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無人駅
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無人駅(むじんえき)とは、駅員が終日配置されていない鉄道駅。駅員無配置駅とも呼ばれる。とりわけ係員による出札・改札・集札が行われない駅を指す。路面電車停留場は駅員を置かないことが基本的な仕組みであることから、無人駅に含まない場合が多い。
駅員を配置しない=駅の無人化は鉄道事業者にとって経営効率化につながる半面、地域の衰退や身体障害者の乗降など問題も生じさせている。このため鉄道事業者は事前予約やインターホンなどによる要請に応じて乗降介助の要員を派遣しているが、それ以外に自治体職員への介助業務の委託も導入されている。鉄道事業者と自治体、地元住民、企業などが連携して、無人駅を観光など地域おこしに活用する例もある(例:下灘駅、土合駅)。乗降客数が少なく、周辺に集落などがない秘境駅であることが却って観光資源になっている駅もある(例:小幌駅)。
日本においては、9465ある鉄道駅のうち4564駅(2020年3月時点)と半数近くを占め、地方の人口減少などに伴い増加傾向にある。有人駅であっても時間帯により駅員が不在となる「時間帯無人駅」もある。旅客を取り扱う無人駅では、特別な理由が無い限り乗車・下車は通常通り行われる。駅員がいないことから出札・改札・集札について省略されるか、有人駅とは別の方法(運転士による車内収受や商店・民家などへの券売委託など)か、自動化手段(自動券売機や自動改札機、乗車整理券に基づく降車時精算など)がとられる。
係員が配置されている駅であっても旅客と接する出改札業務を行う係員がいない場合に「無人駅」と扱われる場合が多く、ウィキペディア日本語版でもこの分類に従っている。
無人駅は、かつては駅勢圏の人口や乗降客が極端に少ない過疎地のローカル線に設けられる事例が多かったが、ICカード乗車券の普及や鉄道事業者側の経費削減という都合により、近年では幅広く見られるようになった。国土交通省の集計によると、2002年3月時点で日本にあった9514駅のうち無人駅は4120駅 (43.3%) だった。2020年3月時点では9465駅のうち4564駅 (48.2%) と増加している。名古屋都市圏では地下鉄を除き、普通列車のみの停車駅の多くが無人駅(自動化型)である。
乗車駅証明書を発行する機械で、駅の改札口付近に設置され、駅名・発行日・時間が印刷された乗車駅証明書が発行される。運賃精算はこの証明書を見せて行う。不正乗車が容易であることから、無人駅用の自動券売機の設置や、列車内での乗車整理券発行によって、乗車駅証明書発行機は数を減らしてきたが、JR東日本では2019年10月に実施された消費税の増税に伴う運賃改定前に無人駅用の簡易自動券売機を撤去、または事実上発行額0円で着駅の自動精算機で精算する磁気券発行機へと改変した乗車駅証明書発行機に置き換えて逆に数を増やした。
ICカード乗車券が使用できる路線の無人駅に、入場用と出場用の2種類が設置される。ICカード用の改札機はあるが、磁気乗車券類に対応した改札機は設置していない駅が多い(この場合は通常、運転士もしくは車掌に渡すか、駅の切符回収箱等に入れる方法がとられる)。JR東日本管内では「簡易Suica改札機」とも呼ばれる。
自動券売機設置無人駅(主にJR西日本)や、時間帯によって駅員配置がない駅に設置される。乗車券や回数券を通すと入場日時・駅が刻印される(JR西日本や一部のJR四国の駅に設置されている)。
駅集中管理システムを導入していない線区で、乗車駅証明書発行機または簡易委託の代わりに設置される。また、営業時間が短い業務委託・簡易委託駅での導入例もある。購入できるのは、おおむね2,000円以下の近距離乗車券で、支払い方法は、JR西日本のICOCAエリアにおけるICOCA入金兼用機などの一部例外を除いて硬貨と千円札のみである。また、過去にはJR東日本盛岡支社管内の一部無人駅において、JR線内用および連絡乗車券(八戸駅経由青い森鉄道線または盛岡駅経由いわて銀河鉄道線)発売用として2台の簡易型券売機が設置されていた。 人の目による監視ができなく、盗難・破壊対策のため、管理駅や警備会社などへの通報装置や監視カメラなどを備えていることもある。
通常は無人駅だが、臨時的に営業日を設けて窓口営業を実施すること。JRでは「無人駅特改」(旅客への案内では「特別改札」)と言い、民営化前後の乗客増への対応や、余剰人員対策として、管理駅から派遣という形で臨時窓口を設けた。当初は特別補充券で対応していたが、臨時窓口が恒常化してくると、管理駅の別窓口という形で乗車券を発行した。従って、その無人駅で乗車券を購入すると、発行駅名には管理駅名が記されていた。
例として、行楽期に利用客が一時的に増える川湯温泉駅や土合駅、武田尾駅などが挙げられる。また、JR東海では「さわやかウォーキング」を開催する際、開催駅が無人駅だった場合、臨時改札を設ける。管理駅や運輸区から改札や集札、乗車券類の発券を行うため、駅員や車掌が派遣される。
東武鉄道の無人駅では、臨時改札をする時としない時での乗車券の購入の仕方が異なる。改札をする時は駅員が常備券で目的地までの乗車券を発行し、改札をしないときは乗車券販売委託をされている商店や民家で240円(11 - 15キロメートル相当)までの乗車券を購入をするか、入出場証明書を発行機で発行し、降車駅の有人改札で精算をする。
青い森鉄道の無人駅では、朝の通勤・通学時間帯と夕方の下り2本のみ一部の無人駅に係員を配置して集改札を行うほか、沿線で大きな祭りやイベント開催時に区間と時間を限定し、臨時に係員が配置される(この時間帯は、電車もすべてのドアから乗降可能となる)。
また、先述の青い森鉄道以外でも、高校や大学が近くにある無人駅では、平日朝の通学時間帯のみ集札業務を行う駅員や係員が配置される駅がある。
自動券売機が設置されている駅では、有人駅と同様に自動券売機で乗車券を購入してから乗車する。乗車駅証明書が備え付けてある駅では、証明書を取ってから乗車する。この場合の運賃の支払は降車時に降車駅または列車内の運賃箱で行う。ワンマン列車に乗る場合は、乗車時に車内に設けられている発行機で整理券を取る必要がある場合もある。乗車券および証明書・整理券が入手できなかった場合は、列車に乗ったらすぐに乗務員に申告する。この場合はその時点で目的地までの運賃を支払い車内補充券が発券されることがある。
無人駅で特急列車に乗車する場合、車内で乗車券とともに自由席特急券を購入する必要がある。
列車内または駅舎に設置された運賃箱に「乗車券」または「乗車駅証明書(整理券)と運賃」を入れる。降車駅からさらに乗り継ぐ場合、途中下車する場合、定期券や一日乗車券などを使用している場合など、降車後も切符を引き続き所持する必要がある場合はその切符を乗務員に呈示する。
なお、運賃の管理の観点から、ワンマン列車が無人駅に停車した際の乗降は、入口は整理券発行機が設置されている1両目後側ドアのみ、出口は運賃箱が設置されている1両目前側ドアのみと指定されていたり、2両連結している場合でも列車からの乗降はもっぱら1両目の車両だけが利用でき、2両目からの直接の乗降できず(2両目はドアを開閉せず)1両目を通して行う必要があったりする場合がある。
車椅子を使用する人が無人駅を利用する場合、何らかの介助等が必要になることが多いため、事前の連絡を呼びかけている事業者もある。
なお、このことが列車の利用が制限されることにつながることから、憲法が保障する移動の自由を侵害し、障害者差別を禁じた法律にも違反するものだとして、2020年にJR九州が訴えられている。2020年のバリアフリー法改正時に、無人駅での障害者対応のガイドライン整備が附帯決議されたこともあり、国土交通省は2021年に向けて鉄道事業者向けのガイドラインづくりを進めている。
管理は、運営会社や地域住民、併設された設備の管理者によって行われる。
JRでは主に、その無人駅を管轄する直営駅が定期的に巡回して照明など設備の維持補修・清掃、時刻表や掲示物の管理、自動券売機の運用管理、ダイヤ混乱(運休など)時の遠隔一斉放送実施などの管理を行うのが一般的である。
ただし、業務効率化のため設備管理業務を直営駅から保線担当部署へ移管する例もある(JR九州の鉄道事業部管理エリアなど)。
えちぜん鉄道三国芦原線三国港駅、武豊線武豊駅などのように、夜間滞泊を伴う場合は乗務員宿泊施設も設置されている。
有人の管理駅から、複数の無人駅を遠隔管理するシステムが導入されている。
近畿日本鉄道は、無人駅の利用者からの電話・インターホンによる問い合わせに、約30人のスタッフが一括して対応する「総合案内センター」を奈良市に設置した。大阪府と三重県に置いていたコールセンターの機能を統合した。
利用客が少ない駅では、他の施設と駅舎が併設されているものや、駅舎を他の施設として利用している駅もある。以下に例を示す。簡易委託駅として扱われている駅もある。
このような駅は、従業員や施設管理者が常駐する施設になっているとはいえ、駅業務を担当する駐在職員がおらず、乗車券も販売していないため、無人駅に当てはまる。ただし、併設されている施設または近隣の商店などで乗車券を販売している場合は簡易委託駅に類する。
また2007年、当時の郵便局会社(現・日本郵便)は、過疎地での簡易郵便局の閉鎖を減らすため、JR東日本の無人駅に簡易郵便局を併設する計画を表明した。
ヨーロッパの場合、切符の確認は列車内の車掌による検札(車内検札)が一般的であり、有人駅でも無人駅でも駅構内に改札や改札機を設ける例は多くはない。例えばオーストリアの首都ウィーンのウィーン地下鉄の市内の駅はほとんどが無人駅で改札口も基本的に設けられていない。各駅には刻印機が設置されており乗客は乗車前に刻印機で切符に利用開始時刻を刻印しなければならない。鉄道の車内では、検札が巡回により実施されており、刻印がない乗車券や乗車券を購入せずに乗車している者は不正乗車とみなされ高額の追徴金が課される。
無人駅でも券売機だけは設置されているような駅から乗車した場合、そのような駅や列車に「目玉マーク」がついている場合がある。これは列車内での発券をしないので、有効な切符を持って乗車しないと高額な罰金が課せられるという意味である。
ヨーロッパの鉄道では切符の行先を乗り越すと、高額な罰金が科される場合があるなど、日本の鉄道のように乗り越し精算が認められていないことが多く、有人駅にも無人駅にも乗り越し精算機は設置されていない。
イギリスの事例については「停車場 (イギリス)」、ドイツの事例については「ハルテプンクト」も参照のこと。
台湾で駅員が派遣されない無人駅は、正式な駅等級として規定されている台湾鉄路管理局(台鉄)のほか(台湾鉄路管理局#駅区分も参照)、林務局の森林鉄道、台糖路線などで、一般的に「招呼站(拼音: Zhāo hu zhàn)」と称されている。
台湾鉄路管理局においては、2016年に無人駅を含む管内全駅でICカードリーダー設置が完了し、ICの利用率も約60%と高いことから、招呼站ではない乗降客の少ない有人駅でも人手不足を理由に夜間の駅員駐在を取りやめる例もある。
信用乗車制が採用されている淡海軽軌や高雄ライトレールにおいては大部分が無人駅で、乗客は列車内または駅構内のICカードリーダーで決済するか、券売機で片道乗車券を購入することになる。
なお、「招呼站」は中国語圏においてはリクエスト・ストップの訳として、台湾の鉄道に限らず、タクシースタンド(中国(北京官話)での『出租车招呼站』、台湾(台湾華語)での『計程車招呼站』)、路線バスにおける標識や待合スペースしかない簡素な中間停留所(中国における『客运招呼站』および『公交车招呼站』、台湾における『公共汽車招呼站』およびその略称である『公車招呼站』)など幅広く使われている。(wikt:招呼站)
中国国家鉄路集団の案内および予約のウェブサイト「中国鉄路客戸服務中心(中国語版)」(俗称:12306網站)において、乗車券販売を行っていない無人駅は『乘降所(拼音: Chéng jiàng suǒ)』あるいは『无人售票的车站(拼音: Wú rén shòupiào de chēzhàn)』と称し、無人駅で乗車する乗客は乗車券を列車内で購入する。
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無人駅(むじんえき)とは、駅員が終日配置されていない鉄道駅。駅員無配置駅とも呼ばれる。とりわけ係員による出札・改札・集札が行われない駅を指す。路面電車停留場は駅員を置かないことが基本的な仕組みであることから、無人駅に含まない場合が多い。
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{{Otheruses||楽曲|無人駅 (岩佐美咲の曲)}}
{{複数の問題
|出典の明記 = 2018年3月
|独自研究 = 2018年3月
}}
[[ファイル:Shimodate-Niko-mae-eki-1.jpg|right|320px|thumb|無人駅の例([[下館二高前駅]])。ホーム、ベンチ、上屋のみで、出改集札口や事務室がまったく見当たらない。]]
'''無人駅'''(むじんえき)とは、[[駅員]]が終日配置されていない[[鉄道駅]]<ref name="朝日デジタル20210903">[https://www.asahi.com/articles/ASP925J5PP8ZUTIL00H.html 日本一夕日が美しい無人駅 「何もない」を宝に変えた10年後の転機] [[朝日新聞デジタル]](2021年9月3日)2021年9月7日閲覧</ref>。'''駅員無配置駅'''とも呼ばれる。とりわけ係員による[[出札]]・[[改札]]・[[集札]]が行われない駅を指す。[[路面電車停留場]]は駅員を置かないことが基本的な仕組みであることから、無人駅に含まない場合が多い。
== 概要 ==
駅員を配置しない = 駅の無人化は[[鉄道事業者]]にとって経営効率化につながる半面、地域の衰退や[[身体障害者]]の乗降など問題も生じさせている。このため鉄道事業者は事前予約や[[インターホン]]などによる要請に応じて乗降介助の要員を派遣しているが、それ以外に自治体職員への介助業務の委託も導入されている。鉄道事業者と自治体、地元住民、企業などが連携して、無人駅を[[観光]]など[[地域おこし]]に活用する例もある(例:[[下灘駅]]、[[土合駅]])<ref name="朝日デジタル20210903" />。[[乗降客数]]が少なく、周辺に[[集落]]などが無い[[秘境駅]]であることが却って観光資源になっている駅もある(例:[[小幌駅]])<ref>[http://www.town.toyoura.hokkaido.jp/hotnews/detail/00002331.html 日本一の秘境駅 小幌駅について] [[北海道]][[豊浦町]](2021年9月7日閲覧)</ref>。
== 日本の無人駅 ==
[[日本]]においては、9465ある鉄道駅のうち4564駅([[2020年]][[3月]]時点)と半数近くを占め、地方の人口減少などに伴い増加傾向にある<ref name="朝日デジタル20210903" />。'''[[有人駅]]'''であっても時間帯により駅員が不在となる「時間帯無人駅」もある<ref name="朝日新聞20201116">「[https://www.asahi.com/articles/ASNCH65CZNCCUTIL048.html 無人駅 5割に増加 国交省集計/障害者、利用に支障]」『[[朝日新聞]]』朝刊2020年11月16日1面(2020年11月18日閲覧)</ref>。[[旅客]]を取扱う無人駅では、特別な理由が無い限り乗車・下車は通常通り行われる。駅員がいないことから出札・改札・集札について省略されるか、有人駅とは別の方法([[運転士]]による車内収受や商店・民家などへの券売委託など)か、自動化手段([[自動券売機]]や[[自動改札機]]、[[乗車整理券]]に基づく降車時精算<ref>[https://konantetsudo.jp/guide-first/ 乗り方・降り方~はじめての弘南鉄道](2021年9月7日閲覧)</ref>など)がとられる。
係員が配置されている駅であっても旅客と接する出改札業務を行う係員がいない場合に「無人駅」と扱われる場合が多く、[[ウィキペディア日本語版]]でもこの分類に従っている。
{{seealso|信用乗車方式}}
無人駅は、かつては[[駅勢圏]]の[[人口]]や乗降客が極端に少ない[[過疎|過疎地]]の[[ローカル線]]に設けられる事例が多かったが、[[乗車カード|ICカード乗車券]]の普及や鉄道事業者側の経費削減という都合により、近年では幅広く見られるようになった。[[国土交通省]]の集計によると、2002年3月時点で日本にあった9514駅のうち無人駅は4120駅 (43.3%) だった。2020年3月時点では9465駅のうち4564駅 ('''48.2%''') と増加している<ref name="朝日新聞20201116" />。[[名古屋都市圏]]では地下鉄を除き、普通列車のみの停車駅の多くが無人駅(自動化型)である。
=== 無人駅の設備 ===
==== 乗車駅証明書発行機 ====
乗車駅証明書を発行する機械で、駅の改札口付近に設置され、駅名・発行日・時間が印刷された乗車駅証明書が発行される。[[不足賃|運賃精算]]はこの証明書を見せて行う。[[不正乗車]]が容易であることから、無人駅用自動券売機の設置や、列車内での乗車整理券発行によって、乗車駅証明書発行機は数を減らしてきたが、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]では[[2019年]][[10月]]に実施された[[消費税]]増税に伴う[[運賃]]改定前に無人駅用簡易自動券売機を撤去、または事実上発行額0円で着駅の[[自動精算機]]で精算する磁気券発行機へと改変した乗車駅証明書発行機に置換えて逆に数を増やした。
==== 簡易型IC乗車券改札機 ====
[[乗車カード|ICカード乗車券]]が使用出来る路線の無人駅に、入場用と出場用の2種類が設置される。ICカード用改札機はあるが、磁気乗車券類に対応した改札機は設置していない駅が多い(この場合は通常、[[運転士]]若しくは[[車掌]]に渡すか、駅の切符回収箱等に入れる方法が取られる)。JR東日本管内では「'''簡易Suica改札機'''」とも呼ばれる。
==== 入場印字機 ====
[[自動券売機]]設置無人駅(主に[[西日本旅客鉄道|JR西日本]])や、時間帯によって駅員配置がない駅に設置される。乗車券や回数券を通すと入場日時・駅が刻印される(JR西日本や一部の[[JR四国]]の駅に設置されている)。
{{Main|自動改札機#入場印字機}}
==== 無人駅用自動券売機 ====
[[駅集中管理システム]]を導入していない線区で、乗車駅証明書発行機または簡易委託の代わりに設置される{{efn2|製造元の[[レシップ]]社は「簡易型自動券売機」と呼称している}}。また、営業時間が短い業務委託・簡易委託駅での導入例もある{{efn2|JR西日本管内の委託駅では受託者の窓口営業時間外のフォローを目的として設置されることが多く、窓口営業時間中には窓口での購入を促すプレートが提示されているケースが多い。}}。購入出来るのは、概ね2,000円以下の近距離[[乗車券]]で、支払い方法は、JR西日本の[[ICOCA]]エリアにおけるICOCA入金兼用機などの一部例外を除いて[[硬貨]]と[[千円紙幣|千円札]]のみである。また、過去には[[東日本旅客鉄道盛岡支社|JR東日本盛岡支社]]管内の一部無人駅において、JR線内用及び連絡乗車券([[八戸駅]]経由[[青い森鉄道線]]または[[盛岡駅]]経由[[いわて銀河鉄道線]])発売用として2台の簡易型券売機が設置されていた。
人の目による監視が出来なく、盗難・破壊対策のため、管理駅や警備会社などへの通報装置や監視カメラなどを備えていることもある。
==== 臨時改札 ====
通常は無人駅だが、臨時的に営業日を設けて窓口営業を実施すること。JRでは「無人駅特改」(旅客への案内では「特別改札」)と言い、[[国鉄分割民営化|民営化]]前後の乗客増への対応や、余剰人員対策として、管理駅から派遣という形で臨時窓口を設けた。当初は[[補充券#特別補充券|特別補充券]]で対応していたが、臨時窓口が恒常化してくると、管理駅の別窓口という形で乗車券を発行した。従って、その無人駅で乗車券を購入すると、発行駅名には管理駅名が記されていた。
例として、行楽期に利用客が一時的に増える[[川湯温泉駅]]や[[土合駅]]、[[武田尾駅]]などが挙げられる。また、[[東海旅客鉄道|JR東海]]では「[[さわやかウォーキング]]」を開催する際、開催駅が無人駅だった場合、臨時改札を設ける{{efn2|[[飯田線]][[下川合駅]]、[[中央本線]][[定光寺駅]]など。}}。管理駅や[[運輸区]]から改札や集札、乗車券類の発券を行うため、駅員や[[車掌]]が派遣される。
[[東武鉄道]]の無人駅では、臨時改札をする時としない時での乗車券の購入の仕方が異なる。改札をする時は駅員が常備券で目的地までの乗車券を発行し、改札をしない時は乗車券販売委託をされている商店や民家で240円(11 - 15キロメートル相当)までの乗車券を購入をするか、入出場証明書を発行機で発行し、降車駅の有人改札で精算をする。
[[青い森鉄道]]の無人駅では、朝の通勤・通学時間帯と夕方の下り2本のみ一部の無人駅に係員を配置して{{efn2|青い森鉄道ホームページに記載の時刻表で、時刻が青地となっている駅が該当。筒井-野内間では係員が乗車し、車内で運賃収受などを行う(土日祝日を除く)。}}集改札を行うほか、沿線で大きな祭りやイベント<!---青森ねぶた祭りや浅虫花火大会開催時など--->開催時に区間と時間を限定し、臨時に係員が配置される(この時間帯は、電車も全てのドアから乗降可能となる)。
また、先述の青い森鉄道以外でも、[[高等学校|高校]]や[[大学]]が近くにある無人駅では、平日朝の通学時間帯のみ集札業務を行う駅員や係員が配置される駅<!--「東奥義塾高校」最寄のJR奥羽本線石川駅や弘南鉄道大鰐線義塾高校前駅など-->がある。
<gallery caption="無人駅の設備" heights="120px" perrow="4">
乗車駅証明書発行機 (東我孫子駅).jpg|乗車駅証明証発行機([[東我孫子駅]])
簡易Suica改札機.jpg|簡易Suica改札機([[常磐線]] [[磐城太田駅]])
Oyashirazu station .JPG|自動券売機([[えちごトキめき鉄道]][[親不知駅]]※画像はJR西日本時代のもの)
KawaiSt.jpg|特別改札([[青梅線]][[川井駅]])
</gallery>
=== 無人駅での乗降方法 ===
==== 無人駅での乗車 ====
自動券売機が設置されている駅では、有人駅同様自動券売機で乗車券を購入してから乗車する。乗車駅証明書が備え付けてある駅では、証明書を取ってから乗車する。この場合の運賃の支払は降車時に降車駅または列車内の運賃箱で行う。[[ワンマン運転|ワンマン列車]]に乗る場合は、乗車時に車内に設けられている発行機で[[乗車整理券|整理券]]を取る必要がある場合もある。乗車券及び証明書・整理券が入手出来なかった場合は、列車に乗ったらすぐに乗務員に申告する{{efn2|精算時にその駅から乗車したことを証明するためである。乗車した駅の証明が出来ないと、乗車列車の始発駅からの運賃を請求されることもある。}}。この場合はその時点で目的地までの運賃を支払い[[補充券|車内補充券]]が発券されることがある。
無人駅で特急列車に乗車する場合、車内で乗車券と共に自由席特急券を購入する必要がある。
==== 無人駅での降車 ====
列車内または駅舎に設置された運賃箱に「乗車券」または「乗車駅証明書(整理券)と運賃」を入れる。降車駅からさらに乗継ぐ場合、[[途中下車]]する場合、[[定期乗車券|定期券]]や[[一日乗車券]]などを使用している場合など、降車後も切符を引続き所持する必要がある場合はその切符を乗務員に呈示する。
なお、運賃管理の観点から、ワンマン列車が無人駅に停車した際の乗降は、入口は整理券発行機が設置されている1両目後側ドアのみ、出口は運賃箱が設置されている1両目前側ドアのみと指定されていたり、2両連結している場合でも列車からの乗降は専ら1両目の車両だけが利用出来、2両目からの直接の乗降出来ず(2両目はドアを開閉せず)1両目を通して行う必要があったりする場合がある。
==== 車椅子利用者の利用 ====
[[車椅子]]を使用する人が無人駅を利用する場合、何らかの介助等が必要になることが多いため、事前の連絡を呼び掛けている事業者もある。
なお、このことが列車の利用が制限されることにつながることから、憲法が保障する移動の自由を侵害し、障害者差別を禁じた法律にも違反するものだとして、2020年に[[九州旅客鉄道|JR九州]]が訴えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64136760T20C20A9ACYZ00/ |title=駅無人化で権利侵害と提訴 車いす障害者、JR九州を |publisher=『[[日本経済新聞]]』 |date=2020-09-23 |accessdate=2020-09-23}}</ref>。2020年の[[高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律|バリアフリー法]]改正時に、無人駅での障害者対応のガイドライン整備が[[附帯決議]]されたこともあり、国交省は2021年に向けて鉄道事業者向けのガイドラインづくりを進めている<ref name="朝日新聞20201116"/>。
=== 管理 ===
管理は、運営会社や地域住民、併設された設備の管理者によって行われる。
JRでは主に、その無人駅を管轄する直営駅が定期的に巡回して照明など設備の維持補修・清掃、[[時刻表]]や掲示物の管理、自動券売機の運用管理、ダイヤ混乱(運休など)時の遠隔一斉放送実施などの管理を行うのが一般的である。
但し、業務効率化のため設備管理業務を直営駅から[[保線]]担当部署へ移管する例もある([[九州旅客鉄道|JR九州]]の鉄道事業部管理エリアなど)。
[[えちぜん鉄道三国芦原線]][[三国港駅]]、[[武豊線]][[武豊駅]]などのように、[[夜間滞泊]]を伴う場合は乗務員宿泊施設も設置されている。
==== 複数無人駅の集中管理 ====
有人の管理駅から、複数の無人駅を遠隔管理するシステムが導入されている。
{{Main|駅集中管理システム}}
[[近畿日本鉄道]]は、無人駅の利用者からの[[電話]]・インターホンによる問合わせに、約30人のスタッフが一括して対応する「総合案内センター」を[[奈良市]]に設置した。[[大阪府]]と[[三重県]]に置いていた[[コールセンター]]の機能を統合した<ref>「無人駅の乗客対応 一括で/近鉄、奈良に総合案内拠点/周辺駅員の負担を軽減」『[[日経産業新聞]]』2018年4月20日(働き方面)</ref>。
==== 他の施設との併設駅舎 ====
<!-- 廃止された路線内にある駅がありましたら、記載変更や記事削除をお願いします。-->
利用客が少ない駅では、他の施設と駅舎が併設されているものや、駅舎を他の施設として利用している駅もある。以下に例を示す。[[日本の鉄道駅#簡易委託駅|簡易委託駅]]として扱われている駅もある。
* [[図書館]] - [[女満別駅]]、[[生田原駅]]、[[佐久間駅]]など
* [[公民館]]・[[社会教育]]施設 - [[丸瀬布駅]]、[[佐久駅]]、[[岩沢駅]]など
* [[道の駅]] - [[津軽二股駅]]、[[田野駅 (高知県)|田野駅]]、[[歓遊舎ひこさん駅]]など{{Main|道の駅#鉄道駅舎併設}}
* [[喫茶店]] - [[北浜駅 (北海道)|北浜駅]]、[[塘路駅]]、[[藻琴駅]]、[[止別駅]]など
* [[理容所|理髪店]] - [[加斗駅]]
* [[美容所|美容院]] - [[勾金駅]](以前はラーメン店が入っていたが、現在は美容院が入居)
* [[郵便局]] - [[渡島当別駅]]、[[子吉駅]]など
* [[立ち食いそば店]] - [[田上駅]]
* 会館・集会所 - [[上穂波駅]]、[[西金駅]]
* [[民宿]] - [[比羅夫駅]]
* その他事業者への貸し出し - [[信濃追分駅]]
* 住民団体への無料貸し出し - [[菊間駅]]
このような駅は、従業員や施設管理者が常駐する施設になっているとはいえ、駅業務を担当する駐在職員がおらず、乗車券も販売していないため、無人駅に該当する。ただし、併設されている施設または近隣の商店などで乗車券を販売している場合は簡易委託駅に類する。
また2007年、当時の[[郵便局 (企業)|郵便局会社]](現・[[日本郵便]])は、過疎地での[[簡易郵便局]]の閉鎖を減らすため、JR東日本の無人駅に簡易郵便局を併設する計画を表明した<ref>『[[朝日新聞]]』2007年10月26日</ref>。
== 日本国外の無人駅 ==
=== ヨーロッパ ===
[[ファイル:Vallorbe autocontrollo 050709.jpg|thumb|x200px|駅に掲示された路線図と「目玉マーク」([[スイス連邦鉄道]])]]
[[ヨーロッパ]]の場合、切符の確認は列車内の車掌による検札([[車内検札]])が一般的であり、有人駅でも無人駅でも駅構内に改札や改札機を設ける例は多くはない<ref name="culture">海外鉄道サロン編『ヨーロッパおもしろ鉄道文化』交通新聞社、2011年</ref>。例えば[[オーストリア]]の首都[[ウィーン]]の[[ウィーン地下鉄]]の市内の駅は殆どが無人駅で改札口も基本的に設けられていない<ref name="kawasaki">[https://www.city.kawasaki.jp/980/cmsfiles/contents/0000022/22637/houkoku8.pdf 欧州視察報告<8>] [[神奈川県]][[川崎市]](2021年2月15日閲覧)</ref>。各駅には刻印機が設置されており乗客は乗車前に刻印機で切符に利用開始時刻を刻印しなければならない<ref name="kawasaki" />。鉄道の車内では、検札が巡回により実施されており、刻印がない乗車券や乗車券を購入せずに乗車している者は不正乗車とみなされ高額の追徴金が課される<ref name="kawasaki" />。
{{要出典範囲|無人駅でも券売機だけは設置されているような駅から乗車した場合、そのような駅や列車に「目玉マーク」がついている場合がある。これは列車内での発券をしないので、有効な切符を持って乗車しないと高額な罰金が課せられるという意味である。|date=2020年2月}}
ヨーロッパの鉄道では切符の行先を乗り越すと、高額な罰金が科される場合があるなど、日本の鉄道のように乗越精算が認められていないことが多く、有人駅にも無人駅にも乗越精算機は設置されていない<ref name="culture" />。
[[イギリス]]の事例については「[[停車場 (イギリス)]]」、[[ドイツ]]の事例については「[[ハルテプンクト]]」も参照のこと。
=== 中華圏 ===
;[[台湾]]の無人駅
台湾で駅員が派遣されない無人駅は、正式な駅等級として規定されている台湾鉄路管理局(台鉄)のほか<ref>{{Cite web|url=https://motclaw.motc.gov.tw/Law_ShowAll.aspx?LawID=D0112001&Mode=0&PageTitle=%e6%a2%9d%e6%96%87%e5%85%a7%e5%ae%b9 |title=交通部臺灣鐵路管理局旅客運送實施要點 中華民國九十四年八月二十六日 修正 |website=交通法規網站 |publisher=中華民国交通部 |accessdate=2022-02-26}}</ref>([[台湾鉄路管理局#駅区分]]も参照)、[[阿里山森林鉄路|林務局の森林鉄道]]<ref>{{Cite news|url=https://afrch.forest.gov.tw/0000183 |title=阿里山林業鐵路旅客運送契約 |publisher=林務局阿里山林業鐵路及文化資產管理處 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211008162353/https://afrch.forest.gov.tw/0000183 |archivedate=2021-10-08 }}</ref>、[[台湾糖業鉄道|台糖]]路線などで<ref>{{Cite journal|url=https://www.taisugar.com.tw/Upload/MonthlyPDF/634389100079079105.pdf |journal=台糖通訊 |edition=第1990號 |issue=第128卷第4期 |title=專題報導 |chapter=大林糖廠風情話 戀戀小梅線 |date=2011-04-15 |publisher=台湾糖業公司 |issn=1607-2383}}</ref>、一般的に「招呼站({{ピン音|Zhāo hu zhàn}})」と称されている。
台湾鉄路管理局においては、2016年に無人駅を含む管内全駅で[[乗車カード|ICカード]]リーダー設置が完了し<ref>{{Cite news|url=https://www.chinatimes.com/realtimenews/20160628002740-260405?chdtv |title=台鐵電子票證多卡通 全線今串聯啟用 |date=2016-06-28 |publisher=中国時報}}</ref>、ICの利用率も約60%と高いことから、招呼站ではない乗降客の少ない有人駅でも人手不足を理由に夜間の駅員駐在を取りやめる例もある<ref>{{Cite news|url=https://news.ltn.com.tw/news/life/paper/1117022 |title=台鐵夜間無人車站 擴大實施 |date=2017-07-08 |publisher=自由時報}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://udn.com/news/story/7266/2657599 |title=台鐵12站不派值班站長夜間不派人 8月底2站試行 |date=2017-08-22 |publisher=聯合報 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170822114540/https://udn.com/news/story/7266/2657599 |archivedate=2017-08-22 }}</ref>。
信用乗車制が採用されている[[淡海軽軌]]や[[高雄ライトレール]]においては大部分が無人駅で<ref>{{Cite news|url=https://travel.ettoday.net/article/1338374.htm |title=影/「淡海輕軌」正式通車!24日起試營、免費搭乘一個月 |date=2018-12-23 |publisher=ETToday}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.taichung.gov.tw/969570/post |title=林市長赴高雄市政參訪試乘輕軌 推動台中雙港輕軌計畫 |date=2015-10-28 |publisher=臺中市政府}}</ref>、乗客は列車内または駅構内のICカードリーダーで決済するか、券売機で片道乗車券を購入することになる。
なお、「招呼站」は中国語圏においては[[リクエスト・ストップ]]の訳として<ref>{{Cite web|url=https://rcatte.ecjtu.edu.cn/info/1047/1146.htm |title=翻译词汇:公交车术语 中英对照 |date=2019-04-23 |publisher=华东交通大学交通与工程应用翻译研究中心 |accessdate=2022-02-26}}</ref>、台湾の鉄道に限らず<ref>{{Cite web|url=https://www.hakka.gov.tw/Content/Content?NodeID=692&PageID=42273 |title=Neiwan Village, Hsinchu |date=2020-01-16 |publisher=行政院客家委員会 |accessdate=2022-02-26}}</ref>、[[タクシースタンド]](中国([[北京語|北京官話]])での『{{lang|zh-cn|[[:zh-cn:出租车招呼站|出租车招呼站]]<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.km.gov.cn/c/2021-07-20/4006793.shtml |title=7月起昆明出台新规治理机动车乱停乱靠现象 |date=2021-07-20 |publisher=昆明市人民政府}}</ref>』}}、台湾([[国語 (中国語)|台湾華語]])での『{{lang|zh-tw|計程車招呼站}}<ref>{{Cite report|url=https://www.ly.gov.tw/Pages/Detail.aspx?nodeid=6590&pid=85309 |title=多元化計程車客運服務相關法規問題之研析 |date=2016-11-01 |author=陳世超 |publisher=立法院}}</ref>』{{efn2|タクシーの訳語が異なるシンガポールやマレーシアの東南アジア華僑圏では『德士站』<ref>{{Cite news|url=https://www.police.gov.sg/~/media/spf/files/tp/online%20learning%20portal/bt%20chi%209th%20edition%20130717.pdf |title=基本驾驶理论 官方手册 |edition=第九版 |page=25 |date=2017-07-01 |publisher=Singapore Police Force}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.orientaldaily.com.my/news/international/2021/11/06/448367 |title=巴士撞入德士站 有盖走道顶部坍塌数人伤 |date=2021-11-06 |publisher={{仮リンク|東方日報 (マレーシア)|zh|東方日報 (馬來西亞)|label=東方日報}}}}</ref>、広東省や香港では『的士站』<ref>{{Cite press release|和書|url=http://jtys.sz.gov.cn/zwgk/ztzl/ltxd/zfaj/content/post_4310845.html |title=机场新航站楼整治蓝牌车 |date=2014-01-17 |publisher=深圳市交通運輸局}}</ref><ref>{{Cite journal|url=https://www.td.gov.hk/filemanager/en/content_1122/taxi45.pdf |journal=的士通訊 |issue=第45期 |title=重點匯報 |chapter=的士服務質素 |pages=頁8-9 |year=2018年7月 |publisher=香港政府運輸署}}</ref>。}})、路線バスにおける標識や待合スペースしか無い簡素な中間停留所(中国における『{{lang|zh-cn|客运招呼站}}<ref>{{Cite press release|和書|url=http://td.gd.gov.cn/dtxw_n/gdjrxw/content/post_3722207.html |title=茂名首批!今后坐车少了很多烦恼 |date=2021-12-17 |publisher=広東省交通運輸庁}}</ref>』及び『公交车招呼站<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.moj.gov.cn/pub/sfbgw/fzgz/fzgzggflfwx/fzgzpfyyfzl/202110/t20211027_440136.html |title=湖南桃江推进法治文化阵地建设 群众抬头见法休闲学法 |date=2021-10-27 |work=法治日報 |publisher=中華人民共和国司法部}}</ref>』、台湾における『公共汽車招呼站<ref>{{Cite press release|和書|url=https://168.motc.gov.tw/theme/news/post/2011161757290 |title=尊重公共運輸路權 交通局呼籲公車站牌勿違規停車 |date=2020-11-18 |work=臺南市政府交通局 |publisher=中華民國交通部道路交通安全督導委員會}}</ref>』およびその略称である『{{lang|zh-tw|公車招呼站}}<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.ntpc.gov.tw/ch/home.jsp?id=28&dataserno=201904100002 |title=只停一下沒關係?公車招呼站10公尺內禁停 |date=2019-04-10 |publisher=新北市政府交通局}}</ref>』)など幅広く使われている<ref>{{Cite web|url=https://dict.revised.moe.edu.tw/dictView.jsp?ID=115245 |title=招呼站 |work=中華民國教育部 |publisher=國家教育研究院 |website=教育部《重編國語辭典修訂本》2021 |accessdate=2022-02-26}}</ref>。([[wikt:招呼站]])
<gallery>
ファイル:玉里.三民火車站 (9).jpg|改札口のICカードリーダー(台鉄三民駅)
ファイル:2019-04-17 新市一路站 MiNe-M5 102-8391UG (46981322294).jpg|淡海軽軌の無人改札(新市一路駅)
ファイル:Request stop, Coast Line Area, Diing Dong Bus 20080501.jpg|招呼站は鉄道以外でも用いられる(台東県の鼎東客運バス停)
ファイル:Scene in downtown Taichung 01.jpg|招呼站はタクシースタンドを意味することもある(台中市)
</gallery>
;[[中国]]の無人駅
[[中国国家鉄路集団]]の案内及び予約のウェブサイト「{{仮リンク|中国鉄路客戸服務中心|zh|中国铁路客户服务中心}}」(俗称:12306網站)において、乗車券販売を行っていない無人駅は『{{lang|zh-cn|乘降所}}({{ピン音|Chéng jiàng suǒ}})』あるいは『{{lang|zh-cn|无人售票的车站}}({{ピン音|Wú rén shòupiào de chēzhàn}})』と称し、無人駅で乗車する乗客は乗車券を列車内で購入する<ref>{{Cite web|url=https://www.12306.cn/mormhweb/tlxx/201505/t20150512_16647.html |title=在乘降所(无人售票的车站)如何购票? |website=12306.cn |accessdate=2022-02-26}}</ref>。
<gallery>
ファイル:凤上铁路叆河乘降所.jpg|鳳上線靉河駅(遼寧省)
ファイル:Dajuesi Halt (20170918150512).jpg|北京北西環状線大覚寺駅(北京市)
ファイル:Xiaodongmen Stop (3).jpg|武昌北環線小東門駅(廃止。武漢市)
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
* [[仮乗降場]]
* [[秘境駅]]
* [[STB (旅行)]]
* [[駅勢圏]]
* [[駅前]]
* [[バスターミナル]]・[[バス駅]] - 停留所に係員を置かないのが基本形の路線バスにおいて、逆に鉄道有人駅のように係員を置いて出改集札を行うことがある。
*[[セルフレジ]]
*[[無人販売]]
{{DEFAULTSORT:むしんえき}}
[[Category:鉄道駅]]
[[Category:駅種別]]
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責任主義
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責任主義(せきにんしゅぎ)とは、行為者に対する責任非難ができない場合には刑罰を科すべきではないとする原則。「責任なければ刑罰なし」という原則として知られ、罪刑法定主義とともに近代刑法理論の根本原理となっている。
一定の事実が構成要件に該当し違法性を具備するものであったとしても、その事実を実現したことについて行為者を非難することができなければ犯罪は成立しない。刑法上の責任とは、犯罪行為についてそれを行った者(行為者)を非難しうることを意味する。責任の存在(有責性)は構成要件該当性及び違法性とともに犯罪が成立するための第三の要件となっている。
古い時代の刑法では結果的責任及び団体的責任の観念が支配的であった。法律上の責任は一定の客観的な法益侵害が発生し、ある者の行為がその結果と因果関係を有していることが確定すれば処罰しうるとされ(結果主義、結果責任)、かつ、縁坐や連坐など、しばしば一定の団体にその責任が帰属させられていた。
初期のローマ法でも客観的色彩が強かったが、後にギリシャの倫理学の影響を受けてdolus(悪意)の観念が用いられるようになった。一方、ゲルマン法ではローマ法に比べてはるかに遅れており客観的責任や結果的責任の思想が根強く残されていた。dolus(故意)と過失の観念は中世のイタリア法学においてようやく認められ、カロリーナ刑事法典で採用されたことで近代的な責任主義の原型となった。これと併行して個人的地位に基づく個人的責任が重視されるようになり、客観的責任・団体的責任から主観的責任・個人的責任へと移向した。刑罰権行使の合理的基礎として、結果の発生だけではなく、行為者の内面的態度に何らかの責めがあって初めて犯罪は成立すると考えられるようになった。
責任論は古典学派(旧派)と近代学派(新派)で理解に違いがある(刑法学を参照)。
責任の本質について道義的責任論と社会的責任論が対立する。
責任の基礎(非難の根拠)については行為責任論・性格責任論・人格責任論が対立する。
責任の性質については心理的責任論と規範的責任論が対立する。
原則として責任が認められる行為について、その有責性を否定する事由のことを責任阻却事由という。責任阻却事由がある場合、刑罰法規の構成要件に該当していても犯罪とはならない。
犯罪の成立は否定されないが、責任が低減している場合に、刑罰の減免が認められることがある。
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責任主義(せきにんしゅぎ)とは、行為者に対する責任非難ができない場合には刑罰を科すべきではないとする原則。「責任なければ刑罰なし」という原則として知られ、罪刑法定主義とともに近代刑法理論の根本原理となっている。
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'''責任主義'''(せきにんしゅぎ)とは、行為者に対する責任非難ができない場合には[[刑罰]]を科すべきではないとする原則。「責任なければ刑罰なし」という原則として知られ、[[罪刑法定主義]]とともに近代刑法理論の根本原理となっている{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=125}}。
== 概説 ==
一定の事実が[[構成要件]]に該当し違法性を具備するものであったとしても、その事実を実現したことについて行為者を非難することができなければ犯罪は成立しない{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=125}}。刑法上の責任とは、犯罪行為についてそれを行った者(行為者)を非難しうることを意味する{{Sfn|大塚仁|2008|p=436}}。責任の存在(有責性)は構成要件該当性及び違法性とともに犯罪が成立するための第三の要件となっている{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=125}}。
古い時代の刑法では結果的責任及び団体的責任の観念が支配的であった{{Sfn|大塚仁|2008|p=436}}。法律上の責任は一定の客観的な法益侵害が発生し、ある者の行為がその結果と因果関係を有していることが確定すれば処罰しうるとされ(結果主義、結果責任)、かつ、縁坐や[[連座|連坐]]など、しばしば一定の団体にその責任が帰属させられていた{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=125}}{{Sfn|大塚仁|2008|p=436}}。
初期の[[ローマ法]]でも客観的色彩が強かったが、後にギリシャの倫理学の影響を受けてdolus(悪意)の観念が用いられるようになった{{Sfn|大塚仁|2008|p=436}}。一方、[[ゲルマン法]]ではローマ法に比べてはるかに遅れており客観的責任や結果的責任の思想が根強く残されていた{{Sfn|大塚仁|2008|p=436}}。dolus(故意)と過失の観念は中世のイタリア法学においてようやく認められ、カロリーナ刑事法典で採用されたことで近代的な責任主義の原型となった{{Sfn|大塚仁|2008|p=437}}。これと併行して個人的地位に基づく個人的責任が重視されるようになり、客観的責任・団体的責任から主観的責任・個人的責任へと移向した{{Sfn|大塚仁|2008|p=437}}。刑罰権行使の合理的基礎として、結果の発生だけではなく、行為者の内面的態度に何らかの責めがあって初めて犯罪は成立すると考えられるようになった{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|pp=125-126}}。
== 責任論 ==
責任論は古典学派(旧派)と近代学派(新派)で理解に違いがある([[刑法学]]を参照)。
=== 道義的責任論・社会的責任論 ===
責任の本質について道義的責任論と社会的責任論が対立する。
* 道義的責任論
: 古典学派(旧派)では、人間を一律に自由な意思を持った理性的存在と捉え、犯罪は是非を弁別できる個人が自己の自由意思に基づいてなした行動であるから、結果を発生させようとした悪しき意思(故意)や不注意で結果の発生を予見できなかった緊張の欠如(過失)に対して非難が向けられるべきであるとする{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|pp=126-127}}。
* 社会的責任論
: 近代学派(新派)では、人間を素質と環境によって決定された宿命的存在と捉え、犯罪は行為者の素質と環境の産物であり、社会は犯罪者による犯罪の反復を避けるための防衛手段を講じる必要があり、犯罪者はこの防衛処分を受ける法的地位に立つとする{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=127}}。社会的責任論に対しては、理論的に本来の責任論から逸脱しているとの批判があるほか{{Sfn|大塚仁|2008|p=439}}、規範的な非難を刑罰の前提としている現代刑法の精神とも合致しないなどの批判を受けてほとんど影をひそめるに至っている{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=127}}。
=== 行為責任論・性格責任論・人格責任論 ===
責任の基礎(非難の根拠)については行為責任論・性格責任論・人格責任論が対立する。
* 行為責任論(意思責任論)
: 道義的責任論によると、犯罪行為は行為者の自由意思の所産であるとし、個々の行為に存在する悪しき意思に非難の根拠があるとし、これを行為責任論(意思責任論)という{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|pp=127-128}}。行為責任論に対しては、責任を帰せられる主体としての具体的な行為者が十分に勘案されていないという批判がある{{Sfn|大塚仁|2008|p=440}}{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=128}}。
* 性格責任論
: 社会的責任論によると、犯罪行為は素質と環境による行為者の性格の徴表であり、責任の基礎は行為者の性格(社会的危険性)にあるとし、これを性格責任論という{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=128}}。性格責任論に対しては、行為者の主体性を考慮しておらず責任論における非難という意味を排除してしまっているという批判がある{{Sfn|大塚仁|2008|p=440}}{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=128}}。
* 人格責任論
: 人格責任論は行為責任論と性格責任論の欠陥を補正する立場から登場した学説で、行為者の主体性を考慮しつつ犯罪行為の背後にある行為者の人格を責任の基礎とみる{{Sfn|大塚仁|2008|p=440}}{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=128}}。20世紀前半のドイツでは行状責任論など行為の背後にある行為者人格を基礎とした責任論が現れ、このような理論一般について人格責任論と呼ばれている{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=128}}。
=== 心理的責任論・規範的責任論 ===
責任の性質については心理的責任論と規範的責任論が対立する。
* 心理的責任論
: 心理的責任論では、責任の実体は行為者の心理的関係であるとし、犯罪事実に対する現実的認識とその実現の意欲ないし認容が認められる場合を故意、犯罪事実発生の認識可能性が認められる場合を過失として、責任能力のほかに故意または過失が具備されれば直ちに行為者の責任を問うことができるとする{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=128}}。
* 規範的責任論
: 規範的責任論では、責任は非難可能性であり、行為者の責任を問うには、責任能力及び故意・過失のほかに、行為の際の具体的事情から判断して行為者に適法行為を行うことができたという[[期待可能性]]がなければならないとする{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=128}}。規範的責任論はもともと20世紀初頭に道義的責任論の立場から心理的責任論への方法論的反省として登場したものであるが、社会的責任論とも結合されるようになり、ドイツでも日本でも学派的対立を超えた地位を得るに至っている{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|pp=129-130}}。
== 日本の刑法における責任主義 ==
{{日本の刑法}}
=== 責任要素 ===
* [[責任能力]]
* [[故意]] - [[事実の錯誤]]がある場合、故意が存在しないことになる
* [[過失]]
* [[期待可能性]]
=== 責任阻却事由 ===
原則として責任が認められる行為について、その有責性を否定する事由のことを'''責任阻却事由'''という。責任阻却事由がある場合、刑罰法規の[[構成要件]]に該当していても犯罪とはならない。
*[[責任能力]]を欠く者(責任無能力者) - 責任主義の原則を受けて、[[刑法 (日本)|刑法]]は責任能力を欠く者の行為を処罰しないことを規定する。([[責任能力]]の項目を参照)
**[[心神喪失]]者(刑法39条1項) - 心神喪失とは、精神上の障害により是非弁別能力または行動制御能力を欠く状態(判例)
**刑事未成年者(刑法41条)
*期待可能性を欠くこと
=== 責任軽減事由 ===
犯罪の成立は否定されないが、責任が低減している場合に、刑罰の減免が認められることがある。
*[[心神耗弱]]者(刑法39条2項)
*[[自首]](刑法42条)
*[[中止未遂]](中止犯、刑法43条但書) - 責任減少説の場合
*かつては、[[唖者]](旧刑法40条) - 1995年に削除
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* {{cite book|和書 |author=大塚仁 |title=刑法概説 総論 第4版 |publisher=有斐閣 |year=2008 }}
* {{Cite book|和書|author1=高窪貞人|author2=石川才顯|author3=奈良俊夫|author4=佐藤芳男|year=1983|title=刑法総論|publisher=青林書院}}
== 関連項目 ==
* [[犯罪]]
* [[違法性]]
* [[原因において自由な行為]]
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[[Category:刑法]]
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日本将棋連盟
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公益社団法人日本将棋連盟(こうえきしゃだんほうじん にほんしょうぎれんめい)は、将棋の棋戦を主催し、棋士および女流棋士の活動を通じて将棋の普及発展を担う公益社団法人。
四段以上の棋士、女流棋士、指導棋士によって組織、棋士総会で2年ごとに選出された役員および職員によって運営される。「将棋の普及発展と技術向上を図り、我が国の文化の向上、伝承に資するとともに、将棋を通じて諸外国との交流親善を図り、もって伝統文化の向上発展に寄与すること」を目的とする。
1612年に初代大橋宗桂が徳川家康から将棋所(名人)に任ぜられたのが現在のプロ将棋界の起源である。
江戸時代には、初代宗桂が興した大橋本家、初代宗桂の子・初代大橋宗与が興した大橋分家、初代宗桂の孫娘の婿・初代伊藤宗看が興した伊藤家の家元三家の中から棋力の秀でた者が名人位を襲い、江戸幕府の権威を背景に将棋界を牽引してきた。
しかし、1868年に江戸幕府が崩壊すると、家元三家は後ろ盾を失い、将棋界も混乱に陥る。1879年に伊藤家の八代伊藤宗印が将棋所を復興して名人を襲位するも、1893年に死去して伊藤家は断絶。それ以前の1881年には大橋分家の九代大橋宗与が投獄の末獄死して断絶しており、家元は大橋本家を残すのみとなった。大橋本家の十二代大橋宗金は棋力に乏しく、結局1898年に大橋本家の門人であった小野五平が名人となり、家元制の時代は終わりを告げた。
家元の権威が失われたことにより、この後、棋界は様々な将棋団体が乱立して、離合集散を繰り返すようになる。小野の次代の名人候補と目されていた実力者は、八代伊藤宗印門下の関根金次郎、大阪の小林東伯斎(元は大橋分家の門人で後に大橋本家・天野宗歩の弟子)門下で東京で活動していた井上義雄、同じく小林門下で関西で活動していた阪田三吉(当時は坂田三吉)の3名であった。これら3名とその弟子たちによって現在の日本将棋連盟の原型となる将棋団体が結成されることになる。
東京将棋連盟が創立した1924年9月8日を日本将棋連盟では創立記念日と定めている。この日付にしたがって日本将棋連盟は1999年に創立75周年、2005年に創立81周年、2014年に創立90周年を祝っている。
1924年には日本棋院(7月17日)と国際チェス連盟(7月20日)も設立されている。
時系列で整理すると以下のようになる。
公益社団法人日本将棋連盟の社員総会として、棋士総会が行われる。会員の除名、連盟の役員(理事・監事)の選任又は解任や、定款の変更といった重要な事項を決議する。日本将棋連盟において、棋士総会に出席する「社員」は正会員(棋士、および、女流四段以上またはタイトル経験のある女流棋士)である。それ以外の女流棋士、および、奨励会員、指導棋士、支部会員らは連盟の正会員ではなく、棋士総会に参加する権利を持たない。
定例総会は年に1回、順位戦が開始される前の6月上旬に行われる。その他重要な議決が発生したときは、臨時総会が開かれることもある。
役員の任期はおよそ2年である。定款第23条の規定により2年おきの総会の終結が区切りとなるため、総会の日程によっては2年に満たない(もしくは超える)場合がある。役員は、棋士総会の決議によって選任する。
公益社団法人移行以後は、総会に先立って4月頃に「予備選挙」を行い、会員による互選で選ばれた棋士・女流棋士および職員からなる常勤理事候補と、連盟事務局の推薦した棋士・女流棋士・外部有識者等からなる非常勤理事候補・監事候補を選出し、これらの候補者を棋士総会で選任する形を取っている。
2023年6月9日より
2023年6月9日より
2023年6月9日より
2022年6月10日 理事会において選定・就任
公益社団法人移行後の2011年以降のみ。
2021年6月4日より
2021年6月4日より
2021年6月4日より
2019年6月7日より
(2015年6月4日から)
(2013年6月7日から、※は2014年までの任期)
(2011年5月26日から、投票で選出された者のみ記載)
(数字は就任順、就任年)
女流棋士も含む新たな「棋士会」が2009年4月1日に発足した。
中原名誉棋士会長の任期は、70歳まで。しかし、2011年4月11日付けで名誉棋士会長を辞退。
この棋士会発足に伴い、女流棋士会独自の役員制度は廃止され、谷川治恵女流棋士会長らの役員は退任した。
谷川浩司初代会長の方針は、下記の通りである。
本部は3ヵ所に設けられていたが、公益社団法人発足に伴い、東海本部は、東海普及連合会と改称したため、2ヵ所となる。所在地は次の通り。
棋士の任意活動としていくつかの部活動がある。
日本将棋連盟は将棋倶楽部24を運営し、将棋ウォーズを公認、81Dojoを後援している。これらのオンライン対局の成績に基づいて免状も発行している。
日本将棋連盟ではソフト指し行為を反則負け及び棋士の停止とするにも関わらず将棋ウォーズは課金をすることでソフトによる代打ち機能が使える(部分的であり、無制限ではない)がこちらは公認している。
1999年、日本将棋連盟は法的根拠がない(棋譜に著作権はない)ながらも収入問題に発展しかねないため、棋譜の頒布を控えてほしいとの「お願い」を行ってきた。2019年9月、「棋譜利用に関するお願い」として私的利用の範囲を超えた棋譜利用に事前申請を求め始める。利用料は商用、非商用で異なる。その後、棋譜の著作権について法的に様々な議論があるとした上で、ガイドラインが制定された。過去に民法上の不法行為に当たるとして、朝日新聞社と日本将棋連盟が共同で主催した棋戦に関する藤井聡太の棋譜を無断で中継した将棋系YouTuberに対し、権利侵害として配信中止を求めた事例があり、有名棋士の対局の場合、その知名度によるパブリシティ権の問題が発生し、損害賠償の対象となる。
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"text": "2023年6月9日より",
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"text": "2022年6月10日 理事会において選定・就任",
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"text": "公益社団法人移行後の2011年以降のみ。",
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"text": "2021年6月4日より",
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"text": "2021年6月4日より",
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"text": "2021年6月4日より",
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"text": "2019年6月7日より",
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"text": "女流棋士も含む新たな「棋士会」が2009年4月1日に発足した。",
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"text": "中原名誉棋士会長の任期は、70歳まで。しかし、2011年4月11日付けで名誉棋士会長を辞退。",
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"text": "この棋士会発足に伴い、女流棋士会独自の役員制度は廃止され、谷川治恵女流棋士会長らの役員は退任した。",
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"text": "谷川浩司初代会長の方針は、下記の通りである。",
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"text": "本部は3ヵ所に設けられていたが、公益社団法人発足に伴い、東海本部は、東海普及連合会と改称したため、2ヵ所となる。所在地は次の通り。",
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"text": "日本将棋連盟は将棋倶楽部24を運営し、将棋ウォーズを公認、81Dojoを後援している。これらのオンライン対局の成績に基づいて免状も発行している。",
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"text": "日本将棋連盟ではソフト指し行為を反則負け及び棋士の停止とするにも関わらず将棋ウォーズは課金をすることでソフトによる代打ち機能が使える(部分的であり、無制限ではない)がこちらは公認している。",
"title": "オンライン将棋ゲーム"
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{
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"text": "1999年、日本将棋連盟は法的根拠がない(棋譜に著作権はない)ながらも収入問題に発展しかねないため、棋譜の頒布を控えてほしいとの「お願い」を行ってきた。2019年9月、「棋譜利用に関するお願い」として私的利用の範囲を超えた棋譜利用に事前申請を求め始める。利用料は商用、非商用で異なる。その後、棋譜の著作権について法的に様々な議論があるとした上で、ガイドラインが制定された。過去に民法上の不法行為に当たるとして、朝日新聞社と日本将棋連盟が共同で主催した棋戦に関する藤井聡太の棋譜を無断で中継した将棋系YouTuberに対し、権利侵害として配信中止を求めた事例があり、有名棋士の対局の場合、その知名度によるパブリシティ権の問題が発生し、損害賠償の対象となる。",
"title": "棋譜利用のガイドライン"
}
] |
公益社団法人日本将棋連盟は、将棋の棋戦を主催し、棋士および女流棋士の活動を通じて将棋の普及発展を担う公益社団法人。 四段以上の棋士、女流棋士、指導棋士によって組織、棋士総会で2年ごとに選出された役員および職員によって運営される。「将棋の普及発展と技術向上を図り、我が国の文化の向上、伝承に資するとともに、将棋を通じて諸外国との交流親善を図り、もって伝統文化の向上発展に寄与すること」を目的とする。
|
{{基礎情報 非営利団体
|名称 = 公益社団法人日本将棋連盟<br />{{Lang|en|Japan Shogi Association}}
|ロゴ =
|画像 = Shogi kaikan sendagaya 2009.JPG
|画像サイズ = 200px
|画像説明 = 本部がある[[将棋会館]]
|創立者 =
|団体種類 = [[公益社団法人]]
|設立 = 1924年9月8日(創立記念日)<br />2011年4月1日(公益社団法人化)
|所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]二丁目39番9号
|緯度度 = 35 |緯度分 = 40 |緯度秒 = 38
|経度度 = 139 |経度分 = 42 |経度秒 = 34
|地図国コード = JP
|起源 = 東京将棋連盟、将棋大成会、<br/>社団法人日本将棋連盟<br/>(1949年7月29日-2011年3月31日)
|主要人物 = 会長 [[羽生善治]]
|活動地域 = {{JPN}}および{{World}}
|製品 =
|主眼 = 伝統文化の向上発展に寄与すること
|活動内容 = [[将棋]]の普及発展
|収入 =
|基本財産 =
|ボランティア人数 =
|従業員数 =
|会員数 = 正会員:250名<br/>(2023年3月31日現在)
|子団体 =
|標語 =
|ウェブサイト = https://www.shogi.or.jp/
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|特記事項 =
}}
{{将棋ヘッダ}}
'''公益社団法人日本将棋連盟'''(こうえきしゃだんほうじん にほんしょうぎれんめい)は、[[将棋]]の[[棋戦_(将棋)|棋戦]]を主催し、[[棋士_(将棋)|棋士]]および[[女流棋士_(将棋)|女流棋士]]の活動を通じて将棋の普及発展を担う[[公益社団法人]]<ref name="jsa">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/about/summary.html |title=事業概要|将棋連盟について|日本将棋連盟 |publisher=日本将棋連盟 |accessdate=2021-03-17}}</ref>。
四段以上の[[棋士 (将棋)|棋士]]、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]、[[指導棋士]]によって組織<ref name="jsa" />、[[#棋士総会|棋士総会]]で2年ごとに選出された役員および職員によって運営される<ref name="jsa"/>。「将棋の普及発展と技術向上を図り、我が国の文化の向上、伝承に資するとともに、将棋を通じて諸外国との交流親善を図り、もって伝統文化の向上発展に寄与すること」を目的とする<ref name="jsa"/>。
== 沿革 ==
=== 前史 ===
1612年に[[大橋宗桂 (初代)|初代大橋宗桂]]が[[徳川家康]]から[[将棋所]]([[名人 (将棋)|名人]])<ref group="注">ただし、当時は「将棋所」や「名人」という言葉はなく、その後のそれらに相当する地位に就いたという意味である。</ref>に任ぜられたのが現在のプロ将棋界の起源である。
[[江戸時代]]には、初代宗桂が興した[[大橋家|大橋本家]]、初代宗桂の子・[[大橋宗与 (初代)|初代大橋宗与]]が興した[[大橋分家]]、初代宗桂の孫娘の婿・[[伊藤宗看 (初代)|初代伊藤宗看]]が興した[[伊藤氏|伊藤家]]の家元三家の中から棋力の秀でた者が名人位を襲い、[[江戸幕府]]の権威を背景に将棋界を牽引してきた。
しかし、1868年に江戸幕府が崩壊すると、家元三家は後ろ盾を失い、将棋界も混乱に陥る。1879年に伊藤家の[[伊藤宗印 (8代)|八代伊藤宗印]]が将棋所を復興して名人を襲位するも、1893年に死去して伊藤家は断絶。それ以前の1881年には大橋分家の九代大橋宗与が投獄の末獄死して断絶しており、家元は大橋本家を残すのみとなった。大橋本家の十二代大橋宗金は棋力に乏しく、結局1898年に大橋本家の門人であった[[小野五平]]が名人となり、家元制の時代は終わりを告げた。
=== 前身団体の結成から棋界統一まで ===
家元の権威が失われたことにより、この後、棋界は様々な将棋団体が乱立して、離合集散を繰り返すようになる。小野の次代の名人候補と目されていた実力者は、八代伊藤宗印門下の[[関根金次郎]]、大阪の[[小林東伯斎]](元は大橋分家の門人で後に大橋本家・[[天野宗歩]]の弟子)門下で東京で活動していた[[井上義雄]]、同じく小林門下で関西で活動していた阪田三吉(当時は[[坂田三吉]])の3名であった。これら3名とその弟子たちによって現在の日本将棋連盟の原型となる将棋団体が結成されることになる。
東京将棋連盟が創立した[[1924年]][[9月8日]]を日本将棋連盟では創立記念日と定めている<ref>{{citation|和書|title=日本将棋の歴史(8)東京将棋連盟の結成|publisher=日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/history/story/index08.html}}</ref>。この日付にしたがって日本将棋連盟は1999年に創立75周年、2005年に創立81周年、2014年に創立90周年を祝っている<ref>{{citation|和書|title=将棋連盟について 創立・沿革|publisher=日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/about/history.html}}</ref>。
1924年には[[日本棋院]](7月17日)と[[国際チェス連盟]](7月20日)も設立されている。
時系列で整理すると以下のようになる。
* 1909年8月8日 - 東京で活動していた関根派と井上派とが合同して「'''将棋同盟会'''」を結成。
* 1909年10月3日 - 「将棋同盟会」が「'''将棋同盟社'''」に改称。
* 1910年1月 - 井上派が「将棋同盟社」を脱退して「'''将棋同志会'''」を結成。
* 1910年10月 - 大阪で活動していた阪田派が「'''関西将棋研究会'''」を結成。
* 1912年 - 井上派から門下の[[大崎熊雄]](元は関根門下)と[[谷頭喜祐]]らのグループが分裂。大崎・谷頭派が「将棋同志会」を脱退して「'''東京将棋社'''」を結成。
* 1916年ごろ - 「東京将棋社」が「'''東京将棋研究会'''」となる。
* 1917年 - 関根派から門下の[[土居市太郎]]らのグループが分裂。「将棋同盟社」は土居派のものとなり、関根派は「将棋同盟社」を脱退して「'''東京将棋倶楽部'''」を結成<ref group="注">師匠の関根が阪田に敗れた一方で弟子の土居が阪田に勝利したことから、土居の発言権が強まり、これに反発したためと言われる。</ref>。
* 1919年ごろ - 関根門下の[[木見金治郎]]が「東京将棋倶楽部」を脱退して関西に移り、後に「'''棋正会'''」を結成<ref group="注">家業を継ぐために関根の元を離れて関西に帰ったものの商売が上手く行かず、関西で将棋を再開したようである。</ref>。
* 1920年 - 井上が死去。「将棋同志会」は自然消滅して所属棋士は他派に合流する。
* 1921年ごろ - 谷頭が死去。「東京将棋研究会」は大崎派のものとなる。
* 1921年 - 名人の小野五平が死去。これを受け、土居、大崎、阪田ら各派の同意のもとに関根が名人襲位<ref group="注">土居や大崎は関根と比べて次の世代の棋士であり、関根と争う関係にはなかった。また、阪田は関根の弟子である土居に敗れていたため、関根の名人襲位を承諾せざるを得なかった。また、もう一人の候補であった井上は前年に死去していた。</ref>。
* 1923年 - 関東大震災をきっかけに東京将棋界統一の機運が高まる。
* 1924年9月8日 - 関根派の「東京将棋倶楽部」、土居派の「将棋同盟社」、大崎派の「東京将棋研究会」が合併。東京の将棋界が統一される。関根が名誉会長、土居が会長となり、「'''東京将棋連盟'''」が結成される。
* 1925年 - 「関西将棋研究会」の阪田が関西名人を名乗り、「東京将棋連盟」から追放される。以後、東京系の棋戦に参加できなくなる。
* 1927年 - 関西で活動していた木見派の「棋正会」が「東京将棋連盟」に合流。東京のみの団体ではなくなったことから「'''日本将棋連盟'''」に改称。
* 1932年 - 阪田派から門下の[[神田辰之助]](元は木見門下)らのグループが分裂。神田派は「関西将棋研究会」を脱退して「'''十一日会'''」を結成。阪田派は実質的に阪田一人となる<ref group="注">阪田はそれまで大阪朝日新聞の嘱託であったが、報酬で揉めて契約が解除された。代わって阪田門下の神田が嘱託となったことにより、阪田派の棋士たちは神田を盟主とした。</ref>。
* 1935年 - 関根が実力名人制の導入を発表。初代実力制名人を八段の棋士によって争うことが決まる。
* 1935年 - 「十一日会」の神田が八段昇段をかけて「日本将棋連盟」のトップ棋士たちと対局。好成績を残すも八段昇段が認められなかった。
* 1935年11月 - 神田の八段昇段(名人戦参加権)を支持する[[花田長太郎]](関根門下)や[[金子金五郎]](土居門下)らの一派が日本将棋連盟を脱退。神田の「十一日会」と合流して「'''日本将棋革新協会'''」を結成。騒動の責任を取って「日本将棋連盟」の幹部は総辞職し、会長不在となる([[神田事件 (将棋)|神田事件]])。
* 1936年 - 八代伊藤宗印門下(関根の兄弟子)で実業家・政治家に転身していた[[小菅剣之助]]の仲裁により、神田の名人戦参加を認めることで両者は和解。「日本将棋連盟」と「日本将棋革新協会」が合併して「'''将棋大成会'''」となる。会長は関根。
* 1937年2月 - 関根門下で元会長の[[金易二郎]]の仲介により、阪田三吉の「将棋大成会」への参加が認められる。これにより、家元制崩壊以降分裂していた棋界は完全に統一される。
=== 棋界統一後 ===
* 1937年 - 第1期名人戦が終了し[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]が実力制の最初の[[名人 (将棋)|名人]]に決定。
* 1938年 - 木村が名人の座に就き、将棋大成会の会長にもなる。
* 1947年 - 名称を'''日本将棋連盟'''として、会長に木村義雄が就任。
* 1949年{{0}}7月29日 - [[社団法人]]となる。
* 1975年 - [[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]の初の棋戦・第1期[[女流名人位戦]]が行われ、[[蛸島彰子]]が初代女流名人となる。
* 1987年 - 第1期[[竜王戦]]が始まる。
* 1989年 - 下部組織として[[女流棋士会]]が発足。
* 1999年 第一回[[国際将棋フォーラム]]を主催。これより三年に一度の開催。
* 2005年 - [[将棋界]]で俗に言われる「[[盤寿]]」にあたる創立81周年を迎え、記念のイベントなどを開催。
* 2007年 - 女流棋士の一部が「[[日本女子プロ将棋協会]](LPSA)」として分離・独立。
* 2008年{{0}}5月 - 「[[将棋世界]]」誌6月号において、[[米長邦雄]]会長(当時)が、「[[公益法人制度改革]]」<ref group="注">2008年12月から5年間の移行期間を経て、すべての社団法人が「公益社団法人」か「一般社団法人」のいずれかに分かれることになる。</ref>に伴い、「公益社団法人」の許可を目指すため、改革の必要があることを表明。
* 2009年{{0}}3月30日 - 刊行物の制作・販売を同4月から[[マイナビ|毎日コミュニケーションズ(現:マイナビ)]]に委託すると発表。ただし、「[[将棋世界]]」誌と「将棋年鑑」は従来どおり将棋連盟が編集・発行を行い、販売のみ毎日コミュニケーションズで行う<ref>[https://web.archive.org/web/20111105055700/https://www.mynavi.jp/news/2009/03/post_68.html 日本将棋連盟の刊行物を制作・販売]</ref>。
* 2009年{{0}}4月{{0}}1日 - 女流棋士も含む新たな「[[#棋士会|棋士会]]」が発足。初代会長は[[谷川浩司]]。女流棋士会は存続(ただし、女流棋士会独自の役員制度は廃止)。
* 2010年{{0}}8月23日 - [[新進棋士奨励会|奨励会]]入会試験に、[[中華人民共和国]]上海在住の張鑫(ツァンシン)が6級に合格し、外国人初の奨励会員となる<ref>{{Cite news |date=2011-03-10 |url=http://www.asahi.com/shougi/topics/TKY201103100208.html |title=奨励会の例会 張さんが参加 海外から初 |publisher=朝日新聞 |accessdate=2018-02-17}}</ref>。
* 2010年11月12日 - 臨時総会において女流四段以上およびタイトル経験のある女流棋士を正会員とすることを決議<ref name="joryuu-seikaiin">[https://www.shogi.or.jp/news/2010/11/post_351.html 臨時総会について] - 日本将棋連盟・ 2010年11月12日</ref>。
* 2011年{{0}}3月{{0}}4日 - [[公益認定等委員会]]が、日本将棋連盟の公益社団法人への移行認定を答申<ref>[https://archive.is/Dv1bL 公益法人information]<!-- https://www.koeki-info.go.jp/pictis_portal/common/index.do?contentsKind=120&gyouseiNo=00&contentsNo=00011&syousaiUp=0&procNo=toushindetail&renNo=1&contentsType=&houjinSerNo=&oshiraseNo=&bunNo=&meiNo=&seiriNo=1000124421&edaNo=12&iinkaiNo=undefined&topFlg=0 --></ref>。
* 2011年{{0}}4月{{0}}1日 - 公益社団法人となる<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/04/post_398.html 公益社団法人日本将棋連盟としてスタート] - 日本将棋連盟・2011年4月1日</ref>。
== 棋士総会 ==
公益社団法人日本将棋連盟の社員総会として、棋士総会が行われる。会員の除名、連盟の役員(理事・監事)の選任又は解任や、定款の変更といった重要な事項を決議する。日本将棋連盟において、棋士総会に出席する「社員」は正会員([[棋士 (将棋)|棋士]]、および、女流四段以上またはタイトル経験のある女流棋士<ref name="joryuu-seikaiin"/>)である。それ以外の女流棋士、および、奨励会員、指導棋士、支部会員らは連盟の正会員ではなく、棋士総会に参加する権利を持たない。
定例総会は年に1回、[[順位戦]]が開始される前の6月上旬に行われる。その他重要な議決が発生したときは、臨時総会が開かれることもある。
=== 過去に棋士総会で決定した主な議決事項 ===
* 1976年 - 臨時総会で[[名人戦 (将棋)|名人戦]]の主催が朝日新聞社から毎日新聞社に移ることが承認される。
* 2005年 - [[瀬川晶司]]のプロ編入試験を実施することが決定する。
* 2006年 - 名人戦の移管問題についての議決。毎日新聞社の条件を受けて臨時総会で毎日との契約を継続するかどうかを表決で決定する。臨時総会において、毎日側の提案を否決。同年アマチュア選手のプロ編入制度が正式に承認される。
** {{Wikinews-inline|日本将棋連盟、プロ編入制度創設}}
* 2019年 - [[将棋会館]]の建て替え問題について、まずは東京について現在地での建て替えを断念し、[[千駄ケ谷駅]]前に[[ヒューリック]]が保有するビルの建て替えに合わせ、同ビルの一部を所有する方向で交渉を進めることが決議された(詳細は[[将棋会館#将来構想]]を参照)。
== 役員 ==
役員の任期はおよそ2年である。定款<ref>{{Cite web|和書|title=情報公開|将棋連盟について|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/about/information_disclosure.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2019-04-29|language=ja}}</ref>第23条の規定により2年おきの総会の終結が区切りとなるため、総会の日程によっては2年に満たない(もしくは超える)場合がある。役員は、棋士総会の決議によって選任する。
公益社団法人移行以後は、総会に先立って4月頃に「予備選挙」を行い、会員による互選で選ばれた棋士・女流棋士および職員からなる常勤理事候補と、連盟事務局の推薦した棋士・女流棋士・外部有識者等からなる非常勤理事候補・監事候補を選出し、これらの候補者を棋士総会で選任する形を取っている。
=== 現体制 ===
==== 常勤理事 ====
2023年6月9日より<ref name="20230609member">{{Cite web|和書|title=日本将棋連盟新役員のお知らせ|url=https://www.shogi.or.jp/news/2023/06/post_2309.html|accessdate=2023-06-09|language=ja}}</ref>
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!段位・称号・職業!!担当
|-
|会長(新任)
|[[羽生善治]]||九段(永世七冠資格保持者)||{{small|([[太平洋戦争|戦後]]17人目の会長職)}}
|-
|専務理事(再任)
|[[脇謙二]]||九段
|関西本部総務・棋戦運営部
|-
|常務理事(再任)
|[[井上慶太]]||九段
|関西本部普及推進部
|-
|常務理事(再任)
|[[森下卓]]||九段
|総務部
|-
|常務理事(再任)
|[[清水市代]]||女流七段(クイーン四冠)||棋戦運営部
|-
|常務理事(再任)
|[[西尾明]]||七段
|メディア部
|-
|常務理事(新任)
|[[片上大輔]]||七段
|普及推進部
|-
|常務理事(再任)
|佐竹康峰<ref group="注">2017年5月 - 2021年6月まで非常勤理事。また棋士ではない人物が常務理事以上の職位に就いたのは初。</ref>
|[[東京スター銀行]]元取締役会長<br />[[日本オペラ振興会]]元理事長
|棋戦運営部 <ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/604423 藤井ブームに沸く将棋界と経済界の「意外な接点」] - 東洋経済ONLINE・2022年7月18日</ref>
|}
==== 非常勤理事 ====
2023年6月9日より<ref name="20230609member" />
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!段位!!職業
|-
|理事(再任)||[[森詳介]]|| {{center|-}} ||公益社団法人[[関西経済連合会]]相談役
|-
|理事(再任)||岡野貞彦|| {{center|-}} ||公益社団法人[[経済同友会]]事務局長・代表理事
|-
|理事(再任)||[[遠藤龍之介]]|| {{center|-}} ||株式会社[[フジテレビジョン]]取締役副会長
|-
|理事(新任)||[[松本大 (実業家)|松本大]]|| {{center|-}} ||マネックスグループ株式会社取締役会議長兼代表執行役社長CEO
|-
|理事(再任)||[[杉本昌隆]]||八段||(2012 - 2014年、2021 - 2023年:非常勤理事)
|-
|理事(再任)||[[斎田晴子]]||女流五段||(2019 - 2023年:非常勤理事)
|-
|理事(新任)||[[行方尚史]]||九段|| {{center|-}}
|}
==== 監事 ====
2023年6月9日より<ref name="20230609member" />
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!職業
|-
|監事(再任)||松岡幸秀||公認会計士
|-
|監事(再任)||[[佐藤義則 (棋士)|佐藤義則]]||九段(引退)
|}
==== 顧問 ====
2022年6月10日 理事会において選定・就任<ref name="20220610member">{{Cite web|和書|title=第73回通常総会ご報告|将棋ニュース|日本将棋連盟 |url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/06/73.html|accessdate=2022-06-10|language=ja}}</ref>
* [[大西朗]]:株式会社[[豊田自動織機]] 取締役社長
* 加藤丈夫:独立行政法人[[国立公文書館]]前館長、[[富士電機]]元取締役会長
* [[峰岸真澄]]:株式会社[[リクルートホールディングス]]代表取締役会長兼取締役会議長
=== 過去の体制 ===
公益社団法人移行後の2011年以降のみ。
{|class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:smaller;text-align:center;"
|+ style="text-align:left; font-size:110%"|日本将棋連盟 役員(棋士および女流棋士のみ抜粋)
! !!会長!!専務理事!!常務理事!!理事!!非常勤理事!!監事!!
|-
|style="line-height:80%;"|2011<br>{{縦書き|-}}<br>2012
|[[米長邦雄]]
|[[谷川浩司]]
|[[東和男]] / [[田中寅彦]]<br>[[中川大輔_(棋士)|中川大輔]]{{small|(2011年12月21日辞任)}}
|[[北島忠雄]]
|[[島朗]]<br>[[谷川治恵]]
|[[滝誠一郎]]
|style="line-height:80%;"|<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/05/post_420.html]</ref><br><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/12/post_505.html]</ref><br><ref>[https://web.archive.org/web/20110622085955/http://www.shogi.or.jp/aboutus/yakuin.html]</ref>
|-
|rowspan="2" style="line-height:80%;"|2012<br>{{縦書き|-}}<br>2013
|米長邦雄<br>{{small|(2012年12月18日死去)}}
|谷川浩司
|東和男 / 田中寅彦
|北島忠雄
|島朗<br>[[杉本昌隆]]<br>[[藤井猛]]<br>[[深浦康市]]<br>谷川治恵
|滝誠一郎
|style="line-height:100%;"|<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2012/06/post_573.html]</ref><br><ref>[https://web.archive.org/web/20120711133236/http://www.shogi.or.jp:80/aboutus/yakuin.html]</ref>
|-
|谷川浩司<br>{{small|(2012年12月25日選任)}}
|田中寅彦
|東和男<br>[[島朗]]{{small|(2013年1月1日より)}}
|北島忠雄
|杉本昌隆<br>藤井猛<br>深浦康市<br>谷川治恵
|滝誠一郎
|style="line-height:100%;"|<ref>[https://web.archive.org/web/20130108113657/http://www.shogi.or.jp:80/aboutus/yakuin.html]</ref><br><ref>[https://web.archive.org/web/20130108113657/http://www.shogi.or.jp/aboutus/yakuin.html]</ref>
|-
|style="line-height:80%;"|2013<br>{{縦書き|-}}<br>2014
|谷川浩司
|[[青野照市]]
|東和男 / 島朗 / 中川大輔
|[[片上大輔]]
|杉本昌隆<br>藤井猛<br>深浦康市<br>谷川治恵
|滝誠一郎
|style="line-height:100%;"|<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2013/06/post_753.html]</ref><br><ref>[https://web.archive.org/web/20130628071903/http://www.shogi.or.jp:80/aboutus/yakuin.html]</ref>
|-
|style="line-height:80%;"|2014<br>{{縦書き|-}}<br>2015
|谷川浩司
|青野照市
|東和男 / 島朗 / 中川大輔
|片上大輔
|谷川治恵
|滝誠一郎
|style="line-height:100%;"|<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2014/06/65_4.html]</ref><br><ref>[https://web.archive.org/web/20140702185334/http://www.shogi.or.jp/aboutus/yakuin.html]</ref>
|-
|style="line-height:80%;"|2015<br>{{縦書き|-}}<br>2016
|谷川浩司
|青野照市
|東和男 / 島朗 / 中川大輔<br>片上大輔 / [[佐藤秀司]]
| -
|[[井上慶太]]<br>谷川治恵
|[[淡路仁茂]]
|style="line-height:100%;"|<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2015/06/post_1216.html]</ref><br><ref>[https://web.archive.org/web/20150702125647/http://www.shogi.or.jp:80/aboutus/yakuin.html]</ref>
|-
|rowspan="3" style="line-height:80%;"|2016<br>{{縦書き|-}}<br>2017
|谷川浩司<br>{{small|(2017年2月6日辞任)}}
|rowspan="2"|青野照市<br>{{small|(2017年2月27日解任)}}
|rowspan="2"|東和男<br>島朗{{small|(2017年2月6日辞任)}}<br>中川大輔{{small|(2017年2月27日解任)}}<br>片上大輔{{small|(2017年2月27日解任)}}<br>佐藤秀司
|rowspan="3"| -
|rowspan="2"|井上慶太<br>谷川治恵
|rowspan="3"|淡路仁茂
|style="line-height:100%;"|<ref>[https://web.archive.org/web/20160813212319/http://www.shogi.or.jp:80/aboutus/yakuin.html]</ref><br><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2017/01/post_1498.html]</ref><br><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2017/02/post_1518.html]</ref>
|-
|rowspan="2"|[[佐藤康光]]<br>{{small|(2017年2月6日選任)}}
|rowspan="1"|<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2017/02/post_1510.html]</ref><br><ref>[https://www.shogi.or.jp/about/doc/28_yakuin.pdf]</ref>
|-
|rowspan="1"|東和男
|rowspan="1"|佐藤秀司<br>井上慶太{{small|(2017年2月6日選任)}}
|rowspan="1"|谷川治恵
|<ref>[https://www.shogi.or.jp/about/doc/28-02_yakuin.pdf]</ref>
|-
|style="line-height:80%;"|2017<br>{{縦書き|-}}<br>2019
|佐藤康光
|[[森内俊之]]
|井上慶太 / [[脇謙二]]<br>[[森下卓]] / [[鈴木大介_(棋士)|鈴木大介]]<br>[[清水市代]]
| -
|[[鈴木輝彦]]<br>[[長沢千和子]]
|淡路仁茂
|<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2017/05/post_1544.html]</ref><br><ref>[https://www.shogi.or.jp/about/doc/29_yakuin.pdf]</ref>
|-
|style="line-height:80%;"|2019<br>{{縦書き|-}}<br>2021
|佐藤康光
|脇謙二
|井上慶太 / 森下卓<br>鈴木大介 / 西尾明<br>清水市代
| -
|鈴木輝彦<br>[[斎田晴子]]
|[[佐藤義則 (棋士)|佐藤義則]]
|<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2019/06/70_7.html]</ref><br><ref>[https://www.shogi.or.jp/about/doc/rei1_yakuin.pdf]</ref>
|-
|style="line-height:80%;"|2021<br>{{縦書き|-}}<br>2023
|佐藤康光
|脇謙二
|井上慶太 / 森下卓<br>鈴木大介 / 西尾明<br>清水市代
| -
|[[杉本昌隆]]<br>斎田晴子
|佐藤義則
|<ref name="20210604member"/>
|}
==== 2021年 - 2023年 ====
2021年6月4日より<ref name="20210604member">{{Cite web|和書|title=第72回通常総会ご報告|将棋ニュース|日本将棋連盟 |url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/06/72_13.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2021-06-04|language=ja}}</ref>
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!段位・称号・職業!!担当
|-
|会長
|[[佐藤康光]]||九段(永世棋聖資格保持者)||
|-
|専務理事
|[[脇謙二]]||九段
|関西本部総務・渉外部
|-
|常務理事
|[[井上慶太]]||九段
|関西本部普及部
|-
|常務理事
|[[森下卓]]||九段
|総務部・事業部
|-
|常務理事
|[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]||九段
|渉外部・普及部免状部
|-
|常務理事
|[[清水市代]]||女流七段(クイーン四冠)||経営企画室開発部・経理部・渉外部
|-
|常務理事
|[[西尾明]]||七段
|メディア部
|-
|常務理事
|佐竹康峰<ref group="注">2017年5月 - 2021年6月まで非常勤理事。また棋士ではない人物が常務理事以上の職位に就いたのは初。</ref>
|[[東京スター銀行]]元取締役会長<br />[[日本オペラ振興会]]元理事長
|棋戦運営部、渉外担当<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/604423 藤井ブームに沸く将棋界と経済界の「意外な接点」] - 東洋経済ONLINE・2022年7月18日</ref>
|}
;非常勤理事
2021年6月4日より<ref name="20210604member" />
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!職業
|-
|理事||[[森詳介]]||公益社団法人[[関西経済連合会]]相談役
|-
|理事||岡野貞彦||公益社団法人[[経済同友会]]常務理事
|-
|理事||[[遠藤龍之介]]||[[日本民間放送連盟]](民放連)会長<br />株式会社[[フジテレビジョン]]取締役副会長<ref group="注">2019年6月7日の選出当時は専務取締役。その後代表取締役社長を経て現職。</ref>
|-
|理事||[[竹井粋鏡]]||将棋連盟元棋士会総合企画アドバイザー
|-
|理事||[[斎田晴子]]||女流五段
|-
|理事||[[杉本昌隆]]||八段(2012年 - 2014年:非常勤理事)
|}
;監事
2021年6月4日より<ref name="20210604member" />
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!職業
|-
|監事||松岡幸秀||公認会計士
|-
|監事||[[佐藤義則 (棋士)|佐藤義則]]||九段(引退)
|}
==== 2019年 - 2021年 ====
2019年6月7日より<ref>{{Cite web|和書|title=日本将棋連盟新役員のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2019/06/70_7.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2019-06-08|language=ja}}</ref>
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!段位・称号!!担当
|-
|会長||[[佐藤康光]]||九段(永世棋聖資格保持者)||
|-
|専務理事||[[脇謙二]]||八段<ref group="注">2021年4月1日、フリークラス規定により九段昇段。</ref>||関西本部総務・渉外部
|-
|常務理事||[[井上慶太]]||九段||関西本部普及部
|-
|常務理事||[[森下卓]]||九段||総務部・事業部
|-
|常務理事||[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]||九段||渉外部・普及部免状部
|-
|常務理事||[[清水市代]]||女流七段(クイーン四冠)||経営企画室開発部・経理部・渉外部
|-
|常務理事
|[[西尾明]]
|七段
|メディア部
|-
|理事||石橋弘光||連盟事務局長||
|}
;非常勤理事
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!職業
|-
|理事||[[森詳介]]||公益社団法人[[関西経済連合会]]相談役
|-
|理事||岡野貞彦||公益社団法人[[経済同友会]]常務理事
|-
|理事||佐竹康峰||[[公益財団法人]][[日本オペラ振興会]]理事長
|-
|理事||[[遠藤龍之介]]||株式会社[[フジテレビジョン]]代表取締役社長<ref group="注">2019年6月7日の選出当時は専務取締役。ただしこの時点で社長就任が内定していた。</ref>
|-
|理事||[[竹井粋鏡]]||将棋連盟元棋士会総合企画アドバイザー
|-
|理事||[[鈴木輝彦]]||八段(引退)
|-
|理事||[[斎田晴子]]||女流五段
|}
;監事
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!職業
|-
|監事||松岡幸秀||公認会計士
|-
|監事||[[佐藤義則 (棋士)|佐藤義則]]||九段(引退)
|}
==== 2017年 - 2019年 ====
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!段位・称号!!担当
|-
|会長||[[佐藤康光]]||九段(永世棋聖資格保持者)||
|-
|専務理事||[[森内俊之]]||九段(十八世名人資格保持者)||普及免状部・経理部
|-
|常務理事||[[井上慶太]]||九段||関西本部総務・渉外部
|-
|常務理事||[[脇謙二]]||八段||関西本部普及部
|-
|常務理事||[[森下卓]]||九段||メディア部・総務部
|-
|常務理事||[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]||九段||渉外部
|-
|常務理事||[[清水市代]]||女流七段(クイーン四冠)||渉外部・事業部
|-
|理事||杉浦伸洋||連盟事務局||
|}
==== 2015年 - 2017年 ====
(2015年6月4日から<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2015/06/post_1216.html 日本将棋連盟新役員のお知らせ] - 日本将棋連盟・2015年06月04日</ref>)
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!段位・称号!!担当!!備考
|-
|会長||[[谷川浩司]]||九段(十七世名人資格保持者)|| ||2017年2月6日辞任<ref name="soft1" group="注">[[将棋ソフト不正使用疑惑]]に伴う引責辞任。</ref>
|-
|会長||[[佐藤康光]]||九段(永世棋聖資格保持者)|| ||2017年2月6日就任
|-
|専務理事||[[青野照市]]||九段||事業部||2017年2月27日解任<ref name="soft2" group="注">[[将棋ソフト不正使用疑惑]]に伴う解任決議による解任。</ref>
|-
|常務理事||[[東和男]]||八段||関西本部||2017年3月より専務理事
|-
|常務理事||[[井上慶太]]||九段|| ||2017年2月6日就任
|-
|常務理事||[[島朗]]||九段||渉外部||2017年2月6日辞任<ref name="soft1" group="注" />
|-
|常務理事||[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]]||八段||普及免状部・経理部||2017年2月27日解任<ref name="soft2" group="注" />
|-
|常務理事||[[片上大輔]]||六段||電子メディア部||2017年2月27日解任<ref name="soft2" group="注" />
|-
|常務理事||[[佐藤秀司]]||七段|| ||
|}
==== 2013年 - 2015年 ====
(2013年6月7日から、※は2014年までの任期)
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!段位・称号!!担当
|-
|会長||[[谷川浩司]]||九段(十七世名人有資格者)||文化芸術振興局
|-
|専務理事||[[青野照市]]||九段||渉外部・免状部
|-
|常務理事||[[東和男]]||七段||関西本部
|-
|常務理事||[[島朗]]||九段||普及部
|-
|常務理事||[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]]||八段||総務部
|-
|理事||[[片上大輔]]||六段||電子メディア部・事業本部
|-
|理事||長島俊之||連盟事務局総務・経理部長||経理部
|-
|理事||大野木紀良※||連盟事務局||普及部・文化芸術振興局
|}
==== 2011年 - 2013年 ====
(2011年5月26日から、投票で選出された者のみ記載)
{| class="wikitable"
!役職!!名前!!段位・称号!!担当
|-
|会長||[[米長邦雄]]||永世[[棋聖戦_(将棋)|棋聖]](在任中に死去)||文化芸術振興局
|-
|会長||[[谷川浩司]]||九段(17世名人有資格者)||渉外部
|-
|常務理事||[[東和男]]||七段||関西本部
|-
|常務理事||[[田中寅彦]]||九段||事業本部
|-
|理事||[[北島忠雄]]||六段||総務部・電子メディア部
|-
|理事||長島俊之||連盟事務局総務・経理部長||経理部
|-
|理事||大野木紀良※||連盟事務局||普及部
|}
*[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]]八段は、普及部担当の常務理事に就任するも、2011年12月、一身上の都合により辞任。
=== 歴代会長 ===
==== 前身団体 ====
* 東京将棋倶楽部(1924年合流) - [[関根金次郎]]
* 将棋同盟社(1924年合流) - [[土居市太郎]]
* 東京将棋研究会(1924年合流) - [[大崎熊雄]]
* 棋正会(1927年合流) - [[木見金治郎]]
* 日本将棋革新協会(1936年合流) - [[花田長太郎]]
==== 東京将棋連盟(1924年 - 1927年) ====
* 1924年 - 土居市太郎
==== 日本将棋連盟(1927年 - 1936年) ====
* 1927年 - 関根金次郎
* 1932年 - 土居市太郎
* 1934年 - [[金易二郎]]
==== 将棋大成会(1936年 - 1947年) ====
* 1936年 - 関根金次郎
* 1938年 - [[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]
==== 日本将棋連盟(1947年 - ) ====
# 1947年 - 木村義雄
# 1948年 - [[渡辺東一]]
# 1953年 - [[坂口允彦]]
# 1955年 - [[萩原淳 (棋士)|萩原淳]]
# 1957年 - [[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]
# 1961年 - [[原田泰夫]]
# 1967年 - [[坂口允彦]]
# 1969年 - [[丸田祐三]]
# 1973年 - [[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]
# 1974年 - [[塚田正夫]]
# 1976年 - [[大山康晴]]<ref group="注">戦後に日本将棋連盟が発足して以来、大山は唯一の会長兼タイトルホルダーで、[[玉将|王将]]を3期連覇していた([[第29期王将戦]]、[[第30期王将戦]]、[[第31期王将戦]])。</ref>
# 1989年 - [[二上達也]]
# 2003年 - [[中原誠]]
# 2005年 - [[米長邦雄]]
# 2012年 - [[谷川浩司]]
# 2017年 - [[佐藤康光]]
# 2023年 - [[羽生善治]]
{{small|(数字は就任順、就任年)}}
== 棋士会 ==
女流棋士も含む新たな「棋士会」が2009年4月1日に発足した。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!就任・交代年月日!!名誉棋士会長!!会長!!副会長
|-
|2009年{{0}}4月{{0}}1日 <ref name="2009year">[https://www.shogi.or.jp/news/2009/04/post_176.html 新棋士会発足について] - 日本将棋連盟・2009年4月6日</ref>
|rowspan="2"|中原誠
|谷川浩司
|[[清水市代]] / [[佐藤康光]] / [[森内俊之]] / [[矢内理絵子]]
|-
|2011年{{0}}4月{{0}}1日 <ref name="2011year">[https://www.shogi.or.jp/news/2011/04/post_400.html 「棋士会」役員変更のお知らせ] - 日本将棋連盟・2011年4月4日</ref>
|佐藤康光
|矢内理絵子 / [[中村修 (棋士)|中村修]] / [[井上慶太]] / [[村田智穂]]
|-
!就任・交代年月日!!colspan="2"|会長!!副会長
|-
|2011年{{0}}4月11日 <ref name="2011year" />
|colspan="2" rowspan="3"|佐藤康光
|矢内理絵子 / [[中村修 (棋士)|中村修]] / [[井上慶太]] / [[村田智穂]]
|-
|2013年{{0|00月00日 00}}
|中村修 / 井上慶太 / 村田智穂
|-
|2015年{{0}}6月{{0}}4日 <ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2015/06/post_1217.html 棋士会役員のお知らせ] - 日本将棋連盟・2015年6月4日</ref>
|rowspan="2"|中村修 / [[久保利明]] / [[室田伊緒]]
|-
|2017年{{0}}1月31日 <ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2017/02/post_1508.html 佐藤康光棋士会会長の辞任に関するお知らせ] - 日本将棋連盟・2017年2月1日</ref>
|colspan="2"|(不在)
|-
|2017年{{0}}2月27日 <ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2017/02/post_1519.html 日本将棋連盟棋士会長に中村修九段が就任] - 日本将棋連盟・2017年2月27日</ref>
|colspan="2" rowspan="4"|中村修
|久保利明 / 室田伊緒
|-
|2017年{{0}}5月29日 <ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2017/05/post_1546.html 棋士会役員のお知らせ] - 日本将棋連盟・2017年5月31日</ref>
|久保利明 / [[畠山鎮]]
|-
|2019年{{0}}6月{{0}}7日 <ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2019/06/post_1797.html 棋士会役員のお知らせ] - 日本将棋連盟・2019年6月11日</ref>
|畠山鎮 / [[糸谷哲郎]] / [[遠山雄亮]]
|-
|2023年{{0}}6月{{0}}9日 <ref>[https://twitter.com/shogi_kishikai/status/1667072532527325184 将棋 棋士会(Twitter、2023年6月9日)]</ref>
|糸谷哲郎 / 遠山雄亮 / [[村山慈明]]
|}
中原名誉棋士会長の任期は、70歳まで。しかし、2011年4月11日付けで名誉棋士会長を辞退。
この棋士会発足に伴い、女流棋士会独自の役員制度は廃止され、[[谷川治恵]]女流棋士会長らの役員は退任した。
谷川浩司初代会長の方針は、下記の通りである<ref name="2009year" />。
* 技術研鑽や普及活動の在り方などについて会議で議論する
* 棋士会主導のイベントなどを開催してファンと交流を深める
==本部・将棋会館==
[[File:関西将棋会館1.jpg|thumb|right|120px|関西将棋会館]]
本部は3ヵ所に設けられていたが、公益社団法人発足に伴い、東海本部は、東海普及連合会と改称したため、2ヵ所となる。所在地は次の通り。
* 東京本部:[[東京都]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]二丁目([[将棋会館]]内)
* 関西本部:[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]]([[関西将棋会館]]内)
* 東海普及連合会(旧東海本部):[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]<ref group="注">将棋会館や関西将棋会館に存在する対局室が東海地区には無かったが、2022年6月22日、JR名古屋駅に隣接するミッドランドスクエアの25階に名古屋将棋対局場が開設された。詳しくは[[将棋会館]]を参照。</ref>
== 定期刊行物 ==
* [[将棋世界]]
* [[週刊将棋]](2016年3月30日号で休刊)
* 将棋年鑑<ref>[https://www.shogi.or.jp/publish/shogi_nenkan.html 将棋年鑑] - 日本将棋連盟</ref>
==部活動==
棋士の任意活動としていくつかの部活動がある。
*野球部「キングス(関東)」「シルバース(関西)」<ref>[https://www.shogi.or.jp/column/2016/11/post_52.html 武市三郎七段のゲッツー。石田直裕四段のタイムリーヒット。将棋連盟野球部「キングス」を紹介]</ref><ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2012/10/08/将棋連盟野球部事始め/ 将棋連盟野球部事始め]</ref>
*書道部<ref>[https://www.shogi.or.jp/column/2016/10/post_20.html すべてはファンのため。書道に打ち込むプロ棋士の姿。将棋連盟書道部に潜入]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150712003506/http://joryukishikai.shogi.or.jp/joryu_blog/article_2015/07/post-64.html 書道部]</ref>
*フットサル部<ref>[https://www.shogi.or.jp/column/2016/10/post_22.html 佐藤天彦名人の華麗なドリブル、渡辺明竜王のシュート!将棋連盟フットサル部を紹介]</ref><ref>[https://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/d3dc79592df0cfe920df1b2d7ced0fe7 フットサル。]</ref>
*囲碁部<ref>[https://www.shogi.or.jp/column/2016/10/igo.html 中原誠十六世名人も参加、将棋連盟囲碁部の活動に潜入]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20230408082147/https://segawa-challenge.seesaa.net/article/200810article_5.html 一昨日の木曜、連盟囲碁部なるものに初めて参加を。]</ref>
== オンライン将棋ゲーム ==
日本将棋連盟は[[将棋倶楽部24]]を運営し、[[将棋ウォーズ]]を公認、[[81Dojo]]を後援している。これらのオンライン対局の成績に基づいて免状も発行している<ref>[https://www.shogi.or.jp/license/howto.html 段級位取得の方法]</ref>。
===ソフト指しの公認===
日本将棋連盟ではソフト指し行為を反則負け及び棋士の停止とするにもかかわらず将棋ウォーズは課金をすることでソフトによる代打ち機能が使える(部分的であり、無制限ではない)がこちらは公認している<ref>[https://shogiwars.heroz.jp/ 将棋ウォーズ]</ref>。
== 棋譜利用のガイドライン ==
{{See also|棋譜#棋譜と著作権}}
1999年、日本将棋連盟は法的根拠がない(棋譜に著作権はない)ながらも収入問題に発展しかねないため、棋譜の頒布を控えてほしいとの「お願い」を行ってきた<ref>http://bug.org/ML/shogi/onegai.txt</ref>。<!--その後、棋譜に著作権ありとして、許諾を得ない掲載や転載を禁ずるケースもあった<ref>大和証券杯ネット将棋利用規約http://www.daiwashogi.net/agreement.html{{リンク切れ|date=2021年1月}}</ref>。-->2019年9月、「棋譜利用に関するお願い」として私的利用の範囲を超えた棋譜利用に事前申請を求め始める<ref name="kif">{{Cite news|title=厳しすぎる王将戦「棋譜利用ガイドライン」、ファンのつぶやき萎縮、将棋普及に悪影響か|newspaper=弁護士ドットニュース|date=2020-12-16|url=https://www.bengo4.com/c_18/n_12177/|accessdate=2021-01-27|publisher=Yahoo! JAPAN}}</ref>。利用料は商用、非商用で異なる<ref name="kif" />。その後、棋譜の著作権について法的に様々な議論があるとした上で<ref>[棋譜利用に関する公開質問状への回答 https://www.shogi.or.jp/news/2020/04/post_1908.html]</ref>、ガイドラインが制定された<ref>{{Cite news|title=将棋ファンにとって悪手か…厳しすぎる「王将戦」ガイドラインに見え隠れする「新聞社」の危機感|newspaper=弁護士ドットコム|date=2021-01-09|url=https://www.bengo4.com/c_18/n_12308/|accessdate=2021-01-10|publisher=Yahoo! JAPAN|author=弁護士ドットコム}}</ref>。過去に民法上の不法行為に当たるとして、[[朝日新聞社]]と日本将棋連盟が共同で主催した棋戦に関する[[藤井聡太]]の棋譜を無断で中継した将棋系[[YouTuber]]に対し、権利侵害として配信中止を求めた事例があり<ref>{{Cite news|title=「棋譜」に著作権はある? 「無断中継」なぜNG? 朝日新聞に聞いた|newspaper=ITmedia NEWS|date=2017-06-22|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1706/22/news113.html|accessdate=2021-01-27|publisher=アイティメディア}}</ref>、有名棋士の対局の場合、その知名度による[[パブリシティ権]]の問題が発生し、[[損害賠償]]の対象となる<ref>{{Cite news|title=将棋「YouTube実況」めぐり議論 個人の「棋譜中継」は権利侵害になる?|newspaper=J-CASTニュース|date=2017-06-25|url=https://www.j-cast.com/2017/06/25301298.html|accessdate=2020-01-27|publisher=ジェイ・キャスト}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『[[近代将棋]]』誌連載の漫画「名人義雄 [[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]十四世名人物語・少年編」
== 関連項目 ==
* [[将棋界]]
* [[棋士 (将棋)]]
* [[女流棋士 (将棋)]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/ 日本将棋連盟]
* {{Twitter|shogi_jsa|日本将棋連盟【公式】}}
* {{twitter|shogi_mobile|日本将棋連盟モバイル【将棋連盟ライブ中継】}}
* {{YouTube|user = ShogiAssociation}}
* [https://www.shogi.or.jp/kansai/ 関西将棋会館]
* [http://kansai-dojo.jugem.jp/ 関西将棋会館道場ブログ]
* [http://shogitokai.sakura.ne.jp/ 日本将棋連盟東海普及連合会]
* {{Soundlink|[https://abema.tv/now-on-air/shogi 将棋チャンネル] - ABEMA}}
{{日本将棋連盟所属棋士}}
{{将棋の現役女流棋士}}
{{将棋}}
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[[Category:日本の芸術文化団体]]
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明確性の原則
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明確性の原則(めいかくせいのげんそく)とは、人権を侵害する方向で作用する法律は、それによって萎縮効果を生じないよう、また誤って不利益を受ける者の生じないように、明確に規定されなくてはならないとする原則を言う。 精神的自由規制立法、刑法、租税立法などで明確性の原則が要請される。
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'''明確性の原則'''(めいかくせいのげんそく)とは、[[人権]]を侵害する方向で作用する[[法律]]は、それによって[[萎縮効果]]を生じないよう、また誤って不利益を受ける者の生じないように、明確に規定されなくてはならないとする原則を言う。
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中止犯
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中止犯(ちゅうしはん)あるいは中止未遂(ちゅうしみすい)とは、犯罪の実行に着手しながら、「自己の意思により」これを中止することをいい(刑法第43条但書)、その刑は必要的に減軽または免除される。
行為者の主観的事情により結果が発生しない場合であり、客観的事情により結果が発生しない場合(障害未遂)と区別される。
中止未遂を障害未遂よりも寛大に扱う理由について刑事政策説と法律説の対立がある。
刑事政策説は、任意に犯罪の遂行を中止した者に対して刑の必要的減免という褒章を与える「後戻りのための黄金の橋」(リスト)によって犯罪の完成を防止しようとする刑事政策的規定であると理解する。ドイツおよび日本におけるかつての支配的見解であるが、免除(日本法では減軽または免除)という特典を知らない者に対しては一般予防(目的刑論の「一般予防論」を参照)の効果が期待できないという批判を克服することができず、現在では少数説に止まっている。
法律説は、いったん発生させた具体的危険を自らの行為で除去することにより違法性または責任非難が減少することが減免の根拠であると理解する。法律説の内部でも違法(性)減少説と責任減少説の対立がある。違法(性)減少説に対しては、いったん発生した法益侵害結果(未遂犯として処罰される)が事後の行為により減少(さらに進んで消滅)するという構成は困難であるという批判があり、責任減少説が有力である。責任減少説は中止犯の効果の一身専属性および免除の効果を説明できる点で優れているが、責任減少説内部で「自己の意思により」の理解について対立があるため、項を改めて詳述する。
中止犯の要件は、犯罪の実行に着手した後、
ことである。
限定主観説、主観説、客観説とに分かれる。
限定主観説は「自己の意思により」とは悔悟や憐憫等の感情に基づいて犯罪の完成を止めたことと理解する。主観説や客観説に比べて中止未遂の成立が狭くなる。「自己の意思」という文言を限定解釈する根拠が明確でないという批判があるが、日本の判例は大審院以来この説を採用するケースが多い。
主観説と客観説はともに「やろうと思えばやれた」場合を中止犯、「やろうと思ってもやれなかった」場合を未遂犯とする判断基準「フランクの公式」に依拠する点で共通する。
なお、ドイツの判例は単なる故意の放棄(金庫を開けたが小額しか入っていなかったため盗まずに立ち去った、あるいは強姦しようとして押し倒した相手が知人だったので止めた等)でも中止犯を認める。
ドイツでは条文上着手未遂と実行未遂が区別されており(ドイツ刑法24条1項)、日本の学説でもこの概念を採り入れて説明する場合が多い。
他人に致命傷を与えた場合について、「自己の意思により」について限定主観説を採る判例からは、単なる救護行為だけでは中止未遂が認められないが、主観説または客観説からは救護行為のみで中止未遂成立を認めるのが通常である。
中止行為と結果不発生との因果関係も問題とされる。
判例および多数説は、中止未遂が未遂罪として規定されていることから、結果が発生した場合は中止未遂の成立を否定する。
だが、例えば治療に当たった医師のミスで死亡した場合に中止未遂の成立を認めないのは行為者に酷であり、行為者が結果不発生に必要かつ相当な行為をした場合には結果との相当因果関係が遮断されるとする学説もある。
なお、旧ドイツ刑法46条2項は自己の行為に限定し、第三者の行為の介入があった場合に中止未遂を認めなかったが、現行の24条はそのような限定を加えていない。
「その刑を減軽し、又は免除する」
必要的減免であり、任意的減軽に止まる障害未遂と大きく異なる。
違法(性)減少説からは免除の効果を説明することは困難であり、政策説や責任減少説の根拠となる。
共同正犯(b:刑法第60条)についても単独正犯と同様に中止未遂(ただし、単独正犯における中止犯と区別して特に「共犯関係からの離脱」と呼ぶのが通例である)の概念が認められるとするのが、通説である惹起説からは論理的な帰結である。
問題は、違法の連帯を前提とする限り、共犯者にも中止未遂の効果が及んでしまう点にあり、違法(性)減少説の難点とされる。
学説では、実行の着手前の離脱については、離脱の意思表示とそれに対応する共犯者からの承諾のみで足りると解するのが一般である。 また、共謀共同正犯の場合、実行に着手した後に離脱が成立するには、単なる離脱の意思表示と承諾では足りず、共犯仲間を説得し翻意させるなどして既存の共犯関係を解消して結果との因果性を遮断することも必要であると解されている。
判例では、共謀における主要な立場にある者には離脱を認めない。
なお、以上のように、共犯における中止犯を共犯関係からの離脱と混同する見解もある。しかし、共犯関係からの離脱は構成要件該当性の問題であるのに対し、共犯における中止犯は犯罪が成立した上での刑の減免の問題である。共犯の処罰根拠をどう捉えるか、中止犯の根拠をどう捉えるかにかかわらず、これらは区別して考えるべきである(大塚裕史 「共同正犯関係の解消」『法学セミナー』747号、日本評論社、2017年) 。
予備は実行の着手に至る以前の段階であり、予備行為につき中止未遂を認めないのが論理的であるが、現行刑法ではほぼ全ての予備罪で刑の免除が認められている(例えば、内乱罪につきb:刑法第80条、殺人罪につきb:刑法第201条を参照)。強盗予備罪(b:刑法第237条)のみ免除規定がなく、強盗予備の中止未遂の成否が争われている。 別件で禁錮刑以上の罪を犯し、併合罪として処理する場合は、強盗予備罪の法定下限は1か月であるため、吸収し、実質不処罰とすることができるが、別件で起訴された罪状がないまたは罰金刑以下のときはどうしても酌量減軽をしても15日の懲役は最低でも課せられる。ただし初犯であれば執行猶予を付けることができる。
強盗予備の段階で中止行為をしても減免されないのに、強盗行為に着手してから中止すればb:刑法第43条ただし書の適用を受け必要的減免がされるのは不合理であると主張する学説もあるが、実際に強盗中止未遂で刑が免除されることは、脅迫罪・強要罪に比べて罪が軽くなってしまうことになるので、刑事政策上ありえないので、情状として考慮すれば足りるとする学説もある。
なお、判例は強盗予備罪の中止未遂を認めない一方で予備罪の共同正犯を広く認めており、一貫していないとする見方もある。すなわち、予備罪について実行行為の前段階であることを理由に犯罪としての定型性を認めず、「中止未遂の観念を容れる余地のないものである」(最大判昭和29年1月20日)とするならば、予備に該当する行為を共同で行った場合に「共同して犯罪を実行した」(b:刑法第刑法60条)と評価すること(最判昭和37年11月8日など)は予備行為を実行行為と同視していることとなり、論理矛盾ではないか(また、現行法は自己予備のみを処罰するという前提にも反する)という批判である。 この批判に対しては、目的のない加功者を非身分者とみてb:刑法第65条1項を根拠に共同正犯を成立させてよいとする学説(藤木、大谷ら)もあるが、少数説に止まっている。
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"text": "なお、旧ドイツ刑法46条2項は自己の行為に限定し、第三者の行為の介入があった場合に中止未遂を認めなかったが、現行の24条はそのような限定を加えていない。",
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"text": "問題は、違法の連帯を前提とする限り、共犯者にも中止未遂の効果が及んでしまう点にあり、違法(性)減少説の難点とされる。",
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"text": "学説では、実行の着手前の離脱については、離脱の意思表示とそれに対応する共犯者からの承諾のみで足りると解するのが一般である。 また、共謀共同正犯の場合、実行に着手した後に離脱が成立するには、単なる離脱の意思表示と承諾では足りず、共犯仲間を説得し翻意させるなどして既存の共犯関係を解消して結果との因果性を遮断することも必要であると解されている。",
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"text": "なお、以上のように、共犯における中止犯を共犯関係からの離脱と混同する見解もある。しかし、共犯関係からの離脱は構成要件該当性の問題であるのに対し、共犯における中止犯は犯罪が成立した上での刑の減免の問題である。共犯の処罰根拠をどう捉えるか、中止犯の根拠をどう捉えるかにかかわらず、これらは区別して考えるべきである(大塚裕史 「共同正犯関係の解消」『法学セミナー』747号、日本評論社、2017年) 。",
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"text": "予備は実行の着手に至る以前の段階であり、予備行為につき中止未遂を認めないのが論理的であるが、現行刑法ではほぼ全ての予備罪で刑の免除が認められている(例えば、内乱罪につきb:刑法第80条、殺人罪につきb:刑法第201条を参照)。強盗予備罪(b:刑法第237条)のみ免除規定がなく、強盗予備の中止未遂の成否が争われている。 別件で禁錮刑以上の罪を犯し、併合罪として処理する場合は、強盗予備罪の法定下限は1か月であるため、吸収し、実質不処罰とすることができるが、別件で起訴された罪状がないまたは罰金刑以下のときはどうしても酌量減軽をしても15日の懲役は最低でも課せられる。ただし初犯であれば執行猶予を付けることができる。",
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"text": "強盗予備の段階で中止行為をしても減免されないのに、強盗行為に着手してから中止すればb:刑法第43条ただし書の適用を受け必要的減免がされるのは不合理であると主張する学説もあるが、実際に強盗中止未遂で刑が免除されることは、脅迫罪・強要罪に比べて罪が軽くなってしまうことになるので、刑事政策上ありえないので、情状として考慮すれば足りるとする学説もある。",
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] |
中止犯(ちゅうしはん)あるいは中止未遂(ちゅうしみすい)とは、犯罪の実行に着手しながら、「自己の意思により」これを中止することをいい(刑法第43条但書)、その刑は必要的に減軽または免除される。 行為者の主観的事情により結果が発生しない場合であり、客観的事情により結果が発生しない場合(障害未遂)と区別される。
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{{出典の明記|date=2017年3月19日 (日) 15:16 (UTC)}}
{{Law}}
{{日本の刑法}}
'''中止犯'''(ちゅうしはん)あるいは'''中止未遂'''(ちゅうしみすい)とは、[[犯罪]]の実行に[[実行の着手|着手]]しながら、「自己の意思により」これを中止することをいい([[刑法 (日本)|刑法]][[b:刑法第43条|第43条]]但書)、その刑は必要的に減軽または免除される。
行為者の主観的事情により結果が発生しない場合であり、客観的事情により結果が発生しない場合('''障害未遂''')と区別される。
== 中止犯の法的性質 ==
中止未遂を障害未遂よりも寛大に扱う理由について'''刑事政策説'''と'''法律説'''の対立がある。
'''刑事政策説'''は、任意に犯罪の遂行を中止した者に対して刑の必要的減免という褒章を与える「後戻りのための黄金の橋」(リスト)によって犯罪の完成を防止しようとする刑事政策的規定であると理解する。ドイツおよび日本におけるかつての支配的見解であるが、免除(日本法では減軽または免除)という特典を知らない者に対しては一般予防([[目的刑論]]の「一般予防論」を参照)の効果が期待できないという批判を克服することができず、現在では少数説に止まっている。
'''法律説'''は、いったん発生させた具体的危険を自らの行為で除去することにより違法性または責任非難が減少することが減免の根拠であると理解する。法律説の内部でも'''違法(性)減少説'''と'''責任減少説'''の対立がある。違法(性)減少説に対しては、いったん発生した法益侵害結果([[未遂犯]]として処罰される)が事後の行為により減少(さらに進んで消滅)するという構成は困難であるという批判があり、責任減少説が有力である。責任減少説は中止犯の効果の一身専属性および免除の効果を説明できる点で優れているが、責任減少説内部で「自己の意思により」の理解について対立があるため、項を改めて詳述する。
== 中止犯の要件 ==
中止犯の要件は、犯罪の実行に着手した後、
# 自己の意思により
# 犯罪を中止した
ことである。
=== 「自己の意思により」 ===
限定主観説、主観説、客観説とに分かれる。
'''限定主観説'''は「自己の意思により」とは悔悟や憐憫等の感情に基づいて犯罪の完成を止めたことと理解する。主観説や客観説に比べて中止未遂の成立が狭くなる。「自己の意思」という文言を限定解釈する根拠が明確でないという批判があるが、日本の判例は[[大審院]]以来この説を採用するケースが多い。
'''主観説'''と'''客観説'''はともに「やろうと思えばやれた」場合を中止犯、「やろうと思ってもやれなかった」場合を未遂犯とする判断基準'''「フランクの公式」'''に依拠する点で共通する。<br>
:主観説は行為者を基準にし、通説となっている。<br>
:客観説は一般人を基準し、「自己の意思」という文言に反する。
なお、ドイツの判例は単なる[[故意]]の放棄(金庫を開けたが小額しか入っていなかったため盗まずに立ち去った、あるいは強姦しようとして押し倒した相手が知人だったので止めた等)でも中止犯を認める。
=== 「中止した」 ===
ドイツでは条文上'''着手未遂'''と'''実行未遂'''が区別されており([http://dejure.org/gesetze/StGB/24.html ドイツ刑法24条1項])、日本の学説でもこの概念を採り入れて説明する場合が多い。
*'''着手未遂'''は実行行為が終了していないため、不作為(行為を中断する)だけで中止未遂が成立する。
*'''実行未遂'''は実行行為が終了し結果が発生していない段階で自ら結果発生を阻止する場合であり、中止未遂成立には積極的な作為を必要とする。
他人に致命傷を与えた場合について、「自己の意思により」について限定主観説を採る判例からは、単なる救護行為だけでは中止未遂が認められないが、主観説または客観説からは救護行為のみで中止未遂成立を認めるのが通常である。
中止行為と結果不発生との[[因果関係 (法学)|因果関係]]も問題とされる。
判例および多数説は、中止未遂が未遂罪として規定されていることから、結果が発生した場合は中止未遂の成立を否定する。
だが、例えば治療に当たった医師のミスで死亡した場合に中止未遂の成立を認めないのは行為者に酷であり、行為者が結果不発生に必要かつ相当な行為をした場合には結果との相当因果関係が遮断されるとする学説もある。
なお、旧ドイツ刑法46条2項は自己の行為に限定し、第三者の行為の介入があった場合に中止未遂を認めなかったが、現行の24条はそのような限定を加えていない。
== 中止の効果 ==
「その刑を減軽し、又は免除する」
必要的'''減免'''であり、任意的'''減軽'''に止まる障害未遂と大きく異なる。
違法(性)減少説からは免除の効果を説明することは困難であり、政策説や責任減少説の根拠となる。
== 共犯における中止犯(共犯関係からの離脱) ==
[[共同正犯]]([[b:刑法第60条]])についても[[単独正犯]]と同様に中止未遂(ただし、単独正犯における中止犯と区別して特に「共犯関係からの離脱」と呼ぶのが通例である)の概念が認められるとするのが、通説である[[惹起説]]からは論理的な帰結である。
問題は、[[違法の連帯]]を前提とする限り、共犯者にも中止未遂の効果が及んでしまう点にあり、違法(性)減少説の難点とされる。
学説では、実行の着手前の離脱については、離脱の意思表示とそれに対応する共犯者からの承諾のみで足りると解するのが一般である。
また、[[共謀共同正犯]]の場合、実行に着手した後に離脱が成立するには、単なる離脱の意思表示と承諾では足りず、共犯仲間を説得し翻意させるなどして既存の共犯関係を解消して結果との因果性を遮断することも必要であると解されている。
判例では、共謀における主要な立場にある者には離脱を認めない。
なお、以上のように、共犯における中止犯を共犯関係からの離脱と混同する見解もある。しかし、共犯関係からの離脱は構成要件該当性の問題であるのに対し、共犯における中止犯は犯罪が成立した上での刑の減免の問題である。共犯の処罰根拠をどう捉えるか、中止犯の根拠をどう捉えるかにかかわらず、これらは区別して考えるべきである(大塚裕史 「共同正犯関係の解消」『法学セミナー』747号、日本評論社、2017年)
。
== 予備罪の中止 ==
[[予備]]は[[実行の着手]]に至る以前の段階であり、予備行為につき中止未遂を認めないのが論理的であるが、現行刑法ではほぼ全ての予備罪で刑の免除が認められている(例えば、[[内乱罪]]につき[[b:刑法第80条]]、[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]につき[[b:刑法第201条]]を参照)。強盗予備罪([[b:刑法第237条]])のみ免除規定がなく、強盗予備の中止未遂の成否が争われている。<br>
別件で禁錮刑以上の罪を犯し、併合罪として処理する場合は、強盗予備罪の法定下限は1か月であるため、吸収し、実質不処罰とすることができるが、別件で起訴された罪状がないまたは罰金刑以下のときはどうしても酌量減軽をしても15日の懲役は最低でも課せられる。ただし初犯であれば執行猶予を付けることができる。
強盗予備の段階で中止行為をしても減免されないのに、強盗行為に着手してから中止すれば[[b:刑法第43条]]ただし書の適用を受け必要的減免がされるのは不合理であると主張する学説もあるが、実際に強盗中止未遂で刑が免除されることは、脅迫罪・強要罪に比べて罪が軽くなってしまうことになるので、刑事政策上ありえないので、情状として考慮すれば足りるとする学説もある。
なお、判例は強盗予備罪の中止未遂を認めない一方で予備罪の共同正犯を広く認めており、一貫していないとする見方もある。すなわち、予備罪について実行行為の前段階であることを理由に犯罪としての定型性を認めず、「中止未遂の観念を容れる余地のないものである」(最大判昭和29年1月20日)とするならば、予備に該当する行為を共同で行った場合に「共同して犯罪を実行した」([[b:刑法第刑法60条]])と評価すること(最判昭和37年11月8日など)は予備行為を実行行為と同視していることとなり、論理矛盾ではないか(また、現行法は自己予備のみを処罰するという前提にも反する)という批判である。<br>
この批判に対しては、目的のない加功者を非身分者とみて[[b:刑法第65条]]1項を根拠に共同正犯を成立させてよいとする学説(藤木、大谷ら)もあるが、少数説に止まっている。
== 関連項目 ==
* [[未遂]]
* [[不能犯]]
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11,723 |
未遂
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未遂(みすい)とは、狭義には犯罪の実行への着手があったが、行為者本人の意思に基づかない外部的な障害によってこれを完成しなかった場合(障害未遂)をいう。また、広義には自己の意思によって犯罪を中止した場合(中止未遂、中止犯)を含む。対義語は既遂。
本来、刑罰法規の基本的構成要件は既遂犯を予定して作られているものである。未遂犯はこのような基本的構成要件を修正して既遂に至る前段階の一定の行為についてそれ自体を処罰するものである。
結果責任主義をとっていた古い刑法の時代には現実に発生した結果への責任を問うことで足りた。未遂という概念が発達するのは中世のイタリア法学においてであり、カロリーナ刑事法典では既遂犯よりも軽く罰せられるべき旨が定められていた。
実行の開始(実行の着手)がありながら既遂に至らない行為を未遂とする現代的な意味での未遂犯の概念は、1810年に制定されたフランス刑法典2条に由来し、1871年のドイツ刑法典に継受されたことに始まる。
近代学派の立場では犯罪は行為者の危険的な性格の発現とみることから、未遂犯処罰の根拠についても行為者の法敵対的な意思の発現にあるから行為者の意思に差異がない以上は未遂犯も既遂犯と同様に処罰すべきであるとするのに対し、古典学派の立場では犯罪行為の客観的側面を基準に考えるべきとし、構成要件的結果を発現する危険度の増大に従って予備よりも未遂、未遂よりも既遂の方が重い罪責に問われるべきであるとする。
なお、未遂犯と不能犯の区別の問題については不能犯を参照。
未遂犯について日本法では刑法43条に規定がある。
未遂のうち、自己の意思によって中止したもの(刑法43条後段)が中止未遂、これ以外の未遂が障害未遂にあたる。
未遂犯の一般的取り扱いは「減軽することができる」ということであるが(裁量的減軽規定)、特に「自己の意思により犯罪を中止したとき」(中止未遂)については、「減軽し、又は免除する」と定められており必要的に減免しなければならない(必要的減免規定)。
未遂犯の処罰について日本法では刑法44条で「未遂を罰する場合は、各本条で定める」と規定しており、具体的に「未遂を罰する」という規定がある場合にのみ処罰される。
「犯罪の実行に着手」の意味については主観説と客観説の対立がある。
未遂犯は犯罪の基本的構成要件が完全に充足されるに至らなかった場合に成立する。
実行行為に着手したが実行行為が完了しなかった場合を着手未遂、実行行為は完了したが構成要件的結果は発生しなかった場合を実行未遂(欠効犯または終了未遂)という。ただし、着手未遂と実行未遂の区別自体は刑法上重要な意味を持たない(ともに障害未遂)。
自己の意思により犯罪を中止したときは中止未遂となる(b:刑法第43条後段)。
刑法44条を受けて、未遂を処罰する場合には各章ごとに別個に規定が置かれており、特に重大な犯罪についてはほぼ全てに未遂罪を罰する規定が置かれている。
未遂を罰する場合の法文の例に、以下のようなケースがある(カッコ内の条文解説は原文にはない)。
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'''未遂'''(みすい)とは、狭義には犯罪の[[実行の着手|実行への着手]]があったが、行為者本人の意思に基づかない外部的な障害によってこれを完成しなかった場合('''障害未遂''')をいう<ref>『有斐閣 法律用語辞典 [第3版]』法令用語研究会 編、有斐閣、2006年、ISBN 4-641-00025-5 704頁目「障害未遂」の項</ref>。また、広義には自己の意思によって犯罪を中止した場合('''中止未遂'''、'''[[中止犯]]''')を含む{{Sfn|大塚仁|2008|p=250}}。対義語は[[既遂]]。
== 概説 ==
本来、刑罰法規の基本的構成要件は既遂犯を予定して作られているものである{{Sfn|大塚仁|2008|p=250}}。未遂犯はこのような基本的構成要件を修正して既遂に至る前段階の一定の行為についてそれ自体を処罰するものである{{Sfn|大塚仁|2008|pp=250-251}}。
結果責任主義をとっていた古い刑法の時代には現実に発生した結果への責任を問うことで足りた{{Sfn|大塚仁|2008|p=251}}。未遂という概念が発達するのは中世のイタリア法学においてであり、カロリーナ刑事法典では既遂犯よりも軽く罰せられるべき旨が定められていた{{Sfn|大塚仁|2008|p=251}}。
実行の開始(実行の着手)がありながら既遂に至らない行為を未遂とする現代的な意味での未遂犯の概念は、[[1810年]]に制定されたフランス刑法典2条に由来し、[[1871年]]のドイツ刑法典に継受されたことに始まる{{Sfn|大塚仁|2008|p=251}}。
[[刑法学|近代学派]]の立場では犯罪は行為者の危険的な性格の発現とみることから、未遂犯処罰の根拠についても行為者の法敵対的な意思の発現にあるから行為者の意思に差異がない以上は未遂犯も既遂犯と同様に処罰すべきであるとするのに対し、[[刑法学|古典学派]]の立場では犯罪行為の客観的側面を基準に考えるべきとし、構成要件的結果を発現する危険度の増大に従って予備よりも未遂、未遂よりも既遂の方が重い罪責に問われるべきであるとする{{Sfn|大塚仁|2008|pp=251-252}}{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|pp=161-162}}。
なお、未遂犯と不能犯の区別の問題については[[不能犯]]を参照。
== 日本法 ==
{{日本の刑法}}
=== 未遂犯の態様と処罰 ===
未遂犯について日本法では[[b:刑法第43条|刑法43条]]に規定がある。
{{indent|
;[[b:刑法第43条|刑法第43条]](未遂減免)
:犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者は、その刑を減軽することができる。ただし、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽し、又は免除する。
}}
未遂のうち、自己の意思によって中止したもの(刑法43条後段)が'''中止未遂'''、これ以外の未遂が'''障害未遂'''にあたる。
未遂犯の一般的取り扱いは「減軽することができる」ということであるが(裁量的減軽規定)、特に「自己の意思により犯罪を中止したとき」(中止未遂)については、「減軽し、又は免除する」と定められており必要的に減免しなければならない(必要的減免規定)。
未遂犯の処罰について日本法では[[b:刑法第44条|刑法44条]]で「未遂を罰する場合は、各本条で定める」と規定しており、具体的に「未遂を罰する」という規定がある場合にのみ処罰される。
=== 障害未遂の要件 ===
==== 犯罪実行の着手 ====
「犯罪の実行に着手」の意味については主観説と客観説の対立がある{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=161}}。
{{indent|
; 主観説(近代学派)
: 行為者の犯罪的意思を基準として実行の着手を認定する学説。主観説では外部的・客観的な行為は故意を認識するための手段とみるにすぎない{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=161}}。
: 主観説に対しては行為の客観的意味も考慮すべきで犯罪意思への偏重は正しくないという批判がある{{Sfn|大塚仁|2008|p=252}}。
; 客観説(古典学派)
: 犯罪行為の客観的側面を基準として実行の着手を認定する学説。
:; 形式的客観説
:: 犯罪の構成要件を基準として実行の着手を認定する学説。
:; 実質的客観説
:: 法的侵害の現実的危険性の有無を基準として実行の着手を認定する学説。
:
; 折衷説
: 主観説でも行為者の主観を離れた客観的行為は予定され、客観説でも基本的構成要件についての構成要件的故意は必要であるから、両説に区別の実益はないとして行為の主観・客観の両側面から実行の着手を認定する学説{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=163}}。
}}
==== 犯罪を遂げなかったこと ====
未遂犯は犯罪の基本的構成要件が完全に充足されるに至らなかった場合に成立する{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=165}}。
実行行為に着手したが実行行為が完了しなかった場合を'''着手未遂'''、実行行為は完了したが構成要件的結果は発生しなかった場合を'''実行未遂'''(欠効犯または終了未遂)という{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=165}}。ただし、着手未遂と実行未遂の区別自体は刑法上重要な意味を持たない{{Sfn|高窪貞人|石川才顯|奈良俊夫|佐藤芳男|1983|p=165}}(ともに障害未遂)。
=== 中止未遂の要件 ===
{{see|中止犯}}
自己の意思により犯罪を中止したときは中止未遂となる([[b:刑法第43条]]後段)。
=== 各本条における未遂犯処罰規定 ===
刑法44条を受けて、未遂を処罰する場合には各章ごとに別個に規定が置かれており、特に重大な犯罪についてはほぼ全てに未遂罪を罰する規定が置かれている。
未遂を罰する場合の法文の例に、以下のようなケースがある(カッコ内の条文解説は原文にはない)。
{{indent|
;[[b:刑法第203条|第203条]]
:[[b:刑法第199条|第199条]](殺人)及び[[b:刑法第198条|前条]](自殺関与及び同意殺人)の罪の未遂は、罰する。
;[[b:刑法第228条|第228条]]
:[[b:刑法第224条|第224条]](未成年者略取及び誘拐)、[[b:刑法第225条|第225条]](営利目的等略取及び誘拐)、[[b:刑法第225条の2|第225条の2]]第一項(身の代金目的略取等)、[[b:刑法第226条|第226条]](国外移送目的略取等)並びに前条第1項から第3項まで及び第四項前段(被略取者収受等)の罪の未遂は、罰する。
;[[b:刑法第243条|第243条]]
:[[b:刑法第235条|第235条]](窃盗)から[[b:刑法第236条|第236条]](強盗)まで、[[b:刑法第238条|第238条]](事後強盗)から[[b:刑法第240条|第240条]](強盗致死傷)まで及び[[b:刑法第241条|第241条]]第3項(強盗・強制性交等及び同致死)の罪の未遂は、罰する。
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書 |author=大塚仁 |title=刑法概説 総論 第4版 |publisher=有斐閣 |year=2008 }}
* {{Cite book|和書|author1=高窪貞人|author2=石川才顯|author3=奈良俊夫|author4=佐藤芳男|year=1983|title=刑法総論|publisher=青林書院}}
== 関連項目 ==
* [[中止犯]]
* [[不能犯]]
* [[予備]]
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の刑法]]
[[Category:中止]]
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法益
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法益(ほうえき、ドイツ語: Rechtsgut)とは、法律によって保護される利益をいう。保護法益(ほごほうえき、ドイツ語: Schutzgut)ともいう。
法律が一定の禁止規範を設けるのは、それによって一定の利益の保護を図るという目的があるためである。
この法律によって保護される利益・価値を、「法益(保護法益)」という。
規制法令の法益は何かを考えることは、その法令の解釈の指針となる。
例えば、「未成年者を略取し、又は誘拐した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。」(刑法224条)との法令があったとする。この法令の法益は未成年者の保護者の監護権であると考えると、親権者である父が、親権者である母のもとから幼児を誘拐しても、何ら法益を侵害しておらず、違法性がない(つまり、犯罪は成立しない。犯罪を参照。)と解釈する余地がある(最高裁平成15(2003)年3月18日決定刑集57巻3号371頁参照)。また、仮にこの法令の法益は未成年者の移動の自由であると考えると、自由に移動する意思も能力もまだ持たない乳児を略取しても、何ら法益を侵害しておらず、違法性がないと解釈する余地がある。
刑法の第一の機能を法益の保護とし、犯罪の本質は法益の侵害にあるという考えを「法益保護説(法益侵害説)」という。刑法によって保護される法益は、生命、身体、自由などの個人的法益、公共の安全などの社会的法益、通貨制度、文書制度などの国家的法益があり、法益の保護を通じて社会秩序を保護している。
いかなる行為が法益の侵害となるかを明示しておかなければ市民の行動が不必要に制限されてしまうため、あらかじめ犯罪と刑罰を法律によって明示して規定することを罪刑法定主義という。この罪刑法定主義は、「法益保護主義」(保護すべき法益が存在する限り刑法の適用が肯定される考え)に制約を課す原理である。
個人的法益について、法益主体が自己の法益の侵害に同意している場合には、法益の要保護性が欠如するため、原則として違法性がなくなり、犯罪は成立しなくなる。
緊急避難の要件の1つに、「法益権衡保持の原則」がある。これは、保全利益(守ろうとした利益)が侵害された法益と等しいか、侵害された法益より大きいことが必要であるという要件である。この2つの大小の比較は、具体的事例に応じて決めるべきであるが、同一の法益についてはその量の大小が、異種の法益についてはその法定刑の軽重が、比較のための一応の基準となる。
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"text": "緊急避難の要件の1つに、「法益権衡保持の原則」がある。これは、保全利益(守ろうとした利益)が侵害された法益と等しいか、侵害された法益より大きいことが必要であるという要件である。この2つの大小の比較は、具体的事例に応じて決めるべきであるが、同一の法益についてはその量の大小が、異種の法益についてはその法定刑の軽重が、比較のための一応の基準となる。",
"title": "刑法"
}
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法益とは、法律によって保護される利益をいう。保護法益ともいう。
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'''法益'''(ほうえき、{{lang-de|Rechtsgut}})とは、[[法律]]によって保護される[[利益]]をいう。'''保護法益'''(ほごほうえき、{{lang-de|Schutzgut}})ともいう。
== 概説 ==
法律が一定の禁止規範を設けるのは、それによって一定の利益の保護を図るという目的があるためである{{sfn|西田|2010|p=30}}。
この法律によって保護される利益・価値を、「'''法益'''('''保護法益''')」という{{sfn|西田|2010|p=30}}。
== 解釈 ==
{{出典の明記|date=2021年10月|section=1}}
規制[[法令]]の法益は何かを考えることは、その法令の[[解釈]]の指針となる。
例えば、「[[未成年者]]を[[略取]]し、又は[[誘拐]]した者は、3月以上5年以下の[[懲役]]に処する。」([[刑法 (日本)|刑法]]224条)との法令があったとする。この法令の法益は未成年者の[[保護者]]の[[監護権]]であると考えると、[[親権者]]である[[父]]が、親権者である[[母]]のもとから[[幼児]]を誘拐しても、何ら法益を侵害しておらず、[[違法性]]がない(つまり、犯罪は成立しない。[[犯罪]]を参照。)と解釈する余地がある(最高裁平成15(2003)年3月18日決定[[刑集]]57巻3号371頁参照)。また、仮にこの法令の法益は未成年者の[[移動]]の[[自由]]であると考えると、自由に移動する[[意思]]も能力もまだ持たない[[乳児]]を略取しても、何ら法益を侵害しておらず、違法性がないと解釈する余地がある。
== 刑法 ==
[[刑法 (日本)|刑法]]の第一の機能を法益の保護とし、犯罪の本質は法益の侵害にあるという考えを「'''法益保護説'''('''法益侵害説''')」という{{sfn|西田|2010|p=30}}{{sfn|大谷|2019|p=4}}{{Refnest|group="注釈"|一方で、刑法の第一の機能を社会倫理の維持とし、犯罪の本質は反道徳行為に対する処罰という考えを「社会倫理説」、刑法の第一の機能を社会秩序の基本となる規範の保護とし、犯罪の本質は社会規範に違反したことに対する処罰という考えを「社会秩序説(規範侵害説)」という{{sfn|大谷|2019|p=4}}{{sfn|西田|2010|p=31}}。}}。刑法によって保護される法益は、生命、身体、自由などの[[個人的法益]]、公共の安全などの[[社会的法益]]、通貨制度、文書制度などの[[国家的法益]]があり、法益の保護を通じて社会秩序を保護している{{sfn|西田|2010|pp=30-31}}{{sfn|大谷|2019|pp=4-5}}。
=== 法益保護主義 ===
いかなる行為が法益の侵害となるかを明示しておかなければ市民の行動が不必要に制限されてしまうため、あらかじめ犯罪と刑罰を法律によって明示して規定することを[[罪刑法定主義]]という{{sfn|今井|小林|島田|橋爪|2012|p=13}}。この罪刑法定主義は、「'''法益保護主義'''」(保護すべき法益が存在する限り刑法の適用が肯定される考え)に制約を課す原理である{{sfn|今井|小林|島田|橋爪|2012|p=13}}。
=== 被害者の承諾 ===
{{Main|被害者の承諾}}
個人的法益について、法益主体が自己の法益の侵害に同意している場合には、法益の要保護性が欠如するため、原則として違法性がなくなり、犯罪は成立しなくなる{{sfn|西田|2010|p=187}}。
=== 緊急避難の要件 ===
{{Main|緊急避難}}
緊急避難の要件の1つに、「'''[[緊急避難#法益権衡保持の原則|法益権衡保持の原則]]'''」がある{{sfn|西田|2010|p=148}}。これは、保全利益(守ろうとした利益)が侵害された法益と等しいか、侵害された法益より大きいことが必要であるという要件である{{sfn|西田|2010|p=148}}。この2つの大小の比較は、具体的事例に応じて決めるべきであるが、同一の法益についてはその量の大小が、異種の法益についてはその法定刑の軽重が、比較のための一応の基準となる{{sfn|大谷|2019|p=299}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=西田典之|authorlink=西田典之 |title=刑法総論 |edition=第2版 |date=2010-03-30 |publisher=[[弘文堂]] |series=法律学講座双書 |isbn=9784335304439 |ref={{Harvid|西田|2010}}}}
* {{Cite book |和書 |author1=今井猛嘉 |author2=小林憲太郎|authorlink2=小林憲太郎|author3=島田聡一郎|authorlink3=島田聡一郎|author4=橋爪隆|authorlink4=橋爪隆|title=刑法総論 |edition=第2版 |date=2012-11-25 |publisher=[[有斐閣]] |series=LEGAL QUEST |isbn=9784641179196 |ref={{Harvid|今井|小林|島田|橋爪|2012}}}}
* {{Cite book |和書 |author=大谷實|authorlink=大谷實 |title=刑法講義総論 |edition=新版第5版 |date=2019-04-20 |publisher=[[成文堂]] |isbn=9784792352769 |ref={{Harvid|大谷|2019}}}}
== 関連項目 ==
* [[刑法]]
* [[被害者なき犯罪]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|法益}}
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[[Category:ドイツの刑法|ほうえき]]
[[Category:日本の刑法|ほうえき]]
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文書偽造の罪
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文書偽造の罪(ぶんしょぎぞうのつみ)は、公文書や私文書の偽造に関する犯罪類型。講学上社会的法益に対する罪に分類される。文書偽造の罪の立法態様には形式主義と実質主義がある。
広義の偽造には有形偽造と無形偽造がある。なお、有形変造は有形偽造に含められることがあり、この場合、有形偽造は狭義の有形偽造と有形変造に分けられる。
文書偽造の罪の立法態様には実質主義と形式主義がある。実質主義は無形偽造(虚偽文書の作成)の処罰、形式主義は有形偽造(他人名義の冒用)の処罰を中心に考える。
実質主義とは無形偽造の処罰を文書偽造の罪の原則とする立法をいう。実質主義では文書偽造の処罰根拠は内容虚偽の文書が証拠とされることは事実の真相を知ることを害する行為であるとする。
しかし、形式主義の観点からみると、作成者不明の文書は怪文書であって誰もその文書に記された内容の真偽を問題にするはずがないという指摘がある。文書の記載内容の真偽は文書の作成者に対する記載の意義の確認などの行為があって初めて判明する性質の問題であるとの指摘である。
形式主義とは有形偽造の処罰を文書偽造の罪の原則とする立法をいう。形式主義の根拠には帰属説と責任追及説がある。
帰属説とは、文書に存在する意思表示が名義人に帰属しないものは名義人による意思表示として用いることができない文書であり、そのような文書を不正に作出する行為を処罰するものであるとする。
責任追及説とは、文書の名義人と作成者が一致していないにもかかわらず一致していると誤解を与える文書が作出されると、その受取人には名義人から作成者を把握することができなくなり作成者に責任を追及することができなくなるため処罰するものであるとする。
文書の作成者の意味については物体化説と精神性説がある。
物体化説(行為説・事実説)では、文書を物理的に作成した者が文書の作成者であるとする。しかし、物体化説によると乙が甲法人の代表者丙の依頼を受けて株券を印刷した場合、通常、株券には作成者の記載はないため名義人が存在しない文書になってしまい、株券など法人の印刷物が文書偽造罪による保護の客体に含まれないこととなる問題点がある。そのため物体化説はほとんど支持を得ていない。
精神性説(意思説・効果帰属説)では、精神的営為として文書に意思表示を固定化させた者が文書の作成者であるとする。精神性説では乙が甲法人の代表者丙の依頼を受けて株券を印刷した場合、その意思を表示させた甲法人が名義人であり、株券も文書偽造罪による保護の客体に含まれるとする。
日本法では刑法第17章「文書偽造の罪」に規定される犯罪類型をいい、次のものがある。
日本の刑法は公文書については形式主義と実質主義を併用し、私文書については形式主義をとっている。
なお、一部の犯罪については、他人の氏名や印影などを表示すると罪名の冒頭に「有印」の文字が加わる(「有印私文書偽造の罪」など)。
文書偽造罪が処罰されるのは、文書には一般的に社会的信用性が認められるところ、これを保護することが社会生活上必要であるとの判断があるからである。従って、一般に文書といい難い場合であっても、文書の社会的信用性を保護するとの必要から文書とされることもあるし、およそ社会的信用性を害し得ない態様での偽造は処罰されない。
詔書など特別な公文書の偽造等を内容とする犯罪類型である。法定刑が通常の類型の文書偽造等の罪よりも重い加重類型である。行使の目的で、御璽、国璽若しくは御名を使用して詔書その他の文書を偽造し、又は偽造した御璽、国璽若しくは御名を使用して詔書その他の文書を偽造した者は、無期又は3年以上の懲役に処せられる(刑法154条1項)。また、御璽若しくは国璽を押し又は御名を署した詔書その他の文書を変造した者も、同様である(刑法154条2項)。
通常の公文書の偽造・変造を内容とする犯罪類型である。
公文書の無形偽造を内容とする犯罪類型である。
公務員が犯罪の主体となる(身分犯)。非公務員が間接正犯によった場合では本罪は成立せず(最判昭和27年12月25日刑集6巻12号1387頁)、公正証書原本不実記載等罪の成立の可能性が問題となるに留まる。
刑法第154条から157条までの文書若しくは図画を行使し、又は前条第一項の電磁的記録を公正証書の原本としての用に供した者は、その文書若しくは図画を偽造し、若しくは変造し、虚偽の文書若しくは図画を作成し、又は不実の記載若しくは記録をさせた者と同一の刑に処せられる(刑法158条1項)。未遂も罰せられる(刑法158条2項)。
文書偽造の罪における「行使」とは、偽造文書を真正な文書として(又は、虚偽文書を内容の真実な文書として)使用し、人にその内容を認識させ、又はこれを認識し得る状態に置くことをいう(最大判昭和44年6月18日刑集23巻7号950頁)。行使の方法に限定はなく、他人に交付する、提示する、閲覧に供するなどがある。
一部の重要な私文書(権利義務に関する文書又は図画、事実証明に関する文書又は図画など)についての偽造、変造、行使を内容とする犯罪類型である。判例で問題になった私文書の例としては、借用書、交通事件原票(交通切符)中の供述書(違反者がサインをする部分は私文書の性質を有する)、入学試験の答案、無線従事者国家試験の答案(学科、実技)などがある。
一般的に、虚偽私文書の作成(私文書の無形偽造)を処罰する規定は存在しない。ただし、私文書のうち、一定のものについてはその無形偽造を内容とする犯罪類型が規定されている。
刑法159条(私文書偽造行使等)と160条(虚偽診断書等作成)の文書又は図画を行使した者は、その文書若しくは図画を偽造し、若しくは変造し、又は虚偽の記載をした者と同一の刑に処せられる(刑法161条1項)。未遂も罰せられる(刑法161条2項)。
文書偽造の罪における「行使」の意味については#偽造公文書行使等罪を参照。
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文書偽造の罪(ぶんしょぎぞうのつみ)は、公文書や私文書の偽造に関する犯罪類型。講学上社会的法益に対する罪に分類される。文書偽造の罪の立法態様には形式主義と実質主義がある。
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{{Law}}
{{ウィキプロジェクトリンク|刑法 (犯罪)}}
'''文書偽造の罪'''(ぶんしょぎぞうのつみ)は、[[公文書]]や[[証書#私署証書・私文書|私文書]]の偽造に関する犯罪類型。講学上[[社会的法益]]に対する罪に分類される。文書偽造の罪の立法態様には形式主義と実質主義がある<ref name="chusyaku370">{{Cite book |和書|title =注釈刑法 第2巻 各論(1)|publisher = 有斐閣|year = 2016 |page = 370 }}</ref>。
== 概説 ==
=== 偽造の定義 ===
広義の[[偽造]]には有形偽造と無形偽造がある<ref name="chusyaku396">{{Cite book |和書|title =注釈刑法 第2巻 各論(1)|publisher = 有斐閣|year = 2016 |page = 396 }}</ref>。なお、有形変造は有形偽造に含められることがあり、この場合、有形偽造は狭義の有形偽造と有形変造に分けられる<ref name="chusyaku396" />。
* '''有形偽造'''
** 有形偽造(狭義の有形偽造)
*: 通常、偽造とは有形偽造のことを指し、権限のないまま他人名義の文書を作成することをいう<ref name="chusyaku396" />。文書の名義人と作成者との間の人格の同一性を偽って文書を作成することと言い換えることもできる(最決平成5年10月5日刑集47巻8号7頁)。有形偽造により作出された文書を'''不真正文書'''もしくは偽造文書という<ref name="chusyaku396" />。以下、単に「偽造」という場合は有形偽造を指す。
** 有形変造
*: 真正に成立した文書に対して変更を加えることをいう<ref name="chusyaku396" />。なお、権限のない者による場合を有形変造といい、権限のある者による場合は無形変造という。変造は預金通帳の預入れ年月日だけを改ざんした場合など、本質的でない部分を改変する場合に限られる。本質的部分を改変した場合は、新たな文書を作成したのと同じであるから、偽造となる。<!--「本質的部分」というのは具体的にどのようなものを指すか?-->
* '''無形偽造'''(虚偽文書の作成)
** 無形偽造とは文書の作成権限を有する者が虚偽の内容の文書を作成することをいう<ref name="chusyaku396" />。無形偽造により作出された文書を虚偽文書という<ref name="chusyaku396" />。
=== 実質主義と形式主義 ===
文書偽造の罪の立法態様には実質主義と形式主義がある<ref name="chusyaku370" />。実質主義は無形偽造(虚偽文書の作成)の処罰、形式主義は有形偽造(他人名義の冒用)の処罰を中心に考える。
==== 実質主義 ====
実質主義とは無形偽造の処罰を文書偽造の罪の原則とする立法をいう<ref name="chusyaku397" />。実質主義では文書偽造の処罰根拠は内容虚偽の文書が証拠とされることは事実の真相を知ることを害する行為であるとする<ref name="chusyaku397" />。
しかし、形式主義の観点からみると、作成者不明の文書は[[怪文書]]であって誰もその文書に記された内容の真偽を問題にするはずがないという指摘がある<ref name="chusyaku398">{{Cite book |和書|title =注釈刑法 第2巻 各論(1)|publisher = 有斐閣|year = 2016 |page = 398 }}</ref>。文書の記載内容の真偽は文書の作成者に対する記載の意義の確認などの行為があって初めて判明する性質の問題であるとの指摘である<ref name="chusyaku398" />。
==== 形式主義 ====
形式主義とは有形偽造の処罰を文書偽造の罪の原則とする立法をいう<ref name="chusyaku397">{{Cite book |和書|title =注釈刑法 第2巻 各論(1)|publisher = 有斐閣|year = 2016 |page = 397 }}</ref>。形式主義の根拠には帰属説と責任追及説がある<ref name="chusyaku371">{{Cite book |和書|title =注釈刑法 第2巻 各論(1)|publisher = 有斐閣|year = 2016 |page = 371 }}</ref>。
帰属説とは、文書に存在する意思表示が名義人に帰属しないものは名義人による意思表示として用いることができない文書であり、そのような文書を不正に作出する行為を処罰するものであるとする<ref name="chusyaku371" />。
責任追及説とは、文書の名義人と作成者が一致していないにもかかわらず一致していると誤解を与える文書が作出されると、その受取人には名義人から作成者を把握することができなくなり作成者に責任を追及することができなくなるため処罰するものであるとする<ref name="chusyaku371" />。
=== 文書の作成者 ===
文書の作成者の意味については物体化説と精神性説がある<ref name="chusyaku399">{{Cite book |和書|title =注釈刑法 第2巻 各論(1)|publisher = 有斐閣|year = 2016 |page = 399 }}</ref>。
物体化説(行為説・事実説)では、文書を物理的に作成した者が文書の作成者であるとする<ref name="chusyaku399" />。しかし、物体化説によると乙が甲法人の代表者丙の依頼を受けて株券を印刷した場合、通常、株券には作成者の記載はないため名義人が存在しない文書になってしまい、株券など法人の印刷物が文書偽造罪による保護の客体に含まれないこととなる問題点がある<ref name="chusyaku399" />。そのため物体化説はほとんど支持を得ていない<ref name="chusyaku399" />。
精神性説(意思説・効果帰属説)では、精神的営為として文書に意思表示を固定化させた者が文書の作成者であるとする<ref name="chusyaku400">{{Cite book |和書|title =注釈刑法 第2巻 各論(1)|publisher = 有斐閣|year = 2016 |page = 400 }}</ref>。精神性説では乙が甲法人の代表者丙の依頼を受けて株券を印刷した場合、その意思を表示させた甲法人が名義人であり、株券も文書偽造罪による保護の客体に含まれるとする<ref name="chusyaku399" />。
== 日本法 ==
{{日本の犯罪
| 罪名 = 文書偽造の罪
| 法律・条文 = 刑法154条-161条の2
| 保護法益 = 文書に対する公衆の信用
| 主体 = 人
| 客体 = 文書(詔書、電磁的記録)
| 実行行為 = 各類型による
| 主観 = 故意犯(目的犯)
| 結果 = 挙動犯、抽象的危険犯
| 実行の着手 = 各類型による
| 既遂時期 = 各類型による
| 法定刑 = 各類型による
| 未遂・予備 = 未遂罪(157条3項、158条2項、161条2項、161条の2第4項)
|}}
{{日本の刑法}}
日本法では[[刑法 (日本)|刑法]]第17章「文書偽造の罪」に規定される犯罪類型をいい、次のものがある。
*詔書偽造等の罪([[b:刑法第154条|154条]])
*公文書偽造等の罪([[b:刑法第155条|155条]])
*虚偽公文書作成等の罪([[b:刑法第156条|156条]])
*公正証書原本不実記載等の罪([[b:刑法第157条|157条]])
*偽造公文書行使等の罪([[b:刑法第158条|158条]])
*私文書偽造等の罪([[b:刑法第159条|159条]])
*虚偽診断書等作成罪([[b:刑法第160条|160条]])
*偽造私文書等行使罪([[b:刑法第161条|161条]])
*電磁的記録不正作出及び供用の罪([[b:刑法第161条の2|161条の2]])
日本の刑法は公文書については形式主義と実質主義を併用し、私文書については形式主義をとっている<ref name="chusyaku397" />。
なお、一部の犯罪については、他人の[[氏名]]や[[印影]]などを表示すると罪名の冒頭に「有印」の文字が加わる(「有印私文書偽造の罪」など)。
=== 保護法益 ===
文書偽造罪が処罰されるのは、文書には一般的に社会的信用性が認められるところ、これを保護することが社会生活上必要であるとの判断があるからである。従って、一般に文書といい難い場合であっても、文書の社会的信用性を保護するとの必要から文書とされることもあるし、およそ社会的信用性を害し得ない態様での偽造は処罰されない。
=== 客体 ===
;[[文書]]
:文字又はこれに代わる記号・符号を用いて、ある程度持続すべき状態において、意思又は観念を表示したものをいう。音声を録音したテープは文書に当たらない。ある程度の持続性があればよいので、黒板にチョークを用いて書かれた記載も文書に当たる。名刺、表札等は、意思・観念を表示しているとはいえないので、文書に当たらない。
:文書は、意思・観念の表示であるから、その主体である名義人が存在することが必要である。およそ文書自体から名義人を特定することができない場合は、文書偽造罪は成立しない。ただし、名義人が実在することまでは必要なく、架空人名義であっても、一般的に人が実在すると誤信するのであれば、文書性を肯定してよい(最判昭和28年11月13日[[刑集]]7巻11号2096頁、最判昭和36年3月30日刑集15巻3号667頁)。
:また、文書は原本に限らず、コピーもまた偽造罪の対象となる文書性を有するとされている(最判昭和51年4月30日刑集30巻3号453頁等)。これは、コピーであっても本罪の保護法益である「公共の信用」が害される場合がありうるためである。
;[[図画]]
: 法学上は「とが」と発音する。上記にいう文書のうち、[[象形的符号]]を用いたものをいう。
=== 犯罪類型 ===
==== 詔書偽造等罪 ====
[[詔書]]など特別な公文書の偽造等を内容とする犯罪類型である。[[法定刑]]が通常の類型の文書偽造等の罪よりも重い加重類型である。行使の目的で、[[御璽]]、[[国璽]]若しくは[[御名]]を使用して詔書その他の文書を偽造し、又は偽造した御璽、国璽若しくは御名を使用して詔書その他の文書を偽造した者は、[[無期懲役|無期]]又は3年以上の[[懲役]]に処せられる(刑法154条1項)。また、御璽若しくは国璽を押し又は御名を署した詔書その他の文書を変造した者も、同様である(刑法154条2項)。
==== 公文書偽造等罪 ====
通常の公文書の偽造・変造を内容とする犯罪類型である。
*行使の目的で、公務所若しくは[[公務員]]の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造した者は、1年以上10年以下の懲役に処せられる([[b:刑法第155条|刑法155条]]1項)。
*また、公務所又は公務員が押印し又は署名した文書又は図画を変造した者も、同様である(刑法155条2項)。
*公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は公務所若しくは公務員が作成した文書若しくは図画を変造した者は、3年以下の懲役又は20万円以下の[[罰金]]に処される(刑法155条3項)。
==== 虚偽公文書作成等罪 ====
公文書の無形偽造を内容とする犯罪類型である。
* 公務員が、その職務に関し、行使の目的で、虚偽の文書若しくは図画を作成し、又は文書若しくは図画を変造したときは、印章又は署名の有無により区別して、刑法154条、155条の規定の例によって処罰される([[b:刑法第156条|刑法156条]])。
公務員が犯罪の主体となる([[身分犯]])。非公務員が[[間接正犯]]によった場合では本罪は成立せず(最判昭和27年12月25日刑集6巻12号1387頁)、公正証書原本不実記載等罪の成立の可能性が問題となるに留まる。
==== 公正証書原本不実記載等罪 ====
*公務員に対し虚偽の申立てをして、[[登記簿]]、[[戸籍簿]]その他の'''権利若しくは義務に関する公正証書'''の原本に不実の記載をさせ、又は権利若しくは義務に関する公正証書の原本として用いられる電磁的記録に不実の記録をさせた者は、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処せられる([[b:刑法第157条|刑法157条]]1項)。
*公務員に対し虚偽の申立てをして、[[免状]]、[[鑑札]]又は[[旅券]]に不実の記載をさせた者は、1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処される(刑法157条2項)。
*157条1項及び2項の罪については未遂も罰せられる(刑法157条3項)。
:債務整理などの前に「財産隠し」のために不動産の[[所有権移転登記]]をする例があるが、このような場合は「不実記載」ではない。
:不動産登記は「当事者たちから法に定める手続きに従った登記申請があった」ことを証明する制度であって登記内容が真実であることを証明する制度ではない。従ってどのような意図・悪意があろうとも、正当な当事者による登記は'''無形偽造'''と同じなので処罰対象とはならない。
:もちろん、その意図・悪意が他人を騙す・差押えを免れる手段だと明らかになった時には、[[詐欺]]や[[競売入札妨害]]などの罪として処罰されるし、登記を信じて取引をした者は保護される。
==== 偽造公文書行使等罪 ====
刑法第154条から157条までの文書若しくは図画を行使し、又は前条第一項の電磁的記録を公正証書の原本としての用に供した者は、その文書若しくは図画を偽造し、若しくは変造し、虚偽の文書若しくは図画を作成し、又は不実の記載若しくは記録をさせた者と同一の刑に処せられる([[b:刑法第158条|刑法158条]]1項)。未遂も罰せられる(刑法158条2項)。
文書偽造の罪における「行使」とは、偽造文書を真正な文書として(又は、虚偽文書を内容の真実な文書として)使用し、人にその内容を認識させ、又はこれを認識し得る状態に置くことをいう(最大判昭和44年6月18日刑集23巻7号950頁)。行使の方法に限定はなく、他人に交付する、提示する、閲覧に供するなどがある。
==== 私文書偽造等罪 ====
一部の重要な私文書(権利義務に関する文書又は図画、事実証明に関する文書又は図画など)についての偽造、変造、行使を内容とする犯罪類型である。判例で問題になった私文書の例としては、借用書、交通事件原票(交通切符)中の供述書(違反者がサインをする部分は私文書の性質を有する)、入学試験の答案、無線従事者国家試験の答案(学科、実技)などがある。
* 行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、3月以上5年以下の懲役に処される([[b:刑法第159条|刑法159条]]1項)。
* 他人が押印し又は署名した権利、義務又は事実証明に関する文書又は図画を変造した者も、同様である(刑法159条2項)。
* 刑法159条1項と2項に規定するもののほか、権利、義務又は事実証明に関する文書又は図画を偽造し、又は変造した者は、1年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処せられる(刑法159条3項)。
==== 虚偽診断書等作成罪 ====
一般的に、虚偽私文書の作成(私文書の無形偽造)を処罰する規定は存在しない。ただし、私文書のうち、一定のものについてはその無形偽造を内容とする犯罪類型が規定されている。
* [[医師]]が公務所に提出すべき診断書、検案書又は死亡証書に虚偽の記載をしたときは、3年以下の[[禁錮]]又は30万円以下の罰金に処せられる([[b:刑法第160条|刑法160条]])。 医師が主体となる身分犯である。
==== 偽造私文書等行使罪 ====
刑法159条(私文書偽造行使等)と160条(虚偽診断書等作成)の文書又は図画を行使した者は、その文書若しくは図画を偽造し、若しくは変造し、又は虚偽の記載をした者と同一の刑に処せられる([[b:刑法第161条|刑法161条]]1項)。未遂も罰せられる(刑法161条2項)。
文書偽造の罪における「行使」の意味については[[#偽造公文書行使等罪]]を参照。
==== 電磁的記録不正作出及び供用罪 ====
* 人の事務処理を誤らせる目的で、その事務処理の用に供する権利、義務又は事実証明に関する[[電磁的記録]]を不正に作った場合、5年以下の懲役または50万円以下の罰金に処される(刑法161条の2第1項)。
* 電磁的記録が公務所または公務員により作られるべき電磁的記録であった場合、10年以下の懲役または100万円以下の罰金に処される(刑法161条の2第2項)。
* 不正に作られた権利、義務又は事実証明に関する電磁的記録を、人の事務処理を誤らせる目的で、人の事務処理の用に供した場合、不正作出と同様に処罰される(刑法161条の2第3項)。また、未遂も処罰される(同条第4項)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==文献情報==
* [[松澤伸]]、「[https://hdl.handle.net/2065/29545 文書偽造罪の保護法益と「公共の信用」の内容 -最近の判例を素材として- ]」『早稲田法学』 2007年 82巻 2号 p.31-69, {{ISSN|0389-0546}}, {{naid|120001941684}}, 早稲田大学法学会
* {{Cite journal|和書|author=林陽一 |title=文書という制度について : 文書偽造罪の保護法益(一)(岩間昭道先生退官記念号) |date=2008-09 |publisher=千葉大学法学会, 千葉大学総合政策学会 |journal=千葉大学法学論集 |volume=23 |number=1 |naid=110007326617 |pages=201-244 |ref=harv}} ※((二)以降未刊)
* 髙田毅、「[https://hdl.handle.net/10129/3461 文書偽造罪における有形偽造概念]」 学位論文 学位記番号:人社修126号, 2009年, [[弘前大学]]
==関連項目==
{{Wikibooks|刑法各論}}
* [[通貨偽造の罪]]
* [[有価証券偽造罪]]
* [[印章偽造の罪]]
{{日本の刑法犯罪}}
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[[Category:日本の犯罪類型]]
[[Category:公文書]]
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山
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山(やま)とは、周囲よりも高く盛り上がった地形や場所のことをいう。地形学では丘陵や「台地」よりも周囲との相対的高度差(比高)や起伏が大きいものを指す。平地と比べ、傾斜した地形から成る。
周囲とどの程度の高度差があれば山と呼ぶかについては、国や地域ごとの習慣、領域や研究者ごとに差異があり、一概に決まっているわけではない。たとえば日常生活で人々は、ある盛り上がった地形を指して、同じ人々が、あるときは「山」と呼んでみたり、またあるときは丘陵、丘、岡などと呼んだりすることがあり、区別は必ずしも明確でない。
ブリタニカ百科事典では、相対的に2,000フィート(610m)の高さを持つものを山としている。
国際連合環境計画において定義された「山岳環境」は、以下のいずれかの条件を満たす地点を山岳と定義している。
この定義を使用した場合、山岳地帯はユーラシアの33%、北アメリカの24%、南アメリカの19%、そしてアフリカの14%を占めている。また、地上の全陸地面積のおよそ24%が山岳地帯と定義されることになる。日本では、国土地理院が地図に示す名称に「山」をつける場合、地方自治体の申請をもって表示するとしている。
山の複合的なものを山岳(連山、山地、山脈)と呼ぶ。通常、陸上のものは単に「山」といい、海中の山は海山と言う。
起伏の程度によって分類する方法もあり、低山性山地、中山性山地、高山性山地に分類される。山地を形成した営力によって分類する方法もあり、
などに大きく分類される。そしてそれらがまたさまざまな観点から分類されている。
1.の火山性山地は、形態や構造によって単式火山と複式火山(複成火山とも)に分類される。単式火山には成層火山、楯状火山などが含まれ、複式火山にはカルデラや複数の単式火山の複合などが含まれる。そしてカルデラ火山はさらに二重式火山や三重式火山に分類される。また火山性山地はその噴出場所によって陸上火山、海底火山、氷底火山に分類される。
2.の浸食山地の分類としては、湿潤地域で生じる「残丘」、乾燥地域で生じるインゼルベルクやボルンハルトがある。
3.のタイプの山地はさらに、褶曲山地(しゅうきょく - )、曲隆山地、ドーム状山地、断層山地、傾動山地などに分類できる。なお、人工的に作った山は築山という。
山の高さ(標高)は、海面の延長であるジオイドからの距離とすることが一般的であり、これを海抜(かいばつ)と言う。
地球上の最高峰(もっとも高い山)はヒマラヤ山脈のエベレスト(海抜8,848m)とされている が、海抜以外の指標により最高峰を選ぶことも可能である。たとえば、地球中心から見た最高峰は南米アンデス山脈のチンボラソ山(海抜6,310m)である。
地球は自転の遠心力により回転楕円体となっていて、赤道付近がふくらんでいる。そのため、赤道からわずか150kmにあるチンボラソ山は、エベレストより2,150mも地球中心から見て高くなっている。ハワイのマウナ・ケアも海抜では4,205mだが、太平洋底から一気に10,203mもせり上がっており、基盤部分からの標高では世界最高峰となっている。
日本国内では、最高峰は富士山(標高3,776m)である。対してもっとも低い山は仙台市の日和山(標高3m) であるが、山の定義や地形学的分類あるいは地図作成測量によりとらえ方はさまざまであり、もっとも低い山の決定が難しい。
地球以外の天体では、ジオイドに相当する面からの距離を標高とする。ただし、地球以外の天体には海面がないので、天体ごとに恣意的に定義する。たとえば、火星でジオイドに相当するアレイドは、温度0.01°Cで気圧610.5パスカルとなる面である。日本語では地球上、地球外ともに「山」であるが、英語ではMonsといい、地球の山と区別される。
なお、太陽系で知られている最高峰は火星のオリンポス山であり、標高は約27,000m(27km)に達する。火星にはこのほかにもアルシア山(標高19km)やアスクレウス山(標高18km)、パボニス山(標高14km)といった、地球よりもはるかに高い火山が存在するが、これは火星にプレートテクトニクスが存在せず、マグマの吹き出すホットスポットが移動しないため溶岩が同じ場所に堆積し続けたためと考えられている。
山は、大陸移動(プレート移動)にともなう褶曲や断層運動、隆起、火山活動などの地理的要因により形成される。
このうち、もっとも大規模な山岳形成はプレート移動によってなされ、世界の2大造山帯であるアルプス・ヒマラヤ造山帯と環太平洋造山帯はいずれもプレート移動により形成されたものである。アルプス・ヒマラヤ造山帯に属するヒマラヤ山脈やアルプス山脈は、かつて2つの大陸プレートに挟まれた浅い海だったが、大陸プレート同士の衝突により地面が押し上げられて成立した。このような山の成立過程を造山運動という。ロシアのウラル山脈や北米東岸のアパラチア山脈は、ずっと以前の造山運動の痕跡である(造山運動終了後に浸食などで削られた)。環太平洋造山帯は太平洋プレートが各大陸プレートに沈み込みを起こして形成されるものであり、その名の通りアンデス山脈やロッキー山脈、日本列島など太平洋を取り囲むようにして大山脈が連続する形になっている。
この2つの造山帯はいずれもプレート同士の衝突によって形成されるものだが、そのほかにプレートが生み出され広がり続ける発散型境界においても山脈が形成される。この発散型境界の多くは海底に存在し、海嶺と呼ばれることが多い。大西洋を南北に貫く大西洋中央海嶺などが代表例である。
火山の多くはプレートの拡大もしくは収縮地点の側に存在し、そのため上記造山帯の付近にほとんどの火山が存在するものの、まれにプレート境界とはまったく関係ない場所においてマグマが継続的に供給され火山が成立する場合がある。これはホットスポットと呼ばれ、ハワイ島のマウナ・ケアなどが代表例である。このホットスポットはプレートの動きとは無関係であるため、プレートが移動してもその地点に山岳を形成し続ける。古い火山島はホットスポットから離れるにしたがって波や風、雨などによって浸食されていき、やがて海面下に没して海山となる。
断層運動により断層面から見た一方が上昇または下降することにより山が形成されることもあり、例としては日本の六甲山地 や養老山地などがある。地殻変動にともなって地面が上昇する隆起により山が形成された例には、日本の北上山地、阿武隈高地などがある。
火山活動を成因とする山は、富士山や阿蘇山のような活火山のほか、荒島岳のようにかつての火山が浸食されてできたものもある。
上記のようにして形成された山は、またさまざまな理由によって次第に低くなっていく。山を形成している岩石は、山の厳しい気候や長い年月などによって風化していき、その積み重ねによって山は低くなっていく。また、浸食も山を低くしていく大きな要因の一つである。寒冷地や高山において形成される氷河は、山を侵食する大きな原因の一つである。より温暖な地方においては、河川が主な山体浸食の原因となる。このほか、風による風食も浸食の要因となるが、氷河や河川に比べればその役割は小さなものである。また、地すべりや崖崩れなどによってより急激に山体が変化することもある。
山はそれぞれ特徴のある形状であり、それにちなんだ山名のものもある。
深田久弥は『日本百名山』の著書などで、それぞれの山(槍ヶ岳、開聞岳、恵那山、鹿島槍ヶ岳など)の山容の特徴について詳しく記載している。
山の形状の例は以下となる。
山の気候は平地と大きく異なる。山では気象が変化しやすく、風も強く、降水量も多い。山は起伏が激しいため地上付近の暖かい空気と高所の寒い空気が混じりあい、雲が発生しやすいためである。
また、標高が100m上昇するごとに気温は0.6度(摂氏)低くなるとされており、そのため、標高が高くなれば植生や生態系も異なってくる。標高が上がるにつれて植生はより寒冷に適応したものとなっていくため、山麓の低地が熱帯であるのに山頂の植生が温帯性や冷帯性を示したり、さらには森林の生育できる温度を下回ってしまいツンドラや氷河が広がっているということもありうる。
例として、ほぼ赤道直下にあるキリマンジャロ山においては、山麓の標高1,900mくらいまではサバンナが広がっているのに対し、標高2,500m程度までは熱帯雨林、3,000m付近までは雲霧林となり、それより上になると森林限界を迎えてしまうため樹木が生育できず、まばらな低木や草原が広がるようになる。4,400m以上では植物の生育が不可能になり、5,500m以上では赤道直下にもかかわらず氷河が存在する。
特に海抜数千メートルの高山では気象環境は過酷であり、ある程度の標高以上では気温が低すぎてもはや樹木が生育できず、そのような環境に適応した特殊な植物・動物が生息している。これを高山植物・高山動物という。この樹木が生育できなくなる地点のことを森林限界というが、これは基本的には標高によって決定されるものの、その地表の諸条件に大きく左右されるために、必ずしも直線的に限界線が続いているわけではない。
また、森林限界は気温によって左右されるため、場所によってその高度は大きく異なり、基本的には緯度が低いほど森林限界の高度は高く、緯度が高いほどその高度は低くなる。寒帯にある山岳の場合、麓から山頂までツンドラや氷雪に覆われていることは珍しくない。
また、標高の高い山岳においては斜面に雨雲がぶつかるため、山麓に降雨をもたらすことが多い。この場合、山脈を越えた空気は乾燥することとなり、山の反対側にフェーン現象をもたらすことがある。
また、海岸から高い山脈にさえぎられた反対側では山脈の方から吹き込む卓越風の風下となり、すでに水分のほとんどを雨として落としてしまっているため、極度に乾燥した気候となることがある。これを雨陰効果と呼び、タクラマカン砂漠やグレートベースンなどがこの要因によって砂漠となっている。逆に山岳の風上側においては乾燥地においても降雨をもたらすことはよくある。
古代史において「山は隔て、海は結ぶ」という言葉があるように、海は交通路として遠隔地を結びつける役割を果たす一方、山は逆に交通の障害として隣接する地域同士を隔てる役割を持った。近代に入り交通網が整備されるようになるまで山、特に山脈は人々の交流を妨げることが多く、山脈を一つ隔てた両側で文化、さらには言語や民族にいたるまで異なっていることは珍しいことではなかった。こうしたことから自治体や国家の境界線は山の尾根の線に置かれることが多くなっており、地政学においても山岳はしばしば望ましい自然国境であるとみなされている。
国際連合環境計画が定義した山岳の条件下では、世界陸地面積の24%が山岳となっており、世界人口の12%がその地帯に居住している。地球上の陸地面積の7%が標高2,500m以上の高度に属し、およそ1億4,000万人がその高度帯に居住している。標高3,000m以上の土地にはおよそ200万から300万人が居住している。こうした山岳居住人口のおよそ半分はアンデス、中央アジア、およびアフリカに居住している。
インフラへのアクセスが限られるために、高度4,000m以上の地帯には少数の居住者しか存在しないが、4,150mの地点にあるボリビアのエルアルト市は例外であり、盛んな商業と多様な工業、そしてほぼ100万人の人口を有する。
世界でもっとも高い地点に存在する都市はペルーのラ・リンコナダであり、標高5,100mの地点に位置する金鉱山の都市である。
ヒトの定住が可能である高度は約5,950mが限度とされている。標高の非常に高い場所では、呼吸のために必要な酸素が非常に少なく、また日光に含まれる紫外線からもあまり保護されない。特に標高8,000m以上の地点では人類の生息に必要なだけの酸素が存在しない。この高度の地帯はデスゾーンと呼ばれ、エベレストやK2の山頂がこれに含まれる。
ヒトにとって山は必ずしも生活しやすい場所ではない。気象変動は激しく、さらに標高が高くなると空気が薄くなり酸素が不足するため、約2,500m付近からは高山病にかかるものもあらわれはじめる。山岳の大部分は地面が傾斜しているため、居住にはあまり適さず、また広い平地を確保できないために大規模な農地を設けることが難しく、食料生産効率も低地に比べ一般に劣る。
一方で、山岳は決して不毛の地ではなく、豊かな植生に恵まれ動物や植物が豊富なところも多いことから、山岳地帯に居住する人々もかなりの数にのぼる。可耕地に乏しい日本の山村において山は材木や燃料などの林産物を産出し、狩猟や交易、鉱山の経営など山稼ぎは山村の生業における重要な要素であった。また、傾斜の緩やかな地点を切り開いて焼畑を行ったり、段々畑、棚田を建設して農耕を行うことも世界中に広くみられる。
また、特に低緯度地帯においては標高の高い山岳地帯は気温の高い低地に比べ温和な気候となるため、標高による空気の薄さを考慮しても必ずしも暮らしにくい地域ではない。このため、アンデス山脈やメキシコ高原、エチオピア高原といった地域は古くから栄え、独自の文明を築いてきた。現代においてもこれら地域は大きな人口を抱え、メキシコシティやボリビアのラパス、エチオピアのアジスアベバなどの大都市も存在している。
また、ユーラシア大陸中央部のチベット高原は標高が高く寒冷な地域であるが、牧畜を中心に古くから人類が居住し、一つの文化圏を形成してきた。こうした山岳地においては標高によって気温が変わるため土地利用が異なっており、特にアンデス山脈においてはやや標高の低く温暖な地域ではトウモロコシ、やや標高の高い地域ではジャガイモ、それより標高の高い地域では放牧を行うなど、高度によって明確に異なった土地利用を行っている。
このほか、人々が山岳地帯に居住する理由としては鉱物資源の存在がある。農耕に不適で本来人間が居住できない地点においても、高価な鉱物資源の存在によって鉱山が開かれ多くの人々が生活していることは珍しくない。
世界の河川の多くは山岳地帯を源流としており、山岳に降り積もった雪は下流の住民のために水を貯蔵する機能を果たしている。人類の半数以上は山からの水に依存して生活している。
山岳は上記のように降雨を多くもたらすため、多くの国々で山岳地帯にダムを設け水資源確保や発電を行っている。こうした山岳流水のエネルギーは古くから水車などで利用されており、20世紀後半以降は小規模水力発電が各所に設けられるようになった。
また、超短波以上の周波数で発射する送信所の多くは山に設置されている。
世界の多くの地域では、神聖な山として山に対する信仰が生まれている。
日本では富士山をはじめ主要な山々で山岳信仰が存在し、浅間信仰や白山信仰のように神道と結びついて神格化されるようになった。山岳信仰は特に修験道と結びつき、信仰の興隆にともない庶民の登山も盛んとなって、登山者に宿所などを提供する御師が成立した。また、民間信仰においても山は異界へ通じる恐れの対象であると同時に、天候や生業に関わる神性な世界としても認識され、山の神や雨乞いなどに山に関する民俗が存在している。山岳信仰には、山へ登るという形態もあれば、山を敬遠して眺めるだけという形態もあった。
やがて近代に入ると、ヨーロッパにおいて山の自然の美しさがしだいに認められるようになり、18世紀末には探検やスポーツとしての登山が盛んに行われるようになった。これにより、山は余暇・娯楽の場としてとらえられるようになっていった。現代では登山のみならず、スキー、キャンプなど多様な余暇活動が行われている。
また、山を眺めることについても信仰色が薄まっていき、現代では山岳展望という新たな余暇活動として楽しむ人が増えている。最近ではパワースポットの一つとして、富士山などの山がその対象の一つとなっている。
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"tag": "p",
"text": "山の複合的なものを山岳(連山、山地、山脈)と呼ぶ。通常、陸上のものは単に「山」といい、海中の山は海山と言う。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "起伏の程度によって分類する方法もあり、低山性山地、中山性山地、高山性山地に分類される。山地を形成した営力によって分類する方法もあり、",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "などに大きく分類される。そしてそれらがまたさまざまな観点から分類されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1.の火山性山地は、形態や構造によって単式火山と複式火山(複成火山とも)に分類される。単式火山には成層火山、楯状火山などが含まれ、複式火山にはカルデラや複数の単式火山の複合などが含まれる。そしてカルデラ火山はさらに二重式火山や三重式火山に分類される。また火山性山地はその噴出場所によって陸上火山、海底火山、氷底火山に分類される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "2.の浸食山地の分類としては、湿潤地域で生じる「残丘」、乾燥地域で生じるインゼルベルクやボルンハルトがある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "3.のタイプの山地はさらに、褶曲山地(しゅうきょく - )、曲隆山地、ドーム状山地、断層山地、傾動山地などに分類できる。なお、人工的に作った山は築山という。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "山の高さ(標高)は、海面の延長であるジオイドからの距離とすることが一般的であり、これを海抜(かいばつ)と言う。",
"title": "山の高さ"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "地球上の最高峰(もっとも高い山)はヒマラヤ山脈のエベレスト(海抜8,848m)とされている が、海抜以外の指標により最高峰を選ぶことも可能である。たとえば、地球中心から見た最高峰は南米アンデス山脈のチンボラソ山(海抜6,310m)である。",
"title": "山の高さ"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "地球は自転の遠心力により回転楕円体となっていて、赤道付近がふくらんでいる。そのため、赤道からわずか150kmにあるチンボラソ山は、エベレストより2,150mも地球中心から見て高くなっている。ハワイのマウナ・ケアも海抜では4,205mだが、太平洋底から一気に10,203mもせり上がっており、基盤部分からの標高では世界最高峰となっている。",
"title": "山の高さ"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "日本国内では、最高峰は富士山(標高3,776m)である。対してもっとも低い山は仙台市の日和山(標高3m) であるが、山の定義や地形学的分類あるいは地図作成測量によりとらえ方はさまざまであり、もっとも低い山の決定が難しい。",
"title": "山の高さ"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "地球以外の天体では、ジオイドに相当する面からの距離を標高とする。ただし、地球以外の天体には海面がないので、天体ごとに恣意的に定義する。たとえば、火星でジオイドに相当するアレイドは、温度0.01°Cで気圧610.5パスカルとなる面である。日本語では地球上、地球外ともに「山」であるが、英語ではMonsといい、地球の山と区別される。",
"title": "山の高さ"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお、太陽系で知られている最高峰は火星のオリンポス山であり、標高は約27,000m(27km)に達する。火星にはこのほかにもアルシア山(標高19km)やアスクレウス山(標高18km)、パボニス山(標高14km)といった、地球よりもはるかに高い火山が存在するが、これは火星にプレートテクトニクスが存在せず、マグマの吹き出すホットスポットが移動しないため溶岩が同じ場所に堆積し続けたためと考えられている。",
"title": "山の高さ"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "山は、大陸移動(プレート移動)にともなう褶曲や断層運動、隆起、火山活動などの地理的要因により形成される。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "このうち、もっとも大規模な山岳形成はプレート移動によってなされ、世界の2大造山帯であるアルプス・ヒマラヤ造山帯と環太平洋造山帯はいずれもプレート移動により形成されたものである。アルプス・ヒマラヤ造山帯に属するヒマラヤ山脈やアルプス山脈は、かつて2つの大陸プレートに挟まれた浅い海だったが、大陸プレート同士の衝突により地面が押し上げられて成立した。このような山の成立過程を造山運動という。ロシアのウラル山脈や北米東岸のアパラチア山脈は、ずっと以前の造山運動の痕跡である(造山運動終了後に浸食などで削られた)。環太平洋造山帯は太平洋プレートが各大陸プレートに沈み込みを起こして形成されるものであり、その名の通りアンデス山脈やロッキー山脈、日本列島など太平洋を取り囲むようにして大山脈が連続する形になっている。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "この2つの造山帯はいずれもプレート同士の衝突によって形成されるものだが、そのほかにプレートが生み出され広がり続ける発散型境界においても山脈が形成される。この発散型境界の多くは海底に存在し、海嶺と呼ばれることが多い。大西洋を南北に貫く大西洋中央海嶺などが代表例である。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "火山の多くはプレートの拡大もしくは収縮地点の側に存在し、そのため上記造山帯の付近にほとんどの火山が存在するものの、まれにプレート境界とはまったく関係ない場所においてマグマが継続的に供給され火山が成立する場合がある。これはホットスポットと呼ばれ、ハワイ島のマウナ・ケアなどが代表例である。このホットスポットはプレートの動きとは無関係であるため、プレートが移動してもその地点に山岳を形成し続ける。古い火山島はホットスポットから離れるにしたがって波や風、雨などによって浸食されていき、やがて海面下に没して海山となる。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "断層運動により断層面から見た一方が上昇または下降することにより山が形成されることもあり、例としては日本の六甲山地 や養老山地などがある。地殻変動にともなって地面が上昇する隆起により山が形成された例には、日本の北上山地、阿武隈高地などがある。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "火山活動を成因とする山は、富士山や阿蘇山のような活火山のほか、荒島岳のようにかつての火山が浸食されてできたものもある。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "上記のようにして形成された山は、またさまざまな理由によって次第に低くなっていく。山を形成している岩石は、山の厳しい気候や長い年月などによって風化していき、その積み重ねによって山は低くなっていく。また、浸食も山を低くしていく大きな要因の一つである。寒冷地や高山において形成される氷河は、山を侵食する大きな原因の一つである。より温暖な地方においては、河川が主な山体浸食の原因となる。このほか、風による風食も浸食の要因となるが、氷河や河川に比べればその役割は小さなものである。また、地すべりや崖崩れなどによってより急激に山体が変化することもある。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "山はそれぞれ特徴のある形状であり、それにちなんだ山名のものもある。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "深田久弥は『日本百名山』の著書などで、それぞれの山(槍ヶ岳、開聞岳、恵那山、鹿島槍ヶ岳など)の山容の特徴について詳しく記載している。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "山の形状の例は以下となる。",
"title": "山の形成"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "山の気候は平地と大きく異なる。山では気象が変化しやすく、風も強く、降水量も多い。山は起伏が激しいため地上付近の暖かい空気と高所の寒い空気が混じりあい、雲が発生しやすいためである。",
"title": "山の気候と生物"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、標高が100m上昇するごとに気温は0.6度(摂氏)低くなるとされており、そのため、標高が高くなれば植生や生態系も異なってくる。標高が上がるにつれて植生はより寒冷に適応したものとなっていくため、山麓の低地が熱帯であるのに山頂の植生が温帯性や冷帯性を示したり、さらには森林の生育できる温度を下回ってしまいツンドラや氷河が広がっているということもありうる。",
"title": "山の気候と生物"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "例として、ほぼ赤道直下にあるキリマンジャロ山においては、山麓の標高1,900mくらいまではサバンナが広がっているのに対し、標高2,500m程度までは熱帯雨林、3,000m付近までは雲霧林となり、それより上になると森林限界を迎えてしまうため樹木が生育できず、まばらな低木や草原が広がるようになる。4,400m以上では植物の生育が不可能になり、5,500m以上では赤道直下にもかかわらず氷河が存在する。",
"title": "山の気候と生物"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "特に海抜数千メートルの高山では気象環境は過酷であり、ある程度の標高以上では気温が低すぎてもはや樹木が生育できず、そのような環境に適応した特殊な植物・動物が生息している。これを高山植物・高山動物という。この樹木が生育できなくなる地点のことを森林限界というが、これは基本的には標高によって決定されるものの、その地表の諸条件に大きく左右されるために、必ずしも直線的に限界線が続いているわけではない。",
"title": "山の気候と生物"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、森林限界は気温によって左右されるため、場所によってその高度は大きく異なり、基本的には緯度が低いほど森林限界の高度は高く、緯度が高いほどその高度は低くなる。寒帯にある山岳の場合、麓から山頂までツンドラや氷雪に覆われていることは珍しくない。",
"title": "山の気候と生物"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また、標高の高い山岳においては斜面に雨雲がぶつかるため、山麓に降雨をもたらすことが多い。この場合、山脈を越えた空気は乾燥することとなり、山の反対側にフェーン現象をもたらすことがある。",
"title": "山の気候と生物"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "また、海岸から高い山脈にさえぎられた反対側では山脈の方から吹き込む卓越風の風下となり、すでに水分のほとんどを雨として落としてしまっているため、極度に乾燥した気候となることがある。これを雨陰効果と呼び、タクラマカン砂漠やグレートベースンなどがこの要因によって砂漠となっている。逆に山岳の風上側においては乾燥地においても降雨をもたらすことはよくある。",
"title": "山の気候と生物"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "古代史において「山は隔て、海は結ぶ」という言葉があるように、海は交通路として遠隔地を結びつける役割を果たす一方、山は逆に交通の障害として隣接する地域同士を隔てる役割を持った。近代に入り交通網が整備されるようになるまで山、特に山脈は人々の交流を妨げることが多く、山脈を一つ隔てた両側で文化、さらには言語や民族にいたるまで異なっていることは珍しいことではなかった。こうしたことから自治体や国家の境界線は山の尾根の線に置かれることが多くなっており、地政学においても山岳はしばしば望ましい自然国境であるとみなされている。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "国際連合環境計画が定義した山岳の条件下では、世界陸地面積の24%が山岳となっており、世界人口の12%がその地帯に居住している。地球上の陸地面積の7%が標高2,500m以上の高度に属し、およそ1億4,000万人がその高度帯に居住している。標高3,000m以上の土地にはおよそ200万から300万人が居住している。こうした山岳居住人口のおよそ半分はアンデス、中央アジア、およびアフリカに居住している。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "インフラへのアクセスが限られるために、高度4,000m以上の地帯には少数の居住者しか存在しないが、4,150mの地点にあるボリビアのエルアルト市は例外であり、盛んな商業と多様な工業、そしてほぼ100万人の人口を有する。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "世界でもっとも高い地点に存在する都市はペルーのラ・リンコナダであり、標高5,100mの地点に位置する金鉱山の都市である。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ヒトの定住が可能である高度は約5,950mが限度とされている。標高の非常に高い場所では、呼吸のために必要な酸素が非常に少なく、また日光に含まれる紫外線からもあまり保護されない。特に標高8,000m以上の地点では人類の生息に必要なだけの酸素が存在しない。この高度の地帯はデスゾーンと呼ばれ、エベレストやK2の山頂がこれに含まれる。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ヒトにとって山は必ずしも生活しやすい場所ではない。気象変動は激しく、さらに標高が高くなると空気が薄くなり酸素が不足するため、約2,500m付近からは高山病にかかるものもあらわれはじめる。山岳の大部分は地面が傾斜しているため、居住にはあまり適さず、また広い平地を確保できないために大規模な農地を設けることが難しく、食料生産効率も低地に比べ一般に劣る。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一方で、山岳は決して不毛の地ではなく、豊かな植生に恵まれ動物や植物が豊富なところも多いことから、山岳地帯に居住する人々もかなりの数にのぼる。可耕地に乏しい日本の山村において山は材木や燃料などの林産物を産出し、狩猟や交易、鉱山の経営など山稼ぎは山村の生業における重要な要素であった。また、傾斜の緩やかな地点を切り開いて焼畑を行ったり、段々畑、棚田を建設して農耕を行うことも世界中に広くみられる。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、特に低緯度地帯においては標高の高い山岳地帯は気温の高い低地に比べ温和な気候となるため、標高による空気の薄さを考慮しても必ずしも暮らしにくい地域ではない。このため、アンデス山脈やメキシコ高原、エチオピア高原といった地域は古くから栄え、独自の文明を築いてきた。現代においてもこれら地域は大きな人口を抱え、メキシコシティやボリビアのラパス、エチオピアのアジスアベバなどの大都市も存在している。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、ユーラシア大陸中央部のチベット高原は標高が高く寒冷な地域であるが、牧畜を中心に古くから人類が居住し、一つの文化圏を形成してきた。こうした山岳地においては標高によって気温が変わるため土地利用が異なっており、特にアンデス山脈においてはやや標高の低く温暖な地域ではトウモロコシ、やや標高の高い地域ではジャガイモ、それより標高の高い地域では放牧を行うなど、高度によって明確に異なった土地利用を行っている。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このほか、人々が山岳地帯に居住する理由としては鉱物資源の存在がある。農耕に不適で本来人間が居住できない地点においても、高価な鉱物資源の存在によって鉱山が開かれ多くの人々が生活していることは珍しくない。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "世界の河川の多くは山岳地帯を源流としており、山岳に降り積もった雪は下流の住民のために水を貯蔵する機能を果たしている。人類の半数以上は山からの水に依存して生活している。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "山岳は上記のように降雨を多くもたらすため、多くの国々で山岳地帯にダムを設け水資源確保や発電を行っている。こうした山岳流水のエネルギーは古くから水車などで利用されており、20世紀後半以降は小規模水力発電が各所に設けられるようになった。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、超短波以上の周波数で発射する送信所の多くは山に設置されている。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "世界の多くの地域では、神聖な山として山に対する信仰が生まれている。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "日本では富士山をはじめ主要な山々で山岳信仰が存在し、浅間信仰や白山信仰のように神道と結びついて神格化されるようになった。山岳信仰は特に修験道と結びつき、信仰の興隆にともない庶民の登山も盛んとなって、登山者に宿所などを提供する御師が成立した。また、民間信仰においても山は異界へ通じる恐れの対象であると同時に、天候や生業に関わる神性な世界としても認識され、山の神や雨乞いなどに山に関する民俗が存在している。山岳信仰には、山へ登るという形態もあれば、山を敬遠して眺めるだけという形態もあった。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "やがて近代に入ると、ヨーロッパにおいて山の自然の美しさがしだいに認められるようになり、18世紀末には探検やスポーツとしての登山が盛んに行われるようになった。これにより、山は余暇・娯楽の場としてとらえられるようになっていった。現代では登山のみならず、スキー、キャンプなど多様な余暇活動が行われている。",
"title": "山と人間"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、山を眺めることについても信仰色が薄まっていき、現代では山岳展望という新たな余暇活動として楽しむ人が増えている。最近ではパワースポットの一つとして、富士山などの山がその対象の一つとなっている。",
"title": "山と人間"
}
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山(やま)とは、周囲よりも高く盛り上がった地形や場所のことをいう。地形学では丘陵や「台地」よりも周囲との相対的高度差(比高)や起伏が大きいものを指す。平地と比べ、傾斜した地形から成る。
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{{Otheruses}}
[[ファイル:MtFuji FujiCity.jpg|thumb|[[富士山]]]]
{{ウィキプロジェクトリンク|山}}
'''山'''(やま)とは、周囲よりも高く盛り上がった[[地形]]や場所のことをいう。[[地形学]]では[[丘陵]]や「台地」よりも周囲との相対的[[高度]]差(比高)や起伏が大きいものを指す。[[平地]]と比べ、傾斜した地形から成る<ref group="注">(一般には、山とやや区別しつつ)平坦かつ[[標高]]の高い[[地形]]は[[台地]]、[[高地]]、[[高原]]と言う。</ref>。
== 概要 ==
[[ファイル:Tateshinayama-fuyu.JPG|thumb|[[蓼科山]]]]
周囲とどの程度の高度差があれば山と呼ぶかについては、国や地域ごとの習慣、領域や研究者ごとに差異があり、一概に決まっているわけではない{{Sfn|竹内|2002}}。たとえば日常生活で人々は、ある盛り上がった地形を指して、同じ人々が、あるときは「山」と呼んでみたり、またあるときは[[丘陵]]、[[丘]]、岡などと呼んだりすることがあり、区別は必ずしも明確でない。
[[ブリタニカ百科事典]]では、相対的に2,000[[フィート]](610m)の高さを持つものを山としている。
[[国際連合環境計画]]において定義された「山岳環境」は、以下のいずれかの条件を満たす地点を山岳と定義している<ref>[[#Blyth et,al. 2002|Blyth et,al. 2002]] p.74.</ref>。
* 高度が少なくとも2,500m以上ある。
* 仰角が2度を越え、高度が少なくとも1,500m以上ある。
* 仰角が5度を越え、高度が少なくとも1,000m以上ある。
* 周囲半径7km以内で300m以上高度が上がっている場合、高度が少なくとも300m以上ある。
この定義を使用した場合、山岳地帯はユーラシアの33%、北アメリカの24%、南アメリカの19%、そしてアフリカの14%を占めている<ref>[[#Blyth et,al. 2002|Blyth et,al. 2002]] p.14.</ref>。また、地上の全陸地面積のおよそ24%が山岳地帯と定義されることになる<ref name=panos>{{cite web |author=Panos |url=http://panos.org.uk/wp-content/files/2011/03/high_stakeshVwvcI.pdf |year=2002 |title=High Stakes |accessdate=17 February 2009 |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120603173156/http://panos.org.uk/wp-content/files/2011/03/high_stakeshVwvcI.pdf |archivedate=3 June 2012 |df=dmy-all }}</ref>。日本では、[[国土地理院]]が地図に示す名称に「山」をつける場合、[[地方公共団体|地方自治体]]の申請をもって表示するとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000241085 |title=レファレンス事例詳細 |author=[[尼崎市立地域研究史料館]] |publisher=[[国立国会図書館]] |website=[[レファレンス協同データベース]] |accessdate=2018-11-11}}</ref>。
=== 分類 ===
山の複合的なものを山岳(連山、山地、[[山脈]])と呼ぶ<ref group="注">山岳のうちでも標高が高く目立つ頂点の部位を山と呼ぶこともある。</ref>。通常、陸上のものは単に「山」といい、[[海中]]の山は[[海山]]と言う。
起伏の程度によって分類する方法もあり、低山性山地、中山性山地、高山性山地に分類される{{Sfn|竹内|2002}}。山地を形成した営力によって分類する方法もあり、
# [[火山]]作用で形成された山地('''火山性山地''')
# [[浸食作用]]で形成された山地(残存山地あるいは'''浸食山地''')
# [[地殻運動]]によって形成された山地
などに大きく分類される{{Sfn|竹内|2002}}。そしてそれらがまたさまざまな観点から分類されている。
1.の火山性山地は、形態や構造によって単式火山と複式火山(複成火山とも)に分類される{{Sfn|竹内|2002}}。単式火山には成層火山、楯状火山などが含まれ、複式火山には[[カルデラ]]や複数の単式火山の複合などが含まれる{{Sfn|竹内|2002}}。そしてカルデラ火山はさらに二重式火山や三重式火山に分類される{{Sfn|竹内|2002}}。また火山性山地はその噴出場所によって陸上火山、[[海底火山]]、[[氷底火山]]に分類される{{Sfn|竹内|2002}}。
2.の浸食山地の分類としては、湿潤地域で生じる「残丘」、乾燥地域で生じる[[インゼルベルク]]や[[ボルンハルト]]がある{{Sfn|竹内|2002}}。
3.のタイプの山地はさらに、褶曲山地(しゅうきょく - )、曲隆山地、ドーム状山地、断層山地、傾動山地などに分類できる{{Sfn|竹内|2002}}<ref group="注">地殻運動の各詳細については、[[褶曲]]、[[曲隆]]、[[断層]]、[[傾動]]などを参照のこと。</ref>。なお、人工的に作った山は[[築山]]という。
== 山の高さ ==
[[ファイル:Himalayas.jpg|thumb|[[ヒマラヤ山脈]]]]
山の高さ([[高さ#地理|標高]])は、海面の延長である[[ジオイド]]からの距離とすることが一般的であり、これを[[海抜]](かいばつ)と言う。
[[地球]]上の最高峰(もっとも高い山)は[[ヒマラヤ山脈]]の[[エベレスト]](海抜8,848m)とされている<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/8608913.stm |title=Nepal and China agree on Mount Everest's height |publisher=BBC News |date=8 April 2010 |accessdate=22 August 2010 |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120303133522/http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/8608913.stm |archivedate=3 March 2012 |df=dmy-all }}</ref> が、海抜以外の指標により最高峰を選ぶことも可能である。たとえば、地球中心から見た最高峰は南米[[アンデス山脈]]の[[チンボラソ|チンボラソ山]](海抜6,310m)である<ref name="The 'Highest' Spot on Earth">{{cite web |url=https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=9428163 |title=The 'Highest' Spot on Earth |publisher=Npr.org |date=7 April 2007 |accessdate=31 July 2012 |deadurl=no |archiveurl=https://webcitation.org/6EKscr9Tt?url=http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=9428163 |archivedate=10 February 2013 |df=dmy-all }}</ref>。
地球は[[自転]]の遠心力により[[回転楕円体]]となっていて、[[赤道]]付近がふくらんでいる。そのため、赤道からわずか150kmにあるチンボラソ山は、エベレストより2,150mも地球中心から見て高くなっている。[[ハワイ]]の[[マウナ・ケア]]も海抜では4,205mだが、太平洋底から一気に10,203mもせり上がっており、基盤部分からの標高では世界最高峰となっている<ref>{{cite web |url=http://science.nationalgeographic.com/science/earth/surface-of-the-earth/mountains-article/ |title=Mountains: Highest Points on Earth |publisher=National Geographic Society |accessdate=19 September 2010 |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100703123427/http://science.nationalgeographic.com/science/earth/surface-of-the-earth/mountains-article |archivedate=3 July 2010 |df=dmy-all }}</ref>。
{{See also|七大陸最高峰}}
日本国内では、最高峰は[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]](標高3,776m)である。対してもっとも低い山は[[仙台市]]の[[日和山 (仙台市)|日和山]](標高3m)<ref>{{Cite web |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20140409-OYT1T50137.html |title=標高3メートル、日本一低い山に…天保山下回る:社会: |publisher=読売新聞(YOMIURI ONLINE)|accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140411210513/http://www.yomiuri.co.jp/national/20140409-OYT1T50137.html |archivedate=2014-4-11 |deadlinkdate=2023-12-23 }}</ref> であるが、山の定義や地形学的分類あるいは地図作成測量によりとらえ方はさまざまであり、もっとも低い山の決定が難しい。
[[地球]]以外の天体では、ジオイドに相当する面からの距離を標高とする。ただし、地球以外の天体には海面がないので、天体ごとに恣意的に定義する。たとえば、火星でジオイドに相当するアレイドは、温度0.01[[℃]]で気圧610.5[[パスカル (単位)|パスカル]]となる面である。日本語では地球上、地球外ともに「山」であるが、英語ではMonsといい、地球の山と区別される。
なお、[[太陽系]]で知られている最高峰は[[火星]]の[[オリンポス山 (火星)|オリンポス山]]であり、標高は約27,000m(27km)に達する。火星にはこのほかにもアルシア山(標高19km)やアスクレウス山(標高18km)、パボニス山(標高14km)といった、地球よりもはるかに高い火山が存在する{{Sfn|水谷|2006|p=42}}が、これは火星にプレートテクトニクスが存在せず、マグマの吹き出す[[ホットスポット (地学)|ホットスポット]]が移動しないため溶岩が同じ場所に堆積し続けたためと考えられている{{Sfn|Baker & Ratcliff|2012|p=5}}。
== 山の形成 ==
[[ファイル:EmperorSeamounts.jpg|thumb|upright=2|[[北太平洋]][[海底]]の地形図。画像右下の[[ハワイ諸島]]から西に向けて[[北西ハワイ諸島]]、さらに北に向きを変えて[[天皇海山群]]と呼ばれる島および海山の列が確認できる。]]
山は、[[プレートテクトニクス|大陸移動(プレート移動)]]にともなう[[褶曲]]や[[断層|断層運動]]、[[隆起と沈降|隆起]]、[[火山|火山活動]]などの地理的要因により形成される。
このうち、もっとも大規模な山岳形成はプレート移動によってなされ、世界の2大造山帯である[[アルプス・ヒマラヤ造山帯]]と[[環太平洋火山帯|環太平洋造山帯]]はいずれもプレート移動により形成されたものである。[[アルプス]]・[[ヒマラヤ]]造山帯に属する[[ヒマラヤ山脈]]や[[アルプス山脈]]は、かつて2つの大陸プレートに挟まれた浅い海だったが、大陸プレート同士の衝突により地面が押し上げられて成立した。このような山の成立過程を'''造山運動'''という。[[ロシア]]の[[ウラル山脈]]や北米東岸の[[アパラチア山脈]]は、ずっと以前の造山運動の痕跡である(造山運動終了後に[[浸食]]などで削られた)。環太平洋造山帯は[[太平洋プレート]]が各大陸プレートに沈み込みを起こして形成されるものであり、その名の通り[[アンデス山脈]]や[[ロッキー山脈]]、[[日本列島]]など太平洋を取り囲むようにして大山脈が連続する形になっている。
この2つの造山帯はいずれもプレート同士の衝突によって形成されるものだが、そのほかにプレートが生み出され広がり続ける[[発散型境界]]においても山脈が形成される。この発散型境界の多くは海底に存在し、[[海嶺]]と呼ばれることが多い。大西洋を南北に貫く[[大西洋中央海嶺]]などが代表例である。
火山の多くはプレートの拡大もしくは収縮地点の側に存在し、そのため上記造山帯の付近にほとんどの火山が存在するものの、まれにプレート境界とはまったく関係ない場所において[[マグマ]]が継続的に供給され火山が成立する場合がある。これは[[ホットスポット (地学)|ホットスポット]]と呼ばれ、ハワイ島のマウナ・ケアなどが代表例である。このホットスポットはプレートの動きとは無関係であるため、プレートが移動してもその地点に山岳を形成し続ける。古い[[火山島]]はホットスポットから離れるにしたがって[[波]]や[[風]]、[[雨]]などによって浸食されていき、やがて海面下に没して[[海山]]となる<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p150-152 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。
断層運動により断層面から見た一方が上昇または下降することにより山が形成されることもあり、例としては日本の[[六甲山地]]<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p120-122 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref> や[[養老山地]]などがある。地殻変動にともなって地面が上昇する隆起により山が形成された例には、日本の[[北上山地]]、[[阿武隈高地]]などがある。
火山活動を成因とする山は、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]や[[阿蘇山]]のような[[活火山]]のほか、[[荒島岳]]のようにかつての火山が浸食されてできたものもある。
上記のようにして形成された山は、またさまざまな理由によって次第に低くなっていく。山を形成している[[岩石]]は、山の厳しい気候や長い年月などによって[[風化]]していき、その積み重ねによって山は低くなっていく{{Sfn|Price|2017|p=31}}。また、[[浸食]]も山を低くしていく大きな要因の一つである。寒冷地や高山において形成される[[氷河]]は、山を侵食する大きな原因の一つである{{Sfn|Price|2017|pp=32-33}}。より温暖な地方においては、河川が主な山体浸食の原因となる{{Sfn|Price|2017|p=34}}。このほか、風による風食も浸食の要因となるが、氷河や河川に比べればその役割は小さなものである{{Sfn|Price|2017|p=34}}。また、地すべりや崖崩れなどによってより急激に山体が変化することもある{{Sfn|Price|2017|p=35}}。
=== 山の部分名称 ===
* 上の部分 - [[頂上|山頂]]、頂(いただき)、剣が峰(けんがみね、火山の噴火口の周縁・富士山頂)、山巓(さんてん)
* 中間部分 - 山腹(さんぷく)、中腹(ちゅうふく)
* 下の部分 - [[山麓]](さんろく)、麓(ふもと)、山すそ
=== 山の形状 ===
山はそれぞれ特徴のある形状であり{{Sfn|アイドマ|2006|pp=68-69}}、それにちなんだ山名のものもある。
[[深田久弥]]は『[[日本百名山]]』の著書などで、それぞれの山(槍ヶ岳、開聞岳、恵那山、鹿島槍ヶ岳など)の山容の特徴について詳しく記載している{{Sfn|深田|1982|pp=13-376}}。
山の形状の例は以下となる。
; 鋭く尖った山容 : [[槍ヶ岳]]、[[剱岳]]、[[宝剣岳]]、[[利尻山]]、[[冠山]]、[[高千穂峰]]など
; [[円錐]]形 : [[成層火山]]の[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]、[[後方羊蹄山]]、[[開聞岳]]など
; なだらかな山容 : [[櫛]]形の[[櫛形山]]、[[恵那山]]、[[御池岳]]など
; 双耳峰 : 2つの顕著なピークからなる[[鹿島槍ヶ岳]]、[[笊ヶ岳]]、[[池口岳]]、[[天狗岳]]、[[由布岳]]など
<gallery mode="packed">
ファイル:05 Yarigatake from Higashikamaone 2000-8-16.jpg|鋭く尖った山容の[[槍ヶ岳]]
ファイル:Kaimondake 2005 3 19.jpg|円錐形の[[開聞岳]]
ファイル:Enasan from north 2010-9-17.JPG|なだらかな山容の[[恵那山]]
ファイル:Kashimayarigatake from jiigatake 2001-11-20.jpg|双耳峰の[[鹿島槍ヶ岳]]
</gallery>
== 山の気候と生物 ==
[[ファイル:Dark-Giewont.jpg|thumb|[[タトラ山脈]]([[ザコパネ]]、ポーランド)]]
山の[[気候]]は平地と大きく異なる。山では[[気象]]が変化しやすく、風も強く、降水量も多い<ref>公益社団法人 日本山岳会「[http://www.jac.or.jp/oyako/b403010.html 山を知ろう]」</ref>。山は起伏が激しいため地上付近の暖かい空気と高所の寒い空気が混じりあい、雲が発生しやすいためである。
また、標高が100m上昇するごとに[[気温]]は0.6度(摂氏)低くなるとされており、そのため、標高が高くなれば植生や生態系も異なってくる。標高が上がるにつれて植生はより寒冷に適応したものとなっていくため、山麓の低地が[[熱帯]]であるのに山頂の植生が[[温帯]]性や[[亜寒帯|冷帯]]性を示したり、さらには森林の生育できる温度を下回ってしまい[[ツンドラ]]や[[氷河]]が広がっているということもありうる。
例として、ほぼ[[赤道]]直下にある[[キリマンジャロ]]山においては、山麓の標高1,900mくらいまでは[[サバンナ]]が広がっているのに対し、標高2,500m程度までは[[熱帯雨林]]、3,000m付近までは[[雲霧林]]となり{{Sfn|水野|2016|p=121}}、それより上になると[[森林限界]]を迎えてしまうため[[樹木]]が生育できず、まばらな低木や草原が広がるようになる。4,400m以上では植物の生育が不可能になり、5,500m以上では赤道直下にもかかわらず[[氷河]]が存在する{{Sfn|現代地図帳|1988|p=43}}。
特に海抜数千メートルの高山では気象環境は過酷であり、ある程度の標高以上では気温が低すぎてもはや樹木が生育できず、そのような環境に適応した特殊な植物・動物が生息している。これを[[高山植物]]・高山動物という。この樹木が生育できなくなる地点のことを森林限界というが、これは基本的には標高によって決定されるものの、その地表の諸条件に大きく左右されるために、必ずしも直線的に限界線が続いているわけではない。
また、森林限界は気温によって左右されるため、場所によってその高度は大きく異なり、基本的には[[緯度]]が低いほど森林限界の高度は高く、緯度が高いほどその高度は低くなる。寒帯にある山岳の場合、麓から山頂までツンドラや氷雪に覆われていることは珍しくない{{Sfn|Price|2017|p=61}}。
また、標高の高い山岳においては斜面に雨雲がぶつかるため、山麓に降雨をもたらすことが多い。この場合、山脈を越えた空気は乾燥することとなり、山の反対側に[[フェーン現象]]をもたらすことがある。
また、海岸から高い山脈にさえぎられた反対側では山脈の方から吹き込む卓越風の風下となり、すでに水分のほとんどを雨として落としてしまっているため、極度に乾燥した気候となることがある。これを雨陰効果と呼び、[[タクラマカン砂漠]]や[[グレートベースン]]などがこの要因によって砂漠となっている{{Sfn|篠田|2008|p=23}}。逆に山岳の風上側においては乾燥地においても降雨をもたらすことはよくある。
== 山と人間 ==
[[ファイル:Niigata Yama-no-Kami.jpg|thumb|山の神(新潟県見附市)]]
古代史において「山は隔て、海は結ぶ」という言葉がある{{Sfn|小林|2015|p=83}}ように、海は交通路として遠隔地を結びつける役割を果たす一方、山は逆に交通の障害として隣接する地域同士を隔てる役割を持った。近代に入り交通網が整備されるようになるまで山、特に山脈は人々の交流を妨げることが多く、山脈を一つ隔てた両側で[[文化 (代表的なトピック)|文化]]、さらには[[言語]]や[[民族]]にいたるまで異なっていることは珍しいことではなかった。こうしたことから[[地方政府|自治体]]や[[国家]]の境界線は山の尾根の線に置かれることが多くなっており、[[地政学]]においても山岳はしばしば望ましい自然国境であるとみなされている<ref>Kolossov, V. (2005). Border studies: changing perspectives and theoretical approaches. ''Geopolitics'', 10(4), 606-632.</ref><ref>Van Houtum, H. (2005). The geopolitics of borders and boundaries. ''Geopolitics'', 10(4), 672-679.</ref>。
=== 居住と利用 ===
国際連合環境計画が定義した山岳の条件下では、世界陸地面積の24%が山岳となっており、世界人口の12%がその地帯に居住している{{Sfn|Price|2017|p=6}}。地球上の陸地面積の7%が標高2,500m以上の高度に属し、およそ1億4,000万人がその高度帯に居住している<ref>{{cite journal |title=Human Genetic Adaptation to High Altitude |first=Lorna G. |last=Moore |journal=High Alt Med Biol |year=2001 |volume=2 |issue=2 |pages=257–279 |doi=10.1089/152702901750265341 |pmid=11443005}}</ref>。標高3,000m以上の土地にはおよそ200万から300万人が居住している<ref>{{cite journal |url=http://bloodjournal.hematologylibrary.org/content/106/4/1441.long |title=The influence of high-altitude living on body iron |first1=James D. |last1=Cook |first2=Erick |last2=Boy |first3=Carol |last3=Flowers |first4=Maria |last4=del Carmen Daroca |journal=Blood |year=2005 |volume=106 |pages=1441–1446 |doi=10.1182/blood-2004-12-4782 |issue=4 |pmid=15870179}}</ref>。こうした山岳居住人口のおよそ半分はアンデス、中央アジア、およびアフリカに居住している。
インフラへのアクセスが限られるために、高度4,000m以上の地帯には少数の居住者しか存在しないが、4,150mの地点にあるボリビアの[[エルアルト]]市は例外であり、盛んな商業と多様な工業、そしてほぼ100万人の人口を有する<ref>{{Cite web |title=El Alto, Bolivia: A New World Out Of Differences |url=http://upsidedownworld.org/elalto.htm |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150516032048/http://upsidedownworld.org/elalto.htm |archivedate=16 May 2015 |df=dmy-all |accessdate=2018年7月8日}}</ref>。
世界でもっとも高い地点に存在する都市はペルーの[[ラ・リンコナダ]]であり、標高5,100mの地点に位置する[[金]]鉱山の都市である<ref>{{Cite web |first=William |last=Finnegan |authorlink=:en:William Finnegan |date=2015-04-20 |title=Tears of the Sun |url=http://www.newyorker.com/magazine/2015/04/20/tears-of-the-sun |publisher=[[コンデナスト・パブリケーションズ|Condé Nast Publications]] |work=[[ザ・ニューヨーカー|The New Yorker]] |language={{eng}} |accessdate=2018-07-08 }}</ref>。
ヒトの定住が可能である高度は約5,950mが限度とされている<ref name=highestHabitation>{{cite journal |last=West |first=JB |pmid=12631426 |title=Highest permanent human habitation |journal=High Altitude Medical Biology |volume=3 |pages=401–7 |year=2002 |doi=10.1089/15270290260512882 |issue=4}}</ref>。標高の非常に高い場所では、呼吸のために必要な[[酸素]]が非常に少なく、また日光に含まれる[[紫外線]]からもあまり保護されない。特に標高8,000m以上の地点では人類の生息に必要なだけの酸素が存在しない。この高度の地帯は[[デスゾーン]]と呼ばれ<ref name="PBS">{{cite web|url= https://www.pbs.org/wgbh/nova/transcripts/2506everest.html|title= Everest:The Death Zone|work= Nova|publisher= PBS|date= 24 February 1998|deadurl= no|archiveurl= https://web.archive.org/web/20170618221529/http://www.pbs.org/wgbh/nova/transcripts/2506everest.html|archivedate= 18 June 2017|df= dmy-all|accessdate=2018年7月8日}}</ref>、エベレストやK2の山頂がこれに含まれる。
ヒトにとって山は必ずしも生活しやすい場所ではない。[[気象]]変動は激しく、さらに標高が高くなると[[空気]]が薄くなり[[酸素]]が不足するため、約2,500m付近からは[[高山病]]にかかるものもあらわれはじめる。山岳の大部分は[[地面]]が傾斜しているため、居住にはあまり適さず{{Sfn|Price|2017|p=89}}、また広い平地を確保できないために大規模な農地を設けることが難しく、食料生産効率も低地に比べ一般に劣る。
一方で、山岳は決して不毛の地ではなく、豊かな植生に恵まれ動物や植物が豊富なところも多いことから、山岳地帯に居住する人々もかなりの数にのぼる。可耕地に乏しい日本の[[山村]]において山は[[材木]]や[[燃料]]などの林産物を産出し、[[狩猟]]や交易、[[鉱山]]の経営など山稼ぎは山村の生業における重要な要素であった。また、傾斜の緩やかな地点を切り開いて[[焼畑]]を行ったり、段々畑、[[棚田]]を建設して農耕を行うことも世界中に広くみられる{{Sfn|Price|2017|pp=81-83}}。
また、特に低緯度地帯においては標高の高い山岳地帯は気温の高い低地に比べ温和な気候となるため、標高による空気の薄さを考慮しても必ずしも暮らしにくい地域ではない。このため、アンデス山脈や[[メキシコ高原]]、[[エチオピア高原]]といった地域は古くから栄え、独自の文明を築いてきた。現代においてもこれら地域は大きな人口を抱え、[[メキシコシティ]]や[[ボリビア]]の[[ラパス]]、[[エチオピア]]の[[アジスアベバ]]などの大都市も存在している。
また、ユーラシア大陸中央部の[[チベット高原]]は標高が高く寒冷な地域であるが、牧畜を中心に古くから人類が居住し、一つの文化圏を形成してきた。こうした山岳地においては標高によって気温が変わるため土地利用が異なっており、特にアンデス山脈においてはやや標高の低く温暖な地域では[[トウモロコシ]]、やや標高の高い地域では[[ジャガイモ]]、それより標高の高い地域では[[放牧]]を行うなど、高度によって明確に異なった土地利用を行っている{{Sfn|坂井他|2007|pp=254-255}}。
このほか、人々が山岳地帯に居住する理由としては鉱物資源の存在がある。農耕に不適で本来人間が居住できない地点においても、高価な鉱物資源の存在によって鉱山が開かれ多くの人々が生活していることは珍しくない。
世界の河川の多くは山岳地帯を源流としており、山岳に降り積もった雪は下流の住民のために水を貯蔵する機能を果たしている<ref>[[#Blyth et,al. 2002|Blyth et,al. 2002]] p.22.</ref>。人類の半数以上は山からの水に依存して生活している<ref>{{cite web|url=http://www.wateryear2003.org/en/ev.php-URL_ID=3903&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061007104411/http://www.wateryear2003.org/en/ev.php-URL_ID%3D3903%26URL_DO%3DDO_TOPIC%26URL_SECTION%3D201.html |archivedate=7 October 2006 |title=International Year of Freshwater 2003 |accessdate=7 December 2006 |deadurl=yes |df= }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.mountain.org/mountains/whymtns.cfm?slidepage=water|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060709060421/http://www.mountain.org/mountains/whymtns.cfm?slidepage=water|archivedate=9 July 2006|title=The Mountain Institute|accessdate=7 December 2006}}</ref>。
山岳は上記のように降雨を多くもたらすため、多くの国々で山岳地帯に[[ダム]]を設け水資源確保や[[発電]]を行っている{{Sfn|Price|2017|p=52}}。こうした山岳流水のエネルギーは古くから[[水車]]などで利用されており、20世紀後半以降は小規模水力発電が各所に設けられるようになった{{Sfn|Price|2017|p=52}}。
また、[[超短波]]以上の周波数で発射する[[送信所]]の多くは山に設置されている。
=== 信仰と観光 ===
{{Main|山岳信仰}}
世界の多くの地域では、神聖な山として山に対する信仰が生まれている。
日本では富士山をはじめ主要な山々で山岳信仰が存在し、[[富士信仰|浅間信仰]]や[[白山信仰]]のように神道と結びついて神格化されるようになった<ref>「登山の誕生」p83-89 中公新書 小泉武栄 2001年6月25日発行</ref>。山岳信仰は特に[[修験道]]と結びつき<ref>「登山の誕生」p105-108 中公新書 小泉武栄 2001年6月25日発行</ref>、信仰の興隆にともない庶民の登山も盛んとなって、登山者に宿所などを提供する[[御師]]が成立した<ref>「登山の誕生」p113-116 中公新書 小泉武栄 2001年6月25日発行</ref>。また、民間信仰においても山は異界へ通じる恐れの対象であると同時に、天候や生業に関わる神性な世界としても認識され、[[山の神]]や[[雨乞い]]などに山に関する民俗が存在している。山岳信仰には、山へ登るという形態もあれば、山を敬遠して眺めるだけという形態もあった。
やがて近代に入ると、ヨーロッパにおいて山の自然の美しさがしだいに認められるようになり、18世紀末には[[探検]]や[[スポーツ]]としての[[登山]]が盛んに行われるようになった<ref>「登山の誕生」p48-59 中公新書 小泉武栄 2001年6月25日発行</ref>。これにより、山は[[余暇]]・娯楽の場としてとらえられるようになっていった。現代では登山のみならず、[[スキー]]、[[キャンプ]]など多様な余暇活動が行われている。
また、山を眺めることについても信仰色が薄まっていき、現代では山岳展望という新たな余暇活動として楽しむ人が増えている。最近では[[パワースポット]]の一つとして、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]などの山がその対象の一つとなっている<ref>{{Cite web|和書|title=山梨のパワースポット |url=http://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/specialty/yamanashi_pwoer-s.html |publisher=社団法人やまなし観光推進機構 |work=富士の国やまなし観光ネット |accessdate=2011-03-06 }}</ref>{{Sfn|ランドネ|2010|pp=57-71}}。
== 各大州の高峰 ==
{{see also|七大陸最高峰|セブン・セカンド・サミット|セブン・サード・サミット|山の一覧}}
=== アフリカ ===
{| class="wikitable sortable"
! class="unsortable"|山名
! 高さ (m) !! class="unsortable"|国・地域 !! class="unsortable"|座標
|-
| [[キリマンジャロ]](ウフル山){{Sfn|新詳高等地図}}<ref group="注">キボ峰の最高地点。</ref>
| style="text-align:right"|{{formatnum:5895}} || {{TZA}} || {{coord|3|04|33|S|37|21|12|E|type:mountain(5895)|display=inline}}
|-
| キリニャガ山([[ケニア山]]){{Sfn|新詳高等地図}}
| style="text-align:right"|{{formatnum:5199}} || {{KEN}} || {{coord|0|09|22|S|37|19|05|E|type:mountain(5199)|display=inline}}
|-
| [[マウエンジ峰]]
| style="text-align:right"|{{formatnum:5149}} || {{TZA}}<ref group="注">[[キリマンジャロ]]のうちのひとつ。</ref> || {{coord|03|04|33|S|37|21|12|E|type:mountain_region:TZ-09_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[ルウェンゾリ山]]{{Sfn|新詳高等地図}}
| style="text-align:right"|{{formatnum:5110}} || {{Unbulleted list|{{COG}}|{{UGA}}}} || {{coord|0|23|00|N|29|52|00|E|type:mountain(5109)|display=inline}}
|-
| [[ラスダシャン山]]
| style="text-align:right"|{{formatnum:4623}}|| {{ETH}} ||{{coord|13|14|12|N|38|22|21|E|type:mountain(4623)|display=inline}}
|}
=== 北アメリカ ===
{| class="wikitable sortable"
! class="unsortable"|山名
! 高さ (m) !! class="unsortable"|国・地域 !! class="unsortable"|座標
|-
| [[デナリ|デナリ(マッキンリー)山]]{{Sfn|新詳高等地図}}
| style="text-align:right"|{{formatnum:6191}} || {{USA}}({{Flag|Alaska}}) || {{coord|63.0695|N|151.0074|W|type:mountain_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[ローガン山]]{{Sfn|新詳高等地図}}
| style="text-align:right"|{{formatnum:5959}} || {{CAN}}({{Flag|Yukon}}) || {{coord|60|34|02|N|140|24|19|W|type:mountain_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[オリサバ山]]{{Sfn|新詳高等地図}}
|style="text-align:right"|{{formatnum:5675}} || {{MEX}} || {{coord|19|01|48|N|97|16|12|W|type:mountain_region:MX_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[セイントイライアス山]]
| style="text-align:right"|{{formatnum:5489}} || {{Unbulleted list|{{USA}}({{Flag|Alaska}})|{{CAN}}({{Flag|Yukon}})}} || {{coord|60|17|32|N|140|55|53|W|type:mountain_region:US-AK_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[ポポカテペトル山]]{{Sfn|新詳高等地図}}
|style="text-align:right"|{{formatnum:5426}} || {{MEX}} || {{coord|19|01|20|N|98|37|40|W|type:mountain_region:MX_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|}
=== 南アメリカ ===
{| class="wikitable sortable"
! class="unsortable"|山名
! 高さ (m) !! class="unsortable"|国・地域 !! class="unsortable"|座標
|-
| [[アコンカグア]]{{Sfn|新詳高等地図}}
| style="text-align:right"|{{formatnum:6959}} || {{ARG}} || {{coord|32|39|11.51|S|070|0|40.32|W|type:mountain_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[オホス・デル・サラード]]<ref group="注">世界で最も高い[[火山]]。</ref>
| style="text-align:right"|{{formatnum:6891}} || {{CHL}} || {{coord|27.109|S|68.541|W|display=inline}}
|-
| [[ピシス山]]
| style="text-align:right"|{{formatnum:6774}} || {{ARG}} || {{coord|27|45|17.27|S|068|47|56.04|W|type:mountain_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[ワスカラン]]
| style="text-align:right"|{{formatnum:6768}} || {{PER}} || {{coord|09|07|18|S|77|36|15|W|type:mountain_region:PE_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| {{仮リンク|セロ・ボネテ|en|Cerro Bonete}}
| style="text-align:right"|{{formatnum:6759}} || {{ARG}} || {{coord|28.0187|S|68.7561|W|type:mountain_region:AR|display=inline|name=Cerro Bonete}}
|}
=== 南極 ===
{| class="wikitable sortable"
! class="unsortable"|山名
! 高さ (m) !! class="unsortable"|国・地域 !! class="unsortable"|座標
|-
| [[ヴィンソン・マシフ]]{{Sfn|新詳高等地図}}
| style="text-align:right"|{{formatnum:4897}} || rowspan="5"|{{ATA}} || {{coord|78|31|31.74|S|85|37|1.73|W|type:mountain_region:AQ_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[タイリー山]]
| style="text-align:right"|{{formatnum:4852}} || {{coord|78|24|42|S|85|51|43|W|type:mountain_region:AQ_scale:100000|format=dms|display=inline}}
|-
| [[シン山]]
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=== アジア ===
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| [[エベレスト]]{{Sfn|新詳高等地図}}<ref group="注">世界最高峰。</ref>
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| [[エルブルス山]]
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=== オセアニア ===
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| [[プンチャック・ジャヤ]] (カルステンツ・ピラミッド)
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| [[マンダラ山 (インドネシア)|マンダラ山]]
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| [[ギルウェ山]]
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ファイル:Denali Mt McKinley.jpg|[[デナリ|マッキンリー]]
ファイル:Mount Kilimanjaro.jpg|[[キリマンジャロ]]
ファイル:Mount Elbrus May 2008.jpg|[[エルブルス山]]
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* <!--Price-->{{Cite book |和書 |author=Martin F. Price |translator=渡辺悌二・上野健一 |date=2017-07-31 |title=山岳 |publisher=[[丸善出版]] |series=サイエンス・パレット 034 |isbn=978-4-621-30172-2 |ref={{SfnRef|Price|2017}} }}
* <!--アイドマ-->{{Cite book |和書 |editor=アイドマ・スタジオ |date=2006-01 |title=なるほど知図帳 日本の山 |publisher=[[昭文社]] |series=山と高原地図plus |isbn=978-4-398-20025-9 |ref={{SfnRef|アイドマ|2006}} }}
* <!--こばやし-->{{Cite book |和書 |author=小林登志子|authorlink=小林登志子 |date=2015-06-25 |title=文明の誕生─メソポタミア、ローマ、そして日本へ |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] 2323 |isbn=978-4-12-102323-0 |ref={{SfnRef|小林|2015}} }}
* <!--さかい-->{{Cite book |和書 |editors=立川武蔵・[[安田喜憲]](監修)、坂井正人・松本栄次・鈴木紀(編集) |date=2007-07-01 |title=ラテンアメリカ |publisher=[[朝倉書店]] |series=朝倉世界地理講座―大地と人間の物語 14 |isbn=978-4-254-16804-4 |ref={{SfnRef|坂井他|2007}} }}
* <!--しのだ-->{{Cite book |和書 |editor1=鳥取大学乾燥地研究センター(監修)|editor1-link=鳥取大学|editor2=篠田雅人 |date=2008-03-20 |title=乾燥地の自然 |publisher=[[古今書院]] |series=乾燥地科学シリーズ 2 |isbn=978-4-7722-3106-0 |ref={{SfnRef|篠田|2008}} }}
* <!--たけうち-->{{Cite book |和書 |date=2002-02-08 |title=スーパー・[[日本大百科全書|ニッポニカ]] 2002 DVD-ROM版 日本大百科全書+国語大辞典 Windows版 |publisher=[[小学館]] |chapter=[[竹内利美]]「山」 |asin=B0000794W0 |ref={{SfnRef|竹内|2002}} }}<!--※同書の「山」以外の項目を出典に使いたい時は「chapter=xxxx」を削除した上で{{Wikicite}}を使って表示してください。
:* {{Wikicite |ref={{SfnRef|竹内|2002}} |reference=[[竹内利美]]「山」}} -->
* <!--にのみやしょてん-->{{Cite book |和書 |editor= |date=1988-03-10 |title=現代地図帳 {{small|文部科学省検定教科書}} |edition=三訂版 |publisher=[[二宮書店]] |series=地図 305 |isbn=978-4-8176-0355-5 |ref={{SfnRef|現代地図帳|1988}} }}
* <!--ふかだ-->{{Cite book |和書 |author=深田久弥|authorlink=深田久弥 |date=1982-07-01 |title=日本百名山 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=山の文庫 1 |isbn=978-4-02-260871-0 |ref={{SfnRef|深田|1982}} }}
* <!--みずの-->{{Cite book |和書 |author=水野一晴|authorlink=水野一晴 |date=2016-08-23 |title=気候変動で読む地球史 {{small|限界地帯の自然と植生から}} |publisher=[[NHK出版]] |series=[[NHKブックス]] 1240 |isbn=978-4-14-091240-9 |ref={{SfnRef|水野|2016}} }}
* <!--ランドネ-->{{Cite book |和書 |editor=ランドネ編集部 |date=2010-09-22 |title=ランドネ別冊 聖なる山と、聖なる川。 |publisher=[[エイ出版社]] |series=エイムック 2031 別冊ランドネ |isbn=978-4-7779-1732-7 |ref={{SfnRef|ランドネ|2010}} }}
=== 雑誌 ===
* <!--ベイカー-->{{Cite book |和書 |author=デイヴィッド・ベイカー<!--David Baker--> |author2=トッド・ラトクリフ<!--Todd Ratcliff--> |translator=渡部潤一・後藤真理子 |date=2012-10-20 |title=太陽系探検ガイド─エクストリームな50の場所 |edition=初版第1刷 |publisher=[[朝倉書店]] |isbn=978-4-254-15020-9 |ref={{SfnRef|Baker & Ratcliff|2012}} }}
* <!--みずたに-->{{Cite book |和書 |author=水谷仁 |date=2006-10 |title=探査機が明らかにした太陽系のすべて |publisher=ニュートンプレス |series=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]ムック |isbn=978-4-315-51785-9 |ref={{SfnRef|水谷|2006}} }}
=== 地図 ===
* <!--みずたに-->{{Cite book |和書 |author=帝国書院編集部 |date= |title=新詳高等地図 |publisher=株式会社 [[帝国書院]] |series= |isbn=978-4-8071-6208-6 |ref={{SfnRef|新詳高等地図}} }}
=== その他 ===
* Blyth, S.; Groombridge, B.; Lysenko, I.; Miles, L.; Newton, A. (2002). "Mountain Watch" (PDF). UNEP World Conservation Monitoring Centre, Cambridge, UK. Archived from the original (PDF) on 11 May 2008. Retrieved 17 February 2009. {{Anchors|Blyth et,al. 2002}}
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2022年5月}}
{{Sisterlinks|b=no|s=no|n=no|v=no|d=Q8502}}
* [[地形]]
** [[山脈]]
** [[山地]]
*** [[山脈と山地の一覧]]
** [[山塊]]
*** [[日本の山塊一覧 (高さ順)]]
** 独立峰
** [[火山]]
*** [[火山の一覧]]
**** [[火山の一覧 (日本)]]
** [[丘陵]]
** [[台地]]
* [[日本の山の一覧]]
* [[信仰]]
** [[神体山]]
*** [[神奈備#『出雲国風土記』におけるカンナビ山|神奈備山]]
* [[祭祀]]
** [[山車]](曳山)
* [[登山家]]
* [[登山]]
** [[アルピニズム]]
** [[山岳信仰]]
*** [[山岳仏教]]
** 山岳展望
*** [[山座同定]]
== 外部リンク ==
* {{EoE|Mountain|Mountain}}
* {{Kotobank}}
{{登山}}
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在日韓国・朝鮮人
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在日韓国・朝鮮人(ざいにちかんこく・ちょうせんじん、朝: 재일 한국인・조선인; 英: Koreans in Japan)は、日本に在留する韓国・朝鮮籍 の外国人。これらは国籍上大韓民国の人々である。
彼らの多数を占める特別永住者はサンフランシスコ平和条約により日本国籍喪失、1966年の日韓法的地位協定で永住者権が付与、1991年の日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法により特別永住者の地位へと変わった。1980年初頭の大韓民国政府によって、日本を含む他国への留学行為、1989年から一般韓国人も海外渡航が解禁になり、新在日韓国人も誕生した。
日本の法務省の在留外国人統計によると、2022年12月時点で中長期在留者・特別永住者は、436,670人(総在留外国人とは別)、そのうち韓国籍は411,312人、朝鮮籍は25,358人、しばしば「在日」と略称される韓国・朝鮮籍の特別永住者は285,459人となっている。
「在日韓国・朝鮮人」の定義として以下のケースに限定、もしくは含む場合がある。
1特別永住者のみ
2北朝鮮から亡命後、日本に定住した脱北者(一度帰還事業で帰国した人やその子孫を含む)
3韓国・朝鮮系日本人(帰化者や国籍取得者)
また本項目では、日韓併合(1910年)から1948年の韓国と北朝鮮建国までに在留した朝鮮民族についても「在日韓国・朝鮮人」を用いる。
文脈によってその定義が変わるが、解説に当たり本項目では日本国政府が公式の統計情報として記録する日本に在留する韓国・朝鮮籍の者と定義する。
日本国内の働き手不足と韓国国内の就職難を要因として、技術・人文知識・国際業務や留学資格で在留する韓国人が増加する一方、長年にわたり、日本における在留外国人の中で最多数を占めていた在日韓国・朝鮮人は2022年12月末の時点で総数としては減少傾向が続く。
2007年には特別永住者の帰化と死去による減少で在日中国人が追い抜き、外国人労働者として急増した在日ベトナム人が上回って以降は(日本の外国人の項目を参照)、3番目に多い位置にある。
2022年12月時点の統計を記す。
民族としてのアイデンティティから在日朝鮮人や朝鮮民族(韓国では「韓民族」)と呼ばれる。
韓国併合後は在日朝鮮人(公式呼称は朝鮮半島在住者も含めて朝鮮人)と呼ばれ、サンフランシスコ条約発効後の国籍欄には「朝鮮」と記入されていたことから、在日韓国・朝鮮人全体を在日朝鮮人または在日韓国人と称することもある。
日韓基本条約の締結に伴って1970年代から「朝鮮」の排除を進めた韓国の韓国籍に切り替えたものが現れ、1970年代後半から1980年代にかけて「在日韓国・朝鮮人」が普及。
韓国、北朝鮮においては、帰化者も含めて在日僑胞(チェイルキョッポ、재일 교포)、在日同胞(チェイルドンポ、재일 동포)と呼ばれる。
また、それぞれの正統国家としての立場と深く関係して、「在日韓国人」(재일 한국인)と主張する在日本大韓民国民団(通称:韓国民団ないし民団)に対して、北朝鮮を支持する在日朝鮮人組織・在日本朝鮮人総聯合会(通称:朝鮮総連ないし総連)は「在日朝鮮人」(재일 조선인)を主張する。
これら呼称に関する南北の争いを避けるために、国籍上や民族的アイデンティティから国籍を問わない呼称として「在日コリアン」や「コリアンジャパニーズ」、おおざっぱに「在日」と短縮されたりもする。
韓国政府は1999年に「在外同胞法」を制定し兵役の義務を果たしていない韓国籍特別永住者などの在外永住者や韓国系アメリカ人など韓国をルーツとする外国人にも「在外同胞」(재외동포、F-4査証)の法的地位を与えて内国人待遇を認めるようになった(朝鮮籍在日韓国・朝鮮人は対象外。中国朝鮮族、旧ソ連の高麗人は技能もしくは2年間の就労経験の条件がある)。
在外韓国人の投票権は韓国における外国人投票権(2005年から)に遅れ2010年から認められるようになった)。大韓民国外交部によると2021年末の在日僑胞は81万8865人となっている。
一方、北朝鮮の民間では、在日朝鮮人・韓国人を「チェポ(째포、在胞)」という呼び方が一般的である。北朝鮮に渡航した元在日朝鮮人・韓国人は、社会階層では「動揺階層」に分類されるように、日本由来への不信感が込められた呼び方である。昇進・要職において、制限を受けていると言わざるを得ない。
在日韓国・朝鮮人の性格には、来日・定住を始めた時期、出身地、定住する地域、本国での国籍によって大きな違いがあるといわれている。韓国により留学が自由化された1980年代以降に来日した韓国人を「ニューカマー」、それ以前から在留している在日韓国・朝鮮人やその子孫を「オールドカマー」と呼び、区別することもある。
上述のように、外国人登録制度が廃止された2012年7月以降の日本政府の一般的な外国人数統計では、「中長期在留者」と「特別永住者」を「在留外国人」として計上しており(総在留外国人とは別)、本項目でも、主に韓国・朝鮮籍の在留外国人について記載している。
これに対して、帰化者や、日本人の片親を持つ者ち日本国籍を選択した者は「韓国・朝鮮系日本人(コリアン・ジャパニーズ)」と呼ばれる。これら、「韓国・朝鮮系日本人」は在日韓国・朝鮮人とは区別され、単に「日本人」とみなされる。これは、帰化者に朝鮮系出自を言明する者が少なく、日本人と自認する場合がほとんどだったこと。また、そう自認する者しか帰化しない時期が長くつづいたことがある。
また、在住が数世代を経て区別がつかなくなったこと、帰化がかつて手続き的な国籍取得ではなく民族的同化を求めるものであったこと、出自を表明する帰化者がほとんどなかったことなどが関係している。
しかし、1980年代末以降、日本国籍を取得しながら民族的出自を明らかにする者も増えつつあり、韓昌祐(はん・ちゃんう)のように民族名の朝鮮語読みを日本語転記した名前で帰化した例もある。また、韓国・朝鮮系日本人を同胞視する在日韓国・朝鮮人も増えており、韓国本国も韓国・朝鮮系日本人を「在日同胞」と位置づけている。
日本の法務省民事局の統計によると、元は韓国・朝鮮籍で、1952~2022年12月末に日本国籍を取得(帰化)した累積帰化許可者数は390,218人となっている。
戦時の在日朝鮮人らは、後に日本共産党で活動するような者も含め、敗戦までは日本国支持が占めていた。デイリー新潮が在日本朝鮮人連盟(朝連)に参加した朝鮮人の証言を集めた際には、戦前から共産党員であった人は少数で、戦時中は軍国少年だった人が多かったことが判明している。朝連関係者の多数派、後に祖国防衛隊や、日本共産党の支部や山村工作隊で活躍した人でさえも、「終戦」については、「悲しくて泣いた」「寂しかった」と取材に答えている。戦前からの共産党員であった朝鮮人は少数であった。戦後の日本共産党は地域にバラつきはあるが、党員の多くは朝鮮人であり、朝連の中に日本共産党があり、一体化して活動をしていた。中学時代に共産党に入党した、朝鮮総連の活動家となる李玄鎮も、 自身が所属した当時の支部について、 「ほとんど在日の人で、日本人はたった1人でした」と語っている。後に日本共産党財政部長となる亀山幸三も1945年10月に日本共産党に入党したが、「その頃の共産党の舞台裏に関していえば、朝鮮人の同志らの存在が大きかった。戦後ながらく、朝鮮共産党の日本における党員ということではなく、日本共産党の党員であった」と述べている。
戦後直後には200余万人が居たが、1946年3月末までに約130万以上の者が本国に帰還した。しかし、1951年10月20時点でも日本国から引き揚げずに残留した在日朝鮮人約60万の国籍と処遇は日韓の課題となった。
在日朝鮮・韓国人は日本統治時代(1910-1945年)に朝鮮から渡航してきた定住者、戦後に朝鮮半島に帰還したものの、経済も政治も悪い故郷よりも日本で生活する方が良いために再度密航してきた者、戦前は日本に住んでいなかったが、済州島四・三事件(1948年)、朝鮮戦争(1950-1953年)などから逃避するために密航した20万人~40万人に区分される。彼とその子孫の多くは1945年9月2日以前から日本の内地に在留していたと認定され、特別永住資格を付与された。その後、特別永住者として日本の永住権者を持つ日本の外国人の中でも、特殊な地位を占めている。特に東京、大阪を中心とする首都圏、関西は大久保、鶴橋の様に大規模なコリア・タウンが有る影響で在日韓国・朝鮮人の集住地帯と化している。
朝鮮戦争時には、一部の在日韓国人が大韓民国への義勇兵として朝鮮半島に戻った。これは1950年に在京韓国代表部が義勇兵の組織化をGHQに提案したことが契機となったもので、同年8月以降、朝鮮半島に向けて在日韓国人の義勇兵が送り込まれたものである。義勇兵の選出には北朝鮮系の分子が潜り込まないように慎重に行われている。朝鮮半島に送り込まれた実数は定かではないが、約1年後には126人が韓国内で活動していることが報告されている。
在日韓国・朝鮮人の国籍と政治的スペクトルは必ず同一であるとは言えない。在日韓国・朝鮮人のうち、韓国籍、日本籍でありながら、朝鮮総連系の教育を受けたなどの理由により、自らを北朝鮮公民と自己規定する者も少なくない。
在日朝鮮人の帰還事業などで北朝鮮に帰国した在日朝鮮人は、配偶者として渡朝した日本人女性の「少し上」程度の最下層として扱われ飢餓に苦しみ、北朝鮮住民から「ジェッキ(朝鮮語表記不詳)」又は蔑称として「チェポ(朝鮮語:째포)」と呼ばれていた。財産を有して帰国した一家は資産を没収させられ、日本に残留した家族・親戚からの送金による資金源や日本からの科学技術獲得に役に立たないと見なされた者らとその子孫約10万人は、政治犯として脱北者と共に収容所送りにされ処刑される者もいた。また、北朝鮮政府や傘下の朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)は、帰国した家族・親戚も利用しながら、民族意識を歴代世襲独裁者の金日成、金正日、金正恩一族への個人崇拝に誘導して、一部の在日朝鮮人を日本国内でスパイ活動に利用しているともされる。
朝鮮語の能力に問題がある在日韓国人は韓国では日本人として差別を受けることがある。
