒド脱水素酵素 - アセト酢酸 - アセト酢酸エステル合成 - アセト酢酸エチル - アセトニトリル - アセトフェノン - アセトン - 亜セレン酸 - 亜セレン酸塩 - 亜セレン酸ナトリウム - アゾ - アゾ化合物 - アゾ基 - アゾ染料 - アゾビスイソブチロニトリル - アゾベンゼン - アタクチック - アダパレン - アダマイト - アダマンタン - 圧縮率因子 - 圧電効果 - 圧力 - 圧力容器 - アデニル酸 - アデニル酸シクラーゼ - アデニン - アデノシン - アデノシン一リン酸 - アデノシン三リン酸 - アデノシンデアミナーゼ - アデノシン二リン酸 - ピーター・アトキンス - アトミズム - アドリアシン - アドリアマイシン - アドレナリン - アトロピン - アトロプ異性 - アナ (化学) - アナログ耐性 - アニオン - アニオン重合 - アニリン - アニリンパープル - アヌレン - アノード - アノマー - アパティア - アパティアテープ - アピオース - アビジン - ab initio - アフィニティークロマトグラフィー - アブシジン酸 - アブソリュート・ゼロ - ウィリアム・アブニー - 油 - 脂 - アフラトキシン - アベロックス - アヘン - 阿片 - あへん - あへん法 - アボガドロ - アメデオ・アボガドロ - アボガドロ数 - アボガドロ定数 - アボガドロの法則 - アポ蛋白 - アマトキシン類 - アマランス - アマルガム - アマンタジン - アミグダリン - アミジン - アミド - アミド結合 - アミノアシルtRNAシンセテース - アミノ基 - アミノ酸 - アミノベンゼン - アミノ末端 - アミノ酪酸 - アミラーゼ - アミロース - アミロペクチン - アミン - アメジスト - アメリカ化学会 - アメリカ規制物質法 - アメリシウム - アモキサピン - アモキサン - アモルファス - アモルファス金属 - アモルファスシリコン - アモルファス半導体 - 亜ヨウ素酸 - 荒井宏子 - アラキドン酸 - Ara-C - AraC - アラニン - アラニントランスアミナーゼ - アラビアガム - アラレ石 - 霰石 - アランダム - アリール - アリール基 - アリーン冷却管 - アリーン冷却器 - アリザリン - アリザリンイエローR - アリザリンレーキ - アリザリン・レーキ - アリザリンレッドS - アリムタ - 亜硫酸 - 亜硫酸塩 - 亜硫酸ガス - 亜硫酸ナトリウム - アリル - アリルアミン - アリルアルコール - アリルエーテル - アリルオキシカルボニル基 - アリル化合物 - アリル基 - アリル位 - アル=キンディー - アル・ビールーニー - アブー・ライハーン・アル・ビールーニー - アル・ビルニ - アルカリ - アルカリ金属 - アルカリ土類金属 - アルカリホスファターゼ - アルカリホスファターゼ - アルカリマンガン乾電池 - アルカロイド - アルカン - アルキド樹脂 - アルギニン - アルギニン酸 - アルキル - アルキル基 - アルキルグリコシド - アルキルグルコシド - アルキルハライド - アルキルリチウム - アルキレン基 - アルギン酸ナトリウム - アルキンドゥス - アルケン - アルコール - アルコール酸 - アルコールデヒドロゲナーゼ - アルコールランプ - アルコール・ランプ - アルコキシド - アルゴン - アルサン - アルシン - クルト・アルダー - アルデヒド - アルデヒド基 - アルデヒドデヒドロゲナーゼ - アルドース - アルドール - アルドール縮合 - アルドール反応 - アルドステロン - アルニコ - アルニコ磁石 - アルファー線 - Α-アマニチン - Α,α'-アゾイソブチロニトリル - Αカロテン - Α-グルコシダーゼ - アルファスルホ脂肪酸メチルエステル塩 - アルファ線 - Α線 - Αヘリックス - Α崩壊 - アルファ崩壊 - Α-メチルトリプタミン - Α-リノレン酸 - アルファ粒子 - Α粒子 - アルブミン - アルマイト - アルミ - アルミ合金 - アルミナ - アルミニウム - アルミニウム合金 - アルミニウム陽極酸化処理技能士 - アルミニューム - アルミニュウム - アルラレッド - アルラレッドAC - アレーニウス - アレーン - アレキサンドライト - アレグラ - アレスリン - アレスリンI - アレスリンII - アレニウス - スヴァンテ・アレニウス - アレニウスの式 - アレファリン - アレン (化学) - アロケイ皮酸 - アロステリック効果 - アロファルム - アンギオテンシン - アンギオテンシン2 - アンギオテンシンII - アンジオテンシン - Angiotensin II - Angiotensin two - アンジオテンシン2 - アンジオテンシンII - 安全弁 - 安息香酸 - 安息香酸デナトニウム - 安息香酸Na - アンダーソン局在 - アンダーソン法 - アンタップ - アンタップR - アンチクリナル - アンチペリプラナー - アンチモニー - アンチモン - 安定同位体 - アンティモニー - アントシアニン - アントラセン - アンドロゲン - アンドロステノン - アントワン式 - アンフィ - アンフェタミン - アンフラマイド - アンミン - アンモニア - アンモニア水 - アンモニウム - アンモニウムイオン - アンモライト -",
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"text": "イアトロ化学 - EI法 - ESCA - EMTO - E効果 - EC番号 - 飯島澄男 - E/Z - E2脱離 - E2反応 - EDTA - E番号 - EPR - E-pH図 - E-ファクター - E1脱離 - E1反応 - イエローケーキ - 硫黄 - イオウ - 硫黄原子 - 硫黄酸化物 - イオン - イオン液体 - イオン化 - イオン化エネルギー - イオン化傾向 - イオン間相互作用 - イオン強度 - イオン結合 - イオン結晶 - イオン交換 - イオン交換樹脂 - イオン重合 - イオン芯 - イオン性液体 - イオン積 - イオンチャネル - イオンチャンネル - イオン注入 - イオンポンプ - 医化学 - 異化反応 - イクオリン - ルイ・イグナロ - イグノーベル賞日本人受賞者の一覧 - 池田菊苗 - 石井昭彦 - 異種原子 - 石綿 - 石綿作業主任者 - 石綿取扱作業従事者 - イジング模型 - いす型 - 椅子型 - Izumo (タンパク質) - 異性化 - 異性化糖 - 異性体 - イソ - イソ吉草酸 - イソキノリン - イソクエン酸 - イソコロナール - イソコロナールRカプセル - イソシアナート - イソシアネート - イソシアン基 - イソシアン酸メチル - イソソルビド - イソタクチック - イソチオシアン酸アリル - イソニトール錠 - イソバレルアルデヒド - イソピット - イソブタノール - イソフタル酸 - イソブタン - イソブチルアルデヒド - イソブチルパラベン - イソブテン - イソフラボン - イソプレン - イソプレン則 - イソプロパノール - イソプロピルアルコール - イソプロピルパラベン - イソペンタン - イソモニット錠 - イソ酪酸 - イソロイシン - 1-アザナフタレン - 1,1-ジクロロエタン - 1,3,5-トリニトロベンゼン - 1,3,5-トリメチルベンゼン - 1,3,5,7-テトラアザアダマンタン - 1,3-ジメチル-2-イミダゾリジノン - 1,3-双極子 - 1,3-双極子付加反応 - 1,3,2,4-ジチアジホスフェタン 2,4-ジスルフィド - 一時磁石 - 一次電池 - 1次電池 - 一硝酸イソソルビド - 1.2エタンジオール - 1.2-エタンジオール - 1,2-ジクロロエタン - 1-ニトロナフタレン - 1,8-ビス(ジメチルアミノ)ナフタレン - 1,8-ビス(ジメチルアミノ)ナフタレン - 1-ヒドロキシベンゾトリアゾール - 1-ブタノール - 1-プロパノール - 1-ベンズアジン - 1,4-エチレンピペラジン - 1,4-トリエチレンジアミン - 1,6-ジアミノヘキサン - 一酸化硫黄 - 一酸化塩素 - 一酸化水素 - 一酸化炭素 - 一酸化炭素中毒 - 一酸化窒素 - 一酸化二塩素 - 一酸化二窒素 - 逸脱酵素 - イッテルビウム - イットリウム - 一般化学 - 一般化した遷移状態理論 - 遺伝毒性 - イノシトール - イノシン - イノシン一リン酸 - イノシン酸 - Ε-カプロラクタム - Εカロテン - イブプロフェン - ジャービル・イブン=ハイヤーン - イペリット - イホスファミド - イボテン酸 - イホマイド - イミグルセラーゼ - イミダゾール - イミダゾリウム - イミダゾリウム塩 - イミド - イミノ基 - イミン - 医薬品化学 - 医薬部外品 - イリジウム - イリド - イリドイド - イリノテカン - イルメナイト - イレッサ - いろいろな名前をもつ物性値の一覧 - 色温度 - イワシ酸 - 引火点 - 陰極 - インクレチン - インコネル - クリストファー・ケルク・インゴルド - インジウム - インジゴカルミン - インジゴテトラスルホン酸 - インジゴレーキ - インスリン - インスリン様成長因子 - インターロイキン - インディアンレッド - インディアン・レッド - インディゴ染料 - インテグリン - インド赤 - インドール - インバー - インビジブル - In vivo -",
"title": "い"
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"text": "ハイム・ヴァイツマン - ヴァナジウム - ヴァナディウム - オットー・ヴァラッハ - ハインリッヒ・ヴィーラント - ウィーンの変位則 - ウィグナー結晶 - ウィグナーザイツ胞 - ウィスカー - ウィッティッヒ反応 - ゲオルク・ウィッティヒ - ウィッティヒ・ホーナー反応 - ウィッティヒ・ホルナー反応 - ウィッティヒ反応 - ウィティッヒ反応 - ウィラード・ギブス - ポール・ヴィラール - ウィリアム・グレゴー - ウイリアム・ハイド・ウォラストン - ウィリアム・ヘンリー・パーキン - ウィリアム・ローレンス・ブラッグ - アレキサンダー・ウィリアムソン - ウィリアムソン合成 - ヴィリジァン - ヴィリジアン - ヴィリジャン - ジェフリー・ウィルキンソン - ウィルキンソン錯体 - ウィルキンソン触媒 - ウイルキンソン触媒 - ウィルゲロット反応 - ヴィルゲロット反応 - リヒャルト・ヴィルシュテッター - アルトゥーリ・ヴィルタネン - クレメンス・ヴィンクラー - アドルフ・ヴィンダウス - ウインタミン - ウェイド則 - ウェーラー - ヴェーラー - フリードリヒ・ヴェーラー - ヴェネチアンレッド - ヴェネチアン・レッド - ヴェネツィアンレッド - ヴェネツィアン・レッド - カール・ヴェルスバッハ - アルフレッド・ウェルナー - ルイ=ニコラ・ヴォークラン - ウイリアム・ウォラストン - アレッサンドロ・ヴォルタ - ウォルフ・キシュナー還元 - ヴォルフ・キシュナー還元 - ウォルフ・キシュナー反応 - ヴォルフ・キシュナー反応 - ウォルフ・キッシュナー還元 - ウォルフ・キッシュナー反応 - ウギ反応 - 渦鞭毛藻 - 宇田川榕菴 - 宇宙化学 - 宇宙の元素合成 - ウッド合金 - ウッドの記法 - ウッドメタル - ロバート・バーンズ・ウッドワード - ウッドワード・ホフマン則 - ウムポルンク - 梅澤喜夫 - アドルフ・ヴュルツ - ウラシル - ウラニウム - ウラン - ウラン235 - ウラン233 - ウラン238 - ヴルツ - アドルフ・ウルツ - ウルツカップリング - ウルツ反応 - ウルツ・フィッティッヒ反応 - ウルツ・フィッティヒ反応 - ウルトラマリン - ウルフ賞化学部門 - ウルマンカップリング - ウルマン縮合 - ウルマン反応 - ウレア - ウレアーゼ - ウレキサイト - ウレタン - ウレタン結合 - ウレタン樹脂 - 上皿天秤 - ウンウンウニウム - ウンウンエニウム - ウンウンエンニウム - ウンウンオクチウム - ウンウンクアジウム - ウンウンセプチウム - ウンウントリウム - ウンウンヘキシウム - ウンウンペンチウム - ウンエンウニウム - ウンエンエンニウム - ウンエンオクチウム - ウンエンクアジウム - ウンエンセプチウム - ウンエントリウム - ウンエンニリウム - ウンエンビウム - ウンエンヘキシウム - ウンエンペンチウム - ウンオクトウニウム - ウンオクトエンニウム - ウンオクトオクチウム - ウンオクトクアジウム - ウンオクトセプチウム - ウンオクトトリウム - ウンオクトニリウム - ウンオクトビウム - ウンオクトヘキシウム - ウンオクトペンチウム - ウンクアドウニウム - ウンクアドエンニウム - ウンクアドオクチウム - ウンクアドクアジウム - ウンクアドセプチウム - ウンクアドトリウム - ウンクアドニリウム - ウンクアドビウム - ウンクアドヘキシウム - ウンクアドペンチウム - ウンセプトウニウム - ウンセプトエンニウム - ウンセプトオクチウム - ウンセプトクアジウム - ウンセプトセプチウム - ウンセプトトリウム - ウンセプトニリウム - ウンセプトビウム - ウンセプトヘキシウム - ウンセプトペンチウム - ウンデカン - 運動エネルギー項 - ウントリウニウム - ウントリエンニウム - ウントリオクチウム - ウントリクアジウム - ウントリセプチウム - ウントリトリウム - ウントリニリウム - ウントリビウム - ウントリヘキシウム - ウントリペンチウム - ウンビウニウム - ウンビエンニウム - ウンビオクチウム - ウンビクアジウム - ウンビセプチウム - ウンビトリウム - ウンビニリウム - ウンビビウム - ウンビヘキシウム - ウンビペンチウム - ウンヘキスウニウム - ウンヘキスエンニウム - ウンヘキスオクチウム - ウンヘキスクアジウム - ウンヘキスセプチウム - ウンヘキストリウム - ウンヘキスニリウム - ウンヘキスビウム - ウンヘキスヘキシウム - ウンヘキスペンチウム - ウンペントウニウム - ウンペントエンニウム - ウンペントオクチウム - ウンペントクアジウム - ウンペントセプチウム - ウンペントトリウム - ウンペントニリウム - ウンペントビウム - ウンペントヘキシウム - ウンペントペンチウム - 雲母 -",
"title": "う"
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{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "エアロゲル - エアロジェル - エアロゾル - 永久磁石 - 影響汎関数 - エイコサノイド - エイコサペンタエン酸 - His - Hα線 - HSAB - HSAB則 - HFO - HMPA - HLB - HLB値 - HOAt - HOMO - HOBt - HCN - HCP - HPLC - フレデリック・エイベル - 栄養塩 - ArXiv - AIBN - Aerogel - Asn - AS樹脂 - Alb - ALP - アンデルス・エーケベリ - AChE - AGFA - エージレス - ATP - ADP - ATPアーゼ - ATP合成酵素 - エーテル (化学) - エーテル (神学) - エーテル型脂質 - エーテル結合 - ABS樹脂 - パウル・エールリヒ - エカトリアル - 液化 - エキシマ - 液晶 - 液晶高分子 - 液相 - 液相焼結 - エキゾチック原子核 - エキソヌクレアーゼ - 液体 - 液態 - 液体結晶 - 液体酸素 - 液体水素 - 液体窒素 - 液体窒素温度 - 液体ヘリウム - 液滴模型 - エクアトリアル - エクザール - エクジソン - XRD - Xα法 - Xe - X線小角散乱 - X線回折 - X線結晶構造解析 - X線構造解析 - X線構造回折 - X線光電子分光 - エクスタシー (薬物) - エクスタシー - XPS - エクダイソン - エシュバイラー・クラーク反応 - SIMS - SiC - SN2反応 - SN1反応 - SO3 - S軌道 - S極 - エスタゾラム - SWNT - エステル - エステル結合 - S電子 - エストラジオール - エストリオール - エストロゲン - エストロン - SPEED'98 - SPSJ - Sp混成 - Sp3混成 - Sp2混成 - SPPS - Sブロック元素 - エタナール - エタノール - エタン - エタン酸 - エタンニトリル - エチカーム - エチセダン - エチゾラム - エチゾラン - エチドラール - エチブロ - エチルアルコール - エチルパラベン - エチルベンゼン - エチレン - エチレンオキサイド - エチレンオキシド - エチレングリコール - エチレンジアミン - エチレンジアミン四酢酸 - エチレンジニトラミン - エチレン尿素 - エチレンピペラジン - エチン - エックスアルファ法 - エデト酸 - エテン - エドウィン・マクミラン - エトフェンプロックス - エドマン分解 - エドマン分解法 - エナミン - エナンチオトピック - エナンチオマー - エナンチオマー過剰率 - NHK反応 - NaCl - N,N-ジイソプロピルエチルアミン - N,N-ジメチルホルムアミド - N,N-ジメチル-4-アミノピリジン - NMR - NMP - NOx - Nox - NOX - NOx規制 - N極 - N-π* 遷移 - N-ブチルリチウム - N-ブロモスクシンイミド - N-メチルピロリドン - エネルギーカットオフ - エネルギーギャップ - エネルギー帯 - エネルギーバンド - エノール - エノール形 - エノラート - エバポレーター - エバミール - パウル・ペーター・エバルト - エバルト項 - エバルトの方法 - エピ (化学) - エピタキシャル成長 - エピネフリン - エピマー - FAD - エフェドリン - FMN - FLAPW - FOX-7 - F軌道 - F電子 - Fブロック元素 - エポエチンアルファ - エポエチンベータ - エポキシ - エポキシエタン - エポキシ化 - エポキシ基 - エポキシ系樹脂 - エポキシ樹脂 - エポキシド - エポジン - エボナイト - エマルション - エマルジョン-エマルジョン燃料- - MRNA - MRNA前駆体 - MEK - MEKPO - Maldi - MALDI - MSDS - MOCVD - MOVPE - MK鋼 - MCPBA - MWNT - MTX - MDMA - MPV還元 - ポール・エメット - エライジン酸 - エラストマー - エリオグラウシンA - ガートルード・エリオン - エリトリトール - エリスロシン - エリスロポイエチン - エリスロポエチン - エリスロマイシン - エリンガム図 - エリンガム線図 - エリンガムダイアグラム - エリンガムダイヤグラム - LRP受容体 - LAH - LSD (薬物) - LSDA - L-オーネスゲン錠 - エルカ酸 - L-カルニチン - L-グルタミン酸 - エルゴステロール - LCAO - LCAO法 - ハンス・クリスティアン・エルステッド - エルゼビア - LDI - LDH - LDA (化学) - LDL受容体 - エルビウム - エルミート演算子 - エルミート作用素 - エルミート性 - リヒャルト・エルンスト - エレオステアリン酸 - エレクトロポレーション - エレクトロメトリー - エレクトロメトリー効果 - エレメンタッチ - 塩 (化学) - 塩 - 塩加 - 塩化亜鉛 - 塩化アセチル - 塩化アリル - 塩化アルミニウム - 塩化アンモニウム - 塩化カリ - 塩化カリウム - 塩化カルシウム - 塩化カルボニル - 塩化金 - 塩化銀 - 塩化金酸 - 塩化コバルト - 塩化水銀 - 塩化水銀(I) - 塩化水銀(I) - 塩化水銀(II) - 塩化水銀(II) - 塩化水素 - 塩化スズ - 塩化すず - 塩化錫 - 塩化ストロンチウム - 塩化スルフリル - 塩化チオニル - 塩化チタン - 塩化チタン(IV) - 塩化チタン (IV) - 塩化窒素 - 塩化鉄 - 塩化銅 - 塩化ナトリウム - 塩化鉛 - 塩化バリウム - 塩化ピクリン - 塩化物 - 塩化ベンゼンジアゾニウム - 塩化ホスホリル - 塩化マグネシウム - 塩化メチル - 塩化メチレン - 塩基 - 塩酸 - 塩酸アマンタジン - 塩酸アムルビシン - 塩酸イリノテカン - 塩酸クロルプロマジン - 塩酸ゲムシタビン - 塩酸サートラリン - 塩酸セルトラリン - 塩酸ドキソルビシン - 塩酸フェキソフェナジン - 塩酸プソイドエフェドリン - エンジェルダスト - エンジニアリング・プラスチック - エンジニアリングプラスチック - 炎色反応 - 遠心エバポレーター - 遠心機 - 遠心分離 - 遠心分離機 - 塩析 - 塩素 - 塩素化 - 塩素酸 - 塩素酸アンモニウム - 塩素酸塩 - 塩素酸カリウム - 塩素酸ソーダ - 塩素酸ナトリウム - エンタルピ - エンタルピー - 遠藤守信 - エンドキサン - エンドセリン - エンドルフィン - エントロピ - エントロピー - エントロピー弾性 - 円二色性 - 円二色性スペクトル - エン反応 - 塩ビ - エンプラ - 塩分 - 円偏光二色性 - 円偏光二色性スペクトル - 塩安 -",
"title": "え"
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{
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"tag": "p",
"text": "オイル - オイルバス - 黄鉛 - 王水 - 黄体形成ホルモン - 黄鉄鉱 - 黄銅 - 黄銅鉱 - 黄燐 - ORAC - ORP - Organic Syntheses - オーガニック・シンセゼス - オーキシン - OK-432 - オージェ電子分光 - オーステナイト - オーダーN法 - オータコイド - オートアナライザー - オートクレーブ - オーネスゲン - オーバードース - オカダ酸 - オガネソン - 岡本佳男 - オキサイド・オブ・クロミウム - オキサイドオブクロミウム - オキサリプラチン - オキサロ酢酸 - オキシ塩化リン - オキシ-コープ転位 - オキシ酸 - オキシダン - オキシドール - オキシム - オキシライド乾電池 - オキシラン - オキソカーボン酸 - オキソカルボン酸 - オキソ酸 - オキソニウムイオン - オキソ法 - オクタニトロキュバン - オクタン - オクテット説 - オクテット則 - オクトーゲン - ヴィルヘルム・オストヴァルト - ヴィルヘルム・オストワルト - オストワルト法 - オスミウム - オセルタミビル - 汚染者負担原則 - 汚染者負担の原則 - オゾン - オゾン酸化 - オゾン層の保護のためのウィーン条約 - オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書 - オゾン破壊係数 - オゾン分解 - 大谷茂盛 - オットーサイクル - 汚泥 - オパール - オピオイド - オピオイド系鎮痛剤 - ジョージ・オラー - オランザピン - オリゴ糖 - オリゴマー - オリザニン - オルト - O-クレゾールレッド - オルニチン - オルニチン回路 - オレイン酸 - オレストラ - オレフィン - オレフィンメタセシス - オロチン酸 - オロチン酸リチウム - オロト酸 - オンコビン - オンサーガー - オンザーガー - ラルス・オンサーガー - オンセージャー - 温度 -",
"title": "お"
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{
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"tag": "p",
"text": "カーバイド - カーボランダム - カーボンナノチューブ - カーボンナノホーン - カーボンファイバー - カーボン60 - ポール・カーラー - リチャード・カーワン - ヨハン・ゴットリーブ・ガーン - カーン・インゴルド・プレローグ順位則 - 開環重合 - 海人草 - 回転準位 - 回転状態 - 回転数 - 回転遷移 - 回転速度 - 解糖 - 解糖系 - カイニン酸 - カイニンソウ - 界面 - 界面化学 - 界面活性剤 - 界面活性作用 - 界面準位 - カイモトリプシン - 海洋汚染 - 海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律 - 海洋化学 - 解離 (化学) - ガウス基底 - 過塩素酸 - 過塩素酸アンモニウム - 過塩素酸カリウム - 過塩素酸ナトリウム - カオトロピック - カオトロピック剤 - カオリナイト - 化学 - 化学エネルギー - 化学オリンピック - 化学気相蒸着 - 化学気相蒸着法 - 化学気相成長 - 化学気相成長法 - 化学グランプリ - 化学結合 - 化学元素 - 化学元素発見の年表 - 化学工学 - 化学工学会 - 化学工業 - 化学合成 - 化学式 - 化学式量 - 化学システム工学 - 化学シフト - 化学者 - 化学者の一覧 - 化学責任者 - 化学接頭辞・接尾辞一覧 - 化学繊維 - 化学データベース - 化学的酸素要求量 - 化学電池 - 化学動力学 - 化学当量 - 化学に関する記事の一覧 - 化学の分野一覧 - 化学発光 - 化学反応 - 化学反応式 - 化学反応の一覧 - 化学反応論 - 化学戦(英語版) - 化学品 - 化学品の分類および表示に関する国際調和システム - 化学品の分類および表示に関する世界調和システム - 化学品の分類と表示に関する国際調和 - 化学品の分類と表示に関する世界調和システム - 化学物質 - 化学物質安全性データシート - 化学物質関連法規の一覧 - 化学物質審査規制法 - 化学物質等安全データシート - 化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律 - 化学物質排出把握管理促進法 - 化学分解 - 化学分析技能士 - 化学兵器禁止条約 - 化学平衡 - 化学変化 - 化学防御 - 化学ポテンシャル - 化学略語一覧 - 化学量論 - 化管法 - 可逆 - 可逆反応 - 架橋 - 核外電子 - 核化学 - 核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律 - 核構造物理学 - 過臭素酸 - 核酸 - 拡散 - 核酸塩基 - 拡散モンテカルロ法 - 核子 - 核磁気共鳴 - 核磁気共鳴分光法 - 核種 - 核スピン異性体 - 角閃石 - 拡張周期表 - 核燃料取扱主任者 - 核燃料物質等取扱業務従事者 - 攪拌 - 撹拌 - 攪拌子 - 核反応 - 陰イオン - 懸濁液 - 化合 - 化合物 - 化合物一覧 - カコジル - 過酢酸 - 加里 - 過酸 - 過酸化アセトン - 過酸化アセトン製造法 - 過酸化カリウム - 過酸化カルシウム - 過酸化脂質 - 過酸化水素 - 過酸化水素水 - 過酸化ナトリウム - 過酸化バリウム - 過酸化物 - 過酸化ベンゾイル - 過酸化マグネシウム - 過酸化リチウム - 可視 - カジキ - 可視光 - 可視光線 - カシュー - 過剰摂取 - 化審法 - 加水分解 - ガス遠心分離装置 - ガスクロマトグラフ - ガスクロマトグラフィー - ガス定数 - ガス電子増幅器 - カスパーゼ - ガスバーナー - 苛性カリ - カセイソーダ - 苛性ソーダ - か性ソーダ - カゼイン - 過石 - 仮想結晶近似 - カソード - 可塑剤 - カタ - カタール (単位) - カダベリン - カタラーゼ - 過炭酸ナトリウム - カチオン - カチオン重合 - 香月・シャープレス酸化 - 香月・シャープレス不斉エポキシ化 - 活字合金 - 活性化 - 活性化エネルギー - 活性錯合体 - 活性酸素 - 活性炭 - 活性中心 - 滑石 - カッセキ - 褐炭 - ベルンハルト・カッツ - 褐鉄鉱 - 活動度 - カップリング反応 - 活量 - カテキン - カテコール - カテコールオキシダーゼ - カテナン - 価電子帯 - 価電子 - 荷電粒子 - 果糖 - 果糖ブドウ糖液糖 - カドニウム - カドヘリン - カドミウム - カドミウムイェロー - カドミウム・イェロー - カドミウムイエロー - カドミウム・イエロー - カドミウムエロー - カドミウム・エロー - カドミウム黄 - カドモポンイェロー - カドモポン・イェロー - カドモポンイエロー - カドモポン・イエロー - カドモポンエロー - カドモポン・エロー - カドモポン黄 - ガドリニウム - ヨハン・ガドリン - ガドレイン酸 - カニゼンメッキ - カニツァロ - カニツァロ反応 - スタニズラオ・カニッツァーロ - カニッツァーロ反応 - カネボウ薬品 - 可燃性 - 可燃性物質 - 可燃物 - かび毒 - カビ毒 - カフェイン - カプサイシン - カプセーフ - ガブリエル合成 - ガブリエル反応 - カプロラクタム - カプロン酸 - カプロン酸エチル - 過マンガン酸 - 過マンガン酸亜鉛 - 過マンガン酸アンモニウム - 過マンガン酸イオン - 過マンガン酸塩 - 過マンガン酸塩類 - 過マンガン酸カリウム - 過マンガン酸カルシウム - 過マンガン酸銀 - 過マンガン酸ナトリウム - 過マンガン酸バリウム - 過マンガン酸マグネシウム - 上垣外正己 - 雷酸水銀 - カメレオン液 - カメレオン溶液 - 火薬 - 火薬類取締法 - 火薬類保安責任者 - 過ヨウ素酸 - 過ヨウ素酸ナトリウム - カラギーナン - ガラクトース - カラゲナン - カラゲニン - カラジーナン - ガラス - 硝子 - ガラス器具 - ガラス転移 - ガラス転移温度 - ガラス転移点 - カラムクロマトグラフィー - カリアント - カリアント錠 - カリアントTPカプセル - カリウム - ガリウム - カリオストロ - カリクレイン - カリホルニウム - 加硫 - 過硫酸 - 過量服用 - 過リン酸石灰 - 過リンサン石灰 - ガリンスタン - メルヴィン・カルヴィン - カルコゲン - カルシウム - カルシウムシアナミド - カルシューム - カルセドニー - 過ルテニウム酸テトラプロピルアンモニウム - カルニチン - マリー・アドルフ・カルノー - カルノーサイクル - カルバニオン - カルバミン酸エチル - カルバメート - ガルバリウム - カルビン - ベンソン回路 - カルビン-ベンソン回路 - カルベニウムイオン - カルベノイド - カルベン - カルベン錯体 - カルボアニオン - カルボカチオン - カルボカチオン転位 - カルボキシ基 - カルボキシル基 - カルボキシル末端 - カルボジイミド - カルボニウムイオン - カルボニル - カルボニル化合物 - カルボニル基 - カルボニルジイミダゾール - カルボニル炭素 - カルボプラチン - カルボメルク - カルボン - カルボン酸 - カルボン酸アンハイドライド - カルボン酸クロリド - カルボン酸ハライド - カルボン酸ハロゲン化物 - カルボン酸無水物 - 過冷却 - 過冷却現象 - 過冷却状態 - カロザース - ウォーレス・カロザース - カロチノイド - カロチン - カロテノイド - カロテン - カロメル - カロリック - カロリック説 - 岩塩 - 環化反応 - 環境化学 - 環境ホルモン - 還元 - 還元剤 - 還元的脱離 - 還元糖 - 還元反応 - 甘汞 - 甘こう - 環式有機化合物 - ガンシクロビル - 環状アデノシン一リン酸 - 環状AMP - 環状エーテル - 緩衝液 - 環状化合物 - 緩衝作用 - 環状電子反応 - 環状有機化合物 - 緩衝溶液 - 完全結晶 - 乾燥 - 乾燥剤 - カンタリジン - 環電流 - カンナビノイド - 官能基 - カンファー - カンプト - カンプト注 - カンフル - カンフル剤 - γ-アミノ酪酸 - Γカロテン - Γ崩壊 - ガンマ崩壊 - Γ-リノレン酸 - 慣用名 - 慣用命名法 - カンラン石 - 還流 - 乾留 - 顔料 -",
"title": "か"
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{
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"tag": "p",
"text": "基 - 気圧 - 輝安鉱 - 黄色5号 - 黄色4号 - 気化 - 幾何異性体 - 気化熱 - 機器分析化学 - 貴金属 - キク酸 - 菊酸 - 危険有害性 - 偽コリンエステラーゼ - ギ酸 - 蟻酸 - キサンタンガム - キサントフィル - キサントフィルサイクル - キサントプロテイン反応 - 基質特異性 - 基質特異的 - 気象化学 - 岸義人 - キシリトール - XYLITOL - キシレン - キシロース - 規制物質法 - 規制薬物法 - 輝石 - キセノン - キセロゲル - 気相 - 規則合金 - 気体 - 気態 - 気体定数 - 気体の法則 - 気体反応の法則 - 気体分子運動論 - 北野大 - キチン - キチンキトサン - キチン質 - 吉草酸 - 基底状態 - 規定度 - 規定濃度 - 軌道角運動量 - 軌道対称性保存則 - 軌道秩序 - キトサン - 希土類 - 希土類金属 - 希土類元素 - キナーゼ - キナ酸 - キニーネ - キヌクリジン - キネシン - キノリン - キノン - キノン類 - 揮発性 - 揮発性有機塩素化合物 - 揮発性有機化合物 - 揮発油等の品質の確保等に関する法律 - ギブズ - ウィラード・ギブズ - ギブスエネルギー - ギブズエネルギー - ギブス自由エネルギー - ギブズ自由エネルギー - ギブズ-ヘルムホルツの式 - 擬ポテンシャル - キムワイプ - キモトリプシン - キモパパイン - ヘンリー・キャヴェンディッシュ - 逆カルノーサイクル - 逆供与 - 逆合成 - 逆合成法 - 逆浸透 - 逆浸透膜 - 逆相クロマトグラフィー - CAS登録番号 - CAS番号 - キャタライザー - ギャバ - キャビテーション - CAM型光合成 - キャラメライゼーション - キャラメル化 - キャリィ・B・マリス - 吸引ビン - QSAR - 吸エルゴン反応 - 求核剤 - 求核試薬 - 嗅覚受容体 - 求核性 - 求核置換反応 - 求核付加反応 - 吸光度 - 吸収線 - 吸着 - 吸着等温式 - 求電子剤 - 求電子試薬 - 求電子置換反応 - 求電子付加反応 - 求電子芳香族置換反応 - 吸熱反応 - 吸光 - 9-フルオレニルメチルオキシカルボニル基 - 9-フルオレニルメトキシカルボニル基 - キューポラ - 球面調和関数 - キューリー温度 - キューリー点 - キュバン - キュプラ - キュプラート - キュベット - マリ・キュリー - キュリー温度 - キュリー値 - キュリー点 - キュリー夫妻 - キュリウム - 共晶 - 共役ジエン - 強化ガラス - 凝固 - 凝固点 - 凝固点降下 - 凝固熱 - 強磁性 - 強磁性体 - 凝集 - 凝縮 - 凝縮熱 - 凝析 - 鏡像 - 鏡像異性体 - 鏡像体 - 鏡像体過剰率 - 共沸 - 共鳴 - 共鳴効果 - 共鳴理論 - 共有結合 - 共有結合結晶 - 共有結合半径 - 極限構造 - 局在基底 - 局在軌道 - 局所密度近似 - 玉髄 - 極性 - 極性転換 - 極性分子 - 極性変換 - 極性溶媒 - キラリティ - キラリティー - 希硫酸 - 黄リン - グスタフ・キルヒホフ - キルヒホッフの第一法則 - キルヒホッフの第二法則 - キルヒホッフの法則 - アルフレッド・ギルマン - アルフレッド・G・ギルマン - ヘンリー・ギルマン - ギルマン試薬 - キレート - キレート滴定 - キロサイド - 金 - 銀 - 金雲母 - 禁止帯 - 禁止帯幅 - 金塊 - 金紅石 - 金鉱石 - 禁制帯 - 禁制帯幅 - 金属 - 金属アミド - 金属間化合物 - 金属樹 - 金属結合 - 金属結晶 - 金属元素 - 金属工学 - 金属光沢 - 金属粉 - 金属錯体 - 金属ナトリウム - 金属疲労 - キンディー - 金箔 - 金緑石 -",
"title": "き"
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{
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"tag": "p",
"text": "グアーガム - グアニジン - グアニン - グアニンヌクレオチド結合タンパク質 - グアノ - グアノシン三リン酸 - 空間群 - 空気 - 空気亜鉛電池 - 空気浴 - クーゲルロール - 空中窒素固定 - ベルナール・クールトア - シャルル・ド・クーロン - クーロン項 - リヒャルト・クーン - クエチアピン - クエルセチン - クエン酸 - クエン酸回路 - クエン酸シルデナフィル - クエン酸フェンタニル - クエン酸リチウム - 苦灰石 - 孔雀石 - グスタフ・キルヒホフ - クセノン - 苦土 - 配向性 - 配座異性体 - クプラート - グペリース - クマリン - 組み換えタンパク質 - クメン - クメンヒドロペルオキシド - クメン法 - く溶性 - クラーク数 - クライオポンプ - クライゼン縮合 - クライゼン転位 - クラウジウス - ルドルフ・クラウジウス - クラウジウス・クラペイロンの式 - クラウジウス-クラペイロンの式 - カール・クラウス (化学者) - グラウバー塩 - クラウンエーテル - グラスウール - クラスリン - クラッキング (化学) - グラファイト - ロバート・グラブス - ジェームス・クラフツ - マルティン・ハインリヒ・クラプロート - ベノワ・クラペイロン - クラペイロン・クラウジウスの式 - クラペイロン-クラウジウスの式 - クラム則 - グラム当量 - グラモキソン - クラリシッド - クラリスロマイシン - クラリチン - グランドカノニカルモンテカルロ法 - グリース - グリーンケミストリー - グリーンサスティナブルケミストリー - Green Fluorescent Protein - グリオキサール - グリオキザール - グリオキシル酸回路 - グリコーゲン - グリコール - グリココル - グリコサミノグリカン - グリコシド - グリコシド結合 - グリシン - クリスタリン - クリストファー・インゴルド - グリセオール - グリセリン - グリセルアルデヒド - グリセロール - クリソベリル - フランシス・クリック - ヴィクトル・グリニャール - フランソワ・グリニャール - グリニャール試薬 - グリニャール反応 - クリプトン - アーロン・クルーグ - グルカゴン - グルクロン酸 - グルコース - グルコサミン - グルコセレブロシダーゼ - グルコセレブロシド - グルコン酸クロルヘキシジン - グルタールアルデヒド - グルタチオン - グルタミン - グルタミン酸 - グルタミン酸ソーダ - グルタミン酸ナトリウム - グルタラール - グルタルアルデヒド - グルタル酸 - クルチウス転位 - クルックス - ウィリアム・クルックス - ウイリアム・クルックス - クレアチン - クレアチンキナーゼ - グレイ (単位) - クレーガー=ビンクの表記法 - エドヴィン・クレープス - クレオソート - ウィリアム・グレゴール - クレスチン - クレゾール - クレゾールレッド - ハンス・クレブス - クレブス回路 - クレメンス・ウィンクラー - クレメンゼン還元 - グレリン - 黒雲母 - ジョルジュ・クロード - クローム - クロールピクリン - アクセル・フレドリク・クローンステッド - クロスカップリング - クロスカップリング反応 - グロスパール - クロトンアルデヒド - クロトン酸 - グロビン - クロベート - クロマイト - GROMACS - クロマチン - クロマトグラフィー - クロマトグラフィー法 - クロマトグラム - クロミズム - クロム - クロム・イェロー - クロム・イエロー - クロム・エロー - クロム・グリーン - クロムイェロー - クロムイエロー - クロムエロー - クロムグリーン - クロム酸化 - クロム酸カリウム - クロム酸酸化 - クロムチタンイェロー - クロムチタンイエロー - クロムチタンエロー - クロムチタン黄 - クロム鉄鉱 - クロメル - クロラール - クロラミン - クロラムフェニコール - 黒リン - 黒燐 - クロルピクリン - クロルプロマジン - クロルヘキシジン - クロロエチレン - クロロオキシダン - クロロキン - クロロクロム酸ピリジニウム - クロロゲン酸 - クロロピクリン - クロロフィル - クロロフェノールレッド - クロロフルオロカーボン - クロロプレン - クロロプレンゴム - クロロホルム - クロロメタン - 桑嶋功 - 菫青石 -",
"title": "く"
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"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ゲイ=リュサック - 珪化木 - ケイ皮アルデヒド - ケイ皮酸 - ケイ皮酸エステル - ケイ皮酸エチル - ケイ皮酸n-ブチル - ケイ皮酸ブチル - ケイ皮酸無水物 - ケイ皮酸メチル - 軽金属 - 軽金属学会 - 経験的分子軌道法 - 蛍光 - 蛍光剤 - 蛍光染料 - ケイ酸 - 珪酸 - 計算化学 - 計算機化学 - ケイ酸ナトリウム - 珪酸ナトリウム - 形状記憶合金 - ケイ素 - けい素 - 硅素 - 軽水素 - ケイ素鋼 - ケイ素樹脂 - 珪素 - ケイソウ土 - 珪藻土 - ケイヒアルデヒド - ケイヒ酸 - 桂皮酸 - 桂皮酸メチル - 軽油 - ゲイリュサック - ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック - Kerkerの方法 - KS鋼 - ゲート絶縁膜 - ゲオルク・ウィッティヒ - ゲオルク・ヴィティッヒ - 劇物 - 劇物毒物取扱法 - 劇薬 - ケクレ - フリードリヒ・ケクレ - ケクレ構造式 - ケタール - ケタミン - 欠陥 - 欠陥化学 - 結合エネルギー - 結合解離エネルギー - 結晶 - 結晶学 - 結晶構造 - 結晶場 - 結晶場理論 - 結晶面 - 結晶粒界 - ゲッターポンプ - 月長石 - 結露 - ケテン - ケト - ケト・エノール互変異性 - ケトース - ケト形 - ケト基 - ケト原性アミノ酸 - ケトン - ケトン基 - アグフア・ゲバルト - ゲフィチニブ - ケブラー - ゲベル - ゲベルス - ケミカルアブストラクツ - Chemical Abstracts - ケミカルアブストラクト - ゲムシタビン - ケモインフォマティクス - ケラチン - ゲラニオール - ゲル (化学) - ケルヴィン - ケルヴィン卿 - ルイ・ケルヴラン - ゲル化剤 - ケルク・インゴルド - ゲル浸透クロマトグラフィー - ケルセチン - オスカー・ケルナー - オスカル・ケルネル - ゲルハルト・ヘルツベルク - ケルビン - ハンス・オイラー=ケルピン - ゲルマニウム - ゲル濾過クロマトグラフィー - ゲルろ過クロマトグラフィー - 減圧蒸留 - 減圧蒸留装置 - 鹸化 - けん化 - 鹼化 - 限外ろ過 - 限外濾過 - 限外ろ過膜 - 限外濾過膜 - 幻覚剤 - 幻覚作用 - 嫌気呼吸 - 嫌気状態 - 嫌気的 - 原子 - 原子価 - 原子価殻電子対反発則 - 原子価殻電子対反発理論 - 原子核 - 原子核反応 - 原子核崩壊 - 原子核崩壊図 - 原子価結合法 - 原子記号 - 原子軌道 - 原子吸光 - 原子吸光法 - 原子空孔 - 原子質量単位 - 原子説 - 原子挿入法 - 原子団 - 原子単位 - 原子半径 - 原子番号 - 原子模型 - 賢者の石 - 原子量 - 原子力 - 原子炉主任技術者 - 原子論 - 元素 - 元素一覧 - 元素記号 - 元素群 - 元素周期表 - 元素の一覧 - 元素の記号順一覧 - 元素の系統名 - 元素の周期 - 元素の族 - 元素の名前順一覧 - 元素の番号順一覧 - 元素のブロック - 元素の分類 - 元素分析 - 元素名 - ジョン・ケンドリュー - 顕熱",
"title": "け"
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"tag": "p",
"text": "五員複素環式化合物 - 鋼 - 澒 - 高圧ガス移動監視者 - 高圧ガス販売主任者 - 高イオン伝導体 - 高エネルギー結合 - 高エネルギーリン酸化合物 - 高エネルギーリン酸結合 - 光延反転 - 光延反応 - 光化学系 - 光化学反応 - 光学異性体 - 光学活性 - 光学活性体 - 光学分割 - 交換・相関項 - 高吸水性高分子 - 工業化学 - 合金 - 合金鋼 - 工具鋼 - 高校化学グランプリ - 光合成 - 格子エンタルピー - 格子間領域 - 格子欠陥 - コウジ酸 - 格子振動 - 鉱質コルチコイド - 格子定数 - 甲状腺ホルモン - 合成化学 - 合成化合物 - 合成計画 - 合成ゴム - 合成樹脂 - 合成繊維 - 合成洗剤 - 合成戦略 - 合成ダイヤモンド - 合成ピレスロイド - 合成有機化学 - 鉱石 - 硬石膏 - 酵素 - 構造異性体 - 構造化学 - 構造活性相関 - 構造キー - 構造決定 - 構造式 - 構造式エディタ - 構造生物学 - 構造相転移 - 構造定数 (バンド計算) - 高速液体クロマトグラフィー - 高速液体クロマトグラフィー法 - 高速度鋼 - 幸田清一郎 - 高炭素鋼 - 好中球アルカリホスファターゼ - 高張力鋼 - 光電子 - 高度希釈法 - 鉱物 - 鉱物学 - 鉱物の一覧 - 高分子 - 高分子化学 - 高分子化合物 - 高分子学会 - 高分子ゲル - 高分子物質 - 高分子物理学 - 向山光昭 - 香料 - 高炉 - 5-FU - 5-MeO-DIPT - コエンザイム - コエンザイムA - コエンザイムQ - コエンザイムQ10 - コークス - ゴーシュ型 - コーヒー酸 - コープ転位 - Cope転位 - 氷 - イライアス・コーリー - コーリー・バクシ・柴田還元 - コーリー・フックス反応 - 氷酢酸 - コール酸 - コールタール - ジョーゼフ・ゴールドスタイン - ゴールドストーン - コールラウシュの法則 - ジョージ・コーワン - 固化 - コカイン - 呼吸鎖複合体 - 黒鉛 - 国際化学オリンピック - 国際純粋・応用化学連合 - 国際純正・応用化学連合 - 国際純正応用化学連合 - 国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図るための麻薬及び向精神薬取締法等の特例等に関する法律 - 黒曜石 - 五酸化二窒素 - 五酸化二リン - 五酸化バナジウム - 五酸化リン - 五炭糖 - 固相 - 固相焼結 - 固体 - 固態 - 固体化学 - 固体高分子型燃料電池 - 固体高分子形燃料電池 - 固体電解質 - コチニール - コチニール・レーキ - コチニール色素 - コチニールレーキ - 固定バンドモデル - コデイン - 粉粒体 - ゴナドトロピン放出ホルモン - コニイン - 5-ニトロフェナントロリン鉄(II) - コバール - コハク - コハク酸 - 琥珀酸 - コバルト - コバルト爆弾 - コバルト60 - コヒーシン - コフィリン - 五フッ化アンチモン - 互変異性 - コペンハーゲン解釈 - 駒込ピペット - ゴム - ゴム状硫黄 - 5-メチルフェナントロリン鉄(II) - 5-メチルフェロイン - 固有関数 - 固有振動 - 固溶体 - コランダム - 孤立電子対 - コリンエステラーゼ - コリンズ酸化 - コルタン - コルチコイド - コルチゾール - コルヒチン - ヘルマン・コルベ - コレシストキニン - コレステロール - コロイド - コロイド化学 - コロイド分散体 - コロイド溶液 - 5,6-ジメチルフェナントロリン鉄(II) - 5,6-ジメチルフェロイン - コロジオン - コロネン - コロンビウム - 金剛石 - 混合物 - 混合希土 - コンゴー・レッド - コンゴーレッド - 混酸 - 紺青 - コンスタンタン - コンスピット - コンスピット錠 - 混成軌道 - 近赤外線分光法 - コンタミ - コンタミネーション - コンデンシン - コントミン - コンドロイチン硫酸 - コンドロイチン硫酸ナトリウム - コンビナトリアル化学 - コンビナトリアルケミストリー - コンフォーマー - コンフォメーション - アーサー・コンプトン - A.H.コンプトン - コンプトン効果 - コンプトン散乱 - コンホマー - 混和(現在法律用語) -",
"title": "こ"
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"tag": "p",
"text": "サークレス - サークレス注 - サートラリン - サーファクタント - サーメット - サイアミン - サイエンス - 最外殻 - 最外殻電子 - 催奇形性 - 催奇性 - サイクリックボルタンメトリー - サイクリック・ボルタンメトリー - 再結晶 - 最高被占軌道 - サイズ排除クロマトグラフィー - 再生繊維 - 再沈殿 - ザイツェフ則 - 最低空軌道 - サイトカイン - サイトクロム - サイラゼパム - サイレース - 坂本和彦 (環境化学者) - サキシトキシン - 作業環境測定士 - 砂金 - 錯イオン - 錯塩 - 錯塩化学 - 酢酸 - 醋酸 - 酢酸アンモニウム - 酢酸イソアミル - 酢酸イソペンチル - 酢酸エステル - 酢酸エチル - 酢酸カルシウム - 酢酸3-メチルブチル - 酢酸ソーダ - 酢酸タリウム - 酢酸銅 - 酢酸ナトリウム - 酢酸ビニール - 酢酸ビニル - 錯体 - 錯体化学 - 桜井反応 - 桜田一郎 - 柘榴石 - サザンブロッティング - サスティナブルケミストリー - サスペンジョン - 定容比熱 - 定比例の法則 - サッカリン - サッカリンナトリウム - 砂鉄 - ザナミビル - ポール・サバティエ - サハの電離公式 - サハの電離式 - 錆 - サポニン - サマコバ磁石 - サマリウム - サマリウム・コバルト磁石 - サマリウムコバルト磁石 - サマリウム-コバルト磁石 - サマリウム磁石 - サマリュウム・コバルト磁石 - サマリュウムコバルト磁石 - ベンクト・サミュエルソン - ジェームズ・サムナー - さらし粉 - サリチル酸 - サリチル酸メチル - サリドマイド - サリン - サルバルサン - サレット酸化 - サレン - Salen - サワドール - サワドールL錠 - サワドールテープS - 酸 - サンアシル - 酸アミド - 散逸構造 - 三塩化アルミニウム - 酸塩化物 - 三塩化リン - 酸塩基指示薬 - 酸化 - フレデリック・サンガー - 酸化亜鉛 - 酸化アルミニウム - 酸化エチレン - 酸化カリウム - 酸化カルシウム - 酸化還元 - 酸化還元指示薬 - 酸化還元電位 - 酸化還元反応 - 酸化銀 - 酸化銀(I) - 酸化銀電池 - 三角フラスコ - 酸化クロム - 酸化コバルト - 酸化剤 - 酸化ジルコニウム - 酸化水銀 - 酸化水素 - 酸化数 - 酸化スズ - 酸化セレン - 酸化第一鉄 - 酸化第一銅 - 酸化第二銅 - 酸化タンタルリチウム - 酸化チタン - 酸化窒素 - 酸化的付加 - 酸化的リン酸化 - 酸化鉄 - 酸化鉄赤 - 酸化電位 - 酸化銅 - 酸化銅(I) - 酸化銅(II) - 酸化反応 - 酸化物 - 酸化マグネシウム - 酸化マンガン(IV) - 産業廃棄物 - 酸クロリド - 三元触媒 - III-V化合物 - III-V族化合物 - 三酸化硫黄 - 三酸化クロム - 三酸化セレン - 三酸化テルル - 三酸化二窒素 - 三酸化レニウム - サンジェルマン伯爵 - 三重点 - 三硝酸グリセリン - サンセットイエロー - サンセットイエローFCF - 酸素 - 酸素欠乏危険作業者 - 酸素欠乏危険作業主任者 - 酸素原子 - 酸素族原子の水素化物 - 三態 - 酸と塩基 - サンドマイヤー反応 - ザンドマイヤー反応 - 酸ハライド - 3-ヒドロキシブタナール - 三フッ化塩素 - サンプラチナ - 3-ペンタノン - 三方晶系 - 酸無水物 - 残留オーステナイト -",
"title": "さ"
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"text": "ジアステレオトピック - ジアステレオマー - ジアゼパム - ジアセラ - ジアセラL錠 - ジアゾ化 - ジアゾ化合物 - ジアゾカップリング - ジアゾ化反応 - ジアゾジニトロフェノール - ジアゾメタン - シアナミド - シアノ - シアノ基 - シアノコバラミン - シアノマイド - シアノメタン - ジアリールエテン - シアン化カリウム - シアン化水素 - シアン化水素酸 - シアン化ナトリウム - シアン化ビニール - シアン化ビニル - シアン化物イオン - シアン化メチル - シアン基 - シアン酸 - CRP - CIP則 - ChE - GHS - CH4 - CAMP - CS2 - GnRH - CNT - GFC - CMC値 - Gln - GLN - GLC - Glu - Gly - GLY - CoQ10 - CO中毒 - CO2 - GGA - ジイソプロピルエチルアミン - GW近似 - Gタンパク質 - G蛋白質 - CDI - CDNA - CDスペクトル - CT遷移 - CDDP - C反応性蛋白 - CBS還元 - CBN - GPC - CBDCA - CPT-11 - C4型光合成 - C4植物 - Gブロック元素 - シーボーギウム - シーボーグ - グレン・シーボーグ - シーマン反応 - GUS - Cys - CYS - C1化学 - ジェイゾロフト - JILM - カール・シェーレ - カール・ウィルヘルム・シェーレ - カール・ヴィルヘルム・シェーレ - クリスチアン・シェーンバイン - ジエチルエーテル - ジエチルケトン - ジエノン-フェノール転位 - ジェムザール - ジエン - 四塩化炭素 - ウイリアム・ジオーク - ジオキサン - 磁化 - 紫外可視近赤外分光光度計 - 紫外・可視・近赤外分光法 - 紫外可視分光法 - 紫外線 - シガトキシン - 磁化率 - 時間依存平均場理論 - 時間依存密度汎関数法 - 脂環式有機化合物 - 磁気 - 色原体 - 色素 - シキミ酸 - シキミ酸経路 - 式量 - 磁気量子数 - 軸受合金 - シクトキシン - シグマ因子 - Σ軌道 - シグマ軌道 - Σ結合 - Σ電子 - シグマトロピー転位 - リヒャルト・ジグモンディ - シクラン - シクロアルカン - シクロアワオドリン - シクロオクタン - シクロデキストリン - シクロテトラメチレンテトラニトラミン - シクロパラフィン - シクロブタン - シクロプロパン - シクロヘキサノール - シクロヘキサン - シクロヘキシルスルファミン酸 - シクロヘキセン - シクロヘプタン - シクロペンタジエン - シクロペンタン - シクロホスファミド - ジクロロエタン - ジクロロベンゼン - ジクロロホルムアルデヒド - ジクロロメタン - ジクワット - 試験管 - 時効 (金属) - 自己解離 - 仕事関数 - ジシアン - ジシアンジアミジン - ジシアンジアミド - ジシクロヘキシルカルボジイミド - 脂質 - 脂質二重層 - 指示薬 - 磁石 - 指示薬の一覧 - シス体 - シスチン - システイン - シスプラチン - ジスプロシウム - ジスルフィド - ジスルフィド結合 - ジスルフィラム - 磁性 - 磁性材料 - 磁性体 - 磁性流体 - 自然エネルギー - シゾフィラン - 四大元素 - シタラビン - ジチオン酸 - 七酸化二塩素 - シチジル酸 - 実験器具 - 実験器具の一覧 - 実験式 - 実在気体 - 質量 - 質量作用の法則 - 質量数 - 質量パーセント濃度 - 質量分析 - 質量分析器 - 質量分析計 - 質量分析法 - 質量保存の法則 - 質量モル濃度 - 時定数 - 磁鉄鉱 - ジデヒドロベンゼン - 自動車NOx・PM法 - 自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法 - 自動車排ガス規制 - 自動車排気ガス規制 - 自動車排出ガス規制 - シトクローム - シトクロム - シトクロムcオキシダーゼ - シトクロムP450 - シトシン - シドニー・チャップマン - シトルリン - シナバー・グリーン - シナバーグリーン - ジニトロエチレン尿素 - ジニトロジメチルオキサミド - ジニトロジメチルスルファミド - シネリン - シネリンI - シネリンII - 柴崎正勝 - 柴田雄次 - 自発核分裂 - ジフェニル - ジフェニルアミン - ジフェニルアミンスルホン酸 - ジフェニルベンジジン - ジフェニルリン酸アジド - シフェノトリン - ジフルオロメタン - シフルトリン - ジプレキサ - ジベ処理 - 視紅 - ジベレリン - ジベレリン処理 - ジベレリン水溶液 - ジベンゾフラン - 脂肪 - 脂肪酸 - 脂肪酸合成系 - ジボラン - ジムロート - ジムロート冷却器 - ジムロート冷却管 - 示性式 - ジメチルアミノピリジン - ジメチルエーテル - ジメチルオキサミド - ジメチルケトン - ジメチル酢酸 - ジメチルジオキシラン - ジメチルスルファミド - ジメチルスルホキシド - ジメチルホルムアミド - ジメチル硫酸 - ジメルカプロール - シモンズ・スミス反応 - ジャービル・イブン・ハイヤーン - バリー・シャープレス - シャープレス酸化 - シャープレス不斉エポキシ化 - シャープレス不斉ジヒドロキシ化 - シャーレ - 斜方硫黄 - 斜方晶系 - 斜方立方八面体 - 試薬 - 赤銅 (合金) - ジャスモリン - ジャスモリンI - ジャスモリンII - ジャスモン酸 - ジャビール・ハイヤーン - ジャビル・イブン・ハイヤン - シャペロン - ジャボチンスキー反応 - 舎密 - ジャック・シャルル - シャルル・ヴュルツ - シャルル・ウルツ - シャルル・ヴルツ - シャルル・クーロン - シャルル・ビュルツ - シャルル・ブルツ - シャルルの法則 - 重い電子系 - 自由エネルギー - 臭化アリル - 臭化エチジウム - 臭化カリウム - 臭化銀 - 臭化水素 - 周期 (元素) - 臭気指数 - 周期表 - 周期表 (2) - 周期律 - 周期律表 - 重金属 - 重クロム酸 - 重クロム酸アンモニウム - 重クロム酸カリウム - 重原子 - 重元素 - 重合 - 重合体 - 重合反応 - シュウ酸 - 蓚酸 - シュウ酸アルデヒド - 蓚酸アルデヒド - 十酸化四リン - 重晶石 - 重水 - 重水素 - 集積型金属錯体 - 臭素 - 重曹 - 臭素系ダイオキシン類 - 臭素酸 - 臭素酸カリウム - 重炭酸イオン - 重炭酸塩 - 重炭酸ソーダ - 重炭酸ナトリウム - ジューテリウム - 自由電子 - 自由電子近似 - 自由度 - 18電子則 - 充満帯 - 重油 - 重量パーセント濃度 - 重量モル濃度 - ジュール=トムソン効果 - ジュール損 - ジュール熱 - ジュールの法則 - 縮合 - 縮合重合 - 縮合反応 - 縮退 - 朱砂 - 酒精 - 酒石酸 - ゲオルク・シュタール - ヘルマン・シュタウディンガー - シュテルン=ゲルラッハの実験 - フリードリヒ・シュトロマイヤー - シュミット転位 - シュミット反応 - ジュラルミン - シュレーディンガーの猫 - シュレーディンガーの波動方程式 - シュレーディンガー方程式 - シュレディンガー方程式 - シュレンク管 - リチャード・シュロック - 準安定状態 - 準結晶 - 純水 - 順相クロマトグラフィー - 純物質 - 常圧 - 常圧蒸留装置 - 小員環 - 常温 - 硝化 - 昇華 (化学) - 消化酵素 - 硝化作用 - 昇華熱 - 笑気 - 蒸気 - 蒸気圧 - 蒸気圧降下 - 笑気ガス - 蒸気浴 - 賞金 - 焼結 - 硝酸 - 硝酸アンモニウム - 硝酸イオン - 硝酸イソソルビド - 硝酸イソソルビド錠 - 硝酸イソソルビドテープ - 硝酸ウラニル - 硝酸エステル - 硝酸塩 - 硝酸塩類 - 硝酸カリウム - 硝酸銀 - 硝酸グアニジン - 硝酸でんぷん - 硝酸ナトリウム - 硝酸鉛 - 硝酸鉛(II) - 硝酸尿素 - 常磁性 - 焼成 - 脂溶性ビタミン - 硝石 - 生石灰 - 消石灰 - 状態 - 状態数 - 状態式 - 状態ベクトル - 状態変化 - 状態変数 - 状態方程式 (化学) - 状態密度 - 状態量 - 状態和 - 蒸着 - 少糖 - 少糖類 - 樟脳 - ショウノウ - 蒸発 - 蒸発熱 - 上皮成長因子 - 生分解性プラスチック - 生分解プラスチック - 硝安 - 蒸留 - 蒸留塔 - イヴ・ショーヴァン - ジョーンズ酸化 - Jones酸化 - 食塩 - 触媒 - 触媒化学 - 植物ホルモン - 植物油 - 食用油 - 女性ホルモン - ジョセフ・プルースト - ジョゼフ・ルイ・ゲイ=リュサック - ジョセフ・ルイ・プルースト - ジョゼフ・ルイ・プルースト - ショッテン・バウマン条件 - ショッテン・バウマン反応 - ショッテン・バウマン法 - フリードリッヒ・オットー・ショット - ショットキー欠陥 - 蔗糖 - ショ糖 - エティーヌ・F・ジョフロア - クロード・F・ジョフロア - イレーヌ・ジョリオ=キュリー - フレデリック・ジョリオ=キュリー - ジョン・クラーク・スレーター - ジョン・ケンドール - ジョン・ケンドルー - ジョン・ダルトン - ジョン・ドールトン - 白川英樹 - シラン (化合物) - シリカ - シリカゲル - シリコーン - シリコマンガン - シリコンカーバイド - シリルエーテル - ジルコニア - ジルコニウム - シルデナフィル - シルミン - 白雲母 - シロシビン - 銀鏡反応 - 白リン - 新Mosher法 - リチャード・シング - ジンク・イェロー - ジンク・イエロー - ジンク・エロー - ジンク・クロメート - ジンクイェロー - ジンクイエロー - 真空蒸着 - 真空ポンプ - ジンクエロー - ジンククロメート - シンクリナル - シングルスキン構造 - 神経伝達物質 - 神経ペプチドY - 人工元素 - 人工ダイヤモンド - 人工放射性元素 - シンジオタクチック - 辰砂 - 親水親油バランス - 親水基 - 親水コロイド - 親水性 - 真性コリンエステラーゼ - 人造繊維 - 親電子置換反応 - 浸透 - 浸透圧 - シンナムアルデヒド - Simplified molecular input line entry specification - シンペリプラナー - 心房性ナトリウム利尿ペプチド - 人名反応 - 人名反応の一覧 - シンメトリー - シンメトレル - 新モッシャー法 -",
"title": "し"
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{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "水銀 - 水銀電池 - 水酸化アルミニウム - 水酸化アンモニウム - 水酸化カリウム - 水酸化カルシウム - 水酸化ナトリウム - 水酸化物 - 水酸化物イオン - 水酸化マグネシウム - 水酸基 - 水質汚染 - 水質汚濁防止法 - 水質関係公害防止管理者 - 水蒸気蒸留 - 水性ガスシフト反応 - 水素 - 水素イオン - 水素イオン指数 - 水素イオン濃度 - 水素化 - 水素化アモルファスシリコン - 水素化アルミニウム - 水素化アルミニウムリチウム - 水素化アンチモン - 水素化ゲルマニウム - 水素化合物 - 水素化ジイソブチルアルミニウム - 水素化シリコン - 水素化スズ - 水素化脱硫 - 水素化ナトリウム - 水素化物 - 水素化ホウ素 - 水素化ホウ素ナトリウム - 水素化リチウムアルミニウム - 水素吸蔵合金 - 水素結合 - 水素結合結晶 - 水素原子 - 水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解 - 水素添加 - 水素分子 - 水熱合成 - 水分 - 水平化効果 - 水溶液 - 水溶性ビタミン - 水浴 - 水和 - テオドール・スヴェドベリ - スーネ・ベルクストローム - スーパーオキシドアニオン - スーパーオキシドディスムターゼ - スカンジウム - スカンジウム族元素 - スカンディウム - 杉原儀昭 - スクアラン - スクアリン酸 - スクアレン - スクラロース - スクロース - スクワラン - スクワレン - 助色団 - スズ - 錫 - 鈴木・宮浦カップリング - 鈴木・宮浦反応 - 鈴木梅太郎 - 鈴木カップリング - 芒硝 - 鈴木反応 - 鈴木-宮浦カップリング - スターリングシルバー - レオ・スターンバック - スタッキング相互作用 - スタナン - スタニスラオ・カニツァロ - スタニスラロ・カニッツァーロ - ウェンデル・スタンリー - スチバン - スチビン - スチレン - スチレン・ブタジエンゴム - スチレンブタジエンゴムスチロール樹脂 - ステアリドン酸 - ステアリン酸 - ステアリン酸カルシウム - ステアリン酸ナトリウム - スティーグリッツ - アルフレッド・スティーグリッツ - スティルカップリング - ステライト - ステルコビリン - ステロイド - ステロイドアルカロイド - ステロイドホルモン - ステンレス - ステンレス鋼 - Stranski-Krastanovモード - ストリキニーネ - ストリキニン - ストレッカー合成 - ストレッカー反応 - ストレプトマイシン - ストロンシャン・イェロー - ストロンシャン・イエロー - ストロンシャン・エロー - ストロンシャンイェロー - ストロンシャンイエロー - ストロンシャンエロー - ストロンチウム - ストロンチウム・イェロー - ストロンチウム・イエロー - ストロンチウム・エロー - ストロンチウム・クロメート - ストロンチウムイェロー - ストロンチウムイエロー - ストロンチウムエロー - ストロンチウム黄 - ストロンチウムクロメート - 砂浴 - スネ・カール・ベリストローム - スパーテル - スパチュラ - 素反応 - スピーゲル - スピネル - スピラン - スピン角運動量 - スピン軌道相互作用 - スピン量子数 - スプレー - スペキュラム合金 - スペクトル - スペクトル線 - スペルミジン - スペルミン - スポイト - スポンジ触媒 - SMARTS - SMARTS記法 - SMILES - SMILES記法 - 炭カル - 炭安 - スメクティック液晶 - スメクティック相 - リチャード・スモーリー - スラグ - すり合わせ - ズルチン - スルピリド - スルファン - スルフィド - スルフィド結合 - スルフォニル基 - スルフォラファン - スルフヒドリル基 - スルホ基 - スルホキシド - スルホニル基 - スルホン - スルホンアミド - スルホン化 - スルホン化反応 - スルホン酸 - スルホン酸化合物 - ジョン・クラーク・スレイター - スレイター行列式 - スレーター軌道 - スレーター行列式 - スレオニン - スワーン酸化 - Swern酸化 - スワン酸化 -",
"title": "す"
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{
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"tag": "p",
"text": "生化学 - 青化ソーダ - 星間分子の一覧 - 正極 - 生気論 - 制限酵素 - 製鋼 - 生合成 - 青酸 - 青酸加里 - 青酸カリ - 青酸ナトリウム - 静止質量 - 青色一号 - 青色1号 - 生殖腺刺激ホルモン放出ホルモン - 青色二号 - 青色2号 - 精製 - 生成物 - 性腺刺激ホルモン - 性腺刺激ホルモン放出ホルモン - 成層化合物 - 生体高分子 - 生体材料 - 生体物質 - 成長ホルモン - 製鉄 - 製鉄業 - 製鉄所 - 正電荷 - 青銅 - 製品安全データシート - 生物化学 - 生物化学者 - 生物学と化学の歴史のタイムライン - 生物学と有機化学に関する年表 - 生物学と有機化学の年表 - 生物学に関する年表 - 生物物理化学 - 生物無機化学 - 生物有機化学 - 成分本質 (原材料) では医薬品でないもの-植物由来物等-後半 - 成分本質 (原材料) では医薬品でないもの-植物由来物等-前半 - 正方晶系 - 性ホルモン - 精密化学 - 精密合成化学 - 精密有機化学 - 精密濾過膜 - 精密ろ過膜 - 生命力説 - 製油 - 製錬 - ゼーマン効果 - ゼオライト - 石英 - 石英ガラス - 石英セル - 赤外吸収 - 赤外分光法 - 析出 - 赤色3号 - 赤色三号 - 赤色2号 - 赤色二号 - 赤色105号 - 赤色102号 - 赤色104号 - 赤色106号 - 赤色40号 - 石炭 - 石炭化学 - 石炭酸 - 赤鉄鉱 - 赤銅鉱 - 石墨 - 石油エーテル - 石油化学 - 赤燐 - セグレ - エミリオ・セグレ - セクレチン - セシウム - セタノール - セタン価 - 石灰 - 石灰岩 - 石灰水 - 石鹸 - 接触改質 - 接触分解 - 絶対温度 - 絶対配置 - 絶対立体配置 - 絶対零度 - 接着 - 接着剤 - Zr - 摂動 - 摂動論 - Zn - Zosuquidar - Z基 - Z体 - セデコパン - セバシン酸ジオクチル - セファクロル - セファゾリン - セファマイシン - セファマンドール - セファレキシン - セファロスポリン - セファロチン - セファロリジン - セフェピム - セフェム系 - セフェム系抗生物質 - セフォチアム - セフォテタン - セフタジジム - セフトリアキソン - セフブペラゾン - セフラジン - ニコライ・セミョーノフ - セメンタイト - セライト - ゼラチン - セラミック - セラミックス - セラミド - セラン - セリウム - セリン - セリンプロテアーゼ - セルシン - セルトラリン - セルラーゼ - セルロイド - セルロース - セルロースエーテル - セルロプラスミン - セレザイム - Cerezyme - セレノシステイン - セレノプロテインP - セレン - セレン化水素 - セレン酸 - セレン酸塩 - セレン酸化 - セロトニン - セロトニン受容体 - セロビアーゼ - セロビオース - 全圧 - 遷移 - 繊維 - 遷移金属 - 遷移元素 - 遷移状態 - 遷移状態理論 - 全エネルギー - 前期量子論 - 船型 - 線欠陥 - 全合成 - 全国高校化学グランプリ - 尖晶石 - 染色 - 染色体凝縮 - センダスト - 銑鉄 - 仙人 - 潜熱 - 閃マンガン鉱 - 染料 - 閃緑岩 -",
"title": "せ"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "相 - 層間化合物 - 造岩鉱物 - 相関相互作用 - 双極子 - 双極子モーメント - 相互作用 - 相コロイド - 相図 - 相対原子質量 - 相対配置 - 相対立体配置 - 相対論効果 - 相対論的量子力学 - 相転移 - 相反定理 - 相平衡 - 相変化 - 相間移動触媒 - 相律 - ソーダ石灰ガラス - ソープションポンプ - ゾーンメルティング - ゾーンメルト - ゾーンメルト法 - ゾーン融解 - 速度定数 - 速度論的同位体効果 - 束縛エネルギー - 疎水結合 - 疎水コロイド - 疎水性 - 疎水相互作用 - 疎水基 - 塑性 - 組成式 - 粗大ゴミ - SOx - ソックスレー - ソディ - フレデリック・ソディ - ソディー - 外丹術 - ソニフィラン - 薗頭・萩原カップリング - 薗頭・萩原反応 - 薗頭カップリング - 薗頭反応 - ゾビアトロン - ゾビクロビル - ゾビラックス - ソフトダイポールモード - ソフトマター - ソプレロール - ソプレロール錠 - ソマトスタチン - ソマン - ソラニン - ゾル - ソルビトール - ソルビン酸 - ソルビン酸K - エルネスト・ソルベー - ソルベー法 - ゾロフト -",
"title": "そ"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ターキー赤 - ターコイズ - Tert-ブタノール - Tert-ブチル基 - Tert-ブトキシカルボニル基 - タートラジン - ターボ分子ポンプ - ターボポンプ - ダームスタチウム - ターンブル青 - ターンブルブルー - 第10周期元素 - 第10周期の元素 - 第10族元素 - 第10族の元素 - 第11族元素 - 第11族の元素 - 第12族元素 - 第12族の元素 - 第13族元素 - 第14族元素 - 第15族元素 - 第16族元素 - 第17族元素 - 第18族元素 - 第1周期元素 - 第1周期の元素 - 第1族元素 - 第2周期元素 - 第2周期の元素 - 第2族元素 - 第2族の元素 - 第3周期元素 - 第3周期の元素 - 第3族元素 - 第3族の元素 - 第4周期元素 - 第4周期の元素 - 第4族元素 - 第4族の元素 - 第5周期元素 - 第5周期の元素 - 第5族元素 - 第6周期元素 - 第6周期の元素 - 第6族元素 - 第7周期元素 - 第7周期の元素 - 第7族元素 - 第8周期元素 - 第8周期の元素 - 第8族元素 - 第8族の元素 - 第9周期元素 - 第9周期の元素 - 第9族元素 - 第9族の元素 - ダイアップ - ダイアモンド - 帯域溶融 - 第一原理計算 - 第一原理経路積分分子動力学法 - 大員環 - ダイオキシン - ダイオキシン類 - ダイオキシン類対策特別措置法 - 大気圧 - 大気汚染 - 大気化学 - 大気関係公害防止管理者 - 耐候鋼 - 耐候性鋼 - 体心立方 - 体心立方晶 - 体心立方格子 - 体心立方構造 - 代謝 - 代謝マップ - 対照実験 - 対称性 - タイシロール錠 - 体心立方格子構造 - 体積パーセント濃度 - 体積モル濃度 - 代替フロン - 対掌体 - 耐糖因子 - 第二量子化 - ダイニン - 耐熱ガラス - 耐熱性 - 耐燃性 - ダイヤモンド - ダイヤモンドライクカーボン - 帯融解 - 帯溶融 - 大理石 - ダイレクト・ジメチルエーテル燃料電池 - ダイレクト・メタノール形燃料電池 - ダイレクト・メタノール型燃料電池 - ダイレクト・メタノール燃料電池 - ダイレクトジメチルエーテル燃料電池 - ダイレクトDME燃料電池 - ダイレクトメタノール形燃料電池 - ダイレクトメタノール型燃料電池 - ダイレクトメタノール燃料電池 - 代わりの生化学 - ダウサムA - タウリン - 高田十志和 - 高峰譲吉 - 多環芳香族炭化水素 - タキソール - タキソール全合成 - 焚火 - ダクタイル鋳鉄 - タクロリムス - 多結晶 - 多結晶体 - 多原子分子 - 多座配位子 - 脱酸素剤 - 脱水 - 脱水作用 - 脱水縮合 - 脱水反応 - 脱炭酸 - 脱炭酸反応 - 脱保護 - 脱保護反応 - 脱離 - 脱離反応 - 脱離基 - 脱硫 - タデウシ・ライヒシュタイン - タデウシュ・ライヒシュタイン - タデウス・ライヒシュタイン - 多糖 - 田中耕一 - 田辺・菅野ダイアグラム - 田辺・菅野ダイヤグラム - ジョン・フレデリック・ダニエル - ダニエル電池 - ダニシェフスキージエン - 束一的性質 - 田原良純 - タブン - 玉井尚登 - 玉入り冷却器 - 玉入り冷却管 - 玉鋼 - 球対称 - タミフル - タリウム - タルク - ダルツェン縮合 - 炭化 - 炭化ケイ素 - 炭化硅素 - 炭化珪素 - 炭化水素 - 炭化チタン - 炭化物 - タングステン - タングステン鋼 - ダングリングボンド - 単結合 - 単結晶 - 単原子分子 - 炭酸 - 炭酸アンモニウム - 炭酸イオン - 炭酸エステル - 炭酸塩 - 炭酸ガス - 炭酸カリウム - 炭酸カルシウム - 炭酸固定 - 炭酸水素アンモニウム - 炭酸水素カリウム - 炭酸水素ナトリウム - 炭酸ソーダ - 炭酸同化 - 炭酸同化作用 - 炭酸ナトリウム - 炭酸バリウム - 炭酸ビス(トリクロロメチル) - 炭酸ビス(トリクロロメチル) - 炭酸マグネシウム - 炭酸リチウム - 単斜硫黄 - 単斜晶系 - 胆汁酸 - 単純タンパク質 - 単純分子軌道法 - たん白質 - タン白質 - 炭水化物 - 男性ホルモン - 炭素 - 炭素12 - 炭素14 - 炭素化合物 - 炭素原子 - 炭素鋼 - 炭素固定 - 炭素循環 - 炭素スケール - 炭素繊維 - 炭素同化 - 炭素当量 - 単体 - 担体 - タンタル - タンタル酸リチウム - 単糖 - 単糖類 - タンニン - 断熱過程 - タンパク - 蛋白質 - タンパク質 - たんぱく質 - 蛋白質構造データバンク - タンパク質構造予測 - タンパク質ホルモン - 単分子磁石 - 単離 - 単量体 -",
"title": "た"
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{
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"tag": "p",
"text": "チアゾール - チアミン - 地域活性化 - チーグラー・ナッタ触媒 - チウラム - トーマス・チェック - チオアミド - チオエステル - チオエステル結合 - チオール - チオール基 - チオケトン - チオシアン酸カリウム - チオジグリコール - チオフェノール - チオフェン - チオペンタール - チオペンタールナトリウム - チオ硫酸 - チオ硫酸ナトリウム - アーロン・チカノーバー - 置換基 - 置換反応 - チキソトロピー - 地球化学 - 蓄光 - チクロ - 血色素 - 血朱 - チタニウム - チタン - チタン黄 - チタン酸ジルコン酸鉛 - チタン酸バリウム - チタン族元素 - チタン鉄鉱 - チチバビン反応 - 乳棒 - 窒化アルミニウム - 窒化ガリウム - 窒化ケイ素 - 窒化水素 - 窒化物 - 窒化物半導体 - 窒化ホウ素 - 窒化リチウム - チッ素 - 窒素 - 窒素化合物 - 窒素固定 - 窒素酸化物 - 窒素分子 - チトクローム - チトクロム - チトクロムオキシターゼ - チミン - チモールフタレイン - チモールブルー - チャージアップ - チャート (岩石) - チャイニーズブルー - シドニー・チャップマン - チャンドラセカール・ラーマン - 中員環 - 注射器 - 抽出 - 中性 (酸塩基) - 中性子 - 中性子回折 - 中性子回折法 - 中性子過剰核 - 中性脂質 - 鋳造 - 鋳鉄 - チューブリン - 中和 (化学) - 中和滴定 - 超アクチノイド元素 - 超イオン伝導体 - 超ウラン元素 - 超遠心機 - 潮解 - 潮解性 - 超強酸 - 超共役 - 超合金 - 超硬合金 - 超格子 - 超高速レーザー分光法 - 超酸 - 超重元素 - 超純水 - 長石 - 超塑性 - 超分子 - 張力説 - 超臨界状態 - 超臨界流体 - 超ろ過膜 - 調和振動子 - 直鎖 - 直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム - 直接型メタノール燃料電池 - 直接形メタノール燃料電池 - 直接ギャップ - 直接ジメチルエーテル燃料電池 - 直接DME燃料電池 - 直接メタノール形燃料電池 - 直接メタノール型燃料電池 - 直接メタノール燃料電池 - チラム - チリ硝石 - チロシン - チンダル現象 - 沈殿 - 沈澱 - 沈でん - チンワルド雲母 -",
"title": "ち"
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{
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"tag": "p",
"text": "カール・ツィーグラー - ツィーグラー・ナッタ触媒 - ツィグラー・ナッタ触媒 - ミハイル・ツヴェット - 2C-I - 次亜塩素酸 - 次亜塩素酸カルシウム - 次亜塩素酸ソーダ - 次亜塩素酸ナトリウム - 次亜臭素酸 - 次亜硝酸 - 次亜フッ素酸 - 次亜ヨウ素酸 - 常磁性体 - 強相関電子系 - ツヨン - ツリウム -",
"title": "つ"
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{
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"tag": "p",
"text": "ファウスト・デ・エルヤル - テアニン - TRNA - Trp - TRP - DIBAH - DIBAL - DIBAL-H - 呈味性ヌクレオチド - 定圧過程 - 定圧比熱 - 定圧モル比熱 - ジョン・ディー - DEET - TED - TEDA - ティーエスワン - ディークマン縮合 - ディート - オットー・ディールス - ディールス・アルダー反応 - ディールスアルダー反応 - ディーン・スターク管 - ディーン・スターク装置 - DHA - THF - THC - DABCO - DXR - TS-1 - DNA - DNAシーケンサー - DNAトポイソメラーゼ - DNAプライマーゼ - DNAヘリカーゼ - DNAポリメラーゼ - DNAリガーゼ - TNT火薬 - DFPT法 - DME燃料 - DMAP - DMSO - DMF - DMFC - D軌道 - T-CHO - TCA回路 - TCAサイクル - 定常状態 - 定常状態法 - 定性分析 - 定積過程 - 定積比熱 - 定積モル比熱 - Tz - ウィルヘルム・ティセリウス - D体 - DWNT - 低炭素鋼 - DDNP - DDFC - TDLDA - DDQ - DDT - TDDFT - D電子 - 低排出ガス車認定制度 - TPAP - TB-LMTO - DPPA - Dブロック元素 - 定量的構造活性相関 - 定量分析 - Tyr - TYR - リオ・ティント - デーヴィー - ヘンリー・デーキン - デーキン・ウェスト反応 - デーキン反応 - ハンフリー・デービー - ヨハン・デーベライナー - デーリタ・ドレヴェシーナ - デーリタ・ドレヴェスィーナ - ウィリアム・デーリング - デオキシリボース - デオキシリボ核酸 - デオキシリボヌクレアーゼ - デカン - 滴下漏斗 - 滴下ロート - デキストリン - 滴定 - テクネチウム - アルフレッド・デクロワゾー - デザイナー・ドラッグ - デザイナーズ・ドラッグ - デザイナーズドラッグ - デザイナードラッグ - デシケーター - デス・マーチン・ペルヨージナン - デス・マーチン酸化 - テストステロン - デスミン - デゾラム - テタヌストキシン - テタノスパスミン - 鉄 - 鉄系形状記憶合金 - 鉄鉱石 - 鉄朱 - 鉄族元素 - 鉄丹 - 鉄分 - デッラ・ポルタ - テトラカルボニルニッケル - テトラクロロエチレン - テトラクロロ金酸 - テトラクロロメタン - テトラヒドリドホウ酸ナトリウム - テトラヒドロカンナビノール - テトラヒドロフラン - テトラヒドロほう酸ナトリウム - テトラヒドロホウ酸ナトリウム - テトラフルオロホウ酸 - デトリタス - テトリル - テトロドトキシン - ルイ・テナール - デナトニウム - スミソン・テナント - テネシン - デノシン - デバイ - ピーター・デバイ - デバイの比熱式 - デバイ比熱 - デバイ-ヒュッケルの式 - デパス - デプロメール - テフロン - デムナット - デモクリトス - ヴィンセント・デュ・ヴィニョー - デュアー - デュロテップパッチ - デュロン=プティの法則 - デュワー - ジェイムス・デュワー - ジェイムズ・デュワー - ジェームス・デュワー - ジェームズ・デュワー - デュワーベンゼン - テラ・ローザ - 照沼大陽 - ウォーレン・デラルー - テラローザ - テラン - デリタ・ドレヴェシーナ - デリタ・ドレヴェシナ - アンドレ・デル・リオ - アンドレス・マヌエル・デル・リオ - 輝銀鉱 - 輝線 - デルタ・ウッド - デルタ・ドレヴェシーナ - デルタ・ドレヴェシナ - デルタウッド - ΔFe - Δカロテン - デルタ合板 - Δ鉄 - デルタフェライト - デルタ木材 - ヨハン・テルデ - 輝銅鉱 - テルビウム - テルペノイド - テルペン - テルペンアルカロイド - テルミット - テルミット法 - デルモルフィン - テルリド - テルル - テルル化水素 - テレビン油 - テレピン油 - テレフタル酸 - 転移点 - 転移熱 - 転位反応 - 転移反応 - 電位-pH図 - 電位窓 - 電荷 - 電解 - 電解液 - 電解質 - 電解質溶液 - 電解精錬 - 電荷移動吸収帯 - 電荷移動錯体 - 電荷移動遷移 - 電解の法則 - 転化糖 - 電荷の保存則 - 電荷密度の混合の仕方 - 電気陰性度 - 電気泳動 - 電気化学 - 電気化学ポテンシャル - 電気銅 - 電気分解 - 電気鍍金 - 電極 - 電気量 - 点群 - 典型元素 - 点欠陥 - 電子 - 電子移動反応 - 電子ガス - 電子殻 - 電子環状反応 - 電子気体 - 電子軌道 - 電子吸引性 - 電子求引性基 - 電子供与性 - 電子供与性基 - 電子供与体 - 電磁鋼 - 電子構造 - 電磁鋼板 - 電子受容体 - 電子常磁性共鳴 - 電子状態 - 電子状態計算 - 電子親和力 - 電子スピン共鳴 - 電子対 - 電子対反発理論 - 電子伝達系 - 電子伝達体 - 天使の梯子 - 電子配置 - 電子捕獲 - 電子求引性 - 展延性 - 天青石 - 電池 - 伝導帯 - 伝導電子 - デンドリマー - 天然化合物 - 天然ゴム - 天然樹脂 - 天然存在比 - 天然物 - 天然物化学 - 電媒定数 - デンプン - 電離 - 転炉 -",
"title": "て"
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{
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"tag": "p",
"text": "ベギエ・ド・シャンクルトワ - テオフィル・ド・ドンデ - ルイ・ド・ブロイ - ド・ブロイ波 - 糖 - 銅 - 等温過程 - 等温変化 - 糖アルコール - 銅アンモニアレーヨン - 同位元素 - 同位体 - 同位体効果 - 同化反応 - 糖鎖 - 凍結乾燥 - 東国製鋼 - 銅酸化物 - 糖脂質 - 糖質 - 糖質コルチコイド - 同重体 - 透析 - 同素体 - 糖蛋白 - 糖タンパク質 - 糖蛋白質 - 同定 - 等電点 - 糖原性アミノ酸 - 糖分 - ドウモイ酸 - 当量 - 糖類 - 登録システム - ドーパミン - ドープ - ゲルハルト・ドーマク - G. ドーマク - ドキソルビシン - 毒劇物取締法 - 毒劇法 - 特性基 - 特性基順位一覧 - 特定化学物質及び四アルキル鉛等作業主任者技能講習 - 特定化学物質作業主任者 - 特定化学物質等作業主任者 - 特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律 - 特定製品に係るフロン類の回収及び破壊の実施の確保等に関する法律 - 特定石油製品輸入暫定措置法 - 特定有害廃棄物等の輸出入等の規制に関する法律 - 毒物 - 毒物および劇物取締法 - 毒物及び劇物取締法 - 毒物劇物取扱者 - 毒物劇物取扱責任者 - 毒物劇物取扱法 - ドグマチール - 時計皿 - ドコサヘキサエン酸 - ト字管 - 土壌汚染対策法 - トシル酸 - トスフロキサシン - ドセタキセル - トタン - アレクサンダー・トッド - ドデカン - ドパミン - ドパミン受容体 - アンドレ=ルイ・ドビエルヌ - ドブニウム - トポイソメラーゼ - トポテシン - ウジェーヌ・ドマルセー - ユージェン・ドマルセー - ドミトリー・メンデレーエフ - ウィリアム・トムソン - トムソン効果 - トムバック - 共洗い - 共重合 - 共沈 - ドライアイス - トライボロジー - マーク・ドラフォンテーヌ - ドラフトチャンバー - ドラム缶 - トランス (化学) - トランス脂肪酸 - トランス体 - トランスフェラビリティー - トリアシルグリセロール - トリアジン - トリアゾール - トリアゾラム - トリアムシノロン - トリウム - トリエチルアミン - トリエチレンジアミン - ドリエル - トリエン - トリグリセリド - トリクレン - トリクロサン - トリクロル酢酸 - トリクロロエチレン - トリクロロ酢酸 - トリクロロニトロメタン - トリクロロメタン - トリコテセン - トリゴネリン - ヘルメス・トリスメギストス - トリチウム - トリテルペン - トリニトロトルエン - トリニトロフェノール - トリハロメタン - トリフェニルホスフィン - トリプシン - トリプトファン - トリフルオロ酢酸 - トリブロモメタン - トリヘキスビウム - トリホスゲン - トリメチルシリルジアゾメタン - トリメチルベンゼン - トリメチレントリニトロアミン - トリヨードメタン - トルートンの規則 - トルエン - トルコ石 - ドルトン (単位) - ジョン・ドルトン - ドルトンの法則 - トルマリン - トレーサー - トレハロース - トロンビン - トロンボキサン -",
"title": "と"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ナイアシン - 内殻電子 - 内丹術 - ナイトロジェンマスタード - 内部エネルギー - 内分泌攪乱化学物質 - 内分泌撹乱化学物質 - 内分泌攪乱物質 - 内分泌撹乱物質 - 内分泌かく乱物質 - ナイロン - ナイロン11 - ナイロン12 - ナイロン6 - ナイロン610 - ナイロン612 - ナイロン66 - ナイロン6I - ナイロン6T - ナイロン9T - ナイロンM5T - ナイロン-12 - 中井直正 - 中炭素鋼 - 中西準子 - 中原弘雄 - 中村栄一 - なすフラスコ - ジュリオ・ナッタ - ナトリウム - ナトリウム・硫黄電池 - ナトリウムフェノキシド - ナノカー - ナノテク - ナノテクノロジー - ナノホーン - ナフサ - ナフタリン - ナフタレン - ナフチルアミン - ナフチル基 - ナフトール - ナプロキセン - 鉛 - 鉛作業主任者 - 鉛蓄電池 - 鉛フリーはんだ - ナメキール - ナメトックス -",
"title": "な"
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{
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"tag": "p",
"text": "2,4-ジニトロフェノール - 2-アザナフタレン - 二亜硫酸 - 2-イミダゾリジノン - ニオブ - ニオブ酸リチウム - 膠質 - 膠化体 - ニキシー管 - ニクロム - 二クロム酸アンモニウム - 二クロム酸カリウム - ニクロム線 - ニコチン - ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド - ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸 - ニコラス=ルイ・ボークラン - 二酸化硫黄 - 二酸化ウラン - 二酸化塩素 - 二酸化ケイ素 - 二酸化硅素 - 二酸化珪素 - 二酸化水素 - 二酸化セレン - 二酸化炭素 - 二酸化炭素固定 - 二酸化チタン - 二酸化窒素 - 二酸化テルル - 二酸化鉛 - 二酸化マンガン - 2,3-ジクロロ-5,6-ジシアノ-1,4-ベンゾキノン - 二次イオン質量分析 - 二次イオン質量分析法 - 2次元周期的境界条件 - 二次代謝 - 西塚泰美 - 二重結合 - 二重水素 - 仁田勇 - ニッケル - ニッケルイエロー - ニッケル・カドミウム蓄電池 - ニッケルカルボニル - ニッケル乾電池 - ニッケル系一次電池 - ニッケル・水素蓄電池 - ニッケルチタンイェロー - ニッケルチタンイエロー - ニッケルチタンエロー - ニッケルチタン黄 - ニッポニウム - 二糖 - 丹銅 - 二糖類 - ニトラス - ニトラステープ - ニトリル - ニトル基 - ニトロール - ニトロールRカプセル - ニトロール錠 - ニトロールスプレー - ニトロール注 - ニトロ化 - ニトロ化合物 - ニトロ基 - ニトログアニジン - ニトログリコール - ニトログリセリン - ニトロセルロース - ニトロソ化合物 - ニトロソ基 - ニトロソグアニジン - ニトロナフタリン - ニトロバイド - ニトロバイド錠 - ニトロフィックス - ニトロフェロイン - ニトロベンゼン - ニトロメタン - 2-ニトロナフタレン - ニホニウム - 2-ブタノン - 二フッ化キセノン - 二フッ化クリプトン - 2-プロパノール - 2-ベンズアジン - 二ホウ化マグネシウム - 日本化学会 - 日本の化学に関する資格一覧 - 日本薬局方 - 2-メチル-1-プロパノール - 2-メチル-2-プロパノール - 2-メルカプトエタノール - 二面角 - 乳化剤 - ニューコクシン - 乳酸 - 乳酸脱水素酵素 - 乳濁液 - 乳糖 - ニュートラルレッド - ニュートンの冷却の法則 - 乳鉢 - ニューマン投影式 - ニューマン投影図 - ジョン・ニューランズ - 尿酸 - 尿素 - 尿素回路 - 尿素サイクル - 2,4,5-T - 2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 - 二硫化炭素 - 二硫化モリブデン - 二硫酸 - ニルソン図 - ニンヒドリン - ニンヒドリン反応 -",
"title": "に"
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{
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"tag": "p",
"text": "ヌクレアーゼ - ヌクレオシド - ヌクレオチド - ヌクレオチド除去修復 -",
"title": "ぬ"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ネオジム - ネオジム磁石 - ネオペンタン - ネオン - 熱化学 - 熱化学方程式 - 熱交換器 - 熱振動 - 熱浸透率 - 熱素説 - 熱電効果 - 熱電子 - 熱伝導 - 熱電能 - 熱濃硫酸 - 熱媒 - 熱媒体 - 熱放射 - 熱容量 - 熱力学 - 熱力学・統計力学の年表 - 熱力学温度 - 熱力学第三法則 - 熱力学的平衡 - ネプツニウム - ネマティック液晶 - ネルボン酸 - ヴァルター・ネルンスト - ネルンストの式 - 燃焼 - 燃素 - 燃素説 -",
"title": "ね"
},
{
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"tag": "p",
"text": "カール・ノイベルグ - ノイベルグの発酵形式 - 農芸化学 - 濃硝酸 - 濃度 - 脳内麻薬 - 農薬取締法 - 農用地の土壌の汚染防止等に関する法律 - 濃硫酸 - ノーザンブロッティング - ジョン・ノースロップ - ノーベリウム - アルフレッド・ノーベル - ノーベル化学賞 - 野崎・檜山・岸・高井反応 - 野崎・檜山・岸反応 - 野崎・檜山反応 - 野崎一 - 野副鉄男 - ワルター・ノダック - ノックビン - ノナン - 昇汞 - ノメックス - 野依良治 - 糊 - 糊精 - ノルアドレナリン - ノルエピネフリン - ノルディック・ゴールド - ノルマル吉草酸 - ノルマルバレルアルデヒド - ノルマルブチルアルデヒド - ノルマル酪酸 - ノンネルブ -",
"title": "の"
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{
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"tag": "p",
"text": "パーキン - ウィリアム・パーキン - バークリウム - パークロロエチレン - ウォルター・ハース - ハース投影式 - バーチ還元 - バーチャルライブラリー - アーサー・ハーデン - ハートリー原子単位 - ハートリー項 - ハートリー-フォック法 - ハートリー-フォック方程式 - ハートレー・フォック方程式 - バーナー - バーナード・カッツ - フリッツ・ハーバー - ハーバー・ボッシュ法 - ハーバー法 - パープリン - パーフルオロメタン - パーマロイ - パーメンジュール - パーメンデュール - パーライト - パーライト (岩石) - オットー・ハーン - バイアグラ - 配位 - 配位化学 - 配位結合 - 配位子 - 配位高分子 - 配位子吸収帯 - 配位子場 - 配位子場理論 - 配位子理論 - バイオセンサー - バイオプラスチック - バイオマテリアル - バイオリアクター - 砒化水素 - 排ガス規制 - 排気ガス規制 - 排気ガス処理 - 廃棄物 - 廃棄物等 - Π結合 - 媒質 - 倍数比例の法則 - Πスタッキング - ハイゼンベルクの運動方程式 - Π電子 - 配糖体 - ハイドロクロロフルオロカーボン - ハイドロフルオロカーボン - ハイネ-アバレンコフの擬ポテンシャル - Heine-Abarenkovの擬ポテンシャル - Π-π* 遷移 - Π-π相互作用 - パイプ - ハイブリッド法 - ハイポ - バイメタル - アドルフ・バイヤー - アドルフ・フォン・バイヤー - バイヤー・ビリガー酸化 - バイヤー・ビリガー転位 - バイヤー・ビリガー反応 - フリードリヒ・バイルシュタイン - バイルシュタイン・データベース - バイルシュタイン試験 - バイルシュタインテスト - ハイン-アバレンコフの擬ポテンシャル - パウリ - ヴォルフガンク・パウリ - ヴォルフガング・パウリ - ヴォルフガンク・エルンスト・パウリ - ヴォルフガング・エルンスト・パウリ - パウリ常磁性 - パウリの原理 - パウリの排他原理 - パウリの排他律 - パキシル - 麦芽糖 - 爆轟 - 爆轟特徴数の簡易推定法 - バクセン酸 - 薄層クロマトグラフィー - 爆速 - バグダッド電池 - バクテリオロドプシン - 白銅 - 爆発 - 爆発限界 - 爆発物 - 爆薬 - パクリタキセル - ルイ・パスツール - ハステロイ - 長谷川登志夫 - バソプレッシン - 八隅説 - 発エルゴン反応 - 発煙硝酸 - 発煙硫酸 - 発火点 - 発癌性 - 発ガン性 - 発がん性 - 発癌性物質 - 発ガン性物質 - 発癌物質 - 発がんプロモーション - 発がんプロモーター - バッキーボール - 白金 - 白金永久磁石 - 白金磁石 - 白金鉄系磁石 - 白金鉄磁石 - 発光 - 発光酵素 - 発光素 - ハッシウム - 発色団 - オッド・ハッセル - ハッチ - スリャック経路 - 発熱反応 - 発熱量 - 発泡スチロール - 波動関数 - バトラコトキシン - バナジウム - バナジウム鋼 - バニリン - パパイン - バビットメタル - ハフニウム - ハミック反応 - ハミルトニアン - ハミルトン関数 - パム - ハメット則 - ハメットの置換基定数 - ハモンドの仮説 - パラ・ジ・クロロベンゼン - P-α-ナフトールフタレイン - パラオキシ安息香酸エステル - パラケルスス - パラコート - パラジウム - バラシクロビル - パラジクロルベンゼン - パラジクロロベンゼン - パラゼット - 原田明 (超分子化学者) - パラチオン - パラトルエンスルホン酸 - P-トルエンスルホン酸 - P-ニトロフェノール - パラフィン - P-フェニルアゾフェノール - パラプラチン - パラベン - ハリースオゾン分解 - バリウム - バリキサ - パリトキシン - バリン - バル - パルギン - バルビタール - バルマー系列 - パルミチン酸 - パルミトレイン酸 - パロキセチン - ハロゲノ基 - ハロゲン - ハロゲン化 - ハロゲン化アシル - ハロゲン化アルキル - ハロゲン化合物 - ハロゲン化水素 - ハロゲン化反応 - ハロゲン化物 - ハロゲン系炭化水素 - ハロゲン置換体 - ハロホルム反応 - ハワース投影式 - 攀枝花新鋼バナジウム - 反強磁性 - 半金属 - 半合成繊維 - バンコマイシン - 反磁性 - 反射高速電子線回折 - ハンス・クレプス - 反水素 - ハンスディーカー反応 - はんだ - はんだ付け - ハンダ付け - 半田付け - 反電子 - ティモシー・ハント - バンド間遷移 - 半透膜 - バンドギャップ - バンド計算 - バンド計算での単位 - バンド構造 - パントテン酸 - バンド端発光 - バンド理論 - 反応機構 - 反応経路 - 反応式 - 反応速度 - 反応速度論 - 反応中間体 - 反応熱 - 反応名 - 反応物 - バンバーガー転位 - 反物質 - ハンフリー・デーヴィ - ハンフリー・デーヴィー -",
"title": "は"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ヒアルロン酸 - Pro - PRO - PRTR - PRTR制度 - PRTR法 - BINAP - BioDME - Bio-DME - PEFC - PEO - PEG - PETN - Phe - PHE - PH試験紙 - PH指示薬 - ピーエッチ - PMSF - BLAST - Polymer Electrolyte Fuel Cell - ビーカー - P軌道 - PKa - PCC酸化 - PCB処理特別措置法 - ウィルヘルム・ヒージンガー - PZT - BZ反応 - C.J. ピーダーセン - PDC酸化 - P電子 - ビードロ - PBDE - PBB - PVA - PVC - PVD - PVDF - Pブロック元素 - Pu - Pulay補正 - Bulletin of the Chemical Society of Japan - BuChE - ビールーニー - ビウンウニウム - ビウンエンニウム - ビウンオクチウム - ビウンクアジウム - ビウンセプチウム - ビウントリウム - ビウンニリウム - ビウンビウム - ビウンヘキシウム - ビウンペンチウム - ビエンウニウム - ビエンニリウム - ビオクトエンニウム - ビオチン - ヒ化ガリウム - 光化学 - 光呼吸 - 光触媒 - 光電流 - 非共有電子対 - 日局 - 非局在化 - 非極性溶媒 - 卑金属 - 非金属 - 非金属元素 - ビクトル・マイヤー - ビグリューカラム - ピクリン酸 - ビクロックス - 微細構造定数 - 菱苦土鉱 - 非磁性体 - ピシバニール - 比重 - 非晶質シリコン - 非晶質半導体 - ヒ素 - ヒスイ - ヒスイ輝石 - ビスコース - ヒスタミン - ヒスチジン - ビスフェノールA - ビスマス - ビスムタン - ビスムチン - ビセプトビウム - 砒素 - 非対称ジメチルヒドラジン - ビタミン - ビタミンE - ビタミンA - ビタミンF - ビタミンM - ビタミンQ - ビタミンK - ビタミンC - ビタミンD - ビタミンB1 - ビタミンB2 - ビタミンB3 - ビタミンB6 - ビタミンB群 - 必須アミノ酸 - 必須脂肪酸 - ジョージ・ヒッチングス - ヴィルヘルム・ヒットルフ - 非鉄金属材料 - 一重結合 - 一重項酸素 - ヒト絨毛性ゴナドトロピン - ヒドラジン - ヒドリド - ヒドリド還元 - ビトレックス - ヒドロキシカルボン酸 - ヒドロキシ基 - ヒドロキシ酸 - ヒドロキシラジカル - ヒドロキシラミン - ヒドロキシルアミン - ヒドロキシル基 - ヒドロキシルラジカル - ヒドロキノン - ヒドロゲル - ヒドロニウムイオン - ヒドロホウ素化 - ヒドロ硼素化 - ヒドロホルミル化 - ヒドロン - ピナコール転位 - ピナコール-ピナコロン転位 - ピナコリン転位 - ピナコロン転位 - ビニール - ビニルアルコール - ビニルウニウム - ビニルエンニウム - ビニルオクチウム - ビニル基 - ビニルクアジウム - ビニルセプチウム - ビニルトリウム - ビニルニリウム - ビニルビウム - ビニルヘキシウム - ビニルペンチウム - ビニロン - 比熱 - 比熱比 - 比熱容量 - ヒビテン - ビピリジン - ビフェニル - ピペット - ピペラジン - ピペリジン - ひまし油 - ビメンチン - ピューター - ヒューニッヒベース - Hunig's Base - ヒューム・ロザリー則 - ヒューム・ロザリーの規則 - ヒューム・ロザリーの法則 - ヒューム‐ロザリー則 - ヒューム‐ロザリーの規則 - ヒューム‐ロザリーの法則 - ウィリアム・ヒューム=ロザリー - アントワーヌ・ビュシー - ヒュッケル - エーリヒ・ヒュッケル - エリッヒ・ヒュッケル - ヒュッケル則 - ヒュッケル法 - ビュレット - 標準酸化還元電位 - 標準自由エネルギー変化 - 標準状態 - 標準大気圧 - 氷点 - 表面準位 - 表面第一層 - 表面張力 - ピラジン - ピラゾール - ピラン - ビリジアン - ピリジニウム - ピリジン - ピリダジン - ピリミジン - ピリミジン塩基 - ビリヤルの式 - 微量元素 - 微量放射性同位体 - ビリルビン - ペーター・ヒルシュ - ビルスマイヤー・ハック反応 - ビルスマイヤー反応 - アルトゥーリ・ビルタネン - ビルトリシド - ピルビン酸 - ビルヘキサル - ピレスロイド - ピレスロロン - ピレトリン - ピレトリンI - ピレトリンII - ピレン - ピロール - ピロール環 - ピロガロール - ヒロポン - ピロ硫酸 - ピロリン酸 - ビンクリスチン - シリル・ヒンシェルウッド - ビンデシン - ビンブラスチン - 貧溶媒 -",
"title": "ひ"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ロバート・ファーチゴット - ファヴォルスキー転位 - ファウスト・デルイヤール - ウィリアム・ファウラー - ファストグリーン - ファストグリーンFCF - ファセオリン - ファボルスキー転位 - ファラデー - マイケル・ファラデー - ファラデー回転 - ファラデー効果 - ファラデー定数 - ファラデーの電気分解の法則 - ファルネソール - ファン・デル・ワールス - ヨハネス・ファン・デル・ワールス - ファン・デル・ワールス吸着 - ファン・デル・ワールスクラスター - ファン・デル・ワールス結合 - ファン・デル・ワールス錯体 - ファン・デル・ワールス力 - ファンデアワールス力 - ファンデルワールス - ファンデルワールス吸着 - ファンデルワールスクラスター - ファンデルワールス結合 - ファンデルワールス錯体 - ファンデルワールス力 - ファンデルワールスの状態方程式 - ファンデルワールス半径 - ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ - ファント・ホッフ - ファントホッフ - ファンネル - フィードバック阻害 - Val - Valine - VSEPR - VSEPR則 - VSEPR理論 - VLDL受容体 - VOC - VOCs - フィコシアニン - フィチン - フィチン酸 - エドモンド・フィッシャー - エミール・フィッシャー - エルンスト・フィッシャー - ハンス・フィッシャー - フィッシャーエステル合成反応 - フィッシャー投影式 - フィッシャー投影図 - フィッシャーのインドール合成 - フィトクロム - VBL - フィブリン - フィブロイン - フィルスマイヤー・ハーク反応 - フィルスマイヤー反応 - フィルタープレス - フィルデシン - フィンガープリント - 風化 - 風解 - 風化作用 - アドルフ・ブーテナント - プールベ - マルセル・プールベ - プールベ図 - プールベダイアグラム - プーレイ補正 - フェーリング液 - フェーリング試薬 - フェーリング反応 - フェオフィチン - フェナントレン - フェナントロリン - フェナントロリン鉄(II) - フェニルアラニン - フェニルエチルアミン - フェニル基 - フェニルプロパノイド - フェニルメタノール - フェニルメタンスルホニルフルオリド - フェネチラミン - フェネチルアミン - フェノール - フェノール樹脂 - フェノールフタレイン - フェノールレッド - フェノサフラニン - フェノトリン - フェノバール - フェノバルビタール - フェライト (磁性材料) - フェライト磁石 - フエライト磁石 - フェライト相 - フェリシアン化カリウム - フェリ磁性 - フェルキン-アーンのモデル - フェルプスドッジ - フェルミウム - フェルミエネルギー - フェルミ準位 - フェルミ速度 - フェルミ面 - フェルミレベル - フェレドキシン - フェロアロイ - フェロイン - フェロクロム - フェロ磁性 - フェロセン - フェロマンガン - フェロモン - フェンサイクリジン - フェンタニル - フェンタネスト - フォールディング - フォトニック結晶 - フォトニックバンド - フォノンバンド - フォン・リヒター反応 - 不可逆反応 - 不可視光線 - フガシティー - 付加重合 - 付加脱離反応 - 付加反応 - 不完全燃焼 - 不規則合金 - 不揮発性 - 負極 - 福井謙一 - 複合タンパク質 - 複酸化物 - 輻射能 - 副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン - 副腎皮質ステロイド - 複素環 - 複素環式化合物 - 複素環状化合物 - 福山還元 - 福山透 - フコース - ジャン・バティスト・ブサンゴー - 藤井紀子 - 不純物 - 不純物準位 - 腐食 - 不斉 - 不斉合成 - 不斉炭素 - 不斉炭素原子 - プタキロサイド - ブタジエン - ブタノール - ブタノン - 二又アダプター - 不均化 - フタルイミド - フタル酸 - フタル酸エステル - フタルスリン - フタロシアニン - ブタン - プチリルコリンエステラーゼ - ブチルゴム - ブチルパラベン - ブチルリチウム - ブチレン - 不対電子 - 普通鋼 - フッ化塩素 - フッ化カリウム - フッ化カルシウム - フッ化銀(I) - フッ化水素 - フッ化水素酸 - フッ化セシウム - フッ化フェニルメチルスルホニル - フッ化物 - フッ酸 - 物質 - 物質分類の一覧 - 物質量 - フッ素 - 物性 - 物性値 - 沸石 - 弗素 - 沸点 - 沸点上昇 - 沸騰 - 物理化学 - 物理気相成長 - 物理気相成長法 - 物理吸着 - 不定比化合物 - ブテン - 負電荷 - 不動態 - ブドウ糖 - ぶどう糖 - 葡萄糖 - ブドウ糖果糖液糖 - プトレシン - プトレッシン - ふね型 - 舟型 - 不働態 - ブフナー - エドゥアルト・ブフナー - エドュアルト・ブフナー - ブフナーろうと - ブフナーロート - 不飽和 - 不飽和化合物 - 不飽和結合 - 不飽和脂肪酸 - 不飽和炭化水素 - フマル酸 - フミン酸 - プメラー転位 - 浮遊粉塵 - フラーレン - リチャード・ブライト - ハーバート・ブラウン - ブラウン運動 - フラウンホーファー線 - アンリ・ブラコノー - プラジカンテル - ブラジキニン - ブラシノステロイド - プラス極 - フラスコ - プラスチック - プラスチック磁石 - プラスティック - プラスミン - プラセオ黄 - プラセオジム - プラセオジム・イェロー - プラセオジム・イエロー - プラセオジム・エロー - プラセオジムイェロー - プラセオジムイエロー - プラセオジムエロー - プラセオジム黄 - プラセオジム磁石 - プラチナ - プラチナ磁石 - ローレンス・ブラッグ - プラッチック - フラバン - フラビン - フラビンアデニンジヌクレオチド - フラビンモノヌクレオチド - フラボノイド - フラボン - フラメトリン - ニコラ・フラメル - プラリドキシムヨウ化メチル - ブラレトリン - フラン (化学) - マックス・プランク - プランク定数 - エドワード・フランクランド - アーシュラ・フランクリン - ロザリンド・フランクリン - プランケット - ロイ・プランケット - フランシウム - ブランスィック・グリーン - ブランスイック・グリーン - ブランスィックグリーン - ブランスイックグリーン - ブランスィック緑 - ブランスイック緑 - フランツ・ジョセフ・ミュラー - フランツ・ヨーゼフ・ミュラー・フォン・ライヒェンシュタイン - フランツ・ヨーゼフ・ミュラー・フォン・ライヘンシュタイン - イェオリ・ブラント - ヘニッヒ・ブラント - プラント・オパール - フランドルテープS - フリーズドライ - ジョゼフ・プリーストリー - シャルル・フリーデル - フリーデル・クラフツ反応 - フリーデルクラフツ反応 - フリードリッヒ・ウェーラー - フリードリッヒ・ヴェーラー - フリードリヒ・ウェーラー - フリーラジカル - プリオン - ブリキ - イリヤ・プリゴジン - プリズマン - ブリプラチン - ブリュースター角 - ブリリアントブルーFCF - プリン (化学) - プリン塩基 - プリンス反応 - プリン体 - ブルースター角 - ジョゼフ・プルースト - フルオキセチン - フルオレニルメチルオキシカルボニル基 - フルオレニルメトキシカルボニル基 - フルオロウラシル - フルオロカーボン - フルオロホウ酸 - フルオロメタン - フルクトース - プルシアンブルー - スタンリー・B・プルシナー - ブルシン - プルトニウム - フルトプラゼパム - フルニトラゼパム - フルバミド - ブルバレン - ブルフェン - フルフラール - プルプリン - フルボキサミン - フルボ酸 - フリッツ・プレーグル - フレーム発光 - フレオン - エイブラハム・フレクスナー - サイモン・フレクスナー - ブレット則 - フレデリック・アーベル - フレデリック・ソディー - プレポリマー - アレキサンター・フレミング - アレクサンダー・フレミング - フレンケル欠陥 - ヨハンス・ブレンステッド - フロキシン - フロギストン - フロギストン説 - プロキラリティ - プロキラリティー - プロキラル - プロゲステロン - プロザック - プロジェステロン - キャサリン・ブロジェット - プロス - プロスタグランジン - プロスタグランディン - フロセミド - プロタミン - ブロック重合 - コンラート・ブロッホ - ブロッホ関数 - ブロッホの定理 - プロテアーゼ - プロテイン - プロテオグリカン - プロトアクチニウム - プロパナール - プロパノン - プロパン - プロパン酸 - プロピオンアルデヒド - プロピオン酸 - プロビタミンA - プロピルパラベン - プロピレン - プロペナール - プロペン - プロメチウム - プロメデス - ブロメライン - フロモキセフ - ブロモクレゾールグリーン - ブロモクレゾールパープル - ブロモチモールブルー - ブロモフェノールブルー - ブロモホルム - プロリン - フロン - フロン回収破壊法 - フロンガス - フロン類 - フロンティア軌道 - フロンティア軌道理論 - フロンティア軌道論 - フロンティア電子理論 - 分圧 - 分液 - 分液漏斗 - 分液ロート - 分解点 - カシミール・フンク - 分光 - 分光学 - 分光法 - 分散系 - 分散媒 - 分子 - 分子間力 - 分子軌道 - 分子軌道法 - 分子結晶 - 分子構造 - 分子コロイド - 分子式 - 分子磁石 - 分子性結晶 - 分子性物質 - 分子力場 - 分子力場計算 - 分子動力学法 - 分子排斥 - 分子物理学 - 分子篩 - 分子ふるい - 分子マシン -分子模型- 分子力学 - 分子力学法 - 分子量 - 分析化学 - 分析手法 - ロベルト・ブンゼン - ブンゼンバーナー - フントの規則 - 粉末冶金 - プンメラー転位 - 分留 -",
"title": "ふ"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "閉環反応 - 平均情報量 - 平均場 - 平均場近似 - 平均場理論 - 平衡 - 平衡状態 - 平衡定数 - 平衡反応 - 米国化学会 - 米国化学会誌 - 並進対称性 - ベイリス・ヒルマン反応 - ヤロスラフ・ヘイロフスキー - ゲオルク・ド・ヘヴェシー - レオ・ベークランド - ロジャー・ベーコン - ベータ・カロチン - ΒFe - Βカロチン - ベータカロチン - Βカロテン - ベータカロテン - Β-カロテン - Β-グルコシダーゼ - Β酸化 - Βシート - Β鉄 - ペーハー - ペーパークロマトグラフィー - ベールの法則 - へき開 - ヘキサシアノ鉄(III)酸カリウム - ヘキサデカノール - ヘキサニトロヘキサアザイソウルチタン - ヘキサミン - ヘキサメチルリン酸トリアミド - ヘキサメチレンジアミン - ヘキサメチレンテトラミン - ヘキサン - ヘキサン酸 - ヘキサン酸エチル - ヘキスト・ワッカー法 - ヘキソーゲン - ヘキソース - ペクチン - アントワーヌ・シーザー・ベクレル - アントワーヌ・セザール・ベクレル - ベゲタミンA/B - ジェルマン・アンリ・ヘス - ヘス猛度試験 - ヘスの法則 - ペダーセン - チャールズ・ペダーセン - ヘック反応 - エルンスト・オットー・ベックマン - ベックマン温度計 - ベックマン転位 - ベックマン転移 - マックス・フォン・ペッテンコーファー - ヘテロ環 - ヘテロ原子 - ヘテロ元素 - ヘテロトピック - 紅殻 - ベネジクト液 - ベネチアン・レッド - ベネチアンレッド - ベネツィアン・レッド - ベネツィアンレッド - ヘパリン - ペプシン - ヘプタン - ペプチド - ペプチドグリカン - ペプチド結合 - ペプチド固相合成法 - ペプチドホルモン - ヘプトース - ペプトン - ヘミアセタール - ヘミケタール - ヘミセルロース - ヘム - ペメトレキセド - ヘモグロビン - ヘモシアニン - ジャン・ペラン - ヘリウム - ヘリウムガス - ヘリウム原子核 - ペリ環状反応 - スネ・ベリストローム - ヘリセン - ベリリウム - ペリルアルデヒド - マックス・ペルーツ - ペルオキソ一硫酸 - ペルオキソ酸 - ペルオキシ二硫酸 - フリードリッヒ・ベルギウス - ベルクスロン - ベルセーリウス - ベルセリウス - イェンス・ベルセリウス - ゲルハルト・ヘルツベルク - マルセラン・ベルテロ - ベルナルト・カッツ - ヘルピニン - ヘルピニン-Rカプセル - ペルフルオロオクタンスルホン酸 - ベルベリン - ヘルマン・ヘルムホルツ - ヘルムホルツ - ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ - ヘルムホルツエネルギー - ペルメトリン - ベルリンブルー - ベルンハルド・カッツ - マルグリット・ペレー - ヘロイン - ベロウソフ・ジャボチンスキー反応 - ペロスピロン - ベロナール - ペロブスカイト構造 - 変異原 - 変異原性 - 弁柄 - ベンガラ - ペンギノン - ベンクト・サムエルソン - 変形共存現象 - ベンケサー還元 - 偏光角 - ベンザイン - ベンジルアルコール - ベンジルオキシカルボニル基 - ベンジル基 - ベンジルパラベン - ベンジン - ベンズアルデヒド - ペンスリット - 変性 - ベンゼン - ベンゼン環 - ベンゼンスルホン酸 - ベンゾイル基 - ベンゾイルパーオキサイド - ベンゾイン - ベンゾイン縮合 - ベンゾール - ベンゾキノン - ベンゾピレン - ペンタエリスリット - ペンタエリスリトール - ペンタエリトリトール - ペンタン - ベンツピレン - ペントース - ペントースリン酸経路 - ペントースリン酸経路 - ペントバルビタール - 変分 - 変分原理 - 変分モンテカルロ法 - ベンベルグ - ヘンリー・パーキン - ヘンリー・ル・シャトリエ - ヘンリーの法則 -",
"title": "へ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ポアソンの法則 - ポール・ボアボードラン - ロバート・ボイル - ボイル=シャルルの法則 - ボイル・シャルルの法則 - ボイルの法則 - 方位量子数 - 崩壊 - 崩壊エネルギー - 方解石 - ホウ化水素 - 芳香環 - 芳香性 - 芳香族 - 芳香族化合物 - 芳香族多環化合物 - 芳香族炭化水素 - ホウ酸 - 硼酸 - 硼砂 - 放射化 - 放射化分析 - 放射壊変 - 放射性 - 放射性核種 - 放射性原子 - 放射性元素 - 放射性壊変 - 放射性同位元素 - 放射性同位体 - 放射性物質 - 放射性崩壊 - 放射能 - ボウショウ - ボウ硝 - ホウ素 - 抱水クロラール - ホウ水素化 - ホウ砂 - 硼素 - 琺瑯 - ほうろう - 飽和 - 飽和脂肪酸 - 飽和蒸気圧 - 飽和水蒸気量 - 飽和炭化水素 - ボーア・モデル - ボーアの原子模型 - ボーアの原子モデル - ボーア半径 - ボーア模型 - ボーアモデル - ボーキサイト - ホーナー・ワズワース・エモンズ反応 - ジョン・ポープル - ボーリウム - ライナス・ポーリング - ホール・エルー法 - ボールドウィン則 - ホールピペット - ボールミル - ホーロー - 補酵素 - 補酵素A - 補酵素Q - 保護基 - 保護コロイド - 保護反応 - ドロシー・ホジキン - ポジトロニウム - ホスゲン - ホスファン - ホスフィン - 保存力 - 保存力場 - ポタシウム - 蛍石 - Boc基 - カール・ボッシュ - 没食子酸 - ボツリヌストキシン - ポテンシャル - ポテンシャルエネルギー - ボトックス - 瓶 - 炎 - ボパール化学工場事故 - ホプキンソン効果 - ホフマイスター系列 - アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン - ロアルド・ホフマン - ホフマン則 - ホフマン脱離 - ホフマン転位 - ホフマン分解 - ホムンクルス - ホモキラリティ - ホモシステイン - ポラーニ・ミハーイ - ボラジン - ボラゾン - ボラン - マイケル・ポランニー - ポリアセタール - ポリアセチレン - ポリアミド - ポリアミド系樹脂 - ポリアミド樹脂 - ポリアミン - ポリイソブチレン - ポリイミド - ポリウレタン - ポリエステル - ポリエステル樹脂 - ポリエチ - ポリエチレン - ポリエチレン・テレフタレート - ポリエチレンオキシド - ポリエチレングリコール - ポリエチレンテレフタラート - ポリエチレンテレフタレート - ポリエチレンナフタレート - ポリエン - ポリ塩化ビニル - ポリ塩化ビフェニル - ポリ塩化ビフェニル廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法 - ポリオキシエチレン硬化ひまし油 - ポリオキソメタレート - ポリカーボネイト - ポリカーボネート - ポリカーボネート樹脂 - ポリケタイド - ポリケチド - ポリ酢酸ビニル - ポリ酸 - ポリ臭化ジフェニルエーテル - ポリ臭化ビフェニル - ポリシラン - ポリスチレン - ポリスルホン - ホリゾン - ポリタンク - ポリチオン酸 - ポリトリメチレンテレフタレート - ポリ乳酸 - ポリビニルアルコール - ポリビニルピロリドン - ポリフェノール - ポリブチレンテレフタレート - ポリブチレンナフタレート - ポリフッ化ビニリデン - ポリプロ - ポリプロピレン - ポリブロモジフェニルエーテル - ポリブロモビフェニル - ポリマー - ポリマーアロイ - ポリマーブレンド - ポリメタクリル酸メチル - ポリメチレン - アレッサンドロ・ボルタ - ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ - ボルタ電池 - ボルツマン - ルートヴィッヒ・ボルツマン - ボルツマン定数 - ホルトンのタキソール全合成 - ホルナー・エモンス試薬 - ホルナー・エモンズ試薬 - ホルナー・エモンス反応 - ホルナー・エモンズ反応 - ホルナー・ワズワース・エモンズ反応 - ボルネオール - ボルネオショウノウ - ポルフィリン - ポルフィリン環 - ポルフィン - ホルマリン - ホルマル基 - ホルミウム - ホルミル基 - ホルムアルデヒド - ボルン・オッペンハイマー近似 - ボルンオッペンハイマー近似 - ボルン-オッペンハイマー近似 - ホルンフェルス - ホロ酵素 - アレクサンドル・ボロディン - ポロニウム - ボロン - ホワイトゴールド - ホワイトメタル - 本多光太郎 - ボンド磁石 - ボンベ -",
"title": "ほ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "マーキュロ - マーキュロクロム - マーキュロクロム液 - マーキュロクロム溶液 - マーチン・ハインリヒ・クラプロート - アーチャー・マーティン - マーデルングエネルギー - マーデルング定数 - マイキラー - マイクロサテライト - マイケル・ポラニー - マイケル反応 - マイケル付加 - マイコトキシン - Mycin - マイトトキシン - マイトネリウム - マイトマイシン - マイトマイシンC - マイナス極 - ヴィクトル・マイヤー - ロータル・マイヤー - マイヤーの法則 - マイロナイト - 前田四郎 - MAO - マクスウェル=ボルツマン分布 - マクスウェルの関係式 - マクスウェル分布 - マクスウェルボルツマン分布 - アルベルトゥス・マグヌス - マグネサイト - マグネシウム - マグネシウム合金 - マグネシューム - マクマリーカップリング - マクマリー反応 - マクリ - マジックマッシュルーム - 麻酔科学 - マスキー法 - マススペクトル - マスタード・ガス - マスタードガス - 松井元興 - MACCS - 松本和子 - 松本英之 - MATLAB - マトリックス分離法 - マフィンティン球 - マフィンティン半径 - マフィンティンポテンシャル - 魔法数 - 麻薬及び向精神薬取締法 - 麻薬施用者・管理者・研究者 - 麻薬特例法 - 麻薬取扱者 - 麻薬取締法 - マラカイトグリーン - マリオット瓶 - ロバート・マリケン - キャリー・マリス - ジャン・マリニャック - マルエージング鋼 - マルガリン酸 - マルコウニコフ則 - マルコニコフ則 - マルコフニコフ則 - マルターゼ - MALDI-TOF MS - MALDI法 - マルテンサイト - マルテンサイト変態 - マルトース - マレイン酸 - 希ガス - 希硝酸 - マロン酸 - マロン酸エステル合成 - マンガネシウム - マンガン - マンガンアルミ磁石 - マンガン乾電池 - マンニット - マンニトール - Mannitol -",
"title": "ま"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "三重結合 - 三重水素 - ミオグロビン - ミオシン - ミカエリス・アルブーゾフ反応 - ミカエリス・メンテン式 - ミカエリス・メンテン定数 - ミカエリス-メンテンの式 - ミキソロジー - 右田・小杉・スティルカップリング - 三島徳七 - 水 - 水ガラス - 水酸化銅(II) - ミセル - 溝呂木・ヘック反応 - ミッシュメタル - 密度行列 - 密度勾配遠心法 - 密度汎関数法 - 密度汎関数理論 - 光延旺洋 - ミノキシジル - 未発見元素の一覧 - ミューオニウム - ミュオニック原子 - ミュオンスピン回転 - ミュラー・フォン・ライヘンシュタイン - ミョウバン - ミラー指数 - ルイス・ミラモンテス - ミリスチン酸 - ミリスチン酸亜鉛 - ミリスチン酸ナトリウム - ミリストレイン酸 - ミロリーブルー - ミロリブルー -",
"title": "み"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "無煙炭 - 無機化学 - 無機化合物 - 無機化合物の一覧 - 無機過酸化物 - 無機シアン - 無機触媒 - 無機生化学 - 無機物 - 無極性溶媒 - ムコ多糖 - 無酸素銅 - 無色鉱物 - 無水コハク酸 - 無水酢酸 - 無水フタル酸 - 無水プロピオン酸 - 無水マレイン酸 - 無水硫酸 - ムスカリン - ムスコン - ムチン - ムッシモール - 紫リン - 紫燐 - ムレイン -",
"title": "む"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "明反応 - 命名法 - メイラード反応 - メーヤワイン・ポンドルフ・ヴァーレイ還元 - メーヤワイン・ポンドルフ・バーレイ還元 - メールワイン・ポンドルフ・バーレー還元 - メールワイン・ポンドルフ還元 - 旋光度 - 旋光 - 旋光性 - メサドン - メシチレン - メシル基 - メスカリン - メスシリンダー - メスバウアー効果 - メスピペット - メスフラスコ - メソ化合物 - メソ体 - メソトレキセート - メタ - メタアルデヒド - メタクリル酸メチル樹脂 - メタクロロ過安息香酸 - メタセシス反応 - メサドン - メタな - メタノール - メタマテリアル - メタロセン - メタロチオネイン - メタン - メタンガス - メタン生成経路 - メタンハイドレート - メタンフェタミン - メチオニン - メチルアミン - メチルアルコール - メチルイエロー - メチルイソブチルケトン - メチルエチルケトン - メチルエチルケトンパーオキサイド - メチルオレンジ - メチル基 - メチル水銀 - メチルターシャリーブチルエーテル - メチルパープル - メチルパラベン - メチルビオローゲン - メチルピロリドン - メチルフェニデート - メチルプレドニゾロン - メチルプロパン - メチルプロペン - メチルメルカプタン - メチルレッド - メチレン - メチレン青 - メチレン基 - メチレンブルー - めっき - 鍍金 - メッキ - メディピース - メトカチノン - メトトレキサート - メトトレキサート・ロイコボリン救援療法 - MEDLINE - メノウ - メバロン酸 - メバロン酸経路 - メラトニン - メラニン - メラニン色素 - ロバート・メリフィールド - メルカプタン - メルカプト基 - メルブロミン液 - 免疫グロブリン - 面欠陥 - 面心立方 - 面心立方格子 - 面心立方格子構造 - 面心立方構造 - メンソール - メンデレーエフ - ドミトリ・メンデレーエフ - メンデレビウム - メントール - メンブランフィルター -",
"title": "め"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アンリ・モアッサン - 毛細管 - 毛細管現象 - 燃える氷 - モーヴ - モース硬度 - ヘンリー・モーズリー (物理学者) - モーズン - モーダント・レッド - モーブ - モーベイン - モキシフロキサシン - 木材化学 - 木精 - モスコビウム - モダフィニル - 餅鉄 - モッシャー法 - Mosher法 - モット絶縁体 - モット転移 - 本野英吉郎 - モネル - モノ - モノアミンオキシダーゼ - モノアミン酸化酵素 - モノゲルマン - モノフルオロ酢酸 - モノマー - モノメチルヒドラジン - モノレイヤ - 催畸性 - 森田・ベイリス・ヒルマン反応 - 森野米三 - モリブデン - モル - Mol - モル数 - モル体積 - モル当量 - モル濃度 - モルヒネ - モル分率 - モルホリン - Mol/l - モレキュラーシーブ - モレキュラーシーブス - 諸熊奎治 - モンテカルロ法 - ルードウィッヒ・モンド - モントリオール議定書 -",
"title": "も"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ヤーン・テラー効果 - ヤーン・テラー歪み - 焼入れ性 - 焼き入れ性 - 冶金学 - YAG - 薬化学 - 薬剤 - 薬剤師国家試験 - 薬剤師法 - 薬さじ - 薬匙 - 薬事法 - 薬品 - 薬物代謝 - 薬包紙 - ヤコブ・ベルセリウス - ヤコブス・ヘンリクス・ファントホッフ - 薬局方 - ヤナックの定理 - 山口ラクトン化反応 - 山田興一 -",
"title": "や"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "遊色効果 - UFT - UF膜 - Ullmann反応 - 融解 - 有害液体汚染防止管理者 - 融解塩電解 - 融解熱 - 有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律 - 誘起 - 有機硫黄化合物 - 有機塩 - 有機化学 - 有機化学反応 - 有機化合物 - 有機ガラス - 有機金属 - 有機金属化学 - 有機金属化合物 - 有機金属気相成長法 - 有機ケイ素化合物 - 誘起効果 - 有機合成 - 有機合成化学 - 有機酸 - 有機水銀 - 有機地球化学 - 有機電子論 - 有機物 - 有機分子 - 有機溶剤 - 有機溶媒 - 有機リチウム - 有限温度への拡張 - 有効原子番号則 - 融剤 - 融剤法 - 有色鉱物 - ユーストゥス・フォン・リービッヒ - 融点 - 融点測定 - 誘電体 - 誘電分極 - 誘電率 - 誘導結合プラズマ - 誘導体 - 誘導放出 - Ubh - Ubn - Ubq - Ubt - Ubb - Ubp - Ubu - UV-Vis - Uue - Uus - Uuu - ハロルド・ユーリー - 遊離基 - 遊離酸 - ユーロジン - ユウロピウム - 油脂 - ユストゥス・フォン・リービヒ - ユストゥス・リービッヒ - ユストゥス・リービヒ - ユビキノール - ユビキノン - 湯浴 - 油浴 - ジョルジュ・ユルバン -",
"title": "ゆ"
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{
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"tag": "p",
"text": "陽イオン - 溶液 - 溶解 - 溶解性パラメータ - 溶解性パラメーター - 溶解度 - 溶解度積 - 溶解度定数 - 溶解度パラメーター - 溶解パラメーター - ヨウ化カリウム - ヨウ化銀 - ヨウ化水素 - ヨウ化メチル - 陽極 - 溶剤 - 葉酸 - 陽子 - 溶質 - 幼若ホルモン - 洋白 - ヨウ素 - よう素価 - ヨウ素価 - ヨウ素デンプン反応 - ヨウ素ヨウ化カリウム溶液 - 沃素 - 沃素価 - ヨウ素酸 - 陽電子 - 溶媒 - 溶媒抽出法 - 溶媒和 - 容量パーセント濃度 - 葉緑素 - ヨードホルム - ヨードホルム反応 - ヨードメタン - 吉野彰 - ヨハン・オルフガング・デーベライナー - 4-アミノ酪酸 - 四アルキル鉛等作業主任者 - 四エチル鉛 - 四塩化チタン - 四元素説 - 四酸化オスミウム - 四酸化二窒素 - 4-ジメチルアミノピリジン - 四臭化炭素 - 四水素化スズ - 四フッ化キセノン - 四フッ化炭素 -",
"title": "よ"
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"text": "チンターマニー・ラーオ - ラーデンブルクベンゼン - ライト・レッド - ライトレッド - ミュラー・フォン・ライヒェンシュタイン - タデウシュ・ライヒスタイン - ライマー・チーマン反応 - ライマー・ティーマン反応 - ラウールの法則 - ラウエ - マックス・フォン・ラウエ - ラヴォアジェ - ラヴォアジエ - アントワーヌ・ラヴォアジェ - アントワーヌ・ラヴォアジエ - ラヴォワジェ - ラヴォワジエ - アントワーヌ・ラヴォワジェ - アントワーヌ・ラヴォワジエ - ポール・ラウターバー - ラウリル硫酸ナトリウム - ラウリン酸 - ラウレス硫酸ナトリウム - 酪酸 - ラクタム - ラクチド - ラクチム - ラクトース - ラクトフェリン - ラクトン - アーネスト・ラザフォード - ダニエル・ラザフォード - ラザホージウム - ラジウム - ラジオアイソトープ - ラジカル (化学) - ラジカル重合 - ラジカル置換 - ラジカル置換反応 - ラジカル反応 - ラジカル付加 - ラジカル付加反応 - ラシックス - ラセミ化 - ラセミ体 - ラタモキセフ - ラヂウム - ラドン - ラネー合金 - ラネー触媒 - ラネーニッケル - ラネーニッケル触媒 - ラノステロール - ラピスラズリ - ラボアジェ - ラボアジエ - アントワーヌ・ラボアジエ - ラボナール - ラボワジェ - ラボワジエ - チャンドラセカール・ラマン - ラマン効果 - ラマン散乱 - ラミブジン - ラムスデン現象 - ウィリアム・ラムゼー - ランキンサイクル - アーヴィング・ラングミュア - ラングミュアの等温吸着式 - 乱雑位相近似 - ランジュバン方程式 - ランダウアーの原理 - ランタノイド - ランタノイド収縮 - ランタン - ランナーズハイ - ランバート・ベールの法則 - 卵白質 - ランベルトの法則 - ランベルト-ベールの法則 - 卵胞刺激ホルモン -",
"title": "ら"
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{
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"text": "REACCS - リアップ - リアルタイムPCR - RHEED - リートベルト法 - リービッヒ - ユストゥス・フォン・リービッヒ - リービッヒ冷却器 - リービッヒ冷却管 - リービヒ - リウマトレックス - 李遠哲 - 理科年表 - リグニン - リコピン - リコペン - リコリン - リジッドバンドモデル - リシン - リジン - リシン (毒物) - リスパダール - リスペリドン - リゼルギン酸ジエチルアミド - 理想気体 - 理想気体の状態式 - 理想気体の状態方程式 - 理想溶液 - リゾチーム - リタリン - リチウム - リチウムイオン二次電池 - リチウムイオンポリマー二次電池 - リチウム塩 - リチウムジイソプロピルアミド - リチウム電池 - セオドア・リチャーズ - リチャード・クーン - リチャード・ジョン・ロバーツ - 律速段階 - 立体異性体 - 立体化学 - 立体配座 - 立体構造 - 立体障害 - 立体選択性 - 立体電子効果 - 立体特異性 - 立体配置 - 立方晶 - 立方晶窒化ホウ素 - 立方最密充填構造 - リドカイン - リトマス - リトマス紙 - リトマス試験紙 - リニアポリエチレン - リノール酸 - リノレン酸 - リパーゼ - ウィラード・リビー - イェレミアス・リヒター - テオドール・リヒター - リピンスキーの法則 - リピンスキールール - リファタック - リファタックL錠 - リファタックテープS - リブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ - リボース - リホーミング - リボ核酸 - リポ蛋白 - リボヌクレアーゼ - リボフラビン - リモネン - 略称・略号の一覧 (化合物名) - 硫安 - 硫加 - 硫化アリル - 硫化アンチモン - 硫化カドミウム - 硫化水銀 - 硫化水素 - 硫化スズ - 硫化第二水銀 - 硫化窒素 - 硫化鉄 - 硫化銅 - 硫化物 - 硫化リン - 硫酸 - 硫酸アトロピン - 硫酸アルミニウム - 硫酸アンモニウム - 硫酸イオン - 硫酸エーテル - 硫酸塩 - 硫酸カリ - 硫酸カリウム - 硫酸ジメチル - 硫酸水素ニトロシル - 硫酸鉄 - 硫酸銅 - 硫酸銅(II) - 硫酸ナトリウム - 硫酸ニコチン - 硫酸ニッケル - 硫酸バリウム - 硫酸ビンデシン - 硫酸ビンブラスチン - 硫酸マグネシウム - 流動接触分解 - リュードベリ定数 - 竜脳 - 硫砒鉄鉱 - 硫ヒ鉄鉱 - 量子化学 - 量子化学的手法 - 量子モンテカルロ法 - 量子論 - 両性酸化物 - 菱鉄鉱 - 良溶媒 - 緑色3号 - 緑閃石 - 緑柱石 - リレンザ - 理論化学 - 理論段 - 理論段数 - リン - 燐 - 燐灰石 - 臨界点 - 臨界ミセル濃度 - リン化カルシウム - リン化水素 - 燐光 - リン鉱石 - リンゴ酸 - リン酸 - 燐酸 - りん酸 - リン酸塩 - 燐酸塩 - リン酸オセルタミビル - リン酸化酵素 - リン酸緩衝生理食塩水 - リン酸三ナトリウム - リン酸トリクロリド - リン脂質 - リンドラー触媒 - りん光 -",
"title": "り"
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"text": "ル・シャトリエ - ル・シャトリエ=ブラウンの原理 - ル・シャトリエの原理 - ルイ=ニコラ・ボークラン - ルイ・ジャック・テナール - ルイ・ド=ブロイ - 類似麻薬 - ギルバート・ルイス - ルイス塩基 - ルートヴィヒ・ボルツマン - レオポルト・ルジチカ - レオポルト・ルジツカ - ルシフェラーゼ - ルシフェリン - ルシフェレース - アンリ・ルシャトリエ - アンリ・ル・シャトリエ - アンリ・ルイ・ル・シャトリエ - ルシャトリエ=ブラウンの原理 - ルシャトリエ・ブラウンの原理 - ルシャトリエの原理 - ルチル - ルチン - るつぼ - 坩堝 - ルテイン - ルテチウム - ルテニウム - ルトサイド - アンリ・ヴィクトル・ルニョー - ルビジウム - Rubisco - RuBisCO - ルビスコ - RubisCO - ルミネセンス - ルミネッセンス - ルミノール - ルミノール反応 - LUMO -",
"title": "る"
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{
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"text": "レアアース - レアメタル - 励起 - 励起状態 - 0°C - レイノルズ数 - 冷媒 - レイリー散乱 - プリーモ・レーヴィ - レーヨン - ジャン=マリー・レーン - レオロジー - 瀝青炭 - レクチン - レシチン - レスタス - レスメトリン - レゾルシノール - レゾルシン - レチナール - レチノール - レドックス - レドックス電位 - レナカット - レニウム - レニン - レプチン - レフラー・ハモンドの仮説 - レボフロキサシン - 錬金 - 錬金術 - 錬金術師 - 錬丹術 - レンチナン - 錬鉄 - レントゲニウム - 煉丹術 - レンネット -",
"title": "れ"
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"text": "ロイコトリエン - ロイシン - 蝋 - 蠟 - ろう石 - 漏斗 - ろうと - ローズベンガル - ローゼムント還元 - ローゼンムント還元 - ローソン試薬 - ロータリーエバポレーター - ロータリーポンプ - ロープストン - シャーウッド・ローランド - フランク・シャーウッド・ローランド - マーチン・ローリー - ローレンシウム - ローレンス・ブラック - ろ過 - 濾過 - ろ過ビン - ろ紙 - 六価クロム - 六員複素環式化合物 - 緑青 - 六炭糖 - 6-ナイロン - LogP - 六フッ化硫黄 - 六フッ化ウラニウム - 六フッ化ウラン - 六フッ化キセノン - 六フッ化テルル - 六フッ化リン酸リチウム - 6,6-ナイロン - ロゲイン - 濾紙 - ロジウム - ヨハン・ロシュミット - ロタキサン - 6価クロム - マーティン・ロッドベル - 六方晶構造 - 六方最密構造 - 六方最密充填 - 六方最密充填構造 - ロドプシン - リチャード・ロバーツ - ロヒプノール - ロバート・ロビンソン - ロビンソン・アヌレーション - ロビンソン・アネレーション - ロビンソン環化 - ロビンソン環化反応 - ロビンソン環形成反応 - ロラゼパム - ロラタジン - ロラメット - ロルメタゼパム - フリッツ・ロンドン -",
"title": "ろ"
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"text": "ワーグナー・メーヤワイン転位 - ワーファリン - ワーリン - ワイパックス - ワインレブアミド - 和鋼 - 綿火薬 - 渡辺順次 - ワッカー酸化 - ワッカー反応 - ワッカー法 - ワックス - ジェームズ・ワトソン - ワルデン反転 - ワルファリン - ワルファリンカリウム - ワルファリンK -",
"title": "わ"
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{
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"text": "(2006年9月27日時点6545項目)",
"title": "わ"
}
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化学に関する記事の一覧(かがくにかんするきじのいちらん)の目的は、化学に関係するすべてのウィキペディアの記事の一覧を作ることです。この話題に興味のある方はサイドバーの「リンク先の更新状況」をクリックすることで、変更を見ることが出来ます。 化学の分野一覧と重複することもあるかもしれませんが、化学分野の項目一覧です。化学で検索して出てきたものです。数字、英字、五十音順に配列してあります。濁音・半濁音は無視し同音がある場合は清音→濁音→半濁音の順、長音は無視、拗音・促音は普通に(ゃ→や、っ→つ)変換です。例:グリニャール反応→くりにやるはんのう †印はその内容を内含する記事へのリダイレクトになっています。 註) Portal:化学#新着記事の一部は、ノート:化学に関する記事の一覧/化学周辺に属する記事に分離されています。
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'''化学に関する記事の一覧'''(かがくにかんするきじのいちらん)の目的は、[[化学]]に関係するすべてのウィキペディアの記事の一覧を作ることです。この話題に興味のある方はサイドバーの「リンク先の更新状況」をクリックすることで、変更を見ることが出来ます。
[[化学の分野一覧]]と重複することもあるかもしれませんが、化学分野の項目一覧です。化学で検索して出てきたものです。数字、英字、五十音順に配列してあります。濁音・半濁音は無視し同音がある場合は清音→濁音→半濁音の順、長音は無視、拗音・促音は普通に(ゃ→や、っ→つ)変換です。例:グリニャール反応→くりにやるはんのう
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註) [[Portal:化学#新着記事]]の一部は、[[ノート:化学に関する記事の一覧/化学周辺に属する記事]]に分離されています。
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[[アート錯体]] - [[Ate錯体]]<sup>†</sup> - [[R/S]]<sup>†</sup> - [[RS表記法]]<sup>†</sup> - [[RS表示法]]<sup>†</sup> - [[RNアーゼ]]<sup>†</sup> - [[RNase]]<sup>†</sup> - [[RNAポリメラーゼ]] - [[RoHS]] - [[RoHS指令]]<sup>†</sup> - [[RKKY相互作用]] - [[トリメチレントリニトロアミン|RDX]]<sup>†</sup> - [[アーント・アイシュタート合成]] - [[IARC発がん性リスク一覧]] - [[アイオライト]]<sup>†</sup> - [[I効果]]<sup>†</sup> - [[IChO]]<sup>†</sup> - [[ICP-AES]]<sup>†</sup> - [[ICP-MS]]<sup>†</sup> - [[アイスラール錠]]<sup>†</sup> - [[Isentris]]<sup>†</sup> - [[アイソトープ]]<sup>†</sup> - [[アイソマー]]<sup>†</sup> - [[アイトロール錠]]<sup>†</sup> - [[IUPAC]]<sup>†</sup> - [[IUPAC組織名]]<sup>†</sup> - [[IUPAC名]]<sup>†</sup> - [[IUPAC命名法]] - [[IUPAC命名法勧告一覧]] - [[アイラックス]]<sup>†</sup> - [[ヘンリー・アイリング]] - [[アイロクール錠]]<sup>†</sup> - [[アインスタイニウム]] - [[アヴォガドロ]]<sup>†</sup> - [[アメデオ・アヴォガドロ]] - [[亜鉛]] - [[亜鉛華]]<sup>†</sup> - [[亜鉛黄]]<sup>†</sup> - [[亜鉛族]]<sup>†</sup> - [[亜鉛族元素]]<sup>†</sup> - [[亜塩素酸]] - [[亜塩素酸ナトリウム]] - [[蒼鉛]]<sup>†</sup> - [[青葉アルコール]] - [[赤血塩]]<sup>†</sup> - [[赤チン]]<sup>†</sup> - [[アカネ色素]] - [[赤堀四郎]] - [[赤リン]]<sup>†</sup> - [[アガロース]] - [[アキシアル]]<sup>†</sup> - [[悪臭防止法]] - [[ジュリアス・アクセルロッド]] - [[アクチオス]]<sup>†</sup> - [[アクチダス]]<sup>†</sup> - [[アクチニウム]] - [[アクチノイド]] - [[アクチノイド元素]]<sup>†</sup> - [[アクチノン]]<sup>†</sup> - [[アクチビン]] - [[アクチン]] - [[アグファ]]<sup>†</sup> - [[アグフア]]<sup>†</sup> - [[アクリノール]] - [[アクリル]]<sup>†</sup> - [[アクリルアミド]] - [[アクリルアルデヒド]]<sup>†</sup> - [[アクリル酸]] - [[アクリル酸ニトリル]]<sup>†</sup> - [[アクリル樹脂]] - [[アクリル繊維]] - [[アクリルニトリル]]<sup>†</sup> - [[アクリロニトリル]] - [[アクロレイン]] - [[アゴニスト]] - [[アコニチン]] - [[アザン]]<sup>†</sup> - [[亜酸化塩素]]<sup>†</sup> - [[亜酸化窒素]] - [[アジ化水素]] - [[アジ化水素酸]]<sup>†</sup> - [[アジ化ナトリウム]] - [[アジ化鉛]] - [[アジ化物]] - [[アジ基]]<sup>†</sup> - [[アシクロビル]] - [[アシクロビン]]<sup>†</sup> - [[アジスロマイシン]] - [[芦田実]] - [[亜ジチオン酸]] - [[アシッドレッド]] - [[アジド]]<sup>†</sup> - [[アシ-ニトロ基]]<sup>†</sup> - [[アシビル]]<sup>†</sup> - [[アジピン酸]] - [[亜臭素酸]]<sup>†</sup> - [[アシュクロフトの擬ポテンシャル]] - [[Ashcroftの擬ポテンシャル]]<sup>†</sup> - [[亜硝酸]] - [[亜硝酸アミル]] - [[亜硝酸イオン]]<sup>†</sup> - [[亜硝酸イソアミル]]<sup>†</sup> - 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== い ==
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== う ==
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== え ==
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== お ==
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== か ==
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== き ==
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== く ==
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== け ==
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== さ ==
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== し ==
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== す ==
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== せ ==
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== そ ==
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== た ==
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== ち ==
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== つ ==
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== て ==
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== と ==
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== な ==
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== に ==
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== ぬ ==
[[ヌクレアーゼ]] - [[ヌクレオシド]] - [[ヌクレオチド]] - [[ヌクレオチド除去修復]] -
== ね ==
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== の ==
[[カール・ノイベルグ]] - [[ノイベルグの発酵形式]] - [[農芸化学]] - [[濃硝酸]]<sup>†</sup> - [[濃度]] - [[脳内麻薬]]<sup>†</sup> - [[農薬取締法]] - [[農用地の土壌の汚染防止等に関する法律]] - [[濃硫酸]]<sup>†</sup> - [[ノーザンブロッティング]] - [[ジョン・ノースロップ]] - [[ノーベリウム]] - [[アルフレッド・ノーベル]] - [[ノーベル化学賞]] - [[野崎・檜山・岸・高井反応]]<sup>†</sup> - [[野崎・檜山・岸反応]] - [[野崎・檜山反応]]<sup>†</sup> - [[野崎一]] - [[野副鉄男]] - [[ワルター・ノダック]] - [[ノックビン]]<sup>†</sup> - [[ノナン]] - [[昇汞]]<sup>†</sup> - [[ノメックス]]<sup>†</sup> - [[野依良治]] - [[糊]]<sup>†</sup> - [[糊精]]<sup>†</sup> - [[ノルアドレナリン]] - [[ノルエピネフリン]]<sup>†</sup> - [[ノルディック・ゴールド]] - [[ノルマル吉草酸]]<sup>†</sup> - [[ノルマルバレルアルデヒド]]<sup>†</sup> - [[ノルマルブチルアルデヒド]]<sup>†</sup> - [[ノルマル酪酸]]<sup>†</sup> - [[ノンネルブ]]<sup>†</sup> -
== は ==
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== ひ ==
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== ふ ==
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== へ ==
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== ほ ==
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== ま ==
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== み ==
[[三重結合]]<sup>†</sup> - [[三重水素]] - [[ミオグロビン]] - [[ミオシン]] - [[ミカエリス・アルブーゾフ反応]] - [[ミカエリス・メンテン式]] - [[ミカエリス・メンテン定数]]<sup>†</sup> - [[ミカエリス-メンテンの式]]<sup>†</sup> - [[ミキソロジー]] - [[右田・小杉・スティルカップリング]] - [[三島徳七]] - [[水]] - [[水ガラス]] - [[水酸化銅(II)]] - [[ミセル]]<sup>†</sup> - [[溝呂木・ヘック反応]]<sup>†</sup> - [[ミッシュメタル]] - [[密度行列]] - [[密度勾配遠心法]]<sup>†</sup> - [[密度汎関数法]] - [[密度汎関数理論]] - [[光延旺洋]] - [[ミノキシジル]] - [[未発見元素の一覧]] - [[ミューオニウム]] - [[ミュオニック原子]] - [[ミュオンスピン回転]] - [[ミュラー・フォン・ライヘンシュタイン]]<sup>†</sup> - [[ミョウバン]] - [[ミラー指数]] - [[ルイス・ミラモンテス]] - [[ミリスチン酸]] - [[ミリスチン酸亜鉛]]<sup>†</sup> - [[ミリスチン酸ナトリウム]]<sup>†</sup> - [[ミリストレイン酸]]<sup>†</sup> - [[ミロリーブルー]]<sup>†</sup> - [[ミロリブルー]]<sup>†</sup> -
== む ==
[[無煙炭]]<sup>†</sup> - [[無機化学]] - [[無機化合物]] - [[無機化合物の一覧]] - [[無機過酸化物]] - [[無機シアン]]<sup>†</sup> - [[無機触媒]]<sup>†</sup> - [[無機生化学]]<sup>†</sup> - [[無機物]]<sup>†</sup> - [[無極性溶媒]]<sup>†</sup> - [[ムコ多糖]]<sup>†</sup> - [[無酸素銅]] - [[無色鉱物]] - [[無水コハク酸]] - [[無水酢酸]] - [[無水フタル酸]] - [[無水プロピオン酸]] - [[無水マレイン酸]] - [[無水硫酸]]<sup>†</sup> - [[ムスカリン]] - [[ムスコン]] - [[ムチン]] - [[ムッシモール]] - [[紫リン]]<sup>†</sup> - [[紫燐]]<sup>†</sup> - [[ムレイン]]<sup>†</sup> -
== め ==
[[明反応]]<sup>†</sup> - [[命名法]]<sup>†</sup> - [[メイラード反応]] - [[メーヤワイン・ポンドルフ・ヴァーレイ還元]]<sup>†</sup> - [[メーヤワイン・ポンドルフ・バーレイ還元]]<sup>†</sup> - [[メールワイン・ポンドルフ・バーレー還元]] - [[メールワイン・ポンドルフ還元]]<sup>†</sup> - [[旋光度]]<sup>†</sup> - [[旋光]] - [[旋光性]]<sup>†</sup> - [[メサドン]]<sup>†</sup> - [[メシチレン]] - [[メシル基]]<sup>†</sup> - [[メスカリン]] - [[メスシリンダー]] - [[メスバウアー効果]] - [[メスピペット]] - [[メスフラスコ]]<sup>†</sup> - [[メソ化合物]]<sup>†</sup> - [[メソ体]]<sup>†</sup> - [[メソトレキセート]]<sup>†</sup> - [[メタ]] - [[メタアルデヒド]] - [[メタクリル酸メチル樹脂]]<sup>†</sup> - [[メタクロロ過安息香酸]] - [[メタセシス反応]] - [[メサドン]] - [[メタな]]<sup>†</sup> - [[メタノール]] - [[メタマテリアル]] - [[メタロセン]] - [[メタロチオネイン]] - [[メタン]] - [[メタンガス]]<sup>†</sup> - [[メタン生成経路]] - [[メタンハイドレート]] - [[メタンフェタミン]] - [[メチオニン]] - [[メチルアミン]] - [[メチルアルコール]]<sup>†</sup> - [[メチルイエロー]]<sup>†</sup> - [[メチルイソブチルケトン]] - [[メチルエチルケトン]] - [[メチルエチルケトンパーオキサイド]] - [[メチルオレンジ]]<sup>†</sup> - [[メチル基]]<sup>†</sup> - [[メチル水銀]] - [[メチルターシャリーブチルエーテル]] - [[メチルパープル]]<sup>†</sup> - [[メチルパラベン]]<sup>†</sup> - [[メチルビオローゲン]]<sup>†</sup> - [[メチルピロリドン]]<sup>†</sup> - [[メチルフェニデート]] - [[メチルプレドニゾロン]] - [[メチルプロパン]]<sup>†</sup> - [[メチルプロペン]]<sup>†</sup> - [[メチルメルカプタン]]<sup>†</sup> - [[メチルレッド]]<sup>†</sup> - [[メチレン]]<sup>†</sup> - [[メチレン青]]<sup>†</sup> - [[メチレン基]]<sup>†</sup> - [[メチレンブルー]] - [[めっき]] - [[鍍金]]<sup>†</sup> - [[メッキ]]<sup>†</sup> - [[メディピース]]<sup>†</sup> - [[メトカチノン]] - [[メトトレキサート]] - [[メトトレキサート・ロイコボリン救援療法]]<sup>†</sup> - [[MEDLINE]] - [[メノウ]] - [[メバロン酸]] - [[メバロン酸経路]] - [[メラトニン]] - [[メラニン]] - [[メラニン色素]]<sup>†</sup> - [[ロバート・メリフィールド]] - [[メルカプタン]]<sup>†</sup> - [[メルカプト基]]<sup>†</sup> - [[メルブロミン液]]<sup>†</sup> - [[免疫グロブリン]] - [[面欠陥]]<sup>†</sup> - [[面心立方]]<sup>†</sup> - [[面心立方格子]]<sup>†</sup> - [[面心立方格子構造]] - [[面心立方構造]]<sup>†</sup> - [[メンソール]]<sup>†</sup> - [[メンデレーエフ]]<sup>†</sup> - [[ドミトリ・メンデレーエフ]] - [[メンデレビウム]] - [[メントール]] - [[メンブランフィルター]]<sup>†</sup> -
== も ==
[[アンリ・モアッサン]] - [[毛細管]] - [[毛細管現象]] - [[燃える氷]]<sup>†</sup> - [[モーヴ]]<sup>†</sup> - [[モース硬度]] - [[ヘンリー・モーズリー (物理学者)]] - [[モーズン]]<sup>†</sup> - [[モーダント・レッド]]<sup>†</sup> - [[モーブ]] - [[モーベイン]]<sup>†</sup> - [[モキシフロキサシン]] - [[木材化学]] - [[木精]]<sup>†</sup> - [[モスコビウム]] - [[モダフィニル]] - [[餅鉄]] - [[モッシャー法]] - [[Mosher法]]<sup>†</sup> - [[モット絶縁体]] - [[モット転移]]<sup>†</sup> - [[本野英吉郎]] - [[モネル]] - [[モノ]] - [[モノアミンオキシダーゼ]]<sup>†</sup> - [[モノアミン酸化酵素]] - [[モノゲルマン]]<sup>†</sup> - [[モノフルオロ酢酸]] - [[モノマー]] - [[モノメチルヒドラジン]] - [[モノレイヤ]] - [[催畸性]]<sup>†</sup> - [[森田・ベイリス・ヒルマン反応]] - [[森野米三]] - [[モリブデン]] - [[モル]] - [[Mol]]<sup>†</sup> - [[モル数]]<sup>†</sup> - [[モル体積]] - [[モル当量]]<sup>†</sup> - [[モル濃度]]<sup>†</sup> - [[モルヒネ]] - [[モル分率]]<sup>†</sup> - [[モルホリン]] - [[Mol/l]]<sup>†</sup> - [[モレキュラーシーブ]] - [[モレキュラーシーブス]]<sup>†</sup> - [[諸熊奎治]] - [[モンテカルロ法]] - [[ルードウィッヒ・モンド]] - [[モントリオール議定書]]<sup>†</sup> -
== や ==
[[ヤーン・テラー効果]] - [[ヤーン・テラー歪み]]<sup>†</sup> - [[焼入れ性]] - [[焼き入れ性]]<sup>†</sup> - [[冶金学]] - [[YAG]] - [[薬化学]]<sup>†</sup> - [[薬剤]]<sup>†</sup> - [[薬剤師国家試験]] - [[薬剤師法]] - [[薬さじ]] - [[薬匙]]<sup>†</sup> - [[薬事法]] - [[薬品]] - [[薬物代謝]] - [[薬包紙]] - [[ヤコブ・ベルセリウス]]<sup>†</sup> - [[ヤコブス・ヘンリクス・ファントホッフ]]<sup>†</sup> - [[薬局方]] - [[ヤナックの定理]] - [[山口ラクトン化反応]] - [[山田興一]] -
== ゆ ==
[[遊色効果]] - [[UFT]] - [[UF膜]]<sup>†</sup> - [[Ullmann反応]]<sup>†</sup> - [[融解]]<sup>†</sup> - [[有害液体汚染防止管理者]] - [[融解塩電解]]<sup>†</sup> - [[融解熱]]<sup>†</sup> - [[有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律]] - [[誘起]]<sup>†</sup> - [[有機硫黄化合物]] - [[有機塩]]<sup>†</sup> - [[有機化学]] - [[有機化学反応]]<sup>†</sup> - [[有機化合物]] - [[有機ガラス]]<sup>†</sup> - [[有機金属]]<sup>†</sup> - [[有機金属化学]] - [[有機金属化合物]]<sup>†</sup> - [[有機金属気相成長法]] - [[有機ケイ素化合物]] - [[誘起効果]]<sup>†</sup> - [[有機合成]]<sup>†</sup> - [[有機合成化学]] - [[有機酸]]<sup>†</sup> - [[有機水銀]]<sup>†</sup> - [[有機地球化学]]<sup>†</sup> - [[有機電子論]] - [[有機物]]<sup>†</sup> - [[有機分子]]<sup>†</sup> - [[有機溶剤]]<sup>†</sup> - [[有機溶媒]]<sup>†</sup> - [[有機リチウム]]<sup>†</sup> - [[有限温度への拡張]] - [[有効原子番号則]] - [[融剤]] - [[融剤法]]<sup>†</sup> - [[有色鉱物]] - [[ユーストゥス・フォン・リービッヒ]]<sup>†</sup> - [[融点]] - [[融点測定]]<sup>†</sup> - [[誘電体]] - [[誘電分極]] - [[誘電率]] - [[誘導結合プラズマ]] - [[誘導体]] - [[誘導放出]] - [[Ubh]]<sup>†</sup> - [[Ubn]]<sup>†</sup> - [[Ubq]]<sup>†</sup> - [[Ubt]]<sup>†</sup> - [[Ubb]]<sup>†</sup> - [[Ubp]]<sup>†</sup> - [[Ubu]]<sup>†</sup> - [[UV-Vis]]<sup>†</sup> - [[Uue]]<sup>†</sup> - [[Uus]]<sup>†</sup> - [[Uuu]]<sup>†</sup> - [[ハロルド・ユーリー]] - [[遊離基]]<sup>†</sup> - [[遊離酸]]<sup>†</sup> - [[ユーロジン]]<sup>†</sup> - [[ユウロピウム]] - [[油脂]] - [[ユストゥス・フォン・リービヒ]]<sup>†</sup> - [[ユストゥス・リービッヒ]]<sup>†</sup> - [[ユストゥス・リービヒ]]<sup>†</sup> - [[ユビキノール]]<sup>†</sup> - [[ユビキノン]] - [[湯浴]]<sup>†</sup> - [[油浴]]<sup>†</sup> - [[ジョルジュ・ユルバン]] -
== よ ==
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== ら ==
[[チンターマニー・ラーオ]] - [[ラーデンブルクベンゼン]]<sup>†</sup> - [[ライト・レッド]]<sup>†</sup> - [[ライトレッド]]<sup>†</sup> - [[ミュラー・フォン・ライヒェンシュタイン]] - [[タデウシュ・ライヒスタイン]] - [[ライマー・チーマン反応]] - [[ライマー・ティーマン反応]]<sup>†</sup> - [[ラウールの法則]] - [[ラウエ]]<sup>†</sup> - [[マックス・フォン・ラウエ]] - [[ラヴォアジェ]]<sup>†</sup> - [[ラヴォアジエ]]<sup>†</sup> - [[アントワーヌ・ラヴォアジェ]]<sup>†</sup> - [[アントワーヌ・ラヴォアジエ]] - [[ラヴォワジェ]]<sup>†</sup> - [[ラヴォワジエ]]<sup>†</sup> - [[アントワーヌ・ラヴォワジェ]]<sup>†</sup> - [[アントワーヌ・ラヴォワジエ]]<sup>†</sup> - [[ポール・ラウターバー]] - [[ラウリル硫酸ナトリウム]] - [[ラウリン酸]] - [[ラウレス硫酸ナトリウム]]<sup>†</sup> - [[酪酸]] - [[ラクタム]] - [[ラクチド]] - [[ラクチム]]<sup>†</sup> - [[ラクトース]] - [[ラクトフェリン]] - [[ラクトン]] - [[アーネスト・ラザフォード]] - [[ダニエル・ラザフォード]] - [[ラザホージウム]] - [[ラジウム]] - [[ラジオアイソトープ]]<sup>†</sup> - [[ラジカル (化学)]] - [[ラジカル重合]] - [[ラジカル置換]]<sup>†</sup> - [[ラジカル置換反応]]<sup>†</sup> - [[ラジカル反応]]<sup>†</sup> - [[ラジカル付加]]<sup>†</sup> - [[ラジカル付加反応]]<sup>†</sup> - [[ラシックス]]<sup>†</sup> - [[ラセミ化]]<sup>†</sup> - [[ラセミ体]] - [[ラタモキセフ]]<sup>†</sup> - [[ラヂウム]]<sup>†</sup> - [[ラドン]] - [[ラネー合金]] - [[ラネー触媒]]<sup>†</sup> - [[ラネーニッケル]]<sup>†</sup> - [[ラネーニッケル触媒]]<sup>†</sup> - [[ラノステロール]] - [[ラピスラズリ]] - [[ラボアジェ]]<sup>†</sup> - [[ラボアジエ]]<sup>†</sup> - [[アントワーヌ・ラボアジエ]]<sup>†</sup> - [[ラボナール]]<sup>†</sup> - [[ラボワジェ]]<sup>†</sup> - [[ラボワジエ]]<sup>†</sup> - [[チャンドラセカール・ラマン]] - [[ラマン効果]] - [[ラマン散乱]]<sup>†</sup> - [[ラミブジン]] - [[ラムスデン現象]] - [[ウィリアム・ラムゼー]] - [[ランキンサイクル]] - [[アーヴィング・ラングミュア]] - [[ラングミュアの等温吸着式]]<sup>†</sup> - [[乱雑位相近似]] - [[ランジュバン方程式]] - [[ランダウアーの原理]] - [[ランタノイド]] - [[ランタノイド収縮]]<sup>†</sup> - [[ランタン]] - [[ランナーズハイ]]<sup>†</sup> - [[ランバート・ベールの法則]]<sup>†</sup> - [[卵白質]]<sup>†</sup> - [[ランベルトの法則]]<sup>†</sup> - [[ランベルト-ベールの法則]]<sup>†</sup> - [[卵胞刺激ホルモン]] -
== り ==
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== る ==
[[ル・シャトリエ]]<sup>†</sup> - [[ル・シャトリエ=ブラウンの原理]]<sup>†</sup> - [[ル・シャトリエの原理]]<sup>†</sup> - [[ルイ=ニコラ・ボークラン]]<sup>†</sup> - [[ルイ・ジャック・テナール]]<sup>†</sup> - [[ルイ・ド=ブロイ]]<sup>†</sup> - [[類似麻薬]]<sup>†</sup> - [[ギルバート・ルイス]] - [[ルイス塩基]]<sup>†</sup> - [[ルートヴィヒ・ボルツマン]]<sup>†</sup> - [[レオポルト・ルジチカ]] - [[レオポルト・ルジツカ]]<sup>†</sup> - [[ルシフェラーゼ]] - [[ルシフェリン]] - [[ルシフェレース]]<sup>†</sup> - [[アンリ・ルシャトリエ]] - [[アンリ・ル・シャトリエ]]<sup>†</sup> - [[アンリ・ルイ・ル・シャトリエ]]<sup>†</sup> - [[ルシャトリエ=ブラウンの原理]]<sup>†</sup> - [[ルシャトリエ・ブラウンの原理]]<sup>†</sup> - [[ルシャトリエの原理]] - [[ルチル]]<sup>†</sup> - [[ルチン]] - [[るつぼ]] - [[坩堝]]<sup>†</sup> - [[ルテイン]]<sup>†</sup> - [[ルテチウム]] - [[ルテニウム]] - [[ルトサイド]]<sup>†</sup> - [[アンリ・ヴィクトル・ルニョー]] - [[ルビジウム]] - [[Rubisco]]<sup>†</sup> - [[RuBisCO]]<sup>†</sup> - [[ルビスコ]]<sup>†</sup> - [[RubisCO]]<sup>†</sup> - [[ルミネセンス]] - [[ルミネッセンス]]<sup>†</sup> - [[ルミノール]] - [[ルミノール反応]]<sup>†</sup> - [[LUMO]]<sup>†</sup> -
== れ ==
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== ろ ==
[[ロイコトリエン]] - [[ロイシン]] - [[蝋]] - [[蠟]]<sup>†</sup> - [[ろう石]] - [[漏斗]] - [[ろうと]]<sup>†</sup> - [[ローズベンガル]] - [[ローゼムント還元]]<sup>†</sup> - [[ローゼンムント還元]] - [[ローソン試薬]] - [[ロータリーエバポレーター]]<sup>†</sup> - [[ロータリーポンプ]] - [[ロープストン]]<sup>†</sup> - [[シャーウッド・ローランド]]<sup>†</sup> - [[フランク・シャーウッド・ローランド]] - [[マーチン・ローリー]] - [[ローレンシウム]] - [[ローレンス・ブラック]]<sup>†</sup> - [[ろ過]] - [[濾過]]<sup>†</sup> - [[ろ過ビン]]<sup>†</sup> - [[ろ紙]] - [[六価クロム]] - [[六員複素環式化合物]]<sup>†</sup> - [[緑青]] - [[六炭糖]]<sup>†</sup> - [[6-ナイロン]]<sup>†</sup> - [[LogP]]<sup>†</sup> - [[六フッ化硫黄]] - [[六フッ化ウラニウム]]<sup>†</sup> - [[六フッ化ウラン]] - [[六フッ化キセノン]]<sup>†</sup> - [[六フッ化テルル]] - [[六フッ化リン酸リチウム]] - [[6,6-ナイロン]]<sup>†</sup> - [[ロゲイン]]<sup>†</sup> - [[濾紙]]<sup>†</sup> - [[ロジウム]] - [[ヨハン・ロシュミット]] - [[ロタキサン]] - [[6価クロム]]<sup>†</sup> - [[マーティン・ロッドベル]] - [[六方晶構造]]<sup>†</sup> - [[六方最密構造]]<sup>†</sup> - [[六方最密充填]]<sup>†</sup> - [[六方最密充填構造]] - [[ロドプシン]] - [[リチャード・ロバーツ]] - [[ロヒプノール]]<sup>†</sup> - [[ロバート・ロビンソン]] - [[ロビンソン・アヌレーション]]<sup>†</sup> - [[ロビンソン・アネレーション]]<sup>†</sup> - [[ロビンソン環化]]<sup>†</sup> - [[ロビンソン環化反応]] - [[ロビンソン環形成反応]]<sup>†</sup> - [[ロラゼパム]] - [[ロラタジン]]<sup>†</sup> - [[ロラメット]]<sup>†</sup> - [[ロルメタゼパム]] - [[フリッツ・ロンドン]] -
== わ ==
[[ワーグナー・メーヤワイン転位]] - [[ワーファリン]]<sup>†</sup> - [[ワーリン]]<sup>†</sup> - [[ワイパックス]]<sup>†</sup> - [[ワインレブアミド]] - [[和鋼]] - [[綿火薬]]<sup>†</sup> - [[渡辺順次]] - [[ワッカー酸化]] - [[ワッカー反応]]<sup>†</sup> - [[ワッカー法]]<sup>†</sup> - [[ワックス]]<sup>†</sup> - [[ジェームズ・ワトソン]] - [[ワルデン反転]]<sup>†</sup> - [[ワルファリン]] - [[ワルファリンカリウム]]<sup>†</sup> - [[ワルファリンK]]<sup>†</sup> -
(2006年9月27日時点6545項目)
== 関連項目 ==
* [[ノーベル化学賞]]
* [[周期表]]
* [[未発見元素の一覧]]
* [[化合物一覧]]
* [[化学の分野一覧]]
* [[無機化合物の一覧]]
* [[化学物質関連法規の一覧]]
* [[生物学と有機化学の年表]]
* [[Portal:化学]]
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不可分債務
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不可分債務(ふかぶんさいむ)とは、多数当事者間の債権債務関係の一つで、債務の目的がその性質上不可分である債務。
2017年の改正前の民法には不可分債務と連帯債務を明確に区別する規定がなかった。旧430条は「数人が不可分債務を負担する場合」となっており「不可分」の判断基準は債務の性質又は当事者の意思表示の解釈によるとされていた。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では可分債務(分割債務)と連帯債務を債務の目的が性質上可分な場合、不可分債務を債務の目的が性質上不可分な場合とし、性質上可分で法令の規定又は当事者の合意があるときに連帯債務が成立すると整理された。この改正で性質上不可分の場合は不可分債務、当事者の合意による場合は連帯債務として扱われることが明文化された。
2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で不可分債務には連帯債務の規定(440条の規定を除く)が準用されることになった(430条)。
不可分債務における債権者の各債務者に対する関係(対外的効力)については、連帯債務の規定の準用により、債権者は債務者の一人に対して、あるいは同時・順次に全債務者に対して、全部又は一部の弁済を請求することができる(430条・436条(旧432条))。
不可分債務の一人の債務者と債権者との間に一定の事由が生じた場合の他債務者と債権者との関係(対内的効力)についても、連帯債務の規定の一部が準用される(430条)。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で見直しが行われた。
債務者の一人による弁済(供託や代物弁済を含む)、更改(430条・438条(旧435条))、相殺(430条・439条(旧436条))が生じた場合には他の債務者にも効力を生じる絶対的効力(絶対効)である。なお、2017年の改正前の民法では相殺は他の債務者の相殺権を援用できるとされていたが、過剰な介入と批判され、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では他の債務者は履行拒絶ができるにとどまる制度に改められた(439条2項)。
これら以外は他の債務者に影響を与えない相対的効力(相対効)にとどまる(430条・441条(旧440条))。
不可分債務が可分債務(分割債務)となったときは、各債務者はその負担部分についてのみ履行の責任を負う(431条)。
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不可分債務(ふかぶんさいむ)とは、多数当事者間の債権債務関係の一つで、債務の目的がその性質上不可分である債務。 2017年の改正前の民法には不可分債務と連帯債務を明確に区別する規定がなかった。旧430条は「数人が不可分債務を負担する場合」となっており「不可分」の判断基準は債務の性質又は当事者の意思表示の解釈によるとされていた。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では可分債務(分割債務)と連帯債務を債務の目的が性質上可分な場合、不可分債務を債務の目的が性質上不可分な場合とし、性質上可分で法令の規定又は当事者の合意があるときに連帯債務が成立すると整理された。この改正で性質上不可分の場合は不可分債務、当事者の合意による場合は連帯債務として扱われることが明文化された。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で不可分債務には連帯債務の規定(440条の規定を除く)が準用されることになった(430条)。 民法の規定については、以下で条数のみ記載する。
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2017年の改正前の民法には不可分債務と[[連帯債務]]を明確に区別する規定がなかった<ref name="LM" />。旧430条は「数人が不可分債務を負担する場合」となっており「不可分」の判断基準は債務の性質又は当事者の[[意思表示]]の解釈によるとされていた。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では可分債務([[分割債務]])と連帯債務を債務の目的が性質上可分な場合、不可分債務を債務の目的が性質上不可分な場合とし、性質上可分で法令の規定又は当事者の合意があるときに連帯債務が成立すると整理された<ref name="LM">{{Cite web |url=http://www.lmlo.jp/wp/wp-content/uploads/2018/01/4219b1136a380ddc75b2a8e70088f0951.pdf|title=改正債権法の要点解説(3) |format=PDF |publisher=LM法律事務所 |accessdate=2020-03-24}}</ref><ref name="leasing">{{Cite web |url=https://www.leasing.or.jp/studies/docs/10_01.pdf|title=民法(債権関係)改正がリース契約等に及ぼす影響|format=PDF |publisher=公益社団法人リース事業協会|accessdate=2020-03-24}}</ref>。この改正で性質上不可分の場合は不可分債務、当事者の合意による場合は連帯債務として扱われることが明文化された<ref name="LM" /><ref name="leasing" />。
2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で不可分債務には連帯債務の規定(440条の規定を除く)が準用されることになった([[b:民法第430条|430条]])。
*[[民法 (日本)|民法]]の規定については、以下で条数のみ記載する。
== 不可分債務の対外的効力 ==
不可分債務における債権者の各債務者に対する関係(対外的効力)については、連帯債務の規定の準用により、債権者は債務者の一人に対して、あるいは同時・順次に全債務者に対して、全部又は一部の弁済を請求することができる(430条・436条(旧432条))。
== 不可分債務の対内的効力 ==
不可分債務の一人の債務者と債権者との間に一定の事由が生じた場合の他債務者と債権者との関係(対内的効力)についても、連帯債務の規定の一部が準用される(430条)。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で見直しが行われた<ref name="LM" />。
債務者の一人による[[弁済]]([[供託]]や[[代物弁済]]を含む)、[[更改]](430条・438条(旧435条))、[[相殺]](430条・439条(旧436条))が生じた場合には他の債務者にも効力を生じる絶対的効力(絶対効)である。なお、2017年の改正前の民法では相殺は他の債務者の相殺権を援用できるとされていたが、過剰な介入と批判され、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では他の債務者は履行拒絶ができるにとどまる制度に改められた(439条2項)<ref name="LM" /><ref name="leasing" />。
これら以外は他の債務者に影響を与えない相対的効力(相対効)にとどまる(430条・441条(旧440条))。
== 分割債務への変更 ==
不可分債務が可分債務(分割債務)となったときは、各債務者はその負担部分についてのみ履行の責任を負う([[b:民法第431条|431条]])。
== 脚注 ==
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<references />
== 関連項目 ==
*[[民法]]
*[[債権]]
*[[分割債務]]
*[[不可分債権]]
*[[法用語一覧]]
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冷戦
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冷戦(れいせん、英: Cold War、露: Холодная война)もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国(アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営)と、東側諸国(ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営)との対立構造。米ソ冷戦(べいそれいせん)や東西冷戦(とうざいれいせん)とも呼ばれる。「冷戦」とは、読んで字の如く「戦火を交えない戦争」、つまり米ソが武力で直接衝突はしないと言う意味であるが、冷戦下では朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連・アフガン戦争のように両国が介入して東西各勢力を支援する代理戦争が多数勃発した。
第二次世界大戦の終結直前の1945年2月から1989年12月までの44年間続き、連合国としては味方同士であったアメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。
「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルがジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており、後にバーナード・バルークも使い、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。
各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の政策や外交関係では協力しないこともあったなど、イデオロギーを概念とした包括的な同盟・協力関係である。
冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義陣営が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。
ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。
アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せることで多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行われた。また、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。なお、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれることもある。
この冷戦時代の世界は、
の3点に特徴付けられる。最終的には1991年に東側諸国の盟主であったソビエト連邦が崩壊したことにより、日米西欧をはじめとする西側陣営の勝利に終わった。冷戦が終わると、アメリカが唯一の超大国として君臨していた。しかし、2010年代ころより強権的国家のロシアの軍事的復活や共産党の一党独裁国家の中華人民共和国の軍事、経済的急成長、またこれら2国とのアメリカ、イギリス、フランス、日本、韓国、オーストラリア、フィリピン、カナダなどの民主主義国との対立や、ロシアとウクライナとの軍事的対立など、変化が多くなって流動性を増している。
冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図は、ヤルタ体制に求められる。
主に欧州の分割を扱った、1945年2月のフランクリン・ルーズベルト(アメリカ)、ヨシフ・スターリン(ソ連)、ウィンストン・チャーチル(イギリス)によるヤルタ会談が、第二次世界大戦後の国際レジームを決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。
1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。
戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシャおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。世界的な反共活動を支援すると宣言した、いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義に至る多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアとアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。
枢軸国の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。
ヤルタ会談の焦点の一つがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチス・ドイツのポーランド侵攻であり、ソ連にとって安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくもスターリンがミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。
またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国から解放した国家が占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、米英にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢を採った。
ルーズベルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる(選挙が決まるまでの過程は、ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと)。
ドイツの首都ベルリンは、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年に西ベルリンへ繋がる鉄道と道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。
冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党とソ連の支援する中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連の同盟国となった。一方、アメリカの支援を打ち切られた中国国民党は台湾島に逃れた。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立して台湾海峡も冷戦構造に組み入られた。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。
日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する南ベトナムを建国した。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。
これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に一国占領していた旧敵国日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。
このように冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。
1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。
主な出来事
1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリアは永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌年に日本とも国交を回復し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。
この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いたフルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。ポーランドでは反ソ暴動に次いで、国民の人気が高かったヴワディスワフ・ゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、ハンガリーでも政権交代が起こり、ナジ・イムレが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。
一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。1960年代にはキューバ危機や部分的核実験禁止条約でしばしば対立、ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。
主な出来事
互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ核兵器を大量に保有するようになる。また、大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつロケットやU-2などの高高度を飛行する偵察機、宇宙から敵を監視するための人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために有人宇宙飛行と月探査活動を活発化した。
しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に1962年のキューバ危機によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。
その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる中南米諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカはブラジルやボリビア、ウルグアイなど各国の親米軍事独裁政権への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による内戦や汚職、軍事勢力同士によるクーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。
1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、1958年から始まったベルリン危機 (1958年)(ドイツ語版)であった。当時、東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で鉄条網が敷設され、後に壁へと発展した(ベルリン危機 (1961年)(英語版))。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に首相として東方政策を推進したヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。
主な出来事
キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。シャルル・ド・ゴール統治下のフランスは、アメリカ主導のNATOに反対し、1964年には同様に米ソと距離を置いていた中国を(中国と地続きな香港を持つイギリスを除いて)西側諸国では最も早く国家承認した。また、1967年にド・ゴールは外訪先であるカナダで開催されたモントリオール万国博覧会で、「自由ケベック万歳!」と演説し、今も続くケベック独立運動に火を付けた。
米ソ両国の軍拡競争が進行し、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。第二次世界大戦終結時はアメリカ合衆国以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。
チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。なお、ニコラエ・チャウシェスク率いるルーマニア社会主義共和国はワルシャワ条約機構加盟国でありながらソ連の介入を公然と批判して独自路線を行い、アメリカなど西側諸国から巨額の援助を受けた。また、アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はリチャード・ニクソンの訪中を契機にアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反した。イタリア、スペイン、日本など西側諸国の共産党のうちいくつかはソ連型社会主義に反発し、ソ連の影響から離脱した(ユーロコミュニズム)。こうして今に至る共産主義の多極化が起こった。
主な出来事
1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉 (SALT)を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。
この頃には同じ共産陣営でありながらソ連と中国の路線対立はあらゆる方面で亀裂を生むようになってきており、中ソ国境紛争など実力行使を伴うほどになってきていた。印パ戦争は中ソの代理戦争の様相を呈した。
このような中ソの対立を見たアメリカはソ連を牽制する目的で、リチャード・ニクソンがパキスタンやルーマニアなどの仲介により1972年に中華人民共和国を訪問し、中華人民共和国を承認して外交と貿易を開始し、東アジアにおける冷戦の対立軸であった米中関係が改善、1972年には日本も中華人民共和国と国交正常化した。
また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。アメリカは建国以来初の屈辱的な敗北を味わうことになった。その後1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落ち、同時にラオス、カンボジアでも共産主義勢力が政権を獲得し、インドシナ半島は完全に赤化された。
一般市民の日常生活や仕事に役立つ多種多様な商品やサービスが開発・供給され、世界の経済、財政、貿易、投資、通貨発行は著しく拡大したので、金本位制と外国為替の固定相場制の維持が不可能になり、管理通貨制度と変動相場制に移行した。
ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立に繋がった。しかし核を削減する一方、ソ連は1977年から中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは1979年12月に中距離核戦力(INF)を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連がアフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。
中東では、第四次中東戦争が起き、主にソ連の支援するアラブ諸国が政治的な成果をおさめ、石油危機によって西側先進国に深刻な打撃を与えた。しかし、四度にわたる中東戦争を主導してきたエジプトは戦争前にソ連の軍事顧問団を追放し、戦争後はソ連と関係断絶し、ソ連と対立するアメリカや中国から軍事的経済的援助を受け始め、アメリカの主導でキャンプ・デービッド合意が成立し、さらにアメリカは西側に対する石油禁輸を主導したサウジアラビアがドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラーを確立することでドル防衛に成功し、単純な米ソ対立が反映されてきた中東でも新たな冷戦の構図が生まれつつあった。
アフリカでは、1978年からエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争が起こっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国とルーマニア、エジプトなどが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカとザイールとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼化した。
東南アジアでは、共産主義国家同士のカンボジア・ベトナム戦争が起き、ソ連寄りのベトナムの侵攻で親中国の民主カンプチアが崩壊するも民主カンプチアの亡命政府は中国・ASEAN・日本・アメリカの支援で国連総会の議席を保ち続け、タイとの国境で親ベトナムのヘン・サムリン政権に対しゲリラ活動を行ってカンボジア内戦は長期化した。
ラテンアメリカでは、チリにおいて民主的な社会主義政権であるサルバドール・アジェンデ政権を転覆させたチリ・クーデターで成立したアウグスト・ピノチェトが中国とルーマニアを除く共産圏と断交し、親米軍事政権の南米諸国は共産主義勢力の排除で連携するコンドル作戦を立ち上げた。
ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア(親ベトナム政権)、ラオス、エチオピア、南イエメンの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビーク、ニカラグアなどで共産主義勢力に加担して紛争に介入し、シリアやイラクなどアメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。
1978年に成立した共産主義政権を支えるために、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックへの西側に加えて中国、さらにエジプトやサウジアラビア、パキスタンなど親米のアラブ・イスラム諸国も加わったボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。アメリカはCIAやチャールズ・ウィルソンらによる総額数十億ドル規模の極秘の武器供給などによる支援にてアフガニスタンの反共ムスリム武装勢力「ムジャヒディン」をエジプトやサウジアラビア、パキスタンなどとともに援助した。また、ソ連と対立する中国も武器や訓練でムジャヒディンを支援した。戦争を短期で終結させるソ連の目論見は外れ、侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。
人々は、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別にもう一つの勢力があることに気が付き始めた。それはイスラム主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠された。アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(イーグルクロー作戦)。イスラム教を創始した預言者ムハンマドの子孫(サイイド)でイランの最高指導者となったルーホッラー・ホメイニーは「ソ連は小悪魔、米国は大悪魔」「我々は西でも東でもない」としてイスラム主義の時代を謳った。
このイラン革命によってアラブ諸国や東西諸国は動揺し、1980年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。欧米ソ中はイスラム革命が世界に広がることやさらなる石油危機を恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、後の21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1989年には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。
主な出来事
1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、経済が疲弊した国内体制の改良と、予算案を大幅に削減した大胆な軍縮提案を行い、さらには西側との関係改善に乗り出す。
1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結し、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も1988年から和平会議が開催された。
また、既に1980年代初頭から独立自主管理労働組合「連帯」が結成され民主化の動きが見られていたポーランドでは1989年の選挙でポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、同様に東欧諸国の中でも比較的早くから改革路線を行っていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ国民が西ドイツへこれらの国を経て大量脱出した。
東ドイツはあくまで強硬な社会主義路線を取り民衆を抑え込もうとしたが、10月のライプツィヒで行われた月曜デモには10万人が参加し、事態を収拾できなかった社会主義統一党内部では、幹部であったエーリッヒ・ホーネッカーの求心力が低下し、まもなく総辞職に追い込まれた。後任の指導部も民主化を求める動きをせき止められず、東ドイツは政治・経済が崩壊状態に陥った。
このため、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、東欧革命という。1989年12月には、地中海のマルタ島で、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した。しかし、中国では六四天安門事件が起き、東アジアの共産党政権(竹のカーテン)では民主化ドミノが武力で抑制された。
1990年8月に起きた湾岸戦争では、欧米ソ中が世界第四の軍事大国に仕立てたイラクのクウェート侵攻に対するアメリカ主導の武力行使容認決議にソ連は同調し、米ソで二極化してきた世界はアメリカ一極化への兆しが見え始めた。アメリカは、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。
ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニア・ソビエト社会主義共和国が主権宣言、同年リトアニア・ソビエト社会主義共和国でもサユディスによる独立運動の加速により、国旗がソビエト編入以前のデザインに戻された。1989年7月にリトアニア共産党がソビエト連邦共産党からの独立を宣言した。
1990年3月から6月にかけて東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、バルト三国の各最高会議は独立宣言を採択した。ソ連政府はバルト三国に対して軍事行動を起こし、1991年1月の血の日曜日事件(リトアニア)などで、ソ連軍と民間人が衝突する事態になった。
ソ連は1991年3月、バルト三国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。同年3月17日には新連邦条約を締結するための布石として、連邦制維持の賛否を問う国民投票(英語版、ロシア語版)が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国(エストニア・ソビエト社会主義共和国、ラトビア・ソビエト社会主義共和国、リトアニア・ソビエト社会主義共和国)、モルダビア・ソビエト社会主義共和国、グルジア・ソビエト社会主義共和国、アルメニア・ソビエト社会主義共和国は投票をボイコットした。
1991年6月12日、ソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国で、選挙により大統領に当選したボリス・エリツィンは、国名を「ロシア共和国」に改称し、主権宣言を出して連邦からの離脱を表明した。
また、米ソ両国は1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START)に調印した。8月20日に予定されていた新連邦条約調印を前に、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。しかし、クーデターはボリス・エリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。
しかし、その結果バルト三国は独立を達成し、各構成共和国でも独立に向けた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチがベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は消滅した。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本主義国家となった。
ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結する前後に、それまで反共主義が故に、軍事政権や独裁政権、長期政権の存在が容認されていた一部の西側諸国(インドネシアや台湾、韓国、ザイールなど)が、アメリカからの金銭や軍事、政治的支援を受けられなくなったために次々と政権崩壊し、選挙の実施や政権交代を余儀なくされた。日本でも55年体制が崩壊し、非自民・非共産連立政権が樹立された。さらに反共主義を条件にアメリカの援助を受けた軍事政権や独裁政権、長期政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、チリやアルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終わってアメリカとの対決の必然性が消えたロシアにとって戦略的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。
米ソ冷戦が終結した当初の1990年代初期において、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を発表し、政治体制としてのリベラル民主主義の最終的勝利を宣言した。冷戦終結直後の1991年に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となった。ソ連型の国営の計画経済・統制経済モデルの社会主義体制と社会主義経済圏が崩壊し、世界の経済が資本主義経済・市場経済により統合され、グローバリゼーションが進行した。冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。
東ヨーロッパを見ると、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。また、このテロにはイスラーム過激派の関与が疑われている。
西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの和解の外は、中華民国と中華人民共和国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立(朝鮮戦争)が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。
アメリカは「冷戦の戦勝国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権は、双子の赤字を改善していく傍らでパレスチナ問題に積極的に関わり、ノルウェーの仲介により初めて和平合意をもたらした(オスロ合意)。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した(パレスチナ問題)。また、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くアルカーイダは、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。
特にイラク戦争に関しては開戦時第一の理由に挙げられた大量破壊兵器は一切見つからず、最終的に存在しないことが判明したため、アメリカ外交の信頼に大きな傷をつけた。ジョージ・W・ブッシュ大統領も退任直前に、大量破壊兵器の情報収集は政権の最大の失敗の一つであったことを認めた。
核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中ソ対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有(印パ戦争#両国の核保有)や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。
2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。同年の世界金融危機で財政出動により、景気を回復させ影響力を高めた中華人民共和国も、米中冷戦と呼ばれる緊張状態にあるとされ、中露はNATOと対立する上海協力機構を組織している。ロシアは、ソ連が崩壊すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、シリア内戦に介入するなど牽制の動きを見せるようになった。
1989年 - 1991年に起こった「ソ連型社会主義体制」の消滅により、多国籍企業は地球規模で市場と利益を奪い合うグローバリゼーションが進行した。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反米・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せていたが、その代表格であったベネズエラのチャベス大統領が病死したことで2012年頃から親米路線に回帰する国も増えている。また2015年には、オバマ政権において、アメリカとキューバの国交が回復した。
グレゴリー・ガウスが執筆した『新しい中東の冷戦』と題された宗派主義に関する文献では、イランとサウジアラビアは超大国として地域に影響を与える能力を持っているとされている。そして、「これは、純粋なる軍事的な争いというよりも、中東の国内政治の方向性をめぐる争いである」とガウスは論じ、この状況を「中東の冷戦」と表現している。
資本主義を基調とし、東側と対立した国々。アメリカを中心とし、基本的には民主的な国が多かったが、アジアや南米にはアメリカに支援された軍事政権や開発独裁の国もあった。しかし現在ではそうした国も民主化し、経済的に発展している。 南北アメリカ
アジア
ヨーロッパ
オセアニア
中東
アフリカ
社会主義を基調とし、西側と対立した国々。ソ連を中心とし、基本的に共産党や社会党による一党独裁体制が取られだが、中には独自路線をとる国もあった。冷戦後にはほとんどが崩壊、民主化し、現在残る社会主義国は少数になっている。 アジア
ヨーロッパ
中東
アフリカ
西側寄り
東側寄り
孤立化
冷戦は、それがグローバルな戦後国際政治に大きな影響を与えたことから起源、展開、終焉に対して様々な解釈が示され、論争を呼んできた。以下では、学術的な冷戦史研究の中で行われた論争について説明する。
冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦はいつ、なぜ生じたのか」という冷戦の起源を巡る論争だった。この論争は、西側陣営最大の当事国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。
冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は第二次世界大戦などの起源を巡る学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の起源を論じるものであったため、ベトナム戦争を典型として、研究が発表された当時の出来事や問題関心に強く影響されたものになった。第二に、その論争が米国学界を中心に展開されたことや、資料公開ペースのスピードなどから、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、一般に研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている。
伝統学派/正統学派 (Traditionalist / Orthodox) は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた。伝統学派はソ連がヤルタ会談で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、マーシャル・プラン、NATO結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。
以上のような解釈はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史としての冷戦』(1967)、ハーバート・ファイスのFrom Trust to Terror (1970) などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の国務長官を務め、冷戦政策を展開したディーン・アチソンの回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている。
続いて1960年代より登場した修正主義学派 (Revisionist) は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生はソ連の行動よりも米国側の行動により大きな原因があったとする解釈を提示した。修正主義学派の最大の特徴は、経済的要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務したウィスコンシン大学マディソン校で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「門戸開放」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと指摘した。そして、冷戦は米国が門戸開放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったとして、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である ウォルター・ラフィーバーの America, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーの Architects of Illusion (1970) などによってより精緻に検討されることとなる。
また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとするマルクス主義に親和的な解釈を主張することとなった。これらの研究は、ベトナム戦争の泥沼化により、従来の米国外交のあり方に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。当然ながらこれらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の分析の実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国の行動のみを実質的に分析している分析の偏重などが批判されることとなった。うい
伝統学派・修正主義学派に続くポスト修正主義学派 (Post-Revisionist) は、先行する学派の議論の抱える問題点を克服し、さらにこの頃徐々に公開が進んだ西側政府の公文書を活用することで、歴史研究としての実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスの The United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスは一次資料に依拠した上で、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因を同時に取り入れつつ、さらに国際政治構造、国内政治要因、政策決定プロセス(官僚政治)の影響などを盛り込んだ分析を提示した。
ギャディスは、各国の疲弊によって「力の真空」が生じていたヨーロッパにおいて、米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、対峙の緊張の中で米ソが様々な要因から相手の行動・思惑に対する誤解を重ねたことが(本来両者の想定しなかった)冷戦を生んだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める過去の議論を排する主張を展開した。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマンの Stalin's American Policy (1982) などにも継承され、彼らの研究は「ポスト修正主義学派」として広く受け入れられることとなった。 また、米国で進んだポスト修正主義学派の研究に対して、ヨーロッパにおける研究も呼応する動きを示した。ノルウェーのゲア・ルンデスタッドは、大戦後のヨーロッパの政治指導者たちがソ連の影響力を相殺するべく、ヨーロッパで米国がより積極的な役割を果たすことを希望していたと論じ、戦後の米国はいわばヨーロッパに「招かれた帝国 (Empire by Invitation)」であったとする解釈を示した。
冷戦の終結とソ連邦の崩壊により、過去西側で閲覧することが不可能だった東側文書の開示が進むこととなった。これは各種の研究・資料収集プロジェクトの始動をもたらすとともに、冷戦起源を巡る論争において伝統学派的な解釈の復活という、新しい展開を生むこととなった。開示された東側の資料群をもとに発表されたヴォイチェフ・マストニーの『冷戦とは何だったのか』(1996年)、ヴラディスラヴ・ズボクとコンスタンティン・プレシャコフ (Constantine Pleshakov) による Inside the Kremlin's Cold War (1996) は、ソ連中枢の情勢認識や政策決定を明らかにすることとなった。これらの著書は、ソ連がマルクス・レーニン主義のイデオロギーに基づき、自発的・主体的にヨーロッパへの拡張を図っていたとする解釈を示した。その他、90年代には様々な資料を活用したドミトリー・ヴォルコゴーノフによるスターリンの伝記研究も発表され、スターリンのパラノイア的性質を指摘する書物として注目を浴びることとなった。
このような研究進展の影響を受けた典型ともいえるのが、ポスト修正主義学派の旗手であったギャディスの冷戦起源解釈の変化である。ギャディスは東側についての研究の進展を受けて、1997年に発表した『歴史としての冷戦』では、冷戦の起源を米ソ双方のパーセンプション・ギャップや、国際政治構造に見出す過去の解釈から、イデオロギーが冷戦におよぼした影響を重視し、ソ連の政治体制とスターリンという指導者が冷戦の発生により多くの責任を負っているとする解釈へと転じた。しかし、このギャディスの解釈変化の要因としては、ソ連の実態が明らかになったことだけでなく、東側陣営の崩壊と西側陣営の「勝利」が明らかになった時期に発表されたという要因も無視できないことから、その解釈が後知恵的であるとして賛否を呼ぶことともなった。
冷戦史研究は、米国学界でその主要な論争が戦われてきたこともあり、主要な分析対象は米ソ関係であり、活用される資料の多くは米国政府の公文書であった。このような冷戦史研究の動きに対し、1978年にイギリスのドナルド・キャメロン・ワットは公開書簡で冷戦史研究の資料的偏重を指摘し、英国公文書などを活用して研究を深化させる必要を訴えた。このような提言を反映する形で、イギリスではヴィクター・ロスウェル (Victor Rothwell) の Britain and the Cold War (1982)、アン・デイトン (Anne Deighton) の The Impposible Peace (1990) など、冷戦の発生に対してイギリスの果たした役割を分析する研究なども現れ、冷戦の発生にはソ連の脅威を米国より早く意識し行動したイギリス政府の果たした役割が少なくなかったことを明らかにした。
イギリスを一つの典型として、他国についても「自国と冷戦(および冷戦に果たした役割)」について考察した研究も進められている。1998年よりノースカロライナ大学出版局 (University of North Carolina Press) が刊行している冷戦史研究のシリーズである The New Cold War History では、フランス、ソ連、中国、東西ドイツなど、様々な国家と冷戦の関係を考察した研究書が刊行されている。おp
冷戦終結を受けて米国でも安全保障に関わる各種の資料公開が進んだことで、冷戦期の安全保障やインテリジェンスなどについて新たに研究が進展している。一例としては、米英による暗号解読プロジェクトであったベノナの関係資料開示による諜報戦の実体解明が挙げられる。ジョン・ハインズ (John E. Haynes) とハーヴェイ・クレア (Harvey Klehr) の Venona (2000) は、冷戦期に米国内で活発な諜報活動が展開されていたことを明らかにした。また、ケネス・オズグッド (Kenneth Osgood) は Total Cold War (2006) において、USIA・CIAなどの資料を活用し、アイゼンハワー政権の展開していた(日本も対象に含む)宣伝・情報戦の実態を解明することとなった。
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"text": "第二次世界大戦の終結直前の1945年2月から1989年12月までの44年間続き、連合国としては味方同士であったアメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。",
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"text": "「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルがジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており、後にバーナード・バルークも使い、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。",
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"text": "冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義陣営が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。",
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"text": "ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。",
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"text": "アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せることで多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行われた。また、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。なお、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれることもある。",
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"text": "の3点に特徴付けられる。最終的には1991年に東側諸国の盟主であったソビエト連邦が崩壊したことにより、日米西欧をはじめとする西側陣営の勝利に終わった。冷戦が終わると、アメリカが唯一の超大国として君臨していた。しかし、2010年代ころより強権的国家のロシアの軍事的復活や共産党の一党独裁国家の中華人民共和国の軍事、経済的急成長、またこれら2国とのアメリカ、イギリス、フランス、日本、韓国、オーストラリア、フィリピン、カナダなどの民主主義国との対立や、ロシアとウクライナとの軍事的対立など、変化が多くなって流動性を増している。",
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"text": "冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図は、ヤルタ体制に求められる。",
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"text": "1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。",
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"text": "戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシャおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。世界的な反共活動を支援すると宣言した、いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。",
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"text": "東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義に至る多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアとアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。",
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"text": "枢軸国の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。",
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"text": "ドイツの首都ベルリンは、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年に西ベルリンへ繋がる鉄道と道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。",
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"text": "冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党とソ連の支援する中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連の同盟国となった。一方、アメリカの支援を打ち切られた中国国民党は台湾島に逃れた。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立して台湾海峡も冷戦構造に組み入られた。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。",
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"text": "フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する南ベトナムを建国した。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。",
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"text": "これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に一国占領していた旧敵国日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "このように冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "主な出来事",
"title": "冷戦の展開"
},
{
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"text": "1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリアは永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌年に日本とも国交を回復し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いたフルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。ポーランドでは反ソ暴動に次いで、国民の人気が高かったヴワディスワフ・ゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、ハンガリーでも政権交代が起こり、ナジ・イムレが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。1960年代にはキューバ危機や部分的核実験禁止条約でしばしば対立、ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
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"tag": "p",
"text": "主な出来事",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ核兵器を大量に保有するようになる。また、大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつロケットやU-2などの高高度を飛行する偵察機、宇宙から敵を監視するための人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために有人宇宙飛行と月探査活動を活発化した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
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"tag": "p",
"text": "しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に1962年のキューバ危機によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる中南米諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカはブラジルやボリビア、ウルグアイなど各国の親米軍事独裁政権への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による内戦や汚職、軍事勢力同士によるクーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、1958年から始まったベルリン危機 (1958年)(ドイツ語版)であった。当時、東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で鉄条網が敷設され、後に壁へと発展した(ベルリン危機 (1961年)(英語版))。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に首相として東方政策を推進したヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
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"text": "主な出来事",
"title": "冷戦の展開"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。シャルル・ド・ゴール統治下のフランスは、アメリカ主導のNATOに反対し、1964年には同様に米ソと距離を置いていた中国を(中国と地続きな香港を持つイギリスを除いて)西側諸国では最も早く国家承認した。また、1967年にド・ゴールは外訪先であるカナダで開催されたモントリオール万国博覧会で、「自由ケベック万歳!」と演説し、今も続くケベック独立運動に火を付けた。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "米ソ両国の軍拡競争が進行し、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。第二次世界大戦終結時はアメリカ合衆国以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。",
"title": "冷戦の展開"
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"tag": "p",
"text": "チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。なお、ニコラエ・チャウシェスク率いるルーマニア社会主義共和国はワルシャワ条約機構加盟国でありながらソ連の介入を公然と批判して独自路線を行い、アメリカなど西側諸国から巨額の援助を受けた。また、アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はリチャード・ニクソンの訪中を契機にアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反した。イタリア、スペイン、日本など西側諸国の共産党のうちいくつかはソ連型社会主義に反発し、ソ連の影響から離脱した(ユーロコミュニズム)。こうして今に至る共産主義の多極化が起こった。",
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"text": "主な出来事",
"title": "冷戦の展開"
},
{
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"text": "1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉 (SALT)を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。",
"title": "冷戦の展開"
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"text": "この頃には同じ共産陣営でありながらソ連と中国の路線対立はあらゆる方面で亀裂を生むようになってきており、中ソ国境紛争など実力行使を伴うほどになってきていた。印パ戦争は中ソの代理戦争の様相を呈した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
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"text": "このような中ソの対立を見たアメリカはソ連を牽制する目的で、リチャード・ニクソンがパキスタンやルーマニアなどの仲介により1972年に中華人民共和国を訪問し、中華人民共和国を承認して外交と貿易を開始し、東アジアにおける冷戦の対立軸であった米中関係が改善、1972年には日本も中華人民共和国と国交正常化した。",
"title": "冷戦の展開"
},
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。アメリカは建国以来初の屈辱的な敗北を味わうことになった。その後1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落ち、同時にラオス、カンボジアでも共産主義勢力が政権を獲得し、インドシナ半島は完全に赤化された。",
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},
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一般市民の日常生活や仕事に役立つ多種多様な商品やサービスが開発・供給され、世界の経済、財政、貿易、投資、通貨発行は著しく拡大したので、金本位制と外国為替の固定相場制の維持が不可能になり、管理通貨制度と変動相場制に移行した。",
"title": "冷戦の展開"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立に繋がった。しかし核を削減する一方、ソ連は1977年から中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは1979年12月に中距離核戦力(INF)を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連がアフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。",
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"tag": "p",
"text": "中東では、第四次中東戦争が起き、主にソ連の支援するアラブ諸国が政治的な成果をおさめ、石油危機によって西側先進国に深刻な打撃を与えた。しかし、四度にわたる中東戦争を主導してきたエジプトは戦争前にソ連の軍事顧問団を追放し、戦争後はソ連と関係断絶し、ソ連と対立するアメリカや中国から軍事的経済的援助を受け始め、アメリカの主導でキャンプ・デービッド合意が成立し、さらにアメリカは西側に対する石油禁輸を主導したサウジアラビアがドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラーを確立することでドル防衛に成功し、単純な米ソ対立が反映されてきた中東でも新たな冷戦の構図が生まれつつあった。",
"title": "冷戦の展開"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "アフリカでは、1978年からエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争が起こっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国とルーマニア、エジプトなどが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカとザイールとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼化した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "東南アジアでは、共産主義国家同士のカンボジア・ベトナム戦争が起き、ソ連寄りのベトナムの侵攻で親中国の民主カンプチアが崩壊するも民主カンプチアの亡命政府は中国・ASEAN・日本・アメリカの支援で国連総会の議席を保ち続け、タイとの国境で親ベトナムのヘン・サムリン政権に対しゲリラ活動を行ってカンボジア内戦は長期化した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ラテンアメリカでは、チリにおいて民主的な社会主義政権であるサルバドール・アジェンデ政権を転覆させたチリ・クーデターで成立したアウグスト・ピノチェトが中国とルーマニアを除く共産圏と断交し、親米軍事政権の南米諸国は共産主義勢力の排除で連携するコンドル作戦を立ち上げた。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア(親ベトナム政権)、ラオス、エチオピア、南イエメンの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビーク、ニカラグアなどで共産主義勢力に加担して紛争に介入し、シリアやイラクなどアメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "1978年に成立した共産主義政権を支えるために、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックへの西側に加えて中国、さらにエジプトやサウジアラビア、パキスタンなど親米のアラブ・イスラム諸国も加わったボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。アメリカはCIAやチャールズ・ウィルソンらによる総額数十億ドル規模の極秘の武器供給などによる支援にてアフガニスタンの反共ムスリム武装勢力「ムジャヒディン」をエジプトやサウジアラビア、パキスタンなどとともに援助した。また、ソ連と対立する中国も武器や訓練でムジャヒディンを支援した。戦争を短期で終結させるソ連の目論見は外れ、侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "人々は、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別にもう一つの勢力があることに気が付き始めた。それはイスラム主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠された。アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(イーグルクロー作戦)。イスラム教を創始した預言者ムハンマドの子孫(サイイド)でイランの最高指導者となったルーホッラー・ホメイニーは「ソ連は小悪魔、米国は大悪魔」「我々は西でも東でもない」としてイスラム主義の時代を謳った。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "このイラン革命によってアラブ諸国や東西諸国は動揺し、1980年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。欧米ソ中はイスラム革命が世界に広がることやさらなる石油危機を恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、後の21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1989年には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "主な出来事",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、経済が疲弊した国内体制の改良と、予算案を大幅に削減した大胆な軍縮提案を行い、さらには西側との関係改善に乗り出す。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結し、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も1988年から和平会議が開催された。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、既に1980年代初頭から独立自主管理労働組合「連帯」が結成され民主化の動きが見られていたポーランドでは1989年の選挙でポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、同様に東欧諸国の中でも比較的早くから改革路線を行っていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ国民が西ドイツへこれらの国を経て大量脱出した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "東ドイツはあくまで強硬な社会主義路線を取り民衆を抑え込もうとしたが、10月のライプツィヒで行われた月曜デモには10万人が参加し、事態を収拾できなかった社会主義統一党内部では、幹部であったエーリッヒ・ホーネッカーの求心力が低下し、まもなく総辞職に追い込まれた。後任の指導部も民主化を求める動きをせき止められず、東ドイツは政治・経済が崩壊状態に陥った。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "このため、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、東欧革命という。1989年12月には、地中海のマルタ島で、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した。しかし、中国では六四天安門事件が起き、東アジアの共産党政権(竹のカーテン)では民主化ドミノが武力で抑制された。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1990年8月に起きた湾岸戦争では、欧米ソ中が世界第四の軍事大国に仕立てたイラクのクウェート侵攻に対するアメリカ主導の武力行使容認決議にソ連は同調し、米ソで二極化してきた世界はアメリカ一極化への兆しが見え始めた。アメリカは、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニア・ソビエト社会主義共和国が主権宣言、同年リトアニア・ソビエト社会主義共和国でもサユディスによる独立運動の加速により、国旗がソビエト編入以前のデザインに戻された。1989年7月にリトアニア共産党がソビエト連邦共産党からの独立を宣言した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1990年3月から6月にかけて東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、バルト三国の各最高会議は独立宣言を採択した。ソ連政府はバルト三国に対して軍事行動を起こし、1991年1月の血の日曜日事件(リトアニア)などで、ソ連軍と民間人が衝突する事態になった。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ソ連は1991年3月、バルト三国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。同年3月17日には新連邦条約を締結するための布石として、連邦制維持の賛否を問う国民投票(英語版、ロシア語版)が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国(エストニア・ソビエト社会主義共和国、ラトビア・ソビエト社会主義共和国、リトアニア・ソビエト社会主義共和国)、モルダビア・ソビエト社会主義共和国、グルジア・ソビエト社会主義共和国、アルメニア・ソビエト社会主義共和国は投票をボイコットした。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1991年6月12日、ソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国で、選挙により大統領に当選したボリス・エリツィンは、国名を「ロシア共和国」に改称し、主権宣言を出して連邦からの離脱を表明した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また、米ソ両国は1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START)に調印した。8月20日に予定されていた新連邦条約調印を前に、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。しかし、クーデターはボリス・エリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "しかし、その結果バルト三国は独立を達成し、各構成共和国でも独立に向けた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチがベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は消滅した。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本主義国家となった。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結する前後に、それまで反共主義が故に、軍事政権や独裁政権、長期政権の存在が容認されていた一部の西側諸国(インドネシアや台湾、韓国、ザイールなど)が、アメリカからの金銭や軍事、政治的支援を受けられなくなったために次々と政権崩壊し、選挙の実施や政権交代を余儀なくされた。日本でも55年体制が崩壊し、非自民・非共産連立政権が樹立された。さらに反共主義を条件にアメリカの援助を受けた軍事政権や独裁政権、長期政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、チリやアルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終わってアメリカとの対決の必然性が消えたロシアにとって戦略的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "米ソ冷戦が終結した当初の1990年代初期において、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を発表し、政治体制としてのリベラル民主主義の最終的勝利を宣言した。冷戦終結直後の1991年に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となった。ソ連型の国営の計画経済・統制経済モデルの社会主義体制と社会主義経済圏が崩壊し、世界の経済が資本主義経済・市場経済により統合され、グローバリゼーションが進行した。冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "東ヨーロッパを見ると、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。また、このテロにはイスラーム過激派の関与が疑われている。",
"title": "冷戦の展開"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの和解の外は、中華民国と中華人民共和国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立(朝鮮戦争)が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。",
"title": "冷戦の展開"
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"paragraph_id": 70,
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"text": "アメリカは「冷戦の戦勝国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権は、双子の赤字を改善していく傍らでパレスチナ問題に積極的に関わり、ノルウェーの仲介により初めて和平合意をもたらした(オスロ合意)。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した(パレスチナ問題)。また、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くアルカーイダは、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。",
"title": "冷戦の展開"
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"text": "特にイラク戦争に関しては開戦時第一の理由に挙げられた大量破壊兵器は一切見つからず、最終的に存在しないことが判明したため、アメリカ外交の信頼に大きな傷をつけた。ジョージ・W・ブッシュ大統領も退任直前に、大量破壊兵器の情報収集は政権の最大の失敗の一つであったことを認めた。",
"title": "冷戦の展開"
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"text": "核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中ソ対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有(印パ戦争#両国の核保有)や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。",
"title": "冷戦の展開"
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"text": "2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。同年の世界金融危機で財政出動により、景気を回復させ影響力を高めた中華人民共和国も、米中冷戦と呼ばれる緊張状態にあるとされ、中露はNATOと対立する上海協力機構を組織している。ロシアは、ソ連が崩壊すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、シリア内戦に介入するなど牽制の動きを見せるようになった。",
"title": "冷戦の展開"
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"text": "1989年 - 1991年に起こった「ソ連型社会主義体制」の消滅により、多国籍企業は地球規模で市場と利益を奪い合うグローバリゼーションが進行した。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反米・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せていたが、その代表格であったベネズエラのチャベス大統領が病死したことで2012年頃から親米路線に回帰する国も増えている。また2015年には、オバマ政権において、アメリカとキューバの国交が回復した。",
"title": "冷戦の展開"
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"text": "グレゴリー・ガウスが執筆した『新しい中東の冷戦』と題された宗派主義に関する文献では、イランとサウジアラビアは超大国として地域に影響を与える能力を持っているとされている。そして、「これは、純粋なる軍事的な争いというよりも、中東の国内政治の方向性をめぐる争いである」とガウスは論じ、この状況を「中東の冷戦」と表現している。",
"title": "冷戦の展開"
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"text": "資本主義を基調とし、東側と対立した国々。アメリカを中心とし、基本的には民主的な国が多かったが、アジアや南米にはアメリカに支援された軍事政権や開発独裁の国もあった。しかし現在ではそうした国も民主化し、経済的に発展している。 南北アメリカ",
"title": "東西陣営の主な国"
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"text": "アジア",
"title": "東西陣営の主な国"
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"text": "ヨーロッパ",
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"text": "オセアニア",
"title": "東西陣営の主な国"
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"text": "中東",
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"text": "アフリカ",
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"text": "社会主義を基調とし、西側と対立した国々。ソ連を中心とし、基本的に共産党や社会党による一党独裁体制が取られだが、中には独自路線をとる国もあった。冷戦後にはほとんどが崩壊、民主化し、現在残る社会主義国は少数になっている。 アジア",
"title": "東西陣営の主な国"
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"text": "ヨーロッパ",
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"text": "中東",
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"text": "アフリカ",
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"text": "西側寄り",
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"text": "東側寄り",
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"text": "孤立化",
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"text": "冷戦は、それがグローバルな戦後国際政治に大きな影響を与えたことから起源、展開、終焉に対して様々な解釈が示され、論争を呼んできた。以下では、学術的な冷戦史研究の中で行われた論争について説明する。",
"title": "冷戦史研究"
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"text": "冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦はいつ、なぜ生じたのか」という冷戦の起源を巡る論争だった。この論争は、西側陣営最大の当事国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。",
"title": "冷戦史研究"
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"text": "冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は第二次世界大戦などの起源を巡る学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の起源を論じるものであったため、ベトナム戦争を典型として、研究が発表された当時の出来事や問題関心に強く影響されたものになった。第二に、その論争が米国学界を中心に展開されたことや、資料公開ペースのスピードなどから、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、一般に研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている。",
"title": "冷戦史研究"
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"text": "伝統学派/正統学派 (Traditionalist / Orthodox) は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた。伝統学派はソ連がヤルタ会談で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、マーシャル・プラン、NATO結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。",
"title": "冷戦史研究"
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"text": "以上のような解釈はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史としての冷戦』(1967)、ハーバート・ファイスのFrom Trust to Terror (1970) などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の国務長官を務め、冷戦政策を展開したディーン・アチソンの回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている。",
"title": "冷戦史研究"
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"text": "続いて1960年代より登場した修正主義学派 (Revisionist) は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生はソ連の行動よりも米国側の行動により大きな原因があったとする解釈を提示した。修正主義学派の最大の特徴は、経済的要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務したウィスコンシン大学マディソン校で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「門戸開放」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと指摘した。そして、冷戦は米国が門戸開放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったとして、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である ウォルター・ラフィーバーの America, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーの Architects of Illusion (1970) などによってより精緻に検討されることとなる。",
"title": "冷戦史研究"
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"text": "また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとするマルクス主義に親和的な解釈を主張することとなった。これらの研究は、ベトナム戦争の泥沼化により、従来の米国外交のあり方に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。当然ながらこれらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の分析の実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国の行動のみを実質的に分析している分析の偏重などが批判されることとなった。うい",
"title": "冷戦史研究"
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"paragraph_id": 96,
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"text": "伝統学派・修正主義学派に続くポスト修正主義学派 (Post-Revisionist) は、先行する学派の議論の抱える問題点を克服し、さらにこの頃徐々に公開が進んだ西側政府の公文書を活用することで、歴史研究としての実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスの The United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスは一次資料に依拠した上で、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因を同時に取り入れつつ、さらに国際政治構造、国内政治要因、政策決定プロセス(官僚政治)の影響などを盛り込んだ分析を提示した。",
"title": "冷戦史研究"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "ギャディスは、各国の疲弊によって「力の真空」が生じていたヨーロッパにおいて、米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、対峙の緊張の中で米ソが様々な要因から相手の行動・思惑に対する誤解を重ねたことが(本来両者の想定しなかった)冷戦を生んだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める過去の議論を排する主張を展開した。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマンの Stalin's American Policy (1982) などにも継承され、彼らの研究は「ポスト修正主義学派」として広く受け入れられることとなった。 また、米国で進んだポスト修正主義学派の研究に対して、ヨーロッパにおける研究も呼応する動きを示した。ノルウェーのゲア・ルンデスタッドは、大戦後のヨーロッパの政治指導者たちがソ連の影響力を相殺するべく、ヨーロッパで米国がより積極的な役割を果たすことを希望していたと論じ、戦後の米国はいわばヨーロッパに「招かれた帝国 (Empire by Invitation)」であったとする解釈を示した。",
"title": "冷戦史研究"
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"text": "冷戦の終結とソ連邦の崩壊により、過去西側で閲覧することが不可能だった東側文書の開示が進むこととなった。これは各種の研究・資料収集プロジェクトの始動をもたらすとともに、冷戦起源を巡る論争において伝統学派的な解釈の復活という、新しい展開を生むこととなった。開示された東側の資料群をもとに発表されたヴォイチェフ・マストニーの『冷戦とは何だったのか』(1996年)、ヴラディスラヴ・ズボクとコンスタンティン・プレシャコフ (Constantine Pleshakov) による Inside the Kremlin's Cold War (1996) は、ソ連中枢の情勢認識や政策決定を明らかにすることとなった。これらの著書は、ソ連がマルクス・レーニン主義のイデオロギーに基づき、自発的・主体的にヨーロッパへの拡張を図っていたとする解釈を示した。その他、90年代には様々な資料を活用したドミトリー・ヴォルコゴーノフによるスターリンの伝記研究も発表され、スターリンのパラノイア的性質を指摘する書物として注目を浴びることとなった。",
"title": "冷戦史研究"
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"paragraph_id": 99,
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"text": "このような研究進展の影響を受けた典型ともいえるのが、ポスト修正主義学派の旗手であったギャディスの冷戦起源解釈の変化である。ギャディスは東側についての研究の進展を受けて、1997年に発表した『歴史としての冷戦』では、冷戦の起源を米ソ双方のパーセンプション・ギャップや、国際政治構造に見出す過去の解釈から、イデオロギーが冷戦におよぼした影響を重視し、ソ連の政治体制とスターリンという指導者が冷戦の発生により多くの責任を負っているとする解釈へと転じた。しかし、このギャディスの解釈変化の要因としては、ソ連の実態が明らかになったことだけでなく、東側陣営の崩壊と西側陣営の「勝利」が明らかになった時期に発表されたという要因も無視できないことから、その解釈が後知恵的であるとして賛否を呼ぶことともなった。",
"title": "冷戦史研究"
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"text": "冷戦史研究は、米国学界でその主要な論争が戦われてきたこともあり、主要な分析対象は米ソ関係であり、活用される資料の多くは米国政府の公文書であった。このような冷戦史研究の動きに対し、1978年にイギリスのドナルド・キャメロン・ワットは公開書簡で冷戦史研究の資料的偏重を指摘し、英国公文書などを活用して研究を深化させる必要を訴えた。このような提言を反映する形で、イギリスではヴィクター・ロスウェル (Victor Rothwell) の Britain and the Cold War (1982)、アン・デイトン (Anne Deighton) の The Impposible Peace (1990) など、冷戦の発生に対してイギリスの果たした役割を分析する研究なども現れ、冷戦の発生にはソ連の脅威を米国より早く意識し行動したイギリス政府の果たした役割が少なくなかったことを明らかにした。",
"title": "冷戦史研究"
},
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"text": "イギリスを一つの典型として、他国についても「自国と冷戦(および冷戦に果たした役割)」について考察した研究も進められている。1998年よりノースカロライナ大学出版局 (University of North Carolina Press) が刊行している冷戦史研究のシリーズである The New Cold War History では、フランス、ソ連、中国、東西ドイツなど、様々な国家と冷戦の関係を考察した研究書が刊行されている。おp",
"title": "冷戦史研究"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "冷戦終結を受けて米国でも安全保障に関わる各種の資料公開が進んだことで、冷戦期の安全保障やインテリジェンスなどについて新たに研究が進展している。一例としては、米英による暗号解読プロジェクトであったベノナの関係資料開示による諜報戦の実体解明が挙げられる。ジョン・ハインズ (John E. Haynes) とハーヴェイ・クレア (Harvey Klehr) の Venona (2000) は、冷戦期に米国内で活発な諜報活動が展開されていたことを明らかにした。また、ケネス・オズグッド (Kenneth Osgood) は Total Cold War (2006) において、USIA・CIAなどの資料を活用し、アイゼンハワー政権の展開していた(日本も対象に含む)宣伝・情報戦の実態を解明することとなった。",
"title": "冷戦史研究"
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] |
冷戦もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国(アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営)と、東側諸国(ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営)との対立構造。米ソ冷戦(べいそれいせん)や東西冷戦(とうざいれいせん)とも呼ばれる。「冷戦」とは、読んで字の如く「戦火を交えない戦争」、つまり米ソが武力で直接衝突はしないと言う意味であるが、冷戦下では朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連・アフガン戦争のように両国が介入して東西各勢力を支援する代理戦争が多数勃発した。
|
{{Otheruses}}
{{Battlebox
| battle_name = 東西冷戦
| campaign = 冷戦
| colour_scheme = background:#ffccaa
| image = [[File:Montage of Cold War pictures.png|300px]]
| caption = 左上から時計回りにアメリカの[[核実験]]である[[アイビー作戦]]、[[朝鮮戦争]]での[[仁川上陸作戦]]、[[ベトナム戦争]]に介入した米軍、[[宇宙開発競争]]でのアメリカとソ連の[[宇宙飛行士]]、[[ベルリンの壁崩壊]]を喜ぶ人々、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン戦争]]に介入したソ連軍、[[プラハの春]]に介入したソ連軍に対抗する人々、[[キューバ危機]]でのアメリカの[[軍用機]]とソ連の[[貨物船]]。
| conflict = 東西冷戦
| date = [[1947年]]頃 - [[1989年]][[12月]]<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%86%B7%E6%88%A6-151296 |title=冷戦 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-01-24}}</ref>
| place = 世界各地
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}}
'''冷戦'''(れいせん、{{Lang-en-short|Cold War}}、{{Lang-ru-short|Холодная война}})もしくは'''冷たい戦争'''(つめたいせんそう)は、[[第二次世界大戦]]後の世界を二分した[[西側諸国]]([[アメリカ合衆国]]を盟主とする[[資本主義]]・[[自由主義]]陣営)と、[[東側諸国]]([[ソビエト連邦]]を盟主とする[[共産主義]]・[[社会主義]]陣営)との対立構造。'''米ソ冷戦'''(べいそれいせん)や'''東西冷戦'''(とうざいれいせん)とも呼ばれる。「冷戦」とは、読んで字の如く「戦火を交えない戦争」、つまり米ソが武力で直接衝突はしないと言う意味であるが、冷戦下では[[朝鮮戦争]]、[[ベトナム戦争]]、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連・アフガン戦争]]のように両国が介入して東西各勢力を支援する[[代理戦争]]が多数勃発した。
== 語源 ==
第二次世界大戦の終結直前の'''[[1945年]]2月'''から'''[[1989年]]12月'''までの44年間続き、連合国としては味方同士であった[[アメリカ合衆国]]と[[ソビエト連邦]]が軍事力で直接戦う[[戦争]]は起こらなかったので、[[軍事力]]([[火力 (軍事)|火力]])で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。
「冷戦」という語は、[[ジョージ・オーウェル]]が[[ジェームズ・バーナム]]の理論を評した時に使っており<ref>Orwell, " You and the Atomic Bomb ", Tribune 19 October 1945</ref><ref>[http://open-shelf.appspot.com/others/YouAndTheAtomicBomb.html ジョージ・オーウェル, "あなたと原子爆弾", Tribune 1945年10月19日]</ref><ref>Orwell, George, The Observer , 10 March 1946</ref>、後に[[バーナード・バルーク]]も使い<ref>{{Harvnb|Gaddis|2005|p=54}}</ref>、アメリカの政治評論家[[ウォルター・リップマン]]が[[1947年]]に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。
各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の[[政策]]や[[外交]]関係では協力しないこともあったなど、[[イデオロギー]]を概念とした包括的な同盟・協力関係である。
== 概要 ==
[[File:NATO_vs._Warsaw_(1949-1990).png|thumb|300px|冷戦時代の{{legend inline|#005ED0|[[NATO]]}}諸国 および {{legend inline|#E40000|[[ワルシャワ条約機構]]}}の諸国、それらの位置関係。北極付近を中心にした地図だと双方の面積も比較的忠実に示す。]]
[[ファイル:Berlinermauer.jpg|thumb|[[ベルリンの壁]]]]
[[ファイル:P-2H Neptune over Soviet ship Oct 1962.jpg|thumb|冷戦中の代表的な事件である[[キューバ危機]]]]
[[ファイル:Cold War Map 1959.svg|thumb|1959年の世界の様子(色分け)<br/>(ワインレッド = [[ワルシャワ条約機構|ワルシャワ条約]] (WT) 加盟国<br/>朱色 = ソ連の他の同盟国(東側諸国)<br/>青紺色 = [[北大西洋条約]] (NATO) 加盟国<br/>水色 = アメリカ合衆国の他の同盟国(西側諸国)<br/>緑 = [[植民地]]<br/>灰色 = [[非同盟運動|非同盟諸国]])]]
[[ファイル:Cold_War_Map_1980.svg|thumb|冷戦の多様化―1980年の世界(色分け)<br/>(ワインレッド = ワルシャワ条約機構加盟国 (WTO)<br/>赤 = 同条約加盟国以外の[[東側諸国]]<br/>朱色 = 共産主義国家以外のソ連よりの諸国<br/>紺 = 北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国<br/>青 = 同条約加盟国以外の[[西側諸国]]<br/>空色 = 非同盟諸国、[[永世中立国]]<br/>赤い点 = 反資ゲリラ運動発生地域<br/>青い点 = 反共ゲリラ運動発生地域]]
[[ファイル:Redwing Dakota.jpg|thumb|アメリカ合衆国は1945年から1992年の間に公式で計1,054回の核実験を実施した]]
=== 陣営 ===
冷戦での両陣営の対立の境界である[[ヨーロッパ]]においては、ソビエト連邦を盟主とする'''共産主義陣営'''が[[東ヨーロッパ]]に集まっていたことから「'''[[東側諸国|東側]]'''」、対するアメリカ合衆国を盟主とした'''資本主義陣営'''が[[西ヨーロッパ]]に集まっていたことから「'''[[西側諸国|西側]]'''」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、[[宇宙開発]]や[[航空]]技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、[[欧州共同体]]の結成へ向かった。[[ヤルタ会談]]から始まって[[マルタ会談]]で終わったため、「'''ヤルタからマルタへ'''」ということもいわれる。
ヨーロッパのみならず、[[アジア]]、[[中東]]、[[ラテンアメリカ|南アメリカ]]などでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]は、「[[鉄のカーテン]]」と表現した。
アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「'''[[第三世界]]'''」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せることで多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行われた。また、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の[[覇権主義]]」と否定した国々は、[[インド]]などを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。なお、[[経済発展]]が進んだ開発途上国が「'''第三世界'''」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「'''[[第四世界]]'''」と呼ばれることもある。
=== 特徴 ===
この冷戦時代の世界は、
# 秩序が長きに亘って固定されており、変化が少ない
# 「質より量」が重視される大量生産社会
# 核すなわち[[原子力]]がものをいうテクノロジー
の3点に特徴付けられる。最終的には1991年に東側諸国の盟主であった[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦が崩壊]]したことにより、日米西欧をはじめとする西側陣営の勝利に終わった。冷戦が終わると、アメリカが唯一の超大国として君臨していた。しかし、[[2010年代]]ころより強権的国家の[[ロシア]]の軍事的復活や共産党の[[一党独裁]]国家の[[中華人民共和国]]の軍事、経済的急成長、またこれら2国とのアメリカ、イギリス、フランス、[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]、[[オーストラリア]]、[[フィリピン]]、[[カナダ]]などの[[民主主義]]国との対立や、ロシアと[[ウクライナ]]との[[ウクライナ紛争 (2014年-)|軍事的対立]]など、変化が多くなって流動性を増している。
=== 米ソのデータ比較 ===
{| class="wikitable"
!