1980年代には韓国政府が自国民へ留学行為解禁、旅行解禁したため、それ以前から在住した旧在日韓国人とは別タイプの在日韓国人が誕生している(新在日韓国人)。
今日では若い世代を中心に新しい価値観が広まり、日本定住を前提とした帰化、民団・総連など民族団体離れが、進行している。朝鮮籍の人でさえも、本国である北朝鮮や朝鮮総連と距離を置きたいと考える人も少なくない。在日韓国・朝鮮人社会に詳しい関係者も「今の子供たちは在日4世、5世の世代で、日本定住が大前提。朝鮮の言葉や文化を継承してほしいと願う祖父母や両親の影響が強くない限り、あえて朝鮮学校には通わせないだろう」と在日社会の朝鮮学校離れも述べている。
オールドカマー在日韓国人とその子孫中心の全国的民族団体として、韓国を支持する在日本大韓民国民団(韓国民団ないし民団)と北朝鮮を支持する在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連ないし総連)がある。最後に確認できる2021年末の数値では、民団には帰化者も含めた全在日同胞(僑胞)の66%である299,686人が登録されている。この他にも新宿区のコリアンタウンを中心とする東京都内在住のニューカマーが中心となった在日本韓国人連合会(韓人会)、2001年に日本の保守派の国会議員らによって新しい日本国籍取得法案が検討され始めたことを契機に結成された在日朝鮮人弁護士協会、民団傘下の在日韓国人法曹フォーラムなどがある。
帰化者も含めた全在外同胞の12%である在日韓国人への2012年の韓国政府の支援額は78億ウォンで在外同胞交流支援予算の67%を占め、また他国ではプロジェクトごとに予算が付けられているのに対し、予算執行の管理・監督に手抜きが指摘される民団には毎年継続的に一定額が支援されている。韓人会などの他の韓国系在日団体への支援も民団を通じて行われており、民団支援予算の1%程度がこれら非民団団体の支援に使われている。
民団団長は2018年に朝鮮総連について「拉致と核・ミサイル開発問題において朝鮮総連は日本の人々の敵と変わらない。民団がそのような朝鮮総連と手を組めば日本の人々からは『やはり同じ朝鮮人』という話が出るしかない。朝鮮総連が反省して普通の団体がなるべきだ」と述べている。「我々は人権国家であり拉致は絶対にしていない」となどの主張を例に総連関係者は昨日言ったことでも、翌日に北朝鮮の指導部が言ったことを復唱して言葉を変える朝鮮労働党傘下の団体であると批判している。
在日韓国・朝鮮人の総人口に占める宿泊・飲食の就業者の割合は13.0%であり、日本人の総人口に占める同割合5.5%の2倍以上である。特に焼肉、朝鮮料理店などの飲食の経営者には在日韓国・朝鮮人の自営業者が多いと言われ、同じく朝鮮系の自営業者が多いと言われるパチンコや不動産と合わせて「民族産業」や「在日産業」と呼ばれることがあるこれら自営業者に対しては、昭和40年代に民族団体を通じた減税の動きが全国的にあったとされる。
このような資金回転が速い事業、日本人の嫌ういわゆる「3K」産業を担うようになった背景には、民族差別、就職差別があったとされる。
焼肉業界は在日が生み、育てた説がある。焼肉業界は2003年の米国産牛肉の輸入停止問題では大きな影響を受けた。民団の機関紙民団新聞によると、2001年時点で焼肉店は2万店舗、年間販売は7000億円、焼肉業界の6割を在日系が占めていたが、景気悪化により2010年には4割にまで減った。
貴金属業界は、1970年代後半に韓国から日本に技術者が進出したこともあってニューカマー在日韓国人が多く、日本国内で制作される貴金属製品の約7割、特に高級宝飾品の大部分が韓国人技能士(貴金属装身具製作技能士)の手によるものとされる。彼らは御徒町駅周辺の「ジュエリータウンおかちまち」の形成にも係わったという。東京都内には在日韓国人らでつくる在日韓国人貴金属協会があり、山梨にも韓人山梨貴金属協会がある。
韓国・在日韓国人信用組合協会(韓信協)・民団系の商銀信用組合(商銀)系と北朝鮮・在日本朝鮮信用組合協会(朝信協、現在は解散)・朝鮮総連系の朝銀信用組合(朝銀)系の金融機関があるが、バブル崩壊以降破綻が相次いだ。以前に比べて在日韓国朝鮮人も日本の金融機関からの融資が受けやすくなったため、民族系金融機関の存在理由が薄れてきていることに加え、破たん処理の過程で日本人理事長を受け入れるなど、民族色も薄まってきている。
破綻した朝銀の債権を受け継いだ整理回収機構は朝鮮総連中央本部や大阪など主要都市の朝鮮総連地方本部と学校などを差し押えるなど、債権回収手続きを進めている。また、朝銀の破綻に関連して2004年3月までに朝鮮総連中央の元財政局長を含む25人以上の朝銀役職員が逮捕され、150人以上が取調べを受けた。商銀系信用組合の一つの中央商業信用組合は2009年4月24日と2010年8月26日、暴力団に関係する企業に融資をしていたなどとして金融庁関東財務局から業務改善命令を受けた。2010年6月25日、商銀系の近畿産業信用組合は内部規定を改定し、民主党に政治献金100万円等を支出したと明らかにした。信組を規制する中小企業等協同組合法は「政治的中立の原則」を定めていが、中小企業庁は「一般論として政治献金は好ましいことではない」が、事業運営に支障をきたさず組合員の総意を反映しているなら抵触しないと回答した。
商銀破綻を期に韓国政府が出資する在日韓国人系普通銀行のドラゴン銀行を設立しようという動きも見られたが、2002年、優先交渉権を得ることができず失敗した。
1982年に韓信協の当時会員であった信用組合が母体となり在日韓国人が本国韓国に設立した韓国初の純民間資本銀行である新韓銀行は、新韓銀行東京・大阪・福岡支店を譲り受けて2009年、日本法人SBJ銀行の営業を開始した。
1982年に行われた東京在住の在日韓国青年商工人を対象に経営している業種、従業員の数、企業規模、企業承継の問題、企業の継続性、韓国への投資に関する意見および今後の計画などに対する質問調査では、在京企業家は30代以上が多く、飲食、パチンコ、金融・不動産等主にサービス業に従事するというケースが多かった。また、他業種と兼業する場合は少なく、年間売上額が1億円未満の零細自営業を運営する企業家が多かった。また自身で起業した例は65.5%、両親からの承継が27.6%であった。また、1982年に在日韓国商工人1,103人を対象に行われた同様な調査でも全般的な調査結果は同じであったが、経営上の問題として、人材不足、利益減少、税金問題等が指摘された。
1,059社の企業家を対象として2004年11月から2005年2月まで行った調査では、郵送調査により62人(回収率5.9%)、面接調査は72人の企業家から回答があり合計128人の在日韓国朝鮮人企業家を対象に量的・質的分析が行われた。この中で、在日韓国朝鮮人企業は小・中規模零細企業が多いと考えられるが、従業員が1,000人以上の企業も存在していること、企業家の最終学歴は、中学・高校(25.8%)、専門大学(6.2%)、大学・大学院(64.9%)、その他無学(3.1%)であり、教育水準は低いという既存の研究結果と異なり、高学歴化が進みつつあることがわかり、業種別分布では、パチンコ産業(23.4%)、不動産・金融業(21.9%)、飲食・宿泊業(16.4%)が上位3業種となったが、3世の場合、知識産業職種が多く見られる。経営活動上の問題点としては、過当競争が最も大きな問題であるとされた。金融機関の利用状況は、民団と総連系の銀行が倒産したため、日本の銀行の利用率が9割以上に上った。また、韓国への投資については、14.8%だけが投資経験があると答え、投資の成果については63.1%が満足しており、韓国への将来的な投資の可能性に関しては21.1%だけが関心があるとした。一方、失敗の原因や関心の低い理由として、家族や親戚への頼りすぎ、詐欺、あるいは同業者からの裏切り、約束に対する概念や信頼関係をとても大事する日本人との差、情報不足を挙げた。
朝鮮新報は2001年から商工連合会経済研究室編集による「同胞経済研究」を発行している(同サイトからは2002年冬・第7号までの発行が確認できる)。
在日朝鮮人文学は日本へ渡った朝鮮人によって書かれた文学作品の総称であり、主に明治以降の文学に対して用いられる。
現時点で日韓法的地位協定をルーツとする在日韓国・朝鮮人によって話される言語は主に日本語であり、朝鮮語を話すものは少数派である。母語が日本語である日本で生まれ育った世代は、朝鮮語を学ぶにしても第二言語として学ぶことになり、彼らの使う朝鮮語は日本語の影響を受け、朝鮮半島のそれとは大きな差異を有する独特の在日朝鮮語が生まれた。
また3世や4世、5世からは日本語しか分からない人が増え続けている。その多くは朝鮮や韓国系の学校ではなく日本の教育で育った人が多く家庭内で朝鮮語を日常的に使われていない家庭も多い。
1970年代までは遺体を飛行機で韓国に運び土葬するケースも多かったが、最近は日本式に葬儀を行い、日本で火葬にして埋葬するのがほとんどである。一方、世代を重ねるにつれ自分の本貫を知らない若者が増え、故人の本貫を書いて柩にかける赤色の布(幟)、亡くなった方が着る寿衣、遺族の着用する伝統的衣裳や、出棺時の料理を乗せたサンという供養膳、故人の仮の住まいとして部屋の一角に設けられた殯所などに対する葬儀文化の継承が危ぶまれている。また、経済的理由、親や祖父母の時代に逆のぼってまでの付き合いをしたくないというしがらみへの忌避などから家族葬が増えている。このような在日社会の流れの中で民団神奈川県本部は1998年から冠婚葬祭事業「無窮花サービス」を立ち上げ、民族的要素を取り入れながら時代に沿った葬儀サポートを行っており、「団費を取られるだけで、なにもしてくれないと思っていた」と言われる民団活動の見直しにつながっている。朝鮮総連でも同様のサービス「同胞生活相談綜合センター」を本部、支部ごとに設けている。また、日本国内には曹溪宗などの韓国仏教寺院も建立されている。
ホルモン焼きを始めたのは朝鮮人という説がある。
キムチは、もともとは朝鮮半島の保存食だが、辛さやニンニクの臭みなどで日本人の味覚に合わず一般的でなく、「朝鮮漬」と呼ばれることが多かった。1975年に桃屋から発売された「桃屋 キムチの素」が人気を呼び、以後、激辛ブームもあり、一般に認知されるようになっていった。
人口分布は、首都圏・中京圏・近畿圏の三大都市圏に集中するが、特に多いのは大阪府と東京都である。また、日本各地にコリアンタウンが形成されている。
日本国では外国人による日本国政治家への献金は公職選挙法第二十二条の五によって禁じているが、菅直人や前原誠司に対して在日韓国人から長年にわたって献金が行われていることが報じられた。
朝鮮人徴用者の日本移入は1944年9月から1945年3月までの実施された。1959年の日本政府の発表では日韓併合による在日朝鮮人は245人。朴代議士によると1933年当時に年間約5万人が日本内地で増加していた。
1946年3月までに在日朝鮮人のうち帰還希望者140万人が日本政府の手配などで帰還。日本政府は朝鮮人を帰還させようとしたが、占領軍が送還を徹底せず、主権回復後は李承晩政権が朝鮮人の送還を拒み、高給な仕事を求め移住してきた在日朝鮮人達も強く求めなかった。
1955年6月18日に国会衆議院法務委員会では、朝鮮半島から密入国した者など彼らの日本国内における犯罪行為に関する事項が議題で取り上げられた。小泉純也法務次官(当時)は、「60万人と推計されている韓国人・朝鮮人のうち、日本を離れて祖国に戻りたいという人は一人もいないと言っても言い過ぎではない」「向こうから、手段方法を問わず、命までかけて日本に密航しようとする人々が引き続き溢れている。このようにして入って来た人たちに対し、日本政府が国民の血税を投入し、彼らが生活できるよう面倒を見なければならない状況になっている」「彼らを手厚くもてなさないと日本が人権を侵害しているというような問題提起をしてくる。見方によっては、日本国民の血税を犠牲にしつつ、むしろ彼らを日本で第一義にすることを要求しているのではないかと思われるレベルである」と答弁している。
この答弁に対して、椎名議員は「どうにかして日本にさえ入れば、生活するのに何の問題もなくなる。だからどんどん入ってくるのではないか?」、更に在日韓国・朝鮮人の当時の様子について「戦勝国といっていばりにいばり抜いておる。私たち(選挙区)の町にも漁業家が相当あるが、向うへ行くたびにびくびくして出漁しなければならないという状態です。漁業においても締められておる」「朝鮮人の中でも悪質な連中はヒロポンを製造、販売し、国民の保健を非常に傷つけておる、あるいはこっちに来て酒をどんどん作っておる。しかも国家の酒造税の収入を妨げておる。悪いことばかりしている連中が多い」「これはこっちがあまり待遇をよくするから、朝鮮人の連中は、向うで食うに困ったならば日本に行った方がいい、日本に行きさえすれば待遇がいい、日本に行きさえすれば生活ができるというようなところからどんどん入ってくるのじゃないかと思う」と様々な対策すべきと述べる。
1965年12月18日、朴正熙政権は、朝鮮総連に加担したものも韓国政府保護下に戻ることを希望し、分別なく故国をすてて日本に密入国しようとしたものについても韓国民として是非を問わないと表明した。
2005年6月9日、マルハン社長の韓昌祐は、終戦の年(15歳)に日本で働く兄の招きで密入国したと述べている。
在日韓国・朝鮮人や在日中国人には、日本式の姓名、「通名(通称名)」を名乗る人々が多く存在し、新聞・TV等のマスコミ報道においては、各社の方針によって通名での報道がなされる場合がある。通名は多くの在日韓国・朝鮮人にとって実生活上の実名であるとも言える。履歴書や身分証明書にも通名が使われる傾向が高い(ほとんどの履歴書には国籍欄があるので通名のみ記入の場合が多く、運転免許証は本名のみか「本名(通名)」の表記)。大日本帝国時代における創氏改名以降、彼らは日本において日本名を名乗り生活してきたのであり、21世紀現在において産まれる在日韓国・朝鮮人の多くにとっては使い慣れていない朝鮮式の本名よりも日本式の通名がアイデンティティーを語る上でも実名としての意味合いを持つ。
ただし、近年では、民族としてのアイデンティティーを取り戻す意味で、韓国・朝鮮式の姓名を名乗る者が徐々に増えてきている。これには在日韓国・朝鮮人たちによる啓蒙活動に加えて、韓国の近年における経済発展によって日本での韓国の評価が上昇してきたことや、日本と韓国の文化交流が拡大発展を続けていることも無縁ではないと思われる。2009年の事例では、弾道ミサイルの発射台に転用できるトレーラーを日本から北朝鮮に不正輸出した容疑者が逮捕された北朝鮮タンクローリー不正輸出事件の報道で確認することができる。在日本大韓民国民団の発表では、韓国・朝鮮式の本名で暮らす人は全体では1割強にとどまり、3人に1人は「状況により使い分ける」としていることを明らかにした。
在日韓国・朝鮮人に対する社会保障についても、多くの議論がある。
2021年度の厚生労働省「被保護者調査」によれば、日本における生活保護の総件数は161万7578世帯で200万8950人、うち外国人が世帯主の受給世帯は4万5623世帯で6万5273人であり、全体のうち外国人が世帯主の受給率は世帯数で2.8%、人数で3.2%。国籍別でみると、在日韓国・朝鮮人2万8700世帯3万3666人、在日中国人5980世帯9476人、在日フィリピン人5165世帯1万1183人となっている。
日本の生活保護は世帯単位の支給なので外国人が世帯主であっても日本人の家族がいる、またその逆があるため正確には外国人の生活保護受給者として集計しているわけではない。
齢層でみると、在日フィリピン人受給者の平均年齢が29.7歳、在日中国人受給者の平均年齢56.3歳に比べ、在日韓国・朝鮮人受給者の平均年齢が67.3歳と外国籍の受給者平均年齢の54.7歳と比べ高齢化している。
これは、82年まで外国人が国民年金に加入できなかったこと、また82年当時、35歳以上の者は当時加入しても60歳までの必要な加入期間(25年間)に届かないと思い加入しない者が多かったため、当時から日本に住んでいた在日韓国・朝鮮人には低年金・無年金の老人が多いことが一因と考えられる。
外国人への生活保護は、1954年(昭和29年)5月8日付社初第382号厚生省社会局長通知により生活保護法を準用して保護を実施するとされ、さらに1990年(平成2年)の口頭指示により、その準用の対象を日本に適法に滞在し活動に制限を受けない永住、定住等の在留資格を有する者としている。この通知に基づく保護は地方公共団体の裁量により実施され、行政側から外国人に対する贈与の性質をもつものであるとされる。外国人の生活保護受給者に、生活保護にかかる行政行為等の行政処分についての異議申立権(審査請求及び再審査請求権)を認めなかったとしても、当該外国人の法的利益が侵害されたとはいえないが、永住権を持つ場合においては先進国のほとんどの国が外国籍の者に生活保護などの社会保障を国籍保有者と区別をつけずに行う。
日本国憲法第25条第1項では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定され、1950年以降の生活保護法第一条では「この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」と「国民」との用語が加えられ、生活保護法による権利保障は日本国民に限定されている。大分地方裁判所は「憲法の要請する社会権の保障は、国家による国民の保護の義務を本来の形態とするため、外国人を保護する義務はその国籍国にある」とする判決を出した。また1965年6月の日韓基本条約批准書交換に際し、朴正煕韓国大統領も「在日同胞の苦労」の原因を「韓国政府の責任」と認め、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束した。
生活保護受給者は帰化申請が下りにくい(比較的帰化条件が緩い特別永住者であっても収入の主たる部分が生活保護である場合は帰化は難しい)とも言われる。
1981年の日本の難民条約批准を受けて1982年、国民年金法から国籍要件を撤廃するなどの法整備が行われ在日韓国・朝鮮人も日本の国民年金に加入することができるようになった。さらに1986年の制度改正により国民年金受給に必要であった60歳までの最低25年間の加入期間を、平和条約国籍離脱者は20歳以上60歳未満のうち1961年4月から1981年12月まで在日していた期間も遡って老齢基礎年金の加入期間(通称「カラ期間」)として追加。2017年に施行された「公的年金制度の財政基盤及び最低保障機能の強化等のための国民年金法等の 一部を改正する法律の一部を改正する法律」により加入期間が最低25年から10年に短縮された。
一方、1986年以降の「カラ期間」による救済措置後も加入率は低水準で推移し、年々無年金者が増えている。2004年に大阪府立大学などが行った70歳以上の在日韓国・朝鮮人300人を対象にした生活実態調査では、1926年(大正15年)以前に出生し1986年に既に60歳を超えており加入資格を満たせなかった人は116人、救済対象だった139人も大半が加入しておらず、救済措置の告知不足や低い受給額への不満などに加え、将来帰国することを考え加入しなかったケースもあるとみられている。
長く2国間で年金の加入期間を相互に通算できる社会保障協定を結んでこなかった政府への批判があり、2004年にようやく「社会保障に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓社会保障協定)が締結されたが、韓国の国民年金制度(1988年創設、1999年から皆保険)は施行から歴史が浅く平均加入期間が短いことから、当分の間日本の最低加入期間25年の受給要件を満たすことは困難であり、韓国は協定に年金加入期間の通算措置を設けない立場を強く主張、その結果、日英協定と同様に年金加入期間の相互通算措置を取り入れず、二重加入防止に限定した協定を締結している。
他方、救済措置から外れた者や、また告知も不十分であったとして、一部の在日韓国・朝鮮人により訴訟がおこされたが、国民年金が当初日本人だけを対象としていたことについては、「立法府の裁量権の範囲内で、憲法や国際人権規約に反するとは言えない」とする1、2審判決が2009年に最高裁で確定するなど在日韓国・朝鮮人側の敗訴で終わった。
現在、日本政府は「年金など社会保障の責任は国籍の属する本国が行うべき」という立場から、年金を払い込んでいなかった在日韓国・朝鮮人に対して年金支給を行っていない。この日本政府の見解に対して「海外在住の日本人に日本政府は年金を支払っていない」と糾弾し、在日韓国・朝鮮人に対しても年金を支給するように要求している日本の年金については現況届を提出すれば金融機関に振り込まれる)。「日本国籍を有する者で海外に居住する20歳以上65歳未満の者」は日本の国民年金に任意加入することができる。いくつかの地方自治体では法律上年金に加入できなかった在日外国人(低所得高齢者に限る)の申請者に対して福祉給付金を支給する制度を設けている。
また、生活保護を受給する者のなかで(65歳の生活保護受給者では住宅扶助も含めて月額12万1530円)国民年金加入者よりも多額の受給を得ている無年金者も存在する(詳細は#社会保障問題参照)。
2010年から大きく取り上げられた高齢者所在不明問題では再入国許可を得て日本から出国し故郷で死去したケースも多いのではないかとされる。北朝鮮は、日本で年金生活を送る在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の高齢者に「月3万円あれば、北で豊かに暮らせる」などと宣伝して永住帰国を求め、帰国後は死亡しても日本側に伝えない手法で一人当たり12万円ずつの年金を「着服」していると、消息筋が伝えている。所在不明高齢者に対して厚生労働省は年金差止めの措置を行った。
在日韓国人・朝鮮人は本国参政権を有している。過去韓国人にその権利はなく議論が行われていた。北朝鮮人は在外選挙権・被選挙権双方を有する。韓国においては、兵役、納税義務などが免除される在外国民に住民登録要件不備を理由に参政権を与えないことの違憲性についての議論が行われてきた。また日本における地方参政権論争も存在する。
韓国民短期滞留者はたまたま海外に在住している自国民であり、国民の権利として不在者投票権を要求することに国民的合意が得られやすいことに対し、永住権保有者は、兵役、納税義務などが免除されており、住民登録要件不備を理由に参政権を付与することには慎重だった(在日永住権者は37歳まで徴兵が延期され、37歳になると兵役の義務はなくなる。1962年10月、「在外国民の兵役免除」の項目が兵役法に法律第1163として追加された)。一方、大韓民国憲法#第二章 国民の権利および義務第24条は「すべての国民は選挙権を持つ」としており、これに準拠して永住権保有者にも参政権を保障するべきとの議論が続いていた。
これに対し、韓国憲法裁判所は2007年5月、海外の駐在員や留学生はもちろん、外国での永住権者も韓国の国籍を持ってさえいれば、韓国国内に住民登録がなくても選挙権と国民投票権を与えるべきという決定を下し、1999年3月の決定を覆した。また、憲法裁判所は2008年12月31日までに国会で必要な法改正を行うよう命じた。この決定の理由として「情報通信技術の発達」や「経済力の伸張」など10項目を挙げた。また、納税や国防の義務が免除されていることを問題とする考えについても、大韓民国憲法は参政権や平等権などの国民の基本権行使を、納税と国防の義務に対する反対給付として想定していない上、在外国民であっても兵役の義務を果たすことができ、また兵役が義務付けられていない女性も投票権を有しているとする原告の訴えを認めこれを退けた。
これらの動きを受けて、海外短期滞留者をモデルとした不在者投票の準備作業が行われた。2006年12月には外交通商部と共同で50以上の海外公館で模擬投票を実施し、参加者の80%は「投票権を行使する」と回答した。この場合、実際の日本地域の短期滞留者は82000人になり、そのうち21000人が投票すると推算された。
与野党とも在外韓国人に参政権を付与する方向では一致しており、2007年2月末までに中央選挙管理委員会や与野党から5つの選挙法改正案が韓国国会に上程された。しかし、在外投票の導入方法をめぐって紛糾し、当初目指していた2007年の大統領選挙からの在外投票導入は困難となった。海外永住者は一般的に保守傾向が強いとされており、これを取り込みたい保守派であるハンナラ党と、若年層にも支持基盤を持ち留学生や、外交官などの一時滞留者たちを取り込みたいウリ党の党争によるものと指摘された。
2009年2月の韓国国会は法案を可決して2012年の国政選挙から投票できる見通しとなったが、祖国での参政権に対する在日社会の関心は低く、そのメリットを知ってもらおうと、原告団(李健雨)を起源とした兵庫と大阪の在日韓国人で「在日韓国人本国参政権連絡準備会」を設立されPR活動が行われた。
また、海外に主な居住地を定めていても韓国内の居住地を法務部に登録していれば投票できるように法改正されたため、2010年6月2日の第5回韓国全国同時地方選挙では、在日韓国人1世も含む「母国に住む在日韓国人」も、一足早く生まれて初めて祖国での選挙を体験した。
2012年大韓民国大統領選挙では、在日有権者462,509人の内、37,342人が選挙人登録し、25,312人が投票を行い、投票率は67.8%であり、投票率は2012年4月の第19代総選挙 (大韓民国)の52.6%から15.2%上昇したものの、在外投票率平均の71.2%を下回った。大阪、ロサンゼルス、北京の在外韓国人に対して行われた調査では、在外選挙の公正性については10点満点で平均7.1点に対し日本では6.6点、「在外選挙が韓国の政治発展に役立つか」との質問には平均8.1点に対し日本では6.7点に留まった。在外投票全体では朴氏の得票率は文氏より13.9ポイント低い42.8%だったが、日本では回答者の大多数が20-40代であったにもかかわらず朴氏の支持率(70.0%)が文氏(30.0%)より大幅に上回った。この調査結果について「在日韓国人は韓国人として差別を経験したのに加え、朝鮮総連に警戒心を持っており、母国の政治的な安定を望む気持ちから米国と中国に比べ、保守色が強い」と説明された。
2017年大韓民国大統領選挙では登録・申請数が3万8009人、投票者数2万1384人で投票率56.3%であった。
17歳以上の在日朝鮮人公民は海外にいる者も北朝鮮国政への選挙権、被選挙権ともに有しているため、2009年3月の北朝鮮最高人民会議代議員選挙では、在日朝鮮人からは徐萬述朝鮮総聯中央本部議長をはじめとする朝鮮総連幹部や朝鮮大学校校長などの6名が代議員(国会議員)に選出されている。
長年、在日韓国・朝鮮人を日本社会の構成員として取り扱おうという主張があった。この場合「日本社会の構成員」という語は、立場によって様々に意味を変える。「社会の構成員」と言うかぎりならば、これには単なる実態の反映でしかないという見方もある。しかしこれが、地方参政権の付与に至ると、議論が分かれる(外国人参政権を参照)。
これは単に保守的な自由民主党系支持層と左派的な日本社会党系・日本共産党それぞれの支持層で別れているわけではなく、それぞれ、民族の出自を重視するグループと、近現代国家における法定国籍主義に基づき民族的出自と政治思想を切り離すべきと考えているグループに分かれる。
在日本大韓民国民団は、2009年8月30日投票の第45回衆議院議員総選挙から外国人参政権付与を掲げている候補者を支援しており、集会を通じて、民団の構成員に選挙への支援を指導している。一方、朝鮮総連では在日朝鮮人はれっきとした独立国である北朝鮮の海外公民であるので、民団の外国人参政権獲得運動は韓国政府の棄民政策や、日本政府による同化政策に追随するものだとしてこれに反対している。
李鍾元立教大学法学部教授は、日本の右傾化に対処する方法の一つとして、在日韓国人の地方参政権獲得とともに日本社会を内側から変化させる方法を指摘し、韓国が先に永住外国人に地方参政権を付与した措置を高く評価した。
在日韓国人地方参政権獲得運動の支援の一環として韓国で外国人参政権付与が行われるなど、韓国においてもこの運動は支持されている。また、地方参政権問題は今まで抑圧されてきた在日韓国人同胞の恨をはらす契機とも見ることができ、日本政府の歴史問題解決への前向きの姿勢の表明として歓迎する意見もある。
民団の主導による、在日韓国人参政権付与を求める活動があり、千葉県市川市では、民団市川支部の組織的な「巻き返し工作」により、2010年1月29日の市議会総務委員会で可決されていた永住外国人への地方参政権の付与に反対する意見書を、翌20日の本会議で否決させることに成功した。
パチンコ産業に携わっている就業者の在日韓国・朝鮮人比率は他産業より高く、2007年12月27日の中央日報の記事によると、業界経営の90%ほどを在日韓国人と朝鮮総連系が掌握している。ただし、パチンコ業界に占める在日韓国・朝鮮系の割合については諸説あり、2008年1月10日のハンギョレの記事ではパチンコ業界の6割が在日韓国・朝鮮系とされ、また、別冊宝島『嫌韓流の真実』の野村旗守の記事によると、1949年に全国で5千店しかなかったホールが、3年後に4万店以上に激増し凄まじいブームが起き、はじめの頃は日本人経営者のほうが多かったが、「射幸心を煽る」との理由で業界に規制を受けてから、日本人業者の多くが撤退してしまい、規制後は7割を在日が占めるようになり、この比率は現在も変わっていないという。民団傘下の「在日韓国商工会議所」では、所属する1万社のうち約7割がパチンコ業に係わっている。パチンコ最大手のマルハンの創業者が元在日韓国人1世の韓昌祐であることからもパチンコ業界内の在日韓国・朝鮮人の立場の強さがうかがえる。このため「パチンコはその実体が賭博であるにもかかわらず賭博として規制されておらず、事業で生まれた収益が北朝鮮へ送金され独裁体制やミサイル・核開発を支えている」という指摘がある。2008年、在日本大韓民国民団顧問のチョン・ドンファは、「朝鮮総連はパチンコ事業で資金を集めたが、民団はどのようにしたのか?」と記者に問われると「民団の主な事業もパチンコだ。朝鮮総連は収入の全てを組職化して北に送った。」と証言している。ランド研究所上級経済顧問のチャールズ・ウォルフ・ジュニアによると、日本から北朝鮮への送金は年200億円以上で、その主な資金源はパチンコであり、30兆円産業から朝鮮人事業主が手にした純収入分の2%が合法、非合法を問わず送金されたとするとそれだけで200億円を超えると推定している。また、日本国内では在日韓国人のパチンコ店経営者から菅直人内閣総理大臣への政治資金が提供されていることが報じられた。
ただし、『朝日新聞』2011年6月7日朝刊15面記事によると、90年代半ばに売り上げ30兆円・店舗数1万8000店は、2010年までに売り上げ20兆円・店舗数1万2000店の3分の2に激減しており、現在のパチンコ店経営者の国籍は、大韓民国が5割、日本が3割、中華人民共和国・台湾が1割、朝鮮(北朝鮮)籍が1割で、パチンコ=北朝鮮というのは正しい批判ではないとしている。
在日大韓民国民団は李明博韓国大統領にパチンコ産業への規制強化により、在日同胞への影響が出ているので小沢一郎に働きかけるようロビー活動を行い、李は小沢に取り組むよう求めた。
警察庁統計において、「定着居住者(永住者、永住者の配偶者等、特別永住者)・在日米軍関係者・在留資格不明の者」以外の外国人を来日外国人、それ以外はその他の外国人と定義している。
2021年の全外国人の刑法犯・特別法犯の検挙人員数は 1位:ベトナム(4111人)、2位:中国(3616人)、3位:韓国・朝鮮(2275人)、4位:ブラジル(1336人) 、5位:フィリピン(1100人) となっている。
以下は警察庁統計に基づく。
森田芳夫「数字からみた在日朝鮮人」(『外務省調査月報』第1巻第9号 1960年12月)によると、当時の在日朝鮮人の犯罪率は日本人と比較して5倍とされている。また、若槻泰雄「韓国・朝鮮と日本人」では10倍前後と高い水準とされている。1959年の帰国事業に関連する公式文書『北朝鮮関連領事事務』(アジア局北東アジア課、1959年1月30日 - 8月8日)に、政府・世論共に在日韓国朝鮮人の犯罪率を問題視している旨が記されており(日本人の6倍)、帰国事業に対する日本政府の姿勢に影響を与えていたとする指摘がなされ、この点を問題視する立場がある。
1965年、日韓基本条約締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた日韓法的地位協定第三条は、以下の事由に該当しない限り日本国からの退去を強制されないとされた。
その後、約35万人もの在日朝鮮人が在留資格を獲得するために韓国籍へと切り替え、民団側は大きく勢力を伸ばした 。
1991年、入管特例法により韓国人のみが対象となっていた協定永住が朝鮮籍、台湾籍の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。特別永住者は退去強制となる条件が他の外国人よりも限定される(入管特例法第22条)。具体的条件は次のとおり。
1970年代後半、日本で犯罪を犯した在日韓国人20人を韓国に強制退去させようとしたが、韓国政府は受け入れを拒否した。一方、法務省入国管理局によれば、1978年、初めて韓国・朝鮮籍2人が退去強制により送還され、その後1988年までにさらに17人が送還されたとの記録がある。国交のない北朝鮮への送還は考えにくく、韓国に送還されていた可能性が高いという。
2022年1月1日時点での韓国人不法滞在者数は11,631人(男 4,528人、女 7,103人)で全体(6万6759人)の17.4%でありもっとも多かった。このうちビザ免除プログラム等による短期滞在の後不法滞在者となった者は11,049人で全体の90%以上を占めた。2019年の韓国人上陸拒否者数は375人で、構成比では総数10,647人中3.5%で8番目。
日本の暴力団には韓国人が多数存在する。住吉会の元暴力団員によれば、日本全国で数百人の韓国人暴力団員が活動しており、主に韓国籍が運営するパチンコ店やマッサージ店からみかじめ料を徴収している。組織で足場を固めると、韓国から人員を連れてきて配下に置くこともあり、日本で暴力団組織支部のトップに上り詰めることもある。また、韓国で指名手配され、日本に密入国して活動する暴力団員もいる。日本で活動する韓国人暴力団員の数は2016年より今後は増えないとされる。聯合ニュースの取材に答えた元暴力団員は、最近は日本に比べると治安が悪く物価は安くて儲けやすい中国や東南アジアなどでカジノに関わる仕事に行く暴力団員が増える傾向にあるとしている。
また朴正煕政権およびKCIAは柳川次郎など韓国系暴力団幹部と懇意にして、金大中事件など数々の秘密工作に関わらせていた。
1986年にカプランとデュブロは、日本最大の広域暴力団である山口組の構成員のうち、約10%の者が在日朝鮮人であると書籍に記した。指定暴力団会津小鉄会四代目会長で在日韓国人だった高山登久太郎は「ヤクザの世界に占める在日韓国・朝鮮人は三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」と発言している。元公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘が、2006年10月19日に外国特派員協会で行った講演で、六代目山口組若頭の髙山清司から聞いた話として、暴力団構成員のうち6割が同和(被差別部落)、3割が在日韓国・朝鮮人、1割が同和でない日本人であり、右翼活動により収益を上げているという見解を示した。暴力団系右翼団体の構成員である在日韓国・朝鮮人が実行犯として逮捕された事件では村井秀夫刺殺事件が有名である。
元山口組顧問弁護士の山之内幸夫は「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」と述べた。
一方猪野健治は、『やくざと日本人』の中で、昭和中期の関西や北部九州の部落の悲惨な現状を取り上げ、日本社会に「やくざとなるか土方になるか」しか、選択肢の無い若者が多く存在する事がやくざの温床であるという見解を示した。また自身の取材から得た印象として、もとより体系的な統計があるわけではないが、と断りながらも、現在の暴力団員の半数は部落も在日朝鮮人も出自に持たない「市民社会からのドロップアウト組」だろうと推測している。事実、2022年の矯正統計によれば、その年に刑務所に入った受刑者のうち暴力団加入者の国籍別比率は、日本国籍587人で約97.1%、韓国・朝鮮籍11人で約1.8%となっている。
2008年(平成20年)の警察庁による発表では22の指定暴力団の内、七代目酒梅組の金山耕三朗こと金在鶴、極東会の松山眞一こと曺圭化、松葉会の牧野国泰こと李春星、三代目福博会の長岡寅夫こと金寅純、九州誠道会の村神長二郎こと朴植晩が代表者として紹介されている。また2010年7月20日、東京都公安委員会は4,800人の構成員を擁する指定暴力団稲川会の代表者として清田次郎こと辛炳圭を指定した。
男性の韓国国民には兵役があるが、海外で出生・6歳未満で出国し海外で生活するもの・満17歳まで両親と共に海外で暮らし国籍、市民権、永住権を取得したもの、韓国国内での小中高の在学合計が3年未満の韓国国民は兵役が免除される在外国民2世制度がある。2018年の兵役法施行令第128条の改正により1993年12月31日以前に生まれた者の免除規定が変わり1993年12月31日以後に出生した者と同じになった。
本人が永住帰国申請した場合は在外国民2世の地位喪失と兵役義務付けとなる。本人の父または母が永住帰国申請した場合、2018年5月29日以降本人が合計3年を超えて滞在した場合も在外国民2世の地位喪失と一般国外移住者として管理される。
一般国外移住者の場合本人が永住帰国申請した場合、1年間の内6ヶ月以上滞在した場合、韓国で就職などの営利活動を行った場合は兵役延期が取り消され兵役義務が発生する。
大韓民国では、国民に兵役を付与する徴兵制が施行されている一方、国外を往き来する船舶の船員と国外に滞在または居住している人、犯罪によって拘束されている人や刑の執行中の人、高等学校以上の学校に在学中の学生、研修機関で所定の過程を履修中の人、国威発揚のための体育分野優秀者は、徴兵検査を延期することができる。また、大韓民国軍の兵役義務は40歳で終了する。よって、海外に居住する韓国人は徴兵検査を受けなくてもよく、40歳以降に韓国に帰国しても徴兵義務は課されない。特段に在日韓国人が区別されているわけではない。
北朝鮮問題への注目(拉致事件、核保有問題など)に伴って、在日韓国・朝鮮人、とりわけ朝鮮籍の者への圧力が高まったことに対し、在日韓国・朝鮮人の立場を『親族を北朝鮮政府に人質同然にされ、不本意ながら北朝鮮政府の意のままに操られている人たち』として同情視する向きもある。
一方で「在日朝鮮人は北朝鮮国政の選挙権・被選挙権ともに有しており、在日朝鮮人からは朝鮮総連議長や朝鮮大学校校長などの6名が北朝鮮の国会議員に選ばれており、日本からの送金もかなりの額に上るため、在日朝鮮人側の責任が皆無とは言い難い」との批判もある。また、朝鮮総連は本国の見解に乗っ取り、拉致問題を「解決済み」、「日本側にこそ問題がある」との立場を固守している。北朝鮮のミサイル発射に関連してチマチョゴリ切り裂き事件なども起きた。
在日韓国・朝鮮人は北朝鮮の核兵器や生物兵器などの大量破壊兵器開発のために輸出規制されている物品を北朝鮮に不法に輸出する北朝鮮タンクローリー不正輸出事件や凍結乾燥機不正輸出事件などの事件を引き起こしている。中には、北朝鮮のスパイに協力をした「土台人」として検挙された者もいる。
東京大学大学院で博士号を取得したロケット開発権威の在日朝鮮人は在日本朝鮮人科学技術協会の顧問として日本の技術を不法に入手し、頻繁に北朝鮮に渡り技術指導を行い、ミサイル発射時には現地で立ち会っている。
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"tag": "p",
"text": "在日韓国・朝鮮人(ざいにちかんこく・ちょうせんじん、朝: 재일 한국인・조선인; 英: Koreans in Japan)は、日本に在留する韓国・朝鮮籍 の外国人。これらは国籍上大韓民国の人々である。",
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"tag": "p",
"text": "彼らの多数を占める特別永住者はサンフランシスコ平和条約により日本国籍喪失、1966年の日韓法的地位協定で永住者権が付与、1991年の日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法により特別永住者の地位へと変わった。1980年初頭の大韓民国政府によって、日本を含む他国への留学行為、1989年から一般韓国人も海外渡航が解禁になり、新在日韓国人も誕生した。",
"title": null
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"paragraph_id": 2,
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"text": "日本の法務省の在留外国人統計によると、2022年12月時点で中長期在留者・特別永住者は、436,670人(総在留外国人とは別)、そのうち韓国籍は411,312人、朝鮮籍は25,358人、しばしば「在日」と略称される韓国・朝鮮籍の特別永住者は285,459人となっている。",
"title": null
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"paragraph_id": 3,
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"text": "「在日韓国・朝鮮人」の定義として以下のケースに限定、もしくは含む場合がある。",
"title": "定義"
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"text": "1特別永住者のみ",
"title": "定義"
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{
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"tag": "p",
"text": "2北朝鮮から亡命後、日本に定住した脱北者(一度帰還事業で帰国した人やその子孫を含む)",
"title": "定義"
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"text": "3韓国・朝鮮系日本人(帰化者や国籍取得者)",
"title": "定義"
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"tag": "p",
"text": "また本項目では、日韓併合(1910年)から1948年の韓国と北朝鮮建国までに在留した朝鮮民族についても「在日韓国・朝鮮人」を用いる。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "文脈によってその定義が変わるが、解説に当たり本項目では日本国政府が公式の統計情報として記録する日本に在留する韓国・朝鮮籍の者と定義する。",
"title": "定義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本国内の働き手不足と韓国国内の就職難を要因として、技術・人文知識・国際業務や留学資格で在留する韓国人が増加する一方、長年にわたり、日本における在留外国人の中で最多数を占めていた在日韓国・朝鮮人は2022年12月末の時点で総数としては減少傾向が続く。",
"title": "統計"
},
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"tag": "p",
"text": "2007年には特別永住者の帰化と死去による減少で在日中国人が追い抜き、外国人労働者として急増した在日ベトナム人が上回って以降は(日本の外国人の項目を参照)、3番目に多い位置にある。",
"title": "統計"
},
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"text": "2022年12月時点の統計を記す。",
"title": "統計"
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{
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"text": "民族としてのアイデンティティから在日朝鮮人や朝鮮民族(韓国では「韓民族」)と呼ばれる。",
"title": "呼称"
},
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"tag": "p",
"text": "韓国併合後は在日朝鮮人(公式呼称は朝鮮半島在住者も含めて朝鮮人)と呼ばれ、サンフランシスコ条約発効後の国籍欄には「朝鮮」と記入されていたことから、在日韓国・朝鮮人全体を在日朝鮮人または在日韓国人と称することもある。",
"title": "呼称"
},
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"tag": "p",
"text": "日韓基本条約の締結に伴って1970年代から「朝鮮」の排除を進めた韓国の韓国籍に切り替えたものが現れ、1970年代後半から1980年代にかけて「在日韓国・朝鮮人」が普及。",
"title": "呼称"
},
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"text": "韓国、北朝鮮においては、帰化者も含めて在日僑胞(チェイルキョッポ、재일 교포)、在日同胞(チェイルドンポ、재일 동포)と呼ばれる。",
"title": "呼称"
},
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"tag": "p",
"text": "また、それぞれの正統国家としての立場と深く関係して、「在日韓国人」(재일 한국인)と主張する在日本大韓民国民団(通称:韓国民団ないし民団)に対して、北朝鮮を支持する在日朝鮮人組織・在日本朝鮮人総聯合会(通称:朝鮮総連ないし総連)は「在日朝鮮人」(재일 조선인)を主張する。",
"title": "呼称"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これら呼称に関する南北の争いを避けるために、国籍上や民族的アイデンティティから国籍を問わない呼称として「在日コリアン」や「コリアンジャパニーズ」、おおざっぱに「在日」と短縮されたりもする。",
"title": "呼称"
},
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"text": "",
"title": "呼称"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "韓国政府は1999年に「在外同胞法」を制定し兵役の義務を果たしていない韓国籍特別永住者などの在外永住者や韓国系アメリカ人など韓国をルーツとする外国人にも「在外同胞」(재외동포、F-4査証)の法的地位を与えて内国人待遇を認めるようになった(朝鮮籍在日韓国・朝鮮人は対象外。中国朝鮮族、旧ソ連の高麗人は技能もしくは2年間の就労経験の条件がある)。",
"title": "呼称"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "在外韓国人の投票権は韓国における外国人投票権(2005年から)に遅れ2010年から認められるようになった)。大韓民国外交部によると2021年末の在日僑胞は81万8865人となっている。",
"title": "呼称"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "一方、北朝鮮の民間では、在日朝鮮人・韓国人を「チェポ(째포、在胞)」という呼び方が一般的である。北朝鮮に渡航した元在日朝鮮人・韓国人は、社会階層では「動揺階層」に分類されるように、日本由来への不信感が込められた呼び方である。昇進・要職において、制限を受けていると言わざるを得ない。",
"title": "呼称"
},
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"tag": "p",
"text": "在日韓国・朝鮮人の性格には、来日・定住を始めた時期、出身地、定住する地域、本国での国籍によって大きな違いがあるといわれている。韓国により留学が自由化された1980年代以降に来日した韓国人を「ニューカマー」、それ以前から在留している在日韓国・朝鮮人やその子孫を「オールドカマー」と呼び、区別することもある。",
"title": "呼称"
},
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"text": "上述のように、外国人登録制度が廃止された2012年7月以降の日本政府の一般的な外国人数統計では、「中長期在留者」と「特別永住者」を「在留外国人」として計上しており(総在留外国人とは別)、本項目でも、主に韓国・朝鮮籍の在留外国人について記載している。",
"title": "呼称"
},
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"text": "これに対して、帰化者や、日本人の片親を持つ者ち日本国籍を選択した者は「韓国・朝鮮系日本人(コリアン・ジャパニーズ)」と呼ばれる。これら、「韓国・朝鮮系日本人」は在日韓国・朝鮮人とは区別され、単に「日本人」とみなされる。これは、帰化者に朝鮮系出自を言明する者が少なく、日本人と自認する場合がほとんどだったこと。また、そう自認する者しか帰化しない時期が長くつづいたことがある。",
"title": "呼称"
},
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"text": "また、在住が数世代を経て区別がつかなくなったこと、帰化がかつて手続き的な国籍取得ではなく民族的同化を求めるものであったこと、出自を表明する帰化者がほとんどなかったことなどが関係している。",
"title": "呼称"
},
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"text": "しかし、1980年代末以降、日本国籍を取得しながら民族的出自を明らかにする者も増えつつあり、韓昌祐(はん・ちゃんう)のように民族名の朝鮮語読みを日本語転記した名前で帰化した例もある。また、韓国・朝鮮系日本人を同胞視する在日韓国・朝鮮人も増えており、韓国本国も韓国・朝鮮系日本人を「在日同胞」と位置づけている。",
"title": "呼称"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "日本の法務省民事局の統計によると、元は韓国・朝鮮籍で、1952~2022年12月末に日本国籍を取得(帰化)した累積帰化許可者数は390,218人となっている。",
"title": "呼称"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "戦時の在日朝鮮人らは、後に日本共産党で活動するような者も含め、敗戦までは日本国支持が占めていた。デイリー新潮が在日本朝鮮人連盟(朝連)に参加した朝鮮人の証言を集めた際には、戦前から共産党員であった人は少数で、戦時中は軍国少年だった人が多かったことが判明している。朝連関係者の多数派、後に祖国防衛隊や、日本共産党の支部や山村工作隊で活躍した人でさえも、「終戦」については、「悲しくて泣いた」「寂しかった」と取材に答えている。戦前からの共産党員であった朝鮮人は少数であった。戦後の日本共産党は地域にバラつきはあるが、党員の多くは朝鮮人であり、朝連の中に日本共産党があり、一体化して活動をしていた。中学時代に共産党に入党した、朝鮮総連の活動家となる李玄鎮も、 自身が所属した当時の支部について、 「ほとんど在日の人で、日本人はたった1人でした」と語っている。後に日本共産党財政部長となる亀山幸三も1945年10月に日本共産党に入党したが、「その頃の共産党の舞台裏に関していえば、朝鮮人の同志らの存在が大きかった。戦後ながらく、朝鮮共産党の日本における党員ということではなく、日本共産党の党員であった」と述べている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "戦後直後には200余万人が居たが、1946年3月末までに約130万以上の者が本国に帰還した。しかし、1951年10月20時点でも日本国から引き揚げずに残留した在日朝鮮人約60万の国籍と処遇は日韓の課題となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "在日朝鮮・韓国人は日本統治時代(1910-1945年)に朝鮮から渡航してきた定住者、戦後に朝鮮半島に帰還したものの、経済も政治も悪い故郷よりも日本で生活する方が良いために再度密航してきた者、戦前は日本に住んでいなかったが、済州島四・三事件(1948年)、朝鮮戦争(1950-1953年)などから逃避するために密航した20万人~40万人に区分される。彼とその子孫の多くは1945年9月2日以前から日本の内地に在留していたと認定され、特別永住資格を付与された。その後、特別永住者として日本の永住権者を持つ日本の外国人の中でも、特殊な地位を占めている。特に東京、大阪を中心とする首都圏、関西は大久保、鶴橋の様に大規模なコリア・タウンが有る影響で在日韓国・朝鮮人の集住地帯と化している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "朝鮮戦争時には、一部の在日韓国人が大韓民国への義勇兵として朝鮮半島に戻った。これは1950年に在京韓国代表部が義勇兵の組織化をGHQに提案したことが契機となったもので、同年8月以降、朝鮮半島に向けて在日韓国人の義勇兵が送り込まれたものである。義勇兵の選出には北朝鮮系の分子が潜り込まないように慎重に行われている。朝鮮半島に送り込まれた実数は定かではないが、約1年後には126人が韓国内で活動していることが報告されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "在日韓国・朝鮮人の国籍と政治的スペクトルは必ず同一であるとは言えない。在日韓国・朝鮮人のうち、韓国籍、日本籍でありながら、朝鮮総連系の教育を受けたなどの理由により、自らを北朝鮮公民と自己規定する者も少なくない。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "在日朝鮮人の帰還事業などで北朝鮮に帰国した在日朝鮮人は、配偶者として渡朝した日本人女性の「少し上」程度の最下層として扱われ飢餓に苦しみ、北朝鮮住民から「ジェッキ(朝鮮語表記不詳)」又は蔑称として「チェポ(朝鮮語:째포)」と呼ばれていた。財産を有して帰国した一家は資産を没収させられ、日本に残留した家族・親戚からの送金による資金源や日本からの科学技術獲得に役に立たないと見なされた者らとその子孫約10万人は、政治犯として脱北者と共に収容所送りにされ処刑される者もいた。また、北朝鮮政府や傘下の朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)は、帰国した家族・親戚も利用しながら、民族意識を歴代世襲独裁者の金日成、金正日、金正恩一族への個人崇拝に誘導して、一部の在日朝鮮人を日本国内でスパイ活動に利用しているともされる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "朝鮮語の能力に問題がある在日韓国人は韓国では日本人として差別を受けることがある。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1980年代には韓国政府が自国民へ留学行為解禁、旅行解禁したため、それ以前から在住した旧在日韓国人とは別タイプの在日韓国人が誕生している(新在日韓国人)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "今日では若い世代を中心に新しい価値観が広まり、日本定住を前提とした帰化、民団・総連など民族団体離れが、進行している。朝鮮籍の人でさえも、本国である北朝鮮や朝鮮総連と距離を置きたいと考える人も少なくない。在日韓国・朝鮮人社会に詳しい関係者も「今の子供たちは在日4世、5世の世代で、日本定住が大前提。朝鮮の言葉や文化を継承してほしいと願う祖父母や両親の影響が強くない限り、あえて朝鮮学校には通わせないだろう」と在日社会の朝鮮学校離れも述べている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "オールドカマー在日韓国人とその子孫中心の全国的民族団体として、韓国を支持する在日本大韓民国民団(韓国民団ないし民団)と北朝鮮を支持する在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連ないし総連)がある。最後に確認できる2021年末の数値では、民団には帰化者も含めた全在日同胞(僑胞)の66%である299,686人が登録されている。この他にも新宿区のコリアンタウンを中心とする東京都内在住のニューカマーが中心となった在日本韓国人連合会(韓人会)、2001年に日本の保守派の国会議員らによって新しい日本国籍取得法案が検討され始めたことを契機に結成された在日朝鮮人弁護士協会、民団傘下の在日韓国人法曹フォーラムなどがある。",
"title": "団体"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "帰化者も含めた全在外同胞の12%である在日韓国人への2012年の韓国政府の支援額は78億ウォンで在外同胞交流支援予算の67%を占め、また他国ではプロジェクトごとに予算が付けられているのに対し、予算執行の管理・監督に手抜きが指摘される民団には毎年継続的に一定額が支援されている。韓人会などの他の韓国系在日団体への支援も民団を通じて行われており、民団支援予算の1%程度がこれら非民団団体の支援に使われている。",
"title": "団体"
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"tag": "p",
"text": "民団団長は2018年に朝鮮総連について「拉致と核・ミサイル開発問題において朝鮮総連は日本の人々の敵と変わらない。民団がそのような朝鮮総連と手を組めば日本の人々からは『やはり同じ朝鮮人』という話が出るしかない。朝鮮総連が反省して普通の団体がなるべきだ」と述べている。「我々は人権国家であり拉致は絶対にしていない」となどの主張を例に総連関係者は昨日言ったことでも、翌日に北朝鮮の指導部が言ったことを復唱して言葉を変える朝鮮労働党傘下の団体であると批判している。",
"title": "団体"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "在日韓国・朝鮮人の総人口に占める宿泊・飲食の就業者の割合は13.0%であり、日本人の総人口に占める同割合5.5%の2倍以上である。特に焼肉、朝鮮料理店などの飲食の経営者には在日韓国・朝鮮人の自営業者が多いと言われ、同じく朝鮮系の自営業者が多いと言われるパチンコや不動産と合わせて「民族産業」や「在日産業」と呼ばれることがあるこれら自営業者に対しては、昭和40年代に民族団体を通じた減税の動きが全国的にあったとされる。",
"title": "産業"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "このような資金回転が速い事業、日本人の嫌ういわゆる「3K」産業を担うようになった背景には、民族差別、就職差別があったとされる。",
"title": "産業"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "焼肉業界は在日が生み、育てた説がある。焼肉業界は2003年の米国産牛肉の輸入停止問題では大きな影響を受けた。民団の機関紙民団新聞によると、2001年時点で焼肉店は2万店舗、年間販売は7000億円、焼肉業界の6割を在日系が占めていたが、景気悪化により2010年には4割にまで減った。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "貴金属業界は、1970年代後半に韓国から日本に技術者が進出したこともあってニューカマー在日韓国人が多く、日本国内で制作される貴金属製品の約7割、特に高級宝飾品の大部分が韓国人技能士(貴金属装身具製作技能士)の手によるものとされる。彼らは御徒町駅周辺の「ジュエリータウンおかちまち」の形成にも係わったという。東京都内には在日韓国人らでつくる在日韓国人貴金属協会があり、山梨にも韓人山梨貴金属協会がある。",
"title": "産業"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "韓国・在日韓国人信用組合協会(韓信協)・民団系の商銀信用組合(商銀)系と北朝鮮・在日本朝鮮信用組合協会(朝信協、現在は解散)・朝鮮総連系の朝銀信用組合(朝銀)系の金融機関があるが、バブル崩壊以降破綻が相次いだ。以前に比べて在日韓国朝鮮人も日本の金融機関からの融資が受けやすくなったため、民族系金融機関の存在理由が薄れてきていることに加え、破たん処理の過程で日本人理事長を受け入れるなど、民族色も薄まってきている。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "破綻した朝銀の債権を受け継いだ整理回収機構は朝鮮総連中央本部や大阪など主要都市の朝鮮総連地方本部と学校などを差し押えるなど、債権回収手続きを進めている。また、朝銀の破綻に関連して2004年3月までに朝鮮総連中央の元財政局長を含む25人以上の朝銀役職員が逮捕され、150人以上が取調べを受けた。商銀系信用組合の一つの中央商業信用組合は2009年4月24日と2010年8月26日、暴力団に関係する企業に融資をしていたなどとして金融庁関東財務局から業務改善命令を受けた。2010年6月25日、商銀系の近畿産業信用組合は内部規定を改定し、民主党に政治献金100万円等を支出したと明らかにした。信組を規制する中小企業等協同組合法は「政治的中立の原則」を定めていが、中小企業庁は「一般論として政治献金は好ましいことではない」が、事業運営に支障をきたさず組合員の総意を反映しているなら抵触しないと回答した。",
"title": "産業"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "商銀破綻を期に韓国政府が出資する在日韓国人系普通銀行のドラゴン銀行を設立しようという動きも見られたが、2002年、優先交渉権を得ることができず失敗した。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1982年に韓信協の当時会員であった信用組合が母体となり在日韓国人が本国韓国に設立した韓国初の純民間資本銀行である新韓銀行は、新韓銀行東京・大阪・福岡支店を譲り受けて2009年、日本法人SBJ銀行の営業を開始した。",
"title": "産業"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1982年に行われた東京在住の在日韓国青年商工人を対象に経営している業種、従業員の数、企業規模、企業承継の問題、企業の継続性、韓国への投資に関する意見および今後の計画などに対する質問調査では、在京企業家は30代以上が多く、飲食、パチンコ、金融・不動産等主にサービス業に従事するというケースが多かった。また、他業種と兼業する場合は少なく、年間売上額が1億円未満の零細自営業を運営する企業家が多かった。また自身で起業した例は65.5%、両親からの承継が27.6%であった。また、1982年に在日韓国商工人1,103人を対象に行われた同様な調査でも全般的な調査結果は同じであったが、経営上の問題として、人材不足、利益減少、税金問題等が指摘された。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1,059社の企業家を対象として2004年11月から2005年2月まで行った調査では、郵送調査により62人(回収率5.9%)、面接調査は72人の企業家から回答があり合計128人の在日韓国朝鮮人企業家を対象に量的・質的分析が行われた。この中で、在日韓国朝鮮人企業は小・中規模零細企業が多いと考えられるが、従業員が1,000人以上の企業も存在していること、企業家の最終学歴は、中学・高校(25.8%)、専門大学(6.2%)、大学・大学院(64.9%)、その他無学(3.1%)であり、教育水準は低いという既存の研究結果と異なり、高学歴化が進みつつあることがわかり、業種別分布では、パチンコ産業(23.4%)、不動産・金融業(21.9%)、飲食・宿泊業(16.4%)が上位3業種となったが、3世の場合、知識産業職種が多く見られる。経営活動上の問題点としては、過当競争が最も大きな問題であるとされた。金融機関の利用状況は、民団と総連系の銀行が倒産したため、日本の銀行の利用率が9割以上に上った。また、韓国への投資については、14.8%だけが投資経験があると答え、投資の成果については63.1%が満足しており、韓国への将来的な投資の可能性に関しては21.1%だけが関心があるとした。一方、失敗の原因や関心の低い理由として、家族や親戚への頼りすぎ、詐欺、あるいは同業者からの裏切り、約束に対する概念や信頼関係をとても大事する日本人との差、情報不足を挙げた。",
"title": "産業"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "朝鮮新報は2001年から商工連合会経済研究室編集による「同胞経済研究」を発行している(同サイトからは2002年冬・第7号までの発行が確認できる)。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "在日朝鮮人文学は日本へ渡った朝鮮人によって書かれた文学作品の総称であり、主に明治以降の文学に対して用いられる。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "現時点で日韓法的地位協定をルーツとする在日韓国・朝鮮人によって話される言語は主に日本語であり、朝鮮語を話すものは少数派である。母語が日本語である日本で生まれ育った世代は、朝鮮語を学ぶにしても第二言語として学ぶことになり、彼らの使う朝鮮語は日本語の影響を受け、朝鮮半島のそれとは大きな差異を有する独特の在日朝鮮語が生まれた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また3世や4世、5世からは日本語しか分からない人が増え続けている。その多くは朝鮮や韓国系の学校ではなく日本の教育で育った人が多く家庭内で朝鮮語を日常的に使われていない家庭も多い。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1970年代までは遺体を飛行機で韓国に運び土葬するケースも多かったが、最近は日本式に葬儀を行い、日本で火葬にして埋葬するのがほとんどである。一方、世代を重ねるにつれ自分の本貫を知らない若者が増え、故人の本貫を書いて柩にかける赤色の布(幟)、亡くなった方が着る寿衣、遺族の着用する伝統的衣裳や、出棺時の料理を乗せたサンという供養膳、故人の仮の住まいとして部屋の一角に設けられた殯所などに対する葬儀文化の継承が危ぶまれている。また、経済的理由、親や祖父母の時代に逆のぼってまでの付き合いをしたくないというしがらみへの忌避などから家族葬が増えている。このような在日社会の流れの中で民団神奈川県本部は1998年から冠婚葬祭事業「無窮花サービス」を立ち上げ、民族的要素を取り入れながら時代に沿った葬儀サポートを行っており、「団費を取られるだけで、なにもしてくれないと思っていた」と言われる民団活動の見直しにつながっている。朝鮮総連でも同様のサービス「同胞生活相談綜合センター」を本部、支部ごとに設けている。また、日本国内には曹溪宗などの韓国仏教寺院も建立されている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ホルモン焼きを始めたのは朝鮮人という説がある。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "キムチは、もともとは朝鮮半島の保存食だが、辛さやニンニクの臭みなどで日本人の味覚に合わず一般的でなく、「朝鮮漬」と呼ばれることが多かった。1975年に桃屋から発売された「桃屋 キムチの素」が人気を呼び、以後、激辛ブームもあり、一般に認知されるようになっていった。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "人口分布は、首都圏・中京圏・近畿圏の三大都市圏に集中するが、特に多いのは大阪府と東京都である。また、日本各地にコリアンタウンが形成されている。",
"title": "各地のコミュニティー・コリアンタウン"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "日本国では外国人による日本国政治家への献金は公職選挙法第二十二条の五によって禁じているが、菅直人や前原誠司に対して在日韓国人から長年にわたって献金が行われていることが報じられた。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "朝鮮人徴用者の日本移入は1944年9月から1945年3月までの実施された。1959年の日本政府の発表では日韓併合による在日朝鮮人は245人。朴代議士によると1933年当時に年間約5万人が日本内地で増加していた。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1946年3月までに在日朝鮮人のうち帰還希望者140万人が日本政府の手配などで帰還。日本政府は朝鮮人を帰還させようとしたが、占領軍が送還を徹底せず、主権回復後は李承晩政権が朝鮮人の送還を拒み、高給な仕事を求め移住してきた在日朝鮮人達も強く求めなかった。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1955年6月18日に国会衆議院法務委員会では、朝鮮半島から密入国した者など彼らの日本国内における犯罪行為に関する事項が議題で取り上げられた。小泉純也法務次官(当時)は、「60万人と推計されている韓国人・朝鮮人のうち、日本を離れて祖国に戻りたいという人は一人もいないと言っても言い過ぎではない」「向こうから、手段方法を問わず、命までかけて日本に密航しようとする人々が引き続き溢れている。このようにして入って来た人たちに対し、日本政府が国民の血税を投入し、彼らが生活できるよう面倒を見なければならない状況になっている」「彼らを手厚くもてなさないと日本が人権を侵害しているというような問題提起をしてくる。見方によっては、日本国民の血税を犠牲にしつつ、むしろ彼らを日本で第一義にすることを要求しているのではないかと思われるレベルである」と答弁している。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "この答弁に対して、椎名議員は「どうにかして日本にさえ入れば、生活するのに何の問題もなくなる。だからどんどん入ってくるのではないか?」、更に在日韓国・朝鮮人の当時の様子について「戦勝国といっていばりにいばり抜いておる。私たち(選挙区)の町にも漁業家が相当あるが、向うへ行くたびにびくびくして出漁しなければならないという状態です。漁業においても締められておる」「朝鮮人の中でも悪質な連中はヒロポンを製造、販売し、国民の保健を非常に傷つけておる、あるいはこっちに来て酒をどんどん作っておる。しかも国家の酒造税の収入を妨げておる。悪いことばかりしている連中が多い」「これはこっちがあまり待遇をよくするから、朝鮮人の連中は、向うで食うに困ったならば日本に行った方がいい、日本に行きさえすれば待遇がいい、日本に行きさえすれば生活ができるというようなところからどんどん入ってくるのじゃないかと思う」と様々な対策すべきと述べる。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1965年12月18日、朴正熙政権は、朝鮮総連に加担したものも韓国政府保護下に戻ることを希望し、分別なく故国をすてて日本に密入国しようとしたものについても韓国民として是非を問わないと表明した。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2005年6月9日、マルハン社長の韓昌祐は、終戦の年(15歳)に日本で働く兄の招きで密入国したと述べている。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "在日韓国・朝鮮人や在日中国人には、日本式の姓名、「通名(通称名)」を名乗る人々が多く存在し、新聞・TV等のマスコミ報道においては、各社の方針によって通名での報道がなされる場合がある。通名は多くの在日韓国・朝鮮人にとって実生活上の実名であるとも言える。履歴書や身分証明書にも通名が使われる傾向が高い(ほとんどの履歴書には国籍欄があるので通名のみ記入の場合が多く、運転免許証は本名のみか「本名(通名)」の表記)。大日本帝国時代における創氏改名以降、彼らは日本において日本名を名乗り生活してきたのであり、21世紀現在において産まれる在日韓国・朝鮮人の多くにとっては使い慣れていない朝鮮式の本名よりも日本式の通名がアイデンティティーを語る上でも実名としての意味合いを持つ。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ただし、近年では、民族としてのアイデンティティーを取り戻す意味で、韓国・朝鮮式の姓名を名乗る者が徐々に増えてきている。これには在日韓国・朝鮮人たちによる啓蒙活動に加えて、韓国の近年における経済発展によって日本での韓国の評価が上昇してきたことや、日本と韓国の文化交流が拡大発展を続けていることも無縁ではないと思われる。2009年の事例では、弾道ミサイルの発射台に転用できるトレーラーを日本から北朝鮮に不正輸出した容疑者が逮捕された北朝鮮タンクローリー不正輸出事件の報道で確認することができる。在日本大韓民国民団の発表では、韓国・朝鮮式の本名で暮らす人は全体では1割強にとどまり、3人に1人は「状況により使い分ける」としていることを明らかにした。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "在日韓国・朝鮮人に対する社会保障についても、多くの議論がある。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2021年度の厚生労働省「被保護者調査」によれば、日本における生活保護の総件数は161万7578世帯で200万8950人、うち外国人が世帯主の受給世帯は4万5623世帯で6万5273人であり、全体のうち外国人が世帯主の受給率は世帯数で2.8%、人数で3.2%。国籍別でみると、在日韓国・朝鮮人2万8700世帯3万3666人、在日中国人5980世帯9476人、在日フィリピン人5165世帯1万1183人となっている。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "日本の生活保護は世帯単位の支給なので外国人が世帯主であっても日本人の家族がいる、またその逆があるため正確には外国人の生活保護受給者として集計しているわけではない。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "齢層でみると、在日フィリピン人受給者の平均年齢が29.7歳、在日中国人受給者の平均年齢56.3歳に比べ、在日韓国・朝鮮人受給者の平均年齢が67.3歳と外国籍の受給者平均年齢の54.7歳と比べ高齢化している。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "これは、82年まで外国人が国民年金に加入できなかったこと、また82年当時、35歳以上の者は当時加入しても60歳までの必要な加入期間(25年間)に届かないと思い加入しない者が多かったため、当時から日本に住んでいた在日韓国・朝鮮人には低年金・無年金の老人が多いことが一因と考えられる。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "外国人への生活保護は、1954年(昭和29年)5月8日付社初第382号厚生省社会局長通知により生活保護法を準用して保護を実施するとされ、さらに1990年(平成2年)の口頭指示により、その準用の対象を日本に適法に滞在し活動に制限を受けない永住、定住等の在留資格を有する者としている。この通知に基づく保護は地方公共団体の裁量により実施され、行政側から外国人に対する贈与の性質をもつものであるとされる。外国人の生活保護受給者に、生活保護にかかる行政行為等の行政処分についての異議申立権(審査請求及び再審査請求権)を認めなかったとしても、当該外国人の法的利益が侵害されたとはいえないが、永住権を持つ場合においては先進国のほとんどの国が外国籍の者に生活保護などの社会保障を国籍保有者と区別をつけずに行う。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "日本国憲法第25条第1項では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定され、1950年以降の生活保護法第一条では「この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」と「国民」との用語が加えられ、生活保護法による権利保障は日本国民に限定されている。大分地方裁判所は「憲法の要請する社会権の保障は、国家による国民の保護の義務を本来の形態とするため、外国人を保護する義務はその国籍国にある」とする判決を出した。また1965年6月の日韓基本条約批准書交換に際し、朴正煕韓国大統領も「在日同胞の苦労」の原因を「韓国政府の責任」と認め、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束した。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "生活保護受給者は帰化申請が下りにくい(比較的帰化条件が緩い特別永住者であっても収入の主たる部分が生活保護である場合は帰化は難しい)とも言われる。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1981年の日本の難民条約批准を受けて1982年、国民年金法から国籍要件を撤廃するなどの法整備が行われ在日韓国・朝鮮人も日本の国民年金に加入することができるようになった。さらに1986年の制度改正により国民年金受給に必要であった60歳までの最低25年間の加入期間を、平和条約国籍離脱者は20歳以上60歳未満のうち1961年4月から1981年12月まで在日していた期間も遡って老齢基礎年金の加入期間(通称「カラ期間」)として追加。2017年に施行された「公的年金制度の財政基盤及び最低保障機能の強化等のための国民年金法等の 一部を改正する法律の一部を改正する法律」により加入期間が最低25年から10年に短縮された。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "一方、1986年以降の「カラ期間」による救済措置後も加入率は低水準で推移し、年々無年金者が増えている。2004年に大阪府立大学などが行った70歳以上の在日韓国・朝鮮人300人を対象にした生活実態調査では、1926年(大正15年)以前に出生し1986年に既に60歳を超えており加入資格を満たせなかった人は116人、救済対象だった139人も大半が加入しておらず、救済措置の告知不足や低い受給額への不満などに加え、将来帰国することを考え加入しなかったケースもあるとみられている。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "長く2国間で年金の加入期間を相互に通算できる社会保障協定を結んでこなかった政府への批判があり、2004年にようやく「社会保障に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓社会保障協定)が締結されたが、韓国の国民年金制度(1988年創設、1999年から皆保険)は施行から歴史が浅く平均加入期間が短いことから、当分の間日本の最低加入期間25年の受給要件を満たすことは困難であり、韓国は協定に年金加入期間の通算措置を設けない立場を強く主張、その結果、日英協定と同様に年金加入期間の相互通算措置を取り入れず、二重加入防止に限定した協定を締結している。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "他方、救済措置から外れた者や、また告知も不十分であったとして、一部の在日韓国・朝鮮人により訴訟がおこされたが、国民年金が当初日本人だけを対象としていたことについては、「立法府の裁量権の範囲内で、憲法や国際人権規約に反するとは言えない」とする1、2審判決が2009年に最高裁で確定するなど在日韓国・朝鮮人側の敗訴で終わった。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "現在、日本政府は「年金など社会保障の責任は国籍の属する本国が行うべき」という立場から、年金を払い込んでいなかった在日韓国・朝鮮人に対して年金支給を行っていない。この日本政府の見解に対して「海外在住の日本人に日本政府は年金を支払っていない」と糾弾し、在日韓国・朝鮮人に対しても年金を支給するように要求している日本の年金については現況届を提出すれば金融機関に振り込まれる)。「日本国籍を有する者で海外に居住する20歳以上65歳未満の者」は日本の国民年金に任意加入することができる。いくつかの地方自治体では法律上年金に加入できなかった在日外国人(低所得高齢者に限る)の申請者に対して福祉給付金を支給する制度を設けている。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "また、生活保護を受給する者のなかで(65歳の生活保護受給者では住宅扶助も含めて月額12万1530円)国民年金加入者よりも多額の受給を得ている無年金者も存在する(詳細は#社会保障問題参照)。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2010年から大きく取り上げられた高齢者所在不明問題では再入国許可を得て日本から出国し故郷で死去したケースも多いのではないかとされる。北朝鮮は、日本で年金生活を送る在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の高齢者に「月3万円あれば、北で豊かに暮らせる」などと宣伝して永住帰国を求め、帰国後は死亡しても日本側に伝えない手法で一人当たり12万円ずつの年金を「着服」していると、消息筋が伝えている。所在不明高齢者に対して厚生労働省は年金差止めの措置を行った。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "在日韓国人・朝鮮人は本国参政権を有している。過去韓国人にその権利はなく議論が行われていた。北朝鮮人は在外選挙権・被選挙権双方を有する。韓国においては、兵役、納税義務などが免除される在外国民に住民登録要件不備を理由に参政権を与えないことの違憲性についての議論が行われてきた。また日本における地方参政権論争も存在する。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "韓国民短期滞留者はたまたま海外に在住している自国民であり、国民の権利として不在者投票権を要求することに国民的合意が得られやすいことに対し、永住権保有者は、兵役、納税義務などが免除されており、住民登録要件不備を理由に参政権を付与することには慎重だった(在日永住権者は37歳まで徴兵が延期され、37歳になると兵役の義務はなくなる。1962年10月、「在外国民の兵役免除」の項目が兵役法に法律第1163として追加された)。一方、大韓民国憲法#第二章 国民の権利および義務第24条は「すべての国民は選挙権を持つ」としており、これに準拠して永住権保有者にも参政権を保障するべきとの議論が続いていた。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "これに対し、韓国憲法裁判所は2007年5月、海外の駐在員や留学生はもちろん、外国での永住権者も韓国の国籍を持ってさえいれば、韓国国内に住民登録がなくても選挙権と国民投票権を与えるべきという決定を下し、1999年3月の決定を覆した。また、憲法裁判所は2008年12月31日までに国会で必要な法改正を行うよう命じた。この決定の理由として「情報通信技術の発達」や「経済力の伸張」など10項目を挙げた。また、納税や国防の義務が免除されていることを問題とする考えについても、大韓民国憲法は参政権や平等権などの国民の基本権行使を、納税と国防の義務に対する反対給付として想定していない上、在外国民であっても兵役の義務を果たすことができ、また兵役が義務付けられていない女性も投票権を有しているとする原告の訴えを認めこれを退けた。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "これらの動きを受けて、海外短期滞留者をモデルとした不在者投票の準備作業が行われた。2006年12月には外交通商部と共同で50以上の海外公館で模擬投票を実施し、参加者の80%は「投票権を行使する」と回答した。この場合、実際の日本地域の短期滞留者は82000人になり、そのうち21000人が投票すると推算された。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "与野党とも在外韓国人に参政権を付与する方向では一致しており、2007年2月末までに中央選挙管理委員会や与野党から5つの選挙法改正案が韓国国会に上程された。しかし、在外投票の導入方法をめぐって紛糾し、当初目指していた2007年の大統領選挙からの在外投票導入は困難となった。海外永住者は一般的に保守傾向が強いとされており、これを取り込みたい保守派であるハンナラ党と、若年層にも支持基盤を持ち留学生や、外交官などの一時滞留者たちを取り込みたいウリ党の党争によるものと指摘された。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2009年2月の韓国国会は法案を可決して2012年の国政選挙から投票できる見通しとなったが、祖国での参政権に対する在日社会の関心は低く、そのメリットを知ってもらおうと、原告団(李健雨)を起源とした兵庫と大阪の在日韓国人で「在日韓国人本国参政権連絡準備会」を設立されPR活動が行われた。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "また、海外に主な居住地を定めていても韓国内の居住地を法務部に登録していれば投票できるように法改正されたため、2010年6月2日の第5回韓国全国同時地方選挙では、在日韓国人1世も含む「母国に住む在日韓国人」も、一足早く生まれて初めて祖国での選挙を体験した。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2012年大韓民国大統領選挙では、在日有権者462,509人の内、37,342人が選挙人登録し、25,312人が投票を行い、投票率は67.8%であり、投票率は2012年4月の第19代総選挙 (大韓民国)の52.6%から15.2%上昇したものの、在外投票率平均の71.2%を下回った。大阪、ロサンゼルス、北京の在外韓国人に対して行われた調査では、在外選挙の公正性については10点満点で平均7.1点に対し日本では6.6点、「在外選挙が韓国の政治発展に役立つか」との質問には平均8.1点に対し日本では6.7点に留まった。在外投票全体では朴氏の得票率は文氏より13.9ポイント低い42.8%だったが、日本では回答者の大多数が20-40代であったにもかかわらず朴氏の支持率(70.0%)が文氏(30.0%)より大幅に上回った。この調査結果について「在日韓国人は韓国人として差別を経験したのに加え、朝鮮総連に警戒心を持っており、母国の政治的な安定を望む気持ちから米国と中国に比べ、保守色が強い」と説明された。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "2017年大韓民国大統領選挙では登録・申請数が3万8009人、投票者数2万1384人で投票率56.3%であった。",
"title": "諸論点"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "17歳以上の在日朝鮮人公民は海外にいる者も北朝鮮国政への選挙権、被選挙権ともに有しているため、2009年3月の北朝鮮最高人民会議代議員選挙では、在日朝鮮人からは徐萬述朝鮮総聯中央本部議長をはじめとする朝鮮総連幹部や朝鮮大学校校長などの6名が代議員(国会議員)に選出されている。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "長年、在日韓国・朝鮮人を日本社会の構成員として取り扱おうという主張があった。この場合「日本社会の構成員」という語は、立場によって様々に意味を変える。「社会の構成員」と言うかぎりならば、これには単なる実態の反映でしかないという見方もある。しかしこれが、地方参政権の付与に至ると、議論が分かれる(外国人参政権を参照)。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "これは単に保守的な自由民主党系支持層と左派的な日本社会党系・日本共産党それぞれの支持層で別れているわけではなく、それぞれ、民族の出自を重視するグループと、近現代国家における法定国籍主義に基づき民族的出自と政治思想を切り離すべきと考えているグループに分かれる。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "在日本大韓民国民団は、2009年8月30日投票の第45回衆議院議員総選挙から外国人参政権付与を掲げている候補者を支援しており、集会を通じて、民団の構成員に選挙への支援を指導している。一方、朝鮮総連では在日朝鮮人はれっきとした独立国である北朝鮮の海外公民であるので、民団の外国人参政権獲得運動は韓国政府の棄民政策や、日本政府による同化政策に追随するものだとしてこれに反対している。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "李鍾元立教大学法学部教授は、日本の右傾化に対処する方法の一つとして、在日韓国人の地方参政権獲得とともに日本社会を内側から変化させる方法を指摘し、韓国が先に永住外国人に地方参政権を付与した措置を高く評価した。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "在日韓国人地方参政権獲得運動の支援の一環として韓国で外国人参政権付与が行われるなど、韓国においてもこの運動は支持されている。また、地方参政権問題は今まで抑圧されてきた在日韓国人同胞の恨をはらす契機とも見ることができ、日本政府の歴史問題解決への前向きの姿勢の表明として歓迎する意見もある。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "民団の主導による、在日韓国人参政権付与を求める活動があり、千葉県市川市では、民団市川支部の組織的な「巻き返し工作」により、2010年1月29日の市議会総務委員会で可決されていた永住外国人への地方参政権の付与に反対する意見書を、翌20日の本会議で否決させることに成功した。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "パチンコ産業に携わっている就業者の在日韓国・朝鮮人比率は他産業より高く、2007年12月27日の中央日報の記事によると、業界経営の90%ほどを在日韓国人と朝鮮総連系が掌握している。ただし、パチンコ業界に占める在日韓国・朝鮮系の割合については諸説あり、2008年1月10日のハンギョレの記事ではパチンコ業界の6割が在日韓国・朝鮮系とされ、また、別冊宝島『嫌韓流の真実』の野村旗守の記事によると、1949年に全国で5千店しかなかったホールが、3年後に4万店以上に激増し凄まじいブームが起き、はじめの頃は日本人経営者のほうが多かったが、「射幸心を煽る」との理由で業界に規制を受けてから、日本人業者の多くが撤退してしまい、規制後は7割を在日が占めるようになり、この比率は現在も変わっていないという。民団傘下の「在日韓国商工会議所」では、所属する1万社のうち約7割がパチンコ業に係わっている。パチンコ最大手のマルハンの創業者が元在日韓国人1世の韓昌祐であることからもパチンコ業界内の在日韓国・朝鮮人の立場の強さがうかがえる。このため「パチンコはその実体が賭博であるにもかかわらず賭博として規制されておらず、事業で生まれた収益が北朝鮮へ送金され独裁体制やミサイル・核開発を支えている」という指摘がある。2008年、在日本大韓民国民団顧問のチョン・ドンファは、「朝鮮総連はパチンコ事業で資金を集めたが、民団はどのようにしたのか?」と記者に問われると「民団の主な事業もパチンコだ。朝鮮総連は収入の全てを組職化して北に送った。」と証言している。ランド研究所上級経済顧問のチャールズ・ウォルフ・ジュニアによると、日本から北朝鮮への送金は年200億円以上で、その主な資金源はパチンコであり、30兆円産業から朝鮮人事業主が手にした純収入分の2%が合法、非合法を問わず送金されたとするとそれだけで200億円を超えると推定している。また、日本国内では在日韓国人のパチンコ店経営者から菅直人内閣総理大臣への政治資金が提供されていることが報じられた。",
"title": "諸論点"
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"text": "ただし、『朝日新聞』2011年6月7日朝刊15面記事によると、90年代半ばに売り上げ30兆円・店舗数1万8000店は、2010年までに売り上げ20兆円・店舗数1万2000店の3分の2に激減しており、現在のパチンコ店経営者の国籍は、大韓民国が5割、日本が3割、中華人民共和国・台湾が1割、朝鮮(北朝鮮)籍が1割で、パチンコ=北朝鮮というのは正しい批判ではないとしている。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 100,
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"text": "在日大韓民国民団は李明博韓国大統領にパチンコ産業への規制強化により、在日同胞への影響が出ているので小沢一郎に働きかけるようロビー活動を行い、李は小沢に取り組むよう求めた。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "警察庁統計において、「定着居住者(永住者、永住者の配偶者等、特別永住者)・在日米軍関係者・在留資格不明の者」以外の外国人を来日外国人、それ以外はその他の外国人と定義している。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "2021年の全外国人の刑法犯・特別法犯の検挙人員数は 1位:ベトナム(4111人)、2位:中国(3616人)、3位:韓国・朝鮮(2275人)、4位:ブラジル(1336人) 、5位:フィリピン(1100人) となっている。",
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"text": "以下は警察庁統計に基づく。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 104,
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"text": "森田芳夫「数字からみた在日朝鮮人」(『外務省調査月報』第1巻第9号 1960年12月)によると、当時の在日朝鮮人の犯罪率は日本人と比較して5倍とされている。また、若槻泰雄「韓国・朝鮮と日本人」では10倍前後と高い水準とされている。1959年の帰国事業に関連する公式文書『北朝鮮関連領事事務』(アジア局北東アジア課、1959年1月30日 - 8月8日)に、政府・世論共に在日韓国朝鮮人の犯罪率を問題視している旨が記されており(日本人の6倍)、帰国事業に対する日本政府の姿勢に影響を与えていたとする指摘がなされ、この点を問題視する立場がある。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "1965年、日韓基本条約締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた日韓法的地位協定第三条は、以下の事由に該当しない限り日本国からの退去を強制されないとされた。",
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"paragraph_id": 106,
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"text": "その後、約35万人もの在日朝鮮人が在留資格を獲得するために韓国籍へと切り替え、民団側は大きく勢力を伸ばした 。",
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"paragraph_id": 107,
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"text": "1991年、入管特例法により韓国人のみが対象となっていた協定永住が朝鮮籍、台湾籍の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。特別永住者は退去強制となる条件が他の外国人よりも限定される(入管特例法第22条)。具体的条件は次のとおり。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "1970年代後半、日本で犯罪を犯した在日韓国人20人を韓国に強制退去させようとしたが、韓国政府は受け入れを拒否した。一方、法務省入国管理局によれば、1978年、初めて韓国・朝鮮籍2人が退去強制により送還され、その後1988年までにさらに17人が送還されたとの記録がある。国交のない北朝鮮への送還は考えにくく、韓国に送還されていた可能性が高いという。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 109,
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"text": "2022年1月1日時点での韓国人不法滞在者数は11,631人(男 4,528人、女 7,103人)で全体(6万6759人)の17.4%でありもっとも多かった。このうちビザ免除プログラム等による短期滞在の後不法滞在者となった者は11,049人で全体の90%以上を占めた。2019年の韓国人上陸拒否者数は375人で、構成比では総数10,647人中3.5%で8番目。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "日本の暴力団には韓国人が多数存在する。住吉会の元暴力団員によれば、日本全国で数百人の韓国人暴力団員が活動しており、主に韓国籍が運営するパチンコ店やマッサージ店からみかじめ料を徴収している。組織で足場を固めると、韓国から人員を連れてきて配下に置くこともあり、日本で暴力団組織支部のトップに上り詰めることもある。また、韓国で指名手配され、日本に密入国して活動する暴力団員もいる。日本で活動する韓国人暴力団員の数は2016年より今後は増えないとされる。聯合ニュースの取材に答えた元暴力団員は、最近は日本に比べると治安が悪く物価は安くて儲けやすい中国や東南アジアなどでカジノに関わる仕事に行く暴力団員が増える傾向にあるとしている。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "また朴正煕政権およびKCIAは柳川次郎など韓国系暴力団幹部と懇意にして、金大中事件など数々の秘密工作に関わらせていた。",
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"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "1986年にカプランとデュブロは、日本最大の広域暴力団である山口組の構成員のうち、約10%の者が在日朝鮮人であると書籍に記した。指定暴力団会津小鉄会四代目会長で在日韓国人だった高山登久太郎は「ヤクザの世界に占める在日韓国・朝鮮人は三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」と発言している。元公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘が、2006年10月19日に外国特派員協会で行った講演で、六代目山口組若頭の髙山清司から聞いた話として、暴力団構成員のうち6割が同和(被差別部落)、3割が在日韓国・朝鮮人、1割が同和でない日本人であり、右翼活動により収益を上げているという見解を示した。暴力団系右翼団体の構成員である在日韓国・朝鮮人が実行犯として逮捕された事件では村井秀夫刺殺事件が有名である。",
"title": "諸論点"
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"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "元山口組顧問弁護士の山之内幸夫は「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」と述べた。",
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},
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"paragraph_id": 114,
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"text": "一方猪野健治は、『やくざと日本人』の中で、昭和中期の関西や北部九州の部落の悲惨な現状を取り上げ、日本社会に「やくざとなるか土方になるか」しか、選択肢の無い若者が多く存在する事がやくざの温床であるという見解を示した。また自身の取材から得た印象として、もとより体系的な統計があるわけではないが、と断りながらも、現在の暴力団員の半数は部落も在日朝鮮人も出自に持たない「市民社会からのドロップアウト組」だろうと推測している。事実、2022年の矯正統計によれば、その年に刑務所に入った受刑者のうち暴力団加入者の国籍別比率は、日本国籍587人で約97.1%、韓国・朝鮮籍11人で約1.8%となっている。",
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"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)の警察庁による発表では22の指定暴力団の内、七代目酒梅組の金山耕三朗こと金在鶴、極東会の松山眞一こと曺圭化、松葉会の牧野国泰こと李春星、三代目福博会の長岡寅夫こと金寅純、九州誠道会の村神長二郎こと朴植晩が代表者として紹介されている。また2010年7月20日、東京都公安委員会は4,800人の構成員を擁する指定暴力団稲川会の代表者として清田次郎こと辛炳圭を指定した。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "男性の韓国国民には兵役があるが、海外で出生・6歳未満で出国し海外で生活するもの・満17歳まで両親と共に海外で暮らし国籍、市民権、永住権を取得したもの、韓国国内での小中高の在学合計が3年未満の韓国国民は兵役が免除される在外国民2世制度がある。2018年の兵役法施行令第128条の改正により1993年12月31日以前に生まれた者の免除規定が変わり1993年12月31日以後に出生した者と同じになった。",
"title": "諸論点"
},
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"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "本人が永住帰国申請した場合は在外国民2世の地位喪失と兵役義務付けとなる。本人の父または母が永住帰国申請した場合、2018年5月29日以降本人が合計3年を超えて滞在した場合も在外国民2世の地位喪失と一般国外移住者として管理される。",
"title": "諸論点"
},
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"paragraph_id": 118,
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"text": "一般国外移住者の場合本人が永住帰国申請した場合、1年間の内6ヶ月以上滞在した場合、韓国で就職などの営利活動を行った場合は兵役延期が取り消され兵役義務が発生する。",
"title": "諸論点"
},
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"paragraph_id": 119,
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"text": "大韓民国では、国民に兵役を付与する徴兵制が施行されている一方、国外を往き来する船舶の船員と国外に滞在または居住している人、犯罪によって拘束されている人や刑の執行中の人、高等学校以上の学校に在学中の学生、研修機関で所定の過程を履修中の人、国威発揚のための体育分野優秀者は、徴兵検査を延期することができる。また、大韓民国軍の兵役義務は40歳で終了する。よって、海外に居住する韓国人は徴兵検査を受けなくてもよく、40歳以降に韓国に帰国しても徴兵義務は課されない。特段に在日韓国人が区別されているわけではない。",
"title": "諸論点"
},
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"paragraph_id": 120,
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"text": "北朝鮮問題への注目(拉致事件、核保有問題など)に伴って、在日韓国・朝鮮人、とりわけ朝鮮籍の者への圧力が高まったことに対し、在日韓国・朝鮮人の立場を『親族を北朝鮮政府に人質同然にされ、不本意ながら北朝鮮政府の意のままに操られている人たち』として同情視する向きもある。",
"title": "諸論点"
},
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"paragraph_id": 121,
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"text": "一方で「在日朝鮮人は北朝鮮国政の選挙権・被選挙権ともに有しており、在日朝鮮人からは朝鮮総連議長や朝鮮大学校校長などの6名が北朝鮮の国会議員に選ばれており、日本からの送金もかなりの額に上るため、在日朝鮮人側の責任が皆無とは言い難い」との批判もある。また、朝鮮総連は本国の見解に乗っ取り、拉致問題を「解決済み」、「日本側にこそ問題がある」との立場を固守している。北朝鮮のミサイル発射に関連してチマチョゴリ切り裂き事件なども起きた。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "在日韓国・朝鮮人は北朝鮮の核兵器や生物兵器などの大量破壊兵器開発のために輸出規制されている物品を北朝鮮に不法に輸出する北朝鮮タンクローリー不正輸出事件や凍結乾燥機不正輸出事件などの事件を引き起こしている。中には、北朝鮮のスパイに協力をした「土台人」として検挙された者もいる。",
"title": "諸論点"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "東京大学大学院で博士号を取得したロケット開発権威の在日朝鮮人は在日本朝鮮人科学技術協会の顧問として日本の技術を不法に入手し、頻繁に北朝鮮に渡り技術指導を行い、ミサイル発射時には現地で立ち会っている。",
"title": "諸論点"
}
] |
在日韓国・朝鮮人は、日本に在留する韓国・朝鮮籍 の外国人。これらは国籍上大韓民国の人々である。 彼らの多数を占める特別永住者はサンフランシスコ平和条約により日本国籍喪失、1966年の日韓法的地位協定で永住者権が付与、1991年の日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法により特別永住者の地位へと変わった。1980年初頭の大韓民国政府によって、日本を含む他国への留学行為、1989年から一般韓国人も海外渡航が解禁になり、新在日韓国人も誕生した。 日本の法務省の在留外国人統計によると、2022年12月時点で中長期在留者・特別永住者は、436,670人(総在留外国人とは別)、そのうち韓国籍は411,312人、朝鮮籍は25,358人、しばしば「在日」と略称される韓国・朝鮮籍の特別永住者は285,459人となっている。
|
{{告知|議論|朝鮮語の表記について}}
{{Notice|style=attention|[[Wikipedia:信頼できる情報源|信頼できる情報源]]の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に[[Wikipedia:名誉毀損|中傷・誹謗・名誉毀損]]あるいは有害となるものは'''すぐに除去する必要があります'''。}}
{{Infobox 民族
| 民族 = 在日韓国・朝鮮人
| 民族語名称 = {{lang|kr|재일 한국인 · 조선인}}<br />{{flagicon|KOR}}{{flagicon|JPN}} {{flagicon|PRK}}
| 人口 = 合計 : 436,570人<br>
うち韓国 : 411,748人<br>
うち朝鮮 : 24,822人<br />(2023年6月末現在、[[出入国在留管理庁]]調べ){{R|"toukei_ichiran_touroku"}}<ref>[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00250012&tstat=000001018034&cycle=1&year=20230&month=12040606&tclass1=000001060399]</ref>
----
<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"><div class="NavHead" style="text-align:center">詳細</div><div class="NavContent" style="text-align:left"><small>
* 特別永住者 : 281,295人
* 一般永住者 : 75,771人
* 技術・人文知識・国際業務 : 24,298人
* 留学 : 14,906人
* 日本人の配偶者等 : 11,907人
* 家族滞在 : 9,108人
* 定住者 : 7,224人
* 経営・管理 : 2,681人
* 永住者の配偶者等 : 2,109人
* 特定活動:2,013人
----
 2023年6月時点 (1,000人未満の項目は省略)<ref>[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00250012&tstat=000001018034&cycle=1&year=20230&month=12040606&tclass1=000001060399]</ref>
----
 (参考) 韓国・朝鮮籍からの累積帰化許可者数 :<br />         390,218人 (2022年12月末まで)<ref name="kika22"/></small></div></div>
| 居住地 = [[京阪神]]、[[首都圏 (日本)|首都圏]]など全国各地
| 言語 = [[日本語]], [[朝鮮語]]<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.15002/00002829 |author=内山政春 |title=言語名称「朝鮮語」および「韓国語」の言語学的考察 |journal=異文化 論文編 |publisher=法政大学国際文化学部 |date=2004-04 |issue=5 |pages=73-107 |naid=120000993866 |doi=10.15002/00002829 |ISSN=13493256}}</ref> ([[在日朝鮮語]])
| 宗教 = [[大乗仏教]], [[神道]], [[巫俗]], [[キリスト教]], [[天理教]], [[無宗教]]
}}
{{韓国の事物
|title = 在日韓国人
|hangeul = 재일 한국인
|hanja = 在日韓國人
|katakana = チェイ<sub>ル</sub> ハングギン
|hiragana = ざいにちかんこくじん
|rr = Jaeil Hangugin
|mr = Chae'il Hankugin
|alphabet = Holding South Korean nationality<br />(Koreans in Japan)
}}
{{北朝鮮の事物
|title = 在日朝鮮人
|chosŏn'gŭl = 재일 조선인
|hanja = 在日朝鮮人
|katakana = チェイ<sub>ル</sub> チョソニン
|hiragana = ざいにちちょうせんじん
|rr = Jaeil Joseonin
|mr = Chae'il Chosŏnin
|alphabet = Holding North Korean nationality<br />(Koreans in Japan)
}}
'''在日韓国・朝鮮人'''(ざいにちかんこく・ちょうせんじん、{{Lang-ko-short|'''재일 한국인・조선인'''}}; {{Lang-en-short|Koreans in Japan}})は、[[日本]]に[[在留]]する[[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮籍]]{{efn|name="north_korea"|日本と国交未樹立の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]籍ではない。朝鮮籍は外国人登録上の記号であり、実際の国籍とは無関係となっている。日本政府は北朝鮮を国家承認していないため日本国内で北朝鮮の国籍は存在しないことになっており、朝鮮籍であっても北朝鮮公民であるとは言えない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/7078/|title=朝鮮籍と韓国籍の違い 日本では北朝鮮の国籍は存在しない?|accessdate=2020/06/01|publisher=コリアワールドタイムズ|author=八島有佑}}</ref>。}} の[[日本の外国人|外国人]]。これらは国籍上大韓民国の人々である<ref>{{Cite web|url=http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.kj.d_0002_0020_0291|title=재일한국인의 국적 및 처우 등에 관한 신제안|accessdate=1952-01-29|publisher=동북아역사넷|author=大韓民国政府、日本政府}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://n.news.naver.com/article/421/0005424427?sid=100|title=[시선의 확장] '조선적(朝鮮籍)' 재일조선인은 우리 국민이다|accessdate=2021-06-19|publisher=mews1|author=}}</ref>。
彼らの多数を占める[[特別永住者]]はサンフランシスコ平和条約により日本国籍喪失、1966年の日韓法的地位協定で永住者権が付与、1991年の[[日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法]]により特別永住者の地位へと変わった<ref>{{Cite web|和書|title=特別永住者とは |url=https://kotobank.jp/word/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%B0%B8%E4%BD%8F%E8%80%85-167912 |website=コトバンク |access-date=2022-05-11 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,デジタル大辞泉}}</ref>。1980年初頭の大韓民国政府によって、日本を含む他国への留学行為、1989年から一般韓国人も海外渡航が解禁になり、[[新在日韓国人]]も誕生した。
日本の法務省の在留外国人統計によると、2023年6月時点で[[在留カード|中長期在留者]]{{efn|次のいずれにも当てはまらない人のこと<br>1、「3月」以下の在留期間が決定された人<br>2、「短期滞在」の在留資格が決定された人<br>3、「外交」又は「公用」の在留資格が決定された人<br>4、1から3までに準じるものとして法務省令で定める人(「特定活動」の在留資格が決定された,亜東関係協会の本邦の事務所若しくは[[駐日パレスチナ常駐総代表部|駐日パレスチナ総代表部]]の職員又はその家族の方)<br>5、特別永住者<br>6、在留資格を有しない人}}・[[特別永住者]]は、436,570人(総在留外国人{{efn|name="souzai1"|総在留外国人とは、在留外国人を構成する各資格に「外交」・「公用」・「短期」・「滞在」の各資格を加えた区分をいう。なお、旧・[[外国人登録制度]]の廃止により2012年7月以降の統計においては、「外国人登録者」が「在留外国人」に置き換わった。}}とは別)、そのうち韓国籍は411,748人、朝鮮籍は24,822人、しばしば「在日」と略称される韓国・朝鮮籍の特別永住者は281,295人となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00250012&tstat=000001018034&cycle=1&year=20220&month=24101212&tclass1=000001060399&tclass2val=0 |title=在留外国人統計テーブルデータ(令和4年末現在) |access-date=2023年7月20日 |publisher=統計センター}}</ref>。
== 定義 ==
「在日韓国・朝鮮人」の定義として以下のケースに限定、もしくは含む場合がある。
①[[特別永住者]]のみ
②[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]から亡命後、日本に定住した[[脱北者]](一度[[在日朝鮮人の帰還事業|帰還事業]]で帰国した人やその子孫を含む)
③韓国・朝鮮系日本人(帰化者や国籍取得者{{efn|日本で出生した際に父母のいずれかが日本国籍であったり、日本で出生した際に父母とも無国籍や行方不明であった等の者のことで、外国出身で以前は外国籍を保有していた帰化者とは異なる区分となる。先祖が韓国・朝鮮籍であるが日本国籍で生誕。}})
また本項目では、[[韓国併合|日韓併合]](1910年)から1948年の[[大韓民国|韓国]]と[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]建国までに在留した[[朝鮮民族]]についても「在日韓国・朝鮮人」<ref>当時の正式名称は「朝鮮人」である。</ref>を用いる。
文脈によってその定義が変わるが、解説に当たり本項目では[[日本国政府]]が'''公式の統計情報として記録する日本に在留する韓国・朝鮮籍の者'''と定義する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/169/touh/t169085.htm |title=参議院議員川上義博君提出在日韓国・朝鮮人の「国籍」の表記に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。 |accessdate=2021年5月10日 |publisher=参議院}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.joins.com/JArticle/206864 |title=韓国人在外同胞は718万人…過去最高 |accessdate=2021年5月10日 |publisher=中央日報}}</ref>。
== 統計 ==
日本国内の働き手不足と韓国国内の就職難を要因として、技術・人文知識・国際業務や留学資格で在留する韓国人が増加する<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/375570 |title=日系大手に続々内定、韓国「就職カフェ」の実態 |accessdate=2021-04-25 |publisher=東洋経済}}</ref>一方、長年にわたり、日本における在留外国人の中で最多数を占めていた在日韓国・朝鮮人は2022年12月末の時点で総数としては減少傾向が続く<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/isa/content/001393064.pdf |title=国籍・地域別在留外国人数の推移 |accessdate=2023年7月19日 |publisher=法務省}}</ref>。
2007年には特別永住者の[[帰化]]と[[死去]]による減少で在日中国人が追い抜き<ref>{{Cite press release|和書|title= 平成19年末現在における外国人登録者統計について |publisher= 法務省入国管理局 |date=2008-06 |format=PDF |url=http://www.moj.go.jp/PRESS/080601-1.pdf |accessdate=2010-01-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080624232449/http://www.moj.go.jp/PRESS/080601-1.pdf |archivedate=2008年6月24日 |deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、外国人労働者として急増した[[在日ベトナム人]]が上回って以降は([[日本の外国人#日本における国籍別外国人登録者・在留外国人数|日本の外国人]]の項目を参照)、3番目に多い位置にある。
[[File:Foreign residents in Japan.svg|thumb|none|400px|日本における[[在留外国人]]の推移]]
2023年6月時点の統計を記す<ref name="toukei_ichiran_touroku">{{Cite web|和書| url=https://www.moj.go.jp/isa/policies/statistics/toukei_ichiran_touroku.html | title=【在留外国人統計(旧登録外国人統計)統計表】 | 出入国在留管理庁 |access-date=2023年7月20日}}</ref><ref>[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00250012&tstat=000001018034&cycle=1&year=20230&month=12040606&tclass1=000001060399]</ref>。
{| class="wikitable"
|+在留外国人統計(2023年6月末現在、特別永住者とそれ以外の在留資格、韓国と朝鮮を対比)
|-
! 国籍欄<ref>[[在留カード]]または[[特別永住者証明書]]の「国籍・地域」</ref> !! 総数 !! 特別永住者 !! 特別永住者を除いた人数 !! 備考
|-
| 韓国 || style="text-align:right" |411,748 || style="text-align:right" |256,964 || style="text-align:right" |154,784 || 必ずしも[[大韓民国]][[パスポート|旅券]]保有者ではない
|-
| [[朝鮮籍|朝鮮]] || style="text-align:right" |24,822 || style="text-align:right" |24,331 || style="text-align:right" |491 || 北朝鮮籍ではない{{efn|name="north_korea"}}
|- class="sortbottom" style="background-color:#e6e6e6"
| (合計) || style="text-align:right" |436,570 || style="text-align:right" |281,295 || style="text-align:right" |155,275 ||
|}
{| class="wikitable sortable" style="float:left; margin:1em"
|+ 在留資格別上位10項目<br> <small>(2023年6月時点の韓国と朝鮮を集計)</small>
|-
! 順位 !! 在留資格 !! 人数
|-
| 1 || [[特別永住者]] || style="text-align:right" | 281,295
|-
| 2 || [[永住者]] || style="text-align:right" | 75,771
|-
| 3 || 技術・人文知識・国際業務 || style="text-align:right" | 24,298
|-
| 4 || 留学 || style="text-align:right" | 14,906
|-
| 5 || 日本人の配偶者 || style="text-align:right" | 11,584
|-
| 6 || 家族滞在 || style="text-align:right" | 9,108
|-
| 7 || [[定住者#日本国在留資格としての定住者|定住者]] || style="text-align:right" | 7,224
|-
| 8 || 経営・管理 || style="text-align:right" | 2,681
|-
| 9 || 永住者の配偶者等 || style="text-align:right" | 2,109
|-
| 10 || 特定活動 || style="text-align:right" | 2,013
|}
{| class="wikitable sortable" style="float:left; margin:1em"
|+在留都道府県別上位10項目<br><small>(2023年6月時点の韓国と朝鮮を集計)</small>
|-
! 順位 !! 都道府県 !! 人数
|-
| 1 || 東京 || 94,215
|-
| 2 || 大阪 || 92,676
|-
| 3 || 兵庫 || 37,809
|-
| 4 || 神奈川 || 28,803
|-
| 5 || 愛知 || 28,553
|-
| 6 || 京都 || 22,707
|-
| 7 || 埼玉 || 16,863
|-
| 8 || 千葉 || 16,099
|-
| 9 || 福岡 || 15,311
|-
| 10 || 広島 || 7,348
|}
{{-}}
== 呼称 ==
民族としての[[同一性|アイデンティティ]]から在日朝鮮人や[[朝鮮民族]](韓国では「韓民族」)と呼ばれる。
[[韓国併合]]後は'''在日朝鮮人'''(公式呼称は朝鮮半島在住者も含めて'''朝鮮人''')と呼ばれ<ref name="shogu">[[法務研修所]] 『在日朝鮮人処遇の推移と現状』 [[湖北社]], 1975年, p.4 [https://www.worldcat.org/title/zainichi-chosenjin-shogu-no-suii-to-genjo/oclc/37422551 OCLC 37422551]。1890年から1904年まで公使館員を含むが、その家族は含まれていない。中岡弘文 [https://web.archive.org/web/20130522113611/http://www.econ.hokudai.ac.jp/~takais/soturon/4kisei/nakaoka.pdf 「明治初期の朝鮮人の数」], 『韓流経済--北海道の在日企業と韓国企業の展望--』, [[北海道大学]]経済学部[[高井哲彦]]ゼミ2004年度卒業論文集, 2005年1月30日, p. 7には1883年から1898年まで記載.</ref>、[[サンフランシスコ条約]]発効後の国籍欄には「朝鮮」と記入されていたことから、在日韓国・朝鮮人全体を'''在日朝鮮人'''または'''在日韓国人'''と称することもある。
[[日韓基本条約]]の締結に伴って1970年代から「朝鮮」の排除を進めた韓国の韓国籍に切り替えたものが現れ、1970年代後半から1980年代にかけて「在日韓国・朝鮮人」が普及<ref>細井綾女 [https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/11/11-06.pdf “「コリアン・ジャパニーズ」・「ブール」の呼称の変遷と国籍問題”], 『言葉と文化』, [[名古屋大学]]国際言語文化研究科日本言語文化専攻, 2010年, 第11号, p. 81-98.</ref>。
[[大韓民国|韓国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]においては、帰化者も含めて'''在日僑胞'''(チェイルキョッポ、{{lang|ko|재일 교포}})、'''在日同胞'''(チェイルドンポ、{{lang|ko|재일 동포}})と呼ばれる<ref name="dongpo2">[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=137160 "金星根監督「李忠成を見て悲しくなった」"], {{ko icon}} [http://article.joinsmsn.com/news/article/article.asp?total_id=5004930&ctg=1401 "김성근 감독 “이충성 보면 슬펐다”…설움 공감"], [[中央日報]], 2011.02.01.</ref>。
また、それぞれの正統国家としての立場と深く関係して、「在日韓国人」({{lang|ko|재일 한국인}})と主張する[[在日本大韓民国民団]](通称:韓国民団ないし民団)に対して、北朝鮮を支持する在日朝鮮人組織・[[在日本朝鮮人総聯合会]](通称:朝鮮総連ないし総連)は「在日朝鮮人」({{lang|ko|재일 조선인}})を主張する。
これら呼称に関する南北の争いを避けるために、国籍上や民族的アイデンティティから国籍を問わない呼称として「'''在日コリアン'''」や「'''コリアンジャパニーズ'''」、おおざっぱに「'''在日'''」と短縮されたりもする。
韓国政府は1999年に「[[在外同胞法]]」を制定し兵役の義務を果たしていない韓国籍[[特別永住者]]などの在外永住者や[[韓国系アメリカ人]]など韓国をルーツとする外国人にも<ref>{{Cite web |url=https://overseas.mofa.go.kr/jp-ja/wpge/m_1118/contents.do |title=在外同胞 |access-date=2022年10月20日 |publisher=駐日本国大韓民国大使館}}</ref>「在外同胞」(재외동포、F-4[[査証]])の法的地位を与えて内国人待遇を認めるようになった<ref>[http://www.hikorea.go.kr/pt/InfoDetailR_kr.pt?catSeq=&categoryId=21&parentId=959&showMenuId=823 在外同胞-居所届出の意義・手続], 大韓民国外国人のための電子政府.</ref>(朝鮮籍在日韓国・朝鮮人は対象外。中国[[朝鮮族]]、旧ソ連の[[高麗人]]は技能<ref>{{Cite web|url=https://news.mt.co.kr/mtview.php?no=2021071810500762083|title=美교포 유승준은 막고, 中조선족에겐 문 활짝 열겠다는 정부[우보세]|accessdate=2022年1月6日}}</ref>もしくは2年間の就労経験の条件がある<ref>鄭雅英 [http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/ras/04_publications/ria_ja/26_05.pdf 「韓国の在外同胞移住労働者―中国朝鮮族労働者の受け入れ過程と現状分析―」], 『立命館国際地域研究』([[立命館大学]]国際地域研究所), 第26号(2008年2月), p. 77-96.</ref>)。
在外韓国人の投票権は[[外国人参政権#韓国の現状|韓国における外国人投票権]](2005年から)に遅れ2010年から認められるようになった)<ref>韓国では「国民」と「住民」を意味する法的定義に違いがあるが、「国民」は大韓民国憲法第2条に基づき国籍法で韓国国籍の国民になるようにする要件を明確に規定しているが、「住民」は地方自治法第16条により地方自治体の区域に住所を持つ者は地方自治体の住民になると規定するだけで、「住民」になるためには「国民」でなければならないと要求せず、韓国の自治体では外国人住民に対して各地域の条例で90日超過して韓国に居住する外国人に対して「住民」資格を与えて行政的に管理している。 2000年代以降、在日韓国人の日本国内参政権付与問題が話題になり、韓国国会で先制的に外交的な訴えのために外国人として永住権を得て3年が過ぎた者に限り、各地域の住民資格で地方選挙に参加できるよう選挙法を改正した。</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.mois.go.kr/frt/bbs/type001/commonSelectBoardArticle.do?bbsId=BBSMSTR_000000000054&nttId=19644|title=지방자치단체 외국인주민 지원업무 편람|accessdate=2011年03月29日|publisher=韓国政府の行政安全部統計資料}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.joongang.co.kr/article/24037010|title=일본 때문? 외국인이 서울시장 투표권 갖게 된 이유|accessdate=2021年04月16日|publisher=中央日報}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.mois.go.kr/frt/bbs/type001/commonSelectBoardArticle.do;jsessionid=LELMvFbsWDR0AzGx8DdB3ezU.node20?bbsId=BBSMSTR_000000000014&nttId=96092#none|title=2021 지방자치단체 외국인주민 현황|accessdate=2022年10月31日|publisher=韓国政府の行政安全部統計資料}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/topics/word/%E5%9C%A8%E5%A4%96%E6%8A%95%E7%A5%A8.html|title=在外投票に関するトピックス|accessdate=2021-02-24|publisher=朝日新聞}}</ref>。[[大韓民国]][[外交部]]によると2021年末の在日僑胞は81万8865人となっている<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.kr/www/wpge/m_21509/contents.do |title=다수거주국가 |access-date=2022年10月9日 |publisher=外交部 (大韓民国)}}</ref>。
一方、北朝鮮の民間では、在日朝鮮人・韓国人を「チェポ(째포、在胞)」という呼び方が一般的である。北朝鮮に渡航した元在日朝鮮人・韓国人は、社会階層では「動揺階層」に分類されるように、日本由来への不信感が込められた呼び方である。昇進・要職において、制限を受けていると言わざるを得ない。
在日韓国・朝鮮人の性格には、来日・定住を始めた時期、出身地、定住する地域、本国での国籍によって大きな違いがあるといわれている。韓国により留学が自由化された1980年代以降に来日した韓国人を「'''[[ニューカマー]]'''」<ref>{{cite news|url = http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2010/02/08/0400000000AJP20100208002900882.HTML| title = ニューカマーの在日女性、在日社会つづった詩集出版| newspaper = 聯合ニュース| date=2010-02-08| accessdate=2010-02-08}}</ref>、それ以前から在留している在日韓国・朝鮮人やその子孫を「'''オールドカマー'''」と呼び、区別することもある。
=== 韓国・朝鮮系日本人 ===
上述のように、外国人登録制度が廃止された2012年7月以降の日本政府の一般的な外国人数統計では、「中長期在留者」と「特別永住者」を「在留外国人」として計上しており(総在留外国人{{efn|name="souzai1"}}とは別)、本項目でも、主に韓国・朝鮮籍の在留外国人について記載している。
これに対して、[[帰化]]者や、日本人の片親を持つ者ち日本国籍を選択した者は「[[韓国・朝鮮系日本人]](コリアン・ジャパニーズ)」と呼ばれる。これら、「韓国・朝鮮系日本人」は在日韓国・朝鮮人とは区別され、単に「日本人」とみなされる。これは、帰化者に朝鮮系出自を言明する者が少なく、日本人と自認する場合がほとんどだったこと。また、そう自認する者しか帰化しない時期が長くつづいたことがある。
また、在住が数世代を経て区別がつかなくなったこと、帰化がかつて手続き的な国籍取得ではなく民族的同化を求めるものであったこと、出自を表明する帰化者がほとんどなかったことなどが関係している。
しかし、[[1980年代]]末以降、日本国籍を取得しながら民族的出自を明らかにする者も増えつつあり<ref>[[朝日新聞]] 1989年10月7日 朝刊4頁、など。</ref>、[[韓昌祐]](はん・ちゃんう)のように民族名の朝鮮語読みを日本語転記した名前で帰化した例もある<ref>[http://www.toyo-keizai.co.jp/news/society/2004/post_1759.php <在日社会>◆在日商工人列伝◆パチンコ業界の最大手・韓昌祐 マルハン会長], [[東洋経済日報]], 2004/04/23.</ref>。また、韓国・朝鮮系日本人を同胞視する在日韓国・朝鮮人も増えており{{efn|[[朝鮮学校]]をはじめとする民族学校においても日本籍を含めて多国籍化している。}}、韓国本国も韓国・朝鮮系日本人を「在日同胞」と位置づけている<ref name="mk13112">[http://news.mk.co.kr/newsRead.php?sc=30000023&year=2013&no=1074385 "日 반한·혐한, 남북한 재일동포 함께 대응해야"] 聨合ニュース 2013年11月2日</ref>。
日本の[[法務省]]民事局の統計によると、元は韓国・朝鮮籍で、1952~2022年12月末に日本国籍を取得(帰化)した累積帰化許可者数は390,218人となっている<ref name="kika22">{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/content/001392228.pdf|title=帰化許可申請者数、帰化許可者数及び帰化不許可者数の推移|date=2022年|publisher=法務省|accessdate=2023-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230630042231/https://www.moj.go.jp/content/001392228.pdf|archivedate=2023-06-30}}</ref>。
== 歴史 ==
[[File:Population of Koreans in Japan ja.gif|280px|right|thumb|{{smaller|
・[[韓国併合]] (日韓併合) (1910年8月)<br>
・[[土地調査事業]] (1910年~1918年)<br>
・「朝鮮人ノ旅行取締リニ関スル件」(朝鮮から日本への渡航を制限, [[朝鮮総督府]]) (1919年4月~1922年)<br>
・[[関東大震災]] (1923年)<br>
・[[釜山]]での日本渡航制限措置 (朝鮮総督府, 1925年10月)<br>
・東亜通航組合結成 (済州島~大阪間の朝鮮人による自主運航開始, 1930年4月~1935年)<br>
・[[朴春琴]] 衆議院議員当選 (1932年2月)<br>
・「朝鮮人移住対策ノ件」(日本への渡航抑制, 日本在留朝鮮人の同化など方針策定, 日本政府) (1934年10月) <br>
・「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」(朝鮮における雇用制限の撤廃, 1939年9月)<br>
・「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」(官斡旋) (1942年3月)<br>
・朝鮮半島からの徴用開始 (1944年9月)<br>
・[[第二次世界大戦]]終戦・送還事業開始 (1945年8月。約130万以上の者が1946年3月末までに本国帰還)<br>
・[[在日朝鮮人連盟]]の結成と[[日本共産党]]再建(1945年10月<br>
・[[済州島四・三事件]] (1948年)<br>
・[[朝鮮戦争]] (1950年~1953年 休戦)<br>
・[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発効 (1952年)<br>
・[[在日朝鮮人の帰還事業|北朝鮮への帰国事業]] (1959年12月~1984年)<br>
・[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]締結・日韓国交開始 (1965年)<br>
・[[日韓法的地位協定]] 発効 ・在日韓国人二世までの協定永住権制度開始(1966年)<br>
・[[北朝鮮による日本人拉致問題|北朝鮮による日本人拉致]] (1977年~1983年)<br>
・韓国政府による自国民への留学行為の解禁 ( 1980年代初頭)<br>
・[[国民年金法]]の[[国籍]]条項撤廃(日本,1982年)<br>
・特例永住制度実施 (日本,1982年)<br>
・45歳以上の韓国人への海外旅行の解禁・自由化(韓国,1987年)[<br />
・[[1988年ソウルオリンピック]]<br>
・全韓国人への海外旅行の完全解禁・自由化(韓国,1989年)
・特別永住者制度導入・三世以降に対する永住権付与(日本,1991年11月1日)<br />
・[[アジア通貨危機]] (1997年)<br>
・[[日朝首脳会談]] (2002年)<br>
・韓国人短期滞在者への[[査証]]免除 (日本,2005年)}}]]
{{関連記事|在日韓国・朝鮮人の歴史}}
戦時の在日朝鮮人らは、後に日本共産党で活動するような者も含め、敗戦までは日本国支持が占めていた。[[デイリー新潮]]が[[在日本朝鮮人連盟]](朝連)に参加した朝鮮人の証言を集めた際には、戦前から共産党員であった人は少数で、戦時中は軍国少年だった人が多かったことが判明している。朝連関係者の多数派、後に[[祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)|祖国防衛隊]]や、日本共産党の支部や[[山村工作隊]]で活躍した人でさえも、「終戦」については、「悲しくて泣いた」「寂しかった」と取材に答えている。戦前からの共産党員であった朝鮮人は少数であった。戦後の日本共産党は地域にバラつきはあるが、党員の多くは朝鮮人であり、朝連の中に日本共産党があり、一体化して活動をしていた。中学時代に共産党に入党した、朝鮮総連の活動家となる李玄鎮も、 自身が所属した当時の支部について、 「ほとんど在日の人で、日本人はたった1人でした」と語っている。後に日本共産党財政部長となる亀山幸三も1945年10月に日本共産党に入党したが、「その頃の共産党の舞台裏に関していえば、朝鮮人の同志らの存在が大きかった。戦後ながらく、朝鮮共産党の日本における党員ということではなく、日本共産党の党員であった」と述べている<ref>{{Cite web|和書|title=「在日本朝鮮人連盟」と一体化していた日本共産党 活動資金、人的ネットワークをカバー|ニフティニュース |url=https://news.nifty.com/article/domestic/government/12280-1617835/ |archive-url=https://web.archive.org/web/20220511041711/https://news.nifty.com/article/domestic/government/12280-1617835/|website=ニフティニュース |archive-date=2022-05-11|access-date=2022-05-11 |language=ja}}</ref>。
戦後直後には200余万人が居たが、1946年3月末までに約130万以上の者が本国に帰還した。しかし、1951年10月20時点でも日本国から引き揚げずに残留した在日朝鮮人約60万の国籍と処遇は日韓の課題となった<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=日韓法的地位協定とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%9F%93%E6%B3%95%E7%9A%84%E5%9C%B0%E4%BD%8D%E5%8D%94%E5%AE%9A-1573832 |website=コトバンク |access-date=2022-05-11 |language=ja |last=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。
在日朝鮮・韓国人は[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]](1910-1945年)に[[朝鮮]]から[[渡航]]してきた定住者、戦後に朝鮮半島に帰還したものの、経済も政治も悪い故郷よりも日本で生活する方が良いために再度密航してきた者<ref>{{Cite web|和書|title=「地上の楽園」北朝鮮に渡った在日朝鮮人が語る辛苦(JBpress)|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64819|website=JBpress|accessdate=2021年8月4日|language=ja|quote=当時の韓国は政治も経済も悪く、帰国した人々ですら密航船に乗って日本に舞い戻ってくるような状況だった。}}</ref>、戦前は日本に住んでいなかったが、[[済州島四・三事件]](1948年)<ref>{{Cite web|和書|title=祖国捨て日本へ「済州島虐殺」という地獄 大阪・鶴橋のコリアタウンの背景|url=https://president.jp/articles/-/22839|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2017-08-12|accessdate=2021-04-08|language=ja}}</ref>、[[朝鮮戦争]](1950-1953年)などから逃避するために[[密航]]した20万人~40万人に区分される<ref>アジア歴史資料センターリファレンスコード A05020306500「昭和21年度密航朝鮮人取締に要する経費追加予算要求書」。1959年6月16日朝日新聞 「密入出国をした朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人としている」</ref><ref>2000年9月26日産経新聞</ref>{{efn|「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているといわれる」<ref>[[1950年]]6月28日[[産業経済新聞]](産経新聞の旧称)朝刊</ref>}}。彼とその子孫の多くは1945年9月2日以前から日本の内地に在留していたと認定され、[[特別永住資格]]を付与された。その後、特別永住者として日本の永住権者を持つ[[日本の外国人]]の中でも、特殊な地位を占めている。特に東京、大阪を中心とする首都圏、関西は大久保、鶴橋の様に大規模なコリア・タウンが有る影響で在日韓国・朝鮮人の集住地帯と化している。
[[朝鮮戦争]]時には、一部の在日韓国人が大韓民国への[[義勇兵]]として朝鮮半島に戻った。これは1950年に在京韓国代表部が義勇兵の組織化をGHQに提案したことが契機となったもので、同年8月以降、朝鮮半島に向けて在日韓国人の義勇兵が送り込まれたものである。義勇兵の選出には北朝鮮系の分子が潜り込まないように慎重に行われている。朝鮮半島に送り込まれた実数は定かではないが、約1年後には126人が韓国内で活動していることが報告されている<ref>秘史こぼれ話『朝日新聞』1976年(昭和51年)5月31日、13版、3面</ref>。
在日韓国・朝鮮人の[[国籍]]と[[政治的スペクトル]]は必ず同一であるとは言えない。在日韓国・朝鮮人のうち、韓国籍、日本籍でありながら、[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]系の教育を受けたなどの理由により、自らを北朝鮮公民と自己規定する者も少なくない<ref>{{Cite web|和書|title=日本の中の“38度線” ~在日コリアン 2ヶ月の記録~|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4145/index.html?1528885210|website=NHK クローズアップ現代+|accessdate=2019-11-06|publisher=NHK}}</ref>。
[[在日朝鮮人の帰還事業]]などで北朝鮮に帰国した在日朝鮮人は、配偶者として渡朝した日本人女性の「少し上」程度の最下層として扱われ飢餓に苦しみ、北朝鮮住民から「ジェッキ(朝鮮語表記不詳)」又は蔑称として「チェポ(朝鮮語:째포)」と呼ばれていた。財産を有して帰国した一家は資産を没収させられ、日本に残留した家族・親戚からの送金による資金源や日本からの科学技術獲得に役に立たないと見なされた者らとその子孫約10万人は、[[政治犯]]として[[脱北者]]と共に[[朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所|収容所]]送りにされ処刑される者もいた。また、北朝鮮政府や傘下の[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]([[在日本朝鮮人総聯合会]])は、帰国した家族・親戚も利用しながら、民族意識を歴代世襲独裁者の[[金日成]]、[[金正日]]、[[金正恩]]一族への[[個人崇拝]]に誘導して、一部の在日朝鮮人を日本国内で[[スパイ]]活動に利用しているともされる<ref>{{Cite news|title=在日帰国「楽園」の惨状 来年、事業60年で聞き取り|url=http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2018080102000284.html|accessdate=2018-08-08|language=ja-JP|work=中日新聞 CHUNICHI Web}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/lee-aeran/korea_61_b_10112664.html|title=朝鮮総連結成61年、彼らは在日同胞のために何をしたか|accessdate=2021年5月10日|publisher=ハフポスト}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.joins.com/JArticle/139705|title=北朝鮮、要求拒否の在日出身者を処刑する背景(1)|accessdate=2021年4月25日|publisher=中央日報}}</ref><ref>北朝鮮脱出〈上〉地獄の政治犯収容所 (文春文庫) p13-p26,
[[姜哲煥]], [[安赫]] , 池田菊敏 (訳)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/04/15/north-korean-former-spy-conference_n_7068298.html|title=北朝鮮の元工作員が来日して記者会見「日本人をなぜ拉致し、どう利用したのか」(全文)|accessdate=2021-05-10|publisher=ハフポスト}}</ref>。
{{ISO639言語名|ko}}の能力に問題がある在日韓国人は韓国では日本人として差別<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20151005_354771.html?DETAIL|title=ロッテお家騒動 韓国メディアの在日韓国人差別がむき出しに|accessdate=2021年6月6日|publisher=ニュースポストセブン}}</ref>を受けることがある<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=「日本では韓国人、韓国では日本人扱いされるけど、私はオリジナル・コリアン…『もっと強くなる』」(朝鮮日報日本語版) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/3c449a93e8b7f17233a7fc0ec3e1c715f8430605 |website=Yahoo!ニュース |accessdate=2021-05-30 |language=ja |quote=韓国語がつたない在日韓国人三世で、日本では韓国人、韓国では日本人扱いされた。反日感情が深刻だった2019年、日本企業不買運動の対象になった。}}</ref>。
1980年代には韓国政府が自国民へ留学行為解禁、旅行解禁したため、それ以前から在住した旧在日韓国人とは別タイプの在日韓国人が誕生している([[新在日韓国人]])。
今日では若い世代を中心に新しい価値観が広まり、日本定住を前提とした帰化、民団・総連など民族団体離れが、進行している。朝鮮籍の人でさえも、本国である北朝鮮や朝鮮総連と距離を置きたいと考える人も少なくない。在日韓国・朝鮮人社会に詳しい関係者も「今の子供たちは在日4世、5世の世代で、日本定住が大前提。朝鮮の言葉や文化を継承してほしいと願う祖父母や両親の影響が強くない限り、あえて朝鮮学校には通わせないだろう」と在日社会の朝鮮学校離れも述べている<ref>{{Cite web|title=民団新聞|url=https://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=1&number=26710|website=www.mindan.org|accessdate=2021-04-08|quote=しかし今、在日同胞数の減少と価値観の多様化が「民団離れ」を引き起こしています。|publisher=在日本大韓民国民団}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=朝鮮学校生徒減少の背景に少子化 帰化・国際結婚で深刻に|url=https://www.sankei.com/article/20191230-RY2FN3K3BNIRTBJ4JGIWSDMN3Q/|website=産経ニュース|date=2019-12-30|accessdate=2021-04-08|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC|quote=歴史的にみれば、昭和60年の国籍法改正で、父母のどちらかが日本人であれば日本国籍を取得することが可能となり、日本人と在日韓国・朝鮮人が結婚した場合に日本国籍を選択するケースが増加。帰化の条件も緩和され、日本人化が進んでいるという。
朝鮮籍であっても、本国や朝鮮総連という政治的な側面から距離を置きたいと考える人も少なくない。在日韓国・朝鮮人社会に詳しい関係者は「今の子供たちは在日4世、5世の世代で、日本定住が大前提。朝鮮の言葉や文化を継承してほしいと願う祖父母や両親の影響が強くない限り、あえて朝鮮学校には通わせないだろう」とみる。}}</ref>。
== 団体 ==
{| border="0" cellpadding="1" cellspacing="2" style="margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:right;"
|[[ファイル:Mindan Central Headquarters.JPG|175px]]||[[ファイル:Chosen souren honbu jp.jpg|175px]]
|-
| colspan="2" style="text-align: left;" |{{flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]]系、[[在日本大韓民国民団]]本部ビル(東京都港区南麻布・左)<br>{{flagicon|PRK}} [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]系、[[在日本朝鮮人総聯合会]]本部(東京都千代田区富士見・右)
|}{{main|[[:Category:在日韓国・朝鮮人の団体]]|在日本大韓民国民団|在日本朝鮮人総聯合会}}
オールドカマー在日韓国人とその子孫中心の全国的民族団体として、韓国を支持する[[在日本大韓民国民団]](韓国民団ないし民団)と北朝鮮を支持する[[在日本朝鮮人総聯合会]](朝鮮総連ないし総連)がある。最後に確認できる2021年末の数値では、民団には帰化者も含めた全在日同胞(僑胞)の66%である299,686人が登録されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mindan.org/soshiki.php |title=民団の組織 |accessdate=2023年4月24日 |publisher=民団}}</ref>。この他にも[[新宿区]]の[[コリアンタウン]]を中心とする[[東京都]]内在住のニューカマーが中心となった[[在日本韓国人連合会]](韓人会)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toyo-keizai.co.jp/news/society/2001/post_3243.php|title=<在日社会>ニューカマー韓国人 韓人会を新結成|accessdate=2021年2月24日|publisher=東洋経済日報}}</ref>、2001年に日本の保守派の国会議員らによって新しい日本国籍取得法案が検討され始めたことを契機に結成された在日朝鮮人弁護士協会<ref>[http://www.toyo-keizai.co.jp/news/society/2008/post_170.php <在日社会>「在日の人権伸張めざす」]、東洋経済日報、 2008年9月26日</ref>、民団傘下の在日韓国人法曹フォーラム<ref>{{Cite web|url=https://jp.yna.co.kr/view/PYH20121109107800882|title=在日韓国人法曹フォーラム発足|accessdate=2021-02-24|publisher=聯合ニュース}}</ref>などがある。
帰化者も含めた全在外同胞の12%である在日韓国人への2012年の韓国政府の支援額は78億[[大韓民国ウォン|ウォン]]で在外同胞交流支援予算の67%を占め、また他国ではプロジェクトごとに予算が付けられているのに対し、予算執行の管理・監督に手抜きが指摘される民団には毎年継続的に一定額が支援されている<ref name="nocut20121113" />。韓人会などの他の韓国系在日団体への支援も民団を通じて行われており、民団支援予算の1%程度がこれら非民団団体の支援に使われている<ref name="nocut20121113">{{cite news |title='재일민단' 특혜 의혹…재외동포 예산 67% 독식 |author=박종환 |newspaper=[[基督教放送|CBS]] Nocut News |date=2012-11-13 |url= https://www.nocutnews.co.kr/Show.asp?IDX=2313684|accessdate=2012-11-14|language= {{ko icon}}|trans-title=在日民団に特恵疑惑…在外同胞予算の67%を独占}}</ref>。
民団団長は2018年に朝鮮総連について「拉致と核・ミサイル開発問題において朝鮮総連は日本の人々の敵と変わらない。民団がそのような朝鮮総連と手を組めば日本の人々からは『やはり同じ朝鮮人』という話が出るしかない。朝鮮総連が反省して普通の団体がなるべきだ」と述べている。「我々は人権国家であり拉致は絶対にしていない」となどの主張を例に総連関係者は昨日言ったことでも、翌日に北朝鮮の指導部が言ったことを復唱して言葉を変える朝鮮労働党傘下の団体であると批判している<ref>{{Cite web|和書|url=https://s.japanese.joins.com/JArticle/241482|title=<インタビュー>民団団長「労働党の指示を受ける朝鮮総連とは見えない38度線」(1)|accessdate=2021年5月10日|publisher=中央日報}}</ref>。
== 産業 ==
{| class="sortable wikitable" style="font-size:90%; float:right; text-align:right; line-height:1.25em; margin:0px 0px 3px 7px;"
|+在日韓国朝鮮人の職業分布推移<ref>中岡弘文 [http://www.econ.hokudai.ac.jp/~takais/soturon/4kisei/nakaoka.pdf 「全国の職業分布の変遷表」], 『韓流経済--北海道の在日企業と韓国企業の展望--』, [[北海道大学]]経済学部[[高井哲彦]]ゼミ2004年度卒業論文集, 2005年1月30日, p. 20. 『昭和44年 在留外国人統計』 (法務省, 1969年)、『昭和49年 在留外国人統計』 (法務省、1974年)、『昭和62年 在留外国人統計』 (法務省、1987年)、『平成9年 在留外国人統計』 (法務省、1997年)から作成。</ref>
|-
!職業
! style="padding-right:16px;" |1969年<br>(昭和44年)
! style="padding-right:16px;" |1974年<br>(昭和49年)
! style="padding-right:16px;" |1987年<br>(昭和62年)
! style="padding-right:16px;" |1997年<br>(平成9年)
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|01/}}技術者
|{{Display none|000}}246
|{{Display none|000}}631
|{{Display none|000}}811
|{{Display none|00}}1953
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|02/}}教員
|{{Display none|00}}1008
|{{Display none|00}}1039
|{{Display none|00}}1611
|{{Display none|00}}2267
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|03/}}医療保健技術者
|{{Display none|000}}543
|{{Display none|000}}867
|{{Display none|00}}2648
|{{Display none|00}}4224
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|04/}}宗教家
|{{Display none|000}}255
|{{Display none|000}}274
|{{Display none|000}}375
|{{Display none|000}}871
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|05/}}その他の専門的職業従事者
|{{Display none|00}}1447
|{{Display none|000}}667
|{{Display none|0/}}統計なし
|{{Display none|00}}1813
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|06/}}管理的職業従事者
|{{Display none|00}}4732
|{{Display none|00}}4797
|{{Display none|0}}14608
|{{Display none|0}}18282
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|07/}}専務従事者
|{{Display none|0}}14530
|{{Display none|0}}20769
|{{Display none|0}}40179
|{{Display none|0}}52748
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|08/}}貿易従事者
|{{Display none|000}}207
|{{Display none|000}}185
|{{Display none|000}}253
|{{Display none|000}}410
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|09/}}古鉄・屑物売買従事者
|{{Display none|00}}7802
|{{Display none|00}}7494
|{{Display none|0/}}統計なし
|{{Display none|0/}}統計なし
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|10/}}その他販売従事者
|{{Display none|0}}23437
|{{Display none|0}}23099
|{{Display none|0}}36256
|{{Display none|0}}35264
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|11/}}農林従事者
|{{Display none|00}}5333
|{{Display none|00}}3699
|{{Display none|00}}1588
|{{Display none|000}}960
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|12/}}漁業従事者
|{{Display none|000}}477
|{{Display none|000}}373
|{{Display none|000}}211
|{{Display none|000}}121
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|13/}}採鉱・採石従事者
|{{Display none|000}}673
|{{Display none|000}}484
|{{Display none|000}}181
|{{Display none|000}}132
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|14/}}運輸・通信従事者
|{{Display none|00}}1200
|{{Display none|000}}826
|{{Display none|0}}12733
|{{Display none|00}}9976
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|15/}}建設従事者
|{{Display none|00}}8701
|{{Display none|0}}10815
|{{Display none|0/}}統計なし
|{{Display none|0/}}統計なし
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|16/}}その他技能工・生産工程従事者
|{{Display none|0}}33700
|{{Display none|0}}34909
|{{Display none|0}}40722
|{{Display none|0}}34220
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|17/}}単純労働者
|{{Display none|0}}25864
|{{Display none|0}}16921
|{{Display none|00}}5918
|{{Display none|00}}3350
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|18/}}その他サービス従事者
|{{Display none|00}}3638
|{{Display none|00}}3025
|{{Display none|0}}10399
|{{Display none|0}}11708
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|19/}}芸術家・芸能家
|{{Display none|000}}524
|{{Display none|000}}703
|{{Display none|000}}902
|{{Display none|00}}1203
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|20/}}文芸家・芸術家
|{{Display none|0000}}99
|{{Display none|000}}116
|{{Display none|000}}143
|{{Display none|000}}190
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|21/}}記者
|{{Display none|000}}151
|{{Display none|000}}183
|{{Display none|000}}130
|{{Display none|000}}207
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|22/}}科学研究家
|{{Display none|0000}}78
|{{Display none|000}}401
|{{Display none|000}}139
|{{Display none|000}}280
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|23/}}無職
|319517
|374640
|506266
|476144
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|24/}}分類不能
|{{Display none|000}}685
|{{Display none|000}}701
|{{Display none|000}}693
|{{Display none|000}}836
|-
| style="text-align:left;" |{{Display none|25/}}記入なし
|123964
|109697
|{{Display none|0/}}統計なし
|{{Display none|0/}}統計なし
|- class="sortbottom" style="background-color:#e6e6e6;"
| style="text-align:center;" |総数
|603712
|638806
|677959
|657159
|-
|}
在日韓国・朝鮮人の総人口に占める宿泊・飲食の就業者の割合は13.0%であり、日本人の総人口に占める同割合5.5%の2倍以上である<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka/kihon2/pdf/gaiyou.pdf|title=平成27年 国勢調査 就業状態等基本集計 結果 結果の概要|accessdate=2018年9月26日|publisher=}}</ref>。特に[[焼肉]]、[[朝鮮料理]]店などの飲食の経営者には在日韓国・朝鮮人の[[自営業]]者が多いと言われ、同じく朝鮮系の自営業者が多いと言われる[[パチンコ]]や[[不動産]]と合わせて「民族産業」や「在日産業」と呼ばれることがある<ref name="onekorea091211">[http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=50552&thread=01r03 「在日産業 デフレを追う」], [[統一日報]], 2009年12月11日.</ref>これら自営業者に対しては、昭和40年代に民族団体を通じた減税の動きが全国的にあったとされる<ref name="chunichi071113b">「桑名市、旧楠木町でも減免」, [[中日新聞]], 2007年11月13日社会面.</ref><ref name="chunichi080718">[https://megalodon.jp/2008-0718-1023-29/www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008071802000062.html 「桑名市 減免住民税を不申告 本年度の交付税2億8000万円減」]、中日新聞、2008年7月18日</ref>。
このような資金回転が速い事業、日本人の嫌ういわゆる「3K」産業を担うようになった背景には、民族差別、就職差別があったとされる<ref>{{cite
|url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/ras/04_publications/ria_ja/28_07.pdf
|title=在日朝鮮人企業家の起業動機と企業類型化研究
|author=[[林永彦]]
|year=2008
|publisher=[[立命館大学]]
}}</ref>。
焼肉業界は在日が生み、育てた説がある<ref name="shinbo9910">[http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj1999/sinboj99-10/sinboj991004/sinboj99100471.htm 「サバイバル焼肉戦争の現場(上)/売上業界1位安楽亭」], [[朝鮮新報]], 1999-10.</ref>。焼肉業界は2003年の[[米国産牛肉]]の輸入停止問題では大きな影響を受けた<ref>[http://www.yakiniku.or.jp/sei/soukai3.html 「米国産牛肉の早期輸入再開に係る要請」], [[全国焼肉協会]], 平成16年9月9日.</ref>。民団の機関紙[[民団新聞]]によると、2001年時点で焼肉店は2万店舗、年間販売は7000億円、焼肉業界の6割を在日系が占めていたが<ref>[http://www.mindan.org/shinbun/011107/topic/topic_a.htm 「安全」広報強化融資対象の拡大小泉首相らに要請], 民団新聞、2001年11月7日</ref>、景気悪化により2010年には4割にまで減った<ref>{{ko icon}} [http://www.dongponews.net/news/articleView.html?idxno=17790 " <동포를 만나다> “야키니쿠가 일본음식이라니요?”(<同胞に会う> "焼肉は日本料理だって?")"], 재외동포신문(海外同胞新聞)2010年12月20日</ref>。
[[貴金属]]業界は、1970年代後半に韓国から日本に技術者が進出したこともあってニューカマー在日韓国人が多く、日本国内で制作される貴金属製品の約7割、特に高級[[宝飾品]]の大部分が韓国人[[技能士]]([[貴金属装身具製作技能士]])の手によるものとされる。彼らは[[御徒町]]駅周辺の「ジュエリータウンおかちまち」の形成にも係わったという<ref>[http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=3&newsid=11332 「<在日貴金属協>切磋30年の歴史光る…即売会盛況」], 民団新聞, 2009.5.27.</ref>。東京都内には在日韓国人らでつくる在日韓国人貴金属協会があり、山梨にも韓人山梨貴金属協会がある<ref>[http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=3952&corner=3 「在日貴金属協が韓国中央会館で展示会」], [[民団新聞]]、2009年12月23日</ref><ref>[http://www.47news.jp/CI/200902/CI-20090201-00095.html 「韓国人技能士「先見えない」 県内貴金属加工業に不況直撃 受注激減、帰国の動き」], [[山梨日日新聞]]/[[共同通信]]、2009年2月1日</ref>。
{| class="wikitable"
|+産業(大分類)別15歳以上就業者の割合<ref name=":2" />
!職業
!2015年
|-
|農業、林業
|0.5
|-
|漁業
|0.0
|-
|鉱業,採石業,砂利採取業
|0.0
|-
|建設業
|8.5
|-
|製造業
|11.8
|-
|電気・ガス・熱供給・水道業
|0.1
|-
|情報通信業
|3.2
|-
|運送業、郵便業
|5.5
|-
|卸売業、小売業
|14.4
|-
|金融業、保険業
|1.9
|-
|不動産業、物品賃貸業
|3.4
|-
|学術研究,専門・技術サービス業
|2.8
|-
|宿泊業,飲食サービス業
|13.0
|-
|生活関連サービス業,娯楽業
|5.0
|-
|教育,学習支援業
|3.3
|-
|医療,福祉
|8.0
|-
|複合サービス事業
|0.1
|-
|サービス業(他に分類されないもの)
|6.6
|-
|公務(他に分類されるものを除く)
|0.2
|-
|分類不能の産業
|15.9
|}
=== 民族系金融機関 ===
韓国・在日韓国人信用組合協会(韓信協)・民団系の[[商銀信用組合]](商銀)系と北朝鮮・在日本朝鮮信用組合協会(朝信協、現在は解散)・朝鮮総連系の[[朝銀信用組合]](朝銀)系の金融機関があるが、[[バブル崩壊]]以降破綻が相次いだ。以前に比べて在日韓国朝鮮人も日本の金融機関からの融資が受けやすくなったため、民族系金融機関の存在理由が薄れてきていることに加え、破たん処理の過程で日本人理事長を受け入れるなど、民族色も薄まってきている。
破綻した朝銀の債権を受け継いだ[[整理回収機構]]は[[朝鮮総連本部ビル売却問題|朝鮮総連中央本部]]や大阪など主要都市の朝鮮総連地方本部と学校などを差し押えるなど<ref>金龍勳 [http://japan.dailynk.com/japanese/read_certification.php?cataId=nk01500&num=7416 「墜落する朝鮮総連(1)“拉致問題で高まる反北感情”」], [[デイリーNK]]、2009年11月18日 {{ko icon}} [http://www.dailynk.com/korean/read.php?cataId=nk00500&num=78457 「추락하는 조총련(1)…“납치문제로 反北정서 커져」], デイリーNK、2009年11月16日</ref>、債権回収手続きを進めている<ref>梁貞兒 [http://japan.dailynk.com/japanese/read_certification.php?cataId=nk00100&num=9746 「在日本朝鮮人総連合会、中央本部が差し押さえの危機」], [[デイリーNK]]、2010年6月30日 {{ko icon}} [http://www.dailynk.com/korean/read.php?cataId=nk00100&num=84893 「조총련, 대출은행 파산으로 중앙본부 압류 위기」], デイリーNK, 2010-06-30.</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24743310X11C17A2000000/|title=朝鮮総連関連の保険代理店を捜索 債権回収を妨害の疑い|accessdate=2021年6月6日|publisher=日経新聞}}</ref>。また、朝銀の破綻に関連して2004年3月までに朝鮮総連中央の元財政局長を含む25人以上の朝銀役職員が逮捕され、150人以上が取調べを受けた<ref>[http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2004/01/0401j0401-00001.htm 「総連第20回全体大会に向け知ろう総連の歩み(34)」], 朝鮮新報、2004年4月1日</ref>。商銀系[[信用組合]]の一つの中央商業信用組合は2009年4月24日と2010年8月26日、暴力団に関係する企業に融資をしていたなどとして[[金融庁]][[関東財務局]]から[[業務改善命令]]を受けた<ref>[https://www.fsa.go.jp/news/20/ginkou/20090424-2.html 「中央商銀信用組合に対する行政処分について」], [[金融庁]], 平成21年4月24日.</ref><ref>[https://www.fsa.go.jp/news/20/ginkou/20090424-2.html 「中央商銀信用組合に対する行政処分について」], [[金融庁]]、 平成22年8月26日</ref><ref>[http://www.asahi.com/national/update/0826/TKY201008260446.html 「暴力団関係企業に融資、在日韓国人系信組に業務改善命令」], 朝日新聞、2010年8月26日</ref>。2010年6月25日、商銀系の[[近畿産業信用組合]]は内部規定を改定し、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]に[[政治献金]]100万円等を支出したと明らかにした<ref>「在日韓国人系の近畿産業信組、民主に100万円献金」, 朝日新聞、2010年6月26日</ref>。信組を規制する[[中小企業等協同組合法]]は「政治的中立の原則」を定めていが、[[中小企業庁]]は「一般論として政治献金は好ましいことではない」が、事業運営に支障をきたさず組合員の総意を反映しているなら抵触しないと回答した。
商銀破綻を期に韓国政府が出資する在日韓国人系[[普通銀行]]の[[ドラゴン銀行]]を設立しようという動きも見られたが、2002年、優先交渉権を得ることができず失敗した<ref>[http://www.toyo-keizai.co.jp/news/society/2002/post_2916.php 「<在日社会>「在日銀行」への道 5」], [[東洋経済日報]]、2002年2月22日</ref>。
1982年に韓信協の当時会員であった信用組合が母体となり在日韓国人が本国韓国に設立した韓国初の純民間資本銀行である[[新韓銀行]]は<ref name="jcr091118">[http://www.jcr.co.jp/top_cont/rat_info04.php?no=09i072&PHPSESSID=a3721fcbc6c30cd288e46e007245b06c 「SBJ銀行の長期優先債務をBBB/安定的に格付け」], [[日本格付研究所]]、2009年11月18日</ref>、新韓銀行東京・大阪・福岡支店を譲り受けて2009年、日本法人[[SBJ銀行]]の営業を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcr.co.jp/download/9398e787491941128ad881999e13e9211e927f23b9ffb38189/21I0046J.pdf|title=株式会社 SBJ 銀行 (証券コード:-)|accessdate=2022年1月6日}}</ref>。
=== 在日韓国・朝鮮商工人に関する調査 ===
1982年に行われた東京在住の在日韓国青年商工人を対象に経営している業種、従業員の数、企業規模、企業承継の問題、企業の継続性、韓国への投資に関する意見および今後の計画などに対する質問調査では、在京企業家は30代以上が多く、飲食、パチンコ、金融・不動産等主にサービス業に従事するというケースが多かった。また、他業種と兼業する場合は少<ref>[http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2002/12/1223/73.htm 在日本朝鮮人商工連合会、「同胞経済研究」第7号を発行], [[朝鮮新報]]、2002年12月23日</ref>なく、年間売上額が1億円未満の零細自営業を運営する企業家が多かった。また自身で起業した例は65.5%、両親からの承継が27.6%であった<ref>林永彦 (2007). 李光奎 「在日韓国人の調査研究(II)」『韓国文化人類学(第14集)』[[韓国文化人類学会]],1982に基づく.</ref>。また、1982年に在日韓国商工人1,103人を対象に行われた同様な調査でも全般的な調査結果は同じであったが、経営上の問題として、人材不足、利益減少、税金問題等が指摘された<ref>林永彦 (2007). 徐龍達, 「在日韓国商工人の意識と実態について」『青商─豊かな同胞社会を目指して─』, 青商,1982に基づく.</ref>。
1,059社の企業家を対象として2004年11月から2005年2月まで行った調査では、郵送調査により62人(回収率5.9%)、面接調査は72人の企業家から回答があり合計128人の在日韓国朝鮮人企業家を対象に量的・質的分析が行われた<ref name="yim2008">林永彦, [http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/ras/04_publications/ria_ja/28_07.pdf 「在日朝鮮人企業家の起業動機と企業類型化研究」], [[立命館]]国際地域研究, 第28号, 2008年12月, 111-129.</ref><ref name="yim2007">林永彦, [https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/588-04.pdf 「在日朝鮮人企業家の経営活動と ネットワークの展望」], [[大原社会問題研究所]]雑誌, No.588, 2007.11, 44-60.</ref>。この中で、在日韓国朝鮮人企業は小・中規模零細企業が多いと考えられるが、従業員が1,000人以上の企業も存在していること、企業家の最終学歴は、中学・高校(25.8%)、専門大学(6.2%)、大学・大学院(64.9%)、その他無学(3.1%)であり、教育水準は低いという既存の研究結果と異なり、高学歴化が進みつつあることがわかり<ref name="yim2007" />、業種別分布では、パチンコ産業(23.4%)、不動産・金融業(21.9%)、飲食・宿泊業(16.4%)が上位3業種となったが、3世の場合、知識産業職種が多く見られる。経営活動上の問題点としては、過当競争が最も大きな問題であるとされた。金融機関の利用状況は、民団と総連系の銀行が倒産したため、日本の銀行の利用率が9割以上に上った。また、韓国への投資については、14.8%だけが投資経験があると答え、投資の成果については63.1%が満足しており、韓国への将来的な投資の可能性に関しては21.1%だけが関心があるとした。一方、失敗の原因や関心の低い理由として、家族や親戚への頼りすぎ、詐欺、あるいは同業者からの裏切り、約束に対する概念や信頼関係をとても大事する日本人との差、情報不足を挙げた。
[[朝鮮新報]]は2001年から商工連合会経済研究室編集による「同胞経済研究」を発行している(同サイトからは2002年冬・第7号までの発行が確認できる)。
== 文化 ==
=== 在日朝鮮人文学 ===
{{main|在日朝鮮人文学}}
[[在日朝鮮人文学]]は日本へ渡った朝鮮人によって書かれた文学作品の総称であり、主に[[明治]]以降の文学に対して用いられる。
=== 在日朝鮮語 ===
{{main|在日朝鮮語}}
現時点で日韓法的地位協定をルーツとする在日韓国・朝鮮人によって話される言語は主に日本語であり、朝鮮語を話すものは少数派である。[[母語]]が日本語である日本で生まれ育った世代は、[[朝鮮語]]を学ぶにしても第二言語として学ぶことになり、彼らの使う朝鮮語は[[日本語]]の影響を受け、朝鮮半島のそれとは大きな差異を有する独特の[[在日朝鮮語]]が生まれた。
また3世や4世、5世からは日本語しか分からない人が増え続けている。その多くは朝鮮や韓国系の学校ではなく日本の教育で育った人が多く家庭内で{{ISO639言語名|ko}}を日常的に使われていない家庭も多い。
=== 葬儀 ===
1970年代までは遺体を飛行機で韓国に運び[[土葬]]するケースも多かったが、最近は日本式に[[葬儀]]を行い、日本で[[火葬]]にして埋葬するのがほとんどである<ref>[http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=9778 様変わり 同胞社会の葬儀(上)], 民団新聞, 2008.05.28.</ref><ref>[http://www.kawakami-sosai.co.jp/helpful/osaka2.html 大阪ならではのお葬式マメ知識 儒教編 韓流のお葬式], 川上葬祭.</ref>。一方、世代を重ねるにつれ自分の本貫を知らない若者が増え、故人の本貫を書いて柩にかける赤色の布(幟)、亡くなった方が着る寿衣、遺族の着用する伝統的衣裳や、出棺時の料理を乗せたサンという供養膳、故人の仮の住まいとして部屋の一角に設けられた殯所などに対する葬儀文化の継承が危ぶまれている。また、経済的理由、親や祖父母の時代に逆のぼってまでの付き合いをしたくないというしがらみへの忌避などから家族葬が増えている。このような在日社会の流れの中で民団神奈川県本部は1998年から冠婚葬祭事業「無窮花サービス」を立ち上げ、民族的要素を取り入れながら時代に沿った葬儀サポートを行っており<ref>[http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=9778 様変わり 同胞社会の葬儀(下)], 民団新聞、2008年6月25日</ref><ref>[http://www.o-granma.com/mindan.html 民団神奈川県本部 無窮花(ムグンファ)・葬祭アシスタント], オフィスグランマ.</ref>、「団費を取られるだけで、なにもしてくれないと思っていた」と言われる民団活動の見直しにつながっている<ref>[http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=8286 民団がより身近に 「無窮花サービス」広がる反響], 民団新聞、2007年6月13日</ref>。朝鮮総連でも同様のサービス「同胞生活相談綜合センター」を本部、支部ごとに設けている<ref>[http://www.chongryon.com/j/life/index.html 総聯の同胞生活サポート], 在日本朝鮮人総聯合会.</ref>。また、日本国内には[[曹溪宗]]などの[[朝鮮の仏教|韓国仏教]]寺院も建立されている<ref>[http://www.toyo-keizai.co.jp/news/society/2004/post_1735.php <在日社会>韓国の伝統的葬儀行う高麗葬礼社を7月設立], [[東洋経済日報]]、2004年11月5日</ref>。
=== ホルモン焼 ===
{{main|ホルモン焼き|焼肉}}
[[ホルモン焼き]]を始めたのは朝鮮人という説がある<ref name="shinbo9910" /><ref>『別冊[[BUBKA]]』2006年(平成18年)7月号, p. 33.</ref>。
* ホルモンを焼いて食べる習慣は朝鮮にはなく、戦前には捨てるか肥料にするかしていた臓物肉を、朝鮮人女工がもらってきて焼いて食べたのがホルモン焼きの始まりで、ホルモン焼きは日本で始まったとされる。戦後、ホルモン焼きの屋台が「ホルモン屋」や「朝鮮料理屋」という名称になって行く中、臓物だけでなく精肉を用いる店ができ、在日朝鮮人女性が経営する東京の明月館<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cookdoor.jp/yakiniku/dictionary/22102_yakin_002/ |title=【クックドア】日本の焼肉屋の歴史をご紹介・焼肉屋のはじまり |access-date=2023-01-03}}</ref>がホルモン焼きの祖とされる。
* 「焼肉」という呼称は、1965年の日韓基本条約以降、韓国籍を取得する者が増え、在日朝鮮人の主張した朝鮮料理屋と在日韓国人の主張した韓国料理屋との呼称論争を収拾する案としてプルコギを直訳した「焼肉」が用いられたとされる。この他に、[[焼肉のたれ]]も[[ヤンニョム]](薬念)の影響が見られる(1968年[[エバラ食品]]から発売された商品名は「焼肉のたれ・朝鮮風」<ref>[http://www.ebarafoods.com/company/history/index.html 企業情報 > 沿革], [[エバラ食品]].</ref>)。
=== キムチ ===
[[File:Osaka Ikuno Korea Town 002.jpg|thumb|[[生野コリアタウン|大阪コリアタウン商店街]]の在日韓国人経営のキムチ専門店]]
{{main|キムチ}}
キムチは、もともとは朝鮮半島の保存食だが、辛さやニンニクの臭みなどで日本人の味覚に合わず一般的でなく、「朝鮮漬」と呼ばれることが多かった。1975年に桃屋から発売された「桃屋 キムチの素」が人気を呼び、以後、激辛ブームもあり、一般に認知されるようになっていった。
== 各地のコミュニティー・コリアンタウン ==
[[File:Osaka Ikuno Korea Town 001.jpg|thumb|[[韓流|韓流ブーム]]で賑わう[[生野コリアタウン|大阪コリアタウン商店街]]]]
人口分布は、[[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[中京圏]]・[[近畿圏]]の三大都市圏に集中するが、特に多いのは[[大阪府]]と[[東京都]]である。また、日本各地に[[コリアンタウン]]が形成されている。
{{Main|コリア・タウン#日本}}
== 著名人 ==
{{main|在日韓国・朝鮮人の一覧}}
{{see also|在日認定}}
== 諸論点 ==
=== 国政への関与 ===
日本国では外国人による日本国政治家への献金は[[公職選挙法]]第二十二条の五によって禁じているが、[[菅直人]]<ref name="izai311">
[https://web.archive.org/web/20110530032733/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/495192/ 首相も外国人から105万円 進退問題に発展] 産経新聞 2011/03/11</ref><ref name="sanek311">{{Cite news|title=献金男性のパチンコ店経営会社にマスコミ殺到も反応なし|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110311/crm11031110380009-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110314185958/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110311/crm11031110380009-n1.htm | |date=2011-03-11|publisher=産経新聞|archivedate=2011-03-14}}</ref>や[[前原誠司]]に対して在日韓国人から長年にわたって献金が行われていることが報じられた。
=== 徴用と密入国 ===
朝鮮人徴用者の日本移入は[[1944年]][[9月]]から[[1945年]][[3月]]までの実施された<ref name="asahi19590713">『朝日新聞』 1959年7月13日 2面 「大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」</ref><ref name="sankei20100311">{{cite news |url= http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100311/plc1003111306007-n1.htm |title= 在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人 |newspaper = [[産経新聞]]|date= 2010-03-11 |accessdate = 2010-03-11 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100313025043/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100311/plc1003111306007-n1.htm |archivedate = 2010-03-13 |deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。[[1959年]]の日本政府の発表では日韓併合による在日朝鮮人は245人<ref name="asahi195907132">『朝日新聞』 1959年7月13日 2面 「大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」</ref>。朴代議士によると1933年当時に年間約5万人が日本内地で増加していた<ref>{{Cite web|和書|url={{新聞記事文庫|url|0100275612|title=内地在住の朝鮮人はどんな生活をしているか : あてもなく漫然渡来する者が多く当局も大弱り|oldmeta=10056279}} |title=内地在住の朝鮮人はどんな生活をしているか あてもなく漫然渡来する者が多く当局も大弱り (5/5)(京城日報 1933年8月2日付) |publisher=神戸大学附属図書館 |accessdate=2018-01-20}}</ref>。
[[1946年]]3月までに在日朝鮮人のうち帰還希望者140万人が日本政府の手配などで帰還<ref name="asahi19590713" />。日本政府は朝鮮人を帰還させようとしたが<ref name="yoshidamac">袖井林二郎訳 『吉田茂=マッカーサー往復書簡集―1945-1951』 [[法政大学]]出版局 2000.05. ISBN 4588625098</ref>、占領軍が送還を徹底せず、主権回復後は李承晩政権が朝鮮人の送還を拒み<ref name="shugin19559618">{{Cite press release|和書
| url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102205206X02319550618
| title = 第022回国会 衆議院法務委員会 第23号
| publisher = [[衆議院]]
| date = 1955-06-18
| accessdate = 2010-08-01
}}</ref>、高給な仕事を求め移住してきた在日朝鮮人達も強く求めなかった<ref>朝鮮在住中に食糧難や仕事の難に陥り、金欠や飢えに耐えかねた朝鮮へ帰ったところで生きていく術はないのである。</ref>。
1955年6月18日に国会衆議院法務委員会では、朝鮮半島から密入国した者など彼らの日本国内における犯罪行為に関する事項が議題で取り上げられた。[[小泉純也]]法務次官(当時)は、「60万人と推計されている韓国人・朝鮮人のうち、日本を離れて祖国に戻りたいという人は一人もいないと言っても言い過ぎではない」「向こうから、手段方法を問わず、命までかけて日本に密航しようとする人々が引き続き溢れている。このようにして入って来た人たちに対し、日本政府が国民の血税を投入し、彼らが生活できるよう面倒を見なければならない状況になっている」「彼らを手厚くもてなさないと日本が人権を侵害しているというような問題提起をしてくる。見方によっては、日本国民の血税を犠牲にしつつ、むしろ彼らを日本で第一義にすることを要求しているのではないかと思われるレベルである」と答弁している。
この答弁に対して、椎名議員は「どうにかして日本にさえ入れば、生活するのに何の問題もなくなる。だからどんどん入ってくるのではないか?」、更に在日韓国・朝鮮人の当時の様子について「戦勝国といっていばりにいばり抜いておる。私たち(選挙区)の町にも漁業家が相当あるが、向うへ行くたびにびくびくして出漁しなければならないという状態です。漁業においても締められておる」「朝鮮人の中でも悪質な連中はヒロポンを製造、販売し、国民の保健を非常に傷つけておる、あるいはこっちに来て酒をどんどん作っておる。しかも国家の酒造税の収入を妨げておる。悪いことばかりしている連中が多い」「これはこっちがあまり待遇をよくするから、朝鮮人の連中は、向うで食うに困ったならば日本に行った方がいい、日本に行きさえすれば待遇がいい、日本に行きさえすれば生活ができるというようなところからどんどん入ってくるのじゃないかと思う」と様々な対策すべきと述べる<ref>https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102205206X02319550618</ref>。
1965年12月18日、朴正熙政権は、朝鮮総連に加担したものも韓国政府保護下に戻ることを希望し、分別なく故国をすてて日本に密入国しようとしたものについても韓国民として是非を問わないと表明した<ref>[https://worldjpn.net/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html 日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話] 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室</ref>。
2005年6月9日、[[マルハン]]社長の[[韓昌祐]]は、終戦の年(15歳)に日本で働く兄の招きで密入国したと述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.joins.com/JArticle/64371|title=「底から這い上がって億万長者」…パチンコ業界ナンバーワン経営者の韓昌祐会長|accessdate=2021年8月4日|publisher=中央日報}}</ref>。
=== 通名 ===
在日韓国・朝鮮人や在日中国人には、日本式の[[人名|姓名]]、「[[通名]](通称名)」を名乗る人々が多く存在し、新聞・TV等のマスコミ報道においては、各社の方針によって通名での報道がなされる場合がある。通名は多くの在日韓国・朝鮮人にとって実生活上の実名であるとも言える。履歴書や身分証明書にも通名が使われる傾向が高い(ほとんどの履歴書には国籍欄があるので通名のみ記入の場合が多く、運転免許証は本名のみか「本名(通名)」の表記)。大日本帝国時代における創氏改名以降、彼らは日本において日本名を名乗り生活してきたのであり、21世紀現在において産まれる在日韓国・朝鮮人の多くにとっては使い慣れていない朝鮮式の本名よりも日本式の通名がアイデンティティーを語る上でも実名としての意味合いを持つ。
ただし、近年では、民族としてのアイデンティティーを取り戻す意味で、韓国・朝鮮式の姓名を名乗る者が徐々に増えてきている。これには在日韓国・朝鮮人たちによる啓蒙活動に加えて、韓国の近年における経済発展によって日本での韓国の評価が上昇してきたことや、日本と韓国の文化交流が拡大発展を続けていることも無縁ではないと思われる。[[2009年]]の事例では、[[弾道ミサイル]]の発射台に転用できるトレーラーを日本から北朝鮮に不正輸出した容疑者が逮捕された[[北朝鮮タンクローリー不正輸出事件]]の報道で確認することができる。[[在日本大韓民国民団]]の発表では、韓国・朝鮮式の本名で暮らす人は全体では1割強にとどまり、3人に1人は「状況により使い分ける」としていることを明らかにした<ref name="asahi20010323">[https://web.archive.org/web/20020224102400/http://www.asahi.com/international/jk/010323.html 在日韓国人、「本名」は1割、3割が使い分け 民団調査] 朝日新聞 2001/03/23</ref>。
=== 社会保障問題 ===
==== 生活保護 ====
在日韓国・朝鮮人に対する[[社会保障]]についても、多くの議論がある。
2021年度の厚生労働省「被保護者調査」によれば、日本における生活保護の総件数は161万7578世帯<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00450312&tstat=000001155606&cycle=7&tclass1=000001168869&tclass2=000001202841&cycle_facet=cycle&tclass3val=0&metadata=1&data=1 |title=被保護世帯数-世帯主の平均年齢、級地・世帯主の年齢階級・世帯類型・世帯人員別 |accessdate=2023年4月24日 |publisher=統計センター}}</ref>で200万8950人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00450312&tstat=000001155606&cycle=7&tclass1=000001168869&tclass2=000001202841&cycle_facet=cycle&tclass3val=0&metadata=1&data=1 |title=結果概要データ |accessdate=2023年4月24日 |publisher=統計センター}}</ref>、うち外国人が世帯主の受給世帯は4万5623世帯<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00450312&tstat=000001155606&cycle=7&tclass1=000001168869&tclass2=000001202841&cycle_facet=cycle&tclass3val=0&metadata=1&data=1 |title=世帯主が外国籍の被保護世帯数、世帯主の国籍・世帯人員・世帯類型別 |access-date=2023年4月24日 |publisher=統計センター}}</ref>で6万5273人<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00450312&tstat=000001155606&cycle=7&tclass1=000001168869&tclass2=000001202841&cycle_facet=cycle&tclass3val=0&metadata=1&data=1 |title=世帯主が外国籍の被保護世帯の人員-平均年齢、世帯主の国籍・年齢階級別 |accessdate=2023年4月24日 |publisher=統計センター}}</ref>であり、全体のうち外国人が世帯主の受給率は世帯数で2.8%、人数で3.2%。国籍別でみると、在日韓国・朝鮮人2万8700世帯3万3666人、在日中国人5980世帯9476人、在日フィリピン人5165世帯1万1183人となっている。
日本の生活保護は世帯単位の支給なので外国人が世帯主であっても日本人の家族がいる、またその逆があるため正確には外国人の生活保護受給者として集計しているわけではない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/kaiken/daijin/0000184426.html|title=加藤大臣会見概要H29.11.10(金)10:55 ~ 11:14 省内会見室|accessdate=2021年6月6日|publisher=厚生労働省}}</ref>。
齢層でみると、在日フィリピン人受給者の平均年齢が29.7歳、在日中国人受給者の平均年齢56.3歳に比べ、在日韓国・朝鮮人受給者の平均年齢が67.3歳と外国籍の受給者平均年齢の54.7歳と比べ高齢化している<ref name=":1" /><ref>[https://web.archive.org/web/20161222070719/https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20161221-OYTET50036/ 貧困と生活保護(45)在日外国人は保護を受けやすいという「デマ」] 読売オンライン</ref>。
これは、82年まで外国人が国民年金に加入できなかったこと、また82年当時、35歳以上の者は当時加入しても60歳までの必要な加入期間(25年間)に届かないと思い加入しない者が多かったため、当時から日本に住んでいた在日韓国・朝鮮人には低年金・無年金の老人が多いことが一因と考えられる。
外国人への生活保護は、[[1954年]](昭和29年)5月8日付社初第382号[[厚生省]]社会局長通知により生活保護法を[[準用]]して保護を実施するとされ、さらに[[1990年]](平成2年)の[[口頭指示]]により、その準用の対象を日本に適法に滞在し活動に制限を受けない永住、定住等の在留資格を有する者としている<ref>在日ビルマ人難民申請弁護団 [http://www.jlnr.jp/statements/20100405_mhlw.html “在留資格「特定活動」で人道配慮により在留する外国人に関する厚生労働省への申入れ”], [[全国難民弁護団連絡会議]], 2010年4月5日.</ref>。この通知に基づく保護は地方公共団体の裁量により実施され、行政側から外国人に対する[[贈与]]の性質をもつものであるとされる<ref name="kyodo20090619" /><ref name="oita20101018" />。外国人の[[生活保護]]受給者に、生活保護にかかる行政行為等の行政処分についての異議申立権(審査請求及び再審査請求権)を認めなかったとしても、当該外国人の法的利益が侵害されたとはいえないが、永住権を持つ場合においては[[先進国]]のほとんどの国が外国籍の者に生活保護などの社会保障を国籍保有者と区別をつけずに行う<ref name="kouseiroudouhakusyo200810">[https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kaigai/10/ “諸外国における外国人労働者対策”], [[厚生労働省]], 2011/09/24.</ref>。
[[日本国憲法第25条]]第1項では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定され、1950年以降の[[生活保護法]]第一条では「この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」と「国民」との用語が加えられ<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325AC0000000144#2 |title=生活保護法(昭和二十五年法律第百四十四号)第一条 : この法律の目的|publisher=e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 |date=2018-7-6 |quote=2019年10月1日施行分|accessdate=2019-12-29}}</ref>、生活保護法による権利保障は日本国民に限定されている。大分地方裁判所は「憲法の要請する社会権の保障は、国家による国民の保護の義務を本来の形態とするため、外国人を保護する義務はその国籍国にある」とする判決を出した<ref name="kyodo20090619">[https://web.archive.org/web/20090703154420/http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009061901000999.html “外国人にも「保護請求権」を 大分の永住中国人女性が提訴”], [[共同通信]], 2009/06/19.</ref><ref name="oita20101018">[http://www.oita-press.co.jp/localNews/2010_128738035185.html “生活保護申請 「永住外国人も適用外」”], [[大分合同新聞]], 2010年10月18日.</ref>。また[[1965年]]6月の[[日韓基本条約]]批准書交換に際し、[[朴正煕]]韓国大統領も「在日同胞の苦労」の原因を「韓国政府の責任」と認め、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束した<ref name="park1095">[https://worldjpn.net/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html 日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話], 日本政治・国際関係データベース, [[東京大学東洋文化研究所]][[田中明彦]]研究室.</ref>。
生活保護受給者は帰化申請が下りにくい(比較的帰化条件が緩い特別永住者であっても収入の主たる部分が生活保護である場合は帰化は難しい)とも言われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://common-s.jp/visanews/kikawelfare/ |title=帰化申請と生活保護について~家族が生活保護を受けている場合~ |access-date=2022年10月9日}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150205203513/http://0371.jp/s-kika.html 長内行政書士事務所] 帰化申請の事例3</ref>。
=== 在日韓国・朝鮮人無年金問題 ===
[[1981年]]の日本の[[難民条約]]批准を受けて[[1982年]]、[[国民年金法]]から国籍要件を撤廃するなどの法整備が行われ在日韓国・朝鮮人も日本の[[国民年金]]に加入することができるようになった。さらに[[1986年]]の制度改正により国民年金受給に必要であった60歳までの最低25年間の加入期間を、平和条約国籍離脱者は20歳以上60歳未満のうち1961年4月から1981年12月まで在日していた期間も遡って[[老齢基礎年金]]の加入期間(通称「カラ期間」)として追加<ref name="shinbo20020626">[http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2002/6/0626/71.htm “生活相談 きほんの き―8 Q 自営57歳、保険料未納 老後に年金もらえる? A はい。カラ期間+保険料で”], 朝鮮新報, 20020626.</ref>。2017年に施行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/kourei/hoken/kaigo_lib/nenkin_jukyushikaku_tansyuku.html|title=年金受給資格期間短縮に伴う対応について|accessdate=2021年4月23日|publisher=東京都}}</ref>「公的年金制度の財政基盤及び最低保障機能の強化等のための国民年金法等の 一部を改正する法律の一部を改正する法律」により<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/si2_7.pdf|title=公的年金制度の財政基盤及び最低保障機能の強化等のための国民年金法等の一部を改正する法律の一部を改正する法律(平成28年法律第84号)の概要|accessdate=2021年4月23日|publisher=厚生労働省}}</ref>加入期間が最低25年から10年に短縮された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nenkin.go.jp/oshirase/topics/2017/20170801.html#:~:text=%E5%B9%B3%E6%88%9029%E5%B9%B48%E6%9C%881%E6%97%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E8%80%81%E9%BD%A2%E5%B9%B4%E9%87%91,%E4%BF%9D%E9%99%BA%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82|title=(6)65歳以上で厚生年金保険に加入している方に扶養されている、60歳未満の配偶者の方|accessdate=2021-04-23|publisher=日本年金機構}}</ref>。
一方、1986年以降の「カラ期間」による救済措置後も加入率は低水準で推移し、年々無年金者が増えている。[[2004年]]に[[大阪府立大学]]などが行った70歳以上の在日韓国・朝鮮人300人を対象にした生活実態調査では、[[1926年]](大正15年)以前に出生し1986年に既に60歳を超えており加入資格を満たせなかった人は116人、救済対象だった139人も大半が加入しておらず、救済措置の告知不足や低い受給額への不満などに加え、将来帰国することを考え加入しなかったケースもあるとみられている<ref name="sankei20100614">[http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/100614/wlf1006140015000-n1.htm “生活保護受給の外国人、初の1万人突破 大阪市”], 産経新聞, 2010年6月14日 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101105175755/http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/100614/wlf1006140015000-n1.htm|date=2010-11-05}}</ref>。
長く2国間で年金の加入期間を相互に通算できる社会保障協定を結んでこなかった政府への批判があり、2004年にようやく「[[社会保障に関する日本国と大韓民国との間の協定]]」(日韓社会保障協定)が締結されたが<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty159_19.html 「社会保障に関する日本国と大韓民国との間の協定(略称 日・韓社会保障協定)」], [[外務省]], 2010年11月14日閲覧.</ref>、韓国の国民年金制度(1988年創設、1999年から皆保険<ref>[[奥田聡]] [https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/pdf/2004_04_05_07.pdf 「第7章 韓国における少子高齢化と年金問題」], in 奥田聡編 [https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/2004_04_05.html 『経済危機後の韓国:成熟期に向けての経済・社会的課題』], [[独立行政法人]][[日本貿易振興機構]][[アジア経済研究所]], 2005年3月, p. 153.</ref>)は施行から歴史が浅く平均加入期間が短いことから、当分の間日本の最低加入期間25年の受給要件を満たすことは困難であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nenkin.go.jp/faq/shaho-kyotei/kunibetsu/korea/20120125-01.html|title=日韓協定には、どうして年金加入期間の通算措置がないのですか。|accessdate=2021-04-23|publisher=日本年金機構}}</ref>、韓国は協定に年金加入期間の通算措置を設けない立場を強く主張、その結果、日英協定と同様に年金加入期間の相互通算措置を取り入れず、二重加入防止に限定した協定を締結している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nenkin.go.jp/faq/shaho-kyotei/ippan/20120125-01.html|title=協定により両国社会保険制度への二重加入が防止されるとのことですが、日本の制度か相手国の制度か、加入する制度を自由に選べるのですか。|accessdate=2021-04-23|publisher=日本年金機構}}</ref>。
他方、救済措置から外れた者や、また告知も不十分であったとして、一部の在日韓国・朝鮮人により訴訟がおこされたが、国民年金が当初日本人だけを対象としていたことについては、「立法府の裁量権の範囲内で、憲法や[[国際人権規約]]に反するとは言えない」とする1、2審判決が[[2009年]]に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で確定するなど在日韓国・朝鮮人側の敗訴で終わった<ref name="mainichi20090203">{{cite news | url = https://megalodon.jp/2009-0204-2004-44/mainichi.jp/select/jiken/news/20090204k0000m040108000c.html | title = 在日朝鮮人:老齢年金不支給訴訟の敗訴確定 | newspaper = 毎日新聞 | date = 2009-02-03 | accessdate = 2010-07-27 }}</ref><ref name="yomiuri20140210">{{Cite news|title=無年金訴訟、在日韓国・朝鮮人らの敗訴確定|newspaper=[[読売新聞]]|date=2014-02-10|author=|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140210-OYT1T01326.htm|accessdate=2014-02-26|archiveurl=https://archive.is/20140210175521/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140210-OYT1T01326.htm|archivedate=2014-02-10|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
現在、日本政府は「年金など社会保障の責任は国籍の属する本国が行うべき」という立場から、年金を払い込んでいなかった在日韓国・朝鮮人に対して年金支給を行っていない。この日本政府の見解に対して「海外在住の日本人に日本政府は年金を支払っていない」と糾弾し、在日韓国・朝鮮人に対しても年金を支給するように要求している<ref>[[朴鐘珠]] “在日コリアン無年金訴訟:「私たちにも権利が」 決起集会、支援者に協力訴え /福岡”, 毎日新聞福岡版, 20070918.</ref>日本の年金については[[現況届]]を提出すれば金融機関に振り込まれる)。「日本国籍を有する者で海外に居住する20歳以上65歳未満の者」は日本の国民年金に任意加入することができる。いくつかの地方自治体では法律上年金に加入できなかった在日外国人(低所得高齢者に限る)の申請者に対して[[福祉給付金]]を支給する制度を設けている。
また、生活保護を受給する者のなかで(65歳の生活保護受給者では住宅扶助も含めて月額12万1530円)国民年金加入者よりも多額の受給を得ている無年金者も存在する(詳細は[[#社会保障問題]]参照)。
==== 所在不明高齢者 ====
[[2010年]]から大きく取り上げられた[[高齢者所在不明問題]]では[[再入国許可]]を得て日本から出国し故郷で死去したケースも多いのではないかとされる。北朝鮮は、日本で年金生活を送る在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の高齢者に「月3万円あれば、北で豊かに暮らせる」などと宣伝して永住帰国を求め、帰国後は死亡しても日本側に伝えない手法で一人当たり12万円ずつの年金を「着服」していると、消息筋が伝えている<ref>[http://nk.chosun.com/news/news.html?ACT=detail&res_id=135891&page=2 ドル不足の北朝鮮、闇レートで両替喚起](朝鮮語)[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/10/31/2011103100374.html ドル不足の北朝鮮、闇レートで両替喚起(日本語)](2011年10月31日、朝鮮日報)</ref>。所在不明高齢者に対して厚生労働省は年金差止めの措置を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002j5v6.html|title=所在不明高齢者に係る年金の差止めについて|accessdate=2021-04-23|publisher=厚生労働省}}</ref>。
=== 在日韓国・朝鮮人の参政権 ===
在日韓国人・朝鮮人は本国参政権を有している。過去韓国人にその権利はなく議論が行われていた。北朝鮮人は在外選挙権・被選挙権双方を有する。韓国においては、[[兵役]]、[[納税]]義務などが免除される在外国民に住民登録要件不備を理由に参政権を与えないことの違憲性についての議論が行われてきた<ref>{{ko icon}} [http://www.munhwa.com/news/view.html?no=20070510010308273150020 재외국민에 참정권 부여 않는건 위헌 ?], [[文化日報]], 2007年5月10日</ref>。また日本における地方参政権論争も存在する。
==== 在日韓国人の本国参政権 ====
{{see also|在外選挙|韓国の選挙}}韓国民短期滞留者はたまたま海外に在住している自国民であり、国民の権利として[[不在者投票]]権を要求することに国民的合意が得られやすいことに対し、永住権保有者は、[[兵役]]、[[納税]]義務などが免除されており、住民登録要件不備を理由に参政権を付与することには慎重だった(在日永住権者は37歳まで徴兵が延期され、37歳になると兵役の義務はなくなる<ref name=":4">{{Cite web|url=https://overseas.mofa.go.kr/jp-ja/brd/m_11894/view.do?seq=760708&srchFr=&srchTo=&srchWord=&srchTp=&multi_itm_seq=0&itm_seq_1=0&itm_seq_2=0&company_cd=&company_nm=&page=1|title=「在外国民2世」改正の案内文|accessdate=2021-06-15|publisher=駐日本国大韓民国大使館}}</ref>。1962年10月、「在外国民の兵役免除」の項目が兵役法に法律第1163として追加された)。一方、[[大韓民国憲法#第二章 国民の権利および義務]]第24条は「すべての国民は選挙権を持つ」としており、これに準拠して永住権保有者にも参政権を保障するべきとの議論が続いていた。
これに対し、韓国[[憲法裁判所]]は2007年5月、海外の駐在員や留学生はもちろん、外国での永住権者も韓国の国籍を持ってさえいれば、韓国国内に住民登録がなくても選挙権と国民投票権を与えるべきという決定を下し、1999年3月の決定を覆した<ref>[http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/241/024107.pdf 韓国の公職選挙法改正―在外国民への選挙権付与], 白井京, 外国の立法241, [[国立国会図書館]]調査及び立法考査局, 2009.9.</ref><ref>[http://www.chosunonline.com/article/20070629000056 憲法裁、在外国民の参政権制限に違憲判決], [http://www.chosunonline.com/article/20070629000006 憲法裁「在外国民にも選挙権・投票権を」], [[朝鮮日報]], 2007年6月29日</ref>。また、憲法裁判所は2008年12月31日までに国会で必要な法改正を行うよう命じた。この決定の理由として「情報通信技術の発達」や「経済力の伸張」など10項目を挙げた。また、納税や国防の義務が免除されていることを問題とする考えについても、大韓民国憲法は参政権や平等権などの国民の基本権行使を、納税と国防の義務に対する反対給付として想定していない上、在外国民であっても兵役の義務を果たすことができ、また兵役が義務付けられていない女性も投票権を有しているとする原告の訴えを認めこれを退けた。
これらの動きを受けて、海外短期滞留者をモデルとした不在者投票の準備作業が行われた<ref>[http://www.onekoreanews.net/past/2007/200705/news-syakai02_070516.cfm 50の海外公館で実施 韓国政府], [[統一日報]], 2007年5月16日.</ref>。2006年12月には[[外交通商部]]と共同で50以上の海外公館で模擬投票を実施し、参加者の80%は「投票権を行使する」と回答した。この場合、実際の日本地域の短期滞留者は82000人になり、そのうち21000人が投票すると推算された。
与野党とも在外韓国人に参政権を付与する方向では一致しており、2007年2月末までに中央選挙管理委員会や与野党から5つの選挙法改正案が韓国国会に上程された。しかし、在外投票の導入方法をめぐって紛糾し、当初目指していた2007年の[[大統領選挙]]からの在外投票導入は困難となった。海外永住者は一般的に保守傾向が強いとされており、これを取り込みたい保守派である[[ハンナラ党]]と、若年層にも支持基盤を持ち留学生や、外交官などの一時滞留者たちを取り込みたい[[ウリ党]]の党争によるものと指摘された<ref>[https://web.archive.org/web/20080319093549/http://www.chosunonline.com/article/20070629000054 在外国民への投票権付与、今年の大統領選は難しい?], [[朝鮮日報]], 2007年6月29日</ref>。
2009年2月の韓国国会は法案を可決して2012年の国政選挙から投票できる見通しとなったが、祖国での参政権に対する在日社会の関心は低く、そのメリットを知ってもらおうと、原告団([[李健雨]])を起源とした兵庫と大阪の在日韓国人で「在日韓国人本国参政権連絡準備会」を設立されPR活動が行われた<ref>[https://web.archive.org/web/20080418105939/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000773467.shtml 韓国の参政権活用を呼び掛け 神戸の在日有志], [[神戸新聞]], 2007年12月17日</ref><ref>[http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200712130066.html 在日韓国人、5年後韓国参政権へ 連絡準備会設置しPR], [[朝日新聞]]関西、2007年12月13日</ref>。
また、海外に主な居住地を定めていても韓国内の居住地を法務部に登録していれば投票できるように法改正されたため、2010年6月2日の[[第5回韓国全国同時地方選挙]]では、在日韓国人1世も含む「母国に住む在日韓国人」も、一足早く生まれて初めて祖国での選挙を体験した<ref name="onekorea20100609">[http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=54512&thread=04 在外韓国人、初の投票―韓国統一地方選], 統一日報, 2010年6月9日</ref>。
[[2012年大韓民国大統領選挙]]では、在日有権者462,509人の内、37,342人が選挙人登録し、25,312人が投票を行い、投票率は67.8%であり<ref name="yhn20121210">{{cite news |title=在外投票 日本での投票率は67.8%=韓国大統領選 |author= |newspaper=[[聯合ニュース]] |date=2012-12-10 |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2012/12/10/0200000000AJP20121210003900882.HTML |accessdate=2013-01-24}}</ref>、投票率は2012年4月の[[第19代総選挙 (大韓民国)]]の52.6%から15.2%上昇したものの、在外投票率平均の71.2%を下回った<ref name="yhn20121211">{{cite news|title=韓国大統領選の在外投票率 71.2%=東京トップ|author=|newspaper=[[聯合ニュース]]|date=2012-12-11|url=https://web.archive.org/web/20200810092105/https://jp.yna.co.kr/view/AJP20121211002800882|accessdate=2013-01-24}}</ref>。[[大阪]]、[[ロサンゼルス]]、[[北京]]の在外韓国人に対して行われた調査では、在外選挙の公正性については10点満点で平均7.1点に対し日本では6.6点、「在外選挙が韓国の政治発展に役立つか」との質問には平均8.1点に対し日本では6.7点に留まった<ref name="yhn20130122">{{cite news |title=日本などの在外韓国人 在外選挙を肯定的に評価 |author= |newspaper=[[聯合ニュース]] |date=2013-01-22 |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/01/22/0200000000AJP20130122003200882.HTML |accessdate=2013-01-24}}</ref>。在外投票全体では朴氏の得票率は文氏より13.9ポイント低い42.8%だったが、日本では回答者の大多数が20-40代であったにもかかわらず朴氏の支持率(70.0%)が文氏(30.0%)より大幅に上回った。この調査結果について「在日韓国人は韓国人として差別を経験したのに加え、朝鮮総連に警戒心を持っており、母国の政治的な安定を望む気持ちから米国と中国に比べ、保守色が強い」と説明された。
[[2017年大韓民国大統領選挙]]では登録・申請数が3万8009人、投票者数2万1384人で投票率56.3%であった<ref>[https://web.archive.org/web/20170906134828/http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=23223 在外選挙投票率75・3%に増…在日は減少の56・3%]</ref>。
==== 在日朝鮮人の本国参政権 ====
17歳以上の在日朝鮮人公民は海外にいる者も北朝鮮国政への選挙権、被選挙権ともに有しているため<ref>[https://megalodon.jp/2009-0527-2130-01/www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/04/0904j0313-00008.htm 〈最高人民会議代議員選挙〉解説 朝鮮の選挙 立候補から当選まで] 朝鮮新報 2009.3.13</ref>、[[2009年]]3月の[[最高人民会議|北朝鮮最高人民会議]]代議員選挙では、在日朝鮮人からは[[徐萬述]][[朝鮮総聯]]中央本部議長をはじめとする朝鮮総連幹部や[[朝鮮大学校]]校長などの6名が代議員(国会議員)に選出されている<ref>[http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/04/0904j0313-00005.htm 〈最高人民会議代議員選挙〉 富強祖国建設に力合わせ 在日同胞立候補の選挙区で], 朝鮮新報 2009年3月13日</ref>。
==== 地方参政権問題 ====
長年、在日韓国・朝鮮人を日本社会の構成員として取り扱おうという主張があった。この場合「日本社会の構成員」という語は、立場によって様々に意味を変える。「社会の構成員」と言うかぎりならば、これには単なる実態の反映でしかないという見方もある。しかしこれが、[[地方参政権]]の付与に至ると、議論が分かれる([[外国人参政権]]を参照)。
これは単に保守的な[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]系支持層と左派的な[[日本社会党]]系・[[日本共産党]]それぞれの支持層で別れているわけではなく、それぞれ、民族の出自を重視するグループと、近現代国家における法定国籍主義に基づき民族的出自と政治思想を切り離すべきと考えているグループに分かれる。{{main|日本における外国人参政権}}
[[在日本大韓民国民団]]は、[[2009年]][[8月30日]]投票の[[第45回衆議院議員総選挙]]から[[外国人参政権]]付与を掲げている候補者を支援しており、集会を通じて、民団の構成員に選挙への支援を指導している<ref>{{cite news|url=https://www.donga.com/jp/List/article/all/20090820/308641/1/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%B0%91%E5%9B%A3%E3%80%8C%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AB%E8%B3%9B%E6%88%90%E3%81%AE%E5%80%99%E8%A3%9C%E3%82%92%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%80%8D|title=在日民団「外国人参政権に賛成の候補を支援」|work=|publisher=東亜日報|date=2009-08-20|accessdate=2009-08-29}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090830111150/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/118215 永住外国人政権交代にらみ期待 「参政権を」民団本腰 初めて候補者の活動支援] 西日本新聞 2009年8月29日</ref>。一方、[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]では在日朝鮮人はれっきとした独立国である北朝鮮の海外公民であるので、[[民団]]の外国人参政権獲得運動は韓国政府の棄民政策や、日本政府による同化政策に追随するものだとしてこれに反対している<ref>{{Cite web|和書|url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/10778|title=外国人地方参政権に反対していた朝鮮総連と北朝鮮|accessdate=2021-04-23|publisher=WEDGE}}</ref>。
[[李鍾元]][[立教大学]]法学部教授は、日本の右傾化に対処する方法の一つとして、在日韓国人の地方参政権獲得とともに日本社会を内側から変化させる方法を指摘し<ref>{{en icon}} [https://web.archive.org/web/20140408221500/http://koreajoongangdaily.joins.com/news/article/article.aspx?aid=2595914 [OUTLOOK]Changing Japan from within], [[中央日報]]、2005年7月15日</ref>、韓国が先に永住外国人に地方参政権を付与した措置<ref>[https://web.archive.org/web/20071107185739/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2006&d=0601&f=politics_0601_003.shtml 韓国地方選挙:中国人も初投票、中華街に候補者], [[サーチナ (ポータルサイト)|サーチナ]], 2006/06/01.</ref>を高く評価した。
在日韓国人地方参政権獲得運動の支援の一環として韓国で外国人参政権付与が行われるなど<ref name="kyousei44">{{Cite book|和書|author=鄭印燮|authorlink=鄭印燮 |editor1=田中宏|editor1-link=田中宏 (経済学者)|editor2=金敬得|editor2-link=金敬得 |others= |title=日・韓「共生社会」の展望―韓国で実現した外国人地方参政権 |year=2006 |month= |publisher=[[新幹社]] |location= |series= |id= |isbn=978-4884000448 ||pages=44-56 |chapter=第4章 韓国における外国人参政権―その実現過程|quote=}}</ref>、韓国においてもこの運動は支持されている。また、地方参政権問題は今まで抑圧されてきた在日韓国人同胞の[[恨]]をはらす契機とも見ることができ、日本政府の歴史問題解決への前向きの姿勢の表明として歓迎する意見もある<ref>{{ko icon}} [http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20100122031009 [시론]지방참정권 일본 변화 리트머스 시험지로/진창수 세종연구소 일본연구센터장], [[ソウル新聞]]、2010年1月22日</ref>。
[[民団]]の主導による、在日韓国人参政権付与を求める活動があり、[[千葉県]][[市川市]]では、民団市川支部の組織的な「巻き返し工作」により、2010年1月29日の市議会総務委員会で可決されていた永住外国人への地方参政権の付与に反対する意見書を、翌20日の本会議で否決させることに成功した<ref>{{cite news | url = http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100201/plc1002010037004-n1.htm | title = 外国人参政権反対決議 民団工作、一夜で否決 千葉・市川市議会 | newspaper = 産経新聞 | date =2010-02-01 | accessdate =2010-08-12}}</ref>。
=== 遊技業界 ===
{| class="wikitable" align=right style="margin:5px;"
|+'''日本全国1万7000店のパチンコオーナーの国籍(ただし、韓国・朝鮮系の占める割合については諸説あり)(2022年のパチンコ店は約7600店に減少している。)'''<ref>{{cite journal | author=北朝鮮取材班 | title=「パチンコ業界人が語る店の裏側 偽1万円札出回り事情」―日本全国1万7000店のパチンコオーナーの国籍 | journal=[[AERA]] | |issue=2006年2月13日}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=鍛冶博之 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011098 |title=パチンコホール業界の現代的課題と対策(1) |journal=社会科学 |ISSN=04196759 |publisher=同志社大学人文科学研究所 |date=2007-03-15 |issue=78 |page=25 |naid=110006245009 |doi=10.14988/pa.2017.0000011098}} 引用文献7 北朝鮮取材班〔2006〕79頁から。</ref>
|-
| 本籍
| 割合%
|-
| 韓国籍
| 50%
|-
| 朝鮮籍
| 30-40%
|-
| 日本籍
| 5%
|-
| 華僑
| 5%
|}
{{main|パチンコ|パチスロ}}
[[パチンコ]]産業に携わっている就業者の在日韓国・朝鮮人比率は他産業より高く、[[2007年]][[12月27日]]の[[中央日報]]の記事によると、業界経営の90%ほどを在日韓国人と朝鮮総連系が掌握している<ref>[[金玄基]] [http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=94228 日本、パチンコ発金融危機?], [[中央日報]], 2007.12.27</ref>{{efn|[[野村進]]は国籍・出自による就職差別があるため[[自営業]]が可能なパチンコ産業に在日韓国・朝鮮人が多いと主張している<ref>野村進『コリアン 世界の旅』講談社プラスアルファ文庫 (1999/01) ISBN 978-4062563192 {{要ページ番号|date=2020年12月3日}}</ref>。}}。ただし、パチンコ業界に占める在日韓国・朝鮮系の割合については諸説あり、2008年1月10日の[[ハンギョレ]]の記事ではパチンコ業界の6割が在日韓国・朝鮮系とされ<ref>[http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/262422.html 일본정부, 파친코 산업 ‘목 조이기’ 4년째…], [[ハンギョレ]], 2008.01.10</ref>、また、[[別冊宝島]]『嫌韓流の真実』の[[野村旗守]]の記事によると、1949年に全国で5千店しかなかったホールが、3年後に4万店以上に激増し凄まじいブームが起き、はじめの頃は日本人経営者のほうが多かったが、「射幸心を煽る」との理由で業界に規制を受けてから、日本人業者の多くが撤退してしまい、規制後は7割を在日が占めるようになり、この比率は現在も変わっていないという。民団傘下の「在日韓国商工会議所」では、所属する1万社のうち約7割がパチンコ業に係わっている<ref>[http://www.chosunonline.com/article/20060627000014 "日本政府、民団に制裁措置"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100424052529/http://www.chosunonline.com/article/20060627000014 |date=2010年4月24日 }}、[[朝鮮日報]] 2006/6/27</ref>。パチンコ最大手の[[マルハン]]の創業者が元在日韓国人1世の[[韓昌祐]]であることからもパチンコ業界内の在日韓国・朝鮮人の立場の強さがうかがえる。このため「パチンコはその実体が賭博であるにもかかわらず賭博として規制されておらず、事業で生まれた収益が北朝鮮へ送金され独裁体制やミサイル・[[北朝鮮の核実験|核開発]]を支えている」という指摘がある<ref name="30兆円の闇">[[溝口敦]]著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 [[小学館]]、2005年 ISBN 978-4093797238</ref><ref>CARL FREIRE, [http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/n/a/2006/12/03/international/i104609S94.DTL Korean Nukes Linked to Japanese Pinball], [[AP通信]]/[[サンフランシスコ・クロニクル]], December 3, 2006.</ref>。[[2008年]]、在日本大韓民国民団顧問のチョン・ドンファは、「朝鮮総連はパチンコ事業で資金を集めたが、民団はどのようにしたのか?」と記者に問われると「民団の主な事業もパチンコだ。朝鮮総連は収入の全てを組職化して北に送った。」と証言している<ref>[https://megalodon.jp/2008-1005-0009-39/www.dailynk.com/japanese/read.php?cataId=nk01400&num=2734 “金日成の北送事業で朝鮮総連は決定的に弱体化”] Daily NK 2008-08-25</ref>。[[ランド研究所]]上級経済顧問の[[チャールズ・ウォルフ・ジュニア]]によると、日本から北朝鮮への送金は年200億円以上で、その主な資金源はパチンコであり、30兆円産業から朝鮮人事業主が手にした純収入分の2%が合法、非合法を問わず送金されたとするとそれだけで200億円を超えると推定している<ref>Charles Wolf, Jr., [http://www.rand.org/commentary/2006/11/21/AWSJ.html Tokyo's Leverage Over Pyongyang], November 21, 2006, This commentary appeared in [http://online.wsj.com/google_login.html%3Furl%3Dhttp:%252F%252Fonline.wsj.com%252Farticle%252FSB116406444056328826.html%253Fmod%3Dgooglenews_wsj Asian Wall Street Journal].</ref><ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=81993 "WSJ「6カ国協議のカギは日本が握っている」"],[https://web.archive.org/web/20150530003022/http://japanese.joins.com/article/993/81993.html?sectcode=&servcode= アーカイブ] [[中央日報]]、2006年11月21日</ref>。また、日本国内では在日韓国人のパチンコ店経営者から[[菅直人]][[内閣総理大臣]]への政治資金が提供されていることが報じられた<ref name="izai311" /><ref name="sanek311" />。
ただし、『[[朝日新聞]]』[[2011年]]6月7日朝刊15面記事によると、90年代半ばに売り上げ30兆円・店舗数1万8000店は、2010年までに売り上げ20兆円・店舗数1万2000店の3分の2に激減しており、現在のパチンコ店経営者の[[国籍]]は、[[大韓民国]]が5割、[[日本]]が3割、[[中華人民共和国]]・[[台湾]]が1割、[[朝鮮]]([[北朝鮮]])籍が1割で、パチンコ=北朝鮮というのは正しい批判ではないとしている。
在日大韓民国民団は[[李明博]][[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]]にパチンコ産業への規制強化により、在日同胞への影響が出ているので[[小沢一郎]]に働きかけるようロビー活動を行い、李は小沢に取り組むよう求めた<ref>{{cite news
| url = http://app.yonhapnews.co.kr/yna/basic/ArticleJapan/Search/YIBW_showSearchArticle.aspx?contents_id=AJP20080221003500882
| title = 李次期大統領が小沢代表と会談、参政権付与など要請
| newspaper = [[聯合ニュース]]
| date = 2008-02-21
| accessdate = 2010-02-19
}}</ref>。
=== 外国人犯罪と在日韓国・朝鮮人 ===
警察庁統計において、「定着居住者(永住者、永住者の配偶者等、特別永住者)・在日米軍関係者・在留資格不明の者」以外の外国人を来日外国人、それ以外はその他の外国人と定義している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/h29/honbun/html/t4310000.html|title=第3節 来日外国人犯罪対策|accessdate=2020年11月8日|publisher=警察庁}}</ref>。
2021年の全外国人の刑法犯・特別法犯の検挙人員数は 1位:ベトナム(4111人)、2位:中国(3616人)、3位:韓国・朝鮮(2275人)、4位:ブラジル(1336人) 、5位:フィリピン(1100人) となっている<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/toukei/soubunkan/R03/pdf/R03_26.pdf |title=129 年次別 外国人による犯罪の検挙件数及び検挙人員 |accessdate=2022年12月22日 |publisher=警察庁}}</ref>。
以下は警察庁統計に基づく<ref name=":0" /><ref>平成27年警察庁統計『日本人と来日外国人の検挙人員(刑法犯・特別法犯)の国籍別比較』・同『日本人と在日外国人の検挙人員(刑法犯・特別法犯)の国籍別比較』より</ref><ref>[https://www.npa.go.jp/sosikihanzai/kokusaisousa/kokusai/H27_rainichi.pdf 平成28年3月 来日外国人犯罪の検挙状況 (平成27年)]</ref><ref>[https://www.npa.go.jp/toukei/soubunkan/h27/h27hanzaitoukei.htm 平成27年の犯罪]</ref><ref name=":03">[https://www.npa.go.jp/toukei/soubunkan/h28/pdf/H28_26.pdf 平成28年の犯罪]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/toukei/soubunkan/h29/h29hanzaitoukei.htm|title=平成29年の犯罪|accessdate=2018年10月7日|publisher=警察庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/toukei/soubunkan/h30/h30hanzaitoukei.htm|title=平成30年の犯罪|accessdate=2019年11月7日|publisher=警察庁}}</ref>。
<pre>
来日外国人の検挙人員(刑法犯・特別法犯) 上位4位に在日韓国・朝鮮人が入った年次のみ掲載
平成24年(2012年) 1位:中国(3881人) 2位:韓国・朝鮮(1015人) 3位:フィリピン (789人) 4位:ベトナム(661人)
平成25年(2013年) 1位:中国(4232人) 2位:ベトナム(1118人) 3位:韓国・朝鮮(938人) 4位:フィリピン(760人)
平成26年(2014年) 1位:中国(4565人) 2位:ベトナム(1548人) 3位:フィリピン (803人) 4位:韓国・朝鮮(802人)
平成27年(2015年) 1位:中国(3637人) 2位:ベトナム(1967人) 3位:フィリピン (833人) 4位:韓国(696人)
平成28年 (2016年) 1位:中国(3409人) 2位:ベトナム(2179人) 3位:フィリピン(772人) 4位:韓国・朝鮮(622人)
平成29年 (2017年) 1位:中国(2854人) 2位:ベトナム(2459人) 3位:韓国・朝鮮(855人) 4位:ブラジル(839人)
平成30年 (2018年) 1位:中国 (3221人) 2位:ベトナム(2924人) 3位:フィリピン(771人) 4位:韓国(543人)
</pre>
<pre>
その他の外国人の検挙人員(刑法犯・特別法犯)
平成24年(2012年) 1位:韓国・朝鮮(3430人) 2位:中国(1398人) 3位:フィリピン(414人) 4位:ブラジル(383人)
平成25年(2013年) 1位:韓国・朝鮮(3245人) 2位:中国(1538人) 3位:フィリピン(511人) 4位:ブラジル(393人)
平成26年(2014年) 1位:韓国・朝鮮(3080人) 2位:中国(1508人) 3位:フィリピン(521人) 4位:ブラジル(450人)
平成27年(2015年) 1位:韓国・朝鮮(2943人) 2位:中国(1618人) 3位:フィリピン(486人) 4位:ブラジル(469人)
平成28年 (2016年) 1位:韓国・朝鮮(2843人) 2位:中国(1398人) 3位:フィリピン(465人) 4位:ブラジル(443人)
平成29年 (2017年) 1位:韓国・朝鮮(2673人) 2位:中国(1361人) 3位:フィリピン(489人) 4位:ブラジル(456人)
平成30年 (2018年) 1位:韓国・朝鮮(2520人) 2位:中国(1365人) 3位:ブラジル (419人) 4位:フィリピン(418人)
令和元年 (2019年) 1位:韓国・朝鮮(2301人) 2位:中国(1204人) 3位:ブラジル (463人) 4位:フィリピン(441人)
令和2年 (2020年) 1位:韓国・朝鮮(2570人) 2位:中国(1445人) 3位:ブラジル (562人) 4位:フィリピン(542人)
令和3年 (2021年) 1位:韓国・朝鮮(1960人) 2位:中国(1200人) 3位:ブラジル (463人) 4位:フィリピン(405人)
</pre>
==== 在日韓国・朝鮮人の起こした事件の例 ====
{{main|在日韓国・朝鮮人の事件年表}}
森田芳夫「数字からみた在日朝鮮人」(『外務省調査月報』第1巻第9号 1960年12月)によると、当時の在日朝鮮人の犯罪率は日本人と比較して5倍とされている。また、若槻泰雄「韓国・朝鮮と日本人」では10倍前後と高い水準とされている。1959年の[[在日朝鮮人の帰還事業|帰国事業]]に関連する公式文書『北朝鮮関連領事事務』(アジア局北東アジア課、1959年1月30日 - 8月8日)に、政府・世論共に在日韓国朝鮮人の犯罪率を問題視している旨が記されており(日本人の6倍)、帰国事業に対する日本政府の姿勢に影響を与えていたとする指摘がなされ、この点を問題視する立場がある<ref>朝日新聞2004年9月16日社会面</ref>。
==== 在日韓国・朝鮮人の強制退去、不法滞在 ====
[[1965年]]、[[日韓基本条約]]締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた[[日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定|日韓法的地位協定]]第三条は、以下の事由に該当しない限り日本国からの退去を強制されないとされた。
* 日本国において[[内乱罪]]又は[[外患誘致罪]]等により禁錮刑以上に処せられた者(付和随行者、執行猶予者は除く)。
* 本国において国交に関する罪および外国の元首、外交使節又はその公館に対する犯罪行為で禁錮刑以上が処せられ、日本国の外交上の重大な利益を害した者。
* 営利の目的をもつて[[麻薬及び向精神薬取締法]]等に違反して無期又は三年以上の懲役又は禁錮に処せられた者(執行猶予者は除く)あるいは、三回以上刑に処せられた者。
* 日本国の法令に違反して無期又は七年をこえる懲役又は禁錮に処せられた者。
その後、約35万人もの在日朝鮮人が在留資格を獲得するために韓国籍へと切り替え、民団側は大きく勢力を伸ばした<ref>{{cite book|和書 |author=篠原常一郎 |year=2021 |title=チュチェ思想入門 |publisher=育鵬社 |isbn=978-4594089016 |page=175 |date=2021/8/1}}</ref>
。
[[1991年]]、[[日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法|入管特例法]]により[[大韓民国#国民|韓国人]]のみが対象となっていた協定永住が[[朝鮮籍]]、[[在日台湾|台湾籍]]の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。[[特別永住者]]は[[退去強制]]となる条件が他の[[外国人]]よりも限定される(入管特例法第22条)<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=403AC0000000071#122|title=日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(平成三年法律第七十一号)第二十二条:退去強制の特例 |date=2018-12-14|quote=2019年4月1日施行分 |publisher=e-Gov法令検索. 総務省行政管理局|accessdate=2019-12-29}}</ref>。具体的条件は次のとおり。
* [[内乱罪]](付和随行を除く)、[[内乱予備罪]]、[[内乱陰謀罪]]、[[内乱等幇助罪]]で禁錮刑以上に処せられた者(執行猶予が付いた場合は除く)。
* [[外患誘致罪]]、[[外患援助罪]]、かそれら未遂罪、予備罪、陰謀罪で禁錮刑以上に処せられた者(執行猶予が付いた場合は除く)。
* [[外国国章損壊罪]]、[[私戦予備罪]]、[[私戦陰謀罪]]、[[中立命令違反罪]]で禁錮刑以上に処せられた者。
* 外国の元首、外交使節又はその公館に対しての犯罪で禁錮刑以上が処せられ、かつ[[法務大臣]]が([[外務大臣 (日本)|外務大臣]]と協議の上)日本の外交上の重大な利益が損なわれたと認定した者。
* 無期又は7年を超える懲役又は禁錮に処せられ、かつ法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定した者。
[[1970年代]]後半、日本で犯罪を犯した在日韓国人20人を韓国に強制退去させようとしたが、韓国政府は受け入れを拒否した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090211-OYT1T00976.htm 在日韓国人の強制退去、韓国側が拒否…70年代外交文書で判明], [[読売新聞]], 2009年2月12日. {{webarchive|url=https://archive.is/20090221050939/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090211-OYT1T00976.htm |date=2009年2月21日 }}</ref>。一方、[[法務省]][[出入国在留管理庁|入国管理局]]によれば、1978年、初めて韓国・朝鮮籍2人が[[退去強制]]により送還され、その後1988年までにさらに17人が送還されたとの記録がある<ref name="47news20090222">{{Cite news
|url = https://web.archive.org/web/20130518065822/http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021101000573.html
|title = 日韓攻防、外交文書を公開 受け入れ拒めば北朝鮮送還
|newspaper = [[47NEWS]]
|publisher = [[共同通信社]]
|date = 2009-02-22
|accessdate = 2011-03-11
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20130518065822/http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021101000573.html
|archivedate = 2013-05-18
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。国交のない北朝鮮への送還は考えにくく、韓国に送還されていた可能性が高いという<ref name="47news20090222" />。
2022年1月1日時点での韓国人[[不法滞在]]者数は11,631人(男 4,528人、女 7,103人)で全体(6万6759人)の17.4%でありもっとも多かった。このうち[[ビザ免除プログラム]]等による[[短期滞在]]の後不法滞在者となった者は11,049人で全体の90%以上を占めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/isa/publications/press/13_00003.html#:~:text=%EF%BC%91%20%E4%B8%8D%E6%B3%95%E6%AE%8B%E7%95%99%E8%80%85%E6%95%B0,%EF%BC%94%EF%BC%85%EF%BC%89%E6%B8%9B%E5%B0%91%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82 |title=本邦における不法残留者数について(令和4年1月1日現在) |access-date=2022年7月16日 |publisher=出入国在留管理庁}}</ref>。2019年の韓国人上陸拒否者数は375人で、構成比では総数10,647人中3.5%で8番目<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/isa/content/930006256.pdf|title=別表1 国籍・地域別上陸拒否数の推移(人)|accessdate=2021年2月20日|publisher=出入国在留管理庁}}</ref>。
==== 暴力団と在日韓国・朝鮮人 ====
{{see also|暴力団}}
日本の[[暴力団]]には韓国人が多数存在する。[[住吉会]]の元暴力団員によれば、日本全国で数百人の韓国人暴力団員が活動しており<ref name="yonhap20161024">{{Cite web |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2016/10/24/0400000000AJP20161024001000882.HTML |title=韓国人暴力団員 日本に数百人?=要職担うことも |website=[[聯合ニュース]] |date=2016-10-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161025183007/http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2016/10/24/0400000000AJP20161024001000882.HTML |archivedate=2016-10-25 |accessdate=2021-07-02}}</ref>、主に韓国籍が運営するパチンコ店やマッサージ店からみかじめ料を徴収している<ref name="yonhap20161024" />。組織で足場を固めると、韓国から人員を連れてきて配下に置くこともあり、日本で暴力団組織支部のトップに上り詰めることもある<ref name="yonhap20161024" />。また、韓国で指名手配され、日本に密入国して活動する暴力団員もいる<ref name="yonhap20161024" />。日本で活動する韓国人暴力団員の数は2016年より今後は増えないとされる。[[聯合ニュース]]の取材に答えた元暴力団員は、最近は日本に比べると治安が悪く物価は安くて儲けやすい中国や東南アジアなどでカジノに関わる仕事に行く暴力団員が増える傾向にあるとしている<ref name="yonhap20161024" />。
また[[朴正煕]]政権および[[大韓民国中央情報部|KCIA]]は[[柳川次郎]]など韓国系暴力団幹部と懇意にして<ref>[https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180724/soc1807240021-n1.html 戦後日韓裏面歴史 最強在日ヤクザと司馬遼太郎との邂逅 ] ZAKZAKフジ</ref>、[[金大中事件]]など数々の秘密工作に関わらせていた。
1986年に[[カプランとデュブロ]]は、日本最大の広域暴力団である[[山口組]]の構成員のうち、約10%の者が在日朝鮮人であると書籍に記した<ref>{{cite book | author = David E. Kaplan & Alec Dubro([[カプランとデュブロ]]) | year = 1986 | title = Yakuza: The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld | publisher = Addison-Wesley | isbn = 0020339909}}</ref>。指定暴力団[[会津小鉄会]]四代目会長で在日韓国人だった[[高山登久太郎]]は「[[ヤクザ]]の世界に占める在日韓国・朝鮮人は三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」と発言している<ref>[[朝日新聞社]] 『[[論座]]』(1996年9月号 11頁)</ref>。元[[公安調査庁]]調査第二部長の[[菅沼光弘]]が、2006年10月19日に[[外国特派員協会]]で行った講演で、六代目[[山口組]]若頭の[[髙山清司]]から聞いた話として、暴力団構成員のうち6割が[[同和]](被差別部落)、3割が在日韓国・朝鮮人、1割が同和でない[[日本人]]であり、[[街宣右翼|右翼活動]]により収益を上げているという見解を示した<ref name="VideoNewsNetwork">{{Cite web|和書
|date = 2006-10-27
|url = http://www.videonews.com/press-club/0610/000912.php
|title = 日本を知るには裏社会を知る必要がある 菅沼光弘 元公安調査庁調査第二部長講演(東京・外国特派員協会)
|publisher = [[ビデオニュース・ドットコム]]
|accessdate = 2008-04-08
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080408175737/http://www.videonews.com/press-club/0610/000912.php
|archivedate = 2008-04-08
}}</ref>。暴力団系右翼団体の構成員である在日韓国・朝鮮人が実行犯として逮捕された事件では[[村井秀夫刺殺事件]]が有名である。
元[[山口組]]顧問[[弁護士]]の[[山之内幸夫]]は「ヤクザには在日朝鮮人や[[同和地区]]出身者が多いのも事実である」「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は[[部落差別]]や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」と述べた<ref>『[[文藝春秋]]』(1984年11月号)「山口組顧問弁護士の手記」</ref><ref>発言当時の人口であり2018年時には45万人である。</ref>。
一方[[猪野健治]]は、『やくざと日本人』の中で、昭和中期の関西や北部九州の部落の悲惨な現状を取り上げ、日本社会に「やくざとなるか土方になるか」しか、選択肢の無い若者が多く存在する事がやくざの温床であるという見解を示した{{どこ|date=2014年3月}}。また自身の取材から得た印象として、もとより体系的な統計があるわけではないが、と断りながらも、現在の暴力団員の半数は部落も在日朝鮮人も出自に持たない「市民社会からのドロップアウト組」だろうと推測している。事実、2022年の矯正統計によれば、その年に刑務所に入った受刑者のうち暴力団加入者の国籍別比率は、日本国籍587人で約97.1%、韓国・朝鮮籍11人で約1.8%となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00250005&tstat=000001012930&cycle=7&year=20220&month=0&result_back=1&cycle_facet=cycle&tclass1val=0&metadata=1&data=1 |title=新受刑者中暴力団加入者の国籍 |accessdate=2023年9月9日 |publisher=独立行政法人統計センター}}</ref>。
2008年(平成20年)の警察庁による発表では22の[[指定暴力団]]の内、七代目[[酒梅組]]の金山耕三朗こと'''金在鶴'''{{efn|現在はトップが交代している。}}、[[極東会]]の松山眞一こと'''曺圭化'''、[[松葉会]]の牧野国泰こと'''李春星'''、三代目[[福博会]]の長岡寅夫こと'''金寅純'''、[[九州誠道会]]の村神長二郎こと'''朴植晩'''が代表者として紹介されている<ref name="Hakusyo21">{{Cite press release|和書
| title = 第2章組織犯罪対策の推進 1節 暴力団対策 表2-1 指定暴力団の指定の状況(平成21年5月1日現在) - 平成21年 警察白書
| publisher = [[警察庁]]
| date =
| format = [[PDF]]
| url = https://www.npa.go.jp/hakusyo/h21/honbun/pdf/21p02000.pdf#page=3
| accessdate = 2010-08-15
}}</ref>。また2010年7月20日、東京都公安委員会は4,800人の構成員を擁する指定暴力団稲川会の代表者として[[清田次郎]]こと'''辛炳圭'''を指定した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100720/crm1007201430014-n1.htm 稲川会の代表に清田会長 都公安委が指定], 産経新聞, 2010.7.20. {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100723145421/http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100720/crm1007201430014-n1.htm |date=2010年7月23日 }}</ref>。
=== 民族団体を通じた在日韓国・朝鮮人への税減免措置 ===
{{main|在日特権}}
=== 韓国・北朝鮮との関わり ===
==== 兵役免除規定 ====
男性の韓国国民には兵役があるが、海外で出生・6歳未満で出国し海外で生活するもの・満17歳まで両親と共に海外で暮らし国籍、市民権、永住権を取得したもの、韓国国内での小中高の在学合計が3年未満の韓国国民は兵役が免除される在外国民2世制度がある。2018年の兵役法施行令第128条の改正により1993年12月31日以前に生まれた者の免除規定が変わり1993年12月31日以後に出生した者と同じになった<ref name=":4" />。
本人が永住帰国申請した場合は在外国民2世の地位喪失と兵役義務付けとなる。本人の父または母が永住帰国申請した場合、2018年5月29日以降本人が合計3年を超えて滞在した場合も在外国民2世の地位喪失と一般国外移住者として管理される<ref name=":4" />。
一般国外移住者の場合本人が永住帰国申請した場合、1年間の内6ヶ月以上滞在した場合、韓国で就職などの営利活動を行った場合は兵役延期が取り消され兵役義務が発生する<ref name=":4" />。
大韓民国では、国民に兵役を付与する徴兵制が施行されている一方、国外を往き来する船舶の船員と国外に滞在または居住している人、犯罪によって拘束されている人や刑の執行中の人、[[高等学校]]以上の学校に在学中の学生、研修機関で所定の過程を履修中の人、国威発揚のための体育分野優秀者は、徴兵検査を延期することができる。また、[[大韓民国国軍|大韓民国軍]]の兵役義務は40歳で終了する。よって、海外に居住する韓国人は徴兵検査を受けなくてもよく、40歳以降に韓国に帰国しても徴兵義務は課されない。特段に在日韓国人が区別されているわけではない<ref>[https://ko.wikisource.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EB%AF%BC%EA%B5%AD_%EB%B3%91%EC%97%AD%EB%B2%95#.EC.A0.9C8.EC.9E.A5_.EB.B3.91.EC.97.AD.EC.9D.98.EB.AC.B4.EC.9D.98_.EC.97.B0.EA.B8.B0_.EB.B0.8F_.EA.B0.90.EB.A9.B4 ウィキソース朝鮮語版 大韓民国兵役法 第8章兵役の義務の延期及び減免]</ref>。
==== 北朝鮮問題との関連 ====
北朝鮮問題への注目(拉致事件、核保有問題など)に伴って、在日韓国・朝鮮人、とりわけ朝鮮籍の者への圧力が高まったことに対し、在日韓国・朝鮮人の立場を『親族を北朝鮮政府に人質同然にされ、不本意ながら北朝鮮政府の意のままに操られている人たち』として同情視する向きもある。
一方で「在日朝鮮人は北朝鮮国政の選挙権・被選挙権ともに有しており、在日朝鮮人からは[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]議長や[[朝鮮大学校]]校長などの6名が北朝鮮の国会議員に選ばれており、日本からの送金もかなりの額に上るため、在日朝鮮人側の責任が皆無とは言い難い」との批判もある。また、朝鮮総連は本国の見解に乗っ取り、拉致問題を「解決済み」、「日本側にこそ問題がある」との立場を固守している。北朝鮮のミサイル発射に関連して[[チマチョゴリ切り裂き事件]]なども起きた。
在日韓国・朝鮮人は北朝鮮の[[核兵器]]や[[生物兵器]]などの[[大量破壊兵器]]開発のために輸出規制されている物品を北朝鮮に不法に輸出する[[北朝鮮タンクローリー不正輸出事件]]や[[凍結乾燥機不正輸出事件]]などの事件を引き起こしている。中には、北朝鮮のスパイに協力をした「[[土台人]]」として検挙された者もいる。
[[東京大学大学院]]で博士号を取得したロケット開発権威の在日朝鮮人は[[在日本朝鮮人科学技術協会]]の顧問として日本の技術を不法に入手し、頻繁に北朝鮮に渡り技術指導を行い、[[北朝鮮によるミサイル発射実験 (2006年)|ミサイル発射時]]には現地で立ち会っている<ref>{{Cite web|和書
|url = https://jinf.jp/suggestion/archives/1009
|title = 朝鮮半島問題研究会の分析
|author = [[西岡力]]、[[島田洋一]]
|publisher = [[国家基本問題研究所]]
|date = 2009-05-29
|accessdate = 2011-04-07
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url = https://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2007/02/
|title = 「米国の対北朝鮮政策の根本は不変 日米の圧力政策こそ継続すべき」
|author = [[櫻井よしこ]]
|work = 週刊ダイヤモンド(2007年2月24日号)
|publisher = 櫻井よしこブログ
|date = 2007-02-10
|accessdate = 2010-05-01
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117103968X00720090408
|title = 第171回国会 外務委員会 第7号
|work = 衆議院
|publisher=国立国会図書館
|date = 2009-04-08
|accessdate = 2010-05-01
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117115253X00220090427
|title = 第171回国会 北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 第2号
|work = 衆議院
|publisher=国立国会図書館
|date = 2009-04-27
|accessdate = 2010-05-01
}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em|refs=
<ref name=":5">[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00250012&tstat=000001018034&cycle=1&year=20220&month=12040606&tclass1=000001060399&tclass2val=0 国籍・地域別 在留資格(在留目的)別 在留外国人 調査年月日:22年6月]</ref>
}}
== 参考文献 ==
* [[和田春樹]]、石坂浩一 編 『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』 [[岩波書店]]、2002年。ISBN 978-4000802116。
* {{Cite book ja-jp
| author = 河明生
| year = 1997
| title = 韓人日本移民社会経済史 戦前篇
| publisher = [[明石書店]]
| series =
| isbn = 47503-0882X
| ref = 河 1997
}}
* [[吉田光男]]編著 『韓国朝鮮の歴史と社会』 [[放送大学教育振興会]]、2004年。ISBN 4595237596。
* [[朝鮮史研究会]]編([[旗田巍]]編修代表) 『朝鮮の歴史』 [[三省堂]]、1974年。ISBN 4385342555。
* [[工藤美代子]] 『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』 [[産経新聞出版]]、2009年。ISBN 978-4819110839。
* 山岸秀 『関東大震災と朝鮮人虐殺 - 80年後の徹底検証』 [[早稲田出版]]、2002年。ISBN 978-4898272367。
* [[水間政憲]] 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 - 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 [[徳間書店]]、2010年。ISBN 978-4-19-862990-8。
* [[山野車輪]]作・画 『在日の地図 - 大韓棄民国物語』 [[海王社]]、2006年。ISBN 978-4877243050。
* {{Cite book ja-jp
| author = 金賛汀
| year = 2007
| title = 在日義勇兵帰還せず - 朝鮮戦争秘史
| publisher = [[岩波書店]]
| series =
| isbn = 9784000230186
| ref = 金賛汀 2007
}}
* [[江藤淳]] 『閉された言論空間 - 占領軍の検閲と戦後日本』 [[文藝春秋]]〈[[文春文庫]]〉、1994年。ISBN 4167366088。
* [[金容権]]、李宗良 編 『在日韓国朝鮮人-若者からみた意見と思いと考え』 [[三一書房]]、1985年。
* [[佐藤勝巳]] 『在日韓国・朝鮮人に問う - 緊張から和解への構想』 [[亜紀書房]]、1991年。ISBN 978-4750591094。
* {{Cite book|和書
| author=鄭大均|authorlink=鄭大均
| year = 2010
| title = 韓国のイメージ 増補版
| series = [[中公新書]]
| publisher = [[中央公論新社]]
| isbn = 978-4-12-191269-5
| pages = <!-- pp.63-71 -->
| chapter = <!-- 第三章 戦後イメージの原型 『〈悪者〉のイメージ』 -->
| ref = 鄭 2010
}}
* {{Cite book|和書
| author = 若槻泰雄
| year = 1989
| title = 韓国・朝鮮と日本人
| publisher = [[原書房]]
| isbn = 4-562-02073-3
| ref = 若槻 1989
}}
* {{Cite book|和書
| author=田岡一雄|authorlink=田岡一雄
| year = 1982
| title = 山口組三代目 田岡一雄自伝 電撃篇
| series = [[徳間文庫]]
| publisher = [[徳間書店]]
| isbn = 978-4-19-597322-6
| ref = 田岡 1982
}}
* {{Cite book|和書
| author1=野村旗守|authorlink1=野村旗守|author2=宮島理|author3=李策|authorlink3=李策|author4=呉智英|authorlink4=呉智英|author5=浅川晃広他|authorlink5=浅川晃広
| year = 2006
| title = 嫌韓流の真実!ザ・在日特権
| series = [[別冊宝島]]
| publisher = [[宝島社]]
| isbn = 4796653295
| ref = 野村、宮島、李、呉、浅川他 2006
}}
* {{Cite book|和書
| author=神谷不二編集代表|authorlink=神谷不二
| editor =
| year = 1976
| title = 朝鮮問題戦後資料
| publisher = [[日本国際問題研究所]]
| isbn =
| volume = 第一巻
| ref = 神谷 1976
}}
* {{Cite book ja-jp
| author = [[李栄薫]]
| translator = [[永島広紀]]
| year = 2009
| title = 大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ
| publisher = [[文藝春秋]]
| series =
| isbn = 9784163703107
| ref = 李 2009
}}
=== 論文 ===
* 鄭栄桓、2006、「『解放』直後在日朝鮮人自衛組織に関する一考察 - 朝連自治隊を中心に」、『朝鮮史研究会論文集』第44巻(2006年10月)、[[朝鮮史研究会]]、{{ISSN|0590-8302}} pp. 159–184.