!{{flagicon|United States}} [[アメリカ合衆国]]
!{{flagicon|Soviet Union}} [[ソビエト連邦]]
|-
!人口統計
|1990年の人口は2億4,870万人で、当時は中国、インド、ソビエト連邦に次ぐ地球上で4番目に多い人口であった<ref>{{Cite web|url=https://www.census.gov/population/censusdata/table-2.pdf|title=www.census.gov|accessdate=2010-08-27}}</ref>。
|1989年の人口は2億8,670万人で、中国とインドに次ぐ地球上で3番目に多い人口であった<ref name="USLOCstudies">{{Cite web|url=http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field(DOCID+su0006)|title=Library of Congress Country Studies|publisher=Lcweb2.loc.gov|accessdate=2010-08-27}}</ref>。
|-
!地理
|世界で3番目または4番目に大きい国で、面積は9,630,000 km <sup>2</sup>(3,720,000平方マイル)であった<ref>{{Cite web|url=https://www.worldatlas.com/articles/the-largest-countries-in-the-world-the-biggest-nations-as-determined-by-total-land-area.html|title=The Largest Countries In The World|format=PDF|accessdate=2019-11-08}}</ref>。
|世界最大の州(実際には連邦の 超国家)で、表面積は22,270,000 km <sup>2</sup>(8,600,000平方マイル)であった<ref name="USLOCstudies" />。
|-
!経済
|1990年のGNPは5.2兆ドル(2019年での10.2兆ドルに相当)<ref name="cia19904">{{Cite web|url=http://www.umsl.edu/services/govdocs/wofact90/world12.txt|publisher=[[Central Intelligence Agency]]|accessdate=2009-10-12|title=1990 CIA World Factbook}}</ref>。世界最大の経済大国である。1979年以降、所得格差の拡大もあったが、顧客の需要に応じて生産量が決まる需要と供給に基づく資本主義市場経済論<ref>{{Cite web|title=A Guide to Statistics on Historical Trends in Income Inequality|url=http://www.cbpp.org/files/11-28-11pov.pdf|publisher=Center on Budget and Policy Priorities|accessdate=2 October 2012|author=Stone, C.|pages=7–11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150331123409/http://www.cbpp.org/files/11-28-11pov.pdf|archivedate=31 March 2015}}</ref>。巨大な産業基盤と、大規模で近代化された農業。大量の輸入と輸出 鉱物、エネルギー資源、金属、木材などの豊富な資源。多くの製造業製品を入手できる高い生活水準。数多くの大規模なグローバル企業の本拠地である。ブレトン・ウッズ会議により、米ドルが世界の主要な基軸通貨となった。G7に加盟している。[[マーシャル・プラン]]などで同盟国の経済を支援。
|1990年のGNPは2.7兆ドル(2019年での5.3兆ドル相当)<ref name="cia19903">{{Cite web|url=http://www.umsl.edu/services/govdocs/wofact90/world12.txt|publisher=[[Central Intelligence Agency]]|accessdate=2009-10-12|title=1990 CIA World Factbook}}</ref>。世界第2位の経済規模。膨大な鉱物エネルギー資源と燃料の供給。農業などの資源不足に悩まされたが、最小限の輸入品で概ね自給していた。大規模な工業生産は、中央集権的な国家機関によって指導されており、非効率性が高い。経済的目標を達成するために5カ年計画が頻繁に用いられた。雇用保証、医療費無料、教育費無料などの経済的利益が社会のあらゆるレベルで提供された。ソ連の平均寿命や医療の一部の指標は米国を上回っていたが、西欧先進国の水準を下回ることが多かった。経済は中欧・東欧の衛星国と結びついている。
|-
!政治
|立法府、行政、司法の間で行われる複雑な抑制と均衡システムを持つ、強力な[[権力分立|三権分立]]の大統領制を採用した[[自由主義|リベラル]]な立憲共和国。[[アメリカ合衆国議会|合衆国議会]]の[[立法権]]は、文書化された[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]と[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]の性質によって制限されていた。専門の憲法裁判所がないにもかかわらず、法律の司法審査は、判例により[[合衆国最高裁判所|最高裁判所]]に委ねられている。[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は国家元首であると同時に政府の長でもあり、その内閣は議会の信任を得る必要はなかった。国民の選挙は、2年に1度の[[中間選挙|連邦議会選挙]]のみであった。しかし、4年に1度の[[アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]は、事実上、[[アメリカ選挙人団|選挙人団]]による間接選挙から、重み付けされているとはいえ、直接選挙に変更された。[[民主党 (アメリカ)|民主党]]と[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[二大政党制]]。[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]の[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]であり、2つの同盟国([[フランス]]とイギリス)とともに存在する。
|強力な[[マルクス・レーニン主義]]国家で、大規模な[[秘密警察]]組織を持ち、立法府の信任を得ることを主眼とした行政府と司法の牽制機能を持つ、強力な権力融合型の準議会制度の下で組織されている。書かれた憲法と名目上の連邦制にもかかわらず、司法審査権を持つ裁判所がないため、最高ソビエトは事実上の議会主権を享受していた。正式な大統領職が存在しないため、常任理事会が集団的な国家元首の役割を果たしていた。国民レベルの一般選挙は、2年に1度の最高ソビエト連邦選挙のみで、事前に選ばれた候補者に対するイエス・ノーの投票であった。しかし、1989年の抜本的な政府改革により、競争制の選挙、直接選挙で選ばれる行政長官、憲法裁判所が導入され、いずれも既存の制度とは初歩的な三権分立がなされた。[[一党制]]で、[[ソビエト連邦共産党|共産党]]が制度的に権力を独占している。国際連合安全保障理事会の常任理事国。
|-
!外交関係
|[[西ヨーロッパ]]、[[ラテンアメリカ]]のいくつかの国、[[イギリス連邦|英連邦]]、いくつかの[[東アジア]]諸国、[[イスラエル]]との強い結びつき。世界中の自由民主主義と[[反共主義]][[独裁政治|独裁]]を支持した。
|[[中央ヨーロッパ|中央]]および[[東ヨーロッパ]]、ラテンアメリカの国々、[[東南アジア]]および[[アフリカ]]との強い結びつき。また、1961年まで中国と同盟を結んでいた。世界中のマルクス・レーニン主義国を支援した。
|-
!軍事
|世界一の軍事費<ref>{{Cite web|first=John|author=Pike|url=http://www.globalsecurity.org/military/world/spending.htm|title=World Wide Military Expenditures|publisher=Globalsecurity.org|accessdate=2010-08-27}}</ref>。世界最大の海軍は次の13カ国の海軍の合計を上回り<ref>{{Cite web|url=https://www.foreignaffairs.com/articles/united-states/2009-01-01/balanced-strategy|title=A Balanced Strategy: Reprogramming the Pentagon or a New Age|author=Gates|first=Robert M|publisher=Council On Foreign Relations|accessdate=31 May 2015}}</ref>、陸軍と空軍はソビエト連邦に匹敵する。世界各地に基地を保有しており、特にワルシャワ条約加盟国を中心に西・南・東の三方に不完全な環状の基地を保有している。冷戦の前半では、世界最大の[[核兵器]]を保有していた。西ヨーロッパの強力な[[軍事同盟]]国で、独自の核戦力を保有していること。[[情報機関|諜報機関]]とのグローバルな情報ネットワーク 発展途上国の準軍事組織やゲリラ組織との連携。先進国の同盟国とともに、防衛関連企業を通じた世界市場向けの大規模な兵器生産。
|世界最大の陸軍と空軍、第2位の海軍を保有。世界各地に基地を保有。冷戦の後半には世界最大の核兵器を保有した。ワルシャワ条約の創設者であり、中・東欧に衛星国を持つ。GRUやKGB第一部長とのグローバルな情報ネットワーク。発展途上国の準軍事組織やゲリラ組織とのつながり。大規模な武器産業の生産と世界的な流通
|-
!メディア
|憲法で[[言論の自由]]と[[報道の自由]]が保障されているが、冷戦が続いたためにある程度の[[検閲]]が行われており、特に[[ベトナム戦争]]や第二次[[赤狩り]]の際には検閲が最も厳しくなった。
|憲法で保障されている言論の自由と報道の自由は、市民の義務を果たすことと、政府の利益に合致することの両方を条件としており、事実上の死文化となっている。報道は明確にコントロールされ、検閲された。すべての国の労働者が団結して、[[資本主義]]社会と[[ブルジョワジー]]の独裁と呼ばれる社会を打倒し、すべての生産手段を公有化する[[社会主義]]社会に置き換えるべきだという社会主義の理想を、プロパガンダを使って推進した。
|-
!文化
|音楽、文学、映画、テレビ、料理、アート、ファッションなど、豊かな伝統と世界的な文化的影響力を持つ。
|文学、映画、クラシック音楽、バレエなどの豊かな伝統がある。
|}
== 冷戦の展開 ==
=== 起源(1945年-) ===
[[ファイル:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|220px|right|thumb|ヤルタ会談]]
冷戦の始まりは、その[[イデオロギー]]的側面に注目するならば[[十月革命|ロシア革命]]にまでさかのぼることができるが、[[超大国]]の対立という構図は、[[ヤルタ体制]]に求められる。
主に[[ヨーロッパ|欧州]]の分割を扱った、1945年2月の[[フランクリン・ルーズベルト]](アメリカ)、[[ヨシフ・スターリン]](ソ連)、[[ウィンストン・チャーチル]]([[イギリス]])による[[ヤルタ会談]]が、[[第二次世界大戦]]後の[[国際レジーム]]を決定した。7月の[[ポツダム会談]]でさらに相互不信は深まっていった。
[[1946年]]、[[モスクワ]]のアメリカ大使館に勤務していた[[ジョージ・ケナン]]の「[[X論文|長文電報]]」は[[ジェームズ・フォレスタル]]海軍長官を通じて、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「[[反共主義|反共]]・[[封じ込め|封じ込め政策]]」につながった。
戦争によって大きな損害を蒙っていた[[ヨーロッパ|欧州]]諸国において、[[共産主義]]勢力の伸張が危惧されるようになった。特に[[フランス]]や[[イタリア]]では[[イタリア共産党|共産党]]が支持を獲得しつつあった。[[戦勝国]]であったイギリスもかつての[[イギリス帝国|大英帝国]]の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。[[1947年]]に入ると、[[3月12日]]にトルーマンは[[一般教書演説]]でイギリスに代わって[[ギリシャ]]および[[トルコ]]の[[防衛]]を引き受けることを宣言した。世界的な反共活動を支援すると宣言した、いわゆる「[[トルーマン・ドクトリン]]」であり、[[全体主義]]と[[自由主義]]の二つの[[生活様式]]という[[マニ教]]的[[世界観]]が顕在化した。さらに[[6月5日]]には[[ハーヴァード大学]]の卒業式で[[ジョージ・マーシャル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]がヨーロッパ復興計画([[マーシャル・プラン]])を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的に[[ヨーロッパ大陸]]に関与することになり、[[孤立主義]]から脱却することになった。
[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国のうち、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と同盟関係にあった[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]]、[[スロバキア]]には[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「[[反ファシズム]]」を[[スローガン]]とする[[社会民主主義]]勢力との[[連立政権]]であったが、法務、内務といった主要ポストは[[共産党]]が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束された[[ポーランド]]でも、[[ロンドン]]の[[亡命政府]]と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や[[閣僚]]が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月の[[1948年のチェコスロバキア政変|チェコスロバキア政変]]であった。またその前年の10月には[[コミンフォルム]]が結成され、社会主義に至る多様な道が否定され、[[ソ連型社会主義|ソ連型の社会主義]]が画一的に採用されるようになった。他方、[[ユーゴスラビア]]と[[アルバニア]]における共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中の[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、[[1948年]]のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、[[自主管理社会主義]]や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。
[[枢軸国]]の中心であったドイツと[[オーストリア]]は、アメリカ・イギリス・[[フランス]]・ソ連が4分割して[[占領統治]]した。占領行政の方式や[[戦争賠償|賠償]]問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、[[1949年]]、西側占領地域には[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]([[西ドイツ]])、[[ソ連占領地域]]には[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)が成立する。
==== ポーランド問題 ====
ヤルタ会談の焦点の一つがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチス・ドイツの[[ポーランド侵攻]]であり、ソ連にとって[[安全保障]]の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくも[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が[[ミロヴァン・ジラス]]に述べたように、ポーランド問題とは、[[領土問題]]であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。
またポーランドが[[赤軍|ソ連軍]]によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国から解放した国家が[[占領]]において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの[[自由選挙]]の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、米英にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「[[安全保障]]上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢を採った。
ルーズベルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、[[国際連合|国連]]創設会議のため訪米中のソ連の外相[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]に対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる(選挙が決まるまでの過程は、[[ヤルタ会談]]の「ポーランド問題」を参照のこと)。
==== ベルリン問題 ====
ドイツの[[首都]][[ベルリン]]は、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に[[島]]のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における[[通貨]]改革への対抗措置として、[[1948年]]に[[西ベルリン]]へ繋がる[[鉄道]]と[[道路]]を封鎖した([[ベルリン封鎖]])。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。
=== 冷戦のグローバル化(1949年-1955年) ===
[[ファイル:Chiang Kai Shek and wife with Lieutenant General Stilwell.jpg|220px|thumb|中華民国の[[蔣介石]]と[[宋美齢]]、[[アメリカ陸軍]]の[[ジョセフ・スティルウェル|スティルウェル]]中将]]
冷戦は[[地球]]の反対側でも米ソが向き合うため、周辺の[[アジア]]にも強い影響を与えた。[[中国大陸]]では、戦後すぐにアメリカの支援する[[中国国民党]]とソ連の支援する[[中国共産党]]が[[国共内戦|内戦]]を繰り広げたが、中国共産党が勝利し[[1949年]]に共産主義の[[中華人民共和国]]を建国。[[1950年]]2月に[[中ソ友好同盟相互援助条約]]を結んでソ連の同盟国となった。一方、アメリカの支援を打ち切られた中国国民党は[[台湾|台湾島]]に逃れた。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立して台湾海峡も冷戦構造に組み入られた。すでに[[モンゴル]]ではソ連の支援の下で共産主義の[[モンゴル人民共和国]]が[[1924年]]に成立していたが、戦後になって米英仏等が[[国家の承認|承認]]した。
[[ファイル:Seoul Battle- Korean War.jpg|220px|thumb|朝鮮戦争で戦う[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]]]
[[大日本帝国|日本]]が統治していた[[朝鮮半島]]は、ヤルタ会談によって[[緯度|北緯]][[38度線]]を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は[[分断国家]]となった。このため、[[1950年]]6月にソ連の支援を受けた[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[大韓民国]]へ突如侵略を開始し、[[朝鮮戦争]]が勃発した。朝鮮戦争には「[[中国人民志願軍|義勇軍]]」の名目で中華人民共和国の[[中国人民解放軍]]も参戦し戦闘状態は[[1953年]]まで続いた。
[[フランス領インドシナ]]では、[[ベトナム]]の共産勢力が独立を目指し、[[第一次インドシナ戦争]]が起こった。[[1954年]]にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、[[ジュネーブ協定]]によって[[軍事境界線 (ベトナム)|北緯17度]]で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する[[ベトナム共和国|南ベトナム]]を建国した。これは後の[[ベトナム戦争]]の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残した[[ラオス]]([[1949年]]独立)、[[カンボジア]]([[1953年]]独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。
[[ファイル:Joseph McCarthy.jpg|thumb|220px|ジョセフ・マッカーシー上院議員]]
これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、[[1951年]]8月に旧[[植民地]][[フィリピン]]と[[米比相互防衛条約]]、9月に一国占領していた旧敵国日本と[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安全保障条約]]、同月に[[イギリス連邦]]の[[オーストラリア]]・[[ニュージーランド]]と[[太平洋安全保障条約]](ANZUS)、朝鮮戦争後の[[1953年]]8月に韓国と[[米韓相互防衛条約]]、[[1954年]]に[[中華民国]]と[[米華相互防衛条約]]を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版[[北大西洋条約機構|NATO]]といえる[[東南アジア条約機構]](SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカを[[オブザーバー]]とした[[中央条約機構|中東条約機構]](バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。
このように冷戦が進む中、[[1950年代]]前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務める[[ジョセフ・マッカーシー]][[アメリカ合衆国上院|上院議員]]が、政府や[[アメリカ軍]]内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「[[赤狩り]]」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、[[チャーリー・チャップリン|チャールズ・チャップリン]]のような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ[[解雇]]、もしくは国外追放された。
1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とする[[アジア]]・[[太平洋]]の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。
''主な出来事''
* [[第一次インドシナ戦争]]([[1946年]]-[[1954年]])
* [[国共内戦]](1946年-[[1950年]])
* [[第一次中東戦争]] ([[1948年]]-[[1949年]])
* [[朝鮮戦争]](1950年-[[1953年]])
* [[カタリナ事件]]([[1952年]])
=== 雪どけ(1955年-1958年) ===
[[ファイル:Joseph Stalin and Nikita Khrushchev, 1936.jpg|right|220px|thumb|[[ニキータ・フルシチョフ]]と[[ヨシフ・スターリン]]]]
[[1953年]]、[[ヨシフ・スターリンの死と国葬|スターリンが死去]]し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、[[1955年]]にはNATOに対抗する[[ワルシャワ条約機構]]が結成、[[オーストリア]]は[[永世中立国|永世中立]]が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。また[[ジュネーヴ]]で米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが[[国交]]樹立、ソ連は翌年に[[日本]]とも国交を回復し、[[1959年]]にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「[[雪どけ (小説)|雪どけ]]」ムードを演出した。
この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いた[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]は、[[1956年]]の第20回ソ連共産党大会で[[スターリン批判]]を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の[[衛星国|衛星諸国]]に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。[[ポーランド]]では反ソ暴動に次いで、国民の人気が高かった[[ヴワディスワフ・ゴムウカ]]が党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、[[ハンガリー]]でも[[政権交代]]が起こり、[[ナジ・イムレ]]が政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた([[ハンガリー動乱]])。
一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。[[1960年代]]には[[キューバ危機]]や[[部分的核実験禁止条約]]でしばしば[[中ソ対立|対立]]、[[中ソ国境紛争|ダマンスキー島事件]]などの国境紛争を起こすに至った。
''主な出来事''
*[[スエズ戦争]]([[1956年]])
*[[ハンガリー事件]](1956年)
*[[スプートニク1号|スプートニク]]打ち上げ成功([[1957年]]) →[[スプートニク・ショック]]
*[[ミサイル・ギャップ論争]]
=== 危機の時代(1958年-1962年) ===
[[ファイル:Francis Gary Powers U2 at Moscow.jpg|thumb|220px|[[U-2撃墜事件]]で撃墜された機体の残骸]]
互いを常に「[[仮想敵国]]」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、[[軍備拡張競争|軍備拡張]]が続いた。この象徴的な存在が、[[核兵器]]開発と[[宇宙開発競争]]である。両陣営は、目には目を、[[核抑止|核には核を]]、との考え方からそれぞれ[[核兵器]]を大量に保有するようになる。また、[[大陸間弾道ミサイル]]と共通の技術をもつ[[ロケット]]や[[U-2 (航空機)|U-2]]などの高高度を飛行する[[偵察機]]、[[宇宙]]から敵を監視するための[[人工衛星]]の開発に没頭し、国威発揚のために[[有人宇宙飛行]]と[[月#人間との関係史|月探査]]活動を活発化した。
[[ファイル:MRBM Field Launch Site San Cristobal No. 2 14 October 1962 - NARA - 193927.tif|thumb|220px|キューバで最初に発見されたソ連の[[MRBM]]([[アルテミサ州]]サン・クリストバル)]]
しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に[[1962年]]の[[キューバ危機]]によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。
その一方、[[第三世界]]の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの[[大国]]の熱い戦争を肩代わりする、'''[[代理戦争]]'''と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる[[ラテンアメリカ|中南米]]諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカは[[ブラジル]]や[[ボリビア]]、[[ウルグアイ]]など各国の[[親米]][[軍事政権|軍事]][[独裁政治|独裁政権]]への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による内戦や[[汚職]]、軍事勢力同士による[[クーデター]]が横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。
==== ベルリン危機(1958年-1961年) ====
[[ファイル:Kennedy and Khrushchev in Vienna 1961.png|right|220px|thumb|[[ウィーン会談]]におけるフルシチョフと[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]]]
[[1949年]]以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、[[1958年]]から始まった{{仮リンク|ベルリン危機 (1958年)|de|Berlin-Krise}}であった。当時、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]における過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や[[知識人]]層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、[[西ドイツ]]へと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせた[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]は、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、[[人口]]流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で[[鉄条網]]が敷設され、後に[[ベルリンの壁|壁]]へと発展した({{仮リンク|ベルリン危機 (1961年)|en|Berlin Crisis of 1961}})。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に[[首相]]として[[東方外交|東方政策]]を推進した[[ヴィリー・ブラント]]であった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。
''主な出来事''
* [[台湾海峡危機#第二次台湾海峡危機(1958年)|中台危機]]([[1958年]])
* [[U-2撃墜事件]]([[1960年]])
* [[キューバ危機]]([[1962年]])
=== 冷戦の変容(1963年-1968年) ===
[[ファイル:UH-1D helicopters in Vietnam 1966.jpg|thumb|right|220px|ベトナム戦争中、前線に降下する[[アメリカ軍]]のヘリコプター]]
[[キューバ危機]]によって[[核戦争]]寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で[[部分的核実験禁止条約]]、[[ホットライン]]協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。[[シャルル・ド・ゴール]]統治下のフランスは、アメリカ主導の[[北大西洋条約機構|NATO]]に反対し、1964年には同様に米ソと距離を置いていた中国を(中国と地続きな[[イギリス領香港|香港]]を持つイギリスを除いて)西側諸国では最も早く[[国家承認]]した。また、1967年にド・ゴールは外訪先であるカナダで開催された[[モントリオール万国博覧会]]で、「[[自由ケベック万歳!]]」と演説し、今も続く[[ケベック独立運動]]に火を付けた。
米ソ両国の軍拡競争が進行し、[[ベトナム戦争]]を契機とする[[反戦運動]]、[[ネグロイド|黒人]]の[[公民権運動]]とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|マーティン・ルーサー・キング]]師や[[ロバート・ケネディ]]などの要人の[[暗殺]]が横行して社会不安に陥った。第二次世界大戦終結時はアメリカ合衆国以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した[[日本]]や[[西ドイツ]]が未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。
[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]は[[プラハの春]]と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は[[制限主権論]]に基づき[[ワルシャワ条約機構]]軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。なお、[[ニコラエ・チャウシェスク]]率いる[[ルーマニア社会主義共和国]]はワルシャワ条約機構加盟国でありながらソ連の介入を公然と批判して独自路線を行い、アメリカなど西側諸国から巨額の援助を受けた。また、[[アルバニア]]はスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、[[中華人民共和国]]は[[ニクソン大統領の中国訪問|リチャード・ニクソンの訪中]]を契機にアメリカに近づいてソ連と決別、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]は[[主体思想]]を掲げてソ連から離反した。イタリア、スペイン、日本など西側諸国の共産党のうちいくつかはソ連型社会主義に反発し、ソ連の影響から離脱した([[ユーロコミュニズム]])。こうして今に至る共産主義の多極化が起こった。
''主な出来事''
*[[ベトナム戦争]]([[1960年]]-[[1975年]])
*[[チェコスロバキア]]の[[プラハの春]]([[1968年]])
*[[中ソ対立]]([[1960年代]]-[[1989年]])
=== デタントの時代(1967年-1979年) ===
1960年代末から緊張緩和、いわゆる[[デタント]]の時代に突入した。米ソ間で[[戦略兵器制限交渉]] (SALT)を開始、[[1972年]]の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。
この頃には同じ共産陣営でありながら[[中ソ対立|ソ連と中国の路線対立]]はあらゆる方面で亀裂を生むようになってきており、[[中ソ国境紛争]]など実力行使を伴うほどになってきていた。[[印パ戦争]]は中ソの代理戦争の様相を呈した。
このような中ソの対立を見たアメリカはソ連を牽制する目的で、[[リチャード・ニクソン]]が[[パキスタン]]や[[ルーマニア社会主義共和国|ルーマニア]]などの仲介により[[1972年]]に[[ニクソン大統領の中国訪問|中華人民共和国を訪問]]し、中華人民共和国を承認して外交と貿易を開始し、東アジアにおける冷戦の対立軸であった[[米中関係]]が改善、[[1972年]]には[[日本]]も中華人民共和国と[[日中国交正常化|国交正常化]]した。
また、[[1973年]]に[[北ベトナム]]とアメリカは[[パリ協定 (ベトナム和平)|和平協定]]に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。アメリカは建国以来初の屈辱的な敗北を味わうことになった。その後[[1975年]]4月に[[南ベトナム]]の首都である[[ホーチミン市|サイゴン]]は北ベトナムの手に落ち、同時に[[ラオス]]、[[カンボジア]]でも共産主義勢力が政権を獲得し、[[インドシナ半島]]は完全に赤化された。
一般市民の日常生活や仕事に役立つ多種多様な商品やサービスが開発・供給され、世界の経済、財政、貿易、投資、通貨発行は著しく拡大したので、[[金本位制]]と外国為替の[[固定相場制]]の維持が不可能になり、[[管理通貨制度]]と[[変動相場制]]に移行した。
ヨーロッパでは、[[1969年]]に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また[[1972年]]に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、[[1975年]]に[[欧州安全保障協力会議]]の成立に繋がった。しかし核を削減する一方、ソ連は[[1977年]]から[[中距離弾道ミサイル]]を配備した。これに対抗し、アメリカは[[1979年]]12月に中距離核戦力(INF)を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連が[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタンに侵攻]]したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。
[[中東]]では、[[第四次中東戦争]]が起き、主にソ連の支援するアラブ諸国が政治的な成果をおさめ、[[石油危機]]によって[[西側諸国|西側]][[先進国]]に深刻な打撃を与えた。しかし、四度にわたる中東戦争を主導してきた[[エジプト]]は戦争前にソ連の軍事顧問団を追放し<ref>{{Cite news |url=https://www.eg.emb-japan.go.jp/j/egypt_info/basic/rekishi.htm|title=エジプト基礎情報~歴史 |work=駐エジプト日本国大使館 |accessdate=2019-07-15}}</ref>、戦争後はソ連と関係断絶し、ソ連と対立するアメリカや中国から軍事的経済的援助を受け始め<ref>Craig A. Daigle, "The Russians are going: Sadat, Nixon and the Soviet presence in Egypt." Middle East 8.1 (2004): 1.</ref><ref>Moshe Gat (2012). In Search of a Peace Settlement: Egypt and Israel Between the Wars, 1967-1973. Palgrave Macmillan. pp. 256–58.</ref><ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/1976/04/22/archives/egypt-and-china-sign-arms-pact-hail-closer-ties-cairo-is-said-to.html|title=EGYPT AND CHINA SIGN ARMS PACT, HAIL CLOSER TIES|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=1976-04-22|accessdate=2019-07-15}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1979/06/06/china-will-sell-arms-to-egypt-sadat-announces/3c70f99a-2fa6-4dea-a92e-b8fbd8d0a97c/|title=China Will Sell Arms to Egypt, Sadat Announces |work=[[ワシントン・ポスト]] |date=1979-06-06 |accessdate=2019-07-15}}</ref>、アメリカの主導で[[キャンプ・デービッド合意]]が成立し、さらにアメリカは西側に対する石油禁輸を主導した[[サウジアラビア]]が[[ドル]]建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わして[[オイルダラー]]を確立することでドル防衛に成功し<ref>{{cite web |title=The Untold Story Behind Saudi Arabia's 41-Year U.S. Debt Secret|url=https://www.bloomberg.com/news/features/2016-05-30/the-untold-story-behind-saudi-arabia-s-41-year-u-s-debt-secret |website=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2016-05-30|accessdate=2019-11-25}}</ref><ref>Clark, William R. Petrodollar Warfare: Oil, Iraq and the Future of the Dollar, New Society Publishers, 2005, Canada, ISBN 0-86571-514-9</ref><ref>"Petrodollar power". The Economist. 7 December 2006.</ref><ref>{{cite web |title=‘MILESTONE’ PACT IS SIGNED BY U.S. AND SAUDI ARABIA |url=https://www.nytimes.com/1974/06/09/archives/milestone-pact-is-signed-by-us-and-saudi-arabia-acclaimed-by.html |website=[[ニューヨーク・タイムズ]] date=1974-06-09|accessdate=2019-11-25}}</ref><ref>{{cite web |title=What Is The Petrodollar?|url=https://www.fxcm.com/uk/insights/what-is-the-petrodollar/ |website=FXCM.com| accessdate=2019-11-25}}</ref>、単純な米ソ対立が反映されてきた中東でも新たな冷戦の構図が生まれつつあった。
[[アフリカ]]では、[[1978年]]から[[エチオピア]]と[[ソマリア]]の間で[[オガデン戦争]]が起こっていたが、エチオピアが[[1974年]]の軍事[[クーデター]]で社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国とルーマニア、エジプトなどが支援した。[[アンゴラ]]は[[1975年]]の独立直後から3つの武装勢力が対立し[[アンゴラ内戦|内戦]]となり、これに[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]と[[ザイール]]と[[キューバ]]が介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼化した。
[[東南アジア]]では、共産主義国家同士の[[カンボジア・ベトナム戦争]]が起き、ソ連寄りのベトナムの侵攻で親中国の[[民主カンプチア]]が崩壊するも民主カンプチアの[[亡命政府]]は中国・[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]・日本・アメリカの支援で国連総会の議席を保ち続け、[[タイ王国|タイ]]との国境で親ベトナムの[[ヘン・サムリン]]政権に対しゲリラ活動を行って[[カンボジア内戦]]は長期化した。
[[ラテンアメリカ]]では、[[チリ]]において民主的な社会主義政権である[[サルバドール・アジェンデ]]政権を転覆させた[[チリ・クーデター]]で成立した[[アウグスト・ピノチェト]]が中国とルーマニアを除く共産圏と断交し、親米軍事政権の[[南アメリカ|南米]]諸国は共産主義勢力の排除で連携する[[コンドル作戦]]を立ち上げた。
ソ連は[[1970年代]]に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア(親ベトナム政権)、ラオス、エチオピア、[[イエメン人民民主共和国|南イエメン]]の共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、[[モザンビーク]]、[[ニカラグア]]などで共産主義勢力に加担して紛争に介入し、[[シリア]]や[[イラク]]などアメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は[[1980年代]]にかけて[[第三世界]]に広がった。
=== 新冷戦(1979年-1985年) ===
[[ファイル:Charlie Wilson with Afghan man.jpg|thumb|[[チャールズ・ネスビット・ウィルソン|チャールズ・ウィルソン]]と[[ムジャーヒディーン]]]]
1978年に成立した共産主義政権を支えるために、[[1979年]]にソ連が[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタンに侵攻]]した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は[[1980年モスクワオリンピック]]への西側に加えて中国、さらにエジプトやサウジアラビア、パキスタンなど[[親米]]の[[アラブ世界|アラブ]]・[[イスラム世界|イスラム]]諸国も加わったボイコットとして現れた。東側は報復として、[[1984年]]の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]を[[ボイコット]]した。アメリカは[[中央情報局|CIA]]や[[チャールズ・ネスビット・ウィルソン|チャールズ・ウィルソン]]らによる総額数十億ドル規模の極秘の武器供給などによる支援にて[[アフガニスタン]]の反共[[ムスリム]]武装勢力「[[ムジャーヒディーン|ムジャヒディン]]」をエジプトやサウジアラビア、パキスタンなどとともに援助した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2693680?pid=5301932 チャーリー・ウィルソン米元議員が死去、ソ連アフガン侵攻でCIAに協力 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News]</ref>。また、ソ連と対立する中国も武器や訓練でムジャヒディンを支援した<ref>S. Frederick Starr (2004). Xinjiang: China's Muslim Borderland (illustrated ed.). M.E. Sharpe. p. 158. ISBN 0-7656-1318-2. Retrieved May 22, 2012.</ref>。戦争を短期で終結させるソ連の目論見は外れ、侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。
人々は、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別にもう一つの勢力があることに気が付き始めた。それは[[イスラム主義]]と呼ばれる勢力であり、二つの[[イデオロギー]]対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、[[1979年]][[イラン革命]]の際には、[[国際法]]を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠された。アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した([[イーグルクロー作戦]])。[[イスラム教]]を創始した預言者[[ムハンマド]]の子孫([[サイイド]])でイランの最高指導者となった[[ルーホッラー・ホメイニー]]は「ソ連は小悪魔、米国は大悪魔」「我々は西でも東でもない」としてイスラム主義の時代を謳った<ref>{{Cite news|title=米国の「怨念」とは?|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2019−03ー15|url=https://mainichi.jp/articles/20190315/ddm/005/070/011000c|accessdate=2019-08-05}}</ref>。
このイラン革命によってアラブ諸国や東西諸国は動揺し、[[1980年]]に[[イラン・イラク戦争]]となって火を噴いた。欧米ソ中はイスラム革命が世界に広がることやさらなる石油危機を恐れ、[[イラク]]を援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は長期にわたり、[[1987年]]には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、後の[[21世紀]]の世界情勢に大きな影響を与えることになった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって[[1989年]]には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。
''主な出来事''
*[[イラン革命]](1979年)
*[[イラン・イラク戦争]](1980年-1988年)
*[[ウィスキー・オン・ザ・ロック]](1981年)
*[[フォークランド紛争]] (1982年)
*[[ロナルド・レーガン]]による「[[悪の帝国|悪の帝国発言]]」と[[戦略防衛構想]]([[1983年]])
=== 改革から冷戦終結、ソ連崩壊(1985年-1991年) ===
==== ゴルバチョフによる改革(1985年-1988年) ====
[[ファイル:Reagan and Gorbachev hold discussions.jpg|thumb|[[超大国]]同士のリーダーが会談している様子(1985年、[[ロナルド・レーガン]]と[[ミハイル・ゴルバチョフ]])]]
[[ファイル:Reagan and Gorbachev signing.jpg|220px|thumb|INFに調印する[[ミハイル・ゴルバチョフ]]と[[ロナルド・レーガン]]]]
[[ファイル:George H. W. Bush and Boris Yeltsin 1993.jpg|220px|thumb|[[ボリス・エリツィン]]と[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]]]
[[1985年]]、ソ連共産党書記長に就任した[[ミハイル・ゴルバチョフ]]は、改革([[ペレストロイカ]])および[[新思考外交]]を掲げて、経済が疲弊した国内体制の改良と、予算案を大幅に削減した大胆な軍縮提案を行い、さらには西側との関係改善に乗り出す。
[[1987年]]にアメリカとの間で[[中距離核戦力全廃条約]](INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していた[[オガデン戦争]]や[[アンゴラ内戦]]が[[1988年]]から順次終結し、[[リビア]]と[[フランス]]が介入した[[チャド]]内戦も終結した。[[カンボジア内戦]]も1988年から和平会議が開催された。
==== 東欧革命と冷戦終結(1988年-1989年) ====
また、既に1980年代初頭から[[独立自主管理労働組合「連帯」]]が結成され民主化の動きが見られていた[[ポーランド]]では1989年の選挙で[[ポーランド統一労働者党]]が失脚して政権が交代し、同様に東欧諸国の中でも比較的早くから改革路線を行っていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式[[共産党]]体制が相次いで倒れ、夏には[[東ドイツ]]国民が[[西ドイツ]]へこれらの国を経て大量脱出した。
東ドイツはあくまで強硬な社会主義路線を取り民衆を抑え込もうとしたが、10月の[[ライプツィヒ]]で行われた[[月曜デモ (1989年)|月曜デモ]]には10万人が参加し、事態を収拾できなかった[[ドイツ社会主義統一党|社会主義統一党]]内部では、幹部であった[[エーリッヒ・ホーネッカー]]の求心力が低下し、まもなく総辞職に追い込まれた。後任の指導部も民主化を求める動きをせき止められず、東ドイツは政治・経済が崩壊状態に陥った。
このため、[[11月9日]]には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべき[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁が崩壊]]した。[[ルーマニア]]でも[[ルーマニア革命 (1989年)|革命]]が勃発し、[[ニコラエ・チャウシェスク]]大統領夫妻が射殺され、[[ルーマニア共産党|共産党]]政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、[[東欧革命]]という。1989年12月には、[[地中海]]の[[マルタ島]]で、ゴルバチョフと[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]が[[マルタ会談|会談]]し、'''冷戦の終結'''を宣言した<ref>[http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/december/3/newsid_4119000/4119950.stm Malta summit ends Cold War]<span _mstmutation="1" _msthash="779103" _msttexthash="1393080" _msthidden="1">, BBC News, 3 December 1989. Retrieved on 11 June 2008.</span></ref>。しかし、中国では[[六四天安門事件]]が起き、東アジアの共産党政権([[竹のカーテン]])では民主化ドミノが武力で抑制された。
==== ソビエト連邦の崩壊(1989年-1991年) ====
[[1990年]]8月に起きた[[湾岸戦争]]では、欧米ソ中が世界第四の軍事大国に仕立てたイラクの[[クウェート侵攻]]に対するアメリカ主導の[[武力行使容認決議]]にソ連は同調し、米ソで二極化してきた世界はアメリカ一極化への兆しが見え始めた。アメリカは、1990年8月のイラク軍による[[クウェート]]侵攻(湾岸危機)を皮切りに[[アラビア半島]]に展開、翌[[1991年]]1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の[[欧州共同体]]外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後は[[パレスチナ問題]]を中心に[[中東]]への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。
ソ連国内では[[ペレストロイカ]]路線は行き詰まりつつあった。[[バルト三国]]の独立要求が高まり、[[1988年]]11月に[[エストニア・ソビエト社会主義共和国]]が主権宣言、同年[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]でも[[サユディス]]による独立運動の加速により、国旗がソビエト編入以前のデザインに戻された。1989年7月に[[リトアニア共産党]]が[[ソビエト連邦共産党]]からの独立を宣言した。
1990年3月から6月にかけて東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、バルト三国の各最高会議は独立宣言を採択した。ソ連政府はバルト三国に対して軍事行動を起こし、[[1991年]]1月の[[血の日曜日事件 (リトアニア)|血の日曜日事件]](リトアニア)などで、ソ連軍と民間人が衝突する事態になった。
ソ連は1991年3月、バルト三国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。同年3月17日には[[新連邦条約]]を締結するための布石として、連邦制維持の賛否を問う国民投票(英語版、ロシア語版)が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国(エストニア・ソビエト社会主義共和国、[[ラトビア・ソビエト社会主義共和国]]、リトアニア・ソビエト社会主義共和国)、[[モルダビア・ソビエト社会主義共和国]]、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国]]、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]は投票をボイコットした。
1991年6月12日、ソ連体制内で機能が形骸化していた[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]で、[[1991年ロシア大統領選挙|選挙]]により大統領に当選した[[ボリス・エリツィン]]は、国名を「ロシア共和国」に改称し、主権宣言を出して連邦からの離脱を表明した。
また、米ソ両国は1991年7月に[[第一次戦略兵器削減条約]](START)に調印した。8月20日に予定されていた新連邦条約調印を前に、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が[[ソ連8月クーデター|軍事クーデター]]を起こし、ゴルバチョフを滞在先の[[クリミア半島|クリミア]]で軟禁状態に置いた。しかし、クーデターは[[ボリス・エリツィン]]の活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。
しかし、その結果バルト三国は独立を達成し、各構成共和国でも独立に向けた動きが進み、[[12月8日]]に、[[ロシア]]のエリツィン、[[ウクライナ]]の[[レオニード・クラフチュク]]、[[ベラルーシ]]の[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]が[[ベラルーシ]]の[[ベロヴェーシの森]]で会談し、ソ連からの離脱と[[独立国家共同体]](CIS) の結成で[[ベロヴェーシ合意|合意]]した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして[[12月25日]]をもって'''[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連は消滅した]]'''。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本主義国家となった。
=== ポスト冷戦時代(1991年-1990年代前半) ===
{{See also|{{仮リンク|ポスト冷戦時代|en|Post–Cold War era}}}}
ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結する前後に、それまで反共主義が故に、[[軍事政権]]や[[独裁政治|独裁政権]]、長期政権の存在が容認されていた一部の西側諸国([[インドネシア]]や[[中華民国|台湾]]、[[大韓民国|韓国]]、[[ザイール]]など)が、アメリカからの金銭や軍事、政治的支援を受けられなくなったために次々と政権崩壊し、選挙の実施や政権交代を余儀なくされた。日本でも[[55年体制]]が崩壊し、[[非自民・非共産連立政権]]が樹立された。さらに反共主義を条件にアメリカの援助を受けた軍事政権や[[独裁政治|独裁政権]]、長期政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、[[チリ]]や[[アルゼンチン]]、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における[[橋頭堡]]として、軍事援助や[[物々交換|バーター貿易]]などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終わってアメリカとの対決の必然性が消えたロシアにとって戦略的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。
米ソ冷戦が終結した当初の1990年代初期において、[[フランシス・フクヤマ]]が『[[歴史の終わり]]』を発表し、[[政治体制]]としての[[自由民主主義|リベラル民主主義]]の最終的勝利を宣言した。冷戦終結直後の[[1991年]]に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると[[勢力均衡|世界の均衡]]が崩れ、アメリカが[[一極体制|唯一の超大国]]となった。ソ連型の国営の[[計画経済]]・統制経済モデルの社会主義体制と社会主義経済圏が崩壊し、世界の経済が[[資本主義]]経済・[[市場経済]]により統合され、[[グローバリゼーション]]が進行した。冷戦終結により、それまで[[クレムリン]]や[[ホワイトハウス]]に抑圧されていた世界各地の[[民族紛争|民族問題]]が再燃した。
東ヨーロッパを見ると、[[1993年]]に[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]が[[チェコ]]と[[スロバキア]]に[[ビロード離婚|平和裏に分離]]した反面、[[1993年]]に起こった[[ユーゴスラビア紛争]]は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。[[カフカス]]地方では[[アゼルバイジャン]]や[[アルメニア]]で内戦となり、[[チェチェン共和国|チェチェン]]をはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で[[内戦]]に発展した([[第一次チェチェン紛争]])。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派は[[テロリズム|テロ]]行為に走り、収拾がつかなくなっている([[第二次チェチェン紛争]])。また、このテロには[[イスラーム過激派]]の関与が疑われている。
=== その後 ===
{{See also|現代 (時代区分)|一極体制|米中二極体制|新冷戦|平成#国際関係史}}
西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアでは[[モンゴル]]の民主化、[[ベトナム]]とアメリカの和解の外は、[[中華民国]]と[[中華人民共和国]]の対立、[[大韓民国]]と[[朝鮮民主主義人民共和国]]の対立([[朝鮮戦争]])が現在も続いており、日本国内では[[日本共産党]]と[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]は現在も公安当局([[公安調査庁]]、[[公安警察]])に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。
アメリカは「冷戦の戦勝国」という自信から、[[1991年]]の[[湾岸戦争]]に引き続いて中東への介入を深め、[[ビル・クリントン]]政権は、[[双子の赤字]]を改善していく傍らで[[パレスチナ問題]]に積極的に関わり、[[ノルウェー]]の仲介により初めて和平合意をもたらした([[オスロ合意]])。しかし、[[イスラエル]]の凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による[[虐殺]]によって、[[パレスチナ国|パレスチナ]]は泥沼の様相を呈した(パレスチナ問題)。また、[[アフガニスタン]]や[[スーダン]]には[[1998年]]に[[ミサイル]]攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外には[[ソマリア]]にも[[国際連合]]の力で[[ソマリア内戦|内戦]]に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。[[イラク]]に対しては湾岸戦争以来敵対しており、[[イラク武装解除問題]]に関しても、武器査察が滞る度に[[空襲|空爆]]を加えた。これらのアメリカによる中東への介入や[[グローバリゼーション]]に反感を抱く[[アルカーイダ]]は、[[2001年]]に'''[[アメリカ同時多発テロ事件]]'''を惹き起こし、[[対テロ戦争]]と呼ばれる[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アメリカのアフガニスタン侵攻]]や[[イラク戦争]]となった。
[[ファイル:National Park Service 9-11 Statue of Liberty and WTC fire.jpg|thumb|right|220px|アメリカ同時多発テロ事件]]
特にイラク戦争に関しては開戦時第一の理由に挙げられた[[大量破壊兵器]]は一切見つからず、最終的に存在しないことが判明したため、アメリカ外交の信頼に大きな傷をつけた<ref>http://jp.wsj.com/US/node_303940</ref>。[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領も退任直前に、大量破壊兵器の情報収集は政権の最大の失敗の一つであったことを認めた。
核開発競争によって生産された高性能[[核弾頭]]を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の[[科学者]]は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、[[ソビエト連邦|ソ連]]と[[イギリス]]と[[フランス]]に開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって([[中ソ対立]]なども要因となっているが)[[インド]]や[[パキスタン]]の核保有([[印パ戦争#両国の核保有]])や、アメリカから供与された技術によって[[イスラエル]]の核保有に及んでいる。
[[2008年]]8月には[[南オセチア紛争 (2008年)|南オセチア紛争]]が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「[[新冷戦]]」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。同年の[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]で[[ケインズ経済学|財政出動]]により、景気を回復させ影響力を高めた中華人民共和国も、[[米中冷戦]]と呼ばれる緊張状態にあるとされ、中露は[[北大西洋条約機構|NATO]]と対立する[[上海協力機構]]を組織している。ロシアは、[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連が崩壊]]すると[[共和制]]国家として甦生し、[[ボリス・エリツィン]]政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特に[[アジア通貨危機]]後の[[1998年]]には[[ロシア財政危機]]が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の[[経済援助]]に甘んじていた。しかし、[[2003年]]頃より[[原油価格]]高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景に[[ウラジーミル・プーチン]]政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、[[欧州連合|EU]]やNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、[[シリア内戦]]に介入するなど牽制の動きを見せるようになった。
[[1989年]] - [[1991年]]に起こった「ソ連型社会主義体制」の消滅により、[[多国籍企業]]は地球規模で市場と利益を奪い合う[[グローバリゼーション]]が進行した。冷戦時代末期のIMF不況と[[1990年代]]のグローバリゼーションに遭遇した[[ラテンアメリカ]]では、[[2000年代]]になると[[反米]]・[[左翼|左派]]の[[政権]]が続々と生まれ、[[社会主義]]が復活する動きを見せていたが、その代表格であった[[ベネズエラ]]のチャベス大統領が病死したことで[[2012年]]頃から[[親米]]路線に回帰する国も増えている。また[[2015年]]には、[[バラク・オバマ|オバマ]]政権において、アメリカと[[キューバ]]の国交が回復した。
グレゴリー・ガウスが執筆した『新しい中東の冷戦』と題された宗派主義に関する文献では、[[イラン]]と[[サウジアラビア]]は超大国として地域に影響を与える能力を持っているとされている。そして、「これは、純粋なる軍事的な争いというよりも、中東の国内政治の方向性をめぐる争いである」とガウスは論じ、この状況を「中東の冷戦」と表現している。
== 東西陣営の主な国 ==
=== 資本主義陣営(西側) ===
[[資本主義]]を基調とし、東側と対立した国々。アメリカを中心とし、基本的には[[民主主義|民主的]]な国が多かったが、アジアや南米にはアメリカに支援された[[軍事政権]]や[[開発独裁]]の国もあった。しかし現在ではそうした国も民主化し、経済的に発展している。<br/>
'''南北アメリカ'''
*{{USA}}
*{{CAN}}
*{{MEX}}
*{{BRA}}
*{{ARG}}
*{{CHL}}
*{{PAR}}
*{{COL}}
*{{VEN1930}}
*{{BOL}}
*{{URY}}
*{{PER}}
*{{ECU}}
*{{DOM}}
*{{SLV}}
*{{GTM}}
*{{HTI}}
*{{HND}}
*{{PAN}}
'''アジア'''
*{{JPN1947}}
*{{PRC}} - [[改革開放]]以降。
*{{TWN1949}}(中華民国)
*{{KOR1949}}(大韓民国)
*{{VSO}}(ベトナム民主共和国) - [[1976年]][[4月30日]]に[[サイゴン陥落]]によって崩壊。[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]に接収。
*{{PHI}}
*{{IDN}}
*{{THA}}
*{{MAS1950}}→{{MYS}}
*{{SGP}}
*{{PAK}}
*{{KHM1970}}(現在は[[カンボジア|カンボジア王国]])
'''ヨーロッパ'''
*{{GBR}}
*{{FRA}}
*{{FRG}}(ドイツ連邦共和国)
*{{ITA}}
*{{ESP}}
*{{PRT}}
*{{NLD}}
*{{BEL}}
*{{LUX}}
*{{GRC}}
*{{DNK}}
*{{NOR}}
*{{ISL}}
*{{CYP}}
'''オセアニア'''
*{{AUS}}
*{{NZL}}
'''中東'''
*{{ISR}}
*{{TUR}}
*{{SAU}}
*{{QAT}}
*{{BHR}}
*{{ARE}}
*{{OMN}}
*{{NYE}}([[1990年]]、[[南イエメン]]に吸収合併され、[[イエメン|イエメン共和国]]に)
'''アフリカ'''
*{{SEN}}
*{{LBR}}
*{{MAR}}
*{{KEN}}
*{{ZR1967}}(現在は[[コンゴ民主共和国]])
*{{BWA}}
*{{ZAF1928}}→{{ZAF1961}}
=== 共産主義陣営(東側) ===
[[社会主義]]を基調とし、西側と対立した国々。ソ連を中心とし、基本的に[[共産党]]や社会党による[[一党独裁]]体制が取られだが、中には独自路線をとる国もあった。冷戦後にはほとんどが崩壊、民主化し、現在残る社会主義国は少数になっている。<br/>
'''アジア'''
*{{MNG1949}}(現在は[[モンゴル国]])
*{{PRC}}(1949年-[[中ソ対立|1960年]])
*{{PRK1948}} (朝鮮民主主義人民共和国) - 共産主義国家が禁じている[[世襲]]を続け、同族による独裁国家となる。ソ連、中国とは共に等距離外交を行う([[主体思想]])。
*{{VNM1945}}→{{VNM}}
*[[ファイル:Flag of the People's Republic of Kampuchea.svg|border|25x20px|カンプチア人民共和国の旗]] [[カンプチア人民共和国]]
'''ヨーロッパ'''
*{{SSR}}→[[1991年]]12月25日[[ソビエト連邦の崩壊|崩壊]]
*{{ROM1965}} - [[ニコラエ・チャウシェスク]]の下で独自路線を行いソ連と距離を置き、西側から支援を受ける([[1989年]][[12月25日]][[ルーマニア革命 (1989年)|、ルーマニア革命]]によって崩壊し[[共和制]][[国家]]となる)。
*{{DDR}}(ドイツ民主共和国。[[1990年]]10月3日、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]に[[ドイツ再統一|編入]])
*{{HUN1957}} - (1989年6月25日、[[ハンガリー社会主義労働者党]]が一党独裁を放棄し完全に民主化)
*{{BGR1971}}- (1990年2月、[[ブルガリア共産党]]が一党独裁を放棄し民主化)
*{{POL1952}}- (1989年6月28日の自由選挙で非共産党政権が成立し民主化)
*{{CSK}}- (1989年12月の自由選挙で非共産党政権が成立し民主化)
'''中東'''
*{{Flagicon|IRQ1959}}→{{IRQ1968}}
*{{SYR}}
*{{UAR}}([[シリア]]と[[エジプト]]による連合国家)→エジプトは連合解消後、親米国家となる。
*{{SYE}}([[1990年]]、[[北イエメン]]に吸収合併され、[[イエメン|イエメン共和国]]に)
'''アフリカ'''
*{{Flagicon|LBY1969}} [[リビア・アラブ共和国]]→{{LBY1977}}(大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)→現国名[[リビア]]([[2011年]]に事実上NATOに侵略され、占領される)
*{{COG1970}}(現在は[[コンゴ共和国]])
*{{ETH1974}}→{{ETH1987}}
*{{ANG1975}}
*{{MOZ1975}}
*{{BEN1975}}(現在は[[ベナン共和国]])
=== 非同盟・中立 ===
'''西側寄り'''
*{{CHE}}([[永世中立国]])
*{{AUT}}
*{{IRL}}
*{{SWE}}([[武装中立|武装中立国]])
*{{CRI}}(永世中立国)
*{{MLT}}
*{{VAT}}([[聖座]])
'''東側寄り'''
*{{Flagicon|MYA1974}} [[ビルマ連邦社会主義共和国|ビルマ]](現在は[[ミャンマー|ミャンマー連邦共和国]])
*{{FIN}} - [[フィンランド]]はソ連寄りではあったが政治・経済面では自由主義・資本主義国であった。このフィンランドの特殊な状況は、西欧において「[[フィンランド化]]」という呼称を持って扱われている。当時の北欧の動向を「[[ノルディックバランス]]」という。
*{{YUG1945}} - 共産主義国でありながら、ソ連とは異なる独自の共産主義を推進し、経済・貿易面ではむしろ西欧との関係が強かった。
*{{IND}} -印パ戦争で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が支援する[[パキスタン]]と戦ったため、対米関係は良くなかった。ソ連とは1971年に[[印ソ平和友好協力条約]]を締結し、武器調達でも協力関係にあった。
'''孤立化'''
*{{PRC}} - [[中ソ対立]]以降の[[毛沢東]]時代
*{{ALB1946}} - 当初ソ連寄りであったが[[スターリン主義]]がフルシチョフによって批判されたことから決別し、[[毛沢東思想|毛沢東主義]]の中華人民共和国寄りとなる。しかし、文化大革命後に同国が[[改革開放]]路線に舵を切ったことから中国からも決別。その後はソ連・中国両方から距離を置いた([[ホッジャ主義]])。
*{{KHM1975}} - 中国と親密だったが[[カンボジア・ベトナム戦争]]の敗北により政権が崩壊。その後はゲリラ化して、中国ならびにアメリカ、イギリス、タイなどの西側から支援を受けて[[国際連合]]にも議席を維持し続けた。
=== 資本主義陣営→共産主義陣営 ===
*{{CUB}}(1959年の革命以前は資本主義陣営(西側)、1959年の革命以後は共産主義陣営(東側))
*{{NIC}}(1979年の革命以前は資本主義陣営(西側)、1979年の革命以後は共産主義陣営(東側))
*{{ETH1897}}→{{ETH1974}}
*{{LAO1949}}→{{LAO}}
*{{VSO}}→{{VNM}}(旧[[南ベトナム]])
*{{SYC1977}} - 1977年の民兵によるクーデターで左翼政権が成立。1990年代初頭まで親共産主義路線となる。
*{{AFG1974}}→{{Flagicon|AFG1980}} [[アフガニスタン民主共和国]]
*{{LBY1951}}→{{Flagicon|LBY1969}} [[リビア・アラブ共和国]]
*{{SOM}}(1969年のクーデター以前は資本主義陣営(西側)、1969年のクーデター以後は共産主義陣営(東側))
*{{IRQ1924-2}}→{{IRQ1959}}
*{{NYE1927}}→{{Flagicon|NYE}} [[イエメン・アラブ共和国]]
=== 共産主義陣営→資本主義陣営 ===
*{{IDN}}<ref group="※">スハルト政権以降も軍の装備などの面でソビエトの支援を受けた。</ref>
*{{EGY}} - [[第四次中東戦争]]以降の[[アンワル・アッ=サーダート|サーダート]]政権。
*{{SOM}} - [[オガデン紛争]]以降の[[バーレ]]政権。
*{{Flagicon|SDN1956}}→{{SDN}} - [[ヌメイリ]]政権時代。
*{{DDR}}→{{DEU}}
*{{Flagicon|NYE}} [[イエメン・アラブ共和国]](北イエメン) - [[北イエメン内戦|1970年]]以降。
=== 資本主義陣営→イスラム主義陣営 ===
*[[ファイル:State flag of Iran 1964-1980.svg|25px|border|イラン帝国の旗]]→{{IRN}}<ref group="※">中華人民共和国や北朝鮮が物質的な支援を行い、ソビエト自体は傍観の姿勢を取った。</ref>
== 欧州の対立構造 ==
* 政治的対立
** 西側 = [[欧州会議]]、[[北欧理事会]]
** 東側 = [[コミンフォルム]](共産党情報局、1956年廃止)、イデオロギーによる同盟
* 軍事的対立
** 西側 = [[北大西洋条約機構]] (NATO)、[[西欧同盟]] (WEU)、バルカン軍事同盟
** 東側 = [[ワルシャワ条約機構]] (WTO)
* 経済的対立
** 西側 = [[対共産圏輸出統制委員会]] (COCOM)、[[欧州共同体]] (EC)、欧州自由貿易協定 (EFTA)、欧州通貨協定 (EME)、[[経済協力開発機構]] (OECD)
** 東側 = [[経済相互援助会議]] (COMECON)
== 冷戦史研究==
冷戦は、それがグローバルな戦後国際政治に大きな影響を与えたことから起源、展開、終焉に対して様々な解釈が示され、論争を呼んできた。以下では、学術的な冷戦史研究の中で行われた論争について説明する<ref group="※"><span _mstmutation="1" _msthash="776750" _msttexthash="86595119" _msthidden="1">以下の記述、例示する文献の選定については、</span>[[ロバート・マクマホン|Robert J. McMahon]]<span _mstmutation="1" _msthash="776751" _msttexthash="4004" _msthidden="1">, </span>''The Cold War: A Very Short Introduction''<span _mstmutation="1" _msthash="776752" _msttexthash="1347892" _msthidden="1">. (Oxford University Press, 2003); Michael Kort, </span>''The Colubia Guide to the Cold War''<span _mstmutation="1" _msthash="776753" _msttexthash="812656" _msthidden="1">. (Columbia University Press, 1998); </span>[[麻田貞雄]]<span _mstmutation="1" _msthash="776754" _msttexthash="378217905" _msthidden="1">「冷戦の起源と修正主義研究――アメリカの場合」『国際問題』第170号(1974年)などを参照している。</span></ref>。
=== 冷戦起源論を巡る論争 ===
冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦はいつ、なぜ生じたのか」という冷戦の起源を巡る論争だった。この論争は、西側陣営最大の当事国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。
冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は[[第二次世界大戦]]などの起源を巡る学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の起源を論じるものであったため、[[ベトナム戦争]]を典型として、研究が発表された当時の出来事や問題関心に強く影響されたものになった。第二に、その論争が米国学界を中心に展開されたことや、資料公開ペースのスピードなどから、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、一般に研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている<ref group="※"><span>また、冷戦史研究は、第二次世界大戦中の戦時外交研究にも影響を与えることとなった。</span>[[マーク・ストーラー]]<span>は1940年代後半に始まる戦時外交研究が、冷戦起源論の解釈と密接な関係を持ったことを指摘している。Mark A. Stoler, "A Half Century of Conflict: Interpretations of U.S. World War II Diplomacy." in </span>[[マイケル・ホーガン|Michael Horgan]]<span> (ed.), </span>''America in the World: the Historiography of American Foreign Relations since 1941''<span>, (Cambridge University Press, 1995).
</span></ref>。
'''伝統学派/正統学派''' (Traditionalist / Orthodox) は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた<ref group="※">なお、ソ連の行動の動機としてイデオロギー的なものを重視するか、地政学的・安全保障的なものに重視するかについては解釈に差があった。後述のファイスは前者、グレーブナーは後者に属する</ref>。伝統学派はソ連が[[ヤルタ会談]]で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、[[マーシャル・プラン]]、[[北大西洋条約機構|NATO]]結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。
以上のような解釈はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) の''Cold War Diplomacy'' (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史としての冷戦』(1967)、[[ハーバート・ファイス]]の''From Trust to Terror'' (1970) などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]を務め、冷戦政策を展開した[[ディーン・アチソン]]の回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている<ref><span _mstmutation="1" _msthash="778154" _msttexthash="305305" _msthidden="1">Norman A. Graebner, </span>''Cold War Diplomacy: American Foreign Policy, 1945-1960''<span _mstmutation="1" _msthash="778155" _msttexthash="807157" _msthidden="1">. (Van Nostrand, 1962); Herbert Feis, </span>''From Trust to Terror: The Onset of the Cold War, 1945-1950''<span _mstmutation="1" _msthash="778156" _msttexthash="689117" _msthidden="1">. (W W Norton, 1970);Louis J. Halle, </span>''The Cold War as History''<span _mstmutation="1" _msthash="778157" _msttexthash="509243930" _msthidden="1">, (Harper & Row, 1967)(太田博訳『歴史としての冷戦――超大国時代の史的構造』(サイマル出版会, 1970年); Dean G. Acheson, </span>''Present at the Creation: My Years in the State Department''<span _mstmutation="1" _msthash="778158" _msttexthash="272283700" _msthidden="1">.(Norton, 1969). (吉沢清次郎訳『アチソン回顧録(1・2)』恒文社, 1979年)</span></ref>。
続いて1960年代より登場した'''修正主義学派''' (Revisionist) は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生はソ連の行動よりも米国側の行動により大きな原因があったとする解釈を提示した。修正主義学派の最大の特徴は、経済的要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務した[[ウィスコンシン大学マディソン校]]で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られる[[ウィリアム・A・ウィリアムズ]]は、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「[[門戸開放政策|門戸開放]]」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと指摘した。そして、冷戦は米国が門戸開放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったとして、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である [[ウォルター・ラフィーバー]]の ''America, Russia, and the Cold War'' (1967)、[[ロイド・ガードナー]]の ''Architects of Illusion'' (1970) などによってより精緻に検討されることとなる<ref><span _mstmutation="1" _msthash="778622" _msttexthash="341198" _msthidden="1">William A. Williams, </span>''The Tragedy of American Diplomacy''<span _mstmutation="1" _msthash="778623" _msttexthash="97866990" _msthidden="1">, (The World Publishing Company, 1958).(高橋章・</span>[[松田武 (歴史学者)|松田武]]<span _mstmutation="1" _msthash="778624" _msttexthash="1141049" _msthidden="1">・</span>[[有賀貞]]<span _mstmutation="1" _msthash="778625" _msttexthash="112298277" _msthidden="1">訳『アメリカ外交の悲劇』御茶の水書房, 1986年); Walter LaFeber, </span>''America, Russia, and the Cold War, 1945-1966''<span _mstmutation="1" _msthash="778626" _msttexthash="664053" _msthidden="1">. (Wiley, 1967); Lloyd C. Gardner, </span>''Architects of Illusion: Men and Ideas in American Foreign Policy, 1941-1949''<span _mstmutation="1" _msthash="778627" _msttexthash="449345" _msthidden="1">. (Quadrangle Books, 1970).</span></ref>。
また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。[[ガブリエル・コルコ]]とジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、''The Limits of Power'' (1972) において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとする[[マルクス主義]]に親和的な解釈を主張することとなった<ref><span _mstmutation="1" _msthash="779090" _msttexthash="649727" _msthidden="1">Gabriel Kolko and Joyce Kolko, </span>''The Limits of Power: the World and United States Foreign Policy, 1945-1954''<span _mstmutation="1" _msthash="779091" _msttexthash="275405" _msthidden="1">.(Harper & Row, 1972).</span></ref>。これらの研究は、[[ベトナム戦争]]の泥沼化により、従来の米国外交のあり方に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。当然ながらこれらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の分析の実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国の行動のみを実質的に分析している分析の偏重などが批判されることとなった<ref><span _mstmutation="1" _msthash="779558" _msttexthash="11041004" _msthidden="1">一例として、Robert J. Maddox, </span>''The New Left and the Origins of the Cold War''<span _mstmutation="1" _msthash="779559" _msttexthash="857051" _msthidden="1">. (Princeton University Press, 1973).</span></ref>。うい
伝統学派・修正主義学派に続く'''ポスト修正主義学派''' (Post-Revisionist) は、先行する学派の議論の抱える問題点を克服し、さらにこの頃徐々に公開が進んだ西側政府の公文書を活用することで、歴史研究としての実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、[[ジョン・ルイス・ギャディス]]の ''The United States and the Origins of the Cold War'' (1972) である。ギャディスは一次資料に依拠した上で、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因を同時に取り入れつつ、さらに国際政治構造、国内政治要因、政策決定プロセス(官僚政治)の影響などを盛り込んだ分析を提示した<ref><span _mstmutation="1" _msthash="780026" _msttexthash="15806063" _msthidden="1">John Lewis Gaddis “The Emerging Post-Revisionist Synthesis on the Origins of the Cold War”, </span>''Diplomatic History''<span _mstmutation="1" _msthash="780027" _msttexthash="84968" _msthidden="1">, 7:3 (1983).</span></ref>。
ギャディスは、各国の疲弊によって「[[力の真空]]」が生じていたヨーロッパにおいて、米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、対峙の緊張の中で米ソが様々な要因から相手の行動・思惑に対する誤解を重ねたことが(本来両者の想定しなかった)冷戦を生んだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める過去の議論を排する主張を展開した<ref><span _mstmutation="1" _msthash="776269" _msttexthash="288600" _msthidden="1">John Lewis Gaddis, </span>''The United States and the Origins of the Cold War, 1941-1947''<span _mstmutation="1" _msthash="776270" _msttexthash="779792" _msthidden="1">. (Columbia University Press, 1972)</span></ref>。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) の''The Origins of the Cold War in the Near East'' (1980)、[[ウィリアム・トーブマン]]の ''Stalin's American Policy'' (1982) などにも継承され、彼らの研究は「ポスト修正主義学派」として広く受け入れられることとなった<ref><span _mstmutation="1" _msthash="776737" _msttexthash="284154" _msthidden="1">Bruce R. Kuniholm, </span>''The Origins of the Cold War in the Near East: Great Power Conflict and Diplomacy in Iran, Turkey, and Greece''<span _mstmutation="1" _msthash="776738" _msttexthash="1759797" _msthidden="1">. (Princeton University Press, 1980);William Taubman, </span>''Stalin's American Policy: from Entente to Detente to Cold War''<span _mstmutation="1" _msthash="776739" _msttexthash="185120" _msthidden="1">. (Norton, 1982).</span></ref>。
また、米国で進んだポスト修正主義学派の研究に対して、ヨーロッパにおける研究も呼応する動きを示した。ノルウェーの[[ゲア・ルンデスタッド]]は、大戦後のヨーロッパの政治指導者たちがソ連の影響力を相殺するべく、ヨーロッパで米国がより積極的な役割を果たすことを希望していたと論じ、戦後の米国はいわばヨーロッパに「招かれた帝国 (Empire by Invitation)」であったとする解釈を示した<ref><span _mstmutation="1" _msthash="777205" _msttexthash="14932671" _msthidden="1">Geir Lundestad, “Empire by Invitation? The United States and Western Europe, 1945-1952”, </span>''Journal of Peace Research''<span _mstmutation="1" _msthash="777206" _msttexthash="265486494" _msthidden="1">, 23:3, (1986)。しばしばルンデスタッド自身、ポスト修正主義学派に分類されている。</span></ref>。
=== ソ連崩壊後の冷戦起源論争 ===
冷戦の終結とソ連邦の崩壊により、過去西側で閲覧することが不可能だった東側文書の開示が進むこととなった。これは各種の研究・資料収集プロジェクトの始動をもたらすとともに、冷戦起源を巡る論争において伝統学派的な解釈の復活という、新しい展開を生むこととなった。開示された東側の資料群をもとに発表された[[ヴォイチェフ・マストニー]]の『冷戦とは何だったのか』(1996年)、[[ヴラディスラヴ・ズボク]]とコンスタンティン・プレシャコフ (Constantine Pleshakov) による ''Inside the Kremlin's Cold War'' (1996) は、ソ連中枢の情勢認識や政策決定を明らかにすることとなった。これらの著書は、ソ連が[[マルクス・レーニン主義]]のイデオロギーに基づき、自発的・主体的にヨーロッパへの拡張を図っていたとする解釈を示した<ref><span _mstmutation="1" _msthash="777673" _msttexthash="302497" _msthidden="1">Vojtěch Mastný, </span>''The Cold War and Soviet Insecurity: the Stalin Years''<span _mstmutation="1" _msthash="777674" _msttexthash="734838" _msthidden="1">. (Oxford University Press, 1996). (</span>[[秋野豊]]<span _mstmutation="1" _msthash="777675" _msttexthash="1141049" _msthidden="1">・</span>[[広瀬佳一]]<span _mstmutation="1" _msthash="777676" _msttexthash="155021100" _msthidden="1">訳『冷戦とは何だったのか――戦後政治史とスターリン』柏書房, 2000年);Vladislav Zubok, Constantine Pleshakov, </span>''Inside the Kremlin's Cold War: from Stalin to Khrushchev''<span _mstmutation="1" _msthash="777677" _msttexthash="759291" _msthidden="1">.(Harvard University Press, 1996).</span></ref>。その他、90年代には様々な資料を活用した[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]による[[スターリン]]の伝記研究も発表され、スターリンの[[偏執病|パラノイア]]的性質を指摘する書物として注目を浴びることとなった<ref><span _mstmutation="1" _msthash="778141" _msttexthash="419705" _msthidden="1">Dmitrii A. Volkogonov, </span>''Триумф и трагедия: политический портрет И.В. Сталина''<span _mstmutation="1" _msthash="778142" _msttexthash="934928280" _msthidden="1">. (2. vols, Изд-во Агентства печати Новости , 1989)(生田真司訳『勝利と悲劇――スターリンの政治的肖像(上・下)』(朝日新聞社, 1992年)</span></ref>。
このような研究進展の影響を受けた典型ともいえるのが、ポスト修正主義学派の旗手であったギャディスの冷戦起源解釈の変化である。ギャディスは東側についての研究の進展を受けて、1997年に発表した『歴史としての冷戦』では、冷戦の起源を米ソ双方のパーセンプション・ギャップや、国際政治構造に見出す過去の解釈から、イデオロギーが冷戦におよぼした影響を重視し、ソ連の政治体制とスターリンという指導者が冷戦の発生により多くの責任を負っているとする解釈へと転じた<ref><span _mstmutation="1" _msthash="778609" _msttexthash="288600" _msthidden="1">John Lewis Gaddis, </span>''We Now Know: Rethinking Cold War History''<span _mstmutation="1" _msthash="778610" _msttexthash="735098" _msthidden="1">, (Oxford University Press, 1997). (</span>[[赤木完爾]]<span _mstmutation="1" _msthash="778611" _msttexthash="868991305" _msthidden="1">・斉藤祐介訳『歴史としての冷戦――力と平和の追求』慶應義塾大学出版会, 2004年)。ルンデスタッドは現在のギャディスを「新しい伝統学派」に属すると位置づけている。Geir Lundestad, “The Cold War Acoording to John Gaddis”. </span>''Cold War History''<span _mstmutation="1" _msthash="778612" _msttexthash="72371" _msthidden="1"> 6:4 (2006).</span></ref>。しかし、このギャディスの解釈変化の要因としては、ソ連の実態が明らかになったことだけでなく、東側陣営の崩壊と西側陣営の「勝利」が明らかになった時期に発表されたという要因も無視できないことから、その解釈が後知恵的であるとして賛否を呼ぶことともなった<ref><span _mstmutation="1" _msthash="779077" _msttexthash="9453457" _msthidden="1">Anders Stephanson, “Rethinking Cold War History.”</span>''Review of International Studies''<span _mstmutation="1" _msthash="779078" _msttexthash="100360" _msthidden="1">, 24:1 (1998);</span>[[藤原帰一]]<span _mstmutation="1" _msthash="779079" _msttexthash="102635689" _msthidden="1">「冷戦の終わりかた―合意による平和から力の平和へ」</span>[[東京大学社会科学研究所]]<span _mstmutation="1" _msthash="779080" _msttexthash="233869987" _msthidden="1">編『20世紀システム(6)機能と変容』(東京大学出版会、1998年)。</span></ref>。
=== 米ソ冷戦史の相対化 ===
冷戦史研究は、米国学界でその主要な論争が戦われてきたこともあり、主要な分析対象は米ソ関係であり、活用される資料の多くは米国政府の公文書であった。このような冷戦史研究の動きに対し、1978年にイギリスの[[ドナルド・キャメロン・ワット]]は[[公開書簡]]で冷戦史研究の資料的偏重を指摘し、英国公文書などを活用して研究を深化させる必要を訴えた<ref><span _mstmutation="1" _msthash="779545" _msttexthash="14381224" _msthidden="1">Donald Cameron Watt, “Rethinking the Cold War: a Letter to the British Historian”. </span>''The Political Quarterly''<span _mstmutation="1" _msthash="779546" _msttexthash="76661" _msthidden="1"> 49:4 (1978)</span></ref>。このような提言を反映する形で、イギリスではヴィクター・ロスウェル (Victor Rothwell) の ''Britain and the Cold War'' (1982)、[[アン・デイトン]] (Anne Deighton) の ''The Impposible Peace'' (1990) など、冷戦の発生に対してイギリスの果たした役割を分析する研究なども現れ、冷戦の発生にはソ連の脅威を米国より早く意識し行動したイギリス政府の果たした役割が少なくなかったことを明らかにした<ref><span _mstmutation="1" _msthash="780013" _msttexthash="274079" _msthidden="1">Victor Rothwell, </span>''Britain and the Cold War, 1941-1947''<span _mstmutation="1" _msthash="780014" _msttexthash="556686" _msthidden="1">. (Cape, 1982);Anne Deighton, </span>''The Impossible Peace: Britain, the Division of Germany and the Origins of the Cold War''<span _mstmutation="1" _msthash="780015" _msttexthash="418639" _msthidden="1">. (Clarendon Press, 1990).</span></ref>。
イギリスを一つの典型として、他国についても「自国と冷戦(および冷戦に果たした役割)」について考察した研究も進められている。1998年より[[ノースカロライナ大学]]出版局 (University of North Carolina Press) が刊行している冷戦史研究のシリーズである ''The New Cold War History'' では、フランス、ソ連、中国、東西ドイツなど、様々な国家と冷戦の関係を考察した研究書が刊行されている<ref>[http://uncpress.unc.edu/browse/books?page_type_id=16&page_type=series UNC Press - The New Cold War History]</ref>。おp
=== 研究領域の拡大 ===
冷戦終結を受けて米国でも安全保障に関わる各種の資料公開が進んだことで、冷戦期の安全保障やインテリジェンスなどについて新たに研究が進展している。一例としては、米英による暗号解読プロジェクトであった[[ベノナ]]の関係資料開示による諜報戦の実体解明が挙げられる。ジョン・ハインズ (John E. Haynes) とハーヴェイ・クレア (Harvey Klehr) の ''Venona'' (2000) は、冷戦期に米国内で活発な諜報活動が展開されていたことを明らかにした。また、ケネス・オズグッド (Kenneth Osgood) は ''Total Cold War'' (2006) において、[[:en:United States Information Agency|USIA]]・[[中央情報局|CIA]]などの資料を活用し、アイゼンハワー政権の展開していた(日本も対象に含む)宣伝・情報戦の実態を解明することとなった<ref>John E. Haynes and Harvey Klehr, ''Venona: Decoding Soviet Espionage in America''.(Yale University Press, 2000)<br /> ([[中西輝政]]監訳『ヴェノナ―解読されたソ連の暗号とスパイ活動』PHP研究所, 2010年/改訂版・扶桑社、2019年。ISBN 978-4-594-08307-6)<br />Kenneth Osgood, ''Total Cold War: Eisenhower's Secret Propaganda Battle at Home and Abroad''. (University of Kansas, 2006).</ref>。
=== コーポラティズム ===
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=== デタント史研究の進展 ===
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=== 冷戦終結をめぐる議論 ===
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=== 新しい冷戦史 ===
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=== 研究者 ===
* [[ブルース・カミングス]] (Bruce Cumings)
* [[ジョン・ルイス・ギャディス]] (John Lewis Gaddis)
* [[レイモンド・ガーソフ]] (Raymond L. Garthoff)
* [[マイケル・ホーガン]] (Michael J. Hogan)
* [[ウォルター・ラフィーバー]] (Walter LaFeber)
* [[メルヴィン・レフラー]] (Melvyn P. Leffler)
* [[ゲイル・ルンデスタッド]] (Geir Lundestad)
* [[ヴォイチェフ・マストニー]] (Vojtech Mastny)
* [[トーマス・J・マコーミック]] (Thomas J. McCormick)
* [[ロバート・マクマホン]] (Robert J. McMahon)
* [[マーク・トラクテンバーグ]] (Marc Trachtenberg)
* [[オッド・アルネ・ウェスタッド]] (Odd Arne Westad)
* [[ウィリアム・A・ウィリアムズ]] (William Appleman Williams)
* [[ヴラディスラヴ・ズボク]] (Vladislav M. Zubok)
=== 学術誌 ===
* ''Cold War History'', (Frank Cass, 2000-).
* ''Journal of Cold War Studies'', ([http://www.fas.harvard.edu/~hpcws/ Harvard Project on Cold War Studies] / MIT Press, 1999-).
== 冷戦を題材若しくは冷戦に影響を受けた作品 ==
*[[渚にて (小説)|渚にて]](1959年)
*[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]](1964年)
*[[未知への飛行]](1964年)
*[[トパーズ (1969年の映画)|トパーズ]](1969年)
*[[復活の日]](1980年)
*[[ファイヤーフォックス (映画)|ファイヤーフォックス]](1982年)
*[[ウォー・ゲーム (映画)|ウォー・ゲーム]](1983年)
*[[若き勇者たち]](1984年)
*[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]](1984年)
**[[ターミネーター2]](1991)
*[[ランボー/怒りの脱出]](1985年)
**[[ランボー3/怒りのアフガン]](1988年)
*[[ロッキー4/炎の友情]](1985年)
*[[地獄のコマンド]](1985年)
*[[トップガン (映画)|トップガン]](1986年)
*[[大惨事世界大戦]](1986年)
*[[メタル・ブルー]](1988年)
*[[レッドブル (映画)|レッドブル]](1988年)
*[[レッド・スコルピオン]](1989年)
*[[レッド・オクトーバーを追え!]](1990年)
*[[13デイズ]](2000年)
*[[インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国]](2008年)
*[[X-MEN:ファースト・ジェネレーション]](2011年)
*[[The Man Who Saved the World|世の中を救った男]](2014年)
*[[クーリエ:最高機密の運び屋]](2021年)
;テレビ
*[[第三次世界大戦 (テレビドラマ)|第三次世界大戦]](1982年)
*[[SF核戦争後の未来・スレッズ]](1983年)
*[[ザ・デイ・アフター]](1983年)
*[[アメリカ (テレビドラマ)|アメリカ]](1987年)
*[[By Dawn's Early Light]](1990年)
*[[ラスト・カウントダウン/大統領の選択]](1990年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="※"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
'''国際社会の分類'''
* [[一極体制]]
* [[両極体制]]
* [[多極体制]]
'''冷戦関連用語'''
* [[パクス・アメリカーナ]]
* [[核抑止]]
* [[衛星国]]
* [[反共主義]]
* [[第三次世界大戦]]
* [[ノルディックバランス]]
* [[代理戦争]]
* [[開発独裁]]
'''プレ冷戦時代'''
* 冷戦の起源 ({{interlang|en|Origins of the Cold War}})
* [[パーセンテージ協定]]
'''各国の冷戦時代'''
* [[アメリカ合衆国の歴史#冷戦 (1945年〜1989年)]]
* [[ソビエト連邦]]
* [[連合国軍占領下の日本]]
* [[連合国軍占領期後の日本]]
* [[ドイツの歴史#東西分断ドイツ]]
* [[ポーランド人民共和国]]
'''冷戦時代の国際関係'''
* [[米中関係]]
* [[中ソ対立]]
'''冷戦後の時代'''
* 冷戦の影響 ({{interlang|en|Effects of the Cold War}})
* [[新冷戦]]
* [[独立国家共同体]](冷戦後の旧ソ連)
* [[ドイツ再統一]](冷戦後のドイツ)
* [[平成]](冷戦後の日本)
* [[総統民選期の中華民国]](冷戦後の台湾)
* [[米中二極体制]] - [[中華人民共和国]]と[[アメリカ合衆国]]という2つの大国が世界を率いるという意味の語。2000年代後半から使われるようになった
* 冷戦の歴史学 ({{interlang|en|Historiography of the Cold War}})
* [[対テロ戦争]]
== 外部リンク ==
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=== 研究プロジェクト ===
* [http://www.wilsoncenter.org/index.cfm?topic_id=1409&fuseaction=topics.home Cold War International History Project] (CWIHP)
* [http://www.coldwar.hu/ Cold War History Research Center]
* [http://www.fas.harvard.edu/~hpcws/ Harvard Project on Cold War Studies]
* [http://www.gwu.edu/~nsarchiv/ National Security Archive]
* [http://www.isn.ethz.ch/php/ The Parallel History Project on NATO and the Warsaw Pact]
=== その他 ===
* {{NHK for School clip|D0005402946_00000|冷戦-中学}}
* {{Kotobank}}
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独立
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独立(どくりつ、英: independence)とは、
最初の定義文で、「個人の独立」の定義と「国家の独立」の定義文を挙げたが、実際には、それらの中間的な存在に関する独立というのもある。 たとえば小さなグループが独立している状態、中規模や大規模の組織が独立している状態、民族が独立している状態などがある。
独立は自己決定権とも関係する概念なので、「自決権」や「自決」などとも表現されることがある。
民族に関してはしばしば「民族自決」と表現する。現在の国際法では、民族にも民族自決権が認められている。
ただし、複数の民族が混ざった状態で住んでいると、しばしば一方の民族が、他方の民族の独立を侵害するような状態、つまり一方の民族が他方の民族を支配しようとしたり、実際に支配してしまう状態に陥る。複数の民族が入り乱れている大陸では、民族同士は優位を争い、他から支配されないようにしつつ、他を支配しようとする、などということはしばしば起きる。民族は国境線を越えて存在しているので、民族の独立と国の独立が相対立するような複雑な事態も生じうる(チェコスロバキアの成立により少数民族となったズデーテン地方の「ドイツ人問題」など)。
各存在の「独立」というのは、基本的に各存在がその独立を守ろうとすることによって守られる。独立がどのようにして守られるかと言うと、支配しようとする他者の試みに抵抗し、跳ね返したり「はねのける」ことによって守られる。一旦屈服してしまい、他者の支配を許してしまい、独立が失われてしまうと、たいていの場合、その独立を回復することはかなり困難になる。
個人の場合もそうだが、国の場合も同様で、その国の国民が独立を守ろうと努力し続けることによって、ようやくその国の独立は守られる可能性が高まる。国民が自国の独立を軽視しているようでは、周囲の国から侵略される可能性が高まり、独立を失ってしまう可能性が高まる。したがって、ほとんどの国では、防衛力を保持することに一定の予算を割き、兵力(防衛力)を保つ努力をしている。とくに近隣に強大な武力を持つ侵略志向の国家がある場合は、防衛のために相応の努力をしつづけなければならない。
もともと独立していた状態の国家が、その独立を奪われてしまうことがある。典型的なのは、他国からの武力による侵略を受け、抵抗しきれず、その支配下に入ってしまう場合である。
明らかに独立を失ってしまった状態としては、植民地・被保護国・信託統治領などがある。独立を失ってしまい、植民地となった地域に住む人々にとって独立というのは、人間が尊厳を持って生きる上で重要な物である。
第二次世界大戦後には、民族自決の考えの下、世界各地で独立運動が起こり、アジアやアフリカの植民地が次々と独立した。現在でも各地で独立運動は展開されている。
独立勢力に対して何らかの支援がなされる場合もあり、既存国に対して非難や制裁が加えられたり、独立勢力に対する資金や武器の供給、軍事的支援が行われる場合もあり、既存国からは内政不干渉の原則が主張されることも多い。
独立を回復しようとする側は、その地域を支配してしまった既存の「行政府」「国家」の側との、闘争状態に入り、既存の「国家」(行政府)の側の軍隊や警察と闘争したり、独立を求める勢力と既存の「国家」(行政府)の間で内戦となる例も多い。
一旦、大国の侵略によって独立を奪われてしまった場合は、独立を回復するための闘いは非常に厳しい道のりとなる。(ロシアに侵略されたチェチェン、中国に侵略されたチベットなど)。
独立しようとする地域に資源が存在する場合など、「土地の利用価値」が高い場合には、大国がその地を支配しつづけようとする動機は強まり、独立しようとする側は一層の困難に直面する。(ナイジェリアとビアフラ共和国、インドネシアとアチェ、アメリカ合衆国と南部連合、など)
独立宣言とは、独立の際に発せられる、自国が独立した旨の宣言である。
有名な独立宣言としては、アメリカ独立宣言、インドネシア独立宣言などがある。
独立宣言では、自国の正当性や掲げる理念、今後の方針などが盛り込まれることが多く、人権や自決権が謳われる。
(なお、独立宣言を出しただけで、確実に独立できるというわけではなく、独立宣言を出すとともに、国家の要件を満たす、満たしつづけるようにさまざまな施策を打つ必要がある)
国際法においては、国家の要件として一定の領域、国民、及び主権が必要とされる。主権とは、その領域を排他的に支配する権力であり、いわば統治能力である。
独立を回復したこと、それを回復するのに多くの苦労や犠牲が払われたことを国民が忘れてしまったりしないように、それを記念する(心に記す、心に刻みこむ)ためにさまざまな方法がとられている。
ひとつは記念日を設定する方法である。独立したことや独立を回復したことを祝う記念日を「独立記念日 英: independence day インディペンデンス・デイ」という。日本ではアメリカ合衆国の独立記念日が有名だが、ほかにも次のような国で独立記念日がある。
... などなどである(膨大な数なので当節内で全ては挙げない)。
他には記念碑を建立するということも行われている。こうした記念碑を「独立記念碑」という。たとえばメキシコのメキシコシティの目抜き通りには独立記念碑 (メキシコ)が建立されている。 カンボジアではIndependence Monumentが、トルクメニスタンでもやはりIndependence Monumentが建立されている。ラトビアでは「自由の記念碑」という名称で(独立を含めて諸事を記念した)記念碑が建立されている。
また、独立にまつわる建物を設定して国民の啓発を行っている国もある。内部を独立にまつわる博物館にしていることが多い。アメリカのフィラデルフィアの独立宣言が出された建物は独立記念館となっている。スリランカにはIndependence Memorial Hallがある。ナミビアにはIndependence Memorial Museumがある。
他国から「ある地域が独立した国家になっている」と言われるためには、その国が自国の独立を宣言するだけでなく、他国からも承認される必要がある。各国家はその地域を新たな国家として認めるか否か、つまり国家承認をするか否かを自由に決定することが出来るとされる。
ややこしいのは、「国家として認める」という国と、「国家として認めない」という国が、それぞれ存在する場合があることである。現在、世界には190ほどの国家が存在するが、たとえばA国が30カ国からは国家として認められているが、残りの160カ国からは国家として認められていない、というような状態が起きうるからである。この場合、承認した国にとっては「A国は独立国家として存在している」ということになり、承認していない国にとっては「A国は独立国家として存在していない」ということになり、話がかみあわない。
また、独裁国家などは、他国を侵略をしておいて、侵略した場所に(民主的な手続きも経ず)勝手に傀儡政権を設置して、まだ国家として十分成立しているとは言い難いものでも、強引に「国家として承認した」などと宣伝することがある。侵略国による国家承認は、非常にいかがわしいものである。
なお、ややこしいことに、大国が他国を侵略するための口実として「独立運動の当事者からの援軍要請」が主張されることがある。つまり、他国を侵略するような大国が言う「独立運動」は、実態としては傀儡政権であり、情報操作していて、「独立運動」であるかのように偽装していることがある。
日本では、個人に関しては、以下のような例でも、「独立」という言葉が用いられる。
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"text": "独立勢力に対して何らかの支援がなされる場合もあり、既存国に対して非難や制裁が加えられたり、独立勢力に対する資金や武器の供給、軍事的支援が行われる場合もあり、既存国からは内政不干渉の原則が主張されることも多い。",
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"text": "独立を回復しようとする側は、その地域を支配してしまった既存の「行政府」「国家」の側との、闘争状態に入り、既存の「国家」(行政府)の側の軍隊や警察と闘争したり、独立を求める勢力と既存の「国家」(行政府)の間で内戦となる例も多い。",
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"text": "ひとつは記念日を設定する方法である。独立したことや独立を回復したことを祝う記念日を「独立記念日 英: independence day インディペンデンス・デイ」という。日本ではアメリカ合衆国の独立記念日が有名だが、ほかにも次のような国で独立記念日がある。",
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"text": "他には記念碑を建立するということも行われている。こうした記念碑を「独立記念碑」という。たとえばメキシコのメキシコシティの目抜き通りには独立記念碑 (メキシコ)が建立されている。 カンボジアではIndependence Monumentが、トルクメニスタンでもやはりIndependence Monumentが建立されている。ラトビアでは「自由の記念碑」という名称で(独立を含めて諸事を記念した)記念碑が建立されている。",
"title": "独立の記念"
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"text": "また、独立にまつわる建物を設定して国民の啓発を行っている国もある。内部を独立にまつわる博物館にしていることが多い。アメリカのフィラデルフィアの独立宣言が出された建物は独立記念館となっている。スリランカにはIndependence Memorial Hallがある。ナミビアにはIndependence Memorial Museumがある。",
"title": "独立の記念"
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"text": "他国から「ある地域が独立した国家になっている」と言われるためには、その国が自国の独立を宣言するだけでなく、他国からも承認される必要がある。各国家はその地域を新たな国家として認めるか否か、つまり国家承認をするか否かを自由に決定することが出来るとされる。",
"title": "他国からの承認"
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"text": "ややこしいのは、「国家として認める」という国と、「国家として認めない」という国が、それぞれ存在する場合があることである。現在、世界には190ほどの国家が存在するが、たとえばA国が30カ国からは国家として認められているが、残りの160カ国からは国家として認められていない、というような状態が起きうるからである。この場合、承認した国にとっては「A国は独立国家として存在している」ということになり、承認していない国にとっては「A国は独立国家として存在していない」ということになり、話がかみあわない。",
"title": "他国からの承認"
},
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"text": "また、独裁国家などは、他国を侵略をしておいて、侵略した場所に(民主的な手続きも経ず)勝手に傀儡政権を設置して、まだ国家として十分成立しているとは言い難いものでも、強引に「国家として承認した」などと宣伝することがある。侵略国による国家承認は、非常にいかがわしいものである。",
"title": "他国からの承認"
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"text": "なお、ややこしいことに、大国が他国を侵略するための口実として「独立運動の当事者からの援軍要請」が主張されることがある。つまり、他国を侵略するような大国が言う「独立運動」は、実態としては傀儡政権であり、情報操作していて、「独立運動」であるかのように偽装していることがある。",
"title": "独立を侵害する侵略国家の手口"
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"text": "日本では、個人に関しては、以下のような例でも、「独立」という言葉が用いられる。",
"title": "日本国内のさまざまな「独立」に関する雑学"
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独立とは、 インディペンデント(つまり外部の制御から自由)な状態でいることやその事実。他に束縛されたり、他からの支配を受けたりしないで、自身の力で行動すること。
国家が、他の国家の制御や支配から自由である状態やその権利を指す。国家の基本的権利とみなされている。別の言い方をすると、他の国家に支配されず、「主権国家」として存在することである。
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{{otheruses}}
{{出典の明記|date=2017年10月28日 (土) 10:54 (UTC)}}
{{ナショナリズムのサイドバー}}
'''独立'''(どくりつ、{{Lang-en-short|independence}})とは、
*インディペンデント(つまり外部の制御から自由)な<u>状態でいること</u>やその事実<ref>[https://www.lexico.com/definition/independence Lexico, Definition of independence]</ref><ref>[https://www.lexico.com/definition/independent Lexico, Definition of independent]</ref>。他に束縛されたり、他からの支配を受けたりしないで、自身の力で行動すること<ref>精選版 日本国語大辞典【独立】</ref>。
*国家が、他の国家の制御や支配から自由である状態やその権利を指す<ref name="britannica">ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典【独立】</ref>。国家の基本的権利とみなされている<ref name="britannica" />。別の言い方をすると、他の国家に支配されず、「[[主権]]国家」として存在することである。
== 概説 ==
最初の定義文で、「個人の独立」の定義と「国家の独立」の定義文を挙げたが、実際には、それらの中間的な存在に関する独立というのもある。
たとえば小さなグループが独立している状態、中規模や大規模の組織が独立している状態、[[民族]]が独立している状態などがある。
独立は[[自己決定権]]とも関係する概念なので、「自決権」や「自決」などとも表現されることがある。
民族に関してはしばしば「民族自決」と表現する。現在の[[国際法]]では、[[民族]]にも[[民族自決権]]が認められている。<ref group="注釈">ただし民族自決権が侵害されていたとしても、各国の利害が絡み、侵害者に制裁が加えられず、放置されてしまうことも多い。</ref>
ただし、複数の民族が混ざった状態で住んでいると、しばしば一方の民族が、他方の民族の独立を侵害するような状態、つまり一方の民族が他方の民族を支配しようとしたり、実際に支配してしまう状態に陥る。複数の民族が入り乱れている大陸では、民族同士は優位を争い、他から支配されないようにしつつ、他を支配しようとする、などということはしばしば起きる。民族は国境線を越えて存在しているので、民族の独立と国の独立が相対立するような複雑な事態も生じうる([[チェコスロバキア]]の成立により[[少数民族]]となった[[ズデーテン]]地方の「ドイツ人問題」など)。
各存在の「独立」というのは、基本的に各存在がその独立を守ろうとすることによって守られる。独立がどのようにして守られるかと言うと、支配しようとする他者の試みに抵抗し、跳ね返したり「はねのける」ことによって守られる。一旦屈服してしまい、他者の支配を許してしまい、独立が失われてしまうと、たいていの場合、その独立を回復することはかなり困難になる。
個人の場合もそうだが、国の場合も同様で、その国の国民が独立を守ろうと努力し続けることによって、ようやくその国の独立は守られる可能性が高まる。国民が自国の独立を軽視しているようでは、周囲の国から侵略される可能性が高まり、独立を失ってしまう可能性が高まる。したがって、ほとんどの国では、防衛力を保持することに一定の予算を割き、兵力(防衛力)を保つ努力をしている。とくに近隣に強大な武力を持つ侵略志向の国家がある場合は、防衛のために相応の努力をしつづけなければならない。
もともと独立していた状態の国家が、その独立を奪われてしまうことがある。典型的なのは、他国からの武力による[[侵略]]を受け、抵抗しきれず、その支配下に入ってしまう場合である。
明らかに独立を失ってしまった状態としては、[[植民地]]・[[保護国|被保護国]]・[[信託統治|信託統治領]]などがある。独立を失ってしまい、植民地となった地域に住む人々にとって独立というのは、人間が尊厳を持って生きる上で重要な物である。
<!--
==国家の独立==
国家の独立とは、既存の国家に所属する一部の地域や、他国の支配下にあった領域が、その支配を離れ、新たな国家として成立することを指す。ただし、何をもって独立とされるかは、必ずしも明確なものではない。
-->
==独立運動==
[[第二次世界大戦]]後には、[[民族自決]]の考えの下、世界各地で独立運動が起こり、[[アジア]]や[[アフリカ]]の植民地が次々と独立した。現在でも各地で独立運動は展開されている。<!--それらには国際社会から支持されていないものも多い。 -->
独立勢力に対して何らかの支援がなされる場合もあり、既存国に対して非難や制裁が加えられたり、独立勢力に対する資金や武器の供給、軍事的支援が行われる場合もあり、既存国からは[[内政不干渉の原則]]が主張されることも多い。
独立を回復しようとする側は、その地域を支配してしまった既存の「行政府」「国家」の側との、闘争状態に入り、既存の「国家」(行政府)の側の軍隊や警察と闘争したり、独立を求める勢力と既存の「国家」(行政府)の間で[[内戦]]となる例も多い。
一旦、大国の侵略によって独立を奪われてしまった場合は、独立を回復するための闘いは非常に厳しい道のりとなる。([[ロシア]]に侵略された[[チェチェン共和国|チェチェン]]、[[中華人民共和国|中国]]に侵略された[[チベット]]など)。
独立しようとする地域に[[資源]]が存在する場合など、「土地の利用価値」が高い場合には、大国がその地を支配しつづけようとする動機は強まり、独立しようとする側は一層の困難に直面する。([[ナイジェリア]]と[[ビアフラ共和国]]、[[インドネシア]]と[[アチェ]]、[[アメリカ合衆国]]と[[アメリカ連合国|南部連合]]、など)
==独立宣言==
{{Main|独立宣言}}
[[独立宣言]]とは、独立の際に発せられる、自国が独立した旨の宣言である。
有名な独立宣言としては、'''[[アメリカ独立宣言]]'''、'''[[インドネシア独立宣言]]'''などがある。
独立宣言では、自国の正当性や掲げる理念、今後の方針などが盛り込まれることが多く、[[人権]]や自決権が謳われる。
(なお、独立宣言を出しただけで、確実に独立できるというわけではなく、独立宣言を出すとともに、国家の要件を満たす、満たしつづけるようにさまざまな施策を打つ必要がある)
==国家の独立状態==
{{main|国家の独立}}
[[国際法]]においては、[[国家の要件]]として一定の[[領域 (国家)|領域]]、[[国民]]、及び[[主権]]が必要とされる。主権とは、その領域を排他的に支配する[[権力]]であり、いわば統治能力である。
==独立の記念==
独立を回復したこと、それを回復するのに多くの苦労や犠牲が払われたことを国民が忘れてしまったりしないように、それを記念する(心に記す、心に刻みこむ)ためにさまざまな方法がとられている。
ひとつは[[記念日]]を設定する方法である。独立したことや独立を回復したことを祝う記念日を「独立記念日 {{Lang-en-short|independence day}} インディペンデンス・デイ」という。日本では[[独立記念日 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国の独立記念日]]が有名だが、ほかにも次のような国で独立記念日がある。
* [[アルバニア]]、[[アルバニア独立記念日]]
* [[アンゴラ]]、[[アンゴラ独立記念日]]
* [[イスラエル]]、{{仮リンク|イスラエル独立記念日|en|Independence Day (Israel)}}
* [[インド]]、 [[独立記念日 (インド)|インド独立記念日]]
* [[ガイアナ]]、ガイアナ独立記念日
* [[コロンビア]]、コロンビア独立記念日
* [[ジョージア (国)|ジョージア]]、ジョージア独立記念日
* [[セントビンセント・グレナディーン]]、セントビンセント・グレナディーン独立記念日
* [[ベリーズ]]、ベリーズ独立記念日
...
などなどである(膨大な数なので当節内で全ては挙げない)。
他には[[記念碑]]を建立するということも行われている。こうした記念碑を「独立記念碑」という。たとえば[[メキシコ]]の[[メキシコシティ]]の目抜き通りには[[独立記念碑 (メキシコ)]]が建立されている。
カンボジアでは[[:en:Independence Monument (Cambodia)|Independence Monument]]が、[[トルクメニスタン]]でもやはり[[:en:Independence Monument, Ashgabat|Independence Monument]]が建立されている。[[ラトビア]]では「[[自由の記念碑 (リガ)|自由の記念碑]]」という名称で(独立を含めて諸事を記念した)記念碑が建立されている。
また、独立にまつわる建物を設定して国民の啓発を行っている国もある。内部を独立にまつわる[[博物館]]にしていることが多い。アメリカのフィラデルフィアの独立宣言が出された建物は[[独立記念館]]となっている。[[スリランカ]]には[[:en:Independence Memorial Hall|Independence Memorial Hall]]がある。[[ナミビア]]には[[:en:Independence Memorial Museum (Namibia)|Independence Memorial Museum]]がある。
== 他国からの承認 ==
他国から「ある地域が独立した国家になっている」と言われるためには、その国が自国の独立を宣言するだけでなく、他国からも承認される必要がある。各国家はその地域を新たな国家として認めるか否か、つまり[[国家承認]]をするか否かを自由に決定することが出来るとされる。
ややこしいのは、「国家として認める」という国と、「国家として認めない」という国が、それぞれ存在する場合があることである。現在、世界には190ほどの国家が存在するが、たとえばA国が30カ国からは国家として認められているが、残りの160カ国からは国家として認められていない、というような状態が起きうるからである。この場合、承認した国にとっては「A国は独立国家として存在している」ということになり、承認していない国にとっては「A国は独立国家として存在していない」ということになり、話がかみあわない。
また、独裁国家などは、他国を侵略をしておいて、侵略した場所に(民主的な手続きも経ず)勝手に傀儡政権を設置して、まだ国家として十分成立しているとは言い難いものでも、強引に「国家として承認した」などと宣伝することがある。侵略国による国家承認は、非常にいかがわしいものである。
== 独立を侵害する侵略国家の手口 ==
なお、ややこしいことに、大国が他国を侵略するための口実として「独立運動の当事者からの援軍要請」が主張されることがある。つまり、他国を侵略するような大国が言う「独立運動」は、実態としては[[傀儡政権]]であり、[[情報操作]]していて、「独立運動」であるかのように偽装していることがある。
== 日本国内のさまざまな「独立」に関する雑学 ==
;地方自治体などの独立
* 市町村の行政区域の一部を分離して新しい市町村を設置すること([[日本の市町村の廃置分合#分割と分立|分立]])を、国家の独立になぞらえて「独立」と表現する場合がある。
**例として[[板橋区]]の一部を1947年に分離して設立された[[練馬区]]では2017年に練馬区独立70周年記念事業を実施している<ref>[http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/70shunen/index.html 練馬区独立70周年] 練馬区、2017年10月28日閲覧。</ref>。
* 市町村などが擬似的な国([[ミニ独立国]])を立ち上げる際にも「独立」と表現する場合がある。[[都道府県独立国家論]]も参照せよ。
;個人の独立
日本では、個人に関しては、以下のような例でも、「独立」という言葉が用いられる。
* 実家を出て生活するとき。{{main2|[[自立]]も}}
* 企業の雇用を離れて自ら[[起業]]するとき。
* [[師匠]]の元を離れて、自分の[[商売]]を持つとき。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[国家の独立]]
* [[国家の承認]]
* [[国の一覧]]
* [[国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧]]
* [[独立主張のある地域一覧]]
* [[独立戦争]]
* [[民族紛争]]
* [[アメリカ独立党]]:[[1968年]]に[[人種差別|人種隔離]]主義者の[[ジョージ・ウォレス]]を大統領候補に擁立し「州の連邦からの独立性」を主張した。
* [[アフリカの年]]
* [[アメリカ大陸諸国の独立年表]]
* [[アジア・アフリカ諸国の独立年表]]
;国家以外の独立関連
* [[子会社]] - 独立していない会社。[[親会社]]によって支配されている。
{{Poli-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とくりつ}}
[[Category:政治理論]]
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11,661 |
インドラ
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インドラ(梵: इन्द्र、Indra)は、バラモン教、ヒンドゥー教の神の名称である。省略しない名称は「サンスクリット語: śakro devānām indraḥ、パーリ語: sakko devānaṃ indo」で「神々の帝王であるシャクラ」を意味する。「シャクラ(梵: śakra)」や「サッカ(巴: sakka)」とも呼ばれる。
デーヴァ神族に属する雷霆神、天候神、軍神、英雄神である。ディヤウスとプリティヴィーの息子。 特に『リグ・ヴェーダ』においては、最も中心的な神であり、ヴァルナ、ヴァーユ、ミトラなどとともにアーディティヤ神群の一柱とされる。また、『ラーマーヤナ』には天空の神として登場する。
漢訳では、因陀羅・釋提桓因・帝釈天・天帝釈・天主帝釈・天帝・天皇などと書かれ、特に仏教における帝釈天の名で知られている。
インドラ神のルーツは古く、インド=イラン共通時代までさかのぼる軍神であり、紀元前14世紀にヒッタイトとミタンニとの間で結ばれた条文の中に名前があることから、アーリア人の移動とともに小アジアやメソポタミアなどでも信仰されていた神であったことが確認されている。
雷霆神の性格が強く、その容姿は皮膚も髪も髭も茶褐色だとされる。ギリシア神話のゼウス、北欧神話のトール、スラヴ神話のペルーンと比較される。
彼が戦った敵は多く、人々を苦しめる凶暴にして尊大な蛇ヴリトラ、トヴァシュトリ神の生み出した3つの頭を持つ怪物ヴィシュヴァルーパ(英語版)や、ヴァラ(洞窟)、ナムチ、ダーナヴァ、ヴィローチャナ、マハーバリ、メーガナーダといったアスラやラークシャサと戦った。
特にヴリトラとの戦いは、アーリヤ人と異民族の戦闘、天地開闢神話、川の塞き止めや旱魃・冬の象徴であるヴリトラを打ち破ることで大地に水の恵みをもたらす現象など、様々な意味を持つという。インドラとヴリトラの戦いは、イランの『アヴェスター』におけるスラエータオナとアジ・ダハーカとの戦いに対応しているとされる。またヴィシュヴァルーパとの戦いについて、『リグ・ヴェーダ』ではインドラは神トリタ(英語版) (Trita) に命じてヴィシュヴァルーパを殺害させている。トリタは、インドラが犯すはずの罪などを彼に代わって負う役割の神とも考えられている。またトリタは、『アヴェスター』で3つの頭を持つアジ・ダハーカを殺害するスリタ(Θrita/Thrita。『ヤスナ』9・10。すなわちスラエータオナ (Θraētaona/Thraetaona))に対応している。
時代を経るとインドではデーヴァ(神々)の王とされ、イラン(ゾロアスター教)ではダエーワ(悪魔)とされた。(後述)
アイラーヴァタという聖獣の白象をヴァーハナに持つ。また、7つの頭を持った空を飛ぶ馬ウッチャイヒシュラヴァスもインドラのヴァーハナとされ、その御者はマータリという。
工巧神トヴァシュトリの造った雷を象徴する武器「ヴァジュラ(Vajra、金剛杵)」を持つ。『マハーバーラタ』では、自らの槍(固有名詞なし)をカルナに高潔さへの対価として与える。
インドラの都はアマーラヴァティーといい、その宮殿ヴァイジャヤンタはナンダナの園をはじめとするいくつかの庭を擁している。
最初期の神々への讃歌集『リグ・ヴェーダ』においては、全1200編の讃歌の中でインドラに捧げる讃歌が約4分の1と最も多く、配下に暴風神マルト神群を従えて敵を倒し、アーリア人を保護する理想的な戦士として描かれており、神々の王の位置づけを与えられていた。髪や髭を含めて全身が茶褐色だとされ、神酒ソーマを好み、強大な力を発揮する武器ヴァジュラを持つとされた。
『リグ・ヴェーダ』によれば、インドラの父母は不明で、千日の間、あるいは千ヶ月または数年の間、母親の胎内に宿っていた。生まれるとすぐに、他の神々からの嫉妬を恐れた母に捨てられた。神々には見放され、更に父から敵意を向けられていた。なお、この父をトヴァシュトリだとする説がある。
インドラはトヴァシュトリ神の元で育てられたとも、父を殺したとも言われている。インドラはトヴァシュトリの家にあった、百頭の牝牛に匹敵する価値の分のソーマを飲んでしまい、トヴァシュトリの怒りを買ってしまう(そして父を殺してしまう)。その後一人旅に出て、ヴィシュヌからの友情を得るまで世界を放浪した。インドラがヴリトラ退治に挑んだのは父殺しの後の孤独だった時で、友人となったヴィシュヌがインドラを支援した。
リグ・ヴェーダの時代には神々の中心とも言える絶大な人気を誇ったインドラも、時代が下り、ヒンドゥー教が成立した時代になれば影が薄くなる。「雷を象徴する強力無比な英雄神」として、変わらず重要な立場にある神であることは間違いないが、神々の中心の座はシヴァやヴィシュヌなどに譲ってしまい、代わって世界を守護するローカパーラ(世界守護神)の地位に落ち着いている。 四方にそれぞれ神が配置され、インドラはその中でももっとも重要とされる東方の守護神の地位に位置づけられた。
インドラの性質はやや変容し、一部の面が強調された。例えばインドラは女性と、時には夫のある女性ともしばしば関係を持った。ある時は、アスラ神族の王から娘のシャチーを強奪し陵辱した後結ばれている。強奪婚を実行したうえ天界中を戦乱に巻き込みようやく愛を勝ち取ったにもかかわらずインドラはヴリシャーカピと男色にふけったため妻シャチー(インドラーニー)は激怒する。さらにインドラは両性具有者である。インドラはウリシャナシュヴァの妻とも呼ばれ、ウリシャナシュヴァの家族として女として住んだとされる。このためインドラは別名「メーナー」とも呼ばれる。また、ガウタマ聖仙の妻アハリヤーと関係を持った際には、1度目は全身に女性器の印を一千個も付けられる呪いを、2度目は自身の性器を奪われるという呪いをガウタマ聖仙から受けた。
インドラは敵対者にも敗北した。例えば、三界を支配したアスラ王マハーバリに敗北して天界追放の憂き目に遇い、ヴィシュヌ(ヴァーマナ)の力を借りてようやく支配権を取り戻した。ラークシャサ族ラーヴァナ王の子メーガナーダ(メガナダとも)にも負け、メーガナーダには「インドラジット」(インドラに打ち勝つものという意味)を名乗られる屈辱まで味わっている。また、インドラを含めて神々がアスラのマヒシャに敗れ天界を追放されている。この時は女神ドゥルガーがマヒシャを殺したおかげでインドラらは天界に戻った。
インドラは賢者の呪いからも逃れられなかった。例えば、偉大な仙人ドゥルヴァーサスから花輪を贈られた後、インドラが自分の象にその花輪を与えたために、インドラも他の神々もドゥルヴァーサスの呪いを受けて力を失い、ダイティヤ達に敗北して天界から追放された。インドラは、ヴィシュヌの助言に従って、神々とダイティヤ達が協力して乳海攪拌を実施することをダイティヤ達に提案した。攪拌は成功したが、神々はダイティヤ達との約束を反故にしてアムリタを独占した。そしてアムリタによって力を回復し、ダイティヤ達に勝利して天界に戻った。
叙事詩『マハーバーラタ』では、主人公の1人のアルジュナの父親であり前世。インドラプラスタを開拓する時に炎神とアルジュナとクリシュナの前に立ちはだかるが、炎神アグニに自分の神弓ガーンディーヴァも与え、それもやがてアグニからアルジュナに渡される。カルナがインドラから「ヴァサヴィ・シャクティ(Vasavi Shakti)」という武器を与えられ、ガトートカチャを斃した。 同じく叙事詩の『ラーマーヤナ』では、主人公ラーマが「インドラの矢」という武器を使用して敵のクンバカルナを討ちとった。 また、太古にインドラがアスラ神族を倒したとされる武器「ヴィジャヤ」によって、ラークシャサ(羅刹)の大軍を一撃で死滅させた。
『パドマ・プラーナ(英語版)』によれば、「ヴリトラハン」の異名を得ることになったヴリトラ殺害では、インドラは当初、彼を恐れて戦いを避けた。インドラは神々の世界の半分を分け与えることを条件にヴリトラと一旦は和睦した。その後、ヴリトラの元に美しいアプサラスのラムバーを送り込み、バラモンでもあったヴリトラがスラー酒を飲むように仕向けた。ヴリトラが飲酒で失神したところを不意打ちして勝利したが、インドラはバラモンを殺した罪を負うこととなった。
インドではデーヴァが善でアスラが悪だが、イランではデーヴァに対応するダエーワが悪で、アスラに対応するアフラ・マズダーが善と入れ替わっている。ゆえに、インドのデーヴァと同じ起源の超自然的存在が悪魔として登場しており、インドラも魔王の一人となっている。ゾロアスター教ではインドラは虚偽の悪魔であり、正義と真実の霊アシャ・ワヒシュタと対立する。
「ヴェンディダード」の7大魔王
あるいは
その他、アエーシュマ、アカタシュ、ワルニヤを指す。「ブンダヒシュン」ではアフレマンが、
を創造したとしている。オフルマズドのアムシャ・スプンタに神性が対応しており敗れることになっている。ここではインドラは、文字通り帝釈天のインドラ、サウルワはルドラ神の異称シャルヴァ、ノーンハスヤはナーサティヤのことである。悪魔アンダルとはインドラの別名である。
インドラは仏教に取り込まれて、仏教の守護神である天部の一尊である帝釈天となった。帝釈天の名はインドラの梵語名「śakro devānām indraḥ」の「indra」を「帝」と意訳し、「śakra」を「釈」と音訳し、後部に「天」を加えたもの。梵天と並ぶ仏教の二大護法善神とされる。武器である「金剛杵」を手に持ち雷を操る。金剛杵は、密教やチベット仏教における重要な法具として用いられる。
朝鮮神話(檀君神話)においては、天神「桓因」と書かれる。これは、「śakro devānām indraḥ」の音写である「釈迦提桓因陀羅」を略して「釋提桓因」、さらに略して「桓因」としたものである。
サンスクリット語で、虹のことをindradhanus(インドラの弓)という。
|
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"text": "インドラ(梵: इन्द्र、Indra)は、バラモン教、ヒンドゥー教の神の名称である。省略しない名称は「サンスクリット語: śakro devānām indraḥ、パーリ語: sakko devānaṃ indo」で「神々の帝王であるシャクラ」を意味する。「シャクラ(梵: śakra)」や「サッカ(巴: sakka)」とも呼ばれる。",
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"text": "デーヴァ神族に属する雷霆神、天候神、軍神、英雄神である。ディヤウスとプリティヴィーの息子。 特に『リグ・ヴェーダ』においては、最も中心的な神であり、ヴァルナ、ヴァーユ、ミトラなどとともにアーディティヤ神群の一柱とされる。また、『ラーマーヤナ』には天空の神として登場する。",
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"text": "漢訳では、因陀羅・釋提桓因・帝釈天・天帝釈・天主帝釈・天帝・天皇などと書かれ、特に仏教における帝釈天の名で知られている。",
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"text": "インドラ神のルーツは古く、インド=イラン共通時代までさかのぼる軍神であり、紀元前14世紀にヒッタイトとミタンニとの間で結ばれた条文の中に名前があることから、アーリア人の移動とともに小アジアやメソポタミアなどでも信仰されていた神であったことが確認されている。",
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"text": "雷霆神の性格が強く、その容姿は皮膚も髪も髭も茶褐色だとされる。ギリシア神話のゼウス、北欧神話のトール、スラヴ神話のペルーンと比較される。",
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"text": "彼が戦った敵は多く、人々を苦しめる凶暴にして尊大な蛇ヴリトラ、トヴァシュトリ神の生み出した3つの頭を持つ怪物ヴィシュヴァルーパ(英語版)や、ヴァラ(洞窟)、ナムチ、ダーナヴァ、ヴィローチャナ、マハーバリ、メーガナーダといったアスラやラークシャサと戦った。",
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"text": "特にヴリトラとの戦いは、アーリヤ人と異民族の戦闘、天地開闢神話、川の塞き止めや旱魃・冬の象徴であるヴリトラを打ち破ることで大地に水の恵みをもたらす現象など、様々な意味を持つという。インドラとヴリトラの戦いは、イランの『アヴェスター』におけるスラエータオナとアジ・ダハーカとの戦いに対応しているとされる。またヴィシュヴァルーパとの戦いについて、『リグ・ヴェーダ』ではインドラは神トリタ(英語版) (Trita) に命じてヴィシュヴァルーパを殺害させている。トリタは、インドラが犯すはずの罪などを彼に代わって負う役割の神とも考えられている。またトリタは、『アヴェスター』で3つの頭を持つアジ・ダハーカを殺害するスリタ(Θrita/Thrita。『ヤスナ』9・10。すなわちスラエータオナ (Θraētaona/Thraetaona))に対応している。",
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"text": "時代を経るとインドではデーヴァ(神々)の王とされ、イラン(ゾロアスター教)ではダエーワ(悪魔)とされた。(後述)",
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"text": "アイラーヴァタという聖獣の白象をヴァーハナに持つ。また、7つの頭を持った空を飛ぶ馬ウッチャイヒシュラヴァスもインドラのヴァーハナとされ、その御者はマータリという。",
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"text": "工巧神トヴァシュトリの造った雷を象徴する武器「ヴァジュラ(Vajra、金剛杵)」を持つ。『マハーバーラタ』では、自らの槍(固有名詞なし)をカルナに高潔さへの対価として与える。",
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"text": "最初期の神々への讃歌集『リグ・ヴェーダ』においては、全1200編の讃歌の中でインドラに捧げる讃歌が約4分の1と最も多く、配下に暴風神マルト神群を従えて敵を倒し、アーリア人を保護する理想的な戦士として描かれており、神々の王の位置づけを与えられていた。髪や髭を含めて全身が茶褐色だとされ、神酒ソーマを好み、強大な力を発揮する武器ヴァジュラを持つとされた。",
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"text": "『リグ・ヴェーダ』によれば、インドラの父母は不明で、千日の間、あるいは千ヶ月または数年の間、母親の胎内に宿っていた。生まれるとすぐに、他の神々からの嫉妬を恐れた母に捨てられた。神々には見放され、更に父から敵意を向けられていた。なお、この父をトヴァシュトリだとする説がある。",
"title": "バラモン教の時代"
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"text": "インドラはトヴァシュトリ神の元で育てられたとも、父を殺したとも言われている。インドラはトヴァシュトリの家にあった、百頭の牝牛に匹敵する価値の分のソーマを飲んでしまい、トヴァシュトリの怒りを買ってしまう(そして父を殺してしまう)。その後一人旅に出て、ヴィシュヌからの友情を得るまで世界を放浪した。インドラがヴリトラ退治に挑んだのは父殺しの後の孤独だった時で、友人となったヴィシュヌがインドラを支援した。",
"title": "バラモン教の時代"
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"text": "リグ・ヴェーダの時代には神々の中心とも言える絶大な人気を誇ったインドラも、時代が下り、ヒンドゥー教が成立した時代になれば影が薄くなる。「雷を象徴する強力無比な英雄神」として、変わらず重要な立場にある神であることは間違いないが、神々の中心の座はシヴァやヴィシュヌなどに譲ってしまい、代わって世界を守護するローカパーラ(世界守護神)の地位に落ち着いている。 四方にそれぞれ神が配置され、インドラはその中でももっとも重要とされる東方の守護神の地位に位置づけられた。",
"title": "ヒンドゥー教の時代"
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"text": "インドラの性質はやや変容し、一部の面が強調された。例えばインドラは女性と、時には夫のある女性ともしばしば関係を持った。ある時は、アスラ神族の王から娘のシャチーを強奪し陵辱した後結ばれている。強奪婚を実行したうえ天界中を戦乱に巻き込みようやく愛を勝ち取ったにもかかわらずインドラはヴリシャーカピと男色にふけったため妻シャチー(インドラーニー)は激怒する。さらにインドラは両性具有者である。インドラはウリシャナシュヴァの妻とも呼ばれ、ウリシャナシュヴァの家族として女として住んだとされる。このためインドラは別名「メーナー」とも呼ばれる。また、ガウタマ聖仙の妻アハリヤーと関係を持った際には、1度目は全身に女性器の印を一千個も付けられる呪いを、2度目は自身の性器を奪われるという呪いをガウタマ聖仙から受けた。",
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"text": "叙事詩『マハーバーラタ』では、主人公の1人のアルジュナの父親であり前世。インドラプラスタを開拓する時に炎神とアルジュナとクリシュナの前に立ちはだかるが、炎神アグニに自分の神弓ガーンディーヴァも与え、それもやがてアグニからアルジュナに渡される。カルナがインドラから「ヴァサヴィ・シャクティ(Vasavi Shakti)」という武器を与えられ、ガトートカチャを斃した。 同じく叙事詩の『ラーマーヤナ』では、主人公ラーマが「インドラの矢」という武器を使用して敵のクンバカルナを討ちとった。 また、太古にインドラがアスラ神族を倒したとされる武器「ヴィジャヤ」によって、ラークシャサ(羅刹)の大軍を一撃で死滅させた。",
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"text": "『パドマ・プラーナ(英語版)』によれば、「ヴリトラハン」の異名を得ることになったヴリトラ殺害では、インドラは当初、彼を恐れて戦いを避けた。インドラは神々の世界の半分を分け与えることを条件にヴリトラと一旦は和睦した。その後、ヴリトラの元に美しいアプサラスのラムバーを送り込み、バラモンでもあったヴリトラがスラー酒を飲むように仕向けた。ヴリトラが飲酒で失神したところを不意打ちして勝利したが、インドラはバラモンを殺した罪を負うこととなった。",
"title": "叙事詩・プラーナ文献でのインドラ"
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"text": "インドではデーヴァが善でアスラが悪だが、イランではデーヴァに対応するダエーワが悪で、アスラに対応するアフラ・マズダーが善と入れ替わっている。ゆえに、インドのデーヴァと同じ起源の超自然的存在が悪魔として登場しており、インドラも魔王の一人となっている。ゾロアスター教ではインドラは虚偽の悪魔であり、正義と真実の霊アシャ・ワヒシュタと対立する。",
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"text": "その他、アエーシュマ、アカタシュ、ワルニヤを指す。「ブンダヒシュン」ではアフレマンが、",
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"text": "を創造したとしている。オフルマズドのアムシャ・スプンタに神性が対応しており敗れることになっている。ここではインドラは、文字通り帝釈天のインドラ、サウルワはルドラ神の異称シャルヴァ、ノーンハスヤはナーサティヤのことである。悪魔アンダルとはインドラの別名である。",
"title": "ゾロアスター教のインドラ"
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{
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"text": "インドラは仏教に取り込まれて、仏教の守護神である天部の一尊である帝釈天となった。帝釈天の名はインドラの梵語名「śakro devānām indraḥ」の「indra」を「帝」と意訳し、「śakra」を「釈」と音訳し、後部に「天」を加えたもの。梵天と並ぶ仏教の二大護法善神とされる。武器である「金剛杵」を手に持ち雷を操る。金剛杵は、密教やチベット仏教における重要な法具として用いられる。",
"title": "仏教のインドラ"
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"text": "朝鮮神話(檀君神話)においては、天神「桓因」と書かれる。これは、「śakro devānām indraḥ」の音写である「釈迦提桓因陀羅」を略して「釋提桓因」、さらに略して「桓因」としたものである。",
"title": "朝鮮神話のインドラ"
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"text": "サンスクリット語で、虹のことをindradhanus(インドラの弓)という。",
"title": "その他"
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インドラは、バラモン教、ヒンドゥー教の神の名称である。省略しない名称は「サンスクリット語: śakro devānām indraḥ、パーリ語: sakko devānaṃ indo」で「神々の帝王であるシャクラ」を意味する。「シャクラ」や「サッカ」とも呼ばれる。 デーヴァ神族に属する雷霆神、天候神、軍神、英雄神である。ディヤウスとプリティヴィーの息子。
特に『リグ・ヴェーダ』においては、最も中心的な神であり、ヴァルナ、ヴァーユ、ミトラなどとともにアーディティヤ神群の一柱とされる。また、『ラーマーヤナ』には天空の神として登場する。 漢訳では、因陀羅・釋提桓因・帝釈天・天帝釈・天主帝釈・天帝・天皇などと書かれ、特に仏教における帝釈天の名で知られている。
|
{{脚注の不足|date=2016年10月1日 (土) 10:20 (UTC) }}
{{Infobox deity
| name = インドラ
| type = Hindu
| Image = Indra deva.jpg
| image_size = 250px
| alt = インドラ
| caption = {{small|インドラ。[[アイラーヴァタ]]に乗っている}}
| deity_of = {{small|神々の王・雷霆神・天候神・軍神・英雄神}}
| Devanagari = इन्द्र
| Sanskrit_Transliteration = Indrā
| Affiliation = [[デーヴァ]]
| Abode = {{仮リンク|アマラーヴァティー (インド神話)|en|Amaravati (mythology)|label=アマラーヴァティー}}、インドラロカ、[[天国]] (Svarga)
| Symbols = [[金剛杵]]、{{仮リンク|因陀羅網|en|Indra's net}}
| Consorts = [[シャチー]](インドラーニー)
| Parents = [[ディヤウス]]、[[プリティヴィー]]
| Children = [[ジャヤンタ]]、{{仮リンク|ジャヤンティ|en|Jayanti (Hinduism)}}、{{仮リンク|デーヴァセーナー|en|Devasena}}、[[ヴァーリン]]、[[アルジュナ]]
| Mount = [[アイラーヴァタ]]、[[ウッチャイヒシュラヴァス]]
}}
{{Hinduism}}
[[ファイル:Thagyamin at Shwedagon Pagoda.jpg|thumb|ミャンマー、タヂャーミン寺院のインドラ(サッカ)]]
'''インドラ'''({{lang-sa-short|इन्द्र}}、Indra)は、[[バラモン教]]、[[ヒンドゥー教]]の[[神]]の名称である。省略しない名称は「{{lang-sa|{{unicode|śakro devānām indraḥ}}}}<ref group="注釈">シャクロー・デーヴァーナーン・インドラハ</ref>、{{lang-pi|{{unicode|sakko devānaṃ indo}}}}<ref group="注釈">サッコー・デーヴァーナン・インドー</ref>」で「神々の帝王である'''シャクラ'''」を意味する<ref group="注釈">「{{unicode|devānām}}」は、男性名詞「{{unicode|devā}}(男神)」の複数形・属格。{{unicode|indraḥ}} は、{{unicode|indra}}(王、征服者)の単数形・主格。「{{unicode|śakro}}(シャクロ―)」は形容詞「{{unicode|śakra}}(強力な、有能な)」の変化形。</ref>。「シャクラ({{lang-sa-short|śakra}})」や「サッカ({{lang-pi-short|sakka}})」とも呼ばれる。
[[デーヴァ]]神族に属する雷霆神、天候神、軍神、英雄神である。[[ディヤウス]]と[[プリティヴィー]]の息子。
特に『[[リグ・ヴェーダ]]』においては、最も中心的な神であり、[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]、[[ヴァーユ]]、[[ミトラ (インド神話)|ミトラ]]などとともに[[アーディティヤ神群]]の一柱とされる。また、『[[ラーマーヤナ]]』には天空の神として登場する。
漢訳では、因陀羅・釋提桓因・[[帝釈天]]・天帝釈・天主帝釈・[[天帝]]・[[天皇]]などと書かれ、特に仏教における帝釈天の名で知られている<ref>株式会社日立ソリューションズ・ビジネス 『世界大百科事典 第2版』 Kotobank、2014。<br />楠戸義昭 『戦国名将・智将・梟将の至言』 学習研究社、2009。<br />楠戸義昭 『戦国武将名言録』 PHP研究所、2006。</ref>。{{see also|天皇大帝}}
== 概説 ==
インドラ神のルーツは古く、[[インド=イラン共通時代]]までさかのぼる軍神であり、紀元前14世紀に[[ヒッタイト]]と[[ミタンニ]]との間で結ばれた条文の中に名前がある<ref name="菅沼編p45-46">[[#菅沼編 1985|菅沼編 1985]], pp. 45-46.(インドラ)</ref><ref name="松村p97">[[#松村 2013|松村 2013]], p. 97.</ref>ことから、アーリア人の移動とともに小アジアや[[メソポタミア]]などでも信仰されていた[[神]]であったことが確認されている<ref>[[#上村 1981|上村 1981]], pp. 17-18.</ref>。
雷霆神の性格が強く、その容姿は皮膚も髪も髭も茶褐色だとされる<ref name="菅沼編p46">[[#菅沼編 1985|菅沼編 1985]], p. 46.(インドラ)</ref>。[[ギリシア神話]]の[[ゼウス]]、[[北欧神話]]の[[トール]]、[[スラヴ神話]]の[[ペルーン]]と比較される。
彼が戦った敵は多く、人々を苦しめる凶暴にして尊大な蛇[[ヴリトラ]]{{refnest|group="注釈"|ヴリトラは『ヴェーダ』においては蛇を意味する「アヒ」(Ahi) とも呼ばれ、冬を表現している<ref>[[#菅沼編 1985|菅沼編 1985]], pp. 29-30.(アヒ)</ref>。}}、トヴァシュトリ神の生み出した3つの頭を持つ怪物{{仮リンク|トリシラス (アスラ)|en|Trisiras|label=ヴィシュヴァルーパ}}や、[[ヴァラ (インド神話)|ヴァラ]](洞窟)、[[ナムチ]]、[[ダヌ (アスラ)|ダーナヴァ]]、[[ヴィローチャナ]]、[[マハーバリ]]、[[インドラジット|メーガナーダ]]といった[[アスラ]]や[[羅刹天|ラークシャサ]]と戦った。
特にヴリトラとの戦いは、アーリヤ人と異民族の戦闘、天地開闢神話、川の塞き止めや旱魃・冬の象徴であるヴリトラを打ち破ることで大地に水の恵みをもたらす現象など、様々な意味を持つという<ref>{{Cite book |和書 |last=エリアーデ |first=ミルチア |authorlink=ミルチャ・エリアーデ |others=[[松村一男]]訳 |title=世界宗教史2 - 石器時代からエレウシスの密儀まで(下) |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくま学芸文庫]] |date=2000-04 |isbn=978-4-480-08562-7 |chapter= 68 インドラ、勇士にして造物主 |pages=pp. 44-48 }}</ref>。インドラとヴリトラの戦いは、[[イラン]]の『[[アヴェスター]]』における[[フェリドゥーン|スラエータオナ]]と[[アジ・ダハーカ]]との戦いに対応しているとされる<ref name="伊藤訳1967p385" />。またヴィシュヴァルーパとの戦いについて、『リグ・ヴェーダ』ではインドラは神'''{{仮リンク|トリタ|en|Trita}}''' (Trita) に命じてヴィシュヴァルーパを殺害させている。トリタは、インドラが犯すはずの罪などを彼に代わって負う役割の神とも考えられている<ref name="上村1981p101" />。またトリタは、『アヴェスター』で3つの頭を持つアジ・ダハーカを殺害する'''スリタ'''(Θrita/Thrita。『[[ヤスナ]]』9・10。すなわちスラエータオナ (Θraētaona/Thraetaona))に対応している<ref name="上村1981p101" /><ref name="伊藤訳1967p385">{{Cite book |和書 |translator=伊藤義教|chapter=アヴェスター |title=ヴェーダ アヴェスター |others=訳者代表 辻直四郎 |publisher=筑摩書房 |series=世界古典文学全集 第3巻 |date=1967-01 |page= 385 |id={{全国書誌番号|55004966}}、{{NCID|BN01895536}} }}(ホーム・ヤシュト 1 ヤスナ第9章、注釈11)</ref>{{refnest|group="注釈"|[[ジョルジュ・デュメジル]]はインドラとトリタの関係を重要視している<ref name="上村1981p101">『[[#上村 1981|インド神話]]』(上村 1981), p. 101。参考文献によれば、[[吉田敦彦]] 『比較神話学の現在』(みすず書房)26-30頁にてデュメジルのこの指摘に言及しているという。</ref>。}}。
時代を経るとインドでは[[デーヴァ]](神々)の王とされ、イラン([[ゾロアスター教]])では[[ダエーワ]](悪魔)とされた。(後述)
=== 所有物 ===
[[アイラーヴァタ]]という聖獣の白象を[[ヴァーハナ]]に持つ。また、7つの頭を持った空を飛ぶ馬[[ウッチャイヒシュラヴァス]]もインドラのヴァーハナとされ、その御者はマータリという<ref name="菅沼編p52">[[#菅沼編 1985|菅沼編 1985]], p. 52.(インドラ)</ref>。
工巧神[[トヴァシュトリ]]の造った雷を象徴する武器「[[金剛杵|ヴァジュラ(Vajra、金剛杵)]]」<ref group="注釈">「雷」または「金剛(ダイヤモンド)」を意味する。</ref>を持つ。『マハーバーラタ』では、自らの槍(固有名詞なし)をカルナに高潔さへの対価として与える。
インドラの都はアマーラヴァティーといい、その宮殿ヴァイジャヤンタはナンダナの園をはじめとするいくつかの庭を擁している<ref name="菅沼編p52" />。
=== 異名 ===
* シャクラ ({{Unicode|Śakra}}) - 王、帝王<ref name="菅沼編p52" />、能力者、強力な者<ref>[[#菅沼編 1985|菅沼編 1985]], p. 172.(シャクラ)</ref>。<ref group="注釈">本来は、インドラとは異なる神であるシャクラと習合したという説もある{{要出典|date=2016-10-01}}。</ref>
* ヴリトラハン ({{Unicode|Vṛtrahan}}) - 障碍(ヴリトラ)を打ち砕く者<ref name="菅沼編p52" />{{refnest|group="注釈"|「ヴリトラハン」は、イラン神話の「[[ウルスラグナ]]」に対応する。「ウルスラグナ」の意味は[[アヴェスター語]]で「(竜殺しに)勝利する者」<ref name="青木p126">[[#青木 2013|青木 2013]], p. 126.</ref>、または「ヴリトラハン」と同じで「障碍を打ち破る者」{{要出典|date=2016-10-11}}。イランでは、インドラはダエーワの一員として悪魔の地位に降されたが、称号のみが独立した神格として崇拝された<ref name="青木p126" />。国土の守護神として特にサーサーン朝での信仰が盛んだった。}}。
* デーヴェーンドラ ({{Unicode|Devendra}}) - 神々の帝王<ref group="注釈">「{{unicode|deva indra}}」の連声形。</ref>。
* デーヴァラージャ ({{Unicode|Devarāja}}) - 神々の王。
* ヴリシャン ({{Unicode|Vṛṣan}}) - 強力な者。雄馬。雄牛。
* ヴァジュラパーニ ({{Unicode|Vajrapāṇī}}) - ヴァジュラを持つ者<ref name="菅沼編p52" />。
* スヴァルガパティ ({{Unicode|Svargapati}}) - 天界の主<ref name="菅沼編p52" />。
* パーカシャーサナ ({{Unicode|Pākaśāsana}}) - 悪魔パーカを調伏する者<ref name="菅沼編p52" />。
== バラモン教の時代 ==
最初期の神々への讃歌集『リグ・ヴェーダ』においては、全1200編の讃歌の中でインドラに捧げる讃歌が約4分の1と最も多く、配下に暴風神[[マルト神群]]を従えて敵を倒し、アーリア人を保護する理想的な戦士として描かれており<ref name="菅沼編p45-46" />、神々の王の位置づけを与えられていた<ref name="松村p97" />。髪や髭を含めて全身が茶褐色だとされ、神酒[[ソーマ]]を好み、強大な力を発揮する武器[[ヴァジュラ]]を持つとされた<ref name="菅沼編p45-46" /><ref name="松村p97" />。
『リグ・ヴェーダ』によれば、インドラの父母は不明で、千日の間<ref name="松村p97" />、あるいは千ヶ月または数年の間<ref name="菅沼編p46" />、母親の胎内に宿っていた。生まれるとすぐに、他の神々からの嫉妬を恐れた母に捨てられた。神々には見放され、更に父から敵意を向けられていた<ref name="菅沼編p46" />。なお、この父をトヴァシュトリだとする説がある<ref>[[#上村 1981|上村 1981]], p. 101.</ref>。
インドラはトヴァシュトリ神の元で育てられたとも、父を殺したとも言われている<ref name="松村p97" />。インドラはトヴァシュトリの家にあった、百頭の牝牛に匹敵する価値の分のソーマを飲んでしまい、トヴァシュトリの怒りを買ってしまう(そして父を殺してしまう)<ref>[[#上村 1981|上村 1981]], p. 19.</ref>。その後一人旅に出て、[[ヴィシュヌ]]からの友情を得るまで世界を放浪した<ref name="菅沼編p46" />。インドラがヴリトラ退治に挑んだのは父殺しの後の孤独だった時で、友人となったヴィシュヌがインドラを支援した<ref>{{Cite book |和書 |author=金光仁三郎|authorlink=金光仁三郎 |title=ユーラシアの創世神話 - 水の伝承 |publisher=[[大修館書店]] |date=2007-04 |page= 204 |isbn=978-4-469-21312-6 }} 参考文献によれば『リグ・ヴェーダ』(辻直四郎訳)の「インドラの出生」(IV・18)。</ref>。
== ヒンドゥー教の時代 ==
[[リグ・ヴェーダ]]の時代には神々の中心とも言える絶大な人気を誇ったインドラも、時代が下り、[[ヒンドゥー教]]が成立した時代になれば影が薄くなる。「雷を象徴する強力無比な英雄神」として、変わらず重要な立場にある神であることは間違いないが、神々の中心の座はシヴァやヴィシュヌなどに譲ってしまい、代わって世界を守護する[[ローカパーラ]](世界守護神)の地位に落ち着いている<ref name="イオンズp167-168">[[#イオンズ,酒井訳 1990|イオンズ,酒井訳 1990]], pp. 167-168.</ref>。
四方にそれぞれ神が配置され{{要出典|date=2016年10月11日 (火) 12:57 (UTC)}}、インドラはその中でももっとも重要とされる東方の守護神の地位に位置づけられた<ref>[[#イオンズ,酒井訳 1990|イオンズ,酒井訳 1990]], p. 168.</ref>。
インドラの性質はやや変容し、一部の面が強調された<ref name="イオンズp167-168" />。例えばインドラは女性と、時には夫のある女性ともしばしば関係を持った。ある時は、[[アスラ]]神族の王から娘の[[シャチー]]を強奪し陵辱した後結ばれている。強奪婚を実行したうえ天界中を戦乱に巻き込みようやく愛を勝ち取ったにもかかわらずインドラは[[ヴリシャーカピ]]と男色にふけったため妻シャチー(インドラーニー)は激怒する<ref>辻直四郎訳「リグヴェーダ賛歌」 『岩波文庫』(岩波書店)、1978年pp180-181.より</ref>。さらにインドラは両性具有者である。インドラはウリシャナシュヴァの妻とも呼ばれ、ウリシャナシュヴァの家族として女として住んだとされる。このためインドラは別名「メーナー」とも呼ばれる<ref>松濤誠達「古代インド神話解釈の試み -古代インドのトリックスター論覚え書き」『印度学仏教学研究』 24(2)、1976年、p42.より</ref>。また、[[ガウタマ (リシ)|ガウタマ聖仙]]の妻[[アハリヤー]]と関係を持った際には、1度目は全身に女性器の印を一千個も付けられる呪いを、2度目は自身の性器を奪われるという呪いをガウタマ聖仙から受けた<ref>[[#イオンズ,酒井訳 1990|イオンズ,酒井訳 1990]], p. 172-174.</ref>。
インドラは敵対者にも敗北した。例えば、三界を支配したアスラ王[[マハーバリ]]に敗北して天界追放の憂き目に遇い、[[ヴィシュヌ]]([[ヴァーマナ]])の力を借りてようやく支配権を取り戻した<ref>[[#イオンズ,酒井訳 1990|イオンズ,酒井訳 1990]], p. 170.</ref>。ラークシャサ族[[ラーヴァナ]]王の子メーガナーダ(メガナダとも)にも負け、メーガナーダには「インドラジット」(インドラに打ち勝つものという意味)を名乗られる屈辱まで味わっている<ref>[[#イオンズ,酒井訳 1990|イオンズ,酒井訳 1990]], pp. 170-171.</ref>。また、インドラを含めて神々がアスラの[[マヒシャ]]に敗れ天界を追放されている。この時は女神[[ドゥルガー]]がマヒシャを殺したおかげでインドラらは天界に戻った<ref>[[#イオンズ,酒井訳 1990|イオンズ,酒井訳 1990]], p. 214.</ref>。
インドラは賢者の呪いからも逃れられなかった。例えば、偉大な仙人[[ドゥルヴァーサス]]から花輪を贈られた後、インドラが自分の象にその花輪を与えたために、インドラも他の神々もドゥルヴァーサスの呪いを受けて力を失い、[[ダイティヤ]]達に敗北して天界から追放された。インドラは、ヴィシュヌの助言に従って、神々とダイティヤ達が協力して[[乳海攪拌]]を実施することをダイティヤ達に提案した。攪拌は成功したが、神々はダイティヤ達との約束を反故にして[[アムリタ]]を独占した。そしてアムリタによって力を回復し、ダイティヤ達に勝利して天界に戻った<ref>[[#イオンズ,酒井訳 1990|イオンズ,酒井訳 1990]], pp. 171-172.</ref>。
== 叙事詩・プラーナ文献でのインドラ ==
叙事詩『[[マハーバーラタ]]』では、主人公の1人の[[アルジュナ]]の父親であり前世。インドラプラスタを開拓する時に炎神とアルジュナと[[クリシュナ]]の前に立ちはだかるが、炎神アグニに自分の神弓ガーンディーヴァも与え、それもやがてアグニからアルジュナに渡される。[[カルナ]]がインドラから「ヴァサヴィ・シャクティ(Vasavi Shakti)<ref group="注釈">一度きりしか使えないという制約つきの武器であった{{要出典|date=2016-10-01}}。</ref>」という武器を与えられ、[[ガトートカチャ]]を斃した。
同じく叙事詩の『[[ラーマーヤナ]]』では、主人公[[ラーマ]]が「'''インドラの矢'''」という武器を使用して敵の[[クンバカルナ]]を討ちとった。
また、太古にインドラがアスラ神族を倒したとされる武器「ヴィジャヤ」によって、[[ラークシャサ]](羅刹)の大軍を一撃で死滅させた<ref group="注釈">この武器は、『マハーバーラタ』にも登場し、インドラから[[パラシュラーマ]]に授けられる。</ref>。
『{{仮リンク|パドマ・プラーナ|en|Padma Purana}}』によれば、「ヴリトラハン」の異名を得ることになったヴリトラ殺害では、インドラは当初、彼を恐れて戦いを避けた。インドラは神々の世界の半分を分け与えることを条件にヴリトラと一旦は和睦した。その後、ヴリトラの元に美しい[[アプサラス]]の[[ラムバー]]を送り込み、[[バラモン]]でもあったヴリトラが[[スラー酒]]を飲むように仕向けた。ヴリトラが飲酒で失神したところを不意打ちして勝利したが、インドラはバラモンを殺した罪を負うこととなった<ref>[[#菅沼編 1985|菅沼編 1985]], pp. 97-98.(ヴリトラ)</ref>。
== ゾロアスター教のインドラ ==
{{出典の明記|section=1|date=2016年10月11日 (火) 12:57 (UTC)}}
{{Zoroastrianism}}
インドではデーヴァが善でアスラが悪だが、イランではデーヴァに対応する[[ダエーワ]]が悪で、アスラに対応する[[アフラ・マズダー]]が善と入れ替わっている。ゆえに、インドのデーヴァと同じ起源の超自然的存在が悪魔として登場しており、インドラも魔王の一人となっている。ゾロアスター教ではインドラは虚偽の悪魔であり、正義と真実の霊[[アシャ・ワヒシュタ]]と対立する。
'''「ヴェンディダード」の7大魔王'''
* [[アカ・マナフ]]
* [[ドゥルジ]]
* [[サルワ|サウルワ]]
* [[タローマティ]]
* [[タルウィ|タウルウィー]]
* [[ザリチュ|ザイリチャー]]
* [[アンラ・マンユ]]
あるいは
* [[ドゥルジ|ナース]](ドゥルジ・ナース)
* '''インドラ'''
* サウルワ
* ノーンハスヤ
* タウルウィー
* ザイリチャー
* アンリ・マンユ
その他、[[アエーシュマ]]、アカタシュ、ワルニヤを指す。「ブンダヒシュン」ではアフレマンが、
* アコマン(アカ・マナフ)
* '''アンダル(インドラ)'''
* ソウァル(サウルワ)
* ナカヘド(ノーンハスヤ)
* タイレウ(タウルウィー)
* ザイリク(ザイリチャー)
を創造したとしている。オフルマズドの[[アムシャ・スプンタ]]に神性が対応しており敗れることになっている。ここではインドラは、文字通り帝釈天のインドラ、サウルワは[[ルドラ]]神の異称シャルヴァ、ノーンハスヤは[[アシュヴィン双神|ナーサティヤ]]のことである。悪魔アンダルとはインドラの別名である。
== 仏教のインドラ ==
インドラは仏教に取り込まれて、仏教の守護神である天部の一尊である[[帝釈天]]となった<ref>[[#松村 2013|松村 2013]], p. 98.</ref><ref>[[#イオンズ,酒井訳 1990|イオンズ,酒井訳 1990]], p. 332.</ref>。帝釈天の名はインドラの梵語名「{{unicode|śakro devānām indraḥ}}」の「{{unicode|indra}}」を「'''帝'''」と[[意訳]]し、「śakra」を「'''釈'''」と[[音訳]]し、後部に「'''天'''」を加えたもの。梵天と並ぶ仏教の二大護法善神とされる。武器である「[[金剛杵]]」を手に持ち雷を操る。金剛杵は、[[密教]]や[[チベット仏教]]における重要な法具として用いられる。
{{main|帝釈天}}
== 朝鮮神話のインドラ ==
[[朝鮮神話]]([[檀君]]神話)においては、天神「'''[[桓因]]'''」と書かれる<ref group="注釈">『三國遺事』に「昔有桓因謂帝釋也」とある。</ref>。これは、「{{unicode|śakro devānām indraḥ}}」の音写である「釈迦提桓因陀羅」を略して「釋提桓因」、さらに略して「桓因」としたものである。
{{main|桓因}}
== その他 ==
=== インドラの弓 ===
サンスクリット語で、虹のことをindradhanus(インドラの弓)という。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |title=神の文化史事典 |editor=松村一男他 |publisher=[[白水社]] |date=2013-02 |isbn=978-4-560-08265-2 }}
** {{wikicite
|ref=青木 2013
|reference=[[青木健 (宗教学者)|青木健]] 「ウルスラグナ」, p. 126. }}
** {{wikicite
|ref=松村 2013
|reference=松村一男 「インドラ」, pp. 96-99. }}
* {{Cite book |和書 |last=イオンズ |first=ヴェロニカ |others=[[酒井傳六]]訳 |title=インド神話 |publisher=[[青土社]] |date=1990-05 |isbn=978-4-7917-5075-7 |ref=イオンズ,酒井訳 1990 }}<!--2013年7月5日 (金) 01:38 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=上村勝彦|authorlink=上村勝彦 |title=インド神話 |publisher=[[東京書籍]] |date=1981-03 |isbn=978-4-487-75015-3 |ref=上村 1981 }}
** のち文庫化。上村勝彦 『インド神話 - マハーバーラタの神々』 [[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、2003年1月。ISBN 978-4-480-08730-0。
* {{Cite book |和書 |editor=菅沼晃|editor-link=菅沼晃|title=インド神話伝説辞典 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1985-03 |isbn=978-4-490-10191-1 |ref=菅沼編 1985 }} ※特に注記がなければページ番号は本文以降
{{参照方法|date=2016年10月1日 (土) 10:20 (UTC)}}
* {{Cite book |和書 |last=ウルセル |first=マッソン |authorlink=マッソン・ウルセル |last2=モラン |first2=ルイーズ、|others=美田稔訳 |title=インドの神話 |publisher=[[みすず書房]] |date=1975-01 |isbn=978-4-622-00091-4 |ref= }}<!--2013年7月5日 (金) 01:38 (UTC)-->
*松濤誠達「古代インド神話解釈の試み -古代インドのトリックスター論覚え書き」『印度学仏教学研究』 24(2)、1976年
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Indra}}
* [[ディヤウス]] - 父
* [[ジャヤンタ]] - 子
* [[ヴリトラ]] - インドラが斃した蛇または竜。
* [[リグ・ヴェーダ]]
* [[ジャータカ]] - パーリ語名であるサッカの名で様々な逸話に登場する。
<!--他の神話との類似-->
* [[スサノオ]] - 豪快磊落な性格、軍神、暴風に関係する、大蛇(竜)を斃す逸話等の共通点。
* [[トール]] - 雷霆神。[[ミョルニル]]という槌を武器とする。
* [[ゼウス]] - 雷霆神。雷を武器とする。
* [[ペルーン]] - 雷霆神。雷を武器とし、炎の矢で敵を斃す。
* [[ウルスラグナ]] - 「ヴリトラハン」に対応するイラン神話の英雄神。
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皇帝
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皇帝(こうてい、英語: emperor, king of kings, the King、ドイツ語: Kaiser、ラテン語: imperator、ロシア語: император, царь、ギリシア語: αὐτοκράτωρ, Βασιλεὺς βασιλέων、中国語: 皇帝)は、帝国君主の総称。王の中の王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には「唯一神」の意味や模倣・僭称も存在し、一神教では、人間が崇拝すべきは唯一神という「唯一の皇帝」・「宇宙で唯一の正当な王者」・「全人類の皇帝」のみであるとされている。
キリスト教圏における「唯一の神、唯一の皇帝」という理念は、キリスト教がローマ帝国主義と融合し国教化していった歴史から大きく影響されている。ロシアでは1990年代初期以降、皇帝制の復興を目指す運動やプロパガンダが活発化しており、大統領が皇帝(ツァーリ)になることを望む人々が都市部で増加している。現代まで在位が続くイスラーム系君主号「スルタン Sultan」は、権威・専制的意味があり、「皇帝 Emperor」とも訳される。「皇帝」(スルタン)の復権を目指す運動は、イスラーム帝国主義(新オスマン帝国主義)と同調している。日本では「皇帝」と「天皇」が併用されていたが、1936年(昭和11年)には「天皇」に統一された(現代英語での「天皇」は“emperor”、“Emperor of Japan”、“tenno”等)。
「王の中の王」としての皇帝は、王権の範囲が共同体や部族、氏族連合を越える帝国と結びついており、国際関係を帝国の秩序に組み込む観念と不可分と言える。「帝国主義」という言葉の語源は「皇帝国家(インペリウム imperium)」であり、中西治の学術論文によれば、インペリアリズム(帝国主義)は19世紀末頃まで「プラスのシンボル」だった。インペリアリズムの日本語訳は国家や訳者によって政治的に異なり、「帝国主義」・「帝政」・「帝制」・「皇帝制」・「皇帝制度」などと訳されている。"imperialist"は「帝国主義者」・「皇帝支持者」・「帝政主義者」など。
「王」に対して皇帝は、いくつもの異民族を包括する普遍的な国家の首長である。皇帝は本来、一つの部族・民族の首長としての王より上位の、普遍的支配者と考えられた。ただし、漢字の「王」や英語の“king”(キング)が帝王・皇帝を指すこともあり、特に先頭の“k”が大文字である“the King”(ザ・キング)は、唯一神(God)・王の中の王・皇帝なども指す。例えば「ザ・キング・オブ・イングランド」(the King of England)は、「英国皇帝」とも訳される。
ヨーロッパにおける皇帝の概念は、その語源が古代ローマの元首の称号「インペラトル」(imperator)および「カエサル」(caesar)であるように、古代ローマ帝国の元首政治との結びつきによって生まれた。中国では秦の始皇帝から、歴朝の天子の尊号として用いられた。始皇帝の創始した「皇帝」は東アジアの他地域に拡大・継承され、日本の天皇も、こうした概念拡大の系統に属する。日本の天皇号は、中国を統一した隋王朝の国際秩序の中で、朝鮮半島の三国との国際関係から自らを「大国」と位置づけることによって成立したとされる。
女性の皇帝を「女皇」や「女帝」と言う。「女帝」は女性の皇帝・帝王・天皇、女王などの君主を指す。皇帝、天皇の配偶者は「皇后」、「皇妃」。
なお「諸王の王」(king of kings)や皇帝(emperor)は、唯一神(ヤハウェ・イエス=キリスト・アッラーフ)をも意味し、一神教で唯一神は皇帝、「唯一の皇帝 (sole emperor)」、「真の皇帝 (true emperor)」等と見なされている。
皇帝の称号は皇帝権から派生して、その模倣や僭称としても使用されるようになった。
東アジアにおいて「皇帝」号を最初に使用したのは、中華圏における国家である秦であり、その後も20世紀に至るまで多くの王朝の君主が皇帝を称した。皇帝は中華の歴史・思想と密接に関係している。
「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、伝説的な人類最初の王を意味している。中国の伝説で最初に中国(したがって天下)を支配したのは、三皇であるとされている。
その次に続くとされたのが、堯・舜などを含む五帝であるとされている。「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代ではこの意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する)だが、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で殷代に用いられるようになった。三皇と五帝は神格化された存在であると同時に、現世の支配者であると考えられていた。殷王は、祖先や山河などを神として崇めていたが、より上位の神を崇めることが生まれ、「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。殷末期の王に対しては帝乙や帝辛(紂王)など帝の字が用いられるようになった。
五帝のあとに続くのが「王」が支配する夏・殷・周の王朝であった。
周王は地上世界(すなわち天下)を治めるべく天命を受けた天子とされた。周の封建制の下で諸侯は領地(国)を治め、最高位の爵位は「公」が与えられた。しかし、周王朝が衰えると、南方の楚が、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになったとされる。しかし金文史料では西周時代から夨王・豊王・豳王など、周王以外にも王を称する存在があったことが確認されている。
紀元前323年には周王が天子であると宣言され、他の王に優越する存在であると確認され、実質的な最有力者であった斉の威王は「覇王」を称した。紀元前288年には秦の昭襄王が斉の湣王に対し、他の王を従えていることから互いに「帝」と称するよう呼びかけ、一時的に「帝」が使用されることもあった。
「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究からわかっている。王が君主号として用いられて以降は、后は君主に準ずる存在に対する称号となった。君主の妃や母親は君主に準ずる存在とみなされ、「皇后」は皇帝の妃、「皇太后」は皇帝の母親を意味することとなり、「后」は原義を離れて「きさき」の意味で固定化された。
紀元前221年、秦が中国の統一王朝となり、王であった嬴政は重臣らに「其れ帝号を議せ」と命じた。王を超える帝号は、当時の法家の間では広く求められており、『韓非子』では「五帝を越え三皇に等しい」存在の出現が待ち望まれており、丞相李斯は韓非と同門であり、嬴政も韓非の著作に傾倒した時期がある。重臣らは秦王の業績がかつての五帝をも上回る存在であるとして三皇に並ぶ存在としての「秦皇」の称号を提案した。しかしこれは受け入れられず、嬴政は「秦」の字を取って「帝」の字をつける「皇帝」という称号を自ら考案した。浅野裕一は嬴政の意図が「帝」の中の筆頭的な存在としての帝王号であったのに対し、重臣が「皇」扱いしたことを引き戻すためであったとしている。こうして「皇帝」の称号を名乗った嬴政は、最初の皇帝として『始皇帝』の名で呼ばれる。
秦において「皇帝」が五帝を超える存在であるとされたことには、五帝や王たちが封建制を廃せなかったのに対し、秦では郡県制を敷くことができたからとされている。
「朕」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は「朕」を皇帝専用の自称とした。他にも「制」・「詔」などの皇帝専用語も策定した。
始皇帝は自身から始めて二世皇帝、三世皇帝と続かせる意図であったが、反乱が相次いだため、秦の皇帝は2代15年で終わった。始皇帝から数えて3代目の嬴子嬰は、始皇帝死後の反乱によって中国全土を支配することができなかったため、単に「王」と称した。秦末・楚漢戦争期の群雄の多くは各地で「王」を称した。戦国時代の楚王の末裔である懐王は、諸王の盟主として扱われ、秦の滅亡後は「義帝」と呼ばれた。一方で最大の実力者であった項羽は「西楚の覇王」を称したとされる。
紀元前202年、楚漢戦争で項羽を倒した漢王劉邦は、配下の諸王から「皇帝」を称するよう献言された。劉邦は「帝は賢者の称号である」として再三辞退する動きを見せた後、漢の「皇帝」に即位した。ただし漢においては諸侯王を各地に封じる封建制が採用され、五帝を超える存在としての皇帝号としては扱われなかった。浅野裕一は、漢の皇帝が三皇五帝を始めとする帝王を超越した存在ではなく、継承者として扱われていたとしている。さらに劉邦は、一族や功臣を「王」として各地に封じた。これにより、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」は「皇帝」の略として広く使われるようになった。以後、歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。
戦国時代中期以降から天の代理人である「天子」は諸侯を率いる存在であるとされ、秦時代には余り用いられなかったが漢代に至って盛んに使用されるようになった。文帝は天人相関説を強調することで、皇帝が天からの代理人であり、「天子」であることを強調した。中華思想においては近代的な国境という概念はなく、周辺諸国の君主も「天子」である皇帝に従うべき存在であるとされた。周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。したがって皇帝の支配する国という意味での「帝国」という概念は存在しなかった。
唐代には、高宗が皇后武則天の影響で「天皇大帝」という別称を採用した時期もあったが、皇帝号は最後の王朝である清まで使用され続けた。
三国時代、中原を支配した魏のみならず、呉・蜀の君主もそれぞれ皇帝を称し、五胡十六国時代や五代十国時代など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。南北朝時代には2人以上の皇帝が同時に存在した。
軍事力に劣った北宋の皇帝は、北の異民族王朝である遼・金の君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と南宋に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。
日本においては、古代からの君主であった天皇と、外国の君主に対する称号として皇帝が用いられた。
古代の日本は、「天皇」号を和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は7世紀後半の天武天皇の時代からであり、道教などの文献から採用したという説が通説であるが、5世紀頃から「天王」号を用いており、「王」を「皇」と漢字を改めたという説もある。
701年の大宝律令の儀制令と公式令において、「天子」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている。「華夷」の意味については、「内国および諸外国」と解する説と「中国その他の諸外国」と解する説が対立していた。実際、律令を制定した文武天皇期に新羅国王に対して出された国書で「天皇」号が使用された事例がある。また『古事記』や『日本書紀』においては天皇の命令である「みことのり」に「詔」や「勅」の漢字があてられているが、これは中国において皇帝のものにしかあてられない漢字である。また自称として「朕」を用い、正妻の称号は「皇后」であるなど、中国皇帝と同じ用語を用いた。
天皇(すめらみこと)と異なる用法での尊号としては、758年に淳仁天皇が即位した際、譲位した孝謙天皇に「宝字称徳孝謙皇帝」、孝謙の父聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られている。また、翌年には淳仁天皇の父である舎人親王が「崇道尽敬皇帝」と追号されている。「文武天皇(もんむてんのう)」といった今日使われている漢風諡号は、聖武および孝謙(称徳)を除き8世紀後半に淡海三船が撰んだことに始まるため、その直後に完成した『続日本紀』では原則として巻名に天皇の和風諡号が用いられているが、孝謙天皇のみ巻第十八から巻第二十まで「宝字称徳孝謙皇帝」の漢風尊号で記載されている点で特異である。なお、重祚した巻第二十六から巻第三十では巻名に「高野天皇(たかののすめらみこと)」の和風の号が用いられている(重祚後の漢風諡号は称徳天皇)。
近世以降の西洋においては、日本に関する最大の情報源であるエンゲルベルト・ケンペル著の『日本誌』において、徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「聖職的皇帝」(教皇のようなもの)と記述され、両者は共に皇帝と見なされていた。その一年前に出版された『ガリバー旅行記』においても、主人公のガリバーが「江戸で日本の皇帝と謁見した」と記載されている。
安政3年(1854年)の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年(1858年)以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「日本国大君」から「タイクン(Tycoon)」と表記するようになった。一方で天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた。
慶応4年1月15日(1868年)、新政府が外交権を掌握すると、兵庫港で各国外交団に「天皇」号を用いるよう伝達し、外交団もこれに従った。しかし外国君主に対する「国王」号の使用が、外交団から反発を受け、「皇帝」号を使用するよう要求された。日本は「皇帝」は中国(清)の号であるから穏当ではないとし、各国言語での呼び方をそのままカタカナで表記する方針を提案したが、各国外交団はあくまで「皇帝」の使用を求めた。このままでは国家対等の原則から外国君主に対しても「天皇」号を用いなければならない事態に陥る可能性もあった。結局明治3年(1870年)8月の「外交書法」の制定で、日本の天皇は「日本国大天皇」とし、諸外国の君主は「大皇帝」と表記するよう定められた。
明治7年(1874年)7月25日の太政官達第98号でこの方針は確認され、条約締結を行った君主国の君主は全て(国名は「○○王国」であっても)「皇帝」と呼称することが法制化された。ただし実際にはこの措置は王国に限られ、ルクセンブルク大公、モンテネグロ公、ブルガリア公、モナコ公等、公国の君主に対しては「大公」もしくは「公」と呼称されている。
ただし李氏朝鮮との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側を考慮し、「君主」や「国王」の称号を用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝と同様の用語を使用していた。日清戦争後、朝鮮が国号を大韓と改め、皇帝を称するようになると「皇帝」の称号が正式に使われるようになった。
しかし明治4年に清と締結された「日清修好条規」では両国の君主称号は表記されていない。これは清側が天皇号を皇帝すら尊崇する三皇五帝の一つ「天皇氏」と同一のものであるから、君主号とは認められないと難色を示したためであった。明治6年1月(1873年)頃から次第に外交文書で「皇帝」の使用が一般化するようになったが、これは対中国外交で「天皇」号を用いていないことが、再び称号に関する議論を呼び起こすことを当時の政権が懸念したためと推測されている。この時期以降、外国からの条約文などでも「Mikado」や「Tenno」の使用は減少し、「Emperor」が使用されていくようになった。
これ以降、天皇号の他に皇帝号の使用も行われ、民選の私擬憲法や元老院の「日本国憲按」などでも皇帝号が君主号として採用されている。また陸軍法の参軍官制や師団司令部条例でも皇帝号を用いている。政府部内でも統一した見解はなかったが、明治22年(1889年)の皇室典範制定時に伊藤博文の裁定で「天皇」号に統一すると決まり、大日本帝国憲法でも踏襲されている。伊藤は外交上でも天皇号を用いるべきと主張したが、同年5月に枢密院書記官長の井上毅が外務省に対して下した見解では、「大宝令」を根拠として外交上に「皇帝」号を用いるのは古来からの伝統であるとしている。井上は議長の指揮を受けて回答したとしているが、この当時の枢密院議長は伊藤である。この方針は広く知られなかったらしく、後に陸軍も同内容の問い合わせを行っている。
大正10年4月11日の大正十年勅令第三十八号で外国君主を皇帝と記載する太政官達は廃止されたが、以降の条約等でも国王や天皇に対して皇帝の称が使用されている。
国内使用では殆どの場合が「天皇」号が用いられたが、「日露戦争宣戦詔勅」など一部の詔書・法律で皇帝号の使用が行われた。大正期までは特に大きな問題とはならなかったが、昭和期になると国体明徴運動が活発となり、昭和8年(1933年)には外交上も「天皇」号を用いるべきとの議論が起きた。外務省は条約の邦訳に対してのみ「天皇」号を用いるが、特に発表はしないことで解決しようとしたが、宮内省内の機関紙の記事が新聞社に漏れ、昭和11年(1936年)4月19日に大きく発表を行わざるを得なくなった。ただし、外国語においては従来どおりとされた。
朝鮮の高麗朝の草創期やベトナムの阮朝のように、中国王朝と冊封関係にあり、中国王朝に対しては王を称しながら、国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。五胡十六国時代など中国の統一王朝が存在しないかまたは弱体である時期には、契丹などの異民族国家において独自に皇帝を称することもあった。中国北部のモンゴル帝国(大元ウルス)ではクビライ以降「カアン(ハーン)」の称号が皇帝の称号とされた。クビライや帝国の開祖チンギス・カンは、漢文の諡号でも皇帝と称されている。カアンの地位はチンギス・カンの子孫によって継承され、1635年にエジェイが後金(清)に降伏するまで続いた。
近代に冊封体制が崩壊すると、君主制をとっていたアジア諸国でも皇帝を称する動きがあった。日本と清との間で下関条約が締結された後の1897年、朝鮮国(李氏朝鮮)が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を大韓帝国(1897年 - 1910年)とした。日本が中国東北部に建設した満州国においては、旧清帝国の皇帝であった溥儀が皇帝となった。また天津条約によってフランス領インドシナの支配を受けるようになった阮朝は、第二次世界大戦末期にベトナム帝国を宣言し、バオ・ダイが皇帝を称した。
ナポレオン・ボナパルトが、1804年に国民投票によってフランス皇帝となるまで、長きにわたってヨーロッパにおける皇帝の称号は(若干の例外を除いて)「ローマ皇帝の後継者」としての称号であった。ヨーロッパ諸国で皇帝を意味する単語は、ローマ帝国の支配者の称号が起源である。
帝政ローマの最高支配者となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)は、後世において最初の「ローマ皇帝」とされる。しかし、彼は建前としての共和政を遵守する立場であり、大きな権威と権力を手中にしながら、共和政下のローマでは伝統的にネガティブなイメージを帯びていた「王」の称号を採用せず、代わりに共和政時代から存在する官職や権限を一身に兼ねるという形をとっている。そのため、ローマ帝権は多数の称号を身に帯びることになった。中でも特に重要な称号が「インペラートル」「カエサル」「アウグストゥス」の3つである。
インペラートル(imperator)は、英語の「エンペラー」(emperor)やフランス語の「アンプルール」(empereur)、トルコ語の「インパラトール」(imparator)の語源であり、皇帝と訳される称号のように認識されているが、そのまま当てはめることはできない。インペラートルの語源であるインペリウム(imperium)は「命令権」や「支配」を意味し、王政期には王権の一部だったが、共和政期には軍指揮権を意味した。インペラートルはこの語に由来し、「命令者」を意味する。そのため将軍を指す称号のひとつとなり、凱旋式に際しては兵士たちが将軍に呼びかける際の尊称として用いられた。したがって共和政期にはインペラートルが同時に複数存在することもあった。共和政後期になると意味が広がり、ローマの支配権や支配領域を指してインペリウムというようにもなった。このように、ローマのインペラートルとインペリウムは必ずしも君主制を前提としてはおらず、語源は同じでも「帝国の支配者=皇帝」に対して用いることを予定したものでもなかった。この特徴はローマ滅亡後の後代にも引き継がれ、皇帝のいない国を「帝国」と呼ぶ用法などが生まれることとなった。
カエサル(caesar)もまた皇帝の称号のひとつであり、ドイツやロシアなどで用いられた称号(カイザー、ツァーリ)の語源である。カエサルは、本来ユリウス氏族に属するカエサル家の家族名である。ここの出身であるガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官となり、その養子となりカエサル家を継いだオクタウィアヌス(アウグストゥス)によって帝政が開かれたことから、皇帝を表す名のひとつとなった。後のディオクレティアヌス帝の時代には「副帝」を意味する称号となり、正規の君主号となった。
アウグストゥス(augustus)は「尊厳者」を意味し、元はオクタウィアヌスに贈られた添え名である。権威的には重要な称号だが、命令権や血統とは直接関係ないものだった。しかしながらオクタウィアヌスがこの名を贈られた紀元前27年1月16日が歴史的に帝政開始の日とされること、以後すべての後継者が帯びる称号となったこと、インペラートルやカエサルと異なりローマ皇帝以外に保持者のいない称号であること、ディオクレティアヌス帝の時代には正規の皇帝号になったことなどから、ローマ皇帝を指す最も重要な称号として認識されている。また、単にアウグストゥスといえば前述の初代ローマ皇帝アウグストゥスを指す。
またローマの皇帝崇拝や帝国主義は当初、キリスト教や王の中の王(唯一神)への信仰に対立していたが、313年の寛容令(ミラノ勅令)などを通して皇帝側とキリスト教側は深く結びついていった。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、293年に広大な領土を東西に分け、2人の正帝と2人の副帝が共同で統治する四分治制(テトラルキア)を導入した。ここで「アウグストゥス」が正帝、「カエサル」が副帝の称号となった。以後、東西の帝国が統合したり分裂したりを繰り返し、395年に皇帝テオドシウス1世が没すると、テオドシウスの長男アルカディウスが帝国の東の正帝に、次男ホノリウスが帝国の西の正帝になった。
東西のローマ帝国における皇帝については以下で述べる。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)では「皇帝」の称号は、王朝の交代はあったものの、1453年に東ローマ帝国が滅びるまで代々受け継がれた。東ローマ帝国では、7世紀以降公用語がラテン語からギリシア語となった。「皇帝」を表す称号としては、元はアケメネス朝・サーサーン朝のシャーを指したギリシア語である「バシレウス(希: Βασιλεύς)」(バシレイオスと表記することもある。古典ギリシア語読み。中世ギリシア語の読み方ではヴァシレフス。なお古代ギリシャ時代には単なる「王」を示す単語だった)が用いられた(それまではラテン語の「インペラトル」「カエサル」「アウグストゥス」が引き続き使われていた)。
これは、7世紀の皇帝ヘラクレイオスが628年にサーサーン朝ペルシャ帝国を降して首都コンスタンティノポリスへ凱旋した時に「キリスト教徒のバシレウス」と名乗ったことによる。この「バシレウス=シャー」には、「諸王の王」(ペルシャ語の「シャーハーン・シャー」、ギリシア語の「バシレウス・バシレオーン」)という意味を含んでおり、ローマ帝国の皇帝であると同時に「諸王の王」である、という宣言であった。これによって東ローマ帝国の皇帝は、古代のローマ皇帝とは異なって「君主」としての意味が強くなり、このことは西欧の皇帝にも大きな影響を与えた。またキリスト教化の進行によって、皇帝は「神の代理人」という位置付けがされ、宗教的にも大きな権威を持つ存在となった。
ただし一方で、帝位の正統性は「元老院・軍隊・市民の推戴」によって示される、という古代ローマ以来の原理も残され(例えば皇帝の即位式の際は、「軍隊が、民衆が、元老院が帝位に就けと要求しているのだ」、という歓呼がされた)、帝位は必ずしも世襲されるとは限らなかった。この辺りに東西の文明が融合した東ローマ帝国の特徴を見ることが出来よう。
他に皇帝の称号としては「アウトクラトール(希: αὐτοκράτωρ 」(単独の支配者、専制君主を意味するギリシア語。既に6世紀からインペラートルに相当する称号として、ギリシア語版の勅令で使われていた)、「セバストス(英語版)(希: σεβαστός )」(尊厳なるもの。ラテン語のアウグストゥスに相当)などが用いられた。
西ローマ帝国が滅亡した際、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返還していたため、西ローマ帝国の滅亡後は名目上、東ローマ皇帝がローマ帝国全土の皇帝であった。こうした経緯もあってか、一時はイタリアやイベリア半島の一部にまで及んだ東ローマ帝国の勢力が後退した後も、唯一の正統なローマ皇帝として単に「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」と名乗り、「東ローマ皇帝」という呼び方は使われなかった。
また、後にフランク王カールやブルガリア王シメオン、ドイツ(神聖ローマ帝国)の王たちが「ローマ皇帝」を名乗った際は、東ローマ皇帝は彼らを「皇帝」としては認めるが「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」としては認めない立場をとり、あくまでも自分だけが唯一のローマ皇帝であると主張した。
この他にも東ローマ帝国を一時滅ぼした第4回十字軍が建国したラテン帝国や、それによって亡命した東ローマの皇族達が建てたニカイア帝国・エピロス専制侯国・トレビゾンド帝国の君主も、東ローマの正統な後継者であることを示すために「皇帝」を称した(エピロスは一時期のみ)。
亡命政権ニカイア帝国は1261年にラテン帝国を滅ぼし、ミカエル8世パレオロゴスがコンスタンティノポリスにおいて改めて皇帝に即位し、東ローマ帝国の復活を果たした。東ローマにおける皇帝権はこの後も継承されたが、国威はふるわず、15世紀には帝国は首都コンスタンティノポリスとわずかな属領だけに押し込められてしまった。1453年、オスマン帝国によってコンスタンティノポリスは攻略され、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは戦死、ここに、アウグストゥス以来約1500年にわたって受け継がれてきた「ローマ皇帝」の正統は消滅した(オスマン皇帝の中には、ローマ皇帝の継承者であるとして「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った者もいるが、一時的なものに終わった)。
476年に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリアやイベリア半島の一部を東ローマ帝国が征服した。
このため、西ヨーロッパ諸国やローマ教皇は、コンスタンティノポリスにいる皇帝の宗主権を認め、その臣下とならざるを得なかった(ヨーロッパにおいて、王が皇帝よりも格下であるという認識は、この時に生まれた)。ゲルマン人に布教を進めてローマ教会の勢力を拡大し、「大教皇」と呼ばれた6世紀末のグレゴリウス1世でさえも、それは同じであった。実際、7世紀の教皇マルティヌス1世のように、教義をめぐって対立した東ローマ皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処せられた者もいたほどであった。
しかし7世紀以降、東ローマ帝国はイスラム帝国やブルガリア帝国などの攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは聖像破壊論争などの教義の問題や、教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。
797年、東ローマ帝国で皇帝コンスタンティノス6世の母エイレーネーがコンスタンティノスを廃位し、自ら女帝として即位するという事件が起きた。これを機に、ローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノスの廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」として、800年に国力の伸張著しいフランク王国の国王カールに「ローマ帝国を統治する皇帝」の称号を与えた。これがカール大帝である。ただし、カールは自分の皇帝位に満足せず(それまで、教皇から皇帝位が与えられるという前例はなかった)、東ローマ帝国に自分の皇帝位を承認してもらうための運動を粘り強く行った(5世紀の西ローマ帝国滅亡以前は、東西の皇帝は即位の際に互いに承認し合っていた)。その結果、812年になって、東ローマはカールを皇帝(ただし、「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」ではない)として承認した。
以後、西ヨーロッパの皇帝は西ローマ皇帝の後継者、キリスト教の守護者の意味を持つようになる。また、本来ローマ皇帝は「元老院・市民・軍隊」によって選ばれるものだったのだが(東ローマ帝国では最後までその建前が守られた)、カール大帝の戴冠の経緯は、ローマ教皇が皇帝の任命権を主張する根拠ともなった。
カール大帝以降のフランク王による帝位の継承は1世紀余りで途絶えてしまっていたが、962年に東フランク王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネス12世から皇帝の冠と称号を受けた。ここに復活した帝国は、大空位時代を経ていわゆる神聖ローマ帝国となる(なお、実際の称号は「皇帝」や「尊厳なる皇帝」などであって、「神聖ローマ皇帝」と称したことはない)。以後、皇帝の称号を帯びるためにはローマ教皇の承認を得なければならず、それまでの帝国君主はローマ王を名乗った。時代が進むにつれ帝国は諸侯の緩い連合体に変化し、皇帝の権力も弱まっていった。
1356年にカール4世は金印勅書を発布し、選帝侯がローマ王、ひいては皇帝を選出するようになり、ローマ教皇の干渉を受けなくなるようになった。1438年にハプスブルク家のアルブレヒト2世が選出されてからは、女性当主のマリア・テレジアの例外を除いてハプスブルク家が皇帝位を独占するようになり、皇帝は帝国の最有力諸侯であるオーストリア大公のハプスブルク家が帯びる名誉称号に近いものになった。特に三十年戦争以後は、各諸侯領はほとんど独立国家同然となり、皇帝とは名ばかりの存在になっていった。この頃には「ドイツ人の帝国」もしくは単に「帝国」と名乗ることも多かった。皇帝も、ローマ皇帝ではなくドイツ皇帝と称するようになる。1806年、フランツ2世が帝国の解散を宣言して、神聖ローマ帝国は名実共に滅びた。
フランスでは、フランス革命によって共和政が成立した後、1804年にナポレオン・ボナパルトが議会の議決と国民投票によって、「フランス人の皇帝ナポレオン1世」となった。「皇帝」号の採用は、革命によって廃された「国王」号の忌避の他に、古代ローマの皇帝が共和政下の市民によって推戴された点を踏まえたものといえる。このときに「西ローマ帝国の継承国家は神聖ローマ帝国である必要もなく、皇帝がドイツ人である必要性もないという当然の事実」が明らかになり、神聖ローマ帝国を支える帝国議会に代わりライン同盟が結成された。ナポレオンの皇帝即位を神聖ローマ皇帝フランツ2世は承認し、さらに自らは神聖ローマ皇帝位から退位し、神聖ローマ帝国を解散し、「オーストリア皇帝フランツ1世」を名乗った。ナポレオンはオーストリア皇帝を承認した。これはハプスブルク家が名乗る神聖ローマ皇帝位が単なる名誉称号と化していた事実の反映であるとともに、ハプスブルク家がハンガリーなど神聖ローマ帝国の領域外に支配領域を広げ、強固な「ハプスブルク帝国」を築き上げていた事実の反映でもあった。
ナポレオンのフランス皇帝即位とフランツ1世のオーストリア皇帝即位により、ヨーロッパに複数同時に存在することが受け入れられたことで、カール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。これにより、西ヨーロッパの伝統的な理念に基づく皇帝は消滅し、ナポレオンが没落した後も蘇ることはなかった。これと前後して、西欧からは単なるロシアの大公とみなされていたロシア皇帝も、西欧諸国からも正式に皇帝とみなされるようになったが、「東ローマ帝国の後継者」という元来の意味は忘れ去られた(ロシアの君主が皇帝を名乗る経緯は後述)。
19世紀には皇帝ナポレオンにならって、中南米に新興の皇帝が生まれた。ハイチでは1804年の独立時にジャン=ジャック・デサリーヌが、1849年にはフォースティン=エリ・スールークがそれぞれハイチ皇帝に即位し、特にスールークはクーデターで打倒されるまで「フォースティン1世」として圧政を敷いた。メキシコではアグスティン・デ・イトゥルビデが1822年に皇帝に即位したが、翌年に廃位された。1864年にはハプスブルク家のマクシミリアン大公が、メキシコへ干渉したフランス皇帝ナポレオン3世によってメキシコ皇帝マクシミリアン1世に担ぎ上げられたが、在位わずか3年で革命軍によって捕らえられ、処刑された。
ブラジルでは、1831年にポルトガル王ジョアン6世の王太子でブラジル摂政だったペドロが、ポルトガルから独立したブラジル帝国の皇帝ペドロ1世となった。ブラジルの帝政は中南米の他の「帝国」とは異なり半世紀以上にわたり持続したが、1889年、第2代皇帝ペドロ2世の時に革命が起き、共和制になった。
ヨーロッパでは1852年から1870年まで、ナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝ナポレオン3世を称し、帝政を敷いた(フランス第二帝政)。また1871年には、オーストリアを除くドイツを統一したプロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝を兼ね、ドイツ帝国が成立した。
第一次世界大戦の終結と共に、敗戦国であったドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア帝国とハンガリー王国が共通の君主としてオーストリア皇帝=ハンガリー王を戴き、軍事・外交・財政のみ共通の政府が管掌する体制)では革命が起きて帝政が倒れた。また後述するオスマン帝国やロシア帝国でも、革命によって帝政が崩壊したために、ヨーロッパには皇帝が1人もいなくなり、ローマ帝国以来のヨーロッパにおける皇帝の歴史は幕を閉じた(インド皇帝を兼ねていたイギリス国王は唯一の例外であったが、こちらも1947年のインド独立により有名無実化した)。
この地域の皇帝概念は東ローマ帝国を経由してローマ帝国のそれを受け継いだものである。前述のように東ローマ帝国では皇帝は「バシレウス」(「王」の意)と称し、「カイサル」(ラテン語のカエサルに由来)は副皇帝を示す言葉だったが、東ヨーロッパのスラヴ系の言語では聖書に出てくる賢人や東方の君主などの称号として用いられるとともに、善良な王を指す言葉として「カエサル」由来の「ツァーリ」を用い、東ローマの皇帝をツァーリと呼んでいた。
東ローマ帝国以外では、920年にブルガリア王シメオンが東ローマ帝国征服を狙って「ブルガリア人とローマ人の皇帝(ツァーリ)」を称し、以後、第一次ブルガリア帝国(920年 - 1018年)と第二次ブルガリア帝国(1188年 - 1396年)を通じて「皇帝」という称号が使われた。また14世紀のセルビア王国の王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンも東ローマ帝国の征服を企図して、1345年に「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、翌年にはセルビア帝国(1346年 - 1371年)の皇帝として即位した。なお、「ツァーリ」の称号は近代ブルガリア王国においてフェルディナントが復活させたが、これは通例「王」として扱われる。
デューカ・アレクサンドル・ウラジーミロヴィチの学術論文(2017年)では、現代のロシア系エリートたちの間の皇帝主義的見解とその実践が検証されている。同論文によると、ソビエト連邦崩壊からの「ソビエト後」(ポストソビエト “постсоветская”)的なロシアでは、1991年~1992年に君主主義者や帝位請求者らが新興エリートたちと交友した。(新興財閥(オリガルヒ)も参照。) その後、ロマノフ家(キリロヴィチ家)における一部の集団が政権に接近し、政治と経済の再結合(統制経済)、ロマノフ朝の記念日などの帝国的な権威化、ロシア正教会の活発化などが進んだ。2014~2015年では、ウクライナとの紛争とクリミア併合に関して、国民と政治勢力が動員された。2016年では、皇帝制の復活を政府だけでなく一般市民も議論するようになり、君主たちに関するプロパガンダ的な記念碑がロシアの諸都市に置かれるようになった。
マシュー・ブラックバーンの学術論文(2020年)では、皇帝制と反民主主義との関連が研究されている。ブラックバーンは「想像の国家」(“imagined nation”)という観点から、都市部のロシア人が国家や指導者の政治的形態をどう捉えているかを研究した。研究手法は、ロシアの3つの都市における約100件の聞き込み(インタビュー)調査とその分析である。回答者たちの中には、国家が非民主化を通して「より『思いやりがある』上に『効果的』な統治様式」になることを称賛する傾向があった。その「統治様式」には、指導者に最高権力(主権)を委任して物事を解決してもらうという考えが伴っている。ある回答者によると、「ロシア人は彼〔プーチン〕を皇帝として見ている」のであり、ロシア人という本質的な君主主義者らは西側的な民主主義を持てないのだと言う。
ブラックバーンの論文いわくロシアには、想像上の「親プーチン」社会を支えている以下の三本柱があると考えられる。
ここには「内面的なオリエンタリズム」(“internal orientalism”)も関わっている。
15世紀に北東ルーシの統一を進めつつあったモスクワ大公国のイヴァン3世は、それまでビザンツ皇帝に対して用いられていた称号「ツァーリ」を自称し始めた。ツァーリとはラテン語のカエサルに由来する。1453年にオスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされると、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪ソフィア・パレオローグと1472年に結婚し、東ローマ帝国の紋章「双頭の鷲」も使い始め、モスクワが東ローマ帝国の後継者であることを位置付けた。
その後、イヴァン3世の孫イヴァン4世は、1547年にツァーリとしての戴冠式を執り行い、「ツァーリ」の称号が正式に用いられ始めた。この頃から、モスクワ大公国はロシア・ツァーリ国という名称を用いるようになった。
ただし、それ以前にルーシの人々は、モンゴル帝国の皇族バトゥが創始したジョチ・ウルス(1224年 - 1502年)のハンをも「ツァーリ」と呼んでいた。モスクワ大公の「ツァーリ」称号の主張は、東ローマ皇帝の後継者としての意味合いと同時にジョチ・ウルスの支配の継承を意図するものであったと見る説もある。イヴァン4世は1576年、皇子(ツァレーヴィチ。当時のロシアの用語例では、ハンの血を引くモンゴル系貴族のこと)シメオン・ベクブラトヴィチに一度ツァーリ位を譲った後、再び自身が譲位を受けるという行動を取るが、この説に立つ人々は、これをハン(ツァーリ)の後継者としての宣言であったと解釈している。
ピョートル1世は1721年に西欧式の「インペラートル」の称号を用い始め、国号を正式にロシア帝国としたが、ロシアの君主は以後も「ツァーリ」の称号を併用した。あくまで自称であり、西欧諸国からは皇帝とは認められなかったが、前述の通り「ローマ皇帝の後継者が皇帝を名乗るという建前」が西欧において消滅した頃には、ロシア皇帝も東ローマ帝国の帝位の後継者という意味が忘れ去られた格好で、西欧諸国からも正式に認められるようになった。
ヨーロッパと東アジアの直接交流は、ローマ皇帝アントニヌス・ピウス(またはマルクス・アウレリウス・アントニヌス)が漢の皇帝に使者を送ったのが最初であり、この際に漢の側ではローマ皇帝のことを「大秦王安敦」と記した。その頃の中国は「皇帝は地上に一人のみ」の時代であり、ローマ皇帝であっても王扱いであった。またローマ帝国の側でも当時は「元首政(プリンキパトゥス)」の時代であり、ローマ皇帝が王より格上であるいう認識、さらには君主であるという認識すら存在しなかった。
後に江戸時代の新井白石が、著書『西洋紀聞』において、「インペラドールは漢の帝というのに似ている。レキスは漢の王に似ている。」と記述した。ヨーロッパの皇帝と王を、前漢の郡国制における皇帝と諸侯王となぞらえて、ヨーロッパの皇帝を、東アジア的な意味での「皇帝」と同格のものとみなしたわけである。ただ白石の場合、日本の天皇も中国の皇帝と同格と見なしており、その自らの思想に裏付けを与える意味でも、中国の皇帝と同格の存在が他にもいたほうが都合がいい、という事情もあったものと思われ、実際に『西洋紀聞』には「インペラドール」は複数存在する事が述べられている。
イスラム化以前にメソポタミア・イランを支配したアケメネス朝・サーサーン朝のシャーにも「皇帝」という訳を用いられることがある(日本では「王」「大王」「帝王」といった訳が用いられることの方が多いようである)。パルティアやペルシアの君主は「諸王の王」という称号を用い、他の「王」より格上であると称していた。
イスラム世界の君主には様々な称号があるが、その中で巨大な領域を支配していたカリフ(本来は信徒代表の意味であり、トルコ革命でも世俗君主であるスルタン位は革命時に即座に奪われたが、カリフ位は皇族追放まで奪われなかった)スルタン、シャー(パーディシャー)に「皇帝」の訳をあてることが多い(ただし現代においてブルネイやオマーンなどの君主がスルタンを称する国の場合、通常は「国王」と訳される)。これに対して、マリクには「王」、アミールには「首長」の語が定訳とされ、「皇帝」と訳されることはあまりない。アミールの上位号には大アミール、アミール・アル=ムスリミーン、アミール・アル=ムウミニーンがある。
オスマン帝国では、第3代君主ムラト1世の時代にスルタン号を称するようになったが、オスマン帝国の歴史記録によると「パーディシャー」(ペルシャ語由来で皇帝の意)を称する場合が多かった。また、東ローマ帝国を滅ぼしたメフメト2世や最盛期の皇帝であるスレイマン1世は、東ローマ皇帝の後継者を自任し「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝、「カイセリ」は「カエサル」の意)という称号を用いた、と言われている。
なお、独裁的強権で知られるトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、かつてのオスマン帝国の「皇帝」(スルタン)にも似た「現代の皇帝」を意図していると、ベイルート筋は指摘している。近年の反ヨーロッパ的な愛国主義の底には、帝国への郷愁的感情が根強く存在しているという。
イギリスの王は、ムガル帝国を滅ぼしてインドを植民地にした際、インド帝国の皇帝を兼ねる形をとった。このインド皇帝位はインド独立時に返上された。なお、イギリス帝国とは、16世紀から20世紀半ばまでのイギリスの広大強力な支配圏を指したもので、インド皇帝位に直接由来するわけではない。古代インドにおいては直訳すると大王となるマハーラージャが用いられ、グプタ朝等において、直訳すると「大王の王」となる独自の皇帝号「マハーラージャディラージャ」も存在していた。
ヨーロッパ人が訪れる以前に中南米の先住民が築いた国家のうち、インカ帝国とアステカ帝国は、いくつかの諸国を征服・支配し、広大な領土を持ち、国家連合・連邦のようなものを形成しており、それぞれ「帝国」と呼ばれている。従ってインカ帝国の君主「サパ・インカ」とアステカ帝国の君主には、「皇帝」の語が当てられている。しかし、インカ帝国は南米大陸太平洋側の広大な地域を支配したが、アステカの場合は広大と言っても現在のメキシコの領域内に過ぎず、またトラスカラ王国という同格のライバル国家も存在したことから、「アステカ王国」と呼ばれることも多々あり、その場合は君主も「アステカ王」と呼ばれる。
古くは古代エジプトの時代まで遡ることができる。エジプト王は「ファラオ」と呼ばれ、その権威は神から付与された神聖不可侵のものとされ、絶対的な専制皇帝であると共に最高神官も兼ねていた。また、西アフリカのガーナ、マリ、ソンガイの各君主を「皇帝」と訳すことがある。「王」とすることも多い。
エチオピアでは皇帝(ネグサ・ナガスト=「諸王の王」「王の中の王」)が専制君主として統治していた。日本の皇室より古い皇室として知られていたが、1974年にハイレ・セラシエ1世が革命で廃位された。現在は代々アメリカ合衆国に居住しながら皇太子位を世襲している。
また中央アフリカ共和国の大統領だったジャン=ベデル・ボカサ(ボカサ1世)が1976年に皇帝を称し、国名を中央アフリカ帝国としたが、1979年のクーデターにより皇帝ボカサは失脚し、中央アフリカは共和制に復帰した。
神話的物語において高度に優れた主人公(英雄)は、「皇帝」としての役割を持っていると比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルは言う。「父」的存在から、または「一なる存在者」から祝福された主人公が、その代理役を果たすこともある。黄帝やモーセのように主人公は、皇帝(もしくは師)として人々のあいだへ帰ってくる。ゾロアスター教支配下のペルシアについての伝記の場合、黄金時代を築いた皇帝(ジャムシード、インド神話でいう閻魔大王)は、「唯一の世界君主」と称されている。
一神教では唯一神が「唯一の皇帝」、「王の中の王」、「全人類の皇帝」等とされている。『旧約聖書』(ユダヤ教聖書)から連なる一神教にとっては、唯一なる神が「宇宙で唯一の正当な王者」であり、人間は神だけを崇拝するべきである。神以外の権力や金銭収集は、神の「排他的絶対性」に背くことであり、偶像崇拝に他ならないと糾弾される。イスラームを例に取れば、神以外への崇拝や商業利益追求は、「偶像崇拝」であり、ジャーヒリーヤ(宗教的な「無知」)である。特に近代のイスラーム主義運動は、「偶像崇拝」やジャーヒリーヤを、無知というより「野蛮」として敵視している。
唯一神(=ヤハウェ)は「王の中の王・諸王の王 (king of kings)」と見なされている。これは、ペルシアやゾロアスター教におけるシャー・ハン・シャー(=王の中の王・皇帝)から影響されている。唯一神は「真の皇帝 (the true emperor)」、「天の主 (lord of heaven)」、「天の王 (king of heaven)」とも呼称される。旧約聖書の預言者イザヤに従えば、「王の中の王 (a king of kings)」や「皇帝 (an emperor)」とは唯一神である。カール・F・ヘンリーの研究では、旧約聖書は唯一神を「イスラエルの至高王 (Israel’s superlative king)」かつ「宇宙と歴史の唯一の主権者 (sole sovereign of the universe and of history)」として描いている。
唯一神(イエス・キリスト)は「宇宙の元首 (the head of the universe)」という呼称もされる。宗教学では、『ヨハネの黙示録』に関連する「唯一神」と「皇帝」の呼称を、以下の表として比較している。
このような類似性が存在する『黙示録』では、唯一神は皇帝である、または「唯一神だけが皇帝を超える価値がある (God alone is worthy above the emperor)」、とされている。
『黙示録』は、皇帝(アウグストゥス)の称号としての「神 (god)」、「主 (lord)」、「救世主 (savior)」を否定している。それらの称号は皇帝ではなく、「唯一神のみに属している (belong only to God)」というのが『黙示録』の主張である。
しかし、ここには基本的問題があると見られている。『黙示録』が反帝国主義的であること、「皇帝制 (imperial system)」に反対していることは疑われていないが、これは帝国主義的支配者を唯一神に置き換えているに過ぎないとも言える。スティーブン・ムーアが述べたように「黙示録は、ローマ帝国イデオロギーに向かって熱烈に反抗してはいるが、逆説的にどこまでも、そのイデオロギーの言葉遣いを刻みつけ直している (Revelation, though passionately resistant to Roman imperial ideology, paradoxically and persistently reinscribes its terms.)」。
考古学者の浅野和生は「ローマ帝国がなくては,キリスト教という宗教は絶対に生まれることはなかったに違いない」と記しており、この点については文学博士・哲学研究者の谷口静浩も自著で同意している。宗教史学書『諸宗教の歩み:事実と本質のあいだで』の中での谷口いわく、諸民族を超える「唯一の皇帝」というローマ帝国の理念が、諸民族を超える「唯一の神」というキリスト教の教えと融和・協調したことで、キリスト教は「最終的に他の諸宗教にたいして勝利した」。宗教史学博士の山形孝夫によれば、ローマ皇帝(コンスタンティヌス)が主張した世界平和の基盤は
だった。同時期のローマ帝国内に存在していたキリスト教は、世界はイエス・キリストにおいて「一つ」に結ばれると考えてきた。それは普遍的に人類を「救済」する単一共同体の概念であり、例えば『新約聖書』には
などと記述されている(『ガラテヤの信徒への手紙』)。
世界史の転換期において、ローマ帝国主義とキリスト教は「一致」していった。もともと皇帝崇拝において「皇帝こそはキリスト〔救い主〕である」とされているのに対し、キリスト教徒は「イエスこそはキリストである」と信仰告白し続け、これがかつてのローマ帝国でキリスト教徒が弾圧された主な原因だった。しかし帝国で寛容令(ミラノ勅令)が313年に布告され、392年にはキリスト教が国教化された。山形によれば、こうしてキリスト教とナショナリズム(国家主義)が深く結びついていったのであり、この結びつきがキリスト教の行く末を「歪めた」ことは歴史的事実だと言う。
唯一神(=アッラーフ)とは"badushāh"であり、「皇帝 (Emperors)」、「王の中の皇帝 (the king of kings)」、「全ての統治領の主 (the Lord of all kingdoms)」であると言われる。
アッラーフが皇帝である理由は、「アッラーフの他に女皇は無いため (for there is no king except Allah)」である。真の皇帝は唯一神のみであり、唯一神は「全人類の皇帝 (Emperor of all mankind)」、「審判者の中の審判者 (Judge of judges)」だという。
大日本帝国が存在した時代では、日本の「皇帝(the emperor)」が「唯一神として(as God)」見なされたり、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった。(一神教では、唯一神は「皇帝(Empepror)」・「唯一の皇帝(sole emperor)」とも説かれる。)例えば、東京帝国大学の比較宗教学者だった加藤玄智は、天皇は「日本人にとって、ユダヤ人が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた。
『日本大百科全書』によると、明治維新・王政復古によって祭政一致が政治理念の基本とされ、天皇は国の「元首」かつ神聖不可侵な「現人神」とされた。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の神観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた。天皇は「絶対的真理」と「普遍的道徳」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された。東アジア学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの唯一神、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される。
唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、イスラームへ命令が下されることもあった。例えば大日本帝国は、ジャワ島のムスリムたちへ「メッカよりも東京に礼拝し、日本皇帝を唯一神として礼賛せよ、という日本軍の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた。
現代推論されるところでは加藤玄智は、西洋の絶対神が合理主義で批判されないことを見て、天皇を絶対神と同様に説明した言論を広め、批判を封じようとした。しかし、西洋人からすればモンゴル人種または「黄色い猿」である天皇が、日本人によって絶対神と同一視されていることが、西洋で驚かれ嫌悪された。
戦時中には、「天皇総帝論」がもてはやされるようになった。「天皇総帝論」とは当時、「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末の国学者・大国隆正が唱えた議論である。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった。第二次世界大戦に至る中で、「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた
等であると認識されていった。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した。
スポーツ界では一流、特に世界最強クラスで圧倒的な実力を持ち君臨する選手に、歴史上当該選手の母国に皇帝がいた場合、尊敬と畏敬の念を込めて「皇帝」との愛称が付く場合もある。
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"text": "皇帝(こうてい、英語: emperor, king of kings, the King、ドイツ語: Kaiser、ラテン語: imperator、ロシア語: император, царь、ギリシア語: αὐτοκράτωρ, Βασιλεὺς βασιλέων、中国語: 皇帝)は、帝国君主の総称。王の中の王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には「唯一神」の意味や模倣・僭称も存在し、一神教では、人間が崇拝すべきは唯一神という「唯一の皇帝」・「宇宙で唯一の正当な王者」・「全人類の皇帝」のみであるとされている。",
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"text": "キリスト教圏における「唯一の神、唯一の皇帝」という理念は、キリスト教がローマ帝国主義と融合し国教化していった歴史から大きく影響されている。ロシアでは1990年代初期以降、皇帝制の復興を目指す運動やプロパガンダが活発化しており、大統領が皇帝(ツァーリ)になることを望む人々が都市部で増加している。現代まで在位が続くイスラーム系君主号「スルタン Sultan」は、権威・専制的意味があり、「皇帝 Emperor」とも訳される。「皇帝」(スルタン)の復権を目指す運動は、イスラーム帝国主義(新オスマン帝国主義)と同調している。日本では「皇帝」と「天皇」が併用されていたが、1936年(昭和11年)には「天皇」に統一された(現代英語での「天皇」は“emperor”、“Emperor of Japan”、“tenno”等)。",
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"text": "「王の中の王」としての皇帝は、王権の範囲が共同体や部族、氏族連合を越える帝国と結びついており、国際関係を帝国の秩序に組み込む観念と不可分と言える。「帝国主義」という言葉の語源は「皇帝国家(インペリウム imperium)」であり、中西治の学術論文によれば、インペリアリズム(帝国主義)は19世紀末頃まで「プラスのシンボル」だった。インペリアリズムの日本語訳は国家や訳者によって政治的に異なり、「帝国主義」・「帝政」・「帝制」・「皇帝制」・「皇帝制度」などと訳されている。\"imperialist\"は「帝国主義者」・「皇帝支持者」・「帝政主義者」など。",
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"text": "「王」に対して皇帝は、いくつもの異民族を包括する普遍的な国家の首長である。皇帝は本来、一つの部族・民族の首長としての王より上位の、普遍的支配者と考えられた。ただし、漢字の「王」や英語の“king”(キング)が帝王・皇帝を指すこともあり、特に先頭の“k”が大文字である“the King”(ザ・キング)は、唯一神(God)・王の中の王・皇帝なども指す。例えば「ザ・キング・オブ・イングランド」(the King of England)は、「英国皇帝」とも訳される。",
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"text": "ヨーロッパにおける皇帝の概念は、その語源が古代ローマの元首の称号「インペラトル」(imperator)および「カエサル」(caesar)であるように、古代ローマ帝国の元首政治との結びつきによって生まれた。中国では秦の始皇帝から、歴朝の天子の尊号として用いられた。始皇帝の創始した「皇帝」は東アジアの他地域に拡大・継承され、日本の天皇も、こうした概念拡大の系統に属する。日本の天皇号は、中国を統一した隋王朝の国際秩序の中で、朝鮮半島の三国との国際関係から自らを「大国」と位置づけることによって成立したとされる。",
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"text": "女性の皇帝を「女皇」や「女帝」と言う。「女帝」は女性の皇帝・帝王・天皇、女王などの君主を指す。皇帝、天皇の配偶者は「皇后」、「皇妃」。",
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"text": "なお「諸王の王」(king of kings)や皇帝(emperor)は、唯一神(ヤハウェ・イエス=キリスト・アッラーフ)をも意味し、一神教で唯一神は皇帝、「唯一の皇帝 (sole emperor)」、「真の皇帝 (true emperor)」等と見なされている。",
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"text": "皇帝の称号は皇帝権から派生して、その模倣や僭称としても使用されるようになった。",
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"text": "東アジアにおいて「皇帝」号を最初に使用したのは、中華圏における国家である秦であり、その後も20世紀に至るまで多くの王朝の君主が皇帝を称した。皇帝は中華の歴史・思想と密接に関係している。",
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"text": "「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、伝説的な人類最初の王を意味している。中国の伝説で最初に中国(したがって天下)を支配したのは、三皇であるとされている。",
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"text": "その次に続くとされたのが、堯・舜などを含む五帝であるとされている。「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代ではこの意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する)だが、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で殷代に用いられるようになった。三皇と五帝は神格化された存在であると同時に、現世の支配者であると考えられていた。殷王は、祖先や山河などを神として崇めていたが、より上位の神を崇めることが生まれ、「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。殷末期の王に対しては帝乙や帝辛(紂王)など帝の字が用いられるようになった。",
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"text": "五帝のあとに続くのが「王」が支配する夏・殷・周の王朝であった。",
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"text": "周王は地上世界(すなわち天下)を治めるべく天命を受けた天子とされた。周の封建制の下で諸侯は領地(国)を治め、最高位の爵位は「公」が与えられた。しかし、周王朝が衰えると、南方の楚が、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになったとされる。しかし金文史料では西周時代から夨王・豊王・豳王など、周王以外にも王を称する存在があったことが確認されている。",
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"text": "紀元前323年には周王が天子であると宣言され、他の王に優越する存在であると確認され、実質的な最有力者であった斉の威王は「覇王」を称した。紀元前288年には秦の昭襄王が斉の湣王に対し、他の王を従えていることから互いに「帝」と称するよう呼びかけ、一時的に「帝」が使用されることもあった。",
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"text": "「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究からわかっている。王が君主号として用いられて以降は、后は君主に準ずる存在に対する称号となった。君主の妃や母親は君主に準ずる存在とみなされ、「皇后」は皇帝の妃、「皇太后」は皇帝の母親を意味することとなり、「后」は原義を離れて「きさき」の意味で固定化された。",
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"text": "紀元前221年、秦が中国の統一王朝となり、王であった嬴政は重臣らに「其れ帝号を議せ」と命じた。王を超える帝号は、当時の法家の間では広く求められており、『韓非子』では「五帝を越え三皇に等しい」存在の出現が待ち望まれており、丞相李斯は韓非と同門であり、嬴政も韓非の著作に傾倒した時期がある。重臣らは秦王の業績がかつての五帝をも上回る存在であるとして三皇に並ぶ存在としての「秦皇」の称号を提案した。しかしこれは受け入れられず、嬴政は「秦」の字を取って「帝」の字をつける「皇帝」という称号を自ら考案した。浅野裕一は嬴政の意図が「帝」の中の筆頭的な存在としての帝王号であったのに対し、重臣が「皇」扱いしたことを引き戻すためであったとしている。こうして「皇帝」の称号を名乗った嬴政は、最初の皇帝として『始皇帝』の名で呼ばれる。",
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"text": "秦において「皇帝」が五帝を超える存在であるとされたことには、五帝や王たちが封建制を廃せなかったのに対し、秦では郡県制を敷くことができたからとされている。",
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"text": "「朕」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は「朕」を皇帝専用の自称とした。他にも「制」・「詔」などの皇帝専用語も策定した。",
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"text": "始皇帝は自身から始めて二世皇帝、三世皇帝と続かせる意図であったが、反乱が相次いだため、秦の皇帝は2代15年で終わった。始皇帝から数えて3代目の嬴子嬰は、始皇帝死後の反乱によって中国全土を支配することができなかったため、単に「王」と称した。秦末・楚漢戦争期の群雄の多くは各地で「王」を称した。戦国時代の楚王の末裔である懐王は、諸王の盟主として扱われ、秦の滅亡後は「義帝」と呼ばれた。一方で最大の実力者であった項羽は「西楚の覇王」を称したとされる。",
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"text": "紀元前202年、楚漢戦争で項羽を倒した漢王劉邦は、配下の諸王から「皇帝」を称するよう献言された。劉邦は「帝は賢者の称号である」として再三辞退する動きを見せた後、漢の「皇帝」に即位した。ただし漢においては諸侯王を各地に封じる封建制が採用され、五帝を超える存在としての皇帝号としては扱われなかった。浅野裕一は、漢の皇帝が三皇五帝を始めとする帝王を超越した存在ではなく、継承者として扱われていたとしている。さらに劉邦は、一族や功臣を「王」として各地に封じた。これにより、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」は「皇帝」の略として広く使われるようになった。以後、歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。",
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"text": "戦国時代中期以降から天の代理人である「天子」は諸侯を率いる存在であるとされ、秦時代には余り用いられなかったが漢代に至って盛んに使用されるようになった。文帝は天人相関説を強調することで、皇帝が天からの代理人であり、「天子」であることを強調した。中華思想においては近代的な国境という概念はなく、周辺諸国の君主も「天子」である皇帝に従うべき存在であるとされた。周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。したがって皇帝の支配する国という意味での「帝国」という概念は存在しなかった。",
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"text": "唐代には、高宗が皇后武則天の影響で「天皇大帝」という別称を採用した時期もあったが、皇帝号は最後の王朝である清まで使用され続けた。",
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"text": "三国時代、中原を支配した魏のみならず、呉・蜀の君主もそれぞれ皇帝を称し、五胡十六国時代や五代十国時代など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。南北朝時代には2人以上の皇帝が同時に存在した。",
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"text": "軍事力に劣った北宋の皇帝は、北の異民族王朝である遼・金の君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と南宋に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。",
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"text": "日本においては、古代からの君主であった天皇と、外国の君主に対する称号として皇帝が用いられた。",
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"text": "古代の日本は、「天皇」号を和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は7世紀後半の天武天皇の時代からであり、道教などの文献から採用したという説が通説であるが、5世紀頃から「天王」号を用いており、「王」を「皇」と漢字を改めたという説もある。",
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"text": "701年の大宝律令の儀制令と公式令において、「天子」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている。「華夷」の意味については、「内国および諸外国」と解する説と「中国その他の諸外国」と解する説が対立していた。実際、律令を制定した文武天皇期に新羅国王に対して出された国書で「天皇」号が使用された事例がある。また『古事記』や『日本書紀』においては天皇の命令である「みことのり」に「詔」や「勅」の漢字があてられているが、これは中国において皇帝のものにしかあてられない漢字である。また自称として「朕」を用い、正妻の称号は「皇后」であるなど、中国皇帝と同じ用語を用いた。",
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"text": "天皇(すめらみこと)と異なる用法での尊号としては、758年に淳仁天皇が即位した際、譲位した孝謙天皇に「宝字称徳孝謙皇帝」、孝謙の父聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られている。また、翌年には淳仁天皇の父である舎人親王が「崇道尽敬皇帝」と追号されている。「文武天皇(もんむてんのう)」といった今日使われている漢風諡号は、聖武および孝謙(称徳)を除き8世紀後半に淡海三船が撰んだことに始まるため、その直後に完成した『続日本紀』では原則として巻名に天皇の和風諡号が用いられているが、孝謙天皇のみ巻第十八から巻第二十まで「宝字称徳孝謙皇帝」の漢風尊号で記載されている点で特異である。なお、重祚した巻第二十六から巻第三十では巻名に「高野天皇(たかののすめらみこと)」の和風の号が用いられている(重祚後の漢風諡号は称徳天皇)。",
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"text": "近世以降の西洋においては、日本に関する最大の情報源であるエンゲルベルト・ケンペル著の『日本誌』において、徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「聖職的皇帝」(教皇のようなもの)と記述され、両者は共に皇帝と見なされていた。その一年前に出版された『ガリバー旅行記』においても、主人公のガリバーが「江戸で日本の皇帝と謁見した」と記載されている。",
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"text": "安政3年(1854年)の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年(1858年)以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「日本国大君」から「タイクン(Tycoon)」と表記するようになった。一方で天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた。",
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"text": "慶応4年1月15日(1868年)、新政府が外交権を掌握すると、兵庫港で各国外交団に「天皇」号を用いるよう伝達し、外交団もこれに従った。しかし外国君主に対する「国王」号の使用が、外交団から反発を受け、「皇帝」号を使用するよう要求された。日本は「皇帝」は中国(清)の号であるから穏当ではないとし、各国言語での呼び方をそのままカタカナで表記する方針を提案したが、各国外交団はあくまで「皇帝」の使用を求めた。このままでは国家対等の原則から外国君主に対しても「天皇」号を用いなければならない事態に陥る可能性もあった。結局明治3年(1870年)8月の「外交書法」の制定で、日本の天皇は「日本国大天皇」とし、諸外国の君主は「大皇帝」と表記するよう定められた。",
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"paragraph_id": 31,
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"text": "明治7年(1874年)7月25日の太政官達第98号でこの方針は確認され、条約締結を行った君主国の君主は全て(国名は「○○王国」であっても)「皇帝」と呼称することが法制化された。ただし実際にはこの措置は王国に限られ、ルクセンブルク大公、モンテネグロ公、ブルガリア公、モナコ公等、公国の君主に対しては「大公」もしくは「公」と呼称されている。",
"title": "東アジアの皇帝"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ただし李氏朝鮮との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側を考慮し、「君主」や「国王」の称号を用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝と同様の用語を使用していた。日清戦争後、朝鮮が国号を大韓と改め、皇帝を称するようになると「皇帝」の称号が正式に使われるようになった。",
"title": "東アジアの皇帝"
},
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "しかし明治4年に清と締結された「日清修好条規」では両国の君主称号は表記されていない。これは清側が天皇号を皇帝すら尊崇する三皇五帝の一つ「天皇氏」と同一のものであるから、君主号とは認められないと難色を示したためであった。明治6年1月(1873年)頃から次第に外交文書で「皇帝」の使用が一般化するようになったが、これは対中国外交で「天皇」号を用いていないことが、再び称号に関する議論を呼び起こすことを当時の政権が懸念したためと推測されている。この時期以降、外国からの条約文などでも「Mikado」や「Tenno」の使用は減少し、「Emperor」が使用されていくようになった。",
"title": "東アジアの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "これ以降、天皇号の他に皇帝号の使用も行われ、民選の私擬憲法や元老院の「日本国憲按」などでも皇帝号が君主号として採用されている。また陸軍法の参軍官制や師団司令部条例でも皇帝号を用いている。政府部内でも統一した見解はなかったが、明治22年(1889年)の皇室典範制定時に伊藤博文の裁定で「天皇」号に統一すると決まり、大日本帝国憲法でも踏襲されている。伊藤は外交上でも天皇号を用いるべきと主張したが、同年5月に枢密院書記官長の井上毅が外務省に対して下した見解では、「大宝令」を根拠として外交上に「皇帝」号を用いるのは古来からの伝統であるとしている。井上は議長の指揮を受けて回答したとしているが、この当時の枢密院議長は伊藤である。この方針は広く知られなかったらしく、後に陸軍も同内容の問い合わせを行っている。",
"title": "東アジアの皇帝"
},
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"text": "大正10年4月11日の大正十年勅令第三十八号で外国君主を皇帝と記載する太政官達は廃止されたが、以降の条約等でも国王や天皇に対して皇帝の称が使用されている。",
"title": "東アジアの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "国内使用では殆どの場合が「天皇」号が用いられたが、「日露戦争宣戦詔勅」など一部の詔書・法律で皇帝号の使用が行われた。大正期までは特に大きな問題とはならなかったが、昭和期になると国体明徴運動が活発となり、昭和8年(1933年)には外交上も「天皇」号を用いるべきとの議論が起きた。外務省は条約の邦訳に対してのみ「天皇」号を用いるが、特に発表はしないことで解決しようとしたが、宮内省内の機関紙の記事が新聞社に漏れ、昭和11年(1936年)4月19日に大きく発表を行わざるを得なくなった。ただし、外国語においては従来どおりとされた。",
"title": "東アジアの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "朝鮮の高麗朝の草創期やベトナムの阮朝のように、中国王朝と冊封関係にあり、中国王朝に対しては王を称しながら、国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。五胡十六国時代など中国の統一王朝が存在しないかまたは弱体である時期には、契丹などの異民族国家において独自に皇帝を称することもあった。中国北部のモンゴル帝国(大元ウルス)ではクビライ以降「カアン(ハーン)」の称号が皇帝の称号とされた。クビライや帝国の開祖チンギス・カンは、漢文の諡号でも皇帝と称されている。カアンの地位はチンギス・カンの子孫によって継承され、1635年にエジェイが後金(清)に降伏するまで続いた。",
"title": "東アジアの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "近代に冊封体制が崩壊すると、君主制をとっていたアジア諸国でも皇帝を称する動きがあった。日本と清との間で下関条約が締結された後の1897年、朝鮮国(李氏朝鮮)が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を大韓帝国(1897年 - 1910年)とした。日本が中国東北部に建設した満州国においては、旧清帝国の皇帝であった溥儀が皇帝となった。また天津条約によってフランス領インドシナの支配を受けるようになった阮朝は、第二次世界大戦末期にベトナム帝国を宣言し、バオ・ダイが皇帝を称した。",
"title": "東アジアの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ナポレオン・ボナパルトが、1804年に国民投票によってフランス皇帝となるまで、長きにわたってヨーロッパにおける皇帝の称号は(若干の例外を除いて)「ローマ皇帝の後継者」としての称号であった。ヨーロッパ諸国で皇帝を意味する単語は、ローマ帝国の支配者の称号が起源である。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "帝政ローマの最高支配者となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)は、後世において最初の「ローマ皇帝」とされる。しかし、彼は建前としての共和政を遵守する立場であり、大きな権威と権力を手中にしながら、共和政下のローマでは伝統的にネガティブなイメージを帯びていた「王」の称号を採用せず、代わりに共和政時代から存在する官職や権限を一身に兼ねるという形をとっている。そのため、ローマ帝権は多数の称号を身に帯びることになった。中でも特に重要な称号が「インペラートル」「カエサル」「アウグストゥス」の3つである。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "インペラートル(imperator)は、英語の「エンペラー」(emperor)やフランス語の「アンプルール」(empereur)、トルコ語の「インパラトール」(imparator)の語源であり、皇帝と訳される称号のように認識されているが、そのまま当てはめることはできない。インペラートルの語源であるインペリウム(imperium)は「命令権」や「支配」を意味し、王政期には王権の一部だったが、共和政期には軍指揮権を意味した。インペラートルはこの語に由来し、「命令者」を意味する。そのため将軍を指す称号のひとつとなり、凱旋式に際しては兵士たちが将軍に呼びかける際の尊称として用いられた。したがって共和政期にはインペラートルが同時に複数存在することもあった。共和政後期になると意味が広がり、ローマの支配権や支配領域を指してインペリウムというようにもなった。このように、ローマのインペラートルとインペリウムは必ずしも君主制を前提としてはおらず、語源は同じでも「帝国の支配者=皇帝」に対して用いることを予定したものでもなかった。この特徴はローマ滅亡後の後代にも引き継がれ、皇帝のいない国を「帝国」と呼ぶ用法などが生まれることとなった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "カエサル(caesar)もまた皇帝の称号のひとつであり、ドイツやロシアなどで用いられた称号(カイザー、ツァーリ)の語源である。カエサルは、本来ユリウス氏族に属するカエサル家の家族名である。ここの出身であるガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官となり、その養子となりカエサル家を継いだオクタウィアヌス(アウグストゥス)によって帝政が開かれたことから、皇帝を表す名のひとつとなった。後のディオクレティアヌス帝の時代には「副帝」を意味する称号となり、正規の君主号となった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "アウグストゥス(augustus)は「尊厳者」を意味し、元はオクタウィアヌスに贈られた添え名である。権威的には重要な称号だが、命令権や血統とは直接関係ないものだった。しかしながらオクタウィアヌスがこの名を贈られた紀元前27年1月16日が歴史的に帝政開始の日とされること、以後すべての後継者が帯びる称号となったこと、インペラートルやカエサルと異なりローマ皇帝以外に保持者のいない称号であること、ディオクレティアヌス帝の時代には正規の皇帝号になったことなどから、ローマ皇帝を指す最も重要な称号として認識されている。また、単にアウグストゥスといえば前述の初代ローマ皇帝アウグストゥスを指す。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "またローマの皇帝崇拝や帝国主義は当初、キリスト教や王の中の王(唯一神)への信仰に対立していたが、313年の寛容令(ミラノ勅令)などを通して皇帝側とキリスト教側は深く結びついていった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、293年に広大な領土を東西に分け、2人の正帝と2人の副帝が共同で統治する四分治制(テトラルキア)を導入した。ここで「アウグストゥス」が正帝、「カエサル」が副帝の称号となった。以後、東西の帝国が統合したり分裂したりを繰り返し、395年に皇帝テオドシウス1世が没すると、テオドシウスの長男アルカディウスが帝国の東の正帝に、次男ホノリウスが帝国の西の正帝になった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
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"paragraph_id": 46,
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"text": "東西のローマ帝国における皇帝については以下で述べる。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)では「皇帝」の称号は、王朝の交代はあったものの、1453年に東ローマ帝国が滅びるまで代々受け継がれた。東ローマ帝国では、7世紀以降公用語がラテン語からギリシア語となった。「皇帝」を表す称号としては、元はアケメネス朝・サーサーン朝のシャーを指したギリシア語である「バシレウス(希: Βασιλεύς)」(バシレイオスと表記することもある。古典ギリシア語読み。中世ギリシア語の読み方ではヴァシレフス。なお古代ギリシャ時代には単なる「王」を示す単語だった)が用いられた(それまではラテン語の「インペラトル」「カエサル」「アウグストゥス」が引き続き使われていた)。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "これは、7世紀の皇帝ヘラクレイオスが628年にサーサーン朝ペルシャ帝国を降して首都コンスタンティノポリスへ凱旋した時に「キリスト教徒のバシレウス」と名乗ったことによる。この「バシレウス=シャー」には、「諸王の王」(ペルシャ語の「シャーハーン・シャー」、ギリシア語の「バシレウス・バシレオーン」)という意味を含んでおり、ローマ帝国の皇帝であると同時に「諸王の王」である、という宣言であった。これによって東ローマ帝国の皇帝は、古代のローマ皇帝とは異なって「君主」としての意味が強くなり、このことは西欧の皇帝にも大きな影響を与えた。またキリスト教化の進行によって、皇帝は「神の代理人」という位置付けがされ、宗教的にも大きな権威を持つ存在となった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "ただし一方で、帝位の正統性は「元老院・軍隊・市民の推戴」によって示される、という古代ローマ以来の原理も残され(例えば皇帝の即位式の際は、「軍隊が、民衆が、元老院が帝位に就けと要求しているのだ」、という歓呼がされた)、帝位は必ずしも世襲されるとは限らなかった。この辺りに東西の文明が融合した東ローマ帝国の特徴を見ることが出来よう。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "他に皇帝の称号としては「アウトクラトール(希: αὐτοκράτωρ 」(単独の支配者、専制君主を意味するギリシア語。既に6世紀からインペラートルに相当する称号として、ギリシア語版の勅令で使われていた)、「セバストス(英語版)(希: σεβαστός )」(尊厳なるもの。ラテン語のアウグストゥスに相当)などが用いられた。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "西ローマ帝国が滅亡した際、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返還していたため、西ローマ帝国の滅亡後は名目上、東ローマ皇帝がローマ帝国全土の皇帝であった。こうした経緯もあってか、一時はイタリアやイベリア半島の一部にまで及んだ東ローマ帝国の勢力が後退した後も、唯一の正統なローマ皇帝として単に「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」と名乗り、「東ローマ皇帝」という呼び方は使われなかった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "また、後にフランク王カールやブルガリア王シメオン、ドイツ(神聖ローマ帝国)の王たちが「ローマ皇帝」を名乗った際は、東ローマ皇帝は彼らを「皇帝」としては認めるが「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」としては認めない立場をとり、あくまでも自分だけが唯一のローマ皇帝であると主張した。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この他にも東ローマ帝国を一時滅ぼした第4回十字軍が建国したラテン帝国や、それによって亡命した東ローマの皇族達が建てたニカイア帝国・エピロス専制侯国・トレビゾンド帝国の君主も、東ローマの正統な後継者であることを示すために「皇帝」を称した(エピロスは一時期のみ)。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "亡命政権ニカイア帝国は1261年にラテン帝国を滅ぼし、ミカエル8世パレオロゴスがコンスタンティノポリスにおいて改めて皇帝に即位し、東ローマ帝国の復活を果たした。東ローマにおける皇帝権はこの後も継承されたが、国威はふるわず、15世紀には帝国は首都コンスタンティノポリスとわずかな属領だけに押し込められてしまった。1453年、オスマン帝国によってコンスタンティノポリスは攻略され、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは戦死、ここに、アウグストゥス以来約1500年にわたって受け継がれてきた「ローマ皇帝」の正統は消滅した(オスマン皇帝の中には、ローマ皇帝の継承者であるとして「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った者もいるが、一時的なものに終わった)。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "476年に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリアやイベリア半島の一部を東ローマ帝国が征服した。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "このため、西ヨーロッパ諸国やローマ教皇は、コンスタンティノポリスにいる皇帝の宗主権を認め、その臣下とならざるを得なかった(ヨーロッパにおいて、王が皇帝よりも格下であるという認識は、この時に生まれた)。ゲルマン人に布教を進めてローマ教会の勢力を拡大し、「大教皇」と呼ばれた6世紀末のグレゴリウス1世でさえも、それは同じであった。実際、7世紀の教皇マルティヌス1世のように、教義をめぐって対立した東ローマ皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処せられた者もいたほどであった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "しかし7世紀以降、東ローマ帝国はイスラム帝国やブルガリア帝国などの攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは聖像破壊論争などの教義の問題や、教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "797年、東ローマ帝国で皇帝コンスタンティノス6世の母エイレーネーがコンスタンティノスを廃位し、自ら女帝として即位するという事件が起きた。これを機に、ローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノスの廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」として、800年に国力の伸張著しいフランク王国の国王カールに「ローマ帝国を統治する皇帝」の称号を与えた。これがカール大帝である。ただし、カールは自分の皇帝位に満足せず(それまで、教皇から皇帝位が与えられるという前例はなかった)、東ローマ帝国に自分の皇帝位を承認してもらうための運動を粘り強く行った(5世紀の西ローマ帝国滅亡以前は、東西の皇帝は即位の際に互いに承認し合っていた)。その結果、812年になって、東ローマはカールを皇帝(ただし、「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」ではない)として承認した。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "以後、西ヨーロッパの皇帝は西ローマ皇帝の後継者、キリスト教の守護者の意味を持つようになる。また、本来ローマ皇帝は「元老院・市民・軍隊」によって選ばれるものだったのだが(東ローマ帝国では最後までその建前が守られた)、カール大帝の戴冠の経緯は、ローマ教皇が皇帝の任命権を主張する根拠ともなった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "カール大帝以降のフランク王による帝位の継承は1世紀余りで途絶えてしまっていたが、962年に東フランク王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネス12世から皇帝の冠と称号を受けた。ここに復活した帝国は、大空位時代を経ていわゆる神聖ローマ帝国となる(なお、実際の称号は「皇帝」や「尊厳なる皇帝」などであって、「神聖ローマ皇帝」と称したことはない)。以後、皇帝の称号を帯びるためにはローマ教皇の承認を得なければならず、それまでの帝国君主はローマ王を名乗った。時代が進むにつれ帝国は諸侯の緩い連合体に変化し、皇帝の権力も弱まっていった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1356年にカール4世は金印勅書を発布し、選帝侯がローマ王、ひいては皇帝を選出するようになり、ローマ教皇の干渉を受けなくなるようになった。1438年にハプスブルク家のアルブレヒト2世が選出されてからは、女性当主のマリア・テレジアの例外を除いてハプスブルク家が皇帝位を独占するようになり、皇帝は帝国の最有力諸侯であるオーストリア大公のハプスブルク家が帯びる名誉称号に近いものになった。特に三十年戦争以後は、各諸侯領はほとんど独立国家同然となり、皇帝とは名ばかりの存在になっていった。この頃には「ドイツ人の帝国」もしくは単に「帝国」と名乗ることも多かった。皇帝も、ローマ皇帝ではなくドイツ皇帝と称するようになる。1806年、フランツ2世が帝国の解散を宣言して、神聖ローマ帝国は名実共に滅びた。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "フランスでは、フランス革命によって共和政が成立した後、1804年にナポレオン・ボナパルトが議会の議決と国民投票によって、「フランス人の皇帝ナポレオン1世」となった。「皇帝」号の採用は、革命によって廃された「国王」号の忌避の他に、古代ローマの皇帝が共和政下の市民によって推戴された点を踏まえたものといえる。このときに「西ローマ帝国の継承国家は神聖ローマ帝国である必要もなく、皇帝がドイツ人である必要性もないという当然の事実」が明らかになり、神聖ローマ帝国を支える帝国議会に代わりライン同盟が結成された。ナポレオンの皇帝即位を神聖ローマ皇帝フランツ2世は承認し、さらに自らは神聖ローマ皇帝位から退位し、神聖ローマ帝国を解散し、「オーストリア皇帝フランツ1世」を名乗った。ナポレオンはオーストリア皇帝を承認した。これはハプスブルク家が名乗る神聖ローマ皇帝位が単なる名誉称号と化していた事実の反映であるとともに、ハプスブルク家がハンガリーなど神聖ローマ帝国の領域外に支配領域を広げ、強固な「ハプスブルク帝国」を築き上げていた事実の反映でもあった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ナポレオンのフランス皇帝即位とフランツ1世のオーストリア皇帝即位により、ヨーロッパに複数同時に存在することが受け入れられたことで、カール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。これにより、西ヨーロッパの伝統的な理念に基づく皇帝は消滅し、ナポレオンが没落した後も蘇ることはなかった。これと前後して、西欧からは単なるロシアの大公とみなされていたロシア皇帝も、西欧諸国からも正式に皇帝とみなされるようになったが、「東ローマ帝国の後継者」という元来の意味は忘れ去られた(ロシアの君主が皇帝を名乗る経緯は後述)。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "19世紀には皇帝ナポレオンにならって、中南米に新興の皇帝が生まれた。ハイチでは1804年の独立時にジャン=ジャック・デサリーヌが、1849年にはフォースティン=エリ・スールークがそれぞれハイチ皇帝に即位し、特にスールークはクーデターで打倒されるまで「フォースティン1世」として圧政を敷いた。メキシコではアグスティン・デ・イトゥルビデが1822年に皇帝に即位したが、翌年に廃位された。1864年にはハプスブルク家のマクシミリアン大公が、メキシコへ干渉したフランス皇帝ナポレオン3世によってメキシコ皇帝マクシミリアン1世に担ぎ上げられたが、在位わずか3年で革命軍によって捕らえられ、処刑された。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ブラジルでは、1831年にポルトガル王ジョアン6世の王太子でブラジル摂政だったペドロが、ポルトガルから独立したブラジル帝国の皇帝ペドロ1世となった。ブラジルの帝政は中南米の他の「帝国」とは異なり半世紀以上にわたり持続したが、1889年、第2代皇帝ペドロ2世の時に革命が起き、共和制になった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパでは1852年から1870年まで、ナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝ナポレオン3世を称し、帝政を敷いた(フランス第二帝政)。また1871年には、オーストリアを除くドイツを統一したプロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝を兼ね、ドイツ帝国が成立した。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦の終結と共に、敗戦国であったドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア帝国とハンガリー王国が共通の君主としてオーストリア皇帝=ハンガリー王を戴き、軍事・外交・財政のみ共通の政府が管掌する体制)では革命が起きて帝政が倒れた。また後述するオスマン帝国やロシア帝国でも、革命によって帝政が崩壊したために、ヨーロッパには皇帝が1人もいなくなり、ローマ帝国以来のヨーロッパにおける皇帝の歴史は幕を閉じた(インド皇帝を兼ねていたイギリス国王は唯一の例外であったが、こちらも1947年のインド独立により有名無実化した)。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "この地域の皇帝概念は東ローマ帝国を経由してローマ帝国のそれを受け継いだものである。前述のように東ローマ帝国では皇帝は「バシレウス」(「王」の意)と称し、「カイサル」(ラテン語のカエサルに由来)は副皇帝を示す言葉だったが、東ヨーロッパのスラヴ系の言語では聖書に出てくる賢人や東方の君主などの称号として用いられるとともに、善良な王を指す言葉として「カエサル」由来の「ツァーリ」を用い、東ローマの皇帝をツァーリと呼んでいた。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "東ローマ帝国以外では、920年にブルガリア王シメオンが東ローマ帝国征服を狙って「ブルガリア人とローマ人の皇帝(ツァーリ)」を称し、以後、第一次ブルガリア帝国(920年 - 1018年)と第二次ブルガリア帝国(1188年 - 1396年)を通じて「皇帝」という称号が使われた。また14世紀のセルビア王国の王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンも東ローマ帝国の征服を企図して、1345年に「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、翌年にはセルビア帝国(1346年 - 1371年)の皇帝として即位した。なお、「ツァーリ」の称号は近代ブルガリア王国においてフェルディナントが復活させたが、これは通例「王」として扱われる。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "デューカ・アレクサンドル・ウラジーミロヴィチの学術論文(2017年)では、現代のロシア系エリートたちの間の皇帝主義的見解とその実践が検証されている。同論文によると、ソビエト連邦崩壊からの「ソビエト後」(ポストソビエト “постсоветская”)的なロシアでは、1991年~1992年に君主主義者や帝位請求者らが新興エリートたちと交友した。(新興財閥(オリガルヒ)も参照。) その後、ロマノフ家(キリロヴィチ家)における一部の集団が政権に接近し、政治と経済の再結合(統制経済)、ロマノフ朝の記念日などの帝国的な権威化、ロシア正教会の活発化などが進んだ。2014~2015年では、ウクライナとの紛争とクリミア併合に関して、国民と政治勢力が動員された。2016年では、皇帝制の復活を政府だけでなく一般市民も議論するようになり、君主たちに関するプロパガンダ的な記念碑がロシアの諸都市に置かれるようになった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "マシュー・ブラックバーンの学術論文(2020年)では、皇帝制と反民主主義との関連が研究されている。ブラックバーンは「想像の国家」(“imagined nation”)という観点から、都市部のロシア人が国家や指導者の政治的形態をどう捉えているかを研究した。研究手法は、ロシアの3つの都市における約100件の聞き込み(インタビュー)調査とその分析である。回答者たちの中には、国家が非民主化を通して「より『思いやりがある』上に『効果的』な統治様式」になることを称賛する傾向があった。その「統治様式」には、指導者に最高権力(主権)を委任して物事を解決してもらうという考えが伴っている。ある回答者によると、「ロシア人は彼〔プーチン〕を皇帝として見ている」のであり、ロシア人という本質的な君主主義者らは西側的な民主主義を持てないのだと言う。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ブラックバーンの論文いわくロシアには、想像上の「親プーチン」社会を支えている以下の三本柱があると考えられる。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ここには「内面的なオリエンタリズム」(“internal orientalism”)も関わっている。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "15世紀に北東ルーシの統一を進めつつあったモスクワ大公国のイヴァン3世は、それまでビザンツ皇帝に対して用いられていた称号「ツァーリ」を自称し始めた。ツァーリとはラテン語のカエサルに由来する。1453年にオスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされると、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪ソフィア・パレオローグと1472年に結婚し、東ローマ帝国の紋章「双頭の鷲」も使い始め、モスクワが東ローマ帝国の後継者であることを位置付けた。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "その後、イヴァン3世の孫イヴァン4世は、1547年にツァーリとしての戴冠式を執り行い、「ツァーリ」の称号が正式に用いられ始めた。この頃から、モスクワ大公国はロシア・ツァーリ国という名称を用いるようになった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
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"text": "ただし、それ以前にルーシの人々は、モンゴル帝国の皇族バトゥが創始したジョチ・ウルス(1224年 - 1502年)のハンをも「ツァーリ」と呼んでいた。モスクワ大公の「ツァーリ」称号の主張は、東ローマ皇帝の後継者としての意味合いと同時にジョチ・ウルスの支配の継承を意図するものであったと見る説もある。イヴァン4世は1576年、皇子(ツァレーヴィチ。当時のロシアの用語例では、ハンの血を引くモンゴル系貴族のこと)シメオン・ベクブラトヴィチに一度ツァーリ位を譲った後、再び自身が譲位を受けるという行動を取るが、この説に立つ人々は、これをハン(ツァーリ)の後継者としての宣言であったと解釈している。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
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"text": "ピョートル1世は1721年に西欧式の「インペラートル」の称号を用い始め、国号を正式にロシア帝国としたが、ロシアの君主は以後も「ツァーリ」の称号を併用した。あくまで自称であり、西欧諸国からは皇帝とは認められなかったが、前述の通り「ローマ皇帝の後継者が皇帝を名乗るという建前」が西欧において消滅した頃には、ロシア皇帝も東ローマ帝国の帝位の後継者という意味が忘れ去られた格好で、西欧諸国からも正式に認められるようになった。",
"title": "ヨーロッパの皇帝"
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"title": "ヨーロッパの皇帝"
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"text": "ヨーロッパと東アジアの直接交流は、ローマ皇帝アントニヌス・ピウス(またはマルクス・アウレリウス・アントニヌス)が漢の皇帝に使者を送ったのが最初であり、この際に漢の側ではローマ皇帝のことを「大秦王安敦」と記した。その頃の中国は「皇帝は地上に一人のみ」の時代であり、ローマ皇帝であっても王扱いであった。またローマ帝国の側でも当時は「元首政(プリンキパトゥス)」の時代であり、ローマ皇帝が王より格上であるいう認識、さらには君主であるという認識すら存在しなかった。",
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"text": "後に江戸時代の新井白石が、著書『西洋紀聞』において、「インペラドールは漢の帝というのに似ている。レキスは漢の王に似ている。」と記述した。ヨーロッパの皇帝と王を、前漢の郡国制における皇帝と諸侯王となぞらえて、ヨーロッパの皇帝を、東アジア的な意味での「皇帝」と同格のものとみなしたわけである。ただ白石の場合、日本の天皇も中国の皇帝と同格と見なしており、その自らの思想に裏付けを与える意味でも、中国の皇帝と同格の存在が他にもいたほうが都合がいい、という事情もあったものと思われ、実際に『西洋紀聞』には「インペラドール」は複数存在する事が述べられている。",
"title": "ユーラシアの皇帝"
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"text": "イスラム化以前にメソポタミア・イランを支配したアケメネス朝・サーサーン朝のシャーにも「皇帝」という訳を用いられることがある(日本では「王」「大王」「帝王」といった訳が用いられることの方が多いようである)。パルティアやペルシアの君主は「諸王の王」という称号を用い、他の「王」より格上であると称していた。",
"title": "その他の地域の皇帝"
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"text": "イスラム世界の君主には様々な称号があるが、その中で巨大な領域を支配していたカリフ(本来は信徒代表の意味であり、トルコ革命でも世俗君主であるスルタン位は革命時に即座に奪われたが、カリフ位は皇族追放まで奪われなかった)スルタン、シャー(パーディシャー)に「皇帝」の訳をあてることが多い(ただし現代においてブルネイやオマーンなどの君主がスルタンを称する国の場合、通常は「国王」と訳される)。これに対して、マリクには「王」、アミールには「首長」の語が定訳とされ、「皇帝」と訳されることはあまりない。アミールの上位号には大アミール、アミール・アル=ムスリミーン、アミール・アル=ムウミニーンがある。",
"title": "その他の地域の皇帝"
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"text": "オスマン帝国では、第3代君主ムラト1世の時代にスルタン号を称するようになったが、オスマン帝国の歴史記録によると「パーディシャー」(ペルシャ語由来で皇帝の意)を称する場合が多かった。また、東ローマ帝国を滅ぼしたメフメト2世や最盛期の皇帝であるスレイマン1世は、東ローマ皇帝の後継者を自任し「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝、「カイセリ」は「カエサル」の意)という称号を用いた、と言われている。",
"title": "その他の地域の皇帝"
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"text": "なお、独裁的強権で知られるトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、かつてのオスマン帝国の「皇帝」(スルタン)にも似た「現代の皇帝」を意図していると、ベイルート筋は指摘している。近年の反ヨーロッパ的な愛国主義の底には、帝国への郷愁的感情が根強く存在しているという。",
"title": "その他の地域の皇帝"
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"text": "イギリスの王は、ムガル帝国を滅ぼしてインドを植民地にした際、インド帝国の皇帝を兼ねる形をとった。このインド皇帝位はインド独立時に返上された。なお、イギリス帝国とは、16世紀から20世紀半ばまでのイギリスの広大強力な支配圏を指したもので、インド皇帝位に直接由来するわけではない。古代インドにおいては直訳すると大王となるマハーラージャが用いられ、グプタ朝等において、直訳すると「大王の王」となる独自の皇帝号「マハーラージャディラージャ」も存在していた。",
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"text": "ヨーロッパ人が訪れる以前に中南米の先住民が築いた国家のうち、インカ帝国とアステカ帝国は、いくつかの諸国を征服・支配し、広大な領土を持ち、国家連合・連邦のようなものを形成しており、それぞれ「帝国」と呼ばれている。従ってインカ帝国の君主「サパ・インカ」とアステカ帝国の君主には、「皇帝」の語が当てられている。しかし、インカ帝国は南米大陸太平洋側の広大な地域を支配したが、アステカの場合は広大と言っても現在のメキシコの領域内に過ぎず、またトラスカラ王国という同格のライバル国家も存在したことから、「アステカ王国」と呼ばれることも多々あり、その場合は君主も「アステカ王」と呼ばれる。",
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"text": "古くは古代エジプトの時代まで遡ることができる。エジプト王は「ファラオ」と呼ばれ、その権威は神から付与された神聖不可侵のものとされ、絶対的な専制皇帝であると共に最高神官も兼ねていた。また、西アフリカのガーナ、マリ、ソンガイの各君主を「皇帝」と訳すことがある。「王」とすることも多い。",
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"text": "エチオピアでは皇帝(ネグサ・ナガスト=「諸王の王」「王の中の王」)が専制君主として統治していた。日本の皇室より古い皇室として知られていたが、1974年にハイレ・セラシエ1世が革命で廃位された。現在は代々アメリカ合衆国に居住しながら皇太子位を世襲している。",
"title": "その他の地域の皇帝"
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"text": "また中央アフリカ共和国の大統領だったジャン=ベデル・ボカサ(ボカサ1世)が1976年に皇帝を称し、国名を中央アフリカ帝国としたが、1979年のクーデターにより皇帝ボカサは失脚し、中央アフリカは共和制に復帰した。",
"title": "その他の地域の皇帝"
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"text": "神話的物語において高度に優れた主人公(英雄)は、「皇帝」としての役割を持っていると比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルは言う。「父」的存在から、または「一なる存在者」から祝福された主人公が、その代理役を果たすこともある。黄帝やモーセのように主人公は、皇帝(もしくは師)として人々のあいだへ帰ってくる。ゾロアスター教支配下のペルシアについての伝記の場合、黄金時代を築いた皇帝(ジャムシード、インド神話でいう閻魔大王)は、「唯一の世界君主」と称されている。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"text": "一神教では唯一神が「唯一の皇帝」、「王の中の王」、「全人類の皇帝」等とされている。『旧約聖書』(ユダヤ教聖書)から連なる一神教にとっては、唯一なる神が「宇宙で唯一の正当な王者」であり、人間は神だけを崇拝するべきである。神以外の権力や金銭収集は、神の「排他的絶対性」に背くことであり、偶像崇拝に他ならないと糾弾される。イスラームを例に取れば、神以外への崇拝や商業利益追求は、「偶像崇拝」であり、ジャーヒリーヤ(宗教的な「無知」)である。特に近代のイスラーム主義運動は、「偶像崇拝」やジャーヒリーヤを、無知というより「野蛮」として敵視している。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"paragraph_id": 92,
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"text": "唯一神(=ヤハウェ)は「王の中の王・諸王の王 (king of kings)」と見なされている。これは、ペルシアやゾロアスター教におけるシャー・ハン・シャー(=王の中の王・皇帝)から影響されている。唯一神は「真の皇帝 (the true emperor)」、「天の主 (lord of heaven)」、「天の王 (king of heaven)」とも呼称される。旧約聖書の預言者イザヤに従えば、「王の中の王 (a king of kings)」や「皇帝 (an emperor)」とは唯一神である。カール・F・ヘンリーの研究では、旧約聖書は唯一神を「イスラエルの至高王 (Israel’s superlative king)」かつ「宇宙と歴史の唯一の主権者 (sole sovereign of the universe and of history)」として描いている。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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{
"paragraph_id": 93,
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"text": "唯一神(イエス・キリスト)は「宇宙の元首 (the head of the universe)」という呼称もされる。宗教学では、『ヨハネの黙示録』に関連する「唯一神」と「皇帝」の呼称を、以下の表として比較している。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"text": "このような類似性が存在する『黙示録』では、唯一神は皇帝である、または「唯一神だけが皇帝を超える価値がある (God alone is worthy above the emperor)」、とされている。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
},
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"text": "『黙示録』は、皇帝(アウグストゥス)の称号としての「神 (god)」、「主 (lord)」、「救世主 (savior)」を否定している。それらの称号は皇帝ではなく、「唯一神のみに属している (belong only to God)」というのが『黙示録』の主張である。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"text": "しかし、ここには基本的問題があると見られている。『黙示録』が反帝国主義的であること、「皇帝制 (imperial system)」に反対していることは疑われていないが、これは帝国主義的支配者を唯一神に置き換えているに過ぎないとも言える。スティーブン・ムーアが述べたように「黙示録は、ローマ帝国イデオロギーに向かって熱烈に反抗してはいるが、逆説的にどこまでも、そのイデオロギーの言葉遣いを刻みつけ直している (Revelation, though passionately resistant to Roman imperial ideology, paradoxically and persistently reinscribes its terms.)」。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"text": "考古学者の浅野和生は「ローマ帝国がなくては,キリスト教という宗教は絶対に生まれることはなかったに違いない」と記しており、この点については文学博士・哲学研究者の谷口静浩も自著で同意している。宗教史学書『諸宗教の歩み:事実と本質のあいだで』の中での谷口いわく、諸民族を超える「唯一の皇帝」というローマ帝国の理念が、諸民族を超える「唯一の神」というキリスト教の教えと融和・協調したことで、キリスト教は「最終的に他の諸宗教にたいして勝利した」。宗教史学博士の山形孝夫によれば、ローマ皇帝(コンスタンティヌス)が主張した世界平和の基盤は",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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{
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"text": "だった。同時期のローマ帝国内に存在していたキリスト教は、世界はイエス・キリストにおいて「一つ」に結ばれると考えてきた。それは普遍的に人類を「救済」する単一共同体の概念であり、例えば『新約聖書』には",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"text": "などと記述されている(『ガラテヤの信徒への手紙』)。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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{
"paragraph_id": 100,
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"text": "世界史の転換期において、ローマ帝国主義とキリスト教は「一致」していった。もともと皇帝崇拝において「皇帝こそはキリスト〔救い主〕である」とされているのに対し、キリスト教徒は「イエスこそはキリストである」と信仰告白し続け、これがかつてのローマ帝国でキリスト教徒が弾圧された主な原因だった。しかし帝国で寛容令(ミラノ勅令)が313年に布告され、392年にはキリスト教が国教化された。山形によれば、こうしてキリスト教とナショナリズム(国家主義)が深く結びついていったのであり、この結びつきがキリスト教の行く末を「歪めた」ことは歴史的事実だと言う。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "唯一神(=アッラーフ)とは\"badushāh\"であり、「皇帝 (Emperors)」、「王の中の皇帝 (the king of kings)」、「全ての統治領の主 (the Lord of all kingdoms)」であると言われる。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "アッラーフが皇帝である理由は、「アッラーフの他に女皇は無いため (for there is no king except Allah)」である。真の皇帝は唯一神のみであり、唯一神は「全人類の皇帝 (Emperor of all mankind)」、「審判者の中の審判者 (Judge of judges)」だという。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "大日本帝国が存在した時代では、日本の「皇帝(the emperor)」が「唯一神として(as God)」見なされたり、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった。(一神教では、唯一神は「皇帝(Empepror)」・「唯一の皇帝(sole emperor)」とも説かれる。)例えば、東京帝国大学の比較宗教学者だった加藤玄智は、天皇は「日本人にとって、ユダヤ人が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
},
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"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "『日本大百科全書』によると、明治維新・王政復古によって祭政一致が政治理念の基本とされ、天皇は国の「元首」かつ神聖不可侵な「現人神」とされた。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の神観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた。天皇は「絶対的真理」と「普遍的道徳」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された。東アジア学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの唯一神、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
},
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"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、イスラームへ命令が下されることもあった。例えば大日本帝国は、ジャワ島のムスリムたちへ「メッカよりも東京に礼拝し、日本皇帝を唯一神として礼賛せよ、という日本軍の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
},
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"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "現代推論されるところでは加藤玄智は、西洋の絶対神が合理主義で批判されないことを見て、天皇を絶対神と同様に説明した言論を広め、批判を封じようとした。しかし、西洋人からすればモンゴル人種または「黄色い猿」である天皇が、日本人によって絶対神と同一視されていることが、西洋で驚かれ嫌悪された。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"paragraph_id": 107,
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"text": "戦時中には、「天皇総帝論」がもてはやされるようになった。「天皇総帝論」とは当時、「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末の国学者・大国隆正が唱えた議論である。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった。第二次世界大戦に至る中で、「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
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"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "等であると認識されていった。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した。",
"title": "神話・宗教・伝統の皇帝"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "スポーツ界では一流、特に世界最強クラスで圧倒的な実力を持ち君臨する選手に、歴史上当該選手の母国に皇帝がいた場合、尊敬と畏敬の念を込めて「皇帝」との愛称が付く場合もある。",
"title": "俗称として"
}
] |
皇帝は、帝国君主の総称。王の中の王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には「唯一神」の意味や模倣・僭称も存在し、一神教では、人間が崇拝すべきは唯一神という「唯一の皇帝」・「宇宙で唯一の正当な王者」・「全人類の皇帝」のみであるとされている。 キリスト教圏における「唯一の神、唯一の皇帝」という理念は、キリスト教がローマ帝国主義と融合し国教化していった歴史から大きく影響されている。ロシアでは1990年代初期以降、皇帝制の復興を目指す運動やプロパガンダが活発化しており、大統領が皇帝(ツァーリ)になることを望む人々が都市部で増加している。現代まで在位が続くイスラーム系君主号「スルタン Sultan」は、権威・専制的意味があり、「皇帝 Emperor」とも訳される。「皇帝」(スルタン)の復権を目指す運動は、イスラーム帝国主義(新オスマン帝国主義)と同調している。日本では「皇帝」と「天皇」が併用されていたが、1936年(昭和11年)には「天皇」に統一された。
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{{Otheruses|君主の称号|中国における称号・地位|皇帝 (中国)|唯一神の像|皇帝 (像)|その他}}
{{複数の問題|出典の明記=2019年5月|脚注の不足=2018年6月}}
'''皇帝'''(こうてい、{{lang-en|[[エンペラー|emperor]], [[キング・オブ・キングス|king of kings]]<ref name=kenkyuusha_shinwaei>{{Cite book|和書|title=研究社 新英和大辞典|edition=第6版第1刷|author=竹林滋編|page=1356|publisher=研究社|year=2002|isbn=4767410266}}</ref>, [[王|the King]]{{Sfn|國廣、安井、堀内|2020|p=「king」}}{{Sfn|Dictionary.com, LLC|2020|p="king"}}}}、{{lang-de|[[カイザー|Kaiser]]}}、{{lang-la|[[インペラトル|imperator]]}}、{{lang-ru|[[ロシア皇帝|император]], [[ツァーリ|царь]]}}、{{lang-el|[[アウトクラトール|αὐτοκράτωρ]], [[バシレウス・バシレオーン|Βασιλεὺς βασιλέων]]}}、{{lang-zh|[[皇帝 (中国)|皇帝]]}})は、[[帝国]][[君主]]の[[総称]]{{Sfn|黒田|尾形|加藤|樺山|2005|p=238}}。[[諸王の王|王の中の王(諸王の王)]]、[[君主国]]の君主の称号<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%B8%9D-62783#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「皇帝」の項。]</ref>{{Efn2|[[1977年]]に出版された『[[大日本百科事典]]:ジャポニカ』では、皇帝は[[帝国]]の[[世襲]]の[[君主]]とされている<ref>{{Cite book|和書|title=大日本百科事典:ジャポニカ|edition=第2版20刷|editor=相賀徹夫|author=山田統|volume=7巻|page=214|publisher=小学館|year=1977}}</ref>。}}。皇帝という[[君主号]]には「[[唯一神]]」の意味や<ref name=kenkyuusha_shinwaei/>[[模倣]]・[[僭称]]も存在し<ref name=britannica_micro875/>、一神教では、人間が崇拝すべきは唯一神という「[[唯一の皇帝]]」{{sfn|Fiddes|2000|p=64}}・「宇宙で唯一の正当な[[王|王者]]」{{sfn|ブルマ|マルガリート|2006|p=166}}・「全人類の皇帝」<ref name=tawheed/>のみであるとされている{{sfn|ブルマ|マルガリート|2006|p=166}}。
{{See also|唯一の皇帝|唯一の神|[[諸王の王|王の中の王(諸王の王)]]|[[神の帝国|神の帝国(神の王国)]]|[[千年帝国|千年帝国(千年王国)]]|神寵帝理念|[[皇帝#神話・宗教・伝統の皇帝|神話・宗教・伝統の皇帝]]}}
[[キリスト教]]圏における「唯一の神、唯一の皇帝」という[[理念]]は、キリスト教が[[ローマ帝国主義]]と[[政治的シンクレティズム|融合]]し[[国教]]化していった歴史から大きく影響されている{{Sfn|池上|山形|2011|pp=171-172}}{{Efn2|{{詳細記事|皇帝#キリスト教}}}}。[[ロシア]]では1990年代初期以降、[[皇帝制#用語|皇帝制]]の復興を目指す[[社会運動|運動]]や[[プロパガンダ]]が活発化しており{{Sfn|Vladimirovich|2017|p=316}}、[[ロシア連邦大統領|大統領]]が皇帝([[ツァーリ]])になることを望む人々が[[都市部]]で増加している{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}{{Sfn|Blackburn|2020|pp=23-24}}{{Efn2|{{詳細記事|皇帝#ロシア(東ヨーロッパ・ユーラシア)}}}}。現代まで在位が続く[[イスラーム]]系君主号「[[スルタン]] Sultan」は、権威・[[専制]]的意味があり、「皇帝 Emperor」とも訳される{{Sfn|Steingass|1993|p=504}}{{Sfn|Akdikmen|2006|p=106}}。「皇帝」(スルタン)の復権を目指す運動は、[[イスラーム帝国主義]]([[新オスマン帝国主義]])と同調している{{sfn|佐々木|2017|p=1}}。日本では「皇帝」と「[[天皇]]」が併用されていたが、[[1936年]](昭和11年)には「天皇」に統一された<ref name=daijirin>{{Cite book |和書 |editor=松村明|editor-link=松村明 |year=2006 |title=[[大辞林]] |edition=第三版|page=1758 |publisher=[[三省堂]] |isbn=4-385-13905-9 }}</ref>(現代英語での「天皇」は“emperor”{{sfn|竹林|2002|p=797}}、“Emperor of Japan”{{sfn|Weblio|2020|p=「Emperor of Japan」}}、“tenno”等{{sfn|渡邉|Skrzypczak|Snowden|2003|p=1822}})。
== 概要 ==
{{See also|皇帝制|帝国}}
「[[王の中の王]]」としての皇帝は、[[王権]]の範囲が[[共同体]]や[[部族]]、[[氏族]]連合を越える帝国と結びついており、[[国際関係]]を帝国の[[秩序]]に組み込む[[観念]]と不可分と言える<ref name=sekaidaihyakka>{{Cite book|和書|title=世界大百科事典|edition=改訂新版|editor=下中直人|author=渡辺金一|volume=9巻|page=541|publisher=平凡社|year=2007}}</ref>。「[[帝国主義]]」という言葉の語源は「[[皇帝国家]](インペリウム imperium)」であり{{Sfn|吉家|2019}}、[[中西治]]の学術論文によれば、インペリアリズム(帝国主義)は19世紀末頃まで「プラスのシンボル」だった{{Sfn|中西|2005|p=92}}。インペリアリズムの日本語訳は国家や[[訳者]]によって[[政治]]的に異なり{{Sfn|中西|2005|pp=97-98}}、「帝国主義」{{Sfn|竹林|2002|p=1231}}<ref name="imperialism">https://ejje.weblio.jp/content/imperialism</ref>・「帝政」{{Sfn|竹林|2002|p=1231}}・「帝制」<ref name="imperialism"/>・「皇帝制」{{sfn|淡路|1980|p=104}}・「皇帝制度」などと訳されている{{Sfn|大澤|2006|p=51}}。"{{lang|en|imperialist}}"は「帝国主義者」・「皇帝支持者」・「帝政主義者」など{{Sfn|金|1994|p=259}}{{Sfn|竹林|2002|p=1231}}。
「[[王]]」に対して皇帝は、いくつもの[[異民族]]を包括する普遍的な[[国家]]の[[首長]]である<ref>{{Cite book|和書|title=大日本百科事典:ジャポニカ|edition=第2版20刷|editor=相賀徹夫|author=山田統|volume=7巻|pages=214-215|publisher=小学館|year=1977}}</ref>。皇帝は本来、一つの[[部族]]・[[民族]]の首長としての王より上位の、普遍的支配者と考えられた<ref name=britannica_micro875>{{Cite book|和書|title=[[ブリタニカ国際大百科事典]]:小項目事典|volume=2巻|author=フランク・B・ギブニー編|year=1993|edition=第2版改定版|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]|page=875}}</ref>。ただし、漢字の「王」や英語の“king”(キング)が帝王・皇帝を指すこともあり{{Sfn|松村|2020|p=「王」}}{{Sfn|國廣、安井、堀内|2020|p=「king」}}、特に先頭の“k”が大文字である“the King”(ザ・キング)は、唯一神(God)・王の中の王・皇帝なども指す{{Sfn|國廣、安井、堀内|2020|p=「king」}}{{Sfn|Dictionary.com, LLC|2020|p="king"}}{{Sfn|Macmillan Education Limited|2020|p="king"}}。例えば「ザ・キング・オブ・イングランド」(the King of England)は、「[[英国皇帝]]」とも訳される<ref name="皇帝=the King">{{Cite web|和書|url=https://ejje.weblio.jp/sentence/content/%E7%9A%87%E5%B8%9D+%22the+King+of+England%22 |title=「皇帝 "king of England"」 |accessdate=2020-09-04}}</ref>。
[[ヨーロッパ]]における皇帝の概念は、その語源が[[古代ローマ]]の[[元首]]の称号「[[インペラトル]]」(imperator)および「[[カエサル]]」(caesar)であるように、古代ローマ帝国の[[元首政治]]との結びつきによって生まれた<ref name=japonica215>{{Cite book|和書|title=大日本百科事典:ジャポニカ|edition=第2版20刷|editor=相賀徹夫|author=山田統|volume=7巻|page=215|publisher=小学館|year=1977}}</ref>。[[中国]]では[[秦]]の[[始皇帝]]から、[[中国歴朝|歴朝]]の[[天子]]の[[尊号]]として用いられた<ref name=japonica215/>。始皇帝の創始した「皇帝」は東アジアの他地域に拡大・継承され、日本の天皇も、こうした概念拡大の系統に属する<ref>{{Cite book|和書|title=[[ブリタニカ国際大百科事典]]:小項目事典|volume=2巻|author=フランク・B・ギブニー編|year=1993|edition=第2版改定版|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]|page=876}}</ref>。日本の天皇号は、中国を統一した[[隋王朝]]の国際秩序の中で、[[三国時代 (朝鮮半島)|朝鮮半島の三国]]との国際関係から自らを「[[大国]]」と位置づけることによって成立したとされる<ref name=sekaidaihyakka/>。
[[女性]]の皇帝を「女皇」や「女帝」と言う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B3%E7%9A%87-534483#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「女皇」の項。]</ref>。「女帝」は女性の皇帝・帝王・天皇、[[女王]]などの君主を指す<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B3%E5%B8%9D-534976#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「女帝」の項。水谷類 『日本大百科全書』 小学館、2016年、「女帝」の項。]</ref>。皇帝、天皇の[[配偶者]]は「[[皇后]]」<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%90%8E-61993#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「皇后」の項。]</ref>、「皇妃」<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%A6%83-497208#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「皇妃」の項。]</ref>。
なお「諸王の王」(king of kings)や皇帝(emperor)は、[[唯一神]]([[ヤハウェ]]・[[イエス=キリスト]]・[[アッラーフ]])をも意味し<ref name=kenkyuusha_shinwaei/><ref>
*{{Cite book|title=A General History of the Catholic Church: From the Commencement of the Christian Era until the Present Time|volume=Vol. I|author=M. L'Abbe J. E. Darras|pages=172-173|publisher=New York: P. O'Shea|year=1867}}
*{{Cite book|title=Dictionary of Deities and Demons in the Bible|edition=Revised 2nd|editor=Karel van der Toorn & Bob Becking & et al.|pages=485-486|publisher=Wm. B. Eerdmans Publishing Co.|year=1999|isbn=978-0802824912}}
*{{Cite book|title=Thus Saith the Lord: The Revolutionary Moral Vision of Isaiah and Jeremiah|author=Richard E. Rubenstein|page=60|publisher=Orlando: Harcourt|year=2006|isbn=978-0151012190}}
*{{Cite book|title=The Triple Flame: The Inner Secrets of Sufism|author=M. R. Bawa Muhaiyaddeen|page=303|publisher=The Fellowship Press|year=2001|isbn=9780914390602}}
*{{Cite book|title=The Book of Tawheed: Sharḥ Kitāb Al-tawḥīd|author=Imam Muhammad Ibn Abdul Wahab [Sameh Strauch訳] |page=271|publisher=IIPH (International Islamic Publishing House)|year=1998|isbn=978-9960672571}}</ref>、一神教で唯一神は皇帝、「[[唯一の皇帝]] (sole emperor)」、「真の皇帝 (true emperor)」等と見なされている{{sfn|Fiddes|2000|p=64}}<ref name=Ludmila>{{Cite journal|first=L. |last=Ludmila|title=Low Cost Terrorism of the 21st Century|year=2017|publisher=" Carol I" National Defence University|journal=International Scientific Conference Strategies|volume=XXI|page=198}}</ref>。
皇帝の称号は皇帝権から派生して、その模倣や僭称としても使用されるようになった<ref name=britannica_micro875/>。
== 東アジアの皇帝 ==
=== 中国の皇帝 ===
{{See also|皇帝 (中国)|天子}}
[[ファイル:QinShiHuang19century.jpg|thumb|right|250px|はじめて「皇帝」を名乗った始皇帝]]
東アジアにおいて「皇帝」号を最初に使用したのは、[[中華圏]]における国家である[[秦]]であり、その後も20世紀に至るまで多くの王朝の君主が皇帝を称した。皇帝は[[中華]]の[[中国史|歴史]]・思想と密接に関係している。
==== 「皇」と「帝」と「王」 ====
{{要出典範囲|「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、伝説的な人類最初の王を意味している|date=2022年12月}}。中国の伝説で最初に中国(したがって[[天下]])を支配したのは、[[三皇五帝|三皇]]であるとされている。
その次に続くとされたのが、[[堯]]・[[舜]]などを含む五帝であるとされている。「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代ではこの意味で用いる時は、[[糸部|糸偏]]をつけた「締」と表記する)だが、[[宇宙]]の全てを束ねる至上神という意味で[[殷]]代に用いられるようになった。三皇と五帝は神格化された存在であると同時に、現世の支配者であると考えられていた{{sfn|浅野裕一|1984|p=51-52}}。<!--至上神という意味での「帝」は[[殷]]人が用いたものである。-->[[殷]]王は、祖先や<!--太陽・月・-->山河などを神として崇めていたが、より上位の神を崇めることが生まれ、<!--これらの神々の内、最高位にあるものを-->「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。殷末期の王に対しては[[帝乙]]や[[紂|帝辛(紂王)]]など帝の字が用いられるようになった{{sfn|杉村伸二|2011|p=3}}。
五帝のあとに続くのが「王」が支配する[[夏 (三代)|夏]]{{Efn2|夏王朝の実在性については議論があり、[[中華人民共和国]]が行った[[夏商周年表プロジェクト]]では、[[二里頭文化]]を築いた勢力が夏王朝であると認定されている。}}・[[殷]]・[[周]]の王朝であった。
周王は地上世界(すなわち[[天下]])を治めるべく天命を受けた天子とされた。周の封建制の下で諸侯は領地([[国]])を治め、最高位の[[爵位]]は「[[公]]」が与えられた。しかし、周王朝が衰えると、南方の[[楚 (春秋)|楚]]が、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになったとされる{{sfn|松井嘉徳|2017|p=22}}。しかし[[金文]]史料では西周時代から夨王・豊王・豳王など、周王以外にも王を称する存在があったことが確認されている{{sfn|松井嘉徳|2017|p=26 }}。
[[紀元前323年]]には周王が[[天子]]であると宣言され、他の王に優越する存在であると確認され、実質的な最有力者であった[[斉国|斉]]の[[威王]]は「[[覇王]]」を称した{{sfn|杉村伸二|2011|p=3-4}}。[[紀元前288年]]には[[秦]]の[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]が[[斉]]の[[湣王]]に対し、他の王を従えていることから互いに「帝」と称するよう呼びかけ、一時的に「帝」が使用されることもあった{{sfn|杉村伸二|2011|p=3}}。
{{要出典範囲|「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究からわかっている。王が君主号として用いられて以降は、后は君主に準ずる存在に対する称号となった。君主の妃や母親は君主に準ずる存在とみなされ、「皇后」は皇帝の妃、「皇太后」は皇帝の母親を意味することとなり、「后」は原義を離れて「きさき」の意味で固定化された|date=2021年1月}}。
==== 「皇帝」の登場 ====
[[紀元前221年]]、秦が中国の統一王朝となり、王であった嬴政は重臣らに「其れ帝号を議せ」と命じた{{sfn|浅野裕一|1984|p=53}}。王を超える帝号は、当時の[[法家]]の間では広く求められており、『[[韓非子]]』では「五帝を越え三皇に等しい」存在の出現が待ち望まれており、[[丞相]][[李斯]]は[[韓非]]と同門であり、嬴政も韓非の著作に傾倒した時期がある{{sfn|浅野裕一|1984|p=54}}。重臣らは秦王の業績がかつての五帝をも上回る存在であるとして三皇に並ぶ存在としての「秦皇」の称号を提案した{{sfn|浅野裕一|1984|p=53}}。しかしこれは受け入れられず、嬴政は「秦」の字を取って「帝」の字をつける「皇帝」という称号を自ら考案した{{sfn|浅野裕一|1984|p=53}}。[[浅野裕一]]は嬴政の意図が「帝」の中の筆頭的な存在としての帝王号であったのに対し、重臣が「皇」扱いしたことを引き戻すためであったとしている{{sfn|浅野裕一|1984|p=53}}。こうして「皇帝」の称号を名乗った嬴政は、最初の皇帝として『[[始皇帝]]』の名で呼ばれる。
秦において「皇帝」が五帝を超える存在であるとされたことには、五帝や王たちが[[封建制]]を廃せなかったのに対し、秦では[[郡県制]]を敷くことができたからとされている{{sfn|浅野裕一|1984|p=54}}。
「[[朕]]」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は「朕」を皇帝専用の自称とした{{sfn|杉村伸二|2011|p=7}}。他にも「[[制]]」・「[[詔]]」などの皇帝専用語も策定した。
==== 皇帝の定着 ====
始皇帝は自身から始めて二世皇帝、三世皇帝と続かせる意図であったが、反乱が相次いだため、秦の皇帝は2代15年で終わった{{sfn|浅野裕一|1984|p=58}}。始皇帝から数えて3代目の[[子嬰|嬴子嬰]]は、始皇帝死後の反乱によって中国全土を支配することができなかったため、単に「王」と称した。秦末・[[楚漢戦争]]期の群雄の多くは各地で「王」を称した。戦国時代の楚王の末裔である[[義帝|懐王]]は、諸王の盟主として扱われ、秦の滅亡後は「[[義帝]]」と呼ばれた{{sfn|杉村伸二|2011|p=8}}{{Efn2|「義帝」の名は生前から用いられているため、「義」という帝に対する諡号ではなく、由来は不明である。「仮の帝」という意味だとする説もある{{harv|杉村伸二|2011|p=8}}}}。一方で最大の実力者であった[[項羽]]は「西楚の[[覇王]]」を称したとされる。
[[紀元前202年]]、楚漢戦争で項羽を倒した漢王[[劉邦]]は、配下の諸王から「皇帝」を称するよう献言された。劉邦は「帝は賢者の称号である」として再三辞退する動きを見せた後、[[漢]]の「皇帝」に即位した{{sfn|浅野裕一|1984|p=58-59}}。ただし漢においては[[諸侯王]]を各地に封じる封建制が採用され、五帝を超える存在としての皇帝号としては扱われなかった{{sfn|浅野裕一|1984|p=58-59}}。[[浅野裕一]]は、漢の皇帝が三皇五帝を始めとする帝王を超越した存在ではなく、継承者として扱われていたとしている{{sfn|浅野裕一|1984|p=69}}。さらに劉邦は、一族や功臣を「王」として各地に封じた。これにより、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」は「皇帝」の略として広く使われるようになった。以後、歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。
戦国時代中期以降から天の代理人である「天子」は諸侯を率いる存在であるとされ{{sfn|杉村伸二|2011|p=3-4}}、秦時代には余り用いられなかったが漢代に至って盛んに使用されるようになった{{sfn|杉村伸二|2011|p=10}}。[[文帝 (漢)|文帝]]は[[天人相関説]]を強調することで、皇帝が天からの代理人であり、「天子」であることを強調した{{sfn|杉村伸二|2011|p=11-14}}。[[中華思想]]においては近代的な国境という概念はなく、周辺諸国の君主も「天子」である皇帝に従うべき存在であるとされた。周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として[[冊封]]するという形をとった。したがって皇帝の支配する国という意味での「帝国」という概念は存在しなかった。
[[唐]]代には、[[高宗 (唐)|高宗]]が皇后[[武則天]]の影響で「[[天皇大帝]]」という別称を採用した時期もあったが、皇帝号は最後の王朝である[[清]]まで使用され続けた。
==== 皇帝の並立 ====
[[三国時代 (中国)|三国時代]]、中原を支配した[[魏 (三国)|魏]]のみならず、[[呉 (三国)|呉]]・[[蜀]]の君主もそれぞれ皇帝を称し、[[五胡十六国時代]]や[[五代十国時代]]など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]には2人以上の皇帝が同時に存在した。
軍事力に劣った[[北宋]]の皇帝は、北の異民族王朝である[[遼]]・[[金 (王朝)|金]]の君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と[[南宋]]に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。
=== 日本の皇帝 ===
{{See also|日本国皇帝|天皇}}
日本においては、古代からの君主であった[[天皇]]と、外国の君主に対する称号として皇帝が用いられた。
==== 日本における皇帝号の使用史 ====
[[Image:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|right|thumb|「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。]]
古代の日本は、「天皇」号を和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は7世紀後半の[[天武天皇]]の時代からであり、[[道教]]などの文献から採用した{{Efn2|三皇五帝の一人[[天皇 (三皇)|天皇]]に由来するという説や、[[唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]が一時称した「天皇」に由来するという説もある。}}という説が通説であるが、5世紀頃から「天王」号を用いており、「王」を「皇」と漢字を改めたという説もある<ref>角林文雄「天王から天皇へ」『日本漢文学研究』創刊号、2006年 二松学舎大学 53p</ref>。
[[701年]]の[[大宝律令]]の[[儀制令]]と[[公式令 (律令法)|公式令]]において、「[[天子]]」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている<ref>『養老儀制令』第一条、「'''天子'''、祭祀に称する所。'''天皇'''、詔書に称する所。'''皇帝'''、華夷に称する所」と記される。</ref>。「華夷」の意味については、「内国および諸外国」と解する説と「中国その他の諸外国」と解する説が対立していた。実際、律令を制定した[[文武天皇]]期に[[新羅]]国王に対して出された国書で「天皇」号が使用された事例がある{{sfn|島善高|1992|p=302}}。また『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』においては天皇の命令である「みことのり」に「詔」や「勅」の漢字があてられているが、これは中国において皇帝のものにしかあてられない漢字である<ref>[[横田健一]]「古事記と日本書紀における詔と勅--類義語の分布よりみた巻々の特色」『関西大学東西学術研究所紀要』8号、1975年 関西大学東西学術研究所 18p</ref>。また自称として「朕」を用い、正妻の称号は「皇后」であるなど、中国皇帝と同じ用語を用いた。
天皇(すめらみこと)と異なる用法での尊号としては、758年に[[淳仁天皇]]が即位した際、譲位した[[孝謙天皇]]に「宝字称徳孝謙皇帝」、孝謙の父[[聖武天皇]]に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られている。また、翌年には淳仁天皇の父である[[舎人親王]]が「崇道尽敬皇帝」と追号されている。「文武天皇(もんむてんのう)」といった今日使われている漢風諡号は、聖武および孝謙(称徳)を除き8世紀後半に[[淡海三船]]が撰んだことに始まる<ref>『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』「天皇」</ref>ため、その直後に完成した『[[続日本紀]]』では原則として巻名に天皇の和風諡号が用いられているが、孝謙天皇のみ巻第十八から巻第二十まで「宝字称徳孝謙皇帝」の漢風尊号で記載されている点で特異である<ref>また『続日本紀』では[[宝亀]]5年([[774年]])10月3日条において、「聖武皇帝」という表記がみられる。この他、[[9世紀]]成立の『[[日本文徳天皇実録]]』では、「[[仁明天皇]]」の表記と共に「仁明皇帝」という表記も併用されている。</ref>。なお、重祚した巻第二十六から巻第三十では巻名に「高野天皇(たかののすめらみこと)」の和風の号が用いられている(重祚後の漢風諡号は称徳天皇)。
近世以降の西洋においては、日本に関する最大の情報源である[[エンゲルベルト・ケンペル]]著の『[[日本誌]]』において、徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「聖職的皇帝」([[教皇]]のようなもの)と記述され、両者は共に皇帝と見なされていた。その一年前に出版された『[[ガリバー旅行記]]』においても、主人公のガリバーが「江戸で日本の皇帝と謁見した」と記載されている。
[[安政]]3年([[1854年]])の[[日米和親条約]]では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「{{en|the August Sovereign of Japan}}」としている。これは大清帝国皇帝を指す「{{en|the August Sovereign of Ta-Tsing Empire}}」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた{{sfn|岡本隆司|2011|pp=144}}。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年([[1858年]])以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「[[日本国大君]]」から「タイクン({{en|Tycoon}})」と表記するようになった{{sfn|島善高|1992|p=269}}{{Efn2|英語の {{en|Tycoon}} はこの後意味が転じて「財界の大物・重鎮」を表す普通名詞の tycoon に変化した。日本語由来の単語でありながら日本の文化とはまったく関係ない意味を持つようにった稀な単語の一つである。}}。一方で天皇は「ミカド({{en|Mikado}})」「ダイリ({{en|Dairi}})」<ref name="世界大百科事典天皇">[[世界大百科事典]](平凡社)「天皇」の項目</ref>、「テンノー({{en|Tenno}})」などと表記されていた{{sfn|島善高|1992|p=270}}。
[[慶応]]4年1月15日(1868年)、新政府が外交権を掌握すると、[[兵庫港]]で各国外交団に「天皇」号を用いるよう伝達し、外交団もこれに従った{{sfn|島善高|1992|p=269}}。しかし外国君主に対する「国王」号の使用が、外交団から反発を受け、「皇帝」号を使用するよう要求された。日本は「皇帝」は中国([[清]])の号であるから穏当ではないとし、各国言語での呼び方をそのままカタカナで表記する方針を提案したが、各国外交団はあくまで「皇帝」の使用を求めた。このままでは国家対等の原則から外国君主に対しても「天皇」号を用いなければならない事態に陥る可能性もあった{{Efn2|実際に、フランス公使がフランス皇帝[[ナポレオン3世]]にも天皇号を用いるべきではないかと強く要求した。日本側は君主が対等だから同じ称号を名乗るのであれば、「[[ローマ教皇|法王(ローマ教皇)]]」を名乗ってもよいのかと返答したために、フランス側はこの提案を撤回している{{harv|島善高|1992|p=276}}}}{{sfn|島善高|1992|p=274-278}}。結局明治3年(1870年)8月の「[[外交書法]]」の制定で、日本の天皇は「日本国大天皇」とし、諸外国の君主は「大皇帝」と表記するよう定められた{{sfn|島善高|1992|p=279}}。
{{Wikisource|締盟國君主稱號和公文ニハ總テ皇帝ト稱シ共和政治ノ國ハ大統領ト稱セシム|締盟国君主称号和公文ニハ総テ皇帝ト称シ共和政治ノ国ハ大統領ト称セシム}}
明治7年(1874年)7月25日の太政官達第98号でこの方針は確認され、条約締結を行った君主国の君主は全て(国名は「○○王国」であっても)「皇帝」と呼称することが法制化された。ただし実際にはこの措置は王国に限られ、[[ルクセンブルク大公]]、[[モンテネグロ公国|モンテネグロ公]]、[[ブルガリア公国|ブルガリア公]]、[[モナコ|モナコ公]]等、[[公国]]の君主に対しては「大公」もしくは「公」と呼称されている<ref>{{アジア歴史資料センター|B04013504600|各国間文化協力関係条約雑件 28.「ベルギー」「ルクセンブルク」大公国間智的及学事的協定}}{{アジア歴史資料センター|A08072611600|経済統計に関する国際条約、議定書及付属書}}{{アジア歴史資料センター|A03020484300|御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日・国際紛争平和的処理条約}}{{アジア歴史資料センター|A03020879500|御署名原本・明治四十三年・条約第五号・文学的及美術的著作物保護修正「ベルヌ」条約}}</ref>。
ただし[[李氏朝鮮]]との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」<ref>[[日朝修好条規]]</ref>としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側を考慮し、「君主」や「国王」の称号を用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝と同様の用語を使用していた<ref>{{アジア歴史資料センター|C06060598600|29.1 外務省より 朝鮮大君主陛下より水野大佐へ勅語等の件|omitted=y}}</ref>。日清戦争後、朝鮮が国号を大韓と改め、皇帝を称するようになると「皇帝」の称号が正式に使われるようになった<ref>[[日韓議定書]]等</ref>。
しかし明治4年に清と締結された「[[日清修好条規]]」では両国の君主称号は表記されていない。これは清側が天皇号を皇帝すら尊崇する[[三皇五帝]]の一つ「[[天皇 (三皇)|天皇氏]]」と同一のものであるから、君主号とは認められないと難色を示したためであった{{sfn|島善高|1992|p=282-286}}。明治6年1月(1873年)頃から次第に外交文書で「皇帝」の使用が一般化するようになったが、これは対中国外交で「天皇」号を用いていないことが、再び称号に関する議論を呼び起こすことを当時の政権が懸念したためと推測されている{{sfn|島善高|1992|p=286-287}}。この時期以降、外国からの条約文などでも「Mikado」や「Tenno」の使用は減少し、「Emperor」が使用されていくようになった{{sfn|島善高|1992|p=287}}。
これ以降、天皇号の他に皇帝号の使用も行われ、民選の[[私擬憲法]]や[[元老院 (日本)|元老院]]の「[[日本国憲按]]」などでも皇帝号が君主号として採用されている{{sfn|島善高|1992|p=288}}。また陸軍法の[[参軍官制]]や[[師団司令部条例]]でも皇帝号を用いている{{sfn|島善高|1992|p=293}}。政府部内でも統一した見解はなかったが、明治22年([[1889年]])の[[旧皇室典範|皇室典範]]制定時に[[伊藤博文]]の裁定で「天皇」号に統一すると決まり、[[大日本帝国憲法]]でも踏襲されている{{sfn|島善高|1992|p=290-291}}。伊藤は外交上でも天皇号を用いるべきと主張したが、同年5月に[[枢密院 (日本)|枢密院]]書記官長の[[井上毅]]が外務省に対して下した見解では、「大宝令」を根拠として外交上に「皇帝」号を用いるのは古来からの伝統であるとしている{{sfn|島善高|1992|p=293}}。井上は議長の指揮を受けて回答したとしているが、この当時の枢密院議長は伊藤である{{sfn|島善高|1992|p=293}}。この方針は広く知られなかったらしく、後に陸軍も同内容の問い合わせを行っている{{sfn|島善高|1992|p=293-295}}。
大正10年4月11日の大正十年勅令第三十八号<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021310100|御署名原本・大正十年・勅令第三十八号・明治四年八月十七日布告(請願伺届等認メ方ノ件)外二十一件廃止}}</ref>で外国君主を皇帝と記載する太政官達は廃止されたが、以降の条約等<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021828900|御署名原本・昭和六年・条約第一号・千九百三十年ロンドン海軍条約}}</ref>でも国王や天皇に対して皇帝の称が使用されている。
国内使用では殆どの場合が「天皇」号が用いられたが、「日露戦争宣戦詔勅」など一部の[[詔書]]・法律で皇帝号の使用が行われた。大正期までは特に大きな問題とはならなかったが{{sfn|島善高|1992|p=296}}、昭和期になると[[国体明徴運動]]が活発となり、昭和8年([[1933年]])には外交上も「天皇」号を用いるべきとの議論が起きた{{sfn|島善高|1992|p=297-298}}。外務省は条約の邦訳に対してのみ「天皇」号を用いるが、特に発表はしないことで解決しようとしたが、[[宮内省]]内の機関紙の記事が新聞社に漏れ、昭和11年([[1936年]])4月19日に大きく発表を行わざるを得なくなった{{sfn|島善高|1992|p=306-307}}。ただし、外国語においては従来どおりとされた{{sfn|島善高|1992|p=311}}。
=== その他の東アジアの皇帝 ===
{{see also|ハーン}}
[[朝鮮]]の[[高麗]]朝の草創期や[[ベトナム]]の[[阮朝]]のように、中国王朝と冊封関係にあり、中国王朝に対しては王を称しながら、国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。[[五胡十六国]]時代など中国の統一王朝が存在しないかまたは弱体である時期には、契丹などの異民族国家において独自に皇帝を称することもあった。中国北部の[[モンゴル帝国]](大元ウルス)では[[クビライ]]以降「カアン(ハーン)」の称号が皇帝の称号とされた。クビライや帝国の開祖[[チンギス・カン]]は、漢文の諡号でも皇帝と称されている<ref>中村健太郎「ウイグル文「成宗テムル即位記念仏典」出版の歴史的背景 : U 4688[T II S 63]・*U 9192[T III M 182]の分析を通じて」『内陸アジア言語の研究』21巻、2006年 55-58</ref>。カアンの地位はチンギス・カンの子孫によって継承され、1635年に[[エジェイ・ハーン|エジェイ]]が後金(清)に降伏するまで続いた。
近代に冊封体制が崩壊すると、君主制をとっていたアジア諸国でも皇帝を称する動きがあった。日本と[[清]]との間で[[下関条約]]が締結された後の[[1897年]]、朝鮮国([[李氏朝鮮]])が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を[[大韓帝国]]([[1897年]] - [[1910年]])とした。日本が中国東北部に建設した[[満州国]]においては、旧清帝国の皇帝であった[[溥儀]]が皇帝となった。また[[天津条約 (1885年6月)|天津条約]]によって[[フランス領インドシナ]]の支配を受けるようになった阮朝は、[[第二次世界大戦]]末期に[[ベトナム帝国]]を宣言し、[[バオ・ダイ]]が皇帝を称した。
== ヨーロッパの皇帝 ==
{{貴族階級}}
[[ナポレオン・ボナパルト]]が、[[1804年]]に[[国民投票]]によって[[フランス皇帝]]となるまで、長きにわたってヨーロッパにおける皇帝の称号は(若干の例外を除いて)「ローマ皇帝の後継者」としての称号であった。ヨーロッパ諸国で皇帝を意味する単語は、[[ローマ帝国]]の支配者の称号が起源である。
=== ローマ帝国 ===
==== 元首政 ====
{{Main|プリンキパトゥス}}
[[Image:Statue-Augustus.jpg|thumb|200px|right|初代ローマ皇帝[[アウグストゥス]](オクタウィアヌス)]]
[[ローマ帝国|帝政ローマ]]の最高支配者となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス([[アウグストゥス]])は、後世において最初の「[[ローマ皇帝]]」とされる。しかし、彼は建前としての共和政を遵守する立場であり、大きな権威と権力を手中にしながら、[[共和政ローマ|共和政下のローマ]]では伝統的にネガティブなイメージを帯びていた「王」の称号を採用せず、代わりに共和政時代から存在する官職や権限を一身に兼ねるという形をとっている。そのため、ローマ帝権は多数の称号を身に帯びることになった。中でも特に重要な称号が「インペラートル」「カエサル」「アウグストゥス」の3つである。
'''[[インペラートル]]'''({{lang|la|imperator}})は、[[英語]]の「'''エンペラー'''」({{lang|en|emperor}})や[[フランス語]]の「'''アンプルール'''」({{lang|fr|empereur}})、[[トルコ語]]の「'''インパラトール'''」({{lang|tu|imparator}})の語源であり、皇帝と訳される称号のように認識されているが、そのまま当てはめることはできない。インペラートルの語源である'''[[インペリウム]]'''({{lang|la|imperium}})は「命令権」や「支配」を意味し、[[王政ローマ|王政期]]には王権の一部だったが、[[共和政ローマ|共和政期]]には軍指揮権を意味した。インペラートルはこの語に由来し、「命令者」を意味する。そのため将軍を指す称号のひとつとなり、凱旋式に際しては兵士たちが将軍に呼びかける際の尊称として用いられた。したがって共和政期にはインペラートルが同時に複数存在することもあった。共和政後期になると意味が広がり、ローマの支配権や支配領域を指してインペリウムというようにもなった。このように、ローマのインペラートルとインペリウムは必ずしも君主制を前提としてはおらず、[[語源]]は同じでも「帝国の支配者=皇帝」に対して用いることを予定したものでもなかった。この特徴はローマ滅亡後の後代にも引き継がれ、皇帝のいない国を「帝国」と呼ぶ用法などが生まれることとなった。
'''[[カエサル (称号)|カエサル]]'''({{lang|la|caesar}})もまた皇帝の称号のひとつであり、[[ドイツ]]や[[ロシア帝国|ロシア]]などで用いられた称号('''カイザー'''、'''[[ツァーリ]]''')の語源である。[[カエサル (称号)|カエサル]]は、本来ユリウス氏族に属するカエサル家の家族名である。ここの出身である[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が終身独裁官となり、その養子となりカエサル家を継いだオクタウィアヌス(アウグストゥス)によって帝政が開かれたことから、皇帝を表す名のひとつとなった。後の[[ディオクレティアヌス]]帝の時代には「副帝」を意味する称号となり、正規の君主号となった。
'''[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]'''({{lang|la|augustus}})は「尊厳者」を意味し、元はオクタウィアヌスに贈られた添え名である。権威的には重要な称号だが、命令権や血統とは直接関係ないものだった。しかしながらオクタウィアヌスがこの名を贈られた[[紀元前27年]][[1月16日]]が歴史的に帝政開始の日とされること、以後すべての後継者が帯びる称号となったこと、インペラートルやカエサルと異なりローマ皇帝以外に保持者のいない称号であること、ディオクレティアヌス帝の時代には正規の皇帝号になったことなどから、ローマ皇帝を指す最も重要な称号として認識されている。また、単にアウグストゥスといえば前述の初代ローマ皇帝アウグストゥスを指す。
またローマの[[皇帝崇拝]]や[[帝国主義]]は当初、[[キリスト教]]や[[王の中の王]]([[唯一神]])への信仰に対立していたが{{Sfn|池上|山形|2011|pp=170-171}}、313年の[[寛容令]](ミラノ勅令)などを通して皇帝側とキリスト教側は深く結びついていった{{Sfn|池上|山形|2011|pp=171-172}}。
{{Main|皇帝#キリスト教}}
==== 専制君主制 ====
ローマ皇帝[[ディオクレティアヌス]]は、[[293年]]に広大な領土を東西に分け、2人の正帝と2人の副帝が共同で統治する四分治制([[テトラルキア]])を導入した。ここで「アウグストゥス」が正帝、「カエサル」が副帝の称号となった。以後、東西の帝国が統合したり分裂したりを繰り返し、[[395年]]に皇帝[[テオドシウス1世]]が没すると、テオドシウスの長男[[アルカディウス]]が帝国の東の正帝に、次男[[ホノリウス]]が帝国の西の正帝になった。
{{main|ドミナートゥス}}
東西のローマ帝国における皇帝については以下で述べる。
=== 東ローマ帝国 ===
[[ファイル:Follis-Leo VI-sb1729.jpg|thumb|皇帝[[レオーン6世]](在位:886年 - 912年)の[[銅貨]]。裏面には"{{lang|el|+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn}}"(レオーン、神に(忠実なる)[[ローマ人]]の[[バシレウス]])と書かれている。]]
[[File:Porphyrogenetus.jpg|thumb|キリストに加冠される皇帝[[コンスタンティノス7世]](在位:913年 - 920年、944年 - 959年)の象牙浮彫(10世紀 [[プーシキン美術館]]蔵)。コンスタンティノスの上にギリシア語で「コンスタンティノス、神に(祝福された)アウトクラトール」、キリストとコンスタンティノスの間に「[[ローマ人]]のバシレウス」と書かれている]]
[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)では「皇帝」の称号は、王朝の交代はあったものの、[[1453年]]に東ローマ帝国が滅びるまで代々受け継がれた。東ローマ帝国では、[[7世紀]]以降[[公用語]]が[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]となった。「皇帝」を表す称号としては、元は[[アケメネス朝]]・[[サーサーン朝]]の[[シャー]]を指した[[ギリシア語]]である「'''[[バシレウス]]'''({{lang-el-short|Βασιλεύς}})」(バシレイオスと表記することもある。古典ギリシア語読み。中世ギリシア語の読み方ではヴァシレフス。なお古代ギリシャ時代には単なる「王」を示す単語だった)が用いられた(それまでは[[ラテン語]]の「インペラトル」「カエサル」「アウグストゥス」が引き続き使われていた)。
これは、7世紀の皇帝[[ヘラクレイオス]]が[[628年]]に[[サーサーン朝]]ペルシャ帝国を降して首都[[コンスタンティノポリス]]へ凱旋した時に「キリスト教徒のバシレウス」と名乗ったことによる。この「バシレウス=シャー」には、「[[諸王の王]]」([[ペルシャ語]]の「[[シャー|シャーハーン・シャー]]」、[[ギリシア語]]の「バシレウス・バシレオーン」)という意味を含んでおり、[[ローマ帝国]]の皇帝であると同時に「諸王の王」である、という宣言であった<ref>尚樹啓太郎著『ビザンツ帝国史』([[東海大学出版会]] 1999年)P330-331</ref>。これによって[[東ローマ帝国]]の皇帝は、古代のローマ皇帝とは異なって「君主」としての意味が強くなり、このことは西欧の皇帝にも大きな影響を与えた。またキリスト教化の進行によって、皇帝は「神の代理人」という位置付けがされ、宗教的にも大きな権威を持つ存在となった。
ただし一方で、帝位の正統性は「[[元老院 (ローマ)|元老院]]・軍隊・市民の推戴」によって示される、という古代ローマ以来の原理も残され(例えば皇帝の即位式の際は、「軍隊が、民衆が、元老院が帝位に就けと要求しているのだ」、という歓呼がされた)、帝位は必ずしも[[世襲]]されるとは限らなかった。この辺りに東西の文明が融合した東ローマ帝国の特徴を見ることが出来よう。
他に皇帝の称号としては「'''[[アウトクラトール]]'''({{lang-el-short|αὐτοκράτωρ}} 」(単独の支配者、専制君主を意味するギリシア語。既に6世紀からインペラートルに相当する称号として、ギリシア語版の勅令で使われていた)、「'''{{仮リンク|セバストス|en|Sebastos}}'''({{lang-el-short|σεβαστός }})」(尊厳なるもの。[[ラテン語]]の[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]に相当)などが用いられた。
西ローマ帝国が滅亡した際、[[ゲルマン人]]傭兵隊長[[オドアケル]]が西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]に返還していたため、西ローマ帝国の滅亡後は名目上、東ローマ皇帝がローマ帝国全土の皇帝であった。こうした経緯もあってか、一時は[[イタリア]]や[[イベリア半島]]の一部にまで及んだ東ローマ帝国の勢力が後退した後も、唯一の正統なローマ皇帝として単に「'''ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)'''」と名乗り、「東ローマ皇帝」という呼び方は使われなかった。
また、後に[[フランク王国|フランク]]王[[カール大帝|カール]]や[[ブルガリア帝国|ブルガリア]]王[[シメオン1世|シメオン]]、[[ドイツ]]([[神聖ローマ帝国]])の王たちが「ローマ皇帝」を名乗った際は、東ローマ皇帝は彼らを「皇帝」としては認めるが「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」としては認めない立場をとり、あくまでも自分だけが唯一のローマ皇帝であると主張した。
この他にも東ローマ帝国を一時滅ぼした[[第4回十字軍]]が建国した[[ラテン帝国]]や、それによって亡命した東ローマの皇族達が建てた[[ニカイア帝国]]・[[エピロス専制侯国]]・[[トレビゾンド帝国]]の君主も、東ローマの正統な後継者であることを示すために「皇帝」を称した(エピロスは一時期のみ)。
亡命政権[[ニカイア帝国]]は1261年に[[ラテン帝国]]を滅ぼし、[[ミカエル8世パレオロゴス]]が[[コンスタンティノポリス]]において改めて皇帝に即位し、東ローマ帝国の復活を果たした。東ローマにおける皇帝権はこの後も継承されたが、国威はふるわず、15世紀には帝国は首都コンスタンティノポリスとわずかな属領だけに押し込められてしまった。1453年、[[オスマン帝国]]によってコンスタンティノポリスは攻略され、最後の皇帝[[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]は戦死、ここに、アウグストゥス以来約1500年にわたって受け継がれてきた「ローマ皇帝」の正統は消滅した(オスマン皇帝の中には、ローマ皇帝の継承者であるとして「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った者もいるが、一時的なものに終わった)。
=== 中世以後の西ヨーロッパ ===
==== カール大帝の「西ローマ帝国」 ====
[[476年]]に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]]にいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、[[6世紀]]の東ローマ皇帝[[ユスティニアヌス1世]]の時代には、[[イタリア]]や[[イベリア半島]]の一部を東ローマ帝国が征服した。
このため、西ヨーロッパ諸国や[[ローマ教皇]]は、[[コンスタンティノポリス]]にいる皇帝の宗主権を認め、その臣下とならざるを得なかった(ヨーロッパにおいて、王が皇帝よりも格下であるという認識は、この時に生まれた)。ゲルマン人に布教を進めてローマ教会の勢力を拡大し、「大教皇」と呼ばれた[[6世紀]]末の[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]でさえも、それは同じであった。実際、[[7世紀]]の教皇[[マルティヌス1世]]のように、教義をめぐって対立した東ローマ皇帝[[コンスタンス2世]]によって逮捕され、流刑に処せられた者もいたほどであった。
しかし7世紀以降、[[東ローマ帝国]]は[[イスラム帝国]]や[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]などの攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは[[聖像破壊運動|聖像破壊論争]]などの教義の問題や、教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。
[[797年]]、東ローマ帝国で皇帝[[コンスタンティノス6世]]の母[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]がコンスタンティノスを廃位し、自ら[[女帝]]として即位するという事件が起きた。これを機に、ローマ教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]は「コンスタンティノスの廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」として、[[800年]]に国力の伸張著しい[[フランク王国]]の国王カールに「[[フランク・ローマ皇帝|ローマ帝国を統治する皇帝]]」の称号を与えた。これが[[カール大帝]]である。ただし、カールは自分の皇帝位に満足せず(それまで、教皇から皇帝位が与えられるという前例はなかった)、東ローマ帝国に自分の皇帝位を承認してもらうための運動を粘り強く行った(5世紀の西ローマ帝国滅亡以前は、東西の皇帝は即位の際に互いに承認し合っていた)。その結果、[[812年]]になって、東ローマはカールを皇帝(ただし、「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」ではない)として承認した。
以後、西ヨーロッパの皇帝は西ローマ皇帝の後継者、キリスト教の守護者の意味を持つようになる。また、本来ローマ皇帝は「[[元老院 (ローマ)|元老院]]・市民・軍隊」によって選ばれるものだったのだが([[東ローマ帝国]]では最後までその建前が守られた)、カール大帝の戴冠の経緯は、ローマ教皇が皇帝の任命権を主張する根拠ともなった。
==== 神聖ローマ帝国 ====
カール大帝以降のフランク王による帝位の継承は1世紀余りで途絶えてしまっていたが、[[962年]]に東フランク王[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]は、[[ローマ教皇]][[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]から皇帝の冠と称号を受けた。ここに復活した帝国は、[[大空位時代]]を経ていわゆる[[神聖ローマ帝国]]となる(なお、実際の称号は「皇帝」や「尊厳なる皇帝」などであって、「神聖ローマ皇帝」と称したことはない)。以後、皇帝の称号を帯びるためにはローマ教皇の承認を得なければならず、それまでの帝国君主は[[ローマ王]]を名乗った。時代が進むにつれ帝国は諸侯の緩い連合体に変化し、皇帝の権力も弱まっていった。
[[1356年]]に[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]は[[金印勅書]]を発布し、[[選帝侯]]がローマ王、ひいては皇帝を選出するようになり、ローマ教皇の干渉を受けなくなるようになった。[[1438年]]に[[ハプスブルク家]]の[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]が選出されてからは、女性当主の[[マリア・テレジア]]の例外を除いてハプスブルク家が皇帝位を独占するようになり、皇帝は帝国の最有力諸侯である[[オーストリア大公]]のハプスブルク家が帯びる名誉称号に近いものになった。特に[[三十年戦争]]以後は、各諸侯領はほとんど独立国家同然となり、皇帝とは名ばかりの存在になっていった。この頃には「ドイツ人の帝国」もしくは単に「帝国」と名乗ることも多かった。皇帝も、ローマ皇帝ではなくドイツ皇帝と称するようになる。[[1806年]]、[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]が帝国の解散を宣言して、神聖ローマ帝国は名実共に滅びた。
==== スペイン(全ヒスパニアの皇帝) ====
{{See|en:Imperator totius Hispaniae}}
{{節スタブ}}
==== フランス皇帝ナポレオンと「ローマ皇帝」の消滅 ====
[[File:Gros - Entrevue - 1812.jpg|thumb|300px|[[アウステルリッツの三帝会戦]]では[[フランス皇帝]]、[[オーストリア皇帝]]、[[ロシア皇帝]]と3人も「皇帝」が一堂に会した。もはやカール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「(西)ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。]]
[[フランス]]では、[[フランス革命]]によって[[フランス第一共和政|共和政]]が成立した後、[[1804年]]に[[ナポレオン・ボナパルト]]が議会の議決と国民投票によって、「[[フランス皇帝|フランス人の皇帝]]ナポレオン1世」となった。「皇帝」号の採用は、革命によって廃された「国王」号の忌避の他に、古代ローマの皇帝が共和政下の市民によって推戴された点を踏まえたものといえる。このときに「西ローマ帝国の継承国家は神聖ローマ帝国である必要もなく、皇帝がドイツ人である必要性もないという当然の事実」が明らかになり、神聖ローマ帝国を支える帝国議会に代わり[[ライン同盟]]が結成された。ナポレオンの皇帝即位を神聖ローマ皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]は承認し、さらに自らは神聖ローマ皇帝位から退位し、神聖ローマ帝国を解散し、「[[オーストリア皇帝]]フランツ1世」を名乗った。ナポレオンはオーストリア皇帝を承認した。これはハプスブルク家が名乗る神聖ローマ皇帝位が単なる名誉称号と化していた事実の反映であるとともに、ハプスブルク家が[[ハンガリー王国|ハンガリー]]など神聖ローマ帝国の領域外に支配領域を広げ、強固な「[[ハプスブルク帝国]]」を築き上げていた事実の反映でもあった。
ナポレオンのフランス皇帝即位とフランツ1世のオーストリア皇帝即位により、ヨーロッパに複数同時に存在することが受け入れられたことで、カール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。これにより、西ヨーロッパの伝統的な理念に基づく皇帝は消滅し、ナポレオンが没落した後も蘇ることはなかった。これと前後して、西欧からは単なるロシアの大公とみなされていた[[ロシア皇帝]]も、西欧諸国からも正式に皇帝とみなされるようになったが、「東ローマ帝国の後継者」という元来の意味は忘れ去られた(ロシアの君主が皇帝を名乗る経緯は[[#ロシア|後述]])。
==== 19世紀の皇帝と西ヨーロッパ的皇帝の消滅 ====
[[19世紀]]には皇帝ナポレオンにならって、[[中南米]]に新興の皇帝が生まれた。[[ハイチ]]では[[1804年]]の独立時に[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]が、[[1849年]]には[[フォースティン=エリ・スールーク]]がそれぞれハイチ皇帝に即位し、特にスールークはクーデターで打倒されるまで「フォースティン1世」として圧政を敷いた。[[メキシコ]]では[[アグスティン・デ・イトゥルビデ]]が[[1822年]]に皇帝に即位したが、翌年に廃位された。[[1864年]]には[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]のマクシミリアン大公が、メキシコへ干渉したフランス皇帝[[ナポレオン3世]]によって[[メキシコ皇帝]][[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン1世]]に担ぎ上げられたが、在位わずか3年で革命軍によって捕らえられ、処刑された。
[[ブラジル]]では、[[1831年]]に[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ジョアン6世 (ポルトガル王)|ジョアン6世]]の王太子でブラジル摂政だったペドロが、ポルトガルから独立した[[ブラジル帝国]]の皇帝[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]となった。ブラジルの帝政は中南米の他の「帝国」とは異なり半世紀以上にわたり持続したが、[[1889年]]、第2代皇帝[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]の時に革命が起き、共和制になった。
ヨーロッパでは[[1852年]]から[[1870年]]まで、ナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝[[ナポレオン3世]]を称し、帝政を敷いた([[フランス第二帝政]])。また[[1871年]]には、オーストリアを除くドイツを統一した[[プロイセン王国]]の国王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が[[ドイツ皇帝]]を兼ね、[[ドイツ帝国]]が成立した。
[[第一次世界大戦]]の終結と共に、敗戦国であったドイツ帝国・[[オーストリア=ハンガリー帝国]]([[オーストリア帝国]]と[[ハンガリー王国]]が共通の君主としてオーストリア皇帝=ハンガリー王を戴き、軍事・外交・財政のみ共通の政府が管掌する体制)では革命が起きて帝政が倒れた。また後述する[[オスマン帝国]]や[[ロシア帝国]]でも、革命によって帝政が崩壊したために、ヨーロッパには皇帝が1人もいなくなり、ローマ帝国以来のヨーロッパにおける皇帝の歴史は幕を閉じた([[インド皇帝]]を兼ねていた[[イギリス国王]]は唯一の例外であったが、こちらも1947年のインド独立により有名無実化した)。
=== 東ヨーロッパ ===
この地域の皇帝概念は[[東ローマ帝国]]を経由してローマ帝国のそれを受け継いだものである。前述のように東ローマ帝国では皇帝は「[[バシレウス]]」(「王」の意)と称し、「カイサル」(ラテン語のカエサルに由来)は副皇帝を示す言葉だったが、東ヨーロッパの[[スラブ諸語|スラヴ系の言語]]では[[聖書]]に出てくる[[賢者|賢人]]や東方の君主などの称号として用いられるとともに、善良な王を指す言葉として「カエサル」由来の「[[ツァーリ]]」を用い、東ローマの皇帝をツァーリと呼んでいた。
==== ブルガリア帝国とセルビア帝国 ====
東ローマ帝国以外では、[[920年]]にブルガリア王[[シメオン1世|シメオン]]が東ローマ帝国征服を狙って「ブルガリア人とローマ人の皇帝(ツァーリ)」を称し、以後、[[第一次ブルガリア帝国]]([[920年]] - [[1018年]])と[[第二次ブルガリア帝国]]([[1188年]] - [[1396年]])を通じて「皇帝」という称号が使われた。また[[14世紀]]の[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]の王[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝)|ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]も東ローマ帝国の征服を企図して、[[1345年]]に「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、翌年には[[セルビア帝国]](1346年 - [[1371年]])の皇帝として即位した。なお、「ツァーリ」の称号は近代[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]において[[フェルディナント (ブルガリア王)|フェルディナント]]が復活させたが、これは通例「王」として扱われる。
=== ロシア(東ヨーロッパ・ユーラシア) ===
==== ロシア連邦 ====
{{See also|ツァーリ|[[ロシア皇帝|ロシア皇帝(ロシアインペラートル)]]}}
デューカ・アレクサンドル・ウラジーミロヴィチの学術論文(2017年)では、現代のロシア系[[エリート]]たちの間の[[皇帝主義]]的見解とその実践が検証されている{{Sfn|Vladimirovich|2017|p=316}}。同論文によると、[[ソビエト連邦崩壊]]からの「ソビエト後」([[ポスト#その他|ポスト]]ソビエト “постсоветская”)的なロシアでは{{Sfn|Vladimirovich|2017|p=262}}、[[1991年]]~[[1992年]]に[[君主主義]]者や[[ロシア帝位請求者|帝位請求者]]らが新興エリートたちと交友した{{Sfn|Vladimirovich|2017|p=263}}{{Sfn|Vladimirovich|2017|p=316}}{{Efn2|原文:“monarchists and pretenders to the throne”{{Sfn|Vladimirovich|2017|p=316}}}}。([[オリガルヒ|新興財閥(オリガルヒ)]]も参照。) その後、[[ロマノフ家]](キリロヴィチ家)における一部の集団が[[政権]]に接近し、[[統制経済|政治と経済の再結合(統制経済)]]、ロマノフ朝の[[記念日]]などの帝国的な権威化、[[ロシア正教会]]の活発化などが進んだ{{Sfn|Duka|2017|p=316}}。2014~2015年では、[[ウクライナ紛争_(2014年-)|ウクライナとの紛争]]と[[クリミア併合]]に関して、国民と政治勢力が動員された{{Sfn|Vladimirovich|2017|p=316}}。2016年では、[[皇帝制#用語|皇帝制]]の復活を政府だけでなく一般[[市民]]も議論するようになり、[[君主]]たちに関する[[プロパガンダ]]的な[[記念碑]]がロシアの諸[[都市]]に置かれるようになった{{Sfn|Vladimirovich|2017|p=316}}。
マシュー・ブラックバーンの学術論文(2020年)では、皇帝制と反[[民主主義]]との関連が研究されている{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}{{Sfn|Blackburn|2020|pp=23-24}}。ブラックバーンは「[[想像の共同体|想像の国家]]」(“imagined nation”)という観点から、都市部のロシア人が国家や[[指導者]]の政治的形態をどう捉えているかを研究した{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}。研究手法は、ロシアの3つの都市における約100件の[[聞き込み]](インタビュー)調査とその分析である{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}。回答者たちの中には、国家が[[:en:anti-democracy|非民主化]]を通して「より『[[人道|思いやり]]がある』上に『[[効果]]的』な統治様式」になることを称賛する傾向があった{{Sfn|Blackburn|2020|p=23}}{{Efn2|原文:“a more ‘caring’ and ‘effective’ style of rule”{{Sfn|Blackburn|2020|p=23}}}}。その「統治様式」には、指導者に[[主権|最高権力(主権)]]を委任して物事を解決してもらうという考えが伴っている{{Sfn|Blackburn|2020|pp=23-24}}。ある回答者によると、「ロシア人は彼〔[[プーチン]]〕を皇帝として見ている」<!--“Russians view him [Putin] as a Tsar”-->のであり、ロシア人という本質的な君主主義者らは[[西側諸国|西側]]的な民主主義を持てないのだと言う{{Sfn|Blackburn|2020|p=24}}{{Efn2|原文:“Really at heart the Russian person is a monarchist. We can’t have democracy in the Western understanding of the word in Russia. ... Putin is the president but Russians view him as a Tsar”{{Sfn|Blackburn|2020|p=24}}.}}。
ブラックバーンの論文いわくロシアには、想像上の「親プーチン」社会を支えている以下の三本柱があると考えられる{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}。
{{Quotation|
# 「[[授権法|あらゆる権力を大統領の手に『委任する』こと]]が、国家と社会を規律し形作る最善の方法であるという信念」{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}
# 「ロシアの『国民性』への否定的な見解に並置される、『[[男らしさ|本物の男]]』として入念に製作されたプーチンのイメージの受容」{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}
# 「『[[救世主]]らの政府』が正常性をもたらし、[[消滅した政権一覧#ルーシ|『一度滅びた』国]]を救済するという親プーチン[[神話]]の[[内面化]]」{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}
}}
ここには「内面的な[[オリエンタリズム]]」(“internal orientalism”)も関わっている{{Sfn|Blackburn|2020|p=1}}。
{{See also|[[東方三博士|東方三博士(the Wise Men of the Orient)]]|[[救い主|救い主(キリスト)]]|救世主ハリストス大聖堂}}
==== 前近代ロシア(モスクワ大公国─ロシア帝国) ====
[[15世紀]]に北東[[ルーシ]]の統一を進めつつあった[[モスクワ大公国]]の[[イヴァン3世]]は、それまでビザンツ皇帝に対して用いられていた称号「[[ツァーリ]]」を自称し始めた。ツァーリとは[[ラテン語]]のカエサルに由来する。[[1453年]]に[[オスマン帝国]]によって[[東ローマ帝国]]が滅ぼされると、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝[[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]の姪[[ソフィア・パレオローグ]]と[[1472年]]に結婚し、東ローマ帝国の紋章「[[双頭の鷲]]」も使い始め、モスクワが東ローマ帝国の後継者であることを位置付けた。
その後、イヴァン3世の孫[[イヴァン4世]]は、[[1547年]]にツァーリとしての戴冠式を執り行い、「ツァーリ」の称号が正式に用いられ始めた。この頃から、モスクワ大公国は[[ロシア・ツァーリ国]]という名称を用いるようになった。
ただし、それ以前にルーシの人々は、[[モンゴル帝国]]の皇族[[バトゥ]]が創始した[[ジョチ・ウルス]]([[1224年]] - [[1502年]])の[[ハーン|ハン]]をも「ツァーリ」と呼んでいた。モスクワ大公の「ツァーリ」称号の主張は、東ローマ皇帝の後継者としての意味合いと同時にジョチ・ウルスの支配の継承を意図するものであったと見る説もある。イヴァン4世は[[1576年]]、皇子([[ツァレーヴィチ]]。当時のロシアの用語例では、ハンの血を引くモンゴル系貴族のこと)[[シメオン・ベクブラトヴィチ]]に一度ツァーリ位を譲った後、再び自身が譲位を受けるという行動を取るが、この説に立つ人々は、これをハン(ツァーリ)の後継者としての宣言であったと解釈している。
[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]は[[1721年]]に西欧式の「インペラートル」の称号を用い始め、国号を正式に[[ロシア帝国]]としたが、ロシアの君主は以後も「ツァーリ」の称号を併用した。あくまで自称であり、西欧諸国からは皇帝とは認められなかったが、[[#フランス皇帝ナポレオンと「ローマ皇帝」の消滅|前述]]の通り「ローマ皇帝の後継者が皇帝を名乗るという建前」が西欧において消滅した頃には、ロシア皇帝も東ローマ帝国の帝位の後継者という意味が忘れ去られた格好で、西欧諸国からも正式に認められるようになった。
== ユーラシアの皇帝 ==
{{出典の明記|date=2021年5月|section=1}}
ヨーロッパと東アジアの直接交流は、ローマ皇帝[[アントニヌス・ピウス]](または[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]])が漢の皇帝に使者を送ったのが最初であり、この際に漢の側ではローマ皇帝のことを「大秦王安敦」と記した。その頃の中国は「皇帝は地上に一人のみ」の時代であり、ローマ皇帝であっても王扱いであった。またローマ帝国の側でも当時は「元首政([[プリンキパトゥス]])」の時代であり、ローマ皇帝が王より格上であるいう認識、さらには君主であるという認識すら存在しなかった。
後に[[江戸時代]]の[[新井白石]]が、著書『[[西洋紀聞]]』において、「インペラドールは漢の帝というのに似ている。レキスは漢の王に似ている。<!--インペラドール、レキスは西洋紀聞の原文の表記です-->」と記述した。ヨーロッパの皇帝と王を、[[前漢]]の[[郡国制]]における皇帝と[[諸侯王]]となぞらえて、ヨーロッパの皇帝を、東アジア的な意味での「皇帝」と同格のものとみなしたわけである。ただ白石の場合、日本の天皇も中国の皇帝と同格と見なしており、その自らの思想に裏付けを与える意味でも、中国の皇帝と同格の存在が他にもいたほうが都合がいい、という事情もあったものと思われ、実際に『西洋紀聞』には「インペラドール」は複数存在する事が述べられている。
== その他の地域の皇帝 ==
{{出典の明記|date=2021年5月|section=1}}
=== ペルシア帝国 ===
イスラム化以前に[[メソポタミア]]・[[イラン]]を支配した[[アケメネス朝]]・[[サーサーン朝]]の[[シャー]]にも「皇帝」という訳を用いられることがある(日本では「王」「[[大王]]」「[[帝王]]」といった訳が用いられることの方が多いようである)。[[パルティア]]やペルシアの君主は「[[諸王の王]]」という称号を用い、他の「王」より格上であると称していた。
=== イスラム圏 ===
[[イスラム世界]]の君主には様々な称号があるが、その中で巨大な領域を支配していた[[カリフ]](本来は信徒代表の意味であり、[[トルコ革命]]でも世俗君主である[[スルタン]]位は革命時に即座に奪われたが、[[カリフ]]位は皇族追放まで奪われなかった)[[スルタン]]、[[シャー]]([[パーディシャー]])に「皇帝」の訳をあてることが多い(ただし現代において[[ブルネイ・ダルサラーム国|ブルネイ]]や[[オマーン国|オマーン]]などの君主がスルタンを称する国の場合、通常は「国王」と訳される)。これに対して、[[マリク]]には「王」、[[アミール]]には「首長」の語が定訳とされ、「皇帝」と訳されることはあまりない。アミールの上位号には[[アミール|大アミール]]、[[アミール|アミール・アル=ムスリミーン]]、[[アミール|アミール・アル=ムウミニーン]]がある。
[[オスマン帝国]]では、第3代君主[[ムラト1世]]の時代にスルタン号を称するようになったが、オスマン帝国の歴史記録によると「パーディシャー」(ペルシャ語由来で皇帝の意)を称する場合が多かった。また、[[東ローマ帝国]]を滅ぼした[[メフメト2世]]や最盛期の皇帝である[[スレイマン1世]]は、東ローマ皇帝の後継者を自任し「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝、「カイセリ」は「カエサル」の意)という称号を用いた、と言われている<ref>新井政美著『オスマンvs.ヨーロッパ ― 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』(講談社選書メチエ)</ref>。
* [[イスラム帝国]]([[カリフ]])
* [[オスマン帝国]](カリフ、[[スルタン]]、[[パーディシャー]]、ルーム・カイセリ)
* [[ムガル帝国]](パーディシャー)
* [[サファヴィー朝]]([[シャー]])
なお、[[独裁]]的強権で知られるトルコの[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]][[トルコの大統領|大統領]]は、かつてのオスマン帝国の「皇帝」([[スルタン]])にも似た「現代の皇帝」を意図していると、[[ベイルート]]筋は指摘している{{sfn|佐々木|2017|p=1}}。近年の[[反西洋主義|反ヨーロッパ]]的な[[愛国主義]]の底には、帝国への郷愁的感情が根強く存在しているという{{sfn|佐々木|2017|p=1}}。
{{See also|イスラーム帝国主義|[[新オスマン主義|新オスマン帝国主義(新オスマン主義)]]}}
=== インド ===
[[イギリス]]の王は、[[ムガル帝国]]を滅ぼして[[インド]]を[[植民地]]にした際、[[インド帝国]]の皇帝を兼ねる形をとった。この[[インド皇帝]]位はインド独立時に返上された。なお、[[イギリス帝国]]とは、[[16世紀]]から[[20世紀]]半ばまでのイギリスの広大強力な支配圏を指したもので、インド皇帝位に直接由来するわけではない。古代インドにおいては直訳すると大王となる[[ラージャ|マハーラージャ]]が用いられ、[[グプタ朝]]等において、直訳すると「大王の王」となる独自の皇帝号「[[ラージャ|マハーラージャディラージャ]]」も存在していた。
=== 中・南アメリカ ===
ヨーロッパ人が訪れる以前に[[中南米]]の先住民が築いた国家のうち、[[インカ帝国]]と[[アステカ|アステカ帝国]]は、いくつかの諸国を征服・支配し、広大な領土を持ち、国家連合・連邦のようなものを形成しており、それぞれ「帝国」と呼ばれている。従ってインカ帝国の君主「[[サパ・インカ]]」とアステカ帝国の君主には、「皇帝」の語が当てられている。しかし、インカ帝国は南米大陸太平洋側の広大な地域を支配したが、アステカの場合は広大と言っても現在の[[メキシコ]]の領域内に過ぎず、また[[トラスカラ王国]]という同格のライバル国家も存在したことから、「アステカ王国」と呼ばれることも多々あり、その場合は君主も「アステカ王」と呼ばれる。
=== アフリカ ===
古くは[[古代エジプト]]の時代まで遡ることができる。エジプト王は「[[ファラオ]]」と呼ばれ、その権威は神から付与された神聖不可侵のものとされ、絶対的な専制皇帝であると共に最高神官も兼ねていた。また、西アフリカの[[ガーナ帝国|ガーナ]]、[[マリ帝国|マリ]]、[[ソンガイ帝国|ソンガイ]]の各君主を「皇帝」と訳すことがある。「王」とすることも多い。
[[エチオピア帝国|エチオピア]]では皇帝([[ネグサ・ナガスト]]=「諸王の王」「王の中の王」)が専制君主として統治していた。日本の[[皇室]]より古い皇室として知られていた<ref>エチオピア皇帝の系譜は[[紀元前10世紀]]の[[メネリク1世]]を始祖とし、[[紀元前7世紀]]の[[神武天皇]]を始祖とする皇室よりも古い。ただしあくまで伝説上の比較であり、実際の歴史として確認できるのはエチオピア帝室は[[13世紀]]の[[イクノ・アムラク]]。皇室は学者により諸説あるが、一番新しい[[継体天皇]]でも[[6世紀]]であり、日本の皇室のほうが古い。またエチオピア帝室は近代において断絶した時期があるが、皇室には無い(皇統が2分した時期はある。また[[天智天皇|天智系]]と[[天武天皇|天武系]]が王朝交替であったという説があり、それが事実とすると天智天皇崩御から[[光仁天皇]]即位まで断絶があったことになる)。皇帝に実権が無く臣下が実権を握っていた時期があるのは、両者ともに同じである。</ref>が、[[1974年]]に[[ハイレ・セラシエ1世]]が革命で廃位された。現在は代々[[アメリカ合衆国]]に居住しながら[[皇太子]]位を世襲している。
また[[中央アフリカ共和国]]の大統領だった[[ジャン=ベデル・ボカサ]](ボカサ1世)が[[1976年]]に皇帝を称し、国名を[[中央アフリカ帝国]]としたが、[[1979年]]の[[クーデター]]により皇帝ボカサは失脚し、中央アフリカは[[共和制]]に復帰した。
<!--
== プロトコール(国際儀礼)上の皇帝の地位 ==
外交儀礼([[プロトコール]]、[[国際儀礼]])においては、国際的な慣行により皇帝が最上位という扱いがなされているといわれている{{要出典|date=2009年10月}}。
皇帝・女帝・天皇(emperor、empress)>ローマ教皇(Pope) > 国王・女王・スルタン(king、queen、sultan) >首長、公など(Emir、Prince、Duke)>共和国の元首
※[[ローマ教皇]]は「[[バチカン市国]][[国王]]」と「[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の長(宗教上のトップ)」とを兼任しているため諸国の[[王]]より格上とされている。また、天皇は外交上「日本国皇帝」とされており、現在この「皇帝」の地位を持つのは日本国天皇のみである。--><!-- 出典が明示されておらず、現在通用しているプロトコルとは言い難いので、コメントアウト。この項目のノートを参照のこと。 -->
== 神話・宗教・伝統の皇帝 ==
[[神話]]的物語において高度に優れた[[主人公]]([[英雄]])は、「皇帝」としての役割を持っていると[[比較神話学]]者[[ジョーゼフ・キャンベル]]は言う<ref>{{Cite book|和書| last=キャンベル| first= ジョゼフ|title=千の顔をもつ英雄 | publisher=人文書院| year=2004|edition=オンデマンド版第一刷| isbn=978-4409590096| volume = 下|page=168}}</ref>。[[父なる神|「父」的存在]]から、または「[[ザ・ワン#成句|一なる存在者]]」から[[祝福]]された主人公が、その[[代理]]役を果たすこともある<ref>{{Cite book|和書| last=キャンベル| first= ジョゼフ|title=千の顔をもつ英雄 | publisher=人文書院| year=2004|edition=オンデマンド版第一刷| isbn=978-4409590096| volume = 下|pages=169-171}}</ref>。[[黄帝]]や[[モーセ]]のように主人公は、皇帝(もしくは師)として人々のあいだへ帰ってくる<ref>{{Cite book|和書| last=キャンベル| first= ジョゼフ|title=千の顔をもつ英雄 | publisher=人文書院| year=2004|edition=オンデマンド版第一刷| isbn=978-4409590096| volume = 下|page=171}}</ref>。[[ゾロアスター教]]支配下の[[ペルシア]]についての伝記の場合、黄金時代を築いた皇帝([[ジャムシード]]、インド神話でいう[[閻魔大王]])は、「唯一の世界君主」と称されている<ref>{{Cite book|和書| last=キャンベル| first= ジョゼフ|title=千の顔をもつ英雄 | publisher=人文書院| year=2004|edition=オンデマンド版第一刷| isbn=978-4409590096| volume = 下|pages=171-172}}</ref>。
一神教では唯一神が「[[唯一の皇帝]]」{{sfn|Fiddes|2000|p=64}}、「[[王の中の王]]」<ref name=Davies/>、「全人類の皇帝」等とされている<ref name=tawheed/>。『[[旧約聖書]]』(ユダヤ教聖書)から連なる一神教にとっては、唯一なる神が「宇宙で唯一の正当な[[王|王者]]」であり、人間は神だけを[[崇拝]]するべきである{{sfn|ブルマ|マルガリート|2006|p=166}}。神以外の[[権力]]や[[金銭]]収集は、神の「排他的[[絶対者|絶対性]]」に背くことであり、[[偶像崇拝]]に他ならないと糾弾される{{sfn|ブルマ|マルガリート|2006|p=166}}。イスラームを例に取れば、神以外への崇拝や商業利益追求は、「偶像崇拝」であり、[[ジャーヒリーヤ]](宗教的な「[[無知]]」)である{{sfn|ブルマ|マルガリート|2006|p=167}}。特に近代の[[イスラーム主義]]運動は、「偶像崇拝」やジャーヒリーヤを、無知というより「[[野蛮]]」として敵視している{{sfn|ブルマ|マルガリート|2006|p=167-168}}。
{{See also|唯一の皇帝|唯一の神|皇帝 (像)|[[千年王国|千年帝国(千年王国)]]|神の王国|イスラーム帝国主義|世界イスラーム帝国}}
=== 一神教 ===
==== ユダヤ教 ====
唯一神(=[[ヤハウェ]])は「[[王の中の王]]・諸王の王 (king of kings)」と見なされている<ref name=Davies>{{Cite book |last=Davies |first=P. R.|year=2016 |title=On the Origins of Judaism |publisher=Routledge |page=98 |isbn=978-1-134-94502-3 }}</ref>。これは、ペルシアやゾロアスター教における[[シャー・ハン・シャー]](=王の中の王・皇帝)から影響されている<ref name=Davies/>。唯一神は「真の皇帝 (the true emperor)」<ref name=Ludmila/>、「天の主 (lord of heaven)」、「天の王 (king of heaven)」とも呼称される<ref>{{Cite book |last1=Van der Toorn |first1=K. |last2=Becking |first2=B. |last3=Van Der Horst |first3=P. W. |year=1999 |title=Dictionary of Deities and Demons in the Bible |publisher=Wm. B. Eerdmans Publishing |page=371 |isbn=978-0802824912 }}</ref>。[[旧約聖書]]の[[預言者]][[イザヤ]]に従えば、「王の中の王 (a king of kings)」や「皇帝 (an emperor)」とは唯一神である<ref>{{Cite book |last=Rubenstein |first=R. E. |year=2006 |title=Thus Saith the Lord: The revolutionary moral vision of Isaiah and Jeremiah |publisher=Houghton Mifflin Harcourt |page=60 |isbn=9780151012190 }}</ref>。カール・F・ヘンリーの研究では、旧約聖書は唯一神を「[[イスラエル]]の至高王 (Israel’s superlative king)」かつ「[[宇宙]]と[[歴史]]の唯一の[[主権者]] (sole sovereign of the universe and of history)」として描いている<ref>{{Cite journal|first=C. F. |last=Henry |title=Reflections on the Kingdom of God |year=1992 |publisher=" Carol I" National Defence University|journal=Journal of the Evangelical Theological Society |volume=35 |issue=1 |page=39}}</ref>。
==== キリスト教 ====
[[File:Christ Pantocrator (Russia, 18 c) by shakko.jpg|thumb|right|全知全能なる「[[王の中の王]]」、「皇帝」としての[[一神教#唯一神|唯一神]](イエス・キリスト)。18世紀前半、ロシア[[聖像]]博物館。]]
[[File:Christ_King_of_Kings_(Greece,_c._1600).jpg|thumb|right|全能なる[[王の王]]、皇帝である唯一神の絵画。ギリシャ、1600年頃。]]
[[File:Gottvater_thronend_Westfalen_15_Jh.jpg|thumb|right|玉座に座す唯一神([[父なる神]])の絵画。15世紀後半ドイツ、ヴェストファーレン。]]
唯一神([[イエス・キリスト]])は「宇宙の[[元首]] (the head of the universe)」という呼称もされる<ref>{{Cite book |last1=Agadjanian |first1=A. |last2=Pankhurst |first2=J. G. |year=2005 |title= Eastern Orthodoxy in a Global Age: Tradition Faces the Twenty-First Century |publisher=Rowman Altamira |page=65 |isbn=9780759105379 }}</ref><ref>{{Cite journal|first=C. F. |last=Mason |title=Priesthood in Josephus and the" Pharisaic Revolution" |year=1988 |journal=Journal of Biblical Literature |volume=107 |issue=4 |page=658}}</ref>。[[宗教学]]では、『[[ヨハネの黙示録]]』に関連する「唯一神」と「皇帝」の呼称を、以下の表として比較している<ref>{{Cite book |last=Low |first=U. W. |year=2018 |title=Reading Revelation as Drama: Reading and Interpreting Revelation through the lens of Greco-Roman Performance. Diss. |publisher=University of Divinity |pages=209-210 }}</ref>。
{| class="wikitable"
! 唯一神([[黙示録]]) !! 皇帝([[帝国]])
|-
| 「[[主権者]]なる[[主]] (Sovereign Lord)」 ・ 「唯一神 (God)」
| 「主にして唯一神 (Lord and God)」
|-
| 「[[王の中の王]]・皇帝 (King of Kings)」
| 「[[カエサル (称号)|皇帝 (Kaiser)]]」(直接的に該当する同義語の使用例は未発見)
|-
| 「[[Wikt:全知全能|全能者]] (Almighty One)」
| 「[[支配者]] / [[独裁者|絶対権力者]] (Ruler / dictator)」
|}
このような類似性が存在する『黙示録』では、唯一神は皇帝である、または「唯一神だけが皇帝を超える価値がある (God alone is worthy above the emperor)」、とされている<ref>{{Cite book |last=Low |first=U. W. |year=2018 |title=Reading Revelation as Drama: Reading and Interpreting Revelation through the lens of Greco-Roman Performance. Diss. |publisher=University of Divinity |page=210 }}</ref>。
『黙示録』は、皇帝([[アウグストゥス]])の称号としての「神 (god)」、「主 (lord)」、「救世主 (savior)」を否定している<ref name=Barr>{{Cite journal|first=D. R. |last=Barr |title=John's Ironic Empire |year=2009 |journal=Interpretation |volume=63 |issue=1 |page=26}}</ref>。それらの称号は皇帝ではなく、「唯一神のみに属している (belong only to God)」というのが『黙示録』の主張である<ref name=Barr/>。
しかし、ここには基本的問題があると見られている<ref name=Barr/>。『黙示録』が反[[帝国主義]]的であること、「皇帝制 (imperial system)」に反対していることは疑われていないが、これは帝国主義的支配者を唯一神に置き換えているに過ぎないとも言える<ref name=Barr/>。スティーブン・ムーアが述べたように「黙示録は、[[ローマ帝国主義|ローマ帝国イデオロギー]]に向かって熱烈に反抗してはいるが、逆説的にどこまでも、そのイデオロギーの言葉遣いを刻みつけ直している (Revelation, though passionately resistant to Roman imperial ideology, paradoxically and persistently reinscribes its terms.)」<ref name=Barr/>。
[[考古学者]]の[[浅野和生_(考古学者)|浅野和生]]は「ローマ帝国がなくては,<!--「,」は原文ママ-->キリスト教という宗教は絶対に生まれることはなかったに違いない」と記しており、この点については[[文学博士]]・[[哲学]]研究者の谷口静浩も自著で同意している{{Sfn|谷口|2021|p=83}}<ref>[https://www.hmv.co.jp/artist_%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E9%9D%99%E6%B5%A9_000000000792579/biography/ 谷口静浩|プロフィール]</ref>。[[宗教史]]学書『諸宗教の歩み:事実と本質のあいだで』の中での谷口いわく、諸[[民族]]を超える「唯一の皇帝」というローマ帝国の理念が、諸民族を超える「唯一の神」というキリスト教の教えと融和・協調したことで、キリスト教は「最終的に他の諸宗教にたいして勝利した」{{Sfn|谷口|2021|p=83}}。宗教史学博士の[[山形孝夫]]によれば{{Sfn|池上|山形|2011|p=153}}、ローマ皇帝([[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]])が主張した[[世界平和]]の基盤は
{{Quote|「[[唯一の神]]、[[唯一の皇帝]]、[[唯一の帝国]]」}}
だった{{Sfn|池上|山形|2011|p=172}}。同時期のローマ帝国内に存在していたキリスト教は、世界はイエス・キリストにおいて「一つ」に結ばれると考えてきた{{Sfn|池上|山形|2011|p=172}}。それは普遍的に人類を「救済」する単一共同体の概念であり、例えば『[[新約聖書]]』には
{{Quote|「もしも、[[神秘主義#神秘的合一|イエスと一つになる]]なら、[[ユダヤ人]]も[[ギリシア人]]もなく、[[自由人]]も[[奴隷]]もなく、[[男]]も[[女]]もない」}}
などと記述されている(『[[ガラテヤの信徒への手紙]]』){{Sfn|池上|山形|2011|p=169}}。
[[世界史]]の転換期において、ローマ帝国主義とキリスト教は「一致」していった{{Sfn|池上|山形|2011|p=172}}。もともと[[皇帝崇拝]]において「皇帝こそは[[救世主|キリスト〔救い主〕]]である」とされているのに対し、キリスト教徒は「イエスこそはキリストである」と信仰告白し続け、これがかつてのローマ帝国でキリスト教徒が[[弾圧]]された主な原因だった{{Sfn|池上|山形|2011|p=171}}。しかし帝国で[[寛容令]](ミラノ勅令)が313年に布告され、392年には[[キリスト教#ユダヤ教からのキリスト教の自立|キリスト教が国教化]]された{{Sfn|池上|山形|2011|p=171}}。山形によれば、こうしてキリスト教と[[ナショナリズム]](国家主義)が深く結びついていったのであり、この結びつきがキリスト教の行く末を「歪めた」ことは歴史的事実だと言う{{Sfn|池上|山形|2011|p=172}}。
==== イスラーム ====
唯一神(=[[アッラーフ]])とは"badushāh"であり、「皇帝 (Emperors)」、「王の中の皇帝 (the king of kings)」、「全ての統治領の主 (the Lord of all kingdoms)」であると言われる<ref>{{Cite book |last=Muhaiyaddeen |first=M. B. |year=2001 |title=The Triple Flame: The Inner Secrets of Sufism |publisher=The Fellowship Press |page=303 |isbn=978-0914390596 }}
</ref>。
アッラーフが皇帝である理由は、「アッラーフの他に[[女皇]]は無いため (for there is no king except Allah)」である<ref name=tawheed>{{Cite book |last=Muhammad |first=Muḥammad ibn ʻAbd al-Wahhāb |year=1998 |title=The Book of Tawheed |publisher= International Islamic Publishing House |page=271 |isbn=978-9960672571 }}</ref>。真の皇帝は唯一神のみであり、唯一神は「全[[人類]]の皇帝 (Emperor of all mankind)」、「[[審判]]者の中の審判者 (Judge of judges)」だという<ref name=tawheed/>。
=== 多神教 ===
==== 日本神話・国家神道 ====
{{main|天皇#一神教・国家神道}}
[[大日本帝国]]が存在した時代では、日本の「皇帝(the emperor)」が「唯一神として(as God)」見なされたり{{sfn|James|2004|p=28}}、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった{{sfn|James|2004|pp=29-30}}。(一神教では、唯一神は「皇帝(Empepror)」・「唯一の皇帝(sole emperor)」とも説かれる{{sfn|Fiddes|2000|p=64}}。)例えば、東京帝国大学の比較宗教学者だった[[加藤玄智]]は、天皇は「日本人にとって、[[ユダヤ人]]が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた{{sfn|James|2004|pp=29-30}}。
『日本大百科全書』によると、[[明治維新]]・[[王政復古]]によって[[祭政一致]]が政治理念の基本とされ、天皇は国の「[[元首]]」かつ神聖不可侵な「[[現人神]]」とされた{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の[[神 (神道)|神]]観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。天皇は「絶対的[[真理]]」と「普遍的[[道徳]]」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。[[東アジア]]学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの[[唯一神]]、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される{{sfn|Ishikawa|2007|p=214}}。
唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、[[イスラーム]]へ命令が下されることもあった{{sfn|Sun|2008|p=115}}。例えば大日本帝国は、[[ジャワ島]]の[[ムスリム]]たちへ「[[メッカ]]よりも[[東京]]に礼拝し、日本皇帝を唯一神として礼賛せよ、という[[日本軍]]の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた{{sfn|Sun|2008|p=115}}。
現代推論されるところでは加藤玄智は、[[西洋]]の[[絶対神]]が[[合理主義]]で[[批判]]されないことを見て、天皇を絶対神と同様に説明した言論を広め、批判を封じようとした<ref name="arahitogami56-57">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想:近代日本を歪めた俗説を糺す』第1版第1刷、PHP研究所、2003年、56-57ページ</ref>。しかし、[[西洋人]]からすれば[[モンゴル人種]]または「[[黄色人種|黄色い猿]]」である天皇が、日本人によって絶対神と同一視されていることが、西洋で驚かれ嫌悪された<ref name="arahitogami56-57"/>。
;天皇総帝論・八紘一宇
戦時中には、「天皇総帝論」がもてはやされるようになった<ref name="arahitogami103">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、103ページ</ref>。「天皇総帝論」とは当時、「天皇信仰の主唱者」「世紀の[[予言者]]」と呼ばれていた[[幕末]]の[[国学者]]・[[大国隆正]]が唱えた議論である<ref name="arahitogami103"/>。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった<ref name="arahitogami103"/>。[[第二次世界大戦]]に至る中で、「[[八紘一宇]]」は「天皇総帝論」であり、それはまた
{{Quote|{{Col|
*「唯一の思想的原動力」
*「天皇中心の世界一体観」
*「大宇宙をも包含するが如き深遠宏大なる日本肇国理念」
*「真日本の発見」
*「純なる日本的世界観」
*「[[古事記]]の発見」
|
*「天皇政治の世界性」
*「[[大和民族]]の宿志」
*「大和民族本来の[[世界史]]的使命]
*「[[神武天皇]]が抱懐せられたる世界史的御雄図」
*「[[惟神]](かんながら)的世界観」||}}}}
等であると認識されていった<ref>新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、106-107ページ</ref>。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が日本建国の理念へと結合されて、「[[伝統の発明]]」が完成した<ref>新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、107ページ</ref>。
== 自称皇帝 ==
{{出典の明記|date=2021年5月|section=1}}
=== 政治的実権を有しなかった人物 ===
* [[ジョシュア・ノートン|ノートン1世]](自称[[アメリカ合衆国]]皇帝)
=== 政治的実権を有したが広く認められなかった人物 ===
* [[袁術]]([[後漢]])
* [[宇文化及]]([[隋]])
* [[安禄山]]([[唐]])
* [[平将門]]([[939年]]に[[新皇]]と称した)
* [[李自成]]([[1644年]]に[[明]]を滅ぼし[[順 (王朝)|順]]の皇帝と称した)
* [[袁世凱]]([[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]皇帝)
== 俗称として ==
=== スポーツ選手など ===
スポーツ界では一流、特に世界最強クラスで圧倒的な実力を持ち君臨する選手に、歴史上当該選手の母国に皇帝がいた場合、尊敬と畏敬の念を込めて「皇帝」との愛称が付く場合もある。
* [[フランツ・ベッケンバウアー]](ドイツ出身、サッカー選手)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/v2?id=old_soccer_player_04 |title=サッカー特集 往年の名選手 |date=2009/10/17 |accessdate=2022/05/17 |website=[[時事通信社]]}}</ref>
* [[ミヒャエル・バラック]](ドイツ出身、サッカー選手 ※ 小皇帝とも)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/sk_column/article/107425.html |title=“小皇帝”ことバラックがファンの質問に本音で答える |date=2013/05/17 |accessdate=2022/05/17 |website=SOCCERKING |publisher=[[フロムワン]]}}</ref>
* [[ミハエル・シューマッハ]](ドイツ出身、F1ドライバー)<ref>{{Cite web|和書|url=https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1292719.html |title=ハースF1チーム、“皇帝”の息子ミック・シューマッハと複数年契約 2021年シーズンにデビュー |date=2020/12/02 |accessdate=2022/05/17 |website=Car Watch |publisher=[[インプレス]]}}</ref>
* [[エメリヤーエンコ・ヒョードル]](ロシア出身、総合格闘家)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2146160/full/ |title=皇帝ヒョードル、12・29日本ラストマッチ 対戦相手は“狂犬”ランペイジ・ジャクソン |date=2019/10/09 |accessdate=2022/05/17 |website=ORICON NEWS |publisher=[[オリコン]]}}</ref>
* [[エフゲニー・プルシェンコ]](ロシア出身、フィギュアスケート選手)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/414831 |title=『皇帝』プルシェンコさん「羽生結弦、君は素晴らしいアスリート」フリーでの演技も「自信持って」 |date=2022/02/08 |accessdate=2022/05/17 |website=[[中日スポーツ]]}}</ref>
* [[ハイレ・ゲブレセラシエ]](エチオピア出身、陸上長距離)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/1474904.html |title=「皇帝」ゲブレが引退 マラソン元世界記録保持者 |date=2015/05/11 |accessdate=2022/05/17 |website=[[日刊スポーツ]] }}</ref>
* [[中野浩一]](日本出身、自転車選手)<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20210616-1905221/ |title=ミクシィ、「VTuber競輪プロジェクト」を立ち上げ - 歌衣 メイカ・兎鞠 まり・舞鶴 よかとが参加 |date=2021/06/16 |accessdate=2022/05/17 |website=マイナビニュース |publisher=[[マイナビ]]}}</ref>
* [[シンボリルドルフ]](日本の競走馬)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKC0262_U1A001C1000000/ |title=皇帝シンボリルドルフ死ぬ 史上初の無敗三冠馬 |date=2011/10/04 |accessdate=2022/05/17 |website=[[日本経済新聞]] }}</ref>
=== その他 ===
*[[コウテイペンギン]]や[[キダチダリア|コウテイダリア]]のように動植物の名称としても使用される。
== 皇帝一覧 ==
{{see also|皇帝制#用語|帝国}}
*[[皇帝 (中国)|中国皇帝]]
*[[中国皇帝一覧]]
*[[天皇の一覧]](「皇帝」と「天皇」は併用されていたが、[[1936年]](昭和11年)には「天皇」に統一された<ref name="daijirin" />)
* [[帝王]]/[[大王]]
* [[王の中の王]]/諸王の王/[[キング・オブ・キングス]](king of kings)/[[王|ザ・キング]](the King){{Sfn|國廣、安井、堀内|2020|p=「king」}}{{Sfn|Dictionary.com, LLC|2020|p="king"}}{{Sfn|Macmillan Education Limited|2020|p="king"}}
** [[唯一の皇帝]]/[[唯一の神]]
** [[シャーハーン・シャー]]
** [[バシレウス・バシレオーン]]
** [[ネグサ・ナガスト]]
* [[王・皇帝]](キング・エンペラー)/[[皇帝・王]](エンペラー・キング)
* [[ローマ皇帝一覧]]
* [[スルタン]]/サルタン
** [[スルターン#現在のスルターン|現在のスルタン一覧]]
** [[オスマン帝国の君主]]
* [[イギリス皇帝]](the King of England<ref name="皇帝=the King"/>/[[王・皇帝|emperor-king]])
* [[東ローマ帝国の皇帝一覧]]
* [[フランク・ローマ皇帝]]
* [[神聖ローマ皇帝一覧]]
* [[オーストリア皇帝]]
* [[ドイツ皇帝]]
* [[ロシア皇帝]]
* [[フランス皇帝]]
* [[メキシコ皇帝]]
* [[インド皇帝]]
== 脚注 ==
<!--{{脚注ヘルプ}} Notelist2とReflistがあるため無意味-->
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書
|author=淡路憲治
|title=パリ・コミューンとマルクス(II)
|journal=岡山大学経済学会雑誌
|issn=0386-3069
|publisher=岡山大学経済学会
|year=1980
|month=mar
|volume=11
|issue=4
|pages=803-836
|naid=120002737550
|doi=10.18926/OER/42271
|url=https://doi.org/10.18926/OER/42271
|ref = harv}}
* {{Cite book |和書
|last1 = 池上
|first1 = 彰
|last2 = 山形
|first2 = 孝夫
|authorlink1 = 池上彰
|authorlink2 = 山形孝夫
|date = 2011-7-20
|chapter = 第5章 キリスト教がわかる! 「最後の審判」は来るのですか?
|title = 池上彰の宗教がわかれば世界が見える
|series = 文春新書 814
|edition = 第4刷
|publisher = 文藝春秋
|isbn = 978-4166608140
|ref = harv
}}
* {{Cite journal
|和書
|last = 今井
|first = 義夫
|title = ロシア・ツァーリズムのイデオロギー
|date = 1991
|publisher = 社会思想史学会(北樹出版)
|journal = 社会思想史研究
|volume = 15
|pages = 30-42
|ref = harv}}
* {{Cite journal
|和書
|last = 植村
|first = 邦彦
|title = マルクスにおける歴史認識の方法:『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』をめぐって
|date = 1997
|publisher = 関西大学経済学会
|journal = 関西大学経済論集
|volume = 47
|issue = 5
|pages = 481-510
|issn= 04497554
|url = https://hdl.handle.net/10112/5033
|ref = harv}}
* {{Cite journal |和書
|last = 大澤
|first = 覚
|authorlink = 大澤覚
|title = マルクスはburgerlichをbourgeoisの意味で使っているか
|date = 2006
|publisher = 嘉悦大学
|journal = 嘉悦大学研究論集
|volume = 49
|issue = 1
|pages = 49-65
|naid = 120005538517
|url = http://id.nii.ac.jp/1269/00000161/
|ref = harv
}}
*{{Cite journal|和書|author=[[岡本隆司]] |title=大君と自主と独立 : 近代朝鮮をめぐる翻訳概念と国際関係 (特集 近代日本の外交)|date=2011 |publisher=慶應義塾福沢研究センター |journal=近代日本研究|volume=28|naid=40019224424 |pages=143-175 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書
|last = 金
|first = 静美
|authorlink = 金静美
|year = 1994
|title = 水平運動史研究:民族差別批判
|edition = 初版第一刷
|publisher = 現代企画室
|isbn = 978-4773893120
|ref = harv
}}
* {{Cite book
|和書
|last1 = 國廣
|first1 = 哲彌
|last2 = 安井
|first2 = 稔
|last3 = 堀内
|first3 = 克明
|date = 2020
|publisher = 小学館
|title = プログレッシブ英和中辞典(第4版)
|chapter = king
|ref = {{SfnRef|國廣、安井、堀内|2020}} }} プログレッシブ英和中辞典(第4版)『[https://kotobank.jp/ejword/king king]』 - [[コトバンク]]
* {{Citation|和書
|last1 = 黒田
|first1 = 日出男(責任編)
|last2 = 尾形
|first2 = 勇(編)
|last3 = 加藤
|first3 = 友康(編)
|last4 = 樺山
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|first5 = 稔(編)
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|last7 = 佐藤
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|last8 = 南塚
|first8 = 信吾(編)
|last9 = 山本
|first9 = 博文(編)
|authorlink1 = 黒田日出男
|date = 2005-03-15
|title = 歴史学事典:Encyclopedia of Historiography
|edition = 初版1刷
|volume = 第12巻:王と国家
|publisher = 弘文堂
|isbn = 978-4335210433
|ref = harv}}
* {{Cite web|和書|last = 佐々木|first = 伸|authorlink = 佐々木伸|year = 2017|title = 中東を読み解く:“現代のスルタン”狙うエルドアン、EU加盟よりも権力掌握を優先|url = https://wedge.ismedia.jp/articles/-/9428|ref = harv|accessdate = 2020-04-17}}
*{{Cite journal|和書|author=島善高|authorlink=島善高 |title=近代における天皇号について|year=1992 |publisher=早稲田大学社会科学部学会|journal=早稻田人文自然科學研究|volume=41|naid=120000793354 |pages=265-314 |url=https://hdl.handle.net/2065/10265 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title = 研究社 新英和大辞典|edition = 第6版第1刷|last = 竹林|first = 滋|publisher = 研究社|year = 2002|isbn = 978-4767410265|ref = harv}}
* {{Cite book|和書
| last = 谷口
| first = 静浩
| authorlink = 谷口静浩
| title = 諸宗教の歩み:事実と本質のあいだで
| publisher = 岩波書店
| date = 2021-10-20
| isbn = 978-4-77-103527-0
| ref = harv }}
* {{Cite journal |和書
|last = 中西
|first = 治
|authorlink = 中西治
|title = グローバリゼーション・エンパイア・インペリアリズム:アメリカ合衆国は帝国か、その政策は帝国主義か(Globalization, Empire and Imperialism : Is the USA an Empire? Is Its Policy an Imperialism?)