* {{Cite journal ja-jp
| author = 出水薫
| year = 1993
| title = 敗戦後の博多港における朝鮮人帰国について - 博多引揚援護局『局史』を中心とした検討
| url = https://ci.nii.ac.jp/naid/110006261752
| journal = 法政研究
| volume = 60
| issue = 1
| serial = 1993年11月
| publisher = [[九州大学]]法政学会
| issn = 0387-2882
| pages = 71-101
| ref = 出水 1993
}}
=== 物語 ===
* {{Cite book|和書
| author = 山野車輪
| year = 2005
| title = [[マンガ 嫌韓流]]
| series = [[晋遊舎ムック]]
| publisher = [[晋遊舎]]
| isbn = 978-4883804788
| pages = 79-97
| chapter = 第3話 在日韓国・朝鮮人の来歴
| quote = この物語はフィクションであり、登場する人物、団体名は架空のものです。実在の人物、団体とは一切関係がありませんので、ご注意ください。
| ref = 山野 2005
}}(奥付け)
* {{Cite book|和書
| author = 山野車輪
| year = 2009
| title = マンガ 嫌韓流4
| series = 晋遊舎ムック
| publisher = 晋遊舎
| isbn = 978-4-88380-944-8
| pages = 61-89
| chapter = 第3話 “朝鮮進駐軍”と日本の戦後史
| quote = この物語は歴史的事実や実在の事件、事象などを題材にしておりますが、登場する人物、団体は一部を除き架空のものとなっています。
| ref = 山野 2009
}} (p. 321)
=== 関連文献 ===
以下は記事本文および脚注で直接言及していない文献。
* 福岡安則、[[金明秀]] 『在日韓国人青年の生活と意識』 [[東京大学出版会]]、1997年。ISBN 4130560522。
* 山中修司、大島隆行、谷寛彦、金正坤 文・写真 『ダブルの新風 - 在日コリアンと日本人の結婚家族』 [[新幹社]]、1998年。ISBN 4915924858。<!--どのへんを書くために参照された文献なのかわからないのでいったん関連文献にします-->
* [[中村一成]] 『在日無年金訴訟をめぐるひとびと』 [[インパクト出版会]]、2005年。ISBN 4755401534。
* 鄭大均 『在日韓国人の終焉』 文藝春秋〈[[文春新書]]〉、2001年。ISBN 978-4166601684。
* 鄭大均 『在日・強制連行の神話』 文藝春秋〈文春新書〉、2004年。ISBN 978-4166603848。
* [http://world.lib.ru/k/kim_o_i/kkk7.shtml История иммиграции корейцев.Книга первая.Вторая половина 19в.-1945г.Глава 6.Иммиграция корейцев в Японию](『朝鮮移民史』第2巻、19世紀〜1945年、第6章「日本への朝鮮人の移民」、ゲルマン・キム)
* [http://world.lib.ru/k/kim_o_i/kht7rtf.shtml Корейцы за рубежом:прошлое,настоящее и будущее.Корейцы в Японии](『在外朝鮮人:過去、現在、未来』、「在日朝鮮人」、ゲルマン・キム)
* [[徐京植]] 『在日朝鮮人ってどんなひと?』[[平凡社]]、2012年。ISBN 978-4-582-83555-7
*{{Cite book |和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|year=2015 |title=生と死、その非凡なる平凡|publisher=新潮社|pages=96-100|chapter=在日「関勇(せきいさむ)」よ、あの節は本当に有り難かった|isbn=9784103675068}} - 西部が在日韓国・朝鮮人について論じている。
*{{Cite book |和書 |author=金村詩恩|authorlink=金村詩恩 |date=2017年12月 |title= 私のエッジから観ている風景: 日本籍で、在日コリアンで |publisher= ぶなのもり |isbn= 978-4907873035 }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Koreans in Japan}}
{{Wiktionary|在日コリアン}}
* [[日本の民族問題]]
* [[在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟]]
* [[朝鮮進駐軍]]
* [[ポツダム命令]]
* [[在日特権を許さない市民の会]]
*[[同和問題]]
*[[部落解放同盟]]
== 外部リンク ==
* [http://www.j-koreans.org/index.html 在日韓人歴史資料館ホームページ]
* [http://www.mxtv.co.jp/nishibe/archive.php?show_date=20110924 五十年前、こういう偉大な「在日」がいた]{{リンク切れ|date=2021年12月}} - [[呉文子]]・[[秋山祐徳太子]]・[[西部邁]]
* Rosalia AVILA-TAPIES., 「[https://doi.org/10.4200/jjhg1948.47.174 在日外国人と日本人の人口移動パターンの比較分析 大阪市生野区を事例として]」 『人文地理』 1995年 47巻 2号 p. 174-188, {{doi|10.4200/jjhg1948.47.174}}
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118715 本市に於ける朝鮮人の生活概況] 大阪市社会部報告. 第85号(大阪市社会部労働課, 1935)
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118715 バラツク居住朝鮮人の勞働と生活] 大阪市社会部報告. 第51号(大阪市社会部労働課, 1935)
* {{NHK for School clip|D0005311192_00000|在日韓国・朝鮮人}}
* {{Kotobank|在日朝鮮人問題}}
{{日本の外国人}}
{{日本の民族}}
{{朝鮮民族のディアスポラ}}
{{朝鮮総連}}
{{朝鮮}}
{{デフォルトソート:さいにちかんこくちようせんしん}}
[[Category:在日韓国・朝鮮人|*]]
|
2003-07-18T15:51:46Z
|
2023-12-18T12:32:22Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA
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11,739 |
多項式時間
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多項式時間(たこうしきじかん)とは計算理論において多項式で表される計算時間。
多項式時間のアルゴリズムとは、解くべき問題の入力サイズ n {\displaystyle n} に対して、処理時間の上界として n {\displaystyle n} の多項式で表現できるものが存在するアルゴリズムを指す。問題入力サイズの増大に対する、処理時間の増大を表すものであることに注意されたい。
たとえばバブルソートの処理時間は要素数 n {\displaystyle n} に対して要素の比較・交換を行う回数は高々 1 2 n ( n − 1 ) {\displaystyle {\frac {1}{2}}n(n-1)} である。したがって、この場合の最悪計算量のオーダーは''O''記法を用いて O ( n 2 ) {\displaystyle O({n^{2}})} と表される。 またクイックソートの期待計算量のオーダーは O ( n log n ) {\displaystyle O(n\log n)} 、最悪計算量のオーダーは O ( n 2 ) {\displaystyle O({n^{2}})} である。
多項式時間アルゴリズムと多項式時間アルゴリズムが存在する問題クラスについて、簡単に記す。
Aをアルゴリズムとする。Aが以下の性質を満たす時、Aは多項式時間アルゴリズムであるという
なお「多項式時間アルゴリズム」と言った場合、決定的アルゴリズムのみを多項式時間アルゴリズムとして認める場合と、確率的アルゴリズムをも許す場合とがある。
決定的な多項式時間アルゴリズム(上で定義した)で解ける判定問題の集合をクラスPと呼ぶ(判定問題以外の問題はクラスPに含まれないことに注意)。
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多項式時間(たこうしきじかん)とは計算理論において多項式で表される計算時間。 多項式時間のアルゴリズムとは、解くべき問題の入力サイズ n に対して、処理時間の上界として n の多項式で表現できるものが存在するアルゴリズムを指す。問題入力サイズの増大に対する、処理時間の増大を表すものであることに注意されたい。 たとえばバブルソートの処理時間は要素数 n に対して要素の比較・交換を行う回数は高々 1 2 n である。したがって、この場合の最悪計算量のオーダーは''O''記法を用いて O と表される。 またクイックソートの期待計算量のオーダーは O 、最悪計算量のオーダーは O である。
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{{出典の明記|date=2016年9月}}
'''多項式時間'''(たこうしきじかん)とは[[計算理論]]において[[多項式]]で表される計算時間。
多項式時間のアルゴリズムとは、解くべき問題の入力サイズ<math>n</math>に対して、処理時間の上界として<math>n</math>の多項式で表現できるものが存在するアルゴリズムを指す。問題入力サイズの増大に対する、処理時間の増大を表すものであることに注意されたい。
たとえば[[バブルソート]]の処理時間は要素数<math>n</math>に対して要素の比較・交換を行う回数は高々 <math>\frac {1}{2}n(n-1)</math> である。したがって、この場合の最悪計算量のオーダーは[[''O''記法]]を用いて<math>O({n^2})</math>と表される。 また[[クイックソート]]の期待計算量のオーダーは<math>O(n \log n)</math>、最悪計算量のオーダーは<math>O({n^2})</math>である。
==定義==
多項式時間アルゴリズムと多項式時間アルゴリズムが存在する問題クラスについて、簡単に記す。
===多項式時間アルゴリズム===
Aをアルゴリズムとする。Aが以下の性質を満たす時、Aは'''多項式時間アルゴリズム'''であるという
:ある多項式l(k)があって、任意のkと任意のkビットのデータxに対し、Aにxを入力した時にAが停止するまでのステップ数はl(k)以下である。
なお「多項式時間アルゴリズム」と言った場合、[[決定的アルゴリズム]]のみを多項式時間アルゴリズムとして認める場合と、[[確率的アルゴリズム]]をも許す場合とがある。
===多項式時間アルゴリズムが存在する問題とクラスP===
決定的な多項式時間アルゴリズム(上で定義した)で解ける'''判定問題'''の集合をクラス'''[[P (計算量理論)|P]]'''と呼ぶ(判定問題以外の問題はクラスPに含まれないことに注意)。
==関連項目==
* [[計算量理論]]
* [[定数時間]]
* [[指数関数時間]]
* [[多項式時間変換]]
* [[凖指数関数時間]]
* [[時間計算量]]
[[Category:計算複雑性理論|たこうしきしかん]]
[[Category:時間|たこうしき]]
[[Category:数学に関する記事|たこうしきしかん]]
[[en:Time complexity#Polynomial time]]
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2018-04-16T02:24:06Z
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"Template:出典の明記"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E9%A0%85%E5%BC%8F%E6%99%82%E9%96%93
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多項式
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数学において、多項式(たこうしき、英: polynomial)とは、数と不定元(変数とも呼ばれる)をもとにして、和と積によってつくられる式のことである。たとえば、3x − 7x + 2x − 23 は x を不定元とする多項式である。多項式は不定元を複数もつ場合もある。
本記事では多項式とその基本的な演算について述べ、関連して代数方程式、因数分解、多項式関数といった事項に触れる。関連事項についての詳細は個別記事に譲る。なお、一部の記述は1変数多項式(不定元を1個だけもつ多項式)に特有の内容である。
代数方程式とは多項式によって表される方程式であり、これは特に1変数の場合には因数分解と密接に関係している。また、代数方程式は数学における最古の問題のひとつで、その解法の追究は複素数や群といった概念の発見をもたらした。
多項式関数とは多項式によって与えられる関数のことである。多項式は数学や他の科学にさまざまな形で現れるが、その背景には、複雑な関数の特徴をとらえる際に多項式関数による近似が頻繁に用いられることがあるといえるだろう。
不定元 x に関する(1変数の)多項式とは、
という形の式のことをいう。これを
とも書く。ただし、n は非負整数で、an, an − 1, ..., a0 は数である。各々の akx (k = 0, ..., n) のことを項(より詳しくは k 次の項)とよび、ak をその項の係数とよぶ。特に、0次の項 a0 は定数項とよばれる。たとえば、多項式 3x − 7x + 2x − 23 の項とは 3x, −7x, 2x, −23 のことで、−7x の係数は −7 であり、またこの多項式の定数項は −23 である。
項を並べる順番は変更してよい。たとえば −7x − 23 + 2x + 3x は 3x − 7x + 2x − 23 と同じ多項式である。また、0 を係数とする項は省略してもよい。たとえば x + 0x − 1 と x − 1 は同じ多項式であり、0x + 4x − 2 と 4x − 2 も同じ多項式である。
−3x や 2x のような、唯一の項によって表される多項式のことを単項式とよぶ。また、数 a0 を多項式とみなすこともできる(定数多項式)。
定数多項式 0 を除くすべての多項式 f は、anx + an − 1x + ... + a1x + a0(ただし an ≠ 0)という形に表すことができる。このように表したとき、n のことを多項式 f の次数とよび、また f は n 次多項式であるという。さらにこのとき、n 次の項 anx は最高次の項ともよばれる。
定数多項式 a0 の次数は a0 = 0 の場合を除き 0 である。0 の次数は、定義しないか、あるいは −∞ と定めることが多い(零多項式)。
なお、多項式の係数としてはさまざまな範囲の数を用いることができる。どういった範囲の数を採用しているか明示するために、「実数を係数とする多項式」のような表現が用いられることがある。集合 K に属する数を係数とする多項式のことを「K 上の多項式」ともいう。係数の集合 K としては体または可換環を選ぶことが多いが、必ずしもそれらに限定されない。
不定元 x, y に関する2変数の多項式とは、たとえば −2xy + x − 17xy − 4 のように、有限個の axy(k, l は非負整数、a は数)の和として表される式のことをいう。同様にして、任意の正整数 m について m 変数の多項式の概念を考えることができる。2変数以上の多項式は、一般に多変数の多項式とよばれる。
K を数の集合とする。m 個の不定元 x1, x2, ..., xm に関する K 上の多項式 f は、m 個の非負整数の組全体の集合を Z≥0 で表すとき、Z≥0 のある有限部分集合 I を用いて
と表すことができる。ただし各 ak1k2...km は K の元である。同じことを、多重指数記法を用いて
と書くこともできる(ここで x = (x1, x2, ..., xm) )。各々の ak1k2...kmx1x2...xm (多重指数記法では akx)を多項式 f の項とよぶ。なお、1変数多項式の場合と同様に、0 を係数とする項は省略して書いてもよい。
m 変数の多項式 f を上記のように表したとき、項 ak1k2...kmx1x2...xm の次数とは、通常 k1 + k2 + ... + km のことである。また、0 を係数とする項をすべて省略した形で f を書き表したときに、現れる項の次数のうち最大のものを f の次数とよぶ。たとえば、(不定元 x, y に関する)多項式 −2xy + x − 17xy − 4 の次数は 5 である。
「多項式」と「整式」は、数学の文献では同じ意味で使われることが多い。しかし一般にはそうでない流儀もある。たとえば、「整式」を本記事でいう多項式の意味で用い、「多項式」は単項式でない整式の意味で用いることがある。
また、現在の日本の中等教育課程では、本記事でいう多項式を「整式」とよび、「多項式」の語は副次的に用いる習慣がみられる。たとえば、中学校学習指導要領では「多項式」の語は「単項式」との対比においてのみ使われている。高等学校学習指導要領には「多項式」は現れず、もっぱら「整式」の語が使われている。
多項式については、「不定元」と「変数」という二つの言葉は基本的に同じ意味で使われる。
不定元(変数)x に関する多項式 f があるとき、この f を多項式とみなす限りにおいては、x は単なる形式的な記号にすぎず、値を持ったりはしない。その意味で、x を「変数」とよぶのは不適切だと考えることもできる。一方で、f を多項式関数(後述)とみなした場合は x は変数となる。多項式と多項式関数は異なる概念ではあるけれども、両者には密接な関係があることから、多項式についても「不定元」でなく「変数」という言葉を用いる人も少なくない。不定元も参照せよ。
多項式を記号で表す際の記法には、たとえば f と f(x) のように、不定元を表す文字を添えるものと添えないものがある。これらは両方とも広く用いられる。
同じ不定元を持つ二つの多項式 f, g について、それらの和 f + g および積 fg とは、それぞれ、形式的な和や積を、加法・乗法の交換法則および分配法則が成り立つものとして整理して得られる多項式のことである。1変数の場合について式で表すと次のようになる。不定元を x として、 f = ∑ k = 0 m a k x k {\textstyle f=\sum _{k=0}^{m}a_{k}x^{k}} および g = ∑ k = 0 n b k x k {\textstyle g=\sum _{k=0}^{n}b_{k}x^{k}} とおく。さらに、am + 1 = am + 2 = ... = 0, bn + 1 = bn + 2 = ... = 0 と定めておく。そのとき、和は
となり、積は
となる。
多項式 f と数 c に対し、f の c 倍(一般には定数倍ないしスカラー倍という)とは、f の各項の係数を c 倍して得られる多項式である。これも1変数の場合について式で表すと、 f = ∑ k = 0 m a k x k {\textstyle f=\sum _{k=0}^{m}a_{k}x^{k}} に対して
である。
これらの演算は、多項式 f, g を多項式関数(後述)とみなしたときの、関数としての加法、乗法、定数倍と対応している。また、多項式の乗法は、数列に対する畳み込みとみることもできる。
可換環 R 上の不定元 x1, x2, ..., xm に関する多項式全体の集合は、上述の演算によって R 上の多元環になる。これを(x1, x2, ..., xm を不定元とする)R 上の m 変数多項式環といい、記号 R[x1, x2, ..., xm] で表す。
多項式の除法とは、体 K 上の(1変数)多項式 f, g(ただし g ≠ 0)に対して、次の2条件をみたす多項式 Q, R を求める手続きである。
これらの条件をみたす多項式 Q, R の組は必ず存在し、しかも一意的である。Q のことを f を g で割った商、R のことを余り(または剰余)という。f を g で割った余りが 0 のとき、すなわち f = gQ をみたす Q が存在するとき、f は g で割り切れるという。
より一般に、単位元をもつ可換環 R 上の多項式 f, g についても、g がモニック多項式(最高次の項の係数が 1)ならば、同様にして f を g で割った商および余りを定めることができる。
多項式の除法は、より一般の、余りつきの除法の特別な場合とみなすことができる。除法の原理、ユークリッド環も参照せよ。
なお、多項式の除法に関する商のほかに、有理式としての商 f/g を考えることもできる。両者は異なるものである。
1変数多項式 f = ∑ k = 0 m a k x k {\textstyle f=\sum _{k=0}^{m}a_{k}x^{k}} に対して、その微分とは、
で定められる多項式 f′ をつくる演算である。f′ のことを f の導多項式という。同様にして、多変数多項式についても、各々の不定元に関する微分を考えることができる。
実数または複素数を係数とする多項式 f については、それを多項式関数(後述)とみなして微分することもできるが、上述の多項式としての微分は、この関数としての微分(多変数多項式の場合には偏微分)と対応している。関数としての微分と区別するため、多項式としての微分を形式的微分とよぶことがある。形式的微分には、多項式の係数が実数や複素数でなくても問題なく定義できるという利点がある。
多項式 f に対して、導多項式が f に一致するような多項式 F を求める操作のことを(形式的)積分という。
多項式の不定元を数に置き換えることを代入という。たとえば、多項式 f(x) = anx + an − 1x + ... + a1x + a0 の不定元 x に数 c を代入することで
という数が得られる。
m 変数多項式 f(x1, ..., xm) を用いて f(x1, ..., xm) = 0 という形に表される方程式のことを代数方程式という。またその解、すなわち f(c1, ..., cm) = 0 を満たす数の組 (c1, ..., cm) のことを、多項式 f(x1, ..., xm) の零点という。
1変数多項式 f(x) の零点のことを f(x) の根ともいう。数 c が f(x) の根であることは、f(x) が1次式 x − c で割り切れるための必要十分条件である(因数定理)。f(x) が (x − c) で割り切れ、かつ (x − c) では割り切れないとき、c は f(x) の重複度 k の根であるという。2以上の重複度をもつ根は重根とよばれる。
体 K 上の1変数多項式 f が K の代数閉包において重根をもつことは、f と導多項式 f′ が定数でない共通因子をもつことと同値である(関連して、判別式を参照せよ)。f が K の代数閉包において重根をもたないとき、f は分離多項式であるという。
与えられた多項式 f をいくつかの多項式の積として表すことを、多項式 f の因数分解という。
因数分解を行うためのもっとも単純な方法は、因数分解の結果として現れる多項式の係数を未知数とみなし、それらに関する方程式を立てて解を探すことである。たとえば、2次式 Ax + Bx + C を1次式の積に因数分解するには、(ax + b)(cx + d) = acx + (ad + bc)x + bd だから、A = ac, B = ad + bc, C = bd が満たされるような数 a, b, c, d を探せばよい。また、特に1変数の多項式を因数分解する場合には、因数定理も重要な道具となる。
因数分解に関連して、1変数の場合における既約多項式の概念がある。ここでは説明を簡単にするため係数の集合は体 K であるとする。1次以上の多項式 f ∈ K[x] が、同じく K に係数をもつ二つの1次以上の多項式の積として表されないとき、f は K 上で既約であるという。既約でない多項式は可約であるといわれる。多項式の因数分解は、通常、与えられた多項式を既約多項式の積として表すことが目標となる。
多項式の既約性は、係数体 K の選び方に依存する。たとえば、x − 2 は有理数体 Q {\textstyle \mathbb {Q} } 上で既約だが、実数体 R {\textstyle \mathbb {R} } 上では可約である。x + 1 は R {\textstyle \mathbb {R} } 上で既約だが、複素数体 C {\textstyle \mathbb {C} } 上で可約である。
1変数多項式 f(x) が与えられたとき、数 c に対し、不定元 x に c を代入して得られる数 f(c) を対応させることにより関数が得られる。これを多項式 f(x) が定める多項式関数とよぶ。多変数多項式についても同様にして(多変数の)多項式関数が得られる。n 次多項式の定める多項式関数は n 次関数とよばれる。
多項式 f の定める多項式関数は、同じ文字 f で表されることが多い。多項式関数の変数を表す文字にも、しばしば、もとの多項式の不定元を表す文字が流用される。
しかしながら、多項式と多項式関数は異なる概念である。f, g が「多項式として一致する」というのは対応する係数がすべて一致するという意味だが、f, g の定める多項式関数が一致するにもかかわらず、両者が多項式として一致しない場合もある。たとえば、有限体 F 2 {\textstyle \mathbb {F} _{2}} 上の多項式 f(x) = x + x は多項式として 0 とは異なるが、f(x) の定める多項式関数は零関数 0 である。係数の集合が実数体 R {\textstyle \mathbb {R} } や複素数体 C {\textstyle \mathbb {C} } などの無限体であれば、このような現象は起きず、異なる多項式は異なる関数を定めることが知られている。
実数を係数とする m 変数多項式関数は、 R m {\textstyle \mathbb {R} ^{m}} 全体で連続微分可能である。複素数係数の m 変数多項式関数は C m {\textstyle \mathbb {C} ^{m}} 全体で正則である。
行列多項式は行列変数の多項式である。通常はスカラー値の多項式 P(x) = ∑ni=0 aix = a0 + a1x + a2x + ⋯ + anx が与えられたとき、これを行列 A で評価した値というものを
のこととして定義する。ここで、定数項は単位行列 I のスカラー倍に置き換わることに注意。
行列多項式方程式は行列多項式の間の等式であって、考えている範囲の行列のうち特定のもののみがそれを満足するものを言う。同様に、考えている行列環 Mn(R) に属する任意の行列について成り立つ行列多項式の間の等式は行列多項式恒等式と呼ぶ。
形式冪級数 ∑∞n=0 anx は多項式とよく似ているが、非零項が(可算)無限個あってもよい(つまり有限次とは限らない)点が異なる。ゆえに多項式と違って、一般には全ての項を陽に書き下すことは(無理数の小数表示が全て書ききれないことと同様の意味で)できない。しかし、各項に対する扱いや演算における項の操作ルールは多項式に対するものとまったく同じくすることができる。形式冪級数ではなく収束冪級数を考えることでも多項式を一般化することができるが、積は必ずしも収束するとは限らないので、環構造の埋め込みにはならないことに注意。形式冪級数は一般に次数に関して最大の非零項を持つとは限らないが、必ず最小の非零項を持つから、多項式の次数に対応する概念として形式冪級数の位数 (order) は最小の非零項の次数として定まる。
冪級数に対して、さらに有限個の負冪の項も許した一般化として形式ローラン級数が定義される。形式ローラン級数もまた最大の非零項を持つとは限らないが、必ず最小の非零項を持つ(が、略式的には両側無限和として ∑+∞n=−∞ anx のようにも書く)。
形式冪級数の特別の場合が多項式であったことの(形式)ローラン級数において対応する概念として、(形式)ローラン多項式は不定元の負冪の項を有限個含む多項式の類似物である。すなわち、ローラン多項式は正負の次数の項を含む有限和 ∑ i = − N M a i x i ( N , M ∈ N ) {\textstyle \sum _{i=-N}^{M}a_{i}x^{i}\quad (N,M\in \mathbb {N} )} であり、最小の非零項および最大の非零項を持つ。
通常の多変数多項式環は、変数と係数および変数同士の可換性が仮定されている。この変数の間の可換性を仮定からはずすことで、非可換多項式環が定義される。可換性をはずしたために、非可換多項式を一般に書き表すのは困難であるが、非可換多項式環はテンソル代数として記述することができる。X = {x1, x2, ..., xn}を基底とする有限次元 K ベクトル空間あるいは可換環 K 上の階数有限な自由加群 V 上のテンソル代数 T(V) を
などと記してK 上の非可換多項式環と呼ぶ。ここで術語「自由」(free) は、この環が必ずしも乗法が可換でないような多元環としての普遍性を持つということを意味している。K 上で有限生成な(非可換)環 A
は K⟨X⟩ の代入による準同型像として得られる。つまり、適当な K 多元環の全射準同型で
なるものが必ず取れ、またしたがって A は K⟨X⟩ のある商多元環に同型である。この準同型の V への制限は V から A への K 線型写像であるが、逆に V から A への任意の K 線型写像はかならずこのような形の多元環の準同型に延長可能である。これはテンソル代数の普遍性と呼ばれる性質の一部である。
また、非可換多項式環 K⟨x1, x2, ..., xn⟩ をテンソル代数とみるとき、対応する対称代数 S(V) (xy − yx の形の元全体で生成される両側イデアルで割った代数) は多項式環 K[x1, x2, ..., xn] であり、多項式環が有限生成可換多元環に対する普遍性を持っていることに対応している。
有理式は、二つの多項式 P, Q の商(代数的分数式(英語版))P(x)/Q(x) のことを言い、有理式として書き直すことのできる任意の代数式の定める函数を有理函数と呼ぶ。
多項式函数は変数に対する任意の代入に対して値が定義されるが、有理函数は分母が零にならないような変数の値に対してしか定義されない。
有理函数はローラン多項式を分母が不定元の冪であるような特別の場合として含む。
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"text": "数学において、多項式(たこうしき、英: polynomial)とは、数と不定元(変数とも呼ばれる)をもとにして、和と積によってつくられる式のことである。たとえば、3x − 7x + 2x − 23 は x を不定元とする多項式である。多項式は不定元を複数もつ場合もある。",
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"text": "本記事では多項式とその基本的な演算について述べ、関連して代数方程式、因数分解、多項式関数といった事項に触れる。関連事項についての詳細は個別記事に譲る。なお、一部の記述は1変数多項式(不定元を1個だけもつ多項式)に特有の内容である。",
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"text": "K を数の集合とする。m 個の不定元 x1, x2, ..., xm に関する K 上の多項式 f は、m 個の非負整数の組全体の集合を Z≥0 で表すとき、Z≥0 のある有限部分集合 I を用いて",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "と表すことができる。ただし各 ak1k2...km は K の元である。同じことを、多重指数記法を用いて",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "と書くこともできる(ここで x = (x1, x2, ..., xm) )。各々の ak1k2...kmx1x2...xm (多重指数記法では akx)を多項式 f の項とよぶ。なお、1変数多項式の場合と同様に、0 を係数とする項は省略して書いてもよい。",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "m 変数の多項式 f を上記のように表したとき、項 ak1k2...kmx1x2...xm の次数とは、通常 k1 + k2 + ... + km のことである。また、0 を係数とする項をすべて省略した形で f を書き表したときに、現れる項の次数のうち最大のものを f の次数とよぶ。たとえば、(不定元 x, y に関する)多項式 −2xy + x − 17xy − 4 の次数は 5 である。",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "「多項式」と「整式」は、数学の文献では同じ意味で使われることが多い。しかし一般にはそうでない流儀もある。たとえば、「整式」を本記事でいう多項式の意味で用い、「多項式」は単項式でない整式の意味で用いることがある。",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "また、現在の日本の中等教育課程では、本記事でいう多項式を「整式」とよび、「多項式」の語は副次的に用いる習慣がみられる。たとえば、中学校学習指導要領では「多項式」の語は「単項式」との対比においてのみ使われている。高等学校学習指導要領には「多項式」は現れず、もっぱら「整式」の語が使われている。",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "多項式については、「不定元」と「変数」という二つの言葉は基本的に同じ意味で使われる。",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "不定元(変数)x に関する多項式 f があるとき、この f を多項式とみなす限りにおいては、x は単なる形式的な記号にすぎず、値を持ったりはしない。その意味で、x を「変数」とよぶのは不適切だと考えることもできる。一方で、f を多項式関数(後述)とみなした場合は x は変数となる。多項式と多項式関数は異なる概念ではあるけれども、両者には密接な関係があることから、多項式についても「不定元」でなく「変数」という言葉を用いる人も少なくない。不定元も参照せよ。",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "多項式を記号で表す際の記法には、たとえば f と f(x) のように、不定元を表す文字を添えるものと添えないものがある。これらは両方とも広く用いられる。",
"title": "基本用語"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "同じ不定元を持つ二つの多項式 f, g について、それらの和 f + g および積 fg とは、それぞれ、形式的な和や積を、加法・乗法の交換法則および分配法則が成り立つものとして整理して得られる多項式のことである。1変数の場合について式で表すと次のようになる。不定元を x として、 f = ∑ k = 0 m a k x k {\\textstyle f=\\sum _{k=0}^{m}a_{k}x^{k}} および g = ∑ k = 0 n b k x k {\\textstyle g=\\sum _{k=0}^{n}b_{k}x^{k}} とおく。さらに、am + 1 = am + 2 = ... = 0, bn + 1 = bn + 2 = ... = 0 と定めておく。そのとき、和は",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "となり、積は",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "多項式 f と数 c に対し、f の c 倍(一般には定数倍ないしスカラー倍という)とは、f の各項の係数を c 倍して得られる多項式である。これも1変数の場合について式で表すと、 f = ∑ k = 0 m a k x k {\\textstyle f=\\sum _{k=0}^{m}a_{k}x^{k}} に対して",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "これらの演算は、多項式 f, g を多項式関数(後述)とみなしたときの、関数としての加法、乗法、定数倍と対応している。また、多項式の乗法は、数列に対する畳み込みとみることもできる。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "可換環 R 上の不定元 x1, x2, ..., xm に関する多項式全体の集合は、上述の演算によって R 上の多元環になる。これを(x1, x2, ..., xm を不定元とする)R 上の m 変数多項式環といい、記号 R[x1, x2, ..., xm] で表す。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "多項式の除法とは、体 K 上の(1変数)多項式 f, g(ただし g ≠ 0)に対して、次の2条件をみたす多項式 Q, R を求める手続きである。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "これらの条件をみたす多項式 Q, R の組は必ず存在し、しかも一意的である。Q のことを f を g で割った商、R のことを余り(または剰余)という。f を g で割った余りが 0 のとき、すなわち f = gQ をみたす Q が存在するとき、f は g で割り切れるという。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "より一般に、単位元をもつ可換環 R 上の多項式 f, g についても、g がモニック多項式(最高次の項の係数が 1)ならば、同様にして f を g で割った商および余りを定めることができる。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "多項式の除法は、より一般の、余りつきの除法の特別な場合とみなすことができる。除法の原理、ユークリッド環も参照せよ。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "なお、多項式の除法に関する商のほかに、有理式としての商 f/g を考えることもできる。両者は異なるものである。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1変数多項式 f = ∑ k = 0 m a k x k {\\textstyle f=\\sum _{k=0}^{m}a_{k}x^{k}} に対して、その微分とは、",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "で定められる多項式 f′ をつくる演算である。f′ のことを f の導多項式という。同様にして、多変数多項式についても、各々の不定元に関する微分を考えることができる。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "実数または複素数を係数とする多項式 f については、それを多項式関数(後述)とみなして微分することもできるが、上述の多項式としての微分は、この関数としての微分(多変数多項式の場合には偏微分)と対応している。関数としての微分と区別するため、多項式としての微分を形式的微分とよぶことがある。形式的微分には、多項式の係数が実数や複素数でなくても問題なく定義できるという利点がある。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "多項式 f に対して、導多項式が f に一致するような多項式 F を求める操作のことを(形式的)積分という。",
"title": "多項式の演算"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "多項式の不定元を数に置き換えることを代入という。たとえば、多項式 f(x) = anx + an − 1x + ... + a1x + a0 の不定元 x に数 c を代入することで",
"title": "代数方程式"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "という数が得られる。",
"title": "代数方程式"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "m 変数多項式 f(x1, ..., xm) を用いて f(x1, ..., xm) = 0 という形に表される方程式のことを代数方程式という。またその解、すなわち f(c1, ..., cm) = 0 を満たす数の組 (c1, ..., cm) のことを、多項式 f(x1, ..., xm) の零点という。",
"title": "代数方程式"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1変数多項式 f(x) の零点のことを f(x) の根ともいう。数 c が f(x) の根であることは、f(x) が1次式 x − c で割り切れるための必要十分条件である(因数定理)。f(x) が (x − c) で割り切れ、かつ (x − c) では割り切れないとき、c は f(x) の重複度 k の根であるという。2以上の重複度をもつ根は重根とよばれる。",
"title": "代数方程式"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "体 K 上の1変数多項式 f が K の代数閉包において重根をもつことは、f と導多項式 f′ が定数でない共通因子をもつことと同値である(関連して、判別式を参照せよ)。f が K の代数閉包において重根をもたないとき、f は分離多項式であるという。",
"title": "代数方程式"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "与えられた多項式 f をいくつかの多項式の積として表すことを、多項式 f の因数分解という。",
"title": "因数分解"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "因数分解を行うためのもっとも単純な方法は、因数分解の結果として現れる多項式の係数を未知数とみなし、それらに関する方程式を立てて解を探すことである。たとえば、2次式 Ax + Bx + C を1次式の積に因数分解するには、(ax + b)(cx + d) = acx + (ad + bc)x + bd だから、A = ac, B = ad + bc, C = bd が満たされるような数 a, b, c, d を探せばよい。また、特に1変数の多項式を因数分解する場合には、因数定理も重要な道具となる。",
"title": "因数分解"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "因数分解に関連して、1変数の場合における既約多項式の概念がある。ここでは説明を簡単にするため係数の集合は体 K であるとする。1次以上の多項式 f ∈ K[x] が、同じく K に係数をもつ二つの1次以上の多項式の積として表されないとき、f は K 上で既約であるという。既約でない多項式は可約であるといわれる。多項式の因数分解は、通常、与えられた多項式を既約多項式の積として表すことが目標となる。",
"title": "因数分解"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "多項式の既約性は、係数体 K の選び方に依存する。たとえば、x − 2 は有理数体 Q {\\textstyle \\mathbb {Q} } 上で既約だが、実数体 R {\\textstyle \\mathbb {R} } 上では可約である。x + 1 は R {\\textstyle \\mathbb {R} } 上で既約だが、複素数体 C {\\textstyle \\mathbb {C} } 上で可約である。",
"title": "因数分解"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1変数多項式 f(x) が与えられたとき、数 c に対し、不定元 x に c を代入して得られる数 f(c) を対応させることにより関数が得られる。これを多項式 f(x) が定める多項式関数とよぶ。多変数多項式についても同様にして(多変数の)多項式関数が得られる。n 次多項式の定める多項式関数は n 次関数とよばれる。",
"title": "多項式関数"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "多項式 f の定める多項式関数は、同じ文字 f で表されることが多い。多項式関数の変数を表す文字にも、しばしば、もとの多項式の不定元を表す文字が流用される。",
"title": "多項式関数"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、多項式と多項式関数は異なる概念である。f, g が「多項式として一致する」というのは対応する係数がすべて一致するという意味だが、f, g の定める多項式関数が一致するにもかかわらず、両者が多項式として一致しない場合もある。たとえば、有限体 F 2 {\\textstyle \\mathbb {F} _{2}} 上の多項式 f(x) = x + x は多項式として 0 とは異なるが、f(x) の定める多項式関数は零関数 0 である。係数の集合が実数体 R {\\textstyle \\mathbb {R} } や複素数体 C {\\textstyle \\mathbb {C} } などの無限体であれば、このような現象は起きず、異なる多項式は異なる関数を定めることが知られている。",
"title": "多項式関数"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "実数を係数とする m 変数多項式関数は、 R m {\\textstyle \\mathbb {R} ^{m}} 全体で連続微分可能である。複素数係数の m 変数多項式関数は C m {\\textstyle \\mathbb {C} ^{m}} 全体で正則である。",
"title": "多項式関数"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "行列多項式は行列変数の多項式である。通常はスカラー値の多項式 P(x) = ∑ni=0 aix = a0 + a1x + a2x + ⋯ + anx が与えられたとき、これを行列 A で評価した値というものを",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "のこととして定義する。ここで、定数項は単位行列 I のスカラー倍に置き換わることに注意。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "行列多項式方程式は行列多項式の間の等式であって、考えている範囲の行列のうち特定のもののみがそれを満足するものを言う。同様に、考えている行列環 Mn(R) に属する任意の行列について成り立つ行列多項式の間の等式は行列多項式恒等式と呼ぶ。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "形式冪級数 ∑∞n=0 anx は多項式とよく似ているが、非零項が(可算)無限個あってもよい(つまり有限次とは限らない)点が異なる。ゆえに多項式と違って、一般には全ての項を陽に書き下すことは(無理数の小数表示が全て書ききれないことと同様の意味で)できない。しかし、各項に対する扱いや演算における項の操作ルールは多項式に対するものとまったく同じくすることができる。形式冪級数ではなく収束冪級数を考えることでも多項式を一般化することができるが、積は必ずしも収束するとは限らないので、環構造の埋め込みにはならないことに注意。形式冪級数は一般に次数に関して最大の非零項を持つとは限らないが、必ず最小の非零項を持つから、多項式の次数に対応する概念として形式冪級数の位数 (order) は最小の非零項の次数として定まる。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "冪級数に対して、さらに有限個の負冪の項も許した一般化として形式ローラン級数が定義される。形式ローラン級数もまた最大の非零項を持つとは限らないが、必ず最小の非零項を持つ(が、略式的には両側無限和として ∑+∞n=−∞ anx のようにも書く)。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "形式冪級数の特別の場合が多項式であったことの(形式)ローラン級数において対応する概念として、(形式)ローラン多項式は不定元の負冪の項を有限個含む多項式の類似物である。すなわち、ローラン多項式は正負の次数の項を含む有限和 ∑ i = − N M a i x i ( N , M ∈ N ) {\\textstyle \\sum _{i=-N}^{M}a_{i}x^{i}\\quad (N,M\\in \\mathbb {N} )} であり、最小の非零項および最大の非零項を持つ。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "通常の多変数多項式環は、変数と係数および変数同士の可換性が仮定されている。この変数の間の可換性を仮定からはずすことで、非可換多項式環が定義される。可換性をはずしたために、非可換多項式を一般に書き表すのは困難であるが、非可換多項式環はテンソル代数として記述することができる。X = {x1, x2, ..., xn}を基底とする有限次元 K ベクトル空間あるいは可換環 K 上の階数有限な自由加群 V 上のテンソル代数 T(V) を",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "などと記してK 上の非可換多項式環と呼ぶ。ここで術語「自由」(free) は、この環が必ずしも乗法が可換でないような多元環としての普遍性を持つということを意味している。K 上で有限生成な(非可換)環 A",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "は K⟨X⟩ の代入による準同型像として得られる。つまり、適当な K 多元環の全射準同型で",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "なるものが必ず取れ、またしたがって A は K⟨X⟩ のある商多元環に同型である。この準同型の V への制限は V から A への K 線型写像であるが、逆に V から A への任意の K 線型写像はかならずこのような形の多元環の準同型に延長可能である。これはテンソル代数の普遍性と呼ばれる性質の一部である。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また、非可換多項式環 K⟨x1, x2, ..., xn⟩ をテンソル代数とみるとき、対応する対称代数 S(V) (xy − yx の形の元全体で生成される両側イデアルで割った代数) は多項式環 K[x1, x2, ..., xn] であり、多項式環が有限生成可換多元環に対する普遍性を持っていることに対応している。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "有理式は、二つの多項式 P, Q の商(代数的分数式(英語版))P(x)/Q(x) のことを言い、有理式として書き直すことのできる任意の代数式の定める函数を有理函数と呼ぶ。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "多項式函数は変数に対する任意の代入に対して値が定義されるが、有理函数は分母が零にならないような変数の値に対してしか定義されない。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "有理函数はローラン多項式を分母が不定元の冪であるような特別の場合として含む。",
"title": "一般化"
}
] |
数学において、多項式とは、数と不定元(変数とも呼ばれる)をもとにして、和と積によってつくられる式のことである。たとえば、3x3 − 7x2 + 2x − 23 は x を不定元とする多項式である。多項式は不定元を複数もつ場合もある。 本記事では多項式とその基本的な演算について述べ、関連して代数方程式、因数分解、多項式関数といった事項に触れる。関連事項についての詳細は個別記事に譲る。なお、一部の記述は1変数多項式(不定元を1個だけもつ多項式)に特有の内容である。 代数方程式とは多項式によって表される方程式であり、これは特に1変数の場合には因数分解と密接に関係している。また、代数方程式は数学における最古の問題のひとつで、その解法の追究は複素数や群といった概念の発見をもたらした。 多項式関数とは多項式によって与えられる関数のことである。多項式は数学や他の科学にさまざまな形で現れるが、その背景には、複雑な関数の特徴をとらえる際に多項式関数による近似が頻繁に用いられることがあるといえるだろう。
|
{{脚注の不足|date=2021年2月}}
[[数学]]において、'''多項式'''(たこうしき、{{lang-en-short|polynomial}})とは、数と[[不定元]]([[変数 (数学)|変数]]とも呼ばれる)をもとにして、和と積によってつくられる式のことである。たとえば、{{math|3''x''{{exp|3}} − 7''x''{{exp|2}} + 2''x'' − 23}} は {{mvar|x}} を不定元とする多項式である。多項式は不定元を複数もつ場合もある。
本記事では多項式とその基本的な演算について述べ、関連して[[代数方程式]]、[[因数分解]]、[[多項式関数]]といった事項に触れる。関連事項についての詳細は個別記事に譲る。なお、一部の記述は1変数多項式(不定元を1個だけもつ多項式)に特有の内容である。
代数方程式とは多項式によって表される方程式であり、これは特に1変数の場合には因数分解と密接に関係している。また、代数方程式は数学における最古の問題のひとつで、その解法の追究は[[複素数]]や[[群 (数学)|群]]といった概念の発見をもたらした。
多項式関数とは多項式によって与えられる関数のことである。多項式は数学や他の科学にさまざまな形で現れるが、その背景には、複雑な関数の特徴をとらえる際に多項式関数による近似が頻繁に用いられることがあるといえるだろう。
== 基本用語 ==
=== 1変数の多項式 ===
[[不定元]] {{mvar|x}} に関する(1変数の)'''多項式'''とは、
:<math>a_n x^n + a_{n-1} x^{n-1} + \dotsb + a_1 x + a_0</math>
という形の式のことをいう。これを
:<math>\sum_{k=0}^n a_k x^k</math>
とも書く。ただし、{{mvar|n}} は非負整数で、{{math|''a''{{ind|''n''}}}}, {{math|''a''{{ind|''n'' − 1}}}}, …, {{math|''a''{{ind|0}}}} は数である。各々の {{math|''a''{{ind|''k''}}''x''{{sup|''k''}}}} ({{math|''k'' {{=}} 0}}, …, {{math|''n''}}) のことを'''項'''(より詳しくは {{mvar|k}} 次の項)とよび、{{math|''a''{{ind|''k''}}}} をその項の'''係数'''とよぶ。特に、0次の項 {{math|''a''{{ind|0}}}} は'''定数項'''とよばれる。たとえば、多項式 {{math|3''x''{{exp|3}} − 7''x''{{exp|2}} + 2''x'' − 23}} の項とは {{math|3''x''{{exp|3}}}}, {{math|−7''x''{{exp|2}}}}, {{math|2''x''}}, {{math|−23}} のことで、{{math|−7''x''{{exp|2}}}} の係数は {{math|−7}} であり、またこの多項式の定数項は {{math|−23}} である。
項を並べる順番は変更してよい。たとえば {{math|−7''x''{{exp|2}} − 23 + 2''x'' + 3''x''{{exp|3}}}} は {{math|3''x''{{exp|3}} − 7''x''{{exp|2}} + 2''x'' − 23}} と同じ多項式である。また、{{math|0}} を係数とする項は省略してもよい。たとえば {{math|''x''{{exp|2}} + 0''x'' − 1 }} と {{math|''x''{{exp|2}} − 1 }} は同じ多項式であり、{{math|0''x''{{exp|2}} + 4''x'' − 2 }} と {{math|4''x'' − 2 }} も同じ多項式である。
{{math|−3''x''}} や {{math|2''x''{{exp|5}}}} のような、唯一の項によって表される多項式のことを'''単項式'''とよぶ。また、数 {{math|''a''{{ind|0}}}} を多項式とみなすこともできる([[定数多項式]])。
定数多項式 {{math|0}} を除くすべての多項式 {{mvar|f}} は、{{math|''a''{{ind|''n''}}''x''{{exp|''n''}} + ''a''{{ind|''n'' − 1}}''x''{{exp|''n'' − 1}} + … + ''a''{{ind|1}}''x'' + ''a''{{ind|0}}}}(ただし {{math|''a''{{ind|''n''}} ≠ 0}})という形に表すことができる。このように表したとき、{{mvar|n}} のことを多項式 {{mvar|f}} の'''[[多項式の次数|次数]]'''とよび、また {{mvar|f}} は {{mvar|n}} 次多項式であるという。さらにこのとき、{{mvar|n}} 次の項 {{math|''a''{{sub|''n''}}''x''{{exp|''n''}}}} は'''最高次の項'''ともよばれる。
定数多項式 {{math|''a''{{ind|0}}}} の次数は {{math|''a''{{ind|0}} {{=}} 0}} の場合を除き {{math|0}} である。{{math|0}} の次数は、定義しないか、あるいは {{math|−∞}} と定めることが多い([[零多項式]])。
なお、多項式の係数としてはさまざまな範囲の数を用いることができる。どういった範囲の数を採用しているか明示するために、「[[実数]]を係数とする多項式」のような表現が用いられることがある。集合 {{mvar|K}} に属する数を係数とする多項式のことを「{{mvar|K}} 上の多項式」ともいう。係数の集合 {{mvar|K}} としては[[可換体|体]]または[[可換環]]を選ぶことが多いが、必ずしもそれらに限定されない。
=== 多変数の多項式 ===
{{Main|多変数多項式}}
不定元 {{mvar|x}}, {{mvar|y}} に関する2変数の多項式とは、たとえば {{math|−2''x''{{exp|3}}''y''{{exp|2}} + ''x''{{exp|4}} − 17''xy''{{exp|2}} − 4}} のように、有限個の {{math|''ax''{{exp|''k''}}''y''{{exp|''l''}}}}({{mvar|k}}, {{mvar|l}} は非負整数、{{mvar|a}} は数)の和として表される式のことをいう。同様にして、任意の正整数 {{mvar|m}} について {{mvar|m}} 変数の多項式の概念を考えることができる。2変数以上の多項式は、一般に多変数の多項式とよばれる。
{{mvar|K}} を数の集合とする。{{mvar|m}} 個の不定元 {{math|''x''{{ind|1}}}}, {{math|''x''{{ind|2}}}}, …, {{math|''x''{{ind|''m''}}}} に関する {{mvar|K}} 上の多項式 {{mvar|f}} は、{{mvar|m}} 個の非負整数の組全体の集合を {{math|ℤ{{ind|≥0}}{{exp|''m''}}}} で表すとき、{{math|ℤ{{ind|≥0}}{{exp|''m''}}}} のある有限部分集合 {{mvar|I}} を用いて
:<math>\sum_{(k_1,k_2,\dots,k_m)\in I} a_{k_1k_2\dotsb k_m} x_1^{k_1}x_2^{k_2}\dotsb x_m^{k_m}</math>
と表すことができる。ただし各 {{math|''a''{{ind|''k''{{ind|1}}''k''{{ind|2}}…''k''{{ind|''m''}}}}}} は {{mvar|K}} の元である。同じことを、[[多重指数]]記法を用いて
:<math>\sum_{k\in I} a_k x^k</math>
と書くこともできる(ここで {{math|''x'' {{=}} (''x''{{ind|1}}, ''x''{{ind|2}}, …, ''x''{{ind|''m''}}) }})。各々の {{math|''a''{{ind|''k''{{ind|1}}''k''{{ind|2}}…''k''{{ind|''m''}}}}''x''{{ind|1}}{{exp|''k''{{ind|1}}}}''x''{{ind|2}}{{exp|''k''{{ind|2}}}}…''x''{{ind|''m''}}{{exp|''k''{{ind|''m''}}}}}} (多重指数記法では {{math|''a''{{ind|''k''}}''x''{{exp|''k''}}}})を多項式 {{mvar|f}} の'''項'''とよぶ。なお、1変数多項式の場合と同様に、{{math|0}} を係数とする項は省略して書いてもよい。
{{mvar|m}} 変数の多項式 {{mvar|f}} を上記のように表したとき、項 {{math|''a''{{ind|''k''{{ind|1}}''k''{{ind|2}}…''k''{{ind|''m''}}}}''x''{{ind|1}}{{exp|''k''{{ind|1}}}}''x''{{ind|2}}{{exp|''k''{{ind|2}}}}…''x''{{ind|''m''}}{{exp|''k''{{ind|''m''}}}}}} の'''次数'''とは、通常 {{math|''k''{{ind|1}} + ''k''{{ind|2}} + … + ''k''{{ind|''m''}}}} のことである。また、{{math|0}} を係数とする項をすべて省略した形で {{mvar|f}} を書き表したときに、現れる項の次数のうち最大のものを {{mvar|f}} の'''次数'''とよぶ{{sfn|日本数学会編|2007|p=893}}。たとえば、(不定元 {{mvar|x}}, {{mvar|y}} に関する)多項式 {{math|−2''x''{{exp|3}}''y''{{exp|2}} + ''x''{{exp|4}} − 17''xy''{{exp|2}} − 4}} の次数は {{math|5}} である。
=== 注意 ===
==== 多項式と整式 ====
「多項式」と「[[整式]]」は、数学の文献では同じ意味で使われることが多い{{sfn|上野健爾他編|2005|p=306}}。しかし一般にはそうでない流儀もある。たとえば、「整式」を本記事でいう多項式の意味で用い、「多項式」は単項式でない整式の意味で用いることがある{{sfn|デジタル大辞泉}}。
また、現在の日本の中等教育課程では、本記事でいう多項式を「整式」とよび、「多項式」の語は副次的に用いる習慣がみられる。たとえば、中学校学習指導要領では「多項式」の語は「単項式」との対比においてのみ使われている{{sfn|文部科学省|2008}}。高等学校学習指導要領には「多項式」は現れず、もっぱら「整式」の語が使われている{{sfn|文部科学省|2009}}。
==== 不定元と変数 ====
多項式については、「不定元」と「変数」という二つの言葉は基本的に同じ意味で使われる。
不定元(変数){{mvar|x}} に関する多項式 {{mvar|f}} があるとき、この {{mvar|f}} を多項式とみなす限りにおいては、{{mvar|x}} は単なる形式的な記号にすぎず、値を持ったりはしない。その意味で、{{mvar|x}} を「変数」とよぶのは不適切だと考えることもできる。一方で、{{mvar|f}} を多項式関数(後述)とみなした場合は {{mvar|x}} は変数となる。多項式と多項式関数は異なる概念ではあるけれども、両者には密接な関係があることから、多項式についても「不定元」でなく「変数」という言葉を用いる人も少なくない{{要出典|date=2018年11月}}。[[不定元]]も参照せよ。
==== 記号 {{math|''f''}} と {{math|''f''(''x'')}} ====
多項式を記号で表す際の記法には、たとえば {{mvar|f}} と {{math|''f''(''x'')}} のように、不定元を表す文字を添えるものと添えないものがある。これらは両方とも広く用いられる。
== 多項式の演算 ==
=== 加法・乗法・定数倍 ===
同じ不定元を持つ二つの多項式 {{mvar|f}}, {{mvar|g}} について、それらの'''和''' {{math|''f'' + ''g''}} および'''積''' {{math|''fg''}} とは、それぞれ、形式的な和や積を、加法・乗法の交換法則および分配法則が成り立つものとして整理して得られる多項式のことである。1変数の場合について式で表すと次のようになる。不定元を {{mvar|x}} として、<math display="inline">f=\sum_{k=0}^ma_kx^k</math> および <math display="inline">g=\sum_{k=0}^nb_kx^k</math> とおく。さらに、{{math|''a''{{ind|''m'' + 1}} {{=}} ''a''{{ind|''m'' + 2}} {{=}} … {{=}} 0}}, {{math|''b''{{ind|''n'' + 1}} {{=}} ''b''{{ind|''n'' + 2}} {{=}} … {{=}} 0}} と定めておく。そのとき、和は
:<math>f+g = \sum_{k=0}^{\max(m,n)} (a_k+b_k)x^k</math>
となり、積は
:<math>fg = \sum_{k=0}^{m+n} \left(\sum_{i=0}^ka_ib_{k-i}\right) x^k</math>
となる。
多項式 {{mvar|f}} と数 {{mvar|c}} に対し、{{mvar|f}} の {{mvar|c}} 倍(一般には'''定数倍'''ないし'''スカラー倍'''という)とは、{{mvar|f}} の各項の係数を {{mvar|c}} 倍して得られる多項式である。これも1変数の場合について式で表すと、<math display="inline">f=\sum_{k=0}^ma_kx^k</math> に対して
:<math>cf=\sum_{k=0}^mca_kx^k</math>
である。
これらの演算は、多項式 {{mvar|f}}, {{mvar|g}} を多項式関数(後述)とみなしたときの、関数としての加法、乗法、定数倍と対応している。また、多項式の乗法は、数列に対する[[畳み込み]]とみることもできる。
可換環 {{mvar|R}} 上の不定元 {{math|''x''{{ind|1}}, ''x''{{ind|2}}, …, ''x''{{ind|''m''}}}} に関する多項式全体の集合は、上述の演算によって {{mvar|R}} 上の[[体上の多元環|多元環]]になる。これを({{math|''x''{{ind|1}}, ''x''{{ind|2}}, …, ''x''{{ind|''m''}}}} を不定元とする){{mvar|R}} 上の {{mvar|m}} 変数'''[[多項式環]]'''といい、記号 {{math|''R''[''x''{{ind|1}}, ''x''{{ind|2}}, …, ''x''{{ind|''m''}}]}} で表す。
=== 除法 ===
{{main|{{仮リンク|多項式の除法|en|Polynomial long division|fr|Division d'un polynôme}}}}
多項式の除法とは、体 {{mvar|K}} 上の(1変数)多項式 {{mvar|f}}, {{mvar|g}}(ただし {{math|''g'' ≠ 0}})に対して、次の2条件をみたす多項式 {{mvar|Q}}, {{mvar|R}} を求める手続きである。
# {{math|''f'' {{=}} ''gQ'' + ''R''}}
# {{mvar|R}} の次数は {{mvar|g}} の次数よりも小さい。(ただし、定数多項式 {{math|0}} の次数は {{math|0}} より小さいものと解釈する。)
これらの条件をみたす多項式 {{mvar|Q}}, {{mvar|R}} の組は必ず存在し、しかも一意的である。{{mvar|Q}} のことを {{mvar|f}} を {{mvar|g}} で割った'''商'''、{{mvar|R}} のことを'''余り'''(または'''剰余''')という。{{mvar|f}} を {{mvar|g}} で割った余りが {{math|0}} のとき、すなわち {{math|''f'' {{=}} ''gQ''}} をみたす {{mvar|Q}} が存在するとき、{{mvar|f}} は {{mvar|g}} で'''割り切れる'''という。
より一般に、単位元をもつ可換環 {{mvar|R}} 上の多項式 {{mvar|f}}, {{mvar|g}} についても、{{mvar|g}} が[[モニック多項式]](最高次の項の係数が {{math|1}})ならば、同様にして {{mvar|f}} を {{mvar|g}} で割った商および余りを定めることができる。
多項式の除法は、より一般の、余りつきの除法の特別な場合とみなすことができる。[[除法の原理]]、[[ユークリッド環]]も参照せよ。
なお、多項式の除法に関する商のほかに、[[有理式]]としての商 {{math|''f''/''g''}} を考えることもできる。両者は異なるものである。
=== 微分・積分 ===
{{main|形式微分}}
1変数多項式 <math display="inline">f=\sum_{k=0}^ma_kx^k</math> に対して、その'''微分'''とは、
:<math>f'=\sum_{k=1}^m ka_kx^{k-1}</math>
で定められる多項式 {{math|''f''′}} をつくる演算である。{{math|''f''′}} のことを {{mvar|f}} の'''導多項式'''という。同様にして、多変数多項式についても、各々の不定元に関する微分を考えることができる。
実数または複素数を係数とする多項式 {{mvar|f}} については、それを多項式関数(後述)とみなして微分することもできるが、上述の多項式としての微分は、この関数としての微分(多変数多項式の場合には偏微分)と対応している。関数としての微分と区別するため、多項式としての微分を'''形式的微分'''とよぶことがある。形式的微分には、多項式の係数が実数や複素数でなくても問題なく定義できるという利点がある。
多項式 {{mvar|f}} に対して、導多項式が {{mvar|f}} に一致するような多項式 {{mvar|F}} を求める操作のことを(形式的)'''積分'''という。
== 代数方程式 ==
{{main|1=代数方程式|2=多項式の根}}
多項式の不定元を数に置き換えることを'''代入'''という。たとえば、多項式 {{math|''f''(''x'') {{=}} ''a''{{ind|''n''}}''x''{{exp|''n''}} + ''a''{{ind|''n'' − 1}}''x''{{exp|''n'' − 1}} + … + ''a''{{ind|1}}''x'' + ''a''{{ind|0}}}} の不定元 {{mvar|x}} に数 {{mvar|c}} を代入することで
:<math>f(c)=a_n c^n + a_{n-1}c^{n-1} + \dots + a_1 c + a_0</math>
という数が得られる{{efn|多項式 {{math|''f''(''x'')}} を総和記号を用いて <math display="inline">\sum_{k=0}^n a_k x^k</math> と表したとしても、これは {{math|''a''{{ind|''n''}}''x''{{exp|''n''}} + ''a''{{ind|''n'' − 1}}''x''{{exp|''n'' − 1}} + … + ''a''{{ind|1}}''x'' + ''a''{{ind|0}}}} の略記にすぎないことに注意して代入を行う必要がある。このことは {{math|''c'' {{=}} 0}} のときに問題になる。代入により <math display="inline">\sum_{k=0}^n a_k x^k</math> の0次の項から {{math|''a''{{ind|0}}0{{exp|0}}}} が現れるようにみえるが、そうではなく、0次の項はあくまでも {{math|''a''{{ind|0}}}} なので、代入後も {{math|''a''{{ind|0}}}} のままである。したがって {{math|0{{exp|0}}}} の定義について心配する必要はない([[0の0乗]]、[[空積]]も参照)。}}。
{{mvar|m}} 変数多項式 {{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''m''}})}} を用いて {{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''m''}}) {{=}} 0}} という形に表される方程式のことを'''[[代数方程式]]'''という。またその解、すなわち {{math|''f''(''c''{{ind|1}}, …, ''c''{{ind|''m''}}) {{=}} 0}} を満たす数の組 {{math|(''c''{{ind|1}}, …, ''c''{{ind|''m''}})}} のことを、多項式 {{math|''f''(''x''{{ind|1}}, …, ''x''{{ind|''m''}})}} の'''[[零点]]'''という。
1変数多項式 {{math|''f''(''x'')}} の零点のことを {{math|''f''(''x'')}} の'''[[多項式の根|根]]'''ともいう。数 {{mvar|c}} が {{math|''f''(''x'')}} の根であることは、{{math|''f''(''x'')}} が1次式 {{math|''x'' − ''c''}} で割り切れるための必要十分条件である('''[[因数定理]]''')。{{math|''f''(''x'')}} が {{math|(''x'' − ''c''){{exp|''k''}}}} で割り切れ、かつ {{math|(''x'' − ''c''){{exp|''k'' + 1}}}} では割り切れないとき、{{mvar|c}} は {{math|''f''(''x'')}} の'''[[重複度]]''' {{mvar|k}} の根であるという。2以上の重複度をもつ根は'''[[重根 (多項式)|重根]]'''とよばれる。
体 {{mvar|K}} 上の1変数多項式 {{mvar|f}} が {{mvar|K}} の[[代数閉包]]において重根をもつことは、{{mvar|f}} と導多項式 {{math|''f''′}} が定数でない共通因子をもつことと同値である(関連して、[[判別式]]を参照せよ)。{{mvar|f}} が {{mvar|K}} の代数閉包において重根をもたないとき、{{mvar|f}} は[[分離多項式]]であるという。
== 因数分解 ==
{{main|1=多項式の因数分解|2=因数分解#多項式の因数分解}}
与えられた多項式 {{mvar|f}} をいくつかの多項式の積として表すことを、多項式 {{mvar|f}} の'''因数分解'''という。
因数分解を行うためのもっとも単純な方法は、因数分解の結果として現れる多項式の係数を未知数とみなし、それらに関する方程式を立てて解を探すことである。たとえば、2次式 {{math|''Ax''{{exp|2}} + ''Bx'' + ''C''}} を1次式の積に因数分解するには、{{math|(''ax'' + ''b'')(''cx'' + ''d'') {{=}} ''acx''{{exp|2}} + (''ad'' + ''bc'')''x'' + ''bd''}} だから、{{math|''A'' {{=}} ''ac''}}, {{math|''B'' {{=}} ''ad'' + ''bc''}}, {{math|''C'' {{=}} ''bd''}} が満たされるような数 {{mvar|a}}, {{mvar|b}}, {{mvar|c}}, {{mvar|d}} を探せばよい。また、特に1変数の多項式を因数分解する場合には、[[因数定理]]も重要な道具となる。
因数分解に関連して、1変数の場合における'''[[既約多項式]]'''の概念がある。ここでは説明を簡単にするため係数の集合は体 {{mvar|K}} であるとする。1次以上の多項式 {{math|''f'' ∈ ''K''[''x'']}} が、同じく {{mvar|K}} に係数をもつ二つの1次以上の多項式の積として表されないとき、{{mvar|f}} は {{mvar|K}} 上で既約であるという。既約でない多項式は'''可約'''であるといわれる。多項式の因数分解は、通常、与えられた多項式を既約多項式の積として表すことが目標となる。
多項式の既約性は、係数体 {{mvar|K}} の選び方に依存する。たとえば、{{math|''x''{{exp|2}} − 2}} は有理数体 <math display="inline">\mathbb{Q}</math> 上で既約だが、実数体 <math display="inline">\mathbb{R}</math> 上では可約である。{{math|''x''{{exp|2}} + 1}} は <math display="inline">\mathbb{R}</math> 上で既約だが、複素数体 <math display="inline">\mathbb{C}</math> 上で可約である。
== 多項式関数 ==
{{main|多項式函数}}
1変数多項式 {{math|''f''(''x'')}} が与えられたとき、数 {{mvar|c}} に対し、不定元 {{mvar|x}} に {{mvar|c}} を代入して得られる数 {{math|''f''(''c'')}} を対応させることにより[[関数 (数学)|関数]]が得られる。これを多項式 {{math|''f''(''x'')}} が定める'''多項式関数'''とよぶ。多変数多項式についても同様にして(多変数の)多項式関数が得られる。{{mvar|n}} 次多項式の定める多項式関数は {{mvar|n}} 次関数とよばれる。
多項式 {{mvar|f}} の定める多項式関数は、同じ文字 {{mvar|f}} で表されることが多い。多項式関数の変数を表す文字にも、しばしば、もとの多項式の不定元を表す文字が流用される。
しかしながら、多項式と多項式関数は異なる概念である。{{mvar|f}}, {{mvar|g}} が「多項式として一致する」というのは対応する係数がすべて一致するという意味だが、{{mvar|f}}, {{mvar|g}} の定める多項式関数が一致するにもかかわらず、両者が多項式として一致しない場合もある。たとえば、有限体 <math display="inline">\mathbb{F}_2</math> 上の多項式 {{math|''f''(''x'') {{=}} ''x''{{exp|2}} + ''x''}} は多項式として {{math|0}} とは異なるが、{{math|''f''(''x'')}} の定める多項式関数は[[零函数|零関数]] {{math|0}} である。係数の集合が実数体 <math display="inline">\mathbb{R}</math> や複素数体 <math display="inline">\mathbb{C}</math> などの無限体であれば、このような現象は起きず、異なる多項式は異なる関数を定めることが知られている。
実数を係数とする {{mvar|m}} 変数多項式関数は、<math display="inline">\mathbb{R}^m</math> 全体で[[微分可能関数|連続微分可能]]である。複素数係数の {{mvar|m}} 変数多項式関数は <math display="inline">\mathbb{C}^m</math> 全体で[[正則関数|正則]]である。
== 一般化 ==
=== 行列変数多項式 ===
{{main|l1=行列変数多項式|行列多項式}}
[[行列多項式]]は[[行列 (数学)|行列]]変数の多項式である{{sfn|Gohberg|2009}}。通常はスカラー値の多項式 {{math|1=''P''(''x'') = {{sum|b=''i''=0|p=''n''}} ''a{{ind|i}}x{{exp|i}}'' = ''a''{{ind|0}} + ''a''{{ind|1}}''x'' + ''a''{{ind|2}}''x''{{exp|2}} + ⋯ + ''a{{ind|n}}x{{exp|n}}''}} が与えられたとき、これを行列 {{mvar|A}} で評価した値というものを
: <math>P(A) = \sum_{i=0}^n a_i A^i =a_0 I + a_1 A + a_2 A^2 + \cdots + a_n A^n</math>
のこととして定義する。ここで、定数項は[[単位行列]] {{mvar|I}} のスカラー倍に置き換わることに注意{{sfn|Horn|1990|p=36}}。
{{seealso|汎函数計算}}
'''行列多項式方程式'''は行列多項式の間の等式であって、考えている範囲の行列のうち特定のもののみがそれを満足するものを言う。同様に、考えている[[行列環]] {{math|''M''{{msub|''n''}}(''R'')}} に属する任意の行列について成り立つ行列多項式の間の等式は'''行列多項式恒等式'''と呼ぶ。
=== 冪級数 ===
{{main|形式冪級数環}}
[[形式冪級数]] {{math|{{sum|b=''n''=0|p=∞}} ''a{{ind|n}}x{{exp|n}}''}} は多項式とよく似ているが、非零項が(可算)無限個あってもよい(つまり有限次とは限らない)点が異なる。ゆえに多項式と違って、一般には全ての項を陽に書き下すことは([[無理数]]の小数表示が全て書ききれないことと同様の意味で)できない。しかし、各項に対する扱いや演算における項の操作ルールは多項式に対するものとまったく同じくすることができる。形式冪級数ではなく収束冪級数を考えることでも多項式を一般化することができるが、積は必ずしも収束するとは限らないので、環構造の埋め込みにはならないことに注意。形式冪級数は一般に次数に関して最大の非零項を持つとは限らないが、必ず最小の非零項を持つから、多項式の次数に対応する概念として形式冪級数の位数 (order) は最小の非零項の次数として定まる。
=== ローラン多項式 ===
{{main|ローラン級数|[[ローラン多項式]]}}
冪級数に対して、さらに有限個の負冪の項も許した一般化として形式[[ローラン級数]]が定義される。形式ローラン級数もまた最大の非零項を持つとは限らないが、必ず最小の非零項を持つ(が、略式的には両側無限和として {{math|{{sum|b=''n''=−∞|p=+∞}} ''a{{ind|n}}x{{exp|n}}''}} のようにも書く)。
形式冪級数の特別の場合が多項式であったことの(形式)ローラン級数において対応する概念として、(形式)ローラン多項式は不定元の負冪の項を有限個含む多項式の類似物である。すなわち、ローラン多項式は正負の次数の項を含む有限和 <math display="inline">\sum_{i=-N}^M a_i x^i\quad (N,M\in\mathbb{N})</math> であり、最小の非零項および最大の非零項を持つ。
=== 非可換多項式 ===
{{main|[[自由多元環]]}}
[[ファイル:TensorAlgebra-01.png|thumb|right|テンソル代数の普遍性]]
通常の多変数多項式環は、変数と係数および変数同士の可換性が仮定されている。この変数の間の可換性を仮定からはずすことで、'''非可換多項式環'''が定義される。可換性をはずしたために、非可換多項式を一般に書き表すのは困難であるが、非可換多項式環は[[テンソル代数]]として記述することができる。{{math|1='''X''' = {''x''{{ind|1}}, ''x''{{ind|2}}, ..., ''x''{{ind|''n''}}} }}を基底とする有限次元 {{mvar|K}} ベクトル空間あるいは可換環 {{mvar|K}} 上の[[階数]]有限な[[自由加群]] {{math|''V''}} 上のテンソル代数 {{math|''T''(''V'')}} を
:<math>T(V) =: K\langle x_1, x_2, \ldots, x_n \rangle = K\langle\mathbf{X}\rangle</math>
などと記して{{mvar|K}} 上の'''非可換多項式環'''と呼ぶ。ここで術語「[[自由対象|自由]]」{{lang|en|(free)}} は、この環が必ずしも乗法が可換でないような多元環としての[[普遍性]]を持つということを意味している。{{mvar|K}} 上で有限生成な(非可換)環 {{math|''A''}}
:<math>
A = K\langle \alpha_1, \alpha_2, \ldots, \alpha_n\rangle := \left\{
\sum_l c_l \alpha_{i_1}^{(l)}\alpha_{i_2}^{(l)}\cdots\alpha_{i_{k_l}}^{(l)}
\mid c_l \in K, \alpha_{i_j}^{(l)} \in \{\alpha_1,\ldots,\alpha_n\}
\right\}
</math>
は {{math|''K''⟨'''X'''⟩}} の代入による[[準同型]][[像 (数学)|像]]として得られる。つまり、適当な {{mvar|K}} 多元環の全射準同型で
:<math>K\langle \mathbf{X} \rangle \to A;\
f(x_1,x_2,\ldots,x_n) \mapsto f(\alpha_1,\alpha_2,\ldots,\alpha_n)
</math>
なるものが必ず取れ、またしたがって {{math|''A''}} は {{math|''K''⟨'''X'''⟩}} のある[[商環|商多元環]]に同型である。この準同型の {{math|''V''}} への制限は {{math|''V''}} から {{math|''A''}} への [[線型写像|{{mvar|K}} 線型写像]]であるが、逆に {{math|''V''}} から {{math|''A''}} への任意の {{mvar|K}} 線型写像はかならずこのような形の多元環の準同型に延長可能である。これは'''テンソル代数の[[普遍性]]'''と呼ばれる性質の一部である。
また、非可換多項式環 {{math|''K''⟨''x''{{ind|1}}, ''x''{{ind|2}}, …, ''x''{{ind|''n''}}⟩}} をテンソル代数とみるとき、対応する[[対称代数]] {{math|''S''(''V'')}} ({{math|''xy'' − ''yx''}} の形の元全体で生成される両側イデアルで割った代数) は多項式環 {{math|''K''[''x''{{ind|1}}, ''x''{{ind|2}}, …, ''x''{{ind|''n''}}]}} であり、多項式環が有限生成可換多元環に対する普遍性を持っていることに対応している。
=== 有理函数 ===
{{main|有理函数}}
[[有理式]]は、二つの多項式 {{mvar|P, Q}} の[[分数|商]]({{仮リンク|代数的分数式|en|algebraic fraction}}){{math|{{sfrac|''P''(''x'')|''Q''(''x'')}}}} のことを言い、有理式として書き直すことのできる任意の{{仮リンク|代数式|en|algebraic expression}}の定める函数を[[有理函数]]と呼ぶ。
多項式函数は変数に対する任意の代入に対して値が定義されるが、有理函数は分母が零にならないような変数の値に対してしか定義されない。
有理函数はローラン多項式を分母が不定元の冪であるような特別の場合として含む。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{cite book | 和書 | editor=上野健爾他編 | title=岩波数学入門辞典 | publisher=岩波書店 | year=2005 | isbn=9784000802093 | ref=harv}}
* {{cite book | 和書 | editor=日本数学会編 | title=岩波数学辞典 | edition=第4版 | publisher=岩波書店 | year=2007 | isbn=9784000803090 | ref=harv}}
* {{citation | 和書 | author=文部科学省 | title=中学校学習指導要領 | year=2008<!--2008年3月、2010年11月一部改正--> | ref=harv}}
* {{citation | 和書 | author=文部科学省 | title=高等学校学習指導要領 | year=2009<!--2009年3月--> | ref=harv}}
* {{citation | first1= Roger A. | last1= Horn | first2= Charles R. | last2= Johnson | title= Matrix Analysis | year=1990 | publisher= Cambridge University Press | isbn= 978-0521386326 | ref=harv}}
* {{cite book |title=Matrix Polynomials |volume=58 |series=Classics in Applied Mathematics |first1=Israel |last1=Gohberg |first2=Peter |last2=Lancaster |first3=Leiba |last3=Rodman |publisher=[[Society for Industrial and Applied Mathematics]] |location=Lancaster, PA |year=2009 |origyear=1982 |isbn=0-89871-681-0 |zbl=1170.15300 | ref=harv}}
* {{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/多項式|title=多項式|publisher=[[コトバンク]]|author=デジタル大辞泉|accessdate=2018年12月2日|ref=harv}}
{{Refend}}
=== 関連文献 ===
<!-- *{{cite book |title= |publisher= |year= |isbn= |url=}} -->
{{Refbegin}}
*{{cite book |last=Barbeau |first=E.J. |title=Polynomials |publisher=Springer |year=2003 |isbn=978-0-387-40627-5 |url=https://books.google.com/?id=CynRMm5qTmQC&printsec=frontcover}}
*{{cite book |editor-last=Bronstein |editor-first=Manuel |title=Solving Polynomial Equations: Foundations, Algorithms, and Applications |publisher=Springer |year=2006 |isbn=978-3-540-27357-8 |url=https://books.google.com/?id=aIlSmBV3yf8C&printsec=frontcover|display-editors=etal}}
*{{cite book |last1=Cahen |first1=Paul-Jean |last2=Chabert |first2=Jean-Luc |title=Integer-Valued Polynomials |publisher=American Mathematical Society |year=1997 |isbn=978-0-8218-0388-2 |url=https://books.google.com/?id=AlAluH5is6AC&printsec=frontcover}}
*{{Lang Algebra}}. This classical book covers most of the content of this article.
*{{cite book |last=Leung |first=Kam-tim |title=Polynomials and Equations |publisher=Hong Kong University Press |year=1992 |isbn=9789622092716 |url=https://books.google.com/?id=v5uXkwIUbC8C&printsec=frontcover|display-authors=etal}}
*Mayr, K. Über die Auflösung algebraischer Gleichungssysteme durch hypergeometrische Funktionen. ''Monatshefte für Mathematik und Physik'' vol. 45, (1937) pp. 280–313.
*{{cite book |last=Prasolov |first=Victor V. |title=Polynomials |publisher=Springer |year=2005 |isbn=978-3-642-04012-2 |url=https://books.google.com/?id=qIJPxdwSqlcC&printsec=frontcover}}
*{{cite book |last=Sethuraman |first=B.A. |chapter=Polynomials |title=Rings, Fields, and Vector Spaces: An Introduction to Abstract Algebra Via Geometric Constructibility |publisher=Springer |year=1997 |isbn=978-0-387-94848-5 |url=https://books.google.com/?id=yWnTIqmUOFgC&pg=PA119}}
*Umemura, H. Solution of algebraic equations in terms of theta constants. In D. Mumford, ''Tata Lectures on Theta II'', Progress in Mathematics 43, Birkhäuser, Boston, 1984.
*von Lindemann, F. [http://gdz.sub.uni-goettingen.de/index.php?id=11&PID=GDZPPN00252161X&L=1 Über die Auflösung der algebraischen Gleichungen durch transcendente Functionen]. Nachrichten von der Königl. Gesellschaft der Wissenschaften, vol. 7, 1884. Polynomial solutions in terms of theta functions.
*von Lindemann, F. [http://gdz.sub.uni-goettingen.de/index.php?id=11&PID=GDZPPN002526069&L=1 Über die Auflösung der algebraischen Gleichungen durch transcendente Functionen II]. Nachrichten von der Königl. Gesellschaft der Wissenschaften und der Georg-Augusts-Universität zu Göttingen, 1892 edition.
{{Refend}}
== 関連項目 ==
{{Commons category|Polynomials}}
{{Wiktionary|polynomial}}
* [[多項式補間]]
* [[多項式列]]
* [[三角多項式]]
* {{仮リンク|多項式に関する主題一覧|en|List of polynomial topics}}
* {{仮リンク|多項式函数環|en|Polynomials on vector spaces}}: ベクトル空間上で定義される(座標を用いない仕方での)多項式函数からなる函数環
* {{仮リンク|多項式変換 (方程式論)|en|Polynomial transformations}}: 多項式の求根において、もとの多項式の根が計算できるより容易に根の求まる函数や多項式へ変換すること。{{仮リンク|チルンハウス変換|en|Tschirnhaus transformation}}や{{仮リンク|分解方程式|en|Resolvent (Galois theory)}}など。
* [[整式]]
== 外部リンク ==
*{{SpringerEOM|title=Polynomial|urlname=Polynomial}}
*{{citation |url=http://mathdl.maa.org/mathDL/46/?pa=content&sa=viewDocument&nodeId=640&pf=1 |title=Euler's Investigations on the Roots of Equations |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110522161001/http://mathdl.maa.org/mathDL/46/?pa=content&sa=viewDocument&nodeId=640&pf=1 |archivedate=2011年5月22日 |deadurl=yes |deadlinkdate=2017年9月 }}
*{{MathWorld |title=Polynomial|id=Polynomial}}
* {{PlanetMath|title=Polynomial|urlname=Polynomial}}
{{Polynomials}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:たこうしき}}
[[Category:多項式|*]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:数学に関する記事]]
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11,741 |
ワープロソフト
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ワープロソフトとは、コンピュータ上で動作するワードプロセッサの機能を実現したアプリケーションソフトウェア(プログラム)である。
世界的には「ワープロ専用機」も「ワープロソフト」も、タイプライターとの対比として、「ワードプロセッサ」(Word processor)と呼ばれる事が多い。しかし日本ではワープロ専用機と区別して「ワープロソフト」と呼ばれる場合が多い。
ワープロソフトや表計算ソフトなどは「オフィスソフト」とも呼ばれる。また、これらをセットにした商品パッケージはオフィススイートと呼ばれる。
なお、文章の装飾機能を持たないテキスト編集機能中心のソフトウェアはテキストエディタと呼ぶ。
Xerox PARCにて、1974年〜1976年に、WYSIWYGを初めて実現したBravo, Gypsyといったドキュメント作成システムが開発された。後に、Bravoの開発者チャールズ・シモニーはマイクロソフトへ転職しMicrosoft Wordを、Gypsyの開発者Tom Malloy, ラリー・テスラーはAppleへ転職しLisaWrtite(後のMacWriteの元となる)を開発した。
英文ワープロソフトでは、1976年にMichael ShrayerによるElectric PencilのMITS Altair版が家庭用コンピュータで動く最初のワープロソフトとして発売され、1978年にはCP/M上で動くWordStar、1986年にはMS-DOS上で動くWordPerfectが登場し、それぞれベストセラーとなった。
日本では1979年に、Apple IIに九十九電機が独自のカナROMを搭載させたローマ字カナ変換ソフト(カセットテープ媒体)付きのモデルが発売された(なお、ソフトとROMの単独販売もApple IIユーザー向けに、この時行われている)。
1983年にはPC-9801用の松や、一太郎の前身であるPC-100用のJS-WORDが登場した。松と一太郎はそれぞれベストセラーとなった。
1990年代にはMicrosoft Windowsが普及し、ワープロソフトもWindows版が主力となった。海外ではWordPerfect(Windows版)、Lotus WordPro、Microsoft Wordが、それぞれ単体およびオフィススイートの形で、激しく競争した。
日本でも1995年よりWindows 95が普及すると、専用ワープロやMS-DOS版から、Windows版の日本語ワープロソフトが主力となり、一太郎(Windows版)、Microsoft Word、WordPro、OASYS(Windows版)などが競った。Microsoft Officeに対抗すべく「一太郎 + Lotus 1-2-3」など、メーカー間で提携したパッケージも販売されたが、1990年代後半から2000年代前半にかけてMicrosoft Wordがほぼ事実上の標準となった。
Microsoft Wordが高額かつ寡占状態であることから、2000年代後半以降、無料のOpen Office Writerやその派生のLibreOffice Writerを導入する動きも出た。2010年代にはクラウドサービス等の発達により、インターネット上で無料で動くGoogle社のGoogle ドキュメントが登場し、シェアを拡大した。
ワープロソフトは、手書きやタイプライタと異なり、文書をコンピュータ上で作成してデータの形で保存するため、後からの修正や再利用、電子メールなどでの添付、文書内の文字検索などが容易であり、印刷せずに画面で表示すればペーパーレス化も可能である。また、文字の装飾や文字間隔の調整、図表の挿入などの編集機能を備えている。主流といわれるワープロソフトには、DTPで使用できるほどの高度な編集機能や、グループで使う事を考慮した世代管理機能や校正機能を持つものもある。
日本語ワープロソフトの場合は、専用の日本語入力システム(漢字変換ソフト、FEP、IMEとも呼ばれるもの)を含むものもあり、この性能(操作性、変換効率など)も差別化要因となる。松に含まれる松茸、一太郎に含まれるATOK、OASYSに含まれるOAK(オアシスかな漢字変換)などがあり、単体販売されるものもある。
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ワープロソフトとは、コンピュータ上で動作するワードプロセッサの機能を実現したアプリケーションソフトウェア(プログラム)である。
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[[ファイル:LibreOffice 7.1.4 Writer Japanese.png|thumb|[[LibreOffice]] Writer (バージョン7.1.4)]]
'''ワープロソフト'''とは、[[コンピュータ]]上で動作する[[ワードプロセッサ]]の機能を実現した[[アプリケーションソフトウェア]]([[プログラム (コンピュータ)|プログラム]])である。
== 名称 ==
世界的には「ワープロ専用機」も「ワープロソフト」も、[[タイプライター]]との対比として、「ワードプロセッサ」([[:en:Word processor|Word processor]])と呼ばれる事が多い。しかし日本では[[ワードプロセッサ|ワープロ専用機]]と区別して「ワープロ'''ソフト'''」と呼ばれる場合が多い。
ワープロソフトや[[表計算ソフト]]などは「オフィスソフト」とも呼ばれる。また、これらをセットにした商品パッケージは[[オフィススイート]]と呼ばれる。
なお、文章の装飾機能を持たない[[テキスト]]編集機能中心のソフトウェアは[[テキストエディタ]]と呼ぶ。
== 歴史 ==
[[パロアルト研究所|Xerox PARC]]にて、1974年〜1976年に、[[WYSIWYG]]を初めて実現したBravo, [[Gypsy (ソフトウェア)|Gypsy]]といったドキュメント作成システムが開発された。後に、Bravoの開発者[[チャールズ・シモニー]]は[[マイクロソフト]]へ転職し[[Microsoft Word]]を、Gypsyの開発者Tom Malloy, [[ラリー・テスラー]]はAppleへ転職し[[Lisa (コンピュータ)|LisaWrtite]](後の[[MacWrite]]の元となる)を開発した<ref>{{Cite web|url=https://archive.computerhistory.org/resources/access/text/2014/08/102746675-05-01-acc.pdf|title=Oral History of Lawrence G. “Larry” Tesler|accessdate=2021/07/04|page=28}}</ref>。
[[英文]]ワープロソフトでは、[[1976年]]にMichael Shrayerによる[[Electric Pencil]]のMITS Altair版が家庭用コンピュータで動く最初のワープロソフトとして発売され、[[1978年]]には[[CP/M]]上で動く[[WordStar]]、[[1986年]]には[[MS-DOS]]上で動く[[WordPerfect]]が登場し、それぞれベストセラーとなった。
日本では[[1979年]]に、Apple IIに[[九十九電機]]が独自のカナROMを搭載させたローマ字カナ変換ソフト(カセットテープ媒体)付きのモデルが発売された(なお、ソフトとROMの単独販売もApple IIユーザー向けに、この時行われている)。
[[1983年]]には[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]用の[[松 (ワープロ)|松]]や、[[一太郎]]の前身である[[PC-100]]用のJS-WORDが登場した。松と一太郎はそれぞれベストセラーとなった。
[[1990年代]]には[[Microsoft Windows]]が普及し、ワープロソフトもWindows版が主力となった。海外ではWordPerfect(Windows版)、[[ロータス・スーパーオフィス|Lotus WordPro]]、Microsoft Wordが、それぞれ単体および[[オフィススイート]]の形で、激しく競争した。
日本でも[[1995年]]より[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]が普及すると、専用ワープロやMS-DOS版から、Windows版の日本語ワープロソフトが主力となり、一太郎(Windows版)、Microsoft Word、WordPro、OASYS(Windows版)などが競った。Microsoft Officeに対抗すべく「一太郎 + [[Lotus 1-2-3]]」など、メーカー間で提携したパッケージも販売されたが、1990年代後半から2000年代前半にかけてMicrosoft Wordがほぼ[[事実上の標準]]となった。
Microsoft Wordが高額かつ寡占状態であることから、2000年代後半以降、無料の[[Open Office]] Writerやその派生の[[LibreOffice]] Writerを導入する動きも出た。2010年代にはクラウドサービス等の発達により、インターネット上で無料で動くGoogle社の[[Google ドキュメント]]が登場し、シェアを拡大した。
== 機能 ==
ワープロソフトは、手書きやタイプライタと異なり、[[文書]]をコンピュータ上で作成して[[データ]]の形で保存するため、後からの修正や[[再利用]]、電子メールなどでの添付、文書内の文字検索などが容易であり、印刷せずに画面で表示すれば[[ペーパーレス]]化も可能である。また、文字の装飾や文字間隔の調整、図表の挿入などの編集機能を備えている。主流といわれるワープロソフトには、[[DTP]]で使用できるほどの高度な編集機能や、グループで使う事を考慮した世代管理機能や校正機能を持つものもある。
日本語ワープロソフトの場合は、専用の[[日本語入力システム]](漢字変換ソフト、[[FEP]]、[[IME]]とも呼ばれるもの)を含むものもあり、この性能(操作性、変換効率など)も[[差別化]]要因となる。松に含まれる松茸、[[一太郎]]に含まれる[[ATOK]]、[[OASYS]]に含まれる[[Japanist|OAK(オアシスかな漢字変換)]]などがあり、単体販売されるものもある。
== 主なワープロソフト ==
=== 現在利用できる主なワープロソフト ===
*[[一太郎]]([[ジャストシステム]])
*:純国産ソフト。当時の[[ワードプロセッサ|日本語ワープロ専用機]]の操作性がベースになっている。日本ではかつてはワープロソフトの定番であった。
*[[ワードパッド]]([[マイクロソフト]])
*:[[Microsoft Windows|Windows]]に標準で搭載されているワープロソフト。
*[[Microsoft Word]]([[マイクロソフト]])
*:英文ワープロソフトをベースに、日本語対応もされた。[[Microsoft Office]]にも含まれている。現在のワープロソフトの事実上の標準となっている。
*[[テキストエディット]]([[Apple]])
*:[[macOS]]に標準で搭載されているワープロソフト。
*[[Pages]]([[Apple]])
*:[[Macintosh|Mac]]や[[iPhone]], [[iPad]]などApple製品に無料でバンドルされている、[[DTP|ページレイアウト]]機能を統合したワープロソフト。[[iCloud]]版はWebブラウザでも利用出来る。ワープロと[[グラフィックソフトウェア#ドローソフト|ドローソフト]]の機能を兼ね備えたような操作感覚が特徴。インターネットでの共同制作機能がある。
*[[EGWORD|egword Universal 2]]([[物書堂]])
*:macOS専用ソフトとして、ルビや禁則処理、原稿用紙対応など日本語編集に最適化され、高速かつ縦書き対応の強力な[[DTP|ページレイアウト]]機能を備えている。
*[[Nisus Writer]](マーキュリー・ソフトウェア・ジャパン)
*:[[macOS]]用ワープロソフト<ref>{{Cite web |title=Nisus Writer Pro 3 |url=https://www.mercury-soft.com/nisus.html |website=www.mercury-soft.com |access-date=2022-11-09}}</ref>。[[Classic Mac OS|旧Mac OS]]版の発売当時は多機能ワープロとして有名だったが、近年ではむしろ軽快さを売りにしている。多段階アンドゥやオートセーブを初めて搭載したソフトウェアである。
*[[KWord]]([[KDE]])
*:[[KOffice]]のワープロソフト。[[Linux]]ではKDE採用のディストリビューションに標準採用されていることが多い。
*[[Apache OpenOffice|OpenOffice Writer]](Apache OpenOffice)
*:[[オープンソース]]のワープロソフト。Microsoft Wordと制約はあるが互換性があり、無料で使用できる。
*[[LibreOffice|LibreOffice Writer]](The Document Foundation)
*:OpenOffice.orgから派生した[[オープンソース]]のワープロソフト。Microsoft Wordのファイルと制約つきではあるが互換性があり、無料で使用できる。
*[[WordPerfect]]([[Corel]])
*:米国でのかつてのベストセラー・ワープロソフト。WordPerfect社、Novell社を経て、現在はCorel社が販売している。決まった形式に即して文書を作成することが可能なことから、法律家などに愛用されている。
*[[WPS Writer]]([[キングソフト]])
*:Microsoft Wordのフォーマットに酷似したワープロソフトで、[[WPS Office]]にも含まれている。単純な本家Microsoft Wordのクローン商品ではなく、相互互換されている。
*[[Google ドキュメント]]([[Google]])
*:Googleが作った非常にシンプルでながら必要な機能が揃ったOSを問わないWebブラウザ上で動くワープロソフト。PC版の装飾の面ではWordにやや劣るが手軽に使える等の魅力がある。
=== 過去に販売されていたワープロソフト ===
*[[OASYS]]([[富士通]])
*:純国産ソフト。独自の操作性が特徴だった同名の日本語ワープロ専用機の機能がベースになっている。個人向けが2020年、法人向けが2021年に販売終了。
*[[StarSuite|StarSuite Writer]]([[サン・マイクロシステムズ]])
*:OpenOffice.orgをベースとしたワープロソフト。2011年に販売終了している。
*[[ロータス・スーパーオフィス|WordPro]]([[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]])
*:[[Lotus SuperOffice]]にも含まれている。ロータス、[[IBM]]を経て、日本では[[ソースネクスト]]社が販売していた。サポート終了。
*[[EGWORD]](エルゴソフト)
*MacWord(ダイナウェア)
*[[ORGAI]](誠和システムズ、システムソフト)<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970325/orgai.htm|title=システムソフト、元誠和システムズ販売のワープロ「ORGAI」を発売|website=PC Watch|publisher=インプレス|date=1997-04-01|accessdate=2022-08-02}}</ref>
*[[松 (ワープロ)|松]]([[管理工学研究所]])
*[[アシスト (ソフトウェア会社)#沿革|アシストワード]]([[アシスト (ソフトウェア会社)|アシスト]])
*[[ロータス・アミプロ|AmiPro]]([[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]])
*[[P1]]{{要曖昧さ回避|date=2021年3月}}(8ビット機向け)、[[P1.EXE]](または ARUGA P1.EXE、[[デービーソフト]])
*WX-Word for Windows([[エー・アイ・ソフト]])
*[[MacWrite|マックライトII]]([[クラリス]])
*[[文書プログラム]]([[日本IBM]])
*[[文書プログラム|DOS文書プログラム]]([[日本IBM]])
*[[織姫Lite]]([[日本IBM]])
*[[オーロラエース]]([[大塚商会]])
*[[WordStar]](MicroPro International)
*:1980年代のアメリカの代表的なワープロソフトの1つ。
*[[スーパー春望]]([[デービーソフト]])
*[[VJE-Pen]] (VACS)
*:比較的軽量・軽快なワープロソフト。PC-9801版とDOS/V版があり。価格は35000円<ref>『徹底評価』p.50</ref>。
*:* VJE-Pen Super - NEXTSTEP版<ref>{{Cite web |url=http://www.nextcomputers.org/NeXTfiles/Articles/NeXTWORLD/NeXTWorld2021/NeXTWORLD-v4n4-Apr-1994.pdf |title=NeXTWORLD 1994 APRIL |access-date=2022-11-09}}</ref>
*[[Akane for Windows]] (Xerox)
*Power書院([[シャープ]])
*:ワープロ専用機 [[書院 (ワープロ)|書院]]シリーズがベース<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.sharp/products/ces50sy/|title=日本語ワープロソフト CE-S50SY|website=SHARP|accessdate=2022-08-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20011113/sharp.htm|title=シャープ、年賀状ソフトが付属した「Power書院 プラチナパック」|website=PC Watch|publisher=インプレス|date=2001-11-13|accessdate=2022-08-02}}</ref>。
*[[Rupo#Rupo Writer|Rupo Writer]]([[東芝]])
*:ワープロ専用機 [[Rupo]]シリーズがベース<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.global.toshiba/jp/news/corporate/1996/09/pr2501.html|title=パーソナルワープロ「Rupo」の機能をWindows(R)95上で実現したワープロソフト「Rupo Writer Ver.2.0(For Windows(R)95)」の発売について|website=東芝|date=1996-09-25|accessdate=2022-08-02}}</ref>。
*キヤノワードJ for Windows([[キヤノン]])
*:ワープロ専用機 キヤノワードJシリーズがベース<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961216/canon.htm|title=キヤノン、ワープロ専用機と互換性をもつWindows 95用のワープロソフトを発売|website=PC Watch|publisher=インプレス|date=1996-12-16|accessdate=2022-08-02}}</ref>。
*ユーカラシリーズ([[クレオ (ソフトウェア)|東海クリエイト]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book ja-jp | author = 東京電脳倶楽部 | year = 1994 | title = パソコンソフト徹底評価 | isbn = 4-534-02244-1}}
== 関連項目 ==
*[[エディタ]]
*[[オフィススイート]]
*[[オフィススイートの比較]]
*[[DTP]]
*[[Rich Text Format]] - 簡易的なワープロ用データフォーマット
*[[OpenDocument]]
{{ワープロソフト}}
{{DEFAULTSORT:わあふろそふと}}
[[Category:アプリケーションソフト]]
[[Category:文書作成ソフト|*わあふろそふと]]
[[Category:ワードプロセッサ|**わあふろそふと]]
[[en:Word processor]]
|
2003-07-18T16:48:01Z
|
2023-11-25T15:16:48Z
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"Template:ワープロソフト",
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"Template:Cite web"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88
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指数関数時間
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指数関数時間(しすうかんすうじかん)あるいは指数時間(しすうじかん)とは、計算理論において指数関数を用いてあらわされる計算時間。計算複雑性理論では指数関数時間で解ける判定問題のクラスのことをクラス EXPTIME(あるいは EXP)という。
一般に指数関数時間やその以上のアルゴリズムは時間がかかりすぎるので実用には適さない。そのようなアルゴリズムは特殊な場合にしか使われない。
計算量の問題で指数関数時間のアルゴリズムという場合には、解くべき問題のサイズ n に対して処理時間が多項式時間では収まらず指数関数的に増加してしまう計算方法を指す。
ある問題について、その問題を解くためのあるアルゴリズムが計算を終えるまでの時間が、問題のサイズ n に対して m (n ) であったとしよう。
この2つが存在するとき、このアルゴリズムは指数関数時間のアルゴリズムであるという。
ただし、ΩやOはO記法である。
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"text": "ある問題について、その問題を解くためのあるアルゴリズムが計算を終えるまでの時間が、問題のサイズ n に対して m (n ) であったとしよう。",
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"text": "この2つが存在するとき、このアルゴリズムは指数関数時間のアルゴリズムであるという。",
"title": "定義"
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"text": "ただし、ΩやOはO記法である。",
"title": "定義"
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] |
指数関数時間(しすうかんすうじかん)あるいは指数時間(しすうじかん)とは、計算理論において指数関数を用いてあらわされる計算時間。計算複雑性理論では指数関数時間で解ける判定問題のクラスのことをクラス EXPTIMEという。 一般に指数関数時間やその以上のアルゴリズムは時間がかかりすぎるので実用には適さない。そのようなアルゴリズムは特殊な場合にしか使われない。
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{{出典の明記| date = 2022年5月}}
'''指数関数時間'''(しすうかんすうじかん)あるいは'''指数時間'''(しすうじかん)とは、[[計算理論]]において[[指数関数]]を用いてあらわされる計算時間。[[計算複雑性理論]]では指数関数時間で解ける判定問題のクラスのことをクラス '''[[EXPTIME]]'''(あるいは '''EXP''')という。
一般に指数関数時間やその以上のアルゴリズムは時間がかかりすぎるので実用には適さない。そのようなアルゴリズムは特殊な場合にしか使われない。
==定義==
計算量の問題で指数関数時間の[[アルゴリズム]]という場合には、解くべき問題のサイズ ''n'' に対して処理時間が[[多項式時間]]では収まらず[[指数関数的成長|指数関数的に増加]]してしまう計算方法を指す。
ある問題について、その問題を解くためのあるアルゴリズムが計算を終えるまでの時間が、問題のサイズ ''n'' に対して ''m'' (''n'' ) であったとしよう。
* ''m'' (''n'' ) = Ω(''c''<sup>''n''</sup>)を満たす''c'' > 1
* ''m'' (''n'' ) = O(''d''<sup>''n''</sup>)を満たす''d''
この2つが存在するとき、このアルゴリズムは'''指数関数時間'''のアルゴリズムであるという。
ただし、ΩやOは[[O記法]]である。
==例==
<!-- 分かりやすい問題を例示する。SATは問題自体が分かりづらいだろうか-->
{{節スタブ}}
==関連項目==
*[[多項式時間]]
*[[準指数関数時間]]
*[[EXPTIME]]
*[[定数時間]]
{{DEFAULTSORT:しすうかんすうしかん}}
[[Category:計算複雑性理論]]
[[Category:時間]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[en:Exponential time]]
[[he:סיבוכיות זמן#זמן ריצה מעריכי]]
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2022-05-12T19:29:48Z
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[
"Template:節スタブ",
"Template:出典の明記"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E6%95%B0%E9%96%A2%E6%95%B0%E6%99%82%E9%96%93
|
11,743 |
クイックソート
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クイックソート(英: quicksort)は、1960年にアントニー・ホーアが開発したソートのアルゴリズム。分割統治法の一種。
n {\displaystyle n} 個のデータをソートする際の最良計算量および平均計算量は O ( n log n ) {\displaystyle O(n\log n)} (ランダウの記号)である。他のソート法と比べて一般的に最も高速だと言われているが、対象のデータの並びやデータの数によっては必ずしも速いわけではなく、最悪の計算量は O ( n 2 ) {\displaystyle O(n^{2})} である。安定ソートではない。
クイックソートは以下の手順で行われる。
配列の分割方法の一例として、以下のようなものが考えられる:
分割後の要素数が一定の閾値を下回ったら挿入ソートのような「少数の要素に対してより効率的なソート」に切り替える、という手法がある。また、配列の分割方法自体にも様々な変種がある(同時に2つのピボットを選択して3分割する Dual-pivot Quicksort など)。
確定した部分は太文字で表す。ピボットには下線を引く。
初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1
クイックソートの効率は配列の分割の効率に左右される。再帰の各段階で常に均等に分割される場合が最良であり、時間計算量は O ( n log n ) {\displaystyle O(n\log n)} となる。一方で、常に「1要素と残り全部」のように偏って分割された場合が最悪のケースで、時間計算量が O ( n 2 ) {\displaystyle O(n^{2})} に悪化する。
最悪ケースを避けるにはピボットの選択に注意を払う必要がある。たとえば、既にソートされた配列に対して先頭や末尾の要素をピボットとすると最悪ケースとなる。なるべく配列の中央値をピボットとして選べるようにすれば、このようなケースを回避できる。
代表的なピボット選択の戦略として、以下のようなものが挙げられる:
また、ピボットを選ぶ前に配列をランダムに並べ替えるなどの手法によっても、ソートに最悪計算時間を要する可能性を抑えられる。
ただし、いずれの場合も最悪ケースの可能性を完全に排除できるものではない。これに対する根本的な改良として、一定の閾値よりも再帰が深くなったらヒープソートのような O ( n log n ) {\displaystyle O(n\log n)} 時間が保証されるアルゴリズムに切り替える方法がある(イントロソート)。
分割の操作自体は追加の領域を必要としないが、再帰によるコールスタックの消費が空間計算量となる。スタックの消費は平均的には O ( log n ) {\displaystyle O(\log n)} となるが、最悪ケースでは O ( n ) {\displaystyle O(n)} に増大するため、大きなサイズの配列の場合スタックオーバーフローを起こす危険性がある。
対策として、「分割された配列のうち、要素数が少ない方を常に先に処理する」ことで、空間計算量を最悪 O ( log n ) {\displaystyle O(\log n)} に抑えられる。このようにすると、常に均等に分割される(最良時間の)場合に log n {\displaystyle \log n} スタックとなる一方で、1要素ずつしか分割されない(最悪時間の)場合には定数スタックで済む。
これを実装するには、明示的なスタックを用いて非再帰(ループ)構造とするか、(末尾再帰の最適化機能があれば)要素数が多い方を末尾再帰で処理すればよい。
また、イントロソートによっても最悪 O ( log n ) {\displaystyle O(\log n)} 空間を保証できる(再帰深さの閾値が log n {\displaystyle \log n} となるように設定すればよい)。
C言語による実装例を以下に示す:
cmp(x, y) は x < y なら負、x = y ならゼロ、x > y なら正の整数を返す関数とする。
Schemeによるクイックソートの実装例を示す:
Pythonによるクイックソートの実装例を示す:
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"text": "分割後の要素数が一定の閾値を下回ったら挿入ソートのような「少数の要素に対してより効率的なソート」に切り替える、という手法がある。また、配列の分割方法自体にも様々な変種がある(同時に2つのピボットを選択して3分割する Dual-pivot Quicksort など)。",
"title": "アルゴリズム"
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"text": "確定した部分は太文字で表す。ピボットには下線を引く。",
"title": "アルゴリズム"
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"text": "初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1",
"title": "アルゴリズム"
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"text": "クイックソートの効率は配列の分割の効率に左右される。再帰の各段階で常に均等に分割される場合が最良であり、時間計算量は O ( n log n ) {\\displaystyle O(n\\log n)} となる。一方で、常に「1要素と残り全部」のように偏って分割された場合が最悪のケースで、時間計算量が O ( n 2 ) {\\displaystyle O(n^{2})} に悪化する。",
"title": "最悪計算量の回避"
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"text": "最悪ケースを避けるにはピボットの選択に注意を払う必要がある。たとえば、既にソートされた配列に対して先頭や末尾の要素をピボットとすると最悪ケースとなる。なるべく配列の中央値をピボットとして選べるようにすれば、このようなケースを回避できる。",
"title": "最悪計算量の回避"
},
{
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"text": "代表的なピボット選択の戦略として、以下のようなものが挙げられる:",
"title": "最悪計算量の回避"
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{
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"tag": "p",
"text": "また、ピボットを選ぶ前に配列をランダムに並べ替えるなどの手法によっても、ソートに最悪計算時間を要する可能性を抑えられる。",
"title": "最悪計算量の回避"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ただし、いずれの場合も最悪ケースの可能性を完全に排除できるものではない。これに対する根本的な改良として、一定の閾値よりも再帰が深くなったらヒープソートのような O ( n log n ) {\\displaystyle O(n\\log n)} 時間が保証されるアルゴリズムに切り替える方法がある(イントロソート)。",
"title": "最悪計算量の回避"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "分割の操作自体は追加の領域を必要としないが、再帰によるコールスタックの消費が空間計算量となる。スタックの消費は平均的には O ( log n ) {\\displaystyle O(\\log n)} となるが、最悪ケースでは O ( n ) {\\displaystyle O(n)} に増大するため、大きなサイズの配列の場合スタックオーバーフローを起こす危険性がある。",
"title": "最悪計算量の回避"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "対策として、「分割された配列のうち、要素数が少ない方を常に先に処理する」ことで、空間計算量を最悪 O ( log n ) {\\displaystyle O(\\log n)} に抑えられる。このようにすると、常に均等に分割される(最良時間の)場合に log n {\\displaystyle \\log n} スタックとなる一方で、1要素ずつしか分割されない(最悪時間の)場合には定数スタックで済む。",
"title": "最悪計算量の回避"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これを実装するには、明示的なスタックを用いて非再帰(ループ)構造とするか、(末尾再帰の最適化機能があれば)要素数が多い方を末尾再帰で処理すればよい。",
"title": "最悪計算量の回避"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "また、イントロソートによっても最悪 O ( log n ) {\\displaystyle O(\\log n)} 空間を保証できる(再帰深さの閾値が log n {\\displaystyle \\log n} となるように設定すればよい)。",
"title": "最悪計算量の回避"
},
{
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"text": "C言語による実装例を以下に示す:",
"title": "実装例"
},
{
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"tag": "p",
"text": "cmp(x, y) は x < y なら負、x = y ならゼロ、x > y なら正の整数を返す関数とする。",
"title": "実装例"
},
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"tag": "p",
"text": "Schemeによるクイックソートの実装例を示す:",
"title": "実装例"
},
{
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"tag": "p",
"text": "Pythonによるクイックソートの実装例を示す:",
"title": "実装例"
}
] |
クイックソートは、1960年にアントニー・ホーアが開発したソートのアルゴリズム。分割統治法の一種。 n 個のデータをソートする際の最良計算量および平均計算量は O (ランダウの記号)である。他のソート法と比べて一般的に最も高速だと言われているが、対象のデータの並びやデータの数によっては必ずしも速いわけではなく、最悪の計算量は O である。安定ソートではない。
|
{{Infobox algorithm
|class=[[ソート]]
|image=[[File:Sorting quicksort anim.gif|Quicksort in action on a list of numbers. The horizontal lines are pivot values.]]
|caption=クイックソートのアニメーション
|data=
|time=<math>O(n^2)</math>
|average-time=<math>O(n\log n)</math>
|best-time=<math>O(n\log n)</math>
|space=<math>O(n)</math>(素朴な実装)<br /><math>O(\log n)</math>([[アントニー・ホーア|Hoare]] 1962){{sfn|Hoare|1962}}
|optimal=No <!-- optimal is defined as worst case -->
|Stability=[Sorting_algorithm#Classification|Not Stable]
}}
'''クイックソート'''({{lang-en-short|quicksort}})は、[[1960年]]に[[アントニー・ホーア]]が開発した[[ソート]]の[[アルゴリズム]]。[[分割統治法]]の一種。
<math>n</math> 個のデータをソートする際の最良計算量および平均計算量は <math>O(n\log n)</math>([[ランダウの記号]])である。他のソート法と比べて一般的に最も高速だと言われている{{sfn|Skiena|2008|p=129}}が、対象のデータの並びやデータの数によっては必ずしも速いわけではなく、最悪の計算量は<math>O( n^2 )</math>である。[[安定ソート]]ではない。
== アルゴリズム ==
クイックソートは以下の手順で行われる。
# ピボットの選択:適当な値('''{{ill2|ピボット (数学)|label=ピボット|en|Pivot element}}'''という)を境界値として選択する
# 配列の分割:ピボット未満の要素を配列の先頭側に集め、ピボット未満の要素のみを含む区間とそれ以外に分割する
# [[再帰]]:分割された区間に対し、再びピボットの選択と分割を行う
# ソート終了:分割区間が整列済みなら再帰を打ち切る
配列の分割方法の一例として、以下のようなものが考えられる:
# 配列要素からピボット P を選ぶ(ピボットの選び方については[[#最悪計算量の回避]]で詳述)
# 配列の先頭(左側)から順に、値が P 以上の要素を探索してその位置 LO を記憶する
# 配列の終端(右側)から逆順に、値が P 未満の要素を探索してその位置 HI を記憶する
# LO, HI について:
#* LO が HI より左にあるなら、LO にある要素と HI にある要素の位置を入れ替え、それぞれ LO, HI の次の要素から手順 2, 3 の探索を再開する
#* そうでない場合(LO が HI より右か同じ位置にあるなら)、HI を境界として配列を分割する
分割後の要素数が一定の[[閾値]]を下回ったら[[挿入ソート]]のような「少数の要素に対してより効率的なソート」に切り替える、という手法がある。また、配列の分割方法自体にも様々な変種がある(同時に2つのピボットを選択して3分割する Dual-pivot Quicksort {{sfn|Yaroslavskiy|2009}}など)。
=== アルゴリズムの動作例 ===
[[ファイル:Quicksort example small.png|thumb|right|クイックソートの動作を図示したもの。赤くなっているのがピボット]]
確定した部分は太文字で表す。ピボットには下線を引く。
初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1
* 中央付近に位置する7をピボットとする。左から7以上を探索して8を発見。右から7未満を探索して1を発見。前者が左にあるため入れ替え。
*: 1 4 3 {{underline|7}} 6 5 2 8
* 次の位置から探索を継続。7と2を発見して入れ替え。
*: 1 4 3 2 6 5 {{underline|7}} 8
* 次の位置から探索を継続。7と5を発見。前者が右にあるため探索終了。左からの探索で最後に発見した位置(7の位置)の左で分割。
*: 1 4 3 2 6 5 | 7 8
* 「1 4 3 {{underline|2}} 6 5」の領域で2をピボットとして探索。左からの探索で4、右からの探索で2を発見、前者が左にあるため入れ替え。
*: 1 {{underline|2}} 3 4 6 5 | 7 8
* 次の位置から探索を継続。3と2を発見。前者が右にあるため探索終了。3の左で分割。
*: 1 2 | 3 4 6 5 | 7 8
* 「1 {{underline|2}}」の領域を2をピボットとして探索、双方とも2を発見、同じ位置であるため探索終了。2の左で分割。「1」「2」の領域は確定。
*: '''1''' | '''2''' | 3 4 6 5 | 7 8
* 「3 4 {{underline|6}} 5」の領域を6をピボットとして探索。6と5を発見、前者が左にあるため入れ替え。
*: '''1''' | '''2''' | 3 4 5 {{underline|6}} | 7 8
* 次の位置から探索を継続。6と5を発見するが前者が右にあるため探索終了。6の左で分割。「6」は確定。
*: '''1''' | '''2''' | 3 4 5 | '''6''' | 7 8
* 「3 {{underline|4}} 5」の領域を4をピボットとして探索。双方4を発見して終了するため4の左で分割。「3」は確定。
*: '''1''' | '''2''' | '''3''' | 4 5 | '''6''' | 7 8
* 「4 {{underline|5}}」の領域を5をピボットとして探索。双方5を発見して終了するため5の左で分割。「4」「5」は確定。
*: '''1''' | '''2''' | '''3''' | '''4''' | '''5''' | '''6''' | 7 8
* 「7 {{underline|8}}」の領域を8をピボットとして探索。双方8を発見して終了するため8の左で分割。すべて確定。
*: '''1''' | '''2''' | '''3''' | '''4''' | '''5''' | '''6''' | '''7''' | '''8'''
== 最悪計算量の回避 ==
=== 時間計算量 ===
クイックソートの効率は配列の分割の効率に左右される。再帰の各段階で常に均等に分割される場合が最良であり、時間計算量は <math>O(n\log n)</math> となる。一方で、常に「1要素と残り全部」のように偏って分割された場合が最悪のケースで、時間計算量が <math>O(n^2)</math> に悪化する。
最悪ケースを避けるにはピボットの選択に注意を払う必要がある。たとえば、既にソートされた配列に対して先頭や末尾の要素をピボットとすると最悪ケースとなる<ref group="注釈">「先頭未満/以上」で分割してしまった場合、無限再帰による[[スタックオーバーフロー]]も起こりうる</ref>。なるべく配列の[[中央値]]をピボットとして選べるようにすれば、このようなケースを回避できる。
代表的なピボット選択の戦略として、以下のようなものが挙げられる:
* 配列の一部の要素を選び、それらの中央値を選ぶ(典型的には、配列の先頭・中間・末尾の3要素の中央値{{sfn|Sedgewick|2018|pp=273–291}})
* ランダムに配列要素を選ぶ(真の[[乱数]]による配列選択を仮定すれば、人為的に最悪ケースを与えることが不可能になる)
また、ピボットを選ぶ前に配列をランダムに並べ替えるなどの手法によっても、ソートに最悪計算時間を要する可能性を抑えられる{{sfn|Sedgewick|Wayne|2011|p=295}}。
ただし、いずれの場合も最悪ケースの可能性を完全に排除できるものではない。これに対する根本的な改良として、一定の閾値よりも再帰が深くなったら[[ヒープソート]]のような <math>O(n\log n)</math> 時間が保証されるアルゴリズムに切り替える方法がある([[イントロソート]])。
=== 空間計算量 ===
分割の操作自体は追加の領域を必要としないが、再帰による[[コールスタック]]の消費が空間計算量となる。スタックの消費は平均的には <math>O(\log n)</math> となるが、最悪ケースでは <math>O(n)</math> に増大するため、大きなサイズの配列の場合[[スタックオーバーフロー]]を起こす危険性がある。
対策として、「分割された配列のうち、要素数が少ない方を常に先に処理する」ことで、空間計算量を最悪 <math>O(\log n)</math> に抑えられる{{sfn|Hoare|1962}}{{sfn|Sedgewick|2018|pp=273–291}}。このようにすると、常に均等に分割される(最良時間の)場合に <math>\log n</math> スタックとなる一方で、1要素ずつしか分割されない(最悪時間の)場合には定数スタックで済む{{sfn|杉山|1995|p=159}}。
これを実装するには、明示的な[[スタック]]を用いて非再帰(ループ)構造とする<ref group="注釈">[https://programming-place.net/ppp/contents/algorithm/sort/006.html Cによる実装例]。「再帰しないクイックソートの実装」の節を参照。</ref>か、([[末尾再帰]]の最適化機能があれば)要素数が多い方を末尾再帰で処理すればよい{{sfn|Sedgewick|2018|pp=273–291}}。
また、[[イントロソート]]によっても最悪 <math>O(\log n)</math> 空間を保証できる(再帰深さの閾値が <math>\log n</math> となるように設定すればよい)。
== 実装例 ==
=== C言語 ===
[[C言語]]による実装例を以下に示す:
<syntaxhighlight lang="c">
/**
* 値を交換する
* @param x - 交換するデータのポインタ
* @param y - 交換するデータのポインタ
* @param sz - データサイズ
*/
void
swap(
void* x,
void* y,
size_t sz
) {
char* a = x;
char* b = y;
while (sz > 0) {
char t = *a;
*a++ = *b;
*b++ = t;
sz--;
}
}
/** 分割関数
*
* 配列をピボットによって分割し、分割位置を返す。
* @param a - 分割する配列
* @param cmp - 比較関数へのポインタ
* @param sz - データサイズ
* @param n - 要素数
* @returns 分割位置を示すポインタ
*/
void*
partition(
void* a,
int (*cmp)(void const*, void const*),
size_t sz,
size_t n
) {
// void* に対して直接ポインタ演算はできないので予め char* へ変換する
char* const base = a;
if (n <= 1) return base + sz;
char* lo = base;
char* hi = &base[sz * (n - 1)];
char* m = lo + sz * ((hi - lo) / sz / 2);
// m が median-of-3 を指すようソート
if (cmp(lo, m) > 0) {
swap(lo, m, sz);
}
if (cmp(m, hi) > 0) {
swap(m, hi, sz);
if (cmp(lo, m) > 0) {
swap(lo, m, sz);
}
}
while (1) {
while (cmp(lo, m) < 0) lo += sz; // ピボット以上の要素を下から探す
while (cmp(m, hi) < 0) hi -= sz; // ピボット以下の要素を上から探す
if (lo >= hi) return hi + sz;
swap(lo, hi, sz);
// ピボットがスワップされた場合、スワップ先を指すよう m を更新する
if (lo == m) {
m = hi;
} else if (hi == m) {
m = lo;
}
lo += sz;
hi -= sz;
}
}
/** クイックソート
*
* @param a - ソートする配列
* @param cmp - 比較関数へのポインタ
* @param sz - データサイズ
* @param n - 要素数
*/
void
quicksort(
void* a,
int (*cmp)(void const*, void const*),
size_t sz,
size_t n
) {
if (n <= 1) return;
char* p = partition(a, cmp, sz, n);
char* const base = a;
size_t n_lo = (p - base) / sz;
size_t n_hi = (&base[sz * n] - p) / sz;
quicksort(a, cmp, sz, n_lo); // 左側をソート
quicksort(p, cmp, sz, n_hi); // 右側をソート
}
</syntaxhighlight>
{{mono|cmp(x, y)}} は {{mono|x < y}} なら負、{{mono|1=x = y}} ならゼロ、{{mono|x > y}} なら正の整数を返す関数とする。
=== Scheme ===
[[Scheme]]によるクイックソートの実装例を示す:
<syntaxhighlight lang="scheme">
(require-extension srfi-1) ; SRFI 1 の呼び出し方は実装依存(場合によってはデフォルト)。これは Chicken Scheme の例。
(define (qsort f ls)
(if (null? ls)
'()
(let ((x (car ls)) (xs (cdr ls)))
(let ((before
(qsort f (filter (lambda (y) ; filter は SRFI 1 の手続き
;; compose は Chicken、Gauche、Guile、Racket 等に備わってる「合成関数を作る」手続き。
;; 詳細は Paul Graham の On Lisp
;; http://www.asahi-net.or.jp/~kc7k-nd/onlispjhtml/returningFunctions.html
;; を参照。
((compose not f) x y)) xs)))
(after
(qsort f (filter (lambda (y) ; filter は SRFI 1 の手続き
(f x y)) xs))))
(append before (cons x after))))))
</syntaxhighlight>
=== Python ===
[[Python]]によるクイックソートの実装例を示す:
<syntaxhighlight lang="python">
from typing import Any
from collections.abc import MutableSequence, Callable
# median-of-three
# 与えられた3値の中央値を返す
def median3(x, y, z):
return max(min(x, y), min(max(x, y), z))
# 分割関数
# 配列の指定範囲をピボットに従って分割する
#
# @param seq - 分割する配列
# @param keyFn - 配列要素のキー値を計算する関数
# @param first - 分割範囲の最初のインデックス
# @param last - 分割範囲の最後のインデックス
# @returns 分割点のインデックス
def partition(seq: MutableSequence[Any], keyFn: Callable[[Any], Any], first: int, last: int):
pivot = median3(keyFn(seq[first]), keyFn(seq[first + (last - first) // 2]), keyFn(seq[last]))
while True:
while keyFn(seq[first]) < pivot:
first += 1
while pivot < keyFn(seq[last]):
last -= 1
if first >= last:
return last + 1
seq[first], seq[last] = seq[last], seq[first]
first += 1
last -= 1
# クイックソート
#
# @param seq - ソートする配列
# @param keyFn - 配列要素のキー値を計算する関数
def quicksort(seq: MutableSequence[Any], keyFn: Callable[[Any], Any]):
def quicksortImpl(seq: MutableSequence, keyFn: Callable[[Any], int], first: int, last: int):
while first < last:
p = partition(seq, keyFn, first, last)
if (p - first) < (last - p):
quicksortImpl(seq, keyFn, first, p - 1)
first = p
else:
quicksortImpl(seq, keyFn, p, last)
last = p - 1
quicksortImpl(seq, keyFn, 0, len(seq) - 1)
</syntaxhighlight>
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
== 関連項目 ==
* [[ランダウの記号]]
* [[イントロソート]]
== 参考文献 ==
* {{Cite journal
| last1 = Hoare
| first1 = C. A. R.
| author-link = アントニー・ホーア
| doi = 10.1093/comjnl/5.1.10
| title = Quicksort
| journal = The Computer Journal
| volume = 5
| issue = 1
| page = 11
| year = 1962
| doi-access = free
| ref = harv
}}
* {{cite book
|first=Steven S.
|last=Skiena
|year=2008
|title=The Algorithm Design Manual
|publisher=Springer
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| title=アルゴリズムC 第1~4部: 基礎・データ構造・整列・探索
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== 外部リンク ==
* [http://www.codereading.com/algo_and_ds/algo/quick_sort.html クイックソート:アルゴリズム] - [[Python]]と[[C言語]]のコードで紹介.