|date = 2005
|publisher = 創価大学
|journal = Sociologica(佐々木交賢・松本和良両教授退任記念論集)
|volume = 29
|issue = 1・2
|pages = 81-107
|naid = 110006608858
|ref = harv
}}
* {{Cite book|和書|last1 = ブルマ|first1 = イアン|last2 = マルガリート|first2 = アヴィシャイ|translator = 堀田江理|year = 2006|title = 反西洋思想
|publisher = [[新潮社]]|isbn = 978-4106101823|ref = harv}}
* {{Cite book|和書|last = 松村|first = 明|date = 2020|publisher = 小学館|title = デジタル大辞泉|chapter = 王|ref = {{SfnRef|松村|2020}} }} {{kotobank|1=王 |2=デジタル大辞泉}}
* {{Cite book |和書 |last=村上 |first=重良 |authorlink=村上重良 |year=2018 |chapter=天皇 |title=日本大百科全書 |publisher=小学館・朝日新聞社・VOYAGE GROUP |url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87 |ref=harv }}
* {{Cite book|和書|author = 吉家清次|date = 2019|publisher = [[小学館]]|title = 日本大百科全書(ニッポニカ)|chapter = 帝国主義|ref = {{SfnRef|吉家|2019}} }} {{kotobank|1=帝国主義 |2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
* {{Cite book |和書
|last1 = 渡邉
|first1 = 敏郎
|authorlink1 = 渡邉敏郎
|last2 = Skrzypczak
|first2 = Edmund
|last3 = Snowden
|first3 = Paul
|year = 2003
|title = 新和英大辞典
|edition = 第五版
|publisher = [[研究社]]
|isbn = 978-4-7674-2026-4
|ref = harv
}}
* {{Cite book|和書
|author = Weblio
|year = 2020
|chapter = Emperor of Japan
|title = Weblio英和辞典・和英辞典
|publisher = Weblio
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|ref = harv
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* {{cite book
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|first= Resuhi
|date= 2006
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|publisher= Langenscheidt Publishing Group
|isbn= 9781585735228
|ref = harv
}}
* {{Cite journal|
| last = Blackburn
| first = Matthew
| title = Political Legitimacy in Contemporary Russia ‘from Below’: ‘Pro-Putin’Stances, the Normative Split and Imagining Two Russias
| journal = RUPO (Russian Politics)
| volume = 5
| issue = 1
| pages = 1-37
| year = 2020
| publisher = Brill Academic Publishers
| doi = 10.30965/24518921-00501003
| ref = harv}}
* {{Cite book
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| title = Dictionary.com
| chapter = king
| url = https://www.dictionary.com/browse/king
| year = 2020
| ref = {{SfnRef|Dictionary.com, LLC|2020}}
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* {{Cite book |last=Fiddes |first=Paul S. |year=2000 |title=Participating in God: A Pastoral Doctrine of the Trinity |publisher=Westminster John Knox Press |isbn=978-0664223359 |ref=harv }}
* {{Cite book |和書 |last=Ishikawa |first=Satomi |year=2007 |title=Seeking the Self: Individualism and Popular Culture in Japan |publisher=Peter Lang Pub Inc. |isbn=978-3039108749 |ref=harv }}
* {{Cite book |last=James |first=W. Fiscus |year=2004 |title=Critical Perspectives on World War II |series=Critical Anthologies of Nonfiction Writing |edition=Library Binding |publisher=Rosen Pub Group |isbn=978-1404200654 |ref=harv }}
* {{Cite book
| author = Macmillan Education Limited
| title = Macmillan Dictionary
| chapter = king
| url = https://www.macmillandictionary.com/dictionary/british/king
| year = 2020
| ref = {{SfnRef|Macmillan Education Limited|2020}}
}}
* {{cite book
|last= Steingass
|first= Francis
|date= 1993
|title= Arabic-English Dictionary
|publisher= Asian Educational Services
|isbn= 9788120608559
|ref = harv
}}
* {{Cite journal|
| last = Vladimirovich<!--Владимирович-->
| first = Duka Aleksandr<!--Дука Александр-->
| title = Монархический соблазн российской элиты [Monarchist Temptation of the Russian Elite]
| journal = Власть и элиты [Power and Elites]
| volume = 4
| pages = 256-337
| year = 2017
| publisher = Социологический институт РАН [The Institute of Sociology of the Russian Academy of Sciences]
| issn = 2410-9517
| language = Russian, English
| quote= Дука Александр Владимирович [Duka Aleksandr Vladimirovich]
| ref = harv}}
*{{Cite journal|和書|title = 秦の皇帝観と漢の皇帝観 : 「秦漢帝国論」批判|url = https://cir.nii.ac.jp/ja/crid/1050845763413059840|year = 1984|month = 12|publisher = 島根大学教育学部|journal = 島根大学教育学部紀要. 人文・社会科学|volume = 18|pages = 51-96|author = 浅野裕一|authorlink = 浅野裕一|naid = 110006934323|issn = 0287-2501|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|title = 秦漢初における「皇帝」と「天子」-戦国後期〜漢初の国制展開と君主号-|url = https://cir.nii.ac.jp/ja/crid/1050564287379235968|year = 2011|month = 02|publisher = 福岡教育大学|journal = 福岡教育大学紀要. 第二分冊, 社会科編 = Bulletin of Fukuoka University of Education. Part II, Social sciences|volume = 60|pages = 1-17|author = 杉村伸二|authorlink = 杉村伸二|naid = 120006379765|issn = 0286-3227|ref=harv}}
* {{Cite book|last=Sun |first=Peter Liang Tek |title=A Life Under Three Flags |type=PhD Thesis |publisher=University of Western Sydney |year=2008|ref=harv }}
*{{Cite journal|和書|title = 周王の称号 : 王・天子、あるいは天王|year = 2017|month = 11|journal = 立命館白川靜記念東洋文字文化研究所紀要|volume = 6|issn = 1881-9591|pages = 21-38|author = 松井嘉徳|authorlink = 松井嘉徳|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{commons category|Emperor}}
{{Wiktionary|皇帝}}
{{Columns-list|colwidth=15em|
* [[称号]]、[[君主号]]
* [[諸王の王]](王の中の王)、[[唯一神]]、[[唯一の皇帝]]
* [[大王]]、[[帝王]]、[[大帝]]
* [[帝国]]、[[皇帝制]](帝国主義)
* [[皇帝祭祀]]
* [[幼主]]
* [[国王]]
* [[皇帝 (タロット)]]
* [[皇帝 (中国)]]
** [[始皇帝]] - 漢字で「皇帝」と初めて称した君主
** [[ラストエンペラー]] - 中国最後の皇帝・[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を描いた映画
* [[サンチョ3世 (ナバラ王)]]、[[フェルナンド1世 (カスティーリャ王)]] - 「全[[ヒスパニア]]の皇帝」を称した
* [[天皇]] - [[大日本帝国]]で「皇帝」だった
** [[天皇総帝論]]・八紘一宇
* [[大統領]]
* [[総書記]]、[[書記長]] - [[社会主義国]]の指導者
* [[大総統]]
* [[総帥]]
* [[ニニギ]]
* [[フリードリヒ・ニーチェ]]
}}
{{権威主義体制}}
{{政治思想}}
{{各国の君主制}}
{{normdaten}}
{{デフォルトソート:こうてい}}
[[Category:皇帝|*]]
[[Category:君主号]]
[[Category:歴史的な称号]]
[[Category:君主主義]]
[[Category:君主国]]
[[Category:帝国]]
[[Category:帝国主義]]
[[Category:一神教]]
[[Category:神権政治]]
[[Category:宗教と政治]]
[[Category:宗教ナショナリズム]]
[[Category:人物の愛称]]
|
2003-07-18T04:50:42Z
|
2023-12-18T04:29:56Z
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[
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"Template:政治思想"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D
|
11,663 |
イラク統治評議会
|
イラク統治評議会(مجلس الحكم العراقي マジュリス=ル=フクム=ル=イラーキー)は、2003年の対米戦争後のイラクの暫定統治を行ったイラク人による初の機関。アメリカ軍の占領下において、2004年に新政府が樹立されるまでの統治や大臣・大使の任命、新憲法制定などを行った。
ヒエラルキー上は連合国暫定当局(CPA)の下部組織にあたり、CPAの指示・指導に基づき、立法と行政を行う。形式的には、立法権・行政権があるとされるが、事実上、新政府が樹立されるまでの間の連合軍(実質米軍)による間接統治の形態といえる。
メンバーはイラクの反サッダーム・フセイン体制派であったさまざまな民族・宗派からなる25名の代表から組織された。イスラム教シーア派のアラブ人13名が過半数を占めるが、少数派のスンナ派アラブ人5名・クルド人5名・トルクメン人1名・キリスト教徒のアッシリア人1名も含まれる。
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イラク統治評議会(مجلس الحكم العراقي マジュリス=ル=フクム=ル=イラーキー)は、2003年の対米戦争後のイラクの暫定統治を行ったイラク人による初の機関。アメリカ軍の占領下において、2004年に新政府が樹立されるまでの統治や大臣・大使の任命、新憲法制定などを行った。
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'''イラク統治評議会'''(مجلس الحكم العراقي マジュリス=ル=フクム=ル=イラーキー)は、2003年の[[イラク戦争|対米戦争]]後の[[イラク]]の暫定統治を行ったイラク人による初の機関。[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]の占領下において、2004年に新政府が樹立されるまでの統治や大臣・大使の任命、新憲法制定などを行った。
== 概要 ==
[[ヒエラルキー]]上は[[連合国暫定当局]](CPA)の下部組織にあたり、CPAの指示・指導に基づき、[[立法]]と[[行政]]を行う。形式的には、立法権・行政権があるとされるが、事実上、新政府が樹立されるまでの間の連合軍(実質[[アメリカ合衆国軍|米軍]])による間接統治の形態といえる。
メンバーはイラクの反サッダーム・フセイン体制派であったさまざまな民族・宗派からなる25名の代表から組織された。[[イスラム教]][[シーア派]]の[[アラブ人]]13名が過半数を占めるが、少数派の[[スンナ派]]アラブ人5名・[[クルド人]]5名・[[トルクメン人 (イラク)|トルクメン人]]1名・[[キリスト教徒]]の[[アッシリア人]]1名も含まれる。
== できごと ==
*[[2003年]][[3月19日]] [[イラク戦争|対米戦争]]勃発、翌日地上軍侵攻。
*2003年[[4月9日]] [[サッダーム・フセイン|フセイン]]政権が崩壊。
*2003年[[5月]] [[連合国暫定当局]](CPA)が発足。
*2003年[[7月13日]] ''統治評議会の最初の会合''。旧フセイン政権が崩壊した4月9日を国民の休日と決定。
*[[2003年]][[7月30日]] 統治評議会初代議長に、[[ダアワ党]]の[[イブラーヒーム・アル=ジャアファリー]]代表が選出される(議長は評議員9名による1ヵ月ごとの輪番制)。
*[[2003年]][[9月1日]] 暫定内閣樹立。
*[[2003年]][[9月20日]] [[アキーラ・ハーシミー]]評議員が銃撃を受け重傷。同月25日死亡。
*[[2003年]][[12月10日]] 旧フセイン政権の戦争犯罪を裁くためイラク特別法廷が設置される。
*[[2003年]][[12月13日]] 潜伏中のフセイン元大統領がアメリカ軍によって拘束される。
*[[2004年]][[5月17日]] イラク統治評議会の[[イッズッディーン・サリーム|アブドゥッザフラ・オスマーン・ムハンマド]]議長が[[自爆テロ]]により暗殺される。
*[[2004年]][[5月28日]] [[イラク暫定政権|暫定政権]](大統領[[ガーズィー・ヤーワル]])を選出する。
*2004年[[6月2日]] ''暫定政権が発足し、統治評議会は解散''。
== 関連記事 ==
*[[イラク]]
*[[イラク戦争]]
*[[イラク国民会議]] INC
== 外部リンク ==
*[http://www.aljazeera.net/news/arabic/2003/7/7-13-4.htm مجلس حكم العراق يعقد اجتماعه الأول اليوم]…イラク統治評議会が最初の会合を本日開く(アルジャジーラ)
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行政罰
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行政罰(ぎょうせいばつ)とは、行政法上の義務違反に対して加えられる罰を総称する講学上の用語である。
行政罰は、行政刑罰と行政上の秩序罰とに大別される。行政罰は、過去の行政上の義務違反に対して罰という制裁を加えるものであり、当該義務の履行を将来において確保しようとする行政上の強制執行とは異なる。しかし、罰せられるという危険は、行政上の義務を負う者に対して当該義務の履行を促す事実上の強制力を持つ。また、旧行政執行法廃止後、行政上の強制執行の手法が原則として行政代執行しか認められていない現在の法体系上においては、行政罰のかかる間接的な効力が期待されている側面は否定できない。
現行法体系上は、行政上の強制執行と行政罰とは、行政上の義務の履行確保の手法として双璧をなすものといえる。
行政刑罰とは、行政罰のうち、刑法9条で定められた刑罰(懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料)を科すことをいう。行政刑罰は、刑事訴訟法の定めるところにより、検察官の起訴を受けた裁判所の判決により科される。
地方自治体は、条例中に、条例に違反した者に対し、法令で特別の定めがある場合を除いて、2年以下の懲役若しくは禁錮、100万円以下の罰金、拘留、科料若しくは没収の刑を科する規定を設けることができる(地方自治法14条)。
行政上の秩序罰とは、加えられる罰が刑法の刑名が無い過料であるものをいう。
大日本帝国憲法下において初めて定められた行政罰に関する法律である「命令ノ条項違犯ニ関スル罰則ノ件」(明治23年法律第84号)を制定した当時から、推進派の伊東巳代治と罪刑法定主義の観点から同法の違憲を唱えた井上毅の間で激論が交わされた。以後も刑法との関係などの点から問題点を指摘する声は多い。
現行の刑法第1編(総則)の規定は、刑法第8条の規定により、特段の規定がない限り他法令の罪についても適用される。かつては、行政刑罰に対する刑法総則の適用の有無が大きな争点であった。
戦前戦後の行政法学の通説をなした美濃部達吉・田中二郎の学説においては、行政罰を構成する行為である行政上の義務違反は当然には刑事罰における殺人等の行為のような反社会性を有するものではないことから、刑法第8条の「特別な規定」とは明文の規定のみならず条理上認められるべき特殊性をも含むものとしていた(田中二郎『新版行政法総論全訂第2版上巻』189頁及び190)。しかし、現在は、行政罰と刑事罰との関係は相対的なものであることから(例えば脱税に対する評価の変遷)、罪刑法定主義の原則を重視すべきであるとの説が通説である。
行政罰に関する実務上の課題は、実効性の確保という観点から、三つあげられる。
第一に、威嚇効果が低いことにより、義務付けの実効性が低下するということがある。
法定刑をどのように定めるかは立法政策に委ねられるものである。立法過程においては、その罰せられる行為が公共の秩序にどの程度の影響を与えるかとの評価と、刑の軽重との比較考量によって法定刑が定められるが、影響が軽微であると評価される行為についてはその罰則も当然に軽いものとなる。とりわけ行政刑罰は前述のとおり、行政上の義務違反に対する処罰(あるいは義務履行確保)のために設けられるものであることから、法定される刑の水準は比較的軽いものとなる傾向がある。 金銭上の負担を科す罰金や科料については、その抑止力は限定的なものといわざるを得ず、この点については行政上の秩序罰たる過料についても同様である。 特に地方自治体の条例で定めることができる行政罰は、2年以下の懲役若しくは禁錮、100万円以下の罰金、拘留、科料若しくは没収の刑又は5万円以下の過料とされており(地方自治法第14条第3項)、条例による義務付けの実効性担保として十分であるか議論の余地はあろう。
さらに、手続の軽さも心理的な抑制の効果を弱めている。すなわち、秩序罰たる過料は単なる行政処分であり、また行政刑罰の多くを占める罰金の多くは略式手続で終わり、法廷で裁判を受けるのは全体からするとわずかである。
第二に、執行体制上の制約がある。
行政においては人的・時間的・予算的な制約があることから、行政罰が法律上定められていたとしても、義務違反行為すべてについて取締りを行うことは現実的には不可能であり、実務上は、選択的に執行せざるをえない。
さらに、行政刑罰については刑事訴訟となることから警察・検察との連携が必要となるが、行政部門は必ずしも取締りを主たる目的としているとは限らないので、検察当局との連携強化をいかに図るかが課題といえる。
第三に、刑事司法の抑制性がある。
行政刑罰は前述のとおり、最終的には司法の手により科されるものであり、刑事司法においてはいわゆる「疑わしきは罰せず」という無罪推定の原則が適用される。このため、刑罰を求めるにあたってはその立証責任が厳しく問われることになるが、このことが罰則の適用を抑制的なものにする結果となっている。
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行政罰(ぎょうせいばつ)とは、行政法上の義務違反に対して加えられる罰を総称する講学上の用語である。
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{{参照方法|date=2022年3月}}
'''行政罰'''(ぎょうせいばつ)とは、[[行政法]]上の義務違反に対して加えられる罰を総称する講学上の用語である。
== 概要 ==
行政罰は、'''行政刑罰'''と'''行政上の秩序罰'''とに大別される。行政罰は、過去の行政上の義務違反に対して罰という制裁を加えるものであり、当該義務の履行を将来において確保しようとする[[行政上の強制執行]]とは異なる。しかし、罰せられるという危険は、行政上の義務を負う者に対して当該義務の履行を促す事実上の強制力を持つ。また、旧行政執行法廃止後、行政上の強制執行の手法が原則として[[行政代執行]]しか認められていない現在の法体系上においては、行政罰のかかる間接的な効力が期待されている側面は否定できない。
現行法体系上は、行政上の強制執行と行政罰とは、行政上の義務の履行確保の手法として双璧をなすものといえる。
=== 行政刑罰 ===
行政刑罰とは、行政罰のうち、刑法9条で定められた刑罰([[懲役]]、[[禁錮]]、[[罰金]]、[[拘留]]及び[[科料]]{{Efn|理論上は死刑も含まれるが、現行法上行政刑罰として定められたものはない<ref>{{Cite web|和書|title=行政罰とは?行政刑罰と秩序罰の違いを解説します! |url=https://www.foresight.jp/gyosei/column/administrative-punishment/ |website=www.foresight.jp |access-date=2022-04-19 |publisher=株式会社フォーサイト}}</ref>。}})を科すことをいう。行政刑罰は、[[刑事訴訟法]]の定めるところにより、[[検察官]]の起訴を受けた[[裁判所]]の[[判決]]により科される<ref>{{Cite Kotobank |word=行政刑罰 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2022-04-20}}</ref>。
[[地方公共団体|地方自治体]]は、条例中に、条例に違反した者に対し、法令で特別の定めがある場合を除いて、2年以下の懲役若しくは禁錮、100万円以下の罰金、拘留、科料若しくは没収の刑を科する規定を設けることができる([[s:地方自治法 第二編 普通地方公共団体#14|地方自治法14条]])。
=== 行政上の秩序罰 ===
{{main|秩序罰}}
行政上の秩序罰とは、加えられる罰が刑法の刑名が無い[[過料]]であるものをいう。
* 過料の根拠規定が国の法令である場合は[[非訟事件手続法]]第119条から第122条までの規定の定めるところにより裁判所が[[裁判#裁判の形式|決定]]する。
* [[地方公共団体|自治体]]の条例・規則である場合には[[地方自治法]][[s:地方自治法 第二編 第七章 執行機関#149|第149条第3号]]及び[[s:地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第十四章 補則#255の3|第255条の3]]の規定に定めるところにより当該自治体の長の[[行政行為|行政処分]]で科される。最近では、[[千代田区]]の「歩き煙草禁止条例」で有名になった。
== 課題 ==
=== 理論的課題 ===
[[大日本帝国憲法]]下において初めて定められた行政罰に関する法律である「[[命令ノ条項違犯ニ関スル罰則ノ件]]」([{{NDLDC|787979/450}} 明治23年法律第84号])を制定した当時から、推進派の[[伊東巳代治]]と[[罪刑法定主義]]の観点から同法の違憲を唱えた[[井上毅]]の間で激論が交わされた。以後も刑法との関係などの点から問題点を指摘する声は多い。
現行の刑法第1編(総則)の規定は、刑法第8条の規定により、特段の規定がない限り他[[法令]]の罪についても適用される。かつては、行政刑罰に対する刑法総則の適用の有無が大きな争点であった。
戦前戦後の[[行政法]]学の通説をなした[[美濃部達吉]]・[[田中二郎]]の学説においては、行政罰を構成する行為である行政上の義務違反は当然には刑事罰における殺人等の行為のような反社会性を有するものではないことから、刑法第8条の「特別な規定」とは明文の規定のみならず条理上認められるべき特殊性をも含むものとしていた(田中二郎『新版行政法総論全訂第2版上巻』189頁及び190)。しかし、現在は、行政罰と刑事罰との関係は相対的なものであることから(例えば脱税に対する評価の変遷)、罪刑法定主義の原則を重視すべきであるとの説が通説である。
=== 実務的課題 ===
行政罰に関する実務上の課題は、実効性の確保という観点から、三つあげられる。
第一に、威嚇効果が低いことにより、義務付けの実効性が低下するということがある。
[[法定刑]]をどのように定めるかは[[立法]][[政策]]に委ねられるものである。立法過程においては、その罰せられる行為が公共の秩序にどの程度の影響を与えるかとの評価と、刑の軽重との比較考量によって法定刑が定められるが、影響が軽微であると評価される行為についてはその罰則も当然に軽いものとなる。とりわけ行政刑罰は前述のとおり、行政上の義務違反に対する処罰(あるいは義務履行確保)のために設けられるものであることから、法定される刑の水準は比較的軽いものとなる傾向がある。
金銭上の負担を科す罰金や科料については、その抑止力は限定的なものといわざるを得ず、この点については行政上の秩序罰たる過料についても同様である。
特に地方自治体の[[条例]]で定めることができる行政罰は、2年以下の懲役若しくは禁錮、100万円以下の罰金、拘留、科料若しくは没収の刑又は5万円以下の過料とされており([[s:地方自治法 第二編 普通地方公共団体#14|地方自治法第14条第3項]])、条例による義務付けの実効性担保として十分であるか議論の余地はあろう。
さらに、手続の軽さも心理的な抑制の効果を弱めている。すなわち、秩序罰たる過料は単なる行政処分であり、また行政刑罰の多くを占める罰金の多くは[[略式手続]]で終わり、法廷で裁判を受けるのは全体からするとわずかである。
第二に、執行体制上の制約がある。
行政においては人的・時間的・予算的な制約があることから、行政罰が法律上定められていたとしても、義務違反行為すべてについて取締りを行うことは現実的には不可能であり、実務上は、選択的に執行せざるをえない。
さらに、行政刑罰については[[刑事訴訟]]となることから[[警察]]・[[検察]]との連携が必要となるが、行政部門は必ずしも取締りを主たる目的としているとは限らないので、検察当局との連携強化をいかに図るかが課題といえる。
第三に、刑事司法の抑制性がある。
行政刑罰は前述のとおり、最終的には司法の手により科されるものであり、刑事司法においてはいわゆる「疑わしきは罰せず」という[[無罪推定の原則]]が適用される。このため、刑罰を求めるにあたってはその[[立証責任]]が厳しく問われることになるが、このことが罰則の適用を抑制的なものにする結果となっている。
すなわち、罰則の適用に慎重であるがゆえに多くの義務違反が放置される状況を招き、これが間接的にしろ行政刑罰の抑止力を弱めているともいえるのである。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [[北村喜宣]]『行政執行過程と自治体』(日本評論社、1997年)
== 関連項目 ==
* [[行政]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|行政刑罰}}
{{Normdaten}}
[[Category:日本の行政罰|*きようせいはつ]]
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治験審査委員会
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治験審査委員会 (ちけんしんさいいんかい)は、治験実施機関に設置される委員会で、治験実施機関が治験の依頼を受けて治験を実施する際に、倫理性に問題がないか、治験参加者の「人権」と「安全性」に問題が無いかなど、治験の倫理性、安全性、科学的妥当性を審査する日本の組織である。治験実施機関には「治験審査委員会」を設置することが義務付けられており、委員の構成、委員会の業務などはGCPという医薬品規制調和国際会議(ICH)が定めた臨床試験(日本で言う治験も含む)を実施するための基準で定められている。
なお、「治験」以外の臨床研究実験監督機関については「倫理委員会」を参照の事。
一般的に、下記のようなことを調査・審議する。
日本の治験審査委員会は、米国の制度(IRB)を参考にしたため、日本では治験審査を指して俗に「IRB」と呼ばれる場合がある。しかしながら、米国のIRB(Institutional Review Board)とは制度も異なるもので、行政などがIRBという用語を使う場合は正しく区別するなど、注意が必要である。また、その日本語表記も、日本医師会「施設内審査委員会(IRB)」、大阪市立大学医学部「研究倫理審査委員会(IRB)」、「治験審査委員会 (IRB)」としたり様々で、米国IRBを指すのか、治験審査を指すのか、臨床試験一般を含めるのか、制度全体を指すのか、意味合いのみならず表記も定まっていない。
日本には、医薬品治験以外の倫理試験を監督する第三者機関を定める法的規制が存在せず臨床試験に対する監督体制が不十分であり、2016年には、聖マリアンナ医科大学病院において臨床研究の倫理指針に反する数々の不正が行われていたことが読売新聞にスクープされる事件も起きている。日本においては、日本製の医薬品を国際基準に適合させるための治験審査委員会のみとなっている。
これに対し、日弁連は1980年(昭和55年)より、「わが国医学会の対応は極めて鈍い。わが国でも、例えば、名古屋市立医科大学小児科の乳児院収容児人体実験事件に対する日弁連人権委員会の警告(一九五五年)、新潟大学医学部恙虫病人体実験事件に対する日弁連人権擁護委員会の警告(一九五七年)、新薬キセナラミン事件に対する法務局の勧告(一九六七年)、広島大学原爆放射能医学研究所の癌の人体実験に対する日弁連人権擁護委員会の警告(一九七0年)、いわゆる和田心臓移植事件に対する日弁連第一四回人権擁護大会における宣言、提案など、貴重な反省材料があるにもかかわらず、精神神経学会理事会の例を除けば人体実験の準則すら定立されていない。人体実験の第三者審査委員会制度については、未だに一顧だにされていない、わずかに、新薬のいわゆる臨床試験について、極めて限られた大学病院などにおいて、一種の第三者審査制度が設けられてはいるが、その第三者性は弱く、また被験者の承諾についての法的審査は殆ど行われていない」ため「ヘルシンキ宣言の遵守を義務づけることを求める」としていた。
日本医師会は問題として「日本のGCP省令は、薬事法第2条第7項に定める『治験』と呼ばれる臨床研究に限って、規制対象としている点である」とし、「わが国では薬事法の対象となる臨床試験/研究を、わが国独自の概念である『治験』に限定し、それ以外の臨床研究は法律上無関係ということにしてしまったのである。そのため、折角薬事法の改正までしてGCP基準を導入しながら、欧米先進諸国とは異なり、いわゆる『治験』以外の臨床研究をGCPの対象外とすることによって、わが国の臨床研究の規制に、大きな抜け穴を残すことになった。横浜合意から約7年経過した平成15(2003)年7月、厚生労働省は治験以外の臨床研究を対象とする『臨床研究に関する倫理指針』なるものを、法律上の根拠無しに制定・公布したが、ICH-GCP基準とは似て非なるもので、2008年の登録制度の導入など、その後の改訂内容を考慮しても、ICH-GCPが示した人間を対象とする臨床研究(試験)の際のデータの信頼性と被験者の人権保障を確保するための国際的な公的基準からはほど遠く、悪しき意味でのダブル・スタンダードを国自体が容認しているといわざるを得ない。近年、薬事法対象外の臨床研究を巡りデータ改ざん問題が頻発しているが、ICH-GCPというデータの信頼性確保と患者・被験者の人権擁護のための国際的基準の採用に合意しながら、新薬の治験以外の臨床研究を対象外として自ら規制しないばかりか、依然としてダブル・スタンダードを容認し続ける当局者の無責任な対応が、温床になっていることを改めて指摘したい」としている。
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"text": "治験審査委員会 (ちけんしんさいいんかい)は、治験実施機関に設置される委員会で、治験実施機関が治験の依頼を受けて治験を実施する際に、倫理性に問題がないか、治験参加者の「人権」と「安全性」に問題が無いかなど、治験の倫理性、安全性、科学的妥当性を審査する日本の組織である。治験実施機関には「治験審査委員会」を設置することが義務付けられており、委員の構成、委員会の業務などはGCPという医薬品規制調和国際会議(ICH)が定めた臨床試験(日本で言う治験も含む)を実施するための基準で定められている。",
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治験審査委員会 (ちけんしんさいいんかい)は、治験実施機関に設置される委員会で、治験実施機関が治験の依頼を受けて治験を実施する際に、倫理性に問題がないか、治験参加者の「人権」と「安全性」に問題が無いかなど、治験の倫理性、安全性、科学的妥当性を審査する日本の組織である。治験実施機関には「治験審査委員会」を設置することが義務付けられており、委員の構成、委員会の業務などはGCPという医薬品規制調和国際会議(ICH)が定めた臨床試験(日本で言う治験も含む)を実施するための基準で定められている。 なお、「治験」以外の臨床研究実験監督機関については「倫理委員会」を参照の事。
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'''治験審査委員会''' (ちけんしんさいいんかい)は、治験実施機関に設置される委員会で、治験実施機関が治験の依頼を受けて治験を実施する際に、[[臨床研究倫理|倫理性に問題]]がないか、治験参加者の「人権」と「安全性」に問題が無いかなど、治験の[[臨床研究倫理|倫理性]]、安全性、科学的妥当性を[[倫理委員会|審査する日本の組織]]である。治験実施機関には「治験審査委員会」を設置することが義務付けられており、委員の構成、委員会の業務などは[[良き臨床上の基準|GCP]]という[[医薬品規制調和国際会議|医薬品規制調和国際会議(ICH)]]が定めた[[臨床試験]](日本で言う[[治験]]も含む)を実施するための基準で定められている<ref name="osaka">{{Cite web|和書|title=審査委員会(IRB)|大阪市立大学 医学部附属病院 臨床研究・イノベーション推進センター|url=https://www.hosp.med.osaka-cu.ac.jp/self/hyokac/irb/index.shtml|website=www.hosp.med.osaka-cu.ac.jp|accessdate=2019-05-30}}</ref>。
なお、「[[治験]]」以外の臨床研究実験監督機関については「[[倫理委員会]]」を参照の事。
== 調査・審議内容 ==
一般的に、下記のようなことを調査・審議する<ref name="osaka" />。
*治験が[[臨床研究倫理|倫理的]]及び科学的に妥当かどうか
*治験が当該医療機関において行うのに適当かどうか
*治験の継続の適否
*モニタリング、監査の報告に対する意見
== ガバナンス ==
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== 各国の制度 ==
{{Main|倫理委員会#各国の制度}}
== 名称 ==
日本の治験審査委員会は、米国の制度(IRB)を参考にしたため、日本では治験審査を指して俗に「IRB」と呼ばれる場合がある<ref name="fukuoka">{{Cite web|和書|title=研究倫理審査委員会(IRB)とは|RecNet Fukuoka|福岡臨床研究倫理審査委員会ネットワーク RecNet Fukuoka|url=http://www.med.kyushu-u.ac.jp/recnet_fukuoka/about/irb.html|website=www.med.kyushu-u.ac.jp|accessdate=2019-05-30}}</ref>。しかしながら、米国のIRB([[:en:Institutional review board|Institutional Review Board]])とは制度も異なるもので、'''行政などがIRBという用語を使う場合は正しく区別するなど、注意が必要'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lifescience.mext.go.jp/files/pdf/n1396_01.pdf|title=倫理委員会の現状と今後の展望 赤林朗 京都大学大学院医学研究科|accessdate=2019-5-31|publisher=文部科学省 - ライフサイエンスの広場}}</ref>である。また、その日本語表記も、日本医師会「施設内審査委員会(IRB)<ref>{{Cite web|和書|title=医の倫理の基礎知識|医師のみなさまへ|医師のみなさまへ|公益社団法人日本医師会|url=http://www.med.or.jp/doctor/member/kiso/d32.html|website=www.med.or.jp|accessdate=2019-05-30}}</ref>」、大阪市立大学医学部「研究倫理審査委員会(IRB)<ref name="osaka"/>」、「治験審査委員会 (IRB)<ref name="fukuoka" />」としたり様々で、米国IRBを指すのか、[[治験]]審査を指すのか、[[臨床試験]]一般を含めるのか、制度全体を指すのか、意味合いのみならず表記も定まっていない。
== 批判 ==
日本には、医薬品治験以外の倫理試験を監督する第三者機関を定める法的規制が存在せず[[倫理委員会|臨床試験に対する監督体制]]が不十分であり、2016年には、聖マリアンナ医科大学病院において[[臨床研究倫理|臨床研究の倫理指針]]に反する数々の不正が行われていたことが読売新聞にスクープ<ref>{{Cite web|和書|title=聖マリが新たに六つの臨床研究を中止へ|url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170213-OYTEW201216/|website=yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)|accessdate=2019-06-01|language=ja}}</ref>される事件も起きている。日本においては、日本製の医薬品を国際基準に適合させるための治験審査委員会のみとなっている<ref>{{Cite web|和書|title=研究倫理審査委員会(IRB)とは|RecNet Fukuoka|福岡臨床研究倫理審査委員会ネットワーク RecNet Fukuoka|url=http://www.med.kyushu-u.ac.jp/recnet_fukuoka/about/irb.html|website=www.med.kyushu-u.ac.jp|accessdate=2019-06-01}}</ref>。
これに対し、[[日弁連]]は1980年(昭和55年)より、「わが国医学会の対応は極めて鈍い。わが国でも、例えば、名古屋市立医科大学小児科の乳児院収容児人体実験事件に対する日弁連人権委員会の警告(一九五五年)、新潟大学医学部恙虫病人体実験事件に対する日弁連人権擁護委員会の警告(一九五七年)、新薬キセナラミン事件に対する法務局の勧告(一九六七年)、広島大学原爆放射能医学研究所の癌の人体実験に対する日弁連人権擁護委員会の警告(一九七0年)、いわゆる和田心臓移植事件に対する日弁連第一四回人権擁護大会における宣言、提案など、貴重な反省材料があるにもかかわらず、精神神経学会理事会の例を除けば人体実験の準則すら定立されていない。人体実験の[[倫理委員会|第三者審査委員会制度]]については、未だに一顧だにされていない、わずかに、新薬のいわゆる臨床試験について、極めて限られた大学病院などにおいて、一種の第三者審査制度が設けられてはいるが、その第三者性は弱く、また被験者の承諾についての法的審査は殆ど行われていない」ため「[[ヘルシンキ宣言]]の遵守を義務づけることを求める」としていた<ref>{{Cite web|和書|title=日本弁護士連合会:「人体実験」に関する第三者審査委員会制度の確立に関する決議|url=https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/1980/1980_2.html|website=www.nichibenren.or.jp|accessdate=2019-06-01}}</ref>。
[[日本医師会]]は問題として「日本のGCP省令は、薬事法第2条第7項に定める『[[治験]]』と呼ばれる[[臨床研究]]に限って、規制対象としている点である」とし、「わが国では薬事法の対象となる臨床試験/研究を、わが国独自の概念である『治験』に限定し、それ以外の臨床研究は法律上無関係ということにしてしまったのである。そのため、折角薬事法の改正までしてGCP基準を導入しながら、欧米先進諸国とは異なり、いわゆる『治験』以外の臨床研究を[[GCP]]の対象外とすることによって、わが国の臨床研究の規制に、大きな抜け穴を残すことになった。横浜合意から約7年経過した平成15(2003)年7月、厚生労働省は治験以外の臨床研究を対象とする『臨床研究に関する倫理指針』なるものを、法律上の根拠無しに制定・公布したが、[[良き臨床上の基準|ICH-GCP基準]]とは似て非なるもので、2008年の登録制度の導入など、その後の改訂内容を考慮しても、[[良き臨床上の基準|ICH-GCP]]が示した人間を対象とする臨床研究(試験)の際のデータの信頼性と被験者の人権保障を確保するための国際的な公的基準からはほど遠く、悪しき意味でのダブル・スタンダードを国自体が容認しているといわざるを得ない。近年、薬事法対象外の臨床研究を巡りデータ改ざん問題が頻発しているが、[[良き臨床上の基準|ICH-GCP]]というデータの信頼性確保と患者・被験者の人権擁護のための国際的基準の採用に合意しながら、新薬の治験以外の臨床研究を対象外として自ら規制しないばかりか、依然としてダブル・スタンダードを容認し続ける当局者の無責任な対応が、温床になっていることを改めて指摘したい」<ref>{{Cite web|和書|title=医の倫理の基礎知識|医師のみなさまへ|医師のみなさまへ|公益社団法人日本医師会|url=http://www.med.or.jp/doctor/member/kiso/d33.html|website=www.med.or.jp|accessdate=2019-06-01}}</ref>としている。
== 関連項目 ==
* [[人体実験|ヒトを対象とした研究]]
* [[インフォームド・コンセント]]
* [[医療倫理]]
* [[臨床研究]]
* [[臨床研究倫理]]
* [[臨床試験]] ([[治験]])
*[[医薬品医療機器等法]]
*[[良き臨床上の基準|良き臨床上の基準(GCP)]]
*[[Good Laboratory Practice]](GLP)
*[[QMS省令]]
*[[医薬品]]
*[[医療機器]]
* [[医療倫理]]
* [[生命倫理]]
* {{仮リンク|ヒトを対象とした研究ガイドライン|en|Guidelines for human subject research}}
== 出典 ==
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[[Category:医学研究]]
[[Category:医療倫理]]
[[Category:薬学]]
[[category:医薬品医療機器等法]]
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行政調査
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行政調査(ぎょうせいちょうさ) とは、行政機関が行政目的で行う調査をいう。広義の行政調査には、申請、届出による情報収集や私人の権利利益の保護のために行われる行政手続(聴聞、弁明の機会の付与等)も含まれるとされる。
相手方の意思に反しない任意調査の場合は法律の明文の根拠は不要とされているが、強制調査では必要とされる。任意調査か強制調査かに限らず、可能な限り調査を受ける側の負担とならない方法で行われる必要がある。
行政調査の例として、公正取引委員会の審査、証券取引等監視委員会の調査、税務署の税務調査、警察官による所持品検査などがあげられる。
相手方に義務を課し、または相手方の抵抗を排しても行うことができる行政調査を言う。法律の根拠が必要である(侵害留保の原則)。国税犯則取締法2条、出入国管理法31条、国税徴収法142条、警察官職務執行法6条1項。
罰則によって、事実上担保された調査を言う。罪刑法定主義から法律の根拠を必要とする。所得税法234条1項、食品衛生法17条1項、消防法4条・16条の5、建築基準法12条4項。
相手方の任意の協力のもとに行われる行政調査を言う。法律の根拠は不要である。
独占禁止法(カルテル、入札談合、私的独占等)、金融商品取引法(インサイダー取引、相場操縦等)、国税犯則取締法(脱税)を調査するため必要があるときには、裁判官の発する許可状により、臨検、捜索又は差押えを行うことができるとされており、この権限を「犯則調査権限」という。
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行政調査(ぎょうせいちょうさ) とは、行政機関が行政目的で行う調査をいう。広義の行政調査には、申請、届出による情報収集や私人の権利利益の保護のために行われる行政手続(聴聞、弁明の機会の付与等)も含まれるとされる。 相手方の意思に反しない任意調査の場合は法律の明文の根拠は不要とされているが、強制調査では必要とされる。任意調査か強制調査かに限らず、可能な限り調査を受ける側の負担とならない方法で行われる必要がある。
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'''行政調査'''(ぎょうせいちょうさ) とは、[[行政機関]]が[[行政|行政目的]]で行う[[調査]]をいう。広義の行政調査には、申請、届出による[[情報]]収集や私人の[[権利]][[利益]]の保護のために行われる[[行政手続]](聴聞、弁明の機会の付与等)も含まれるとされる。
相手方の意思に反しない任意調査の場合は[[法律]]の明文の根拠は不要とされているが、強制調査では必要とされる。任意調査か強制調査かに限らず、可能な限り調査を受ける側の負担とならない方法で行われる必要がある。
== 行政調査の例 ==
行政調査の例として、[[公正取引委員会]]の審査、[[証券取引等監視委員会]]の調査、[[税務署]]の[[税務調査]]、[[警察官]]による[[職務質問|所持品検査]]などがあげられる。
*質問
*出頭命令・資料提出命令
*立入検査・臨検
*調査の嘱託・報告の徴収
*公害の状況の常時監視
== 行政調査の種類 ==
=== 強制調査 ===
相手方に義務を課し、または相手方の抵抗を排しても行うことができる行政調査を言う。法律の根拠が必要である([[侵害留保の原則]])。[[国税犯則取締法]]2条、[[出入国管理法]]31条、[[国税徴収法]]142条、[[警察官職務執行法]]6条1項<ref name=":2" >[http://www.jura.niigata-u.ac.jp/~ishizaki/ls2013/2013verw13-2.pdf 2013年度行政法レジュメ(13-2)ⅩⅢ -2.行政調査 2013.7.3]</ref>。
=== 間接強制を伴う調査 ===
罰則によって、事実上担保された調査を言う。[[罪刑法定主義]]から法律の根拠を必要とする。[[所得税法]]234条1項、[[食品衛生法]]17条1項、[[消防法]]4条・16条の5、[[建築基準法]]12条4項<ref name=":2" />。
=== 任意調査 ===
相手方の任意の協力のもとに行われる行政調査を言う。法律の根拠は不要である。
== 犯則調査 ==
[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律|独占禁止法]]([[カルテル|カルテル、入札談合]]、[[私的独占]]等)、[[金融商品取引法]]([[内部者取引|インサイダー取引]]、[[相場操縦]]等)、[[国税犯則取締法]]([[脱税]])を調査するため必要があるときには、[[裁判官]]の発する[[令状|許可状]]により、[[臨検]]、[[捜索]]又は[[差押え]]を行うことができるとされており、この権限を「犯則調査権限」という。
==判例==
*「[[川崎民商事件]]」<ref>最高裁判所大法廷判決昭和47年11月22日。刑集26巻9号554頁。[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/962/050962_hanrei.pdf 判例検索システム]、2014年8月30日閲覧。</ref>
*:税務調査における[[デュー・プロセス・オブ・ロー|適正手続]]が問題となった。
*:所得税の公平確実な賦課徴収のために必要な資料を収集することを目的とする手続があらかじめ裁判官の発する令状によることをその一般的要件としないからといって、[[日本国憲法第35条|憲法35条]]の法意に反するものではない。
*:[[日本国憲法第38条|憲法38条]]1項による保障は、純然たる刑事手続以外においても、実質上、刑事責任追及のための資料の取得収集に直接結びつく作用を一般的に有する手続にはひとしく及ぶ。
*:所得税法に規定する質問、検査は、憲法38条1項にいう「自己に不利益な供述」の「強要」にあたらない。
* 「荒川民商事件」<ref>最高裁判所第三小法廷決定昭和48年7月10日。刑集27巻7号1205頁。[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/993/050993_hanrei.pdf 判例検索システム]、2014年8月30日閲覧。</ref>
*:税務調査に関して、「社会通念上相当な限度にとどまるかぎり、権限ある税務職員の合理的な選択に委ねられている」から、「実施の日時場所の事前通知、調査の理由および必要性の個別的具体的な告知」は不要である。
*最高裁判所第一小法廷判決昭和53年9月7日<ref>刑集32巻6号1672頁。[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/125/051125_hanrei.pdf 判例検索システム]、2014年8月30日閲覧。</ref>
*:所持品検査について、「明示又は黙示の承諾が」なく、「所持品検査が許容される特別の事情も認められない」場合、「警察官職務執行法2条1項に基づく正当な職務とはいいがたく、右所持品検査に引き続いて行われた本件証拠物の差し押さえは違法である。」
*:「押収手続きに違法があるとして直ちにその証拠能力を否定することは、事実の真相究明に資するゆえんではなく、相当ではない」ところ、「憲法35条及びこれを受けた刑訴法218条1項等の所期する令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、これを証拠として許容することが、将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当ではない場合においては、その証拠能力は否定される」。
* 「自動車一斉検問事件」<ref>刑集34巻5号272頁。[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/155/051155_hanrei.pdf 判例検索システム]、2014年8月30日閲覧。</ref>
*:警察官が、交通取締の一環として、交通違反の多発する地域等の適当な場所において、交通違反の予防、検挙のため、同所を通過する自動車に対して走行の外観上の不審な点の有無にかかわりなく短時分の停止を求めて、運転者などに対し必要な事項についての質問などをすることは、それが相手方の任意の協力を求める形で行われ、自動車の利用者の自由を不当に制約することにならない方法、態様で行われる限り、適法である。
* 最高裁判所第二小法廷決定平成16年1月20日<ref>刑集58巻1号26頁。[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/070/050070_hanrei.pdf 判例検索システム]、2014年8月30日閲覧。</ref>
*:法人税法「に規定する質問又は検査の権限は、犯罪の証拠資料を取得し、保全するためなど、犯則事件の調査あるいは捜査のための手段として行使することは許されない」。
*:「質問又は検査の権限の行使に当たって、取得収集される証拠資料がのちに犯則事件の証拠として利用されることが想定できたとしても、そのことによって直ちに、上記質問又は検査の権限が犯則事件の調査あるいは捜査のための手段として行使されたことにならない」
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
*[[税務調査]]
*[[職務質問]]
*[[公正取引委員会]](審査局、犯則審査部)
*[[証券取引等監視委員会]](特別調査課)
[[Category:行政作用法|きようせいちようさ]]
[[Category:日本の行政作用法|きようせいちようさ]]
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11,677 |
相模線
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相模線(さがみせん)は、神奈川県茅ヶ崎市の茅ケ崎駅と相模原市緑区の橋本駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。「がみ線」という通称がある。
東海道本線の茅ケ崎駅から相模川に沿って北へ向かう路線である。南側は相模川の東岸沿いを通り、北側は相模原台地の西側を築堤や切通しの連続で登り詰める。元は相模鉄道(法人としては現在の相鉄ホールディングス)の路線であったが、東海道本線と中央本線とを結ぶバイパス路線として後に国有化された。過去には支線として、1931年に廃止された寒川駅から川寒川駅への支線(通称:川寒川支線)と、1984年に廃止された寒川駅から西寒川方面への支線(通称:西寒川支線、寒川支線。「西寒川駅」の記事も参照)があった。
路線名の「相模」は相模鉄道に由来するもので、相模鉄道が神中鉄道を吸収合併した際に、相模鉄道の路線(相模鉄道相模線、現在のJR相模線)と旧 神中鉄道の路線(相模鉄道神中線、現在の相鉄本線と相鉄厚木線)を区別するためにつけられた「相模線」の名称を踏襲している。旧国名に直接由来するものではない。
全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内や車体に使用されるラインカラーは相模川をイメージした濃い水色(■)である。
終点である橋本駅が中央新幹線の停車駅となる予定であることや、寒川町倉見地区への東海道新幹線相模新駅の誘致が絡み、抜本的な輸送力増強策として地元自治体から列車行き違い施設設置や複線化などの要望があるが、莫大な費用がかかることが予想されるため、JR東日本からの具体的な動きはない。
全線が横浜支社の管轄である。
相模線は、神奈川県中央部を縦貫して東海道線と中央線を連絡することと、相模川で採取した砂利の輸送を目的として建設された路線である。相模鉄道(法人格としては現在の相鉄ホールディングス)によって建設され、1921年(大正10年)9月に最初の区間として茅ケ崎駅 - 寒川駅と砂利運搬用の支線 寒川駅 - 川寒川駅間が開業。1922年(大正11年)5月には砂利運搬用の支線 寒川駅 - 四之宮駅間、1926年(大正15年)7月には寒川駅 - 倉見駅 - 厚木駅間、1931年(昭和6年)4月29日に橋本駅までの全区間が開業した。しかし太平洋戦争中の1944年(昭和19年)6月に、茅ケ崎駅 - 橋本駅間と、相模海軍工廠とつながっている支線の寒川駅 - 四之宮駅間が戦時買収私鉄として国有化された。相模線を国有化した理由は、戦時体制のもと、都心が攻撃された場合に備え八高・横浜・相模線の迂回ルートを確保するためであった。戦後には元の運営者である相模鉄道への払い下げや、国鉄分割民営化の前には相模鉄道への譲受を検討したこともあったが、国鉄分割民営化時には営業係数が400に近かったため条件が折り合わず破談となった(詳細は「相模鉄道#いずみ野線の建設と大手私鉄認定」を参照)。
相模線は、高度経済成長後の1980年代になって沿線がベッドタウン化し、現在のような運行形態が取られるようになったが、それまでは沿線人口は少なく、1960年代の沿線都市人口は相模原市の約20万人が最大で、沿線第3の都市であった厚木市でさえ8.9万人に過ぎなかった。さらに相模川の砂利採掘が禁止された1960年頃には貨物輸送も激減し、1971年度の収支係数は374と、関東地方の国鉄線の中では鹿島線の634、木原線の459に次ぐ第3位の赤字路線であり、これは現在第三セクター化されている足尾線の361や真岡線の345よりも悪く、1968年(昭和43年)に「赤字83線」に選定され廃止対象とされた烏山線の265を遥かに下回っていた。このような経営状況にもかかわらず、相模線は1970年(昭和45年)12月21日の日本国有鉄道諮問委員会報告書において一地方ローカル線としては破格の幹線系線区に区分され、これが翌年明るみに出ると、専門家の間ではこれを疑問視する声も聞かれた。相模線はこのように関東有数の赤字路線であったにもかかわらず、近隣の座間市にあった日産自動車座間工場で生産された自動車を輸送する路線として、またベッドタウンの足として位置付けられ、国の資本が投下され続けた(とはいえ非電化であり、全線電化していた相模鉄道の現存路線との差も明らかだった)。このため、この事情を知る専門家からは「一部独占資本に奉仕する国鉄」と囁かれていた。
相模線は1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化でJR東日本の路線となり、1991年(平成3年)には全線が電化され、当線のために新製された当時では最新型の車両が投入された。電化によるスピードアップ、およびダイヤ改正による運行本数の増加(約1.5倍)、海老名駅の開業(1日乗車人数9千人前後)、横浜線への直通運転の復活などで利便性向上が図られ、また京王相模原線の橋本駅乗り入れや沿線のベッドタウン化など周辺環境の変化もあって通勤通学での利用客が増加し、現在は通勤・通学路線として定着しているものの、東海道線や中央線とは異なり旅客流動が都心とは無関係のため、周辺他線と比較すれば圧倒的に乗客が少ない。
すべての列車が線内運転の各駅停車で、他線区との直通運転は行われていない。全列車でワンマン運転を行うが、運賃の車内収受は行われず、各車両の全ての扉から乗り降りができる。
茅ケ崎駅 - 橋本駅間の全線通し運転を基本とし、日中は20分間隔で運行される。このほか、茅ケ崎駅 - 海老名駅間の区間列車もある。かつての非電化時代には、橋本駅 - 南橋本駅、原当麻駅、厚木駅間、茅ケ崎駅 - 寒川駅間などの区間運転も行われていた。また、両運転台気動車による単行運転の列車も存在した。1991年の電化後もしばらくは橋本駅 - 厚木駅間の区間運転が下り始発・上り最終に1往復設定されていたが、茅ケ崎駅まで延伸されて消滅した。
旅客列車が運行されるほか、相模鉄道の車両の甲種輸送の際に使用される。2021年現在、厚木駅経由の相模鉄道への甲種輸送などは、昼間に貨物列車のダイヤ設定がなくなったため、深夜帯に臨時貨物列車として運転されている。
列車交換のために特定の駅(交換駅)ごとに停車時間が2分 - 5分と長めに取られているため、茅ケ崎駅 - 橋本駅間で所要時間が最速列車(下り始発の49分)に比べて最大24分遅くなる列車がある。
かつては朝夕の一部列車は橋本駅から横浜線に乗り入れて八王子駅まで運転されていた。この八王子駅発着列車は2015年3月13日までは10往復設定されていたが、翌14日のダイヤ改正で6往復に減便され、2022年3月12日のダイヤ改正で相模線のワンマン運転開始に伴い横浜線との直通運転は終了した。
相模線は国鉄分割民営化当時、JR東日本の東京近郊区間内では、八高線とともに気動車が運転される数少ない線区であった。1991年に相模線が電化されたことにより、神奈川県は当時鉄軌道が存在していなかった沖縄県以外では日本で初めて気動車による定期旅客列車が存在しない(貨物専用線を除く県内すべての鉄道旅客路線が電化されており、なおかつ他線区から乗り入れる気動車列車が全くない)県となった。
また、横浜市金沢区の東急車輛製造(現・総合車両製作所横浜事業所)で落成した全国各地向け気動車の公式試運転路線としても有名であった。北海道向けから九州向けまでの車両を見ることもできたことは、夏季に見られた房総線(現在の内房・外房・成田線にあたる)の臨時快速で全国から駆り出された(あるいは試運転前提で投入された)各地域仕様気動車が見られた千葉地区に次ぐものである。
過去には以下の車両を使用していた。
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、宮山駅・倉見駅・門沢橋駅・社家駅・入谷駅・相武台下駅・下溝駅・番田駅である。
2022年3月12日のダイヤ改正でのワンマン運転化に伴い、全ての駅で発車メロディの使用が停止された。同日以降は、E131系の車外スピーカーより「Water Crown」及び「Gota del Vient」が流される。
ワンマン運転化以前、相模線内各駅の発車メロディは、後述する茅ケ崎駅を除き、他線区にはない「近郊地域20番」「近郊地域20-1番」(旭電通(現・東洋メディアリンクス)製)と鉄道愛好家の中で通称されている曲のみとなっていた。かつては2001年の高架化から2016年まで上溝駅で「せせらぎ」(日本電音製)のフェードアウト版が使用されていた(さらにその前は「近郊地域20番」を使用していた)。近郊地域20番は橋本駅・原当麻駅・海老名駅・厚木駅・寒川駅の各駅で使用されている(橋本駅は余韻が短い。以前は総武本線の佐倉駅で使用されていた)。もう1曲の近郊地域20-1番は、南橋本駅・上溝駅・番田駅・下溝駅・相武台下駅・入谷駅・社家駅・倉見駅・門沢橋駅・宮山駅・香川駅・北茅ケ崎駅の各駅で使用されていた。電化され駅自動放送が導入された当初は、全駅が近郊地域20番に統一されていた。2021年9月28日より、茅ケ崎駅で加山雄三の「海 その愛」の使用が開始され、合わせて加山の復元音声による啓発放送の使用も開始された。なお、変更前は「ベル・高音」と「ベル・低音」が使用されていた。
また、駅自動放送は茅ケ崎駅・橋本駅がATOS型、海老名駅・原当麻駅が旭型放送(詳細型)、寒川駅が巌根型放送、それ以外の駅は巌根・館山型放送である。なお、以前は全駅とも東海道型放送(簡易型)、上溝駅は2001年の高架化から2016年までユニペックス型放送、海老名駅・原当麻駅は2022年2月まで東海道型放送(詳細型)が使われていたが、放送装置更新や、駅舎リニューアルなどに伴い、現在の形になっている。
( )内は起点からの営業キロ。
#廃止区間にある駅を除く。括弧内は茅ケ崎駅起点の営業キロ
JR東日本調べ 1日平均(2018年度)
(ランキングにない駅は無人駅のためデータ非公表)
現在の相模線は全線が単線であるとともに、快速などの優等列車の運行がなく基本的に各駅停車のみであり、行き違いを行う列車の待ち合わせのため、朝夕の通勤時間帯は日中より列車の所要時間がかかる。例として、特に上溝駅から橋本駅までは通常6分のところが13分と倍以上かかっている。また、相模原市南区の駅の利用者も10年間で30%以上も増えており、混雑が増加しているという課題を抱えている。
また、上下の列車の行き違いのできない駅が7か所もあり、特に上溝駅は、2001年に高架化されたものの、行き違いホームが住民の要望に反して設置されなかった。相模原市と小田急電鉄は、多摩線の上溝駅までの延伸計画を考えているのに、上溝駅の行き違い化を行わなかったことは、小田急線の延伸についてやる気がないという意味でもあると住民は異を唱えている。
そのため、相模線の複線化や、厚木駅 - 海老名駅で並走する相鉄厚木線を経由して相鉄線と相互乗り入れなどを進めようと、住民や行政が促進運動を大々的に展開している。
各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。
1987年度から2007年度にかけて平均通過人員が急激に増加していた。1987年度の平均通過人員を100とした場合、2021年度は253であり、JR東日本が運営する路線の中では最大である。
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相模線(さがみせん)は、神奈川県茅ヶ崎市の茅ケ崎駅と相模原市緑区の橋本駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。「がみ線」という通称がある。
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{{Infobox 鉄道路線
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|画像=Series-E131-500 G02.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=相模線を走る[[JR東日本E131系電車|E131系電車]]<br>([[海老名駅]] - [[入谷駅 (神奈川県)|入谷駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[神奈川県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[茅ケ崎駅]]
|終点=[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]
|駅数=18駅
|電報略号 = サミセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p21">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=21}}</ref>
|開業={{start date and age|1921|9|28}}
|項目1=一部廃止
|日付1=1984年3月31日(寒川 - 西寒川間)
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(全線)<br />日本貨物鉄道(茅ケ崎-厚木間)
|車両基地=[[国府津車両センター]]<br />[[茅ヶ崎運輸区|湘南・相模統括センター]]
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
|路線構造=
|路線距離=33.3 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[単線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式(特殊)
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]<ref name="ats">[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2018/all.pdf サステナビリティレポート2018] 34頁 - JR東日本、2018年9月</ref>
|最高速度=85 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=[[File:JR Sagami Line map.svg|300px]]<br />上の路線図の赤線が相模線、青線がかつての[[横浜線]]乗り入れ区間
}}
'''相模線'''(さがみせん)は、[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]の[[茅ケ崎駅]]と[[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。「がみ線」という通称がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/chuoku/1009353/1024494.html |title=がみ線沿線イチ推しフォトキャンペーン |access-date=2021-01-18 |publisher=相模原市役所 |archive-date=2021-01-18 |date=2021-12-17 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220118070037/https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/chuoku/1009353/1024494.html}}</ref>。
== 概要 ==
[[東海道本線]]の茅ケ崎駅から[[相模川]]に沿って北へ向かう路線である。南側は相模川の東岸沿いを通り、北側は[[相模野台地|相模原台地]]の西側を築堤や[[切通し]]の連続で登り詰める。元は[[相模鉄道]](法人としては現在の[[相鉄ホールディングス]])の路線であったが、東海道本線と[[中央本線]]とを結ぶバイパス路線として後に国有化された。過去には支線として、1931年に廃止された寒川駅から川寒川駅への支線(通称:川寒川支線)と、1984年に廃止された寒川駅から西寒川方面への支線(通称:西寒川支線、寒川支線。「[[西寒川駅]]」の記事も参照)があった。
路線名の「相模」は相模鉄道に由来するもので、相模鉄道が[[相模鉄道#神中鉄道|神中鉄道]]を吸収合併した際に、相模鉄道の路線(相模鉄道相模線、現在のJR相模線)と旧 神中鉄道の路線(相模鉄道神中線、現在の[[相鉄本線]]と[[相鉄厚木線]])を区別するためにつけられた「相模線」の名称を踏襲している。[[旧国名]]に直接由来するものではない。
全線が[[旅客営業規則]]の定める「[[大都市近郊区間 (JR)|東京近郊区間]]」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内や車体に使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は相模川をイメージした濃い水色({{color|#009793|■}})である。
終点である[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]が[[中央新幹線]]の停車駅となる予定であることや、[[寒川町]]倉見地区への[[東海道新幹線]][[相模新駅]]の誘致が絡み、抜本的な輸送力増強策として地元自治体から列車行き違い施設設置や[[複線]]化などの要望があるが、莫大な費用がかかることが予想されるため、JR東日本からの具体的な動きはない<ref>{{Cite web|和書|date=2014-10-20 |url=http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/mayor/1000824/1000904/1000918.html |title=JR相模線の増発について(平成26年5月回答) |publisher=茅ヶ崎市 |accessdate=2020-04-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180605014843/https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/mayor/1000824/1000904/1000918.html |archivedate=2018-06-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-01 |url=https://www.pref.kanagawa.jp/documents/58595/06_r1_kentetsu-youbou-sagamisen.pdf |title=神奈川県鉄道輸送力増強促進会議 令和元年度 要望・回答 東日本旅客鉄道 相模線 |publisher=神奈川県 |format=PDF |page=1 |accessdate=2021-01-23}}</ref>。
=== 路線データ ===
* 管轄・路線距離([[営業キロ]])
** 東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
*** 茅ケ崎駅 - 橋本駅間:33.3km
** [[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])
*** 茅ケ崎駅 - 厚木駅間:14.2km
* [[軌間]]:1,067mm
* 駅数:18(起終点駅含む)
** 相模線所属駅に限定する場合、起終点駅(茅ケ崎駅は東海道本線、橋本駅は横浜線の所属<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>)が除外され、16駅となる。
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1,500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式(特殊)
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]<ref name="ats" />
*最高速度:85km/h
*[[運転指令所]]:橋本[[列車集中制御装置|CTC]]センター
** 運転取扱駅(駅が信号を制御):茅ケ崎駅
** 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):厚木駅・橋本駅
* 最小曲線半径:107m(茅ケ崎駅 - 北茅ケ崎駅間の1か所)
全線が[[東日本旅客鉄道横浜支社|横浜支社]]の管轄である。
== 歴史 ==
相模線は、神奈川県中央部を縦貫して[[東海道本線|東海道線]]と[[中央本線|中央線]]を連絡することと、[[相模川]]で採取した[[砂利]]の輸送を目的として建設された路線である<ref>{{Cite web|和書|date=2018-12|url=https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf|format=PDF|author=相鉄グループ100年史編纂事務局|title=相鉄グループ100年史|publisher=相模鉄道|accessdate=2023-01-08|page=13-14}}</ref>。[[相模鉄道]](法人格としては現在の[[相鉄ホールディングス]])によって建設され、[[1921年]](大正10年)9月に最初の区間として茅ケ崎駅 - 寒川駅と砂利運搬用の支線 寒川駅 - 川寒川駅間が開業。[[1922年]](大正11年)5月には砂利運搬用の支線 寒川駅 - 四之宮駅間、[[1926年]](大正15年)7月には寒川駅 - [[倉見駅]] - [[厚木駅]]間、[[1931年]](昭和6年)[[4月29日]]に[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]までの全区間が開業した。しかし[[太平洋戦争]]中の[[1944年]](昭和19年)6月に、茅ケ崎駅 - 橋本駅間と、相模[[海軍工廠]]とつながっている支線の[[寒川駅]] - 四之宮駅間が[[戦時買収私鉄]]として国有化された。相模線を国有化した理由は、[[戦時体制]]のもと、都心が攻撃された場合に備え[[八高線|八高]]・[[横浜線|横浜]]・相模線の迂回ルートを確保するためであった<ref name="tetsudo-pictrial-1974-02">福田行高、山田俊明「ローカル線を探る 相模線」『鉄道ピクトリアル』1974年2月号 通巻289号 電気車研究会 p.64 - p.65, p.67</ref><ref>『[https://www.sotetsu.co.jp/about/history/ 相鉄グループ100年史]』相鉄ホールディングス 、2018年12月、35-38ページ</ref>。戦後には元の運営者である相模鉄道への払い下げや、国鉄分割民営化の前には相模鉄道への譲受を検討したこともあったが、国鉄分割民営化時には営業係数が400に近かったため条件が折り合わず破談となった<ref>峰岸昇、今城光英「相模鉄道の鉄道事業を語る」『鉄道ピクトリアル』1999年7月増刊号 通巻672号、1999年、鉄道図書刊行会刊、p.19</ref>(詳細は「[[相模鉄道#いずみ野線の建設と大手私鉄認定]]」を参照)。
相模線は、[[高度経済成長]]後の1980年代になって沿線が[[ベッドタウン]]化し、現在のような運行形態が取られるようになったが、それまでは沿線人口は少なく、1960年代の沿線都市人口は[[相模原市]]の約20万人が最大で、沿線第3の都市であった[[厚木市]]でさえ8.9万人に過ぎなかった<ref group="注釈">相模線は厚木市内を走っていないが、相模川をはさんだ厚木駅の対岸は厚木市の旧市街地[[厚木町]]である。</ref>。さらに相模川の砂利採掘が禁止された1960年頃には貨物輸送も激減し、1971年度の[[営業係数|収支係数]]は374と、[[関東地方]]の[[日本国有鉄道|国鉄]]線の中では[[鹿島線]]の634、[[いすみ鉄道いすみ線|木原線]]の459に次ぐ第3位の赤字路線であり、これは現在[[第三セクター]]化されている[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|足尾線]]の361や[[真岡鐵道真岡線|真岡線]]の345よりも悪く、[[1968年]](昭和43年)に「[[赤字83線]]」に選定され廃止対象とされた[[烏山線]]の265を遥かに下回っていた。このような経営状況にもかかわらず、相模線は[[1970年]]([[昭和]]45年)[[12月21日]]の[[日本国有鉄道諮問委員会]]報告書において一地方[[ローカル線]]としては破格の[[幹線]]系線区に区分され、これが翌年明るみに出ると、専門家の間ではこれを疑問視する声も聞かれた。相模線はこのように関東有数の赤字路線であったにもかかわらず、近隣の[[座間市]]にあった[[日産自動車]][[日産自動車座間工場|座間工場]]で[[日産自動車座間工場#生産された車種|生産された自動車]]を輸送する路線として、またベッドタウンの足として位置付けられ、国の資本が投下され続けた(とはいえ非電化であり、全線電化していた相模鉄道の現存路線との差も明らかだった)。このため、この事情を知る専門家からは「一部独占資本に奉仕する国鉄」と囁かれていた<ref name="tetsudo-pictrial-1974-02" /><ref>『1971(昭和46)年度 国鉄線区別収支係数』、 鉄道ピクトリアル 1972年11月号、 通巻271号(鉄道図書刊行会刊)</ref>。
相模線は[[1987年]](昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]でJR東日本の路線となり、[[1991年]](平成3年)には全線が電化され、当線のために新製された当時では最新型の車両が投入された。電化によるスピードアップ、およびダイヤ改正による運行本数の増加(約1.5倍)、海老名駅の開業(1日乗車人数9千人前後)、[[横浜線]]への直通運転の復活などで利便性向上が図られ<ref group="注釈">横浜線への直通運転は2022年3月12日のダイヤ改正で再び廃止された。</ref>、また[[京王相模原線]]の橋本駅乗り入れや沿線のベッドタウン化など周辺環境の変化もあって通勤通学での利用客が増加し、現在は通勤・通学路線として定着しているものの、東海道線や中央線とは異なり旅客流動が都心とは無関係のため、周辺他線と比較すれば圧倒的に乗客が少ない。
=== 相模鉄道 ===
==== 開業前 ====
[[File:Appendix to the prospectus of Sagami Railway.jpg|thumb|「相模鉄道株式会社発起趣意書」(大正6年)に掲載された路線図]]
* [[1915年]]([[大正]]4年):相模軽便鉄道として会社設立が計画され、[[10月21日]]に最初の定款が作成される。当初の計画では、茅ケ崎 - 寒川 - 厚木 - 原当麻 - 久保沢(城山町)付近 - 相原を通る路線であった。
* [[1916年]](大正5年)[[6月26日]]:相模鉄道の発起人[[鳥越金之助]](元帝国鉄道庁技師)ほか21名に対して茅ケ崎 - 相原間の[[軽便鉄道]]敷設免許が交付される<ref>[{{NDLDC|2953282/6}} 「鉄道免許状下付」『官報』1916年6月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1917年]](大正6年)[[12月18日]]:相模鉄道の創立総会が[[高座郡]]茅ヶ崎町茅ヶ崎の伊藤里之助(当時の茅ヶ崎町長)宅にて開催。資本金は60万円、本社所在地は茅ヶ崎町茅ヶ崎5573-2に置かれた。
** 初代社長に[[日米富士自転車]]創業者で衆議院議員でもあった[[岡崎久次郎]]<ref>[{{NDLDC|1704027/351}} 『人事興信録. 6版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>が就任
* [[1918年]](大正7年)[[1月4日]]:相模鉄道株式会社の設立登記がされる。
* [[1919年]](大正8年)
**[[7月10日]]:相模鉄道が[[JFEスチール|日本鋼管]]との間に軌条約8km分の購入契約を結ぶ。
** [[7月11日]]:国鉄茅ケ崎駅付近(茅ケ崎駅を出て左カーブの左側)に本社事務所と機関庫が完成。
** [[7月19日]]:寒川 - 川寒川間の砂利採取支線の敷設許可がおりる。
** [[7月22日]]:砂利採取、販売兼営認可がおりる。
** 当時は、手掘りにて砂利を採取し、鉄道開通以前であったため、狭い専用線を茅ヶ崎から敷設して、トロッコに積んで馬力で茅ヶ崎停車場に運搬し、ここから東海道線の貨車に積み替えて目的地まで運ぶというものであった<ref>『相鉄70年史』p.17</ref>。敷設された専用線は、鉄道用地ではなく県道を借用していたとの記述もある。
** [[11月10日]]:一期工事の土木工事の入札が行われる。
** [[11月21日]]:香川駅停車場予定地付近にて軌道敷設起工式を開催。線路予定地から反対運動も起き、さらに鋼材が高騰し資金不足で会社設立から起工式まで2年もかかった。
* [[1920年]](大正9年)
**[[1月10日]]:茅ケ崎駅への乗り入れ連絡が承認される。乗り入れ工事は[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]によって施工。
** 5月末:乗り入れ工事完成。工事期間中に茅ヶ崎停車場共同使用願及び連帯輸送開始願を鉄道院に提出。
** 7月:砂利の採取地を寒川村一之宮、宮山及び神田村田村(現在の[[平塚市]]田村)と決める。
* [[1921年]](大正10年)
**[[5月29日]]:茅ケ崎駅 - 寒川駅間5.0kmにて試運転。貨車3両を連結して寒川駅 - 川寒川駅間試運転。開業に向け、[[鉄道省]]からテンダー式蒸気機関車4両、4輪客車2両、4輪無蓋車11両、4輪緩急車3両の計18両の払い下げを受けた(以上のように書かれた資料もあるが、当時の話では2両しか機関車がなかった〈1924年参照〉とされ、払い下げが記述通りに行われたのか、記憶違いかは不明)。
** [[9月12日]]:鉄道係員服務規則、鉄道係員懲罰規定、旅客及び貨物運輸規則、貨物運賃及び料金規則、貨物営業マイル程、運賃割引準則、増運賃規則、列車運転時刻などの諸規則が認可される。
** 9月20日:開通を目前に岡崎久次郎をはじめ役員のほとんどが退任。[[草軽電気鉄道|草津軽便鉄道]]の別府藤馬<ref>[{{NDLDC|936470/181}} 『日本全国諸会社役員録. 第29囘』]</ref>が代表取締役となる<ref>『相鉄線物語』230クラブ新聞社、1997年、39頁</ref><ref>[{{NDLDC|936470/382}} 『日本全国諸会社役員録. 第29囘』][{{NDLDC|968834/399}} 『日本全国諸会社役員録. 第30囘』]</ref>。
==== 開業後 ====
* 1921年(大正10年)[[9月28日]]:相模鉄道線 茅ケ崎駅 - 川寒川駅間(4.0[[マイル|mi.]]≒6.44km)が開業<ref>[{{NDLDC|974244/412}} 『鉄道省鉄道統計資料. 大正10年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。香川駅・寒川駅・川寒川駅が開業。当時は28kgレールを使用していた。
* [[1922年]](大正11年)[[5月10日]]:砂利支線(貨物線・後の西寒川支線)寒川駅 - 四之宮駅間(1.2M≒1.93km)が開業。四之宮駅が開業<ref>[{{NDLDC|2955049/12}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年5月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1923年]](大正12年)
**[[2月5日]]:東河原駅(のちの西寒川駅)が開業(貨物営業)<ref>[{{NDLDC|2955281/7}} 「地方鉄道停車場設置」『官報』1923年2月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
**[[9月1日]]:[[関東大震災]]が発生し、復旧工事のため約1か月間不通となる。
* [[1924年]](大正13年)
**[[3月28日]]:会社定款を一部変更し、軽便鉄道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更。
* 「大正12・13年頃の機関区には機関士3人、機関助手3人、技工1人、炭水夫1人、主任1人しかいなかった。機関車も101号と102号の2両しかなく、その2両で寒川まで運行していた」と相模鉄道社内報(1977年10月)に当時の話として載っている。
* [[1925年]](大正14年)
** 2月8日:投資家の[[南俊二]]が社長に就任。
** [[7月8日]]:茅ケ崎駅 - 寒川駅 - 四之宮駅間に対する政府補助金の申請が許可される。この前後に茅ケ崎駅構内に機関庫1棟、川寒川駅・四之宮駅に貨物扱所、寒川駅 - 川寒川駅間の四之宮分岐点に信号所などが新設される。
** 7月:自社施設として[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]に砂利荷揚場が新設。震災復興資材として砂利供給の拠点となった。
* [[1926年]](大正15年)
** [[1月25日]]:寒川駅 - 厚木駅間の起工式開催。工区は2区に分けられ倉見駅までを先行工区とし、併せて厚木駅までの線路用地及び停車場用地の買収も進めた。
** [[4月1日]]:寒川駅 - 倉見駅間(2.3mi.≒3.70km)が延伸開業。倉見駅が開業(旅客営業のみ貨物営業開始は7月15日)<ref>[{{NDLDC|2956234/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年4月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[7月15日]]:倉見駅 - 厚木駅間(3.7mi.≒5.95km)が延伸開業。のちに合併する神中鉄道の[[二俣川駅]]まで直通運転を開始。社家駅・厚木駅が開業<ref>[{{NDLDC|2956323/4}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年7月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[7月30日]]:厚木駅 - 橋本駅間の工事起工式開催。
** 11月:工事区間の用地買収・全補償問題完了。
* [[1927年]](昭和2年)4月1日:資本金を増資。目的には、茅ケ崎駅 - 寒川駅間の複線化、28kgレールを30kg以上へのレール交換などが含まれていた<ref>『相鉄70年史』</ref>。
* [[1929年]](昭和4年)
** 11月:厚木起点5.6km以北から橋本駅までの区間で軌条敷設・橋本駅連絡工事、通信設備、駅などの諸工事が完了。<ref name="Sotetsu100thHistory_p20">{{Cite web|和書|date=2018-12|url=https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf|format=PDF|author=相鉄グループ100年史編纂事務局|title=相鉄グループ100年史|publisher=相模鉄道|accessdate=2023-01-08|page=20-21}}</ref>
* [[1930年]](昭和5年)
** 4月:厚木起点から5.6kmまでの区間で、軌条敷設・砂利散布・つき固め工事が完了<ref name="Sotetsu100thHistory_p20" />。
** 4月1日 マイル表示からメートル表示に変更(茅ケ崎駅 - 厚木駅間 9.1mi.→14.6km、寒川駅 - 川寒川駅間 0.9mi.→0.9km<!-- 0.5km短縮された?-->、寒川駅 - 四之宮駅間 1.2mi.→2.0km)。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[1月30日]]:厚木駅 - 橋本駅間の工事が完成するも工事代金未払いのため引き渡しを受けられず、[[日本興業銀行]]から借入支払いを行う<ref name="Sotetsu100thHistory_p20" />。
** [[4月29日]]:厚木駅 - 橋本駅間 (18.7km) 延伸開業し全通。上今泉停留場(現在の井戸坂踏切橋本側にあたる)・座間新戸駅(現在の相武台下駅)・下溝駅・原当麻駅・上溝駅(現在の番田駅)・相模横山駅(現在の上溝駅)・作ノ口停留場が開業<ref>[{{NDLDC|2957769/10}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年5月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
**6月19日:南俊二が投資に失敗し相模鉄道株を売却したため社長を退任<ref>『相鉄線物語』51頁</ref>。次に就任した登坂小三郎は元鉄道院理事で横荘鉄道取締役であり同年に山梨電気鉄道社長に就任している<ref>[{{NDLDC|1137415/972}} 『帝国銀行会社要録. 第19版(昭和6年)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** [[7月1日]]:宮山停留場・門沢橋停留場・本座間停留場が開業。
** 11月1日:貨物支線 寒川駅 - 川寒川駅間 (0.9km) が廃止。川寒川駅が廃止<ref>[{{NDLDC|2957927/9}} 「地方鉄道運輸営業廃止」『官報』1931年11月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1932年]](昭和7年)
** 5月:原当麻駅 - 橋本駅間に対して鉄道省から補助金の交付を受ける。昭和6年度上期から欠損があり、日本興業銀行に対する未払い利息が25万9300円に達するほど経営状況が悪化していた。
** 6月:ガソリン自動客車を導入。導入当時の話として「ボディーが高く、すぐに脱線してしまう。寒川駅の分岐点から少しでも入ると脱線してしまう。これではとても本線を走ることができない、何度やっても脱線する。そこで、機関区でボディーの高さを2センチほど低くしたら脱線しなくなった。」と相模鉄道社内報(1977年10月)に当時の話として載っている。
** [[6月1日]]:円蔵停留場・上磯部停留場が開業。
** 11月1日:中新田停留場・大河原停留場(現在の南橋本駅)が開業。
* [[1935年]](昭和10年)
**[[6月23日]]:貨物停車場として入谷駅が開業。
** [[8月20日]]:座間新戸駅構内側線が1.0km延長。
** [[10月16日]]:重油動力併用認可を受ける。
** [[11月2日]]:汽車製造会社と共同開発の日本初の電気式気動車[[相模鉄道の気動車|キハ1000形]]流線型ディーゼル電動客車を購入、軽油を燃料に茅ケ崎駅 - 橋本駅間で運転を開始。
** [[11月7日]]届出:相模横山駅が本上溝駅に改称。
** [[12月24日]]:国鉄横浜線に乗り入れ、八王子駅までの直通運転の承認を受ける<ref name="Sotetsu100thHistory_p25">{{Cite web|和書|date=2018-12|url=https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf|format=PDF|author=相鉄グループ100年史編纂事務局|title=相鉄グループ100年史|publisher=相模鉄道|accessdate=2023-01-08|page=25}}</ref>。
* [[1936年]](昭和11年)[[1月15日]]:国鉄八王子駅へ直通運転開始。同時に運転本数を増やし、スピードアップを行う<ref name="Sotetsu100thHistory_p25" />。
* [[1937年]](昭和12年):厚木駅構内に小田急連絡線(小田急独身寮 - 坂本祭典間にあたる)が設置される。
* [[1938年]](昭和13年)[[10月1日]]:座間新戸駅が陸士前駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2363904/102}} 地方鉄道、軌道事業の現況並に異動]」『電気協会雑誌』第205号、日本電気協会、1939年1月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1939年]](昭和14年)10月1日届出:東河原駅が昭和産業駅に改称。
* [[1940年]](昭和15年)
** 月日不明:大河原停留場が相模町停留場に改称。
** [[2月1日]]:日東駅(現在の北茅ケ崎駅)が開業。
** [[4月20日]]:寒川駅 - 昭和産業駅間の旅客営業を開始<ref>[{{NDLDC|2960509/16}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1940年5月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[11月1日]]:陸士前駅が座間町駅に改称<ref name="相武台下改称">鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364375/69}} 地方鉄道・軌道異動並に現況表]」『電気協会雑誌』第231号、日本電気協会、1941年3月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[11月15日]]:座間町駅が相武台下駅に改称<ref name="相武台下改称"/>。
** [[11月25日]]:円蔵停留場が移転。
* [[1941年]](昭和16年)
** [[3月3日]]:香川台停留場が開業。
** 4月1日届出:相模町停留場が駅に変更。
** [[6月30日]]:[[東京横浜電鉄]]社長の[[五島慶太]]が相模鉄道の社長に就任し、本路線が東急傘下となる<ref>{{Cite web|和書|date=2018-12|url=https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf|format=PDF|author=相鉄グループ100年史編纂事務局|title=相鉄グループ100年史|publisher=相模鉄道|accessdate=2023-01-08|page=29}}</ref>。
* [[1942年]](昭和16年)4月:[[大日本帝国海軍|海軍]]が[[昭和産業]]の工場を買収。当線での軍需輸送が始まる。
** [[10月30日]]届出:昭和産業駅が四之宮口駅に改称。
* [[1943年]](昭和18年)
** 4月1日:東急の主導により神中鉄道と相模鉄道が合併し、相模鉄道'''相模線'''となる。
** 4月:相模[[海軍工廠]]が発足し、さらに軍事輸送が本格化する。
** 10月1日:香川台停留場、中新田停留場、上今泉停留場、上磯部停留場、作ノ口停留場休止。
* [[1944年]](昭和19年)
** [[1月21日]]:[[陸運統制令]]により運輸通信省との間に買収協定を締結する。買収は茅ケ崎駅 - 橋本駅間および寒川駅 - 四之宮駅間の35.3kmで、その価格は390万円であった。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center;"
|+ 相模鉄道の輸送・収支実績<ref name="statistics"/>
|-
!年度!!輸送人員(人)!!貨物量(トン)!!営業収入(円)!!営業費(円)!!営業益金(円)!!その他益金(円)!!その他損金(円)!!支払利子(円)!!政府補助金(円)
|-
|1921||40,714||38,097||21,743||30,110||▲ 8,367||||||||
|-
|1922||81,044||104,019||63,897||49,504||14,393||||||||
|-
|1923||68,755||191,164||109,529||66,384||43,145||砂利業11,176||3,789||24,931||
|-
|1924||86,487||339,383||195,960||108,518||87,442||||兼業雑損111,092<br>償却金77,794||18,905||
|-
|1925||86,487||339,383||195,960||108,518||87,442||||兼業雑損111,092<br>償却金77,794||18,905||
|-
|1926||251,872||932,841||529,625||218,737||310,888||砂利採取6,013||雑損2,644<br>償却金13,000||31,797||
|-
|1927||294,569||1,040,889||605,195||306,641||298,554||額面超過益その他<br>87,244||雑損その他18,742<br>償却金20,000||73,834||
|-
|1928||277,861||1,190,779||661,518||338,691||322,827||砂利採取業10,252||償却金40,000||71,049||
|-
|1929||254,539||1,195,097||682,029||346,860||335,169||砂利採取業435||雑損2,810||31,980||
|-
|1930||180,825||667,282||403,858||248,109||155,749||砂利採取業143||||18,424||
|-
|1931||192,529||316,755||229,121||174,417||54,704||||砂利採取98,810<br>雑損4,118||95,739||
|-
|1932||279,852||340,687||252,470||165,089||87,381||||雑損158,165<br>砂利業113,792||145,407||
|-
|1933||332,983||331,843||393,402||143,742||249,660||||雑損12,918<br>砂利業57,117||131,875||68,513
|-
|1934||366,029||363,907||258,924||151,824||107,100||砂利業3,356||雑損7,921||73,878||80,303
|-
|1935||381,206||366,445||247,232||165,963||81,269||||砂利業8,676<br>雑損償却金17,598||72,270||128,488
|-
|1936||445,822||459,965||297,352||199,443||97,909||砂利自動車業41,054||雑損償却金45,748||85,951||
|-
|1937||514,684||491,526||322,231||228,816||93,415||自動車砂利業67,806||雑損償却金22,793||83,225||
|-
|1939||841,665||706,746||||||||||||||
|-
|1941||1,473,227||645,662||||||||||||||
|-
|}
=== 国有化後 ===
* [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]:[[戦時買収私鉄]]に指定され国有化、運輸通信省鉄道総局の管轄の'''相模線'''となる<ref>[{{NDLDC|2961710/3}} 「運輸通信省告示第250号」『官報』1944年5月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 停留場が駅に変更。日東駅が北茅ケ崎駅に、上溝駅が番田駅に、本上溝駅が上溝駅に、相模町駅が南橋本駅に、四之宮口駅が西寒川駅に改称。円蔵停留場・本座間停留場・香川台停留場・中新田停留場・上今泉停留場・上磯部停留場・作ノ口停留場が廃止。四之宮駅 - 西寒川駅間が廃止 (-0.5km)。厚木駅が茅ケ崎方に0.4km、原当麻駅が茅ケ崎方に0.3km移転など一部で改キロ。
* [[1946年]](昭和21年)[[4月25日]]:社家駅 - 厚木駅間に山王原信号場が開設。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[3月2日]]:山王原信号場が廃止。
** 6月1日:日本国有鉄道が発足。
* [[1954年]](昭和29年)10月1日:寒川駅 - 西寒川駅間の旅客営業が廃止。1946年頃から旅客列車の運転はなかった。
* [[1956年]](昭和31年)3月5日:キハ10形4両が茅ヶ崎機関区に新製配置。
* [[1957年]](昭和32年):茅ヶ崎機関区煤煙問題で神奈川県が国鉄に抗議を行う(問題そのものは戦後からあった)
* [[1958年]](昭和33年)6月5日:ダイヤ改正で相模線の客車列車がなくなり、全てディーゼル化される<ref group="注釈">茅ヶ崎市文化資料館</ref><ref>『時刻表』昭和33年7月号による。<!-- 『時刻表』の『交通公社の時刻表』への改題は1963年--></ref>
* 1958年(昭和33年)9 - 10月:キハ20形6両が茅ヶ崎機関区に新製配置。
* [[1960年]](昭和35年)[[11月15日]]:寒川駅 - 西寒川駅間の旅客営業再開<ref>1960年(昭和35年)11月12日日本国有鉄道公示第571号「日本国有鉄道線路名称の一部を改正する件」<br />1960年(昭和35年)11月12日日本国有鉄道公示第572号「相模線西寒川停車場において旅客の取扱を開始する件」</ref>。
* [[1961年]](昭和36年)4月1日:相模線管理所が発足。
* [[1964年]](昭和39年):相模川での砂利採取が禁止になる。
* [[1965年]](昭和40年)
** 翌[[1966年]](昭和41年)にかけてキハ30形5両が茅ヶ崎機関区に新製配置。
<!--** [[8月15日]]:神奈川新聞 「湘南・相模版」には、年度内に茅ヶ崎機関区の[[蒸気機関車]]を廃止するという記事あり。蒸気機関車10両、ディーゼル機関車2両が稼働している様子と、戦後、相模線と横須賀線の人員・物資の輸送をするために占領軍の命令で、茅ヶ崎機関区への蒸気機関車増加配置が行われて以来、20年にわたる操車場近隣の煤煙公害の惨状も紹介されている。-->
** 夏:茅ヶ崎機関区でこれまで相模線や東海道線で貨車・客車などの牽引、入換作業に従事してきた蒸気機関車の引退式。
* [[1966年]](昭和41年)[[3月25日]]:蒸気機関車運転廃止。この時点では貨物列車や入換作業のみに使用されていた。<!--門沢橋在住の人の話によれば「倉見駅から橋本方への構内側線への入換に使用されていた」という。-->国鉄から蒸気機関車の営業列車がなくなる9年前のことである。
* [[1969年]](昭和44年):相模線の担当機関区が茅ヶ崎から八王子に移管された。
* [[1981年]](昭和56年)[[4月29日]]:相模線全線開通から50年目をむかえ、記念のヘッドマークを掲出。
* [[1982年]](昭和57年)[[7月27日]]:キハ20 56の廃車により、当線所属の気動車は[[国鉄キハ35系気動車|35系]]にて統一される。
* [[1984年]](昭和59年)[[3月31日]]:寒川駅 - 西寒川駅間支線廃止に伴うさよなら列車が寒川駅 - 西寒川駅間で運転。支線 寒川駅 - 西寒川駅間 (1.5km) が廃止<ref>1984年(昭和59年)3月22日日本国有鉄道公示第215号「運輸営業の廃止」</ref>。西寒川駅が廃止<ref>1984年(昭和59年)3月22日日本国有鉄道公示第216号「駅の廃止」</ref>。
* [[1986年]](昭和61年)3月3日:ダイヤ改正で試行列車として運転されていた22本が定期列車になる。
** キハ30 25・49を皮切りに朱色一色からクリームと青の相模線カラーに塗装変更された。相模線の担当機関区が八王子から茅ヶ崎に戻された。
* [[1987年]](昭和62年)[[3月21日]]:海老名駅が開業。厚木駅 - 相武台下駅間の[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]が[[閉塞 (鉄道)#タブレット閉塞式|通票閉塞式]]<ref group="注釈">国鉄時代の呼び方。現在はタブレット閉塞式。</ref>から自動閉塞式(特殊)に変更。
=== 民営化後 ===
[[ファイル:JRE EC205-500 Sagami Line 19910317 Kamimizo.jpg|thumb|200px|電化記念ヘッドマークをつけて走る205系500番台(1991年3月17日 上溝駅)]]
[[File:Kumoha40054.40074.jpg|thumb|200px|当線経由で回送されたクモハ40形電車 40054+40074(1998年5月5日未明 橋本駅)]]
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により東日本旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が茅ケ崎駅 - 厚木駅間、南橋本駅 - 橋本駅間の第二種鉄道事業者となる。厚木駅 - 南橋本駅間の貨物営業が廃止。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月6日]]:電化工事着工<ref>{{Cite news |title=JR相模線 電化工事クワ入れ 2年度完成へ安全祈願祭 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1989-03-07 |page=1 }}</ref>。
* [[1990年]](平成2年):南武線用205系で電化に伴う訓練列車運転<ref group="注釈">6両編成を4両に短縮した編成が使用された。</ref>。
* [[1991年]](平成3年)[[3月16日]]:全線電化<ref>{{Cite news |title=相模線16日に電化開業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1991-03-01 |page=3 }}</ref>。[[国鉄205系電車#500番台|205系500番台電車]]営業運転開始。キハ30・35形気動車使用終了。茅ケ崎駅 - 厚木駅間および相武台下駅 - 橋本駅間の閉塞方式がタブレット閉塞式から自動閉塞式(特殊)に変更。これにより、全線自動閉塞式(特殊)となった。
* [[1996年]](平成8年)
** [[10月1日]]:[[東日本旅客鉄道横浜支社]]の発足に伴い、全線の管轄が東京地域本社(現・[[東日本旅客鉄道東京支社|東京支社]])から横浜支社に変更される。
** [[12月1日]]:相模線用車両を豊田電車区(現・[[豊田車両センター]])から国府津電車区(現・[[国府津車両センター]])に転属。
* [[1997年]](平成9年)
** 7月1日:日本貨物鉄道の南橋本駅 - 橋本駅間の第二種鉄道事業 (2.0km) が廃止。
** 11月13日:茅ヶ崎車掌区と茅ヶ崎運転区を統合し、[[茅ヶ崎運輸区]]が発足。
* [[1998年]](平成10年)
** [[5月5日]] - [[5月6日]]:[[青梅線]]のイベントに使用するため、国府津電車区(現・国府津車両センター)配置の[[国鉄40系電車|クモハ40形]]2両を[[東海道貨物線]] - 当線 - [[横浜線]]経由で往復とも終電後の深夜帯に回送。[[旧性能電車]]が当線を自力走行したのは本件が唯一の事例である。
** [[9月28日]]:茅ケ崎駅 - 厚木駅間の定期[[貨物列車]]がこの日で運転終了。相模鉄道への甲種輸送のため、日本貨物鉄道の第二種鉄道事業免許は引き続き残されている。
* [[2006年]](平成18年)5月20・21日:「相模線から お座敷列車で行く新緑の上高地」として[[やまなみ (鉄道車両)|485系「やまなみ」]]を使用した[[団体専用列車|団体臨時列車]]を茅ケ崎駅 - [[松本駅]]間で運行。
* [[2011年]](平成23年)
** [[2月27日]]:電化開業から20周年を記念し、[[国鉄115系電車|115系]](豊田車両センター配置)3両編成を使用した団体臨時列車を海老名駅 - 茅ケ崎駅 - [[熱海駅]] - [[横浜駅]]間にて運行<ref>[http://railf.jp/news/2011/03/01/092800.html 「相模線電化20周年記念 115系電車の旅」運転] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2011年3月1日</ref>。
** 3月14日:11日に発生した[[東日本大震災]]に伴う[[輪番停電]]の影響を受けて、この日から終日全線で運転が見合せとなる。その後、3月20日<ref name="yomiuri20110324" />から寒川駅 - 茅ケ崎駅間で、3月28日から橋本駅 - 寒川駅間で運転が再開されたものの、全線の運転が再開されるまでに約2週間を要した。これは、相模線が他の路線のようなJR自前の[[変電所]]を持たず、[[東京電力パワーグリッド|東京電力]]からの電力供給に依存していたことが原因であった<ref name="yomiuri20110324">[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110324-OYT1T00080.htm JR相模線、10日連続運休…自前変電所なし] - 読売新聞、2011年3月24日</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** 3月14日:ダイヤ改正により、朝夕の横浜線直通列車が10往復から6往復に減便。
** 3月22日:「さがみロボット産業特区」のPRのため、9月末まで相模線の1編成(R13編成)をラッピングした「アトムトレイン」を運行。
** 12月12日:団体臨時列車として[[彩 (鉄道車両)|485系「彩」]]を使用した「Shu-Shu Train」を橋本駅 - 茅ケ崎駅 - 根府川駅 - 横浜駅間で運行。
* [[2016年]](平成28年)4月2日:団体臨時列車として485系「彩」を使用した「Shu-Shu Train2」を橋本駅 - 茅ケ崎駅 - 根府川駅 - 横浜駅間で運行。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** 4月4日:[[デスティネーションキャンペーン|静岡デスティネーションキャンペーン]]アフターキャンペーンの一環で、団体専用列車として[[JR東日本651系電車|651系1000番台]]IR01編成を使用した「[[伊豆クレイル]]」を橋本駅 - 伊豆急下田駅間で運行予定であったが、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]拡大防止のため、運転中止となった。
** 4月8日:改正・[[新型インフルエンザ等対策特別措置法]]に基づく新型コロナウイルス緊急事態宣言の発令を受け、この日から茅ケ崎駅 - 橋本駅間の全駅でドア開閉ボタンの使用を中止し、自動でドアを開閉。
** 12月21日:この日から茅ケ崎駅、海老名駅、橋本駅で当駅始発、折り返し電車に限り、ドア開閉ボタンの使用を再開する。
* [[2021年]](令和3年)[[11月18日]]:[[JR東日本E131系電車#500番台(相模線用)|E131系500番台電車]]の営業運転を開始<ref name="press20210917">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20210917_y1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210917084401/https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20210917_y1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=相模線E131系営業運転開始について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2021-09-17|accessdate=2021-09-17|archivedate=2021-09-17}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** [[2月25日]]:205系500番台電車の運用終了。
** [[3月12日]]:ダイヤ改正により、全ての列車をE131系電車によるワンマン運転に統一し、横浜線(橋本駅 - 八王子駅間)への乗り入れを終了<ref name="press20211217">{{Cite press release|和書|title=2022年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2021-12-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20211217_y01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217064059/https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20211217_y01.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。
== 運行形態 ==
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#009793}}
{{BS-table}}
{{BS6||||STRq|ABZq+l|BHFq|0.0|[[茅ケ崎駅]]|[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]}}
{{BS4|||KDSTaq|ABZgr||[[茅ヶ崎運輸区|湘南・相模統括センター]]|}}
{{BS4||||BHF|1.3|[[北茅ケ崎駅]]||}}
{{BS4||||eBHF||''円蔵停留場''|-1944|}}
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{{BS4||||SKRZ-Au|||[[新湘南バイパス]]|}}
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{{BS6|||||hKRZWae|exhKRZWae|||[[目久尻川]]|}}
{{BS6|||||STR|exKDSTe|{{BSkm|-|0.9}}|''川寒川駅''|-1931|}}
{{BS4||||BHF|7.2|[[宮山駅]]||}}
{{BS6||||RA+l|SKRZ-Au||||[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]|}}
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{{BS6||||RAl|SKRZ-Au||||}}
{{BS4||||BHF|8.6|[[倉見駅]]||}}
{{BS4||||BHF|10.0|[[門沢橋駅]]||}}
{{BS4||||BHF|11.6|[[社家駅]]||}}
{{BS4||||SKRZ-Au|||[[東名高速道路]]|}}
{{BS4||||eDST|12.9|''山王原信号場''|-1949|}}
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{{BS4|||STR+l|O3=POINTERf@gq|ABZgr|||[[相模鉄道|相鉄]]:[[相鉄厚木線|厚木線]]|}}
{{BS6||STR+l|STRq|KRZu|KRZu|BHFq|O6=HUBa|||[[小田急電鉄|小田急]]:[[小田急小田原線|小田原線]]|}}
{{BS6||STR||DST|BHF|O5=HUBaq||O6=HUBrf|14.2|[[厚木駅]]||}}
{{BS6|KBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|KDSTa|O3=HUBq|STR|O4=HUBq|BHF|O5=HUBeq||15.9|[[海老名駅]]||}}
{{BS6|eABZg+l|ABZgxr+l|STRr|STR|O4=POINTERg@fq|STR||||相鉄:厚木線|}}
{{BS6|ABZqr|KRZu|STRq|STRr|STR||||相鉄:[[相鉄本線|本線]]|}}
{{BS4|STR3|||STR|||小田急:小田原線|}}
{{BS4||||eBHF|17.3|''[[上今泉駅|上今泉停留場]]''|1943休|}}
{{BS4||||BHF|18.9|[[入谷駅 (神奈川県)|入谷駅]]||}}
{{BS4||||eBHF|19.7|''本座間停留場''|-1944|}}
{{BS6||||WASSER+l|hKRZWae|WASSERr|||[[鳩川]]|}}
{{BS6||||WASSER|BHF||20.6|[[相武台下駅]]||}}
{{BS6||||WASSER|eBHF||22.6|''上磯部停留場''|1943休|}}
{{BS6||||WABZg+l|hKRZWae|WASSERr|||[[鳩川|鳩川放水路]]|}}
{{BS6||||WASSER|BHF||23.5|[[下溝駅]]||}}
{{BS6||||WASSER|BHF||24.8|[[原当麻駅]]||}}
{{BS6||||WASSER|BHF||26.9|[[番田駅 (神奈川県)|番田駅]]||}}
{{BS6||||WABZgl|hKRZWae|WASSERq|||鳩川|}}
{{BS6||||WASSERl|hKRZWae|WASSER+r|||[[姥川]]|}}
{{BS4||||BHF|28.4|[[上溝駅]]||}}
{{BS4||||eBHF|30.2|''[[作ノ口駅|作ノ口停留場]]''|1943休|}}
{{BS4||||BHF|31.3|[[南橋本駅]]||}}
{{BS4||STRq|STR+r|STR|||[[横浜線]]|}}
{{BS6|||STRq|KRZu|KRZu|STR+r|||[[京王電鉄|京王]]:[[京王相模原線|相模原線]]|}}
{{BS6||||ABZg+l|STRr|STR||||}}
{{BS6||||BHF|O4=HUBaq||O5=HUBq|KBHFe|O6=HUBeq|33.3|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]||}}
{{BS2||STR|||横浜線|}}
|}
|}
すべての列車が線内運転の[[各駅停車]]で、他線区との直通運転は行われていない。全列車で[[ワンマン運転]]を行うが、運賃の車内収受は行われず、各車両の全ての扉から乗り降りができる。
茅ケ崎駅 - 橋本駅間の全線通し運転を基本とし、日中は20分間隔で運行される。このほか、茅ケ崎駅 - 海老名駅間の区間列車もある。かつての非電化時代には、橋本駅 - 南橋本駅、原当麻駅、厚木駅間、茅ケ崎駅 - 寒川駅間などの区間運転も行われていた。また、両運転台気動車による単行運転の列車も存在した。1991年の電化後もしばらくは橋本駅 - 厚木駅間の区間運転が下り始発・上り最終に1往復設定されていたが、茅ケ崎駅まで延伸されて消滅した。
旅客列車が運行されるほか、相模鉄道の車両の[[車両輸送|甲種輸送]]の際に使用される。2021年現在、厚木駅経由の相模鉄道への甲種輸送などは、昼間に[[貨物列車]]のダイヤ設定がなくなったため、深夜帯に臨時貨物列車として運転されている。
[[列車交換]]のために特定の駅([[交換駅]])ごとに停車時間が2分 - 5分と長めに取られているため、茅ケ崎駅 - 橋本駅間で所要時間が最速列車(下り始発の49分<!--463F-->)に比べて最大24分<!--879Fなど-->遅くなる列車がある。<!--列車交換(行き違い)のためなら必要な待ち時間。ダイヤに織り込み済みなので「遅延」や「ロス」ではない。-->
*下り 北茅ケ崎駅・寒川駅・倉見駅・社家駅
*上り 社家駅・倉見駅・北茅ケ崎駅
かつては朝夕の一部列車は橋本駅から[[横浜線]]に乗り入れて[[八王子駅]]まで運転されていた。この八王子駅発着列車は2015年3月13日までは10往復設定されていたが、翌14日のダイヤ改正で6往復に減便され、2022年3月12日のダイヤ改正で相模線のワンマン運転開始に伴い横浜線との直通運転は終了した<ref name="press20211217" /><ref>{{Cite web|和書|title=相模線 ワンマン運転へ 「八王子行」横浜線直通は終了 {{!}} 寒川|url=https://www.townnews.co.jp/0604/2022/01/01/605853.html|website=タウンニュース|publisher=タウンニュース社|date=2022-01-01|accessdate=2022-01-02|language=ja}}</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現在の使用車両 ===
; [[JR東日本E131系電車|E131系500番台]]([[国府津車両センター]]配置)
: 4両編成12本(計48両)製造<ref>{{Cite press release|和書|title=相模線への新型車両の投入について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2021-06-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20210617_y1.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210617081344/https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20210617_y1.pdf|archivedate=2021-06-17}}</ref>。2021年11月18日運行開始<ref name="press20210917" />。相模線では2022年3月以降この車両のみが使用されている<ref name="mynavi20220304">{{Cite web|和書|title=JR東日本205系、相模線での運行終了 - 新型車両E131系と乗り比べた|url=https://news.mynavi.jp/article/20220304-sagamiline/|website=[[マイナビニュース]]|author=吉谷友尋|publisher=[[マイナビ]]|date=2022-03-04 |accessdate=2023-02-24|language=日本語}}</ref>。[[自動ドア|半自動ドア]]を採用し、相模線内では半自動ドアで運用されている。
=== 過去の主な使用車両 ===
==== 気動車 ====
[[ファイル:JRE-DC3049.jpg|thumb|200px|電化前に使用されていた[[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]](1988年頃、橋本駅)]]
相模線は[[国鉄分割民営化]]当時、JR東日本の[[大都市近郊区間 (JR)|東京近郊区間]]内では、[[八高線]]とともに[[気動車]]が運転される数少ない線区であった。1991年に相模線が電化されたことにより、神奈川県は当時鉄軌道が存在していなかった[[沖縄県]]<!--1991年当時の沖縄県には旅客営業を行う鉄道が存在しておらず、これは「全ての鉄道旅客路線が電化されている」の特別な場合と見なすことができる。-->以外では日本で初めて気動車による定期旅客列車が存在しない(貨物専用線を除く県内すべての鉄道旅客路線が電化されており、なおかつ他線区から乗り入れる気動車列車が全くない)県となった<ref group="注釈">神奈川県以外では[[奈良県]]・[[東京都]]もこの条件を満たしている。</ref>。
また、[[横浜市]][[金沢区]]の[[東急車輛製造]](現・[[総合車両製作所]]横浜事業所)で落成した全国各地向け気動車の公式[[試運転]]路線としても有名であった。北海道向けから九州向けまでの車両を見ることもできたことは、夏季に見られた房総線(現在の[[内房線|内房]]・[[外房線|外房]]・[[成田線]]にあたる)の臨時快速で全国から駆り出された(あるいは試運転前提で投入された)各地域仕様気動車が見られた千葉地区に次ぐものである。
過去には以下の車両を使用していた。
* [[国鉄キハ04形気動車|キハ04形・キサハ04形200番台]]
** 1963年2月9日にキサハ04 202が廃車となり、当線から本系列は消滅した。
* [[国鉄キハ10系気動車|キハ10形・キハ16形・キハ17形・キハユニ16形]]<ref>鉄道ピクトリアル No.637 p.7</ref>
** 気動車の首都圏色([[朱色5号]]一色)は、1976年に当線で運用されていたキハ10 61に施されたのが初めてである<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻637号 [[電気車研究会]] p.22</ref>。首都圏色はその後日本全国に波及した。
** キハ16形は5・6・24・64の4両のみ配属。キハ17形は30・357の2両のみ配属。キハユニ16形は2・6の2両のみ配属。
** キハ10 23-26の4両は当線新製配属車両である。
** 1980年3月17日にキハ10 42が廃車となり、当線から本系列は消滅した。
* [[国鉄キハ20系気動車|キハ20形]]
** 1958年にキハ20 206-211の6両が新製配属されるも、209・210を残して早期に転出。1976年にはキハ20 281が転入するも1981年前半に一旦当線においては形式消滅。その後キハ20 56が1981年後半に転入し、1982年まで運用された。
* [[国鉄キハ35系気動車|キハ30形・キハ35形・キハ36形]]
** 気動車において地域別のカラーリングを採用したのは、1986年に当線で運用されていたキハ30 25に対して、[[クリーム1号]]地に[[青20号]]の帯というデザインが施されたものが初めてである<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』通巻302号 [[交友社]] p.128</ref>(このカラーリングは、茅ケ崎駅の乗り換え専用跨線橋の内装デザインにも使われている)。1991年の電化完成で運用を終了した。寒冷地仕様の500番台車(車号は下記参照)、及びステンレス車のキハ35 904が1991年まで運用されていた。
** キハ36形は2・3・37の3両のみ配属。
** キハ30 41・42・67・77・97の5両は当線新製配属車両である。また、キハ30 26は福井機関区配属時代に正面左側に気笛増設工事が行われ、外見は気笛のシャッターが残されていた。
** 寒冷地仕様の500番台車で当線に転入した車を以下に示す。
**: キハ30 505・506、キハ35 513-520・524・531
** 1991年まで運用されていた車両のうち、キハ30 62は[[いすみ鉄道]][[国吉駅]]に保存され、キハ30 100は[[水島臨海鉄道]]に譲渡されて運用されている。この2両は当線電化後に[[久留里線]]へ転属し、2012年の車両置き換えまで運用されていたものである。
* [[国鉄キハ55系気動車|キハ26形400番台]]
** キハ26 428の1両のみ配属。
==== 電車 ====
* [[国鉄205系電車#500番台|205系500番台]]([[国府津車両センター]]配置)
*: 4両編成。車体の帯は水色濃淡2色({{Color|#009793|■}}{{Color|#6cc|■}})である。1991年製の車両で、新造編成としては205系の最終形態である<ref group="注釈">編成単位での最終増備は同年10月武蔵野線向け0番台、増結車を含めると1994年12月の横浜線向けサハ204形100番台がそれぞれ205系の最終形態となっている。</ref>。
*: 相模線では電化以前(少なくとも1976年以降)よりドアの開閉を12月から3月まで半自動ドアで行っていた(一部[[国鉄キハ35系気動車|35系]]の半自動装置非装備車を除く)が、電化以後のこの車両では、当時としては最新型のボタン式半自動ドアを採用し、通年で使用していた。ただし直通先の横浜線内では車掌の一括操作によりすべてのドアを開閉していた。橋本駅では八王子行も含めて相模線ホームに発着のため半自動扱いとなっていた(2020年4月8日より、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]対策として、始発駅と終着駅を除き、すべての区間でドアが自動開閉するようになっていた<ref>[https://www.townnews.co.jp/0603/2020/04/17/524661.html JR相模線ドア開閉「ボタン式」中止]『タウンニュース』茅ヶ崎版、2020年4月17日号 </ref>が、2021年12月1日より全区間で半自動扱いに戻った)。2022年2月25日をもって定期運用を終了した<ref name="rmnews">{{Cite web|和書|title=相模線用205系500番代2編成が長野総合車両センターへ配給輸送…|url=https://rail.hobidas.com/rmnews/408500/|website=鉄道ホビダス|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|date=2022-07-28|accessdate=2023-02-24|language=日本語}}</ref>。
==== 相模鉄道時代の車両 ====
{{See|相模鉄道の蒸気機関車|相模鉄道の客車|相模鉄道の気動車}}
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;"
|+ 車両数の変遷<ref name="statistics">鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版</ref>
|-
!rowspan="2"|年度!!rowspan="2"|蒸気機関車!!rowspan="2"|内燃動車!!rowspan="2"|客車!!colspan="2"|貨車
|-
!有蓋!!無蓋
|-
|1921||2||||2||||11
|-
|1922||2||||2||||14
|-
|1923||2||||2||||20
|-
|1924-1925||4||||2||||20
|-
|1926||6||||6||2||154
|-
|1927||9||||6||2||166
|-
|1928-1930||9||||6||2||166
|-
|1931||9||||6||2||156
|-
|1932||7||4||6||2||156
|-
|1933-1934||5||4||6||2||154
|-
|1935-1937||5||8||6||2||154
|-
|}
== 駅一覧 ==
* 全列車各駅停車(全駅に停車)
* 線路(全線単線) … ◇・∨・∧:[[列車交換]]可、|:列車交換不可
* 全駅[[神奈川県]]内に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="border-bottom:solid 3px #009793; width:6em;"|駅名
!style="border-bottom:solid 3px #009793; width:2.5em;"|駅間<br />営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #009793; width:2.5em;"|累計<br />営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #009793;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #009793; width:1em;"|{{縦書き|線路}}
!colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #009793;"|所在地
|-
|[[茅ケ崎駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JT_line_symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] (JT 10)({{Color|#e31f26|■}}[[湘南新宿ライン]]・{{Color|purple|■}}[[上野東京ライン]]を含む)
|∨
|colspan="2" rowspan="3"|[[茅ヶ崎市]]
|-
|[[北茅ケ崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|1.3
|
|◇
|-
|[[香川駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|3.4
|
||
|-
|[[寒川駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|5.1
|
|◇
|colspan="2" rowspan="3"|[[高座郡]]<br />[[寒川町]]
|-
|[[宮山駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|7.2
|
||
|-
|[[倉見駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|8.6
|
|◇
|-
|[[門沢橋駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|10.0
|
||
|colspan="2" rowspan="4"|{{Nowrap|[[海老名市]]}}
|-
|[[社家駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|11.6
|
|◇
|-
|[[厚木駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|14.2
|[[小田急電鉄]]:[[File:Odakyu odawara.svg|18px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]] (OH33)<br /><span style="font-size:85%;">[[相模鉄道]]:[[相鉄厚木線|厚木線]](貨物線)</span>
||
|-
|[[海老名駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|15.9
|小田急電鉄:[[File:Odakyu odawara.svg|18px|OH]] 小田原線 (OH32)<br />相模鉄道:[[File:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線|本線]] (SO18)
|◇
|-
|[[入谷駅 (神奈川県)|入谷駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|18.9
|
||
|colspan="2"|[[座間市]]
|-
|[[相武台下駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|20.6
|
|◇
|style="width:1em; text-align:center;" rowspan="7"|{{縦書き|[[相模原市]]|height=5em}}
|rowspan="3"|[[南区 (相模原市)|南区]]
|-
|[[下溝駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|23.5
|
||
|-
|[[原当麻駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|24.8
|
|◇
|-
|[[番田駅 (神奈川県)|番田駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|26.9
|
|◇
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[中央区 (相模原市)|中央区]]
|-
|[[上溝駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|28.4
|
||
|-
|[[南橋本駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|31.3
|
|◇
|-
|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|33.3
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JH_line_symbol.svg|18px|JH]] [[横浜線]] (JH 28)<br />[[京王電鉄]]:[[File:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王相模原線|相模原線]] (KO45)
|∧
|[[緑区 (相模原市)|緑区]]
|}
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、宮山駅・倉見駅・門沢橋駅・社家駅・入谷駅・相武台下駅・下溝駅・番田駅である。
=== 発車メロディ ===
{{出典の明記|section=1|date=2014年6月|ソートキー=鉄さかみせん}}
2022年3月12日のダイヤ改正でのワンマン運転化に伴い、全ての駅で[[発車メロディ]]の使用が停止された<ref name="jcast20220326">{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2022/03/26433777.html?p=all |title=JR人員削減で「駅メロ」ピンチ? ワンマン化で消えたご当地曲も...その背景事情とは |date=2022-03-26|accessdate=2022-04-06 |website=J-CASTニュース |publisher=ジェイ・キャスト}}</ref><ref>{{Cite news|title=JR茅ケ崎駅 加山さん駅メロ半年で幕 相模線ワンマン化で|newspaper=タウンニュース茅ケ崎版|publisher=[[タウンニュース社]]|date=2022-03-11|url=https://www.townnews.co.jp/0603/2022/03/11/616328.html|accessdate=2022-04-06}}</ref>。同日以降は、E131系の車外スピーカーより「[[Water Crown]]」及び「[[Gota del Vient]]」が流される<ref name="jcast20220326" />。
ワンマン運転化以前、相模線内各駅の発車メロディは、後述する茅ケ崎駅を除き、他線区にはない「近郊地域20番」「近郊地域20-1番」(旭電通(現・[[東洋メディアリンクス]])製)と鉄道愛好家の中で通称されている曲のみとなっていた。かつては2001年の高架化から2016年まで上溝駅で「せせらぎ」([[日本電音]]製)のフェードアウト版が使用されていた(さらにその前は「近郊地域20番」を使用していた)。近郊地域20番は[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]・[[原当麻駅]]・[[海老名駅]]・[[厚木駅]]・[[寒川駅]]の各駅で使用されている(橋本駅は余韻が短い。以前は[[総武本線]]の[[佐倉駅]]で使用されていた)。もう1曲の近郊地域20-1番は、[[南橋本駅]]・[[上溝駅]]・[[番田駅 (神奈川県)|番田駅]]・[[下溝駅]]・[[相武台下駅]]・[[入谷駅 (神奈川県)|入谷駅]]・[[社家駅]]・[[倉見駅]]・[[門沢橋駅]]・[[宮山駅]]・[[香川駅]]・[[北茅ケ崎駅]]の各駅で使用されていた。電化され[[駅自動放送]]が導入された当初は、全駅が近郊地域20番に統一されていた。2021年9月28日より、茅ケ崎駅で[[加山雄三]]の「[[海 その愛]]」の使用が開始され、合わせて加山の復元音声による啓発放送の使用も開始された<ref>{{Cite web|和書|date=2021-09-17 |url= https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20210917_y2.pdf |title=相模線開業100周年記念イベントを開催します |publisher=JR東日本 |format=PDF |page=1 |accessdate=2021-09-29}}</ref>。なお、変更前は「ベル・高音」と「ベル・低音」が使用されていた。
また、駅自動放送は[[茅ケ崎駅]]・橋本駅が[[東京圏輸送管理システム#駅の旅客案内機能|ATOS]]型、海老名駅・原当麻駅が旭型放送(詳細型)、寒川駅が巌根型放送、それ以外の駅は巌根・館山型放送である。なお、以前は全駅とも東海道型放送(簡易型)、上溝駅は2001年の高架化から2016年まで[[日本電音|ユニペックス]]型放送、海老名駅・原当麻駅は2022年2月まで東海道型放送(詳細型)が使われていたが、放送装置更新や、駅舎リニューアルなどに伴い、現在の形になっている。
=== 廃止区間 ===
( )内は起点からの営業キロ。
; 寒川支線
: 寒川駅 (0.0km) - [[西寒川駅]] (1.5km) - 四之宮駅 (2.0km)
: 寒川駅 (0.0km) - 川寒川駅 (0.9km) (貨物線)
=== 廃駅・廃止信号場 ===
[[#廃止区間]]にある駅を除く。括弧内は茅ケ崎駅起点の営業キロ
* 円蔵停留場:[[1944年]]廃止、北茅ケ崎駅 - 香川駅間([[1940年]]の移転前は2.0km、移転後は不明)
* 香川台停留場:[[1943年]]休止、北茅ケ崎駅 - 香川駅間
* 山王原信号場:[[1949年]]廃止、社家駅 - 厚木駅 (12.9km)
* [[中新田駅|中新田停留場]]:1943年休止、社家駅 - 厚木駅間 (13.9km)
* [[上今泉駅|上今泉停留場]]:1943年休止、海老名駅 - 入谷駅間 (17.3km)
** 井戸坂踏切の橋本寄りの東側にあった。現在でも不自然な空間があり駅のホームがあった場所が見てとれる。
** 郷土出版社「目で見る大和・座間・海老名・綾瀬の100年」に上今泉駅の写真が1枚掲載されており、40m程のホームがあったことが画像から分かる。
* 本座間停留場:1944年廃止、入谷駅 - 相武台下駅間 (19.7km)
* 上磯部停留場:1943年休止、相武台下駅 - 下溝駅間 (22.6km)
* [[作ノ口駅|作ノ口停留場]]:1943年休止、上溝駅 - 南橋本駅間 (30.2km)
=== 駅別乗車人員上位10駅 ===
JR東日本調べ 1日平均(2018年度)<ref>[http://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員 2018年度 ベスト100]- 東日本旅客鉄道、2020年5月13日閲覧</ref>
{| class="wikitable" rules="all"
|-
! style="border-bottom:solid 3px #009793;"|順位
! style="border-bottom:solid 3px #009793;"|駅名
! style="border-bottom:solid 3px #009793;"|人数
|-
| style="text-align:right;"|1
| style="text-align:left;"|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]
| style="text-align:right;"|66,136
|-
| style="text-align:right;"|2
| style="text-align:left;"|[[茅ケ崎駅]]
| style="text-align:right;"|56,519
|-
| style="text-align:right;"|3
| style="text-align:left;"|[[海老名駅]]
| style="text-align:right;"|14,127
|-
| style="text-align:right;"|4
| style="text-align:left;"|[[寒川駅]]
| style="text-align:right;"|6,938
|-
| style="text-align:right;"|5
| style="text-align:left;"|[[厚木駅]]
| style="text-align:right;"|6,864
|-
| style="text-align:right;"|6
| style="text-align:left;"|[[上溝駅]]
| style="text-align:right;"|6,286
|-
| style="text-align:right;"|7
| style="text-align:left;"|[[南橋本駅]]
| style="text-align:right;"|5,594
|-
| style="text-align:right;"|8
| style="text-align:left;"|[[香川駅]]
| style="text-align:right;"|5,465
|-
| style="text-align:right;"|9
| style="text-align:left;"|[[原当麻駅]]
| style="text-align:right;"|5,164
|-
| style="text-align:right;"|10
| style="text-align:left;"|[[北茅ケ崎駅]]
| style="text-align:right;"|2,855
|-
| style="text-align:right;"|参考
| style="text-align:left;"|[[八王子駅]]
| style="text-align:right;"|85,003
|}
(ランキングにない駅は無人駅のためデータ非公表)
== 全線複線化問題 ==
現在の相模線は全線が[[単線]]であるとともに、快速などの優等列車の運行がなく基本的に各駅停車のみであり、行き違いを行う列車の待ち合わせのため、朝夕の通勤時間帯は日中より列車の所要時間がかかる。例として、特に上溝駅から橋本駅までは通常6分のところが13分と倍以上かかっている。また、相模原市南区の駅の利用者も10年間で30%以上も増えており、混雑が増加しているという課題を抱えている。
また、上下の列車の行き違いのできない駅が7か所もあり、特に上溝駅は、[[2001年]]に高架化されたものの、行き違いホームが住民の要望に反して設置されなかった。相模原市と[[小田急電鉄]]は、[[小田急多摩線|多摩線]]の上溝駅までの延伸計画を考えているのに、上溝駅の行き違い化を行わなかったことは、小田急線の延伸についてやる気がないという意味でもあると住民は異を唱えている。
そのため、相模線の複線化や、厚木駅 - 海老名駅で並走する[[相鉄厚木線]]を経由して相鉄線と相互乗り入れなどを進めようと、住民や行政が促進運動を大々的に展開している<ref>[http://sagamimirai.jp/sagamisen.html 相模原の未来を考える会]</ref><ref>[https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/shisei/toshikotsu/1004835/1004841.html JR相模線の複線化の促進](相模原市)</ref><ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/documents/93468/06_r4kentetsu-youboukaitou-sagamisen.pdf 神奈川県鉄道輸送力増強促進会議 令和4年度 要望・回答 東日本旅客鉄道 相模線](神奈川県)</ref>。
== 平均通過人員 ==
各年度の[[輸送密度|平均通過人員]](人/日)は以下の通り<ref>[https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/ 路線別ご利用状況|企業サイト:JR東日本]</ref>。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
! style="border-bottom:solid 3px #009793;"|年度
! style="border-bottom:solid 3px #009793;"|平均通過人員
|-
| 1987
| style="text-align:right;"|9,268
|-
| 1992
| style="text-align:right;"|17,438
|-
| 1997
| style="text-align:right;"|20,397
|-
| 2002
| style="text-align:right;"|20,220
|-
| 2007
| style="text-align:right;"|25,402
|-
| 2012
| style="text-align:right;"|25,956
|-
| 2013
| style="text-align:right;"|26,976
|-
| 2014
| style="text-align:right;"|26,911
|-
| 2015
| style="text-align:right;"|28,176
|-
| 2016
| style="text-align:right;"|28,903
|-
| 2017
| style="text-align:right;"|29,379
|-
| 2018
| style="text-align:right;"|29,643
|-
| 2019
| style="text-align:right;"|29,412
|-
| 2020
| style="text-align:right;"|21,093
|-
| 2021
| style="text-align:right;"|23,483
|}
1987年度から2007年度にかけて平均通過人員が急激に増加していた。1987年度の平均通過人員を100とした場合、2021年度は253であり、JR東日本が運営する路線の中では最大である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sagami Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の鉄道]]
* [[14番目の月]] - [[松任谷由実|荒井由実]]のアルバム([[1976年]]発表)。収録曲「天気雨」の歌詞の中に相模線が登場する。
* [[相模鉄道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=30&token=&50on= 検索結果(相模線の駅):JR東日本]
* [http://www.go-go-sagamisen.ecweb.jp/index.html GO!GO!相模線] - 相模線複線化等促進期成同盟会
* [https://getnavi.jp/vehicles/363531/view-all/ 相模川に沿ってのんびり走るJR相模線−−秘められた10の謎に迫る(GetNaviWeb)]
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
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取消訴訟
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取消訴訟(とりけしそしょう)とは、行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟(抗告訴訟;行政事件訴訟法3条1項)の一種で、行政庁の処分または裁決に不服がある場合に、その取消しを求める訴訟をいう(同条2項・3項)。実務において、最も多用される訴訟類型の一つである。
行政事件訴訟法は、取消訴訟を次の2種に分けて規定する。
本案判決の前提条件となる訴訟要件については、取消訴訟を追行する上でもっとも争われる争点の一つである。取消訴訟を論じるうえでは、訴訟要件のうち、上の3点が特に重要である。
取消訴訟の対象となる「処分」とは、公権力の主体たる国または公共団体が行う行為のうち、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているものをいう、とするのが判例である。
取消訴訟は、処分を取り消すことによりその規律力そのものを覆す効果を持つ。これは、国民の救済にとって直截的な効果を有する一方、これが容易に認められたのでは、行政庁にとって迅速かつ適切妥当な行政目的の実現の妨げとなる。そこで判例は、国民が自己の権利を守る上で、行政庁の行為を取り消すことが必要不可欠な場合に取消訴訟の範囲を限定しているのである。
原告適格が認められるためには、原告に法律上の利益が必要である。すなわち、処分取消訴訟及び裁決取消訴訟は、その処分又は裁決の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者に限り、提起することができる(9条1項)。
原告適格を認めるために必要な「法律上の利益」については、いくつかの見解がある。
裁判所は、処分又は裁決の相手方以外の者について「法律上の利益」の有無を判断するに当たって、処分又は裁決の根拠となる法令の規定の文言のみによることなく、当該法令の趣旨及び目的並びに当該処分において考慮されるべき利益の内容及び性質を考慮するものとされ、この場合において、法令の趣旨及び目的を考慮するにあたっては、法令と目的を共通にする関係法令があるときはその趣旨及び目的をも参酌するものとし、利益の内容及び性質を考慮するに当たっては、処分又は裁決がその根拠となる法令に違反してされた場合に害されることとなる利益の内容及び性質並びにこれが害される態様及び程度をも勘案するものとされた(9条2項)。
9条2項の趣旨に基づき原告適格を認めた最高裁判例としては、小田急線連続立体交差事業認可処分取消、事業認可処分取消請求事件がある。
処分又は裁決があったことを知った日から正当な理由がなく6箇月を経過したときは、訴えを提起することができない(14条1項)。
また、処分又は裁決の日から正当な理由がなく1年を経過したときも、訴えを提起することができない(14条2項)。
おおかたの判例は、取消訴訟における違法判断の基準時として、もとの処分時を支持してきた。しかしながら、例外もある。違法判断の基準時が問題となるのは、処分時には違法であったものが後の事情により、そうでなくなった場合などである。例えば、法令が改正された場合である。申請拒否処分において処分が合法であったものが違法となった場合は、原則として再申請により対処すべきであるが、これができない場合に、特段の事情があったものとして基準時の修正が考慮される場合がある。
処分についての審査請求の違法・不当判断の基準時については、異論もあるが、行政権による事後審査の作用である審査請求と裁判所による事後審査である取消訴訟の間には、若干の質的差異があるものの、審査請求が処分に対する事後審査制度の一環として位置づけられることから、取消訴訟の場合と同様、一般に、処分時と解されている。
処分の取消しの訴えとその処分についての審査請求を棄却した裁決の取消しの訴えとを提起することができる場合には、裁決の取消しの訴えにおいては、処分の違法を理由として取消しを求めることができない(行訴法10条2項)。これを原処分主義という。
例外として、法律により裁決の取消しの訴えのみを認めるもので、原処分の瑕疵を主張することのできる場合(裁決主義)がある。
例として
行政機関による処分の取消を求める際に、取消訴訟と行政不服申立てのいずれの手段を選択するかは原則として自由であり(8条1項前段)両方同時に行うことも出来る。
審査請求がされているときは、裁判所は、その審査請求に対する裁決があるまで、訴訟手続は原則として中止される(8条3項)。
例外的に、課税処分や社会保障に関する処分などについて、不服申立を訴えに先立ってすることが法律上要求されることがあるが、次に該当するときは、裁決を経ないで、処分の取消しの訴えを提起することができる(8条2項)。
行政庁の処分に取消事由(法律違反等)があったとしても、その処分に対して、取消訴訟が提起されないまま出訴期間(14条:処分を知った日から6か月、処分の日から1年)が経過し、あるいは、取消訴訟を提起したにもかかわらず訴え却下もしくは請求棄却になった場合は、もはやその処分は取消しを求めて争うことができなくなる。そうすると、その処分は取り消されないことが法律上確定する(厳密には、処分庁またはそれを監督する上級行政庁が処分を取り消すことは妨げられない)。
こうした効果につき、行政処分は取り消されない限り「一応の通用力」を有するからであり、これを公定力と呼ぶと説明するのが従来の通説である。しかし、こうした見解に対して、現在の有力説は、行政処分に限ってなぜ「一応の通用力」が付与されるのか理論的根拠が明らかでないと批判する。
現在の有力説は、上記のような効果が生じるのは、行政事件訴訟法が、行政庁の処分は取消訴訟によらなければ取り消せないものとする(取消訴訟の排他的管轄)という選択をしたからであり、従来説かれた「公定力」はその反射的効果に過ぎないと説明する。有力説が従来の通説を批判してこのように説くのは、取消訴訟の対象が「行政処分」に限定されないという実践的な意図に基づいている。
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"text": "例外的に、課税処分や社会保障に関する処分などについて、不服申立を訴えに先立ってすることが法律上要求されることがあるが、次に該当するときは、裁決を経ないで、処分の取消しの訴えを提起することができる(8条2項)。",
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"title": "取消訴訟の排他的管轄"
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"text": "こうした効果につき、行政処分は取り消されない限り「一応の通用力」を有するからであり、これを公定力と呼ぶと説明するのが従来の通説である。しかし、こうした見解に対して、現在の有力説は、行政処分に限ってなぜ「一応の通用力」が付与されるのか理論的根拠が明らかでないと批判する。",
"title": "取消訴訟の排他的管轄"
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取消訴訟(とりけしそしょう)とは、行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟(抗告訴訟;行政事件訴訟法3条1項)の一種で、行政庁の処分または裁決に不服がある場合に、その取消しを求める訴訟をいう(同条2項・3項)。実務において、最も多用される訴訟類型の一つである。 行政事件訴訟法について以下では、条数のみ記載する。
|
'''取消訴訟'''(とりけしそしょう)とは、行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟([[抗告訴訟]];[[行政事件訴訟法]][[s:行政事件訴訟法#3|3条]]1項)の一種で、行政庁の処分または[[裁決]]に不服がある場合に、その[[取消し#行政法上の取消し|取消し]]を求める訴訟をいう(同条2項・3項)。実務において、最も多用される訴訟類型の一つである。
*行政事件訴訟法について以下では、条数のみ記載する。
==概要==
行政事件訴訟法は、取消訴訟を次の2種に分けて規定する。
*'''処分の取消しの訴え'''(3条2項)
:「処分」の取消しを求める訴訟。
*'''裁決の取消しの訴え'''(3条3項)
:[[審査請求]]、[[行政不服審査法#不服申立ての種別|異議申立て]]、その他の不服申立てに対する行政庁の裁決、決定その他の行為の取消しを求める訴訟。
:処分の違法を理由として取消しを求めることができない([[s:行政事件訴訟法#10|10条]]1項)。
==訴訟要件==
本案判決の前提条件となる訴訟要件については、取消訴訟を追行する上でもっとも争われる争点の一つである。取消訴訟を論じるうえでは、訴訟要件のうち、上の3点が特に重要である。
# '''処分性'''([[s:行政事件訴訟法#3|3条]]2項の「処分」にあたるか。)、
# '''原告適格'''(原告が[[s:行政事件訴訟法#9|9条1項]]の要件を満たすか。広義の[[訴えの利益]]に含まれるとされる。)
# 狭義の'''訴えの利益'''(処分または裁決を取り消すことによって適切に紛争を解決できるか。)
# 被告適格
# 管轄裁判所
# 審査請求の前置
# 出訴期間
===処分性===
取消訴訟の対象となる「処分」とは、公権力の主体たる国または公共団体が行う行為のうち、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているものをいう、とするのが判例<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53801 ごみ焼場設置条例無効確認等請求事件](最高裁昭和39年10月29日)</ref>である。
取消訴訟は、処分を取り消すことによりその規律力そのものを覆す効果を持つ。これは、国民の救済にとって直截的な効果を有する一方、これが容易に認められたのでは、行政庁にとって迅速かつ適切妥当な行政目的の実現の妨げとなる。そこで判例は、国民が自己の権利を守る上で、行政庁の行為を取り消すことが必要不可欠な場合に取消訴訟の範囲を限定しているのである。
;処分に当たるとされたもの
* 第二種市街地再開発事業計画の決定<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=54280 最高裁平成4年11月26日第一小法廷判決・民集46巻8号2658頁]</ref>
* 病院開設中止の勧告<ref>
[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52373 最高裁平成17年07月15日]</ref>
;処分ではないとされたもの
* 消防長がした建築許可の同意、拒絶、取消<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=54807 最高裁昭和34年1月29日第一小法廷判決・民集13巻1号32頁]</ref>
* 国有普通財産の払下げ<ref>
[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53657 最高裁昭和35年07月12日]</ref>
===原告適格===
[[原告適格]]が認められるためには、原告に法律上の利益が必要である。すなわち、処分取消訴訟及び裁決取消訴訟は、その処分又は裁決の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者に限り、提起することができる([[s:行政事件訴訟法#9|9条]]1項)。
原告適格を認めるために必要な「法律上の利益」については、いくつかの見解がある。
;法律上保護された利益説
:処分の根拠規定となる法律および関連法規が直接保護すべきとする個人的利益が「法律上の利益」であるとする説。
:{{要出典範囲|いわゆる[[利益#法律における利益|反射的利益]](法律が公益を保護している結果として生ずる間接的な利益)については「法律上の利益」に該当しない。|date=2017年3月19日}}
:{{要出典範囲|判例は一貫してこの立場に立つ。|date=2017年3月19日}}もっとも、行訴法9条2項に従った法律の柔軟な解釈により原告適格の範囲は拡大しており、原告適格を認める範囲は「法律上保護に値する利益」説と接近している。
;法律上保護に値する利益説
:処分により侵害される私人の利益の重大性によって「法律上の利益」を判断すべきであるとする説。
裁判所は、処分又は裁決の相手方以外の者について「法律上の利益」の有無を判断するに当たって、処分又は裁決の根拠となる法令の規定の文言のみによることなく、当該法令の趣旨及び目的並びに当該処分において考慮されるべき利益の内容及び性質を考慮するものとされ、この場合において、法令の趣旨及び目的を考慮するにあたっては、法令と目的を共通にする関係法令があるときはその趣旨及び目的をも参酌するものとし、利益の内容及び性質を考慮するに当たっては、処分又は裁決がその根拠となる法令に違反してされた場合に害されることとなる利益の内容及び性質並びにこれが害される態様及び程度をも勘案するものとされた(9条2項)。
9条2項の趣旨に基づき原告適格を認めた最高裁判例としては、小田急線連続立体交差事業認可処分取消、事業認可処分取消請求事件<ref>最高裁平成17年12月7日大法廷判決・[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52414 民集59巻10号2645頁]</ref>がある。
;原告適格が認められた判例
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52934 公衆浴場営業許可無効確認請求事件](最高裁判例 昭和37年01月19日)
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55157 長沼ナイキ基地事件](最高裁判例 昭和57年9月9日)
* [[新潟空港訴訟]](最高判例 平成元年2月17日)
*[[もんじゅ訴訟]] (最高裁判例 平成4年09月22日)
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52624 建築基準法に基づく許可処分取消、建築確認処分取消請求事件](最高判例 平成14年1月22日)
:建築基準法の総合設計許可に係る建築物の周辺地域に存する建築物に居住し又はこれを所有する者
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52619 交際費等非公開決定処分取消請求事件](最高判例 平成14年2月28日)
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52392 もんじゅ行政訴訟](最高裁判例 平成17年5月30日)
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=38073 場外車券発売施設設置許可処分取消請求事件](最高裁判例 平成21年10月15日)
;原告適格が認められなかった判例
*[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56205 質屋営業許可取消請求事件](最高裁判例 昭和34年08月18日 第三小法廷判決)
:既存の質屋営業者は、第三者に対する質屋営業許可処分の取消を求める法律上の利益を有しない。
*[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53786 区画整理事業設計等無効確認請求] (最高裁判例 昭和41年02月23日)
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53238 審決取消請求事件](最高裁判所 昭和53年03月14日 第三小法廷)
:[[不当景品類及び不当表示防止法]]の規定にいう一般消費者
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52553 開発許可処分取消請求事件](最高裁判所 平成9年1月28日 第三小法廷判決)
:開発行為によって起こり得るがけ崩れ等により生命、身体等を侵害されるおそれがあると主張して開発許可の取消訴訟を提起した開発区域周辺住民が死亡したときの相続人。
* [https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52602 風俗営業許可処分取消請求事件](最高裁判所 平成10年12月17日 第一小法廷)
:都道府県の条例所定の風俗営業制限地域に居住する者。
===被告適格===
:処分又は裁決をした行政庁が国又は公共団体に所属する場合には、当該処分をした行政庁の所属する国又は公共団体を被告とする([[s:行政事件訴訟法#11|11条]]1項)。
:処分又は裁決をした行政庁が国又は公共団体に所属しない場合には、当該行政庁(2項)を被告とする。つまり、処分した行政庁が、指定法人等の民間業者であるときは、その民間業者を被告とすることになる。
:処分又は裁決をした行政庁は、当該処分又は裁決に係る訴訟について、裁判上の一切の行為をする権限を有する(6項)。
===管轄裁判所===
:被告の普通裁判籍の所在地を管轄する裁判所又は処分若しくは裁決をした行政庁の所在地を管轄する裁判所の管轄に属する([[s:行政事件訴訟法#12|12条]]1項)。
:土地の収用、鉱業権の設定その他不動産又は特定の場所に係る処分又は裁決についての取消訴訟は、その不動産又は場所の所在地の裁判所にも、提起することができる(2項)。
:取消訴訟は、当該処分又は裁決に関し事案の処理に当たつた下級行政機関の所在地の裁判所にも、提起することができる(3項)。
:国又は独立行政法人を被告とする取消訴訟は、特定管轄裁判所にも、提起することができる(4項)。特定管轄裁判所とは、原告の普通裁判籍の所在地を管轄する高等裁判所の所在地を管轄する地方裁判所である。
===出訴期間===
処分又は裁決があったことを知った日から正当な理由がなく'''6箇月'''を経過したときは、訴えを提起することができない([[s:行政事件訴訟法#14|14条]]1項)。
また、処分又は裁決の日から正当な理由がなく1年を経過したときも、訴えを提起することができない(14条2項)。
== 違法判断の基準時 ==
おおかたの判例は、取消訴訟における違法判断の基準時として、もとの処分時を支持してきた。しかしながら、例外もある<ref>たとえば顕著な例として、(行訴法2004(平成16)年改正前の判例であるが、)[[伊方原発訴訟|伊方発電所原子炉設置許可処分取消訴訟]]では、[[原子炉]]の安全性の基準として「現在の科学技術水準」を採用した{{ harv | 深澤 | 2014 | page = 228 }}</ref>。違法判断の基準時が問題となるのは、処分時には違法であったものが後の事情により、そうでなくなった場合などである。例えば、法令が改正された場合である。申請拒否処分において処分が合法であったものが違法となった場合は、原則として再申請により対処すべきであるが、これができない場合<ref>たとえば、[[特別在留許可]]。</ref>に、特段の事情があったものとして基準時の修正が考慮される場合がある<ref>{{ harvnb |深澤 | 2014 | page = 228 }}</ref>。
処分についての審査請求の違法・不当判断の基準時については、異論もあるが、行政権による事後審査の作用である審査請求と裁判所による事後審査である取消訴訟の間には、若干の質的差異があるものの、審査請求が処分に対する事後審査制度の一環として位置づけられることから、取消訴訟の場合と同様、一般に、<u>処分時</u><ref>ここでいう処分時とは裁決をする処分のものではなく原処分時を指す。多くの文献でもこの表現があいまいで、わかり辛い(あくまで利用者個人の見解です)。</ref>と解されている<ref>{{ harv | 大江 | 2020 | pages = 235 - 236 }}、詳しくは{{ harv | 南 | 小高 | 1993 }}など。最近の判例として{{ harv | 京都地裁 | 1995 }}。</ref>。
==原処分主義==
処分の取消しの訴えとその処分についての審査請求を棄却した裁決の取消しの訴えとを提起することができる場合には、裁決の取消しの訴えにおいては、処分の違法を理由として取消しを求めることができない([[s:行政事件訴訟法#10|行訴法10条]]2項)。これを'''原処分主義'''という。
例外として、法律により裁決の取消しの訴えのみを認めるもので、原処分の瑕疵を主張することのできる場合(裁決主義)がある。
例として
*特許法の定める審決等に対する訴訟
*[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325AC0000000131#1388 電波法(昭和二十五年法律第百三十一号)第九十六条の二:訴えの提起].e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 <!-- 令和元年五月三十一日公布(令和元年法律第十六号)改正、2019年11月20日施行版を閲覧。-->
*[[労働組合法]]27条の19
*[[公職選挙法]][[s:公職選挙法#203|203条]]、[[s:公職選挙法#207|207条]]
==審査請求の前置==
行政機関による処分の取消を求める際に、取消訴訟と行政[[不服申立て]]のいずれの手段を選択するかは原則として自由であり([[s:行政事件訴訟法#8|8条]]1項前段)両方同時に行うことも出来る。
審査請求がされているときは、裁判所は、その審査請求に対する裁決があるまで、訴訟手続は原則として中止される(8条3項)。
;審査請求前置主義
例外的に、課税処分や社会保障に関する処分などについて、不服申立を訴えに先立ってすることが法律上要求されることがあるが、次に該当するときは、裁決を経ないで、処分の取消しの訴えを提起することができる(8条2項)。
# 審査請求があつた日から'''3箇月'''を経過しても裁決がないとき。
# 処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる著しい損害を避けるため緊急の必要があるとき。
# その他裁決を経ないことにつき正当な理由があるとき。
;例
* 大量に行われる処分
*:[[国家公務員法]]第92条の2(不服申立てと訴訟との関係)
*:[[住民基本台帳法#構成|住民基本台帳法第32条]](不服申立てと訴訟との関係)
*:[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=337AC0000000066#1004 国税通則法(昭和三十七年法律第六十六号)第百十五条:不服申立ての前置等 ].e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 <!-- 平成三十一年三月二十九日公布(平成三十一年法律第六号)改正、2019年10月1日施行版を閲覧。-->
* 専門技術的な処分
*:[[外国為替及び外国貿易法]]第57条
* 裁決が第三者機関
*:[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000054#651 昭和二十二年法律第五十四号(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律)第八十八条].e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 <!-- 令和元年六月二十六日公布(令和元年法律第四十五号)改正、2019年7月26日施行版を閲覧。-->
;判例
*[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52990 所得税更正処分取消請求] (最高裁判例 昭和36年07月21日)
*:所得金額更正に関する審査請求の却下決定があつた場合でも、右却下が違法である場合には、右更正処分の取消を求める訴は審査の決定を経たものとして適法である。
==執行停止等==
{{main|執行停止}}
*執行不停止の原則([[s:行政事件訴訟法#25|25条]]1項)
:執行停止の要件について、同条2項以下
*事情変更による執行停止の取消し([[s:行政事件訴訟法#26|26条]])
*[[内閣総理大臣の異議]]([[s:行政事件訴訟法#27|27条]])
*仮の義務付け及び仮の差止め([[s:行政事件訴訟法#37の5|37条の5]])
==訴訟の移送・併合==
{{see also | 訴訟物#取消訴訟}}
*'''関連請求'''に係る訴訟の移送([[s:行政事件訴訟法#13|13条]])
:取消訴訟と関連請求に係る訴訟とが各別の裁判所に係属する場合において、相当と認めるときは、関連請求に係る訴訟の係属する裁判所は、申立てにより又は職権で、その訴訟を取消訴訟の係属する裁判所に移送することができる。ただし、取消訴訟又は関連請求に係る訴訟の係属する裁判所が高等裁判所であるときは、この限りでない。
*請求の客観的併合([[s:行政事件訴訟法#16|16条]])
: 関連請求に係る訴えを併合することができる。
: たとえば、裁決の取消訴訟と処分の取消訴訟を併合して提起できる。
*[[共同訴訟]]([[s:行政事件訴訟法#17|17条]])
*第三者による請求の追加的併合([[s:行政事件訴訟法#18|18条]])
*原告による請求の追加的併合([[s:行政事件訴訟法#19|19条]])
*:処分の取消しの訴えをその処分についての審査請求を棄却した裁決の取消しの訴えに併合して提起する場合には、処分の取消しの訴えの被告の同意を得ることを要せず、また、その提起があつたときは、出訴期間の遵守については、処分の取消しの訴えは、裁決の取消しの訴えを提起した時に提起されたものとみなされる([[s:行政事件訴訟法#20|第20条]])。
*国又は公共団体に対する請求への訴えの変更([[s:行政事件訴訟法#21|21条]])
==その他の手続==
*被告を誤った訴えの救済([[s:行政事件訴訟法#15|15条]])
:原告が故意又は重大な過失によらないで被告とすべき者を誤ったときは、裁判所は、原告の申立てにより、決定をもって、被告を変更することを許すことができる。決定は、書面でするものとし、その正本を新たな被告に送達しなければならない(1項、2項)。
*第三者の訴訟参加([[s:行政事件訴訟法#22|22条]])
:裁判所は、訴訟の結果により権利を害される第三者があるときは、当事者若しくはその第三者の申立てにより又は職権で、決定をもって、その第三者を訴訟に参加させることができる。
*行政庁の訴訟参加([[s:行政事件訴訟法#23|23条]])
:裁判所は、処分又は裁決をした行政庁以外の行政庁を訴訟に、当事者若しくはその行政庁の申立てにより又は職権で、決定をもつて、その行政庁を訴訟に参加させることができる。
*釈明処分の特則([[s:行政事件訴訟法#23の2|23条の2]])
:裁判所は、審査請求に対する裁決を経た後に取消訴訟の提起があつたときは、行政庁に対し、当該審査請求に係る事件の記録であつて当該行政庁が保有するものの全部又は一部の提出を求めることができる。
*職権証拠調べ([[s:行政事件訴訟法#24|24条]])
:裁判所は、必要があると認めるときは、職権で、証拠調べをすることができる。
*第三者の再審の訴え([[s:行政事件訴訟法#34|34条]])
*取消訴訟等の提起に関する事項の教示([[s:行政事件訴訟法#46|46条]])
==効果==
*形成力
:処分の取消判決が確定すると、処分時に遡って当該処分はなかったものとされる。
*既判力([[b:民事訴訟法第114条|民事訴訟法114条]]1項)
*第三者効([[s:行政事件訴訟法#32|32条]])
:処分又は裁決を取り消す判決、執行停止の決定又はこれを取り消す決定は、第三者に対しても効力を有する。
*行政庁に対する拘束力([[s:行政事件訴訟法#33|33条]])
*第三者の再審の訴え([[s:行政事件訴訟法#34|34条]])
:処分又は裁決を取り消す判決により権利を害された第三者で、自己の責めに帰することができない理由により訴訟に参加することができなかつたため判決に影響を及ぼすべき[[攻撃防御方法]]を提出することができなかったものは、これを理由として、確定の終局判決に対し、再審の訴えをもって、確定判決を知つた日から30日以内に、不服の申立てをすることができる。
==取消訴訟の排他的管轄==
===取消訴訟の排他的管轄と公定力===
行政庁の処分に取消事由(法律違反等)があったとしても、その処分に対して、取消訴訟が提起されないまま出訴期間([[s:行政事件訴訟法14|14条]]:処分を知った日から6か月、処分の日から1年)が経過し、あるいは、取消訴訟を提起したにもかかわらず訴え却下もしくは請求棄却になった場合は、もはやその処分は取消しを求めて争うことができなくなる。そうすると、その処分は取り消されないことが法律上確定する(厳密には、処分庁またはそれを監督する上級行政庁が処分を取り消すことは妨げられない)。
こうした効果につき、行政処分は取り消されない限り「一応の通用力」を有するからであり、これを公定力と呼ぶと説明するのが従来の通説である。しかし、こうした見解に対して、現在の有力説は、行政処分に限ってなぜ「一応の通用力」が付与されるのか理論的根拠が明らかでないと批判する。
現在の有力説は、上記のような効果が生じるのは、行政事件訴訟法が、行政庁の処分は取消訴訟によらなければ取り消せないものとする(取消訴訟の排他的管轄)という選択をしたからであり、従来説かれた「公定力」はその反射的効果に過ぎないと説明する。有力説が従来の通説を批判してこのように説くのは、取消訴訟の対象が「行政処分」に限定されないという実践的な意図に基づいている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
=== 判例 ===
* {{ citation | year = 1995 | date = 1995(平成7)-11-24 | location = 京都地裁 | title = 建築確認処分取消等請求事件、判決
| ref = {{ harvid | 京都地裁 | 1995 }} | quote = 審査請求が、処分に対する事後審査制度の一環として位置付けられることからすると、裁決の違法判断の基準時は、処分時と解するのが相当である。よって、本件裁決が、本件処分の違法性を判断するにつき、<u>原処分時</u>を基準時としたことに違法な点はなく、原告の右主張は失当である。<!-- | postscript = 裁判長裁判官:松尾政行, 裁判官:中村隆次, 池上尚子 --> }}、{{ cite journal | journal = 判例地方自治 | issue = 149 | page = 80 | ref = {{ harvid | 判自149 }} }}
=== 書籍 ===
* {{ cite book | 和書 | title = 全訂 注釈行政不服審査法 | author1 = 南博方 | authorlink = 南博方 | author2 = 小高剛 <!-- | authorlink2 = 小高剛 --> | publisher = [[第一法規出版]] | year = 1993 | date = 1993(平成3)-10-15 | edition = 全訂版 | isbn = 4-474-02115-0 | ref = {{ harvid | 南 | 小高 | 1993 }} }}
* {{ Cite book |和書|title=条解 行政事件訴訟法 | chapter = 審理の範囲 | author1 = 深澤龍一郎 <!-- | authorlink1 = 深澤龍一郎 --> | publisher=[[弘文堂]] | year = 2014 |date=2014(平成26)-12-15|isbn= 978-4-335-35603-2 | editor1=[[南博方]] | editor2 = [[高橋滋]] | editor3 = [[市村陽典]] | editor4 = [[山本隆司 (行政法学者) |山本隆司]] | ref = {{ harvid |深澤 | 2014 }} | edition = 第4版 | pages = 221 - 233 }}
* {{ cite book | 和書 | title = 条解 行政不服審査法 | chapter = 処分についての審査請求の却下又は棄却 | author = 大江裕幸 <!-- | authorlink = 大江裕幸 --> | publisher = 弘文堂 | year = 2020 | date = 2020(令和2)-04-15 | isbn = 978-4-335-35820-3 | editor1 = [[小早川光郎]] | editor2 = [[高橋滋]] | ref = {{ harvid | 大江 | 2020 }} | edition = 第2版 | pages = 235 - 239 }}
== 関連項目 ==
* [[行政行為]]
* [[事情判決]]
[[Category:行政事件訴訟法]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%96%E6%B6%88%E8%A8%B4%E8%A8%9F
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11,685 |
自由裁量処分
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自由裁量処分(じゆうさいりょうしょぶん)は、行政裁量のうち純粋に処分庁の政策的・行政的判断に委ねられた処分である。裁量が自由である以上、その処分が妥当か不当かの問題はありえるが、裁量権を濫用・逸脱しないかぎり、適法・違法の問題はありえないため、司法による対象とはならないとされる。
例としては在留許可の更新や温泉掘削の許可などがある。
一方、同じ裁量処分でも、覊束裁量処分は、法律の文言の上では一義的に確定しないように見えるが、実は行政機関の自由な裁量が許されるのではなく、法が予定する客観的な基準が存在すると考えられる。したがって、覊束裁量については適法・違法の問題がありうるので、司法審査の対象となる。例としては、皇居外苑の使用許可、運転免許の取消などがある。
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自由裁量処分(じゆうさいりょうしょぶん)は、行政裁量のうち純粋に処分庁の政策的・行政的判断に委ねられた処分である。裁量が自由である以上、その処分が妥当か不当かの問題はありえるが、裁量権を濫用・逸脱しないかぎり、適法・違法の問題はありえないため、司法による対象とはならないとされる。 例としては在留許可の更新や温泉掘削の許可などがある。 一方、同じ裁量処分でも、覊束裁量処分は、法律の文言の上では一義的に確定しないように見えるが、実は行政機関の自由な裁量が許されるのではなく、法が予定する客観的な基準が存在すると考えられる。したがって、覊束裁量については適法・違法の問題がありうるので、司法審査の対象となる。例としては、皇居外苑の使用許可、運転免許の取消などがある。
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{{出典の明記| date = 2022年3月}}
'''自由裁量処分'''(じゆうさいりょうしょぶん)は、[[行政裁量]]のうち純粋に処分庁の政策的・行政的判断に委ねられた処分である。
裁量が自由である以上、その処分が妥当か不当かの問題はありえるが、裁量権を濫用・逸脱しないかぎり、適法・違法の問題はありえないため、司法による対象とはならないとされる。
例としては在留許可の更新や温泉掘削の許可などがある。
一方、同じ裁量処分でも、覊束裁量処分は、法律の文言の上では一義的に確定しないように見えるが、実は行政機関の自由な裁量が許されるのではなく、[[法律|法]]が予定する客観的な基準が存在すると考えられる。
したがって、覊束裁量については適法・違法の問題がありうるので、司法審査の対象となる。例としては、皇居外苑の使用許可、運転免許の取消などがある。
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|自由裁量}}
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[[Category:行政作用法]]
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11,686 |
中原誠
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中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る。通算1308勝は羽生善治、大山康晴、谷川浩司、加藤一二三に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ歴代3位。
棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年-2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県気高郡鹿野町名誉町民(2004年)。気高郡勝谷村(その後合併して鹿野町、現鳥取市鹿野町宮方)生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。
24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。「棋界の(若き)太陽」と呼ばれた。以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄・加藤一二三・谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。
初めは塩釜の佐貝正次郎に6枚落ちから丁寧に指導を受け、仙台の石川孟司の指導を受ける。石川の紹介で1956年に五十嵐豊一、原田泰夫と対戦し、その他何人かの真剣師と対戦し腕を磨く。1957年9月末に石川の紹介で10歳で上京し、高柳敏夫門下に入門、兄弟子に芹沢博文がいた。翌1958年4月に奨励会に6級で入会し、13歳、中学2年で初段になる。三段時代に山田道美主催の山田研究会に加入、芹沢の芹沢研究会にも加入する。
奨励会時代から将来を嘱望されていたが、プロ入り直前の関門である「三段から四段への壁(奨励会A組、現三段リーグ)」をなかなか乗り越えられずに6期3年間も足踏みし、人間的にも苦悩したと語っている。しかし、1965年秋18歳で桐山清澄を東西決定戦で破り、四段になってプロ入り後は、王座戦で3戦目から11連勝し、その後順位戦において4年連続で昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。
1967年度後期、第11期棋聖戦で山田道美八段にタイトル初挑戦し、フルセットの末に敗退する。加藤と並んでの最年少挑戦記録として扱われた。しかし半年後、1968年度前期の第12期棋聖戦では、強豪を連破して連続で山田に挑戦すると、3勝1敗で勝利し初のタイトル・棋聖位を獲得する。20歳でのタイトル獲得は、当時大山の持っていた27歳での九段獲得の最年少タイトル獲得の記録を更新する快挙であった。
その後、大山康晴、山田を相手に2期防衛して棋聖3連覇。だが、3度目の防衛戦で内藤国雄に敗れ棋聖を失い無冠となる。
1970年度、十段戦で大山を4-2のスコアで下し、大山の五冠独占の一角を崩す。さらに、直後の後期の第17期棋聖戦(中原3-大山0)でも大山をストレートで破り、初めて二冠となる。続く1971年度前期の第18期棋聖戦(中原3-大山1)で大山を相手に防衛に成功。これで棋聖位獲得通算5期となり、早くも永世称号の保持者となる(史上最年少記録)。この2つの年度は、タイトルホルダーが大山と中原の2名だけという、まさに二強時代であった。
1971年度、A級2年目の第26期順位戦でA級順位戦史上初めて全勝し名人挑戦権を得て、1972年の第31期名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と戦う。フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である名人位に初めて就く。この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。なお、この後、大山が名人位に復位することは二度となかった。
1973年度からは、米長邦雄、加藤一二三、内藤國雄ら、大山康晴より若い、同じ世代の棋士達との戦いが主となる。特に、米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じた。
1973年、第14期王位戦(中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初めて四冠王となる。しかし、直後の十段戦で捲土重来を期す大山に奪取される。それから1年間、三冠を防衛した中原は、翌年(1974年度)に十段を奪還して四冠に返り咲く。以降、中原と大山は、それぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、
という構図が続き、中原は防衛戦で同世代のライバル達と当たる。大内延介と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、途中2勝3敗となり角番に追い込まれるも、第7局で大内必勝の局面での大内の悪手(107手目▲7一角)に助けられて持将棋に持ち込み、薄氷の逆転防衛をする。翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功して名人5連覇。永世名人(十六世名人)の資格を得る。
1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の五冠王となる。残るタイトルは棋王のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で加藤一二三に挑戦したが、ストレートで敗れ、全六冠制覇はならなかった。
その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼らとのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となりタイトル数は漸減する。加藤一二三と対戦した、1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となったが、3勝4敗で名人位を明け渡す。名人連覇は9期で終わった。
1980年代半ばごろからは、谷川浩司や55年組の高橋道雄、中村修、南芳一、塚田泰明らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数が三冠ないしは無冠となっていく。
1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。翌1986年の第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げたが、中原が防衛。二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となった。
1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となる。さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となる。しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である田中寅彦から棋聖を奪い、二冠に復帰。
1990年度、第48期名人戦(中原4-谷川2)で名人を谷川から奪還し、2度目の復位を達成するとともに三冠となる。しかし、前期/第56期棋聖戦(中原2-屋敷3)で屋敷伸之に棋聖位を奪われ、史上最年少タイトル記録達成を許す。さらに第38期王座戦(中原1-谷川3)では谷川に敗れ、名人位のみの一冠となる。
1992年度、第50期名人戦(中原4-高橋3)では高橋道雄の挑戦を受けたが、出だしで1勝3敗を喫してしまう。当時までは名人戦では3連勝で逆転した例はなかったが、そのジンクスを破って防衛した。しかしながら、得意であるはずの矢倉戦となった第1・2・4局ですべて負けたことは話題となった。
1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、米長邦雄と6度目の名人戦となったが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失う。同年度の王将戦では挑戦者となるが、谷川の前に敗れる(中原2-谷川4)。これが、中原にとって最後のタイトル戦登場となった。
1994年のNHK杯戦で、米長との決勝を制して優勝。これが、最後の公式棋戦優勝であった(非公式棋戦では、達人戦において2001年-2002年の連続優勝を含め、4度優勝している)。
2000年度のA級順位戦は、2勝7敗の成績で陥落が決まる。これにより永世名人資格保持者がA級から陥落する史上初の事態となった(後に谷川浩司、森内俊之、羽生善治が記録)。A級陥落後はB級1組で2期だけ指した後、フリークラス宣言をし、フリークラスに転出した。永世名人資格者がB級1組で指すのもフリークラスで指すのも前例がないことであったが、その後も2000年度の竜王戦1組優勝、2003年度の竜王戦挑戦者決定三番勝負進出、2004年の王位リーグ入り、2007年の棋聖戦での挑戦者決定トーナメント進出など、各棋戦の上位に顔を出すことがしばしばあった。
中原と羽生善治のタイトル戦の番勝負はついに実現しなかった。無冠となった後の1994年度前期の第64期棋聖戦では、谷川浩司との挑戦者決定戦に敗れ、羽生棋聖への挑戦権を逃した。同年度の第53期順位戦では7勝2敗の1位タイとなるも、森下卓とのプレーオフに破れ、羽生名人への挑戦権を逃した。1996年度の第22期棋王戦では、挑戦者決定二番勝負で森下卓に敗れ、羽生棋王への挑戦権を逃した。また、森内俊之と戦った2003年度竜王戦決定三番勝負にも1勝2敗で敗れた。結果として、これが羽生とのタイトル戦を実現する最後のチャンスであった。なお、一般棋戦の決勝で羽生と当たったのは、1988年度のNHK杯戦のみである(羽生が名人経験者全4名を破って優勝し、話題となった)。
2008年8月12日、王将戦二次予選準決勝で、A級八段の木村一基に勝った後の感想戦の最中に身体に異変を起こし、病院に緊急搬送される。脳内出血と診断され、即、入院となった。その後、2009年3月31日まで休場することが発表された。この休場による最初の不戦敗の相手も木村一基であった。
その後、棋戦復帰を目指してリハビリを続けていたが回復が思わしくなく、将棋に関わる活動ができないと判断して、2009年3月31日をもっての引退届を日本将棋連盟に提出。連盟理事会はこれを受理したことを、3月11日に発表。2016年5月30日付『日本経済新聞』「私の履歴書」によると、入院中に大腸がんが見つかり、治療に専念するために引退を決断したとしている。
発表当日、中原本人の記者会見が行われた。左の手足に不自由を抱え、右手に杖を持って記者会見場に姿を現した中原であったが、元気そうに、淡々とした口調で「43年という長い期間、タイトル戦など多くの勝負の舞台を踏ませていただき、十分に勝負を堪能した。その点で悔いはない」と述べた。ただし、「悔いがあるとすれば(挑戦を逃した2003年の)竜王戦挑戦者決定戦。羽生さんと一度タイトル戦を戦ってみたかった」ともコメントしている。
休場中ではあるが、竜王戦1組在籍のままでの引退である。
引退後の活動について、「棋戦の解説、評論活動を行っていきたい」としている。日本将棋連盟は、多年にわたる中原誠の将棋への功績を評価し、2009年4月1日から70歳の誕生日を迎える2017年まで『名誉棋士会長』を委嘱した。その後、3回目の役員変更となる2011年4月11日に辞退するまで務めた。また2009年より、JR武蔵新城駅そばの「新城子供将棋教室」において、弟子の佐藤秀司と共に不定期にタイトル戦の大盤解説会を開いている。
全盛期は本格派の居飛車党で、「自然流」と称された(「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」原田泰夫)。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴で、入玉も得意としていた。また、「桂使いの名手」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多い。
対振り飛車戦の玉頭位取りに代表される様に、理想形を目指しそれを阻止しに来たところを咎める教科書通りの勝ち方が多かった。大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破った。
1982年度の第40期名人戦で失冠してから棋風が変わり、中原流相掛かり、横歩取り中原囲い、中原流急戦矢倉などの独創的な戦法を編み出した。
1992年度の高橋道雄との第50期名人戦において矢倉戦で1局も勝てずに失冠しかけたころからは、前述の相掛かり、横歩取り中原囲い、短期間ながら名人戦にも採用した中原飛車、後手矢倉において中原流急戦矢倉、対振飛車における6五歩戦法などを用いて勝率を保った。
1996年に中原流相掛かり・中原流横歩取り・中原囲いで升田幸三賞を受賞している。
名人戦では大悪手を二回指している(第31期名人戦第3局対大山戦での▲8五金の見落とし、第48期名人戦第2局対谷川戦の△2五桂打はタダで取られるのをうっかりした)。また第37期名人戦第4局では米長を相手に▲5七銀という歴史的妙手を指して勝っている。
引退前の数年間は「形勢楽観派」の代表的棋士とされ、対戦相手や控え室の棋士たちほとんどが「互角または中原不利」と考えている局面でも、局後の感想では「あの局面では自分が良かったと思う」と語ることが多かった。
1994年、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。その結果、十六世襲位は見送られたが、代わりに「永世十段」を名乗ることで落ち着いた。
2007年9月2日、還暦を迎えたことにより、規定により「名誉王座」も名乗る。
2007年11月17日(将棋の日)、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し本人が了承。前倒しで現役のまま襲位した。1993年に無冠となってから、実に14年後のことであった。
2008年4月1日、60歳となってからの新しい年度を迎えた際には新たに「永世棋聖」「永世王位」を名乗ることとなった。永世王位を名乗る棋士は中原が初めて。
なお、十六世名人襲位後の公式戦は、襲位翌年に病気休場で引退したため、16局8勝8敗(この他、休場不戦敗で5敗)に終わったが、名人在位者との対局は、2007年度が森内俊之名人、2008年度は羽生善治名人が各1局行われ、いずれも中原が十六世名人としての勝利を挙げている。
二上達也の後を受けて2003年より日本将棋連盟会長を1期務めたが、2005年会長職を米長邦雄に譲り、自らは副会長に就いた。2007年5月の棋士総会において理事選挙に出馬せず、理事・副会長職を退任した。
1994年から1998年の間に林葉直子(元女流棋士)邸の留守番電話に「今から突入しまーす」「お前みたいなのは早く死んじまえ! エイズにでも何でも早くかかっちゃえばいいんだよ!」などの本人の肉声が録音されたテープが1998年にテレビのワイドショーなどで公開された。中原は自宅の庭で記者会見に応じ、事実関係を認めた。
(2023年4月1日現在)
(2023年7月3日現在)
登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。
詳細は下の年表を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照
通算28回(歴代3位)
第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあった。1年のブランクの後、主催が朝日新聞社から毎日新聞社に代わった第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31-35期の順位戦は存在しない。つまり、中原のA級以上在籍は29期連続である。なお、第30期と第36期は、名人9連覇の途中に当たる。
その他、大山康晴以来史上2人目の1300勝を達成している(2007年9月27日)。
※加藤、米長、大内との対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。
※米長との187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録
氏名は対戦相手。赤いマス目はタイトル獲得(奪取または防衛)。 o : 勝ち、 x : 負け、 j : 持将棋、 s : 千日手による日程繰り延べ(当日指し直しの場合は記載せず)。
青いマス目は、タイトル戦昇格以前の王座戦での優勝(名誉王座の称号獲得要件に含まれているため、タイトルの欄にも記載した)。
十六世名人でかつ日本将棋連盟会長であったこともあり、著書は大変多い。入門書も多く著述している。ここでは一例を挙げる。
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"text": "中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る。通算1308勝は羽生善治、大山康晴、谷川浩司、加藤一二三に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ歴代3位。",
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"text": "棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年-2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県気高郡鹿野町名誉町民(2004年)。気高郡勝谷村(その後合併して鹿野町、現鳥取市鹿野町宮方)生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。",
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"text": "24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。「棋界の(若き)太陽」と呼ばれた。以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄・加藤一二三・谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。",
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"text": "初めは塩釜の佐貝正次郎に6枚落ちから丁寧に指導を受け、仙台の石川孟司の指導を受ける。石川の紹介で1956年に五十嵐豊一、原田泰夫と対戦し、その他何人かの真剣師と対戦し腕を磨く。1957年9月末に石川の紹介で10歳で上京し、高柳敏夫門下に入門、兄弟子に芹沢博文がいた。翌1958年4月に奨励会に6級で入会し、13歳、中学2年で初段になる。三段時代に山田道美主催の山田研究会に加入、芹沢の芹沢研究会にも加入する。",
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"text": "奨励会時代から将来を嘱望されていたが、プロ入り直前の関門である「三段から四段への壁(奨励会A組、現三段リーグ)」をなかなか乗り越えられずに6期3年間も足踏みし、人間的にも苦悩したと語っている。しかし、1965年秋18歳で桐山清澄を東西決定戦で破り、四段になってプロ入り後は、王座戦で3戦目から11連勝し、その後順位戦において4年連続で昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。",
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"text": "1967年度後期、第11期棋聖戦で山田道美八段にタイトル初挑戦し、フルセットの末に敗退する。加藤と並んでの最年少挑戦記録として扱われた。しかし半年後、1968年度前期の第12期棋聖戦では、強豪を連破して連続で山田に挑戦すると、3勝1敗で勝利し初のタイトル・棋聖位を獲得する。20歳でのタイトル獲得は、当時大山の持っていた27歳での九段獲得の最年少タイトル獲得の記録を更新する快挙であった。",
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"text": "その後、大山康晴、山田を相手に2期防衛して棋聖3連覇。だが、3度目の防衛戦で内藤国雄に敗れ棋聖を失い無冠となる。",
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"text": "1970年度、十段戦で大山を4-2のスコアで下し、大山の五冠独占の一角を崩す。さらに、直後の後期の第17期棋聖戦(中原3-大山0)でも大山をストレートで破り、初めて二冠となる。続く1971年度前期の第18期棋聖戦(中原3-大山1)で大山を相手に防衛に成功。これで棋聖位獲得通算5期となり、早くも永世称号の保持者となる(史上最年少記録)。この2つの年度は、タイトルホルダーが大山と中原の2名だけという、まさに二強時代であった。",
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"text": "1971年度、A級2年目の第26期順位戦でA級順位戦史上初めて全勝し名人挑戦権を得て、1972年の第31期名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と戦う。フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である名人位に初めて就く。この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。なお、この後、大山が名人位に復位することは二度となかった。",
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"text": "1973年度からは、米長邦雄、加藤一二三、内藤國雄ら、大山康晴より若い、同じ世代の棋士達との戦いが主となる。特に、米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じた。",
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"text": "1973年、第14期王位戦(中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初めて四冠王となる。しかし、直後の十段戦で捲土重来を期す大山に奪取される。それから1年間、三冠を防衛した中原は、翌年(1974年度)に十段を奪還して四冠に返り咲く。以降、中原と大山は、それぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、",
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"text": "という構図が続き、中原は防衛戦で同世代のライバル達と当たる。大内延介と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、途中2勝3敗となり角番に追い込まれるも、第7局で大内必勝の局面での大内の悪手(107手目▲7一角)に助けられて持将棋に持ち込み、薄氷の逆転防衛をする。翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功して名人5連覇。永世名人(十六世名人)の資格を得る。",
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"text": "1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の五冠王となる。残るタイトルは棋王のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で加藤一二三に挑戦したが、ストレートで敗れ、全六冠制覇はならなかった。",
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"text": "その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼らとのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となりタイトル数は漸減する。加藤一二三と対戦した、1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となったが、3勝4敗で名人位を明け渡す。名人連覇は9期で終わった。",
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"text": "1980年代半ばごろからは、谷川浩司や55年組の高橋道雄、中村修、南芳一、塚田泰明らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数が三冠ないしは無冠となっていく。",
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"text": "1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。翌1986年の第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げたが、中原が防衛。二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となった。",
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"text": "1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となる。さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となる。しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である田中寅彦から棋聖を奪い、二冠に復帰。",
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"text": "1990年度、第48期名人戦(中原4-谷川2)で名人を谷川から奪還し、2度目の復位を達成するとともに三冠となる。しかし、前期/第56期棋聖戦(中原2-屋敷3)で屋敷伸之に棋聖位を奪われ、史上最年少タイトル記録達成を許す。さらに第38期王座戦(中原1-谷川3)では谷川に敗れ、名人位のみの一冠となる。",
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"text": "1992年度、第50期名人戦(中原4-高橋3)では高橋道雄の挑戦を受けたが、出だしで1勝3敗を喫してしまう。当時までは名人戦では3連勝で逆転した例はなかったが、そのジンクスを破って防衛した。しかしながら、得意であるはずの矢倉戦となった第1・2・4局ですべて負けたことは話題となった。",
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"text": "1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、米長邦雄と6度目の名人戦となったが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失う。同年度の王将戦では挑戦者となるが、谷川の前に敗れる(中原2-谷川4)。これが、中原にとって最後のタイトル戦登場となった。",
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"text": "1994年のNHK杯戦で、米長との決勝を制して優勝。これが、最後の公式棋戦優勝であった(非公式棋戦では、達人戦において2001年-2002年の連続優勝を含め、4度優勝している)。",
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"text": "2000年度のA級順位戦は、2勝7敗の成績で陥落が決まる。これにより永世名人資格保持者がA級から陥落する史上初の事態となった(後に谷川浩司、森内俊之、羽生善治が記録)。A級陥落後はB級1組で2期だけ指した後、フリークラス宣言をし、フリークラスに転出した。永世名人資格者がB級1組で指すのもフリークラスで指すのも前例がないことであったが、その後も2000年度の竜王戦1組優勝、2003年度の竜王戦挑戦者決定三番勝負進出、2004年の王位リーグ入り、2007年の棋聖戦での挑戦者決定トーナメント進出など、各棋戦の上位に顔を出すことがしばしばあった。",
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"text": "(2023年4月1日現在)",
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"text": "登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。",
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"text": "詳細は下の年表を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照",
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"text": "通算28回(歴代3位)",
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"text": "第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあった。1年のブランクの後、主催が朝日新聞社から毎日新聞社に代わった第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31-35期の順位戦は存在しない。つまり、中原のA級以上在籍は29期連続である。なお、第30期と第36期は、名人9連覇の途中に当たる。",
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"text": "その他、大山康晴以来史上2人目の1300勝を達成している(2007年9月27日)。",
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"text": "※加藤、米長、大内との対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。",
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"text": "※米長との187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録",
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"text": "氏名は対戦相手。赤いマス目はタイトル獲得(奪取または防衛)。 o : 勝ち、 x : 負け、 j : 持将棋、 s : 千日手による日程繰り延べ(当日指し直しの場合は記載せず)。",
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"text": "青いマス目は、タイトル戦昇格以前の王座戦での優勝(名誉王座の称号獲得要件に含まれているため、タイトルの欄にも記載した)。",
"title": "年表"
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"text": "十六世名人でかつ日本将棋連盟会長であったこともあり、著書は大変多い。入門書も多く著述している。ここでは一例を挙げる。",
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] |
中原 誠は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る。通算1308勝は羽生善治、大山康晴、谷川浩司、加藤一二三に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ歴代3位。 棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年-2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県気高郡鹿野町名誉町民(2004年)。気高郡勝谷村(その後合併して鹿野町、現鳥取市鹿野町宮方)生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。
|
{{Infobox 将棋棋士
|image =
|名前 =中原誠
|棋士番号 =92
|出身地 =[[宮城県]][[塩竈市|塩釜市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/92.html|title=棋士データベース 十六世名人 中原誠|accessdate=2017-06-27|date=|publisher=日本将棋連盟|archiveurl=|}}</ref>
|師匠 =[[高柳敏夫]]名誉九段
|弟子 = [[小倉久史]]・[[佐藤秀司]]・[[高野秀行 (棋士)|高野秀行]]・[[熊坂学]]・[[甲斐智美]]
|肩書 = 十六世名人
|永世 = [[名人_(将棋)|十六世名人]]・[[十段戦 (将棋)|永世十段]]・[[王位戦 (将棋)|永世王位]]・[[王座戦 (将棋)|名誉王座]]・[[棋聖戦 (将棋)|永世棋聖]]
|段位 = 九段
|生年月日 ={{生年月日と年齢|1947|9|2}}
|没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|生年|月|日|没年|月|日}} -->
|プロ年度 = {{年月日|year=1965|month=10|day=1}}({{年数|1947|9|2|1965|10|1}}歳)
|引退年度 = {{年月日|year=2009|month=3|day=31}}({{年数|1947|9|2|2009|3|31}}歳)
|竜王戦クラス =1組(18期)
|順位戦クラス =A級(29期<ref group="注釈">名人15期を含む</ref>)
|タイトル合計 = 64期
|優勝回数 =28回
|通算成績 =1308勝782敗(0.6258)
|作成日時={{年月日|year=<!--年-->|month=<!--月-->|day=<!--日-->}}
|所属=関東}}
'''中原 誠'''(なかはら まこと、[[1947年]][[9月2日]] - )は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。2009年3月、引退。'''[[名人 (将棋)|十六世名人]]'''、および[[十段戦 (将棋)|永世十段]]・[[王位戦 (将棋)|永世王位]]・[[王座戦 (将棋)|名誉王座]]・[[棋聖戦 (将棋)|永世棋聖]]という5つの[[永世称号]]を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る<ref group="注釈" name="eisei">1994年4月1日に「永世十段」、2007年9月2日に「名誉王座」、同年11月17日に「十六世名人」を、2008年4月1日に「永世棋聖」および「永世王位」を名乗る。参考リンクは以下に列挙(いずれも日本将棋連盟の「お知らせ」より)。
* [https://www.shogi.or.jp/news/2007/08/post_131.html “中原 誠 永世十段・名誉王座”誕生へ]
* [https://www.shogi.or.jp/news/2007/11/post_119.html 中原 誠永世十段・名誉王座が永世名人(十六世名人)を襲位]
* [https://www.shogi.or.jp/news/2008/03/post_50.html 中原 誠十六世名人、「永世棋聖」、「永世王位」も名乗る]</ref>。通算1308勝は[[羽生善治]]、[[大山康晴]]、[[谷川浩司]]、[[加藤一二三]]に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ[[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|歴代3位]]。
[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は92。[[日本将棋連盟]]会長(2003年-2004年)。第1回[[川崎市]]文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。[[鳥取県]][[気高郡]][[鹿野町 (鳥取県)|鹿野町]]名誉町民(2004年)。気高郡[[勝谷村]](その後合併して鹿野町、現[[鳥取市]]鹿野町宮方)生まれだが、生後1か月で転居した[[宮城県]][[塩竈市]]を出身地とする。
== 戦歴 ==
24歳で[[大山康晴]]から[[名人 (将棋)|名人]]位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。「棋界の(若き)太陽」<ref group="注釈">2008年正月に[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]で放送された「お好み対局」にて、中原自身が語るところによると、「棋界の太陽」は[[原田泰夫]]による命名とのこと。</ref>と呼ばれた。以後、大山康晴十五世名人の後継者として[[将棋界]]に一時代を築き、さらには[[米長邦雄]]・[[加藤一二三]]・[[谷川浩司]]らと数々の名勝負を繰り広げた。
===デビュー・初タイトル===
初めは塩釜の佐貝正次郎に6枚落ちから丁寧に指導を受け<ref>{{Cite web|和書|title=中原誠(将棋名誉王座) 私の履歴書(2)縁台将棋 - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC12BTF0S2A211C2000000/ |website=www.nikkei.com |access-date=2023-05-14}}</ref>、仙台の石川孟司の指導を受ける<ref>{{Cite web|和書|title=中原誠(将棋名誉王座) 私の履歴書(7)受験の壁 - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC142IF0U2A211C2000000/ |website=www.nikkei.com |access-date=2023-05-14}}</ref>。石川の紹介で1956年に[[五十嵐豊一]]、[[原田泰夫]]と対戦し、その他何人かの[[真剣師]]と対戦し腕を磨く。1957年9月末に石川の紹介で10歳で上京し、[[高柳敏夫]]門下に入門<ref group="注釈">直接対局したのは1回香落ち3局だけ</ref>、兄弟子に[[芹沢博文]]がいた。翌1958年4月に[[奨励会]]に6級で入会し、13歳、中学2年で初段になる<ref group="注釈">谷川浩司、羽生善治も13歳で初段。</ref>。三段時代に[[山田道美]]主催の山田研究会<ref group="注釈">[[山田道美]]、[[関根茂]]、[[宮坂幸雄]]、[[富沢幹雄]]、'''中原誠'''</ref>に加入、芹沢の芹沢研究会にも加入する。
[[新進棋士奨励会|奨励会]]時代から将来を嘱望されていたが、プロ入り直前の関門である「三段から四段への壁(奨励会A組、現三段リーグ)」をなかなか乗り越えられずに<ref group="注釈">[[日本大学桜丘高等学校]]に在学していたため、両立にも苦しんだ。</ref>6期3年間も足踏みし、人間的にも苦悩したと語っている<ref group="注釈">漫画『[[実録シリーズ傑作選]]/若き王将』など、複数の書籍で読むことができる。</ref>。しかし、1965年秋18歳で[[桐山清澄]]を東西決定戦で破り、四段になってプロ入り後は、[[王座戦 (将棋)|王座]]戦で3戦目から11連勝し、その後[[順位戦]]において4年連続で昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。
1967年度後期、[[第11期棋聖戦 (将棋)|第11期棋聖戦]]で[[山田道美]]八段<ref group="注釈">中原は「山田研究会」の生徒でもあった。</ref>にタイトル初挑戦し、フルセットの末に敗退する。加藤と並んでの最年少挑戦記録として扱われた<ref group="注釈">当時加藤一二三が持っていた、タイトル挑戦の最年少記録の数日遅れであるが、当時は細かい差については気にされていなかった。</ref>。しかし半年後、1968年度前期の[[第12期棋聖戦 (将棋)|第12期棋聖戦]]では、強豪<ref group="注釈">2次予選で[[升田幸三]]九段、本戦1回戦で[[二上達也]]八段、準決勝で[[大山康晴]][[名人戦 (将棋)|名人]]([[王将戦|王将]]、[[十段戦 (将棋)|十段]]、[[王位戦 (将棋)|王位]]を含め四冠)、挑戦者決定戦で[[板谷進]]六段</ref>を連破して連続で山田に挑戦すると、3勝1敗で勝利し初のタイトル・棋聖位を獲得する。20歳でのタイトル獲得は、当時大山の持っていた27歳での九段獲得の最年少タイトル獲得の記録を更新する快挙であった。
その後、[[大山康晴]]、山田を相手に2期防衛して棋聖3連覇。だが、3度目の防衛戦で内藤国雄に敗れ棋聖を失い無冠となる。
=== 大山康晴に代わり第一人者へ ===
1970年度、[[十段戦 (将棋)|十段戦]]で大山を4-2のスコアで下し、大山の五冠独占の一角を崩す。さらに、直後の後期の第17期棋聖戦(中原3-大山0)でも大山をストレートで破り、初めて二冠となる。続く1971年度前期の第18期棋聖戦(中原3-大山1)で大山を相手に防衛に成功。これで棋聖位獲得通算5期となり、早くも永世称号の保持者となる(史上最年少記録)。この2つの年度は、タイトルホルダーが大山と中原の2名だけという、まさに二強時代であった。
1971年度、A級2年目の[[第26期順位戦]]でA級順位戦史上初めて全勝し名人挑戦権を得て<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20220401/k00/00m/040/122000c |title=中原誠十六世名人が振り返る 1972年、初挑戦の名人戦七番勝負 |access-date=2022-07-11 |publisher=毎日新聞社 |date=2022-04-02 |website=毎日新聞 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220620213308/https://mainichi.jp/articles/20220401/k00/00m/040/122000c |archive-date=2022-06-21}}</ref>、1972年の第31期[[名人戦 (将棋)|名人戦]][[番勝負|七番勝負]](中原4-大山3)で大山と戦う。フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である[[名人 (将棋)|名人位]]に初めて就く。この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。なお、この後、大山が名人位に復位することは二度となかった<ref group="注釈">大山は、この後も1974年度・第33期名人戦(中原4-大山3)と1986年度・第44期名人戦(中原4-大山1)と2度登場しており、いずれも中原への挑戦であったが、敗退している。</ref>。
=== ライバル達との対決 ===
1973年度からは、[[米長邦雄]]、[[加藤一二三]]、[[内藤國雄]]ら、[[大山康晴]]より若い、同じ世代の棋士達との戦いが主となる。特に、米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じた。
1973年、第14期[[王位戦 (将棋)|王位戦]](中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初めて四冠王となる。しかし、直後の十段戦で捲土重来を期す大山に奪取される。それから1年間、三冠を防衛した中原は、翌年(1974年度)に十段を奪還して四冠に返り咲く。以降、中原と大山は、それぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、
*四冠王([[名人戦 (将棋)|名人]]・[[十段戦 (将棋)|十段]]・[[王位戦 (将棋)|王位]]・[[王将戦|王将]]) = 中原
*[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]] = 大山
*[[棋王戦 (将棋)|棋王]](1975年度に新設) = 他の誰か
という構図が続き、中原は防衛戦で同世代のライバル達と当たる。[[大内延介]]と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、途中2勝3敗となり角番に追い込まれるも、第7局で大内必勝の局面での大内の悪手(107手目▲7一角)に助けられて[[持将棋]]に持ち込み、薄氷の逆転防衛をする。翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功して名人5連覇。[[名人_(将棋)#永世名人|'''永世名人''']]('''十六世名人''')の資格を得る。
1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の'''五冠王'''となる。残るタイトルは[[棋王]]のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で[[加藤一二三]]に挑戦したが、ストレートで敗れ、全六冠制覇はならなかった。
その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼らとのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となりタイトル数は漸減する。加藤一二三と対戦した、1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となったが、3勝4敗で名人位を明け渡す。名人連覇は9期で終わった。
=== 次世代との対決 ===
1980年代半ばごろからは、[[谷川浩司]]や[[55年組 (将棋)|55年組]]の[[高橋道雄]]、[[中村修 (棋士)|中村修]]、[[南芳一]]、[[塚田泰明]]らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数が三冠ないしは無冠となっていく。
1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。翌1986年の第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げたが、中原が防衛。二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となった。
1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となる。さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となる。しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である[[田中寅彦]]から棋聖を奪い、二冠に復帰。
1990年度、第48期名人戦(中原4-谷川2)で名人を谷川から奪還し、2度目の復位を達成するとともに三冠となる。しかし、前期/第56期棋聖戦(中原2-屋敷3)で[[屋敷伸之]]に棋聖位を奪われ、史上最年少タイトル記録達成を許す。さらに第38期王座戦(中原1-谷川3)では谷川に敗れ、名人位のみの一冠となる。
1992年度、第50期名人戦(中原4-高橋3)では高橋道雄の挑戦を受けたが、出だしで1勝3敗を喫してしまう。当時までは名人戦では3連勝で逆転した例はなかったが、そのジンクスを破って防衛した。しかしながら、得意であるはずの[[矢倉囲い|矢倉戦]]となった第1・2・4局ですべて負けたことは話題となった。
1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、[[米長邦雄]]と6度目の名人戦となったが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失う。同年度の王将戦では挑戦者となるが、谷川の前に敗れる(中原2-谷川4)。これが、中原にとって最後のタイトル戦登場となった。
1994年の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]で、米長との決勝を制して優勝。これが、最後の公式棋戦優勝であった(非公式棋戦では、[[富士通杯達人戦|達人戦]]において2001年-2002年の連続優勝を含め、4度優勝している)。
[[第58期順位戦|2000年度のA級順位戦]]は、2勝7敗の成績で陥落が決まる。これにより永世名人資格保持者がA級から陥落する史上初の事態となった(後に[[谷川浩司]]、[[森内俊之]]、羽生善治が記録)。A級陥落後はB級1組で2期だけ指した後、[[フリークラス]]宣言をし、フリークラスに転出した。永世名人資格者がB級1組で指すのもフリークラスで指すのも前例がないことであった<ref group="注釈">(永世名人ではないが)名人経験者がA級からの降級後も現役で指し続けた前例としては、[[塚田正夫]]と加藤一二三のB級1組、米長邦雄のフリークラス(B級1組への降級が決まったときにフリークラス宣言)があった。</ref>が、その後も2000年度の[[竜王戦]]1組優勝、2003年度の竜王戦挑戦者決定三番勝負進出、2004年の王位リーグ入り、2007年の棋聖戦での挑戦者決定トーナメント進出など、各棋戦の上位に顔を出すことがしばしばあった。
中原と羽生善治のタイトル戦の番勝負はついに実現しなかった。無冠となった後の1994年度前期の第64期棋聖戦では、谷川浩司との挑戦者決定戦に敗れ、羽生棋聖への挑戦権を逃した。同年度の[[第53期順位戦]]では7勝2敗の1位タイとなるも、[[森下卓]]とのプレーオフに破れ、羽生名人への挑戦権を逃した。1996年度の第22期棋王戦では、挑戦者決定二番勝負で森下卓に敗れ、羽生棋王への挑戦権を逃した。また、[[森内俊之]]と戦った2003年度竜王戦決定三番勝負にも1勝2敗で敗れた。結果として、これが羽生とのタイトル戦を実現する最後のチャンスであった。なお、一般棋戦の決勝で羽生と当たったのは、1988年度の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]のみである(羽生が名人経験者全4名を破って優勝し、話題となった)。
=== 引退 ===
[[2008年]][[8月12日]]、王将戦二次予選準決勝で、A級八段の[[木村一基]]に勝った後の感想戦の最中に身体に異変を起こし、病院に緊急搬送される。[[脳内出血]]と診断され、即、入院となった。その後、2009年3月31日まで休場することが発表された。この休場による最初の不戦敗の相手も木村一基であった<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2008/08/post_69.html 中原 誠十六世名人の不戦敗に関する件|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2008/09/post_72.html 中原 誠十六世名人の休場について|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。
その後、棋戦復帰を目指して[[リハビリテーション|リハビリ]]を続けていたが回復が思わしくなく、将棋に関わる活動ができないと判断して、[[2009年]][[3月31日]]をもっての引退届を日本将棋連盟に提出。連盟理事会はこれを受理したことを、[[3月11日]]に発表<ref name="retire">[https://www.shogi.or.jp/news/2009/03/post_91.html 中原誠十六世名人が引退へ|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。[[2016年]][[5月30日]]付『[[日本経済新聞]]』「[[私の履歴書]]」によると、入院中に[[大腸癌|大腸がん]]が見つかり、治療に専念するために引退を決断したとしている。
発表当日、中原本人の記者会見<ref>[http://sankei.jp.msn.com/culture/shogi/090311/shg0903111702001-n1.htm 将棋の中原誠16世永世名人が引退表明] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090314063240/http://sankei.jp.msn.com/culture/shogi/090311/shg0903111702001-n1.htm |date=2009年3月14日 }} [[産経新聞]] 2009年3月11日閲覧</ref>が行われた。左の手足に不自由を抱え、右手に杖を持って記者会見場に姿を現した中原であったが、元気そうに、淡々とした口調で「43年という長い期間、タイトル戦など多くの勝負の舞台を踏ませていただき、十分に勝負を堪能した。その点で悔いはない」と述べた。ただし、「悔いがあるとすれば(挑戦を逃した2003年の)竜王戦挑戦者決定戦。羽生さんと一度タイトル戦を戦ってみたかった」ともコメントしている<ref>[http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20090311102.html 中原誠十六世名人「羽生さんと戦いたかった」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090313040221/http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20090311102.html |date=2009年3月13日 }}</ref>。
休場中ではあるが、竜王戦1組在籍のままでの引退である<ref group="注釈">2017年度末現在、60歳代で竜王戦1組に在籍した経験がある棋士は、大山康晴と中原の2名のみである。</ref>。
引退後の活動について、「棋戦の解説、評論活動を行っていきたい」としている。日本将棋連盟は、多年にわたる中原誠の将棋への功績を評価し、2009年[[4月1日]]から70歳の誕生日を迎える[[2017年]]まで『名誉棋士会長』を委嘱した<ref name="retire" />。その後、3回目の役員変更となる2011年4月11日に辞退するまで務めた<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/04/post_400.html 「棋士会」役員変更のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。また2009年より、JR[[武蔵新城駅]]そばの「新城子供将棋教室」において、弟子の[[佐藤秀司]]と共に不定期にタイトル戦の大盤解説会を開いている。
== 棋風 ==
全盛期は本格派の[[将棋の戦法一覧#対抗型居飛車の戦法一覧|居飛車]]党で、「自然流」と称された(「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」[[原田泰夫]])。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴で、[[入玉]]も得意としていた<ref>[http://www.asahi.com/shougi/open24/honsen_17/03.html 第24回朝日オープン将棋選手権本戦第17局] 「『中原先生、入玉が好きだからなあ』。控室では[[真部一男]]八段や[[佐藤義則 (棋士)|佐藤義則]]八段らがテレビに映るこの将棋を見てあれこれ話していた。」</ref>。また、「桂使いの名手」と言われるほど[[桂馬]]の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多い。
対[[振り飛車]]戦の[[玉頭位取り]]に代表される様に、理想形を目指しそれを阻止しに来たところを咎める教科書通りの勝ち方が多かった。大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「[[振り飛車穴熊|穴熊]]破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破った。
1982年度の第40期名人戦で失冠してから[[棋風]]が変わり<ref>『将棋世界』2008年1月号 p.41</ref>、[[中原流相掛かり]]、[[横歩取り]][[中原囲い]]、[[阿久津流急戦矢倉|中原流急戦矢倉]]などの独創的な戦法を編み出した。
1992年度の高橋道雄との第50期名人戦において矢倉戦で1局も勝てずに失冠しかけたころからは、前述の相掛かり、横歩取り中原囲い、短期間ながら名人戦にも採用した中原飛車、後手矢倉において中原流急戦矢倉、対振飛車における6五歩戦法などを用いて勝率を保った。
1996年に中原流相掛かり・中原流横歩取り・中原囲いで[[升田幸三賞]]を受賞している。
名人戦では大悪手を二回指している(第31期名人戦第3局対大山戦での▲8五金の見落とし、第48期名人戦第2局対谷川戦の△2五桂打はタダで取られるのをうっかりした)。また第37期名人戦第4局では米長を相手に▲5七銀という歴史的妙手を指して勝っている。
引退前の数年間は「形勢楽観派」の代表的棋士とされ、対戦相手や控え室の棋士たちほとんどが「互角または中原不利」と考えている局面でも、局後の感想では「あの局面では自分が良かったと思う」と語ることが多かった。
== 人物・エピソード ==
===現役のまま永世称号を名乗る===
[[1994年]]、当時の肩書きであった「[[名人戦 (将棋)|前名人]]」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。その結果、十六世襲位は見送られたが、代わりに「永世十段」を名乗ることで落ち着いた。
2007年9月2日、還暦を迎えたことにより、規定により「名誉王座」も名乗る。
2007年11月17日([[将棋の日]])、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、[[森内俊之]]が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し本人が了承。前倒しで現役のまま襲位した<ref group="注釈">これ以前にも永世名人襲位の話が出ていたようだが、まだ名乗るには早いと判断して断ったと、『[[将棋世界]]』2008年1月号の中(インタビュー冒頭、38ページ)で明かしている</ref>。1993年に無冠となってから、実に14年後のことであった。
2008年4月1日、60歳となってからの新しい年度を迎えた際には新たに「永世棋聖」「永世王位」を名乗ることとなった。永世王位を名乗る棋士は中原が初めて。
なお、十六世名人襲位後の公式戦は、襲位翌年に病気休場で引退したため、16局8勝8敗(この他、休場不戦敗で5敗)に終わったが、名人在位者との対局は、2007年度が森内俊之名人、2008年度は羽生善治名人が各1局行われ、いずれも中原が十六世名人としての勝利を挙げている。
===会長として===
[[二上達也]]の後を受けて[[2003年]]より[[日本将棋連盟]]会長を1期務めたが、[[2005年]]会長職を[[米長邦雄]]に譲り、自らは副会長に就いた。[[2007年]]5月の[[日本将棋連盟#棋士総会|棋士総会]]において理事選挙に出馬せず、理事・副会長職を退任した。
===林葉直子邸「突入」録音テープ記者会見===
1994年から1998年の間に[[林葉直子]](元女流棋士)邸の留守番電話に「今から突入しまーす」「お前みたいなのは早く死んじまえ! [[後天性免疫不全症候群|エイズ]]にでも何でも早くかかっちゃえばいいんだよ!」などの本人の肉声が録音されたテープが1998年にテレビのワイドショーなどで公開された。中原は自宅の庭で記者会見に応じ、事実関係を認めた<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1476686823472/ exciteニュース「林葉直子と中原誠の不倫騒動 将棋界に炸裂した「文春砲」」近添真琴 2016年10月20日]</ref>。
===その他のエピソード===
* 四段から六段の時代、そのあまりの強さから「[[鉄腕アトム]]」のあだながついた<ref>[[奥山紅樹]]『前進できぬ駒はない!』(晩聲社)P.209</ref>。
* 負けず嫌いであり、素人相手に指す時でも決して手加減をしないと言われている。
* [[田中角栄]]が[[自民党総裁]]に出馬した際、「五五角」と扇子に揮毫(きごう)して贈ったことがある。
* 親友の棋士[[池田修一]]が三段の時に、肺結核を発症し故郷で治療のため長期離脱していたのだが、当時四段から五段で先にプロ棋士になっていた中原が入院中だった池田の生活費を毎月支援していた。<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2015/10/30/nakahara-8/ 将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」(将棋ペンクラブ 中原人情流)より] </ref>
* 趣味は[[囲碁]]と音楽鑑賞(クラシック音楽)、大リーグテレビ観戦。囲碁については2016年現在も将棋連盟の囲碁部に籍を置いている<ref>[https://www.shogi.or.jp/column/2016/10/igo.html 中原誠十六世名人も参加、将棋連盟囲碁部の活動に潜入] - 日本将棋連盟・2016年10月7日</ref>。2019年1月、アマ六段免状を贈呈される<ref>[https://hochi.news/articles/20190114-OHT1T50052.html 中原誠十六世名人、のめり込んだ囲碁の魅力「白黒ハッキリさせないのが難しさ」]スポーツ報知 2019年1月15日</ref>。
*クラシック音楽についてはプロ入り間もない頃に名曲喫茶に入り浸って以来の趣味で、将棋ファンであった[[山本直純]]とも交流があり、駒音コンサートで指揮棒を振ったこともある<ref>{{Cite web|和書|title=中原誠(24)駒音コンサート|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO02711610U6A520C1BC8000/|website=日本経済新聞|date=2016-05-25|accessdate=2022-01-13|language=ja}}</ref>。
* [[詰将棋]]創作も得意としており、名人に就位している間も自作の詰将棋を雑誌に寄稿したりしていた<ref group="注釈">中学の時出題した9手詰めは、[[塚田正夫]]が詰ませなかった。</ref>。
* [[月刊少年ジャンプ]]連載の実録シリーズにて「若き王将」のタイトルで取り上げられる。
* 少年時代のあだ名はマコロン。当時使っていた眼鏡が仙台銘菓「[[まころん]]」に似て、丸いものだったからとも。
== 弟子 ==
===棋士となった弟子===
{| class="wikitable"
|-
! 名前 !! 四段昇段日!!段位、主な活躍
|-
| [[小倉久史]] || 1988年10月1日
|八段
|-
| [[佐藤秀司]] || 1990年10月1日
|八段、一般棋戦優勝1回
|-
| [[高野秀行 (棋士)|高野秀行]] || 1998年4月1日
|六段
|-
| [[熊坂学]] || 2002年4月1日
|六段
|}
(2023年4月1日現在)
===女流棋士となった弟子===
{| class="wikitable"
|-
! 名前 !! 女流プロ入り日!!段位、主な活躍
|-
| [[甲斐智美]] || 2022年8月1日
|女流五段、女王1期、女流王位4期、倉敷藤花2期、一般棋戦優勝2回、A級在籍2期
|-
|}
(2023年7月3日現在)
== 昇段履歴 ==
* 1958年 : 6級([[奨励会]]入会)
* 1961年 : 初段
* 1965年10月{{0}}1日 : 四段(関東奨励会三段優勝、東西決戦で[[桐山清澄]]に勝利)=プロ入り
* 1967年{{0}}4月{{0}}1日 : 五段([[順位戦]]C級1組昇級)
* 1968年{{0}}4月{{0}}1日 : 六段(順位戦B級2組昇級)
* 1969年{{0}}4月{{0}}1日 : 七段(順位戦B級1組昇級)
* 1970年{{0}}4月{{0}}1日 : 八段(順位戦A級昇級)
* 1973年11月{{0}}3日 : 九段(九段昇段規定30点)<ref group="注釈">九段昇段時は名人在位中であり、その後はタイトル称号・前名人・永世十段・永世名人などで呼称されており、「中原誠九段」と呼称されたことは一度もない。</ref>
* [[2009年]]{{0}}[[3月31日]] : 引退
== 主な成績 ==
;通算成績
:対局数2093(タイトル戦の[[持将棋]]3局を含む)
:1308勝782敗 勝率0.6258
===タイトル・永世称号===
登場・連覇の{{Color box|white|'''太字'''}}は歴代最多記録。
詳細は下の[[#年表|年表]]を参照。他の棋士との比較は、[[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|タイトル獲得記録]]、[[将棋のタイトル在位者一覧]]を参照
{| border="1" class="wikitable" style="text-align:center;"
|- style="background-color: #ccf;"
|'''タイトル'''
|獲得年度
|登場
|'''獲得期数'''
|連覇
|永世称号(備考)
|-
|'''[[竜王戦|竜王]]'''
|-
|<!--登場-->0
|<!--獲得-->-
|<!--連覇-->-
|
|-
|'''[[名人戦 (将棋)|名人]]'''
|style="text-align:left;"|1972-1981, 1985-1987, <br/>1990-1992<ref>1977年度は未開催</ref>
|<!--登場-->18
|<!--獲得-->'''15期'''<br/>(歴代2位)
|<!--連覇-->9<br/>(歴代2位)
|style="text-align:left;"|[[名人 (将棋)|十六世名人]]<br/>[[2007年]][[11月17日]]襲位
|-
|'''[[王位戦 (将棋)|王位]]'''
|style="text-align:left;"|1973-1978, 1980-1981
|<!--登場-->11
|<!--獲得-->'''8期'''
|<!--連覇-->6
|style="text-align:left;"|永世王位<br/>[[2008年]][[4月1日]]襲位
|-
|'''[[王座戦 (将棋)|王座]]'''
|style="text-align:left;"|1983-1986, 1988-1989<br/>(一般棋戦時代の優勝10回)
|<!--登場-->8
|<!--獲得-->'''6期'''<br/>(歴代2位)
|<!--連覇-->4<br/>(歴代2位タイ)
|style="text-align:left;"|名誉王座<br/>[[2007年]][[9月2日]]襲位
|-
|'''[[棋王戦 (将棋)|棋王]]'''
|style="text-align:left;"|1979
|<!--登場-->3
|<!--獲得-->'''1期'''
|<!--連覇-->1
|<!--永世称号--->
|-
|'''[[王将戦|王将]]'''
|style="text-align:left;"|1972-1977, 1984
|<!--登場-->13
|<!--獲得-->'''7期'''
|<!--連覇-->6
|
|-
|-
|'''[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]'''
|style="text-align:left;"|1968前-1969前, <br/>1970後-1972前,<br/>1977後-1979後, 1982後, <br/>1988後-1989後
|<!--登場-->23
|<!--獲得-->'''16期'''<br/>(歴代1位タイ)
|<!--連覇-->5
|style="text-align:left;"|永世棋聖<br/>2008年4月1日襲位
|- style="background-color: #ccf;"
|'''旧タイトル'''
|獲得年度
|登場
|'''獲得期数'''
|連覇
|永世称号(備考)
|-
|'''[[十段戦 (将棋)|十段]]'''
|style="text-align:left;"|1970-1972, 1974-1979, <br/>1982-1983
|<!--登場-->'''15'''
|<!--獲得-->'''11期'''<br/>(歴代1位)
|<!--連覇-->'''6'''<br/>(歴代1位タイ)
|style="text-align:left;"|永世十段<br/>[[1994年]][[4月1日]]襲位
|-
|colspan="6"|登場回数合計91、獲得合計'''64期'''([[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|歴代3位]])、7タイトル'''生涯[[グランドスラム]]達成'''(旧十段戦含む)
|}
{|
|{{将棋タイトル獲得記録}}
|}
===一般棋戦優勝===
通算28回(歴代3位)
* [[王座戦 (将棋)|王座戦]](一般棋戦時代) - 10回(1969-1974・1976-1979年度)
* [[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]] - 6回(1974・1977・1982・1987・1992・1994回年度)
* [[早指し将棋選手権]] - 3回(1972後期・1973後期・1985年度)
* [[JT将棋日本シリーズ|日本シリーズ]] - 1回(1981年度)
* [[オールスター勝ち抜き戦]](5勝以上) - 3回(1984・1987-1988回年度)
* 将棋連盟杯争奪戦 - 1回(第3回)
* 古豪新鋭戦 - 1回(第11回)
* 最強者決定戦 - 1回(第11回)
* 名将戦 - 2回(第1・2期)
=== 将棋大賞 ===
*[[将棋大賞]]は、最優秀棋士賞5回、升田幸三賞1回(「中原流横歩取り」、「中原囲い」の戦法を編み出したことによる)など。
=== 在籍クラス ===
第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあった。1年のブランクの後、主催が[[朝日新聞社]]から[[毎日新聞社]]に代わった第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31-35期の順位戦は存在しない。つまり、中原のA級以上在籍は29期連続である。なお、第30期と第36期は、名人9連覇の途中に当たる。
* [[竜王戦]] 1組在籍通算18期(第1-9, 13-15, 17-22期)(第1期本戦シード、第22期休場を含む)
* [[順位戦]] A級以上 29期連続(30年連続)、通算29期(第25-30…36-58期)
{{将棋棋士年別在籍クラスA}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1965|JJ=20|j=#|#=昇段前|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1966|JJ=21|j=C2|#=11|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1967|JJ=22|j=C1|#=11|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1968|JJ=23|j=B2|#=13|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1969|JJ=24|j=B1|#=14|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1970|JJ=25|j=A|#=10|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1971|JJ=26|j=A|#=06|CJ=1|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1972|JJ=27|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1973|JJ=28|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1974|JJ=29|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1975|JJ=30|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976 |JJ=|j=#|#=第31-35期の順位戦は実施省略|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=36|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1978|JJ=37|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1979|JJ=38|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1980|JJ=39|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1981|JJ=40|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1982|JJ=41|j=A|#=01|RR=|r=|##=}}
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{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1984|JJ=43|j=A|#=05|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1985|JJ=44|j=名人|#=05|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1986|JJ=45|j=名人|#=|RR=|r=##|##=棋戦創設前}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1987|JJ=46|j=名人|#=|RR=1|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1988|JJ=47|j=A|#=01|RR=2|r=1|w=1}}
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{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2000|JJ=59|j=B1|#=02|RR=14|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2001|JJ=60|j=B1|#=07|RR=15|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2002|JJ=61|j=F宣|#=|RR=16|r=2}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2003|JJ=62|j=F宣|#=|RR=17|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2004|JJ=63|j=F宣|#=|RR=18|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2005|JJ=64|j=F宣|#=|RR=19|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2006|JJ=65|j=F宣|#=|RR=20|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2007|JJ=66|j=F宣|#=|RR=21|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2008|JJ=67|j=F宣|#=|RR=22|r=##|##=休場のち引退/2009年3月31日付}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2009|JJ= |j=#|#=2009年3月31日付で引退|RR= |r= |}}
{{将棋棋士年別在籍クラスZ}}
=== 記録(歴代1位のもの) ===
* [[棋聖 (将棋)|棋聖]]位在位 - 16期(大山康晴・羽生善治と並び、1位タイ)
* [[棋聖 (将棋)|棋聖戦]]トーナメント16強以上<ref>66~80期はリーグ進出、それ以外は決勝T進出。</ref> - 71期([[第8期棋聖戦_(将棋)|第8期]]と[[第9期棋聖戦_(将棋)|第9期]]、および[[第11期棋聖戦_(将棋)|第11期]]から[[第79期棋聖戦_(将棋)|第79期]]までの'''69期連続'''<ref>棋聖戦は[[第65期棋聖戦_(将棋)|第65期]]までは年2期開催であり、この連続記録は中原が五段時代の20歳から引退前の61歳まで40年余りに渡って続いた記録である。</ref>が該当)
* 年度最高勝率 - .855(47勝8敗)([[1967年]]度)
* 最年少[[棋戦 (将棋)#永世称号|永世称号]]資格獲得 - 23歳11か月(永世棋聖)
* 最年少実力制[[名人戦 (将棋)#永世名人|永世名人]]資格獲得 - 28歳9か月
* [[順位戦|順位戦A級]]全勝 - [[1971年]](この年は休場者がいたため8戦。他に森内俊之、羽生善治、渡辺明が9戦全勝を達成している)
* 年度勝率7割超 - 10年連続
その他、大山康晴以来史上2人目の1300勝を達成している(2007年9月27日)。
=== 主な対戦相手との勝敗 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!対戦相手!!対局!!勝!!敗!!タイトル戦
|-
|[[塚田正夫]]||{{00}}4||{{00}}4||{{00}}0||
|-
|[[升田幸三]]||{{0}}12||{{00}}9||{{00}}3||
|-
|[[大山康晴]]||162||107||{{0}}55||獲得16 敗退{{0}}4
|-
|[[二上達也]]||{{0}}42||{{0}}29||{{0}}13||獲得{{0}}2 敗退{{0}}1
|-
|[[山田道美]]||{{0}}22||{{0}}15||{{00}}7||獲得{{0}}2 敗退{{0}}1
|-
|[[加藤一二三]]||109||{{0}}67||{{0}}41||獲得{{0}}5 敗退{{0}}4
|-
|[[有吉道夫]]||{{0}}58||{{0}}41||{{0}}17||獲得{{0}}3 敗退{{0}}1
|-
|[[内藤國雄]]||{{0}}71||{{0}}47||{{0}}24||獲得{{0}}4 敗退{{0}}2
|-
|[[米長邦雄]]||187||106||{{0}}80||獲得14 敗退{{0}}6
|-
|[[大内延介]]||{{0}}43||{{0}}28||{{0}}14||獲得{{0}}1 敗退{{0}}0
|-
|[[桐山清澄]]||{{0}}51||{{0}}34||{{0}}17||獲得{{0}}3 敗退{{0}}0
|-
|[[勝浦修]]||{{0}}35||{{0}}26||{{00}}9||獲得{{0}}1 敗退{{0}}0
|-
|[[森安秀光]]||{{0}}38||{{0}}22||{{0}}16||獲得{{0}}1 敗退{{0}}1
|-
|[[森雞二]]||{{0}}42||{{0}}30||{{0}}12||獲得{{0}}2 敗退{{0}}0
|-
|[[淡路仁茂]]||{{0}}13||{{0}}11||{{00}}2||獲得{{0}}1 敗退{{0}}0
|-
|[[青野照市]]||{{0}}36||{{0}}27||{{00}}9||獲得{{0}}1 敗退{{0}}0
|-
|[[田中寅彦]]||{{0}}23||{{0}}12||{{0}}11||獲得{{0}}1 敗退{{0}}0
|-
|[[谷川浩司]]||{{0}}98||{{0}}42||{{0}}56||獲得{{0}}3 敗退{{0}}3
|-
|[[高橋道雄]]||{{0}}45||{{0}}30||{{0}}15||獲得{{0}}1 敗退{{0}}0
|-
|[[中村修 (棋士)|中村修]]||{{0}}30||{{0}}15||{{0}}15||獲得{{0}}0 敗退{{0}}2
|-
|[[島朗]]||{{0}}32||{{0}}16||{{0}}16||
|-
|[[南芳一]]||{{0}}26||{{0}}12||{{0}}14||獲得{{0}}1 敗退{{0}}0
|-
|[[塚田泰明]]||{{0}}32||{{0}}21||{{0}}11||獲得{{0}}1 敗退{{0}}1
|-
|[[森下卓]]||{{0}}30||{{0}}13||{{0}}17||
|-
|[[羽生善治]]||{{0}}29||{{0}}10||{{0}}19||
|-
|[[佐藤康光]]||{{0}}29||{{0}}12||{{0}}17||
|-
|[[森内俊之]]||{{0}}35||{{0}}17||{{0}}18||
|-
|[[屋敷伸之]]||{{0}}21||{{0}}11||{{0}}10||獲得{{0}}1 敗退{{0}}1
|-
|[[丸山忠久]]||{{0}}22||{{00}}7||{{0}}15||
|-
|[[郷田真隆]]||{{0}}31||{{00}}6||{{0}}25||
|-
|[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]||{{00}}4||{{00}}1||{{00}}3||
|}
※加藤、米長、大内との対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。
※米長との187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録
== その他表彰 ==
* [[1972年]] 第1回[[川崎市]]文化賞
* [[1981年]] [[将棋栄誉賞]](通算600勝達成)
* [[1985年]] [[塩竈市]]民栄誉賞
* [[1986年]] [[将棋栄誉敢闘賞]](通算800勝達成)
* [[1990年]] 現役勤続25年
* [[1992年]] [[特別将棋栄誉賞]](通算1000勝達成)
* [[1999年]] 通算1200勝達成
* [[2004年]] 鳥取県鹿野町名誉町民
* [[2005年]] 現役勤続40年
* [[2008年]] [[紫綬褒章]]受章<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2008/04/post_53.html 中原 誠十六世名人が紫綬褒章を受章|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>
{{:中原誠の戦績}}
== 著書 ==
十六世名人でかつ日本将棋連盟会長であったこともあり、著書は大変多い。入門書も多く著述している。ここでは一例を挙げる。
*『決断の一手!』日本将棋連盟、2008年7月、ISBN 978-4-8197-0010-8
*『将棋脳—これであなたの脳はよみがえる』[[サンマーク出版]]、2006年10月、ISBN 978-4-7631-9671-2
*『実践型詰め将棋 三手・五手・七手詰め』[[日東書院]]、2006年8月、ISBN 978-4-528-01512-8
*『中原誠の解いてごらんよ詰将棋』[[フローラル出版]]、2001年12月、ISBN 4-930831-38-5
*『自然流中原誠の実践名勝負』[[東京書店]]、1999年10月、ISBN 978-4-88574-427-3
*『自然流 中原誠の振飛車破り』東京書店、1999年5月、ISBN 978-4-88574-426-6
*『横歩取り中原流—必殺陣第二弾!』日本将棋連盟、1995年4月、ISBN 978-4-8197-0322-2
*『中原流振り飛車破り』池田書店、1994年11月、ISBN 978-4-262-10118-7
*『中原流急戦将棋』池田書店、1994年7月、ISBN 4-262-10117-7
*『中原流相がかり—必殺の5九金型』、日本将棋連盟、1994年3月、ISBN 978-4-8197-0319-2
*『居飛車穴熊 3度将棋が強くなる』[[大泉書店]]、1987年10月、ISBN 978-4-278-08119-0
*『急戦腰掛銀 3度将棋が強くなる』大泉書店、1987年8月、ISBN 978-4-278-08118-3
*『中原誠自然流名人戦激闘譜』、[[池田書店]]、1987年4月、ISBN 978-4-262-10114-9
*『急戦矢倉 3度将棋が強くなる』大泉書店、1987年2月、ISBN 978-4-278-08117-6
*『必殺美濃破り 3度将棋が強くなる』大泉書店、1986年8月、ISBN 978-4-278-08116-9
*『必殺穴熊破り 3度将棋が強くなる』大泉書店、1986年2月、ISBN 978-4-278-08115-2
*『中原の必勝やぐら中飛車』池田書店、1985年8月、ISBN 978-4-262-10213-9
*『矢倉戦 3度将棋が強くなる』大泉書店、1985年4月、ISBN 978-4-278-08114-5
*『棒銀戦 3度将棋が強くなる』大泉書店、1985年2月、ISBN 978-4-278-08113-8
*『ひねり飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年12月、ISBN 978-4-278-08112-1
*『中原の必勝左美濃—対四間飛車』、池田書店、1984年11月、ISBN 978-4-262-10212-2
*『中飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年8月、ISBN 978-4-278-08111-4
*『中原攻めの実戦集—大山十五世名人との対振飛車戦15局』[[永岡書店]]、1984年5月、ISBN 978-4-522-01570-4
*『四間飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年1月、ISBN 978-4-278-08110-7
*『中原のやぐら教室』池田書店、1983年11月、ISBN 4-262-10211-4
*『矢倉戦法II』[[筑摩書房]]、1983年6月、ISBN 4-480-69802-7
*『矢倉戦法I』筑摩書房、1983年3月、ISBN 4-480-69801-9
*『中原の四間飛車で勝つ』 池田書店、1982年2月、ISBN 978-4-262-10209-2
*『中原の中飛車教室』 池田書店、1980年10月、ISBN 4-262-10208-4
*『中原の駒別次の一手《歩・香・桂》』 池田書店、1978年4月、ISBN 4-262-10206-8
*『中原の寄せと詰め』池田書店、1977年3月、ISBN 978-4-262-10205-4
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
*[[名人 (将棋)]]
*[[将棋棋士一覧]]
*[[棋戦 (将棋)]]
*[[将棋のタイトル在位者一覧]]
== 外部リンク ==
*[https://www.shogi.or.jp/player/pro/92.html 中原誠|棋士データベース|日本将棋連盟]
{{将棋永世名人|十六世}}
{{日本将棋連盟会長|2003-04}}
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行政行為
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行政行為(ぎょうせいこうい)とは、日本の行政法学で用いられる概念であり、行政の活動のうち、行政目的を実現するために法律によって認められた権能に基づいて、一方的に国民の権利義務その他の法律的地位を具体的に決定する行為をさす。行政庁の処分(行政事件訴訟法3条2項)とほぼ同義で用いられる処分の中核をなす。
私人に対して行政作用として法律行為をなす機関を行政庁という。行政庁の例としては各省庁の大臣・長官、地方公共団体の首長、各種の委員会などがある。
行政行為の定義は様々だが、上記のような「官庁が一方的に国民の具体的な権利義務を決定する」という要素を含む。講学上の行政行為を行政処分という場合もあるが、通例「処分」とは行政事件訴訟法などの制定法で用いられる概念である。しかし両者は重なることもある。
最高裁判所は「行政庁の処分」(行政事件訴訟特例法1条〈現在の行政事件訴訟法3条2項〉)を、「行政庁の処分とは行政庁の法令に基づく行為のすべてを意味するものではなく、公権力の主体たる国または公共団体が行う行為のうち、その行為によつて、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているもの」と定義している(最高裁判決昭和39年10月29日民集18巻8号1809頁)。
前述のように行政行為は「官庁が一方的に国民の具体的な権利義務を決定する」必要がある。
「一方的」とは行政庁が国民との合意なしに法的に拘束することを意味する。そのため、行政契約は行政行為ではない。
行政行為は「具体的」に決定する必要がある。そのため、行政立法(政令・省令・規則・条例など)は、具体的場合に直接国民の権利義務を変動させるものではないので、原則的に行政行為ではない。
そして、特定人の「権利義務」に法的効果を及ぼさない行為も行政行為ではない。例えば、行政計画や諮問機関の答申などのなかには国民の権利義務に変動をもたらさないものもあり、それらは行政行為ではない。行政指導も国民への任意的協力要請であるため、原則的に行政行為ではない。
行政行為には、公定力・不可争力・自力執行力といった効力が実体的に備わると説かれてきた。しかし、現在の日本では、これらの効力は、行政事件訴訟法や個々の授権法規(行政行為をする権限を行政機関に与える法令)が定められた帰結として導かれるにすぎないするのが通説である。
田中二郎は、民法の法律行為と準法律行為の区別に倣い、意思表示を要素とする法律行為的行政行為と意思表示以外の精神作用の発現を要素とする準法律行為的行政行為とに行政行為を大別しており、これが系統的・伝統的分類となっている。この論においては、法律行為的行政行為には裁量権があるのに対し、準法律行為的行政行為は法律の定めに基づいて法的な効果が発生することから裁量の余地がないものとされた。
ただし、実際にはこの分類では適切に説明できない行政行為も存在しており、特に準法律行為的行政行為の設定については今日では疑問が提起されている。
包括的な分類論としては完全に置き換わっていないものの、次の分類法が主流になりつつある。
行政行為の公定力とは、行政行為が違法であっても、権限ある機関(官庁または裁判所)が取り消さない限り、有効なものとして取扱われるという効力である。
日本では現行法に公定力を明示する規定はないものの、違法な行政行為の取消手続として行政不服申立・取消訴訟が救済ルールとして存在する。したがって、行政行為の違法性についてはこれらの制度以外の手段によって争うことができず、公定力はその制度の反映にすぎないとされている。
自力執行力(執行力)とは、行政行為の相手方がその行政行為によって課された義務を任意に履行しないときに、官庁が行政行為を司法的執行をへずに義務履行を強制的に実現できる(行政上の強制執行)効力である。
不可争力は、一定の期間(出訴期間)を徒過すると行政行為の効力を私人が裁判によって争えなくなる効力をさす。
私人の側からは行政行為の効力を争えなくなったというだけであって、行政庁などが職権によって取消すことは依然として可能である。
不可変更力とは、行政上の不服申立てに対する決定・紛争を裁断する行政行為(裁決など)について職権取消しが制限される効力である。明文の規定はない学説・判例上の効力である。法律上の争訟を裁判することを本質とする裁決(行政行為)は他の一般的な行政行為とは異なり裁決をした行政庁自ら取り消すことはできないと判示した最高裁判決がある。
「瑕疵#行政行為の瑕疵」も参照。
行政行為は、合法で公益に適合していなければならない。しかし、中には実体的・手続的に法律・公益に反する欠陥を抱えた行政行為もある。この欠陥のことを瑕疵といい、そうした行政行為のことを瑕疵ある行政行為という。
瑕疵ある行政行為は取消しの対象となるが、瑕疵の種類によってその方法が限定される。
瑕疵ある行政行為には、その程度に応じて、違法な行政行為と不当な行政行為がある。
裁量の逸脱や濫用があるかどうかは、その行政行為がそれを根拠づける規定の目的にしたがって行われたかなどにより判断される。また、不合理な別異取扱いを禁じる平等原則や、手段を目的に照らし必要最小限のものにすることなどを内容とする比例原則といった一般的な法原則も考慮される。
ある実体法上瑕疵のない行政行為について、手続法上の瑕疵がある場合、取り消す意味があるか否かという問題がある。かつての判例においては、取り消して再度の手続きを行なっても、元と結果の変わらない処分となると見込まれる場合には取り消さない傾向があった。しかしながら、行政手続法制定後は、同法違反としての独自の違法事由を認める見解が有力だろう。
複数の行政行為が行われ、先行する行政行為が後行する行政行為の前提となっている事がある。このような構造になっている場面で、先行行為に瑕疵があった場合、先行行為の瑕疵が後行行為の瑕疵の有無に効果を与えることがある。
ただし、先行行為の瑕疵の程度が「取消しうべき瑕疵」に留まる場合、瑕疵が存在していたとしても、公定力により、先行行為は取り消されない限り有効なものとして扱われる。そして先行行為の出訴期間が過ぎれば、先行行為の効力には不可争力が発生する。このように先行行為が有効なものとして扱われる時に後行行為の瑕疵の有無を争う場合、先行行為の瑕疵を理由として後行行為の瑕疵を主張する、つまり、先行行為の違法性を後行行為の違法性を争う場面で主張することが問題となる。先行行為の瑕疵が「取消しうべき瑕疵」に留まる場合に発生するこの問題を一般に「違法性の承継」の問題と呼ぶ。
先行行為と後行行為が一連の手続であること、先行行為を争う手続的保障が十分に与えられていないことなどを理由として、違法性の承継を認めた判例も存在する。
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"text": "不可変更力とは、行政上の不服申立てに対する決定・紛争を裁断する行政行為(裁決など)について職権取消しが制限される効力である。明文の規定はない学説・判例上の効力である。法律上の争訟を裁判することを本質とする裁決(行政行為)は他の一般的な行政行為とは異なり裁決をした行政庁自ら取り消すことはできないと判示した最高裁判決がある。",
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"text": "行政行為は、合法で公益に適合していなければならない。しかし、中には実体的・手続的に法律・公益に反する欠陥を抱えた行政行為もある。この欠陥のことを瑕疵といい、そうした行政行為のことを瑕疵ある行政行為という。",
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"text": "瑕疵ある行政行為には、その程度に応じて、違法な行政行為と不当な行政行為がある。",
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"text": "裁量の逸脱や濫用があるかどうかは、その行政行為がそれを根拠づける規定の目的にしたがって行われたかなどにより判断される。また、不合理な別異取扱いを禁じる平等原則や、手段を目的に照らし必要最小限のものにすることなどを内容とする比例原則といった一般的な法原則も考慮される。",
"title": "瑕疵ある行政行為"
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"text": "ある実体法上瑕疵のない行政行為について、手続法上の瑕疵がある場合、取り消す意味があるか否かという問題がある。かつての判例においては、取り消して再度の手続きを行なっても、元と結果の変わらない処分となると見込まれる場合には取り消さない傾向があった。しかしながら、行政手続法制定後は、同法違反としての独自の違法事由を認める見解が有力だろう。",
"title": "瑕疵ある行政行為"
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"text": "複数の行政行為が行われ、先行する行政行為が後行する行政行為の前提となっている事がある。このような構造になっている場面で、先行行為に瑕疵があった場合、先行行為の瑕疵が後行行為の瑕疵の有無に効果を与えることがある。",
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"text": "ただし、先行行為の瑕疵の程度が「取消しうべき瑕疵」に留まる場合、瑕疵が存在していたとしても、公定力により、先行行為は取り消されない限り有効なものとして扱われる。そして先行行為の出訴期間が過ぎれば、先行行為の効力には不可争力が発生する。このように先行行為が有効なものとして扱われる時に後行行為の瑕疵の有無を争う場合、先行行為の瑕疵を理由として後行行為の瑕疵を主張する、つまり、先行行為の違法性を後行行為の違法性を争う場面で主張することが問題となる。先行行為の瑕疵が「取消しうべき瑕疵」に留まる場合に発生するこの問題を一般に「違法性の承継」の問題と呼ぶ。",
"title": "瑕疵ある行政行為"
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"text": "先行行為と後行行為が一連の手続であること、先行行為を争う手続的保障が十分に与えられていないことなどを理由として、違法性の承継を認めた判例も存在する。",
"title": "瑕疵ある行政行為"
}
] |
行政行為(ぎょうせいこうい)とは、日本の行政法学で用いられる概念であり、行政の活動のうち、行政目的を実現するために法律によって認められた権能に基づいて、一方的に国民の権利義務その他の法律的地位を具体的に決定する行為をさす。行政庁の処分(行政事件訴訟法3条2項)とほぼ同義で用いられる処分の中核をなす。 私人に対して行政作用として法律行為をなす機関を行政庁という。行政庁の例としては各省庁の大臣・長官、地方公共団体の首長、各種の委員会などがある。
|
{{出典の明記|date=2023年2月}}
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'''行政行為'''(ぎょうせいこうい)とは、日本の[[行政法]]学で用いられる概念であり、行政の活動のうち、行政目的を実現するために[[法律]]によって認められた権能に基づいて、一方的に国民の権利義務その他の法律的地位を具体的に決定する行為をさす<ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=行政行為 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2022-04-17}}</ref><ref name="harada135">{{harvnb|原田|2012|p=135}}</ref>。[[行政機関#講学上の行政機関概念|行政庁]]の処分([[b:行政事件訴訟法第3条|行政事件訴訟法3条]]2項)とほぼ同義で用いられる'''処分'''の中核をなす<ref name = shiono1>{{ harvnb | 塩野 | 2013 | page = 112 }}</ref>。
私人に対して行政作用として[[法律行為]]をなす[[行政機関|機関]]を'''[[行政機関#講学上の行政機関概念|行政庁]]'''という。行政庁の例としては各省庁の[[大臣]]・[[長官]]、[[地方公共団体]]の[[首長]]、各種の[[行政委員会]]などがある。
== 定義 ==
行政行為の定義は様々だが、上記のような「官庁が一方的に国民の具体的な権利義務を決定する」という要素を含む。講学上の行政行為を'''行政処分'''という場合もあるが、通例「処分」とは[[行政事件訴訟法]]などの制定法で用いられる概念である。しかし両者は重なることもある。
[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は「行政庁の処分」(行政事件訴訟特例法1条〈現在の行政事件訴訟法3条2項〉)を、「行政庁の処分とは行政庁の法令に基づく行為のすべてを意味するものではなく、公権力の主体たる国または公共団体が行う行為のうち、その行為によつて、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているもの」と定義している(最高裁判決昭和39年10月29日民集18巻8号1809頁)。
=== 行政行為でないもの ===
前述のように行政行為は「官庁が'''一方的'''に国民の'''具体的'''な'''権利義務'''を決定する」必要がある。
「一方的」とは行政庁が国民との合意なしに法的に拘束することを意味する。そのため、[[行政契約]]は行政行為ではない。
行政行為は「具体的」に決定する必要がある。そのため、[[行政立法]]([[政令]]・[[省令]]・[[規則]]・[[条例]]など)は、具体的場合に直接国民の権利義務を変動させるものではないので、原則的に行政行為ではない<ref name=":0" /><ref>{{harvnb|原田|2012|pp=136-138}}</ref>。
そして、特定人の「権利義務」に法的効果を及ぼさない行為も行政行為ではない。例えば、[[行政計画]]や[[諮問機関]]の答申などのなかには国民の権利義務に変動をもたらさないものもあり、それらは行政行為ではない。[[行政指導]]も国民への任意的協力要請であるため、原則的に行政行為ではない。
== 意義 ==
行政行為には、公定力・不可争力・自力執行力といった効力が実体的に備わると説かれてきた。しかし、現在の日本では、これらの効力は、行政事件訴訟法や個々の授権法規(行政行為をする権限を行政機関に与える法令)が定められた帰結として導かれるにすぎないするのが通説である。
== 種類 ==
=== 伝統的な分類法 ===
[[画像:Verwaltungsakt.png|thumb|伝統的通説による行政行為の分類]]
[[田中二郎]]は、民法の法律行為と準法律行為の区別に倣い、意思表示を要素とする'''法律行為的行政行為'''と意思表示以外の精神作用の発現{{efn|判断・認識・観念など<ref name=":0" />。}}を要素とする'''準法律行為的行政行為'''とに行政行為を大別しており、これが系統的・伝統的分類となっている<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=宋一品|year=2009|title=行政行為の区分-許可について-|url=http://www.kiu.ac.jp/academicpursuits/memoir/housei_11/|journal=九州国際大学法政論集|volume=11|pages=155-196}}</ref>。この論においては、法律行為的行政行為には[[行政裁量|裁量権]]があるのに対し、準法律行為的行政行為は法律の定めに基づいて法的な効果が発生することから裁量の余地がないものとされた<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yuhikaku.co.jp/static_files/hougaku/pdf/491_hokou.pdf |title=「第5回 行政行為の瑕疵」補講 |access-date=2022-04-20 |publisher=有斐閣 |author=渡井理佳子}}</ref>。
* 法律行為的行政行為
** 命令的行為(人の自然の自由の制限またはその制限の解除を目的とする<ref name=":0" />)
***下命(及び[[禁止]])・[[許可]]・[[免除]]
** 形成的行為(人が自然には有しない権利等を付与・剥奪する<ref name=":0" />)
***[[特許 (行政法)|特許]]{{efn|[[特許法]]における特許権の付与行為である「[[特許]]」とは異なる。この「特許」は、確認の行政行為にあたる。}}・[[認可]]・[[代理]]
* 準法律行為的行政行為
**確認・公証・通知・受理
ただし、実際にはこの分類では適切に説明できない行政行為も存在しており、特に準法律行為的行政行為の設定については今日では疑問が提起されている<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=第7回:行政処分の概念 |url=http://www.jura.niigata-u.ac.jp/~ishizaki/ls2013/13verw.html |website=www.jura.niigata-u.ac.jp |access-date=2022-04-17 |publisher=新潟大学法科大学院 |author=石崎誠也 |authorlink=石崎誠也 |work=2013年度行政法レジュメ}}</ref>。
=== 最近の通説的な分類法 ===
包括的な分類論としては完全に置き換わっていないものの<ref name=":1" />、次の分類法が主流になりつつある<ref name=":2" />。
* '''命令的行為'''(下命・禁止)
* '''形成的行為'''(<u>許可</u>・特許・認可・剥権etc.)
* '''確定的行為'''(確認・公証・裁決etc.)