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インデックス・ホールディングス
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株式会社インデックス・ホールディングス(英: Index Holdings Corporation)は、かつて存在した日本の持株会社。1997年9月 - 2006年5月と2010年10月から2016年8月の会社破産・法人格消滅までの事業会社だった時期の社名は株式会社インデックスだった。本項では、持株会社のインデックス・ホールディングスと事業会社の(旧)インデックスの両方について通時的に解説する。
(旧)インデックスは2014年7月31日に破産手続開始決定を受け、2016年8月3日に破産手続が結了し、法人格が消滅した。事業を譲受したセガサミーグループの企業である株式会社アトラス(旧社名:株式会社セガドリーム)、アトラス(新社)から新設分割により(新)株式会社インデックスの社名で設立されたエキサイト株式会社の子会社であるiXIT株式会社(2016年7月1日に社名変更)の2社とは、資本関係などの繋がりは全くない別会社である。
1995年9月に株式会社ノザーク・ビーエヌエスの社名で創業。日商岩井(後の双日)の社長人事をめぐる抗争で日商岩井を退社に追い込まれた落合正美が社長に就任した1997年に株式会社インデックスへ社名変更。日商岩井時代の落合の部下で、後に社長となる小川善美も落合の後を追うようにインデックスに入社した。以降はインターネットや携帯電話向けコンテンツの製作・提供を中心に行い、ゲームやアミューズメントの各事業を行う企業を傘下に持っていた。
かつては企業買収や第三者増資割り当てなどによる資本参加を積極的に行っていたが、同業他社の台頭や、取引銀行であった日本振興銀行が破綻した2010年以降は経営難に陥り、経済誌などの「倒産危険ランキング」では常に上位にランクインし、かつ現金前払い取引以外はインデックスと取引停止にする企業も増えていた。
このため買収した企業の売却・解散を重ね、持株会社であったものを合併によって事業会社に移行したものの、株式売却などによって民事再生法申請前のグループ会社はインデックス・アミューズメントとインデックス・デジタルメディアの2社にまで減少していた。
2012年8月期まで5期連続で最終赤字を計上した。2013年8月期に、貸倒引当金の計上や繰延税金資産の取り崩しもあり、第2四半期末で多額の純損失を計上し連結で14億9000万円の債務超過となったことや、有利子負債は2013年2月末時点で193億円に膨らんでいたことや、循環取引を用いた粉飾決算の疑いで、証券取引等監視委員会から強制調査を受けた事から、2013年6月27日に民事再生手続を申し立て、同年7月4日に民事再生手続開始決定を受けた。尚、タカラトミーは、インデックスが2013年6月12日に「金融商品取引法違反容疑による証券取引等監視委員会の調査について」を公表したことを受けて保有するインデックス全株式を売却した他、フジ・メディア・ホールディングスも、派遣していた社外取締役を民事再生法申請3日前である2013年6月24日に引き上げている。
負債総額246億200万円は、国内ゲームメーカーの大型倒産としては2001年に破産したSNK(民事再生法申請時点で約380億円)に次いで2番目の規模となった。
民事再生手続に伴うスポンサー選定の結果、2013年9月18日にセガを再生スポンサーに選定したと同時に、セガが2013年9月5日に設立した100%子会社である株式会社セガドリームに2013年11月1日付でアトラスを始めとするデジタルゲーム事業(家庭用ゲーム、ソーシャルゲーム)、コンテンツ&ソリューション事業(コンテンツ配信、システム開発、遊技機関連開発受託、インターネット広告など)、アミューズメント事業(業務用アミューズメント機器の開発・販売)など事業の大半並びに上記に関連する有形固定資産・無形固定資産・知的財産を譲渡する契約を締結した。持分法適用会社であったアーデント・ウィッシュは、事業譲渡直前の2013年10月にインデックスが保有していた株式がアーデント・ウィッシュに買い戻された。
2013年11月1日に新旧分離を実施。同日付でアトラスを始めとする事業並びに、海外子会社である Index Digital Media,Inc.(後のAtlus U.S.A., Inc. )、Index Digital Media,Inc.の親会社であるAtlus Holding, Inc.、Tiger Mob Limited.、Index Corp(Thailand)(後のIndex Asia Ltd.)、Mobi Town Ltd.の株式を、同日にセガドリームから商号変更された株式会社インデックス(以下「新社」)へ譲渡した。また、新社は分離元の同名企業であったインデックス(以下「旧社」)の有利子負債などの負債、旧社が保有していた株式は新社が譲受した前述の株式以外継承しない。以降、旧社が行ってきた事業はセガ100%子会社である新社(2014年4月1日付でアトラスに社名変更、また後にiXITとなる2代目インデックスに会社分割)で再建が図られると同時に、セガはネット関連事業に参入した。新社へ譲渡された事業に従事していた社員は旧社を一旦退職の上、一部を除き新社に再雇用された。
なお、『ビートザキャット』、『遊技機王』などの一部コンテンツは新社には譲渡されずに2013年10月31日を以ってサービスを終了した他、2013年10月31日まで旧社が使用していたコーポレートロゴ、公式サイト、Facebookページなども新社へ譲渡され、新社の公式サイトやFacebookページの情報からは、旧社のプレスリリースや会社情報などの旧社に関わる全情報や2013年10月31日以前のアトラスブランドに関する情報はそれぞれ削除された。持分法適用会社であったスタイル・インデックスも旧社の事業停止当日である同年11月1日にスタイルへ商号変更された。
インデックス(旧社)そのものは2013年11月1日以降も民事再生手続きを続け、旧社の有利子負債などの債務の管理や整理を行う債務管理会社へ移行することとなり、以降の民事再生手続関連などの旧社に関する情報は、旧社の債務管理会社へ移行と同時に開設した旧社の公式サイトでの掲載となった。また、2014年1月には本社を新設されたインデックス(新社)と同居していたキャロットタワーから新日本池尻ビルへ移転し、新旧分離後も新旧会社が同じビルに同居するという状態を解消した。
民事再生計画では、セガへの事業譲渡で得た約141億円を原資として、債権者へ配当を行う予定であった。2014年4月までに行われていた旧社による金融商品取引法違反の調査において、連結ベースでは2011年8月期より、単体ベースでは2012年8月期よりそれぞれ債務超過(連結ベースで2011年8月期は6300万円、2012年8月期は5億6000万円の債務超過)に陥っていたことが判明し、虚偽記載で提出した2011年8月期の有価証券報告書の開示日である2011年11月30日時点でジャスダック上場廃止基準(有価証券報告書の虚偽記載かつ2期連続の債務超過)に該当していた事も明らかとなり、さらに再生債権の損害賠償請求権を有する個別の株主の氏名、債権額の把握ができず、再生債権者および再生債権総額が不明であることから、2度目の再生計画案提出期限である2014年5月9日までに再生計画案を提出する事が不可能となり、2014年4月30日に東京地裁から民事再生手続廃止並び保全管理命令を受け、2014年7月31日に東京地裁から破産手続開始決定を受けた。
破産手続開始と同時に休眠会社であったインデックス・プロダクション、スプラウト、シルバーアロー・モバイルの3社の清算手続も開始され、3社共2015年11月までに清算手続きが終了した。旧社が保有していた株式の売却も終了した。また、旧社は、破産手続開始決定前からの事項であるカプコンとの訴訟においても和解し、和解金としてカプコンに1億円を破産管財人が支払った他、健康保険料並びに厚生年金保険料が未払いであったことも明らかとなり、破産管財人が未払い分の社会保険料を支払った上で、一部を除く旧社の元社員に社会保険料の支払を請求した他、新社への事業譲渡の際の手続きが漏れていたことも発覚し、破産管財人がアトラス(新社)並びに2代目インデックス(後のiXIT)と確認書を取り交わすなどの処理を行った。
その後も旧社の換価・回収、配当手続等が進み、これらの手続が完了したことから、2016年8月3日に東京地裁から破産手続結了の決定を受けたと同時に、法人格が消滅した。
民事再生手続廃止直前の2014年4月に、東京地検が旧社の粉飾決算疑惑に関連して、旧社の元役員数人に対して任意で事情聴取を行った。
2014年5月28日、東京地検特捜部は金融商品取引法違反の容疑で、元会長の落合正美と妻で元社長の落合善美を逮捕し、世田谷区の落合夫妻の自宅や新日本池尻ビル8階にあった旧社の本社などを家宅捜索した。2012年8月期の粉飾決算に関して、取引実態がないのに商品売買を行ったように帳簿を見せかけ操作する架空売買を行い、利益の水増しを謀った疑い。同時に旧社が約80社の関連会社を使って循環取引を行っていたことも明らかとなった。同年6月16日に証券取引等監視委員会は旧:インデックス並びに落合正美と落合善美を東京地検特捜部に金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で告発し、落合正美と落合善美は翌6月17日に金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で東京地検特捜部から起訴された。起訴状によると、2012年11月に、2期連続の債務超過によるジャスダック上場廃止を回避するため、2012年8月期の決算において、経常利益が8600万円でかつ税金等調整前最終損益が6億500万円の赤字でかつ、純資産が4億1100万円の債務超過だったにもかかわらず、経常利益が9億1700万円で税金等調整前最終利益が2億400万円の黒字でかつ、純資産が3億9800万円の資産超過とそれぞれ記載した虚偽の連結損益計算書並びに虚偽の連結貸借対照表を記載した虚偽の有価証券報告書を提出した疑い。旧社は2013年11月に新社(2014年4月にアトラスと後にiXITとなる2代目インデックスに会社分割)へ事業譲渡して事業を停止し、民事再生手続廃止決定を受けていたことから起訴猶予となった。
2015年6月8日、落合正美と落合善美の初公判が東京地裁で行われ、初公判で検察側は「2001年8月期以降、業績達成を達成したかに装うため部下に指示して粉飾決算を続けてきた」「2012年8月期に債務超過に陥る見通しとなったため部下は落合夫妻に粉飾決算をやめるよう求めたが、好調な業績を装う事に執着していた落合夫妻は応じなかった」と指摘した。落合夫妻は「部下に指示はしていない」と起訴事実を全面的に否認した。尚、落合正美と落合善美に対する第一審判決は2016年6月14日に行われ、裁判長は「偽った程度も大きく、隠蔽工作も巧妙で悪質だ」と述べ、部下からの証言などから夫妻が粉飾決算を指示したり、隠蔽工作に加担したと認定し、夫妻へそれぞれ懲役3年、執行猶予4年(求刑:懲役3年)の判決を言い渡した。落合夫妻は東京高裁へ控訴したが、東京高裁は2017年11月7日に行われた第二審判決で、第一審の東京地裁の判決を支持する判決を下し、落合夫妻の控訴を棄却した。
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|画像説明 =
|種類 = [[株式会社]]
|市場情報 = {{上場情報 | JASDAQ | 4835 | 2001年3月29日 | 2013年7月28日}}
|略称 =
|国籍= {{JPN}}
|郵便番号 = 154-0001
|本社所在地 = [[東京都]][[世田谷区]][[池尻 (世田谷区)|池尻]]三丁目21番28号<br>新日本池尻ビル8階
|設立 = [[1995年]][[9月1日]]<br>(株式会社ノザーク・ビーエヌエス)
|業種 = 5250
|事業内容 = モバイル関連事業、家庭用ゲーム関連事業他
|代表者 = [[破産管財人]] 長島良成
|資本金 = 393億79百万円
|発行済株式総数 = 3,930,004株
|純資産 = 連結:△5億6000万円<br>単独:△1億7600万円<br>(2012年8月期)<ref name="kabunusi">[https://web.archive.org/web/20141113202736/http://index-corp.jp/news/20140811_reference/news.pdf 株主・元株主の皆様へ] インデックス(旧法人)破産管財人 2014年8月11日 - ウェイバックマシン(2014年11月13日のキャッシュ)</ref>
|従業員数 = 連結:551人 単独:378人<br>(2012年8月31日現在)
|決算期 = [[8月31日]]
|会計監査人 = [[清和監査法人]]
|主要株主 = (株)落合アソシエイツ 12.68%<br>落合正美 8.90%<br>[[タカラトミー|(株)タカラトミー]] 3.95%<br>(株)シークエッジファイナンス 3.91%<br>(株)[[整理回収機構]] 3.65%<br>(株)[[テーオーシー]] 3.27%<br>(2013年2月28日現在)<ref>[http://www.kabupro.jp/edp/20130416/S000D8ZP.pdf 2013年8月第2四半期報告書 インデックス] 株主プロ</ref>
|主要子会社 =
|関係する人物= [[小川善美]](前代表取締役社長)
|外部リンク =
|外部リンク名 =
|特記事項=2013年11月1日に[[iXIT|インデックス]](旧:セガドリーム)へ事業を譲渡し事業停止、2016年8月3日に破産手続結了・法人格消滅。<br>2011年11月30日 - 2013年7月28日は[[有価証券報告書]]の虚偽記載による不正上場<ref name="kabunusi" />。<br>2012年8月期における純資産は旧社が行った[[金融商品取引法]]違反([[有価証券報告書]]の虚偽記載)に関する調査によるもので、正確な売上高・営業利益・総利益・総資産(いずれも2012年8月期)は未発表。
}}
'''株式会社インデックス・ホールディングス'''({{lang-en-short|''Index Holdings Corporation''}})は、かつて存在した[[日本]]の[[持株会社]]。[[1997年]]9月 - [[2006年]]5月と[[2010年]]10月から[[2016年]]8月の会社破産・法人格消滅までの事業会社だった時期の社名は'''株式会社インデックス'''だった。本項では、持株会社のインデックス・ホールディングスと事業会社の(旧)インデックスの両方について通時的に解説する。
(旧)インデックスは[[2014年]][[7月31日]]に[[破産|破産手続]]開始決定を受け、2016年[[8月3日]]に破産手続が結了し、法人格が消滅した<ref name="syoumetu">[http://index-corp.jp/news/pdf/20160806_news.pdf 第6回債権者集会における破産管財人の報告書] インデックス(旧法人)破産管財人 2016年8月3日</ref>。事業を譲受した[[セガサミーホールディングス|セガサミーグループ]]の企業である'''[[アトラス (ゲーム会社)|株式会社アトラス]]'''(旧社名:株式会社セガドリーム)、アトラス(新社)から新設分割により(新)株式会社インデックスの社名で設立された[[エキサイト]]株式会社の子会社である'''[[iXIT|iXIT株式会社]]'''([[2016年]][[7月1日]]に社名変更)の2社とは、資本関係などの繋がりは全くない別会社である<ref name="index20131101">[http://indexweb.jp/assets/files/shared/pdf/disclose/2013/131101-02.pdf セガドリームのHP上の同社のお知らせ] インデックス(セガサミーグループ) 2013年11月1日</ref><ref>[http://indexweb.jp/assets/files/shared/pdf/disclose/2014/140430-01.pdf 他社の民事再生手続き廃止決定に関して] インデックス(セガサミーグループ) 2014年4月30日</ref><ref>[http://indexweb.jp/assets/files/shared/pdf/disclose/2014/140528_01.pdf 他社の東京地方検察庁特別捜査部による逮捕に関して] インデックス(セガサミーグループ) 2014年5月28日</ref>。
== 概要 ==
[[1995年]]9月に'''株式会社ノザーク・ビーエヌエス'''の社名で創業。日商岩井(後の[[双日]])の社長人事をめぐる抗争で日商岩井を退社に追い込まれた[[落合正美]]が社長に就任した[[1997年]]に株式会社インデックスへ社名変更。日商岩井時代の落合の部下で、後に社長となる[[小川善美]]も落合の後を追うようにインデックスに入社した<ref name="biz-journal">[https://biz-journal.jp/2014/05/post_5000.html “ネットベンチャーの優等生”インデックス、なぜ粉飾容疑?隆盛から凋落までの軌跡] Business Journal 2014年5月31日</ref>。以降は[[インターネット]]や[[携帯電話]]向け[[コンテンツ]]の製作・提供を中心に行い、ゲームやアミューズメントの各事業を行う企業を傘下に持っていた。
かつては企業買収や第三者増資割り当てなどによる資本参加を積極的に行っていたが、同業他社の台頭や<ref name="biz-journal" />、取引銀行であった[[日本振興銀行]]が破綻した2010年以降は経営難に陥り、経済誌などの「倒産危険ランキング」では常に上位にランクインし、かつ現金前払い取引以外はインデックスと取引停止にする企業も増えていた<ref>[https://facta.co.jp/article/201306024.html 「落合インデックス」が決算修正で瀬戸際] FACTA ONLINE 2013年6月</ref>。
このため買収した企業の売却・解散を重ね、持株会社であったものを合併によって事業会社に移行したものの、株式売却などによって民事再生法申請前のグループ会社は[[インデックス・アミューズメント]]と[[インデックス・デジタルメディア]]の2社にまで減少していた。
=== 民事再生法を申請 ===
2012年8月期まで5期連続で最終赤字を計上した。2013年8月期に、貸倒引当金の計上や繰延税金資産の取り崩しもあり、第2四半期末で多額の純損失を計上し連結で14億9000万円の[[債務超過]]となったことや<ref name="kabunusi" /><ref name="itmedia20130415">[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1304/16/news030.html インデックスが債務超過に転落] ITmedia 2013年4月16日(2013年12月5日閲覧)</ref>、有利子負債は2013年2月末時点で193億円に膨らんでいたことや、[[循環取引]]を用いた[[粉飾決算]]の疑いで、[[証券取引等監視委員会]]から強制調査を受けた事から、[[2013年]][[6月27日]]に民事再生手続を申し立て<ref name="TDB">{{Cite web|和書|url = https://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3792.html|title = 大型倒産情報 モバイルコンテンツ・ゲーム事業 ジャスダック上場 株式会社インデックス 民事再生法の適用を申請 負債245億円|publisher = [[帝国データバンク]]|date = 2013-06-27|accessdate = 2013-06-27}}</ref>、同年[[7月4日]]に民事再生手続開始決定を受けた<ref name="ketei">[http://index-corp.jp/news/pdf/20130704_news.pdf 民事再生手続開始決定及びフィナンシャル・アドバイザー選任に関するお知らせ] インデックス(旧法人)2013年7月4日(2013年12月5日閲覧)</ref><ref name="saisei">{{Cite web|和書|url =http://indexweb.jp/assets/files/shared/pdf/disclose/2013/130704-02.pdf|title = 平成25年(再)第32号再生手続開始申立事件|publisher = 東京地方裁判所|date = 2013-07-04|accessdate = 2013-07-05}}</ref>。尚、[[タカラトミー]]は、インデックスが2013年6月12日に「金融商品取引法違反容疑による証券取引等監視委員会の調査について」を公表したことを受けて保有するインデックス全株式を売却した他<ref>[https://www.takaratomy.co.jp/release/pdf/i130628.pdf 株式会社インデックスの民事再生手続開始の申立てに伴う当社への影響に関するお知らせ] タカラトミー 2013年6月28日</ref>、[[フジ・メディア・ホールディングス]]も、派遣していた社外取締役を民事再生法申請3日前である2013年6月24日に引き上げている<ref>[https://facta.co.jp/article/201309020.html 「学研株絡み」元社員が転職先も辞めた] FACTA ONLINE 2013年9月</ref>。
負債総額246億200万円は、国内ゲームメーカーの大型倒産としては2001年に破産した[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]](民事再生法申請時点で約380億円)に次いで2番目の規模となった。
=== セガへ事業譲渡 ===
民事再生手続に伴うスポンサー選定の結果、2013年9月18日に[[セガ]]を再生スポンサーに選定したと同時に、セガが2013年[[9月5日]]に設立した100%子会社である株式会社[[iXIT|セガドリーム]]に2013年11月1日付で[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]を始めとするデジタルゲーム事業(家庭用ゲーム、ソーシャルゲーム)、コンテンツ&ソリューション事業(コンテンツ配信、システム開発、遊技機関連開発受託、インターネット広告など)、アミューズメント事業(業務用アミューズメント機器の開発・販売)など事業の大半並びに上記に関連する有形固定資産・無形固定資産・知的財産を譲渡する契約を締結した<ref name="index20130918">[http://index-corp.jp/news/pdf/20130918_news.pdf スポンサーの選定及び事業譲渡契約締結のお知らせ] インデックス(旧法人) 2013年9月18日</ref><ref name="segasammy">[https://www.segasammy.co.jp/japanese/pdf/release/20130918_index_j_final.pdf 株式会社インデックスの事業譲受けに関する契約締結について] セガサミーホールディングス 9月18日</ref><ref name="inside">[https://www.inside-games.jp/article/2013/09/18/70402.html セガサミー、インデックス買収を正式発表・・・「アトラス」ほか事業の大半を取得] INSIDE 2013年9月18日(同日閲覧)</ref><ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/615913.html セガサミー、インデックスの事業譲受けを決定] GAMEWatch 2013年9月18日(2013年9月19日閲覧)</ref>。持分法適用会社であったアーデント・ウィッシュは、事業譲渡直前の2013年10月にインデックスが保有していた株式がアーデント・ウィッシュに買い戻された。
2013年11月1日に[[新旧分離]]を実施<ref name="mantan20131101">[https://mantan-web.jp/article/20131101dog00m200041000c.html インデックス : 新旧分離でセガ傘下に 「アトラス」ブランドも継続] まんたんウェブ 2013年11月1日</ref>。同日付でアトラスを始めとする事業並びに、海外子会社である Index Digital Media,Inc.(後のAtlus U.S.A., Inc. )、Index Digital Media,Inc.の親会社であるAtlus Holding, Inc.、Tiger Mob Limited.、Index Corp(Thailand)(後のIndex Asia Ltd.)、Mobi Town Ltd.の株式を、同日にセガドリームから商号変更された株式会社インデックス(以下「新社」)へ譲渡した<ref name="oldindex20131101">[http://index-corp.jp/news/pdf/20131101_news.pdf 事業譲渡の実施に関するお知らせ] インデックス(旧法人) 2013年11月1日(2014年1月21日閲覧)</ref><ref name="famituu">[https://www.famitsu.com/news/201311/01042571.html セガドリームがインデックスに社名を変更] ファミ通.com 2013年11月1日(同日閲覧)</ref><ref name="sega20131101">[https://www.sega.co.jp/wp-content/uploads/2014/03/nr131101_1.pdf 当社子会社の事業譲受に関するお知らせ] セガプレスリリース 2013年11月1日</ref>。また、新社は分離元の同名企業であったインデックス(以下「旧社」)の[[有利子負債]]などの[[負債]]、旧社が保有していた株式は新社が譲受した前述の株式以外継承しない。以降、旧社が行ってきた事業はセガ100%子会社である新社(2014年4月1日付でアトラスに社名変更、また後にiXITとなる2代目インデックスに会社分割)で再建が図られると同時に、セガはネット関連事業に参入した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDD180NV_Y3A910C1TJ1000/ セガ、インデックス買収発表 スマホゲームに活路] 日本経済新聞 2013年9月18日(2013年9月19日閲覧)</ref>。新社へ譲渡された事業に従事していた社員は旧社を一旦退職の上、一部を除き新社に再雇用された<ref>[https://www.famitsu.com/news/201312/02043751.html“新生”インデックス、アトラスブランドの未来は!? セガ/インデックス社長・鶴見尚也氏にインタビュー] ファミ通.com 2013年12月2日(2013年12月5日閲覧)</ref>。
なお、『ビートザキャット』、『遊技機王』などの一部コンテンツは新社には譲渡されずに2013年10月31日を以ってサービスを終了した他、2013年10月31日まで旧社が使用していたコーポレートロゴ、公式サイト、[[Facebook]]ページなども新社へ譲渡され<ref name="index20131101" />、新社の公式サイトやFacebookページの情報からは、旧社のプレスリリースや会社情報などの旧社に関わる全情報や2013年10月31日以前のアトラスブランドに関する情報はそれぞれ削除された。持分法適用会社であったスタイル・インデックスも旧社の事業停止当日である同年11月1日にスタイルへ商号変更された。
=== 破産手続開始 ===
インデックス(旧社)そのものは2013年11月1日以降も民事再生手続きを続け、旧社の有利子負債などの債務の管理や整理を行う債務管理会社へ移行することとなり、以降の民事再生手続関連などの旧社に関する情報は、旧社の債務管理会社へ移行と同時に開設した旧社の公式サイトでの掲載となった。また、2014年1月には本社を新設されたインデックス(新社)と同居していた[[キャロットタワー]]から新日本池尻ビルへ移転し、新旧分離後も新旧会社が同じビルに同居するという状態を解消した。
民事再生計画では、セガへの事業譲渡で得た約141億円を原資として、債権者へ配当を行う予定であった<ref name="tsr20140502">[http://www.tsr-net.co.jp/news/tsr/20140502_02.html TSR速報 (株)インデックス] 東京商工リサーチ 2014年5月2日</ref>。2014年4月までに行われていた旧社による[[金融商品取引法]]違反の調査<ref name="oldindex20131105">[http://index-corp.jp/news/pdf/20131105_news.pdf 再生計画案提出期限伸長のお知らせ] インデックス(旧法人) 2013年11月5日</ref><ref name="oldindex20140205">[http://index-corp.jp/news/pdf/20140205_news.pdf 再生計画案提出期限伸長のお知らせ] インデックス(旧法人) 2014年2月5日</ref>において、連結ベースでは2011年8月期より、単体ベースでは2012年8月期よりそれぞれ[[債務超過]](連結ベースで2011年8月期は6300万円、2012年8月期は5億6000万円の債務超過)に陥っていたことが判明し<ref name="kabunusi" />、虚偽記載で提出した2011年8月期の[[有価証券報告書]]の開示日である2011年11月30日時点で[[ジャスダック]][[上場廃止]]基準(有価証券報告書の虚偽記載かつ2期連続の債務超過)に該当していた事も明らかとなり、さらに再生債権の損害賠償請求権を有する個別の株主の氏名、債権額の把握ができず、再生債権者および再生債権総額が不明であることから、2度目の再生計画案提出期限である2014年5月9日までに再生計画案を提出する事が不可能となり、2014年4月30日に[[東京地方裁判所|東京地裁]]から民事再生手続廃止並び保全管理命令を受け<ref name="oldindex20140430">[http://index-corp.jp/news/pdf/20140430_news_a1.pdf 再生手続廃止決定及び保全管理命令のお知らせ] インデックス(旧法人) 2014年4月30日</ref><ref name="haisi">[http://index-corp.jp/news/pdf/20140430_news_a2.pdf 平成25年(再)第32号再生手続開始申立事件] 東京地方裁判所 2014年4月30日</ref><ref name="tdb">[https://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3907.html 大型倒産速報 モバイルコンテンツ・ゲーム事業 続報 元・ジャスダック上場株式会社インデックス再生手続き廃止決定受ける] 帝国データバンク 2014年5月2日</ref><ref name="tsr20140502" />、2014年7月31日に東京地裁から[[破産手続]]開始決定を受けた<ref name="oldindex20140801">[http://index-corp.jp/news/pdf/20140801_news_3.pdf 破産手続開始決定のお知らせ] インデックス(旧法人)破産管財人 2014年8月1日</ref><ref name="hasan">[http://index-corp.jp/news/pdf/20140801_news_1.pdf 破産手続開始決定書] 東京地方裁判所 2014年7月31日</ref><ref>[http://www.tsr-net.co.jp/news/tsr/20140804_01.html TSR速報 (株)インデックス(続報)] 東京商工リサーチ 2014年8月4日</ref>。
破産手続開始と同時に休眠会社であったインデックス・プロダクション、スプラウト、シルバーアロー・モバイルの3社の清算手続も開始され、3社共2015年11月までに清算手続きが終了した<ref>[http://index-corp.jp/news/pdf/20151111_news.pdf 第4回債権者集会における破産管財人の報告書] インデックス(旧法人)破産管財人 2015年11月11日</ref>。旧社が保有していた株式の売却も終了した<ref>[http://index-corp.jp/news/pdf/20150418_news.pdf 第2回債権者集会における破産管財人の報告書] インデックス(旧法人)破産管財人 2015年4月15日</ref>。また、旧社は、破産手続開始決定前からの事項である[[カプコン]]との訴訟においても和解し、和解金としてカプコンに1億円を[[破産管財人]]が支払った他、健康保険料並びに厚生年金保険料が未払いであったことも明らかとなり、破産管財人が未払い分の社会保険料を支払った上で、一部を除く旧社の元社員に社会保険料の支払を請求した他、新社への事業譲渡の際の手続きが漏れていたことも発覚し、破産管財人がアトラス(新社)並びに2代目インデックス(後のiXIT)と確認書を取り交わすなどの処理を行った<ref>[http://index-corp.jp/news/pdf/20160316_news.pdf 第5回債権者集会における破産管財人の報告書] インデックス(旧法人)破産管財人 2016年3月16日</ref>。
その後も旧社の換価・回収、配当手続等が進み、これらの手続が完了したことから、[[2016年]]8月3日に東京地裁から破産手続結了の決定を受けたと同時に、法人格が消滅した<ref name="syoumetu" />。
=== 粉飾決算事件 ===
民事再生手続廃止直前の[[2014年]]4月に、[[東京地方検察庁|東京地検]]が旧社の粉飾決算疑惑に関連して、旧社の元役員数人に対して任意で事情聴取を行った<ref name="nikeei20140424">[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2303C_T20C14A4CC1000/ インデックス粉飾決算疑惑で元役員を任意聴取 東京地検] 日本経済新聞 2014年4月24日(2014年4月30日閲覧)</ref>。
2014年[[5月28日]]、[[東京地検特捜部]]は[[金融商品取引法]]違反の容疑で、元会長の落合正美と妻で元社長の落合善美を逮捕し、世田谷区の落合夫妻の自宅や新日本池尻ビル8階にあった旧社の本社などを家宅捜索した。2012年8月期の粉飾決算に関して、取引実態がないのに商品売買を行ったように帳簿を見せかけ操作する架空売買を行い、利益の水増しを謀った疑い。同時に旧社が約80社の関連会社を使って循環取引を行っていたことも明らかとなった<ref name="taiho">[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG28016_Y4A520C1CC0000/ インデックス会長らを逮捕 粉飾決算の疑い] [[2014年]][[5月28日]]付[[日本経済新聞]]</ref><ref>[https://www.iza.ne.jp/kiji/events/news/140530/evt14053010340046-n1.html インデックス粉飾、関連80社で「循環取引」 十数回、会長主導] 産経デジタル 2014年5月30日</ref>。同年6月16日に証券取引等監視委員会は旧:インデックス並びに落合正美と落合善美を東京地検特捜部に金融商品取引法違反([[有価証券報告書]]の虚偽記載)で告発し<ref>[https://www.fsa.go.jp/sesc/news/c_2014/2014/20140616-1.htm 株式会社インデックスに係る虚偽有価証券報告書提出事件の告発について] 証券取引等監視委員会 2014年6月16日</ref>、落合正美と落合善美は翌6月17日に金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で東京地検特捜部から起訴された。起訴状によると、2012年11月に、2期連続の債務超過によるジャスダック上場廃止を回避するため、2012年8月期の決算において、経常利益が8600万円でかつ税金等調整前最終損益が6億500万円の赤字でかつ、純資産が4億1100万円の債務超過だったにもかかわらず、経常利益が9億1700万円で税金等調整前最終利益が2億400万円の黒字でかつ、純資産が3億9800万円の資産超過とそれぞれ記載した虚偽の連結損益計算書並びに虚偽の連結貸借対照表を記載した虚偽の有価証券報告書を提出した疑い<ref name="nikkei20140617">[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1702U_X10C14A6CR8000/ インデックス粉飾事件、会長と社長を起訴 東京地検] 日本経済新聞 2014年6月17日</ref><ref name="nikkei20150608">[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08H28_Y5A600C1CC0000/ 元会長ら無罪主張 インデックス粉飾で初公判] 日本経済新聞 2015年6月8日</ref>。旧社は2013年11月に新社(2014年4月にアトラスと後にiXITとなる2代目インデックスに会社分割)へ事業譲渡して事業を停止し、民事再生手続廃止決定を受けていたことから起訴猶予となった。
[[2015年]][[6月8日]]、落合正美と落合善美の初公判が東京地裁で行われ、初公判で検察側は「2001年8月期以降、業績達成を達成したかに装うため部下に指示して粉飾決算を続けてきた」「2012年8月期に債務超過に陥る見通しとなったため部下は落合夫妻に粉飾決算をやめるよう求めたが、好調な業績を装う事に執着していた落合夫妻は応じなかった」と指摘した。落合夫妻は「部下に指示はしていない」と起訴事実を全面的に否認した<ref name="sankei20150608">[https://www.sankei.com/article/20150608-UPVYJSKJXZOL7EMCUUKXMYRPMM/ 粉飾決算事件で無罪主張 ゲーム会社元会長ら 東京地裁] 産経ニュース 2015年6月8日</ref><ref name="nikkei20150608" /><ref>[https://jp.wsj.com/articles/JJ11100925450506053649416928503492787815970 元会長ら無罪主張=インデックス粉飾決算—東京地裁] ウォールストリートジャーナル日本版 2015年6月8日</ref>。尚、落合正美と落合善美に対する第一審判決は[[2016年]][[6月14日]]に行われ、裁判長は「偽った程度も大きく、隠蔽工作も巧妙で悪質だ」と述べ、部下からの証言などから夫妻が粉飾決算を指示したり、隠蔽工作に加担したと認定し、夫妻へそれぞれ懲役3年、執行猶予4年(求刑:懲役3年)の判決を言い渡した<ref name="asahi20160314">[https://www.asahi.com/articles/ASJ3G63B3J3GUTIL050.html 粉飾決算の罪、元会長らに懲役3年求刑] 朝日新聞デジタル 2016年3月14日(2016年5月24日閲覧)</ref><ref name="jiji20160614">[https://web.archive.org/web/20160615123301/https://www.jiji.com/jc/article?k=2016061400661&g=soc インデックス元会長ら有罪=「粉飾を了承」と認定-東京地裁] 時事ドットコムニュース 2016年6月14日</ref><ref name="asahi20160614">[https://www.asahi.com/articles/ASJ6G5G1GJ6GUTIL030.html ゲーム会社「インデックス」元会長らに有罪判決] 朝日新聞デジタル 2016年6月14日(当日閲覧)</ref>。落合夫妻は[[東京高等裁判所|東京高裁]]へ控訴したが、東京高裁は[[2017年]][[11月7日]]に行われた第二審判決で、第一審の東京地裁の判決を支持する判決を下し、落合夫妻の控訴を棄却した<ref name="nikkei20171107">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23200890X01C17A1CZ8000/ インデックス粉飾 二審も元会長ら有罪] 日本経済新聞 2017年11月7日</ref><ref name="sankei20171107">[http://www.sankei.com/affairs/news/171107/afr1711070029-n1.html 粉飾決算、二審も有罪 ゲーム会社のインデックス] 産経ニュース 2017年11月7日</ref>。
== 沿革 ==
* [[1995年]]
** [[9月]] - '''株式会社ノザーク・ビーエヌエス'''として設立
=== インデックス(第1次) ===
* [[1997年]]
** 9月 - 社名を'''株式会社インデックス'''に変更
** [[10月]] - 移動体通信端末向けコンテンツ事業に参画
* [[2001年]]
** [[3月]] - 株式を店頭登録
** [[5月]] - ヌーベルグー(後の[[ジャック・メディア・キャピタル]])設立
** 9月 - ストリーミングメディア・コミュニケーションズを子会社化([[2003年]]9月にインデックス・ソリューションズ社名変更。後の[[テック・インデックス]])
* [[2002年]]
** 9月 - [[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]と共同で犬語翻訳機[[バウリンガル]]を開発・発売
* 2003年
** [[7月]] - [[学研ホールディングス|学習研究社]]に出資
* [[2004年]]
** [[2月]] - [[マッドハウス]]を子会社化
** 3月 - NECインターチャネル(後の[[NECインターチャネル|インターチャネル]])を子会社化
** [[6月]] - 本多エレクトロン(後のネットインデックス、後の[[ネクス]])を子会社化
** 10月 - [[リーグ・ドゥ|フランスサッカーリーグ2部]]に所属する[[グルノーブル・フット38]]に資本参加
** [[11月]]
*** 在京[[キー局]]5社と「テモ」を設立
*** 学研の連結子会社「スリー・エー・システムズ」と資本提携([[2006年]]9月にインデックス・ソリューションズと合併しテック・インデックスとなる)
*** 学研との合弁新会社「学研インデックス」設立
** [[12月]] - 株式を[[ジャスダック]]に上場。
* [[2005年]]
** [[1月]] - [[ゲオ]]との合弁会社「GEO-BB」(2006年7月にエンタウェイブに社名変更)設立
** [[4月]] - コナミ(後の[[コナミホールディングス]])が保有するタカラ株式を取得し傘下へ
** 5月 - 在京キー局4社やスカイパーフェクト・コミュニケーションズ(後の[[スカパーJSAT]])、[[幻冬舎]]などを引受先とする第三者割当増資を行なう
** 7月 - [[ヤフー (企業)|ヤフー]]、[[コネクトテクノロジーズ]]と携帯電話向け[[電子商取引|EC]]専門の合弁会社を設立
** 9月
*** タカラと[[トミー (企業)|トミー]]の経営統合に参画、「[[タカラトミーエンタメディア]]」(旧:タカラモバイルエンタテインメント)を設立
*** ナムコ(後の[[バンダイナムコエンターテインメント]])から[[日活]]を買収
*** [[TBSラジオ|TBSラジオ&コミュニケーションズ]]、[[田辺エージェンシー]]、幻冬舎と合弁で音楽配信事業への参入を発表
** 11月 - [[TBSテレビ|東京放送(TBS)]]とインターネット上でテレビ番組を配信する新会社を設立することで基本合意。
* [[2006年]]
** 4月 - インターチャネルから音楽事業子会社アイシーアベニュー音楽出版の全株式を取得、子会社化し[[ティー ワイ エンタテインメント|インデックスミュージック]]に改称。インデックスグループでの音楽・映像事業の中核会社とする。
=== インデックス・ホールディングス ===
* 2006年
** 6月 - 社名を'''株式会社インデックス・ホールディングス'''に変更し、持株会社制に移行。同時に株式会社インデックス(新)を設立し、旧インデックスの全事業を移譲
** 10月 - 同窓会支援サービスの[[ゆびとま]]を運営する株式会社ゆびとまの株式について、[[日本スポーツ出版社]](のちに経営幹部が逮捕)からの株式譲渡の基本合意を発表<ref>{{Cite press release|和書|title = インデックス・ホールディングス、国内No.1同窓会支援の自主参加型コミュニティサイト「この指とまれ!」を運営する、『株式会社ゆびとま』を子会社化 SNS事業を大幅に拡大し、グループ会社間シナジーを早期に創出|publisher = インデックス(旧インデックス・ホールディングス)|date = 2006-10-30|url = http://www.index-hd.com/press/?p=124|accessdate = 2012-08-19}}</ref>
** [[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]](旧社)の株式公開買い付けによる子会社化を発表
** 11月 - 条件面で折り合いがつかず、日本スポーツ出版社とのゆびとま株式譲渡に関する基本合意を解消<ref>{{Cite press release|和書|title = 「株式会社ゆびとま」株式譲受に関する基本合意 解消のお知らせ|publisher = インデックス(旧インデックス・ホールディングス)|date = 2006-11-09|url = http://www.index-hd.com/press/?p=121|accessdate = 2012-08-19}}</ref>。[[GMO NIKKO|NIKKO]]からモバイル・メディアレップ[[モビィリード]]を子会社[[インデックス・ミーメディア]]を通じて90%株式を取得
* [[2007年]]
** 3月 - [[ガイアックス]]からオンラインゲーム事業を分社した[[UTDエンターテインメント]]の発行済み全株式を取得
** 5月 - 子会社ネットインデックス(後のネクス)が[[ジャスダック]]に上場
** 6月 - [[ネオ・インデックス]]の全株式を株式会社イビサに売却
* [[2008年]]
** 2月 - [[タカラトミー]]を引受先とした第三者割当増資を行い、株式を相互に持ち合うこととなる
** 4月 - 所有していた[[学研ホールディングス|学習研究社]]の株式流出を巡り、会社に対する恐喝未遂で暴力団組長らが逮捕される
* [[2009年]]
** 1月 - 日活の株式の一部(発行済み株式の34.0%)を[[日本テレビ放送網]]に譲渡し、子会社から持分法適用関連会社とする(同年4月に持分法適用関連会社からも除外)
** 3月 - [[日本振興銀行]]と株式相互保有による資本提携<ref name="TDB" />
** [[5月20日]] - データスタジアムの全株式(53.12%)を[[博報堂DYメディアパートナーズ]]に譲渡
* [[2010年]]
** 1月 - [[中小企業振興ネットワーク]]に加盟<ref name="TDB" />
** [[5月10日]] - 株式交換により株式会社アトラスを完全子会社化
** 7月 - 日本振興銀行の経営悪化に伴い中小企業振興ネットワーク脱退<ref name="TDB" />
** 9月10日 - 日本振興銀行破綻。 保有株式の減損処理が必要となる。
=== インデックス(第2次) ===
* 2010年
** 10月1日 - 子会社の株式会社インデックスと株式会社アトラス(旧社)を吸収合併し、事業会社に戻る(アトラスのブランドはゲーム事業として継続する)。
** 12月1日 - 株式会社インデックス・ホールディングスから'''株式会社インデックス'''に商号変更。
* [[2011年]]
** [[7月5日]] - グルノーブル・フット38の運営から撤退。
** この頃日本振興銀行の持つ当社の株式や債権は[[整理回収機構]]に売却された。
* [[2012年]]
** [[7月17日]] - ネットインデックス(後のネクス)が第三者割当増資と債務の株式化を行い、子会社から持分法適用関連会社となる。
* [[2013年]]
** [[4月15日]] - 2013年8月期連結決算で[[債務超過]]となる。同時に[[大阪証券取引所]]がインデックス株式を監理銘柄に指定<ref name="itmedia20130415" />。
** [[5月30日]] - ネクスの一部株式を譲渡し、持分法適用関連会社から除外。欧州子会社のインデックス・マルチメディアが更生手続きに移行し連結子会社から除外。
** [[6月12日]] - [[循環取引]]を用いた[[粉飾決算]]の疑いで、[[証券取引等監視委員会]]が強制調査を実施<ref>{{Cite web|和書|url = http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130612/k10015238371000.html|title = 人気ゲーム会社に粉飾決算の疑い|publisher = 日本放送協会|date = 2013-06-12|accessdate = 2013-06-12}}</ref>。
=== 民事再生法申請 - 破産手続開始決定 ===
* 2013年
** [[6月27日]] - [[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[民事再生手続]]開始を申し立て([[倒産]])。負債額245億円<ref name="TDB" />。
** [[7月4日]] - 東京地裁から民事再生手続開始決定を受ける<ref name="ketei" /><ref name="saisei" />。
** [[7月12日]] - 平成25年8月期第3四半期報告書が提出期限である7月16日までに提出が不可能であることを発表<ref>[http://ke.kabupro.jp/tsp/20130712/140120130712091001.pdf 平成25年8月期第3四半期報告書提出遅延に関するお知らせ] インデックス(旧法人)2013年7月12日 </ref>。
** [[7月28日]] - 上場廃止<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.ose.or.jp/news/23981|title = 株式の上場廃止等の決定:(株)インデックス|publisher = 大阪証券取引所|date = 2013-06-27|accessdate = 2013-06-29}}</ref>。
** [[9月18日]] - 民事再生手続に伴うスポンサー選定手続において[[セガ]]をスポンサーに選定。同時にインデックスのデジタルゲーム事業・コンテンツ&ソリューション事業・アミューズメント事業の大半と関連事業を2013年11月1日付で[[iXIT|セガドリーム]]へ譲渡する契約を締結<ref name="index20130918" /><ref name="segasammy" /><ref name="inside" />。
** 11月1日 - [[新旧分離]]を実施するとともに<ref name="mantan20131101" />、セガドリームから商号変更したインデックス(新社、後にアトラス〈新社〉とインデックス〈2代目、後のiXIT〉へ会社分割)へ全事業を譲渡<ref name="oldindex20131101" /><ref name="famituu" /><ref name="sega20131101" />。旧:インデックス(以下「旧社」)は民事再生手続を継続。同時に事業を停止し、旧社の債務管理会社へ移行<ref name="index20131101" />。
** 11月5日 - 東京地裁から旧社に関する再生計画案提出期限が、2013年11月5日から2014年2月5日までの伸長が認められる<ref name="oldindex20131105" />。
* [[2014年]]
** 1月 - 旧社の本社を[[キャロットタワー]]から新日本池尻ビル8階へ移転。
** 2月5日 - 東京地裁から旧社に関する再生計画案提出期限が、2014年2月5日から2014年5月9日までの伸長が認められる<ref name="oldindex20140205" />。
** 4月 - 旧社元役員が、[[東京地方検察庁|東京地検]]が旧社の粉飾決算疑惑に関して任意で事情聴取を受ける<ref name="nikeei20140424" />。旧社による[[金融商品取引法]]違反の調査で、2011年8月期より連結ベースで債務超過になっていた事や、2011年11月時点でジャスダック上場廃止基準(有価証券報告書の虚偽記載)に該当していたことも判明。
** 4月30日 - 東京地裁から民事再生手続廃止並び保全管理命令を受ける<ref name="oldindex20140430" /><ref name="haisi" /><ref name="tdb" />。
** 5月28日 - 東京地検特捜部が金融商品取引法違反の容疑で旧社の会長と社長を逮捕<ref name="taiho" />。
** 6月17日 - 東京地検特捜部が金融商品取引法違反の罪で旧社の会長と社長を起訴。旧社は起訴猶予処分<ref name="nikkei20140617" />。
** 7月31日 - 東京地裁から[[破産手続]]開始決定を受ける<ref name="oldindex20140801" /><ref name="hasan" />。
* [[2015年]]
** 6月8日 - 東京地裁で元会長と元社長の初公判が開かれる<ref name="sankei20150608" /><ref name="nikkei20150608" />。
* [[2016年]]
** 6月14日 - 東京地裁における第一審で、元会長と元社長に対して第一審判決が言い渡される。判決はそれぞれ懲役3年、執行猶予4年<ref name="asahi20160314" /><ref name="jiji20160614" /><ref name="asahi20160614" />。
** 8月3日 - 東京地裁から破産手続結了の決定を受ける。同時に法人格消滅<ref name="syoumetu" />。
* [[2017年]]
** 11月7日 - [[東京高等裁判所|東京高裁]]における第二審で、元会長と元社長に対して第二審判決が言い渡される。判決は東京地裁における第一審判決を支持し、元会長と元社長の控訴を棄却<ref name="nikkei20171107" /><ref name="sankei20171107" />。
== かつての関連会社 ==
* GEO-BB→エンタウェイブ(ゲオとの合弁) - 2008年解散
* UTDエンターテインメント([[オンラインゲーム]]の企画・開発・運営。旧[[ガイアックス]]オンラインゲーム事業部門) - 2008年解散
* インデックスキャスティング(音楽配信事業。TBSラジオ他との合弁) - 2008年解散
* インデックス・ミーメディア(インターネット広告代理店) - 2008年吸収合併
* インデックスミュージック(音楽・映像ソフト事業) - 2008年、株式譲渡によりグループ離脱(後の[[ティー ワイ エンタテインメント]])
* [[タカラトミー]] - 2008年、株式一部譲渡によりグループ離脱。
* インデックス・コミュニケーションズ(出版事業) - 2009年8月期に株式譲渡によりグループ離脱(後の[[ジャック・メディア・キャピタル]])。
* テック・インデックス(インターネットソリューション事業。インデックス・ソリューションズとスリー・エー・システムズ(旧学研グループ)が合併して発足) - 2009年、株式譲渡によりグループ離脱(後の[[ティックス]])
* [[東京テレビランド]](旧社、[[テレビショッピング]]番組の制作、通信販売事業) - 2009年、株式譲渡によりグループ離脱(2017年4月に同名の新会社に通信販売事業を譲渡し、旧:東京テレビランドはクリエイティブランドへ商号変更)
* インデックス(携帯電話向けコンテンツ事業。旧インデックスの事業部門を運営) - 2010年吸収合併。2013年11月に[[iXIT|インデックス]](新社、2014年4月に新:インデックス〈2代目〉へ会社分割)へ事業譲渡(後のiXIT)。
* [[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]](旧社、コンピュータゲームソフトウェアの開発・発売、アミューズメント施設の運営。タカラトミー傘下から移動) - 2010年吸収合併。2013年11月に新:インデックス(後のアトラス〈新社〉)へ事業譲渡。
* [[日活]] - 日本テレビや[[アミューズメントメディア総合学院]]、[[スカパーJSATグループ]]にすべての株式を売却しグループ離脱
* [[マッドハウス]] - 2011年、日本テレビに対し第三者割当増資を行い、グループ離脱。
* [[ロッソインデックス]] - 2011年、株式会社シィファクトリィに大半の株式を売却しグループ離脱し、2013年7月解散。
* [[テモ]] - 2012年吸収合併
* [[ネクス]](通信機器等の製造販売、[[PHS]]データ通信カードの開発製造事業。旧・本多エレクトロン→ネットインデックス) - 2012年、第三者割当増資と[[デットエクイティスワップ]]により持分法適用関連会社へ。2013年、株式譲渡により持分法適用関連会社からも除外。旧:インデックスの破産手続開始後の2015年1月に保有する全株式を売却<ref>[https://www.ncxx.co.jp/wp/wp-content/uploads/2015/02/e3b1bea61ff3a86b01891ba91bb1ee01.pdf 株式会社インデックス保有の普通株式の売却完了について] ネクス 2015年2月13日</ref>。
* [[インデックス・マルチメディア]] - 2013年更生手続き開始。
* [[インデックス・アミューズメント]](CG立体映像等の販売、アミューズメント事業、コンテンツの企画開発、展示会施設・アトラクションの設計・施工、イベントプロデュース) - 2013年12月、ダイナモピクチャーズ(後の[[ニンテンドーピクチャーズ]])にすべての株式を売却しグループ離脱(後のダイナモアミューズメント)。
* [[アトラス (ゲーム会社)#Atlus U.S.A.|インデックス・デジタルメディア]](北米・欧州で家庭用ゲームソフトの販売、ライセンス) - 2013年11月に新:インデックス(後のアトラス〈新社〉)へ事業譲渡(後のAtlus U.S.A.)。
* インデックス・ライツ
* [[インターチャネル]](旧[[日本電気|NEC]]グループ)
* [[デックスエンタテインメント]](映像ソフトの企画・制作・販売、オンラインゲームの企画・運営事業)
* [[学研インデックス]]([[学研ホールディングス|学研]]との合弁)
* [[ライトウェイト (ゲーム会社)]](旧[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]→[[元気 (ゲーム会社)|元気]]子会社)
* [[ダイナモピクチャーズ]]- 2011年、事業譲渡によりグループ離脱。
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20160821032832/index-corp.jp/ 株式会社インデックス] - ウェイバックマシン(2016年8月21日のキャッシュ)
{{Normdaten}}
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[[Category:かつて存在した東京都の企業]]
[[Category:かつて存在した日本のコンピュータゲームメーカー]]
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[[Category:経営破綻した企業(東京都)]]
[[Category:1995年設立の企業]]
[[Category:2001年上場の企業]]
[[Category:2016年廃止の企業]]
[[Category:2014年の日本の事件]]
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材料力学
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材料力学(ざいりょうりきがく。英語: strength of materials、mechanics of materials)は応用力学の一分野で、機械や構造物、固体材料に負荷が加わったときの変形、そして破壊の原理を研究する学問である。
「材料力学」は、必要な環境下での材料の変形・破損・破壊特性を知るための学問である。実際の機械や構造物にどのような荷重が負荷し、それにより部材にどのような応力や変形が生じるかを調査・解析し、理論と実験の両面から材料と構造の健全性評価を取り扱うものである。
狭義の材料力学は、弾性力学に立脚した固体の弾性解析のうち、棒や軸などの一次元の構造や一次元の部材を組み合わせた単純な構造物の強度設計ならびに剛性設計を行うための基礎的な学問分野を指す。棒の引っ張りと圧縮、軸のねじり、はり(梁)の曲げとたわみ、柱の座屈といった一次元構造物の比較的単純な変形を想定し、荷重やモーメントなどの外力が負荷する場合の構造物の変形を取り扱う。大学の講義としての材料力学は、概して狭義の定義に従う場合が多い。土木工学・建築学における構造力学の内容も、この狭義の材料力学の内容に近い。構造力学と狭義の材料力学との違いは、材料力学では主に一つの構成部材を対象として変形や応力を解析することが多いのに対し、構造力学では複数の連結された部材からなる構造物の変形や応力を主な評価対象とする点である。このため、材料力学は構造力学の基礎の一つといえる。
広義の材料力学は,二次元・三次元の固体構造物の変形を扱う弾性力学・固体力学や、切欠きやき裂の健全性を評価する材料強度学・破壊力学、材料の非線形・非弾性変形を扱う弾塑性力学・粘弾性力学まで含んだ広い領域を指す。近年では固体力学における構造解析にはもっぱら有限要素法が用いられるので,有限要素法や境界要素法などの数値解析を含む学問領域も広義の材料力学に含まれると言える。さらにはひずみゲージやデジタル画像相関法等を用いたひずみ測定理論、超音波やX線を用いた材料・構造の非破壊検査技術、光弾性法や赤外線を用いた応力の可視化技術等も広義の意味で材料力学の範疇に含まれる。
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材料力学は応用力学の一分野で、機械や構造物、固体材料に負荷が加わったときの変形、そして破壊の原理を研究する学問である。
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'''材料力学'''(ざいりょうりきがく、{{Lang-en|strength of materials, mechanics of materials}})は[[応用力学]]の一分野で、[[機械]]や[[構造物]]、[[固体]]材料に[[荷重]]が加わったときの[[変形]]、そして[[破壊]]の[[原理]]を研究する[[学問]]である。
== 広義と狭義 ==
「材料力学」は、必要な環境下での材料の変形・破損・破壊特性を知るための学問である。実際の機械や構造物にどのような荷重が負荷し、それにより部材にどのような[[応力]]や[[変形]]が生じるかを調査・解析し、理論と実験の両面から材料と構造の健全性評価を取り扱うものである{{Sfn|日本機械学会|2007a|pp=467-468}}。
狭義の材料力学は、弾性力学に立脚した固体の弾性解析のうち、棒や軸などの一次元の構造や一次元の部材を組み合わせた単純な構造物の強度設計ならびに剛性設計を行うための基礎的な学問分野を指す。棒の引っ張りと圧縮、軸のねじり、はり(梁)の曲げとたわみ、柱の座屈といった一次元構造物の比較的単純な変形を想定し、荷重やモーメントなどの外力が負荷する場合の構造物の変形を取り扱う{{Sfn|中原|1965}}{{Sfn|中原|1966}}{{Sfn|日本機械学会|2007b}}{{Sfn|荒井|後藤|2021}}。大学の講義としての材料力学は、概して狭義の定義に従う場合が多い。[[土木工学]]・[[建築学]]における[[構造力学]]の内容も、この狭義の材料力学の内容に近い。構造力学と狭義の材料力学との違いは、材料力学では主に一つの構成部材を対象として変形や応力を解析することが多いのに対し、構造力学では複数の連結された部材からなる構造物の変形や応力を主な評価対象とする点である。このため、材料力学は構造力学の基礎の一つといえる。
広義の材料力学は,二次元・三次元の固体構造物の変形を扱う弾性力学・固体力学や、切欠きやき裂の健全性を評価する[[材料強度学]]・[[破壊力学]]、材料の非線形・非弾性変形を扱う弾塑性力学・粘弾性力学まで含んだ広い領域を指す。近年では固体力学における構造解析にはもっぱら[[有限要素法]]が用いられるので,[[有限要素法]]や[[境界要素法]]などの数値解析を含む学問領域も広義の材料力学に含まれると言える。さらにはひずみゲージやデジタル画像相関法等を用いたひずみ測定理論、超音波やX線を用いた材料・構造の非破壊検査技術、光弾性法や赤外線を用いた応力の可視化技術等も広義の意味で材料力学の範疇に含まれる。
== 主な内容 ==
* 応力とひずみ
* 材料の機械的性質
* 一次元部材の引張と圧縮
* [[熱応力]]
* 軸のねじり
* はりの曲げ
* 長柱の[[座屈]]
* [[主応力]](モールの応力円)
* ひずみエネルギー([[カスティリアノの定理]])
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author1=荒井政大 |author1-link=荒井政大 |author2=後藤圭太 |year=2021 |editor=日本機械学会 |title=基礎からの材料力学 |series=JSMEやさしいテキストシリーズ |publisher=[[森北出版]] |isbn=978-4-627-68111-8 |ref={{SfnRef|荒井|後藤|2021}}}}
* {{Cite book |和書 |author=中原一郎 |year=1965 |title=材料力学 上巻 |publisher=養賢堂 |isbn=978-4-8425-0114-7 |ref={{SfnRef|中原|1965}}}}
* {{Cite book |和書 |author=中原一郎 |year=1966 |title=材料力学 下巻 |publisher=養賢堂 |isbn=978-4-8425-0115-4 |ref={{SfnRef|中原|1966}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=日本機械学会 |year=2007a |title=機械工学辞典 |publisher=丸善出版 |edition=第2版 |isbn=978-4-88898-083-8 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=日本機械学会 |year=2007b |title=材料力学 |series=JSMEテキストシリーズ |publisher=丸善出版 |isbn=978-4-88898-158-3 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[力学]]
* [[静力学]]
* [[材料強度学]]
* [[構造力学]]
* [[破壊力学]]
* [[材料工学]]
* [[機械工学]]
== 外部リンク ==
* {{機械工学事典|id=07:1004633}}
* {{Kotobank}}
* [https://jrecin.jst.go.jp/html/compass/e-learning/31-258/index.html 材料力学基礎知識コース] - 研究人材のためのe-learning([[科学技術振興機構]])
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制御工学
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制御工学(せいぎょこうがく、英:control engineering)とは、入力および出力を持つシステムにおいて、その(状態変数ないし)出力を自由に制御する方法全般にかかわる学問分野を指す。主にフィードバック制御を対象にした工学である。
大別すると、制御工学は、数理モデルに対して主に数学を応用する制御理論と、それを実モデルに適用していく制御応用とからなる。応用分野は機械系、電気系、化学プロセスが中心であるが、ものを操ることに関する問題が含まれれば制御工学の対象となるため、広範な分野と関連がある。
制御理論は数理モデルを対象とした、主に数学を用いた制御に関係する理論である。 いずれの理論もモデルの表現方法、解析手法(安定性など)、制御系設計方法の三本柱を与える。
多数の制御理論が提唱されているが、主なものは「古典制御論」と「現代制御論」(英: Modern control theory)の2つであり、この他には「ポスト現代制御論」、「知的制御」(英: Intelligent control)がある。
古典制御論は伝達関数と呼ばれる線型の入出力システムとして表された制御対象を中心に、周波数応答などを評価して望みの挙動を達成することを目的とした理論である。一方、現代制御論は状態方程式と呼ばれる一階の常微分方程式として表現された制御対象に対して、種々の数学的な知見を応用して、安定性、時間応答や周波数応答などを評価して望みの挙動を達成することを目的とする理論である。
詳細は下記を参照されたい。
制御工学は以下のような出来事を経て発展した。
制御系には様々な分類がある。
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制御工学とは、入力および出力を持つシステムにおいて、その(状態変数ないし)出力を自由に制御する方法全般にかかわる学問分野を指す。主にフィードバック制御を対象にした工学である。 大別すると、制御工学は、数理モデルに対して主に数学を応用する制御理論と、それを実モデルに適用していく制御応用とからなる。応用分野は機械系、電気系、化学プロセスが中心であるが、ものを操ることに関する問題が含まれれば制御工学の対象となるため、広範な分野と関連がある。
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'''制御工学'''(せいぎょこうがく、[[英語|英]]:control engineering)とは、入力および出力を持つ[[システム]]において、その([[状態変数]]ないし)出力を自由に制御する方法全般にかかわる学問分野を指す。<ref>Ogata, K., & Yang, Y. (2002). Modern control engineering (Vol. 4). India: Prentice hall.</ref><ref>Nise, N. S. (2020). Control systems engineering. John Wiley & Sons.</ref>主に[[フィードバック]]制御を対象にした[[工学]]である。<!--それはフィードバック制御を対象にした学問であると言っても殆ど誤りではない。-->
大別すると、制御工学は、[[数理モデル]]に対して主に[[数学]]を応用する[[制御理論]]と、それを実モデルに適用していく制御応用とからなる。応用分野は[[機械]]系、[[電気]]系、化学プロセスが中心であるが、'''ものを操ること'''に関する問題が含まれれば制御工学の対象となるため、広範な分野と関連がある。
== 制御理論 ==
[[制御理論]]は[[数理モデル]]を対象とした、主に数学を用いた制御に関係する理論である。<ref>Zabczyk, J. Mathematical Control Theory: An Introduction. Boston, MA: Birkhäuser, 1993.</ref>
いずれの理論も'''モデルの表現方法'''、'''解析手法(安定性など)'''、'''制御系設計方法'''の三本柱を与える。
多数の制御理論が提唱されているが、主なものは「[[古典制御論]]」と「[[現代制御論]]」({{lang-en-short|Modern control theory}}<ref>Brogan, W. L. (1991). Modern control theory. Pearson education India.</ref>)の2つであり、この他には「[[ポスト現代制御論]]」、「[[知的制御]]」({{lang-en-short|Intelligent control}}<ref>Behera, L., & Kar, I. (2010). Intelligent systems and control principles and applications. Oxford University Press, Inc..</ref><ref>Szederkényi, G., Lakner, R., & Gerzson, M. (2006). Intelligent control systems: an introduction with examples (Vol. 60). Springer Science & Business Media.</ref>)がある。
古典制御論は[[伝達関数法|伝達関数]]と呼ばれる線型の入出力システムとして表された制御対象を中心に、[[周波数]]応答などを評価して望みの挙動を達成することを目的とした理論である。一方、現代制御論は[[状態方程式 (制御理論)|状態方程式]]と呼ばれる一階の[[常微分方程式]]として表現された制御対象に対して、種々の数学的な知見を応用して、[[有界入力有界出力安定性|安定性]]、時間応答や周波数応答などを評価して望みの挙動を達成することを目的とする理論である。
詳細は下記を参照されたい。
*[[制御理論]]
**[[古典制御論]]
**現代制御論
***[[線型システム論]]<ref>Zadeh, L., & Desoer, C. (2008). Linear system theory: the state space approach. Courier Dover Publications.</ref>
***[[最適制御理論]]<ref>Kirk, D. E. (2004). Optimal control theory: an introduction. Courier Corporation.</ref><ref>Lee, E. B., & Markus, L. (1967). Foundations of optimal control theory. Minnesota Univ Minneapolis Center For Control Sciences.</ref><ref>{{Scholarpedia|title=Optimal control|url=Optimal_control}}</ref>
**ポスト現代制御論
<!-- 現代制御論が熟成された後は[[制御理論#ポスト現代制御論|ポスト現代制御論]]としてモデル化誤差に対して有効な制御系設計の問題(ロバスト制御問題)や非線型システムの制御問題にシフトし、現在もさかんに研究が行われている。その中でもH<sup>∞</sup>制御理論が最も成功した例であると言える。-->
***[[H∞制御理論|H<sup>∞</sup>制御理論]]
***[[有限時間整定制御]]<ref>新誠一. (1999). 有限時間整定制御と制御理論. 計測と制御, 38(9), 537-540.</ref>
***[[非線型システム論]]<ref>Rugh, W. J. (1981). Nonlinear system theory (pp. 12-90). Baltimore, MD: Johns Hopkins University Press.</ref>
***[[適応制御]]<ref>Åström, K. J., & Wittenmark, B. (2013). Adaptive control. Courier Corporation.</ref><ref>Sastry, S., & Bodson, M. (2011). Adaptive control: stability, convergence and robustness. Courier Corporation.</ref><ref>Landau, I. D., Lozano, R., M'Saad, M., & Karimi, A. (2011). Adaptive control: algorithms, analysis and applications. Springer Science & Business Media.</ref>
***[[ハイブリッドシステム]]
***[[モデル予測制御]]
**知的制御
***[[ファジィ制御]]<ref>Passino, K. M., Yurkovich, S., & Reinfrank, M. (1998). Fuzzy control (Vol. 42, pp. 15-21). Menlo Park, CA: Addison-wesley.</ref><ref>Driankov, D., Hellendoorn, H., & Reinfrank, M. (2013). An introduction to fuzzy control. Springer Science & Business Media.</ref><ref>{{Scholarpedia|title=Fuzzy control|url=Fuzzy_control}}</ref>
***[[ニューラルネットワーク制御]]<ref>Miller, W. T., Werbos, P. J., & Sutton, R. S. (Eds.). (1995). Neural networks for control. MIT press.</ref>
***[[遺伝的アルゴリズム]]、[[エキスパートシステム]]
==歴史==
制御工学は以下のような出来事を経て発展した<ref name=ito>{{cite|和書 |editor= |author=伊藤正美 |title=自動制御 |edition= |publisher=丸善 |year=1981 |isbn=4-621-02534-1 |page=3-8}}</ref><ref>{{cite|和書 |editor= |author=足立修一 |title=制御工学の基礎 |edition= |publisher=東京電機大学出版局 |year=2016 |isbn=978-4-501-11750-4 |page=110, 214}}</ref>。
* 1788年、[[ジェームズ・ワット]]が蒸気機関の回転速度を調整するのに遠心[[調速機]]を使用したのが自動制御の始まりと言われる。
* 古典制御 (19世紀~1960)
** 1868年、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]によって[[ハンチング]]現象の理論的解明が行われ、[[フィードバック]]制御の安定性問題が考えられていった。
** [[エドワード・ラウス]] (1877)と[[アドルフ・フルヴィッツ]] (1895)により、フィードバック制御の安定性問題の解決が与えられた([[ラウス・フルビッツの安定判別法]])。
** 20世紀になると産業が発展し[[自動化]]に対する要求が高まっていった。そのため、個々の分野で使われてきたフィードバック制御を共通の概念で説明しようとする機運が高まった。
** 1932年、[[ハリー・ナイキスト]]の再生理論によって、フィードバック増幅器の安定判別法が与えられた。これはラウス・フルビッツの方法とは異なり周波数特性に基づいている。
** {{日本語版にない記事リンク|ヘンドリック W. ボード|en|Hendrik Wade Bode|}}はこの周波数特性に基づいた方法を継承し、設計法にまで発展させた。
** 1950年代後半以降、より大規模・複雑なシステムが制御の対象となり、また制御目的が多様化した。たとえば、定常状態における最適点を逐次探索保持する最適化制御が[[数理計画法]]と結びついて発展した。
** [[レフ・ポントリャーギン]]の最大原理 (1956) と[[リチャード・E・ベルマン]]の[[動的計画法]] (1956) を基礎に、動的な最適軌道を計算する[[最適制御]]理論が構築された。これはロケットの誘導などに用いられる。
* 現代制御 (1960~1980)
** 1960年代、[[ルドルフ・カルマン]]により、[[伝達関数]]による記述からより一般的な[[状態方程式 (制御理論)|状態方程式]]にもとづく[[制御理論#現代制御論|現代制御理論]]が提案され、[[線形システム論]]・[[多変数制御理論]]が体系化された。
* ポスト現代制御 (1980~2000)
* 非線形制御 (2000~)
==分類==
制御系には様々な分類がある<ref name=ito/>。
* 自力制御 と 他力制御:操作量を発生させるために必要なエネルギーを制御対象から得るか、補助エネルギー源から得るかによる。
* 工業的応用分野
*; [[自動調整]]:被制御量を一定に保つこと(定値制御)を目的とする。
*; [[サーボ機構]]:被制御量を、目標値の任意の変化に追従させること(追値制御、追従制御または[[自動追尾]])を目的とする。
*; [[プロセス制御]]:定値制御、または複数の被制御量の比率を一定に保つこと(比率制御)を目的とする。
* 連続制御 と サンプル値制御:サンプル値制御においては[[z変換]]などが用いられる。
* [[最適化制御]] と [[最適制御]]
*; 最適化制御:系の定常状態を、最適な(効率や収益が最大化される)状態に保持する制御。手法としては[[最大傾斜法]]、[[頂点保持法]]など。
*; 最適制御:動的最適化のための制御。手法としては[[最大原理]]や[[動的計画法]]など。
==脚注==
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|制御システム}}
*制御理論
**[[関数解析学]]([[ラプラス変換]]、[[デルタ関数]]、[[Z変換]])、[[線型代数学]]([[行列 (数学)|行列]])、[[力学系]]、[[計算機科学]]、[[最適化問題]]、[[微分幾何学]]、[[状態空間 (制御理論)|状態空間]]
*制御応用
**[[化学工学]]、[[機械工学]]、[[電子工学]]、[[電気工学]]、[[電力工学]]、[[経営システム工学]]、[[メカトロニクス]]、[[ロボット工学]]、[[計測工学]]、[[電気計測工学]]、[[航空工学]]、[[船舶工学]]、[[システム工学]]、[[プロセスシステム工学]]、[[情報システム工学]]、[[情報工学]]、[[システム同定]]
=== 制御応用の用語 ===
*[[サーボ系]]
*[[ロボット]]
*[[デジタル制御工学]]
*[[シーケンス制御]]
*[[プロセス制御]]
=== 制御工学の用語 ===
*[[ボーデ線図|ボード線図]]
*[[ナイキスト線図]](ベクトル軌跡)
*[[ニコルス線図]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* 『[https://sites.google.com/view/control-engineering 制御工学チャンネル]』
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自動車工学
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自動車工学(じどうしゃこうがく、英語:automotive engineering)は、機械工学の一分野。自動車の各構成部分の原理、 構造、設計、製造にわたる広い範囲についての研究を行う。本稿は自動車工学を学べる教育機関の一覧である。
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自動車工学は、機械工学の一分野。自動車の各構成部分の原理、 構造、設計、製造にわたる広い範囲についての研究を行う。本稿は自動車工学を学べる教育機関の一覧である。
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'''自動車工学'''(じどうしゃこうがく、[[英語]]:automotive engineering)は、[[機械工学]]の一分野。[[自動車]]の各構成部分の原理、 構造、設計、製造にわたる広い範囲についての研究を行う。本稿は自動車工学を学べる教育機関の一覧である。
== 自動車工学を学べる学校 ==
=== 大学院 ===
*[[東京電機大学|東京電機大学大学院]][[工学研究科]]([[博士前期課程]])及び[[先端科学技術研究科]]([[博士後期課程]])先端自動車工学研究室
* [[九州工業大学|九州工業大学大学院]] [[生命体工学研究科]]
* [[北九州市立大学|北九州市立大学大学院]] [[国際環境工学研究科]]
* [[早稲田大学|早稲田大学大学院]] [[情報生産システム研究科]] 北九州学術研究都市連携大学院カーエレクトロニクスコース
* [[久留米工業大学|久留米工業大学大学院]] 工学研究科 自動車システム工学専攻
* [http://www.ifs.kyushu-u.ac.jp/ams 九州大学大学院 統合新領域学府 オートモーティブサイエンス専攻]
=== 大学 ===
*[[東京電機大学]] [[理工学部]]
**理工学科 電子・機械工学系 自動車工学研究室
* 東京電機大学 [[工学部]]
**先端機械工学科 先端自動車工学研究室
* [[東京都市大学]] [[工学部]]
** 機械工学科(自動車工学コース)
* [[東海大学]] [[工学部]]
** 動力機械工学科
* [[名城大学]] [[理工学部]]
** 交通機械工学科
* [[大阪工業大学]] [[工学部]]
** 機械工学科(自動車振動・音響研究室および自動車内燃機関研究室)
** 電気電子システム工学科(パワーエレクトロニクス研究室〜電気自動車EV充電システム)
* [[大阪産業大学]] [[工学部]]
** 交通機械工学科
* [[久留米工業大学|久留米工業大学 工学部]]
** 交通機械工学科
* [[神奈川工科大学]] [[創造工学部]]
** 自動車システム開発工学科
=== 短期大学 ===
* [[北海道自動車短期大学]]
* [[新潟工業短期大学]]
* [[高山自動車短期大学]]
* [[中日本自動車短期大学]]
* [[愛知工科大学自動車短期大学]]
* [[大阪産業大学短期大学部]]
* [[徳島工業短期大学]]
* [[広島国際学院大学自動車短期大学部]]
=== 高等学校 ===
*[[宇部鴻城高等学校]]
**[[工業科|工業に関する学科]]入学後2年次より自動車工学科を選択
== 関連項目 ==
* [[自動車整備士]]
* [[自動車]]
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サスペンション
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サスペンション(英: Suspension)または懸架装置(けんかそうち)は、主に車両において、路面の凹凸を車体に伝えない緩衝装置としての機能と、車輪・車軸の位置決め、車輪を路面に対して押さえつける機能を持つことで、乗り心地や操縦安定性などを向上させる機構。その他の機械類における、防振機構(インシュレーター)のことを指す場合もある。
黎明期以来さまざまな方式のサスペンションが考案され実用化されているが、一般的な自動車のサスペンションは、基本的構成として車軸の位置決めを行うサスペンションアーム、車重を支えて衝撃を吸収するスプリング、スプリングの振動を減衰するショックアブソーバー(ダンパー)で構成される。欧米ではスプリングとショックアブソーバーが一体となった部品をコイルオーバー (英: Coilover) と称することもある。
乗用車(特にフロント)では、低コストなストラット式サスペンション(マクファーソン・ストラット式)が最も多く用いられている。乗り心地の向上やタイヤの接地条件やクルマの姿勢(ロールセンターやアンチダイブ、アンチスクワットなど)を細かく制御する目的で、ジオメトリー自由度の大きいダブルウィッシュボーン式や、さらなる安定性を得るためにマルチリンク式なども多く用いられている。
サスペンションの特性は同じ方式でも一様ではなく、使われる部品の固さや寸法に大きく依存する。一般に「サスペンションが硬い」と表現されるものは、車重に比してばね定数が高い場合やダンパーの減衰力が高い場合が多い。サスペンションが柔らかい方が路面の凹凸による衝撃を吸収しやすく、乗り心地を重視する乗用車ではサスペンションが柔らかくされる傾向にあり、スポーツカーやレーシングカーなどの自動車では旋回時や加減速時の車体挙動を抑えるためにサスペンションは硬くされる傾向がある。俗に「サスペンションがへたる」と表現される現象は、ほとんどの場合はショックアブソーバーの減衰力が低下したり、サスペンションアームの軸部に用いられているブッシュの弾力性が失われたりすることで発生する。
懸架方式は大きく分けて車軸懸架(リジッドアクスル・サスペンション)、独立懸架(インディペンデント・サスペンション)、可撓梁式(トーションビーム式サスペンション)に分類される。単純な緩衝機能に留まらず、外力に対して車両の姿勢を積極的に制御し、安定させるシステムとしてアクティブサスペンションやセミアクティブサスペンションがある。それに対し、旧来の懸架装置はパッシブサスペンションと呼ばれるようになった。
車軸懸架方式は左右の車輪を車軸(アクスル)で連結したサスペンション形式で、馬車時代から続く長い歴史を持つ。Rigid Axle Suspensionの和訳から「固定車軸」懸架方式と呼ばれる事があるが、「フレームや車体に固定された車軸」ではなく「左右の車輪の位置関係を固定する車軸」の意味である。
特に駆動輪に用いる場合は、ドライブシャフトがアクスルハウジング(アクスルチューブ)に覆われており、ドライブシャフトに角度を持たせるための軸継手を必要としないため、構造が簡単で耐久性が高い。左右の車輪が常に同軸上に保たれているため、車体がロールした際の対地キャンバーの変化が少ない。ホイールトラベル(ストローク)を大きく設計しやすいため、起伏の大きな路面状況での車輪の接地を保ちやすい。駆動輪の場合でもデファレンシャルが車軸上(ばね下)にあるため、その振動・騒音が車室内に伝わりにくい。
反面、ばね下重量が重くなる傾向にあり、速度が高くなると路面追従性や乗り心地が悪くなる。またロールセンターが高くなりがちで、旋回による車体のローリングが大きいなどの短所がある。
大型自動車、商用車、クロスカントリー車での採用例が多く、特にそれらの駆動輪で用いられる。かつては一般的な乗用車でも、特に後輪に多く用いられ続けたが、多くは後輪駆動から前輪駆動へと切り替わる際に別方式とされ、後輪駆動のままの車種でも順次下記の独立懸架方式に置き換わっている。
車軸懸架方式を細分化すると次のように分類される。
独立懸架とはIndependent Suspentionの和訳で、左右の車輪が独立して動作するサスペンション形式である。固定車軸方式に比べ、車軸を持たない事でばね下重量が軽いために乗り心地や路面追従性に優れ、また車軸の揺動空間が不要なためにフレームや車室の床を低くすることができる。特に駆動輪に用いる場合にはデファレンシャルやドライブシャフトが車軸に加わるために上記の長所がより顕著になり、さらにデファレンシャルがエンジンの直下に配置される車種ではエンジン搭載位置も低くすることができる。またリンク機構を用いているために、ストローク時のジオメトリーを操縦安定性が向上するように設計することが可能である。一方で、部品点数が多く、製造費用や整備費用が高くなりやすい。またサスペンションアームの寸法の制約により、ストロークが短くなる傾向にある。さらに駆動輪に用いる場合、ばね上の車体に取り付ける事になるデファレンシャルの振動・騒音が車室内に伝わりやすくなる。
スポーツカーやレーシングカーに留まらず、現在では、一般的な乗用車や中型以下の貨物車のほか、観光バス・高速バスなど一部の中・大型バスでもフロントサスペンションに独立懸架が採用されている。乗用車では、FF、FRとも上級車や高級車はリア・サスペンションにも独立懸架が多く用いられ、後輪固定車軸車との差別化のため、インディペンデント・リア・サスペンション (Independent Rear Suspention:後輪独立懸架) の頭文字をとった「IRS」を商標に取り入れたりカタログで強調していた時期もあった。
独立懸架方式を細分化すると次のような方式に分けられる。
トーションビーム式サスペンションは、左右の車輪がねじれ(トーション)を許容する梁(ビーム)で結ばれている構造で、独立懸架ほどではないが、車軸懸架よりも左右の車輪に自由度が与えられている。前輪駆動車(FF車)の後輪やトレーラーなどに採用されている。特に、FFが多いコンパクトカーや軽自動車の後輪用では主流となっている。
トーションビーム式を細分化すると次のような方式に分けられる。
キャブオーバー型の大型貨物自動車のなかには、車軸のサスペンション以外にフレームとキャビンの間に緩衝装置を設けるキャブサスペンションを持つ物が多い。日本製トラックでは1981年(昭和56年)に日野自動車製の車両で初めて導入された。キャブサスペンションはコイルばねや空気ばね、懸濁液方式などが用いられており、車軸のサスペンションの耐荷重性能強化と乗り心地の向上という相反する要素を両立するために採用されている。エンジン出力や積載量の割にホイールベースが短い牽引自動車のトラクターでは、キャブのピッチングを抑えることができる。
トラック、バス、四輪駆動車、建設機械、農業機械などでは、運転席が緩衝装置で支持されているサスペンションシートが採用されている物もある。ドライバーの任意でばねのプリロードを調整でき、不要な場合はロック(固定)できる。
キャタピラで走行する車両は主に建機・農機の他、戦車など戦闘車両がある。キャタピラ走行装置はサスペンションを付加すると部品点数が激増しコストや整備性の点から建機や農機では速度を妥協してサスペンションは一般に備えない。戦車も開発された当時はほとんど農業トラクターと同様の構造でサスペンションは存在しないか、ないに等しい状況であったが、特に不整地での機動性向上の要求から各種のサスペンションが考案・実用化された。歴史上存在する戦車に取り入れられたサスペンションとして、リーフスプリング、コイルスプリング、クリスティー式、トーションバー式、油気圧式などがある。キャタピラ走行装置は履帯の環の一端についてエンジントルクを伝達する動輪、動輪の反対側につく誘導輪、動輪と誘導輪の間に配列され荷重を分散させる転輪で構成される。低速の建機や農機では動輪・誘導輪も接地して荷重を受け持つものが多いが、戦闘車両では動輪にサスペンションをつけると構造が複雑化することや、障害物を乗り越えるために動輪・誘導輪は高位置に設けて接地させず、サスペンションは転輪にのみ装備される。
また近年では足回り以外にも、戦闘車両が爆発物によるゲリラ攻撃を受ける機会が激増し、車体は耐えても乗員が衝撃で死傷するリスクを低減するため、座席に緩衝機能を備えることがトレンドになっている。
オートバイに使われるサスペンションは、そのほとんどの形式ではスプリングとショックアブソーバー(ダンパー)が一体のサスペンションユニット(クッションユニット)となっている。自動車と比べると、オートバイではサスペンションスプリングの伸縮による車体のピッチングが大きく、これによる操縦特性への影響が大きい。オートバイでは前輪側と後輪側で異なるサスペンション形式を採用する場合がほとんどである。
オートバイの前輪側サスペンションは、後輪側よりも早い時期から取り入れられていた。歴史的にはガーダーフォークやアールズフォークなどの形式も広く用いられていたが、現在は多くの車種でテレスコピックフォークと呼ばれる形式が採用されている。テレスコピックフォークは、単純な構造で部品点数を少なく作ることができるが、フォークに対して直角方向の荷重に弱いほか、制動時などにフォークのストロークが大きくなる(前のめりになる)とキャスター角の変化が大きくなる短所を持つ。こうした短所を克服するために、ボトムリンク式やテレレバー式などの形式も採用されている。
初期のオートバイには後輪側に緩衝装置が無い車種も多く、代わりにサドルにばねが付けられていたものも多かった。こうした車両の構造はリジッドフレームと呼ばれている。現在では、ほとんどの車種でスイングアーム式が採用されているが、かつてはプランジャー式やハブクッション式といった形式も存在した。
鉄道車両でも軌条(レール)への追従性、車両の安定性、乗り心地や静粛性の向上を目的としてサスペンションが組み込まれているが、自動車とは異なり、舵取り装置が不要で、前後どちらの向きにも同じ速度で運転されることから、自動車とは構造が異なる。ゴムタイヤ方式や超低床電車などを除くと、左右の車輪は車軸と一体の輪軸を採用していて、各軸の軸受けに懸架装置がないと軌道の狂いに対応できず、速度を上げた場合や輪重の不均等が起こった際には脱線につながる。トロッコなどで懸架装置の無いものが見られるが、この場合は左右輪が独立して回転できるようにして車輪がレールへ乗り上げることを防いでいる。
鉄道の黎明期には機関車以外の客車や貨車は二軸車であり、車軸の支持方式は台枠に固定された軸箱守(ペデスタル)を位置決めに用い、緩衝に重ね板ばねを用いていた。これは現在でも二軸貨車などに用いられている。その後、車両の大型化と高速化が進むと固定車軸では対応できなくなり、ボギー台車が生まれた。レールに対する車輪の追従性は軸箱を支持する軸ばねが担い、乗り心地に関しては台車と車体の間に備わる枕ばねが受け持つ分業となった。新幹線では高速走行時の車両の安定化を図るため、JR西日本・500系車両にアクティブサスペンションを取り入れて、300 km/hでの運行を実現した。
自転車においては、起伏の激しい路面を走るマウンテンバイクやダウンヒル競技用のダウンヒルバイク(en:Downhill bike)にサスペンションを装備するモデルが多く、一部のクロスバイクでも装備されている。前後輪ともにサスペンションをもつフレーム構成をフルサスペンション、前輪のみにもつものをハードテイルと呼ぶ。特に高速で起伏の激しい斜面を下るダウンヒルバイクではサスペンションストロークを大きくとったフルサスペンションである場合が多い。一方、サスペンション機構を付加することで車体重量が増え、構成部品にかかる費用が増加することから、安価な軽快車や、軽量性が求められるロードレーサーなどではサスペンションを装備しないものが専らである。
主に事務用の椅子において、人の身体が触れる部分の表層にクッション性と通気性を兼ね備える目的で弾性樹脂でできた網目状の布を用いるものがある。こうした布をサスペンションファブリックと呼び、この布を用いた椅子はSFチェアやメッシュチェアの名で呼ばれる。SFチェアの多くは、鋼もしくは高強度の樹脂を成形した剛性の高いフレームにサスペンションファブリックを張った、簡素な構造を持つ。
建築物の外装材の一種であるカーテンウォールは幅2 m内外、高さ4 - 5 m程度の大判のガラスが用いられる。このガラスには風圧に耐え、人や物が衝突して容易に破損しない耐衝撃性が求められるため、20 mm程度の厚みになり、1枚当たりのガラス重量は数百キログラムになる。一般的なガラス窓ではガラスの重量はサッシ下辺で支えられるが、カーテンウォール用の大判ガラスの重量をサッシ下辺のみで支持することは施工性や費用面で容易ではないため、ガラス上端を吊り金物で挟み、上部構造体の梁やスラブに固定してガラスの重量を分担することで問題を解決している。こうした建築工法をサスペンション工法と呼ぶ。
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"text": "サスペンション(英: Suspension)または懸架装置(けんかそうち)は、主に車両において、路面の凹凸を車体に伝えない緩衝装置としての機能と、車輪・車軸の位置決め、車輪を路面に対して押さえつける機能を持つことで、乗り心地や操縦安定性などを向上させる機構。その他の機械類における、防振機構(インシュレーター)のことを指す場合もある。",
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"text": "黎明期以来さまざまな方式のサスペンションが考案され実用化されているが、一般的な自動車のサスペンションは、基本的構成として車軸の位置決めを行うサスペンションアーム、車重を支えて衝撃を吸収するスプリング、スプリングの振動を減衰するショックアブソーバー(ダンパー)で構成される。欧米ではスプリングとショックアブソーバーが一体となった部品をコイルオーバー (英: Coilover) と称することもある。",
"title": "自動車のサスペンション"
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"text": "乗用車(特にフロント)では、低コストなストラット式サスペンション(マクファーソン・ストラット式)が最も多く用いられている。乗り心地の向上やタイヤの接地条件やクルマの姿勢(ロールセンターやアンチダイブ、アンチスクワットなど)を細かく制御する目的で、ジオメトリー自由度の大きいダブルウィッシュボーン式や、さらなる安定性を得るためにマルチリンク式なども多く用いられている。",
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"text": "サスペンションの特性は同じ方式でも一様ではなく、使われる部品の固さや寸法に大きく依存する。一般に「サスペンションが硬い」と表現されるものは、車重に比してばね定数が高い場合やダンパーの減衰力が高い場合が多い。サスペンションが柔らかい方が路面の凹凸による衝撃を吸収しやすく、乗り心地を重視する乗用車ではサスペンションが柔らかくされる傾向にあり、スポーツカーやレーシングカーなどの自動車では旋回時や加減速時の車体挙動を抑えるためにサスペンションは硬くされる傾向がある。俗に「サスペンションがへたる」と表現される現象は、ほとんどの場合はショックアブソーバーの減衰力が低下したり、サスペンションアームの軸部に用いられているブッシュの弾力性が失われたりすることで発生する。",
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"text": "懸架方式は大きく分けて車軸懸架(リジッドアクスル・サスペンション)、独立懸架(インディペンデント・サスペンション)、可撓梁式(トーションビーム式サスペンション)に分類される。単純な緩衝機能に留まらず、外力に対して車両の姿勢を積極的に制御し、安定させるシステムとしてアクティブサスペンションやセミアクティブサスペンションがある。それに対し、旧来の懸架装置はパッシブサスペンションと呼ばれるようになった。",
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"text": "車軸懸架方式は左右の車輪を車軸(アクスル)で連結したサスペンション形式で、馬車時代から続く長い歴史を持つ。Rigid Axle Suspensionの和訳から「固定車軸」懸架方式と呼ばれる事があるが、「フレームや車体に固定された車軸」ではなく「左右の車輪の位置関係を固定する車軸」の意味である。",
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"text": "特に駆動輪に用いる場合は、ドライブシャフトがアクスルハウジング(アクスルチューブ)に覆われており、ドライブシャフトに角度を持たせるための軸継手を必要としないため、構造が簡単で耐久性が高い。左右の車輪が常に同軸上に保たれているため、車体がロールした際の対地キャンバーの変化が少ない。ホイールトラベル(ストローク)を大きく設計しやすいため、起伏の大きな路面状況での車輪の接地を保ちやすい。駆動輪の場合でもデファレンシャルが車軸上(ばね下)にあるため、その振動・騒音が車室内に伝わりにくい。",
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"text": "反面、ばね下重量が重くなる傾向にあり、速度が高くなると路面追従性や乗り心地が悪くなる。またロールセンターが高くなりがちで、旋回による車体のローリングが大きいなどの短所がある。",
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"text": "大型自動車、商用車、クロスカントリー車での採用例が多く、特にそれらの駆動輪で用いられる。かつては一般的な乗用車でも、特に後輪に多く用いられ続けたが、多くは後輪駆動から前輪駆動へと切り替わる際に別方式とされ、後輪駆動のままの車種でも順次下記の独立懸架方式に置き換わっている。",
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"text": "車軸懸架方式を細分化すると次のように分類される。",
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"text": "独立懸架とはIndependent Suspentionの和訳で、左右の車輪が独立して動作するサスペンション形式である。固定車軸方式に比べ、車軸を持たない事でばね下重量が軽いために乗り心地や路面追従性に優れ、また車軸の揺動空間が不要なためにフレームや車室の床を低くすることができる。特に駆動輪に用いる場合にはデファレンシャルやドライブシャフトが車軸に加わるために上記の長所がより顕著になり、さらにデファレンシャルがエンジンの直下に配置される車種ではエンジン搭載位置も低くすることができる。またリンク機構を用いているために、ストローク時のジオメトリーを操縦安定性が向上するように設計することが可能である。一方で、部品点数が多く、製造費用や整備費用が高くなりやすい。またサスペンションアームの寸法の制約により、ストロークが短くなる傾向にある。さらに駆動輪に用いる場合、ばね上の車体に取り付ける事になるデファレンシャルの振動・騒音が車室内に伝わりやすくなる。",
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"text": "スポーツカーやレーシングカーに留まらず、現在では、一般的な乗用車や中型以下の貨物車のほか、観光バス・高速バスなど一部の中・大型バスでもフロントサスペンションに独立懸架が採用されている。乗用車では、FF、FRとも上級車や高級車はリア・サスペンションにも独立懸架が多く用いられ、後輪固定車軸車との差別化のため、インディペンデント・リア・サスペンション (Independent Rear Suspention:後輪独立懸架) の頭文字をとった「IRS」を商標に取り入れたりカタログで強調していた時期もあった。",
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"text": "独立懸架方式を細分化すると次のような方式に分けられる。",
"title": "自動車のサスペンション"
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"text": "トーションビーム式サスペンションは、左右の車輪がねじれ(トーション)を許容する梁(ビーム)で結ばれている構造で、独立懸架ほどではないが、車軸懸架よりも左右の車輪に自由度が与えられている。前輪駆動車(FF車)の後輪やトレーラーなどに採用されている。特に、FFが多いコンパクトカーや軽自動車の後輪用では主流となっている。",
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"text": "トーションビーム式を細分化すると次のような方式に分けられる。",
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"text": "キャブオーバー型の大型貨物自動車のなかには、車軸のサスペンション以外にフレームとキャビンの間に緩衝装置を設けるキャブサスペンションを持つ物が多い。日本製トラックでは1981年(昭和56年)に日野自動車製の車両で初めて導入された。キャブサスペンションはコイルばねや空気ばね、懸濁液方式などが用いられており、車軸のサスペンションの耐荷重性能強化と乗り心地の向上という相反する要素を両立するために採用されている。エンジン出力や積載量の割にホイールベースが短い牽引自動車のトラクターでは、キャブのピッチングを抑えることができる。",
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"text": "トラック、バス、四輪駆動車、建設機械、農業機械などでは、運転席が緩衝装置で支持されているサスペンションシートが採用されている物もある。ドライバーの任意でばねのプリロードを調整でき、不要な場合はロック(固定)できる。",
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"text": "キャタピラで走行する車両は主に建機・農機の他、戦車など戦闘車両がある。キャタピラ走行装置はサスペンションを付加すると部品点数が激増しコストや整備性の点から建機や農機では速度を妥協してサスペンションは一般に備えない。戦車も開発された当時はほとんど農業トラクターと同様の構造でサスペンションは存在しないか、ないに等しい状況であったが、特に不整地での機動性向上の要求から各種のサスペンションが考案・実用化された。歴史上存在する戦車に取り入れられたサスペンションとして、リーフスプリング、コイルスプリング、クリスティー式、トーションバー式、油気圧式などがある。キャタピラ走行装置は履帯の環の一端についてエンジントルクを伝達する動輪、動輪の反対側につく誘導輪、動輪と誘導輪の間に配列され荷重を分散させる転輪で構成される。低速の建機や農機では動輪・誘導輪も接地して荷重を受け持つものが多いが、戦闘車両では動輪にサスペンションをつけると構造が複雑化することや、障害物を乗り越えるために動輪・誘導輪は高位置に設けて接地させず、サスペンションは転輪にのみ装備される。",
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"text": "また近年では足回り以外にも、戦闘車両が爆発物によるゲリラ攻撃を受ける機会が激増し、車体は耐えても乗員が衝撃で死傷するリスクを低減するため、座席に緩衝機能を備えることがトレンドになっている。",
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"text": "オートバイに使われるサスペンションは、そのほとんどの形式ではスプリングとショックアブソーバー(ダンパー)が一体のサスペンションユニット(クッションユニット)となっている。自動車と比べると、オートバイではサスペンションスプリングの伸縮による車体のピッチングが大きく、これによる操縦特性への影響が大きい。オートバイでは前輪側と後輪側で異なるサスペンション形式を採用する場合がほとんどである。",
"title": "オートバイのサスペンション"
},
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"text": "オートバイの前輪側サスペンションは、後輪側よりも早い時期から取り入れられていた。歴史的にはガーダーフォークやアールズフォークなどの形式も広く用いられていたが、現在は多くの車種でテレスコピックフォークと呼ばれる形式が採用されている。テレスコピックフォークは、単純な構造で部品点数を少なく作ることができるが、フォークに対して直角方向の荷重に弱いほか、制動時などにフォークのストロークが大きくなる(前のめりになる)とキャスター角の変化が大きくなる短所を持つ。こうした短所を克服するために、ボトムリンク式やテレレバー式などの形式も採用されている。",
"title": "オートバイのサスペンション"
},
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"text": "初期のオートバイには後輪側に緩衝装置が無い車種も多く、代わりにサドルにばねが付けられていたものも多かった。こうした車両の構造はリジッドフレームと呼ばれている。現在では、ほとんどの車種でスイングアーム式が採用されているが、かつてはプランジャー式やハブクッション式といった形式も存在した。",
"title": "オートバイのサスペンション"
},
{
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"text": "鉄道車両でも軌条(レール)への追従性、車両の安定性、乗り心地や静粛性の向上を目的としてサスペンションが組み込まれているが、自動車とは異なり、舵取り装置が不要で、前後どちらの向きにも同じ速度で運転されることから、自動車とは構造が異なる。ゴムタイヤ方式や超低床電車などを除くと、左右の車輪は車軸と一体の輪軸を採用していて、各軸の軸受けに懸架装置がないと軌道の狂いに対応できず、速度を上げた場合や輪重の不均等が起こった際には脱線につながる。トロッコなどで懸架装置の無いものが見られるが、この場合は左右輪が独立して回転できるようにして車輪がレールへ乗り上げることを防いでいる。",
"title": "鉄道車両のサスペンション"
},
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"text": "鉄道の黎明期には機関車以外の客車や貨車は二軸車であり、車軸の支持方式は台枠に固定された軸箱守(ペデスタル)を位置決めに用い、緩衝に重ね板ばねを用いていた。これは現在でも二軸貨車などに用いられている。その後、車両の大型化と高速化が進むと固定車軸では対応できなくなり、ボギー台車が生まれた。レールに対する車輪の追従性は軸箱を支持する軸ばねが担い、乗り心地に関しては台車と車体の間に備わる枕ばねが受け持つ分業となった。新幹線では高速走行時の車両の安定化を図るため、JR西日本・500系車両にアクティブサスペンションを取り入れて、300 km/hでの運行を実現した。",
"title": "鉄道車両のサスペンション"
},
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"text": "自転車においては、起伏の激しい路面を走るマウンテンバイクやダウンヒル競技用のダウンヒルバイク(en:Downhill bike)にサスペンションを装備するモデルが多く、一部のクロスバイクでも装備されている。前後輪ともにサスペンションをもつフレーム構成をフルサスペンション、前輪のみにもつものをハードテイルと呼ぶ。特に高速で起伏の激しい斜面を下るダウンヒルバイクではサスペンションストロークを大きくとったフルサスペンションである場合が多い。一方、サスペンション機構を付加することで車体重量が増え、構成部品にかかる費用が増加することから、安価な軽快車や、軽量性が求められるロードレーサーなどではサスペンションを装備しないものが専らである。",
"title": "自転車のサスペンション"
},
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"text": "主に事務用の椅子において、人の身体が触れる部分の表層にクッション性と通気性を兼ね備える目的で弾性樹脂でできた網目状の布を用いるものがある。こうした布をサスペンションファブリックと呼び、この布を用いた椅子はSFチェアやメッシュチェアの名で呼ばれる。SFチェアの多くは、鋼もしくは高強度の樹脂を成形した剛性の高いフレームにサスペンションファブリックを張った、簡素な構造を持つ。",
"title": "家具のサスペンション"
},
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"paragraph_id": 26,
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"text": "建築物の外装材の一種であるカーテンウォールは幅2 m内外、高さ4 - 5 m程度の大判のガラスが用いられる。このガラスには風圧に耐え、人や物が衝突して容易に破損しない耐衝撃性が求められるため、20 mm程度の厚みになり、1枚当たりのガラス重量は数百キログラムになる。一般的なガラス窓ではガラスの重量はサッシ下辺で支えられるが、カーテンウォール用の大判ガラスの重量をサッシ下辺のみで支持することは施工性や費用面で容易ではないため、ガラス上端を吊り金物で挟み、上部構造体の梁やスラブに固定してガラスの重量を分担することで問題を解決している。こうした建築工法をサスペンション工法と呼ぶ。",
"title": "建築物のサスペンション"
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サスペンションまたは懸架装置(けんかそうち)は、主に車両において、路面の凹凸を車体に伝えない緩衝装置としての機能と、車輪・車軸の位置決め、車輪を路面に対して押さえつける機能を持つことで、乗り心地や操縦安定性などを向上させる機構。その他の機械類における、防振機構(インシュレーター)のことを指す場合もある。
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{{Otheruses|機械装置|液体|懸濁液}}
{{出典の明記|date=2011年5月}}
'''サスペンション'''({{lang-en-short|Suspension}})または'''懸架装置'''(けんかそうち)は、主に[[車両]]において、路面の[[凸凹|凹凸]]を車体に伝えない緩衝装置としての機能と、[[車輪]]・[[車軸]]の位置決め、車輪を路面に対して押さえつける機能を持つことで、[[乗り心地]]や操縦安定性などを向上させる機構。その他の[[機械]]類における、[[振動|防振]]機構([[インシュレーター]])のことを指す場合もある。
== 自動車のサスペンション ==
[[画像:Coilovers.jpg|thumb|200px|right|コイルオーバーの例]]
黎明期以来さまざまな方式のサスペンションが考案され[[実用]]化されているが、一般的な[[自動車]]のサスペンションは、基本的構成として車軸の位置決めを行うサスペンションアーム、車重を支えて衝撃を吸収する[[ばね|スプリング]]、スプリングの振動を減衰する[[ショックアブソーバー]](ダンパー)で構成される。[[欧米]]ではスプリングとショックアブソーバーが一体となった部品を'''コイルオーバー''' ({{lang-en-short|Coilover}}) と称することもある。
[[乗用車]](特にフロント)では、低コストな[[ストラット式サスペンション]](マクファーソン・ストラット式)が最も多く用いられている。乗り心地の向上や[[タイヤ]]の接地条件やクルマの姿勢([[ロールセンター]]やアンチダイブ、アンチスクワットなど)を細かく制御する目的で、ジオメトリー自由度の大きい[[ダブルウィッシュボーン式]]や、さらなる安定性を得るために[[マルチリンク式サスペンション|マルチリンク式]]なども多く用いられている。
サスペンションの特性は同じ方式でも一様ではなく、使われる[[部品]]の固さや寸法に大きく依存する。一般に「サスペンションが硬い」と表現されるものは、車重に比して[[ばね定数]]が高い場合や[[ショックアブソーバー|ダンパー]]の減衰力が高い場合が多い。サスペンションが柔らかい方が路面の凹凸による衝撃を吸収しやすく、乗り心地を重視する乗用車ではサスペンションが柔らかくされる傾向にあり、スポーツカーやレーシングカーなどの自動車では旋回時や加減速時の車体挙動を抑えるためにサスペンションは硬くされる傾向がある。俗に「サスペンションがへたる」と表現される現象は、ほとんどの場合はショックアブソーバーの減衰力が低下したり、サスペンションアームの軸部に用いられている[[すべり軸受#ブッシュ|ブッシュ]]の弾力性が失われたりすることで発生する。
=== 方式 ===
懸架方式は大きく分けて[[車軸懸架]]([[固定車軸|リジッドアクスル]]・サスペンション)、[[独立懸架]](インディペンデント・サスペンション)、可撓梁式([[トーションビーム式サスペンション]])に分類される。単純な緩衝機能に留まらず、外力に対して車両の姿勢を積極的に制御し、安定させるシステムとして[[アクティブサスペンション]]や[[セミアクティブサスペンション]]がある。それに対し、旧来の懸架装置はパッシブサスペンションと呼ばれるようになった。
==== 車軸懸架方式 ====
[[画像:Beam axle 003.JPG|thumb|200px|right|I形ビームの[[リーフ式サスペンション|リーフリジッド式]]]]
車軸懸架方式は左右の車輪を車軸(アクスル)で連結したサスペンション形式で、[[馬車]]時代から続く長い歴史を持つ。Rigid Axle Suspensionの和訳から「固定車軸」懸架方式と呼ばれる事があるが、「フレームや車体に固定された車軸」ではなく「左右の車輪の位置関係を固定する車軸」の意味である。
特に駆動輪に用いる場合は、[[ドライブシャフト]]がアクスルハウジング(アクスルチューブ)に覆われており、ドライブシャフトに角度を持たせるための[[軸継手]]を必要としないため、構造が簡単で耐久性が高い。左右の車輪が常に同軸上に保たれているため、車体がロールした際の対地キャンバーの変化が少ない。ホイールトラベル(ストローク)を大きく設計しやすいため、起伏の大きな路面状況での車輪の接地を保ちやすい。駆動輪の場合でもデファレンシャルが車軸上(ばね下)にあるため、その振動・騒音が車室内に伝わりにくい。
反面、ばね下重量が重くなる傾向にあり、速度が高くなると路面追従性や乗り心地が悪くなる。またロールセンターが高くなりがちで、旋回による車体の[[ローリング]]が大きいなどの短所がある。
[[大型自動車]]、[[商用車]]、[[クロスカントリー (自動車)|クロスカントリー]]車での採用例が多く、特にそれらの駆動輪で用いられる。かつては一般的な乗用車でも、特に後輪に多く用いられ続けたが、多くは[[後輪駆動]]から[[前輪駆動]]へと切り替わる際に別方式とされ、後輪駆動のままの車種でも順次下記の独立懸架方式に置き換わっている。<!--[[排気量]]1500 cc以下程度の大きさで[[前輪駆動]]の[[乗用車]]でも、リヤサスペンションに多く採用されている。⬅️トーションビームをリジッドに混同してらっしゃるようだ。「少しは採用されていた(例:アルファスッド、シャレード(初代・二代目))。」ならOKかと。-->
車軸懸架方式を細分化すると次のように分類される。
* [[リンク式サスペンション]]
* [[リーフ式サスペンション]]
* [[ド・ディオンアクスル|ド・ディオン式サスペンション]] :車軸ではなく車体にデファレンシャルを取り付けたもの
==== 独立懸架方式 ====
[[画像:Mcpherson strut.jpg|thumb|200px|right|[[ストラット式サスペンション]]]]
独立懸架とはIndependent Suspentionの和訳で、左右の車輪が独立して動作するサスペンション形式である。固定車軸方式に比べ、車軸を持たない事でばね下重量が軽いために乗り心地や路面追従性に優れ、また車軸の揺動空間が不要なために[[フレーム形式 (自動車)|フレーム]]や車室の床を低くすることができる。特に駆動輪に用いる場合には[[差動装置|デファレンシャル]]やドライブシャフトが車軸に加わるために上記の長所がより顕著になり、さらにデファレンシャルが[[機関 (機械)|エンジン]]の直下に配置される車種ではエンジン搭載位置も低くすることができる。また[[リンク機構]]を用いているために、ストローク時のジオメトリーを操縦安定性が向上するように[[設計]]することが可能である。一方で、部品点数が多く、製造[[費用]]や[[整備]]費用が高くなりやすい。またサスペンションアームの[[寸法]]の制約により、ストロークが短くなる傾向にある。さらに駆動輪に用いる場合、ばね上の車体に取り付ける事になるデファレンシャルの振動・騒音が車室内に伝わりやすくなる。
[[スポーツカー]]や[[レーシングカー]]に留まらず、現在では、一般的な[[乗用車]]や中型以下の[[貨物自動車|貨物車]]のほか、[[観光バス]]・[[高速バス]]など一部の中・大型バスでもフロントサスペンションに独立懸架が採用されている。乗用車では、[[前置きエンジン・前輪駆動配置|FF]]、FRとも上級車や高級車はリア・サスペンションにも独立懸架が多く用いられ、後輪固定車軸車との[[差別化]]のため、インディペンデント・リア・サスペンション (Independent Rear Suspention:後輪独立懸架) の頭文字をとった「IRS」を商標に取り入れたりカタログで強調していた時期もあった。
独立懸架方式を細分化すると次のような方式に分けられる。
* 一軸スイングアーム式
** [[スイングアクスル式サスペンション]]
** [[リーディングアーム式サスペンション]]
** [[トレーリングアーム式サスペンション]]
** [[セミトレーリングアーム式サスペンション]]
* 二軸スイングアーム式
** [[ダブルウィッシュボーン式サスペンション]]
** [[ダブルトレーリングアーム式サスペンション]]
* [[マルチリンク式サスペンション]]{{efn|[[セントラルアーム]]式サスペンションなどの様に各社の独自呼称とされている場合がある。}}
* [[ストラット式サスペンション]]
==== トーションビーム懸架方式 ====
{{main|トーションビーム式サスペンション}}
トーションビーム式サスペンションは、左右の車輪がねじれ(トーション)を許容する[[はり部材|梁]](ビーム)で結ばれている構造で、独立懸架ほどではないが、車軸懸架よりも左右の車輪に自由度が与えられている。[[前輪駆動]]車([[FF車]])の後輪や[[トレーラー]]などに採用されている。特に、FFが多い[[コンパクトカー]]や[[軽自動車]]の後輪用では主流となっている。
トーションビーム式を細分化すると次のような方式に分けられる。
* アクスルビーム式
* ピボットビーム式
* カップルドビーム式
=== 車軸以外のサスペンション ===
[[キャブオーバー]]型の大型[[貨物自動車]]のなかには、車軸のサスペンション以外に[[フレーム形式 (自動車)|フレーム]]と[[キャビン]]の間に緩衝装置を設ける'''キャブサスペンション'''を持つ物が多い。[[日本車|日本製]]トラックでは[[1981年]]([[昭和]]56年)に[[日野自動車]]製の車両で初めて導入された<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.tochigi-hino.co.jp/mame/m02.htm
| title = トラック豆知識2
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20050316164744/http://www.tochigi-hino.co.jp/mame/m02.htm
| archivedate = 2005-3-16
| accessdate = 2010-6-20
| deadlinkdate = 2018年1月30日
| publisher = 栃木日野自動車株式会社
}}</ref>。キャブサスペンションはコイルばねや[[空気ばね]]、[[懸濁液]]方式などが用いられており、車軸のサスペンションの耐荷重性能強化と乗り心地の向上という相反する要素を両立するために採用されている。エンジン出力や[[最大積載量|積載量]]の割に[[ホイールベース]]が短い[[牽引自動車]]の[[トラクター]]では、[[操縦席|キャブ]]の[[ピッチング]]を抑えることができる。
トラック、[[バス (交通機関)|バス]]、[[四輪駆動]]車、[[建設機械]]、[[農業機械]]などでは、運転席が緩衝装置で支持されている'''サスペンションシート'''が採用されている物もある。ドライバーの任意でばねのプリロードを調整でき、不要な場合はロック(固定)できる。
=== 戦車のサスペンション ===
[[無限軌道|キャタピラ]]で走行する車両は主に建機・農機の他、戦車など[[戦闘車両]]がある。キャタピラ走行装置はサスペンションを付加すると部品点数が激増しコストや整備性の点から建機や農機では速度を妥協してサスペンションは一般に備えない。[[戦車]]も開発された当時はほとんど農業トラクターと同様の構造でサスペンションは存在しないか、ないに等しい状況であったが、特に不整地での機動性向上の要求から各種のサスペンションが考案・実用化された。歴史上存在する戦車に取り入れられたサスペンションとして、リーフスプリング、コイルスプリング、[[ジョン・W・クリスティー|クリスティー]]式、[[トーションバー・スプリング|トーションバー]]式、[[ハイドロニューマチック・サスペンション|油気圧式]]などがある。キャタピラ走行装置は履帯の環の一端についてエンジントルクを伝達する動輪、動輪の反対側につく誘導輪、動輪と誘導輪の間に配列され荷重を分散させる転輪で構成される。低速の建機や農機では動輪・誘導輪も接地して荷重を受け持つものが多いが、戦闘車両では動輪にサスペンションをつけると構造が複雑化することや、障害物を乗り越えるために動輪・誘導輪は高位置に設けて接地させず、サスペンションは転輪にのみ装備される。
また近年では足回り以外にも、戦闘車両が[[IED|爆発物]]によるゲリラ攻撃を受ける機会が激増し、車体は耐えても乗員が衝撃で死傷するリスクを低減するため、座席に緩衝機能を備えることがトレンドになっている。
== オートバイのサスペンション ==
{{main|サスペンション (オートバイ)|[[:en:Suspension (motorcycle)]]}}
[[画像:Demper ducati 01.jpg|right|thumb|200px|オートバイのサスペンション([[ドゥカティ・ムルティストラーダ]]の後輪側サスペンションユニット)]]
[[オートバイ]]に使われるサスペンションは、そのほとんどの形式では[[ばね|スプリング]]と[[ショックアブソーバー]](ダンパー)が一体の''サスペンションユニット(クッションユニット)''となっている。自動車と比べると、オートバイではサスペンションスプリングの伸縮による車体の[[ピッチング]]が大きく、これによる操縦特性への影響が大きい。オートバイでは前輪側と後輪側で異なるサスペンション形式を採用する場合がほとんどである。
=== 前輪 ===
{{main|フロントサスペンション (オートバイ)}}
オートバイの前輪側サスペンションは、後輪側よりも早い時期から取り入れられていた。歴史的には'''ガーダーフォーク'''や'''アールズフォーク'''などの形式も広く用いられていたが、現在は多くの車種で'''テレスコピックフォーク'''と呼ばれる形式が採用されている。テレスコピックフォークは、単純な構造で部品点数を少なく作ることができるが、フォークに対して直角方向の[[荷重]]に弱いほか、[[ブレーキ|制動]]時などにフォークのストロークが大きくなる(前のめりになる)とキャスター角の変化が大きくなる短所を持つ。こうした短所を克服するために、'''ボトムリンク式'''や'''テレレバー式'''などの形式も採用されている。
=== 後輪 ===
{{main|リヤサスペンション (オートバイ)}}
初期のオートバイには後輪側に緩衝装置が無い車種も多く、代わりに[[サドル (オートバイ)|サドル]]にばねが付けられていたものも多かった。こうした車両の構造はリジッドフレームと呼ばれている。現在では、ほとんどの車種で[[リヤサスペンション (オートバイ)#スイングアーム式|スイングアーム式]]が採用されているが、かつてはプランジャー式やハブクッション式といった形式も存在した。
== 鉄道車両のサスペンション ==
{{main|鉄道車両の台車史|鉄道車両の台車}}
[[鉄道車両]]でも[[軌条]](レール)への追従性、車両の安定性、乗り心地や静粛性の向上を目的としてサスペンションが組み込まれているが、自動車とは異なり、[[ステアリング|舵取り装置]]が不要で、前後どちらの向きにも同じ[[速さ|速度]]で[[運転]]されることから、自動車とは構造が異なる。ゴム[[タイヤ]]方式や[[超低床電車]]などを除くと、左右の車輪は車軸と一体の[[輪軸 (鉄道車両)|輪軸]]を採用していて、各軸の軸受けに懸架装置がないと[[軌道 (鉄道)|軌道]]の狂いに対応できず、速度を上げた場合や[[活荷重|輪重]]の不均等が起こった際には[[脱線]]につながる。[[トロッコ]]などで懸架装置の無いものが見られるが、この場合は左右輪が独立して回転できるようにして車輪がレールへ乗り上げることを防いでいる。
鉄道の黎明期には[[機関車]]以外の[[客車]]や[[貨車]]は[[二軸車 (鉄道)|二軸車]]であり、車軸の支持方式は[[台枠]]に固定された軸箱守(ペデスタル)を位置決めに用い、緩衝に重ね板ばねを用いていた。これは現在でも二軸[[貨車]]などに用いられている。その後、車両の大型化と高速化が進むと固定車軸では対応できなくなり、[[ボギー台車]]が生まれた。また[[空気ばね]]台車の開発・研究の成果として、レールに対する車輪の追従性は軸箱を支持する軸ばねが担い、乗り心地に関しては台車と車体の間に備わる[[枕ばね]]が受け持つことが明らかにされたため、旅客車両では優等車から一般車に至るまで枕ばねに空気ばねを採用することが一般化した<ref group="注釈">空気ばねを採用すると乗客の多寡にかかわらず一定の床高を実現可能なため、ラッシュ時の床の沈み込みを防止する不必要に固い枕ばねを用いる必要が無くなり、また乗り心地も改善されるメリットがあった。このことは空気ばね台車の初期費用の高額さを補って余りあるものだったため大手私鉄を中心に採用が進んだ。</ref>。さらに[[新幹線]]では高速走行時の車両の安定化を図るため、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[新幹線500系電車|500系車両]]では[[アクティブサスペンション]]を取り入れて、300 [[キロメートル毎時|km/h]]での運行を実現した。
== 自転車のサスペンション ==
{{main|マウンテンバイク|フロントフォーク (自転車)}}
[[自転車]]においては、起伏の激しい路面を走る[[マウンテンバイク]]や[[ダウンヒル (自転車競技)|ダウンヒル競技]]用のダウンヒルバイク([[:en:Downhill bike]])にサスペンションを装備するモデルが多く、一部の[[クロスバイク]]でも装備されている。前後輪ともにサスペンションをもつフレーム構成を'''フルサスペンション'''、前輪のみにもつものを'''ハードテイル'''と呼ぶ。特に高速で起伏の激しい斜面を下るダウンヒルバイクではサスペンションストロークを大きくとったフルサスペンションである場合が多い。一方、サスペンション機構を付加することで車体重量が増え、構成部品にかかる費用が増加することから、安価な[[軽快車]]や、軽量性が求められる[[ロードバイク|ロードレーサー]]などではサスペンションを装備しないものが専らである。
== 家具のサスペンション ==
主に事務用の[[椅子]]において、人の身体が触れる部分の表層にクッション性と通気性を兼ね備える目的で弾性樹脂でできた網目状の布を用いるものがある。こうした布をサスペンションファブリックと呼び、この布を用いた椅子はSFチェアやメッシュチェアの名で呼ばれる。SFチェアの多くは、[[鋼]]もしくは高[[強度]]の[[合成樹脂|樹脂]]を[[射出成形|成形]]した[[剛性]]の高いフレームにサスペンションファブリックを張った、簡素な構造を持つ。
== 建築物のサスペンション ==
[[建築物]]の外装材の一種である[[カーテンウォール]]は幅2 m内外、高さ4 - 5 m程度の大判の[[ガラス]]が用いられる。このガラスには風圧に耐え、人や物が衝突して容易に破損しない耐衝撃性が求められるため、20 mm程度の厚みになり、1枚当たりのガラス重量は数百キログラムになる。一般的なガラス窓ではガラスの重量は[[サッシ]]下辺で支えられるが、カーテンウォール用の大判ガラスの[[重さ|重量]]をサッシ下辺のみで支持することは施工性や費用面で容易ではないため、ガラス上端を吊り金物で挟み、上部構造体の[[梁 (建築)|梁]]や[[床スラブ|スラブ]]に固定してガラスの重量を分担することで問題を解決している。こうした建築工法をサスペンション工法と呼ぶ。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[サスペンションジオメトリー]]
* [[ホイール・アライメント]]
* [[スタビライザー]]
* [[アクティブサスペンション]]
* [[セミアクティブサスペンション]]
* [[スカイフック理論]]
* [[ばね]]
* [[サスペンションリンク]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Automotive suspension technologies}}
* [https://www.ohlins.com/ ÖHLINS(高性能高精度サスペンションメーカー)]
* [http://www.bose.co.jp/jp_jp?url=/automotive/technology/suspension_system/index.jsp ボーズ・サスペンション・システム]
* {{WAP |pid=8433500 |url=www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/hyoujun_gijutsu/brakesuspension/mokuji.htm |title=自動車・二輪車の ブレーキ・サスペンション部品 |date=2014年3月2日 }}
{{自動車部品}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さすへんしよん}}
[[Category:自動車のサスペンション|*]]
[[Category:鉄道車両の台車]]
[[Category:家具]]
[[Category:建築施工]]
[[Category:ばね]]
[[Category:振動工学]]
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ディーゼルエンジン
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ディーゼルエンジン(英: Diesel engine)は、ディーゼル機関とも呼ばれる内燃機関であり、ドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルが発明した往復ピストンエンジン(レシプロエンジン)である。1892年に発明され、1893年2月23日に特許が取得された。
ディーゼルエンジンは燃焼方法が圧縮着火である「圧縮着火機関」に分類され、ピストンによって圧縮加熱された空気に液体燃料を噴射することで着火させる。液体燃料は発火点を超えた圧縮空気内に噴射されるため自己発火する。
実用化された単体の熱機関としては最も熱効率に優れる種類のエンジンであり、また、軽油・重油などの石油系の他にも、発火点が225 °C程度の液体燃料であれば、スクワレン、エステル系など広範囲に使用可能である。汎用性が高く、自動車用小型高速機関から巨大な船舶用低速機関まで、さまざまなバリエーションが存在する。
エンジンの名称は発明者にちなむ。日本語表記では一般的な「ディーゼル」のほか、かつては「ヂーゼル」「ジーゼル」「デイゼル」とも表記された。日本の自動車整備士国家試験ではジーゼルエンジンと表記している。
ピストンで空気を燃料の発火点以上に圧縮加熱し、そこに燃料を噴射して自己発火させる。これにより生じた燃焼ガスの膨張でピストンを押し出す「圧縮着火拡散燃焼機関」である。ディーゼルエンジンの本質は「点火装置が不要な内燃機関」である。
ディーゼルエンジンは、4ストロークサイクルと、2ストロークサイクルに大別される。理論サイクルの分類では、低速のものがディーゼルサイクル(等圧サイクル)、高速のものはサバテサイクル(複合サイクル)として取り扱われる。
ディーゼルエンジンは燃料噴射量で出力を制御するため、スロットルバルブを必要としない。すなわち、常時吸入空気余剰の希薄域で運転される。ただし、不均一な拡散燃焼のため、全体では希薄であっても、部分的に燃え残りの粒子状物質 (PM)が発生する。同時に、燃料が希薄な領域では窒素酸化物(NOx)が発生することになる。
燃料噴射装置を用いて燃焼室に燃料を高圧で噴射する。燃焼室形状の違いで、単室の直接噴射式と副室式(予燃焼室式・渦流室式)に分かれる。1990年代以降に燃料噴射圧を上げることが可能になったため小排気量エンジンでも直接噴射式が主流であり、乗用車や小型商用車など、気筒あたりの容積が700 cc 程度より小さいエンジンで一般的であった副室式は、窒素酸化物(NOx)と未燃焼炭化水素の発生は少ないが、低効率のため使われなくなった。今日ではディーゼル燃料で大型ガスエンジンを点火するときに副室式が用いられる。
ディーゼルエンジンは圧縮着火のため高圧縮比となる。一般にピストンエンジンは圧縮比=膨張比であることから、高圧縮比、高膨張比エンジンとすると熱効率が高まる。圧縮比を上げることを気体の熱力学だけで解析すると、対数的に効率は上がり続けるものの圧縮比15を超えると伸び悩む。一方で高圧縮は摩擦損失と可動部品の重量増による慣性損失を増大させ、特に高回転で機械損失が急増する。また高圧縮になるほど着火しやすいが、むしろ着火により完全燃焼しにくくなるため、適正な圧縮比は14台だといわれている。膨張比はより大きくても良い。ただし、低温時や高地でのエンジン始動性のため圧縮比は14より大きいものが多い。
ディーゼルエンジンは高圧縮比エンジンなので発火点さえ確保できれば精製度の低い安価な燃料を使用できる(重油やいわゆるサラダ油・廃潤滑油も使用できる。ただし場合によりアセトン・ナフサ・アルコールおよび予熱で流動性を高める必要がある)。ただし、その実現には高価な前処理装置や特殊なエンジンオイルが必要になる。低燃費だがエンジン本体に高い圧縮比に耐え得る構造強度が必要になるため大きく重くなり、初期費用が高い。稼動回転域はガソリンエンジンより低回転でかつ狭いため、車両の発進には有利だが、より多段の変速機が必要になる。
拡散燃焼の特徴から気筒容積あたりの出力が低い代わりに、気筒容積に制限がなく、巨大なエンジンを実現できる。熱効率は良いので必要な出力が得られるまでエンジンを大型化することができる。この場合、大型ほど低速回転になるが、これは大型船舶など低速回転・大出力が必要な用途においては極めて都合がよく、実際に超大型低速ディーゼルエンジンが大型商船の主機関として広く用いられている。
空気だけを圧縮した中で燃料が自己発火するため、予混合燃焼ガソリンエンジンで問題となるノッキング(というよりノッキングの原理を逆用して着火させるようなものである。)やデトネーションが発生しない。そのため過給による吸入充填量の増加で気筒容積あたりの低出力を補うことが容易である。スロットルバルブを持たず低速でも排気圧力が高いことから、ターボチャージャーにより排気エネルギーの一部を回収し、効率を維持したまま排気量1リットル当たりの出力を100馬力程度からそれ以上にすることも可能である。
一般的な中速、高速ディーゼルエンジンには4ストローク機関が使われ、大型船舶や大型発電には、低速2ストローク・ユニフロー掃気ディーゼルエンジンが使われている。2ストロークエンジンで新気をシリンダーに送り込むためには、何らかの過給が必要となる。ガソリンエンジンでは安価なクランクケース圧縮が使われているが、ディーゼルエンジンでは過給機と頭上排気弁を併用するユニフロー掃気ディーゼルターボエンジンだけが生産中である。
4ストロークサイクル・ディーゼルエンジンの各行程:
2ストロークサイクル・ディーゼルエンジンの各行程(ユニフロー掃気の場合):
ディーゼルエンジンにおいて燃料噴射が着火と燃焼の制御手段なので、噴射装置は重要な部品となる。現在2,000 bar(約2,000気圧)程度の高圧と多段噴射が必要とされており、かなりの高額部品になっている。自動車用ディーゼルエンジン・コストの半分は燃料噴射系で占める。
初期から50年ほどは大型エンジンの起動用と共有する圧縮空気で燃料を噴射する「空気噴射」もあったが、効率が悪く圧力を高められないために廃れた。燃料だけを高圧噴射する「無気噴射」になった後の経緯を以下に示す。
かつてはプランジャーポンプの一行程の加圧と吐出だけで一回の燃料噴射を実現する「ジャーク式」ポンプだったので、多段噴射できなかった。噴射量は機械制御によるプランジャーの有効ストローク量で決まった。従来のジャーク式ポンプはエンジン回転数や負荷によって燃料圧力と噴射量が変化する欠点がある。燃料噴射弁は燃料圧力の増減で従属的に自動開閉するものだった。いずれも噴射ポンプと噴射弁の間にある長い噴射管を毎回低圧に戻す影響のため、噴射圧が低く、近年では使われなくなってきた。
1990年代後半から以下の方法で高圧燃料噴射を電子制御している。基本的にポンプで加圧だけを分担し、従属弁との間に配置した電子制御弁が噴射量とタイミングを分担する。
ディーゼルエンジンではガソリンエンジンとは異なる特性に応じた装置が必要になるため、かなりの高コストになる。上記の燃料噴射装置や後段の排ガス対策用の後処理装置が代表例であるが、これら以外でも、原理的に振動と騒音が大きくなるため、ディーゼルエンジンでは2次バランサーを追加したり、防振ゴムによる固定に高度な技術が使用され、また大型車に圧縮開放ブレーキも使用される。
燃料油清浄機はC重油から不純物を取り除く装置。1950年ごろ舶用大型ディーゼルエンジンで安価なC重油を使うために開発された燃料の前処理装置。それまでディーゼルエンジンは一定水準以上のグレードにあるA重油までしか使えなかった。C重油は製油残渣といえる劣悪な燃料で、不純物の混入が前提となる。燃料油清浄機は残渣油を加熱して流動性を高めてから、水分や固形分を遠心分離機で取り除き、さらにフィルターで濾過して細かな混入物の除去を図る。
安価を求める残渣油は軽質油を蒸留した残り物なので、製油技術が向上し、利用価値のある各種成分を高度に分留できるようになるにつれ、残渣部は相対的に低質化していく。したがって一定品質に止まらないため、燃料油清浄機も高性能化を求められる。1970年以降に製油法の進展によって導入された接触触媒分解装置からアルミナ、シリカ微粒子が残渣油に混入するようになり、ピストンリング、シリンダーライナー、燃料ポンプを短時間で損傷する事故が多発するようになった。燃料油分析サービスと併用して事故の防止を図っている。
火花点火のような着火機構を持たず、着火には空気の断熱圧縮による高温を利用しているため、寒冷地での長時間停車後など燃焼室が冷え切った状態からの始動や、標高が高く空気密度が小さいところで始動する場合は、吸気が着火に必要な温度に達しないことがあり、「予熱」が必要となる。燃焼室内に頭部を露出させた「グロープラグ」で予熱を行ったり、場合によりインテークマニホールド直前に置かれた「インテークヒーター」で吸気を加熱する。マツダのSKYACTIV-Dでは始動にはグロープラグを用い、始動直後には可変排気弁の遅閉じによって高温の排気ガスを吸気管に吹き返して(内部EGR)、吸気を暖めている。
小型ディーゼルエンジンの始動にはガソリンエンジンと同様にスターターモーターによってクランク軸を回転させ、燃焼サイクルを開始するが、圧縮比が高いため、同程度の排気量に対して2 - 3倍程度に大きな出力のスターターモーターを備える必要があり、自動車などでもバッテリーを2個直列にして電装系を24 Vとするものがある。
大型エンジンの始動には圧縮空気をシリンダー内に吹き込み、ピストンを直接動かすための装置が必要となる。あらかじめ補助動力装置を起動して発電や圧縮空気を生成しておく場合が多い。
ディーゼルエンジンは着火に電気を用いていないため、エンジンキーをオフの状態にし(バッテリーからの電源を断つ)ても停止しない。運転を停止させる方法には以下の3種類がある。
エンジンオイル#ディーゼル車も参照。ディーゼルエンジンでは正しく添加剤が加えられたエンジンオイルでないと、シリンダー内の燃料の燃え残った微粒子が、ピストン側面のトップリング付近でエンジンオイルの主成分である鉱物油と結合して沈積物を作り、リングを固着する「リングスティック」という現象が起きる。これを防止するために、エンジンオイルにはピストンリング付近に溜まる燃え残り、つまり「煤」や「スラッジ」を洗い流してエンジンオイル中に分散させる清浄分散剤が加えられる。また、排気(EGR)やブローバイガスの還流で、それらに含まれる硫黄などによる酸でエンジンオイルが変質するのを防ぐ酸化防止剤や、腐蝕防止剤、粘度を適正に保つ粘度指数向上剤も加えられている。
船舶用潤滑油についての詳細はユニフロー掃気ディーゼルエンジン#船舶用を参照されたい。船舶用ディーゼルは大別して中・高速なトランクピストン式4ストロークと、低速なクロスヘッド式2ストロークに分けられ、前者のトランクピストン式の潤滑油は一般的な高速ディーゼルエンジンに近い。しかし後者のクロスヘッド式は大量に硫黄分の残留するC重油を使う特大型ディーゼルエンジンとなり、シリンダライナ潤滑用のシリンダ油とそれ以外の潤滑を行うシステム油の2種類が存在する特徴がある。シリンダ油は燃焼後に発生する硫酸成分を中和するために塩基価(アルカリ価)の高い「高アルカリ価シリンダ油」が求められる。中和しないとエンジン内部がすぐに腐食してしまうためである。
ディーゼルエンジンのエンジンオイルは、ガソリンエンジンのものに比べ、早期に多くの微粒子を取り込むため、オイルフィルターは大型で高効率なものが使われる。一部エンジンでは、本来のオイル流路とは別に設けられた、遠心式や吸着式によるバイパス式フィルターで微粒子を取り除いてオイルパンに戻すものもある。
不純物の多いC重油を使うディーゼル機関では、シリンダー部を潤滑した高アルカリ価シリンダ油は汚すぎてフィルタでも再利用できず廃油となる。その代わりクランク室はシリンダ室とは分離され独立のオイル経路で循環して潤滑される。
ディーゼルエンジンは、スロットルバルブが不要なことや吸気脈動が大きいことなどで、ガソリンエンジンと比較してインテークマニホールドでの負圧生成には適していない。そのため、真空倍力式のブレーキブースターを用いるディーゼル車では、Vベルトやギヤで駆動する専用の真空ポンプと、負圧貯蔵タンクを備えている。
このポンプの潤滑にはエンジンオイルが兼用される。
大型低速であるほどディーゼルエンジンの長所が引き立ち、短所が目立たなくなる傾向にある。逆に小型高速ではガソリンエンジンが有利になる。このため小型車のエンジンはガソリンで、大型車のエンジンはディーゼルになることが多い。鉄道の気動車はディーゼルがほとんどであり、船舶も、軍用や高速船、小型船(20トン未満)の船外機などの例を除き、ディーゼルエンジンであることが一般的である。
ガソリンエンジンは点火方式が「火花点火」、燃焼方式が「均一予混合燃焼」である。あらかじめ燃料を気化させた混合気をシリンダーに吸入、圧縮したのち、電気火花により点火する。均一混合気に満たされた燃焼室に火炎面伝播が発生し燃焼域が半球状に広がって間欠燃焼する。シリンダー直径が大きすぎると火炎伝播速度が間に合わずシリンダーの外周に近い混合気まで点火できなくなるので、シリンダ直径(ボア)に限界(自動車用の場合10 cm、容積で800 ccほど)がある。一方で予混合燃焼では粒子状物質 (PM) は発生しない。ただし圧縮行程で燃料噴射する直噴ガソリンエンジンは気化できない液滴の残る不均一な成層燃焼なので、粒子状物質が発生する。
ディーゼルエンジンは拡散燃焼なので容積に制限はない。ただし、高圧下の拡散燃焼速度は遅いので大容積エンジンは低回転に限られる。これは、むしろ大型船舶やポンプ、発電機などの大出力エンジンにとって都合が良い。1万馬力を超える巨大出力の歯車減速機は信頼性に乏しいので、低速エンジンの直接出力が求められるため。ただし速度変化の激しい車両には多段変速機が必要になる。
ガソリンエンジンは混合気の吸入量をスロットルバルブによって絞ることで出力を制御するのに対し、ディーゼルエンジンは燃料噴射量だけで出力制御するため、ポンピングロスが少なく、効率が良い。また同じ理由でディーゼルは負荷変動によって空燃比も変わり、全般的にも希薄燃焼であり、理想空燃比は実現できない。これは容積あたりの燃料の充填が少ないことを意味し、気筒容積あたりの出力が低い傾向にあるが、過給により補完できる。特にスロットルがないため低回転から排気量が多いのでターボチャージャーとの相性が良い。
ただし、最近では両者の構成が近づいている。2012年に圧縮比を同じ14にした、高圧縮比ガソリンエンジンと低圧縮比ディーゼルエンジンがマツダから出荷されている。他社のガソリンエンジンでも吸気の可変バルブタイミング機構により吸入量を変えたり、低温多量EGRバルブにより排気と吸気の割合を変えて出力を調整するようになり、スロットルバルブは必須でなくなった。これらの改善のため近年ガソリンエンジンの効率が上昇し、ディーゼルとの差が縮まっている。
さらに事実上、同じ点火、燃焼モードを持つエンジンが開発中である。まず、ガソリン燃料でありながら圧縮比14台にて圧縮着火を目標としているHCCI(Homogeneous-Charge Compression Ignition:(均一)予混合圧縮着火)エンジンが開発中であり、通称ディゾットエンジンとも呼ばれる 一方で、1995年にはディーゼルエンジンでありながら低負荷領域で予混合を用いる PCCI(Premixed Charged Compression Ignition:(不均一)予混合圧縮着火)が実用済みであるなど、ガソリンとディーゼルエンジンの区分けが曖昧になりつつある。
圧縮比が高く、燃焼室内の空気過剰率が大きいため、作動ガスの比熱比が高く図示熱効率が高い(投入したエネルギーに対して燃焼ガスの温度上昇に使われる割合が低い)と言われている。ただし、これは大型低速エンジンの場合であり、高速エンジンでは損失も多い。2010年現在の大型舶用ディーゼルの熱効率が50 %に達するのに対し自動車用ディーゼルの熱効率は40 %、ガソリン機関の熱効率が30 %程度、ガソリンアトキンソンサイクル機関の熱効率は30 %台後半である。また重量、負荷変動、速度、変速の効率が加味される自動車の走行パターンを与えた場合には差が縮まる。以下に乗用車用エンジンのトップランナー方式の実効率の報告書の結果を示す。2005年の予備調査のときより2010年の結果のほうが、Tank to Wheel効率の差は半分に縮まっている。同じ程度の排気規制を満たすために差が縮まったともいえる。
この報告書の効率の算出方法について、まず燃料を比較すると軽油はガソリンに比べ密度が12 %大きく、容積あたりの熱量も9 %大きい。しかし質量あたりの熱量は5 %小さい。熱量あたりの二酸化炭素(CO2)発生量は2.5 %多く、質量あたりのCO2発生量は2 %少ない。容積あたりのCO2発生量は10 %多い。このような燃料の異なるエンジンを燃料の容積や質量単位で比べられないため、生産エネルギーと消費エネルギーとを比べている。
このように補正したTank to Wheel効率ではJC08モードでディーゼルはガソリンより3.5 %しか良くない。ただし、10・15モードなら8.5 %良い。さらにWell to Wheel総合効率のJC08モードの効率とCO2排出量では11 %良い。さらに Well to Wheel総合効率の10・15モードのCO2排出量では18 %良い。
まとめると、自動車用ディーゼルは現在の厳しい排気規制の下でもJC08モードのTank to Wheel効率ではガソリンエンジンより3.5 %エネルギー効率が良いが、軽油の熱量あたりのCO2発生量は2.5 %多く、クルマ単体でのCO2の排出量の差はほとんどない。ただし、Well to Wheel 総合効率のJC08モードのCO2排出量で11 %良い結論は変わらない。これはガソリンの精製に軽油よりもエネルギーを消費しているためである。
車両用ディーゼルは高速道路の定速走行など負荷が一定の状態なら熱効率どおりにガソリンより3割ほど効率が良い。しかし常用回転域が狭いことから市街地走行のような負荷変動と加減速を含む走行パターンでは一気にガソリンとの差がなくなる。変速が単純な10・15モードの効率がJC08モードより良いことからうかがえる。
ディーゼルエンジンには点火装置とスロットルバルブが不要であるため、構造が単純化でき、信頼性が高い。
ディーゼルエンジンは拡散燃焼の範囲であれば圧縮時の筒内が空気だけなので、過給してもプレイグニッション・ノッキングやデトネーションがない。スロットルバルブがないため、低速でも排気が多く、ターボチャージャーとの相性が良く、容積あたりの低出力を補うことができる。さらに大型エンジンでは排気エネルギーを出力軸に、より多く回収するターボコンパウンドも可能である。
ガソリンエンジンには点火時の火炎の伝播速度によりシリンダ直径に限界があるのに対し、ディーゼルエンジンにはその限界がないので大型化に適している。ガソリンエンジンでは、多気筒化で排気量を確保して高トルクを得るか、高回転化で出力を上げなければならないのに対し、ディーゼルエンジンでは気筒容積の拡大で可能となり、構造が単純化されフリクションロスも抑えられ、熱効率が高まる。大型エンジンほどディーゼルエンジンの利点が活きてくる。
ディーゼル燃料の引火点はガソリンに比べて80 °Cほど高いため、爆発・火災事故に対する余裕が大きい。特に被弾することを前提とした軍用車両で、このメリットが大きい。軍用車両のエンジンは航空燃料のJP-8等と併用することも考慮され、ディーゼル化を進めている。ガスタービン燃料は軽油よりも上質油であるが、燃料を共有することで有事の兵站が合理化される。
ディーゼルエンジンのうち、4ストローク機関は吸気系統側に掃気用の補機を持たず、噴射ポンプでシリンダー内に直接燃料を噴射する構造のため(ガソリン直噴エンジンを除く)、ガソリンエンジンと異なり始動時に何らかの方法でクランクシャフトを逆方向に回転させることにより、逆回転運転をさせることができる。例えば、自動車の場合は変速機を前進ギアに入れた状態で車体を後進方向に押したり、坂道で下り方向に空走させたりすると、クランクシャフトは逆回転するため、デコンプを開いておくなど始動の予防措置を講じない限りは逆回転状態でエンジンが押しがけ始動してしまう危険性がある。自動車でこのような状態になると、変速機が前進ギアの際に車体は後退し、後進ギアの際に逆に前進が行われることになる。この現象は事故や労働災害を誘発する原因になる一方で、船舶などその特性を活用することで変速機を介することなく逆回転運転のみによる後退運転が可能となることも意味している。
4ストロークディーゼルで逆回転運転が始まった場合、吸排気弁の機能が逆転するため、排気管から吸気し、エアフィルター側に排気が行われる。また、カムシャフトのバルブタイミングや噴射ポンプの噴射タイミングも適切に反転させたものを使用しなければ十分な出力性能が得られないため、自動車ではあまり実用的とはいえないが、中・小型船舶用機関では古くはMANやスルザー、B&Wなどが前進用と後進用の2系統のカムシャフトを可変バルブ機構で4ストロークディーゼルの逆回転運転による後退航行を実現しており、航空用エンジンではダイムラー・ベンツ DB 602が同様の機構を有していた。しかし、今日では小型船舶ではこのような逆回転運転機構ではなく、油圧または電動の遠隔操作で断続されるクラッチと 後退用ギアボックスを組み込むことで後退航行が行われている。
なお、2ストローク機関では逆回転運転をさせても掃気孔と排気弁または排気孔の機能が逆転せず、掃気ポートタイミングも変化しないため、リードバルブ式ガソリンエンジン・ユニフローディーゼルエンジンどちらでも逆回転運転は可能であり、ディーゼルエンジン特有の長所とはなっていない。ただし、ガソリンエンジンでは逆回転が後退に利用される例は一部のスノーモビル程度に限られているが、船舶用ユニフローディーゼルエンジンにおいては、逆回転運転により直接スクリューを逆回転させ後退航行を行う手段として一般的に用いられている。
自動車用ディーゼルエンジンの価格はガソリンエンジンのほぼ倍になる(国産車の車体価格で、だいたい40万から50万円程度高い)。スロットルと点火装置が要らない代わりに、高価な燃料噴射系と補機類が必要となりエンジン全体は高コストになる。
ディーゼルエンジンの主たる短所は、大きく重くかつ、振動が激しいことである。大重量ゆえエンジンの出力重量比が悪く、軽量化を要求される航空機では、一部を除いて従来あまり採用されず、レシプロエンジン全盛期においても主流足りえなかった。また、圧縮着火のため、高空(低温、低気圧)での始動性や信頼性に乏しいというのも、ディーゼルエンジンが敬遠された大きな理由の一つである。
拡散燃焼ゆえ、黒煙や粒子状物質 (PM) が発生しやすいうえに、燃焼室内が高温高圧かつ希薄燃焼域(軽負荷時は30:1から60:1)で酸素と窒素も過多であるためNOxも発生しやすく、密閉コックピットが普及する前の飛行機においては、ディーゼルエンジンがパイロットたちに嫌われた理由でもある。排気対策をするにも、排気中の残留酸素が多い酸化性雰囲気では三元触媒を使えないため、PMとNOx対策に別々の後処理装置が必要となり、重量もかさむとともに高コスト化する。
高圧縮比のため、ピストンリングや軸受にかかる面圧が高く、十分な強度を持たされた可動部品の質量も大きい、高速回転させると摩擦損失などでエネルギーの損失が急増する。 高圧縮比のため高回転まで回らず、常用回転域が狭いため、車両用には走行速度に応じた変速が必要で、最適な回転数を外すと効率が低下する。この2点が調和しないため、自動車用ディーゼル機関は大型舶用ディーゼル機関より大幅に低効率となっている。
ディーゼルエンジンでは燃料噴射装置が点火装置と出力制御装置を兼ねるため高価になり、燃焼制御も難しい。燃料噴射系がエンジンコストの半分を占める。
高圧縮比であるため、吸排気系の脈動も大きく、こちらの振動や騒音も大きい。船舶用、コジェネレーション用では脈動を抑えるためにアキュムレータを備えたものもある。
シリンダーヘッド、シリンダーブロック、ピストン、コネクティングロッド、クランクシャフトに高い強度と剛性が求められ重量が嵩む。
加減速や発進・停止を頻繁に求められる車両用途では、大トルクに耐えられる多段変速機が必要となる。副変速機込みで18段や24段にもなる変速機を手動で操作するのは煩雑すぎて現実的でないため、優秀な自動変速機が必要になり、さらにに重く、高コスト化する。
吸気管負圧を得にくいため、乗用車においてはブレーキブースターを別の経路からとる必要がある。これもまた高コストの原因となる。
寒冷地では燃料中のパラフィンが析出して燃料フィルターで目詰まりする場合がある。温暖な地域の軽油を入れて寒冷地に移動して駐車していると、燃料が流れなくなって始動しなくなるおそれがある。
ディーゼルエンジンの容積あたりの低出力を過給、ターボチャージャー、ターボコンパウンドなどで補うと、点火装置の単純さというメリットが相殺され、高コストになる。
乗用車用ディーゼル機関では振動軽減のため小排気量ながら多気筒化する傾向があり、気筒容積の拡大で大型化できる利点を生かしにくく、高コストになる。
吸気系統にスロットル弁を持たず、アクセルペダルの操作が噴射ポンプの噴射量のみを制御するディーゼルエンジンは、噴射ポンプのリンケージの不具合や調速機の破損などにより燃料供給が過多となった場合、エンジン回転数が過回転(英語版)となったまま、オペレーターの操作ではエンジン回転数を制御できなくなるディーゼルエンジンの暴走(英語版)事故が発生することがある。ディーゼルエンジンの暴走は、ターボチャージャーの軸受部のオイル漏れや過度のブローバイの発生などで霧化したエンジンオイルが吸気系統に大量に混入した場合、あるいは可燃性のガスが充満した空間に稼動状態のディーゼルエンジンが置かれた場合などの外的要因によっても発生しうる。
ガソリンエンジンは燃料装置の不具合、たとえばチョーク弁の誤作動などで燃料の供給が吸入空気量に対して過多となった場合は、点火プラグが失火してエンジンストールを起こすか、著しくドライバビリティが低下していく。ガソリンエンジンでもスロットル弁のリンケージの破損により、エンジン回転数が過回転となったまま制御不能になる暴走が発生する可能性はあるが、この場合メインキースイッチやキルスイッチを作動させるか、カーバッテリーの配線やプラグコードを切断するなどして強制的に点火装置や点火プラグへの給電を断つことで、オペレーターは暴走を容易に停止させることができる。機械式燃料噴射装置や機械式燃料ポンプ付きキャブレター式のガソリンエンジンで、ランオンを併発するという特殊な状況でのみ、オペレーターの操作だけではエンジンを完全停止できない事態が発生しうるが、それでもスロットル弁を閉じれば回転数は下がり、更にマフラーの排気口を塞ぐことで容易に暴走は止められる。
しかし、スロットル弁(バタフライ・バルブ(英語版))を持たず、圧縮圧力のみで自己着火するディーゼルエンジン、とりわけ噴射ポンプが機械式の場合、吸入空気量を制限する機構が何もないため、ひとたび暴走が発生してしまうとメインスイッチやアクセルペダルをいくら操作してもエンジンの過回転を停止することができなくなってしまうさらにはターボチャージャー付きディーゼルエンジンの場合は、暴走が発生するとターボチャージャーも過回転状態となるため、過給圧のオーバーシュートも併発することでブローバイが燃焼室から大量にクランクケース側に吹き抜け、そのブローバイがPCVバルブやEGRを通じてインテーク側に大量に吸引されることにより、例え噴射ポンプへの燃料供給が絶たれたとしても、多量のブローバイによりインテークに吹き抜けるエンジンオイルのみでディーゼルエンジンの暴走が継続する、ポジティブフィードバック状態が成立してしまう場合すらある。
このようなディーゼルエンジンの暴走をエンジンブローに至る前に停止させるには、燃料タンクから噴射ポンプへの燃料供給を遮断するのみでは不十分で、エアクリーナーボックスや吸気口に蓋や栓をはめ込んだり、二酸化炭素消火器を吸気口に大量に吹き込むことで吸入空気(酸素)を遮断する、あるいは変速機をトップギアやオーバートップに入れた状態でフットブレーキやサイドブレーキを目一杯掛けた状態でクラッチを一気に繋ぎ、クランクシャフトの回転を無理矢理停止させエンストを狙うなどの方法を採るしかない。自動車では走行中にアクセルペダルを戻してもエンジン回転の上昇が止まらない、ディーゼルエンジン暴走の兆候が見られた場合は、マニュアルトランスミッションでは直ちにクラッチを切り、オートマチックトランスミッション、セミオートマチックトランスミッション、無段変速機ではシフトレバーをニュートラルに入れてドライブトレインへの動力伝達を絶った上で、路肩に停車して上記の暴走停止の措置を行う。アメリカ海軍では船舶用ディーゼルエンジンで暴走が発生した場合には、燃料供給弁を閉じた上でデコンプを開いて停止を図るようにトレーニングマニュアルに記載している。
欧米ではディーゼル機関車や、デトロイトディーゼルなど旧式のディーゼルターボエンジンをレストアした際の試運転時に度々こうした暴走事故が起きており、キャタピラーは燃料系統を修理したディーゼルエンジンを初めて始動する際には、作業助手は燃料系統の修理ミスに伴う暴走に備えて吸気口に直ちに栓が出来るように備えておくことを推奨している。日本でも2000年代初頭に、三菱自動車工業の三菱・デリカや三菱・チャレンジャーにて噴射ポンプの製造工程のミスに伴うディーゼルエンジン暴走事故が発生し、リコールに至っている例がある。
可燃性ガスの充満が発生しやすい石油化学プラントや鉱山では、ディーゼルエンジンの暴走事故が数多く起きており、アメリカ合衆国労働省など海外の労働行政機関は、産業用ディーゼルエンジンに対して、万が一暴走が発生した際に備えて吸気系統と燃料供給系統の双方にシャットダウン・バルブ(英語版)や安全遮断弁(英語版)を備え付けるように義務付けている が、それでもすべてのディーゼルエンジンの暴走のフェイルセーフの確立までには至っておらず、2005年のテキサスシティ製油所爆発事故でもその過程において自動車のディーゼルエンジンの暴走が関連していたことが確認されている。
フィルター直前に追加インジェクターを持たない、燃焼再生式のDPF・DPR等が装着されるディーゼルエンジンについては、軽油によってエンジンオイルが希釈されることとなるが、燃料を含むエンジンオイルによって発生したブローバイガスが、EGR機構によって吸気系に戻されることによっても、ディーゼルエンジンの暴走が発生する。
定置型の内燃力発電やポンプなどの動力。水上船舶などの舶用動力。トラックやバスといった大型の自動車や、戦車のような軍用車両、コルベットや潜水艦やドック型揚陸艦および強襲揚陸艦のような軍艦。建設機械、農業機械などの大型特殊自動車、ディーゼル機関車や気動車などの鉄道車両に使用される。発電、ポンプなどはディーゼルエンジンが主流であるが、LPGや天然ガスなど気体燃料を用いた電気点火式ガスエンジンや、ガスタービンエンジンの場合がある。
大出力を生み出す大型舶用エンジンと、そこから派生した定置発電用エンジンは、ディーゼル機関の独擅場と言える用途である。これらの分野は他用途では常に制約・問題となる機関本体および補機の重量・容積をある程度度外視でき、ディーゼル機関の持つ大型化に適した性質に合致した結果と言える。
1900年代から小型船に置ける試行的採用が始まったが、外航船舶として本格的な成功を収めた最初のディーゼル船は、1912年にB&W(バーマイスター・ウント・ウェイン)の1,250 hp・4ストロークエンジン2基を搭載して建造されたデンマークの5,000 t級貨物船「セランディア」(MS Selandia)である。この船は同クラスの蒸気機関搭載船に比して3分の1程度の燃料消費で航行できた(かつ、蒸気船のようなボイラー用の真水が不要であった)ことでその経済性と航続距離における優位性を立証し、実用的成功を収めた。排煙の量が蒸気船に比べて遥かに少ないため、蒸気船のような太い煙突は実用上不要で、簡易な排気管を備えるだけで済んだ(以後のディーゼル船では、主として美観上の見地から旧来同様の煙突を模したファンネルを立て、その中に外見より細い排気管を通す事例が多く見られる)。
その後の第一次世界大戦初期には、機関室の密閉が容易でガソリン機関よりも大型化に適し、航続距離を伸ばせることから、当時急速に実用水準に達した潜水艦の主動力に導入された。第一次大戦後の1920年代以後は通常の軍艦・商船にも本格的普及が始まったが、舶用動力の主流となるには時間がかかった。1950年頃までの船舶用大型ディーゼルエンジンにはある程度の高品質な重油が必要であり、また単体では蒸気タービンに比肩する大出力化が進展せず、大出力・高速の確保には複数エンジンを連動させて出力合成する複雑化を強いられた(例として1934年から1936年までに就役したドイツの「ポケット戦艦」ことドイッチュラント級装甲艦は12,000トン級ディーゼル艦で2軸のスクリューを備えていたが、49,000 hp級の出力確保のためディーゼル機関8基を搭載、4基ごとにスクリュー1軸を駆動した)。このため、特に大型船舶の動力としては、石炭や粗悪重油でも使用可能な蒸気ボイラーで作動し、なおかつ大出力化の容易な蒸気タービンを駆逐するまでには至らなかった。
1920年代、舶用大型ディーゼル機関の分野では、4ストローク式と2ストローク式、通常構造の燃焼室を持つ単動式と、ピストン下部とクランク室との間のクロスヘッド部に別途燃焼室を持つ複動式がそれぞれ並行して市場に投入され、出力増大を図っていた。この過程で燃料噴射は圧縮空気式から、より小型のエンジン同様の無気噴射式へと進化した。
1930年代初頭以降、舶用大型ディーゼル機関の国際市場を技術的にリードしていたB&W、スルザー、MANの3社は、燃焼頻度を多くでき高出力化に適する、クロスヘッド付の2ストローク複動式へ傾倒するようになるが、この方式は複雑性と熱負荷の面で課題を抱えていた。このため、第二次世界大戦後にはクロスヘッドと2ストローク方式は維持されたが、複雑な複動式燃焼室が衰退し、単動式が主流となった。この時期、大日本帝國海軍においては艦政本部が各種船舶用ディーゼルエンジンの開発を主導し、潜水艦においては当初は水上速力を重視する目的で2ストロークディーゼル機関が多用された。戦前の伊号潜水艦は複動化された2ストロークディーゼル機関で水上20ノットを超える高速力を誇っていたが、第二次世界大戦が始まると急速に4ストローク単動式へと移行し、水上速力も10ノット中盤と急速に低下した。2ストローク複動ディーゼル機関は大出力が可能ではあるが、騒音が大きく、排気圧力が低いため排気管が水中に没している潜水中はシリンダーが浸水する危険性が高く、主機のディーゼルエンジンの駆動が行えなかった。これはすなわちシュノーケルを用いた主機関での水中連続航行に不向きで、水中での移動は事実上、電動機のみに頼らざるを得ないことを意味していた。そのため、大幅な性能低下は覚悟の上で4ストロークへの移行が行われたのである。4ストロークへの移行により出力は低下したが、騒音は抑えられ燃費も大幅に向上、第二次世界大戦末期の伊四百型潜水艦では水上航続距離が37,500海里(約7万キロ、世界一周の約1.5倍)にも達するものとなった。
1940年代後期、液体燃料としては最も廉価だが低質な残渣油を低速ディーゼルエンジンで用いる試みが進められ、在来ディーゼル機関での高品質燃料への混合試用のほか、事前加熱濾過装置による流動性改善、ロングストローク化を徹底したクロスヘッド式単動型構造によるシリンダー壁潤滑の保護で、残渣油のみを燃料とできるエンジンが実用化されるようになった。
蒸気タービンを代替するためのディーゼル機関大出力化過程で、低速ディーゼル機関の特性を生かした排気タービンによる静圧過給が1950年代前半から実用化された。その最初は1952年にB&Wがタンカー「ドルテ・マースク」(10,630 GRT)用に製作した6,500 HP機関である。競合各社も1953–55年までに静圧過給方式導入に進んだ。以後、舶用ディーゼルの大型化・大出力化と高効率化が進行し、舶用機関としての経済優位性は圧倒的なものとなった。ただし1970年頃までは、国際的な石油需要増大に応じて超大型化が進むタンカーの巨大動力に蒸気タービン機関しか用意できなかったため、ディーゼル機関の出力ベースのシェアが一時低下した時期もあった。しかし1973年の石油危機が到来すると、運行コストの低減が至上命令となり、タンカーでも際限なく大型化する機運は失われた。ほぼ全ての商船は30万トン以下で十分とされ、ほとんどディーゼル動力化された。
第二次大戦後の石油精製技術の向上に伴い、原油からは従来より多くの高品質成分を取り出すことができるようになった反面、高度な精製後に残る残渣油の品質は年々低下し、残渣油由来のC重油に含まれる硫黄等の有害不純物の含有量は高くなっていった。この燃料粗悪化進行にも大型舶用ディーゼル機関は時代ごとの技術改良で耐えてきたが、1990年代以降、残渣油由来燃料に起因する硫黄酸化物や、燃焼過程で生成が避けられない窒素酸化物や粒子状物質などが入り混じる、船舶からの排気ガスによる地球環境汚染が取り沙汰されるようになり、新たな課題となっている。
世界中で大型の自動車(トラックおよびバス、特装車・特種車)や建設機械に用いられている。さらに日本においては税制によりディーゼル燃料である軽油がガソリンよりも安価なため経済性を優先する商用車はディーゼル比率が高い。
乗用車用のディーゼルは国によって人気の差が激しく、欧州では、小型の乗用車でも新車販売台数の約43 %がディーゼル車(2006年)で、一時は50 %を超えた。一方で米国では、乗用車市場におけるディーゼル車のシェアはわずか0.5 %(2005年)しかなく、日本でもマツダを除き人気は無い。
2000年ごろには9–16リットル級の中型エンジンでは直列6気筒とインタークーラー・ターボ過給が採用されて500 PS程度の出力であり、16–30 Lの大型では自然吸気V形8気筒以上の配列が採用されていた。高速定速走行の頻度が高い高速バスや輸送用トラックには中型ターボチャージャーが適し、滑りやすい道(いわゆる低μ路)や走行抵抗の大きい悪路での微・低速走行の機会の多いダンプトラックには、レスポンスに優れ扱いやすい大型のV型8気筒ノンターボエンジンが好まれてきたからである。
しかし、次第に厳しくなる排ガス規制の前に、各社とも2010年までに排気量を11–13リットル程度まで落とし、排気ガスの後処理装置と親和性が高い直列6気筒エンジンに生産を絞り込んだため、排気量の大きなV型自然吸気ディーゼルは姿を消した。自動車用4ストロークエンジンでは過給機による高圧化が進み、すでに筒内最高圧力 (Pmax) の上昇限界のために圧縮比は低下傾向にある。
排気量2–5リットル程度の小型ディーゼルエンジンの多くは乗用車用なので、静粛性や排ガス対策を中大型エンジンよりも強く求められ、コモンレールによる直接噴射式となっている。
欧州に比べ日本では、CO2の削減メリットよりNOxやPMに対する法規制が優先されたため、2000年頃から小型ディーゼルエンジン搭載の乗用車は減少した。しかしポスト新長期規制と呼ばれる厳しい基準群に対応するクリーンディーゼル乗用車が2010年以降に発売され、再び徐々に増加していたが、フォルクスワーゲンの排出ガス規制不正問題発覚以降ディーゼル乗用車は(特に欧州の)規制当局やメーカー、何よりユーザーの三方から見放されつつある。
装軌車両においては、単なる過給機との組み合わせでなく、タービン機関との複合機関(ターボコンパウンド機関)とされる例(ルクレール)がある。
競技の世界では、低速のトルクの豊かさから、ラリーレイドで重宝される。サーキットレースでは1990〜2010年代頃の市販車市場のクリーンディーゼルの流行に合わせて多数投入され、世界選手権や国際レースを制覇することもあったが、現在ではブームは去っている。
インドでは古くからディーゼル二輪車が生産、販売されていた(例:富士重工業(現・SUBARU)製の汎用型小型空冷単気筒ディーゼルエンジンを搭載したエンフィールド=ロビン・D-R400D)。
近年、イギリス陸軍がカワサキ製オフロードバイクにディーゼルエンジンを搭載し運用開始した。これにより陸軍車両燃料の軽油への統一化を完了した。同様の車輛が、HDT M1030-M2 JP8(680 cc)として市販されている。
公道を走らない、オートバイから派生したオフロード車のATV(全地形対応車)/やUTV(サイド・バイ・サイド)でもディーゼルエンジンが用いられることがある。
特に業務用(ユーティリティ型)のATV/UTVにおいては、低燃費による原価低減、急加速を必要としない、騒音が問題視されないなどの観点からディーゼルエンジンが搭載されることがしばしある。
飛行船においては1920年代から1930年代に開発されたLZ129ヒンデンブルクやLZ130は、逆回転可能なディーゼルエンジン(ダイムラー・ベンツ DB 602)により、プロペラを駆動していた。カムシャフト上のギアを変えることにより回転方向を変えることができる。全出力からエンジン停止、逆回転させて全出力までの時間は60秒以下であった。これはまさに船舶用エンジンと同じ機能である。 1929年に完成したR101飛行船には直列8気筒のビアドモア製トルネードエンジンが5基搭載された。鉄道用の4気筒エンジンを2つ組み合わせて高出力、軽量化したものであった。気温の高くなるインド航路での利用が多く見込まれたため、引火点の低いガソリンでの火災事故の懸念からディーゼルが選択された。飛行船は固定翼航空機と異なり、連続運転を要求されず、中速クラスの可逆回転ディーゼル機関を流用できたが、1930年代末期の硬式飛行船そのものの衰退で、それ以上の発展を見なかった。
固定翼機において、最初にディーゼルエンジンが試されたのは1920年代から1930年代にかけてであり、1928年9月18日にパッカード製の星形ディーゼルエンジンを搭載したスチンソンデトロイター(機体番号X7654)が初飛行に成功している。パッカードのエンジンを搭載した機体は発生する黒煙対策として機体色を黒にしていたが、臭いや黒煙が不評だった。
代表的なものとしてはパッカードの空冷星型エンジン(黒煙排出や強度面の欠陥により早期に市場から淘汰された)や、対向ピストン式のユモ205などがある。ソ連では第二次世界大戦中チャロムスキー Ach-30ディーゼルエンジンがイェモラーエフ Yer-2やペトリャコフ Pe-8などの爆撃機に搭載された。 フランスではブロック(Bloch)がMB.203爆撃機にクレルジェ(英語版)製の星型ディーゼルエンジンを搭載した。ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメントでは1932年にロールスロイス・コンドル(英語版)エンジンを圧縮着火式エンジンに改造して、ホーカー・ホーズリー爆撃機(英語版)に搭載してテストした。
このように多くのメーカーがエンジン開発を試みたが、ディーゼルエンジンは耐久性と燃費は良好だがスロットルの反応が鈍い、酷い排煙と振動などの理由により、主流とはなり得なかった。
大戦後のユニークな提案としては複雑なターボコンパウンド機関の燃焼にディーゼルを利用するネイピア ノーマッドがあるが、これも実用化には至らなかった。またアリソン 250などディーゼル燃料対応を謳ったターボプロップエンジンも存在するが、出力が落ちるため積極的に使われることはなく緊急用としている。
航空機用ガソリンエンジンの進化が頭打ちになり、さらに2度のオイルショックに加えて環境に悪影響を及ぼす有鉛の航空用ガソリンへの規制が強まったことから、従来の航空機用レシプロエンジンの燃料の価格が高止まりした。そのためヨーロッパでは1980年代以降、ジェット燃料も利用可能かつ低出力ではタービンエンジンよりも燃費に優れる、小型プロペラ機向け低燃費ディーゼルへの関心が復活した。1980年にNASAのグレン研究センターではコンチネンタル・モータースと共同で3気筒と6気筒の星形ディーゼルエンジンを発表するなどしている。大きく、重く、振動が大きいという欠点を改善するため、「エアロディーゼル」と呼ばれる軽量化されたエンジンの開発が試みられている。一例としてイギリスのDair の2ストロークディーゼルが挙げられる。これは重たいシリンダヘッドを使わず2つの対向ピストンで一つの燃焼室を形成する対向ピストン式エンジンの現代版である。しかし、-5 °C 以下での始動が保証されない、着火と燃焼が安定しないので高空で使えない、など、この形式の性能や信頼性は決して高くない。ディーゼルの適用は低空で使用する飛行船・軽飛行機・ヘリコプターに限られており、発展性は少ない。
2001年ドイツのThielert(後にTechnify Motors)が、ディーゼルエンジンでは第二次世界大戦後初めてJAA(合同航空当局〈英語版〉)による認証を取得した。2002年に認証を取得したCenturion 1.7(TAE 125)エンジンとその後のCenturion2.0エンジンはそれぞれメルセデス・ベンツ・Aクラスに搭載されたOM668、OM640エンジンをベースにしており、ダイヤモンド・エアクラフト・インダストリーズのDA40(英語版)やDA42(英語版)などの小型機に採用された。2010年までに合計3000基以上が生産されている。会社は2008年に倒産した後管財人の元で再建が行われ、2013年に中国航空工業集団公司(AVIC)傘下のコンチネンタル・モータースに買収された。
2010年にはEADSによって制御されるディーゼルハイブリッドヘリコプターのコンセプトが発表された。EcoMotors社の対向ピストンエンジンが採用されている。
2015年からNASAによって電動のVTOL機やドローンをディーゼル・エレクトリック方式とすることで、航続時間を延ばす研究もおこなわれている。
2015年11月6日にはエアバス・ヘリコプターズがHIPE-AE440(V型8気筒4.6リットル直噴ターボ)を搭載した試験機H120の飛行に成功した。European Clean Sky initiativeの一環として開発された。これにより、ヘリコプターで主流のターボシャフトエンジンであるチュルボメカ アリウスを搭載した同型機よりも燃料の消費が30 %低減され、航続距離が2倍近くになり、高温高地での運用性が向上するとされる。
現代の航空法ではエンジンについてピストンとタービンに分けているが、ガソリンとディーゼルどちらを使用するかについては言及しておらず、ディーゼルエンジン搭載機もピストンの資格で操縦・整備できる。特に日本では航空用ガソリンが給油できる飛行場が減少し価格が上昇していることから、より安価で給油できる場所が多いJET-A1に対応したディーゼルエンジンに交換する事業者もある。コンチネンタル・モータースでは換装用としてJET-A1対応のエンジンと交換用キットのセット販売も行っている。またセスナでは172にディーゼルエンジンを搭載したモデルを販売している。
大型構造物や建築物の基礎杭を打設する杭打ち機の一つとしてディーゼルハンマがあった。自らの振動と自重で鋼管杭やコンクリート杭を打ち込むもの(打撃工法)で、機械の移動が容易で効率も良いメリットがあったが、騒音や排気ガスの問題から日本国内では使用されなくなった。
ガソリンエンジンより熱効率の高いディーゼルエンジンは、CO2の発生量では環境への負荷が少なくて済む。しかしPMやNOxの発生量はガソリンエンジンより大量で問題を含んでいる。
気体だけを燃やす予混合燃焼と異なり、燃料を液滴のまま燃やす噴霧燃焼の原理上、液滴の燃え残りとして、PMや黒煙を発生しやすいことが欠点である。またディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりも高温高圧で、余分に空気を取り込む内燃機関なので、窒素酸化物 (NOx)の生成量も多くなってしまう。
ディーゼル機関の低負荷時の空燃比は30:1から60:1もの希薄に見えるが、均一予混合燃焼ではないので、低温燃焼によるNOx低下は無い。むしろディーゼル機関は液滴付近の空気だけを消費する不均一な拡散燃焼のため、燃焼温度が高いまま多量の余剰空気を加熱し、行程あたり高負荷時よりも大量のNOxを生成する。
ディーゼル機関は排気も酸素過多となるので、ガソリン機関で多用されている排気浄化用の三元触媒を使えない。三元触媒は理論空燃比で運転する場合に炭化水素 (HC)・窒素酸化物 (NOx)・一酸化炭素 (CO) を同時に浄化できる。
ディーゼルエンジンの排気ガスの発がん性について、WHOの下部機関である国際がん研究機関(IARC)は長らく「グループ2Aの発がん性」=「人に対する発がん性がおそらく(probably)ある」としてきたが、2012年6月、アメリカ国立がん研究所/国立労働安全衛生研究所の大規模疫学調査から、「グループ1」=「人に対する発がん性がある」と格上げした。
ディーゼル燃料に硫黄が残留していると排気に有害な硫黄酸化物 (SOx) が含まれる。また硫黄は酸化力が大きいので排気浄化用の酸化触媒や還元触媒とも先に反応して無効にしてしまう。そのため自動車用エンジンへの対応はもっぱら燃料の脱硫に頼っている。従来、欧州の軽油が低硫黄分の北海産原油から作られるのに対し、日本の軽油は高硫黄分の中東産原油から作られるため低硫黄化が難しいと言われていた。しかし日本の脱硫に関しても2004年末、自動車排出ガス規制に関連する「自動車燃料品質規制値」の変更が行われ、軽油に含まれる硫黄の許容限界は、従来の0.01 %質量以下から0.005 %質量以下へと改められ、欧州と同じ時期に同じレベルに低減している。硫黄分には燃料ポンプに対して潤滑作用があるため、脱硫後の燃料油には燃料ポンプ保護のため潤滑剤が添加される。
大型舶用エンジンには3 %ほどの硫黄分の多い粗悪な燃料が使われるため海水スクラバー装置(排ガス中に含まれるSOxを海水に吸収させる排煙脱硫装置)などの後処理で排気からSOxを除去しようとしている。湿式スクラバーの後段でNOx低減触媒も使えるようになるが、排気温度が低下しすぎているので難しい。2012年現在、欧州で排気温を下げすぎない乾式スクラバーと#SCRの組み合わせが開発中である。
排ガス中のNOxと黒煙とは、二律背反の関係にあり、しかも自動車の走行条件は、どちらの状態もあるので2000年代のPM、NOx対策では2つの後処理装置が必要になる。
高圧噴射で少量の燃料を完全燃焼させ黒煙の発生を防ごうとしても、高温高圧下の窒素と酸素(空気)により、NOxが生成されてしまう。このため、低負荷時にはEGRを増やし燃焼温度を下げてNOxを低下させる。
EGRを増やすと完全燃焼しにくくなり黒煙が増えるため、高負荷時にEGRは使えない。またEGRをなくしても高温高圧下で燃料噴射量が増えると、不均一な燃料が早期に発火して、PMが発生する。1990年代にコモンレール方式で多段噴射が使えるようになると、欧州自動車メーカーは発生したPMを多段噴射による後燃焼で完全燃焼しようとした。しかしNOxには無効だった。結局、PM対策とNOx対策のために、別々の後処理装置が使われた。
2012年に発売されたマツダSKYACTIV-Dの低圧縮比ディーゼルによって初めて高負荷時のNOxが低減され、NOxの後処理装置が不用になった。
大型舶用エンジンには硫黄分の多いC重油が使われるため、NOx浄化触媒は容易に使えない。また粗悪な重油を着火するため圧縮比も低下できない。派生型の内燃発電では水添加燃焼により燃焼温度を下げてNOxを低減している。水の気化熱で燃焼ガス温度は低下し、水蒸気は作用気体となる。熱効率は2–3 %低下するだけでNOxを50 %低下する。さらに多層水添加という高度な技を使えば熱効率を維持して60 %のNOx低減が可能とされる。
日米欧の各地では、ディーゼル自動車に対する環境規制が行われている。
国際海事機関(IMO)は海洋汚染防止条約付属書VI(MARPOL73/78 ANNEX VI)を1997年に採択し、批准国が定数に達すると発効するという手順で、2000年からSOxの規制を発効し始め、定期的に規制を強化する方針である。NOxについては全海域に適用される2005年に発効した第一次規制、2011年に発効した第二次規制に続き、2016年にはECA(排出規制海域)だけに極端に厳しい第三次規制が掛けられる予定である。
排気ガス処理技術は、できるだけ低温・低圧で燃焼させることでNOxの発生を少なく抑え、酸化触媒やDPFによりPM、CO、HCを処理する方法と、できるだけ高温で完全燃焼させることでCO、HCの生成を抑え、その結果増加するNOxを窒素に還元するNOx還元触媒の2つを併用する方法が主流。
NOx還元触媒に従来型の三元触媒から派生したものと、SCRと呼ばれるものの2つがある。また常時同じようにNOxを浄化する「尿素SCRシステム」と、リーン燃焼中にNOxを吸蔵し、リッチ燃焼以降に浄化作用を進める「吸蔵触媒」の2つがあり、それぞれ組み合わせられる。
そのほか、燃料の改質によりNOxを減らす構想があり、ジメチルエーテル混入、水エマルジョン燃料などの研究が舶用エンジンの分野を中心に進んでいるが、供給体制の整備や、使用者が補給を怠った場合の対策などの問題があり、実用化は進んでいない。
なお、NOxとPMの排出量は前述の通り二律背反であり、基本的に燃焼のセッティングによって多く排出される物質の処理に適した処理装置を搭載する方式が基本なのだが、使用状況などによってはメーカーの意図した通りの作用をしなくなってしまうこともある(たとえば、尿素SCRシステムを採用した車両において、何らかの理由で燃焼が低温もしくは低圧になってしまい黒煙を多く排出することがある。逆に、DPFを装備した車種において、メーカーの想定以上の低温・低圧などによりPMがDPFの処理能力以上に排出され燃料が原因ではないフィルターの目詰まりを引き起こすことがある)。また、後述のようにDPFの強制再生は燃料の消費が多く(=燃費が悪い)、尿素SCRシステムでも構造上燃費の悪化は無視できるほどに小さくとも一方で尿素水の消費量はそのシステムを搭載することの多いトラック・バスにおいては莫大なものとなる。これらの事態を軽減するために2010年代に入りDPFと尿素SCRシステムを併用した浄化システムが普及しはじめた(例:ダイムラーグループが採用するBlueTec等)。併用する場合燃焼のセッティングを低温低圧または高温高圧の一方に振る必要がなく、またそれによりPMの発生量がDPFのみの車種のものより減ることで強制再生の機会が減り燃費が改善される。一方NOxの発生量も尿素SCRシステムのみの車種の場合よりは少ないため尿素水の消費も抑えることができる。
排ガスの一部を吸気系へ導入する排気再循環(Exhaust Gas Recirculation, EGR)によって、吸気中の酸素量を減らしてピークの燃焼温度を下げ、NOxの発生を抑制する。ディーゼルエンジンにはスロットルバルブはないため、低負荷時に極端な空気過多の希薄燃焼になるところにEGRを導入し、NOx低下に利用する。乗用車の場合は高負荷時にEGRは行われないが、トラックなどは高負荷時にもEGRを利用しているケースがある。また、EGRには燃焼時の騒音を低下させるメリットもある(酸素濃度を低減でき、急激な燃焼を抑えることができる)。
ディーゼル排気に含まれる粒子状物質 ( Particulate matter, PM)は、多くの場合「DPF」(Diesel Particulate Filter、ディーゼル微粒子フィルター)と呼ばれるセラミック製のフィルターで捕らえて燃焼処分されるようになっている。
DPFは排気管の途中に挿入され、内部に詰められた多孔質セラミックの微細な間隙に排気を通過させスス状のPMを捕集する。 多孔質の表面には白金などの金属触媒が塗布してあり、300 °C以上の雰囲気中でPMが触媒によって排気と化学反応を起こし、H2OとCO2の無害な気体に酸化され排出される。 エンジンからの排気温度が低い状態が続く場合には、「強制再生」といって、手動で燃料過多の排気を作り出し、定期的に高温状態を作り出してDPFに溜まったPMを無害化して取り除く。
触媒の多くは硫黄に弱く、フィルターの目詰まりの原因となるため、低硫黄化された軽油以外(不正軽油など)の使用はできないが、フィルターにセラミックを使わず、金網と炭化珪素繊維を用いた製品もあり、こちらは低硫黄軽油以外も使用可能である。
SCR(Selective Catalytic Reduction, 選択的触媒反応)とは選択的な触媒による還元作用のことで、排ガス対策の場合はNOxだけを選択して還元剤のアンモニアと反応させ窒素と水に還元する浄化触媒作用である。アンモニア還元剤を用いるため従来のNOx還元触媒よりも高性能である。アンモニアを得る方法で2つに分かれる。
排ガス中のNOxをリーン燃焼時に取り込み、その後にリッチ燃焼で還元させる触媒のことである。NOx還元に上記のSCRを使わないもので、還元剤はHCとCOとH2になり、三元触媒にNOx吸蔵層を追加したものと言える。ガソリン直噴エンジンで使われてきたものであり、ディーゼルには一部で使われている。
乗用ディーゼルエンジン用としては、欧州仕様アベンシスで採用されているDPFと一体化しPMとNOxを同時に還元するトヨタのDPNRがある。
NOxを還元するのに燃料分の多いリッチ燃焼が必要であり、軽油内の硫黄分が触媒の機能を奪うのが欠点である。
ディーゼルエンジンの燃料は、発火点が225 °C程度であれば多様なものが使用できるが、灯油・軽油・重油が使われる。ディーゼルエンジンに誤ってガソリンを給油すると、発火点が約300 °Cと高いため点火できずにエンジンは止まる。給油配管と噴射ポンプからガソリンを除くことで復旧できるが、潤滑性のないガソリンによって噴射ポンプを傷める可能性がある。
軽油に水素などを混合した二元燃料の利用も可能であるが、エンジンや配管の再設計が必要となる。
一方で引火点については、軽油が約50 °Cであるのに対して、ガソリンのそれは約-40 °Cとなるため、ガソリンを危険なものにしている。ガソリンは-40 °C以上で火に近づけるだけで危険だが、50 °C以下の軽油に火を近づけても、すぐに燃えるわけではない。それにも関わらず、火がない環境でこれら2つの温度を上げてゆくと、発火点の差から先に自ら火が着くのは軽油である。この軽油の発火点の低さと引火点の高さが、燃料の爆発を自己着火に頼るディーゼルエンジンでの使用を容易にしている。
航空機では、灯油に近い性質を持ち航空用ガソリンより安価なジェット燃料が使える。これは現代の固定翼機ならびに回転翼機で主流のターボジェットエンジン・ターボファンエンジンやターボシャフトエンジンといったガスタービンエンジンと燃料を共用できる点ではガソリンエンジンよりも有利であり、また低出力機ではディーゼルエンジンを含むレシプロエンジンの低燃費のメリットが大きくなる。ノッキング対策として使用される有鉛ガソリンは有毒で取り扱いが難しく、環境負荷も大きいため環境税の値上げなどで規制される傾向にある。そのため現代では地方の飛行場で燃料補給に支障をきたすことも少なくない。以上の理由などにより、無人機も含む軽飛行機や一部の小型ヘリコプターなどのように、タービンエンジンの強みである軽量高出力やディーゼルエンジンの弱点である低温環境や高高度での性能を必要としない機材については、軍民ともに複数の大きな利点がある。
車両においては、機材が大型になるほどガソリンエンジンよりもディーゼルエンジンが有利になりやすいという一般的特徴に加えて、燃料の引火点が高いことから被弾時の火災リスクが低いといった利点があり、とくに軍用では多く使われている。また、上述のように軍用航空機と燃料を共用しやすい点も、とくに補給ルートや設備の限られる戦場では大きな優位点となる。
エミッション(排気ガス)低減の足かせとなる鉱物油由来の天然燃料に代わり、次世代のディーゼル燃料として注目されているのが、GTL(Gas To Liquid、ガス・トゥー・リキッド)、BTL(Biomass To Liquid、バイオマス・トゥー・リキッド)、CTL(Coal To Liquid、コール・トゥー・リキッド)等の合成油である。これらの燃料は、単体で、あるいは軽油に混合してディーゼルエンジンに使用することで、排ガスでは低公害化が期待できる。
GTL燃料の原料は天然ガス、CTL燃料は石炭であり、軽油に比べセタン価が高く、SOxの原因となる硫黄分やPMを発生させるベンゼン・キシレンなどの芳香族炭化水素をほとんど含まない。CNGや水素とは異なり常温でも液体のため、現在の燃料販売ルートになじみやすい。ただし、加工時のエネルギー分のCO2排出量がそのまま燃焼させるより増加するために、地球環境には優しくない。また、硫黄が含まれないことから、潤滑作用の点で軽油に劣るため、添加剤で対応する必要がある。
BTL燃料は、植物を原料とし液体燃料として合成したもので、GTL・CTL燃料と同様に硫黄や芳香族炭化水素を含まず、燃焼時に排出されるCO2は植物が生長する際に吸収したCO2量に等しくなる、などの特徴がある。
これらの合成油は、高セタン価燃料であるため、単体専用ディーゼルエンジンとしてなら圧縮比を13–15:1へと低圧縮比化でき、エネルギー効率を上げ低燃費化できるのも利点である。これらは、生産量が増加すれば価格も下がっていくと見られており、今後のディーゼル燃料の主流として期待されている。
ジメチルエーテル((DM) をディーゼル燃料として使うことも実用化されつつある。メタノールを脱水縮合反応合成してエネルギー密度を上げる方法ではなく、合成ガスからの直接合成による低純度低価格な大量生産が確立しつつある。原料として天然ガス、石炭、植物など合成ガス化できるものなら良く、有酸素燃料でガス由来の合成油より合成エネルギー損失が少ないのが利点である。
DME燃料は軽油と同等のセタン価で、硫黄分や芳香族炭化水素を含まない。機械式燃料噴射では低圧で体積変化するため噴射量制御が難しかったが、コモンレールで高圧安定化されたことにより噴射量制御が正確になり、適した燃料となった。
また、重油とDMEを混合することで、排気ガスの浄化が望まれることも明らかになりつつある。A重油と混合した場合、NOx,COxもボリュームパーセントでは低下する。
植物油をエステル交換(メタノリシス)してグリセリンを除去し脂肪酸メチルエステル(FAME)とした燃料(Bio Diesel Fuel;BDF)である。
油脂を水素化分解して作る水素化処理油(Bio Hydrofined Diesel; BHD)である。
1885年、イギリス人の発明家ハーバート・アクロイド・スチュアートがパラフィンを使ったエンジンの可能性について調査し始めた。これはガソリンと違いキャブレターで蒸発させるのが難しかった。彼の発明した焼玉エンジンは1891年にリチャード・ホーンスビー・アンド・サンズ社にて製造された。これは世界初の加圧式燃料噴射装置を使った内燃機関であった。このホーンスビー・アクロイド式機関は比較的に低圧縮比で、圧縮加熱による燃料の着火には温度は不十分であった。現代的なディーゼルエンジンは直接噴射と圧縮着火を組み込んだものであり、この2つのアイディアはアクロイド・スチュアートとチャールズ・リチャード・ビニー(Charles Richard Binney)によって1890年5月に特許が取得されている。1890年10月8日には、燃料と空気を分けてエンジンに供給する完全なエンジンの基本的な働きを詳しく述べたもうひとつの特許がとられた。アクロイドのエンジンと現代のディーゼルエンジンの違いは冷間始動時にシリンダーに特別に熱を供給する必要があるかどうかである。1892年、ディーゼルエンジンが発明される1年前にアクロイドスチュアートは追加の熱源を必要としない改良版を作り出した。
1892年、アクロイド・スチュアートは圧縮比の向上を可能にするウォータージャケット気化器の特許を取得した。同年にトーマス・ヘンリー・バートンが実験的に気化器をなくし、シリンダーヘッドに置き換えた高圧縮比版を制作した。それ故、高い圧縮比を通して着火し、空気の予備加熱に頼らなくなった。
ルドルフ・ディーゼルはアクロイドエンジンを発展させ、1892年にドイツ、スイス、イギリス、アメリカで特許を取得した。
1893年にアクロイドはエンジン開発をやめている。
2021年現在。△はエンジンを他社より供給を受けている
韓国
欧米では複数メーカーを買収した持株会社を丸ごと別の持株会社が買収するなど大規模な再編が進行中であり、かつ合併によって消滅したメーカーも多い。
ドイツ
フランス
スウェーデン
フィンランド
イギリス
その他
|
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"text": "ディーゼルエンジン(英: Diesel engine)は、ディーゼル機関とも呼ばれる内燃機関であり、ドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルが発明した往復ピストンエンジン(レシプロエンジン)である。1892年に発明され、1893年2月23日に特許が取得された。",
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"text": "ディーゼルエンジンは燃焼方法が圧縮着火である「圧縮着火機関」に分類され、ピストンによって圧縮加熱された空気に液体燃料を噴射することで着火させる。液体燃料は発火点を超えた圧縮空気内に噴射されるため自己発火する。",
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"text": "実用化された単体の熱機関としては最も熱効率に優れる種類のエンジンであり、また、軽油・重油などの石油系の他にも、発火点が225 °C程度の液体燃料であれば、スクワレン、エステル系など広範囲に使用可能である。汎用性が高く、自動車用小型高速機関から巨大な船舶用低速機関まで、さまざまなバリエーションが存在する。",
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"text": "エンジンの名称は発明者にちなむ。日本語表記では一般的な「ディーゼル」のほか、かつては「ヂーゼル」「ジーゼル」「デイゼル」とも表記された。日本の自動車整備士国家試験ではジーゼルエンジンと表記している。",
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"text": "ピストンで空気を燃料の発火点以上に圧縮加熱し、そこに燃料を噴射して自己発火させる。これにより生じた燃焼ガスの膨張でピストンを押し出す「圧縮着火拡散燃焼機関」である。ディーゼルエンジンの本質は「点火装置が不要な内燃機関」である。",
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"text": "ディーゼルエンジンは、4ストロークサイクルと、2ストロークサイクルに大別される。理論サイクルの分類では、低速のものがディーゼルサイクル(等圧サイクル)、高速のものはサバテサイクル(複合サイクル)として取り扱われる。",
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"text": "ディーゼルエンジンは燃料噴射量で出力を制御するため、スロットルバルブを必要としない。すなわち、常時吸入空気余剰の希薄域で運転される。ただし、不均一な拡散燃焼のため、全体では希薄であっても、部分的に燃え残りの粒子状物質 (PM)が発生する。同時に、燃料が希薄な領域では窒素酸化物(NOx)が発生することになる。",
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"text": "燃料噴射装置を用いて燃焼室に燃料を高圧で噴射する。燃焼室形状の違いで、単室の直接噴射式と副室式(予燃焼室式・渦流室式)に分かれる。1990年代以降に燃料噴射圧を上げることが可能になったため小排気量エンジンでも直接噴射式が主流であり、乗用車や小型商用車など、気筒あたりの容積が700 cc 程度より小さいエンジンで一般的であった副室式は、窒素酸化物(NOx)と未燃焼炭化水素の発生は少ないが、低効率のため使われなくなった。今日ではディーゼル燃料で大型ガスエンジンを点火するときに副室式が用いられる。",
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"text": "ディーゼルエンジンは圧縮着火のため高圧縮比となる。一般にピストンエンジンは圧縮比=膨張比であることから、高圧縮比、高膨張比エンジンとすると熱効率が高まる。圧縮比を上げることを気体の熱力学だけで解析すると、対数的に効率は上がり続けるものの圧縮比15を超えると伸び悩む。一方で高圧縮は摩擦損失と可動部品の重量増による慣性損失を増大させ、特に高回転で機械損失が急増する。また高圧縮になるほど着火しやすいが、むしろ着火により完全燃焼しにくくなるため、適正な圧縮比は14台だといわれている。膨張比はより大きくても良い。ただし、低温時や高地でのエンジン始動性のため圧縮比は14より大きいものが多い。",
"title": "特徴"
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"text": "ディーゼルエンジンは高圧縮比エンジンなので発火点さえ確保できれば精製度の低い安価な燃料を使用できる(重油やいわゆるサラダ油・廃潤滑油も使用できる。ただし場合によりアセトン・ナフサ・アルコールおよび予熱で流動性を高める必要がある)。ただし、その実現には高価な前処理装置や特殊なエンジンオイルが必要になる。低燃費だがエンジン本体に高い圧縮比に耐え得る構造強度が必要になるため大きく重くなり、初期費用が高い。稼動回転域はガソリンエンジンより低回転でかつ狭いため、車両の発進には有利だが、より多段の変速機が必要になる。",
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"text": "拡散燃焼の特徴から気筒容積あたりの出力が低い代わりに、気筒容積に制限がなく、巨大なエンジンを実現できる。熱効率は良いので必要な出力が得られるまでエンジンを大型化することができる。この場合、大型ほど低速回転になるが、これは大型船舶など低速回転・大出力が必要な用途においては極めて都合がよく、実際に超大型低速ディーゼルエンジンが大型商船の主機関として広く用いられている。",
"title": "特徴"
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"text": "空気だけを圧縮した中で燃料が自己発火するため、予混合燃焼ガソリンエンジンで問題となるノッキング(というよりノッキングの原理を逆用して着火させるようなものである。)やデトネーションが発生しない。そのため過給による吸入充填量の増加で気筒容積あたりの低出力を補うことが容易である。スロットルバルブを持たず低速でも排気圧力が高いことから、ターボチャージャーにより排気エネルギーの一部を回収し、効率を維持したまま排気量1リットル当たりの出力を100馬力程度からそれ以上にすることも可能である。",
"title": "特徴"
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"text": "一般的な中速、高速ディーゼルエンジンには4ストローク機関が使われ、大型船舶や大型発電には、低速2ストローク・ユニフロー掃気ディーゼルエンジンが使われている。2ストロークエンジンで新気をシリンダーに送り込むためには、何らかの過給が必要となる。ガソリンエンジンでは安価なクランクケース圧縮が使われているが、ディーゼルエンジンでは過給機と頭上排気弁を併用するユニフロー掃気ディーゼルターボエンジンだけが生産中である。",
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"text": "4ストロークサイクル・ディーゼルエンジンの各行程:",
"title": "特徴"
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"text": "2ストロークサイクル・ディーゼルエンジンの各行程(ユニフロー掃気の場合):",
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"text": "ディーゼルエンジンにおいて燃料噴射が着火と燃焼の制御手段なので、噴射装置は重要な部品となる。現在2,000 bar(約2,000気圧)程度の高圧と多段噴射が必要とされており、かなりの高額部品になっている。自動車用ディーゼルエンジン・コストの半分は燃料噴射系で占める。",
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"text": "初期から50年ほどは大型エンジンの起動用と共有する圧縮空気で燃料を噴射する「空気噴射」もあったが、効率が悪く圧力を高められないために廃れた。燃料だけを高圧噴射する「無気噴射」になった後の経緯を以下に示す。",
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"text": "かつてはプランジャーポンプの一行程の加圧と吐出だけで一回の燃料噴射を実現する「ジャーク式」ポンプだったので、多段噴射できなかった。噴射量は機械制御によるプランジャーの有効ストローク量で決まった。従来のジャーク式ポンプはエンジン回転数や負荷によって燃料圧力と噴射量が変化する欠点がある。燃料噴射弁は燃料圧力の増減で従属的に自動開閉するものだった。いずれも噴射ポンプと噴射弁の間にある長い噴射管を毎回低圧に戻す影響のため、噴射圧が低く、近年では使われなくなってきた。",
"title": "特徴"
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"text": "1990年代後半から以下の方法で高圧燃料噴射を電子制御している。基本的にポンプで加圧だけを分担し、従属弁との間に配置した電子制御弁が噴射量とタイミングを分担する。",
"title": "特徴"
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"text": "ディーゼルエンジンではガソリンエンジンとは異なる特性に応じた装置が必要になるため、かなりの高コストになる。上記の燃料噴射装置や後段の排ガス対策用の後処理装置が代表例であるが、これら以外でも、原理的に振動と騒音が大きくなるため、ディーゼルエンジンでは2次バランサーを追加したり、防振ゴムによる固定に高度な技術が使用され、また大型車に圧縮開放ブレーキも使用される。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "燃料油清浄機はC重油から不純物を取り除く装置。1950年ごろ舶用大型ディーゼルエンジンで安価なC重油を使うために開発された燃料の前処理装置。それまでディーゼルエンジンは一定水準以上のグレードにあるA重油までしか使えなかった。C重油は製油残渣といえる劣悪な燃料で、不純物の混入が前提となる。燃料油清浄機は残渣油を加熱して流動性を高めてから、水分や固形分を遠心分離機で取り除き、さらにフィルターで濾過して細かな混入物の除去を図る。",
"title": "補機類"
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"tag": "p",
"text": "安価を求める残渣油は軽質油を蒸留した残り物なので、製油技術が向上し、利用価値のある各種成分を高度に分留できるようになるにつれ、残渣部は相対的に低質化していく。したがって一定品質に止まらないため、燃料油清浄機も高性能化を求められる。1970年以降に製油法の進展によって導入された接触触媒分解装置からアルミナ、シリカ微粒子が残渣油に混入するようになり、ピストンリング、シリンダーライナー、燃料ポンプを短時間で損傷する事故が多発するようになった。燃料油分析サービスと併用して事故の防止を図っている。",
"title": "補機類"
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"text": "火花点火のような着火機構を持たず、着火には空気の断熱圧縮による高温を利用しているため、寒冷地での長時間停車後など燃焼室が冷え切った状態からの始動や、標高が高く空気密度が小さいところで始動する場合は、吸気が着火に必要な温度に達しないことがあり、「予熱」が必要となる。燃焼室内に頭部を露出させた「グロープラグ」で予熱を行ったり、場合によりインテークマニホールド直前に置かれた「インテークヒーター」で吸気を加熱する。マツダのSKYACTIV-Dでは始動にはグロープラグを用い、始動直後には可変排気弁の遅閉じによって高温の排気ガスを吸気管に吹き返して(内部EGR)、吸気を暖めている。",
"title": "補機類"
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"text": "小型ディーゼルエンジンの始動にはガソリンエンジンと同様にスターターモーターによってクランク軸を回転させ、燃焼サイクルを開始するが、圧縮比が高いため、同程度の排気量に対して2 - 3倍程度に大きな出力のスターターモーターを備える必要があり、自動車などでもバッテリーを2個直列にして電装系を24 Vとするものがある。",
"title": "補機類"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "大型エンジンの始動には圧縮空気をシリンダー内に吹き込み、ピストンを直接動かすための装置が必要となる。あらかじめ補助動力装置を起動して発電や圧縮空気を生成しておく場合が多い。",
"title": "補機類"
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"text": "ディーゼルエンジンは着火に電気を用いていないため、エンジンキーをオフの状態にし(バッテリーからの電源を断つ)ても停止しない。運転を停止させる方法には以下の3種類がある。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "エンジンオイル#ディーゼル車も参照。ディーゼルエンジンでは正しく添加剤が加えられたエンジンオイルでないと、シリンダー内の燃料の燃え残った微粒子が、ピストン側面のトップリング付近でエンジンオイルの主成分である鉱物油と結合して沈積物を作り、リングを固着する「リングスティック」という現象が起きる。これを防止するために、エンジンオイルにはピストンリング付近に溜まる燃え残り、つまり「煤」や「スラッジ」を洗い流してエンジンオイル中に分散させる清浄分散剤が加えられる。また、排気(EGR)やブローバイガスの還流で、それらに含まれる硫黄などによる酸でエンジンオイルが変質するのを防ぐ酸化防止剤や、腐蝕防止剤、粘度を適正に保つ粘度指数向上剤も加えられている。",
"title": "補機類"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "船舶用潤滑油についての詳細はユニフロー掃気ディーゼルエンジン#船舶用を参照されたい。船舶用ディーゼルは大別して中・高速なトランクピストン式4ストロークと、低速なクロスヘッド式2ストロークに分けられ、前者のトランクピストン式の潤滑油は一般的な高速ディーゼルエンジンに近い。しかし後者のクロスヘッド式は大量に硫黄分の残留するC重油を使う特大型ディーゼルエンジンとなり、シリンダライナ潤滑用のシリンダ油とそれ以外の潤滑を行うシステム油の2種類が存在する特徴がある。シリンダ油は燃焼後に発生する硫酸成分を中和するために塩基価(アルカリ価)の高い「高アルカリ価シリンダ油」が求められる。中和しないとエンジン内部がすぐに腐食してしまうためである。",
"title": "補機類"
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"text": "ディーゼルエンジンのエンジンオイルは、ガソリンエンジンのものに比べ、早期に多くの微粒子を取り込むため、オイルフィルターは大型で高効率なものが使われる。一部エンジンでは、本来のオイル流路とは別に設けられた、遠心式や吸着式によるバイパス式フィルターで微粒子を取り除いてオイルパンに戻すものもある。",
"title": "補機類"
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"text": "不純物の多いC重油を使うディーゼル機関では、シリンダー部を潤滑した高アルカリ価シリンダ油は汚すぎてフィルタでも再利用できず廃油となる。その代わりクランク室はシリンダ室とは分離され独立のオイル経路で循環して潤滑される。",
"title": "補機類"
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"text": "ディーゼルエンジンは、スロットルバルブが不要なことや吸気脈動が大きいことなどで、ガソリンエンジンと比較してインテークマニホールドでの負圧生成には適していない。そのため、真空倍力式のブレーキブースターを用いるディーゼル車では、Vベルトやギヤで駆動する専用の真空ポンプと、負圧貯蔵タンクを備えている。",
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "このポンプの潤滑にはエンジンオイルが兼用される。",
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},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "大型低速であるほどディーゼルエンジンの長所が引き立ち、短所が目立たなくなる傾向にある。逆に小型高速ではガソリンエンジンが有利になる。このため小型車のエンジンはガソリンで、大型車のエンジンはディーゼルになることが多い。鉄道の気動車はディーゼルがほとんどであり、船舶も、軍用や高速船、小型船(20トン未満)の船外機などの例を除き、ディーゼルエンジンであることが一般的である。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ガソリンエンジンは点火方式が「火花点火」、燃焼方式が「均一予混合燃焼」である。あらかじめ燃料を気化させた混合気をシリンダーに吸入、圧縮したのち、電気火花により点火する。均一混合気に満たされた燃焼室に火炎面伝播が発生し燃焼域が半球状に広がって間欠燃焼する。シリンダー直径が大きすぎると火炎伝播速度が間に合わずシリンダーの外周に近い混合気まで点火できなくなるので、シリンダ直径(ボア)に限界(自動車用の場合10 cm、容積で800 ccほど)がある。一方で予混合燃焼では粒子状物質 (PM) は発生しない。ただし圧縮行程で燃料噴射する直噴ガソリンエンジンは気化できない液滴の残る不均一な成層燃焼なので、粒子状物質が発生する。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンは拡散燃焼なので容積に制限はない。ただし、高圧下の拡散燃焼速度は遅いので大容積エンジンは低回転に限られる。これは、むしろ大型船舶やポンプ、発電機などの大出力エンジンにとって都合が良い。1万馬力を超える巨大出力の歯車減速機は信頼性に乏しいので、低速エンジンの直接出力が求められるため。ただし速度変化の激しい車両には多段変速機が必要になる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ガソリンエンジンは混合気の吸入量をスロットルバルブによって絞ることで出力を制御するのに対し、ディーゼルエンジンは燃料噴射量だけで出力制御するため、ポンピングロスが少なく、効率が良い。また同じ理由でディーゼルは負荷変動によって空燃比も変わり、全般的にも希薄燃焼であり、理想空燃比は実現できない。これは容積あたりの燃料の充填が少ないことを意味し、気筒容積あたりの出力が低い傾向にあるが、過給により補完できる。特にスロットルがないため低回転から排気量が多いのでターボチャージャーとの相性が良い。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ただし、最近では両者の構成が近づいている。2012年に圧縮比を同じ14にした、高圧縮比ガソリンエンジンと低圧縮比ディーゼルエンジンがマツダから出荷されている。他社のガソリンエンジンでも吸気の可変バルブタイミング機構により吸入量を変えたり、低温多量EGRバルブにより排気と吸気の割合を変えて出力を調整するようになり、スロットルバルブは必須でなくなった。これらの改善のため近年ガソリンエンジンの効率が上昇し、ディーゼルとの差が縮まっている。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "さらに事実上、同じ点火、燃焼モードを持つエンジンが開発中である。まず、ガソリン燃料でありながら圧縮比14台にて圧縮着火を目標としているHCCI(Homogeneous-Charge Compression Ignition:(均一)予混合圧縮着火)エンジンが開発中であり、通称ディゾットエンジンとも呼ばれる 一方で、1995年にはディーゼルエンジンでありながら低負荷領域で予混合を用いる PCCI(Premixed Charged Compression Ignition:(不均一)予混合圧縮着火)が実用済みであるなど、ガソリンとディーゼルエンジンの区分けが曖昧になりつつある。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "圧縮比が高く、燃焼室内の空気過剰率が大きいため、作動ガスの比熱比が高く図示熱効率が高い(投入したエネルギーに対して燃焼ガスの温度上昇に使われる割合が低い)と言われている。ただし、これは大型低速エンジンの場合であり、高速エンジンでは損失も多い。2010年現在の大型舶用ディーゼルの熱効率が50 %に達するのに対し自動車用ディーゼルの熱効率は40 %、ガソリン機関の熱効率が30 %程度、ガソリンアトキンソンサイクル機関の熱効率は30 %台後半である。また重量、負荷変動、速度、変速の効率が加味される自動車の走行パターンを与えた場合には差が縮まる。以下に乗用車用エンジンのトップランナー方式の実効率の報告書の結果を示す。2005年の予備調査のときより2010年の結果のほうが、Tank to Wheel効率の差は半分に縮まっている。同じ程度の排気規制を満たすために差が縮まったともいえる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "この報告書の効率の算出方法について、まず燃料を比較すると軽油はガソリンに比べ密度が12 %大きく、容積あたりの熱量も9 %大きい。しかし質量あたりの熱量は5 %小さい。熱量あたりの二酸化炭素(CO2)発生量は2.5 %多く、質量あたりのCO2発生量は2 %少ない。容積あたりのCO2発生量は10 %多い。このような燃料の異なるエンジンを燃料の容積や質量単位で比べられないため、生産エネルギーと消費エネルギーとを比べている。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "このように補正したTank to Wheel効率ではJC08モードでディーゼルはガソリンより3.5 %しか良くない。ただし、10・15モードなら8.5 %良い。さらにWell to Wheel総合効率のJC08モードの効率とCO2排出量では11 %良い。さらに Well to Wheel総合効率の10・15モードのCO2排出量では18 %良い。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "まとめると、自動車用ディーゼルは現在の厳しい排気規制の下でもJC08モードのTank to Wheel効率ではガソリンエンジンより3.5 %エネルギー効率が良いが、軽油の熱量あたりのCO2発生量は2.5 %多く、クルマ単体でのCO2の排出量の差はほとんどない。ただし、Well to Wheel 総合効率のJC08モードのCO2排出量で11 %良い結論は変わらない。これはガソリンの精製に軽油よりもエネルギーを消費しているためである。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "車両用ディーゼルは高速道路の定速走行など負荷が一定の状態なら熱効率どおりにガソリンより3割ほど効率が良い。しかし常用回転域が狭いことから市街地走行のような負荷変動と加減速を含む走行パターンでは一気にガソリンとの差がなくなる。変速が単純な10・15モードの効率がJC08モードより良いことからうかがえる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンには点火装置とスロットルバルブが不要であるため、構造が単純化でき、信頼性が高い。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンは拡散燃焼の範囲であれば圧縮時の筒内が空気だけなので、過給してもプレイグニッション・ノッキングやデトネーションがない。スロットルバルブがないため、低速でも排気が多く、ターボチャージャーとの相性が良く、容積あたりの低出力を補うことができる。さらに大型エンジンでは排気エネルギーを出力軸に、より多く回収するターボコンパウンドも可能である。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ガソリンエンジンには点火時の火炎の伝播速度によりシリンダ直径に限界があるのに対し、ディーゼルエンジンにはその限界がないので大型化に適している。ガソリンエンジンでは、多気筒化で排気量を確保して高トルクを得るか、高回転化で出力を上げなければならないのに対し、ディーゼルエンジンでは気筒容積の拡大で可能となり、構造が単純化されフリクションロスも抑えられ、熱効率が高まる。大型エンジンほどディーゼルエンジンの利点が活きてくる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ディーゼル燃料の引火点はガソリンに比べて80 °Cほど高いため、爆発・火災事故に対する余裕が大きい。特に被弾することを前提とした軍用車両で、このメリットが大きい。軍用車両のエンジンは航空燃料のJP-8等と併用することも考慮され、ディーゼル化を進めている。ガスタービン燃料は軽油よりも上質油であるが、燃料を共有することで有事の兵站が合理化される。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンのうち、4ストローク機関は吸気系統側に掃気用の補機を持たず、噴射ポンプでシリンダー内に直接燃料を噴射する構造のため(ガソリン直噴エンジンを除く)、ガソリンエンジンと異なり始動時に何らかの方法でクランクシャフトを逆方向に回転させることにより、逆回転運転をさせることができる。例えば、自動車の場合は変速機を前進ギアに入れた状態で車体を後進方向に押したり、坂道で下り方向に空走させたりすると、クランクシャフトは逆回転するため、デコンプを開いておくなど始動の予防措置を講じない限りは逆回転状態でエンジンが押しがけ始動してしまう危険性がある。自動車でこのような状態になると、変速機が前進ギアの際に車体は後退し、後進ギアの際に逆に前進が行われることになる。この現象は事故や労働災害を誘発する原因になる一方で、船舶などその特性を活用することで変速機を介することなく逆回転運転のみによる後退運転が可能となることも意味している。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "4ストロークディーゼルで逆回転運転が始まった場合、吸排気弁の機能が逆転するため、排気管から吸気し、エアフィルター側に排気が行われる。また、カムシャフトのバルブタイミングや噴射ポンプの噴射タイミングも適切に反転させたものを使用しなければ十分な出力性能が得られないため、自動車ではあまり実用的とはいえないが、中・小型船舶用機関では古くはMANやスルザー、B&Wなどが前進用と後進用の2系統のカムシャフトを可変バルブ機構で4ストロークディーゼルの逆回転運転による後退航行を実現しており、航空用エンジンではダイムラー・ベンツ DB 602が同様の機構を有していた。しかし、今日では小型船舶ではこのような逆回転運転機構ではなく、油圧または電動の遠隔操作で断続されるクラッチと 後退用ギアボックスを組み込むことで後退航行が行われている。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "なお、2ストローク機関では逆回転運転をさせても掃気孔と排気弁または排気孔の機能が逆転せず、掃気ポートタイミングも変化しないため、リードバルブ式ガソリンエンジン・ユニフローディーゼルエンジンどちらでも逆回転運転は可能であり、ディーゼルエンジン特有の長所とはなっていない。ただし、ガソリンエンジンでは逆回転が後退に利用される例は一部のスノーモビル程度に限られているが、船舶用ユニフローディーゼルエンジンにおいては、逆回転運転により直接スクリューを逆回転させ後退航行を行う手段として一般的に用いられている。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "自動車用ディーゼルエンジンの価格はガソリンエンジンのほぼ倍になる(国産車の車体価格で、だいたい40万から50万円程度高い)。スロットルと点火装置が要らない代わりに、高価な燃料噴射系と補機類が必要となりエンジン全体は高コストになる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンの主たる短所は、大きく重くかつ、振動が激しいことである。大重量ゆえエンジンの出力重量比が悪く、軽量化を要求される航空機では、一部を除いて従来あまり採用されず、レシプロエンジン全盛期においても主流足りえなかった。また、圧縮着火のため、高空(低温、低気圧)での始動性や信頼性に乏しいというのも、ディーゼルエンジンが敬遠された大きな理由の一つである。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "拡散燃焼ゆえ、黒煙や粒子状物質 (PM) が発生しやすいうえに、燃焼室内が高温高圧かつ希薄燃焼域(軽負荷時は30:1から60:1)で酸素と窒素も過多であるためNOxも発生しやすく、密閉コックピットが普及する前の飛行機においては、ディーゼルエンジンがパイロットたちに嫌われた理由でもある。排気対策をするにも、排気中の残留酸素が多い酸化性雰囲気では三元触媒を使えないため、PMとNOx対策に別々の後処理装置が必要となり、重量もかさむとともに高コスト化する。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "高圧縮比のため、ピストンリングや軸受にかかる面圧が高く、十分な強度を持たされた可動部品の質量も大きい、高速回転させると摩擦損失などでエネルギーの損失が急増する。 高圧縮比のため高回転まで回らず、常用回転域が狭いため、車両用には走行速度に応じた変速が必要で、最適な回転数を外すと効率が低下する。この2点が調和しないため、自動車用ディーゼル機関は大型舶用ディーゼル機関より大幅に低効率となっている。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンでは燃料噴射装置が点火装置と出力制御装置を兼ねるため高価になり、燃焼制御も難しい。燃料噴射系がエンジンコストの半分を占める。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "高圧縮比であるため、吸排気系の脈動も大きく、こちらの振動や騒音も大きい。船舶用、コジェネレーション用では脈動を抑えるためにアキュムレータを備えたものもある。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "シリンダーヘッド、シリンダーブロック、ピストン、コネクティングロッド、クランクシャフトに高い強度と剛性が求められ重量が嵩む。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "加減速や発進・停止を頻繁に求められる車両用途では、大トルクに耐えられる多段変速機が必要となる。副変速機込みで18段や24段にもなる変速機を手動で操作するのは煩雑すぎて現実的でないため、優秀な自動変速機が必要になり、さらにに重く、高コスト化する。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "吸気管負圧を得にくいため、乗用車においてはブレーキブースターを別の経路からとる必要がある。これもまた高コストの原因となる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "寒冷地では燃料中のパラフィンが析出して燃料フィルターで目詰まりする場合がある。温暖な地域の軽油を入れて寒冷地に移動して駐車していると、燃料が流れなくなって始動しなくなるおそれがある。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンの容積あたりの低出力を過給、ターボチャージャー、ターボコンパウンドなどで補うと、点火装置の単純さというメリットが相殺され、高コストになる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "乗用車用ディーゼル機関では振動軽減のため小排気量ながら多気筒化する傾向があり、気筒容積の拡大で大型化できる利点を生かしにくく、高コストになる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "吸気系統にスロットル弁を持たず、アクセルペダルの操作が噴射ポンプの噴射量のみを制御するディーゼルエンジンは、噴射ポンプのリンケージの不具合や調速機の破損などにより燃料供給が過多となった場合、エンジン回転数が過回転(英語版)となったまま、オペレーターの操作ではエンジン回転数を制御できなくなるディーゼルエンジンの暴走(英語版)事故が発生することがある。ディーゼルエンジンの暴走は、ターボチャージャーの軸受部のオイル漏れや過度のブローバイの発生などで霧化したエンジンオイルが吸気系統に大量に混入した場合、あるいは可燃性のガスが充満した空間に稼動状態のディーゼルエンジンが置かれた場合などの外的要因によっても発生しうる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ガソリンエンジンは燃料装置の不具合、たとえばチョーク弁の誤作動などで燃料の供給が吸入空気量に対して過多となった場合は、点火プラグが失火してエンジンストールを起こすか、著しくドライバビリティが低下していく。ガソリンエンジンでもスロットル弁のリンケージの破損により、エンジン回転数が過回転となったまま制御不能になる暴走が発生する可能性はあるが、この場合メインキースイッチやキルスイッチを作動させるか、カーバッテリーの配線やプラグコードを切断するなどして強制的に点火装置や点火プラグへの給電を断つことで、オペレーターは暴走を容易に停止させることができる。機械式燃料噴射装置や機械式燃料ポンプ付きキャブレター式のガソリンエンジンで、ランオンを併発するという特殊な状況でのみ、オペレーターの操作だけではエンジンを完全停止できない事態が発生しうるが、それでもスロットル弁を閉じれば回転数は下がり、更にマフラーの排気口を塞ぐことで容易に暴走は止められる。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "しかし、スロットル弁(バタフライ・バルブ(英語版))を持たず、圧縮圧力のみで自己着火するディーゼルエンジン、とりわけ噴射ポンプが機械式の場合、吸入空気量を制限する機構が何もないため、ひとたび暴走が発生してしまうとメインスイッチやアクセルペダルをいくら操作してもエンジンの過回転を停止することができなくなってしまうさらにはターボチャージャー付きディーゼルエンジンの場合は、暴走が発生するとターボチャージャーも過回転状態となるため、過給圧のオーバーシュートも併発することでブローバイが燃焼室から大量にクランクケース側に吹き抜け、そのブローバイがPCVバルブやEGRを通じてインテーク側に大量に吸引されることにより、例え噴射ポンプへの燃料供給が絶たれたとしても、多量のブローバイによりインテークに吹き抜けるエンジンオイルのみでディーゼルエンジンの暴走が継続する、ポジティブフィードバック状態が成立してしまう場合すらある。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "このようなディーゼルエンジンの暴走をエンジンブローに至る前に停止させるには、燃料タンクから噴射ポンプへの燃料供給を遮断するのみでは不十分で、エアクリーナーボックスや吸気口に蓋や栓をはめ込んだり、二酸化炭素消火器を吸気口に大量に吹き込むことで吸入空気(酸素)を遮断する、あるいは変速機をトップギアやオーバートップに入れた状態でフットブレーキやサイドブレーキを目一杯掛けた状態でクラッチを一気に繋ぎ、クランクシャフトの回転を無理矢理停止させエンストを狙うなどの方法を採るしかない。自動車では走行中にアクセルペダルを戻してもエンジン回転の上昇が止まらない、ディーゼルエンジン暴走の兆候が見られた場合は、マニュアルトランスミッションでは直ちにクラッチを切り、オートマチックトランスミッション、セミオートマチックトランスミッション、無段変速機ではシフトレバーをニュートラルに入れてドライブトレインへの動力伝達を絶った上で、路肩に停車して上記の暴走停止の措置を行う。アメリカ海軍では船舶用ディーゼルエンジンで暴走が発生した場合には、燃料供給弁を閉じた上でデコンプを開いて停止を図るようにトレーニングマニュアルに記載している。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "欧米ではディーゼル機関車や、デトロイトディーゼルなど旧式のディーゼルターボエンジンをレストアした際の試運転時に度々こうした暴走事故が起きており、キャタピラーは燃料系統を修理したディーゼルエンジンを初めて始動する際には、作業助手は燃料系統の修理ミスに伴う暴走に備えて吸気口に直ちに栓が出来るように備えておくことを推奨している。日本でも2000年代初頭に、三菱自動車工業の三菱・デリカや三菱・チャレンジャーにて噴射ポンプの製造工程のミスに伴うディーゼルエンジン暴走事故が発生し、リコールに至っている例がある。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "可燃性ガスの充満が発生しやすい石油化学プラントや鉱山では、ディーゼルエンジンの暴走事故が数多く起きており、アメリカ合衆国労働省など海外の労働行政機関は、産業用ディーゼルエンジンに対して、万が一暴走が発生した際に備えて吸気系統と燃料供給系統の双方にシャットダウン・バルブ(英語版)や安全遮断弁(英語版)を備え付けるように義務付けている が、それでもすべてのディーゼルエンジンの暴走のフェイルセーフの確立までには至っておらず、2005年のテキサスシティ製油所爆発事故でもその過程において自動車のディーゼルエンジンの暴走が関連していたことが確認されている。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "フィルター直前に追加インジェクターを持たない、燃焼再生式のDPF・DPR等が装着されるディーゼルエンジンについては、軽油によってエンジンオイルが希釈されることとなるが、燃料を含むエンジンオイルによって発生したブローバイガスが、EGR機構によって吸気系に戻されることによっても、ディーゼルエンジンの暴走が発生する。",
"title": "ガソリンエンジンとの比較"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "定置型の内燃力発電やポンプなどの動力。水上船舶などの舶用動力。トラックやバスといった大型の自動車や、戦車のような軍用車両、コルベットや潜水艦やドック型揚陸艦および強襲揚陸艦のような軍艦。建設機械、農業機械などの大型特殊自動車、ディーゼル機関車や気動車などの鉄道車両に使用される。発電、ポンプなどはディーゼルエンジンが主流であるが、LPGや天然ガスなど気体燃料を用いた電気点火式ガスエンジンや、ガスタービンエンジンの場合がある。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "大出力を生み出す大型舶用エンジンと、そこから派生した定置発電用エンジンは、ディーゼル機関の独擅場と言える用途である。これらの分野は他用途では常に制約・問題となる機関本体および補機の重量・容積をある程度度外視でき、ディーゼル機関の持つ大型化に適した性質に合致した結果と言える。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1900年代から小型船に置ける試行的採用が始まったが、外航船舶として本格的な成功を収めた最初のディーゼル船は、1912年にB&W(バーマイスター・ウント・ウェイン)の1,250 hp・4ストロークエンジン2基を搭載して建造されたデンマークの5,000 t級貨物船「セランディア」(MS Selandia)である。この船は同クラスの蒸気機関搭載船に比して3分の1程度の燃料消費で航行できた(かつ、蒸気船のようなボイラー用の真水が不要であった)ことでその経済性と航続距離における優位性を立証し、実用的成功を収めた。排煙の量が蒸気船に比べて遥かに少ないため、蒸気船のような太い煙突は実用上不要で、簡易な排気管を備えるだけで済んだ(以後のディーゼル船では、主として美観上の見地から旧来同様の煙突を模したファンネルを立て、その中に外見より細い排気管を通す事例が多く見られる)。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "その後の第一次世界大戦初期には、機関室の密閉が容易でガソリン機関よりも大型化に適し、航続距離を伸ばせることから、当時急速に実用水準に達した潜水艦の主動力に導入された。第一次大戦後の1920年代以後は通常の軍艦・商船にも本格的普及が始まったが、舶用動力の主流となるには時間がかかった。1950年頃までの船舶用大型ディーゼルエンジンにはある程度の高品質な重油が必要であり、また単体では蒸気タービンに比肩する大出力化が進展せず、大出力・高速の確保には複数エンジンを連動させて出力合成する複雑化を強いられた(例として1934年から1936年までに就役したドイツの「ポケット戦艦」ことドイッチュラント級装甲艦は12,000トン級ディーゼル艦で2軸のスクリューを備えていたが、49,000 hp級の出力確保のためディーゼル機関8基を搭載、4基ごとにスクリュー1軸を駆動した)。このため、特に大型船舶の動力としては、石炭や粗悪重油でも使用可能な蒸気ボイラーで作動し、なおかつ大出力化の容易な蒸気タービンを駆逐するまでには至らなかった。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1920年代、舶用大型ディーゼル機関の分野では、4ストローク式と2ストローク式、通常構造の燃焼室を持つ単動式と、ピストン下部とクランク室との間のクロスヘッド部に別途燃焼室を持つ複動式がそれぞれ並行して市場に投入され、出力増大を図っていた。この過程で燃料噴射は圧縮空気式から、より小型のエンジン同様の無気噴射式へと進化した。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1930年代初頭以降、舶用大型ディーゼル機関の国際市場を技術的にリードしていたB&W、スルザー、MANの3社は、燃焼頻度を多くでき高出力化に適する、クロスヘッド付の2ストローク複動式へ傾倒するようになるが、この方式は複雑性と熱負荷の面で課題を抱えていた。このため、第二次世界大戦後にはクロスヘッドと2ストローク方式は維持されたが、複雑な複動式燃焼室が衰退し、単動式が主流となった。この時期、大日本帝國海軍においては艦政本部が各種船舶用ディーゼルエンジンの開発を主導し、潜水艦においては当初は水上速力を重視する目的で2ストロークディーゼル機関が多用された。戦前の伊号潜水艦は複動化された2ストロークディーゼル機関で水上20ノットを超える高速力を誇っていたが、第二次世界大戦が始まると急速に4ストローク単動式へと移行し、水上速力も10ノット中盤と急速に低下した。2ストローク複動ディーゼル機関は大出力が可能ではあるが、騒音が大きく、排気圧力が低いため排気管が水中に没している潜水中はシリンダーが浸水する危険性が高く、主機のディーゼルエンジンの駆動が行えなかった。これはすなわちシュノーケルを用いた主機関での水中連続航行に不向きで、水中での移動は事実上、電動機のみに頼らざるを得ないことを意味していた。そのため、大幅な性能低下は覚悟の上で4ストロークへの移行が行われたのである。4ストロークへの移行により出力は低下したが、騒音は抑えられ燃費も大幅に向上、第二次世界大戦末期の伊四百型潜水艦では水上航続距離が37,500海里(約7万キロ、世界一周の約1.5倍)にも達するものとなった。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1940年代後期、液体燃料としては最も廉価だが低質な残渣油を低速ディーゼルエンジンで用いる試みが進められ、在来ディーゼル機関での高品質燃料への混合試用のほか、事前加熱濾過装置による流動性改善、ロングストローク化を徹底したクロスヘッド式単動型構造によるシリンダー壁潤滑の保護で、残渣油のみを燃料とできるエンジンが実用化されるようになった。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "蒸気タービンを代替するためのディーゼル機関大出力化過程で、低速ディーゼル機関の特性を生かした排気タービンによる静圧過給が1950年代前半から実用化された。その最初は1952年にB&Wがタンカー「ドルテ・マースク」(10,630 GRT)用に製作した6,500 HP機関である。競合各社も1953–55年までに静圧過給方式導入に進んだ。以後、舶用ディーゼルの大型化・大出力化と高効率化が進行し、舶用機関としての経済優位性は圧倒的なものとなった。ただし1970年頃までは、国際的な石油需要増大に応じて超大型化が進むタンカーの巨大動力に蒸気タービン機関しか用意できなかったため、ディーゼル機関の出力ベースのシェアが一時低下した時期もあった。しかし1973年の石油危機が到来すると、運行コストの低減が至上命令となり、タンカーでも際限なく大型化する機運は失われた。ほぼ全ての商船は30万トン以下で十分とされ、ほとんどディーゼル動力化された。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "第二次大戦後の石油精製技術の向上に伴い、原油からは従来より多くの高品質成分を取り出すことができるようになった反面、高度な精製後に残る残渣油の品質は年々低下し、残渣油由来のC重油に含まれる硫黄等の有害不純物の含有量は高くなっていった。この燃料粗悪化進行にも大型舶用ディーゼル機関は時代ごとの技術改良で耐えてきたが、1990年代以降、残渣油由来燃料に起因する硫黄酸化物や、燃焼過程で生成が避けられない窒素酸化物や粒子状物質などが入り混じる、船舶からの排気ガスによる地球環境汚染が取り沙汰されるようになり、新たな課題となっている。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "世界中で大型の自動車(トラックおよびバス、特装車・特種車)や建設機械に用いられている。さらに日本においては税制によりディーゼル燃料である軽油がガソリンよりも安価なため経済性を優先する商用車はディーゼル比率が高い。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "乗用車用のディーゼルは国によって人気の差が激しく、欧州では、小型の乗用車でも新車販売台数の約43 %がディーゼル車(2006年)で、一時は50 %を超えた。一方で米国では、乗用車市場におけるディーゼル車のシェアはわずか0.5 %(2005年)しかなく、日本でもマツダを除き人気は無い。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2000年ごろには9–16リットル級の中型エンジンでは直列6気筒とインタークーラー・ターボ過給が採用されて500 PS程度の出力であり、16–30 Lの大型では自然吸気V形8気筒以上の配列が採用されていた。高速定速走行の頻度が高い高速バスや輸送用トラックには中型ターボチャージャーが適し、滑りやすい道(いわゆる低μ路)や走行抵抗の大きい悪路での微・低速走行の機会の多いダンプトラックには、レスポンスに優れ扱いやすい大型のV型8気筒ノンターボエンジンが好まれてきたからである。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "しかし、次第に厳しくなる排ガス規制の前に、各社とも2010年までに排気量を11–13リットル程度まで落とし、排気ガスの後処理装置と親和性が高い直列6気筒エンジンに生産を絞り込んだため、排気量の大きなV型自然吸気ディーゼルは姿を消した。自動車用4ストロークエンジンでは過給機による高圧化が進み、すでに筒内最高圧力 (Pmax) の上昇限界のために圧縮比は低下傾向にある。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "排気量2–5リットル程度の小型ディーゼルエンジンの多くは乗用車用なので、静粛性や排ガス対策を中大型エンジンよりも強く求められ、コモンレールによる直接噴射式となっている。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "欧州に比べ日本では、CO2の削減メリットよりNOxやPMに対する法規制が優先されたため、2000年頃から小型ディーゼルエンジン搭載の乗用車は減少した。しかしポスト新長期規制と呼ばれる厳しい基準群に対応するクリーンディーゼル乗用車が2010年以降に発売され、再び徐々に増加していたが、フォルクスワーゲンの排出ガス規制不正問題発覚以降ディーゼル乗用車は(特に欧州の)規制当局やメーカー、何よりユーザーの三方から見放されつつある。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "装軌車両においては、単なる過給機との組み合わせでなく、タービン機関との複合機関(ターボコンパウンド機関)とされる例(ルクレール)がある。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "競技の世界では、低速のトルクの豊かさから、ラリーレイドで重宝される。サーキットレースでは1990〜2010年代頃の市販車市場のクリーンディーゼルの流行に合わせて多数投入され、世界選手権や国際レースを制覇することもあったが、現在ではブームは去っている。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "インドでは古くからディーゼル二輪車が生産、販売されていた(例:富士重工業(現・SUBARU)製の汎用型小型空冷単気筒ディーゼルエンジンを搭載したエンフィールド=ロビン・D-R400D)。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "近年、イギリス陸軍がカワサキ製オフロードバイクにディーゼルエンジンを搭載し運用開始した。これにより陸軍車両燃料の軽油への統一化を完了した。同様の車輛が、HDT M1030-M2 JP8(680 cc)として市販されている。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "公道を走らない、オートバイから派生したオフロード車のATV(全地形対応車)/やUTV(サイド・バイ・サイド)でもディーゼルエンジンが用いられることがある。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "特に業務用(ユーティリティ型)のATV/UTVにおいては、低燃費による原価低減、急加速を必要としない、騒音が問題視されないなどの観点からディーゼルエンジンが搭載されることがしばしある。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "飛行船においては1920年代から1930年代に開発されたLZ129ヒンデンブルクやLZ130は、逆回転可能なディーゼルエンジン(ダイムラー・ベンツ DB 602)により、プロペラを駆動していた。カムシャフト上のギアを変えることにより回転方向を変えることができる。全出力からエンジン停止、逆回転させて全出力までの時間は60秒以下であった。これはまさに船舶用エンジンと同じ機能である。 1929年に完成したR101飛行船には直列8気筒のビアドモア製トルネードエンジンが5基搭載された。鉄道用の4気筒エンジンを2つ組み合わせて高出力、軽量化したものであった。気温の高くなるインド航路での利用が多く見込まれたため、引火点の低いガソリンでの火災事故の懸念からディーゼルが選択された。飛行船は固定翼航空機と異なり、連続運転を要求されず、中速クラスの可逆回転ディーゼル機関を流用できたが、1930年代末期の硬式飛行船そのものの衰退で、それ以上の発展を見なかった。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "固定翼機において、最初にディーゼルエンジンが試されたのは1920年代から1930年代にかけてであり、1928年9月18日にパッカード製の星形ディーゼルエンジンを搭載したスチンソンデトロイター(機体番号X7654)が初飛行に成功している。パッカードのエンジンを搭載した機体は発生する黒煙対策として機体色を黒にしていたが、臭いや黒煙が不評だった。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "代表的なものとしてはパッカードの空冷星型エンジン(黒煙排出や強度面の欠陥により早期に市場から淘汰された)や、対向ピストン式のユモ205などがある。ソ連では第二次世界大戦中チャロムスキー Ach-30ディーゼルエンジンがイェモラーエフ Yer-2やペトリャコフ Pe-8などの爆撃機に搭載された。 フランスではブロック(Bloch)がMB.203爆撃機にクレルジェ(英語版)製の星型ディーゼルエンジンを搭載した。ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメントでは1932年にロールスロイス・コンドル(英語版)エンジンを圧縮着火式エンジンに改造して、ホーカー・ホーズリー爆撃機(英語版)に搭載してテストした。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "このように多くのメーカーがエンジン開発を試みたが、ディーゼルエンジンは耐久性と燃費は良好だがスロットルの反応が鈍い、酷い排煙と振動などの理由により、主流とはなり得なかった。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "大戦後のユニークな提案としては複雑なターボコンパウンド機関の燃焼にディーゼルを利用するネイピア ノーマッドがあるが、これも実用化には至らなかった。またアリソン 250などディーゼル燃料対応を謳ったターボプロップエンジンも存在するが、出力が落ちるため積極的に使われることはなく緊急用としている。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "航空機用ガソリンエンジンの進化が頭打ちになり、さらに2度のオイルショックに加えて環境に悪影響を及ぼす有鉛の航空用ガソリンへの規制が強まったことから、従来の航空機用レシプロエンジンの燃料の価格が高止まりした。そのためヨーロッパでは1980年代以降、ジェット燃料も利用可能かつ低出力ではタービンエンジンよりも燃費に優れる、小型プロペラ機向け低燃費ディーゼルへの関心が復活した。1980年にNASAのグレン研究センターではコンチネンタル・モータースと共同で3気筒と6気筒の星形ディーゼルエンジンを発表するなどしている。大きく、重く、振動が大きいという欠点を改善するため、「エアロディーゼル」と呼ばれる軽量化されたエンジンの開発が試みられている。一例としてイギリスのDair の2ストロークディーゼルが挙げられる。これは重たいシリンダヘッドを使わず2つの対向ピストンで一つの燃焼室を形成する対向ピストン式エンジンの現代版である。しかし、-5 °C 以下での始動が保証されない、着火と燃焼が安定しないので高空で使えない、など、この形式の性能や信頼性は決して高くない。ディーゼルの適用は低空で使用する飛行船・軽飛行機・ヘリコプターに限られており、発展性は少ない。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2001年ドイツのThielert(後にTechnify Motors)が、ディーゼルエンジンでは第二次世界大戦後初めてJAA(合同航空当局〈英語版〉)による認証を取得した。2002年に認証を取得したCenturion 1.7(TAE 125)エンジンとその後のCenturion2.0エンジンはそれぞれメルセデス・ベンツ・Aクラスに搭載されたOM668、OM640エンジンをベースにしており、ダイヤモンド・エアクラフト・インダストリーズのDA40(英語版)やDA42(英語版)などの小型機に採用された。2010年までに合計3000基以上が生産されている。会社は2008年に倒産した後管財人の元で再建が行われ、2013年に中国航空工業集団公司(AVIC)傘下のコンチネンタル・モータースに買収された。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "2010年にはEADSによって制御されるディーゼルハイブリッドヘリコプターのコンセプトが発表された。EcoMotors社の対向ピストンエンジンが採用されている。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2015年からNASAによって電動のVTOL機やドローンをディーゼル・エレクトリック方式とすることで、航続時間を延ばす研究もおこなわれている。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2015年11月6日にはエアバス・ヘリコプターズがHIPE-AE440(V型8気筒4.6リットル直噴ターボ)を搭載した試験機H120の飛行に成功した。European Clean Sky initiativeの一環として開発された。これにより、ヘリコプターで主流のターボシャフトエンジンであるチュルボメカ アリウスを搭載した同型機よりも燃料の消費が30 %低減され、航続距離が2倍近くになり、高温高地での運用性が向上するとされる。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "現代の航空法ではエンジンについてピストンとタービンに分けているが、ガソリンとディーゼルどちらを使用するかについては言及しておらず、ディーゼルエンジン搭載機もピストンの資格で操縦・整備できる。特に日本では航空用ガソリンが給油できる飛行場が減少し価格が上昇していることから、より安価で給油できる場所が多いJET-A1に対応したディーゼルエンジンに交換する事業者もある。コンチネンタル・モータースでは換装用としてJET-A1対応のエンジンと交換用キットのセット販売も行っている。またセスナでは172にディーゼルエンジンを搭載したモデルを販売している。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "大型構造物や建築物の基礎杭を打設する杭打ち機の一つとしてディーゼルハンマがあった。自らの振動と自重で鋼管杭やコンクリート杭を打ち込むもの(打撃工法)で、機械の移動が容易で効率も良いメリットがあったが、騒音や排気ガスの問題から日本国内では使用されなくなった。",
"title": "主な用途"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "ガソリンエンジンより熱効率の高いディーゼルエンジンは、CO2の発生量では環境への負荷が少なくて済む。しかしPMやNOxの発生量はガソリンエンジンより大量で問題を含んでいる。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "気体だけを燃やす予混合燃焼と異なり、燃料を液滴のまま燃やす噴霧燃焼の原理上、液滴の燃え残りとして、PMや黒煙を発生しやすいことが欠点である。またディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりも高温高圧で、余分に空気を取り込む内燃機関なので、窒素酸化物 (NOx)の生成量も多くなってしまう。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "ディーゼル機関の低負荷時の空燃比は30:1から60:1もの希薄に見えるが、均一予混合燃焼ではないので、低温燃焼によるNOx低下は無い。むしろディーゼル機関は液滴付近の空気だけを消費する不均一な拡散燃焼のため、燃焼温度が高いまま多量の余剰空気を加熱し、行程あたり高負荷時よりも大量のNOxを生成する。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "ディーゼル機関は排気も酸素過多となるので、ガソリン機関で多用されている排気浄化用の三元触媒を使えない。三元触媒は理論空燃比で運転する場合に炭化水素 (HC)・窒素酸化物 (NOx)・一酸化炭素 (CO) を同時に浄化できる。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンの排気ガスの発がん性について、WHOの下部機関である国際がん研究機関(IARC)は長らく「グループ2Aの発がん性」=「人に対する発がん性がおそらく(probably)ある」としてきたが、2012年6月、アメリカ国立がん研究所/国立労働安全衛生研究所の大規模疫学調査から、「グループ1」=「人に対する発がん性がある」と格上げした。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "ディーゼル燃料に硫黄が残留していると排気に有害な硫黄酸化物 (SOx) が含まれる。また硫黄は酸化力が大きいので排気浄化用の酸化触媒や還元触媒とも先に反応して無効にしてしまう。そのため自動車用エンジンへの対応はもっぱら燃料の脱硫に頼っている。従来、欧州の軽油が低硫黄分の北海産原油から作られるのに対し、日本の軽油は高硫黄分の中東産原油から作られるため低硫黄化が難しいと言われていた。しかし日本の脱硫に関しても2004年末、自動車排出ガス規制に関連する「自動車燃料品質規制値」の変更が行われ、軽油に含まれる硫黄の許容限界は、従来の0.01 %質量以下から0.005 %質量以下へと改められ、欧州と同じ時期に同じレベルに低減している。硫黄分には燃料ポンプに対して潤滑作用があるため、脱硫後の燃料油には燃料ポンプ保護のため潤滑剤が添加される。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "大型舶用エンジンには3 %ほどの硫黄分の多い粗悪な燃料が使われるため海水スクラバー装置(排ガス中に含まれるSOxを海水に吸収させる排煙脱硫装置)などの後処理で排気からSOxを除去しようとしている。湿式スクラバーの後段でNOx低減触媒も使えるようになるが、排気温度が低下しすぎているので難しい。2012年現在、欧州で排気温を下げすぎない乾式スクラバーと#SCRの組み合わせが開発中である。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "排ガス中のNOxと黒煙とは、二律背反の関係にあり、しかも自動車の走行条件は、どちらの状態もあるので2000年代のPM、NOx対策では2つの後処理装置が必要になる。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "高圧噴射で少量の燃料を完全燃焼させ黒煙の発生を防ごうとしても、高温高圧下の窒素と酸素(空気)により、NOxが生成されてしまう。このため、低負荷時にはEGRを増やし燃焼温度を下げてNOxを低下させる。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "EGRを増やすと完全燃焼しにくくなり黒煙が増えるため、高負荷時にEGRは使えない。またEGRをなくしても高温高圧下で燃料噴射量が増えると、不均一な燃料が早期に発火して、PMが発生する。1990年代にコモンレール方式で多段噴射が使えるようになると、欧州自動車メーカーは発生したPMを多段噴射による後燃焼で完全燃焼しようとした。しかしNOxには無効だった。結局、PM対策とNOx対策のために、別々の後処理装置が使われた。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "2012年に発売されたマツダSKYACTIV-Dの低圧縮比ディーゼルによって初めて高負荷時のNOxが低減され、NOxの後処理装置が不用になった。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "大型舶用エンジンには硫黄分の多いC重油が使われるため、NOx浄化触媒は容易に使えない。また粗悪な重油を着火するため圧縮比も低下できない。派生型の内燃発電では水添加燃焼により燃焼温度を下げてNOxを低減している。水の気化熱で燃焼ガス温度は低下し、水蒸気は作用気体となる。熱効率は2–3 %低下するだけでNOxを50 %低下する。さらに多層水添加という高度な技を使えば熱効率を維持して60 %のNOx低減が可能とされる。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "日米欧の各地では、ディーゼル自動車に対する環境規制が行われている。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "国際海事機関(IMO)は海洋汚染防止条約付属書VI(MARPOL73/78 ANNEX VI)を1997年に採択し、批准国が定数に達すると発効するという手順で、2000年からSOxの規制を発効し始め、定期的に規制を強化する方針である。NOxについては全海域に適用される2005年に発効した第一次規制、2011年に発効した第二次規制に続き、2016年にはECA(排出規制海域)だけに極端に厳しい第三次規制が掛けられる予定である。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "排気ガス処理技術は、できるだけ低温・低圧で燃焼させることでNOxの発生を少なく抑え、酸化触媒やDPFによりPM、CO、HCを処理する方法と、できるだけ高温で完全燃焼させることでCO、HCの生成を抑え、その結果増加するNOxを窒素に還元するNOx還元触媒の2つを併用する方法が主流。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "NOx還元触媒に従来型の三元触媒から派生したものと、SCRと呼ばれるものの2つがある。また常時同じようにNOxを浄化する「尿素SCRシステム」と、リーン燃焼中にNOxを吸蔵し、リッチ燃焼以降に浄化作用を進める「吸蔵触媒」の2つがあり、それぞれ組み合わせられる。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "そのほか、燃料の改質によりNOxを減らす構想があり、ジメチルエーテル混入、水エマルジョン燃料などの研究が舶用エンジンの分野を中心に進んでいるが、供給体制の整備や、使用者が補給を怠った場合の対策などの問題があり、実用化は進んでいない。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "なお、NOxとPMの排出量は前述の通り二律背反であり、基本的に燃焼のセッティングによって多く排出される物質の処理に適した処理装置を搭載する方式が基本なのだが、使用状況などによってはメーカーの意図した通りの作用をしなくなってしまうこともある(たとえば、尿素SCRシステムを採用した車両において、何らかの理由で燃焼が低温もしくは低圧になってしまい黒煙を多く排出することがある。逆に、DPFを装備した車種において、メーカーの想定以上の低温・低圧などによりPMがDPFの処理能力以上に排出され燃料が原因ではないフィルターの目詰まりを引き起こすことがある)。また、後述のようにDPFの強制再生は燃料の消費が多く(=燃費が悪い)、尿素SCRシステムでも構造上燃費の悪化は無視できるほどに小さくとも一方で尿素水の消費量はそのシステムを搭載することの多いトラック・バスにおいては莫大なものとなる。これらの事態を軽減するために2010年代に入りDPFと尿素SCRシステムを併用した浄化システムが普及しはじめた(例:ダイムラーグループが採用するBlueTec等)。併用する場合燃焼のセッティングを低温低圧または高温高圧の一方に振る必要がなく、またそれによりPMの発生量がDPFのみの車種のものより減ることで強制再生の機会が減り燃費が改善される。一方NOxの発生量も尿素SCRシステムのみの車種の場合よりは少ないため尿素水の消費も抑えることができる。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "排ガスの一部を吸気系へ導入する排気再循環(Exhaust Gas Recirculation, EGR)によって、吸気中の酸素量を減らしてピークの燃焼温度を下げ、NOxの発生を抑制する。ディーゼルエンジンにはスロットルバルブはないため、低負荷時に極端な空気過多の希薄燃焼になるところにEGRを導入し、NOx低下に利用する。乗用車の場合は高負荷時にEGRは行われないが、トラックなどは高負荷時にもEGRを利用しているケースがある。また、EGRには燃焼時の騒音を低下させるメリットもある(酸素濃度を低減でき、急激な燃焼を抑えることができる)。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "ディーゼル排気に含まれる粒子状物質 ( Particulate matter, PM)は、多くの場合「DPF」(Diesel Particulate Filter、ディーゼル微粒子フィルター)と呼ばれるセラミック製のフィルターで捕らえて燃焼処分されるようになっている。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "DPFは排気管の途中に挿入され、内部に詰められた多孔質セラミックの微細な間隙に排気を通過させスス状のPMを捕集する。 多孔質の表面には白金などの金属触媒が塗布してあり、300 °C以上の雰囲気中でPMが触媒によって排気と化学反応を起こし、H2OとCO2の無害な気体に酸化され排出される。 エンジンからの排気温度が低い状態が続く場合には、「強制再生」といって、手動で燃料過多の排気を作り出し、定期的に高温状態を作り出してDPFに溜まったPMを無害化して取り除く。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "触媒の多くは硫黄に弱く、フィルターの目詰まりの原因となるため、低硫黄化された軽油以外(不正軽油など)の使用はできないが、フィルターにセラミックを使わず、金網と炭化珪素繊維を用いた製品もあり、こちらは低硫黄軽油以外も使用可能である。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "SCR(Selective Catalytic Reduction, 選択的触媒反応)とは選択的な触媒による還元作用のことで、排ガス対策の場合はNOxだけを選択して還元剤のアンモニアと反応させ窒素と水に還元する浄化触媒作用である。アンモニア還元剤を用いるため従来のNOx還元触媒よりも高性能である。アンモニアを得る方法で2つに分かれる。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "排ガス中のNOxをリーン燃焼時に取り込み、その後にリッチ燃焼で還元させる触媒のことである。NOx還元に上記のSCRを使わないもので、還元剤はHCとCOとH2になり、三元触媒にNOx吸蔵層を追加したものと言える。ガソリン直噴エンジンで使われてきたものであり、ディーゼルには一部で使われている。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "乗用ディーゼルエンジン用としては、欧州仕様アベンシスで採用されているDPFと一体化しPMとNOxを同時に還元するトヨタのDPNRがある。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "NOxを還元するのに燃料分の多いリッチ燃焼が必要であり、軽油内の硫黄分が触媒の機能を奪うのが欠点である。",
"title": "環境への影響と対策"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンの燃料は、発火点が225 °C程度であれば多様なものが使用できるが、灯油・軽油・重油が使われる。ディーゼルエンジンに誤ってガソリンを給油すると、発火点が約300 °Cと高いため点火できずにエンジンは止まる。給油配管と噴射ポンプからガソリンを除くことで復旧できるが、潤滑性のないガソリンによって噴射ポンプを傷める可能性がある。",
"title": "燃料"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "軽油に水素などを混合した二元燃料の利用も可能であるが、エンジンや配管の再設計が必要となる。",
"title": "燃料"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "一方で引火点については、軽油が約50 °Cであるのに対して、ガソリンのそれは約-40 °Cとなるため、ガソリンを危険なものにしている。ガソリンは-40 °C以上で火に近づけるだけで危険だが、50 °C以下の軽油に火を近づけても、すぐに燃えるわけではない。それにも関わらず、火がない環境でこれら2つの温度を上げてゆくと、発火点の差から先に自ら火が着くのは軽油である。この軽油の発火点の低さと引火点の高さが、燃料の爆発を自己着火に頼るディーゼルエンジンでの使用を容易にしている。",
"title": "燃料"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "航空機では、灯油に近い性質を持ち航空用ガソリンより安価なジェット燃料が使える。これは現代の固定翼機ならびに回転翼機で主流のターボジェットエンジン・ターボファンエンジンやターボシャフトエンジンといったガスタービンエンジンと燃料を共用できる点ではガソリンエンジンよりも有利であり、また低出力機ではディーゼルエンジンを含むレシプロエンジンの低燃費のメリットが大きくなる。ノッキング対策として使用される有鉛ガソリンは有毒で取り扱いが難しく、環境負荷も大きいため環境税の値上げなどで規制される傾向にある。そのため現代では地方の飛行場で燃料補給に支障をきたすことも少なくない。以上の理由などにより、無人機も含む軽飛行機や一部の小型ヘリコプターなどのように、タービンエンジンの強みである軽量高出力やディーゼルエンジンの弱点である低温環境や高高度での性能を必要としない機材については、軍民ともに複数の大きな利点がある。",
"title": "燃料"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "車両においては、機材が大型になるほどガソリンエンジンよりもディーゼルエンジンが有利になりやすいという一般的特徴に加えて、燃料の引火点が高いことから被弾時の火災リスクが低いといった利点があり、とくに軍用では多く使われている。また、上述のように軍用航空機と燃料を共用しやすい点も、とくに補給ルートや設備の限られる戦場では大きな優位点となる。",
"title": "燃料"
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"text": "エミッション(排気ガス)低減の足かせとなる鉱物油由来の天然燃料に代わり、次世代のディーゼル燃料として注目されているのが、GTL(Gas To Liquid、ガス・トゥー・リキッド)、BTL(Biomass To Liquid、バイオマス・トゥー・リキッド)、CTL(Coal To Liquid、コール・トゥー・リキッド)等の合成油である。これらの燃料は、単体で、あるいは軽油に混合してディーゼルエンジンに使用することで、排ガスでは低公害化が期待できる。",
"title": "燃料"
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"text": "GTL燃料の原料は天然ガス、CTL燃料は石炭であり、軽油に比べセタン価が高く、SOxの原因となる硫黄分やPMを発生させるベンゼン・キシレンなどの芳香族炭化水素をほとんど含まない。CNGや水素とは異なり常温でも液体のため、現在の燃料販売ルートになじみやすい。ただし、加工時のエネルギー分のCO2排出量がそのまま燃焼させるより増加するために、地球環境には優しくない。また、硫黄が含まれないことから、潤滑作用の点で軽油に劣るため、添加剤で対応する必要がある。",
"title": "燃料"
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"text": "BTL燃料は、植物を原料とし液体燃料として合成したもので、GTL・CTL燃料と同様に硫黄や芳香族炭化水素を含まず、燃焼時に排出されるCO2は植物が生長する際に吸収したCO2量に等しくなる、などの特徴がある。",
"title": "燃料"
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"text": "これらの合成油は、高セタン価燃料であるため、単体専用ディーゼルエンジンとしてなら圧縮比を13–15:1へと低圧縮比化でき、エネルギー効率を上げ低燃費化できるのも利点である。これらは、生産量が増加すれば価格も下がっていくと見られており、今後のディーゼル燃料の主流として期待されている。",
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"paragraph_id": 137,
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"text": "ジメチルエーテル((DM) をディーゼル燃料として使うことも実用化されつつある。メタノールを脱水縮合反応合成してエネルギー密度を上げる方法ではなく、合成ガスからの直接合成による低純度低価格な大量生産が確立しつつある。原料として天然ガス、石炭、植物など合成ガス化できるものなら良く、有酸素燃料でガス由来の合成油より合成エネルギー損失が少ないのが利点である。",
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"text": "DME燃料は軽油と同等のセタン価で、硫黄分や芳香族炭化水素を含まない。機械式燃料噴射では低圧で体積変化するため噴射量制御が難しかったが、コモンレールで高圧安定化されたことにより噴射量制御が正確になり、適した燃料となった。",
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{
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"text": "また、重油とDMEを混合することで、排気ガスの浄化が望まれることも明らかになりつつある。A重油と混合した場合、NOx,COxもボリュームパーセントでは低下する。",
"title": "燃料"
},
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"text": "植物油をエステル交換(メタノリシス)してグリセリンを除去し脂肪酸メチルエステル(FAME)とした燃料(Bio Diesel Fuel;BDF)である。",
"title": "燃料"
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"text": "油脂を水素化分解して作る水素化処理油(Bio Hydrofined Diesel; BHD)である。",
"title": "燃料"
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{
"paragraph_id": 142,
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"text": "1885年、イギリス人の発明家ハーバート・アクロイド・スチュアートがパラフィンを使ったエンジンの可能性について調査し始めた。これはガソリンと違いキャブレターで蒸発させるのが難しかった。彼の発明した焼玉エンジンは1891年にリチャード・ホーンスビー・アンド・サンズ社にて製造された。これは世界初の加圧式燃料噴射装置を使った内燃機関であった。このホーンスビー・アクロイド式機関は比較的に低圧縮比で、圧縮加熱による燃料の着火には温度は不十分であった。現代的なディーゼルエンジンは直接噴射と圧縮着火を組み込んだものであり、この2つのアイディアはアクロイド・スチュアートとチャールズ・リチャード・ビニー(Charles Richard Binney)によって1890年5月に特許が取得されている。1890年10月8日には、燃料と空気を分けてエンジンに供給する完全なエンジンの基本的な働きを詳しく述べたもうひとつの特許がとられた。アクロイドのエンジンと現代のディーゼルエンジンの違いは冷間始動時にシリンダーに特別に熱を供給する必要があるかどうかである。1892年、ディーゼルエンジンが発明される1年前にアクロイドスチュアートは追加の熱源を必要としない改良版を作り出した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1892年、アクロイド・スチュアートは圧縮比の向上を可能にするウォータージャケット気化器の特許を取得した。同年にトーマス・ヘンリー・バートンが実験的に気化器をなくし、シリンダーヘッドに置き換えた高圧縮比版を制作した。それ故、高い圧縮比を通して着火し、空気の予備加熱に頼らなくなった。",
"title": "歴史"
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"text": "ルドルフ・ディーゼルはアクロイドエンジンを発展させ、1892年にドイツ、スイス、イギリス、アメリカで特許を取得した。",
"title": "歴史"
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"text": "1893年にアクロイドはエンジン開発をやめている。",
"title": "歴史"
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"text": "2021年現在。△はエンジンを他社より供給を受けている",
"title": "製造者"
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"text": "韓国",
"title": "製造者"
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"text": "欧米では複数メーカーを買収した持株会社を丸ごと別の持株会社が買収するなど大規模な再編が進行中であり、かつ合併によって消滅したメーカーも多い。",
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"text": "ドイツ",
"title": "製造者"
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"text": "フランス",
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"title": "製造者"
},
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"text": "フィンランド",
"title": "製造者"
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"text": "イギリス",
"title": "製造者"
},
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"text": "その他",
"title": "製造者"
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ディーゼルエンジンは、ディーゼル機関とも呼ばれる内燃機関であり、ドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルが発明した往復ピストンエンジン(レシプロエンジン)である。1892年に発明され、1893年2月23日に特許が取得された。 ディーゼルエンジンは燃焼方法が圧縮着火である「圧縮着火機関」に分類され、ピストンによって圧縮加熱された空気に液体燃料を噴射することで着火させる。液体燃料は発火点を超えた圧縮空気内に噴射されるため自己発火する。 実用化された単体の熱機関としては最も熱効率に優れる種類のエンジンであり、また、軽油・重油などの石油系の他にも、発火点が225 ℃程度の液体燃料であれば、スクワレン、エステル系など広範囲に使用可能である。汎用性が高く、自動車用小型高速機関から巨大な船舶用低速機関まで、さまざまなバリエーションが存在する。 エンジンの名称は発明者にちなむ。日本語表記では一般的な「ディーゼル」のほか、かつては「ヂーゼル」「ジーゼル」「デイゼル」とも表記された。日本の自動車整備士国家試験ではジーゼルエンジンと表記している。
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{{Redirectlist|ディーゼル|燃油|軽油|その他|ディーゼル (曖昧さ回避)}}
[[File:Dieselmotor Langen & Wolf, 1898.jpg|thumb|300 px|ルドルフ・ディーゼルの特許に基づく最初期の[[単気筒]]ディーゼルエンジン(1898年 Langen & Wolf製 出力14.7 [[キロワット|kW]])]]
[[画像:Dml30hsi.jpg|thumb|300 px|鉄道車両([[国鉄キハ183系気動車|国鉄183系気動車]])用の高速ディーゼルエンジンの一例。DML30HSI形ディーゼルエンジン<br />180°[[V型12気筒]]排気量30 L(440 PS/1,600 rpm)]]
[[ファイル:Diesel Engine (4 cycle running).gif|thumb|120 px|4サイクル・ディーゼルエンジンの動作]]
'''ディーゼルエンジン'''({{lang-en-short|Diesel engine}})は、'''ディーゼル機関'''とも呼ばれる[[内燃機関]]であり、[[ドイツ]]の技術者[[ルドルフ・ディーゼル]]が[[発明]]した往復[[ピストンエンジン]]([[レシプロエンジン]])である。[[1892年]]に発明され、[[1893年]]2月23日に[[特許]]が取得された。
ディーゼルエンジンは[[燃焼]]方法が圧縮[[着火]]である「圧縮着火機関」に分類され、[[ピストン]]によって[[圧縮]]加熱された[[空気]]に[[液体燃料]]を噴射することで着火させる。液体燃料は[[発火点]]を超えた圧縮空気内に噴射されるため自己発火する。
[[実用]]化された単体の熱機関としては最も[[熱効率]]に優れる種類のエンジンであり、また、[[軽油]]・[[重油]]などの石油系の他にも、[[発火点]]が225{{nbsp}}℃程度の液体燃料であれば、[[スクワレン]]、[[エステル]]系など広範囲に使用可能である{{efn|ディーゼルは[[粉炭|微粉炭]]を含むさまざまな燃料の使用を計画したが、粉末燃料の使用には成功しなかった。[[1900年]]の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]では[[ピーナッツ]]油での運転を実演した([[バイオディーゼル]]を参照)。}}。汎用性が高く、[[自動車]]用小型高速機関から巨大な[[船|船舶]]用低速機関まで、さまざまなバリエーションが存在する。
エンジンの名称は発明者にちなむ。[[日本語]]表記では一般的な「ディーゼル」のほか、かつては「ヂーゼル」「ジーゼル」「デイゼル」とも表記された。日本の[[自動車整備士国家試験]]では'''ジーゼルエンジン'''と表記している。
== 仕組み ==
ピストンで空気を燃料の発火点以上に圧縮加熱し、そこに燃料を噴射して自己[[発火]]させる。これにより生じた燃焼ガスの膨張でピストンを押し出す「圧縮着火[[拡散燃焼]]機関」である。ディーゼルエンジンの本質は「[[点火装置]]が不要な内燃機関」である。
ディーゼルエンジンは、4ストロークサイクルと、2ストロークサイクルに大別される。[[熱力学サイクル|理論サイクル]]の分類では、低速のものが[[ディーゼルサイクル]](等圧サイクル)、高速のものは[[サバテサイクル]](複合サイクル)として取り扱われる。
ディーゼルエンジンは燃料噴射量で出力を制御するため、スロットルバルブを必要としない。すなわち、常時吸入空気余剰の[[希薄燃焼|希薄]]域で運転される。ただし、不均一な[[拡散燃焼]]のため、全体では希薄であっても、部分的に燃え残りの[[粒子状物質]] (PM)が発生する。同時に、燃料が希薄な領域では[[窒素酸化物]](NO<sub>x</sub>)が発生することになる。
[[噴射ポンプ|燃料噴射装置]]を用いて燃焼室に燃料を高圧で噴射する。燃焼室形状の違いで、単室の[[燃焼室#直接噴射式|直接噴射式]]と[[燃焼室#副室式|副室式]]([[予燃焼室式]]・[[渦流室式]])に分かれる。[[1990年代]]以降に燃料噴射圧を上げることが可能になったため小[[排気量]]エンジンでも直接噴射式が主流であり、[[乗用車]]や小型[[商用車]]など、[[シリンダー|気筒]]あたりの容積が700 cc 程度より小さいエンジンで一般的であった副室式は、[[窒素酸化物]](NO<sub>''x''</sub>)と[[未燃焼炭化水素]]の発生は少ないが、低効率のため使われなくなった。今日ではディーゼル燃料で大型[[ガスエンジン]]を点火するときに副室式が用いられる。
== 特徴 ==
ディーゼルエンジンは圧縮着火のため[[圧縮比|高圧縮比]]となる。一般にピストンエンジンは圧縮比=膨張比であることから、高圧縮比、高膨張比エンジンとすると熱効率が高まる。圧縮比を上げることを気体の熱力学だけで解析すると、対数的に効率は上がり続けるものの圧縮比15を超えると伸び悩む。一方で高圧縮は摩擦損失と可動部品の重量増による慣性損失を増大させ、特に高回転で機械損失が急増する。また高圧縮になるほど着火しやすいが、むしろ[[着火]]により完全燃焼しにくくなるため、適正な圧縮比は14台だといわれている。膨張比はより大きくても良い。ただし、低温時や高地でのエンジン始動性のため圧縮比は14より大きいものが多い。
ディーゼルエンジンは高圧縮比エンジンなので発火点さえ確保できれば[[精製]]度の低い安価な燃料を使用できる([[重油]]やいわゆる[[サラダ油]]・廃[[潤滑油]]も使用できる。ただし場合により[[アセトン]]・[[ナフサ]]・[[アルコール]]および予熱で[[流動性]]を高める必要がある)。ただし、その実現には高価な前処理装置や特殊なエンジンオイルが必要になる。低燃費だがエンジン本体に高い圧縮比に耐え得る構造強度が必要になるため大きく重くなり、初期費用が高い。稼動回転域はガソリンエンジンより低回転でかつ狭いため、車両の発進には有利だが、より多段の[[変速機]]が必要になる。
拡散燃焼の特徴から気筒容積あたりの出力が低い代わりに、気筒容積に制限がなく、巨大なエンジンを実現できる。熱効率は良いので必要な出力が得られるまでエンジンを大型化することができる。この場合、大型ほど低速回転になるが、これは大型船舶など低速回転・大出力が必要な用途においては極めて都合がよく、実際に超大型低速ディーゼルエンジンが大型商船の主機関として広く用いられている。
空気だけを圧縮した中で燃料が自己発火するため、予混合燃焼[[ガソリンエンジン]]で問題となる[[ノッキング]](というよりノッキングの原理を逆用して着火させるようなものである。)や[[デトネーション]]が発生しない。そのため過給による吸入充填量の増加で気筒容積あたりの低出力を補うことが容易である。スロットルバルブを持たず低速でも排気圧力が高いことから、[[ターボチャージャー]]により排気[[エネルギー]]の一部を回収し、効率を維持したまま[[排気量]]1リットル当たりの[[出力]]を100[[馬力]]程度からそれ以上にすることも可能である。
=== 4ストロークと2ストローク===
一般的な中速、高速ディーゼルエンジンには[[4ストローク機関]]が使われ、大型[[船|船舶]]や大型発電には、低速2ストローク・[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン]]が使われている。2ストロークエンジンで新気をシリンダーに送り込むためには、何らかの過給が必要となる。ガソリンエンジンでは安価な[[クランクケース]]圧縮が使われているが、ディーゼルエンジンでは[[過給機]]と頭上排気弁を併用するユニフロー掃気ディーゼルターボエンジンだけが生産中である。
4ストロークサイクル・ディーゼルエンジンの各行程:
# 吸入行程 - [[ピストン]]が下死点まで下がり、[[空気]]を[[シリンダー]]内に吸い込む
# 圧縮行程 - ピストンが上死点まで上がり、空気をシリンダー内で圧縮加熱する
# 膨張行程 - 燃焼室内の高温高圧の空気に燃料を噴射すると、燃料が自己発火し、膨張した燃焼ガスがピストンを下死点まで押し下げる
# 排気行程 - [[フライホイール]]の[[慣性]]や、他の気筒での膨張などによりピストンが上死点まで上がり、燃焼ガスをシリンダー外に押し出す
2ストロークサイクル・ディーゼルエンジンの各行程(ユニフロー掃気の場合):
# 上昇行程 - ピストンの上昇によって掃気ポート、排気弁の順にふさがれ、前半までに掃気が完了し、後半(過半)で圧縮が行われる。その後に[[死点|圧縮上死点]]付近で燃料を噴射し点火する。
# 下降行程 - 前過半で膨張が行われた後、排気弁が開き、内圧が下がり、直後にピストンの下降によって掃気ポートが開き、吸気が排気を押し出す、掃気が始まる。
=== 燃焼行程 ===
#拡散燃焼
#*ディーゼル機関は噴霧燃焼における液滴の拡散燃焼である。燃焼室内の圧縮加熱した空気に液体燃料を噴射すると、複数の微細な液滴が蒸発しながら、個別に表面の拡散域が燃えやすくなり、自己発火と拡散燃焼を繰り返し、隣の液滴に燃え拡がる。近年、液滴間の燃え拡がりの主要因は着火に伴うマランゴニ対流による蒸発ガスの噴出で、着火を伝播すると分かった。そして重力下では高圧になるほど、自然対流により、マランゴニ対流が阻害され、燃え拡がり速度が低下する。その他、高圧になるほど熱拡散率と物質拡散係数も減少するため、燃え拡がり速度に限界がある<ref>[http://www.jspacesystems.or.jp/jaros/space%20utilization%20view/h17_chapter2.pdf 第2章 高圧化の液滴および液滴列燃焼] 東北大学 小林秀昭</ref>。
#*拡散燃焼は一気に着火、燃焼しないので、火花点火・均一予混合燃焼で起こる点火プラグを起点に広がる火炎面の伝播はない。適切な着火遅れは拡散、混合域の拡大により、良好な拡散燃焼をもたらし、燃焼室の隅には空気だけが止まっているので圧縮比が高くても異常燃焼によるノッキングは発生しない。ただし低温始動時や着火性の悪い燃料では長い着火遅れから一気に予混合的に燃焼するディーゼルノックが発生する。
#*軽油ディーゼルが確実に低温始動するため圧縮比を16 - 18程度にしてきた。この高圧縮比では暖機後の高負荷時に大量の燃料噴射が行われると、燃焼室が大幅に発火点を超えているため、燃料が著しく不均一で濃い領域において、気化する前の液滴まで早期に発火し低酸素状態で不完全燃焼して大量のスス状PMが発生していた。PMは発がん性のある大気汚染物質となる。本来は十分に拡散して気化しかけている液滴の表面から内部に向かって完全燃焼したい。さらに完全燃焼する条件でも空気余剰の燃焼ガスが高温、高圧となるため、余った酸素と窒素が結合し[[窒素酸化物]](NO<sub>x</sub>)も大量発生する。
#*従来は「圧縮着火」の条件を優先し、「拡散燃焼」にとっては高圧すぎて、[[過早着火]]による不完全燃焼により排気ガスが汚く、効率も低下していた。高圧縮の問題を低減しつつ、上死点で点火したときの十分な膨張比を考えると、自動車用軽油ディーゼルの圧縮比は14台が良いとされている。この圧縮比で燃料が自己発火できる手段として燃料噴射の高圧化と多段噴射が必要になる。高圧燃料噴射で油滴を微細化して気化しやすくし、多段燃料噴射によって空気を含んだ拡散領域を拡大し、高温になりすぎない雰囲気で完全燃焼をさせる。低温始動には[[#予熱機構]]を拡充する。
#*このような不均一な拡散燃焼とは均一混合気が燃焼室全体に広がる前に発火しているに等しいので原理的にシリンダー容積を使い切ることが難しく、容積あたりの出力が低い。高圧縮であることから燃焼速度が遅く、高回転で運転できない。
#PCCI(予混合圧縮着火)
#*1995年にはディーゼル機関の低負荷領域でPCCI(Premixed Charged Compression Ignition、〔不均一〕予混合圧縮着火)が実用化される。これは吸気過程で燃料を噴射し不均一な予混合気を生成した後に一気に圧縮着火させるもので、制御されたノッキングと言えるものである。予混合燃焼なのでPMが発生しないうえに、[[排気再循環|EGR]]と併用して低負荷時の燃焼温度を低下し、ディーゼルノックとNOxを低減しながら、希薄燃焼による燃費を向上する手段とされている<ref name=yamaguchi>山口卓也、[https://hdl.handle.net/10559/14867 高過給ディーゼル機関における予混合圧縮着火燃焼の研究] 学位論文.大分大学工学研究科 2010年</ref>。
#*ただしPCCIは高負荷時には激しいディーゼルノックを発生させるため使用できない。高負荷時の有害排気低減には圧縮比14台で、きれいな拡散燃焼を実現することが必要になる。
=== 燃料噴射装置(燃料噴射ポンプと燃料噴射弁)===
{{main|噴射ポンプ}}<!--従来あった噴射ポンプ各形式の記述は左記に転記しました-->
ディーゼルエンジンにおいて燃料噴射が着火と燃焼の制御手段なので、噴射装置は重要な部品となる。現在2,000{{nbsp}}[[バール (単位)|bar]](約2,000気圧)程度の高圧と多段噴射が必要とされており、かなりの高額部品になっている。自動車用ディーゼルエンジン・コストの半分は燃料噴射系で占める。
初期から50年ほどは大型エンジンの起動用と共有する[[圧縮空気]]で燃料を噴射する「空気噴射」もあったが、効率が悪く圧力を高められないために廃れた。燃料だけを高圧噴射する「無気噴射」になった後の経緯を以下に示す。
==== 従来の方法 ====
かつてはプランジャーポンプの一行程の加圧と吐出だけで一回の燃料噴射を実現する「ジャーク式」ポンプだったので、多段噴射できなかった。噴射量は機械制御によるプランジャーの有効ストローク量で決まった。従来のジャーク式ポンプはエンジン回転数や負荷によって燃料圧力と噴射量が変化する欠点がある。燃料噴射弁は燃料圧力の増減で従属的に自動開閉するものだった。いずれも噴射ポンプと噴射弁の間にある長い噴射管を毎回低圧に戻す影響のため、噴射圧が低く、近年では使われなくなってきた。
[[Image:Inline EDC pump.JPG|thumb|200px|列型噴射ポンプの一例]]
[[Image:Distributor injection pump.jpg|thumb|200px|分配型噴射ポンプの一例]]
;列型噴射ポンプ
:一つのプランジャーポンプが単気筒の燃料加圧と吐出を担当し、気筒数分のポンプが一列に並んでいる構造。ジャーク式ポンプの中では低速回転から噴射量が安定するので大型車に用いられた。噴射ポンプと噴射弁の間にある噴射管を毎回低圧に戻す影響のため実現できる燃料圧力は200{{nbsp}}bar強まで。それ以上に高めようとしても噴射管内で衝撃波を発生させるなど損失が大きくなり現実的でない。
;分配型噴射ポンプ、別名ロータリーポンプ
:一つのプランジャーポンプが全気筒の燃料加圧と吐出を実現する。プランジャーが1サイクルに1回転しながら気筒数倍の往復運動をする、プランジャーの外周に気筒の分配のための切り欠けがあり該当位置の吐出ポートと重なったときに噴射される。プランジャーポンプは全気筒に共有されるが、毎回、加圧と吐出を繰り返すので、コモンレールのように蓄圧しない。
==== 近年の動向 ====
1990年代後半から以下の方法で高圧燃料噴射を電子制御している。基本的にポンプで加圧だけを分担し、従属弁との間に配置した電子制御弁が噴射量とタイミングを分担する。
[[Image:Dosierpumpe.png|thumb|200px|電磁式噴射ポンプ]]
; [[コモンレール]]
:サプライポンプが共通(コモン)の圧力管(レール)に高圧燃料を蓄えてから、気筒ごとに電子制御弁を内蔵した噴射ノズル(インジェクター)が噴射する。電子制御弁が噴射のタイミングと噴射量を分担し、高圧で多段噴射を実現する。[[ソレノイド]]式インジェクターは1,800気圧で1サイクルあたり5回ほど噴射できる。2012年現在の[[ピエゾ素子|ピエゾ]]式インジェクターは2,500気圧の超高圧で燃料を1サイクルあたり9回噴射できる<ref>[https://car.watch.impress.co.jp/docs/series/tech/518238.html マツダ「スカイアクティブD」の技術/低圧縮のデメリットを克服]</ref>。
;{{仮リンク|ユニットインジェクター|en|Unit Injector}}
:噴射ポンプと噴射弁が一体式の噴射装置、1930年代から機械式のものが存在し、1990年代に電子制御化された。気筒ごとにユニットインジェクターを設置する。すなわち高圧パイプを引き回さなくても済むため大型エンジンに適する。単純な構造のため、高圧化はコモンレールよりも先行した、ただし多段噴射は不得意で、対応するには二つの電磁弁を併用するなど複雑な構造になる。[[OHC]]がユニットインジェクターのプランジャーポンプを駆動し、第一の電磁弁がポンプの加圧の開始と終了を精密に制御し、1サイクル毎の噴射量を決める。多段噴射するには加圧行程の内部で第二の電磁弁が噴射弁の開閉を制御する。したがって大まかな噴射タイミングに制限がある。
== 補機類 ==
ディーゼルエンジンではガソリンエンジンとは異なる特性に応じた装置が必要になるため、かなりの高コストになる。上記の燃料噴射装置や後段の排ガス対策用の後処理装置が代表例であるが、これら以外でも、原理的に振動と騒音が大きくなるため、ディーゼルエンジンでは2次バランサーを追加したり、[[インシュレーター|防振]]ゴムによる固定に高度な技術が使用され、また大型車に[[圧縮開放ブレーキ]]も使用される。
=== 燃料油清浄機 ===
燃料油清浄機はC重油から不純物を取り除く装置。1950年ごろ舶用大型ディーゼルエンジンで安価なC重油を使うために開発された燃料の前処理装置。それまでディーゼルエンジンは一定水準以上のグレードにあるA重油までしか使えなかった。C重油は製油残渣といえる劣悪な燃料で、不純物の混入が前提となる。燃料油清浄機は残渣油を加熱して流動性を高めてから、水分や固形分を遠心分離機で取り除き、さらにフィルターで濾過して細かな混入物の除去を図る。
安価を求める残渣油は軽質油を蒸留した残り物なので、製油技術が向上し、利用価値のある各種成分を高度に分留できるようになるにつれ、残渣部は相対的に低質化していく。したがって一定品質に止まらないため、燃料油清浄機も高性能化を求められる。1970年以降に製油法の進展によって導入された接触触媒分解装置からアルミナ、シリカ微粒子が残渣油に混入するようになり、ピストンリング、シリンダーライナー、燃料ポンプを短時間で損傷する事故が多発するようになった。燃料油分析サービスと併用して事故の防止を図っている<ref>[http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/032.pdf 舶用大型2サイクル低速ディーゼル機関の技術系統化調査 田山経二郎]</ref>。
=== 予熱機構 ===
火花点火のような着火機構を持たず、着火には空気の断熱圧縮による高温を利用しているため、寒冷地での長時間停車後など燃焼室が冷え切った状態からの始動や、標高が高く空気密度が小さいところで始動する場合は、吸気が着火に必要な温度に達しないことがあり、「予熱」が必要となる。燃焼室内に頭部を露出させた「[[グロープラグ]]」で予熱を行ったり、場合により[[インテークマニホールド]]直前に置かれた「[[インテークヒーター]]」で吸気を加熱する。マツダの[[SKYACTIV-D]]では始動にはグロープラグを用い、始動直後には可変排気弁の遅閉じによって高温の排気ガスを吸気管に吹き返して(内部[[排気再循環|EGR]])、吸気を暖めている。
=== スターターモーター ===
小型ディーゼルエンジンの始動にはガソリンエンジンと同様に[[セルモーター|スターターモーター]]によって[[クランクシャフト|クランク軸]]を回転させ、燃焼サイクルを開始するが、圧縮比が高いため、同程度の[[排気量]]に対して2 - 3倍程度に大きな[[出力]]のスターターモーターを備える必要があり、自動車などでも[[自動車用電池|バッテリー]]を2個[[直列]]にして[[電装]]系を24{{nbsp}}[[ボルト (単位)|V]]とするものがある。
大型エンジンの始動には[[圧縮空気]]をシリンダー内に吹き込み、ピストンを直接動かすための装置が必要となる。あらかじめ[[補助動力装置]]を起動して[[発電]]や圧縮空気を生成しておく場合が多い。
=== エンジン停止機構 ===
ディーゼルエンジンは着火に電気を用いていないため、エンジンキーをオフの状態にし([[二次電池|バッテリー]]からの電源を断つ)ても停止しない。運転を停止させる方法には以下の3種類がある。
; 燃料供給ストップ
: 主に小型エンジンに多い方法。古い列型ポンプには、手動式やキーオフの状態で[[電動機|モーター]]が噴射ポンプのスリーブ制御ロッドを直接動かして燃料を絞るものがあるが、分配型以降では、キーオフで「閉」となる[[電磁石|電磁]][[バルブ|弁]]が用いられている。ピストンが吸気を圧縮する力で停止するため、振動が出ることと、停止位置が同じになりやすい{{efn|[[フライホイール]]のリングギア上の何箇所かが、いつもスターターモーターのピニオンギアの位置に来る→偏磨耗の原因}}短所もある。
; 吸気ストップ
: [[インテークマニホールド]]直前に置かれたインテークシャッターで吸気を絞る方法。停止は滑らかで、振動が少ない。シャッターの[[アクチュエーター]]には、モーターまたは負圧駆動のダイヤフラムが用いられる。
; 圧縮力の開放
: [[てこ]]などで給排気[[バルブ]]を「開」の状態にし、ピストンが吸気を圧縮しないようにする方法。手動でクランキングを行う小型の[[発動機]]などでは、始動時の負担軽減のために[[デコンプレッション機構]]を利用するが、その機構を停止時にも用いるもの。未燃焼ガスや燃料が排出される欠点があり、主流ではない。
=== エンジンオイル ===
[[エンジンオイル#ディーゼル車]]も参照。ディーゼルエンジンでは正しく添加剤が加えられた[[エンジンオイル]]でないと、シリンダー内の燃料の燃え残った微粒子が、ピストン側面のトップリング付近でエンジンオイルの主成分である鉱物油と結合して沈積物を作り、リングを固着する「リングスティック」という現象が起きる。これを防止するために、エンジンオイルにはピストンリング付近に溜まる燃え残り、つまり「煤」や「スラッジ」を洗い流してエンジンオイル中に分散させる清浄分散剤が加えられる。また、[[排気ガス|排気]]([[排気再循環|EGR]])や[[ブローバイガス]]の還流で、それらに含まれる硫黄などによる[[酸]]でエンジンオイルが変質するのを防ぐ[[酸化]]防止剤や、腐蝕防止剤、粘度を適正に保つ粘度指数向上剤も加えられている。
船舶用潤滑油についての詳細は[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン#船舶用]]を参照されたい。船舶用ディーゼルは大別して中・高速なトランクピストン式4ストロークと、低速なクロスヘッド式2ストロークに分けられ、前者のトランクピストン式の潤滑油は一般的な高速ディーゼルエンジンに近い。しかし後者のクロスヘッド式は大量に[[硫黄]]分の残留するC重油を使う特大型ディーゼルエンジンとなり、シリンダライナ潤滑用のシリンダ油とそれ以外の潤滑を行うシステム油の2種類が存在する特徴がある。シリンダ油は燃焼後に発生する[[硫酸]]成分を[[中和 (化学)|中和]]するために塩基価(アルカリ価)の高い「高アルカリ価シリンダ油」が求められる。中和しないとエンジン内部がすぐに腐食してしまうためである。
=== エンジンオイルフィルター ===
ディーゼルエンジンのエンジンオイルは、ガソリンエンジンのものに比べ、早期に多くの微粒子を取り込むため、[[エンジンオイル#オイルフィルター|オイルフィルター]]は大型で高効率なものが使われる。一部エンジンでは、本来のオイル流路とは別に設けられた、遠心式や吸着式によるバイパス式フィルターで微粒子を取り除いてオイルパンに戻すものもある<ref name="ディーゼル自動車がよくわかる本"/>。
不純物の多いC重油を使うディーゼル機関では、シリンダー部を潤滑した高アルカリ価シリンダ油は汚すぎてフィルタでも再利用できず廃油となる。その代わりクランク室はシリンダ室とは分離され独立のオイル経路で循環して潤滑される。
=== 真空ポンプ ===
ディーゼルエンジンは、スロットルバルブが不要なこと{{efn|ディーゼルエンジンはスロットルバルブによる回転数(出力)制御ではないものの、アイドル時や低回転域の吸気騒音を抑えるため、コンバインドガバナーのように負圧を必要とする[[調速機]]のため、アクセル全閉時に酸素過多となって発生する[[窒素酸化物|NOx]]を抑えるため、等の目的で、吸気管にバタフライバルブを備えているものがある。この場合、一般的に言われる「ディーゼルエンジンの吸気系は負圧にならない」は当てはまらない。}}や吸気[[脈動]]が大きいことなどで、ガソリンエンジンと比較してインテークマニホールドでの[[負圧]]生成には適していない。そのため、真空倍力式の[[ブレーキブースター]]を用いるディーゼル車では、[[Vベルト]]や[[歯車|ギヤ]]で駆動する専用の[[真空ポンプ]]と、負圧貯蔵タンクを備えている。
このポンプの潤滑にはエンジンオイルが兼用される。
== ガソリンエンジンとの比較 ==
大型低速であるほどディーゼルエンジンの長所が引き立ち、短所が目立たなくなる傾向にある。逆に小型高速ではガソリンエンジンが有利になる。このため小型車のエンジンはガソリンで、大型車のエンジンはディーゼルになることが多い。鉄道の気動車はディーゼルがほとんどであり、船舶も、軍用や高速船、小型船(20トン未満)の船外機などの例を除き、ディーゼルエンジンであることが一般的である。
ガソリンエンジンは点火方式が「火花点火」、燃焼方式が「均一予混合燃焼」である。あらかじめ燃料を気化させた混合気をシリンダーに吸入、圧縮したのち、電気火花により点火する。均一混合気に満たされた燃焼室に火炎面伝播が発生し燃焼域が半球状に広がって間欠燃焼する。シリンダー直径が大きすぎると火炎伝播速度が間に合わずシリンダーの外周に近い混合気まで点火できなくなるので、シリンダ直径([[内径|ボア]])に限界(自動車用の場合10{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]、容積で800{{nbsp}}[[立方センチメートル|cc]]ほど)がある。一方で予混合燃焼では粒子状物質 (PM) は発生しない。ただし圧縮行程で燃料噴射する直噴ガソリンエンジンは気化できない液滴の残る不均一な成層燃焼なので、粒子状物質が発生する。
ディーゼルエンジンは拡散燃焼なので容積に制限はない。ただし、高圧下の拡散燃焼速度は遅いので大容積エンジンは低回転に限られる。これは、むしろ大型船舶やポンプ、発電機などの大出力エンジンにとって都合が良い。1万馬力を超える巨大出力の歯車減速機は信頼性に乏しいので、低速エンジンの直接出力が求められるため。ただし速度変化の激しい車両には多段変速機が必要になる。
ガソリンエンジンは混合気の吸入量をスロットルバルブによって絞ることで出力を制御するのに対し、ディーゼルエンジンは燃料噴射量だけで出力制御するため、ポンピングロスが少なく、効率が良い。また同じ理由でディーゼルは負荷変動によって空燃比も変わり、全般的にも希薄燃焼であり、理想空燃比は実現できない。これは容積あたりの燃料の充填が少ないことを意味し、気筒容積あたりの出力が低い傾向にあるが、過給により補完できる。特にスロットルがないため低回転から排気量が多いのでターボチャージャーとの相性が良い。
ただし、最近では両者の構成が近づいている。2012年に圧縮比を同じ14にした、高圧縮比ガソリンエンジンと低圧縮比ディーゼルエンジンがマツダから出荷されている。他社のガソリンエンジンでも[[吸気]]の[[可変バルブタイミング機構]]により吸入量を変えたり、低温多量EGRバルブにより排気と吸気の割合を変えて[[出力]]を調整するようになり、[[スロットル|スロットルバルブ]]は必須でなくなった。これらの改善のため近年ガソリンエンジンの効率が上昇し、ディーゼルとの差が縮まっている。
さらに事実上、同じ点火、燃焼モードを持つエンジンが開発中である。まず、ガソリン燃料でありながら圧縮比14台にて圧縮着火を目標としているHCCI(Homogeneous-Charge Compression Ignition:(均一)予混合圧縮着火)エンジンが開発中{{efn|この方式を初めて実用化したエンジンが[[マツダ]]の[[マツダ・SKYACTIV-X|SKYACTIV-X]]である。}}であり、通称ディゾットエンジンとも呼ばれる{{efn|'''ディーゼ'''ルサイクルと'''オット'''ーサイクルの性質を併せ持つことから、[[メルセデス・ベンツ]]が名付けた[[造語]]。}}<ref>[http://www.nissan-global.com/JP/TECHNOLOGY/OVERVIEW/hcci.html HCCI(予混合圧縮着火)] 日産自動車>将来技術/取り組み</ref> 一方で、1995年にはディーゼルエンジンでありながら低負荷領域で予混合を用いる PCCI(Premixed Charged Compression Ignition:(不均一)予混合圧縮着火)が実用済みであるなど、ガソリンとディーゼルエンジンの区分けが曖昧になりつつある<ref name=yamaguchi />。
=== 長所 ===
==== 燃費・効率面 ====
圧縮比が高く、[[燃焼室]]内の空気過剰率が大きいため、作動ガスの[[比熱比]]が高く図示[[熱効率]]が高い(投入したエネルギーに対して燃焼ガスの温度上昇に使われる割合が低い)と言われている。ただし、これは大型低速エンジンの場合であり、高速エンジンでは損失も多い。2010年現在の大型舶用ディーゼルの熱効率が50{{nbsp}}%に達するのに対し自動車用ディーゼルの熱効率は40{{nbsp}}%、ガソリン機関の熱効率が30{{nbsp}}%程度、ガソリンアトキンソンサイクル機関の熱効率は30{{nbsp}}%台後半である。また重量、負荷変動、速度、変速の効率が加味される自動車の走行パターンを与えた場合には差が縮まる。以下に乗用車用エンジンのトップランナー方式の実効率の報告書の結果を示す。2005年の予備調査のときより2010年の結果のほうが、Tank to Wheel効率の差は半分に縮まっている。同じ程度の排気規制を満たすために差が縮まったともいえる。
この報告書の効率の算出方法について、まず燃料を比較すると軽油はガソリンに比べ密度が12{{nbsp}}%大きく、容積あたりの[[熱量]]も9{{nbsp}}%大きい。しかし[[質量]]あたりの[[熱量]]は5{{nbsp}}%小さい。熱量あたりの[[二酸化炭素]](CO<sub>2</sub>)発生量は2.5{{nbsp}}%多く、質量あたりのCO<sub>2</sub>発生量は2{{nbsp}}%少ない。容積あたりのCO<sub>2</sub>発生量は10{{nbsp}}%多い<ref>総合効率とGHG排出の分析報告書 平成23年3月 日本自動車研究所 表2-2 発熱量およびCO<sub>2</sub>排出原単位</ref>。このような燃料の異なるエンジンを燃料の容積や質量単位で比べられないため、生産エネルギーと消費エネルギーとを比べている。
このように補正したTank to Wheel効率では[[JC08モード]]でディーゼルはガソリンより3.5{{nbsp}}%しか良くない<ref>総合効率とGHG排出の分析報告書 平成23年3月 日本自動車研究所 図4-6 単位走行距離あたりのエネルギー消費量(JC08モード)</ref>。ただし、[[10・15モード燃費|10・15モード]]なら8.5{{nbsp}}%良い<ref>総合効率とGHG排出の分析報告書 平成23年3月 日本自動車研究所 図4-4 単位走行距離あたりのエネルギー消費量(10・15モード)</ref>。さらにWell to Wheel総合効率のJC08モードの効率とCO<sub>2</sub>排出量では11{{nbsp}}%良い<ref>総合効率とGHG排出の分析報告書 平成23年3月 日本自動車研究所 図5-3 標準ケースにおけるWtWエネルギー消費量・CO<sub>2</sub>排出量(J-MIX;JC08モード)</ref>。さらに Well to Wheel総合効率の10・15モードのCO<sub>2</sub>排出量では18{{nbsp}}%良い<ref>総合効率とGHG排出の分析報告書 平成23年3月 日本自動車研究所 図5-1 標準ケースにおけるWtWエネルギー消費量・CO<sub>2</sub>排出量(J-MIX;10・15モード)</ref>。
まとめると、自動車用ディーゼルは現在の厳しい排気規制の下でもJC08モードのTank to Wheel効率ではガソリンエンジンより3.5{{nbsp}}%エネルギー効率が良いが、軽油の熱量あたりのCO<sub>2</sub>発生量は2.5{{nbsp}}%多く、クルマ単体でのCO<sub>2</sub>の排出量の差はほとんどない。ただし、Well to Wheel 総合効率のJC08モードのCO<sub>2</sub>排出量で11{{nbsp}}%良い結論は変わらない。これはガソリンの精製に軽油よりもエネルギーを消費しているためである<ref>総合効率とGHG排出の分析報告書 平成23年3月 日本自動車研究所 図3-14標準ケースにおけるWtTエネルギー消費量・CO<sub>2</sub>排出量(J-MIX)/表3-20 国内大規模プロセス(その1)</ref>。
車両用ディーゼルは高速道路の定速走行など負荷が一定の状態なら熱効率どおりにガソリンより3割ほど効率が良い。しかし常用回転域が狭いことから市街地走行のような負荷変動と加減速を含む走行パターンでは一気にガソリンとの差がなくなる。変速が単純な10・15モードの効率がJC08モードより良いことからうかがえる。
==== 構造・動作面 ====
ディーゼルエンジンには点火装置とスロットルバルブが不要であるため、構造が単純化でき、信頼性が高い。
ディーゼルエンジンは拡散燃焼の範囲であれば圧縮時の筒内が空気だけなので、過給しても[[ノッキング#エンジンノック|プレイグニッション]]・[[ノッキング]]や[[デトネーション]]がない。スロットルバルブがないため、低速でも排気が多く、ターボチャージャーとの相性が良く、容積あたりの低出力を補うことができる。さらに大型エンジンでは排気エネルギーを出力軸に、より多く回収する[[ターボコンパウンド]]も可能である。
ガソリンエンジンには点火時の火炎の伝播速度によりシリンダ直径に限界があるのに対し、ディーゼルエンジンにはその限界がないので大型化に適している。ガソリンエンジンでは、多気筒化で排気量を確保して高トルクを得るか、高回転化で出力を上げなければならないのに対し、ディーゼルエンジンでは気筒容積の拡大で可能となり、構造が単純化され[[摩擦|フリクション]]ロスも抑えられ、[[熱効率]]が高まる。大型エンジンほどディーゼルエンジンの利点が活きてくる。
ディーゼル燃料の引火点はガソリンに比べて80{{nbsp}}℃ほど高いため、[[爆発]]・[[火災]]事故に対する余裕が大きい。特に被弾することを前提とした[[軍用車両]]で、このメリットが大きい{{efn|ただし、[[シリンダーブロック]]や[[燃料タンク]]に直撃弾を受けた場合、ガソリンエンジンに比べ爆発の危険は少ないが、炎上する可能性はそれほど変わらない}}。軍用車両のエンジンは航空燃料の[[JP-8]]等と併用することも考慮され、ディーゼル化を進めている。ガスタービン燃料は軽油よりも上質油であるが、燃料を共有することで有事の兵站が合理化される。
===== 逆回転運転 =====
{{main|2ストローク機関#リード式吸気弁|ガソリン直噴エンジン#欠点}}
ディーゼルエンジンのうち、4ストローク機関は吸気系統側に掃気用の補機を持たず、噴射ポンプでシリンダー内に直接燃料を噴射する構造のため([[ガソリン直噴エンジン]]を除く)、ガソリンエンジンと異なり始動時に何らかの方法でクランクシャフトを逆方向に回転させることにより、逆回転運転をさせることができる。例えば、自動車の場合は変速機を前進ギアに入れた状態で車体を後進方向に押したり、坂道で下り方向に空走させたりすると、クランクシャフトは逆回転するため、[[デコンプレッション機構|デコンプ]]を開いておくなど始動の予防措置を講じない限りは逆回転状態でエンジンが[[押しがけ]]始動してしまう危険性<ref>[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen_pg/sai_det.aspx?joho_no=506 労働災害事例 タイヤローラーをトラックに積込み中、突然動きだしたローラーに挟まれる] - [[厚生労働省]] 職場のあんぜんサイト</ref>がある。自動車でこのような状態になると、変速機が前進ギアの際に車体は後退し、後進ギアの際に逆に前進が行われることになる。この現象は事故や労働災害を誘発する原因になる一方で、船舶などその特性を活用することで変速機を介することなく逆回転運転のみによる後退運転が可能となることも意味している。
4ストロークディーゼルで逆回転運転が始まった場合、吸排気弁の機能が逆転するため、排気管から吸気し、エアフィルター側に排気が行われる<ref>{{YouTube|eH1A0MlENEI}} - backwards running diesel</ref>。また、カムシャフトの[[バルブタイミング]]や噴射ポンプの噴射タイミングも適切に反転させたものを使用しなければ十分な出力性能が得られないため<ref>[http://www.machineryspaces.com/reversing.html Reversing gears of a marine diesel engine] - Machinery Spaces.com</ref>、自動車ではあまり実用的とはいえないが、中・小型船舶用機関では古くはMANやスルザー、B&Wなどが前進用と後進用の2系統のカムシャフトを[[可変バルブ機構]]で4ストロークディーゼルの逆回転運転による後退航行を実現しており<ref>[http://www.brighthubengineering.com/marine-engines-machinery/60584-reversing-of-marine-engines/ Reversing Of Marine Engines] - Bright Hub Engineering</ref>、航空用エンジンでは[[ダイムラー・ベンツ DB 602]]が同様の機構を有していた。しかし、今日では小型船舶ではこのような逆回転運転機構ではなく、油圧または電動の遠隔操作で断続されるクラッチと<ref>[http://www.splashmaritime.com.au/Marops/data/text/Engtex/Engtex.htm MARINE ENGINES] - splashmaritime.com.au</ref> 後退用ギアボックスを組み込むことで後退航行が行われている<ref>[http://www.tpub.com/fireman/62.htm CLUTCHES AND REVERSE GEARS] - Integrated Publishing</ref>。
なお、2ストローク機関では逆回転運転をさせても掃気孔と排気弁または排気孔の機能が逆転せず、掃気ポートタイミングも変化しないため、[[リードバルブ]]式ガソリンエンジン・ユニフローディーゼルエンジンどちらでも逆回転運転は可能であり、ディーゼルエンジン特有の長所とはなっていない。ただし、ガソリンエンジンでは逆回転が後退に利用される例は一部の[[スノーモビル]]程度に限られているが、船舶用ユニフローディーゼルエンジンにおいては、逆回転運転により直接スクリューを逆回転させ後退航行を行う手段として一般的に用いられている<ref>[http://www.marinediesels.info/2_stroke_engine_parts/Other_info/lost_motion.htm Operational Information Lost Motion] - marinediesels.info</ref>。
=== 短所 ===
自動車用ディーゼルエンジンの価格はガソリンエンジンのほぼ倍になる(国産車の車体価格で、だいたい40万から50万円程度高い)。スロットルと点火装置が要らない代わりに、高価な燃料噴射系と補機類が必要となりエンジン全体は高コストになる。
ディーゼルエンジンの主たる短所は、大きく重くかつ、振動が激しいことである。大重量ゆえエンジンの出力重量比が悪く、軽量化を要求される航空機では、一部を除いて従来あまり採用されず、レシプロエンジン全盛期においても主流足りえなかった。また、圧縮着火のため、高空(低温、低気圧)での始動性や信頼性に乏しいというのも、ディーゼルエンジンが敬遠された大きな理由の一つである。
拡散燃焼ゆえ、黒煙や[[粒子状物質]] (PM) が発生しやすいうえに、[[燃焼室]]内が高温高圧かつ希薄燃焼域(軽負荷時は30:1から60:1)で[[酸素]]と[[窒素]]も過多であるためNO<sub>x</sub>も発生しやすく、密閉コックピットが普及する前の飛行機においては、ディーゼルエンジンがパイロットたちに嫌われた理由でもある。排気対策をするにも、排気中の残留酸素が多い酸化性雰囲気では[[三元触媒]]を使えないため、PMとNO<sub>x</sub>対策に別々の後処理装置が必要となり、重量もかさむとともに高コスト化する。
==== 健康面 ====
{{see|ディーゼル自動車#問題点}}
==== 燃費・効率面 ====
高圧縮比のため、[[ピストンリング]]や軸受にかかる面圧が高く、十分な[[強度]]を持たされた可動部品の質量も大きい、高速回転させると[[摩擦損失]]などでエネルギーの損失が急増する。
高圧縮比のため高回転まで回らず、常用回転域が狭いため、車両用には走行速度に応じた[[トランスミッション|変速]]が必要で、最適な回転数を外すと効率が低下する。この2点が調和しないため、自動車用ディーゼル機関は大型舶用ディーゼル機関より大幅に低効率となっている。
==== 構造・動作面 ====
ディーゼルエンジンでは燃料噴射装置が点火装置と出力制御装置を兼ねるため高価になり、燃焼制御も難しい。燃料噴射系がエンジンコストの半分を占める。
高圧縮比であるため、吸排気系の[[脈動]]も大きく、こちらの振動や騒音も大きい。船舶用、[[コジェネレーション]]用では脈動を抑えるために[[アキュムレータ (機械)|アキュムレータ]]を備えたものもある。
[[シリンダーヘッド]]、[[シリンダーブロック]]、[[ピストン]]、[[コネクティングロッド]]、[[クランクシャフト]]に高い[[強度]]と[[剛性]]が求められ重量が嵩む。
加減速や発進・停止を頻繁に求められる車両用途では、大トルクに耐えられる多段変速機が必要となる。副変速機込みで18段や24段にもなる変速機を手動で操作するのは煩雑すぎて現実的でないため、優秀な自動変速機が必要になり、さらにに重く、高コスト化する。
吸気管負圧を得にくいため、乗用車においては[[ブレーキブースター]]を別の経路からとる必要がある。これもまた高コストの原因となる。
寒冷地では燃料中の[[蝋|パラフィン]]が析出して[[燃料フィルター]]で目詰まりする場合がある。温暖な地域の軽油を入れて寒冷地に移動して駐車していると、燃料が流れなくなって始動しなくなるおそれがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://kurukura.jp/car/191111-10.html |title=寒いと軽油が凍るって本当? 意外と知らない寒冷地仕様の軽油に迫る。 |access-date=2023-03-26 |website=くるくら |publisher=日本自動車連盟 |language=ja}}</ref>。
ディーゼルエンジンの容積あたりの低出力を過給、ターボチャージャー、ターボコンパウンドなどで補うと、点火装置の単純さというメリットが相殺され、高コストになる。
乗用車用ディーゼル機関では振動軽減のため小排気量ながら多気筒化する傾向があり、気筒容積の拡大で大型化できる利点を生かしにくく、高コストになる。
===== ディーゼルエンジンの暴走 =====
{{main|ディーゼルエンジンの暴走|en:Diesel engine runaway|ディーゼルエンジンの問題|en:Diesel_engine_problems}}
吸気系統にスロットル弁を持たず、[[アクセルペダル]]の操作が噴射ポンプの噴射量のみを制御するディーゼルエンジンは、噴射ポンプのリンケージの不具合や[[調速機]]の破損などにより燃料供給が過多となった場合、エンジン回転数が{{仮リンク|過回転|en|Overspeed}}となったまま、オペレーターの操作ではエンジン回転数を制御できなくなる{{仮リンク|ディーゼルエンジンの暴走|en|Diesel engine runaway}}事故が発生することがある<ref>{{cite book | last = Wellington | first = B.F. | authorlink = |author2=Alan F. Asmus | title = Diesel Engines and Fuel Systems | publisher = [[Longman|Longman Australia]] | year = 1995 | location = | pages = | url = | doi = | id = | isbn = 0-582-90987-2}}</ref>。ディーゼルエンジンの暴走は、ターボチャージャーの軸受部のオイル漏れや過度のブローバイの発生などで霧化したエンジンオイルが吸気系統に大量に混入した場合<ref name="FIE">{{cite web|url=http://www.tb-training.co.uk/CIsys.htm |title=FIE system; diesel fuel system; boat fuel system |publisher=Tb-training.co.uk |accessdate=2012-06-22}}</ref>、あるいは可燃性のガスが充満した空間に稼動状態のディーゼルエンジンが置かれた場合などの外的要因によっても発生しうる<ref name="FIE"/>。
ガソリンエンジンは燃料装置の不具合、たとえば[[チョーク弁]]の誤作動などで燃料の供給が吸入空気量に対して過多となった場合は、[[点火プラグ]]が失火して[[エンスト|エンジンストール]]を起こすか、著しくドライバビリティが低下していく。ガソリンエンジンでもスロットル弁のリンケージの破損により、エンジン回転数が過回転となったまま制御不能になる暴走が発生する可能性はあるが、この場合メインキースイッチや[[キルスイッチ]]を作動させるか、[[鉛蓄電池|カーバッテリー]]の配線や[[プラグコード]]を切断するなどして強制的に[[点火装置]]や点火プラグへの給電を断つことで、オペレーターは暴走を容易に停止させることができる。機械式[[燃料噴射装置]]や機械式[[燃料ポンプ]]付き[[キャブレター]]式のガソリンエンジンで、[[ランオン]]を併発するという特殊な状況でのみ、オペレーターの操作だけではエンジンを完全停止できない事態が発生しうるが、それでもスロットル弁を閉じれば回転数は下がり、更に[[マフラー (原動機)|マフラー]]の排気口を塞ぐことで容易に暴走は止められる。
しかし、[[スロットル]]弁({{仮リンク|バタフライ・バルブ|en|Butterfly valve}})を持たず、圧縮圧力のみで自己着火するディーゼルエンジン、とりわけ噴射ポンプが機械式の場合、吸入空気量を制限する機構が何もないため、ひとたび暴走が発生してしまうとメインスイッチやアクセルペダルをいくら操作してもエンジンの過回転を停止することができなくなってしまう<ref>{{cite web|title=Intake air matters|url=http://primempg.com/|publisher=www.primempg.com|accessdate=7 June 2015}}</ref>さらにはターボチャージャー付きディーゼルエンジンの場合は、暴走が発生するとターボチャージャーも過回転状態となるため、過給圧のオーバーシュートも併発することでブローバイが[[燃焼室]]から大量に[[クランクケース]]側に吹き抜け、そのブローバイが[[PCVバルブ]]や[[排気再循環|EGR]]を通じてインテーク側に大量に吸引されることにより、例え噴射ポンプへの燃料供給が絶たれたとしても、多量のブローバイによりインテークに吹き抜けるエンジンオイルのみでディーゼルエンジンの暴走が継続する、[[ポジティブフィードバック]]状態が成立してしまう場合すらある<ref name="FIE"/>。
このようなディーゼルエンジンの暴走を[[エンジンブロー]]に至る前に停止させるには、[[燃料タンク]]から噴射ポンプへの燃料供給を遮断するのみでは不十分で、[[エアクリーナー]]ボックスや吸気口に蓋や栓をはめ込んだり、[[二酸化炭素]][[消火器]]を吸気口に大量に吹き込むことで吸入空気([[酸素]])を遮断する<ref>{{cite book | last = Launer| first = Donald | authorlink = |author2=William G. Seifert |author3=Daniel Spurr | title = Lessons from My Good Old Boat | publisher = Sheridan House, Inc. | year = 2007 | location = | pages = 161–162| url = | doi = | id = | isbn = 1-57409-250-2}}</ref>、あるいは変速機をトップギアやオーバートップに入れた状態で[[フットブレーキ]]や[[サイドブレーキ]]を目一杯掛けた状態で[[クラッチ]]を一気に繋ぎ、クランクシャフトの回転を無理矢理停止させ[[エンスト]]を狙うなどの方法を採るしかない<ref>[https://www.carthrottle.com/post/9liEWT/ What is runaway?] - carthrottle.com</ref>。自動車では走行中にアクセルペダルを戻してもエンジン回転の上昇が止まらない、ディーゼルエンジン暴走の兆候が見られた場合は、[[マニュアルトランスミッション]]では直ちにクラッチを切り、[[オートマチックトランスミッション]]、[[セミオートマチックトランスミッション]]、[[無段変速機]]では[[シフトレバー]]をニュートラルに入れて[[ドライブトレイン]]への動力伝達を絶った上で、路肩に停車して上記の暴走停止の措置を行う<ref>[https://www.autoevolution.com/news/heres-how-you-quickly-stop-a-runaway-diesel-video-87344.html Here’s How You Quickly Stop a Runaway Diesel] - autoevolution.com、2014年10月3日。</ref>。[[アメリカ海軍]]では船舶用ディーゼルエンジンで暴走が発生した場合には、燃料供給弁を閉じた上で[[デコンプレッション機構|デコンプ]]を開いて停止を図るようにトレーニングマニュアルに記載している<ref>アメリカ海軍{{仮リンク|艦船局 (アメリカ海軍)|en|Bureau of Ships|label=艦船局}}『Diesel Engine Maintenance Training Manual』、2015年1月15日、115-117頁。</ref>。
欧米では[[ディーゼル機関車]]や<ref>[http://www.railpictures.net/viewphoto.php?id=406794 A General Electric ES44AC locomotive in the process of a runaway]</ref>、[[デトロイトディーゼル]]など旧式のディーゼルターボエンジンを[[レストア]]した際の試運転時に度々こうした暴走事故が起きており、[[キャタピラー (企業)|キャタピラー]]は燃料系統を修理したディーゼルエンジンを初めて始動する際には、作業助手は燃料系統の修理ミスに伴う暴走に備えて吸気口に直ちに栓が出来るように備えておくことを推奨している<ref>ポール・デンプシー『Troubleshooting and Repairing of Diesel Engines 第4版』、[[マグロウヒル・エデュケーション]]、2007年11月5日、110頁。</ref>。日本でも2000年代初頭に、[[三菱自動車工業]]の[[三菱・デリカ]]や[[三菱・チャレンジャー]]にて噴射ポンプの製造工程のミスに伴うディーゼルエンジン暴走事故が発生し、[[リコール (自動車)|リコール]]に至っている例がある<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-07-06/01_03.html 暴走は製造上の欠陥 三菱自工が7800台リコール] - [[しんぶん赤旗]]、2003年7月6日。</ref>。
可燃性ガスの充満が発生しやすい[[石油化学]]プラントや[[鉱山]]では、ディーゼルエンジンの暴走事故が数多く起きており、[[アメリカ合衆国労働省]]など海外の労働行政機関は、産業用ディーゼルエンジンに対して、万が一暴走が発生した際に備えて吸気系統と燃料供給系統の双方に{{仮リンク|シャットダウン・バルブ|en|Shut down valve}}や{{仮リンク|安全遮断弁|en|Safety shutoff valve}}を備え付けるように義務付けている<ref>[https://www.pumpsandsystems.com/topics/resources/controlling-runaway-diesel-engines Controlling Runaway Diesel Engines] - pumpsandsystems.com、2012年5月2日。</ref> が、それでもすべてのディーゼルエンジンの暴走の[[フェイルセーフ]]の確立までには至っておらず、2005年の[[テキサスシティ製油所爆発事故]]でもその過程において自動車のディーゼルエンジンの暴走が関連していたことが確認されている。
フィルター直前に追加インジェクターを持たない、燃焼再生式の[[ディーゼル微粒子捕集フィルター|DPF・DPR等]]が装着されるディーゼルエンジンについては、軽油によってエンジンオイルが希釈されることとなるが、燃料を含むエンジンオイルによって発生したブローバイガスが、[[排気ガス再循環|EGR機構]]によって吸気系に戻されることによっても、ディーゼルエンジンの暴走が発生する。
== 主な用途 ==
定置型の[[内燃力発電]]やポンプなどの[[原動機]]、[[船舶|舶]]用動力、[[貨物自動車|トラック]]や[[バス (交通機関)|バス]]といった大型の[[自動車]]や[[戦車]]のような[[軍用車両]]、[[建設機械]]・[[農業機械]]などの大型[[特殊自動車]]{{efn|農業機械では主に[[耕運機]]、[[トラクター]]、[[コンバイン]]や6条植以上の[[田植機|乗用田植機]]などがある。}}、[[ディーゼル機関車]]や[[気動車]]などの[[鉄道車両]]に使用される。発電、ポンプなどはディーゼルエンジンが主流であるが、LPGや天然ガスなど気体燃料を用いた電気点火式[[ガスエンジン]]や、[[ガスタービンエンジン]]の場合がある。
=== 船舶 ===
大出力を生み出す大型舶用エンジンと、そこから派生した定置発電用エンジンは、ディーゼル機関の独擅場と言える用途である。これらの分野は他用途では常に制約・問題となる機関本体および補機の重量・容積をある程度度外視でき、ディーゼル機関の持つ大型化に適した性質に合致した結果と言える。一方、軍艦においては、水上[[戦闘艦]]ではガスタービンエンジンと組み合わせての巡航用エンジンとして用いられることが多いほか、[[潜水艦]]では[[ディーゼル・エレクトリック方式]]での推進器の駆動および発電機の原動機としての[[二次電池]]の[[充電]]にも用いられる。
* 21世紀現在、大型船舶では主にC重油を使用する低速[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン|ユニフロー掃気]]2ストロークディーゼル機関が主流となっている。外航大型船舶用のエンジン自体の大きさは、大きな物の一例として長さ約24メートル、高さ約15メートル、重量が2000トン程度、直列11気筒で総排気量約2万2千リットル、出力約8.5万馬力(MAN B&W 11K98ME型)というものであり、耐用年数は20年程度である。頭上排気弁と強力な過給器を組み合わせ、燃費上の要請<ref name="juntsu21" />と必要なトルクからピストン径が1メートル弱に対しストロークは2.8メートル程度と、超ロングストロークである。このサイズで物理的なピストンスピードを現状以上にするにはあまりに巨大すぎるため、クランクシャフトの定格回転数は毎分60–100回転程度と低速になるが、その結果、理論上のディーゼルサイクルに近い特性を現実化できている。実際に熱効率は50{{nbsp}}%を超え、55{{nbsp}}%に迫る水準に到達する事例もあり、単体の実用内燃機関としては最高水準の熱効率を実現している。また毎分100回転以下の低速は、船舶のスクリュー回転にそのまま適用できる速度でもあり、強度面に制約を抱える減速歯車装置を設けることなく、クランクシャフトからの直結でスクリューを駆動できる。つまり実用上の動力伝達面でも損失が少なくなる。
* 船舶用大型2ストロークディーゼル機関は、[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン|頭上弁方式]]であることに加え、必要なトルクを出すためにピストンの直径が大きくなりがちである。またピストン直径の大きさと燃費向上の要請<ref name="juntsu21">{{Cite web|和書|url=https://www.juntsu.co.jp/qa/qa0301.php |title=船舶用のシステム油,シリンダ油とは |access-date=2023-03-26 |website=ジュンツウネット |publisher=潤滑通信社 |language=ja}}</ref>ゆえに[[コネクティングロッド]]部分がピストン・ロッドと連結棒に2分割された[[:en:Crosshead|クロスヘッド構造]]を取らざるを得ないため、エンジンは総じて非常に背が高い。
* 使用燃料が格安の[[重油#重油の規格・品質|C重油]]({{PDFlink|[http://www.marine-engineer.or.jp/images/hakuyo_nenryo.pdf 舶用燃料油]}}とも)であり、石油精製した後の残渣油由来の、粘度の高い低質燃料であるため、極めて燃焼残渣が汚く、シリンダー内部の潤滑には燃料に含まれる[[硫黄]]から生成される[[硫酸]]に対抗しうる船舶用シリンダー油が必要である<ref name="juntsu21" />。船舶用シリンダーは油痛みが激しいため、通常は使い捨てであり<ref name="JALOS_ID-L028">{{Cite web|和書|url=http://www.jalos.jp/jalos/qa/articles/004-L028.htm |title=大型船舶のシステム・シリンダー油 |access-date=2023-03-26 |website=潤滑油・環境ワールド |publisher=潤滑油協会 |language=ja}}</ref>、その他エンジン部分の潤滑を担うシステム油とは経路を独立させている<ref name="JALOS_ID-L028" />。
* 4ストローク中速ディーゼル機関(300–1,000{{nbsp}}rpm)は、大型漁船からフェリー、客船、外航大型船舶まで幅広く使われている。[[A重油]]が燃料の、[[コネクティングロッド|コンロッド]]でピストンとクランクとが結ばれた[https://www.jsme.or.jp/jsme-medwiki/doku.php?id=11:1009256 トランクピストン機関]が主流で、一部に残渣油由来のC重油やACブレンド油を使用できるものがある。熱効率では2ストローク低速ディーゼル機関に及ばないものの、出力当たりの重量や外形寸法が小さく機関配置の自由度が高いという利点が有り、それによる防振、電気推進化の容易なクルーズ船や[[フェリー]]、[[RO-RO船]]のように構造上機関室の高さを抑えたい船で主流となっている。通常、可変ピッチプロペラか減速機を介して使われる。<!--トリビア 軍艦用では[[原子力]]を除く[[蒸気エンジン]]衰退後に中速ディーゼルエンジン(2stか4stかは別に)が普及したが、後に戦闘用艦艇では[[ガスタービン]]に移行するも、[[通常動力型潜水艦]]では今なお4ストローク中速ディーゼル機関が主動力源であり続けている。-->
* 高速船艇や[[プレジャーボート]]、小型漁船などでは、A重油あるいは軽油を燃料とする4ストローク高速ディーゼル機関(1,000{{nbsp}}[[rpm (単位)|rpm]]以上)が使われており、小型のものでは自動車用と共通のエンジンが使われている場合も多い。機関と駆動系を小型化するために減速機付きの構成になっている。
* 難点として、C重油が燃料の船舶用ディーゼルエンジンは、燃料であるC重油を事前加熱によって流動性を高める必要があり、これに関わる補機類が多数必要になること、さらに一度エンジンを休止させるとエンジン本体と補機類の再始動に長時間を要することから、船の停泊中もエンジンの低速回転を続行して各部の保温と潤滑とを維持し、かつ燃料系統の予熱も同様に維持せねばならない点が挙げられる。
==== 歴史 ====
1900年代から小型船に置ける試行的採用が始まったが、外航船舶として本格的な成功を収めた最初のディーゼル船は、1912年にB&W(バーマイスター・ウント・ウェイン)の1,250 [[英馬力|hp]]・4ストロークエンジン2基を搭載して建造された[[デンマーク]]の5,000{{nbsp}}t級貨物船「[[セランディア]]」([[:en:MS Selandia|MS Selandia]])である。この船は同クラスの蒸気機関搭載船に比して3分の1程度の燃料消費で航行できた(かつ、蒸気船のようなボイラー用の真水が不要であった)ことでその経済性と航続距離における優位性を立証し、実用的成功を収めた。排煙の量が蒸気船に比べて遥かに少ないため、蒸気船のような太い[[煙突]]は実用上不要で、簡易な排気管を備えるだけで済んだ(以後のディーゼル船では、主として美観上の見地から旧来同様の煙突を模した[[ファンネル]]を立て、その中に外見より細い排気管を通す事例が多く見られる)。
その後の第一次世界大戦初期には、機関室の密閉が容易でガソリン機関よりも大型化に適し、航続距離を伸ばせることから、当時急速に実用水準に達した[[潜水艦]]の主動力に導入された。第一次大戦後の1920年代以後は通常の軍艦・商船にも本格的普及が始まったが、舶用動力の主流となるには時間がかかった。1950年頃までの船舶用大型ディーゼルエンジンにはある程度の高品質な重油が必要であり、また単体では蒸気タービンに比肩する大出力化が進展せず、大出力・高速の確保には複数エンジンを連動させて出力合成する複雑化を強いられた(例として1934年から1936年までに就役したドイツの「ポケット戦艦」こと[[ドイッチュラント級装甲艦]]は12,000トン級ディーゼル艦で2軸のスクリューを備えていたが、49,000{{nbsp}}hp級の出力確保のためディーゼル機関8基を搭載、4基ごとにスクリュー1軸を駆動した)。このため、特に大型船舶の動力としては、石炭や粗悪重油でも使用可能な蒸気ボイラーで作動し、なおかつ大出力化の容易な蒸気タービンを駆逐するまでには至らなかった。
1920年代、舶用大型ディーゼル機関の分野では、4ストローク式と2ストローク式、通常構造の燃焼室を持つ単動式と、ピストン下部とクランク室との間のクロスヘッド部に別途燃焼室を持つ複動式がそれぞれ並行して市場に投入され、出力増大を図っていた。この過程で燃料噴射は圧縮空気式から、より小型のエンジン同様の無気噴射式へと進化した。
1930年代初頭以降、舶用大型ディーゼル機関の国際市場を技術的にリードしていたB&W、スルザー、MANの3社は、燃焼頻度を多くでき高出力化に適する、クロスヘッド付の2ストローク複動式へ傾倒するようになるが、この方式は複雑性と熱負荷の面で課題を抱えていた。このため、第二次世界大戦後にはクロスヘッドと2ストローク方式は維持されたが、複雑な複動式燃焼室が衰退し、単動式が主流となった。この時期、[[大日本帝國海軍]]においては[[艦政本部]]が各種船舶用ディーゼルエンジンの開発を主導し、潜水艦においては当初は水上速力を重視する目的で2ストロークディーゼル機関が多用された。戦前の伊号潜水艦は複動化された2ストロークディーゼル機関で水上20ノットを超える高速力を誇っていたが、第二次世界大戦が始まると急速に4ストローク単動式へと移行し、水上速力も10ノット中盤と急速に低下した。2ストローク複動ディーゼル機関は大出力が可能ではあるが、騒音が大きく、排気圧力が低いため排気管が水中に没している潜水中はシリンダーが浸水する危険性が高く、主機のディーゼルエンジンの駆動が行えなかった。これはすなわち[[シュノーケル (潜水艦)|シュノーケル]]を用いた主機関での水中連続航行に不向きで、水中での移動は事実上、[[電動機]]のみに頼らざるを得ないことを意味していた。そのため、大幅な性能低下は覚悟の上で4ストロークへの移行が行われたのである。4ストロークへの移行により出力は低下したが、騒音は抑えられ[[燃費]]も大幅に向上、第二次世界大戦末期の[[伊四百型潜水艦]]では水上航続距離が37,500海里(約7万キロ、[[世界一周]]の約1.5倍)にも達するものとなった<ref>[http://www.warbirds.jp/truth/ijn-sub.html 帝国海軍潜水艦伝習所 - Warbirds]</ref>。
1940年代後期、液体燃料としては最も廉価だが低質な残渣油を低速ディーゼルエンジンで用いる試みが進められ、在来ディーゼル機関での高品質燃料への混合試用のほか、事前加熱濾過装置による流動性改善、ロングストローク化を徹底したクロスヘッド式単動型構造によるシリンダー壁潤滑の保護で、残渣油のみを燃料とできるエンジンが実用化されるようになった。
蒸気タービンを代替するためのディーゼル機関大出力化過程で、低速ディーゼル機関の特性を生かした[[ターボチャージャー|排気タービンによる静圧過給]]が1950年代前半から実用化された。その最初は1952年にB&Wがタンカー「ドルテ・マースク」(10,630{{nbsp}}[[総登録トン数|GRT]])用に製作した6,500{{nbsp}}HP機関である。競合各社も1953–55年までに静圧過給方式導入に進んだ。以後、舶用ディーゼルの大型化・大出力化と高効率化が進行し、舶用機関としての経済優位性は圧倒的なものとなった。ただし1970年頃までは、国際的な石油需要増大に応じて超大型化が進むタンカーの巨大動力に蒸気タービン機関しか用意できなかったため、ディーゼル機関の出力ベースのシェアが一時低下した時期もあった。しかし1973年の石油危機が到来すると、運行コストの低減が至上命令となり、タンカーでも際限なく大型化する機運は失われた。ほぼ全ての商船は30万トン以下で十分とされ、ほとんどディーゼル動力化された。
第二次大戦後の石油精製技術の向上に伴い、原油からは従来より多くの高品質成分を取り出すことができるようになった反面、高度な精製後に残る残渣油の品質は年々低下し、残渣油由来のC重油に含まれる硫黄等の有害不純物の含有量は高くなっていった。この燃料粗悪化進行にも大型舶用ディーゼル機関は時代ごとの技術改良で耐えてきたが、1990年代以降、残渣油由来燃料に起因する[[硫黄酸化物]]や、燃焼過程で生成が避けられない[[窒素酸化物]]や[[粒子状物質]]などが入り混じる、船舶からの排気ガスによる地球環境汚染が取り沙汰されるようになり、新たな課題となっている。
=== 鉄道 ===
{{main|ディーゼル機関車|気動車}}
=== 自動車 ===
{{main|ディーゼル自動車}}
[[画像:R10 Engine.jpg|thumb|220px|レーシングカー[[アウディ・R10 TDI]]に搭載された5.5{{nbsp}}[[リットル|L]] [[V型12気筒]]ディーゼルエンジン]]
世界中で大型の自動車([[貨物自動車|トラック]]および[[バス (交通機関)|バス]]、[[特装車]]・[[特種用途自動車|特種車]])や[[建設機械]]に用いられている。さらに日本においては税制によりディーゼル燃料である軽油がガソリンよりも安価なため{{Refnest|group="注釈"|[[軽油引取税]]が[[揮発油税]]よりも税率が低く、その結果として燃料そのものの価格は高額である軽油のほうが小売価格ではガソリンよりも1割強ほど安価になる。こうした軽油優遇税制は先進国に限ると日本のみ<ref>{{Cite web|和書|url=https://motor-fan.jp/mf/article/64541/ |title=ガソリンが高い! 世界のガソリン価格はもっと高い! いくらか 日米中、欧州各国比較 |website=モーターファン |access-date=2023-03-26}}</ref>。}}経済性を優先する商用車はディーゼル比率が高い。
乗用車用のディーゼルは国によって人気の差が激しく、[[ヨーロッパ|欧州]]では、小型の乗用車でも新車販売台数の約43{{nbsp}}%がディーゼル車(2006年)で、一時は50{{nbsp}}%を超えた。一方で[[アメリカ合衆国|米国]]では、乗用車市場におけるディーゼル車のシェアはわずか0.5{{nbsp}}%(2005年)しかなく、日本でも[[マツダ]]を除き人気は無い。
2000年ごろには9–16リットル級の中型エンジンでは直列6気筒とインタークーラー・ターボ過給が採用されて500{{nbsp}}[[仏馬力|PS]]程度の出力であり、16–30{{nbsp}}Lの大型では自然吸気V形8気筒以上の配列が採用されていた。高速定速走行の頻度が高い[[高速バス]]や輸送用トラックには中型[[ターボチャージャー]]が適し、滑りやすい道(いわゆる低μ路)や走行抵抗の大きい悪路での微・低速走行の機会の多いダンプトラックには、レスポンスに優れ扱いやすい大型の[[V型8気筒]][[自然吸気|ノンターボ]]エンジンが好まれてきたからである。
しかし、次第に厳しくなる排ガス規制の前に、各社とも2010年までに排気量を11–13リットル程度まで落とし、排気ガスの後処理装置と親和性が高い[[直列6気筒]]エンジンに生産を絞り込んだため、排気量の大きなV型自然吸気ディーゼルは姿を消した。自動車用4ストロークエンジンでは過給機による高圧化が進み、すでに筒内最高圧力 (Pmax) の上昇限界のために圧縮比は低下傾向にある。
排気量2–5リットル程度の小型ディーゼルエンジンの多くは乗用車用なので、静粛性や排ガス対策を中大型エンジンよりも強く求められ、コモンレールによる直接噴射式となっている。
欧州に比べ日本では、CO<sub>2</sub>の削減メリットよりNO<sub>x</sub>やPMに対する法規制が優先されたため、2000年頃から小型ディーゼルエンジン搭載の乗用車は減少した<ref name="ディーゼル自動車がよくわかる本"/>。しかしポスト新長期規制と呼ばれる厳しい基準群に対応するクリーンディーゼル乗用車が2010年以降に発売され、再び徐々に増加していたが、[[フォルクスワーゲン#排出ガス規制不正問題|フォルクスワーゲンの排出ガス規制不正問題]]発覚以降ディーゼル乗用車は(特に欧州の)規制当局やメーカー、何よりユーザーの三方から見放されつつある。
装軌車両においては、単なる過給機との組み合わせでなく、タービン機関との複合機関([[ターボコンパウンド]]機関)とされる例([[ルクレール]])がある。
競技の世界では、低速のトルクの豊かさから、[[ラリーレイド]]で重宝される。サーキットレースでは1990〜2010年代頃の市販車市場のクリーンディーゼルの流行に合わせて多数投入され、世界選手権や国際レースを制覇することもあったが、現在ではブームは去っている。
===オートバイ===
{{main|ディーゼルオートバイ}}
[[インド]]では古くからディーゼル二輪車が生産、販売されていた(例:[[SUBARU|富士重工業(現・SUBARU)]]製の[[汎用エンジン|汎用型小型空冷単気筒ディーゼルエンジン]]を搭載した[[エンフィールド=ロビン・D-R400D]])。
近年、[[イギリス陸軍]]が[[川崎重工業|カワサキ]]製[[オフロードバイク]]にディーゼルエンジンを搭載し運用開始した。これにより陸軍車両燃料の軽油への統一化を完了した。同様の車輛が、HDT M1030-M2 JP8(680{{nbsp}}[[立方センチメートル|cc]])として市販されている。
=== ATV/UTV ===
[[file:Kawasaki Mule 006.JPG|200px|thumb|2002〜2008年生産のカワサキ・ミュール3010。953cc [[4ストローク]][[OHV]][[水冷]][[直列3気筒]][[自然吸気]]ディーゼルエンジンを搭載した。]]
公道を走らない、オートバイから派生したオフロード車のATV([[全地形対応車]])/やUTV(サイド・バイ・サイド)でもディーゼルエンジンが用いられることがある。
特に業務用(ユーティリティ型)のATV/UTVにおいては、低燃費による原価低減、急加速を必要としない、騒音が問題視されないなどの観点からディーゼルエンジンが搭載されることがしばしある<ref>[https://corvus-utv.com/en/utv-diesel-engine-benefits Benefits of a diesel engine in a UTV]</ref>。
=== 航空機 ===
[[File:Packard diesel aircraft engine - Franklin Institute.jpg|thumb|right|[[パッカード]]製の星形9気筒]]
[[Image:DiamondDA-42TwinStarN131TSThielertEngineDetail.jpg|thumb|right|Diamond DA42に搭載されたCenturion 1.7]]
[[File:Paris Air Show 2017 mecachrome AE440 front.jpg|thumb|right|[[パリ航空ショー]]に展示されるHIPE-AE440(2017年)]]
[[飛行船]]においては[[1920年代]]から[[1930年代]]に開発された[[LZ 129 (飛行船)|LZ129ヒンデンブルク]]や[[LZ 130 (飛行船)|LZ130]]は、逆回転可能なディーゼルエンジン([[ダイムラー・ベンツ DB 602]])により、[[プロペラ]]を駆動していた。カムシャフト上のギアを変えることにより回転方向を変えることができる。全出力からエンジン停止、逆回転させて全出力までの時間は60秒以下であった。これはまさに船舶用エンジンと同じ機能である。
[[1929年]]に完成した[[R101 (飛行船)|R101]]飛行船には直列8気筒のビアドモア製トルネードエンジンが5基搭載された。鉄道用の4気筒エンジンを2つ組み合わせて高出力、軽量化したものであった。気温の高くなるインド航路での利用が多く見込まれたため、[[引火点]]の低いガソリンでの[[火災]]事故の懸念からディーゼルが選択された。飛行船は[[固定翼]][[航空機]]と異なり、連続運転を要求されず、中速クラスの可逆回転ディーゼル機関を流用できたが、[[1930年代]]末期の硬式飛行船そのものの衰退で、それ以上の発展を見なかった。
[[固定翼機]]において、最初にディーゼルエンジンが試されたのは1920年代から1930年代にかけてであり、[[1928年]]9月18日に[[パッカード]]製の星形ディーゼルエンジンを搭載した[[スチンソン]][[:en:Stinson Detroiter|デトロイター]](機体番号X7654)が初飛行に成功している<ref>[[:en:Aircraft diesel engine|Stinson model SM-IDX "Detroiter," registration number X7654]]</ref>。パッカードのエンジンを搭載した機体は発生する黒煙対策として機体色を黒にしていたが、臭いや黒煙が不評だった。
代表的なものとしてはパッカードの[[空冷エンジン|空冷]][[星型エンジン]](黒煙排出や[[強度]]面の[[欠陥]]により早期に[[市場]]から淘汰された)や、[[2ストローク機関#対向ピストン式|対向ピストン式]]の[[ユンカース ユモ 205|ユモ205]]などがある。[[ソビエト連邦|ソ連]]では[[第二次世界大戦]]中チャロムスキー Ach-30ディーゼルエンジンが[[Yer-2 (航空機)|イェモラーエフ Yer-2]]や[[Pe-8 (航空機)|ペトリャコフ Pe-8]]などの[[爆撃機]]に搭載された。
[[フランス]]では[[ダッソー|ブロック(Bloch)]]が[[MB.200 (航空機)|MB.203]]爆撃機に[[:en:Clerget aircraft engines|クレルジェ(英語版)]]製の星型ディーゼルエンジンを搭載した。[[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント]]では[[1932年]]に[[:en:Rolls-Royce Condor#Compression ignition (diesel) variant|ロールスロイス・コンドル(英語版)エンジン]]を圧縮着火式エンジンに改造して、[[:en:Hawker Horsley|ホーカー・ホーズリー爆撃機(英語版)]]に搭載してテストした。
このように多くのメーカーがエンジン開発を試みたが、ディーゼルエンジンは耐久性と燃費は良好だがスロットルの反応が鈍い、酷い排煙と振動などの理由により、主流とはなり得なかった。
大戦後のユニークな提案としては複雑な[[ターボコンパウンド]]機関の燃焼にディーゼルを利用する[[ネイピア ノーマッド]]があるが、これも実用化には至らなかった。また[[アリソン 250]]などディーゼル燃料対応を謳ったターボプロップエンジンも存在するが、出力が落ちるため積極的に使われることはなく緊急用としている。
航空機用ガソリンエンジンの進化が頭打ちになり、さらに2度のオイルショックに加えて環境に悪影響を及ぼす[[有鉛ガソリン|有鉛]]の航空用ガソリンへの規制が強まったことから、従来の航空機用レシプロエンジンの燃料の価格が高止まりした。そのためヨーロッパでは[[1980年代]]以降、ジェット燃料も利用可能かつ低出力ではタービンエンジンよりも燃費に優れる、小型[[プロペラ機]]向け低燃費ディーゼルへの関心が復活した。1980年にNASAの[[グレン研究センター]]では[[コンチネンタル・モータース]]と共同で3気筒と6気筒の星形ディーゼルエンジンを発表するなどしている。大きく、重く、振動が大きいという欠点を改善するため、「エアロディーゼル」と呼ばれる軽量化されたエンジンの開発が試みられている。一例としてイギリスのDair<ref>[http://www.dair.co.uk/ Dair]</ref> の2ストロークディーゼルが挙げられる。これは重たいシリンダヘッドを使わず2つの[[対向ピストン機関|対向ピストン]]で一つの[[燃焼室]]を形成する[[対向ピストン機関|対向ピストン式]]エンジンの現代版である。しかし、-5 [[セルシウス度|℃]] 以下での始動が保証されない、着火と燃焼が安定しないので高空で使えない、など、この形式の性能や信頼性は決して高くない。ディーゼルの適用は低空で使用する飛行船・[[軽飛行機]]・ヘリコプターに限られており、発展性は少ない。
[[2001年]]ドイツのThielert(後に[[:en:Technify Motors|Technify Motors]])が、ディーゼルエンジンでは第二次世界大戦後初めてJAA([[:en:Joint Aviation Authorities|合同航空当局〈英語版〉]])による認証を取得した<ref>http://www.flightglobal.com/news/articles/thielert-gains-diesel-engine-certification-131821/</ref><ref>http://www.dglr.de/literatur/publikationen/kolbentriebwerke/TAE_AERO2003.pdf</ref>。2002年に認証を取得したCenturion 1.7(TAE 125)エンジンとその後のCenturion2.0エンジンはそれぞれ[[メルセデス・ベンツ・Aクラス]]に搭載されたOM668、OM640エンジンをベースにしており、[[ダイヤモンド・エアクラフト・インダストリーズ]]の[[:en:Diamond DA40|DA40(英語版)]]や[[:en:Diamond DA42|DA42(英語版)]]などの小型機に採用された。[[2010年]]までに合計3000基以上が生産されている。会社は[[2008年]]に[[倒産]]した後[[破産管財人|管財人]]の元で再建が行われ、[[2013年]]に[[中国航空工業集団公司|中国航空工業集団公司(AVIC)]]傘下の[[コンチネンタル・モータース]]に買収された。
2010年には[[EADS]]によって制御されるディーゼル[[ハイブリッド]]ヘリコプターのコンセプトが発表された<ref>[http://www.flightglobal.com/news/articles/ila-eads-unveils-hybrid-eco-helicopter-concept-342861/ ILA: EADS unveils hybrid eco-helicopter concept - 6/7/2010 - Flight Global] 2015年5月5日閲覧</ref>。EcoMotors社の対向ピストンエンジンが採用されている。
2015年からNASAによって電動の[[VTOL]]機や[[無人機|ドローン]]を[[ディーゼル・エレクトリック方式]]とすることで、航続時間を延ばす研究もおこなわれている<ref>[http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/20140001088.pdf one of four concepts]</ref><ref>[http://www.extremetech.com/extreme/188338-nasas-electric-vertical-takeoff-airplane-takes-first-flight-aims-to-eventually-replace-the-helicopter NASA’s electric vertical-takeoff airplane takes first flight, aims to eventually replace the helicopter | ExtremeTech] 2015年5月5日閲覧</ref>。
2015年11月6日には[[エアバス・ヘリコプターズ]]がHIPE-AE440([[V型8気筒]]4.6リットル直噴[[ターボチャージャー|ターボ]])を搭載した試験機[[ユーロコプター EC 120|H120]]の飛行に成功した<ref name="H120">[https://www.airbushelicopters.com/website/en/press/Airbus-Helicopters-starts-flight-tests-with-high-compression-engine-for-cleaner,-more-efficient-and-higher-performance-rotorcraft_1859.html Airbus Helicopters starts flight tests with high-compression engine for cleaner, more efficient and higher-performance rotorcraft]</ref>。European Clean Sky initiativeの一環として開発された。これにより、ヘリコプターで主流のターボシャフトエンジンである[[チュルボメカ アリウス]]を搭載した同型機よりも燃料の消費が30{{nbsp}}%低減され、航続距離が2倍近くになり、高温高地での運用性が向上するとされる<ref name="H120" />。
現代の航空法ではエンジンについて[[ピストンエンジン|ピストン]]と[[タービンエンジン|タービン]]に分けているが、ガソリンとディーゼルどちらを使用するかについては言及しておらず、ディーゼルエンジン搭載機もピストンの資格で操縦・整備できる。特に日本では[[ガソリン#航空用ガソリン|航空用ガソリン]]が給油できる飛行場が減少し価格が上昇していることから<ref>[https://alphaaviation.aero/ja/kiji/2483 セスナ172P | Alpha Aviation]</ref>、より安価で給油できる場所が多い[[ジェット燃料|JET-A1]]に対応したディーゼルエンジンに交換する事業者もある<ref>[https://alphaaviation.aero/ja/kiji/3562 セスナ172型ディーゼル・エンジン搭載機耐空検査に合格 | Alpha Aviation]</ref>。コンチネンタル・モータースでは換装用としてJET-A1対応のエンジンと交換用キットのセット販売も行っている。またセスナでは[[セスナ 172|172]]にディーゼルエンジンを搭載したモデルを販売している<ref>{{Cite web|和書|title=ジャプコン、日本初セスナ・ターボ・スカイホークJT-A 5機を海上保安庁に納入|新着情報|株式会社ジャプコン - JAPCON|url=https://www.japcon.co.jp/news/detail/49|website=株式会社ジャプコン - JAPCON|accessdate=2021-07-30}}</ref>。
=== 杭打機 ===
大型構造物や建築物の基礎杭を打設する[[杭打ち機]]の一つとしてディーゼルハンマがあった<ref>ディーゼルハンマ『新版 2級土木施工管理技士 受験用図解テキスト5 用語集』p104 土木施工管理技士テキスト編集委員会編 1987年</ref>。自らの振動と自重で[[鋼管杭]]やコンクリート杭を打ち込むもの([[打撃工法]])で、機械の移動が容易で効率も良いメリットがあったが、騒音や排気ガスの問題から日本国内では使用されなくなった。
== 環境への影響と対策 ==
ガソリンエンジンより熱効率の高いディーゼルエンジンは、CO<sub>2</sub>の発生量では環境への負荷が少なくて済む。しかしPMやNO<sub>x</sub>の発生量はガソリンエンジンより大量で問題を含んでいる<ref name="ディーゼル自動車がよくわかる本">杉本和俊著 『ディーゼル自動車がよくわかる本』 山海堂 2006年7月24日初版第1刷発行 ISBN 4381077709</ref>。
気体だけを燃やす予混合燃焼と異なり、燃料を液滴のまま燃やす噴霧燃焼の原理上、液滴の燃え残りとして、[[粒子状物質|PM]]や[[黒煙]]を発生しやすいことが欠点である。またディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりも高温高圧で、余分に空気を取り込む内燃機関なので、[[窒素酸化物|窒素酸化物 (NO<sub>x</sub>)]]の生成量も多くなってしまう。
ディーゼル機関の低負荷時の空燃比は30:1から60:1もの希薄に見えるが、均一予混合燃焼ではないので、低温燃焼によるNOx低下は無い。むしろディーゼル機関は液滴付近の空気だけを消費する不均一な拡散燃焼のため、燃焼温度が高いまま多量の余剰空気を加熱し、行程あたり高負荷時よりも大量のNOxを生成する。
ディーゼル機関は排気も酸素過多となるので、ガソリン機関で多用されている排気浄化用の[[三元触媒]]を使えない。三元触媒は[[理論空燃比]]で運転する場合に炭化水素 (HC)・窒素酸化物 (NOx)・一酸化炭素 (CO) を同時に浄化できる。
=== 排気ガスの発がん性 ===
ディーゼルエンジンの排気ガスの発がん性について、[[WHO]]の下部機関である[[国際がん研究機関]](IARC)は長らく「グループ2Aの発がん性」=「人に対する発がん性がおそらく(probably)ある」としてきたが、2012年6月、[[アメリカ国立がん研究所]]/国立労働安全衛生研究所の大規模疫学調査から、「グループ1」=「人に対する発がん性がある」と格上げした<ref>{{Cite web |date=2012-06-12 |url=http://www.iarc.fr/en/media-centre/pr/2012/pdfs/pr213_E.pdf |format=PDF |title=IARC: DIESEL ENGINE EXHAUST CARCINOGENIC |publisher=the International
Agency for Research on Cancer |accessdate=2015-10-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2012-07-23 |url=https://www.jisha.or.jp/international/topics/201207_02.html |title=IARC:ディーゼルエンジン排ガスの発がん性 |publisher=中央労働災害防止協会 |accessdate=2015-10-06}}</ref>。
=== 硫黄とSO<sub>x</sub> ===
ディーゼル燃料に[[硫黄]]が残留していると排気に有害な[[硫黄酸化物]] (SO<sub>x</sub>) が含まれる。また硫黄は酸化力が大きいので排気浄化用の酸化触媒や還元触媒とも先に反応して無効にしてしまう。そのため自動車用エンジンへの対応はもっぱら燃料の[[脱硫]]に頼っている。従来、[[ヨーロッパ|欧州]]の軽油が低硫黄分の[[北海油田|北海]]産原油から作られるのに対し、日本の軽油は高硫黄分の[[中東]]産原油から作られるため低硫黄化が難しいと言われていた。しかし日本の脱硫に関しても2004年末、[[自動車排出ガス規制]]に関連する「自動車燃料品質規制値」の変更が行われ、軽油に含まれる硫黄の許容限界は、従来の0.01{{nbsp}}%質量以下から0.005{{nbsp}}%質量以下へと改められ、欧州と同じ時期に同じレベルに低減している<ref>{{PDFlink|[https://www.env.go.jp/air/car/nenryou/kisei.pdf]}}</ref>。硫黄分には燃料ポンプに対して潤滑作用があるため、脱硫後の燃料油には燃料ポンプ保護のため潤滑剤が添加される。
大型舶用エンジンには3{{nbsp}}%ほどの硫黄分の多い粗悪な燃料が使われるため海水スクラバー装置(排ガス中に含まれるSOxを海水に吸収させる排煙脱硫装置)などの後処理で排気からSO<sub>x</sub>を除去しようとしている。湿式スクラバーの後段でNO<sub>x</sub>低減触媒も使えるようになるが、排気温度が低下しすぎているので難しい。2012年現在、欧州で排気温を下げすぎない乾式スクラバーと[[#SCR]]の組み合わせが開発中である<ref name="欧州における極低排出で効率的な舶用エンジンに関する開発動向調査">欧州における極低排出で効率的な舶用エンジンに関する開発動向調査 2012年3月 社団法人 日本舶用工業会 財団法人 日本船舶技術研究協会</ref>。
=== NO<sub>x</sub>と黒煙 ===
排ガス中のNO<sub>x</sub>と黒煙とは、二律背反の関係にあり、しかも自動車の走行条件は、どちらの状態もあるので2000年代のPM、NO<sub>x</sub>対策では2つの後処理装置が必要になる。
高圧噴射で少量の燃料を完全燃焼させ黒煙の発生を防ごうとしても、高温高圧下の窒素と酸素(空気)により、NO<sub>x</sub>が生成されてしまう。このため、低負荷時にはEGRを増やし燃焼温度を下げてNO<sub>x</sub>を低下させる。
EGRを増やすと完全燃焼しにくくなり黒煙が増えるため、高負荷時にEGRは使えない。またEGRをなくしても高温高圧下で燃料噴射量が増えると、不均一な燃料が早期に発火して、PMが発生する。1990年代にコモンレール方式で多段噴射が使えるようになると、欧州自動車メーカーは発生したPMを多段噴射による後燃焼で完全燃焼しようとした。しかしNOxには無効だった。結局、PM対策とNO<sub>x</sub>対策のために、別々の後処理装置が使われた。
2012年に発売されたマツダ[[SKYACTIV-D]]の低圧縮比ディーゼルによって初めて高負荷時のNO<sub>x</sub>が低減され、NO<sub>x</sub>の後処理装置が不用になった。
大型舶用エンジンには硫黄分の多いC重油が使われるため、NO<sub>x</sub>浄化触媒は容易に使えない。また粗悪な重油を着火するため圧縮比も低下できない。派生型の内燃発電では水添加燃焼により燃焼温度を下げてNO<sub>x</sub>を低減している。水の気化熱で燃焼ガス温度は低下し、水蒸気は作用気体となる。熱効率は2–3{{nbsp}}%低下するだけでNO<sub>x</sub>を50{{nbsp}}%低下する。さらに多層水添加という高度な技を使えば熱効率を維持して60{{nbsp}}%のNO<sub>x</sub>低減が可能とされる<ref>三菱UE大形2サイクルディーゼル機関新シリーズの開発 三菱重工技報 Vol.38 No.4 (2001-7)</ref>。
=== 関連する法規制 ===
日米欧の各地では、ディーゼル自動車に対する環境規制が行われている。
{{main|ディーゼル自動車}}
国際海事機関(IMO)は海洋汚染防止条約付属書VI(MARPOL73/78 ANNEX VI)を1997年に採択し、批准国が定数に達すると発効するという手順で、2000年からSO<sub>x</sub>の規制を発効し始め、定期的に規制を強化する方針である。NO<sub>x</sub>については全海域に適用される2005年に発効した第一次規制、2011年に発効した第二次規制に続き、2016年にはECA(排出規制海域)だけに極端に厳しい第三次規制が掛けられる予定である<ref name="欧州における極低排出で効率的な舶用エンジンに関する開発動向調査"/>。
=== 排気ガス処理 ===
[[排気ガス処理]]技術は、できるだけ低温・低圧で燃焼させることでNO<sub>x</sub>の発生を少なく抑え、酸化触媒やDPFによりPM、CO、HCを処理する方法と、できるだけ高温で完全燃焼させることでCO、HCの生成を抑え、その結果増加するNO<sub>x</sub>を窒素に[[還元]]するNO<sub>x</sub>還元触媒の2つを併用する方法が主流。
NO<sub>x</sub>還元触媒に従来型の三元触媒から派生したものと、SCRと呼ばれるものの2つがある。また常時同じようにNO<sub>x</sub>を浄化する「尿素SCRシステム」と、リーン燃焼中にNO<sub>x</sub>を吸蔵し、リッチ燃焼以降に浄化作用を進める「吸蔵触媒」の2つがあり、それぞれ組み合わせられる。
そのほか、燃料の改質によりNO<sub>x</sub>を減らす構想があり、[[ジメチルエーテル]]混入、水[[エマルジョン]]燃料などの研究が舶用エンジンの分野を中心に進んでいるが、供給体制の整備や、使用者が補給を怠った場合の対策などの問題があり、実用化は進んでいない。
なお、NO<sub>x</sub>とPMの排出量は前述の通り二律背反であり、基本的に燃焼のセッティングによって多く排出される物質の処理に適した処理装置を搭載する方式が基本なのだが、使用状況などによってはメーカーの意図した通りの作用をしなくなってしまうこともある(たとえば、尿素SCRシステムを採用した車両において、何らかの理由で燃焼が低温もしくは低圧になってしまい黒煙を多く排出することがある。逆に、DPFを装備した車種において、メーカーの想定以上の低温・低圧などによりPMがDPFの処理能力以上に排出され燃料が原因ではないフィルターの目詰まりを引き起こすことがある)。また、後述のようにDPFの強制再生は燃料の消費が多く(=燃費が悪い)、尿素SCRシステムでも構造上燃費の悪化は無視できるほどに小さくとも一方で尿素水の消費量はそのシステムを搭載することの多いトラック・バスにおいては莫大なものとなる。これらの事態を軽減するために2010年代に入りDPFと尿素SCRシステムを併用した浄化システムが普及しはじめた(例:[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]グループが採用するBlueTec等)。併用する場合燃焼のセッティングを低温低圧または高温高圧の一方に振る必要がなく、またそれによりPMの発生量がDPFのみの車種のものより減ることで強制再生の機会が減り燃費が改善される。一方NO<sub>x</sub>の発生量も尿素SCRシステムのみの車種の場合よりは少ないため尿素水の消費も抑えることができる。
==== EGR ====
排ガスの一部を吸気系へ導入する[[排気再循環]](Exhaust Gas Recirculation, '''EGR''')によって、吸気中の酸素量を減らしてピークの燃焼温度を下げ、NO<sub>x</sub>の発生を抑制する。ディーゼルエンジンにはスロットルバルブはないため、低負荷時に極端な空気過多の希薄燃焼になるところにEGRを導入し、NO<sub>x</sub>低下に利用する。乗用車の場合は高負荷時にEGRは行われないが、トラックなどは高負荷時にもEGRを利用しているケースがある。また、EGRには燃焼時の騒音を低下させるメリットもある(酸素濃度を低減でき、急激な燃焼を抑えることができる)。
==== 微粒子除去装置 ====
ディーゼル排気に含まれる[[粒子状物質]] ( Particulate matter, '''PM''')は、多くの場合「[[ディーゼル微粒子捕集フィルター|DPF]]」(Diesel Particulate Filter、ディーゼル微粒子フィルター)と呼ばれるセラミック製のフィルターで捕らえて燃焼処分されるようになっている。
DPFは排気管の途中に挿入され、内部に詰められた多孔質セラミックの微細な間隙に排気を通過させスス状のPMを捕集する。
多孔質の表面には[[白金]]などの金属[[触媒]]が塗布してあり、300{{nbsp}}℃以上の雰囲気中でPMが触媒によって排気と化学反応を起こし、H<sub>2</sub>OとCO<sub>2</sub>の無害な気体に酸化され排出される。
エンジンからの排気温度が低い状態が続く場合には、「強制再生」といって、手動で燃料過多の排気を作り出し、定期的に高温状態を作り出してDPFに溜まったPMを無害化して取り除く。
触媒の多くは硫黄に弱く、フィルターの目詰まりの原因となるため、低硫黄化された軽油以外([[不正軽油]]など)の使用はできないが、フィルターにセラミックを使わず、金網と炭化珪素繊維を用いた製品もあり、こちらは低硫黄軽油以外も使用可能である。
==== SCR ====
{{main|尿素SCRシステム}}
SCR(Selective Catalytic Reduction, 選択的触媒反応)とは選択的な触媒による還元作用のことで、排ガス対策の場合はNO<sub>x</sub>だけを選択して還元剤の[[アンモニア]]と反応させ窒素と水に還元する浄化触媒作用である。アンモニア還元剤を用いるため従来のNO<sub>x</sub>還元触媒よりも高性能である。アンモニアを得る方法で2つに分かれる。
;尿素SCRシステム
:あらかじめ高純度の[[尿素]]を精製水に溶かし込んだ尿素水を独立したタンクに積載しておき、走行中にNOx還元触媒の手前に尿素水を噴霧し、高温の排気中で加水分解反応によりアンモニアを得る。幅広い排ガス温度領域でNO<sub>x</sub>還元性能が高い(実際のシステムでは、[[炭化水素|HC]]分低減のため排ガスはSCRに先立ち二次空気と酸化触媒とで燃焼させておき、またSCR処理後には残ったアンモニアを分解するための酸化触媒も必要である)。尿素水の補給とシステム全体の取り付け場所の確保できるトラック・バス等において実用化されている。
;NO<sub>x</sub>アンモニア吸蔵SCR
:SCRにNOx吸蔵層とアンモニア吸蔵層を付加した、新しいコンバインドタイプの[[NOx吸蔵還元触媒|NO<sub>x</sub>吸蔵還元触媒]]。まず、[[希薄燃焼|リーン燃焼]]中にNO<sub>x</sub>を吸蔵層に取り込んでおき、制御装置が適宜リッチ燃焼を開始する。リッチ燃焼中に白金触媒によりCOとH<sub>2</sub>OとNO<sub>x</sub>からアンモニアを生成し吸蔵する。次にリーン燃焼するときにSCRが働いて、新規のNO<sub>x</sub>を窒素と水に還元する。米国排ガス規制をクリアした[[本田技研工業|ホンダ]]の触媒に使われている。またベンツも尿素噴射を行わないSCRにNO<sub>x</sub>吸蔵機能を組み合わせている。日産も似た新型触媒を開発、2008年に国内販売する車両に搭載すると発表した(2009年4月時点で、[[日産・エクストレイル#クリーンディーゼルモデル|エクストレイル]]のみが日本国内で販売されている)。
==== NO<sub>x</sub>吸蔵還元触媒 ====
排ガス中のNO<sub>x</sub>をリーン燃焼時に取り込み、その後にリッチ燃焼で還元させる触媒のことである。NO<sub>x</sub>還元に上記のSCRを使わないもので、還元剤はHCとCOとH<sub>2</sub>になり、三元触媒にNO<sub>x</sub>吸蔵層を追加したものと言える。ガソリン直噴エンジンで使われてきたものであり、ディーゼルには一部で使われている。
乗用ディーゼルエンジン用としては、欧州仕様[[アベンシス]]で採用されているDPFと一体化しPMとNO<sub>x</sub>を同時に還元する[[トヨタ]]のDPNRがある。
NO<sub>x</sub>を還元するのに燃料分の多いリッチ燃焼が必要であり、軽油内の硫黄分が触媒の機能を奪うのが欠点である。
== 燃料 ==
ディーゼルエンジンの燃料は、発火点が225{{nbsp}}℃程度であれば多様なものが使用できるが、[[灯油]]・[[軽油]]・[[重油]]が使われる<ref group="注釈">ただし灯油・重油を燃料油にした自動車で公道を走ると軽油引取税の脱税行為となる。</ref>。ディーゼルエンジンに誤って[[ガソリン]]を給油すると、発火点が約300{{nbsp}}℃と高いため点火できずにエンジンは止まる。給油配管と噴射ポンプからガソリンを除くことで復旧できるが、潤滑性のないガソリンによって噴射ポンプを傷める可能性がある。
軽油に[[水素]]などを混合した二元燃料の利用も可能である<ref>{{Cite web|和書|title=ツネイシクラフト&ファシリティーズ 世界初となる水素燃料フェリーを竣工|url=https://www.tsuneishi-g.jp/news/press/2021/07/32477|website=常石グループポータルサイト|accessdate=2021-07-29|language=ja}}</ref>が、エンジンや配管の再設計が必要となる<ref>{{Cite web|和書|title=水素で船が動くんだって|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210727/k10013162781000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-07-29|last=日本放送協会}}</ref>。
一方で引火点については、軽油が約50{{nbsp}}℃であるのに対して、ガソリンのそれは約-40{{nbsp}}℃となるため、ガソリンを危険なものにしている。ガソリンは-40{{nbsp}}℃以上で火に近づけるだけで危険だが、50{{nbsp}}℃以下の軽油に火を近づけても、すぐに燃えるわけではない。それにも関わらず、火がない環境でこれら2つの温度を上げてゆくと、発火点の差から先に自ら火が着くのは軽油である。この軽油の発火点の低さと引火点の高さが、燃料の爆発を自己着火に頼るディーゼルエンジンでの使用を容易にしている。
航空機では、灯油に近い性質を持ち航空用ガソリンより安価な[[ジェット燃料]]が使える。これは現代の固定翼機ならびに回転翼機で主流の[[ターボジェットエンジン]]・[[ターボファンエンジン]]や[[ターボシャフトエンジン]]といった[[ガスタービンエンジン]]と燃料を共用できる点ではガソリンエンジンよりも有利であり、また低出力機ではディーゼルエンジンを含むレシプロエンジンの低燃費のメリットが大きくなる。[[ノッキング]]対策として使用される[[有鉛ガソリン]]は有毒で取り扱いが難しく、環境負荷も大きいため環境税の値上げなどで規制される傾向にある。そのため現代では地方の飛行場で燃料補給に支障をきたすことも少なくない。以上の理由などにより、無人機も含む軽飛行機や一部の小型ヘリコプターなどのように、タービンエンジンの強みである軽量高出力やディーゼルエンジンの弱点である低温環境や高高度での性能を必要としない機材については、軍民ともに複数の大きな利点がある。
車両においては、機材が大型になるほどガソリンエンジンよりもディーゼルエンジンが有利になりやすいという一般的特徴に加えて、燃料の引火点が高いことから被弾時の火災リスクが低いといった利点があり、とくに軍用では多く使われている。また、上述のように軍用航空機と燃料を共用しやすい点も、とくに補給ルートや設備の限られる戦場では大きな優位点となる。
=== 新たな燃料 ===
<!--各燃料に関する記述はそれぞれの記事に任せて本記事では言及しない方が良い。-->
==== 合成油 ====
エミッション(排気ガス)低減の足かせとなる鉱物油由来の天然[[燃料]]に代わり、次世代のディーゼル燃料として注目されているのが、<!--FT(Fischer Tropsch、[[フィッシャー・トロプシュ法|フィッシャー・トロプシュ]])合成油である-->[[GTL]](Gas To Liquid、ガス・トゥー・リキッド)、[[バイオ燃料|BTL]](Biomass To Liquid、バイオマス・トゥー・リキッド)、[[石炭液化|CTL]](Coal To Liquid、コール・トゥー・リキッド)等の合成油である。これらの燃料は、単体で、あるいは[[軽油]]に混合してディーゼルエンジンに使用することで、排ガスでは低公害化が期待できる。
GTL燃料の原料は[[天然ガス]]、CTL燃料は[[石炭]]であり、軽油に比べセタン価が高く、SO<sub>x</sub>の原因となる[[硫黄]]分やPMを発生させる[[ベンゼン]]・[[キシレン]]などの[[芳香族炭化水素]]をほとんど含まない。[[圧縮天然ガス|CNG]]や[[水素]]とは異なり常温でも液体のため、現在の燃料販売ルートになじみやすい。ただし、加工時のエネルギー分のCO<sub>2</sub>排出量がそのまま燃焼させるより増加するために、地球環境には優しくない<ref>石井彰著 『天然ガスが日本を救う』 日経BP社 2008年9月10日初版発行 ISBN 9784822247027</ref>。また、硫黄が含まれないことから、[[潤滑]]作用の点で軽油に劣るため、添加剤で対応する必要がある。
BTL燃料は、[[植物]]を原料とし液体燃料として合成したもので、GTL・CTL燃料と同様に硫黄や芳香族炭化水素を含まず、燃焼時に排出される[[二酸化炭素|CO<sub>2</sub>]]は植物が生長する際に吸収したCO<sub>2</sub>量{{efn|BTL燃料は、生産過程と消費過程でのCO<sub>2</sub>の量が等しいことから、[[カーボンニュートラル]]とみなされ、[[京都議定書]]の目標達成には非常に有効となる。葉や茎など、植物全体を原材料とした[[セルロース]]から作られるBTL燃料は、植物の種子から得られる[[デンプン]]を元にした[[油#植物性のもの|植物油]]燃料([[バイオディーゼル|BDF]]/バイオ ディーゼル フューエル、SVO/ストレート ヴェジタブル オイル)に比べ、植物の[[質量]]あたりのエネルギー量は2倍、同じ耕地面積から得られる収穫量は10倍以上と言われる。雑草などを原料にできるため、食物価格の高騰や、水不足の問題を解決する一助ともなる}}に等しくなる、などの特徴がある。
これらの合成油は、高[[セタン価]]燃料であるため、単体専用ディーゼルエンジンとしてなら圧縮比を13–15:1へと低圧縮比化でき、[[エネルギー効率]]を上げ低[[燃費]]化できるのも利点である。これらは、生産量が増加すれば価格も下がっていくと見られており、今後のディーゼル燃料の主流として期待されている<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.microenergy.co.jp/BTL/BTL0.htm | title = B.T.L 石油代替燃料の製造システム | author = マイクロ・エナジー | accessdate = 2010-04-22}}</ref>。
==== DME ====
{{main|ジメチルエーテル}}
[[ジメチルエーテル]]((DM) をディーゼル燃料として使うことも実用化されつつある。[[メタノール]]を[[脱水反応#分子間脱水|脱水縮合反応]]合成してエネルギー密度を上げる方法ではなく、[[合成ガス]]からの直接合成による低純度低価格な大量生産が確立しつつある。原料として天然ガス、石炭、植物など合成ガス化できるものなら良く、有酸素燃料でガス由来の合成油より合成エネルギー損失が少ないのが利点である。
DME燃料は軽油と同等の[[セタン価]]で、[[硫黄]]分や[[芳香族炭化水素]]を含まない。機械式燃料噴射では低圧で体積変化するため噴射量制御が難しかったが、コモンレールで高圧安定化されたことにより噴射量制御が正確になり、適した燃料となった。
また、重油とDMEを混合することで、排気ガスの浄化が望まれることも明らかになりつつある。A重油と混合した場合、NO<sub>x</sub>,CO<sub>x</sub>もボリュームパーセントでは低下する。
==== BDF ====
{{main|バイオディーゼル}}
[[植物油]]を[[エステル交換反応|エステル交換]](メタノリシス)して[[グリセリン]]を除去し[[脂肪酸]]メチルエステル([[FAME]])とした燃料(Bio Diesel Fuel;BDF)である。
==== BHD ====
[[油脂]]を[[水素化]]分解して作る[[バイオディーゼル|水素化処理油]](Bio Hydrofined Diesel; BHD)である。
==歴史==
[[1885年]]、イギリス人の発明家ハーバート・アクロイド・スチュアートが[[パラフィン]]を使ったエンジンの可能性について調査し始めた。これはガソリンと違いキャブレターで蒸発させるのが難しかった<ref name="aoi">{{cite web|title=The Akroyd Oil Engine|publisher=Ray Hooley's—Ruston-Hornsby—Engine Pages|url=http://www.oldengine.org/members/ruston/History6.htm|doi=|accessdate= 2007-07-29}}</ref>。彼の発明した[[焼玉エンジン]]は1891年にリチャード・ホーンスビー・アンド・サンズ社にて製造された。これは世界初の加圧式燃料噴射装置を使った内燃機関であった<ref name="rwallis">{{cite book | last = Ransome-Wallis | first = Patrick | authorlink = | coauthors = | title = Illustrated Encyclopedia of World Railway Locomotives | publisher = Courier Dover Publications | year = 2001 | location = | page = 28 | url = | doi = | id = | isbn = 0-486-41247-4}}</ref>。このホーンスビー・アクロイド式機関は比較的に低圧縮比で、圧縮加熱による燃料の着火には温度は不十分であった。現代的なディーゼルエンジンは直接噴射と圧縮着火を組み込んだものであり、この2つのアイディアはアクロイド・スチュアートとチャールズ・リチャード・ビニー(Charles Richard Binney)によって1890年5月に特許が取得されている<ref name="aoi"/>。1890年10月8日には、燃料と空気を分けてエンジンに供給する完全なエンジンの基本的な働きを詳しく述べたもうひとつの特許がとられた。アクロイドのエンジンと現代のディーゼルエンジンの違いは[[冷間始動]]時にシリンダーに特別に熱を供給する必要があるかどうかである。1892年、ディーゼルエンジンが発明される1年前にアクロイドスチュアートは追加の熱源を必要としない改良版を作り出した<ref>{{cite web|url=http://factbooks.blogspot.co.uk/2007/09/who-invented-diesel-engine_07.html|title=Who invented Diesel Engine?|accessdate=2012-12-17}}</ref>。
[[File:Diesel's Engine.jpg|thumb|right|ディーゼルの1897年のオリジナルエンジンが展示されているドイツ[[ミュンヘン]]、[[ドイツ博物館]]]]
1892年、アクロイド・スチュアートは圧縮比の向上を可能にするウォータージャケット気化器の特許を取得した。同年にトーマス・ヘンリー・バートンが実験的に気化器をなくし、シリンダーヘッドに置き換えた高圧縮比版を制作した。それ故、高い圧縮比を通して着火し、空気の予備加熱に頼らなくなった。<!--
それは6時間作動し、初の圧縮のみによる自動着火エンジンだった。{{citation needed|date=December 2008}} -->
[[ルドルフ・ディーゼル]]はアクロイドエンジンを発展させ、1892年にドイツ、スイス、イギリス、アメリカで特許を取得した{{efn|[[File:Fire piston.jpg|thumb|[[圧気発火器]]による発火実験の観察]]<br/>[[冷凍機]]の発明で著名であった[[カール・フォン・リンデ]]は、[[マレーシア]]の[[ペナン島]]での講演に招かれたときに土産として[[圧気発火器]]を譲り受け、ドイツへ帰国した{{sfn|関西大学博物館紀要|2003|p=86}}。1877年頃、リンデが[[ミュンヘン工科大学|ミュンヘン工業学校]]での帰朝講演で、この圧気発火器を実演して、葉巻に火をつけた{{sfn|ニーダム、東と西の学者と工匠(上)|1974|p=276}}{{sfn|関西大学博物館紀要|2003|p=86}}。ルドルフ・ディーゼルは、この講演を聴講していた{{sfn|ニーダム、東と西の学者と工匠(上)|1974|p=276}}。ディーゼルは「この体験は、高圧内燃機関を発明するのに、もっとも大きな刺激となったもののひとつだった」と回顧している{{sfn|ニーダム、東と西の学者と工匠(上)|1974|p=276}} }}。
1893年にアクロイドはエンジン開発をやめている。
===年表===
[[ファイル:Lumbar patent dieselengine.jpg|thumb|[[ルドルフ・ディーゼル]]の1893年の特許証書]]
*1892年: 2月23日、ルドルフ・ディーゼルが "Arbeitsverfahren und Ausführungsart für Verbrennungskraftmaschienen" と題した特許 (RP 67207) を取得。
*1893年: ディーゼルが「既知の蒸気機関と内燃機関を置換する合理的熱機関の理論と構築」と題する論文を発表。
*1897年: 8月10日、ディーゼルが[[アウクスブルク]]で初の実働するプロトタイプを製作。
*1898年: ディーゼルがロシアの石油会社 [[:en:Branobel|Branobel]] にディーゼルエンジンのライセンスを供与。同社は蒸留していない石油で動くエンジンに興味を持っていた。同社の技術者らは4年をかけて船用のディーゼルエンジンを設計。
*1898年: ディーゼルは製造業者[[クルップ]]と[[スルザー]]にディーゼルエンジンのライセンスを供与。両社はまもなく主なディーゼルエンジン製造業者となる。
*1902年: 1910年までに[[MAN (企業)|MAN]]が据え置き型ディーゼルエンジンを82機製造。
*1903年: [[ニジニ・ノヴゴロド]]の造船所で、世界初のディーゼルエンジン搭載石油タンカー "Vandal" が進水。
*1904年: フランスで世界初のディーゼル[[潜水艦]] Z を建造。
*1905年: Alfred Büchi がディーゼルエンジン用[[ターボチャージャー]]と[[インタークーラー]]を考案。
*1908年: [[:en:Prosper L'Orange|Prosper L'Orange]] が[[:en:Deutz AG|Deutz]]社と共に、ニードル型噴射ノズルで精密に制御可能な噴射ポンプを開発。
*1909年: Prosper L'Orange が[[ダイムラー・ベンツ|ベンツ&シー]]社と共に予燃焼室式の半球型燃焼室を開発。
*1910年: [[ノルウェー]]の探検船[[フラム号]]にディーゼルエンジンを搭載。商船ではシェランディアが最初となる。
*1912年: [[デンマーク]]初のディーゼル船シェランディア([[:en:Selandia|Selandia]]) 建造。世界初の[[ディーゼル機関車]]製作。
*1913年: [[アメリカ海軍]]の潜水艦がNELSECO社製のディーゼルエンジンを採用。郵便船ドレスデン号で[[イギリス海峡]]を渡っているとき、[[ルドルフ・ディーゼル]]が謎の死を遂げる。
*1914年: ドイツの[[Uボート]]がMAN社製ディーゼルエンジンを搭載。
*1919年: Prosper L'Orange 予燃焼室式の特許を取得し、ニードル噴射ノズルを製作。[[カミンズ]]がディーゼルエンジンを生産開始。
*1921年: Prosper L'Orange が連続可変出力式噴射ポンプを製作。
*1922年: ベンツがディーゼルエンジンを搭載した初の[[トラクター]]を発売。
*1923年: [[MAN (企業)|MAN]]、ベンツ、[[ダイムラー (自動車メーカー)|ライムラー]]が初のディーゼルエンジン搭載[[貨物自動車|トラック]]を製作し、試験を開始。
*1924年: [[フランクフルトモーターショー]]にディーゼルエンジン搭載トラックが出展される。[[フェアバンクス・モース]]がディーゼルエンジンを生産開始。
*1927年: [[ロバート・ボッシュ (企業)|ボッシュ]]が[[貨物自動車|トラック]]用噴射ポンプと噴射ノズルを生産開始。[[:en:Stoewer|Stoewer]]が初のディーゼルエンジン搭載乗用車を試作。
*1930年代: [[キャタピラー (企業)|キャタピラー]]社が自社製トラクター用にディーゼルエンジンの生産を開始。
*1932年: MAN社が160馬力という当時世界最高出力のディーゼルトラックを発売。
*1933年: [[シトロエン]]が世界初のディーゼルエンジン搭載[[乗用車]](Rosalie)を製作。イギリスのディーゼルエンジン研究者[[ハリー・リカルド]]の設計したエンジンを採用<ref>[http://www.oldengine.org/members/diesel/Misc/Ricardo.htm Sir Harry Ricardo]</ref>。ディーゼルエンジンの使用が規制されていたため、発売されなかった。一方、日本では[[ヤンマー]]が小型汎用高速ディーゼルエンジンの自社開発に成功(「HB型」ディーゼルエンジン)。
*1934年: [[マイバッハ]]が世界初の[[鉄道車両]]用[[ターボチャージャー|ターボ]]ディーゼルを製造。
*1934年-35年: ドイツの[[ユンカース]]が航空機用ディーゼルエンジン「ユモ(Jumo)」シリーズの生産を開始。有名な[[ユンカース ユモ 205|ユモ205]]は[[第二次世界大戦]]の勃発までに900台以上生産されている。
*1936年: [[メルセデス・ベンツ]]がディーゼル乗用車[[:en:Mercedes-Benz 260 D|260D]]を製作。[[ハノマーグ]]や[[:en:Saurer|Saurer]]も相次いでディーゼル乗用車を生産。[[アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道]]に[[スーパー・チーフ]]用のディーゼル機関車が採用される。建造中の飛行船[[LZ 129 (飛行船)|ヒンデンブルク]]でディーゼルエンジンを採用([[ダイムラー・ベンツ]]製エンジン 602LOF6)。
*1936年: [[ソビエト連邦]]が[[BT-7]][[戦車]]にVD-2ディーゼルエンジンを搭載して実験、後に改良型V-2エンジン搭載のBT-7Mとして量産され、1939年末より部隊配備開始。
*1937年: [[ソビエト連邦]]が開発中の[[戦車]]A-20及びA-32にV-2ディーゼルエンジンを搭載。1939年にA-32の拡大改良型A-34が、[[T-34]]として採用される。
*1937年: [[BMW]]が航空機用ディーゼルエンジン [[:en:BMW 114|BMW 114]] を試作。
*1940年: 航空機用ディーゼルエンジン・[[:en:Junkers Jumo 207|ユモ207A]]を搭載した[[Ju 86 (航空機)|Ju 86]]P高々度爆撃/偵察機が開発され、同年から実戦投入される。
*1944年: [[:en:Deutz AG|Klöckner Humboldt Deutz AG]](KHD)が[[空冷]]式ディーゼルエンジンを開発。
*1953年: メルセデス・ベンツが[[ターボチャージャー|ターボ]]ディーゼル搭載トラックをシリーズで発売。
*1968年: [[プジョー]]が[[プジョー・204|204]]に小型車としては初のディーゼルエンジンを採用。横置きで[[前輪駆動]]。
*1973年: [[DAF (自動車メーカー)|DAF]]が空冷式ディーゼルエンジンを採用。
*1976年: 2月、[[フォルクスワーゲン]]が乗用車[[フォルクスワーゲン・ゴルフ|ゴルフ]]用のディーゼルエンジンの試験を開始。[[チューリッヒ工科大学]]でコモンレール式噴射システムを開発。
*1977年: 初のターボディーゼル搭載乗用車の生産開始(メルセデス・ベンツ・300SD)。
*1994年: ボッシュがディーゼルエンジン用ユニットインジェクターシステムを開発。
*1995年: [[デンソー]]が[[コモンレールシステム]]を世界で初めて実用化し、[[日野自動車|日野]]ライジングレンジャーに搭載。
*1997年: [[アルファロメオ・156]]で乗用車初のコモンレールを実現。
*1998年: BMWがディーゼルエンジン搭載の320dで[[ニュルブルクリンク24時間レース]]に優勝。
*2004年: 西ヨーロッパで乗用車のディーゼルエンジン搭載率が50{{nbsp}}%を越えた。
*2008年: [[スバル]]が乗用車用の[[水平対向エンジン|水平対向]]ディーゼルエンジンを導入。[[排気再循環|EGR]]システムで「ユーロ5」にも適合。
== 製造者 ==
=== 日本のメーカー ===
2021年現在。△はエンジンを他社より供給を受けている
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; width:70%;"
|-
! メーカー !! 乗用車 !! 商用車 !! 船舶 !! 農機 !! 産業 !! 鉄道
|-
! [[井関農機]]
| || || || ○ || ○ ||
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! [[いすゞ自動車]]
| ○ || ○ || ○ || ○ || ○ ||
|-
! [[三菱ふそうトラック・バス]]
| || ○ || || || ○ ||
|-
! [[日野自動車]]
| || ○ || || || ○ ||
|-
! [[UDトラックス|UDトラックス<br>(旧:日産ディーゼル)]]
| || ○ || || || ○ ||
|-
! [[トヨタ自動車]]
| ○ || ○ || || || ○ ||
|-
! [[日産自動車]]
| 海外のみ || △ || || || ||
|-
! [[本田技研工業]]
| 海外のみ || || || || ||
|-
! [[マツダ]]
| ○ || ○ || || || ||
|-
! [[SUBARU|SUBARU<br>(旧:富士重工業)]]
| 海外のみ<br />(2020年廃止) || || || || ○ ||
|-
! [[三菱自動車工業]]
| ○ || 海外のみ || || || ||
|-
! [[ダイハツ工業]]
| 海外のみ || 海外のみ || || || ○ ||
|-
! [[スズキ (企業)|スズキ]]
| 海外のみ<br/>(2021年廃止)|| 海外のみ<br/>(2021年廃止)|| || || ||
|-
! [[ヤンマー#関連会社|ヤンマーパワーテクノロジー]]<br/>([[ヤンマーホールディングス]])
| || || ○ || ○ || ○ ||
|-
! [[クボタ]]
| || || ○ || ○ || ○ ||
|-
! [[IHIシバウラ]]
| || || || || ○ ||
|-
! [[小松製作所]]
| || || ○ || || ○ || ○
|-
! style="width:22%"| [[三菱重工業]] 三菱UE機関のライセンサー並びに Wärtsilä 社のスルザー系製品のライセンシー兼一部共同開発
| || || ○ || ○ || ○ ||
|-
! style="width:22%"| [[川崎重工業]] MAN B&W のライセンシー
| || || ○ || || ○ ||
|-
! style="width:22%"| [[三井造船]] MAN B&W のライセンシー
| || || ○ || || ○ ||
|-
! style="width:22%"| [[日立造船]] MAN B&W と Wärtsilä のライセンシー
| || || ○ || || ○ ||
|-
! style="width:22%"| [[IHI]](ディーゼルユナイテッド)Wärtsilä と MAN SAS の 元S.E.M.T Pielstick系 のライセンシー
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! [[新潟原動機]]<br/>(旧:[[新潟鐵工所]])
| || || ○ || || ○ || ○
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! [[神鋼造機]]
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|-
! style="width:22%"| [[赤阪鐵工所]] 自社4ストローク機関と三菱UE機関のライセンシー
| || || ○ || || ○ ||
|-
! style="width:22%"| [[阪神内燃機工業]] 自社4ストローク機関と川崎MAN B&Wのライセンシー
| || || ○ || || ○ ||
|-
! [[マキタ (エンジンメーカー)|マキタ]] 自社4ストローク機関と三井MAN B&Wのライセンシー
| || || ○ || || ○ ||
|-
! [[ダイハツディーゼル]]
| || || ○ || || ○ ||
|-
! style="width:22%"| [[神戸発動機]] 三菱UE機関のライセンシー
| || || ○ || || ○ ||
|-
|}
=== アジア諸国(日本除く)のメーカー ===
韓国
*[[現代自動車グループ]]([[現代自動車|ヒュンダイ]]/[[起亜自動車|キア]])
*現代重工業 自社4ストローク機関と MAN B&W と Wärtsilä と 三菱UE 2ストローク機関のライセンシー
=== 欧州諸国のメーカー ===
欧米では複数メーカーを買収した持株会社を丸ごと別の持株会社が買収するなど大規模な[[M&A|再編]]が進行中であり、かつ[[合併 (企業)|合併]]によって消滅したメーカーも多い。
ドイツ
*持株会社 Tognum AG の傘下にある MTU であるが2011年9月に Daimler AG と Rolls-Royce plc のジョイントベンチャーである Engin Holding GmbH が Tognum の筆頭株主になった。
*[[MTU]]
**[[デトロイトディーゼル]](米)の自動車用エンジンを除く事業を統合
*[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]
**[[メルセデス・ベンツ]]を傘下に持つ
**[[デトロイトディーゼル]](米)自動車エンジン部門を傘下に持つ
**[[三菱ふそうトラック・バス]]株式会社(日本)を傘下に持つ
*[http://www.deutz.de/ ドイツ]([[:de:Deutz AG|e:Deutz AG]])
*Volkswagen AG(フォルクスワーゲングループ)) MAN SE(MANグループの持株会社) を買収
*[[MAN (企業)|MAN Diesel & Turbo SE]]:ディーゼルエンジンを開発した[[ルドルフ・ディーゼル]]を擁していた。
**B&W[[バーマイスター&ウエイン]](デンマーク)を買収
**[[SEMT ピルスティク]](フランス)を買収し MAN DIESEL SAS(フランス)とする。
フランス
*[[プジョーシトロエン・モトール]]([[PSA・プジョーシトロエン]]グループのエンジン製造を担当。)
*[[ルノー]]
スウェーデン
*[[ボルボ]]
*[[スカニア]]
フィンランド
*[http://www.sisudiesel.com/ シス]
*Wärtsilä[[バルチラ]]
**Sulzer[[スルザー]](スイス)を買収し(現・バルチラ、スイス)とする
イギリス
*[[ロールス・ロイス・ホールディングス]] 買収した旧・Bergen社(ノルウェー)の舶用ディーゼルが主体、MTUも買収
その他
*[http://www.perkins.com/ パーキンス](英)
=== アメリカのメーカー ===
*[[キャタピラー (企業)|キャタピラー]]
*[[カミンズ]]
*[[ナビスター・インターナショナル]]([[:en:Navistar International Corporation]])
*[[ゼネラルモーターズ]]
**[[エレクトロ・モーティブ・ディーゼル|エレクトロ・モーティブ・ディヴィジョン]](GM-EMD) - 機関車用エンジンを生産
=== 基幹部品メーカー ===
*[[ロバート・ボッシュ (企業)|ボッシュ]]
*[[デンソー]]
*[[:en:Delphi (auto parts)|デルファイ]]
*[[:en:Siemens VDO|シーメンスVDO]]([[コンチネンタルAG|コンチネンタル]]に買収されている)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
{{clear}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*Diesel, Rudolf: Die Entstehung des Dieselmotors. Erstmaliges Faksimile der Erstausgabe von 1913 mit einer technik-historischen Einführung. Moers: Steiger Verlag, 1984.
*ルドルフ・ディーゼル著 / 山岡茂樹訳・解説: ディーゼルエンジンはいかにして生み出されたか.東京: 山海堂 1993.8
*Rauck, Max J.: 50 Jahre Dieselmotor : zur Sonderschau im Deutschen Museum. München: Leibniz-Verlag 1949.
* {{Cite book|和書|author = Joseph Needham|authorlink = ジョゼフ・ニーダム|translator = 山田慶児|title = 東と西の学者と工匠(上)|date = 1974|publisher = 河出書房新社|ncid = BN01279791|ref = {{Harvid|ニーダム、東と西の学者と工匠(上)|1974}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 下間 頼一|title = 技術の起原に機械と人間の原点をたずねる : 生活の知恵の多彩な発展|date = 1982-01-05|publisher = 関西大学博物館紀要|journal = 日本機械学會誌|volume = 85|issue = 758|pages = 33-37|naid = 110002473858|ref = {{Harvid|下間、日本機械学會誌|1982}} }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Diesel engines}}
{{columns-list|3|
*[[熱機関]]
*[[熱力学サイクル]]
*[[機関 (機械)]]
*[[グローエンジン]]
*[[レシプロエンジン]]
*[[ロータリーエンジン]]
*[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン]]
*[[ガスタービンエンジン]]
* [[ディーゼルハンマー]]
*[[脱硫]] - [[水素化脱硫]]
*[[NOx吸蔵還元触媒]]
*[[尿素SCRシステム]]
*[[排気再循環]]
*[[自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法|自動車NOx・PM法]]
*[[バイオディーゼル]]([[ダイズ|大豆]]油、[[アブラナ|菜種]]油)
*[[ディーゼル自動車]]
*[[ディーゼル・エレクトリック方式]]
*[[舶用機関]]
*[[気動車]]([[鉄道]]用ディーゼルカー)
*[[ディーゼル機関車]]
*[[ヤンマー・LV系エンジン]]
*[[ヤンマー・TNV系エンジン]]
*[[マツダ・SKYACTIV-D]]
*[[エマルジョン燃料]]
*[[JASO規格]]
}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{自動車部品}}
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{{オートバイ部品と関連技術}}
{{公害}}
{{大気汚染}}
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{{DEFAULTSORT:ていいせるえんしん}}
[[Category:往復動型内燃機関]]
[[Category:圧縮着火内燃機関]]
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[[Category:ルドルフ・ディーゼル]]
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11,753 |
グローエンジン
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グローエンジンとは、燃焼室に露出したグロープラグの熱によって燃料と空気の混合気の熱面着火を行う、内燃機関の一種。英語では "glow plug engine" と呼ばれる。
2ストローク機関と4ストローク機関のいずれも存在する。
現在は、模型飛行機のエンジンとして多用されている。火花点火式ガソリンエンジンと同じような構造であり、シリンダーヘッドに火花点火用のプラグの代わりとしてグロープラグが取り付けられている。
キャブレター(気化器)を持ち、噴射ポンプを用いない。キャブレターによりアルコール系燃料と空気との混合気をあらかじめ作ってシリンダー内に混合気を吸入し、点火には電熱線を組み込んだグロープラグを用いる。始動時のみグロープラグに通電し、電熱線のジュール熱によって混合気を点火するものである。始動後は焼玉エンジンの焼玉と同様にプラグの熱が維持される。点火時期はほとんど自然に決定され、調整不能である。
小型(排気量20 cc以下)の模型用エンジンはシリンダーそのものが小さく、火花点火用のプラグを組み込むことが事実上不可能であるため、現在でもグローエンジンが主流である。特に、ラジオコントロールの模型航空機においては、近年(1980年代以降)まで他に適当な(軽量・高出力の)動力が存在しなかったことから、ほぼグローエンジンの独擅場であった。
かつて、模型用グローエンジンは2サイクルが主流で、排気量0.2 cc程度の超小型のものから30 cc程度のものまで存在していた。しかし、現在では3 - 4 cc以下のものは、多くがリチウム電池(もしくはニッケル水素電池)とモーターの組み合わせに取って代わられつつある。
燃料はメチルアルコールが主成分で、それに潤滑油としてヒマシ油など、燃焼促進用の添加剤としてニトロメタンなどを混入したものが用いられる。
現在、模型用で使われるグローエンジンは、焼玉エンジンとシリンダーヘッドの構造が異なる。グローエンジンは、火花点火式ガソリンエンジンと同じような構造であり、スパークプラグの代わりにグロープラグがある。焼玉エンジンの焼玉のような副室を持たないグローエンジンのグロープラグは、エンジン始動時にだけ通電してジュール熱を発生させ、その熱で混合気を熱面着火して始動する。焼玉エンジンの着火も熱面着火で同様であり、着火後の燃焼も予混合燃焼で同様である。しかし、混合気を作り出す場所については、グローエンジンが火花点火式ガソリンエンジンのようにキャブレターを用いてシリンダーに入る前に混合気があらかじめ作られるのに対し、焼玉エンジンは焼玉の熱で燃料を気化させてシリンダー内で空気と混合させ、混合気が作られる。また、グロープラグは混合気の点火装置としての役目だけであるのに対し、焼玉は燃料の気化装置も兼ねた着火装置であることが異なる。
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] |
グローエンジンとは、燃焼室に露出したグロープラグの熱によって燃料と空気の混合気の熱面着火を行う、内燃機関の一種。英語では "glow plug engine" と呼ばれる。
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{{出典の明記|date=2018-04-08}}
[[File:Taipan 2.5cc 1968 Glowplug model aeroplane engine.jpg|thumb|right|250px|模型用グローエンジン]]
[[File:Gluehkerze OS.jpg|thumb|right|250px|模型用グロープラグ]]
'''グローエンジン'''とは、[[燃焼室]]に露出した[[点火プラグ#グロープラグ|グロープラグ]]の[[熱]]によって[[燃料]]と[[空気]]の[[混合気]]の熱面着火を行う、[[内燃機関]]の一種。英語では "glow plug engine" と呼ばれる。
== 構造・性質 ==
[[2ストローク機関]]と[[4ストローク機関]]のいずれも存在する。
現在は、[[模型飛行機]]の[[機関 (機械)|エンジン]]として多用されている。[[火花点火内燃機関|火花点火式ガソリンエンジン]]と同じような構造であり、[[シリンダーヘッド]]に[[点火プラグ|火花点火用のプラグ]]の代わりとしてグロープラグが取り付けられている。
[[キャブレター]](気化器)を持ち、[[噴射ポンプ]]を用いない。キャブレターにより[[アルコール燃料|アルコール系燃料]]と[[空気]]との[[混合気]]をあらかじめ作って[[シリンダー]]内に混合気を吸入し、[[点火]]には[[電熱線]]を組み込んだグロープラグを用いる。始動時のみグロープラグに通電し、電熱線の[[ジュール熱]]によって混合気を点火するものである。始動後は[[焼玉エンジン]]の焼玉と同様にプラグの熱が維持される。[[点火時期]]はほとんど自然に決定され、調整不能である。
== 模型用動力 ==
小型([[排気量]]20 cc以下)の[[模型]]用エンジンは[[シリンダー]]そのものが小さく、[[点火プラグ|火花点火用のプラグ]]を組み込むことが事実上不可能であるため、現在でもグローエンジンが主流である。特に、[[ラジコン|ラジオコントロール]]の[[模型航空機]]においては、近年([[1980年代]]以降)まで他に適当な(軽量・高出力の)動力が存在しなかったことから、ほぼグローエンジンの独擅場であった。
かつて、模型用グローエンジンは[[2ストローク機関|2サイクル]]が主流で、排気量0.2 cc程度の超小型のものから30 cc程度のものまで存在していた。しかし、現在では3 - 4 cc以下のものは、多くが[[リチウム電池]](もしくは[[ニッケル水素電池]])と[[電動機|モーター]]の組み合わせに取って代わられつつある。
燃料は[[メチルアルコール]]が主成分で、それに[[潤滑油]]として[[ヒマシ油]]など、燃焼促進用の添加剤として[[ニトロメタン]]などを混入したものが用いられる。
== 焼玉エンジンとの比較 ==
現在、模型用で使われるグローエンジンは、[[焼玉エンジン]]と[[シリンダーヘッド]]の構造が異なる。グローエンジンは、火花点火式ガソリンエンジンと同じような構造であり、[[点火プラグ#スパークプラグ|スパークプラグ]]の代わりにグロープラグがある。焼玉エンジンの焼玉のような副室を持たないグローエンジンのグロープラグは、エンジン始動時にだけ通電して[[ジュール熱]]を発生させ、その熱で[[混合気]]を熱面着火して始動する。焼玉エンジンの[[着火]]も熱面着火で同様であり、着火後の燃焼も[[燃焼|予混合燃焼]]で同様である。しかし、混合気を作り出す場所については、グローエンジンが火花点火式ガソリンエンジンのように[[キャブレター]]を用いて[[シリンダー]]に入る前に混合気があらかじめ作られるのに対し、焼玉エンジンは焼玉の熱で燃料を[[蒸発|気化]]させてシリンダー内で空気と混合させ、混合気が作られる。また、グロープラグは混合気の点火装置としての役目だけであるのに対し、焼玉は燃料の気化装置も兼ねた着火装置であることが異なる。
== 関連項目 ==
* [[グロープラグ]] - [[ディーゼルエンジン]]などの[[圧縮着火内燃機関]]用の予熱栓。グローエンジン用の点火栓と同じ呼称である。
* [[小川精機]] - 日本のグローエンジンメーカー。
* [[斎藤製作所]] - 同上。
* [[塩谷製作所]] - 同上。
== 外部リンク ==
* [http://www.rc-airplane-world.com/model-airplane-engines.html Model airplane engines - how they work<!-- Bot generated title -->]
* [http://mdmetric.com/thddata.htm#idx All about Threads sizes<!-- Bot generated title -->]
* [http://www.osengines.com/accys/choosing-glowplugs.html How to Choose the Right Glow Plug<!-- Bot generated title -->]
{{DEFAULTSORT:くろうえんしん}}
[[Category:往復動型内燃機関]]
[[Category:熱面着火内燃機関]]
[[Category:航空用エンジン]]
[[Category:模型航空機]]
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2022-08-24T12:13:23Z
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[
"Template:出典の明記"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3
|
11,754 |
4ストローク機関
|
4ストローク機関(フォーストロークきかん、英: Four-stroke cycle engine)は容積型内燃機関の一種で、エンジンの動作周期の間に4つの工程を経る、4ストローク/1サイクルエンジンのことである。4サイクル機関や4工程機関、略して4ストとも呼ばれる。
4ストローク機関は、空気と燃料の混合気を燃焼室へ取り込み燃焼して燃焼ガスを排出するまでの一連の動作(サイクル)が、ピストンの上昇と下降が2回ずつの合わせて「4回の工程」で行われる、容積型内燃機関である。1サイクルの間には、ピストンがシリンダー内を2往復してクランク軸は2回転する。
自動車やディーゼルエンジンを動力源とする鉄道車両や通常動力型潜水艦などで用られているほか、比較的小型の航空機でも用いられる。また、定置型の動力源、農林業で用いられる可搬型の作業機械としても広く用いられている。なお、大型船舶のディーゼルエンジンは2ストロークが多い。
ホンダ・カブ(スーパーカブ)では4ストロークエンジンが採用され、低燃費(50スーパーカスタムでは180km/L)と高寿命高耐久性により、日本国外にも多く知られている。
ガソリンエンジンとして広く普及しているものはドイツのニコラス・オットーによって発明されたオットーサイクルで、燃焼のきっかけとして電気火花を利用することから火花点火機関と呼ばれることもある。ロータリーエンジン(バンケルエンジン)はピストンを使わないが基本原理は同様で、オットーサイクルのひとつとして分類される。1サイクル中の4つ工程は以下の通りである。
軽油などの自己着火性の高い燃料を用いるエンジンとして普及しているものは、ルドルフ・ディーゼルが発明したディーゼルサイクルである。ディーゼルサイクルを利用したエンジンはディーゼルエンジンと呼ばれる。ディーゼルサイクルは次の4工程で構成される。
自動車や航空機用のエンジンの多くは点火プラグをシリンダーあたり2本持つ。
メカニズムを簡素化するために、点火プラグは、掃気の工程であるピストンが上死点に近づく位置でも火花をとばす。
燃料に同じガソリンを用いる場合について2ストローク機関と比較すると、未燃焼成分である炭化水素や潤滑油の燃焼に伴う粒子状物質の排出量が少なく、三元触媒を用いて窒素酸化物や一酸化炭素の排出を抑制しやすい。燃焼効率や熱効率が高く、燃費が良好である。排気の騒音が2ストローク機関より低い。爆発(作用)ストロークが下死点近くまで続いて働き、他の3ストロークをこなすための慣性装置(フライホイール)の働きも強いので、低速回転の安定性や操作性は2ストローク機関に勝る。
一方で、クランクシャフトの回転に対する燃焼工程の回数が2ストローク機関の半分になるため、同じ排気量で比較すると出力(軸トルク)が低い。吸排気バルブとその駆動機構やエンジンオイルの循環機構などのために部品点数が多く、重量や価格の面で不利である。必要な整備間隔は長くなるとしても整備には手間と費用が掛かる。
1960年代以降、耐久性の問題を克服した2ストロークエンジンが競技用オートバイの世界を席巻したが、1980年代に入ると4ストロークエンジンが復権するようになった。
オフロードでは1980年代にハスクバーナがビッグボアの4ストロークエンジンのエンデューロマシンを開発。欧州エンデューロ選手権(現在の世界選手権)で開発者でもあるトーマス・グスタフソンがタイトルを獲得する活躍を見せた。ハスクバーナがカジバに買収された際、グスタフソンは仲間を連れて退社し、フサベルを設立した。
1990年代にヴェルテマティ・レーシングが、フサベルのエンデューロ用バイクをモトクロッサーに改造してモトクロス世界選手権の500ccクラスで複数回タイトルを獲得。高速域でもトルク特性が安定している4ストロークエンジンの強みが注目されるようになった。また同時期に北米モトクロス(AMAモトクロス/AMAスーパークロス)では排ガス規制の関係から4ストロークエンジンが規則で推奨されるようになり、日本メーカーをはじめとする各社が4ストロークエンジンを導入するようになった。4ストロークエンジンの特性はトップレベルのモトクロスの環境に合致し、現在では育成クラスを除くと4ストロークエンジンのみに限られている。
マシンの軽量化が命のトライアルでは2ストローク優位と思われていたが、00年代半ばからホンダは傘下のトライアルバイクメーカーであるモンテッサのシャシーに、4ストロークエンジンを搭載した。トライアルでは当時珍しかった燃料噴射装置(FI)を採用して、4ストロークの低速トルクの良さを高めつつ、高回転域の伸びも2ストロークエンジンに対抗できるレベルに改良した。これを天才トニー・ボウが操って、屋外・屋内双方の世界選手権で17連覇という圧倒的な戦績を治め、全日本選手権でも小川友幸が11連覇を達成している(2023年時点)。
市販車ロードレースの世界では、北米AMAのフォーミュラ1規定において750ccの2ストロークエンジンが猛威を振るっていたが、タイヤが引き裂かれるほどのハイパワーによる安全の懸念、さらには一社独占状態が続いたこともあり、1985年にそれまで下位クラスであった4ストロークエンジンのスーパーバイククラスが最高峰クラスにとって代わり、欧州のスーパーバイク世界選手権でも1988年の設立当初から4ストロークエンジンに限定して開催されるようになった。プロトタイプ規定のロードレース世界選手権(現MotoGP)でも市販車の趨勢に合わせ、00年代から最高峰クラス(WGP500ccクラス→MotoGPクラス)は4ストロークエンジンのみに限られるようになった。
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"text": "軽油などの自己着火性の高い燃料を用いるエンジンとして普及しているものは、ルドルフ・ディーゼルが発明したディーゼルサイクルである。ディーゼルサイクルを利用したエンジンはディーゼルエンジンと呼ばれる。ディーゼルサイクルは次の4工程で構成される。",
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"text": "メカニズムを簡素化するために、点火プラグは、掃気の工程であるピストンが上死点に近づく位置でも火花をとばす。",
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"text": "燃料に同じガソリンを用いる場合について2ストローク機関と比較すると、未燃焼成分である炭化水素や潤滑油の燃焼に伴う粒子状物質の排出量が少なく、三元触媒を用いて窒素酸化物や一酸化炭素の排出を抑制しやすい。燃焼効率や熱効率が高く、燃費が良好である。排気の騒音が2ストローク機関より低い。爆発(作用)ストロークが下死点近くまで続いて働き、他の3ストロークをこなすための慣性装置(フライホイール)の働きも強いので、低速回転の安定性や操作性は2ストローク機関に勝る。",
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"text": "一方で、クランクシャフトの回転に対する燃焼工程の回数が2ストローク機関の半分になるため、同じ排気量で比較すると出力(軸トルク)が低い。吸排気バルブとその駆動機構やエンジンオイルの循環機構などのために部品点数が多く、重量や価格の面で不利である。必要な整備間隔は長くなるとしても整備には手間と費用が掛かる。",
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"text": "オフロードでは1980年代にハスクバーナがビッグボアの4ストロークエンジンのエンデューロマシンを開発。欧州エンデューロ選手権(現在の世界選手権)で開発者でもあるトーマス・グスタフソンがタイトルを獲得する活躍を見せた。ハスクバーナがカジバに買収された際、グスタフソンは仲間を連れて退社し、フサベルを設立した。",
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"text": "マシンの軽量化が命のトライアルでは2ストローク優位と思われていたが、00年代半ばからホンダは傘下のトライアルバイクメーカーであるモンテッサのシャシーに、4ストロークエンジンを搭載した。トライアルでは当時珍しかった燃料噴射装置(FI)を採用して、4ストロークの低速トルクの良さを高めつつ、高回転域の伸びも2ストロークエンジンに対抗できるレベルに改良した。これを天才トニー・ボウが操って、屋外・屋内双方の世界選手権で17連覇という圧倒的な戦績を治め、全日本選手権でも小川友幸が11連覇を達成している(2023年時点)。",
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"text": "市販車ロードレースの世界では、北米AMAのフォーミュラ1規定において750ccの2ストロークエンジンが猛威を振るっていたが、タイヤが引き裂かれるほどのハイパワーによる安全の懸念、さらには一社独占状態が続いたこともあり、1985年にそれまで下位クラスであった4ストロークエンジンのスーパーバイククラスが最高峰クラスにとって代わり、欧州のスーパーバイク世界選手権でも1988年の設立当初から4ストロークエンジンに限定して開催されるようになった。プロトタイプ規定のロードレース世界選手権(現MotoGP)でも市販車の趨勢に合わせ、00年代から最高峰クラス(WGP500ccクラス→MotoGPクラス)は4ストロークエンジンのみに限られるようになった。",
"title": "2ストローク機関との比較"
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4ストローク機関は容積型内燃機関の一種で、エンジンの動作周期の間に4つの工程を経る、4ストローク/1サイクルエンジンのことである。4サイクル機関や4工程機関、略して4ストとも呼ばれる。
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{{出典の明記|date=2020年8月}}
[[ファイル:4-Stroke-Engine.gif|thumb|154px|4ストローク機関<br />(1) 吸入<br />(2) 圧縮<br />(3) 燃焼・膨張<br />(4) 排気]]
'''4ストローク機関'''(フォーストロークきかん、{{lang-en-short|Four-stroke cycle engine}})は容積型[[内燃機関]]の一種で、エンジンの動作周期の間に4つの工程を経る、4ストローク/1サイクルエンジンのことである。'''4サイクル機関'''や'''4工程機関'''、略して'''4スト'''とも呼ばれる。
== 概要 ==
'''4ストローク機関'''は、[[空気]]と[[燃料]]の混合気を燃焼室へ取り込み燃焼して燃焼ガスを排出するまでの一連の動作(サイクル)が、ピストンの上昇と下降が2回ずつの合わせて「4回の工程」で行われる、容積型内燃機関である。1サイクルの間には、ピストンがシリンダー内を2往復して[[クランク]]軸は2回転する。
自動車や[[ディーゼルエンジン]]を動力源とする[[鉄道車両]]や[[通常動力型潜水艦]]などで用られているほか、比較的小型の[[航空機]]でも用いられる。また、定置型の動力源、農林業で用いられる可搬型の作業機械としても広く用いられている。なお、大型[[船舶]]のディーゼルエンジンは[[2ストローク機関|2ストローク]]が多い。
[[ホンダ・カブ]](スーパーカブ)では4ストロークエンジンが採用され、低燃費(50スーパーカスタムでは180km/L)と高寿命高耐久性<ref>夏目幸明 『ニッポン「もの物語」』 講談社 2009年6月 {{ISBN2|978-4-06-215315-7}} その15 スーパーカブ(p.150)</ref>により、日本国外にも多く知られている<ref>DISCOVERY Chanel 「Legend of motorcycle」</ref>。
== 工程 ==
[[ガソリンエンジン]]として広く普及しているものは[[ドイツ]]の[[ニコラス・オットー]]によって発明された[[オットーサイクル]]で、燃焼のきっかけとして電気火花を利用することから[[火花点火機関]]と呼ばれることもある。[[ロータリーエンジン]](バンケルエンジン)はピストンを使わないが基本原理は同様で、オットーサイクルのひとつとして分類される。1サイクル中の4つ工程は以下の通りである。
# 吸入工程 : ピストンが下がり混合気(燃料を含んだ空気)をシリンダ内に吸い込む工程。
# 圧縮工程 : ピストンが[[上死点]]まで上がり混合気を圧縮する工程。
# 燃焼工程 : [[点火プラグ]]により点火された混合気が燃焼し、燃焼ガスが膨張してピストンが[[下死点]]まで押し下げられる工程。以前は爆発工程と言った。
# 排気工程 : 慣性によりピストンが上がり燃焼ガスをシリンダ外に押し出す工程。
<center>
<gallery caption="ガソリンエンジンのサイクル" widths="200" heights="300" perrow="3">
ファイル:Four stroke cycle start.png|初期状態。ピストンは上死点。
ファイル:Four stroke cycle intake.png|1 - 吸入工程
ファイル:Four stroke cycle compression.png|2 - 圧縮工程
ファイル:Four stroke cycle spark.png|燃料へ点火
ファイル:Four stroke cycle power.png|3 - 燃焼・膨張工程
ファイル:Four stroke cycle exhaust.png|4 - 排気工程
</gallery>
</center>
軽油などの自己着火性の高い燃料を用いるエンジンとして普及しているものは、[[ルドルフ・ディーゼル]]が発明した[[ディーゼルサイクル]]である。ディーゼルサイクルを利用したエンジンは[[ディーゼルエンジン]]と呼ばれる。ディーゼルサイクルは次の4工程で構成される。
# 吸入工程 : ピストンが下がり、空気のみをシリンダ内に吸い込む工程。
# 圧縮工程 : ピストンが[[上死点]]まで上がり空気のみを圧縮する工程。
# 燃焼工程 : 圧縮により高温になった空気に燃料が噴射され、熱により燃料が自己着火して燃焼し、燃焼ガスの膨張力によりピストンを[[下死点]]まで押し下げる工程。
# 排気工程 : 慣性によりピストンが上がり、燃焼ガスをシリンダ外に押し出す工程。
== 工夫 ==
自動車や航空機用のエンジンの多くは[[点火プラグ]]をシリンダーあたり2本持つ。
メカニズムを簡素化するために、[[点火プラグ]]は、掃気の工程であるピストンが上死点に近づく位置でも火花をとばす。
== 2ストローク機関との比較 ==
燃料に同じ[[ガソリン]]を用いる場合について2ストローク機関と比較すると、未燃焼成分である[[炭化水素]]や潤滑油の燃焼に伴う[[粒子状物質]]の排出量が少なく、[[三元触媒]]を用いて[[窒素酸化物]]や[[一酸化炭素]]の排出を抑制しやすい。燃焼効率や熱効率が高く、燃費が良好である。排気の騒音が2ストローク機関より低い。爆発(作用)ストロークが下死点近くまで続いて働き、他の3ストロークをこなすための慣性装置([[フライホイール]])の働きも強いので、低速回転の安定性や操作性は2ストローク機関に勝る。
一方で、クランクシャフトの回転に対する燃焼工程の回数が2ストローク機関の半分になるため、同じ排気量で比較すると出力(軸トルク)が低い。吸排気[[バルブ]]とその駆動機構やエンジンオイルの循環機構などのために部品点数が多く、重量や価格の面で不利である。必要な整備間隔は長くなるとしても整備には手間と費用が掛かる。
=== 競技用オートバイにおける4ストロークエンジン ===
1960年代以降、耐久性の問題を克服した2ストロークエンジンが競技用オートバイの世界を席巻したが、1980年代に入ると4ストロークエンジンが復権するようになった。
オフロードでは1980年代に[[ハスクバーナ・モーターサイクル|ハスクバーナ]]がビッグボアの4ストロークエンジンの[[エンデューロ]]マシンを開発。欧州エンデューロ選手権(現在の世界選手権)で開発者でもあるトーマス・グスタフソンがタイトルを獲得する活躍を見せた。ハスクバーナが[[カジバ]]に買収された際、グスタフソンは仲間を連れて退社し、[[フサベル]]を設立した。