== 効力 ==
=== 公定力 ===
{{Main|公定力}}
行政行為の'''公定力'''とは、行政行為が違法であっても、権限ある機関(官庁または裁判所)が取り消さない限り、有効なものとして取扱われるという効力である<ref name=":0" />。
日本では現行法に公定力を明示する規定はないものの、違法な行政行為の取消手続として[[行政不服申立]]・[[取消訴訟]]が救済ルールとして存在する。したがって、行政行為の違法性についてはこれらの制度以外の手段によって争うことができず、公定力はその制度の反映にすぎないとされている<ref name=":0" />。
==== 機能 ====
; 紛争処理の単純化機能
: 行政行為に関する争いについて、原因行為の前後の実体法上の権利義務に引きなおして請求するのでなく、単純に行政行為の違法性を主張し取消しを求めればよく、紛争処理が単純化できる。
; 紛争解決の合理性担保機能
: 取消訴訟において行政主体を当事者とすることで訴訟資料が豊富になり、審理の充実を図ることができる。
; 他の制度の効果との結合機能
: 取消訴訟に出訴期間制限や不服申立前置などの別の効果を結合させることができる。
=== 自力執行力 ===
'''自力執行力'''('''執行力''')とは、行政行為の相手方がその行政行為によって課された義務を任意に履行しないときに、官庁が行政行為を司法的執行をへずに義務履行を強制的に実現できる(行政上の強制執行)効力である。
=== 不可争力 ===
'''不可争力'''は、一定の期間('''出訴期間''')を徒過すると行政行為の効力を私人が裁判によって争えなくなる効力をさす。
私人の側からは行政行為の効力を争えなくなったというだけであって、行政庁などが職権によって取消すことは依然として可能である。
; 出訴期間
: 処分があったことを知った日から6ヵ月。処分があった日から1年。
=== 不可変更力 ===
'''不可変更力'''とは、行政上の不服申立てに対する決定・紛争を裁断する行政行為([[裁決]]など)について職権取消しが制限される効力である。明文の規定はない学説・判例上の効力<ref>宇賀克也『行政法概説I』311頁以下参照</ref>である。法律上の争訟を裁判することを本質とする裁決(行政行為)は他の一般的な行政行為とは異なり裁決をした行政庁自ら取り消すことはできないと判示した最高裁判決がある<ref>最高裁判所昭和29年1月21日判決・最高裁判所民事判例集8巻1号102頁所収</ref>。
== 瑕疵ある行政行為 ==
''「[[瑕疵#行政行為の瑕疵]]」も参照。''
行政行為は、合法で公益に適合していなければならない。しかし、中には実体的・手続的に法律・公益に反する欠陥を抱えた行政行為もある。この欠陥のことを'''瑕疵'''といい、そうした行政行為のことを'''瑕疵ある行政行為'''という。
瑕疵ある行政行為は取消しの対象となるが、瑕疵の種類によってその方法が限定される。
=== 種類 ===
瑕疵ある行政行為には、その程度に応じて、違法な行政行為と不当な行政行為がある<ref>{{ harvnb | 稲葉 | 人見 | 村上 | 前田 | 2018 | page = 102 }}</ref>。
; 違法な行政行為
:取り消し得べき行政行為
:: 行政行為を行うには法律の規定が必要であるが([[法律の留保#行政学上の法律の留保(法律による行政)|法律による行政の原理]])、この規定に違反した場合(行政法規違反)だけでなく一般法原則に違反した場合も含まれる。
:;[[無効]]な行政行為
:: 「重大かつ明白な違法性」がある行政行為。
; 不当な行政行為
: 法律に違反してはいないが、公益に反する判断をしてしまった行政行為。
: 法律には違反していないため、司法審査によって取消されることはない。このため、不当な行政行為の効力が否定される場合は、行政庁自らが職権で取り消す場合、及び、行政不服審判法等の不服申立てによる場合に限られる。
==== 裁量行為の瑕疵 ====
{{main|行政裁量}}
裁量の逸脱や濫用があるかどうかは、その行政行為がそれを根拠づける規定の目的にしたがって行われたかなどにより判断される。また、不合理な別異取扱いを禁じる[[平等原則]]や、手段を目的に照らし必要最小限のものにすることなどを内容とする[[比例原則]]といった一般的な法原則も考慮される。
==== 実体法上の瑕疵と手続法上の瑕疵 ====
ある実体法上瑕疵のない行政行為について、手続法上の瑕疵がある場合、取り消す意味があるか否かという問題がある。かつての判例においては、取り消して再度の手続きを行なっても、元と結果の変わらない処分となると見込まれる場合には取り消さない傾向があった。しかしながら、[[行政手続法]]制定後は、同法違反としての独自の違法事由を認める見解が有力だろう<ref>{{ harvnb | 稲葉 | 人見 | 村上 | 前田 | 2018 | pages = 106 - 109 }}</ref>。
=== 動態 ===
; 瑕疵の治癒
: 当初瑕疵があった行政行為でものちに瑕疵が追完された場合、有効な行政行為として扱うこと。
:
; 違法行為の転換
: 瑕疵ある行政行為を別の行政行為としてみれば瑕疵がない場合、これを後者の行政行為とみなして有効なものとして扱うこと。
: 例えばAという行政行為がなされたが、これは法律の要件を満たしていないなどの欠陥があるため瑕疵ある行政行為であったとする。これは本来ならば取消の対象である。しかしこの行政行為Aを、それとは別の行政行為であるBとして見ると、瑕疵のない適法な行政行為であったという場合には有効な行政行為Bが行われたとして扱うのである。
==== 違法性の承継 ====
複数の行政行為が行われ、先行する行政行為が後行する行政行為の前提となっている事がある。このような構造になっている場面で、先行行為に瑕疵があった場合、先行行為の瑕疵が後行行為の瑕疵の有無に効果を与えることがある。
ただし、先行行為の瑕疵の程度が「取消しうべき瑕疵」に留まる場合、瑕疵が存在していたとしても、公定力により、先行行為は取り消されない限り有効なものとして扱われる。そして先行行為の出訴期間が過ぎれば、先行行為の効力には不可争力が発生する。このように先行行為が有効なものとして扱われる時に後行行為の瑕疵の有無を争う場合、先行行為の瑕疵を理由として後行行為の瑕疵を主張する、つまり、先行行為の違法性を後行行為の違法性を争う場面で主張することが問題となる。先行行為の瑕疵が「取消しうべき瑕疵」に留まる場合に発生するこの問題を一般に「'''違法性の承継'''」の問題と呼ぶ。
先行行為と後行行為が一連の手続であること、先行行為を争う手続的保障が十分に与えられていないことなどを理由として、違法性の承継を認めた判例も存在する。
==関連項目==
*[[行政]]
*[[行政書士]]
*[[過料]]
*[[課徴金]]
*{{仮リンク|行政行為 (ドイツ)|de|Verwaltungsakt (Deutschland)}} - [[ドイツ]]の行政法で用いられる概念で、「官庁が公法の領域で個々の事例を規律するために行い、直接の[[法律効果|法効果]]が外部に向けられる全ての処分、決定その他の高権的措置」をいう(連邦行政手続法35条)。日本の行政法学における行政行為の概念はこれを受容したものである<ref name = shiono1/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=行政法要論|last=原田|first=尚彦|author-link=原田尚彦|edition=全訂第7版補訂2|publisher=学陽書房|year=2012|isbn=978-4-313-31239-5|oclc=820752380}}
* {{ cite book | 和書 | title = 行政法総論 | series = 行政法 | volume = Ⅰ| author = 塩野宏 | authorlink = 塩野宏 | edition = 第五版補訂版 | publisher = 有斐閣 | year = 2013 | date = 2013(平成25)-03-15 | isbn = 978-4-641-13142-2 | ref = {{ harvid | 塩野 | 2013 }} }}
* {{cite book |和書| last1 = 稲葉 | first1 = 馨 |authorlink = 稲葉馨| last2 = 人見 | first2 = 剛 | authorlink2 = 人見剛 (法学者) | last3 = 村上 | first3 = 裕章 | authorlink3 = 村上裕章 | last4 = 前田 | first4 = 雅子 | title = 行政法 | publisher = [[有斐閣]] | year = 2018 | location = 東京 | edition = 第4版 | isbn = 978-4-641-17940-0 |ref = harv}}
==外部リンク==
*[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57398 最一判昭和30年2月24日民集9巻2号217頁](「行政庁の処分」概念を定義した判決)2014年8月19日閲覧
*[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53801 最一判昭和39年10月29日民集18巻8号1809頁](「行政庁の処分」概念を定義した判決)2014年8月19日閲覧
*[https://www.mlit.go.jp/nega-inf/index.html 国土交通省ネガティブ情報等検索サイト] - 国土交通省所管の事業者等の過去の行政処分歴を検索できる
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
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[[Category:行政作用法]]
[[Category:日本の行政作用法]]
[[Category:行為]]
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東急目黒線
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目黒線(めぐろせん)は、東京都品川区の目黒駅と神奈川県横浜市港北区の日吉駅を結ぶ東急電鉄の鉄道路線である。路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは水色、路線記号はMG。
目黒駅から武蔵小山駅、大岡山駅、田園調布駅を経て日吉駅へ向かう路線である。現在の東急多摩川線の区間を含む目黒駅 - 蒲田駅間は東急の母体である目黒蒲田電鉄が最初に開業させた路線(目蒲線)であり、東急の創業路線ともいえる。東急電鉄の中では東横線・田園都市線に次ぐ主力路線となっており、また東横線のバイパス路線としての役割を持つ。なお、国土交通省鉄道局監修の『鉄道要覧』では田園調布駅 - 日吉駅間は東横線の複々線に含まれるため同区間は東横線に属し、正式な目黒線の区間は目黒駅 - 田園調布駅間となっている。
目黒線を名乗っているが、目黒区を走行する区間は短く、同区に所在する駅は洗足駅のみ(大岡山駅は大田区に所在するが目黒区にまたがる)。目黒駅は品川区にある。
本路線のほとんどは道路との立体交差化が行われており、踏切がある区間は大岡山駅 - 奥沢駅間の4箇所、奥沢駅 - 田園調布駅間の2箇所、武蔵小杉駅 - 元住吉駅間の1箇所の合計7箇所のみとなっている。田園調布駅からは東横線の複々線内側2線を通り、同線と並走して日吉駅に至る。
日吉駅からは東急新横浜線を経由して新横浜駅および相鉄線、目黒駅からは地下鉄線への相互直通運転をそれぞれ行っており、地下鉄線は東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線に乗り入れる系統と都営地下鉄三田線に乗り入れる系統の2種類がある。なお、両系統とも地下鉄線内白金台駅・白金高輪駅までは同一の経路を走行する。
営業運転される列車は20m車両6両編成と8両編成である。全駅にホームドアが設置されており、運転士が列車の運転と列車のドアとホームドアの開閉を行うワンマン運転が行われている。車両側には定位置停止装置 (TASC) が搭載されており、駅構内とその手前には、TASCの位置補正用と定位置停止用の地上子が設置されており、駅での停車時には、TASCによるブレーキが列車に掛かるようになっている。その他にも、車両側には、ホームに設置された監視カメラの映像を、ホームの先端側に設置された送信機からミリ波帯の電波で送信して、それを先頭車に搭載された受信機で受信した後、車両側に設置されたモニター画面でそれを見ることができる車上ITV(車上モニター画面)を運転台上部に装備しており、ドアの開閉時の際の監視に使用される。
目黒線の目黒駅から多摩川駅(旧多摩川園駅)の間は、かつては目蒲線の一部であったが、東横線のバイパス路線として整備して同線の混雑を緩和するため、目蒲線を目黒駅 - 多摩川園駅間と多摩川園駅 - 蒲田駅間に分割し、前者を大規模に改良し、さらに東横線の多摩川 - 日吉を複々線化して前者と接続する工事が行われることになった。
東横線複々線化事業に伴い、2000年8月6日に目蒲線を多摩川駅(同日「多摩川園駅」から改称)を境に分割した上で、目黒側の列車が東横線の複々線部分を武蔵小杉駅まで走る「目黒線」となった。一方、多摩川駅 - 蒲田駅間は区間運転化され「東急多摩川線」となった。
同年9月26日からは南北線および三田線との直通運転を開始し、さらに翌2001年3月28日からは埼玉高速鉄道開業および同線と南北線との相互直通運転開始に伴い、本路線も南北線を介して埼玉高速鉄道線との相互直通運転を開始した。この際、東急所属車両が営業運転列車としては初めて埼玉県内を走行することになった。
さらに、不動前駅から洗足駅間の地下化が行われた後、2006年9月25日からは急行運転も開始された。目黒駅から武蔵小杉駅までの日中の所要時間は、各駅停車の17分から短縮され13分である。この急行は、東急では初のワンマン運転を行う優等列車でもある。
2008年6月22日、武蔵小杉駅から日吉駅まで延伸開業した。
東横線混雑緩和のための目黒線近代化として、目蒲線の分割に先立つ1994年11月27日に田園調布駅を、また1997年6月27日に大岡山駅を地下化した。また、両駅はそれぞれ東横線、大井町線との乗換駅であるが、地下化以前は路線ごとにホームが設けられていたものを、地下化の際に立体交差を用いて方向別のホームとし、東横線、大井町線の同方向の列車と同じホームで乗り換えられるように配線を変更した。
さらに、目蒲線時代は18m車両4両編成で運転されていたのを、目黒線としては20m車両6両編成(将来は8両編成)で運転できるようにホーム改良工事を実施した。それに伴い、奥沢駅の武蔵小杉寄りの留置線も、20m車両6両編成が停車出来るよう延長工事を行った。
また、目黒線としての運行開始と同時にワンマン運転も開始し(当初しばらくは後部に車掌が「案内係」として乗務していたが、ドア開閉などの業務は行なっていない)、各駅にホームドアを設置した。保安装置としてATCとTASCを導入したが、東京メトロ南北線や都営地下鉄三田線とは異なり、地上区間が多く降雨の影響を受けやすいことや、路線上に踏切が設置されていることなどの理由から、ATOは導入されていない。
定位置停止支援装置(TASC)は、乗り入れ先の南北線・三田線で使用しているATOのブレーキ指令部分のみを使用した装置となっている 。そのため、駅発車時の力行操作、駅間の走行制御は運転士がハンドル操作を行い、駅停車時のブレーキ制御は運転士がハンドルをニュートラル位置に保つことで、TASC制御により定位置停止を行う。定位置停止精度は前後35cm以内、TASCブレーキ指令減速度は2.5km/h/sである。
路線近代化と周辺地域の環境改善の一環として、目黒駅から洗足駅までの区間で連続立体交差事業が行われた。
1997年7月27日に地下鉄直通を前に目黒駅を相次いで地下化。1999年10月10日には、不動前駅付近を高架化した。
2006年7月2日には不動前駅 - 洗足駅間が地下化され、武蔵小山駅と西小山駅も地下駅となった。この際、武蔵小山駅はホームを2面4線化し、急行列車の待避が可能となった。
2023年3月18日から、東急新横浜線が開通し新横浜駅で相鉄新横浜線との相互直通運転を開始した。 平日朝ラッシュ時に各停・急行列車毎時11本のうち5本が新横浜駅始発。日中時間帯は急行列車毎時4本のうち2本が新横浜駅始発で同線を介して相模鉄道へと直通運転を開始した。目黒線からの直通運転は日中時間帯は相鉄本線海老名駅発着で運転されている。一部列車は、相鉄新横浜線西谷駅、相鉄本線二俣川駅(発のみ)・大和駅(着のみ)、いずみ野線湘南台駅発着が設定されている。
前述したように、旧目蒲線が分割されて本路線と東急多摩川線が誕生したが、本路線は将来的に現行の20m車両6両編成から同8両編成への増強が計画されており、多くの駅では8両編成の運転を想定した準備工事などがなされている(乗り入れ先の南北線・埼玉高速鉄道線・三田線も同様)。東急は相鉄との直通運転にあわせて目黒線を8両編成とする意向を示し、また車両の増備についての検討も開始した。
2023年3月からの相鉄との直通運転に先立ち、2022年4月1日より8両運転での運転が順次開始され、東急保有の車両については、相鉄との直通運転開始時までに8両編成化された。また、目黒線の直通運転先で相鉄との直通運転が計画されている都営地下鉄三田線については2018年6月に、同じく直通運転先の東京メトロ南北線および埼玉高速鉄道線についても2019年3月に、それぞれ8両編成に増強することを発表している。
田園調布 - 日吉間は「東急東横線」の項を参照。駅の新設・廃止・改称は目黒 - 多摩川間の駅のみ記載する。
目蒲線時代は池上線同様、初代3000系や初代5000系が最後まで使用され、近代化が立ち遅れた路線だった。
どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号末尾のアルファベットにより区別しており、「K」が東急の車両(01K - 48K)、「T」が都営地下鉄の車両(21T - 89Tの奇数番号)、「S」が東京メトロの車両(30S - 70Sの偶数番号)、「M」が埼玉高速鉄道の車両(80M - 96Mの偶数番号)、「G」が相鉄の車両(31G - 43G)となっている。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄にも掲載されている。
また、6桁の数字で表記されている目黒線内の列車番号では上1桁が車両の所属元を表し、2が東急の車両、3が東京メトロの車両、4が都営地下鉄の車両、5が埼玉高速鉄道の車両、6が相鉄の車両となっている。次の上2桁が運用番号を表す(例えば「01K」の場合は目黒線内は「201」となる)。
従来は三田線運用と南北線・埼玉高速鉄道線運用とで別々に組まれていたが、2023年3月18日改正以降は相鉄線内での折り返しで番号を切り替えて両方に乗り入れる運用も設定されており、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)が同一車両で運転されている。そのことから一部の運用番号が欠番となっている。
各事業者間の走行距離調整の関係上、東急車及び相鉄車は目黒線に乗り入れない列車(白金高輪折り返しなど)や、東急車は乗り入れ区間外となる相鉄本線の西谷駅 - 横浜駅間でも使用されている(後者は東横線車両とともに運用)。
急行と各駅停車が運行されている。
所要時間は目黒駅 - 日吉駅間で最短16分。日中は1時間に4本運転されており、このうち1本が新横浜駅 - 埼玉高速鉄道線浦和美園駅間、1本が新横浜駅 - 南北線赤羽岩淵駅間、2本が相鉄線・海老名駅 - 都営三田線西高島平駅間の運転となる。2018年3月30日のダイヤ改正後は鳩ヶ谷駅発着の一部列車が赤羽岩淵駅発着となる。線内のみの列車は設定されておらず、すべて東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線に直通する。以前はほぼ全列車が武蔵小山駅で各駅停車と接続していたが、2023年3月18日改正で平日朝の上りは原則として奥沢駅での追い抜きに変更された(一部列車は両方とも行い各駅停車を2本追い抜く)。大半の列車は相鉄線内または新横浜駅発着だが、朝夕の一部列車は日吉駅、武蔵小杉駅発着となる。その他にも三田線高島平駅発着の列車や、南北線王子神谷行きの列車が設定されている。なお、乗り入れ先の南北線、埼玉高速鉄道線、三田線は目黒方面のみ「急行」表示を行い、浦和美園・西高島平方面では「各停」または「各駅停車」表示となる。
以前は日中の急行は武蔵小杉駅にて東横線の特急列車に接続(日吉行き⇔元町・中華街方面、目黒方面⇔渋谷方面でそれぞれ接続)していた。これにより、目黒方面と元町・中華街方面との連絡の利便性が考慮されていたほか、特急の停車しない日吉駅から東横線渋谷方面、同じく特急の停車しない田園調布駅・多摩川駅から東横線元町・中華街方面への速達列車利用機会を補完する面も兼ねていた。ただし接続列車としては正式に案内しておらず、どちらかが遅れると接続を行わないこともあった。その後、2013年3月16日ダイヤ改正より、東横線と目黒線の並走区間において、到着時刻を意図的にずらすこととなったため、現在は東横特急(Fライナー)と目黒線急行の接続はしなくなっている他、白金高輪駅での始発終着列車との接続列車にもなっていない。
基本的に赤色で表記される。
2004年より特定日に、浦和美園駅と高島平駅より元町・中華街駅までの臨時列車「みなとみらい号」が運行されていた。2006年8月運転分までは、東横線とみなとみらい線内のみが急行運転だったが、同年12月運転分から目黒線内も急行運転に変更された。2012年以降は設定されていない。
2006年8月運転分までは終点の武蔵小杉駅で東横線への転線を行っていたが、同年12月運転分からは武蔵小杉駅 - 日吉駅間の複々線(高架)化工事の影響で武蔵小杉駅からの転線ができなくなったため、田園調布駅での転線となった。その後目黒線が日吉駅に延長した2008年7月運転分より日吉駅での転線に変更となったものの、2011年の運転では再び田園調布駅での転線に変更した。
乗り入れ先を含めた各駅に停車する。一部列車は武蔵小山駅で急行と接続する他、奥沢待避列車もある。終日において日吉駅から南北線・三田線に直通するがラッシュ時間帯は新横浜駅発着列車および相鉄線直通列車が、早朝と夜間を中心に奥沢駅・武蔵小杉駅発着区間列車が数本設定されており、一部列車は目黒駅 - 日吉駅間のみ運転の線内折り返しとなる。東急新横浜線開業と同時に早朝に武蔵小山駅始発の日吉方面が設定された。また、新横浜駅周辺でコンサートやサッカーなどの大規模イベント開催時には三田線系統を中心に新横浜駅まで延長運転される。
「みなとみらい号」は、2006年8月運転分まで各駅停車で運転していた。
フルカラーLEDは青色、3色LEDは緑色で表記される。
2020年度の朝ラッシュ時の最混雑区間は不動前駅 → 目黒駅間で、ピーク時(7:50 - 8:50)の混雑率は126%である。
1989年度に4両編成となってから混雑率は150%を下回り、1999年度まで輸送量は減少傾向が続いた。2000年度に目蒲線から目黒線へ分離し、南北線・三田線との直通運転を開始してから輸送人員が増加した。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
田園調布駅 - 日吉駅間の複々線区間で並走している東横線の停車駅などについては「東横線」を参照。日吉駅 - 新横浜駅間の東急新横浜線の停車駅などについては「東急新横浜線」を参照。
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"text": "日吉駅からは東急新横浜線を経由して新横浜駅および相鉄線、目黒駅からは地下鉄線への相互直通運転をそれぞれ行っており、地下鉄線は東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線に乗り入れる系統と都営地下鉄三田線に乗り入れる系統の2種類がある。なお、両系統とも地下鉄線内白金台駅・白金高輪駅までは同一の経路を走行する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "営業運転される列車は20m車両6両編成と8両編成である。全駅にホームドアが設置されており、運転士が列車の運転と列車のドアとホームドアの開閉を行うワンマン運転が行われている。車両側には定位置停止装置 (TASC) が搭載されており、駅構内とその手前には、TASCの位置補正用と定位置停止用の地上子が設置されており、駅での停車時には、TASCによるブレーキが列車に掛かるようになっている。その他にも、車両側には、ホームに設置された監視カメラの映像を、ホームの先端側に設置された送信機からミリ波帯の電波で送信して、それを先頭車に搭載された受信機で受信した後、車両側に設置されたモニター画面でそれを見ることができる車上ITV(車上モニター画面)を運転台上部に装備しており、ドアの開閉時の際の監視に使用される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "目黒線の目黒駅から多摩川駅(旧多摩川園駅)の間は、かつては目蒲線の一部であったが、東横線のバイパス路線として整備して同線の混雑を緩和するため、目蒲線を目黒駅 - 多摩川園駅間と多摩川園駅 - 蒲田駅間に分割し、前者を大規模に改良し、さらに東横線の多摩川 - 日吉を複々線化して前者と接続する工事が行われることになった。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "東横線複々線化事業に伴い、2000年8月6日に目蒲線を多摩川駅(同日「多摩川園駅」から改称)を境に分割した上で、目黒側の列車が東横線の複々線部分を武蔵小杉駅まで走る「目黒線」となった。一方、多摩川駅 - 蒲田駅間は区間運転化され「東急多摩川線」となった。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "同年9月26日からは南北線および三田線との直通運転を開始し、さらに翌2001年3月28日からは埼玉高速鉄道開業および同線と南北線との相互直通運転開始に伴い、本路線も南北線を介して埼玉高速鉄道線との相互直通運転を開始した。この際、東急所属車両が営業運転列車としては初めて埼玉県内を走行することになった。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "さらに、不動前駅から洗足駅間の地下化が行われた後、2006年9月25日からは急行運転も開始された。目黒駅から武蔵小杉駅までの日中の所要時間は、各駅停車の17分から短縮され13分である。この急行は、東急では初のワンマン運転を行う優等列車でもある。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2008年6月22日、武蔵小杉駅から日吉駅まで延伸開業した。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "東横線混雑緩和のための目黒線近代化として、目蒲線の分割に先立つ1994年11月27日に田園調布駅を、また1997年6月27日に大岡山駅を地下化した。また、両駅はそれぞれ東横線、大井町線との乗換駅であるが、地下化以前は路線ごとにホームが設けられていたものを、地下化の際に立体交差を用いて方向別のホームとし、東横線、大井町線の同方向の列車と同じホームで乗り換えられるように配線を変更した。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "さらに、目蒲線時代は18m車両4両編成で運転されていたのを、目黒線としては20m車両6両編成(将来は8両編成)で運転できるようにホーム改良工事を実施した。それに伴い、奥沢駅の武蔵小杉寄りの留置線も、20m車両6両編成が停車出来るよう延長工事を行った。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "また、目黒線としての運行開始と同時にワンマン運転も開始し(当初しばらくは後部に車掌が「案内係」として乗務していたが、ドア開閉などの業務は行なっていない)、各駅にホームドアを設置した。保安装置としてATCとTASCを導入したが、東京メトロ南北線や都営地下鉄三田線とは異なり、地上区間が多く降雨の影響を受けやすいことや、路線上に踏切が設置されていることなどの理由から、ATOは導入されていない。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "定位置停止支援装置(TASC)は、乗り入れ先の南北線・三田線で使用しているATOのブレーキ指令部分のみを使用した装置となっている 。そのため、駅発車時の力行操作、駅間の走行制御は運転士がハンドル操作を行い、駅停車時のブレーキ制御は運転士がハンドルをニュートラル位置に保つことで、TASC制御により定位置停止を行う。定位置停止精度は前後35cm以内、TASCブレーキ指令減速度は2.5km/h/sである。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "路線近代化と周辺地域の環境改善の一環として、目黒駅から洗足駅までの区間で連続立体交差事業が行われた。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1997年7月27日に地下鉄直通を前に目黒駅を相次いで地下化。1999年10月10日には、不動前駅付近を高架化した。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2006年7月2日には不動前駅 - 洗足駅間が地下化され、武蔵小山駅と西小山駅も地下駅となった。この際、武蔵小山駅はホームを2面4線化し、急行列車の待避が可能となった。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2023年3月18日から、東急新横浜線が開通し新横浜駅で相鉄新横浜線との相互直通運転を開始した。 平日朝ラッシュ時に各停・急行列車毎時11本のうち5本が新横浜駅始発。日中時間帯は急行列車毎時4本のうち2本が新横浜駅始発で同線を介して相模鉄道へと直通運転を開始した。目黒線からの直通運転は日中時間帯は相鉄本線海老名駅発着で運転されている。一部列車は、相鉄新横浜線西谷駅、相鉄本線二俣川駅(発のみ)・大和駅(着のみ)、いずみ野線湘南台駅発着が設定されている。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "前述したように、旧目蒲線が分割されて本路線と東急多摩川線が誕生したが、本路線は将来的に現行の20m車両6両編成から同8両編成への増強が計画されており、多くの駅では8両編成の運転を想定した準備工事などがなされている(乗り入れ先の南北線・埼玉高速鉄道線・三田線も同様)。東急は相鉄との直通運転にあわせて目黒線を8両編成とする意向を示し、また車両の増備についての検討も開始した。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2023年3月からの相鉄との直通運転に先立ち、2022年4月1日より8両運転での運転が順次開始され、東急保有の車両については、相鉄との直通運転開始時までに8両編成化された。また、目黒線の直通運転先で相鉄との直通運転が計画されている都営地下鉄三田線については2018年6月に、同じく直通運転先の東京メトロ南北線および埼玉高速鉄道線についても2019年3月に、それぞれ8両編成に増強することを発表している。",
"title": "大規模改良工事"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "田園調布 - 日吉間は「東急東横線」の項を参照。駅の新設・廃止・改称は目黒 - 多摩川間の駅のみ記載する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "目蒲線時代は池上線同様、初代3000系や初代5000系が最後まで使用され、近代化が立ち遅れた路線だった。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号末尾のアルファベットにより区別しており、「K」が東急の車両(01K - 48K)、「T」が都営地下鉄の車両(21T - 89Tの奇数番号)、「S」が東京メトロの車両(30S - 70Sの偶数番号)、「M」が埼玉高速鉄道の車両(80M - 96Mの偶数番号)、「G」が相鉄の車両(31G - 43G)となっている。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄にも掲載されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "また、6桁の数字で表記されている目黒線内の列車番号では上1桁が車両の所属元を表し、2が東急の車両、3が東京メトロの車両、4が都営地下鉄の車両、5が埼玉高速鉄道の車両、6が相鉄の車両となっている。次の上2桁が運用番号を表す(例えば「01K」の場合は目黒線内は「201」となる)。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "従来は三田線運用と南北線・埼玉高速鉄道線運用とで別々に組まれていたが、2023年3月18日改正以降は相鉄線内での折り返しで番号を切り替えて両方に乗り入れる運用も設定されており、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)が同一車両で運転されている。そのことから一部の運用番号が欠番となっている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "各事業者間の走行距離調整の関係上、東急車及び相鉄車は目黒線に乗り入れない列車(白金高輪折り返しなど)や、東急車は乗り入れ区間外となる相鉄本線の西谷駅 - 横浜駅間でも使用されている(後者は東横線車両とともに運用)。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "急行と各駅停車が運行されている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "所要時間は目黒駅 - 日吉駅間で最短16分。日中は1時間に4本運転されており、このうち1本が新横浜駅 - 埼玉高速鉄道線浦和美園駅間、1本が新横浜駅 - 南北線赤羽岩淵駅間、2本が相鉄線・海老名駅 - 都営三田線西高島平駅間の運転となる。2018年3月30日のダイヤ改正後は鳩ヶ谷駅発着の一部列車が赤羽岩淵駅発着となる。線内のみの列車は設定されておらず、すべて東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線に直通する。以前はほぼ全列車が武蔵小山駅で各駅停車と接続していたが、2023年3月18日改正で平日朝の上りは原則として奥沢駅での追い抜きに変更された(一部列車は両方とも行い各駅停車を2本追い抜く)。大半の列車は相鉄線内または新横浜駅発着だが、朝夕の一部列車は日吉駅、武蔵小杉駅発着となる。その他にも三田線高島平駅発着の列車や、南北線王子神谷行きの列車が設定されている。なお、乗り入れ先の南北線、埼玉高速鉄道線、三田線は目黒方面のみ「急行」表示を行い、浦和美園・西高島平方面では「各停」または「各駅停車」表示となる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "以前は日中の急行は武蔵小杉駅にて東横線の特急列車に接続(日吉行き⇔元町・中華街方面、目黒方面⇔渋谷方面でそれぞれ接続)していた。これにより、目黒方面と元町・中華街方面との連絡の利便性が考慮されていたほか、特急の停車しない日吉駅から東横線渋谷方面、同じく特急の停車しない田園調布駅・多摩川駅から東横線元町・中華街方面への速達列車利用機会を補完する面も兼ねていた。ただし接続列車としては正式に案内しておらず、どちらかが遅れると接続を行わないこともあった。その後、2013年3月16日ダイヤ改正より、東横線と目黒線の並走区間において、到着時刻を意図的にずらすこととなったため、現在は東横特急(Fライナー)と目黒線急行の接続はしなくなっている他、白金高輪駅での始発終着列車との接続列車にもなっていない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "基本的に赤色で表記される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2004年より特定日に、浦和美園駅と高島平駅より元町・中華街駅までの臨時列車「みなとみらい号」が運行されていた。2006年8月運転分までは、東横線とみなとみらい線内のみが急行運転だったが、同年12月運転分から目黒線内も急行運転に変更された。2012年以降は設定されていない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2006年8月運転分までは終点の武蔵小杉駅で東横線への転線を行っていたが、同年12月運転分からは武蔵小杉駅 - 日吉駅間の複々線(高架)化工事の影響で武蔵小杉駅からの転線ができなくなったため、田園調布駅での転線となった。その後目黒線が日吉駅に延長した2008年7月運転分より日吉駅での転線に変更となったものの、2011年の運転では再び田園調布駅での転線に変更した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "乗り入れ先を含めた各駅に停車する。一部列車は武蔵小山駅で急行と接続する他、奥沢待避列車もある。終日において日吉駅から南北線・三田線に直通するがラッシュ時間帯は新横浜駅発着列車および相鉄線直通列車が、早朝と夜間を中心に奥沢駅・武蔵小杉駅発着区間列車が数本設定されており、一部列車は目黒駅 - 日吉駅間のみ運転の線内折り返しとなる。東急新横浜線開業と同時に早朝に武蔵小山駅始発の日吉方面が設定された。また、新横浜駅周辺でコンサートやサッカーなどの大規模イベント開催時には三田線系統を中心に新横浜駅まで延長運転される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "「みなとみらい号」は、2006年8月運転分まで各駅停車で運転していた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "フルカラーLEDは青色、3色LEDは緑色で表記される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2020年度の朝ラッシュ時の最混雑区間は不動前駅 → 目黒駅間で、ピーク時(7:50 - 8:50)の混雑率は126%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1989年度に4両編成となってから混雑率は150%を下回り、1999年度まで輸送量は減少傾向が続いた。2000年度に目蒲線から目黒線へ分離し、南北線・三田線との直通運転を開始してから輸送人員が増加した。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "田園調布駅 - 日吉駅間の複々線区間で並走している東横線の停車駅などについては「東横線」を参照。日吉駅 - 新横浜駅間の東急新横浜線の停車駅などについては「東急新横浜線」を参照。",
"title": "駅一覧"
}
] |
目黒線(めぐろせん)は、東京都品川区の目黒駅と神奈川県横浜市港北区の日吉駅を結ぶ東急電鉄の鉄道路線である。路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは水色、路線記号はMG。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{混同|x1=目黒線の前身である|東急目蒲線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tokyu Railways.svg|baseline|20px|東急電鉄|link=東急電鉄]] 目黒線
|路線色=#009cd2
|ロゴ=File:Tokyu MG line symbol.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Tokyu-Series3020-3821.jpg|3020系
|画像サイズ=
|画像説明=目黒線で運用される[[東急2020系電車#3020系|3020系]]<br />(2021年6月15日 [[多摩川駅]])
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]、[[神奈川県]]
|起点=[[目黒駅]]
|終点=[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]
|駅数=13駅
|路線記号=MG
|路線色3=水色
|開業=[[1923年]][[3月11日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東急電鉄]]
|運営者=東急電鉄
|車両基地=[[元住吉検車区]]<br />[[王子検車区]](東京メトロ車)<br />[[志村車両検修場]](都営車)<br />[[浦和美園車両基地]](埼玉高速鉄道車)<br />[[かしわ台車両センター]](相鉄車)
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=11.9 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=車内信号閉塞式
|保安装置=[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]
|最高速度=110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="yamanote">杉崎行恭『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』JTBパブリッシング、2013年 p.161</ref>
|路線図=File:Tokyu Corporation Linemap.svg
}}
{{Routemap
|title=停車場・施設・接続路線
|title bg color=#009cd2
|title color=#fff
|collapsed=yes
|map=
\KHSTa~~ ~~ ~~[[浦和美園駅]]<!-- 簡略のため高架を表現しません -->
\LSTR~~ ~~ ~~[[埼玉高速鉄道線]]<!--途中駅を省略しているためLSTR -->
\HST~~ ~~ ~~[[赤羽岩淵駅]]
KHSTa\STR~~ ~~ ~~[[西高島平駅]]
LSTR2\LSTR3!~POINTERg@fq~~ ~~ ~~[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ南北線|南北線]]
LSTR+1\LSTR+4!~POINTERg@fq~~ ~~ ~~[[都営地下鉄|都営]][[都営地下鉄三田線|三田線]]
HST\HST~~ ~~ ~~[[後楽園駅]] / [[春日駅 (東京都)|春日駅]]
BS2l\BS2r~~ ~~ ~~
HST~~ ~~ ~~[[白金高輪駅]]
LSTR
STRq\tKRZ\STR+r~~ ~~ ~~[[山手線]]など<ref group="路線図" name="Saikyo">山手線、[[埼京線]]、[[湘南新宿ライン]]</ref>
HUBrg\tSTR!~HUBtf\BHF!~HUBeq<!--uexKBHFaq!~HUBeq-->~~ ~~ ~~<!--''[[東京都電車|都電]]''-->
exKBHFa!~HUBe\tBHF!~HUBe\STR~~0.0~~MG01 [[目黒駅]]
exSTR2\tSTRe!~exSTRc3\STRl~~ ~~ ~~山手線など<ref group="路線図" name="Saikyo"/>
exSTRc1\eABZg+4\
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exSTRc2\exSTR3\tSTRe\\
exSTR+1\exSTRc4\TUNNEL2\\
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exSTR\exSTR\tSTR+l!~STRc1\tSTRq!~STR+4\tSTReq~~ ~~ ~~[[東急大井町線|大井町線]]
exSTR\exSTR\tSTR\tSTRa\
exBHF!~HUBaq\exBHF!~HUBeq\tXBHF-L!~HUBaq\tXBHF-R!~HUBeq\~~4.3~~MG06 [[大岡山駅]]
exSTR\exSTR\tSTRe\tSTRe\
exKRWgl\exKRWg+r\KRWgl\KRWg+r\
exSTRl\exKRZo!~STRc2\exSTR+r!~STR3+c2\STR3\
xABZg+1\STRc4!~xABZg+1\STRc4
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STR\STR\tSTRa
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STR\STR\~~ ~~ ~~[[神奈川県]]
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\STR\STR\\vSTR+l-~~ ~~ ~~[[東海道新幹線]]
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BHFq!~HUBa\KRZo\KRZo\STRq\vKRZo~~ ~~ ~~[[南武線]]
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tSTRq\KRZt\KRZt\tSHI4rq\vSTR-STRl~~ ~~ ~~横須賀線<ref group="路線図" name="Yokosuka"/>
\KRWgl\KRWg+r\tSHI4+lq\tSTRq!~vSTR-~~ ~~ ~~[[武蔵野線]](貨物線)
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dKDSTe\dSTRc1\ABZg+4\STR\\~~ ~~ ~~[[元住吉検車区]]
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tKBHFeq!~HUBaq\tXBHF-L!~HUBq\tXBHF-R!~HUBeq\\~~11.9~~MG13 [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]
tSTRe\tSTRe\~~ ~~ ~~←[[横浜市営地下鉄]]
KRWgl\KRWgl+r\KRW+r~~ ~~ ~~[[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]]
STR\tSTRa\ENDEe~~ ~~ ~~
STR\tSTR!~POINTERg@fq\~~ ~~ ~~[[東急新横浜線]]
HST\tHST\~~ ~~ ~~[[綱島駅]] / [[新綱島駅]]
WASSERq\hKRZWe\tKRZW\WASSERq\~~ ~~ ~~[[鶴見川]]
STRl\tKRZ\STRq~~ ~~ ~~東横線
tHST~~ ~~ ~~[[新横浜駅]]
tSTR!~POINTERg@fq~~ ~~ ~~[[相鉄新横浜線]]
LSTR~~ ~~ ~~
-colspan
----
<references group="路線図"/>
}}
'''目黒線'''(めぐろせん)は、[[東京都]][[品川区]]の[[目黒駅]]と[[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]]の[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]を結ぶ[[東急電鉄]]の鉄道路線である。[[路線図]]や[[駅ナンバリング]]で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|路線カラー]]は水色、路線記号は'''MG'''。
== 概要 ==
[[目黒駅]]から[[武蔵小山駅]]、[[大岡山駅]]、[[田園調布駅]]を経て[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]へ向かう路線である。現在の[[東急多摩川線]]の区間を含む目黒駅 - [[蒲田駅]]間は[[東急]]の母体である[[目黒蒲田電鉄]]が最初に開業させた路線([[東急目蒲線|目蒲線]])であり、東急の創業路線ともいえる。[[東急電鉄]]の中では[[東急東横線|東横線]]・[[東急田園都市線|田園都市線]]に次ぐ主力路線となっており、また東横線のバイパス路線としての役割を持つ。なお、[[国土交通省]]鉄道局監修の『[[鉄道要覧]]』では田園調布駅 - 日吉駅間は東横線の[[複々線]]に含まれるため同区間は東横線に属し、正式な目黒線の区間は目黒駅 - 田園調布駅間となっている。
目黒線を名乗っているが、[[目黒区]]を走行する区間は短く、同区に所在する駅は[[洗足駅]]のみ(大岡山駅は[[大田区]]に所在するが目黒区にまたがる)。目黒駅は[[品川区]]にある<ref group="注釈">目黒駅 - 西小山駅の各駅は品川区の目黒区界に近い地域を走行しており、西小山駅に至っては駅の北側に沿って通る道路が区界になっている。洗足駅も前後を品川区と大田区に挟まれており、大岡山駅付近を含めても目黒線が目黒区を走行する距離は1kmに満たない。</ref>。
本路線のほとんどは道路との[[立体交差]]化が行われており、[[踏切]]がある区間は大岡山駅 - 奥沢駅間の4箇所、奥沢駅 - 田園調布駅間の2箇所、武蔵小杉駅 - 元住吉駅間の1箇所の合計7箇所のみとなっている。田園調布駅からは東横線の複々線内側2線を通り、同線と並走して日吉駅に至る。
日吉駅からは[[東急新横浜線]]を経由して[[新横浜駅]]および[[相模鉄道|相鉄線]]、目黒駅からは地下鉄線への[[直通運転|相互直通運転]]をそれぞれ行っており、地下鉄線は[[東京メトロ南北線]]・[[埼玉高速鉄道線]]に乗り入れる系統と[[都営地下鉄三田線]]に乗り入れる系統の2種類がある。なお、両系統とも地下鉄線内[[白金台駅]]・[[白金高輪駅]]までは同一の経路を走行する。
営業運転される列車は20m車両6両編成と8両編成である。全駅に[[ホームドア]]が設置されており、運転士が列車の運転と列車のドアとホームドアの開閉を行う[[ワンマン運転]]が行われている。車両側には[[定位置停止装置]] (TASC) が搭載されており<ref group="注釈">ホームに設置されたホームドアの位置に正確に止まるためであり、ホームドアの開閉も車内から行う。</ref>、駅構内とその手前には、TASCの位置補正用と定位置停止用の地上子が設置されており、駅での停車時には、TASCによるブレーキが列車に掛かるようになっている。その他にも、車両側には、ホームに設置された監視カメラの映像を、ホームの先端側に設置された送信機から[[ミリ波]]帯の電波で送信して、それを先頭車に搭載された受信機で受信した後、車両側に設置されたモニター画面でそれを見ることができる車上ITV(車上モニター画面)を運転台上部に装備しており、ドアの開閉時の際の監視に使用される<ref group="注釈">これは、乗り入れ先の東京メトロ南北線と都営地下鉄三田線でも使用されている。</ref>。
=== 路線データ ===
* 路線距離:目黒 - 田園調布間 6.5km(東横線区間5.4kmを含めると11.9km)
* [[軌間]]:1,067mm
* [[複線]]区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1,500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号閉塞式 ([[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]])
* 営業最高速度:110km/h<ref name="yamanote" />
== 大規模改良工事 ==
目黒線の目黒駅から[[多摩川駅]](旧多摩川園駅)の間は、かつては[[東急目蒲線|目蒲線]]の一部であったが、東横線のバイパス路線として整備して同線の混雑を緩和するため、目蒲線を目黒駅 - 多摩川園駅間と多摩川園駅 - 蒲田駅間に分割し、前者を大規模に改良し、さらに東横線の多摩川 - 日吉を複々線化して前者と接続する工事が行われることになった。
[[ファイル:Tokyu-Series5080 5050.jpg|thumb|none|200px|並走する目黒線車両(左)と東横線車両。田園調布駅 - 日吉駅では目黒線は内側2線を使用し、東横線と並走する。]]<!-- rightを指定すると(外装によっては)経路図と干渉して空行ができる -->
=== 目蒲線の分割 ===
東横線複々線化事業に伴い、[[2000年]]8月6日に目蒲線を多摩川駅(同日「多摩川園駅」から改称)を境に分割した上で、目黒側の列車が東横線の複々線部分を武蔵小杉駅まで走る「目黒線」となった。一方、多摩川駅 - 蒲田駅間は区間運転化され「[[東急多摩川線]]」となった<ref group="注釈">既存の[[西武多摩川線]]およびかつて自社路線として存在していた[[東急玉川線]]との混同を防ぐために「東急」を付けた「東急多摩川線」が正式な路線名であり、旅客案内などでもこのように呼称される。</ref>。
同年[[9月26日]]からは南北線および三田線との直通運転を開始し、さらに翌[[2001年]]3月28日からは埼玉高速鉄道開業および同線と南北線との相互直通運転開始に伴い、本路線も南北線を介して埼玉高速鉄道線との相互直通運転を開始した。この際、東急所属車両が営業運転列車としては初めて[[埼玉県]]内を走行することになった。
さらに、[[不動前駅]]から[[洗足駅]]間の地下化が行われた後、[[2006年]]9月25日からは急行運転も開始された。目黒駅から武蔵小杉駅までの日中の所要時間は、各駅停車の17分から短縮され13分である。この急行は、東急では初の[[ワンマン運転]]を行う優等列車でもある<ref group="注釈">[[2023年]]に東横線がワンマン運転となるまで東急唯一のワンマン運転による急行列車であった。</ref>。
[[2008年]]6月22日、武蔵小杉駅から[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]まで延伸開業した。
=== 路線近代化工事 ===
東横線混雑緩和のための目黒線近代化として、目蒲線の分割に先立つ[[1994年]][[11月27日]]に田園調布駅を、また[[1997年]][[6月27日]]に大岡山駅を地下化した。また、両駅はそれぞれ東横線、大井町線との乗換駅であるが、地下化以前は路線ごとにホームが設けられていたものを、地下化の際に立体交差を用いて方向別のホームとし、東横線、大井町線の同方向の列車と同じホームで乗り換えられるように配線を変更した<ref>[https://web.archive.org/web/20080623114535/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_okym.html 大岡山駅改良工事](インターネットアーカイブ)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20080616025037/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_decf_tmgw.html 田園調布 - 多摩川間改良工事](インターネットアーカイブ)</ref>。
さらに、目蒲線時代は18m車両4両編成で運転されていたのを、目黒線としては20m車両6両編成(将来は8両編成)で運転できるようにホーム改良工事を実施した。それに伴い、奥沢駅の武蔵小杉寄りの留置線も、20m車両6両編成が停車出来るよう延長工事を行った<ref>[https://web.archive.org/web/20080619005740/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_snzk_oksw.html 洗足 - 奥沢間施設改良工事](インターネットアーカイブ)</ref>。
また、目黒線としての運行開始と同時に[[ワンマン運転]]も開始し(当初しばらくは後部に[[車掌]]が「案内係」として乗務していたが、ドア開閉などの業務は行なっていない)、各駅に[[ホームドア]]<ref group="注釈">[[京三製作所]]製で、[https://www.kyosan.co.jp/product/home_safety.html 可動式ホーム柵・プラットホームスクリーンドア]として同社のウェブサイトで紹介されている。</ref>を設置した。保安装置として[[自動列車制御装置|ATC]]と[[定位置停止装置|TASC]]を導入したが、東京メトロ南北線や都営地下鉄三田線とは異なり、地上区間が多く降雨の影響を受けやすいことや、路線上に踏切が設置されていることなどの理由から、[[自動列車運転装置|ATO]]は導入されていない。
定位置停止支援装置(TASC)は、乗り入れ先の南北線・三田線で使用しているATOのブレーキ指令部分のみを使用した装置となっている<ref name="Drive2006-7">日本鉄道運転協会「運転協会誌」2006年7月号 ワンマン運転特集「東急電鉄のワンマン運行システム - 線区特性に応じた3つのワンマンシステム - 」参照。</ref> 。そのため、駅発車時の[[力行]]操作、駅間の走行制御は[[運転士]]がハンドル操作を行い、駅停車時のブレーキ制御は運転士がハンドルをニュートラル位置に保つことで、TASC制御により定位置停止を行う<ref name="Drive2006-7"/>。定位置停止精度は前後35cm以内、TASCブレーキ指令減速度は2.5km/h/sである<ref name="Drive2006-7"/>。
=== 連続立体交差化事業 ===
路線近代化と周辺地域の環境改善の一環として、[[目黒駅]]から[[洗足駅]]までの区間で[[連続立体交差事業]]が行われた<ref>[https://web.archive.org/web/20070704004514/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/mgr.html 目黒線(目黒駅付近 - 洗足駅付近間)の立体交差事業](インターネットアーカイブ)</ref>。
1997年7月27日に地下鉄直通を前に目黒駅を相次いで地下化。[[1999年]]10月10日には、[[不動前駅]]付近を高架化した。
2006年7月2日には不動前駅 - 洗足駅間が地下化され、[[武蔵小山駅]]と[[西小山駅]]も地下駅となった。この際、武蔵小山駅はホームを2面4線化し、急行列車の待避が可能となった。
<gallery widths="200">
Musashi-Koyama station platform.jpg|地下化された武蔵小山駅
Musashi-Koyama station west exit.jpg|地下化後、関連工事が続く武蔵小山駅の地上部分
Tokyu Motosumiyoshi sta. platform.JPG|工事が行われていた頃の[[元住吉駅]]。現在は中央の2線を目黒線が走行している。
</gallery>
=== 東横線複々線化事業 ===
{{main|東急東横線#複々線化}}
{{参照方法|section=1|date=2021年11月}}
* [https://web.archive.org/web/20080623114545/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_tmgw.html 多摩川橋梁架替・増設工事](インターネットアーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20080324041326/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_snmrk_mksg.html 新丸子⇔武蔵小杉間線増工事](インターネットアーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20080715135349/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_mksg_hys.html 武蔵小杉⇔日吉間線増工事](インターネットアーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20080618111526/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/tyk_hys.html 日吉駅改良工事](インターネットアーカイブ)
=== 相鉄線との相互直通運転 ===
{{Main|神奈川東部方面線|東急新横浜線}}
2023年3月18日から、[[東急新横浜線]]が開通し[[新横浜駅]]で[[相鉄新横浜線]]との相互直通運転を開始した<ref name="jrtt-sotetsu-tokyu20221216">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216064059/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=相鉄・東急直通線 開業日に関するお知らせ|publisher=相模鉄道/東急電鉄/鉄道建設・運輸施設整備支援機構|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref><ref name="sotetsu-tokyu20221216">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216070954/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月18日(土)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業に伴い形成される 広域鉄道ネットワークの直通運転形態および主な所要時間について|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref>。
平日朝ラッシュ時に各停・急行列車毎時11本のうち5本が新横浜駅始発。日中時間帯は急行列車毎時4本のうち2本が新横浜駅始発で同線を介して[[相模鉄道]]へと直通運転を開始した。目黒線からの直通運転は日中時間帯は[[相鉄本線]][[海老名駅]]発着で運転されている。一部列車は、相鉄新横浜線西谷駅、相鉄本線二俣川駅(発のみ)・大和駅(着のみ)、いずみ野線湘南台駅発着が設定されている<ref name="tokyu20221124">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221124-1-all.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月開業(予定)東急新横浜線の運行計画の概要について|publisher=東急電鉄|date=2022-11-24|}}</ref><ref name="sotetsu20221124">{{Cite press release|和書|url=https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2022/pressrelease/pdf/r22-178-p51.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221124013133/https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2022/pressrelease/pdf/r22-178-p51.pdf|format=PDF|language=日本語|title=相鉄・東急直通線運行計画概要のお知らせ|publisher=相模鉄道|date=2022-11-24|accessdate=2022-11-24|archivedate=2023-11-24}}</ref><ref name="tokyu20221216">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-3.pdf|format=PDF|date=2022-12-16|language=日本語|title=2023年3月18日(土)東横線・目黒線・田園都市線など東急線6路線でダイヤ改正を実施~同日に東急新横浜線が開業します~|publisher=東急電鉄|accessdate=2022-12-16}}</ref><ref name="sotetsu20221216">{{Cite press release|和書|url=https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2022/pressrelease/pdf/r22-194-rcr.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221217165451/https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2022/pressrelease/pdf/r22-194-rcr.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月18日(土)開業 相鉄・東急直通線 運行計画(運行区間・列車本数)のお知らせ |publisher=相模鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref>。
=== 8両編成化 ===
前述したように、旧目蒲線が分割されて本路線と東急多摩川線が誕生したが、本路線は将来的に現行の20m車両6両編成から同8両編成への増強が計画されており<ref name="tokyu20190326" />、多くの駅では8両編成の運転を想定した準備工事などがなされている(乗り入れ先の南北線・埼玉高速鉄道線・三田線も同様)。東急は相鉄との直通運転にあわせて目黒線を8両編成とする意向を示し、また車両の増備についての検討も開始した<ref>[https://dime.jp/genre/506926/5/ YOKOHAMA NAVYBLUE TRAIN相模鉄道20000系が2月11日にデビュー] - @DIME、2018年2月2日発信。</ref>。
2023年3月からの相鉄との直通運転に先立ち、2022年4月1日より8両運転での運転が順次開始され、東急保有の車両については、相鉄との直通運転開始時までに8両編成化された<ref name="press20220127" />。また、目黒線の直通運転先で相鉄との直通運転が計画されている都営地下鉄三田線については2018年6月に、同じく直通運転先の東京メトロ南北線および埼玉高速鉄道線についても2019年3月に、それぞれ8両編成に増強することを発表している<ref name="東洋経済" /><ref>{{Cite press release |和書 |title=東京メトロプラン2021 |publisher=東京メトロ |date=2019-03-26 |url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf |format=PDF}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=埼玉高速鉄道 埼玉スタジアム線 8両編成列車を運行します! 2022年度上期の運行に向けて工事を開始いたします! ~ご利用のお客さまのために、地域のために、輸送力増強~ |publisher=埼玉高速鉄道 |date=2019-03-26 |url=https://www.s-rail.co.jp/news/2019/pr-20190326-8ryouhensei.php |format=PHP}}</ref>。
== 歴史 ==
田園調布 - 日吉間は「[[東急東横線]]」の項を参照。駅の新設・廃止・改称は目黒 - 多摩川間の駅のみ記載する。
* [[1923年]](大正12年)
** [[3月11日]] 目黒線として目黒 - 丸子(現・[[沼部駅]])間開業。
** 10月 目黒不動前駅を不動前駅に改称。
** [[11月1日]] 丸子 - 蒲田間開業(全通)、目蒲線に改称。
* [[1924年]](大正13年)[[6月1日]] 小山駅を武蔵小山駅に改称。
* [[1926年]](大正15年)[[1月1日]] 調布駅を田園調布駅に、多摩川駅を丸子多摩川駅に改称。
* [[1928年]](昭和3年)[[8月1日]] 西小山駅開業。
* [[1931年]](昭和6年)1月1日 丸子多摩川駅を多摩川園前駅に改称。
* [[1955年]](昭和30年)[[11月5日]] 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1965年]](昭和40年)[[洗足駅]]を環七通りとの立体交差のため地下化。
* [[1989年]](平成元年)[[3月18日]] この日を以て旧型車両[[東急3000系電車 (初代)|3000系]](初代)が運用終了([[東急池上線|池上線]]では3月9日で運用終了、7200系などのステンレスカーを池上線へ転属させ目蒲線に3000系(初代)が集結)。
* [[1994年]](平成6年)[[11月27日]] 田園調布駅地下化<!--東横線は1996年に地下化--><ref>{{Cite journal|和書 |date =1996-03 |title =東急 田園調布駅の東横・目蒲4線地下線化が完成 |journal =[[鉄道ジャーナル]] |volume =30 |issue =3 |serial =353 |publisher =鉄道ジャーナル社 |page =90 }}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)
** [[6月27日]] 大岡山駅地下化。
** [[7月27日]] 目黒駅地下化。
* [[1999年]](平成11年)[[10月10日]] 不動前駅付近高架化。
* [[2000年]](平成12年)
** [[8月6日]] 目蒲線から目黒 - 田園調布間を分離、目黒線に改称<ref name="pr20000714">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/000714.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414174636/http://www.tokyu.co.jp/file/000714.pdf|format=PDF|language=日本語|title=8月6日(日)から運行開始の目黒線と東急多摩川線のダイヤを決定 併せて東横線、池上線のダイヤも改正|publisher=東京急行電鉄|date=2000-07-14|accessdate=2020-05-01|archivedate=2015-04-14}}</ref>。運行系統上は直通運転する東横線田園調布 - 武蔵小杉間と共に目黒線と呼称、同時に多摩川園駅を多摩川駅に改称、ワンマン運転開始。
** [[9月26日]] [[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ南北線|南北線]]・[[都営地下鉄]][[都営地下鉄三田線|三田線]]との相互直通運転を開始<ref name="pr20000207">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/000207.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180218090413/http://www.tokyu.co.jp/file/000207.pdf|format=PDF|language=日本語|title=営団地下鉄南北線・都営三田線と相互直通運転を開始 平成12年9月26日(火)から|publisher=東京急行電鉄|date=2000-02-07|accessdate=2020-05-01|archivedate=2018-02-18}}</ref>。
*** これに伴うダイヤ改正は9月22日に実施され、9月25日までは「予行運転」の形で新規開業区間(目黒 - 溜池山王・三田間)は回送列車として運転。そのため9月22日より目黒線で営団9000系・都営6300形が、南北線・三田線で[[東急3000系電車 (2代)|3000系]](2代)がそれぞれ営業列車に使用開始。
* [[2001年]](平成13年)[[3月28日]] 営団地下鉄南北線を介して[[埼玉高速鉄道線]]との相互直通運転を開始<ref>{{Cite journal |和書 |title=東急目黒線と埼玉高速鉄道線との相互直通運転を開始|journal =HOT ほっと TOKYU|date=2001-03-01|issue =232|url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/2001/2001-03.pdf|publisher=東京急行電鉄|accessdate=2017-01-21|format=PDF}}</ref>。
* [[2003年]](平成15年)[[3月13日]] [[東急5000系電車 (2代)#5080系|5080系]]の営業運転を開始。
* [[2006年]](平成18年)
** [[7月2日]] 不動前 - 洗足間連続立体交差事業に伴い、武蔵小山駅・西小山駅地下化<!--駅間も地下化されているので-->。
** [[9月25日]] 全線で急行列車の運転開始<ref>{{Cite journal |和書 |title=目黒線に急行列車デビュー|journal =HOT ほっと TOKYU |date=2006-08-20|issue =313|url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0609/0609.pdf |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2017-01-22|format=PDF}}</ref><!--(元住吉車両基地への入庫はこのダイヤ改正に伴う武蔵小杉 - 日吉間高架化以降は配線の関係上武蔵小杉駅より行っている)--><ref name="jtoa2006-12">日本鉄道運転協会『運転協会誌』2006年12月号ダイヤ改正特集「2006年9月東急線ダイヤ改正 - 目黒線急行運転開始と東横線スピードアップ - 」pp.13 - 16。</ref>。平日朝ラッシュ時の運行本数は各駅停車17本から急行7本・各駅停車14本の21本に増発した<ref name="jtoa2006-12"/>。
*** 昼間時間帯は1時間あたり10本に急行を1時間2本(30分間隔)増発した<ref name="jtoa2006-12"/>。直通運転先と運行本数が合わなくなることから、目黒駅折り返しの各駅停車が1時間2本(30分間隔)運転された<ref name="jtoa2006-12"/>。
* [[2008年]](平成20年)[[6月22日]] 目黒線武蔵小杉 - 日吉間2.8km延長<ref name="HOT335">{{Cite journal|1=和書|title=6月22日、目黒線を日吉駅へ延伸|journal=HOT ほっと TOKYU|date=2008-05-20|issue=335|url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0806/0806.pdf|publisher=東京急行電鉄|accessdate=2017-01-23|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170202062302/http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0806/0806.pdf|archivedate=2017年2月2日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref name="jtoa2008-10">日本鉄道運転協会『運転協会誌』2008年10月号「東急工急行電鉄 さらに便利に!東急目黒線が日吉まで延伸」pp.41 - 43。</ref>。平日朝ラッシュ時の運行本数は急行10本・各駅停車14本の24本(急行を3本増発)に増発した<ref name="jtoa2008-10"/>。<!--東京急行 鉄道情報【大規模改良工事】より-->日中において、目黒行の各駅停車を地下鉄線直通の急行に変更し、これに伴い急行の運転間隔を1時間2本(30分間隔)から4本(15分間隔)に増発したほか、同時間帯の全列車が地下鉄線直通となった<ref name="HOT335"/>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月14日]] 同月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]の影響による[[東日本大震災による電力危機|電力供給逼迫]]のため、[[東京電力]]が[[輪番停電]](計画停電)を実施。これに伴い、この日から急行運転が休止される。
** [[4月25日]] 急行運転が平日ラッシュ時のみ再開される。
** [[7月2日]] 土休日のダイヤが平常に戻り、急行運転が全面的に再開される。
* [[2012年]](平成24年)2月 目黒線を含む東急全線で[[駅ナンバリング]]を導入。目黒線の路線記号は「MG」。
* [[2019年]](平成31年・令和元年)
** 時期不明 平日朝(7:30-9:00頃)の武蔵小山駅での待避方法を交互発着に変更。これは待避線に次の各停を入線させると入線に時間がかかることから遅延防止のため、主本線で急行を待避する各停が設定される。
** [[11月22日]] [[東急2020系電車#3020系|3020系]]の営業運転を開始。
* [[2020年]](令和2年)3月14日 奥沢駅工事に伴い、ダイヤ改正で奥沢行最終列車を大岡山駅まで延長。
* [[2022年]](令和4年)
** [[1月27日]] [[相鉄新横浜線]]との相互直通運転を決定<ref name="tokyu220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220127-2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220215025051/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220127-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月(予定)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業!鉄道がもっと便利になります~神奈川県央地域及び横浜市西部から東京・埼玉に至る広域的な鉄道ネットワークの形成~|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-02-15|archivedate=2022-02-15}}</ref><ref name="jrtt20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/corporate/public_relations/pdf/st-20220127.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127094219/https://www.jrtt.go.jp/corporate/public_relations/pdf/st-20220127.pdf|format=PDF|language=日本語|title=相鉄・東急直通線の工事等の状況及び開業予定時期について|publisher=独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構/相模鉄道/東急電鉄|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref>。
** [[3月12日]] [[奥沢駅]]の待避設備を供用開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20211217-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217081451/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20211217-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年3月12日(土)東横線・目黒線・田園都市線など東急線5路線でダイヤ改正を実施|publisher=東急電鉄|date=2021-12-17|accessdate=2022-01-24|archivedate=2021-12-17}}</ref>。
** [[4月1日]] 東急車による8両編成の運行を開始。この時点では南北線系統のみで運転<ref name="press20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220127-3.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127093706/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20220127-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年4月上旬から目黒線において8両編成列車の営業を順次開始 〜更なる輸送力増強を実施し、より安心してご利用いただける鉄道を目指します〜|publisher=東急電鉄|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref name="railf20220409">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2022/04/09/201000.html|title=東急目黒線・東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線で8両編成の運転開始|website=鉄道ファン・railf.jp|work=鉄道ニュース]|publisher=交友社|date=2022-04-09|archivedate=2022-04-09|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220409123619/https://railf.jp/news/2022/04/09/201000.html|deadlinkdate=}}</ref>。
** [[5月15日]] 都営6500形による8両編成の運行を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2022/sub_i_2022051110460_h.html|title=三田線における6500形車両の運行予定について|publisher=東京都交通局|date=2022-05-11|accessdate=2022-05-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2022/05/15/180000.html|title=東京都交通局6500形が営業運転を開始|website=鉄道ファン・railf.jp|work=鉄道ニュース|publisher=交友社|date=2022-05-15|accessdate=2022-05-17|quote=翌15日(日)には東急目黒線に直通する運用に入り,目黒線内を急行列車として走る姿(写真)もあり,}}</ref>。
** 9月 目黒線の[[発車メロディー|発車サイン音]]を2023年3月中までに更新<ref>[https://web.archive.org/web/20220826055025/https://www.tokyu.co.jp/information/list/Pid=post_656.html 2022年9月以降、目黒線の発車サイン音(発車メロディ)を更新します] - 東急電鉄お知らせリリース 2022年8月26日閲覧</ref>。
** [[10月16日]] デジタル無線の使用開始。
* [[2023年]](令和5年)
** 3月18日 同日開業した[[東急新横浜線]]を経由して相鉄新横浜線・[[相鉄本線]]・[[相鉄いずみ野線]]との相互直通運転を開始<ref name="tokyu20221216" /><ref name="sotetsu20221216" />。[[武蔵小山駅]]始発日吉行の列車が設定される<ref>https://transfer.navitime.biz/tokyu/smart/diagram/Search?linkId=00000791&startId=00007964&nodeType=station&direction=down</ref>。相鉄21000系による8両編成の運行を開始。
** [[12月18日]] 東京メトロ9000系による8両編成の運行を開始。
* [[2024年]](令和6年)[[1月20日]] 東急新横浜線を含む[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]での列車停止位置を[[新横浜駅]]側へ変更<ref name="tokyu20231222">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/231222_d_hiyosi_0.pdf|format=PDF|date=2023-12-22|language=日本語|title=日吉駅の目黒線・東急新横浜線の列車停止位置変更について~1月20日(土)より列車停止位置が変更になります~|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-12-22}}</ref>(予定)。
== 使用車両 ==
=== 自社車両 ===
目蒲線時代は池上線同様、[[東急3000系電車 (初代)|初代3000系]]や[[東急5000系電車 (初代)|初代5000系]]が最後まで使用され、近代化が立ち遅れた路線だった。
* [[東急2020系電車#3020系|3020系]](8両編成) <ref name="tokyu20190326">{{Cite press release |和書 |title=目黒線の混雑緩和と快適性向上を実現 当社保有車両の8両編成化による輸送力増強と新型車両3020系の導入 |publisher=東京急行電鉄 |date=2019-03-26 |url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20190326-3.pdf |format=PDF |accessdate=20191-03-27}}</ref> - [[東急2020系電車#6020系|6020系]]をベースにした車両で、2019年11月下旬に運用を開始した。
* [[東急5000系電車 (2代)#5080系|5080系]](8両編成)
* [[東急3000系電車 (2代)|3000系]](8両編成)
<gallery widths="200">
Tokyu-Series3020-3821.jpg|3020系
Tokyu-Series5080-Meguro-Line.jpg|5080系
Tokyu-Series3000-3813.jpg|3000系
</gallery>
=== 乗り入れ車両 ===
;[[東京地下鉄|東京メトロ]]
:*[[営団9000系電車|9000系]](6・8両編成)
<gallery widths="200">
Tokyo Metro 9122 Tamagawa 20170710.jpg|9000系(5次車)
Tokyo-Metro-Series9000R-Lot-1.jpg|9000系(1 - 4次車、B修工事施工車)
Tokyo-Metro-Series9000-Lot-2.jpg|9000系(1 - 4次車)
</gallery>
;[[東京都交通局]]
:*[[東京都交通局6500形電車 (鉄道)|6500形]](8両編成) <ref> https://railf.jp/news/2022/05/15/180000.html </ref>
:* [[東京都交通局6300形電車|6300形]](6両編成)
<gallery widths="200">
Toei Series6500-6502.jpg|6500形
Toei-Type6300-6332.jpg|6300形
</gallery>
; [[埼玉高速鉄道]]
:* [[埼玉高速鉄道2000系電車|2000系]](6両編成)
<gallery widths="200">
Saitama-Series2000 2107.jpg|2000系
</gallery>
; [[相模鉄道]]
:* [[相鉄20000系電車#21000系|21000系]](8両編成)
<gallery widths="200">
ファイル:相鉄20000系 21106F.jpg|21000系
</gallery>
=== 列車番号と車両運用 ===
どの列車がどの車両で運転されるかは[[列車番号]]末尾のアルファベットにより区別しており、「'''K'''」が東急の車両(01K - 48K)、「'''T'''」が都営地下鉄の車両(21T - 89Tの奇数番号)、「'''S'''」が東京メトロの車両(30S - 70Sの偶数番号)、「'''M'''」が埼玉高速鉄道の車両(80M - 96Mの偶数番号)、「'''G'''」が相鉄の車両(31G - 43G)<ref>{{Cite web|和書|title=相鉄と東急が3月18日改正後のダイヤを発表 東急車の相鉄横浜駅入線も |url=https://www.tetsudo.com/column/438/ |publisher=鉄道コム |date=2023-02-19 |accessdate=2023-06-07}}</ref>となっている。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』([[交通新聞社]])の[[列車番号]]欄にも掲載されている。
また、6桁の数字で表記されている目黒線内の列車番号では上1桁が車両の所属元を表し、2が東急の車両、3が東京メトロの車両、4が都営地下鉄の車両、5が埼玉高速鉄道の車両、6が相鉄の車両となっている。次の上2桁が運用番号を表す(例えば「01K」の場合は目黒線内は「201」となる)。
従来は三田線運用と南北線・埼玉高速鉄道線運用とで別々に組まれていたが、2023年3月18日改正以降は相鉄線内での折り返しで番号を切り替えて両方に乗り入れる運用も設定されており、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)が同一車両で運転されている。そのことから一部の運用番号が欠番となっている。
各事業者間の走行距離調整の関係上、東急車及び相鉄車は目黒線に乗り入れない列車(白金高輪折り返しなど)や、東急車は乗り入れ区間外となる相鉄本線の西谷駅 - 横浜駅間でも使用されている(後者は東横線車両とともに運用)。
== 列車種別 ==
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; float:right;"
|+ 日中の運行パターン
|-
!colspan="2"|種別\駅名
!南北線・<br />埼玉スタジアム線・<br />三田線直通
!style="width:1em;"|目黒
!…
!style="width:1em;"|日吉
!東急新横浜線・<br />相鉄線直通
|-
!rowspan="6"|運行<br />本数
|rowspan="3" style="background:pink;"|急行
|style="text-align:right;"|←浦和美園
|colspan="3" style="background:pink;"|1本
|rowspan="2" style="text-align:left;"|新横浜→
|-
|style="text-align:right;"|←赤羽岩淵
|colspan="3" style="background:pink;"|1本
|-
|style="text-align:right;"|←西高島平
|colspan="3" style="background:pink;"|2本
|style="text-align:left;"|海老名→
|-
|rowspan="3" style="background:lightblue;"|各停
|style="text-align:right;"|←浦和美園
|colspan="3" style="background:lightblue;"|2本
|rowspan="3" style="text-align:left;"|<small>(日吉折り返し)</small>
|-
|style="text-align:right;"|←赤羽岩淵
|colspan="3" style="background:lightblue;"|2本
|-
|style="text-align:right;"|←西高島平
|colspan="3" style="background:lightblue;"|4本
|}
急行と各駅停車が運行されている。
=== 急行 ===
所要時間は目黒駅 - 日吉駅間で最短16分。日中は1時間に4本運転されており、このうち1本が新横浜駅 - 埼玉高速鉄道線浦和美園駅間、1本が新横浜駅 - 南北線赤羽岩淵駅間<ref name="Extra" group="注釈">[[埼玉スタジアム2002]]で[[サッカー]]試合開催日は、一部列車が浦和美園駅まで延長運転される。</ref>、2本が相鉄線・海老名駅 - 都営三田線西高島平駅間の運転となる。2018年3月30日のダイヤ改正後は鳩ヶ谷駅発着の一部列車が赤羽岩淵駅発着となる。線内のみの列車は設定されておらず、すべて東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線に直通する。以前はほぼ全列車が武蔵小山駅で各駅停車と接続していたが、2023年3月18日改正で平日朝の上りは原則として奥沢駅での追い抜きに変更された(一部列車は両方とも行い各駅停車を2本追い抜く)。大半の列車は相鉄線内または新横浜駅発着だが、朝夕の一部列車は日吉駅、武蔵小杉駅発着となる。その他にも三田線高島平駅発着の列車や、南北線王子神谷行きの列車が設定されている。なお、乗り入れ先の南北線、埼玉高速鉄道線、三田線は目黒方面のみ「急行」表示を行い、浦和美園・西高島平方面では「各停」または「各駅停車」表示となる。
以前は日中の急行は武蔵小杉駅にて[[東急東横線|東横線]]の特急列車に接続(日吉行き⇔[[元町・中華街駅|元町・中華街]]方面、目黒方面⇔渋谷方面でそれぞれ接続)していた。これにより、目黒方面と元町・中華街方面との連絡の利便性が考慮されていたほか、特急の停車しない日吉駅から東横線渋谷方面、同じく特急の停車しない田園調布駅・多摩川駅から東横線元町・中華街方面への速達列車利用機会を補完する面も兼ねていた。ただし接続列車としては正式に案内しておらず、どちらかが遅れると接続を行わないこともあった。その後、2013年3月16日ダイヤ改正より、東横線と目黒線の並走区間において、到着時刻を意図的にずらすこととなったため、現在は東横特急([[Fライナー]])と目黒線急行の接続はしなくなっている他、白金高輪駅での始発終着列車との接続列車にもなっていない。
基本的に赤色で表記される。
==== みなとみらい号 ====
2004年より特定日に、浦和美園駅と高島平駅より[[元町・中華街駅]]までの臨時列車「[[みなとみらい号]]」が運行されていた。2006年8月運転分までは、東横線とみなとみらい線内のみが急行運転だったが、同年12月運転分から目黒線内も急行運転に変更された。2012年以降は設定されていない。
2006年8月運転分までは終点の武蔵小杉駅で東横線への転線を行っていたが、同年12月運転分からは武蔵小杉駅 - 日吉駅間の複々線(高架)化工事の影響で武蔵小杉駅からの転線ができなくなったため、田園調布駅での転線となった。その後目黒線が日吉駅に延長した2008年7月運転分より日吉駅での転線に変更となったものの、2011年の運転では再び田園調布駅での転線に変更した。
=== 各停 ===
乗り入れ先を含めた各駅に停車する。一部列車は武蔵小山駅で急行と接続する他、奥沢待避列車もある。終日において日吉駅から南北線・三田線に直通するがラッシュ時間帯は新横浜駅発着列車および相鉄線直通列車が、早朝と夜間を中心に奥沢駅・武蔵小杉駅発着区間列車が数本設定されており、一部列車は目黒駅 - 日吉駅間のみ運転の線内折り返しとなる。東急新横浜線開業と同時に早朝に武蔵小山駅始発の日吉方面が設定された。また、新横浜駅周辺で[[コンサート]]や[[サッカー]]などの大規模イベント開催時には三田線系統を中心に新横浜駅まで延長運転される<ref>https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/230310_ST_newsletter9.pdf</ref>。
「みなとみらい号」は、2006年8月運転分まで各駅停車で運転していた。
フルカラーLEDは青色、3色LEDは緑色で表記される。
== 利用状況 ==
2020年度の朝ラッシュ時の最混雑区間は[[不動前駅]] → [[目黒駅]]間で、ピーク時(7:50 - 8:50)の[[乗車率|混雑率]]は'''126%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref><ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref>。
1989年度に4両編成となってから混雑率は150%を下回り、1999年度まで輸送量は減少傾向が続いた。2000年度に目蒲線から目黒線へ分離し、南北線・三田線との直通運転を開始してから輸送人員が増加した。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
! 年度 !! 両数×運転本数 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% !! 1両平均定員 !! 備考<!-- 統計は「年度」なので、3月までのトピックは前年度のことになります。-->
|-
|1955年(昭和30年)
| 中型3両×17 || 6,630 || 11,572 || style="background-color: #ccffcc;"|'''175'''||134
|style="text-align:left;"|目蒲線
|-
|1965年(昭和40年)
| 中型3両×20 || 7,800 || 16,103 || style="background-color: #ffcccc;"|'''206'''||130
|
|-
|1970年(昭和45年)
| 中型3両×24 || 8,690 || 14,173 || '''173'''||121
|
|-
|1975年(昭和50年)
| 中型3両×23 || 7,521 || 13,923 || '''185'''||109
|
|-
|1980年(昭和55年)
|中型3両×24|| 7,848 || 13,342 || '''170'''||109
|
|-
|1985年(昭和60年)
|rowspan="4"|中型3両×23|| rowspan="4"|7,935 || 12,951 || '''163'''||rowspan="4"|115
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 13,549 || '''171'''
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 13,422 || '''169'''
|
|-
|1988年(昭和63年)
| 13,210 || '''166'''
|
|-
|1989年(平成元年)
| rowspan="11"|中型4両×19 || rowspan="11"|9,424 || 12,964 || '''138'''||rowspan="11"|124
|style="text-align:left;"|オールステンレス車両化・4両編成化
|-
|1990年(平成2年)
| 13,231 || '''140'''
|
|-
|1991年(平成3年)
| 13,423 || '''142'''
|
|-
|1992年(平成4年)
| 13,657 || '''145'''
|
|-
|1993年(平成5年)
| 12,664 || '''134'''
|
|-
|1994年(平成6年)
| 12,003 || '''127'''
|
|-
|1995年(平成7年)
| 11,664 || '''124'''
|
|-
|1996年(平成8年)
| 11,664 || '''124'''
|
|-
|1997年(平成9年)
| 10,934 || '''116'''
|
|-
|1998年(平成10年)
| 10,874 || '''115'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| style="background-color: #ccffcc;"|10,245 || style="background-color: #ccffff;"|'''109'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| rowspan="3"|大型6両×15 || 12,720 || 17,691 || '''139'''||141
| style="text-align:left;"|8月6日、目黒線開業(9月26日、南北線・三田線と直通運転開始。<br/>2001年3月28日埼玉高速鉄道と直通運転開始)
|-
|2001年(平成13年)
| rowspan="2"|13,290 || 21,369 || '''161'''|| rowspan="20" |148
|
|-
|2002年(平成14年)
| 22,031 || '''166'''
|
|-
|2003年(平成15年)
| rowspan="3"|大型6両×17 || rowspan="3"|15,062 || 22,695 || '''151'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 23,495 || '''156'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 23,662 || '''157'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| rowspan="2"|大型6両×21 || rowspan="2"|18,606 || 27,316 || '''147'''
|style="text-align:left;"|9月25日、急行運転開始
|-
|2007年(平成19年)
| 29,417 || '''158'''
|style="text-align:left;"|2008年3月30日、横浜市営地下鉄グリーンライン開業
|-
|2008年(平成20年)
| rowspan="13" |大型6両×24 || rowspan="13" |21,264 || 33,581 || '''158'''
|style="text-align:left;"|6月22日、武蔵小杉 - 日吉間開業
|-
|2009年(平成21年)
| 34,895 || '''164'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 33,677 || '''158'''
|
|-
|2011年(平成23年)
| 33,179 || '''156'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 32,873 || '''155'''
|style="text-align:left;"|2013年3月16日、東横線渋谷駅が地下化、副都心線と直通運転開始
|-
|2013年(平成25年)
| 33,220 || '''156'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 34,196 || '''161'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 35,252 || '''162'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 36,193 || '''170'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 36,265 || '''171'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 36,946 || '''174'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| style="background-color: #ffcccc;"|37,766 || '''178'''
|
|-
|2020年(令和2年)
| style="background-color: #ccffff;"|26,757 || '''126'''
|
|}
== 駅一覧 ==
田園調布駅 - 日吉駅間の複々線区間で並走している東横線の停車駅などについては「[[東急東横線#駅一覧|東横線]]」を参照。日吉駅 - 新横浜駅間の東急新横浜線の停車駅などについては「[[東急新横浜線#駅一覧|東急新横浜線]]」を参照。
{{色|節}}
* 色はステーションカラーを表す。
* 接続路線の () 内の英数字はその路線の[[駅ナンバリング|駅番号]]を表す。
* 停車駅 … ●:停車、|:通過<br/>各駅停車はすべての駅に停車する(表では省略)。
* 駅番号は、[[2012年]]2月上旬から順次導入<ref>[http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/120126-1.html 東急線全駅で駅ナンバリングを導入します] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121119182520/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/120126-1.html |date=2012年11月19日 }} - 東京急行電鉄、2012年1月26日、2012年1月26日閲覧。</ref>。
* [[武蔵小山駅]]と[[奥沢駅]]の上り線で列車待避が可能。
{|class="wikitable" rules="all"
!style="width:1em; line-height:1em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|{{縦書き|正式路線名}}
!style="width:4em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|駅名
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|色
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|累計キロ
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #009cd2; background:pink;"|{{縦書き|急行}}
!style="border-bottom:3px solid #009cd2;"|接続路線・備考
!style="width:2.5em; line-height:1em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|地上/<br />地下
!colspan="2" style="border-bottom:3px solid #009cd2;"|所在地
|-
!colspan="6"|直通運転区間
|colspan="5"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] [[東京メトロ南北線]]経由 [[File:Saitama Stadium Line symbol.svg|SR|18px]] [[埼玉高速鉄道線]](埼玉スタジアム線)[[浦和美園駅]]まで<br/>[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|I]] [[都営地下鉄三田線|都営三田線]][[西高島平駅]]まで
|-
|rowspan="8" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|'''目黒線'''|height=4em}}
!MG01
|[[目黒駅]]
|style="background-color:#00ddff;"|
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background:pink;"|●
|[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] '''南北線 (N-01)(直通運転:上記参照)'''<br/>[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|I]] '''三田線 (I-01)(直通運転:上記参照)'''<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 22)
|style="text-align:center; background-color:#ccc; width:2.5em; line-height:1em;"|地下
|rowspan="10" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=4em}}
|rowspan="4"|[[品川区]]
|-
!MG02
|[[不動前駅]]
|style="background-color:#49ff00;"|
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:center; background:pink;"||
|
|style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:2.5em; line-height:1em;"|地上
|-
!MG03
|[[武蔵小山駅]]
|style="background-color:#e7de32;"|
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:center; background:pink;"|●
|
|rowspan="4" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:2.5em; line-height:2em;"|地下<br/><ref group="*">西小山駅 - 洗足駅間と洗足駅 - 大岡山駅間に掘割または地上区間あり(踏切はなし)。</ref>
|-
!MG04
|[[西小山駅]]
|style="background-color:#ff8e8e;"|
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:center; background:pink;"||
|
|-
!MG05
|[[洗足駅]]
|style="background-color:#0039c0;"|
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:center; background:pink;"||
|
|[[目黒区]]
|-
!MG06
|[[大岡山駅]]
|style="background-color:#ffa93f;"|
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:center; background:pink;"|●
|[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu OM line symbol.svg|18px|OM]] [[東急大井町線|大井町線]] (OM08)
|[[大田区]]
|-
!MG07
|[[奥沢駅]]
|style="background-color:#00c09f;"|
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:center; background:pink;"||
|車両基地所在駅
|style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:2.5em; line-height:1em;"|地上
|style="white-space:nowrap;"|[[世田谷区]]
|-style="height:1em;"
!rowspan="2"|MG08
|rowspan="2"|[[田園調布駅]]
|rowspan="2" style="background-color:#00c069;"|
|rowspan="2" style="text-align:right;"|1.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|6.5
|rowspan="2" style="text-align:center; background:pink;"|●
|rowspan="2"|東急電鉄:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線|東横線]] (TY08) 〈[[中目黒駅|中目黒]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面〉
|rowspan="2" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:2.5em; line-height:1em;"|地下
|rowspan="3"|大田区
|-
|rowspan="6" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|東横線|height=4em}}
|-
!MG09
|[[多摩川駅]]
|style="background-color:#0000ff;"|
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|7.3
|style="text-align:center; background:pink;"|●
|東急電鉄:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] 東横線 (TY09)・[[ファイル:Tokyu TM line symbol.svg|18px|TM]] [[東急多摩川線]] (TM01)
|rowspan="5" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:2.5em; line-height:2em;"|地上
|-
!MG10
|[[新丸子駅]]
|style="background-color:#c0562f;"|
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|8.6
|style="text-align:center; background:pink;"||
|東急電鉄:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] 東横線 (TY10)
| rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;" |{{縦書き|[[神奈川県]]|height=5em}}
|rowspan="3"|[[川崎市]]<br/>[[中原区]]
|-
!MG11
|[[武蔵小杉駅]]
|style="background-color:#ffff00;"|
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|9.1
|style="text-align:center; background:pink;"|●
|東急電鉄:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] 東横線 (TY11)(特急接続)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JN line symbol.svg|18px|JN]] [[南武線]] (JN 07)・[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]] (JO 15)・[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 15)・[[相鉄・JR直通線]]([[ファイル:JR_JA_line_symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]]直通) (JS 15)
|-
!MG12
|[[元住吉駅]]
|style="background-color:#004000;"|
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|10.4
|style="text-align:center; background:pink;"||
|東急電鉄:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] 東横線 (TY12)<br />車両基地所在駅
|-
!MG13
|[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]
|style="background-color:#00407f;"|
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|11.9
|style="text-align:center; background:pink;"|●
|東急電鉄:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] 東横線 (TY13) 〈[[横浜駅|横浜]]方面〉・[[ファイル:Tokyu_SH_line_symbol.svg|18px|SH]]''' 東急新横浜線 (SH03)(直通運転:下記参照)'''<br/>[[横浜市営地下鉄]]:[[File:Yokohama Municipal Subway Green Line symbol.svg|18px|G]] [[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]] (G10)
|[[横浜市]]<br/>[[港北区]]
|-style="border-top:2px solid #8a1186;"
!colspan="6"|直通運転区間
|colspan="5"|[[ファイル:Tokyu_SH_line_symbol.svg|18px|SH]] [[東急新横浜線]]・[[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄新横浜線]]経由 [[ファイル:Sotetsu_line_symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線]][[海老名駅]]、[[ファイル:Sotetsu_line_symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄いずみ野線]][[湘南台駅]]まで
|}
{{Reflist|group="*"}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="東洋経済">[https://toyokeizai.net/articles/-/232818 都営三田線「8両化」乗り入れ各社はどう動く?新車は近畿車輛が落札、目黒線も駅改修進む] - 東洋経済オンライン。2018年7月30日発信、同年8月20日閲覧。</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{cite journal | 和書 | journal = MY LINE 東京時刻表 | volume = 各号 | publisher = [[交通新聞社]] }}
* {{cite journal | 和書 | journal = [[鉄道ダイヤ情報]] | date = 2001-02 | title = 特集:東京急行電鉄2001 | publisher = 交通新聞社 }}
* {{cite journal | 和書 | journal = [[鉄道ジャーナル]] | date = 2010-11 | publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}
* {{cite journal | 和書 | journal = 運転協会誌 | date = 2006-07 | title = ワンマン運転特集「東急電鉄のワンマン運行システム - 線区特性に応じた3つのワンマンシステム - 」| publisher = [[日本鉄道運転協会]] }}
* 日本鉄道運転協会『運転協会誌』2006年12月号ダイヤ改正特集「2006年9月東急線ダイヤ改正 - 目黒線急行運転開始と東横線スピードアップ - 」pp.13 - 16(小林 満 東京急行電鉄(株)鉄道事業本部運転車両部運転計画課)
* 日本鉄道運転協会『運転協会誌』2008年10月号「東京急行電鉄 さらに便利に!東急目黒線が日吉まで延伸」pp.41 - 43(石田 健二 東京急行電鉄(株)鉄道事業本部運転車両部運転計画課 主事)
* 『東急電鉄まるまる一冊』(JTBパブリッシング)
* 『東急電鉄まるごと探検』(JTBパブリッシング)
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[神奈川東部方面線]]
* [[Train Simulator+電車でGO! 東京急行編]] - 目黒線が収録されており(奥沢 - 大岡山間・PS2版のみ)、運転することができる。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Tōkyū Meguro Line}}
* [https://www.tokyu.co.jp/railway/data/train_line/mg.html 目黒線路線情報] - 東急電鉄
* [https://www.tokyu.co.jp/railway/station/mg.html 目黒線各駅情報] - 東急電鉄
{{東急電鉄の路線}}
{{デフォルトソート:とうきゆうめくろせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|めくろせん]]
[[Category:東急電鉄の鉄道路線|めくろ]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:神奈川県の交通]]
|
2003-07-18T05:51:51Z
|
2023-12-25T06:36:04Z
| false | false | false |
[
"Template:Cite press release",
"Template:Cite journal",
"Template:Cite web",
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"Template:Infobox 鉄道路線",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%9B%AE%E9%BB%92%E7%B7%9A
|
11,695 |
行政代執行
|
行政代執行(ぎょうせいだいしっこう)とは、行政上の強制執行の一種。義務者が行政上の義務を履行しない場合に、行政庁が、自ら義務者のなすべき行為をなし、又は第三者をしてこれをなさしめ、その費用を義務者から徴収することをいう(行政代執行法1条、2条)。単に「代執行」ともいう。 行政代執行法について以下では、条数のみ記載する。
|
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}
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行政代執行(ぎょうせいだいしっこう)とは、行政上の強制執行の一種。義務者が行政上の義務を履行しない場合に、行政庁が、自ら義務者のなすべき行為をなし、又は第三者をしてこれをなさしめ、その費用を義務者から徴収することをいう(行政代執行法1条、2条)。単に「代執行」ともいう。
行政代執行法について以下では、条数のみ記載する。
|
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{{Pathnav|行政|行政上の強制執行|frame=2}}
'''行政代執行'''(ぎょうせいだいしっこう)とは、[[行政上の強制執行]]の一種。義務者が行政上の義務を履行しない場合に、行政庁が、自ら義務者のなすべき行為をなし、又は第三者をしてこれをなさしめ、その費用を義務者から徴収することをいう([[s:行政代執行法#1|行政代執行法1条]]、[[s:行政代執行法#2|2条]])。単に「代執行」ともいう。なお、地方自治体が法令に違反した事務を行ったり事務を怠ったりした場合に国や都道府県が行う、[[地方自治法]]上の代執行とは異なる。[[行政代執行法]]について以下では、条数のみ記載する。
==概要==
; 要件
: 代執行の対象となるのは、法律等([[法律]]のほか、法律の委任に基づく命令、規則及び[[条例]]を含む)により直接命ぜられた行為、又は法律等に基づき[[行政庁]]により命ぜられた行為のうち、他人が代わってなすことのできるもの(代替的作為義務)である(2条)。また、他の手段によってその履行を確保することが困難であり、かつその不履行を放置することが著しく公益に反すると認められることを要する{{efn|行政代執行法は行政に対して代執行の実施を義務付けるものではないが、社会通念に照らし著しく不合理な状態で代執行を行わず、重大な被害を生じせしめた場合には、行政の損害賠償責任が認められる事がある<ref>{{Citation|和書|title=行政法読本|author=芝池義一|author-link=芝池義一|year=2016|edition=第4版|chapter=第10講 行政による強制|isbn=978-4-641-13194-1|oclc=945626591|page=143}}</ref>。}}(同条)。
; 手続
: 代執行をなすには、原則として、相当の履行期限を定め、その期限までに履行がなされないときは、代執行をなすべき旨を、あらかじめ文書で戒告しなければならない([[s:行政代執行法#3|3条]]1項)。
: 義務者が、この戒告を受けて、指定の期限までにその義務を履行しないときは、当該行政庁は、代執行令書をもって、義務者に通知する(3条2項)。
:
: 代執行令書の記載事項(3条2項)
:# 代執行をなすべき時期
:# 代執行のために派遣する執行責任者の氏名
:# 代執行に要する費用の概算による見積額
:
: 非常の場合又は危険切迫の場合において、当該行為の急速な実施について緊急の必要があり、戒告する手続をとる暇がないときは、その手続を経ないで代執行をすることができる(3条3項)。
:
: 代執行に要した費用の徴収については、実際に要した費用の額及びその納期日を定め、義務者に対し、文書をもってその納付を命じなければならない([[s:行政代執行法#5|5条]])。
:
: 代執行に要した費用は、[[国税]][[滞納処分]]の例により、建物及び土地の所有者に請求することができる([[s:行政代執行法#6|6条]]1項)。(所有者が不明な場合を除く)
*簡易代執行(略式代執行)
;救済制度
*取消訴訟
*国家賠償
==関連する法律==
* [[建築基準法]] 第9条12項
*: 特定行政庁は、必要な措置を命じた場合において、その措置を命ぜられた者がその措置を履行しないとき、履行しても十分でないとき、又は履行しても期限までに完了する見込みがないときは、行政代執行法の定めるところに従い、みずから義務者のなすべき行為をし、又は第三者をしてこれをさせることができる。
* [[土地収用法]]
* [[空家等対策の推進に関する特別措置法]] - [[空き家条例]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[行政]]
*[[収用]]
*[[収用委員会]]
*[[成田空港予定地の代執行]]
{{デフォルトソート:きようせいたいしつこう}}
[[Category:日本の行政強制]]
|
2003-07-18T05:59:18Z
|
2023-12-29T04:19:24Z
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[
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"Template:Reflist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C
|
11,698 |
行政上の強制執行
|
行政上の強制執行(ぎょうせいじょうのきょうせいしっこう)とは、行政強制のうち行政上の義務の不履行に対し、行政権の主体が将来に向かって実力をもって、その義務を履行させ、又はその履行があったと同様の状態を実現させる作用をいう。
私法上の義務の強制は、自力救済禁止の原則により私人自らが行うことができず、司法権の作用(民事上の強制執行・司法的強制)として行われる。これに対し行政上の義務の強制は、迅速性が求められる場合があることや行政自身が公共的性格を持つことなどから、行政権の主体が司法権に頼らず自らが行うことができる。
行政上の強制執行は、義務の履行を強制するために、通常、国民の身体又は財産に対し新たな侵害を加えることを内容とするものであることから、常に法律の定める要件に従い、その厳重な制約の下に行わなければならない。このようなことから、行政上の強制執行について、一般的な根拠法として行政代執行法及び多くの法律で準用される事実上の根拠法として国税徴収法があるほか、土地収用法第102条の2などのように、それぞれの行政法規のなかに具体的に規定されている。
条例が根拠法となるかについては争いがあるが、行政代執行以外は、認められないとするのが通説である(行政代執行法第2条の反対解釈)。
例えば、
などがある。
代替的作為義務(他人が代わってなすことができる行為の義務)に関する強制執行手続き。行政自らが是正の措置をとる。
義務の不履行があった場合、直接に義務者の身体や財産に実力を加えること。例外的に個々の法令で認められる。
義務の不履行に対して、過料を課すことを通告し履行を促し、履行しないときは、徴収することによって将来に向かって義務の履行を強制すること。義務の履行があるまで何度でも課すことができ、刑事罰や行政罰との併科も可能。
公法上の金銭債権を滞納処分の手続きにより自ら強制的に取立てること。法律上は「滞納処分」と呼ばれる。 国税または地方税はそれぞれの法の定めに従い強制徴収される。 それ以外の公法上の金銭債権は個別法に「国税滞納処分の例による」などの定めがないときは、当然に強制徴収の対象とはならない。
行政上の強制執行ができない場合、民事上の強制執行によるとするのが通説である。しかし、最高裁は、平成14年7月9日、「国又は地方公共団体が専ら行政権の主体として国民に対して行政上の義務の履行を求める訴訟は、裁判所法3条1項にいう法律上の争訟に当たらず、これを認める特別の規定もないから、不適法というべきである」とした(宝塚市パチンコ店規制条例事件)。
行政上の強制執行ができる場合、「簡易迅速な行政上の強制徴収の手段によらしめることが、もつとも適切かつ妥当」であり、「法律上特にかような独自の強制徴収の手段を与えられていながら、この手段によることなく、一般私法上の債権と同様、訴えを提起し、民訴法上の強制徴収の手段によつてこれらの債権の実現を図ることは、前示立法の趣旨に反」するため、民事上の強制執行はできない(最高裁判決昭和41年2月23日)とするのが通説・判例である。
|
[
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"text": "行政上の強制執行(ぎょうせいじょうのきょうせいしっこう)とは、行政強制のうち行政上の義務の不履行に対し、行政権の主体が将来に向かって実力をもって、その義務を履行させ、又はその履行があったと同様の状態を実現させる作用をいう。",
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{
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"text": "私法上の義務の強制は、自力救済禁止の原則により私人自らが行うことができず、司法権の作用(民事上の強制執行・司法的強制)として行われる。これに対し行政上の義務の強制は、迅速性が求められる場合があることや行政自身が公共的性格を持つことなどから、行政権の主体が司法権に頼らず自らが行うことができる。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "行政上の強制執行は、義務の履行を強制するために、通常、国民の身体又は財産に対し新たな侵害を加えることを内容とするものであることから、常に法律の定める要件に従い、その厳重な制約の下に行わなければならない。このようなことから、行政上の強制執行について、一般的な根拠法として行政代執行法及び多くの法律で準用される事実上の根拠法として国税徴収法があるほか、土地収用法第102条の2などのように、それぞれの行政法規のなかに具体的に規定されている。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "条例が根拠法となるかについては争いがあるが、行政代執行以外は、認められないとするのが通説である(行政代執行法第2条の反対解釈)。",
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{
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"text": "例えば、",
"title": "例"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "などがある。",
"title": "例"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "代替的作為義務(他人が代わってなすことができる行為の義務)に関する強制執行手続き。行政自らが是正の措置をとる。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "義務の不履行があった場合、直接に義務者の身体や財産に実力を加えること。例外的に個々の法令で認められる。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "義務の不履行に対して、過料を課すことを通告し履行を促し、履行しないときは、徴収することによって将来に向かって義務の履行を強制すること。義務の履行があるまで何度でも課すことができ、刑事罰や行政罰との併科も可能。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "公法上の金銭債権を滞納処分の手続きにより自ら強制的に取立てること。法律上は「滞納処分」と呼ばれる。 国税または地方税はそれぞれの法の定めに従い強制徴収される。 それ以外の公法上の金銭債権は個別法に「国税滞納処分の例による」などの定めがないときは、当然に強制徴収の対象とはならない。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "行政上の強制執行ができない場合、民事上の強制執行によるとするのが通説である。しかし、最高裁は、平成14年7月9日、「国又は地方公共団体が専ら行政権の主体として国民に対して行政上の義務の履行を求める訴訟は、裁判所法3条1項にいう法律上の争訟に当たらず、これを認める特別の規定もないから、不適法というべきである」とした(宝塚市パチンコ店規制条例事件)。",
"title": "民事上の強制執行との関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "行政上の強制執行ができる場合、「簡易迅速な行政上の強制徴収の手段によらしめることが、もつとも適切かつ妥当」であり、「法律上特にかような独自の強制徴収の手段を与えられていながら、この手段によることなく、一般私法上の債権と同様、訴えを提起し、民訴法上の強制徴収の手段によつてこれらの債権の実現を図ることは、前示立法の趣旨に反」するため、民事上の強制執行はできない(最高裁判決昭和41年2月23日)とするのが通説・判例である。",
"title": "民事上の強制執行との関係"
}
] |
行政上の強制執行(ぎょうせいじょうのきょうせいしっこう)とは、行政強制のうち行政上の義務の不履行に対し、行政権の主体が将来に向かって実力をもって、その義務を履行させ、又はその履行があったと同様の状態を実現させる作用をいう。
|
{{law}}
{{Pathnav|行政|frame=1}}
'''行政上の強制執行'''(ぎょうせいじょうのきょうせいしっこう)とは、[[行政強制]]のうち行政上の[[義務]]の不履行に対し、行政権の主体が将来に向かって実力をもって、その義務を履行させ、又はその履行があったと同様の状態を実現させる作用をいう<ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=強制執行 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 |accessdate=2022-05-21}}</ref>。
== 概要 ==
私法上の義務の強制は、[[自力救済]]禁止の原則により私人自らが行うことができず、[[司法|司法権]]の作用(民事上の[[強制執行]]・司法的強制)として行われる。これに対し行政上の義務の強制は、迅速性が求められる場合があることや行政自身が公共的性格を持つことなどから、行政権の主体が司法権に頼らず自らが行うことができる{{sfn|芝池|2016|pp=134-148}}。
行政上の強制執行は、義務の履行を強制するために、通常、国民の身体又は財産に対し新たな侵害を加えることを内容とするものであることから、常に法律の定める要件に従い、その厳重な制約の下に行わなければならない。このようなことから、行政上の強制執行について、一般的な根拠法として行政代執行法及び多くの法律で準用される事実上の根拠法として[[国税徴収法]]があるほか、[[土地収用法]]第102条の2などのように、それぞれの行政法規のなかに具体的に規定されている{{sfn|芝池|2016|pp=134-148}}。
[[条例]]が根拠法となるかについては争いがあるが、[[行政代執行]]以外は、認められないとするのが通説である(行政代執行法第2条の反対解釈)。
== 例 ==
例えば、
* [[警察]]上の強制執行
* [[税金]]の強制徴収
* 違法[[建築物]]の強制的な取り壊し
などがある。
== 種類 ==
=== 行政代執行 ===
{{Main|行政代執行}}
[[代替的作為義務]](他人が代わってなすことができる行為の義務)に関する強制執行手続き{{Efn|[[不代替的作為義務]]・不作為義務など、他人が代わりに行えない義務は対象にならない。}}。行政自らが是正の措置をとる{{sfn|芝池|2016|pp=134-148}}。
* [[行政代執行法]]<ref name=":0" />
* [[s:建築基準法#9|建築基準法第9条]]12項
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=326AC0100000219#784 土地収用法第102条の2]
* [[火薬類取締法]]
* [[伝染病予防法]]26条、27条
=== 直接強制 ===
義務の不履行があった場合、直接に義務者の身体や財産に実力を加えること<ref name=":1">{{Citation|和書|title=直接強制に関する一考察|last=須藤|first=陽子|year=2007|url=https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/07-2/2007-2.htm|journal=立命館法學|publisher=立命館大学|issue=312}}</ref>。例外的に個々の法令で認められる{{sfn|芝池|2016|pp=134-148}}。
* 旧性病予防法
* [[成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法]]3条8項{{Efn|いわゆる成田新法。この条項に基づき、[[木の根団結砦撤去事件|木の根団結砦]]などの[[団結小屋]]撤去が行われている。}}<ref name=":1" />
=== 執行罰 ===
{{Main|執行罰}}
義務の不履行に対して、[[過料]]を課すことを通告し履行を促し、履行しないときは、徴収することによって将来に向かって義務の履行を強制すること。義務の履行があるまで何度でも課すことができ、刑事罰や行政罰との併科も可能。
* [[砂防法]]36条{{Efn|戦前には広く認められていたが、今日では本法が整理漏れの形で残っているにすぎない<ref>{{Cite Kotobank |word=執行罰 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2022-05-21}}</ref>。}}<ref name=":0" />
=== 強制徴収 ===
公法上の金銭債権を滞納処分の手続きにより自ら強制的に取立てること<ref>{{Cite Kotobank |word=強制徴収 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2022-05-21}}</ref>。法律上は「滞納処分」と呼ばれる{{sfn|芝池|2016|pp=134-148}}。<br>
国税または地方税はそれぞれの法の定めに従い強制徴収される。<br>
それ以外の公法上の金銭債権は個別法に「国税滞納処分の例による」などの定めがないときは、当然に強制徴収の対象とはならない。
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=334AC0000000147#212 国税徴収法第47条]<ref name=":0" />
*: 強制徴収手続:財産の差押え、財産の換価、換価代金の配当
== 民事上の強制執行との関係 ==
=== 行政上の強制執行ができない場合 ===
行政上の強制執行ができない場合、民事上の強制執行によるとするのが通説である。しかし、最高裁は、平成14年7月9日、「国又は地方公共団体が専ら行政権の主体として国民に対して行政上の義務の履行を求める訴訟は、裁判所法3条1項にいう法律上の争訟に当たらず、これを認める特別の規定もないから、不適法というべきである」とした(宝塚市パチンコ店規制条例事件)。
*宝塚市パチンコ店規制条例事件 - 最高裁判決(平成14年7月9日)[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52246]
=== 行政上の強制執行ができる場合 ===
行政上の強制執行ができる場合、「簡易迅速な行政上の強制徴収の手段によらしめることが、もつとも適切かつ妥当」であり、「法律上特にかような独自の強制徴収の手段を与えられていながら、この手段によることなく、一般私法上の債権と同様、訴えを提起し、民訴法上の強制徴収の手段によつてこれらの債権の実現を図ることは、前示立法の趣旨に反」するため、民事上の強制執行はできない(最高裁判決昭和41年2月23日)とするのが通説・判例である。
*最高裁判決(昭和41年2月23日)[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/878/053878_hanrei.pdf]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|edition=第4版|title=行政法読本|year=2016|chapter=第10講 行政による強制|isbn=978-4-641-13194-1|oclc=945626591|author=芝池義一|author-link=芝池義一}}
== 関連項目 ==
* [[即時強制]]
* [[強制執行]]
* [[行政執行法]]
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[[Category:日本の行政強制]]
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性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
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性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(せいどういつせいしょうがいしゃのせいべつのとりあつかいのとくれいにかんするほうりつ、平成15年7月16日法律第111号)とは、2003年(平成15年)7月10日に成立した日本の法律。
性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者につき、家庭裁判所の審判により、法令上の性別の取扱いと、戸籍上の性別記載を変更できる(家事事件手続法第232条・別表第一)。施行は2004年(平成16年)7月16日。
通称として「性同一性障害特例法」や「性同一性障害者特例法」がある。
性同一性障害を抱える者における社会生活上のさまざまな問題を解消するため、法令上の性別の取扱いの特例を定めたもの。
法的な性別は、現行では基本的には生物学的性別で決められるが、例外として、本法律の定める「性同一性障害者」で要件の満たす者について、他の性別に変わったものとみなすこととする。
第二条の定める定義による「性同一性障害者」が、第三条の定める要件を満たすとき、家庭裁判所に対して性別の取扱いの変更の審判を請求することができ、その許可により、除籍され戸籍上の性別の変更が認められる。
本法律の提案の趣旨は以下のとおり。
性同一性障害は、生物学的な性と性の自己意識が一致しない疾患であり、性同一性障害を有する者は、諸外国の統計等から推測し、おおよそ男性三万人に一人、女性十万人に一人の割合で存在するとも言われております。
性同一性障害については、我が国では、日本精神神経学会がまとめたガイドラインに基づき診断と治療が行われており、性別適合手術も医学的かつ法的に適正な治療として実施されるようになっているほか、性同一性障害を理由とする名の変更もその多くが家庭裁判所により許可されているのに対して、戸籍の訂正手続による戸籍の続柄の記載の変更はほとんどが不許可となっております。そのようなことなどから、性同一性障害者は社会生活上様々な問題を抱えている状況にあり、その治療の効果を高め、社会的に不利益を解消するためにも、立法による対応を求める議論が高まっているところであります。
本法律案は、以上のような性同一性障害者が置かれている状況にかんがみ、性同一性障害者について法令上の性別の取扱いの特例を定めようとするものであります。
この法律は、性同一性障害者に関する法令上の性別の取扱いの特例について定めるものとする。
本法律が定めることを明らかにするもの。
生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。
厳格に定義をし、性別の取扱いの変更という重大な効果を認める対象を明確にするもの。何らかの理由で性別の変更を望んでも、生物学的な性別と心理的な性別の不一致のない者は、性同一性障害者に該当しない。
「生物学的には性別が明らかである」は、性染色体や内性器、外性器の形状などにより、生物学的に男性または女性であることが明らかであることをいう。
「心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信」は、生物学的には女性である者が男性としての意識が、または生物学的には男性である者が女性としての意識が、単に一時的なものでなく、永続的にある状態であり、確固として揺るぎなく有していることをいう。
「確信」や「意思」を有することを要求する。統合失調症などの精神障害によって他の性別に属していると考える者は、「性同一性障害者」に当たらない。そのため、日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン (第4版)」では、精神科医に除外診断を行うことが求められており、統合失調症など他の精神障害によって性別の不一致を訴えていないかの精神医学的アセスメントが行われている。ただしこれは、「他の精神障害を罹患している場合には戸籍上の性別が変更できない」という意味にはならない。性同一性障害に関する診断と治療のガイドラインには、「統合失調症など他の精神疾患に罹患していることをもって,画一的に治療から排除するものではない」とも書かれており、精神科医2名により、性同一性障害と診断されており、かつ第三条の条件を満たしていれば、他の精神障害に罹患していたとしても、性別の取扱いの変更の審判を申し立てることができる。
「その診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致している」は、適切かつ確実な診断がおこなわれることを確保するもの。
「一般に認められている医学的知見」は、世界保健機関が定めた国際疾患分類 ICD-10、米国精神医学会が定めた診断基準 DSM-IV-TR、日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン (第3版)」がこれに当たると考えられる。
「医師」は、日本の医師法に基づき医師免許を持つ者を指す。
性別の取扱いの変更の審判を受けた者は、民法 (明治二十九年法律第八十九号)その他の法令の規定の適用については、法律に別段の定めがある場合を除き、その性別につき他の性別に変わったものとみなす。
2 前項の規定は、法律に別段の定めがある場合を除き、性別の取扱いの変更の審判前に生じた身分関係及び権利義務に影響を及ぼすものではない。
民法その他の法令の適用について、他の性別に変わったものとみなされる。変更後の性別として、婚姻や養子縁組などをすることも可能となる。
強姦罪の適用については、性別の取扱いの変更をし、女子と見なされた者は、強姦罪の客体たり得る。また、男子と見なされた者は強姦罪の主体たり得る。なお、2017年7月13日施行の改正刑法により強姦罪は強制性交等罪へと改正され、男女問わず本罪の主体・客体となりえるようになったため、性別変更に伴う主体・客体の変更はなくなった。
第2項は、性別の取扱いの変更の審判の効果は、不遡及であることを規定している。例えば過去に妻であった、夫であったなど、審判を受ける前に生じていた身分には影響を及ぼさない。
「法律に別段の定めがある場合」は、性別が変わったとみなすことが難しい可能性を否定できない、または審判の効果を遡及させるべき可能性を否定できないことから規定している。
本法で定義する性同一性障害者で、以下すべての要件のいずれにも該当する者は、自身が申立人となり、住所地の家庭裁判所で性別の取扱いの変更の審判を受けることができる。
(性別の取扱いの変更の審判)
第三条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
一 二人以上の医師により,性同一性障害であることが診断されていること。
二 十八歳以上であること。
三 現に婚姻をしていないこと。
四 現に未成年の子がいないこと。
五 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。(最高裁が違憲無効との判断を示している。)
六 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
2項 前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない。
必要なものは、申立書、標準的な申立添付書類(出生時から現在までのすべての戸籍謄本(全部事項証明書)、所定の事項の記載のある2人以上の医師による診断書)、収入印紙800円分、連絡用の郵便切手。
医療技術の進歩により、性同一性障害に対して、ホルモン投与や性別適合手術を用いて当事者の精神的苦痛を軽減し、ジェンダー・アイデンティティに合わせて社会適応させることが可能となってきた。しかしながら、戸籍上の性別が出生時の身体的性別のままでは、公的な証明書を必要とする社会的局面において不都合を生じる。例えば、外見と性別記載が食い違っているために本人確認に問題を生じ選挙権を行使できなかったり、また差別を受けることもあった。
国内で公式な性別適合手術を終えた性同一性障害の当事者を含む6人が2001年5月、戸籍中の続柄の記載に錯誤があり戸籍法113条の要件を満たすものとして、家庭裁判所に戸籍の訂正を申し立てる。しかし、裁判所は戸籍の記載に錯誤があるとは言えない点や、現行制度がかかる理由(事後的に生じた錯誤)による戸籍訂正を認めておらずこれを認めると各種の不都合が生じるといった点を指摘した上で、「立法により解決されるべきである」とし、申立てを却下してきた。
自由民主党は2000年(平成12年)9月に性同一性障害に関する勉強会を発足し、本法案を含む性同一性障害の法律的扱いについて検討してきたが、議員の中には、「おかまだか何だかわからないものを・・・」といった趣旨のことを言い立て、聞く耳をもたない人も少なからずいたという。結局、ほとんどの自由民主党の議員は、党内に議員立法の動きがあることを知らないばかりか、そもそも「性同一性障害」とは何かさえも理解していない、法的な性別変更など聞いたことも想像したこともない、という状態だった。 南野知惠子参議院議員が中心となって本法案をまとめ、2003年7月1日、参議院法務委員会に法案を提出、以降両院本会議でいずれも全会一致で可決、7月10日に成立する。
初の適用事例は、2004年7月28日に那覇家裁がした沖縄県在住の20代の戸籍上男性を女性に変更する審判で、女性から男性への初の認容事例は、同年8月27日に東京家裁がした東京都在住の30代の戸籍上女性を男性に変更する審判とみられる。
「性別の変更を認めると、社会的に混乱するのではないか」という意見には、法的性別を変更する当事者は、すでに社会生活上も外見もその性別として移行しているので、戸籍上の性別がそのままでは、かえって社会的な不都合が生じる とする反論がある。
また、犯罪者が捜査の手を逃れるために使用する可能性については、性同一性障害の診察と診断、性別適合手術を受ける等、法的性別の変更が認められるまでには相当の長期間にわたって医療機関や裁判所と関わることが必要であり、身を隠す手段としては適当ではなく、当事者における法的な性別の変更は、外見や生活実態に適合させることになるので、むしろ追跡を容易にする として否定する意見がある。
戸籍上の性別変更を行うには「生殖不能要件」と「外観要件」(あわせて「手術要件」と呼ばれる)を満たす必要があるが、こうした法律上の手術要件が憲法に違反するかどうかが議論されてきた。国際連合およびトランスジェンダーの専門家はこの要件は差別的であるとして削除するように求めている。
一方で、後述の最高裁の違憲決定に伴い、立憲民主党では、生殖不能要件、子なし要件、外観要件の削除を目的とした本法の改正案の提出を検討している。
2020年(令和2年)3月11日付けで、現に婚姻していないことを必要とする要件(本法3条1項第2号)の違憲性が問われた家事審判で、最高裁第二小法廷(岡村和美裁判長)は、「異性間においてのみ婚姻が認められている現在の婚姻秩序に混乱を生じさせかねない等の配慮に基づくものとして、合理性を欠くものとはいえないから、国会の裁量権の範囲を逸脱するものということはでき」ないとして、「合憲」とする初判断を示した。裁判官全員一致の意見である。
2021年(令和3年)11月30日付けで、現に未成年の子がいないことを必要とする要件(本法3条1項第3号)の違憲性が問われた家事審判で、最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は、「合憲」とする初判断を示した。一方、宇賀克也裁判官は、同規定は憲法に違反するとする反対意見を述べた。
2019年(平成31年)1月23日付けで、生殖機能を失わせる手術を必要とする要件(本法3条1項第4号)の違憲性が問われた家事審判で、最高裁第二小法廷(三浦守裁判長)は、「現時点では合憲」とする初判断を示した。ただし、社会状況の変化に応じて判断は変わりうるとし、「不断の検討」を求めた。また、2人の裁判官は「憲法違反の疑いが生じていることは否定できない」という補足意見を述べた。「生殖腺や生殖機能がないこと」の要件で、卵巣や精巣を摘出する性別適合手術が必要となるため、審判では憲法13条(個人の尊重・幸福追求権)や14条(法の下の平等)との整合性が争点となり、「現時点では」という条件付きで合憲と結論づけた。4人の裁判官全員一致の意見である。
しかし、2023年(令和5年)10月11日付で、静岡家庭裁判所浜松支部が、生殖機能を失わせる手術を必要とする要件は違憲であると判断したほか、同年10月25日付で、最高裁大法廷(戸倉三郎裁判長)も、同要件は憲法13条に反し違憲・無効であると判示し、前述の最高裁の判例を変更した。15人の裁判官全員一致の意見である。最高裁判所が日本の法令を違憲としたのはこれが12件目となる。
決定では、同規定の目的である、トランス男性の出産といった現行法令が想定していない事態を防ぐということについて、「生殖腺除去手術を受けずに性別変更審判を受けた者が子をもうけることにより親子関係等に関わる問題が生ずることは、極めてまれなこと」であり、また、「法律上の親子関係の成否や戸籍への記載方法等の問題は、法令の解釈、立法措置等により解決を図ることが可能なもの」と判断した。加えて、性同一性障害者に対する生殖腺の摘出の治療は必ずしも行われなくなっており、「医学的にみて合理的関連性を欠く制約」であるとし、そのため同規定は「必要かつ合理的なものということはできない」と判断している。
前述の2023年の最高裁における家事審判では、特にトランス女性にとっては陰茎切除術等が必須となるものである、変更先の性別の性器に類似した外観を持つことを必要とする要件(本法3条1項第5号)についても申立人から違憲であるとの主張がなされたが、同事項は高裁の決定にて検討されていないとして、判断はせずに審理を高裁に差し戻した。一方で、3人の裁判官(三浦守、草野耕一、宇賀克也)は外観要件についても憲法に違反し、差し戻さずに性別変更を認めるべきであるとする反対意見を述べた。
性別変更に伴い発生する法律問題が残されているという指摘がある(判タ1204号 47頁等)。
先進国の多くは、性同一性障害者の法的性別を訂正・変更する法律または判例がある。
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"text": "一 二人以上の医師により,性同一性障害であることが診断されていること。",
"title": "性別の取扱いの変更"
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"text": "二 十八歳以上であること。",
"title": "性別の取扱いの変更"
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"text": "三 現に婚姻をしていないこと。",
"title": "性別の取扱いの変更"
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"text": "四 現に未成年の子がいないこと。",
"title": "性別の取扱いの変更"
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"text": "五 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。(最高裁が違憲無効との判断を示している。)",
"title": "性別の取扱いの変更"
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"text": "六 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。",
"title": "性別の取扱いの変更"
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"text": "2項 前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない。",
"title": "性別の取扱いの変更"
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"text": "必要なものは、申立書、標準的な申立添付書類(出生時から現在までのすべての戸籍謄本(全部事項証明書)、所定の事項の記載のある2人以上の医師による診断書)、収入印紙800円分、連絡用の郵便切手。",
"title": "性別の取扱いの変更"
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"text": "医療技術の進歩により、性同一性障害に対して、ホルモン投与や性別適合手術を用いて当事者の精神的苦痛を軽減し、ジェンダー・アイデンティティに合わせて社会適応させることが可能となってきた。しかしながら、戸籍上の性別が出生時の身体的性別のままでは、公的な証明書を必要とする社会的局面において不都合を生じる。例えば、外見と性別記載が食い違っているために本人確認に問題を生じ選挙権を行使できなかったり、また差別を受けることもあった。",
"title": "歴史"
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"text": "国内で公式な性別適合手術を終えた性同一性障害の当事者を含む6人が2001年5月、戸籍中の続柄の記載に錯誤があり戸籍法113条の要件を満たすものとして、家庭裁判所に戸籍の訂正を申し立てる。しかし、裁判所は戸籍の記載に錯誤があるとは言えない点や、現行制度がかかる理由(事後的に生じた錯誤)による戸籍訂正を認めておらずこれを認めると各種の不都合が生じるといった点を指摘した上で、「立法により解決されるべきである」とし、申立てを却下してきた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "自由民主党は2000年(平成12年)9月に性同一性障害に関する勉強会を発足し、本法案を含む性同一性障害の法律的扱いについて検討してきたが、議員の中には、「おかまだか何だかわからないものを・・・」といった趣旨のことを言い立て、聞く耳をもたない人も少なからずいたという。結局、ほとんどの自由民主党の議員は、党内に議員立法の動きがあることを知らないばかりか、そもそも「性同一性障害」とは何かさえも理解していない、法的な性別変更など聞いたことも想像したこともない、という状態だった。 南野知惠子参議院議員が中心となって本法案をまとめ、2003年7月1日、参議院法務委員会に法案を提出、以降両院本会議でいずれも全会一致で可決、7月10日に成立する。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "初の適用事例は、2004年7月28日に那覇家裁がした沖縄県在住の20代の戸籍上男性を女性に変更する審判で、女性から男性への初の認容事例は、同年8月27日に東京家裁がした東京都在住の30代の戸籍上女性を男性に変更する審判とみられる。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "「性別の変更を認めると、社会的に混乱するのではないか」という意見には、法的性別を変更する当事者は、すでに社会生活上も外見もその性別として移行しているので、戸籍上の性別がそのままでは、かえって社会的な不都合が生じる とする反論がある。",
"title": "議論"
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{
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"tag": "p",
"text": "また、犯罪者が捜査の手を逃れるために使用する可能性については、性同一性障害の診察と診断、性別適合手術を受ける等、法的性別の変更が認められるまでには相当の長期間にわたって医療機関や裁判所と関わることが必要であり、身を隠す手段としては適当ではなく、当事者における法的な性別の変更は、外見や生活実態に適合させることになるので、むしろ追跡を容易にする として否定する意見がある。",
"title": "議論"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "戸籍上の性別変更を行うには「生殖不能要件」と「外観要件」(あわせて「手術要件」と呼ばれる)を満たす必要があるが、こうした法律上の手術要件が憲法に違反するかどうかが議論されてきた。国際連合およびトランスジェンダーの専門家はこの要件は差別的であるとして削除するように求めている。",
"title": "裁判"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一方で、後述の最高裁の違憲決定に伴い、立憲民主党では、生殖不能要件、子なし要件、外観要件の削除を目的とした本法の改正案の提出を検討している。",
"title": "裁判"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)3月11日付けで、現に婚姻していないことを必要とする要件(本法3条1項第2号)の違憲性が問われた家事審判で、最高裁第二小法廷(岡村和美裁判長)は、「異性間においてのみ婚姻が認められている現在の婚姻秩序に混乱を生じさせかねない等の配慮に基づくものとして、合理性を欠くものとはいえないから、国会の裁量権の範囲を逸脱するものということはでき」ないとして、「合憲」とする初判断を示した。裁判官全員一致の意見である。",
"title": "裁判"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)11月30日付けで、現に未成年の子がいないことを必要とする要件(本法3条1項第3号)の違憲性が問われた家事審判で、最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は、「合憲」とする初判断を示した。一方、宇賀克也裁判官は、同規定は憲法に違反するとする反対意見を述べた。",
"title": "裁判"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2019年(平成31年)1月23日付けで、生殖機能を失わせる手術を必要とする要件(本法3条1項第4号)の違憲性が問われた家事審判で、最高裁第二小法廷(三浦守裁判長)は、「現時点では合憲」とする初判断を示した。ただし、社会状況の変化に応じて判断は変わりうるとし、「不断の検討」を求めた。また、2人の裁判官は「憲法違反の疑いが生じていることは否定できない」という補足意見を述べた。「生殖腺や生殖機能がないこと」の要件で、卵巣や精巣を摘出する性別適合手術が必要となるため、審判では憲法13条(個人の尊重・幸福追求権)や14条(法の下の平等)との整合性が争点となり、「現時点では」という条件付きで合憲と結論づけた。4人の裁判官全員一致の意見である。",
"title": "裁判"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "しかし、2023年(令和5年)10月11日付で、静岡家庭裁判所浜松支部が、生殖機能を失わせる手術を必要とする要件は違憲であると判断したほか、同年10月25日付で、最高裁大法廷(戸倉三郎裁判長)も、同要件は憲法13条に反し違憲・無効であると判示し、前述の最高裁の判例を変更した。15人の裁判官全員一致の意見である。最高裁判所が日本の法令を違憲としたのはこれが12件目となる。",
"title": "裁判"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "決定では、同規定の目的である、トランス男性の出産といった現行法令が想定していない事態を防ぐということについて、「生殖腺除去手術を受けずに性別変更審判を受けた者が子をもうけることにより親子関係等に関わる問題が生ずることは、極めてまれなこと」であり、また、「法律上の親子関係の成否や戸籍への記載方法等の問題は、法令の解釈、立法措置等により解決を図ることが可能なもの」と判断した。加えて、性同一性障害者に対する生殖腺の摘出の治療は必ずしも行われなくなっており、「医学的にみて合理的関連性を欠く制約」であるとし、そのため同規定は「必要かつ合理的なものということはできない」と判断している。",
"title": "裁判"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "前述の2023年の最高裁における家事審判では、特にトランス女性にとっては陰茎切除術等が必須となるものである、変更先の性別の性器に類似した外観を持つことを必要とする要件(本法3条1項第5号)についても申立人から違憲であるとの主張がなされたが、同事項は高裁の決定にて検討されていないとして、判断はせずに審理を高裁に差し戻した。一方で、3人の裁判官(三浦守、草野耕一、宇賀克也)は外観要件についても憲法に違反し、差し戻さずに性別変更を認めるべきであるとする反対意見を述べた。",
"title": "裁判"
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{
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"tag": "p",
"text": "性別変更に伴い発生する法律問題が残されているという指摘がある(判タ1204号 47頁等)。",
"title": "課題"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "先進国の多くは、性同一性障害者の法的性別を訂正・変更する法律または判例がある。",
"title": "各国において"
}
] |
性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(せいどういつせいしょうがいしゃのせいべつのとりあつかいのとくれいにかんするほうりつ、平成15年7月16日法律第111号)とは、2003年(平成15年)7月10日に成立した日本の法律。 性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者につき、家庭裁判所の審判により、法令上の性別の取扱いと、戸籍上の性別記載を変更できる(家事事件手続法第232条・別表第一)。施行は2004年(平成16年)7月16日。 通称として「性同一性障害特例法」や「性同一性障害者特例法」がある。
|
{{law}}
{{日本の法令
|題名=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
|通称=性同一性障害特例法、性同一性障害者特例法
|効力=現行法
|種類=[[民法]]
|内容=性同一性障害者の性別の取扱いの変更に関する手続
|関連=[[民法 (日本)|民法]]、[[戸籍法]]、特別家事審判規則
|リンク={{Egov law}}
|ウィキソース=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
}}
'''性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律'''(せいどういつせいしょうがいしゃのせいべつのとりあつかいのとくれいにかんするほうりつ、平成15年7月16日法律第111号)とは、[[2003年]](平成15年)[[7月10日]]に成立した[[日本]]の[[法律]]。
[[性同一性障害]]者のうち特定の要件を満たす者につき、[[家庭裁判所]]の[[審判]]により、法令上の性別の取扱いと、[[戸籍]]上の性別記載を変更できる([[家事事件手続法]]第232条・別表第一)。施行は[[2004年]](平成16年)[[7月16日]]。
通称として「'''性同一性障害特例法'''」や「'''性同一性障害者特例法'''」がある。
== 概要 ==
[[性同一性障害]]を抱える者における社会生活上のさまざまな問題を解消するため、法令上の性別の取扱いの特例を定めたもの。
法的な性別は、現行では基本的には生物学的性別で決められるが、例外として、本法律の定める「性同一性障害者」で要件の満たす者について、他の性別に変わったものとみなすこととする{{sfn|南野知惠子|2004|p=122}}。
第二条の定める定義による「性同一性障害者」が、第三条の定める要件を満たすとき、[[家庭裁判所]]に対して性別の取扱いの変更の審判を請求することができ、その許可により、[[除籍簿謄本|除籍]]され戸籍上の性別の変更が認められる<ref name=":12">[https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_23/index.html 性別の取扱いの変更] 裁判所</ref>。
== 趣旨 ==
本法律の提案の趣旨は以下のとおり。
{{Quotation|
性同一性障害は、生物学的な性と性の自己意識が一致しない疾患であり、性同一性障害を有する者は、諸外国の統計等から推測し、おおよそ男性三万人に一人、女性十万人に一人の割合で存在するとも言われております。
性同一性障害については、我が国では、日本精神神経学会がまとめたガイドラインに基づき診断と治療が行われており、性別適合手術も医学的かつ法的に適正な治療として実施されるようになっているほか、性同一性障害を理由とする名の変更もその多くが家庭裁判所により許可されているのに対して、戸籍の訂正手続による戸籍の続柄の記載の変更はほとんどが不許可となっております。そのようなことなどから、性同一性障害者は社会生活上様々な問題を抱えている状況にあり、その治療の効果を高め、社会的に不利益を解消するためにも、立法による対応を求める議論が高まっているところであります。
本法律案は、以上のような性同一性障害者が置かれている状況にかんがみ、性同一性障害者について法令上の性別の取扱いの特例を定めようとするものであります。
|平成一五年七月二日|参議院本会議}}
== 解釈 ==
=== 第一条 趣旨 ===
{{Quotation|
この法律は、性同一性障害者に関する法令上の性別の取扱いの特例について定めるものとする。
|性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律|第一条}}
本法律が定めることを明らかにするもの{{sfn|南野知惠子|2004|p=81}}。
=== 第二条 定義 ===
{{Quotation|
生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。
|性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律|第二条}}
厳格に定義をし、性別の取扱いの変更という重大な効果を認める対象を明確にするもの{{sfn|南野知惠子|2004|p=82}}。何らかの理由で性別の変更を望んでも、生物学的な性別と心理的な性別の不一致のない者は、性同一性障害者に該当しない{{sfn|南野知惠子|2004|p=84}}。
「生物学的には性別が明らかである」は、性染色体や内性器、外性器の形状などにより、生物学的に男性または女性であることが明らかであることをいう<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=84}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=124}}</ref>。
「心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信」は、生物学的には女性である者が男性としての意識が、または生物学的には男性である者が女性としての意識が、単に一時的なものでなく、永続的にある状態であり、確固として揺るぎなく有していることをいう<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=84}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=125}}</ref>。
「確信」や「意思」を有することを要求する。統合失調症などの精神障害によって他の性別に属していると考える者は、「性同一性障害者」に当たらない<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=85}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=125}}</ref>。そのため、日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン (第4版)」では、精神科医に除外診断を行うことが求められており、統合失調症など他の精神障害によって性別の不一致を訴えていないかの精神医学的アセスメントが行われている。ただしこれは、「他の精神障害を罹患している場合には戸籍上の性別が変更できない」という意味にはならない。性同一性障害に関する診断と治療のガイドラインには、「統合失調症など他の精神疾患に罹患していることをもって,画一的に治療から排除するものではない」とも書かれており、精神科医2名により、性同一性障害と診断されており、かつ第三条の条件を満たしていれば、他の精神障害に罹患していたとしても、性別の取扱いの変更の審判を申し立てることができる。
「その診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致している」は、適切かつ確実な診断がおこなわれることを確保するもの<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=85}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=126}}</ref>。
「一般に認められている医学的知見」は、[[世界保健機関]]が定めた国際疾患分類 [[ICD-10]]、[[アメリカ精神医学会|米国精神医学会]]が定めた診断基準 [[DSM-IV-TR]]、[[日本精神神経学会]]の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン (第3版)」がこれに当たると考えられる<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=86}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=128}}</ref>。
「医師」は、日本の[[医師法]]に基づき医師免許を持つ者を指す<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=86}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=127}}</ref>。
=== 第三条 性別の取扱いの変更の審判 ===
{{Quotation|
:一 十八歳以上であること。
:二 現に婚姻をしていないこと。
:三 現に未成年の子がいないこと。
:四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
:五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
:2項 前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない。
|性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律|第三条}}
; 一 十八歳以上であること。
: [[民法 (日本)|民法]]では、満18歳が成年年齢とされている。また、法的性別の変更という重大な決定において、本人による慎重な判断を要すること等が考慮されたもの{{sfn|南野知惠子|2004|pp=129-130}}。未成年の場合にも、法定代理人の同意による補完は、個人の人格の基礎である性別における法的な変更には馴染まず、あくまで本人自身の判断が必要であることが考えられたもの{{sfn|南野知惠子|2004|p=130}}。
; 二 現に婚姻をしていないこと。
: [[婚姻]]をしている性同一性障害者が性別を変更した場合、同性婚となり、現行法の秩序においては問題が生じてしまうためのもの<ref name="kaisetu88_130">{{harv|南野知惠子|2004|p=88}}{{harv|南野知惠子|2004|p=130}}</ref>。いわゆる事実婚、内縁はこの「婚姻」に当たらない<ref name="kaisetu88_130" />。「現に」は、性別の取扱いの変更の審判の際、婚姻をしていないことをいう<ref name="kaisetu88_130" />。 過去に婚姻をしていても、離婚等で解消されていれば、審判を請求することができる<ref name="kaisetu88_130" />。
; 三 現に未成年の子がいないこと。
: 性別の取扱いの変更の審判の際、[[未成年]]の子がいないことをいう。
: 審判を受けた者が後に養子縁組により子を持つことは可能{{sfn|南野知惠子|2004|pp=131-132}}。
; 四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
: 性別の取扱いの変更を認める以上、性ホルモンの作用による影響や、生物学的性別での生殖機能が残存し子が生まれた場合にさまざまな混乱や問題が生じるための要件<ref>{{harv|南野知惠子|2004|p=93}}{{harv|南野知惠子|2004|p=134}}</ref>。
: 「生殖腺がないこと」とは、[[生殖腺]]の除去、または何らかの原因で生殖腺がないことをいう<ref name="kaisetu93_135">{{harv|南野知惠子|2004|p=93}}{{harv|南野知惠子|2004|p=135}}</ref>。「生殖腺の機能」とは、生殖機能以外にも、ホルモン分泌機能を含めた生殖腺の働き全般をいう<ref name="kaisetu93_135" />。
: 2023年(令和5年)10月25日に[[最高裁判所]][[大法廷]]は、本件規定は'''[[日本国憲法第13条|憲法13条]]に違反する'''と判断した(詳細は後述)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/446/092446_hanrei.pdf |title=令和2年(ク)第993号 令和5年10月25日 大法廷決定 |access-date=2023年10月25日 |publisher=最高裁判所}}</ref>。
; 五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
: 公衆の場とくに公衆浴場などで社会的な混乱を生じないために考慮されたもの<ref name="kaisetu93_135" />。
; '''2項 前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない<ref name=":02">{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/general/seido/syakai/sei32/ |title=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律第3条第2項に規定する医師の診断書について |access-date=2023-09-16 |publisher=厚生労働省}}</ref><ref name=":13">[https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_23/index.html 性別の取扱いの変更] 裁判所</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111 |title=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律 |access-date=2023-09-16 |publisher=e-Gov法令検索}}</ref>。'''
:
:
=== 第四条 性別の取扱いの変更の審判を受けた者に関する法令上の取扱い ===
{{Quotation|
性別の取扱いの変更の審判を受けた者は、民法 (明治二十九年法律第八十九号)その他の法令の規定の適用については、法律に別段の定めがある場合を除き、その性別につき他の性別に変わったものとみなす。
2 前項の規定は、法律に別段の定めがある場合を除き、性別の取扱いの変更の審判前に生じた身分関係及び権利義務に影響を及ぼすものではない。
|性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律|第四条}}
[[民法 (日本)|民法]]その他の法令の適用について、他の性別に変わったものとみなされる。変更後の性別として、[[婚姻]]や[[養子縁組]]などをすることも可能となる<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=99}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=142}}</ref>。
強姦罪の適用については、性別の取扱いの変更をし、女子と見なされた者は、強姦罪の客体たり得る{{sfn|南野知惠子|2004|p=99}}。また、男子と見なされた者は強姦罪の主体たり得る{{sfn|南野知惠子|2004|p=99}}。なお、2017年7月13日施行の改正刑法により強姦罪は強制性交等罪へと改正され、男女問わず本罪の主体・客体となりえるようになったため、性別変更に伴う主体・客体の変更はなくなった。
第2項は、性別の取扱いの変更の審判の効果は、[[不遡及]]であることを規定している。例えば過去に妻であった、夫であったなど、審判を受ける前に生じていた身分には影響を及ぼさない<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=101}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=142}}</ref>。
「法律に別段の定めがある場合」は、性別が変わったとみなすことが難しい可能性を否定できない、または審判の効果を遡及させるべき可能性を否定できないことから規定している<ref>{{Harv|南野知惠子|2004|p=102}}{{Harv|南野知惠子|2004|p=143}}</ref>。
== 性別の取扱いの変更 ==
本法で定義する性同一性障害者で、以下すべての要件のいずれにも該当する者は、自身が[[申立人]]となり、住所地の[[家庭裁判所]]で性別の取扱いの変更の[[審判]]を受けることができる<ref name=":1">[https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_23/index.html 性別の取扱いの変更] 裁判所</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111 |title=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律 |access-date=2023-09-16 |publisher=e-Gov法令検索}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/general/seido/syakai/sei32/ |title=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律第3条第2項に規定する医師の診断書について |access-date=2023-09-16 |publisher=厚生労働省}}</ref>。
(性別の取扱いの変更の審判)
'''第三条''' 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
'''一''' 二人以上の医師により,性同一性障害であることが診断されていること。
'''二''' 十八歳以上であること。
'''三''' 現に婚姻をしていないこと。
'''四''' 現に未成年の子がいないこと。
'''''五''' 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。'''(最高裁が違憲無効との判断を示している。)'''''
'''六''' その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
'''2項''' 前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない。
必要なものは、申立書<ref name=":1" />、標準的な申立添付書類(出生時から現在までのすべての[[戸籍謄本]](全部事項証明書)、所定の事項の記載のある2人以上の医師による[[診断書]]<ref name=":0" />)、[[収入印紙]]800円分、連絡用の郵便切手。
== 歴史 ==
=== 成立 ===
{{独自研究|section=1|date=2015年11月13日 (金) 12:24 (UTC)}}
医療技術の進歩により、[[性同一性障害]]に対して、ホルモン投与や[[性別適合手術]]を用いて当事者の精神的苦痛を軽減し、[[性同一性|ジェンダー・アイデンティティ]]に合わせて社会適応させることが可能となってきた。しかしながら、戸籍上の性別が出生時の身体的性別のままでは、公的な証明書を必要とする社会的局面において不都合を生じる。例えば、外見と性別記載が食い違っているために本人確認に問題を生じ[[選挙権]]を行使できなかったり、また差別を受けることもあった。
国内で公式な性別適合手術を終えた性同一性障害の当事者を含む6人が2001年5月、戸籍中の続柄の記載に錯誤があり[[戸籍法]]113条の要件を満たすものとして、家庭裁判所に戸籍の訂正を申し立てる。しかし、裁判所は戸籍の記載に錯誤があるとは言えない点や、現行制度がかかる理由(事後的に生じた錯誤)による戸籍訂正を認めておらずこれを認めると各種の不都合が生じるといった点を指摘した上で、「立法により解決されるべきである」とし、申立てを却下してきた。
自由民主党は2000年(平成12年)9月に性同一性障害に関する勉強会を発足し、本法案を含む性同一性障害の法律的扱いについて検討してきたが、議員の中には、「[[おかま]]だか何だかわからないものを・・・」といった趣旨のことを言い立て、聞く耳をもたない人も少なからずいたという。結局、ほとんどの自由民主党の議員は、党内に議員立法の動きがあることを知らないばかりか、そもそも「性同一性障害」とは何かさえも理解していない、法的な性別変更など聞いたことも想像したこともない、という状態だった<ref>変えてゆく勇気 110頁</ref>。
[[南野知惠子]][[参議院]]議員が中心となって本法案をまとめ、2003年7月1日、参議院法務委員会に法案を提出、以降両院本会議でいずれも全会一致で可決、7月10日に成立する。
初の適用事例は、2004年7月28日に那覇家裁がした沖縄県在住の20代の戸籍上男性を女性に変更する審判で、女性から男性への初の認容事例は、同年8月27日に東京家裁がした東京都在住の30代の戸籍上女性を男性に変更する審判とみられる。
== 議論 ==
「性別の変更を認めると、社会的に混乱するのではないか」という意見には、法的性別を変更する当事者は、すでに社会生活上も外見もその性別として移行しているので、戸籍上の性別がそのままでは、かえって社会的な不都合が生じる<ref name="seidouitunani237_238">{{harv|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|pp=237-238}}</ref> とする反論がある。
また、犯罪者が捜査の手を逃れるために使用する可能性については、[[性同一性障害]]の診察と診断、[[性別適合手術]]を受ける等、法的性別の変更が認められるまでには相当の長期間にわたって医療機関や裁判所と関わることが必要であり、身を隠す手段としては適当ではなく、当事者における法的な性別の変更は、外見や生活実態に適合させることになるので、むしろ追跡を容易にする<ref name="seidouitunani237_238" /> として否定する意見がある。
== 裁判 ==
戸籍上の性別変更を行うには「生殖不能要件」と「外観要件」(あわせて「手術要件」と呼ばれる)を満たす必要があるが、こうした法律上の手術要件が憲法に違反するかどうかが議論されてきた<ref name=asahi231025k>{{Cite web|和書|url= https://www.asahi.com/articles/ASRBQ7GSPRBBUTIL038.html |title= 【そもそも解説】性別変更のルールとは? 手術要件が高いハードルに |accessdate=2023/10/27|publisher= 朝日新聞 |author= |date=2023/10/25 }}</ref>。国際連合およびトランスジェンダーの専門家はこの要件は差別的であるとして削除するように求めている<ref name=hrw231025>{{Cite web|url= https://www.hrw.org/news/2023/10/25/victory-transgender-rights-japan |title= Victory for Transgender Rights in Japan |accessdate=2023/10/27|publisher= Human Rights Watch |author= |date=2023/10/25 }}</ref>。
一方で、後述の最高裁の違憲決定に伴い、[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]では、生殖不能要件、子なし要件、外観要件の削除を目的とした本法の改正案の提出を検討している<ref>{{Cite web|和書|title=立民、性別変更で法案検討 違憲判断で3要件削除 |url=https://www.sankei.com/article/20231102-MHAV2OSXHRLJBPJMFU6BB54MJE/ |website=産経ニュース |date=2023-11-02 |access-date=2023-11-07 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。
=== 未婚要件(2号要件) ===
2020年(令和2年)3月11日付けで、現に婚姻していないことを必要とする要件(本法3条1項第2号)の違憲性が問われた[[家事審判]]で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]第二小法廷([[岡村和美]]裁判長)は、「異性間においてのみ婚姻が認められている現在の婚姻秩序に混乱を生じさせかねない等の配慮に基づくものとして、合理性を欠くものとはいえないから、国会の裁量権の範囲を逸脱するものということはできない」として、'''「[[合憲]]」'''とする初判断を示した<ref>{{Cite web|和書|title=裁判例結果詳細 {{!}} 裁判所 - Courts in Japan |url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=89311 |website=www.courts.go.jp |access-date=2023-11-07}}</ref>。裁判官全員一致の意見である。
=== 子なし要件(3号要件) ===
2021年(令和3年)11月30日付けで、現に未成年の子がいないことを必要とする要件(本法3条1項第3号)の違憲性が問われた[[家事審判]]で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]第三小法廷([[林道晴]]裁判長)は、'''「[[合憲]]」'''とする初判断を示した<ref>{{Cite web|和書|title=裁判例結果詳細 {{!}} 裁判所 - Courts in Japan |url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=90733 |website=www.courts.go.jp |access-date=2023-11-07}}</ref>。一方、[[宇賀克也]]裁判官は、同規定は憲法に違反するとする反対意見を述べた。
=== 生殖不能要件(4号要件) ===
{{最高裁判例|事件名=性別の取扱いの変更申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件|事件番号= 令和2(ク)993|裁判年月日= 2023年(令和5年)10月25日|判例集=未登載|裁判要旨=#性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律3条1項4号は、憲法13条に違反する。
#同項第5号の要件に関する申立人の主張については、審理を原審に差し戻す。|法廷名=大法廷|裁判長=[[戸倉三郎]]|陪席裁判官=[[山口厚]]、[[深山卓也]]、[[三浦守]]、[[草野耕一]]、[[宇賀克也]]、[[林道晴]]、[[岡村和美]]、[[長嶺安政]]、[[安浪亮介]]、[[渡邉惠理子]]、[[岡正晶]]、[[堺徹]]、[[今崎幸彦]]、[[尾島明]]|多数意見=1. について、全員一致
2. について、[[山口厚]]、[[深山卓也]]、[[林道晴]]、[[岡村和美]]、[[長嶺安政]]、[[安浪亮介]]、[[渡邉惠理子]]、[[岡正晶]]、[[堺徹]]、[[今崎幸彦]]、[[尾島明]]|意見=なし|反対意見=1. について、なし
2. について、[[三浦守]]、[[草野耕一]]、[[宇賀克也]]|参照法条=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律第3条第1項第4号、第5号、[[日本国憲法第13条]]|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=92446}}
2019年(平成31年)1月23日付けで、生殖機能を失わせる手術を必要とする要件(本法3条1項第4号)の違憲性が問われた[[家事審判]]で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]第二小法廷([[三浦守]]裁判長)は、「現時点では[[合憲]]」とする初判断を示した。ただし、社会状況の変化に応じて判断は変わりうるとし、「不断の検討」を求めた。また、2人の裁判官は「[[憲法違反]]の疑いが生じていることは否定できない」という[[補足意見]]を述べた。「生殖腺や生殖機能がないこと」の要件で、卵巣や精巣を摘出する性別適合手術が必要となるため、審判では憲法13条([[個人の尊厳|個人の尊重]]・[[幸福追求権]])や14条([[法の下の平等]])との整合性が争点となり、「現時点では」という条件付きで合憲と結論づけた。4人の裁判官全員一致の意見である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/274/088274_hanrei.pdf|title=「性別の取扱いの変更申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件」判決文|accessdate=2019-02-20|publisher=最高裁判所|date=2019-01-23}}</ref>。
しかし、2023年(令和5年)10月11日付で、[[静岡家庭裁判所]]浜松支部が、生殖機能を失わせる手術を必要とする要件は違憲であると判断した<ref>{{Cite web|和書|title=性別変更の手術規定「違憲で無効」 静岡家裁浜松支部 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE127LG0S3A011C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-10-12 |access-date=2023-11-07 |language=ja}}</ref>ほか、同年10月25日付で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]大法廷([[戸倉三郎]]裁判長)も、同要件は'''憲法13条に反し違憲・無効'''であると判示し、前述の最高裁の判例を変更した<ref name="asahi231025">{{Cite web|和書|url= https://www.asahi.com/articles/ASRBP7T8YRBNUTIL009.html |title= トランスジェンダー性別変更、生殖不能の手術要件は「違憲」 最高裁 |accessdate=2023/10/27|publisher= 朝日新聞 |author= |date=2023/10/25 }}</ref><ref name="factcheckcenter231023">{{Cite web|和書|url= https://factcheckcenter.jp/n/n2a06159eb0f9 |title= 「お気持ちだけで戸籍上の性別が変更できる」は誤り【ファクトチェック】|accessdate=2023/10/27|publisher= 日本ファクトチェックセンター |author= |date=2023/10/23 }}</ref>。15人の裁判官全員一致の意見である。最高裁判所が日本の法令を違憲としたのはこれが12件目となる{{R|asahi231025}}。
決定では、同規定の目的である、[[トランス男性]]の出産といった現行法令が想定していない事態を防ぐということについて、「生殖腺除去手術を受けずに性別変更審判を受けた者が子をもうけることにより親子関係等に関わる問題が生ずることは、極めてまれなこと」であり、また、「法律上の親子関係の成否や戸籍への記載方法等の問題は、法令の解釈、立法措置等により解決を図ることが可能なもの」と判断した。加えて、性同一性障害者に対する生殖腺の摘出の治療は必ずしも行われなくなっており、「医学的にみて合理的関連性を欠く制約」であるとし、そのため同規定は「必要かつ合理的なものということはできない」と判断している。
=== 外観要件(5号) ===
前述の2023年の最高裁における家事審判では、特に[[トランス女性]]にとっては陰茎切除術等が必須となるものである、変更先の性別の性器に類似した外観を持つことを必要とする要件(本法3条1項第5号)についても申立人から違憲であるとの主張がなされたが、同事項は高裁の決定にて検討されていないとして、判断はせずに審理を高裁に差し戻した{{R|asahi231025}}。一方で、3人の裁判官([[三浦守]]、[[草野耕一]]、[[宇賀克也]])は外観要件についても憲法に違反し、差し戻さずに性別変更を認めるべきであるとする反対意見を述べた{{R|asahi231025}}<ref name="huff231026">{{Cite web|和書 |url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_65377086e4b0689b3fbdbd60 |title=性別変更「外観要件も違憲」と判事3人が反対意見、その理由は?「自称すれば許されるわけではない」【最高裁決定】 |accessdate=2023/10/27 |publisher=ハフポスト |author= |date=2023/10/26}}</ref>。
== 課題 ==
性別変更に伴い発生する法律問題が残されているという{{誰範囲|date=2015年11月13日 (金) 12:39 (UTC)|指摘}}がある(判タ1204号 47頁等)。
* 婚姻した一方または双方が当事者の夫婦が第三者の子である未成年者を養子に取れるのか。(家庭裁判所の許可が必要なため)
* 養子縁組をしたパートナーの一方または双方が性別変更をし、離縁した後に婚姻できるか。(現行民法では禁止)
* 所得税法の寡婦控除、生活保護制度における特別加算金などのように、単に女性であるという理由のみをもって有利な取り扱いを認めている諸法令については、調整が必要であるにもかかわらず、そのための法改正が提案すらされていない。(特に所得税の条文は、納税者本人自身の性別を問うことなく「婚姻当時に夫がいた者」を優遇する文言である)
== 各国において ==
先進国の多くは、性同一性障害者の法的性別を訂正・変更する法律または判例がある。
; ヨーロッパ
: イギリスでは2004年に法律 “Gender Recognition Act 2004” を制定{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|pp=200-203}}、スペインでは2007年に法律 “Ley de identidad de género” を制定{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|pp=203-205}}、ドイツでは1980年に法律 “Gesetz über die Änderung der Vornamen und die Feststellung der Geschlechtszugehörigkeit in besonderen Fällen” (Transsexuellengesetz - TSG) を制定{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|p=199}}、イタリアでは1982年に法律 “Legge 14 aprile 1982, n. 164 – Norme in materia di rettificazione di attribuzione di sesso” を制定{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|p=199}}>、スウェーデンでは1972年に法律 “Lag (1972:119) om fastställande av könstillhörighet i vissa fall” を制定{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|p=199}}、オランダでは1985年に民法典に規定{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|p=199}}、トルコでは1988年に民法典に規定{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|p=199}}。
; 北米
: アメリカでは多くの州で{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|pp=199-200}}、カナダではほとんどの州で{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|p=199}}、州法によって法的性別の訂正を認めている。
; オセアニア
: 南オーストラリア州では1988年に法律を制定{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|p=200}}、ニュージーランドでは1995年に登録法を改正{{sfn|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011|p=200}}。
== 関連項目 ==
* '''医学'''
** [[性同一性障害]]
** [[性別適合手術]]
* '''与党 性同一性障害に関するプロジェクトチーム''' 2003年(平成15年)当時
** [[南野知惠子]] - 座長([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[参議院]])
** [[馳浩]](自由民主党・[[衆議院]])
** [[谷畑孝]](自由民主党・衆議院)
** [[市川一朗]](自由民主党・参議院)
** [[山下英利]] - 事務局長(自由民主党・参議院)
** [[江田康幸]]([[公明党]]・衆議院)
** [[荒木清寛]](公明党・参議院)
** [[浜四津敏子]] - 座長代理(公明党・参議院)
** [[松あきら]](公明党・参議院)
** [[江崎洋一郎]]([[保守新党]]・衆議院)
** [[山谷えり子]](保守新党・衆議院)
* '''ドラマ・TV放送'''
** [[ママは昔パパだった]] – 性同一性障害特例法改正をテーマに家族の絆を描いた連続ドラマ(2009年、WOWOW)
** [[トランスアメリカ]] – 親子を中心に性同一性障害を扱った映画(2005年、アメリカ)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
<div class="references-small">
* [[日本精神神経学会]] 性同一性障害に関する委員会 「[http://www.jspn.or.jp/ktj/ktj_k/gid_guideline/gid_guideline_no3.html 性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第三版)]」 2011年(2011年5月改訂)。
* {{Cite book|和書|author=南野知惠子 |authorlink=南野知惠子 |title=解説 性同一性障害者性別取扱特例法 |year=2004 |publisher=日本加除出版 |isbn=9784817812902 |ref=harv}}<!--2004年9月16日初版発行-->
* {{Cite book|和書|author1=野宮亜紀|authorlink1=野宮亜紀|author2=針間克己|authorlink2=針間克己|author3=大島俊之|authorlink3=大島俊之 (法学者)|author4=原科孝雄|authorlink4=原科孝雄|author5=虎井まさ衛|authorlink5=虎井まさ衛|author6=内島豊|authorlink6=内島豊 |title=性同一性障害って何?—一人一人の性のありようを大切にするために |year=2011 |edition=増補改訂版 |publisher=緑風出版 |isbn=9784846111014 |ref={{Harvid|野宮、針間、大島、原科、虎井、内島|2011}}}}
* 平成15年7月16日、官報 号外第162号
</div>
== 外部リンク ==
{{Wikisource}}
'''法律'''
*{{Egov law|415AC1000000111}}
* [http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?id=1553 Act on Special Cases in Handling Gender for People with Gender Identity Disorder] {{ja icon}} {{en icon}} - 日本法令外国語訳データベースシステム
'''司法'''
* [https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_23/index.html 性別の取扱いの変更] - 最高裁判所
* [https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file2/20515001.pdf 性別の取扱いの変更申立事件数 (施行後1年間)] - 最高裁判所
* [https://www.nichibenren.or.jp/document/opinion/year/2003/2003_30.html 性同一性障害者の法的性別に関する意見書] - 日本弁護士連合会
* [https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2003/2003_24.html 「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」に関する会長談話] - 日本弁護士連合会
'''行政'''
* [https://www.mhlw.go.jp/general/seido/syakai/sei32/ 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律第3条第2項に規定する医師の診断書について] - 厚生労働省
'''立法'''
** {{pdf|[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/156/pdf/s071560171560.pdf 成立法律 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]}}
*** [https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/156/meisai/m15607156017.htm 第156回国会 議案情報 (平成15年7月1日–7月16日)]
*** {{pdf|[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/156/pdf/k071560171560.pdf 第156回国会 提案理由 (平成15年7月2日)]}}
** {{pdf|[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/169/pdf/s071690211690.pdf 成立法律 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律の一部を改正する法律]}}
*** [https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/169/meisai/m16907169021.htm 第169回国会 議案審議情報 (平成20年6月3日–6月18日)]
*** {{pdf|[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/169/pdf/k071690211690.pdf 第169回国会 提案理由 (平成20年6月4日)]}}
* [https://www.shugiin.go.jp/ 衆議院]
** [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/15620030716111.htm 制定法律 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]
*** [http://www.shugiin.go.jp/itdb_iinkai.nsf/html/gianrireki/156_156_sanpo_17.htm 第156回国会 法律案等審査経過概要 (平成15年7月1日–7月16日)]
*** [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000415620030709031.htm 第156回国会 法務委員会 第31号 (平成15年7月9日)]
*** [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000115620030710044.htm 第156回国会 本会議 第44号 (平成15年7月10日)]
** [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16920080618070.htm 制定法律 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律の一部を改正する法律]
*** [http://www.shugiin.go.jp/itdb_iinkai.nsf/html/gianrireki/169_169_sanpo_21.htm 第169回国会 法律案等審査経過概要 (平成20年6月3日–6月18日)]
*** [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000416920080606015.htm 第169回国会 法務委員会 第15号 (平成20年6月6日)]
*** [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000116920080610038.htm 第169回国会 本会議 第38号 (平成20年6月10日)]
{{LGBT in Japan}}
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谷川浩司
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谷川 浩司(たにがわ こうじ、1962年4月6日 - )は、現役の将棋棋士で十七世名人。若松政和八段門下。棋士番号は131。兵庫県神戸市須磨区出身。
タイトル通算獲得数(27期)は歴代5位。
日本将棋連盟棋士会会長(初代、2009年4月 - 2011年3月)、日本将棋連盟専務理事(2011年5月 - 2012年12月)、日本将棋連盟会長(2012年12月 - 2017年1月)を務めた。
2023年6月1日に、藤井聡太に更新されるまで40年間の長きに亘って最年少名人獲得(当時21歳2か月)の記録保持者であった。四段昇格(プロ入り)から名人位獲得までの最速記録保持者(6年177日)。
5歳の頃、5つ年上の兄・俊昭との兄弟喧嘩が絶えなかったため、父が兄弟喧嘩を止めさせる目的で将棋盤と駒を買ってきて兄弟で将棋を指させた。これが、将棋との出会いである。ルールは百科事典で調べたという。そして、兵庫県の大会に出るようになって、面白さを感じるようになっていく。なお、この話には「兄弟喧嘩はむしろひどくなった」というオチがある。負けず嫌いだった谷川は「駒を投げつけたり、噛んだりした」という。
小学生時代、神戸・三宮でおこなわれた将棋のイベントで内藤國雄(当時八段)と対局したこともある。この対局について、内藤は「中盤から終盤への感覚が優れていた」と谷川を評し、谷川も「大きな自信になった」と回顧している。
プロを目指すことになった浩司は、小学5年の4月(1973年)に、5級で奨励会で指し始める。以降、順調に昇級・昇段を重ね、中学2年時代の1976年12月20日に四段に昇段してプロデビューした。加藤一二三以来、史上2人目の「中学生棋士」となっている。プロ将棋史上、中学2年以下でプロ入りした棋士は谷川が初である。
なお、兄・俊昭は灘中学校・高等学校と東京大学やリコー(将棋大会トップクラスの常連)で将棋部に在籍し、アマチュアのタイトルを何度も獲得した。2016年現在はネスレ日本の神戸本社勤務である。「将棋ジャーナル」誌の企画対局において、四段時代の羽生善治に平手で勝ったこともあるほか、『週刊将棋』のアマプロ平手戦では佐藤康光にも勝っている。
末尾の年表 も参照。
1983年に史上最年少で名人になった頃、「中原時代」を築いた中原誠十六世名人の後継者と目され、1991年度には四冠王となった。しかし続いてやってきたのは「谷川時代」ではなく、羽生世代の棋士達との対決の時代であった。特に、羽生善治との150局を超える戦い(現役棋士同士では最多)は、ゴールデンカードと呼ばれることとなる。
プロデビュー後、谷川は、順位戦において2期目の1978年度から4期連続昇級して一気にA級に上がる。この間、1978年度に、若手の登竜門である若獅子戦で棋戦初優勝をしている。
1982年4月1日付けでA級八段となった谷川の夢は、中原名人を破って名人となることであった。その4月に始まった第40期名人戦七番勝負では、中原名人と加藤一二三挑戦者が、持将棋1局、千日手2局を含むフルセットの「十番勝負」を戦った。最終局、加藤十段が勝ち名人を奪取したが、東京・将棋会館で最終局の解説をした谷川は、当時の心境について、「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思っていた。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている。また、後年の自著には、「名人戦の舞台で、加藤先生と戦えたことは、幸運であった。」と書いている。
同じ時期に王位戦で挑戦者決定戦に進出。内藤国雄に敗れ王位挑戦ならず。実現していれば加藤一二三、中原誠に次いで史上3人目の20歳での、タイトル最年少挑戦となるところであった。
谷川は、第41期名人戦挑戦者決定リーグ戦(A級順位戦)で7勝2敗の成績を収め、中原誠とのプレーオフを制して名人挑戦権を得る。そして、第41期名人戦(谷川4-2加藤)の第6局(1983年6月14日 - 6月15日)に勝ち、初タイトル・名人を獲得。史上最年少名人(21歳)の記録を打ち立てた。谷川は五段から八段を全て順位戦昇級により昇段したため、初めて五段から九段まで全て順位戦の昇級規定で昇段したことになる(後に丸山忠久も達成)。タイトル獲得での会見で「1年間、名人位を預からせていただきます」と語った。後に、将棋フォーカスのインタビューでは、「他のタイトル戦は中原誠先生に後れを取っていると感じていた。」と語っている。
1983年7月19日の対・大山康晴戦(王位リーグ)で、大山の玉を詰ます手順の中で打ち歩詰め回避の角不成(99手目▲4三角引不成)という、まるで作った詰将棋のような手を指して勝っている(実際の局面図は打ち歩詰め#実戦における打ち歩詰め を参照)。
1983年度の第2回全日本プロトーナメントで、プロ入りが同期の田中寅彦と決勝三番勝負を戦う。両者は若手時代、谷川は終盤得意、田中は序盤得意と比較され、ライバルと呼ばれることもあった。谷川は決勝を2-1で制し、全棋士参加のトーナメント棋戦における初優勝を果たした。同棋戦とは相性が良く、19回の歴史の中で谷川の優勝は通算7回、準優勝は通算3回である。
翌年(1984年)、初のタイトル防衛戦となる第42期名人戦(谷川4-1森安秀)では、粘り強い棋風から「だるま流」と呼ばれた森安秀光を相手に、4勝1敗で名人位防衛に成功する。このとき「これで弱い名人から、並みの名人になれたと思います」と述べている。
第44期(1984年度前期)棋聖戦(谷川0-3米長)では、米長邦雄棋聖(棋王・王将)に挑戦。注目を浴びた名人対三冠王の勝負で谷川は、第1局での相手の歩の数を間違えて読むというポカ、第2局での米長の「泥沼流」の受け(91手目▲5八玉)から逆転負けなどを経験し、ストレート負け・タイトル戦初敗北を喫する。
1985年度、3度目の防衛戦となる第43期名人戦(谷川2-4中原)で挑戦者の中原に敗れ、同年度の王座戦(谷川1-3中原)では奪取に失敗した。一方、全日本プロトーナメントで3連覇し、第11期棋王戦(谷川3-0桐山)では「いぶし銀」こと桐山清澄から棋王位を奪取した。さらには、NHK杯戦優勝、初の最多勝利(56勝)、前述の王座挑戦などの活躍により、将棋大賞の最優秀棋士賞を初受賞する。
1986~87年度、谷川より少し遅れて台頭してきた「55年組」の一人である高橋道雄とのタイトル戦が3つ続いた。
1986年度、第12期棋王戦(谷川1-3高橋)は、高橋が先手の2局は相矢倉、谷川が先手の2局は角換わり腰掛銀となり、相手の得意戦法を2度ずつ受けて立つ戦いとなった。結果は、角換わりで1敗した谷川が棋王を失冠し、無冠となった。
しかし、翌1987年度に、第28期王位戦(谷川4-1高橋)で高橋から奪取した。なお、この王位戦七番勝負と並行して、両者は十段戦リーグでも2度対戦しており、結果は1勝1敗であった。さらに、第13期棋王戦(谷川3-(持1)-2高橋)においては、前年に奪われた棋王位を奪還した。これで、自身初の二冠(王位・棋王)となり、2度目の最優秀棋士賞受賞した。
1988年度、第46期名人戦(谷川4-2中原)は「中原名人への挑戦」となった。3勝1敗で中原を追い詰めた後の第5局で、中原の悠然とした態度に威圧され2勝目を返されるが、第6局で勝ち名人に復位、初めて三冠(名人・王位・棋王)となった。しかし、同年度の第29期王位戦(谷川3-4森)で‘終盤の魔術師’こと森雞二に敗れ、第14期棋王戦(谷川2-3南)では「55年組」の一人で‘地蔵流’こと南芳一に敗れて、名人のみの一冠に後退した。
1989年度、第47期名人戦(谷川4-0米長)で名人位を防衛し、さらに第30期王位戦(谷川4-1森雞二)で森から王位を奪還して二冠(名人・王位)に復帰した。
1990年度、第48期名人戦(谷川2-4中原)で再び中原誠に名人位を奪われたものの、第38期王座戦(谷川3-1中原)で中原誠から王座を奪取し、すぐに二冠(王位・王座)に復帰した。その間、第31期王位戦(谷川4-3佐藤康)ではタイトル戦初登場の五段・佐藤康光にフルセットに持ち込まれたが、辛くも防衛に成功した。
同年度、第3期竜王戦(谷川4-1羽生)で、羽生善治と初めてタイトル戦の舞台で戦い、羽生から竜王を奪取。自身2度目の三冠(竜王・王位・王座)となり、3度目の最優秀棋士賞を受賞した。しかしながら、この竜王戦の第4局、入玉模様ではない203手の名局で、羽生から1勝を返されたことについて、「4-0か4-1かというのは(その後のことを考えれば)大きかったかもしれない」と述べている。
そして、四冠王となる年である1991年度を迎える。
第32期王位戦(谷川4-2中田宏樹)では、三冠のうちの一冠を防衛。
第39期王座戦(谷川2-3福崎)での相手は、かつて谷川に「感覚を破壊された」とまで言わせた穴熊の名手・福崎文吾であった。最初の2局で福崎の穴熊戦法の前に屈したのが大きく、王座を失冠した(二冠に後退)。最終局は千日手指し直しとなったが、その終盤、喉が渇いて苦しそうにしている福崎に、谷川は自分の茶を差し出した。福崎はそれを飲み干した後、自らを勝ちに導く妙手を発見した。
しかし、第4期竜王戦(谷川4-(持1)-2森下)で、矢倉の「森下システム」で知られる森下卓の挑戦を退けて、防衛に成功する。第1局は角換わりの出だしからの持将棋であった。
次に、第59期(1991年度後期)棋聖戦(谷川3-0南)で南芳一を破り、初めて棋聖位に就く。さらには、第41期王将戦(谷川4-1南)でも南を破り、初めての王将位を獲得する(1992年2月28日)。
これで、全7タイトルを各1回以上獲得したことになり、また、大山康晴、中原誠、米長邦雄に次いで史上4人目の四冠王(竜王・棋聖・王位・王将)となり、4度目の最優秀棋士賞受賞した。
1992年度は、6度のタイトル戦で「羽生世代」の3人と対決した。
第60期棋聖戦(谷川3-1郷田)と第61期棋聖戦(谷川3-(持1)-0郷田)では、郷田真隆を相手に2度防衛した。しかし、第33期王位戦(谷川2-4郷田)では郷田に敗れて三冠(竜王・棋聖・王将)に後退し、郷田の四段(史上最低段)でのタイトル獲得を許してしまう。
第5期竜王戦(谷川3-4羽生)では羽生に奪取され、二冠(棋聖・王将)に後退した。第42期王将戦(谷川4-0村山聖)では防衛に成功したものの、第18期棋王戦(谷川2-3羽生)ではフルセットの戦いの末、奪取に失敗した。
翌1993年度からは、タイトル戦のほとんどを羽生と戦うことになる。
1993年度前期の第62期棋聖戦(谷川1-3羽生)で失冠し、王将のみの一冠となった。羽生にタイトル戦で3連続敗退し、この頃から羽生に対して苦手意識を持ったという。第41期王座戦(谷川1-3羽生)では奪取失敗。
羽生へのリターンマッチとなった第63期(1993年度後期)棋聖戦(谷川2-3羽生)は、二連敗の出だしとなった。第二局(1993年12月24日)での羽生の指し方は、従来の常識からかけ離れたものであった。売られた喧嘩を谷川が買う乱戦となったが、最後は羽生の勝ちとなった。しかし、この二連敗の後、千日手2回による日程繰り延べを経て、二連勝という粘りを見せた。第四局(1994年1月31日)は、タイトル戦としては非常に珍しい49手という短手数で羽生を投了に追い込んだものである。しかし、最終局の矢倉戦で敗れて奪取に失敗した。
第43期王将戦(谷川4-2中原)では、中原を相手に王将の一冠を死守した。一方羽生は、この年度に四冠を堅持し、全冠制覇への道を歩んでいた。
1994年度は、第64期棋聖戦(谷川1-3羽生)と第42期王座戦(谷川0-3羽生)で羽生に挑戦するが、いずれも敗退する。一方、羽生は、名人、竜王をそれぞれ米長邦雄、佐藤康光から奪取して史上初の六冠王となり、残るタイトルは、谷川が持つ王将位だけという状況になった。そして、羽生は第44期王将リーグで5勝1敗を挙げ、郷田とのプレーオフを制し、全七冠制覇をかけて谷川王将への挑戦を決めた。
迎えた第44期王将戦(谷川4-3羽生)は、第1局(1995年1月12-13日)の谷川の先勝で始まった。ところが、第2局(1月23-24日)の前の1月17日、谷川は阪神・淡路大震災で被災した。1月20日には米長邦雄とのA級順位戦があり、19日に妻の運転で神戸から大阪に脱出したが、13時間もかかったという。それでも谷川は、対・米長戦で勝ち、羽生との王将戦第2局も勝利した。しかし、羽生も粘って3勝3敗とし、フルセットに持ち込んだ。
そして、青森県・奥入瀬で行われた最終第7局(1995年3月23-24日)は相矢倉の将棋となったが、2日目に76手で千日手が成立し、その日のうちに指し直しとなった。指し直し局は、先手・後手が逆であるにもかかわらず、40手目まで千日手局と全く同じ手順で進み、「お互いの意思がピッタリ合った」。41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。結果、111手で先手・谷川の勝ちとなり、4勝3敗で王将を防衛、最後の砦として羽生の七冠独占を阻止した。この日は、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。後に谷川は、「震災がなかったら獲られていたかもしれない」と語っている。また、後年、インタビューにて「一度、七冠のチャンスは作れても、二度は無理だろうと思っていた。」とも語っている。
1995年度、羽生は開幕から名人、棋聖、王位、王座、竜王と全て防衛に成功し、さらに王将リーグも再び制覇して2年連続で谷川王将の挑戦者となった。
この第45期王将戦七番勝負(谷川0-4羽生)では、羽生が開幕から3連勝し、あっという間に谷川を追い詰めた。
山口県のマリンピアくろいで行われた第4局(1996年2月13日-14日)の戦形は、勝っても負けても大差の内容になりやすい「横歩取り」となり、谷川は先手番で中原囲いを組むという新構想を見せる。2日目の模様は、NHKの衛星テレビで放送され、時間枠は午前9時から終局まで(12:00 - 13:30は中断)という異例の長さであった。その中継会場(大盤解説)は大入りで、その熱気で解説役の森下卓、山田久美は汗だくだったという。谷川にとっては、37手目が悔やまれる一手であった。2日目の15時半頃にはすでに羽生が勝勢になり、自玉に受けがなくなった谷川は、77、79手目の形作りの手で、首を差し出した。以下は易しい詰みとなり、羽生が82手目△7八金と引いて王手をかけた手を見て、17時6分、谷川は投了した。谷川にとっては屈辱の、七冠王誕生であった。終局直後のインタビューでは「せっかく注目してもらったのに、ファンの方にも羽生さんにも申し訳ない」と述べた。
羽生に奪取された後、1996年、第9期竜王戦の挑戦者決定三番勝負で佐藤康光を2勝0敗で破り、羽生竜王へのリベンジの機会をつかみ取った。そして第9期竜王戦七番勝負(谷川4-1羽生)で羽生から竜王位を奪取した。この七番勝負第2局の終盤80手目で、谷川が一見ただのところに△7七桂(右図参照)と打った手は、まさに「光速の寄せ」と言われた。この手を境に羽生の玉はたちどころに寄り形となり、谷川の勝ちとなった。当時、NHK将棋講座で講師を務めていた中原誠は、番組の中で「今回の竜王戦は面白くなりましたね。7七桂という手が出ましてね。」とコメントした。谷川自身は当時を回顧し、「このような手が浮かぶのは理屈ではない。7七の地点が光って見えたと書いて、信じてもらえるだろうか。」と語っている。
なお、直後の第46期王将戦(谷川0-4羽生)でも、王将リーグで村山聖との4勝2敗同士のプレーオフを制して羽生に挑戦したが、敗退した。しかし、第55期A級順位戦では1敗後の8連勝で、羽生名人への挑戦を決めた。
そして、年度が明けての1997年の第55期名人戦(谷川4-2羽生)で勝利を収め、二大タイトル(竜王・名人)を独占した。また、通算5期の規定により永世名人(十七世名人)の資格を得た。翌朝NHK総合テレビのニュースに出演した谷川は、「内容が良くなかった」「まだ‘谷川時代’を作っていない」と語った。
名人戦と日程が並行した1997年4月 - 5月(棋戦としての年度は1996年度)の第15回全日本プロトーナメント決勝五番勝負(谷川3-2森下)では、森下卓を下して6度目の優勝をした。この決勝五番勝負では、谷川が後手番の2局において、先手・森下卓の相矢倉への誘いに谷川が応じず、後手急戦棒銀(原始棒銀)を見せて話題となった(その2局の結果は1勝1敗)。
同年度は、第10期竜王戦(谷川4-0真田圭一)で竜王防衛も果たし、2つのビッグタイトルを独占した。これが評価され、タイトル数は羽生の四冠より少ないものの、最優秀棋士賞(5度目)を受賞した。また、1997年(1 - 12月)の獲得賞金・対局料ランキングで1位(11762万円)となった。1993年〜2018年の間に羽生以外の棋士が1位になったのは、この年と2013年と2017年だけである。
1998年度以降のタイトル戦は、羽生善治、佐藤康光、藤井猛、郷田真隆、丸山忠久、森内俊之といった羽生世代の棋士達ばかりを相手にしての戦いとなった。
1998年度、第56期名人戦七番勝負(谷川3-4佐藤康)は、第6局まですべて先手が勝ちの展開でフルセットとなった。谷川が先手で勝った3局はすべて、谷川が得意とする角換わりを佐藤が受けて立ったものであった。しかし最終第7局は、振り駒で谷川が先手を引き当てたものの矢倉を選択した。結果は佐藤が勝ち「佐藤新名人」を誕生させてしまった。
同年度、第11期竜王戦(谷川0-4藤井)は、4組からの挑戦者として勢いに乗る藤井猛との戦いとなった。谷川は、第1局は穴熊を見せつつ玉頭戦を仕掛けて負け。第2局は相振り飛車にしたが負け。第3局と第4局は、自陣の囲いが堅いままでも絶望の局面、いわゆる「姿焼き」となって負け。結局ストレート負けで「藤井新竜王」を誕生させてしまい、自身は無冠となった。
名人と竜王を失冠した谷川には、次期まで「前竜王・前名人」の肩書きを名乗る権利があった。しかし、本人の意向により、連盟から発表されたのは通常の「九段」の肩書きであった。
1998年度のA級順位戦は、村山聖の休場(同年に死去)により9人でのリーグ戦となった。谷川は7戦全勝で迎えた最終第8回戦で島朗に敗れる。これにより島はA級に残留となり、代わりに弟弟子で仲もよい井上慶太がA級から陥落した。7勝1敗同士の森内俊之とのプレーオフを制して佐藤康光名人へのリターンマッチの権利を得たものの、「井上君には申し訳なかった」と語った。
そして迎えた1999年度の佐藤康光との第57期名人戦(谷川3-4佐藤)は、最初の2局で連敗した。しかし、第3局と第5局で前年と同様、谷川得意の角換わりを佐藤が受けて立って谷川が勝つなど3連勝し、奪還まであと1勝とした。次の第6局では佐藤が居飛車穴熊を用い、2日目の深夜まで続く長手数の将棋を制した。最終局も佐藤が勝ち、谷川は名人を取り返すことができなかった。なお、このシリーズで谷川は、後手番の2局で、当時本格的に流行し始めた戦法・「横歩取り8五飛」を採用している。
この名人戦の直後、第70期棋聖戦(谷川3-0郷田)で郷田真隆から棋聖位を奪取し、「無冠」を返上する。このとき、テレビのインタビューで、「1つぐらいは...(タイトルを持っていないと)」と苦笑しながら語り、依然、第一人者となるべき身の自覚と向上心を示唆した。
2000年度は、王位戦で2年連続挑戦するなどして、第71期棋聖戦(谷川2-3羽生)、第41期王位戦(谷川3-4羽生)、第50期王将戦(谷川1-4羽生)という3つのタイトル戦で羽生と対決した。特に棋聖戦と王位戦は日程が重なり、また、どちらも最終局までもつれ込んだため、‘十二番勝負’と言われた。結果は、3つとも敗退し無冠となった。しかし、この年度の第59期A級順位戦では最終9回戦で佐藤康光との同星決戦(6勝2敗同士)を制し、丸山忠久名人への挑戦権を得た。
そして、2001年度の第59期名人戦(谷川3-4丸山)は、3年前の佐藤との名人戦と同様、第6局まですべて先手が勝ち、最終局だけ後手が勝つという展開(千日手指し直しがあった点は異なる)で、丸山の防衛となった。この名人戦は、後手の谷川の四間飛車に対して丸山が「ミレニアム囲い」を2度用いたり、横歩取り8五飛が3度現れたりするなど、当時の流行を象徴する戦いとなった。なお、当年度の王将戦(第51期)では、挑戦者決定リーグにて史上初となる「2勝4敗と負け越したがリーグ残留」、という珍記録を成功させている。
2002年度、第43期王位戦七番勝負(谷川4-1羽生)で羽生善治から王位を奪取。およそ2年ぶりにタイトル保持者となった。このシリーズの全6局(第5局の千日手指し直しも含む)は、全て異なる戦形であった。なお、この王位戦の第1局で、ちょうど公式戦通算1000勝(特別将棋栄誉賞、史上7人目)を記録したので、当時、NHKに解説役で出演した棋士が「1000勝で先勝」という駄洒落を言っている。
翌2003年度の第44期王位戦(谷川4-1羽生)は、羽生に奪還を許さず2連覇した。羽生を相手に、同一タイトル戦で2年連続勝利したのは谷川が初である。また、同年度、第29期棋王戦(谷川3-1丸山)では、丸山忠久得意の、先手・角換わり、後手・横歩取り8五飛を打ち破って棋王位を奪取。1998年の名人失冠以来、約6年振りに二冠(王位・棋王)となった。
しかし、これら2つのタイトルは、次年度(2004年度)に、第45期王位戦(谷川1-4羽生)と第30期棋王戦(谷川0-3羽生)で、いずれも羽生に奪取されてしまい、またも無冠に追い込まれた。
2003年12月19日、A級順位戦の対・島朗戦において、棒銀の銀をタダ捨てした名手を指す。出だし、島が自分から角交換をして「先後逆の角換わり」の将棋となり、右図はその53手目、谷川の棒銀による銀交換を先手の島が拒否して、7七にいた銀を▲8八銀と引いた局面である。ここで、「△7七銀成」(54手目)が炸裂。以下、▲同桂△3八馬▲同金△8九飛▲7九銀△8八飛行成▲同金△7九飛成▲4八玉△8八竜▲4七玉△4五金と進み、たちまち寄り形。この54手目△7七銀成で将棋大賞の升田幸三賞を受賞した。同賞では、戦法でも囲いでもない特定の一手に対する初の授与であった。
竜王戦で、第1期(1988年度)から第18期(2005年度)まで18期連続で1組に在籍(竜王在位を含む)。第1期からの連続記録としては最長である。
2005年度の第64期A級順位戦では8勝1敗で羽生と並び、二者によるプレーオフは2006年3月16日に行われ、流行の、後手番一手損角換わりの戦形となった。最終盤で羽生は127手目に▲3一角と打ち捨ててから谷川の玉を猛然と詰ましにかかったが、谷川は巧みに詰みを逃れて156手で勝利。この一局の内容は高く評価され、将棋大賞で新設されたばかりの「名局賞」を受賞した。
そして、11度目の名人戦登場となる第64期(2006年度)名人戦(谷川2-4森内)を迎えた。第1局では、終盤に森内が自陣の7二と8二に銀を並べ打つという珍形の強い受けを見せて勝ち、また、第2局では、一転してゴキゲン中飛車・超急戦での一方的な内容で居飛車側の森内が勝つという出だしとなった。その後は、先手番に自信を持つ森内に着実に2勝を上積みされて敗退。9年ぶりの名人復位はならなかった。
第67期(2008年度)A級順位戦は、最終局を残した時点で降級の可能性があるという、谷川にとっては初めての危機を迎え、このことは地方紙にも取り上げられた。そして迎えた最終局(2009年3月3日)の対・鈴木大介戦は、「勝った方が残留、負けた方が降級」という決戦となった。先手番の谷川は相振り飛車に誘導して勝利し、A級残留に成功した。
2007年度・2008年度と、タイトル戦登場も棋戦優勝もない年度が続いたが、2009年度はJT将棋日本シリーズで優勝し、同棋戦での最多優勝記録を6に更新した。なお、前年度獲得賞金・対局料ランキング13位で元々出場権がなかった谷川は、渡辺明が近親者から新型インフルエンザを感染している可能性があって欠場したため、繰り上げ出場した。優勝後のインタビューでは、「本来、出場できる立場ではなかった」とし、優勝賞金(500万円)は主催者や連盟と相談の上、小学生への普及のために使ってほしいとの旨を語った。そして、翌年の9月に3000セット(東京都に2000セット、大阪市に1000セット)の将棋盤と駒を寄付した。
第69期(2010年度)A級順位戦で残留したため、第70期でA級在籍の連続記録を30期(名人在位を含む)に伸ばして中原誠の記録を抜き、歴代単独3位となった。
2011年3月10日、第24期竜王戦2組昇級者決定戦1回戦で中川大輔に勝ち、史上4人目の公式戦通算1200勝(1901局・698敗・3持将棋、勝率0.632)を当時最年少(48歳11か月)で達成。四段昇段後34年2か月での達成は、33年8か月の中原誠十六世名人に次ぐ記録であった。
2012年度、第71期A級順位戦では、2勝6敗で谷川(4位)・高橋道雄(8位)・橋本崇載(9位)の3人が並び、降級の可能性を残して最終局(2013年3月1日)に臨んだ。勝てば自力で残留を決められる対局であったが、屋敷伸之に敗れ、残留は他の対局の結果へ委ねられることになった。しかし高橋と橋本が揃って敗れたため、辛くもA級残留を果たした。
2013年度、第72期A級順位戦に参加し、連続A級在籍記録は升田幸三を抜き歴代単独2位となったが、2014年1月7日に渡辺明に敗れ1勝6敗となった後、10日の他の対局でB級1組への降級が決定し、連続在籍記録は32期で途絶えた。永世名人資格保持者がB級1組所属となるのは第59期(2000年度)の中原誠十六世名人以来となる。
2018年10月1日、第68回NHK杯2回戦で稲葉陽に勝ち、史上5人目の公式戦通算1300勝(2135局・832敗・3持将棋、勝率0.610)を達成。2019年1月22日には、第32期竜王戦4組ランキング戦で船江恒平に勝ち、中原誠を超え歴代4位の1309勝を、同年9月12日には、第78期順位戦B級1組で松尾歩に勝利し、加藤一二三を超え歴代3位の1325勝を、それぞれ達成した。
しかし、松尾戦以降は順位戦で連敗し、2020年1月23日の千田翔太戦で敗れたことにより、最終局を待たずB級2組への降級が決まった(最終結果は3勝9敗の12位)。名人経験者のB級2組降級は加藤一二三・丸山忠久に次いで3人目、永世名人資格者のB級2組降級は谷川が初となる。
2022年、日本将棋連盟の理事会が谷川の実績や将棋界への貢献を考慮し永世名人襲位を推薦。本人および名人戦主催者の合意が得られたため、第81期順位戦の開幕を前に、5月23日付で永世名人(十七世名人)を襲位。6月9日に佐藤康光会長から推戴状を授与された。
2023年6月1日、第81期名人戦第5局にて藤井聡太が自身の最年少名人記録を40年ぶりに更新した際に、「40年前の言葉をもう一度使わせて頂くと、中原十六世名人からお預かりした最年少名人の記録を、無事、藤井新名人にお渡しできた、という心境です。」とコメントを残している。
他の棋士が思いつきにくい手順でたちまち敵の玉を寄せることから、「光速の寄せ」、「光速流」というキャッチフレーズが付いている。 森内俊之は、「終盤にスピード感覚を将棋に持ち込んだ」元祖とも言える存在であり、寄せの概念を変えたと評している。
しかし、2009年には「光速の寄せなくなっちゃったんで」と谷川本人も冗談めかして言ったように、必ずしも「光速」にこだわらない棋風へと変化しつつある。他に、有力な指し手が2つ以上見えた場合、駒が前に進む手を優先して選ぶことから、「谷川前進流」とも言われる。
谷川が色紙などに揮毫するときに、好んで書く言葉として、「光速」、「前進」、「飛翔」、「危所遊」(松尾芭蕉の「名人危所に遊ぶ」より)などがある。これらは、谷川自身の将棋観・特徴を表している。ちなみに、谷川は達筆であるが、一目で谷川が書いたとわかる独特の字を書く。
谷川は振り飛車も指すが、基本的には居飛車党である。プロデビューしたばかりの四段時代は振り飛車党であったが、その後、居飛車党に鞍替えした。
昭和と平成の境目の前後の頃には先手番の角換わりを最も得意とし、他の居飛車党の棋士達から恐れられた。
相矢倉は後手番が少しだけ不利だということが‘定説化’した頃(2000年頃)からは、後手番では矢倉を指すことがかなり少なくなり、たとえば四間飛車を多用した。その後、横歩取り8五飛、相振り飛車、ゴキゲン中飛車など、流行の戦法を取り入れて、指し方が多様化する。
ちなみに、谷川の「光速の寄せ」を信用したがために、対局相手が自ら転ぶケースも時たま生じている。一例として谷川が永世名人の資格を獲得した第55期名人戦の第1局の最終盤を挙げる。羽生は72手目に△6五飛と指して谷川の馬と金に両取りをかけた。馬は羽生の玉に迫っている駒で、金は谷川の玉を守っている駒であった。それに対して谷川はほとんど時間を使わず、羽生玉の近くに▲4一銀と打った。しかし、この手は詰めろではなかった。ところが、羽生は谷川を信用して、その手が詰めろだと錯覚したため、金を取って必至をかければ勝ちになるところを、自陣を攻めている馬の方を取ってしまい、結果、谷川の逆転勝利となった。
デビュー直後にはハメ手として古くから知られている横歩取り4五角戦法を再発見して連採、森安秀光・東和男を36手で倒しブームを巻き起こしたことがある。
(2021年3月25日現在)
詳細は末尾の年表 を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照
(2022年5月26日現在。最新は2006年度名人挑戦。)
末尾の年表 の「一般棋戦優勝」の欄も参照。
谷川のプロデビュー(1976年12月20日)以降に存在した棋戦のうち、新進棋士の棋戦を除けば、谷川に優勝経験がない棋戦(タイトル戦を含む)は、下記の5つだけである(ただし、前身の棋戦は同一の棋戦と見なす)。
末尾の年表 の「将棋大賞」の欄を参照。
その他多数
昇段およびタイトルの獲得・失冠による肩書きの遍歴を記す。(色付きは継続中の記録)
|
[
{
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"text": "谷川 浩司(たにがわ こうじ、1962年4月6日 - )は、現役の将棋棋士で十七世名人。若松政和八段門下。棋士番号は131。兵庫県神戸市須磨区出身。",
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"text": "タイトル通算獲得数(27期)は歴代5位。",
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{
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"text": "日本将棋連盟棋士会会長(初代、2009年4月 - 2011年3月)、日本将棋連盟専務理事(2011年5月 - 2012年12月)、日本将棋連盟会長(2012年12月 - 2017年1月)を務めた。",
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"text": "2023年6月1日に、藤井聡太に更新されるまで40年間の長きに亘って最年少名人獲得(当時21歳2か月)の記録保持者であった。四段昇格(プロ入り)から名人位獲得までの最速記録保持者(6年177日)。",
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{
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"text": "5歳の頃、5つ年上の兄・俊昭との兄弟喧嘩が絶えなかったため、父が兄弟喧嘩を止めさせる目的で将棋盤と駒を買ってきて兄弟で将棋を指させた。これが、将棋との出会いである。ルールは百科事典で調べたという。そして、兵庫県の大会に出るようになって、面白さを感じるようになっていく。なお、この話には「兄弟喧嘩はむしろひどくなった」というオチがある。負けず嫌いだった谷川は「駒を投げつけたり、噛んだりした」という。",
"title": "プロデビューまで"
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"text": "小学生時代、神戸・三宮でおこなわれた将棋のイベントで内藤國雄(当時八段)と対局したこともある。この対局について、内藤は「中盤から終盤への感覚が優れていた」と谷川を評し、谷川も「大きな自信になった」と回顧している。",
"title": "プロデビューまで"
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{
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"text": "プロを目指すことになった浩司は、小学5年の4月(1973年)に、5級で奨励会で指し始める。以降、順調に昇級・昇段を重ね、中学2年時代の1976年12月20日に四段に昇段してプロデビューした。加藤一二三以来、史上2人目の「中学生棋士」となっている。プロ将棋史上、中学2年以下でプロ入りした棋士は谷川が初である。",
"title": "プロデビューまで"
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{
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"text": "なお、兄・俊昭は灘中学校・高等学校と東京大学やリコー(将棋大会トップクラスの常連)で将棋部に在籍し、アマチュアのタイトルを何度も獲得した。2016年現在はネスレ日本の神戸本社勤務である。「将棋ジャーナル」誌の企画対局において、四段時代の羽生善治に平手で勝ったこともあるほか、『週刊将棋』のアマプロ平手戦では佐藤康光にも勝っている。",
"title": "プロデビューまで"
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"text": "末尾の年表 も参照。",
"title": "棋歴"
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"text": "1983年に史上最年少で名人になった頃、「中原時代」を築いた中原誠十六世名人の後継者と目され、1991年度には四冠王となった。しかし続いてやってきたのは「谷川時代」ではなく、羽生世代の棋士達との対決の時代であった。特に、羽生善治との150局を超える戦い(現役棋士同士では最多)は、ゴールデンカードと呼ばれることとなる。",
"title": "棋歴"
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"text": "プロデビュー後、谷川は、順位戦において2期目の1978年度から4期連続昇級して一気にA級に上がる。この間、1978年度に、若手の登竜門である若獅子戦で棋戦初優勝をしている。",
"title": "棋歴"
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"text": "1982年4月1日付けでA級八段となった谷川の夢は、中原名人を破って名人となることであった。その4月に始まった第40期名人戦七番勝負では、中原名人と加藤一二三挑戦者が、持将棋1局、千日手2局を含むフルセットの「十番勝負」を戦った。最終局、加藤十段が勝ち名人を奪取したが、東京・将棋会館で最終局の解説をした谷川は、当時の心境について、「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思っていた。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている。また、後年の自著には、「名人戦の舞台で、加藤先生と戦えたことは、幸運であった。」と書いている。",
"title": "棋歴"
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"text": "同じ時期に王位戦で挑戦者決定戦に進出。内藤国雄に敗れ王位挑戦ならず。実現していれば加藤一二三、中原誠に次いで史上3人目の20歳での、タイトル最年少挑戦となるところであった。",
"title": "棋歴"
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"text": "谷川は、第41期名人戦挑戦者決定リーグ戦(A級順位戦)で7勝2敗の成績を収め、中原誠とのプレーオフを制して名人挑戦権を得る。そして、第41期名人戦(谷川4-2加藤)の第6局(1983年6月14日 - 6月15日)に勝ち、初タイトル・名人を獲得。史上最年少名人(21歳)の記録を打ち立てた。谷川は五段から八段を全て順位戦昇級により昇段したため、初めて五段から九段まで全て順位戦の昇級規定で昇段したことになる(後に丸山忠久も達成)。タイトル獲得での会見で「1年間、名人位を預からせていただきます」と語った。後に、将棋フォーカスのインタビューでは、「他のタイトル戦は中原誠先生に後れを取っていると感じていた。」と語っている。",
"title": "棋歴"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "1983年7月19日の対・大山康晴戦(王位リーグ)で、大山の玉を詰ます手順の中で打ち歩詰め回避の角不成(99手目▲4三角引不成)という、まるで作った詰将棋のような手を指して勝っている(実際の局面図は打ち歩詰め#実戦における打ち歩詰め を参照)。",
"title": "棋歴"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1983年度の第2回全日本プロトーナメントで、プロ入りが同期の田中寅彦と決勝三番勝負を戦う。両者は若手時代、谷川は終盤得意、田中は序盤得意と比較され、ライバルと呼ばれることもあった。谷川は決勝を2-1で制し、全棋士参加のトーナメント棋戦における初優勝を果たした。同棋戦とは相性が良く、19回の歴史の中で谷川の優勝は通算7回、準優勝は通算3回である。",
"title": "棋歴"
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"text": "翌年(1984年)、初のタイトル防衛戦となる第42期名人戦(谷川4-1森安秀)では、粘り強い棋風から「だるま流」と呼ばれた森安秀光を相手に、4勝1敗で名人位防衛に成功する。このとき「これで弱い名人から、並みの名人になれたと思います」と述べている。",
"title": "棋歴"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "第44期(1984年度前期)棋聖戦(谷川0-3米長)では、米長邦雄棋聖(棋王・王将)に挑戦。注目を浴びた名人対三冠王の勝負で谷川は、第1局での相手の歩の数を間違えて読むというポカ、第2局での米長の「泥沼流」の受け(91手目▲5八玉)から逆転負けなどを経験し、ストレート負け・タイトル戦初敗北を喫する。",
"title": "棋歴"
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"text": "1985年度、3度目の防衛戦となる第43期名人戦(谷川2-4中原)で挑戦者の中原に敗れ、同年度の王座戦(谷川1-3中原)では奪取に失敗した。一方、全日本プロトーナメントで3連覇し、第11期棋王戦(谷川3-0桐山)では「いぶし銀」こと桐山清澄から棋王位を奪取した。さらには、NHK杯戦優勝、初の最多勝利(56勝)、前述の王座挑戦などの活躍により、将棋大賞の最優秀棋士賞を初受賞する。",
"title": "棋歴"
},
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"text": "1986~87年度、谷川より少し遅れて台頭してきた「55年組」の一人である高橋道雄とのタイトル戦が3つ続いた。",
"title": "棋歴"
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"text": "1986年度、第12期棋王戦(谷川1-3高橋)は、高橋が先手の2局は相矢倉、谷川が先手の2局は角換わり腰掛銀となり、相手の得意戦法を2度ずつ受けて立つ戦いとなった。結果は、角換わりで1敗した谷川が棋王を失冠し、無冠となった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "しかし、翌1987年度に、第28期王位戦(谷川4-1高橋)で高橋から奪取した。なお、この王位戦七番勝負と並行して、両者は十段戦リーグでも2度対戦しており、結果は1勝1敗であった。さらに、第13期棋王戦(谷川3-(持1)-2高橋)においては、前年に奪われた棋王位を奪還した。これで、自身初の二冠(王位・棋王)となり、2度目の最優秀棋士賞受賞した。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "1988年度、第46期名人戦(谷川4-2中原)は「中原名人への挑戦」となった。3勝1敗で中原を追い詰めた後の第5局で、中原の悠然とした態度に威圧され2勝目を返されるが、第6局で勝ち名人に復位、初めて三冠(名人・王位・棋王)となった。しかし、同年度の第29期王位戦(谷川3-4森)で‘終盤の魔術師’こと森雞二に敗れ、第14期棋王戦(谷川2-3南)では「55年組」の一人で‘地蔵流’こと南芳一に敗れて、名人のみの一冠に後退した。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "1989年度、第47期名人戦(谷川4-0米長)で名人位を防衛し、さらに第30期王位戦(谷川4-1森雞二)で森から王位を奪還して二冠(名人・王位)に復帰した。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1990年度、第48期名人戦(谷川2-4中原)で再び中原誠に名人位を奪われたものの、第38期王座戦(谷川3-1中原)で中原誠から王座を奪取し、すぐに二冠(王位・王座)に復帰した。その間、第31期王位戦(谷川4-3佐藤康)ではタイトル戦初登場の五段・佐藤康光にフルセットに持ち込まれたが、辛くも防衛に成功した。",
"title": "棋歴"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "同年度、第3期竜王戦(谷川4-1羽生)で、羽生善治と初めてタイトル戦の舞台で戦い、羽生から竜王を奪取。自身2度目の三冠(竜王・王位・王座)となり、3度目の最優秀棋士賞を受賞した。しかしながら、この竜王戦の第4局、入玉模様ではない203手の名局で、羽生から1勝を返されたことについて、「4-0か4-1かというのは(その後のことを考えれば)大きかったかもしれない」と述べている。",
"title": "棋歴"
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"text": "そして、四冠王となる年である1991年度を迎える。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "第32期王位戦(谷川4-2中田宏樹)では、三冠のうちの一冠を防衛。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "第39期王座戦(谷川2-3福崎)での相手は、かつて谷川に「感覚を破壊された」とまで言わせた穴熊の名手・福崎文吾であった。最初の2局で福崎の穴熊戦法の前に屈したのが大きく、王座を失冠した(二冠に後退)。最終局は千日手指し直しとなったが、その終盤、喉が渇いて苦しそうにしている福崎に、谷川は自分の茶を差し出した。福崎はそれを飲み干した後、自らを勝ちに導く妙手を発見した。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "しかし、第4期竜王戦(谷川4-(持1)-2森下)で、矢倉の「森下システム」で知られる森下卓の挑戦を退けて、防衛に成功する。第1局は角換わりの出だしからの持将棋であった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "次に、第59期(1991年度後期)棋聖戦(谷川3-0南)で南芳一を破り、初めて棋聖位に就く。さらには、第41期王将戦(谷川4-1南)でも南を破り、初めての王将位を獲得する(1992年2月28日)。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "これで、全7タイトルを各1回以上獲得したことになり、また、大山康晴、中原誠、米長邦雄に次いで史上4人目の四冠王(竜王・棋聖・王位・王将)となり、4度目の最優秀棋士賞受賞した。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1992年度は、6度のタイトル戦で「羽生世代」の3人と対決した。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "第60期棋聖戦(谷川3-1郷田)と第61期棋聖戦(谷川3-(持1)-0郷田)では、郷田真隆を相手に2度防衛した。しかし、第33期王位戦(谷川2-4郷田)では郷田に敗れて三冠(竜王・棋聖・王将)に後退し、郷田の四段(史上最低段)でのタイトル獲得を許してしまう。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "第5期竜王戦(谷川3-4羽生)では羽生に奪取され、二冠(棋聖・王将)に後退した。第42期王将戦(谷川4-0村山聖)では防衛に成功したものの、第18期棋王戦(谷川2-3羽生)ではフルセットの戦いの末、奪取に失敗した。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "翌1993年度からは、タイトル戦のほとんどを羽生と戦うことになる。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1993年度前期の第62期棋聖戦(谷川1-3羽生)で失冠し、王将のみの一冠となった。羽生にタイトル戦で3連続敗退し、この頃から羽生に対して苦手意識を持ったという。第41期王座戦(谷川1-3羽生)では奪取失敗。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "羽生へのリターンマッチとなった第63期(1993年度後期)棋聖戦(谷川2-3羽生)は、二連敗の出だしとなった。第二局(1993年12月24日)での羽生の指し方は、従来の常識からかけ離れたものであった。売られた喧嘩を谷川が買う乱戦となったが、最後は羽生の勝ちとなった。しかし、この二連敗の後、千日手2回による日程繰り延べを経て、二連勝という粘りを見せた。第四局(1994年1月31日)は、タイトル戦としては非常に珍しい49手という短手数で羽生を投了に追い込んだものである。しかし、最終局の矢倉戦で敗れて奪取に失敗した。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "第43期王将戦(谷川4-2中原)では、中原を相手に王将の一冠を死守した。一方羽生は、この年度に四冠を堅持し、全冠制覇への道を歩んでいた。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1994年度は、第64期棋聖戦(谷川1-3羽生)と第42期王座戦(谷川0-3羽生)で羽生に挑戦するが、いずれも敗退する。一方、羽生は、名人、竜王をそれぞれ米長邦雄、佐藤康光から奪取して史上初の六冠王となり、残るタイトルは、谷川が持つ王将位だけという状況になった。そして、羽生は第44期王将リーグで5勝1敗を挙げ、郷田とのプレーオフを制し、全七冠制覇をかけて谷川王将への挑戦を決めた。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "迎えた第44期王将戦(谷川4-3羽生)は、第1局(1995年1月12-13日)の谷川の先勝で始まった。ところが、第2局(1月23-24日)の前の1月17日、谷川は阪神・淡路大震災で被災した。1月20日には米長邦雄とのA級順位戦があり、19日に妻の運転で神戸から大阪に脱出したが、13時間もかかったという。それでも谷川は、対・米長戦で勝ち、羽生との王将戦第2局も勝利した。しかし、羽生も粘って3勝3敗とし、フルセットに持ち込んだ。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "そして、青森県・奥入瀬で行われた最終第7局(1995年3月23-24日)は相矢倉の将棋となったが、2日目に76手で千日手が成立し、その日のうちに指し直しとなった。指し直し局は、先手・後手が逆であるにもかかわらず、40手目まで千日手局と全く同じ手順で進み、「お互いの意思がピッタリ合った」。41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。結果、111手で先手・谷川の勝ちとなり、4勝3敗で王将を防衛、最後の砦として羽生の七冠独占を阻止した。この日は、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。後に谷川は、「震災がなかったら獲られていたかもしれない」と語っている。また、後年、インタビューにて「一度、七冠のチャンスは作れても、二度は無理だろうと思っていた。」とも語っている。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1995年度、羽生は開幕から名人、棋聖、王位、王座、竜王と全て防衛に成功し、さらに王将リーグも再び制覇して2年連続で谷川王将の挑戦者となった。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "この第45期王将戦七番勝負(谷川0-4羽生)では、羽生が開幕から3連勝し、あっという間に谷川を追い詰めた。",
"title": "棋歴"
},
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "山口県のマリンピアくろいで行われた第4局(1996年2月13日-14日)の戦形は、勝っても負けても大差の内容になりやすい「横歩取り」となり、谷川は先手番で中原囲いを組むという新構想を見せる。2日目の模様は、NHKの衛星テレビで放送され、時間枠は午前9時から終局まで(12:00 - 13:30は中断)という異例の長さであった。その中継会場(大盤解説)は大入りで、その熱気で解説役の森下卓、山田久美は汗だくだったという。谷川にとっては、37手目が悔やまれる一手であった。2日目の15時半頃にはすでに羽生が勝勢になり、自玉に受けがなくなった谷川は、77、79手目の形作りの手で、首を差し出した。以下は易しい詰みとなり、羽生が82手目△7八金と引いて王手をかけた手を見て、17時6分、谷川は投了した。谷川にとっては屈辱の、七冠王誕生であった。終局直後のインタビューでは「せっかく注目してもらったのに、ファンの方にも羽生さんにも申し訳ない」と述べた。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "羽生に奪取された後、1996年、第9期竜王戦の挑戦者決定三番勝負で佐藤康光を2勝0敗で破り、羽生竜王へのリベンジの機会をつかみ取った。そして第9期竜王戦七番勝負(谷川4-1羽生)で羽生から竜王位を奪取した。この七番勝負第2局の終盤80手目で、谷川が一見ただのところに△7七桂(右図参照)と打った手は、まさに「光速の寄せ」と言われた。この手を境に羽生の玉はたちどころに寄り形となり、谷川の勝ちとなった。当時、NHK将棋講座で講師を務めていた中原誠は、番組の中で「今回の竜王戦は面白くなりましたね。7七桂という手が出ましてね。」とコメントした。谷川自身は当時を回顧し、「このような手が浮かぶのは理屈ではない。7七の地点が光って見えたと書いて、信じてもらえるだろうか。」と語っている。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお、直後の第46期王将戦(谷川0-4羽生)でも、王将リーグで村山聖との4勝2敗同士のプレーオフを制して羽生に挑戦したが、敗退した。しかし、第55期A級順位戦では1敗後の8連勝で、羽生名人への挑戦を決めた。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "そして、年度が明けての1997年の第55期名人戦(谷川4-2羽生)で勝利を収め、二大タイトル(竜王・名人)を独占した。また、通算5期の規定により永世名人(十七世名人)の資格を得た。翌朝NHK総合テレビのニュースに出演した谷川は、「内容が良くなかった」「まだ‘谷川時代’を作っていない」と語った。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "名人戦と日程が並行した1997年4月 - 5月(棋戦としての年度は1996年度)の第15回全日本プロトーナメント決勝五番勝負(谷川3-2森下)では、森下卓を下して6度目の優勝をした。この決勝五番勝負では、谷川が後手番の2局において、先手・森下卓の相矢倉への誘いに谷川が応じず、後手急戦棒銀(原始棒銀)を見せて話題となった(その2局の結果は1勝1敗)。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "同年度は、第10期竜王戦(谷川4-0真田圭一)で竜王防衛も果たし、2つのビッグタイトルを独占した。これが評価され、タイトル数は羽生の四冠より少ないものの、最優秀棋士賞(5度目)を受賞した。また、1997年(1 - 12月)の獲得賞金・対局料ランキングで1位(11762万円)となった。1993年〜2018年の間に羽生以外の棋士が1位になったのは、この年と2013年と2017年だけである。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1998年度以降のタイトル戦は、羽生善治、佐藤康光、藤井猛、郷田真隆、丸山忠久、森内俊之といった羽生世代の棋士達ばかりを相手にしての戦いとなった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1998年度、第56期名人戦七番勝負(谷川3-4佐藤康)は、第6局まですべて先手が勝ちの展開でフルセットとなった。谷川が先手で勝った3局はすべて、谷川が得意とする角換わりを佐藤が受けて立ったものであった。しかし最終第7局は、振り駒で谷川が先手を引き当てたものの矢倉を選択した。結果は佐藤が勝ち「佐藤新名人」を誕生させてしまった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "同年度、第11期竜王戦(谷川0-4藤井)は、4組からの挑戦者として勢いに乗る藤井猛との戦いとなった。谷川は、第1局は穴熊を見せつつ玉頭戦を仕掛けて負け。第2局は相振り飛車にしたが負け。第3局と第4局は、自陣の囲いが堅いままでも絶望の局面、いわゆる「姿焼き」となって負け。結局ストレート負けで「藤井新竜王」を誕生させてしまい、自身は無冠となった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "名人と竜王を失冠した谷川には、次期まで「前竜王・前名人」の肩書きを名乗る権利があった。しかし、本人の意向により、連盟から発表されたのは通常の「九段」の肩書きであった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1998年度のA級順位戦は、村山聖の休場(同年に死去)により9人でのリーグ戦となった。谷川は7戦全勝で迎えた最終第8回戦で島朗に敗れる。これにより島はA級に残留となり、代わりに弟弟子で仲もよい井上慶太がA級から陥落した。7勝1敗同士の森内俊之とのプレーオフを制して佐藤康光名人へのリターンマッチの権利を得たものの、「井上君には申し訳なかった」と語った。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "そして迎えた1999年度の佐藤康光との第57期名人戦(谷川3-4佐藤)は、最初の2局で連敗した。しかし、第3局と第5局で前年と同様、谷川得意の角換わりを佐藤が受けて立って谷川が勝つなど3連勝し、奪還まであと1勝とした。次の第6局では佐藤が居飛車穴熊を用い、2日目の深夜まで続く長手数の将棋を制した。最終局も佐藤が勝ち、谷川は名人を取り返すことができなかった。なお、このシリーズで谷川は、後手番の2局で、当時本格的に流行し始めた戦法・「横歩取り8五飛」を採用している。",
"title": "棋歴"
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"text": "この名人戦の直後、第70期棋聖戦(谷川3-0郷田)で郷田真隆から棋聖位を奪取し、「無冠」を返上する。このとき、テレビのインタビューで、「1つぐらいは...(タイトルを持っていないと)」と苦笑しながら語り、依然、第一人者となるべき身の自覚と向上心を示唆した。",
"title": "棋歴"
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"text": "2000年度は、王位戦で2年連続挑戦するなどして、第71期棋聖戦(谷川2-3羽生)、第41期王位戦(谷川3-4羽生)、第50期王将戦(谷川1-4羽生)という3つのタイトル戦で羽生と対決した。特に棋聖戦と王位戦は日程が重なり、また、どちらも最終局までもつれ込んだため、‘十二番勝負’と言われた。結果は、3つとも敗退し無冠となった。しかし、この年度の第59期A級順位戦では最終9回戦で佐藤康光との同星決戦(6勝2敗同士)を制し、丸山忠久名人への挑戦権を得た。",
"title": "棋歴"
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"text": "そして、2001年度の第59期名人戦(谷川3-4丸山)は、3年前の佐藤との名人戦と同様、第6局まですべて先手が勝ち、最終局だけ後手が勝つという展開(千日手指し直しがあった点は異なる)で、丸山の防衛となった。この名人戦は、後手の谷川の四間飛車に対して丸山が「ミレニアム囲い」を2度用いたり、横歩取り8五飛が3度現れたりするなど、当時の流行を象徴する戦いとなった。なお、当年度の王将戦(第51期)では、挑戦者決定リーグにて史上初となる「2勝4敗と負け越したがリーグ残留」、という珍記録を成功させている。",
"title": "棋歴"
},
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"paragraph_id": 59,
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"text": "2002年度、第43期王位戦七番勝負(谷川4-1羽生)で羽生善治から王位を奪取。およそ2年ぶりにタイトル保持者となった。このシリーズの全6局(第5局の千日手指し直しも含む)は、全て異なる戦形であった。なお、この王位戦の第1局で、ちょうど公式戦通算1000勝(特別将棋栄誉賞、史上7人目)を記録したので、当時、NHKに解説役で出演した棋士が「1000勝で先勝」という駄洒落を言っている。",
"title": "棋歴"
},
{
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"text": "翌2003年度の第44期王位戦(谷川4-1羽生)は、羽生に奪還を許さず2連覇した。羽生を相手に、同一タイトル戦で2年連続勝利したのは谷川が初である。また、同年度、第29期棋王戦(谷川3-1丸山)では、丸山忠久得意の、先手・角換わり、後手・横歩取り8五飛を打ち破って棋王位を奪取。1998年の名人失冠以来、約6年振りに二冠(王位・棋王)となった。",
"title": "棋歴"
},
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"text": "しかし、これら2つのタイトルは、次年度(2004年度)に、第45期王位戦(谷川1-4羽生)と第30期棋王戦(谷川0-3羽生)で、いずれも羽生に奪取されてしまい、またも無冠に追い込まれた。",
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"text": "2003年12月19日、A級順位戦の対・島朗戦において、棒銀の銀をタダ捨てした名手を指す。出だし、島が自分から角交換をして「先後逆の角換わり」の将棋となり、右図はその53手目、谷川の棒銀による銀交換を先手の島が拒否して、7七にいた銀を▲8八銀と引いた局面である。ここで、「△7七銀成」(54手目)が炸裂。以下、▲同桂△3八馬▲同金△8九飛▲7九銀△8八飛行成▲同金△7九飛成▲4八玉△8八竜▲4七玉△4五金と進み、たちまち寄り形。この54手目△7七銀成で将棋大賞の升田幸三賞を受賞した。同賞では、戦法でも囲いでもない特定の一手に対する初の授与であった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "竜王戦で、第1期(1988年度)から第18期(2005年度)まで18期連続で1組に在籍(竜王在位を含む)。第1期からの連続記録としては最長である。",
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},
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"paragraph_id": 64,
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"text": "2005年度の第64期A級順位戦では8勝1敗で羽生と並び、二者によるプレーオフは2006年3月16日に行われ、流行の、後手番一手損角換わりの戦形となった。最終盤で羽生は127手目に▲3一角と打ち捨ててから谷川の玉を猛然と詰ましにかかったが、谷川は巧みに詰みを逃れて156手で勝利。この一局の内容は高く評価され、将棋大賞で新設されたばかりの「名局賞」を受賞した。",
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},
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"paragraph_id": 65,
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"text": "そして、11度目の名人戦登場となる第64期(2006年度)名人戦(谷川2-4森内)を迎えた。第1局では、終盤に森内が自陣の7二と8二に銀を並べ打つという珍形の強い受けを見せて勝ち、また、第2局では、一転してゴキゲン中飛車・超急戦での一方的な内容で居飛車側の森内が勝つという出だしとなった。その後は、先手番に自信を持つ森内に着実に2勝を上積みされて敗退。9年ぶりの名人復位はならなかった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "第67期(2008年度)A級順位戦は、最終局を残した時点で降級の可能性があるという、谷川にとっては初めての危機を迎え、このことは地方紙にも取り上げられた。そして迎えた最終局(2009年3月3日)の対・鈴木大介戦は、「勝った方が残留、負けた方が降級」という決戦となった。先手番の谷川は相振り飛車に誘導して勝利し、A級残留に成功した。",
"title": "棋歴"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2007年度・2008年度と、タイトル戦登場も棋戦優勝もない年度が続いたが、2009年度はJT将棋日本シリーズで優勝し、同棋戦での最多優勝記録を6に更新した。なお、前年度獲得賞金・対局料ランキング13位で元々出場権がなかった谷川は、渡辺明が近親者から新型インフルエンザを感染している可能性があって欠場したため、繰り上げ出場した。優勝後のインタビューでは、「本来、出場できる立場ではなかった」とし、優勝賞金(500万円)は主催者や連盟と相談の上、小学生への普及のために使ってほしいとの旨を語った。そして、翌年の9月に3000セット(東京都に2000セット、大阪市に1000セット)の将棋盤と駒を寄付した。",
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "第69期(2010年度)A級順位戦で残留したため、第70期でA級在籍の連続記録を30期(名人在位を含む)に伸ばして中原誠の記録を抜き、歴代単独3位となった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2011年3月10日、第24期竜王戦2組昇級者決定戦1回戦で中川大輔に勝ち、史上4人目の公式戦通算1200勝(1901局・698敗・3持将棋、勝率0.632)を当時最年少(48歳11か月)で達成。四段昇段後34年2か月での達成は、33年8か月の中原誠十六世名人に次ぐ記録であった。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2012年度、第71期A級順位戦では、2勝6敗で谷川(4位)・高橋道雄(8位)・橋本崇載(9位)の3人が並び、降級の可能性を残して最終局(2013年3月1日)に臨んだ。勝てば自力で残留を決められる対局であったが、屋敷伸之に敗れ、残留は他の対局の結果へ委ねられることになった。しかし高橋と橋本が揃って敗れたため、辛くもA級残留を果たした。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2013年度、第72期A級順位戦に参加し、連続A級在籍記録は升田幸三を抜き歴代単独2位となったが、2014年1月7日に渡辺明に敗れ1勝6敗となった後、10日の他の対局でB級1組への降級が決定し、連続在籍記録は32期で途絶えた。永世名人資格保持者がB級1組所属となるのは第59期(2000年度)の中原誠十六世名人以来となる。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2018年10月1日、第68回NHK杯2回戦で稲葉陽に勝ち、史上5人目の公式戦通算1300勝(2135局・832敗・3持将棋、勝率0.610)を達成。2019年1月22日には、第32期竜王戦4組ランキング戦で船江恒平に勝ち、中原誠を超え歴代4位の1309勝を、同年9月12日には、第78期順位戦B級1組で松尾歩に勝利し、加藤一二三を超え歴代3位の1325勝を、それぞれ達成した。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "しかし、松尾戦以降は順位戦で連敗し、2020年1月23日の千田翔太戦で敗れたことにより、最終局を待たずB級2組への降級が決まった(最終結果は3勝9敗の12位)。名人経験者のB級2組降級は加藤一二三・丸山忠久に次いで3人目、永世名人資格者のB級2組降級は谷川が初となる。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2022年、日本将棋連盟の理事会が谷川の実績や将棋界への貢献を考慮し永世名人襲位を推薦。本人および名人戦主催者の合意が得られたため、第81期順位戦の開幕を前に、5月23日付で永世名人(十七世名人)を襲位。6月9日に佐藤康光会長から推戴状を授与された。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2023年6月1日、第81期名人戦第5局にて藤井聡太が自身の最年少名人記録を40年ぶりに更新した際に、「40年前の言葉をもう一度使わせて頂くと、中原十六世名人からお預かりした最年少名人の記録を、無事、藤井新名人にお渡しできた、という心境です。」とコメントを残している。",