1990年代に[[VOR|ヴェルテマティ・レーシング]]が、フサベルのエンデューロ用バイクを[[モトクロッサー]]に改造して[[モトクロス世界選手権]]の500ccクラスで複数回タイトルを獲得。高速域でもトルク特性が安定している4ストロークエンジンの強みが注目されるようになった。また同時期に北米モトクロス([[AMAモトクロス]]/[[AMAスーパークロス]])では排ガス規制の関係から4ストロークエンジンが規則で推奨されるようになり、日本メーカーをはじめとする各社が4ストロークエンジンを導入するようになった。4ストロークエンジンの特性はトップレベルのモトクロスの環境に合致し、現在では育成クラスを除くと4ストロークエンジンのみに限られている。
マシンの軽量化が命の[[トライアル]]では2ストローク優位と思われていたが、00年代半ばからホンダは傘下のトライアルバイクメーカーである[[モンテッサ]]のシャシーに、4ストロークエンジンを搭載した。トライアルでは当時珍しかった[[燃料噴射装置]](FI)を採用して、4ストロークの低速トルクの良さを高めつつ、高回転域の伸びも2ストロークエンジンに対抗できるレベルに改良した<ref>[https://honda.racing/ja/trial/post/specials-14wins-part3 Hondaの挑戦が生んだ、トライアル世界チャンピオンの系譜:第3期 「4ストローク、第二世代(水冷/プロリンク)他の追随を許さない、4ストロークの技術革新」]</ref>。これを天才[[トニー・ボウ]]が操って、屋外・屋内双方の世界選手権で17連覇という圧倒的な戦績を治め、全日本選手権でも[[小川友幸]]が11連覇を達成している(2023年時点)。
市販車ロードレースの世界では、北米AMAのフォーミュラ1規定において750ccの2ストロークエンジンが猛威を振るっていたが、タイヤが引き裂かれるほどのハイパワーによる安全の懸念、さらには一社独占状態が続いたこともあり、1985年にそれまで下位クラスであった4ストロークエンジンのスーパーバイククラスが最高峰クラスにとって代わり、欧州の[[スーパーバイク世界選手権]]でも1988年の設立当初から4ストロークエンジンに限定して開催されるようになった。プロトタイプ規定の[[ロードレース世界選手権]](現[[MotoGP]])でも市販車の趨勢に合わせ、00年代から最高峰クラス(WGP500ccクラス→MotoGPクラス)は4ストロークエンジンのみに限られるようになった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Four-stroke engines}}
* [[ガソリンエンジン]]
* [[ディーゼルエンジン]]
* [[2ストローク機関]]
* [[6ストローク機関]]
* [[ロータリーエンジン]]
{{レシプロエンジンの気筒配置による分類}}
{{自動車部品}}
{{自動車の構成}}
{{オートバイ部品と関連技術}}
{{デフォルトソート:4すとろおくきかん}}
[[Category:往復動型内燃機関]]
[[Category:自動車エンジン技術]]
[[Category:ドイツの発明]]
|
2003-07-18T19:01:27Z
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2023-12-23T08:48:49Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%A9%9F%E9%96%A2
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11,755 |
2ストローク機関
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2ストローク機関(ツーストロークきかん)は内燃機関の一種で、2行程で1周期とする2ストローク1サイクルレシプロエンジン式の名称。英語のtwo-stroke cycleの省略で、昭和年間以前には2サイクル機関・2行程機関とも呼ばれた。
2ストロークエンジンは1往復(行程換算2回 (=2 stroke))で1周期を完結するエンジンで、ピストン1往復(クランクシャフト1回転)ごとに燃料が燃焼する。
行程は以下の通りである。
ここまでの行程で動力伝達軸であるクランクシャフトは1回転する。
掃気は2ストローク機関特有の動作で、圧力のかかった新気(混合気または空気)をシリンダー内へ導入し、その勢いとピストンの圧縮力で同時に燃焼ガスを排出するものであり、掃気ポートがピストンの下降によって開かれ、上昇によって閉じられるまで続く。掃気に圧力を与えることを一次圧縮と呼び、ピストンの下降に伴うクランクケースの容積変化による方法と、外部に装備した圧縮機または過給器による方法とがある。
このように、4ストローク機関での4行程を2つずつ同時に行うことで、ピストン上死点で毎回燃焼(点火/着火)が起こることが特徴である。
最初の実用的な内燃2ストローク・エンジン(同時に、最初の実用内燃エンジン)となったのは、1858年に開発されたガス燃料機関のルノアール・エンジンである。考案者はベルギー出身でフランスで活動した技術者ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール (Jean Joseph Étienne Lenoir) で、石炭ベースのガス灯用ガス ("Illuminating gas") を燃料とし、電気点火装置 (double-acting electric spark-ignition) による火花点火方式を用いた。この発明は、1860年にフランスで特許を取得している。
小工場での定置動力等には蒸気機関より軽便・簡易で、当時普及が進んでいた都市のガス供給網を利用できるメリットもあって、ある程度普及したが、後世の2ストローク・エンジンのような一次圧縮がなされないため、熱効率は著しく低かった。ルノアールは「機関内の圧力が高い構造は危険ではないか」と危惧していたからである。
2ストロークのガソリンエンジンは、1878年に、スコットランド出身のデュガルド・クラーク (en:Dugald Clark 1854-1932) が最初に製造し、1881年に英国特許を取得した。
既にこの時代には、圧縮行程を含む4ストロークのオットーサイクル・エンジンが実用化されており、燃料ガスの圧縮によって熱効率が高まることが認識されていた。
クラークのエンジンは、エンジン本体外部に独立したシリンダー式の圧縮装置・掃気装置を装備して4ストローク・エンジンの圧縮行程に代えたものであり、4ストロークエンジンに比肩する性能を出すことができたが、4ストロークエンジン同様に専用のバルブを設ける必要があるなど、構造がやや複雑で、掃気機構のフリクションロスもあった。
クラークによる、エンジン本体の外部に圧縮・掃気装置を設ける手法は、事実上世界初の過給機付きエンジンともいえるものであり、のちにより構造簡略な回転式のスーパーチャージャーに置き換えられ、2ストローク、4ストロークの別なく利用されることになった。特に2ストローク・ディーゼルエンジンのメカニズムは、燃料供給とその点火(ディーゼルエンジンでは着火)手段を除けば原理的にはクラークの手法を踏襲していると言ってよい。ただし、クラーク本人は「シリンダー式掃気装置は加圧ポンプではなく、単にシリンダー内の掃気を補助してスムーズに排気管へ燃焼ガスを排出させる為の装置に過ぎない」という主旨を述べていたとされる 。
現在よく知られている形のシンプルな2ストローク・ガソリンエンジンは、1889年にイギリスのジョゼフ・デイ (Joseph Day 1855-1946) が発明した。意図としては、先行して開発された各種のガソリンエンジンの特許回避を目的としていた。
この単純なエンジンは「省略できる部品は全て省略し、4ストロークエンジンでは分離して完全に行われていた各行程を、効率を犠牲にして統合・簡略化した」ことで実現された。気筒頭の点火プラグを除いては、ポペットバルブすら持たない簡潔な構造故に、絶対的な効率以上に軽量・簡易性が要求される小型2ストロークエンジンの完成形となった。
その作動メカニズムは以下に示すいくつかの特異な要素を組み合わせて成立しており、極めてユニークな着想の集合体と言える。
さらに、シリンダーポート構造やクランクケース圧縮機構を成立させるための特異な技術的着想として、混合燃料潤滑が取り入れられた。
デイ式の2ストローク・エンジンは、小型の簡易なガソリンエンジンにおける決定的な方式となった。第一次世界大戦以降に広く用いられるようになり、特にDKWやザックス (Fichtel & Sachs) などのドイツのメーカーにおいてその使用が顕著だった。小型のものを中心としたオートバイはもとより、1930年代以降は小型自動車にも盛んに使用されたが、1960年代以降自動車用から廃れ始め、1990年代になると2輪車でも排出ガス規制の面から4ストロークエンジンにその地位を譲るようになる。
現在、2ストロークのガソリンエンジンが多用されているのは、極めて小型のエンジンでなければシステムの成立しにくい機器類(小型発電機、草刈機やチェーンソーなどの可搬機器、可搬消防ポンプ、ラジコン模型用エンジンなど)が主である。そのほとんどで、ジョセフ・デイのコンセプトに基づく、バルブレス・シリンダーポート、クランクケース圧縮、混合燃料潤滑方式が採用されている。
バルブレス・シリンダーポート2ストロークエンジンにおける圧縮効率の低下や吹き抜けに対する策として、ガソリンエンジンの場合はチャンバーを利用する方法がある(詳細はチャンバーを参照)。
チャンバーの形状は特定の回転域で充填効率が高まり、高トルクが得られる回転域「パワーバンド」が表れる事が多い。中には、YPVSのようにシリンダーの排気ポートを電動で可変させたり、V-TACSのようにサブチャンバーを開閉させる事によりパワーバンドを広げる工夫もある。YEISのように吸気側にチャンバーを設ける工夫もある。1970年代中頃の2輪ロードレース世界選手権WGPでは、500 ccクラスにおいて日本メーカー参戦とともに4気筒500 ccエンジンが台頭していくが、その当初からクランク回転180度ごとに2気筒ずつ点火する180度等間隔同爆がヤマハとスズキによって採用、ホンダは120度(3気筒)/90度(4気筒)ごとに1気筒ずつの等間隔爆発が採用されていた。その後1992年にデビューした92年型ホンダ・NSR500ではクランク回転の292度と68度地点で点火される不等間隔同爆エンジンが採用された。これは最高出力を求めていった結果、1万回転近くから1万2千回転前後で突然最大トルクが発生する、パワーバンド(最大トルク発生回転域)が狭い、扱いがシビア(いわゆるピーキー)であった今までのレース用の大出力2ストロークエンジンから、ピークパワーやレスポンスを犠牲にしても、爆発を不等間隔にしてタイヤの空走区間を増やすことによって、特にホンダが悩まされていたトラクション性能を劇的に向上させた。結果大幅なラップタイムの短縮に加え、当時多発していた転倒も扱いやすい特性で減少し高い安定度も実現した。その圧倒的な差から、ライバルの各メーカーでも270度-90度や300度-60度などの不等間隔同爆エンジンが採用されるきっかけとなった経緯がある。
ガソリンを燃料とするものは、小出力の小型機器に用いられる。
2ストロークガソリン機関では、ガソリンと空気の混合気を吸気し、これを掃気 (en:Scavenging (automotive)) にも用いなければならないので、クランクケース内で一次圧縮を行う必要がある。すなわち、燃焼室側が圧縮行程の時、同時にピストン上昇による負圧を利用して吸気を行う。この吸気は燃焼室側が膨張行程でピストンが下降する際に同時に圧縮され(一時圧縮)、下死点付近で開いた掃気ポートより噴き出して膨張行程を終えた残留排ガスを排気ポートから追い出す(掃気)と同時に新気でシリンダ内を充填する。
FI(燃料噴射装置)については1960年代からオートバイ競技の世界で試行錯誤が見られるが、2ストロークエンジンのピストン速度の範囲に対応するのが難しく、速度の範囲が狭い船舶用を除いては長らく実用化されなかった。1999年にオートバイメーカーのアプリリアがオービタル社およびシーメンス社とともに「Ditechシステム」を開発。初めて2ストロークにおけるFIと直噴を実用化して50ccスクーターに搭載し、燃費を従来の40%、排ガスを80%それぞれ削減することに成功した。
掃気時にはシリンダ内の残留ガス(排気)と新気の混合が避けられず、残留ガスを全て排気しようとすると、混合した新気(未燃ガスとオイル)も一部排出されてしまう。このため、排気ガスには大量の炭化水素が含まれるが、燃焼室の温度が低いために窒素酸化物は少ない。炭化水素は触媒で燃やすことが可能であり、もともと窒素酸化物は少なく対応が不要のため、当時の排気ガス規制は合格することができたが、将来的に窒素酸化物の規制が厳しくなると合格できる目処はたたなくなっていった。
その為、西ヨーロッパおよび日本の普通自動車及び小型自動車では4ストロークエンジンの性能が向上してきた1960年代後半にはほとんど姿を消しており、排気量が小さな日本の軽自動車においても1980年代に2ストロークエンジンは絶滅した。
世界保健機関 (WHO) は東南アジアと太平洋地域において大気汚染によって毎年、537,000人が死亡していると報告している。1億台に及ぶ2ストロークエンジンのタクシーとオートバイが要因である。
ただし現在でも比較的排ガス規制の緩いオートバイやチェーンソーなどでは、改良を重ねながら2ストロークガソリンエンジンが用いられている。また4ストロークの技術を応用したり、対抗ピストン型にすることで4ストロークガソリンエンジンの環境性能を凌ぐ可能性があるとも考えられており、実験開発は一部のメーカーで継続されている。
1970年代まではヨーロッパの小型車や日本の軽自動車を中心に2ストロークエンジンが数多く存在した。限られた排気量で4ストロークよりも圧倒的に高い出力が得られることや、小型・軽量・低コストという点で、当時排気量上限が360ccだった軽自動車を含む小型車との相性が抜群であったが、排出ガスの規制強化を機に大幅に減少した。
自動車排出ガス規制が日本国内で開始(昭和48年排出ガス規制)された1973年(昭和48年)ごろより、360ccの4ストロークエンジンへの移行が始まり、日本版マスキー法と呼ばれた1975年の昭和50年排出ガス規制(識別符号A-またはH-)、1976年の昭和51年排出ガス規制(識別符号B-またはC-)の頃には、ダイハツとスズキを除く全メーカーが550ccの4ストロークエンジンへの移行を完了した。マスキー法の規制値を完全達成した1978年の昭和53年排出ガス規制(識別符号E-)以降は、スズキのみが規制に適合した車両を製造していた。
ダイハツの軽商用車ハイゼットは1981年まで360ccのZM型搭載車を販売した。1975年以降は昭和50年規制に適合。ダイハツの場合は360cc規格時代の軽限定免許のドライバーのために360ccでもトルクが強い軽商用車を供給する必要があった。軽限定免許では1976年以降の550cc規格軽自動車の運転は認められないため、当時50万人程いたといわれる軽限定免許ユーザーのために1981年8月まで継続生産されることとなった。
スズキの軽自動車アルトは、トルクコンバータ式2速ATの運転性確保のためAUTOMATICのみ1981年まで、キャリイ及びエブリイは1985年まで、ジムニー(SJ30系)は、雪道や不整地での運転性を確保するため1987年まで、トルクが強い2ストロークエンジン車が併売されていた。SJ30系ジムニーはマイクロカーを除くと日本最後の2ストロークエンジン車となった。いずれの車種も軽商用車に当たる為、排ガス規制は昭和50年規制が適用された。軽乗用車のエンジンでは酸化触媒を二重に配置し、エアポンプ式二次空気導入装置も併設されたスズキ・TC (Twin Catalyst) システムの導入で昭和53年規制に適合していた。より排ガス規制の厳しい軽乗用車ではフロンテが1981年まで、セルボが1984年まで2ストロークを継続した。
世界的には本格的な四輪自動車では、1990年代初頭に東ドイツのトラバントが製造終了されたことでほぼ絶滅したと言える。それ以降も東南アジアでは三輪タクシーなどには採用例があるが、欧州車・日本車共に2ストロークエンジン搭載の四輪車は製造されていない(光岡自動車は排気量50ccの強制空冷2ストロークエンジンを搭載したマイクロカーを1998年~2007年に販売したが、これは法規的には原動機付自転車であった)。
しかしその後も新たな2ストロークガソリンエンジンの模索は続いている。
競技の世界では1960年頃に高出力に耐えうる2ストロークエンジンが作られるようになると、4ストロークよりも軽量・高出力・低コスト・優れたメンテナンス性などのメリットを買われて、21世紀を迎えるまで、サーキットでもオフロードでも、耐久レースを除き2ストロークが主流となった。創業者本田宗一郎の信念から2ストロークを忌避していたホンダも、1970年~1990代のモトクロスや1980~2000年代のロードレース世界選手権では2ストロークを用いざるを得ないほどであった。
1980年以前には大排気量車にも搭載されていた。2000年ごろまでは主に250cc以下で採用されていたが、環境問題や法規制の強化に伴い、四輪自動車同様4ストロークエンジンへの移行が進んだ。2000年施行の平成10年度自動車排出ガス規制により、ホンダ・ジャイロXを最後として4ストロークに移行した。日本では平成18年度自動車排出ガス規制の全面施行により、競技用車両以外の全ての2ストロークエンジン搭載車が消滅した。
EU圏では2000年のユーロ3排出ガス規制以降、原動機付自転車の2ストロークの規制も強化され、チャンバーに触媒コンバータが内蔵されるなどの対策が施されていたが、2010年代にはこれらの二輪車もほぼ4ストロークへと移行した。ロードレース世界選手権のGP500も4ストロークに移行し、MotoGPに名称が変更された。モトクロスではダートでのハイスピードバトルで有利な特性もあって4ストロークが主流となった。しかしKTMグループのように、オフロード競技での需要に応えて2ストロークの開発を続けるメーカーもあった。
2010年代においても発展途上国では2ストロークのスクーターなどが残り、局所的な大気汚染の大きな原因の1つになっていると指摘され淘汰が進んだ。しかし発展途上国以上に環境規制が厳しい欧州市場では、KTMやアプリリアのような有名メーカーから、ベータやファンティック、TM Racing、シェルコなどの小規模なオフロード車メーカーからも、2ストロークエンジンを搭載した新車が発売され続けている。
アプリリアは1999年からスクーターにFI(燃料噴射装置)と直噴を採用していたが、2012年には電子制御式直噴システムに進化させて搭載した。2018年にKTMはEuro4規制対応のため、同社として、そしてオフロードバイクとして初となる2ストロークエンジン用FI「TPI」(非直噴)を開発。3kg程度の重量増加に抑えて発売した。その後カスタム界でも2ストロークをFI化する例も見られ始めている。2024年式でTPIは電子制御を進歩させた「TBI」に生まれ変わり、Euro5規制をクリアした。
2024年式のKTM・250EXC(2ストローク)/250EXC F(4ストローク)を例にして比較すると、2ストロークは4ストロークよりエンジン単体で3kg軽い。ただし燃料タンクは2ストロークの方が0.5L多く、シャシー全体での軽さは1.3kg程度となる。馬力/トルクは2ストロークが47馬力/40.8Nm、4ストロークが42馬力/非公表となっている。
2018年時点のKTMの全世界販売の半分以上は2ストロークエンジン車で、南アフリカなど国によっては2/3が2ストロークエンジン車であったという。日本メーカーではかつて「2ストのヤマハ」とも呼ばれたヤマハ発動機が現在も2ストロークに最も積極的であり、国内では日本4大メーカー中唯一モトクロッサーに2ストロークモデルを用意し、正規販売している。スズキ、カワサキも海外ではごく小規模だが販売を行っている。
2ストロークと4ストロークのどちらが有利かはカテゴリや路面によって異なるが、トライアルやハードエンデューロのようにテクニカルなセクションをこなす場合は2ストロークが有利なことが多い。これは2ストローク車が軽量なこと、トルクで優れているため極低回転域でエンストしづらく粘りがあることなどが理由である。一方で高速域を維持するモトクロスやラリーレイドのような競技では、パワーバンドが広く高回転域で安定したトラクション性能を持つ4ストロークが強さを見せる。伝統的なエンデューロのように2ストロークと4ストロークが勝ったり負けたりするカテゴリでは、両者のどちらがいいかは常に議論の的となる。中にはイベントによって両者を使い分けるライダーもいる。
FIM(国際モーターサイクリズム連盟)が主催するモトクロスやエンデューロなどの育成カテゴリでは、125cc以下の2ストロークエンジンだけが走れるクラスが現在もある。これは半クラッチを上手に使わないとうまく走れない2ストロークの特性が、育成に最適であるという考えが根底にある。
ATV(全地形対応車、四輪バイク)においてはスポーツタイプを中心に誕生初期から00年代まで用いられたが、排ガス規制やスポーツATV自体の衰退もあり、2006年のヤマハ・バンシー350の終了を最後に生産されていない。
動力船(船外機や水上オートバイ)でも、2輪車と同様な利点から2ストロークエンジンが主流であったが、近年は環境・騒音規制に対応する必要もあり、4ストロークエンジン(ヤマハMJ-160FXなど)や環境対応型の2ストロークエンジン(直噴式(ボンバルディアSEADOO 3D-DIなど)又は電子制御式燃料噴射装置と触媒の併用式(ヤマハ MJ-GP1300R))への転換が進んでいる。日本国内でも、琵琶湖では「滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例」(琵琶湖ルール)により、従来型2ストロークエンジンの使用が禁止(経過措置あり)されるなどの取り組みがなされており、従来型2ストロークエンジンの使用は減少していくものと思われる。
スノーモービルでは2023年現在も北米のメーカー(ポラリス、アークティック・キャット、スキー・ドゥー)が採用している。中でもポラリスのスノーモービルは全て2ストロークエンジンである。。ヤマハ発動機も事業撤退発表まで2ストロークエンジンのスノーモービルを製造していた。
欧米ではチェーンソーや芝刈り機/刈払機のエンジンにも排出ガス規制が及ぶようになり、燃焼の制御が困難な従来型2ストロークエンジンの使用機会は少なくなってきている。
2ストロークガソリン機関では、その構造上クランクケース内に混合気を導入し一時圧縮を行う必要があるため、同じくクランクケース内にあるコンロッド大小端部やクランクシャフトの主ベアリングなどを、潤滑油をクランクケース内に保持したままで飛沫潤滑/給脂することができない(ガソリンで希釈されてしまう)。このため、
ディーゼル機関ではガソリン機関のように火炎伝播の限界によるボアの限界がないため、気筒容積の拡大だけで大型化できる。またガソリン機関に比べ、熱効率が高く、多種類の燃料を使用することが可能である。
大型の2ストロークディーゼル機関は自動車などに搭載されるレシプロエンジンのように、ピストンの上死点のみで爆発が起こる単動式(シングルアクティング)のほか、レシプロ式蒸気機関のようにピストンの下死点側でも爆発を起こすか(低速型機関)、2つのピストンを対向配置して1つの爆発で2つのピストンを同時に動かす事で効率を単動式より高める1気筒2ピストン式(対向ピストン式)の複動式(ダブルアクティング)が存在するが、各種の複動式は単動式に比した場合の構造複雑化がデメリットとなり、高速型、低速型とも後年に至る主流とはならなかった。
1930年代末にアメリカ合衆国で実用化の進んだ2ストロークユニフロー掃気式の中・高速ディーゼル機関は、軽量で高出力であったことから、4ストロークエンジンに伍して普及したが、燃費や騒音面での不利、排出ガス浄化対策の難などから、自動車用の高速エンジンは過給器を備えた4ストローク高速ディーゼル機関に主流を取って代わられた。
2ストロークディーゼル機関が21世紀初頭まで長期にわたって最も成功しているのは、船舶用低速ディーゼル機関の分野である。トルク変動が小さいこの用途においてはディーゼル内燃機関と2ストロークの組み合わせは高効率を実現できるため、この種の動力機関の主流となっている。過給器との併用により熱効率は通常40%を超え、一部の大型低速機関では50%を超えるものもある。ただし燃焼行程を経ないためにカルノー効率に支配されない高温作動燃料電池の効率には劣る。
ディーゼルエンジンでは小型から大型の機関が、自動車、軍用車両、鉄道車両、建設機械、航空機、船舶、コジェネレーション用として存在する。
1926年、ドイツの「ユンカース」と「クルップ」2社の協力により、上部のピストンとクランクシャフトをサイドロッドと呼ばれるコネクティングロッド(コンロッド)でつなぐ上下対向ピストンエンジン (Opposed piston engine) が開発され、画期的な2ストロークディーゼルエンジンが誕生した。1回の爆発で2つのピストンが動く事で、通常のレシプロ機関の倍の働きが出来る事から、ダブルアクティングとも呼ばれる。
シリンダーヘッドが存在しないこのエンジンは、燃料供給は必然的に直接噴射となり、世界初の無気噴射式直噴エンジンとなった。無気噴射とは、圧縮空気で燃料を霧状に噴射するエアインジェクション方式ではなく、圧縮行程のシリンダー内に燃料のみを高圧で噴射して霧化する方式であり、逆にエアインジェクションにより燃料と空気を同時に吹き込むものは空気噴射式と呼ばれる。
上下対向式はその後、ギア連結の上下2クランクシャフト方式へと進化、さらなる高回転化が可能となり、航空機に搭載された。
6気筒、12ピストン、排気量16.6リットルのユンカース ユモ 205 (Jumo 205) は熟成を重ね、後継のユモ 207では最大出力1,000 ps (745.7 kw) /3,000 rpm、過給器付きユモ 205では1,300 psにも達した。
ただし、航空用としては出力に対する重量過大と回転制御面で不利であり、軽量高出力な同時代の航空ガソリンエンジンにとって代わる存在とはならなかった。採用された事例も、輸送機や大型爆撃機、高高度偵察機などの、機動性への要求が高くない機種がほとんどであった。またサイドロッド+1本クランクシャフトの自動車用対向ピストンエンジンは、大型自動車用としても競合する4ストロークディーゼルエンジンの高性能化に追従できず、1950年代までには市場から敗退している。高速船舶用や鉄道用に用いられた事例もあるが、それらも複雑さによるトラブルの多さがネックとなり、一般化しなかった。この系統の対向ピストンディーゼル機関は、構造全体の複雑化に加え、熱対策面でも課題を抱え、発展を阻害された。
日本では1936年(昭和11年)に「日本デイゼル」がユンカース / クルップの特許を取得して、サイドロッド駆動の上下対向式エンジンの生産を開始、会社名を採ってND型と名付けられた。これが日本初の自動車用2ストロークディーゼルエンジンとなる。
日本デイゼルはその後「鐘淵デイゼル」へ社名を変え、製品名もKD型へと改称された。KD型は、単気筒から直列4気筒までのモジュラー設計で、気筒数を表す数字を付けられたKD1型 (1,362 cc) からKD4型 (5,448 cc) と、KD4のボアアップ版のKD5型(4気筒 7,540 cc)をラインナップしていた。
第二次世界大戦終戦直後の民生産業(鐘淵デイゼルから1946年改称)製KDエンジンは、1940年代後期の日本製高速ディーゼルとしては最強の部類に属したが、反面「背が高い、騒音が高い、(燃費・オイル消費の多さ、構造の複雑さから)維持費が高い」という意味で「三高(さんだか)エンジン」と呼ばれる難物でもあった。サイドロッド式は最高回転数が1,500 rpm程と低く、1951年(昭和26年)発表の改良KD3型(3気筒 4,086 cc)では、120 ps (88.3 kw) /1,800 rpmまで高められたが、それ以上の高回転化(高出力化)は難しく、競合メーカーの生産する簡潔な設計の4ストローク高速ディーゼル機関に対抗するにも、進化の限界を迎えていた。
民生は旧態化したKD型エンジンに見切りをつけ、今度はゼネラルモーターズとの間で自動車用2ストロークディーゼルエンジン(後述するDetroit Diesel Series 71シリーズ)に関するライセンス生産契約を交わし、1955年(昭和30年)、これも日本の自動車用としては唯一となる、ユニフロー掃気式ディーゼルエンジンのUD型エンジンを発表する。
ネイピア デルティック (Napier Deltic) は数々の異型エンジンの「発明」で知られる、ネイピア・アンド・サン (Napier & Son) が送り出した、3クランクシャフト対向ピストンエンジン。高度なメカニズムの「クルップ・ユンカース」の上下対向ピストン式直列6気筒・12ピストンをさらに3つ組み合わせ、三角シリンダーの18気筒・36ピストンとした「奇想天外エンジン」。デルティックとは、三角形を表すデルタからの造語。
向かい合った2つのピストンの位相差で掃気を行う点はユンカース ユモと同様である。3本のクランクシャフトのうち、左図では最下部となっている1軸のみ、他の2軸と逆回転となる。すべてのクランクシャフトはギアトレーンで連結され、タイミングのずれを防いでおり、同じロウ(行、隣り合うバンクでの同じ順位のシリンダー)の3つのバンクの爆発にも時間差を設けてある。
もともとはイギリス海軍の高速魚雷艇(MTB)と航空機用のエンジンとして1944年から開発が始まり、1950年の完成と同時に予定どおり高速魚雷艇に搭載され、21世紀まで現役であったほか、英国国有鉄道 (British Rail) のクラス23ディーゼル機関車「ベビー・デルティック」とクラス55ディーゼル機関車「デルティック」にも採用されたが、こちらはコンロッドに軽め穴を開けたことによる強度不足による破損や、狭い車体に無理矢理エンジンや補機、冷却装置を詰め込んだ事が原因のオーバーヒートなど、トラブルが多発した。加えて運動部品数が多いことから振動と騒音も酷く、さらに、整備をするにもイギリス国鉄の整備士では手に負えず、ネイピア社の技術者を一々呼ばないといけない事や、オーバーホールの間隔が他のエンジンよりも短かったことなどから運用コストもかさんだ。最終的には、4ストローク機関搭載でより信頼性が高くかつ高性能なインターシティー125の登場もあり、早期に現役を引退した。
ウクライナのKMDB (Kharkiv Morozov Machine Building Design Bureau) の6気筒(12ピストン)水平対向ピストンエンジンの6TD-2は、排気量16.3リットル・ターボチャージャー付きで1200hp/2600rpmの最高出力を発生するマルチフューエル直噴ディーゼルエンジンであり、自社で生産しているオプロートやT-84などの戦車に搭載されて、それらの世界最高と言われる機動力を支えている。なおKMDBでは他にも3TD(ウクライナ語版)(3気筒、6ピストン)や5TD(ウクライナ語版)(5気筒、10ピストン)など、用途は戦車(T-64やT-80UDに限られる)を含む特殊車両やモーターボートに限られるが、対向ピストンエンジンを生産している。
通常クランク型においても、1937年-1938年にかけ、ゼネラルモーターズ (GM) の一部門であったEMDとデトロイト・ディーゼルが、ルーツ式スーパーチャージャーを使った「ユニフロー掃気方式」の鉄道用と自動車用の2ストロークディーゼルエンジンを相次いで発表、生産を開始する。
567系V型12気筒エンジンを2基搭載したEMDのディーゼル機関車であるE-ユニットとF-ユニットは、共に大ヒットとなり、アメリカ国内に留まらず多くの国の鉄道で採用された。それらは戦後も長く生産が続き、流線形の「ドッグノーズ」はアメリカ型機関車を代表する顔となった。
一方、バスの場合は、4ストロークに比べでコンパクトで高出力な点を生かし、デトロイトディーゼル・シリーズ71エンジンとトランスミッションをリアに横置き搭載し、後車軸とトランスミッションを車体に対して約45度に配置したプロペラシャフトで結ぶ、アングルドライブパッケージが考案された。この駆動方式を採用したリアエンジン車で1940年から生産が開始された「GMC トランジット」はバスの新時代を拓き、以降爆発的に普及、1969年まで生産が続けられた。
シリーズ71エンジンは、グレイハウンド黄金期のシーニクルーザー (V8-71) や金魚鉢、メトロ窓のあだ名を持つニュールックトランジット (V6-71) など、GMCのほとんどのバスや大型トラックに採用されたため、日本のファンにもよく知られる存在となった。
日本の民生産業は、「民生デイゼル」として1950年に独立改組していたが、性能向上の限界に来ていたクルップ式KDエンジンに代わり、今度はGMのライセンスによる、スーパーチャージャーと頭上排気弁(2バルブ、後4バルブ)によるユニフロー掃気の2ストロークディーゼル、「ユニフロー・スカベンジング・ディーゼルエンジン (Uniflow-scavenging Diesel-engine)」を採用、1955年にこの方式の頭文字をとったUD型を発表した(1953年の日産自動車の資本参加を受け民生デイゼルは1960年に日産ディーゼル工業に社名変更)。
UD型は3・4・5・6気筒の直列型、8・12気筒のV型ともモジュラー設計であり、エンジン型式には「UD4型」のように気筒数が入れられていた。やはり燃費の悪さという弱点があったが、4ストロークのPD型発売後も1974年まで同社のトラック・バスにはUD型エンジンが搭載され、「UD」は一時、日本での高速型2ストロークディーゼルの代名詞となった。UD型エンジンは日産ディーゼル車の「UDマーク」の由来となっており、全てのエンジンが4ストロークとなった今でも愛着を込めて用いられているほか、2006年から2007年にかけて日産自動車からボルボ・グループに親会社が変わった後の2010年にはUDトラックスと法人名にもなっている(なお、2014年を境に法人格が変わっている。当該項目も参照)。
戦前、戦後を通じ、一貫して2ストロークディーゼルエンジンを作り続けた日産ディーゼルであるが、国状を反映し、戦前はドイツ、戦後はアメリカの影響を強く受けていた。
なお、ユニフロー掃気方式とは本来は後述のクロス掃気方式やループ掃気方式に対する用語であるため、上記の頭上弁通常ピストン式の2ストロークディーゼルのみをユニフロー掃気方式と称するのは本来正しいものではない。単にユニフロー掃気を用いる2ストロークディーゼルという分類で言えば、前述の対向ピストン方式も吸排気の方向が一方向で掃気が確実になるという意味において、広義のユニフロー掃気方式に含まれる為である。
ユニフロー掃気ディーゼルエンジンと同じく、掃気用ルーツブロアを持つ2ストロークディーゼルエンジンの中には、頭上弁を廃してシリンダー側面の排気ポート方式とし、クロス掃気もしくはループ掃気を行うバルブレス式2ストロークディーゼルエンジンとされたものがごく少数存在した。多くはデトロイトディーゼル・シリーズ53エンジン(頭上弁式ユニフローディーゼル)に対するシリーズ51エンジン(バルブレス式)のような、単純にコストダウンや生産性向上を目的にした設計変更に因るものであったが、中にはイギリスのクロスリーが鉄道向けエンジンとして開発したHST Vee8エンジン等のように、掃気を敢えてループ掃気として排気管内の強い排気パルスによる排気ガスの押し戻しを誘発させた上で、ターボチャージャーによる大過給を掛ける事で、ユニフロー掃気ディーゼルエンジンのターボ仕様以上の出力向上を狙ったものも存在した。クロスリーのバルブレス式エンジンによる過給方式はen:Exhaust pulse pressure chargingと呼ばれている。
戦前の大日本帝國では第一次世界大戦以降、欧米の2ストロークおよび4ストロークディーゼルエンジン技術を移入する形で船舶用ディーゼルエンジンの研究開発が行われた。特に大日本帝國海軍では艦政本部が主導し、2ストロークディーゼル機関の研究および導入が非常に盛んに行われた。戦前型の潜水艦の多くに2ストローク複動型ディーゼルエンジンが搭載されていたが、2ストローク複動ディーゼルは高出力ではあるものの、騒音が大きく、排気圧力が低い為シュノーケルを用いた主機関での水中連続航行に不向きだった為、第二次世界大戦が始まると低出力であるが騒音が低めで燃費が良く、排気圧力が高いので主機での水中連続航行に適した4ストローク単動式へと移行していった。
陸上車両では数としては少ないが戦後の陸上自衛隊の74式戦車、90式戦車のエンジンに2ストロークディーゼル機関が採用されている。ディーゼルエンジンは戦車の機関としてはガソリンエンジンに比べ、同一の排気量の場合の出力は低いが、燃料が引火しにくい為、燃料タンクに防弾処理を施さなくても安全性が高いという利点がある。
将来のエンジンとして、ダイハツは、東京モーターショー(1999年、2003年)に「2ストロークユニフローディーゼルエンジン」を出品した。2003年(平成15年)発表の軽自動車用エンジンは、排気ガスの新長期規制をクリアした上で超低燃費であると伝えられていたが、その後、市販化などには至っていない。
船舶用など、回転数が60 - 120rpm程度と極低速な大型機関では、毎回爆発である2ストロークのメリットは大きく、第2次世界大戦後の1950年代から、ユニフロー式の過給機付き2ストロークディーゼルが主流となっている。シリンダーライナー下部の掃気ポートから給気し、燃焼室上部の排気弁から排気するユニフロー方式である。スクリューの実用回転数に近い速度での低速回転に適合しており、船舶後退時のスクリュー逆回転に必須なエンジン回転方向切換に際しても、4ストローク機関より簡略に対応できることから、商船を主とした大型舶用エンジンの主流技術となっている。
ディーゼルエンジンは元々熱効率が高いが、船舶用の低速ディーゼルエンジンは理論上のディーゼルサイクルに近い燃焼サイクルが実現できる。効率を高めるためターボチャージャーやインタークーラーも装備されているのが一般的である。排気ガスエコノマイザを装備し、排熱の一部を回収、再利用する例も多い。これらの総合的なシステムによって、熱効率50%を超過する高効率なエンジンが実現されており、現在最も効率の良いエンジンの部類に入る。
またこの種のエンジンは、粗悪なC重油でも予備加熱、清浄によって使用可能で、この面でも経費を抑えることができる。反面、粗悪燃料使用にはクランクケースと燃焼室との構造的隔離が必須となり、エンジン全高が非常に高くなる。更には近年、排気ガス浄化の難しさが課題となっている。
舶用以外の分野では内燃力発電の機関としても利用されている。
始動はほとんどの場合、圧縮空気によって行われる。
建設機械の杭打ち機のうち、ディーゼルハンマー(ディーゼルハンマとも)と呼ばれるものは、それ自体が巨大な2ストローク単気筒フリーピストンディーゼルエンジンとなっている。筒状の構造で、先端には杭に宛がわれるアンビル、筒内には上下動する槌(ハンマー)が内蔵されており、筒の側面に燃料ポンプと吸排気口が設けられている。内部の槌がピストン、アンビルの内側が燃焼室の役目をそれぞれ果たすようになっており、ディーゼルハンマーよりプリミティブな打撃形式であるモンケンが、打撃のたびに巻上機(クレーン)で槌を持ち上げて自然落下させるのに対して、ディーゼルハンマーは槌が落下する際に予めアンビルに燃料(重油)を流し込んでおくことで打撃と同時に爆発が発生、膨張行程により槌が最上位まで戻るため、連続的に燃料を供給し続けることでモンケンより効率的かつ高速な連続打撃を行う事が可能となる。ディーゼルハンマーは動力機関ほどの掃気効率が要求されないため、吸排気ポートも共用化されたごく単純なものとなっているが、騒音が大きく排気ガスも汚いことから、近年ではバイブロハンマー等のより静音・低振動の杭打機に取って代わられ、世界的にはまだ広く用いられているものの、日本の建設現場で目にすることは稀となっている。
ピストンの上下により、吸気口が開閉する。ピストン自体が弁の役割を兼ねる。ピストンバルブ式とも呼ばれる。
シリンダ内が負圧になると開くリード弁により吸気を行う。ピストン弁より多くの回転域に於いて良好な出力特性を示す。ピストン弁式のように混合気をクランクケースから排出しない。リードバルブ式とも呼ばれる。
通常のリードバルブ式2ストロークエンジンはポペットバルブを持つ4ストロークエンジンと異なり、逆回転が可能である。模型飛行機用ではプロペラのねじりがどちらでも使える。多くの初期の小型の船舶用2ストロークエンジンではシリンダ内が負圧になると開くポペットバルブが使用されており、その慣性質量の為、低回転域に於いてのみ逆回転が可能であった。
メッサーシュミットのKR200(英語版)は前進用と後退用の2つのコンタクト・ブレーカー(英語版)を切り替えて、エンジンを逆回転させることにより後進した。KR200はエンジンを一度停止した後、点火スイッチを通常よりも深く押し込む事で後退用の点火時期が選択されて逆回転が開始された。KR200には「ダイナスタート」と呼ばれる電動発電機(スターター・ジェネレータ(ドイツ語版))が搭載されており、セルモーターの回転を容易に逆転する事ができた。
一方、リードバルブ式2ストロークエンジン搭載の日本の軽自動車では、点火時期の調整の不備からエンジンが逆回転したことによる事故があり、スズキ・アルトなどはこの事が遠因となり2ストロークエンジンの採用継続を諦めたとされている。通常、点火時期は始動時には吸気系統への逆火(英語版)を防ぐ目的で圧縮上死点より後で点火させる=点火時期を遅角させる事が一般的で、キックスターターやハンドクランクなど手動始動装置を装備した1950年代以前の車両の場合には、点火時期を手動調整できるものも存在した。しかし、リードバルブ式2ストロークエンジンは始動時に点火時期を大きく遅らせすぎてしまうと、手動始動に失敗して圧縮圧力によるクランクの逆回転(キックバック、ケッチン)が起きた時、遅らせた点火時期がクランクが正回転している際の進角させた点火時期と類似した角度になってしまう場合があり、そのまま逆回転状態が継続する事態が発生した。自動車用エンジンやオートバイ用エンジンなどで逆回転が発生するとエンジン音が特に変化しないにもかかわらず、前進ギアで後退、後退ギアで前進してしまう為、大変危険であった。
今日の2ストロークエンジンで用いられるCDIなどの電子式点火装置は、スターターによる回転力が不十分な場合など、エンジンがごく低回転の時には点火を行わないアンチ・キックバック機構が組み込まれることで、キックバックに起因する逆回転を可能な限り防ぐ措置が採られているが、逆回転による始動が完全に成立してしまった場合のフェイルセーフまでは成されておらず、2017年現在でもスクーターやオフロードバイクなどで操縦者の意図しない逆回転の事例が報告されている。
上記の事故事例のように、リードバルブ式2ストロークエンジンは点火時期が反転に近い角度まで狂った場合、セルモーターで通常の始動操作を行っても逆回転が起きてしまう可能性がある事が経験則から知られていたが、カナダのボンバルディア(現:ボンバルディア・レクリエーショナルプロダクツ)は、リードバルブ式2ストロークエンジンが比較的低い回転数で正回転中に、点火時期を逆回転用に切り替えることでエンジンを停止することなく逆回転への移行が可能となる事を突き止め、1990年に独自の逆回転システムの米国特許を取得、スキードゥーブランドのスノーモービルでは停車中に後退スイッチを押す事で、エンジン回転が一旦エンジンストールに近い回転数まで落ちた後、そのまま逆回転へと移行して後退運転が可能となっている。スノーモービルでは通常、後付けの後退ユニットを組み込む事で後退機能を手に入れる必要があるため、スキードゥーの「ロータックス・エレクトリック・リバース(RER)」システムは後退機能を安価に実装する事に貢献した。
クランクウェブロータリーバルブ式と、ロータリーディスクバルブ式の2つに分かれる。
クランクシャフトにあるクランクウェブの一部を切り欠いて吸気弁とする方式である。吸入方向はクランクケースリードバルブ式同様、クランク軸放射(ラジアル)方向である。
専用の円盤弁を用いて吸気弁とする方式である。吸入方向はクランク軸同軸(アキシャル)方向である。
クロスフロー掃気とも呼ばれる。掃気孔と排気孔が向かい合った形のもの。そのままでは掃気孔からの新気が素通りして排気孔へ逃げてしまうため、ピストン頂部を山形に盛り上げたり、掃気の流れを上向きにすることにより排気孔に逃げる新気を減らす工夫がなされる。それでもやはり燃焼室内を素通りする新気が多く、燃焼室上部に燃焼ガスが残りやすいという弱点のため現在ではあまり用いられない。
シニューレ式掃気(英: Schnuerle)とも呼ばれる。掃気孔を排気孔の正面から左右にずらした位置に配置することにより、掃気孔からの新気を一度シリンダ内面にぶつけたり、それぞれの掃気孔からの新気をぶつけるなどして反転させて燃焼ガスを追い出す方式である。
ループ掃気は掃気・排気孔の配置によってシニューレ式のほかに、掃気孔を排気孔の真下に配置しターンフローのように混合気を大きくシリンダー内を旋回させるMAN式(ループ式)、シリンダー内の片側半分に多数の掃気孔、もう半分に少数の排気孔を設けたクロスフロー方式の改良型ともいえるカーチス式(英語版)の二つが代表的で、その他にも小型模型飛行機向けのエンジンではシニューレ式の掃気孔配置を若干変化させたスワール式やリバースループ式などがあるが、今日ではシニューレ式が一般的である。高性能2輪車のエンジンでは掃気孔の面積を大きくするため、さらに一対の補助掃気孔を追加(5ポート方式)したり、排気孔の向かい側にも補助掃気孔を設けているもの(7ポート方式、ヤマハ発動機はトルク・インダクションと呼称)もある。
クロス式に比べて掃気性能は向上するが、シリンダ内のガスの流れが複雑になるためシリンダの温度が不均一になって、熱歪みが発生しやすくなるのが欠点である。
ループ式掃気を補助するため排気ポートを可変式(後述のパワーバルブシステム)としたり、排気管の一部を大きく膨らませたチャンバー構造として、排気ポート側に吹き抜けた新気をシリンダー内に押し戻す反射波を発生させる事も行われている。
ユニフロー掃気とは、新気(空気もしくは混合気)をシリンダーの根元から吸気しながら、シリンダ先端から燃焼ガスを排気することで、掃気を反転せず、一方向にしたものである。ユニフロー式にもいくつか種類があるが、頭上排気弁とシリンダ下部の掃気ポートを併用することでユニフローを実現した型が唯一生産中であり、大型船舶などの低速ディーゼルエンジンに使用される。ユニフロー掃気では新気と燃焼ガスが混ざりにくく、掃気効率が高くなる。掃気孔を等間隔で大きく取ることができ、シリンダの温度分布を均一にできることから熱歪みが発生しにくくなる。ロングストロークにするほど、これらの利点が生かせ、高効率エンジンを実現できる。
頭上弁式ユニフロー掃気2ストロークはディーゼルエンジンだけで実用化されており、大型舶用ディーゼルは単体の熱機関で最高の熱効率50%を誇っている。また過給機による掃気となっておりガソリンエンジンのようなクランクケース圧縮は行われたことがない。
ガソリンエンジンにおいては高価な過給機と頭上排気弁が必要なユニフロー掃気2ストロークエンジンは実用化しなかった。ガソリン機関では簡素な構造で低コスト化することが2ストローク機関の目的とされ、安価なクランクケース圧縮によるループフロー掃気やクロスフロー掃気が量産され発達した。
一方ガソリンエンジンでは1910年代から1970年にかけて細々とスプリット・シングルが作られたが、リードバルブや排気干渉を利用して改善されたループフロー掃気やクロスフロー掃気にも劣る性能になったため既に廃れている。
対向ピストンエンジンや、これを燃焼室のある真ん中から折り曲げた形のスプリット・シングルエンジンをユニフロー掃気に含めることもあるが、合理性がないため廃れた。これらは掃気効率の良さを残してはいるものの、一対のシリンダを一方向に掃気することで、かえって2つのシリンダの掃気状態と温度分布を逆に傾ける。すなわちピストンの動作方向まで考えると片方のシリンダの掃気方向が必ず逆になり、ユニフローとは言えなくなる。燃焼室形状と温度の偏りは最適に程遠く、熱効率も信頼性も低下する。2つのシリンダで1つの掃気と1つの燃焼室を共有する意図が2つのシリンダを別々に設計・製造、冷却・潤滑せざるを得なくし、コストパフォーマンスも低下する。
大半の近代における2ストロークエンジンはパワーバルブシステムを採用している。排気デバイスとも呼ばれ、通常は排気口をふさいでいるが、作動時には1もしくは2の排気口がタイミングにあわせて開く。排気口の開度を大きくとることが出来る。
段付ピストンエンジン(ステップドピストンエンジン)は燃焼室において圧縮比を高める為にピストン上面に段をつけたものである。ピストンの重量は段をつける事により20 %重くなり、慣性質量が増加する。利点はピストンの潤滑が容易になり、4ストロークエンジン同様、平軸受けが使用できる事である。特許はBernard Hooper Engineering Ltd (BHE) が2005年に取得した。
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"text": "2ストローク機関(ツーストロークきかん)は内燃機関の一種で、2行程で1周期とする2ストローク1サイクルレシプロエンジン式の名称。英語のtwo-stroke cycleの省略で、昭和年間以前には2サイクル機関・2行程機関とも呼ばれた。",
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"text": "2ストロークエンジンは1往復(行程換算2回 (=2 stroke))で1周期を完結するエンジンで、ピストン1往復(クランクシャフト1回転)ごとに燃料が燃焼する。",
"title": "概要"
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"text": "",
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"text": "行程は以下の通りである。",
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"text": "ここまでの行程で動力伝達軸であるクランクシャフトは1回転する。",
"title": "概要"
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"text": "掃気は2ストローク機関特有の動作で、圧力のかかった新気(混合気または空気)をシリンダー内へ導入し、その勢いとピストンの圧縮力で同時に燃焼ガスを排出するものであり、掃気ポートがピストンの下降によって開かれ、上昇によって閉じられるまで続く。掃気に圧力を与えることを一次圧縮と呼び、ピストンの下降に伴うクランクケースの容積変化による方法と、外部に装備した圧縮機または過給器による方法とがある。",
"title": "概要"
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"text": "このように、4ストローク機関での4行程を2つずつ同時に行うことで、ピストン上死点で毎回燃焼(点火/着火)が起こることが特徴である。",
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"text": "最初の実用的な内燃2ストローク・エンジン(同時に、最初の実用内燃エンジン)となったのは、1858年に開発されたガス燃料機関のルノアール・エンジンである。考案者はベルギー出身でフランスで活動した技術者ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール (Jean Joseph Étienne Lenoir) で、石炭ベースのガス灯用ガス (\"Illuminating gas\") を燃料とし、電気点火装置 (double-acting electric spark-ignition) による火花点火方式を用いた。この発明は、1860年にフランスで特許を取得している。",
"title": "概要"
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"text": "小工場での定置動力等には蒸気機関より軽便・簡易で、当時普及が進んでいた都市のガス供給網を利用できるメリットもあって、ある程度普及したが、後世の2ストローク・エンジンのような一次圧縮がなされないため、熱効率は著しく低かった。ルノアールは「機関内の圧力が高い構造は危険ではないか」と危惧していたからである。",
"title": "概要"
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"text": "2ストロークのガソリンエンジンは、1878年に、スコットランド出身のデュガルド・クラーク (en:Dugald Clark 1854-1932) が最初に製造し、1881年に英国特許を取得した。",
"title": "概要"
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"text": "既にこの時代には、圧縮行程を含む4ストロークのオットーサイクル・エンジンが実用化されており、燃料ガスの圧縮によって熱効率が高まることが認識されていた。",
"title": "概要"
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"text": "クラークのエンジンは、エンジン本体外部に独立したシリンダー式の圧縮装置・掃気装置を装備して4ストローク・エンジンの圧縮行程に代えたものであり、4ストロークエンジンに比肩する性能を出すことができたが、4ストロークエンジン同様に専用のバルブを設ける必要があるなど、構造がやや複雑で、掃気機構のフリクションロスもあった。",
"title": "概要"
},
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"text": "クラークによる、エンジン本体の外部に圧縮・掃気装置を設ける手法は、事実上世界初の過給機付きエンジンともいえるものであり、のちにより構造簡略な回転式のスーパーチャージャーに置き換えられ、2ストローク、4ストロークの別なく利用されることになった。特に2ストローク・ディーゼルエンジンのメカニズムは、燃料供給とその点火(ディーゼルエンジンでは着火)手段を除けば原理的にはクラークの手法を踏襲していると言ってよい。ただし、クラーク本人は「シリンダー式掃気装置は加圧ポンプではなく、単にシリンダー内の掃気を補助してスムーズに排気管へ燃焼ガスを排出させる為の装置に過ぎない」という主旨を述べていたとされる 。",
"title": "概要"
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"text": "現在よく知られている形のシンプルな2ストローク・ガソリンエンジンは、1889年にイギリスのジョゼフ・デイ (Joseph Day 1855-1946) が発明した。意図としては、先行して開発された各種のガソリンエンジンの特許回避を目的としていた。",
"title": "概要"
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"text": "この単純なエンジンは「省略できる部品は全て省略し、4ストロークエンジンでは分離して完全に行われていた各行程を、効率を犠牲にして統合・簡略化した」ことで実現された。気筒頭の点火プラグを除いては、ポペットバルブすら持たない簡潔な構造故に、絶対的な効率以上に軽量・簡易性が要求される小型2ストロークエンジンの完成形となった。",
"title": "概要"
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"text": "その作動メカニズムは以下に示すいくつかの特異な要素を組み合わせて成立しており、極めてユニークな着想の集合体と言える。",
"title": "概要"
},
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"text": "さらに、シリンダーポート構造やクランクケース圧縮機構を成立させるための特異な技術的着想として、混合燃料潤滑が取り入れられた。",
"title": "概要"
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"text": "デイ式の2ストローク・エンジンは、小型の簡易なガソリンエンジンにおける決定的な方式となった。第一次世界大戦以降に広く用いられるようになり、特にDKWやザックス (Fichtel & Sachs) などのドイツのメーカーにおいてその使用が顕著だった。小型のものを中心としたオートバイはもとより、1930年代以降は小型自動車にも盛んに使用されたが、1960年代以降自動車用から廃れ始め、1990年代になると2輪車でも排出ガス規制の面から4ストロークエンジンにその地位を譲るようになる。",
"title": "概要"
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{
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"text": "現在、2ストロークのガソリンエンジンが多用されているのは、極めて小型のエンジンでなければシステムの成立しにくい機器類(小型発電機、草刈機やチェーンソーなどの可搬機器、可搬消防ポンプ、ラジコン模型用エンジンなど)が主である。そのほとんどで、ジョセフ・デイのコンセプトに基づく、バルブレス・シリンダーポート、クランクケース圧縮、混合燃料潤滑方式が採用されている。",
"title": "概要"
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"text": "バルブレス・シリンダーポート2ストロークエンジンにおける圧縮効率の低下や吹き抜けに対する策として、ガソリンエンジンの場合はチャンバーを利用する方法がある(詳細はチャンバーを参照)。",
"title": "概要"
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"text": "チャンバーの形状は特定の回転域で充填効率が高まり、高トルクが得られる回転域「パワーバンド」が表れる事が多い。中には、YPVSのようにシリンダーの排気ポートを電動で可変させたり、V-TACSのようにサブチャンバーを開閉させる事によりパワーバンドを広げる工夫もある。YEISのように吸気側にチャンバーを設ける工夫もある。1970年代中頃の2輪ロードレース世界選手権WGPでは、500 ccクラスにおいて日本メーカー参戦とともに4気筒500 ccエンジンが台頭していくが、その当初からクランク回転180度ごとに2気筒ずつ点火する180度等間隔同爆がヤマハとスズキによって採用、ホンダは120度(3気筒)/90度(4気筒)ごとに1気筒ずつの等間隔爆発が採用されていた。その後1992年にデビューした92年型ホンダ・NSR500ではクランク回転の292度と68度地点で点火される不等間隔同爆エンジンが採用された。これは最高出力を求めていった結果、1万回転近くから1万2千回転前後で突然最大トルクが発生する、パワーバンド(最大トルク発生回転域)が狭い、扱いがシビア(いわゆるピーキー)であった今までのレース用の大出力2ストロークエンジンから、ピークパワーやレスポンスを犠牲にしても、爆発を不等間隔にしてタイヤの空走区間を増やすことによって、特にホンダが悩まされていたトラクション性能を劇的に向上させた。結果大幅なラップタイムの短縮に加え、当時多発していた転倒も扱いやすい特性で減少し高い安定度も実現した。その圧倒的な差から、ライバルの各メーカーでも270度-90度や300度-60度などの不等間隔同爆エンジンが採用されるきっかけとなった経緯がある。",
"title": "概要"
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"text": "ガソリンを燃料とするものは、小出力の小型機器に用いられる。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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"text": "2ストロークガソリン機関では、ガソリンと空気の混合気を吸気し、これを掃気 (en:Scavenging (automotive)) にも用いなければならないので、クランクケース内で一次圧縮を行う必要がある。すなわち、燃焼室側が圧縮行程の時、同時にピストン上昇による負圧を利用して吸気を行う。この吸気は燃焼室側が膨張行程でピストンが下降する際に同時に圧縮され(一時圧縮)、下死点付近で開いた掃気ポートより噴き出して膨張行程を終えた残留排ガスを排気ポートから追い出す(掃気)と同時に新気でシリンダ内を充填する。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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"text": "FI(燃料噴射装置)については1960年代からオートバイ競技の世界で試行錯誤が見られるが、2ストロークエンジンのピストン速度の範囲に対応するのが難しく、速度の範囲が狭い船舶用を除いては長らく実用化されなかった。1999年にオートバイメーカーのアプリリアがオービタル社およびシーメンス社とともに「Ditechシステム」を開発。初めて2ストロークにおけるFIと直噴を実用化して50ccスクーターに搭載し、燃費を従来の40%、排ガスを80%それぞれ削減することに成功した。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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"text": "掃気時にはシリンダ内の残留ガス(排気)と新気の混合が避けられず、残留ガスを全て排気しようとすると、混合した新気(未燃ガスとオイル)も一部排出されてしまう。このため、排気ガスには大量の炭化水素が含まれるが、燃焼室の温度が低いために窒素酸化物は少ない。炭化水素は触媒で燃やすことが可能であり、もともと窒素酸化物は少なく対応が不要のため、当時の排気ガス規制は合格することができたが、将来的に窒素酸化物の規制が厳しくなると合格できる目処はたたなくなっていった。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
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"text": "その為、西ヨーロッパおよび日本の普通自動車及び小型自動車では4ストロークエンジンの性能が向上してきた1960年代後半にはほとんど姿を消しており、排気量が小さな日本の軽自動車においても1980年代に2ストロークエンジンは絶滅した。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "世界保健機関 (WHO) は東南アジアと太平洋地域において大気汚染によって毎年、537,000人が死亡していると報告している。1億台に及ぶ2ストロークエンジンのタクシーとオートバイが要因である。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
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"text": "ただし現在でも比較的排ガス規制の緩いオートバイやチェーンソーなどでは、改良を重ねながら2ストロークガソリンエンジンが用いられている。また4ストロークの技術を応用したり、対抗ピストン型にすることで4ストロークガソリンエンジンの環境性能を凌ぐ可能性があるとも考えられており、実験開発は一部のメーカーで継続されている。",
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"text": "1970年代まではヨーロッパの小型車や日本の軽自動車を中心に2ストロークエンジンが数多く存在した。限られた排気量で4ストロークよりも圧倒的に高い出力が得られることや、小型・軽量・低コストという点で、当時排気量上限が360ccだった軽自動車を含む小型車との相性が抜群であったが、排出ガスの規制強化を機に大幅に減少した。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
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"paragraph_id": 29,
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"text": "自動車排出ガス規制が日本国内で開始(昭和48年排出ガス規制)された1973年(昭和48年)ごろより、360ccの4ストロークエンジンへの移行が始まり、日本版マスキー法と呼ばれた1975年の昭和50年排出ガス規制(識別符号A-またはH-)、1976年の昭和51年排出ガス規制(識別符号B-またはC-)の頃には、ダイハツとスズキを除く全メーカーが550ccの4ストロークエンジンへの移行を完了した。マスキー法の規制値を完全達成した1978年の昭和53年排出ガス規制(識別符号E-)以降は、スズキのみが規制に適合した車両を製造していた。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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{
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"text": "ダイハツの軽商用車ハイゼットは1981年まで360ccのZM型搭載車を販売した。1975年以降は昭和50年規制に適合。ダイハツの場合は360cc規格時代の軽限定免許のドライバーのために360ccでもトルクが強い軽商用車を供給する必要があった。軽限定免許では1976年以降の550cc規格軽自動車の運転は認められないため、当時50万人程いたといわれる軽限定免許ユーザーのために1981年8月まで継続生産されることとなった。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "スズキの軽自動車アルトは、トルクコンバータ式2速ATの運転性確保のためAUTOMATICのみ1981年まで、キャリイ及びエブリイは1985年まで、ジムニー(SJ30系)は、雪道や不整地での運転性を確保するため1987年まで、トルクが強い2ストロークエンジン車が併売されていた。SJ30系ジムニーはマイクロカーを除くと日本最後の2ストロークエンジン車となった。いずれの車種も軽商用車に当たる為、排ガス規制は昭和50年規制が適用された。軽乗用車のエンジンでは酸化触媒を二重に配置し、エアポンプ式二次空気導入装置も併設されたスズキ・TC (Twin Catalyst) システムの導入で昭和53年規制に適合していた。より排ガス規制の厳しい軽乗用車ではフロンテが1981年まで、セルボが1984年まで2ストロークを継続した。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
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"paragraph_id": 32,
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"text": "世界的には本格的な四輪自動車では、1990年代初頭に東ドイツのトラバントが製造終了されたことでほぼ絶滅したと言える。それ以降も東南アジアでは三輪タクシーなどには採用例があるが、欧州車・日本車共に2ストロークエンジン搭載の四輪車は製造されていない(光岡自動車は排気量50ccの強制空冷2ストロークエンジンを搭載したマイクロカーを1998年~2007年に販売したが、これは法規的には原動機付自転車であった)。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "しかしその後も新たな2ストロークガソリンエンジンの模索は続いている。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "競技の世界では1960年頃に高出力に耐えうる2ストロークエンジンが作られるようになると、4ストロークよりも軽量・高出力・低コスト・優れたメンテナンス性などのメリットを買われて、21世紀を迎えるまで、サーキットでもオフロードでも、耐久レースを除き2ストロークが主流となった。創業者本田宗一郎の信念から2ストロークを忌避していたホンダも、1970年~1990代のモトクロスや1980~2000年代のロードレース世界選手権では2ストロークを用いざるを得ないほどであった。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "1980年以前には大排気量車にも搭載されていた。2000年ごろまでは主に250cc以下で採用されていたが、環境問題や法規制の強化に伴い、四輪自動車同様4ストロークエンジンへの移行が進んだ。2000年施行の平成10年度自動車排出ガス規制により、ホンダ・ジャイロXを最後として4ストロークに移行した。日本では平成18年度自動車排出ガス規制の全面施行により、競技用車両以外の全ての2ストロークエンジン搭載車が消滅した。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "EU圏では2000年のユーロ3排出ガス規制以降、原動機付自転車の2ストロークの規制も強化され、チャンバーに触媒コンバータが内蔵されるなどの対策が施されていたが、2010年代にはこれらの二輪車もほぼ4ストロークへと移行した。ロードレース世界選手権のGP500も4ストロークに移行し、MotoGPに名称が変更された。モトクロスではダートでのハイスピードバトルで有利な特性もあって4ストロークが主流となった。しかしKTMグループのように、オフロード競技での需要に応えて2ストロークの開発を続けるメーカーもあった。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2010年代においても発展途上国では2ストロークのスクーターなどが残り、局所的な大気汚染の大きな原因の1つになっていると指摘され淘汰が進んだ。しかし発展途上国以上に環境規制が厳しい欧州市場では、KTMやアプリリアのような有名メーカーから、ベータやファンティック、TM Racing、シェルコなどの小規模なオフロード車メーカーからも、2ストロークエンジンを搭載した新車が発売され続けている。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アプリリアは1999年からスクーターにFI(燃料噴射装置)と直噴を採用していたが、2012年には電子制御式直噴システムに進化させて搭載した。2018年にKTMはEuro4規制対応のため、同社として、そしてオフロードバイクとして初となる2ストロークエンジン用FI「TPI」(非直噴)を開発。3kg程度の重量増加に抑えて発売した。その後カスタム界でも2ストロークをFI化する例も見られ始めている。2024年式でTPIは電子制御を進歩させた「TBI」に生まれ変わり、Euro5規制をクリアした。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2024年式のKTM・250EXC(2ストローク)/250EXC F(4ストローク)を例にして比較すると、2ストロークは4ストロークよりエンジン単体で3kg軽い。ただし燃料タンクは2ストロークの方が0.5L多く、シャシー全体での軽さは1.3kg程度となる。馬力/トルクは2ストロークが47馬力/40.8Nm、4ストロークが42馬力/非公表となっている。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2018年時点のKTMの全世界販売の半分以上は2ストロークエンジン車で、南アフリカなど国によっては2/3が2ストロークエンジン車であったという。日本メーカーではかつて「2ストのヤマハ」とも呼ばれたヤマハ発動機が現在も2ストロークに最も積極的であり、国内では日本4大メーカー中唯一モトクロッサーに2ストロークモデルを用意し、正規販売している。スズキ、カワサキも海外ではごく小規模だが販売を行っている。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2ストロークと4ストロークのどちらが有利かはカテゴリや路面によって異なるが、トライアルやハードエンデューロのようにテクニカルなセクションをこなす場合は2ストロークが有利なことが多い。これは2ストローク車が軽量なこと、トルクで優れているため極低回転域でエンストしづらく粘りがあることなどが理由である。一方で高速域を維持するモトクロスやラリーレイドのような競技では、パワーバンドが広く高回転域で安定したトラクション性能を持つ4ストロークが強さを見せる。伝統的なエンデューロのように2ストロークと4ストロークが勝ったり負けたりするカテゴリでは、両者のどちらがいいかは常に議論の的となる。中にはイベントによって両者を使い分けるライダーもいる。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "FIM(国際モーターサイクリズム連盟)が主催するモトクロスやエンデューロなどの育成カテゴリでは、125cc以下の2ストロークエンジンだけが走れるクラスが現在もある。これは半クラッチを上手に使わないとうまく走れない2ストロークの特性が、育成に最適であるという考えが根底にある。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ATV(全地形対応車、四輪バイク)においてはスポーツタイプを中心に誕生初期から00年代まで用いられたが、排ガス規制やスポーツATV自体の衰退もあり、2006年のヤマハ・バンシー350の終了を最後に生産されていない。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "動力船(船外機や水上オートバイ)でも、2輪車と同様な利点から2ストロークエンジンが主流であったが、近年は環境・騒音規制に対応する必要もあり、4ストロークエンジン(ヤマハMJ-160FXなど)や環境対応型の2ストロークエンジン(直噴式(ボンバルディアSEADOO 3D-DIなど)又は電子制御式燃料噴射装置と触媒の併用式(ヤマハ MJ-GP1300R))への転換が進んでいる。日本国内でも、琵琶湖では「滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例」(琵琶湖ルール)により、従来型2ストロークエンジンの使用が禁止(経過措置あり)されるなどの取り組みがなされており、従来型2ストロークエンジンの使用は減少していくものと思われる。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "スノーモービルでは2023年現在も北米のメーカー(ポラリス、アークティック・キャット、スキー・ドゥー)が採用している。中でもポラリスのスノーモービルは全て2ストロークエンジンである。。ヤマハ発動機も事業撤退発表まで2ストロークエンジンのスノーモービルを製造していた。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "欧米ではチェーンソーや芝刈り機/刈払機のエンジンにも排出ガス規制が及ぶようになり、燃焼の制御が困難な従来型2ストロークエンジンの使用機会は少なくなってきている。",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2ストロークガソリン機関では、その構造上クランクケース内に混合気を導入し一時圧縮を行う必要があるため、同じくクランクケース内にあるコンロッド大小端部やクランクシャフトの主ベアリングなどを、潤滑油をクランクケース内に保持したままで飛沫潤滑/給脂することができない(ガソリンで希釈されてしまう)。このため、",
"title": "2ストロークガソリンエンジン"
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{
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"text": "ディーゼル機関ではガソリン機関のように火炎伝播の限界によるボアの限界がないため、気筒容積の拡大だけで大型化できる。またガソリン機関に比べ、熱効率が高く、多種類の燃料を使用することが可能である。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "大型の2ストロークディーゼル機関は自動車などに搭載されるレシプロエンジンのように、ピストンの上死点のみで爆発が起こる単動式(シングルアクティング)のほか、レシプロ式蒸気機関のようにピストンの下死点側でも爆発を起こすか(低速型機関)、2つのピストンを対向配置して1つの爆発で2つのピストンを同時に動かす事で効率を単動式より高める1気筒2ピストン式(対向ピストン式)の複動式(ダブルアクティング)が存在するが、各種の複動式は単動式に比した場合の構造複雑化がデメリットとなり、高速型、低速型とも後年に至る主流とはならなかった。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1930年代末にアメリカ合衆国で実用化の進んだ2ストロークユニフロー掃気式の中・高速ディーゼル機関は、軽量で高出力であったことから、4ストロークエンジンに伍して普及したが、燃費や騒音面での不利、排出ガス浄化対策の難などから、自動車用の高速エンジンは過給器を備えた4ストローク高速ディーゼル機関に主流を取って代わられた。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2ストロークディーゼル機関が21世紀初頭まで長期にわたって最も成功しているのは、船舶用低速ディーゼル機関の分野である。トルク変動が小さいこの用途においてはディーゼル内燃機関と2ストロークの組み合わせは高効率を実現できるため、この種の動力機関の主流となっている。過給器との併用により熱効率は通常40%を超え、一部の大型低速機関では50%を超えるものもある。ただし燃焼行程を経ないためにカルノー効率に支配されない高温作動燃料電池の効率には劣る。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
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"text": "ディーゼルエンジンでは小型から大型の機関が、自動車、軍用車両、鉄道車両、建設機械、航空機、船舶、コジェネレーション用として存在する。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1926年、ドイツの「ユンカース」と「クルップ」2社の協力により、上部のピストンとクランクシャフトをサイドロッドと呼ばれるコネクティングロッド(コンロッド)でつなぐ上下対向ピストンエンジン (Opposed piston engine) が開発され、画期的な2ストロークディーゼルエンジンが誕生した。1回の爆発で2つのピストンが動く事で、通常のレシプロ機関の倍の働きが出来る事から、ダブルアクティングとも呼ばれる。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "シリンダーヘッドが存在しないこのエンジンは、燃料供給は必然的に直接噴射となり、世界初の無気噴射式直噴エンジンとなった。無気噴射とは、圧縮空気で燃料を霧状に噴射するエアインジェクション方式ではなく、圧縮行程のシリンダー内に燃料のみを高圧で噴射して霧化する方式であり、逆にエアインジェクションにより燃料と空気を同時に吹き込むものは空気噴射式と呼ばれる。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "上下対向式はその後、ギア連結の上下2クランクシャフト方式へと進化、さらなる高回転化が可能となり、航空機に搭載された。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "6気筒、12ピストン、排気量16.6リットルのユンカース ユモ 205 (Jumo 205) は熟成を重ね、後継のユモ 207では最大出力1,000 ps (745.7 kw) /3,000 rpm、過給器付きユモ 205では1,300 psにも達した。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ただし、航空用としては出力に対する重量過大と回転制御面で不利であり、軽量高出力な同時代の航空ガソリンエンジンにとって代わる存在とはならなかった。採用された事例も、輸送機や大型爆撃機、高高度偵察機などの、機動性への要求が高くない機種がほとんどであった。またサイドロッド+1本クランクシャフトの自動車用対向ピストンエンジンは、大型自動車用としても競合する4ストロークディーゼルエンジンの高性能化に追従できず、1950年代までには市場から敗退している。高速船舶用や鉄道用に用いられた事例もあるが、それらも複雑さによるトラブルの多さがネックとなり、一般化しなかった。この系統の対向ピストンディーゼル機関は、構造全体の複雑化に加え、熱対策面でも課題を抱え、発展を阻害された。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "日本では1936年(昭和11年)に「日本デイゼル」がユンカース / クルップの特許を取得して、サイドロッド駆動の上下対向式エンジンの生産を開始、会社名を採ってND型と名付けられた。これが日本初の自動車用2ストロークディーゼルエンジンとなる。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "日本デイゼルはその後「鐘淵デイゼル」へ社名を変え、製品名もKD型へと改称された。KD型は、単気筒から直列4気筒までのモジュラー設計で、気筒数を表す数字を付けられたKD1型 (1,362 cc) からKD4型 (5,448 cc) と、KD4のボアアップ版のKD5型(4気筒 7,540 cc)をラインナップしていた。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦終戦直後の民生産業(鐘淵デイゼルから1946年改称)製KDエンジンは、1940年代後期の日本製高速ディーゼルとしては最強の部類に属したが、反面「背が高い、騒音が高い、(燃費・オイル消費の多さ、構造の複雑さから)維持費が高い」という意味で「三高(さんだか)エンジン」と呼ばれる難物でもあった。サイドロッド式は最高回転数が1,500 rpm程と低く、1951年(昭和26年)発表の改良KD3型(3気筒 4,086 cc)では、120 ps (88.3 kw) /1,800 rpmまで高められたが、それ以上の高回転化(高出力化)は難しく、競合メーカーの生産する簡潔な設計の4ストローク高速ディーゼル機関に対抗するにも、進化の限界を迎えていた。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "民生は旧態化したKD型エンジンに見切りをつけ、今度はゼネラルモーターズとの間で自動車用2ストロークディーゼルエンジン(後述するDetroit Diesel Series 71シリーズ)に関するライセンス生産契約を交わし、1955年(昭和30年)、これも日本の自動車用としては唯一となる、ユニフロー掃気式ディーゼルエンジンのUD型エンジンを発表する。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ネイピア デルティック (Napier Deltic) は数々の異型エンジンの「発明」で知られる、ネイピア・アンド・サン (Napier & Son) が送り出した、3クランクシャフト対向ピストンエンジン。高度なメカニズムの「クルップ・ユンカース」の上下対向ピストン式直列6気筒・12ピストンをさらに3つ組み合わせ、三角シリンダーの18気筒・36ピストンとした「奇想天外エンジン」。デルティックとは、三角形を表すデルタからの造語。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "向かい合った2つのピストンの位相差で掃気を行う点はユンカース ユモと同様である。3本のクランクシャフトのうち、左図では最下部となっている1軸のみ、他の2軸と逆回転となる。すべてのクランクシャフトはギアトレーンで連結され、タイミングのずれを防いでおり、同じロウ(行、隣り合うバンクでの同じ順位のシリンダー)の3つのバンクの爆発にも時間差を設けてある。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "もともとはイギリス海軍の高速魚雷艇(MTB)と航空機用のエンジンとして1944年から開発が始まり、1950年の完成と同時に予定どおり高速魚雷艇に搭載され、21世紀まで現役であったほか、英国国有鉄道 (British Rail) のクラス23ディーゼル機関車「ベビー・デルティック」とクラス55ディーゼル機関車「デルティック」にも採用されたが、こちらはコンロッドに軽め穴を開けたことによる強度不足による破損や、狭い車体に無理矢理エンジンや補機、冷却装置を詰め込んだ事が原因のオーバーヒートなど、トラブルが多発した。加えて運動部品数が多いことから振動と騒音も酷く、さらに、整備をするにもイギリス国鉄の整備士では手に負えず、ネイピア社の技術者を一々呼ばないといけない事や、オーバーホールの間隔が他のエンジンよりも短かったことなどから運用コストもかさんだ。最終的には、4ストローク機関搭載でより信頼性が高くかつ高性能なインターシティー125の登場もあり、早期に現役を引退した。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ウクライナのKMDB (Kharkiv Morozov Machine Building Design Bureau) の6気筒(12ピストン)水平対向ピストンエンジンの6TD-2は、排気量16.3リットル・ターボチャージャー付きで1200hp/2600rpmの最高出力を発生するマルチフューエル直噴ディーゼルエンジンであり、自社で生産しているオプロートやT-84などの戦車に搭載されて、それらの世界最高と言われる機動力を支えている。なおKMDBでは他にも3TD(ウクライナ語版)(3気筒、6ピストン)や5TD(ウクライナ語版)(5気筒、10ピストン)など、用途は戦車(T-64やT-80UDに限られる)を含む特殊車両やモーターボートに限られるが、対向ピストンエンジンを生産している。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "通常クランク型においても、1937年-1938年にかけ、ゼネラルモーターズ (GM) の一部門であったEMDとデトロイト・ディーゼルが、ルーツ式スーパーチャージャーを使った「ユニフロー掃気方式」の鉄道用と自動車用の2ストロークディーゼルエンジンを相次いで発表、生産を開始する。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "567系V型12気筒エンジンを2基搭載したEMDのディーゼル機関車であるE-ユニットとF-ユニットは、共に大ヒットとなり、アメリカ国内に留まらず多くの国の鉄道で採用された。それらは戦後も長く生産が続き、流線形の「ドッグノーズ」はアメリカ型機関車を代表する顔となった。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "一方、バスの場合は、4ストロークに比べでコンパクトで高出力な点を生かし、デトロイトディーゼル・シリーズ71エンジンとトランスミッションをリアに横置き搭載し、後車軸とトランスミッションを車体に対して約45度に配置したプロペラシャフトで結ぶ、アングルドライブパッケージが考案された。この駆動方式を採用したリアエンジン車で1940年から生産が開始された「GMC トランジット」はバスの新時代を拓き、以降爆発的に普及、1969年まで生産が続けられた。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "シリーズ71エンジンは、グレイハウンド黄金期のシーニクルーザー (V8-71) や金魚鉢、メトロ窓のあだ名を持つニュールックトランジット (V6-71) など、GMCのほとんどのバスや大型トラックに採用されたため、日本のファンにもよく知られる存在となった。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "日本の民生産業は、「民生デイゼル」として1950年に独立改組していたが、性能向上の限界に来ていたクルップ式KDエンジンに代わり、今度はGMのライセンスによる、スーパーチャージャーと頭上排気弁(2バルブ、後4バルブ)によるユニフロー掃気の2ストロークディーゼル、「ユニフロー・スカベンジング・ディーゼルエンジン (Uniflow-scavenging Diesel-engine)」を採用、1955年にこの方式の頭文字をとったUD型を発表した(1953年の日産自動車の資本参加を受け民生デイゼルは1960年に日産ディーゼル工業に社名変更)。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "UD型は3・4・5・6気筒の直列型、8・12気筒のV型ともモジュラー設計であり、エンジン型式には「UD4型」のように気筒数が入れられていた。やはり燃費の悪さという弱点があったが、4ストロークのPD型発売後も1974年まで同社のトラック・バスにはUD型エンジンが搭載され、「UD」は一時、日本での高速型2ストロークディーゼルの代名詞となった。UD型エンジンは日産ディーゼル車の「UDマーク」の由来となっており、全てのエンジンが4ストロークとなった今でも愛着を込めて用いられているほか、2006年から2007年にかけて日産自動車からボルボ・グループに親会社が変わった後の2010年にはUDトラックスと法人名にもなっている(なお、2014年を境に法人格が変わっている。当該項目も参照)。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "戦前、戦後を通じ、一貫して2ストロークディーゼルエンジンを作り続けた日産ディーゼルであるが、国状を反映し、戦前はドイツ、戦後はアメリカの影響を強く受けていた。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "なお、ユニフロー掃気方式とは本来は後述のクロス掃気方式やループ掃気方式に対する用語であるため、上記の頭上弁通常ピストン式の2ストロークディーゼルのみをユニフロー掃気方式と称するのは本来正しいものではない。単にユニフロー掃気を用いる2ストロークディーゼルという分類で言えば、前述の対向ピストン方式も吸排気の方向が一方向で掃気が確実になるという意味において、広義のユニフロー掃気方式に含まれる為である。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ユニフロー掃気ディーゼルエンジンと同じく、掃気用ルーツブロアを持つ2ストロークディーゼルエンジンの中には、頭上弁を廃してシリンダー側面の排気ポート方式とし、クロス掃気もしくはループ掃気を行うバルブレス式2ストロークディーゼルエンジンとされたものがごく少数存在した。多くはデトロイトディーゼル・シリーズ53エンジン(頭上弁式ユニフローディーゼル)に対するシリーズ51エンジン(バルブレス式)のような、単純にコストダウンや生産性向上を目的にした設計変更に因るものであったが、中にはイギリスのクロスリーが鉄道向けエンジンとして開発したHST Vee8エンジン等のように、掃気を敢えてループ掃気として排気管内の強い排気パルスによる排気ガスの押し戻しを誘発させた上で、ターボチャージャーによる大過給を掛ける事で、ユニフロー掃気ディーゼルエンジンのターボ仕様以上の出力向上を狙ったものも存在した。クロスリーのバルブレス式エンジンによる過給方式はen:Exhaust pulse pressure chargingと呼ばれている。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "戦前の大日本帝國では第一次世界大戦以降、欧米の2ストロークおよび4ストロークディーゼルエンジン技術を移入する形で船舶用ディーゼルエンジンの研究開発が行われた。特に大日本帝國海軍では艦政本部が主導し、2ストロークディーゼル機関の研究および導入が非常に盛んに行われた。戦前型の潜水艦の多くに2ストローク複動型ディーゼルエンジンが搭載されていたが、2ストローク複動ディーゼルは高出力ではあるものの、騒音が大きく、排気圧力が低い為シュノーケルを用いた主機関での水中連続航行に不向きだった為、第二次世界大戦が始まると低出力であるが騒音が低めで燃費が良く、排気圧力が高いので主機での水中連続航行に適した4ストローク単動式へと移行していった。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "陸上車両では数としては少ないが戦後の陸上自衛隊の74式戦車、90式戦車のエンジンに2ストロークディーゼル機関が採用されている。ディーゼルエンジンは戦車の機関としてはガソリンエンジンに比べ、同一の排気量の場合の出力は低いが、燃料が引火しにくい為、燃料タンクに防弾処理を施さなくても安全性が高いという利点がある。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "将来のエンジンとして、ダイハツは、東京モーターショー(1999年、2003年)に「2ストロークユニフローディーゼルエンジン」を出品した。2003年(平成15年)発表の軽自動車用エンジンは、排気ガスの新長期規制をクリアした上で超低燃費であると伝えられていたが、その後、市販化などには至っていない。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "船舶用など、回転数が60 - 120rpm程度と極低速な大型機関では、毎回爆発である2ストロークのメリットは大きく、第2次世界大戦後の1950年代から、ユニフロー式の過給機付き2ストロークディーゼルが主流となっている。シリンダーライナー下部の掃気ポートから給気し、燃焼室上部の排気弁から排気するユニフロー方式である。スクリューの実用回転数に近い速度での低速回転に適合しており、船舶後退時のスクリュー逆回転に必須なエンジン回転方向切換に際しても、4ストローク機関より簡略に対応できることから、商船を主とした大型舶用エンジンの主流技術となっている。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ディーゼルエンジンは元々熱効率が高いが、船舶用の低速ディーゼルエンジンは理論上のディーゼルサイクルに近い燃焼サイクルが実現できる。効率を高めるためターボチャージャーやインタークーラーも装備されているのが一般的である。排気ガスエコノマイザを装備し、排熱の一部を回収、再利用する例も多い。これらの総合的なシステムによって、熱効率50%を超過する高効率なエンジンが実現されており、現在最も効率の良いエンジンの部類に入る。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "またこの種のエンジンは、粗悪なC重油でも予備加熱、清浄によって使用可能で、この面でも経費を抑えることができる。反面、粗悪燃料使用にはクランクケースと燃焼室との構造的隔離が必須となり、エンジン全高が非常に高くなる。更には近年、排気ガス浄化の難しさが課題となっている。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "舶用以外の分野では内燃力発電の機関としても利用されている。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "始動はほとんどの場合、圧縮空気によって行われる。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "建設機械の杭打ち機のうち、ディーゼルハンマー(ディーゼルハンマとも)と呼ばれるものは、それ自体が巨大な2ストローク単気筒フリーピストンディーゼルエンジンとなっている。筒状の構造で、先端には杭に宛がわれるアンビル、筒内には上下動する槌(ハンマー)が内蔵されており、筒の側面に燃料ポンプと吸排気口が設けられている。内部の槌がピストン、アンビルの内側が燃焼室の役目をそれぞれ果たすようになっており、ディーゼルハンマーよりプリミティブな打撃形式であるモンケンが、打撃のたびに巻上機(クレーン)で槌を持ち上げて自然落下させるのに対して、ディーゼルハンマーは槌が落下する際に予めアンビルに燃料(重油)を流し込んでおくことで打撃と同時に爆発が発生、膨張行程により槌が最上位まで戻るため、連続的に燃料を供給し続けることでモンケンより効率的かつ高速な連続打撃を行う事が可能となる。ディーゼルハンマーは動力機関ほどの掃気効率が要求されないため、吸排気ポートも共用化されたごく単純なものとなっているが、騒音が大きく排気ガスも汚いことから、近年ではバイブロハンマー等のより静音・低振動の杭打機に取って代わられ、世界的にはまだ広く用いられているものの、日本の建設現場で目にすることは稀となっている。",
"title": "2ストロークディーゼル機関"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ピストンの上下により、吸気口が開閉する。ピストン自体が弁の役割を兼ねる。ピストンバルブ式とも呼ばれる。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "シリンダ内が負圧になると開くリード弁により吸気を行う。ピストン弁より多くの回転域に於いて良好な出力特性を示す。ピストン弁式のように混合気をクランクケースから排出しない。リードバルブ式とも呼ばれる。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "通常のリードバルブ式2ストロークエンジンはポペットバルブを持つ4ストロークエンジンと異なり、逆回転が可能である。模型飛行機用ではプロペラのねじりがどちらでも使える。多くの初期の小型の船舶用2ストロークエンジンではシリンダ内が負圧になると開くポペットバルブが使用されており、その慣性質量の為、低回転域に於いてのみ逆回転が可能であった。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "メッサーシュミットのKR200(英語版)は前進用と後退用の2つのコンタクト・ブレーカー(英語版)を切り替えて、エンジンを逆回転させることにより後進した。KR200はエンジンを一度停止した後、点火スイッチを通常よりも深く押し込む事で後退用の点火時期が選択されて逆回転が開始された。KR200には「ダイナスタート」と呼ばれる電動発電機(スターター・ジェネレータ(ドイツ語版))が搭載されており、セルモーターの回転を容易に逆転する事ができた。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "一方、リードバルブ式2ストロークエンジン搭載の日本の軽自動車では、点火時期の調整の不備からエンジンが逆回転したことによる事故があり、スズキ・アルトなどはこの事が遠因となり2ストロークエンジンの採用継続を諦めたとされている。通常、点火時期は始動時には吸気系統への逆火(英語版)を防ぐ目的で圧縮上死点より後で点火させる=点火時期を遅角させる事が一般的で、キックスターターやハンドクランクなど手動始動装置を装備した1950年代以前の車両の場合には、点火時期を手動調整できるものも存在した。しかし、リードバルブ式2ストロークエンジンは始動時に点火時期を大きく遅らせすぎてしまうと、手動始動に失敗して圧縮圧力によるクランクの逆回転(キックバック、ケッチン)が起きた時、遅らせた点火時期がクランクが正回転している際の進角させた点火時期と類似した角度になってしまう場合があり、そのまま逆回転状態が継続する事態が発生した。自動車用エンジンやオートバイ用エンジンなどで逆回転が発生するとエンジン音が特に変化しないにもかかわらず、前進ギアで後退、後退ギアで前進してしまう為、大変危険であった。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "今日の2ストロークエンジンで用いられるCDIなどの電子式点火装置は、スターターによる回転力が不十分な場合など、エンジンがごく低回転の時には点火を行わないアンチ・キックバック機構が組み込まれることで、キックバックに起因する逆回転を可能な限り防ぐ措置が採られているが、逆回転による始動が完全に成立してしまった場合のフェイルセーフまでは成されておらず、2017年現在でもスクーターやオフロードバイクなどで操縦者の意図しない逆回転の事例が報告されている。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "上記の事故事例のように、リードバルブ式2ストロークエンジンは点火時期が反転に近い角度まで狂った場合、セルモーターで通常の始動操作を行っても逆回転が起きてしまう可能性がある事が経験則から知られていたが、カナダのボンバルディア(現:ボンバルディア・レクリエーショナルプロダクツ)は、リードバルブ式2ストロークエンジンが比較的低い回転数で正回転中に、点火時期を逆回転用に切り替えることでエンジンを停止することなく逆回転への移行が可能となる事を突き止め、1990年に独自の逆回転システムの米国特許を取得、スキードゥーブランドのスノーモービルでは停車中に後退スイッチを押す事で、エンジン回転が一旦エンジンストールに近い回転数まで落ちた後、そのまま逆回転へと移行して後退運転が可能となっている。スノーモービルでは通常、後付けの後退ユニットを組み込む事で後退機能を手に入れる必要があるため、スキードゥーの「ロータックス・エレクトリック・リバース(RER)」システムは後退機能を安価に実装する事に貢献した。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "クランクウェブロータリーバルブ式と、ロータリーディスクバルブ式の2つに分かれる。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "クランクシャフトにあるクランクウェブの一部を切り欠いて吸気弁とする方式である。吸入方向はクランクケースリードバルブ式同様、クランク軸放射(ラジアル)方向である。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "専用の円盤弁を用いて吸気弁とする方式である。吸入方向はクランク軸同軸(アキシャル)方向である。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "クロスフロー掃気とも呼ばれる。掃気孔と排気孔が向かい合った形のもの。そのままでは掃気孔からの新気が素通りして排気孔へ逃げてしまうため、ピストン頂部を山形に盛り上げたり、掃気の流れを上向きにすることにより排気孔に逃げる新気を減らす工夫がなされる。それでもやはり燃焼室内を素通りする新気が多く、燃焼室上部に燃焼ガスが残りやすいという弱点のため現在ではあまり用いられない。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "シニューレ式掃気(英: Schnuerle)とも呼ばれる。掃気孔を排気孔の正面から左右にずらした位置に配置することにより、掃気孔からの新気を一度シリンダ内面にぶつけたり、それぞれの掃気孔からの新気をぶつけるなどして反転させて燃焼ガスを追い出す方式である。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "ループ掃気は掃気・排気孔の配置によってシニューレ式のほかに、掃気孔を排気孔の真下に配置しターンフローのように混合気を大きくシリンダー内を旋回させるMAN式(ループ式)、シリンダー内の片側半分に多数の掃気孔、もう半分に少数の排気孔を設けたクロスフロー方式の改良型ともいえるカーチス式(英語版)の二つが代表的で、その他にも小型模型飛行機向けのエンジンではシニューレ式の掃気孔配置を若干変化させたスワール式やリバースループ式などがあるが、今日ではシニューレ式が一般的である。高性能2輪車のエンジンでは掃気孔の面積を大きくするため、さらに一対の補助掃気孔を追加(5ポート方式)したり、排気孔の向かい側にも補助掃気孔を設けているもの(7ポート方式、ヤマハ発動機はトルク・インダクションと呼称)もある。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "クロス式に比べて掃気性能は向上するが、シリンダ内のガスの流れが複雑になるためシリンダの温度が不均一になって、熱歪みが発生しやすくなるのが欠点である。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "ループ式掃気を補助するため排気ポートを可変式(後述のパワーバルブシステム)としたり、排気管の一部を大きく膨らませたチャンバー構造として、排気ポート側に吹き抜けた新気をシリンダー内に押し戻す反射波を発生させる事も行われている。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ユニフロー掃気とは、新気(空気もしくは混合気)をシリンダーの根元から吸気しながら、シリンダ先端から燃焼ガスを排気することで、掃気を反転せず、一方向にしたものである。ユニフロー式にもいくつか種類があるが、頭上排気弁とシリンダ下部の掃気ポートを併用することでユニフローを実現した型が唯一生産中であり、大型船舶などの低速ディーゼルエンジンに使用される。ユニフロー掃気では新気と燃焼ガスが混ざりにくく、掃気効率が高くなる。掃気孔を等間隔で大きく取ることができ、シリンダの温度分布を均一にできることから熱歪みが発生しにくくなる。ロングストロークにするほど、これらの利点が生かせ、高効率エンジンを実現できる。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "頭上弁式ユニフロー掃気2ストロークはディーゼルエンジンだけで実用化されており、大型舶用ディーゼルは単体の熱機関で最高の熱効率50%を誇っている。また過給機による掃気となっておりガソリンエンジンのようなクランクケース圧縮は行われたことがない。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "ガソリンエンジンにおいては高価な過給機と頭上排気弁が必要なユニフロー掃気2ストロークエンジンは実用化しなかった。ガソリン機関では簡素な構造で低コスト化することが2ストローク機関の目的とされ、安価なクランクケース圧縮によるループフロー掃気やクロスフロー掃気が量産され発達した。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "一方ガソリンエンジンでは1910年代から1970年にかけて細々とスプリット・シングルが作られたが、リードバルブや排気干渉を利用して改善されたループフロー掃気やクロスフロー掃気にも劣る性能になったため既に廃れている。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "対向ピストンエンジンや、これを燃焼室のある真ん中から折り曲げた形のスプリット・シングルエンジンをユニフロー掃気に含めることもあるが、合理性がないため廃れた。これらは掃気効率の良さを残してはいるものの、一対のシリンダを一方向に掃気することで、かえって2つのシリンダの掃気状態と温度分布を逆に傾ける。すなわちピストンの動作方向まで考えると片方のシリンダの掃気方向が必ず逆になり、ユニフローとは言えなくなる。燃焼室形状と温度の偏りは最適に程遠く、熱効率も信頼性も低下する。2つのシリンダで1つの掃気と1つの燃焼室を共有する意図が2つのシリンダを別々に設計・製造、冷却・潤滑せざるを得なくし、コストパフォーマンスも低下する。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "大半の近代における2ストロークエンジンはパワーバルブシステムを採用している。排気デバイスとも呼ばれ、通常は排気口をふさいでいるが、作動時には1もしくは2の排気口がタイミングにあわせて開く。排気口の開度を大きくとることが出来る。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "段付ピストンエンジン(ステップドピストンエンジン)は燃焼室において圧縮比を高める為にピストン上面に段をつけたものである。ピストンの重量は段をつける事により20 %重くなり、慣性質量が増加する。利点はピストンの潤滑が容易になり、4ストロークエンジン同様、平軸受けが使用できる事である。特許はBernard Hooper Engineering Ltd (BHE) が2005年に取得した。",
"title": "2ストロークエンジンの吸排気方式による分類"
}
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2ストローク機関(ツーストロークきかん)は内燃機関の一種で、2行程で1周期とする2ストローク1サイクルレシプロエンジン式の名称。英語のtwo-stroke cycleの省略で、昭和年間以前には2サイクル機関・2行程機関とも呼ばれた。
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'''2ストローク機関'''(ツーストロークきかん)は[[内燃機関]]の一種で、2行程で1周期とする2ストローク1サイクル[[レシプロエンジン]]式の名称。英語の'''two'''-stroke '''cycle'''の省略で、昭和年間以前には'''2サイクル機関'''・'''2行程機関'''とも呼ばれた。
== 概要 ==
=== 定義 ===
[[ファイル:Two-Stroke Engine.gif|thumb|200px|[[ポペットバルブ|動弁]]機構を持たない一般的2ストローク・ガソリンエンジンの模式図。[[潤滑油]]は燃料に混合するか、もしくは独立配管で潤滑箇所に供給され、燃料と一緒に燃やされる。この形式のエンジンでは、掃気圧力と一次圧縮の圧力は、いずれもピストンの下降に伴う[[クランクケース|クランク室]]の容積変化により得ている]]
2ストロークエンジンは1往復(行程換算2回 (=2 stroke))で1周期を完結するエンジンで、[[ピストン]]1往復([[クランクシャフト]]1回転)ごとに[[燃料]]が[[燃焼]]する。
<!-- 2ストローク/1サイクルエンジンのことであり、「2サイクルエンジン」と呼ばれることもあるが、「サイクル」はどのエンジンでも一定であり、分類すべき比較量を表せないので、「2ストロークエンジン」と呼ぶのが正しい。英語でもTwo-stroke engineと呼ばれる。(これは、誰が「正しい」と決めているのですか? それに英語で "two-cycle engine" とも呼んでますよ)
ちなみに、往復式内燃機関の類型は一般的なものから、[[4ストローク]]と2ストロークに大別でき、少数ながら[[6ストローク機関]]もある。(ここでは不要な記述) -->
=== 2ストローク・ガソリンエンジンの行程 ===
行程は以下の通りである。
# 上昇行程 : ピストンが上昇する間に'''排気'''と[[吸気]]の圧縮を行う。
# 下降行程 : 燃料の燃焼([[爆発]])によりピストンが下降し、その後半で'''排気'''を行う。
ここまでの行程で動力伝達軸である[[クランクシャフト]]は1回転する。
掃気は2ストローク機関特有の動作で、圧力のかかった新気([[混合気]]または[[空気]])をシリンダー内へ導入し、その勢いとピストンの圧縮力で同時に[[燃焼ガス]]を[[排出ガス|排出]]するものであり、掃気ポートがピストンの下降によって開かれ、上昇によって閉じられるまで続く。掃気に圧力を与えることを一次圧縮と呼び、ピストンの下降に伴う[[クランクケース]]の容積変化による方法と、外部に装備した[[圧縮機]]または[[過給器]]による方法とがある。
このように、[[4ストローク機関]]での4行程を2つずつ同時に行うことで、ピストン[[死点|上死点]]で毎回燃焼([[点火|点火/着火]])が起こることが特徴である。
{{-}}
=== 歴史 ===
==== ルノアール・エンジン ====
[[ファイル:Lenoir_Motor.jpg|thumb|1861年製のルノアール・ガスエンジンの模式図]]
最初の[[実用]]的な内燃2ストローク・エンジン(同時に、最初の実用内燃エンジン)となったのは、[[1858年]]に開発された[[ガス燃料]]機関のルノアール・エンジンである。考案者は[[ベルギー]]出身で[[フランス]]で活動した[[技術者]][[ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール]] ([[:en:Étienne Lenoir|Jean Joseph Étienne Lenoir]]) で、[[石炭]]ベースの[[ガス灯]]用ガス ("Illuminating gas") を燃料とし、電気点火装置 (double-acting electric spark-ignition) による[[火花点火内燃機関|火花点火方式]]を用いた。この[[発明]]は、[[1860年]]にフランスで[[特許]]を取得している。
小[[工場]]での[[発動機|定置動力]]等には[[蒸気機関]]より軽便・簡易で、当時普及が進んでいた[[都市ガス|都市のガス供給網]]を利用できるメリットもあって、ある程度普及したが、後世の2ストローク・エンジンのような一次圧縮がなされないため、[[熱効率]]は著しく低かった。ルノアールは「機関内の圧力が高い構造は危険ではないか」と危惧していたからである。
{{-}}
==== クラーク式2ストロークエンジン ====
[[ファイル:Two-stroke_vee-twin_engine_with_pumping_cylinders_(section).jpg|thumb|クラークのエンジンに類似した構造を持つ1910年代のユニフロー2ストローク'''単気筒'''ガソリンエンジン。]]
2ストロークの[[ガソリンエンジン]]は、1878年に、[[スコットランド]]出身の[[デュガルド・クラーク]] ([[:en:Dugald Clark]] 1854-1932) が最初に製造し、1881年に[[イギリス|英国]]特許を取得した<ref>このため2ストロークガソリンエンジンの動作サイクルは、4ストロークのオットーサイクルに対して'''クラークサイクル'''と呼ばれる。</ref>。
既にこの時代には、圧縮行程を含む4ストロークの[[オットーサイクル]]・エンジンが実用化されており、[[燃料ガス]]の圧縮によって熱効率が高まることが認識されていた。
クラークのエンジンは、エンジン本体外部に独立した[[シリンダー]]式の圧縮装置・掃気装置を装備して4ストローク・エンジンの圧縮行程に代えたものであり、4ストロークエンジンに比肩する性能を出すことができたが、4ストロークエンジン同様に専用のバルブを設ける必要があるなど、構造がやや複雑で、掃気機構の[[摩擦|フリクション]][[抗力|ロス]]もあった。
クラークによる、エンジン本体の外部に圧縮・掃気装置を設ける手法は、事実上世界初<ref>{{cite book|title=Encyclopedia of the History of Technology.|year=1990|publisher=Routledge|location=London|isbn=0-203-19211-7|pages=315–321|url=https://books.google.co.jp/books?id=fj96Dpp3-5gC&lpg=PA315&dq=rateau+engine&pg=PA315&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false|editor=Ian McNeil}}</ref>の過給機付きエンジンともいえるものであり、のちにより構造簡略な回転式の[[スーパーチャージャー]]に置き換えられ、2ストローク、4ストロークの別なく利用されることになった。特に[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン|2ストローク・ディーゼルエンジン]]のメカニズムは、燃料供給とその点火(ディーゼルエンジンでは着火)手段を除けば原理的にはクラークの手法を踏襲していると言ってよい。ただし、クラーク本人は「シリンダー式掃気装置は加圧ポンプではなく、単にシリンダー内の掃気を補助してスムーズに排気管へ燃焼ガスを排出させる為の装置に過ぎない」という主旨を述べていたとされる<ref>{{cite book|last=Nunney|first=M.J.|title=Light and heavy vehicle technology|year=2007|publisher=Elsevier Butterworth-Heinemann|location=Oxford, England|isbn=0-7506-8037-7|pages=6–8|url=https://books.google.co.jp/books?id=eL6TBaSnd78C&lpg=PA6&dq=the+first+two+stroke+engine+Clerk+Day&pg=PA6&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false|edition=4th ed.}}</ref><ref>{{cite book|last=Beecroft|first=David|title=History of the American automobile industry|year=2008|publisher=lulu.com|isbn=978-0-557-05575-3|pages=64–65|url=https://books.google.com/books?id=3A4CTZbOemcC&lpg=PA64&dq=the%20first%20two%20stroke%20engine%20Clerk%20Day&pg=PA64#v=onepage&q&f=false}}</ref> 。
==== デイ式2ストロークエンジン ====
現在よく知られている形のシンプルな2ストローク・ガソリンエンジンは、[[1889年]]にイギリスの[[ジョゼフ・デイ]] ([[:en:Joseph Day (inventor)|Joseph Day]] 1855-1946) が発明した。意図としては、先行して開発された各種のガソリンエンジンの'''特許回避'''を目的としていた。
この単純なエンジンは「省略できる[[部品]]は全て省略し、4ストロークエンジンでは分離して完全に行われていた各行程を、効率を犠牲にして統合・簡略化した」ことで実現された。気筒頭の[[点火プラグ]]を除いては、[[ポペットバルブ]]すら持たない簡潔な構造故に、絶対的な効率以上に軽量・簡易性が要求される小型2ストロークエンジンの完成形となった。
その作動メカニズムは以下に示すいくつかの特異な要素を組み合わせて成立しており、極めてユニークな着想の集合体と言える。
; バルブレス・シリンダーポート方式
: シリンダー側面に吸排気それぞれの専用孔([[ポート]])を開け、その閉塞・開放は上下に往復する[[ピストン]]の側面を利用する。これによって、燃焼室やクランクケースの外部に駆動装置を展開させる、複雑なバルブ開閉機構がいっさい省略できた。このバルブ省略のアイデアは、デイのもとで働いていたフレデリック・クック(Frederick Cock)の考案ともされる。
; クランクケース圧縮および燃料ガス掃気
: クランクシャフト回りのクランクケース部を密閉し、ピストンが上昇することでクランクケース内に生じる[[真空|負圧]]を利用して、燃料ガスを導き入れる。そしてこのガスを、ピストンの下降によって予備圧縮する。これでクラーク式2ストローク機関のような独立の圧縮装置や、4ストロークエンジンにおける圧縮行程が不要になったが、クランクケースの密閉性確保には限度があり、吸入負圧は4ストロークエンジンほど高くない。
: [[燃焼室]]内の点火でピストンが押し下げられると、予備圧縮された新しい燃料ガスが掃気ポート経由で燃焼室に押し込まれ、排気ガスを排気ポートから押し出す。これで4ストロークエンジンにおける[[排気]]行程が不要になり、圧縮行程と合わせ2行程分省略した2ストロークエンジンを成立させることができた。だがこの構造で、圧縮効率の低下や、まだ燃焼していない新しいガスの一部が排気ガスと共に排出されてしまう「吹き抜け」の損失が生じた。
さらに、シリンダーポート構造やクランクケース圧縮機構を成立させるための特異な技術的着想として、混合燃料[[潤滑]]が取り入れられた。
; 混合燃料潤滑
: 内燃機関は機構上、運転中にエンジン内部のピストンリングや腰下(コンロッドやクランクシャフト、クランクケース)など可動部の適切な[[潤滑]]が常時行われないと、焼き付きを発生し破損してしまう。シリンダーポート構造やクランクケース圧縮機構を用いると、一般の4ストロークエンジンのようなクランクケース内へのオイル貯留も最低限の潤滑もできず、そのままではシステムとして成立しない。
:そのためデイ式エンジンでは、燃料にあらかじめ[[潤滑油]](2ストロークエンジンの場合は2サイクルオイル)を混合し、燃料を使用するだけでエンジン内部の可動・摩擦部分が潤滑されるようにした。これによって潤滑を左右する[[オイルポンプ]]などの複雑なメカニズムを一切省略できるという、バルブ省略にも比肩する大きなメリットが生じる。
: 一方、混合した潤滑油は燃料と共に燃えて排出されてしまう。従って潤滑油の消費が大きい不経済な性質がある。また潤滑油は(本来の燃料油と違って)燃焼性は必ずしも良いわけではないので、不完全燃焼や熱効率の低下、排気ポート周囲に付着する煤の発生といったロスの原因にもなる<ref>初期のガソリンエンジンは現在のようなピストンリングの密閉技術がなく、4ストロークエンジンでもオイル消費が激しかった(いわゆる燃焼室へのオイル上がりの他に、動弁系に送られたオイルを全量回収せず、エンジン外に飛散させる事例が多々あった)ので、混合燃料によるオイルの使い捨てはさほど問題にされなかったとも考えられるが、後年の4ストロークエンジンの燃焼室とクランク室をはっきりと分ける密閉精度向上に伴い、2ストロークエンジンでは潤滑油の消耗や排出ガス浄化への影響が問題視されることになる。ちなみにこの問題が[[ロードレース世界選手権]](現在のMotoGP)か2ストロークエンジンから4ストロークエンジンへと2002年から切り替わった理由である。</ref>。
:: [[1950年代]]には2ストロークエンジン自動車の一部で、燃料と潤滑油を別のタンクに貯留し、キャブレター直前で自動混合する取扱い省力化が試みられるようになる。その後、混合された燃料の供給を絞った状態だとエンジンの焼けつきが生じやすいことに着目し、[[1960年代]]には混合燃料を使わず、専用のオイルポンプと配管を介して潤滑油を潤滑箇所に圧送する手法が現れたが、メカニズムが複雑化してしまった一方、潤滑油を燃やしてしまう根本に変わりはない。
デイ式の2ストローク・エンジンは、小型の簡易なガソリンエンジンにおける決定的な方式となった。[[第一次世界大戦]]以降に広く用いられるようになり、特に[[DKW]]や[[ザックス]] (Fichtel & Sachs) などの[[ドイツ]]のメーカーにおいてその使用が顕著だった。小型のものを中心とした[[オートバイ]]はもとより、[[1930年代]]以降は小型[[自動車]]にも盛んに使用されたが、1960年代以降自動車用から廃れ始め、[[1990年代]]になると2輪車でも[[自動車排出ガス規制|排出ガス規制]]の面から4ストロークエンジンにその地位を譲るようになる。
現在、2ストロークのガソリンエンジンが多用されているのは、極めて小型のエンジンでなければシステムの成立しにくい機器類(小型[[発電機]]、[[草刈機]]や[[チェーンソー]]などの可搬機器、可搬[[消防]]ポンプ、[[ラジコン]][[模型]]用エンジンなど)が主である。そのほとんどで、ジョセフ・デイのコンセプトに基づく、バルブレス・シリンダーポート、クランクケース圧縮、混合燃料潤滑方式が採用されている。
===== チャンバー =====
バルブレス・シリンダーポート2ストロークエンジンにおける圧縮効率の低下や吹き抜けに対する策として、ガソリンエンジンの場合は[[チャンバー]]を利用する方法がある(詳細は[[チャンバー]]を参照)。
チャンバーの形状は特定の回転域で充填効率が高まり、高トルクが得られる回転域「パワーバンド」が表れる事が多い。中には、[[YPVS]]のようにシリンダーの排気ポートを電動で可変させたり、V-TACSのようにサブチャンバーを開閉させる事によりパワーバンドを広げる工夫もある。[[YEIS]]のように吸気側にチャンバーを設ける工夫もある。1970年代中頃の2輪ロードレース世界選手権WGPでは、500 ccクラスにおいて日本メーカー参戦とともに4気筒500 ccエンジンが台頭していくが、その当初からクランク回転180度ごとに2気筒ずつ点火する180度等間隔同爆が[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]と[[スズキ (企業)|スズキ]]によって採用、ホンダは120度(3気筒)/90度(4気筒)ごとに1気筒ずつの等間隔爆発が採用されていた。その後1992年にデビューした92年型[[ホンダ・NSR500]]ではクランク回転の292度と68度地点で点火される不等間隔同爆エンジンが採用された。これは最高出力を求めていった結果、1万回転近くから1万2千回転前後で突然最大トルクが発生する、パワーバンド(最大トルク発生回転域)が狭い、扱いがシビア(いわゆる[[ピーキー]])であった今までのレース用の大出力2ストロークエンジンから、ピークパワーやレスポンスを犠牲にしても、爆発を不等間隔にしてタイヤの空走区間を増やすことによって、特にホンダが悩まされていたトラクション性能を劇的に向上させた。結果大幅なラップタイムの短縮に加え、当時多発していた転倒も扱いやすい特性で減少し高い安定度も実現した。その圧倒的な差から、ライバルの各メーカーでも270度-90度や300度-60度などの不等間隔同爆エンジンが採用されるきっかけとなった経緯がある。
== 2ストロークガソリンエンジン ==
[[file:Bond Cars models at the Bubble Car Museum, New York, Lincolnshire - 9561470025.jpg|200px|thumb|185ccの2ストロークエンジンを搭載したボンド・ミニカー]]
[[file:1976 Suzuki LJ50 4WD (15523143152).jpg|200px|thumb|[[スズキ・LJ50型エンジン|LJ50型]]2ストロークエンジンを搭載したジムニー(1976年)]]
[[ガソリン]]を燃料とするものは、小出力の小型機器に用いられる。
2ストロークガソリン機関では、[[ガソリン]]と[[空気]]の[[混合気]]を吸気し、これを[[掃気]] ([[:en:Scavenging (automotive)]]) にも用いなければならないので、[[クランクケース]]内で一次圧縮を行う必要がある。すなわち、[[燃焼室]]側が圧縮行程の時、同時に[[ピストン]]上昇による負圧を利用して吸気を行う。この吸気は燃焼室側が膨張行程でピストンが下降する際に同時に圧縮され(一時圧縮)、下死点付近で開いた掃気ポートより噴き出して膨張行程を終えた残留排ガスを排気ポートから追い出す(掃気)と同時に新気でシリンダ内を充填する。
FI([[燃料噴射装置]])については1960年代から[[オートバイ競技]]の世界で試行錯誤が見られるが、2ストロークエンジンのピストン速度の範囲に対応するのが難しく、速度の範囲が狭い船舶用を除いては長らく実用化されなかった。1999年にオートバイメーカーの[[アプリリア]]がオービタル社およびシーメンス社とともに「Ditechシステム」を開発。初めて2ストロークにおけるFIと[[直噴]]を実用化して50ccスクーターに搭載し、燃費を従来の40%、排ガスを80%それぞれ削減することに成功した<ref>[https://www.cycleworld.com/story/motorcycle-news/aprilia-motorcycle-fuel-injected-two-stroke-concept/ Aprilia’s Fuel-Injected Two-Stroke Concept] Cycle World 2023年10月11日閲覧</ref>。
掃気時にはシリンダ内の残留ガス(排気)と新気の混合が避けられず、残留ガスを全て排気しようとすると、混合した新気(未燃ガスとオイル)も一部排出されてしまう。このため、排気ガスには大量の炭化水素が含まれるが、燃焼室の温度が低いために窒素酸化物は少ない。炭化水素は触媒で燃やすことが可能であり、もともと窒素酸化物は少なく対応が不要のため、当時の排気ガス規制は合格することができたが、将来的に窒素酸化物の規制が厳しくなると合格できる目処はたたなくなっていった。
その為、西ヨーロッパおよび日本の[[普通自動車]]及び[[小型自動車]]では4ストロークエンジンの性能が向上してきた[[1960年代]]後半にはほとんど姿を消しており、排気量が小さな日本の[[軽自動車]]においても1980年代に2ストロークエンジンは絶滅した。
世界保健機関 (WHO) は東南アジアと太平洋地域において[[大気汚染]]によって毎年、537,000人が死亡していると報告している。1億台に及ぶ2ストロークエンジンのタクシーとオートバイが要因である<ref>[http://www.ernasia.org/index.php?option=com_content&task=view&id=313&Itemid=75 Ernasia project - Asian City Air Pollution Data Are Released<!-- Bot generated title -->]</ref>{{リンク切れ|date=2021年9月21日 (火) 11:33 (UTC)}}<ref>[http://www.worldwatch.org/node/5267 Retrofitting Engines Reduces Pollution, Increases Incomes | Worldwatch Institute<!-- Bot generated title -->]</ref>{{リンク切れ|date=2021年9月21日 (火) 11:33 (UTC)}}。
ただし現在でも比較的排ガス規制の緩い[[オートバイ]]やチェーンソーなどでは、改良を重ねながら2ストロークガソリンエンジンが用いられている。また4ストロークの技術を応用したり、対抗ピストン型にすることで4ストロークガソリンエンジンの環境性能を凌ぐ可能性があるとも考えられており、実験開発は一部のメーカーで継続されている。
=== 2ストロークガソリンエンジンの特徴 ===
* 小型・軽量・単純・安価でメンテナンスが簡単。4ストロークエンジンの[[カム (機械要素)|カム]]と[[ポペットバルブ]]を駆動するシリンダーヘッド部分が不要で構造が単純である事から。ただしメンテナンスの頻度は増える<ref name="初心者向けモトクロッサー">[https://www.redbull.com/jp-ja/best-beginner-motocross-bikes 初心者向けモトクロッサー ベスト5] レッドブル公式サイト 2023年10月11日閲覧</ref>ため、一長一短の面もある。
* 気筒内のガス交換の不完全さから、[[アイドリング]]時の回転は不整で、[[吸気|吸]][[排気]]の[[脈動]]も不整となる(充填効率や静粛性、快適性で劣る)。振動も大きいため、これを打ち消す用のカウンターバランサーが用いられることもある<ref>[https://www.cyclenews.com/2018/04/article/2018-gasgas-endurogp-300-first-test/ 2018 GasGas EnduroGP 300 | FIRST TEST] Cycle News 2023年10月3日閲覧</reF>。
* ガソリンとオイルが混ざる都合上、2ストローク専用のオイルが必要であり、さらに走行後は補充の必要がある。
* 一部の例外を除き、燃料供給装置は基本的には[[キャブレター]]となる。
*気筒内のガス交換の不完全さに加え、掃気効率が悪く、完全燃焼せず、未燃焼ガスの吹き抜けが起こるため[[一酸化炭素|CO]]と[[炭化水素|HC]]が多く、エンジンオイルが燃料と一緒に燃焼するため、[[排気ガス]]中に有害物質が多い。同じ理由で、4ストロークエンジン比で燃費が劣ると共に、エンジンオイルの消費量が多い。燃焼される事のない生のエンジンオイルも排出されて汚染の原因となる。ただし、原則として未燃焼ガス([[ブローバイガス]])のクランクケース外への放出が起こり得ず([[クランクケースブリーザー|ブリーザー]]の概念が存在しないため)、さらに、燃焼室内の燃焼温度は低い為、原理的に[[窒素酸化物|NOx]]は4ストロークエンジンに比べて少ない傾向である。
* 一回の燃焼に対して行程が二つだけなので、同じ排気量でも単純計算で4ストロークの倍の出力/トルクが得られる<ref>[https://www.tandem-style.com/bike/110625/ GASGAS EC250F/EC300] タンデムスタイル 2023 年10月9日閲覧</ref>。そのため同じ出力ならより小型にすることが可能。ただしその分超長距離や長年の仕様での耐久性に劣る。
* 圧縮比が低く、爆発間隔も短いため[[失速|ストール]]しにくい。
* [[アイドリング]]状態から一気にアクセルを開くと、4ストロークに比べ、回転上昇が速い。反面低回転志向なものを除くとピーキーな特性を示し、低速域では扱いづらいことがある。
* ピストンをはじめ、各ピンやジャーナル部に潤滑油を圧送するポンプを持たないものが多く、それらは高速道路の長い下り坂などで、高回転時にスロットルの全閉時間が長くなると潤滑ができなくなり、[[焼きつき]]を起こすことがある。そのため[[ワンウェイクラッチ]]を用いたフリーホイール機構が考案された。[[フリーホイール]]は[[駆動輪]]からの力(バックトルク)を伝えないため、[[エンジンブレーキ]]は使えない。
* [[混合気]]の逆流を防ぐための弁(ロータリーバルブ、リードバルブ)が設けられているものがある。この場合クランク室内で混合気を一次圧縮するため、クランク室は密閉構造であり、[[エンジンオイル|潤滑油]]の流入・流出経路を設けることができない。そのためクランク室内部は外部から[[エンジンオイル|潤滑油]]と[[燃料]]を混合供給し潤滑する。[[2ストロークオイル|2ストロークエンジン用オイル]]は[[シリンダー]]、[[クランク]]周りの潤滑、[[冷却]]の後、燃焼・排出される。燃焼を前提として合成されているため、これを前提としていない4ストロークエンジン用オイルを転用すると[[煤|カーボン]]堆積などの不具合を招く。
=== 四輪乗用車における2ストロークガソリンエンジン ===
[[1970年代]]までは[[ヨーロッパ]]の[[小型車]]や日本の[[軽自動車]]を中心に2ストロークエンジンが数多く存在した。限られた排気量で4ストロークよりも圧倒的に高い出力が得られることや、小型・軽量・低コストという点で、当時排気量上限が360ccだった軽自動車を含む小型車との相性が抜群であったが<ref>[https://www.gqjapan.jp/cars/article/20211002-two-stroke-engine 2ストロークエンジンに未来はあるのか?] GQ JAPAN 2023年10月9日閲覧</ref>、排出ガスの規制強化を機に大幅に減少した。
[[自動車排出ガス規制]]が日本国内で開始(昭和48年排出ガス規制)された[[1973年]](昭和48年)ごろより、360ccの4ストロークエンジンへの移行が始まり、日本版[[マスキー法]]と呼ばれた1975年の昭和50年排出ガス規制(識別符号A-またはH-)、1976年の昭和51年排出ガス規制(識別符号B-またはC-)の頃には、[[ダイハツ工業|ダイハツ]]と[[スズキ (企業)|スズキ]]を除く全メーカーが550ccの4ストロークエンジンへの移行を完了した。マスキー法の規制値を完全達成した1978年の昭和53年排出ガス規制(識別符号E-)以降は、スズキのみが規制に適合した車両を製造していた。
ダイハツの軽商用車[[ダイハツ・ハイゼット|ハイゼット]]は1981年まで360ccの[[ダイハツ・ZM型エンジン|ZM型]]搭載車を販売した。1975年以降は昭和50年規制に適合。ダイハツの場合は360cc規格時代の軽限定免許のドライバーのために360ccでもトルクが強い軽商用車を供給する必要があった。軽限定免許では1976年以降の550cc規格軽自動車の運転は認められないため、当時50万人程いたといわれる軽限定免許ユーザーのために1981年8月まで継続生産されることとなった。
[[スズキ (企業)|スズキ]]の軽自動車[[スズキ・アルト|アルト]]は、[[トルクコンバータ]]式2速[[オートマチックトランスミッション|AT]]の運転性確保のためAUTOMATICのみ1981年まで、[[スズキ・キャリイ|キャリイ]]及び[[スズキ・エブリイ|エブリイ]]は1985年まで、[[スズキ・ジムニー|ジムニー]](SJ30系)は、[[雪]]道や[[オフロード|不整地]]での運転性を確保するため1987年まで、トルクが強い2ストロークエンジン車が併売されていた。SJ30系ジムニーは[[ミニカー (車両)|マイクロカー]]を除くと日本最後の2ストロークエンジン車となった。いずれの車種も軽商用車に当たる為、排ガス規制は昭和50年規制が適用された。軽乗用車のエンジンでは[[三元触媒|酸化触媒]]を二重に配置し、[[二次空気導入装置|エアポンプ式二次空気導入装置]]も併設された'''スズキ・TC''' (Twin Catalyst) システムの導入で昭和53年規制に適合していた。より排ガス規制の厳しい軽乗用車では[[スズキ・フロンテ|フロンテ]]が1981年まで、[[スズキ・セルボ|セルボ]]が1984年まで2ストロークを継続した。
世界的には本格的な四輪自動車では、[[1990年代]]初頭に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[トラバント]]が製造終了されたことでほぼ絶滅したと言える。それ以降も[[東南アジア]]では[[三輪タクシー]]などには採用例があるが、[[欧州車]]・日本車共に2ストロークエンジン搭載の[[自動車|四輪車]]は製造されていない([[光岡自動車]]は排気量50ccの強制空冷2ストロークエンジンを搭載した[[マイクロカー]]を1998年~2007年に販売したが、これは法規的には[[原動機付自転車]]であった)。
しかしその後も新たな2ストロークガソリンエンジンの模索は続いている。
* [[モーターショー]]において、[[BMW]]や[[トヨタ自動車|トヨタ]]は何度か2ストロークエンジンを搭載した自動車(ときにはエンジンのみ)を出品している。初代[[トヨタ・エスティマ]]も参考出品車として公開された当初コンセプトは、当時トヨタが4ストロークエンジンの技術を流用して開発中であった2ストローク「S2」エンジン<ref>[https://car.motor-fan.jp/tech/10016434 内燃機関超基礎講座 | トヨタが挑戦した2ストロークエンジン[S-2]] モーターファン 2023年10月11日閲覧</ref>を搭載していたが、排気ガス規制への対応を考慮して4ストロークエンジンに切り替えて市販されている。この種の新世代試作2ストロークエンジンは、旧弊なクランクケース圧縮による掃気ではなく、[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン]]と同様に動弁機構と[[スーパーチャージャー]]を備えている。潤滑は4ストローク同様で潤滑油の燃焼は無く、燃料供給も[[ガソリン直噴エンジン|筒内直噴]]を試行するなど、省燃費でクリーン、しかもパワフルなエンジンを目指しているが、市販化の水準には至っていない。
* 2ストロークエンジンの搭載車の比率の高い東南アジアに於いては非営利法人による改造キットの供給が開発されている<ref>[http://www.envirofit.org/media/display.php?id=1 Envirofit works to retrofit the Philippines]</ref>{{リンク切れ|date=2021年9月21日 (火) 11:33 (UTC)~}}。
*[[2020年]]にF1エンジンの見直しが行われた際、対向ピストン型2ストロークエンジンの採用が検討された<ref>{{Cite web |url=https://www.gqjapan.jp/cars/article/20211002-two-stroke-engine |title=2ストロークエンジンに未来はあるのか? |publisher=GQ |date=2021-10-02 |accessdate=2023-09-23}}</ref>。同様にスペインのINNエンジン社は、対抗ピストン型2ストロークエンジンの「1ストロークエンジン」のe-REXを開発中であると公表している<ref>[https://engineer.fabcross.jp/archeive/230803_e-rex.html スペインのINNengine、小型軽量「1ストローク」エンジン「e-REX」を開発中] fabCROSS 2023年10月9日閲覧</ref>。
*90年代に[[フォード]]や[[クライスラー]]は、4ストロークエンジンの技術を応用した2ストロークエンジンの開発実験を行った。また2022年に、[[マツダ]]が4ストロークエンジンと[[SKYACTIV-X]]の発想を応用した、スーパーチャージャー付き2ストロークエンジンの特許を出願しているとの報道が行われた<ref>{{Cite web |url=https://www.autocar.jp/post/794668 |title=マツダが作る超高効率な2ストロークエンジンとは? 高出力・低燃費・低排出ガス実現なるか |publisher=Autocar |date=2022-03-01 |accessdate=2023-09-23}}</ref><ref>[https://www.autocar.jp/post/794668 マツダが作る超高効率な2ストロークエンジンとは? 高出力・低燃費・低排出ガス実現なるか]</ref>。
=== オートバイにおける2ストロークガソリンエンジン ===
[[file:Yamaha YZ125 Motorcycle.jpg|200px|thumb|ヤマハ・YZ125(2011年)]]
[[file:2017 KTM 300 XC-W Six Days.jpg|200px|thumb|KTM・300 XC-W(2017年)]]
[[File:Honda NSR500 1997.jpg | thumb | 220x124px | right | ホンダ・NSR500(1997年)]]
競技の世界では1960年頃に高出力に耐えうる2ストロークエンジンが作られるようになると<ref>1961年にWGP125ccクラスのタイトルを獲得した、[[東ドイツ]]の[[MZモトラッド]]が発明した2ストロークエンジンがサーキットレースにおける流行の始まりとされる。</ref>、4ストロークよりも軽量・高出力・低コスト・優れたメンテナンス性などのメリットを買われて、21世紀を迎えるまで、サーキットでもオフロードでも、[[耐久レース]]を除き2ストロークが主流となった。創業者[[本田宗一郎]]の信念から2ストロークを忌避していた[[本田技研工業|ホンダ]]も、1970年~1990代の[[モトクロス]]や1980~2000年代の[[ロードレース世界選手権]]では2ストロークを用いざるを得ないほどであった。
1980年以前には大排気量車にも搭載されていた。2000年ごろまでは主に250cc以下で採用されていたが、[[環境問題]]や法規制の強化に伴い、四輪自動車同様4ストロークエンジンへの移行が進んだ。[[2000年]]施行の平成10年度自動車排出ガス規制により、[[ホンダ・ジャイロ|ホンダ・ジャイロX]]を最後として4ストロークに移行した。日本では平成18年度[[自動車排出ガス規制]]の全面施行により、[[競技]]用車両以外の全ての2ストロークエンジン搭載車が消滅した。
[[欧州連合|EU]]圏では2000年の[[ユーロ3]]排出ガス規制以降、原動機付自転車の2ストロークの規制も強化され、チャンバーに触媒コンバータが内蔵されるなどの対策が施されていたが、[[2010年代]]にはこれらの二輪車もほぼ4ストロークへと移行した。[[ロードレース世界選手権]]のGP500も4ストロークに移行し、[[MotoGP]]に名称が変更された。モトクロスではダートでのハイスピードバトルで有利な特性もあって{{R|初心者向けモトクロッサー}}4ストロークが主流となった。しかし[[KTM (オートバイ)|KTMグループ]]のように、オフロード競技での需要に応えて2ストロークの開発を続けるメーカーもあった。
2010年代においても[[発展途上国]]では2ストロークのスクーターなどが残り、局所的な大気汚染の大きな原因の1つになっていると指摘され<ref>{{cite news |title=2サイクルスクーターは「重大な大気汚染源」、研究 |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2014-5-14 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3014880 |accessdate=2014-5-16 |author= }}</ref>淘汰が進んだ。しかし発展途上国以上に環境規制が厳しい欧州市場では、KTMやアプリリアのような有名メーカーから、[[ベータ (オートバイメーカー)|ベータ]]や[[ファンティック]]、[[TM Racing]]、[[シェルコ]]などの小規模なオフロード車メーカーからも、2ストロークエンジンを搭載した新車が発売され続けている<ref>{{Cite web |url=https://www.autoby.jp/_ct/17556303 |title=2ストローク250ccの新型スポーツバイクが日本上陸! ヴィンス「ドゥエチンクアンタ」&ランゲン「ツーストローク」 |publisher=webオートバイ |date=2022-07-15 |accessdate=2023-09-23}}</ref>。
アプリリアは1999年からスクーターにFI([[燃料噴射装置]])と[[ガソリン直噴エンジン|直噴]]を採用していたが、2012年には電子制御式直噴システムに進化させて搭載した<ref>{{Cite web |url=https://www.bikebros.co.jp/vb/fifty/fguide/fbg-75/ |title=アプリリア SR50ピュアジェット |publisher=バイクブロス |date=2012-07-20 |accessdate=2023-10-11}}</ref>。2018年にKTMはEuro4規制対応のため、同社として、そしてオフロードバイクとして初となる2ストロークエンジン用FI「TPI」(非直噴)を開発。3kg程度の重量増加に抑えて発売した<ref>[https://www.tandem-style.com/bike/8357/ KTM 250EXC TPI] タンデムスタイル 2023年10月11日閲覧</ref>。その後カスタム界でも2ストロークをFI化する例も見られ始めている<ref>[https://car.motor-fan.jp/article/10016916 【原付チューン】Q.キャブレター車の2ストスクーターをFI化ってできるの? A. ヤマハBW'S100で試してみました。] モーターファン 2023年10月11日閲覧</ref>。2024年式でTPIは電子制御を進歩させた「TBI」に生まれ変わり、Euro5規制をクリアした。
2024年式のKTM・250EXC(2ストローク)/250EXC F(4ストローク)を例にして比較すると、2ストロークは4ストロークよりエンジン単体で3kg軽い。ただし燃料タンクは2ストロークの方が0.5L多く、シャシー全体での軽さは1.3kg程度となる。馬力/トルクは2ストロークが47馬力/40.8Nm、4ストロークが42馬力/非公表となっている<ref>[https://www.ktm.com/ja-jp/models/enduro/2-stroke/ktm-250-exc-2024.html KTM 250 EXC] KTM公式サイト 2023年10月17日閲覧</ref><ref>[https://www.ktm.com/ja-jp/models/enduro/4-stroke/ktm-250-exc-f-2024.html KTM 250 EXC-F] KTM公式サイト 2023年10月17日閲覧</ref>。
2018年時点のKTMの全世界販売の半分以上は2ストロークエンジン車で、[[南アフリカ]]など国によっては2/3が2ストロークエンジン車であったという<ref>[https://transmoto.com.au/ktm-two-strokes-a-brief-history/ KTM TWO-STROKES: A BRIEF HISTORY] trancemoto 2023年10月3日閲覧</ref>。日本メーカーではかつて「2ストのヤマハ」<ref>[https://motor-fan.jp/bikes/article/49936/ これは貴重なミーティング。|レアな2ストシングルスポーツ、ヤマハSDR。100台近く集まりました。] モーターファン バイクス 2023年10月12日閲覧</ref>とも呼ばれた[[ヤマハ発動機]]が現在も2ストロークに最も積極的であり、国内では日本4大メーカー中唯一モトクロッサーに2ストロークモデルを用意し、正規販売している。スズキ、カワサキも海外ではごく小規模だが販売を行っている<ref>[https://dirtbikemagazine.com/2023-two-stroke-buyers-guide/ 2023 TWO-STROKE BUYER’S GUIDE]DirtBikeMagazine 2023年9月7日閲覧</ref><ref>[https://amsoil.co.in/four-stroke-or-two-stroke-dirt-bike-which-is-right-for-you/ FOUR-STROKE OR TWO-STROKE DIRT BIKE: WHICH IS RIGHT FOR YOU?]AMSOIL 2023年9月8日閲覧</ref>。
2ストロークと4ストロークのどちらが有利かはカテゴリや路面によって異なるが、[[トライアル (オートバイ)|トライアル]]や[[エンデューロレース|ハードエンデューロ]]のようにテクニカルなセクションをこなす場合は2ストロークが有利なことが多い。これは2ストローク車が軽量なこと、トルクで優れているため極低回転域でエンストしづらく粘りがあることなどが理由である。一方で高速域を維持する[[モトクロス]]や[[ラリーレイド]]のような競技では、パワーバンドが広く高回転域で安定したトラクション性能を持つ4ストロークが強さを見せる。伝統的な[[エンデューロ]]のように2ストロークと4ストロークが勝ったり負けたりするカテゴリでは、両者のどちらがいいかは常に議論の的となる。中にはイベントによって両者を使い分けるライダーもいる。
FIM(国際モーターサイクリズム連盟)が主催するモトクロスやエンデューロなどの育成カテゴリでは、125cc以下の2ストロークエンジンだけが走れるクラスが現在もある。これは半クラッチを上手に使わないとうまく走れない2ストロークの特性が、育成に最適であるという考えが根底にある<ref>[https://bike-news.jp/post/155066 じつは人気が高まっている? 2ストバイクはオフロードレース業界で大活躍中] バイクのニュース 2023年10月9日閲覧</ref>。
ATV([[全地形対応車]]、四輪バイク)においてはスポーツタイプを中心に誕生初期から00年代まで用いられたが、排ガス規制やスポーツATV自体の衰退もあり、2006年のヤマハ・バンシー350の終了を最後に生産されていない<ref>[https://www.atvrider.com/top-10-atv-two-strokes/ TOP 10 ATV TWO-STROKES]ATV Rider 2023 年10月10日閲覧</ref>。
=== その他 ===
動力船([[船外機]]や[[水上オートバイ]])でも、2輪車と同様な利点から2ストロークエンジンが主流であったが、近年は環境・騒音規制に対応する必要もあり、[[4ストローク]][[内燃機関|エンジン]]([[ヤマハ発動機|ヤマハ]]MJ-160FXなど)や環境対応型の2ストロークエンジン([[ガソリン直噴エンジン|直噴式]]([[ボンバルディア]]SEADOO 3D-DIなど)又は電子制御式[[燃料噴射装置]]と触媒の併用式([[ヤマハ発動機|ヤマハ]] MJ-GP1300R))への転換が進んでいる。日本国内でも、[[琵琶湖]]では「[[滋賀県]]琵琶湖の[[レジャー]]利用の適正化に関する条例」(琵琶湖ルール)により、従来型2ストロークエンジンの使用が禁止(経過措置あり)されるなどの取り組みがなされており、従来型2ストロークエンジンの使用は減少していくものと思われる。
[[スノーモービル]]では2023年現在も北米のメーカー([[ポラリス・インダストリーズ|ポラリス]]、[[アークティック・キャット]]、スキー・ドゥー)が採用している。中でもポラリスのスノーモービルは全て2ストロークエンジンである。<ref>[https://sledmagazine.com/all-two-stroke-engine-options-for-2023/ All Two-stroke engine options for 2023] Sledmagazine 2023年10月18日閲覧</ref>。ヤマハ発動機も事業撤退発表まで2ストロークエンジンのスノーモービルを製造していた。
[[欧米]]では[[チェーンソー]]や[[芝刈り機]]/[[刈払機]]のエンジンにも排出ガス規制が及ぶようになり、燃焼の制御が困難な従来型2ストロークエンジンの使用機会は少なくなってきている。
=== ガソリンを燃料とするものの潤滑 ===
2ストロークガソリン機関では、その構造上クランクケース内に混合気を導入し一時圧縮を行う必要があるため、同じくクランクケース内にある[[コンロッド]]大小端部や[[クランクシャフト]]の主ベアリングなどを、[[潤滑油]]をクランクケース内に保持したままで飛沫潤滑/給脂することができない(ガソリンで希釈されてしまう)。このため、
* ガソリンに一定比率(1:25 - 1:50ほど)で2ストローク用の潤滑油([[2ストロークオイル]])を混合<ref>この比率はエンジンの精度や負荷、オイル性能等によっても相当に差があり、古くは混合比1:15 - 1:20も珍しくなかった。極端な例では1950年代初頭の[[消防]][[ポンプ]]用市販2ストロークエンジン(富士産業製TA-11 空冷2気筒493cc)において、1:8という超濃厚な混合仕様の事例が文献に見られる。エンジン効率面からは、オイルの混合量が多いことは望ましくない。</ref>し、潤滑させた後に燃焼させる。
* あらかじめ容器でガソリンと潤滑油を混合して用いる方式を混合給油、潤滑油を燃料とは別のタンクに貯蔵し、[[オイルポンプ]]を通じてガソリンと混合させる方式を{{仮リンク|分離給油|it|Miscelatore}}という。
* 古くは全ての2ストロークエンジンが混合給油であったが、回転数や負荷の変化に細かく対応できないため、[[かじり]]や[[焼きつき]]、未燃焼ガソリンなどの燃料が[[電極]]に付き[[漏電|リーク]]してしまう[[点火プラグ]]かぶり等が避けられず、[[ダイハツ]]の「[[オイルマチック]]」、スズキの「[[CCIS]]」、ヤマハの「[[オートルーブ]]」など、回転数、アクセル開度、負荷の程度により混合比が自動可変し、クランクまわりのベアリングにも、オイルを圧送する方式が主流となった。現在では構造が簡単な[[チェーンソー]]などの汎用エンジン以外、オートバイ、自動車、[[船外機]]などは分離給油となっている。
** ただし、分離給油はオイルポンプの吐出量がオイルの[[粘度]]などの影響を受けやすいため、厳密には2ストロークオイルの銘柄を変更した場合には、オイルポンプの吐出量を再調整する必要がある。オイルの性質と車体のオイルポンプの吐出量がミスマッチの場合、排気口から未燃焼オイルが飛び散って車体や衣服を汚したり、最悪の場合は排気ポートやマフラーに未燃焼オイルやカーボンが溜まって排気を詰まらせてしまう事で、大幅なパワーダウンや始動不能などのトラブルを引き起こす。排気系統が詰まった場合には、マフラーを取り外して内部を焼却・清掃するか、マフラーの交換が必要となる。
** また、比較的焼きつきに強い分離給油方式でも、[[サーキット]]走行などで全開から急激なエンジンブレーキを掛けるような用途では潤滑性能が不足する為、このような場合にはオイルポンプによる給油を廃止して混合給油仕様とする場合がある。[[レーシングカート]]では急激なエンジンブレーキを掛ける際には[[エアインテーク]]を瞬間的に掌で塞いで混合気を濃くする事で焼きつきを防ぐ[[チョーク弁|チョーキング]]と呼ばれる走行技術も用いられる。
* 排気中に燃え残りの潤滑油分が多く、[[排気ポート]]や[[マフラー (原動機)|マフラー]]周辺が汚れるほか、排気ガスもクリーンなものにはなりにくい。[[鉱物油]]系オイルは特に燃え残りが多くなりやすいので、不純物のない[[化学合成油]]系オイルに変更する事で排気煙を軽減する事が出来る他、[[水上オートバイ]]や船外機などの[[水中排気]]の[[小型船舶]]に用いるエンジンオイルには、生分解性に優れた植物[[エステル]]系オイルも用いられている。
* 潤滑油混じりの独特の[[排気ガス|排気]]臭を和らげるため、[[1980年代]]には[[スクーター]]向けに[[イチゴ]]や[[キンモクセイ]]の香りがするエンジンオイルが市販されていた。2006年頃までは[[出光興産]]から[[オレンジ]]の香りがする「ゼプロオレンジ2」が発売されていたが、現在では販売終了となっている。こうした目的のオイルで2014年現在でも残るものは、広島高潤が販売する[[ひまし油]]配合の「KZひましじゃけん」のみである。
* [[ヤマハ発動機]]の純正2ストロークエンジンオイルが黒く濁っているのは、[[二硫化モリブデン]]を潤滑剤として配合しているためである。
== 2ストロークディーゼル機関 ==
{{main|複動式機関}}
ディーゼル機関ではガソリン機関のように火炎伝播の限界による[[ボア]]の限界がないため、気筒容積の拡大だけで大型化できる。またガソリン機関に比べ、熱効率が高く、多種類の燃料を使用することが可能である。
大型の2ストロークディーゼル機関は自動車などに搭載されるレシプロエンジンのように、ピストンの[[死点|上死点]]のみで爆発が起こる'''単動式'''(シングルアクティング)のほか、レシプロ式[[蒸気機関]]のようにピストンの下死点側でも爆発を起こすか(低速型機関)、2つのピストンを対向配置して1つの爆発で2つのピストンを同時に動かす事で効率を単動式より高める1気筒2ピストン式([[対向ピストン機関|対向ピストン式]])の'''複動式'''(ダブルアクティング)が存在するが、各種の複動式は単動式に比した場合の構造複雑化がデメリットとなり、高速型、低速型とも後年に至る主流とはならなかった。
1930年代末にアメリカ合衆国で実用化の進んだ2ストローク[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン|ユニフロー掃気式]]の中・高速ディーゼル機関は、軽量で高出力であったことから、4ストロークエンジンに伍して普及したが、燃費や騒音面での不利、排出ガス浄化対策の難などから、自動車用の高速エンジンは過給器を備えた4ストローク高速ディーゼル機関に主流を取って代わられた。
2ストロークディーゼル機関が21世紀初頭まで長期にわたって最も成功しているのは、船舶用低速ディーゼル機関の分野である。トルク変動が小さいこの用途においてはディーゼル内燃機関と2ストロークの組み合わせは高効率を実現できるため、この種の動力機関の主流となっている。過給器との併用により熱効率は通常40%を超え、一部の大型低速機関では50%を超えるものもある。ただし燃焼行程を経ないために[[カルノー効率]]に支配されない高温作動[[燃料電池]]の効率には劣る。
=== 軽油を燃料とするもの ===
ディーゼルエンジンでは小型から大型の機関が、自動車、[[軍用車両]]、[[鉄道車両]]、[[建設機械]]、[[航空機]]、[[船舶]]、[[コジェネレーション]]用として存在する。
==== 対向ピストン式 ====
{{seealso|対向ピストン機関}}
[[ファイル:Opposite piston engine anim.gif|thumb|左右対向ピストンエンジン]]
===== ユンカース ユモ =====
[[ファイル:Jumo205 cutview 02.jpg|thumb|250px|ユモ 205 カットビュー]]
[[1926年]]、[[ドイツ]]の「[[ユンカース]]」と「[[クルップ]]」2社の協力により、上部のピストンとクランクシャフトをサイドロッドと呼ばれる[[コネクティングロッド]](コンロッド)でつなぐ上下[[対向ピストン機関|対向ピストンエンジン]] ([[:en:Opposed piston engine|Opposed piston engine]]) が開発され、画期的な2ストロークディーゼルエンジンが誕生した。1回の爆発で2つのピストンが動く事で、通常のレシプロ機関の倍の働きが出来る事から、ダブルアクティングとも呼ばれる。
シリンダーヘッドが存在しないこのエンジンは、燃料供給は必然的に直接噴射となり、世界初の'''無気噴射式'''直噴エンジンとなった。無気噴射とは、[[圧縮空気]]で燃料を霧状に噴射するエアインジェクション方式ではなく、圧縮行程のシリンダー内に燃料のみを高圧で噴射して霧化する方式であり、逆にエアインジェクションにより燃料と空気を同時に吹き込むものは'''空気噴射式'''と呼ばれる。
上下対向式はその後、[[ギアトレーン|ギア連結]]の上下2クランクシャフト方式へと進化、さらなる高回転化が可能となり、[[航空機]]に搭載された。
6気筒、12ピストン、排気量16.6リットルの[[ユンカース ユモ 205]] (Jumo 205) は熟成を重ね、後継のユモ 207では最大出力1,000 ps (745.7 kw) /3,000 [[rpm (単位)|rpm]]、過給器付きユモ 205では1,300 psにも達した。
ただし、航空用としては出力に対する重量過大と回転制御面で不利であり、軽量高出力な同時代の航空ガソリンエンジンにとって代わる存在とはならなかった。採用された事例も、輸送機や大型[[爆撃機]]、高高度[[偵察機]]などの、[[マニューバ|機動性]]への要求が高くない機種がほとんどであった。またサイドロッド+1本クランクシャフトの自動車用対向ピストンエンジンは、大型自動車用としても競合する4ストロークディーゼルエンジンの高性能化に追従できず、1950年代までには市場から敗退している。高速船舶用や鉄道用に用いられた事例もあるが、それらも複雑さによるトラブルの多さがネックとなり、一般化しなかった。この系統の対向ピストンディーゼル機関は、構造全体の複雑化に加え、熱対策面でも課題を抱え、発展を阻害された。
===== 日本デイゼル・ND型 =====
[[ファイル:FHI Fuji-go 001.JPG|thumb|250px|富士産業(後の[[スバルカスタマイズ工房]])・ふじ号(1954年)<br />元[[都営バス]]のこの個体のエンジンは民生産業(現・[[UDトラックス]])のKD2型([[直列2気筒]])が[[縦置きエンジン|縦置き]]されている]]
日本では[[1936年]]([[昭和]]11年)に「[[日本デイゼル]]」が[[ユンカース]] / [[クルップ]]の特許を取得して、サイドロッド駆動の上下対向式エンジンの生産を開始、会社名を採ってND型と名付けられた。これが日本初の自動車用2ストロークディーゼルエンジンとなる。
[[日本デイゼル]]はその後「[[鐘淵デイゼル]]」へ社名を変え、製品名もKD型へと改称された。KD型は、[[単気筒]]から[[直列4気筒]]までの[[モジュール|モジュラー]]設計で、気筒数を表す数字を付けられたKD1型 (1,362 cc) からKD4型 (5,448 cc) と、KD4のボアアップ版のKD5型(4気筒 7,540 cc)をラインナップしていた。
[[第二次世界大戦]][[終戦]]直後の[[民生産業]]([[鐘淵デイゼル]]から[[1946年]]改称)製KDエンジンは、[[1940年代]]後期の日本製高速ディーゼルとしては最強の部類に属したが、反面「背が高い、[[騒音]]が高い、([[燃費]]・オイル消費の多さ、構造の複雑さから)維持費が高い」という意味で「三高(さんだか)エンジン」と呼ばれる難物でもあった。サイドロッド式は最高回転数が1,500 rpm程と低く、[[1951年]](昭和26年)発表の改良KD3型(3気筒 4,086 cc)では、120 ps (88.3 kw) /1,800 rpmまで高められたが、それ以上の高回転化(高出力化)は難しく、競合メーカーの生産する簡潔な設計の4ストローク高速ディーゼル機関に対抗するにも、進化の限界を迎えていた。
民生は旧態化したKD型エンジンに見切りをつけ、今度は[[ゼネラルモーターズ]]との間で自動車用2ストロークディーゼルエンジン(後述する[[:en:Detroit Diesel Series 71|Detroit Diesel Series 71]]シリーズ)に関する[[ライセンス生産]]契約を交わし、[[1955年]](昭和30年)、これも日本の自動車用としては唯一となる、[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン|ユニフロー掃気式ディーゼルエンジン]]の'''UD型エンジン'''を発表する。
===== ネイピア デルティック =====
{{main|ネイピア デルティック}}
ネイピア デルティック (Napier Deltic) は数々の異型エンジンの「[[発明]]」で知られる、[[ネイピア・アンド・サン]] ([[:en:Napier & Son|Napier & Son]]) が送り出した、3クランクシャフト対向ピストンエンジン。高度なメカニズムの「クルップ・ユンカース」の上下対向ピストン式直列6気筒・12ピストンをさらに3つ組み合わせ、三角シリンダーの18気筒・36ピストンとした「奇想天外エンジン」。デルティックとは、三角形を表す[[Δ|デルタ]]からの造語。
向かい合った2つのピストンの位相差で掃気を行う点はユンカース ユモと同様である。3本のクランクシャフトのうち、左図では最下部となっている1軸のみ、他の2軸と逆回転となる。すべてのクランクシャフトは[[ギアトレーン]]で連結され、タイミングのずれを防いでおり、同じ[[ロウ]](行、隣り合うバンクでの同じ順位のシリンダー)の3つのバンクの爆発にも時間差を設けてある。
もともとは[[イギリス海軍]]の[[高速魚雷艇]](MTB)と航空機用のエンジンとして[[1944年]]から開発が始まり、[[1950年]]の完成と同時に予定どおり高速魚雷艇に搭載され、[[21世紀]]まで現役であったほか、[[英国国有鉄道]] ([[:en:British Rail|British Rail]]) の[[:en:British Rail Class 23|クラス23ディーゼル機関車「ベビー・デルティック」]]と[[イギリス国鉄55形ディーゼル機関車|クラス55ディーゼル機関車「デルティック」]]にも採用されたが、こちらは[[コネクティングロッド|コンロッド]]に軽め穴を開けたことによる[[強度]]不足による破損や、狭い車体に無理矢理エンジンや[[補機]]、[[ラジエーター|冷却装置]]を詰め込んだ事が原因の[[オーバーヒート]]など、トラブルが多発した。加えて運動部品数が多いことから[[振動]]と[[騒音]]も酷く、さらに、整備をするにもイギリス国鉄の[[整備士]]では手に負えず、ネイピア社の[[技術者]]を一々呼ばないといけない事や、[[オーバーホール]]の間隔が他のエンジンよりも短かったことなどから運用コストもかさんだ。最終的には、4ストローク機関搭載でより[[信頼性]]が高くかつ高性能な[[インターシティー125]]の登場もあり、早期に現役を引退した。
<gallery>
ファイル:Napier_deltic_animation_large.gif|デルティックエンジンのアニメーション模式図<br />緑色は吸気、紫色は排気を示す。
ファイル:Napier Deltic Engine.jpg|ネイピア デルティック<br/>カットビュー<br />[[イギリス国立鉄道博物館|ナショナル・レールウェイ・ミュージアム]]
ファイル:Napier Deltic, Alycidon.jpg|[[:en:British Rail|BR]] クラス55 ''デルティック''<br />[[イギリス国立鉄道博物館|ナショナル・レールウェイ・ミュージアム]]
</gallery>
===== KMDB 6TD-2 =====
{{main|{{仮リンク|6TD|uk|6ТД}}}}
ウクライナの[[O・O・モローゾウ記念ハルキウ機械製造設計局|KMDB]] ('''K'''harkiv '''M'''orozov Machine Building '''D'''esign '''B'''ureau) の6気筒(12ピストン)水平対向ピストンエンジンの6TD-2は、排気量16.3リットル・ターボチャージャー付きで1200hp/2600rpmの最高出力を発生する[[バイフューエル|マルチフューエル]]直噴ディーゼルエンジンであり、自社で生産している[[オプロート]]や[[T-84]]などの戦車に搭載されて、それらの世界最高と言われる機動力を支えている<ref>「モーターファン・イラストレイテッドVol.20」(三栄書房 {{ISBN2|978-4-7796-0410-2}}) P.053</ref>。なおKMDBでは他にも{{仮リンク|3TD|uk|3ТД}}(3気筒、6ピストン)や{{仮リンク|5TD|uk|5ТД}}(5気筒、10ピストン)など、用途は戦車([[T-64]]や[[T-80U|T-80UD]]に限られる)を含む特殊車両やモーターボートに限られるが、対向ピストンエンジンを生産している。
{{-}}
==== 通常ピストン式 ====
===== ユニフロー・スカベンジング・ディーゼルエンジン (UD) =====
[[ファイル:Rosa Parks Bus.jpg|thumb|250px|[[GMC]] [[:en:GM "old-look" transit bus|トランジット]]<br />1948年製 TDH-3610<br />写真は[[:en:The Henry Ford|ヘンリー・フォード博物館]]に展示されている、公民権運動の活動家、[[ローザ・パークス]]が逮捕されるきっかけになったバス。]]
{{main|ユニフロー掃気ディーゼルエンジン}}
通常クランク型においても、[[1937年]]-[[1938年]]にかけ、[[ゼネラルモーターズ]] (GM) の一部門であった[[エレクトロ・モーティブ・ディーゼル|EMD]]と[[デトロイト・ディーゼル]]が、ルーツ式[[スーパーチャージャー]]を使った「ユニフロー掃気方式」の鉄道用と自動車用の2ストロークディーゼルエンジンを相次いで発表、生産を開始する。
[[EMD 567系エンジン|567系]][[V型12気筒]]エンジンを2基搭載したEMDの[[ディーゼル機関車]]である[[EMD Eシリーズ|E-ユニット]]と[[EMD Fシリーズ|F-ユニット]]は、共に大ヒットとなり、アメリカ国内に留まらず多くの国の鉄道で採用された。それらは戦後も長く生産が続き、[[流線形]]の「ドッグノーズ」はアメリカ型機関車を代表する顔となった。
一方、バスの場合は、4ストロークに比べでコンパクトで高出力な点を生かし、[[:en:Detroit Diesel Series 71|デトロイトディーゼル・シリーズ71エンジン]]と[[トランスミッション]]をリアに[[横置きエンジン|横置き]]搭載し、後車軸とトランスミッションを車体に対して約45度に配置したプロペラシャフトで結ぶ、アングルドライブパッケージが考案された。この駆動方式を採用した[[リアエンジン]]車で[[1940年]]から生産が開始された「[[GMC]] [[:en:GM "old-look" transit bus|トランジット]]」はバスの新時代を拓き、以降爆発的に普及、[[1969年]]まで生産が続けられた。
シリーズ71エンジンは、[[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]]黄金期の[[:en:PD-4501 Scenicruiser|シーニクルーザー]] ([[V型8気筒|V8]]-71) や金魚鉢、メトロ窓のあだ名を持つ[[:en:GM New Look (Fishbowl) Bus|ニュールックトランジット]] ([[V型6気筒|V6]]-71) など、GMCのほとんどのバスや大型トラックに採用されたため、日本のファンにもよく知られる存在となった。
日本の民生産業は、「[[民生デイゼル工業|民生デイゼル]]」として1950年に独立改組していたが、性能向上の限界に来ていたクルップ式KDエンジンに代わり、今度はGMの[[ライセンス生産|ライセンス]]による、[[スーパーチャージャー]]と[[OHV|頭上排気弁]](2バルブ、後4バルブ)によるユニフロー掃気の2ストロークディーゼル、「[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン|ユニフロー・スカベンジング・ディーゼルエンジン]] (Uniflow-scavenging Diesel-engine)」を採用、1955年にこの方式の頭文字をとったUD型を発表した(1953年の[[日産自動車]]の資本参加を受け民生デイゼルは1960年に日産ディーゼル工業に社名変更)。
UD型は3・4・5・6気筒の[[直列型エンジン|直列型]]、8・12気筒の[[V型エンジン|V型]]ともモジュラー設計であり、エンジン型式には「UD4型」のように気筒数が入れられていた。やはり燃費の悪さという弱点があったが、4ストロークのPD型発売後も1974年まで同社のトラック・[[日産ディーゼル・R/RA|バス]]にはUD型エンジンが搭載され、「UD」は一時、日本での高速型2ストロークディーゼルの代名詞となった。UD型エンジンは日産ディーゼル車の「UDマーク」の由来となっており、全てのエンジンが4ストロークとなった今でも愛着を込めて用いられているほか、2006年から2007年にかけて日産自動車から[[ボルボ・グループ]]に親会社が変わった後の2010年には[[UDトラックス]]と法人名にもなっている(なお、2014年を境に法人格が変わっている。当該項目も参照)。
戦前、戦後を通じ、一貫して2ストロークディーゼルエンジンを作り続けた日産ディーゼルであるが、国状を反映し、戦前はドイツ、戦後はアメリカの影響を強く受けていた。
なお、ユニフロー掃気方式とは本来は後述のクロス掃気方式やループ掃気方式に対する用語であるため、上記の頭上弁通常ピストン式の2ストロークディーゼルのみをユニフロー掃気方式と称するのは本来正しいものではない。単にユニフロー掃気を用いる2ストロークディーゼルという分類で言えば、前述の対向ピストン方式も吸排気の方向が一方向で掃気が確実になるという意味において、広義のユニフロー掃気方式に含まれる為である。
===== バルブレス式 =====
[[ファイル:XA1401.jpg|thumb|[[:en:Western Australian Government Railways|西豪州国営鉄道]]・[[WAGR X 級|X級]]。クロスリー製HST Vee8 バルブレス式[[V型8気筒]]1200馬力エンジン搭載。]]
ユニフロー掃気ディーゼルエンジンと同じく、掃気用ルーツブロアを持つ2ストロークディーゼルエンジンの中には、頭上弁を廃してシリンダー側面の排気ポート方式とし、クロス掃気もしくはループ掃気を行うバルブレス式2ストロークディーゼルエンジンとされたものがごく少数存在した。多くはデトロイトディーゼル・シリーズ53エンジン(頭上弁式ユニフローディーゼル)に対する[[:en:Detroit Diesel Series 51|シリーズ51]]エンジン(バルブレス式)のような、単純にコストダウンや生産性向上を目的にした設計変更に因るものであったが、中には[[イギリス]]の[[:en:Crossley|クロスリー]]が鉄道向けエンジンとして開発した'''HST Vee8'''エンジン等のように、掃気を敢えてループ掃気として排気管内の強い排気パルスによる排気ガスの押し戻しを誘発させた上で、ターボチャージャーによる大過給を掛ける事で、ユニフロー掃気ディーゼルエンジンのターボ仕様以上の出力向上を狙ったものも存在した。クロスリーのバルブレス式エンジンによる過給方式は[[:en:Exhaust pulse pressure charging]]と呼ばれている。
==== 日本の軍用機関 ====
戦前の[[大日本帝國]]では[[第一次世界大戦]]以降、欧米の2ストロークおよび4ストロークディーゼルエンジン技術を移入する形で船舶用ディーゼルエンジンの研究開発が行われた<ref>[http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/032.pdf 「舶用大形2サイクル低速ディーゼル機関の技術系統化調査」田山経二郎 第8集 2007] - </ref><ref>[http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/044.pdf 「4サイクルディーゼル機関の技術系統化調査」 佐藤 一也 第12集 2008]</ref>。特に[[大日本帝國海軍]]では[[艦政本部]]が主導し、2ストロークディーゼル機関の研究および導入が非常に盛んに行われた。戦前型の[[潜水艦]]の多くに2ストローク複動型ディーゼルエンジンが搭載されていたが、2ストローク複動ディーゼルは高出力ではあるものの、騒音が大きく、排気圧力が低い為[[シュノーケル (潜水艦)|シュノーケル]]を用いた主機関での水中連続航行に不向きだった為、[[第二次世界大戦]]が始まると低出力であるが騒音が低めで燃費が良く、排気圧力が高いので主機での水中連続航行に適した4ストローク単動式へと移行していった<ref>[http://www.warbirds.jp/truth/ijn-sub.html 帝国海軍潜水艦伝習所 - Warbirds]</ref>。
陸上車両では数としては少ないが戦後の[[陸上自衛隊]]の[[74式戦車]]、[[90式戦車]]のエンジンに2ストロークディーゼル機関が採用されている。ディーゼルエンジンは[[戦車]]の機関としてはガソリンエンジンに比べ、同一の排気量の場合の出力は低いが、燃料が引火しにくい為、燃料タンクに防弾処理を施さなくても安全性が高いという利点がある。
==== 将来 ====
将来のエンジンとして、[[ダイハツ工業|ダイハツ]]は、[[東京モーターショー]](1999年、2003年)に「2ストロークユニフローディーゼルエンジン」を出品した。2003年(平成15年)発表の軽自動車用エンジンは、排気ガスの新長期規制をクリアした上で超低燃費であると伝えられていたが、その後、市販化などには至っていない<ref>[https://response.jp/article/2003/10/22/54966.html 【東京ショー2003速報】ダイハツ渾身の力作、660cc・2ストロークディーゼル] - [[Response.]](2003年10月22日(水) 18時44分版/2017年8月15日閲覧)</ref>。
=== 重油を燃料とするもの ===
==== 大型機関 ====
[[船舶]]用など、回転数が60 - 120rpm程度と極低速な大型機関では、毎回爆発である2ストロークのメリットは大きく、第2次世界大戦後の1950年代から、ユニフロー式の過給機付き2ストロークディーゼルが主流となっている。シリンダーライナー下部の掃気ポートから給気し、燃焼室上部の排気弁から排気するユニフロー方式である。スクリューの実用回転数に近い速度での低速回転に適合しており、船舶後退時のスクリュー逆回転に必須なエンジン回転方向切換に際しても、4ストローク機関より簡略に対応できることから、[[商船]]を主とした大型舶用エンジンの主流技術となっている。
ディーゼルエンジンは元々熱効率が高いが、船舶用の低速ディーゼルエンジンは理論上の[[ディーゼルサイクル]]に近い燃焼サイクルが実現できる。効率を高めるため[[ターボチャージャー]]や[[インタークーラー]]も装備されているのが一般的である。排気ガス[[エコノマイザ]]を装備し、排熱の一部を回収、再利用する例も多い。これらの総合的なシステムによって、熱効率50%を超過する高効率なエンジンが実現されており、現在最も効率の良いエンジンの部類に入る。
またこの種のエンジンは、粗悪な[[重油|C重油]]でも予備加熱、清浄によって使用可能で、この面でも経費を抑えることができる。反面、粗悪燃料使用にはクランクケースと燃焼室との構造的隔離が必須となり、エンジン全高が非常に高くなる。更には近年、排気ガス浄化の難しさが課題となっている。
舶用以外の分野では[[内燃力発電]]の機関としても利用されている。
始動はほとんどの場合、圧縮空気によって行われる。
==== 建設機械 ====
[[ファイル:Berminghammer B6505 Diesel Impact Hammer Driving 30-in Pipe Piles.jpg|thumb|Berminghammer社製B6505型ディーゼルハンマー]]
[[建設機械]]の[[杭打ち機]]のうち、'''ディーゼルハンマー'''(ディーゼルハンマとも)と呼ばれるものは、それ自体が巨大な2ストローク[[単気筒]]フリーピストン[[ディーゼルエンジン]]となっている。筒状の構造で、先端には杭に宛がわれるアンビル、筒内には上下動する[[槌]]([[ハンマー]])が内蔵されており、筒の側面に[[燃料ポンプ]]と吸排気口が設けられている。内部の槌が[[ピストン]]、アンビルの内側が[[燃焼室]]の役目をそれぞれ果たすようになっており、ディーゼルハンマーよりプリミティブな打撃形式である''モンケン''が、打撃のたびに巻上機([[クレーン]])で槌を持ち上げて自然落下させるのに対して、ディーゼルハンマーは槌が落下する際に予めアンビルに燃料(重油)を流し込んでおくことで打撃と同時に爆発が発生、膨張行程により槌が最上位まで戻るため、連続的に燃料を供給し続けることでモンケンより効率的かつ高速な連続打撃を行う事が可能となる。ディーゼルハンマーは動力機関ほどの掃気効率が要求されないため、吸排気ポートも共用化されたごく単純なものとなっているが、騒音が大きく排気ガスも汚いことから、近年では''バイブロハンマー''等のより静音・低振動の杭打機に取って代わられ、世界的にはまだ広く用いられているものの、日本の建設現場で目にすることは稀となっている。
{{-}}
== 2ストロークエンジンの吸排気方式による分類 ==
=== ピストン制御式吸気弁 ===
ピストンの上下により、吸気口が開閉する。ピストン自体が[[ピストンバルブ|弁]]の役割を兼ねる。ピストンバルブ式とも呼ばれる。
=== リード式吸気弁 ===
{{main|ディーゼルエンジン#逆回転運転|ガソリン直噴エンジン#欠点}}
シリンダ内が負圧になると開く[[リードバルブ|リード弁]]により吸気を行う。ピストン弁より多くの回転域に於いて良好な出力特性を示す。ピストン弁式のように混合気をクランクケースから排出しない。リードバルブ式とも呼ばれる。
通常のリードバルブ式2ストロークエンジンはポペットバルブを持つ4ストロークエンジンと異なり、逆回転が可能である。[[模型飛行機]]用ではプロペラのねじりがどちらでも使える。多くの初期の小型の船舶用2ストロークエンジンではシリンダ内が負圧になると開く[[ポペットバルブ]]が使用されており、その慣性質量の為、低回転域に於いてのみ逆回転が可能であった。
[[メッサーシュミット]]の{{仮リンク|メッサーシュミット・KR200|en|Messerschmitt KR200|label=KR200}}は前進用と後退用の2つの{{仮リンク|コンタクト・ブレーカー|en|Contact breaker}}を切り替えて、エンジンを逆回転させることにより後進した。KR200はエンジンを一度停止した後、点火スイッチを通常よりも深く押し込む事で後退用の点火時期が選択されて逆回転が開始された。KR200には「ダイナスタート」と呼ばれる[[電動発電機]]({{仮リンク|スターター・ジェネレータ|de|Startergenerator}})が搭載されており、[[セルモーター]]の回転を容易に逆転する事ができた<ref>[https://www.rmsothebys.com/bw13/the-bruce-weiner-microcar-museum/lots/1961-messerschmitt-kr-200/1057228 1961 Messerschmitt KR 200] - [[サザビーズ]]</ref>。
一方、リードバルブ式2ストロークエンジン搭載の日本の[[軽自動車]]では、[[点火時期]]の調整の不備からエンジンが逆回転したことによる事故があり、[[スズキ・アルト]]などはこの事が遠因となり2ストロークエンジンの採用継続を諦めたとされている<ref>[http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2015110699251.html 世界の名車<第94回>日本の軽自動車を変えた「スズキ・アルト」- 小川フミオのモーターカー] - [[朝日新聞]]デジタル、2015年11月9日。</ref>。通常、点火時期は始動時には[[インテーク|吸気系統]]への{{仮リンク|バックファイアー (内燃機関)|en|Back-fire|label=逆火}}を防ぐ目的で[[死点|圧縮上死点]]より後で点火させる=点火時期を遅角させる事が一般的で、[[キックスターター]]やハンドクランクなど手動始動装置を装備した1950年代以前の車両の場合には、点火時期を手動調整できるものも存在した<ref>[http://www.vmr.jp/modules/vmr/content0009.html ビンテージモーターサイクルにしかない3つの魅力] - vmr.jp</ref>。しかし、リードバルブ式2ストロークエンジンは始動時に点火時期を大きく遅らせすぎてしまうと、手動始動に失敗して圧縮圧力によるクランクの逆回転(キックバック、ケッチン)が起きた時、遅らせた点火時期がクランクが正回転している際の進角させた点火時期と類似した角度になってしまう場合があり、そのまま逆回転状態が継続する事態が発生した。自動車用エンジンや[[オートバイ用エンジン]]などで逆回転が発生するとエンジン音が特に変化しないにもかかわらず、前進ギアで後退、後退ギアで前進してしまう為、大変危険であった<ref>[http://www.bikebros.co.jp/vb/feat/mm124_p26_27/ 2ストエンジンのポイント調整方法] - [[バイクブロス]]、2017年02月04日。</ref>。
今日の2ストロークエンジンで用いられる[[キャパシター・ディスチャージド・イグニッション|CDI]]などの電子式[[点火装置]]は、スターターによる回転力が不十分な場合など、エンジンがごく低回転の時には点火を行わない'''アンチ・キックバック'''機構が組み込まれることで、キックバックに起因する逆回転を可能な限り防ぐ措置が採られている<ref name="dan">[http://www.dansmc.com/kickstarters.htm Kick Starters] - Dan's Motorcycle</ref>が、逆回転による始動が完全に成立してしまった場合の[[フェイルセーフ]]までは成されておらず、2017年現在でも[[スクーター]]<ref>{{youtube|jx715Ah2Ob0}} - 2 stroke engine running backwards</ref>や[[オフロードバイク]]<ref>{{youtube|m8StmcJNirw}} - Suzuki TS running backwards</ref>などで操縦者の意図しない逆回転の事例が報告されている。
上記の事故事例のように、リードバルブ式2ストロークエンジンは点火時期が反転に近い角度まで狂った場合、[[セルモーター]]で通常の始動操作を行っても逆回転が起きてしまう可能性がある事が経験則から知られていたが、カナダの[[ボンバルディア]](現:[[ボンバルディア・レクリエーショナルプロダクツ]])は、リードバルブ式2ストロークエンジンが比較的低い回転数で正回転中に、点火時期を逆回転用に切り替えることでエンジンを停止することなく逆回転への移行が可能となる事を突き止め、1990年に独自の逆回転システムの[[米国の特許制度|米国特許]]を取得<ref>{{patent|US|5036802}} - Reverse rotation engine</ref>、[[スキードゥー]]ブランドの[[スノーモービル]]では停車中に後退スイッチを押す事で、エンジン回転が一旦[[エンジンストール]]に近い回転数まで落ちた後、そのまま逆回転へと移行して後退運転が可能となっている<ref>{{youtube|O262vNaCir8}} - How to put Ski-Doo's in reverse</ref>。スノーモービルでは通常、後付けの後退ユニットを組み込む事で後退機能を手に入れる必要があるため、スキードゥーの「[[ロータックス]]・エレクトリック・リバース(RER)」システムは後退機能を安価に実装する事に貢献した。
=== ロータリー式吸気弁 ===
{{main|ロータリーバルブ}}
クランクウェブロータリーバルブ式と、ロータリーディスクバルブ式の2つに分かれる。
==== クランクウェブロータリーバルブ式 ====
クランクシャフトにあるクランクウェブの一部を切り欠いて吸気弁とする方式である。吸入方向はクランクケースリードバルブ式同様、クランク軸放射(ラジアル)方向である。
; 利点
: コンロッド大端部へ混合燃料が直接接触するため、潤滑油混合比を薄くすることが可能である (50:1)
: 開閉タイミングを任意に設定することが可能で、慣性による過充填が一番期待できる。
; 欠点
: 回転バランスを取ろうとすると一次圧縮比が低下してしまうことで、逆に一次圧縮比を維持しようとすると回転アンバランスで機関の振動が増えてしまう。
* 代表車種
** ピアジオ
*** ベスパ125系 (1957 - 1978)、ベスパ150系 (1960 - 1975)、ベスパ90系 (1963 - 1999)、ベスパ180ラリー系 (1966 - 1977)、ベスパP系 (1976 - )、ベスパPK系 (1979 - 1998)
** 富士重工
*** ラビット
==== ロータリーディスクバルブ式 ====
専用の円盤弁を用いて吸気弁とする方式である。吸入方向はクランク軸同軸(アキシャル)方向である。
; 利点
: 開閉タイミングを任意に設定することが可能で、慣性による過充填が一番期待できる。
; 欠点
: キャブレターをクランクケースと同軸方向にセットしなければ吸気経路が延びてしまうことで、同軸方向にキャブレターをセットするとキャブレターがエンジンより横へ飛び出てしまうことから、キャブレターの設置場所に難がある。
* 代表車種
** ヤマハ
*** メイト、YB125、YB50/90/-1
** スズキ
*** RG400/500、K50/90/125、2サイクルバーディー50/90、バンバン90/125
** カワサキ
*** KV75、KM90、AR125(リードバルブ併用)、KE125、A1/A7、KR250
=== クロス式掃気 ===
[[ファイル:Two-stroke deflector piston (Autocar Handbook, 13th ed, 1935).jpg|thumb|170px|クロス式掃気の一例、ディフレクターピストンの採用]]
[[クロスフロー]]掃気とも呼ばれる。掃気孔と排気孔が向かい合った形のもの。そのままでは掃気孔からの新気が素通りして排気孔へ逃げてしまうため、ピストン頂部を山形に盛り上げたり、掃気の流れを上向きにすることにより排気孔に逃げる新気を減らす工夫がなされる。それでもやはり燃焼室内を素通りする新気が多く、燃焼室上部に燃焼ガスが残りやすいという弱点のため現在ではあまり用いられない<ref>{{US patent|6468122}}</ref>。
{{-}}
=== ループ(反転)式掃気 ===
{{main|ループ式掃気|[[トルク・インダクション]]}}
[[ファイル:Schnuerle porting, from above.svg|thumb|left|170px|ループ式掃気における掃気・排気ポート配置の一例、シニューレ方式。]]
[[File:2 stroke cylinder.jpg|thumb|'''5ポート'''・ループ式掃気シリンダーを[[クランクケース]]側より撮影した写真。このシリンダーの場合左側より排気、主掃気、副掃気、吸気となる。吸気ポートより[[シリンダーヘッド]]側に溝が削られている為、吸気ポートが掃気ポートを兼ねる'''7ポート・トルクインダクション'''方式とも解釈可能である。]]
シニューレ式掃気({{lang-en-short|Schnuerle}})とも呼ばれる。掃気孔を排気孔の正面から左右にずらした位置に配置することにより、掃気孔からの新気を一度シリンダ内面にぶつけたり、それぞれの掃気孔からの新気をぶつけるなどして反転させて燃焼ガスを追い出す方式である。
ループ掃気は掃気・排気孔の配置によってシニューレ式のほかに、掃気孔を排気孔の真下に配置し[[ターンフロー]]のように混合気を大きくシリンダー内を旋回させる[[MAN (企業)|MAN]]式(ループ式)、シリンダー内の片側半分に多数の掃気孔、もう半分に少数の排気孔を設けたクロスフロー方式の改良型ともいえる{{仮リンク|チャールズ・ゴードン・カーティス|en|Charles Gordon Curtis|label=カーチス式}}<ref>[https://www.asme.org/engineering-topics/articles/turbines/charles-gordon-curtis Charles Gordon Curtis] - [[アメリカ機械学会]]</ref>の二つが代表的で<ref>{{仮リンク|マックグロー・ヒル (企業)|en|マックグロー・ヒル}}『Internal Combustion Engines』、2012年、635頁。</ref>、その他にも小型模型飛行機向けのエンジンではシニューレ式の掃気孔配置を若干変化させたスワール式やリバースループ式などがあるが<ref>[http://www.airplanesandrockets.com/motors/inside-the-two-cycle-engine-feb-1968-aam.htm Inside the Two-Cycle Engine February 1968 American Aircraft Modeler] - airplanesandrockets.com</ref>、今日ではシニューレ式が一般的である。高性能2輪車のエンジンでは掃気孔の面積を大きくするため、さらに一対の補助掃気孔を追加(5ポート方式)したり、排気孔の向かい側にも補助掃気孔を設けているもの(7ポート方式、ヤマハ発動機は[[トルク・インダクション]]と呼称)もある。
クロス式に比べて掃気性能は向上するが、シリンダ内のガスの流れが複雑になるためシリンダの温度が不均一になって、熱歪みが発生しやすくなるのが欠点である。
ループ式掃気を補助するため排気ポートを可変式(後述のパワーバルブシステム)としたり、[[マフラー (原動機)|排気管]]の一部を大きく膨らませた[[チャンバー]]構造として、排気ポート側に吹き抜けた新気をシリンダー内に押し戻す反射波を発生させる事も行われている。
{{-}}
=== ユニフロー(単流)式掃気 ===
[[ファイル:Diesel engine Uniflow.PNG|thumb|170px|ユニフロー式掃気の一例、OHV型2ストロークディーゼルエンジン]]
{{main|ユニフロー掃気ディーゼルエンジン|スプリット・シングル (内燃機関)}}
ユニフロー掃気とは、新気([[空気]]もしくは混合気)をシリンダーの根元から吸気しながら、シリンダ先端から燃焼ガスを排気することで、掃気を反転せず、一方向にしたものである。ユニフロー式にもいくつか種類があるが、頭上排気弁とシリンダ下部の掃気ポートを併用することでユニフローを実現した型が唯一生産中であり、大型船舶などの低速ディーゼルエンジンに使用される。ユニフロー掃気では新気と燃焼ガスが混ざりにくく、掃気効率が高くなる。掃気孔を等間隔で大きく取ることができ、シリンダの温度分布を均一にできることから熱歪みが発生しにくくなる。ロングストロークにするほど、これらの利点が生かせ、高効率エンジンを実現できる。
[[OHV|頭上弁]]式ユニフロー掃気2ストロークはディーゼルエンジンだけで実用化されており、大型舶用ディーゼルは単体の熱機関で最高の熱効率50%を誇っている。また過給機による掃気となっておりガソリンエンジンのようなクランクケース圧縮は行われたことがない。
ガソリンエンジンにおいては高価な過給機と頭上排気弁が必要なユニフロー掃気2ストロークエンジンは実用化しなかった。ガソリン機関では簡素な構造で低コスト化することが2ストローク機関の目的とされ、安価なクランクケース圧縮によるループフロー掃気やクロスフロー掃気が量産され発達した。
一方ガソリンエンジンでは1910年代から1970年にかけて細々とスプリット・シングルが作られたが、リードバルブや排気干渉を利用して改善されたループフロー掃気やクロスフロー掃気にも劣る性能になったため既に廃れている。
対向ピストンエンジンや、これを燃焼室のある真ん中から折り曲げた形のスプリット・シングルエンジンをユニフロー掃気に含めることもあるが、合理性がないため廃れた。これらは掃気効率の良さを残してはいるものの、一対のシリンダを一方向に掃気することで、かえって2つのシリンダの掃気状態と温度分布を逆に傾ける。すなわちピストンの動作方向まで考えると片方のシリンダの掃気方向が必ず逆になり、ユニフローとは言えなくなる。燃焼室形状と温度の偏りは最適に程遠く、熱効率も信頼性も低下する。2つのシリンダで1つの掃気と1つの燃焼室を共有する意図が2つのシリンダを別々に設計・製造、冷却・潤滑せざるを得なくし、コストパフォーマンスも低下する。
{{-}}
=== パワーバルブシステム ===
大半の近代における2ストロークエンジンはパワーバルブシステムを採用している。[[排気デバイス]]とも呼ばれ、通常は排気口をふさいでいるが、作動時には1もしくは2の排気口がタイミングにあわせて開く。排気口の開度を大きくとることが出来る。
=== 段付ピストンエンジン ===
段付ピストンエンジン(ステップドピストンエンジン)は燃焼室において圧縮比を高める為にピストン上面に段をつけたものである。ピストンの重量は段をつける事により20 %重くなり、[[慣性質量]]が増加する。利点はピストンの潤滑が容易になり、4ストロークエンジン同様、[[すべり軸受|平軸受け]]が使用できる事である。特許はBernard Hooper Engineering Ltd (BHE) が2005年に取得した<ref>[http://www.bernardhooperengineering.co.uk/opads.htm THE STEPPED PISTON ENGINE] - Bernard Hooper Engineering(2017年7月23日閲覧)</ref>。
== 注釈 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Two-stroke engines}}
* [[機関 (機械)]]
* [[内燃機関]]
* [[4ストローク機関]]
* [[6ストローク機関]]
* [[エンジンオイル]]
* [[ディーゼルエンジン]]
* [[レシプロエンジン]]
* [[ロータリーエンジン]]
* [[焼玉エンジン]]
* [[熱力学サイクル]]
* [[ストラト・チャージドエンジン]]
{{レシプロエンジンの気筒配置による分類}}
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{{DEFAULTSORT:2すとろおくきかん}}
[[Category:往復動型内燃機関]]
[[Category:自動車エンジン技術]]
[[Category:フランスの発明]]
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十号
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釈迦には仏陀であることを意味する阿羅漢、辟支仏、如来、等正覚などいくつもの尊称がある。そのうち、以下の10種がとくに十号(じゅうごう, epithets for the Buddha)と言われる。
パーリ仏典では、釈迦は比丘たちに以下のように呼び掛けたと記されている。
Itipi so bhagavā arahaṃ sammāsambuddho vijjācaraṇasampanno sugato lokavidū anuttaro purisadammasārathi satthā devamanussānaṃ buddho bhagavā"ti
それゆえ、世尊は、応供、正等覚、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊なり。
十号の内容には、次のような異説もある。
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釈迦には仏陀であることを意味する阿羅漢、辟支仏、如来、等正覚などいくつもの尊称がある。そのうち、以下の10種がとくに十号と言われる。 如来(にょらい、tathāgata) - 真実のままに現れて真実を人々に示す者、真実の世界に至り、また真実の世界から来られし者を如去如来という。如来は向下利他の意となり、この二語にて仏の無住涅槃(涅槃に止まざる)を顕す。しかして如去如来は、如来と略称された。
応供(おうぐ、arhat) - 尊敬を受くるに足る者をいう。音写して阿羅漢。至心という訳もある。
正遍知(しょうへんち、samyaksambuddha) - 一切智を具し一切法を了知する者。宇宙のあまねく物事、現象について正しく知る者をいう。
明行足(みょうぎょうそく、vidyācaraṇasaṃpanna) - 『大智度論』に依れば、明とは宿命・天眼・漏尽の過去現在未来の三明、行とは身口意の三業、足とは本願と修行を円満具足することで、したがって三明と三業を具足する者をいう。『涅槃経』に依れば、明とは無上正遍知(悟り)、行足とは脚足の意で、戒定慧の三学を指す。仏は三学の脚足によって悟りを得るから明行足という。
善逝(ぜんぜい、sugata) - 智慧によって迷妄を断じ世間を出た者。好去、妙住ともいう。善く因より果に逝きて還らぬという意味で、無量の智慧で諸の煩悩を断尽し世間を脱出した者をいう。
世間解(せけんげ、lokavid) - 世間・出世間における因果の理を解了する者。仏は世間の有情をよく了解することからいう。
無上士(むじょうし、anuttra) - 惑業が断じつくされて世界の第一人者となれる者。仏は衆生の中において最も尊き無上の大士なる意であるからいう。『涅槃経』では「仏は無上士とも名付け、三宝中においては仏こそ最も尊上となす」と説く。
調御丈夫(じょうごじょうぶ、puruṣadamyasārathi) - 御者が馬を調御するように、衆生を調伏制御して悟りに至らせる者。仏は大慈大悲を以て衆生に対し、あるいは軟語、あるいは苦切語・雑語を用いて調御し、時に応じて機根気類を見て与え、正道を失わしめない者であるという意。
天人師 - 天人の師となる者。仏は正法を以て人間・天上の者を教導するから天人教師、すなわち天人師という。
仏世尊 - 煩悩を滅し、無明を断尽し、自ら悟り、他者を悟らせる者。真実なる幸福者。仏は仏陀の略で智者・覚者の意、世尊とはあらゆる功徳を円満に具備して、よく世間を利益し、世に尊重せらるるとの意で、世において最も尊いから仏世尊という。
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{{出典の明記|date=2019年10月13日 (日) 07:16 (UTC)}}
[[釈迦]]には[[仏陀]]であることを意味する阿羅漢、辟支仏、如来、等正覚などいくつもの尊称がある。そのうち、以下の10種がとくに'''十号'''(じゅうごう, epithets for the Buddha)と言われる。
# [[如来]](にょらい、tathāgata)<ref name="コトバンク十号">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%8F%B7-76931|title=十号(じゅうごう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-23}}</ref> - {{要出典範囲|真実のままに現れて真実を人々に示す者、真実の世界に至り、また真実の世界から来られし者を如去如来という。如来は向下利他の意となり、この二語にて仏の無住涅槃(涅槃に止まざる)を顕す。しかして如去如来は、如来と略称された。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
# [[応供]](おうぐ、arhat)<ref name="コトバンク十号" /> - 尊敬を受くるに足る者をいう。音写して[[阿羅漢]]。至心という訳もある。{{refnest|name="ブリタニカ"|[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%8F%B7-76931#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「十号」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]、2014年、Britannica Japan。}}
# 正遍知(しょうへんち、samyaksambuddha)<ref name="コトバンク十号" /> - {{要出典範囲|一切智を具し一切法を了知する者。宇宙のあまねく物事、現象について正しく知る者をいう。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
# 明行足(みょうぎょうそく、vidyācaraṇasaṃpanna)<ref name="コトバンク十号" /> - {{要出典範囲|『[[大智度論]]』に依れば、明とは宿命・天眼・漏尽の過去現在未来の三明、行とは身口意の[[三業]]、足とは本願と修行を円満具足することで、したがって三明と三業を具足する者をいう。『[[涅槃経]]』に依れば、明とは無上正遍知(悟り)、行足とは脚足の意で、戒定慧の[[三学]]を指す。仏は三学の脚足によって悟りを得るから明行足という。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
# 善逝(ぜんぜい、sugata)<ref name="コトバンク十号" /> - {{要出典範囲|[[般若|智慧]]によって迷妄を断じ世間を出た者。好去、妙住ともいう。善く因より果に逝きて還らぬという意味で、無量の智慧で諸の煩悩を断尽し世間を脱出した者をいう。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
# 世間解(せけんげ、lokavid)<ref name="コトバンク十号" /> - {{要出典範囲|世間・出世間における因果の理を解了する者。仏は世間の有情をよく了解することからいう。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
# 無上士(むじょうし、anuttra)<ref name="コトバンク十号" /> - {{要出典範囲|惑業が断じつくされて世界の第一人者となれる者。仏は衆生の中において最も尊き無上の大士なる意であるからいう。『涅槃経』では「仏は無上士とも名付け、[[三宝]]中においては仏こそ最も尊上となす」と説く。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
# 調御丈夫(じょうごじょうぶ、puruṣadamyasārathi)<ref name="コトバンク十号" /> - {{要出典範囲|御者が馬を調御するように、衆生を調伏制御して悟りに至らせる者。仏は大慈大悲を以て衆生に対し、あるいは軟語、あるいは苦切語・雑語を用いて調御し、時に応じて機根気類を見て与え、正道を失わしめない者であるという意。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
# [[天人師]](てんにんし、śāstā devamanuṣyānāṃ) - {{要出典範囲|天人の師となる者。仏は正法を以て人間・天上の者を教導するから天人教師、すなわち天人師という。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
# 仏[[世尊]](ぶつせそん、buddho bhagavān)<ref name="コトバンク十号" /> - {{要出典範囲|煩悩を滅し、無明を断尽し、自ら悟り、他者を悟らせる者。真実なる幸福者。仏は仏陀の略で智者・覚者の意、世尊とはあらゆる功徳を円満に具備して、よく世間を利益し、世に尊重せらるるとの意で、世において最も尊いから仏世尊という。|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}
== 抜粋 ==
パーリ仏典では、釈迦は比丘たちに以下のように呼び掛けたと記されている。
{{Quote|
Itipi so bhagavā arahaṃ sammāsambuddho vijjācaraṇasampanno sugato lokavidū anuttaro purisadammasārathi satthā devamanussānaṃ buddho bhagavā"ti
それゆえ、世尊は、応供、正等覚、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊なり。
| {{SLTP|相応部 [[帝釈相応]] 3.幢頂経}} }}
== 異説 ==
十号の内容には、次のような異説もある。
*仏世尊を仏と世尊に分ければ十一号となる<ref name="コトバンク十号" />。
*世間解と無上士を合する説や、世尊を加えない説<ref name="コトバンク十号" />、無上士と調御丈夫を合する説、無上士を外して仏世尊を仏と世尊に分けたものを十号と称する説などもある{{要出典|date=2017年10月26日 (木) 00:10 (UTC)|title=}}。
*'''如来十号'''と称して如来を総名とし、両足尊を加えて、応供から世尊までを十号とする場合もある<ref name="総合仏教大辞典1124">{{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |coauthors= |others= |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=下巻 |page=1124 }}</ref><ref name="コトバンク十号" />{{efn|この場合は「仏」と「世尊」が区別して数えられて10個となっている<ref name="総合仏教大辞典1124" />。}}。この場合、応供以下の十号は如来の徳を表す徳名とすべきとする説がある<ref name="総合仏教大辞典1124" />。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Buddhism2}}
{{DEFAULTSORT:しゆうこう}}
[[Category:如来]]
[[Category:仏教の称号・役職]]
[[Category:仏教の名数10|こう]]
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縁起
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縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。
仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。因縁生、縁起法、縁生、因縁法、此縁性ともいう。種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した。後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた。
初期仏教および部派仏教までの段階の縁起説は、迷いの世界(有為)のみを説明するものであり、悟りの世界(無為)は縁起の中に含まれなかった。この段階までの縁起説においては、悟りは縁起を超越し縁起の滅した世界であるとされた。
初期仏教時代の縁起説は、苦しみ悩む有情が主題であったため、老死という苦しみの原因を無明に求める十二支縁起(十二因縁)説が代表的なものであった。
全てのものは原因から現れ、その原因とその止滅を如来は説かれた。偉大なるサマナはこのように説かれた。
経典によれば、釈迦は縁起について、
(世間の)人々は、執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている。 そのような執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている人にとって、此縁性、縁起の法という理論は受け入れがたいものである。
と述べた。またこの縁起の法は、
と述べ、縁起はこの世の自然の法則の因縁生起の原理で原因と条件の結果の3つの構造で成立していて、自らはそれを識知しただけであるという。
象跡喩大経は、縁起を知ることと法を知ることを関連付けている。
世尊(釈迦)は、このように言われている。縁起を見る者は、その法を見る。法を見る者は、縁起を見る、と。 五取蘊(pañcupādānakkhandhā)とは、この縁起したもの(Paṭiccasamuppannā)である。
部派仏教の時代になり、部派ごとにそれぞれのアビダルマ(論書)が書かれるようになるに伴い、釈迦が説いたとされる「十二支縁起」に対して、様々な解釈が考えられ、付与されていくようになった。それらは概ね、衆生(有情、生物)の業(カルマ)を因とする「惑縁(煩悩)・業因→苦果」すなわち惑業苦(わくごうく)の因果関係と絡めて説かれるので、総じて業感縁起(ごうかんえんぎ)と呼ばれる。
部派仏教の時代には、客観世界や客観的現象まで説明しうる縁起説として説一切有部の〈六因・四縁・五果〉や、南方上座部の二十四縁も説かれた。
説一切有部では、十二支縁起を過去世・現在世・未来世の三世に渡る業の因果関係とみる三世両重の業感縁起説が説かれた。
有力部派であった説一切有部においては、「十二支縁起」に対して、『識身足論』で 「同時的な系列」と見なす解釈と共に「時間的継起関係」と見なす解釈も表れ始め、『発智論』では十二支を「過去・現在・未来」に分割して割り振ることで輪廻のありようを示そうとするといった(後述する「三世両重(の)因果」の原型となる)解釈も示されるようになるなど、徐々に様々な解釈が醸成されていった。そして、『順正理論』では、
といった4種の解釈が示されるようになったが、結局3つ目の分位縁起(ぶんいえんぎ)が他の解釈を駆逐するに至った。
説一切有部では、この分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4つ)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。
なお、この説一切有部の三世両重(の)因果と類似した考え方は、現存する唯一の部派仏教である南伝の上座部仏教、すなわちスリランカ仏教大寺派においても、同様に共有・継承されていることが知られている。
また、説一切有部では、こうした衆生(有情、生物)のありように限定された業感縁起だけではなく、『品類足論』に始まる、「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)のありようを表すもの、すなわち「一切有為法」としての縁起の考え方も存在し、一定の力を持っていた。
大乗仏教においても、部派仏教で唱えられた様々な縁起説が批判的に継承されながら、様々な縁起説が成立した。
初期の般若経典は、縁起する諸法の本質は空であるとし、個別の特徴を持たない(無相)とした。それゆえに全ての執着を離れることが強調された。
龍樹(ナーガールジュナ)は、説一切有部が諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や因果を説明することを批判した。龍樹は、諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした。
龍樹は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの法有(五位七十五法)説に批判を加える形で、有為法(現象、被造物)も無為法(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した相依性(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる相依性縁起(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた。
中村元によれば、中論の主張する縁起は、有部の縁起論とは著しく相違するが、後世中国の華厳宗の法界縁起の思想には非常に類似しているという。法界縁起の説においては、有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説かれるが、その思想の先駆は中論に見いだされるという。
唯識派では、縁起は識の転変の意味であるとし、阿頼耶識・末那識・六識が相互に因果となって転変することを指すとした阿頼耶識縁起が説かれた。
特に法相宗の基(き)の『成唯識論述記』では、阿頼耶識(あらやしき)からの諸法が縁起する頼耶縁起(らやえんぎ)が説かれる。
現象世界を、真如(如来蔵)が縁に従って現れたものと見る真如縁起(如来蔵縁起)が如来蔵思想に見られる。
現象世界をそのまま真如であると見る法界縁起(重々無尽縁起)が、中国の華厳宗において形成された。
華厳宗では縁起を、機縁説起という意味に解する。この「機」は人間・衆生を意味し、「縁起」は人の素質の良し悪しに応じて説を起こすことを意味する。縁起因分という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起こすことをさす。
『華厳経』十地品では唯心縁起が説かれる。三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心)。
それぞれに性質と作用を持つ六大(地・水・火・風・空・識)が、大日如来の本質として実在し、また世間の生物や事物としても実在して、相互に無碍融通しながら万法に偏在しているさまを六大縁起と呼ぶ。空海が法界縁起説をふまえて六大縁起説を大成した。修験道でも六大縁起が説かれる。
本記事で解説した仏教用語としての用法の他に、下記のような語義がある。『岩波仏教辞典』は、これらの語義は仏教用語としての「縁起」が転用されて生じたとしている。
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"text": "現象世界を、真如(如来蔵)が縁に従って現れたものと見る真如縁起(如来蔵縁起)が如来蔵思想に見られる。",
"title": "大乗仏教"
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"text": "現象世界をそのまま真如であると見る法界縁起(重々無尽縁起)が、中国の華厳宗において形成された。",
"title": "大乗仏教"
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"text": "華厳宗では縁起を、機縁説起という意味に解する。この「機」は人間・衆生を意味し、「縁起」は人の素質の良し悪しに応じて説を起こすことを意味する。縁起因分という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起こすことをさす。",
"title": "大乗仏教"
},
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"text": "『華厳経』十地品では唯心縁起が説かれる。三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心)。",
"title": "大乗仏教"
},
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"text": "それぞれに性質と作用を持つ六大(地・水・火・風・空・識)が、大日如来の本質として実在し、また世間の生物や事物としても実在して、相互に無碍融通しながら万法に偏在しているさまを六大縁起と呼ぶ。空海が法界縁起説をふまえて六大縁起説を大成した。修験道でも六大縁起が説かれる。",
"title": "大乗仏教"
},
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"text": "本記事で解説した仏教用語としての用法の他に、下記のような語義がある。『岩波仏教辞典』は、これらの語義は仏教用語としての「縁起」が転用されて生じたとしている。",
"title": "転用"
}
] |
縁起とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。 仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。因縁生、縁起法、縁生、因縁法、此縁性ともいう。種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した。後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた。
|
{{Otheruses|主に仏教用語の縁起|その他の用法|#転用}}
{{Infobox Buddhist term
| title= 縁起
| image = [[File:Dominoeffect.png|150px]]
| caption = ドミノ倒し。仏教では「AによってBが生ずる」と[[因果性]]を説く<ref name=maru/>
| pi= paṭicca-samuppāda
| sa= pratītyasamutpāda<br /> ([[デーヴァナーガリー|Dev]]: प्रतीत्यसमुत्पाद)
| bn= প্রতীত্যসমুৎপাদ <br /> ''prôtityôsômutpadô''
| en= dependent origination,<br /> dependent arising,<br /> interdependent co-arising,<br /> conditioned arising,<br /> etc.
| my= {{my|ပဋိစ္စ သမုပ္ပါဒ်}} <br /> {{IPA-my|bədeiʔsa̰ θəmouʔpaʔ|IPA}}
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| bo= རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་བར་འབྱུང་བ་
| bo-Latn=[[ワイリー方式|Wylie]]: rten cing 'brel bar<br /> 'byung ba<br />[[THL Simplified Phonetic Transcription|THL]]: ten-ching drelwar<br/> jungwa
| si=[[:si:පටිච්ච සමුප්පාදය|පටිච්චසමුප්පාද]]
|th=ปฏิจจสมุปบาท}}
'''縁起'''(えんぎ、{{lang-sa-short|pratītya-samutpāda}}, '''プラティーティヤ・サムトパーダ'''、{{lang-pi-short|paṭicca-samuppāda}}, '''パティッチャ・サムッパーダ''')とは、他との関係が縁となって生起するということ<ref name="kb137">{{Cite book |和書 |author=中村元|authorlink=中村元 |date=2001-06 |title=広説仏教語大辞典 |edition= |publisher=東京書籍 |volume=上 |page=137 |isbn=}}</ref><ref name="ib95" /><ref name=maru>{{Cite |和書|title=ブッダの旅 |series=岩波新書 |publisher=岩波書店|date=2007-04-20 |author=丸山勇 |pages=189-192 |isbn=978-4004310723}}</ref>。全ての[[現象]]は、[[原因]]や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば[[結果]]も自ずからなくなるということを指す<ref name="kb137" />。
[[仏教]]の根本的教理・基本的教説の1つであり、[[釈迦]]の[[悟り]]の内容を表明するものとされる<ref name="kb137" /><ref name="ib95" />。'''因縁生'''、'''縁起法'''、'''縁生'''、'''因縁法'''<ref name="kb137" />、'''[[此縁性]]'''<ref name="ib95">{{Cite |和書 |author=中村元ほか(編) |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=2 |publisher=岩波書店 |pages=95-96 }}</ref>{{efn|此縁性とは、「此れを縁とすること」という意味<ref name="ib95" />。}}ともいう。種々の縁起説は、〈[[煩悩]](惑)→行為([[業]])→苦悩([[苦 (仏教)|苦]])〉を骨格とするが、[[無明]]を根本原因とする12の項目からなる縁起説('''[[十二因縁]]''')が次第に定着した<ref name="ib95" />。後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた<ref name="kb137" />。
== 初期仏教 ==
[[初期仏教]]および[[部派仏教]]までの段階の縁起説は、迷いの世界(有為)のみを説明するものであり、悟りの世界([[無為 (仏教)|無為]])は縁起の中に含まれなかった<ref name="ib95" />。この段階までの縁起説においては、悟りは縁起を超越し縁起の滅した世界であるとされた<ref name="ib95" />。
=== 釈迦の発見 ===
{{十二因縁|float=right}}
初期仏教時代の縁起説は、苦しみ悩む[[衆生|有情]]が主題であったため、老死という苦しみの原因を無明に求める[[十二因縁|十二支縁起]](十二因縁)説が代表的なものであった<ref name="ib95" />。
{{quotation|
全てのものは原因から現れ、その原因とその止滅を[[釈迦|如来]]は説かれた。偉大なるサマナはこのように説かれた。
| [[律蔵 (パーリ)|律蔵]]大品,1.23.10 }}
経典によれば、釈迦は縁起について、
{{quotation|
(世間の)人々は、執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている。 そのような執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている人にとって、此縁性、縁起の法という理論は受け入れがたいものである。
| {{SLTP|経蔵中部 [[聖求経]] }} }}
と述べた。またこの縁起の法は、
{{quotation|わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり}}
と述べ、縁起はこの世の自然の法則の因縁生起の原理で原因と条件の結果の3つの構造で成立していて、<ref>『今日から役立つ仏教』ナツメ社53頁</ref>自らはそれを識知しただけであるという。
=== 法を見る ===
[[象跡喩大経]]は、縁起を知ることと[[法 (仏教)|法]]を知ることを関連付けている<ref name=":14">Harvey, Peter. ''The Conditioned Co-arising of Mental and Bodily Processes within Life and Between Lives'', in Steven M. Emmanuel (ed) (2013). "A Companion to Buddhist Philosophy", pp. 46-69. John Wiley & Sons.</ref><ref name=":23">Bhikkhu Anālayo 2020: “''Dependent Arising''”, Insight Journal,46:1–8</ref>。
{{Quote|
[[世尊]]([[釈迦]])は、このように言われている。縁起を見る者は、その法を見る。法を見る者は、縁起を見る、と。<br>
[[五取蘊]](pañcupādānakkhandhā)とは、この縁起したもの(Paṭiccasamuppannā)である。
| {{SLTP|[[中部 (パーリ)|中部]] 28.[[象跡喩大経]]}} }}
=== 部派仏教 ===
{{節スタブ}}
[[部派仏教]]の時代になり、部派ごとにそれぞれの[[アビダルマ]](論書)が書かれるようになるに伴い、釈迦が説いたとされる「十二支縁起」に対して、様々な解釈が考えられ、付与されていくようになった{{要出典|date=2017年7月25日 (火) 09:36 (UTC)|title=}}。それらは概ね、[[衆生]](有情、生物)の[[業]](カルマ)を因とする「惑縁([[煩悩]])・業因→苦果」すなわち惑業苦(わくごうく)の因果関係と絡めて説かれるので、総じて'''業感縁起'''(ごうかんえんぎ)と呼ばれる{{要出典|date=2017年7月25日 (火) 09:36 (UTC)|title=}}。
部派仏教の時代には、客観世界や客観的現象まで説明しうる縁起説として[[説一切有部]]の〈六因・四縁・五果〉や、[[南方上座部]]の二十四縁も説かれた<ref name="ib95" />。
==== 説一切有部 ====
{{複数の問題|出典の明記=2017年5月25日 (木) 06:07 (UTC)|独自研究=2017年5月25日 (木) 06:07 (UTC)|section=1}}
説一切有部では、十二支縁起を過去世・現在世・未来世の三世に渡る業の[[因果]]関係とみる三世両重の'''業感縁起'''説が説かれた<ref name="ib95" /><ref name="コトバンク業感縁起">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A5%AD%E6%84%9F%E7%B8%81%E8%B5%B7-61655|title=業感縁起(ごうかんえんぎ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-07-25}}</ref>。
有力部派であった[[説一切有部]]においては、「十二支縁起」に対して、『識身足論』で 「同時的な系列」と見なす解釈と共に「時間的継起関係」と見なす解釈も表れ始め、『[[発智論]]』では十二支を「過去・現在・未来」に分割して割り振ることで[[輪廻]]のありようを示そうとするといった(後述する「三世両重(の)因果」の原型となる)解釈も示されるようになるなど、徐々に様々な解釈が醸成されていった。そして、『[[順正理論]]』では、
*刹那縁起(せつなえんぎ)--- [[刹那]](瞬間)に十二支全てが備わる
*連縛縁起(れんばくえんぎ)--- 十二支が順に連続して、無媒介に因果を成していく
*分位縁起(ぶんいえんぎ)--- [[五蘊]]のその時々の位相が十二支として表される
*遠続縁起(えんぞくえんぎ)--- 遠い時間を隔てての因果の成立
といった4種の解釈が示されるようになったが、結局3つ目の分位縁起(ぶんいえんぎ)が他の解釈を駆逐するに至った。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; margin:0 0 1em 1em; float:right; text-align:center"
|+三世両重(の)[[因果]]
!colspan="2"|
!過去因→現在果
!現在因→未来果
|-
!rowspan="2"| [[因果|因]]
! 惑
|style="background: #fcc"| [[無明]]
|style="background: #cfc"| [[タンハー|愛]]・[[取]]
|-
! [[業]]
|style="background: #fcc"| [[サンカーラ|行]]
|style="background: #cfc"| [[有]]
|-
!rowspan="2"| [[因果|果]]
!rowspan="2"| [[苦 (仏教)|苦]]
|style="background: #fcc"| [[識]]
|style="background: #cfc"| [[生 (仏教)|生]]
|-
|style="background: #fcc"| [[名色]]・[[六処]]・[[パッサ|触]]・[[受]]
|style="background: #cfc"| [[十二因縁#十二の支分|老死]]
|}
説一切有部では、この分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4つ)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、[[輪廻]]のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。
なお、この説一切有部の三世両重(の)因果と類似した考え方は、現存する唯一の部派仏教である南伝の[[上座部仏教]]、すなわち[[スリランカ仏教]]大寺派においても、同様に共有・継承されていることが知られている<ref>{{Cite journal|和書|author=馬場紀寿 |naid=110002707015 |title=三世両重因果の成立 - 上座部大寺派の縁起支定義 |journal=印度學佛教學研究 |volume= 51 |issue=2 |pages=834-832, |date=2003-03-20}}。</ref>。
また、説一切有部では、こうした衆生(有情、生物)のありように限定された業感縁起だけではなく、『品類足論』に始まる、「一切[[サンカーラ|有為]]」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)のありようを表すもの、すなわち「一切有為法」としての縁起の考え方も存在し、一定の力を持っていた。{{See also|五位七十五法}}
== 大乗仏教 ==
{{節スタブ}}
[[大乗仏教]]においても、部派仏教で唱えられた様々な縁起説が批判的に継承されながら{{要出典|date=2017年7月25日 (火) 09:36 (UTC)|title=}}、様々な縁起説が成立した。
=== 般若経 ===
初期の[[般若経典]]は、縁起する[[法 (仏教)|諸法]]の本質は[[空 (仏教)|空]]であるとし、個別の特徴を持たない([[無相]])とした<ref name="ib95" />。それゆえに全ての[[執着]]を離れることが強調された<ref name="ib95" />。
=== 中観派 ===
[[龍樹]](ナーガールジュナ)は、説一切有部が諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や[[因果]]を説明することを批判した<ref name="ib95" />。龍樹は、諸法は空すなわち[[無自性]]であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした<ref name="ib95" />。
龍樹は、『[[般若経]]』に影響を受けつつ、『[[中論]]』等で、説一切有部などの法有([[五位七十五法]])説に批判を加える形で、[[有為法]](現象、被造物)も[[無為法]](非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した相依性(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる相依性縁起(そうえしょうえんぎ)を説き、[[中観派]]、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた{{要出典|date=2017年5月31日 (水) 04:41 (UTC)|title=この段落は、中村元『龍樹』(講談社学術文庫、2005)の179-194頁あたりを出典としていると推定できるが、それで正しいかどうかは未確認。}}。
中村元によれば、[[中論]]の主張する縁起は、[[説一切有部|有部]]の縁起論とは著しく相違するが、後世中国の[[華厳宗]]の[[法界]]縁起の思想には非常に類似しているという<ref name="n194" />。法界縁起の説においては、[[有為法]]・[[無為法]]を通じて一切法が縁起していると説かれるが、その思想の先駆は中論に見いだされるという<ref name="n194">中村元 『龍樹』 講談社〈講談社学術文庫〉、pp194-196。</ref>。
=== 唯識瑜伽行派 ===
[[唯識派]]では、縁起は[[識]]の転変の意味であるとし、[[阿頼耶識]]・[[末那識]]・[[六識]]が相互に因果となって転変することを指すとした'''阿頼耶識縁起'''が説かれた<ref name="ib95" />。
特に[[法相宗]]の[[基 (僧)|基]](き)の『成唯識論述記』では、[[阿頼耶識]](あらやしき)からの諸法が縁起する'''頼耶縁起'''(らやえんぎ)が説かれる{{refnest|name="ブリタニカ頼耶縁起"|[https://kotobank.jp/word/%E9%A0%BC%E8%80%B6%E7%B8%81%E8%B5%B7-147875#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「頼耶縁起」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]、2014 Britannica Japan。}}。
=== 如来蔵思想 ===
現象世界を、[[真如]]([[如来蔵]])が縁に従って現れたものと見る'''真如縁起'''(如来蔵縁起)が如来蔵思想に見られる<ref name="ib95" />。
=== 華厳宗・華厳経 ===
現象世界をそのまま真如であると見る'''法界縁起'''(重々無尽縁起)が、中国の[[華厳宗]]において形成された<ref name="ib95" />。
華厳宗では縁起を、機縁説起という意味に解する<ref name="kb137" />。この「機」は人間・[[衆生]]を意味し、「縁起」は人の素質の良し悪しに応じて説を起こすことを意味する<ref name="kb137" />。縁起因分という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起こすことをさす{{要出典|date=2017年5月25日 (木) 06:07 (UTC)|title=}}。
『[[華厳経]]』[[十地品]]では'''唯心縁起'''が説かれる。三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心){{要出典|date=2017年7月25日 (火) 09:36 (UTC)|title=}}。
=== 密教・修験道 ===
それぞれに性質と作用を持つ[[六大]](地・水・火・風・空・識)が、[[大日如来]]の本質として[[実在]]し、また[[世間]]の生物や事物としても実在して、相互に無碍融通しながら[[法 (仏教)|万法]]に偏在しているさまを'''六大縁起'''と呼ぶ<ref name="ib95" />。[[空海]]が法界縁起説をふまえて六大縁起説を大成した<ref name="ib95" />。[[修験道]]でも六大縁起が説かれる{{要出典|date=2017年7月25日 (火) 09:36 (UTC)|title=}}。
== 転用 ==
本記事で解説した仏教用語としての用法の他に、下記のような語義がある。『岩波仏教辞典』は、これらの語義は仏教用語としての「縁起」が転用されて生じたとしている<ref name="ib95" />。
# [[社寺]]、[[仏像]]、[[経典]]などの由来や沿革<ref name="ib95" />。[[寺社縁起]]、[[縁起絵巻]]、[[縁起状]]など。
# 吉凶や幸不幸の、因由や前兆<ref name="ib95" /><ref name="k274">{{Cite book |和書 |author=新村出(編) |authorlink= |coauthors= |date=1986-10 |title=広辞苑 |edition=第三版 |publisher=岩波書店 |volume= |page=274 |isbn=}}</ref>。「[[験を担ぐ|縁起を担ぐ]]」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」、[[縁起物]]、[[縁起直し]]、[[縁起棚]]など。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[大乗起信論]]
{{Normdaten}}
{{Buddhism2}}
{{DEFAULTSORT:えんき}}
[[Category:仏教用語]]
[[Category:仏教哲学の概念]]
[[Category:因果]]
[[Category:中観]]
[[Category:仏教文化|*えんき]]
[[Category:東洋文化|*えんき]]
[[Category:多神教|*えんき]]
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名人 (将棋)
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将棋における名人(めいじん)は、棋士の称号の一つである。江戸時代(1612年)から昭和初期(1937年)までは将棋界の最高権威者に与えられた終身位であり、棋界の近代化にあたって短期実力制へ移行した昭和12年(1937年)以降は名人戦におけるタイトル称号となっている。女流名人、アマチュア棋戦の「名人」はそれぞれを参照。
囲碁界と将棋界において用いられている「名人」という称号の起源は織田信長が任命した一世本因坊本因坊算砂(日海)といわれる。算砂はのちに徳川幕府の初代囲碁将棋統括最高位である連絡係に命じられたという。これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとされることがあるが、ただし、増川宏一『将棋II』(法政大学出版局)によると、鎌倉時代の『二中歴』にはすでに、囲碁と雙六の名人についての記述があるという。
その後、将棋の名人については大きく3つの時代に分けられる。
昭和9年(1934年)、東京日日新聞学芸部長の阿部眞之助が囲碁および将棋の「実力名人戦」を企画し、第十三世名人関根金次郎が受け入れて、昭和10年(1935年)に名人を実力によって選ぶ名人戦が発足した。昭和12年(1937年)12月6日には木村義雄が第1期名人戦の優勝者と決定。昭和13年(1938年)2月11日に関根が名人を退位し、木村の名人就位式を実施した。
実力制による名人位を初獲得した順に代数が与えられる。
称号としての実力制名人は、名人戦制度発足から51年後の昭和63年(1988年)、升田幸三の功績を讃えるにあたって制定された。選定基準は70歳以上で3期(もしくは抜群の成績で2期)以上名人位にあった引退者とされ、現在この称号を冠しているのは、升田幸三(昭和63年(1988年)に襲位)と塚田正夫(平成元年(1989年)に追贈)で、永世名人は称号としての「実力制名人」を冠さない。
1949年の日本将棋連盟の規約改定により、名人位を通算5期以上保持した棋士に「永世名人」の資格を与え、引退後に襲位するようになった。ほかの将棋タイトルの永世称号や囲碁の名誉名人とは要件が異なるほか(例、将棋の永世竜王の要件は5期連続もしくは通算7期、囲碁の名誉名人の要件は5期連続もしくは通算10期など)、将棋の永世名人の場合は「○世名人」という称号となる。代数は家元制(世襲制)および推挙制の数字を引き継ぎ、十四世からとなっている。
大山康晴は名人位通算18期および13連覇など、中原誠は名人位通算15期など、谷川浩司は将棋界への貢献や史上最年少(21歳2か月)での獲得などの偉業を讃え、特例として現役のまま襲位することを許された。
現役当時は名人に在位しなかったが、その功績が名人位に相当する者として、引退後や没後に名人を贈位(追贈)されるものに贈名人や名誉名人がある。また、日本将棋連盟は公認していないが、生前に関西名人と呼ばれた棋士がいる。
没後の顕彰により「名人位」を追贈された者は、以下の2名がいる。
推挙によって名人が襲位していた時代に諸般の事情により襲位できなかったが、のちに日本将棋連盟(または将棋大成会)によって「名誉名人」称号を贈られた者は、以下の2名がいる。なお、升田幸三が実力制第四代名人の称号を贈られる前に「名誉名人」を打診されたが、「名誉名人は名人になれなかった者への肩書きだ。私は名人になっている」として、断っている。
家元制(大橋家・大橋分家・伊藤家)から実力制(日本将棋連盟)への移行期にあたる明治・大正時代には、棋界が統一されておらず、さまざまな将棋団体が乱立することになった。特に大阪では、東京とは異なる独自の棋界運営が行われ、天野宗歩の弟子の小林東伯斎が関西名人もしくは大阪名人と呼ばれていた。 さらに小林の死後、小林の弟子ともいわれる坂田三吉は、大正14年(1925年)に京阪神の財界有力者に推挙されて「名人」を称した(坂田が称したのは「名人」であるが、東京の名人と区別するために、現在では「関西名人」、「大阪名人」などと表記することもある)。しかし、すでにほぼ棋界の統一を終えていた東京将棋連盟(当時)から「名人僭称」として追放され、一時的に孤立することになった。晩年に将棋連盟と和解し、実力名人制の名人戦でも活躍した坂田は、没後の顕彰により日本将棋連盟からも正式に「名人」「王将」を追贈され、大阪・通天閣のかたわらに「王将碑」が建てられた。
なお「関西名人」は、東京将棋連盟を前身とする日本将棋連盟によって統一された現代の将棋界においては非公認のものである。
将棋の名人に関する名言や格言など。
|
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"text": "昭和9年(1934年)、東京日日新聞学芸部長の阿部眞之助が囲碁および将棋の「実力名人戦」を企画し、第十三世名人関根金次郎が受け入れて、昭和10年(1935年)に名人を実力によって選ぶ名人戦が発足した。昭和12年(1937年)12月6日には木村義雄が第1期名人戦の優勝者と決定。昭和13年(1938年)2月11日に関根が名人を退位し、木村の名人就位式を実施した。",
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"text": "1949年の日本将棋連盟の規約改定により、名人位を通算5期以上保持した棋士に「永世名人」の資格を与え、引退後に襲位するようになった。ほかの将棋タイトルの永世称号や囲碁の名誉名人とは要件が異なるほか(例、将棋の永世竜王の要件は5期連続もしくは通算7期、囲碁の名誉名人の要件は5期連続もしくは通算10期など)、将棋の永世名人の場合は「○世名人」という称号となる。代数は家元制(世襲制)および推挙制の数字を引き継ぎ、十四世からとなっている。",
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] |
将棋における名人(めいじん)は、棋士の称号の一つである。江戸時代(1612年)から昭和初期(1937年)までは将棋界の最高権威者に与えられた終身位であり、棋界の近代化にあたって短期実力制へ移行した昭和12年(1937年)以降は名人戦におけるタイトル称号となっている。女流名人、アマチュア棋戦の「名人」はそれぞれを参照。
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{{出典の明記|date=2007年8月}}
[[将棋]]における'''名人'''(めいじん)は、[[棋士 (将棋)|棋士]]の称号の一つである。[[江戸時代]](1612年)から[[昭和]]初期(1937年)までは[[将棋界]]の最高権威者に与えられた終身位であり、棋界の近代化にあたって短期実力制へ移行した昭和12年(1937年)以降は[[名人戦 (将棋)|名人戦]]におけるタイトル称号となっている。[[女流名人戦 (将棋)|女流名人]]、[[将棋のアマチュア棋戦#全日本アマチュア名人戦|アマチュア棋戦の「名人」]]はそれぞれを参照。
== 概要 ==
囲碁界と将棋界において用いられている「名人」という称号の起源は[[織田信長]]が任命した一世本因坊[[本因坊算砂]](日海)といわれる<ref group="注釈">[[林元美]]『爛柯堂棋話』および『坐隠談叢』の記述だが、証明する資料は一切なく、また師匠の仙也も存命であり弱冠20歳の算砂が「名人」と呼ばれたとは信じがたいとの主張もある。([[福井正明]]著『囲碁古名人全集』の巻末評伝([[秋山賢司]]))。</ref>。算砂はのちに徳川幕府の初代囲碁将棋統括最高位である連絡係に命じられたという。これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとされることがあるが、ただし、[[増川宏一]]『将棋II』(法政大学出版局)によると、鎌倉時代の『[[二中歴]]』にはすでに、囲碁と[[雙六]]の名人についての記述があるという。
その後、将棋の名人については大きく3つの時代に分けられる。
# [[江戸時代]]の[[将棋指し]]の[[家元]]の第一人者が名乗った[[称号]]('''一世~十世''')。[[徳川家康]]主導の下、慶長17年(1612年)、[[大橋宗桂 (初代)|初代大橋宗桂(大橋本家)]]が[[禄|俸禄]]を与えられ、初めて[[将棋所]]を任されることになったとされる<ref group="注釈">しかし[[増川宏一]]は、この時期には、「名人」「碁所」「将棋所」いずれの名称もまだ存在していないとしている</ref>。それまでは[[本因坊算砂]]の碁将棋所が「将棋所」を呼称していたともいわれる<ref group="注釈">これは明治期に刊行された安藤如意『坐隠談叢』の記述だが、この時期には「碁所」「将棋所」という言葉そのものがなく、信じがたいとの意見がある。([[増川宏一]]『碁』および[[福井正明]]著『囲碁古名人全集』の巻末評伝([[秋山賢司]]))</ref>。以降、[[大橋家]]本家、[[大橋分家|大橋家分家]]、[[伊藤氏#伊藤家 (将棋)|伊藤家]]の三家の最強者が「名人」「将棋所」を名乗る家元名人制が確立する<ref group="注釈">適当な候補者がいない場合は空位となった。</ref>。この時代は、名人とは九段であった。なお、八段は「[[準名人]]」、七段は「上手(じょうず)」と呼ばれた。[[江戸幕府]]の瓦解とともに、将棋家元名人制は終焉を迎えた。
# [[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]初期においては[[将棋界]]の年功ある実力者が推挙されて名乗った名誉称号('''十一世~十三世''')。この時代も、名人とは九段であった。しかし、昭和10年(1935年)に十三世名人[[関根金次郎]]が退隠する考えを表明したことで、[[日本将棋連盟]]が実力制名人戦の開催を決定。昭和12年(1937年)12月6日に[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]が第1期名人戦の優勝者となる。昭和13年(1938年)2月11日に関根金次郎は名人位を返上し、木村が名人位につく。これにより家元名人制時代から続いていた一世名人制が廃止され、短期実力制名人戦へ移行した。
# 昭和13年(1938年)以降の現代においてはプロ[[棋戦 (将棋)|棋戦]]([[挑戦手合制|タイトル戦]])の1つである名人戦の勝者の棋士が推戴される称号であり、次期名人戦終了まで名乗ることができる。名人位の初獲得順に「実力制第○代名人」と称する。[[順位戦]]が導入された昭和22年(1947年)以降、名人戦で戦うにはその前に、基本的にAクラスまで昇級しなければいけなくなった。当初は順位戦リーグは3クラス制(A,B,C)であり(なおかつ、B級優勝者も挑戦者決定戦に参加できた時期があった)、のちに5クラス制(A,B1,B2,C1,C2)が定着したため名人位に就くには[[棋士 (将棋)|棋士]]になってから最短で5年かかる。
## 前期名人戦の勝者の棋士が今期名人戦に敗れると前名人となり、ほかに[[棋戦 (将棋)|タイトル]]を持っていない場合に、次期名人戦終了まではタイトルに準ずる称号として「前名人」と名乗る資格が与えられていた。(「前名人」の称号は、本人の意向により辞退することができた。)ただし、当初は「前名人」と名乗れる期間が1年間に限られておらず、最初の「前名人」である[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]は第六期名人戦で敗れて、翌々年の第八期に名人復位するまで「前名人」の称号であった。二人目の「前名人」である[[塚田正夫]]も第八期名人戦で木村に敗れた後、[[大山康晴]]の名人奪取・塚田自身の九段位取得の昭和27年(1952年)まで「前名人」の称号のままであった。木村・塚田以降は、大山康晴・中原誠・加藤一二三・谷川浩司が前名人を称したものの、[[米長邦雄]]が平成6年(1994年)に[[羽生善治]]に名人位を奪われ「前名人」を名乗ったのを最後に前名人の称号を名乗る棋士がおらず、令和2年(2020年)に[[竜王戦]]の「前竜王」とともに前名人の称号を廃止した。
## 通算5回名人戦の勝者になった棋士に「永世名人」の資格が与えられ、原則引退後に襲位することができる('''十四世~''')。
# このほかに、名誉称号として贈られる「贈名人」「名誉名人」などがある。
== 家元制(世襲制)および推挙制による名人 ==
* 一世名人 [[大橋宗桂 (初代)|初代大橋宗桂]]:[[慶長]]17年([[1612年]])に江戸幕府より俸禄を与えられた。
* 二世名人 [[大橋宗古|二代目大橋宗古]]:[[寛永]]11年([[1634年]])に襲位。初代大橋宗桂の子。
* 三世名人 [[伊藤宗看 (初代)|初代伊藤宗看]]:[[承応]]3年([[1654年]])に襲位。二代大橋宗古の娘婿で「伊藤家」初代。生前の1691年に名人退位。
* 四世名人 [[大橋宗桂 (5代)|五代目大橋宗桂]]:[[元禄]]4年([[1691年]])に襲位。初代伊藤宗看の子、二代大橋宗古の外孫。
* 五世名人 [[伊藤宗印 (2代)|二代目伊藤宗印]]:[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])に襲位。初代伊藤宗看の養子。
* 六世名人 [[大橋宗与 (3代)|三代目大橋宗与]]:[[享保]]8年([[1723年]])に襲位。初代大橋宗桂の曾孫。
* 七世名人 [[伊藤宗看 (3代)|三代目伊藤宗看]]:[[享保]]13年([[1728年]])に襲位。二代伊藤宗印の子。
* 八世名人 [[大橋宗桂 (9代)|九代目大橋宗桂]]:[[寛政]]元年([[1789年]])に襲位。二代伊藤宗印の孫(父は[[大橋宗桂 (8代)|八代大橋宗桂]])。三代宗看の甥。
* 九世名人 [[大橋宗英|六代目大橋宗英]]:[[寛政]]11年([[1799年]])に襲位。三代大橋宗与の曾孫(父、五代大橋宗順は養子)。
* 十世名人 [[伊藤宗看 (6代)|六代目伊藤宗看]]:[[文政]]8年([[1825年]])に襲位。五代伊藤宗印の養子。
* 十一世名人 [[伊藤宗印 (8代)|八代目伊藤宗印]]:明治12年([[1879年]])に襲位。七代伊藤宗寿の養子。
* 十二世名人 [[小野五平]]:明治31年([[1898年]])に襲位。
* 十三世名人 [[関根金次郎]]:大正10年([[1921年]])に襲位。生前の昭和13年(1938年)に名人退位。
== 実力制による名人 ==
[[File:将棋名人退就位式MeijinResignationCeremony1938.jpg | thumb | 将棋名人退就位式 (昭和13年(1938年)2月) ]]
昭和9年(1934年)、[[東京日日新聞]]学芸部長の[[阿部眞之助]]が囲碁および将棋の「実力名人戦」を企画し<REF>『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』([[林裕]])P.46</REF>、第十三世名人関根金次郎が受け入れて、昭和10年(1935年)に名人を実力によって選ぶ名人戦が発足した。昭和12年(1937年)12月6日には[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]が第1期名人戦の優勝者と決定。昭和13年(1938年)2月11日に関根が名人を退位し<ref>『将棋名人戦 ~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(マイナビ)</ref>、木村の名人就位式を実施した。
=== 実力制歴代名人 ===
実力制による名人位を初獲得した順に代数が与えられる。
* 実力制第一代名人 [[木村義雄 (棋士)|木村義雄]](十四世名人)
* 実力制第二代名人 [[塚田正夫]](称号としての実力制第二代名人)
* 実力制第三代名人 [[大山康晴]](十五世名人)
* 実力制第四代名人 [[升田幸三]](称号としての実力制第四代名人)
* 実力制第五代名人 [[中原誠]](十六世名人)
* 実力制第六代名人 [[加藤一二三]]
* 実力制第七代名人 [[谷川浩司]](十七世名人)
* 実力制第八代名人 [[米長邦雄]]
* 実力制第九代名人 [[羽生善治]](十九世名人資格者)
* 実力制第十代名人 [[佐藤康光]]
* 実力制第十一代名人 [[丸山忠久]]
* 実力制第十二代名人 [[森内俊之]](十八世名人資格者)
* 実力制第十三代名人 [[佐藤天彦]]
* 実力制第十四代名人 [[豊島将之]]
* 実力制第十五代名人 [[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]
* 実力制第十六代名人 [[藤井聡太]]
==== 称号としての実力制名人 ====
称号としての実力制名人は、名人戦制度発足から51年後の昭和63年(1988年)、升田幸三の功績を讃えるにあたって制定された<ref group="注釈">制定のいきさつが、退役棋士で[[観戦記者]]である[[河口俊彦]]の『一局の将棋 一回の人生』([[新潮社]](新潮文庫)、1994年、ISBN 4-10-126511-9)の36ページに記載されており、升田を称号なしの「九段」で呼ぶのは他の棋士とのバランスが取れないという理由が示されている。</ref>。選定基準は70歳以上で3期(もしくは抜群の成績で2期)以上名人位にあった引退者とされ、現在この称号を冠しているのは、升田幸三(昭和63年([[1988年]])に襲位)と塚田正夫(平成元年([[1989年]])に追贈)で、永世名人は称号としての「実力制名人」を冠さない。<!--[[第80期順位戦|第80期]](令和4・[[2022年]]度)名人戦が終わった時点で、称号としての「実力制名人」の基準である名人3期在位者は[[佐藤天彦]]、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]、名人2期在位者は[[佐藤康光]]、[[丸山忠久]]である。-->
=== 永世名人 ===
[[1949年]]の[[日本将棋連盟]]の規約改定により<ref>窪寺紘一『日本将棋集成』新人物往来社、1995年、326ページ。</ref>、名人位を'''通算5期以上'''保持した棋士に「永世名人」の資格を与え、引退後に襲位するようになった。ほかの将棋タイトルの永世称号や[[囲碁]]の名誉名人とは要件が異なるほか(例、将棋の永世[[竜王戦|竜王]]の要件は5期連続もしくは通算7期、囲碁の名誉[[名人 (囲碁)|名人]]の要件は5期連続もしくは通算10期など)、将棋の永世名人の場合は「○世名人」という称号となる。代数は家元制(世襲制)および推挙制の数字を引き継ぎ、十四世からとなっている。
大山康晴は名人位通算18期および13連覇など、中原誠は名人位通算15期など、谷川浩司は将棋界への貢献や史上最年少(21歳2か月)での獲得などの偉業を讃え、特例として現役のまま襲位することを許された。
* 十四世名人 [[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]:1952年の引退後に襲位
* 十五世名人 [[大山康晴]]:[[1976年]]に現役のまま襲位
* 十六世名人 [[中原誠]]:[[2007年]]に現役のまま襲位
* 十七世名人 [[谷川浩司]]:[[2022年]]<!-- 2022年5月23日付 -->に現役のまま襲位<ref>{{cite|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/05/post_2128.html|title=将棋ニュース - 谷川浩司九段が永世名人(十七世名人)を襲位|publisher=日本将棋連盟|date=2022-05-26|accessdate=2022-05-26}}</ref>
* 十八世名人 [[森内俊之]](遅くとも2036年までに引退<ref group="注釈">[[順位戦#フリークラス宣言(転出)|フリークラス転出宣言]]を行ったため、2036年が定年となる。</ref>となり、引退後に襲位予定)
* 十九世名人 [[羽生善治]](引退後に襲位予定)
=== 現代における名人位(竜王と名人) ===
{{Main|棋戦 (将棋)#竜王と名人|}}
== その他の名人 ==
現役当時は名人に在位しなかったが、その功績が名人位に相当する者として、引退後や没後に名人を[[贈位]](追贈)されるものに贈名人や名誉名人がある。また、日本将棋連盟は公認していないが、生前に関西名人と呼ばれた棋士がいる。
=== 贈名人 ===
没後の[[顕彰]]により「名人位」を追贈された者は、以下の2名がいる。
* [[伊藤看寿]](贈名人):没後に追贈
* [[坂田三吉|坂田三吉(阪田三吉)]](贈名人・[[王将戦|王将]]):没後の昭和30年([[1955年]])に日本将棋連盟により追贈
=== 名誉名人 ===
推挙によって名人が襲位していた時代に諸般の事情により襲位できなかったが、のちに日本将棋連盟(または将棋大成会)によって「名誉名人」称号を贈られた者は、以下の2名がいる。なお、升田幸三が実力制第四代名人の称号を贈られる前に「名誉名人」を打診されたが、「名誉名人は名人になれなかった者への肩書きだ。私は名人になっている」として、断っている。
* [[小菅剣之助]]:大正10年([[1921年]])に名人に推挙される{{要出典|date=2019年3月}}が当時は専業棋士でなかったため辞退。昭和11年([[1936年]])に時の「将棋大成会」により名誉名人を贈位される。
* [[土居市太郎]]:大正時代の関東棋界においては師の関根をしのぐ実質第一人者であった。昭和29年([[1954年]])に日本将棋連盟から贈位される。
**ただし土居は実力制の初期まで現役で、第2期名人戦で木村義雄に挑戦している(当時52歳)。
=== 関西名人 ===
家元制([[大橋家]]・[[大橋分家]]・[[伊藤家]])から実力制([[日本将棋連盟]])への移行期にあたる明治・大正時代には、棋界が統一されておらず、さまざまな将棋団体が乱立することになった。特に大阪では、東京とは異なる独自の棋界運営が行われ、[[天野宗歩]]の弟子の[[小林東伯斎]]が'''関西名人'''もしくは'''大阪名人'''と呼ばれていた。
さらに小林の死後、小林の弟子ともいわれる[[坂田三吉]]は、大正14年(1925年)に京阪神の財界有力者に推挙されて「'''名人'''」を称した<ref>{{Cite web|和書|title=日本将棋の歴史(9) |publisher=日本将棋連盟 |url=https://www.shogi.or.jp/history/story/index09.html |accessdate=2020-04-11}}</ref>(坂田が称したのは「'''名人'''」である<ref>[https://www.shogi.or.jp/history/story/index09.html 日本将棋の歴史(9)]</ref>が、東京の名人と区別するために、現在では「'''関西名人'''」、「'''大阪名人'''」などと表記することもある)。しかし、すでにほぼ棋界の統一を終えていた東京将棋連盟(当時)から「名人僭称」として追放され、一時的に孤立することになった。晩年に将棋連盟と和解し、実力名人制の名人戦でも活躍した坂田は、没後の顕彰により日本将棋連盟からも正式に「名人」「王将」を追贈され、[[大阪市|大阪]]・[[通天閣]]のかたわらに「王将碑」が建てられた。
なお「関西名人」は、東京将棋連盟を前身とする日本将棋連盟によって統一された現代の将棋界においては非公認のものである。
* [[小林東伯斎]]
* [[坂田三吉|坂田三吉(阪田三吉)]]
== 名人に関する名言など ==
将棋の名人に関する名言や[[将棋の格言|格言]]など。
; 名人に定跡なし
: 名人の強さは、[[定跡]]だけにとらわれないものであるということ。
; 名人に香を引く
: [[升田幸三]]が標榜し、かつ実現した言葉。将棋界の第一人者である名人に対して、[[将棋の手合割|駒落ち戦]]で[[香車]]を落とすハンデキャップをつけること。すなわち名人の強さを超えること。
; 将棋の神に選ばれたものだけが名人になれる
: 400年余りの名人位の歴史の中で、就位した人物がわずか28名という、名人位の特別性を表現した言葉<ref>{{cite book | 1=和書 | title=理想を現実にする力 | publisher=[[朝日新聞出版]] | author=佐藤天彦 | authorlink=佐藤天彦 | year=2017 | pages=4 | isbn=978-4-02-273714-4}}</ref>。
== その他 ==
*[[芹沢博文]]は生前に「芹沢名人」の別称で呼ばれたことがある。ただこれはあくまでもテレビ番組における愛称であり、芹沢は棋士人生において[[順位戦]]A級に2期だけ在位したことがあるものの、名人位を獲得したことはなく、そもそも名人戦に挑戦したことがない。またタレントの[[芹澤名人]]は芹沢博文に由来する[[芸名]]であり、やはり名人位とは関係がなく、そもそも[[日本将棋連盟]]との接点かない。
*昭和51年(1976年)には、[[名人戦 (将棋)#1976年|主催紙移行問題]]が長引き、順位戦および名人戦が中止となる事態に陥った。その間の昭和51年(1976年)末に、新たな主催紙となった[[毎日新聞]]は、移籍を記念し、選抜棋士による'''特別名人戦'''と称した非公式戦のトーナメントを独自に開催し、当時八段の[[大内延介]]が優勝。大内は毎日新聞から「特別名人」の称号を贈られたが、上述のとおり、公式戦ではなく毎日新聞のイベントの一環であるため、大内の[[日本将棋連盟]]における棋士としての実績には計上されていない。ちなみに大内は、昭和50年(1975年)に行われた第34期名人戦で中原誠の挑戦者となったことはあるものの3勝4敗1[[持将棋]]で敗退し、公式な名人位獲得には至っていない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[準名人]]
* [[本因坊算砂]]
* [[将棋所]]
* [[大橋家]]
* [[伊藤家]]
* [[名人戦 (将棋)|名人戦]]
* [[将棋棋士一覧]]
* [[日本将棋大系]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/match/junni/ 名人戦・順位戦|棋戦|日本将棋連盟]
{{将棋永世名人}}
{{名人戦 (将棋)}}
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[[Category:名人 (将棋)|*]]
|
2003-07-18T22:22:53Z
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2023-11-16T04:28:43Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%BA%BA_(%E5%B0%86%E6%A3%8B)
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11,761 |
ギャートルズ
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『ギャートルズ』は、園山俊二による日本の漫画作品である。
本作は架空の原始時代に繰り広げられる、原始人たちの大らかかつ突飛な日常を描いたギャグ漫画である。テレビアニメやテレビドラマにもなり、その独特のユーモアや世界観で大人気を博した。
この作品により定型化した代表的なギャグや描写に、「大声が文字の形の石になって飛んでいく」「輪切りの肉」「マンモスの群れの突進に巻き込まれた人間が踏みつぶされてペラペラになる」「テッコンキンクリート」などがある。一方で、作中では原始時代にもかかわらずなぜか貨幣経済が浸透しており、巨大な石の貨幣を用いている描写が見られる。
主な登場人物は、「ギャートルズ平原(架空の地名)」に暮らすクロマニョン人の少年ゴンと、ゴンの父ちゃんをはじめとする彼の家族、そして相棒であるゴリラのドテチンである。彼らの日々の生活は波瀾万丈でエピソードに富み、個性的な隣人や生き物たちが絡んで騒動を繰り広げる。
ゴンが登場しない青年誌掲載作品においては、下ネタやブラックジョークも含まれる。神様のなりかけといった存在が出てきたことがあり、読み切りで掲載された最初の作品においては、神様が酔っぱらいながら人間を作ったことが語られる。また、原始時代に戦争・略奪・強姦が繰り返されているという描写であり、結果、神様が目を離している隙に文明を発達させた人類は滅びてしまった。
英語圏では「Hajime Ningen Gon (GON, THE STONE-AGE BOY)」として紹介されている。
朝日放送と東京ムービーの共同製作。1974年10月5日から1975年3月29日までTBS系列で、1975年4月5日から1976年3月27日からは朝日放送の「腸捻転」解消によりNET系列で放送。全77話。
2005年8月26日にはバンダイビジュアルから全話を収録したDVD-BOXが、2016年9月28日にはワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメントからBlu-ray BOXが発売された。
2008年1月7日からCSのアニマックスで放送。
東京ムービー文芸部に所属した山崎敬之によると、東京ムービー社長の藤岡豊と原作者の園山俊二が隣家であり、夫人同士の仲が良かったためにアニメ化が実現したとある。
本作は各話の演出はいるが、監督やディレクターが存在しない。TV局もプロデューサーも現場に任せ、かなり自由な体制で制作された。
父ちゃん役には、前年放送された『ジャングル黒べえ』で主役を務めた肝付兼太が起用された。 音響監督の千葉耕市の妻・千田啓子の勧めで本作のオーディションに参加したことを2005年に行われたWEBアニメスタイルとのインタビューで明らかにしている。 当初、肝付はゴン役で受けたものの、父ちゃん役に起用された際は面白いと感じたと肝付は2005年のインタビューで振り返っている。
肝付は第1話から第7話を見た際、父ちゃんの方が主役だと感じたと2005年のインタビューで話しており、インタビューアーを務めた小黒祐一郎も途中から物語の比重がゴンに移るとはしたうえで肝付の意見に同意している。 肝付は印象に残った話として死神の登場する第7話「ネツンアッチクタバリーンの巻」を挙げており、やや子供には理解しづらいと思いつつも、見た後に心に残る作品だと話している。また、肝付は弱肉強食の世界では小さきものを殺して食べるのには抵抗感があるが、マンモーという巨大な存在を輪切りにして食べるのは嫌悪感が生じず、頑張ってマンモーを倒したという気持ちが残るため、そのような意味ではよくできた漫画だと話している。
1975年3月31日に近畿地方で朝日放送と毎日放送のネットチェンジが行われたことから、前述のとおり本作は第26話と第27話を境にしてTBS系列からNET系列での放送へと移行した。
系列変更後にも本作は引き続き土曜19時台に放送されたが、それまでのTBS系列ではこの時間帯に毎日放送製作の『仮面ライダーストロンガー』が放送されることになったことから、NET系列局のない、あるいは他系列(主にフジテレビ系列を優先)とのクロスネット局であるため編成の都合のつかない地域においては、そのままTBS系列局に残って時差ネットに移行(上記の新潟放送・大分放送など)もしくは第26話をもって打ち切り(再放送で全話放送した事例あり)という措置が取られた。
1975年3月15日、『東宝チャンピオンまつり』内で第1回Bパート「マンモギャーの巻」のブローアップ版が上映された。上映時間は15分。
併映は『メカゴジラの逆襲』『新八犬伝』『アルプスの少女ハイジ』『サザエさん』『アグネスからの贈りもの』の5本。
東京ムービーの作品群を管理しているトムス・エンタテインメントがYouTubeに開設された「TMSアニメ55周年公式チャンネル→TMSアニメ公式チャンネル」で、2019年5月10日から第3回までが、同年5月22日から初期バージョンのオープニング映像とエンディング映像が配信されている(第2・3回は2019年内まで)。2021年5月26日からは第1回 - 第5回までが追加配信されている。これらの映像にある制作クレジットはいずれも本放送当時のものでなく、「製作・著作 トムス・エンタテインメント」という表記に差し替えられている。また第1回のOP映像は第2回以降のバージョンを使用している。
単純で印象深いアニメのオープニングや、原作者の園山俊二が作詞し、かまやつひろしが作曲したエンディングテーマ「やつらの足音のバラード」も長く親しまれている。なお、地球の始まりから人類の誕生までをシンプルかつ奥行きある形で描いた「やつらの足音のバラード」は、後にかまやつ自身や小泉今日子、スガシカオ、中村あゆみ、平井堅、遠藤正明、デーモン閣下らによってカバーされ、その都度オリジナルも注目を浴びている。 肝付は、かまやつの作曲した主題歌が玄人筋には非常に受け入れられたと2005年のインタビューで振り返っている。 また、肝付は自分の知人で、本作の父ちゃんの飲酒シーンを見てお酒を飲むようになった人がいたことを挙げている。
アニメーターの本郷みつるは、子どもだった1974年に本作を視聴した際、「シンプル」「不思議」「面白い」という印象を抱いており、30年ぶりに視聴した際もそれに近かったと2005年に寄せたWEBアニメスタイルの特集記事の中で述べている。 本郷はゴンたち一家が様々なものに遭遇する設定が非常にうまく機能していると評価しており、これは原作由来の切り口の良さだけでなく、制作当時の東京ムービーが非常に充実していたためだと推測している。
1996年、NHK衛星第2テレビジョン(NHK BS2)の『衛星アニメ劇場』枠でリメイク版となる『はじめ人間ゴン』を放送。1990年代に学習研究社の学習雑誌『4年の学習』でリメイクされた『はじめ人間ゴン』(作画 - しのだひでお)が原作である。全39回。本放送では1回につき3話放送であったが、後にNHK教育テレビで再放送された際に10分枠になり、1回につき1話ずつの放送となる。
当時としてはまだ普及間もないデジタル彩色が導入されており、セル画回と混合で放送されていた。
2005年4月27日、コロムビアミュージックエンタテインメント(現:日本コロムビア)から全話を収録したDVD-BOXが発売された。
2021年時点においても、CMに登場するキャラクターの声はこのキャストが起用されている(ゴン、ドテチン、とうちゃん、かあちゃん)。
1993年4月18日にNHK衛星第2テレビジョン (NHK BS2) で『バック・トゥ・ザ・ギャートルズ・デイズ』のタイトルで放送。「これは、漫画ギャートルズの子孫の物語を創作したものです。」と但書が付き、縄文時代から弥生時代へかけての物語となる。男装の少女・リンダとお供のアリャとコリャが魔法の食べ物「イコメネ(米)」を求めて旅する物語。1994年3月21日にBSドラマアベニューで『ギャートルズ〜旅立ち』として再放送されており、NHKアーカイブスにもそちらのタイトルのものが1993年の作品として残されている。
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"text": "本作は架空の原始時代に繰り広げられる、原始人たちの大らかかつ突飛な日常を描いたギャグ漫画である。テレビアニメやテレビドラマにもなり、その独特のユーモアや世界観で大人気を博した。",
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"text": "この作品により定型化した代表的なギャグや描写に、「大声が文字の形の石になって飛んでいく」「輪切りの肉」「マンモスの群れの突進に巻き込まれた人間が踏みつぶされてペラペラになる」「テッコンキンクリート」などがある。一方で、作中では原始時代にもかかわらずなぜか貨幣経済が浸透しており、巨大な石の貨幣を用いている描写が見られる。",
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"text": "主な登場人物は、「ギャートルズ平原(架空の地名)」に暮らすクロマニョン人の少年ゴンと、ゴンの父ちゃんをはじめとする彼の家族、そして相棒であるゴリラのドテチンである。彼らの日々の生活は波瀾万丈でエピソードに富み、個性的な隣人や生き物たちが絡んで騒動を繰り広げる。",
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"text": "ゴンが登場しない青年誌掲載作品においては、下ネタやブラックジョークも含まれる。神様のなりかけといった存在が出てきたことがあり、読み切りで掲載された最初の作品においては、神様が酔っぱらいながら人間を作ったことが語られる。また、原始時代に戦争・略奪・強姦が繰り返されているという描写であり、結果、神様が目を離している隙に文明を発達させた人類は滅びてしまった。",
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"text": "朝日放送と東京ムービーの共同製作。1974年10月5日から1975年3月29日までTBS系列で、1975年4月5日から1976年3月27日からは朝日放送の「腸捻転」解消によりNET系列で放送。全77話。",
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] |
『ギャートルズ』は、園山俊二による日本の漫画作品である。
|
{{混同|ギャートルズ|link1=ギャートルズ (グループ歌手)|x1=1970年代に活動していた男性グループ歌手の}}
{{出典の明記|date=2019年5月|section=1}}
{{Infobox animanga/Header
| タイトル = ギャートルズ
| 画像 =
| サイズ =
| 説明 =
| ジャンル = [[ギャグ漫画]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル =
| 作者 = [[園山俊二]]
| 作画 =
| 出版社 = [[実業之日本社]]
| 他出版社 =
| 掲載誌 = [[漫画サンデー|週刊漫画サンデー]]
| レーベル =
| 発行日 =
| 発売日 =
| 開始号 =
| 終了号 =
| 開始日 =
| 終了日 =
| 発表期間 = 1965年 - 1975年
| 巻数 =
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| その他 =
| インターネット =
}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル = はじめ人間ゴン
| 作者 = 園山俊二
| 作画 =
| 出版社 = [[学研ホールディングス|学習研究社]]
| 他出版社 =
| 掲載誌 = [[科学と学習]]
| レーベル =
| 発行日 =
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| インターネット =
}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル = はじめ人間ギャートルズ
| 作者 = 園山俊二
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| 出版社 = [[小学館]]
| 他出版社 =
| 掲載誌 = [[小学一年生]]<br />[[小学二年生]]<br />小学三年生<br />小学四年生<br />小学五年生
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{{Infobox animanga/Manga
| タイトル = くたばれギャートルズ
| 作者 = 園山俊二
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| レーベル =
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| 発売日 =
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{{Infobox animanga/TVAnime
| タイトル = はじめ人間ギャートルズ
| 原作 = 園山俊二
| 総監督 =
| 監督 =
| シリーズディレクター =
| シリーズ構成 =
| 脚本 =
| キャラクターデザイン =
| メカニックデザイン =
| 音楽 = [[かまやつひろし]]、[[久石譲|藤沢守]]
| アニメーション制作 = [[シンエイ動画|Aプロダクション]]
| 製作 = [[朝日放送テレビ|朝日放送]]、[[東京ムービー]]
| 放送局 = [[#放送局]]参照
| 放送開始 = [[1974年]][[10月5日]]
| 放送終了 = [[1976年]][[3月27日]]
| 話数 = 全77話
| その他 =
| インターネット =
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
| タイトル = はじめ人間ゴン
| 原作 = 園山俊二
| 総監督 = [[香川豊]]
| 監督 =
| シリーズディレクター =
| シリーズ構成 = [[浦沢義雄]]
| 脚本 =
| キャラクターデザイン = [[岸義之]]
| メカニックデザイン =
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| アニメーション制作 = [[ぴえろ|スタジオぴえろ]]
| 製作 = スタジオぴえろ
| 放送局 = [[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]]、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]
| 放送開始 = [[1996年]][[4月3日]]
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| インターネット =
}}
{{Infobox animanga/Footer
| ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]、[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]、[[プロジェクト:テレビドラマ|テレビドラマ]]
| ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]、[[Portal:アニメ|アニメ]]、[[Portal:ドラマ|ドラマ]]
}}
[[画像:Manga meat.png|thumb|150px|ギャートルズに登場するマンモス肉のイメージ]]
『'''ギャートルズ'''』は、[[園山俊二]]による[[日本]]の[[漫画]]作品である。
== 概要 ==
本作は架空の[[原始]]時代に繰り広げられる、[[原始人]]たちの大らかかつ突飛な日常を描いた[[ギャグ漫画]]である。[[テレビアニメ]]や[[テレビドラマ]]にもなり、その独特のユーモアや世界観で大人気を博した。
この作品により定型化した代表的なギャグや描写に、「大声が文字の形の石になって飛んでいく」「[[マンガ肉|輪切りの肉]]」「マンモスの群れの突進に巻き込まれた人間が踏みつぶされてペラペラになる」「テッコンキンクリート」などがある。一方で、作中では原始時代にもかかわらずなぜか[[貨幣経済]]が浸透しており、巨大な石の貨幣を用いている描写が見られる。
主な登場人物は、「ギャートルズ平原(架空の地名)」に暮らす[[クロマニョン人]]の少年ゴンと、ゴンの父ちゃんをはじめとする彼の家族、そして相棒である[[ゴリラ]]のドテチンである。彼らの日々の生活は波瀾万丈でエピソードに富み、個性的な隣人や生き物たちが絡んで騒動を繰り広げる。
ゴンが登場しない青年誌掲載作品においては、[[下ネタ]]や[[ブラックジョーク]]も含まれる。神様のなりかけといった存在が出てきたことがあり、読み切りで掲載された最初の作品においては、[[神|神様]]が酔っぱらいながら人間を作ったことが語られる。また、原始時代に[[戦争]]・[[略奪]]・[[強姦]]が繰り返されているという描写であり、結果、神様が目を離している隙に文明を発達させた人類は滅びてしまった。
英語圏では「Hajime Ningen Gon (GON, THE STONE-AGE BOY)」として紹介されている。
== シリーズ作品 ==
; ギャートルズ
: 1作目。1965年から1975年まで[[実業之日本社]]の『週刊[[漫画サンデー]]』に連載された。本作にはゴンは登場しない。
; はじめ人間ゴン
: 2作目。1966年から1969年まで[[学研ホールディングス|学習研究社]]の[[科学と学習]]に連載<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1800615?tocOpened=1 |title=1年の科学. 8(6) |publisher=[[国立国会図書館]] |year=1966 |accessdate=2019-05-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1738347?tocOpened=1 |title=1年の学習. 20(6) |publisher=国立国会図書館 |year=1966 |accessdate=2019-05-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1759091?tocOpened=1 |title=6年の学習. 23(12) |publisher=国立国会図書館 |year=1969 |accessdate=2019-05-24}}</ref>。読者層に合わせ、本作より主人公として少年ゴンが登場する。
; はじめ人間ギャートルズ
: 3作目。アニメの放送に合わせ、1974年から1976年まで[[小学館の学年別学習雑誌]](『小学一年生』 - 『小学五年生』)に連載。
; くたばれギャートルズ
: 4作目。1980年から1984年まで[[小学館]]の『[[ビッグコミックオリジナル]]』に連載。主人公は父ちゃんで、[[野球]]が話のモチーフとなる。
== はじめ人間ギャートルズ(テレビアニメ) ==
[[朝日放送テレビ|朝日放送]]と[[東京ムービー]]の共同製作。1974年10月5日から1975年3月29日まで[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]で、1975年4月5日から1976年3月27日からは朝日放送の「[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|腸捻転]]」解消により[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET系列]]で放送。全77話。
2005年8月26日には[[バンダイビジュアル]]から全話を収録した[[ボックス・セット#DVD-BOX|DVD-BOX]]が、2016年9月28日には[[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント]]から[[ボックス・セット#BD-BOX|Blu-ray BOX]]が発売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20050621/bandai.htm |title=「はじめ人間 ギャートルズ」がDVD-BOX化 |publisher=[[インプレス]]|website=[[Impress Watch|AV Watch]] |date=2005-06-21 |accessdate=2019-05-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/ship/bdhdship/1017680.html |title='74年放送開始のアニメ「はじめ人間ギャートルズ Blu-ray BOX」など |publisher=インプレス|website=AV Watch |date=2016-09-01 |accessdate=2019-05-24}}</ref>。
2008年1月7日から[[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CS]]の[[アニマックス]]で放送。
=== 制作 ===
東京ムービー文芸部に所属した[[山崎敬之]]によると、東京ムービー社長の[[藤岡豊]]と原作者の園山俊二が隣家であり、夫人同士の仲が良かったためにアニメ化が実現したとある<ref>山崎敬之『テレビアニメ魂』p.134より</ref>。
本作は各話の演出はいるが、監督やディレクターが存在しない。TV局もプロデューサーも現場に任せ、かなり自由な体制で制作された<ref>[http://www.style.fm/as/05_column/animesama20.shtml WEBアニメスタイル_COLUMN]</ref>。
父ちゃん役には、前年放送された『[[ジャングル黒べえ]]』で主役を務めた肝付兼太が起用された<ref name="WebAnimeStyle20050715">{{Cite web|和書|title=あの声、あのキャラ、あの作品 肝付兼太と『ギャートルズ』(2) |url=http://www.style.fm/as/13_special/mini_050715.shtml |website=WEBアニメスタイル|access-date=2022-12-11|date=2005.07.15}}</ref>。
音響監督の千葉耕市の妻・千田啓子の勧めで本作のオーディションに参加したことを2005年に行われたWEBアニメスタイルとのインタビューで明らかにしている{{R|WebAnimeStyle20050714}}。
当初、肝付はゴン役で受けたものの、父ちゃん役に起用された際は面白いと感じたと肝付は2005年のインタビューで振り返っている{{R|WebAnimeStyle20050714}}。
肝付は第1話から第7話を見た際、父ちゃんの方が主役だと感じたと2005年のインタビューで話しており、インタビューアーを務めた小黒祐一郎も途中から物語の比重がゴンに移るとはしたうえで肝付の意見に同意している{{R|WebAnimeStyle20050714}}。
肝付は印象に残った話として死神の登場する第7話「ネツンアッチクタバリーンの巻」を挙げており、やや子供には理解しづらいと思いつつも、見た後に心に残る作品だと話している{{R|WebAnimeStyle20050714}}。また、肝付は弱肉強食の世界では小さきものを殺して食べるのには抵抗感があるが、マンモーという巨大な存在を輪切りにして食べるのは嫌悪感が生じず、頑張ってマンモーを倒したという気持ちが残るため、そのような意味ではよくできた漫画だと話している{{R|WebAnimeStyle20050714}}。
=== 登場人物 ===
;ゴン
:[[声優|声]] - [[丸山裕子]]
:推定年齢10歳の男の子。将来は立派な[[狩猟|狩人]]になるのが夢。臆病な性格だが、友情に篤く、硬い石頭が自慢である。
:外出時は、いつも[[石斧]]を肩に担いでいる。
:著しいダメージを受けると「[[鉄筋コンクリート|テッコンキンクリート]]」と言って目を回す癖がある。
:ガールフレンドのピー子ちゃんのことが大好きで、彼女のためなら危険なことでも引き受ける。家族は両親と、弟3人、妹1人(弟達よりは大きく、ゴンよりは下。ピー子ちゃんより小さいと思われる)そして[[タヌキ]]が1匹。
:はじめ人間というだけあって本当に初期の人類らしく、[[祈祷師|呼び出しばーさん]]に先祖を召喚してもらった際は10代足らず前の先祖が[[類人猿]]であった。
;父ちゃん
:声 - [[肝付兼太]]<ref name="WebAnimeStyle20050714">{{Cite web|和書|title=あの声、あのキャラ、あの作品 肝付兼太と『ギャートルズ』(1) |url=http://www.style.fm/as/13_special/mini_050714.shtml |website=WEBアニメスタイル|access-date=2022-12-11|date=2005.07.15}}</ref>
:40歳。一家の大黒柱で、家族のために毎日獲物を狩っている。
:[[猿酒]]{{efn|サルに果実を食わせて吐き戻させる作り方のため、リンク先項目のものよりは[[口噛み酒]]に近い。}}が好物{{R|WebAnimeStyle20050714}}。[[外国人]]の言葉が分かる。腕っ節は強く、1人で[[マンモス]]を仕留める時もあれば、母ちゃんの援護を受けて死神と互角以上に渡り合う時もある一方、[[イノシシ]]1頭に負けることもある。
:美人に弱いが、本心は母ちゃん一筋。時折、精神的に落ち込んでしまうメンタルの弱さを持っている。
;母ちゃん
:声 - [[花形恵子]]
:しっかり者のゴンの母親。男勝りな一面を持ち、獲物を持って帰らないとものすごく怖い。片方の乳房の出ている{{efn|これは母ちゃんに限ったことではない}}[[ヒョウ]]皮の[[ワンピース]]風の着物を着用している。
:背中にはいつも3人の赤ん坊(ゴンの弟たち)と、タヌキを1匹背負っている。ゴンが死神に連れ去られそうになった時、戦いを挑んだ父ちゃんを圧倒する死神を一撃でバラバラにして形勢を逆転させた。
;ドテチン
:声 - [[たてかべ和也|立壁和也]]
:ゴンの相棒の類人猿。顔は怖いが、おとなしく、ゴンに対しては優しい。かなりの馬鹿力の持ち主だが、彼も父ちゃん同様、強さが全く一定していない。メスのガールフレンドがいる。
:他の動物の言葉も解するため、ゴンのために[[通訳]]をすることがある。ヒネモグラが苦手という設定もある。
;ピー子ちゃん
:声 - [[吉田理保子]]
:推定年齢8歳。ゴンのガールフレンドでお花が大好きな女の子。結構気が強く、些細なことでゴンに「大嫌い」と言い放ったり、他の男に見惚れてゴンを相手にしなかったりすることも多い。しかし、本心ではゴンが好きで、「ゴンのためなら何だってする」と言い切ったり、ゴンが危機に陥ると涙を流して心配する。また、ゴンとの会話では「[[結婚]]」という言葉まで出て来ることがある。かなりのおませさん。おじいさんと2人暮らし。一緒に食事をする、一緒に遠足に行く、一晩泊まるなど、ゴンの一家と行動を共にすることもしばしばで、父ちゃんから「ゴンの将来の[[花嫁]]」と言われたり、ゴンの一家にも、すっかり将来の家族として認められているようである。
:類人猿の言葉を通訳したことがある。
;天邪鬼
:声 - 三浦理江
:1本[[角|ヅノ]]で[[近畿方言|関西弁]]の鬼族。52話で初登場。いつも森で一人ぼっちで遊んでいたが、ゴン達と出会い、彼やその両親に優しくされたことで、孤独が解消されたと感激し、ゴン達の家が見える高い木の上に引っ越す。そしてゴンと仲良しになり、準レギュラー化。ピー子ちゃんより出番が多いキャラとなる。
:ゴンが会話できない[[竜]]などの言葉を解する能力を持っている。
:天邪鬼族ゆえに、1000年に1つしか年をとらない。両親と他の一族は、かつて地球から切り離された[[月]]に住んでいる。1度、ゴン達と月に行き、月の[[酸素]]が尽きかけたため、両親や他の天邪鬼族と共に、地球に帰ろうとしたが惜しくも失敗。再び離れ離れになり、天邪鬼以外の全員が行方知れずになってしまった。
:普段は、自分の感情と反対のことしか言わないため、会話がめんどくさいが、時には普通に話すこともある。また、ひねくれ者のうえ、[[悪戯|イタズラ]]好きで、困ったところがあるが、自分が原因で何かあると、その責任を認めて行動を起こす、潔いところがある。
:初めて自分を受け入れてくれた人間であるゴンに対しては、彼が勇気を失った時には、勇気を取り戻させるために最後まで協力したり、[[ウスバカゲロウ#アリジゴク|アリジゴク]]に落ちた時は死ぬのは自分1人でいいと言ってゴンとドテチンを庇うなど、友情に厚い一面を見せ、決してゴンを裏切ったり見捨てたりはしない。
;死神
:声 - [[増岡弘]]
:神様の使いで、死んだ者や死にかけた者の魂に死亡許可証を授け、[[天国]]あるいは[[地獄]]にへ連れていく。連れていく者は人間だけでなく、マンモーやイノシシなどの動物も含まれる。
:[[骸骨]]の姿で、ガイコツ[[ウマ|馬]]に乗り、骨の[[槍]]を持っている。ゴン、ドテチン、父ちゃんを連れていこうとして、それを阻止せんとするゴン一家と交戦したこともある。実力は非常に高く、しかもバラバラになってもすぐ復元できるため、戦って彼に勝てる人間は存在しない。ただし、彼以外の死神も存在しており、死神同士の争いに負けてガイコツ馬と縄張りを奪われたこともある。また、ゴンが勇気を失った時、彼を旅に行かせるため、父ちゃんに頼まれて、サル酒と引き換えに旅人に扮した父ちゃんと決闘してわざと負ける芝居をするなど、人間臭いことをすることがある。[[恐竜]]などの本来絶滅した生物が生き残っていた際には、一時的に肉食竜を復活させて生態系を元に戻す役割も担う。
:[[リウマチ]]持ち。また、同じ骨の女房がいる。終盤の話では、息子が1人いることも判明した。
;ヒネモグラ
:声 - 立壁和也
:[[眼鏡]]をかけた[[モグラ]]。地面からひょっこり現れ、笑ったり、人間をからかったりする。
:ヒネモグラの声はドテチン役の立壁の声を[[ボイスチェンジャー]]で加工したものであり、甲高い声になっている。
;マンモー
:原始人たちが[[マンモス]]のことを差す用語。原始人にとっては食糧であり、宿敵でもある。
:父ちゃんからは「(「マンモス」の呼び方が)面倒だから『マンモー』と呼べ」とゴンに語ったためにこの名が定着した。
;[[剣歯虎|サーベルタイガー]]
:恐ろしい勢いで襲ってくる原始時代の[[トラ]]。原始人たちは食用ではなく、皮を加工して衣服や[[毛皮]]にして使用している。
=== スタッフ ===
* 原作 - [[園山俊二]]
* 作画監督 - [[香西隆男]]{{efn|「香西隆」名義もあり。}}
* 美術監督 - [[小林七郎]]
* 撮影監督 - 三沢勝治
* 録音監督 - [[千葉耕市]]
* 音楽 - [[かまやつひろし]]、[[久石譲|藤沢守]]{{efn|[[久石譲]]の本名。[[劇伴]]音楽のデビュー作だった。}}
* 原画 - [[河内日出夫]]、[[中村英一]]、[[青木悠三]]、[[山田みちしろ|山田道代]]、[[こだま兼嗣|児玉兼嗣]]、[[百瀬義行]]、[[内山正幸]]、[[北原健雄]]、[[川尻善昭]]、[[近藤喜文]]、[[山口泰弘]]、[[本多敏行]]、[[椛島義夫]]、[[芝山努]]、[[小林治 (1945年生のアニメ演出家)|小林治]]、[[前田実]] 他
* 動画 - [[有原誠治]]、[[須田裕美子]] 他
* 美術設定 - [[男鹿和雄]]、竜池昇、水谷利春、白坂のり子 他
* 効果 - [[E&Mプランニングセンター|片岡陽三]]
* 録音技術 - 星野敏昭
* 編集 - [[エフエフ東放|東放制作]]
* 制作協力 - [[シンエイ動画|Aプロダクション]]、[[アニメフィルム|東京アニメーションフイルム]]、映音、[[東京現像所]]
* 製作著作 - [[朝日放送テレビ|朝日放送]]、[[東京ムービー]]{{efn|クレジットが差し替えられたオープニング映像とエンディング映像においては、朝日放送のクレジットは表示されない。}}
=== 主題歌 ===
;オープニングテーマ - 「はじめ人間ギャートルズ」
:作詞 - 園山俊二 / 作曲 - かまやつひろし / 編曲 - [[あかのたちお]] / 唄 - ザ・ギャートルズ
:仮歌は作曲したかまやつが歌った<ref>ムッシュかまやつ『ムッシュ!』[[日経BP|日経BP社]]、2002年、144-145頁。ISBN 4-8222-4269-2。</ref>。
:映像は一貫して変更はなかったが、第1回のみ、掲載誌クレジットが「小学館の学習雑誌」ではなく「週刊漫画サンデー」になっており、歌詞[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]の区切りも異なっていた。
:[[2019年]][[12月]]より、[[スズキ (企業)|スズキ]]の「[[スズキ・ハスラー]]」の[[コマーシャルソング|CMソング]]に、アレンジ版を使用<ref>[https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1226341.html スズキ、新型「ハスラー」新CM公開。テーマ曲は「はじめ人間ギャートルズ」]、Car Watch、2019年12月24日。</ref>。
;エンディングテーマ - 「やつらの足音のバラード」
:作詞 - 園山俊二 / 作曲 - かまやつひろし / 編曲 - あかのたちお / 唄 - [[若子内悦郎|ちのはじめ]]
:後にかまやつが[[セルフカバー]]し、[[宝ホールディングス|宝酒造]]「[[純 (焼酎)|純]]・レジェンド」[[コマーシャルソング|CMソング]]に起用された(1994年、CDシングルとして発売)。
:その他[[小泉今日子]]、[[スガシカオ]]などがカバーしている。
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!演出
|-
|rowspan="2"|1||rowspan="2"|'''1974年'''<br />10月5日||ハジメンカリーンの巻||[[金子裕 (脚本家)|金子裕]]||[[吉田茂承]]
|-
|マンモギャーの巻||[[山崎晴哉]]||岡部英二
|-
|rowspan="2"|2||rowspan="2"|10月12日||ピカピカイシンの巻||[[城山昇]]||[[御厨恭輔]]
|-
|キビキビシラーの巻||rowspan="2"|[[伊東恒久]]||坂本竜
|-
|rowspan="2"|3||rowspan="2"|10月19日||ロングロングアゴンデーの巻||[[波多正美]]
|-
|ツキビジョンウィーの巻||山崎晴哉||吉田茂承
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|10月26日||ネツンアッチクタバリーンの巻||金子裕||岡部英二
|-
|マンモペットカウーンの巻||[[高屋敷英夫|九十英夫]]||[[出崎統|さきまくら]]
|-
|rowspan="2"|5||rowspan="2"|11月2日||マッリーンソワソワンの巻||金子裕||御厨恭輔
|-
|イレバーンジジの巻||城山昇||坂本竜
|-
|rowspan="2"|6||rowspan="2"|11月9日||ギギガップの巻||金子裕||御厨恭輔
|-
|ハルカーンドンドンの巻||rowspan="2"|山崎晴哉||岡部英二
|-
|rowspan="2"|7||rowspan="2"|11月16日||ニキニキビーンの巻||吉田茂承
|-
|ジゴクラクーンの巻||rowspan="2"|城山昇||坂本竜
|-
|rowspan="2"|8||rowspan="2"|11月23日||トリカエッコンの巻||波多正美
|-
|コモリーンコリゴリの巻||九十英夫||岡部英二
|-
|rowspan="2"|9||rowspan="2"|11月30日||カカッターンの巻||伊東恒久||吉田茂承
|-
|スキスキフラレタンの巻||[[竹内啓雄|川石光]]||さきまくら
|-
|rowspan="2"|10||rowspan="2"|12月7日||ウシロスガタイイの巻||rowspan="3"|伊東恒久||御厨恭輔
|-
|オーギャーティフルの巻||坂本竜
|-
|rowspan="2"|11||rowspan="2"|12月14日||ブーメランルーの巻||[[福冨博|福富博]]
|-
|サムサムンクションの巻||城山昇||御厨恭輔
|-
|rowspan="2"|12||rowspan="2"|12月21日||オオカミーンの巻||井上知士||吉田茂承
|-
|クタビレモウケーンの巻||九十英夫||波多正美
|-
|rowspan="2"|13||rowspan="2"|12月28日||バラバランチズの巻||川石光||福富博
|-
|バイバイワニーンの巻||井上知士||[[今沢哲男]]
|-
|rowspan="2"|14||rowspan="2"|'''1975年'''<br />1月4日||アケボノーの巻||金子裕||御厨恭輔
|-
|ポンポコカヌシヤマの巻||井上知士||さきまくら
|-
|rowspan="2"|15||rowspan="2"|1月11日||ホカホカマンモケーの巻||[[松岡清治 (脚本家)|松岡清治]]||[[竹内啓雄]]
|-
|トンデッタコタコンの巻||井上知士||rowspan="2"|岡部英二
|-
|rowspan="2"|16||rowspan="2"|1月18日||ネンネコロリーンの巻||城山昇
|-
|イシーの巻||金子裕||福富博
|-
|rowspan="2"|17||rowspan="2"|1月25日||エンヤコラハチンの巻||井上知士||rowspan="2"|御厨恭輔
|-
|オンギャハーンの巻||rowspan="2"|山崎晴哉
|-
|rowspan="2"|18||rowspan="2"|2月1日||ハルンイッチバンの巻||岡部英二
|-
|ビンボーカミーンの巻||九十英夫||rowspan="2"|福富博
|-
|rowspan="2"|19||rowspan="2"|2月8日||キラララドーンの巻||伊東恒久
|-
|ハルカゼナーの巻||城山昇||rowspan="2"|吉田茂承
|-
|rowspan="2"|20||rowspan="2"|2月15日||ネムネムハルーンの巻||山崎晴哉
|-
|ピカーリルンペの巻||金子裕||波多正美
|-
|rowspan="2"|21||rowspan="2"|2月22日||ネボケーンクマンの巻||[[山本優]]||[[岡崎稔]]
|-
|ウラナナラーンの巻||山崎晴哉||さきまくら
|-
|rowspan="2"|22||rowspan="2"|3月1日||ピカリロデドーンの巻||金子裕||岡部英二
|-
|エンギギカッグーンの巻||竹内啓雄||御厨恭輔
|-
|rowspan="2"|23||rowspan="2"|3月8日||クルクルマワールラー!の巻||松岡清治||さきまくら
|-
|マケルモカチーンの巻||井上知士||吉田茂承
|-
|rowspan="2"|24||rowspan="2"|3月15日||ヘンテコテコムシンの巻||山崎晴哉||岡部英二
|-
|モテモテンキザーの巻||伊東恒久||福富博
|-
|rowspan="2"|25||rowspan="2"|3月22日||ナミジハルバルーンの巻||山本優||御厨恭輔
|-
|ラブラブレターンの巻||井上知士||吉田茂承
|-
|rowspan="2"|26||rowspan="2"|3月29日||スキライダーメ!の巻||伊東恒久||岡部英二
|-
|カエルーンテンテンの巻||城山昇||吉田茂承
|-
|rowspan="2"|27||rowspan="2"|4月5日||マンモスゴーンの巻||rowspan="2"|金子裕||福富博
|-
|イソガシガリーンの巻||御厨恭輔
|-
|rowspan="2"|28||rowspan="2"|4月12日||ナクナクンゴリラッペの巻||rowspan="2"|山崎晴哉||吉田茂承
|-
|ポンポコムーンの巻||さきまくら
|-
|rowspan="2"|29||rowspan="2"|4月19日||オボロンヅキブハーの巻||金子裕||岡部英二
|-
|イキカエッタドーンの巻||九十英夫||今沢哲男
|-
|rowspan="2"|30||rowspan="2"|4月26日||タイガーギャーの巻||城山昇||福富博
|-
|ウホウホヤッホーの巻||伊東恒久||御厨恭輔
|-
|rowspan="2"|31||rowspan="2"|5月3日||ピーコピーコピーコロリンの巻||山崎晴哉||吉田茂承
|-
|ラララーコイビトの巻||竹内啓雄||岡部英二
|-
|rowspan="2"|32||rowspan="2"|5月10日||アタッターンの巻||城山昇||福富博
|-
|シニガミーンダメダメの巻||九十英夫||さきまくら
|-
|rowspan="2"|33||rowspan="2"|5月17日||ココーンポンポコの巻||松岡清治||吉田茂承
|-
|チヤホヤモテモテンの巻||山崎晴哉||御厨恭輔
|-
|rowspan="2"|34||rowspan="2"|5月24日||オトコハキビシインラーの巻||松岡清治||岡部英二
|-
|カビカビカビラの巻||金子裕||岡崎稔
|-
|rowspan="2"|35||rowspan="2"|5月31日||エレキーンシビラの巻||城山昇||吉田茂承
|-
|ハルバルーンケモノミチの巻||井上知士||御厨恭輔
|-
|rowspan="2"|36||rowspan="2"|6月7日||星にのった王子さまの巻||松岡清治||福富博
|-
|ハラペコファミリーの巻||九十英夫||岡崎稔
|-
|rowspan="2"|37||rowspan="2"|6月14日||腹がペコペコペコペコだの巻||rowspan="2"|城山昇||福富博
|-
|とりとりかえっこの巻||rowspan="2"|岡部英二
|-
|rowspan="2"|38||rowspan="2"|6月21日||ガマー見ろ!の巻||井上知士
|-
|あたまをつかえゴンの巻||荒木芳久||岡崎稔
|-
|rowspan="2"|39||rowspan="2"|6月28日||ミエミエケシキーンの巻||山崎晴哉||福富博
|-
|ドラゴンの玉をうばえの巻||rowspan="2"|山本優||岡部英二
|-
|rowspan="2"|40||rowspan="2"|7月5日||だまされたゴンの巻||福富博
|-
|いかがなされた旅の人の巻||川石光||rowspan="2"|岡部英二
|-
|rowspan="2"|41||rowspan="2"|7月12日||イテテテムシバーンの巻||九十英夫
|-
|ゴンと父ちゃん狩の旅の巻||山崎晴哉||福富博
|-
|rowspan="2"|42||rowspan="2"|7月26日||すばらしいおじいさんの巻||川石光||岡崎稔
|-
|父ちゃんの過去の巻||伊東恒久||福富博
|-
|rowspan="2"|43||rowspan="2"|8月2日||類人猿のガキ大将の巻<br />||山崎晴哉||岡部英二
|-
|出た!しょぼくれドラゴンの巻||山本優||福富博
|-
|rowspan="2"|44||rowspan="2"|8月9日||カッパにねらわれた父ちゃんの巻||九十英夫||岡部英二
|-
|ジャイアンツ山の大巨人の巻||山崎晴哉||福富博
|-
|rowspan="2"|45||rowspan="2"|8月16日||大当り!星うらないの巻||安藤豊弘||岡部英二
|-
|やって来た子連れカミナリの巻||山本優||福富博
|-
|rowspan="2"|46||rowspan="2"|8月23日||死ね死ねにっくきガイコツの巻||鶴見和一||岡崎稔
|-
|あっ透明マンモス!? の巻||rowspan="2"|城山昇||岡部英二
|-
|rowspan="2"|47||rowspan="2"|8月30日||原始人のテーブルマナーの巻||福富博
|-
|追い出された父ちゃんの巻||松岡清治||rowspan="2"|岡部英二
|-
|rowspan="2"|48||rowspan="2"|9月6日||はらはらナマズの大地震の巻||伊東恒久
|-
|さっそう!風仙人の巻||山本優||岡崎稔
|-
|rowspan="2"|49||rowspan="2"|9月13日||対決!!死神とゴンの巻||荒木芳久||福富博
|-
|人間と動物は友達なんだの巻||rowspan="3"|山本優||岡部英二
|-
|rowspan="2"|50||rowspan="2"|9月20日||なまいきオウムケータくんの巻||福富博
|-
|突撃!キバキバ戦車の巻||今沢哲男
|-
|rowspan="2"|51||rowspan="2"|9月27日||母ちゃんの原始美容体操の巻||城山昇||岡崎稔
|-
|巨人国からの侵入者!? の巻||山本優||岡部英二
|-
|rowspan="2"|52||rowspan="2"|10月4日||ジャジャーン!天邪鬼登場の巻||城山昇||福富博
|-
|生きかえった吸血鬼の巻||金子裕||岡部英二
|-
|rowspan="2"|53||rowspan="2"|10月11日||ゴンの地底大冒険の巻||山本優||[[永丘昭典]]
|-
|女ごころとピー子ちゃんの巻||井上知士||福富博
|-
|rowspan="2"|54||rowspan="2"|10月18日||森のポンポコ死神の巻||九十英夫||岡部英二
|-
|天邪鬼の親さがし月旅行の巻||金子裕||福富博
|-
|rowspan="2"|55||rowspan="2"|10月25日||魔法使いマホバばあさんの巻||rowspan="2"|伊東恒久||岡部英二
|-
|大戦争!ゴリラ対類人猿の巻||永丘昭典
|-
|rowspan="2"|56||rowspan="2"|11月1日||腹立ちハゲワシの復しゅうの巻||城山昇||岡崎稔
|-
|大天狗のプレゼントの巻||山本優||rowspan="2"|岡部英二
|-
|rowspan="2"|57||rowspan="2"|11月8日||雪女につかまったゴンの巻||山崎晴哉
|-
|巨人の泣きどころの巻||鶴見和一||福富博
|-
|58||11月15日||生きかえった冷凍恐竜の巻||金子裕||岡崎稔
|-
|59||11月22日||ゴンの天国地獄大旅行の巻||城山昇||岡部英二
|-
|60||11月29日||孤独のカタキバオレの巻||荒木芳久||福富博
|-
|61||12月6日||白馬争奪猛レースの巻||伊東恒久||岡部英二
|-
|62||12月13日||おく病風を吹きとばせ!の巻||松崎行雄||永丘昭典
|-
|63||12月20日||大平原の水が消えたの巻||九十英夫||岡部英二
|-
|64||12月27日||ガラガラオロチをさがせ!の巻||安藤豊弘||福富博
|-
|65||'''1976年'''<br />1月3日||父ちゃんのおへそが消えた?の巻||今村文人||rowspan="2"|岡部英二
|-
|66||1月10日||死神にとりつかれたの巻||金子裕
|-
|67||1月17日||バラバーラの大来襲の巻||山崎晴哉||岡崎稔
|-
|68||1月24日||母ちゃんに弱いマグマ大王の巻||山本優||rowspan="2"|岡部英二
|-
|69||1月31日||オヨヨ・白魔大王だーっの巻||山崎晴哉
|-
|70||2月7日||さる酒のんでウッホッホ!の巻||松岡清治||福富博
|-
|71||2月14日||ご先祖さまが現われたの巻||城山昇||岡部英二
|-
|72||2月21日||ゴム風船で天国旅行の巻||伊東恒久||永丘昭典
|-
|73||2月28日||死神の息子が恋をしたの巻||荒木芳久||御厨恭輔
|-
|74||3月6日||父ちゃんがぬけがらになったの巻||山本優||福富博
|-
|75||3月13日||モグリドラゴン現わる!の巻||鶴見和一||岡部英二
|-
|76||3月20日||星からの訪問者の巻||川石光||岡崎稔
|-
|77||3月27日||やつらの足音が聞こえた!の巻||colspan="2" style="text-align:center"|福富博
|}
=== 放送局 ===
{{出典の明記|date=2019年1月|section=1}}
* [[朝日放送テレビ|朝日放送]]('''製作局''')
* [[北海道放送]]:土曜 19:00 - 19:30<ref>『[[北海道新聞]]』(縮刷版) 1975年(昭和50年)3月、テレビ欄。</ref>
** [[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]:土曜 19:00 - 19:30<ref>『北海道新聞』(縮刷版) 1975年(昭和50年)4月、テレビ欄。</ref>
* [[青森放送]]:日曜 7:15 - 7:45<ref>『[[日刊スポーツ]]』1975年2月2日 - 2月23日付テレビ欄。</ref>{{efn|[[青森県]]での本放送は、当時NET系列・TBS系列のクロスネット局(1975年3月31日にANN脱退・JNN正式加盟)だった[[青森テレビ]]ではなく、[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]・NET系列のクロスネット局(1975年3月までは日本テレビ系列単独加盟局)だった[[青森放送]]で[[ネットチェンジ|腸捻転解消]]の前後を通じて行われた。}}
* [[IBC岩手放送|岩手放送]]:土曜 19:00 - 19:30(1975年3月まで)<ref>『[[河北新報]]』1974年10月5日 - 1975年3月29日付朝刊、テレビ欄。</ref> → 火曜 18:00 - 18:30(1975年9月時点)<ref>『河北新報』1975年9月2日 - 9月30日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[山形放送]]:水曜 17:00 - 17:30<ref>『河北新報』1975年9月3日 - 9月24日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[東北放送]]:土曜 19:00 - 19:30(1975年3月まで)<ref>『[[福島民報]]』1974年10月5日 - 1975年3月26日付朝刊、テレビ欄。</ref>
** [[宮城テレビ放送|宮城テレビ]]:月曜 18:00 - 18:30(1975年4月 - 9月)<ref>『福島民報』1975年4月7日 - 9月29日付朝刊、テレビ欄。</ref>
** [[東日本放送]]:土曜 19:00 - 19:30(1975年10月から)<ref>『河北新報』1975年10月4日 - 10月25日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[福島テレビ]]:日曜 10:30 - 11:00<ref>『福島民報』1975年4月6日 - 9月30日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[TBSテレビ|TBS]]:土曜 19:00 - 19:30
** [[テレビ朝日|NET]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[新潟放送]]:土曜 19:00 - 19:30(1975年3月まで) → 水曜 18:00 - 18:30(1975年4月から) <ref>『福島民報』1974年10月5日 - 1975年9月24日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[信越放送]]:土曜 19:00 - 19:30 → 水曜 18:00 - 18:30<ref name="ni7617">『日刊スポーツ』1976年1月7日 - 1月28日付テレビ欄。</ref>
* [[静岡放送]]:土曜 19:00 - 19:30 → 水曜 17:30 - 18:00<ref name="ni7617" />
* [[テレビ山梨]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[富山テレビ放送|富山テレビ]]:土曜 18:00 - 18:30<ref name="d7531">『[[北國新聞]]』1975年3月1日付朝刊テレビ欄より。</ref>
* [[北陸放送]]:土曜 19:00 - 19:30<ref name="d7531" />(1975年3月まで) → 水曜 18:00 - 18:30(1975年4月から)<ref>『北國新聞』1975年10月1日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[CBCテレビ|中部日本放送]]:土曜 19:00 - 19:30
** [[名古屋テレビ放送|名古屋放送]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[山陰放送]]:土曜 19:00 - 19:30
** [[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]]
* [[RSKテレビ|山陽放送]]:土曜 19:00 - 19:30
** [[岡山放送|テレビ岡山]]{{efn|当時の放送対象地域は両局とも[[岡山県]]のみ。}}
* [[中国放送]]:土曜 19:00 - 19:30
** [[広島ホームテレビ]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[山口放送]]{{efn|[[山口県]]での本放送は、当時TBS系列・NET系列・[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]のクロスネット局であった[[テレビ山口]]ではなく、[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]の[[山口放送]]で行われた。}}
* [[瀬戸内海放送]]{{efn|当時の放送対象地域は[[香川県]]のみ。}}:土曜 19:00 - 19:30
* [[南海放送]]:火曜 17:55 - 18:25{{efn|1974年12月3日開始から1976年6月1日終了まで一貫して同じ枠。}}<ref>『中国新聞』1974年12月3日~1976年6月1日付朝刊テレビ欄</ref>
* [[テレビ高知]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[RKB毎日放送]]:土曜 19:00 - 19:30
** [[九州朝日放送]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[熊本放送]]{{efn|ネットチェンジ後には月曜 18:00 - 18:30 に放送された。{{いつ範囲|date=2020年11月|熊本日日新聞テレビ欄より。}}}}:土曜 19:00 - 19:30 → 月曜 18:00 - 18:30
* [[長崎放送]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[大分放送]]:土曜 19:00 - 19:30 → 土曜 18:00 - 18:30<ref>『[[愛媛新聞]]』1975年9月27日付け朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[宮崎放送]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[南日本放送]]:土曜 19:00 - 19:30
* [[琉球放送]]:土曜 19:00 - 19:30
==== ネットチェンジの影響 ====
1975年3月31日に近畿地方で朝日放送と毎日放送の[[ネットチェンジ]]が行われたことから、前述のとおり本作は第26話と第27話を境にしてTBS系列からNET系列での放送へと移行した。
系列変更後にも本作は引き続き土曜19時台に放送されたが、それまでのTBS系列ではこの時間帯に毎日放送製作の『[[仮面ライダーストロンガー]]』が放送されることになったことから、NET系列局のない、あるいは他系列(主に[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]を優先)との[[クロスネット局]]であるため編成の都合のつかない地域においては、そのままTBS系列局に残って時差ネットに移行(上記の新潟放送・大分放送など)もしくは第26話をもって打ち切り(再放送で全話放送した事例あり)という措置が取られた。
=== 劇場版 ===
1975年3月15日、『[[東宝チャンピオンまつり]]』内で第1回Bパート「マンモギャーの巻」のブローアップ版が上映された{{R|TCMP60}}。上映時間は15分{{R|TCMP60}}。
併映は『[[メカゴジラの逆襲]]』『[[新八犬伝]]』『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』『[[アグネスからの贈りもの]]』の5本{{R|TCMP60}}。
=== ネット配信 ===
東京ムービーの作品群を管理している[[トムス・エンタテインメント]]が[[YouTube]]に開設された「TMSアニメ55周年公式チャンネル→TMSアニメ公式チャンネル」で、2019年5月10日から第3回までが、同年5月22日から初期バージョンのオープニング映像とエンディング映像が配信されている(第2・3回は2019年内まで)。2021年5月26日からは第1回 - 第5回までが追加配信されている。これらの映像にある制作クレジットはいずれも本放送当時のものでなく、「製作・著作 トムス・エンタテインメント」という表記に差し替えられている。また第1回のOP映像は第2回以降のバージョンを使用している。
=== 反響 ===
単純で印象深いアニメのオープニングや、原作者の園山俊二が作詞し、[[かまやつひろし]]が作曲したエンディングテーマ「やつらの足音のバラード」も長く親しまれている。なお、地球の始まりから人類の誕生までをシンプルかつ奥行きある形で描いた「やつらの足音のバラード」は、後にかまやつ自身や[[小泉今日子]]、[[スガシカオ]]、[[中村あゆみ]]、[[平井堅]]、[[遠藤正明]]、[[デーモン閣下]]らによってカバーされ、その都度オリジナルも注目を浴びている。
肝付は、かまやつの作曲した主題歌{{efn|肝付は「♪なんにもない」と言及しただけであり、楽曲名については明言していない{{R|WebAnimeStyle20050714}}。}}が玄人筋には非常に受け入れられたと2005年のインタビューで振り返っている{{R|WebAnimeStyle20050714}}。
また、肝付は自分の知人で、本作の父ちゃんの飲酒シーンを見てお酒を飲むようになった人がいたことを挙げている{{R|WebAnimeStyle20050714}}。
==== 評価 ====
アニメーターの[[本郷みつる]]は、子どもだった1974年に本作を視聴した際、「シンプル」「不思議」「面白い」という印象を抱いており、30年ぶりに視聴した際もそれに近かったと2005年に寄せたWEBアニメスタイルの特集記事の中で述べている<ref name="Hongo">{{Cite web|和書|title=熱烈再見ギャートルズ 第1回 本郷みつる(アニメーション演出者)『はじめ人間 ギャートルズ』のこと|url=http://www.style.fm/as/13_special/netsu_050714.shtml |website=WEBアニメスタイル|access-date=2022-12-11|date=2005.07.14}}</ref>。
本郷はゴンたち一家が様々なものに遭遇する設定が非常にうまく機能していると評価しており、これは原作由来の切り口の良さだけでなく、制作当時の東京ムービーが非常に充実していたためだと推測している{{R|Hongo}}。
{{前後番組
| 放送局 = [[朝日放送テレビ|朝日放送]]
| 放送枠 = 土曜 19:00 - 19:30
| 番組名 = はじめ人間ギャートルズ<br />(1974年10月5日 - 1976年3月27日)<br />【本番組までアニメ枠】
| 前番組 = [[ど根性ガエル#1972年版|ど根性ガエル]]<br />(1972年10月7日 - 1974年9月28日)
| 次番組 = [[三枝の結婚ゲーム|三枝の大マジメ!?結婚ゲーム]]<br />(1976年4月3日 - 1977年4月2日)
| 2放送局 = 朝日放送を除く[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
| 2放送枠 = 土曜 19:00 - 19:30(本番組まで[[TBSテレビ系列土曜夜7時枠のアニメ]])
| 2番組名 = はじめ人間ギャートルズ<br />(1974年10月5日 - 1975年3月29日)<br />【本番組まで朝日放送製作】
| 2前番組 = ど根性ガエル<br />(1972年10月7日 - 1974年9月28日)
| 2次番組 = [[仮面ライダーストロンガー]]<br />(1975年4月5日 - 12月27日)<br />【同番組から[[毎日放送]]製作】
| 3放送局 = 朝日放送を除く[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET系列]]
| 3放送枠 = 土曜 19:00 - 19:30
| 3番組名 = はじめ人間ギャートルズ<br />(1975年4月5日 - 1976年3月27日)<br />【本番組から朝日放送製作】<br />【本番組のみアニメ枠】
| 3前番組 = [[ちびっこアベック歌合戦]]<br />(1974年10月5日 - 1975年3月29日)<br />【同番組まで毎日放送製作】<br />【TBS系列へ移行、金曜19:00枠へ移動】
| 3次番組 = 三枝の大マジメ!?結婚ゲーム<br />(1976年4月3日 - 1977年4月2日)
}}
{{テレビ朝日系列土曜夜7時台枠のアニメ}}
{{トムス・エンタテインメント}}
{{シンエイ動画}}
== はじめ人間ゴン(テレビアニメ) ==
1996年、[[NHK衛星第2テレビジョン]](NHK BS2)の『[[衛星アニメ劇場]]』枠でリメイク版となる『'''はじめ人間ゴン'''』を放送。1990年代に学習研究社の学習雑誌『[[科学と学習|4年の学習]]』でリメイクされた『はじめ人間ゴン』(作画 - [[しのだひでお]])が原作である。全39回。本放送では1回につき3話放送であったが、後に[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]で再放送された際に10分枠になり、1回につき1話ずつの放送となる。
当時としてはまだ普及間もない[[デジタル彩色]]が導入されており、[[セル画]]回と混合で放送されていた。
2005年4月27日、[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント(現:日本コロムビア)]]から全話を収録したDVD-BOXが発売された。
2021年時点においても、[[コマーシャルメッセージ|CM]]に登場するキャラクターの声はこのキャストが起用されている(ゴン、ドテチン、とうちゃん、かあちゃん)。
=== キャスト ===
* ゴン - [[大谷育江]]
* とうちゃん - [[緒方賢一]]
* かあちゃん - [[一城みゆ希]]
* ドテチン、あくにん、ナレーション - [[茶風林]]
* ピーコちゃん、ポン、マンモス、モグラ、きょうりゅう、タヌキ、ウサギ、子クジラ、女の人、子グマ、リス - [[川上とも子]]
* マンモス〈ゆきマンモス〉、サーベルタイガー〈ゆきサーベルタイガー〉、イノシシ、あくにん、オリオン座、しにがみ、オットセイ - [[大黒和広]]
* あくにん、ゆきおとこ - [[石井康嗣]]
* 星の王子 - [[南央美]]
* いしゃ、男の人 - [[上田敏也]]
* おじいちゃん、ろうじん - [[宝亀克寿]]
* おばあちゃん - [[滝沢ロコ]]
* 勇者 - [[吉田小南美]]
* ペテン師 - [[安西正弘]]
* うま、るいじんえん、にせゴン、UFO - [[桜井敏治]]
* のうふ - [[青森伸]]
* チン - [[氷上恭子]]
* トン - [[喜田あゆ美]]
* にんぎょ - [[松井菜桜子]]
* おじさん - [[大塚明夫]]
* みかづき - [[カシワクラツトム|柏倉つとむ]]
* たいよう - [[広瀬正志]]
* こおり姫 - [[佐々木るん]]
* UFO - [[高木渉]]
* 星の女王 - [[小宮和枝]]
* オウム - [[岩永哲哉]]
* おとひめ様 - [[山口由里子]]
* 走るおとこ - [[森川智之]]
* かみさま - [[亀山助清]]
* 男の人 - [[稲葉実]]
* おうじゃ - [[大友龍三郎]]
* その他 - [[平松晶子]]、[[徳丸完]]
=== スタッフ ===
* 原作 - 園山俊二
* シリーズ構成 - [[浦沢義雄]]
* アニメーションキャラクターデザイン - [[岸義之]]
* 監督 - [[香川豊]]
* 美術監督 - [[池田祐二]]([[スタジオワイエス]])
* 色彩設計 - [[いわみみか。]]
* 音響監督 - [[清水勝則]]、鈴木祐子
* 音楽 - [[本間勇輔]]
* 音楽プロデューサー - 大川正義 (MEDIA.REMORAS.INC)
* ビデオ編集 - 森田清次
* 編集オペレーター - 井上由起子
* 文芸進行 - 水越保
* アニメーションプロデューサー - 朴谷直治(スタジオぴえろ)
* プロデューサー - [[布川ゆうじ]](スタジオぴえろ)、[[木村京太郎 (プロデューサー)|木村京太郎]](読売広告社)、末川研
* 製作協力 - 国際メディア・コーポレーション、[[丸紅]]、学習研究社
* 制作 - [[ぴえろ|スタジオぴえろ]]
=== 主題歌 ===
; オープニングテーマ - 「バビブベビンビン」
: 作詞・唄 - [[ドリアン助川]] / 作曲・編曲 - [[きりばやしひろき|HIROKI]]
; エンディングテーマ - 「楽してゴンゴン」
: 作詞 - [[秋元康]] / 作曲 - 松浦祥隆 / 編曲 - 古田智隆 / 唄 - [[Petty Booka|ペティブーカ]]
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!回!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!コンテ!!演出!!作画監督
|-
|rowspan="3"|1||rowspan="3"|'''1996年'''<br />4月3日||荒野のドテチン||rowspan="6"|[[浦沢義雄]]||colspan="2" rowspan="3" style="text-align:center"|[[香川豊]]||[[岩根雅明]]
|-
|とうちゃんはつらい‥‥||敷島博英
|-
|ゲッ!? 死神だ!!||室井ふみえ
|-
|rowspan="3"|2||rowspan="3"|4月10日||ぴーコのおねがい||小柴純弥||rowspan="3"|[[池端隆史]]||松下佳弘
|-
|嵐ピューピュー大洪水||rowspan="2"|[[鴫野彰]]||山田浩之
|-
|イノシシはキョーレツ!!||岡田敏靖
|-
|rowspan="3"|3||rowspan="3"|4月17日||夢……!? デッカイ恐竜||杉原めぐみ||岩鷹明||山崎たかし||桜井美智代
|-
|初めてのおつかい||浦沢義雄||colspan="2" rowspan="2" style="text-align:center"|山崎たかし||林一哉
|-
|泥棒にはご用心||杉原めぐみ||宮川治雄
|-
|rowspan="3"|4||rowspan="3"|4月24日||カラカラ天気のナゾ||rowspan="3"|[[阪口和久]]||鴫野彰||rowspan="3"|池上和誉||早川淳一
|-
|とうちゃんの獲物?||池上和誉||[[岸義之]]
|-
|真珠採り||鴫野彰||岩根雅明
|-
|rowspan="3"|5||rowspan="3"|5月1日||一人前の原始人||rowspan="3"|浦沢義雄||colspan="2" rowspan="3" style="text-align:center"|横山広行||佐久間しげ子
|-
|ノコギリザメの使い方||敷島博英
|-
|落ちてきた王子様||山田浩之
|-
|rowspan="3"|6||rowspan="3"|5月8日||え?ゴンがいっぱい??||杉原めぐみ||colspan="2" rowspan="3" style="text-align:center"|[[岩崎良明]]||岩根雅明
|-
|ギャー!! 大きな人間!!||rowspan="3"|浦沢義雄||岡田敏靖
|-
|あの鳥をつかまえろー!!||ドラゴン<br />プロダクション
|-
|rowspan="3"|7||rowspan="3"|5月15日||人質になっちゃった||colspan="2" rowspan="3" style="text-align:center"|池端隆史||臼田美夫
|-
|ナゾのお風呂ぎらい||rowspan="2"|杉原めぐみ||増谷三郎
|-
|勇者トホホホ大迷惑||宮川治雄
|-
|rowspan="3"|8||rowspan="3"|5月22日||だまされたー||rowspan="3"|阪口和久||colspan="2" rowspan="3" style="text-align:center"|山崎たかし||早川淳一
|-
|コチコチ・マンモス||[[二宮常雄]]
|-
|笛の音でギャー!!||[[古瀬登]]
|-
|rowspan="3"|9||rowspan="3"|6月5日||潮干狩りでさあ大変!!||浦沢義雄||岩鷹明||rowspan="3"|横山広行||山本哲也
|-
|ハラペコのお星様||杉原めぐみ||[[都留稔幸]]||井坂純子
|-
|悪人トリオの家来||阪口和久||横山広行||桜井美智代
|-
|rowspan="3"|10||rowspan="3"|6月12日||ひえー、くっついた||杉原めぐみ||岩崎良明||rowspan="3"|岩崎良明 ||松下佳弘
|-
|無敵のマンモス||阪口和久||岩鷹明||林一哉
|-
|ペテン師だあー||浦沢義雄||都留稔幸||岩根雅明
|-
|rowspan="3"|11||rowspan="3"|6月19日||馬に乗るぞぉー!!||杉原めぐみ||鴫野彰||rowspan="3"|池端隆史||岡田敏靖
|-
|類人猿がやってきた||阪口和久||横山広行||山本哲也
|-
|ひゃー、カミナリ怖い〜||rowspan="2"|浦沢義雄||池端隆史||増谷三郎
|-
|rowspan="3"|12||rowspan="3"|6月26日||み、みず欲しいよお〜||山崎たかし||rowspan="3"|山崎たかし||山田浩之
|-
|渡り鳥の季節||杉原めぐみ||岩鷹明||佐久間しげ子
|-
|光る石をさがせ!!||rowspan="2"|浦沢義雄||都留稔幸||敷島博英
|-
|rowspan="3"|13||rowspan="3"|7月3日||宝の地図で大騒動||横山広行||rowspan="3"|横山広行||山本哲也
|-
|キミョーな木の実||阪口和久||池上和誉||宮川治雄
|-
|楽しい農業||rowspan="2"|浦沢義雄||[[神谷純]]||臼田美夫
|-
|rowspan="3"|14||rowspan="3"|7月10日||光の合図でSOS||岩鷹明||rowspan="3"|[[大畑清隆]]||井坂純子
|-
|落ちた・迷った・大冒険||rowspan="4"|杉原めぐみ||岩崎良明||松下佳弘
|-
|ねらわれたドテチン||高田耕一||岩根雅明
|-
|rowspan="3"|15||rowspan="3"|7月17日||ゴン、決死の家出||池端隆史||rowspan="3"|岩崎良明||増谷三郎
|-
|この世の終わりが来た!!||岩鷹明||二宮常雄
|-
|とうちゃんの変装||rowspan="2"|阪口和久||神谷純||[[井上栄作]]
|-
|rowspan="3"|16||rowspan="3"|7月24日||大地のヘソ||colspan="2" style="text-align:center"|山崎たかし||山田浩之
|-
|かあちゃん狩りへ行く||杉原めぐみ||高田耕一||池端隆史||林一哉
|-
|森のヒーロー・ドテチン||rowspan="2"|浦沢義雄||都留稔幸||岩崎良明||[[新田靖成]]
|-
|rowspan="3"|17||rowspan="3"|7月31日||キャンプに行こう!!||岩鷹明||rowspan="3"|山崎たかし||飯飼一幸
|-
|とらわれのぴーコ||rowspan="4"|杉原めぐみ||神谷純||山本哲也
|-
|本当にあった怖い話||山崎たかし||敷島博英
|-
|rowspan="3"|18||rowspan="3"|8月7日||おじいちゃんの別荘||都留稔幸||rowspan="3"|横山広行||宮川治雄
|-
|たからを守れ!!||高田耕一||林千博
|-
|海の向こうは何だろう?||浦沢義雄||rowspan="2"|横山広行||増谷三郎
|-
|rowspan="3"|19||rowspan="3"|8月14日||ドテチンの初恋||杉原めぐみ||rowspan="3"|大畑清隆||松下佳弘
|-
|とうちゃんの恩返し||阪口和久||大畑清隆||臼田美夫
|-
|迷子の子マンモ||rowspan="2"|浦沢義雄||rowspan="2"|鴫野彰||早川淳一
|-
|rowspan="3"|20||rowspan="3"|8月21日||とうちゃん、ゴメーン||rowspan="3"|小林孝志 ||井坂純子
|-
|本物はどっちだ?||阪口和久||小林孝志||山本哲也
|-
|一番強いのは、だれ!?||rowspan="2"|杉原めぐみ||山崎たかし||新田靖成
|-
|rowspan="3"|21||rowspan="3"|8月28日||べんりな雨雲||鴫野彰||rowspan="3"|池端隆史||山田浩之
|-
|キノコ騒動||阪口和久||高田耕一||岩根雅明
|-
|からだがない!?||浦沢義雄||横山広行||井上栄作
|-
|rowspan="3"|22||rowspan="3"|9月4日||満月の夜の不思議||杉原めぐみ||鴫野彰||rowspan="3"|山崎たかし||井坂純子
|-
|人魚姫を助けろ!!||浦沢義雄||山崎たかし||林千博
|-
|大食らいのヒナ騒動||杉原めぐみ||都留稔幸||香川浩
|-
|rowspan="3"|23||rowspan="3"|9月11日||ぴーコのひとめぼれ||浦沢義雄||横山広行||rowspan="3"|横山広行||松下佳弘
|-
|子育ての季節||杉原めぐみ||原征太郎||増谷三郎
|-
|早起き大作戦||阪口和久||都留稔幸||敷島博英
|-
|rowspan="3"|24||rowspan="3"|9月25日||かあちゃんの願い||浦沢義雄||高田耕一||rowspan="3"|わだへいさく ||山田浩之
|-
|お引っ越し||杉原めぐみ||鴫野彰||山本哲也
|-
|死神危機一髪!!||浦沢義雄||山崎たかし||岩根雅明
|-
|rowspan="3"|25||rowspan="3"|10月2日||貧乏神ひっついた||杉原めぐみ||林一哉||rowspan="3"|大畑清隆||新田靖成
|-
|ぴーコと木の実ひろい||浦沢義雄||都留稔幸||臼田美夫
|-
|狩り名人のヘルメット||阪口和久||わだへいさく||林一哉
|-
|rowspan="3"|26||rowspan="3"|10月9日||かくれんぼの天才||浦沢義雄||香川豊||rowspan="3"|池端隆史||林千博
|-
|でっかい愛||杉原めぐみ||rowspan="2"|池端隆史||井坂純子
|-
|おつかいはタイヘン||わだへいさく||宮川治雄
|-
|rowspan="3"|27||rowspan="3"|10月16日||広い大地は誰のモノ?||杉原めぐみ||鴫野彰||rowspan="3"|山崎たかし||香川浩
|-
|汚れた三日月||rowspan="2"|浦沢義雄||山崎たかし||井上栄作
|-
|太陽のかなしみ||わだへいさく||松下佳弘
|-
|rowspan="3"|28||rowspan="3"|10月23日||かあちゃんが大変だー||杉原めぐみ||大畑清隆||rowspan="3"|[[むらた雅彦|村田雅彦]]||山本哲也
|-
|大イビキで大ゲンカ||rowspan="3"|浦沢義雄||鴫野彰||岩根雅明
|-
|じいちゃんが来た||たかやしまさき||増谷三郎
|-
|rowspan="3"|29||rowspan="3"|10月30日||冬眠したい||都留稔幸||rowspan="3"|横山広行||敷島博英
|-
|石文字の秘密||阪口和久||横山広行||林一哉
|-
|3つのお願い||水越保||rowspan="2"|わだへいさく||山田浩之
|-
|rowspan="3"|30||rowspan="3"|11月6日||冬のサカナ釣り||杉原めぐみ||rowspan="3"|わだへいさく||志村隆行
|-
|ぴーコの秘密||rowspan="2"|阪口和久||織田美浩||香川浩
|-
|フネで大洪水!!||池端たかし||新田靖成
|-
|rowspan="3"|31||rowspan="3"|11月13日||ぴーコ・わがまま大爆発!!||rowspan="2"|杉原めぐみ||たかやしまさき||rowspan="3"|織田美浩||林千博
|-
|暖かい暮らし||わだへいさく||臼田美夫
|-
|UFOのかあちゃん||浦沢義雄||横山広行||宮川治雄
|-
|rowspan="3"|32||rowspan="3"|11月27日||この川を渡れ!!||杉原めぐみ||池端隆史||rowspan="3"|[[案納正美]]||早川淳一
|-
|星の女王||浦沢義雄||都留稔幸||増谷三郎
|-
|おしゃべり鳥で大ピンチ||杉原めぐみ ||池端隆史||松下佳弘
|-
|rowspan="3"|33||rowspan="3"|12月4日||迷い込んだクジラ||浦沢義雄||都留稔幸||rowspan="3"|村田雅彦||新井豊
|-
|お留守番バトル!||杉原めぐみ||たかやしまさき||岩根雅明
|-
|こおり姫の恋||浦沢義雄||池端たかし||新井豊
|-
|rowspan="3"|34||rowspan="3"|12月11日||虫歯パニック!!||rowspan="2"|杉原めぐみ|||都留稔幸||横山広行||香川浩
|-
|原始時代の龍宮城||colspan="2" rowspan="2" style="text-align:center"|横山広行||井坂純子
|-
|えー!? 春がこない??||浦沢義雄||敷島博英
|-
|rowspan="3"|35||rowspan="3"|12月18日||「強くなろう」大計画||阪口和久||大畑清隆||rowspan="3"|わだへいさく||新田靖成
|-
|晩ゴハン食べたーい||rowspan="2"|浦沢義雄||池端隆史||宮川治雄
|-
|大変だ!! 星がぶつかる||わだへいさく||林千博
|-
|rowspan="3"|36||rowspan="3"|12月25日||稲妻とうちゃん||阪口和久||たかやしまさき||rowspan="3"|織田美浩||山本哲也
|-
|ドテチンが王様?||rowspan="2"|杉原めぐみ||わだへいさく||増谷三郎
|-
|あの世・この世・どんなトコ||都留稔幸||松下佳弘
|-
|rowspan="3"|37||rowspan="3"|'''1997年'''<br />1月8日||クマの家族||浦沢義雄||たかやしまさき||池端隆史||早川淳一
|-
|とうちゃんの狩り道場||阪口和久||rowspan="2"|池端隆史||案納正美||岩根雅明
|-
|狙われたマンモス肉||rowspan="2"|浦沢義雄||池端隆史||臼田美夫
|-
|rowspan="3"|38||rowspan="3"|1月15日||チンの冬眠||都留稔幸||rowspan="3"|村田雅彦||井坂純子
|-
|ぴーコ・一日女神サマ||杉原めぐみ||たかやしまさき||山本哲也
|-
|目印の法則||阪口和久||わだへいさく||香川浩
|-
|rowspan="3"|39||rowspan="3"|1月22日||流れてきたオットセイ||浦沢義雄||横山広行||rowspan="3"|横山広行||新田靖成
|-
|浮いちゃった||杉原めぐみ||都留稔幸||宮川治雄
|-
|王者のおたけび||浦沢義雄||池端隆史||林千博
|}
{{前後番組
| 放送局 = [[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]]
| 放送枠 = 水曜 18:02 - 18:27<br />【[[衛星アニメ劇場]]水曜前半枠】
| 番組名 = はじめ人間ゴン<br />(1996年4月3日 - 1997年1月22日)<br />↓<br />再放送<br />(1997年1月29日 - 1997年3月19日)<br />↓<br />はじめ人間ゴン スペシャル<br />(1997年3月26日)
| 前番組 = [[ヤン坊ニン坊トン坊|ヤンボウ ニンボウ トンボウ]]<br />(1995年4月5日 - 1996年1月24日)<br />↓<br />再放送<br />(1996年1月31日 - 1996年3月27日)
| 次番組 = [[タンタンの冒険]]<br />(1997年4月2日 - 1998年4月1日)<br />※18:02 - 18:25
}}
{{Eテレキッズ|アニメ}}
{{ぴえろ}}
== テレビドラマ ==
1993年4月18日に[[NHK衛星第2テレビジョン]] (NHK BS2) で『'''バック・トゥ・ザ・ギャートルズ・デイズ'''』のタイトルで放送<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/drama/archives-catalogue/pglist/pglist_1990-94.html |title=NHKテレビドラマカタログ―ドラマ番組放送記録+カテゴリー小史 1953〜2011 |publisher=[[日本放送協会]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120509113831/https://www.nhk.or.jp/drama/archives-catalogue/pglist/pglist_1990-94.html |archivedate=2012-05-09 |accessdate=2019-05-24}}</ref>。「これは、漫画ギャートルズの子孫の物語を創作したものです。」と但書が付き、[[縄文時代]]から[[弥生時代]]へかけての物語となる。[[男装]]の少女・リンダとお供のアリャとコリャが魔法の食べ物「イコメネ(米)」を求めて旅する物語。1994年3月21日にBSドラマアベニューで『'''ギャートルズ〜旅立ち'''』として再放送されており、[[NHKアーカイブス]]にもそちらのタイトルのものが1993年の作品として残されている。
=== キャスト ===
* リンダ - [[滝沢涼子]]
* アリャ - [[生瀬勝久]]
* コリャ - [[酒井敏也]]
* ルイカ - [[平田満]]
* ヌシャ / 語り - [[鈴木光枝]]
* 中国ガクシャ - [[笹野高史]]
* マイタリ - [[小高恵美]]
* 女王 - [[高畑淳子]]
* 将官ロシ - [[ベンガル (俳優)|ベンガル]]
* フクバンバ - [[今井和子]]
* オタスケメ - [[崎田美也]]
* 山の大女 - [[アジャ・コング]]
* 鹿角男 - [[天田益男]]
* 従者 - 中川あゆむ
* 将 - [[重松収]] / [[川原和久]]
* 兵 - 村田暁信
* 農民 - 江藤茂利 / 上原恵子
* リンダ スタント - 藤波靖子
=== スタッフ ===
* 脚本 - [[下川博]]
* 演出 - 松岡孝治
* 制作統括 - 広田建三
* 音楽 - [[渡辺俊幸]]
== その他 ==
* 1980年代、[[神楽酒造]]の麦焼酎「ひむかのくろうま」のCMキャラクターに採用。しばらくの間途絶えていたが、2008年([[平成]]20年)から再登場した。「とっつぁんはえらい!」がキャッチフレーズ。
* [[サイサン]]ガスブランド「GasOne」のCMキャラクターに採用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gasone.jp/ |title=ガスワンCMを見る |publisher=ガスワンオフィシャルサイト(運営 - 株式会社サイサン) |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051124093008/http://www.gasone.jp/index_cm00.html |archivedate=2005-11-24 |accessdate=2019-05-24}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)秋、[[大一商会]]から[[パチンコ]]機化され、「CRギャートルズ」として登場。声優などはリメイク版の「はじめ人間ゴン」に基づいているが、ラウンド中のBGM曲は1作目の「はじめ人間ギャートルズ」であった。
* 第1期の第7話「ジゴクラクーン」では、死んでしまったとうちゃんが天国へ上っていくシーンで当時のヒット曲である「[[帰って来たヨッパライ]]」([[ザ・フォーク・クルセダーズ]])が流れた。
* 学習研究社の学習雑誌に連載中、「未来人間ゴン」というタイトルの[[スピンオフ]]作品が掲載された。
* 2008年(平成20年)11月、[[エスケー食品]]は作中に登場する[[マンガ肉]]を再現した「ギャートルズ肉」を初回限定生産本数1300本で発売した。瞬く間に完売となり、翌年2月に再発売をするもすぐに完売となった<ref>「[http://gigazine.net/news/20081107_niku/ あの独特な形の「ギャートルズ肉」がエスケー食品からついに登場]」 [[GIGAZINE]] 2008年11月7日付、2012年6月12日閲覧.</ref><ref>「[http://gigazine.net/news/20090312_gyatoruzu_niku/ アニメの骨付き肉を再現したギャートルズ肉、試食レビュー]」 GIGAZINE 2009年03月12日付、2012年6月12日閲覧.</ref>。「ギャートルズ肉」はもちろんマンモスの肉ではなく、牛肉の薄切りを長めの骨に何重にも巻きつけ、下味をつけて加熱した食品である。
* さらにエスケー食品は、[[2010年]](平成22年)12月、作中に登場する「マンモの輪切り肉」を発売した<ref>「[http://gigazine.net/news/20101129_manmo_wagiri_niku/ ギャートルズ肉から2年、ついに「マンモの輪切り肉」が12月に初回限定1000枚で新発売]」 GIGAZINE 2010年11月29日付、2012年6月12日閲覧.</ref>。これは、豚[[ばら肉]]を手作業で何枚も巻き、肉の外周を[[パセリ]]でまぶして焼きあげたもので、何重にも巻いたバラ肉が樹木の[[年輪]]のような断面を、焼きあげたパセリが外周の獣の皮をそれぞれ再現している{{R|takagi}}。輪切り肉の直径は、約17センチメートルである{{R|takagi}}。商品の試作には、肉を合計50キログラム(様々な部位を使って試行錯誤)、パセリを「[[スーパーマーケット|スーパー]]で買い占めるほど」費やしたという{{R|takagi}}。
* 2010年(平成22年)、[[クラシエホームプロダクツ]]の[[ナイーブ (クラシエホームプロダクツ)|ナイーブ]]のCMで初期のオープニング「はじめ人間ギャートルズ」の替え歌を[[辻希美]]が歌った。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2
|refs=
<ref name="takagi">タカギヒロノ 「-アニメから映画まで、あの名シーンを再現!- 食べてみたい“名作”料理13」 『[[週刊アスキー]]』2011年1月4日-11日号、[[アスキー・メディアワークス]]、2010年、p.150.</ref>
<ref name="TCMP60">{{Harvnb|東宝チャンピオンまつりパーフェクション|2014|pp=60-62|loc=「1975春期」}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=[[電撃ホビーマガジン]]編集部|title=ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション|date=2014-11-29|publisher=[[KADOKAWA]]([[アスキー・メディアワークス]])|series=DENGEKI HOBBY BOOKS|isbn=978-4-04-866999-3|ref={{SfnRef|東宝チャンピオンまつりパーフェクション|2014}}}}
== 関連項目 ==
* [[マンガ肉]]
* [[特別展マンモスYUKA]] - 展示ブース内で本作のキャラクターが使用された。
* [[原始家族フリントストーン]]-本作と同様原始時代を舞台にしたコメディ作品。
== 外部リンク ==
* 漫画版関連
** [http://www.gyatoruzu.net/ ギャートルズ オフィシャル・ホームページ]
** {{Mediaarts-db|C298442|ギャートルズ([著]園山俊二)}}
* テレビアニメ版関連
** [https://www.tms-e.co.jp/alltitles/1970s/021101.html アニメーションの総合プロデュース会社 トムス・エンタテインメント [ アニメ作品を調べる - 検索結果 ]]
** {{Mediaarts-db|C7554|はじめ人間ギャートルズ}}
** {{NHK放送史|D0009042733_00000|はじめ人間ゴン}}
** [https://pierrot.jp/archive/1995/tv90_13.html はじめ人間ゴン] - 株式会社ぴえろ 公式サイト
** {{Mediaarts-db|C9303|はじめ人間 ゴン}}
** {{YouTube|playlist = PLVs8KIyueUjVzaQmdo0NAsSJxs74kwvKX|『はじめ人間ギャートルズ』シリーズ}}
* テレビドラマ版関連
** {{NHK放送史|D0009040297_00000|BSドラマアベニュー ギャートルズ〜旅立ち}}
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ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
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ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(フランス語: Joséphine de Beauharnais、1763年6月23日 - 1814年5月29日)は、フランス皇后。ナポレオン・ボナパルトの最初の妻。貴族出身。フランス語での実際の発音は「ジョゼフィン・ド・ブアァネ」に近い。
ホラント王妃オルタンスの母、ナポレオン3世とスウェーデン王妃ジョゼフィーヌの祖母、スウェーデン王カール15世・オスカル2世の曾祖母、スウェーデン王グスタフ5世・デンマーク王妃ロヴィーサの高祖母。
フランス領西インド諸島マルティニーク島の生まれ。祖父の代から母国を離れたクレオールの出身。結婚前の正式名は、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie)だった。貴族の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったが、大変な浪費家でもあった。生家は貴族といっても名ばかりであり困窮していた。
弱冠16歳の1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚、一男ウジェーヌ、一女オルタンスをなしたが、当初から夫婦仲が悪く、4年後の1783年に離婚した。後にボアルネ子爵は、フランス革命中の1794年7月23日にギロチンで処刑されてしまう。離婚後、マルティニーク島の実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島で多発する暴動に不安を感じてフランスに戻ったが、元夫や友人の助命嘆願が罪に問われてカルム監獄に投獄されてしまう。獄中では、ルイ=ラザール・オッシュ将軍と恋人同士となったと伝わる。しかし、ロベスピエールが処刑されたことにより、同年8月3日に釈放された。
その後、生活のために総裁政府のポール・バラスの愛人となり、親友のテレーズ・カバリュス、ジュリエット・レカミエと並ぶ社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。このころ、年下のナポレオンの求婚を受け1796年に結婚。バラスが彼女に飽きてナポレオンに押しつけたともいう。この結婚について、長男ウジェーヌは反対、長女オルタンスは賛成だったと伝えられている。しかし、彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。
イタリア遠征中にナポレオンが彼女にあてた熱烈な恋文は有名だが、受け取った彼女はろくに読むことも返事を書くこともなく、「ボナパルトって変な人ね」とその手紙を友人に見せて笑いをさそっていた。ナポレオンから何回も戦場へ来るよう促されたが、ごまかして行こうとしない妻のそっけない態度にナポレオンは幾度も絶望を抱く。それに気を揉んだ総裁政府の命令で、彼女は渋々イタリアへ向かった。
ナポレオンはエジプト遠征中にジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉イッポリト・シャルルとの浮気を知り、その事を嘆く手紙をフランスに送ったが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう。大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、妻が戻る前に家から荷物を叩き出してしまった。しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まったのだが、この直後のブリュメールのクーデタを成功に導くための要人対策に広い人脈があったジョゼフィーヌも一役買っている。
ジョゼフィーヌは、初めの離婚騒動あたりから徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていった。
1804年12月、ナポレオンが「フランス人の皇帝陛下」として即位すると、ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。
その後ナポレオンは、妹のカロリーヌから紹介されたエレオノール・ドニュエルやポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカとの間に男児が生まれた事などもあり、1810年1月10日には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁した。離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だった。それ以後、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送ったが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許された。マルメゾン城のナポレオン居室は、皇帝が去ったままの状態でジョゼフィーヌの手によって保たれ、彼女はこの部屋のものを「聖遺物」と称したという。離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻マリア・ルイーザが嫉妬するほどだった。
ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が百日天下でパリに帰還するのを待たずに肺炎になって急死、マルメゾン市内のサン・ピエール=サン・ポール教会に埋葬された。最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島...」だった。そのナポレオンが配流先のセントヘレナ島で死去した際の最期の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ...」だった。
ジョゼフィーヌが前夫ボアルネ子爵との間にもうけた娘オルタンスは、ナポレオンの弟ルイと結婚してオランダ王妃となり、後に皇帝ナポレオン3世となるルイ=ナポレオンら3人の男子を生んだ。1810年にオルタンスはルイ・ボナパルトと離婚し、三男のルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。
息子ウジェーヌはナポレオンの養子となり、イタリア副王にまで出世した。その後バイエルン王マクシミリアン1世の娘アウグステ王女と結婚し、ナポレオン失脚後はバイエルン王国の貴族となった。その長女のジョゼフィーヌはスウェーデン王オスカル1世の王妃となった。
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ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、フランス皇后。ナポレオン・ボナパルトの最初の妻。貴族出身。フランス語での実際の発音は「ジョゼフィン・ド・ブアァネ」に近い。 ホラント王妃オルタンスの母、ナポレオン3世とスウェーデン王妃ジョゼフィーヌの祖母、スウェーデン王カール15世・オスカル2世の曾祖母、スウェーデン王グスタフ5世・デンマーク王妃ロヴィーサの高祖母。
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{{Otheruses|フランス皇后|スウェーデン王妃となった同名の孫|ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (スウェーデン王妃)}}
{{出典の明記|date=2013年7月|ソートキー=人1814年没}}
{{基礎情報 君主の正配
| 人名 = ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
| 各国語表記 = {{lang|fr|Joséphine de Beauharnais}}
| 正配称号 = フランス皇后
| 画像 = Emprjose.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = [[フランソワ・ジェラール]]画(1801年)
| 在位 = [[1804年]][[5月20日]] - [[1810年]][[1月10日]]
| 戴冠日 = [[1804年]][[12月2日]]
| 別称号 = イタリア王妃<br />ナヴァール女公
| 全名 = {{lang|fr|Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie}}マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ
| 別称 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1763|6|23|no}}
| 生地 = フランス領[[西インド諸島]]・[[マルティニーク島]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1763|6|23|1814|5|29}}
| 没地 = {{FRA1814}}、[[リュエイユ=マルメゾン]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{FRA1814}}、[[リュエイユ=マルメゾン]]、[[サン・ピエール=サン・ポール教会]]
| 結婚 = [[1779年]][[12月13日]]<br />[[1796年]][[3月9日]]
| 配偶者1 = [[アレクサンドル・ド・ボアルネ]]
| 配偶者2 = [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]
| 子女 = {{plainlist|*[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ]]
*[[オルタンス・ド・ボアルネ]]
}}
| 氏族 =
| 家名 = タシェ家
| 父親 = ジョゼフ・ガスパール・タシェ・ド・ラ・パジュリ
| 母親 = ローズ・クレール・デ・ヴェルジェ・ド・サノワ
| 宗教 = [[キリスト教]][[カトリック教会|カトリック]]
| サイン =
}}
'''ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ'''({{lang-fr|Joséphine de Beauharnais}}、[[1763年]][[6月23日]] - [[1814年]][[5月29日]])は、[[フランス第一帝政|フランス]][[皇后]]。[[ナポレオン・ボナパルト]]の最初の妻。[[貴族]]出身。
[[ホラント王国|ホラント]]王妃[[オルタンス・ド・ボアルネ|オルタンス]]の母、[[ナポレオン3世]]と[[スウェーデン]]王妃[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (スウェーデン王妃)|ジョゼフィーヌ]]の祖母、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]][[カール15世 (スウェーデン王)|カール15世]]・[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]の曾祖母、スウェーデン王[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]・[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]]妃[[ロヴィーサ・アヴ・スヴェーリエ|ロヴィーサ]]の高祖母。
== 来歴・人物 ==
===恋多き女===
フランス領[[西インド諸島]][[マルティニーク]]島の生まれ。祖父の代から母国を離れた[[クレオール]]の出身。結婚前の正式名は、'''マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ'''(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie)だった。[[貴族]]の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったが、大変な浪費家でもあった。生家は貴族といっても名ばかりであり困窮していた。
弱冠16歳の1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ[[子爵]]と結婚、一男[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ|ウジェーヌ]]、一女[[オルタンス・ド・ボアルネ|オルタンス]]をなしたが、当初から夫婦仲が悪く、4年後の1783年に離婚した。後にボアルネ子爵は、[[フランス革命]]中の1794年7月23日に[[ギロチン]]で処刑されてしまう。離婚後、マルティニーク島の実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島で多発する暴動に不安を感じてフランスに戻ったが、元夫や友人の助命嘆願が罪に問われてカルム監獄に投獄されてしまう。獄中では、[[ルイ=ラザール・オッシュ]]将軍と恋人同士となったと伝わる。しかし、[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]が処刑されたことにより、同年8月3日に釈放された。
その後、生活のために総裁政府の[[ポール・バラス]]の愛人となり、親友の[[テレーズ・カバリュス]]、[[ジュリエット・レカミエ]]と並ぶ社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。このころ、年下のナポレオンの求婚を受け1796年に結婚<ref>{{Cite book|和書 |author = ジョン・バクスター |year = 2013 |title = 二度目のパリ 歴史歩き |publisher = [[ディスカヴァー・トゥエンティワン]] |page = 36 |isbn = 978-4-7993-1314-5}}</ref>。バラスが彼女に飽きてナポレオンに押しつけたともいう。この結婚について、長男ウジェーヌは反対、長女オルタンスは賛成だったと伝えられている。しかし、彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。
[[イタリア遠征]]中に[[ナポレオン]]が彼女にあてた熱烈な恋文は有名だが、受け取った彼女はろくに読むことも返事を書くこともなく、「ボナパルトって変な人ね」とその手紙を友人に見せて笑いをさそっていた。ナポレオンから何回も戦場へ来るよう促されたが、ごまかして行こうとしない妻のそっけない態度にナポレオンは幾度も絶望を抱く。それに気を揉んだ総裁政府の命令で、彼女は渋々イタリアへ向かった。
ナポレオンは[[エジプト遠征]]中にジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉[[イッポリト・シャルル]]との浮気を知り、その事を嘆く手紙をフランスに送ったが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう。大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、妻が戻る前に家から荷物を叩き出してしまった。しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まったのだが、この直後の[[ブリュメールのクーデタ]]を成功に導くための要人対策に広い人脈があったジョゼフィーヌも一役買っている。
ジョゼフィーヌは、初めの離婚騒動あたりから徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていった。
===フランス皇后===
[[File:Jacques-Louis_David_019.jpg|thumb|300px|ナポレオンの戴冠式で皇帝となったナポレオンから皇后冠を授けられるジョゼフィーヌ]]
1804年12月、ナポレオンが「フランス人の皇帝陛下」として即位すると、ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。
その後ナポレオンは、妹の[[カロリーヌ・ボナパルト|カロリーヌ]]から紹介された[[エレオノール・ドニュエル]]や[[ポーランド]]の愛人[[マリア・ヴァレフスカ]]との間に男児が生まれた事などもあり、1810年1月10日には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁した。離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だった。それ以後、彼女は[[パリ]]郊外の[[マルメゾン城]]で余生を送ったが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許された。マルメゾン城のナポレオン居室は、皇帝が去ったままの状態でジョゼフィーヌの手によって保たれ、彼女はこの部屋のものを「聖遺物」と称したという。離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリア・ルイーザ]]が嫉妬するほどだった。
ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が[[百日天下]]でパリに帰還するのを待たずに肺炎になって急死<ref>{{Cite book|和書 |author= 池上英洋|authorlink=池上英洋 |year = 2017 |title = 美しきイタリア 22の物語 |publisher = [[光文社]] |page = 23 |isbn = 978-4-334-04303-2}}</ref>、[[リュエイユ=マルメゾン|マルメゾン]]市内の[[サン・ピエール=サン・ポール教会]]に埋葬された。最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」だった。そのナポレオンが配流先の[[セントヘレナ]]島で死去した際の最期の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ…」だった。
== 家族 ==
ジョゼフィーヌが前夫ボアルネ子爵との間にもうけた娘オルタンスは、ナポレオンの弟[[ルイ・ボナパルト|ルイ]]と結婚して[[ホラント王国|オランダ]]王妃となり、後に皇帝[[ナポレオン3世]]となるルイ=ナポレオンら3人の男子を生んだ。1810年にオルタンスはルイ・ボナパルトと離婚し、三男のルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。
息子ウジェーヌはナポレオンの[[養子縁組|養子]]となり、[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア]]副王にまで出世した。その後[[バイエルン王国|バイエルン]]王[[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の娘[[アウグステ・フォン・バイエルン|アウグステ]]王女と結婚し、ナポレオン失脚後はバイエルン王国の貴族となった。その長女の[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (スウェーデン王妃)|ジョゼフィーヌ]]は[[スウェーデン]]王[[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]<!--([[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン・ベルナドット]]と[[デジレ・クラリー]]の子)--><!--蛇足-->の王妃となった。
== 逸話 ==
{{複数の問題|section=1|ソートキー=人1814年没
|出典の明記 = 2013年7月
|雑多な内容の箇条書き = 2013年7月
|言葉を濁さない = 2013年7月
}}
* 少女時代、占い師に「最初の結婚は不幸になるが、そのあとで女王以上の存在になる」と言われたことがある。
* 実はナポレオンとは6歳年上で、結婚時のナポレオンは26歳で、ジョゼフィーヌは32歳だった。ところが夫は2歳年上に、妻は4歳年下にさばをよみ、同い年の28歳として結婚証明書を提出した。
* 虫歯がひどいため、口を大きく開けないようにしたり、隠すようにふるまっていたが、逆にこれが彼女の仕草に優雅さを与えていたという。
* ナポレオンとの新婚当初に彼女が飼っていた「フォルチュネ(幸運)」という犬が、ベッドに入り込み夫の足に噛みついたことがある。
* 彼女は大変に[[バラ]]が好きで、250種類のバラをマルメゾン城の庭に植えていたという。また自らバラを愛でるだけでなく、後世の人々のためにと、集めたバラを植物画家[[ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ|ルドゥーテ]]に描かせて記録に残している。今日でもバラには『ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ』という品種がある。
* バラだけでなく、実は[[ダリア]]も同じくらい好み、園遊会なども行っていたそうである。ある時、一人の貴族がジョゼフィーヌの育てたダリアを見て一輪欲しがったが、ジョゼフィーヌはこれを断った。これに激怒した貴族は愛人であったとあるポーランドの貴族を経由し、ジョゼフィーヌの庭を管理する庭師にダリアの球根を盗ませる事件が起こる。結果、その貴族の庭にダリアが沢山咲き、件の貴族はジョゼフィーヌへの意趣返しもあって大喜びした。この話を聞いて大激怒したジョゼフィーヌは実行犯である庭師を解雇するとともに、加担したポーランド貴族を追放したという。ダリアに「移ろ気」、「不安定」、そして「裏切り」の花言葉が付いたのはこの事件が由来しての事である。
<!--*ジョゼフィーヌと同じマルティニーク生まれの従妹である[[エイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリ]]は若いとき船旅の途中で消息を絶って行方不明になった人物であるが、多くの人は、エイメは[[トルコ]]に連れ去られ、のちに[[オスマン帝国]]の第30代君主[[マフムト2世]]の母后[[ナクシディル・スルタン]]になったと信じている。--><!--脱線トリビア-->
* イタリア遠征時からジョゼフィーヌは「勝利の女神」と呼ばれるようになり、験のいい存在としてあがめられていた。ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚したとき、古参兵たちは「なんでばあさん(兵士たちは親しみをこめてジョゼフィーヌのことを「ばあさん」と呼んでいた)と別れちまうんだ。ばあさんは皇帝もおれたちも幸せにしてくれたのに」とぼやいたという。また、飾らない朗らかな人柄で将兵たちや国民の人気も高かった。一方、ナポレオンの母である[[マリア・レティツィア・ボナパルト]]とは不仲であり、厳格で自らを律し続けたレティツィアは、奔放なジョゼフィーヌを生涯気に入らなかったという。
* 人脈の豊富さという強みと、浪費癖や男癖の悪さという弱みにつけこまれ、[[ジョゼフ・フーシェ]]に強請られて情報提供をしていたことがある。
* 「ジョゼフィーヌ」という呼び名は、名前の一部であるジョゼフの女性形であり、ナポレオンが呼び始めたものである。それまではローズと呼ばれていた。<!--ちなみにナポレオンは以前の婚約者である[[デジレ・クラリー]]にも彼だけが呼ぶ愛称として「ウジェニー」を用いていた。--><!--脱線トリビア-->
* ナポレオンがエルバ島に流された後、多くの者がナポレオンを見限った中、最も親身に援助していたのは他ならぬジョゼフィーヌであった。また、ナポレオンが臨終する際の最期の一語が彼女の名であった。
== ジョゼフィーヌを題材にした作品 ==
; 絵画
*皇后ジョゼフィーヌの肖像 (1801年)- 作:[[フランソワ・ジェラール]]
*[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠]](1807年) - 作:[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]
; 小説
* 皇后ジョゼフィーヌのおいしい人生(2008年、【改題】皇后ジョゼフィーヌの恋) - 作:[[藤本ひとみ]]
; 漫画
*[[薔薇のジョゼフィーヌ]] 全4巻(2011年-2013年)- 原作:[[落合薫]]、作画:[[いがらしゆみこ]]
*[[静粛に、天才只今勉強中!]] 全11巻(1983年-1989年) - 作:[[倉多江美]]
; 舞台
<!-- : ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネが主役の舞台 -->
<!-- : ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネが主要登場人物の舞台 -->
*[[愛あれば命は永遠に]](1985年、[[宝塚歌劇]][[花組]]公演、演・[[若葉ひろみ]])
*[[眠らない男・ナポレオン -愛と栄光の涯に-]](2014年、宝塚歌劇[[星組]]公演、演・[[夢咲ねね]])
*ナポレオン・永遠の夢(2021年、[[歌劇 ザ・レビュー ハウステンボス|歌劇 ザ・レビューHTB]])
== 関連項目 ==
{{commons|Joséphine de Beauharnais}}
*[[帝政様式]] - [[ヴァンドーム広場]]にある[[ショーメ]]に造らせた[[ティアラ]]の着用が欧州王室礼装の習慣になったのは、"帝政スタイル"を創り出したジョゼフィーヌからだとされている<ref>「[https://luxe.nikkeibp.co.jp/atcl/column/071000335/?ST=mobile&P=2 ショーメ、栄光のヘリテージ〈前編〉 運命に導かれたナポレオンのジュエラー]」 [[日経BP|日経リュクス]] 2018年7月17日</ref>。
*[[ウビガン]] - 愛用香水の一つ
*[[デジレ・クラリー]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
*[[安達正勝]] 『ジョゼフィーヌ―革命が生んだ皇后』 白水社、1989年
{{先代次代|フランス皇后|1804年 - 1810年|フランス王妃<br />[[マリー・アントワネット]]|[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ]]}}
{{フランス后妃}}
{{フランス革命}}
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[[Category:ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|*]]
[[Category:ナポレオン・ボナパルト|+しよせふいいぬ]]
[[Category:フランス第一帝政の人物]]
[[Category:フランス皇后|しよせふいいぬ ほあるね]]
[[Category:ナヴァール公|しよせふいいぬ ほあるね]]
[[Category:ボアルネ家|しよせふいいぬ]]
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仏教用語一覧
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仏教用語一覧(ぶっきょうようご いちらん)では、仏教の用語を、日本語にしているものを中心として一覧形式で表す。
仏教用語は、仏教発祥の地であるインドが起源であり、そこで生まれた様々な用語は中国において、「般若」「三昧」など発音に漢字を当てはめた音訳、あるいは、「識」「空」など意味の該当する漢字に置き換えた意訳の、2種の方法によって中国語化された。さらに、それらの漢字化された仏教用語は日本にも伝わり、「有頂天」や「玄関」などといった一部の語は、一般社会においても日常語として使用されるようになった。
また、「瓦」(kapāla、鉢、頭蓋骨)や「鳥居」(torāna、仏塔の垣門)も仏教用語が起源であるとする説がある。
あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
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仏教用語一覧では、仏教の用語を、日本語にしているものを中心として一覧形式で表す。 仏教用語は、仏教発祥の地であるインドが起源であり、そこで生まれた様々な用語は中国において、「般若」「三昧」など発音に漢字を当てはめた音訳、あるいは、「識」「空」など意味の該当する漢字に置き換えた意訳の、2種の方法によって中国語化された。さらに、それらの漢字化された仏教用語は日本にも伝わり、「有頂天」や「玄関」などといった一部の語は、一般社会においても日常語として使用されるようになった。 また、「瓦」(kapāla、鉢、頭蓋骨)や「鳥居」(torāna、仏塔の垣門)も仏教用語が起源であるとする説がある。
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'''仏教用語一覧'''(ぶっきょうようご いちらん)では、[[仏教]]の[[用語]]を、[[日本語]]にしているものを中心として一覧形式で表す。
仏教用語は、仏教発祥の地である[[インド]]が起源であり、そこで生まれた様々な用語は[[中国]]において、「[[般若]]」「[[三昧]]」など[[発音]]に[[漢字]]を当てはめた[[音訳]]、あるいは、「[[識]]」「[[空]]」など意味の該当する漢字に置き換えた[[直訳と意訳|意訳]]の、2種の方法によって[[中国語]]化された。さらに、それらの漢字化された仏教用語は[[日本]]にも伝わり、「[[有頂天]]」や「[[玄関]]」などといった一部の語は、一般社会においても日常語として使用されるようになった。
また、「[[瓦]]」(kapāla、鉢、頭蓋骨)や「[[鳥居]]」(torāna、[[仏塔]]の垣門)も仏教用語が起源であるとする説がある。
__NOTOC__{{TOC3}}
== あ行 ==
{{Div col |colwidth=10em }}
=== あ ===
* [[阿含経]]
* [[阿含宗]]
* [[阿育王]]
* [[阿毘達磨]]
* [[尼]]
* [[阿弥陀]]
* [[阿弥陀経]]
* [[阿羅漢]]
* [[阿頼耶識]]
* [[行脚]]
* [[安居]]
* [[安心]]
* [[行燈]]
=== い ===
* [[薬師堂|医王殿]]
* [[意識 (仏教)|意識]]
* [[一向宗]]
* [[一切皆苦]]
* [[一闡提]]
* [[一来]]
* [[一如]]
* [[位牌]]
** [[位牌所]]
* [[印可]]
* [[因果]]
* [[隠元隆琦|隠元]]
* [[院号]]
* [[印相]]
* [[院殿号]]
* [[因縁]]
* [[因明]]
=== う ===
* [[有]]
* [[浮御堂]]
* [[氏寺]]
* [[打敷]]{{small|([[打敷き]])|}}
* [[宇宙 (仏教)|宇宙]]
* [[盂蘭盆]]
* [[盂蘭盆会]]
* [[有漏]](うろう)
* [[雲鼓]](うんく)
=== え ===
* [[回向]]
* [[縁]]
* [[縁覚]]
* [[縁起]]
=== お ===
* [[応供]]
* [[往生]]
* [[応身]]
* [[往相回向]]
* [[黄檗宗]]
* [[和尚]]
* [[陰陽道]]
* [[厭離穢土]]
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== か行 ==
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=== か ===
* [[我]]
* [[覚王]]([[覚皇]])
* [[過去帳]]
* [[加持]]
** [[加持祈祷]]
* [[火舎香炉]]
* [[我執]]
* [[伽陀]]
* [[合掌]]
* [[華道]]
* [[伽藍]]
* [[灌仏会]]
* [[勧請]]
* [[感応]]
* [[観無量寿経]]
=== き ===
* [[帰依]]
* [[祇園 (曖昧さ回避)|祇園]]
* [[祇園精舎]]
* [[譏嫌]]([[機嫌]])
* [[機根]]
* [[喜捨]]
* [[寄進]]
* [[吉祥]]
* [[吉祥八宝]]
* [[行 (仏教)|行]](ぎょう)
* [[逆流#解脱的逆流|逆流]](ぎゃくる)
* [[境界]]
* [[顕浄土真実教行証文類|教行信証]]
* [[経典]]
* [[金縛]]
=== く ===
* [[苦 (仏教)|苦]]
* [[空 (仏教)|空]](くう)
* [[倶会一処]]
* [[久遠]]
* [[久遠実成]]
* [[倶舎宗]]
* [[倶舎論]]
* [[具足]]
* [[具足依儀]]
* [[具足戒]]
* [[具足三昧]]
* [[具足徳本願]]
* [[具足諸相顔]]
* [[口伝鈔]]
* [[功徳]]
* [[工夫]]
* [[鳩摩羅什]]
* [[九品]]
* [[紅蓮]]
* [[供養]]
* [[薫習]]
=== け ===
* [[偈]]([[偈文]])
* [[華厳]]
* [[華厳経]]
* [[華厳宗]]
* [[華厳部 (大正蔵)]]
* [[袈裟]]
* [[解脱]]
* {{仮リンク|血脈|zh|血脈}}(けちみゃく)
* [[結界]]
* [[結集]]
* [[献茶]]
* [[顕教]]
* [[還相回向]]
* [[化身]]
* [[兼学]]
* [[現量]]
=== こ ===
* [[香]]
* [[講]]
* [[孝道教団]]
* [[業]]
* [[荒神]]
* [[広宣流布]]
* [[広布]]
* [[工部七職]]
* [[降魔]]
* [[香炉]]
* [[五蘊]]
* [[牛黄]]
* [[牛王宝印]]{{small|([[牛玉寶印]]、[[牛玉寳印]]、[[牛王法印]])|}}
* [[五戒]]
* [[虚空]]
* [[虚空蔵菩薩]]
* [[五具足]]
* [[極楽]]
* [[虚仮]]
* [[五根 (三十七道品)]]
* [[五色]]
* [[五大明王]]
* [[五智如来]]
* [[牛頭]](ごづ)
* [[牛頭観音]]
* [[牛頭天王]]
* [[五百羅漢]]
* [[御幣]]
* [[五味]]
* [[勤行]](ごんぎょう)
* [[権現]]<small>([[権現堂]]、[[権現院]]、[[権現造]]、[[権現山]]、[[権現岳]]、など)</small>
* [[金剛]]<small>([[金剛寺]]、[[金剛院]]、[[金剛山]]、など)</small>
* [[金剛界]]
* [[金剛組]]
* [[金剛座]]
* [[金剛峯寺]]
* [[金堂]]
* [[根本分裂]]
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== さ行 ==
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=== さ ===
* [[在家]]
* [[悟り]]
* [[三界]]
* [[山岳仏教]]
* [[三帰依]]
* [[三具足]]
* [[懺悔#仏教における懺悔|懺悔]](さんげ)
* [[山家学生式]](さんげがくしょうしき)
* [[狻猊]]
* [[三種の浄肉]]
* [[三十七道品]]
* [[三身]]
* [[サンスクリット]]
* [[三途川]]
* [[三千大千世界]]
* [[三蔵]]
* [[三蔵法師]]
* [[三毒]]
* [[三宝]]
* [[三方 (仏具)|三方]]
* [[三法]]
* [[三法印]]
* [[三宝尊]]
* [[三昧]]
* [[三密]]
* [[山門]]
* [[三論宗]]
=== し ===
* [[寺院]]
* [[指月]]
* [[色 (仏教)|色]](しき)
* [[識]]
* [[色即是空]]
* [[慈眼]](じげん)
* [[慈光]]<br /><small>([[慈光院]]、[[慈光山]]、[[慈光寺]]、など)</small>
* [[寺号]]
* [[四向四果]]
* [[地獄 (仏教)|地獄]]
* [[ライオン|獅子]]{{small|([[僧訶]]、シムハ)|}}
* [[時宗]]
* [[四十八願]]
* [[十界]]
* [[実化]]
* [[四諦]]
* [[七仏通誡偈]]
* [[実相]]
* [[四天王]]
* [[志納]]、[[志納料]]([[志納金]])
* [[慈悲]]
* [[寺務所]]
* [[釈]]([[釋]])
* [[釈迦]]
* [[釈迦三尊]]
* [[釈迦堂]]<br />[[授記]]
* [[朱印 (神社仏閣)|朱印]]
* [[十号]]
* [[修験]]
** [[修験者]]
** [[修験道]]
* [[種子 (密教)]]
* [[種子 (唯識)]]
* [[執着]]
* [[修証義]]
* [[住持]]
* [[住職]]
* [[逆流#解脱的逆流|順流]](じゅんる)
* [[十大弟子]]
* [[十二因縁]]
* [[十二神将]]
* [[十二天]]
* [[十二部経]]
* [[十八不共法]]
* [[宿善]]
* [[宿坊]]
* [[出家]]
* [[出世]]
* [[須弥山]]
* [[須弥壇]]
* [[授与]]、[[授与品]]<ref>「[[売る]]・[[買う]]、[[販売]]・[[購入]]」ではなく、授かる、授ける、享けると言う</ref>
** [[授与所]]
* [[照一隅]]<br /><small>(照于一隅此則[[国宝|國寶]]、照[[千里|千]]一隅此則國寶)</small>
* [[定額]]<br /><small>([[定額山]])</small>
* [[定額寺]]
* [[定額僧]]
* [[聖教量]]
* [[荘厳]]
* [[上座部]]
* [[上座部仏教]]
* [[成実宗]]
* [[成就]]
* [[常住]]
* [[生身]]
* [[生身供]]
* [[正信念仏偈]](正信偈)
* 小乗仏教(→上座部仏教)- [[聖天]]
* [[聖天山]]
* [[浄土]]
* [[浄土教]]
* [[浄土宗]]
* [[浄土真宗]]
* [[正法]]
* [[成仏]]
* [[声聞]]
* [[諸行無常]]
* [[諸法無我]]
* [[寺領]]
* [[神祇不拝]]
* [[真空 (仏教)|真空]]
* [[マントラ|真言]](しんごん)
* [[真言宗]]
* [[晋山式]]
* [[深沙大王]]([[深沙王]])
* [[陳那]]
* [[真如]]
* [[真如苑]]
* [[神仏]]
* [[神仏習合]]
=== す ===
* [[瑞雲]]
* [[水月]]
* [[垂迹]]{{small|(すゐしゃく、すゐじゃく)}}
* [[厨子]]
* [[水雲]]{{small|([[雲水]])}}
* [[水天]]([[水天宮]])
* [[水輪]]
* [[瑞応華]]
* [[隨縁]]{{small|([[随縁]])}}
* [[隨行]]{{small|([[随行]])}}
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=== せ ===
* [[正二品松]]
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** [[栴檀林]]
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=== そ ===
* [[僧]]
* [[僧伽]]{{small|(そうぎゃ、さうぎゃ、そうが、サムガ)|}}
* [[僧綱]](そうがう)
* [[僧官]]
* [[僧供]]{{small|(そうく、そうぐ)|}}
* [[造寺司]]
* [[僧正]](そうじゃう)
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* [[葬式仏教]]
* [[曹渓宗]]
* [[曹洞宗]]
* [[総代]]
* [[僧坊]]
* [[像法]]
* [[僧侶]]
* [[祖師]]
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== た行 ==
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=== た ===
* [[大願]]
* [[大雁塔]]
* [[退屈]]
* [[大師]]
** [[大師堂]]
* [[大衆 (仏教)|大衆]]<small>([[大衆]])</small>
** [[大衆部]]
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** [[大乗非仏説]]
** [[大乗仏教]]
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** 大悲山
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* [[多宝塔]]
* [[陀羅尼]]
* [[他力]]
* [[他力本願]]
=== ち ===
* [[知恵|知惠]]([[智慧]])
* [[般若|智慧]]
* [[畜生]]
* [[地蔵菩薩]]
* [[知足]]<br />([[知足院]]、など)
* [[秩父三十四箇所]]
* [[チベット大蔵経]]
* [[チベット仏教]]
* [[チベット密教]]
* [[中観派]]
* [[中道]]
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* [[鎮守]]
** [[鎮守堂]]、[[鎮守寺]]
** [[鎮守社]]
* [[鎮宅霊符尊]]<small><br />([[鎮宅霊符神]]、[[鎮宅霊符尊神]]、[[太上神仙鎮宅霊符尊]]、太上神仙鎮宅七十二霊符尊神)
** [[鎮宅七十二霊符]]</small>
=== つ ===
* [[追儺]]
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=== て ===
* [[僧#剃髪|剃髪]](ていはつ)
* [[撤饌]]([[お下がり]])
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* [[天 (仏教)]]
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* [[天王]](てんのう)
=== と ===
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* {{仮リンク|東方浄瑠璃世界|zh|淨琉璃世界}}<small><br />([[浄琉璃世界]]、[[琉璃世界]]、[[琉璃光世界]]、[[東方浄土]])</small>
* [[東密]]
* [[堂宮大工]]
* [[道楽]]
* [[灯籠]]
* [[兎角]](とかく)
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* [[独鈷]]{{small|([[獨鈷]])|}}
* [[独鈷山]]{{small|([[獨鈷山]])|}}
* [[独鈷鈴]]
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== な行 ==
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=== な ===
* [[南無]]
* [[南無阿弥陀仏]]
* [[題目|南無妙法蓮華経]]
* 南伝仏教(→[[上座部仏教]])
* [[南都六宗]]
=== に ===
* [[仁王]]
* [[仁王門]]
* [[二乗]]
* [[日蓮]]
* [[日蓮宗]]
* [[日蓮正宗]]
* [[日光菩薩]]
* [[入滅]]
* [[如意]]<br /><small>([[如意輪寺 (曖昧さ回避)|如意輪寺]]、[[如意輪院]]、[[如意寺]]、[[如意院]]、[[如意庵]]、[[如意山]]、など)</small>
** [[如意金箍棒]]([[如意棒]])
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** [[如意輪観音]]
* [[如来]]
* [[如来蔵]]
* [[仁王会]](にんのうえ)
* [[仁王経法]](にんのうきょうぼう)
* [[仁王呪]](にんのじゅ)
=== ね ===
* [[涅槃]]
* [[大般涅槃経|涅槃経]]
* [[涅槃寂静]]
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=== の ===
* [[納経]]
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== は行 ==
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=== は ===
* [[拝観]]、[[拝観料]]
* [[廃仏毀釈]]
* [[八大龍王]]
* [[八部鬼衆]]
* [[八部衆]]
* [[八正道]]
* [[法堂]]
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* [[番匠]]
* [[波羅蜜]]
* [[般若]]
* [[般若経]]
* [[般若心経]]
* [[頒布]]、[[頒布品]]<ref>販売する、とは言わない</ref>
=== ひ ===
* [[比丘]]
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=== ふ ===
* [[普化宗]]
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* [[仏]](ぶつ)
* [[仏教遺跡]]
* [[仏旗]](ぶっき)
* [[仏舎利]]
* [[仏十力]]
* [[仏性]]
* [[仏身]]
* [[佛神]]
* [[仏像]]
* [[仏典]]
* [[仏陀]](ぶっだ<!--※注:日本語としての読みを「ブッダ」とするのは間違いです。「ブッダ」は "Buddha" の読み。-->)
* [[仏陀伽耶]]
* [[仏堂]]
* [[仏塔]]
* [[部派仏教]]
* [[仏滅紀元]]
* [[分身]]
=== へ ===
* [[別当]]
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* [[変成男子]]
* [[徧覚]]
* [[徧吉]]
* [[徧行]]
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=== ほ ===
* [[法 (仏教)|法]]
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* [[報恩]]<ref>[[報恩記]]、[[報恩坊]]、[[報恩院]]、[[報恩寺]]、など</ref>
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* [[法師]](ほっし、ほうし)
* [[法性]]
* [[法相]]
* [[法相宗]]
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* [[本願寺]]
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* [[本尊]]
* [[本地]]
* [[本地垂迹]]
* [[梵天 (曖昧さ回避)|梵天]]
* [[梵天 (祭具)]]
* [[凡夫]]
* [[本仏]]
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== ま行 ==
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=== ま ===
* [[摩訶般若波羅蜜経]]
* [[末那識]]
* [[末法]]
* [[魔羅]]
* [[曼陀羅]]・[[曼荼羅]]
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=== み ===
* [[密教]]
* [[密厳]]
** [[密厳国土]]
** [[密厳院]]
** [[密厳院発露懺悔文]]
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** [[御影堂]]
** [[御影堂 (大石寺)]]
* [[微妙]](みめう)
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* [[冥加]]
** [[冥加料]]
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** [[妙見菩薩]]
* [[明神]]
* [[妙典]]
* [[妙法]]
=== む ===
* [[無]]
* [[無住]]
* [[無明]]
=== め ===
* [[迷惑]]
=== も ===
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* [[裳]]
* [[裳階]]
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== や行 ==
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=== や ===
* [[夜叉]]
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* [[薬壺]]([[薬壷]]、やっこ)
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* [[瑜伽]]
* [[瑜伽行唯識学派]]
* [[瑜伽師地論]]
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* [[吉田神道]]
* [[世も末]](→末法)
* よとうざい [[預流]](よる)
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== ら行 ==
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=== ら ===
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=== り ===
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** [[両部鳥居]]
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* [[瑠璃]]
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* [[六根]]
* [[六根清浄]]
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== わ行 ==
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=== わ ===
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* [[和光]]([[和光山]]など)
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* [[東南アジアの仏教]]
* [[チベット仏教]]
* [[中国の仏教]]、[[朝鮮の仏教]]、[[日本の仏教]]
== 脚注・出典 ==
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== 参考文献 ==
* 『日本佛教語辞典』([[岩本裕]]著、[[平凡社]]、1988年)ISBN 4582130011
* 『日常佛教語』(岩本裕著、[[中央公論新社]]、1972年)ISBN 4121002881
* 『例文仏教語大辞典』(石田瑞麿著、[[小学館]]、1997年)ISBN 4095081112
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戦時買収私鉄
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戦時買収私鉄(せんじばいしゅうしてつ)とは、1941年(昭和16年)に公布された改正陸運統制令によって、1943年(昭和18年)度、1944年(昭和19年)度に国有化された日本の民間鉄道会社22社を指す。
1906年(明治39年)に施行された鉄道国有法以降、数多くの私鉄が国有化されたが、これらの路線は主として鉄道敷設法に規定する予定線であることが多かった。しかし、改正陸運統制令に基づく戦時買収は、大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための軍事目的を前面に押し出したもので、当時の国家総動員法などに基く強制的なものであった。
その方法は、突然買収対象となった私鉄会社の関係者が電報一本で呼び出され、行った先で有無を言わせず書類に押印を強要するといったもので、押さなければ国家総動員法により処罰されるばかりか、「非国民」扱いされるために従わざるを得なかったというものである。
買収代金の支払いは戦時公債によって行われたため、実質的には換金不可能であった。また、買収路線は戦争終了後には(建前では)元の会社に戻すことが条件づけられていたため、会社を解散することは禁止されていた(ただし、事業が継続できなくなったために休眠会社となった後に事実上解散した会社はある)。買収は鉄道施設のみであり、必ずしも全ての路線や付帯事業が買収された訳ではなかったため、相模鉄道のように他の路線の営業を継続したり、中国鉄道(現:中鉄バス)や鶴見臨港鉄道(現:東亜リアルエステート)のように、バス部門や不動産業などの営業を継続し、現存している会社もある。
そのため戦後、一部の被買収会社から買収路線の払下げ要求が出されたことがあったが、国鉄時代は一つとして実現されなかった。これは、日本国有鉄道(国鉄)発足直前の1949年(昭和24年)と発足後の1951年(昭和26年)に鉄道払下げ法案が国会に提出されたものの、いずれも審議未了で廃案になったことや、買収された私鉄の多くが産業用鉄道であり、財閥との資本関係が強いものであったため、財閥解体などを推し進める連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の方針に反するものであったからであるといわれている。また、支払われた戦時公債による買収代金は戦後のインフレーションによって価値を失い、実質的に買い戻しが困難な状況でもあった。更に沿線住民が国鉄路線のままにすることを望んだほか、ほとんどの路線が赤字路線であったため被買収会社としても引き受けるメリットがなくなった事情があった。その後も、相模線については返還に向けた動きはあったものの、相模鉄道と国鉄との交渉がまとまらなかったことや、当時赤字路線であったことなどから実現には至らなかった。
2020年(令和2年)現在、戦時買収路線で被買収会社の元に戻った例は、富山地方鉄道富山港線(旧富岩線)のみである。こちらはJR西日本から経営分離されてライトレールの富山ライトレールに転換し、後に富山駅での南北連絡に伴い富山地方鉄道富山軌道線と一元運営されることとなったため、その前段階として運営会社の合併が成立したものである。ただし、富山港線はライトレール化にあたって一部区間を新設した併用軌道に付け替えているため、厳密には買収当時の路線が全て復した訳ではない。
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戦時買収私鉄(せんじばいしゅうしてつ)とは、1941年(昭和16年)に公布された改正陸運統制令によって、1943年(昭和18年)度、1944年(昭和19年)度に国有化された日本の民間鉄道会社22社を指す。
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{{複数の問題|出典の明記=2010年5月|脚注の不足=2019年5月}}
'''戦時買収私鉄'''(せんじばいしゅうしてつ)とは、[[1941年]]([[昭和]]16年)に公布された[[陸運統制令|改正陸運統制令]]によって、[[1943年]](昭和18年)度、[[1944年]](昭和19年)度に国有化された[[日本]]の[[私鉄|民間鉄道会社]]22社を指す。
== 概説 ==
[[1906年]]([[明治]]39年)に施行された[[鉄道国有法]]以降、数多くの私鉄が国有化されたが、これらの路線は主として[[鉄道敷設法]]に規定する[[予定線]]であることが多かった。しかし、改正陸運統制令に基づく戦時買収は、[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])完遂のための[[軍事]]目的を前面に押し出したもので、当時の[[国家総動員法]]などに基く強制的なものであった。
その方法は、突然買収対象となった私鉄会社の関係者が[[電報]]一本で呼び出され、行った先で有無を言わせず書類に押印を強要するといったもので、押さなければ国家総動員法により処罰されるばかりか、「[[非国民]]」扱いされるために従わざるを得なかったというものである。
買収代金の支払いは戦時[[公債]]によって行われたため、実質的には換金不可能であった。また、買収路線は戦争終了後には(建前では)元の会社に戻すことが条件づけられていたため、会社を[[解散]]することは禁止されていた(ただし、事業が継続できなくなったために[[休眠会社]]となった後に事実上解散した会社はある)。買収は鉄道施設のみであり、必ずしも全ての路線や付帯事業が買収された訳ではなかったため、[[相模鉄道]]のように他の路線の営業を継続したり、中国鉄道(現:[[中鉄バス]])や[[鶴見臨港鉄道]](現:東亜リアルエステート)のように、[[バス (交通機関)|バス]]部門や[[不動産会社|不動産業]]などの営業を継続し、現存している会社もある。
そのため戦後、一部の被買収会社から買収路線の払下げ要求が出されたことがあったが、国鉄時代は一つとして実現されなかった。これは、[[日本国有鉄道]](国鉄)発足直前の[[1949年]](昭和24年)と発足後の[[1951年]](昭和26年)に鉄道払下げ法案が国会に提出されたものの、いずれも審議未了で廃案になったことや、買収された私鉄の多くが産業用鉄道であり、[[財閥]]との資本関係が強いものであったため、[[財閥解体]]などを推し進める[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)の方針に反するものであったからであるといわれている。また、支払われた戦時公債による買収代金は戦後の[[インフレーション]]によって価値を失い、実質的に買い戻しが困難な状況でもあった。更に沿線住民が国鉄路線のままにすることを望んだほか、ほとんどの路線が赤字路線であったため被買収会社としても引き受けるメリットがなくなった事情があった。その後も、[[相模線]]については返還に向けた動きはあったものの、相模鉄道と国鉄との交渉がまとまらなかったことや、当時赤字路線であったことなどから実現には至らなかった<ref>峰岸昇、今城光英「相模鉄道の鉄道事業を語る」『鉄道ピクトリアル』1999年7月増刊号 通巻672号、1999年、鉄道図書刊行会、p.19</ref>。
2020年(令和2年)現在、戦時買収路線で被買収会社の元に戻った例は、[[富山地方鉄道]][[富山地方鉄道富山港線|富山港線]](旧富岩線)のみである。こちらは[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]から経営分離されて[[ライトレール]]の[[富山ライトレール]]に転換し、後に[[富山駅]]での南北連絡に伴い[[富山地方鉄道富山軌道線]]と一元運営されることとなったため、その前段階として運営会社の合併が成立したものである。ただし、富山港線はライトレール化にあたって一部区間を新設した[[併用軌道]]に付け替えているため、厳密には買収当時の路線が全て復した訳ではない。
== 買収路線一覧 ==
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
! 買収年月日 !! 会社名 !! 所在地 !! 買収価格 !! 対象区間 !! 買収後<br />所属路線 !! 変遷
|-
| 1943年4月1日<ref>[{{NDLDC|2961366/21}} 「鉄道省告示第152号」『官報』1943年3月29日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| [[小野田鉄道]]
| [[山口県]]
| 543,094円
| 全線
| [[小野田線]]
| 宇部西線へ編入後、小野田線に再度改称
|-
| rowspan="3" | 1943年5月1日
| rowspan="2" | [[宇部鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2961388/6}} 「鉄道省告示第84号」『官報』1943年4月26日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| rowspan="2" | 山口県
| rowspan="2" | 11,632,101円
| rowspan="2" | 全線
| 宇部東線
| [[宇部線]]に改称
|-
| 宇部西線
| 小野田線に改称
|-
| [[小倉鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2961388/6}} 「鉄道省告示第85号」『官報』1943年4月26日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| [[福岡県]]
| 10,096,969円
| 全線
| 添田線
| 日田線を経て[[日田彦山線]]および[[添田線]](廃止)に分離
|-
| rowspan="6" | 1943年6月1日
| [[富山地方鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2961412/21}} 「鉄道省告示第119号」『官報』1943年5月25日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| [[富山県]]
| 4,326,826円
| [[富岩鉄道|富岩線]]
| [[富山地方鉄道富山港線|富山港線]]
| 民営化後[[富山ライトレール]]へ移管、2020年2月に富山地方鉄道に合併。
|-
| rowspan="5" | [[播丹鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2961412/21}} 「鉄道省告示第120号」『官報』1943年5月25日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| rowspan="5" | [[兵庫県]]
| rowspan="5" | 14,632,140円
| rowspan="5" | 全線
| [[加古川線]]
|
|-
| [[高砂線]]
| 廃止
|-
| [[北条鉄道北条線|北条線]]
| [[北条鉄道]]へ移管
|-
| [[三木鉄道三木線|三木線]]
| [[三木鉄道]]へ移管後廃止
|-
| [[鍛冶屋線]]
| 廃止
|-
| rowspan="3" | 1943年7月1日
| [[鶴見臨港鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2961441/9}} 「鉄道省告示第159号」『官報』1943年6月28日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| [[神奈川県]]
| 16,896,808円
| 全線
| [[鶴見線]]
|
|-
| rowspan="2" | [[産業セメント鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2961441/9}} 「鉄道省告示第160号」『官報』1943年6月28日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| rowspan="2" | 福岡県
| rowspan="2" | 6,280,349円
| rowspan="2" | 全線
| [[後藤寺線]]
|
|-
| [[平成筑豊鉄道糸田線|糸田線]]
| 民営化後[[平成筑豊鉄道]]へ移管
|-
| rowspan="6" | 1943年8月1日<ref>[{{NDLDC|2961465/3}} 「鉄道省告示第204号」『官報』1943年7月26日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| rowspan="2" | [[北海道鉄道 (2代)|北海道鉄道]]
| rowspan="2" | [[北海道]]
| rowspan="2" | 8,757,252円
| rowspan="2" | 全線
| [[千歳線]]
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|-
|[[富内線]]
|廃止
|-
| [[伊那電気鉄道]]
| [[長野県]]
| 21,754,657円
| 全線
| rowspan="4" | [[飯田線]]
| rowspan="4" |
|-
| [[三信鉄道]]
| [[愛知県]]<br />[[静岡県]]<br />長野県
| 16,354,924円
| 全線
|-
| [[鳳来寺鉄道]]
| 愛知県
| 3,145,516円
| 全線
|-
| [[豊川鉄道]]
| 愛知県
| 19,803,071円
| 全線
|-
| rowspan="3" | 1944年4月1日<ref>[{{NDLDC|2961666/18}} 「運輸通信省告示第117号」『官報』1944年3月29日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| [[青梅電気鉄道]]
| [[東京都]]
| 20,202,378円
| 全線
| [[青梅線]]
|
|-
| rowspan="2" | [[太平洋不動産|南武鉄道]]
| rowspan="2" | 神奈川県<br />東京都
| rowspan="2" | 27,443,962円
| rowspan="2" | 全線
| [[南武線]]
|
|-
|[[五日市線]]
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|-
| rowspan="4" | 1944年5月1日<ref>[{{NDLDC|2961684/7}} 「運輸通信省告示第185号」『官報』1944年4月26日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| [[宮城電気鉄道]]
| [[宮城県]]
| 24,005,946円
| 全線
| [[仙石線]]
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|-
| [[南海電気鉄道|南海鉄道]]
| [[大阪府]]<br />[[和歌山県]]
| 63,894,384円
| [[阪和電気鉄道|山手線]]
| [[阪和線]]
|
|-
| rowspan="2" | [[西日本鉄道]]
| rowspan="2" | 福岡県
| rowspan="2" | 14,063,499円
|[[博多湾鉄道汽船|糟屋線]]
|[[香椎線]]
|
|-
|[[筑前参宮鉄道|宇美線]]
|[[勝田線]]
|廃止
|-
| rowspan="4" | 1944年6月1日<ref>[{{NDLDC|2961710/3}} 「運輸通信省告示第250号」『官報』1944年5月27日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| [[相模鉄道]]
| 神奈川県
| 3,900,000円
| 相模線
| [[相模線]]
|
|-
| [[飯山鉄道]]
| 長野県<br />[[新潟県]]
| 9,350,000円
| 全線
| [[飯山線]]
|
|-
| rowspan="2" | [[中鉄バス|中国鉄道]]
| rowspan="2" | [[岡山県]]
| rowspan="2" | 11,718,639円
| rowspan="2" | 全線
| [[津山線]]
|
|-
|[[吉備線]]
|
|-
| rowspan="2" | 1944年7月1日
| [[奥多摩工業|奥多摩電気鉄道]](未成)
| 東京都
| 7,170,000円
| (免許線)
| 青梅線
| 買収日より営業開始<ref>[{{NDLDC|2961738/5}} 「運輸通信省告示第321号」『官報』1944年6月29日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
|-
| [[胆振縦貫鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2961736/2}} 「運輸通信省告示第308号」『官報』1944年6月27日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
| 北海道
| 9,484,302円
| 全線
| [[胆振線]]
| 廃止
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
==参考文献==
*『日本国有鉄道百年史 第11巻』1973年、875-948頁
== 参考項目 ==
* [[陸上交通事業調整法]]
* [[日本の国有鉄道に編入された鉄道の一覧]]
* [[買収国電]]
* [[買収気動車]]
* [[鉄道会議]]
{{日本の鉄道史}}
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[[category:日本の鉄道史]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者|*]]
[[Category:戦時下の日本]]
[[Category:合併と買収]]
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貧歯類
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貧歯類(ひんしるい)・貧歯目(ひんしもく)
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'''貧歯類'''(ひんしるい)・'''貧歯目'''(ひんしもく)
* [[異節上目|異節上目/目]](哺乳類)の古い呼び名 ({{sname|Edentata}})
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川越市
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川越市(かわごえし)は、埼玉県の南西部に位置する市。中核市、業務核都市、保健所政令市に指定されている。1922年(大正11年)12月1日市制施行。
人口は約35万人と、埼玉県内ではさいたま市、川口市に次ぐ第3位の人口を有する。旧武蔵国入間郡。
江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、文化財の数では関東地方で神奈川県鎌倉市、栃木県日光市に次ぐ。歴史まちづくり法により、国から「歴史都市」に認定されている(埼玉県内唯一の認定)。戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っており、市内の観光名所には年間約732万人もの観光客が訪れる観光都市である。海外の旅行ガイドブックに紹介されることも多く、最近では外国人旅行者が多い(例えばニューヨーク・タイムズ紙の「2009年トラベルガイド」の 川越特集)。
武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が市内で合流する。地理的な要衝で平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点となった。戦国時代には関東平野の覇権を決する河越夜戦の舞台となった。河越夜戦は「日本三大夜戦」とされる。江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。
川越城を擁する川越藩は江戸幕府の北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市である。川越藩の歴代藩主は武蔵野の開発に力を注いだ。「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、川越藩士の安松金右衛門に命じ、玉川上水や野火止用水、新河岸川の開削、川島大囲堤の築造、川越街道の改修を行い、行政手腕の秀でた柳沢吉保は、川越に召抱えていた荻生徂徠の建議を入れ、筆頭家老の曽根権太夫に命じ、三富新田の開拓などを行った。
川越藩によって殖産政策が遂行され、農産物や絹織物・工芸品など市場競争力のある特産品開発がなされた。川越藩領の狭山丘陵で河越茶(狭山茶)の栽培が進められ、武蔵野の開墾地ではサツマイモの栽培が盛んになった。高林謙三が開発した「高林式製茶機械」によって狭山茶は隆盛することとなり、赤沢仁兵衛が考案した「赤沢式甘藷栽培法」によってサツマイモの収穫量は劇的に増加した。寛政年間に焼イモが江戸で大流行すると、新河岸川や入間川の舟運で江戸に出回ったサツマイモは川越芋と呼ばれ「栗よりうまい十三里」というフレーズと味の良さで持て囃され、「イモの町」のイメージも定着した。こうした領内や秩父など近郊からの物資の供給地として「江戸の台所」と呼ばれ繁栄した。また幕末、川越藩領であった上野国前橋で生糸業を興し、その輸出で川越商人は財を成した。
埼玉県下随一の城下町(川越藩の石高は武蔵国で最大、関東でも水戸藩に次ぐ)であったので、廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。入間県は現在の東京都武蔵野市周辺から新座や秩父・熊谷・本庄まで含んで発足、入間県の面積は現在の埼玉県の7割を占めていた。現在の埼玉県成立後、最初に市制を施行したのは川越である(大正11年の市制施行は北海道札幌市などと同年)。明治以降も先進的な発展が続き、埼玉りそな銀行の前身であり埼玉県で唯一の国立銀行であった第八十五国立銀行の発祥地である。また旧川越藩御用商人衆には横田五郎兵衛、山崎豊、黒須喜兵衛など豪商が多く、米穀取引所や民間による銀行(川越銀行や川越商業銀行)の設立や商工会議所・医師会の発足なども埼玉県内で最初である。後に川越市初代市長となる綾部利右衛門ら川越商人の強い力で、埼玉県で最初に火力発電所や水力発電所を設け、埼玉県下で最初に電灯が燈った町でもある。
川越商人に加え、上広瀬村(現・狭山市)の清水宗徳が参画し、川越鉄道が甲武鉄道の国分寺駅との間に建設された(現在の西武新宿線と西武国分寺線のルーツ)。また、綾部らの川越電気鉄道が大宮との間で開通した。川越電気鉄道は蒸気機関車ではなく、その名の通り、埼玉県で最初の電車であった。川越鉄道と川越電気鉄道は最終的に合併し、西武鉄道(旧)となり、川越藩三芳野村(現・坂戸市)出身の大川平三郎(「日本の製紙王」と呼ばれ大川財閥を作った)らが役員に名を連ねた。綾部らの西武鉄道は堤康次郎の武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)と太平洋戦争中に戦時合併する。一方、1902年(明治35年)には綾部ら川越商人と川越商業銀行頭取で新河岸川の回漕業者でもあった福岡村(現・ふじみ野市)の星野仙蔵が、東京 - 川越間の京越鉄道の敷設を計画した。これは本社を川越に置いて発足した東上鉄道に引き継がれ、1914年(大正3年)に池袋駅 - 田面沢駅(現在の川越市駅の西方にあった)間で開通した。2年後には坂戸駅まで延伸。東上鉄道は1920年に根津嘉一郎の東武鉄道と合併する。昭和になって軍需鉄道の八高線の建設が決まると川越商人たちが川越線建設を求める請願を行い、国策鉄道として省線の川越線が開通した。代わりに、川越 - 大宮間の電車(西武大宮線と改名)は廃線となった。
川越市内には10駅、ほぼ半分が川越市側の鶴ヶ島駅を入れると11駅あり、うち中心市街地には駅が3つある。中でもJR・東武東上線川越駅は1日約20万人が乗降する、埼玉県内では大宮駅に次ぐ2位のターミナル駅である。また、近接する西武新宿線本川越駅と東武東上線・川越市駅を含めると、3駅で約30万人の乗降客数があり、郊外都市としては珍しい繁華街に複数のJR・大手私鉄の駅・路線が分散する商業地として発展した。
一方で、現在中心駅である川越駅は1915年(大正4年)に開業した駅で、中心市街地の駅の中では最遅の開業である。川越線の開業に伴う駅名改称と、市街地の南下により市を代表する駅(現市街地の玄関)となった。
川越駅が中心駅となるまでは、西武の本川越駅や東武の川越市駅周辺が街の中心地及び中心駅で、観光地で有名な旧市街地もこちら側が玄関であり、近い。川越市駅は川越駅より1年早い時期の1914年(大正3年)に開業して、本川越駅は他の2駅より非常に早く1895年(明治28年)に開業している。
上杉氏が支配していた室町時代には川越街道(現・国道254号)で、江戸時代からは新河岸川舟運で、江戸と直結した物流の要衝であり、1971年(昭和46年)には埼玉県内で最初の高速道路として関越自動車道が練馬IC - 川越IC間で完成、開通時の名称は「東京川越道路」であった。国道16号(東京環状)や首都圏中央連絡自動車道(圏央道)も通じている。
その他:
昼夜人口比率は、96.51%(2005年)。
ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。1年を通じて穏やかな気候で、年平均降水量は1352mm、年平均気温は15.7°C、年平均湿度は70.3%、年平均風速は2.2m/s。(2016年版統計かわごえ)
一方で、東京都心のヒートアイランド現象の影響を受け、夏の猛暑が厳しくなっているとの指摘もある。川越市は気象庁の精密観測網でカバーされていないが、首都大学東京などが独自に気温を計測したところ、夏日の最高気温は酷暑で知られる埼玉県熊谷市を上回るとの研究結果を2017年6月に発表した。
都心から30km圏に属し、北緯35度55分30秒、東経139度29分08秒(市役所のある元町)。市域は東西およそ16.3km、南北およそ13.8km。標高は元町で海抜18.5m、市の南端が最も高く50.7m、東部が最も低く6.9m、標高差およそ44mである。
荒川と多摩川に挟まれた地域を武蔵野台地と言い、川越はその北東端に位置する。武蔵野台地は奥秩父山地を水源とする多摩川が形成した扇状地である。太古の多摩川(古多摩川)は東京都と神奈川県の都県境方面ではなく埼玉県西部の入間郡を横断して流れていた(今の入間川の流路とほぼ同じ)。武蔵野台地は柳瀬川以北を特に川越台地と呼び、さらに入間川を超えた北西側を特に入間台地と呼ぶ。南西には狭山丘陵が接する(狭山丘陵も古多摩川が土砂を堆積してできた丘陵で、狭山丘陵の形成によって多摩川は後に流路を南に変えることになった)。河越館が築かれたのは入間台地の東限で、川越城が築城されたのは川越台地の北限である。川越城は地形を利用した平山城であった。1457年(長禄元年)に川越城と江戸城を築城した太田道灌は、両城を結ぶ防衛ラインとして川越街道を造った。以来、川越街道より西南側へ多摩地域までが武蔵野と呼ばれる地方で、文化的な一体性がある。
川越台地を取り囲むように周囲は低地であり市内からは関東平野を囲む山々を眺めることができる。外秩父山地や武蔵野台地の武蔵野面(古多摩川が形成した高位の河岸段丘)に降った雨は、入間川や新河岸川、越辺川、不老川、小畔川、赤間川など(今では多摩川水系ではなく)荒川水系の幾多の河川を形成し、川越の町を囲むような低地に主に北西方向から南東に流れる。町は台地上に形成され、南側の台地に拡大する余地が残っており、歴史的にも南へ街が広がってきた。甲武信ヶ岳を源とする荒川は江戸時代の寛永の瀬替えにより大宮台地西側を流れるようになり流量を増やした。荒川は、大持山から流れ出た入間川と当市内の古谷上で合流し、日本でも最大規模の河川敷を形成する(国道16号の上江橋は河川にかかる国道の橋としては日本最長である)。このため、「外川」と呼ばれた荒川の対岸の大宮などとは歴史的にも結び付きがあまりない。
川越街道は入間川や荒川を渡ることなく江戸へ通じたので、荒川や利根川の氾濫に苦しめられた中山道に劣らず賑わった。「内川」と呼ばれた新河岸川は江戸へ向って傾斜し隅田川に合流するので、川筋が整備され舟運が盛んであった。大正時代に新河岸川は赤間川と合流され、さらに川越市街を取り巻く形となった(大正時代に新河岸川のルートに東武東上本線が建設され、舟運は廃された)。こうした河川が市内北部や東部に広大な氾濫地である荒川低地を作り出し、稲作地帯となっている。市内東部には埼玉県内最大の自然沼である伊佐沼もある。旧荒川の流路に沿って自然堤防も形成されている。こうした沖積層は、地下水位が高く軟弱な粘土やシルトが厚く分布している。
一方、武蔵野台地(川越台地・入間台地)上にある市内中心部・南部・西部は対照的に洪積台地となっており、富士山や浅間山の火山灰が形成した関東ローム層(立川ローム層とその下の武蔵野ローム層)の下には古多摩川が形成した比較的安定した礫層がある。関東ローム層は保水力が無く井戸水に困り、また江戸時代以前は武蔵野台地を水源とする川は石神井川や不老川など数少なく、その上、瀬切れを起こしやすく台地上では水の確保に苦労した。現在では武蔵野の雑木林の面影を残し、水はけが良いことから畑作地帯となっている。
直接の由来は平安時代に河越館を構えた豪族河越氏であるが、その由来は古来より諸説ある。
川越は古来より武蔵国の中枢で、諸方に交通の便が拓けていたが川越市街地を川が囲む形となっており、入間川を越えないとたどり着けない地であることから「河越」と称されたという説や、養寿院にある銅鐘(国の重要文化財)に「武蔵国河肥庄」という銘があり吾妻鏡にも文治2年(1186年)の記述に既に「河肥」の文字があることから入間川の氾濫によって肥沃な地であるからという説、などである。
川越市の2012年度(平成24年度)の財政力指数 0.95であり、これは埼玉県内全40市の中で、戸田市、和光市、朝霞市、八潮市、所沢市、さいたま市に次いで7番目に高い。2007年度〜2010年度においては財政力指数が1.00を超えていたが、2011年度以降は1.00を下回っている。
「蔵の街」として知られる栃木県栃木市、千葉県香取市(旧佐原市)とともに小江戸サミットを開くなど、観光面で交流している。
1965年(昭和40年)に狭山市とともに積極的な工場誘致を行い、当時、日本一の面積であった川越狭山工業団地が完成、更に1980年代には富士見工業団地や川越工業団地が造成され、市内の住工混在の解消を図っている。首都圏中央連絡自動車道の川島ICに近い市内には、川越第二産業団地の整備も進んでいる。埼玉県内では最大級の工業都市で、2014年には狭山市を抜いて工場製造品出荷額で1位である(9370億円)。機械類の生産が最多であるが、化学工業が多いのも特徴である。
など。
川越市の小売業の年間商品販売額は、さいたま市・川口市に次いで埼玉県内第3位である(2009年)。
公立
私立
公立
私立
当市など埼玉県西部にある各大学は彩の国大学コンソーシアムを結び単位互換制度や公開講座を実施している。
当市では、「育英資金」という奨学金制度がある。なお、本奨学金は返還義務が伴う。また、「川越市交通遺児奨学金」制度があり、本制度は小中学生対象の給付型である。
かつて存在していた学校
市内には図書館が4か所、図書配本所が2か所、図書分室が1か所ある。また都市部での移動図書館は少ない中、「やまぶき号」が2007年3月まで運行されていた。かつては、川越駅西口から徒歩5分の場所にある川越福祉センター(2008年3月15日閉館)向かいに埼玉県立川越図書館が長年運営されてきたが、2003年3月31日をもって廃止された。
図書館の広域自治体間相互利用協定により、以下の市民にも開かれている。
市内には公民館が17か所と常勤職員が常駐しない分館が1か所、分室が1か所ある。またこの他に町内公民館と定義づけされた自治会集会所がある。
なお、名細公民館の分館として長く使用された川越市下広谷南公民館は名細公民館の移転に伴って廃止された。
市内には市民会館が1か所、文化会館が2か所、運動公園、武道館、葬祭場が各1ヶ所ある。施設の運営維持管理は 財団法人川越市施設管理公社 が行っている。また、文化会館の小規模なものとして住民管理方式を取り入れた地域ふれあいセンターが2か所ある。なお、1974年11月11日より33年余りにわたって運営されてきた 川越福祉センター(川越駅西口徒歩5分)は、2008年3月15日をもって廃止された。
市外局番は049であり、坂戸市、鶴ヶ島市、富士見市(水谷東二丁目・三丁目以外)、ふじみ野市、入間郡全域、比企郡川島町、鳩山町と同一(川越MA)。荒川左岸の古谷上の一部は048。
郵便番号は市内全域が「350-00xx,08xx,11xx」である。
江戸時代から入間地区の交通の要衝として発達しており、周辺各都市への交通が中心部から放射状に発達しているものの、市内環状道路の整備や、主要道路の拡幅が今後の課題となっている。
川越駅、川越市駅、本川越駅の3駅が川越市の中心市街地にある。JTBパブリッシングや交通新聞社の時刻表における市の代表駅は、市内で最も乗降人員が多い川越駅となっており、東上線と川越線の2路線を合算した一日平均乗降人員は約20万人である。旧市街・時の鐘へは本川越駅が最寄駅で、開業年度も1895年と市内の鉄道駅では最も古い。
3路線とも都心方面に直結しているが、このうち東武東上線は東京メトロ有楽町線・東京メトロ副都心線との相互直通運転を行っており、線形も直線的で所要時間が短く、総じて利便性が高い。2019年のダイヤ改正で川越特急の運行を開始し、観光列車として一部の列車にコンシェルジュが添乗する。
市域を東西に横断する川越線は単線であり、他の2路線と比較して本数が格段に少なく、早朝を除いて川越駅を境に運転系統が分断されている。残る西武新宿線は他2路線への駅に直接乗り換えができず、本川越駅から川越駅または川越市駅への徒歩連絡を要する。いずれも乗り換えに徒歩10分程度を要する状況が続いていたが、2016年に本川越駅西口が開設されたことにより、本川越駅から川越市駅までの乗り換えが徒歩5分程度に短縮された。
旧・西武鉄道は1925年(大正14年)に、入間川からの砂利輸送が目的で南大塚駅から安比奈線を開通させた。入間川には、安比奈線と埼玉県営鉄道の2つが対岸の東武と西武の駅から向かい合うように延びていた。
1950年(昭和25年)に電化され蒸気機関車から電気機関車に変ったが、その貨物輸送も1967年(昭和42年)で廃止された。その後半世紀近くにわたって休止扱いであったが、2016年(平成28年)11月30日を以て廃止された。
タクシーの営業区域は県南西部交通圏で、所沢市・東松山市・飯能市・和光市などと同じエリアとなっている。
「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われ、年間700万人(2016年)の観光客が訪れる。NHKの大河ドラマが「春日局」、「葵 徳川三代」、「義経」、「風林火山」など、当市に関係する内容になると観光客が増えている。
海外から来日した国賓にも日本の代表的な町並みとして紹介されており、2007年3月28日には上皇明仁夫妻がスウェーデン国王カール16世グスタフ夫妻を案内し、西武新宿線のお召し列車で行幸した。
国土交通省の観光ルネサンス事業に指定され、外国人富裕層の誘致促進の観光振興策を実施している。外国人観光客向けプロモーションビデオのコンペ「小江戸川越ビデオ大賞」も行い、優秀作は海外に配信している。東京近郊で交通至便、江戸情緒を実体験できる町として人気で、外国人観光客は年間4万人超となっている。韓国MBCの人気番組「私たち結婚しました」のロケ地となるなど、外国メディアに登場することも増えている。
2008年2月からは、川越商工会議所を中心に小江戸川越検定が行われており、市外からも多くの人が受検している。また絹(川越絹平)や唐桟(川唐)の大産地であったことから毎月18日を「川越きものの日」として町興しを行っており、着物姿だと各博物館や旧市街の指定商店での買い物が割引になる。
博物館・美術館については、「博物館・美術館」の項目を参照。指定文化財については、川越市指定文化財一覧も参照。
砧うつ隣に寒き旅寝哉
街中にオブジェ(屋外彫刻)が多い。時間を表すオブジェとしては以下のようなものがある。
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"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、文化財の数では関東地方で神奈川県鎌倉市、栃木県日光市に次ぐ。歴史まちづくり法により、国から「歴史都市」に認定されている(埼玉県内唯一の認定)。戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っており、市内の観光名所には年間約732万人もの観光客が訪れる観光都市である。海外の旅行ガイドブックに紹介されることも多く、最近では外国人旅行者が多い(例えばニューヨーク・タイムズ紙の「2009年トラベルガイド」の 川越特集)。",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が市内で合流する。地理的な要衝で平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点となった。戦国時代には関東平野の覇権を決する河越夜戦の舞台となった。河越夜戦は「日本三大夜戦」とされる。江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "川越城を擁する川越藩は江戸幕府の北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市である。川越藩の歴代藩主は武蔵野の開発に力を注いだ。「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、川越藩士の安松金右衛門に命じ、玉川上水や野火止用水、新河岸川の開削、川島大囲堤の築造、川越街道の改修を行い、行政手腕の秀でた柳沢吉保は、川越に召抱えていた荻生徂徠の建議を入れ、筆頭家老の曽根権太夫に命じ、三富新田の開拓などを行った。",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "川越藩によって殖産政策が遂行され、農産物や絹織物・工芸品など市場競争力のある特産品開発がなされた。川越藩領の狭山丘陵で河越茶(狭山茶)の栽培が進められ、武蔵野の開墾地ではサツマイモの栽培が盛んになった。高林謙三が開発した「高林式製茶機械」によって狭山茶は隆盛することとなり、赤沢仁兵衛が考案した「赤沢式甘藷栽培法」によってサツマイモの収穫量は劇的に増加した。寛政年間に焼イモが江戸で大流行すると、新河岸川や入間川の舟運で江戸に出回ったサツマイモは川越芋と呼ばれ「栗よりうまい十三里」というフレーズと味の良さで持て囃され、「イモの町」のイメージも定着した。こうした領内や秩父など近郊からの物資の供給地として「江戸の台所」と呼ばれ繁栄した。また幕末、川越藩領であった上野国前橋で生糸業を興し、その輸出で川越商人は財を成した。",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "埼玉県下随一の城下町(川越藩の石高は武蔵国で最大、関東でも水戸藩に次ぐ)であったので、廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。入間県は現在の東京都武蔵野市周辺から新座や秩父・熊谷・本庄まで含んで発足、入間県の面積は現在の埼玉県の7割を占めていた。現在の埼玉県成立後、最初に市制を施行したのは川越である(大正11年の市制施行は北海道札幌市などと同年)。明治以降も先進的な発展が続き、埼玉りそな銀行の前身であり埼玉県で唯一の国立銀行であった第八十五国立銀行の発祥地である。また旧川越藩御用商人衆には横田五郎兵衛、山崎豊、黒須喜兵衛など豪商が多く、米穀取引所や民間による銀行(川越銀行や川越商業銀行)の設立や商工会議所・医師会の発足なども埼玉県内で最初である。後に川越市初代市長となる綾部利右衛門ら川越商人の強い力で、埼玉県で最初に火力発電所や水力発電所を設け、埼玉県下で最初に電灯が燈った町でもある。",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "川越商人に加え、上広瀬村(現・狭山市)の清水宗徳が参画し、川越鉄道が甲武鉄道の国分寺駅との間に建設された(現在の西武新宿線と西武国分寺線のルーツ)。また、綾部らの川越電気鉄道が大宮との間で開通した。川越電気鉄道は蒸気機関車ではなく、その名の通り、埼玉県で最初の電車であった。川越鉄道と川越電気鉄道は最終的に合併し、西武鉄道(旧)となり、川越藩三芳野村(現・坂戸市)出身の大川平三郎(「日本の製紙王」と呼ばれ大川財閥を作った)らが役員に名を連ねた。綾部らの西武鉄道は堤康次郎の武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)と太平洋戦争中に戦時合併する。一方、1902年(明治35年)には綾部ら川越商人と川越商業銀行頭取で新河岸川の回漕業者でもあった福岡村(現・ふじみ野市)の星野仙蔵が、東京 - 川越間の京越鉄道の敷設を計画した。これは本社を川越に置いて発足した東上鉄道に引き継がれ、1914年(大正3年)に池袋駅 - 田面沢駅(現在の川越市駅の西方にあった)間で開通した。2年後には坂戸駅まで延伸。東上鉄道は1920年に根津嘉一郎の東武鉄道と合併する。昭和になって軍需鉄道の八高線の建設が決まると川越商人たちが川越線建設を求める請願を行い、国策鉄道として省線の川越線が開通した。代わりに、川越 - 大宮間の電車(西武大宮線と改名)は廃線となった。",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "川越市内には10駅、ほぼ半分が川越市側の鶴ヶ島駅を入れると11駅あり、うち中心市街地には駅が3つある。中でもJR・東武東上線川越駅は1日約20万人が乗降する、埼玉県内では大宮駅に次ぐ2位のターミナル駅である。また、近接する西武新宿線本川越駅と東武東上線・川越市駅を含めると、3駅で約30万人の乗降客数があり、郊外都市としては珍しい繁華街に複数のJR・大手私鉄の駅・路線が分散する商業地として発展した。",
"title": "概要・歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一方で、現在中心駅である川越駅は1915年(大正4年)に開業した駅で、中心市街地の駅の中では最遅の開業である。川越線の開業に伴う駅名改称と、市街地の南下により市を代表する駅(現市街地の玄関)となった。",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "川越駅が中心駅となるまでは、西武の本川越駅や東武の川越市駅周辺が街の中心地及び中心駅で、観光地で有名な旧市街地もこちら側が玄関であり、近い。川越市駅は川越駅より1年早い時期の1914年(大正3年)に開業して、本川越駅は他の2駅より非常に早く1895年(明治28年)に開業している。",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "上杉氏が支配していた室町時代には川越街道(現・国道254号)で、江戸時代からは新河岸川舟運で、江戸と直結した物流の要衝であり、1971年(昭和46年)には埼玉県内で最初の高速道路として関越自動車道が練馬IC - 川越IC間で完成、開通時の名称は「東京川越道路」であった。国道16号(東京環状)や首都圏中央連絡自動車道(圏央道)も通じている。",
"title": "概要・歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "その他:",
"title": "概要・歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "昼夜人口比率は、96.51%(2005年)。",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。1年を通じて穏やかな気候で、年平均降水量は1352mm、年平均気温は15.7°C、年平均湿度は70.3%、年平均風速は2.2m/s。(2016年版統計かわごえ)",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "一方で、東京都心のヒートアイランド現象の影響を受け、夏の猛暑が厳しくなっているとの指摘もある。川越市は気象庁の精密観測網でカバーされていないが、首都大学東京などが独自に気温を計測したところ、夏日の最高気温は酷暑で知られる埼玉県熊谷市を上回るとの研究結果を2017年6月に発表した。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "都心から30km圏に属し、北緯35度55分30秒、東経139度29分08秒(市役所のある元町)。市域は東西およそ16.3km、南北およそ13.8km。標高は元町で海抜18.5m、市の南端が最も高く50.7m、東部が最も低く6.9m、標高差およそ44mである。",
"title": "地理"
},
{
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"text": "荒川と多摩川に挟まれた地域を武蔵野台地と言い、川越はその北東端に位置する。武蔵野台地は奥秩父山地を水源とする多摩川が形成した扇状地である。太古の多摩川(古多摩川)は東京都と神奈川県の都県境方面ではなく埼玉県西部の入間郡を横断して流れていた(今の入間川の流路とほぼ同じ)。武蔵野台地は柳瀬川以北を特に川越台地と呼び、さらに入間川を超えた北西側を特に入間台地と呼ぶ。南西には狭山丘陵が接する(狭山丘陵も古多摩川が土砂を堆積してできた丘陵で、狭山丘陵の形成によって多摩川は後に流路を南に変えることになった)。河越館が築かれたのは入間台地の東限で、川越城が築城されたのは川越台地の北限である。川越城は地形を利用した平山城であった。1457年(長禄元年)に川越城と江戸城を築城した太田道灌は、両城を結ぶ防衛ラインとして川越街道を造った。以来、川越街道より西南側へ多摩地域までが武蔵野と呼ばれる地方で、文化的な一体性がある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "川越台地を取り囲むように周囲は低地であり市内からは関東平野を囲む山々を眺めることができる。外秩父山地や武蔵野台地の武蔵野面(古多摩川が形成した高位の河岸段丘)に降った雨は、入間川や新河岸川、越辺川、不老川、小畔川、赤間川など(今では多摩川水系ではなく)荒川水系の幾多の河川を形成し、川越の町を囲むような低地に主に北西方向から南東に流れる。町は台地上に形成され、南側の台地に拡大する余地が残っており、歴史的にも南へ街が広がってきた。甲武信ヶ岳を源とする荒川は江戸時代の寛永の瀬替えにより大宮台地西側を流れるようになり流量を増やした。荒川は、大持山から流れ出た入間川と当市内の古谷上で合流し、日本でも最大規模の河川敷を形成する(国道16号の上江橋は河川にかかる国道の橋としては日本最長である)。このため、「外川」と呼ばれた荒川の対岸の大宮などとは歴史的にも結び付きがあまりない。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "川越街道は入間川や荒川を渡ることなく江戸へ通じたので、荒川や利根川の氾濫に苦しめられた中山道に劣らず賑わった。「内川」と呼ばれた新河岸川は江戸へ向って傾斜し隅田川に合流するので、川筋が整備され舟運が盛んであった。大正時代に新河岸川は赤間川と合流され、さらに川越市街を取り巻く形となった(大正時代に新河岸川のルートに東武東上本線が建設され、舟運は廃された)。こうした河川が市内北部や東部に広大な氾濫地である荒川低地を作り出し、稲作地帯となっている。市内東部には埼玉県内最大の自然沼である伊佐沼もある。旧荒川の流路に沿って自然堤防も形成されている。こうした沖積層は、地下水位が高く軟弱な粘土やシルトが厚く分布している。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "一方、武蔵野台地(川越台地・入間台地)上にある市内中心部・南部・西部は対照的に洪積台地となっており、富士山や浅間山の火山灰が形成した関東ローム層(立川ローム層とその下の武蔵野ローム層)の下には古多摩川が形成した比較的安定した礫層がある。関東ローム層は保水力が無く井戸水に困り、また江戸時代以前は武蔵野台地を水源とする川は石神井川や不老川など数少なく、その上、瀬切れを起こしやすく台地上では水の確保に苦労した。現在では武蔵野の雑木林の面影を残し、水はけが良いことから畑作地帯となっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "直接の由来は平安時代に河越館を構えた豪族河越氏であるが、その由来は古来より諸説ある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "川越は古来より武蔵国の中枢で、諸方に交通の便が拓けていたが川越市街地を川が囲む形となっており、入間川を越えないとたどり着けない地であることから「河越」と称されたという説や、養寿院にある銅鐘(国の重要文化財)に「武蔵国河肥庄」という銘があり吾妻鏡にも文治2年(1186年)の記述に既に「河肥」の文字があることから入間川の氾濫によって肥沃な地であるからという説、などである。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "川越市の2012年度(平成24年度)の財政力指数 0.95であり、これは埼玉県内全40市の中で、戸田市、和光市、朝霞市、八潮市、所沢市、さいたま市に次いで7番目に高い。2007年度〜2010年度においては財政力指数が1.00を超えていたが、2011年度以降は1.00を下回っている。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "「蔵の街」として知られる栃木県栃木市、千葉県香取市(旧佐原市)とともに小江戸サミットを開くなど、観光面で交流している。",
"title": "姉妹都市・提携都市"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1965年(昭和40年)に狭山市とともに積極的な工場誘致を行い、当時、日本一の面積であった川越狭山工業団地が完成、更に1980年代には富士見工業団地や川越工業団地が造成され、市内の住工混在の解消を図っている。首都圏中央連絡自動車道の川島ICに近い市内には、川越第二産業団地の整備も進んでいる。埼玉県内では最大級の工業都市で、2014年には狭山市を抜いて工場製造品出荷額で1位である(9370億円)。機械類の生産が最多であるが、化学工業が多いのも特徴である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "など。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "川越市の小売業の年間商品販売額は、さいたま市・川口市に次いで埼玉県内第3位である(2009年)。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "公立",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "私立",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "公立",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "私立",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "当市など埼玉県西部にある各大学は彩の国大学コンソーシアムを結び単位互換制度や公開講座を実施している。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "当市では、「育英資金」という奨学金制度がある。なお、本奨学金は返還義務が伴う。また、「川越市交通遺児奨学金」制度があり、本制度は小中学生対象の給付型である。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "かつて存在していた学校",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "市内には図書館が4か所、図書配本所が2か所、図書分室が1か所ある。また都市部での移動図書館は少ない中、「やまぶき号」が2007年3月まで運行されていた。かつては、川越駅西口から徒歩5分の場所にある川越福祉センター(2008年3月15日閉館)向かいに埼玉県立川越図書館が長年運営されてきたが、2003年3月31日をもって廃止された。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "図書館の広域自治体間相互利用協定により、以下の市民にも開かれている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "市内には公民館が17か所と常勤職員が常駐しない分館が1か所、分室が1か所ある。またこの他に町内公民館と定義づけされた自治会集会所がある。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、名細公民館の分館として長く使用された川越市下広谷南公民館は名細公民館の移転に伴って廃止された。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "市内には市民会館が1か所、文化会館が2か所、運動公園、武道館、葬祭場が各1ヶ所ある。施設の運営維持管理は 財団法人川越市施設管理公社 が行っている。また、文化会館の小規模なものとして住民管理方式を取り入れた地域ふれあいセンターが2か所ある。なお、1974年11月11日より33年余りにわたって運営されてきた 川越福祉センター(川越駅西口徒歩5分)は、2008年3月15日をもって廃止された。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "市外局番は049であり、坂戸市、鶴ヶ島市、富士見市(水谷東二丁目・三丁目以外)、ふじみ野市、入間郡全域、比企郡川島町、鳩山町と同一(川越MA)。荒川左岸の古谷上の一部は048。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "郵便番号は市内全域が「350-00xx,08xx,11xx」である。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "江戸時代から入間地区の交通の要衝として発達しており、周辺各都市への交通が中心部から放射状に発達しているものの、市内環状道路の整備や、主要道路の拡幅が今後の課題となっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "川越駅、川越市駅、本川越駅の3駅が川越市の中心市街地にある。JTBパブリッシングや交通新聞社の時刻表における市の代表駅は、市内で最も乗降人員が多い川越駅となっており、東上線と川越線の2路線を合算した一日平均乗降人員は約20万人である。旧市街・時の鐘へは本川越駅が最寄駅で、開業年度も1895年と市内の鉄道駅では最も古い。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "3路線とも都心方面に直結しているが、このうち東武東上線は東京メトロ有楽町線・東京メトロ副都心線との相互直通運転を行っており、線形も直線的で所要時間が短く、総じて利便性が高い。2019年のダイヤ改正で川越特急の運行を開始し、観光列車として一部の列車にコンシェルジュが添乗する。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "市域を東西に横断する川越線は単線であり、他の2路線と比較して本数が格段に少なく、早朝を除いて川越駅を境に運転系統が分断されている。残る西武新宿線は他2路線への駅に直接乗り換えができず、本川越駅から川越駅または川越市駅への徒歩連絡を要する。いずれも乗り換えに徒歩10分程度を要する状況が続いていたが、2016年に本川越駅西口が開設されたことにより、本川越駅から川越市駅までの乗り換えが徒歩5分程度に短縮された。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "旧・西武鉄道は1925年(大正14年)に、入間川からの砂利輸送が目的で南大塚駅から安比奈線を開通させた。入間川には、安比奈線と埼玉県営鉄道の2つが対岸の東武と西武の駅から向かい合うように延びていた。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1950年(昭和25年)に電化され蒸気機関車から電気機関車に変ったが、その貨物輸送も1967年(昭和42年)で廃止された。その後半世紀近くにわたって休止扱いであったが、2016年(平成28年)11月30日を以て廃止された。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "タクシーの営業区域は県南西部交通圏で、所沢市・東松山市・飯能市・和光市などと同じエリアとなっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われ、年間700万人(2016年)の観光客が訪れる。NHKの大河ドラマが「春日局」、「葵 徳川三代」、「義経」、「風林火山」など、当市に関係する内容になると観光客が増えている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "海外から来日した国賓にも日本の代表的な町並みとして紹介されており、2007年3月28日には上皇明仁夫妻がスウェーデン国王カール16世グスタフ夫妻を案内し、西武新宿線のお召し列車で行幸した。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "国土交通省の観光ルネサンス事業に指定され、外国人富裕層の誘致促進の観光振興策を実施している。外国人観光客向けプロモーションビデオのコンペ「小江戸川越ビデオ大賞」も行い、優秀作は海外に配信している。東京近郊で交通至便、江戸情緒を実体験できる町として人気で、外国人観光客は年間4万人超となっている。韓国MBCの人気番組「私たち結婚しました」のロケ地となるなど、外国メディアに登場することも増えている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2008年2月からは、川越商工会議所を中心に小江戸川越検定が行われており、市外からも多くの人が受検している。また絹(川越絹平)や唐桟(川唐)の大産地であったことから毎月18日を「川越きものの日」として町興しを行っており、着物姿だと各博物館や旧市街の指定商店での買い物が割引になる。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "博物館・美術館については、「博物館・美術館」の項目を参照。指定文化財については、川越市指定文化財一覧も参照。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "砧うつ隣に寒き旅寝哉",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "街中にオブジェ(屋外彫刻)が多い。時間を表すオブジェとしては以下のようなものがある。",
"title": "観光"
}
] |
川越市(かわごえし)は、埼玉県の南西部に位置する市。中核市、業務核都市、保健所政令市に指定されている。1922年(大正11年)12月1日市制施行。 人口は約35万人と、埼玉県内ではさいたま市、川口市に次ぐ第3位の人口を有する。旧武蔵国入間郡。
|
{{otheruseslist|[[埼玉県]]の市|同市にある[[東武鉄道|東武]][[東武東上本線|東上本線]]の駅|川越市駅|[[三重県]]の町|川越町}}
{{日本の市
| 画像 = [[ファイル:Tokinokane.jpg|200px]]
| 画像の説明 = [[川越]]のシンボル・[[時の鐘 (川越市)|時の鐘]]
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Kawagoe, Saitama.svg|border|100px]]
| 市旗の説明 = 川越[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem_of_Kawagoe,_Saitama.svg|70px]]
| 市章の説明 = 川越[[市町村章|市章]]
| 自治体名 = 川越市
| 都道府県 = 埼玉県
| コード = 11201-1
| 隣接自治体 = [[上尾市]]、[[さいたま市]]、[[坂戸市]]、[[狭山市]]、[[鶴ヶ島市]]、[[所沢市]]、[[日高市]]、[[富士見市]]、[[ふじみ野市]]、[[入間郡]][[三芳町]]、[[比企郡]][[川島町]]
| 木 = [[カシ]]
| 花 = [[ヤマブキ]]
| シンボル名 = その他
| 鳥 など = 市の鳥:[[雁]]<br />市民の日:[[12月1日]]<br />市の歌:[[われらの川越]]
| 郵便番号 = 350-8601
| 所在地 = 川越市元町一丁目3番地1<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-11|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Kawagoe city hall,Kawagoe-city,Japan.JPG|center|150px]][[川越市役所|川越市庁舎]]と太田道灌像{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|coord2={{coord|35.9251|139.4857}}|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=35.915|frame-longitude=139.48|text=市庁舎位置}}
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|11|201|image=Kawagoe in Saitama Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}
| 特記事項 =
}}
'''川越市'''(かわごえし)は、[[埼玉県]]の南西部に位置する[[市]]。[[中核市]]、[[業務核都市]]、[[保健所政令市]]に指定されている。[[1922年]]([[大正]]11年)12月1日[[市制]]施行。
人口は約35万人と、埼玉県内では[[さいたま市]]、[[川口市]]に次ぐ第3位の人口を有する。旧[[武蔵国]][[入間郡]]。
== 概要・歴史 ==
[[江戸時代]]には[[親藩]]・[[譜代大名|譜代]]の[[川越藩]]の[[城下町]]として栄えた都市で、「'''[[小江戸]]'''」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、[[文化財]]の数では[[関東地方]]で[[神奈川県]][[鎌倉市]]、[[栃木県]][[日光市]]に次ぐ。[[地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律|歴史まちづくり法]]により、国から「歴史都市」に認定されている(埼玉県内唯一の認定)。戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っており、市内の観光名所には年間約732万人もの観光客が訪れる[[観光都市]]である。海外の[[旅行ガイドブック]]に紹介されることも多く、最近では外国人旅行者が多い(例えば[[ニューヨーク・タイムズ|ニューヨーク・タイムズ紙]]の「[[2009年]]トラベルガイド」の [http://travel.nytimes.com/2009/09/06/travel/06dayout.html?ref=travel 川越特集])。
[[武蔵野台地]]の北端に位置し、[[荒川 (関東)|荒川]]と[[入間川 (埼玉県)|入間川]]が市内で合流する。地理的な要衝で[[平安時代]]には[[河越館]]に[[豪族]]の[[河越氏]]が興り、[[武蔵国]]筆頭の[[御家人]]として[[鎌倉幕府]]で権勢を誇った。[[室町時代]]に[[扇谷上杉家|上杉氏]]の[[家宰]]・[[太田道灌]]によって[[河越城]]が築城され、上杉氏、次いで[[後北条氏|北条氏]]の武蔵国支配の拠点となった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[関東平野]]の覇権を決する[[河越城の戦い|河越夜戦]]の舞台となった。河越夜戦は「[[日本三大奇襲|日本三大夜戦]]」とされる。江戸時代以前は[[江戸]]を上回る都市であり、「'''江戸の母'''」と称された<ref>川越市役所前の太田道灌像の碑文より</ref>。
[[川越城]]を擁する川越藩は[[江戸幕府]]の北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]・[[堀田正盛]]・[[松平信綱]]・[[柳沢吉保]]など[[大老]]・[[老中]]クラスの重臣や[[御家門]]の[[越前松平家]]が配された。そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市である。川越藩の歴代藩主は[[武蔵野]]の開発に力を注いだ。「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、川越藩士の[[安松金右衛門]]に命じ、[[玉川上水]]や[[野火止用水]]、[[新河岸川]]の開削、[[川島町|川島]]大囲堤の築造、[[川越街道]]の改修を行い、行政手腕の秀でた柳沢吉保は、川越に召抱えていた[[荻生徂徠]]の建議を入れ、筆頭家老の[[柳沢保格|曽根権太夫]]に命じ、[[三富新田]]の開拓などを行った。
川越藩によって殖産政策が遂行され、農産物や[[絹織物]]・[[工芸品]]など市場競争力のある[[特産品]]開発がなされた。川越藩領の[[狭山丘陵]]で河越茶([[狭山茶]])の栽培が進められ、武蔵野の開墾地では[[サツマイモ]]の栽培が盛んになった。[[高林謙三]]が開発した「高林式製茶機械」によって狭山茶は隆盛することとなり、[[赤沢仁兵衛]]が考案した「赤沢式甘藷栽培法」によってサツマイモの収穫量は劇的に増加した。[[寛政|寛政年間]]に焼イモが江戸で大流行すると、新河岸川や入間川の[[舟運]]で江戸に出回ったサツマイモは[[川越芋]]と呼ばれ「栗よりうまい十三里」というフレーズと味の良さで持て囃され、「イモの町」のイメージも定着した。こうした領内や[[秩父]]など近郊からの物資の供給地として「'''江戸の台所'''」と呼ばれ繁栄した。また幕末、川越藩領であった[[上野国]][[前橋市|前橋]]で[[生糸]]業を興し、その輸出で川越商人は財を成した。
埼玉県下随一の城下町(川越藩の[[石高]]は武蔵国で最大、関東でも[[水戸藩]]に次ぐ)であったので、[[廃藩置県]]では[[川越県]]、次いで[[入間県]]の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]となった。入間県は現在の[[東京都]][[武蔵野市]]周辺から[[新座市|新座]]や秩父・[[熊谷市|熊谷]]・[[本庄市|本庄]]まで含んで発足、入間県の面積は現在の埼玉県の7割を占めていた。現在の埼玉県成立後、最初に[[市制]]を施行したのは川越である([[大正]]11年の市制施行<ref>大正11年12月1日から。大正11年内務省告示第313号([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955214/1 『官報』第3095号、大正11年11月24日、p.645])</ref>は[[北海道]][[札幌市]]などと同年)。[[明治]]以降も先進的な発展が続き、[[埼玉りそな銀行]]の前身であり埼玉県で唯一の[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]であった[[第八十五国立銀行]]の発祥地である<ref>[http://www.museum.spec.ed.jp/monoshiri/stock/monjo/mon0038.html 埼玉県県立文書館のサイトより]{{リンク切れ|date=2013年5月}}</ref>。また旧川越藩御用商人衆には[[横田五郎兵衛]]、[[山崎豊]]、[[黒須喜兵衛]]など豪商が多く、米穀取引所や民間による銀行([[川越銀行]]や[[川越商業銀行]])の設立や[[商工会議所]]・[[医師会]]の発足なども埼玉県内で最初である。後に川越市初代市長となる[[綾部利右衛門]]ら川越商人の強い力で、埼玉県で最初に[[火力発電所]]や[[水力発電所]]を設け、埼玉県下で最初に[[電灯]]が燈った町でもある。
川越商人に加え、上広瀬村(現・[[狭山市]])の[[清水宗徳 (政治家)|清水宗徳]]が参画し、[[川越鉄道]]が[[甲武鉄道]]の[[国分寺駅]]との間に建設された(現在の[[西武新宿線]]と[[西武国分寺線]]のルーツ)。また、綾部らの[[川越電気鉄道]]が[[大宮駅 (西武)|大宮]]との間で開通した。川越電気鉄道は[[蒸気機関車]]ではなく、その名の通り、埼玉県で最初の[[電車]]であった。川越鉄道と川越電気鉄道は最終的に合併し、[[西武鉄道#西武鉄道(旧)|西武鉄道(旧)]]となり、川越藩[[三芳野村]](現・[[坂戸市]])出身の[[大川平三郎]](「日本の製紙王」と呼ばれ大川財閥を作った)らが役員に名を連ねた。綾部らの西武鉄道は[[堤康次郎]]の[[武蔵野鉄道]](現在の[[西武池袋線]])と[[太平洋戦争]]中に戦時合併する。一方、[[1902年]]([[明治]]35年)には綾部ら川越商人と川越商業銀行頭取で新河岸川の回漕業者でもあった福岡村(現・[[ふじみ野市]])の[[星野仙蔵]]が、東京 - 川越間の京越鉄道の敷設を計画した。これは本社を川越に置いて発足した[[東上鉄道]]に引き継がれ、[[1914年]]([[大正]]3年)に[[池袋駅]] - [[田面沢駅]](現在の[[川越市駅]]の西方にあった)間で開通した。2年後には[[坂戸駅]]まで延伸。東上鉄道は[[1920年]]に[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]の[[東武鉄道]]と合併する。[[昭和]]になって軍需鉄道の[[八高線]]の建設が決まると川越商人たちが[[川越線]]建設を求める請願を行い、国策鉄道として[[省線]]の川越線が開通した。代わりに、川越 - 大宮間の電車([[西武大宮線]]と改名)は[[廃線]]となった。
川越市内には10駅、ほぼ半分が川越市側の鶴ヶ島駅を入れると11駅あり、うち中心市街地には駅が3つある。中でも[[東日本旅客鉄道|JR]]・[[東武東上本線|東武東上線]]<!--「東武東上線」では東上本線・越生線の総称とされており、項目名でもこの「東上本線」を用いているための措置-->[[川越駅]]は1日約20万人が乗降する、埼玉県内では[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]に次ぐ2位<ref>{{PDFlink|[http://www.bugin-eri.co.jp/doc/r070815.pdf 埼玉県内の主要駅乗降客数の推移(ぶぎん地域経済研究所)]}}</ref>のターミナル駅である。また、近接する西武新宿線[[本川越駅]]と東武東上線・川越市駅を含めると、3駅で約30万人の乗降客数があり、郊外都市としては珍しい繁華街に複数のJR・大手私鉄の駅・路線が分散する商業地として発展した。
一方で、現在中心駅である川越駅は[[1915年]](大正4年)に開業した駅で、中心市街地の駅の中では最遅の開業である。川越線の開業に伴う駅名改称と、市街地の南下により市を代表する駅(現市街地の玄関)となった。
川越駅が中心駅となるまでは、西武の本川越駅や東武の川越市駅周辺が街の中心地及び中心駅で、観光地で有名な旧市街地もこちら側が玄関であり、近い。川越市駅は川越駅より1年早い時期の[[1914年]](大正3年)に開業して、本川越駅は他の2駅より非常に早く[[1895年]](明治28年)に開業している。
[[上杉氏]]が支配していた室町時代には川越街道(現・[[国道254号]])で、江戸時代からは[[新河岸川]]舟運で、江戸と直結した物流の要衝であり、[[1971年]](昭和46年)には埼玉県内で最初の[[高速道路]]として[[関越自動車道]]が[[練馬インターチェンジ|練馬IC]] - [[川越インターチェンジ|川越IC]]間で完成、開通時の名称は「東京川越道路」であった。[[国道16号]](東京環状)や[[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)も通じている。
その他:{{main|川越市の歴史}}
== 人口 ==
{{人口統計|code=11201|name=川越市|image=Population distribution of Kawagoe, Saitama, Japan.svg}}
* [[1886年]]([[明治]]19年)の調査では、川越城下の人口はおよそ15,000人。埼玉県内で唯一、人口が1万人を超えていた。
* [[1902年]](明治35年)の埼玉県人口動態調査では、[[川越町 (埼玉県)|川越町]](当時)の人口はおよそ27,000人で埼玉県内1位。2位の[[熊谷市|熊谷町]]は15,000人、3位の[[本庄町 (埼玉県)|本庄町]]はおよそ9,000人だった。
* [[1920年]]([[大正]]9年)の[[都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#主要都市の人口順位・人口の変遷 (1920年 - 2020年)|第1回国勢調査人口]]では、埼玉県の総人口1,319,533人のうち、川越町は24,675人で県内1位であった。当時の川越町の人口は県庁所在地の浦和町(現・[[さいたま市]][[浦和区]])(11,694人)の2倍以上であった。川越町の町域は当時の市街地の一部に過ぎず、街は町域外に拡大、明治以降、人口は主に旧[[仙波村]]など隣接地で増加していった。
* 埼玉県内の市の数が4市に増えた[[1935年]]([[昭和]]10年)の国勢調査で川越市の人口は35,000人強であり、[[浦和市]]や[[川口市]]などに抜かれ埼玉県内で第3位都市となった。
* [[2005年]](平成17年)の国勢調査で初めて[[所沢市]]に人口で抜かれたが[[2010年]](平成22年)には再び人口で抜き返し県内第3位の都市に返り咲いた
* [[2023年]]([[令和]]5年)現在は約35万人で今後数年は増加傾向が続くが、その後減少に転じると予測される<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kawagoe.saitama.jp/shisei/seisakushisaku/sogokeikaku/gikisogokeikakukouki/kokikeikaku_download.files/bunkatsu_03.pdf |title=高級基本計画 |access-date=2023年12月4日 |publisher=川越市}}</ref>。
=== 昼夜人口比率 ===
[[昼夜人口比率]]は、96.51%(2005年)。
: 県庁所在地・[[さいたま市]]は91.89%。また埼玉県内は[[所沢市]]の85.02%、[[越谷市]]の83.84%、[[上尾市]]の82.92%、[[春日部市]]の80.15%など、70%-80%台の市が大半である。
== 地理 ==
=== 気候 ===
[[ケッペンの気候区分]]では[[温暖湿潤気候]]に属する。1年を通じて穏やかな気候で、年平均[[降水量]]は1352mm、年平均[[気温]]は15.7℃、年平均湿度は70.3%、年平均[[風速]]は2.2m/s。(2016年版統計かわごえ)
一方で、東京都心の[[ヒートアイランド現象]]の影響を受け、夏の猛暑が厳しくなっているとの指摘もある。川越市は[[気象庁]]の精密観測網でカバーされていないが、[[首都大学東京]]などが独自に気温を計測したところ、[[夏日]]の最高気温は酷暑で知られる[[熊谷市|埼玉県熊谷市]]を上回るとの研究結果を2017年6月に発表した<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO17794440W7A610C1CR8000/|title=埼玉・川越が暑さ日本一?首都大東京、独自に観測 |work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』電子版|date=2017年6月16日}}</ref>。
=== 地誌 ===
[[ファイル:Kawagoe city center area Aerial photograph.1984.jpg|thumb|330px|川越市中心部周辺の空中写真。<br/>1984年撮影の13枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
[[都心]]から30km圏に属し、[[北緯]]35度55分30秒、[[東経]]139度29分08秒(市役所のある元町)。市域は東西およそ16.3km、南北およそ13.8km。[[標高]]は元町で海抜18.5m、市の南端が最も高く50.7m、東部が最も低く6.9m、標高差およそ44mである。
[[荒川 (関東)|荒川]]と[[多摩川]]に挟まれた地域を[[武蔵野台地]]と言い、川越はその北東端に位置する。武蔵野台地は[[奥秩父山地]]を[[水源]]とする多摩川が形成した[[扇状地]]である。太古の多摩川([[古多摩川]])は[[東京都]]と[[神奈川県]]の都県境方面ではなく埼玉県西部の[[入間郡]]を横断して流れていた(今の[[入間川 (埼玉県)|入間川]]の流路とほぼ同じ)。武蔵野台地は[[柳瀬川]]以北を特に川越台地と呼び、さらに入間川を超えた北西側を特に入間台地と呼ぶ。南西には[[狭山丘陵]]が接する(狭山丘陵も古多摩川が土砂を堆積してできた丘陵で、狭山丘陵の形成によって多摩川は後に流路を南に変えることになった)。[[河越館]]が築かれたのは入間台地の東限で、[[川越城]]が築城されたのは川越台地の北限である。川越城は地形を利用した[[平山城]]であった。[[1457年]]([[長禄]]元年)に川越城と[[江戸城]]を築城した[[太田道灌]]は、両城を結ぶ防衛ラインとして[[川越街道]]を造った。以来、川越街道より西南側へ[[多摩地域]]までが[[武蔵野]]と呼ばれる地方で、文化的な一体性がある。
川越台地を取り囲むように周囲は低地であり市内からは[[関東平野]]を囲む山々を眺めることができる。[[外秩父|外秩父山地]]や武蔵野台地の武蔵野面(古多摩川が形成した高位の[[河岸段丘]])に降った雨は、入間川や[[新河岸川]]、[[越辺川]]、[[不老川]]、[[小畔川]]、[[赤間川]]など(今では多摩川水系ではなく)荒川水系の幾多の河川を形成し、川越の町を囲むような低地に主に北西方向から南東に流れる。町は台地上に形成され、南側の台地に拡大する余地が残っており、歴史的にも南へ街が広がってきた。[[甲武信ヶ岳]]を源とする荒川は[[江戸時代]]の[[寛永]]の瀬替えにより[[大宮台地]]西側を流れるようになり流量を増やした。荒川は、[[大持山]]から流れ出た入間川と当市内の古谷上で合流し、日本でも最大規模の河川敷を形成する([[国道16号]]の[[上江橋]]は河川にかかる国道の橋としては日本最長である)。このため、「外川」と呼ばれた荒川の対岸の[[大宮市|大宮]]などとは歴史的にも結び付きがあまりない。
川越街道は入間川や荒川を渡ることなく江戸へ通じたので、荒川や[[利根川]]の氾濫に苦しめられた[[中山道]]に劣らず賑わった。「内川」と呼ばれた[[新河岸川]]は江戸へ向って傾斜し[[隅田川]]に合流するので、川筋が整備され[[舟運]]が盛んであった。[[大正]]時代に新河岸川は赤間川と合流され、さらに川越市街を取り巻く形となった(大正時代に新河岸川のルートに[[東武東上本線]]が建設され、舟運は廃された)。こうした河川が市内北部や東部に広大な氾濫地である[[荒川低地]]を作り出し、[[稲作]]地帯となっている。市内東部には埼玉県内最大の自然沼である[[伊佐沼]]もある。旧荒川の流路に沿って自然堤防も形成されている。こうした[[沖積層]]は、地下水位が高く軟弱な粘土や[[シルト]]が厚く分布している。