"title": "棋歴"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "他の棋士が思いつきにくい手順でたちまち敵の玉を寄せることから、「光速の寄せ」、「光速流」というキャッチフレーズが付いている。 森内俊之は、「終盤にスピード感覚を将棋に持ち込んだ」元祖とも言える存在であり、寄せの概念を変えたと評している。",
"title": "棋風"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "しかし、2009年には「光速の寄せなくなっちゃったんで」と谷川本人も冗談めかして言ったように、必ずしも「光速」にこだわらない棋風へと変化しつつある。他に、有力な指し手が2つ以上見えた場合、駒が前に進む手を優先して選ぶことから、「谷川前進流」とも言われる。",
"title": "棋風"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "谷川が色紙などに揮毫するときに、好んで書く言葉として、「光速」、「前進」、「飛翔」、「危所遊」(松尾芭蕉の「名人危所に遊ぶ」より)などがある。これらは、谷川自身の将棋観・特徴を表している。ちなみに、谷川は達筆であるが、一目で谷川が書いたとわかる独特の字を書く。",
"title": "棋風"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "谷川は振り飛車も指すが、基本的には居飛車党である。プロデビューしたばかりの四段時代は振り飛車党であったが、その後、居飛車党に鞍替えした。",
"title": "棋風"
},
{
"paragraph_id": 80,
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"text": "昭和と平成の境目の前後の頃には先手番の角換わりを最も得意とし、他の居飛車党の棋士達から恐れられた。",
"title": "棋風"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "相矢倉は後手番が少しだけ不利だということが‘定説化’した頃(2000年頃)からは、後手番では矢倉を指すことがかなり少なくなり、たとえば四間飛車を多用した。その後、横歩取り8五飛、相振り飛車、ゴキゲン中飛車など、流行の戦法を取り入れて、指し方が多様化する。",
"title": "棋風"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ちなみに、谷川の「光速の寄せ」を信用したがために、対局相手が自ら転ぶケースも時たま生じている。一例として谷川が永世名人の資格を獲得した第55期名人戦の第1局の最終盤を挙げる。羽生は72手目に△6五飛と指して谷川の馬と金に両取りをかけた。馬は羽生の玉に迫っている駒で、金は谷川の玉を守っている駒であった。それに対して谷川はほとんど時間を使わず、羽生玉の近くに▲4一銀と打った。しかし、この手は詰めろではなかった。ところが、羽生は谷川を信用して、その手が詰めろだと錯覚したため、金を取って必至をかければ勝ちになるところを、自陣を攻めている馬の方を取ってしまい、結果、谷川の逆転勝利となった。",
"title": "棋風"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "デビュー直後にはハメ手として古くから知られている横歩取り4五角戦法を再発見して連採、森安秀光・東和男を36手で倒しブームを巻き起こしたことがある。",
"title": "棋風"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "(2021年3月25日現在)",
"title": "弟子"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "詳細は末尾の年表 を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "(2022年5月26日現在。最新は2006年度名人挑戦。)",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "末尾の年表 の「一般棋戦優勝」の欄も参照。",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "谷川のプロデビュー(1976年12月20日)以降に存在した棋戦のうち、新進棋士の棋戦を除けば、谷川に優勝経験がない棋戦(タイトル戦を含む)は、下記の5つだけである(ただし、前身の棋戦は同一の棋戦と見なす)。",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "末尾の年表 の「将棋大賞」の欄を参照。",
"title": "主な成績"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "その他多数",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "昇段およびタイトルの獲得・失冠による肩書きの遍歴を記す。(色付きは継続中の記録)",
"title": "肩書き"
}
] |
谷川 浩司は、現役の将棋棋士で十七世名人。若松政和八段門下。棋士番号は131。兵庫県神戸市須磨区出身。 タイトル通算獲得数(27期)は歴代5位。 日本将棋連盟棋士会会長、日本将棋連盟専務理事、日本将棋連盟会長を務めた。 2023年6月1日に、藤井聡太に更新されるまで40年間の長きに亘って最年少名人獲得(当時21歳2か月)の記録保持者であった。四段昇格(プロ入り)から名人位獲得までの最速記録保持者(6年177日)。
|
{{Infobox 将棋棋士
|image = [[File:Tanigawa kouji shogi.jpg|250px|将棋棋士の谷川浩司(平成29年11月、姫路市で行われた人間将棋にて)]]
|名前 = 谷川浩司
|棋士番号 = 131
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1962|4|6}}
|プロ年度 = {{年月日|year=1976|month=12|day=20}}({{年数|1962|4|6|1976|12|20}}歳)
|出身地 = [[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]
|所属 = 関西
|師匠 = [[若松政和]]八段
|弟子 = [[都成竜馬]]
|永世 = [[名人_(将棋)|十七世名人]]
|肩書 = 十七世名人
|タイトル=
|段位 = 九段
|タイトル合計 = 27期
|優勝回数 = 22回
|作成日時 = 2022年5月26日
}}
'''谷川 浩司'''(たにがわ こうじ、[[1962年]][[4月6日]] - )は、現役の[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]で'''[[名人 (将棋)|十七世名人]]'''<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/05/post_2128.html |title=谷川浩司九段が永世名人(十七世名人)を襲位 |access-date=2022-06-10 |publisher=日本将棋連盟 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220602160728/https://www.shogi.or.jp/news/2022/05/post_2128.html |archive-date=2022-06-03 |date=2022-05-26}}</ref>。[[若松政和]]八段門下。[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は131。[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]出身。
タイトル通算獲得数(27期)は[[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|歴代5位]]。
[[日本将棋連盟]][[日本将棋連盟#棋士会|棋士会]]会長(初代、[[2009年]]4月 - [[2011年]]3月)<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2009/04/post_176.html 新棋士会発足について|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/04/post_400.html 「棋士会」役員変更のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>、[[日本将棋連盟]]専務理事([[2011年]]5月 - 2012年12月)、日本将棋連盟会長([[2012年]]12月 - [[2017年]]1月)を務めた。
[[2023年]][[6月1日]]に、[[藤井聡太]]に更新されるまで40年間の長きに亘って'''最年少名人獲得'''(当時'''21歳2か月''')の記録保持者であった<ref>{{Cite news|title=将棋の藤井聡太六冠 名人戦制す 史上最年少 名人獲得 七冠達成|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230601/k10014085681000.html|publisher=NHKニュース|date=2023-06-01|accessdate=2023-06-01}}</ref>。四段昇格(プロ入り)から名人位獲得までの'''最速記録保持者'''('''6年177日'''<ref group="注釈">藤井聡太は2016年10月1日付で四段昇格しており、'''6年243日'''後に名人となっている。</ref>)。
== プロデビューまで ==
5歳の頃、5つ年上の兄・俊昭との兄弟喧嘩が絶えなかったため、父が兄弟喧嘩を止めさせる目的で[[将棋盤]]と[[駒 (将棋)|駒]]を買ってきて兄弟で[[将棋]]を指させた。これが、将棋との出会いである<ref name="kashiwa">[http://tanigawa17.life.coocan.jp/2kashiwa/0921.htm 光より速く(第2回柏将棋フェスティバル)]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/column/index.cfm?i=20020722s3031s3 |title=日本経済新聞 1997年10月14日夕刊 |archiveurl=https://archive.vn/Cffv |archivedate=2012-07-10 |accessdate=2021-02-27}}</ref>。ルールは百科事典で調べたという<ref>中平邦彦『名人谷川浩司』(池田書店)91頁</ref>。そして、兵庫県の大会に出るようになって、面白さを感じるようになっていく。なお、この話には「兄弟喧嘩はむしろひどくなった」というオチがある<ref name="kashiwa"/>。負けず嫌いだった谷川は「駒を投げつけたり、噛んだりした」という<ref name="nhk20131104">{{Cite web|和書|url=http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/11354/679620/ |title=ホリデーインタビュー “負けず嫌い”を貫く〜プロ棋士・谷川浩司〜 | work = gooテレビ番組(関東版) | publisher = [[goo]] |archiveurl=https://archive.vn/AhN70 |archivedate=2015-10-26 |accessdate=2021-02-27}}</ref>。
小学生時代、神戸・[[三宮]]でおこなわれた将棋のイベントで[[内藤國雄]](当時八段)と対局したこともある<ref name="nhk20131104"/>。この対局について、内藤は「中盤から終盤への感覚が優れていた」と谷川を評し<ref name="nhk20131104"/>、谷川も「大きな自信になった」と回顧している<ref name="nhk20131104"/>。
プロを目指すことになった浩司は、小学5年の4月([[1973年]])に、5級で奨励会で指し始める。以降、順調に昇級・昇段を重ね<ref>ただし、『常識外の一手』『藤井聡太論 将棋の未来』などに拠ると、「谷川をつぶす会が」出来たり、8連敗を喫した苦手がいたこともあって、三級から二級に昇級するのに11ヶ月を要した。</ref>、中学2年時代の[[1976年]][[12月20日]]に四段に昇段してプロデビューした。[[加藤一二三]]以来、史上2人目の「中学生棋士」となっている。プロ将棋史上、中学2年以下でプロ入りした棋士は谷川が初である<ref group="注釈">中学2年でプロ入りしたのは、谷川と[[藤井聡太]]の2名のみ。加藤の四段昇段時は、谷川より年齢は若かったが、誕生日の関係で中学3年であった。</ref>。
なお、兄・俊昭は[[灘中学校・高等学校]]と[[東京大学]]や[[リコー]](将棋大会トップクラスの常連)で将棋部に在籍し、アマチュアのタイトルを何度も獲得した<ref>グランドチャンピオン2回・読売日本一・アマ王将3回・ 朝日アマ挑戦者 ・レーティングチャンピオン2回・学生王将・よい子名人中学生の部優勝[http://www.ricoh.com/ja/SHOGI/shogibu/profil.html リコー将棋部員 プロフィール]</ref>。2016年現在は[[ネスレ日本]]の神戸本社勤務である<ref name=mynavi160516>[https://book.mynavi.jp/shogi/blog/detail/id=53097 谷川俊明さんインタビュー] - マイナビ将棋情報局・2016年5月16日</ref>。「将棋ジャーナル」誌の企画対局において、四段時代の[[羽生善治]]に[[将棋の手合割|平手]]で勝ったこともあるほか<ref>「週刊将棋」1988年12月28日号</ref>、『週刊将棋』のアマプロ平手戦では[[佐藤康光]]にも勝っている<ref name=mynavi160516 />。
== 棋歴 ==
末尾の''[[#年表|年表]]'' も参照。
1983年に史上最年少で名人になった頃、「中原時代」を築いた[[中原誠]]十六世名人の後継者と目され、1991年度には四冠王となった。しかし続いてやってきたのは「谷川時代」ではなく、[[羽生世代]]の棋士達との対決の時代であった。特に、[[羽生善治]]との150局を超える戦い(現役棋士同士では最多)は、ゴールデンカードと呼ばれることとなる。
=== 史上最年少名人 ===
プロデビュー後、谷川は、[[順位戦]]<ref group="注釈">なお、この頃の順位戦(1977 - 1985年度)は、主催社が[[朝日新聞社]]から[[毎日新聞社]]に変わった影響で、A級に相当するリーグが「名人戦挑戦者決定リーグ戦」、B級1組 - C級2組に相当するリーグが「昇降級リーグ戦1組」 - 「〃4組」という名称であった。</ref>において2期目の1978年度から4期連続昇級して一気にA級に上がる。この間、1978年度に、若手の登竜門である[[若獅子戦]]で棋戦初優勝をしている。
[[1982年]][[4月1日]]付けでA級八段となった谷川の夢は、中原名人を破って名人となることであった。その4月に始まった[[第40期順位戦|第40期名人戦]]七番勝負では、中原名人と[[加藤一二三]]挑戦者が、[[持将棋]]1局、[[千日手]]2局を含むフルセットの「十番勝負」を戦った。最終局、加藤十段が勝ち名人を奪取したが、東京・将棋会館で最終局の解説をした谷川は、当時の心境について、「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思っていた。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている。また、後年の自著には、「名人戦の舞台で、加藤先生と戦えたことは、幸運であった。」と書いている<ref name="takarajima">[[別冊宝島]]380『将棋王手飛車読本』谷川浩司著『中学生棋士』</ref>。
同じ時期に王位戦で挑戦者決定戦に進出。内藤国雄に敗れ王位挑戦ならず。実現していれば加藤一二三、中原誠に次いで史上3人目の20歳での、タイトル最年少挑戦となるところであった。
谷川は、第41期名人戦挑戦者決定リーグ戦(A級順位戦)で7勝2敗の成績を収め、中原誠とのプレーオフを制して名人挑戦権を得る。そして、第41期名人戦(谷川4-2加藤)の第6局([[1983年]]6月14日 - [[6月15日]])に勝ち、初タイトル・名人を獲得。'''史上最年少名人(21歳)'''<ref name="kudan" group="注釈">谷川は当時の規定により、名人就位翌年の4月1日に、史上最年少で九段に昇段した。この記録は、[[竜王戦]]の[[将棋の段級|昇段規定]]で飛び昇段を認めるなどの規定変更により、[[2005年]]に渡辺明(21歳7か月)が僅か2か月で3つ昇段して九段になり、破られた。ただし仮に、谷川が名人奪取の日(21歳2か月)に九段昇段していた([[佐藤康光]]新名人以降の規定)とすると、記録は破られていなかった計算になる。最年少九段の記録はその後、[[2021年]]に[[藤井聡太]](18歳11か月)によって更新された。</ref>の記録を打ち立てた。谷川は五段から八段を全て順位戦昇級により昇段したため、初めて五段から九段まで全て順位戦の昇級規定で昇段したことになる(後に[[丸山忠久]]も達成)。タイトル獲得での会見で「'''1年間、名人位を預からせていただきます'''」と語った。後に、将棋フォーカスのインタビューでは、「他のタイトル戦は中原誠先生に後れを取っていると感じていた。」と語っている。
[[1983年]][[7月19日]]の対・[[大山康晴]]戦([[王位戦 (将棋)|王位リーグ]])で、大山の玉を詰ます手順の中で'''打ち歩詰め回避の角不成'''(99手目▲4三角引不成)という、まるで作った[[詰将棋]]のような手を指して勝っている(実際の局面図は''[[打ち歩詰め#実戦における打ち歩詰め]]'' を参照)。
[[1983年]]度の第2回[[朝日オープン将棋選手権#全日本プロ将棋トーナメント|全日本プロトーナメント]]で、プロ入りが同期の[[田中寅彦]]と決勝三番勝負を戦う。両者は若手時代、谷川は終盤得意、田中は序盤得意と比較され、ライバルと呼ばれることもあった。谷川は決勝を2-1で制し、全棋士参加のトーナメント棋戦における初優勝を果たした。同棋戦とは相性が良く、19回の歴史の中で谷川の優勝は通算7回、準優勝は通算3回である<ref group="注釈">「全日本プロ将棋トーナメント」は2001年度をもって発展解消して「[[朝日オープン将棋選手権]]」に移行した。そのため、同棋戦では谷川の優勝回数歴代1位が確定している。</ref>。
翌年([[1984年]])、初のタイトル防衛戦となる第42期名人戦(谷川4-1森安秀)では、粘り強い[[棋風]]から「だるま流」と呼ばれた[[森安秀光]]を相手に、4勝1敗で名人位防衛に成功する。このとき「'''これで弱い名人から、並みの名人になれたと思います'''」と述べている<ref>『第四十二期将棋名人戦全記録』([[毎日新聞社]])</ref>。
第44期([[1984年]]度前期)[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]](谷川0-3米長)では、[[米長邦雄]]棋聖(棋王・王将)に挑戦。注目を浴びた名人対三冠王の勝負で谷川は、第1局での相手の歩の数を間違えて読むというポカ、第2局での米長の「泥沼流」の受け(91手目▲5八玉)から逆転負けなどを経験し<ref>「米長邦雄の本」(日本将棋連盟)。</ref>、ストレート負け・タイトル戦初敗北を喫する。
[[1985年]]度、3度目の防衛戦となる第43期名人戦(谷川2-4中原)で挑戦者の中原に敗れ、同年度の[[第33期王座戦 (将棋)|王座戦]](谷川1-3中原)では奪取に失敗した。一方、全日本プロトーナメントで3連覇し、第11期[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]](谷川3-0桐山)では「いぶし銀」こと[[桐山清澄]]から棋王位を奪取した。さらには、[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]優勝、初の最多勝利(56勝)、前述の王座挑戦などの活躍により、[[将棋大賞]]の'''最優秀棋士賞を初受賞'''する。
=== 四冠王へ ===
1986~87年度、谷川より少し遅れて台頭してきた「[[55年組 (将棋)|55年組]]」の一人である[[高橋道雄]]とのタイトル戦が3つ続いた。
[[1986年]]度、第12期棋王戦(谷川1-3高橋)は、高橋が先手の2局は[[矢倉囲い|相矢倉]]、谷川が先手の2局は[[腰掛け銀|角換わり腰掛銀]]となり、相手の得意戦法を2度ずつ受けて立つ戦いとなった。結果は、角換わりで1敗した谷川が棋王を失冠し、無冠となった。
しかし、翌[[1987年]]度に、第28期[[王位戦 (将棋)|王位戦]](谷川4-1高橋)で高橋から奪取した。なお、この王位戦七番勝負と並行して、両者は十段戦リーグでも2度対戦しており、結果は1勝1敗であった。さらに、第13期棋王戦(谷川3-(持1)-2高橋)においては、前年に奪われた棋王位を奪還した。これで、自身初の二冠(王位・棋王)となり、2度目の最優秀棋士賞受賞した。
[[1988年]]度、第46期名人戦(谷川4-2中原)は「中原名人への挑戦」となった。3勝1敗で中原を追い詰めた後の第5局で、中原の悠然とした態度に威圧され2勝目を返されるが<ref name="takarajima"/>、第6局で勝ち名人に復位、初めて三冠(名人・王位・棋王)となった。しかし、同年度の第29期王位戦(谷川3-4森)で‘終盤の魔術師’こと[[森雞二]]に敗れ、第14期棋王戦(谷川2-3南)では「55年組」の一人で‘地蔵流’こと[[南芳一]]に敗れて、名人のみの一冠に後退した。
[[1989年]]度、第47期名人戦(谷川4-0米長)で名人位を防衛し、さらに第30期王位戦(谷川4-1森雞二)で森から王位を奪還して二冠(名人・王位)に復帰した。
[[1990年]]度、第48期名人戦(谷川2-4中原)で再び中原誠に名人位を奪われたものの、第38期王座戦(谷川3-1中原)で中原誠から王座を奪取し、すぐに二冠(王位・王座)に復帰した。その間、第31期王位戦(谷川4-3佐藤康)ではタイトル戦初登場の五段・[[佐藤康光]]にフルセットに持ち込まれたが、辛くも防衛に成功した。
同年度、第3期[[竜王戦]](谷川4-1羽生)で、羽生善治と初めてタイトル戦の舞台で戦い、'''羽生から竜王を奪取'''。自身2度目の三冠(竜王・王位・王座)となり、3度目の最優秀棋士賞を受賞した。しかしながら、この竜王戦の第4局、[[入玉]]模様ではない203手の名局で、羽生から1勝を返されたことについて、「4-0か4-1かというのは(その後のことを考えれば)大きかったかもしれない」<ref name="takarajima"/>と述べている。
そして、四冠王となる年である[[1991年]]度を迎える。
第32期王位戦(谷川4-2[[中田宏樹]])では、三冠のうちの一冠を防衛。
第39期王座戦(谷川2-3福崎)での相手は、かつて谷川に「感覚を破壊された」<ref group="注釈">第23期十段リーグ(1984年8月3日)にて、自玉が王手がかからない穴熊であることを生かし、71手目に▲3二飛成と切って‘乱暴に’谷川玉を寄せて勝利。</ref>とまで言わせた[[穴熊囲い|穴熊]]の名手・[[福崎文吾]]であった。最初の2局で福崎の穴熊戦法の前に屈したのが大きく、王座を失冠した(二冠に後退)。最終局は千日手指し直しとなったが、その終盤、喉が渇いて苦しそうにしている福崎に、谷川は自分の茶を差し出した。福崎はそれを飲み干した後、自らを勝ちに導く妙手を発見した<ref>「[[将棋世界]]」([[日本将棋連盟]])2000年1月号付録</ref>。
しかし、第4期竜王戦(谷川4-(持1)-2森下)で、[[矢倉囲い|矢倉]]の「[[森下システム]]」で知られる[[森下卓]]の挑戦を退けて、防衛に成功する。第1局は[[角換わり]]の出だしからの[[持将棋]]であった。
次に、第59期(1991年度後期)棋聖戦(谷川3-0南)で南芳一を破り、初めて棋聖位に就く。さらには、第41期[[王将戦]](谷川4-1南)でも南を破り、初めての王将位を獲得する([[1992年]][[2月28日]])。
これで、全7タイトルを各1回以上獲得したことになり(7タイトル生涯[[グランドスラム]])<ref group="注釈">2020年現在、タイトル戦が7つになった以降に7タイトル(新設の叡王を除く)を各1回以上獲得した棋士は、他には[[中原誠]]と[[羽生善治]]のみである。ただし、竜王戦創設後では谷川が最初である(中原は竜王戦の前身の十段戦ではタイトルを獲得しているものの、竜王の獲得経験はない)。</ref>、また、大山康晴、中原誠、米長邦雄に次いで'''史上4人目の四冠王'''(竜王・棋聖・王位・王将)となり、4度目の最優秀棋士賞受賞した。
;四冠達成までの過密スケジュール
{| border="1" class="wikitable" style="font-size:89%"
|[[1991年]]
:11月22日 ○ 棋聖戦・挑戦者決定戦([[阿部隆|阿部]]) = 棋聖挑戦権獲得
:11月26日-27日 ● 竜王戦第4局(森下)
:11月30日 ○ [[天王戦]]・決勝([[村山聖|村山]]) = '''優勝'''
:12月1日 ○ 棋王戦・敗者復活戦1回戦(加藤(一))
:12月4日-5日 ○ 竜王戦第5局(森下)
:12月7日 ○ 王将リーグ6回戦(中原)
:12月10日 ○ 棋聖戦第1局(南)
:12月12日 ○ 棋王戦・敗者復活戦2回戦([[塚田泰明|塚田(泰)]])
:12月13日 ○ 王将リーグ7回戦([[屋敷伸之|屋敷]]) = 4勝2敗で4人が並ぶ
:12月17日-18日 ○ 竜王戦第6局(森下)
:12月20日 ● A級順位戦(高橋)
:12月24日 ○ 棋聖戦第2局(南)
:12月26日-[[12月27日|27日]] ○ 竜王戦第7局(森下) = '''竜王防衛'''
:12月29日 ○ 王将リーグ・プレーオフ1回戦(米長)
:12月31日 ○ 王将リーグ・プレーオフ2回戦(中原) = 王将挑戦権獲得
|
[[1992年]]
:1月7日 ○ 棋王戦・敗者復活戦3回戦(高橋)
:[[1月10日]] ○ 棋聖戦第3局(南) = '''棋聖奪取'''
:1月14日 ○ A級順位戦([[石田和雄|石田]])
:1月16日-17日 ● 王将戦第1局(南)
:1月23日 ● 棋王戦・敗者復活戦決勝(南)
:1月27日-28日 ○ 王将戦第2局(南)
:2月3日 ● 全日プロ・準々決勝(中田(宏))
:2月5日-6日 ○ 王将戦第3局(南)
:2月12日 ● A級順位戦(南)
:2月17日-18日 ○ 王将戦第4局(南)
:2月27日-[[2月28日|28日]] ○ 王将戦第5局(南) = '''王将奪取'''、'''四冠達成'''
:(3月2日 ● A級順位戦(大山))
※タイトル戦の各局の前日には、対局場検分と前夜祭のスケジュールもある。<br/>
※テレビ棋戦([[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]、[[早指し将棋選手権|早指し選手権]])の対局日は不明。
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|}
=== 羽生世代との激突 ===
[[1992年]]度は、6度のタイトル戦で「羽生世代」の3人と対決した。
第60期棋聖戦(谷川3-1郷田)と第61期棋聖戦(谷川3-(持1)-0郷田)では、[[郷田真隆]]を相手に2度防衛した。しかし、第33期王位戦(谷川2-4郷田)では郷田に敗れて三冠(竜王・棋聖・王将)に後退し、郷田の四段(史上最低段)でのタイトル獲得を許してしまう。
第5期竜王戦(谷川3-4羽生)では羽生に奪取され、二冠(棋聖・王将)に後退した。第42期王将戦(谷川4-0[[村山聖]])では防衛に成功したものの、第18期棋王戦(谷川2-3羽生)ではフルセットの戦いの末、奪取に失敗した。
翌[[1993年]]度からは、タイトル戦のほとんどを羽生と戦うことになる。
1993年度前期の第62期棋聖戦(谷川1-3羽生)で失冠し、王将のみの一冠となった。羽生にタイトル戦で3連続敗退し、この頃から羽生に対して苦手意識を持ったという<ref name="takarajima"/>。第41期王座戦(谷川1-3羽生)では奪取失敗。
羽生へのリターンマッチとなった第63期(1993年度後期)棋聖戦(谷川2-3羽生)は、二連敗の出だしとなった。第二局(1993年12月24日)での羽生の指し方は、従来の常識からかけ離れたものであった<ref group="注釈">まず、序盤早々、18手目△4二角と引いて4四の歩のタダ取りを許し、さらには、谷川の玉に迫っていた7九の と金を9九の香車を取るだけのために2手をかけて、△8九と(56手目)- △9九と(64手目)と「退却」させた。</ref>。売られた喧嘩を谷川が買う乱戦となったが、最後は羽生の勝ちとなった。しかし、この二連敗の後、千日手2回による日程繰り延べを経て、二連勝という粘りを見せた。第四局(1994年1月31日)は、タイトル戦としては非常に珍しい'''49手'''という短手数で羽生を投了に追い込んだものである。しかし、最終局の矢倉戦で敗れて奪取に失敗した。
第43期王将戦(谷川4-2中原)では、中原を相手に王将の一冠を死守した。一方羽生は、この年度に四冠を堅持し、全冠制覇への道を歩んでいた。
=== 執念・屈辱 ===
[[1994年]]度は、第64期棋聖戦(谷川1-3羽生)と第42期王座戦(谷川0-3羽生)で羽生に挑戦するが、いずれも敗退する。一方、羽生は、名人、竜王をそれぞれ米長邦雄、佐藤康光から奪取して史上初の六冠王となり、残るタイトルは、谷川が持つ王将位だけという状況になった。そして、羽生は第44期王将リーグで5勝1敗を挙げ、郷田とのプレーオフを制し、全七冠制覇をかけて谷川王将への挑戦を決めた。
迎えた第44期王将戦(谷川4-3羽生)は、第1局(1995年1月12-13日)の谷川の先勝で始まった。ところが、第2局(1月23-24日)の前の1月17日、谷川は[[阪神・淡路大震災]]で被災した。1月20日には米長邦雄とのA級順位戦があり、19日に妻の運転で神戸から大阪に脱出したが、13時間もかかったという<ref>『[[将棋マガジン]]』(日本将棋連盟)1996年3月号「米長邦雄のタイトル戦教室」</ref>。それでも谷川は、対・米長戦で勝ち、羽生との王将戦第2局も勝利した。しかし、羽生も粘って3勝3敗とし、フルセットに持ち込んだ。
そして、[[青森県]]・奥入瀬で行われた最終第7局(1995年3月23-24日)は相矢倉の将棋となったが、2日目に76手で[[千日手]]が成立し、その日のうちに指し直しとなった。指し直し局は、先手・後手が逆であるにもかかわらず、40手目まで千日手局と全く同じ手順で進み、「お互いの意思がピッタリ合った」<ref>日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102</ref>。41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。結果、111手で先手・谷川の勝ちとなり、4勝3敗で王将を防衛、最後の砦として羽生の七冠独占を阻止した。この日は、[[将棋界]]の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。後に谷川は、「震災がなかったら獲られていたかもしれない」と語っている。また、後年、インタビューにて「一度、七冠のチャンスは作れても、二度は無理だろうと思っていた。」とも語っている<ref name="takarajima"/>。
[[1995年]]度、羽生は開幕から名人、棋聖、王位、王座、竜王と全て防衛に成功し、さらに王将リーグも再び制覇して2年連続で谷川王将の挑戦者となった。
この第45期王将戦七番勝負(谷川0-4羽生)では、羽生が開幕から3連勝し、あっという間に谷川を追い詰めた。
[[山口県]]の[[マリンピアくろい]]で行われた第4局(1996年2月13日-14日)の戦形は、勝っても負けても大差の内容になりやすい「[[横歩取り]]」となり、谷川は先手番で[[中原囲い]]を組むという新構想を見せる。2日目の模様は、NHKの衛星テレビで放送され、時間枠は午前9時から終局まで(12:00 - 13:30は中断)という異例の長さであった。その中継会場(大盤解説)は大入りで、その熱気で解説役の[[森下卓]]、[[山田久美]]は汗だくだったという<ref name="magazine9604">『[[将棋マガジン]]』(日本将棋連盟)1996年4月号「同時進行ドキュメント」</ref>。谷川にとっては、37手目が悔やまれる一手であった。2日目の15時半頃にはすでに羽生が勝勢になり、自玉に受けがなくなった谷川は、77、79手目の形作りの手で、首を差し出した。以下は易しい詰みとなり、羽生が82手目△7八金と引いて王手をかけた手を見て、17時6分、谷川は投了した。谷川にとっては屈辱の、七冠王誕生であった。終局直後のインタビューでは「せっかく注目してもらったのに、ファンの方にも羽生さんにも申し訳ない」<ref name="magazine9604"/>と述べた。
=== 再起 ===
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{{Shogi diagram|tright
|第9期竜王戦七番勝負第2局<br />第79手 ▲6九飛まで<br/>(この次の一手が△7七桂)<br/>△谷川浩司 持駒:桂歩
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|▲羽生善治 持駒:桂歩三}}
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羽生に奪取された後、[[1996年]]、第9期竜王戦の挑戦者決定三番勝負で佐藤康光を2勝0敗で破り、羽生竜王へのリベンジの機会をつかみ取った。そして第9期竜王戦七番勝負(谷川4-1羽生)で羽生から竜王位を奪取した。この七番勝負第2局の終盤80手目で、谷川が一見ただのところに'''△7七桂'''(右図参照)と打った手は、まさに「光速の寄せ」と言われた。この手を境に羽生の玉はたちどころに寄り形となり、谷川の勝ちとなった。当時、NHK[[将棋講座 (NHK)|将棋講座]]で講師を務めていた中原誠は、番組の中で「今回の竜王戦は面白くなりましたね。7七桂という手が出ましてね。」とコメントした。谷川自身は当時を回顧し、「このような手が浮かぶのは理屈ではない。'''7七の地点が光って見えたと書いて、信じてもらえるだろうか。'''」と語っている<ref>{{Cite web|和書|title=「7七の地点が光って見えた」谷川浩司九段が語る、2100局以上の公式戦史上最高の一手とは?|将棋コラム|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/column/2019/04/2100_1.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2019-04-12|language=ja}}</ref>。
なお、直後の第46期王将戦(谷川0-4羽生)でも、王将リーグで村山聖との4勝2敗同士のプレーオフを制して羽生に挑戦したが、敗退した。しかし、第55期A級順位戦では1敗後の8連勝で、羽生名人への挑戦を決めた。
そして、年度が明けての[[1997年]]の第55期名人戦(谷川4-2羽生)で勝利を収め、二大タイトル(竜王・名人)を独占した。また、通算5期の規定により[[名人_(将棋)#永世名人|'''永世名人''']]('''十七世名人''')の資格を得た。翌朝[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]のニュースに出演した谷川は、「内容が良くなかった」「まだ‘谷川時代’を作っていない」と語った。
名人戦と日程が並行した1997年4月 - 5月(棋戦としての年度は1996年度)の第15回全日本プロトーナメント決勝五番勝負(谷川3-2森下)では、森下卓を下して6度目の優勝をした。この決勝五番勝負では、谷川が後手番の2局において、先手・森下卓の相矢倉への誘いに谷川が応じず、後手急戦[[棒銀]](原始棒銀)を見せて話題となった(その2局の結果は1勝1敗)。
同年度は、第10期竜王戦(谷川4-0[[真田圭一]])で竜王防衛も果たし、2つのビッグタイトルを独占した。これが評価され、タイトル数は羽生の四冠より少ないものの、最優秀棋士賞(5度目)を受賞した。また、1997年(1 - 12月)の[[将棋界#獲得賞金と対局料|獲得賞金・対局料ランキング]]で1位(11762万円)となった<ref group="注釈">前年に竜王を獲得したことも、当年の賞金額に寄与している。</ref>。1993年〜2018年の間に羽生以外の棋士が1位になったのは、この年と2013年と2017年だけである<ref group="注釈">2013年と2017年は[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]が1位。</ref>。
=== 羽生世代との対決 ===
1998年度以降のタイトル戦は、羽生善治、佐藤康光、[[藤井猛]]、郷田真隆、[[丸山忠久]]、[[森内俊之]]といった羽生世代の棋士達ばかりを相手にしての戦いとなった。
[[1998年]]度、第56期名人戦七番勝負(谷川3-4佐藤康)は、第6局まですべて先手が勝ちの展開でフルセットとなった。谷川が先手で勝った3局はすべて、谷川が得意とする[[角換わり]]を佐藤が受けて立ったものであった。しかし最終第7局は、[[振り駒]]で谷川が先手を引き当てたものの矢倉を選択した。結果は佐藤が勝ち「佐藤新名人」を誕生させてしまった。
同年度、第11期竜王戦(谷川0-4藤井)は、4組からの挑戦者として勢いに乗る[[藤井猛]]との戦いとなった。谷川は、第1局は穴熊を見せつつ玉頭戦を仕掛けて負け。第2局は[[相振り飛車]]にしたが負け。第3局と第4局は、自陣の囲いが堅いままでも絶望の局面、いわゆる「姿焼き」となって負け。結局ストレート負けで「藤井新竜王」を誕生させてしまい、自身は無冠となった。
名人と竜王を失冠した谷川には、次期まで「前竜王・前名人」の肩書きを名乗る権利があった。しかし、本人の意向により、連盟から発表されたのは通常の「九段」の肩書きであった<ref group="注釈">これ以降も名人や竜王のタイトルを失冠して無冠になった後に段位を称する棋士が続いた事情もあり、2020年に前竜王と前名人の称号が廃止された。</ref>。
1998年度のA級順位戦は、[[村山聖]]の休場(同年に死去)により9人でのリーグ戦となった。谷川は7戦全勝で迎えた最終第8回戦で[[島朗]]に敗れる。これにより島はA級に残留となり、代わりに弟弟子で仲もよい[[井上慶太]]がA級から陥落した。7勝1敗同士の[[森内俊之]]とのプレーオフを制して佐藤康光名人へのリターンマッチの権利を得たものの、「井上君には申し訳なかった」と語った。
そして迎えた[[1999年]]度の佐藤康光との第57期名人戦(谷川3-4佐藤)は、最初の2局で連敗した。しかし、第3局と第5局で前年と同様、谷川得意の角換わりを佐藤が受けて立って谷川が勝つなど3連勝し、奪還まであと1勝とした。次の第6局では佐藤が[[居飛車穴熊]]を用い、2日目の深夜まで続く長手数の将棋を制した<ref group="注釈">ダイジェストを短時間で伝える予定だった深夜の[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]]の放送枠(1999年6月8日 23:40 - 24:00)は生中継と化し、司会の[[吉川精一]]アナウンサーは冒頭に「なお熱闘が続いています」を2度繰り返した。放送が始まった時は189手目で、谷川が佐藤の玉を詰ますことができるかどうかの難解な局面であったが、詰ませず、佐藤の203手目を見て23:54に谷川は投了した。</ref>。最終局も佐藤が勝ち、谷川は名人を取り返すことができなかった。なお、このシリーズで谷川は、後手番の2局で、当時本格的に流行し始めた戦法・「[[横歩取り8五飛]]」を採用している。
この名人戦の直後、第70期棋聖戦(谷川3-0郷田)で郷田真隆から棋聖位を奪取し、「無冠」を返上する。このとき、テレビのインタビューで、「1つぐらいは…(タイトルを持っていないと)」と苦笑しながら語り、依然、第一人者となるべき身の自覚と向上心を示唆した。
[[2000年]]度は、王位戦で2年連続挑戦するなどして、第71期棋聖戦(谷川2-3羽生)、第41期王位戦(谷川3-4羽生)、第50期王将戦(谷川1-4羽生)という3つのタイトル戦で羽生と対決した。特に棋聖戦と王位戦は日程が重なり、また、どちらも最終局までもつれ込んだため、‘十二番勝負’と言われた。結果は、3つとも敗退し無冠となった。しかし、この年度の第59期A級順位戦では最終9回戦で佐藤康光との同星決戦(6勝2敗同士)を制し、[[丸山忠久]]名人への挑戦権を得た。
そして、[[2001年]]度の第59期名人戦(谷川3-4丸山)は、3年前の佐藤との名人戦と同様、第6局まですべて先手が勝ち、最終局だけ後手が勝つという展開(千日手指し直しがあった点は異なる)で、丸山の防衛となった。この名人戦は、後手の谷川の[[四間飛車]]に対して丸山が「[[ミレニアム囲い]]<ref group="注釈">[[三浦弘行]]が藤井システムの対策として考案</ref>」を2度用いたり、横歩取り8五飛が3度現れたりするなど、当時の流行を象徴する戦いとなった。なお、当年度の王将戦([[第51期王将戦|第51期]])では、挑戦者決定リーグにて史上初<ref group="注釈">リーグ陥落の制度が無かった[[第1回王将戦|第1回]]、[[第1期王将戦|第1期]]および[[第2期王将戦|第2期]](1950年度~1952年度)を除く。</ref>となる「2勝4敗と負け越したがリーグ残留」、という珍記録を成功させている。
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{{Shogi diagram|tright
|第62期(2003年度)A級順位戦<br/>第53手▲8八銀まで<br/>(この次の一手が△7七銀成)<br/>△谷川浩司王位 持駒:歩
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|▲島朗八段 持駒:歩四}}
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[[2002年]]度、第43期王位戦七番勝負(谷川4-1羽生)で羽生善治から王位を奪取。およそ2年ぶりにタイトル保持者となった。このシリーズの全6局(第5局の千日手指し直しも含む)は、全て異なる戦形であった<ref group="注釈">第1局から順に[[ゴキゲン中飛車]]超急戦、横歩取り青野新手3六歩、矢倉、角換わり腰掛け銀、[[向かい飛車]]、相穴熊</ref>。なお、この王位戦の第1局で、ちょうど'''公式戦通算1000勝'''([[特別将棋栄誉賞]]、史上7人目)を記録したので、当時、NHKに解説役で出演した棋士が「1000勝で先勝」という駄洒落を言っている。
翌[[2003年]]度の第44期王位戦(谷川4-1羽生)は、羽生に奪還を許さず2連覇した。羽生を相手に、同一タイトル戦で2年連続勝利したのは谷川が初である<ref group="注釈">2年後に森内俊之、5年後には[[深浦康市]]も達成している。</ref>。また、同年度、第29期棋王戦(谷川3-1丸山)では、丸山忠久得意の、先手・角換わり、後手・横歩取り8五飛を打ち破って棋王位を奪取。1998年の名人失冠以来、約6年振りに二冠(王位・棋王)となった。
しかし、これら2つのタイトルは、次年度([[2004年]]度)に、第45期王位戦(谷川1-4羽生)と第30期棋王戦(谷川0-3羽生)で、いずれも羽生に奪取されてしまい、またも無冠に追い込まれた。
[[2003年]][[12月19日]]、A級順位戦の対・[[島朗]]戦において、'''[[棒銀]]の銀をタダ捨て'''した名手を指す。出だし、島が自分から角交換をして「先後逆の[[角換わり]]」の将棋となり、右図はその53手目、谷川の棒銀による銀交換を先手の島が拒否して、7七にいた銀を▲8八銀と引いた局面である。ここで、「△7七銀成」(54手目)が炸裂。以下、▲同桂△3八馬▲同金△8九飛▲7九銀△8八飛行成▲同金△7九飛成▲4八玉△8八竜▲4七玉△4五金と進み、たちまち寄り形。この54手目△7七銀成で将棋大賞の[[将棋大賞#升田幸三賞|升田幸三賞]]を受賞した。同賞では、戦法でも囲いでもない特定の一手に対する初の授与であった。
竜王戦で、第1期(1988年度)から第18期(2005年度)まで18期連続で1組に在籍(竜王在位を含む)。第1期からの連続記録としては最長である。
[[2005年]]度の第64期A級順位戦では8勝1敗で羽生と並び、二者によるプレーオフは[[2006年]][[3月16日]]に行われ、流行の、[[後手番一手損角換わり]]の戦形となった。最終盤で羽生は127手目に▲3一角と打ち捨ててから谷川の玉を猛然と詰ましにかかったが、谷川は巧みに詰みを逃れて156手で勝利。この一局の内容は高く評価され、[[将棋大賞]]で新設されたばかりの「名局賞」を受賞した<ref group="注釈">2019年5月24日時点において、公式戦で谷川が羽生に勝利した対局は、このプレーオフが最後となっており、この後、谷川は羽生に公式戦16連敗をしている。</ref>。
そして、11度目の名人戦登場となる第64期([[2006年]]度)名人戦(谷川2-4森内)を迎えた。第1局では、終盤に森内が自陣の7二と8二に銀を並べ打つという珍形の強い受けを見せて勝ち、また、第2局では、一転してゴキゲン中飛車・超急戦での一方的な内容で居飛車側の森内が勝つという出だしとなった。その後は、先手番に自信を持つ森内に着実に2勝を上積みされて敗退。9年ぶりの名人復位はならなかった。
=== A級残留の奮闘 ===
第67期([[2008年]]度)A級順位戦は、最終局を残した時点で降級の可能性があるという、谷川にとっては初めての危機を迎え、このことは[[地方紙]]にも取り上げられた。そして迎えた最終局([[2009年]]3月3日)の対・[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]戦は、「勝った方が残留、負けた方が降級」という決戦となった。先手番の谷川は相振り飛車に誘導して勝利し、A級残留に成功した。
2007年度・2008年度と、タイトル戦登場も棋戦優勝もない年度が続いたが、2009年度は[[JT将棋日本シリーズ]]で優勝し、同棋戦での最多優勝記録を6に更新した。なお、前年度獲得賞金・対局料ランキング13位で元々出場権がなかった谷川は、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]が近親者から[[2009年新型インフルエンザの世界的流行|新型インフルエンザ]]を感染している可能性があって欠場したため、繰り上げ出場した。優勝後のインタビューでは、「本来、出場できる立場ではなかった」とし、優勝賞金(500万円)は主催者や連盟と相談の上、小学生への普及のために使ってほしいとの旨を語った<ref>2009年11月28日放送の「[[囲碁・将棋ジャーナル]]」</ref>。そして、翌年の9月に3000セット(東京都に2000セット、大阪市に1000セット)の[[将棋盤]]と[[駒 (将棋)|駒]]を寄付した<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2010/09/jt_1.html 谷川浩司JT覇者が東京都・大阪市に盤駒寄贈|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。
第69期(2010年度)A級順位戦で残留したため、第70期で'''A級在籍の連続記録を30期'''(名人在位を含む)に伸ばして中原誠の記録を抜き、歴代単独3位となった<ref group="注釈">歴代1位は大山康晴で、2位は[[升田幸三]]。詳細は''[[将棋棋士の在籍クラス#歴代ベスト5|将棋棋士の在籍クラス]] ''を参照。</ref>。
[[2011年]][[3月10日]]、第24期竜王戦2組昇級者決定戦1回戦で[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]]に勝ち、史上4人目の'''[[特別将棋栄誉賞|公式戦通算1200勝]]'''(1901局・698敗・3持将棋、勝率0.632)を当時最年少(48歳11か月)で達成。四段昇段後34年2か月での達成は、33年8か月の中原誠十六世名人に次ぐ記録であった<ref name="tsuusan1200">[https://www.shogi.or.jp/news/2011/03/1200.html 谷川浩司九段が1200勝を達成!|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref><ref group="注釈">2012年8月17日に羽生善治が史上最速の1200勝を41歳10か月・四段昇段後26年8か月で達成している。</ref>。
[[2012年]]度、[[第71期順位戦#A級|第71期A級順位戦]]では、2勝6敗で谷川(4位)・高橋道雄(8位)・[[橋本崇載]](9位)の3人が並び、降級の可能性を残して最終局([[2013年]]3月1日)に臨んだ。勝てば自力で残留を決められる対局であったが、屋敷伸之に敗れ、残留は他の対局の結果へ委ねられることになった。しかし高橋と橋本が揃って敗れたため、辛くもA級残留を果たした。
===B級に降格===
[[2013年]]度、[[第72期順位戦#A級|第72期A級順位戦]]に参加し、連続A級在籍記録は[[升田幸三]]を抜き歴代単独2位となったが、2014年1月7日に[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]に敗れ1勝6敗となった後、10日の他の対局でB級1組への降級が決定し、連続在籍記録は32期で途絶えた。永世名人資格保持者がB級1組所属となるのは[[第59期順位戦|第59期]]([[2000年]]度)の[[中原誠]]十六世名人以来となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20140111-OYT1T00092.htm?from=ylist |title=谷川浩司九段、A級陥落…連続在籍32期 |publisher=[[読売新聞社]] |accessdate=2014年1月11日 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20140110215823/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20140111-OYT1T00092.htm?from=ylist |archive-date=2014-01-11 |date=2014-01-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/140111/shg14011101020000-n1.htm |title=谷川九段 初のA級陥落 十七世名人、将棋連盟会長 |publisher=産経新聞社 |accessdate=2014年1月11日 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20140111041731/http://sankei.jp.msn.com/life/news/140111/shg14011101020000-n1.htm |archive-date=2014-01-11 |date=2014-01-11}}</ref>。
[[2018年]][[10月1日]]、[[第68回NHK杯テレビ将棋トーナメント|第68回NHK杯]]2回戦で[[稲葉陽]]に勝ち、史上5人目の'''公式戦通算1300勝'''(2135局・832敗・3持将棋、勝率0.610)を達成<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2018/10/1300_2.html |title=谷川浩司九段、通算1300勝を達成! |publisher=日本将棋連盟 |accessdate=2018-11-21 |date=2018-10-01 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181004190237/https://www.shogi.or.jp/news/2018/10/1300_2.html |language=ja |archive-date=2018-10-05}}</ref>。2019年1月22日には、[[第32期竜王戦]]4組ランキング戦で[[船江恒平]]に勝ち、中原誠を超え歴代4位の1309勝を<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/life/news/190208/lif1902080025-n1.html |title=谷川浩司九段、通算1309勝で単独4位 将棋 |publisher=産経新聞社 |date=2019年2月8日 |accessdate=2019年2月15日 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20190215160020/https://www.sankei.com/life/news/190208/lif1902080025-n1.html |archive-date=2019-02-15}}</ref>、同年9月12日には、[[第78期順位戦]]B級1組で[[松尾歩]]に勝利し、加藤一二三を超え歴代3位の1325勝を<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/life/news/190913/lif1909130003-n1.html |title=谷川浩司九段が歴代単独3位の1325勝 |publisher=産経新聞社 |date=2019年9月13日 |accessdate=2022-06-10 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220609164353/https://www.sankei.com/article/20190913-755J3SVF7BPKHBLC4N3IEJUGQA/ |archive-date=2022-06-10}}</ref>、それぞれ達成した。
しかし、松尾戦以降は順位戦で連敗し、2020年1月23日の[[千田翔太]]戦で敗れたことにより、最終局を待たずB級2組への降級が決まった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/01/24/kiji/20200124s000413F2106000c.html |title=谷川浩司九段、B級2組へ降級「気持ち入れ替えてまたやりたい」名人戦順位戦 |access-date=2022-06-10 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220609164824/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/01/24/kiji/20200124s000413F2106000c.html |archive-date=2022-06-10 |date=2020-01-24 |publisher=スポニチ Sponichi Annex 芸能}}</ref>(最終結果は3勝9敗の12位)。名人経験者のB級2組降級は加藤一二三・丸山忠久に次いで3人目、永世名人資格者のB級2組降級は谷川が初となる。
=== 永世名人襲位後 ===
[[2022年]]、日本将棋連盟の理事会が谷川の実績や将棋界への貢献を考慮し永世名人襲位を推薦。本人および名人戦主催者の合意が得られたため、[[第81期順位戦]]の開幕を前に、5月23日付で'''永世名人(十七世名人)を襲位'''<ref name=":0" />。6月9日に佐藤康光会長から推戴状を授与された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220609/k10013665021000.html |title=将棋“光速の寄せ” 谷川浩司九段が「永世名人」の称号獲得 |access-date=2022-06-10 |publisher=NHK |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220609162938/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220609/k10013665021000.html |archive-date=2022-06-10 |date=2022-06-09 |website=NHKニュース}}</ref>。
[[2023年]][[6月1日]]、[[第81期順位戦|第81期名人戦]]第5局にて[[藤井聡太]]が自身の最年少名人記録を40年ぶりに更新した際に、「40年前の言葉をもう一度使わせて頂くと、'''[[中原誠|中原十六世名人]]からお預かりした最年少名人の記録を、無事、藤井新名人にお渡しできた'''、という心境です。」とコメントを残している。
== 棋風 ==
他の棋士が思いつきにくい手順でたちまち敵の玉を寄せることから、「'''光速の寄せ'''」、「'''光速流'''」というキャッチフレーズが付いている。
<!-- テレビ出典であるため検証不可能、コメントアウト。羽生善治は、「こんなに早い段階から詰みを考えているのか」と驚いたことがあるという<ref name="habu100nen"/>。-->
[[森内俊之]]は、''「終盤にスピード感覚を将棋に持ち込んだ」''元祖とも言える存在であり、寄せの概念を変えたと評している<ref>『日本将棋用語事典』p.71 斜体部は当該ページより引用。ママ。</ref>。
しかし、2009年には「光速の寄せなくなっちゃったんで」と谷川本人も冗談めかして言った<ref>第35回将棋の日 次の一手名人戦の解説において</ref>ように、必ずしも「光速」にこだわらない棋風へと変化しつつある。他に、有力な指し手が2つ以上見えた場合、駒が前に進む手を優先して選ぶことから、「'''谷川前進流'''」とも言われる。
谷川が色紙などに揮毫するときに、好んで書く言葉として、「光速」、「前進」、「飛翔」、「危所遊」([[松尾芭蕉]]の「名人危所に遊ぶ」より<ref>[http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/column/index.cfm?i=20020722s3028s3 NIKKEI NET 将棋王国]</ref>)などがある。これらは、谷川自身の将棋観・特徴を表している。ちなみに、谷川は達筆であるが、一目で谷川が書いたとわかる独特の字を書く。
谷川は[[振り飛車]]も指すが、基本的には[[居飛車]]党である。プロデビューしたばかりの四段時代は振り飛車党であったが、その後、居飛車党に鞍替えした。
昭和と平成の境目の前後の頃には先手番の[[角換わり]]を最も得意とし、他の居飛車党の棋士達から恐れられた。
相矢倉は後手番が少しだけ不利だということが‘定説化’した頃(2000年頃)からは、後手番では矢倉を指すことがかなり少なくなり、たとえば[[四間飛車]]を多用した。その後、[[横歩取り8五飛]]、[[将棋の戦法一覧#相振り飛車|相振り飛車]]、[[ゴキゲン中飛車]]など、流行の戦法を取り入れて、指し方が多様化する。
ちなみに、谷川の「光速の寄せ」を信用したがために、対局相手が自ら転ぶケースも時たま生じている。一例として谷川が永世名人の資格を獲得した第55期名人戦の第1局の最終盤を挙げる。羽生は72手目に△6五飛と指して谷川の馬と金に両取りをかけた。馬は羽生の玉に迫っている駒で、金は谷川の玉を守っている駒であった。それに対して谷川はほとんど時間を使わず、羽生玉の近くに▲4一銀と打った。しかし、この手は詰めろではなかった。ところが、羽生は谷川を信用して、その手が詰めろだと錯覚したため、金を取って必至をかければ勝ちになるところを、自陣を攻めている馬の方を取ってしまい、結果、谷川の逆転勝利となった。
デビュー直後には[[ハメ手]]として古くから知られている[[横歩取り4五角]]戦法を再発見して連採、[[森安秀光]]・[[東和男]]を36手で倒しブームを巻き起こしたことがある。
== エピソード・人物 ==
* 1972年5月5日、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]で将棋界初のカラー放送が行われ、この中で女流アマ準名人で中学2年の[[福崎睦美|兼田睦美]]と小学4年生の谷川が対局した<ref>将棋世界1972年6月号</ref>。
* 羽生善治が優勝、森内俊之が3位となった第7回(1982年度)[[小学生将棋名人戦]]で、谷川は解説役であった。当時、谷川はA級八段になり、20歳を迎える頃で、羽生と森内は小学校6年生での出場であった。優勝した羽生に対して谷川は「これから勉強していけばプロも夢じゃない」と話しており、映像としても残っている。
* 対局中の姿勢・所作について、[[原田泰夫]]九段はこれを評して「礼儀作法も実力のうちといいますが、谷川君の立ち居振る舞いは実にきちっとしている。[[ノブレス・オブリージュ]](高い地位に伴う義務)を具現していますよ」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/column/index.cfm?i=20020722s3005s3 |title=コラムの森 (10)驚異の世代を倒せ・年齢重ね円熟味 |access-date=2022-06-10 |language=ja |archive-url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/column/index.cfm?i=20020722s3005s3 |archive-date=2003-03-13 |website=NIKKEI NET 将棋王国}}</ref>。
* 第25回(2000年度)小学生将棋名人戦で優勝した[[都成竜馬]](1990年1月17日生)は谷川の弟子として奨励会に入会、2007年7月に三段昇段、第44期(2013年度)[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]で[[藤森哲也]]四段との決勝3番勝負を制し、奨励会三段として史上初の優勝を遂げた。なおその後、第58回奨励会三段リーグ戦(2015年10月 - 2016年3月)で1位となり、2016年4月1日付けで四段プロデビューを果たすことになった。
* 初めて名人在位していた1984年の第23期十段戦挑戦者決定リーグで、対戦相手の加藤一二三前名人が先に入室して上座に座っていた。谷川は頭に血が上ったが、手洗いに行って頭を冷やした後、黙って下座に就き、さらに対局開始から初手を指すまで10分を使って冷静さを取り戻した結果、勝利を収めた<ref>『集中力』谷川浩司著(角川書店)</ref>。そして後日、『[[将棋世界]]』誌([[日本将棋連盟]])の自戦記及び、自著『中学生棋士』で遠回しに非難した。一方で、加藤一二三は上座に座った理由として「読売新聞社主催の十段戦の対局ということを重視し、私はこれまで十段戦に縁が深く、現在谷川さんよりもリーグの順位が上だったことを考慮した」と述べている。
=== 谷川将棋への評価 ===
* 初代永世竜王資格者となった[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]は、プロになった頃に谷川の将棋を並べていたと答えている<ref>{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/kaiken/index.cfm?i=20030620s4000s4 |title=「渡辺明五段に聞く 3年目で開眼、「プロらしい将棋」に」 |access-date=2022-06-10 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20030829042755/http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/kaiken/index.cfm?i=20030620s4000s4 |archive-date=2003-08-29 |publisher=NIKKEI NET 将棋王国}}</ref>。
=== 詰将棋 ===
* [[詰将棋]]作家としての一面がある。詰将棋専門誌『[[詰将棋パラダイス]]』が主催する「[[詰将棋#看寿賞|看寿賞]]」の1997年度特別賞を受賞した。
* 詰将棋作家の[[若島正]]が主催する「[[詰将棋解答選手権]]」に2007年から参加し、40代でありながら果敢に挑戦している。
* 2008年に、初の詰将棋作品集『光速の詰将棋』を刊行した。
* 2011年に、永世名人としては225年ぶりの図式集百番『月下推敲』を刊行した。2012年、本作が、第24回将棋ペンクラブ大賞特別賞を受賞する。
=== 神戸人として ===
* 実家は[[真宗高田派]][[専修寺]]第15世門主の堯朝の妻高松院([[藤堂高虎]]の娘)の位牌寺院を起源とする[[浄土真宗本願寺派]]高松寺<ref>[https://web.archive.org/web/20170728080029/http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/suma/sumacafe/vol22.html Suma Cafe ~すまカフェ(vol.22)]神戸市須磨区</ref>。[[阪神・淡路大震災]]で被災し再建、現在は親戚が継いでいる<ref>中外日報 平成7年1月21日付</ref><ref>[http://tanigawa17.life.coocan.jp/note/141-150.htm 光速ノート 147]2008年10月3日</ref>。
* 本願寺出版社が発行する門徒向けの雑誌『大乗』に「将棋道場」という記事を連載している<ref>[https://web.archive.org/web/20071023224846/http://hongwanji-shuppan.com/teiki/daijyou.html 定期刊行物:大乗(本願寺出版社)]</ref>。
* 私立[[滝川中学校・高等学校|滝川高校]](神戸市)卒業。
* [[坂田三吉]]の曾孫弟子にあたる。坂田の弟子・[[藤内金吾]]一門の流れを汲む一人であり、内藤國雄、森安兄弟([[森安正幸|正幸]]、秀光)、若松政和(谷川の師匠)ら藤内一門は「神戸組」(藤内の将棋道場が神戸市の[[三宮]]にあった)とも呼ばれ、将棋界に一大勢力を築いた。
* 熱心な[[阪神タイガース]]ファンであり、2008年1月にはタイガースの練習場に足を運び将棋盤と駒をプレゼントし、さらに[[岡田彰布]]監督にアマチュア三段の免状を授与している<ref>『週刊ベースボール』([[ベースボール・マガジン社]])2008年6月30日号「5年目岡田野球の変貌」</ref>(ただし免状の署名は、米長邦雄会長・森内俊之名人・渡辺明竜王・内藤國雄九段で、谷川の署名はない)。また、[[今岡誠]](2004年アマ二段)とも交流がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kansai-shogi.com/webmagazine/news05122.htm |title=阪神・今岡選手に二段免状贈呈! |access-date=2022-06-10 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20050205045535/http://www.kansai-shogi.com/webmagazine/news05122.htm |archive-date=2005-02-05 |website=関西将棋会館}}</ref>。[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]]で2000年1月に放送された『[[大逆転将棋|羽生善治の新春 大逆転五番勝負]]』で、[[藪恵壹]](当時・阪神タイガース)を応援するために、[[法被]]姿でビデオ出演した。弟弟子(飲み仲間でもある)の井上慶太は谷川以上に熱烈なタイガースファンであり「その思いは井上には負ける」と谷川を特集した『[[情熱大陸]]』([[毎日放送]])で語っている。他球団では、兵庫県出身で元[[東京ヤクルトスワローズ]]の[[古田敦也]](アマ三段<ref>{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/news/2004.cfm?i=20041127s1000so |title=ヤクルト古田捕手に参段免状贈呈 |access-date=2022-06-10 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20050327085140/http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/news/2004.cfm?i=20041127s1000so |archive-date=2005-03-27 |website=NIKKEI NET 将棋王国 |date=2004-11-27}}</ref>)とも親交があり共著<ref>『心を読み、かけひきに勝つ思考法』(PHP研究所)および『「勝負脳」を鍛える』(PHP研究所) </ref>も出している。
* [[1997年]][[6月17日]]、神戸市から「神戸文化栄誉賞」を授与された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/data/nenpyo/heisei9/index-j.html |title=平成9年フォトニュース |access-date=2022-06-10 |publisher=神戸市 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140812123226/https://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/data/nenpyo/heisei9/index-j.html |archive-date=2014-08-12 |language=ja}}</ref>。
* [[1997年]][[6月23日]]、兵庫県「誉」賞受賞(十七世名人資格獲得による)。同賞の受賞者は、スポーツの世界大会優勝者など錚錚たる顔ぶれである<ref>{{Cite web|和書|url=http://web.pref.hyogo.lg.jp/kk02/documents/02_homare.pdf |title=「 誉」賞受賞者一覧 |access-date=2022-06-10 |publisher=神戸市 |format=PDF |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220609170550/http://web.pref.hyogo.lg.jp/kk02/documents/02_homare.pdf |archive-date=2022-06-10}}</ref>。2000年には[[内藤國雄]]九段も受賞している(公式戦1000勝)。谷川の次の受賞者(1年半後)は、奇しくも同じ名前の[[伊東浩司]](陸上短距離)である。
* [[2005年]][[6月18日]]、神戸市の神戸大使を委嘱された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kobe.lg.jp/a31812/shise/about/ambassador/taishi_15.html |title=神戸大使:谷川 浩司 氏 |access-date=2022-06-10 |publisher=神戸市 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220609171259/https://www.city.kobe.lg.jp/a31812/shise/about/ambassador/taishi_15.html |archive-date=2022-06-10}}</ref>。
* [[2007年]][[11月7日]]、平成19年度の「兵庫県文化賞」を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2007/10/post_120.html |title=谷川浩司九段が「兵庫県文化賞」を受賞|将棋ニュース|日本将棋連盟 |access-date=2022-06-10 |publisher=日本将棋連盟 |language=ja |date=2007-10-31}}</ref>。
=== 理事・会長として ===
* 2011年5月、[[日本将棋連盟]]の理事選挙に出馬し、当選。専務理事として、渉外部を担当<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/05/post_420.html 日本将棋連盟新役員のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。
* 2012年12月、米長邦雄逝去を受け、第二次世界大戦後15人目となる日本将棋連盟会長に就任した<ref Name="Renmei">[https://web.archive.org/web/20121225151435/http://www.asahi.com/culture/update/1225/TKY201212250242.html 日本将棋連盟、新会長に谷川専務理事を選出] 朝日新聞 2012年12月25日閲覧</ref><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2012/12/post_669.html 谷川浩司専務理事、新会長に|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。現任理事の任期満了となる2013年5月まで務めた後、翌月に行われた総会と理事会を経て会長に再任された<ref Name="Renmeikaicho2">[https://www.shogi.or.jp/news/2013/06/post_753.html 日本将棋連盟新役員のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。2015年6月、再任<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2015/06/post_1216.html 日本将棋連盟新役員のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。
* 新規Webメディアについて、[[株式会社シンクロ]]<ref>シンクロ(所在地:東京都品川区、代表取締役社長:西井敏恭)</ref>との業務提携を決定し、2016年7月11日、将棋会館(東京都渋谷区)にて調印式(シンクロ・西井社長、日本将棋連盟・谷川会長、青野専務理事)が実施された<ref>将棋ニュース(2016年07月19日)</ref>。<!--
* 2016年9月には、「[[日本将棋連盟]]公式Webサイト」の仕様が変更された<ref>エキサイトニュース 「加藤一二三が「Kato, one hundred twenty-three」将棋連盟公式サイト」(2016年09月14日)など)</ref>。[[藤倉勇樹]]と[[安西勝一]]の名前が画像ごと抹消されるなど問題点が多く、将棋ファンの意見を募った[[上野裕和]]、[[窪田義行]]らが、2016年9月の月例報告会で問題提起したことを受け <ref>[Twitter@hirokazuueno(2016.9.16)][Twitter@YoshiyukiKubota(2016.9.26)]など)</ref>、 Webに謝罪が掲載された<ref>「公式Webサイトに関するお詫びとお知らせ」(2016年09月27日 20:06)</ref>が、2016年12月現在、不具合と間違いが未だ残っている。-->
* 同年10月11日、谷川ら理事たちは、常務会において三浦弘行九段に「将棋ソフト不正使用」の疑惑ありとし説明を求めた。この常務会において三浦は不正を否定したものの、翌12日に、三浦を年内12月31日までの公式戦出場停止処分とし、竜王戦の挑戦者を丸山忠久九段に変えるとの決定事項が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/10/29_13.html|title=第29期竜王戦七番勝負挑戦者の変更について|publisher=[[日本将棋連盟]]|date=2016-10-12|accessdate=2016-10-12}}</ref>。([[将棋ソフト不正使用疑惑]])
* 同年12月26日、日本将棋連盟が調査を委嘱した第三者委員会は、三浦九段の疑惑について処分の根拠とされていた電子機器を使用した形跡、離席の事実ともになく、一致率は根拠となり得ず、不正行為に及んでいた証拠はないとの発表があった<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20161226/k00/00e/040/172000c|title=ソフト使用疑惑「不正の証拠ない」 第三者委|publisher=[[毎日新聞]]|date=2016-12-26|accessdate=2016-12-26}}</ref>。谷川は連盟会長として、三浦九段への疑惑のきっかけは「7月の関西の報告会での久保利明九段の発言」が発端だった事<ref>日本将棋連盟web(将棋ニュース「第三者委員会調査結果を受けて」2016年12月27日 18:55)</ref>を公表し、27日に記者会見で謝罪した<ref>朝日新聞DIGITALニュース「離席発言「真偽の調査を怠った」 将棋連盟の説明詳細」(2016年12月28日2時4分)</ref>。
* 2017年1月18日、将棋ソフトの不正使用疑惑での第三者委員会からの報告を熟慮し三浦九段や関係各位に対し誠意を伝えるには会長職を辞するのが一番ではないかと結論付け辞任を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2017/01/post_1498.html|title=会長の辞任に関するお知らせ|publisher=[[日本将棋連盟]]|date=2017年01月18日|accessdate=2017年01月18日}}</ref>。ただし三浦は「谷川会長にはとても感謝しています」と述べている<ref>{{Cite web|和書|title=「どうしても言いたいことがある」 三浦九段が初めて語った騒動の内幕|url=https://ironna.jp/article/5686|website=オピニオンサイト「iRONNA(いろんな)」|accessdate=2019-07-12|language=jp|publisher=産経デジタル|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190714093102/https://ironna.jp/article/5686?p=1|archivedate=2019-7-14}}</ref>。
=== その他 ===
* [[ABO式血液型|血液型]]はO型。
* 1971年東急将棋まつりで小学生高学年の部で小学3年生の身分で優勝、中学生の部門では兄の俊昭が優勝している。
* 幼い頃から将棋に没頭してきたため[[自転車]]に乗れない。
* [[藤井猛]]は1998年度の竜王戦七番勝負で谷川と対決する直前に[[囲碁・将棋ジャーナル]]に出演したが、番組の司会であり、同じ[[西村一義]]門の姉弟子でもある[[山田久美]]女流から、「谷川竜王は[[カニ]]が苦手だそうです」とのことで、カニの絵が描かれた扇子をプレゼントされた。
* 食べ物ではカニ以外に[[エビ]]も苦手<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2013/01/17/%e6%a3%8b%e5%a3%ab%e3%80%81%e3%81%9d%e3%82%8c%e3%81%9e%e3%82%8c%e3%81%ae%e6%b5%b7%e5%a4%96%e6%97%85%e8%a1%8c/ 棋士、それぞれの海外旅行] - 将棋ペンクラブログ・2013年1月17日</ref>。本人によれば「体質的に子どもの頃、小学生の時に食べて当たったことがある」ことが原因で、現在は「食べても大丈夫だが、対局時は万が一を考えて避けている」とのこと<ref>[https://archive.ph/4dN21 第32回近鉄将棋まつり]<!-- http://homepage2.nifty.com/tanigawa17/32kintetsu/0814.htm --></ref>。
* 2006年、[[将棋の時間|NHK将棋講座]]『谷川浩司の本筋を見極める』の中の「将棋ワンポイントクリニック」のコーナーで、谷川が[[医師]]の扮装、アシスタントの[[島井咲緒里]]女流が[[看護師|看護婦]]姿、という[[コスプレ]]で登場したことが1度だけある。
* 名人戦で、加藤・中原・羽生・佐藤康・丸山・森内の名人在位時に挑戦者として対局した。谷川の名人在位時に挑戦者となった米長も含めると、7人の名人経験者と名人戦の舞台で戦ったことになる。
* 2014年11月、[[紫綬褒章]]を受章<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2014/11/post_1102.html 谷川浩司九段が紫綬褒章を受章|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。
== 弟子 ==
===棋士となった弟子===
{| class="wikitable"
|-
! 名前 !! 四段昇段日!!段位、主な活躍
|-
|-
| [[都成竜馬]] || 2016年4月1日
|七段、一般棋戦優勝1回
|}
(2021年3月25日現在)
== 昇段履歴 ==
* [[1973年]]{{0|00月00日}} : 5級 = [[新進棋士奨励会|奨励会]]入会(関西)/小学4-5年
* 1973年12月{{0|00日}} : 4級( 9勝2敗 )/小学5年
* [[1974年]]{{0}}4月{{0|00日}} : 3級( 6連勝 ){{0}}/小学6年
* [[1975年]]{{0}}3月{{0|00日}} : 2級( 9勝3敗 )
* 1975年{{0}}7月{{0|00日}} : 1級( 11勝4敗 )/中学1年
* 1975年{{0}}9月{{0|00日}} : 初段( 9勝3敗 )
* [[1976年]]{{0}}2月{{0|00日}} : 二段( 12勝4敗 )
* 1976年{{0}}7月{{0|00日}} : 三段( 12勝4敗 )/中学2年
* 1976年[[12月20日]] : 四段( 8連勝 ) = プロ入り。史上初の中学2年棋士、史上2人目の中学生棋士
* [[1979年]]{{0}}[[4月1日|4月{{0}}1日]] : 五段([[順位戦]]C級1組昇級)
* [[1980年]]{{0}}4月{{0}}1日 : 六段(順位戦B級2組昇級)
* [[1981年]]{{0}}4月{{0}}1日 : 七段(順位戦B級1組昇級)
* [[1982年]]{{0}}4月{{0}}1日 : 八段(順位戦A級昇級)
* [[1984年]]{{0}}4月{{0}}1日 : 九段(前年度名人位獲得) - 当時の九段昇段最年少記録<ref name="kudan" group="注釈" />
* [[2022年]]{{0}}5月23日 : '''十七世名人'''襲位(名人5期獲得による連盟推挙)
== 主な成績 ==
===タイトル・永世称号===
詳細は末尾の''[[#年表|年表]]'' を参照。他の棋士との比較は、[[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|タイトル獲得記録]]、[[将棋のタイトル在位者一覧]]を参照
{| border="1" class="wikitable" style="text-align:center;"
|- style="background-color: #ccf;"
|'''タイトル'''
|獲得年度
|登場
|'''獲得期数'''
|連覇
|永世称号(備考)
|-
|'''[[竜王戦|竜王]]'''
|style="text-align:left;"|1990-1991, 1996-1997
|<!--登場年度メモ 90,91,92,96,97,98-->{{0}}6回
|<!--獲得-->'''4期'''
|<!--連覇-->2連覇
|
|-
|'''[[名人戦 (将棋)|名人]]'''
|style="text-align:left;"|1983-1984, 1988-1989, 1997
|<!--登場年度メモ 83-85,88-90,97-99,01,06-->11回
|<!--獲得-->'''5期'''
|<!--連覇-->2連覇
|style="text-align:left;"|[[名人 (将棋)|十七世名人]]<br/>2022年5月23日襲位
|-
|'''[[王位戦 (将棋)|王位]]'''
|style="text-align:left;"|1987, 1989-1991, 2002-2003
|<!--登場年度メモ 87-92,99,00,02-04-->11回
|<!--獲得-->'''6期'''
|<!--連覇-->3連覇
|
|-
|'''[[王座戦 (将棋)|王座]]'''
|style="text-align:left;"|1990
|<!--登場年度メモ 85,90,91,93,94,98 -->{{0}}6回
|<!--獲得-->'''1期'''
|<!--連覇-->1
|
|-
|'''[[棋王戦 (将棋)|棋王]]'''
|style="text-align:left;"|1985, 1987, 2003
|<!--登場年度メモ 85-88,92,03,04-->{{0}}7回
|<!--獲得-->'''3期'''
|<!--連覇-->1
|
|-
|'''[[叡王戦|叡王]]'''
|-
|<!--登場-->0
|<!--獲得-->-
|<!--連覇-->-
|
|-
|'''[[王将戦|王将]]'''
|style="text-align:left;"|1991-1994
|<!--登場年度メモ 91-96,00 -->{{0}}7回
|<!--獲得-->'''4期'''
|<!--連覇-->4連覇
|
|-
|'''[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]'''
|style="text-align:left;"|1991後-1992後, 1999
|<!--登場年度メモ 84前,91後,92前,92後,93前,93後,94前,99,00-->{{0}}9回
|<!--獲得-->'''4期'''
|<!--連覇-->3連覇
|
|- style="background-color: #ccf;"
|'''旧タイトル'''
|獲得年度
|登場
|'''獲得期数'''
|連覇
|永世称号(備考)
|-
|'''[[十段戦 (将棋)|十段]]'''
|-
|<!--登場-->0
|<!--獲得-->-
|<!--連覇-->-
|
|-
|colspan="6"|登場回数合計57、獲得合計'''27期'''([[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|歴代5位]])<br/>7タイトル「生涯[[グランドスラム]]達成」{{small|(叡王戦創設まで)}}
|-
|}
{|
|{{将棋タイトル獲得記録}}
|}
(2022年5月26日現在。<!-- 番勝負終了前は除く。-->最新は2006年度名人挑戦。)
=== 一般棋戦優勝 ===
末尾の''[[#年表|年表]]'' の「一般棋戦優勝」の欄も参照。
* [[朝日オープン将棋選手権#全日本プロ将棋トーナメント|全日本プロトーナメント]] 7回(1983年度=第2回、1984、1985、1987、1994※、1996※、1999※年度)
: ※印の決勝五番勝負の決着は、翌年度までずれこんでいる(1994年度と1996年度は5月まで、1999年度は4月まで)。
* [[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]] 1回(1985年度=第35回)
* [[銀河戦]] 1回(2002年=第10回)
* [[JT将棋日本シリーズ|日本シリーズ]] 6回(1989年度=第10回、1990、1992、1996、1997、2009年度)
* [[天王戦]] 2回(1989年度=第5回、1991年度)
* [[オールスター勝ち抜き戦]](5勝以上) 3回(第5回(1982年度)6連勝、第7回(1984年度)5連勝、第9回(1986年度)12連勝)
* [[名棋戦]] 1回(1979年度=第6回)
* [[若獅子戦]] 1回(1978年度=第2回)
: 合計 22回
; 非公式戦での優勝
* [[富士通杯達人戦]] 5回(2004 - 2007、2013年)
; 優勝経験のない棋戦
谷川のプロデビュー(1976年12月20日)以降に存在した棋戦のうち、新進棋士の棋戦を除けば、谷川に優勝経験がない棋戦(タイトル戦を含む)は、下記の5つだけである(ただし、前身の棋戦は同一の棋戦と見なす<ref group="注釈">たとえば、[[朝日杯将棋オープン戦]]の前身の前身は[[朝日オープン将棋選手権#全日本プロ将棋トーナメント|全日本プロ将棋トーナメント]]。タイトル戦では[[竜王戦]]の前身は[[十段戦 (将棋)|十段戦]]。</ref>)。
* [[名将戦]](1987年度で終了)
* [[早指し将棋選手権]]戦(2002年度で終了)
* [[大和証券杯ネット将棋・最強戦]](2007年創設、2012年度で終了)
* [[叡王戦]](2015年創設)
* [[達人戦立川立飛杯]](2023年創設)
=== 在籍クラス ===
{{main2|竜王戦と順位戦のクラス|将棋棋士の在籍クラス}}
{{将棋棋士年別在籍クラスA}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1977|JJ=36|j=C2|#=32|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1978|JJ=37|j=C2|#=03|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1979|JJ=38|j=C1|#=18|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1980|JJ=39|j=B2|#=16|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1981|JJ=40|j=B1|#=12|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1982|JJ=41|j=A|CJ=1|#=10|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1983|JJ=42|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1984|JJ=43|j=名人|#=|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1985|JJ=44|j=A|#=01|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1986|JJ=45|j=A|#=04|RR=|r=|##=}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1987|JJ=46|j=A|CJ=1|#=02|RR=1|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1988|JJ=47|j=名人|#=|RR=2|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1989|JJ=48|j=名人|#=|RR=3|CR=1|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1990|JJ=49|j=A|#=01|RR=4|r=竜王}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1991|JJ=50|j=A|#=02|RR=5|r=竜王}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1992|JJ=51|j=A|#=02|RR=6|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1993|JJ=52|j=A|#=04|RR=7|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1994|JJ=53|j=A|#=02|RR=8|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1995|JJ=54|j=A|#=04|RR=9|CR=1|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1996|JJ=55|j=A|CJ=1|#=04|RR=10|r=竜王}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1997|JJ=56|j=名人|#=|RR=11|r=竜王}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1998|JJ=57|j=A|CJ=1|#=01|RR=12|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1999|JJ=58|j=A|#=01|RR=13|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2000|JJ=59|j=A|CJ=1|#=05|RR=14|r=1|w=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2001|JJ=60|j=A|#=01|RR=15|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2002|JJ=61|j=A|#=03|RR=16|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2003|JJ=62|j=A|#=04|RR=17|r=1|w=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2004|JJ=63|j=A|#=03|RR=18|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2005|JJ=64|j=A|CJ=1|#=05|RR=19|r=2}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2006|JJ=65|j=A|#=01|RR=20|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2007|JJ=66|j=A|#=02|RR=21|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2008|JJ=67|j=A|#=07|RR=22|r=2}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2009|JJ=68|j=A|#=07|RR=23|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2010|JJ=69|j=A|#=06|RR=24|r=2}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2011|JJ=70|j=A|#=07|RR=25|r=2}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2012|JJ=71|j=A|#=04|RR=26|r=3|w=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2013|JJ=72|j=A|#=08|RR=27|r=2}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2014|JJ=73|j=B1|#=02|RR=28|r=1}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2015|JJ=74|j=B1|#=10|RR=29|r=2}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2016|JJ=75|j=B1|#=08|RR=30|r=3}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2017|JJ=76|j=B1|#=07|RR=31|r=4}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2018|JJ=77|j=B1|#=07|RR=32|r=4}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2019|JJ=78|j=B1|#=07|RR=33|r=4}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2020|JJ=79|j=B2|#=01|RR=34|r=4}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2021|JJ=80|j=B2|#=11|RR=35|r=4}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2022|JJ=81|j=B2|#=16|RR=36|r=4}}
{{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2023|JJ=82|j=B2|#=12|RR=37|r=4}}
{{将棋棋士年別在籍クラスZ|note=}}
=== 将棋大賞 ===
末尾の''[[#年表|年表]]'' の「将棋大賞」の欄を参照。
: ※:2003年度の「[[将棋大賞#升田幸三賞|升田幸三賞]]」の受賞対象は、第62期A級順位戦、対・[[島朗]]戦([[2003年]][[12月19日]])の中の一手(54手目△7七銀成)。
: ※:2006年度の「名局賞」の受賞対象は、第64期A級順位戦プレーオフ、対・羽生善治戦([[2006年]][[3月16日]])<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2007/04/34_1.html 第34回将棋大賞決まる!|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。
=== 珍記録 ===
* 王将戦の挑戦者決定リーグにて、負け越し(2勝4敗)にも関わらず残留に成功 - [[第51期王将戦|第51期]](2001年度) ※史上初
== 作品 ==
=== 書籍 ===
* 光速の寄せ 戦型別終盤の手筋(全5巻、[[日本将棋連盟]]、ISBN 4-8197-0323-4 ほか)
* 谷川浩司の戦いの絶対感覚(2003年4月、[[河出書房新社]]、ISBN 4-309-73134-1)
* 無為の力 マイナスがプラスに変わる考え方([[河合隼雄]]との共著・2004年11月、[[PHP研究所]]、ISBN 4-569-63937-2)
* 復活(毎日新聞社)
* 構想力(2007年10月、[[角川書店]] ISBN 978-4-04-710117-3)
その他多数
* [[毎日コミュニケーションズ]]から、「年度別の全棋譜」を集めた「谷川浩司全集」が順次、刊行されていた(引退後ではなく順次刊行というのは、将棋界唯一の企画)が、2005年刊行の「平成15年度版」(「新・谷川浩司全集4」)を最後に、刊行が途絶えている。
=== ゲーム監修 ===
* [[谷川浩司の将棋指南]]([[MSX]]用ソフト、1986年発売、[[ポニーキャニオン|ポニカ]])
* [[谷川浩司の将棋指南2]]<名人への道>([[ファミリーコンピュータ]]・[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステ]]ム用ソフト、1988年3月発売、[[ポニーキャニオン]])
* 谷川浩司の将棋指南3(ファミリーコンピュータ用ソフト、1989年9月発売、 ポニーキャニオン)
* [[将棋風林火山]](スーパーファミコン用ソフト、1993年10月発売、ポニーキャニオン)5名の連名で監修、題字も担当
*激指デラックス 名人戦道場(2013年07月19日、[[マイナビ]])※パソコン用ソフト
== 年表 ==
{{:谷川浩司の年表}}
== 肩書き ==
昇段およびタイトルの'''獲得'''・失冠による肩書きの遍歴を記す。({{bgcolor|#FCC|色付き}}は継続中の記録)
{| class="wikitable" style="font-size:90%"
|-
!日付!!肩書き!!保持タイトル!!colspan="2"|日数!!備考
|-
|1976年12月20日 ||四段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1976|12|20|1979|4|1}}日||プロ入り
|-
|1979年{{0}}4月{{0}}1日||五段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1979|4|1|1980|4|1}}日||順位戦C級1組昇級
|-
|1980年{{0}}4月{{0}}1日||六段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1980|4|1|1981|4|1}}日||順位戦B級2組昇級
|-
|1981年{{0}}4月{{0}}1日||七段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1981|4|1|1982|4|1}}日||順位戦B級1組昇級
|-
|1982年{{0}}4月{{0}}1日||八段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1982|4|1|1983|6|15}}日||順位戦A級昇級
|- style="vertical-align:top;"
|1983年{{0}}6月15日||名人||名人||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1983|6|15|1985|6|4}}日||名人'''獲得''' [[第41期順位戦#第41期名人戦七番勝負|第41期名人戦]]<br/>名人'''防衛''' [[第42期順位戦#第42期名人戦七番勝負|第42期名人戦]]
|-
|1985年{{0}}6月{{0}}4日||前名人|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1985|6|4|1986|3|7}}日||名人失冠 [[第43期順位戦#第43期名人戦七番勝負|第43期名人戦]]
|-
|1986年{{0}}3月{{0}}7日||棋王||棋王||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1986|3|7|1987|3|23}}日||棋王'''獲得''' [[第11期棋王戦]]
|-
|1987年{{0}}3月23日||九段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1987|3|23|1987|8|28}}日||棋王失冠 [[第12期棋王戦]]
|-
|1987年{{0}}8月28日||王位||王位||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1987|8|28|1988|4|5}}日||王位'''獲得''' [[第28期王位戦]]
|-
|1988年{{0}}4月{{0}}5日||二冠||王位・棋王||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1988|4|5|1988|6|14}}日||棋王'''獲得''' [[第13期棋王戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1988年{{0}}6月14日||rowspan="4"|名人||名人・王位・棋王||rowspan="4" style="text-align:right"|{{age in days|1988|6|14|1990|6|12}}日||style="text-align:right"|{{age in days|1988|6|14|1988|9|22}}日||名人'''獲得''' [[第46期順位戦#第46期名人戦七番勝負|第46期名人戦]]
|-
|1988年{{0}}9月22日<!-- ||名人 -->||名人・棋王||style="text-align:right"|{{age in days|1988|9|22|1989|3|28}}日||王位失冠 [[第29期王位戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1989年{{0}}3月28日<!-- ||名人 -->||名人||style="text-align:right"|{{age in days|1989|3|28|1989|8|29}}日||棋王失冠 [[第14期棋王戦]]<br/>名人'''防衛''' [[第47期順位戦#第47期名人戦七番勝負|第47期名人戦]]
|-
|1989年{{0}}8月29日<!-- ||名人 -->||名人・王位||style="text-align:right"|{{age in days|1989|8|29|1990|6|12}}日||王位'''獲得''' [[第30期王位戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1990年{{0}}6月12日||王位||王位||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1990|6|12|1990|10|2}}日||名人失冠 [[第48期順位戦#第48期名人戦七番勝負|第48期名人戦]]<br/>王位'''防衛''' [[第31期王位戦]]
|-
|1990年10月{{0}}2日||二冠||王位・王座||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1990|10|2|1990|11|27}}日||王座'''獲得''' [[第38期王座戦_(将棋)|第38期王座戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1990年11月27日||rowspan="5"|竜王||竜王・王位・王座||rowspan="5" style="text-align:right"|{{age in days|1990|11|27|1993|1|6}}日||style="text-align:right"|{{age in days|1990|11|27|1991|10|14}}日||竜王'''獲得''' {{0}}[[第3期竜王戦]]<br/>王位'''防衛''' [[第32期王位戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1991年10月14日<!-- ||竜王 -->||竜王・王位||style="text-align:right"|{{age in days|1991|10|14|1992|1|10}}日||王座失冠 [[第39期王座戦_(将棋)|第39期王座戦]]<br/>竜王'''防衛''' {{0}}[[第4期竜王戦]]
|-
|1992年{{0}}1月10日<!-- ||竜王 -->||竜王・王位・棋聖||style="text-align:right"|{{age in days|1992|1|10|1992|2|28}}日||棋聖'''獲得''' [[第59期棋聖戦_(将棋)|第59期棋聖戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1992年{{0}}2月28日<!-- ||竜王 -->||竜王・王位・王将・棋聖||style="text-align:right"|{{age in days|1992|2|28|1992|9|9}}日||王将'''獲得''' [[第41期王将戦]]<br/>棋聖'''防衛''' [[第60期棋聖戦_(将棋)|第60期棋聖戦]]
|-
|1992年{{0}}9月{{0}}9日<!-- ||竜王 -->||竜王・王将・棋聖||style="text-align:right"|{{age in days|1992|9|9|1993|1|6}}日||王位失冠 [[第33期王位戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1993年{{0}}1月{{0}}6日||二冠||王将・棋聖||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1993|1|6|1993|7|19}}日||竜王失冠 {{0}}[[第5期竜王戦]]<br/>棋聖'''防衛''' [[第61期棋聖戦_(将棋)|第61期棋聖戦]]<br/>王将'''防衛''' [[第42期王将戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1993年{{0}}7月19日||王将||王将||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1993|7|19|1996|2|14}}日||棋聖失冠 [[第62期棋聖戦_(将棋)|第62期棋聖戦]]<br/>王将'''防衛''' [[第43期王将戦]]<br/>王将'''防衛''' [[第44期王将戦]]
|-
|1996年{{0}}2月14日||九段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1996|2|14|1996|11|29}}日||王将失冠 [[第45期王将戦]]
|-
|1996年11月29日||rowspan="1"|竜王||竜王||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1996|11|29|1997|6|11}}日||竜王'''獲得''' {{0}}[[第9期竜王戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|1997年{{0}}6月11日||rowspan="1"|竜王・名人||竜王・名人||colspan="2"style="text-align:right"|{{age in days|1997|6|11|1998|6|18}}日||名人'''獲得''' [[第55期順位戦#第55期名人戦七番勝負|第55期名人戦]]<br/>竜王'''防衛''' [[第10期竜王戦]]
|-
|1998年{{0}}6月18日||rowspan="1"|竜王||竜王||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1998|6|18|1998|11|19}}日||名人失冠 [[第56期順位戦#第56期名人戦七番勝負|第56期名人戦]]
|-
|1998年11月19日||九段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1998|11|19|1999|7|7}}日||竜王失冠 [[第11期竜王戦]]
|-
|1999年{{0}}7月{{0}}7日||棋聖||棋聖 ||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|1999|7|7|2000|7|31}}日||棋聖'''獲得''' [[第70期棋聖戦_(将棋)|第70期棋聖戦]]
|-
|2000年{{0}}7月31日||九段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|2000|7|31|2002|8|29}}日||棋聖失冠 [[第71期棋聖戦_(将棋)|第71期棋聖戦]]
|- style="vertical-align:top;"
|2002年{{0}}8月29日||王位||王位 ||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|2002|8|29|2004|3|20}}日||王位'''獲得''' [[第43期王位戦]]<br/>王位'''防衛''' [[第44期王位戦]]
|-
|2004年{{0}}3月20日||二冠||王位・棋王 ||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|2004|3|20|2004|9|8}}日||棋王'''獲得''' [[第29期棋王戦]]
|-
|2004年{{0}}9月{{0}}8日||棋王||棋王 ||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|2004|9|8|2005|2|25}}日||王位失冠 [[第45期王位戦]]
|-
|2005年{{0}}2月25日||九段|| {{center|-}}||colspan="2" style="text-align:right"|{{age in days|2005|2|25|2022|5|23}}日||棋王失冠 [[第30期棋王戦]]
|-
|2022年{{0}}5月23日||十七世名人|| {{center|-}}||colspan="2"|{{align|right|{{bgcolor|#FCC|<!--翌日起算(初日不算入の原則)-->{{Age in days|2022|5|23}}日}}}}||十七世名人襲名
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp | author = [[原田泰夫]] (監修)、荒木一郎 (プロデュース) | editor = [[森内俊之]]ら | year = 2004 | title = 日本将棋用語事典 | publisher = 東京堂出版 | isbn = 4-490-10660-2}}
== 関連項目 ==
* [[将棋棋士一覧]]
* [[棋戦 (将棋)]]
* [[将棋のタイトル在位者一覧]]
* [[棋風]]
* [[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九交響曲]] - 若い頃、「1万人の第九」コンサートの合唱に何回か参加したと、自著『藤井聡太論 将棋の未来』(2021年、講談社+α新書)(120ページ)に記している。
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/player/pro/131.html 谷川浩司|棋士データベース|日本将棋連盟]
* [https://www.city.kobe.lg.jp/a31812/shise/about/ambassador/taishi_15.html 神戸大使 谷川浩司] - 神戸市による紹介ページ
* {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/tanigawa17/ |title=光よりも速く|date=20130427103644}}(公認応援ページ)
* {{Twitter|abT_yasumitsu|チーム康光}}
{{日本将棋連盟所属棋士}}
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{{将棋永世名人|十七世}}
{{日本将棋連盟会長|2012-2017}}
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[[Category:名人 (将棋)|永017]]
[[Category:将棋棋士]]
[[Category:真宗関連の人物]]
[[Category:滝川高等学校出身の人物]]
[[Category:神戸市出身の人物]]
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[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:NHK紅白歌合戦審査員]]
[[Category:1962年生]]
[[Category:存命人物]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B5%A9%E5%8F%B8
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西武豊島線
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豊島線(としません)は、東京都練馬区練馬に所在する練馬駅と豊島園駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。西武鉄道の鉄道路線の中で全線の総距離が一番短い。豊島線という線名ではあるが、路線はすべて練馬区内にあり、豊島区には存在しない(ただし、開業時は東京市編入前で全区間が当時の北豊島郡に属していた)。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。
現・西武鉄道の前身である武蔵野鉄道によってとしまえん(当時は豊島園)への旅客輸送を目的に敷設された。豊島線開業前年の豊島園一部開園時より臨時列車の運行などで協力関係にあり、開業後は一貫してアクセス路線として機能してきた。ただし豊島園の開業当初は資本関係が全くなく、武蔵野鉄道が豊島園の経営に参加したのは1939年、買収により鉄道と遊園地の総合的な経営が実現したのは1941年のことである。
1991年、本路線に完全並行する形で都営地下鉄12号線(現・大江戸線)が部分開業し、特に同線が新宿へ延伸した1997年以降、本路線の利用者数は大幅に減少している。
2022年3月改正時点では、豊島園行き始発列車が練馬駅発の線内運転である以外は、すべて池袋線池袋駅 - 豊島園駅間を直通する各駅停車である。線内運転の始発列車も含め、全列車が8両編成で運行される。日中は1時間に4本が運行される。
練馬駅では基本的に豊島園駅発着の池袋線直通列車と西武有楽町線直通列車(主に普通列車)が接続しており、同一ホームで地下鉄有楽町線・副都心線方面直通列車との対面乗り換えができるダイヤ構成となっている。ただし、ダイヤの乱れが発生した際には地下鉄直通運転が中止されるため、同時に豊島線も運転を長時間見合わせる場合がある(池袋線 練馬 - 石神井公園間の運行本数が減少するため、豊島園発着の列車が石神井公園・保谷発着などに立て替えられることがある)。その場合、当路線利用者には振替輸送先である都営地下鉄大江戸線の利用も促される。
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豊島線(としません)は、東京都練馬区練馬に所在する練馬駅と豊島園駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。西武鉄道の鉄道路線の中で全線の総距離が一番短い。豊島線という線名ではあるが、路線はすべて練馬区内にあり、豊島区には存在しない(ただし、開業時は東京市編入前で全区間が当時の北豊島郡に属していた)。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 豊島線
|路線色=#ef810f
|ロゴ=File:Seibu ikebukuro logo.svg
|ロゴサイズ=50px
|画像=Seibu-Series2000 2072R Toshima-Line.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=豊島線を走行する[[西武2000系電車 |2000系]]<br />(2023年5月 [[練馬駅]])
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]][[練馬区]]
|起点=[[練馬駅]]
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|駅数=2駅
|路線記号=SI
|開業={{start date and age|1927|10|15}}
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|所有者=[[西武鉄道]]
|運営者=西武鉄道
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|使用車両=
|路線距離=1.0 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[単線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最高速度=60 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="datebook">[[#datebook|寺田裕一『データブック 日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年) p.59]]</ref>
|最小曲線半径 =200 [[メートル|m]]<ref name="datebook"/>
|最大勾配 = 32.0 [[パーミル|‰]]<ref name="datebook"/>
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置|ATS]]
|路線図=
|路線図名=
|路線図表示=
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{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ef810f}}
{{BS-table}}
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{{BS3|tSTR|hABZgl|hSTRq||||池袋線→|}}
{{BS3|tHST|KBHFe||1.0|SI39 [[豊島園駅]]||}}
|}
|}
'''豊島線'''(としません)は、[[東京都]][[練馬区]][[練馬 (練馬区)|練馬]]に所在する[[練馬駅]]と[[豊島園駅]]を結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。西武鉄道の鉄道路線の中で全線の総距離が一番短い。豊島線という線名ではあるが、路線はすべて練馬区内にあり、[[豊島区]]には存在しない<ref group="注">ただし、開業時は[[東京市]]編入前で全区間が当時の[[北豊島郡]]に属していた。</ref>。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SI'''。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):1.0km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:2駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 電化区間:全線(直流1500V[[架空電車線方式]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:60 km/h<ref name="datebook"/>
== 歴史 ==
現・西武鉄道の前身である[[武蔵野鉄道]]によって[[としまえん]](当時は豊島園)への旅客輸送を目的に敷設された<ref>{{citation|和書|title=申請理由書|id={{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000001316984|下練馬村地内延長線敷設免許の件}}|quote=府下北豊島郡上練馬村地内向山ヶ谷戸附近ニ於ケル旧豊島城趾ヲ中心トシテ今回株式会社豊島園ノ創設セル地域約6万坪ノ遊園地ハ市内郊外ノ人士ノ為ニ唯一ノ運動娯楽場トシテ近ク開園ノ期日切迫セルヲ以テ是等遊覧旅客ノ交通便益ヲ計ルト共ニ弊社営業収入ノ増加ヲ期シ度前記遊園地前迄急速支線ヲ敷設スル次第ニ有之候}}</ref>。豊島線開業前年の豊島園一部開園時より臨時列車の運行などで協力関係にあり<ref name="ふるさと文化館">{{cite book|和書|title=鉄道の開通と小さな旅:西武・東上沿線の観光:特別展|publisher=練馬区立石神井公園ふるさと文化館|year=2012|page=28|id={{全国書誌番号|22163338}}}}</ref>、開業後は一貫してアクセス路線として機能してきた<ref>{{cite book|和書|title=西武鉄道のひみつ|publisher=PHP研究所|year=2013|pages=24-25|isbn=978-4-569-80941-0}}</ref>。ただし豊島園の開業当初は資本関係が全くなく、武蔵野鉄道が豊島園の経営に参加したのは1939年、買収により鉄道と遊園地の総合的な経営が実現したのは[[1941年]]のことである<ref name="ふるさと文化館" />。
[[1991年]]、本路線に完全並行する形で都営地下鉄12号線(現・[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])が部分開業し、特に同線が[[新宿駅|新宿]]へ延伸した[[1997年]]以降、本路線の利用者数は大幅に減少している。
* [[1926年]]([[大正]]15年)
** [[9月20日]]:鉄道営業免許申請<ref>{{citation|和書|title=免許申請書|id={{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000001316984|下練馬村地内延長線敷設免許の件}}}}</ref>
** [[10月30日]]:鉄道免許状下付([[北豊島郡]][[練馬町|下練馬村]]字栗山大門-同村大字{{ママ}}谷戸山間)<ref>[{{NDLDC|2956409/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1926年11月3日](国立国会図書館デジタルコレクション)下練馬村には大字は存在せず「字谷戸山」が正しい </ref>。
** [[12月9日]]:工事申請<ref name="工事認可">{{citation|和書|title=武蔵野鉄道練馬支線工事施行ノ件|id={{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000001317014|練馬支線工事施行の件}}}}</ref>
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** [[6月28日]]:工事認可<ref name="工事認可" />
** [[9月5日]]:着工<ref>{{citation|和書|title=練馬支線工事着手ノ件|id={{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000001317020|練馬支線工事着手の件}}}}</ref>
** [[10月15日]]:武蔵野鉄道豊島線として、練馬 - 豊島間1.0 km開業<ref>[{{NDLDC|2956706/17}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年10月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1933年]](昭和8年)[[3月1日]]:豊島駅を豊島園駅に改称。
* [[1945年]](昭和20年)[[9月22日]]:西武農業鉄道豊島線となる。
* [[1946年]](昭和21年)[[11月15日]]:西武鉄道豊島線となる。
== 運転 ==
2022年3月改正時点では、豊島園行き始発列車が練馬駅発の線内運転である以外は、すべて[[西武池袋線|池袋線]][[池袋駅]] - 豊島園駅間を直通する[[各駅停車]]である<ref>[https://seibu.ekitan.com/norikae/pc/T5?USR=PC&dw=0&slCode=233-0&d=1 駅の時刻表 ■豊島線 練馬 ◇豊島園ゆき 平日 2022年3月12日改正]、[https://seibu.ekitan.com/norikae/pc/T5?USR=PC&dw=1&slCode=233-0&d=1 駅の時刻表 ■豊島線 練馬 ◇豊島園ゆき 土休日 2022年3月12日改正]、[https://seibu.ekitan.com/pdf/20220312/233-1-1.pdf ■豊島線 豊島園 ◇練馬・池袋方面 2022.03.12改正] - 西武鉄道、2022年10月16日閲覧</ref>。線内運転の始発列車も含め、全列車が8両編成で運行される。日中は1時間に4本が運行される。
練馬駅では基本的に豊島園駅発着の池袋線直通列車と[[西武有楽町線]]直通列車(主に各駅停車)が接続しており、同一ホームで地下鉄[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]方面直通列車との[[対面乗り換え]]ができるダイヤ構成となっている。ただし、ダイヤの乱れが発生した際には地下鉄との直通運転が中止されるため、同時に豊島線も運転を長時間見合わせる場合がある<ref group="注">池袋線の練馬 - 石神井公園間で運行本数が減少するため、豊島園発着の列車が[[石神井公園駅|石神井公園]]・[[保谷駅|保谷]]発着などに立て替えられることがある。</ref>。その場合、当路線利用者には振替輸送先である[[都営地下鉄大江戸線]]の利用も促される。
== 駅一覧 ==
* 1区間のみであり、運行列車も各駅停車のみであるので、運行列車種別は省略する。
* 全駅[[東京都]][[練馬区]]内に所在。
* 池袋 - 練馬駅間の営業キロは6.0 kmである。
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref>。
{| class="wikitable" rules="all"
|- style="text-align:center;"
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅番号
!style="width:5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|累計<br />キロ
!style="border-bottom:solid 3px #ef810f;"|接続路線・備考
!style="border-bottom:solid 3px #ef810f; width:1em;"|{{縦書き|線路}}
|-
!SI06
|[[練馬駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[西武鉄道]]:[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|15px|SI]] [[西武池袋線|池袋線]]('''[[池袋駅]]まで直通運転''')・[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|15px|SI]] [[西武有楽町線]]<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-35)
|style="text-align:center;"|∨
|-
!SI39
|[[豊島園駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|1.0
|※都営地下鉄大江戸線豊島園駅との連絡運輸は行っていない。
|style="text-align:center;"|∧
|}
== その他・エピソード ==
* 池袋線からの直通列車はすべて各駅停車であるが、[[1988年]]までは平日朝の下りに池袋を発車すると途中停車駅は練馬駅のみの[[準急列車]]が設定されていた<ref group="注">一部ではこの列車を「豊島園準急」と称していた。現在でも列車設定はないが、[[西武鉄道のダイヤ改正#2008年6月14日|2008年6月のダイヤ改正]]時に交換された[[西武2000系電車|2000系]]・[[西武3000系電車|3000系]]の[[方向幕]]には「準急 豊島園」のコマが存在していることが確認されている。</ref><ref group="注">設定当時の準急列車は本来、練馬駅は通過していた。</ref>。これは、急激な利用客増に車両増備が追いつかないことが想定され、池袋に到着した車両を急いで送り込む苦肉の策であった。
* 豊島園駅が8両編成までしか対応できないために[[西武6000系電車|6000系]]・[[西武20000系電車|20000系]]・[[西武30000系電車|30000系]]・[[西武40000系電車|40000系]]の10両固定編成は入線できない。特急用電車は団体臨時で[[西武5000系電車|5000系]]・[[西武10000系電車|10000系]]の入線実績がある。なお、豊島線直通の普通列車が運行される区間(池袋 - 豊島園間)の駅で10両編成に対応していないのは豊島園駅のみである。また、練馬駅の配線上、地下鉄線と直通する[[西武有楽町線]]との列車の乗り入れも不可能である。
* 練馬駅の高架工事のために1988年12月 - [[1998年]][[3月26日]]の間は、池袋線直通は中止され全列車練馬折り返しとなっていた。その間でも[[1997年]][[8月2日]]からは、池袋線との線路も渡り線も完全に遮断され線内には[[西武101系電車|101系]]の155F(4両編成)と211F(6両編成)が封じ込められ運用を行っていた。なお、それ以前に練馬駅が仮設ホームに移る際にも数日間池袋線との接続が断たれ、車両が封じ込めとなった時期がある。
* 2008年[[5月11日]]の[[母の日]]には「母の日に母娘の二人で行く庭の湯」というイベントが開催された。これには[[西武30000系電車|30000系]]38103編成が池袋から豊島園まで特別列車として運行され、同駅到着後、車内の公開や本系列の告知が行われた。車内には2,000本の[[カーネーション]]の装飾やぬり絵の展示が行われた<ref>{{Cite press release|和書|title=一回限りの特別電車 〜5月11日(日)「母の日に母娘の二人で行く庭の湯」〜 お花で彩ったスマイルトレインがお連れします。|publisher=西武鉄道|date=2008-04-17|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2008/0417.pdf|format=PDF|access-date=2023-02-14|archive-url=https://web.archive.org/web/20081230082705/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2008/0417.pdf|archive-date=2008-12-30}}</ref>。
* 2008年6月14日ダイヤ改正以前では、4両編成線内折り返し列車が運行されていた。池袋線は輸送力の観点から10両ないし8両編成で運行されるが、豊島線内折り返し運用は輸送力が十分であることと高架化工事完了後の練馬駅折り返し用引き込み線は4両までしか対応できないための措置である。このため線内折り返し用4両編成は練馬駅まで回送されてから運用に投入された。ただし、練馬発始発列車のみ8両編成で練馬駅3番ホームから発車となる。
* 2011年の[[東日本大震災]]による節電ダイヤでは一時的に線内折り返し運用が復活した。方向幕は白地コマ表示とした[[西武2000系電車|2000系]]が投入された。
* 2023年6月3日に開催「西武・電車フェスタ2023 in 武蔵丘車両検修場」では、「特急[[レッドアロー]]号で行く!親子で西武・電車フェスタ直通ツアー」が企画され、[[西武10000系電車|10000系特急車両]]による豊島園駅発-[[武蔵丘車両検修場]]行きの貸切列車が設定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/sightseeing/eventcampaigninfo/musashigaokafesta2023/ |title=西武・電車フェスタ2023in武蔵丘車両検修場 |publisher=西武鉄道 |date=2023 |accessdate=2023-05-16}}</ref>。
* [[東京都区部|東京23区]]内の定期的に旅客列車が走る鉄道路線としては、[[京成金町線]]・[[東武大師線]]とともに、数少ない全線[[単線]]の路線である。ただし、両線を運行する列車はいずれも線内完結の折り返し運行が原則となっている<ref group="注">京成金町線については2010年7月まで[[京成上野駅]] - [[京成金町駅]]間の直通列車が存在した。</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
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*[[日本の鉄道駅一覧]]
{{西武鉄道の路線}}
{{デフォルトソート:せいふとしません}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|としません]]
[[Category:西武鉄道の鉄道路線|としま]]
[[Category:武蔵野鉄道|路としま]]
[[Category:東京都の交通]]
|
2003-07-18T06:28:51Z
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2023-12-27T18:20:54Z
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高崎線
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高崎線(たかさきせん)は、埼玉県さいたま市大宮区の大宮駅から群馬県高崎市の高崎駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。
運行系統上は、起点の大宮駅から東北本線(宇都宮線)上野駅・東京駅方面に直通運転を行っており、上野駅もしくは東京駅までの間も含めて、運行系統として「高崎線」と案内されることが一般的である。
高崎線は、大宮駅で東北本線(宇都宮線)から分岐し、群馬県内最大のターミナル駅である高崎駅までを結ぶ、東京の近郊路線の一つである。国道17号(中山道)とほぼ並行し、一部区間を除き同じ市町村を経由している。上野駅 - 熊谷駅間は1883年(明治16年)に日本最古の私鉄であった日本鉄道の最初の営業区間として開業した、日本国内の鉄道の中でも古い路線の一つであり、路線としては東北本線の大宮駅以北よりも歴史が古い。路線名は日本鉄道が国有化された後の1909年(明治42年)に定められた。路線名には高崎市や高崎駅の「高崎」を冠し、管轄は大宮駅構内を除きJR東日本高崎支社であるが、経路上の大部分(大宮駅から神保原駅まで)は埼玉県内であり、籠原運輸区および高崎車両センター籠原派出所がある籠原駅を起終点として東京方面へ向かう列車が多く、高崎線の南部では埼玉県と東京間の通勤・通学などの地域輸送に機能が偏重している。
全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内などに用いられるラインカラーは、首都圏地区の東海道線や宇都宮線(東北本線中距離列車の路線愛称)と同様、普通列車の車体色の一部であるオレンジ(■)である。
現在、全列車が東北本線の大宮駅以南に乗り入れ、うち約7割の列車は東北本線の列車線(宇都宮線)を経由し上野駅、さらにその多くは「上野東京ライン」として東京駅を経由して東海道線の駅を始発・終点とする。また、残りの約3割は「湘南新宿ライン」として、東北貨物線を経由して田端駅付近から山手貨物線の池袋駅・新宿駅・渋谷駅経由で東海道本線に乗り入れており、起点の大宮駅を始発・終着とする列車はなくなっている。一方、終点である高崎駅からは、全体の2割程度が上越線へ乗り入れ、さらに上越線の新前橋駅から両毛線(普通・快速アーバン)、渋川駅から吾妻線(特急のみ)へ直通する列車も存在する。このほか、倉賀野駅 - 高崎駅間には八高線が乗り入れている。
管轄の高崎支社は、JR東日本における「首都圏エリア」ではなく、地方支社扱いであるが、前述のような運行形態でほぼ全列車が首都圏エリア内に乗り入れている点や、Suicaの初期導入区間から既に含まれている点、防災訓練の内容など、高崎線は準首都圏エリアのような扱いとなっている。
広く公表されていないが、当路線では中間駅各駅にテーマカラーが設定されている。これは同線の駅の多くがJR型配線であるためその識別であると推測できる。テーマカラーはホーム屋根の柱にワンポイントで入り、ベンチもそのテーマカラーと同系色のものが設置されている。
2016年3月10日より、大宮駅・上尾駅・熊谷駅・高崎駅を除く全駅で一斉に早朝時間帯始発から6:30までの無人化(インターフォン遠隔案内)と、それに伴うみどりの窓口・指定席券売機の営業時間変更およびエスカレータの運転時間短縮が実施された(行田駅など既に実施済みの駅も他駅に合わせて時間が変更された)。
高崎線内に終日無人駅はないものの、前述の主要駅を除く全駅の早朝無人化の実施、業務委託駅の拡大(JR東日本ステーションサービスに委託、2021年3月時点で高崎線内の2/3の12駅および大宮駅・高崎駅の一部業務)など、業務効率化が進んでいる。
日本初の私鉄である日本鉄道の第1期線として、1883年(明治16年)に後に東北本線の一部となる区間を含む上野 - 熊谷間で仮営業を開始したのが始まりである。
日本では1872年(明治5年)に初の実用鉄道路線として新橋 - 横浜間を開業し、その優位性が注目されていた。当時の日本は貿易赤字解消の外貨獲得を目的とした殖産興業政策として、生糸や絹織物等の製品の輸出を推進しており、養蚕業と製糸業の盛んな群馬県から、貿易港である横浜港まで運ぶ手段が必要とされていた。また、東京と京阪神間を結ぶ主要鉄道と位置付けられた「中山道鉄道」の第1区を形成する計画でもあった(後に東京 - 京阪神間を結ぶ鉄道の岐阜以東は東海道経由へと変更され、東海道本線計画へ転じた)。
当時の新橋の北には、江戸時代からの市街地が広がっており、また神田から板橋にかけての台地の勾配を避けるため、台地の縁にあり、寛永寺の広大な売却地を利用できる上野をターミナルとした。上野 - 高崎間の路線には、「王子 - 赤羽 - 大宮 - 鴻巣 - 熊谷 - 高崎」という英国人技師ボイル案と、「千住 - 岩槻 - 忍 - 熊谷 - 高崎」というアメリカ人技師クロフォード案の二案があった。当時の鉄道局長官井上勝がボイル案を採用し、現在の経路となった。
しかし、政府財政の窮乏のために建設は進まず、民間資金(当時は主に貴族や旧大名など華族の出資)の導入によって鉄道建設を促進するために、株式会社である「日本鉄道」が設立され、国に代わって建設を行い、日本鉄道の最初の路線(第1期線)として、また日本初の「民営鉄道」として、1883年(明治16年)に上野 - 熊谷間が開業した。開業時の開設駅は上野駅、王子駅、浦和駅、上尾駅、鴻巣駅、熊谷駅で、現在は中距離列車の停車しない王子駅も含まれていた一方、現在の起点である大宮駅はまだなかった。
翌1884年(明治17年)に高崎駅、前橋駅まで延長され、全通した。高崎まで開通した同年6月25日には、明治天皇臨席のもと上野駅で開通式が行われ、この際に明治天皇は上野 - 高崎間を往復乗車した。1885年(明治18年)に第2期線(後の東北本線)の分岐駅として、浦和 - 上尾間に大宮駅が開設された。また、同年には赤羽(王子 - 浦和間)から官営鉄道の品川を結ぶ路線(現在の山手線・埼京線)が開業し、群馬と横浜を結ぶ当初の計画が実現した。
現在も上野駅を列車運行上の起点とし、さらに現在では別路線の両毛線の駅となっている前橋駅への直通列車も設定されているのは、当時の起終着駅に由来するが、開業時の前橋駅は利根川の西岸、現在の新前橋駅付近にあった。この駅は、地元で内藤分停車場あるいは内藤ステーションと呼ばれていた(詳しくは「前橋駅」および「両毛線」の項を参照)。小山から両毛鉄道が西進し、現在の前橋駅まで開業すると同時に、日本鉄道も利根川を渡る線路を敷設して現在の前橋駅まで延伸開業し、旧前橋駅は廃止された(現在の新前橋駅は上越南線との分岐駅として1921年(大正10年)に開業した)。
高崎線は、日本鉄道が上野 - 熊谷間を開業した当時、日本鉄道では第一区線とされ、政府官報では上野熊谷間汽車とされたが、旅客案内上は仲仙道汽車と案内されることもあった。
1894年(明治27年)12月発行の『汽車汽船旅行案内』には、当線を「上野 - 赤羽 - 大宮 - 高崎と経て直江津線に連絡し前橋まで至って両毛線に連絡する線」とし、中仙道線と案内している。
1906年(明治39年)に、日本鉄道が鉄道国有法により買収・国有化され、本路線も官設鉄道に編入された。3年後の1909年(明治42年)10月12日公布の国有鉄道線路名称(明治42年鉄道院告示第54号)により公式に大宮 - 高崎間を「高崎線」と定め、両毛線や日光線、水戸線等と同じく東北本線を幹線とする「東北線の部」に属する一線として位置付けられた。
全国に鉄道網が拡大するなかで、高崎線は首都圏と新潟県や東北地方日本海側および長野県・北陸地方とを結ぶ大動脈に成長し、上越線・信越線の特急・急行列車が高崎線内を多数通過していた。
第二次世界大戦後、高度経済成長期に国鉄の電化が進んだことで、優等列車の電車化が行われ、上越線の「とき」や信越本線の「あさま」に加え、羽越本線系統の「いなほ」や北陸本線系統の「白山」・「はくたか」といった多数の特急列車が運転されており、当線を含めた上野 - 新潟間のルートでは最高速度120km/hでの運転が行われていた。また、これらのほかに比較的運転日の多い季節・臨時特急として、中軽井沢行きの「そよかぜ」、万座・鹿沢口行きの「白根」、スキー臨時列車で石打行きの「新雪」が存在した。
車両も、特急は「こだま形」181系に、碓氷峠越えの189系、北陸へ向かう485系、急行も165系・169系・457系といった車両が投入されて、一時代を築いた。
しかし、1982年(昭和57年)11月15日の上越新幹線開通で、上越線系統の列車群が新幹線へ移る形で廃止され、次いで1997年(平成9年)10月1日の北陸新幹線(高崎駅 - 長野駅間)の先行開業により、信越線系統の広域輸送も新幹線に譲り、新幹線の恩恵を受けにくい吾妻線(「草津」)、両毛線方面(「あかぎ」)等への中距離特急が運転されるのみとなり、このうち、上越線水上への特急(「谷川」、のちの「水上」)は利用者減少により臨時列車化された。
夜行列車については、北陸方面とを結ぶ寝台特急「北陸」、秋田・青森方面とを結ぶ寝台特急「あけぼの」のほか、北陸方面へ運転される臨時急行「能登」が高崎線を経由した。急行「能登」はJRに残った数少ない急行列車であったが、2010年(平成22年)3月13日のダイヤ改正で臨時列車に変更された。同改正では寝台特急「北陸」が廃止され、「あけぼの」も2014年(平成26年)3月15日のダイヤ改正で臨時列車に変更された。
詳細は、以下の各項目を参照。
1932年(昭和7年)に東北本線の大宮以南が電化され、のちの京浜東北線に相当する電車系統が運転開始されていたが、戦後の高度経済成長により、高崎線沿線にも団地が造成され、人口が急増した。1952年(昭和27年)に全線が電化されてから、国鉄は80系や、後に3ドアの115系といった電車を投入して通勤需要に応えた。
しかし、激増する人口に追い付かず、一方で長距離列車の需要も拡大したため、線路容量は限界に達した。その上、国鉄は1960年代から赤字経営が常態化し、新型車の投入を抑え、通勤車両の不足分を急行型165系等の2ドア車両で代替して、混雑が慢性化した。また国鉄は労使関係も悪化を続け、労働組合は列車の運行を労働争議(遵法闘争など)の手段に用いたことから、利用者の不満が爆発し、1973年(昭和48年)の上尾事件や首都圏国電暴動へ至った。この事件の後、国鉄は115系の追加投入を行い、朝夕ラッシュ時は3ドア車両が15両編成で行き交う光景が日常的なものとなったが、線路容量はこれ以上拡張できなかった。
1982年(昭和57年)の上越新幹線開業は、高崎線の線路容量問題を根本的に解決するものであり、1985年(昭和60年)の新幹線上野乗り入れにより、高崎線の特急・急行は大きく削減され、輸送体系は普通列車主体へ大きく変わった。さらに1997年(平成9年)の北陸新幹線長野開業により、日中の長距離列車は全廃され、東京と群馬県を結ぶ少数の特急のみとなり、わずかに残った夜行列車も後に廃止された。
車両も、1980年代末に投入された211系3000番台はオールロングシートで定員を拡大し、2000年代に投入されたE231系からはロングシート主体(一部ボックスシート)かつ4ドアを採用した一方で、211系共々、後に2階建てグリーン車も組み込み、着席需要に応えた。また115系は日中に7両や8両の編成が残っていたが、211系とE231系により「グリーン車付き10両か15両」に統一し、続くE233系も踏襲している。
運用面でも、開業以来、上野発着を主体としてきたものを、国鉄分割民営化後に貨物線を転用することで、副都心の池袋駅・新宿駅へ乗り入れ、都心方面への需要を分散させた。これは2000年代に湘南新宿ラインへ成長し、東海道本線への直通運転を開始する一方、高崎・前橋以北への普通列車の直通は段階的に廃止された。2015年(平成27年)の上野東京ライン開業によって、東海道本線との全面的な直通運転が始まり、高崎線は東京と信越・日本海を繋ぐ路線から、首都圏を縦貫する路線へと大きく変化している。
東北新幹線建設の際、地元住民への見返りとして計画された通勤新線(東北本線のバイパス支線:赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅)は、元々は大宮駅からは北進し宮原駅より高崎線へ乗り入れる計画が立てられていた。そのため、新線は中・長距離列車が通過することを前提に設計され、高崎線内でも大宮駅 - 宮原駅間において、乗り入れの連絡線(複々線)用地の取得が行われた。しかし、新線沿線に設置予定だった車両基地の用地買収が困難となり、急遽、田園地帯を走る川越線を電化し、その沿線に川越電車区(現・川越車両センター)を設置して代替とした。よって、通勤新線は川越線乗り入れの形に変更となり、1985年に埼京線の名で開業した。
その後、高崎線乗り入れの実質的な代替となる貨物線経由による池袋駅・新宿駅乗り入れ(現在の湘南新宿ライン)の運行を開始した。
民営化後もしばらくは、取得した用地が残され、2000年前後にさいたま市との合併協議を行っていた上尾市は、これを利用した埼京線もしくは京浜東北線の上尾駅延伸を合併の見返りとして要求していたが破談した。なお、現在は用地の多くは再転用可能な駐車場のほか、一部は再転用困難な住宅施設にも転用されている。
日本鉄道時代の新設駅のうち、()内は国有化後の線路名称制定時に他路線(東北本線・両毛線)の所属となった駅
大宮を出発すると大宮総合車両センターを挟んだ西側を東北新幹線・上越新幹線・ニューシャトルの高架が並行する。大宮駅構内では東北本線(宇都宮線)が北北東に向けてカーブするのに沿って北向きに進むが、その下り線築堤の下に潜って東北本線線路と分かれると進路を北北西に修正する。なお、湘南新宿ライン等、東北貨物線・武蔵野線大宮支線からの下り直通列車は、はじめ東北本線下り線用の築堤上の東大宮操車場への回送線と共用する線路を進み、途中で分岐して北北西に進路を取り、築堤を下り高崎線本線に合流する。現在は大宮駅が起点の高崎線であるが、東京駅を起点とする本線である東北本線が高崎線から分岐しているかのような線形になっており、これは当初日本鉄道が現在の東北本線大宮駅以南と高崎線に当たる路線を上野駅起点として建設し、第2期線として大宮駅から分岐して現在の東北本線大宮駅以北が建設された歴史を示すものである(その後、(東京 - )上野 - 大宮駅間は東北本線と制定される。「#歴史」節を参照)。間もなく左手より、大宮駅地下ホームの川越線が地上に出てきて、並行しながら、鉄道博物館の東側を通過する。その後、すぐに新幹線・ニューシャトル及び国道17号の高架が高崎線を跨いで東側に緩くカーブしながら離れていく。ちなみに、大宮駅から高架の手前まで湘南新宿ラインなどの下り線路のさらに西側(大宮総合車両センター隣接)にもう一本線路が並行し、下り線路が合流した後もしばらく高崎線が複単線のように見える状態で並行して、高架の手前で川越線に合流している。これは、川越線が埼京線開業前に大宮駅地上11・12番線を使用していた際の旧線路である。現在は高崎線 - 川越線間の連絡線として使用されている。並行する川越線が西側に離れると、左側に再開発された高層住宅街が見え、右側にカーブを切ると宮原駅に到着する。宮原駅を出ると新大宮バイパスをくぐり、その後区画された新興住宅地の中を北西に進んでいき、マンション群の中を進み上尾駅に到着する。上尾駅は、昭和40年代の国鉄労組闘争に対し、主に上尾駅など高崎線利用の通勤労働者が起こした国鉄職員・国鉄設備への暴力・破壊事件、「上尾事件」が発生した駅である。事件の際は、通勤時間帯の上尾駅の通勤客ら高崎線利用客10,000人が暴徒化したと伝えられている。
北上尾駅、桶川駅と新興住宅地の中を進み、市街地が途切れ、宅地の合間に畑地を見ながら北本駅、複合商業施設エルミこうのすが見えてくると鴻巣駅に着く。この辺りから田畑が目立つようになり、野菜生産全国第6位、花卉生産高全国第8位、米生産高全国第17位を誇る(いずれも平成19年の数値)、埼玉県を代表する田園風景が続く。それまで大宮台地の脊梁部を走っていた列車は緩やかに標高を下げていき、利根大堰から導水される武蔵水路を渡って北鴻巣駅を過ぎ、元荒川沿いの低地を北西に進み、緩く西にカーブして民家が増えてくると吹上駅に着く。吹上駅を出ると元荒川を渡って右にカーブを切り、荒川の東側の田畑の中を荒川に沿うように並行して行田駅に着く。行田駅を出ると、蛇行していたかつて元荒川の旧流路を2回渡り久下の田畑地帯を北西に疾走して秩父鉄道、次いで上越新幹線が東側から乗り越し、右側に現れた複合商業施設ニットーモールを通過すると、荒川扇状地の扇端にある熊谷駅に着く。この鴻巣 - 熊谷間は河川等水面とほぼ同じ高さの平面上を走る。
熊谷駅を出ると、上越新幹線の高架および秩父鉄道としばらく並行する。タイミングが合えば、秩父鉄道のSL列車「SLパレオエクスプレス」を間近で見ることができる。高崎線と秩父鉄道の間に存在する、使われていない線路は東武熊谷線跡である。その後、高崎線は北側にカーブを切って両線から分かれる。田園地帯をしばらく北西に進むと熊谷貨物ターミナル駅を過ぎる。貨物ターミナルでは、本線の下り線のみ、貨物ターミナルをオーバークロスして越えた後、貨物専用線の秩父鉄道三ヶ尻線と並行し、ほどなく三ヶ尻線が分かれていき、分岐した側に回送線が延びて籠原駅に着く。一部の列車は、この駅で高崎寄り5両を増解結する。籠原駅を出ると、高崎車両センター籠原派出所・籠原運輸区が広がり、多くの車両が待機している。しばらく、住宅街と工業地の合間を抜けて唐沢川を渡り深谷駅に着く。深谷市は東京駅に使われたレンガを製造した地で、それにちなみ、現在の深谷駅舎は東京駅をモチーフにしたデザインとなっている。また、全国にその名を知られた深谷ねぎで著名な土地でもあり、深谷・大里地区はねぎ生産高全国第2位の埼玉県きってのねぎ生産地である。
深谷市街地を抜けて、再び畑地の中を進んでしばらく行くと岡部駅に着く。田園地帯の中に埼玉工業大学のキャンパスが建つのを見ることができる。田畑の中を西北西に進み、藤治川、志戸川を渡ると、新岡部変電所を右に過ぎる。さらに進むと小山川、女堀川を次々と渡って宅地に入ると間もなく本庄駅に着く。そして、住宅地に次いで工場地を抜けると神保原駅を過ぎ、田圃の中を走ってイオンタウン上里の横を過ぎると、利根川水系である神流川を渡り群馬県に入る。最初に見えてくるガトーフェスタ・ハラダの工場を右に過ぎ、住宅地に入ると間もなく新町駅に着く。工場地を過ぎて温井川を渡り、宅地と畑地を見ながら進むと南側から八高線が接近し合流する。合流地点には八高線側に北藤岡駅があるが、高崎線にホームはない。その後、すぐに右にカーブを切り烏川を渡ると、今度は左にカーブを切り、高崎東部工業団地を抜けてしばらくすると倉賀野駅に着く。倉賀野駅を出て踏切を渡ると、程なく高崎操車場が見えてくる。その高崎操車場を過ぎ、倉賀野バイパス(国道17号)をくぐり、高崎機関区を過ぎて右に大きくカーブすると程なく高崎駅に着く。
高崎線における運行形態の詳細を以下に記す(2021年3月13日ダイヤ改正時点)。
八高線に乗り入れる列車と朝5時台・夜23時台の籠原駅 - 高崎駅間の1往復を除くすべての定期列車が、大宮駅から東北本線上り方面に乗り入れる。
普通列車・快速列車は、かつてはほとんどが上野駅を発着していたが、国鉄時代末期に貨物線を利用した赤羽駅発着列車が設定され、JR発足後はそれが池袋駅・新宿駅へ延伸されたのち、2001年12月1日には東海道本線の平塚駅・小田原駅と直通する湘南新宿ラインに発展した。2015年3月14日には上野東京ラインが開業し、上野駅から東京駅経由で東海道線との相互直通運転が実現した。現在では、上野駅発着・東京駅発着・品川駅終着を除く籠原駅以南の全列車が、東京駅経由または新宿駅経由で大船駅以西の東海道線に直通している。
また、朝夕は特急列車「あかぎ」が運行されるほか、上野駅 - 群馬県草津方面を結ぶ特急列車「草津・四万」が当線経由で運転されている。
日中時間帯は上り・下りそれぞれ1時間あたり上野東京ラインが3本、湘南新宿ラインが2本(1本は特別快速)設定されている。また、一部列車が高崎駅から先の上越線新前橋駅や両毛線前橋駅と直通する。
東北本線(宇都宮線)に乗り入れる東京駅 - 上野駅 - 赤羽駅間については宇都宮線と合わせて1時間に6本、赤羽駅 - 大宮駅間については同じく1時間に10本運転されている(常磐線直通列車・特急列車を除く)。宇都宮線#運行形態も参照。
快速列車はいずれも熊谷駅以南でのみ通過運転を行い、熊谷駅 - 高崎駅間は各駅に停車する。なお、下り各快速列車は、通過運転を終了する熊谷駅より「普通」列車に種別変更する。
普通列車・快速列車はグリーン車を組み込んだ10両編成または15両編成の近郊形電車で運行されており、E231系・E233系(4ドア車)で運転されている。15両編成での運用は大宮駅 - 籠原駅間のみとなっており、籠原駅 - 高崎駅間では10両編成での運用となる。このため、高崎方面発着の一部の列車は、籠原駅で付属編成5両の連結・切り離しを行う。なお、早朝の深谷駅始発の列車は、15両編成となっている。
特急列車や快速列車の待ち合わせ(通過待ち)などで普通列車が長時間停車する場合については車内温度保持のために、ドア横のボタンを使用する半自動ドア扱いを行う場合もある。2005年までは主に冬期(11月15日 - 翌年3月31日)のみの実施であったが、2006年度からは夏期(7月8日 - 9月30日)にも実施されるようになり、2007年7月1日からは通年化された。籠原駅 - 高崎駅間については2011年6月から全列車・全駅で半自動ドア扱いに統一している。また、上野始発の列車は15:59発まで上野駅では半自動扱いとなる。ただし、2020年からは新型コロナウイルス感染拡大防止の観点により、半自動ドア扱いは取り止めになっていたが、2022年12月1日より扱いを再開した。
首都圏の主な路線では大晦日から元日にかけて終夜運転が実施されているが、かつて高崎線でも実施されていた。2006 - 2007年以降、『終夜臨時列車』が消滅し、終電後の臨時列車(終電後に上下2本増発した後、元日の始発まで空きがあった)となっていたが、2010 - 2011年からは前年までと運転本数は変わらない(上下各2本)ものの、運転時間がシフトし、下り終着時刻が早朝4時台となったため、扱い上は再び「終夜臨時列車」となっている。ただし、本数が少ないことには変わりないため、「運転間隔」は他路線では「約○○分間隔」「約○○〜○○分間隔」になっている中で、高崎線のみが「上野〜籠原間で、下り2本・上り2本運転」と具体的本数が明記されるようになった。2020 - 2021年は例年通りの予定だったが、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、国から要請があり運転が中止された。2021 - 2022年は下り列車2本のみの運行となった。なお、終夜臨時列車でも終電後の臨時列車でも、運行区間は上野駅 - 籠原駅間となっており、籠原駅 - 高崎駅間では運行されていない(ただし、2021 - 2022年は運行時間帯が2019 - 2020年までよりも遅く設定されており、2本目の列車が通常ダイヤの籠原駅始発高崎駅行き列車に待ち時間無く乗り継げるダイヤになっていた)。2022 - 2023年から高崎線では廃止された(宇都宮線や埼京線でも同時に廃止)。
各快速列車などの現行の停車駅は「#駅一覧」節を参照。
上野駅発着(新宿駅着も1本あり)の近距離特急「あかぎ」並びに上野駅から当路線を経由して、上越線・吾妻線沿線を結ぶ特急「草津・四万」が運行されている。2023年3月18日のダイヤ改正で平日に運転されていた特急「スワローあかぎ」が「あかぎ」に愛称を統一、「草津」が「草津・四万」に改称された。
「あかぎ」は通勤利用を、「草津・四万」は草津温泉などを目的地とする観光利用を想定した列車である。この特徴の違いから、運行時間帯と進行方向が重複しないため、車両(E257系)は共通運用であり、朝ラッシュ時(ピーク前後の時間帯)に「あかぎ」の上り列車、データイムの午前中に「草津・四万」の下り列車、午後に「草津・四万」の上り列車、夜に「あかぎ」の下り列車が設定されている。
同じ愛称の列車でも、便毎に停車駅が複数パターンあったが、順次統一が図られ、2018年3月17日のダイヤ改正にて「スワローあかぎ」の停車駅を統一することで、当時の「草津」「あかぎ」「スワローあかぎ」の列車愛称毎の停車駅パターンの整理が完了した。「草津・四万」は高崎線内では新幹線停車駅である大宮・熊谷・高崎のみ(本庄早稲田を除く)停車で最も停車駅が少ない。「あかぎ」が最も停車駅が多く、大宮-熊谷間では特別快速と同一で、快速「アーバン」よりも停車駅が多くなっている。
詳細は、各列車の記事を参照。過去に高崎線で運転されていた列車については「#優等列車の沿革」節を参照。
ここでは、「アーバン」の愛称が付かない快速列車についても解説する。
1989年3月11日の運行開始当初は日中のみ1時間に1本(下り6本、上り7本)で全列車が上野駅発着で熊谷駅 - 前橋駅間でも快速運転(途中停車駅は深谷駅・本庄駅・新町駅・高崎駅・新前橋駅)を行っていた。その後、1992年3月14日の改正で終日にわたって運転されるようになり、池袋駅発着も最大で1日2往復設定された(東北貨物線を経由するため当時貨物線ホームのない浦和駅は通過)。当時、池袋駅発着の日中の1往復は通過駅の籠原駅発着で運転されていたほか、上下数本は北本駅にも停車していた。また、土曜・休日ダイヤの導入に伴い、平日は通勤快速として運転される夜間の列車が土曜・休日ダイヤでは快速「アーバン」として運転されるようになり、そのうちの夜遅い時間帯の列車は通勤快速と同様に熊谷駅 - 前橋駅間は各駅停車で運転された。
1997年10月1日改正で全列車が熊谷駅 - 前橋駅間で各駅停車に統一された。かつて上野駅発着の一部列車と池袋駅発着(土曜・休日の1本除く)が北本駅にも停車していたが、2004年10月16日改正で日中の「アーバン」はすべて湘南新宿ラインの特別快速に置き換えられる形で廃止され、2009年3月14日のダイヤ改正で平日夕方の「アーバン」の運転がなくなった。
2018年3月17日現在では、毎日運行される東京発下り朝8・9時台の2本(平日は共に小田原発、土曜・休日は国府津・小田原発が1本ずつ:東海道線区間は普通列車として運行)と土曜・休日の夕方以降に上りが3本、下りが5本(すべて上野駅発着)が運行されている。2021年3月13日改正では、通勤快速からの置き換えで、快速「アーバン」が増加した。
毎朝運行の下り2本に関しては1本のみ上尾駅で先行の湘南新宿ラインからの普通と接続する。土曜・休日夕方以降の列車に関しては、一部列車を除いて、下りが上尾駅・鴻巣駅のいずれかで、上りは熊谷駅・桶川駅のいずれかで先行の普通列車と接続する。このほか、浦和駅・赤羽駅で宇都宮線からの上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車、終点上野駅で始発の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車もある。
また、1997年9月30日までは、朝ラッシュ時の上りに高崎駅 - 深谷駅間で新町駅・本庄駅のみに停車し、深谷駅から各駅に停車する池袋行きの列車が設定されていた。この列車は、設定当初は「通過駅のある普通列車」という扱いであったが、1994年12月3日のダイヤ改正以降1997年10月1日のダイヤ改正での設定消滅までは快速列車として取り扱われた。
上野東京ラインからの快速アーバン下り列車は、東海道線内は「普通」として運行し(車両外側の行先表示に「高崎線内アーバン」の表示あり)、東京駅にて「快速アーバン」に種別変更する。前述の通り、下りアーバンにおいて、各駅への停車となる熊谷駅以北は「普通」列車に種別変更し、車両外側の行先表示は完全に「普通」に切り替えられて案内されるものの、駅構内及びJR東日本アプリの列車走行位置上では愛称が残ったままとなり、「普通 アーバン」と案内される。なお、ダイヤ乱れ等により快速運転を中止する場合は東京駅 - 大宮駅 - 熊谷駅間でも「普通 アーバン」で案内される。
新宿駅改良工事などの大規模工事で湘南新宿ラインの運行ができない場合、湘南新宿ラインの特別快速を上野駅あるいは大宮駅発着の快速として運転されるが、この列車は北本駅にも停車するため、「アーバン」の愛称はつかない。
停車駅の変遷
東京駅 - 大宮駅間の東北本線列車線(宇都宮線)上にホームのある駅すべてと、高崎線内の各駅に停車する。2015年3月14日の上野東京ライン開業に伴い、多くの列車が上野駅から先、東京駅に乗り入れて東海道線に直通し、小田原駅・熱海駅発着で運行されている(一部は平塚駅や国府津駅止まり)。
日中時間帯は1時間に3本(籠原駅 - 高崎駅間は2本)設定されており、東海道線直通で運行されている。なお、2023年10月末まで日中(早朝)の一部列車は、後寄り1両(1号車)の一部を区切り、新聞輸送に用いられていた。
上りの上野止まりの列車は日中、下りの上野始発は全日の日中、土休日の夕方・夜間に設定がない時間帯がある。朝には品川行き・大船行き、藤沢始発、朝夕には国府津駅発着の区間列車のほか、東海道線JR東海管内沼津行き、伊東線伊東駅発着もある。朝に東京駅始発、深夜に東京駅発着もある。一方高崎側では、一部、高崎駅より先に直通し上越線新前橋駅発着・両毛線前橋駅発着で運行される。また、深谷始発列車が平日朝に上野行きで上り1本、土休日朝に熱海行きで上り1本運転されている。
過去には、深谷止まりが運転されていた。2019年3月のダイヤ改正までは、夜に下り深谷行き(平日は東海道線熱海発・土休日は平塚発で下り1本)が運転されていた。また、籠原発5時半の高崎行きと高崎発23時過ぎの籠原行きの列車がそれぞれ1本設定されている。上野発23時45分過ぎの下り終電は高崎行きで、到着時刻は1時半過ぎ(1時37分)であった。
また、2005年12月10日改正までは大宮駅 - 籠原駅間のみを運転する列車が、2007年3月18日改正までは本庄行きの列車が設定されていたが、いずれも上野駅や高崎駅まで運転区間が延長され消滅した。また、2000年頃までは両毛線の伊勢崎行き、上越線の渋川行きが、2001年頃までは上越線井野駅を通過する普通列車(下り新前橋行き最終)が、2004年10月16日改正までは信越本線の横川駅発着と両毛線の桐生・伊勢崎発の列車も設定されていた。また2015年3月14日改正まで平日朝に1本、鴻巣始発が設定されていた。
毎年恒例の臨時増発列車として、熊谷花火大会の帰宅客輸送のため、普段は設定されない熊谷始発大宮行きが数本運転される(過去は上野行きだった)。
事故・トラブルや、大雨・落雷などでダイヤが大幅に乱れた場合、通常は設定されていない、鴻巣駅・吹上駅・熊谷駅から大宮駅方面及び大宮駅から高崎駅方面への折り返し列車が運転されることがある(状況により、逆方向への折り返しや、4駅以外でも、構造上、折り返し運転不能な北上尾駅・北鴻巣駅・行田駅を除く各駅でも、状況により折り返し運転をすることがある。定期列車以外の行き先表示は大宮駅・鴻巣駅・熊谷駅・深谷駅・本庄駅・岡部駅が表示可能)。また、上り東海道線直通列車がダイヤ乱れで途中から急遽東京行きに変更されることがまれにある(通常は上野行きに変更される)。
湘南新宿ラインは東北貨物線・山手貨物線新宿駅経由で東海道線に直通する列車である。快速と特別快速の2つの種別がある。211系の高崎線からの運用終了に先駆けて、2004年10月16日のダイヤ改正よりE231系のみとなり、2015年3月14日のダイヤ改正からはE231系に加えてE233系でも運行されている。
さいたま新都心駅は貨物線上に旅客ホームがないため全列車大宮操車場構内を通過となる。長年通過していた浦和駅は2013年3月16日から東北貨物線ホーム完成に伴い停車を開始した。
また、横須賀線が停車する西大井駅・新川崎駅・保土ケ谷駅・東戸塚駅などを経由するが、定期列車としてこの4駅に停車する列車は設定されていない。
2004年10月16日改正まではこの前身である東北貨物線経由の池袋駅・新宿駅発着の普通列車(浦和駅・さいたま新都心駅通過)が設定されていた。
2004年10月16日に運行を開始した。日中に1時間に1本運転されている。高崎線内では日中の「アーバン」を湘南新宿ラインへ置き換えた形で運行されており、「アーバン」の停車駅に加えて北本駅にも停車する。山手線内では恵比寿駅を通過、直通先の東海道線内では快速「アクティー」と同じ駅に停車する。日中の湘南新宿ライン快速は籠原駅発着での運転のため、この時間帯の高崎駅発着の湘南新宿ライン系統はこの種別のみとなる。
2001年の湘南新宿ライン開業当初から横須賀線電車と線路を共用する区間では大崎駅 - 戸塚駅間のみ快速運転をし、高崎線内と東海道線戸塚駅 - 平塚駅・国府津駅間は各駅に停車(一部高崎線内快速運転)する快速列車(後述)が運転されており、その上位列車として「特別快速」という種別が設定された。特別快速と入れ替えで、同じく湘南新宿ライン開業当初から運転されていた高崎線内と大崎駅 - 戸塚駅間を快速運転して東海道線のみ各駅に停車する列車が廃止された。
北行の1本目が平塚発である以外は小田原駅 - 新宿駅 - 高崎駅間で運行されているが、以前は祝日や長期休暇を中心に土休日ダイヤで2往復が熱海駅まで延長運転を行う日があった。また、2008年12月 - 2009年1月の土休日・年末年始には臨時列車として国府津行きの特別快速が設定された。
土休日の2本を除き南行(上り)は桶川駅で先行の上野東京ライン方面の普通に接続、北行(下り)は、上尾駅・鴻巣駅・桶川駅で先行の上野東京ラインからの普通に接続する。
2015年時点では籠原以南では全列車15両で運転される。
2022年現在籠原以北、以南に限らず10両または15両で運転される。
2001年12月1日の湘南新宿ライン開業に合わせて運行を開始した。終日運転されている。実際に通過運転を行うのは横須賀線と線路を共用する大崎駅 - 戸塚駅間のみで、高崎線内と戸塚駅 - 平塚駅・国府津駅・小田原駅間の東海道線内は普通として運転されており、当路線区間(北行は大崎駅から)では「普通」と案内される。この種別は日中は籠原駅 - 平塚駅・国府津駅間の運行で1時間に1本が運転される。また日中の籠原行は終点の籠原駅で先行して走っていた上野東京ライン経由高崎行き普通列車と接続を取ることが多い(この列車は東海道線内でも湘南新宿ラインの列車の1本前を先行する)。特別快速の設定がない朝や夕方以降は高崎駅 - 平塚駅・国府津駅・小田原駅間の列車が運転されており、1時間に2 - 3本が運転される。また、朝の南行には両毛線前橋発が設定されているほか、平日朝には深谷発の南行も1本設定されている。2004年10月15日までは高崎線内でも快速運転する快速(高崎線内の停車駅は現在の特別快速と同じ。東海道線内は各駅停車)も存在した。
全列車大宮駅 - 籠原駅間では15両で運転される。
事故・トラブルや、大雨・落雷などでダイヤが大幅に乱れた場合、通常は設定されていない、鴻巣駅・吹上駅・熊谷駅折り返し、宮原駅・大宮駅行きの列車が運転されることがある。
高崎線で、毎年一定時期に定期的に運転される臨時列車として、以下のものが挙げられる。
1984年運行開始の大宮行きの「ホームライナー大宮」を延長する形で1988年7月6日に運行を開始した。運行区間は上野駅 - 鴻巣駅間で、平日夜間に下り鴻巣行きのみ4本運転した。座席定員制であり、乗車にはライナー券が必要で、始発駅である上野駅以外での乗車は不可とされた。グリーン車も連結されていたが、当列車では普通車扱いとなっており、ライナー券のみで着席可能とされていた。
大宮総合車両センター配置(元田町車両センター配置も含む)の185系(7両編成)で運転されたほか、3号は2010年3月12日まではJR西日本金沢総合車両所所属の489系(9両編成)で、2010年3月15日から2012年3月16日にかけては新潟車両センターの485系(6両編成)で運行されていた。速達性よりも着席サービスの提供のための列車であり、全列車とも先行の普通列車を追い抜かない。
2014年3月15日のダイヤ改正で特急「スワローあかぎ」の新設に伴い廃止された。
平日夕方以降に1時間に1本運転されていた快速列車である。土曜・休日は代替として快速「アーバン」が運転される。JR発足後初のダイヤ改正となった1988年3月13日の運転開始時から1990年3月10日までの間は快速「タウン」の名称で運行されていた。快速「アーバン」と異なり、運行開始当初より熊谷駅 - 高崎駅間は各駅停車であった。上野東京ライン開業後も、通勤快速は上野駅発着で運転されていた。
夕方以降のみの運転のため、上り列車では比較的混雑率は低く、下り列車では混雑度はかなり高いが、籠原での増解結を行わずに上野駅 - 籠原駅間でも10両編成(基本編成のみ)で運転し、上野駅 - 浦和駅間で尾久駅を含めた各駅に停車する一方で、利用客の多い上尾駅・桶川駅は通過している。これは、上野駅から高崎方面への所要時間を短縮し、乗客の遠近分離を目的としているためである。ただし、2004年10月16日改正より下りの最後の2本(上野発21・22時台)は上野駅 - 籠原駅間で15両編成に増強し、同時に上尾駅と桶川駅にも停車するようになった。また、上りの最後の1本も籠原駅から先では15両編成で運転されている。上りは高崎19時台発が最終だが、2018年3月17日の改正までは20時台にも1本あり、こちらは普通列車に格下げとなった。
下りの上野発21時台までは鴻巣駅で先行の普通列車に接続しており、上野発18時台・19時台はこれに加えて上尾駅で先行の普通列車を追い抜く。また、上野発22時台は桶川駅で先行の普通列車に接続し、熊谷駅で籠原行きの普通列車から接続を行う。上りは熊谷駅で先行の普通列車に接続する列車があるほか、桶川駅で追い抜く列車もある。このほか、浦和駅・赤羽駅・尾久駅で宇都宮線の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車、終点上野駅で始発の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車もある。
ダイヤが大幅に乱れている場合、発車前または途中で普通列車に変更されることがあるが、駅での表示は変更されず、本来停車しない宮原駅などにおいても「通勤快速」と表示される。
2021年3月13日のダイヤ改正で廃止され、快速「アーバン」に統合された。
当線には首都圏と倉賀野駅および日本海側の諸都市を結ぶ貨物列車も毎日数往復ずつ設定されている。線内の取り扱い駅は熊谷貨物ターミナル駅と倉賀野駅である。コンテナ列車や石油精製品のタンク列車が大半だが、秩父鉄道三ヶ尻線への石炭輸送は2020年を以て廃止となった。鉄道会社への車両輸送でも活用されている。
普通・快速列車用車両は宇都宮線や東海道線と共通で、通称「湘南色」とも呼ばれるオレンジ色と緑色(■■)の帯を巻いた電車が運用されている。
2004年10月16日のダイヤ改正で湘南新宿ラインの全列車に、2006年7月8日のダイヤ改正で上野発着の全列車にそれぞれグリーン車が連結されるようになり、それに伴って東海道線と同様の基本編成10両・付属編成5両を組み合わせた15両編成で運転されるようになった。
E231系及びE233系3000番台は、バリアフリー対応の洋式トイレが設置されている。また、それぞれ小山車両センター・国府津車両センターの2つの車両センターに分散して所属しているが、2015年3月14日以降、高崎線(両毛線直通含む)と東海道線(伊東線直通含む)・宇都宮線(一部除く)及び上野東京ライン(常磐線系統除く)・湘南新宿ラインで車種を問わずに共通運用されており、同じ列車でも日によって車種が異なる場合がある。更に車種・所属車両センター違いの車両を組み合わせての15両編成運用もある。それぞれ担当している所属車両センターは決まっているが、ダイヤが乱れた場合は通常とは異なる車両センターの所属車が充当されることもある。
大宮駅を含む川越線との並行区間は大宮支社、宮原駅 - 高崎駅間は高崎支社の管轄である。支社境界は川越線と分かれた後の大成第六踏切付近(大宮起点3km地点)に設けられている。
2022年度の最混雑区間(宮原→大宮間)の混雑率は122%である。
上越新幹線を除いて競合路線がなく、埼玉県内の路線でも混雑率が高い。2012年度まで混雑率は180%を越えていたが、近年は輸送量の減少により混雑が緩和し、2016年度に170%を下回った。
東京駅(東北本線)からの区間を記載する。
2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計の対象となっている。
1994年頃より、各駅で五感工房製の発車メロディーが導入された。また、一部の駅では、テイチク製の発車メロディーの導入や変更、さらにはご当地にちなんだ発車メロディーへの変更例も多くみられる。
ご当地にちなんだ発車メロディーは以下の駅で導入されている。
いずれの曲も、全番線同じアレンジとなっている。
括弧内は大宮駅からの営業キロ。
以下の新駅建設の話が以前より出ているが、いずれも具体的計画には至っていない。 なお、新駅設置は現在すべてが請願駅であり、100%地元自治体負担でJR東日本は負担しない。新駅設置は各自治体の財政難もあり消極的である。
新町駅付近において、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。2013年に群馬県が公表した、はばたけ群馬・県土整備プラン2013-2022では、2022年度までに事業着手を目指す予定とされ、2019年3月に寄せられた高崎市の意見・提言によると、2020年度までに事業化を目指すとしていた。
しかし、2020年12月に策定された、ぐんま・県土整備プラン2020によると、年代の記載が無くなり着手に向けて検討するとしている。高崎市が開催した、令和2年度第2回高崎市新町地域振興協議会によると、変更した理由は、2019年の台風19号による西毛、吾妻地域を中心とした被害の復旧事業や、今後の気象災害への防災・減災対策を優先せざるを得ないとのことである。
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"text": "高崎線(たかさきせん)は、埼玉県さいたま市大宮区の大宮駅から群馬県高崎市の高崎駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。",
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"text": "運行系統上は、起点の大宮駅から東北本線(宇都宮線)上野駅・東京駅方面に直通運転を行っており、上野駅もしくは東京駅までの間も含めて、運行系統として「高崎線」と案内されることが一般的である。",
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"text": "高崎線は、大宮駅で東北本線(宇都宮線)から分岐し、群馬県内最大のターミナル駅である高崎駅までを結ぶ、東京の近郊路線の一つである。国道17号(中山道)とほぼ並行し、一部区間を除き同じ市町村を経由している。上野駅 - 熊谷駅間は1883年(明治16年)に日本最古の私鉄であった日本鉄道の最初の営業区間として開業した、日本国内の鉄道の中でも古い路線の一つであり、路線としては東北本線の大宮駅以北よりも歴史が古い。路線名は日本鉄道が国有化された後の1909年(明治42年)に定められた。路線名には高崎市や高崎駅の「高崎」を冠し、管轄は大宮駅構内を除きJR東日本高崎支社であるが、経路上の大部分(大宮駅から神保原駅まで)は埼玉県内であり、籠原運輸区および高崎車両センター籠原派出所がある籠原駅を起終点として東京方面へ向かう列車が多く、高崎線の南部では埼玉県と東京間の通勤・通学などの地域輸送に機能が偏重している。",
"title": "概要"
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"text": "全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内などに用いられるラインカラーは、首都圏地区の東海道線や宇都宮線(東北本線中距離列車の路線愛称)と同様、普通列車の車体色の一部であるオレンジ(■)である。",
"title": "概要"
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"text": "現在、全列車が東北本線の大宮駅以南に乗り入れ、うち約7割の列車は東北本線の列車線(宇都宮線)を経由し上野駅、さらにその多くは「上野東京ライン」として東京駅を経由して東海道線の駅を始発・終点とする。また、残りの約3割は「湘南新宿ライン」として、東北貨物線を経由して田端駅付近から山手貨物線の池袋駅・新宿駅・渋谷駅経由で東海道本線に乗り入れており、起点の大宮駅を始発・終着とする列車はなくなっている。一方、終点である高崎駅からは、全体の2割程度が上越線へ乗り入れ、さらに上越線の新前橋駅から両毛線(普通・快速アーバン)、渋川駅から吾妻線(特急のみ)へ直通する列車も存在する。このほか、倉賀野駅 - 高崎駅間には八高線が乗り入れている。",
"title": "概要"
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"text": "管轄の高崎支社は、JR東日本における「首都圏エリア」ではなく、地方支社扱いであるが、前述のような運行形態でほぼ全列車が首都圏エリア内に乗り入れている点や、Suicaの初期導入区間から既に含まれている点、防災訓練の内容など、高崎線は準首都圏エリアのような扱いとなっている。",
"title": "概要"
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"text": "広く公表されていないが、当路線では中間駅各駅にテーマカラーが設定されている。これは同線の駅の多くがJR型配線であるためその識別であると推測できる。テーマカラーはホーム屋根の柱にワンポイントで入り、ベンチもそのテーマカラーと同系色のものが設置されている。",
"title": "概要"
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"text": "2016年3月10日より、大宮駅・上尾駅・熊谷駅・高崎駅を除く全駅で一斉に早朝時間帯始発から6:30までの無人化(インターフォン遠隔案内)と、それに伴うみどりの窓口・指定席券売機の営業時間変更およびエスカレータの運転時間短縮が実施された(行田駅など既に実施済みの駅も他駅に合わせて時間が変更された)。",
"title": "概要"
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"text": "高崎線内に終日無人駅はないものの、前述の主要駅を除く全駅の早朝無人化の実施、業務委託駅の拡大(JR東日本ステーションサービスに委託、2021年3月時点で高崎線内の2/3の12駅および大宮駅・高崎駅の一部業務)など、業務効率化が進んでいる。",
"title": "概要"
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"text": "日本初の私鉄である日本鉄道の第1期線として、1883年(明治16年)に後に東北本線の一部となる区間を含む上野 - 熊谷間で仮営業を開始したのが始まりである。",
"title": "歴史"
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"text": "日本では1872年(明治5年)に初の実用鉄道路線として新橋 - 横浜間を開業し、その優位性が注目されていた。当時の日本は貿易赤字解消の外貨獲得を目的とした殖産興業政策として、生糸や絹織物等の製品の輸出を推進しており、養蚕業と製糸業の盛んな群馬県から、貿易港である横浜港まで運ぶ手段が必要とされていた。また、東京と京阪神間を結ぶ主要鉄道と位置付けられた「中山道鉄道」の第1区を形成する計画でもあった(後に東京 - 京阪神間を結ぶ鉄道の岐阜以東は東海道経由へと変更され、東海道本線計画へ転じた)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "当時の新橋の北には、江戸時代からの市街地が広がっており、また神田から板橋にかけての台地の勾配を避けるため、台地の縁にあり、寛永寺の広大な売却地を利用できる上野をターミナルとした。上野 - 高崎間の路線には、「王子 - 赤羽 - 大宮 - 鴻巣 - 熊谷 - 高崎」という英国人技師ボイル案と、「千住 - 岩槻 - 忍 - 熊谷 - 高崎」というアメリカ人技師クロフォード案の二案があった。当時の鉄道局長官井上勝がボイル案を採用し、現在の経路となった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、政府財政の窮乏のために建設は進まず、民間資金(当時は主に貴族や旧大名など華族の出資)の導入によって鉄道建設を促進するために、株式会社である「日本鉄道」が設立され、国に代わって建設を行い、日本鉄道の最初の路線(第1期線)として、また日本初の「民営鉄道」として、1883年(明治16年)に上野 - 熊谷間が開業した。開業時の開設駅は上野駅、王子駅、浦和駅、上尾駅、鴻巣駅、熊谷駅で、現在は中距離列車の停車しない王子駅も含まれていた一方、現在の起点である大宮駅はまだなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "翌1884年(明治17年)に高崎駅、前橋駅まで延長され、全通した。高崎まで開通した同年6月25日には、明治天皇臨席のもと上野駅で開通式が行われ、この際に明治天皇は上野 - 高崎間を往復乗車した。1885年(明治18年)に第2期線(後の東北本線)の分岐駅として、浦和 - 上尾間に大宮駅が開設された。また、同年には赤羽(王子 - 浦和間)から官営鉄道の品川を結ぶ路線(現在の山手線・埼京線)が開業し、群馬と横浜を結ぶ当初の計画が実現した。",
"title": "歴史"
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"text": "現在も上野駅を列車運行上の起点とし、さらに現在では別路線の両毛線の駅となっている前橋駅への直通列車も設定されているのは、当時の起終着駅に由来するが、開業時の前橋駅は利根川の西岸、現在の新前橋駅付近にあった。この駅は、地元で内藤分停車場あるいは内藤ステーションと呼ばれていた(詳しくは「前橋駅」および「両毛線」の項を参照)。小山から両毛鉄道が西進し、現在の前橋駅まで開業すると同時に、日本鉄道も利根川を渡る線路を敷設して現在の前橋駅まで延伸開業し、旧前橋駅は廃止された(現在の新前橋駅は上越南線との分岐駅として1921年(大正10年)に開業した)。",
"title": "歴史"
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"text": "高崎線は、日本鉄道が上野 - 熊谷間を開業した当時、日本鉄道では第一区線とされ、政府官報では上野熊谷間汽車とされたが、旅客案内上は仲仙道汽車と案内されることもあった。",
"title": "歴史"
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"text": "1894年(明治27年)12月発行の『汽車汽船旅行案内』には、当線を「上野 - 赤羽 - 大宮 - 高崎と経て直江津線に連絡し前橋まで至って両毛線に連絡する線」とし、中仙道線と案内している。",
"title": "歴史"
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"text": "1906年(明治39年)に、日本鉄道が鉄道国有法により買収・国有化され、本路線も官設鉄道に編入された。3年後の1909年(明治42年)10月12日公布の国有鉄道線路名称(明治42年鉄道院告示第54号)により公式に大宮 - 高崎間を「高崎線」と定め、両毛線や日光線、水戸線等と同じく東北本線を幹線とする「東北線の部」に属する一線として位置付けられた。",
"title": "歴史"
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"text": "全国に鉄道網が拡大するなかで、高崎線は首都圏と新潟県や東北地方日本海側および長野県・北陸地方とを結ぶ大動脈に成長し、上越線・信越線の特急・急行列車が高崎線内を多数通過していた。",
"title": "歴史"
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"text": "第二次世界大戦後、高度経済成長期に国鉄の電化が進んだことで、優等列車の電車化が行われ、上越線の「とき」や信越本線の「あさま」に加え、羽越本線系統の「いなほ」や北陸本線系統の「白山」・「はくたか」といった多数の特急列車が運転されており、当線を含めた上野 - 新潟間のルートでは最高速度120km/hでの運転が行われていた。また、これらのほかに比較的運転日の多い季節・臨時特急として、中軽井沢行きの「そよかぜ」、万座・鹿沢口行きの「白根」、スキー臨時列車で石打行きの「新雪」が存在した。",
"title": "歴史"
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"text": "車両も、特急は「こだま形」181系に、碓氷峠越えの189系、北陸へ向かう485系、急行も165系・169系・457系といった車両が投入されて、一時代を築いた。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、1982年(昭和57年)11月15日の上越新幹線開通で、上越線系統の列車群が新幹線へ移る形で廃止され、次いで1997年(平成9年)10月1日の北陸新幹線(高崎駅 - 長野駅間)の先行開業により、信越線系統の広域輸送も新幹線に譲り、新幹線の恩恵を受けにくい吾妻線(「草津」)、両毛線方面(「あかぎ」)等への中距離特急が運転されるのみとなり、このうち、上越線水上への特急(「谷川」、のちの「水上」)は利用者減少により臨時列車化された。",
"title": "歴史"
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"text": "夜行列車については、北陸方面とを結ぶ寝台特急「北陸」、秋田・青森方面とを結ぶ寝台特急「あけぼの」のほか、北陸方面へ運転される臨時急行「能登」が高崎線を経由した。急行「能登」はJRに残った数少ない急行列車であったが、2010年(平成22年)3月13日のダイヤ改正で臨時列車に変更された。同改正では寝台特急「北陸」が廃止され、「あけぼの」も2014年(平成26年)3月15日のダイヤ改正で臨時列車に変更された。",
"title": "歴史"
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"text": "詳細は、以下の各項目を参照。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1932年(昭和7年)に東北本線の大宮以南が電化され、のちの京浜東北線に相当する電車系統が運転開始されていたが、戦後の高度経済成長により、高崎線沿線にも団地が造成され、人口が急増した。1952年(昭和27年)に全線が電化されてから、国鉄は80系や、後に3ドアの115系といった電車を投入して通勤需要に応えた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "しかし、激増する人口に追い付かず、一方で長距離列車の需要も拡大したため、線路容量は限界に達した。その上、国鉄は1960年代から赤字経営が常態化し、新型車の投入を抑え、通勤車両の不足分を急行型165系等の2ドア車両で代替して、混雑が慢性化した。また国鉄は労使関係も悪化を続け、労働組合は列車の運行を労働争議(遵法闘争など)の手段に用いたことから、利用者の不満が爆発し、1973年(昭和48年)の上尾事件や首都圏国電暴動へ至った。この事件の後、国鉄は115系の追加投入を行い、朝夕ラッシュ時は3ドア車両が15両編成で行き交う光景が日常的なものとなったが、線路容量はこれ以上拡張できなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1982年(昭和57年)の上越新幹線開業は、高崎線の線路容量問題を根本的に解決するものであり、1985年(昭和60年)の新幹線上野乗り入れにより、高崎線の特急・急行は大きく削減され、輸送体系は普通列車主体へ大きく変わった。さらに1997年(平成9年)の北陸新幹線長野開業により、日中の長距離列車は全廃され、東京と群馬県を結ぶ少数の特急のみとなり、わずかに残った夜行列車も後に廃止された。",
"title": "歴史"
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"text": "車両も、1980年代末に投入された211系3000番台はオールロングシートで定員を拡大し、2000年代に投入されたE231系からはロングシート主体(一部ボックスシート)かつ4ドアを採用した一方で、211系共々、後に2階建てグリーン車も組み込み、着席需要に応えた。また115系は日中に7両や8両の編成が残っていたが、211系とE231系により「グリーン車付き10両か15両」に統一し、続くE233系も踏襲している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "運用面でも、開業以来、上野発着を主体としてきたものを、国鉄分割民営化後に貨物線を転用することで、副都心の池袋駅・新宿駅へ乗り入れ、都心方面への需要を分散させた。これは2000年代に湘南新宿ラインへ成長し、東海道本線への直通運転を開始する一方、高崎・前橋以北への普通列車の直通は段階的に廃止された。2015年(平成27年)の上野東京ライン開業によって、東海道本線との全面的な直通運転が始まり、高崎線は東京と信越・日本海を繋ぐ路線から、首都圏を縦貫する路線へと大きく変化している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "東北新幹線建設の際、地元住民への見返りとして計画された通勤新線(東北本線のバイパス支線:赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅)は、元々は大宮駅からは北進し宮原駅より高崎線へ乗り入れる計画が立てられていた。そのため、新線は中・長距離列車が通過することを前提に設計され、高崎線内でも大宮駅 - 宮原駅間において、乗り入れの連絡線(複々線)用地の取得が行われた。しかし、新線沿線に設置予定だった車両基地の用地買収が困難となり、急遽、田園地帯を走る川越線を電化し、その沿線に川越電車区(現・川越車両センター)を設置して代替とした。よって、通勤新線は川越線乗り入れの形に変更となり、1985年に埼京線の名で開業した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "その後、高崎線乗り入れの実質的な代替となる貨物線経由による池袋駅・新宿駅乗り入れ(現在の湘南新宿ライン)の運行を開始した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "民営化後もしばらくは、取得した用地が残され、2000年前後にさいたま市との合併協議を行っていた上尾市は、これを利用した埼京線もしくは京浜東北線の上尾駅延伸を合併の見返りとして要求していたが破談した。なお、現在は用地の多くは再転用可能な駐車場のほか、一部は再転用困難な住宅施設にも転用されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日本鉄道時代の新設駅のうち、()内は国有化後の線路名称制定時に他路線(東北本線・両毛線)の所属となった駅",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "大宮を出発すると大宮総合車両センターを挟んだ西側を東北新幹線・上越新幹線・ニューシャトルの高架が並行する。大宮駅構内では東北本線(宇都宮線)が北北東に向けてカーブするのに沿って北向きに進むが、その下り線築堤の下に潜って東北本線線路と分かれると進路を北北西に修正する。なお、湘南新宿ライン等、東北貨物線・武蔵野線大宮支線からの下り直通列車は、はじめ東北本線下り線用の築堤上の東大宮操車場への回送線と共用する線路を進み、途中で分岐して北北西に進路を取り、築堤を下り高崎線本線に合流する。現在は大宮駅が起点の高崎線であるが、東京駅を起点とする本線である東北本線が高崎線から分岐しているかのような線形になっており、これは当初日本鉄道が現在の東北本線大宮駅以南と高崎線に当たる路線を上野駅起点として建設し、第2期線として大宮駅から分岐して現在の東北本線大宮駅以北が建設された歴史を示すものである(その後、(東京 - )上野 - 大宮駅間は東北本線と制定される。「#歴史」節を参照)。間もなく左手より、大宮駅地下ホームの川越線が地上に出てきて、並行しながら、鉄道博物館の東側を通過する。その後、すぐに新幹線・ニューシャトル及び国道17号の高架が高崎線を跨いで東側に緩くカーブしながら離れていく。ちなみに、大宮駅から高架の手前まで湘南新宿ラインなどの下り線路のさらに西側(大宮総合車両センター隣接)にもう一本線路が並行し、下り線路が合流した後もしばらく高崎線が複単線のように見える状態で並行して、高架の手前で川越線に合流している。これは、川越線が埼京線開業前に大宮駅地上11・12番線を使用していた際の旧線路である。現在は高崎線 - 川越線間の連絡線として使用されている。並行する川越線が西側に離れると、左側に再開発された高層住宅街が見え、右側にカーブを切ると宮原駅に到着する。宮原駅を出ると新大宮バイパスをくぐり、その後区画された新興住宅地の中を北西に進んでいき、マンション群の中を進み上尾駅に到着する。上尾駅は、昭和40年代の国鉄労組闘争に対し、主に上尾駅など高崎線利用の通勤労働者が起こした国鉄職員・国鉄設備への暴力・破壊事件、「上尾事件」が発生した駅である。事件の際は、通勤時間帯の上尾駅の通勤客ら高崎線利用客10,000人が暴徒化したと伝えられている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "北上尾駅、桶川駅と新興住宅地の中を進み、市街地が途切れ、宅地の合間に畑地を見ながら北本駅、複合商業施設エルミこうのすが見えてくると鴻巣駅に着く。この辺りから田畑が目立つようになり、野菜生産全国第6位、花卉生産高全国第8位、米生産高全国第17位を誇る(いずれも平成19年の数値)、埼玉県を代表する田園風景が続く。それまで大宮台地の脊梁部を走っていた列車は緩やかに標高を下げていき、利根大堰から導水される武蔵水路を渡って北鴻巣駅を過ぎ、元荒川沿いの低地を北西に進み、緩く西にカーブして民家が増えてくると吹上駅に着く。吹上駅を出ると元荒川を渡って右にカーブを切り、荒川の東側の田畑の中を荒川に沿うように並行して行田駅に着く。行田駅を出ると、蛇行していたかつて元荒川の旧流路を2回渡り久下の田畑地帯を北西に疾走して秩父鉄道、次いで上越新幹線が東側から乗り越し、右側に現れた複合商業施設ニットーモールを通過すると、荒川扇状地の扇端にある熊谷駅に着く。この鴻巣 - 熊谷間は河川等水面とほぼ同じ高さの平面上を走る。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "熊谷駅を出ると、上越新幹線の高架および秩父鉄道としばらく並行する。タイミングが合えば、秩父鉄道のSL列車「SLパレオエクスプレス」を間近で見ることができる。高崎線と秩父鉄道の間に存在する、使われていない線路は東武熊谷線跡である。その後、高崎線は北側にカーブを切って両線から分かれる。田園地帯をしばらく北西に進むと熊谷貨物ターミナル駅を過ぎる。貨物ターミナルでは、本線の下り線のみ、貨物ターミナルをオーバークロスして越えた後、貨物専用線の秩父鉄道三ヶ尻線と並行し、ほどなく三ヶ尻線が分かれていき、分岐した側に回送線が延びて籠原駅に着く。一部の列車は、この駅で高崎寄り5両を増解結する。籠原駅を出ると、高崎車両センター籠原派出所・籠原運輸区が広がり、多くの車両が待機している。しばらく、住宅街と工業地の合間を抜けて唐沢川を渡り深谷駅に着く。深谷市は東京駅に使われたレンガを製造した地で、それにちなみ、現在の深谷駅舎は東京駅をモチーフにしたデザインとなっている。また、全国にその名を知られた深谷ねぎで著名な土地でもあり、深谷・大里地区はねぎ生産高全国第2位の埼玉県きってのねぎ生産地である。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "深谷市街地を抜けて、再び畑地の中を進んでしばらく行くと岡部駅に着く。田園地帯の中に埼玉工業大学のキャンパスが建つのを見ることができる。田畑の中を西北西に進み、藤治川、志戸川を渡ると、新岡部変電所を右に過ぎる。さらに進むと小山川、女堀川を次々と渡って宅地に入ると間もなく本庄駅に着く。そして、住宅地に次いで工場地を抜けると神保原駅を過ぎ、田圃の中を走ってイオンタウン上里の横を過ぎると、利根川水系である神流川を渡り群馬県に入る。最初に見えてくるガトーフェスタ・ハラダの工場を右に過ぎ、住宅地に入ると間もなく新町駅に着く。工場地を過ぎて温井川を渡り、宅地と畑地を見ながら進むと南側から八高線が接近し合流する。合流地点には八高線側に北藤岡駅があるが、高崎線にホームはない。その後、すぐに右にカーブを切り烏川を渡ると、今度は左にカーブを切り、高崎東部工業団地を抜けてしばらくすると倉賀野駅に着く。倉賀野駅を出て踏切を渡ると、程なく高崎操車場が見えてくる。その高崎操車場を過ぎ、倉賀野バイパス(国道17号)をくぐり、高崎機関区を過ぎて右に大きくカーブすると程なく高崎駅に着く。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "高崎線における運行形態の詳細を以下に記す(2021年3月13日ダイヤ改正時点)。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "八高線に乗り入れる列車と朝5時台・夜23時台の籠原駅 - 高崎駅間の1往復を除くすべての定期列車が、大宮駅から東北本線上り方面に乗り入れる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "普通列車・快速列車は、かつてはほとんどが上野駅を発着していたが、国鉄時代末期に貨物線を利用した赤羽駅発着列車が設定され、JR発足後はそれが池袋駅・新宿駅へ延伸されたのち、2001年12月1日には東海道本線の平塚駅・小田原駅と直通する湘南新宿ラインに発展した。2015年3月14日には上野東京ラインが開業し、上野駅から東京駅経由で東海道線との相互直通運転が実現した。現在では、上野駅発着・東京駅発着・品川駅終着を除く籠原駅以南の全列車が、東京駅経由または新宿駅経由で大船駅以西の東海道線に直通している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "また、朝夕は特急列車「あかぎ」が運行されるほか、上野駅 - 群馬県草津方面を結ぶ特急列車「草津・四万」が当線経由で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日中時間帯は上り・下りそれぞれ1時間あたり上野東京ラインが3本、湘南新宿ラインが2本(1本は特別快速)設定されている。また、一部列車が高崎駅から先の上越線新前橋駅や両毛線前橋駅と直通する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "東北本線(宇都宮線)に乗り入れる東京駅 - 上野駅 - 赤羽駅間については宇都宮線と合わせて1時間に6本、赤羽駅 - 大宮駅間については同じく1時間に10本運転されている(常磐線直通列車・特急列車を除く)。宇都宮線#運行形態も参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "快速列車はいずれも熊谷駅以南でのみ通過運転を行い、熊谷駅 - 高崎駅間は各駅に停車する。なお、下り各快速列車は、通過運転を終了する熊谷駅より「普通」列車に種別変更する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "普通列車・快速列車はグリーン車を組み込んだ10両編成または15両編成の近郊形電車で運行されており、E231系・E233系(4ドア車)で運転されている。15両編成での運用は大宮駅 - 籠原駅間のみとなっており、籠原駅 - 高崎駅間では10両編成での運用となる。このため、高崎方面発着の一部の列車は、籠原駅で付属編成5両の連結・切り離しを行う。なお、早朝の深谷駅始発の列車は、15両編成となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "特急列車や快速列車の待ち合わせ(通過待ち)などで普通列車が長時間停車する場合については車内温度保持のために、ドア横のボタンを使用する半自動ドア扱いを行う場合もある。2005年までは主に冬期(11月15日 - 翌年3月31日)のみの実施であったが、2006年度からは夏期(7月8日 - 9月30日)にも実施されるようになり、2007年7月1日からは通年化された。籠原駅 - 高崎駅間については2011年6月から全列車・全駅で半自動ドア扱いに統一している。また、上野始発の列車は15:59発まで上野駅では半自動扱いとなる。ただし、2020年からは新型コロナウイルス感染拡大防止の観点により、半自動ドア扱いは取り止めになっていたが、2022年12月1日より扱いを再開した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "首都圏の主な路線では大晦日から元日にかけて終夜運転が実施されているが、かつて高崎線でも実施されていた。2006 - 2007年以降、『終夜臨時列車』が消滅し、終電後の臨時列車(終電後に上下2本増発した後、元日の始発まで空きがあった)となっていたが、2010 - 2011年からは前年までと運転本数は変わらない(上下各2本)ものの、運転時間がシフトし、下り終着時刻が早朝4時台となったため、扱い上は再び「終夜臨時列車」となっている。ただし、本数が少ないことには変わりないため、「運転間隔」は他路線では「約○○分間隔」「約○○〜○○分間隔」になっている中で、高崎線のみが「上野〜籠原間で、下り2本・上り2本運転」と具体的本数が明記されるようになった。2020 - 2021年は例年通りの予定だったが、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、国から要請があり運転が中止された。2021 - 2022年は下り列車2本のみの運行となった。なお、終夜臨時列車でも終電後の臨時列車でも、運行区間は上野駅 - 籠原駅間となっており、籠原駅 - 高崎駅間では運行されていない(ただし、2021 - 2022年は運行時間帯が2019 - 2020年までよりも遅く設定されており、2本目の列車が通常ダイヤの籠原駅始発高崎駅行き列車に待ち時間無く乗り継げるダイヤになっていた)。2022 - 2023年から高崎線では廃止された(宇都宮線や埼京線でも同時に廃止)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "各快速列車などの現行の停車駅は「#駅一覧」節を参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "上野駅発着(新宿駅着も1本あり)の近距離特急「あかぎ」並びに上野駅から当路線を経由して、上越線・吾妻線沿線を結ぶ特急「草津・四万」が運行されている。2023年3月18日のダイヤ改正で平日に運転されていた特急「スワローあかぎ」が「あかぎ」に愛称を統一、「草津」が「草津・四万」に改称された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "「あかぎ」は通勤利用を、「草津・四万」は草津温泉などを目的地とする観光利用を想定した列車である。この特徴の違いから、運行時間帯と進行方向が重複しないため、車両(E257系)は共通運用であり、朝ラッシュ時(ピーク前後の時間帯)に「あかぎ」の上り列車、データイムの午前中に「草津・四万」の下り列車、午後に「草津・四万」の上り列車、夜に「あかぎ」の下り列車が設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "同じ愛称の列車でも、便毎に停車駅が複数パターンあったが、順次統一が図られ、2018年3月17日のダイヤ改正にて「スワローあかぎ」の停車駅を統一することで、当時の「草津」「あかぎ」「スワローあかぎ」の列車愛称毎の停車駅パターンの整理が完了した。「草津・四万」は高崎線内では新幹線停車駅である大宮・熊谷・高崎のみ(本庄早稲田を除く)停車で最も停車駅が少ない。「あかぎ」が最も停車駅が多く、大宮-熊谷間では特別快速と同一で、快速「アーバン」よりも停車駅が多くなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "詳細は、各列車の記事を参照。過去に高崎線で運転されていた列車については「#優等列車の沿革」節を参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ここでは、「アーバン」の愛称が付かない快速列車についても解説する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1989年3月11日の運行開始当初は日中のみ1時間に1本(下り6本、上り7本)で全列車が上野駅発着で熊谷駅 - 前橋駅間でも快速運転(途中停車駅は深谷駅・本庄駅・新町駅・高崎駅・新前橋駅)を行っていた。その後、1992年3月14日の改正で終日にわたって運転されるようになり、池袋駅発着も最大で1日2往復設定された(東北貨物線を経由するため当時貨物線ホームのない浦和駅は通過)。当時、池袋駅発着の日中の1往復は通過駅の籠原駅発着で運転されていたほか、上下数本は北本駅にも停車していた。また、土曜・休日ダイヤの導入に伴い、平日は通勤快速として運転される夜間の列車が土曜・休日ダイヤでは快速「アーバン」として運転されるようになり、そのうちの夜遅い時間帯の列車は通勤快速と同様に熊谷駅 - 前橋駅間は各駅停車で運転された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1997年10月1日改正で全列車が熊谷駅 - 前橋駅間で各駅停車に統一された。かつて上野駅発着の一部列車と池袋駅発着(土曜・休日の1本除く)が北本駅にも停車していたが、2004年10月16日改正で日中の「アーバン」はすべて湘南新宿ラインの特別快速に置き換えられる形で廃止され、2009年3月14日のダイヤ改正で平日夕方の「アーバン」の運転がなくなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日現在では、毎日運行される東京発下り朝8・9時台の2本(平日は共に小田原発、土曜・休日は国府津・小田原発が1本ずつ:東海道線区間は普通列車として運行)と土曜・休日の夕方以降に上りが3本、下りが5本(すべて上野駅発着)が運行されている。2021年3月13日改正では、通勤快速からの置き換えで、快速「アーバン」が増加した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "毎朝運行の下り2本に関しては1本のみ上尾駅で先行の湘南新宿ラインからの普通と接続する。土曜・休日夕方以降の列車に関しては、一部列車を除いて、下りが上尾駅・鴻巣駅のいずれかで、上りは熊谷駅・桶川駅のいずれかで先行の普通列車と接続する。このほか、浦和駅・赤羽駅で宇都宮線からの上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車、終点上野駅で始発の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "また、1997年9月30日までは、朝ラッシュ時の上りに高崎駅 - 深谷駅間で新町駅・本庄駅のみに停車し、深谷駅から各駅に停車する池袋行きの列車が設定されていた。この列車は、設定当初は「通過駅のある普通列車」という扱いであったが、1994年12月3日のダイヤ改正以降1997年10月1日のダイヤ改正での設定消滅までは快速列車として取り扱われた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "上野東京ラインからの快速アーバン下り列車は、東海道線内は「普通」として運行し(車両外側の行先表示に「高崎線内アーバン」の表示あり)、東京駅にて「快速アーバン」に種別変更する。前述の通り、下りアーバンにおいて、各駅への停車となる熊谷駅以北は「普通」列車に種別変更し、車両外側の行先表示は完全に「普通」に切り替えられて案内されるものの、駅構内及びJR東日本アプリの列車走行位置上では愛称が残ったままとなり、「普通 アーバン」と案内される。なお、ダイヤ乱れ等により快速運転を中止する場合は東京駅 - 大宮駅 - 熊谷駅間でも「普通 アーバン」で案内される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "新宿駅改良工事などの大規模工事で湘南新宿ラインの運行ができない場合、湘南新宿ラインの特別快速を上野駅あるいは大宮駅発着の快速として運転されるが、この列車は北本駅にも停車するため、「アーバン」の愛称はつかない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "停車駅の変遷",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "東京駅 - 大宮駅間の東北本線列車線(宇都宮線)上にホームのある駅すべてと、高崎線内の各駅に停車する。2015年3月14日の上野東京ライン開業に伴い、多くの列車が上野駅から先、東京駅に乗り入れて東海道線に直通し、小田原駅・熱海駅発着で運行されている(一部は平塚駅や国府津駅止まり)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "日中時間帯は1時間に3本(籠原駅 - 高崎駅間は2本)設定されており、東海道線直通で運行されている。なお、2023年10月末まで日中(早朝)の一部列車は、後寄り1両(1号車)の一部を区切り、新聞輸送に用いられていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "上りの上野止まりの列車は日中、下りの上野始発は全日の日中、土休日の夕方・夜間に設定がない時間帯がある。朝には品川行き・大船行き、藤沢始発、朝夕には国府津駅発着の区間列車のほか、東海道線JR東海管内沼津行き、伊東線伊東駅発着もある。朝に東京駅始発、深夜に東京駅発着もある。一方高崎側では、一部、高崎駅より先に直通し上越線新前橋駅発着・両毛線前橋駅発着で運行される。また、深谷始発列車が平日朝に上野行きで上り1本、土休日朝に熱海行きで上り1本運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "過去には、深谷止まりが運転されていた。2019年3月のダイヤ改正までは、夜に下り深谷行き(平日は東海道線熱海発・土休日は平塚発で下り1本)が運転されていた。また、籠原発5時半の高崎行きと高崎発23時過ぎの籠原行きの列車がそれぞれ1本設定されている。上野発23時45分過ぎの下り終電は高崎行きで、到着時刻は1時半過ぎ(1時37分)であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "また、2005年12月10日改正までは大宮駅 - 籠原駅間のみを運転する列車が、2007年3月18日改正までは本庄行きの列車が設定されていたが、いずれも上野駅や高崎駅まで運転区間が延長され消滅した。また、2000年頃までは両毛線の伊勢崎行き、上越線の渋川行きが、2001年頃までは上越線井野駅を通過する普通列車(下り新前橋行き最終)が、2004年10月16日改正までは信越本線の横川駅発着と両毛線の桐生・伊勢崎発の列車も設定されていた。また2015年3月14日改正まで平日朝に1本、鴻巣始発が設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "毎年恒例の臨時増発列車として、熊谷花火大会の帰宅客輸送のため、普段は設定されない熊谷始発大宮行きが数本運転される(過去は上野行きだった)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "事故・トラブルや、大雨・落雷などでダイヤが大幅に乱れた場合、通常は設定されていない、鴻巣駅・吹上駅・熊谷駅から大宮駅方面及び大宮駅から高崎駅方面への折り返し列車が運転されることがある(状況により、逆方向への折り返しや、4駅以外でも、構造上、折り返し運転不能な北上尾駅・北鴻巣駅・行田駅を除く各駅でも、状況により折り返し運転をすることがある。定期列車以外の行き先表示は大宮駅・鴻巣駅・熊谷駅・深谷駅・本庄駅・岡部駅が表示可能)。また、上り東海道線直通列車がダイヤ乱れで途中から急遽東京行きに変更されることがまれにある(通常は上野行きに変更される)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "湘南新宿ラインは東北貨物線・山手貨物線新宿駅経由で東海道線に直通する列車である。快速と特別快速の2つの種別がある。211系の高崎線からの運用終了に先駆けて、2004年10月16日のダイヤ改正よりE231系のみとなり、2015年3月14日のダイヤ改正からはE231系に加えてE233系でも運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "さいたま新都心駅は貨物線上に旅客ホームがないため全列車大宮操車場構内を通過となる。長年通過していた浦和駅は2013年3月16日から東北貨物線ホーム完成に伴い停車を開始した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "また、横須賀線が停車する西大井駅・新川崎駅・保土ケ谷駅・東戸塚駅などを経由するが、定期列車としてこの4駅に停車する列車は設定されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2004年10月16日改正まではこの前身である東北貨物線経由の池袋駅・新宿駅発着の普通列車(浦和駅・さいたま新都心駅通過)が設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2004年10月16日に運行を開始した。日中に1時間に1本運転されている。高崎線内では日中の「アーバン」を湘南新宿ラインへ置き換えた形で運行されており、「アーバン」の停車駅に加えて北本駅にも停車する。山手線内では恵比寿駅を通過、直通先の東海道線内では快速「アクティー」と同じ駅に停車する。日中の湘南新宿ライン快速は籠原駅発着での運転のため、この時間帯の高崎駅発着の湘南新宿ライン系統はこの種別のみとなる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2001年の湘南新宿ライン開業当初から横須賀線電車と線路を共用する区間では大崎駅 - 戸塚駅間のみ快速運転をし、高崎線内と東海道線戸塚駅 - 平塚駅・国府津駅間は各駅に停車(一部高崎線内快速運転)する快速列車(後述)が運転されており、その上位列車として「特別快速」という種別が設定された。特別快速と入れ替えで、同じく湘南新宿ライン開業当初から運転されていた高崎線内と大崎駅 - 戸塚駅間を快速運転して東海道線のみ各駅に停車する列車が廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "北行の1本目が平塚発である以外は小田原駅 - 新宿駅 - 高崎駅間で運行されているが、以前は祝日や長期休暇を中心に土休日ダイヤで2往復が熱海駅まで延長運転を行う日があった。また、2008年12月 - 2009年1月の土休日・年末年始には臨時列車として国府津行きの特別快速が設定された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "土休日の2本を除き南行(上り)は桶川駅で先行の上野東京ライン方面の普通に接続、北行(下り)は、上尾駅・鴻巣駅・桶川駅で先行の上野東京ラインからの普通に接続する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2015年時点では籠原以南では全列車15両で運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2022年現在籠原以北、以南に限らず10両または15両で運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2001年12月1日の湘南新宿ライン開業に合わせて運行を開始した。終日運転されている。実際に通過運転を行うのは横須賀線と線路を共用する大崎駅 - 戸塚駅間のみで、高崎線内と戸塚駅 - 平塚駅・国府津駅・小田原駅間の東海道線内は普通として運転されており、当路線区間(北行は大崎駅から)では「普通」と案内される。この種別は日中は籠原駅 - 平塚駅・国府津駅間の運行で1時間に1本が運転される。また日中の籠原行は終点の籠原駅で先行して走っていた上野東京ライン経由高崎行き普通列車と接続を取ることが多い(この列車は東海道線内でも湘南新宿ラインの列車の1本前を先行する)。特別快速の設定がない朝や夕方以降は高崎駅 - 平塚駅・国府津駅・小田原駅間の列車が運転されており、1時間に2 - 3本が運転される。また、朝の南行には両毛線前橋発が設定されているほか、平日朝には深谷発の南行も1本設定されている。2004年10月15日までは高崎線内でも快速運転する快速(高崎線内の停車駅は現在の特別快速と同じ。東海道線内は各駅停車)も存在した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "全列車大宮駅 - 籠原駅間では15両で運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "事故・トラブルや、大雨・落雷などでダイヤが大幅に乱れた場合、通常は設定されていない、鴻巣駅・吹上駅・熊谷駅折り返し、宮原駅・大宮駅行きの列車が運転されることがある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "高崎線で、毎年一定時期に定期的に運転される臨時列車として、以下のものが挙げられる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1984年運行開始の大宮行きの「ホームライナー大宮」を延長する形で1988年7月6日に運行を開始した。運行区間は上野駅 - 鴻巣駅間で、平日夜間に下り鴻巣行きのみ4本運転した。座席定員制であり、乗車にはライナー券が必要で、始発駅である上野駅以外での乗車は不可とされた。グリーン車も連結されていたが、当列車では普通車扱いとなっており、ライナー券のみで着席可能とされていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "大宮総合車両センター配置(元田町車両センター配置も含む)の185系(7両編成)で運転されたほか、3号は2010年3月12日まではJR西日本金沢総合車両所所属の489系(9両編成)で、2010年3月15日から2012年3月16日にかけては新潟車両センターの485系(6両編成)で運行されていた。速達性よりも着席サービスの提供のための列車であり、全列車とも先行の普通列車を追い抜かない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "2014年3月15日のダイヤ改正で特急「スワローあかぎ」の新設に伴い廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "平日夕方以降に1時間に1本運転されていた快速列車である。土曜・休日は代替として快速「アーバン」が運転される。JR発足後初のダイヤ改正となった1988年3月13日の運転開始時から1990年3月10日までの間は快速「タウン」の名称で運行されていた。快速「アーバン」と異なり、運行開始当初より熊谷駅 - 高崎駅間は各駅停車であった。上野東京ライン開業後も、通勤快速は上野駅発着で運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "夕方以降のみの運転のため、上り列車では比較的混雑率は低く、下り列車では混雑度はかなり高いが、籠原での増解結を行わずに上野駅 - 籠原駅間でも10両編成(基本編成のみ)で運転し、上野駅 - 浦和駅間で尾久駅を含めた各駅に停車する一方で、利用客の多い上尾駅・桶川駅は通過している。これは、上野駅から高崎方面への所要時間を短縮し、乗客の遠近分離を目的としているためである。ただし、2004年10月16日改正より下りの最後の2本(上野発21・22時台)は上野駅 - 籠原駅間で15両編成に増強し、同時に上尾駅と桶川駅にも停車するようになった。また、上りの最後の1本も籠原駅から先では15両編成で運転されている。上りは高崎19時台発が最終だが、2018年3月17日の改正までは20時台にも1本あり、こちらは普通列車に格下げとなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "下りの上野発21時台までは鴻巣駅で先行の普通列車に接続しており、上野発18時台・19時台はこれに加えて上尾駅で先行の普通列車を追い抜く。また、上野発22時台は桶川駅で先行の普通列車に接続し、熊谷駅で籠原行きの普通列車から接続を行う。上りは熊谷駅で先行の普通列車に接続する列車があるほか、桶川駅で追い抜く列車もある。このほか、浦和駅・赤羽駅・尾久駅で宇都宮線の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車、終点上野駅で始発の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ダイヤが大幅に乱れている場合、発車前または途中で普通列車に変更されることがあるが、駅での表示は変更されず、本来停車しない宮原駅などにおいても「通勤快速」と表示される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2021年3月13日のダイヤ改正で廃止され、快速「アーバン」に統合された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "当線には首都圏と倉賀野駅および日本海側の諸都市を結ぶ貨物列車も毎日数往復ずつ設定されている。線内の取り扱い駅は熊谷貨物ターミナル駅と倉賀野駅である。コンテナ列車や石油精製品のタンク列車が大半だが、秩父鉄道三ヶ尻線への石炭輸送は2020年を以て廃止となった。鉄道会社への車両輸送でも活用されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "普通・快速列車用車両は宇都宮線や東海道線と共通で、通称「湘南色」とも呼ばれるオレンジ色と緑色(■■)の帯を巻いた電車が運用されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "2004年10月16日のダイヤ改正で湘南新宿ラインの全列車に、2006年7月8日のダイヤ改正で上野発着の全列車にそれぞれグリーン車が連結されるようになり、それに伴って東海道線と同様の基本編成10両・付属編成5両を組み合わせた15両編成で運転されるようになった。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "E231系及びE233系3000番台は、バリアフリー対応の洋式トイレが設置されている。また、それぞれ小山車両センター・国府津車両センターの2つの車両センターに分散して所属しているが、2015年3月14日以降、高崎線(両毛線直通含む)と東海道線(伊東線直通含む)・宇都宮線(一部除く)及び上野東京ライン(常磐線系統除く)・湘南新宿ラインで車種を問わずに共通運用されており、同じ列車でも日によって車種が異なる場合がある。更に車種・所属車両センター違いの車両を組み合わせての15両編成運用もある。それぞれ担当している所属車両センターは決まっているが、ダイヤが乱れた場合は通常とは異なる車両センターの所属車が充当されることもある。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "大宮駅を含む川越線との並行区間は大宮支社、宮原駅 - 高崎駅間は高崎支社の管轄である。支社境界は川越線と分かれた後の大成第六踏切付近(大宮起点3km地点)に設けられている。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2022年度の最混雑区間(宮原→大宮間)の混雑率は122%である。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "上越新幹線を除いて競合路線がなく、埼玉県内の路線でも混雑率が高い。2012年度まで混雑率は180%を越えていたが、近年は輸送量の減少により混雑が緩和し、2016年度に170%を下回った。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "東京駅(東北本線)からの区間を記載する。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計の対象となっている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "1994年頃より、各駅で五感工房製の発車メロディーが導入された。また、一部の駅では、テイチク製の発車メロディーの導入や変更、さらにはご当地にちなんだ発車メロディーへの変更例も多くみられる。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "ご当地にちなんだ発車メロディーは以下の駅で導入されている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "いずれの曲も、全番線同じアレンジとなっている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "括弧内は大宮駅からの営業キロ。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "以下の新駅建設の話が以前より出ているが、いずれも具体的計画には至っていない。 なお、新駅設置は現在すべてが請願駅であり、100%地元自治体負担でJR東日本は負担しない。新駅設置は各自治体の財政難もあり消極的である。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "新町駅付近において、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。2013年に群馬県が公表した、はばたけ群馬・県土整備プラン2013-2022では、2022年度までに事業着手を目指す予定とされ、2019年3月に寄せられた高崎市の意見・提言によると、2020年度までに事業化を目指すとしていた。",
"title": "連続立体交差事業"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "しかし、2020年12月に策定された、ぐんま・県土整備プラン2020によると、年代の記載が無くなり着手に向けて検討するとしている。高崎市が開催した、令和2年度第2回高崎市新町地域振興協議会によると、変更した理由は、2019年の台風19号による西毛、吾妻地域を中心とした被害の復旧事業や、今後の気象災害への防災・減災対策を優先せざるを得ないとのことである。",
"title": "連続立体交差事業"
}
] |
高崎線(たかさきせん)は、埼玉県さいたま市大宮区の大宮駅から群馬県高崎市の高崎駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。 運行系統上は、起点の大宮駅から東北本線(宇都宮線)上野駅・東京駅方面に直通運転を行っており、上野駅もしくは東京駅までの間も含めて、運行系統として「高崎線」と案内されることが一般的である。
|
{{Otheruses|JR東日本の高崎線|東武鉄道が運営していた高崎線|東武伊香保軌道線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 高崎線
|路線色=#f68b1e
|ロゴ=File:JR JU line symbol.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像= JRE231_1000.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=高崎線を走行するE231系1000番台<br>(2021年3月 [[行田駅]] - [[吹上駅 (埼玉県)|吹上駅]]間)
|通称=[[上野東京ライン]]、[[湘南新宿ライン]]<ref group="注釈">[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]直通列車のみ。</ref>
|国={{JPN}}
|所在地=[[埼玉県]]、[[群馬県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
|終点=[[高崎駅]]
|駅数=19駅
|電報略号 = タカセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref>
|路線記号= JU([[東京駅|東京]] - 大宮間<ref group="注釈">運行系統としての高崎線の路線記号で、[[宇都宮線]]と共通</ref>)
|開業=[[1883年]][[7月28日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)<br>[[日本貨物鉄道]](JR貨物)
|車両基地=
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
|路線距離=74.7 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化区間=全線
|電化方式=電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
|最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=File:JR Takasaki Line linemap.svg
}}
'''高崎線'''(たかさきせん)は、[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]から[[群馬県]][[高崎市]]の[[高崎駅]]までを結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。
運行系統上は、起点の大宮駅から[[東北本線]]([[宇都宮線]])[[上野駅]]・[[東京駅]]方面に[[直通運転]]を行っており、上野駅もしくは東京駅までの間も含めて、運行系統として「高崎線」と案内されることが一般的である<ref>[https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=43&token=&50on= 東日本旅客鉄道公式ホームページ 『高崎線の駅』検索結果]</ref>。
== 概要 ==
高崎線は、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]で[[東北本線]]([[宇都宮線]])から分岐し、[[群馬県]]内最大の[[ターミナル駅]]である[[高崎駅]]までを結ぶ、東京の近郊路線の一つである。[[国道17号]]([[中山道]])とほぼ並行し、一部区間を除き同じ市町村を経由している。上野駅 - 熊谷駅間は[[1883年]]([[明治]]16年)に日本最古の[[私鉄]]であった[[日本鉄道]]の最初の営業区間として開業した、日本国内の鉄道の中でも古い路線の一つであり、路線としては東北本線の大宮駅以北よりも歴史が古い。路線名は日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]された後の[[1909年]](明治42年)に定められた。路線名には高崎市や高崎駅の「高崎」を冠し、管轄は大宮駅構内を除き[[東日本旅客鉄道高崎支社|JR東日本高崎支社]]であるが、経路上の大部分(大宮駅から[[神保原駅]]まで)は[[埼玉県]]内であり、[[籠原運輸区]]および[[高崎車両センター]]籠原派出所がある[[籠原駅]]を起終点として東京方面へ向かう列車が多く、高崎線の南部では埼玉県と東京間の通勤・通学などの地域輸送に機能が偏重している。
全線が[[旅客営業規則]]の定める「[[大都市近郊区間 (JR)|東京近郊区間]]」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内などに用いられるラインカラーは、[[首都圏 (日本)|首都圏]]地区の[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]や宇都宮線(東北本線中距離列車の路線愛称)と同様、普通列車の車体色の一部である'''オレンジ'''({{Color|#f68b1e|■}})である{{Refnest|group=注釈|宇都宮線と明示的に区別する必要がある場合は、宇都宮線が緑色を用い、当路線がラインカラーと同様のオレンジを用いている(詳細は、[[宇都宮線#概要]]を参照)。}}。
現在、全列車が東北本線の大宮駅以南に乗り入れ、うち約7割の列車は東北本線の[[電車線・列車線|列車線]](宇都宮線)を経由し[[上野駅]]、さらにその多くは「[[上野東京ライン]]」として[[東京駅]]を経由して東海道線の駅を始発・終点とする。また、残りの約3割は「[[湘南新宿ライン]]」として、[[東北貨物線]]を経由して[[田端駅]]付近から[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]の[[池袋駅]]・[[新宿駅]]・[[渋谷駅]]経由で東海道本線に乗り入れており、起点の大宮駅を始発・終着とする列車はなくなっている。一方、終点である高崎駅からは、全体の2割程度が[[上越線]]へ乗り入れ、さらに上越線の[[新前橋駅]]から[[両毛線]](普通・快速アーバン)、[[渋川駅]]から[[吾妻線]](特急のみ)へ直通する列車も存在する。このほか、[[倉賀野駅]] - 高崎駅間には[[八高線]]が乗り入れている。
管轄の高崎支社は、JR東日本における「首都圏エリア」ではなく<ref>[https://www.jreast.co.jp/recruit/businessareas/syuto.html 首都圏エリア|事業エリア|JR東日本:採用情報]</ref>、地方支社扱いであるが、前述のような運行形態でほぼ全列車が首都圏エリア内に乗り入れている点や、Suicaの初期導入区間から既に含まれている点<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/index.html 2001年11月18日(日)「Suica(スイカ)」デビュー!]</ref>、防災訓練の内容<!--(後述)-->など、高崎線は準首都圏エリアのような扱いとなっている{{Refnest|group=注釈|ただし、子ども見守りサービス「まもレール」の導入区間に含まれておらず導入見込みもない<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2017/20171207.pdf JR東日本 子ども見守りサービス 『まもレール』のサービス対象を首都圏111駅に拡大します]}} - 東日本旅客鉄道、2017年12月8日</ref>など、首都圏エリア他社管内と差別化されている部分も少なくない。}}。
広く公表されていないが、当路線では中間駅各駅にテーマカラーが設定されている。これは同線の駅の多くがJR型配線であるためその識別であると推測できる。テーマカラーはホーム屋根の柱にワンポイントで入り、ベンチもそのテーマカラーと同系色のものが設置されている<ref>[[川島令三]]著 『中部ライン 全線・全駅・全配線』【第10巻 上越・秩父エリア】、講談社、2011年1月20日、pp.55 - 58</ref><ref>川島令三著 『中部ライン 全線・全駅・全配線』【第12巻 東京都心北部】、講談社、2011年3月20日、pp.45 - 47</ref>。
2016年3月10日より、大宮駅・上尾駅・熊谷駅・高崎駅を除く全駅で一斉に早朝時間帯始発から6:30までの無人化(インターフォン遠隔案内)と、それに伴うみどりの窓口・指定席券売機の営業時間変更<ref>[http://www.jreast.co.jp/takasaki/news/20160201.html 高崎線内の一部の駅におけるインターホン対応等の実施について] - 東日本旅客鉄道高崎支社、2016年2月1日</ref>およびエスカレータの運転時間短縮が実施された(行田駅など既に実施済みの駅も他駅に合わせて時間が変更された)。
高崎線内に終日[[無人駅]]はないものの、前述の主要駅を除く全駅の早朝無人化の実施、[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]の拡大([[JR東日本ステーションサービス]]に委託、2021年3月時点で高崎線内の2/3の12駅および大宮駅・高崎駅の一部業務<ref>[http://www.je-ss.co.jp/pdf/jess_service_area.pdf JR東日本ステーションサービス 事業エリアマップ](2021年3月13日閲覧)</ref>)など、業務効率化が進んでいる。
== 歴史 ==
=== 建設の経緯 ===
{{出典の明記|section=1|date=2008年10月}}
[[ファイル:Fukiage Saitama Nippon Railway Railway-workers 1.jpg|thumb|高崎線を工事した当時の役員と作業員(1883年)]]
日本初の[[私鉄]]である[[日本鉄道]]の第1期線として、[[1883年]]([[明治]]16年)に後に東北本線の一部となる区間を含む上野 - 熊谷間で仮営業を開始したのが始まりである。
日本では[[1872年]](明治5年)に初の実用鉄道路線として[[新橋駅|新橋]] - [[横浜駅|横浜]]間を開業し、その優位性が注目されていた。当時の日本は[[貿易]]赤字解消の[[外貨]]獲得を目的とした[[殖産興業]]政策として、[[生糸]]や[[絹]]織物等の製品の輸出を推進しており、[[養蚕業]]と[[製糸業]]の盛んな[[群馬県]]から、貿易港である[[横浜港]]まで運ぶ手段が必要とされていた。また、[[東京]]と[[京阪神]]間を結ぶ主要鉄道と位置付けられた「[[中山道幹線|中山道鉄道]]」の第1区を形成する計画でもあった(後に東京 - 京阪神間を結ぶ鉄道の[[岐阜市|岐阜]]以東は[[東海道]]経由へと変更され、[[東海道本線]]計画へ転じた)。
当時の新橋の北には、[[江戸時代]]からの市街地が広がっており、また[[神田 (千代田区)|神田]]から[[板橋 (板橋区)|板橋]]にかけての台地の勾配を避けるため、台地の縁にあり、[[寛永寺]]の広大な売却地を利用できる[[上野 (台東区)|上野]]をターミナルとした<ref group='注釈'>新橋と上野が結ばれたのは[[関東大震災]]後の[[1925年]]([[大正]]14年)である。</ref>。上野 - 高崎間の路線には、「王子 - 赤羽 - 大宮 - 鴻巣 - 熊谷 - 高崎」という[[イギリス|英国]]人技師[[リチャード・ボイル (技術者)|ボイル]]案と、「[[千住]] - [[岩槻区|岩槻]] - 忍<ref group="注釈">現[[行田市]]。なお現在の高崎線も行田市域を経由しているが、この地域はかつての忍町ではなく、開業後まもなく成立した[[太井村 (埼玉県)|太井村]]の村域であった。行田市の中心駅は旧忍町内にあった[[秩父鉄道秩父本線|秩父鉄道]]の[[行田市駅]]の方であり、行田市編入後の[[1966年]](昭和41年)に高崎線[[行田駅]]が開業する前までは、行田市駅が「行田」駅を名乗っていた。</ref> - 熊谷 - 高崎」という[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人技師[[ジョセフ・ユリー・クロフォード|クロフォード]]案の二案があった。当時の鉄道局長官[[井上勝]]がボイル案を採用し、現在の経路となった<ref>{{Cite book|author=東京新聞浦和支局 (編)|year=1987|title=埼玉事始―さいたまいちばんものがたり―|publisher=さきたま出版会|pages=214p|isbn=4-87891-033-X}}</ref>。
しかし、政府財政の窮乏のために建設は進まず、民間資金(当時は主に[[貴族]]や旧[[大名]]など[[華族]]の出資)の導入によって鉄道建設を促進するために、[[株式会社]]である「日本鉄道」が設立され、国に代わって建設を行い<ref name="新日本鉄道史下" />、日本鉄道の最初の路線(第1期線)として、また日本初の「民営鉄道」として、1883年(明治16年)に上野 - 熊谷間が開業した。開業時の開設駅は[[上野駅]]、[[王子駅]]、[[浦和駅]]、[[上尾駅]]、[[鴻巣駅]]、[[熊谷駅]]で、現在は中距離列車の停車しない王子駅も含まれていた一方、現在の起点である大宮駅はまだなかった。
翌[[1884年]](明治17年)に高崎駅、[[前橋駅]]まで延長され、全通した。高崎まで開通した同年[[6月25日]]には、[[明治天皇]]臨席のもと上野駅で開通式が行われ、この際に明治天皇は上野 - 高崎間を往復乗車した<ref name="新日本鉄道史下">{{Cite book|和書|author=川上幸義|year=1968|title=新日本鉄道史|volume=〔下〕|publisher=鉄道図書刊行会}}</ref>。[[1885年]](明治18年)に第2期線(後の[[東北本線]])の分岐駅として、浦和 - 上尾間に[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]が開設された。また、同年には[[赤羽駅|赤羽]](王子 - 浦和間)から官営鉄道の品川を結ぶ路線(現在の[[山手線]]・[[埼京線]])が開業し、群馬と横浜を結ぶ当初の計画が実現した。
現在も上野駅を列車運行上の起点とし、さらに現在では別路線の[[両毛線]]の駅となっている前橋駅への直通列車も設定されているのは、当時の起終着駅に由来するが、開業時の前橋駅は[[利根川]]の西岸、現在の[[新前橋駅]]付近にあった。この駅は、地元で内藤分停車場あるいは内藤ステーションと呼ばれていた(詳しくは「[[前橋駅]]」および「[[両毛線]]」の項を参照)。[[小山駅|小山]]から[[両毛鉄道]]が西進し、現在の前橋駅まで開業すると同時に、日本鉄道も利根川を渡る線路を敷設して現在の前橋駅まで延伸開業し、旧前橋駅は廃止された(現在の新前橋駅は[[上越線|上越南線]]との分岐駅として[[1921年]](大正10年)に開業した)。
=== 路線名の変遷 ===
高崎線は、[[日本鉄道]]が上野 - 熊谷間を開業した当時、日本鉄道では'''第一区線'''とされ<ref name="teishajo">『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 I』1998年(JTB発行)</ref>、政府[[官報]]では'''上野熊谷間汽車'''とされたが、旅客案内上は'''仲仙道汽車'''と案内されることもあった<ref name="JTB-tetsudo-shi">[[原口隆行]]著、[[宮脇俊三]]編 『時刻表でたどる鉄道史』1998年(JTB発行)</ref>。
[[1894年]](明治27年)12月発行の『汽車汽船旅行案内』には、当線を「上野 - 赤羽 - 大宮 - 高崎と経て直江津線に連絡し前橋まで至って両毛線に連絡する線」とし、'''中仙道線'''と案内している<ref>明治27年12月発行『汽車汽船旅行案内』</ref>。
[[1906年]](明治39年)に、日本鉄道が[[鉄道国有法]]により買収・国有化され、本路線も官設鉄道に編入された。3年後の[[1909年]](明治42年)[[10月12日]]公布の'''国有鉄道線路名称'''(明治42年鉄道院告示第54号)により公式に大宮 - 高崎間を「'''高崎線'''」と定め、両毛線や[[日光線]]、[[水戸線]]等と同じく東北本線を[[幹線]]とする「東北線の部」に属する一線として位置付けられた<ref name="teishajo" /><ref name="JTB-tetsudo-shi" />。
=== 優等列車の沿革 ===
全国に鉄道網が拡大するなかで、高崎線は[[首都圏 (日本)|首都圏]]と[[新潟県]]や[[東北地方]][[日本海]]側および[[長野県]]・[[北陸地方]]とを結ぶ大動脈に成長し、上越線・[[信越本線|信越線]]の特急・急行列車が高崎線内を多数通過していた。
[[第二次世界大戦]]後、[[高度経済成長]]期に[[日本国有鉄道|国鉄]]の[[鉄道の電化|電化]]が進んだことで、優等列車の[[電車]]化が行われ、[[上越線]]の「[[とき (列車)|とき]]」や[[信越本線]]の「[[あさま]]」に加え、[[羽越本線]]系統の「[[いなほ (列車)|いなほ]]」や[[北陸本線]]系統の「[[あさま|白山]]」・「[[はくたか#国鉄時代|はくたか]]」といった多数の[[特別急行列車|特急列車]]が運転されており、当線を含めた上野 - 新潟間のルートでは最高速度120km/hでの運転が行われていた。また、これらのほかに比較的運転日の多い季節・臨時特急として、中軽井沢行きの「[[あさま#特急「あさま」の設定後|そよかぜ]]」、万座・鹿沢口行きの「[[草津・四万#吾妻線優等列車沿革|白根]]」、スキー臨時列車で石打行きの「[[水上 (列車)#沿革|新雪]]」が存在した。
車両も、特急は「こだま形」[[国鉄181系電車|181系]]に、[[碓氷峠]]越えの[[国鉄189系電車|189系]]、北陸へ向かう[[国鉄485系電車|485系]]、急行も[[国鉄165系電車|165系]]・[[国鉄169系電車|169系]]・[[国鉄457系電車|457系]]といった車両が投入されて、一時代を築いた。
しかし、[[1982年]]([[昭和]]57年)[[11月15日]]の[[上越新幹線]]開通で、上越線系統の列車群が新幹線へ移る形で廃止され、次いで[[1997年]]([[平成]]9年)[[10月1日]]の[[北陸新幹線]](高崎駅 - 長野駅間)の先行開業により、信越線系統の広域輸送も新幹線に譲り、新幹線の恩恵を受けにくい[[吾妻線]](「[[草津・四万|草津]]」)、[[両毛線]]方面(「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」)等への中距離特急が運転されるのみとなり、このうち、上越線水上への特急(「谷川」、のちの「[[水上 (列車)|水上]]」)は利用者減少により臨時列車化された。
[[夜行列車]]については、北陸方面とを結ぶ寝台特急「[[北陸 (列車)|北陸]]」、[[秋田駅|秋田]]・[[青森駅|青森]]方面とを結ぶ寝台特急「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」<ref group="注釈">「あけぼの」は、もともと東北本線・[[奥羽本線]]経由で運行されていたが、奥羽本線の[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]共用化に伴う[[標準軌]]化で同線を経由できなくなり、代替経路として高崎線・上越線・羽越本線経由で運行されていた。</ref>のほか、北陸方面へ運転される臨時急行「[[能登 (列車)|能登]]」が高崎線を経由した。急行「能登」はJRに残った数少ない急行列車であったが、[[2010年]](平成22年)[[3月13日]]のダイヤ改正で臨時列車に変更された。同改正では寝台特急「北陸」が廃止され、「あけぼの」も[[2014年]](平成26年)[[3月15日]]のダイヤ改正で臨時列車に変更された<ref name="kahoku20131102">[http://www.kahoku.co.jp/news/2013/11/20131102t75005.htm 寝台特急「あけぼの」廃止へ JR東、本年度限り] - [[河北新報]]、2013年11月2日。</ref>。
詳細は、以下の各項目を参照。
* 上越線方面 - [[とき (列車)]]・[[水上 (列車)]]
* 信越本線方面 - [[あさま]]
* 吾妻線方面 - [[草津・四万]]
* そのほか近距離輸送列車 - [[あかぎ (列車)]]
* 東北方面夜行列車 - [[あけぼの (列車)]]
* 北陸方面夜行列車 - [[北陸 (列車)]](長野経由は「[[能登 (列車)]]」
=== 通勤路線化 ===
[[1932年]](昭和7年)に東北本線の大宮以南が電化され、のちの[[京浜東北線]]に相当する電車系統が運転開始されていたが、[[戦後]]の高度経済成長により、高崎線沿線にも[[団地]]が造成され、人口が急増した。[[1952年]](昭和27年)に全線が電化されてから、国鉄は[[国鉄80系電車|80系]]や、後に3ドアの[[国鉄115系電車|115系]]といった[[電車]]を投入して通勤需要に応えた。
しかし、激増する人口に追い付かず、一方で長距離列車の需要も拡大したため、線路容量は限界に達した。その上、国鉄は1960年代から赤字経営が常態化し、新型車の投入を抑え、通勤車両の不足分を急行型165系等の2ドア車両で代替して、混雑が慢性化した。また国鉄は労使関係も悪化を続け、[[労働組合]]は列車の運行を[[労働争議]](遵法闘争など)の手段に用いたことから、利用者の不満が爆発し、[[1973年]](昭和48年)の[[上尾事件]]や[[首都圏国電暴動]]へ至った。この事件の後、国鉄は115系の追加投入を行い、朝夕ラッシュ時は3ドア車両が15両編成で行き交う光景が日常的なものとなったが、線路容量はこれ以上拡張できなかった。
[[1982年]](昭和57年)の[[上越新幹線]]開業は、高崎線の線路容量問題を根本的に解決するものであり、[[1985年]](昭和60年)の新幹線上野乗り入れにより、高崎線の特急・急行は大きく削減され、輸送体系は普通列車主体へ大きく変わった。さらに[[1997年]]([[平成]]9年)の[[北陸新幹線]][[長野駅|長野]]開業により、日中の長距離列車は全廃され、東京と[[群馬県]]を結ぶ少数の特急のみとなり、わずかに残った夜行列車も後に廃止された。
車両も、1980年代末に投入された[[国鉄211系電車|211系3000番台]]はオールロングシートで定員を拡大し、2000年代に投入された[[JR東日本E231系電車|E231系]]からはロングシート主体(一部ボックスシート)かつ4ドアを採用した一方で、211系共々、後に2階建て[[グリーン車]]も組み込み、着席需要に応えた。また115系は日中に7両や8両の編成が残っていたが、211系とE231系により「グリーン車付き10両か15両」に統一し、続く[[JR東日本E233系電車|E233系]]も踏襲している。
運用面でも、開業以来、上野発着を主体としてきたものを、[[国鉄分割民営化]]後に貨物線を転用することで、副都心の[[池袋駅]]・[[新宿駅]]へ乗り入れ、都心方面への需要を分散させた。これは2000年代に[[湘南新宿ライン]]へ成長し、[[東海道本線]]への直通運転を開始する一方、高崎・前橋以北への普通列車の直通は段階的に廃止された。[[2015年]](平成27年)の[[上野東京ライン]]開業によって、東海道本線との全面的な直通運転が始まり、高崎線は東京と信越・日本海を繋ぐ路線から、首都圏を縦貫する路線へと大きく変化している。
=== 通勤新線乗り入れ計画 ===
[[東北新幹線]]建設の際、地元住民への見返りとして計画された通勤新線(東北本線の[[バイパス]]支線:[[赤羽駅]] - [[武蔵浦和駅]] - 大宮駅)は、元々は大宮駅からは北進し宮原駅より高崎線へ乗り入れる計画が立てられていた。そのため、新線は中・長距離列車が通過することを前提に設計され、高崎線内でも大宮駅 - 宮原駅間において、乗り入れの連絡線([[複々線]])用地の取得が行われた。しかし、新線沿線に設置予定だった車両基地の用地買収が困難となり、急遽、田園地帯を走る[[川越線]]を電化し、その沿線に川越電車区(現・[[川越車両センター]])を設置して代替とした。よって、通勤新線は川越線乗り入れの形に変更となり、1985年に[[埼京線]]の名で開業した。
その後、高崎線乗り入れの実質的な代替となる貨物線経由による池袋駅・新宿駅乗り入れ(現在の湘南新宿ライン)の運行を開始した。
民営化後もしばらくは、取得した用地が残され、[[2000年]]前後に[[さいたま市]]との合併協議を行っていた[[上尾市]]は、これを利用した埼京線もしくは[[京浜東北線]]の上尾駅延伸を合併の見返りとして要求していたが破談した。なお、現在は用地の多くは再転用可能な駐車場のほか、一部は再転用困難な住宅施設にも転用されている。
=== 年表 ===
日本鉄道時代の新設駅のうち、()内は国有化後の線路名称制定時に他路線(東北本線・両毛線)の所属となった駅
* [[1883年]]([[明治]]16年)
**[[7月28日]] 【開業】日本鉄道 上野 - 熊谷 【駅新設】(上野・王子・浦和・)上尾・鴻巣・熊谷
** [[10月21日]] 【延伸開業】熊谷 - 本庄 【駅新設】深谷・本庄
** [[12月27日]] 【延伸開業】本庄 - 新町 【駅新設】新町
* [[1884年]](明治17年)
** [[5月1日]] 【延伸開業】新町 - 高崎 【駅新設】高崎
** [[8月20日]] 【延伸開業・全通】高崎 - 前橋 【駅新設】(前橋)
* [[1885年]](明治18年)
**[[3月1日]] 【駅新設】(赤羽・)桶川・吹上
** [[3月16日]] 【駅新設】大宮
* [[1889年]]11月 [[両毛鉄道]]、前橋まで開業。両毛鉄道に接続するため、前橋駅を移設
* [[1894年]](明治27年)5月1日 【駅新設】倉賀野
* [[1897年]](明治30年)[[11月15日]] 【駅新設】神保原
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]] 【買収・国有化】日本鉄道 → '''官設鉄道'''
* [[1908年]](明治41年)5月1日 【信号所新設】加茂宮
* [[1909年]](明治42年)
** [[10月12日]] 【[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定】'''高崎線''' 大宮 - 高崎(この区間を分離。上野 - 大宮間は東北本線、高崎 - 前橋間は両毛線に編入)
** [[12月16日]] 【駅新設】籠原・岡部
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[8月16日]] 【信号所新設】本宿
* [[1922年]](大正11年)[[4月1日]] 【信号所 → 信号場】加茂宮・本宿
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** [[8月9日]] 【複線化】加茂宮(信) - 上尾
** [[10月15日]] 【複線化】上尾 - 桶川
** [[11月20日]] 【複線化】大宮 - 加茂宮(信)
* [[1928年]](昭和3年)
** [[2月1日]] 【複線化】桶川 - 本宿(信)
** [[3月30日]] 【複線化】鴻巣 - 吹上
** 5月1日 【複線化】倉賀野 - 高崎 <ref name="toukei-s3" />
** [[6月1日]] 【複線化】本宿(信) - 鴻巣 <ref name="toukei-s3" />
** [[7月1日]] 【複線化】吹上 - 熊谷 <ref name="toukei-s3">[{{NDLDC|1022009/109}} 鉄道省『鉄道統計資料』昭和3年 第2編] 184頁(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** [[8月1日]] 【信号所 → 駅・改称】本宿 → 北本宿
** [[12月26日]] 【複線化】深谷 - 岡部 <ref name="toukei-s3" />
* [[1929年]](昭和4年)
** 5月1日 【複線化】熊谷 - 籠原
** [[7月10日]] 【複線化】籠原 - 深谷
** [[8月6日]] 【複線化】本庄 - 神保原
* [[1930年]](昭和5年)
** [[5月16日]] 【複線化】神保原 - 新町
** [[6月12日]] 【複線化】岡部 - 本庄
** 10月15日 【仮信号所新設】小野(八高北線の分岐点)
** [[10月16日]] 【複線化】新町 - 倉賀野
* [[1931年]](昭和6年)7月1日 【仮信号所 → 信号場】小野
* [[1943年]](昭和18年)[[10月1日]] 【操車場新設】高崎
* [[1947年]](昭和22年)
** [[1月22日]] 【信号場廃止】加茂宮
** 4月1日 【電化】高崎(操) - 高崎( - 水上)
** 9月15日 [[カスリーン台風]]による豪雨で各地に被害。北本宿 - 鴻巣間で土砂崩れ、吹上 - 熊谷間で冠水、深谷 - 岡部間でなどの被害<ref>鉄道各線に大被害『朝日新聞』昭和22年(1947年)9月17日、4版、1面</ref>。
* [[1948年]](昭和23年)[[7月15日]] 【駅新設】宮原(旧加茂宮信号場の位置)
* [[1952年]](昭和27年)4月1日 【電化】大宮 - 高崎(操)
* [[1961年]](昭和36年)
** [[2月21日]] 【信号場廃止】小野(八高線[[北藤岡駅]]構内に併合)
** [[3月20日]] 【駅名改称】北本宿 → 北本
* [[1966年]](昭和41年)7月1日 【駅新設】行田
* [[1973年]](昭和48年)3月13日 朝のラッシュ時間帯に[[国鉄労働組合]](国労)などの[[労働組合]]員による遵法闘争で大幅に乱れたダイヤに怒った利用客が暴動を起こし、上尾駅を始め桶川駅・北本駅・鴻巣駅・熊谷駅などで車両や駅設備等を破壊([[上尾事件]])。翌月の[[首都圏国電暴動]]とあわせて輸送改善のきっかけとなる。
* [[1979年]](昭和54年)10月1日 【駅新設】(貨)熊谷貨物ターミナル
* [[1982年]](昭和57年)11月15日 [[上越新幹線]]開業
* [[1984年]](昭和59年)[[11月3日]] 【駅新設】北鴻巣
* [[1987年]](昭和62年)4月1日 【承継】東日本旅客鉄道(第1種)・日本貨物鉄道(第2種)
* [[1988年]](昭和63年)[[12月17日]] 【駅新設】北上尾
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[10月3日]]:大宮 - 宮原間に[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]を導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)10月1日 [[北陸新幹線]] 高崎 - 長野先行開業。在来線特急「あさま」・「白山」廃止
* [[2001年]](平成13年)
** 9月1日 [[JR東日本E231系電車|E231系]]電車が高崎線で営業運転開始。
** 11月30日 [[国鉄115系電車|115系]]電車がこの日で運用を終了。
** 12月1日 [[湘南新宿ライン]]として一部列車が新宿駅経由で[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]へ[[直通運転]]開始。
* [[2004年]](平成16年)
** 6月1日 高崎運転所を高崎車両センターへ改組。
** 12月19日 大宮 - 神保原間に[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS) 導入<ref group="注釈">2014年11月から、ATOS導入区間で放送案内の更新が実施されている。</ref>。
* [[2005年]](平成17年)12月10日 新前橋電車区検修部門を高崎車両センターと統合。乗務員区を高崎運輸区・新前橋運輸区に改組。
* [[2012年]](平成24年)9月1日 211系電車の置き換えを目的に、[[JR東日本E233系電車|E233系]]電車が営業運転開始。
* [[2014年]](平成26年)[[3月14日]] 寝台特急[[あけぼの (列車)|あけぼの]]がこの日発車、翌日到着分をもって定期運用から引退した。また、211系もこの日限りで運用を終了した。
* [[2015年]](平成27年)3月14日 東京 - 上野駅間の東北本線の列車線が復活し、上野駅発着列車の多くが[[上野東京ライン]]として東京駅経由で東海道線へ直通運転開始。
* [[2016年]](平成28年)[[3月15日]] 午前3時55分ごろ、[[籠原駅]]構内で漏電による火災が発生した。また、それによる信号装置の焼損により、3月17日までの間、[[熊谷駅|熊谷]] - [[岡部駅|岡部]]間で終日運転を見合わせ、それ以外の区間では本数を減らして運行し、東海道線との直通運転は中止となった。
* 2017年度末 深谷駅・岡部駅・本庄駅へ15両編成列車の乗り入れを可能にし、輸送障害時に籠原駅での連結・切り離し作業を省略する対応を開始(定期列車の本庄駅までの15両編成列車乗り入れ設定有無の言及なし)<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20170301.pdf 会社発足30周年を迎えるにあたって]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース2017年3月7日、同日閲覧</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[3月13日]]:ダイヤ改正により通勤快速を廃止<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20201218_o01.pdf|title=2021年3月ダイヤ改正について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道株式会社大宮支社|date=2020-12-18|accessdate=2020-12-18}}</ref>。
== 沿線概況 ==
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#f68b1e}}
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|}
{{Main2|東京駅 - 大宮駅間|宇都宮線#東京 - 大宮}}
=== 大宮 - 熊谷 ===
大宮を出発すると[[大宮総合車両センター]]を挟んだ西側を[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[埼玉新都市交通伊奈線|ニューシャトル]]の高架が並行する。大宮駅構内では[[東北本線]]([[宇都宮線]])が北北東に向けてカーブするのに沿って北向きに進むが、その下り線築堤の下に潜って東北本線線路と分かれると進路を北北西に修正する。なお、湘南新宿ライン等、東北貨物線・武蔵野線大宮支線からの下り直通列車は、はじめ東北本線下り線用の築堤上の東大宮操車場への回送線と共用する線路を進み、途中で分岐して北北西に進路を取り、築堤を下り高崎線本線に合流する。現在は大宮駅が起点の高崎線であるが、東京駅を起点とする本線である東北本線が高崎線から分岐しているかのような線形になっており、これは当初[[日本鉄道]]が現在の東北本線大宮駅以南と高崎線に当たる路線を上野駅起点として建設し、第2期線として大宮駅から分岐して現在の東北本線大宮駅以北が建設された歴史を示すものである(その後、(東京 - )上野 - 大宮駅間は東北本線と制定される。「[[#歴史]]」節を参照)。間もなく左手より、大宮駅地下ホームの[[川越線]]が地上に出てきて、並行しながら、[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]の東側を通過する。その後、すぐに新幹線・ニューシャトル及び[[国道17号]]の高架が高崎線を跨いで東側に緩くカーブしながら離れていく。ちなみに、大宮駅から高架の手前まで湘南新宿ラインなどの下り線路のさらに西側(大宮総合車両センター隣接)にもう一本線路が並行し、下り線路が合流した後もしばらく高崎線が複単線のように見える状態で並行して、高架の手前で川越線に合流している。これは、川越線が埼京線開業前に大宮駅地上11・12番線を使用していた際の旧線路である。現在は高崎線 - 川越線間の連絡線として使用されている。並行する川越線が西側に離れると、左側に[[都市再開発|再開発]]された高層住宅街が見え、右側にカーブを切ると[[宮原駅]]に到着する。宮原駅を出ると[[新大宮バイパス]]をくぐり、その後区画された新興住宅地の中を北西に進んでいき、マンション群の中を進み[[上尾駅]]に到着する。上尾駅は、昭和40年代の国鉄労組闘争に対し、主に上尾駅など高崎線利用の通勤労働者が起こした国鉄職員・国鉄設備への暴力・破壊事件、「[[上尾事件]]」が発生した駅である。事件の際は、通勤時間帯の上尾駅の通勤客ら高崎線利用客10,000人が暴徒化したと伝えられている。
[[北上尾駅]]、[[桶川駅]]と新興住宅地の中を進み、市街地が途切れ、宅地の合間に畑地を見ながら[[北本駅]]、複合商業施設[[エルミこうのす]]が見えてくると[[鴻巣駅]]に着く。この辺りから田畑が目立つようになり、[[野菜]]生産全国第6位、[[草花|花卉]]生産高全国第8位、[[米]]生産高全国第17位を誇る(いずれも平成19年の数値)、埼玉県を代表する田園風景が続く。それまで[[大宮台地]]の脊梁部を走っていた列車は緩やかに標高を下げていき、[[利根大堰]]から導水される[[武蔵水路]]を渡って[[北鴻巣駅]]を過ぎ、[[元荒川]]沿いの低地を北西に進み、緩く西にカーブして民家が増えてくると[[吹上駅 (埼玉県)|吹上駅]]に着く。吹上駅を出ると元荒川を渡って右にカーブを切り、[[荒川 (関東)|荒川]]の東側の田畑の中を荒川に沿うように並行して[[行田駅]]に着く。行田駅を出ると、蛇行していたかつて元荒川の旧流路<ref group="注釈">現在は排水路として利用。現在の元荒川は直線化された。</ref>を2回渡り<!--https://www.google.co.jp/maps?hl=ja&q&lr&ie=UTF8&ll=36.114256,139.42682&spn=0.002739,0.004286&z=18--%3E%E3%80%81%5B%5B%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%B8%82]]-->久下の田畑地帯を北西に疾走して[[秩父鉄道秩父本線|秩父鉄道]]、次いで上越新幹線が東側から乗り越し、右側に現れた複合商業施設[[ニットーモール]]を通過すると、[[荒川扇状地]]の扇端にある[[熊谷駅]]に着く。この鴻巣 - 熊谷間は河川等水面とほぼ同じ高さの平面上を走る。
=== 熊谷 - 高崎 ===
熊谷駅を出ると、上越新幹線の高架および秩父鉄道としばらく並行する。タイミングが合えば、秩父鉄道の[[蒸気機関車|SL]]列車「[[SLパレオエクスプレス]]」を間近で見ることができる。高崎線と秩父鉄道の間に存在する、使われていない線路は[[東武熊谷線]]跡である。その後、高崎線は北側にカーブを切って両線から分かれる。田園地帯をしばらく北西に進むと[[熊谷貨物ターミナル駅]]を過ぎる。貨物ターミナルでは、本線の下り線のみ、貨物ターミナルをオーバークロスして越えた後、貨物[[専用鉄道|専用線]]の[[秩父鉄道三ヶ尻線]]と並行し、ほどなく三ヶ尻線が分かれていき、分岐した側に回送線が延びて[[籠原駅]]に着く。一部の列車は、この駅で高崎寄り5両を[[増解結]]する。籠原駅を出ると、[[高崎車両センター]]籠原派出所・籠原運輸区が広がり、多くの車両が待機している。しばらく、住宅街と工業地の合間を抜けて[[唐沢川 (埼玉県)|唐沢川]]を渡り[[深谷駅]]に着く。[[深谷市]]は[[東京駅]]に使われた[[煉瓦|レンガ]]を製造した地で、それにちなみ、現在の深谷駅舎は東京駅をモチーフにしたデザインとなっている。また、全国にその名を知られた[[深谷ねぎ]]で著名な土地でもあり、深谷・大里地区は[[ネギ|ねぎ]]生産高全国第2位の埼玉県きってのねぎ生産地である。
深谷市街地を抜けて、再び畑地の中を進んでしばらく行くと[[岡部駅]]に着く。田園地帯の中に[[埼玉工業大学]]の[[キャンパス]]が建つのを見ることができる。田畑の中を西北西に進み、[[藤治川]]、[[志戸川]]を渡ると、新岡部[[変電所]]を右に過ぎる。さらに進むと[[小山川]]、女堀川を次々と渡って宅地に入ると間もなく[[本庄駅]]に着く。そして、住宅地に次いで工場地を抜けると[[神保原駅]]を過ぎ、田圃の中を走って[[イオンタウン上里]]の横を過ぎると、[[利根川]]水系である[[神流川 (利根川水系)|神流川]]を渡り[[群馬県]]に入る。最初に見えてくる[[ガトーフェスタ・ハラダ]]の工場を右に過ぎ、住宅地に入ると間もなく[[新町駅]]に着く。工場地を過ぎて温井川を渡り、宅地と畑地を見ながら進むと南側から[[八高線]]が接近し合流する。合流地点には八高線側に[[北藤岡駅]]があるが、高崎線にホームはない<ref group="注釈">ただし、[[鶴見線]][[武蔵白石駅]]と同じで高崎線側も場内信号機、出発信号機があるため、高崎線乗務員の乗務用時刻表の駅名欄に記載されている。</ref>。その後、すぐに右にカーブを切り[[烏川 (利根川水系)|烏川]]を渡ると、今度は左にカーブを切り、高崎東部工業団地を抜けてしばらくすると[[倉賀野駅]]に着く。倉賀野駅を出て[[踏切]]を渡ると、程なく[[高崎操車場]]が見えてくる。その高崎操車場を過ぎ、[[倉賀野バイパス]](国道17号)をくぐり、[[高崎機関区]]を過ぎて右に大きくカーブすると程なく[[高崎駅]]に着く。
== 運行形態 ==
[[ファイル:JRE_TokyoArea_SuburbanLines_fromTakasaki.svg|thumb|300px|right|運転系統図]]
高崎線における運行形態の詳細を以下に記す([[2021年]][[3月13日]]ダイヤ改正時点)<ref>『JTB時刻表』2021年3月号、JTBパブリッシング。</ref>。
[[八高線]]に乗り入れる列車と朝5時台・夜23時台の籠原駅 - 高崎駅間の1往復を除くすべての定期列車が、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]から[[東北本線]]上り方面に乗り入れる。
[[普通列車]]・[[快速列車]]は、かつてはほとんどが[[上野駅]]を発着していたが、国鉄時代末期に貨物線を利用した[[赤羽駅]]発着列車が設定され、JR発足後はそれが[[池袋駅]]・[[新宿駅]]へ延伸されたのち、2001年12月1日には[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]の[[平塚駅]]・[[小田原駅]]と直通する[[湘南新宿ライン]]に発展した。[[2015年]][[3月14日]]には[[上野東京ライン]]が開業し、上野駅から東京駅経由で東海道線との相互直通運転が実現した<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20080318.pdf JR東日本:プレスリリース:宇都宮・高崎・常磐線の東京駅乗り入れ工事の着手について]}}、2008年3月26日</ref><ref name="2012toushi">[http://www.jreast.co.jp/press/2012/20120407.pdf 2012年度設備投資計画について] - 2012年4月12日、JR東日本プレスリリース</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131205.pdf 東北縦貫線の開業時期、愛称について]}} - 東日本旅客鉄道、2013年12月9日</ref>。現在では、上野駅発着・東京駅発着・品川駅終着を除く籠原駅以南の全列車が、東京駅経由または新宿駅経由で大船駅以西の東海道線に直通している。
また、朝夕は[[特別急行列車|特急列車]]「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」が運行されるほか、上野駅 - [[群馬県]]草津方面を結ぶ特急列車「[[草津・四万]]」が当線経由で運転されている。
日中時間帯は上り・下りそれぞれ1時間あたり上野東京ラインが3本、湘南新宿ラインが2本(1本は特別快速)設定されている。また、一部列車が高崎駅から先の[[上越線]]新前橋駅や[[両毛線]][[前橋駅]]と直通する。
東北本線(宇都宮線)に乗り入れる東京駅 - 上野駅 - 赤羽駅間については宇都宮線と合わせて1時間に6本、赤羽駅 - 大宮駅間については同じく1時間に10本運転されている(常磐線直通列車・特急列車を除く)。[[宇都宮線#運行形態]]も参照。
快速列車はいずれも[[熊谷駅]]以南でのみ通過運転を行い、熊谷駅 - 高崎駅間は各駅に停車する。なお、下り各快速列車は、通過運転を終了する熊谷駅より「普通」列車に種別変更する。
普通列車・快速列車はグリーン車を組み込んだ10両編成または15両編成の近郊形電車で運行されており、[[JR東日本E231系電車|E231系]]・[[JR東日本E233系電車|E233系]](4ドア車)で運転されている。15両編成での運用は大宮駅 - 籠原駅間のみ<ref group="注釈">ただし、ダイヤの乱れた時は籠原駅 - 本庄駅間も15両編成で運行されることもある。</ref>となっており、籠原駅 - 高崎駅間では10両編成での運用となる<ref group="注釈">このため、[[群馬県]]は関東地方では唯一、在来線で15両編成の列車の運行が行われていない都道府県となっている(新幹線は12両編成)。</ref>。このため、高崎方面発着の一部の列車は、籠原駅で付属編成5両の[[増解結|連結・切り離し]]を行う<ref group="注釈">特急列車がかつては14両で運行されていた関係で、籠原駅(全列車通過)より先の特急停車駅の新町駅・高崎駅・新前橋駅のホーム有効長は14両分となっている。深谷駅1番線・本庄駅もかつては14両分であったが、2018年4月より15両対応となった。</ref>。なお、早朝の深谷駅始発の列車は、15両編成となっている。
特急列車や快速列車の待ち合わせ(通過待ち)などで普通列車が長時間停車する場合については車内温度保持のために、ドア横のボタンを使用する[[半自動ドア]]扱いを行う場合もある。2005年までは主に冬期(11月15日 - 翌年3月31日)のみの実施であったが、2006年度からは夏期(7月8日 - 9月30日)にも実施されるようになり、[[2007年]][[7月1日]]からは通年化された。籠原駅 - 高崎駅間については2011年6月から全列車・全駅で半自動ドア扱いに統一している。また、上野始発の列車は15:59発まで上野駅では半自動扱いとなる。ただし、2020年からは[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]防止の観点により、半自動ドア扱いは取り止めになっていたが、2022年12月1日より扱いを再開した。
首都圏の主な路線では[[大晦日]]から[[元日]]にかけて[[終夜運転]]が実施されているが、かつて高崎線でも実施されていた。2006 - 2007年以降、『終夜臨時列車』が消滅し、終電後の臨時列車(終電後に上下2本増発した後、元日の始発まで空きがあった)となっていたが、2010 - 2011年からは前年までと運転本数は変わらない(上下各2本)ものの、運転時間がシフトし、下り終着時刻が早朝4時台となったため、扱い上は再び「終夜臨時列車」となっている。ただし、本数が少ないことには変わりないため、「運転間隔」は他路線では「約○○分間隔」「約○○〜○○分間隔」になっている中で、高崎線のみが「上野〜籠原間で、下り2本・上り2本運転」と具体的本数が明記されるようになった<ref>[https://web.archive.org/web/20101206072119/http://www.jreast.co.jp/hatsumode/kanto/index.html JR東日本:2010-2011 大晦日から元旦にかけての終夜臨時列車・初詣列車のご案内] - 東日本旅客鉄道(2010年12月6日時点のアーカイブ)</ref><ref group="注釈">後に発車時間の記載に変更。また、後に高崎線に加え、[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]および[[成田線]]も同様の形態になっている。</ref>。2020 - 2021年は例年通りの予定だったが、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]拡大防止のため、国から要請があり運転が中止された。2021 - 2022年は下り列車2本のみの運行となった<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20211213_to01.pdf 大晦日終夜運転のお知らせ]}}(東日本旅客鉄道東京支社、2021年12月13日)</ref>。なお、終夜臨時列車でも終電後の臨時列車でも、運行区間は上野駅 - 籠原駅間となっており、籠原駅 - 高崎駅間では運行されていない(ただし、2021 - 2022年は運行時間帯が2019 - 2020年までよりも遅く設定されており、2本目の列車が通常ダイヤの籠原駅始発高崎駅行き列車に待ち時間無く乗り継げるダイヤになっていた)。2022 - 2023年から高崎線では廃止された(宇都宮線や埼京線でも同時に廃止)。
各快速列車などの現行の停車駅は「[[#駅一覧]]」節を参照。
=== 特急列車 ===
[[上野駅]]発着(新宿駅着も1本あり)の近距離特急「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」並びに上野駅から当路線を経由して、[[上越線]]・[[吾妻線]]沿線を結ぶ特急「[[草津・四万]]」が運行されている。2023年3月18日のダイヤ改正で平日に運転されていた特急「スワローあかぎ」が「あかぎ」に愛称を統一、「草津」が「草津・四万」に改称された。
「あかぎ」は通勤利用を、「草津・四万」は[[草津温泉]]などを目的地とする観光利用を想定した列車である。この特徴の違いから、運行時間帯と進行方向が重複しないため、車両([[JR東日本E257系電車|E257系]])は共通運用であり、朝ラッシュ時(ピーク前後の時間帯)に「あかぎ」の上り列車、データイムの午前中に「草津・四万」の下り列車、午後に「草津・四万」の上り列車、夜に「あかぎ」の下り列車が設定されている。
同じ愛称の列車でも、便毎に停車駅が複数パターンあったが、順次統一が図られ、2018年3月17日のダイヤ改正にて「スワローあかぎ」の停車駅を統一することで、当時の「草津」「あかぎ」「スワローあかぎ」の列車愛称毎の停車駅パターンの整理が完了した。「草津・四万」は高崎線内では新幹線停車駅である大宮・熊谷・高崎のみ(本庄早稲田を除く)停車で最も停車駅が少ない。「あかぎ」が最も停車駅が多く、大宮-熊谷間では特別快速と同一で、快速「アーバン」よりも停車駅が多くなっている。
詳細は、各列車の記事を参照。過去に高崎線で運転されていた列車については「[[#優等列車の沿革]]」節を参照。
=== 上野東京ライン及び上野駅発着普通・快速列車 ===
{{See also|上野東京ライン}}
==== 快速「アーバン」 ====
{{出典の明記|section=1|date=2011年10月}}
[[File:Tohoku Jukan-sen Jpn.svg|right|200px]]
[[ファイル:Rapid-Urban-houkoumaku1.jpg|thumb|200px|right|「快速アーバン 上野行」の側面方向幕(211系)]]
ここでは、「アーバン」の愛称が付かない快速列車についても解説する。
[[1989年]][[3月11日]]の運行開始当初は日中のみ1時間に1本(下り6本、上り7本)で全列車が上野駅発着で熊谷駅 - 前橋駅間でも快速運転(途中停車駅は深谷駅・本庄駅・新町駅・高崎駅・新前橋駅)を行っていた。その後、1992年3月14日の改正で終日にわたって運転されるようになり、池袋駅発着も最大で1日2往復設定された(東北貨物線を経由するため当時貨物線ホームのない浦和駅は通過)。当時、池袋駅発着の日中の1往復は通過駅の籠原駅発着で運転されていたほか、上下数本は北本駅にも停車していた。また、土曜・休日ダイヤの導入に伴い、平日は通勤快速として運転される夜間の列車が土曜・休日ダイヤでは快速「アーバン」として運転されるようになり、そのうちの夜遅い時間帯の列車は通勤快速と同様に熊谷駅 - 前橋駅間は各駅停車で運転された<ref group="注釈">ただし、日中と同様に前橋駅まで快速運転を行う快速も存在したほか、高崎駅 - 前橋駅間で各駅停車になる快速(井野駅停車)も存在した。</ref>。
[[1997年]]10月1日改正で全列車が熊谷駅 - 前橋駅間で各駅停車に統一された。かつて上野駅発着の一部列車と池袋駅発着(土曜・休日の1本除く)が北本駅にも停車していたが、[[2004年]]10月16日改正で日中の「アーバン」はすべて[[湘南新宿ライン]]の[[特別快速]]に置き換えられる形で廃止され、2009年3月14日のダイヤ改正で平日夕方の「アーバン」の運転がなくなった。
2018年3月17日現在では、毎日運行される東京発下り朝8・9時台の2本(平日は共に小田原発<ref group="注釈">2018年3月16日まではそれぞれ二宮・小田原発</ref>、土曜・休日は国府津・小田原発が1本ずつ:東海道線区間は普通列車として運行)と土曜・休日の夕方以降に上りが3本、下りが5本(すべて上野駅発着)が運行されている。2021年3月13日改正では、通勤快速からの置き換えで、快速「アーバン」が増加した。
毎朝運行の下り2本に関しては1本のみ上尾駅で先行の湘南新宿ラインからの普通と接続する。土曜・休日夕方以降の列車に関しては、一部列車を除いて、下りが[[上尾駅]]・[[鴻巣駅]]のいずれかで、上りは[[熊谷駅]]・[[桶川駅]]のいずれかで先行の普通列車と接続する。このほか、浦和駅・赤羽駅で宇都宮線からの上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車、終点上野駅で始発の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車もある。
また、1997年9月30日までは、朝ラッシュ時の上りに高崎駅 - 深谷駅間で新町駅・本庄駅のみに停車し、深谷駅から各駅に停車する池袋行きの列車が設定されていた。この列車は、設定当初は「通過駅のある普通列車」という扱いであったが、1994年12月3日のダイヤ改正以降1997年10月1日のダイヤ改正での設定消滅までは快速列車として取り扱われた。
上野東京ラインからの快速アーバン下り列車は、東海道線内は「普通」として運行し(車両外側の行先表示に「高崎線内アーバン」の表示あり)、東京駅にて「快速アーバン」に種別変更する。前述の通り、下りアーバンにおいて、各駅への停車となる熊谷駅以北は「普通」列車に種別変更し、車両外側の行先表示は完全に「普通」に切り替えられて案内されるものの、駅構内及びJR東日本アプリの列車走行位置上では愛称が残ったままとなり、「普通 アーバン」と案内される。なお、ダイヤ乱れ等により快速運転を中止する場合は東京駅 - 大宮駅 - 熊谷駅間でも「普通 アーバン」で案内される。
新宿駅改良工事などの大規模工事で湘南新宿ラインの運行ができない場合、湘南新宿ラインの特別快速を上野駅あるいは大宮駅発着の快速として運転されるが、この列車は北本駅にも停車するため、「アーバン」の愛称はつかない。
'''停車駅の変遷'''
*1989年(平成元年)3月11日
**(上野駅 - 赤羽駅 - 浦和駅 - )大宮駅 - 上尾駅 - 桶川駅 - 鴻巣駅 - 熊谷駅 - 深谷駅 - 本庄駅 - 新町駅 - 高崎駅 - 新前橋駅 - 前橋駅
*1992年(平成4年)3月14日
**北本駅が一部列車の停車駅となる。
* 1994年(平成6年)12月3日頃
** 土休日に通勤快速の代替として運転する一部を除く快速に限り、熊谷駅(一部は高崎駅) - 前橋駅間で各駅停車となる。
*1997年(平成9年)10月1日
**全列車が熊谷駅 - 前橋駅間で各駅停車となる。
*2004年(平成16年)10月16日
**湘南新宿ライン特別快速の運転開始に伴い日中の快速「アーバン」が全て廃止となり、池袋駅発着が全廃される。これに伴い北本駅への停車が特別快速のみとなり、快速「アーバン」の停車駅から外れる。また、上越線の高崎問屋町駅が開業し停車駅となる。
* 2015年(平成27年)3月14日
** 上野東京ライン開業により、東海道線からの直通列車が設定される。
* 2021年(令和3年)3月13日<ref group="注釈">事実上2日後の15日より</ref>
** 平日夜間の通勤快速を置き換える。
==== 普通 ====
東京駅 - 大宮駅間の東北本線列車線(宇都宮線)上にホームのある駅すべてと、高崎線内の各駅に停車する。2015年3月14日の上野東京ライン開業に伴い、多くの列車が上野駅から先、東京駅に乗り入れて東海道線に直通し、[[小田原駅]]・[[熱海駅]]発着で運行されている(一部は[[平塚駅]]や[[国府津駅]]止まり<!--昼間もある-->)。
日中時間帯は1時間に3本(籠原駅 - 高崎駅間は2本)設定されており、東海道線直通で運行されている。なお、2023年10月末まで日中(早朝)の一部列車は、後寄り1両(1号車)の一部を区切り、[[荷物列車|新聞輸送]]に用いられていた。
上りの上野止まりの列車は日中<ref group="注釈">籠原駅を9時台に発車する1本を除く。</ref>、下りの上野始発は全日の日中、土休日の夕方・夜間に設定がない時間帯がある。朝には[[品川駅|品川]]行き・[[大船駅|大船]]行き<ref group="注釈">品川行きは平日3本、休日4本。大船行きは平日朝1のみ。2017年10月14日のダイヤ改正により、同16日より運行開始。</ref>、[[藤沢駅|藤沢]]始発<ref group="注釈">2021年5月現在 平日朝 藤沢駅 8:11発 上野駅行きのみ</ref>、朝夕には国府津駅発着の区間列車のほか、[[東海道線 (静岡地区)|東海道線JR東海管内]][[沼津駅|沼津]]行き<ref group="注釈">沼津発高崎線直通の設定は無し。</ref>、[[伊東線]][[伊東駅]]発着もある。朝に東京駅始発、深夜に東京駅発着もある。一方高崎側では、一部、高崎駅より先に直通し[[上越線]]新前橋駅発着・[[両毛線]]前橋駅発着で運行される。また、[[深谷駅|深谷]]始発列車が平日朝に上野行きで上り1本、土休日朝に熱海行きで上り1本運転されている<!--平日の深谷始発の湘南新宿ライン小田原行きは後の節で言及-->。
過去には、深谷止まりが運転されていた。2019年3月のダイヤ改正までは、夜に下り深谷行き(平日は東海道線熱海発<ref group="注釈">熱海発列車の15両編成での運転距離は高崎線 - 東海道線直通系統では上野東京ライン・湘南新宿ラインを通じて最長。2018年4月より、深谷駅(1番線) - 岡部駅 - 本庄駅間のプラットホームが15両対応となったが、同駅間を15両編成のまま運行する定期列車は存在しない。</ref>・土休日は平塚発で下り1本)が運転されていた。また、籠原発5時半の高崎行きと高崎発23時過ぎの籠原行きの列車がそれぞれ1本設定されている。上野発23時45分過ぎの下り終電は高崎行きで、到着時刻は1時半過ぎ(1時37分)であった<ref group="注釈">2021年3月のダイヤ改正で上野発23時45分過ぎの下り終電は高崎行きから籠原止まり(0:59着)に短縮された。また、高崎駅への終電は上野23:25発となり、終点の高崎着は、1:14 となっている。</ref>。
また、2005年12月10日改正までは大宮駅 - 籠原駅間のみを運転する列車<ref group="注釈" name="大宮駅・池袋駅・新宿駅発着" />が、2007年3月18日改正までは本庄行きの列車が設定されていたが、いずれも上野駅や高崎駅まで運転区間が延長され消滅した。また、2000年頃までは両毛線の[[伊勢崎駅|伊勢崎]]行き、上越線の[[渋川駅|渋川]]行きが<ref group="注釈">『JTB時刻表』2000年3月号では上野発伊勢崎行き、渋川行きとも記載されているが、同2002年12月号では上野発伊勢崎行き823Mは横川行きに、渋川行き899Mは籠原行きに運転区間が変更され、両駅行きともなくなっている。</ref>、2001年頃までは上越線[[井野駅 (群馬県)|井野駅]]を通過する普通列車(下り新前橋行き最終)が<ref group="注釈">『JTB時刻表』2001年4月号では下り新前橋行き最終普通列車985Mは井野駅通過、同2002年12月号では同駅停車となっている。</ref>、2004年10月16日改正までは[[信越本線]]の[[横川駅 (群馬県)|横川駅]]発着と両毛線の[[桐生駅|桐生]]・伊勢崎発の列車も設定されていた。また2015年3月14日改正まで平日朝に1本、鴻巣始発が設定されていた。
毎年恒例の臨時増発列車として、[[熊谷花火大会]]の帰宅客輸送のため、普段は設定されない熊谷始発大宮行きが数本運転される(過去は{{いつ|date=2016年12月10日 (土) 04:59 (UTC)}}上野行きだった)。
事故・トラブルや、大雨・落雷などでダイヤが大幅に乱れた場合、通常は設定されていない、鴻巣駅・吹上駅・熊谷駅から大宮駅方面及び大宮駅から高崎駅方面への折り返し列車が運転されることがある(状況により、逆方向への折り返しや、4駅以外でも、構造上、折り返し運転不能な北上尾駅・北鴻巣駅・行田駅を除く各駅でも、状況により折り返し運転をすることがある。定期列車以外の行き先表示は大宮駅・鴻巣駅・熊谷駅・深谷駅・本庄駅・岡部駅が表示可能)。また、上り東海道線直通列車がダイヤ乱れで途中から急遽東京行きに変更されることがまれにある(通常は上野行きに変更される)。
=== 湘南新宿ライン ===
{{Main|湘南新宿ライン}}
湘南新宿ラインは[[東北貨物線]]・[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]][[新宿駅]]経由で[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]に直通する列車である。快速と特別快速の2つの種別がある。211系の高崎線からの運用終了に先駆けて、2004年10月16日のダイヤ改正より[[JR東日本E231系電車|E231系]]のみとなり、2015年3月14日のダイヤ改正からはE231系に加えて[[JR東日本E233系電車|E233系]]でも運行されている。
[[さいたま新都心駅]]は貨物線上に旅客ホームがないため全列車大宮操車場構内を通過となる。長年通過していた[[浦和駅]]は2013年3月16日から東北貨物線ホーム完成に伴い停車を開始した。
また、[[横須賀線]]が停車する[[西大井駅]]・[[新川崎駅]]・[[保土ケ谷駅]]・[[東戸塚駅]]などを経由するが、定期列車としてこの4駅に停車する列車は設定されていない。<!--この4駅へは、大宮駅 - 横浜駅間のいずれかの停車駅で、後続の宇都宮線からの湘南新宿ラインに、または、武蔵小杉・横浜のいずれかの駅で、[[横須賀・総武快速線|総武快速線・東京駅からの横須賀線]]に乗り換える必要がある。上野東京ラインに乗車の上、品川駅または横浜駅で横須賀線に乗り換える方法もある。-->
2004年10月16日改正まではこの前身である東北貨物線経由の池袋駅・新宿駅発着の普通列車<ref group="注釈" name="大宮駅・池袋駅・新宿駅発着" >ただし、現在でもダイヤが乱れた場合には一部区間を運休にする形で大宮・池袋・新宿発着の列車が運行される場合がある。</ref>(浦和駅・さいたま新都心駅通過)が設定されていた。
==== 特別快速 ====
2004年10月16日に運行を開始した。日中に1時間に1本運転されている。高崎線内では日中の「アーバン」を湘南新宿ラインへ置き換えた形で運行されており、「アーバン」の停車駅に加えて北本駅にも停車する。山手線内では[[恵比寿駅]]を通過、直通先の東海道線内では快速「アクティー」と同じ駅に停車する。日中の湘南新宿ライン快速は籠原駅発着での運転のため、この時間帯の高崎駅発着の湘南新宿ライン系統はこの種別のみとなる。
2001年の湘南新宿ライン開業当初から[[横須賀線]]電車と線路を共用する区間では[[大崎駅]] - [[戸塚駅]]間のみ快速運転をし、高崎線内と東海道線戸塚駅 - 平塚駅・国府津駅間は各駅に停車(一部高崎線内快速運転)する快速列車(後述)が運転されており、その上位列車として「'''特別快速'''」という種別が設定された。特別快速と入れ替えで、同じく湘南新宿ライン開業当初から運転されていた高崎線内と大崎駅 - 戸塚駅間を快速運転して東海道線のみ各駅に停車する列車が廃止された。
北行の1本目が[[平塚駅|平塚]]発である以外は[[小田原駅]] - [[新宿駅]] - 高崎駅間で運行されているが、以前は祝日や長期休暇を中心に土休日ダイヤで2往復が[[熱海駅]]まで延長運転を行う日があった。また、2008年12月 - 2009年1月の土休日・年末年始には臨時列車として[[国府津駅|国府津]]行きの特別快速が設定された。
土休日の2本を除き南行(上り)は桶川駅で先行の上野東京ライン方面の普通に接続、北行(下り)は、上尾駅・鴻巣駅・桶川駅で先行の上野東京ラインからの普通に接続する。
[[2015年]]時点では籠原以南では全列車15両で運転される<ref name="15両">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/takasaki/news/docs/20141219_2.pdf 2015年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道高崎支社ニュースリリース 2014年12月19日</ref>。
[[2022年]]現在籠原以北、以南に限らず10両または15両で運転される。
==== 快速 ====
[[2001年]]12月1日の湘南新宿ライン開業に合わせて運行を開始した。終日運転されている。実際に通過運転を行うのは横須賀線と線路を共用する大崎駅 - 戸塚駅間のみで、高崎線内と戸塚駅 - 平塚駅・国府津駅・小田原駅間の東海道線内は普通として運転されており、当路線区間(北行は大崎駅から)では「普通」と案内される。この種別は日中は籠原駅 - 平塚駅・国府津駅間の運行で1時間に1本が運転される。また日中の籠原行は終点の籠原駅で先行して走っていた上野東京ライン経由高崎行き普通列車と接続を取ることが多い(この列車は東海道線内でも湘南新宿ラインの列車の1本前を先行する)。特別快速の設定がない朝や夕方以降は高崎駅 - 平塚駅・国府津駅・小田原駅間の列車が運転されており、1時間に2 - 3本が運転される。また、朝の南行には[[両毛線]]前橋発が設定されているほか、平日朝には深谷発の南行も1本設定されている。2004年10月15日までは高崎線内でも快速運転する快速(高崎線内の停車駅は現在の特別快速と同じ。東海道線内は各駅停車)も存在した。
全列車大宮駅 - 籠原駅間では15両で運転される<ref group="注釈"> 平日朝の深谷発は全区間で15両で運転。</ref><ref name="15両" />。
事故・トラブルや、大雨・落雷などでダイヤが大幅に乱れた場合、通常は設定されていない、鴻巣駅・吹上駅・熊谷駅折り返し、宮原駅・大宮駅行きの列車が運転されることがある。
=== 臨時旅客列車 ===
高崎線で、毎年一定時期に定期的に運転される[[臨時列車]]として、以下のものが挙げられる。
* [[水上_(列車)|水上]](定期から臨時に格下げされた特急列車。定期列車時代は草津との[[多層建て列車|2階建列車]]で新前橋駅にて分割併合していたが現在は単独)
* [[谷川岳山開き]](谷川岳の山開きに合わせて運転、JRグループ最後の座席車による夜行列車)
* [[シーハイル上越]](スキーヤー・スノーボーダー向け)
* [[一村一山|谷川岳もぐら・谷川岳ループ・一村一山]](谷川岳の登山客向け)
* [[北越急行ほくほく線|ほくほく]]十日町雪祭り号(毎年2月に[[新潟県]][[十日町市]]で行われる「十日町雪まつり」向けの特急)
* 碓氷(毎年4月に[[アプトの道]]で行われる駅からハイキング向けの快速)
=== 過去の旅客列車 ===
{{Main2|「[[#優等列車の沿革|優等列車の沿革]]」の節も}}
==== ホームライナー鴻巣 ====
[[ファイル:JNR_489-homeliner.jpg|thumb|250px|right|2010年3月まで489系を使用していた「ホームライナー鴻巣」3号の送り込み回送]]
{{Main|ホームライナー古河・ホームライナー鴻巣}}
[[1984年]]運行開始の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]行きの「ホームライナー大宮」を延長する形で[[1988年]][[7月6日]]に運行を開始した。運行区間は上野駅 - 鴻巣駅間で、平日夜間に下り鴻巣行きのみ4本運転した。座席定員制であり、乗車には[[乗車整理券#ライナー券|ライナー券]]が必要で、始発駅である上野駅以外での乗車は不可とされた。グリーン車も連結されていたが、当列車では[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]扱いとなっており、ライナー券のみで着席可能とされていた。
[[大宮総合車両センター]]配置(元[[田町車両センター]]配置も含む)の[[国鉄185系電車|185系]](7両編成)で運転されたほか、3号は[[2010年]]3月12日までは[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[金沢総合車両所]]所属の[[国鉄485系電車#489系|489系]](9両編成)で、2010年3月15日から2012年3月16日にかけては新潟車両センターの[[国鉄485系電車|485系]](6両編成)で運行されていた。速達性よりも着席サービスの提供のための列車であり、全列車とも先行の普通列車を追い抜かない。
2014年3月15日のダイヤ改正で特急「スワローあかぎ」の新設に伴い廃止された。
==== 通勤快速(旧称:「タウン」) ====
平日夕方以降に1時間に1本運転されていた[[快速列車]]である。土曜・休日は代替として快速「[[#快速「アーバン」|アーバン]]」が運転される。[[JR]]発足後初のダイヤ改正となった1988年[[3月13日]]の運転開始時から[[1990年]]3月10日までの間は快速「タウン」の名称で運行されていた。快速「アーバン」と異なり、運行開始当初より熊谷駅 - 高崎駅間は各駅停車であった。上野東京ライン開業後も、通勤快速は上野駅発着で運転されていた。
夕方以降のみの運転のため、{{要出典範囲|上り列車では比較的混雑率は低く、下り列車では混雑度はかなり高い|date=2011年11月}}が、籠原での[[増解結]]を行わずに上野駅 - 籠原駅間でも10両編成(基本編成のみ)で運転し、上野駅 - 浦和駅間で尾久駅を含めた各駅に停車する一方で、利用客の多い上尾駅・桶川駅は通過している。これは、上野駅から高崎方面への所要時間を短縮し、乗客の遠近分離を目的としているためである。ただし、2004年10月16日改正より下りの最後の2本(上野発21・22時台)は上野駅 - 籠原駅間で15両編成に増強し、同時に上尾駅と桶川駅にも停車するようになった。また、上りの最後の1本も籠原駅から先では15両編成で運転されている。上りは高崎19時台発が最終だが、2018年3月17日の改正までは20時台にも1本あり、こちらは普通列車に格下げとなった。
下りの上野発21時台までは鴻巣駅で先行の普通列車に接続しており、上野発18時台・19時台はこれに加えて上尾駅で先行の普通列車を追い抜く。また、上野発22時台は桶川駅で先行の普通列車に接続し、熊谷駅で籠原行きの普通列車から接続を行う。上りは熊谷駅で先行の普通列車に接続する列車があるほか、桶川駅で追い抜く列車もある。このほか、浦和駅・赤羽駅・尾久駅で宇都宮線の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車、終点上野駅で始発の上野東京ライン東海道線直通列車に連絡する列車もある。
ダイヤが大幅に乱れている場合、発車前または途中で普通列車に変更されることがあるが、駅での表示は変更されず、本来停車しない宮原駅などにおいても「通勤快速」と表示される。
2021年3月13日のダイヤ改正で廃止され、快速「アーバン」に統合された<ref name="2020sChangeT">[https://www.jreast.co.jp/press/2020/takasaki/20201218_ta01.pdf 2021年3月ダイヤ改正について(東日本旅客鉄道株式会社 高崎支社)]</ref>。
* 停車駅(下記2本以外):上野駅 - 尾久駅 - 赤羽駅 - 浦和駅 - 大宮駅 - 鴻巣駅 - 熊谷駅(以北各駅)
* 停車駅(上野発21・22時台の下り2本):上野駅 - 尾久駅 - 赤羽駅 - 浦和駅 - 大宮駅 - 上尾駅 - 桶川駅 - 鴻巣駅 - 熊谷駅(以北各駅)
==== 臨時列車 ====
* [[マリンブルーくじらなみ号]]([[海水浴]]客向け列車。2011年以降設定なし)
* [[ムーンライトえちご]](新宿 - 新潟方面間の夜行列車。2009年3月改正で定期列車から臨時列車に変更され、2014年6月以降設定なし)
=== 貨物列車 ===
当線には[[首都圏 (日本)|首都圏]]と[[倉賀野駅]]および[[日本海]]側の諸都市を結ぶ[[貨物列車]]も毎日数往復ずつ設定されている。線内の取り扱い駅は[[熊谷貨物ターミナル駅]]と倉賀野駅である。[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]列車や石油精製品のタンク列車が大半だが、[[秩父鉄道三ヶ尻線]]への[[石炭]]輸送は2020年を以て廃止となった。鉄道会社への[[車両輸送]]でも活用されている。
== 使用車両 ==
=== 優等列車用 ===
* 電車
** [[JR東日本E257系電車#5500番台|E257系5500番台]]([[大宮総合車両センター東大宮センター]]所属) - 「[[草津・四万]]」・「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」で使用。
=== 普通・快速列車用 ===
普通・快速列車用車両は宇都宮線や東海道線と共通で、通称「[[湘南電車#湘南色|湘南色]]」とも呼ばれるオレンジ色と緑色({{Color|#f68b1e|■}}{{Color|#008000|■}})の帯を巻いた電車が運用されている。
[[2004年]][[10月16日]]のダイヤ改正で湘南新宿ラインの全列車に、[[2006年]][[7月8日]]のダイヤ改正で上野発着の全列車にそれぞれ[[グリーン車]]が連結されるようになり、それに伴って[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]と同様の基本編成10両・付属編成5両を組み合わせた15両編成で運転されるようになった。
E231系及びE233系3000番台は、[[バリアフリー]]対応の[[トイレ|洋式トイレ]]が設置されている。また、それぞれ[[小山車両センター]]・[[国府津車両センター]]の2つの車両センターに分散して所属しているが、2015年3月14日以降、高崎線(両毛線直通含む)と東海道線([[伊東線]]直通含む)・宇都宮線(一部除く)及び上野東京ライン(常磐線系統除く)・湘南新宿ラインで車種を問わずに共通運用されており、同じ列車でも日によって車種が異なる場合がある。更に車種・所属車両センター違いの車両を組み合わせての15両編成運用もある。それぞれ担当している所属車両センターは決まっているが、ダイヤが乱れた場合は通常とは異なる車両センターの所属車が充当されることもある。
{{JRE E231 kinko
|Title=現行車両の編成
|Left=東京・新宿
|Right=高崎・前橋
|Text=
}}
* [[JR東日本E231系電車#近郊タイプ|E231系]] (4ドア車)
**[[小山車両センター]]所属
*** 基本編成(10両)と付属編成(5両)があり、いずれもU編成。基本編成の4・5号車にはグリーン車が連結されている。基本編成単独の10両編成での運用のほか、籠原以南では基本編成の前橋方に付属編成を連結した15両編成でも運用される。
*** 2015年3月14日以降は高崎線では上野東京ライン(東海道線 - 東北本線・高崎線系統)、湘南新宿ライン(東海道線-高崎線系統)<ref group="注釈">2015年3月14日から運用復帰。</ref>および一部の上野発着の普通列車・快速列車に使用されている。
*** 高崎線ではそれまでの115系を置き換える目的で[[2001年]][[9月1日]]から運用を開始した。2001年12月1日改正で高崎線の115系の運用をすべて置き換え、同時に運行を開始した湘南新宿ラインの運用にも使用された。その後、湘南新宿ライン(東海道線-高崎線系統)の運用については2004年10月16日改正で国府津車両センターのE231系へ置き換えられた<ref group="注釈" name="E231貸し出し"></ref>。
*** 当初は基本編成にはグリーン車は組み込まれていなかったが、2004年7月から基本編成に4・5号車にグリーン車2両を組み込む作業が順次行われ、グリーン車を組み込んだ編成は2004年7月8日から普通車扱いで高崎線での運用を開始した。その後、[[2004年]][[10月16日]]改正で高崎線での小山車の運用はグリーン車非組み込みの基本編成の運用のみとなったが、グリーン車組み込み編成が増加に伴って2005年3月10日よりグリーン車組み込みの基本編成の乗り入れが再開され、同3月末までに高崎線に乗り入れてくる小山車基本編成はすべてグリーン車連結編成に統一された。また、2006年7月8日改正でグリーン車非連結の211系の運用を置き換える形で運用が増加し、付属編成の高崎線での運用も復活した。
** [[国府津車両センター]]所属
*** 基本編成(K編成・10両)と付属編成(S編成・5両)があり、基本編成の4・5号車にはグリーン車が連結されている。基本編成単独の10両編成での運用のほか、籠原以南では基本編成の前橋方に付属編成を連結した15両編成でも運用される。
*** 2015年3月14日以降、高崎線では上野東京ライン(東海道線 - 東北本線・高崎線系統)、湘南新宿ライン(東海道線-高崎線系統)および一部の上野発着の普通列車・快速列車に使用されている。
*** 高崎線では小山車へのグリーン車組み込みと並行して小山車両センターへ貸し出された一部編成が小山車と共通運用で2004年7月に運用を開始した<ref group="注釈" name="E231貸し出し">この貸し出しは2006年2月に小山車両センターにE231系が追加導入されるまで続いた。その後、2006年3月18日改正から同年7月8日改正にかけて、同年1-2月に落成した小山車の一部が、2008年2月には一時的に小山車付属編成1本がそれぞれ国府津車両センターに貸し出され、当該編成は高崎線(湘南新宿ライン)の国府津車運用にも使用された。なお、貸し出し以外でもダイヤの乱れや車両トラブルなどの理由により小山車が国府津車運用に使用されたり国府津車が小山車運用に使用されることが突発的にあった</ref>。
* [[JR東日本E233系電車#3000番台|E233系3000番台]](4ドア車)
** 小山車両センター所属
*** 基本編成(10両)と付属編成(5両)があり、いずれもU編成。基本編成の4・5号車にはグリーン車が連結されている。
*** 211系の置き換え用として[[2012年]][[9月1日]]から運用を開始した。
*** 2015年3月14日のダイヤ改正より、基本16編成と付属15編成が高崎車両センターから小山車両センターに転属となった。
** 国府津車両センター所属
*** 基本編成(10両)と付属編成(5両)があり、いずれもE編成。基本編成の4・5号車にはグリーン車が連結されている。
*** 2015年3月14日のダイヤ改正より、高崎線内での運用を開始した。
* [[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系気動車]] - [[ぐんま車両センター]]所属
** [[八高線]]直通列車として倉賀野 - 高崎間に乗り入れ、2-3両編成で運用される。
<gallery>
Takasaki-Line-Series-E231.jpg|E231系
Takasaki-Line-Series-E233.jpg|E233系3000番台
Haciko-Line Kiha110-112-204.jpg|キハ110系200番台
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
{{JNR 115 Ueno 1963}}
* 電車
**[[国鉄211系電車|211系]](3ドア車)
*** 基本編成(C編成・10両)と付属編成(A編成またはB編成・5両)があり、基本編成の4・5号車にはグリーン車(基本C編成17本中12本が2階建て+平屋建て)が連結されていた。基本編成単独の10両編成での運用のほか、籠原以南では基本編成の前橋方に付属編成を連結した15両編成でも運用された。なお、基本編成と付属編成の間の貫通路は閉鎖されており、行き来することができなかった。
*** 高崎線では上野発着の普通列車・快速「アーバン」・通勤快速で運用されていた。なお、付属編成については原則として上野 - 籠原間のみの運用で、籠原 - 高崎間については回送列車のみで乗り入れた。かつては[[上野駅|上野]]発着の高崎線における主力車両で、湘南新宿ライン(東海道線‐高崎線系統)でも2001年12月1日の運行開始から2004年10月16日改正まで使用されていた。
*** 2006年7月改正までは5両単位で編成が組まれていて、これを複数連結することで10両または15両編成として運用され、基本編成・付属編成の区別はなかった。貫通路は増結後開放され、各編成間を行き来できるようになっていた<ref group="注釈">現在のE231系・E233系では原則籠原駅(及び各路線の郊外駅)での増解結であるが、この時代は上野駅での増解結も行われており、15両編成で到着した上り列車2本からそれぞれ5両ずつ切り離し、それらを1つに結合することで10両編成を作り、合わせて10両編成3本として、下り列車に使用するといった柔軟な運用も行われていた。</ref>。2005年からはA編成を組み直し、4・5号車に東海道線の211系や[[国鉄113系電車|113系]]から余剰となったグリーン車2両を連結し、10両の基本編成に固定する作業が順次行われた。しかし、東海道線の編成と違い、普通車のうちグリーン車と連結されている3・6号車は、かつて先頭車として使用されていた車両である。そのため、C編成は3両編成(1-3号車)と5両編成(6-10号車)の間にグリーン車を挟みこんだかのような外観となっていた。
*** E233系への置き換えに伴い、高崎線内における運用は2014年3月14日をもって終了した。
** [[国鉄115系電車|115系]]
*** 普通列車で使用されていたが、1986年2月18日に211系が導入されると徐々に置き換えられていき、2001年9月1日にE231系が導入されると本数を大幅に減らし、同年11月30日を最後に運用を終了した。8両編成、7両編成、4両編成を組み合わせて運行されていた。
** [[国鉄165系電車|165系]]
*** 急行[[とき (列車)#首都圏対新潟県優等列車沿革|「佐渡」「越路」「越後」「弥彦」「よねやま」「ゆきぐに」「ゆざわ」]]<ref name="rekishi-chizucho-6">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』6号 北信越、新潮社、2010年、pp.29-37,44-45</ref>[[水上 (列車)#沿革|「奥利根」「ゆけむり」「伊香保」]]「[[草津・四万|草津]]」「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」<ref name="rekishi-chizucho-3">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』3号 関東、新潮社、2010年、pp.37-41</ref>「[[あさま#信越本線長野以南優等列車沿革|信州]]」「[[くびき野 (列車)#信越本線長野以北優等列車沿革|妙高]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、快速「[[ムーンライトえちご]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、普通列車などで使用。
** [[国鉄165系電車|169系]]
*** 急行「信州」「妙高」「[[あさま#信越本線長野以南優等列車沿革|志賀]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />などで使用
** [[国鉄157系電車|157系]]
*** 特急「[[草津・四万#吾妻線優等列車沿革|白根]]」<ref name="rekishi-chizucho-3" />で使用。
** [[国鉄181系電車|181系]]
*** 特急「[[とき (列車)|とき]]」「[[水上 (列車)#沿革|新雪]]」「[[あさま#在来線特急「あさま」「白山」|あさま]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />で使用。
** [[国鉄183系電車|183系]]
*** 特急「とき」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、快速「ムーンライトえちご」<ref name="rekishi-chizucho-6" />などで使用。
** [[国鉄183系電車|189系]]
*** 特急「あさま」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、急行「妙高」<ref name="rekishi-chizucho-6" />などで使用。
** [[国鉄185系電車|185系]]
*** 特急[[谷川 (列車)|「谷川」「新特急谷川」]] [[水上 (列車)|「新特急水上」「水上」]] 「新特急草津」「草津」「新特急あかぎ」「あかぎ」<ref name="rekishi-chizucho-3" />「[[あかぎ (列車)|スワローあかぎ]]」<ref>『JTB時刻表』2015年7月号、JTBパブリッシング、pp.102-103</ref>、普通列車などで使用。
** [[国鉄80系電車|80系]]
*** 準急「[[あさま#信越本線長野以南優等列車沿革|軽井沢]]」「ゆきぐに」<ref name="rekishi-chizucho-6" />「奥利根」「ゆけむり」「[[水上 (列車)#沿革|みくに]]」「草津」「あかぎ」<ref name="rekishi-chizucho-3" />、普通列車などで使用。
** [[国鉄32系電車|32系]]
*** 前述の80系の編成に混用。
** [[国鉄485系電車|485系]]
*** 特急「[[はくたか#国鉄時代|はくたか]]」<!--この「はくたか」は、在来線特急「はくたか」の節の列車とは運転区間が違いますので国鉄時代の節にリンクしてください。-->「[[いなほ (列車)|いなほ]]」「[[いなほ (列車)#羽越本線直通優等列車沿革|鳥海]]」<ref name="rekishi-chizucho-2">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』2号 東北、新潮社、2010年、pp.54-55</ref>、快速「ムーンライトえちご」<ref name="rekishi-chizucho-6" />などで使用。
** [[国鉄485系電車|489系]]
*** 特急[[あさま#在来線特急「あさま」「白山」|「白山」「あさま」]]「はくたか」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、急行「[[能登 (列車)|能登]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />などで使用。
** [[JR東日本651系電車|651系]]
*** 特急「草津」「スワローあかぎ」「あかぎ」などで使用。
* 気動車
** [[国鉄キハ80系気動車|キハ81系]]
*** 特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />で使用。
** [[国鉄キハ80系気動車|キハ82系]]
*** 特急「[[いなほ (列車)|いなほ]]」<ref name="rekishi-chizucho-2" />「はくたか」<ref name="rekishi-chizucho-6" />で使用。
** [[国鉄キハ57系気動車|キハ57系]]
*** 急行「志賀」「[[あさま#信越本線長野以南優等列車沿革|丸池]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />などで使用。
** [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]
*** 急行「鳥海」<ref name="rekishi-chizucho-2" />「よねやま<ref group="注釈">1972年3月15日-同年10月1日</ref>」<ref name="rekishi-chizucho-6" />などで使用。
* 客車
** [[国鉄20系客車|20系]]
*** 寝台特急「[[北陸 (列車)|北陸]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、寝台急行「[[とき (列車)#首都圏対新潟県優等列車沿革|天の川]]」<ref name="rekishi-chizucho-6" />で使用。
** [[国鉄14系客車|14系]] -
*** 寝台特急「北陸」<ref name="rekishi-chizucho-6" />、急行「能登」<ref name="rekishi-chizucho-6" />で使用。
** [[国鉄24系客車|24系]]
*** 寝台特急「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」[[あけぼの (列車)#奥羽本線・羽越本線夜行列車の沿革|「鳥海」「出羽」]]<!-- 前出の特急「鳥海」とは違いこちらは夜行なのでリンク先が異なっています。--><ref name="rekishi-chizucho-2" />で使用。
<gallery>
ファイル:JR_East_211-3000.jpg|かつてグリーン車を連結して運転していた高崎車両センター所属211系
ファイル:JNR 185 akagi.JPG|185系「あかぎ」
Series651-1000-Kusatsu Limited-Express.jpg|651系「草津」
</gallery>
== データ ==
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):74.7km
*管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])・日本貨物鉄道(第二種鉄道事業者)
* 軌間:1,067mm
* 駅数:19(起終点駅を含む)
** 高崎線所属駅に限定する場合、東北本線所属の大宮駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>が除外され、18駅となる。
* 複線区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1,500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
* 最高速度:120km/h(優等列車)、110km/h(普通列車)
* [[運転指令所]]
** 東京総合指令室:大宮駅 - 神保原駅間
** 高崎総合指令室:神保原駅 - 高崎駅間
*** 運転取扱駅(駅が信号を制御):高崎操車場
*** 準運転取扱駅(異常時、入換時は駅が信号を制御):大宮駅・宮原駅・吹上駅・熊谷貨物ターミナル駅・籠原駅・深谷駅・岡部駅・本庄駅・倉賀野駅・高崎駅
* [[列車運行管理システム]]:[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS)(大宮駅 - 神保原駅間)
* [[車両基地]](所在駅):[[大宮総合車両センター]](大宮駅)・[[高崎車両センター|高崎車両センター籠原派出所]](籠原駅)・[[ぐんま車両センター]](高崎駅)
* [[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]:全線(東京近郊区間)
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:全線([[Suica]]の首都圏エリア)
大宮駅を含む川越線との並行区間は[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]、宮原駅 - 高崎駅間は[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]の管轄である。支社境界は川越線と分かれた後の大成第六踏切付近(大宮起点3km地点)に設けられている。
=== 混雑率の推移 ===
2022年度の最混雑区間(宮原→大宮間)の混雑率は'''122%'''である<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf |title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-12-19|publisher=国土交通省|page=1|format=PDF}}</ref>。
上越新幹線を除いて競合路線がなく、埼玉県内の路線でも混雑率が高い。2012年度まで混雑率は180%を越えていたが、近年は輸送量の減少により混雑が緩和し、2016年度に170%を下回った。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(宮原 → 大宮間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/data.html 公共交通関係データ集] - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/documents/jr1h28.pdf JR線のラッシュ1時間当り旅客輸送状況]}} - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/chika7/documents/458470_1.pdf 路線整備の意義・必要性等の整理]}} - 埼玉県</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1985年(昭和60年)
| 11 || 18,150 || 46,610 || style="background-color: #ffcccc;"|'''257'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 12 || 24,500 || 51,500 || '''210'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 12 || 24,500 || style="background-color: #ffcccc;"|51,560 || '''210'''
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 12 || 24,500 || || ''' '''
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 12 || 24,500 || || ''' '''
|
|-
|1998年(平成10年)
| 12 || 24,500 || 51,300 || '''209'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 13 || 26,300 || 51,310 || '''195'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 13 || 26,300 || 51,000 || '''194'''
|
|-
|2001年(平成13年)
| 13 || 26,740 || 51,300 || '''192'''
|style="text-align:left;"|湘南新宿ライン開業年度
|-
|2002年(平成14年)
| 13 || 27,010 || 51,200 || '''190'''
|
|-
|2003年(平成15年)
| 13 || 27,010 || 51,400 || '''190'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 14 || 27,670 || 50,300 || '''182'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 14 || 27,670 || 50,200 || '''181'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| 14 || 25,224 || 48,350 || '''192'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 14 || 25,224 || 48,450 || '''192'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 14 || 25,224 || 48,360 || '''192'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 14 || 25,224 || 48,310 || '''192'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 14 || 25,298 || 48,350 || '''191'''
|
|-
|2011年(平成23年)
| 14 || 25,298 || 48,250 || '''191'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 14 || 25,594 || 48,100 || '''188'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 15 || 27,660 || 48,100 || '''174'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 15 || 27,660 || 48,100 || '''174'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 14 || 25,816 || 44,390 || '''172'''
|style="text-align:left;"|上野東京ライン開業年度
|-
|2016年(平成28年)
| 14 || 25,816 || 43,570 || '''169'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 14 || 25,816 || 42,820 || '''166'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 14 || 25,816 || 42,300 || '''164'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 14 || 25,816 || 41,880 || '''162'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 14 || 25,816 || style="background-color: #ccffff;"|28,740 || style="background-color: #ccffff;"|'''111'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 14 || 25,816 || 29,390 || '''114'''
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 14 || 25,816 || 31,620 || '''122'''
|
|}
== 駅一覧 ==
東京駅(東北本線)からの区間を記載する。
<div style="font-size:90%;">
* 駅名欄
** (貨)=貨物専用駅、◆・◇=貨物取扱駅(貨物専用駅を除く。◇は定期貨物列車の発着なし)
** [[特定都区市内]]制度適用範囲の駅 : {{JR特定都区市内|山}}=[[東京山手線内]]、{{JR特定都区市内|区}}=東京都区内
* 営業キロ
** 累計営業キロは尾久駅経由のもの。日暮里駅 - 赤羽駅間は東北本線の支線を経由している。旅客がこの区間を挟んで利用する際の運賃は、支線経由よりも0.2km短い田端駅経由<ref group="*">田端駅経由の路線は東北本線の本線。運転系統では京浜東北線が経由している。</ref>の営業キロで計算する(東京駅 - 大宮駅間の田端駅経由での営業キロは30.3km)。
* 停車駅
** 普通 : 下表のうち日暮里駅以外の全旅客駅に停車(湘南新宿ラインを除く)
** 各種快速 : ●・■印の駅は全列車停車、▲印の駅は下りの一部列車が停車、|印の駅は全列車通過
*** 湘南新宿ライン : ■印の駅では東北貨物線上のホームに停車、||印の駅は経由しない
** 特急 : 各列車記事を参照
* 接続路線欄 : 東京駅 - 大宮駅間の東日本旅客鉄道の路線名は運転系統上の名称(正式路線名とは異なる)。駅名が異なる場合は⇒印にて駅名を記す。
* 駅番号 : 宇都宮線と同一のものである。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f68b1e;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}}
!rowspan="2" style="width:4em; border-bottom:solid 3px #f68b1e;"|駅番号
!rowspan="2" style="width:8.5em; border-bottom:solid 3px #f68b1e;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2em; border-bottom:solid 3px #f68b1e;"|駅間<br />営業<br />キロ
!colspan="2"|累計<br />営業キロ
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f68b1e; background-color:#fcc;"|{{縦書き|快速アーバン}}
!colspan="2" style="font-size:90%; white-space:nowrap;"|湘南<br />新宿<br />ライン
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #f68b1e;"|接続路線・備考
!rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #f68b1e;"|所在地
|-
!style="border-bottom:solid 3px #f68b1e; white-space:nowrap;"|東京<br />から
!style="border-bottom:solid 3px #f68b1e; white-space:nowrap;"|大宮<br />から
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f68b1e; background-color:#eeb;"|{{縦書き|快速}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f68b1e; background-color:#ebb; line-height:1.1em;"|{{縦書き|特別快速}}
|-
! colspan="6" style="text-align:center;" |直通運転区間
| colspan="7" style=""|{{Color|purple|■}}'''[[上野東京ライン]]''':東京駅から[[File:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]][[熱海駅]]経由{{JR海駅番号|CA}} [[東海道線 (静岡地区)|東海道本線]][[沼津駅]]・[[File:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[伊東線]][[伊東駅]]まで<br />[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] '''[[湘南新宿ライン]]''':赤羽駅から[[新宿駅]]・[[大船駅]]経由[[File:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] 東海道線[[小田原駅]]まで
|-
|rowspan="8" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[東北本線]]|height=5em}}
!style="text-align:center;"|JU 01
|[[東京駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|30.5
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen-E.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・[[File:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]](直通運転:上記参照)(JT 01)・[[File:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線]] (JC 01)・[[File:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 01)・[[File:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 26)・[[File:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀・総武線(快速)]](JO 19)・[[File:JR JE line symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] (JE 01)<br/>[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|18px|■]] [[東海道新幹線]]<br/>[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-17)<br/>東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] ⇒[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] (T-09)
|rowspan="5" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=4em}}
|colspan="2"|[[千代田区]]
|-
!style="text-align:center;"|JU 02
|[[上野駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|26.9
|style="background-color:#fcc;”|●
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen-E.svg|18px|■]] 東北新幹線・山形新幹線・秋田新幹線・北海道新幹線・上越新幹線・北陸新幹線・[[File:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 05)<ref group="*">鶯谷 - 上野 - 尾久は、尾久発着に限り区間外乗車の特例が設けられている。通常の乗車券では鶯谷方面から尾久経由赤羽方面に乗り換えることはできない(日暮里 - 上野が重複乗車となる)。</ref>・[[File:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 30)・{{Color|#33f|■}}[[常磐線]]・[[File:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐快速線|常磐線(快速)]](JJ 01)<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-16)・ [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|日比谷線]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] (H-18)<br />京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]] ⇒[[京成上野駅]] (KS01)
|colspan="2"|[[台東区]]
|-
!style="text-align:center;"|
|([[日暮里駅]])
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|24.7
|style="background-color:#fcc;"||
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|(高崎線の列車は全列車通過<br />常磐線および山手線・京浜東北線田端方面との分岐点)
|colspan="2"|[[荒川区]]
|-
!style="text-align:center;"|JU 03
|[[尾久駅]] {{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|8.4
|style="text-align:right;"|22.1
|style="background-color:#fcc;"||
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|
|colspan="2" rowspan="2"|[[北区 (東京都)|北区]]
|-
!style="text-align:center;"|JU 04
|[[赤羽駅]] {{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:right;"|5.0
|style="text-align:right;"|13.4
|style="text-align:right;"|17.1
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|■
|style="background-color:#ebb;"|■
|東日本旅客鉄道:[[File:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 38)・[[File:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]]([[新宿駅|新宿]]・[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]方面、一部直通運転)(JS 22)・[[File:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 15)
|-
!style="text-align:center;"|JU 05
|[[浦和駅]]
|style="text-align:right;"|11.0
|style="text-align:right;"|24.4
|style="text-align:right;"|6.1
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|■
|style="background-color:#ebb;"|■
|東日本旅客鉄道:[[File:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 43)・[[File:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] 湘南新宿ライン (JS 23)
|style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;" rowspan="20"|{{縦書き|[[埼玉県]]|height=6em}}
|rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[さいたま市]]|height=6em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[浦和区]]
|-
!style="text-align:center;"|JU 06
|[[さいたま新都心駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|28.9
|style="text-align:right;"|1.6
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"||
|style="background-color:#ebb;"||
|東日本旅客鉄道:[[File:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 46)
|rowspan="3"|[[大宮区]]
|- style="height:3em;"
!rowspan="2" style="text-align:center;"|JU 07
|rowspan="2"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|1.6
|rowspan="2" style="text-align:right;"|30.5
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2" style="background-color:#fcc;"|●
|rowspan="2" style="background-color:#eeb;"|●
|rowspan="2" style="background-color:#ebb;"|●
|rowspan="2"|東日本旅客鉄道<ref group="*">大宮駅は旅客線と[[東北貨物線]]との分岐・合流駅でもあり、東北貨物線は赤羽駅 - 大宮駅間で旅客線と併走する。</ref>:[[File:Shinkansen-E.svg|18px|■]] 東北新幹線・山形新幹線・秋田新幹線・北海道新幹線・上越新幹線・北陸新幹線・[[File:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 47)・[[File:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[宇都宮線]]([[東北本線]]列車線)・[[File:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] 埼京線 (JA 26)・{{Color|#00ac9a|■}}[[川越線]]<br />[[東武鉄道]]:[[File:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TD]] [[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]](TD-01)<br />[[埼玉新都市交通]]:[[File:New Shuttle Line symbol.svg|18px]] [[埼玉新都市交通伊奈線|伊奈線(ニューシャトル)]](NS01)
|- style="height:3em;"
|rowspan="22" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|'''高崎線'''|height=6em}}
|-
!style="text-align:center;"|
|[[宮原駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|34.5
|style="text-align:right;"|4.0
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"||
|
|[[北区 (さいたま市)|北区]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[上尾駅]]
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|38.7
|style="text-align:right;"|8.2
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[上尾市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[北上尾駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|40.4
|style="text-align:right;"|9.9
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"||
|
|-
!style="text-align:center;"|
|[[桶川駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|42.3
|style="text-align:right;"|11.8
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|colspan="2"|[[桶川市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[北本駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|46.9
|style="text-align:right;"|16.4
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|colspan="2"|[[北本市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[鴻巣駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|50.5
|style="text-align:right;"|20.0
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|colspan="2" rowspan="3"|[[鴻巣市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[北鴻巣駅]]
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|54.8
|style="text-align:right;"|24.3
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"||
|
|-
!style="text-align:center;"|
|[[吹上駅 (埼玉県)|吹上駅]]◇
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|57.8
|style="text-align:right;"|27.3
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"||
|
|-
!style="text-align:center;"|
|[[行田駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|60.1
|style="text-align:right;"|29.6
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"||
|
|colspan="2"|[[行田市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[熊谷駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|64.9
|style="text-align:right;"|34.4
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen-E.svg|18px|■]] 上越新幹線・北陸新幹線<br />[[秩父鉄道]]:{{Color|blue|■}}[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]] (CR09)
|colspan="2" rowspan="3"|[[熊谷市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|style="width:8em;"|(貨)[[熊谷貨物ターミナル駅]]
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|69.8
|style="text-align:right;"|39.3
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"||
|style="background-color:#ebb;"||
|
|-
!style="text-align:center;"|
|[[籠原駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|71.5
|style="text-align:right;"|41.0
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|-
!style="text-align:center;"|
|[[深谷駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|76.3
|style="text-align:right;"|45.8
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|colspan="2" rowspan="2"|[[深谷市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[岡部駅]]◇
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|80.6
|style="text-align:right;"|50.1
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|-
!style="text-align:center;"|
|[[本庄駅]]
|style="text-align:right;"|5.6
|style="text-align:right;"|86.2
|style="text-align:right;"|55.7
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|colspan="2"|[[本庄市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[神保原駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|90.2
|style="text-align:right;"|59.7
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|colspan="2"|[[児玉郡]]<br />[[上里町]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[新町駅]]◇
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|94.7
|style="text-align:right;"|64.2
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|
|rowspan="5" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[群馬県]]|height=4em}}
|colspan="2"|[[高崎市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|([[北藤岡駅]])
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|97.2
|style="text-align:right;"|66.7
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"||
|style="background-color:#ebb;"||
|(八高線の施設上の分岐点。八高線のみにホームがある)
|colspan="2"|[[藤岡市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|[[倉賀野駅]]◆
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|100.8
|style="text-align:right;"|70.3
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|東日本旅客鉄道:{{Color|#b4aa96|■}}[[八高線]]<ref group="*">八高線は全列車が高崎駅に乗り入れる。</ref>
|colspan="2" rowspan="3"|[[高崎市]]
|-
!style="text-align:center;"|
|(貨)[[高崎操車場]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|102.7
|style="text-align:right;"|72.2
|style="background-color:#fcc;"||
|style="background-color:#eeb;"||
|style="background-color:#ebb;"||
|<ref group="*">操車場機能は停止しているが『JR貨物時刻表』に掲載されている</ref>
|-
!style="text-align:center;"|
|[[高崎駅]]◇
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|105.2
|style="text-align:right;"|74.7
|style="background-color:#fcc;"|●
|style="background-color:#eeb;"|●
|style="background-color:#ebb;"|●
|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen-E.svg|18px|■]] 上越新幹線・北陸新幹線・{{Color|#00b2e5|■}}[[上越線]]・{{Color|#ffd400|■}}[[両毛線]]([[前橋駅]]まで一部直通運転)<ref group="*" name="takasaki">両毛線は上越線[[新前橋駅]]が正式な起終点だが、運転系統上は全列車が高崎駅に乗り入れる。吾妻線は上越線[[渋川駅]]が起終点だが、一部列車が高崎駅に乗り入れる。</ref>・{{Color|#0F5474|■}}[[吾妻線]]<ref group="*" name="takasaki" />・{{Color|#80c241|■}}[[信越本線]]<br />[[上信電鉄]]:{{Color|red|■}}[[上信電鉄上信線|上信線]]
|}
2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の対象となっている。
{{Reflist|group="*"}}
</div>
=== 発車メロディー ===
1994年頃より、各駅で[[東洋メディアリンクス#五感工房|五感工房]]製の発車メロディーが導入された。また、一部の駅では、テイチク製の発車メロディーの導入や変更、さらにはご当地にちなんだ発車メロディーへの変更例も多くみられる。
ご当地にちなんだ発車メロディーは以下の駅で導入されている。
{| class="wikitable"
|+
!駅名
!使用曲
!style="width:8em;"|使用開始<br />年月日
!備考
|-
|[[上尾駅]]・[[北上尾駅]]
|上尾市歌
|2010年6月1日
|北上尾駅は歌い出し部分の、上尾駅はサビ部分のアレンジである。
|-
|[[鴻巣駅]]・[[北鴻巣駅]]・[[吹上駅 (埼玉県)|吹上駅]]
|HANDS-大きな手から小さな手へ-
|2010年8月1日
|鴻巣市出身のシンガーソングライター 美根ゆり香の楽曲。
3駅でアレンジが異なる。
|-
|[[行田駅]]
|[[夢伝説]]
|2013年10月1日
|行田市観光大使である[[スターダストレビュー]]の代表曲。
なお導入当初、2番線は「[[今夜だけきっと]]」が使用されていたが翌10月2日に使用停止となり、1番線と同じ「夢伝説」に変更されている。
|-
|[[熊谷駅]]・[[籠原駅]]
|熊谷市歌
|2008年4月1日
|籠原駅は歌い出し部分の、熊谷駅はサビ部分のアレンジである。
|-
|[[深谷駅]]
|おねぎのマーチ
|2006年4月1日
|深谷市の名産品、[[深谷ねぎ]]のイメージソング。
|}
いずれの曲も、全番線同じアレンジとなっている。
=== 廃駅・廃止信号場 ===
括弧内は大宮駅からの営業キロ。
* 加茂宮信号場 : 1947年1月22日廃止、翌年跡地に宮原駅開業。大宮駅 - 上尾駅間 (4.0km)
* 小野信号場 : 1961年2月21日廃止、北藤岡駅構内に併合。新町駅 - 倉賀野駅間 (66.8km)
* 烏川駅 : 営業期間1884年9月23日-1884年10月14日、1885年7月14日-1885年8月4日、1886年2月10日-1886年2月19日(水害による橋梁流失のため復旧まで設置)、倉賀野駅 - 高崎操車場間
=== 新駅構想 ===
{{出典の明記|date=2011年8月|section=1}}
以下の新駅建設の話が以前より出ているが、いずれも具体的計画には至っていない。 なお、新駅設置は現在すべてが[[請願駅]]であり、100%地元自治体負担でJR東日本は負担しない。新駅設置は各自治体の財政難もあり消極的である。
; 「大成駅(仮称)」(大宮駅 - 宮原駅間)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=saisaik&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=1&Y=%95%bd%90%ac22%94%4e&B=255&T=0&T0=70&O=1&P1=&P2=%97%e9%96%d8%8d%4f+&P3=&P=1&K=287&N=29416&W1=&W2=&W3=&W4=&DU=1&WDT=1|title=平成5年6月定例会-6月22日-03号 P.211 ◆ 四十二番(福永剛)|accessdate=2017-02-02|date=1993-06-22|publisher=埼玉県議会|}}</ref>
: [[川越線]]との乗り換え駅になる想定。さいたま市がJR東日本に要請を行っている。なお、同じ大宮駅 - 宮原駅間には[[2007年]][[10月14日]]に開館した[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]があり、この最寄り駅の[[鉄道博物館駅]](旧大成駅)を運営する[[埼玉新都市交通]]は要請元のさいたま市も3%を出資する[[第三セクター]]であるが、JR東日本も35%出資しており、影響が大きすぎるので設置は厳しいとの懸念もある。<!-- この文では、要請元のさいたま市よりもJR東日本の出資比率が高いので、意見が通り難そうだということが言いたいのだから、JR東日本の出資比率が上位にあることが分かれば充分。-->
; 「北宮原駅(仮称)」(宮原駅 - 上尾駅間)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kaigiroku.net/kensaku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=saisaik&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=1&Y=%95%bd%90%ac22%94%4e&B=255&T=0&T0=70&O=1&P1=&P2=%97%e9%96%d8%8d%4f+&P3=&P=1&K=287&N=29416&W1=&W2=&W3=&W4=&DU=1&WDT=1|title=平成22年6月定例会-07月27日-06号 P.440 四十八番(鈴木弘議員)|accessdate=2015-07-24|date=2010-07-27|publisher=埼玉県議会|}}</ref>
: [[上尾市]]南部および[[さいたま市]][[北区 (さいたま市)|北区]]北部は住宅密集地で人口は多いが、上尾 - 宮原間は距離があり、公共交通として路線バスが日中10分おきに走るほどである。新駅の構想は既に1988年3月頃には立案されていた様である。しかし、駅の位置や駅建設のための土地収用の手段などはいずれも未定である。線路沿いは住宅街が連続しており、用地捻出も困難である。
; 「みなみ北本駅(仮称)」(桶川駅 - 北本駅間)→ <計画白紙撤回><!--北本市議会議事録・埼玉県議会議事録を参照-->
: [[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)との交差予定地点付近に設置する。桶川 - 北本間は距離があり、新駅予定地に近い北本市二ツ家に[[国際興業バス]]が運行する深夜急行バス「ミッドナイトアロー上尾・鴻巣」の停留所が既存駅以外で唯一設けられている。[[北本市]]が建設に意欲的で、2005年には市長自ら高崎支社を直接訪問している。高崎支社は、新駅予定地と圏央道区間が重なるため、圏央道の開通が絶対条件との回答を行った。さらに、圏央道と桶川市で接続する[[上尾道路]]の建設が[[上尾道路#オオタカ問題|オオタカの問題]]で工事が中断し、その影響で圏央道の建設も遅れた。2010年3月に圏央道と上尾道路が接続され、<!-- 上尾道路の建設に関してはオオタカ問題により工事が遅れているが新駅構想とは重ならない-->高崎線と交差地点を含む区間での圏央道の工事は開始されたが、土地買収の遅れから当該区間の開通予定は延期となっていた。2013年8月、北本市は新駅の建設をするかどうかを問う住民投票の条例案を提案し、同年12月15日に住民投票が実施されることになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNZO58762640R20C13A8L72000/|title=埼玉県北本市、JR高崎線の新駅建設で住民投票実施へ|accessdate=2013-08-22|date=2013-08-21|publisher=日本経済新聞|}}</ref><ref>{{Cite news|title=巨額投資理解を 北本市提案 新駅 予算70億円|newspaper=東京新聞 TOKYO Web|date=2013-08-22|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20130822/CK2013082202000125.html|accessdate=2013-08-22|publisher=中日新聞社|archiveurl=https://archive.is/lPdFp|archivedate=2013-08-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/CMTW1312141100009.html|title=北本新駅 期待と不安|accessdate=2013-12-15|date=2013-12-14|publisher=朝日新聞|}}</ref>。その結果、反対多数となり、計画は白紙となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.saitama-np.co.jp/news/2013/12/15/11.html|title=北本・住民投票、新駅「反対」が過半数 計画は白紙撤回へ|accessdate=2013-12-15|date=2013-12-15|publisher=埼玉新聞|}}</ref>。圏央道は新駅の関連設備設置を想定し、用地確保のため、高崎線の下を潜る「JR高崎線トンネル」が高崎線の複線幅を大幅に上回る340mもの長さで建設された。新駅設置が撤回されたことで、トンネルの上部に高崎線及び並行する北本市道を挟んで2つの細長い空き地が残されている。
: ただし、北本市は予定地周辺を新駅設置も含めた街づくり調査業務委託の指名競争入札を行うとしている<ref>「[https://www.nikoukei.co.jp/node/10013943 北本市が新駅検討含め南部地域を調査]」『埼玉建設新聞』2019年10月18日</ref>。
; 「西熊谷駅(仮称)」(熊谷駅 - 熊谷貨物ターミナル駅間)<!--熊谷市議会議事録を参照-->
: [[熊谷市]]が[[国道140号]]陸橋の南部の線路沿いで行っている[[埼玉県の土地区画整理事業一覧|上石第一地区土地区画整理事業]]の中心駅として想定。しかし、開業しても熊谷駅・籠原駅の利用者が分散するだけで、3駅全体で見て大幅な利用者増は見込めず、熊谷市としての費用対効果が見込めないとして、近年は消極化の傾向にある。
; 「[[北藤岡駅]]」(新町駅 - 倉賀野駅間、[[八高線]])の高崎線ホーム
: [[藤岡市]]の構想<ref>{{PDFlink|[http://www.city.fujioka.gunma.jp/gikai/pdf/00_t_4_2_3.PDF 平成12年第4回藤岡市議会定例会議事日程第2号一般質問初日(3)] }} - 藤岡市ホームページ</ref>。
; 名称未定(倉賀野駅 - 高崎駅間、高崎操車場跡地付近)
: [[高崎市]]の構想。高崎操車場跡地を再開発する計画を立てており、そのアクセスのため、新駅の設置を検討<ref>『[http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/shigaichi/kukaku/takasou.htm 高崎操車場跡地周辺土地区画整理事業]』(高崎市ウェブサイト)より</ref>。
=== 過去の接続路線 ===
* 大宮駅:[[西武大宮線]] - 1941年2月25日廃止
* 吹上駅:[[行田馬車鉄道]] - 1923年廃止
* 熊谷駅:[[東武熊谷線]] - 1983年6月1日廃止
* 熊谷貨物ターミナル駅:秩父鉄道[[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]](貨物線) - 2020年12月31日廃止
* 本庄駅:[[本庄電気軌道]] - 1933年5月1日廃止
* 高崎駅:[[東武伊香保軌道線|東武伊香保軌道線(高崎線)]](高崎駅前) - 1953年7月1日廃止
== 連続立体交差事業 ==
新町駅付近において、[[連続立体交差事業]](鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。2013年に群馬県が公表した、はばたけ群馬・県土整備プラン2013-2022では、2022年度までに事業着手を目指す予定とされ<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.gunma.jp/contents/000233861.pdf はばたけ群馬・県土整備プラン2013-2022 高崎土木事務所 事業箇所図]}} - 群馬県県土整備部 p.1、2019年3月1日閲覧。</ref>、2019年3月に寄せられた高崎市の意見・提言によると、2020年度までに事業化を目指すとしていた<ref>[https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2019052000188/ 新町駅立体交差化事業(平成31年3月)] - 高崎市広報広聴課・都市計画課、2020年1月1日閲覧。</ref>。
しかし、2020年12月に策定された、ぐんま・県土整備プラン2020によると、年代の記載が無くなり着手に向けて検討するとしている<ref>{{PDFlink|1=[https://www.pref.gunma.jp/contents/100179144.pdf#page=2 ぐんま・県土整備プラン2020 高崎地域]}} - 群馬県県土整備部 建設企画課 p.105、2021年12月26日閲覧。</ref>。高崎市が開催した、令和2年度第2回高崎市新町地域振興協議会によると、変更した理由は、2019年の台風19号による西毛、吾妻地域を中心とした被害の復旧事業や、今後の気象災害への防災・減災対策を優先せざるを得ないとのことである<ref name="連立">{{Cite conference |和書 |title=令和2年度 第2回高崎市新町地域振興協議会 次第 |url=https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2016051900037/files/R2shinnmachi2.pdf#page=9 |conference=地域振興協議会 |conferenceurl=https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2016051900037/ |author=高崎市新町支所 地域振興課 |format=PDF |page=9 |date=2021-01-22 |accessdate=2021-12-26}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の鉄道]]
* [[宇都宮線]]
* [[信越本線]]
* [[上越線]]
* [[上越新幹線]]
* [[北陸新幹線]]
* [[通勤五方面作戦]]
* [[上尾事件]]
* [[国道17号]]
* [[関越自動車道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=43=1=%8d%82%8d%e8%90%fc 検索結果(高崎線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
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天文単位
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天文単位(てんもんたんい、英: astronomical unit、記号: au)は、長さの単位で、定義定数であり、正確に 149597870700 m である。非SI単位であるが2014年3月にSI併用単位(SI単位と併用できる非SI単位)に位置づけられた。地球と太陽の平均距離に由来し、主として天文学で用いられる。
天文単位の単位記号は、au である。
なお、2014年3月以前のSIにおける単位記号は ua であった。このため、JIS Z8000-3:2014 (ISO 80000-3:2006)「量及び単位ー第3部:空間及び時間」も、2014年のBIPMの決定以前のJIS規格であり、ua を用いている。
これら以外にも 2014年以前の文献には、a.u. といった表記もみられる。また各国語の表記に基づいた略号が用いられることも多く、例えばドイツ語では AE の略号が用いられる。
天文単位は、地球と太陽との平均距離に由来している。すなわち、太陽からのニュートン的重力のみを受けガウス年を周期として円運動するテスト粒子の軌道半径に由来するものである。太陽系内の惑星などの天体間の距離を表すために広く用いられており、太陽系内の天体の運動を表す天体暦においては、その基礎となる天文単位系で長さの単位となる重要なものである。
地球(より正確には、地球と月を「自転する一つの質量体」と捉えた際の重心)の公転軌道は完全な円ではなく、楕円形をしている。このため、当初「地球軌道の軌道長半径(楕円の長径の半分)」とされた。
1976年のIAU総会において、地球軌道の実測値から日心重力定数 GMs に基づき算出される値として定義づけられた。すなわち、万有引力定数 G と太陽質量 Ms との積(万有引力定数#万有引力定数と質量の積)である日心重力定数の 1/3 乗(3 乗根)に比例する値 A として、
と定められた。
ここで k はガウス引力定数と呼ばれる定義定数(実測値ではなく、約束事として決められた固有の値)で k = 0.01720209895 である。また D は 1 日の時間の長さ(86400 s)を表す。
これは、地球の替わりに「仮想的な粒子」(以下テスト粒子)を置いて、その運動を基準としていると解釈できる。いま、テスト粒子が太陽からのニュートン力学的な重力以外の力を受けず、重さは無視でき、その軌道は完全に円であるとする。この時テスト粒子は、太陽に近ければ強い力を受けて速く公転し、遠ければ弱い力を受けてゆっくりと公転する。そうした軌道のうち、公転周期 P が P = (2π/k) D = 365.2568983... × D となる円軌道の半径が 1 天文単位となる。
このとき k の値はテスト粒子が動く角速度をラジアン/日単位で表しており、上式はケプラーの第3法則の関係 A (2π/P) = GMs に他ならない。この公転周期 P はガウス年と呼ばれ、地球の実際の公転周期である恒星年に近いものとなるよう定められているため、結果としてこの定義においても天文単位は地球と太陽の平均距離に近いものとなる。
こうした定義の変更により、地球の軌道長半径は 1 au ではなくなった。現在の暦で地球の軌道を楕円軌道として近似したときの値はおよそ 1.00000261 au となる。
実測値に基づく定義が、天体暦の構築にともなって行われてきた。IAUの2009年天文定数によると、A の値は
と与えられている。括弧内の数字は最後の桁を単位とする標準不確かさを表す。
天体暦では、力学法則にもとづく理論的計算値が、太陽系内の天体のさまざまな観測データを最もよく説明できるように、惑星の質量(太陽質量 Ms に対する質量比)や太陽の扁平率などの天文定数を同時に決定する。天文単位の大きさ A の決定もこのとき同時に行われる。実質的には、メートルと天文単位との関係づけに最も影響を及ぼすものは近距離の惑星のレーダー測定による観測データであり、このとき暦が理論的に予測する惑星表面までの天文単位距離 rtheo と電波が片道で要する時間の測定値 tobs とは、
の関係で結ばれることになる。ただし、c は真空中の光速度を表す。
国際度量衡委員会 (CIPM) は2014年3月に、下記の国際天文学連合(IAU)総会の決議に基づき、天文単位を「国際単位系 (SI) 単位と併用される非SI単位」(SI併用単位)に位置づけ、その値を正式に149597870700 m とした。これにより、天文単位は分・時・日、度・分・秒、ヘクタール、リットル、トン・ダルトン、電子ボルト、ネーパ・ベル・デシベルと並ぶ、「SIと併用される非SI単位」となった。
2012年8月の第28回IAU総会決議B2は次のように推奨した。
以前は、天文単位は、SI併用単位(ただし数値が実験的に得られるもの)との位置づけであったが、この2012年の決議により、天文単位は定義定数となり、2014年以降の国際単位系の国際文書において、SI併用単位となった。
太陽系内の惑星や彗星などの天体間の距離は天文単位を用いることで、概して扱いやすい大きさの値で表すことができる。
例えば、火星が最も地球に接近するときの両者の距離は 0.37 au ほどであり、土星までは太陽からおよそ 9.5 au、最も遠い惑星の海王星までは太陽からおよそ 30 au となる。およそ 30 au から 100 au の範囲には冥王星を始めとする太陽系外縁天体が分布しているが、セドナは遠日点が 1000 au 近くにまで及ぶ。
太陽系の外縁であり彗星のふるさとと思われているオールトの雲は数万天文単位あたりに広がっていると想定されており、通常このあたりが天文単位が用いられる限界である。恒星間の距離を表すためにはパーセクや光年が用いられる。太陽系に最も近い恒星であるプロキシマ・ケンタウリまでの4.2光年を天文単位で表すと、約270000 au と桁が大きくなる。
また、地球から太陽までの実際の距離は1年の内におよそ 0.983 – 1.017 au の範囲で変化する。
紀元前3世紀にアリスタルコスは、たくみな推論と観測により太陽は月の 18 – 20 倍遠くにあると結論した。観測精度が悪くその値は実際とは大きく異なったものであったが、その幾何学的な推論は正しいものであった。こうした比だけからは天体までの具体的な距離を知ることはできない。しかし、太陽までの距離を天体の「ものさし」、天文単位、として長さの単位とみなすなら、アリスタルコスは地上のものさしに頼ることなく月までの距離を天文単位で初めて科学的に求めたことになる。
17世紀のケプラーもまた観測データと幾何的関係を用い、試行錯誤と複雑な計算を繰り返しながら地球の軌道に対する火星の軌道をほぼ正しく再構成して見せた。ケプラーの努力によって惑星の間の運動の相対的関係がよく記述できるようになり、ほどなくニュートン力学によってその背後の力学的仕組みも明らかとなった。仕組みが知られることによってケプラー的な運動との細かな食い違いを知ることもできるようになり、その後数世紀かけて天体力学は驚くほどの成功を収めることになった。
こうして惑星の動きは精密に予測できるようになったものの、一体それらの天体が地球からどの程度離れているかや、太陽や地球がどの程度の質量をもつのかをメートルやキログラムのような我々が地上で使っている馴染み深い単位を使って精度よく知るのにはやはり困難が伴った。しかし、その具体的な値を精度よく知る必要もなかった。アリスタルコスと同様に、地上のものさしに頼らなくても、太陽系そのものを基準とすれば、すなわち、メートルの代わりに天文単位を、キログラムの代わりに太陽質量を用いさえすれば惑星の動きは非常に正確に測定でき予測も可能であった。例えば、19世紀前半に天文学者たちが角度の1分(1度の 1/60)に満たない天王星の位置の予測とのずれに頭を悩ませていたときも、それは惑星の質量やそこまでの距離が日常の単位でどれだけであるかということとは無関係の問題であり、天文学者はそのずれの原因として海王星を発見することができた。よって、天文学にとって長さの単位として天文単位のような地上とは違う単位を用いるのは自然なことでもあり必然でもあった。ここに天文単位が天文学で用いられてきた第一の意義がある。
太陽系内の運動を精度よく記述するためには地上とは違う単位が必要だという要請の元、1809年、ガウスは、地球の軌道長半径を長さの単位 A、太陽質量を質量の単位 S、地球の1日を時間の単位 D とする単位系を与え、太陽系の運動を記述する基礎とした。このとき導入されたガウス引力定数 k はこの単位系で表した万有引力定数の平方根となるとともに、1日あたり地球が太陽をめぐる平均角をラジアン単位で表すことになった。この単位系が1938年に国際天文学連合による天文単位系と天文単位の概念に直接引き継がれた。天文単位系では、長さの天文単位 A のほかに太陽質量 S を質量の天文単位、1日の時間の長さ D、すなわち 24×60×60 s = 86400 s を時間の天文単位と呼ぶ。ただし普通は質量と時間の天文単位が天文単位の名で参照されることはなく、単に天文単位という場合には長さの天文単位を指す。
天文単位は太陽系だけでなく、より遠くの恒星までの距離を定める長さの基準のひとつともなった。距離を測るための最も単純明快な方法は、異なる2地点から対象を観測し、その方向の差(視差)と2点間の距離とから、三角形の幾何学を用いて対象までの距離を決めるという三角測量の方法である。天文学では比較的近い距離にある恒星までの距離を測る方法としてこの方法を用いる。同じ恒星を地球から1年間続けて観測すると、地球の位置が変わるため、より遠方にある背景の天体に対して対象の恒星の位置が動いて見える(年周視差)。この恒星の見かけの動きの最大の角度は地球の軌道の大きさと恒星までの距離で決まり、地球の軌道の大きさにほぼ対応する天文単位を用いて星までの距離を測ることができる。この関係を用いて恒星までの距離の単位として用いられるパーセクが定義されている。
しかし、年周視差から距離を求めることができるのは近距離の天体に限られるため、より遠い距離を測るには様々な別の方法を使うことになる。その際、それぞれの手法が使える距離範囲はやはり限定されているため、年周視差で測れない距離は A という別の方法で、A で測れない距離は B の方法で、B で測れない距離は C の方法で、というように、別々の方法を用いていた。こうした方法は測定技術が向上するとともに梯子(はしご)の段のようにそれぞれの手法を「つないで」遠方の距離を決めていくことができるようになった。この梯子の一段目に当たるのが地球の軌道の大きさである。(詳細は「宇宙の距離梯子」を参照)
万有引力定数 G の不確かさから太陽質量 Ms そのものは太陽系の質量の単位としての座を明け渡す気配はないものの、現代では長さの単位に関しては地上と天体の梯子の段はひとつにまとまりつつある。1960年代以降、太陽系の惑星や月までの距離をレーダーやレーザー、VLBI を用いて直接に測定するという新しい観測技術が出現した。これら電磁波の「ものさし」の登場によって地上の単位系の長さと太陽系の単位系の長さは今や 1 m 以下の精度で結び付けられるようになった。これに伴って天文単位の永年変化のような、従来ほとんど無視しうるほどのものであった影響が現実問題になりつつある。こうしたときに、太陽質量 Ms の値が天体の運動だけでなく「ものさし」であるべき天文単位にも影響するという定義はメリットに乏しく、天文単位の大きさをメートルに対して固定するといった定義の見直しが避けられないという声があがっていた。これを受けて、国際天文学連合は2012年の新たな定義で、天文単位をメートルに対して固定した値として定めることとなった。これとともに、天文単位は観測によって決定される値ではなくなった。
2012年以前の定義においては、天文単位の定義が太陽質量 Ms に依存するため、太陽の質量の変化とともに天文単位の値は変化しえた。太陽は核融合により質量の一部をエネルギーに変えて、やがて電磁波として放射し、また大気を太陽風として放出するので、1年あたりおよそ10兆分の1の比率で質量を失っていると見積もられている。こうした減少はそのまま太陽からの重力の減少を意味し、すべての惑星の軌道半径と公転周期を増加させる。一方、それまでの天文単位の仮想的なテスト粒子はガウス年という一定の公転周期が保障されると定義されているため、重力の減少とともに粒子は内側の軌道を取らねばならず、天文単位の大きさ A が太陽質量 Ms の3乗根に比例するため、質量の減少の比率の 1/3 の比率で天文単位の大きさは減少する。この天文単位の大きさの減少は理論上100年あたり 0.4 m ほどに相当するとされる。
しかし、2004年にロシアのクラシンスキーとブルンベルクは、測定された天文単位の値が実際には100年あたり 15 ± 4 m の割合で増大しているとみられることを報告した。その後、類似の増大は天体暦の専門家であるアメリカのスタンディッシュやロシアのピチェーヴァによっても確認された。
この謎は2010年現在原因不明であり、またその意味するところも把握しにくい。クラシンスキーらの報告はレーダーなどを用いた火星、金星、水星などの距離測定により得られたメートルと天文単位の関係のデータの蓄積から明らかになってきたものである。レーダーでの距離計測は、電波の往復時間を精密に測定することで行われるので、問題は、天体暦から予測されるこの往復時間の非常にゆっくりとした増大と捉えられ、レーダー観測によるメートル単位では惑星軌道が拡大しているように見える。一方で、惑星の動き自体は天文単位系で表される天体暦とよく一致しており、天文単位でみれば惑星の軌道も運動も拡大を示していない。このため、奇妙にも天文単位がメートルに対して極めてゆっくりと拡大していると表現されることになった。これまでに太陽質量や万有引力定数の変化、宇宙膨張の影響などが検討されてきたが、いずれもその効果はあったとしても十分小さいと考えられており、満足な説明には至っていない。原因についてさまざまな議論が継続しており、弘前大学の三浦らは惑星の距離の増大が、太陽との潮汐摩擦のためではないかと提案している。これは地球の潮汐により月の軌道が遠ざかることと類似した機構である。
太陽や月までの距離を知る試みは古代ギリシア時代から行われてきたが、天上の単位と地上の単位とを結びつけることは容易ではなかった。太陽と月との距離の比を求めたアリスタルコスも、それらの日常の単位での値を得ていない。
プトレマイオス(トレミー)とパップスは、紀元前2世紀のギリシアのヒッパルコスが日食の見え方が各地で異なることを利用して地球の半径を基準とした月や太陽までの距離を見積もっていたことに言及している。ヒッパルコスが求めた太陽までの距離は地球半径の 490 倍以上というものであった(実際の値は約 23500 倍)。ヒッパルコスの著作そのものは現存しておらず、その具体的な算出方法は伝えられていないが、断片的言及から現在ではその巧妙な幾何学的方法がほぼ再構築されている。
やはりその著作は失われているが、クレオメデスによれば、ポセイドニオスも紀元前90年ごろに月と太陽までの距離を評価している。ポセイドニオスは地球の影を円柱だと考え、月食の影の大きさから月が地球の半分の直径をもつとした。さらに月の見かけの大きさと、知られていた地球の大きさから地上の単位で月までの距離を見積もった。その5百万スタディオンという値は、実際より 2.1 – 2.6 倍過大であった。これは地球の影を円錐だと考えず、月を実際のおよそ2倍の大きさだと見積もったことによる。一方で太陽までの距離の見積もりは根拠に乏しい推測的なものにとどまっている。
2世紀のプトレマイオスは『アルマゲスト』の中で、天球に囲まれた天動説にもとづく詳細な宇宙像を構築した。プトレマイオスはアリスタルコスやヒッパルコスの観測と幾何学的推論、さらに独自の推測をまじえて、太陽や月のみならず、惑星までの距離を見積もっている。そこでは例えば、月の平均距離が地球半径の 48 倍、太陽が 1210 倍、土星が 17026 倍などとされた。こうして確立された宇宙像はギリシアとヘレニズム文化を継承したアラビアへと伝わった。中でも9世紀の天文学者アル=バッターニーはプトレマイオスの宇宙像を詳細に研究し、太陽の平均距離が 1108 倍などとしている。これらの宇宙像はその後ヨーロッパへと伝わり、中世にかけて大きな権威をもつものとみなされることになった。
スロベニア語版 Astronomska enota の一部を日本語化したものである。
2014年以降の国際単位系における単位記号は、au であるが、Unicode における記号は AU のままである。
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"text": "1976年のIAU総会において、地球軌道の実測値から日心重力定数 GMs に基づき算出される値として定義づけられた。すなわち、万有引力定数 G と太陽質量 Ms との積(万有引力定数#万有引力定数と質量の積)である日心重力定数の 1/3 乗(3 乗根)に比例する値 A として、",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "と定められた。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ここで k はガウス引力定数と呼ばれる定義定数(実測値ではなく、約束事として決められた固有の値)で k = 0.01720209895 である。また D は 1 日の時間の長さ(86400 s)を表す。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "これは、地球の替わりに「仮想的な粒子」(以下テスト粒子)を置いて、その運動を基準としていると解釈できる。いま、テスト粒子が太陽からのニュートン力学的な重力以外の力を受けず、重さは無視でき、その軌道は完全に円であるとする。この時テスト粒子は、太陽に近ければ強い力を受けて速く公転し、遠ければ弱い力を受けてゆっくりと公転する。そうした軌道のうち、公転周期 P が P = (2π/k) D = 365.2568983... × D となる円軌道の半径が 1 天文単位となる。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "このとき k の値はテスト粒子が動く角速度をラジアン/日単位で表しており、上式はケプラーの第3法則の関係 A (2π/P) = GMs に他ならない。この公転周期 P はガウス年と呼ばれ、地球の実際の公転周期である恒星年に近いものとなるよう定められているため、結果としてこの定義においても天文単位は地球と太陽の平均距離に近いものとなる。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "こうした定義の変更により、地球の軌道長半径は 1 au ではなくなった。現在の暦で地球の軌道を楕円軌道として近似したときの値はおよそ 1.00000261 au となる。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "実測値に基づく定義が、天体暦の構築にともなって行われてきた。IAUの2009年天文定数によると、A の値は",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "と与えられている。括弧内の数字は最後の桁を単位とする標準不確かさを表す。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "天体暦では、力学法則にもとづく理論的計算値が、太陽系内の天体のさまざまな観測データを最もよく説明できるように、惑星の質量(太陽質量 Ms に対する質量比)や太陽の扁平率などの天文定数を同時に決定する。天文単位の大きさ A の決定もこのとき同時に行われる。実質的には、メートルと天文単位との関係づけに最も影響を及ぼすものは近距離の惑星のレーダー測定による観測データであり、このとき暦が理論的に予測する惑星表面までの天文単位距離 rtheo と電波が片道で要する時間の測定値 tobs とは、",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "の関係で結ばれることになる。ただし、c は真空中の光速度を表す。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "国際度量衡委員会 (CIPM) は2014年3月に、下記の国際天文学連合(IAU)総会の決議に基づき、天文単位を「国際単位系 (SI) 単位と併用される非SI単位」(SI併用単位)に位置づけ、その値を正式に149597870700 m とした。これにより、天文単位は分・時・日、度・分・秒、ヘクタール、リットル、トン・ダルトン、電子ボルト、ネーパ・ベル・デシベルと並ぶ、「SIと併用される非SI単位」となった。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2012年8月の第28回IAU総会決議B2は次のように推奨した。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "以前は、天文単位は、SI併用単位(ただし数値が実験的に得られるもの)との位置づけであったが、この2012年の決議により、天文単位は定義定数となり、2014年以降の国際単位系の国際文書において、SI併用単位となった。",
"title": "定義の変遷"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "太陽系内の惑星や彗星などの天体間の距離は天文単位を用いることで、概して扱いやすい大きさの値で表すことができる。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "例えば、火星が最も地球に接近するときの両者の距離は 0.37 au ほどであり、土星までは太陽からおよそ 9.5 au、最も遠い惑星の海王星までは太陽からおよそ 30 au となる。およそ 30 au から 100 au の範囲には冥王星を始めとする太陽系外縁天体が分布しているが、セドナは遠日点が 1000 au 近くにまで及ぶ。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "太陽系の外縁であり彗星のふるさとと思われているオールトの雲は数万天文単位あたりに広がっていると想定されており、通常このあたりが天文単位が用いられる限界である。恒星間の距離を表すためにはパーセクや光年が用いられる。太陽系に最も近い恒星であるプロキシマ・ケンタウリまでの4.2光年を天文単位で表すと、約270000 au と桁が大きくなる。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "また、地球から太陽までの実際の距離は1年の内におよそ 0.983 – 1.017 au の範囲で変化する。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "紀元前3世紀にアリスタルコスは、たくみな推論と観測により太陽は月の 18 – 20 倍遠くにあると結論した。観測精度が悪くその値は実際とは大きく異なったものであったが、その幾何学的な推論は正しいものであった。こうした比だけからは天体までの具体的な距離を知ることはできない。しかし、太陽までの距離を天体の「ものさし」、天文単位、として長さの単位とみなすなら、アリスタルコスは地上のものさしに頼ることなく月までの距離を天文単位で初めて科学的に求めたことになる。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "17世紀のケプラーもまた観測データと幾何的関係を用い、試行錯誤と複雑な計算を繰り返しながら地球の軌道に対する火星の軌道をほぼ正しく再構成して見せた。ケプラーの努力によって惑星の間の運動の相対的関係がよく記述できるようになり、ほどなくニュートン力学によってその背後の力学的仕組みも明らかとなった。仕組みが知られることによってケプラー的な運動との細かな食い違いを知ることもできるようになり、その後数世紀かけて天体力学は驚くほどの成功を収めることになった。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "こうして惑星の動きは精密に予測できるようになったものの、一体それらの天体が地球からどの程度離れているかや、太陽や地球がどの程度の質量をもつのかをメートルやキログラムのような我々が地上で使っている馴染み深い単位を使って精度よく知るのにはやはり困難が伴った。しかし、その具体的な値を精度よく知る必要もなかった。アリスタルコスと同様に、地上のものさしに頼らなくても、太陽系そのものを基準とすれば、すなわち、メートルの代わりに天文単位を、キログラムの代わりに太陽質量を用いさえすれば惑星の動きは非常に正確に測定でき予測も可能であった。例えば、19世紀前半に天文学者たちが角度の1分(1度の 1/60)に満たない天王星の位置の予測とのずれに頭を悩ませていたときも、それは惑星の質量やそこまでの距離が日常の単位でどれだけであるかということとは無関係の問題であり、天文学者はそのずれの原因として海王星を発見することができた。よって、天文学にとって長さの単位として天文単位のような地上とは違う単位を用いるのは自然なことでもあり必然でもあった。ここに天文単位が天文学で用いられてきた第一の意義がある。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "太陽系内の運動を精度よく記述するためには地上とは違う単位が必要だという要請の元、1809年、ガウスは、地球の軌道長半径を長さの単位 A、太陽質量を質量の単位 S、地球の1日を時間の単位 D とする単位系を与え、太陽系の運動を記述する基礎とした。このとき導入されたガウス引力定数 k はこの単位系で表した万有引力定数の平方根となるとともに、1日あたり地球が太陽をめぐる平均角をラジアン単位で表すことになった。この単位系が1938年に国際天文学連合による天文単位系と天文単位の概念に直接引き継がれた。天文単位系では、長さの天文単位 A のほかに太陽質量 S を質量の天文単位、1日の時間の長さ D、すなわち 24×60×60 s = 86400 s を時間の天文単位と呼ぶ。ただし普通は質量と時間の天文単位が天文単位の名で参照されることはなく、単に天文単位という場合には長さの天文単位を指す。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "天文単位は太陽系だけでなく、より遠くの恒星までの距離を定める長さの基準のひとつともなった。距離を測るための最も単純明快な方法は、異なる2地点から対象を観測し、その方向の差(視差)と2点間の距離とから、三角形の幾何学を用いて対象までの距離を決めるという三角測量の方法である。天文学では比較的近い距離にある恒星までの距離を測る方法としてこの方法を用いる。同じ恒星を地球から1年間続けて観測すると、地球の位置が変わるため、より遠方にある背景の天体に対して対象の恒星の位置が動いて見える(年周視差)。この恒星の見かけの動きの最大の角度は地球の軌道の大きさと恒星までの距離で決まり、地球の軌道の大きさにほぼ対応する天文単位を用いて星までの距離を測ることができる。この関係を用いて恒星までの距離の単位として用いられるパーセクが定義されている。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "しかし、年周視差から距離を求めることができるのは近距離の天体に限られるため、より遠い距離を測るには様々な別の方法を使うことになる。その際、それぞれの手法が使える距離範囲はやはり限定されているため、年周視差で測れない距離は A という別の方法で、A で測れない距離は B の方法で、B で測れない距離は C の方法で、というように、別々の方法を用いていた。こうした方法は測定技術が向上するとともに梯子(はしご)の段のようにそれぞれの手法を「つないで」遠方の距離を決めていくことができるようになった。この梯子の一段目に当たるのが地球の軌道の大きさである。(詳細は「宇宙の距離梯子」を参照)",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "万有引力定数 G の不確かさから太陽質量 Ms そのものは太陽系の質量の単位としての座を明け渡す気配はないものの、現代では長さの単位に関しては地上と天体の梯子の段はひとつにまとまりつつある。1960年代以降、太陽系の惑星や月までの距離をレーダーやレーザー、VLBI を用いて直接に測定するという新しい観測技術が出現した。これら電磁波の「ものさし」の登場によって地上の単位系の長さと太陽系の単位系の長さは今や 1 m 以下の精度で結び付けられるようになった。これに伴って天文単位の永年変化のような、従来ほとんど無視しうるほどのものであった影響が現実問題になりつつある。こうしたときに、太陽質量 Ms の値が天体の運動だけでなく「ものさし」であるべき天文単位にも影響するという定義はメリットに乏しく、天文単位の大きさをメートルに対して固定するといった定義の見直しが避けられないという声があがっていた。これを受けて、国際天文学連合は2012年の新たな定義で、天文単位をメートルに対して固定した値として定めることとなった。これとともに、天文単位は観測によって決定される値ではなくなった。",
"title": "天文単位の意義"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2012年以前の定義においては、天文単位の定義が太陽質量 Ms に依存するため、太陽の質量の変化とともに天文単位の値は変化しえた。太陽は核融合により質量の一部をエネルギーに変えて、やがて電磁波として放射し、また大気を太陽風として放出するので、1年あたりおよそ10兆分の1の比率で質量を失っていると見積もられている。こうした減少はそのまま太陽からの重力の減少を意味し、すべての惑星の軌道半径と公転周期を増加させる。一方、それまでの天文単位の仮想的なテスト粒子はガウス年という一定の公転周期が保障されると定義されているため、重力の減少とともに粒子は内側の軌道を取らねばならず、天文単位の大きさ A が太陽質量 Ms の3乗根に比例するため、質量の減少の比率の 1/3 の比率で天文単位の大きさは減少する。この天文単位の大きさの減少は理論上100年あたり 0.4 m ほどに相当するとされる。",
"title": "値の永年変化と増大の謎"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "しかし、2004年にロシアのクラシンスキーとブルンベルクは、測定された天文単位の値が実際には100年あたり 15 ± 4 m の割合で増大しているとみられることを報告した。その後、類似の増大は天体暦の専門家であるアメリカのスタンディッシュやロシアのピチェーヴァによっても確認された。",
"title": "値の永年変化と増大の謎"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "この謎は2010年現在原因不明であり、またその意味するところも把握しにくい。クラシンスキーらの報告はレーダーなどを用いた火星、金星、水星などの距離測定により得られたメートルと天文単位の関係のデータの蓄積から明らかになってきたものである。レーダーでの距離計測は、電波の往復時間を精密に測定することで行われるので、問題は、天体暦から予測されるこの往復時間の非常にゆっくりとした増大と捉えられ、レーダー観測によるメートル単位では惑星軌道が拡大しているように見える。一方で、惑星の動き自体は天文単位系で表される天体暦とよく一致しており、天文単位でみれば惑星の軌道も運動も拡大を示していない。このため、奇妙にも天文単位がメートルに対して極めてゆっくりと拡大していると表現されることになった。これまでに太陽質量や万有引力定数の変化、宇宙膨張の影響などが検討されてきたが、いずれもその効果はあったとしても十分小さいと考えられており、満足な説明には至っていない。原因についてさまざまな議論が継続しており、弘前大学の三浦らは惑星の距離の増大が、太陽との潮汐摩擦のためではないかと提案している。これは地球の潮汐により月の軌道が遠ざかることと類似した機構である。",
"title": "値の永年変化と増大の謎"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "太陽や月までの距離を知る試みは古代ギリシア時代から行われてきたが、天上の単位と地上の単位とを結びつけることは容易ではなかった。太陽と月との距離の比を求めたアリスタルコスも、それらの日常の単位での値を得ていない。",
"title": "天体の距離の探求"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス(トレミー)とパップスは、紀元前2世紀のギリシアのヒッパルコスが日食の見え方が各地で異なることを利用して地球の半径を基準とした月や太陽までの距離を見積もっていたことに言及している。ヒッパルコスが求めた太陽までの距離は地球半径の 490 倍以上というものであった(実際の値は約 23500 倍)。ヒッパルコスの著作そのものは現存しておらず、その具体的な算出方法は伝えられていないが、断片的言及から現在ではその巧妙な幾何学的方法がほぼ再構築されている。",
"title": "天体の距離の探求"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "やはりその著作は失われているが、クレオメデスによれば、ポセイドニオスも紀元前90年ごろに月と太陽までの距離を評価している。ポセイドニオスは地球の影を円柱だと考え、月食の影の大きさから月が地球の半分の直径をもつとした。さらに月の見かけの大きさと、知られていた地球の大きさから地上の単位で月までの距離を見積もった。その5百万スタディオンという値は、実際より 2.1 – 2.6 倍過大であった。これは地球の影を円錐だと考えず、月を実際のおよそ2倍の大きさだと見積もったことによる。一方で太陽までの距離の見積もりは根拠に乏しい推測的なものにとどまっている。",
"title": "天体の距離の探求"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2世紀のプトレマイオスは『アルマゲスト』の中で、天球に囲まれた天動説にもとづく詳細な宇宙像を構築した。プトレマイオスはアリスタルコスやヒッパルコスの観測と幾何学的推論、さらに独自の推測をまじえて、太陽や月のみならず、惑星までの距離を見積もっている。そこでは例えば、月の平均距離が地球半径の 48 倍、太陽が 1210 倍、土星が 17026 倍などとされた。こうして確立された宇宙像はギリシアとヘレニズム文化を継承したアラビアへと伝わった。中でも9世紀の天文学者アル=バッターニーはプトレマイオスの宇宙像を詳細に研究し、太陽の平均距離が 1108 倍などとしている。これらの宇宙像はその後ヨーロッパへと伝わり、中世にかけて大きな権威をもつものとみなされることになった。",
"title": "天体の距離の探求"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "スロベニア語版 Astronomska enota の一部を日本語化したものである。",
"title": "天体の距離の探求"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2014年以降の国際単位系における単位記号は、au であるが、Unicode における記号は AU のままである。",
"title": "天体の距離の探求"
}
] |
天文単位は、長さの単位で、定義定数であり、正確に 149597870700 m である。非SI単位であるが2014年3月にSI併用単位(SI単位と併用できる非SI単位)に位置づけられた。地球と太陽の平均距離に由来し、主として天文学で用いられる。
|
{{単位
|名称=天文単位
|読み=てんもんたんい
|フランス語=Unité astronomique
|英語=Astronomical unit
|英字=
|中国語=天文單位
|画像=[[File:Astronomical unit.png|300px]]<br/>地球から太陽までの距離(灰色の線)が天文単位の由来である。
|記号=au
|度量衡=
|単位系=[[非SI単位]]、[[SI併用単位]]
|物理量=[[長さ]]
|SI={{val|149597870700|u=m}}
|組立=
|定義={{val|149597870700|u=m}}
|派生単位=
|由来=地球と太陽との平均距離
|語源=
}}
'''天文単位'''(てんもんたんい、{{lang-en-short|astronomical unit}}、記号: '''au''')は、[[長さの単位|長さ]]の単位で<ref>2006年の[[国際単位系]]文書では、「距離(distance)の単位」とされていたが、2019年の[[国際単位系]]文書では、「長さ(length)」の単位となった。
</ref>、定義定数であり、正確に {{val|149597870700|ul=m}} である。[[非SI単位]]であるが2014年3月に[[SI併用単位]]([[SI単位]]と併用できる[[非SI単位]])に位置づけられた。[[地球]]と[[太陽]]の平均距離に由来し、主として[[天文学]]で用いられる。
== 単位記号 ==
天文単位の[[単位記号]]は、au である<ref>SI国際文書第9版(2019) p.114、表8</ref><ref name="SIBrochure2019">{{cite web|url=https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9.pdf#page=147|title=9th edition of the SI Brochure (French and English) 2019|page=145|date=2019-05-20|accessdate=2020-04-20|publisher=[[国際度量衡局|BIPM]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/pamphlet/si/SIdata202004.pdf|title=国際単位系 (SI) は世界共通のルールです|page=5|publisher=[[産業技術総合研究所]][[計量研究所|計量標準総合センター]]|accessdate=2020-04-20}}表-F SI単位と併用できる非SI単位</ref>。
なお、2014年3月以前のSIにおける[[単位記号]]は ua であった<ref>[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf#page=39 国際文書第8版 (2006) 国際単位系(SI)日本語版] (SI補遺による修正前の)p. 38の表7における単位記号は ua となっている。</ref>。このため、JIS Z8000-3:2014 ([[ISO 80000-3]]:2006)「量及び単位ー第3部:空間及び時間」も、2014年の[[BIPM]]の決定以前のJIS規格であり、ua を用いている<ref>{{Cite jis|Z|8000-3|2014}} (ISO 80000-3:2006)、p. 9、付属書 C(参考)、その他の非SI単位及びその換算率 3-1.C.b 記号が 「ua」 となっている。 換算率として {{val|1.49597870691|(30)|e=11|u=m}} を採用しており、データとしても古いものである。なお、標準不確かさを示す(30)の値は疑問である。</ref>。
これら以外にも 2014年以前の文献には、a.u. といった表記もみられる。また各国語の表記に基づいた略号が用いられることも多く、例えばドイツ語では AE の略号が用いられる。
== 由来 ==
天文単位は、[[地球]]と[[太陽]]との平均距離に由来している。すなわち、太陽からのニュートン的重力のみを受けガウス年を周期として円運動するテスト粒子の軌道半径に由来するものである。[[太陽系]]内の[[惑星]]などの天体間の距離を表すために広く用いられており、太陽系内の天体の運動を表す[[天体暦]]においては、その基礎となる[[天文単位系]]で長さの単位となる重要なものである。
地球(より正確には、地球と[[月]]を「自転する一つの質量体」と捉えた際の[[重心]])の公転軌道は完全な[[円 (数学)|円]]ではなく、[[楕円]]形<ref>実際の惑星軌道は、他の天体重力の影響([[摂動 (天文学)|摂動]])を受けてさらに歪んでいる</ref>をしている。このため、当初「'''地球軌道の[[軌道長半径]]'''(楕円の長径の半分)」とされた。
== 定義の変遷 ==
=== 1976年の定義 ===
[[1976年]]のIAU総会において、地球軌道の実測値から'''日心重力定数''' ''GMs'' に基づき算出される値として定義づけられた。すなわち、[[万有引力定数]] ''G'' と[[太陽質量]] ''Ms'' との積([[万有引力定数#万有引力定数と質量の積]])である日心重力定数の 1/3 乗([[立方根|3 乗根]])に比例する値 ''A'' として、
:<math>A^3 = \left(\frac{D}{k}\right)^2 GMs</math>
と定められた。
ここで ''k'' は'''[[ガウス引力定数]]'''と呼ばれる[[定義定数]](実測値ではなく、約束事として決められた固有の値)で ''k'' = {{val|0.01720209895}} である。また ''D'' は 1 日の時間の長さ({{val|86400|ul=s}})を表す<ref>{{cite web
| title= XVIth General Assembly
| year= 1976
| work= Resolutions adopted at the General Assemblies
| publisher= International Astronomical Union
| url= https://www.iau.org/static/resolutions/IAU1976_French.pdf | format= PDF
| accessdate= 2010-11-07
}} Recommendation 1: IAU (1976) System of Astronomical Constants.</ref>。
これは、地球の替わりに「仮想的な粒子」(以下テスト粒子)を置いて、その運動を基準としていると解釈できる。いま、テスト粒子が太陽からの[[ニュートン力学]]的な重力以外の力を受けず、重さは無視でき、その軌道は完全に円であるとする。この時テスト粒子は、太陽に近ければ強い力を受けて速く公転し、遠ければ弱い力を受けてゆっくりと公転する。そうした軌道のうち、[[公転周期]] ''P'' が ''P'' = (2<span style="font-family:serif;">π</span><!--font-famiy指定はブラウザの設定によりпのような字体になりにくくするため-->/''k'') ''D'' = {{val|365.2568983|end=...}} × ''D'' となる円軌道の半径が 1 天文単位となる。
このとき ''k'' の値はテスト粒子が動く[[角速度]]を[[ラジアン]]/日単位で表しており、上式は[[ケプラーの法則|ケプラーの第3法則]]の関係 ''A''<sup>3</sup> (2<span style="font-family:serif;">π</span>/''P'')<sup>2</sup> = ''GMs'' に他ならない。この公転周期 ''P'' は'''[[ガウス年]]'''と呼ばれ、地球の実際の公転周期である[[恒星年]]に近いものとなるよう定められているため、結果としてこの定義においても天文単位は地球と太陽の平均距離に近いものとなる<ref>国際単位系 (SI) 8版 (2006), 表7 注(d) (p. 38).</ref>。
こうした定義の変更により、地球の軌道長半径は 1 au ではなくなった。現在の暦で地球の軌道を楕円軌道として近似したときの値はおよそ {{val|1.00000261|u=au}} となる<ref>[[1800年]]から[[2050年]]までの地球の軌道を楕円軌道として近似したときの値: {{cite web
| author= Standish, E. M.
| title= Keplerian Elements for Approximate Positions of the Majore Planets
| work= Solar System Dynamics
| publisher= NASA JPL
| url= http://ssd.jpl.nasa.gov/txt/aprx_pos_planets.pdf | format= PDF
| accessdate= 2010-11-07
}}</ref>。
=== 2012年7月まで ===
実測値に基づく定義が、天体暦の構築にともなって行われてきた。IAUの[[2009年]]天文定数によると、''A'' の値は
:<math>A = 1\;\mbox{AU} = 149\;597\;870\;700(3)\;\mbox{m} = 1.495\;978\;707\;00(3)\times10^{11}\;\mbox{m}</math>
と与えられている。括弧内の数字は最後の桁を単位とする[[標準不確かさ]]を表す<ref>IAU 2009 General Assembly, Resolution B2. {{cite web
|title = IAU WG on NSFA: Current Best Estimates
|year = 2009
|url = http://maia.usno.navy.mil/NSFA/CBE.html
|accessdate = 2010-11-09
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091208011235/http://maia.usno.navy.mil/NSFA/CBE.html
|archivedate = 2009年12月8日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}<br />{{cite journal
| author= Pitjeva, E. V. and E. M. Standish | year= 2009
| title= Proposals for the masses of the three largest asteroids, the Moon-Earth mass ratio and the Astronomical Unit
| journal= Celestial Mechanics and Dynamical Astronomy
| volume=103 | issue= 4 | pages= 365–372
| doi= 10.1007/s10569-009-9203-8
}} [[時刻系]]として[[太陽系力学時]] (TDB) を用いた値。</ref>。
天体暦では、力学法則にもとづく理論的計算値が、太陽系内の天体のさまざまな観測データを最もよく説明できるように、惑星の質量(太陽質量 ''Ms'' に対する質量比)や太陽の[[扁平率]]などの天文定数を同時に決定する。天文単位の大きさ ''A'' の決定もこのとき同時に行われる。実質的には、メートルと天文単位との関係づけに最も影響を及ぼすものは近距離の惑星のレーダー測定による観測データであり、このとき暦が理論的に予測する惑星表面までの天文単位距離 ''r''<sub>theo</sub> と電波が片道で要する時間の測定値 ''t''<sub>obs</sub> とは、
:<math>A = \frac{c\,t_\mathrm{obs}}{r_\mathrm{theo}}</math>
の関係で結ばれることになる。ただし、''c'' は真空中の[[光速度]]を表す<ref>荒木田・福島 (2008) pp. 518–521.</ref>。
=== IAUの決議とSIの定義 ===
[[国際度量衡委員会]] (CIPM) は2014年3月に、下記の[[国際天文学連合]](IAU)総会の決議に基づき、天文単位を「[[国際単位系]] (SI) 単位と併用される非SI単位」([[SI併用単位]])に位置づけ、その値を正式に{{val|149597870700|u=m}} とした{{R|sisupplement2014}}。これにより、天文単位は分・時・日、度・分・秒、ヘクタール、リットル、トン・ダルトン、電子ボルト、ネーパ・ベル・デシベルと並ぶ、「[[SI併用単位#SI併用単位|SIと併用される非SI単位]]」となった。
==== IAUの決議 ====
[[2012年]][[8月]]の第28回IAU総会決議B2<ref name="IAU2012">{{cite web|url=http://www.iau.org/static/resolutions/IAU2012_English.pdf|title= RESOLUTION B2, recommends|publisher=[[国際天文学連合|IAU]]|accessdate=2020-04-20}}天文単位の長さに関する再定義</ref>は次のように推奨した。
* 天文単位の値を、正確に {{val|149597870700|u=m}} とする(従来の ±3 m の誤差はなくなった)。
* 上記の値は、すべての[[時刻系]](TCB, TDB, TCG, TTを含めて)において適用される。
* [[ガウス引力定数]] ''k'' は、[[天文定数]]系から削除される。
* [[日心重力定数]] ''GMs'' の値は、観測によって決定される。
* 天文単位の[[単位記号|記号]]は、唯一「au」のみを用いる。
以前は、天文単位は、SI併用単位(ただし'''数値が実験的に得られるもの''')<ref>SI国際文書第8版(2006)、p.38、表7</ref>との位置づけであったが、この2012年の決議により、天文単位は定義定数となり、2014年以降の国際単位系の国際文書において、[[SI併用単位#SI併用単位|SI併用単位]]となった。
== 天文単位の意義 ==
太陽系内の惑星や彗星などの天体間の距離は天文単位を用いることで、概して扱いやすい大きさの値で表すことができる。
例えば、[[火星]]が最も地球に接近するときの両者の距離は 0.37 au ほどであり、[[土星]]までは太陽からおよそ 9.5 au、最も遠い惑星の[[海王星]]までは太陽からおよそ 30 au となる。およそ 30 au から 100 au の範囲には[[冥王星]]を始めとする[[太陽系外縁天体]]が分布しているが、[[セドナ (小惑星)|セドナ]]は[[遠日点]]が 1000 au 近くにまで及ぶ。
太陽系の外縁であり[[彗星]]のふるさとと思われている[[オールトの雲]]は数万天文単位あたりに広がっていると想定されており、通常このあたりが天文単位が用いられる限界である。恒星間の距離を表すためには[[パーセク]]や[[光年]]が用いられる。太陽系に最も近い恒星である[[プロキシマ・ケンタウリ]]までの4.2光年を天文単位で表すと、約{{val|270000|u=au}} と桁が大きくなる。
また、地球から太陽までの実際の距離は1年の内におよそ 0.983 – 1.017 au の範囲で変化する。
<div style="margin-left:2em">{{天文学の長さの単位}}</div>
=== 太陽系のものさし ===
[[ファイル:Aristarco.png|thumb|right|200px|アリスタルコスは月がちょうど半月に見えるときの地球 T から見た太陽 S と月のなす角 β を測定することによって、太陽までの距離と月までの距離の比を求めた。この比を求めるためには、地上の単位は必要としない。]]
紀元前3世紀に[[アリスタルコス]]は、たくみな推論と観測により太陽は月の 18 – 20 倍遠くにあると結論した。観測精度が悪くその値は実際とは大きく異なったものであったが、その幾何学的な推論は正しいものであった。こうした比だけからは天体までの具体的な距離を知ることはできない。しかし、太陽までの距離を天体の「ものさし」、天文単位、として長さの単位とみなすなら、アリスタルコスは地上のものさしに頼ることなく月までの距離を天文単位で初めて科学的に求めたことになる<ref>{{cite web
| author= O'Connor, J. J. and E. F. Robertson
| title= Aristarchus of Samos
| year= 1999
| url= http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Aristarchus.html
| publisher= School of Mathematics and Statistics, University of St Andrews, Scotland
| accessdate= 2010-11-09
}}<br />{{Cite web|和書
| author= 岩本卓也
| title= 太陽までの距離: 太陽までの距離を測るアリスタルコス (Aristarchus) の実験
| year= 2006
| url= http://www.takayaiwamoto.com/Earth_Moon_Sun/ja_Distance_To_Sun.html
| accessdate= 2010-11-09
}} Van Heiden (2005) pp. 5–7.</ref>。
17世紀の[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]もまた観測データと幾何的関係を用い、試行錯誤と複雑な計算を繰り返しながら地球の軌道に対する[[火星]]の軌道をほぼ正しく再構成して見せた<ref>{{Cite web|和書
| author= 庭田茂範
| title= ケプラーによる地球・火星軌道決定法
| work= インターネット・JAVAを利用した科学教育教材の開発と実践: 天上の法則の形成史と回転系におけるJAVA活用
| publisher= 新潟大学大学院教育学研究科
| year= 2000
| url= http://kakuda.ed.niigata-u.ac.jp/semi/ob/thesis/99niwata_thesis2-21/space/kepler/kepler2.html
| accessdate= 2010-11-09
}}</ref>。ケプラーの努力によって惑星の間の運動の相対的関係がよく記述できるようになり、ほどなく[[ニュートン力学]]によってその背後の力学的仕組みも明らかとなった。仕組みが知られることによってケプラー的な運動との細かな食い違いを知ることもできるようになり、その後数世紀かけて[[天体力学]]は驚くほどの成功を収めることになった。
こうして惑星の動きは精密に予測できるようになったものの、一体それらの天体が地球からどの程度離れているかや、太陽や地球がどの程度の質量をもつのかをメートルや[[キログラム]]のような我々が地上で使っている馴染み深い単位を使って精度よく知るのにはやはり困難が伴った。しかし、その具体的な値を精度よく知る必要もなかった。アリスタルコスと同様に、地上のものさしに頼らなくても、太陽系そのものを基準とすれば、すなわち、メートルの代わりに天文単位を、キログラムの代わりに[[太陽質量]]を用いさえすれば惑星の動きは非常に正確に測定でき予測も可能であった。例えば、19世紀前半に天文学者たちが角度の1[[分 (角度)|分]](1[[度 (角度)|度]]の 1/60)に満たない[[天王星]]の位置の予測とのずれに頭を悩ませていたときも、それは惑星の質量やそこまでの距離が日常の単位でどれだけであるかということとは無関係の問題であり、天文学者はそのずれの原因として[[海王星]]を発見することができた。よって、天文学にとって長さの単位として天文単位のような地上とは違う単位を用いるのは自然なことでもあり必然でもあった。ここに天文単位が天文学で用いられてきた第一の意義がある。
=== ガウスの天文単位系 ===
太陽系内の運動を精度よく記述するためには地上とは違う単位が必要だという要請の元、[[1809年]]、[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]は、地球の軌道長半径を長さの単位 ''A''、太陽質量を質量の単位 ''S''、地球の1日を時間の単位 ''D'' とする単位系を与え、太陽系の運動を記述する基礎とした。このとき導入された[[ガウス引力定数]] ''k'' はこの単位系で表した[[万有引力定数]]の平方根となるとともに、1日あたり地球が太陽をめぐる平均角を[[ラジアン]]単位で表すことになった。この単位系が[[1938年]]に国際天文学連合による'''[[天文単位系]]'''と天文単位の概念に直接引き継がれた。天文単位系では、'''長さの天文単位''' ''A'' のほかに太陽質量 ''S'' を'''質量の天文単位'''、1日の時間の長さ ''D''、すなわち 24×60×60 s = {{val|86400|u=s}} を'''時間の天文単位'''と呼ぶ<ref>{{cite web
| url=http://www.iau.org/public_press/themes/measuring/
| title=The IAU and astronomical units
| work=Measuring the Universe, Public and Press
| publisher=IAU
| accessdate=2010-02-08
}}</ref>。ただし普通は質量と時間の天文単位が天文単位の名で参照されることはなく、単に天文単位という場合には長さの天文単位を指す。
=== 距離の梯子 ===
天文単位は太陽系だけでなく、より遠くの恒星までの距離を定める長さの基準のひとつともなった。距離を測るための最も単純明快な方法は、異なる2地点から対象を観測し、その方向の差([[視差]])と2点間の距離とから、三角形の[[幾何学]]を用いて対象までの距離を決めるという[[三角測量]]の方法である。天文学では比較的近い距離にある[[恒星]]までの距離を測る方法としてこの方法を用いる。同じ恒星を地球から1年間続けて観測すると、地球の位置が変わるため、より遠方にある背景の天体に対して対象の恒星の位置が動いて見える([[年周視差]])。この恒星の見かけの動きの最大の角度は地球の軌道の大きさと恒星までの距離で決まり、地球の軌道の大きさにほぼ対応する天文単位を用いて星までの距離を測ることができる。この関係を用いて恒星までの距離の単位として用いられる[[パーセク]]が定義されている。
しかし、年周視差から距離を求めることができるのは近距離の天体に限られるため、より遠い距離を測るには様々な別の方法を使うことになる。その際、それぞれの手法が使える距離範囲はやはり限定されているため、年周視差で測れない距離は A という別の方法で、A で測れない距離は B の方法で、B で測れない距離は C の方法で、というように、別々の方法を用いていた。こうした方法は測定技術が向上するとともに[[梯子]](はしご)の段のようにそれぞれの手法を「つないで」遠方の距離を決めていくことができるようになった。この梯子の一段目に当たるのが地球の軌道の大きさである。(''詳細は「[[宇宙の距離梯子]]」を参照'')
=== 薄れた意義 ===
万有引力定数 ''G'' の不確かさから太陽質量 ''Ms'' そのものは太陽系の質量の単位としての座を明け渡す気配はないものの、現代では長さの単位に関しては地上と天体の梯子の段はひとつにまとまりつつある。[[1960年代]]以降、太陽系の惑星や月までの距離を[[レーダー]]や[[レーザー]]、[[超長基線電波干渉法|VLBI]] を用いて直接に測定するという新しい観測技術が出現した。これら電磁波の「ものさし」の登場によって地上の単位系の長さと太陽系の単位系の長さは今や 1 m 以下の精度で結び付けられるようになった。これに伴って天文単位の[[永年変化]]のような、従来ほとんど無視しうるほどのものであった影響が現実問題になりつつある。こうしたときに、太陽質量 ''Ms'' の値が天体の運動だけでなく「ものさし」であるべき天文単位にも影響するという定義はメリットに乏しく、天文単位の大きさをメートルに対して固定するといった定義の見直しが避けられないという声があがっていた<ref>{{cite web
| url=http://www.newscientist.com/article/dn13286
| author= Than, K. | date=2008-02-06
| title=‘Astronomical unit’ may need to be redefined
| work=New Scientist
| accessdate=2010-02-08
}}<br />{{cite conference
| author= Capitaine, N. and B. Guinot | year=2008
| title= The astronomical units
| booktitle=Proceedings of the {{lang|fr|“Journées 2008 Systèmes de référence spatio-temporels”}}
| pages= 73–74
| url=http://syrte.obspm.fr/jsr/journees2008/Capitaine2.pdf | format=PDF
}}<br />{{cite web
| author= Capitaine, N., B. Guinot, and S. Klioner
| title= Proposal for the redefinition of the astronomical unit of length (ua) through a fixed relation to the SI metre
| work= Scientific programme, Proceedings, {{lang|fr|Journées 2010 “Systèmes de référence spatio-temporels”}}
| publisher= {{lang|fr|SYRTE, l'Observatoire de Paris}}
| url= http://syrte.obspm.fr/jsr/journees2010/powerpoint/capitaine.pdf | format= PDF
| accessdate= 2010-11-08
}}</ref>。これを受けて、国際天文学連合は2012年の新たな定義で、天文単位をメートルに対して固定した値として定めることとなった。これとともに、天文単位は観測によって決定される値ではなくなった。
== 値の永年変化と増大の謎 ==
{{Unsolved|物理学|天文単位系では惑星の動きが力学法則に従っているのに、レーダー観測では惑星は遠ざかっているというデータが得られており、メートルに対して天文単位が増加しているようにみえる。 この現象はどう説明するのか?}}
2012年以前の定義においては、天文単位の定義が太陽質量 ''Ms'' に依存するため、太陽の質量の変化とともに天文単位の値は変化しえた。太陽は[[核融合]]により質量の一部をエネルギーに変えて、やがて[[電磁波]]として放射し、また大気を[[太陽風]]として放出するので、1年あたりおよそ10兆分の1の比率で質量を失っていると見積もられている。こうした減少はそのまま太陽からの重力の減少を意味し、すべての惑星の軌道半径と公転周期を増加させる。一方、それまでの天文単位の仮想的なテスト粒子はガウス年という一定の公転周期が保障されると定義されているため、重力の減少とともに粒子は内側の軌道を取らねばならず、天文単位の大きさ ''A'' が太陽質量 ''Ms'' の3乗根に比例するため、質量の減少の比率の 1/3 の比率で天文単位の大きさは減少する。この天文単位の大きさの減少は理論上100年あたり 0.4 m ほどに相当するとされる<ref>{{cite journal
| author= Noerdlinger, P. D. | year=2008
| title=Solar mass loss, the astronomical unit, and the scale of the solar system
| journal=(preprint)<!--Celestial Mechanics and Dynamical Astronomy-->
| volume= | pages=
| doi=
}} (arXiv: [http://arxiv.org/abs/0801.3807 0801.3807])</ref>。
しかし、[[2004年]]にロシアの[[ゲオルギー・クラシンスキー|クラシンスキー]]<ref>{{lang-ru-short|Г. А. Красинский}}</ref>と[[ヴィクトル・ブルンベルク|ブルンベルク]]<ref>{{lang-ru-short|В. А. Брумберг}}</ref>は、測定された天文単位の値が実際には100年あたり 15 ± 4 m の割合で増大しているとみられることを報告した<ref>{{cite journal
| author= Krasinsky, G.A. and V. A. Brumberg | year=2004
| title=Secular increase of astronomical unit from analysis of the major panet motions, and its interpretation
| journal=Celestial Mechanics and Dynamical Astronomy
| volume=90 | pages=267–288
| doi=10.1007/s10569-004-0633-z
| url=http://iau-comm4.jpl.nasa.gov/GAKVAB.pdf | format=PDF
}}</ref>。その後、類似の増大は天体暦の専門家であるアメリカの[[マイルズ・スタンディッシュ|スタンディッシュ]]<ref>{{lang|en|E. M. Standish}}</ref>やロシアの[[エレーナ・ピチェーヴァ|ピチェーヴァ]]<ref>{{lang-ru-short|Е. В. Питьева}}</ref>によっても確認された<ref>{{Cite web|和書
| author= 荒木田英禎
| title= 天文単位は永年増加するか!? 太陽系天体の精密位置測定からの新たな問題
| year= 2007
| work= 「高精度アストロメトリ観測の時代を迎えた21世紀の天文学」研究会
| publisher= JASMINE ホームページ
| url= http://www.jasmine-galaxy.org/pub/2007/arakida.pdf
| accessdate= 2016-02-07}}</ref><ref>荒木田・福島 (2008) p. 522.</ref>。
この謎は2010年現在原因不明であり、またその意味するところも把握しにくい。クラシンスキーらの報告はレーダーなどを用いた火星、金星、水星などの距離測定により得られたメートルと天文単位の関係のデータの蓄積から明らかになってきたものである。レーダーでの距離計測は、電波の往復時間を精密に測定することで行われるので、問題は、天体暦から予測されるこの往復時間の非常にゆっくりとした増大と捉えられ、レーダー観測によるメートル単位では惑星軌道が拡大しているように見える。一方で、惑星の動き自体は天文単位系で表される天体暦とよく一致しており、天文単位でみれば惑星の軌道も運動も拡大を示していない。このため、奇妙にも天文単位がメートルに対して極めてゆっくりと拡大していると表現されることになった<ref>荒木田・福島 (2008) pp. 521–522.</ref>。これまでに太陽質量や万有引力定数の変化、宇宙膨張の影響などが検討されてきたが、いずれもその効果はあったとしても十分小さいと考えられており、満足な説明には至っていない。原因についてさまざまな議論が継続しており、[[弘前大学]]の三浦らは惑星の距離の増大が、太陽との潮汐摩擦のためではないかと提案している<ref>{{cite web
| author= Beatty, Kelly
| title= Why is the earth moving away from the sun?
| date= 2009-06-01
| work= News
| publisher= Sky and Telescope
| url= http://www.skyandtelescope.com/news/46618862.html
| accessdate= 2010-11-11
}}<br />{{cite journal
| author= Miura, Takaho, Hideyoshi Arakida, Masumi Kasai, and Shuichi Kuramata
| title= Secular increase of the Astronomical Unit: a possible explanation in terms of the total angular momentum conservation law
| journal= Publications of the Astronomical Society of Japan
| year= 2009 | volume= 61 | issue= 6 | pages= 1247–1250
}} (arXiv: [http://arxiv.org/abs/0905.3008 0905.3008])</ref>。これは[[潮汐加速|地球の潮汐により月の軌道が遠ざかること]]と類似した機構である。
== 天体の距離の探求 ==
=== 古代ギリシアとアラビア ===
太陽や月までの距離を知る試みは古代ギリシア時代から行われてきたが、天上の単位と地上の単位とを結びつけることは容易ではなかった。太陽と月との距離の比を求めた[[アリスタルコス]]も、それらの日常の単位での値を得ていない<ref>Van Helden (1985) p. 9.</ref>。
[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]](トレミー)と[[パップス]]は、紀元前2世紀のギリシアの[[ヒッパルコス]]が[[日食]]の見え方が各地で異なることを利用して地球の半径を基準とした月や太陽までの距離を見積もっていたことに言及している。ヒッパルコスが求めた太陽までの距離は地球半径の 490 倍以上というものであった(実際の値は約 {{val|23500}} 倍)。ヒッパルコスの著作そのものは現存しておらず、その具体的な算出方法は伝えられていないが、断片的言及から現在ではその巧妙な幾何学的方法がほぼ再構築されている<ref><!--再構築を行っている論文:未確認のためコメントアウト{{cite journal
| author= Swerdlow, Noel
| title= Hipparchus on the distance of the sun
| year= 1969
| journal= Centaurus
| volume= 14 | issue= 1 | pages= 287–305
| doi= 10.1111/j.1600-0498.1969.tb00145.x
}}-->{{cite book|author=Neugebauer, Otto|title=A History of Ancient Mathematical Astronomy|publisher=Springer-Verlag|pages=pp.325–326|volume=Book 1 (3 volumes)|location=New York|isbn=0-387-06995-X}}<br>
Van Helden (1985) pp. 10–13.</ref>。
やはりその著作は失われているが、[[クレオメデス]]によれば、[[ポセイドニオス]]も紀元前90年ごろに月と太陽までの距離を評価している。ポセイドニオスは地球の影を円柱だと考え、月食の影の大きさから月が地球の半分の直径をもつとした。さらに月の見かけの大きさと、知られていた地球の大きさから地上の単位で月までの距離を見積もった。その5百万[[スタディオン]]という値は、実際より 2.1 – 2.6 倍過大であった<ref>1 スタディオンを 160 – 200 メートルとした場合。</ref>。これは地球の影を円錐だと考えず、月を実際のおよそ2倍の大きさだと見積もったことによる。一方で太陽までの距離の見積もりは根拠に乏しい推測的なものにとどまっている<ref>Van Helden (1985) pp. 13–14.</ref>。
2世紀のプトレマイオスは『[[アルマゲスト]]』の中で、[[天球]]に囲まれた[[天動説]]にもとづく詳細な宇宙像を構築した。プトレマイオスはアリスタルコスやヒッパルコスの観測と幾何学的推論、さらに独自の推測をまじえて、太陽や月のみならず、惑星までの距離を見積もっている。そこでは例えば、月の平均距離が地球半径の 48 倍、太陽が 1210 倍、土星が {{val|17026}} 倍などとされた<ref>Van Helden (1985) pp. 16–27.</ref>。こうして確立された宇宙像はギリシアとヘレニズム文化を継承したアラビアへと伝わった。中でも9世紀の天文学者[[バッターニー|アル=バッターニー]]はプトレマイオスの宇宙像を詳細に研究し、太陽の平均距離が 1108 倍などとしている<ref>Van Helden (1985) pp. 31–32.</ref>。これらの宇宙像はその後ヨーロッパへと伝わり、中世にかけて大きな権威をもつものとみなされることになった。
=== 太陽までの距離の観測の年表 ===
{{未検証|section=1|date=2010年2月}}
スロベニア語版 {{lang|sl|[[:sl:Astronomska enota|Astronomska enota]]}} の一部を日本語化したものである。
{| class="wikitable"
|-
!太陽までの平均距離<sup>*</sup><br />(地球の軌道長半径)
!観測年
!観測者
!観測方法
!出典
|-
|月の18 – 20倍
|紀元前265年?
|[[アリスタルコス]]
|月の[[離角]]から
|[a]
|-
|490 地球半径以上
|紀元前136年?
|[[ヒッパルコス]]
|日食の観測から
|[a]
<!--根拠に乏しい推測|-
|10 000 地球半径
|紀元前90年ごろ
|[[ポセイドニオス]]
|月と太陽が同じ速度と仮定
|[a]-->
|-
|1210 地球半径
|150年?
|[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]
|複合的な幾何学的方法
|[a]
|-
|1108 地球半径
|890年頃
|[[バッターニー|アル=バッターニー]]
|プトレマイオスの検証
|[a]
<!--以下は未検証-->
|-
|87.7
|1630年頃
|[[ゴドフロイ・ウェンデリン]]
|アリスタルコスの方法
|?
|-
|93.8
|[[1639年]]
|[[エレミア・ホロックス]]
|[[金星の太陽面通過]]
|?
|-
|40
|[[1665年]]
|[[ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ]]
|
|?
|-
|109.8
|[[1672年]]
|[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]
|
|?
|-
|138.4
|1672年
|ジョヴァンニ・カッシーニ<br>[[ジョン・フラムスティード]]
|
|?
|-
|
|[[1716年]]
|[[エドモンド・ハレー]]
|
|?
|-
|138.5 (129.2)
|[[1752年]]([[1751年]])
|[[ニコラ・ルイ・ド・ラカーユ]]
|
|?
|-
|153.1(?)
|[[1761年]]
|[[ジェームズ・ショート]]
|
|?
|-
|152.500
|[[1825年]]
|[[ヨハン・フランツ・エンケ]]
|
|?
|-
|149.50
|[[1862年]]
|[[レオン・フーコー]]
|
|?
|-
|146.83<br>147.32
|1862年
|
|
|?
|-
|147.49
|[[1863年]]
|[[ペーター・ハンゼン]]
|
|?
|-
|147,00
|1863年
|[[ユルバン・ルヴェリエ]]
|
|?
|-
|148.990<br>153.5 ± 6.65
|[[1864年]]
|[[カール・ポワルキー]]
|
|?
|-
|
|[[1874年]]
|[[ジョージ・エアリー]]<br>[[デービッド・ギル]]
|
|?
|-
|149.84
|[[1877年]]
|ディビッド・ギル
|
|?
|-
|149.50±0.17
|[[1879年]]
|[[アルバート・マイケルソン]]<br>[[サイモン・ニューカム]]
|
|?
|-
|150.184±0.686<br>148.179±2.002
|[[1882年]]
|ジョージ・エアリーら
|
|?
|-
|
|[[1889年]]
|デービッド・ギル
|
|?
|-
|149.670
|[[1895年]]
|サイモン・ニューカム
|
|?
|-
|149.500 ± 0.050
|[[1896年]]
|[[国際天文学連合|IAU]]
|
|?
|-
|149.464
|[[1901年]]
|デービッド・ギル
|
|?
|-
|149.397 ± 0.016
|1901年
|[[アーサー・ヒンクス]]
|
|?
|-
|
|[[1912年]]
|S. S. Hug
|
|?
|-
|149.413
|[[1924年]]
|[[ハロルド・スペンサー=ジョーンズ]]
|
|?
|-
|149.447
|[[1927年]]
|[[ウィレム・ド・ジッター]]
|
|?
|-
|149.462 ± 0.060
|[[1928年]]
|ハロルド・スペンサー=ジョーンズ
|
|?
|-
|149.566 ± 0.034
|[[1929年]]
|ハロルド・スペンサー=ジョーンズ
|
|?
|-
|149.668 ± 0.017
|[[1931年]]
|ハロルド・スペンサー=ジョーンズ
|
|?
|-
|149.549 ± 0.221
|1911年–[[1936年]]
|[[グリニッジ天文台]]
|
|?
|-
|149.453
|[[1938年]]
|ウィレム・ド・ジッター
|
|?
|-
|149.422 ± 0.119
|[[1941年]]
|[[ウォルター・シドニー・アダムズ]]
|
|?
|-
|149.670
|[[1948年]]
|[[ジェラルド・クレメンス]]
|
|?
|-
|149.550 ± 0.014
|[[1960年]]
|
|パイオニア 5
|?
|-
|149.592 ± 0.006
|[[1961年]]
|
|電波観測
|?
|-
|149.674 ± 0.017
|[[1964年]]
|
|
|?
|-
|149.600
|1964年
|IAU
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|?
|-
|149.598 ± 0.000 680
|
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|電波観測
|?
<!--天文単位の定義が変更されたため同列に並べるべきでなく、とりあえずコメントアウト|-
|149.597 870
|[[1976年]]
|
|IAU
|?
|-
|149.597 870 660
|[[1982年]]
|
|[[ジェット推進研究所|JPL]] DE200
|[b]
|-
|149.597 870 610
|[[1992年]]
|
|IERS
|[c]
|-
|149.597 870 691
|[[1995年]]
|
|JPL DE403/DE405, EPM2000
|[d]
|-
|-
|bgcolor="#ffffcc"|149.597 870 700<br />± 0.000 000 003<br />23 500 地球半径
|
|
|
|-->
|-
|colspan=4|* 断りのないものは100万 km (10<sup>9</sup> m) 単位<br />[a] - Van Helden (1985)<!--<br />[b] - [http://ssd.jpl.nasa.gov/ DE200/DE403/DE405 天体暦], JPL, Pasadena<br />[c] - IERS<br />[d] - [http://www.ipa.nw.ru/PAGE/EDITION/ENG/engpublish.htm EPM2000 天体暦], IAA, RAS-->
|}
==== 符号位置 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13171|3373|-|SQUARE AU}}
|}
2014年以降の[[国際単位系]]における[[単位記号]]は、au であるが、Unicode における記号は AU のままである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="sisupplement2014">{{cite web
|url=https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si_supplement_2014.pdf#page=15
|date = 2014-06
|title= The International System of Units, Supplement 2014:Updates to the 8th edition (2006) of the SI Brochure
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|accessdate=2020-04-20|publisher=[[国際度量衡局|BIPM]]}}Table6(英語版)</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite web|和書
|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf
|title=国際単位系 (SI) 国際文書第9版(2019年)日本語版
|accessdate=2020-09-26
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|coauthors=(独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター (NMIJ)(訳・監修)
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}}
* {{cite book
| author= BIPM
| title = 9th edition of the SI Brochure (French and English)
| publisher = BIPM
| year = 2019
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}}
* {{cite book |和書
|editor=国際度量衡局|editor-link=国際度量衡局| title= 国際文書第8版(2006年版) 国際単位系 (SI) 日本語版
| others= 訳・監修(独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター
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|ref=SI国際文書第8版(2006)
| accessdate= 2019-10-14
}}
* {{cite journal |和書
| author= 荒木田英禎 | coauthors= 福島登志夫
| title= 地球惑星間距離の永年的変化: 太陽系天体の精密位置計測からの新たな問題提起
| journal= 日本物理學會誌
| year= 2008 | volume= 63 | issue= 7 | pages= 517–523
| naid= 110006825784
}}
* {{cite book
| author= Van Helden, Albert
| title=Measuring the Universe: Cosmic Dimensions, from Aristarchus to Halley
| publisher= University of Chicago Press
| year= 1985
| isbn= 978-0-226-84881-5
}}
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|Astronomical unit}} -->
{{Wiktionary|天文単位}}
* [[計量単位一覧]]
* [[非SI単位]]
* [[SI併用単位]]
* [[長さの比較]]
* [[光年]] - [[天文学]]で使われる長さの単位。
== 外部リンク ==
* [http://hooktail.sub.jp/astronomy/astroMeasure/ 天文単位(AU)を測る]
{{SI units navbox}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんもんたんい}}
[[Category:天文学の長さの単位]]
[[Category:SI併用単位]]
[[Category:軌道]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:物理学の未解決問題]]
|
2003-07-18T06:32:16Z
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11,709 |
豊島園駅
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豊島園駅(としまえんえき)は、東京都練馬区練馬四丁目にある、西武鉄道・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
開業時から2020年8月31日まで23区内有数の遊園地であるとしまえんの最寄駅であった。
西武鉄道の駅には豊島線が、東京都交通局の駅には大江戸線が、それぞれ乗り入れている。豊島線は当駅が終点である。
両駅間は100 mほど離れて立地しており、乗り換え可能な距離だが、連絡運輸は行われておらず、乗継割引運賃の適用や当駅接続の連絡定期券の発売はない。両社局では、連絡運輸の行われている練馬駅での乗り換えを案内している。
双方の駅舎は独立しており、西武鉄道の改札口と都営地下鉄のA2番出入口間は、屋外のとしまえん商店会を経て徒歩で約2分かかる。
かつての都営12号線開業当初の都営地下鉄は普通乗車券の初乗り運賃の適用範囲が3 kmまでで、終端駅の光が丘 - 練馬間はこれを超えていたが、光が丘から豊島園駅までは初乗り範囲だった。しかしその後の運賃改定で初乗り4 kmに変更されて以降は光が丘間 - 練馬間が初乗り範囲に届いたため、乗り換えだけを目的として豊島園駅で下車する理由はほぼ無くなっている。
変型頭端式ホーム1面2線を有する地上駅である。駅番号はSI39。
2008年6月14日の豊島線・東京メトロ副都心線相互直通運転開始に伴うダイヤ改正後は、豊島園行き始発のみが練馬発着の線内運転となる以外は池袋駅から各駅停車のみが運行される。2016年以降、「52席の至福」が土休日ダイヤに当駅へ入線してくる場合もあり、池袋発西武秩父行きとして運転する場合、食材の積み込みなどをここで行うことがある。このほか、当駅到着として同列車が入線する場合もある。これ以前には一部時間帯には線内折り返し列車が存在したほか、平日の朝には準急が運転されていた。
当駅は1960年代半ばまでは「コの字」型2面3線構造とされていたが、この状態では最大6両編成までしか入線できず、池袋線の輸送力増強で各駅停車でも8両編成での運用が増えたことに対応させること、また当時のダイヤ形態では、昼間はホームは1線しか使われていなかったことから、現在のような中央1線を埋めた構造にされた。このため、1面2線ホームとしては非常に幅員が広いのが特徴である。ホームの屋根形状などに当時の名残がみられるほか、2番ホームの向かい側にあたる旧ホームの跡地は広告スペースや花壇として利用されている。
池袋線椎名町 - 桜台間各駅はホーム有効長の10両編成対応工事が施工されたが当駅は未施工であり、練馬方向は住宅街、豊島園方向は駅前広場となっており実質的に対応する用地も確保されていない。池袋発着の各駅停車は8両編成のみでの運行が前提で10両編成への増強計画がないこと、優等列車はダイヤが乱れた際の臨時停車対応のみとしたこと、さらに当駅には定期優等列車の運行がないことから除外された。
自動改札機とは別に降車専用有人改札通路が存在した。これは以前プール営業時や練馬区の成人式などイベント開催でとしまえんの利用者が大幅に見込まれる際に使用されていたが、2009年に施工された耐震補強工事で大幅に縮小。ならびに乗車券自動券売機の減少と定期券自動券売機が設置された。
トイレは改札を入って左側に設置されている。2011年度には、以前有人改札が設置されていた位置に多機能トイレが増設された。
(出典:西武鉄道:駅構内図)
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。駅番号はE 36。改札は地下1階、ホームは地下3階に位置する。駅出入口はA1・A2の2か所ある。
(出典:都営地下鉄:駅構内図)
各年度の1日平均乗降人員数は下表の通りである。
各年度の1日平均乗車人員数は下表の通りである。
現行のバス停留所「豊島園」は豊島園通りにあり大江戸線駅の方が近い。
2000年代初頭まではターミナル機能を持つ折返場が存在した。1970年代前半までは、都営バス・京王バス・関東バスも折返場に乗り入れていたが、池袋線の列車増発から豊島園通りに介在した練馬大踏切が開かずの踏切と化し渋滞が慢性化。このため定時運行確保困難となり、上述3社は運行区間短縮もしくは路線廃止を実施した。以後練馬駅方面へ運行されるバスは国際興業バスと西武バスの一部便のみとなり、折返場を使用するのは始発着便が設定される西武バスの「豊10」練馬北町線・「豊11」成増線のみで、国際興業バスは現在と同様に豊島園通りへ停留所を設置した。
1983年の営団地下鉄(現・東京地下鉄)有楽町線延伸開業による利用者減で「豊10」が1984年に廃止。残存した成増線は従来からの田柄を経由する「豊11」のほかに光が丘を経由する「豊12」を新設。このほかに少数の練馬駅発着便が運行されたが、1991年の都営12号線開業で「豊12」は廃止。2003年には池袋線の連続立体高架が完成により大踏切が廃止。また練馬駅北口のロータリーが完成したことから、「豊11」も練馬駅まで再度延長し「練47」に系統変更を実施。このため折返場は使用中止となり隣接するとしまえん駐車場とともに閉鎖。跡地は「ユナイテッド・シネマとしまえん」となった。
2006年に西武鉄道駅構内で映画『デスノート the Last name』のロケーション撮影が行われた。
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"text": "1983年の営団地下鉄(現・東京地下鉄)有楽町線延伸開業による利用者減で「豊10」が1984年に廃止。残存した成増線は従来からの田柄を経由する「豊11」のほかに光が丘を経由する「豊12」を新設。このほかに少数の練馬駅発着便が運行されたが、1991年の都営12号線開業で「豊12」は廃止。2003年には池袋線の連続立体高架が完成により大踏切が廃止。また練馬駅北口のロータリーが完成したことから、「豊11」も練馬駅まで再度延長し「練47」に系統変更を実施。このため折返場は使用中止となり隣接するとしまえん駐車場とともに閉鎖。跡地は「ユナイテッド・シネマとしまえん」となった。",
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豊島園駅(としまえんえき)は、東京都練馬区練馬四丁目にある、西武鉄道・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 開業時から2020年8月31日まで23区内有数の遊園地であるとしまえんの最寄駅であった。
|
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 豊島園駅
|画像 = Seibu toshimaen sta 2023.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 西武鉄道駅舎(2023年7月)
|よみがな = としまえん
|ローマ字 = Toshimaen
|地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail-metro|coord={{coord|35|44|31|N|139|38|52.6|E}}|title=西武 豊島園駅|coord2={{coord|35|44|31.4|N|139|38|56.8|E}}|title2=東京都交通局 豊島園駅|marker-color=36C|marker-color2=ce045b|frame-latitude=35.742108|frame-longitude=139.648546}}
|電報略号 =
|所属事業者 = [[西武鉄道]]([[#西武鉄道|駅詳細]])<br />[[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])
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|備考 =
}}
'''豊島園駅'''(としまえんえき)は、[[東京都]][[練馬区]][[練馬 (練馬区)|練馬]]四丁目にある、[[西武鉄道]]・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。
開業時から[[2020年]][[8月31日]]まで[[東京都区部|23区内]]有数の[[遊園地]]である[[としまえん]]の最寄駅であった<ref name="close">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200612_toshimaen.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612064845/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200612_toshimaen.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「としまえん」の閉園について(豊島園庭の湯を除く)|publisher=西武鉄道|date=2020-06-12|accessdate=2020-08-31|archivedate=2020-06-12}}</ref>。
== 両社局の駅の関係 ==
西武鉄道の駅には[[西武豊島線|豊島線]]が、東京都交通局の駅には[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]が、それぞれ乗り入れている。豊島線は当駅が終点である。
両駅間は100 [[メートル|m]]ほど離れて立地しており、乗り換え可能な距離だが、[[連絡運輸]]は行われておらず、乗継割引運賃の適用や当駅接続の連絡[[定期乗車券|定期券]]の発売はない。両社局では、連絡運輸の行われている[[練馬駅]]での乗り換えを案内している。
双方の駅舎は独立しており、西武鉄道の[[改札|改札口]]と都営地下鉄のA2番出入口間は、屋外の[[商店街|としまえん商店会]]を経て徒歩で約2分かかる。
かつての都営12号線開業当初の都営地下鉄は普通乗車券の初乗り運賃の適用範囲が3 [[キロメートル|km]]までで、終端駅の[[光が丘駅|光が丘]] - 練馬間はこれを超えていたが、光が丘から豊島園駅までは初乗り範囲だった。しかしその後の運賃改定で初乗り4 kmに変更されて以降は光が丘間 - 練馬間が初乗り範囲に届いたため、乗り換えだけを目的として豊島園駅で下車する理由はほぼ無くなっている。
== 歴史 ==
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[10月15日]]:武蔵野鉄道豊島線の'''豊島駅'''として、[[東京府]][[北豊島郡]][[下練馬村]]字谷戸山6815番地に開業。
* [[1933年]](昭和8年)[[3月1日]]:'''豊島園駅'''に改称。
* [[1945年]](昭和20年)[[9月22日]]:武蔵野鉄道が西武農業鉄道に改称する。
* [[1946年]](昭和21年)[[11月15日]]:西武農業鉄道が西武鉄道に改称する。
* [[1991年]]([[平成]]3年)
** [[3月9日]]:西武鉄道では初めて自動改札機を当駅に設置。
** [[12月10日]]:都営地下鉄12号線の駅が開業。
* [[2000年]](平成12年)[[4月20日]]:都営地下鉄12号線が大江戸線に改称。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:西武鉄道・都営地下鉄で[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[1月12日]]:大江戸線ホームでホームドアが稼働開始。
* [[2023年]]([[令和]]5年)[[4月25日]]:[[ワーナーブラザース スタジオツアー東京 ‐ メイキング・オブ・ハリー・ポッター]]のオープンに合わせて、西武鉄道の駅舎が[[ハリー・ポッターシリーズの地理#ホグズミード村|ホグズミード駅]]を彷彿とさせるデザインにリニューアル<ref name="press20220325">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?newsroom/news/file/20220325_renewal.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220325051331/https://www.seiburailway.jp/file.jsp?newsroom/news/file/20220325_renewal.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜「スタジオツアー東京‐メイキングオブハリー・ポッター」開業に向け〜 西武線 池袋駅と豊島園駅を “フィルム・メイキングの魔法”につながる駅へリニューアル! キングスクロス駅やホグズミード駅の雰囲気を体感!|publisher=西武鉄道|date=2022-03-25|accessdate=2022-03-27|archivedate=2022-03-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=電車を降りれば「ハリポタ」の世界、イメージはホグズミード駅…パーク開業で豊島園駅改修へ |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20221016-OYT1T50067/ |website=読売新聞 |date=2022-10-16 |access-date=2022-10-16}}</ref>。
== 駅構造 ==
=== 西武鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = #36C
|文字色 =
|駅名 = 西武 豊島園駅*
|画像 = Seibu Toshimaen-STA Gate.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 改札口(2023年10月)
|よみがな = としまえん
|ローマ字 = Toshimaen
|電報略号 =
|所属事業者 = [[西武鉄道]]
|所在地 = [[東京都]][[練馬区]][[練馬 (練馬区)|練馬]]四丁目16-5
|緯度度 = 35 |緯度分 = 44 |緯度秒 = 31
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|地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
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|乗降人員 = <ref group="西武" name="seibu2022" />9,871
|統計年度 = 2022年<!--リンク不要-->
|所属路線 = {{color|#f60|■}}[[西武豊島線|豊島線]]
|前の駅 = SI06 [[練馬駅|練馬]]
|駅間A = 1.0
|駅間B =
|次の駅 =
|駅番号 = {{駅番号r|SI|39|#ff6600|2}}
|キロ程 = 1.0 km([[練馬駅|練馬]]起点)<br />[[池袋駅|池袋]]から7.0
|起点駅 =
|乗換 =
|備考 =
|備考全幅 = *1933年に豊島駅から改称
}}
変型[[頭端式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''SI39'''。
[[2008年]]6月14日の[[西武豊島線|豊島線]]・[[東京メトロ副都心線]]相互[[直通運転]]開始に伴う[[ダイヤ改正]]後は、豊島園行き始発のみが練馬発着の線内運転となる以外は[[池袋駅]]から[[各駅停車]]のみが運行される<ref group="注釈">ただし、[[東日本大震災]]発生後の2011年3月14日からは[[節電]]を考慮した特別ダイヤで運転されたことから、一時的に豊島線内折り返し列車が設定された。</ref><ref>{{Cite web|title=豊島線:豊島園駅時刻表|url=https://web.archive.org/web/20200404143522/https://seibu.ekitan.com/norikae/pc/T5?USR=PC&dw=0&slCode=233-1&d=1|website=web.archive.org|date=2020-04-04|accessdate=2020-04-04}}</ref>。2016年以降、「[[52席の至福]]」が土休日ダイヤに当駅へ入線してくる場合もあり、池袋発西武秩父行きとして運転する場合、食材の積み込みなどをここで行うことがある。このほか、当駅到着として同列車が入線する場合もある。これ以前には一部時間帯には線内折り返し列車<ref group="注釈">2003年の練馬駅高架化工事完了後の線内折り返し列車は、練馬駅[[引き上げ線]]有効長が4両編成分であることから、充当車両は[[小手指車両基地]]から[[回送]]された。</ref>が存在したほか、平日の朝には[[西武池袋線#準急|準急]]<ref group="注釈">急激な利用客増に車両増備が追いつかないことが想定され池袋に到着した車両を急いで送り込む苦肉の策から設定された種別で一部では「豊島園[[準急列車|準急]]」と称した。また[[2015年]]現在でも列車設定はないが、2008年6月のダイヤ改正時に交換された[[西武2000系電車|2000系]]・[[西武3000系電車|3000系]]の[[方向幕]]には「準急 豊島園」のコマが存在することが確認されている。</ref>が運転されていた。
当駅は[[1960年代]]半ばまでは「コの字」型2面3線構造とされていたが、この状態では最大6両編成までしか入線できず、池袋線の輸送力増強で[[西武池袋線#各駅停車|各駅停車]]でも8両編成での運用が増えたことに対応させること、また当時の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]形態では、昼間はホームは1線しか使われていなかったことから、現在のような中央1線を埋めた構造にされた<ref group="注釈">同様に中央1線を埋めて1面2線ホームにしたケースは、西武鉄道では[[西武新宿線|新宿線]][[花小金井駅]]がある。</ref>。このため、1面2線ホームとしては非常に幅員が広いのが特徴である。ホームの屋根形状などに当時の名残がみられるほか、2番ホームの向かい側にあたる旧ホームの跡地は広告スペースや花壇として利用されている。
池袋線[[椎名町駅|椎名町]] - [[桜台駅 (東京都)|桜台]]間各駅はホーム有効長の10両編成対応工事が施工されたが当駅は未施工であり、練馬方向は住宅街、豊島園方向は駅前広場となっており実質的に対応する用地も確保されていない。池袋発着の各駅停車は8両編成のみでの運行が前提で10両編成への増強計画がないこと、優等列車はダイヤが乱れた際の臨時停車対応のみとしたこと<ref group="注釈">工事時に地域自治体にもあくまで臨時用という説明がされた。</ref>、さらに当駅には定期優等列車の運行<ref group="注釈">過去にイベント・[[臨時列車|臨時]]・[[団体列車]]で[[西武5000系電車|5000系]][[レッドアロー]]の入線実績はある。</ref>がないことから除外された。
[[自動改札機]]とは別に降車専用有人改札通路が存在した。これは以前[[としまえん#プール|プール]]営業時や練馬区の[[成人式]]などイベント開催で[[としまえん]]の利用者が大幅に見込まれる際に使用されていたが、2009年に施工された耐震補強工事で大幅に縮小。ならびに乗車券[[自動券売機]]の減少と[[定期券]]自動券売機が設置された。
[[便所|トイレ]]は改札を入って左側に設置されている。2011年度には、以前有人改札が設置されていた位置に多機能トイレが増設された。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!ホーム<!-- 事業者側による呼称。西武は「○番ホーム」と表現 -->!!路線!!行先
|-
!1・2
|[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 豊島線・[[西武池袋線|池袋線]]
|[[練馬駅|練馬]]・[[池袋駅|池袋]]方面<ref>{{Cite web|和書|title=豊島園駅 :西武鉄道Webサイト|url=https://web.archive.org/web/20200404145802/https://www.seiburailway.jp/railway/ekimap/toshimaen/|website=web.archive.org|date=2020-04-04|accessdate=2020-04-04}}</ref>
|}
(出典:[https://www.seiburailway.jp/railway/ekimap/toshimaen/ 西武鉄道:駅構内図])
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Seibu Toshimaen-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年10月)
Seibu-railway-Toshimaen-station-platform.jpg|改修前のホーム(2008年3月)
Toshimaen sta.JPG|建替前の駅舎(2011年5月)
</gallery>
{{-}}
=== 東京都交通局 ===
{{駅情報
|社色 = #009f40
|文字色 =
|駅名 = 東京都交通局 豊島園駅
|画像 = Toei-Toshimaen-Station 20100718.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = A2出入口(2010年7月)
|よみがな = としまえん
|ローマ字 = Toshimaen
|副駅名 =
|所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])
|所属路線 = {{color|#ce045b|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]
|前の駅 = E 35 [[練馬駅|練馬]]
|駅間A = 0.9
|駅間B = 1.5
|次の駅 = [[練馬春日町駅|練馬春日町]] E 37
|駅番号 = {{駅番号r|E|36|#ce045b|4}}<ref name="tokyosubway"/>
|キロ程 = 37.8
|電報略号 = 豊(駅名略称)
|起点駅 = [[都庁前駅|都庁前]]
|所在地 = [[東京都]][[練馬区]][[練馬 (練馬区)|練馬]]四丁目14-17
|緯度度 = 35 |緯度分 = 44 |緯度秒 = 31.4
|経度度 = 139 |経度分 = 38 |経度秒 = 56.8
|地図国コード = JP
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[12月10日]]
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />9,698
|統計年度 = 2022年<!--リンク不要-->
|乗換 =
|備考 =
}}
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]である。駅番号は'''E 36'''。改札は地下1階、ホームは地下3階に位置する<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=豊島園 | 東京都交通局|url=https://web.archive.org/web/20200404145920/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/toshimaen.html|website=web.archive.org|date=2020-04-04|accessdate=2020-04-04}}</ref>。駅出入口はA1・A2の2か所ある<ref name=":1"/>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称。都営は「○番線」と表現 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/oedo/E36BD.html |title=豊島園 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線
|[[六本木駅|六本木]]・[[大門駅 (東京都)|大門]]方面
|-
!2
|[[光が丘駅|光が丘]]方面
|}
(出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/toshimaen.html 都営地下鉄:駅構内図])
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Toei Toshimaen-STA Gate.jpg|改札(2023年3月)
Toei Toshimaen-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年3月)
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''西武鉄道''' - 2021年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''9,871人'''である<ref group="西武" name="seibu2022" />。
*: 西武鉄道全92駅の中では第66位。
* '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''9,698人'''である<ref group="都交" name="toei2022" />。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員数は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="*" name="nerima">[http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/tokei/tokeisho/ 練馬区統計書] - 練馬区</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|西武鉄道
!colspan=2|都営地下鉄
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|10,765||
|8,204||
|-
|2003年(平成15年)
|10,769||0.0%
|8,691||0.6%
|-
|2004年(平成16年)
|11,436||6.2%
|9,335||7.4%
|-
|2005年(平成17年)
|11,879||3.9%
|9,921||6.3%
|-
|2006年(平成18年)
|12,186||2.6%
|10,262||3.4%
|-
|2007年(平成19年)
|12,285||0.8%
|10,938||6.6%
|-
|2008年(平成20年)
|12,566||2.3%
|11,151||1.9%
|-
|2009年(平成21年)
|12,927||2.9%
|11,059||−0.8%
|-
|2010年(平成22年)
|12,639||−2.2%
|10,990||−0.6%
|-
|2011年(平成23年)
|12,707||0.5%
|10,568||−3.8%
|-
|2012年(平成24年)
|13,318||4.8%
|10,954||3.7%
|-
|2013年(平成25年)
|13,583||2.0%
|11,163||1.9%
|-
|2014年(平成26年)
|13,570||−0.1%
|11,131||−0.3%
|-
|2015年(平成27年)
|13,737||1.2%
|11,286||1.4%
|-
|2016年(平成28年)
|13,980||1.8%
|11,600||2.8%
|-
|2017年(平成29年)
|13,977||0.0%
|11,716||1.0%
|-
|2018年(平成30年)
|14,537||4.0%
|12,233||4.4%
|-
|2019年(令和元年)
|14,261||−1.9%
|12,410||1.4%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="西武" name="seibu2020">{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdfl |title=駅別乗降人員(2020年度1日平均) |website= |publisher=西武鉄道株式会社 |accessdate=2022-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210923000614/https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf |archivedate=2021-09-23 |deadlinkdate=}}</ref>9,620||−32.5%
|<ref group="都交" name="toei2020" />8,746||−29.5%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="西武" name="seibu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdfl |title=駅別乗降人員(2021年度1日平均) |website= |publisher=西武鉄道株式会社 |accessdate=2022-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220708052848/https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf |archivedate=2022-07-08 |deadlinkdate=}}</ref>8,888||−7.6%
|<ref group="都交" name="toei2021" />8,579||−1.9%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite report |url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/youran/file/youran2023_data.pdfl |title=2023 会社要覧 輸送データ 駅別乗降人員(1日平均) |website= |publisher=西武鉄道株式会社 |accessdate=2023-11-04 |page=70 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>9,871||11.1%
|<ref group="都交" name="toei2022" />9,698||13.0%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1920年代 - 1930年代) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員数は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!武蔵野鉄道!!出典
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|<ref group="備考">1927年10月15日開業。開業日から翌年3月31日までの計169日間を集計したデータ。</ref>319
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/315?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|567
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/347?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|641
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/335?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|743
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/341?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|680
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/344?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|776
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/317?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|780
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/335?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|903
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/343?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|803
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/341?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1956年 - 2000年) ===
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!西武鉄道
!都営地下鉄
!出典
|-
|1956年(昭和31年)
|6,243
|rowspan="35" style="text-align:center"|未<br />開<br />業
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|7,399
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|8,455
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|9,247
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|10,871
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|13,063
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|14,419
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|15,292
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|15,905
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|16,165
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|16,751
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|16,789
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|17,147
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|18,563
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|20,575
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|20,560
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|20,573
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|20,827
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|21,408
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|21,719
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|22,249
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|22,877
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|23,518
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|23,279
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|22,984
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|22,836
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|23,416
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|21,440
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|19,649
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|18,671
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|18,753
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|18,093
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|18,060
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|17,948
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|18,016
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|17,396
|<ref group="備考">1991年12月10日開業。開業日から翌年3月31日までの計113日間を集計したデータ。</ref>841
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|15,441
|756
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|13,362
|701
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|12,419
|704
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|10,437
|672
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|9,542
|630
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|8,249
|1,164
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|6,710
|3,151
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|6,546
|3,320
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|6,184
|3,770
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="nerima" />
!年度
!西武鉄道
!都営地下鉄
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|5,477
|4,340
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|5,223
|4,451
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|5,238
|4,621
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|5,690
|5,049
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|5,937
|5,374
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|6,052
|5,523
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|6,120
|5,730
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|6,265
|5,706
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|6,471
|5,607
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|6,387
|5,542
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|6,337
|5,338
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|6,693
|5,511
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|6,842
|5,617
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|6,831
|5,598
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|6,907
|5,671
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|7,027
|5,822
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|7,030
|5,890
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|7,315
|6,147
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|7,169
|6,236
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>4,421
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>4,352
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>4,914
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|練馬 (練馬区)|向山 (練馬区)|早宮|春日町 (練馬区)}}
* [[練馬城址公園]]
* [[ワーナーブラザース スタジオツアー東京 ‐ メイキング・オブ・ハリー・ポッター]]
* [[豊島園 庭の湯]]
* [[向山庭園]]
* [[田島山十一ヶ寺|十一ヶ寺]]
* [[石神井川]]
* [[練馬警察署]]豊島園交番
* 練馬区立厚生文化会館
* 豊島園会館
* 練馬四郵便局
* [[ユナイテッド・シネマ]]としまえん
== バス路線 ==
* [[西武バス]]
** [[西武バス練馬営業所#成増線|練47]]:練馬駅行 / [[成増駅]]南口行
* [[国際興業バス]]
** [[国際興業バス練馬営業所#赤羽駅 - 平和台駅 - 練馬駅線|赤01]]:練馬駅行 / [[赤羽駅]]西口行
** [[西武バス練馬営業所#成増線|練95]]:練馬駅行 / [[国際興業バス練馬営業所|練馬北町車庫]]行
現行のバス停留所「'''豊島園'''」は豊島園通りにあり大江戸線駅の方が近い。
[[2000年代]]初頭までは[[バスターミナル|ターミナル]]機能を持つ折返場が存在した。[[1970年代]]前半までは、[[都営バス]]・[[京王電鉄バス|京王バス]]・[[関東バス]]も折返場に乗り入れていたが、池袋線の列車増発から豊島園通りに介在した練馬大[[踏切]]が[[開かずの踏切]]と化し[[渋滞]]が慢性化。このため定時運行確保困難となり、上述3社は運行区間短縮もしくは路線廃止を実施した。以後練馬駅方面へ運行されるバスは[[国際興業バス]]と[[西武バス]]の一部便<ref group="注釈">練馬駅での発着後は、[[西武バス練馬営業所|練馬営業所]](南田中車庫)への出入庫を兼ねた「練43」で運行される。</ref>のみとなり、折返場を使用するのは始発着便が設定される西武バスの「[[西武バス練馬営業所#廃止・移管路線|豊10]]」[[北町 (練馬区)|練馬北町]]線・「豊11」[[成増]]線のみで、国際興業バスは現在と同様に豊島園通りへ停留所を設置した。
1983年の[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]延伸開業による利用者減で「豊10」が1984年に廃止。残存した成増線は従来からの[[田柄]]を経由する「豊11」のほかに[[光が丘 (練馬区)|光が丘]]を経由する「豊12」を新設。このほかに少数の練馬駅発着便が運行されたが、[[1991年]]の都営12号線開業で「豊12」は廃止。2003年には池袋線の連続立体高架が完成により大踏切が廃止。また練馬駅北口のロータリーが完成したことから、「豊11」も練馬駅まで再度延長し「練47」に系統変更を実施。このため折返場は使用中止となり隣接するとしまえん[[駐車場]]とともに閉鎖。跡地は「ユナイテッド・シネマとしまえん」となった。
== 付記 ==
[[2006年]]に西武鉄道駅構内で[[映画]]『[[デスノート (映画)#『デスノート the Last name』|デスノート the Last name]]』の[[ロケーション撮影]]が行われた。
== 隣の駅 ==
; 西武鉄道
: [[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] 豊島線
:: {{Color|#999|■}}各駅停車(ほぼ全列車が池袋線直通)
::: [[練馬駅]] (SI06) - '''豊島園駅 (SI39)'''
; 東京都交通局(都営地下鉄)
: [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線
::: [[練馬駅]] (E 35) - '''豊島園駅 (E 36)''' - [[練馬春日町駅]] (E 37)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 利用状況に関する出典 ====
;私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="*"}}
;西武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="西武"|3}}
;東京都交通局 各駅乗降人員
{{Reflist|group="都交"|3}}
; 東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|17em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Toshimaen Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=toshimaen}}
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/toshimaen.html 豊島園駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局]
{{西武池袋線|mode=1}}
{{都営地下鉄大江戸線}}
{{デフォルトソート:としまえん}}
[[Category:練馬区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 と|しまえん]]
[[Category:西武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:武蔵野鉄道の鉄道駅]]
[[Category:都営地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1927年開業の鉄道駅]]
[[Category:練馬]]
|
2003-07-18T06:45:33Z
|
2023-12-02T17:07:50Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E5%9C%92%E9%A7%85
|
11,711 |
重量キログラム
|
重量キログラム(じゅうりょうキログラム、kgf、en:kilogram-force)は、MKS重力単位系における力の計量単位である。1 kgf = 9.80665 N である。非SI単位であり、計量法により1999年10月以降は取引・証明に使用することは禁止されている。
計量法における計量単位の名称は、「重量キログラム」である。俗には重力キログラム(じゅうりょくキログラム)、キログラム重(キログラムじゅう)とも称されていた。
計量法における1999年までの規定では、単位記号は、kgf (kilogram-forceの略語)(である。その他、kgw (kilogram-weight) 、ドイツなど一部ヨーロッパ諸国はkp(ドイツ語:Kilopond)も用いられていた。
重量キログラムは、質量1キログラム (kg) の物体が標準重力加速度のもとで受ける重力の大きさと定義される。標準重力加速度は、地球の北緯45°の平均海面上の平均重力をもとに定義されていた。重力は質量と重力加速度の積で、通常は1901年に国際度量衡委員会が採択した約束値 9.80665 m/sを用い
である。概算では
とすることが多い。
物体の質量、例えば、2.4 kg、とそれにかかる重力、例えば、2.4 kgf (= 23.536 N)、とは数値が同じになって感覚的に捉えやすいため、以前の日本では中学校までの理科教育でキログラム重が用いられていた。しかし国際単位系 (SI) が完全に導入されて以降は、中学教育では質量約102グラムの物体にはたらく重力を1ニュートンとして教えている。計量法も1999年10月1日以降は、取引・証明に用いることを禁じている。
以下の派生単位はすべて、1999年10月1日以降は(熱量の単位である重量キログラムメートルは1995年10月1日以降は)、計量法上の取引・証明に用いることは禁止されている。
次の倍量・分量単位が定められていた。
重量キログラム毎平方メートル(じゅうりょうキログラムまいへいほうメートル、記号:kgf/m〈kilogram/square metre〉)は、MKS重力単位系における圧力・応力の単位である。1平方メートル (平米・m)の面積につき1重量キログラムの力が作用する圧力・応力と定義される。その定義から、1 kgf/m = 9.80665 Paである。
重量キログラム毎平方センチメートル(じゅうりょうキログラムまいへいほうセンチメートル、記号:kgf/cm)は、CGS重力単位系における圧力・応力の単位である。1平方センチメートル (cm)の面積につき1重量キログラムの力が作用する圧力・応力と定義される。定義から、1 kgf/cm = 98.0665 kPa = 980.665 hPaとなる。
1 気圧(atm)は、101.325 kPa である。1 kgf/cm = 98.0665 / 101.325 atm = 約0.967 841 atmとなり、1気圧に近い値となることから、かつては工学分野で標準大気圧の代用とされ、これを工学気圧(at)と称していた。
重量キログラムメートル(じゅうりょうキログラムメートル、記号:kgf·m)は、MKS重力単位系における熱量・仕事の単位である。1重量キログラムの力が力の方向に物体を1メートル動かすときの仕事およびそれに相当する熱量と定義される。定義から、1 kgf·m = 9.80665 Jである。
重量キログラムメートル毎秒(じゅうりょうキログラムメートルまいびょう、記号:kgf·m/s)は、MKS重力単位系における仕事率・工率の単位である。1秒に1重量キログラムメートルの仕事率と定義される。
定義から、1 kgf·m/s = 9.80665 Wとなる。
仏馬力の元来の定義は、75 kgf·m/s = 735.498 75 ワットであった。しかし、現在の日本の計量法では、1 仏馬力= (正確に)735.5 ワットと定義している(計量単位令第11条第2項)。仏馬力は、内燃機関と外燃機関の工率の取引・証明に用いる場合にのみ、当分の間、使用することができる法定計量単位である。
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] |
重量キログラム(じゅうりょうキログラム、kgf、en:kilogram-force)は、MKS重力単位系における力の計量単位である。1 kgf = 9.80665 N である。非SI単位であり、計量法により1999年10月以降は取引・証明に使用することは禁止されている。
|
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{{単位
|名称=重量キログラム、重力キログラム、キログラム重
|英字=kilogram-force, kilogram-weight
|[[単位記号|記号]]=kgf(計量法での過去の規定), kgw, kp
|単位系=[[非SI単位]]、[[MKS単位系|MKS]]、[[重力単位系]]
|物理量=[[力 (物理学)|力]]
|定義=1 [[キログラム|kg]] の[[質量]]が[[標準重力加速度]]下で受ける[[重力]]
|組立=[[標準重力加速度|''g'']]·kg
|SI=9.80665 N
|画像=[[File:Weegschaal1.jpg|200x200px|1 kgまで量れる質量計([[秤]])]]
}}
'''重量キログラム'''(じゅうりょうキログラム、kgf、[[:en:kilogram-force]])は、[[MKS単位系|MKS]][[重力単位系]]における[[力 (物理学)|力]]の[[計量単位]]である。1 kgf = 9.80665 N である。[[非SI単位]]であり、[[計量法]]により1999年10月以降は[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に使用することは禁止されている。
== 名称、単位記号 ==
計量法における[[計量単位]]の名称は、「重量キログラム」<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000358_20150801_000000000000000&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E6%B3%95%E9%99%84%E5%89%87%E7%AC%AC%E4%B8%89%E6%9D%A1 計量法附則第三条の計量単位等を定める政令] 別表第3 項番1 [「力」の欄</ref>である。俗には'''重力キログラム'''(じゅうりょくキログラム)、'''キログラム重'''(キログラムじゅう)とも称されていた。
[[計量法]]における1999年までの規定では、[[単位記号]]は、'''kgf''' ({{lang|en|kilogram-force}}の略語)(<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400081_20161001_000000000000000&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E6%B3%95%E9%99%84%E5%89%87%E7%AC%AC%E4%B8%89%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E3%81%AE%E8%A8%98%E5%8F%B7%E7%AD%89%E3%82%92%E5%AE%9A%E3%82%81%E3%82%8B%E8%A6%8F%E5%89%87 計量法附則第三条の計量単位の記号等を定める規則] 別表、力・重量キログラムの欄、平成4年(1992年)通商産業省令第81号</ref>である。その他、'''kgw''' ({{lang|en|kilogram-weight}}) 、[[ドイツ]]など一部ヨーロッパ諸国は'''kp'''([[ドイツ語]]:{{lang|de|Kilopond}})も用いられていた。
== 定義 ==
重量キログラムは、[[質量]]1[[キログラム]] (kg) の物体が[[標準重力加速度]]のもとで受ける[[重力]]の大きさと定義される。標準重力加速度は、[[地球]]の[[緯度|北緯]]45°の[[平均海面]]上の平均重力をもとに定義されていた。重力は[[質量]]と[[重力加速度]]の積で、通常は[[1901年]]に[[国際度量衡委員会]]が採択した<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月。付録1,pp.126-127、第3回CGPM, 1901 年</ref>約束値 9.80665 m/s<sup>2</sup>を用い
:1 kgf = 9.80665 [[ニュートン (単位)|N]] ([[ニュートン (単位)|ニュートン]])
である。概算では
:1 kgf = 9.8 N
とすることが多い。
物体の質量、例えば、2.4 kg、とそれにかかる重力、例えば、2.4 kgf (= 23.536 N)、とは数値が同じになって感覚的に捉えやすいため、以前の日本では中学校までの理科教育でキログラム重が用いられていた。しかし[[国際単位系]] (SI) が完全に導入されて以降は、中学教育では質量約102グラムの物体にはたらく重力を1ニュートンとして教えている。[[計量法]]も1999年10月1日以降は、[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に用いることを禁じている<ref>[https://www.keiryou-keisoku.co.jp/databank/kokusai/si/si.pdf 新計量法とSI化の進め方] 通商産業省、SI単位等普及推進委員会、p.11 表2.5:猶予期限を定めた非SI単位、1999年3月</ref>。
{{力の単位}}
{{GravEngAbs}}
== 派生単位 ==
以下の派生単位はすべて、1999年10月1日以降は([[熱量]]の単位である重量キログラムメートルは1995年10月1日以降は)、計量法上の[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に用いることは禁止されている。
=== 重量グラム、重量トンなど ===
次の[[倍量・分量単位]]が定められていた<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000358_20150801_000000000000000&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E6%B3%95%E9%99%84%E5%89%87%E7%AC%AC%E4%B8%89%E6%9D%A1 計量法附則第三条の計量単位等を定める政令] 別表第3 項番1 「力」の欄、別表第4 項番4 「力」の欄</ref><ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400081_20161001_000000000000000&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E6%B3%95%E9%99%84%E5%89%87%E7%AC%AC%E4%B8%89%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E3%81%AE%E8%A8%98%E5%8F%B7%E7%AD%89%E3%82%92%E5%AE%9A%E3%82%81%E3%82%8B%E8%A6%8F%E5%89%87 計量法附則第三条の計量単位の記号等を定める規則] 別表、「力」の欄、平成4年(1992年)通商産業省令第81号</ref>。
* 重量グラム(gf)
* 重量トン(tf)
* 重量ミリグラム(mgf)
* 重量キロトン(ktf)
* 重量メガトン(Mtf)
=== 重量キログラム毎平方メートル ===
{{単位
|名称=重量キログラム毎平方メートル
|記号=kgf/m<sup>2</sup>
|単位系=[[非SI単位]]、[[MKS単位系|MKS]]、[[重力単位系]]
|物理量=[[圧力]]・[[応力]]
|定義=1 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]の面積につき1 kgfの力が作用する圧力・応力
|SI=9.80665 [[パスカル (単位)|Pa]]
}}
'''重量キログラム毎平方メートル'''(じゅうりょうキログラムまいへいほうメートル、記号:kgf/m<sup>2</sup>〈kilogram/square metre〉)は、MKS重力単位系における[[圧力]]・[[応力]]の単位である。1[[平方メートル]] (平米・m<sup>2</sup>)の面積につき1重量キログラムの力が作用する圧力・応力と定義される。その定義から、1 kgf/m<sup>2</sup> = 9.80665 [[パスカル (単位)|Pa]]である。
{{clear}}
=== 重量キログラム毎平方センチメートル ===
{{単位
|名称=重量キログラム毎平方センチメートル
|記号=kgf/cm<sup>2</sup>
|単位系=[[非SI単位]]、[[cgs単位系|cgs]]、[[重力単位系]]
|物理量=[[圧力]]・[[応力]]
|定義=1 [[平方センチメートル|cm<sup>2</sup>]]の面積につき1 kgfの力が作用する圧力・応力
|SI=98.0665 [[パスカル (単位)|kPa]]
}}
'''重量キログラム毎平方センチメートル'''(じゅうりょうキログラムまいへいほうセンチメートル、記号:kgf/cm<sup>2</sup>)は、CGS重力単位系における[[圧力]]・[[応力]]の単位である。1[[平方センチメートル]] (cm<sup>2</sup>)の面積につき1重量キログラムの力が作用する圧力・応力と定義される。定義から、1 kgf/cm<sup>2</sup> = 98.0665 [[パスカル (単位)|kPa]] = 980.665 [[ヘクトパスカル|hPa]]となる。
1 [[気圧#単位としての気圧|気圧]](atm)は、101.325 kPa である。1 kgf/cm<sup>2</sup> = 98.0665 / 101.325 atm = 約0.967 841 atmとなり、1気圧に近い値となることから、かつては工学分野で[[標準気圧|標準大気圧]]の代用とされ、これを[[工学気圧]](at)と称していた。
{{See also|単位の換算一覧#圧力・応力}}
{{-}}
{{圧力の単位}}
=== 重量キログラムメートル ===
{{単位
|名称=重量キログラムメートル
|記号=kgf·m
|単位系=[[非SI単位]]、[[MKS単位系|MKS]]、[[重力単位系]]
|物理量=[[熱量]]・[[仕事 (物理学)|仕事]]
|定義=1 kgfの力が力の方向に物体を 1 [[メートル|m]] 動かすときの仕事
|SI=9.80665 [[ジュール|J]]
}}
'''重量キログラムメートル'''(じゅうりょうキログラムメートル、記号:kgf·m)は、MKS重力単位系における[[熱量]]・[[仕事 (物理学)|仕事]]の単位である。1重量キログラムの力が力の方向に物体を1メートル動かすときの仕事およびそれに相当する熱量と定義される。定義から、1 kgf·m = 9.80665 [[ジュール|J]]である。
{{-}}
{{エネルギーの単位}}
=== 重量キログラムメートル毎秒 ===
{{単位
|名称=重量キログラムメートル毎秒
|記号=kgf·m/s
|単位系=[[非SI単位]]、[[MKS単位系|MKS]]、[[重力単位系]]
|物理量=[[仕事率]]・[[工率]]
|定義=1[[秒]]に 1 kgf·m の仕事率
|SI=9.80665 W
}}
'''重量キログラムメートル毎秒'''(じゅうりょうキログラムメートルまいびょう、記号:kgf·m/s)は、MKS重力単位系における[[仕事率]]・[[工率]]の単位である。1秒に1重量キログラムメートルの仕事率と定義される。
定義から、1 kgf·m/s = 9.80665 [[ワット|W]]となる。
[[馬力#仏馬力|仏馬力]]の元来の定義は、75 kgf·m/s = 735.498 75 ワットであった。しかし、現在の日本の計量法では、1 仏馬力= (正確に)735.5 ワットと定義している(計量単位令第11条第2項)。仏馬力は、[[内燃機関]]と[[外燃機関]]の[[仕事率|工率]]の[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に用いる場合にのみ、当分の間、使用することができる[[法定計量単位]]である。
{{-}}
{{仕事率の単位}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references />
{{DEFAULTSORT:しゆうりようきろくらむ}}
[[Category:力の単位]]
[[Category:メートル法]]
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2023-07-02T09:26:34Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%87%8F%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0
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西武池袋線
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池袋線(いけぶくろせん)は、東京都豊島区の池袋駅から埼玉県飯能市の飯能駅を経由して同市の吾野駅までを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。
東京の副都心・池袋から練馬区や埼玉県所沢市、同県入間市などのベッドタウンを経由して同県西部方面を結ぶ東京圏の主要通勤路線の一つである。一方で、プロ野球試合やイベント開催時には埼玉西武ライオンズの本拠地である西武ドーム(ベルーナドーム)への、行楽期には秩父地方への東京都心などからの観光輸送も担っている。新宿線と共に西武鉄道の主要路線であり、同線と所沢駅で接続している。歴史的経緯から西武鉄道の鉄道路線は池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)、新宿線系統(旧・西武鉄道)とその他の路線に大別でき、支線の狭山線・豊島線・西武有楽町線と池袋線の実質的な延長路線である西武秩父線を併せて「池袋線」と呼ぶことがある。
特急「ちちぶ」と土休日の有料座席指定列車「S-TRAIN」、飯能駅 - 西武秩父駅方面間の各駅停車が西武秩父線と直通運転を行っている。武蔵野鉄道時代の1929年に吾野駅まで開業し、吾野駅から先の西武秩父線は1969年に開業した。そのため吾野駅が線路名称上の終点ではあるものの、ほとんどの列車は吾野駅から西武秩父線に直通して西武秩父駅に至ること、さらに飯能駅でスイッチバックを行う必要があることから、基本的に飯能駅止まりの「むさし」を除く特急と一部のS-TRAIN以外の一般列車の運転系統としては池袋駅 - 飯能駅間、飯能駅 - 吾野駅 - 西武秩父駅間で二分されている。さらに一部の各駅停車は西武秩父線経由で秩父鉄道秩父本線への直通運転も行っている。なお、前述の通り飯能駅で運転系統が二分されていることから、池袋駅 - 飯能駅間を池袋線、飯能駅 - 西武秩父駅間を西武秩父線とする鉄道関連書籍や時刻表検索サイトも見受けられるが、正確な表現ではない。また、沿線に住宅地が広がる池袋駅 - 飯能駅間とは対照的に、飯能駅 - 西武秩父駅間は山間部を走行するため民家の数も疎らであり、飯能駅を境に沿線風景も大きく異なる。
また、西武有楽町線を経由して東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線及び副都心線、さらに副都心線を経由して東急電鉄東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転を行っている。日中の時間帯に副都心線系統(飯能駅 - みなとみらい線元町・中華街駅)を走る列車のうち、各線内を特別料金不要で最速で結ぶ列車に対しては「Fライナー」の愛称がつく。また、2017年より有料座席指定列車「S-TRAIN」を運行しており、平日は通勤輸送に特化して東京メトロ有楽町線に、土休日は観光目的のために副都心線系統(その先のみなとみらい線)及び西武秩父線の西武秩父駅まで運転される。
この区間は複線で、池袋駅から江古田駅までは概ね地上を走っており、カーブが続く。線路の両側はずっと住宅地である。
西武鉄道の池袋駅は、頭端式ホーム4面4線と特急専用ホームを有するターミナル駅。同駅構内には2本の引き上げ線がある。同駅の南側では、JR東日本の山手線と、埼京線および湘南新宿ラインが通る山手貨物線を跨ぎながら急カーブで西向きに方向を変えている。そのためこの区間では、列車は最徐行している。その後列車は加速し、かつてここに存在していた上り屋敷駅の跡地を通り抜ける。S字カーブを描いた後、山手通りをくぐると椎名町駅に着く。
椎名町駅を出るとしばらく直線を描く。その後右へカーブすると、東長崎駅に着く。同駅は島式ホーム2面4線で、この池袋駅 - 練馬駅間での各駅停車の待避駅となっている。
東長崎駅を出ると、しばらく都営地下鉄大江戸線と併走しながら直線を描く。その後、列車は減速して左に曲がると、江古田駅に着く。なお、この駅間にはかつて西武市場駅という貨物駅が存在していた。
江古田駅を出ると、環七通りをくぐる。左にカーブしながら地下を走る西武有楽町線と合流する。高架に移行すると、桜台駅に着く。
西武有楽町線がトンネルから出て高架に合流してすぐに、都営地下鉄大江戸線との乗り換え駅で、西武有楽町線・豊島線との分岐駅でもある練馬駅に到着する。同駅は2面6線構造となっており、外側ホームに西武有楽町線との直通列車が発着、内側ホームは池袋線の列車が発着する。最も外側の線路は通過線で、ホームは設置されていない。
練馬駅から石神井公園駅までは高架複々線となる。内側の線路は各駅停車用で、途中駅には島式ホームが設けられている。外側の線路は優等列車用で、途中駅にホームは設けられていない。
練馬駅を出ると、練馬区役所が見えてくる。途中で、豊島線が高架下へ分岐する。目白通りを跨ぐと、中村橋駅に着く。なお、目白通りの架道橋は高架化工事前は線路が下、道路が上を走っていたが、工事完成後は線路が上、道路が下を走るという、いわゆる「逆立体化工事」が一晩で行われた。
中村橋駅のすぐそばに、富士見台駅が見える。中村橋駅を出ると途中で練馬区立美術館と練馬第三小学校が見え、間もなく富士見台駅に着く。この区間は、互いに隣同士の駅が見えるほど駅間距離が短い。
富士見台駅を出て右にカーブした後、環八通りを跨ぐ。石神井東小学校を通過し、石神井川を越えると練馬高野台駅に着く。
練馬高野台駅を出るとすぐに左へカーブし、笹目通りを跨ぐと、島式ホーム2面4線の石神井公園駅に到着する。
石神井公園駅から大泉学園駅付近の区間は2015年1月まで高架化工事が実施された。石神井公園駅を出ると、緩行線が急行線に合流し、ここから先は飯能駅まで複線となる。その後、車窓右側に数本の引き上げ線が見える。そして、大泉高校・同附属中学校付近で進行方向左側(南西の方角)が広々とひらけており、気象条件に恵まれると富士山の姿が確認できる。高架部分が間もなく終わり、踏切を越えると大泉学園駅に着く。同駅は後述の狭山ヶ丘駅・稲荷山公園駅と同様に、池袋線の中でも特にホームがカーブしている駅である。
大泉学園駅を出てゆめりあの間を抜けてもしばらく左カーブは続く。その後直線になると加速して、東京都道233号東大泉田無線(保谷街道)とほぼ平行して走る。保谷街道の踏切を越えると、保谷駅に着く。同駅は島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線で、合計2面3線構造となっている。なお同駅の真ん中の線では、同駅始発・終着列車の一部が発着するほか、緩行列車が優等列車の待避をすることもある。
保谷駅を出ると、右手に保谷電留線が見える。これは保谷駅で折り返す列車が一定数存在するためである。その後、保谷高校付近で列車は減速し、大きな右カーブを描く。カーブが終わって直線になると、東京都道36号保谷志木線の踏切を過ぎて間もなく、島式ホーム2面4線のひばりヶ丘駅に到着する。
ひばりヶ丘駅を出ると、右にカーブする。落合川を渡ると、東久留米駅に着く。池袋駅から同駅までは住宅街がほとんどで、この駅間では緩やかな下り勾配になっている。
東久留米駅を出て野火止用水を渡るまでは、直線で上り勾配となっている。その後、黒目川の橋を渡りながら河岸段丘を越える。すると住宅の密集度は低くなり、林や畑が混在しているところを通る。埼玉県新座市に入ると、野火止用水を渡る。保守用の引き込み線が見えると列車は減速し、大きく左へカーブ再び東京都に入って新小金井街道を渡ると、変則的な島式ホーム2面4線構造の清瀬駅に着く。同駅折り返しの列車も一定数設定されている。
清瀬駅を出ると、車窓右側には1本の引き上げ線が見える。次の秋津駅までの間は直線が続き、沿線は住宅街や畑がほとんどである。空堀川を越えてしばらくすると秋津駅に着く。
秋津駅を出ると、すぐにJR武蔵野線を跨ぐ。マンションが見えてくると、列車は大きく減速して右にカーブする。そして柳瀬川を渡ると埼玉県に入る。すると、新秋津駅付近からのJR連絡線と併走する状態になり、所沢駅まで3線区間となる。カーブを終えた後は広い丘やゴミ焼却場の煙突が見え、住宅街を走る。大きな団地群が見え、所沢陸橋をくぐると大きく急なカーブを左に曲がる。所沢駅前後は、池袋線有数の急カーブである。なお、かつてこの急カーブの区間には東所沢駅が設置されていた。曲がるとすぐ右側に西武新宿線の線路が見えて、所沢駅に到着する。同駅は3面5線構造をしているが、池袋線だけで見れば、基本的には保谷駅と同様で、2面3線と言える。なお、同駅は改良工事がなされ、駅舎やコンコースが拡大した。
所沢駅を出ると車窓右側に2本の引き上げ線を見ながら緩い坂を上り、右へ大きく曲がり、すぐに新宿線を跨いで、さらに急カーブは続く。この辺りのカントはきついため、列車は大きく傾く。カーブが終わると次の西所沢駅までは直線が続く。この辺りは住宅街である。しばらくすると、1本の引き上げ線が見える。そこから狭山線との分岐が始まり、複雑な分岐器が連続し、4本の線路となる。そのため、この区間はあたかも線路別複々線のように見える。その後埼玉県道55号所沢武蔵村山立川線の踏切(所沢10号踏切)を越えると、狭山線との分岐駅・西所沢駅に着く。
同駅は3面4線構造となっており、島式ホーム1面2線を相対式ホーム2面2線で挟んだ形となっているが、駅の構造上、同駅で各駅停車が待避をすることはない。なお、狭山線のホームはカーブしている。
西所沢駅を出ると、狭山線はすぐに南方へ分岐する。その後、非常に緩いS字カーブを描きながら国道463号線・東川を越える。沿線には六所神社や住宅街、畑が広がる。S字カーブが終わると、上新井の大踏切(西所沢6号踏切)を越える。その後直線を走りながら、上新井跨道橋で上新井新道を跨ぐ。上新井新道は、近年開通した西武新宿線の新所沢駅から国道463号所沢入間バイパス(小手指バイパス)につながる新所沢駅前通り線である。その後ほどなく小手指駅に到着する。同駅は島式ホーム2面4線構造をしており、同駅折り返し列車は多数設定されている。
小手指駅を出た列車は、複雑な分岐器を越えて、車窓右側に小手指車両基地を眺めながら進む。ここまで来ると、車窓には武蔵野の面影残す雑木林や畑が住宅に混ざって見えてくる。また、天気の良い時には富士山が望めることがある。しばらく直線を走ると、貨物輸送時代の側線を残す狭山ヶ丘駅に着く。この側線は深夜に車両が留置される。なお、同駅構内の飯能駅寄りは急カーブとなっている。
狭山ヶ丘駅を出てもまだしばらくカーブは続き、進路を北にとる。その後再び直線を走り、ほどなく対向式ホームの武蔵藤沢駅に着く。この小手指駅 - 入間市駅間の駅は、対向式ホームが多い。同駅構内は通常のバラスト軌道ではなく、コンクリートの省力化軌道で敷設されている。なお、駅舎改良工事と共に駅前は再開発された。
武蔵藤沢駅を出ると、国道463号線(行政道路)の建武橋の下をくぐり過ぎ、左カーブして進路は北西となる。その後、航空自衛隊入間基地の中を通り抜ける。そのため、車窓右側では自衛隊の航空機を多数眺めることができる。かつてはここに、自衛隊への物資輸送のための下原駅という貨物駅が設置されていた。入間基地を抜け終えると稲荷山公園駅に着く。同駅は、狭山ヶ丘駅と同様にホームが大きくカーブしている。このカーブにより、進路は西にとることになる。
稲荷山公園駅を出ると、入間基地の跡地を通りながら再び入間市に入る。そこからは大きな左カーブを描き、分岐器を通ると島式ホーム2面4線の入間市駅に到着する。この駅間は0.9 kmと池袋線の中では特に近いが、急カーブを通るため列車の速度は抑えられる。なお、毎年11月3日の入間基地航空祭開催時は同駅折り返し列車が運行される。だが、入間市駅には上下線間の亘り線が存在しないため、折り返し列車は次の仏子駅の中線を利用して折り返す。また、入間基地の跡地の影響により、入間市駅を過ぎるまでは市街地を一望できない。
入間市駅を出ると列車は築堤の上を走り、急な右カーブを描きながら国道16号線と霞川を渡る。一瞬ではあるが、入間市の市街地が望め、駅前の高層マンションや各種商業施設(コナミスポーツ、丸広百貨店、i-potなど)が望める。霞川を渡り、カーブを終えると今度はすぐ切り立った崖に沿って、急な左カーブを描きながら走る。そのため進行方向右側の眺めは大変良く、ほんの一瞬だが、車窓の窓一面を空が占める。その後崖を下ると、かつて存在していた黒須駅という貨物駅の跡を通り抜け、国道299号線バイパス・圏央道をくぐると仏子駅に着く。同駅は待避・折り返し用の中線がある。なお、前の入間市駅よりも南に位置する。また、この区間は車窓左側に加治丘陵が見えるため緑に溢れている。さらに、線路が直線的なため比較的高速で走る。
仏子駅を出ると再び築堤の上を走る。右側に大きな団地を眺めつつ、少し右に曲がりながら入間川を渡る。この入間川橋梁は西武鉄道の橋梁では最も長い(延長169.9m)。入間川を渡る際、進行方向左側には使用されていない単線の旧入間川橋梁が錆びた姿を晒している。また、北側の河原ではかつてアケボノゾウの足跡化石が見つかったことがある。入間川橋梁を渡りきると、2009年8月に再有人化されるまで池袋線唯一の無人駅であった元加治駅に着く。同駅からは、かつて入間川に向かう貨物線(岩沢側線)が伸びていた。なお、駅前は駿河台大学へのスクールバスが発着するのみで、普段は閑散としている。
元加治駅を出ると、車窓からの風景は畑から少しずつ住宅地に変わっていく。しばらくしてJR八高線をくぐり抜けると上下線が分かれる。その後、少しずつ住宅の密集度が高くなっていく。そして変電所が見えてくる辺りで、未成線となった飯能短絡線の建設予定地が分かれていく。この辺りでは、緩いS字カーブを描きながら高速で走行する。かつては途中に笠縫信号所があり複線から単線となっていた。カーブを終えると減速し、東飯能駅方面からの単線の線路と合流する。複雑な分岐器を越えると、3面4線の飯能駅に到着する。なお、同駅以東から吾野駅方面へ直通する列車は、特急「ちちぶ」、S-TRAINの土休日列車と快速急行の臨時列車のみとなる。
この区間は急カーブが連続し、かつほとんどの区間が単線であるため、ごく一部の複線区間(後述)を除いて、列車の速度は抑えられることになる。また、前述のとおり飯能駅で運転系統は二分されている。なお、飯能駅から吾野駅方面に進行するにはスイッチバック(方向転換)が必要となるため、飯能駅以西への直通列車は、同駅で進行方向を変えて東飯能駅へと向かう。
飯能駅を出ると、スイッチバックをするため一時的に進路は東となる。その後、複雑な分岐器を一旦戻って吾野駅方面へ進路をとる。その後所沢方面の複線の線路と分岐して、単線となる。飯能市の市街地をみながら北向きに急カーブで進路を変えると、東飯能駅に着く。
同駅は単式ホーム1面1線で、池袋線では唯一の上下相互発着が不可能な棒線駅であるが、ホームの西側には線路一本分の土地がある。これは飯能短絡線(前述)との合流用とされていたが、今後この土地を使う予定はない。また、同駅はJR東日本の八高線と乗り換えができる駅だが、飯能駅より圧倒的に利用者は少ない。その上、西武とJRの改札は分離されており、乗り換えるには一旦改札口を出る必要がある。なお、平日の朝夕ラッシュ時には八高線との乗り換え客で賑わうが、土曜・休日・平日早朝にはハイキング客が改札を出入りする光景も見られる。
東飯能駅を出ると線路は再び急カーブになり、北西に進路を変える。カーブを抜けてすぐのところにある北飯能信号場から再び複線となり、速度を上げる。その後、坂を上って盛土へと移行する。かつて存在していた天覧山駅の跡地を通る。飯能駅からこの辺りまでは住宅地が広がっている。その後、山が近づいてくる。そして武蔵丘信号場付近で減速し、線路は再び単線となって武蔵丘車両基地・武蔵丘車両検修場と分岐する。この区間が複線なのは、飯能駅から武蔵丘への回送列車が通り、運転本数が多くなるからである。なお、ここから国道299号線と併走するようになる。その後、しばらく山間部を走行した後は再び平地に戻って、高麗駅に着く。
同駅は、島式ホーム1面2線と側線を1本有する構造となっている。なお、東飯能駅 - 高麗駅の駅間距離は、東吾野駅 - 吾野駅間とともに、池袋線では最長の4.0 kmである。しかし、池袋線の実質的な延長路線で、飯能駅からの直通列車も多数運行されている西武秩父線には、それらよりもはるかに長い、6.1 kmが正丸駅 - 芦ヶ久保駅間に存在する。
高麗駅を出ると、高麗川と併走するようになり、再び山間部を走行する。しばらくすると武蔵横手駅に着く。
武蔵横手駅を出ると、急カーブも多くなり、周辺の山々が少しずつ険しくなってくる。その後ほどなく東吾野駅に着く。
東吾野駅を出てしばらくすると、山が険しくなり、速度を落として急カーブを描きながら、池袋線では唯一のトンネルである鎌倉坂トンネル(223 m)を通る。その後国道299号線を2度跨ぐと、住宅地が広がる。住宅地を見ながら国道299号線・高麗川と併走して、国道と川が右に分かれると、終点・吾野駅に到着する。なお、同駅は側線を1本有する。また同駅からは、ほとんどの列車が西武秩父線の西武秩父駅へ、さらには土休日の一部列車が秩父鉄道秩父本線の長瀞駅・三峰口駅にまで直通する。
なお、この区間の駅には発車メロディの設備がないため、車両上の乗車促進音を使用するほか、車掌乗務列車では車掌の手笛による出発合図が行われる。
池袋線の運転系統は飯能駅を境に池袋駅 - 飯能駅間と西武秩父線を含む飯能駅 - 西武秩父駅間の2つに分かれている。池袋駅 - 西武秩父駅間を直通運転するのは特急「ちちぶ」と土休日のS-TRAINのみである。以下では主に池袋駅 - 飯能駅間について述べる。飯能駅 - 吾野駅間は「西武秩父線」の項も参照のこと。
基本的に速達列車が途中駅から各駅停車となる郊外電車型の停車パターンである。各駅停車は日中1時間あたり1本の池袋駅 - 飯能駅間の列車以外は、基本的に池袋駅 - 豊島線豊島園駅、石神井公園駅、保谷駅、清瀬駅、所沢駅、小手指駅、狭山線西武球場前駅のいずれかの駅との間の運転であるため、小手指駅 - 飯能駅間は急行・快速・準急が各駅停車の役割を果たす。
速達列車であっても下り列車で以遠各駅停車となる区間では、「各駅停車」として案内されている(後述)。
平日朝ラッシュ時は、速達列車の停車駅を千鳥配置にする千鳥停車を採用することで、各列車の混雑を分散するように配慮されている。そのため、多様な停車パターンの多数の列車種別が運転されている。
飯能駅では西武秩父方面の普通電車と池袋駅発着の急行、準急または副都心線直通の快速急行との相互接続が考慮されている。また練馬駅では原則として副都心線・有楽町線直通電車と池袋駅 - 豊島園駅間の普通電車との接続が考慮されている。
このほか、2016年4月17日より、西武4000系1本 (4009F) を改造した「旅するレストラン 52席の至福」が、土休日を中心に年間100日程度、池袋駅または西武新宿線西武新宿駅から西武秩父駅まで1往復運行される。ただし、所要時間は通常と比べて長くなっている。2017年以降は、夕方のみ池袋線池袋駅から飯能方面へ向かい、池袋駅へ戻ってくるコースも用意された。
2023年3月18日改正の現行ダイヤでの日中(平日は11時〜14時、土休日は12時〜13時)の1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。なお、※印を付した吾野駅 - 西武秩父駅間は西武秩父線であるが、上述のように、運行系統は飯能駅 - 吾野駅間と一体化しているため、まとめて記す。
1969年10月14日のダイヤ改正で新設。
池袋駅 - 飯能駅・西武秩父駅間を運転する有料特急。平日の定期列車で唯一西武秩父線への直通運転を行う種別であり、池袋駅と西武秩父駅の間を最短77分で結ぶ。以下の列車が運転されており、2020年3月14日のダイヤ改正以降は全て8両編成の001系で運行されている。
昼間は「ちちぶ」が毎日1時間に1本運転されているが、平日下りは16時以降、土休日の上りは14時以降・下りは15時以降より「むさし」も運転されている。池袋駅では特急専用ホーム(番線は『特』)から発車する。夏休みなどは一部列車がかつての停車駅である芦ヶ久保駅、11月3日の入間基地航空祭開催時に稲荷山公園駅、9月の巾着田の曼珠沙華シーズンに高麗駅へ臨時停車する。
なお、1976年から1993年12月5日までは西武新宿駅 - 西武秩父駅間の運転、1993年12月6日から2003年3月11日までは池袋駅 - 西武秩父駅間の運転(入間市駅は通過)の「おくちちぶ」が存在した。また、飯能駅行きの「むさし」を延長運転し西武秩父駅行きとした「むさし」が臨時ながら設定されていたこともあるが、2016年3月26日実施のダイヤ改正で金曜日のみ池袋駅発22時台の飯能駅行き「むさし」1本が西武秩父駅行きに延長されたものの、2021年3月改正でこの延長措置は取りやめられた。
路線図で示される種別カラーは赤色■で、英文種別表記は「Ltd. Exp.」(「Limited Express」の略)である。列車番号は一桁か二桁が与えられる。
2017年3月25日のダイヤ改正で新設。
40000系を使用する西武鉄道初の有料座席指定列車で、平日は通勤輸送を目的に東京メトロ有楽町線豊洲駅 - 小手指駅間、土休日は観光輸送を目的に横浜高速鉄道みなとみらい線・東急東横線・東京メトロ副都心線を経由して元町・中華街駅 - 所沢駅・小手指駅・飯能駅・西武秩父駅間で運行する。
1980年3月17日のダイヤ改正で新設。特急料金・座席指定券不要の列車としては最速達種別となる。路線図で示される種別カラーは紫色■、英文種別表記は「RAPID EXP.」(「RAPID EXPRESS」の略)である。また、2008年6月14日のダイヤ改正に備えて新101系・新2000系・6000系・9000系・20000系・30000系の通勤車両全系式で、字幕式行先表示器の交換やLED式行先表示器のROM書き換えが実施された。旧字幕では「快速」部分が水色地に白文字、「急行」部分が赤色地に白文字となっていたが、新字幕及びフルカラーLED表示器では紫色地に白文字、3色LEDでは無点灯の地に赤文字の表記となっている。なお2016年3月26日以降、「Fライナー」として運転される列車で東急車と西武車は紫色地に緑のFと白文字で表示される。またLED表示器などで表示できるスペースが限られる場合は「快急」と略される。列車番号は1000番台が与えられる。
ここでは平日午前中下りに設定のある有楽町線からの直通についても記述する。
日中に小手指駅(ただし、野球開催時は快速の西武球場前駅行きに変更される列車もある)から西武有楽町線経由で副都心線へ直通する。
池袋線池袋駅発着の快速急行および急行・通勤急行(後述)が練馬駅を通過するのに対し、地下鉄線直通の快速急行は急行・通勤急行より速達の種別でありながら保安装置の切り替えおよび池袋線池袋方面との接続の利便性を図るため練馬駅に停車する(所沢以東で比較すると、練馬駅に停車する分、池袋駅発着の急行と比べるとあたかも下位種別であるかのように見える逆転現象が起きている)。2020年3月14日改正前までは西武有楽町線新桜台駅に停車していたが、同改正より通過するようになった(補完として練馬駅基準で直後に有楽町線直通準急が設定されたが、2022年3月12日のダイヤ改正で新木場駅 - 石神井公園駅間の各停が減便されたため、同駅の日中の停車本数は2020年改正前よりも減少している)。
副都心線方面は平日上りと土休日下りのそれぞれ1本以外は「副都心線内急行・東横線内特急」で運転され、2016年3月26日のダイヤ改正以降このパターンの列車には「Fライナー」の愛称がつく。
有楽町線方面は地下鉄内各駅停車で平日午前中下りのみ1日2本設定されている。ダイヤ乱れによる運用変更などにより上り列車が運転される場合もある。
西武線池袋駅方面との接続は、2016年3月26日ダイヤ改正以降、上下とも練馬駅で10両編成の準急(ただし、土休日ダイヤの一部は8両編成の準急)と接続する形がとられた(運転開始当初の下りは石神井公園駅・上りは練馬駅で行われ、下りは所沢駅・飯能駅行きの準急、上りは西武球場前駅発および保谷駅発の各駅停車に接続していた)。2022年3月12日改正で、下りの一部列車で石神井公園駅での準急接続が復活した。また、小手指駅発着の列車は小手指駅で飯能駅発着の各駅停車に接続する。なお、2019年3月16日改正から2020年3月14日改正前までは、小手指駅発の上りの一部列車が飯能駅発の各駅停車との接続がなされていなかった。
なお2019年の改正以降、土曜・休日ダイヤのみ所沢駅始発の上り快速急行が2本設定されたが、このうちの1本はひばりヶ丘駅で後続の特急列車に追い抜かされる。また、所沢駅終着のFライナーも平日夕方に1本設定された。
2022年3月12日のダイヤ改正で基本的に小手指駅発着に変更、飯能発着は土休日朝時間帯の一部のみに変更。またこの改正で、土休日ダイヤ朝の所沢駅始発2本は小手指駅始発に延長され、所沢行きは平日の夕方1本に減らされた。但し、平日朝方の菊名7時38分発が快速所沢行きから快速急行小手指行きに格上げされ、平日・土休日ダイヤとも午前中の各1本が8両編成での運転となった。
副都心線直通系統とは異なり、練馬駅を通過する。2022年3月12日改正時点では上り飯能発池袋行きが通勤形車両10両編成で平日朝に1本設定されている。ひばりヶ丘駅で通勤準急池袋駅行きに接続し、清瀬駅で追い抜いた副都心線直通快速元町・中華街駅行きにも連絡する。石神井公園駅で有楽町線直通各駅停車新木場駅行きに接続する。また土休日の夕方には通勤形車両8両編成で上り西武秩父駅発池袋駅行きが1本設定されていた。
池袋駅発着および西武秩父線直通系統の快速急行は、長らく平日は朝ラッシュ時と昼間を中心に池袋駅 - 飯能駅間で特急の補完的な列車として、土休日は行楽列車として秩父方面の列車が数多く運行されていた。
しかし、2013年3月16日改正で副都心線直通の快速急行が設定された一方、平日日中の池袋駅発着の快速急行は全て急行へ格下げされ、土曜・休日の秩父鉄道方面の列車も朝下り2本(4000系による運用、その池袋送り込み上り列車は快速急行から回送に変更)と夕方1本(通勤形車両による運用、西武秩父発)に減便(上りの秩父鉄道からの直通列車は急行に格下げ、飯能駅で副都心線直通の快速急行に接続)され、池袋駅発着の快速急行は激減した。
2020年3月14日のダイヤ改正で、秩父鉄道線直通の快速急行が池袋駅 - 飯能駅間運行の急行に置き換わる形で廃止され、秩父鉄道直通列車は全て飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間での運行となるため、池袋発の定期快速急行列車及び池袋駅 - 飯能駅間における4000系の定期旅客運用は改正前最後の休日となる同年3月8日をもって終了した。
2022年3月12日のダイヤ改正で、土休日の夕方に1本だけ残っていた通勤形車両8両編成で運転される上り西武秩父駅発池袋駅行きが、西武秩父駅 → 飯能駅間運転の各駅停車と飯能駅 → 池袋駅間運転の急行に置き換わる形で廃止された。
池袋線の中心的種別で、池袋駅 - 飯能駅間で終日運行されるほか、平日夕方の池袋駅17時25分発と土曜・休日ダイヤの池袋23時05発急行小手指行きも各1本ずつある。また野球開催時は、西武球場前駅発池袋駅行きの列車も設定される。大半の列車において、石神井公園駅やひばりヶ丘駅での各停・準急・通勤準急と、西所沢駅で狭山線各停と、飯能駅で西武秩父線直通各停との接続が考慮されている。石神井公園駅での接続は、有楽町線・副都心線方面発着の各停もしくは池袋駅発各停所沢駅行き・西武球場前駅行きが対象となることが多い。
平日朝の下り2本は所沢駅で、平日日中の下りは入間市駅で、全日夜の下りと土休日飯能17時発の上り1本は入間市駅でそれぞれ特急の待ち合わせ、朝の上り2本は小手指駅および石神井公園駅で特急の通過待ちを行う。基本的には10両編成だが、土休日ダイヤなど、終着駅での折り返し前または後が各駅停車になる場合は、8両編成での運転となる。
なお、定期列車としては西武有楽町線を経由して副都心線・東急東横線方面に直通する列車は存在しないが、臨時列車として設定されることがある(定期列車として設定されている快速急行を種別変更している)。この場合、通常の急行は通過する練馬駅は停車することになる。
2020年3月14日のダイヤ改正で、秩父鉄道線直通の快速急行・急行は池袋駅 - 飯能駅間運行の急行と飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間運行の秩父鉄道線直通の各駅停車に置き換わる形で廃止され、秩父鉄道直通列車は全て飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間での運行となるため、同時に池袋駅発の急行列車の飯能駅以西への運行及び池袋駅 - 飯能駅間での急行列車の4000系による定期運用は終了した。
1990年に飯能駅で系統が分割されるまでは西武秩父駅まで運転する列車が多数あったが、系統分割後は大幅に減らされた。
駅構内の路線図で示される種別カラーは橙色■で、英文種別表記は「EXP.」(「EXPRESS」の略)である。旧字幕ならびにフルカラーLEDでは赤色地に白文字で、新字幕では橙色地に白文字で、3色LEDでは無点灯の地に赤文字で表記される。列車番号は2000番台が与えられる。
1980年3月17日のダイヤ改正で新設。略称は「通急」。平日朝上りのみ、10両編成を用いてすべて飯能駅発池袋駅行きで6本運転される。快速と共に千鳥式運転を行い、飯能駅 → 所沢駅間は各駅に停車し、所沢駅を出ると東久留米駅・保谷駅・大泉学園駅・石神井公園駅の順に停車するが、快速や急行停車駅のひばりヶ丘駅は通過する。飯能発7時台の1本は石神井公園駅で特急の通過待ちを行う。全ての列車が保谷駅で、ひばりヶ丘駅で追い抜いた有楽町線直通新木場駅行き(各停または準急)に連絡するほか、3本が石神井公園駅で始発の各停池袋駅行きに接続する。
ダイヤそのものは1970年代から既に存在していたが、当時の池袋線関係の列車種別は平日の定期ダイヤの場合だと「特急・急行・準急・各駅停車」のみだったため、現在の「通勤急行」という種別が設定される前は「ひばりヶ丘駅には停車しない急行」や「朝だけ東久留米駅・保谷駅・大泉学園駅に停まる急行」といった表現で利用者は解釈していた(当初は石神井公園駅も通過)。
路線図で示される種別カラーは黄色■で、英文種別表記は「COM.EXP.」(「COMMUTER EXPRESS」の略)である。表示色は、旧字幕では「通勤」が白色地に赤文字、「急行」が赤色地に白文字となっており、新字幕では黄色地に黒文字で、3色LEDでは無点灯の地に赤文字、フルカラーLEDではオレンジ色地に黒文字で表記される。表示できるスペースに限りがあるときは、「通急」と略される。列車番号は2500番台が与えられる。
1980年3月17日のダイヤ改正で新設。朝・夕方に池袋駅発着および西武有楽町線経由で有楽町線・副都心線(東横線・みなとみらい線)直通で設定されている系統。加えて、土休日日中には下りのみ1時間に1本設定される。副都心線直通としては通勤種別としてFライナー快速急行に代わって運転される。副都心線内は主に急行、東横線・みなとみらい線内は主に通勤特急(日吉駅・馬車道駅・日本大通り駅停車)として運転されている。10両編成が大半であるが、池袋駅発着の各停となる運用を持つ場合や、東横線・みなとみらい線内を各停として運転する場合などは8両編成で運転される。
上下線ともに、有料列車を除いて池袋駅・小竹向原駅 - 所沢駅間で先着することが多いが、上りで清瀬駅あるいはひばりヶ丘駅で特急待避を行う場合も多いほか、平日朝に清瀬駅で快速急行の通過待ち及び小手指駅始発の準急と接続を行う列車もある。また、下りは所沢駅で特急待避を行う列車も多い。地下鉄直通は、朝上りは練馬駅で豊島園駅発池袋駅行き各停に接続し、夕下りは同駅で池袋駅発準急の接続を受ける。時間帯によっては、快速は池袋駅発、準急は地下鉄線方面発と逆になる。
池袋駅発着は設定時から長年、平日夕方時の下りに池袋駅 - 小手指駅間で運転されていた。2010年3月ダイヤ改正で土休日の夕方以降の下りは23時台の3本を除いて急行または準急に編入される形で廃止された(ただし、2013年3月改正で復活)うえ、土休日は池袋駅 - 西武球場前駅間運転の列車も設定された(池袋駅 - 所沢駅間は通年運転、所沢駅 - 西武球場前駅間は冬季以外に運転だが、2010年3月改正から後者も通年運転)。2012年6月30日のダイヤ改正では夕方下りの通勤準急を格上げする形で1時間2本から4本へ増発されたが、上りは夜間の所沢駅発21時以降の列車が準急に格下げされている。2022年3月12日のダイヤ改正で土休日日中に下りのみ池袋駅発飯能駅行きが新設された一方、池袋駅18時台以降の列車の大半が準急に格下げされた。
一方、地下鉄線直通は2001年12月のダイヤ改正から停車駅に練馬駅が加えられたことで飯能駅発着の有楽町線直通列車の中心的種別として終日運転となった。その後、2008年6月14日の副都心線開業と同時に多くが副都心線渋谷駅発着へシフトしたが、2013年3月16日改正で日中の副都心線直通の快速が快速急行へ格上げされたため(ただし、野球デーゲーム開催時は一部の小手指駅発着の快速急行が西武球場前駅発着の快速で運転される)、池袋駅発着を含め再びラッシュ時中心の種別に戻っている。なお、東急東横線・みなとみらい線の相互直通運転開始発表当初のプレスリリースには、西武線内快速 - 副都心線内急行 - 東横線・みなとみらい線内特急という形態となっていた。また、土休日夕方時の運転が3年ぶりに復活し、池袋方面からは小手指駅行き、地下鉄からは(元町・中華街駅発または新木場駅発)飯能駅行きが各2本ずつ運転されている。同時に後者では練馬駅で準急の接続が復活している。さらに2017年3月25日ダイヤ改正では、土休日ダイヤで池袋駅発17時台の準急所沢駅行きを快速飯能駅行きに変更させたほか、一部の上り列車で特急の時刻変更及び「S-TRAIN」運転開始に伴い、Fライナー快速急行を快速に格下げする形で増加している。それ以降のダイヤ改正においても当種別の増減を繰り返している。
路線図で示される種別カラーは濃い水色■で、英文種別表記は「RAPID」である。表示色は旧字幕でも新字幕でも水色地に白文字だが、両者では若干濃さに違いがみられる。また、フルカラーLED表示器でも水色地に白文字、3色LED表示機では無点灯地に緑文字で表記される。列車番号は3000番台が与えられる。
1980年3月17日のダイヤ改正で新設。
略称は「通準」。平日朝上りのみ、10両編成を用いて、4本は小手指駅発・1本は所沢駅発の池袋駅行きで5本運転される。急行および快速急行と千鳥停車となっており、小手指駅 - 大泉学園駅間の各駅と練馬駅に停車し、快速および急行・快速急行停車駅の石神井公園駅は通過となる。副都心線の開業で一部の快速が副都心線直通へ移行したため、その接続確保のために練馬駅の停車を開始したという経緯を持つ。なお、現行のダイヤでは、通勤準急池袋駅行きは有楽町線直通各停と接続し、副都心線直通快速は前述の通り豊島線からの各停池袋駅行きと接続する形に変更されている。ひばりヶ丘駅で快速急行や急行と待ち合わせをする(長年、池袋駅発の下りでは当列車が発車する2分後に急行が発車していた)。
この種別の運転される時間帯は、池袋駅行きの準急は運転されない。有楽町線直通列車のみ準急として運転される。
1980年の設定当初の運転区間は池袋駅 - 清瀬駅間で、1990年以降所沢駅・小手指駅へと延長された。かつては飯能駅発の朝の上り1本のみ、また野球開催日には所沢駅行きを延長する形で西武球場前駅行きが、さらに平日の朝1本は西武秩父駅行きが運転されていた。下りは運行開始当初は17 - 19時台に1時間4本運転され、2005年3月17日のダイヤ改正では平日朝の時間帯に、2008年6月14日のダイヤ改正では21時台までそれぞれ運転時間帯が拡大されたが、2012年6月30日のダイヤ改正で下りの通勤準急は全て廃止となり、準急や快速に置き換えられた。2022年3月12日改正前までは小手指駅発池袋駅行きが6本設定されていたが、同改正で1本が減便、1本が小手指駅始発から所沢駅始発に変更され、1日5本の運転に変更された。その後2023年3月18日に行われたダイヤ改正でさらに1本が減便され、1日4本の運転に変更された。
路線図で示される種別カラーは青色■で、英文種別表記は「COM.SEMI EXP.」(「COMMUTER SEMI EXPRESS」の略)である。表示色は、旧字幕では「通勤」が白色地に緑文字、「準急」が緑色地に白文字となっており、新字幕及びフルカラーLED搭載車では青色地に白文字、3色LED表示機では無点灯地もしくは黒地に緑文字で表記される。表示できるスペースに限りがあるときは、「通準」と略される。列車番号は4600番台が与えられる。
終日池袋駅 - 所沢駅・飯能駅間で運転されるほか、日中は副都心線方面元町・中華街駅発石神井公園駅行き、朝や夕方には池袋駅 - 西武球場前駅・小手指駅間、有楽町線直通列車、大泉学園駅以西へ向かう副都心線直通列車も運転される。料金不要の優等列車としては最も多く設定されており、池袋駅 - 石神井公園駅間では快速急行や急行などを、石神井公園駅以西では各停を補完する。地下鉄線直通列車は全列車が小竹向原駅で種別を変更し、有楽町線内では各停として、副都心線内では急行または各停として運行される。
平日朝には、小手指駅発有楽町線直通新木場駅行きが設定され、ひばりヶ丘駅で通勤急行池袋駅行きの通過待ちを行う。土休日朝夕を中心に、平日にも大泉学園駅以西 - 副都心線直通元町・中華街駅発着列車が運転される。下り(副都心線北行)は副都心線急行あるいは通勤急行、東横線・みなとみらい線急行以上の列車が多いが、上り(副都心線南行)の夕方以降は副都心線各駅停車の列車が多い。その多くは東横線・みなとみらい線内も各駅停車(8両編成)である。この時間帯は、池袋線内各駅停車の一部が副都心線・東横線・みなとみらい線内で速達運転する。所沢駅・小手指駅発着は野球開催時には西武球場前駅発着として延長運転または立て替えされる。
平日朝の小手指駅行き1本が西武秩父駅行きとして延長運転する日があり、その場合は小手指駅で前2両を切り離す形となっていたが、2016年3月26日改正で池袋駅発8時台の各駅停車小手指駅行きが延長運転対象となったため消滅した。1990年までは定期列車として西武秩父駅発着が設定されていた。
早朝・深夜以外のほとんどの列車が練馬駅以西の待避駅で、特急・S-TRAIN・(Fライナー)快速急行・急行に抜かれる(昼間の下り準急は、日中1時間に1本がFライナー快速急行・急行・特急に抜かれる)ため、速達列車としての役割は低い。快速急行の節で記述したとおり日中は上りは練馬駅で、下りは練馬駅または石神井公園駅で(Fライナー)快速急行と相互に接続する。なお、2022年3月12日改正で、東長崎駅で各停を追い越すダイヤが日中に復活した。
地下鉄線直通を含め10両編成の運転が基本であるが、急行・快速急行・快速と同様、車両運用の都合で折り返し前後が各駅停車になる場合や副都心線・東横線・みなとみらい線内を各停で運転される場合は、8両編成で運転される(特に土休日夕方に設定されている西武球場前駅発着の列車に多い)。
なお、人身事故・各種トラブルなどでダイヤが乱れている場合、本来は通過する練馬高野台駅 - 中村橋駅間に停車する準急(=かつての区間準急)を運行する場合もある。
少数ながら保谷駅終着や清瀬駅発着も存在する。2022年3月12日改正時点では、保谷駅終着は有楽町線新木場駅発、副都心線方面元町・中華街駅発が設定されている。清瀬駅始発は土休日夜間の池袋駅行きが1本、清瀬駅終着は平日朝の副都心線方面元町・中華街駅発が設定されている。時期は詳細不明だが、以前にも清瀬駅発・保谷駅発池袋駅行きが設定されていた。2019年3月16日ダイヤ改正で、新木場駅発保谷駅行きが平日ダイヤの午前中のみ下り1本新設され、清瀬駅発準急池袋駅行きが土休日ダイヤの20時台1本復活した。また、2020年3月14日のダイヤ改正では、日中時間帯の新木場駅発保谷駅行きが各停から準急に格上げされ、多数増便されるとともに、平日深夜上りのみ保谷駅発池袋駅行きが復活した。2022年3月12日改正で新木場駅発保谷駅行きが一部を除き各停へ再度変更された一方で、平日朝2本のみ元町・中華街駅発清瀬駅行きも設定された。
2022年改正で、土休日ダイヤの朝に設定されていた西武球場前発着が所沢駅・小手指駅発着に変更されている。
1993年12月6日のダイヤ改正以前は練馬駅を通過しており、朝の上りと一時期存在した下り豊島園駅行きのみが練馬駅に停車していた。地下鉄線直通列車は、2008年6月から11月までの短い期間に有楽町線内準急(千川駅・要町駅は通過)の列車も設定されていた。
豊島園駅行きの準急は、1980年から平日の朝のラッシュ時の下りのみに設定され、池袋駅 - 練馬間のみを通過運転していた。1988年で廃止された。
路線図で示される種別カラーは緑色■、英文種別表記は「SEMI EXP.」(「SEMI EXPRESS」の略)である。表示色は旧字幕でも新字幕でも緑地に白文字だが、両者では若干色合いに違いがみられる(新字幕の方が少し青緑に近い)。また、フルカラーLED表示器でも緑地に白文字、3色LED表示機では無点灯地に緑文字でと表記される。列車番号は4000番台が与えられる。
各駅に停車する。主に、池袋駅 - 中村橋駅以西を直通する系統、池袋駅 - 豊島線豊島園駅発着系統、有楽町線・副都心線 - 中村橋駅以西発着系統、飯能駅 - 西武秩父線西武秩父駅発着系統の4系統に大別される。池袋駅発着の各駅停車は全て8両編成で運行されている。有楽町線直通は全て10両編成、副都心線直通は大半が8両編成(自社所有の6000系・40000系は10両固定のため、副都心線8両の西武車運用はない)で運行される。朝夕などは副都心線直通でも10両編成で運転される場合もあり、この場合はホーム有効長の関係上、東横線・みなとみらい線は急行以上の種別で運転され、その多くは副都心線内を通勤急行または急行として運転する。
西武線内完結列車は、池袋駅発着のほか、全日早朝には保谷駅・小手指駅始発飯能駅行きが、土休日深夜には狭山線西武球場前駅始発保谷駅行きも設定されている。小手指駅始発飯能駅行きのみ、他の西武線内完結列車と異なり10両編成で運行される。
飯能駅以北の系統は、飯能駅 - 西武秩父駅間運転の列車が大多数を占めるが、飯能駅 - 吾野駅間運転の列車が1往復設定されているほか、飯能駅 - 秩父鉄道線長瀞駅・三峰口駅間直通列車が平日に1往復、休日に2往復それぞれ設定されている。横瀬駅で分割を行い、長瀞駅発着の列車は西武秩父駅を通らず御花畑駅に停車する。一部列車を除き4両編成で運転され、ワンマン運転を行っている。
このほか、野球開催日や12月の秩父夜祭をはじめ沿線で開催されるイベントに合わせ、通常運行されない区間への延長運転や臨時停車が行われる。2016年3月26日ダイヤ改正以降、平日池袋駅発8時台の各駅停車小手指駅行きは、西武秩父駅まで延長運転する日もあった(この場合、小手指駅で特急「ちちぶ7号」の通過待ちを行った)が、新型コロナウイルス感染拡大以降は延長運転は設定されなかった。2022年3月12日改正で、当該列車は石神井公園駅行きに短縮された。
2012年6月30日のダイヤ改正ではそれまで平日朝ラッシュの時間帯に運行されていた有楽町線・副都心線直通の練馬高野台駅発着が石神井公園駅発着に延長された一方で、日中の副都心線からの清瀬駅発着が石神井公園駅発着に短縮された。また、この改正では日中の有楽町線直通や西武球場前駅発着の準急が各駅停車へ格下げとなり、日中と平日夕方の練馬駅 - 石神井公園駅間の各駅停車の本数が1時間に10本に増えた。さらに2013年3月16日のダイヤ改正で、平日朝ラッシュ時に石神井公園駅発の池袋駅行きが新設された。一方で、池袋駅 - 保谷駅間の各停は石神井公園駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着などへ振り分けられたことで減少した。2017年3月25日のダイヤ改正で「S-TRAIN」運転開始に伴い、日中時間帯(15時台)に清瀬駅始発・小手指駅始発の各駅停車池袋駅行きが各1本ずつ復活したほか、一部列車で発着駅変更を行っている。2018年3月10日のダイヤ改正で平日日中の池袋駅 - 狭山線西武球場前駅間に運行されていた列車の大半が西所沢駅 - 西武球場前駅間の狭山線内運行に短縮されたことにより、平日における池袋駅 - 西武球場前駅間の各駅停車の運行は下り2本のみとなった。また土休日ダイヤの日中時間帯で、新木場駅 - 保谷駅間を発着する一部の列車が清瀬駅まで延長されている。2022年3月12日改正で土休日下りの池袋駅発快速が新設されたことに伴い清瀬駅発着が増便された。また、同改正で、平日ダイヤにおいて、新木場駅発保谷駅行きが終点保谷駅で、先行の池袋駅発各停所沢駅行き・西武球場前駅行きに接続するダイヤも新たに設定された。
なお、現行ダイヤでは日中上りの秋津駅 - 椎名町駅間の各駅で各停が池袋駅への先着列車(特急を除くと所沢駅からも)となるパターンが発生している。また日中下りでも、椎名町駅 - 元加治駅間の各駅で各停が飯能駅への先着列車となるパターンも存在する。
路線図で示される種別カラーは灰色■で、英文種別表記は「LOCAL」である。表示色は、2008年4月頃までの旧字幕時代は「普通」表示で紺色地に白文字(新101・301・3000の各系列では90年代中頃まで白地に黒文字)となっており、新字幕では「各停」表示で灰色地に白文字、フルカラーLED表示器も字幕と同様の色が用いられているが、3色LED表示機では無点灯の地に橙色の文字で表記される。
列車番号は5000・6000番台が与えられる(前者は西武線池袋駅発着などの池袋線・西武秩父線内完結列車、後者は地下鉄線直通、秩父鉄道直通、狭山線に割り振られる)。
これとは別に、下り方面の速達列車は、通過運転を終えると駅の接近放送や発車案内標では「各停」として案内される(例:急行は所沢駅以西では通過運転を行わず各駅に停まるため、所沢駅からは各停として案内される)。車内の案内放送やLED表示器、およびスマートフォンアプリ「西武線アプリ」でも「各停」に変更されるが、車両の案内表示は車内外ともに優等種別のままとなる。上り方面の有楽町線直通列車も、かつては練馬駅から「各停」と案内されていたものの、副都心線渋谷方面開業で種別切り替えが煩雑となることから、小竹向原駅まで種別案内を変更しないこととした。
1969年から1980年まで愛称を使用。
池袋 - 吾野間で休日運転されていた急行「正丸」「伊豆ヶ岳」が前身で、1969年の西武秩父線開業に伴い西武秩父駅まで延長された際に「奥秩父」「奥武蔵」の愛称に改称されたのが起源となる。停車駅は「奥秩父」が池袋駅 - 所沢駅 - 飯能駅 - 吾野駅 - 正丸駅 - 芦ヶ久保駅 - 西武秩父駅で、「奥武蔵」は飯能駅 - 西武秩父駅間が各駅停車。これらの列車は、当初は「ハイキング急行」もしくは「不定期急行」と呼ばれており、ヘッドマークも掲出されていたが、1973年の改正で「奥秩父」が消滅。さらに1980年には快速急行に種別が変更。愛称名も1980年代後半には使われなくなった。
1988年から2001年まで運行。
1988年に登場し、平日朝ラッシュ時上り1本(列車番号:3502レ)のみ設定されていた。当時は所沢駅から池袋駅への一極集中により通勤準急や通勤急行で石神井公園駅やひばりヶ丘駅の拠点駅を通過する千鳥式運転でも捌ききれず、遅延や途中駅での積み残しが恒常化していた。設定当初は所沢駅 - 池袋駅間での運転で、池袋にラッシュピークを迎える時間(8時10分頃)に到着する急行に続行する形で運転を行っていた。この急行の分散を目的としていたため急行停車駅の手前駅に停車するのが特徴で、この取り組みは『NHKモーニングワイド』に取り上げられた。後に小手指駅始発に繰り下がり、1993年12月6日のダイヤ改正時に飯能駅始発に、1998年3月26日のダイヤ改正で再び小手指駅始発となり、同時に東久留米駅にも停車するようになったが、2001年12月のダイヤ改正で消滅した。
英文種別表記は「Rapid」で快速と同じだった。また、種別表示色は旧字幕では「通勤」が白色地に水色の文字、「快速」が水色地に白文字であった。また、3色LED表示器では無点灯の地に緑色の文字で、「準急」や「快速」と同じであった。なお、近年新2000系などで更新された新字幕では、「通勤快速」は削除、種別表示部分は「拝島快速」に変更され、種別と行先が一体の新2000系・3000系の側面表示部分は空コマとされた。また、表示できるスペースに限りがあるときは「通快」と略された。
1998年から2003年まで運行。
池袋駅 - 練馬駅間のみを通過運転する種別で、平日の朝の上下列車に設定された。1998年3月26日のダイヤ改正で、有楽町線直通列車設定に伴い池袋駅への直通列車が大幅に減少した中村橋駅・富士見台駅・練馬高野台駅から池袋駅への利便を図るために設定されたが、2003年3月12日のダイヤ改正で消滅した。
運転区間は池袋駅 - 所沢駅・小手指駅・飯能駅(下り1本のみ)・西武秩父駅間(シーズン時下りのみ)で基本的に10両で運転していたが、西武秩父駅行きのみ小手指駅で前の2両を切り離していた。
種別表示色は、旧字幕では「区間」が黄色地に黒文字、「準急」が緑色地に白文字であった。また、3色LED表示機では、無点灯の地に緑色の文字で、「快速」や「準急」と同じであった。なお、新2000系などで交換された新しい字幕でも「区間準急」は削除されず、旧幕時代にはなかった石神井公園行きや保谷行きなどの表示が追加されている。 新しい表示は黄緑色地に白文字、英文種別表記は「S.SEMI EXP.」(「SECTION SEMI EXPRESS」の略)となっている。また表示できるスペースが限られるとき、「区準」と略していた。なお3000系には区準幕が装備されておらず運用に入ることはなかったが、2008年の幕交換時に空コマ部分に追加された。
現在でもダイヤが乱れて池袋線と西武有楽町線の直通を中止したときに、中村橋駅・富士見台駅・練馬高野台駅に停車する列車の本数が激減することを救済する目的で「準急」が練馬駅から「各停」に変更されたり、上りの地下鉄直通「各停」が練馬駅から池袋駅行き「準急」に変更されたりすることがあるが、基本的に「区間準急」としては案内されない。
なお、池袋駅・練馬駅の発車案内標で、「区準」と表示され、『まもなく、○番ホームに、区間準急、池袋行きが、10両編成で、まいります、黄色い線の内側で、お待ちください。』などと自動放送が流れることもあるが、車両側には表示されない。
特別料金不要の一般列車に使用される車両は、新2000系や6000系が導入される1990年頃まで、1977年以降2000系の導入が進んでいた新宿線とは対照的に3ドア車で運転された。しかし新101系・301系や3000系などの3ドア車が全廃されたこと、4000系の飯能以東の運用が消滅したことなどから、2022年現在では特急や「旅するレストラン 52席の至福」を除き池袋 - 飯能間は全て4ドア車での運行となっている。
6000系は有楽町線・副都心線直通に使用されているが、西武線池袋発着の優等運用にも定期的に使用されている。優等列車は基本的には10両編成の運用だが、土休日を中心に地下鉄直通を含む一部列車に8両編成が使用されている。
新2000系・30000系では8両と2両を連結した10両編成で運用されるが、途中駅で分割併合・増解結する列車は無く、原則10両固定編成として運用されている。なおこの場合は飯能寄りに2両を連結するため、当線所属の2両編成には女性専用車両のステッカーが貼られている。
過去に所沢や小手指止まりの列車を行楽シーズンのみ西武秩父まで延長運転した際、この列車に8両+2両または4両+4両+2両が限定使用され、小手指で前2両を解放していた。
また、2001年までは平日ダイヤに秩父鉄道直通の急行が設定され、直通対応の新101系4両+4両に2両を連結した10両編成が使用された。
この場合も小手指で下り方2両を解放していた。
東京地下鉄・東急電鉄・横浜高速鉄道からの乗り入れ車両には10両編成と8両編成があり、10両の優等列車を中心に飯能まで乗り入れる。原則として西武線池袋 - 練馬間には入らないが、ダイヤ乱れによって有楽町線・副都心線との直通運転が中止された場合に同区間を走行することがある。10両編成は有楽町線と副都心線(東横線・みなとみらい線までを含む)の両方から乗り入れる。副都心線方面では西武6000系同様、西武線からみなとみらい線までの全区間を優等列車として運転するのが主体である。一方、8両編成は副都心線方面のみ乗り入れる。飯能まで乗り入れるものは少なく、日中は石神井公園と保谷まで、それ以外の時間帯も多くは小手指までの運転である。西武線内での優等扱いは、朝と夜間に下りの準急・快速・快速急行が、上りは準急・快速(ともに副都心線内各駅停車)の運用が数本あるが、西武線からみなとみらい線までの全区間を各駅停車で運転する列車が主体となっている(東横線・みなとみらい線内は急行で運行する列車もあるが、副都心線内は各駅停車で運行することが多い)。
西武線のほか、同じく有楽町線・副都心線と相互直通運転を行う東武東上線にも乗り入れており、西武線直通列車の折り返しが東上線直通列車(またはその逆)となる運用もある。東武鉄道の車両は西武線への入線に対応していないため乗り入れない。同様に、西武線の車両が東上線に入線することも不可能である。
どの列車がどの車両で運転されるかは『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄にて判別ができる(西武池袋線のページでは相互直通列車も西武方式の列車番号で記載されているため判別不可能)。列車番号末尾アルファベットの「M」が西武、「S」がメトロ車両、「K」が東急・横浜高速所属車両となっている。なお、東武車両と相鉄車両は西武には入線しない。
2013年3月16日改正ダイヤでは、東京地下鉄所属の10両編成1本および東急所属の10両編成1本各々が武蔵丘車両基地で、東急・横浜高速所属の8両編成1本が石神井公園駅でそれぞれ夜間留置となる運用が組まれている。逆に、西武車は東京地下鉄の和光検車区・新木場車両基地および東急の元住吉検車区で1本ずつが夜間留置となる運用が組まれている。なお、東急所属の10両編成の一部は「Q SEAT」を2両連結しており、2022年10月24日以降は車両運用の都合で一部列車に「Q SEAT」を連結した編成が充当されるが、2023年8月10日の東横線での有料座席指定サービス開始以降も西武線内では有料座席指定サービス提供は行われない。
東急5000系・5050系と横浜高速鉄道Y500系は、2013年3月16日に開始された副都心線経由による東急東横線・みなとみらい線直通運転に充当される車両で、東急5050系は直通運転開始に先立って2012年7月に池袋線内で試運転が行われ、同年9月10日より営業運転を開始している。編成の扱いは他社直通車両と同じである。
501系以前の車両は省略。
本路線には、平日朝の通勤・通学時間帯において女性専用車が設定されている。
女性専用車には、女性客だけではなく以下のいずれかに該当する男性客も乗車可能である。
ダイヤ乱れなどが生じた場合には、女性専用車の設定を取りやめる場合がある。副都心線直通列車の8両編成にも設定されているため、新桜台 - 練馬 - 小手指間では、8両編成の最後尾乗車口付近に緑色の案内表示がなされている。
10両固定編成のほか、2000系・30000系の2両編成は原則飯能寄りに連結されるため、専用ステッカーを掲示している。
2013年3月16日に副都心線を介した東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転が開始され、各鉄道会社間で女性専用車両の実施内容を統一するため設定時間が拡大された。
2021年度の朝ラッシュ時最混雑区間は椎名町 → 池袋間であり、ピーク時(7:27 - 8:27)の混雑率は111%である。
混雑率は1993年度まで200%を越え、当時の混雑率は民鉄路線で最も高かった。1994年に西武有楽町線の全線が、1997年に都営地下鉄大江戸線の練馬 - 新宿間がそれぞれ開業して都心方面へのバイパス路線となったことで混雑は大幅に緩和され、2002年度に160%を下回った。副都心線が開業した2008年度は、西武線池袋方面の本数を削減した反動で混雑率が180%弱まで悪化したが、その後は輸送人員が減少した。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
池袋線では、2007年3月18日からSuicaとの相互利用が可能なICカード「PASMO」を導入しているが、自動改札機が設置されていない武蔵横手・東吾野・吾野の各駅は簡易ICカード改札機、その他の駅は自動改札機での対応となっている。
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"text": "池袋線(いけぶくろせん)は、東京都豊島区の池袋駅から埼玉県飯能市の飯能駅を経由して同市の吾野駅までを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。",
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"text": "東京の副都心・池袋から練馬区や埼玉県所沢市、同県入間市などのベッドタウンを経由して同県西部方面を結ぶ東京圏の主要通勤路線の一つである。一方で、プロ野球試合やイベント開催時には埼玉西武ライオンズの本拠地である西武ドーム(ベルーナドーム)への、行楽期には秩父地方への東京都心などからの観光輸送も担っている。新宿線と共に西武鉄道の主要路線であり、同線と所沢駅で接続している。歴史的経緯から西武鉄道の鉄道路線は池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)、新宿線系統(旧・西武鉄道)とその他の路線に大別でき、支線の狭山線・豊島線・西武有楽町線と池袋線の実質的な延長路線である西武秩父線を併せて「池袋線」と呼ぶことがある。",
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"text": "特急「ちちぶ」と土休日の有料座席指定列車「S-TRAIN」、飯能駅 - 西武秩父駅方面間の各駅停車が西武秩父線と直通運転を行っている。武蔵野鉄道時代の1929年に吾野駅まで開業し、吾野駅から先の西武秩父線は1969年に開業した。そのため吾野駅が線路名称上の終点ではあるものの、ほとんどの列車は吾野駅から西武秩父線に直通して西武秩父駅に至ること、さらに飯能駅でスイッチバックを行う必要があることから、基本的に飯能駅止まりの「むさし」を除く特急と一部のS-TRAIN以外の一般列車の運転系統としては池袋駅 - 飯能駅間、飯能駅 - 吾野駅 - 西武秩父駅間で二分されている。さらに一部の各駅停車は西武秩父線経由で秩父鉄道秩父本線への直通運転も行っている。なお、前述の通り飯能駅で運転系統が二分されていることから、池袋駅 - 飯能駅間を池袋線、飯能駅 - 西武秩父駅間を西武秩父線とする鉄道関連書籍や時刻表検索サイトも見受けられるが、正確な表現ではない。また、沿線に住宅地が広がる池袋駅 - 飯能駅間とは対照的に、飯能駅 - 西武秩父駅間は山間部を走行するため民家の数も疎らであり、飯能駅を境に沿線風景も大きく異なる。",
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"text": "また、西武有楽町線を経由して東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線及び副都心線、さらに副都心線を経由して東急電鉄東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転を行っている。日中の時間帯に副都心線系統(飯能駅 - みなとみらい線元町・中華街駅)を走る列車のうち、各線内を特別料金不要で最速で結ぶ列車に対しては「Fライナー」の愛称がつく。また、2017年より有料座席指定列車「S-TRAIN」を運行しており、平日は通勤輸送に特化して東京メトロ有楽町線に、土休日は観光目的のために副都心線系統(その先のみなとみらい線)及び西武秩父線の西武秩父駅まで運転される。",
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"text": "この区間は複線で、池袋駅から江古田駅までは概ね地上を走っており、カーブが続く。線路の両側はずっと住宅地である。",
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"text": "西武鉄道の池袋駅は、頭端式ホーム4面4線と特急専用ホームを有するターミナル駅。同駅構内には2本の引き上げ線がある。同駅の南側では、JR東日本の山手線と、埼京線および湘南新宿ラインが通る山手貨物線を跨ぎながら急カーブで西向きに方向を変えている。そのためこの区間では、列車は最徐行している。その後列車は加速し、かつてここに存在していた上り屋敷駅の跡地を通り抜ける。S字カーブを描いた後、山手通りをくぐると椎名町駅に着く。",
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"text": "椎名町駅を出るとしばらく直線を描く。その後右へカーブすると、東長崎駅に着く。同駅は島式ホーム2面4線で、この池袋駅 - 練馬駅間での各駅停車の待避駅となっている。",
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"text": "東長崎駅を出ると、しばらく都営地下鉄大江戸線と併走しながら直線を描く。その後、列車は減速して左に曲がると、江古田駅に着く。なお、この駅間にはかつて西武市場駅という貨物駅が存在していた。",
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"text": "江古田駅を出ると、環七通りをくぐる。左にカーブしながら地下を走る西武有楽町線と合流する。高架に移行すると、桜台駅に着く。",
"title": "沿線風景"
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"text": "西武有楽町線がトンネルから出て高架に合流してすぐに、都営地下鉄大江戸線との乗り換え駅で、西武有楽町線・豊島線との分岐駅でもある練馬駅に到着する。同駅は2面6線構造となっており、外側ホームに西武有楽町線との直通列車が発着、内側ホームは池袋線の列車が発着する。最も外側の線路は通過線で、ホームは設置されていない。",
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"text": "練馬駅から石神井公園駅までは高架複々線となる。内側の線路は各駅停車用で、途中駅には島式ホームが設けられている。外側の線路は優等列車用で、途中駅にホームは設けられていない。",
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"text": "練馬駅を出ると、練馬区役所が見えてくる。途中で、豊島線が高架下へ分岐する。目白通りを跨ぐと、中村橋駅に着く。なお、目白通りの架道橋は高架化工事前は線路が下、道路が上を走っていたが、工事完成後は線路が上、道路が下を走るという、いわゆる「逆立体化工事」が一晩で行われた。",
"title": "沿線風景"
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"text": "中村橋駅のすぐそばに、富士見台駅が見える。中村橋駅を出ると途中で練馬区立美術館と練馬第三小学校が見え、間もなく富士見台駅に着く。この区間は、互いに隣同士の駅が見えるほど駅間距離が短い。",
"title": "沿線風景"
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"text": "富士見台駅を出て右にカーブした後、環八通りを跨ぐ。石神井東小学校を通過し、石神井川を越えると練馬高野台駅に着く。",
"title": "沿線風景"
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"text": "練馬高野台駅を出るとすぐに左へカーブし、笹目通りを跨ぐと、島式ホーム2面4線の石神井公園駅に到着する。",
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"text": "石神井公園駅から大泉学園駅付近の区間は2015年1月まで高架化工事が実施された。石神井公園駅を出ると、緩行線が急行線に合流し、ここから先は飯能駅まで複線となる。その後、車窓右側に数本の引き上げ線が見える。そして、大泉高校・同附属中学校付近で進行方向左側(南西の方角)が広々とひらけており、気象条件に恵まれると富士山の姿が確認できる。高架部分が間もなく終わり、踏切を越えると大泉学園駅に着く。同駅は後述の狭山ヶ丘駅・稲荷山公園駅と同様に、池袋線の中でも特にホームがカーブしている駅である。",
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"text": "大泉学園駅を出てゆめりあの間を抜けてもしばらく左カーブは続く。その後直線になると加速して、東京都道233号東大泉田無線(保谷街道)とほぼ平行して走る。保谷街道の踏切を越えると、保谷駅に着く。同駅は島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線で、合計2面3線構造となっている。なお同駅の真ん中の線では、同駅始発・終着列車の一部が発着するほか、緩行列車が優等列車の待避をすることもある。",
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"text": "保谷駅を出ると、右手に保谷電留線が見える。これは保谷駅で折り返す列車が一定数存在するためである。その後、保谷高校付近で列車は減速し、大きな右カーブを描く。カーブが終わって直線になると、東京都道36号保谷志木線の踏切を過ぎて間もなく、島式ホーム2面4線のひばりヶ丘駅に到着する。",
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"text": "ひばりヶ丘駅を出ると、右にカーブする。落合川を渡ると、東久留米駅に着く。池袋駅から同駅までは住宅街がほとんどで、この駅間では緩やかな下り勾配になっている。",
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"text": "東久留米駅を出て野火止用水を渡るまでは、直線で上り勾配となっている。その後、黒目川の橋を渡りながら河岸段丘を越える。すると住宅の密集度は低くなり、林や畑が混在しているところを通る。埼玉県新座市に入ると、野火止用水を渡る。保守用の引き込み線が見えると列車は減速し、大きく左へカーブ再び東京都に入って新小金井街道を渡ると、変則的な島式ホーム2面4線構造の清瀬駅に着く。同駅折り返しの列車も一定数設定されている。",
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"text": "清瀬駅を出ると、車窓右側には1本の引き上げ線が見える。次の秋津駅までの間は直線が続き、沿線は住宅街や畑がほとんどである。空堀川を越えてしばらくすると秋津駅に着く。",
"title": "沿線風景"
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"text": "秋津駅を出ると、すぐにJR武蔵野線を跨ぐ。マンションが見えてくると、列車は大きく減速して右にカーブする。そして柳瀬川を渡ると埼玉県に入る。すると、新秋津駅付近からのJR連絡線と併走する状態になり、所沢駅まで3線区間となる。カーブを終えた後は広い丘やゴミ焼却場の煙突が見え、住宅街を走る。大きな団地群が見え、所沢陸橋をくぐると大きく急なカーブを左に曲がる。所沢駅前後は、池袋線有数の急カーブである。なお、かつてこの急カーブの区間には東所沢駅が設置されていた。曲がるとすぐ右側に西武新宿線の線路が見えて、所沢駅に到着する。同駅は3面5線構造をしているが、池袋線だけで見れば、基本的には保谷駅と同様で、2面3線と言える。なお、同駅は改良工事がなされ、駅舎やコンコースが拡大した。",
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "所沢駅を出ると車窓右側に2本の引き上げ線を見ながら緩い坂を上り、右へ大きく曲がり、すぐに新宿線を跨いで、さらに急カーブは続く。この辺りのカントはきついため、列車は大きく傾く。カーブが終わると次の西所沢駅までは直線が続く。この辺りは住宅街である。しばらくすると、1本の引き上げ線が見える。そこから狭山線との分岐が始まり、複雑な分岐器が連続し、4本の線路となる。そのため、この区間はあたかも線路別複々線のように見える。その後埼玉県道55号所沢武蔵村山立川線の踏切(所沢10号踏切)を越えると、狭山線との分岐駅・西所沢駅に着く。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "同駅は3面4線構造となっており、島式ホーム1面2線を相対式ホーム2面2線で挟んだ形となっているが、駅の構造上、同駅で各駅停車が待避をすることはない。なお、狭山線のホームはカーブしている。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "西所沢駅を出ると、狭山線はすぐに南方へ分岐する。その後、非常に緩いS字カーブを描きながら国道463号線・東川を越える。沿線には六所神社や住宅街、畑が広がる。S字カーブが終わると、上新井の大踏切(西所沢6号踏切)を越える。その後直線を走りながら、上新井跨道橋で上新井新道を跨ぐ。上新井新道は、近年開通した西武新宿線の新所沢駅から国道463号所沢入間バイパス(小手指バイパス)につながる新所沢駅前通り線である。その後ほどなく小手指駅に到着する。同駅は島式ホーム2面4線構造をしており、同駅折り返し列車は多数設定されている。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "小手指駅を出た列車は、複雑な分岐器を越えて、車窓右側に小手指車両基地を眺めながら進む。ここまで来ると、車窓には武蔵野の面影残す雑木林や畑が住宅に混ざって見えてくる。また、天気の良い時には富士山が望めることがある。しばらく直線を走ると、貨物輸送時代の側線を残す狭山ヶ丘駅に着く。この側線は深夜に車両が留置される。なお、同駅構内の飯能駅寄りは急カーブとなっている。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "狭山ヶ丘駅を出てもまだしばらくカーブは続き、進路を北にとる。その後再び直線を走り、ほどなく対向式ホームの武蔵藤沢駅に着く。この小手指駅 - 入間市駅間の駅は、対向式ホームが多い。同駅構内は通常のバラスト軌道ではなく、コンクリートの省力化軌道で敷設されている。なお、駅舎改良工事と共に駅前は再開発された。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "武蔵藤沢駅を出ると、国道463号線(行政道路)の建武橋の下をくぐり過ぎ、左カーブして進路は北西となる。その後、航空自衛隊入間基地の中を通り抜ける。そのため、車窓右側では自衛隊の航空機を多数眺めることができる。かつてはここに、自衛隊への物資輸送のための下原駅という貨物駅が設置されていた。入間基地を抜け終えると稲荷山公園駅に着く。同駅は、狭山ヶ丘駅と同様にホームが大きくカーブしている。このカーブにより、進路は西にとることになる。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "稲荷山公園駅を出ると、入間基地の跡地を通りながら再び入間市に入る。そこからは大きな左カーブを描き、分岐器を通ると島式ホーム2面4線の入間市駅に到着する。この駅間は0.9 kmと池袋線の中では特に近いが、急カーブを通るため列車の速度は抑えられる。なお、毎年11月3日の入間基地航空祭開催時は同駅折り返し列車が運行される。だが、入間市駅には上下線間の亘り線が存在しないため、折り返し列車は次の仏子駅の中線を利用して折り返す。また、入間基地の跡地の影響により、入間市駅を過ぎるまでは市街地を一望できない。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "入間市駅を出ると列車は築堤の上を走り、急な右カーブを描きながら国道16号線と霞川を渡る。一瞬ではあるが、入間市の市街地が望め、駅前の高層マンションや各種商業施設(コナミスポーツ、丸広百貨店、i-potなど)が望める。霞川を渡り、カーブを終えると今度はすぐ切り立った崖に沿って、急な左カーブを描きながら走る。そのため進行方向右側の眺めは大変良く、ほんの一瞬だが、車窓の窓一面を空が占める。その後崖を下ると、かつて存在していた黒須駅という貨物駅の跡を通り抜け、国道299号線バイパス・圏央道をくぐると仏子駅に着く。同駅は待避・折り返し用の中線がある。なお、前の入間市駅よりも南に位置する。また、この区間は車窓左側に加治丘陵が見えるため緑に溢れている。さらに、線路が直線的なため比較的高速で走る。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "仏子駅を出ると再び築堤の上を走る。右側に大きな団地を眺めつつ、少し右に曲がりながら入間川を渡る。この入間川橋梁は西武鉄道の橋梁では最も長い(延長169.9m)。入間川を渡る際、進行方向左側には使用されていない単線の旧入間川橋梁が錆びた姿を晒している。また、北側の河原ではかつてアケボノゾウの足跡化石が見つかったことがある。入間川橋梁を渡りきると、2009年8月に再有人化されるまで池袋線唯一の無人駅であった元加治駅に着く。同駅からは、かつて入間川に向かう貨物線(岩沢側線)が伸びていた。なお、駅前は駿河台大学へのスクールバスが発着するのみで、普段は閑散としている。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "元加治駅を出ると、車窓からの風景は畑から少しずつ住宅地に変わっていく。しばらくしてJR八高線をくぐり抜けると上下線が分かれる。その後、少しずつ住宅の密集度が高くなっていく。そして変電所が見えてくる辺りで、未成線となった飯能短絡線の建設予定地が分かれていく。この辺りでは、緩いS字カーブを描きながら高速で走行する。かつては途中に笠縫信号所があり複線から単線となっていた。カーブを終えると減速し、東飯能駅方面からの単線の線路と合流する。複雑な分岐器を越えると、3面4線の飯能駅に到着する。なお、同駅以東から吾野駅方面へ直通する列車は、特急「ちちぶ」、S-TRAINの土休日列車と快速急行の臨時列車のみとなる。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "この区間は急カーブが連続し、かつほとんどの区間が単線であるため、ごく一部の複線区間(後述)を除いて、列車の速度は抑えられることになる。また、前述のとおり飯能駅で運転系統は二分されている。なお、飯能駅から吾野駅方面に進行するにはスイッチバック(方向転換)が必要となるため、飯能駅以西への直通列車は、同駅で進行方向を変えて東飯能駅へと向かう。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "飯能駅を出ると、スイッチバックをするため一時的に進路は東となる。その後、複雑な分岐器を一旦戻って吾野駅方面へ進路をとる。その後所沢方面の複線の線路と分岐して、単線となる。飯能市の市街地をみながら北向きに急カーブで進路を変えると、東飯能駅に着く。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "同駅は単式ホーム1面1線で、池袋線では唯一の上下相互発着が不可能な棒線駅であるが、ホームの西側には線路一本分の土地がある。これは飯能短絡線(前述)との合流用とされていたが、今後この土地を使う予定はない。また、同駅はJR東日本の八高線と乗り換えができる駅だが、飯能駅より圧倒的に利用者は少ない。その上、西武とJRの改札は分離されており、乗り換えるには一旦改札口を出る必要がある。なお、平日の朝夕ラッシュ時には八高線との乗り換え客で賑わうが、土曜・休日・平日早朝にはハイキング客が改札を出入りする光景も見られる。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "東飯能駅を出ると線路は再び急カーブになり、北西に進路を変える。カーブを抜けてすぐのところにある北飯能信号場から再び複線となり、速度を上げる。その後、坂を上って盛土へと移行する。かつて存在していた天覧山駅の跡地を通る。飯能駅からこの辺りまでは住宅地が広がっている。その後、山が近づいてくる。そして武蔵丘信号場付近で減速し、線路は再び単線となって武蔵丘車両基地・武蔵丘車両検修場と分岐する。この区間が複線なのは、飯能駅から武蔵丘への回送列車が通り、運転本数が多くなるからである。なお、ここから国道299号線と併走するようになる。その後、しばらく山間部を走行した後は再び平地に戻って、高麗駅に着く。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "同駅は、島式ホーム1面2線と側線を1本有する構造となっている。なお、東飯能駅 - 高麗駅の駅間距離は、東吾野駅 - 吾野駅間とともに、池袋線では最長の4.0 kmである。しかし、池袋線の実質的な延長路線で、飯能駅からの直通列車も多数運行されている西武秩父線には、それらよりもはるかに長い、6.1 kmが正丸駅 - 芦ヶ久保駅間に存在する。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "高麗駅を出ると、高麗川と併走するようになり、再び山間部を走行する。しばらくすると武蔵横手駅に着く。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "武蔵横手駅を出ると、急カーブも多くなり、周辺の山々が少しずつ険しくなってくる。その後ほどなく東吾野駅に着く。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "東吾野駅を出てしばらくすると、山が険しくなり、速度を落として急カーブを描きながら、池袋線では唯一のトンネルである鎌倉坂トンネル(223 m)を通る。その後国道299号線を2度跨ぐと、住宅地が広がる。住宅地を見ながら国道299号線・高麗川と併走して、国道と川が右に分かれると、終点・吾野駅に到着する。なお、同駅は側線を1本有する。また同駅からは、ほとんどの列車が西武秩父線の西武秩父駅へ、さらには土休日の一部列車が秩父鉄道秩父本線の長瀞駅・三峰口駅にまで直通する。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "なお、この区間の駅には発車メロディの設備がないため、車両上の乗車促進音を使用するほか、車掌乗務列車では車掌の手笛による出発合図が行われる。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "池袋線の運転系統は飯能駅を境に池袋駅 - 飯能駅間と西武秩父線を含む飯能駅 - 西武秩父駅間の2つに分かれている。池袋駅 - 西武秩父駅間を直通運転するのは特急「ちちぶ」と土休日のS-TRAINのみである。以下では主に池袋駅 - 飯能駅間について述べる。飯能駅 - 吾野駅間は「西武秩父線」の項も参照のこと。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "基本的に速達列車が途中駅から各駅停車となる郊外電車型の停車パターンである。各駅停車は日中1時間あたり1本の池袋駅 - 飯能駅間の列車以外は、基本的に池袋駅 - 豊島線豊島園駅、石神井公園駅、保谷駅、清瀬駅、所沢駅、小手指駅、狭山線西武球場前駅のいずれかの駅との間の運転であるため、小手指駅 - 飯能駅間は急行・快速・準急が各駅停車の役割を果たす。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "速達列車であっても下り列車で以遠各駅停車となる区間では、「各駅停車」として案内されている(後述)。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "平日朝ラッシュ時は、速達列車の停車駅を千鳥配置にする千鳥停車を採用することで、各列車の混雑を分散するように配慮されている。そのため、多様な停車パターンの多数の列車種別が運転されている。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "飯能駅では西武秩父方面の普通電車と池袋駅発着の急行、準急または副都心線直通の快速急行との相互接続が考慮されている。また練馬駅では原則として副都心線・有楽町線直通電車と池袋駅 - 豊島園駅間の普通電車との接続が考慮されている。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このほか、2016年4月17日より、西武4000系1本 (4009F) を改造した「旅するレストラン 52席の至福」が、土休日を中心に年間100日程度、池袋駅または西武新宿線西武新宿駅から西武秩父駅まで1往復運行される。ただし、所要時間は通常と比べて長くなっている。2017年以降は、夕方のみ池袋線池袋駅から飯能方面へ向かい、池袋駅へ戻ってくるコースも用意された。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2023年3月18日改正の現行ダイヤでの日中(平日は11時〜14時、土休日は12時〜13時)の1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。なお、※印を付した吾野駅 - 西武秩父駅間は西武秩父線であるが、上述のように、運行系統は飯能駅 - 吾野駅間と一体化しているため、まとめて記す。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1969年10月14日のダイヤ改正で新設。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "池袋駅 - 飯能駅・西武秩父駅間を運転する有料特急。平日の定期列車で唯一西武秩父線への直通運転を行う種別であり、池袋駅と西武秩父駅の間を最短77分で結ぶ。以下の列車が運転されており、2020年3月14日のダイヤ改正以降は全て8両編成の001系で運行されている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "昼間は「ちちぶ」が毎日1時間に1本運転されているが、平日下りは16時以降、土休日の上りは14時以降・下りは15時以降より「むさし」も運転されている。池袋駅では特急専用ホーム(番線は『特』)から発車する。夏休みなどは一部列車がかつての停車駅である芦ヶ久保駅、11月3日の入間基地航空祭開催時に稲荷山公園駅、9月の巾着田の曼珠沙華シーズンに高麗駅へ臨時停車する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "なお、1976年から1993年12月5日までは西武新宿駅 - 西武秩父駅間の運転、1993年12月6日から2003年3月11日までは池袋駅 - 西武秩父駅間の運転(入間市駅は通過)の「おくちちぶ」が存在した。また、飯能駅行きの「むさし」を延長運転し西武秩父駅行きとした「むさし」が臨時ながら設定されていたこともあるが、2016年3月26日実施のダイヤ改正で金曜日のみ池袋駅発22時台の飯能駅行き「むさし」1本が西武秩父駅行きに延長されたものの、2021年3月改正でこの延長措置は取りやめられた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "路線図で示される種別カラーは赤色■で、英文種別表記は「Ltd. Exp.」(「Limited Express」の略)である。列車番号は一桁か二桁が与えられる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2017年3月25日のダイヤ改正で新設。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "40000系を使用する西武鉄道初の有料座席指定列車で、平日は通勤輸送を目的に東京メトロ有楽町線豊洲駅 - 小手指駅間、土休日は観光輸送を目的に横浜高速鉄道みなとみらい線・東急東横線・東京メトロ副都心線を経由して元町・中華街駅 - 所沢駅・小手指駅・飯能駅・西武秩父駅間で運行する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1980年3月17日のダイヤ改正で新設。特急料金・座席指定券不要の列車としては最速達種別となる。路線図で示される種別カラーは紫色■、英文種別表記は「RAPID EXP.」(「RAPID EXPRESS」の略)である。また、2008年6月14日のダイヤ改正に備えて新101系・新2000系・6000系・9000系・20000系・30000系の通勤車両全系式で、字幕式行先表示器の交換やLED式行先表示器のROM書き換えが実施された。旧字幕では「快速」部分が水色地に白文字、「急行」部分が赤色地に白文字となっていたが、新字幕及びフルカラーLED表示器では紫色地に白文字、3色LEDでは無点灯の地に赤文字の表記となっている。なお2016年3月26日以降、「Fライナー」として運転される列車で東急車と西武車は紫色地に緑のFと白文字で表示される。またLED表示器などで表示できるスペースが限られる場合は「快急」と略される。列車番号は1000番台が与えられる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ここでは平日午前中下りに設定のある有楽町線からの直通についても記述する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日中に小手指駅(ただし、野球開催時は快速の西武球場前駅行きに変更される列車もある)から西武有楽町線経由で副都心線へ直通する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "池袋線池袋駅発着の快速急行および急行・通勤急行(後述)が練馬駅を通過するのに対し、地下鉄線直通の快速急行は急行・通勤急行より速達の種別でありながら保安装置の切り替えおよび池袋線池袋方面との接続の利便性を図るため練馬駅に停車する(所沢以東で比較すると、練馬駅に停車する分、池袋駅発着の急行と比べるとあたかも下位種別であるかのように見える逆転現象が起きている)。2020年3月14日改正前までは西武有楽町線新桜台駅に停車していたが、同改正より通過するようになった(補完として練馬駅基準で直後に有楽町線直通準急が設定されたが、2022年3月12日のダイヤ改正で新木場駅 - 石神井公園駅間の各停が減便されたため、同駅の日中の停車本数は2020年改正前よりも減少している)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "副都心線方面は平日上りと土休日下りのそれぞれ1本以外は「副都心線内急行・東横線内特急」で運転され、2016年3月26日のダイヤ改正以降このパターンの列車には「Fライナー」の愛称がつく。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "有楽町線方面は地下鉄内各駅停車で平日午前中下りのみ1日2本設定されている。ダイヤ乱れによる運用変更などにより上り列車が運転される場合もある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "西武線池袋駅方面との接続は、2016年3月26日ダイヤ改正以降、上下とも練馬駅で10両編成の準急(ただし、土休日ダイヤの一部は8両編成の準急)と接続する形がとられた(運転開始当初の下りは石神井公園駅・上りは練馬駅で行われ、下りは所沢駅・飯能駅行きの準急、上りは西武球場前駅発および保谷駅発の各駅停車に接続していた)。2022年3月12日改正で、下りの一部列車で石神井公園駅での準急接続が復活した。また、小手指駅発着の列車は小手指駅で飯能駅発着の各駅停車に接続する。なお、2019年3月16日改正から2020年3月14日改正前までは、小手指駅発の上りの一部列車が飯能駅発の各駅停車との接続がなされていなかった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "なお2019年の改正以降、土曜・休日ダイヤのみ所沢駅始発の上り快速急行が2本設定されたが、このうちの1本はひばりヶ丘駅で後続の特急列車に追い抜かされる。また、所沢駅終着のFライナーも平日夕方に1本設定された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ改正で基本的に小手指駅発着に変更、飯能発着は土休日朝時間帯の一部のみに変更。またこの改正で、土休日ダイヤ朝の所沢駅始発2本は小手指駅始発に延長され、所沢行きは平日の夕方1本に減らされた。但し、平日朝方の菊名7時38分発が快速所沢行きから快速急行小手指行きに格上げされ、平日・土休日ダイヤとも午前中の各1本が8両編成での運転となった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "副都心線直通系統とは異なり、練馬駅を通過する。2022年3月12日改正時点では上り飯能発池袋行きが通勤形車両10両編成で平日朝に1本設定されている。ひばりヶ丘駅で通勤準急池袋駅行きに接続し、清瀬駅で追い抜いた副都心線直通快速元町・中華街駅行きにも連絡する。石神井公園駅で有楽町線直通各駅停車新木場駅行きに接続する。また土休日の夕方には通勤形車両8両編成で上り西武秩父駅発池袋駅行きが1本設定されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "池袋駅発着および西武秩父線直通系統の快速急行は、長らく平日は朝ラッシュ時と昼間を中心に池袋駅 - 飯能駅間で特急の補完的な列車として、土休日は行楽列車として秩父方面の列車が数多く運行されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "しかし、2013年3月16日改正で副都心線直通の快速急行が設定された一方、平日日中の池袋駅発着の快速急行は全て急行へ格下げされ、土曜・休日の秩父鉄道方面の列車も朝下り2本(4000系による運用、その池袋送り込み上り列車は快速急行から回送に変更)と夕方1本(通勤形車両による運用、西武秩父発)に減便(上りの秩父鉄道からの直通列車は急行に格下げ、飯能駅で副都心線直通の快速急行に接続)され、池袋駅発着の快速急行は激減した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日のダイヤ改正で、秩父鉄道線直通の快速急行が池袋駅 - 飯能駅間運行の急行に置き換わる形で廃止され、秩父鉄道直通列車は全て飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間での運行となるため、池袋発の定期快速急行列車及び池袋駅 - 飯能駅間における4000系の定期旅客運用は改正前最後の休日となる同年3月8日をもって終了した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日のダイヤ改正で、土休日の夕方に1本だけ残っていた通勤形車両8両編成で運転される上り西武秩父駅発池袋駅行きが、西武秩父駅 → 飯能駅間運転の各駅停車と飯能駅 → 池袋駅間運転の急行に置き換わる形で廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "池袋線の中心的種別で、池袋駅 - 飯能駅間で終日運行されるほか、平日夕方の池袋駅17時25分発と土曜・休日ダイヤの池袋23時05発急行小手指行きも各1本ずつある。また野球開催時は、西武球場前駅発池袋駅行きの列車も設定される。大半の列車において、石神井公園駅やひばりヶ丘駅での各停・準急・通勤準急と、西所沢駅で狭山線各停と、飯能駅で西武秩父線直通各停との接続が考慮されている。石神井公園駅での接続は、有楽町線・副都心線方面発着の各停もしくは池袋駅発各停所沢駅行き・西武球場前駅行きが対象となることが多い。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "平日朝の下り2本は所沢駅で、平日日中の下りは入間市駅で、全日夜の下りと土休日飯能17時発の上り1本は入間市駅でそれぞれ特急の待ち合わせ、朝の上り2本は小手指駅および石神井公園駅で特急の通過待ちを行う。基本的には10両編成だが、土休日ダイヤなど、終着駅での折り返し前または後が各駅停車になる場合は、8両編成での運転となる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "なお、定期列車としては西武有楽町線を経由して副都心線・東急東横線方面に直通する列車は存在しないが、臨時列車として設定されることがある(定期列車として設定されている快速急行を種別変更している)。この場合、通常の急行は通過する練馬駅は停車することになる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日のダイヤ改正で、秩父鉄道線直通の快速急行・急行は池袋駅 - 飯能駅間運行の急行と飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間運行の秩父鉄道線直通の各駅停車に置き換わる形で廃止され、秩父鉄道直通列車は全て飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間での運行となるため、同時に池袋駅発の急行列車の飯能駅以西への運行及び池袋駅 - 飯能駅間での急行列車の4000系による定期運用は終了した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1990年に飯能駅で系統が分割されるまでは西武秩父駅まで運転する列車が多数あったが、系統分割後は大幅に減らされた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "駅構内の路線図で示される種別カラーは橙色■で、英文種別表記は「EXP.」(「EXPRESS」の略)である。旧字幕ならびにフルカラーLEDでは赤色地に白文字で、新字幕では橙色地に白文字で、3色LEDでは無点灯の地に赤文字で表記される。列車番号は2000番台が与えられる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1980年3月17日のダイヤ改正で新設。略称は「通急」。平日朝上りのみ、10両編成を用いてすべて飯能駅発池袋駅行きで6本運転される。快速と共に千鳥式運転を行い、飯能駅 → 所沢駅間は各駅に停車し、所沢駅を出ると東久留米駅・保谷駅・大泉学園駅・石神井公園駅の順に停車するが、快速や急行停車駅のひばりヶ丘駅は通過する。飯能発7時台の1本は石神井公園駅で特急の通過待ちを行う。全ての列車が保谷駅で、ひばりヶ丘駅で追い抜いた有楽町線直通新木場駅行き(各停または準急)に連絡するほか、3本が石神井公園駅で始発の各停池袋駅行きに接続する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ダイヤそのものは1970年代から既に存在していたが、当時の池袋線関係の列車種別は平日の定期ダイヤの場合だと「特急・急行・準急・各駅停車」のみだったため、現在の「通勤急行」という種別が設定される前は「ひばりヶ丘駅には停車しない急行」や「朝だけ東久留米駅・保谷駅・大泉学園駅に停まる急行」といった表現で利用者は解釈していた(当初は石神井公園駅も通過)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "路線図で示される種別カラーは黄色■で、英文種別表記は「COM.EXP.」(「COMMUTER EXPRESS」の略)である。表示色は、旧字幕では「通勤」が白色地に赤文字、「急行」が赤色地に白文字となっており、新字幕では黄色地に黒文字で、3色LEDでは無点灯の地に赤文字、フルカラーLEDではオレンジ色地に黒文字で表記される。表示できるスペースに限りがあるときは、「通急」と略される。列車番号は2500番台が与えられる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1980年3月17日のダイヤ改正で新設。朝・夕方に池袋駅発着および西武有楽町線経由で有楽町線・副都心線(東横線・みなとみらい線)直通で設定されている系統。加えて、土休日日中には下りのみ1時間に1本設定される。副都心線直通としては通勤種別としてFライナー快速急行に代わって運転される。副都心線内は主に急行、東横線・みなとみらい線内は主に通勤特急(日吉駅・馬車道駅・日本大通り駅停車)として運転されている。10両編成が大半であるが、池袋駅発着の各停となる運用を持つ場合や、東横線・みなとみらい線内を各停として運転する場合などは8両編成で運転される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "上下線ともに、有料列車を除いて池袋駅・小竹向原駅 - 所沢駅間で先着することが多いが、上りで清瀬駅あるいはひばりヶ丘駅で特急待避を行う場合も多いほか、平日朝に清瀬駅で快速急行の通過待ち及び小手指駅始発の準急と接続を行う列車もある。また、下りは所沢駅で特急待避を行う列車も多い。地下鉄直通は、朝上りは練馬駅で豊島園駅発池袋駅行き各停に接続し、夕下りは同駅で池袋駅発準急の接続を受ける。時間帯によっては、快速は池袋駅発、準急は地下鉄線方面発と逆になる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "池袋駅発着は設定時から長年、平日夕方時の下りに池袋駅 - 小手指駅間で運転されていた。2010年3月ダイヤ改正で土休日の夕方以降の下りは23時台の3本を除いて急行または準急に編入される形で廃止された(ただし、2013年3月改正で復活)うえ、土休日は池袋駅 - 西武球場前駅間運転の列車も設定された(池袋駅 - 所沢駅間は通年運転、所沢駅 - 西武球場前駅間は冬季以外に運転だが、2010年3月改正から後者も通年運転)。2012年6月30日のダイヤ改正では夕方下りの通勤準急を格上げする形で1時間2本から4本へ増発されたが、上りは夜間の所沢駅発21時以降の列車が準急に格下げされている。2022年3月12日のダイヤ改正で土休日日中に下りのみ池袋駅発飯能駅行きが新設された一方、池袋駅18時台以降の列車の大半が準急に格下げされた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "一方、地下鉄線直通は2001年12月のダイヤ改正から停車駅に練馬駅が加えられたことで飯能駅発着の有楽町線直通列車の中心的種別として終日運転となった。その後、2008年6月14日の副都心線開業と同時に多くが副都心線渋谷駅発着へシフトしたが、2013年3月16日改正で日中の副都心線直通の快速が快速急行へ格上げされたため(ただし、野球デーゲーム開催時は一部の小手指駅発着の快速急行が西武球場前駅発着の快速で運転される)、池袋駅発着を含め再びラッシュ時中心の種別に戻っている。なお、東急東横線・みなとみらい線の相互直通運転開始発表当初のプレスリリースには、西武線内快速 - 副都心線内急行 - 東横線・みなとみらい線内特急という形態となっていた。また、土休日夕方時の運転が3年ぶりに復活し、池袋方面からは小手指駅行き、地下鉄からは(元町・中華街駅発または新木場駅発)飯能駅行きが各2本ずつ運転されている。同時に後者では練馬駅で準急の接続が復活している。さらに2017年3月25日ダイヤ改正では、土休日ダイヤで池袋駅発17時台の準急所沢駅行きを快速飯能駅行きに変更させたほか、一部の上り列車で特急の時刻変更及び「S-TRAIN」運転開始に伴い、Fライナー快速急行を快速に格下げする形で増加している。それ以降のダイヤ改正においても当種別の増減を繰り返している。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "路線図で示される種別カラーは濃い水色■で、英文種別表記は「RAPID」である。表示色は旧字幕でも新字幕でも水色地に白文字だが、両者では若干濃さに違いがみられる。また、フルカラーLED表示器でも水色地に白文字、3色LED表示機では無点灯地に緑文字で表記される。列車番号は3000番台が与えられる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "1980年3月17日のダイヤ改正で新設。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "略称は「通準」。平日朝上りのみ、10両編成を用いて、4本は小手指駅発・1本は所沢駅発の池袋駅行きで5本運転される。急行および快速急行と千鳥停車となっており、小手指駅 - 大泉学園駅間の各駅と練馬駅に停車し、快速および急行・快速急行停車駅の石神井公園駅は通過となる。副都心線の開業で一部の快速が副都心線直通へ移行したため、その接続確保のために練馬駅の停車を開始したという経緯を持つ。なお、現行のダイヤでは、通勤準急池袋駅行きは有楽町線直通各停と接続し、副都心線直通快速は前述の通り豊島線からの各停池袋駅行きと接続する形に変更されている。ひばりヶ丘駅で快速急行や急行と待ち合わせをする(長年、池袋駅発の下りでは当列車が発車する2分後に急行が発車していた)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "この種別の運転される時間帯は、池袋駅行きの準急は運転されない。有楽町線直通列車のみ準急として運転される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1980年の設定当初の運転区間は池袋駅 - 清瀬駅間で、1990年以降所沢駅・小手指駅へと延長された。かつては飯能駅発の朝の上り1本のみ、また野球開催日には所沢駅行きを延長する形で西武球場前駅行きが、さらに平日の朝1本は西武秩父駅行きが運転されていた。下りは運行開始当初は17 - 19時台に1時間4本運転され、2005年3月17日のダイヤ改正では平日朝の時間帯に、2008年6月14日のダイヤ改正では21時台までそれぞれ運転時間帯が拡大されたが、2012年6月30日のダイヤ改正で下りの通勤準急は全て廃止となり、準急や快速に置き換えられた。2022年3月12日改正前までは小手指駅発池袋駅行きが6本設定されていたが、同改正で1本が減便、1本が小手指駅始発から所沢駅始発に変更され、1日5本の運転に変更された。その後2023年3月18日に行われたダイヤ改正でさらに1本が減便され、1日4本の運転に変更された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "路線図で示される種別カラーは青色■で、英文種別表記は「COM.SEMI EXP.」(「COMMUTER SEMI EXPRESS」の略)である。表示色は、旧字幕では「通勤」が白色地に緑文字、「準急」が緑色地に白文字となっており、新字幕及びフルカラーLED搭載車では青色地に白文字、3色LED表示機では無点灯地もしくは黒地に緑文字で表記される。表示できるスペースに限りがあるときは、「通準」と略される。列車番号は4600番台が与えられる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "終日池袋駅 - 所沢駅・飯能駅間で運転されるほか、日中は副都心線方面元町・中華街駅発石神井公園駅行き、朝や夕方には池袋駅 - 西武球場前駅・小手指駅間、有楽町線直通列車、大泉学園駅以西へ向かう副都心線直通列車も運転される。料金不要の優等列車としては最も多く設定されており、池袋駅 - 石神井公園駅間では快速急行や急行などを、石神井公園駅以西では各停を補完する。地下鉄線直通列車は全列車が小竹向原駅で種別を変更し、有楽町線内では各停として、副都心線内では急行または各停として運行される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "平日朝には、小手指駅発有楽町線直通新木場駅行きが設定され、ひばりヶ丘駅で通勤急行池袋駅行きの通過待ちを行う。土休日朝夕を中心に、平日にも大泉学園駅以西 - 副都心線直通元町・中華街駅発着列車が運転される。下り(副都心線北行)は副都心線急行あるいは通勤急行、東横線・みなとみらい線急行以上の列車が多いが、上り(副都心線南行)の夕方以降は副都心線各駅停車の列車が多い。その多くは東横線・みなとみらい線内も各駅停車(8両編成)である。この時間帯は、池袋線内各駅停車の一部が副都心線・東横線・みなとみらい線内で速達運転する。所沢駅・小手指駅発着は野球開催時には西武球場前駅発着として延長運転または立て替えされる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "平日朝の小手指駅行き1本が西武秩父駅行きとして延長運転する日があり、その場合は小手指駅で前2両を切り離す形となっていたが、2016年3月26日改正で池袋駅発8時台の各駅停車小手指駅行きが延長運転対象となったため消滅した。1990年までは定期列車として西武秩父駅発着が設定されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "早朝・深夜以外のほとんどの列車が練馬駅以西の待避駅で、特急・S-TRAIN・(Fライナー)快速急行・急行に抜かれる(昼間の下り準急は、日中1時間に1本がFライナー快速急行・急行・特急に抜かれる)ため、速達列車としての役割は低い。快速急行の節で記述したとおり日中は上りは練馬駅で、下りは練馬駅または石神井公園駅で(Fライナー)快速急行と相互に接続する。なお、2022年3月12日改正で、東長崎駅で各停を追い越すダイヤが日中に復活した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "地下鉄線直通を含め10両編成の運転が基本であるが、急行・快速急行・快速と同様、車両運用の都合で折り返し前後が各駅停車になる場合や副都心線・東横線・みなとみらい線内を各停で運転される場合は、8両編成で運転される(特に土休日夕方に設定されている西武球場前駅発着の列車に多い)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "なお、人身事故・各種トラブルなどでダイヤが乱れている場合、本来は通過する練馬高野台駅 - 中村橋駅間に停車する準急(=かつての区間準急)を運行する場合もある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "少数ながら保谷駅終着や清瀬駅発着も存在する。2022年3月12日改正時点では、保谷駅終着は有楽町線新木場駅発、副都心線方面元町・中華街駅発が設定されている。清瀬駅始発は土休日夜間の池袋駅行きが1本、清瀬駅終着は平日朝の副都心線方面元町・中華街駅発が設定されている。時期は詳細不明だが、以前にも清瀬駅発・保谷駅発池袋駅行きが設定されていた。2019年3月16日ダイヤ改正で、新木場駅発保谷駅行きが平日ダイヤの午前中のみ下り1本新設され、清瀬駅発準急池袋駅行きが土休日ダイヤの20時台1本復活した。また、2020年3月14日のダイヤ改正では、日中時間帯の新木場駅発保谷駅行きが各停から準急に格上げされ、多数増便されるとともに、平日深夜上りのみ保谷駅発池袋駅行きが復活した。2022年3月12日改正で新木場駅発保谷駅行きが一部を除き各停へ再度変更された一方で、平日朝2本のみ元町・中華街駅発清瀬駅行きも設定された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2022年改正で、土休日ダイヤの朝に設定されていた西武球場前発着が所沢駅・小手指駅発着に変更されている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "1993年12月6日のダイヤ改正以前は練馬駅を通過しており、朝の上りと一時期存在した下り豊島園駅行きのみが練馬駅に停車していた。地下鉄線直通列車は、2008年6月から11月までの短い期間に有楽町線内準急(千川駅・要町駅は通過)の列車も設定されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "豊島園駅行きの準急は、1980年から平日の朝のラッシュ時の下りのみに設定され、池袋駅 - 練馬間のみを通過運転していた。1988年で廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "路線図で示される種別カラーは緑色■、英文種別表記は「SEMI EXP.」(「SEMI EXPRESS」の略)である。表示色は旧字幕でも新字幕でも緑地に白文字だが、両者では若干色合いに違いがみられる(新字幕の方が少し青緑に近い)。また、フルカラーLED表示器でも緑地に白文字、3色LED表示機では無点灯地に緑文字でと表記される。列車番号は4000番台が与えられる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "各駅に停車する。主に、池袋駅 - 中村橋駅以西を直通する系統、池袋駅 - 豊島線豊島園駅発着系統、有楽町線・副都心線 - 中村橋駅以西発着系統、飯能駅 - 西武秩父線西武秩父駅発着系統の4系統に大別される。池袋駅発着の各駅停車は全て8両編成で運行されている。有楽町線直通は全て10両編成、副都心線直通は大半が8両編成(自社所有の6000系・40000系は10両固定のため、副都心線8両の西武車運用はない)で運行される。朝夕などは副都心線直通でも10両編成で運転される場合もあり、この場合はホーム有効長の関係上、東横線・みなとみらい線は急行以上の種別で運転され、その多くは副都心線内を通勤急行または急行として運転する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "西武線内完結列車は、池袋駅発着のほか、全日早朝には保谷駅・小手指駅始発飯能駅行きが、土休日深夜には狭山線西武球場前駅始発保谷駅行きも設定されている。小手指駅始発飯能駅行きのみ、他の西武線内完結列車と異なり10両編成で運行される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "飯能駅以北の系統は、飯能駅 - 西武秩父駅間運転の列車が大多数を占めるが、飯能駅 - 吾野駅間運転の列車が1往復設定されているほか、飯能駅 - 秩父鉄道線長瀞駅・三峰口駅間直通列車が平日に1往復、休日に2往復それぞれ設定されている。横瀬駅で分割を行い、長瀞駅発着の列車は西武秩父駅を通らず御花畑駅に停車する。一部列車を除き4両編成で運転され、ワンマン運転を行っている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "このほか、野球開催日や12月の秩父夜祭をはじめ沿線で開催されるイベントに合わせ、通常運行されない区間への延長運転や臨時停車が行われる。2016年3月26日ダイヤ改正以降、平日池袋駅発8時台の各駅停車小手指駅行きは、西武秩父駅まで延長運転する日もあった(この場合、小手指駅で特急「ちちぶ7号」の通過待ちを行った)が、新型コロナウイルス感染拡大以降は延長運転は設定されなかった。2022年3月12日改正で、当該列車は石神井公園駅行きに短縮された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "2012年6月30日のダイヤ改正ではそれまで平日朝ラッシュの時間帯に運行されていた有楽町線・副都心線直通の練馬高野台駅発着が石神井公園駅発着に延長された一方で、日中の副都心線からの清瀬駅発着が石神井公園駅発着に短縮された。また、この改正では日中の有楽町線直通や西武球場前駅発着の準急が各駅停車へ格下げとなり、日中と平日夕方の練馬駅 - 石神井公園駅間の各駅停車の本数が1時間に10本に増えた。さらに2013年3月16日のダイヤ改正で、平日朝ラッシュ時に石神井公園駅発の池袋駅行きが新設された。一方で、池袋駅 - 保谷駅間の各停は石神井公園駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着などへ振り分けられたことで減少した。2017年3月25日のダイヤ改正で「S-TRAIN」運転開始に伴い、日中時間帯(15時台)に清瀬駅始発・小手指駅始発の各駅停車池袋駅行きが各1本ずつ復活したほか、一部列車で発着駅変更を行っている。2018年3月10日のダイヤ改正で平日日中の池袋駅 - 狭山線西武球場前駅間に運行されていた列車の大半が西所沢駅 - 西武球場前駅間の狭山線内運行に短縮されたことにより、平日における池袋駅 - 西武球場前駅間の各駅停車の運行は下り2本のみとなった。また土休日ダイヤの日中時間帯で、新木場駅 - 保谷駅間を発着する一部の列車が清瀬駅まで延長されている。2022年3月12日改正で土休日下りの池袋駅発快速が新設されたことに伴い清瀬駅発着が増便された。また、同改正で、平日ダイヤにおいて、新木場駅発保谷駅行きが終点保谷駅で、先行の池袋駅発各停所沢駅行き・西武球場前駅行きに接続するダイヤも新たに設定された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "なお、現行ダイヤでは日中上りの秋津駅 - 椎名町駅間の各駅で各停が池袋駅への先着列車(特急を除くと所沢駅からも)となるパターンが発生している。また日中下りでも、椎名町駅 - 元加治駅間の各駅で各停が飯能駅への先着列車となるパターンも存在する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "路線図で示される種別カラーは灰色■で、英文種別表記は「LOCAL」である。表示色は、2008年4月頃までの旧字幕時代は「普通」表示で紺色地に白文字(新101・301・3000の各系列では90年代中頃まで白地に黒文字)となっており、新字幕では「各停」表示で灰色地に白文字、フルカラーLED表示器も字幕と同様の色が用いられているが、3色LED表示機では無点灯の地に橙色の文字で表記される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "列車番号は5000・6000番台が与えられる(前者は西武線池袋駅発着などの池袋線・西武秩父線内完結列車、後者は地下鉄線直通、秩父鉄道直通、狭山線に割り振られる)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "これとは別に、下り方面の速達列車は、通過運転を終えると駅の接近放送や発車案内標では「各停」として案内される(例:急行は所沢駅以西では通過運転を行わず各駅に停まるため、所沢駅からは各停として案内される)。車内の案内放送やLED表示器、およびスマートフォンアプリ「西武線アプリ」でも「各停」に変更されるが、車両の案内表示は車内外ともに優等種別のままとなる。上り方面の有楽町線直通列車も、かつては練馬駅から「各停」と案内されていたものの、副都心線渋谷方面開業で種別切り替えが煩雑となることから、小竹向原駅まで種別案内を変更しないこととした。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "1969年から1980年まで愛称を使用。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "池袋 - 吾野間で休日運転されていた急行「正丸」「伊豆ヶ岳」が前身で、1969年の西武秩父線開業に伴い西武秩父駅まで延長された際に「奥秩父」「奥武蔵」の愛称に改称されたのが起源となる。停車駅は「奥秩父」が池袋駅 - 所沢駅 - 飯能駅 - 吾野駅 - 正丸駅 - 芦ヶ久保駅 - 西武秩父駅で、「奥武蔵」は飯能駅 - 西武秩父駅間が各駅停車。これらの列車は、当初は「ハイキング急行」もしくは「不定期急行」と呼ばれており、ヘッドマークも掲出されていたが、1973年の改正で「奥秩父」が消滅。さらに1980年には快速急行に種別が変更。愛称名も1980年代後半には使われなくなった。",
"title": "列車種別"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "1988年から2001年まで運行。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "1988年に登場し、平日朝ラッシュ時上り1本(列車番号:3502レ)のみ設定されていた。当時は所沢駅から池袋駅への一極集中により通勤準急や通勤急行で石神井公園駅やひばりヶ丘駅の拠点駅を通過する千鳥式運転でも捌ききれず、遅延や途中駅での積み残しが恒常化していた。設定当初は所沢駅 - 池袋駅間での運転で、池袋にラッシュピークを迎える時間(8時10分頃)に到着する急行に続行する形で運転を行っていた。この急行の分散を目的としていたため急行停車駅の手前駅に停車するのが特徴で、この取り組みは『NHKモーニングワイド』に取り上げられた。後に小手指駅始発に繰り下がり、1993年12月6日のダイヤ改正時に飯能駅始発に、1998年3月26日のダイヤ改正で再び小手指駅始発となり、同時に東久留米駅にも停車するようになったが、2001年12月のダイヤ改正で消滅した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "英文種別表記は「Rapid」で快速と同じだった。また、種別表示色は旧字幕では「通勤」が白色地に水色の文字、「快速」が水色地に白文字であった。また、3色LED表示器では無点灯の地に緑色の文字で、「準急」や「快速」と同じであった。なお、近年新2000系などで更新された新字幕では、「通勤快速」は削除、種別表示部分は「拝島快速」に変更され、種別と行先が一体の新2000系・3000系の側面表示部分は空コマとされた。また、表示できるスペースに限りがあるときは「通快」と略された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "1998年から2003年まで運行。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "池袋駅 - 練馬駅間のみを通過運転する種別で、平日の朝の上下列車に設定された。1998年3月26日のダイヤ改正で、有楽町線直通列車設定に伴い池袋駅への直通列車が大幅に減少した中村橋駅・富士見台駅・練馬高野台駅から池袋駅への利便を図るために設定されたが、2003年3月12日のダイヤ改正で消滅した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "運転区間は池袋駅 - 所沢駅・小手指駅・飯能駅(下り1本のみ)・西武秩父駅間(シーズン時下りのみ)で基本的に10両で運転していたが、西武秩父駅行きのみ小手指駅で前の2両を切り離していた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "種別表示色は、旧字幕では「区間」が黄色地に黒文字、「準急」が緑色地に白文字であった。また、3色LED表示機では、無点灯の地に緑色の文字で、「快速」や「準急」と同じであった。なお、新2000系などで交換された新しい字幕でも「区間準急」は削除されず、旧幕時代にはなかった石神井公園行きや保谷行きなどの表示が追加されている。 新しい表示は黄緑色地に白文字、英文種別表記は「S.SEMI EXP.」(「SECTION SEMI EXPRESS」の略)となっている。また表示できるスペースが限られるとき、「区準」と略していた。なお3000系には区準幕が装備されておらず運用に入ることはなかったが、2008年の幕交換時に空コマ部分に追加された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "現在でもダイヤが乱れて池袋線と西武有楽町線の直通を中止したときに、中村橋駅・富士見台駅・練馬高野台駅に停車する列車の本数が激減することを救済する目的で「準急」が練馬駅から「各停」に変更されたり、上りの地下鉄直通「各停」が練馬駅から池袋駅行き「準急」に変更されたりすることがあるが、基本的に「区間準急」としては案内されない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "なお、池袋駅・練馬駅の発車案内標で、「区準」と表示され、『まもなく、○番ホームに、区間準急、池袋行きが、10両編成で、まいります、黄色い線の内側で、お待ちください。』などと自動放送が流れることもあるが、車両側には表示されない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "特別料金不要の一般列車に使用される車両は、新2000系や6000系が導入される1990年頃まで、1977年以降2000系の導入が進んでいた新宿線とは対照的に3ドア車で運転された。しかし新101系・301系や3000系などの3ドア車が全廃されたこと、4000系の飯能以東の運用が消滅したことなどから、2022年現在では特急や「旅するレストラン 52席の至福」を除き池袋 - 飯能間は全て4ドア車での運行となっている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "6000系は有楽町線・副都心線直通に使用されているが、西武線池袋発着の優等運用にも定期的に使用されている。優等列車は基本的には10両編成の運用だが、土休日を中心に地下鉄直通を含む一部列車に8両編成が使用されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "新2000系・30000系では8両と2両を連結した10両編成で運用されるが、途中駅で分割併合・増解結する列車は無く、原則10両固定編成として運用されている。なおこの場合は飯能寄りに2両を連結するため、当線所属の2両編成には女性専用車両のステッカーが貼られている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "過去に所沢や小手指止まりの列車を行楽シーズンのみ西武秩父まで延長運転した際、この列車に8両+2両または4両+4両+2両が限定使用され、小手指で前2両を解放していた。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "また、2001年までは平日ダイヤに秩父鉄道直通の急行が設定され、直通対応の新101系4両+4両に2両を連結した10両編成が使用された。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "この場合も小手指で下り方2両を解放していた。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄・東急電鉄・横浜高速鉄道からの乗り入れ車両には10両編成と8両編成があり、10両の優等列車を中心に飯能まで乗り入れる。原則として西武線池袋 - 練馬間には入らないが、ダイヤ乱れによって有楽町線・副都心線との直通運転が中止された場合に同区間を走行することがある。10両編成は有楽町線と副都心線(東横線・みなとみらい線までを含む)の両方から乗り入れる。副都心線方面では西武6000系同様、西武線からみなとみらい線までの全区間を優等列車として運転するのが主体である。一方、8両編成は副都心線方面のみ乗り入れる。飯能まで乗り入れるものは少なく、日中は石神井公園と保谷まで、それ以外の時間帯も多くは小手指までの運転である。西武線内での優等扱いは、朝と夜間に下りの準急・快速・快速急行が、上りは準急・快速(ともに副都心線内各駅停車)の運用が数本あるが、西武線からみなとみらい線までの全区間を各駅停車で運転する列車が主体となっている(東横線・みなとみらい線内は急行で運行する列車もあるが、副都心線内は各駅停車で運行することが多い)。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "西武線のほか、同じく有楽町線・副都心線と相互直通運転を行う東武東上線にも乗り入れており、西武線直通列車の折り返しが東上線直通列車(またはその逆)となる運用もある。東武鉄道の車両は西武線への入線に対応していないため乗り入れない。同様に、西武線の車両が東上線に入線することも不可能である。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "どの列車がどの車両で運転されるかは『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄にて判別ができる(西武池袋線のページでは相互直通列車も西武方式の列車番号で記載されているため判別不可能)。列車番号末尾アルファベットの「M」が西武、「S」がメトロ車両、「K」が東急・横浜高速所属車両となっている。なお、東武車両と相鉄車両は西武には入線しない。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "2013年3月16日改正ダイヤでは、東京地下鉄所属の10両編成1本および東急所属の10両編成1本各々が武蔵丘車両基地で、東急・横浜高速所属の8両編成1本が石神井公園駅でそれぞれ夜間留置となる運用が組まれている。逆に、西武車は東京地下鉄の和光検車区・新木場車両基地および東急の元住吉検車区で1本ずつが夜間留置となる運用が組まれている。なお、東急所属の10両編成の一部は「Q SEAT」を2両連結しており、2022年10月24日以降は車両運用の都合で一部列車に「Q SEAT」を連結した編成が充当されるが、2023年8月10日の東横線での有料座席指定サービス開始以降も西武線内では有料座席指定サービス提供は行われない。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "東急5000系・5050系と横浜高速鉄道Y500系は、2013年3月16日に開始された副都心線経由による東急東横線・みなとみらい線直通運転に充当される車両で、東急5050系は直通運転開始に先立って2012年7月に池袋線内で試運転が行われ、同年9月10日より営業運転を開始している。編成の扱いは他社直通車両と同じである。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "501系以前の車両は省略。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "本路線には、平日朝の通勤・通学時間帯において女性専用車が設定されている。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "女性専用車には、女性客だけではなく以下のいずれかに該当する男性客も乗車可能である。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "ダイヤ乱れなどが生じた場合には、女性専用車の設定を取りやめる場合がある。副都心線直通列車の8両編成にも設定されているため、新桜台 - 練馬 - 小手指間では、8両編成の最後尾乗車口付近に緑色の案内表示がなされている。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "10両固定編成のほか、2000系・30000系の2両編成は原則飯能寄りに連結されるため、専用ステッカーを掲示している。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "2013年3月16日に副都心線を介した東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転が開始され、各鉄道会社間で女性専用車両の実施内容を統一するため設定時間が拡大された。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "2021年度の朝ラッシュ時最混雑区間は椎名町 → 池袋間であり、ピーク時(7:27 - 8:27)の混雑率は111%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "混雑率は1993年度まで200%を越え、当時の混雑率は民鉄路線で最も高かった。1994年に西武有楽町線の全線が、1997年に都営地下鉄大江戸線の練馬 - 新宿間がそれぞれ開業して都心方面へのバイパス路線となったことで混雑は大幅に緩和され、2002年度に160%を下回った。副都心線が開業した2008年度は、西武線池袋方面の本数を削減した反動で混雑率が180%弱まで悪化したが、その後は輸送人員が減少した。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "池袋線では、2007年3月18日からSuicaとの相互利用が可能なICカード「PASMO」を導入しているが、自動改札機が設置されていない武蔵横手・東吾野・吾野の各駅は簡易ICカード改札機、その他の駅は自動改札機での対応となっている。",
"title": "PASMO導入について"
}
] |
池袋線(いけぶくろせん)は、東京都豊島区の池袋駅から埼玉県飯能市の飯能駅を経由して同市の吾野駅までを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 池袋線
|路線色=#ef810f
|ロゴ=File:Seibu ikebukuro logo.svg
|ロゴサイズ=50px
|画像=Seibu-Ikebukuro-Line Series40000 Series6000.jpg
|画像説明=池袋線を走行する[[西武40000系電車|40000系]](左)と[[西武6000系電車|6000系]](右)<br>(2022年8月 [[小手指駅]] - [[西所沢駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]、[[埼玉県]]
|起点=[[池袋駅]]
|終点=[[吾野駅]]
|駅数=31駅
|輸送実績=
|1日利用者数=
|路線記号=SI
|開業={{start date and age|1915|4|15}}
|全通={{start date and age|1929|9|10}}
|休止=
|廃止=
|所有者=[[西武鉄道]]
|運営者=西武鉄道
|車両基地=[[小手指車両基地]]・[[武蔵丘車両基地]]<br />[[和光検車区]](東京メトロ車)<br />[[元住吉検車区]](東急・横浜高速鉄道車)
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=57.8 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複々線]]([[練馬駅]] - [[石神井公園駅]]間)<br />[[複線]](池袋駅 - 練馬駅間、石神井公園駅 - [[飯能駅]]間、[[北飯能信号場]] - [[武蔵丘信号場]]間)<br />[[単線]](上記以外)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置|ATS]]
|最高速度=105 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="yamanote">杉崎行恭『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』(JTBパブリッシング、2013年)p.165</ref>
|路線図=[[File:Seibu Railway Linemap.svg|300px]]
|路線図表示=<!--collapsed-->
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ef810f}}
{{BS-table}}
{{BS-colspan|HI=style="font-size:90%;"}}
特記のない路線は[[西武鉄道]]<br />地下鉄:[[東京地下鉄]]<br />池袋以遠の地下鉄乗り入れ先は当図の後の図参照
{{BS4text|1||2|3||1: 地下鉄[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] |}}
{{BS6||tSTR+r||tSTR|tSTR||||2: 地下鉄[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]|}}
{{BS6|tSTR+l|tKRZt|tSTRq|tKRZt|tSTRr||||3: 地下鉄[[東京メトロ副都心線|副都心線]]|}}
{{BS6|tSTR|tKBHFe|O2=HUBaq|KBHFaq|O3=HUBlg|tKRZ|STR+r||0.0|SI01 [[池袋駅]]||}}
{{BS6|tKRZ|STRq|BHFq|O3=HUB|tKRZ|KRZo||||[[東日本旅客鉄道|JR東]][[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]|}}
{{BS6|tSTR2|O1=STRq|tSTRc3|O2=STRq|BHFq|O3=HUB|tKRZ|KRZo||||JR東[[山手線]]|}}
{{BS6|tSTRc1|O1=STRq|tSTR+4|O2=STRq|KBHFeq|O3=HUBtl|tBHF|O4=HUBeq|STR||||[[東武鉄道|東武]][[東武東上本線|東上本線]]|}}
{{BS6||tKBHFa|O2=HUBaq|tSTRc2|O3=HUBrf|tSTR3|O4=STRc2|STR3|||||}}
{{BS6||tSTR|tSTR+1|STR+1|O4=tSTRc4|STRc4|||||}}
{{BS6||tSTR|tLSTR|eBHF|||0.9|''[[上り屋敷駅]]''|<ref group="*">1945年休止、1953年廃止</ref>|}}
{{BS6||tSTR|tLSTR|BHF|||1.9|SI02 [[椎名町駅]]||}}
{{BS6||tSTR|tLSTR|BHF|||3.1|SI03 [[東長崎駅]]||}}
{{BS6||tSTR2|tLSTR|O3=tSTRc3|eDST|||3.8|''[[西武市場駅]]''|-1963|}}
{{BS6||tSTRc1|tABZg+4|BHF|||4.3|SI04 [[江古田駅]]||}}
{{BS6|||tHST|STR|||||[[小竹向原駅]]|}}
{{BS6||tSTRq|tABZgr|STR|||||地下鉄有楽町線・副都心線|}}
{{BS6|||tSTR|O3=POINTERg@fq|STR|||||[[西武有楽町線]]|}}
{{BS6|||tHST|STR|||||[[新桜台駅]]|}}
{{BS6|||tSTR2|tSTRc3|O4=BHF|||5.2|SI05 [[桜台駅 (東京都)|桜台駅]]||}}
{{BS6|||tSTRc1|ABZg+t4e|tSTR+l||||[[都営地下鉄|都営]][[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]|}}
{{BS6||||BHF|O4=HUBaq|tBHF|O5=HUBeq||6.0|SI06 [[練馬駅]]||}}
{{BS6|||KRW+l|KRWgr|tSTR||||[[西武豊島線|豊島線]]|}}
{{BS6||tSTR+l|KRZt|KRZt|tSTRr|||||}}
{{BS6||tHST|KHSTe|STR|||||[[豊島園駅]]|}}
{{BS6||tSTRr||BHF|||7.5|SI07 [[中村橋駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||8.3|SI08 [[富士見台駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||9.5|SI09 [[練馬高野台駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||10.6|SI10 [[石神井公園駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||12.5|SI11 [[大泉学園駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||14.1|SI12 [[保谷駅]]||}}
{{BS6|||KRW+l|KRWgr||||保谷電留線||}}
{{BS6|||KDSTe|STR|||||(旧)[[保谷車両管理所]]|}}
{{BS6||||BHF|||16.4|SI13 [[ひばりヶ丘駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||17.8|SI14 [[東久留米駅]]||}}
{{BS6||||hKRZWae|||||[[野火止用水]]||}}
{{BS6||||BHF|||19.6|SI15 [[清瀬駅]]||}}
{{BS6||||BHF|O4=HUBaq||O5=HUBq||O6=HUBlg|21.8|SI16 [[秋津駅]]||}}
{{BS6||||KRZo+k2|kABZq+3|BHFq|O6=HUBe|||[[新秋津駅]]|}}
{{BS6||||kABZg+1|||||JR東[[武蔵野線]]|}}
{{BS6||||eBHF|||24.3|''[[東所沢駅 (武蔵野鉄道)|東所沢駅]]''|<ref group="*">1945年休止、1954年廃止</ref>|}}
{{BS6|||STRq|ABZg+r|||||[[西武新宿線|新宿線]]|}}
{{BS6||||BHF|||24.8|SI17 [[所沢駅]]||}}
{{BS6|||exKDSTaq|eABZgr|||||''[[西武所沢車両工場|所沢車両工場]]''|}}
{{BS6|||KRW+l|KRWgr||||||}}
{{BS6|||STRl|KRZo|STRq||||新宿線|}}
{{BS6||||BHF|||27.2|SI18 [[西所沢駅]]||}}
{{BS6||||KRWgl|LKRW+r||||[[西武狭山線|狭山線]]|}}
{{BS6||||STR|KHSTe||||[[西武球場前駅]]|}}
{{BS6||||BHF|||29.4|SI19 [[小手指駅]]||}}
{{BS6|||KRW+l|KRWgr||||||}}
{{BS6|||KDSTe|STR||||[[小手指車両基地]]||}}
{{BS6||||BHF|||31.6|SI20 [[狭山ヶ丘駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||32.9|SI21 [[武蔵藤沢駅]]||}}
{{BS6||||eDST|||35.3|''[[下原駅]]''|-1982|}}
{{BS6||||BHF|||35.9|SI22 [[稲荷山公園駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||36.8|SI23 [[入間市駅]]||}}
{{BS6||||eDST|||37.8|''[[黒須駅 (埼玉県豊岡町)|黒須駅]]''|-1953|}}
{{BS6||||BHF|||39.7|SI24 [[仏子駅]]||}}
{{BS6||||BHF|||41.0|SI25 [[元加治駅]]||}}
{{BS6||||eDST|||43.0|''[[笠縫信号所]]''|-2001|}}
{{BS6|||STR+l|KRZu|STRq||||JR東[[八高線]]|}}
{{BS6||STRc2|STR3|O3=exSTRc2|eABZg3|||||}}
{{BS6||STR+1|STRc4|O3=exSTR+1|P3=STR+l|exSTRc4|O4=ABZg+r|||||''[[東飯能駅#飯能短絡線(未成線)|飯能短絡線]]'' (未成)}}
{{BS6||STR|STR|KBHFe|||43.7|SI26 [[飯能駅]]||}}
{{BS6||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq||||44.5|SI27 [[東飯能駅]]||}}
{{BS6||STRr|DST||||45.0|[[北飯能信号場]]||}}
{{BS6|||eBHF||||45.9|''[[天覧山駅]]''|-1954|}}
{{BS6|||DST||||46.5|[[武蔵丘信号場]]||}}
{{BS6||KRW+l|KRWglr|KRW+r||||[[武蔵丘車両検修場]]||}}
{{BS6||KDSTe|STR|KDSTe||||[[武蔵丘車両基地]]||}}
{{BS6|||BHF||||48.5|SI28 [[高麗駅]]||}}
{{BS6|||BHF||||51.3|SI29 [[武蔵横手駅]]||}}
{{BS6|||BHF||||53.8|SI30 [[東吾野駅]]||}}
{{BS6|||TUNNEL1|||||鎌倉坂トンネル|223m|}}
{{BS6|||BHF+GRZq||||{{BSkm|57.8|0.0}}|SI31 [[吾野駅]]||}}
{{BS6|||LSTR||||||↓[[西武秩父線]]|}}
{{BS6|||STR|STR+l|STRq||||[[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]|}}
{{BS6|||KRWg+l|KRWgr||}}
{{BS6|||KRWgl|KRWg+r||}}
{{BS6|||KBHFe|O3=HUB2|STR|O4=HUBc3|||{{BSkm|76.8|19.0}}|SI36 [[西武秩父駅]]||}}
{{BS6|||HUBc1|HST|O4=HUB4|||||[[御花畑駅]]|}}
{{BS-colspan|HI=style="font-size:90%;"}}
<references group="*" />
----
地下鉄有楽町線、副都心線乗り入れ先<br />地上線地下線の別は略
{{BS4||||KHSTa|||[[元町・中華街駅]]|}}
{{BS4||||STR|||[[横浜高速鉄道]]|}}
{{BS4||||STR||| [[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]|}}
{{BS4||||HST|||[[横浜駅]]|}}
{{BS4|||exSTRc2|eABZg3|||[[東急電鉄|東急]][[東急東横線|東横線]]|}}
{{BS4|||exSTR+1|O3=POINTERf@gq|eSTR+c4|||''東横線旧線''|}}
{{BS4|||exKHSTe|HST|||[[渋谷駅]]|}}
{{BS4||||STR|||[[東京メトロ副都心線|副都心線]]|}}
{{BS4||KHSTa|STRc2|STR3|||[[新木場駅]]|}}
{{BS4||STR2|O2=POINTERf@gq|STR3+1|STRc4|||[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]|}}
{{BS4||STR+1|STR+4|||||}}
{{BS4||BHF|BHF|KBHFa||'''[[池袋駅]]'''||}}
{{BS4||STR|STR|O3=POINTERf@gq|STR|||有楽町線|}}
{{BS4||STR2|O2=POINTERf@gq|STR+c3|STR|||副都心線|}}
{{BS4||STRc1|ABZg+4|STR||||}}
{{BS4|||HST|STR||'''小竹向原駅'''||}}
{{BS4|||STR2|O3=POINTERf@gq|STR+c3|||[[西武有楽町線]]|}}
{{BS4|||STRc1|ABZg+4||||}}
{{BS4||||BHF|||'''[[練馬駅]]'''|}}
|}
|}
'''池袋線'''(いけぶくろせん)は、[[東京都]][[豊島区]]の[[池袋駅]]から[[埼玉県]][[飯能市]]の[[飯能駅]]を経由して同市の[[吾野駅]]までを結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SI'''。
== 概要 ==
東京の[[副都心]]・[[池袋]]から[[練馬区]]や[[埼玉県]][[所沢市]]、同県[[入間市]]などの[[ベッドタウン]]を経由して同県西部方面を結ぶ[[首都圏 (日本)|東京圏]]の主要[[通勤]]路線の一つである。一方で、[[プロ野球]]試合やイベント開催時には[[埼玉西武ライオンズ]]の本拠地である[[西武ドーム]](ベルーナドーム)への、行楽期には[[秩父地方]]への東京都心などからの観光輸送も担っている。[[西武新宿線|新宿線]]と共に西武鉄道の主要路線であり、同線と[[所沢駅]]で接続している。歴史的経緯から西武鉄道の鉄道路線は池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)、新宿線系統(旧・西武鉄道)とその他の路線に大別でき、支線の[[西武狭山線|狭山線]]・[[西武豊島線|豊島線]]・[[西武有楽町線]]と池袋線の実質的な延長路線である[[西武秩父線]]を併せて「池袋線」と呼ぶことがある<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/railway/rosen/__icsFiles/afieldfile/2009/11/11/pdf_ikb.pdf 池袋線停車駅]}}</ref>。
[[特別急行列車|特急]]「[[ちちぶ (列車)|ちちぶ]]」と土休日の[[ホームライナー|有料座席指定列車]]「[[S-TRAIN]]」、[[飯能駅]] - [[西武秩父駅]]方面間の[[各駅停車]]が西武秩父線と[[直通運転]]を行っている。武蔵野鉄道時代の[[1929年]]に吾野駅まで開業し、吾野駅から先の西武秩父線は[[1969年]]に開業した。そのため吾野駅が線路名称上の終点ではあるものの、ほとんどの列車は吾野駅から西武秩父線に直通して西武秩父駅に至ること、さらに飯能駅で[[スイッチバック]]を行う必要があることから、基本的に飯能駅止まりの「[[ちちぶ (列車)|むさし]]」を除く特急と一部のS-TRAIN以外の一般列車の運転系統としては池袋駅 - 飯能駅間、飯能駅 - 吾野駅 - 西武秩父駅間で二分されている。さらに一部の各駅停車は西武秩父線経由で[[秩父鉄道秩父本線]]への直通運転も行っている。なお、前述の通り飯能駅で運転系統が二分されていることから、池袋駅 - 飯能駅間を池袋線、飯能駅 - 西武秩父駅間を西武秩父線とする鉄道関連書籍や時刻表検索サイト<ref>[https://timetable.ekitan.com/railway/station/2836 駅探 飯能駅時刻表]</ref>も見受けられるが、正確な表現ではない。また、沿線に住宅地が広がる池袋駅 - 飯能駅間とは対照的に、飯能駅 - 西武秩父駅間は山間部を走行するため民家の数も疎らであり、飯能駅を境に沿線風景も大きく異なる。
また、西武有楽町線を経由して[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]及び[[東京メトロ副都心線|副都心線]]、さらに副都心線を経由して[[東急電鉄]][[東急東横線|東横線]]・[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]との相互直通運転を行っている。日中の時間帯に副都心線系統(飯能駅 - みなとみらい線元町・中華街駅)を走る列車のうち、各線内を特別料金不要で最速で結ぶ列車に対しては「[[Fライナー]]」の愛称がつく。また、[[2017年]]より有料座席指定列車「S-TRAIN」を運行しており、平日は通勤輸送に特化して東京メトロ有楽町線に、土休日は観光目的のために副都心線系統(その先のみなとみらい線)及び西武秩父線の西武秩父駅まで運転される。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):57.8 [[キロメートル|km]]
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
* 駅数:31駅(起終点駅含む)
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]])
* 複線区間:
** [[複々線]]:練馬駅 - 石神井公園駅間 (4.6 km)
** [[複線]]:池袋駅 - 練馬駅間 (6.0 km)、石神井公園駅 - 飯能駅間 (33.1 km)、[[北飯能信号場]] - [[武蔵丘信号場]]間 (1.5 km)
** [[単線]]:飯能駅 - 北飯能信号場間 (1.3 km)、武蔵丘信号場 - 吾野駅間(11.3 km)
* 高架区間:[[桜台駅 (東京都)|桜台駅]] - 石神井公園駅間 (5.4 km)
* 最高速度:105 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="yamanote" />
== 沿線風景 ==
=== 池袋 - 練馬 ===
この区間は複線で、[[池袋駅]]から[[江古田駅]]までは概ね地上を走っており、カーブが続く。線路の両側はずっと住宅地である。
西武鉄道の'''池袋駅'''は、[[頭端式ホーム]]4面4線と特急専用ホームを有する[[ターミナル駅]]。同駅構内には2本の[[引き上げ線]]がある。同駅の南側では、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[山手線]]と、[[埼京線]]および[[湘南新宿ライン]]が通る[[山手貨物線]]を跨ぎながら急カーブで西向きに方向を変えている。そのためこの区間では、列車は最徐行している。その後列車は加速し、かつてここに存在していた[[上り屋敷駅]]の跡地を通り抜ける。S字カーブを描いた後、[[東京都道317号環状六号線|山手通り]]をくぐると'''[[椎名町駅]]'''に着く。
椎名町駅を出るとしばらく直線を描く。その後右へカーブすると、'''[[東長崎駅]]'''に着く。同駅は[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]2面4線で、この池袋駅 - [[練馬駅]]間での各駅停車の[[待避駅]]となっている。
東長崎駅を出ると、しばらく[[都営地下鉄大江戸線]]と併走しながら直線を描く。その後、列車は減速して左に曲がると、'''江古田駅'''に着く。なお、この駅間にはかつて[[西武市場駅]]という[[貨物駅]]が存在していた。
江古田駅を出ると、[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]をくぐる。左にカーブしながら地下を走る[[西武有楽町線]]と合流する。[[高架橋|高架]]に移行すると、'''[[桜台駅 (東京都)|桜台駅]]'''に着く。
西武有楽町線がトンネルから出て高架に合流してすぐに、都営地下鉄大江戸線との乗り換え駅で、西武有楽町線・[[西武豊島線|豊島線]]との分岐駅でもある'''練馬駅'''に到着する。同駅は2面6線構造となっており、外側ホームに西武有楽町線との直通列車が発着、内側ホームは池袋線の列車が発着する。最も外側の線路は[[停車場#線名|通過線]]で、ホームは設置されていない。
=== 練馬 - 石神井公園 ===
練馬駅から[[石神井公園駅]]までは[[高架橋|高架]][[複々線]]となる。内側の線路は[[各駅停車]]用で、途中駅には[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]が設けられている。外側の線路は[[優等列車]]用で、途中駅にホームは設けられていない。
練馬駅を出ると、[[練馬区役所]]が見えてくる。途中で、豊島線が高架下へ分岐する。[[東京都道8号千代田練馬田無線|目白通り]]を跨ぐと、'''[[中村橋駅]]'''に着く。なお、目白通りの架道橋は[[連続立体交差事業|高架化工事]]前は線路が下、道路が上を走っていたが、工事完成後は線路が上、道路が下を走るという、いわゆる「逆立体化工事」が一晩で行われた<ref name="交通20010119">{{Cite news |和書 |title=逆立体化切り替え 3月3日に大工事 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-01-19 |page=1 }}</ref>。
中村橋駅のすぐそばに、[[富士見台駅]]が見える。中村橋駅を出ると途中で[[練馬区立美術館]]と[[練馬区立練馬第三小学校|練馬第三小学校]]が見え、間もなく'''富士見台駅'''に着く。この区間は、互いに隣同士の駅が見えるほど駅間距離が短い。
富士見台駅を出て右にカーブした後、[[東京都道311号環状八号線|環八通り]]を跨ぐ。[[練馬区立石神井東小学校|石神井東小学校]]を通過し、[[石神井川]]を越えると'''[[練馬高野台駅]]'''に着く。
練馬高野台駅を出るとすぐに左へカーブし、[[笹目通り]]を跨ぐと、島式ホーム2面4線の'''石神井公園駅'''に到着する。
=== 石神井公園 - ひばりヶ丘 ===
石神井公園駅から[[大泉学園駅]]付近の区間は2015年1月まで[[連続立体交差事業|高架化工事]]が実施された<ref name="tokyo20150625">{{Cite web|和書|title=西武池袋線(練馬高野台駅 - 大泉学園駅間)全線高架化による効果 |url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2015/06/60p6p200.htm |publisher=東京都 |date=2015-06-25 |accessdate=2016-04-14}}</ref><ref name="nikkei20150220">{{Cite news |和書 |title=踏切遮断、1日10時間がゼロに 西武池袋線「高架」完了 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82900880W5A200C1000000/ |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2015-02-20 |accessdate=2016-04-14}}</ref>。石神井公園駅を出ると、緩行線が[[急行線]]に合流し、ここから先は[[飯能駅]]まで[[複線]]となる。その後、車窓右側に数本の[[引き上げ線]]が見える。そして、[[東京都立大泉高等学校・附属中学校|大泉高校・同附属中学校]]付近で進行方向左側(南西の方角)が広々とひらけており、気象条件に恵まれると[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]の姿が確認できる。高架部分が間もなく終わり、[[踏切]]を越えると'''大泉学園駅'''に着く。同駅は後述の[[狭山ヶ丘駅]]・[[稲荷山公園駅]]と同様に、池袋線の中でも特にホームがカーブしている駅である。
大泉学園駅を出て[[大泉学園ゆめりあホール|ゆめりあ]]の間を抜けてもしばらく左カーブは続く。その後直線になると加速して、[[東京都道233号東大泉田無線]](保谷街道)とほぼ平行して走る。保谷街道の踏切を越えると、'''[[保谷駅]]'''に着く。同駅は[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]1面2線と[[プラットホーム#単式ホーム|単式ホーム]]1面1線で、合計2面3線構造となっている。なお同駅の真ん中の線では、同駅始発・終着列車の一部が発着するほか、緩行列車が[[優等列車]]の待避をすることもある。
保谷駅を出ると、右手に[[保谷電留線]]が見える。これは保谷駅で折り返す列車が一定数存在するためである。その後、[[東京都立保谷高等学校|保谷高校]]付近で列車は減速し、大きな右カーブを描く。カーブが終わって直線になると、[[東京都道・埼玉県道36号保谷志木線|東京都道36号保谷志木線]]の踏切を過ぎて間もなく、島式ホーム2面4線の'''ひばりヶ丘駅'''に到着する。
=== ひばりヶ丘 - 所沢 ===
ひばりヶ丘駅を出ると、右にカーブする。[[落合川 (東京都)|落合川]]を渡ると、'''[[東久留米駅]]'''に着く。池袋駅から同駅までは住宅街がほとんどで、この駅間では緩やかな下り勾配になっている。
東久留米駅を出て[[野火止用水]]を渡るまでは、直線で上り勾配となっている。その後、[[黒目川]]の橋を渡りながら[[河岸段丘]]を越える。すると住宅の密集度は低くなり、林や畑が混在しているところを通る。[[埼玉県]][[新座市]]に入ると、野火止用水を渡る。保守用の引き込み線が見えると列車は減速し、大きく左へカーブ再び[[東京都]]に入って[[新小金井街道]]を渡ると、変則的な[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]2面4線構造の'''[[清瀬駅]]'''に着く。同駅折り返しの列車も一定数設定されている。
清瀬駅を出ると、車窓右側には1本の[[引き上げ線]]が見える。次の[[秋津駅]]までの間は直線が続き、沿線は住宅街や畑がほとんどである。[[空堀川]]を越えてしばらくすると'''秋津駅'''に着く。
秋津駅を出ると、すぐにJR[[武蔵野線]]を跨ぐ。マンションが見えてくると、列車は大きく減速して右にカーブする。そして[[柳瀬川]]を渡ると埼玉県に入る。すると、[[新秋津駅]]付近からのJR連絡線と併走する状態になり、[[所沢駅]]まで3線区間となる。カーブを終えた後は広い丘やゴミ焼却場の煙突が見え、住宅街を走る。大きな団地群が見え、所沢陸橋をくぐると大きく急なカーブを左に曲がる。所沢駅前後は、池袋線有数の急カーブである。なお、かつてこの急カーブの区間には[[東所沢駅 (武蔵野鉄道)|東所沢駅]]が設置されていた。曲がるとすぐ右側に[[西武新宿線]]の線路が見えて、'''所沢駅'''に到着する。同駅は3面5線構造をしているが、池袋線だけで見れば、基本的には保谷駅と同様で、2面3線と言える。なお、同駅は改良工事がなされ、[[駅舎]]や[[コンコース]]が拡大した。
=== 所沢 - 小手指 ===
所沢駅を出ると車窓右側に2本の[[引き上げ線]]を見ながら緩い坂を上り、右へ大きく曲がり、すぐに新宿線を跨いで、さらに急カーブは続く。この辺りの[[カント (路線)|カント]]はきついため、列車は大きく傾く。カーブが終わると次の[[西所沢駅]]までは直線が続く。この辺りは住宅街である。しばらくすると、1本の引き上げ線が見える。そこから[[西武狭山線|狭山線]]との分岐が始まり、複雑な[[分岐器]]が連続し、4本の線路となる。そのため、この区間はあたかも[[複々線#線路別複々線|線路別複々線]]のように見える。その後[[埼玉県道・東京都道55号所沢武蔵村山立川線|埼玉県道55号所沢武蔵村山立川線]]の[[踏切]](所沢10号踏切)を越えると、狭山線との分岐駅・'''西所沢駅'''に着く。
同駅は3面4線構造となっており、[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]1面2線を[[プラットホーム#相対式ホーム|相対式ホーム]]2面2線で挟んだ形となっているが、駅の構造上、同駅で各駅停車が[[待避駅|待避]]をすることはない。なお、狭山線のホームはカーブしている。
西所沢駅を出ると、狭山線はすぐに南方へ分岐する。その後、非常に緩いS字カーブを描きながら[[国道463号|国道463号線]]・[[東川 (埼玉県)|東川]]を越える。沿線には[[六所神社 (所沢市)|六所神社]]や住宅街、畑が広がる。S字カーブが終わると、上新井の大踏切(西所沢6号踏切)を越える。その後直線を走りながら、上新井跨道橋で上新井新道を跨ぐ。上新井新道は、近年開通した西武新宿線の[[新所沢駅]]から国道463号[[所沢入間バイパス]](小手指バイパス)につながる新所沢駅前通り線である。その後ほどなく'''小手指駅'''に到着する。同駅は島式ホーム2面4線構造をしており、同駅折り返し列車は多数設定されている。
=== 小手指 - 入間市 ===
小手指駅を出た列車は、複雑な[[分岐器]]を越えて、車窓右側に[[小手指車両基地]]を眺めながら進む。ここまで来ると、車窓には[[武蔵野]]の面影残す雑木林や畑が住宅に混ざって見えてくる。また、天気の良い時には[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]が望めることがある。しばらく直線を走ると、貨物輸送時代の[[側線]]を残す'''狭山ヶ丘駅'''に着く。この側線は深夜に車両が留置される。なお、同駅構内の飯能駅寄りは急カーブとなっている。
狭山ヶ丘駅を出てもまだしばらくカーブは続き、進路を北にとる。その後再び直線を走り、ほどなく[[プラットホーム#対向式ホーム|対向式ホーム]]の'''[[武蔵藤沢駅]]'''に着く。この小手指駅 - [[入間市駅]]間の駅は、対向式ホームが多い。同駅構内は通常の[[バラスト軌道]]ではなく、コンクリートの[[軌道 (鉄道)|省力化軌道]]で敷設されている。なお、駅舎改良工事と共に駅前は再開発された。
武蔵藤沢駅を出ると、国道463号線(行政道路)の建武橋の下をくぐり過ぎ、左カーブして進路は北西となる。その後、[[航空自衛隊]][[入間基地]]の中を通り抜ける。そのため、車窓右側では自衛隊の航空機を多数眺めることができる。かつてはここに、自衛隊への物資輸送のための[[下原駅]]という[[貨物駅]]が設置されていた。入間基地を抜け終えると'''[[稲荷山公園駅]]'''に着く。同駅は、狭山ヶ丘駅と同様にホームが大きくカーブしている。このカーブにより、進路は西にとることになる。
稲荷山公園駅を出ると、入間基地の跡地を通りながら再び[[入間市]]に入る。そこからは大きな左カーブを描き、分岐器を通ると[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]2面4線の'''入間市駅'''に到着する。この駅間は0.9 [[キロメートル|km]]と池袋線の中では特に近いが、急カーブを通るため列車の速度は抑えられる。なお、毎年[[11月3日]]の入間基地航空祭開催時は同駅折り返し列車が運行される。だが、入間市駅には上下線間の[[渡り線|亘り線]]が存在しないため、折り返し列車は次の[[仏子駅]]の[[停車場#線名|中線]]を利用して折り返す。また、入間基地の跡地の影響により、入間市駅を過ぎるまでは市街地を一望できない。
=== 入間市 - 飯能 ===
[[ファイル:Iruma_river_Bridge.JPG|thumb|250px|right|入間川橋梁を渡る6000系]]
入間市駅を出ると列車は[[築堤]]の上を走り、急な右カーブを描きながら[[国道16号|国道16号線]]と[[霞川]]を渡る。一瞬ではあるが、入間市の市街地が望め、駅前の高層マンションや各種商業施設([[コナミスポーツ (企業)|コナミスポーツ]]、[[丸広百貨店]]、i-potなど)が望める。霞川を渡り、カーブを終えると今度はすぐ切り立った崖に沿って、急な左カーブを描きながら走る。そのため進行方向右側の眺めは大変良く、ほんの一瞬だが、車窓の窓一面を空が占める。その後崖を下ると、かつて存在していた[[黒須駅 (埼玉県豊岡町)|黒須駅]]という[[貨物駅]]の跡を通り抜け、[[国道299号|国道299号線]]バイパス・[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]をくぐると'''[[仏子駅]]'''に着く。同駅は待避・折り返し用の中線がある。なお、前の入間市駅よりも南に位置する。また、この区間は車窓左側に加治丘陵が見えるため緑に溢れている。さらに、線路が直線的なため比較的高速で走る。
仏子駅を出ると再び築堤の上を走る。右側に大きな団地を眺めつつ、少し右に曲がりながら[[入間川 (埼玉県)|入間川]]を渡る。この入間川橋梁は西武鉄道の橋梁では最も長い(延長169.9m)<ref>{{cite journal |和書 |journal =[[鉄道ピクトリアル]] |title=特集:西武鉄道/線路と保線 |author=小山淳 |date=2013年12月臨時増刊号 |issue=884 |page=89 |publisher=[[電気車研究会]] }}</ref>。入間川を渡る際、進行方向左側には使用されていない単線の旧入間川橋梁が錆びた姿を晒している。また、北側の河原ではかつて[[アケボノゾウ]]の足跡[[化石]]が見つかったことがある。入間川橋梁を渡りきると、2009年8月に再有人化されるまで池袋線唯一の[[無人駅]]であった'''[[元加治駅]]'''に着く。同駅からは、かつて入間川に向かう貨物線(岩沢側線)が伸びていた<ref>{{cite journal |和書 |journal =[[鉄道ピクトリアル]] |title=特集:西武鉄道/西武鉄道の「廃」を探る |author=小松丘 |date=2002年4月臨時増刊号 |issue=716 |page=157 |publisher=[[電気車研究会]] }}</ref>。なお、駅前は[[駿河台大学]]への[[スクールバス]]が発着するのみで、普段は閑散としている。
元加治駅を出ると、車窓からの風景は畑から少しずつ住宅地に変わっていく。しばらくしてJR[[八高線]]をくぐり抜けると上下線が分かれる。その後、少しずつ住宅の密集度が高くなっていく。そして[[変電所]]が見えてくる辺りで、[[未成線]]となった[[飯能短絡線]]の建設予定地が分かれていく。この辺りでは、緩いS字カーブを描きながら高速で走行する。かつては途中に[[笠縫信号所]]があり複線から単線となっていた。カーブを終えると減速し、[[東飯能駅]]方面からの単線の線路と合流する。複雑な分岐器を越えると、3面4線の'''[[飯能駅]]'''に到着する。なお、同駅以東から[[吾野駅]]方面へ直通する列車は、特急「[[ちちぶ (列車)|ちちぶ]]」、[[S-TRAIN]]の土休日列車と快速急行の臨時列車のみとなる。
=== 飯能 - 吾野 ===
この区間は急カーブが連続し、かつほとんどの区間が単線であるため、ごく一部の[[複線]]区間(後述)を除いて、列車の速度は抑えられることになる。また、前述のとおり飯能駅で運転系統は二分されている。なお、飯能駅から[[吾野駅]]方面に進行するには[[スイッチバック]](方向転換)が必要となるため、飯能駅以西への直通列車は、同駅で進行方向を変えて[[東飯能駅]]へと向かう。
飯能駅を出ると、スイッチバックをするため一時的に進路は東となる。その後、複雑な分岐器を一旦戻って吾野駅方面へ進路をとる。その後所沢方面の複線の線路と分岐して、[[単線]]となる。飯能市の市街地をみながら北向きに急カーブで進路を変えると、'''東飯能駅'''に着く。
同駅は[[単式ホーム]]1面1線で、池袋線では唯一の上下相互発着が不可能な[[棒線駅]]であるが、ホームの西側には線路一本分の土地がある。これは[[飯能短絡線]](前述)との合流用とされていたが、今後この土地を使う予定はない。また、同駅は[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[八高線]]と乗り換えができる駅だが、飯能駅より圧倒的に利用者は少ない。その上、西武とJRの[[改札]]は分離されており、乗り換えるには一旦改札口を出る必要がある。なお、平日の朝夕[[ラッシュ時]]には八高線との乗り換え客で賑わうが、土曜・休日・平日早朝には[[ハイキング]]客が改札を出入りする光景も見られる。
東飯能駅を出ると線路は再び急カーブになり、北西に進路を変える。カーブを抜けてすぐのところにある[[北飯能信号場]]から再び複線となり、速度を上げる。その後、坂を上って[[盛土]]へと移行する。かつて存在していた天覧山駅の跡地を通る。飯能駅からこの辺りまでは住宅地が広がっている。その後、山が近づいてくる。そして[[武蔵丘信号場]]付近で減速し、線路は再び単線となって[[武蔵丘車両基地]]・[[武蔵丘車両検修場]]と分岐する。この区間が複線なのは、飯能駅から武蔵丘への[[回送]]列車が通り、運転本数が多くなるからである<ref>川島令三『【図説】日本の鉄道 中部ライン 全線・全駅・全路線』第11巻([[講談社]]、2011年)p.74</ref>。なお、ここから[[国道299号|国道299号線]]と併走するようになる。その後、しばらく山間部を走行した後は再び平地に戻って、'''[[高麗駅]]'''に着く。
同駅は、島式ホーム1面2線と側線を1本有する構造となっている。なお、東飯能駅 - 高麗駅の駅間距離は、[[東吾野駅]] - 吾野駅間とともに、池袋線では最長の4.0 kmである。しかし、池袋線の実質的な延長路線で、飯能駅からの直通列車も多数運行されている[[西武秩父線]]には、それらよりもはるかに長い、6.1 kmが[[正丸駅]] - [[芦ヶ久保駅]]間に存在する。
高麗駅を出ると、高麗川と併走するようになり、再び山間部を走行する。しばらくすると'''[[武蔵横手駅]]'''に着く。
武蔵横手駅を出ると、急カーブも多くなり、周辺の山々が少しずつ険しくなってくる。その後ほどなく'''東吾野駅'''に着く。
東吾野駅を出てしばらくすると、山が険しくなり、速度を落として急カーブを描きながら、池袋線では唯一のトンネルである鎌倉坂トンネル(223 [[メートル|m]])を通る。その後国道299号線を2度跨ぐと、住宅地が広がる。住宅地を見ながら国道299号線・高麗川と併走して、国道と川が右に分かれると、終点・'''吾野駅'''に到着する。なお、同駅は側線を1本有する。また同駅からは、ほとんどの列車が西武秩父線の[[西武秩父駅]]へ、さらには土休日の一部列車が[[秩父鉄道秩父本線]]の[[長瀞駅]]・[[三峰口駅]]にまで直通する。
なお、この区間の駅には[[発車メロディ]]の設備がないため、車両上の[[乗車促進音]]を使用するほか、[[車掌]]乗務列車では車掌の[[ホイッスル|手笛]]による出発合図が行われる。
== 運転 ==
池袋線の運転系統は飯能駅を境に池袋駅 - 飯能駅間と西武秩父線を含む飯能駅 - 西武秩父駅間の2つに分かれている。池袋駅 - 西武秩父駅間を直通運転するのは特急「[[ちちぶ (列車)|ちちぶ]]」と土休日の[[S-TRAIN]]のみである。以下では主に池袋駅 - 飯能駅間について述べる。飯能駅 - 吾野駅間は「[[西武秩父線]]」の項も参照のこと。
基本的に速達列車が途中駅から各駅停車となる郊外電車型の停車パターンである。各駅停車は日中1時間あたり1本の池袋駅 - 飯能駅間の列車以外は、基本的に池袋駅 - [[西武豊島線|豊島線]][[豊島園駅]]、石神井公園駅、保谷駅、清瀬駅、所沢駅、小手指駅、[[西武狭山線|狭山線]][[西武球場前駅]]のいずれかの駅との間の運転であるため、小手指駅 - 飯能駅間は[[急行列車|急行]]・[[快速列車|快速]]・[[準急列車|準急]]が各駅停車の役割を果たす。
速達列車であっても下り列車で以遠各駅停車となる区間では、「各駅停車」として案内されている([[#各駅停車|後述]])。
平日朝ラッシュ時は、速達列車の停車駅を千鳥配置にする[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]を採用することで、各列車の混雑を分散するように配慮されている。そのため、多様な停車パターンの多数の列車種別が運転されている。
飯能駅では西武秩父方面の普通電車と池袋駅発着の急行、準急または[[東京メトロ副都心線|副都心線]]直通の快速急行との相互接続が考慮されている。また[[練馬駅]]では原則として副都心線・有楽町線直通電車と池袋駅 - 豊島園駅間の普通電車との接続が考慮されている。
=== 臨時列車 ===
* [[西武ドーム]](最寄駅:[[西武狭山線|狭山線]][[西武球場前駅]])
*: プロ野球[[埼玉西武ライオンズ]]の試合をはじめ、コンサートなどイベントなどの開催時には狭山線への臨時列車が多数運転される([[西武新宿線|新宿線]]や有楽町線・副都心線からの直通列車もあり)。
* [[羊山公園]]の[[シバザクラ|芝桜]](最寄駅:[[西武秩父線]][[横瀬駅]]・[[西武秩父駅]])
*: 4月頃の花の見頃に臨時列車運転。
* [[横瀬車両基地]](最寄駅:西武秩父線横瀬駅)
*: 「西武トレインフェスティバルin横瀬」などイベント開催時に臨時列車運転。
* [[巾着田]]の[[曼珠沙華]](最寄駅:[[高麗駅]])
*: 9月頃の花の見頃に臨時列車運転・特急臨時停車。
* [[武蔵丘車両検修場]]
*: 6月の「西武・電車フェスタin武蔵丘車両検修場」などイベント開催時に検修場への臨時列車運転。
* [[航空自衛隊]][[入間基地]]の「入間航空祭」(最寄駅:[[稲荷山公園駅]])
*: 開催日の11月3日に特急臨時停車や[[入間市駅]]始発・終着の臨時列車運転。
* [[秩父夜祭]](最寄駅:西武秩父線西武秩父駅)
*: 12月3日の大祭にあわせ臨時列車運転。
このほか、2016年4月17日より、西武4000系1本 (4009F) を改造した「[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|旅するレストラン 52席の至福]]」が、土休日を中心に年間100日程度、池袋駅または西武新宿線西武新宿駅から西武秩父駅まで1往復運行される<ref name="shinjuku-keizai20160419">[http://shinjuku.keizai.biz/headline/2325/ 西武新宿駅発「旅するレストラン〜52席の至福〜」運行開始] - 新宿経済新聞、2016年4月19日</ref><ref>[http://response.jp/article/2016/04/14/273539.html 西武鉄道、52席だけの「至福」観光電車を公開…定員10分の1に] - レスポンス、2016年4月14日<!-- 編成番号まで記述あり--></ref>。ただし、所要時間は通常と比べて長くなっている。2017年以降は、夕方のみ池袋線池袋駅から飯能方面へ向かい、池袋駅へ戻ってくるコースも用意された。
=== 他社線との直通運転 ===
; 秩父鉄道方面
: 池袋線から[[西武秩父線]]を経由して[[秩父鉄道秩父本線]]に乗り入れている。2021年3月13日改正以降は土休日に2本、いずれも飯能駅発着で運行される。
: [[西武秩父駅]]経由で[[三峰口駅]]に乗り入れる系統と秩父鉄道線[[御花畑駅]]経由で[[長瀞駅]]([[2007年]]春の改正までは[[寄居駅]]まで)に乗り入れる系統があり、いずれも西武鉄道から秩父鉄道への片乗り入れ運転である。
: かつては土休日に限り池袋発着の快速急行、急行計2往復が直通運転を行っていたが、[[2020年]]3月14日のダイヤ改正で廃止されている。
: 2020年4月13日より、[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大]]防止のため直通運転を中止し、長瀞発着は御花畑発着、三峰口発着は西武秩父発着にそれぞれ変更された<ref name="chichibu-railway20200413">{{Cite web|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/newsrelease/200410/|title=新型コロナウイルス感染症拡大に伴う 「計画運休」について|date=2020-04-10|accessdate=2020-04-13|publisher=秩父鉄道}}</ref><ref name="seibu-tt">{{Cite web|和書|url=https://seibu.ekitan.com/norikae/pc/T1 |title=駅の時刻表 |publisher=西武鉄道 |accessdate=2020-04-14 |quote=三峰口・長瀞行きは西武秩父・御花畑行きとして運転いたします。}}</ref>。
: 2021年3月13日のダイヤ改正で運転を再開したが、平日の設定を取りやめ、土休日のみの直通運転となる<ref name="seibu20210126">{{Cite press release|和書|title=2021年3月13日(土)ダイヤ改正と駅名変更を実施します |publisher=西武鉄道 |date=2021-01-26 |url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210126_daiyakaisei.pdf |format=PDF |accessdate=2021-02-01}}</ref>。
:
; 地下鉄有楽町線方面
: [[練馬駅]]から[[西武有楽町線]]を経由して[[東京メトロ有楽町線]][[新木場駅]]まで相互直通運転を実施している。日中は池袋線内は[[保谷駅]](土休日の一部は清瀬発着)・[[小手指駅]]発着で1時間あたり各2本で各駅停車で運転される。西武ドームでのイベント開催時には[[西武狭山線|狭山線]][[西武球場前駅]]発着の列車も運転される。
: 飯能駅発着の列車は平日は朝1本、夕方1本の到着列車、休日は朝1本発着と夕方3本の到着列車のみである。
: [[2017年]][[3月25日]]より[[ホームライナー|着席保証列車]]「[[S-TRAIN]]」が運行されており、平日のみ豊洲方面と[[所沢駅]](下りは小手指駅まで)を結んでいる。
: 2022年3月12日のダイヤ改正で日中は1時間当たり2本減便され4本となる。
; 地下鉄副都心線・東急東横線・みなとみらい線方面
: 練馬駅から西武有楽町線・[[東京メトロ副都心線]]・[[東急東横線]]を経由して[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]の[[元町・中華街駅]]まで相互直通運転を実施している。副都心線に直通する列車はすべて東横線・みなとみらい線まで直通して武蔵小杉駅・菊名駅・横浜駅および元町・中華街駅発着となり、渋谷駅など副都心線内発着の列車は設定されない。これにより西武の車両は初めて[[神奈川県]]内でも運転されることになった。
: 池袋線内は小手指駅発着快速急行(練馬駅に停車、副都心線内急行、東横線・みなとみらい線内特急)が1時間に2本、[[石神井公園駅]]発各駅停車(副都心線内各駅停車、東横線・みなとみらい線内各駅停車)が2本、同駅着列車はうち1本は準急となる。
: なお2022年3月12日のダイヤ改正で飯能発着の快速急行は土休日の一部のみとなった。
: 西武ドームでのイベント開催時には狭山線西武球場前駅発着の列車も運転される<ref name="seibu-release120724">{{Cite press_release | url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/07/24/20120724soutyoku.pdf | title=池袋線が東急東横線、横浜高速みなとみらい線との相互直通運転を開始します。 | publisher=[[西武鉄道]] | date=2012-07-24 | accessdate=2012-07-24 | format=PDF}}</ref><ref name="seibu-release130122">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/01/22/20130122diagram.pdf 2013年3月16日(土) ダイヤ改正を実施します]}} - 西武鉄道、2013年1月22日、2013年1月23日閲覧</ref>。その際、快速急行小手指駅行きを西武線内は'''快速'''として運転し、ひばりヶ丘駅で保谷駅から回送される同駅始発の快速急行小手指駅行きに乗り継ぐパターンが組まれ、ひばりヶ丘駅で快速急行小手指駅行きを待ち合わせる各停小手指駅行きは清瀬駅で快速西武球場前駅行きの待ち合わせとひばりヶ丘駅始発の快速急行の通過待ちをする。これは、西所沢駅に快速急行が停車しないことによるものであり、『西武時刻表』第25号で該当する列車に注釈がつけられている。
: 2014年より、入間基地航空祭開催時は一部の小手指駅発着列車を入間市駅または飯能駅発着に延長するほか、最寄りの稲荷山公園駅を快速急行は通過するため、西武線内は快速急行ではなく、入間市駅行きと飯能駅行きは快速・準急、飯能駅発と入間市駅発は急行として運行される。かつては仏子駅発着も設定されていたが、現在は入間市駅発着に短縮されている。
: 2016年より[[Fライナー]]が設定された。また、東急車10両編成の運用が変更され、回送で武蔵丘信号場まで乗り入れるようになった。
: 2017年3月25日より着席保証列車「[[S-TRAIN]]」が設定されており、休日のみ元町・中華街方面と所沢駅・[[飯能駅]]・[[西武秩父駅]]を結んでいる。
: [[2023年]]3月、[[東急電鉄]]と[[相模鉄道]]は東横線の[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]から[[新横浜駅]]を経て、[[相鉄本線|相鉄線]][[西谷駅]]までの間に約10kmに及ぶ[[東急新横浜線]]・[[相鉄新横浜線]]([[神奈川東部方面線|相鉄・東急直通線]])を開業したが、西武鉄道との相互直通運転は実施されない<ref name="seibu-release20220127">{{Cite press_release | url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2022/20220127_st.pdf | title=2023年3月(予定)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業!鉄道がもっと便利になります | publisher=[[西武鉄道]] | date=2022-01-27 | accessdate=2022-01-27 | format=PDF}}</ref>。
=== 日中の運行本数 ===
2023年3月18日改正の現行ダイヤでの日中(平日は11時〜14時、土休日は12時〜13時)の1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。なお、※印を付した吾野駅 - 西武秩父駅間は[[西武秩父線]]であるが、上述のように、運行系統は飯能駅 - 吾野駅間と一体化しているため、まとめて記す。
{| class="wikitable"
|+2023年3月18日改正ダイヤの日中の運行パターン
|-
!colspan="2" |種別\駅名
!style="width:1em;"|{{縦書き|池袋|height=6em}}
! style="width:5em;"|…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|練馬|height=6em}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|石神井公園|height=6em}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|保谷|height=6em}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|所沢|height=6em}}
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|西所沢|height=6em}}
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|小手指|height=6em}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|飯能|height=6em}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|吾野|height=6em}}
!※
!colspan="1" style="width:1em;"|{{縦書き|西武秩父|height=6em}}
!備考
|- style="text-align:center;"
!rowspan="19" style="width:1em;"|{{縦書き|運行範囲|height=5em}}
|style="background:#fcc;"|特急<br/>「ちちぶ」
|colspan="25" style="background:#fcc;"| 1本
|colspan="1"|
|- style="text-align:center;"
|rowspan="1" style="background:#c9f;"|快速急行<br>([[Fライナー]])
|colspan="3" style="text-align:right;"|元町・中華街…
|colspan="14" style="background:#c9f;"| 2本
|colspan="8"|
|colspan="1"|
|- style="text-align:center;"
|style="background:#fd9;"|急行
|colspan="19" style="background:#fd9;"| 3本
|colspan="6"|
|colspan="1"|
|- style="text-align:center;"
|rowspan="3" style="background:#afa;"|準急
|colspan="3" style="text-align:right;"|元町・中華街→
|colspan="3" style="background:#afa;"| 下りのみ1本
|colspan="19"|
|colspan="1" |
|- style="text-align:center;"
|colspan="12" style="background:#afa;"| 1本
|colspan="13"|
|colspan="1" |
|- style="text-align:center;"
|colspan="19" style="background:#afa;"| 2本
|colspan="6"|
|colspan="1"|
|- style="text-align:center;"
|rowspan="10" style="background:#ddd;"|各停
|colspan="3" style="background:#ddd;"| 4本
|colspan="22" style="text-align:left;"|…豊島園
|colspan="1" |
|- style="text-align:center;"
|colspan="3" style="text-align:right;"|元町・中華街…
|colspan="3" style="background:#ddd;"| 下り1本<br />上り2本
|colspan="19"|
|
|- style="text-align:center;"
|colspan="3" style="text-align:right;"|新木場…
|colspan="6" style="background:#ddd;"| 2本
|colspan="16"|
|
|- style="text-align:center;"
|colspan="9" style="background:#ddd;"| 1本
|colspan="16"|
|colspan="1" |
|- style="text-align:center;"
|colspan="12" style="background:#ddd;"|2本
|colspan="13"|
|colspan="1" |
|- style="text-align:center;"
|colspan="3" style="text-align:right;"|新木場…
|colspan="14" style="background:#ddd;"| 2本
|colspan="8"|
|
|- style="text-align:center;"
|colspan="19" style="background:#ddd;"|1本
|colspan="6"|
|colspan="1" |
|- style="text-align:center;"
|colspan="19" style="text-align:left;"|
|colspan="6" style="background:#ddd;"| 平日1〜2本<br />土休日2本
|colspan="1" |
|}
== 列車種別 ==
=== 現在の種別 ===
==== 特急 ====
[[File:Seibu-Ikebukuro-Line Series001-Ltd.Express-Chichibu.jpg|250px|right|thumb|ちちぶ(Laview 001系)<br>(2021年10月[[小手指駅]] - [[西所沢駅]]間)]]
{{Main|ちちぶ (列車)}}
1969年10月14日のダイヤ改正で新設<ref name=":2">『鉄道ピクトリアル』2020年3月号(通巻970号)西武鉄道特急車の50年 西武特急略年表 p.18 - p.19</ref>。
池袋駅 - 飯能駅・西武秩父駅間を運転する[[特別急行列車|有料特急]]。平日の定期列車で唯一西武秩父線への直通運転を行う種別であり、池袋駅と西武秩父駅の間を最短77分で結ぶ。以下の列車が運転されており、2020年3月14日のダイヤ改正以降は全て8両編成の[[西武001系電車|001系]]で運行されている<ref>[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200129diagram.pdf 2020年3月14日(土) ダイヤ改正を実施します] 2020年1月29日 西武鉄道</ref>。
* 「[[ちちぶ (列車)|ちちぶ]]」:池袋駅 - 西武秩父駅間の運転
* 「[[ちちぶ (列車)|むさし]]」:池袋駅 - 飯能駅間の運転
* 「[[ちちぶ (列車)|ドーム]]」:池袋駅 - 西武球場前間駅の運転(臨時列車 [[埼玉西武ライオンズ]]主催試合開催時運転)
昼間は「ちちぶ」が毎日1時間に1本運転されているが、平日下りは16時以降、土休日の上りは14時以降・下りは15時以降より「むさし」も運転されている。池袋駅では特急専用ホーム(番線は『特』)から発車する。夏休みなどは一部列車がかつての停車駅である[[芦ヶ久保駅]]、11月3日の[[入間基地]]航空祭開催時に[[稲荷山公園駅]]、9月の[[巾着田]]の[[曼珠沙華]]シーズンに[[高麗駅]]へ臨時停車する。
なお、[[1976年]]から[[1993年]]12月5日までは西武新宿駅 - 西武秩父駅間の運転、1993年12月6日から[[2003年]]3月11日までは池袋駅 - 西武秩父駅間の運転(入間市駅は通過)の「[[ちちぶ (列車)|おくちちぶ]]」が存在した。また、飯能駅行きの「むさし」を延長運転し西武秩父駅行きとした「むさし」が臨時ながら設定されていたこともあるが、2016年3月26日実施のダイヤ改正で金曜日のみ池袋駅発22時台の飯能駅行き「むさし」1本が西武秩父駅行きに延長されたものの、2021年3月改正でこの延長措置は取りやめられた。
路線図で示される種別カラーは赤色{{Color|#FF0000|■}}で、英文種別表記は「'''Ltd. Exp.'''」(「Limited Express」の略)である。[[列車番号]]は一桁か二桁が与えられる。
==== S-TRAIN(エストレイン) ====
[[File:Seibu 40103 S-TRAIN No.1 20180318.jpg|250px|right|thumb|S-TRAIN]]
{{Main|S-TRAIN}}
2017年3月25日のダイヤ改正で新設<ref name="seibu-release170110">{{Cite press_release | url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2016/s-train.pdf | title=2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始! | publisher=[[西武鉄道]] | date=2017-01-10 | accessdate=2017-01-14 | format=PDF}}</ref>。
[[西武40000系電車|40000系]]を使用する西武鉄道初の[[ホームライナー|有料座席指定列車]]で、平日は通勤輸送を目的に[[東京メトロ有楽町線]][[豊洲駅]] - 小手指駅間、土休日は観光輸送を目的に[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]・[[東急東横線]]・[[東京メトロ副都心線]]を経由して[[元町・中華街駅]] - 所沢駅・小手指駅<ref group="注釈">小手指駅は2020年3月14日ダイヤ改正以降、平日ダイヤの当駅終着として設定される。</ref>・飯能駅・西武秩父駅間で運行する<ref name="seibu-release170110" />。
==== 快速急行 ====
[[File:seibu30000_快急.jpg|250px|right|thumb|朝方に運転される飯能始発の快速急行(2021年11月 元加治駅)]]
[[File:seibu6000_F.jpg|250px|right|thumb|Fライナー快速急行 (2021年9月 秋津駅〜所沢駅)]]
[[File:Seibu rapid express.JPG|250px|thumb|9000系によるひばりヶ丘駅始発の快速急行小手指駅行き<br>(2015年2月22日 [[秋津駅]])]]
1980年3月17日のダイヤ改正で新設。特急料金・座席指定券不要の列車としては最速達種別となる。路線図で示される種別カラーは紫色{{Color|#663366|■}}、英文種別表記は「'''RAPID EXP.'''」(「RAPID EXPRESS」の略)である。また、2008年6月14日のダイヤ改正に備えて新101系・新2000系・[[西武6000系電車|6000系]]・9000系・20000系・30000系の通勤車両全系式で、字幕式行先表示器の交換やLED式行先表示器のROM書き換えが実施された。旧字幕では「快速」部分が水色地に白文字、「急行」部分が赤色地に白文字となっていたが、新字幕及びフルカラーLED表示器では紫色地に白文字、3色LEDでは無点灯の地に赤文字の表記となっている。なお2016年3月26日以降、「'''[[Fライナー]]'''」として運転される列車で東急車と西武車は紫色地に緑のFと白文字で表示される。またLED表示器などで表示できるスペースが限られる場合は「快急」と略される。列車番号は1000番台が与えられる。
===== 地下鉄副都心線直通系統 =====
ここでは平日午前中下りに設定のある有楽町線からの直通についても記述する。
日中に小手指駅(ただし、野球開催時は快速の西武球場前駅行きに変更される列車もある<ref group="注釈">この場合、小手指方面への補完としてひばりヶ丘駅で接続する同駅始発小手指駅行の快速急行を運行。</ref>)から西武有楽町線経由で副都心線へ直通する。
池袋線池袋駅発着の快速急行および急行・通勤急行(後述)が[[練馬駅]]を通過するのに対し、地下鉄線直通の快速急行は急行・通勤急行より速達の種別でありながら保安装置の切り替えおよび池袋線池袋方面との接続の利便性を図るため練馬駅に停車する(所沢以東で比較すると、練馬駅に停車する分、池袋駅発着の急行と比べるとあたかも下位種別であるかのように見える逆転現象が起きている)。2020年3月14日改正前までは西武有楽町線[[新桜台駅]]に停車していたが、同改正より通過するようになった(補完として練馬駅基準で直後に有楽町線直通準急が設定されたが、2022年3月12日のダイヤ改正で新木場駅 - 石神井公園駅間の各停が減便されたため、同駅の日中の停車本数は2020年改正前よりも減少している)。
副都心線方面は平日上りと土休日下りのそれぞれ1本以外は「副都心線内急行・東横線内特急」で運転され、[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正以降このパターンの列車には「'''Fライナー'''」の愛称がつく。
有楽町線方面は地下鉄内各駅停車で平日午前中下りのみ1日2本設定されている。ダイヤ乱れによる運用変更などにより上り列車が運転される場合もある。
西武線池袋駅方面との接続は、2016年3月26日ダイヤ改正以降、上下とも練馬駅で10両編成の準急(ただし、土休日ダイヤの一部は8両編成の準急)と接続する形がとられた(運転開始当初の下りは石神井公園駅・上りは練馬駅で行われ、下りは所沢駅・飯能駅行きの準急、上りは西武球場前駅発および保谷駅発の各駅停車に接続していた)。2022年3月12日改正で、下りの一部列車で石神井公園駅での準急接続が復活した。また、小手指駅発着の列車は小手指駅で飯能駅発着の各駅停車に接続する。なお、2019年3月16日改正から2020年3月14日改正前までは、小手指駅発の上りの一部列車が飯能駅発の各駅停車との接続がなされていなかった。
なお2019年の改正以降、土曜・休日ダイヤのみ所沢駅始発の上り快速急行が2本設定されたが、このうちの1本はひばりヶ丘駅で後続の特急列車に追い抜かされる。また、所沢駅終着のFライナーも平日夕方に1本設定された。
2022年3月12日のダイヤ改正で基本的に小手指駅発着に変更、飯能発着は土休日朝時間帯の一部のみに変更。またこの改正で、土休日ダイヤ朝の所沢駅始発2本は小手指駅始発に延長され、所沢行きは平日の夕方1本に減らされた。但し、平日朝方の菊名7時38分発が快速所沢行きから快速急行小手指行きに格上げされ、平日・土休日ダイヤとも午前中の各1本が8両編成での運転となった。
===== 池袋駅発着系統 =====
[[ファイル:西武6000系 6157F 快速急行池袋行き.jpg|250px|right|thumb|6000系50番台6157Fによる快速急行池袋行き(2022年12月21日 秋津駅)]]
副都心線直通系統とは異なり、練馬駅を通過する。2022年3月12日改正時点では上り飯能発池袋行きが通勤形車両10両編成で平日朝に1本<ref group="注釈">2022年改正までは2本。</ref>設定されている。ひばりヶ丘駅で通勤準急池袋駅行きに接続し、清瀬駅で追い抜いた副都心線直通快速元町・中華街駅行きにも連絡する。石神井公園駅で有楽町線直通各駅停車新木場駅行きに接続する。また土休日の夕方には通勤形車両8両編成で上り西武秩父駅発池袋駅行きが1本設定されていた。
池袋駅発着および西武秩父線直通系統の快速急行は、長らく平日は朝ラッシュ時と昼間を中心に池袋駅 - 飯能駅間で特急の補完的な列車として、土休日は行楽列車として秩父方面の列車が数多く運行されていた。
しかし、2013年3月16日改正で副都心線直通の快速急行が設定された一方、平日日中の池袋駅発着の快速急行は全て急行へ格下げされ、土曜・休日の秩父鉄道方面の列車も朝下り2本([[西武4000系電車|4000系]]による運用、その池袋送り込み上り列車は快速急行から回送に変更)と夕方1本([[通勤形車両]]による運用、西武秩父発)に減便(上りの秩父鉄道からの直通列車は急行に格下げ、飯能駅で副都心線直通の快速急行に接続)され、池袋駅発着の快速急行は激減した。
2020年3月14日のダイヤ改正で、秩父鉄道線直通の快速急行が池袋駅 - 飯能駅間運行の急行に置き換わる形で廃止され、秩父鉄道直通列車は全て飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間での運行となるため<ref name="seibu20200129">{{Cite press release|和書|title=2020年3月14日(土)ダイヤ改正を実施します |publisher=西武鉄道 |date=2020-01-29 |url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200129diagram.pdf |format=PDF |accessdate=2020-01-30}}</ref>、池袋発の定期快速急行列車及び池袋駅 - 飯能駅間における4000系の定期旅客運用は改正前最後の休日となる同年3月8日をもって終了した<ref>[https://railf.jp/news/2020/03/09/180819.html 西武4000系による池袋〜飯能間の定期列車が運転を終える] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2020年3月9日</ref>。
2022年3月12日のダイヤ改正で、土休日の夕方に1本だけ残っていた通勤形車両8両編成で運転される上り西武秩父駅発池袋駅行きが、西武秩父駅 → 飯能駅間運転の各駅停車と飯能駅 → 池袋駅間運転の急行に置き換わる形で廃止された。
==== 急行 ====
[[File:Seibu-Ikebukuro-Line Series30000-38811.jpg|250px|right|thumb|日中は池袋駅 - 飯能駅間で毎時2 - 3本運行(約10分 - 30分間隔)される。<br>(2021年10月 小手指駅 - 西所沢駅間)]]
池袋線の中心的種別で、池袋駅 - 飯能駅間で終日運行されるほか、平日夕方の池袋駅17時25分発<ref group="注釈">2022年3月改正で、上りの小手指駅始発急行池袋駅行きは消滅した。なお池袋駅17時25分発は同改正以前快速飯能駅行きであったのを格上げし、先行の池袋駅17時20分発準急小手指駅行きであったのを飯能駅行きとして行き先を相互入れ換えた形としたもの。その準急飯能駅行きとひばりヶ丘駅で接続するが、後続の池袋駅17時30分発特急ちちぶ29号西武秩父駅行きには抜かれずに終点小手指駅まで先着する。</ref>と土曜・休日ダイヤの池袋23時05発急行小手指行き<ref group="注釈">2023年3月改正で、同時刻の準急を格上げしたもの。この列車は、石神井公園駅で先行の池袋22時55分発の各停小手指行き、所沢駅で新木場22時11分発の各停飯能行き、西所沢駅で狭山線下り最終(西所沢23時39分発)に接続する。</ref>も各1本ずつある。また野球開催時は、西武球場前駅発池袋駅行きの列車も設定される。大半の列車において、石神井公園駅やひばりヶ丘駅での各停・準急・通勤準急と、西所沢駅で狭山線各停と、飯能駅で西武秩父線直通各停との接続が考慮されている。石神井公園駅での接続は、有楽町線・副都心線方面発着の各停もしくは池袋駅発各停所沢駅行き・西武球場前駅行きが対象となることが多い。
平日朝の下り2本は所沢駅で、平日日中の下りは入間市駅で、全日夜の下りと土休日飯能17時発の上り1本は入間市駅でそれぞれ特急の待ち合わせ、朝の上り2本は小手指駅および石神井公園駅で特急の通過待ちを行う。基本的には10両編成だが、土休日ダイヤなど、終着駅での折り返し前または後が各駅停車になる場合は、8両編成での運転となる。
なお、定期列車としては西武有楽町線を経由して副都心線・東急東横線方面に直通する列車は存在しないが、臨時列車として設定されることがある(定期列車として設定されている快速急行を種別変更している<ref group="注釈">ただし、車内案内放送では対応していないため、2015年の入間航空祭開催時は飯能駅から所沢駅まで各駅に停車する'''急行'''扱い、所沢駅以遠は快急に種別を変更することで対処した。これ以降もこのパターンが継続している。</ref>)。この場合、通常の急行は通過する練馬駅は停車することになる。
2020年3月14日のダイヤ改正で、秩父鉄道線直通の快速急行・急行は池袋駅 - 飯能駅間運行の急行と飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間運行の秩父鉄道線直通の各駅停車に置き換わる形で廃止され、秩父鉄道直通列車は全て飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間での運行となるため<ref name="seibu20200129">{{Cite press release|和書|title=2020年3月14日(土)ダイヤ改正を実施します |publisher=西武鉄道 |date=2020-01-29 |url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200129diagram.pdf |format=PDF |accessdate=2020-01-30}}</ref>、同時に池袋駅発の急行列車の飯能駅以西への運行及び池袋駅 - 飯能駅間での急行列車の4000系による定期運用は終了した。
[[1990年]]に飯能駅で系統が分割されるまでは西武秩父駅まで運転する列車が多数あったが、系統分割後は大幅に減らされた。
駅構内の路線図で示される種別カラーは橙色{{Color|#FF4F02|■}}で、英文種別表記は「'''EXP.'''」(「EXPRESS」の略)である。旧字幕ならびにフルカラーLEDでは赤色地に白文字で、新字幕では橙色地に白文字で、3色LEDでは無点灯の地に赤文字で表記される。列車番号は2000番台が与えられる。
==== 通勤急行 ====
[[File:Seibu-Series9000-Ikebukuro-Line.jpg|250px|thumb|朝ラッシュ時の上り6本のみ運転される通勤急行<br>(2019年8月 [[富士見台駅]] - [[中村橋駅]]間)]]
1980年3月17日のダイヤ改正で新設。略称は「通急」。平日朝上りのみ、10両編成を用いてすべて飯能駅発池袋駅行きで6本運転される。快速と共に千鳥式運転を行い、飯能駅 → 所沢駅間は各駅に停車し、所沢駅を出ると東久留米駅・保谷駅・大泉学園駅・石神井公園駅の順に停車するが、快速や急行停車駅のひばりヶ丘駅は通過する。飯能発7時台の1本は石神井公園駅で特急の通過待ちを行う。全ての列車が保谷駅で、ひばりヶ丘駅で追い抜いた有楽町線直通新木場駅行き(各停または準急)に連絡するほか、3本が石神井公園駅で始発の各停池袋駅行きに接続する。
ダイヤそのものは[[1970年代]]から既に存在していたが、当時の池袋線関係の列車種別は平日の定期ダイヤの場合だと「特急・急行・準急・各駅停車」のみだったため、現在の「通勤急行」という種別が設定される前は「ひばりヶ丘駅には停車しない急行」や「朝だけ東久留米駅・保谷駅・大泉学園駅に停まる急行」といった表現で利用者は解釈していた(当初は石神井公園駅も通過)。
路線図で示される種別カラーは黄色{{Color|#FFFF00|■}}で、英文種別表記は「'''COM.EXP.'''」(「COMMUTER EXPRESS」の略)である。表示色は、旧字幕では「通勤」が白色地に赤文字、「急行」が赤色地に白文字となっており、新字幕では黄色地に黒文字で、3色LEDでは無点灯の地に赤文字、フルカラーLEDではオレンジ色地に黒文字で表記される。表示できるスペースに限りがあるときは、「通急」と略される。列車番号は2500番台が与えられる。
==== 快速 ====
[[ファイル:快速池袋行き.jpg|250px|right|thumb|6000系50番台6157Fによる快速池袋行き(2018年5月8日 清瀬駅3番線で特急の通過待ち)]]
[[File:Tkk5050_rapid.jpg|250px|thumb|東急5050系4000番台による快速西武球場前駅行き<br>(2021年)]]
1980年3月17日のダイヤ改正で新設。朝・夕方に池袋駅発着および西武有楽町線経由で有楽町線・副都心線(東横線・みなとみらい線)直通で設定されている系統。加えて、土休日日中には下りのみ1時間に1本設定される。副都心線直通としては通勤種別としてFライナー快速急行に代わって運転される。副都心線内は主に急行、東横線・みなとみらい線内は主に通勤特急([[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]・[[馬車道駅]]・[[日本大通り駅]]停車)として運転されている。10両編成が大半であるが、池袋駅発着の各停となる運用を持つ場合や、東横線・みなとみらい線内を各停として運転する場合などは8両編成で運転される。
上下線ともに、有料列車を除いて池袋駅・小竹向原駅 - 所沢駅間で先着することが多いが、上りで清瀬駅あるいはひばりヶ丘駅で特急待避を行う場合も多いほか、平日朝に清瀬駅で快速急行の通過待ち及び小手指駅始発の準急と接続を行う列車もある<ref group="注釈">後者は2023年3月ダイヤ改正で、一部特急列車の運行時間帯シフトによりに発生したもの。</ref>。また、下りは所沢駅で特急待避を行う列車も多い。地下鉄直通は、朝上りは練馬駅で豊島園駅発池袋駅行き各停に接続し<ref group="注釈">土休日朝1本の新木場駅行きは小手指駅発池袋駅行き各停と接続する。</ref>、夕下りは同駅で池袋駅発準急の接続を受ける。時間帯によっては、快速は池袋駅発、準急は地下鉄線方面発と逆になる。
池袋駅発着は設定時から長年、平日夕方時の下りに池袋駅 - 小手指駅間で運転されていた。2010年3月ダイヤ改正で土休日の夕方以降の下りは23時台の3本を除いて急行または準急に編入される形で廃止された(ただし、2013年3月改正で復活)うえ、土休日は池袋駅 - 西武球場前駅間運転の列車も設定された(池袋駅 - 所沢駅間は通年運転、所沢駅 - 西武球場前駅間は冬季以外に運転だが、2010年3月改正から後者も通年運転)。[[2012年]][[6月30日]]のダイヤ改正では夕方下りの通勤準急を格上げする形で<ref name="RJ550">{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |date = 2012-8 |volume = 46 |issue = 8 |page = 149 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>1時間2本から4本へ増発されたが、上りは夜間の所沢駅発21時以降の列車が準急に格下げされている。2022年3月12日のダイヤ改正で土休日日中に下りのみ池袋駅発飯能駅行きが新設された一方、池袋駅18時台以降の列車の大半が準急に格下げされた。
一方、地下鉄線直通は[[2001年]]12月のダイヤ改正から停車駅に練馬駅が加えられたことで飯能駅発着の有楽町線直通列車の中心的種別として終日運転となった。その後、[[2008年]][[6月14日]]の副都心線開業と同時に多くが副都心線渋谷駅発着へシフトしたが、2013年3月16日改正で日中の副都心線直通の快速が快速急行へ格上げされたため(ただし、野球デーゲーム開催時は一部の小手指駅発着の快速急行が西武球場前駅発着の快速で運転される)、池袋駅発着を含め再びラッシュ時中心の種別に戻っている。なお、東急東横線・みなとみらい線の相互直通運転開始発表当初のプレスリリースには、西武線内快速 - 副都心線内急行 - 東横線・みなとみらい線内特急という形態となっていた。また、土休日夕方時の運転が3年ぶりに復活し、池袋方面からは小手指駅行き、地下鉄からは(元町・中華街駅発または新木場駅発)飯能駅行きが各2本ずつ運転されている。同時に後者では練馬駅で準急の接続が復活している。さらに2017年3月25日ダイヤ改正では、土休日ダイヤで池袋駅発17時台の準急所沢駅行きを快速飯能駅行きに変更させたほか、一部の上り列車で特急の時刻変更及び「S-TRAIN」運転開始に伴い、Fライナー快速急行を快速に格下げする形で増加している。それ以降のダイヤ改正においても当種別の増減を繰り返している。
路線図で示される種別カラーは濃い水色{{Color|#008BBB|■}}で、英文種別表記は「'''RAPID'''」である。表示色は旧字幕でも新字幕でも水色地に白文字だが、両者では若干濃さに違いがみられる。また、フルカラーLED表示器でも水色地に白文字、3色LED表示機では無点灯地に緑文字で表記される。列車番号は3000番台が与えられる。
==== 通勤準急 ====
[[File:西武9000系.jpg|thumb|250px|right|9000系による通勤準急]]
1980年3月17日のダイヤ改正で新設。
[[ファイル:6050系による通勤準急池袋行き.jpg|thumb|250px|right|6000系50番台による通勤準急]]
略称は「通準」。平日朝上りのみ、10両編成を用いて、4本は小手指駅発・1本は所沢駅発の池袋駅行きで5本運転される。急行および快速急行と千鳥停車となっており、小手指駅 - 大泉学園駅間の各駅と練馬駅に停車し、快速および急行・快速急行停車駅の石神井公園駅は通過となる。副都心線の開業で一部の快速が副都心線直通へ移行したため、その接続確保のために練馬駅の停車を開始したという経緯を持つ。なお、現行のダイヤでは、通勤準急池袋駅行きは有楽町線直通各停と接続し、副都心線直通快速は前述の通り豊島線からの各停池袋駅行きと接続する形に変更されている<ref group="注釈">ただし、2023年3月18日のダイヤ改正以降も残っている4本の通勤準急においては、1本目及び3本目のみ練馬駅で各停新木場行きに対面接続し、2本目および4本目は練馬駅で地下鉄線直通列車と対面接続を行わないダイヤとなった。</ref>。ひばりヶ丘駅で快速急行や急行と待ち合わせをする(長年、池袋駅発の下りでは当列車が発車する2分後に急行が発車していた)。
この種別の運転される時間帯は、池袋駅行きの準急は運転されない。有楽町線直通列車のみ準急として運転される。
1980年の設定当初の運転区間は池袋駅 - 清瀬駅間で、1990年以降所沢駅・小手指駅へと延長された。かつては飯能駅発の朝の上り1本のみ、また野球開催日には所沢駅行きを延長する形で西武球場前駅行きが、さらに平日の朝1本は西武秩父駅行きが運転されていた。下りは運行開始当初は17 - 19時台に1時間4本運転され、[[2005年]][[3月17日]]のダイヤ改正では平日朝の時間帯に、2008年6月14日のダイヤ改正では21時台までそれぞれ運転時間帯が拡大されたが、2012年6月30日のダイヤ改正で下りの通勤準急は全て廃止となり、準急や快速に置き換えられた<ref name="RJ550" />。2022年3月12日改正前までは小手指駅発池袋駅行きが6本設定されていたが、同改正で1本が減便、1本が小手指駅始発から所沢駅始発に変更され、1日5本の運転に変更された。その後2023年3月18日に行われたダイヤ改正でさらに1本が減便され、1日4本の運転に変更された。
路線図で示される種別カラーは青色{{Color|#000088|■}}で、英文種別表記は「'''COM.SEMI EXP.'''」(「COMMUTER SEMI EXPRESS」の略)である。表示色は、旧字幕では「通勤」が白色地に緑文字、「準急」が緑色地に白文字となっており、新字幕及びフルカラーLED搭載車では青色地に白文字、3色LED表示機では無点灯地もしくは黒地に緑文字で表記される。表示できるスペースに限りがあるときは、「通準」と略される。列車番号は4600番台が与えられる。
==== 準急 ====
[[ファイル:seibu6050.jpg|250px|right|thumb|[[西武6000系電車|6000系50番台]]による準急飯能行き([[元加治駅]])]]
[[ファイル:S0602162.jpg|250px|right|thumb|6000系50番台6156編成による準急池袋行き(練馬駅)]]
終日池袋駅 - 所沢駅・飯能駅間<ref group="注釈">土休日には、日中にも小手指駅発や西武球場前駅発も設定される。</ref>で運転されるほか、日中は副都心線方面元町・中華街駅発石神井公園駅行き<ref group="注釈">2022年3月12日改正で新規設定。下り(副都心線北行)のみ各停から格上げされた。</ref>、朝や夕方には池袋駅 - 西武球場前駅・小手指駅間、有楽町線直通列車、大泉学園駅以西へ向かう副都心線直通列車も運転される。料金不要の優等列車としては最も多く設定されており、池袋駅 - 石神井公園駅間では快速急行や急行などを、石神井公園駅以西では各停を補完する。地下鉄線直通列車は全列車が小竹向原駅で種別を変更し、有楽町線内では各停として、副都心線内では急行または各停として運行される。
平日朝には、小手指駅発有楽町線直通新木場駅行きが設定され、ひばりヶ丘駅で通勤急行池袋駅行きの通過待ちを行う。土休日朝夕を中心に、平日にも大泉学園駅以西 - 副都心線直通元町・中華街駅発着列車が運転される。下り(副都心線北行)は副都心線急行あるいは通勤急行、東横線・みなとみらい線急行以上の列車が多いが、上り(副都心線南行)の夕方以降は副都心線各駅停車の列車が多い。その多くは東横線・みなとみらい線内も各駅停車(8両編成)である。この時間帯は、池袋線内各駅停車の一部が副都心線・東横線・みなとみらい線内で速達運転する。所沢駅・小手指駅発着は野球開催時には西武球場前駅発着として延長運転または立て替えされる。
平日朝の小手指駅行き1本が西武秩父駅行きとして延長運転する日があり、その場合は小手指駅で前2両を切り離す形となっていたが、2016年3月26日改正で池袋駅発8時台の各駅停車小手指駅行きが延長運転対象となったため消滅した。1990年までは定期列車として西武秩父駅発着が設定されていた。
早朝・深夜以外のほとんどの列車が練馬駅以西の待避駅で、特急・S-TRAIN・(Fライナー)快速急行・急行に抜かれる(昼間の下り準急は、日中1時間に1本がFライナー快速急行・急行・特急に抜かれる)ため、速達列車としての役割は低い。快速急行の節で記述したとおり日中は上りは練馬駅で、下りは練馬駅または石神井公園駅で(Fライナー)快速急行と相互に接続する。なお、2022年3月12日改正で、東長崎駅で各停を追い越すダイヤが日中に復活した。
地下鉄線直通を含め10両編成の運転が基本であるが、急行・快速急行・快速と同様、車両運用の都合で折り返し前後が各駅停車になる場合や副都心線・東横線・みなとみらい線内を各停で運転される場合は、8両編成で運転される(特に土休日夕方に設定されている西武球場前駅発着の列車に多い)。
なお、人身事故・各種トラブルなどでダイヤが乱れている場合、本来は通過する練馬高野台駅 - 中村橋駅間に停車する準急(=かつての区間準急)を運行する場合もある。
少数ながら保谷駅終着や清瀬駅発着も存在する。2022年3月12日改正時点では、保谷駅終着は有楽町線新木場駅発、副都心線方面元町・中華街駅発が設定されている。清瀬駅始発は土休日夜間の池袋駅行きが1本、清瀬駅終着は平日朝の副都心線方面元町・中華街駅発が設定されている。時期は詳細不明だが、以前にも清瀬駅発・保谷駅発池袋駅行きが設定されていた。2019年3月16日ダイヤ改正で、新木場駅発保谷駅行きが平日ダイヤの午前中のみ下り1本新設され、清瀬駅発準急池袋駅行きが土休日ダイヤの20時台1本復活した。また、2020年3月14日のダイヤ改正では、日中時間帯の新木場駅発保谷駅行きが各停から準急に格上げされ<ref group="注釈">小手指駅発新木場駅行きも同時に格上げ。</ref>、多数増便されるとともに、平日深夜上りのみ保谷駅発池袋駅行きが復活した<ref group="注釈">2022年改正で小手指駅始発に延長。</ref>。2022年3月12日改正で新木場駅発保谷駅行きが一部を除き各停へ再度変更された一方で、平日朝2本のみ元町・中華街駅発清瀬駅行きも設定された<ref group="注釈">西武線内各停を準急に格上げしたもの。原則として西武鉄道の6000系車両及び40000系(ロングシート車)による運行だが、ダイヤ乱れ時などは他社の車両も使用される。2023年3月改正で午前中にもう1本が各停から格上げされ、合計2本の設定となった。こちらは東京メトロの10000系・17000系が充当されている。</ref>。
2022年改正で、土休日ダイヤの朝に設定されていた西武球場前発着が所沢駅・小手指駅発着に変更されている。
1993年12月6日のダイヤ改正以前は練馬駅を通過しており、朝の上りと一時期存在した下り豊島園駅行きのみが練馬駅に停車していた。地下鉄線直通列車は、2008年6月から11月までの短い期間に有楽町線内準急(千川駅・要町駅は通過)の列車も設定されていた。
豊島園駅行きの準急は、1980年から平日の朝のラッシュ時の下りのみに設定され、池袋駅 - 練馬間のみを通過運転していた。1988年で廃止された。
{{See also|[[西武豊島線#その他・エピソード]]}}
路線図で示される種別カラーは緑色{{Color|#009966|■}}、英文種別表記は「'''SEMI EXP.'''」(「SEMI EXPRESS」の略)である。表示色は旧字幕でも新字幕でも緑地に白文字だが、両者では若干色合いに違いがみられる(新字幕の方が少し青緑に近い)。また、フルカラーLED表示器でも緑地に白文字、3色LED表示機では無点灯地に緑文字でと表記される。列車番号は4000番台が与えられる。
==== 各駅停車 ====
[[File:Local-hanno2.jpg|thumb|250px|right|池袋駅 - 飯能駅間の各駅停車は、2013年3月16日より日中時間帯から夕方時間帯まで毎時上下各1本ずつ運転されている。(2016年6月5日 [[武蔵藤沢駅]])]]
各駅に停車する。主に、池袋駅 - 中村橋駅以西を直通する系統、池袋駅 - 豊島線[[豊島園駅]]発着系統、有楽町線・副都心線 - 中村橋駅以西発着系統、飯能駅 - 西武秩父線西武秩父駅発着系統の4系統に大別される。池袋駅発着の各駅停車は全て8両編成で運行されている<ref group="注釈">[[2014年]][[2月14日]]の大雪による影響により、翌[[2月15日|15日]]は池袋駅 - 飯能駅・豊島園駅間でほぼ終日各停のみの運転となり、この時は豊島園駅発着が含まれる車両運用以外で10両編成の列車も充てられた。</ref>。有楽町線直通は全て10両編成、副都心線直通は大半が8両編成(自社所有の6000系・40000系は10両固定のため、副都心線8両の西武車運用はない)で運行される。朝夕などは副都心線直通でも10両編成で運転される場合もあり、この場合はホーム有効長の関係上、東横線・みなとみらい線は急行以上の種別で運転され、その多くは副都心線内を通勤急行または急行として運転する。
西武線内完結列車は、池袋駅発着のほか、全日早朝には保谷駅・小手指駅始発飯能駅行きが、土休日深夜には狭山線西武球場前駅始発保谷駅行きも設定されている。小手指駅始発飯能駅行きのみ、他の西武線内完結列車と異なり10両編成で運行される。
飯能駅以北の系統は、飯能駅 - 西武秩父駅間運転の列車が大多数を占めるが、飯能駅 - 吾野駅間運転の列車が1往復設定されているほか、飯能駅 - [[秩父鉄道秩父本線|秩父鉄道線]][[長瀞駅]]・[[三峰口駅]]間直通列車が平日に1往復、休日に2往復それぞれ設定されている。[[横瀬駅]]で分割を行い、長瀞駅発着の列車は[[西武秩父駅]]を通らず[[御花畑駅]]に停車する。一部列車を除き4両編成で運転され、[[ワンマン運転]]を行っている。
このほか、野球開催日や[[12月]]の[[秩父夜祭]]をはじめ沿線で開催されるイベントに合わせ、通常運行されない区間への延長運転や臨時停車が行われる。2016年3月26日ダイヤ改正以降、平日池袋駅発8時台の各駅停車小手指駅行きは、西武秩父駅まで延長運転する日もあった(この場合、小手指駅で特急「ちちぶ7号」の通過待ちを行った)が、新型コロナウイルス感染拡大以降は延長運転は設定されなかった。2022年3月12日改正で、当該列車は石神井公園駅行きに短縮された。
2012年6月30日のダイヤ改正ではそれまで平日朝ラッシュの時間帯に運行されていた有楽町線・副都心線直通の練馬高野台駅発着が石神井公園駅発着に延長された一方で、日中の副都心線からの清瀬駅発着が石神井公園駅発着に短縮された。また、この改正では日中の有楽町線直通や西武球場前駅発着の準急が各駅停車へ格下げとなり、日中と平日夕方の練馬駅 - 石神井公園駅間の各駅停車の本数が1時間に10本に増えた。さらに2013年3月16日のダイヤ改正で、平日朝ラッシュ時に石神井公園駅発の池袋駅行きが新設された。一方で、池袋駅 - 保谷駅間の各停は石神井公園駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着などへ振り分けられたことで減少した。2017年3月25日のダイヤ改正で「[[S-TRAIN]]」運転開始に伴い、日中時間帯(15時台<ref group="注釈">翌年のダイヤ改正で16時台にシフトされた。</ref>)に清瀬駅始発・小手指駅始発の各駅停車池袋駅行きが各1本ずつ復活したほか、一部列車で発着駅変更を行っている。2018年3月10日のダイヤ改正で平日日中の池袋駅 - 狭山線西武球場前駅間に運行されていた列車の大半が西所沢駅 - 西武球場前駅間の狭山線内運行に短縮されたことにより、平日における池袋駅 - 西武球場前駅間の各駅停車の運行は下り2本のみとなった<ref name="seibu-release180125">{{Cite press_release | url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/2018daiyakaisei.pdf | title=2018年3月10日(土)ダイヤ改正を実施します | publisher=[[西武鉄道]] | date=2018-01-25 | accessdate=2018-04-10 | format=PDF}}</ref>。また土休日ダイヤの日中時間帯で、新木場駅 - 保谷駅間を発着する一部の列車が清瀬駅まで延長されている。2022年3月12日改正で土休日下りの池袋駅発快速が新設されたことに伴い清瀬駅発着が増便された。また、同改正で、平日ダイヤにおいて、新木場駅発保谷駅行きが終点保谷駅で、先行の池袋駅発各停所沢駅行き・西武球場前駅行きに接続するダイヤも新たに設定された。
なお、現行ダイヤでは日中上りの秋津駅 - 椎名町駅間の各駅で各停が池袋駅への先着列車(特急を除くと所沢駅からも)となるパターンが発生している。また日中下りでも、椎名町駅 - 元加治駅間の各駅で各停が飯能駅への先着列車となるパターン<ref group="注釈">椎名町駅 - 保谷駅間では、後続の各停からFライナー快速急行小手指駅行きに乗り継ぐと、小手指駅で当列車に乗り換えることもできる。</ref>も存在する。
路線図で示される種別カラーは灰色{{Color|#999999|■}}で、英文種別表記は「'''LOCAL'''」である。表示色は、2008年4月頃までの旧字幕時代は「普通」表示で紺色地に白文字(新101・301・3000の各系列では90年代中頃まで白地に黒文字)となっており、新字幕では「各停」表示で灰色地に白文字、フルカラーLED表示器も字幕と同様の色が用いられているが、3色LED表示機では無点灯の地に橙色の文字で表記される。
列車番号は5000・6000番台が与えられる(前者は西武線池袋駅発着などの池袋線・西武秩父線内完結列車、後者は地下鉄線直通、秩父鉄道直通、狭山線に割り振られる)。
これとは別に、下り方面の速達列車は、通過運転を終えると駅の接近放送や発車案内標では「各停」として案内される(例:急行は所沢駅以西では通過運転を行わず各駅に停まるため、所沢駅からは各停として案内される)。車内の案内放送やLED表示器、およびスマートフォンアプリ「西武線アプリ」でも「各停」に変更されるが、車両の案内表示は車内外ともに優等種別のままとなる。上り方面の有楽町線直通列車も、かつては練馬駅から「各停」と案内されていたものの、副都心線渋谷方面開業で種別切り替えが煩雑となることから、小竹向原駅まで種別案内を変更しないこととした。
=== 過去の種別 ===
==== ハイキング急行 ====
[[ファイル:急行奥武蔵のヘッドマーク.jpg|right|thumb|横瀬駅イベント開催時の臨時列車のヘッドマークとして付けられていた|130px]]
1969年から1980年まで愛称を使用。
池袋 - [[吾野駅|吾野]]間で休日運転されていた[[#急行|急行]]「正丸」「伊豆ヶ岳」が前身で、1969年の西武秩父線開業に伴い西武秩父駅まで延長された際に「奥秩父」「奥武蔵」の愛称に改称されたのが起源となる。停車駅は「奥秩父」が池袋駅 - 所沢駅 - 飯能駅 - 吾野駅 - [[正丸駅]] - 芦ヶ久保駅 - 西武秩父駅で、「奥武蔵」は飯能駅 - 西武秩父駅間が各駅停車。これらの列車は、当初は「ハイキング急行」もしくは「不定期急行」と呼ばれており、ヘッドマークも掲出されていたが、1973年の改正で「奥秩父」が消滅。さらに1980年には[[#快速急行|快速急行]]に種別が変更。愛称名も1980年代後半には使われなくなった。
==== 通勤快速 ====
[[1988年]]から[[2001年]]まで運行。
1988年に登場し、平日朝ラッシュ時上り1本([[列車番号]]:3502レ)のみ設定されていた。当時は所沢駅から池袋駅への一極集中により通勤準急や通勤急行で石神井公園駅やひばりヶ丘駅の拠点駅を通過する[[千鳥式運転]]でも捌ききれず、遅延や途中駅での積み残しが恒常化していた。設定当初は所沢駅 - 池袋駅間での運転で、池袋にラッシュピークを迎える時間(8時10分頃)に到着する急行に続行する形で運転を行っていた。この急行の分散を目的としていたため急行停車駅の手前駅に停車するのが特徴で、この取り組みは『[[NHKモーニングワイド]]』に取り上げられた。後に小手指駅始発に繰り下がり、1993年12月6日のダイヤ改正時に飯能駅始発に、[[1998年]][[3月26日]]のダイヤ改正で再び小手指駅始発となり、同時に東久留米駅にも停車するようになったが、2001年12月のダイヤ改正で消滅した。<!-- 改正日は鉄道ピクトリアル2002年4月臨時増刊号 P.36および西武時刻表より -->
英文種別表記は「Rapid」で快速と同じだった。また、種別表示色は旧字幕では「通勤」が白色地に水色の文字、「快速」が水色地に白文字であった。また、3色LED表示器では無点灯の地に緑色の文字で、「準急」や「快速」と同じであった。なお、近年新2000系などで更新された新字幕では、「通勤快速」は削除、種別表示部分は「拝島快速」に変更され、種別と行先が一体の新2000系・3000系の側面表示部分は空コマとされた。また、表示できるスペースに限りがあるときは「通快」と略された。
; 途中停車駅の変遷
: 1988年12月5日改正(運転開始):所沢駅 - 大泉学園駅 - 池袋駅
: 1992年12月14日改正:小手指駅 - 所沢駅 - 大泉学園駅 - 池袋駅
: 1993年12月6日改正:飯能駅 - 入間市駅 - 小手指駅 - 所沢駅 - 大泉学園駅 - 池袋駅
: 1998年3月26日改正 - 2001年12月15日改正(廃止):小手指駅 - 所沢駅 - 東久留米駅 - 大泉学園駅 - 池袋駅
==== 区間準急 ====
1998年から2003年まで運行。
池袋駅 - 練馬駅間のみを通過運転する種別で、平日の朝の上下列車に設定された。1998年3月26日のダイヤ改正で、有楽町線直通列車設定に伴い池袋駅への直通列車が大幅に減少した[[中村橋駅]]・[[富士見台駅]]・[[練馬高野台駅]]から池袋駅への利便を図るために設定されたが、2003年3月12日のダイヤ改正で消滅した。
運転区間は池袋駅 - 所沢駅・小手指駅・飯能駅(下り1本のみ)・西武秩父駅間(シーズン時下りのみ)で基本的に10両で運転していたが、西武秩父駅行きのみ小手指駅で前の2両を切り離していた。
種別表示色は、旧字幕では「区間」が黄色地に黒文字、「準急」が緑色地に白文字であった。また、3色LED表示機では、無点灯の地に緑色の文字で、「快速」や「準急」と同じであった。なお、新2000系などで交換された新しい字幕でも「区間準急」は削除されず、旧幕時代にはなかった石神井公園行きや保谷行きなどの表示が追加されている。
新しい表示は黄緑色地に白文字、英文種別表記は「'''S.SEMI EXP.'''」(「SECTION SEMI EXPRESS」の略)となっている。また表示できるスペースが限られるとき、「区準」と略していた。なお3000系には区準幕が装備されておらず運用に入ることはなかったが、2008年の幕交換時に空コマ部分に追加された。
現在でもダイヤが乱れて池袋線と西武有楽町線の直通を中止したときに、中村橋駅・富士見台駅・練馬高野台駅に停車する列車の本数が激減することを救済する目的で「準急」が練馬駅から「各停」に変更されたり、上りの地下鉄直通「各停」が練馬駅から池袋駅行き「準急」に変更されたりすることがあるが、基本的に「区間準急」としては案内されない。
なお、池袋駅・練馬駅の発車案内標で、「区準」と表示され、『まもなく、○番ホームに、区間準急、池袋行きが、10両編成<ref group="注釈">8両編成の場合もある。</ref>で、まいります、黄色い線の内側で、お待ちください。』などと自動放送が流れることもあるが、車両側には表示されない。
== 使用車両 ==
=== 現在の自社車両 ===
; 特急形車両
:* [[西武001系電車|001系]] Laview
<gallery widths="160" heights="120">
File:Seibu001series.jpg|001系
</gallery>
; 通勤形車両
:* [[西武40000系電車|40000系(0番台・50番台)]] - 自社線内での優等運用ならびに[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]直通列車で運行。0番台は「S-TRAIN」としても運用。
:* [[西武30000系電車|30000系]]
:* [[西武20000系電車|20000系]]
:* [[西武6000系電車|6000系(0番台・50番台)]] - 自社線内の優等運用ならびに、有楽町線・副都心線直通列車で運行。
:* [[西武2000系電車#新2000系|新2000系]]
:* [[西武4000系電車|4000系]] - 西武秩父線・秩父鉄道線乗り入れ列車で運行。うち1編成は「旅するレストラン 52席の至福」仕様。
<gallery widths="160" heights="120">
File:Seibu40000wiki.jpg|40000系
File:Seibu-Railway Series30000.jpg|30000系
File:Seibu-Series20000-20101.jpg|20000系
File:Seibu-Ikebukuro-Line Series6000-6014.jpg|6000系
File:西武鉄道新2000系 秩父線.jpg|新2000系
File:Seibu-Railway Series4000.jpg|4000系
</gallery>
特別料金不要の一般列車に使用される車両は、新2000系や6000系が導入される1990年頃まで、1977年以降2000系の導入が進んでいた新宿線とは対照的に3ドア車で運転された。しかし新101系・301系や3000系などの3ドア車が全廃されたこと、4000系の飯能以東の運用が消滅したことなどから、2022年現在では特急や「旅するレストラン 52席の至福」を除き池袋 - 飯能間は全て4ドア車での運行となっている。
6000系は有楽町線・副都心線直通に使用されているが、西武線池袋発着の優等運用にも定期的に使用されている。優等列車は基本的には10両編成の運用だが、土休日を中心に地下鉄直通を含む一部列車に8両編成が使用されている。
新2000系・30000系では8両と2両を連結した10両編成で運用されるが、途中駅で分割併合・増解結する列車は無く、原則10両固定編成として運用されている。なおこの場合は飯能寄りに2両を連結するため、当線所属の2両編成には女性専用車両のステッカーが貼られている。
過去に所沢や小手指止まりの列車を行楽シーズンのみ西武秩父まで延長運転した際、この列車に8両+2両または4両+4両+2両が限定使用され、小手指で前2両を解放していた。
また、2001年までは平日ダイヤに秩父鉄道直通の急行が設定され、直通対応の新101系4両+4両に2両を連結した10両編成が使用された。
この場合も小手指で下り方2両を解放していた。
=== 現在の乗り入れ車両 ===
東京地下鉄・東急電鉄・横浜高速鉄道からの乗り入れ車両には10両編成と8両編成があり、10両の優等列車を中心に飯能まで乗り入れる。原則として西武線池袋 - 練馬間には入らないが、ダイヤ乱れによって有楽町線・副都心線との直通運転が中止された場合に同区間を走行することがある。10両編成は有楽町線と副都心線(東横線・みなとみらい線までを含む)の両方から乗り入れる。副都心線方面では西武6000系同様、西武線からみなとみらい線までの全区間を優等列車として運転するのが主体である。一方、8両編成は副都心線方面のみ乗り入れる。飯能まで乗り入れるものは少なく、日中は石神井公園と保谷まで、それ以外の時間帯も多くは小手指までの運転である。西武線内での優等扱いは、朝と夜間に下りの準急・快速・快速急行が、上りは準急・快速(ともに副都心線内各駅停車)の運用が数本あるが、西武線からみなとみらい線までの全区間を各駅停車で運転する列車が主体となっている(東横線・みなとみらい線内は急行で運行する列車もあるが、副都心線内は各駅停車で運行することが多い)。
西武線のほか、同じく有楽町線・副都心線と相互直通運転を行う[[東武東上本線|東武東上線]]にも乗り入れており、西武線直通列車の折り返しが東上線直通列車(またはその逆)となる運用もある。東武鉄道の車両は西武線への入線に対応していないため乗り入れない。同様に、西武線の車両が東上線に入線することも不可能である。
どの列車がどの車両で運転されるかは『MY LINE 東京時刻表』([[交通新聞社]])の列車番号欄にて判別ができる(西武池袋線のページでは相互直通列車も西武方式の列車番号で記載されているため判別不可能)。列車番号末尾アルファベットの「'''M'''」が西武、「'''S'''」がメトロ車両、「'''K'''」が東急・横浜高速所属車両となっている。なお、東武車両と相鉄車両は西武には入線しない。
2013年3月16日改正ダイヤでは、東京地下鉄所属の10両編成1本および東急所属の10両編成1本各々が[[武蔵丘車両基地]]で、東急・横浜高速所属の8両編成1本が[[石神井公園駅]]でそれぞれ夜間留置となる運用が組まれている。逆に、西武車は東京地下鉄の[[和光検車区]]・[[新木場車両基地]]および東急の[[元住吉検車区]]で1本ずつが夜間留置となる運用が組まれている<ref>「鉄道ピクトリアル」2013年12月号臨時増刊号(特集:西武鉄道)P.219</ref>。なお、東急所属の10両編成の一部は「[[Qシート|Q SEAT]]」を2両連結しており、2022年10月24日以降は車両運用の都合で一部列車に「Q SEAT」を連結した編成が充当されるが<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20221103-2503133/ |title=東急東横線「Q SEAT」ロングシートの一般車両で運転、車体は赤色に |access-date=2023-08-09 |publisher=マイナビ |date=2023-11-03 |website=マイナビニュース}}</ref>、2023年8月10日の東横線での有料座席指定サービス開始以降も西武線内では有料座席指定サービス提供は行われない<ref>[https://www.tokyu.co.jp/railway/ticket/types/q_seat/ty.html 東横線有料座席指定サービス Qシート] - 東急電鉄、2023年8月9日閲覧</ref>。
; 東京地下鉄
:* [[東京メトロ17000系電車|17000系]](10両編成・8両編成)
:* [[東京メトロ10000系電車|10000系]](10両編成)
<gallery widths="160" heights="120">
File:Tokyo-metro Series17000-17103.jpg|東京地下鉄17000系
File:Tokyo-metro Series10000-10119.jpg|東京地下鉄10000系
</gallery>
; 東急電鉄
:* [[東急5000系電車 (2代)#5050系4000番台|5050系4000番台]](10両編成)
:* [[東急5000系電車 (2代)#5050系|5050系]](8両編成)
:* [[東急5000系電車 (2代)|5000系]](8両編成)
<gallery widths="160" heights="120">
File:Tokyu5000series 5122f.jpg|東急5000系
File:Tokyu-Series5878.jpg|東急5050系
File:Tokyu-Series5050-4000-4003.jpg|東急5050系4000番台
</gallery>
; 横浜高速鉄道
:* [[横浜高速鉄道Y500系電車|Y500系]](8両編成)
<gallery widths="160" heights="120">
File:Yokohama-Minatomirai-Y500.jpg|横浜高速鉄道Y500系
</gallery>
東急5000系・5050系と横浜高速鉄道Y500系は、2013年3月16日に開始された副都心線経由による東急東横線・みなとみらい線直通運転に充当される車両で、東急5050系は直通運転開始に先立って2012年7月に池袋線内で試運転が行われ<ref>[http://railf.jp/news/2012/07/22/232700.html 西武池袋線で東急5050系が試運転] - 鉄道ファン鉄道ニュース2012年7月22日</ref>、同年9月10日より営業運転を開始している<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2012/09/5050_2.html 【東急+西武】東急5050系が西武鉄道池袋線で営業運転開始] - 鉄道ホビダス・2012年9月10日</ref>。編成の扱いは他社直通車両と同じである。
=== 過去の自社車両 ===
501系以前の車両は省略。
* 特急形車両
** [[西武5000系電車|5000系]] - 初代[[レッドアロー]]
** [[西武10000系電車|10000系]] - 2代目レッドアロー
* 通勤形車両
** [[西武9000系電車|9000系]]
** [[西武3000系電車|3000系]]
** [[西武101系電車#旧101系|旧101系]]
** [[西武101系電車#新101系・301系|新101系・301系]] - 2010年3月6日のダイヤ改正をもって運行終了。以後は代走のみで運行されることとなった。
** [[西武701系電車|701系]]
** 801系
** [[西武411系電車|411系]]
** [[西武2000系電車#2000系|2000系]] - 新2000系導入前に、データ収集のため1990年1月のみ定期運用に就いていた(ただし、これ以降も野球開催時の新宿線から[[西武球場前駅|西武球場前]]への臨時列車や回送として入線しているほか、車両トラブルのため2009年11月23日 - 11月24日の間に定期運用に就いていた)。その後も一時的な貸し出しで運用に就くことがある。
** [[西武601系電車|601系]]
** [[西武551系電車|551系]]
** [[西武501系電車|501系]](初代・2代)
<gallery widths="160" heights="120">
File:西武10000系電車・ちちぶ号.jpg|10000系
File:Seibu-101 last run event Yokoze Rail yard 20121209.jpg|101系・新101系
File:Seibu 9000 series Ikebukuro line 20181002.jpg|9000系
</gallery>
=== 過去の乗り入れ車両 ===
* 東京地下鉄
** [[営団07系電車|07系]] - 小竹向原駅と新線池袋駅(現[[東京メトロ副都心線|副都心線]][[池袋駅]])に[[ホームドア]]が設置されたため、ドアの間隔が他車両と異なる同車の乗り入れは事実上不可能となり、[[2007年]]10月で有楽町線での運用を離脱。現在は[[東京メトロ東西線|東西線]]で運用されている。
** [[営団7000系電車|7000系]]
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
**[[国鉄12系客車|12系]]客車 - [[西武E851形電気機関車|E851形]][[電気機関車]]の[[さよなら運転]]列車の[[客車]]として借り入れて入線している。なお、営業運転のため、一旦西武鉄道の車両として車籍を入れている。
<gallery widths="160" heights="120">
File:Series 07 of Tokyo Metro.jpg|東京地下鉄07系
File:Tokyo-metro-Series7000-7101.jpg|東京地下鉄7000系
</gallery>
== 女性専用車 ==
本路線には、平日朝の通勤・通学時間帯において[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。
* 平日朝の午前7時20分から午前9時30分までの間に池袋駅へ到着する「池袋行」の10両編成の列車(快速急行・急行・通勤急行・快速・通勤準急・準急)における進行方向最後尾1号車(実施区間は運行列車の全区間)。
* 平日朝の始発から午前9時30分までの間に[[小竹向原駅]]へ到着する全列車における進行方向最後尾1号車(実施区間は運行列車の全区間)。ただし、2017年3月25日に運転を開始した「[[S-TRAIN]]」は、設定対象外とされている。なお、東京地下鉄線・[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]内では午前9時30分になった時点で女性専用を終了する。
女性専用車には、女性客だけではなく以下のいずれかに該当する男性客も乗車可能である。
* 体の不自由な男性客
* 体の不自由な客(男女とも)の介助者として同行する男性客
* 小学生以下の男児が単独で乗車する場合
* 小学生以下の客(男女とも)の保護者として同行する男性客
ダイヤ乱れなどが生じた場合には、女性専用車の設定を取りやめる場合がある。副都心線直通列車の8両編成にも設定されているため、新桜台 - 練馬 - 小手指間では、8両編成の最後尾乗車口付近に緑色の案内表示がなされている。
10両固定編成のほか、2000系・30000系の2両編成は原則飯能寄りに連結されるため、専用ステッカーを掲示している。
2013年3月16日に副都心線を介した東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転が開始され、各鉄道会社間で女性専用車両の実施内容を統一するため設定時間が拡大された。
== 利用状況 ==
2021年度の朝ラッシュ時最混雑区間は[[椎名町駅|椎名町]] → [[池袋駅|池袋]]間であり、ピーク時(7:27 - 8:27)の[[混雑率]]は'''111%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001492054.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和3年度)|date=2022-07-24|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref>。
混雑率は1993年度まで200%を越え、当時の混雑率は民鉄路線で最も高かった。1994年に西武有楽町線の全線が、1997年に都営地下鉄大江戸線の練馬 - 新宿間がそれぞれ開業して都心方面へのバイパス路線となったことで混雑は大幅に緩和され、2002年度に160%を下回った。副都心線が開業した2008年度は、西武線池袋方面の本数を削減した反動で混雑率が180%弱まで悪化したが、その後は輸送人員が減少した。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(椎名町 → 池袋間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/data.html 公共交通関係データ集] - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/documents/mintetuitizikanrassyu.pdf 民鉄線のラッシュ1時間当り旅客輸送状況]}} - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/chika7/documents/458470_1.pdf 路線整備の意義・必要性等の整理]}} - 埼玉県</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1955年(昭和30年)
| 22 || 8,083 || style="background-color: #ccffcc;"|16,970 || style="background-color: #ccffcc;"|'''210'''
|
|-
|1965年(昭和40年)
| 28 || 25,708 || 62,842 || style="background-color: #ffcccc;"|'''244'''
|
|-
|1966年(昭和41年)
| 28 || 27,930 || 63,178 || '''226'''
|
|-
|1967年(昭和42年)
| 28 || 30,284 || 67,685 || '''224'''
|
|-
|1968年(昭和43年)
| 28 || 30,780 || 68,184 || '''222'''
|
|-
|1969年(昭和44年)
| 28 || 32,096 || 69,261 || '''216'''
|
|-
|1970年(昭和45年)
| 28 || 32,844 || 73,474 || '''224'''
|
|-
|1971年(昭和46年)
| 28 || 33,082 || 72,040 || '''218'''
|
|-
|1972年(昭和47年)
| 28 || 34,160 || 70,152 || '''205'''
|
|-
|1973年(昭和48年)
| 28 || 34,160 || 74,904 || '''219'''
|
|-
|1974年(昭和49年)
| 28 || 34,160 || 76,869 || '''225'''
|
|-
|1975年(昭和50年)
| 28 || 34,160 || 76,933 || '''225'''
|
|-
|1976年(昭和51年)
| 28 || 34,270 || 77,882 || '''224'''
|
|-
|1977年(昭和52年)
| 28 || 34,270 || 79,848 || '''230'''
|
|-
|1978年(昭和53年)
| 28 || 34,270 || 80,413 || '''232'''
|
|-
|1979年(昭和54年)
| 28 || 34,270 || 81,330 || '''234'''
|
|-
|1980年(昭和55年)
| 28 || 34,270 || 81,306 || '''234'''
|
|-
|1981年(昭和56年)
| 28 || 34,270 || 81,884 || '''236'''
|
|-
|1982年(昭和57年)
| 28 || 34,270 || style="background-color: #ffcccc;"|82,867 || '''239'''
|
|-
|1983年(昭和58年)
| 28 || 35,840 || 72,540 || '''202'''
|style="text-align:left;"|1983年6月24日、有楽町線営団成増 - 池袋間開業
|-
|1984年(昭和59年)
| 28 || 35,840 || 72,105 || '''201'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 28 || 35,840 || 72,754 || '''203'''
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 28 || 35,840 || 74,500 || '''208'''
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 28 || 35,840 || 75,525 || '''211'''
|
|-
|1988年(昭和63年)
| 29 || 36,960 || 76,318 || '''206'''
|style="text-align:left;"|1988年12月5日、通勤快速運転開始
|-
|1989年(平成元年)
| 29 || 36,960 || 77,043 || '''208'''
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 29 || 36,960 || 77,392 || '''209'''
|
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 29 || 36,960 || 76,374 || '''207'''
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 29 || 36,960 || 76,538 || '''207'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 29 || 37,240 || 76,853 || '''206'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 29 || 37,240 || 73,176 || '''196'''
|style="text-align:left;"|1994年12月7日、西武有楽町線全線開業
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 29 || 37,240 || 72,253 || '''194'''
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 29 || 37,240 || 71,552 || '''192'''
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 29 || 37,240 || 68,649 || '''184'''
|style="text-align:left;"|1997年12月19日、都営地下鉄大江戸線練馬 - 新宿間開業<br />1998年3月26日、区間準急運転開始
|-
|1998年(平成10年)
| 28 || 35,840 || 63,812 || '''178'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 28 || 35,840 || 62,799 || '''175'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 28 || 35,840 || 60,444 || '''169'''
|style="text-align:left;"|2000年12月12日、都営地下鉄大江戸線全線開業
|-
|2001年(平成13年)
| 28 || 35,840 || 57,883 || '''162'''
|style="text-align:left;"|2001年12月15日、中村橋 - 練馬高野台間複々線化<br />通勤快速廃止
|-
|2002年(平成14年)
| 28 || 35,840 || 55,522 || '''155'''
|style="text-align:left;"|2003年3月12日、練馬 - 中村橋間複々線化<br />区間準急廃止
|-
|2003年(平成15年)
| 28 || 35,840 || 54,984 || '''153'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 28 || 35,840 || 54,800 || '''153'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 28 || 35,840 || 55,534 || '''155'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| 28 || 35,840 || 56,306 || '''157'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 28 || 35,840 || 56,758 || '''158'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 24 || 30,240 || 53,546 || '''177'''
|style="text-align:left;"|2008年6月14日、東京メトロ副都心線開業
|-
|2009年(平成21年)
| 24 || 30,240 || 51,904 || '''172'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 24 || 30,240 || 50,032 || '''165'''
|style="text-align:left;"|東日本大震災発生年度
|-
|2011年(平成23年)
| 24 || 30,240 || 48,648 || '''161'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 24 || 30,240 || 48,629 || '''161'''
|style="text-align:left;"|2012年11月18日、練馬高野台 - 石神井公園間複々線化
|-
|2013年(平成25年)
| 24 || 30,240 || 48,138 || '''159'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 24 || 30,240 || 47,548 || '''157'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 24 || 30,240 || 48,060 || '''159'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 24 || 30,240 || 49,220 || '''163'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 24 || 30,072 || 49,098 || '''163'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 24 || 30,072 || 47,807 || '''159'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 24 || 30,072 || 47,397 || '''158'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 25 || 31,464 || style="background-color: #ccffff;"|34,340 || style="background-color: #ccffff;"|'''109'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 25 || 31,464 || 34,847 || '''111'''
|
|}
== 歴史 ==
* [[1911年]]([[明治]]44年)10月18日 武蔵野軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(巣鴨-飯能間)<ref>[{{NDLDC|2951859/7}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年10月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1915年]]([[大正]]4年)
** [[4月15日]] 武蔵野鉄道が'''武蔵野線'''(JR[[武蔵野線]]とは別)池袋 - 飯能間 (44.2 km) 開業。東長崎駅、練馬駅、石神井駅、保谷駅、東久留米駅、所沢駅<ref group="注釈">川越鉄道(新宿線の前身)の駅としては既設</ref>、(旧)小手指駅、元狭山駅、豊岡町駅、仏子駅、飯能駅開業<ref>[{{NDLDC|2952919/7}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年4月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。所沢駅を[[西武新宿線|川越鉄道]]と共用開始。
**: 開業当初の輸送人員は1日平均1,191人で、貨物輸送(1日平均102[[トン]])を主した[[蒸気機関車]]による営業だった。
** [[9月1日]] (旧)小手指駅を西所沢駅に、元狭山駅を三ヶ島村駅に改称<ref>[{{NDLDC|2953034/5}} 「軽便鉄道停車場名称変更」『官報』1915年9月02日](国立国会図書館デジタルコレクション)による。西武鉄道公式サイトの[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/history/change-stationname.html 駅の変遷]では元狭山駅→三ヶ島村駅の改称は1915年8月。</ref>。
* [[1917年]](大正6年)
** [[12月12日]] 秋津駅、黒須駅(貨物駅)開業<ref>[{{NDLDC|2953727/13}} 「軽便鉄道停車場設置」『官報』1917年12月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1918年]](大正7年)[[11月12日]] 加治荷扱所開業<ref>[{{NDLDC|2954003/5}} 「軽便鉄道荷扱所設置」『官報』1918年11月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1919年]](大正8年)[[9月15日]] 加治荷扱所を岩沢荷扱所に改称<ref>[{{NDLDC|2954251/6}} 「地方鉄道荷扱所名改称」『官報』1919年9月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1922年]](大正11年)[[11月1日]] 池袋 - 所沢間電化<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|1457561/49|東京府青山師範学校附属小学校教育研究会 編『東京府郷土教育資料』郊外篇、正光社出版部、1930年|format=EXTERNAL}}</ref>(直流1,200 V)、江古田駅開業。
* [[1924年]](大正13年)
** [[6月11日]] 椎名町駅、中村橋駅、田無町駅、清瀬駅開業。
** 11月1日 東大泉駅開業。
* [[1925年]](大正14年)
** 3月3日 軌道特許状下付(北豊島郡西巣鴨町-同郡高田町間 軌間4ft6in)<ref>[{{NDLDC|2955909/4}} 「軌道特許状下付」『官報』1925年3月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[3月15日]] 貫井駅開業。
** [[3月15日]] 所沢 - 西所沢間電化。
** [[12月23日]] 西所沢 - 飯能間電化。
* [[1926年]](大正15年)
** [[4月1日]] 武蔵藤沢駅開業<ref name="kanpou19260406" />。
** [[4月3日]] 岩沢荷扱所を一般駅に変更して元加治駅開業<ref name="kanpou19260406">[{{NDLDC|2956233/7}} 「地方鉄道駅設置並駅名改称」『官報』1926年4月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)では元加治駅営業開始を武蔵藤沢駅と「同時に」としているが、{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/youran/__icsFiles/afieldfile/2011/11/21/youran2011p71_73.pdf 会社要覧 駅一覧]}}では3日。</ref>。
* 1927年(昭和2年)6月15日 鉄道免許状下付(入間郡加治村-同郡吾野村間)<ref>[{{NDLDC|2956601/6}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年6月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)
** [[8月11日]] 池袋 - 練馬間複線化。
** 11月5日 鉄道免許状下付(入間郡吾野村地内 鋼索)<ref>[{{NDLDC|1022010/7}} 『鉄道統計資料. 昭和3年』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。
** 12月27日 鉄道免許状下付(北豊島郡高田町雑司ヶ谷旭出-同郡同町郡市境界)<ref>[{{NDLDC|2957072/8}} 「鉄道免許状下付」『官報』1929年1月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1929年]](昭和4年)
** [[3月20日]] 練馬 - 保谷間複線化。
** 5月4日 鉄道免許状下付(入間郡小手指村-西多摩郡青梅村間)<ref>[{{NDLDC|2957170/6}} 「鉄道免許状下付」『官報』1929年5月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[5月25日]] 上り屋敷駅開業。
** [[9月10日]] 飯能 - 吾野間 (14.1 km) 開業、全線開通。
* 1930年(昭和5年)12月22日 起業廃止許可(入間郡吾野村地内)<ref>[{{NDLDC|2957666/12}} 「鉄道起業廃止許可」『官報』1930年12月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1931年]](昭和6年)
** 4月1日 天覧山駅開業。
** [[12月10日]] 東飯能駅開業。
* [[1933年]](昭和8年)
** 3月1日 貫井駅を富士見台駅に、石神井駅を石神井公園駅に、東大泉駅を大泉学園駅に、三ヶ島村駅を狭山ヶ丘駅に、虎秀駅を東吾野駅に改称。
** 4月1日 稲荷山公園駅開業。
* [[1936年]](昭和11年)[[7月10日]] 桜台駅開業。
* [[1938年]](昭和13年)
** [[2月19日]] 松井村駅開業。
** 3月1日 松井村駅を所沢飛行場駅に改称。
** 10月14日 起業廃止許可(上り屋敷-音羽〈護国寺〉間)<ref>[{{NDLDC|2960035/11}} 「鉄道起業廃止許可」『官報』1938年10月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 11月14日 東京市へ軌道敷設権譲渡(許可)(池袋駅-護国寺前間)<ref>[{{NDLDC|2960060/17}} 「軌道敷設権譲渡許可」『官報』1938年11月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1940年]](昭和15年)
** [[1月2日]] 所沢駅-新秋津駅間で[[日本の鉄道事故_(1949年以前)|正面衝突事故]]が発生<ref>年始客乗せた電車が貨物電車と正面衝突『東京日日新聞』(昭和15年1月4日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p749 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
** 11月1日 所沢飛行場駅を東所沢駅に改称。
* [[1941年]](昭和16年)7月25日 鉄道免許失効(入間郡小手指村-西多摩郡青梅村間 指定ノ期限マテニ工事施工申請ヲ為ササルタメ)<ref>[{{NDLDC|2960862/11}} 「鉄道免許失効」『官報』1941年7月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[2月3日]] 上り屋敷駅、桜台駅、東所沢駅、天覧山駅休止。
** 4月1日 長江駅開業(貨物駅)。
** [[11月20日]] 下原駅開業(貨物駅)。
* [[1946年]](昭和21年)[[2月14日]] 保谷 - 田無町(現・ひばりヶ丘)間複線化。
* [[1948年]](昭和23年)4月1日 桜台駅営業再開。
* [[1950年]](昭和25年)[[7月1日]]全線電圧1,500 V昇圧を実施
* [[1952年]](昭和27年)3月25日 線路名称を'''池袋線'''に改称<ref group="注釈">[[西武村山線|村山線]]の[[西武新宿線|新宿線]]への改称と同時。</ref><ref>[[原武史]]:[https://www.asahi.com/articles/DA3S14651074.html 【歴史のダイヤグラム】福永武彦と二つの武蔵野線][[Be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2020年10月10日(4面)2020年10月18日閲覧。1960年の[[安保闘争]]で[[久野収]]が「むさしの線市民の会」を立ち上げるなど、その後も「武蔵野線」と呼ぶ人も一部いた。</ref>。
* [[1953年]](昭和28年)
** [[1月15日]] 上り屋敷駅、黒須駅廃止。
** [[3月10日]] 長江駅を西武市場駅に改称。
** 3月28日 田無町 - 東久留米間複線化。
** [[9月26日]] 東久留米 - 清瀬間複線化。
* [[1954年]](昭和29年)[[10月10日]] 東所沢駅、天覧山駅、武蔵横手駅廃止。
* [[1959年]](昭和34年)
** [[5月1日]] 田無町駅をひばりヶ丘駅に改称。
** [[12月21日]] 清瀬 - 秋津間複線化。
* [[1960年]](昭和35年)5月25日 秋津 - 所沢間複線化。
* [[1963年]](昭和38年)
** [[9月1日]] 西武市場駅廃止。
** [[11月1日]] 池袋 - 所沢間で日本の私鉄として初めて10両編成列車の運行を開始<ref>[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/history/annals.html 西武鉄道の年譜]</ref>。
* [[1965年]](昭和40年)[[11月5日]] 所沢 - 西所沢間複線化。
* [[1966年]](昭和41年)
** [[5月16日]] 西所沢 - 狭山ヶ丘間に小手指ヶ原信号所開設。
** 5月25日 西所沢 - 小手指ヶ原信号所間複線化<ref>{{Cite news |和書|title=あすから複線使用 西武鉄道 西所沢-小手指信号所間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1966-05-24 |page=1 }}</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)
** 4月1日 豊岡町駅を入間市駅に改称。
** [[10月28日]] 小手指ヶ原信号所 - 武蔵藤沢間複線化。
* [[1968年]](昭和43年)[[11月13日]] 武蔵藤沢 - 入間市間複線化。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[10月2日]] 仏子 - 笠縫信号所間複線化。元加治 - 飯能間に笠縫信号所開設。
** [[10月4日]] 武蔵横手信号所開設。
** [[10月14日]] 西武秩父線開業、直通運転開始。レッドアロー5000系電車で特急「ちちぶ」運転開始。
* [[1970年]](昭和45年)
** 2月1日 武蔵横手信号所を駅に変更し武蔵横手駅再開業。
** 11月20日 小手指ヶ原信号所を駅に変更し小手指駅開業。
* [[1975年]](昭和50年)3月20日 入間市 - 仏子間複線化。
* [[1982年]](昭和57年)[[12月20日]] 下原貨物駅廃止。
* [[1989年]]([[平成]]元年)4月1日 秩父鉄道秩父本線へ乗り入れ開始。飯能駅で系統分割される。
* [[1994年]](平成6年)
** [[10月8日]] 桜台 - 練馬間の下り線高架化<ref>“西武池袋線の桜台-練馬駅付近の高架工事が完成” [[読売新聞]] ([[読売新聞東京本社]]): p29. (1994年10月2日 朝刊)</ref>。
** [[12月7日]] 練馬高野台駅開業。
* [[1997年]](平成9年)
** [[8月2日]] 桜台 - 練馬間の上り線高架化<ref name="Seibu199707">[https://web.archive.org/web/19980202021515/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/0715/0715.html 池袋線・桜台 - 石神井公園間複々線・高架化工事。桜台~練馬間の上り線が8月2日(土)から高架化-この区間の踏切7ヵ所がすべてなくなります-](西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)。</ref><ref>{{Cite news |title=桜台-練馬間、高架に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-07-24 |page=1 }}</ref>。
** [[9月13日]] 中村橋 - 富士見台間上り線高架化<ref name="Seibu199709">[https://web.archive.org/web/19980223072715/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/0913/0913.html 中村橋~富士見台間の上り線を9月13日(土)から高架化](西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)。</ref><ref name="RJ377">{{Cite journal|和書 |date = 1998-3 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 32 |issue = 3 |page = 84 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
** [[12月13日]] 中村橋 - 富士見台間下り線高架化し、踏切8カ所廃止<ref name="Seibu199712">[https://web.archive.org/web/19980202021601/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/1213/nakafuji.html 中村橋~富士見台間の下り線を12月13日(土)から高架化-この区間の8ヵ所の踏切がすべてなくなります-](西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)。</ref><ref name="RJ377"/>。
* [[1998年]](平成10年)
** [[3月26日]] 西武有楽町線を介して[[帝都高速度交通営団]](現・東京地下鉄)有楽町線と相互直通運転開始<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1998-7 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 32 |issue = 7 |page = 101 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
** [[3月]] 元加治 - 飯能間の複線区間延伸に伴い、複線部分と単線部分の境界を飯能駅構内(飯能駅場内信号機の内方)とする扱いに変更、[[笠縫信号所|笠縫信号場]]廃止。名目上、池袋 - 飯能間複線化(飯能駅構内に単線部分が残存)<ref>『'98-'99会社要覧』(西武鉄道株式会社、1998年(平成10年)9月発行、22-23頁「平成10年3月末現在路線図」、65-66頁「元加治~飯能間の複線区間を延伸し、同区間の単線部分は飯能駅構内の一部を残すのみとなりました」</ref><ref>株式会社ネコ・パブリッシング編集部「年表」『NEKO MOOK1876 写真で見る西武鉄道100年』(株式会社ネコ・パブリッシング、2013年7月)</ref>。
* [[2001年]](平成13年)
** [[3月4日]] 練馬 - 中村橋間で目白通りと交差部で逆立体化される<ref name="交通20010119"/><ref>[https://web.archive.org/web/20070827212131/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2001/gkuritu.html 池袋線と目白通りとの逆立体化切替工事を実施。](西武鉄道ニューリリース・インターネットアーカイブ・2007年時点の版)。</ref>。
** [[12月6日]] 池袋 - 飯能間で唯一残っていた単線部分([[飯能駅]]構内の350m)が複線化<ref name="RJ426">{{Cite journal|和書 |date = 2002-04-01 |title = RAILWAY TOPICS |journal = [[鉄道ジャーナル]] |issue = 4 |volume = 36 |publisher = 鉄道ジャーナル社 |page = 99 }}</ref>。名実ともに、池袋 ‐ 飯能間完全複線化<ref>小松丘「西武鉄道 沿線観察」「西武鉄道の「廃」をさぐる」『鉄道ピクトリアル』(通巻第716号、2002年4月臨時増刊号、134・149頁)参照</ref>。
** [[12月15日]] 中村橋 - 練馬高野台間複々線化<ref>[https://web.archive.org/web/20070904165326/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2001/diakaise.html 池袋線・新宿線・拝島線のダイヤを改正します。](西武鉄道ニューリリース・インターネットアーカイブ・2007年時点の版)。</ref>。
* [[2003年]](平成15年)[[3月12日]] 練馬 - 中村橋間複々線化<ref>{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳2003年3月 |journal = RAIL FAN |date = 2003-06-01 |issue = 6 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 18 }}</ref><ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20061008214321/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2002/0124dia.pdf 3月12日(水)ダイヤ改正を実施します。]}}(西武鉄道ニューリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)。</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[6月14日]] 西武有楽町線を介して東京メトロ副都心線と相互直通運転開始。
* [[2010年]](平成22年)[[4月1日]] 1枚のPASMO定期券で西武池袋線練馬 - 池袋間と西武有楽町線・東京メトロ有楽町線・東京メトロ副都心線練馬 - 小竹向原 - 池袋間が利用できる特殊連絡定期券「だぶるーと」の発売が開始される<ref name="Seibu200912">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20091229043919/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2009/12/24/tokushu_teiki.pdf 池袋~練馬駅間を西武線でも東京メトロ線でも1枚で乗車できるPASMO定期券を発売いたします]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2009年時点の版)。</ref><ref name="Seibu201003">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120721070714/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/08/19/20100819daburuuto-8000over.pdf 便利な東京メトロ線連絡定期券「だぶるーと」発売以来、大変好評をいただいております!!]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2010年時点の版)。</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月14日]] 同月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から東京メトロ有楽町線・東京メトロ副都心線との相互直通運転・秩父鉄道秩父本線との直通運転が休止され、特急レッドアローの運転が休止される。
** [[4月1日]] 東京メトロ有楽町線・東京メトロ副都心線との相互直通運転および特急レッドアローの運転が再開される。
* [[2012年]](平成24年)
** [[6月30日]] 石神井公園駅ホーム全面供用開始(同年[[6月23日]])に伴い、ダイヤ改正<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130215103508/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/05/21/20120521syakujiikouen.pdf 2012年6月23日(土)石神井公園駅の下りホームを全面使用開始します。 ]}}(西武鉄道ニューリリース・インターネットアーカイブ・2012年時点の版)。</ref>。練馬高野台発着の列車を石神井公園発着とし、下りの通勤準急を廃止<ref name="RJ550"/>。
** [[11月18日]] 練馬高野台 - 石神井公園間複々線化。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]] 西武有楽町線・東京メトロ副都心線を介して東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転を開始<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130520194209/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/01/22/20130122diagram.pdf 2013年 3月16日(土)ダイヤ改正を実施します ]}}</ref>。横浜方面発着の快速急行が練馬駅停車となる。
* [[2015年]](平成27年)
** [[1月25日]] 石神井公園 - 大泉学園付近 高架化完成<ref name="tokyo20150625" /><ref name="nikkei20150220" />。
** [[4月15日]] 池袋線開業100周年を迎える<ref name="Seibu20050331">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150404031310/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2015/03/31/20150331ikebukuro100all.pdf 池袋線の前身である武蔵野鉄道の「池袋 - 飯能駅間」は、おかげさまで開業100周年を迎えます! ]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2015年時点の版)。</ref><ref name="Seibu200503312">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20160705134124/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2015/03/31/20150331ikebukuro100ticket.pdf 4月12日(日)「西武鉄道池袋線開業100周年記念乗車券を発売します!」]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2016年時点の版)。</ref>。各種記念イベントを開催<ref name="Seibu20050331"/><ref name="Seibu200503312"/>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月26日]] 日中の飯能駅・小手指駅 - 元町・中華街駅間直通列車のうち、池袋線・西武有楽町線で快速急行、東京メトロ副都心線で急行、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線で特急として運転される列車に「[[Fライナー]]」の愛称が付けられる。同時に副都心線内急行が同線[[明治神宮前駅]]に全日停車開始。2日後の[[3月28日]]より、平日ラッシュ時同駅通過の列車が副都心線内通勤急行となる。
** [[4月17日]] 観光列車「[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|旅するレストラン 52席の至福]]」運転開始<ref name="shinjuku-keizai20160419" />。
* [[2017年]](平成29年)[[3月25日]] [[西武40000系電車|40000系]]営業運転開始。同車両を用いて西武秩父線 - 池袋線 - 有楽町線・副都心線 - 東横線 - みなとみらい線直通の有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」運転開始。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]] [[西武001系電車|001系]]「Laview」が特急で営業運転開始<ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1175041.html 西武鉄道、新型特急車両001系「Laview(ラビュー)」出発式。ゲストの土屋太鳳さんが「出発進行!」 池袋駅には10000系「ニューレッドアロー」も登場] - トラベル Watch、2019年3月16日</ref><ref>[https://railf.jp/news/2019/03/16/192500.html 西武001系「Laview」が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年3月16日</ref>。
* [[2023年]](令和5年)9月16日 [[運行管理システム]]「セムトラック」が約18年ぶりに更新され、駅の放送案内に列車接近時の英語放送や優等列車の停車駅案内、列車遅延情報が追加される<ref>{{Cite press release |和書|title=西武鉄道の安全・安定輸送を担う運行管理システム(SEMTRAC)を順次更新 |publisher=西武鉄道 |date=2023-09-19 |url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/20230919_newsystem/ |format= |language=ja |access-date=2023-11-17 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230919052838/https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/20230919_newsystem/ |archive-date=2023-09-19}}</ref>。これに伴い優等列車の次駅案内が廃止された。
== 駅一覧 ==
<!-- 各種別の色は[[西武新宿線]]や各支線と合わせています。変更される場合、他の路線も合わせて修正してください。文字が見やすいように実際に使われているものより薄めの色を選ぶことをお奨めします。-->
; 凡例
: 停車駅 … ●:停車、|:通過、↑:上り方向通過(通勤急行・通勤準急・飯能以西と練馬以東の快速急行のみ)、◎:東京メトロ線直通列車に限り停車、※:平日のみ停車、△:土休日のみ停車、○:臨時停車(特急は[[ちちぶ (列車)|特急列車記事]]も参照、快速急行・急行は表下の注記参照)<!--、◇:[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]←東急東横線・副都心線・有楽町線と使用記号を合わせています。-->、☆:平日下りのみ停車・降車のみ客扱いでそれ以外は[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]
: 各駅停車は各駅に停車。
: 線路 … ||||:複々線区間、||:複線区間、◇:単線区間([[列車交換]]可能)、|:単線区間(列車交換不可)、∧∧:ここより下は複々線(列車交換可能)、∧・∨∨:ここより下は複線(列車交換可能)、∨:ここより下は単線(列車交換可能)
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された。<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref>
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:85%;"
|-
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|路線名|height=4em}}
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅番号
!style="width:10em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅名
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!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|累計<br>キロ
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!style="background:#fd9; width:1em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|急行|height=5em}}
!style="background:#c9f; width:1em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|快速急行|height=5em}}
!style="background:#fff; width:1em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|S-TRAIN|height=8em}}
!style="background:#fcc; width:1em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|特急|height=5em}}
!style="border-bottom:solid 3px #ef810f;"|接続路線等
!style="border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|線路}}
!colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ef810f;"|所在地
|-
|rowspan="34" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|'''池袋線'''|height=4em}}
!SI01
|[[池袋駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#9af;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"|●
|rowspan="5" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;" |{{縦書き|東京地下鉄線直通|height=9em}}
|style="background:#fcc;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 13)・[[File:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 12)・[[File:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 21)<br />[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線|東上線]] (TJ-01)<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-25)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] (Y-09)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|F]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]] (F-09)
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="5" style="width:1em; letter-spacing:0.5em; text-align:center;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}}
|rowspan="3"|[[豊島区]]
|-
!SI02
|[[椎名町駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|1.9
|style="background:#afa;"||
|style="background:#aaf;"|↑
|style="background:#9cf;"||
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|style="background:#fd9;"||
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|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI03
|[[東長崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|3.1
|style="background:#afa;"||
|style="background:#aaf;"|↑
|style="background:#9cf;"||
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|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"|↑
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI04
|[[江古田駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|4.3
|style="background:#afa;"||
|style="background:#aaf;"|↑
|style="background:#9cf;"||
|style="background:#ff9;"|↑
|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"|↑
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="2"|[[練馬区]]
|-
!SI05
|[[桜台駅 (東京都)|桜台駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|5.2
|style="background:#afa;"||
|style="background:#aaf;"|↑
|style="background:#9cf;"||
|style="background:#ff9;"|↑
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|style="background:#c9f;"|↑
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!colspan="4" style="border-top:2px solid #999;"|直通運転区間
|colspan="12" style="border-top:2px solid #999;"|[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] [[西武有楽町線]]経由で以下の路線・駅まで
* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] 有楽町線 [[新木場駅]]まで
* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|F]] 副都心線・[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線]]経由 [[ファイル:Number_prefix_Minatomirai.svg|18px|MM]] [[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]] [[元町・中華街駅]]まで
|-
!SI06
|[[練馬駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|6.0
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|↑
|style="background:#fd9;"|○
|style="background:#c9f;"|◎
|style="background:#fff;"|☆
|style="background:#fcc;"|○
|[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-35)<br>[[西武鉄道]]:[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] 西武有楽町線([[小竹向原駅]]から東京地下鉄 [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] 有楽町線・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|F]] 副都心線と[[直通運転]]〈上欄参照〉)<br>[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] [[西武豊島線|豊島線]]([[豊島園駅]]まで直通運転)
|style="text-align:center;"|<nowiki>∧∧</nowiki>
|rowspan="11" style="width:1em; letter-spacing:0.5em; text-align:center;"|{{縦書き|東京都|height=6em}}
|rowspan="6"|練馬区
|-
!|SI07
||[[中村橋駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|7.5
|style="background:#afa;"||
|style="background:#aaf;"|↑
|style="background:#9cf;"||
|style="background:#ff9;"|↑
|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
||
|style="text-align:center;"|<nowiki>||||</nowiki>
|-
!SI08
|[[富士見台駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|8.3
|style="background:#afa;"||
|style="background:#aaf;"|↑
|style="background:#9cf;"||
|style="background:#ff9;"|↑
|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||||</nowiki>
|-
!SI09
|[[練馬高野台駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|9.5
|style="background:#afa;"||
|style="background:#aaf;"|↑
|style="background:#9cf;"||
|style="background:#ff9;"|↑
|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||||</nowiki>
|-
!SI10
|[[石神井公園駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|10.6
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|↑
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
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|style="background:#c9f;"|●
|style="background:#fff;"|●
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>∨∨</nowiki>
|-
!SI11
|[[大泉学園駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|12.5
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"||
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI12
|[[保谷駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|14.1
|style="background:#afa;"|●
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|style="background:#9cf;"||
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|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"|※
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="2"|[[西東京市]]
|-
!SI13
|[[ひばりヶ丘駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|16.4
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|↑
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"|●
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI14
|[[東久留米駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|17.8
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
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|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|style="white-space:nowrap;"|[[東久留米市]]
|-
!SI15
|[[清瀬駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|19.6
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|↑
|style="background:#fd9;"||
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|[[清瀬市]]
|-
!SI16
|[[秋津駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|21.8
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|↑
|style="background:#fd9;"|○
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|東日本旅客鉄道:[[File:JR JM line symbol.svg|18px|JM]] [[武蔵野線]]([[新秋津駅]]:JM 31)
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|[[東村山市]]
|-
!SI17
|[[所沢駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|24.8
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"|●
|style="background:#fff;"|●
|style="background:#fcc;"|●
|西武鉄道:[[ファイル:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]] (SS22)
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="24" style="width:1em;letter-spacing:0.5em; text-align:center;"|{{縦書き|[[埼玉県]]|height=6em}}
|rowspan="4"|[[所沢市]]
|-
!SI18
|[[西所沢駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|27.2
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"|※
|style="background:#fcc;"||
|西武鉄道:[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] [[西武狭山線|狭山線]]([[西武球場前駅]]まで直通運転)
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI19
|[[小手指駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|29.4
|style="background:#afa;"|●
|style="background:#aaf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"|●
|style="background:#fff;"|※
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI20
|[[狭山ヶ丘駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|31.6
|style="background:#afa;"|●
|
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI21
|[[武蔵藤沢駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|32.9
|style="background:#afa;"|●
|
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|[[入間市]]
|-
!SI22
|[[稲荷山公園駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|35.9
|style="background:#afa;"|●
|
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|[[狭山市]]
|-
!SI23
|[[入間市駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|36.8
|style="background:#afa;"|●
|
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"|●
|style="background:#fff;"|△
|style="background:#fcc;"|●
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="3"|入間市
|-
!SI24
|[[仏子駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|39.7
|style="background:#afa;"|●
|
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI25
|[[元加治駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|41.0
|style="background:#afa;"|●
|
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!SI26
|[[飯能駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|43.7
|style="background:#afa;"|●
|
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#ff9;"|●
|style="background:#fd9;"|●
|style="background:#c9f;"|●
|style="background:#fff;"|△
|style="background:#fcc;"|●
|
|style="text-align:center;"|∨
|rowspan="3"|[[飯能市]]
|-
!SI27
|[[東飯能駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|44.5
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|東日本旅客鉄道:{{Color|#a8a39d|■}}[[八高線]]
|style="text-align:center;"| |
|-
!
|[[北飯能信号場]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|45.0
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"| ∧
|-
!
|[[武蔵丘信号場]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|46.5
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|∨
|rowspan="3"|[[日高市]]
|-
!SI28
|[[高麗駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|48.5
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!SI29
|[[武蔵横手駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|51.3
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!SI30
|[[東吾野駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|53.8
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="5"|飯能市
|-style="height:1em;"
!rowspan="2"|SI31
|rowspan="2"|[[吾野駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|4.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|57.8
|rowspan="2"|
|rowspan="2"|
|rowspan="2"|
|rowspan="2"|
|rowspan="2"|
|rowspan="2" style="background:#c9f;"|○
|rowspan="2" style="background:#fff;"||
|rowspan="2" style="background:#fcc;"||
|rowspan="2"|
|rowspan="2" style="text-align:center;"|◇
|-
|rowspan="7" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[西武秩父線]]|height=6em}}
|-
!SI32
|[[西吾野駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|61.4
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!SI33
|[[正丸駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|64.1
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!
|[[正丸トンネル信号場]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|66.8
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"||
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="3"|[[秩父郡]]<br />[[横瀬町]]
|-
!SI34
|[[芦ヶ久保駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|70.2
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|○
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!SI35
|[[横瀬駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|74.2
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"||
|style="background:#fcc;"|●
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!SI36
|[[西武秩父駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|76.8
|
|
|
|
|
|style="background:#c9f;"|○
|style="background:#fff;"|△
|style="background:#fcc;"|●
|秩父鉄道:[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]([[御花畑駅]]: CR31(※[[連絡運輸]]は行っていないが至近に所在))([[長瀞駅]]及び[[三峰口駅]]まで一部直通運転)
|style="text-align:center;"| ∧
|[[秩父市]]
|}
* 保谷駅は、一部が練馬区に跨っている。
* 東久留米駅と清瀬駅の間でわずかに埼玉県[[新座市]]を通るが、駅は設置されていない。
* 秋津駅は、一部が清瀬市・所沢市に跨っている。
* 元加治駅は、一部が飯能市に跨っている。
* 準急・快速・急行は12月の[[秩父夜祭]]開催時と春の[[シバザクラ|芝桜]]のシーズン時には西武秩父駅まで延長運転される。
* 2013年から春の秩父芝桜および秋の[[巾着田]]の[[曼珠沙華]]開花時期に一部の快速急行や急行が秋津駅に臨時停車する。
* 2014年の入間基地航空祭開催時には東京メトロ副都心線・東急東横線直通の一部の快速急行が下りは快速、上りは急行(練馬駅に臨時停車)に種別変更して運行する。なお、2013年は一部の快速急行が稲荷山公園駅に臨時停車していた。
* 飯能駅 - 西武秩父駅間への快速急行の乗り入れは2022年3月改正以降の定期列車では設定されていないが、停車駅表にはそれ以降も記載されている。
=== 廃駅・廃止信号所 ===
* [[上り屋敷駅]](池袋駅 - 椎名町駅間 1929年5月25日開業・1945年2月3日休止・1953年1月15日廃止)
* 長江駅→[[西武市場駅]](貨物駅 東長崎駅 - 江古田駅間 1945年4月1日開業・1963年9月1日廃止)
* 松井村駅→所沢飛行場駅→[[東所沢駅 (武蔵野鉄道)|東所沢駅]](秋津駅 - 所沢駅間 1938年2月19日開業・1945年2月3日休止・1954年10月10日廃止) - [[武蔵野線|JR武蔵野線]]の「[[東所沢駅]]」とは全く別の駅
* [[下原駅]](貨物駅 武蔵藤沢駅 - 稲荷山公園駅間 1945年11月20日開業・1982年12月20日廃止)
* [[黒須駅 (埼玉県豊岡町)|黒須駅]](貨物駅 豊岡町駅(現・入間市駅) - 仏子駅間 1917年12月12日開業・1953年1月15日廃止)
* [[笠縫信号所]](元加治駅 - 飯能駅間 1969年10月2日開業・1998年3月廃止) - 廃止時点では「笠縫信号場」。1993年頃「信号所」から「信号場」の呼称に変更。『'98-'99会社要覧』の「平成10年3月末現在」の路線図には同信号場の記載無し。
* [[天覧山駅]](東飯能駅 - 高麗駅間 1931年4月1日開業・1945年2月3日休止・1954年10月10日廃止)
== PASMO導入について ==
池袋線では、[[2007年]][[3月18日]]から[[Suica]]との相互利用が可能な[[ICカード]]「[[PASMO]]」を導入しているが、[[自動改札機]]が設置されていない武蔵横手・東吾野・吾野の各駅は簡易ICカード改札機、その他の駅は自動改札機での対応となっている。
== その他 ==
* かつては車内放送で池袋駅接続他社線の案内を一切行っていなかった。
* 当線の[[営業キロ]]は57.8キロだが、終点吾野駅の手前に58[[距離標|キロポスト]]が打たれている。これは、池袋駅の起点側に線路を延長する形で特急専用のりばが設けられていることにより、実キロと営業キロとの間にずれが生じているため{{要出典|date=2009年6月}}である。
* [[複々線]]区間以外での[[立体交差]]化は、道路の地下化または高架化による単独立体化が主で、[[連続立体交差事業|連続立体交差]]化は進んでいないため[[踏切]]が多い。
* 当初は[[保谷駅]]までが複々線化及び高架化される予定だったが、予算の都合などにより、[[石神井公園駅]]までに短縮された。
* 大泉学園駅以東で高架化が行なわれたことで、特に大泉学園駅 - 石神井公園駅間における高架部分から[[富士山]]への眺望がきくようになった。
* 池袋駅 - 桜台駅間の各駅で8両から10両対応へホーム延長が行われた。
* 2013年3月16日より、東京メトロ副都心線と東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転開始により、当路線も副都心線を介して、東急東横線・みなとみらい線との直通列車運転を始めた。駅の行先表示器では、元町・中華街駅行には「元町・中華街」と「渋谷・横浜方面」を交互に表示。自動放送でも「渋谷・横浜方面 元町・中華街行」と案内する。一方で、東急車以外の武蔵小杉行、菊名行、横浜行には行先表示器に「渋谷方面」を表示しない。池袋線の運用では、準急や急行などの池袋口の優等列車は10両編成が主だが、一部の列車で8両編成(土休日の日中には多数だったが、2016年3月26日ダイヤ改正以降は午前中のほとんどが10両編成へ増強)の運用がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介 | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 4 関東2 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790022-7 | ref = imao }}
* {{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/youran/__icsFiles/afieldfile/2011/10/03/youran2011p65_70.pdf 2011 会社要覧 年譜]}}
* {{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/company/youran/__icsFiles/afieldfile/2011/11/21/youran2011p71_73.pdf 2011 会社要覧 駅一覧]}}
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』2013年12月号臨時増刊号「特集:西武鉄道」([[電気車研究会]])
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Seibu Ikebukuro Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[ロングプリー事件]] - 1958年に起きた当路線乗車中の男性が米軍基地からの[[銃撃]]で殺害された事件。
== 外部リンク ==
* [https://www.seiburailway.jp/railway/ 西武鉄道 電車・駅のご案内]
{{西武鉄道の路線}}
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[[Category:西武鉄道の鉄道路線|いけふくろ]]
[[Category:武蔵野鉄道|路]]
[[Category:関東地方の鉄道路線|いけふくろせん]]
[[Category:埼玉県の交通]]
[[Category:東京都の交通]]
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