一方、武蔵野台地(川越台地・入間台地)上にある市内中心部・南部・西部は対照的に[[洪積台地]]となっており、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]や[[浅間山]]の[[火山灰]]が形成した[[関東ローム層]](立川ローム層とその下の武蔵野ローム層)の下には古多摩川が形成した比較的安定した礫層がある。関東ローム層は保水力が無く井戸水に困り、また江戸時代以前は武蔵野台地を水源とする川は[[石神井川]]や不老川など数少なく、その上、瀬切れを起こしやすく台地上では水の確保に苦労した。現在では武蔵野の[[雑木林]]の面影を残し、水はけが良いことから[[畑作]]地帯となっている。
=== 地名の由来 ===
直接の由来は[[平安時代]]に[[河越館]]を構えた豪族[[河越氏]]<ref>[http://www.kawagoe-rekishi.com/info/reki.html 川越歴史博物館のサイトより]</ref>であるが、その由来は古来より諸説ある。
川越は古来より武蔵国の中枢で、諸方に交通の便が拓けていたが川越市街地を川が囲む形となっており、入間川を越えないとたどり着けない地であることから「'''河越'''」と称されたという説や、[[養寿院]]にある銅鐘(国の[[重要文化財]])に「武蔵国河肥庄」という銘があり[[吾妻鏡]]にも[[文治]]2年([[1186年]])の記述に既に「'''河肥'''」の文字があることから入間川の氾濫によって肥沃な地であるからという説、などである。
== 隣接している自治体・行政区 ==
* [[上尾市]]
* [[さいたま市]]([[西区 (さいたま市)|西区]])
* [[ふじみ野市]]
* [[富士見市]]
* [[所沢市]]
* [[狭山市]]
* [[日高市]]
* [[鶴ヶ島市]]
* [[坂戸市]]
* [[入間郡]][[三芳町]]
* [[比企郡]][[川島町]]
== 行政 ==
* 市長:[[川合善明]]([[2009年]][[2月8日]] - 、4期目、元川越市長・[[川合喜一]]の息子)
=== 歴代市長 ===
{|class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日
|-
|style="text-align:center;" |初代
|[[綾部利右衛門]]
|1922年12月1日
|[[1923年]]2月
|-
|style="text-align:center;" |2
|[[武田熊蔵]]
|1923年8月1日
|[[1927年]]7月31日
|-
|style="text-align:center;" |3
|[[寺尾規矩郎]]
|1927年9月22日
|[[1931年]]9月21日
|-
|style="text-align:center;" |4
|[[林寿夫]]
|1931年10月13日
|[[1932年]]1月15日
|-
|style="text-align:center;" |5
|[[早川金十郎]]
|1932年3月1日
|[[1935年]]8月13日
|-
|style="text-align:center;" |6
|[[橋本定五郎]]
|1935年8月17日
|[[1939年]]8月16日
|-
|style="text-align:center;" |7
|[[伊達徳次郎]]
|1939年8月24日
|[[1943年]]8月23日
|-
|style="text-align:center;" |8
|[[渋谷塊一]]
|1943年9月14日
|[[1945年]]3月16日
|-
|style="text-align:center;" |9
|[[河合正臣]]
|1945年4月21日
|[[1946年]]8月16日
|-
|style="text-align:center;" |10-15
|[[伊藤泰吉]]
|1946年10月7日
|[[1965年]]7月31日
|-
|style="text-align:center;" |16-19
|[[加藤瀧二]]
|1965年9月19日
|[[1981年]]1月7日
|-
|style="text-align:center;" |20-22
|[[川合喜一]]
|1981年2月8日
|[[1993年]]2月7日
|-
|style="text-align:center;" |23-26
|[[舟橋功一]]
|1993年2月8日
|[[2009年]]2月7日
|-
|style="text-align:center;" |27-30
|[[川合善明]]
|2009年2月8日
|
|}
=== 名誉市民 ===
* 伊藤泰吉([[朝鮮総督府専売局]]長や[[朝鮮総督府逓信局]]長を歴任。最初の公選市長で、川越市長を連続6期)
* 加藤瀧二([[和歌山県]]経済部長、[[群馬県]]経済部長、[[富山県]]内務部長を歴任、川越市長を連続4期)
* 山崎嘉七([[第八十五国立銀行|八十五銀行]]頭取、[[埼玉銀行]]頭取、川越市議会議長を歴任)
* 川合喜一(川越市長を連続3期)
* [[相原求一朗]]
=== 財政 ===
川越市の2012年度(平成24年度)の[[財政力指数]] 0.95であり、これは埼玉県内全40市の中で、[[戸田市]]、[[和光市]]、[[朝霞市]]、[[八潮市]]、[[所沢市]]、[[さいたま市]]に次いで7番目に高い。2007年度〜2010年度においては財政力指数が1.00を超えていたが、2011年度以降は1.00を下回っている<ref>[https://www.soumu.go.jp/iken/shihyo_ichiran.html 総務省「地方公共団体の主要財政指標一覧」]</ref>。
=== 行政機関 ===
==== 国の出先機関 ====
* [[国土交通省]]
** 荒川上流河川事務所
** 入間川出張所
* [[厚生労働省]]
** 川越[[労働基準監督署]]
** 川越[[公共職業安定所]]
* [[法務省]]
** [[東京法務局|さいたま地方法務局]]川越支局
** [[さいたま地方検察庁]]川越支部
** [[川越区検察庁]]
** [[川越少年刑務所]]
* [[国税庁]]
** 川越[[税務署]]
<gallery>
ファイル:Ministry of Land, Infrastructure and Transport Arakawa upstream River Office.JPG|国土交通省荒川上流河川事務所
</gallery>
==== 特殊法人の機関 ====
* [[日本年金機構]]
** 川越年金事務所
==== 県の出先機関 ====
* 埼玉県川越地方庁舎([[2015年]](平成27年)3月[[ウェスタ川越]]に移転)
** 川越[[県税]]事務所
** 川越農林振興センター
** 西部教育事務所
** 西部環境管理事務所
** 川越比企地域振興センター
** 埼玉県[[消費生活センター|消費生活支援センター]]川越
** 川越建築安全センター
** パスポートセンター川越支所
** 出納総務課川越駐在
* 川越県土整備事務所
* 川越[[家畜保健衛生所]]
==== 県の公社 ====
* [[埼玉県下水道公社]]新河岸川上流水循環センター
* [[埼玉県住宅供給公社]]川越支所
<gallery>
ファイル:Westa-Kawagoe2.jpg|川越地方庁舎が所在するウェスタ川越
ファイル:Saitama Prefecture Shingashigawa upstream water circulation center1.JPG|新河岸川上流水循環センター
ファイル:Saitama Prefecture Kawagoe farm animals Hygiene Center.JPG|川越家畜保健衛生所
ファイル:Kawagoe Land Development Office.JPG|川越県土整備事務所
ファイル:Saitama Prefecture Kawagoe local building.JPG|川越地方庁舎(旧庁舎)
</gallery>
==== 市の機関 ====
{{colbegin|2}}
* [[川越市役所]](これまで、川越市役所出張所設置条例(昭和36年3月29日 条例第7号)によって[[出張所]]が設置されていたが、川越市市民センター条例(平成26年2月3日)により平成26年4月1日から「市民センター」に改称された<ref name="citysenter">[http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1393896890043/index.html 広報川越1314号(2014年3月10日)] 7ページ目「出張所・川鶴連絡所が市民センターになります」</ref>。
** 川越市芳野市民センター<ref>[http://www.city.kawagoe.saitama.jp/shisetsu/kokyoshisetsu/shimincenter/yoshino_center.html 芳野市民センター] 川越市</ref>
** 古谷市民センター
** 南古谷市民センター
** 高階市民センター
** 福原市民センター
** 山田市民センター
** 名細市民センター
** 霞ケ関市民センター
** 霞ケ関北市民センター
** 川鶴市民センター
** 大東市民センター
*: また、出張所を補うものとして、川越市役所連絡所及び証明センター規則(平成3年7月31日 規則第26号)により以下の連絡所が設置されている。
** 南連絡所([[アトレマルヒロ]]1階)
** 本川越駅証明センター([[ペペ (商業施設)|西武本川越ペペ]]2階)
** ウェスタ川越証明センター([[ウェスタ川越]]1階)
[[ファイル:Kawagoecity Water Supply and Sewerage Authority.JPG|thumb|川越市上下水道局]]
[[ファイル:Kawagoe City Public Health Center.JPG|thumb|川越市保健所]]
* 川越市上下[[水道局]]
* 川越市下水道管理センター
* 川越市[[保健所]]
* 川越駅西口土地区画整理事務所
* 川越市道路管理事務所
* 川越市計量検査所
* 川越市生活情報センター
* 川越市市民会館(平成27年6月閉館)
* やまぶき会館
* 川越西文化会館(メルト)
* 川越南文化会館(ジョイフル)
* 北部地域ふれあいセンター
* 東部地域ふれあいセンター
* 市立美術館
* 市立博物館
* 川越駅東口多目的ホール
* 国際交流センター
* 女性活動支援のひろば
* 農業ふれあいセンター
* サンライフ川越・芳野台体育館
* 川越市教育センター(旧・川越市立古谷東小学校)
* 川越市立教育センター分室(リベーラ)
{{colend}}
==== 警察 ====
* 西部機動センター
* [[川越警察署]]
* 少年サポートセンター西分室川越相談室(川越市教育センター分室内)
==== 消防 ====
* [[川越地区消防組合]]
* [[消防団|川越市消防団]]
=== 広域行政 ===
;[[一部事務組合]]
* 川越地区消防組合:比企郡川島町とともに消防・救急、[[火薬類取締法]]・[[液化石油ガスの保安の確保及び取引の適正化に関する法律|液化石油ガス法]]・[[高圧ガス保安法]]に基づく事務を行っている。
;協議会
* [[埼玉県川越都市圏まちづくり協議会]](通称「レインボー協議会」):当市を中心とした3市3町(当市、[[坂戸市]]、[[鶴ヶ島市]]、[[入間郡]][[毛呂山町]]・[[越生町]]、[[比企郡]][[川島町]])で構成し、各市町がそれぞれ進めている地域特性を生かした[[まちづくり]]を広域的視点から互いに連携・協力しながらひとつの都市圏として発展していくことを目指している。例として[[図書館]]などの[[公共施設]]の相互利用、[[広報紙]]の相互掲載、参加市町の観光スポットを紹介した「広域観光ガイド」の発行などを行っている。
** 川越市、坂戸市、鶴ヶ島市、毛呂山町・越生町の5市町は、いわゆる[[ご当地ナンバー]]として「川越」ナンバーを[[2006年]][[10月10日]]に導入した。
** かつて[[日高市]]が所属していたが、令和元年(2019年)度をもって退会した。ただし公共施設の相互利用については継続している。
=== 開発事業 ===
; 川越北環状線事業
: 市街地への車の流入を回避する環状道路の最後の整備区間として[[埼玉県道160号川越北環状線]]が平成31年3月24日(日曜日)15時に全線開通した。
; 駅前整備
:*当市は、市街地3駅の整備計画である「川越駅西口周辺地区基本構想」を策定<ref>[http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1274946357976/index.html 川越駅西口周辺地区基本構想を策定] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130630210150/http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1274946357976/index.html |date=2013年6月30日 }}</ref>。[[川越駅]]の[[ペデストリアンデッキ]]を西口側にも延長する工事が2014年に完工した。川越駅西口側には市有地が多く、都市公園も整備する。また西口に[[高速バス]]や[[スクールバス]]用の[[バスターミナル]]が完成した。
:* [[本川越駅]]西口と西口駅前広場が完成。
:* [[川越市駅]]の[[橋上駅]]化と駅前広場整備、川越市駅西口の建設。川越市駅から本川越間の乗り換えは徒歩11分程度であったが、道路が整備され平成27年度に5分程度に短縮された。([https://web.archive.org/web/20100105215528/http://www.city.kawagoe.saitama.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1155101495053&SiteID=0&ParentGenre=1102904108987 川越市第三次総合計画] より)。
:* [[新河岸駅]]の東口開設は平成29年度末を目標に事業中である([http://www.city.kawagoe.saitama.jp/shisei/toshi_machizukuri/machizukuri/shingashieki_seibi/shingashikyoujyoueki.html 新河岸駅橋上駅舎工事の進捗状況] より)。
:* [[南古谷駅]]や[[西川越駅]]、[[的場駅]]など[[川越線]]の駅やその駅前整備は、未だ手付かずである。
== 司法機関 ==
=== 裁判所 ===
* [[さいたま地方裁判所]] 川越支部
* [[さいたま家庭裁判所]] 川越支部
* [[川越簡易裁判所]]
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|川越市議会}}
* 定数:36人
* 任期:[[2019年]]5月2日 - [[2023年]]5月1日<ref>{{Cite web|和書|date=2018-4-5 |url=https://www.pref.saitama.lg.jp/e1701/ninki.html |title=任期満了日一覧 |publisher=[[埼玉県庁]] |accessdate=2019-2-3 }}</ref>
=== 埼玉県議会 ===
{{Main|埼玉県議会}}
* 選挙区:西7区川越市選挙区
* 定数:4人
* 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日
* 投票日:2019年4月7日
* 当日有権者数:288,266人<ref>{{Cite web|和書|date=2019-4-7 |url=https://www.pref.saitama.lg.jp/e1701/documents/es_tohyok.pdf |title=平成31年4月7日執行 埼玉県議会議員一般選挙 投票調べ |format=PDF |publisher=[[埼玉県庁]] |accessdate=2019-4-14 }}</ref>
* 投票率:35.53%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 中野英幸 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 57 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 27,034票
|-
| 深谷顕史 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 44 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 新 || 22,623票
|-
| 山根史子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 35 || [[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 20,907票
|-
| 守屋裕子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 69 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 元 || 15,242票
|-
| 渋谷真実子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 45 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 15,070票
|}
=== 衆議院 ===
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日(「[[第49回衆議院議員総選挙]]」参照)
{| class="wikitable"
|-
!選挙区!!議員名!!党派名!!当選回数!!備考
|-
| rowspan="2" | [[埼玉県第7区]](川越市など)|| [[中野英幸]] || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 1 || 選挙区
|-
| [[小宮山泰子]] || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 7 || 比例復活
|}
== 姉妹都市・提携都市 ==
* {{Flagicon|JPN}} [[小浜市]]([[福井県]])- [[1982年]][[11月30日]]姉妹都市提携(藩主[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]の縁)
* {{Flagicon|JPN}} [[棚倉町]]([[福島県]][[東白川郡]])- [[1972年]][[1月18日]]友好都市提携(藩主[[松平康英]]の縁)
* {{Flagicon|JPN}} [[中札内村]]([[北海道]][[河西郡]])- [[2002年]][[11月30日]]友好都市提携(川越出身の画家[[相原求一朗]]の縁)
* {{Flagicon|GER}} [[オッフェンバッハ]]市([[ドイツ|ドイツ連邦共和国]][[ヘッセン州]]の古都)- [[1983年]][[8月24日]]姉妹都市提携
* {{Flagicon|USA}} [[セイラム (オレゴン州)|セーラム市]]([[アメリカ合衆国]] [[オレゴン州]]の州都)- [[1986年]][[8月1日]]姉妹都市提携
* {{Flagicon|FRA}} [[オータン市]]([[フランス|フランス共和国]][[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ地方]]の古都。[[ローマ帝国]]初代皇帝[[アウグストゥス]]が建都)- 2002年[[10月18日]]姉妹都市提携
「蔵の街」として知られる[[栃木県]][[栃木市]]、[[千葉県]][[香取市]](旧[[佐原市]])とともに[[小江戸#小江戸サミット|小江戸サミット]]を開くなど、観光面で交流している。
=== 大規模災害時相互応援協定締結都市 ===
* 埼玉県川越都市圏まちづくり協議会(当市、坂戸市、鶴ヶ島市、入間郡毛呂山町・越生町、比企郡川島町)
* [[ファイル:Flag of Takasaki, Gunma.svg|25px]] [[高崎市]]([[群馬県]])
* [[ファイル:Flag of Tanagura, Fukushima.svg|25px]] 棚倉町(福島県東白川郡)
* [[ファイル:Flag of Hachioji, Tokyo.svg|25px]] [[八王子市]]([[東京都]])
== 経済 ==
* 産業人口(2005年[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]より)
** 就業者総数:164,573人
** 第一次産業:3,375人 (2.1%)
** 第二次産業:43,628人 (26.5%)
** 第三次産業:111,160人 (67.5%)
=== 工業 ===
[[1965年]](昭和40年)に[[狭山市]]とともに積極的な工場誘致を行い、当時、日本一の面積であった<ref>[http://www.kawagoesayama.biz-web.jp/aisatsu/index.htm 川越狭山工業会の公式サイトより] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120121131812/http://www.kawagoesayama.biz-web.jp/aisatsu/index.htm |date=2012年1月21日 }}</ref>[[川越狭山工業団地]]が完成、更に[[1980年代]]には[[富士見工業団地]]や[[川越工業団地]]が造成され、市内の住工混在の解消を図っている。[[首都圏中央連絡自動車道]]の[[川島インターチェンジ|川島IC]]に近い市内には、川越第二産業団地の整備も進んでいる。埼玉県内では最大級の工業都市で、[[2014年]]には狭山市を抜いて工場製造品出荷額で1位である(9370億円)。機械類の生産が最多であるが、[[化学工業]]が多いのも特徴である。
* [[エクセディ]] 川越工場
* [[エースコック]] 東京工場
* [[酒井重工業]] 生産センター
* [[サノフィ・アベンティス]] 川越工場
* [[サミー]] 川越工場
* [[サンリッツ]] 川越工場
* [[新報国マテリアル]] 本社、工場
* [[ちふれ化粧品]] 本社、川越工場
* [[デンヨー]] 川越出張所
* [[東洋インキ]] 埼玉製造所
* [[東洋インキSCホールディングス|トーヨーケム]]川越製造所
* [[日清紡ホールディングス|日清紡績]] 川越工場
* [[ノバルティス|ノバルティスファーマ]] 埼玉工場
* [[パイオニア]] 川越事業所(日本で初めて[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]使用型の[[カーナビゲーション]]を開発)
* [[ハスクバーナ・ゼノア]] 本社工場
* [[ヒーハイスト]] 本社、川越工場
* [[本田金属技術]] 本社工場
* [[雪印メグミルク]] 川越工場
=== 本社 ===
* [[イーグルバス]]
* [[エスプリライン]]
* [[亀屋]]
* [[川畑 (企業)|川畑]]
* [[ぎょうざの満洲]]
* 協同商事([[コエドブルワリー]]の製造会社)
* [[くらづくり本舗]]
* [[新報国マテリアル]]
* [[ちふれ化粧品]]
* [[ハスクバーナ・ゼノア]]
* [[ヒーハイスト]]
* [[武州ガス]]
* [[本田金属技術]]
* [[ホンダ製菓]]
* [[丸広百貨店]]
* [[ヤオコー]]
* GSユアサインフラシステムズ
* ホシノ医療器
=== 農業 ===
* [[サツマイモ]]
** [[紅赤]](べにあか) 埼玉生まれの品種。
* [[サトイモ]]
* [[カブ]](収穫量で埼玉県内1位)
* [[枝豆]](収穫量で埼玉県内1位)
* [[チンゲンサイ]](収穫量で埼玉県内1位)
* [[コマツナ]]
* [[ダイコン|大根]]
* [[ホウレンソウ]](収穫量で[[深谷市]]に次いで埼玉県内2位)
* [[ニンジン]]
* [[ゴボウ]]
* [[米]]
* [[コムギ|小麦]]
など。
* 江戸時代の[[寛政|寛政年間]]に[[石焼き芋|焼き芋]]が流行(それまでは蒸したサツマイモだった)、[[文化 (元号)|文化年間]]に焼き芋屋の宣伝コピーとして、「'''栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)'''」と謳われた程のサツマイモの名産地であった。将軍・[[徳川家治]]に献上されて「[[川越芋]]」の名がついた、と言われる。主要地は市内南西部。次第に栽培の容易な「紅あずま」や[[サトイモ]]、葉物野菜などへの作物転換が行われるようになっていったが、近年では幼稚園や小学校の「いも掘り遠足」(農業体験型の観光藷掘り)が盛んになっている。
* 有志により「[[川越いも友の会]]」が結成され、[[10月13日]]を「サツマイモの日」に制定し、川越芋を復興する取り組みで[[1999年]]([[平成]]11年)に「[[サントリー文化財団|サントリー地域文化賞]]」を受賞した。現在の会長は世界的なサツマイモ研究の権威で川越在住のアメリカ人・[[ベーリ・ドゥエル]][[東京国際大学]]教授<ref>{{Cite news |url=http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20070623vk.html |title=Barry Duell |language=英語 |newspaper=The Japan Times Online |publisher=ジヤパンタイムズ |date=2007-06-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071013174130/http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20070623vk.html |archivedate=2007年10月13日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。
* サツマイモと並んで当市の特産物であったのが[[カキノキ|柿]]で、老中の[[秋元喬知]]が[[甲斐国]]から川越藩主に転封され川越で殖産政策を行って盛んになった。特に[[神奈川県]][[川崎市]]で誕生した甘柿の[[禅寺丸]]の大産地として有名だったが、戦後廃れてしまった。
* 現在では、南西の台地上に位置する福原・大東地区を中心に葉物野菜が、北や東の川沿い低湿地の芳野・山田・名細・田面沢、古谷を中心に稲作が行われている。当市は山地がない平坦地なため2,693haと埼玉県下最大の経営耕地面積を有する。[[近郊農業]]地域で野菜と米の出荷量が多く、当市の農業産出額は[[深谷市]]・[[熊谷市]]・[[本庄市]]に次いで埼玉県内第4位である([[2009年]])。当市は埼玉県内で商業、工業、農業の産業バランスが良い市とされ、農業従事者も埼玉県平均より[[青年]]層が多く、[[高齢化]]の割合が少ないのが特色となっている。
* 「小江戸川越ブランド産品」の認定制度があり、小江戸川越黒豚や小江戸川越地鶏などを育てている。特産品開発の先進的な取組みを[[農林水産省]]と[[経済産業省]]が共同で支援・表彰する「[[農商工連携|農商工連携88選]]」に、埼玉県内からは「[[コエドブルワリー]]」([[地ビール]])と「ひびき」(やきとり・彩の国黒豚)の当市の2社だけが選出された。[[2010年]](平成22年)には[[川越城]]址近くに[[いるま野農業協同組合|JAいるま野]]の「あぐれっしゅ川越」がオープン、地元農産物の大型直売センターで賑わっている。
=== 商業 ===
[[ファイル:Kawagoe-CreaMall.jpg|thumb|200px|川越駅東口・[[クレアモール]]]]
[[ファイル:Kawagoe mine 20070713.jpg|thumb|200px|川越マイン]]
[[ファイル:丸広川越本店クレアモール側.jpg|thumb|200px|丸広本店・本館クレアモール側]]
川越市の[[小売|小売業]]の[[日本の年間商品販売額一覧#自治体別|年間商品販売額]]は、[[さいたま市]]・[[川口市]]に次いで埼玉県内第3位である(2009年)。
* また川越駅東口から北へ伸びる[[商店街]]「[[クレアモール]]」(川越サンロード商店街と川越新富町商店街の統一名)は関東地方でも有数の集客力を持つ商店街。地元の若年層・近隣から通学してくる高校・大学生や高齢者層まで平日でも人通りが多く、商店街の通行量調査では埼玉県で1位となっている<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/100405/stm1004052055008-n1.htm |title=埼玉県内商店街通行量調査 川越のサンロード、新富町が1、2位独占 |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2010-04-05}}{{リンク切れ|date=2013年5月}}</ref>。クレアモールは電線が地中化、[[御影石]]舗装で店舗とは[[バリアフリー]]化が成されている。[[ストリートミュージシャン]]も登場する。クレアモールは、中央通り、大正浪漫夢通り、川越一番街へと続き、全長は2kmを超える。
; 主な商業施設
* [[クレアモール]]
* [[丸広百貨店川越店]]
** [[ソフマップ]](マルヒロアネックス内)
** [[紀伊國屋書店]](マルヒロアネックス内)
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]川越東口店(川越駅近くの店舗)
** [[ユザワヤ]](丸広百貨店別館内)
* [[アトレマルヒロ]]
* 川越[[東武ストア|マイン]]([[東武グループ|東武]]系列)
* 川越[[ルミネ]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]系列)[[川越駅]]の駅ビル
* エキア川越([[東武鉄道]]系列)川越駅の駅ナカ
* [[PePe]]([[西武グループ|西武]]系列)西武[[本川越駅]]の駅ビル
* [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]] 食品館川越店
* [[ウニクス川越]]:川越駅西口近くのショッピング・モール。劇場・コンサートホールがある[[ウェスタ川越]]も同敷地内
**[[ノジマ]]ウニクス川越店
* [[ウニクス南古谷]]:JR川越線[[南古谷駅]]近くのショッピング・モール。
** [[ユナイテッド・シネマ]]ウニクス南古谷
** ウニクスボウル
* [[中小企業庁]]は日本の「[[がんばる商店街77選]]」に、当市内の7つの商店街を選定している。
* 川越駅西口ルミネに隣接する旧埼玉りそな銀行川越南支店跡地に三菱レジデンス・大栄不動産による25階建ての複合商業ビル建設予定。
=== メディア ===
{{colbegin|2}}
* [[時事通信社]]・川越支局
* [[日刊工業新聞|日刊工業新聞社]]・川越支局
* [[朝日新聞社]]・西埼玉支局
* [[毎日新聞社]]・埼玉西支局
* [[読売新聞東京本社]]・川越支局
* [[産業経済新聞社]]([[産経新聞]])・川越通信部
* [[埼玉新聞|埼玉新聞社]]・県西総局
* [[東京新聞]]([[中日新聞東京本社]])・川越通信部
* 週刊埼玉・本社
* [[NHKさいたま放送局]]さいたま西営業センター
* [[ジェイコム埼玉・東日本]]川越営業事務所(旧・[[川越ケーブルビジョン]]→[[JCN関東]]川越支局→[[J:COM 川越]]→現・[[J:COM 東上・川越]])
* [[ラジオ川越]](88.7MHz){{colend}}
== 地域 ==
=== 町名・大字 ===
{{Main|川越市の町名#地区別の町・大字一覧}}
=== 健康 ===
* 平均年齢:40.7歳(男39.8歳、女41.7歳)
=== 教育 ===
==== 幼稚園 ====
{{Multicol}}
* あおば幼稚園
* あそか幼稚園
* 岡田幼稚園
* かすみ幼稚園
* 霞ヶ関幼稚園
* 川越幼稚園
* 川越あさひ幼稚園
* 川越白ゆり幼稚園
* 川越なかよし幼稚園
* 川越ひばり幼稚園
* 川越第二ひばり幼稚園
* [[川越双葉幼稚園]]
* 南双葉幼稚園
* 川鶴ひばり幼稚園
* 新河岸幼稚園
* 高階幼稚園
{{Multicol-break}}
* 東光幼稚園
* ながさわ幼稚園
* のぞみ幼稚園
* 初雁幼稚園
* ひかりの子幼稚園
* ひつじ幼稚園
* 第二ひつじ幼稚園
* 日の丸幼稚園
* [[学校法人ひまわり学園 (埼玉県)|ひまわり幼稚園]]
* ひまわり東幼稚園
* ひまわり南幼稚園
* ふくはら幼稚園
* ふじま幼稚園
* 藤原白百合幼稚園
* みよしの幼稚園
* ルンビニ幼稚園
{{Multicol-end}}
==== 小学校 ====
'''公立'''
* [[川越市立新宿小学校]]
* [[川越市立泉小学校]]
* [[川越市立今成小学校]]
* [[川越市立牛子小学校]]
* [[川越市立上戸小学校]]
* [[川越市立大塚小学校]]
* [[川越市立霞ヶ関北小学校]]
* [[川越市立霞ヶ関小学校]]
* [[川越市立霞ヶ関西小学校]]
* [[川越市立霞ヶ関東小学校]]
* [[川越市立霞ヶ関南小学校]]
* [[川越市立川越小学校]]
* [[川越市立川越第一小学校]]
* [[川越市立川越西小学校]]
* [[川越市立仙波小学校]]
* [[川越市立高階北小学校]]
* [[川越市立高階小学校]]
* [[川越市立高階西小学校]]
* [[川越市立高階南小学校]]
* [[川越市立大東西小学校]]
* [[川越市立大東東小学校]]
* [[川越市立中央小学校]]
* [[川越市立月越小学校]]
* [[川越市立寺尾小学校]]
* [[川越市立名細小学校]]
* [[川越市立広谷小学校]]
* [[川越市立福原小学校]]
* [[川越市立古谷小学校]]
* [[川越市立南古谷小学校]]
* [[川越市立武蔵野小学校]]
* [[川越市立山田小学校]]
* [[川越市立芳野小学校]]
'''私立'''
* [[星野学園小学校]]
==== 中学校 ====
'''公立'''
* [[川越市立霞ヶ関中学校]]
* [[川越市立霞ヶ関西中学校]]
* [[川越市立霞ヶ関東中学校]]
* [[川越市立川越第一中学校]]
* [[川越市立川越西中学校]]
* [[川越市立鯨井中学校]]
* [[川越市立城南中学校]]
* [[川越市立砂中学校]]
* [[川越市立高階中学校]]
* [[川越市立高階西中学校]]
* [[川越市立大東中学校]]
* [[川越市立大東西中学校]]
* [[川越市立寺尾中学校]]
* [[川越市立名細中学校]]
* [[川越市立野田中学校]]
* [[川越市立初雁中学校]]
* [[川越市立東中学校]]
* [[川越市立福原中学校]]
* [[川越市立富士見中学校]]
* [[川越市立南古谷中学校]]
* [[川越市立山田中学校]]
* [[川越市立芳野中学校]]
'''私立'''
* [[秀明中学校・高等学校|秀明中学校]]※中高併設
* [[城西川越中学校・城西大学付属川越高等学校|城西川越中学校]]※中高併設
* [[星野学園中学校・星野高等学校|星野学園中学校]]※中高併設
* [[城北埼玉中学校・高等学校|城北埼玉中学校]]※中高併設
==== 高等学校 ====
; 川越市立
:* [[川越市立川越高等学校]](旧・埼玉県川越商業高等学校)
:
; 埼玉県立
:* [[埼玉県立川越高等学校]]
:* [[埼玉県立川越女子高等学校]]
:* [[埼玉県立川越工業高等学校]]
:* [[埼玉県立川越総合高等学校]](旧・埼玉県立川越農業高等学校)
:* [[埼玉県立川越南高等学校]]
:* [[埼玉県立川越西高等学校]]
:* [[埼玉県立川越初雁高等学校]]
:
; 私立
:* [[星野学園中学校・星野高等学校|星野高等学校]](旧・星野女子高等学校)※中高併設
:* [[山村学園高等学校]](旧・山村女子高等学校)
:* [[東邦音楽大学附属東邦第二高等学校]]
:* [[城西川越中学校・城西大学付属川越高等学校|城西大学付属川越高等学校]]※中高併設
:* [[秀明中学校・高等学校|秀明高等学校]]※中高併設
:* [[城北埼玉中学校・高等学校|城北埼玉高等学校]]※中高併設
:* [[川越東高等学校]]
:* [[霞ヶ関高等学校]]
==== 特別支援学校 ====
* [[川越市立特別支援学校]](旧・川越市立養護学校)
* [[埼玉県立川越特別支援学校]]
* [[埼玉県立特別支援学校塙保己一学園]](旧・埼玉県立盲学校)
==== 大学 ====
* [[東洋大学]]・[[東洋大学川越キャンパス|川越キャンパス]]
* [[東京国際大学]]・第1キャンパス、第2キャンパス
* [[東邦音楽大学]]・川越キャンパス
* [[尚美学園大学]]・川越キャンパス
* [[埼玉医科大学]]・川越キャンパス
* [[日本キリスト教会神学校]]
当市など埼玉県西部にある各大学は[[彩の国大学コンソーシアム]]を結び単位互換制度や公開講座を実施している。
当市では、「育英資金」という奨学金制度がある。なお、本奨学金は返還義務が伴う。また、「川越市交通遺児奨学金」制度があり、本制度は小中学生対象の給付型である。
'''かつて存在していた学校'''
* [[川越市立古谷東小学校]]([[2009年]]3月31日閉校)
=== 学校教育以外の施設 ===
==== 職業能力開発校 ====
* [[埼玉県立川越高等技術専門校]]
==== 図書館 ====
市内には[[図書館]]が4か所、図書配本所が2か所、図書分室が1か所ある。また都市部での[[移動図書館]]は少ない中、「やまぶき号」が[[2007年]]3月まで運行されていた。かつては、川越駅西口から徒歩5分の場所にある川越福祉センター([[2008年]][[3月15日]]閉館)向かいに[[埼玉県立図書館|埼玉県立川越図書館]]が長年運営されてきたが、[[2003年]][[3月31日]]をもって廃止された。
* [[川越市立図書館]]
** 中央図書館
** 西図書館
** 高階図書館
** 川越駅東口図書館
** 霞ヶ関北配本所
** 高階南配本所
** 霞ヶ関南分室
図書館の広域自治体間相互利用協定により、以下の市民にも開かれている。
* [[ふじみ野市]]
* [[狭山市]]
* [[さいたま市]]
* レインボー協議会構成市町([[坂戸市]]、[[鶴ヶ島市]]、[[日高市]]、[[比企郡]][[川島町]]、[[入間郡]][[毛呂山町]]、入間郡[[越生町]])
*: レインボー協議会構成市町の住民は、書籍のみでAV資料は貸出されない。
==== 博物館・美術館 ====
[[ファイル:Kawagoe city museum.jpg|thumb|200px|right|[[川越市立博物館]]]]
[[ファイル:Kawagoe City Art Museum.JPG|thumb|200px|[[川越市立美術館]]]]
* [[川越市立博物館]]
*: 古代からの当市の歴史や文化・民俗・産業を年代順に展示。特に川越城や城下町の仕組み、新河岸川舟運、江戸時代の職人の技術や明治の蔵造りの町並み再現など。当市在住で[[時代考証]]家の[[稲垣史生]]も市立博物館開設に貢献した。[[柳沢吉保]]、[[荻生徂徠]]など川越に暮らし活躍した人物に焦点を当てるなど、企画展にも力を入れている。
* [[川越市立美術館]]
*: [[小村雪岱]]、[[小茂田青樹]]、[[岩崎勝平]]、[[相原求一朗]]など川越生まれの画家や、[[橋本雅邦]]、[[井上安治]]など川越藩の画家の作品を収蔵・展示。
* [[ヤオコー川越美術館]]
*: 当市に本社を置く[[ヤオコー]]が創業120周年を記念した[[メセナ]]として開設。現代リアリズムの洋画家・[[三栖右嗣]]の作品を中心に収蔵。ショップやカフェも併設。建物の設計は[[伊東豊雄]]。
* [[川越市産業観光館]]([[小江戸蔵里]])
*: [[越後杜氏]]が[[1875年]](明治8年)に創業した造り酒屋「鏡山酒造」跡地で[[クレアモール]]に面している。鏡山酒造の[[日本酒#特定名称酒|大吟醸]]は鑑評会で金賞の常連で[[日本航空]]のファーストクラスで振舞われていた。現在は市の所有で、白壁塗りの「明治蔵」「大正蔵」「昭和蔵」という3つの時代の酒蔵(いずれも国の登録有形文化財)などが市の特産品施設やカフェ・レストラン・ギャラリーとして整備された。ジャズコンサートなども催される。
* [[川越市蔵造り資料館]]
* [[川越まつり会館]]
==== 公民館 ====
市内には[[公民館]]が17か所と常勤職員が常駐しない分館が1か所、分室が1か所ある。またこの他に町内公民館と定義づけされた自治会集会所がある。
なお、名細公民館の分館として長く使用された川越市下広谷南公民館は名細公民館の移転に伴って廃止された。
* 単立館・併設館
** 川越市中央公民館
** 川越市南公民館
** 川越市北公民館
** 川越市芳野公民館 芳野市民センターと併設
** 川越市古谷公民館 古谷市民センターと併設
** 川越市南古谷公民館 南古谷出張所と併設
** 川越市高階公民館 2008年(平成20年)5月1日開館の複合施設「高階市民センター」内に併設
** 川越市高階南公民館
** 川越市福原公民館 福原市民センターと併設
** 川越市大東公民館 2014年(平成26年)5月7日開館の複合施設「大東市民センター」内に併設
** 川越市大東南公民館
** 川越市山田公民館 山田市民センターと併設
** 川越市名細公民館 2009年(平成21年)11月30日開館の複合施設「名細市民センター」内に併設
** 川越市霞ヶ関公民館 霞ヶ関市民センターと併設
** 川越市霞ヶ関北公民館 霞ヶ関北市民センターと併設(組織上は併設になっているが現在のところ建っているのは別の場所)
** 川越市伊勢原公民館 霞ヶ関北小学校・西図書館と併設
** 川越市川鶴公民館 川鶴市民センターと併設
* 分館・分室
** 川越市さわやか活動館
** 川越市中央公民館分室([[小泉八雲]]ゆかりの建物を大正時代に川越に移築した屋敷)
==== 公共福祉施設 ====
市内には市民会館が1か所、文化会館が2か所、運動公園、武道館、葬祭場が各1ヶ所ある。施設の運営維持管理は [https://web.archive.org/web/20100527232007/http://www.kawagoe-shisetukanrikousya.or.jp/index.htm 財団法人川越市施設管理公社] が行っている。また、文化会館の小規模なものとして住民管理方式を取り入れた地域ふれあいセンターが2か所ある。なお、[[1974年]][[11月11日]]より33年余りにわたって運営されてきた [http://www2.ocn.ne.jp/~kwg-sc/kashikan/ 川越福祉センター](川越駅西口徒歩5分)は、2008年3月15日をもって廃止された。
* 川越市やまぶき会館([http://www.kfp.or.jp/w00/pdf/shiminheikan.pdf 川越市民会館] はウェスタ川越の開設に伴い平成27年6月30日閉館)
* 川越南文化会館(ジョイフル)
* 川越西文化会館(メルト)
* [[川越運動公園]]
** 総合体育館
** 陸上競技場
** テニスコート
* 川越武道館
* 川越福祉センター
* 川越市民聖苑やすらぎのさと
* 川越市北部地域ふれあいセンター(川越市山田)
* 川越市東部地域ふれあいセンター(川越市並木、川越税務署隣)
=== 電話番号 ===
[[市外局番]]は'''049'''であり、坂戸市、鶴ヶ島市、富士見市(水谷東二丁目・三丁目以外)、ふじみ野市、入間郡全域、比企郡川島町、[[鳩山町]]と同一(川越MA)。荒川左岸の古谷上の一部は'''048'''。
=== 郵便 ===
[[日本の郵便番号|郵便番号]]は市内全域が「350-00xx,08xx,11xx」である。
; 日本郵便の主な郵便局
:* [[川越郵便局 (埼玉県)|川越郵便局]]
:* [[川越西郵便局]]
== 娯楽・レジャー施設 ==
=== 映画館 ===
* [[川越スカラ座]]
*: 埼玉県最古の映画館。一度閉鎖されるも、[[特定非営利活動法人|NPO法人]]プレイグラウンドにより賛助会員を募集することで再開を果たす。
* [[ユナイテッド・シネマ|ユナイテッド・シネマ ウニクス南古谷]]
*: [[ウニクス南古谷]]にある。9スクリーンの[[シネマコンプレックス]]。
; 閉館した映画館
:* [[シアターホームラン]](旧称:川越ホームラン劇場。[[2006年]][[2月19日]]閉館)
:* 川越プラザ(旧鶴川座)
=== ゴルフ場 ===
* [[霞ヶ関カンツリー倶楽部]]
*: [[1929年]]([[昭和]]4年)に開場した埼玉県最初のゴルフ場。日本で最も歴史のあるゴルフ場の1つで、36ホールを備えたのは日本で最初。[[1957年]](昭和32年)には日本で初めて開催されたゴルフの[[ワールドカップ (ゴルフ)|ワールドカップ]](第5回大会)の舞台となったコース。[[2020年]]の[[2020年夏季オリンピック|東京オリンピック]]では[[ゴルフ]]会場として使用された。(民間施設では唯一の五輪大会会場)<ref>[http://www.alba.co.jp/tour/news/article/no=25598 2020年東京五輪決定 ゴルフ会場は霞ヶ関カンツリー倶楽部]</ref>。
=== その他 ===
* [[川越水上公園]]
* [[伊佐沼|伊佐沼公園]]
=== スポーツチーム ===
* [[COEDO KAWAGOE F.C]] - 2024年シーズンより[[関東社会人サッカーリーグ]]2部に昇格する予定の社会人サッカークラブ。
== 交通 ==
[[ファイル:LineMap TokyoKawagoe.png|250px|right|thumb|東京都心 - 川越間の競合路線]]
[[江戸時代]]から入間地区の交通の要衝として発達しており、周辺各都市への交通が中心部から放射状に発達しているものの、市内環状道路の整備や、主要道路の拡幅が今後の課題となっている。
=== 鉄道路線 ===
; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
* [[川越線]]
** [[南古谷駅]] - [[川越駅]] - [[西川越駅]] - [[的場駅]] - [[笠幡駅]]
; [[東武鉄道]]
* [[東武東上本線|東上本線]]
** [[新河岸駅]] - 川越駅 - [[川越市駅]] - [[霞ヶ関駅 (埼玉県)|霞ヶ関駅]] - [[鶴ヶ島駅]]
*** 鶴ヶ島駅の所在地は[[鶴ヶ島市]]だが、ホームが川越市に掛かる。
; [[西武鉄道]]
* [[西武新宿線|新宿線]]
** [[南大塚駅]] - [[本川越駅]]
川越駅、川越市駅、本川越駅の3駅が川越市の中心市街地にある。[[JTBパブリッシング]]や[[交通新聞社]]の[[時刻表]]における市の代表駅は、市内で最も乗降人員が多い川越駅となっており、東上線と川越線の2路線を合算した一日平均乗降人員は約20万人である。旧市街・時の鐘へは本川越駅が最寄駅で、開業年度も1895年と市内の鉄道駅では最も古い。
3路線とも都心方面に直結しているが、このうち東武東上線は東京メトロ有楽町線・東京メトロ副都心線との相互直通運転を行っており、線形も直線的で所要時間が短く、総じて利便性が高い。2019年のダイヤ改正で川越特急の運行を開始し、観光列車として一部の列車に[[コンシェルジュ]]が添乗する。
市域を東西に横断する川越線は単線であり、他の2路線と比較して本数が格段に少なく、早朝を除いて川越駅を境に運転系統が分断されている。残る西武新宿線は他2路線への駅に直接乗り換えができず、本川越駅から川越駅または川越市駅への徒歩連絡を要する。いずれも乗り換えに徒歩10分程度を要する状況が続いていたが、2016年に本川越駅西口が開設されたことにより、本川越駅から川越市駅までの乗り換えが徒歩5分程度に短縮された。
==== 廃線 ====
; 西武鉄道
* [[西武大宮線|大宮線]](1906年4月16日廃止)
** [[川越久保町駅]] - [[成田山前駅]] - [[二ノ関駅]] - [[沼端駅]] - [[黒須駅 (埼玉県古谷村)|黒須駅]] - [[芝地駅]]
* [[西武安比奈線|安比奈線]](2017年5月31日廃止)
** 南大塚駅 - [[安比奈駅]]
; [[埼玉県営鉄道]]
* 県営の砂利採取事業のため[[東武東上線]]から[[入間川 (埼玉県)|入間川]]まで路線があった。
** [[霞ヶ関駅 (埼玉県)|霞ヶ関駅]] - 砂利採取場
[[西武新宿線|旧・西武鉄道]]は[[1925年]]([[大正]]14年)に、入間川からの砂利輸送が目的で[[南大塚駅]]から安比奈線を開通させた。入間川には、安比奈線と埼玉県営鉄道の2つが対岸の東武と西武の駅から向かい合うように延びていた。
[[1950年]](昭和25年)に電化され蒸気機関車から電気機関車に変ったが、その貨物輸送も[[1967年]](昭和42年)で廃止された。その後半世紀近くにわたって休止扱いであったが、[[2016年]](平成28年)[[11月30日]]を以て廃止された<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFL10HJ9_Q6A210C1000000/ 西武HD、安比奈線の廃止決定 半世紀の謎に決着 関連で減損126億円] 日本経済新聞 2016年2月10日</ref><ref name="nikkei160210">[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFL10HJ9_Q6A210C1000000/ 西武HD、安比奈線の廃止決定 半世紀の謎に決着 関連で減損126億円] - 日本経済新聞 2016年2月10日</ref><ref>[http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1328081 2016年3月期 第3四半期 決算実績 概況資料] 25-26ページ - 西武ホールディングス 2016年2月10日</ref>。
=== バス ===
[[ファイル:Eaglebus111.jpg|thumb|200px|right|小江戸巡回バス]]
* 路線バス
** [[イーグルバス]]
** [[東武バス|東武バスウエスト]]
** [[西武バス]]
**: [[国際興業バス]]が[[1995年]]1月まで路線バスを運行をしていたが、西武バスに移管をした。
* [[コミュニティバス]]
** 川越市コミュニティバス「[[川越シャトル]]」([[東武バスウエスト川越営業事務所]]・[[西武バス川越営業所]]に運行委託)
* 市内観光バス
** イーグルバス:小江戸巡回バス(レトロな[[ボンネットバス]]で市内の名所を巡回している。車内アナウンスは英語・中国語に対応。1日フリー乗車券がある)。
** 東武バスウエスト:小江戸名所めぐりバス(1日乗り放題のバス)。
* 高速バス
** [[川越観光自動車]]・東武バスウエスト・[[千葉交通]]:川越駅西口 - [[成田国際空港|成田空港]]
** イーグルバス・西武バス・[[東京空港交通]]:本川越駅 - 川越駅西口 - [[東京国際空港|羽田空港]]
** 東武バスウエスト・[[京成トランジットバス]]:本川越駅 - 川越駅西口 - [[東京ディズニーシー]] - [[東京ディズニーランド]]
** [[日本中央バス]]:川越駅西口 - [[富山駅|富山駅前]] - [[金沢駅|金沢駅前]] - 兼六坂
** 西武バス・[[富士急行#バス営業所・地域子会社|富士急行観光]]:川越駅西口 - [[富士急ハイランド]] - [[河口湖駅]] - [[富士山駅]]
** [[関越交通]]:川越的場BS - [[沼田市|沼田]] - [[尾瀬|尾瀬戸倉]] - [[尾瀬|大清水]](尾瀬号)
** 西武バス・[[越後交通]]:川越的場BS - [[湯沢インターチェンジ (新潟県)|湯沢]] - [[長岡北バスストップ|長岡北]] - [[三条燕インターチェンジ|三条燕]] - [[新潟駅|新潟駅前]] - [[万代シテイバスセンター]](新潟線)
** 西武バス・[[頸城自動車]]・越後交通:川越的場BS - [[柏崎駅|柏崎駅前]] - [[頸城バスストップ|頸城]] - [[高田駅 (新潟県)|高田駅前]] - [[直江津]](イトーヨーカドー前)(上越線)
** 西武バス・[[富山地方鉄道|富山地鉄]]:川越的場BS - [[黒部インターチェンジ|黒部]] - [[富山駅|富山駅前]](富山線)
** 西武バス・[[加越能バス]]:川越的場BS - [[砺波駅|砺波駅南]] - [[高岡駅|高岡駅前]] - [[氷見]] (氷見線)
** 西武バス・[[北陸鉄道]]・[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]・[[西日本JRバス]]:川越的場BS - [[金沢駅]](金沢線)
** 西武バス・[[長電バス]]:川越的場BS - [[屋代バスストップ|屋代]] - [[長野駅|長野駅前]] - [[権堂駅|権堂]] - [[柳原駅 (長野県)|柳原]](長野線)
** 西武バス・[[千曲バス]]:川越的場BS - [[軽井沢プリンスホテル]] - [[軽井沢駅|軽井沢駅前]] - [[中軽井沢駅]] - [[御代田駅|御代田駅前]] - [[小諸駅|小諸駅前]](軽井沢線)
** 西武バス・千曲バス:川越的場BS - [[佐久平駅|佐久平駅前]] - [[中込駅|中込駅前]] - [[臼田駅]](佐久線)
** 西武バス・千曲バス:川越的場BS - [[富岡インターチェンジ|富岡]] - [[下仁田インターチェンジ|下仁田]] - [[松井田妙義インターチェンジ|松井田]] - [[佐久インターチェンジ|佐久]] - [[小諸高原バスストップ|小諸高原]] - [[上田駅|上田駅前]] - 上田営業所(上田線)
** 日本中央バス:川越的場BS - [[道の駅ららん藤岡|藤岡]] - [[高崎駅]]東口 - [[前橋駅]]南口 - 前橋バスターミナル(前橋線)
* 深夜急行バス
** 東武バスウエスト:[[池袋駅|池袋駅西口]] - [[志木駅]]南口 - 川越駅東口 - 本川越駅 - 神明町車庫(ミッドナイトアロー川越号)
** 東武バスウエスト:川越駅東口 - 本川越駅 - [[坂戸駅]]北口 - [[東松山駅]] - [[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]]南口(ミッドナイトアロー東松山・森林公園号)
=== タクシー ===
* 練馬タクシー川越営業所
* [[第一交通産業|埼玉第一交通]]川越営業所
* [[西武ハイヤー]]川越営業所
* 川越乗用自動車
* 三共交通
* 初雁交通
* 富士見ハイヤー
* 東上ハイヤー
[[タクシーの営業区域]]は県南西部交通圏で、[[所沢市]]・[[東松山市]]・[[飯能市]]・[[和光市]]などと同じエリアとなっている。
=== 道路 ===
{{colbegin|2}}
; [[高速道路]]
* [[関越自動車道]]:[[川越インターチェンジ|川越IC]]、[[川越的場バスストップ|川越的場BS]]
* [[首都圏中央連絡自動車道]]:市内に道路が延びている。インターチェンジは、川島町の[[川島インターチェンジ|川島IC]]の出口標識が「川島 東松山 '''川越'''」となっていて国道254号経由で北方より市内に入れるほか、鶴ヶ島市の[[圏央鶴ヶ島インターチェンジ|圏央鶴ヶ島IC]]は笠幡地区にほど近い位置にある。
; [[一般国道]]
* [[国道16号]](旧道、[[川越バイパス (国道16号)]])
* [[国道254号]]([[川越街道]]) - [[富士見川越バイパス]]、[[川越バイパス (国道254号)]])
* [[国道407号]](笠幡地区を掠めている)
; [[県道]]
* [[主要地方道]]
** [[埼玉県道6号川越所沢線]](かわとこ線)
** [[埼玉県道8号川越入間線]](茶つみ通り)
** [[埼玉県道12号川越栗橋線]](川栗線)
** [[埼玉県道15号川越日高線]]
** [[埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線]]
** [[埼玉県道51号川越上尾線]]
* [[都道府県道|一般県道]]
** [[埼玉県道113号川越新座線]]
** [[埼玉県道114号川越越生線]]
** [[埼玉県道155号さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道線]](荒川サイクリングロード)
** [[埼玉県道157号川越狭山自転車道線]](入間川サイクリングロード)
** [[埼玉県道160号川越北環状線]]
** [[埼玉県道180号南古谷停車場線]]
** [[埼玉県道229号本川越停車場線]]
** [[埼玉県道246号川越市停車場線]]
** [[埼玉県道256号片柳川越線]]
** [[埼玉県道260号鯨井狭山線]]
** [[埼玉県道261号笠幡狭山線]]
** [[埼玉県道335号並木川崎線]]
** [[埼玉県道336号今福木野目線]]
** [[埼玉県道339号平沼中老袋線]]
{{colend}}
== 町並み保存 ==
[[ファイル:Kawagoe Ichibangai1.jpg|thumb|川越一番街(2010年4月20日撮影)]]
* 川越一番街を中心とする旧市街地は、[[グッドデザイン賞]]の第1回「アーバンデザイン賞」([[1999年]])を受賞している。昭和50年代に仲町のマンションに端を発した旧市街地の高層マンション乱立に危機感を持った市民が建設反対運動を展開した。市民に加え、[[1974年]]から川越を舞台に活動してきた[[日本建築学会]]・都市計画の専門家・芸術家・川越[[日本青年会議所|青年会議所]]・川越[[商工会議所]]・市役所職員などが[[特定非営利活動法人|NPO法人]]「[[川越蔵の会]]」を結成。さらに商店街住民が中心となって「町並み委員会」を結成、[[都市計画家]]の[[クリストファー・アレグザンダー]]の「[[パタン・ランゲージ]]」の考えを下敷きに「町づくり規範」を策定した。こうした[[イギリス]]の[[ナショナルトラスト]]の影響を受けた市民が、行政に代わって文化財保存運動と衰退していた街の活性化を進めたことが高く評価された受賞であった。「川越蔵の会」は「[[全国町並み保存連盟]]」でも中心的な役割を果たし、[[2010年]](平成22年)には「地域づくり[[総務大臣]]表彰」を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.qualitysaitama.com/?p=12452 |title=蔵の街川越・屋台骨は、やはり住民パワー 「川越蔵の会・総務大臣表彰」 |work=クオリティ埼玉 |publisher=日本電子新聞社 |date=2011-01-17 |accessdate=2013-06-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111208223612/http://www.qualitysaitama.com/?p=12452 |archivedate=2011年12月8日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。また[[西郷真理子]]も川越の蔵造り保存運動に参画<ref>{{Cite web|和書|url=http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20091204/105105/ |title=「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2010」が決定 大賞は高松、川越、長浜などで地方再生を手がけた西郷真理子さん |work=日経ウーマンオンライン |publisher=日経BP社 |date=2009-12-04 |accessdate=2013-06-03}}</ref>、その経験を[[滋賀県]][[長浜市]]の[[黒壁スクエア]]・[[香川県]][[高松市]]の[[高松中央商店街#丸亀町商店街|丸亀町商店街]]などの大手商業資本に頼らない町おこしに生かした。西郷真理子はそうした市街地再生計画で[[フランス]]・[[カンヌ]]の「[[:en:MIPIM|国際不動産投資見本市(MIPIM)]]」で「[[:en:MIPIM AR Future Projects Award|未来的プロジェクト賞]]」を日本人で初めて受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/nfm/news/20110323/546571/ |title=【MIPIM】西郷真理子氏の市街地再生計画が日本初のアワード受賞 |work=日経不動産マーケット情報 |publisher=日経BP社 |date=2011-03-25 |accessdate=2013-06-03}}</ref>。
* [[行政]]も[[1988年]](昭和63年)に「都市景観条例」を制定し、「歴路事業」として舗道の石畳化と[[電線類地中化]]を広範に進めた。[[政令指定都市]]の[[さいたま市]]と共に[[景観法]]に基づく[[景観行政団体]]となっている。
* 旧市街地約7.8ヘクタールは、1999年(平成11年)に[[関東地方]]では2番目に、国の[[重要伝統的建造物群保存地区]]として選定された(埼玉県内唯一の選定)。国の「[[都市景観100選|都市景観大賞]]」も受賞。国が「[[古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法|古都保存法]]」施行40周年を記念して選定した「[[美しい日本の歴史的風土100選]]」にも埼玉県内から唯一選ばれている。[[2003年]](平成15年)には「優秀観光地づくり賞」([[総務大臣]]賞)を受賞。[[2008年]]に国が「[[歴史まちづくり法]]」を制定すると、埼玉県内で初めて川越市は[[長野県]][[松本市]]などと共に[[2011年]]に同法の認定を受けた<ref>{{Cite news |url=http://mytown.asahi.com/areanews/saitama/TKY201106080452.html |title=川越の歴史生かす街計画、国が認定 最大で50%補助も |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2011-06-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110928122111/http://mytown.asahi.com/areanews/saitama/TKY201106080452.html |archivedate=2011年9月28日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。その結果、市が実施する「川越市歴史的風致維持向上計画」は国の補助事業となった。
* 民間では、[[読売新聞]]が選出した日本の「[[平成百景]]」や「[[遊歩百選]]」、[[毎日新聞]]の「[[ヘリテージング100選]]」に選ばれている。[[朝日新聞]]の会員サイト・[[アスパラクラブ]]が「日本一の商家の町並み・暮らしの灯り」というテーマで実施した「お気に入りの町」人気投票では、[[岡山県]][[倉敷市]]、[[滋賀県]][[近江八幡市]]に次いで全国3位、[[日本経済新聞]]の「散歩したい歴史ある町並み」ランキングでも[[山口県]][[萩市]]、[[岐阜県]][[高山市]]に次いで全国3位に選出されている。[[2007年]](平成19年)には、町並み保存が評価され「[[岩切章太郎賞]]」を受賞した。
* 市職員が制作した映像作品「蔵造り-まちづくりの明日を問う」は、「[[ドキュメンタリー#日本|地方の時代映像祭]]」でグランプリを受賞、その賞金は「川越蔵の会」発足基金ともなった。[[1980年]](昭和55年)に始まった「地方の時代映像祭」は、日本各地の人々の営みを記録したドキュメンタリー映像祭で[[神奈川県]][[川崎市]]で誕生。その後は当市が開催を引き継いだ(現在は[[大阪府]][[吹田市]]を会場にして開催されている)。
* [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]の「[[新日本紀行]]」は、[[1978年]](昭和53年)に「小江戸残照〜蔵造りの街・川越〜」を放送。重厚な家並みと伝統の中で暮らす人々を描き、30年後の[[2008年]](平成20年)[[3月8日]]には「[[新日本紀行ふたたび]]」で再度「小江戸〜川越〜」を放送。開発の激しい[[首都圏 (日本)|首都圏]]の中枢都市でありながら、古いものを大切にすることで独自の未来を切り拓こうと、風格ある町並みを守る川越市民の姿を描いた。
* 旧市街地は[[2004年]](平成16年)に「[[美しい日本の歩きたくなるみち500選]]」に選定された。しかし川越一番街などは、大型[[バス (交通機関)|バス]]を含め車の往来が激しく、観光客の増加で観光[[人力車]]まで通行し、歩行者に危険な状況である。また、車の振動や排気ガスが蔵造りへ深刻なダメージを与えており、かけがえのない[[文化財]]の保護の観点からも早急な対策が求められている。[[ヨーロッパ]]の[[古都]]のように旧市街地から車の通行を排除すべきではないか、と当市の[[タウンミーティング (対話集会)|タウンミーティング]]で懸案として協議されている。休日日中の[[歩行者天国]]を望む声は市民調査でも圧倒的に多く<ref>{{PDFlink|[http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1241774459225/files/short.pdf 「川越・一番街」の交通に関するアンケート調査結果について(埼玉大学・川越市)]}}</ref>、[[2009年]](平成21年)[[11月7日]]から同月[[11月23日|23日]]まで実際に試行もされた。一方では、埼玉県では23年ぶりの設置となる自転車通行帯の整備が旧市街地で進んでいる<ref>{{Cite news |url=http://www.saitama-np.co.jp/news06/29/09x.html |title=川越に自転車専用通行帯 県内設置は23年ぶり |newspaper=Web埼玉 |publisher=埼玉新聞社 |date=2009-06-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090630165647/http://www.saitama-np.co.jp/news06/29/09x.html |archivedate=2009年6月30日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。
* 町並みの意識は、「大正浪漫夢通り」での保存コンペの実施、新市街地の[[クレアモール]]の空間や建築・街路樹の協定など、市域全体の町作りに広がっている。また当市の成功例は[[シャッター通り]]化に苦しむ全国の都市から町作りのモデルケースとされ視察も多い。
== 住宅団地 ==
{{colbegin|3}}
* 初雁団地
* 新宿町団地
* 川越西山住宅(笠幡)
* 川越北谷住宅(岸町)
* 川越岸町やまぶき住宅
* 川越久下戸住宅
* 川越月吉町団地
* 川越月吉町住宅
* 川越今泉住宅
* 川越今福住宅
* 川越山田住宅
* 川越小中居住宅
* 川越小堤住宅
* 川越東坂上住宅 (新宿町)
* 川越神明町住宅
* 川越仙波町住宅
* 川越的場住宅
* 川越藤原住宅
* 川越南大塚住宅
* 川越グリーンパーク(古谷上)
* ファミリータウン春日(小堤)
* 住友川越霞ヶ関分譲地(現・上戸新町)
* 東急霞ヶ関ニュータウン(現・霞ヶ関東2〜5丁目)
* かわつる三芳野団地
* 川鶴団地
* いせはら団地
* 霞ヶ関角栄団地 - 角栄建設(現・[[ジョイント・レジデンシャル不動産]])造成の団地
* [[都市再生機構|UR]][[むさし緑園都市]] [[むさし緑園都市#川越鶴ヶ島地区|川越・鶴ヶ島地区]](かわつるグリーンタウン)
* [[都市再生機構|UR]][[むさし緑園都市]] [[むさし緑園都市#霞ヶ関地区|霞ヶ関地区]](川越ニューシティいせはら)
{{colend}}
== 観光 ==
「'''世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり'''」と謳われ、年間700万人(2016年)の観光客が訪れる。[[日本放送協会|NHK]]の[[大河ドラマ]]が「[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]」、「[[葵 徳川三代]]」、「[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]」、「[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]」など、当市に関係する内容になると観光客が増えている。
海外から来日した[[国賓]]にも日本の代表的な町並みとして紹介されており、[[2007年]][[3月28日]]には[[上皇明仁]]夫妻が[[スウェーデン]][[国王]][[カール16世グスタフ]]夫妻を案内し、[[西武新宿線]]の[[お召し列車]]で[[行幸]]した。
[[国土交通省]]の[[観光ルネサンス事業]]に指定され、外国人富裕層の誘致促進の観光振興策を実施している。外国人観光客向けプロモーションビデオのコンペ「小江戸川越ビデオ大賞」も行い、優秀作は海外に配信している。東京近郊で交通至便、江戸情緒を実体験できる町として人気で、外国人観光客は年間4万人超となっている<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/area/saitama/archive/news/2011/03/03/20110303ddlk11020253000c.html |title=外国人観光客:7割増、昨年4万2000人 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2011-03-03}}{{リンク切れ|date=2013年5月}}</ref>。[[大韓民国|韓国]]MBCの人気番組「[[私たち結婚しました]]」のロケ地となるなど、外国メディアに登場することも増えている。
[[2008年]][[2月]]からは、川越[[商工会議所]]を中心に[[小江戸川越検定]]が行われており、市外からも多くの人が受検している。また[[絹]](川越絹平)や[[唐桟]](川唐)の大産地であったことから毎月18日を「川越きものの日」として町興しを行っており、着物姿だと各博物館や旧市街の指定商店での買い物が割引になる。
* 観光案内所
*: 川越市観光案内所は、埼玉県初の[[ビジット・ジャパン・キャンペーン|ビジット・ジャパン案内所]]で、[[川越駅]]構内と[[川越一番街]]にある。
* [[レンタサイクル]]
*: [[フランス]]・[[パリ]]の[[ヴェリブ]]と同様の[[自転車]]先進貸出システムである「川越市[[自転車シェアリング]]」が実施されている。市役所・川越駅・市内の各観光名所などに設置されたポート(駐輪場)のどこでも24時間自転車の貸出・返却(乗り捨て)ができる。利用には専用の[[ICカード]]かポートの端末機のタッチパネルに必要事項を入力後、[[クレジットカード]]を挿入する。1回当たりの利用時間が40分以内の場合は、基本料金のみで何回でも利用できる。
[[ファイル:Alley in Kawagoe.jpg|thumb|right|200px|路地の光景]]
[[ファイル:Store of the godown style,Kawagoe-city,Japan.jpg|thumb|right|200px|[[蔵造り]]の町並み]]
[[ファイル:川越市大沢家住宅2013-09.JPG|thumb|200px|right|[[大沢家住宅]]]]
[[ファイル:Kashiya yokocho.jpg|thumb|200px|[[菓子屋横丁]]]]
[[ファイル:Rickshaws in kawagoe Japan.jpg|right|200px|thumb|[[人力車]]]]
[[ファイル:Youjuin.2.JPG|thumb|200px|[[養寿院]]]]
[[ファイル:Kitain-2007.jpg|thumb|200px|[[喜多院]]の「五百羅漢」]]
=== 名物・特産 ===
* [[サツマイモ]]
*: 江戸時代から特産品。飢饉の時の非常食であったサツマイモを美味な商品作物にまで育てたのは川越で、今では[[川越芋]]の生産量は減ったが、サツマイモの加工基地となっている。川越芋は、火が通りやすく[[芋きんとん]]など加工すると美味になる品種で、芋せんべいや[[芋羊羹]]、[[芋ケンピ|芋松葉]]、芋納豆、芋シュー、二色芋ババロア、芋プリンなど豊富。川越の「芋菓子」は[[草加煎餅]]、[[五家宝]]とともに「埼玉三大銘菓」とされる<ref>[http://www.rakuten.ne.jp/gold/saitama-bussan/ 埼玉県物産観光協会]</ref>。黄色い「芋ソフトクリーム」は川越発祥。イモ菓子だけでなくイモ料理も名物で、「サツマイモを食すなら川越で」と言われた[[天保|天保年間]]から豊富な料理を築いてきた。芋うどん、芋おこわは定番。「えぷろん亭」、「源氏家」はオリジナルのサツマイモ料理。「いも膳」は、いも懐石で知られ「サツマイモ資料館」を[[2008年]](平成20年)まで開館していた(閉館後、資料は[[川越市立博物館]]に寄贈)。
* [[和菓子]]
*: 川越名菓「亀の最中」の「[[亀屋]]」は[[1783年]]([[天明]]3年)創業で旧川越藩御用達。「亀屋栄泉」、「[[くらづくり本舗]]」、「芋十」、「東洋堂」、「道灌」、「紋蔵庵」、「稲葉屋本舗」など1世紀を経た老舗が揃う。亀屋栄泉には「芋菓子の歴史館」もある。
* 川越[[団子]]
*: 川越だんごは甘くない醤油味の焼きだんごで歯応えがある。[[寛永|寛永年間]]には城下の社交場として定着しており、今でも街中に店が多い。[[安政|安政年間]]創業の「成田山だんご」や[[1861年]]([[文久]]元年)創業の「田中屋」など。
* [[煎餅]]
*: 生地から手作りの手焼きせんべいの店が「塩野」、「大玉や」など街中にある。川越煎餅は伝統的に醤油味の塩せんべいである。「せんべい・あられは鉄火焼」のCMの[[ホンダ製菓]]は当市生まれの会社で本社・工場・直売所も全て市内にある。
* [[漬物]]、[[豆腐]]、[[蒟蒻]]なども江戸時代からの名物。
* 川越茶
*: [[円仁]](慈覚大師)が川越で栽培したのが[[狭山茶]]のルーツ。昔は河越茶といった。[[群書類従]]所収の[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[異制庭訓往来]]に既に「日本5大銘茶」として河越茶の名が記されている。
* [[素麺]]
*: 川越は江戸時代は[[小麦]]の大産地で、川越そうめんは[[新河岸川]]の[[舟運]]で将軍家に献上され続けた名産品。かつての高沢町には、そうめん屋が軒を連ねていた。「川越舟運亭」など。
* [[ウナギ|うなぎ]]の[[蒲焼]]
*: [[入間川 (埼玉県)|入間川]]など、市内の河川で良質の鰻が取れたことから昔から鰻料理で有名。「小川菊」は[[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]6年)の創業。「いちのや」は[[1832年]]([[天保]]3年)創業。「東屋」、「小川藤」なども明治初期からの老舗。埼玉県内にチェーンを持つ「大穀」の本社も市内にある。
* [[懐石]]・[[会席料理]]
*: 「[[料亭]]の町」とも言われた。川越藩の貴賓館であった関東有数の豪商・[[横田五郎兵衛]]の1000坪の別邸を料亭にした「山屋」、文人墨客に利用されてきた[[1868年]](明治元年)創業の「初音屋」など。
* [[洋食]]
*: 「吉寅」は[[1877年]]([[明治]]10年)創業の[[すき焼き]]の老舗。国の[[登録有形文化財]]の洋館の「太陽軒」は大正期の洋食。「楽天」は[[1932年]](昭和7年)に初めて[[とんかつ]]と名付けた東京・[[上野]]の「楽天」の唯一の支店(上野本店は今は無い)。
* [[蕎麦]]
*: 古くから蕎麦の栽培に適した土地で、江戸の影響を受け継いで蕎麦屋が多く[[喜多院]]の参道などに蕎麦屋が目立つ(茶そばの「寿庵」など)。「百丈」は店舗が国の登録有形文化財に登録。
* [[醤油]]・[[地酒]]
*: [[天保|天保年間]]創業の「松本醤油」、[[1789年]]([[寛政]]元年)創業の「[[笛木醤油]]」など天然醸造の醤油作りが残る。「小江戸鏡山酒造」は地酒「鏡山」の[[造り酒屋]]。[[焼酎#芋焼酎|芋焼酎]]は[[三芳町]]で栽培された[[川越芋]]を原料とする川越いも焼酎「富の紅赤」がある。
* [[地ビール]]([[コエドブルワリー|小江戸ブルワリー]])
*: [[コエドブルワリー#ビール|COEDOビール]]は地元川越名産のサツマイモを原料としている。ドイツの名門ブラウマイスター仕込みの[[プレミアムビール|プレミアム]][[クラフトビール]]で、[[モンドセレクション]]で最高金賞をダブル受賞、[http://www.itqi.com iTQi] コンテストでは日本のビールで初めて最高のクリスタルテイストアワードを獲得、ヨーロピアンビアスターアワードでは[[2010年]]に国産ビールで初の金賞を受賞。[[北アメリカ|北米]]、[[オーストラリア]]など海外輸出も行っており、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[グルメスーパー]]の[[ホールフーズ・マーケット]]でも販売されている。
* [[武蔵野うどん]]
*: 当市から[[東京都]][[武蔵村山市]]にかけての[[武蔵野台地]]は江戸時代から「手打ちうどん」(武蔵野うどん)の本場で、「ざるうどん」の店は市街地の周辺に多い。製麺所も点在し、入間地方で食べられている「よもぎうどん」も作られている。
* [[ラーメン]]
*: ラーメン店が多い激戦区である。中でも「[[頑者]]」は[[つけ麺]]ブームの火付け役で、テレビ・雑誌などのマスメディアに登場する機会も多く、[[新横浜ラーメン博物館]]にも支店を出している。
* [[B級グルメ]]
*: [[川越太麺焼きそば]]がある。[[もんじゃ焼き]]など。[[東松山市|東松山]]風[[焼き鳥#東松山(埼玉県)|みそだれ焼きとり]]の「ひびき」の本社は当市にある。
* [[桐]][[箪笥]]
*: [[寛永|寛永年間]]に藩主の[[松平信綱]]が興した川越の地場産業で、桐箪笥発祥の地である。大火の多い江戸で重宝された。川越の桐箪笥は[[島村利正]]の小説『桐の花』でも描かれている。[[上皇后美智子]]のご成婚で桐箪笥を納めた[[天保|天保年間]]創業の「桔梗屋」が有名。
* [[川越唐桟]]
*: 川越絹など織物の一大産地だった川越だが、唐桟(とうざん)は江戸時代に南蛮から入ってきた縞木綿で、粋で高価な唐桟は江戸で一世を風靡した。川越商人はいち早く量産化に成功して川越唐桟(川唐)と呼ばれている。川唐は近年メディアで特集されることが多くなっている。
=== 名所 ===
博物館・美術館については、「[[川越市#博物館・美術館|博物館・美術館]]」の項目を参照。指定文化財については、[[川越市指定文化財一覧]]も参照。
* [[時の鐘 (川越市)|時の鐘]]
*: 川越のランドマーク。[[寛永]]年間に藩主だった[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]が建立した鐘楼。現在の鐘楼は[[1893年]]([[明治]]26年)の[[川越大火]]の翌年に再建されたもの。この再建に際しては晩年を川越で過ごした[[渋沢栄一]]の資金援助や[[明治天皇]]からの下賜金を受けた。3層構造の塔で、高さは16メートル。400年近くにわたって川越城下に時を知らせており、今も機械式で一日4回、銅鐘を打っている。[[環境省]]選定の「[[日本の音風景100選]]」。
* [[川越一番街]]
*: 蔵造りの街並みが残る。[[福島県]][[喜多方市]]、[[岡山県]][[倉敷市]]とともに「日本三大蔵の町」。川越城西大手門跡の先にある[[高札場]]であった「札の辻」を中心とした一帯が藩主・[[松平信綱]]の時代から商人地区の上五ヶ町。町の3分の1を焼失した1893年(明治26年)の[[川越大火]]で焼け残ったのが江戸期の蔵造り建築であったので、その後、各商家が倣った。かつては200棟を超える蔵造りの[[町屋 (商家)|町屋]]が建ち並び、黒[[漆喰]]を使用していることが川越の[[土蔵#見世蔵|見世蔵]]の大きな特徴である。
*: 現在は資料館、ギャラリー、個性的なカフェなどに利用されていることも多い。川越藩士であった[[橋本雅邦]]のコレクションがある「[[山崎美術館]]」、「服部民俗資料館」、川越藩御用絵師・[[船津蘭山]]の「蘭山記念美術館」、「松下紀久雄むかし絵美術館」などがある。[[1792年]]([[寛政]]4年)に豪商の[[西村半右衛門]]によって建てられた「[[大沢家住宅]]」は現存する関東地方最古の蔵造りで、国の[[重要文化財]]。「陶舗やまわ」は蔵と店を繋ぐ[[トロッコ]]があり[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]「[[つばさ (2009年のテレビドラマ)|つばさ]]」の舞台「甘玉堂」となった。川越一番街は夜に[[ライトアップ]]されることがある。
* [[大正浪漫夢通り]]
*: かつては「銀座商店街」と呼ばれる[[アーケード (建築物)|アーケード]]街であったが、近年に撤去。[[大正]]時代の家並みや石畳の商店街。レトロな建物の多くが映画「[[陰日向に咲く]]」「[[免許がない!]]」、ドラマ「[[相棒]]」「[[菊次郎とさき]]」などの撮影舞台になっている。
* [[菓子屋横丁]]
*: [[1796年]](寛政8年)に江戸菓子を製造したのが始まり。[[関東大震災]]で被害を受けた東京に代わり[[駄菓子]]を製造供給するようになり、昭和初期には70軒ほどの業者が軒を連ねていた。現在では20軒ほどまで減少したが、昭和の雰囲気を残している。[[飴細工]]や麩菓子、駄菓子、横丁たこせんが人気。環境省の「[[かおり風景100選]]」に選定されている。「駄菓子の資料館」もある。横丁近くの路地には堀が廻らせてあり、[[ニシキゴイ]]が泳いでいる。
* [[立門前通り]]
*: [[蓮馨寺]]の門前町として戦前は川越で一番賑わった通り。[[1899年]]([[明治]]32年)に完成した旧「鶴川座」は首都圏唯一の木造芝居小屋の遺構。日本に残る唯一の木造織物市場建築<ref>[https://www.ne.jp/asahi/kawagoe/orimonoichiba/contents/contents.html 川越織物市場の会のサイト]</ref>である旧「[[川越織物市場]]」など、レトロな建造物が多く残る。川越織物市場は映画「[[無法松の一生]]」のロケ地。連続テレビ小説「つばさ」のタイトルバックはこの一帯で、最近はCMの撮影も増えている。
* [[喜多院]]
*: 川越大師。関東天台[[総本山]]。[[淳和天皇]]の勅で慈覚大師[[円仁]]によって[[830年]]([[天長]]7年)に創建された。[[徳川家康]]のブレインであった[[天海]](慈眼大師)によって隆盛を極め、家康も論議を聴きに参詣した。家康の命で藩主の[[酒井忠利]]によって大伽藍が建立された。[[狩野吉信]]の[[職人尽絵屏風]]など多くの国の[[重要文化財]]を有する。[[1638年]]([[寛永]]15年)の川越大火でほとんどが焼け落ち、「徳川家光誕生の間」「春日局化粧の間」など[[江戸城]][[紅葉山 (東京都)|紅葉山]]にあった建物の一部が[[徳川家光]]の命でここに移築され、重要文化財として往時の江戸城の貴重な遺構を今に伝えている。一方、[[東京都]][[台東区]][[上野桜木]]の[[寛永寺]]根本中堂は喜多院の本地堂を移築したものである。[[五百羅漢]]は[[1782年]]([[天明]]2年)から半世紀を費やして造られ日本三大羅漢の1つ。[[小堀遠州流]]の[[枯山水庭園]]がある。[[越前松平家|松平大和守家]]7代のうち川越で没した5人の藩主の廟所もある。毎年[[1月3日]]の初大師の日に[[だるま市]]が開かれ、その日だけで30万人以上の人出がある。
* [[中院]]
*: [[天台宗]]別格本山。喜多院と同じく円仁によって830年に創建されたと伝える。かつては喜多院(北院)より隆盛を誇った。天台教学の関東での中心地で古文書を多く所蔵する。[[島崎藤村]]に縁が深く、その茶室もある。川越茶([[狭山茶]])はここがルーツで、その起源を記した「狭山茶発祥の地碑」がある。[[シダレザクラ|しだれ桜]]も有名。
* [[仙波東照宮]]
*: 本殿、拝殿、石鳥居、随身門、唐門など国の重要文化財。日本三大[[東照宮]]の1つ。[[徳川家康]]の遺骸は[[久能山]]から[[日光市|日光]]へ運ばれる途中、[[天海]]によりこの地が選ばれ四日間にわたって家康の[[法要]]はここで行われた。国の重要文化財である[[岩佐又兵衛]]の[[三十六歌仙|三十六歌仙額]]がある。[[徳川家光]]の命で仙波東照宮創建の造営奉行となった[[老中]]で川越藩主の[[堀田正盛]]以降の歴代藩主奉献の灯篭も並ぶ。童謡「[[あんたがたどこさ]]」はここが発祥と言われている。
* [[川越城]](初雁城)
*: [[上杉持朝]]の居城として家宰の[[太田道真]]・[[太田道灌|道灌]]父子が[[1457年]]([[長禄]]元年)に築城。[[関東七名城]]・[[日本100名城]]の1つ。本丸御殿は江戸時代後期の藩主・[[松平斉典]]の建立。[[入間県]]県庁舎ともなった。本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には[[高知城]]のみで、貴重な遺構である。富士見櫓跡なども残っている。川越城中ノ門堀跡は、[[2010年]](平成22年)に整備された。川越市役所前(川越城西大手門跡)に[[太田道灌]]の立像がある。
* [[三芳野神社]]
*: 初雁天神。童謡「[[通りゃんせ]]」の元となった神社。[[807年]]([[大同 (日本)|大同]]2年)に[[平城天皇]]の創建と伝わる。[[995年]]([[長徳]]元年)には[[一条天皇]]により[[菅原道真]]も配祀された。かつての川越城内に位置した「お城の天神さま」で喜多院、仙波東照宮とともに江戸幕府の直営社であった。三芳野神社に行くには城の門番に特別の許可を貰わねばならず、細道とは社殿に至る参道で、その様子が童謡に歌われたものである。三芳野神社にある「初雁の杉」が初雁城(川越城の別名)の由来となった。[[東京都]][[千代田区]][[平河町]]の[[平河天満宮]]は、三芳野神社を川越城の守護神として崇敬した太田道灌がここから分祀したものである。
* [[浮島神社 (川越市)|浮島神社]]
*: 浮島稲荷神社。「うきしま様」と呼ばれ安産の神として親しまれている。[[太田道真]]が[[ヨシ|葦]]の密生した湿地帯であるこの地に川越城を築城する際、城地守護のために祀ったのが由来である。[[川越城#川越城七不思議|川越城七不思議]]に纏わる神社である。
* [[日枝神社 (川越市)|日枝神社]]
*: [[円仁]](慈覚大師)が[[喜多院]]の[[鎮守]]として[[日吉大社]]を[[勧請]]したもの。本殿は国の重要文化財。[[山王祭 (千代田区)|山王祭]]で有名な[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]の[[日枝神社 (千代田区)|日枝神社]]は、太田道灌が川越のこの日枝神社から[[分祀]]したもの。江戸時代を通して幕府の厚い保護を受けた。
* [[成田山川越別院本行院]]
*: 川越不動。[[成田山新勝寺]]の全国初の別院で[[真言宗]]。毎月28日には[[蚤の市]](骨董市)で賑わう。また骨董市に合せて、絹織物の大産地だった文化を守ろうと[[特定非営利活動法人|NPO法人]]によって「川越きもの散歩」が毎月行われている。11月には[[火渡り]]祭が行われ、12月には[[ギリヤーク尼ヶ崎]]の公演が境内で行われている。
*: {{Anchors|川越歴史博物館}}川越にまつわる資料・文化財の調査・蒐集・展示を行っている民間の川越歴史博物館はこの別院の正面にある。川越歴史博物館は[[河越重頼|河越太郎重頼]]の長覆輪[[太刀]]などを貴重な品を所蔵している。
* [[東明寺 (川越市)|東明寺]]
*: [[一遍|一遍上人]]建立の[[時宗]]の寺院。[[河越城の戦い|河越夜戦]]激戦地跡で、河越夜戦は「東明寺口合戦」とも呼ばれ、境内に河越夜戦記念碑がある。将兵の遺骸を納めた富士塚が残っている。ここで戦死した[[難波田憲重]]の霊を祀った天満宮もある。
* [[氷川神社 (川越市)|氷川神社]]
*: [[欽明天皇]]の即位2年([[541年]])に[[氷川神]]を勧請したと伝える。太田道灌以来、川越の[[総鎮守]]で歴代藩主が篤く信仰した。関東三大祭りの1つである[[川越祭り]]は「川越氷川祭」であり、氷川神社の祭礼である。朱塗りの[[鳥居|大鳥居]]は木造としては日本最大で、扁額は[[勝海舟]]の書。境内には[[柿本人麻呂]]を奉る[[人麻呂神社]]や、江戸城二の丸にあった東照宮本殿を移築した[[八坂神社 (川越市)|八坂神社]]もある。8月には[[薪能]]も行われる。縁結びの神様として知られ近年は外国人の参拝が多い。
* [[養寿院]]
*: [[曹洞宗]]の古刹で[[河越経重]]の開基。[[河越重頼|河越太郎重頼]]の墓がある。[[1260年]]([[文応]]元年)に造られた銅鐘は国の重要文化財で、[[鎌倉市|鎌倉]][[高徳院]]の「長谷の大仏」([[国宝]])と同じ[[丹治久友]]の作である。
* [[蓮馨寺]]
*: [[1549年]]([[天文 (日本)|天文]]18年)、河越城主・[[大道寺政繁]]の母・蓮馨によって開基。開山は[[感誉存貞]]上人。代々、高僧が住職を勤め、感誉上人の他にも徳川家康の帰依を受けた[[慈昌|源誉存応]]上人など、蓮馨寺の住職は[[徳川家]]の[[菩提寺]]である東京・[[芝公園|芝]]の[[増上寺]]の[[法主]]となった。江戸時代には、[[浄土宗]]の[[関東十八檀林]]の1つとして幕府の僧侶養成機関だった。今は下町情緒を残した子育て・無病息災の寺で、毎月8日には「[[呑龍|呑龍上人]][[縁日]]」が行われる。
* [[川越八幡宮]]
*: 川越[[一宮]]。[[1030年]]([[長元]]3年)、[[源頼信]]が[[平忠常の乱]]平定の祈願をここで行い、戦勝に感謝して創祀したもので、[[河越氏]]に縁が深く、江戸時代を通じ川越城主の篤い崇敬があった。[[明仁上皇]]生誕を記念して[[1933年]](昭和8年)に境内に植樹された縁結び[[イチョウ|銀杏]]がある。境内社に[[民部稲荷神社]]があり、足腰を強くするという御利益で、[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]出場選手が参拝に訪れる。また民部稲荷神社は相撲稲荷とも言い、「[[まんが日本昔ばなし]]」でも放送された「老狐物語」の伝説が残る。<!--(「まんが日本昔ばなし」の原作者・[[池原昭治]]は川越に関する著作が多く「[[ふるさと切手]]川越」の作画も担当した)。-->
* [[熊野神社 (川越市)|熊野神社]]
*: [[1590年]]([[天正]]18年)に然誉文応僧正が[[紀伊国|紀州]][[熊野三山|熊野]]から勧請。毎年12月3日には[[酉の市]]で賑わう。[[鎌倉]]・[[銭洗弁財天宇賀福神社|宇賀福神社]]と同じ祭神が祭られているため[[銭洗弁天]]がある。
* [[河越館]]跡
*: 国の[[史跡]]。河越館跡史跡公園となって整備された。[[平安時代]]末期から[[室町時代]]にかけて[[武蔵国]]で勢力を張った豪族・有力御家人であった[[河越氏]]の館跡。[[葛貫能隆|河越能隆]]がこの地に移住し河越氏となった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期には、[[扇谷上杉家]]の[[上杉朝良]]が城主を務める[[河越城]]に対峙するために、[[山内上杉家]]の[[上杉顕定]]が陣所(上戸陣)を7年間も張ったところでもある。また、館跡の一角にある[[常楽寺 (川越市)|常楽寺]]は[[時宗]]の古刹で、河越城主だった[[大道寺政繁]]が[[小田原征伐]]で降伏、[[豊臣秀吉]]の命で自害したところである。[[源義経]]とその[[正室]]の京姫([[郷御前]]・[[河越重頼]]の娘)の供養塔もある。
* 永島家住宅
*: 川越城南大手門跡近くにある[[武家屋敷]]。[[川越藩]]御典医の屋敷で、埼玉県内で唯一の武家屋敷遺構である。[[カラタチ|枳殻]]の[[生垣]]は川越藩の特徴であった。
* 旧戸田家住宅
*: [[伊佐沼|伊佐沼公園]]に「伊佐沼庵」として移築されている。[[江戸時代]]に福原地区に建てられた[[萱葺き]]の古民家で馬屋を持ち、民具・農具なども残り、[[武蔵野台地|武蔵野]]の農家の江戸時代の暮らしを伝える貴重な資料である。
* [[新河岸川]]河岸場跡
*: 舟運の船着場跡では最も城下町寄りの[[仙波河岸]]が史跡公園になっている。江戸時代以来の[[川越五河岸]]には、[[船問屋]]の「伊勢安」跡がある。
*: 新河岸川の旧[[赤間川]]部分で舟運を再興しようという動きがあり、濯紫公園(たくしこうえん)を基点に約2kmの観光舟運の試航がされている。濯紫公園は藩主・[[柳沢吉保]]の家老・山東小市郎の別邸「濯紫園」跡で現在は親水公園。ただし、観光舟運の区間は江戸時代以来の新河岸川舟運が行われていた区間ではない。
* [[日本聖公会]]川越キリスト教会
*: [[1889年]]([[明治]]22年)に建立された[[聖公会]]の教会で、埼玉県最初のキリスト教会。日本聖公会では北関東教区で最初の教会でもある。[[1878年]](明治11年)、アメリカから帰国したばかりの[[横山錦柵]](最初に自転車に乗った日本人とされる)によって川越で伝道が始められた歴史を持つ。川越大火で失われたが、[[1921年]](大正10年)に再建された現建物も[[ゴシック様式]]の赤煉瓦造り([[日本煉瓦製造]])で、国の登録有形文化財に登録されている。設計はアメリカの聖公会から派遣され、[[池袋]]に移転した[[立教大学]]の諸聖徒礼拝堂([[チャペル]])の設計管理も担当したウィリアム・ウイルソン。再建資金は[[ニューヨーク大学]]のピーターソン教授夫妻の寄付金に多くを負った。
* [[カトリック教会|カトリック]]川越教会
*: [[1892年]](明治25年)より川越で宣教をしていたフランスのパリー外国宣教会[[司祭]]プラシード・メイランによって[[1912年]](大正元年)にカトリック教会が建立され、埼玉県で最初のカトリックの小教区が誕生した。[[1933年]](昭和8年)には白亜の聖堂が完成した。戦前は[[カプチン・フランシスコ修道会|フランシスコ修道会]]カナダ管区の担当する教会となった。美しい教会で[[平成]]になって改築され、埼玉景観賞を受賞している。
* 旧[[第八十五国立銀行|八十五銀行]]本店(現・[[埼玉りそな銀行]]川越支店)
*: 川越のシンボルの1つ。[[1918年]](大正7年)に建てられた洋館で、埼玉県内では最も早く国の[[登録有形文化財]]に登録された。銀行の看板なども周囲の景観に合わせた色合いにして営業している。設計は[[保岡勝也]]。昭和30年代まではこの本店隣(現在は埼玉りそな銀行の駐車場)に[[川越貯蓄銀行]]の本店もあり、洋館が2つ並んでいたが、そちらは取り壊されてしまった。「日本の電力王」と呼ばれた[[福澤桃介]]は川越で成長したが、父親がここで書記の仕事をしていた。
* 旧[[武州銀行]]川越支店(現・川越商工会議所)
*: 国の登録有形文化財。[[髙島屋]]日本橋店や[[資生堂]]本店、[[京都市美術館]]などを設計した[[前田健二郎]]の設計で、メダリオンや[[ドーリア式]]の柱に趣がある。少年時代を川越で過ごした[[澁澤龍彦]]は、父親がこの支店長だった。
[[ファイル:Yamakichi-1.jpg|thumb|山吉ビル(2010年4月20日撮影)]]
* 旧山吉デパート
*: 山吉デパートが[[1936年]](昭和11年)に増築した洋館。近年修復された。設計は保岡勝也。山吉デパートは[[1923年]](大正12年)にオープンした埼玉県内最初の百貨店で、[[秩父市]]の矢尾百貨店より1年早かった。江戸時代から続く呉服商で川越渡辺銀行を創立した[[渡辺吉右衛門]]がオーナーで、[[エレベーター]]や屋上庭園もある高級デパートだった。[[1942年]](昭和17年)に戦争のため閉館。戦後は[[1951年]](昭和26年)から[[1964年]](昭和39年)まで丸木百貨店(現・[[丸広百貨店川越店]])となった。隣接して、[[1915年]](大正4年)に建てられた洋館・旧「田中屋美術館」もある。
* [[旧山崎氏別邸庭園]]
*: これも当市に縁の深い保岡勝也の設計で、[[ステンドグラス]]が美しい洋館と[[数寄屋造り]]の和室が融合した主屋。[[枯山水]]と[[露地|茶庭]]から成る庭園は、埼玉県内で初の国の[[登録記念物]](名勝地)に登録された<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/area/saitama/news/20101120ddlk11040126000c.html |title=旧山崎氏別邸庭園が県内初の国登録記念物へ |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2010-11-20}}{{リンク切れ|date=2013年5月}}</ref>。[[1926年]](大正15年)の完成以来、川越に来た皇族の宿泊所としても用いられ、[[李氏朝鮮]]の最後の[[皇太子]]・[[李垠]]も滞在し、その碑がある。現在は市の所有で不定期に公開される。
*: 当市は蔵造りだけでなく街中にいくつも洋館が残っている。国の登録有形文化財としては、旧六軒町郵便局の特徴ある赤屋根の木造洋館がある。
* 藤間流発祥の地碑
*: [[日本舞踊]]五大流派の1つ[[藤間流]]は、入間郡藤間村(現・川越市藤間)出身の初代・[[藤間勘兵衛]]が、[[宝永]]年間に江戸に出、出身地の藤間の名を冠した藤間勘兵衛を名乗り、[[歌舞伎]]の振り付けを始めたことに由来する。[[武者小路実篤]]の「武蔵野に生きている藤間の里」という直筆の碑もある。
* 正岡子規句碑
*: [[正岡子規]]が[[帝国大学]]在学中の[[1891年]](明治24年)に川越を旅した際に詠んだ歌が石碑になっている。当市にはこうした文学碑が少なくない。<blockquote>砧うつ隣に寒き旅寝哉</blockquote>
* 川越の「自由の鐘」
*: [[1951年]](昭和26年)[[4月8日]]、[[喜多院]]境内で在日米国[[ボーイスカウト]]第3隊グランドハイツ([[朝霞市]])と川越ボーイスカウト第2団による日米ボーイスカウト交歓キャンプが開催された。これを記念して、米国側からは「自由の鐘」、川越側からは刺繍の隊旗が互いに寄贈された。この「自由の鐘」にはアメリカボーイスカウト連盟 (BSA) のマークが、添えられたプレートにはこの鐘の由来が綴られており、現在は川越市民会館脇に建てられている。川越はスカウト運動が盛んで川越ボーイスカウトは埼玉県内最古の1つ、カブスカウトの設立も埼玉県内最初である。
* [[小江戸川越七福神]]めぐり
*: 当市は[[七福神]]を祀る寺院が多く[[天海]]の江戸時代より七福神めぐりが起こり、現在も市民・観光客で賑わう。
=== 主要祭事 ===
[[ファイル:Kawagoe Festival at night.jpg|thumb|200px|right|[[川越まつり]]]]
* [[川越まつり]](10月の第3日曜日とその前日の土曜日。ただし[[10月14日]]と15日が土曜日と日曜日の場合はその両日)
*: 関東では数少ない[[山車]]の曳き回しの祭りで、関東三大祭の1つ。国の[[重要無形民俗文化財]]。2016年には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に「山・鉾・屋台行事」の1つとして登録された。川越城下の大半が焼き尽くされた1638年(寛永15年)の川越大火の翌年、幕府の[[老中]]首座であった[[松平信綱]]が川越藩主となり町の再興が為される中、[[1648年]]([[慶安]]元年)、松平信綱が[[神輿]]・獅子頭を寄進、信綱によって総鎮守である[[氷川神社 (川越市)|氷川神社]]の祭礼として始まる。[[東京都|東京]][[神田明神]]の[[神田祭]]などが山車ではなく[[神輿]]の祭りに変わってしまった現在、[[江戸]][[天下祭]]の面影を最も良く残した祭りである。
* [[川越百万灯夏まつり]](7月下旬)
*: [[1850年]]([[嘉永]]3年)の[[お盆|盆]]に、魚子(ななこ)という川越藩の家臣・三田村源八の娘が、同年に死去した藩主の[[松平斉典]]を偲び軒先に切子[[灯篭]]を掲げたことに始まる、とされる。現在は市民祭りと化し、[[提灯]]が飾られ、[[川越藩火縄銃鉄砲隊保存会]]の実物の[[火縄銃]]の演武など時代行列も行われる。
=== 川越歳時記 ===
[[ファイル:Kawagoe Boating In Shingashi River 1.JPG|thumb|200px|right|新河岸川桜まつりの舟遊び]]
* 1月
** 3日 初大師([[だるま市]])([[喜多院]])
** 9日 一升講(鯨井 春日神社)
** [[成人の日]]前日の日曜日 餅つき踊り(南大塚、西福寺)県指定無形民俗文化財
** 15日 筒粥の神事(石田、藤宮神社)市指定無形民俗文化財
* 2月
** 11日 [[弓取式]](下老袋、氷川神社)県指定無形民俗文化財
* 3月
** [[春分の日]] ふせぎ(芳地戸、尾崎神社)市指定無形民俗文化財
** 下旬 新河岸川桜まつり([[新河岸川]]河川敷)
** 下旬 小江戸川越春まつり(5月の春まつり民踊大会まで市内各所で祭りが続く)
* 4月
** 第2日曜日 万作(老袋、氷川神社)県指定無形民俗文化財
** 14日 足踊り(南田島、氷川神社)市指定無形民俗文化財
** 15日 祭ばやし(今福、菅原神社)県指定無形民俗文化財
** 15日 祭ばやし(中台、八雲神社)県指定無形民俗文化財
** 第3土・日曜日 ささら獅子舞(石原町、観音寺)県指定無形民俗文化財
** 19日 [[神楽]](中福、稲荷神社)市指定無形民俗文化財
* 7月
** 13日 初山(富士見町、浅間神社)
** 第2日曜日 まんぐり(上寺山、八咫神社)市指定無形民俗文化財
** 15日付近の日曜日 万作(鯨井、八坂神社)市指定無形民俗文化財
** 第3日曜日 [[獅子舞]](福田、星行院・赤城神社)市指定無形民俗文化財
** 中旬 小江戸川越花火大会([[伊佐沼|伊佐沼公園]]または安比奈親水公園)
** 下旬 [[川越百万灯夏まつり]]
* 9月
** 1日 お炊き上げ(新宿町、雀の森神社)
** [[敬老の日]]前日の日曜日 ほろかけ祭り(古谷本郷、古尾谷八幡神社)県指定無形民俗文化財
** 15日 獅子舞(古谷本郷、古尾谷八幡神社)
** 下旬 川越市美術展([[川越市立美術館]])
* 10月
** 13日 いもの日まつり・芋[[供養]](菅原町、[[妙善寺 (川越市)|妙善寺]])
** 中旬 獅子舞(上寺山、八咫神社)市指定無形民俗文化財
** 第3日曜日とその前日の土曜日 [[川越祭り]] 国の[[重要無形民俗文化財]]
** 下旬 川越産業博覧会([[川越運動公園]])
* 11月
** 1日から 小江戸川越菊まつり([[喜多院]])
** 初旬 小江戸川越大[[茶会]]([[蓮馨寺]]、[[中院]]など)
** 23日 [[火渡り]]祭([[成田山川越別院]])
** 下旬 小江戸川越[[マラソン]]
* 12月
** 3日 [[酉の市]](連雀町 [[熊野神社 (川越市)|熊野神社]])
=== 宿泊施設 ===
* 佐久間旅館
*: 国の[[登録有形文化財]]の佐久間旅館は[[1894年]](明治27年)創業の老舗旅館。[[尾崎紅葉]]や[[島崎藤村]]の常宿で、藤村の『[[夜明け前]]』の執筆はここで成された。[[日本ペンクラブ]]初代会長の藤村が第1回国際ペン大会出席で洋行するときの壮行会も[[堀口大學]]など文人たちが集ってここで行われた。皇族の定宿で[[三笠宮崇仁親王]]が特に贔屓にしている。[[名人戦 (将棋)|将棋名人戦]]の対局宿でもある。(閉館)
* 市内には「[[プリンスホテル|川越プリンスホテル]]」、「[[東武グループ|川越東武ホテル]]」、「川越第一ホテル」、「ホテル三光」などのシティホテルや、ビジネスホテル・カプセルホテルも多い。[[温泉|天然温泉]]の「川越温泉」「はつかり温泉」など[[日帰り入浴施設]]もある。[[伊佐沼]]湖畔には埼玉県国民年金保養センター「えすぽわーる伊佐沼」もある。また、蔵造りの町並みには戦前から続く昔ながらの[[銭湯]]「旭湯」がある(市内唯一の銭湯)。
<gallery>
ファイル:Kawagoekan.JPG|[[河越館]]
ファイル:Kawagoe Jorakuji.JPG|[[常楽寺 (川越市)|常楽寺]]
ファイル:Kawagoe Hikawa shrine 01.jpg|[[氷川神社 (川越市)|氷川神社]]
ファイル:Kawagoe Kitain temple main hall.jpg|[[喜多院]]
ファイル:Statues_of_Rakan_in_Kitain,_Kawagoe.jpg|喜多院の「[[五百羅漢]]」
ファイル:Miyoshino_Shrine-2006-02-12_1.jpg|[[三芳野神社]]
ファイル:Tbelfry_of_Kawagoe,Tokinokane,Kawagoe-city,Japan.jpg|[[時の鐘 (川越市)|時の鐘]]
ファイル:Kashiya yokocho-2008-04-30.jpg|[[菓子屋横丁]]
ファイル:Kawagoe Kuratsukuri Museum.JPG|[[川越市蔵造り資料館]]
ファイル:Kawagoe Festival Museum.JPG|[[川越まつり会館]]
ファイル:Saitama Risona Bank Kawagoe Branch 2010.jpg|旧 [[第八十五国立銀行|八十五銀行]]本店
ファイル:Kawagoe Chamber of Commerce.jpg|旧 [[武州銀行]]川越支店
ファイル:Former Yamakichi Department Store 2010.jpg|旧 山吉デパート
ファイル:Dango_shop_in_Kawagoe.jpg|昔ながらの団子屋
</gallery>
=== オブジェ ===
街中にオブジェ(屋外彫刻)が多い。時間を表すオブジェとしては以下のようなものがある。
* 「時世」(平成の[[時の鐘 (川越市)|時の鐘]]として[[川越駅]]東口のロータリーにある。藤田久数作。午後6時、9時、0時に夜空に高く光を放ち、時間を告げる。北米照明学会賞)
* 「こども川越まつり」([[アトレマルヒロ]]の駅側の入口上部に、市制施行80周年を記念し設置された[[からくり時計]]。からくりの動作はアトレの開店時間から午後9時までの毎正時)
* 「24MONUMENT PLAZA」(川越駅東口の広場にあるピラミッド状の日時計。高瀬昭男作)
== 川越を舞台にした作品 ==
* ドラマ
** [[水戸黄門 (第1-13部)#第9部|水戸黄門 第9部]](テレビドラマ)
**: 第24話「弟思いの一番勝負」。出演:[[東野英治郎]]、[[里見浩太朗]]、[[大和田伸也]]、[[山口いづみ (女優)|山口いづみ]]ほか。
** [[水戸黄門 (第14-21部)#第19部|水戸黄門 第19部]](テレビドラマ)
**: 第28話「占い名人 梅里先生」。出演:[[西村晃]]、[[あおい輝彦]]、[[伊吹吾郎]]、[[由美かおる]]ほか。
** [[ウォーターボーイズ]](テレビドラマ、映画)
**: [[埼玉県立川越高等学校]]の水泳部が行う男子[[アーティスティックスイミング|シンクロ]]チームがモデルになっている。ウォーターボーイズのプロデューサーは同校出身。映画版の出演は[[妻夫木聡]]、[[玉木宏]]、[[平山あや]]、[[竹中直人]]、[[柄本明]]ほか。
** [[監察医・室生亜季子]]([[火曜サスペンス劇場]])
**: 当市を舞台に繰り広げられるサスペンスドラマ。出演:[[浜木綿子]]、[[左とん平]]、[[すまけい]]、[[北村和夫]]、[[大場順]]、[[三浦リカ]]、[[清水ミチコ]]ほか。
** [[つばさ (2009年のテレビドラマ)|つばさ]]([[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])
**: 2009年春放送。出演:[[多部未華子]]、[[高畑淳子]]、[[中村梅雀 (2代目)|中村梅雀]]、[[吉行和子]]、[[冨士眞奈美]]ほか。
** [[渥美清の泣いてたまるか]]・ウルトラおやじとひとりっ子
**: 川越の和菓子店「芋十」を舞台に展開するドラマ。出演:[[渥美清]]、[[左卜全]]、[[松村達雄]]、[[殿山泰司]]、[[藤村有弘]]ほか。
** [[JIN-仁-]](漫画、テレビドラマ)
**: [[川越藩]]主の[[松平直克]]や[[正室]]の[[恵姫]](実在する)などが登場。[[緒川たまき]]や[[清水伸]]が扮し、撮影も市内で行われた。
** [[鎧勇騎 月兎]]([[特撮]]テレビドラマ)
* 映画
** [[無法松の一生#1963年版|無法松の一生]]
**: 監督:[[村山新治]]、出演:[[三國連太郎]]、[[淡島千景]]ほか。
** [[東京上空いらっしゃいませ]]
**: 監督:[[相米慎二]]、出演:[[中井貴一]]、[[牧瀬里穂]]、[[笑福亭鶴瓶]]、[[藤村俊二]]ほか。
** [[鬼畜 (松本清張)#映画|鬼畜]]
**: 監督:[[野村芳太郎]]、出演:[[緒形拳]]、[[岩下志麻]]、[[小川眞由美]]、[[大竹しのぶ]]、[[田中邦衛]]ほか。[[松本清張]]原作では他にも推理小説「[[黒い空]]」なども当市を舞台にしている。「黒い空」もテレビドラマ化された(出演:[[藤竜也]]、[[赤座美代子]])。
** [[鉄塔 武蔵野線]]
* 小説
** [[黒い空]]:[[松本清張]]
** [[大地の園]]:[[打木村治]]
** [[義民が駆ける]]:[[藤沢周平]]
** [[ソードアート・オンライン]]:[[川原礫]]
** [[二人静]]:[[盛田隆二]]
** [[いつの日も泉は湧いている]]:[[盛田隆二]]
* 漫画
** [[魔法先生ネギま!]]:[[赤松健]]
** [[ジゴロ次五郎]]:[[加瀬あつし]]
** [[タンブリング]]:[[鎌田洋次]]
** [[WILD HALF|WILD HALF(ワイルドハーフ)]]:[[浅美裕子]](作者は当市出身)
** [[ミルク捜査日記]]:[[みやたけし]]
** [[不良愛煙家集団ヤニーズ]]:[[哲弘]](作中表記は山越市)
** [[鉄人ガンマ]]:[[山本康人]]
** 川越の書生さん:[[幹本ヤエ]](作者は当市出身)
** [[デュエル・マスターズ (漫画)#デュエル・マスターズ(2017年版)|デュエル・マスターズ(2017年版)]]:[[松本しげのぶ]]
** [[デュエル・マスターズ (漫画)#デュエル・マスターズ キング|デュエル・マスターズ キング]]:[[松本しげのぶ]]
* アニメ
**[[十兵衛ちゃん]]
**: 「本剣越市」のモデル。(ただし作品中で用いられた情景は、多くが[[石川県]][[金沢市]]のものである)
** [[猫神やおよろず]]
** [[神様はじめました#テレビアニメ|神様はじめました]]
** [[宮河家の空腹]]
** [[Go!プリンセスプリキュア]]
**: 主人公春野はるか(キュアフローラ)の実家の和菓子屋がある町のモチーフとなっており<ref>{{Twitter status|KuretaK|/852192622709850112}}</ref>、作中にはりそな銀行川越支店と思われる建物が登場している。
** [[月がきれい]]
** [[恋する小惑星]]
** [[デュエル・マスターズ (アニメ)#デュエル・マスターズ(ジョー編前期)|デュエル・マスターズ(新シリーズ)]]
** [[デュエル・マスターズ (アニメ)#デュエル・マスターズ キング|デュエル・マスターズ キング]]
** [[川越ボーイズ・シング]]
** [[僕らの雨いろプロトコル]]
* 音楽
** 「[[川越小唄]]」(作詞:[[西條八十]]、作曲:[[町田嘉章]]、唄:[[藤本二三吉]])
**: [[1930年]]([[昭和]]5年)に製作され、当市出身のNHK・矢部放送部長により、川越の[[芸妓]]10人による[[三味線]]と唄が全国に放送された。
** 「[[四季の川越]]」(作詞:[[山岐善麿]]、作曲:町田嘉章)
** 「[[川越舟唄]]」(採譜・編曲:[[松尾健司]])
** 「小江戸川越音頭」(作詞:[[野原正作]]、作曲:松尾健司)
** 「いも掘り音頭」(作詞:[[坂本長治]]、作曲:[[西崎洋子]])
** 「[[川越新小唄]]」(作詞:[[林笙之]]、作曲:[[佐々木すぐる]]、編曲:[[南雲一広]]、唄:[[島倉千代子]])※川越市選定歌
** 「[[川越サンバ]]」(作詞:[[荒木とよひさ]]、作曲:[[大野雄二]]、歌:[[デュークエイセス]])
** 「Over The River」([[スネオヘアー]])
**: 3rdシングル「Over The River」及び1stアルバム「[[スネスタイル]]」に収録。曲題は「川越」の直訳。当市で学生時代を過ごした思い出と、現在の自分を照らし合わせて唄った曲である。
**: 同じく13thシングル「やさしいうた」(5thアルバム「[[スカート (スネオヘアーのアルバム)|スカート]]」にも収録)もスネオヘアーの二十歳の時の当市での暮らしを描いた曲である。
== 出身有名人 ==
=== 歴史的人物 ===
* [[赤沢仁兵衛]](江戸・[[明治]]時代の農学者)
* [[内池武者右衛門]]([[川越藩]]士、「先登録」の著者)
* [[内海次郎]]([[新選組]]隊士)
* [[奥貫友山]](江戸時代の慈善家)
* [[河越重頼]]([[平安時代]]末期の武将、[[荘官]])
* [[河越重房]](平安時代末期の武将)
* [[河越重時]]([[鎌倉幕府]][[御家人]])
* [[河越重員]](鎌倉幕府御家人)
* [[河越泰重]](鎌倉幕府御家人)
* [[河越経重]](鎌倉幕府御家人)
* [[河越宗重]](鎌倉幕府御家人)
* [[河越貞重]](鎌倉幕府御家人)
* [[河越高重]]([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将)
* [[河越直重]]([[室町時代]]の武将)
* [[喜多川歌麿]]([[江戸時代]]の[[浮世絵|浮世絵師]]):諸説ある生地の最有力地。
* [[郷御前]]([[源義経]]の正室)
* [[佐野友三郎]](明治時代の[[図書館学者]])
* [[藤間勘兵衛]]([[日本舞踊]][[藤間流]]の創始者)
* [[松平直温 (川越藩主)|松平直温]](江戸時代後期の川越藩主)
* [[安井政章]](江戸時代の治水家)
* [[保岡嶺南]]([[儒者]])
=== 政治 ===
* [[綾部惣兵衛]]([[立憲同志会]]や[[憲政会]]の幹事を歴任)
* [[川合善明]](政治家、[[弁護士]])
* [[小宮山泰子]](政治家、衆議院議員)
* [[中野清 (政治家)|中野清]](政治家、元[[自由民主党 (日本)|自民党]]副幹事長、現内閣常任委員長)
* [[橋本光男 (埼玉県副知事)|橋本光男]](埼玉県[[副知事 (日本)|副知事]]、[[全国知事会]]事務総長)
* [[福田香史]] ([[政治家]]、元[[四日市市]]議会議員)
* [[福田久松]]([[自由民権運動|自由民権運動家]]、[[衆議院議員]])
* [[和田博雄]]([[政治家]]、元[[農林水産大臣|農林大臣]])
* [[松山千恵子]](政治家、元[[厚生省|厚生]]・[[郵政省|郵政]][[政務次官]])
=== 経済 ===
* [[綾部利右衛門]](実業家、川越市初代市長)
* [[伊藤八兵衛]](幕末に江戸一番の豪商と言われた幕府御用商人)
* [[栗原幹雄]]([[フレッシュネスバーガー]]創業者・社長)
* [[伊勢半|澤田半右衛門]]([[伊勢半]]創業者)
* [[鈴木岩治郎]](戦前の大財閥の[[鈴木商店]]創業者)
* [[中島久平]](実業家、川越[[唐桟]]の祖)
* [[速水堅曹]]([[農商務省 (日本)|農商務省]]官僚、日本の[[製糸業]]生みの親。[[富岡製糸場]]所長)
* [[深沢雄象]](実業家、[[正教徒]])
* [[松本翼]](<!--tmatsu-->株式会社7th Logic代表、元俳優)
* [[山崎豊]](菓子商、川越貯蓄銀行創設者)
* [[横田五郎兵衛]]([[第八十五国立銀行]]設立者)
=== 軍人 ===
* [[浅田信興]]([[陸軍大将]])
* [[四王天延孝]]([[陸軍中将]])
=== 学術 ===
* [[下山懋]]([[国文学者]])
* [[野村稔]]([[法学者]])
* [[三島通良]]([[衛生学者]]、日本の学校衛生の生みの親。三島式[[種痘|種痘法]]を発明)
* [[和田雄二]] ([[化学工学者]])
=== 文化 ===
* [[相原求一朗]](洋画家)
* [[浅美裕子]](漫画家)
* [[淡島椿岳]](画家)
* [[岩崎勝平]]([[洋画家]])
* [[小茂田青樹]](日本画家)
* [[小林斗盦]]([[埼玉県立川越高等学校|旧制埼玉県立川越中学校]]卒、[[書家]]、[[篆刻]]家)
* [[小村雪岱]]([[日本画家]])
* [[杉浦翠子]]([[歌人]])
* [[高柳金芳]]([[在野]]の歴史家、江戸時代研究家)
* [[天堂晋助 (作家)|天堂晋助]](作家)
* [[戸田基大]]([[写真家]])
* [[名香智子]](漫画家)
* [[花村えい子]]([[漫画家]])
* [[春瀬サク]](漫画家)
* [[船曳鴻紅]]([[デザイナー]])
* [[細田源吉]]([[プロレタリア文学]]作家)
* [[松本光司 (漫画家)|松本光司]]([[城西川越中学校・城西大学付属川越高等学校|城西大学付属川越高等学校]]卒、漫画家)
* [[幹本ヤエ]](漫画家)
* [[宮脇俊三]]([[紀行]]作家、[[鉄道旅行]]家)
* [[わたなべめぐみ]]([[児童文学]]作家)
=== 芸能 ===
* [[朝川ひろこ]]([[歌手]]、1965年生)
* [[市村正親]](男優、1949年生)
* [[荻久保和明]]([[作曲家]]、[[指揮者]]、1953年生)
* [[風間ゆみ]]([[AV女優]]、[[ストリップティーズ|ストリッパー]]、1978年生)
* [[蒲生麻由]](女優、タレント、モデル、1982年生)
* [[巫まろ]](福田花音)(歌手・アイドル〈[[ZOC (アイドルグループ)|ZOC]]のメンバー〉、〈元[[アンジュルム|アンジュルム[旧スマイレージ]]]などのメンバー〉、1995年生)
* [[菅野祐悟]]([[作曲家]]、[[音楽]][[プロデューサー]]、1977年生)
* [[岸優太]](アイドル〈[[King & Prince]]の元メンバー〉、1995年生)<ref name="fujitv">{{Cite web|和書|url=https://www.fujitv-view.jp/article/post-953826/|title=岸優太 故郷・川越市で愛犬と爆買い旅!少年野球の鬼コーチ登場にプチパニック|website=[[フジテレビュー!!]]|date=2023-08-18|accessdate=2023-10-06}}</ref>
* [[喜味こいし]]([[漫才師]]〈[[夢路いとし・喜味こいし|いとし・こいし]]のメンバー〉)
* [[古今亭志ん五 (2代目)|2代目古今亭志ん五]](落語家)
* [[小林隆]](男優、1959年生)
* [[近藤宏]]([[俳優|男優]]、1925年生)
* [[佐藤愛子 (タレント)|佐藤愛子]](歌手、女優、元アイドル〈[[ribbon (アイドルグループ)|ribbon]]のメンバー〉、1973年生)
* [[三遊亭窓里]](落語家)
* [[三遊亭鳳楽]]([[落語家]])
* [[諏訪ななか]](声優、1994年生)
* [[中里美喜]](ミュージカル俳優、1987年生)
* [[西端さおり]](元[[タレント]]、1984年生)
* [[花宮沙羅]](元[[宝塚歌劇団]][[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]娘役)
* [[日高薫]]([[モデル (職業)|モデル]]、1985年生)
* [[福原遥]](女優、タレント、[[歌手]]、[[モデル (職業)|モデル]]、1998年生)
* [[FREEASY BEATS]](歌手グループ、1977年生と1979年生)
* [[ペイトン尚未]]([[声優]]・アイドル〈[[Liella!]]{{small|([[ラブライブ!スーパースター!!|ラブライブ!]])}}などのメンバー〉、2003年生)
* [[三吉彩花]](モデル、女優、1996年生)
* [[美村伊吹]](タレント、[[俳優|女優]]、1985年生)
* [[森奈みはる]]([[俳優|女優]]、1968年生)
* [[U-zhaan]](演奏家〈[[タブラ]]奏者〉、1977年生)
=== アナウンサー ===
* [[青池奈津子]](フリーアナウンサー、1980年生)
* [[伊東陽司]](契約アナウンサー〈[[テレビ信州]]所属〉)
* [[梅田陽子]]([[フリーアナウンサー]])
* [[荻原弘子]](契約アナウンサー〈[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]所属〉、1954年生)
* [[上岡信夫]]([[日本のアナウンサー#契約アナウンサー|契約アナウンサー]]〈[[宮崎放送]]所属〉、1950年生)
* [[急式裕美]](契約アナウンサー〈札幌テレビ所属〉、1978年12月29日生)
* [[熊谷明美]](契約アナウンサー〈[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]所属〉、1976年生)
* [[杉岡英樹]](契約アナウンサー〈[[日本放送協会|NHK]]所属〉、1975年生)
* [[福田友理子]](契約アナウンサー〈[[群馬テレビ]]所属〉、1984年生)
{{colend}}
=== スポーツ ===
* [[岩上智一郎]](総合格闘家)
* [[太田賢吾 (野球)|太田賢吾]](プロ野球選手)
* [[荻原拓也]](プロサッカー選手)
* [[片山瑛一]](プロサッカー選手)
* [[岸本新菜]](女子[[トライアスロン]]選手)
* [[清成龍一]](男子[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]][[運転手|ライダー]])
* [[國吉貴博]](プロサッカー選手)
* [[齋藤巧]](プロ[[ビーチサッカー]]選手)
* [[佐々木旭]](プロサッカー選手)
* [[塩越柚歩]]([[女子サッカー]]選手)
* [[関根永悟]](プロサッカー選手)
* [[高梨雄平]](プロ野球選手)
* [[田中姿子]](女子[[ビーチバレー]]選手、元[[バレーボール]]選手)
* [[田中淳 (サッカー選手)|田中淳]](プロサッカー選手)
* [[千島徹]](元[[プロサッカー選手]])
* [[仁村薫]](元[[プロ野球選手]]。仁村徹の実兄)
* [[仁村徹]](元プロ野球選手。仁村薫の実弟)
* [[樋口久子]](女子[[プロゴルファー]])
* [[松崎快]](プロサッカー選手)
* [[矢口哲朗]](元プロ野球選手)
=== その他 ===
* [[あやなん]] ([[YouTuber]])
* [[野田澤彩乃]]([[女流棋士 (将棋)|女流棋士]])
== ゆかりのある人物 ==
{{colbegin|4}}
* [[仙波家信]]
* [[師岡重経]]
* [[上杉持朝]]
* [[太田道灌]]
* [[田代三喜]]
* [[塚原卜伝]]
* [[北条氏康]]
* [[北条綱成]]
* [[大道寺政繁]]
* [[天海|天海僧正]]
* [[春日局]]
* [[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]
* [[松平信綱]]
* [[堀田正盛]]
* [[安松金右衛門]]
* [[柳沢吉保]]
* [[荻生徂徠]]
* [[秋元喬知]]
* [[高山繁文]]
* [[秋元凉朝]]
* [[海保青陵]]
* [[松平信輝]]
* [[松平斉典]]
* [[藤枝英義]]
* [[藤枝貞治]]
* [[沼田順義]]
* [[松平康英]]
* [[松平典則]]
* [[松平直侯]]
* [[松平直克]]
* [[大川平兵衛]]
* [[忽滑谷快天]]
* [[柴田是真]]
* [[高林謙三]]
* [[橋本雅邦]]
* [[稲垣千穎]]
* [[井上安治]]
* [[吉田幸兵衛]]
* [[渋沢栄一]]
* [[高田早苗]]
* [[大川平三郎]]
* [[福澤桃介]]:実業家([[大同電力]]社長など)
* [[星野仙蔵]]
* [[島崎藤村]]
* [[国崎定洞]]
* [[稲垣史生]]
* [[小宮山重四郎]]
* [[巖金四郎]]
* [[澁澤龍彦]]
* [[池原昭治]]
* [[大久保竹治]]
* [[川野トモ]]
* [[田部井淳子]]:川越市民栄誉賞
* [[笹森清]]
* [[諏訪哲二]]
* [[河上亮一]]
* [[宇津木妙子]]
* [[盛田隆二]]:川越市立第一小学校卒、川越市立第一中学校卒、[[埼玉県立川越高等学校]]卒(小説家)
* [[奥泉光]]:埼玉県立川越高等学校卒(小説家)
* [[田村文生]]
* [[スネオヘアー]]
* [[速水けんたろう]]
* [[藤井美登利]]
* [[原千晶]]:川越市立高階西中学校卒
* [[櫻井淳子]]:埼玉県川越商業高等学校(現・[[川越市立川越高等学校]])卒
* [[石原理衣]]:埼玉県立川越女子高等学校卒
* [[田中卓志]]([[アンガールズ]])
* [[遠藤隆行]]:川越市民栄誉賞
* [[キミとボク|やまがらしげと]]
* [[内田康夫]]:埼玉県立川越高等学校卒(小説家)
* [[辺見庸]]
* [[筆坂秀世]]
* [[セルヒオ・エスクデロ]]
* [[エスクデロ・セルヒオ]]
* [[やすひさてっぺい]]([[日本唐揚協会]]会長兼理事長)
* [[坪内千恵子]]
* [[津久井教生]]
* [[飯野賢治]]:城西大学付属川越高等学校中退
* [[百鬼丸]]:(切り絵作家)
* [[原村政樹]]:(記録映画監督)
* [[篠原烏童]](漫画家)
* [[高橋邦子]]([[RPGツクール]]ゲーム制作者)
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=== マスコミ ===
* [[小宮悦子]]:埼玉県立川越女子高等学校卒(ニュースキャスター)
* [[田丸美寿々]]:埼玉県立川越女子高等学校卒(ニュースキャスター)
* [[山本浩]]:埼玉県立川越高等学校卒(サッカー中継で有名だった[[日本放送協会|NHK]]元アナウンサー)
* [[辛坊治郎]]:埼玉県立川越高等学校卒(ニュースキャスター。[[讀賣テレビ放送|讀賣テレビ]]解説委員長)
* [[小久保知之進]]:埼玉県立川越高等学校卒([[テレビ朝日]]経済部記者・アナウンサー)
* [[八代英輝]]:[[城北埼玉中学校・高等学校|城北埼玉高等学校]]卒(コメンテーター、国際弁護士)
== 団体 ==
* [[一般社団法人 楽暮]](総合型地域スポーツクラブ、イベントオーガナイザー)
== その他 ==
* 広報番組「わが街川越」が、[[テレビ埼玉]]で放映されている。
* [[JCN関東]]では、「[[JCNチャンネル#JCN関東|JCN関東チャンネル]]」で市内の毎日のニュースなど各種放送が行われている。
* [[2002年]]秋に[[インターネット]]上で実施された「埼玉県[[最萌トーナメント]]」で当市が優勝した<ref>[http://st.2cht.net/ 埼玉県最萌トーナメント]</ref>。
== 関連項目 ==
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* [[川越市の町名]]
* [[川越]]
* [[河越氏]]
* [[河越館]]
* [[河越城の戦い]]
* [[川越城]]
* [[川越藩]]
* [[川越大師]]
* [[川越街道]]
* [[川越五河岸]]
* [[通りゃんせ]]
* [[あんたがたどこさ]]
* [[ホンダ・プレリュード]] - 初代は「川越ベンツ」とも呼ばれた<ref group="注釈">実際の製造は隣の狭山市にある本田技研工業埼玉製作所である。</ref>。
* [[忍者戦隊カクレンジャー]] - 第13話「ブッとばせ不幸」のロケ地。
* [[川越町]] - [[三重県]][[三重郡]]にある川越市と同音同字の町。
== 脚注 ==
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阪和電気鉄道
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阪和電気鉄道(はんわでんきてつどう)は、昭和初期の関西の鉄道会社。現在のJR西日本阪和線を建設した。
1926年に設立され(路線免許交付は1923年)、1940年に南海鉄道に合併された。
営業不振や政府の交通政策などの事情故に会社法人としては短命であったが、戦前の「日本一速い電車」である「大阪 - 和歌山45分」ノンストップの「超特急」を運行したことで、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶される。
京阪電気鉄道は大正 - 昭和初期にかけ、岡崎邦輔(第3代)・太田光凞(第4代)と2人の社長の下で、有力政党・立憲政友会との関係をバックに大幅な拡張政策を採り、近畿一円に一大電力コンツェルンを形成した。その一環として和歌山進出を目論み、1922年には和歌山県内の有力電力会社であった和歌山水力電気を買収して自社の和歌山支店とした。そしてこの延長線上で、従来南海鉄道南海本線のみが通じていた大阪 - 和歌山間でこれに平行する新しい高速電気鉄道の建設計画に資本参加したのである。
この電鉄路線計画は、元々和歌山以南の紀伊半島沿岸を自社航路の勢力範囲とし、来るべき将来における国鉄紀勢線の全通で打撃を受ける大阪商船、南海鉄道だけでは地元の将来的な潜在貨物輸送需要を賄いきれないと判断した泉州地域の綿業資本家、大阪方面における安定的な電力消費先を欲していた大手電力会社の宇治川電気(後の関西電力)、それに和歌山の有力者達が合同して立案したものであり、最初の出願は1919年に行われている。
京阪の正式な参加は、建設計画が本格的に具体化し、会社が設立された1926年4月24日以後のことであった。もっとも、1920年の原内閣による南海鉄道国有化失敗後、この案件に仲介役として介入していた京阪は阪和電鉄の出願者グループと緊密な関係にあった。そのため、阪和電気鉄道線の免許取得に当たっては政治的な工作をこのグループから依頼されており、単純な株式引き受けに留まらない、複雑な経緯を経た末の資本参加であったことが伺われる。
京阪の起業参加に際しては、同社による和歌山方面の電力供給が約束されたほか、同社技術陣の派遣も行われている。他の設立メンバーには鉄道経営の経験者がほぼ皆無であったことから、実際の鉄道建設は京阪系のスタッフにその多くが委ねられることとなった。
当初は、新京阪線同様の規格で、高速運転に有利な1,435mm軌間での建設も考慮されていた。この当時、鉄道省は南海鉄道の買収に失敗し、また同線に並行する大阪 - 和歌山間を結ぶ省線の新規建設も、折からの財政難で不可能となっていた。このため、建設中の国鉄紀勢線は、接続する路線を欠いて半ば宙に浮く事態となった。それゆえ、渡りに船とも言える内容を備えたこの阪和電鉄の申請に対し、鉄道省は将来の国家買収を視野に入れた付帯条件をつけて免許を交付した。この結果阪和電鉄線は、必然的に国鉄や南海と同じ1,067mm軌間で建設されることになった。この選択は、国鉄からの貨車直通、さらには当時建設が進行していた紀勢線への直通をも可能とするもので、その点では営業上有利であった。
既存の南海鉄道が大阪湾岸の紀州街道および孝子越街道(国道26号)沿いの都市を経由したのに対し、阪和電気鉄道はそれよりやや内陸寄りの農村地帯を通る熊野街道(現・大阪府道30号)沿いに敷設され、極力直線的なルートを取り、高速運転に適合した線路設備が整えられた。また、和泉山脈越えでは南海が避けた紀州街道の雄ノ山峠越えを選択し、距離の短縮に努めている。架線電圧も、路面電車並の低圧な直流600Vであった南海に対し、当初からより効率が良く高速向けの直流1,500Vとされた。電力については、開業の段階では大阪方面は宇治川電気から、また和歌山方面は京阪和歌山支店からそれぞれ供給を受けた。
しかし、国鉄線との連絡という付帯条件によって大阪側起点用地の確保は困難をきわめた。当初は大阪市南区木津大国町(現・浪速区大国1・2丁目)、今宮駅の南東付近を予定した起点は、都市部ということもあって用地買収に難渋し、最終的に旧・南大阪電鉄が取得し、当時大阪鉄道(2代目。後の近鉄南大阪線の前身)が所有していた国鉄天王寺駅駅舎東側(ホーム北側)の台地上に確保された。
だが、この起点決定により、阪和電気鉄道線には鉄道省城東線、関西本線、大阪鉄道本線、それに南海平野線の4つの既存鉄軌道を立体交差する必要が生じることになった。そのため、線形維持の必要性もあって、南田辺以北の約2.7kmの区間において高架構造の採用を強いられた。この高架橋は、大正時代末期以降、日本でも採用例が見られるようになった鉄筋コンクリート製で、八角形の断面を持つ橋脚を一部に採用するなど、特徴的な意匠を備え、大林組の施工になるものである。大林組はこれ以前に、関西の鉄道用鉄筋コンクリート高架橋の嚆矢となった、新京阪鉄道天神橋駅付近の高架工事や、奈良電鉄桃山御陵前周辺の高架工事などを手がけていた。
1929年7月18日、阪和天王寺(現、天王寺) - 和泉府中間と鳳 - 阪和浜寺(現、東羽衣)間で部分開業。翌1930年6月16日、阪和天王寺 - 阪和東和歌山(現、和歌山)間を全線開業した。
なお、当初の計画では浜寺支線(1926年3月4日免許出願)と同時に、粉河支線(山口 - 粉河間8マイル40チェイン)が単線で出願されていた。しかし財政難から、未着工のまま南海合併後まで棚上げされ続け、太平洋戦争開戦に伴う資材不足で本線の運行維持さえ困難になり、建設の見通しが全く立たなくなったことから、結局1942年7月28日付で免許失効となっている。
1929年の開業当初より、狭軌鉄道としては当時日本最大級の強力な全鋼製電車を投入し、高速運転を実施した。
大出力モーターを装備した大型電車によって、線形の良好な高規格新線で高速運転を行うという、アメリカのハイスピード・インターアーバン(高速都市間連絡電車)流のコンセプトそのものは、1927年に開業した京阪傘下の新京阪鉄道(現・阪急京都本線)と共通のものである。アメリカのインターアーバンは自動車に押されてすでに衰退期に入っていたが、シカゴ都心への直通のために線形や車両規格の改善を図ったノースショアー線やサウスショアー線など、大都市近辺の路線を中心に路線や車両の高規格化を行って生き残りを図ったケースがあり、これに倣ったものと考えられる。
主力車となった全長19mの大型電車モヨ100形・モタ300形等は、腰高で屋根が高く、窓も小さく、さながら装甲車両を思わせる物々しい外観を備えていた。実際に極めて頑丈な構造で、電動車では公称値で47t - 48tもの超重量級に達したが、電動車1両あたり600kW(800日本馬力)という大出力はそれを補って余りあるものであった。この系統の電車群は1937年までに合計48両が製造されている。
その電装品は東洋電機製造製の国産品で、当時の電車用としては日本最強クラスの定格出力149.2kW(≒200馬力)を発揮する大出力モーターをはじめ、極めて高度な仕様であった。自動空気ブレーキは、アメリカ のウェスティングハウス・エア・ブレーキ社(Westinghouse Air Brake Co.:WH社/WABCO。現・ワブテック社)が設計した長大編成対応ブレーキ(U自在弁)を採用したが、当時の日本の電車が通常でも最長4両編成程度が限度だったところ、阪和ではこのブレーキの採用によって6両編成以上を可能として いった。
これらのスペックは軌間の相違こそあったものの、新京阪鉄道が開業時に投入した大型大出力電車P-6形(デイ100形)とおおむね共通で、経営および技術の両面における京阪の影響の強さを推察できる。
当時としては未曾有の優等列車の超高速運転を実現するため、電車自体の性能強化以外にも可能な限りの方策が講じられていた。
この高速電車の性能を十分に活かすため、軌道設備も現在の大手私鉄幹線と同等の50kg/m相当の重軌条を採用し、37kgレールを使用していた当時の国鉄東海道本線以上という破格の高水準を実現した。架線は輸送密度の関係からかコンパウンドカテナリの導入こそ見送られたが、それでも通常構造ながら重い架線を用いたシンプルカテナリが採用され、最高速度100km/hオーバーの高速運転への備えは万全であった。
また線内には貨物列車も運行されることになったが、電車列車のダイヤ組成の障害とならないよう、専用機関車として駿足な本線用電気機関車ロコ1000形を新規に開発した。そして、同機が牽引する貨物列車は後続の電車列車に追いつかれないよう、軽量な短編成による高速運転を行って待避駅に逃げ込ませることを前提とした運用が組まれていた。
和歌山までの開業当初は、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間の61.2kmを「急行」(途中鳳駅にのみ停車)が65分、「直通」(普通列車のうち阪和天王寺 - 阪和東和歌山の全区間を走行する列車)が80分で結んでいたが、同年10月のダイヤ改正で急行55分、直通75分に短縮するなど、スピードアップを積極的に行った。その後も路盤の安定に伴ってスピードアップを繰り返し、1931年7月に阪和天王寺 - 阪和東和歌山間をノンストップ48分で走破する「特急」の運転を開始した。
この特急は、1933年12月20日改正で阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分運転へスピードアップされ、種別も「超特急」に改める。この時の表定速度81.6km/hは、営業運転される定期列車としては当時の日本国内最高記録で、戦後に国鉄特急「こだま」号が東京 - 大阪間6時間40分運転(表定速度83.46km/h)を開始する1959年までの26年間、破られることはなかった。なお、同時期に日本資本で経営されていた南満洲鉄道の著名な特急列車「あじあ」号(1934年運転開始)は蒸気機関車牽引の客車列車ではあるものの、標準軌路線での運転で表定速度82.5km/hであったが、阪和超特急は狭軌ながらそれにも匹敵する水準に達していた。
阪和電鉄の線形はおおむね直線で条件は良好であったが、県境の山中渓駅付近には急曲線・急勾配区間があり、車体傾斜式車両(振り子式車両)が開発すらされていなかった当時にあっては、平坦区間で極限の高速運転がなされた。阪和間45分運転を行うことは電車にも大きな負担をかけ、駆動歯車は鋸歯状になるほど消耗したという。
阪和電鉄の認可最高速度は当時の国鉄同様95km/hだったが、当時の関係者の証言によれば、現実にはしばしば120 - 130km/hにも達する速度違反が行われていたという。
当時の阪和では乗客へのサービスのため、阪和天王寺駅では発車時刻になっても改札に客が残っている場合は発車を待ち、遅れた客を乗せた上で発車するようになっていたが、それでも定刻に東和歌山駅に到着させることが厳命され、乗務員は実際に回復運転を図って定時で到着させていた。これは、高規格な軌道と大出力電車の高性能に負うものであり、安全上での一応の余裕はあったが、恐るべき暴走ぶりであったという。
1935年頃の同社の営業案内には「最高時速は120粁(キロメートル)で日本一の快速電車である」と記されている。古い時代の鉄道では営業運転での最高速度でなく、実際に達することのない設計・計画最高速度をPRに使う誇大広告のケースがまま見られた。例えば、南満洲鉄道の「あじあ」号について時折語られる160km/hという最高速度も、実際の営業運転では到達しておらず130km/hが最高であったが、阪和では一見額面のみの「最高速度」を表示しつつ、実際にもそれだけの超過速力を出していたことからも、阪和の徹底したスピード主義を読み取ることができる。
もっとも、監督官庁が鉄道省であった当時、仮に省線以上の速度で申請を出しても認可は得られなかった。しかし、当時は自動列車停止装置(ATS)のような自動的な速度制限を行う保安機器が出現する以前のことで、電車の運転台には速度計も付いていなかったため、鉄道省側にこれを規制する手段はほぼ皆無であった。
古く明治時代に軌道条例→軌道法準拠で開業して低速運転を強いられながら、監督官庁の目をかいくぐって無許可の高速運転を敢行した阪神電気鉄道や京浜電気鉄道以来、特に戦前の関西私鉄各社ではこの種の速度違反が日常的に行われていた。阪和電鉄の手本となった新京阪線でも、途中の速度制限などから逆算すると法規を守っていればありえない所要時分の超特急を運行するなど、阪和だけが違反に手を染めていたわけではなかったのが当時の実情であった。
ノンストップ列車が超特急となったことで特急は一旦消滅したが、1935年10月1日に国鉄和歌山線と阪和電鉄線の交点に阪和中ノ島駅(現・紀伊中ノ島駅)が移設され、和歌山線のガソリンカーと連絡する超特急と急行のみ同駅に停車させるダイヤ改正を行った際、所要時間が48分に伸びた超特急を特急と改めることで復活した。その後、同駅には1937年6月改正をもって全ての特急・急行が停車するようになった。
阪和電鉄では他にも多種多様な列車種別を使用していた(詳細は駅一覧表を参照)が、他事業者に類のない種別として「直急」というものがあった。これは「直通・急行」を意味した種別で、準急が起点側で速達運転・終点側で各駅停車であったのとは対照的に、直急は起点側が各駅停車・終点側が速達運転であった。元来、阪和電鉄では全区間を走破する普通列車を「直通」と呼称しており、1936年改正でそれまで阪和天王寺 - 阪和岸和田(現・東岸和田)間の区間運転であった普通列車の一部を阪和東和歌山まで延伸して「直通」とした際に延長区間を急行運転としたため、直急列車が生まれることになった。しかし、翌1937年6月の改正で直急は元の阪和天王寺 - 阪和岸和田間の普通に戻されたため、この種別は短命に終わった。
速達運転をした臨時列車には阪和浜寺(現・東羽衣駅)までノンストップの臨時急行(後述)や、春季および秋季の行楽シーズンに運転された「ハイキング列車」などがあった。
在来路線である南海鉄道は、新興勢力である阪和電鉄の開業に対して危機感を持った。阪和電鉄の建設計画が持ち上がると、早くも南海は1923年から対抗策として、電車としてはそれ以前に日本で先例のない豪華な急行列車を大阪難波 - 和歌山市間で運行開始した。
これらは新たに開発した電7形・電付6形(電7系。のちにモハ1001形などへ改称)などで構成される4両編成で、これらの車両のうち、第6編成までは(船舶などと同様に)編成ごとに沿線の名所旧跡にちなんだ「浪速」・「和歌」・「住吉」・「濱寺」・「大濱」・「淡輪」という固有名称が与えられていた。この電7系は扇風機付きの喫茶・優等室を備え、便所も完備するなど、日本における本格的な長距離電車列車の嚆矢といえる存在である。
だが大阪 - 和歌山間程度の距離では、むしろスピードに注力する方が現実的であった。このため南海は1929年、阪和モヨ・モタ車にも比肩する出力800馬力・20m級の大型鋼製電車・電9形(のちのモハ2001形)を開発し、電7系に代わって南海本線の優等列車に投入した。
しかし、当初より都市間高速連絡輸送を企図して線形が決定された阪和電鉄に比べ、南海本線は明治時代に沿線集客力を重視して街道沿いに既存集落を縫うように建設された経緯から曲線や踏切が多く、走行条件ではかなり不利であった。電9形の性能をもってしても、難波 - 和歌山市間の所要時間は60分程度が限界であった。しかし、それでも「阪和間48分ノンストップ」と広告したほどの高速運転を行って挽回しようとしていた。
このため、南海では車両のアコモデーション改善を図るなど、主に接客サービス面で阪和に対抗した。その顕著な例としては、1936年に日本の私鉄初の冷房電車試作に挑戦した事例が挙げられる。電動冷凍機を改造した巨大な車載冷房システムを大阪金属工業(現・ダイキン工業)で製造し、クハ2801形2802号車に試験搭載の上、南海本線の特急・急行列車に投入した。電力消費が膨大という問題はあったが乗客から大好評を博し、翌1937年夏には2001系電車2両編成4本に冷房が搭載され、冷房特急・急行の頻発を実現した。冷房車は大人気で、難波駅では先発の冷房のない電車を見送ってまで後発の冷房車に乗り込む乗客が続出し、激しく混雑したという。
このような事例に限らず、1930年代を通じて阪和・南海の両社は大阪 - 和歌山間直通の優等列車を頻発させて覇権を争ったが、輸送需要と比較して過大な供給状態であった。
両社は、大阪近郊の人気行楽地である浜寺海岸でも激しい角逐を繰り広げた。鳳から分岐する阪和線東羽衣支線は、浜寺への行楽客輸送をも狙って建設された路線である。
海水浴シーズンになると、阪和・南海両社とも難波・天王寺の各ターミナル駅から臨時列車を設定し、往復割引の乗車券も販売した。そして浜寺海岸では、両社社員による熾烈な呼び込み合戦が繰り返され、ついにはお互いの社員による取っ組み合いの喧嘩沙汰にまで至ったという。
当時、阪和電気鉄道の阪和浜寺駅(現・東羽衣駅)から浜寺海岸へ行くには南海本線羽衣駅近くの踏切を横断する必要があったが、これに対して南海ではわざと同駅を発車・通過する電車を低速で走行させ、踏切を開かずの踏切にさせるという、いささか陰湿な手段まで繰り出したともいわれる。
この抗争の背景には、阪和と共同で阪和浜寺海水浴場を開設した大阪朝日新聞社と、南海と共同で大毎浜寺海水浴場を開設した大阪毎日新聞社との確執による、代理戦争的なものもあった。
阪和と南海が合併した1940年以降の一時期には、夏季に大阪(市内)から浜寺への定期券を購入すると、定期乗車券の経路にかかわらず、南海難波・阪和天王寺以外にも高野線汐見橋駅や阪堺線から浜寺・羽衣への利用を可能としたサービスを行っていた時期もあった(出典:関西の鉄道19号)。
戦後の一時期も南海は国鉄との対抗上、天王寺支線天王寺駅から浜寺公園駅への臨時急行を運転したことがあった。
両社は当時存在していた春木競馬場への競馬輸送でも互いに競争していた。先に仕掛けたのは阪和電鉄で、1930年の11月の秋競馬にあわせて最寄りの久米田駅に急行を臨時停車させ、阪和天王寺 - 久米田間を20分で結んだほか、運賃も2割引きの60銭とするなど積極策を講じた。南海は久米田駅よりもさらに競馬場に近い春木駅を擁していたが阪和の攻勢には後手に回り、翌1931年の秋競馬に難波 - 春木間のノンストップ急行を臨時運転することで応戦した。阪和はこれに対抗するため同年の臨時運転では特急をも臨時停車させているが、翌1932年以降の臨時停車は急行のみに戻り、また列車の増発によって臨時設定が難しくなったことから、急行の臨時停車も減少していった。
春木競馬場への観戦客輸送は、阪和が南海と合併した際に南海本線での輸送に一本化することになったため、南海山手線(旧・阪和電鉄)での競馬輸送は取りやめとなった。その後、南海山手線の国有化で国鉄阪和線になった際にも競馬輸送は復活せず、春木競馬場も1972年に廃止された。
大正末から昭和初期、和歌山県内では紀勢西線の建設が南進する過程で、和歌山県南部の南紀地域が新たな観光地として開拓され始め、南紀の景勝地である白浜温泉が注目されるようになった。そこで当時の鉄道省大阪鉄道局は、阪和間を走る南海と阪和の両社に、鉄道省の客車を使用して大阪から紀勢西線へ直通する南紀観光列車の運行を打診した。阪和はこれを受諾したが、南海は自社からのみの直通を希望し難色を示した。この直通運転は早期実施を求める世論もあって、当初は阪和単独で行われることになった。
直通運転は1933年11月4日より開始され、公募によって「黒潮号」と命名された。当初は紀勢西線が紀伊田辺駅止まりであったため、地元の明光自動車が白浜までの連絡バスを運行していたが、1933年12月に紀勢西線が紀伊富田駅まで延伸されると、黒潮号も白浜温泉の玄関口である白浜口駅(現・白浜駅)まで運行区間を延長した。阪和電鉄線内ではノンストップ超特急と同様に45分運転、紀勢西線でも東和歌山 - 白浜口間ノンストップで2時間9分運転(上りのみ紀伊田辺に停車して2時間12分)という、単線で急カーブが多く、なおかつ当時ローカル線規格であった同路線の蒸気機関車列車としては限界一杯の運転が行われ、天王寺から白浜口までの170km弱が3時間で結ばれた。
1934年11月17日には南海鉄道難波駅発の黒潮号も運行を開始し、両社から直通してきた客車が東和歌山駅で併結され、共に白浜へ向かうようになった。また、この改正で新たに「日曜列車」「平日列車」と呼ばれる南紀直通列車が増発され、同月18日日曜、19日月曜よりそれぞれ運行を開始した。両列車は1935年3月29日の紀伊椿駅(現・椿駅)延伸で同駅まで運行区間を延長したが、1936年19月30日の周参見駅延伸の際には効率化のため白浜口駅で阪和・南海直通客車を切り離す運用に変更されている。
土曜に大阪を発車し日曜に帰ってくる黒潮号は週末旅行に最適で、当時の関西方面の旅行客から大好評であった。しかし日中戦争の勃発により、このようなリゾート列車は不急不要の贅沢とされ、黒潮号の定期運行は1937年12月のダイヤ改正で廃止された(季節臨時運転は継続)。日曜列車・平日列車も統合され、阪和天王寺駅・難波駅 - 周参見駅間1往復に削減された。1938年9月7日の紀勢西線江住駅延伸の際には往路4列車が白浜口行き、復路5列車が江住発に変更され、阪和・南海直通客車は再び白浜口までの運行となった。
その後、1940年8月8日の紀勢中線編入で運行区間が新宮駅・紀伊木本駅(現・熊野市駅)まで延長され、本数も3往復に増発されたが、この時点で既に阪和と南海の合併が決定していたこともあり、乗り入れは阪和のみで南海との直通は廃止された。
阪和電鉄は、海岸部の古くからの街道筋を走る南海鉄道に比べると、内陸の開発途上の人口希薄な地域を走るため区間輸送需要に乏しく、また和歌山は京都や神戸に比して都市規模が小さいことから、両社は少ない直通客を取り合うことにもなった。しかも和歌山市の中心部に近い場所にある南海の和歌山市駅とは違い、阪和では中心部から離れた所に和歌山のターミナル駅を建設せざるを得なかったという点もまた不利であった。結果的に後発となった阪和の経営基盤は、常に不安定であった。
乗客が伸び悩んで新車の投入資金も調達できなくなっていたため、室戸台風からの復興期や前述の浜寺海水浴場海水浴客への海水浴客で多数混雑する夏季には鉄道省(後の国鉄)や大阪電気軌道吉野線から車両を借り受けて運行していたこともあった。
それでも1938年上半期決算からは、それまでの累積赤字を営業努力によって解消させ、株主への利益配当を行うようになっていた。しかし粉飾決算疑惑なども取り沙汰され、1937年には当時の木村清社長が自殺するなど、経営面の混乱が続いた。そしてついには、京阪電気鉄道が阪和から手を引くことになる。
1940年10月には紀勢西線が孤立線区の紀勢中線に接続して紀伊木本(現・熊野市)まで延伸され、直行列車は天王寺 - 新宮間263kmを6時間フラットで走破した。しかし同年12月1日、阪和電気鉄道は南海鉄道に吸収合併され、同社山手線となる。これは両社を合併することで紀勢西線への直通列車に関するダイヤ改正交渉を一元化できる鉄道省や、1938年に公布された「陸上交通事業調整法」に基づき、過度な競争を抑えて軍事輸送を強化したい国の意向によるものであった。
この時、国としては阪和電鉄買収の意思もあったが、阪和電鉄線は高規格であることから買収費用が高額となることが予想されたほか、当時は日中戦争の戦費確保が優先されていたために、買収資金調達のための国債発行も困難であった。このような事情から買収が見送られ、代わりに南海への合併という形で当座の措置としたと言われる。
ほどなく日本は太平洋戦争に伴う戦時体制に突入したが、南海は輸送量増大と酷使が原因の車両故障多発に応じ、山手線には優先して新造車や人員を投入した。また利便性を考慮して、1942年2月15日には高野線と山手線の交点に三国ヶ丘駅を設置している。
古くから阪和間の独自ルートを希求していた鉄道省はこの時勢に乗じ、懸案であった南海山手線の買収を決定した。南海からの反発も排され、山手線は1944年5月1日、戦時買収により国有化、国鉄阪和線となった。なお、南海鉄道は同年6月に関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道(近鉄)となるも、1947年には旧南海鉄道の営業路線が分離され、南海電気鉄道となって現在に至っている。
戦後、南海電鉄関係者から阪和線の返還運動、また旧阪和の経営陣や沿線住民(特に南田辺・東和歌山駅近辺)から阪和電鉄の再興運動が起こされたが、いずれも実現していない。一方で和歌山県の紀中・紀南や三重県南牟婁郡などの紀勢本線沿線(特に三重県鵜殿村等)からは、逆に阪和線の再民営化に対する反対運動も起こった。
阪和電気鉄道が発行していた月刊新聞で、ダイヤ改正や臨時列車の運行情報などの鉄道関係の記事のほか、沿線の行事や観光情報などが記載されていた。
阪和電気鉄道の路線は前述のように現在のJR西日本阪和線となっているが、駅名の中には前述のように「阪和」などの社名を冠したものがあり、それらは南海山手線時代と国有化時にそれぞれ改称が実施されることになった。また、それ以外にも国有化時には、私鉄風であって国鉄にはなじまないとされた駅名も改称されている。下記にその詳細を記す。
高速運転を期してあらゆる面で高規格に建設された鉄道であり、車両の水準も高く、特に電車群は昭和初期における日本最高水準の性能を誇っていた。機関車2形式も珍しい特徴の多い車両である。
詳しくは、「阪和電気鉄道の車両」を参照。
阪和電気鉄道から国鉄阪和線、JR阪和線と名を変えた今も、「阪和○○」と名乗るものが残っている。なお、阪和電気鉄道の子会社で住宅地を開発した阪和興業と同名の阪和興業(東証プライム上場)が大阪市中央区に存在し、またかつて阪和銀行という第二地方銀行が存在したが、以上の各社は阪和電気鉄道とは関係ない。
堺市駅、百舌鳥駅の例はそれぞれ、「堺駅」「堺東駅」、「中百舌鳥駅」と見分けやすくする目的もある。
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"text": "阪和電気鉄道(はんわでんきてつどう)は、昭和初期の関西の鉄道会社。現在のJR西日本阪和線を建設した。",
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"text": "1926年に設立され(路線免許交付は1923年)、1940年に南海鉄道に合併された。",
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"text": "営業不振や政府の交通政策などの事情故に会社法人としては短命であったが、戦前の「日本一速い電車」である「大阪 - 和歌山45分」ノンストップの「超特急」を運行したことで、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶される。",
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"text": "京阪電気鉄道は大正 - 昭和初期にかけ、岡崎邦輔(第3代)・太田光凞(第4代)と2人の社長の下で、有力政党・立憲政友会との関係をバックに大幅な拡張政策を採り、近畿一円に一大電力コンツェルンを形成した。その一環として和歌山進出を目論み、1922年には和歌山県内の有力電力会社であった和歌山水力電気を買収して自社の和歌山支店とした。そしてこの延長線上で、従来南海鉄道南海本線のみが通じていた大阪 - 和歌山間でこれに平行する新しい高速電気鉄道の建設計画に資本参加したのである。",
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"text": "この電鉄路線計画は、元々和歌山以南の紀伊半島沿岸を自社航路の勢力範囲とし、来るべき将来における国鉄紀勢線の全通で打撃を受ける大阪商船、南海鉄道だけでは地元の将来的な潜在貨物輸送需要を賄いきれないと判断した泉州地域の綿業資本家、大阪方面における安定的な電力消費先を欲していた大手電力会社の宇治川電気(後の関西電力)、それに和歌山の有力者達が合同して立案したものであり、最初の出願は1919年に行われている。",
"title": "概要"
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"text": "京阪の正式な参加は、建設計画が本格的に具体化し、会社が設立された1926年4月24日以後のことであった。もっとも、1920年の原内閣による南海鉄道国有化失敗後、この案件に仲介役として介入していた京阪は阪和電鉄の出願者グループと緊密な関係にあった。そのため、阪和電気鉄道線の免許取得に当たっては政治的な工作をこのグループから依頼されており、単純な株式引き受けに留まらない、複雑な経緯を経た末の資本参加であったことが伺われる。",
"title": "概要"
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"text": "京阪の起業参加に際しては、同社による和歌山方面の電力供給が約束されたほか、同社技術陣の派遣も行われている。他の設立メンバーには鉄道経営の経験者がほぼ皆無であったことから、実際の鉄道建設は京阪系のスタッフにその多くが委ねられることとなった。",
"title": "概要"
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"text": "当初は、新京阪線同様の規格で、高速運転に有利な1,435mm軌間での建設も考慮されていた。この当時、鉄道省は南海鉄道の買収に失敗し、また同線に並行する大阪 - 和歌山間を結ぶ省線の新規建設も、折からの財政難で不可能となっていた。このため、建設中の国鉄紀勢線は、接続する路線を欠いて半ば宙に浮く事態となった。それゆえ、渡りに船とも言える内容を備えたこの阪和電鉄の申請に対し、鉄道省は将来の国家買収を視野に入れた付帯条件をつけて免許を交付した。この結果阪和電鉄線は、必然的に国鉄や南海と同じ1,067mm軌間で建設されることになった。この選択は、国鉄からの貨車直通、さらには当時建設が進行していた紀勢線への直通をも可能とするもので、その点では営業上有利であった。",
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"text": "既存の南海鉄道が大阪湾岸の紀州街道および孝子越街道(国道26号)沿いの都市を経由したのに対し、阪和電気鉄道はそれよりやや内陸寄りの農村地帯を通る熊野街道(現・大阪府道30号)沿いに敷設され、極力直線的なルートを取り、高速運転に適合した線路設備が整えられた。また、和泉山脈越えでは南海が避けた紀州街道の雄ノ山峠越えを選択し、距離の短縮に努めている。架線電圧も、路面電車並の低圧な直流600Vであった南海に対し、当初からより効率が良く高速向けの直流1,500Vとされた。電力については、開業の段階では大阪方面は宇治川電気から、また和歌山方面は京阪和歌山支店からそれぞれ供給を受けた。",
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"text": "しかし、国鉄線との連絡という付帯条件によって大阪側起点用地の確保は困難をきわめた。当初は大阪市南区木津大国町(現・浪速区大国1・2丁目)、今宮駅の南東付近を予定した起点は、都市部ということもあって用地買収に難渋し、最終的に旧・南大阪電鉄が取得し、当時大阪鉄道(2代目。後の近鉄南大阪線の前身)が所有していた国鉄天王寺駅駅舎東側(ホーム北側)の台地上に確保された。",
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"text": "だが、この起点決定により、阪和電気鉄道線には鉄道省城東線、関西本線、大阪鉄道本線、それに南海平野線の4つの既存鉄軌道を立体交差する必要が生じることになった。そのため、線形維持の必要性もあって、南田辺以北の約2.7kmの区間において高架構造の採用を強いられた。この高架橋は、大正時代末期以降、日本でも採用例が見られるようになった鉄筋コンクリート製で、八角形の断面を持つ橋脚を一部に採用するなど、特徴的な意匠を備え、大林組の施工になるものである。大林組はこれ以前に、関西の鉄道用鉄筋コンクリート高架橋の嚆矢となった、新京阪鉄道天神橋駅付近の高架工事や、奈良電鉄桃山御陵前周辺の高架工事などを手がけていた。",
"title": "概要"
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"text": "1929年7月18日、阪和天王寺(現、天王寺) - 和泉府中間と鳳 - 阪和浜寺(現、東羽衣)間で部分開業。翌1930年6月16日、阪和天王寺 - 阪和東和歌山(現、和歌山)間を全線開業した。",
"title": "概要"
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"text": "なお、当初の計画では浜寺支線(1926年3月4日免許出願)と同時に、粉河支線(山口 - 粉河間8マイル40チェイン)が単線で出願されていた。しかし財政難から、未着工のまま南海合併後まで棚上げされ続け、太平洋戦争開戦に伴う資材不足で本線の運行維持さえ困難になり、建設の見通しが全く立たなくなったことから、結局1942年7月28日付で免許失効となっている。",
"title": "概要"
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"text": "1929年の開業当初より、狭軌鉄道としては当時日本最大級の強力な全鋼製電車を投入し、高速運転を実施した。",
"title": "概要"
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"text": "大出力モーターを装備した大型電車によって、線形の良好な高規格新線で高速運転を行うという、アメリカのハイスピード・インターアーバン(高速都市間連絡電車)流のコンセプトそのものは、1927年に開業した京阪傘下の新京阪鉄道(現・阪急京都本線)と共通のものである。アメリカのインターアーバンは自動車に押されてすでに衰退期に入っていたが、シカゴ都心への直通のために線形や車両規格の改善を図ったノースショアー線やサウスショアー線など、大都市近辺の路線を中心に路線や車両の高規格化を行って生き残りを図ったケースがあり、これに倣ったものと考えられる。",
"title": "概要"
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"text": "主力車となった全長19mの大型電車モヨ100形・モタ300形等は、腰高で屋根が高く、窓も小さく、さながら装甲車両を思わせる物々しい外観を備えていた。実際に極めて頑丈な構造で、電動車では公称値で47t - 48tもの超重量級に達したが、電動車1両あたり600kW(800日本馬力)という大出力はそれを補って余りあるものであった。この系統の電車群は1937年までに合計48両が製造されている。",
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"text": "その電装品は東洋電機製造製の国産品で、当時の電車用としては日本最強クラスの定格出力149.2kW(≒200馬力)を発揮する大出力モーターをはじめ、極めて高度な仕様であった。自動空気ブレーキは、アメリカ のウェスティングハウス・エア・ブレーキ社(Westinghouse Air Brake Co.:WH社/WABCO。現・ワブテック社)が設計した長大編成対応ブレーキ(U自在弁)を採用したが、当時の日本の電車が通常でも最長4両編成程度が限度だったところ、阪和ではこのブレーキの採用によって6両編成以上を可能として いった。",
"title": "概要"
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"text": "これらのスペックは軌間の相違こそあったものの、新京阪鉄道が開業時に投入した大型大出力電車P-6形(デイ100形)とおおむね共通で、経営および技術の両面における京阪の影響の強さを推察できる。",
"title": "概要"
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"text": "当時としては未曾有の優等列車の超高速運転を実現するため、電車自体の性能強化以外にも可能な限りの方策が講じられていた。",
"title": "概要"
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"text": "この高速電車の性能を十分に活かすため、軌道設備も現在の大手私鉄幹線と同等の50kg/m相当の重軌条を採用し、37kgレールを使用していた当時の国鉄東海道本線以上という破格の高水準を実現した。架線は輸送密度の関係からかコンパウンドカテナリの導入こそ見送られたが、それでも通常構造ながら重い架線を用いたシンプルカテナリが採用され、最高速度100km/hオーバーの高速運転への備えは万全であった。",
"title": "概要"
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"text": "また線内には貨物列車も運行されることになったが、電車列車のダイヤ組成の障害とならないよう、専用機関車として駿足な本線用電気機関車ロコ1000形を新規に開発した。そして、同機が牽引する貨物列車は後続の電車列車に追いつかれないよう、軽量な短編成による高速運転を行って待避駅に逃げ込ませることを前提とした運用が組まれていた。",
"title": "概要"
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"text": "和歌山までの開業当初は、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間の61.2kmを「急行」(途中鳳駅にのみ停車)が65分、「直通」(普通列車のうち阪和天王寺 - 阪和東和歌山の全区間を走行する列車)が80分で結んでいたが、同年10月のダイヤ改正で急行55分、直通75分に短縮するなど、スピードアップを積極的に行った。その後も路盤の安定に伴ってスピードアップを繰り返し、1931年7月に阪和天王寺 - 阪和東和歌山間をノンストップ48分で走破する「特急」の運転を開始した。",
"title": "概要"
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"text": "この特急は、1933年12月20日改正で阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分運転へスピードアップされ、種別も「超特急」に改める。この時の表定速度81.6km/hは、営業運転される定期列車としては当時の日本国内最高記録で、戦後に国鉄特急「こだま」号が東京 - 大阪間6時間40分運転(表定速度83.46km/h)を開始する1959年までの26年間、破られることはなかった。なお、同時期に日本資本で経営されていた南満洲鉄道の著名な特急列車「あじあ」号(1934年運転開始)は蒸気機関車牽引の客車列車ではあるものの、標準軌路線での運転で表定速度82.5km/hであったが、阪和超特急は狭軌ながらそれにも匹敵する水準に達していた。",
"title": "概要"
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"text": "阪和電鉄の線形はおおむね直線で条件は良好であったが、県境の山中渓駅付近には急曲線・急勾配区間があり、車体傾斜式車両(振り子式車両)が開発すらされていなかった当時にあっては、平坦区間で極限の高速運転がなされた。阪和間45分運転を行うことは電車にも大きな負担をかけ、駆動歯車は鋸歯状になるほど消耗したという。",
"title": "概要"
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"text": "阪和電鉄の認可最高速度は当時の国鉄同様95km/hだったが、当時の関係者の証言によれば、現実にはしばしば120 - 130km/hにも達する速度違反が行われていたという。",
"title": "概要"
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"text": "当時の阪和では乗客へのサービスのため、阪和天王寺駅では発車時刻になっても改札に客が残っている場合は発車を待ち、遅れた客を乗せた上で発車するようになっていたが、それでも定刻に東和歌山駅に到着させることが厳命され、乗務員は実際に回復運転を図って定時で到着させていた。これは、高規格な軌道と大出力電車の高性能に負うものであり、安全上での一応の余裕はあったが、恐るべき暴走ぶりであったという。",
"title": "概要"
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"text": "1935年頃の同社の営業案内には「最高時速は120粁(キロメートル)で日本一の快速電車である」と記されている。古い時代の鉄道では営業運転での最高速度でなく、実際に達することのない設計・計画最高速度をPRに使う誇大広告のケースがまま見られた。例えば、南満洲鉄道の「あじあ」号について時折語られる160km/hという最高速度も、実際の営業運転では到達しておらず130km/hが最高であったが、阪和では一見額面のみの「最高速度」を表示しつつ、実際にもそれだけの超過速力を出していたことからも、阪和の徹底したスピード主義を読み取ることができる。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "もっとも、監督官庁が鉄道省であった当時、仮に省線以上の速度で申請を出しても認可は得られなかった。しかし、当時は自動列車停止装置(ATS)のような自動的な速度制限を行う保安機器が出現する以前のことで、電車の運転台には速度計も付いていなかったため、鉄道省側にこれを規制する手段はほぼ皆無であった。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "古く明治時代に軌道条例→軌道法準拠で開業して低速運転を強いられながら、監督官庁の目をかいくぐって無許可の高速運転を敢行した阪神電気鉄道や京浜電気鉄道以来、特に戦前の関西私鉄各社ではこの種の速度違反が日常的に行われていた。阪和電鉄の手本となった新京阪線でも、途中の速度制限などから逆算すると法規を守っていればありえない所要時分の超特急を運行するなど、阪和だけが違反に手を染めていたわけではなかったのが当時の実情であった。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ノンストップ列車が超特急となったことで特急は一旦消滅したが、1935年10月1日に国鉄和歌山線と阪和電鉄線の交点に阪和中ノ島駅(現・紀伊中ノ島駅)が移設され、和歌山線のガソリンカーと連絡する超特急と急行のみ同駅に停車させるダイヤ改正を行った際、所要時間が48分に伸びた超特急を特急と改めることで復活した。その後、同駅には1937年6月改正をもって全ての特急・急行が停車するようになった。",
"title": "概要"
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"text": "阪和電鉄では他にも多種多様な列車種別を使用していた(詳細は駅一覧表を参照)が、他事業者に類のない種別として「直急」というものがあった。これは「直通・急行」を意味した種別で、準急が起点側で速達運転・終点側で各駅停車であったのとは対照的に、直急は起点側が各駅停車・終点側が速達運転であった。元来、阪和電鉄では全区間を走破する普通列車を「直通」と呼称しており、1936年改正でそれまで阪和天王寺 - 阪和岸和田(現・東岸和田)間の区間運転であった普通列車の一部を阪和東和歌山まで延伸して「直通」とした際に延長区間を急行運転としたため、直急列車が生まれることになった。しかし、翌1937年6月の改正で直急は元の阪和天王寺 - 阪和岸和田間の普通に戻されたため、この種別は短命に終わった。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "速達運転をした臨時列車には阪和浜寺(現・東羽衣駅)までノンストップの臨時急行(後述)や、春季および秋季の行楽シーズンに運転された「ハイキング列車」などがあった。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "在来路線である南海鉄道は、新興勢力である阪和電鉄の開業に対して危機感を持った。阪和電鉄の建設計画が持ち上がると、早くも南海は1923年から対抗策として、電車としてはそれ以前に日本で先例のない豪華な急行列車を大阪難波 - 和歌山市間で運行開始した。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "これらは新たに開発した電7形・電付6形(電7系。のちにモハ1001形などへ改称)などで構成される4両編成で、これらの車両のうち、第6編成までは(船舶などと同様に)編成ごとに沿線の名所旧跡にちなんだ「浪速」・「和歌」・「住吉」・「濱寺」・「大濱」・「淡輪」という固有名称が与えられていた。この電7系は扇風機付きの喫茶・優等室を備え、便所も完備するなど、日本における本格的な長距離電車列車の嚆矢といえる存在である。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "だが大阪 - 和歌山間程度の距離では、むしろスピードに注力する方が現実的であった。このため南海は1929年、阪和モヨ・モタ車にも比肩する出力800馬力・20m級の大型鋼製電車・電9形(のちのモハ2001形)を開発し、電7系に代わって南海本線の優等列車に投入した。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "しかし、当初より都市間高速連絡輸送を企図して線形が決定された阪和電鉄に比べ、南海本線は明治時代に沿線集客力を重視して街道沿いに既存集落を縫うように建設された経緯から曲線や踏切が多く、走行条件ではかなり不利であった。電9形の性能をもってしても、難波 - 和歌山市間の所要時間は60分程度が限界であった。しかし、それでも「阪和間48分ノンストップ」と広告したほどの高速運転を行って挽回しようとしていた。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "このため、南海では車両のアコモデーション改善を図るなど、主に接客サービス面で阪和に対抗した。その顕著な例としては、1936年に日本の私鉄初の冷房電車試作に挑戦した事例が挙げられる。電動冷凍機を改造した巨大な車載冷房システムを大阪金属工業(現・ダイキン工業)で製造し、クハ2801形2802号車に試験搭載の上、南海本線の特急・急行列車に投入した。電力消費が膨大という問題はあったが乗客から大好評を博し、翌1937年夏には2001系電車2両編成4本に冷房が搭載され、冷房特急・急行の頻発を実現した。冷房車は大人気で、難波駅では先発の冷房のない電車を見送ってまで後発の冷房車に乗り込む乗客が続出し、激しく混雑したという。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "このような事例に限らず、1930年代を通じて阪和・南海の両社は大阪 - 和歌山間直通の優等列車を頻発させて覇権を争ったが、輸送需要と比較して過大な供給状態であった。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "両社は、大阪近郊の人気行楽地である浜寺海岸でも激しい角逐を繰り広げた。鳳から分岐する阪和線東羽衣支線は、浜寺への行楽客輸送をも狙って建設された路線である。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "海水浴シーズンになると、阪和・南海両社とも難波・天王寺の各ターミナル駅から臨時列車を設定し、往復割引の乗車券も販売した。そして浜寺海岸では、両社社員による熾烈な呼び込み合戦が繰り返され、ついにはお互いの社員による取っ組み合いの喧嘩沙汰にまで至ったという。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "当時、阪和電気鉄道の阪和浜寺駅(現・東羽衣駅)から浜寺海岸へ行くには南海本線羽衣駅近くの踏切を横断する必要があったが、これに対して南海ではわざと同駅を発車・通過する電車を低速で走行させ、踏切を開かずの踏切にさせるという、いささか陰湿な手段まで繰り出したともいわれる。",
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"text": "この抗争の背景には、阪和と共同で阪和浜寺海水浴場を開設した大阪朝日新聞社と、南海と共同で大毎浜寺海水浴場を開設した大阪毎日新聞社との確執による、代理戦争的なものもあった。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "阪和と南海が合併した1940年以降の一時期には、夏季に大阪(市内)から浜寺への定期券を購入すると、定期乗車券の経路にかかわらず、南海難波・阪和天王寺以外にも高野線汐見橋駅や阪堺線から浜寺・羽衣への利用を可能としたサービスを行っていた時期もあった(出典:関西の鉄道19号)。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "戦後の一時期も南海は国鉄との対抗上、天王寺支線天王寺駅から浜寺公園駅への臨時急行を運転したことがあった。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "両社は当時存在していた春木競馬場への競馬輸送でも互いに競争していた。先に仕掛けたのは阪和電鉄で、1930年の11月の秋競馬にあわせて最寄りの久米田駅に急行を臨時停車させ、阪和天王寺 - 久米田間を20分で結んだほか、運賃も2割引きの60銭とするなど積極策を講じた。南海は久米田駅よりもさらに競馬場に近い春木駅を擁していたが阪和の攻勢には後手に回り、翌1931年の秋競馬に難波 - 春木間のノンストップ急行を臨時運転することで応戦した。阪和はこれに対抗するため同年の臨時運転では特急をも臨時停車させているが、翌1932年以降の臨時停車は急行のみに戻り、また列車の増発によって臨時設定が難しくなったことから、急行の臨時停車も減少していった。",
"title": "概要"
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"text": "春木競馬場への観戦客輸送は、阪和が南海と合併した際に南海本線での輸送に一本化することになったため、南海山手線(旧・阪和電鉄)での競馬輸送は取りやめとなった。その後、南海山手線の国有化で国鉄阪和線になった際にも競馬輸送は復活せず、春木競馬場も1972年に廃止された。",
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"paragraph_id": 46,
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"text": "大正末から昭和初期、和歌山県内では紀勢西線の建設が南進する過程で、和歌山県南部の南紀地域が新たな観光地として開拓され始め、南紀の景勝地である白浜温泉が注目されるようになった。そこで当時の鉄道省大阪鉄道局は、阪和間を走る南海と阪和の両社に、鉄道省の客車を使用して大阪から紀勢西線へ直通する南紀観光列車の運行を打診した。阪和はこれを受諾したが、南海は自社からのみの直通を希望し難色を示した。この直通運転は早期実施を求める世論もあって、当初は阪和単独で行われることになった。",
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"text": "直通運転は1933年11月4日より開始され、公募によって「黒潮号」と命名された。当初は紀勢西線が紀伊田辺駅止まりであったため、地元の明光自動車が白浜までの連絡バスを運行していたが、1933年12月に紀勢西線が紀伊富田駅まで延伸されると、黒潮号も白浜温泉の玄関口である白浜口駅(現・白浜駅)まで運行区間を延長した。阪和電鉄線内ではノンストップ超特急と同様に45分運転、紀勢西線でも東和歌山 - 白浜口間ノンストップで2時間9分運転(上りのみ紀伊田辺に停車して2時間12分)という、単線で急カーブが多く、なおかつ当時ローカル線規格であった同路線の蒸気機関車列車としては限界一杯の運転が行われ、天王寺から白浜口までの170km弱が3時間で結ばれた。",
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"paragraph_id": 48,
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"text": "1934年11月17日には南海鉄道難波駅発の黒潮号も運行を開始し、両社から直通してきた客車が東和歌山駅で併結され、共に白浜へ向かうようになった。また、この改正で新たに「日曜列車」「平日列車」と呼ばれる南紀直通列車が増発され、同月18日日曜、19日月曜よりそれぞれ運行を開始した。両列車は1935年3月29日の紀伊椿駅(現・椿駅)延伸で同駅まで運行区間を延長したが、1936年19月30日の周参見駅延伸の際には効率化のため白浜口駅で阪和・南海直通客車を切り離す運用に変更されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "土曜に大阪を発車し日曜に帰ってくる黒潮号は週末旅行に最適で、当時の関西方面の旅行客から大好評であった。しかし日中戦争の勃発により、このようなリゾート列車は不急不要の贅沢とされ、黒潮号の定期運行は1937年12月のダイヤ改正で廃止された(季節臨時運転は継続)。日曜列車・平日列車も統合され、阪和天王寺駅・難波駅 - 周参見駅間1往復に削減された。1938年9月7日の紀勢西線江住駅延伸の際には往路4列車が白浜口行き、復路5列車が江住発に変更され、阪和・南海直通客車は再び白浜口までの運行となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "その後、1940年8月8日の紀勢中線編入で運行区間が新宮駅・紀伊木本駅(現・熊野市駅)まで延長され、本数も3往復に増発されたが、この時点で既に阪和と南海の合併が決定していたこともあり、乗り入れは阪和のみで南海との直通は廃止された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "阪和電鉄は、海岸部の古くからの街道筋を走る南海鉄道に比べると、内陸の開発途上の人口希薄な地域を走るため区間輸送需要に乏しく、また和歌山は京都や神戸に比して都市規模が小さいことから、両社は少ない直通客を取り合うことにもなった。しかも和歌山市の中心部に近い場所にある南海の和歌山市駅とは違い、阪和では中心部から離れた所に和歌山のターミナル駅を建設せざるを得なかったという点もまた不利であった。結果的に後発となった阪和の経営基盤は、常に不安定であった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "乗客が伸び悩んで新車の投入資金も調達できなくなっていたため、室戸台風からの復興期や前述の浜寺海水浴場海水浴客への海水浴客で多数混雑する夏季には鉄道省(後の国鉄)や大阪電気軌道吉野線から車両を借り受けて運行していたこともあった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "それでも1938年上半期決算からは、それまでの累積赤字を営業努力によって解消させ、株主への利益配当を行うようになっていた。しかし粉飾決算疑惑なども取り沙汰され、1937年には当時の木村清社長が自殺するなど、経営面の混乱が続いた。そしてついには、京阪電気鉄道が阪和から手を引くことになる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1940年10月には紀勢西線が孤立線区の紀勢中線に接続して紀伊木本(現・熊野市)まで延伸され、直行列車は天王寺 - 新宮間263kmを6時間フラットで走破した。しかし同年12月1日、阪和電気鉄道は南海鉄道に吸収合併され、同社山手線となる。これは両社を合併することで紀勢西線への直通列車に関するダイヤ改正交渉を一元化できる鉄道省や、1938年に公布された「陸上交通事業調整法」に基づき、過度な競争を抑えて軍事輸送を強化したい国の意向によるものであった。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この時、国としては阪和電鉄買収の意思もあったが、阪和電鉄線は高規格であることから買収費用が高額となることが予想されたほか、当時は日中戦争の戦費確保が優先されていたために、買収資金調達のための国債発行も困難であった。このような事情から買収が見送られ、代わりに南海への合併という形で当座の措置としたと言われる。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ほどなく日本は太平洋戦争に伴う戦時体制に突入したが、南海は輸送量増大と酷使が原因の車両故障多発に応じ、山手線には優先して新造車や人員を投入した。また利便性を考慮して、1942年2月15日には高野線と山手線の交点に三国ヶ丘駅を設置している。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "古くから阪和間の独自ルートを希求していた鉄道省はこの時勢に乗じ、懸案であった南海山手線の買収を決定した。南海からの反発も排され、山手線は1944年5月1日、戦時買収により国有化、国鉄阪和線となった。なお、南海鉄道は同年6月に関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道(近鉄)となるも、1947年には旧南海鉄道の営業路線が分離され、南海電気鉄道となって現在に至っている。",
"title": "概要"
},
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"tag": "p",
"text": "戦後、南海電鉄関係者から阪和線の返還運動、また旧阪和の経営陣や沿線住民(特に南田辺・東和歌山駅近辺)から阪和電鉄の再興運動が起こされたが、いずれも実現していない。一方で和歌山県の紀中・紀南や三重県南牟婁郡などの紀勢本線沿線(特に三重県鵜殿村等)からは、逆に阪和線の再民営化に対する反対運動も起こった。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "阪和電気鉄道が発行していた月刊新聞で、ダイヤ改正や臨時列車の運行情報などの鉄道関係の記事のほか、沿線の行事や観光情報などが記載されていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "阪和電気鉄道の路線は前述のように現在のJR西日本阪和線となっているが、駅名の中には前述のように「阪和」などの社名を冠したものがあり、それらは南海山手線時代と国有化時にそれぞれ改称が実施されることになった。また、それ以外にも国有化時には、私鉄風であって国鉄にはなじまないとされた駅名も改称されている。下記にその詳細を記す。",
"title": "駅名改称"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "高速運転を期してあらゆる面で高規格に建設された鉄道であり、車両の水準も高く、特に電車群は昭和初期における日本最高水準の性能を誇っていた。機関車2形式も珍しい特徴の多い車両である。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 62,
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"text": "詳しくは、「阪和電気鉄道の車両」を参照。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "阪和電気鉄道から国鉄阪和線、JR阪和線と名を変えた今も、「阪和○○」と名乗るものが残っている。なお、阪和電気鉄道の子会社で住宅地を開発した阪和興業と同名の阪和興業(東証プライム上場)が大阪市中央区に存在し、またかつて阪和銀行という第二地方銀行が存在したが、以上の各社は阪和電気鉄道とは関係ない。",
"title": "年表"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "堺市駅、百舌鳥駅の例はそれぞれ、「堺駅」「堺東駅」、「中百舌鳥駅」と見分けやすくする目的もある。",
"title": "年表"
}
] |
阪和電気鉄道(はんわでんきてつどう)は、昭和初期の関西の鉄道会社。現在のJR西日本阪和線を建設した。 1926年に設立され(路線免許交付は1923年)、1940年に南海鉄道に合併された。 営業不振や政府の交通政策などの事情故に会社法人としては短命であったが、戦前の「日本一速い電車」である「大阪 - 和歌山45分」ノンストップの「超特急」を運行したことで、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶される。
|
{{出典の明記|date=2018年4月}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 阪和電気鉄道
|ロゴ = [[File:Hanwa logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]]悲田院町93<ref name="NDLDC1072584"/>
|設立 = [[1926年]](大正15年)4月24日<ref name="NDLDC1186026"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|事業内容 = 旅客鉄道事業、自動車事業 他<ref name="NDLDC1186026">[{{NDLDC|1186026/65}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
|代表者 = 社長 [[平松憲夫]]<ref name="NDLDC1072584"/>
|資本金 = 20,000,000円(払込額)<ref name="NDLDC1072584"/>
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|主要株主=
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*[[近江岸辨之助]] 5,500株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[上山勘太郎 (15代)|上山勘太郎]] 5,500株<ref name="NDLDC1072584"/>
*[[吉村秀治]] 5,050株<ref name="NDLDC1072584"/>
|特記事項 = 上記データは1940年(昭和15年)現在<ref name="NDLDC1072584">[{{NDLDC|1072584/371}} 『株式年鑑 昭和15年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header|阪和電気鉄道線|#ddd}}
{{BS-daten
| LNGE = 62.8
| SPURWEITE = 1,067
| STROMG = 1,500 [[ボルト (単位)|V]]、[[架空電車線方式]]
| IMAGE = Hanwa Electric Railway Linemap 1940.svg
| CAPTION =
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}}
|}
'''阪和電気鉄道'''(はんわでんきてつどう)は、[[昭和]]初期の[[近畿地方|関西]]の[[鉄道事業者|鉄道会社]]。現在の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[阪和線]]を建設した。
[[1926年]]に設立され(路線免許交付は[[1923年]])、[[1940年]]に[[南海電気鉄道|南海鉄道]]に合併された。
営業不振や政府の交通政策などの事情故に会社法人としては短命であったが、戦前の「日本一速い電車」である「[[天王寺駅|大阪]] - [[和歌山駅|和歌山]]45分」ノンストップの「[[超特急]]」を運行したことで、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶される。
== 概要 ==
=== 開業の経緯 ===
{{複数の問題
|section = 1
|出典の明記 = 2018年6月
|独自研究 = 2018年6月}}
==== 京阪電気鉄道の阪和間参入 ====
[[京阪電気鉄道]]は大正 - 昭和初期にかけ、[[岡崎邦輔]](第3代)・[[太田光凞]](第4代)と2人の社長の下で、有力政党・[[立憲政友会]]との関係をバックに大幅な拡張政策を採り、近畿一円に一大電力コンツェルンを形成した。その一環として[[和歌山市|和歌山]]進出を目論み、[[1922年]]には和歌山県内の有力電力会社であった[[和歌山水力電気]]を買収して自社の和歌山支店とした<ref group=注釈>この際、和歌山水力電気が建設した[[南海和歌山軌道線|軌道線]]を承継している。</ref>。そしてこの延長線上で、従来[[南海電気鉄道|南海鉄道]][[南海本線]]のみが通じていた[[大阪]] - 和歌山間でこれに平行する新しい高速電気鉄道の建設計画に資本参加したのである。
この電鉄路線計画は、元々和歌山以南の紀伊半島沿岸を自社航路の勢力範囲とし、来るべき将来における国鉄[[紀勢本線|紀勢線]]の全通で打撃を受ける[[大阪商船]]、南海鉄道だけでは地元の将来的な潜在貨物輸送需要を賄いきれないと判断した[[和泉|泉州]]地域の綿業資本家、大阪方面における安定的な電力消費先を欲していた大手電力会社の[[宇治川電気]](後の[[関西電力]])、それに和歌山の有力者達が合同して立案したものであり、最初の出願は[[1919年]]に行われている。
京阪の正式な参加は、建設計画が本格的に具体化し、会社が設立された1926年4月24日以後のことであった。もっとも、[[1920年]]の[[原敬|原]]内閣による南海鉄道国有化失敗後、この案件に仲介役として介入していた京阪は阪和電鉄の出願者グループと緊密な関係にあった。そのため、阪和電気鉄道線の免許取得に当たっては政治的な工作をこのグループから依頼されており、単純な株式引き受けに留まらない、複雑な経緯を経た末の資本参加であったことが伺われる<ref group=注釈>岡崎邦輔は[[政友会]]の有力者でもあったため、認可に関係する鉄道・内務大臣との交渉にも当たった。</ref>。
京阪の起業参加に際しては、同社による和歌山方面の電力供給が約束されたほか、同社技術陣の派遣も行われている。他の設立メンバーには鉄道経営の経験者がほぼ皆無であったことから、実際の鉄道建設は京阪系のスタッフにその多くが委ねられることとなった。
==== 建設過程 ====
当初は、[[阪急京都本線|新京阪線]]同様の規格で、高速運転に有利な1,435[[ミリメートル|mm]][[軌間]]での建設も考慮されていた。この当時、[[鉄道省]]は南海鉄道の買収に失敗し、また同線に並行する大阪 - 和歌山間を結ぶ省線の新規建設も、折からの財政難で不可能となっていた。このため、建設中の国鉄[[紀勢本線|紀勢線]]<ref group=注釈>[[1918年]]より本格的に建設計画が開始された。</ref>は、接続する路線を欠いて半ば宙に浮く事態となった。それゆえ、渡りに船とも言える内容を備えたこの阪和電鉄の申請に対し、鉄道省は将来の国家買収を視野に入れた付帯条件をつけて免許を交付した<ref group=注釈>[[1923年]]に免許が交付されたが、この際、大阪側起点について国有鉄道線との連絡の義務が科せられた。</ref>。この結果阪和電鉄線は、必然的に国鉄や南海と同じ1,067mm軌間で建設されることになった。この選択は、国鉄からの[[貨車]]直通、さらには当時建設が進行していた紀勢線への直通をも可能とするもので、その点では営業上有利<ref group=注釈>実際に阪和電気鉄道線から紀勢線へ直通する客車列車が運行され、営業上大きな効果をもたらした。</ref>であった。
既存の南海鉄道が大阪湾岸の[[紀州街道]]および[[紀州街道#孝子越街道|孝子越街道]]([[国道26号]])沿いの都市を経由したのに対し、阪和電気鉄道はそれよりやや内陸寄りの農村地帯を通る[[熊野街道]](現・[[大阪府道30号]])沿いに敷設され、極力直線的なルートを取り、高速運転に適合した線路設備が整えられた。また、[[和泉山脈]]越えでは南海が避けた紀州街道の[[雄ノ山峠]]越えを選択し、距離の短縮に努めている。[[架線]][[電圧]]も、[[路面電車]]並の低圧な[[直流]]600[[ボルト (単位)|V]]であった南海に対し、当初からより効率が良く高速向けの直流1,500Vとされた。電力については、開業の段階では大阪方面は宇治川電気から、また和歌山方面は京阪和歌山支店からそれぞれ供給を受けた。
しかし、国鉄線との連絡という付帯条件によって大阪側起点用地の確保は困難をきわめた。当初は[[大阪市]][[南区 (大阪市)|南区]]木津大国町(現・[[浪速区]]大国1・2丁目)、[[今宮駅]]の南東付近を予定した起点は、都市部ということもあって用地買収に難渋し、最終的に旧・南大阪電鉄が取得し、当時[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]](2代目。後の[[近鉄南大阪線]]の前身)が所有していた国鉄[[天王寺駅]]駅舎東側(ホーム北側)の台地上に確保された。
だが、この起点決定により、阪和電気鉄道線には鉄道省[[大阪環状線|城東線]]、[[関西本線]]、大阪鉄道本線、それに[[南海平野線]]の4つの既存鉄軌道を立体交差する必要が生じることになった。そのため、[[線形 (路線)|線形]]維持の必要性もあって、南田辺以北の約2.7[[キロメートル|km]]の区間において高架構造の採用を強いられた。この高架橋は、大正時代末期以降、日本でも採用例が見られるようになった[[鉄筋コンクリート]]製で、八角形の断面を持つ橋脚を一部に採用するなど、特徴的な意匠を備え、[[大林組]]の施工になるものである。大林組はこれ以前に、関西の鉄道用鉄筋コンクリート高架橋の嚆矢となった、新京阪鉄道天神橋駅付近の高架工事や、[[奈良電気鉄道|奈良電鉄]]桃山御陵前周辺の高架工事などを手がけていた。
[[1929年]][[7月18日]]、阪和天王寺(現、[[天王寺駅|天王寺]]) - [[和泉府中駅|和泉府中]]間と[[鳳駅|鳳]] - 阪和浜寺(現、[[東羽衣駅|東羽衣]])間で部分開業。翌[[1930年]][[6月16日]]、阪和天王寺 - 阪和東和歌山(現、[[和歌山駅|和歌山]])間を全線開業した。
なお、当初の計画では浜寺支線(1926年3月4日免許出願)と同時に、粉河支線(山口<ref group=注釈>計画時の呼称。開業時点の駅名は紀伊となった。</ref> - 粉河間8[[マイル]]40[[チェーン (単位)|チェイン]])が単線で出願されていた。しかし財政難から、未着工のまま南海合併後まで棚上げされ続け、太平洋戦争開戦に伴う資材不足で本線の運行維持さえ困難になり、建設の見通しが全く立たなくなったことから、結局[[1942年]]7月28日付で免許失効となっている。
=== 高速列車の運行 ===
==== 大型高速電車 ====
1929年の開業当初より、[[狭軌]][[鉄道]]としては当時日本最大級の強力な全鋼製[[電車]]を投入し、高速運転を実施した。
大出力モーターを装備した大型電車によって、線形の良好な高規格新線で高速運転を行うという、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のハイスピード・[[インターアーバン]](高速都市間連絡電車)流のコンセプトそのものは、[[1927年]]に開業した京阪傘下の[[新京阪鉄道]](現・[[阪急京都本線]])と共通のものである。アメリカのインターアーバンは自動車に押されてすでに衰退期に入っていたが、シカゴ都心への直通のために線形や車両規格の改善を図った[[シカゴ・ノースショアー・アンド・ミルウォーキー鉄道|ノースショアー線]]や[[サウスショアー線]]など、大都市近辺の路線を中心に路線や車両の高規格化を行って生き残りを図ったケースがあり、これに倣ったものと考えられる。
主力車となった全長19mの大型電車モヨ100形・モタ300形等は、腰高で屋根が高く、窓も小さく、さながら装甲車両を思わせる物々しい外観を備えていた。実際に極めて頑丈な構造で、電動車では公称値で47[[トン|t]] - 48tもの超重量級に達したが、電動車1両あたり600[[ワット|kW]](800[[馬力|日本馬力]])という大出力はそれを補って余りあるものであった。この系統の電車群は[[1937年]]までに合計48両が製造されている。
その電装品は[[東洋電機製造]]製の国産品で、当時の電車用としては日本最強クラスの定格出力149.2kW(≒200馬力)を発揮する大出力モーターをはじめ、極めて高度な仕様であった。[[自動空気ブレーキ]]は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]] の[[ウェスティングハウス・エア・ブレーキ]]社([[:en:Westinghouse Air Brake Company|Westinghouse Air Brake Co.]]:WH社/[[:en:WABCO|WABCO]]。現・[[ワブテック]]社)が設計した長大編成対応ブレーキ(U自在弁)を採用したが、当時の日本の電車が通常でも最長4両編成程度が限度だったところ、阪和ではこのブレーキの採用によって6両編成以上を可能<ref group=注釈>実際にも、南紀直通客車の場合、自社の電動客車2両で鉄道省から借り入れた客車4両を牽引し、さらに必要に応じ編成後部に電動客車1両を増結して補機とすることで、最大7両編成での運用が存在した。</ref>として いった。
これらのスペックは軌間の相違こそあったものの、新京阪鉄道が開業時に投入した大型大出力電車[[新京阪鉄道P-6形電車|P-6形]](デイ100形)とおおむね共通で、経営および技術の両面における京阪の影響の強さを推察できる。
==== 高規格軌道・貨物列車対策 ====
当時としては未曾有の優等列車の超高速運転を実現するため、電車自体の性能強化以外にも可能な限りの方策が講じられていた。
この高速電車の性能を十分に活かすため、軌道設備も現在の大手私鉄幹線と同等の50[[キログラム|kg]]/m相当の重軌条<ref group=注釈>輸入品のRE型100[[ポンド (質量)|ポンド]]レールが採用された。これは新京阪線に採用されたものと同等品である。</ref>を採用し、37kgレールを使用していた当時の国鉄[[東海道本線]]以上という破格の高水準を実現した。[[架線]]は[[輸送密度]]の関係からか[[架空電車線方式#カテナリー吊架式|コンパウンドカテナリ]]<ref group=注釈>通常型の架線構造にもう一段の吊架線を加えて大直径の重架線の使用を可能とした架線構造。高速・高頻度運転に適した構造として米国の[[ゼネラル・エレクトリック]]社が開発し、日本国内では[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]]京阪本線の樟葉 - 天満橋間、[[阪急電鉄]]神戸本線・京都本線、[[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]本線など第二次世界大戦前に高速運転を実施していた関西地区各社線において集中的に採用されたほか、国鉄時代より[[新幹線]]などでも採用されている。</ref>の導入こそ見送られたが、それでも通常構造ながら重い架線を用いたシンプルカテナリが採用され、最高速度100km/hオーバーの高速運転への備えは万全であった。
また線内には[[貨物列車]]も運行されることになったが、電車列車の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]組成の障害とならないよう、専用機関車として駿足な本線用[[電気機関車]]ロコ1000形を新規に開発した。そして、同機が牽引する貨物列車は後続の電車列車に追いつかれないよう、軽量な短編成による高速運転を行って[[待避駅]]に逃げ込ませることを前提とした運用が組まれていた。
==== ノンストップ超特急 ====
和歌山までの開業当初は、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間の61.2kmを「[[急行列車|急行]]」(途中鳳駅にのみ停車)が65分、「直通」([[普通列車]]のうち阪和天王寺 - 阪和東和歌山の全区間を走行する列車)が80分で結んでいたが、同年10月のダイヤ改正で急行55分、直通75分に短縮するなど、スピードアップを積極的に行った{{sfn|竹田|1989|page=140}}。その後も路盤の安定に伴ってスピードアップを繰り返し、[[1931年]]7月に阪和天王寺 - 阪和東和歌山間をノンストップ48分で走破する「[[特別急行列車|特急]]」の運転を開始した{{sfn|竹田|1989|page=147}}<ref group=注釈>その後の改正で特急、急行とも停車駅を増やしていくが、所要時間は特急48分、急行55分を維持しており、スピードアップによって増加した停車時分を吸収していた。</ref>。
この特急は、[[1933年]]12月20日改正で阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分運転へスピードアップされ、種別も「'''[[超特急]]'''」に改める。この時の[[表定速度]]81.6km/hは、営業運転される定期列車としては当時の日本国内最高記録で、戦後に[[日本国有鉄道|国鉄]]特急「[[こだま (列車)|こだま]]」号が東京 - 大阪間6時間40分運転(表定速度83.46km/h)を開始する[[1959年]]までの26年間、破られることはなかった。なお、同時期に日本資本で経営されていた[[南満洲鉄道]]の著名な特急列車「[[あじあ (列車)|あじあ]]」号(1934年運転開始)は[[蒸気機関車]]牽引の客車列車ではあるものの、標準軌路線での運転で表定速度82.5km/hであったが、阪和超特急は狭軌ながらそれにも匹敵する水準に達していた<ref group=注釈>阪和間に限れば、超特急の消滅からはるか後年の[[1972年3月15日国鉄ダイヤ改正|1972年3月のダイヤ改正]]で設定された[[新快速]]が45分のタイ記録を達成するまで並ぶものはなかった。その後、[[国鉄分割民営化]]を目前に控えた[[1986年]]11月1日のダイヤ改正で、特急列車に限り最高速度120km/hでの運転が許容されるようになり、特急「くろしお」が最速列車で阪和間41分運転を開始したことで、超特急運行開始から53年目にしてようやく完全な記録更新が果たされた。</ref>。
阪和電鉄の線形はおおむね直線で条件は良好であったが、県境の[[山中渓駅]]付近には急曲線・急勾配区間があり、[[車体傾斜式車両]](振り子式車両)が開発すらされていなかった当時にあっては、平坦区間で極限の高速運転がなされた。阪和間45分運転を行うことは電車にも大きな負担をかけ、駆動歯車は鋸歯状になるほど消耗したという。
==== 速度違反 ====
阪和電鉄の[[鉄道の最高速度|認可最高速度]]は当時の国鉄同様95km/hだったが、当時の関係者の証言によれば、現実にはしばしば120 - 130km/hにも達する速度違反が行われていたという<ref group=注釈>当時の阪和超特急乗車中にレールのジョイント回数を時計で計測することで、120km/h超過を確認したという鉄道趣味者の証言もある(通常のレールは長さが規格化されており、乗車中に継ぎ目の通過音を数える事で、列車速度の概算測定に利用できる)。</ref>。
当時の阪和では乗客へのサービスのため、阪和天王寺駅では発車時刻になっても改札に客が残っている場合は発車を待ち、遅れた客を乗せた上で発車するようになっていたが、それでも定刻に東和歌山駅に到着させることが厳命され、乗務員は実際に回復運転を図って定時で到着させていた。これは、高規格な軌道と大出力電車の高性能に負うものであり、安全上での一応の余裕はあったが、恐るべき暴走ぶりであったという。
1935年頃の同社の営業案内には「最高時速は120粁(キロメートル)で日本一の快速電車である」と記されている。古い時代の鉄道では営業運転での最高速度でなく、実際に達することのない設計・計画最高速度をPRに使う誇大広告のケースがまま見られた。例えば、南満洲鉄道の「あじあ」号について時折語られる160km/hという最高速度も、実際の営業運転では到達しておらず130km/hが最高であったが、阪和では一見額面のみの「最高速度」を表示しつつ、実際にもそれだけの超過速力を出していたことからも、阪和の徹底したスピード主義を読み取ることができる。
もっとも、監督官庁が鉄道省であった当時、仮に省線以上の速度で申請を出しても認可は得られなかった。しかし、当時は[[自動列車停止装置]](ATS)のような自動的な速度制限を行う保安機器が出現する以前のことで、電車の運転台には速度計も付いていなかったため、鉄道省側にこれを規制する手段はほぼ皆無であった。
古く明治時代に軌道条例→軌道法準拠で開業して低速運転を強いられながら、監督官庁の目をかいくぐって無許可の高速運転を敢行した[[阪神電気鉄道]]や京浜電気鉄道以来、特に戦前の関西私鉄各社ではこの種の速度違反が日常的に行われていた。阪和電鉄の手本となった新京阪線でも、途中の速度制限などから逆算すると法規を守っていればありえない所要時分の超特急を運行するなど、阪和だけが違反に手を染めていたわけではなかったのが当時の実情であった。
=== 超特急以外の列車 ===
ノンストップ列車が超特急となったことで特急は一旦消滅したが、[[1935年]]10月1日に国鉄[[和歌山線]]と阪和電鉄線の交点に[[紀伊中ノ島駅|阪和中ノ島駅]](現・紀伊中ノ島駅)が移設され、和歌山線の[[気動車|ガソリンカー]]と連絡する超特急と急行のみ同駅に停車させるダイヤ改正を行った際、所要時間が48分に伸びた超特急を特急と改めることで復活した{{sfn|竹田|1989|page=172}}。その後、同駅には1937年6月改正をもって全ての特急・急行が停車するようになった{{sfn|竹田|1989|page=188}}。
阪和電鉄では他にも多種多様な列車種別を使用していた(詳細は[[#駅一覧|駅一覧表]]を参照)が、他事業者に類のない種別として「直急」というものがあった。これは「[[直通急行|直通・急行]]」を意味した種別で、準急が起点側で速達運転・終点側で各駅停車であったのとは対照的に、直急は起点側が各駅停車・終点側が速達運転であった{{sfn|竹田|1989|page=75}}。元来、阪和電鉄では全区間を走破する普通列車を「直通」と呼称しており{{sfn|竹田|1989|page=38}}、1936年改正でそれまで阪和天王寺 - 阪和岸和田(現・[[東岸和田駅|東岸和田]])間の区間運転であった普通列車の一部を阪和東和歌山まで延伸して「直通」とした際に延長区間を急行運転としたため、直急列車が生まれることになった{{sfn|竹田|1989|pages=178-184}}。しかし、翌1937年6月の改正で直急は元の阪和天王寺 - 阪和岸和田間の普通に戻されたため、この種別は短命に終わった{{sfn|竹田|1989|page=188}}。
速達運転をした臨時列車には阪和浜寺(現・[[東羽衣駅]])までノンストップの臨時急行([[#浜寺海岸の抗争|後述]])や、春季および秋季の行楽シーズンに運転された「ハイキング列車」などがあった{{sfn|竹田|1989|pages=203-205}}。
=== 南海鉄道との競合 ===
==== 豪華電車・高速電車 ====
在来路線である[[南海電気鉄道|南海鉄道]]は、新興勢力である阪和電鉄の開業に対して危機感を持った。阪和電鉄の建設計画が持ち上がると、早くも南海は1923年から対抗策として、電車としてはそれ以前に日本で先例のない豪華な急行列車を大阪[[難波駅 (南海)|難波]] - [[和歌山市駅|和歌山市]]間で運行開始した。
これらは新たに開発した[[南海電7系電車|電7形・電付6形]](電7系。のちにモハ1001形などへ改称)などで構成される4両編成で、これらの車両のうち、第6編成までは(船舶などと同様に)編成ごとに沿線の名所旧跡にちなんだ「浪速」・「和歌」・「住吉」・「濱寺」・「大濱」・「[[淡輪]]」という固有名称が与えられていた。この電7系は扇風機付きの喫茶・優等室を備え、便所も完備するなど、日本における本格的な長距離電車列車の嚆矢といえる存在である。
だが大阪 - 和歌山間程度の距離では、むしろスピードに注力する方が現実的であった。このため南海は1929年、阪和モヨ・モタ車にも比肩する出力800馬力・20m級の大型鋼製電車・電9形(のちの[[南海2001形電車|モハ2001形]])を開発し、電7系に代わって南海本線の優等列車に投入した。
==== 冷房電車 ====
しかし、当初より都市間高速連絡輸送を企図して線形が決定された阪和電鉄に比べ、南海本線は明治時代に沿線集客力を重視して街道沿いに既存集落を縫うように建設された経緯から曲線や踏切が多く、走行条件ではかなり不利であった。電9形の性能をもってしても、難波 - 和歌山市間の所要時間は60分程度が限界であった。しかし、それでも「阪和間48分ノンストップ」と広告したほどの高速運転を行って挽回しようとしていた。
このため、南海では車両のアコモデーション改善を図るなど、主に接客サービス面で阪和に対抗した。その顕著な例としては、1936年に日本の私鉄初の冷房電車試作に挑戦した事例が挙げられる。電動冷凍機を改造した巨大な車載冷房システムを大阪金属工業(現・[[ダイキン工業]])で製造し、クハ2801形2802号車に試験搭載の上、南海本線の特急・急行列車に投入した。電力消費が膨大という問題はあったが乗客から大好評を博し、翌1937年夏には2001系電車2両編成4本に冷房が搭載され、冷房特急・急行の頻発を実現した。冷房車は大人気で、難波駅では先発の冷房のない電車を見送ってまで後発の冷房車に乗り込む乗客が続出し、激しく混雑したという。
このような事例に限らず、1930年代を通じて阪和・南海の両社は大阪 - 和歌山間直通の優等列車を頻発させて覇権を争ったが、輸送需要と比較して過大な供給状態であった。
==== 浜寺海岸の抗争 ====
両社は、大阪近郊の人気行楽地である浜寺海岸でも激しい角逐を繰り広げた。鳳から分岐する阪和線東羽衣支線は、浜寺への行楽客輸送をも狙って建設された路線である。
[[海水浴]]シーズンになると、阪和・南海両社とも難波・天王寺の各[[ターミナル駅]]から[[臨時列車]]を設定し、往復割引の乗車券も販売した。そして浜寺海岸では、両社社員による熾烈な呼び込み合戦が繰り返され、ついにはお互いの社員による取っ組み合いの喧嘩沙汰にまで至ったという。
当時、阪和電気鉄道の阪和浜寺駅(現・[[東羽衣駅]])から浜寺海岸へ行くには南海本線[[羽衣駅]]近くの[[踏切]]を横断する必要があったが、これに対して南海ではわざと同駅を発車・通過する電車を低速で走行させ、踏切を[[開かずの踏切]]にさせるという、いささか陰湿な手段まで繰り出したともいわれる。
この抗争の背景には、阪和と共同で阪和浜寺海水浴場を開設した[[朝日新聞社|大阪朝日新聞社]]と、南海と共同で大毎浜寺海水浴場を開設した[[毎日新聞社|大阪毎日新聞社]]との確執による、代理戦争的なものもあった。
阪和と南海が合併した1940年以降の一時期には、夏季に大阪(市内)から浜寺への定期券を購入すると、[[定期乗車券]]の経路にかかわらず、南海難波・阪和天王寺以外にも高野線[[汐見橋駅]]や[[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]から浜寺・羽衣への利用を可能としたサービスを行っていた時期もあった(出典:関西の鉄道19号)。
戦後の一時期も南海は国鉄との対抗上、[[南海天王寺支線|天王寺支線]]天王寺駅から浜寺公園駅への臨時急行を運転したことがあった<ref>{{Cite|和書|author=藤井信夫|title=車両発達史シリーズ 5 南海電気鉄道 上巻|date=1996-12|publisher=関西鉄道研究会|pages=63}}</ref>。
==== 春木競馬場の集客合戦 ====
両社は当時存在していた[[春木競馬場]]への競馬輸送でも互いに競争していた。先に仕掛けたのは阪和電鉄で、1930年の11月の秋競馬にあわせて最寄りの久米田駅に急行を臨時停車させ、阪和天王寺 - 久米田間を20分で結んだほか、運賃も2割引きの60銭とするなど積極策を講じた{{sfn|矢野|2018|pages=135-136}}。南海は久米田駅よりもさらに競馬場に近い[[春木駅]]を擁していたが阪和の攻勢には後手に回り、翌1931年の秋競馬に難波 - 春木間のノンストップ急行を臨時運転することで応戦した{{sfn|矢野|2018|pages=137-138}}。阪和はこれに対抗するため同年の臨時運転では特急をも臨時停車させているが、翌1932年以降の臨時停車は急行のみに戻り、また列車の増発によって臨時設定が難しくなったことから、急行の臨時停車も減少していった{{sfn|矢野|2018|pages=138-139}}{{sfn|竹田|1989|page=207}}。
春木競馬場への観戦客輸送は、阪和が南海と合併した際に南海本線での輸送に一本化することになったため、南海山手線(旧・阪和電鉄)での競馬輸送は取りやめとなった{{sfn|矢野|2018|page=139}}。その後、南海山手線の国有化で国鉄阪和線になった際にも競馬輸送は復活せず、春木競馬場も1972年に廃止された。
=== 南紀直通列車 ===
{{see also|黒潮号}}
大正末から昭和初期、[[和歌山県]]内では[[紀勢本線|紀勢西線]]の建設が南進する過程で、和歌山県南部の[[南紀]]地域が新たな観光地として開拓され始め、南紀の景勝地である[[南紀白浜温泉|白浜温泉]]が注目されるようになった。そこで当時の鉄道省大阪鉄道局は、阪和間を走る南海と阪和の両社に、鉄道省の客車を使用して大阪から紀勢西線へ直通する南紀観光列車の運行を打診した。阪和はこれを受諾したが、南海は自社からのみの直通を希望し難色を示した。この直通運転は早期実施を求める世論もあって、当初は阪和単独で行われることになった。
直通運転は1933年11月4日より開始され、公募によって「'''[[黒潮号]]'''」と命名された{{sfn|竹田|1989|pages=69-70}}。当初は紀勢西線が[[紀伊田辺駅]]止まりであったため、地元の[[明光バス|明光自動車]]が白浜までの連絡バスを運行していたが、1933年12月に紀勢西線が[[紀伊富田駅]]まで延伸されると、黒潮号も白浜温泉の玄関口である白浜口駅(現・[[白浜駅]])まで運行区間を延長した{{sfn|竹田|1989|page=99}}。阪和電鉄線内ではノンストップ超特急と同様に45分運転<ref group=注釈>阪和電鉄線内で上記の130km/h運転が行われたとすると、日本の鉄道史上最速の客車列車となる</ref>、紀勢西線でも東和歌山 - 白浜口間ノンストップで2時間9分運転(上りのみ紀伊田辺に停車して2時間12分)という、単線で急カーブが多く、なおかつ当時ローカル線規格であった同路線の蒸気機関車列車としては限界一杯の運転が行われ<ref group=注釈>普通列車は当時同一区間に3時間程度を要した。</ref>、天王寺から白浜口までの170km弱が3時間で結ばれた。
[[1934年]]11月17日には南海鉄道[[難波駅 (南海)|難波駅]]発の黒潮号も運行を開始し、両社から直通してきた客車が東和歌山駅で併結され、共に白浜へ向かうようになった。また、この改正で新たに「日曜列車」「平日列車」と呼ばれる南紀直通列車が増発され、同月18日日曜、19日月曜よりそれぞれ運行を開始した{{sfn|竹田|1989|page=73}}。両列車は1935年3月29日の紀伊椿駅(現・[[椿駅]])延伸で同駅まで運行区間を延長したが、1936年19月30日の[[周参見駅]]延伸の際には効率化のため白浜口駅で阪和・南海直通客車を切り離す運用に変更されている{{sfn|竹田|1989|page=99}}。
土曜に大阪を発車し日曜に帰ってくる黒潮号は週末旅行に最適で、当時の関西方面の旅行客から大好評であった。しかし[[日中戦争]]の勃発により、このようなリゾート列車は不急不要の贅沢とされ、黒潮号の定期運行は1937年12月のダイヤ改正で廃止された(季節臨時運転は継続{{sfn|竹田|1989|pages=202-203}})。日曜列車・平日列車も統合され、阪和天王寺駅・難波駅 - 周参見駅間1往復に削減された{{sfn|竹田|1989|page=99}}。1938年9月7日の紀勢西線[[江住駅]]延伸の際には往路4列車が白浜口行き、復路5列車が江住発に変更され、阪和・南海直通客車は再び白浜口までの運行となった{{sfn|竹田|1989|page=115}}。
その後、1940年8月8日の紀勢中線編入で運行区間が[[新宮駅]]・紀伊木本駅(現・[[熊野市駅]])まで延長され、本数も3往復に増発されたが、この時点で既に阪和と南海の合併が決定していたこともあり、乗り入れは阪和のみで南海との直通は廃止された{{sfn|竹田|1989|page=116}}<ref group=注釈>同社の南紀直通は戦後再開ののち、[[1985年]]に廃止。</ref>。
=== 南海鉄道への合併・国家買収 ===
阪和電鉄は、海岸部の古くからの街道筋を走る南海鉄道に比べると、内陸の開発途上の人口希薄な地域を走るため区間輸送需要に乏しく、また[[和歌山市|和歌山]]は[[京都市|京都]]や[[神戸市|神戸]]に比して都市規模が小さいことから、両社は少ない直通客を取り合うことにもなった。しかも和歌山市の中心部に近い場所にある南海の和歌山市駅とは違い、阪和では中心部から離れた所に和歌山のターミナル駅を建設せざるを得なかったという点もまた不利であった。結果的に後発となった阪和の経営基盤は、常に不安定であった。
乗客が伸び悩んで新車の投入資金も調達できなくなっていたため、[[室戸台風]]からの復興期や前述の浜寺海水浴場海水浴客への海水浴客で多数混雑する夏季には[[鉄道省]](後の[[日本国有鉄道|国鉄]])や[[大阪電気軌道]][[近鉄吉野線|吉野線]]から車両を借り受けて運行していたこともあった。
それでも[[1938年]]上半期決算からは、それまでの累積赤字を営業努力によって解消させ、株主への利益[[配当]]を行うようになっていた。しかし[[粉飾決算]]疑惑なども取り沙汰され、1937年には当時の木村清社長が自殺するなど<ref>『鉄道史料』No35、40頁に木村自殺を知らせる新聞を掲載している。</ref>、経営面の混乱が続いた。そしてついには、京阪電気鉄道が阪和から手を引くことになる。
[[1940年]]10月には紀勢西線が孤立線区の紀勢中線に接続して紀伊木本(現・[[熊野市駅|熊野市]])まで延伸され、直行列車は天王寺 - 新宮間263kmを6時間フラットで走破した。しかし同年[[12月1日]]、阪和電気鉄道は南海鉄道に吸収合併され、同社'''山手線'''となる。これは両社を合併することで紀勢西線への直通列車に関するダイヤ改正交渉を一元化できる鉄道省や、[[1938年]]に公布された「[[陸上交通事業調整法]]」に基づき、過度な競争を抑えて軍事輸送を強化したい国の意向によるものであった。
この時、国としては阪和電鉄買収の意思もあったが、阪和電鉄線は高規格であることから買収費用が高額となることが予想されたほか、当時は[[日中戦争]]の戦費確保が優先されていたために、買収資金調達のための[[日本国債|国債]]発行も困難であった。このような事情から買収が見送られ、代わりに南海への合併という形で当座の措置としたと言われる。
ほどなく日本は太平洋戦争に伴う戦時体制に突入したが、南海は輸送量増大と酷使が原因の車両故障多発に応じ、山手線には優先して新造車や人員を投入した。また利便性を考慮して、[[1942年]][[2月15日]]には[[南海高野線|高野線]]と山手線の交点に[[三国ヶ丘駅]]を設置している。
古くから阪和間の独自ルートを希求していた鉄道省はこの時勢に乗じ、懸案であった南海山手線の買収を決定した。南海からの反発も排され、山手線は[[1944年]][[5月1日]]、[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により国有化、'''国鉄阪和線'''となった<ref group=注釈>ただし、旧阪和が運行して南海に引き継がれたバス路線については国有化の対象とならず、そのまま南海に残った。</ref>。なお、南海鉄道は同年6月に関西急行鉄道と合併して[[近畿日本鉄道]](近鉄)となるも、[[1947年]]には旧南海鉄道の営業路線が分離され、[[南海電気鉄道]]となって現在に至っている。
戦後、南海電鉄関係者から阪和線の返還運動、また旧阪和の経営陣や沿線住民(特に南田辺・東和歌山駅近辺)から阪和電鉄の再興運動が起こされたが、いずれも実現していない。一方で和歌山県の[[紀中]]・[[紀南]]や[[三重県]][[南牟婁郡]]などの[[紀勢本線]]沿線(特に三重県[[鵜殿村]]等)からは、逆に阪和線の再民営化に対する反対運動も起こった。
=== メディア ===
==== 阪和ニュース ====
阪和電気鉄道が発行していた月刊新聞で、ダイヤ改正や臨時列車の運行情報などの鉄道関係の記事のほか、沿線の行事や観光情報などが記載されていた<ref>『阪和ニュース』、昭和7年9月5日、和泉市いずみの国歴史館</ref>。
== 駅一覧 ==
*南海合併直前の1940年11月30日現在(停車駅・ダイヤは1936年4月1日改正{{sfn|竹田|1989|pages=178-184}})
* 停車駅
** 全駅停車の普通・直通(阪和天王寺 - 阪和東和歌山の全区間を運転する普通列車)および各種臨時列車は表中省略。
** 直急は本改正で新設、1937年6月1日改正で廃止{{sfn|竹田|1989|page=188}}。
** 準急は1937年6月1日改正より美章園駅にも停車{{sfn|竹田|1989|page=188}}。1940年8月8日改正で廃止{{sfn|竹田|1989|page=200}}。
** 急行は春木競馬開催時のみ久米田駅に臨時停車(1930年以降。1931年のみ特急も臨時停車){{sfn|竹田|1989|page=207}}。
** 特急は1937年春改正より阪和砂川駅にも停車{{sfn|竹田|1989|page=185}}。
** 阪和中ノ島(紀伊中ノ島)駅は和歌山線列車と接続する特急・急行・直急のみ停車{{sfn|竹田|1989|pages=178-184}}。1937年6月1日改正以降は全列車が停車{{sfn|竹田|1989|page=188}}。
** 黒潮号は1937年12月1日改正で定期運用廃止{{sfn|竹田|1989|page=189}}。以降は年始臨時運転のみとなる{{sfn|竹田|1989|pages=202-203}}。
** ハイキング列車は1935年から1940年までの春季・秋季に設定(1936年のみ夏季にも運転、1940年は春季のみ、1935年春季は長滝通過、1937年および1938年秋季は阪和砂川にも停車){{sfn|竹田|1989|pages=204-205}}。
** 海水浴臨時急行は1931年から1940年までの夏季に設定{{sfn|竹田|1989|page=203}}。
*所要時間(全区間):超特急45分、特急48分、急行55分、直急64分、直通75-85分{{sfn|竹田|1989|pages=178-184}}。
;凡例
:●:停車、○:本改正時点では一部停車(上述)、▲:春木競馬開催時に臨時停車、△:節分臨時増発で臨時停車{{sfn|竹田|1989|page=205}}、※:本改正時点では通過(上述)、|:通過
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:85%;" rules="all"
|+style="text-align:left;"|阪和天王寺 - 阪和東和歌山間
|-
!colspan="2"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em;"| 駅間<br />キロ
!rowspan="2" style="width:2.5em;"| 営業<br />キロ<!--https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207554/221-->
!colspan="8" |停車駅(1936年4月1日改正)
!rowspan="2" | 接続路線
!rowspan="2" colspan="3"|所在地
|-
!style="width:9em;"|1940年11月30日<br />現在
!style="width:9em;"|1936年4月1日<br />現在
!style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|直急|height=8em}}
!style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|準急|height=8em}}
!style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|急行|height=8em}}
!style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|特急|height=8em}}
!style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|超特急|height=8em}}
!style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|黒潮号|height=8em}}
!style="width:1em;"|{{縦書き|ハイキング列車|height=8em}}
!style="width:1em;"|{{縦書き|海水浴臨時急行|height=8em}}
|-
|style="text-align: left;"| [[天王寺駅|阪和天王寺駅]]
|style="text-align: left;"| 阪和天王寺駅
|style="text-align: center;"| -
|style="text-align: right;"| 0.0
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|●
|style="text-align: left;"| [[鉄道省]]:[[関西本線]]・[[大阪環状線|城東線]](天王寺駅)<br />[[南海電気鉄道|南海鉄道]]:[[南海天王寺支線|天王寺支線]](天王寺駅)・[[阪堺電気軌道上町線|上町線]](天王寺駅前停留場)<br />[[大阪市交通局|大阪市電気局]](地下鉄):[[大阪市営地下鉄御堂筋線|1号線]](天王寺駅)<br />大阪市電気局([[大阪市電|市電]]):[[大阪市電霞町玉造線|霞町玉造線]]・[[大阪市電天王寺阿倍野線|天王寺阿倍野線]]([[阿倍野橋駅|阿部野橋停留場]])<br />[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]]:[[近鉄南大阪線|本線]]([[大阪阿部野橋駅]])
|rowspan="27" style="width:1em; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=7em}}
|rowspan="7" style="width:1em; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=7em}}
|style="text-align: left; white-space: nowrap;" | [[天王寺区]]
|-
|style="text-align: left;"| [[美章園駅]]
|style="text-align: left;"| 美章園駅
|style="text-align: right;"| 1.4
|style="text-align: right;"| 1.4
|●
|※
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|style="text-align: left;"|
|rowspan="6" style="text-align: left;" | [[住吉区]]
|-
|style="text-align: left;"| [[南田辺駅]]
|style="text-align: left;"| 南田辺駅
|style="text-align: right;"| 1.5
|style="text-align: right;"| 2.9
|●
|●
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|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[鶴ケ丘駅|阪和鶴ケ丘駅]]
|style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: right;"| 0.9
|style="text-align: right;"| 3.8
|colspan="8" style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[長居駅|臨南寺前駅]]
|style="text-align: left;"| 臨南寺前駅
|style="text-align: right;"| 0.9
|style="text-align: right;"| 4.7
|●
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|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[我孫子町駅|我孫子観音前駅]]
|style="text-align: left;"| 我孫子観音前駅
|style="text-align: right;"| 1.1
|style="text-align: right;"| 5.8
|●
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|△
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|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[杉本町駅]]
|style="text-align: left;"| 杉本町駅
|style="text-align: right;"| 1.0
|style="text-align: right;"| 6.8
|●
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|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[浅香駅|阪和浅香山駅]]
|style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: right;"| 1.0
|style="text-align: right;"| 7.8
|colspan="8" style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: left;"|
|style="text-align:left;" colspan="2" rowspan="3" |[[堺市]]
|-
|style="text-align: left;"| [[堺市駅|阪和堺駅]]
|style="text-align: left;"| 阪和堺駅
|style="text-align: right;"| 0.9
|style="text-align: right;"| 8.7
|●
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|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[百舌鳥駅|百舌鳥御陵前駅]]
|style="text-align: left;"| 仁徳御陵前駅
|style="text-align: right;"| 2.3
|style="text-align: right;"| 11.0
|●
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|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[上野芝駅]]
|style="text-align: left;"| 上野芝駅
|style="text-align: right;"| 1.4
|style="text-align: right;"| 12.4
|●
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|style="text-align: left;"|
|rowspan="6" style="width:1em; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|[[泉北郡]]|height=7em}}
|style="text-align: left;" | [[踞尾村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[鳳駅]]
|style="text-align: left;"| 鳳駅
|style="text-align: right;"| 2.7
|style="text-align: right;"| 15.1
|●
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|style="text-align: left;"| 阪和電気鉄道:支線
|style="text-align: left;" | [[鳳町]]
|-
|style="text-align: left;"| [[富木駅]]
|style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: right;"| 1.2
|style="text-align: right;"| 16.3
|colspan="7" style="background:#a2a9b1;"|
|rowspan="19" style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[取石村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[北信太駅|阪和葛葉駅]]
|style="text-align: left;"| 阪和葛葉駅
|style="text-align: right;"| 1.6
|style="text-align: right;"| 17.9
|●
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|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[信太村 (大阪府)|信太村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[信太山駅]]
|style="text-align: left;"| 信太山駅
|style="text-align: right;"| 1.4
|style="text-align: right;"| 19.3
|●
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|style="text-align: left;"|
|style="text-align:left;" rowspan="2" |[[和泉町]]
|-
|style="text-align: left;"| [[和泉府中駅]]
|style="text-align: left;"| 和泉府中駅
|style="text-align: right;"| 1.6
|style="text-align: right;"| 20.9
|●
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|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[久米田駅]]
|style="text-align: left;"| 久米田駅
|style="text-align: right;"| 3.0
|style="text-align: right;"| 23.9
|●
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|▲
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||
|style="text-align: left;"|
|style="text-align:left;" colspan="2"|[[泉南郡]][[春木町]]
|-
|style="text-align: left;"| [[東岸和田駅|阪和岸和田駅]]
|style="text-align: left;"| 阪和岸和田駅
|style="text-align: right;"| 2.6
|style="text-align: right;"| 26.5
|●
|●
|●
||
||
||
||
|style="text-align: left;"|
|style="text-align:left;" colspan="2"|[[岸和田市]]
|-
|style="text-align: left;"| [[東貝塚駅|阪和貝塚駅]]
|style="text-align: left;"| 阪和貝塚駅
|style="text-align: right;"| 1.6
|style="text-align: right;"| 28.1
||
|rowspan="13" style="background:#a2a9b1;"|
||
||
||
||
||
|style="text-align: left;"|
|rowspan="9" style="width:1em; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|[[泉南郡]]|height=7em}}
|style="text-align:left;" rowspan="2" |[[貝塚市|貝塚町]]
|-
|style="text-align: left;"| [[和泉橋本駅]]
|style="text-align: left;"| 和泉橋本駅
|style="text-align: right;"| 1.9
|style="text-align: right;"| 30.0
||
||
||
||
||
||
|style="text-align: left;"|
|-
|style="text-align: left;"| [[東佐野駅|泉ケ丘駅]]
|style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: right;"| 1.5
|style="text-align: right;"| 31.5
|style="background:#a2a9b1;"|
|colspan="5" style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[泉佐野市|佐野町]]
|-
|style="text-align: left;"| [[熊取駅]]
|style="text-align: left;"| 熊取駅
|style="text-align: right;"| 1.4
|style="text-align: right;"| 32.9
||
||
||
||
||
||
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[熊取町|熊取村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[日根野駅]]
|style="text-align: left;"| 日根野駅
|style="text-align: right;"| 1.9
|style="text-align: right;"| 34.8
||
||
||
||
||
||
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[日根野村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[長滝駅]]
|style="text-align: left;"| 長滝駅
|style="text-align: right;"| 1.4
|style="text-align: right;"| 36.2
||
||
||
||
||
|●
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[長滝 (泉佐野市)|長滝村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[新家駅]]
|style="text-align: left;"| 新家駅
|style="text-align: right;"| 2.3
|style="text-align: right;"| 38.5
||
||
||
||
||
||
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[新家村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[和泉砂川駅|阪和砂川駅]]
|style="text-align: left;"| 阪和砂川駅
|style="text-align: right;"| 2.0
|style="text-align: right;"| 40.5
|●
|●
|※
||
||
|※
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[信達村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[山中渓駅]]
|style="text-align: left;"| 山中渓駅
|style="text-align: right;"| 2.0
|style="text-align: right;"| 40.5
||
||
||
||
||
|●
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[東鳥取町|東鳥取村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[紀伊駅]]
|style="text-align: left;"| 紀伊駅
|style="text-align: right;"| 8.0
|style="text-align: right;"| 53.2
||
||
||
||
||
|rowspan="4" style="background:#a2a9b1;"|
|style="text-align: left;"|
|rowspan="4" style="width:1em; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|[[和歌山県]]|height=9em}}
|rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|[[海草郡]]}}
|style="text-align: left;" | [[紀伊村 (和歌山県)|紀伊村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[六十谷駅]]
|style="text-align: left;"| 六十谷駅
|style="text-align: right;"| 3.9
|style="text-align: right;"| 57.1
||
||
||
||
||
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | [[有功村]]
|-
|style="text-align: left;"| [[紀伊中ノ島駅]]
|style="text-align: left;"| 阪和中ノ島駅
|style="text-align: right;"| 3.0
|style="text-align: right;"| 60.1
|○
|○
|○
||
||
|style="text-align: left;"| 鉄道省:[[和歌山線]]
|style="text-align:left;" colspan="2" rowspan="2" |[[和歌山市]]
|-
|style="text-align: left;"| [[和歌山駅|阪和東和歌山駅]]
|style="text-align: left;"| 阪和東和歌山駅
|style="text-align: right;"| 1.1
|style="text-align: right;"| 61.2
|●
|●
|●
|●
|●
|style="text-align: left;"| 鉄道省:[[紀勢本線|紀勢西線]](東和歌山駅)<br />[[和歌山電鐵貴志川線|和歌山鉄道]](東和歌山駅)<br />[[和歌山電気軌道]]:新町線(東和歌山停留場)
|-
!rowspan="8" |南紀直通<br />運転区間
!colspan="15" style="text-align:center;"|東和歌山駅で南海鉄道直通列車([[難波駅 (南海)|難波]]発着)と[[多層建て列車|併解結]]
|-
! 列車名
! style="width:2.5em;"| 列車番号
! colspan="10" | 停車駅<br />(1936年4月1日改正)
! colspan="3" |備考
|-
| rowspan="2" style="text-align:center;"|'''黒潮号'''
| style="text-align:center;"| 1002
| colspan="10" style="text-align:left;"| 東和歌山駅 → [[白浜駅|白浜口駅]]
| colspan="3" style="text-align:left;"| 土曜運転(往路)
|-
| style="text-align:center;"| 1001
| colspan="10" style="text-align:left;"| 東和歌山駅 ← [[紀伊田辺駅]] ← [[白浜駅|白浜口駅]]
| colspan="3" style="text-align:left;"| 日曜運転(復路)
|-
| style="text-align:center;"|'''臨時黒潮号'''
| style="text-align:center;"| 1000
| colspan="10" style="text-align:left;"| 東和歌山駅 → [[御坊駅]] → 紀伊田辺駅 → 白浜口駅
| colspan="3" style="text-align:left;"| 復路は1001列車<br />超特急に客車併結
|-
| style="text-align:center;"|'''平日列車'''
| style="text-align:center;"| 2
| colspan="10" style="text-align:left;"| 東和歌山駅 → [[海南駅|日方町駅]] → [[箕島駅]] → [[湯浅駅|紀伊湯浅駅]] → 御坊駅 → [[南部駅]] → 紀伊田辺駅<br /> → [[紀伊新庄駅]] → [[朝来駅]] → 白浜口駅 → [[紀伊富田駅]] → [[椿駅|紀伊椿駅]]
| colspan="3" style="text-align:left;"| 平日運転時に<br />超特急に客車併結
|-
| rowspan="2" style="text-align:center;"|'''日曜列車'''
| style="text-align:center;"| 4
| colspan="10" style="text-align:left;"| 東和歌山駅 → 日方町駅 → 箕島駅 → 紀伊湯浅駅 → 御坊駅 → 南部駅 → 紀伊田辺駅<br /> → 白浜口駅 → 紀伊富田駅 → 紀伊椿駅
| rowspan="2" colspan="3" style="text-align:left;"| 日曜運転時に<br />超特急に客車併結
|-
| style="text-align:center;"| 5
| colspan="10" style="text-align:left;"| 東和歌山駅 ← 日方町駅 ← 箕島駅 ← 紀伊湯浅駅 ← 御坊駅 ← 南部駅 ← 紀伊田辺駅<br /> ← 朝来駅 ← 白浜口駅 ← 紀伊富田駅 ← 紀伊椿駅
|-
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;" rules="all"
|+style="text-align:left;"|鳳 - 阪和浜寺間
|-
!駅名
!style="width:2.5em;"| 営業<br />キロ
!{{縦書き|海水浴臨時急行}}
!接続路線
!所在地
|-
|style="text-align: left;"| 鳳駅
|style="text-align: right;"| 0.0
||
|style="text-align: left;"| 阪和電気鉄道:本線
|style="text-align: left;" | 泉北郡鳳町
|-
|style="text-align: left;"| [[東羽衣駅|阪和浜寺駅]]
|style="text-align: right;"| 1.6
|●
|style="text-align: left;"|
|style="text-align: left;" | 泉北郡[[高石市|高石町]]
|-
|}
== 駅名改称 ==
阪和電気鉄道の路線は前述のように現在のJR西日本阪和線となっているが、駅名の中には前述のように「阪和」などの社名を冠したものがあり、それらは南海山手線時代と国有化時にそれぞれ改称が実施されることになった。また、それ以外にも国有化時には、私鉄風であって国鉄にはなじまないとされた駅名も改称されている。下記にその詳細を記す。
: #: 南海山手線時代の1941年8月実施<ref>{{Cite journal|和書|author=竹田辰男|journal=鉄道史料|volume=108|title=南海鉄道山手線史の考察|publisher=鉄道史資料保存会|year=2003|page=28}}</ref>
: *: 国有化された1944年5月実施
: 年号が記されているものは、上記以外の実施
*阪和天王寺駅→南海天王寺駅# →天王寺駅*
*阪和鶴ケ丘駅→南海鶴ケ丘駅# →鶴ケ丘駅*
*臨南寺前駅→長居駅*
*我孫子観音前駅→我孫子町駅*
*阪和浅香山駅→山手浅香山駅# →浅香駅*
*堺市駅→阪和堺駅 (1932) →堺金岡駅# →金岡駅*→堺市駅 (1965)
*仁徳御陵前駅→百舌鳥御陵前駅 (1938) →百舌鳥駅*
*阪和葛葉駅→葛葉稲荷駅# →北信太駅*
*土生郷駅→阪和岸和田駅 (1932) →東岸和田駅#
*阪和貝塚駅→東貝塚駅#
*泉ケ丘駅→東佐野駅*
*信達駅→阪和砂川駅 (1932) →砂川園駅# →和泉砂川駅*
*中之島駅→阪和中之島駅 (1932) →紀伊中ノ島駅 (1936)
*阪和東和歌山駅→南海東和歌山駅# →東和歌山駅* →和歌山駅 (1968)
*阪和浜寺駅→山手羽衣駅# →東羽衣駅*
== 車両 ==
高速運転を期してあらゆる面で高規格に建設された鉄道であり、車両の水準も高く、特に電車群は昭和初期における日本最高水準の性能を誇っていた。機関車2形式も珍しい特徴の多い車両である。
詳しくは、「[[阪和電気鉄道の車両]]」を参照。
== 年表 ==
=== 阪和電気鉄道時代 ===
*[[1926年]][[4月24日]] 会社創立。
*[[1927年]][[2月20日]] 本線の工事に着手。
*[[1928年]][[11月1日]] 浜寺支線の工事に着手。
*[[1929年]][[7月18日]] 阪和天王寺駅(現、[[天王寺駅]]) - [[和泉府中駅]]間と[[鳳駅]] - 阪和浜寺駅(現、[[東羽衣駅]])間開業。
*[[1930年]]
**[[5月25日]] 上野芝駅近辺で、兼業の上野芝向ヶ丘経営地と霞ヶ丘経営地の宅地分譲開始。
**[[6月16日]] 和泉府中駅 - 阪和東和歌山駅(現、[[和歌山駅]])間開業により、本線全通。当初は全区間を急行が65分で走破。
**[[7月1日]] 阪和浜寺海水浴場を、阪和浜寺駅近くに兼業の一環として開設。
*[[1931年]][[7月19日]] 阪和間48分運転の特急を新設。
*[[1932年]][[12月10日]] 直営自動車路線([[バス (交通機関)|バス]]路線)として、上野芝駅中心の上野芝線と信太山駅中心の信太山線開設。
*[[1933年]]
**[[5月15日]] 阪和葛葉駅(現、北信太駅)付近で聖ヶ丘住宅地の分譲開始。
**[[7月1日]] 阪和砂川駅(現、和泉砂川駅)付近に砂川テント村を直営で開設。
**[[9月20日]] 阪和天王寺駅 - 和泉府中駅間に準急を新設。
**[[10月13日]] 紀勢西線(現、紀勢本線)直通列車の試運転実施。
**[[11月4日]] 紀勢西線直通列車「[[黒潮号]]」を阪和天王寺駅 - 紀伊田辺駅間で運転開始。
**[[12月20日]] 特急を阪和間45分運転にし、[[超特急]]へ格上げ。紀勢西線の延伸により、白浜口駅(現、白浜駅)まで「黒潮号」運転区間を延ばす。
*[[1934年]][[11月17日]] 「黒潮号」に南海鉄道(現、南海電気鉄道)直通車両を併結。また、同列車以外にも「平日列車」・「日曜列車」として紀勢西線への直通列車を設定。
*[[1935年]]
**[[1月1日]] 阪和中之島駅に隣接して国鉄和歌山線[[紀伊中ノ島駅]]新設。超特急・急行の一部を同駅停車とし、阪和中之島駅に停車する超特急を特急へ格下げ。
**7月 長滝駅近辺に、直営で瀧ノ池キャンプ場開設。
**[[9月1日]] 自動車路線として、阪和岸和田駅(現、東岸和田駅)中心の葛城線を新設。
**10月 阪和砂川駅近くに、直営で砂川児童遊園(現、砂川公園団地・ほんみち)開設。
*[[1936年]]
**[[8月1日]] 自動車路線として、阪和砂川駅中心の佐野線を新設。
**10月 自動車路線として、国鉄和歌山線の船戸駅・打田駅を中心とする船戸線・打田線(後に統合して貴志川線となる)新設。
*[[1937年]][[12月1日]] 「黒潮号」を廃止。
*[[1938年]]
**[[1月10日]] 上野芝駅近辺に、直営で阪和射撃場(現、向ヶ丘第二団地)開設。
**[[4月13日]] 自動車路線として、紀伊駅と[[根来寺]]を結ぶ根来線新設。
**[[10月9日]] 子会社の阪和興業により、泉ケ丘駅(現、東佐野駅)付近で泉ケ丘住宅地の分譲開始。
*[[1940年]]
** 自動車路線として、和泉府中駅を中心とする路線を新設。
**[[6月12日]] 阪和興業により、富木駅付近で富木の里住宅地の分譲開始。
**[[7月29日]] 南海鉄道との合併契約書に調印。
=== 南海山手線時代 ===
*1940年[[12月1日]] 南海鉄道に合併、それまでの阪和電気鉄道の路線は同社の山手線となる。合併比率は南海対阪和が10:8。
*[[1941年]][[12月1日]] 超特急・特急を所要時間63分の急行に格下げ統合。
*[[1942年]][[2月15日]] 山手線と高野線の接点に[[三国ヶ丘駅]]を新設。
*[[1943年]][[2月15日]] 紀勢西線との直通列車を全廃。
*[[1944年]][[5月1日]] 戦時買収により、国鉄阪和線となる<ref>[{{NDLDC|2961684/7}} 「運輸通信省告示第185号」『官報』1944年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
=== 「阪和」ブランドの残滓 ===
阪和電気鉄道から国鉄阪和線、JR阪和線と名を変えた今も、「阪和○○」と名乗るものが残っている。なお、阪和電気鉄道の子会社で住宅地を開発した阪和興業と同名の[[阪和興業]](東証プライム上場)が[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]に存在し、またかつて[[阪和銀行]]という[[第二地方銀行]]が存在したが、以上の各社は阪和電気鉄道とは関係ない。
*[[天王寺駅]] - 阪和商店街(北口)
*[[堺市駅]] - 「阪和堺市駅前」(バス停留所名)、[[イズミヤ]]阪和堺店
*[[百舌鳥駅]] - 阪和百舌鳥駅前交番
*[[鳳駅]] - 阪和鳳自動車学校
*[[和泉府中駅]] - 阪和ストア
*[[紀伊中ノ島駅]] - 「阪和駅前」(バス停留所名)※廃止済
堺市駅、百舌鳥駅の例はそれぞれ、「[[堺駅]]」「[[堺東駅]]」、「[[中百舌鳥駅]]」と見分けやすくする目的もある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | title = 日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛) | publisher = 日本車輛製造 | year = 1928 }}({{Cite book | 和書 | title = 昭和五年版追加補刷 | volume = 第三輯 | year = 1930 }})を含む。
* {{Cite book | 和書 | title = 日本車輛製品案内 昭和5年(NSK型トラック) | publisher = 日本車輛製造 | year = 1930 }}
* {{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ファン | volume = No. 175 | date = 1975-11 | publisher = [[交友社]] }}
* {{Cite book | 和書 | editor = 関西国電略年誌編集委員会編・大阪鉄道管理局 運転部電車課監修 | title = 関西国電略年誌 | publisher = [[鉄道史資料保存会]] | year = 1982 }}
* {{Cite book | 和書 | author = 関西国電50年編集委員会 | title = 関西国電50年 | publisher = 鉄道史資料保存会 | year = 1982 }}
* {{Cite journal | 和書 | author = 高砂雍郎 | journal = 鉄道史料 | volume = 35 | title = 「関西国電50年」補遺 | publisher = 鉄道史資料保存会 | year = 1984 }}
* {{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | volume = No. 427 | date = 1984-01 | issue = (1984年1月臨時増刊号) | publisher = [[電気車研究会]] }}
* {{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | volume = No. 488 | date = 1987-12 | publisher = 電気車研究会 }}
* {{Cite book|和書|author=竹田辰男|year =1989|title = 阪和電気鉄道史|publisher =鉄道資料保存会|isbn = 978-4885400612|ref={{Sfnref|竹田|1989}} }}
* {{Cite book | 和書 | author = 日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会(編著) | title = 日車の車輌史 図面集 | volume = 戦前私鉄編 下 | publisher = 鉄道史資料保存会 | year = 1996 }}
* {{Cite book | 和書 | author = 藤井信夫 | series = 車両発達史シリーズ5 | title = 南海電気鉄道 | volume = 上 | publisher = 関西鉄道研究会 | year = 1996 }}
* {{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | volume = No. 695 | date = 2000-01 | issue = (2008年12月臨時増刊号) | publisher = 電気車研究会 }}
* {{Cite journal | 和書 | author = 竹田辰男 | journal = 鉄道史料 | volume = 108 | title = 南海鉄道山手線史の考察 | publisher = 鉄道史資料保存会 | year = 2003 }}
* {{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | volume = No. 807 | date = 2008-08 | issue = (2008年8月臨時増刊号) | publisher = 電気車研究会 }}
* {{Cite book | 和書 |author=矢野吉彦|author-link=矢野吉彦|title=競馬と鉄道 : あの"競馬場駅"は、こうしてできた|date=2018|publisher=[[交通新聞社]]|series=[[交通新聞社新書]]|isbn=978-4330877181|ref={{Sfnref|矢野|2018}} }}
== 外部リンク ==
*[{{新聞記事文庫|url|0100218367|title=阪和電気鉄道株式会社株式募集|oldmeta=00843374}} 1926年3月8日付大阪朝日新聞「阪和鉄道株式募集広告」]
{{京阪グループ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はんわてんきてつとう}}
[[Category:阪和電気鉄道|*]]
[[Category:京阪グループの歴史]]
[[Category:南海グループの歴史]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:かつて存在した日本のバス事業者]]
[[Category:かつて存在した大阪府の企業]]
[[Category:天王寺区の歴史]]
[[Category:昭和時代戦前の大阪]]
[[Category:1940年の合併と買収]]
[[Category:1926年設立の企業]]
[[Category:1940年廃止の企業]]
|
2003-07-19T06:16:27Z
|
2023-12-24T02:54:11Z
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[
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|
11,802 |
技術的行政学
|
技術的行政学(ぎじゅつてきぎょうせいがく)は、行政学のアプローチのひとつ。政治学者のウッドロウ・ウィルソンによって提唱された。初めて本格的・体系的に成立した行政学であることから、正統派行政学とも称される。
その最大の特徴として、政治と行政を徹底的に峻別していることが挙げられる。技術的行政学が成立する以前、行政の研究は、ウィルソン自身がそうであったように、全て政治学者によって行われていた。そのため、研究の内容も政治学、特に権力論のアプローチを応用したものが主流であった。しかし、ウィルソンら一部の政治学者は、行政には行政独自の性質があり、政治学の視点に固執していたのでは行政に特有の現象を十分に解明することができないだろうと感じ始めていた。彼らによれば、政治とは各人の価値観や利害が衝突する現象で、それを分析する際には闘争や権力の観念が大きな意味を持ってくる。しかし、行政とは規則に基づいて国家の任務を淡々と遂行する行為であり、そこではむしろ効率や合理化こそが重要なのだという。その結果、1920年代の後半には、政治と行政を全く別のものとして考える必要性が認識された。
技術的行政学の主唱者は、政治学に代わって経営学の成果を行政学に取り込んだ。特に、チェスター・バーナードやハーバート・サイモンの組織論は、企業以外の組織にも十分応用できるものだったために重用された。
1920年代から1940年代のアメリカ合衆国で盛んであったが、現代でもこのアプローチを採る行政学者は多い。
政治と行政の同一性を説き、立法機関の行政機能や行政機関の立法機能に着目して研究を進めた機能的行政学と対比される。
スポイルズ・システム(猟官制)の弊害を指摘し、メリット・システム(資格任用制)の採用を肯定的に評価した。
外的責任論の立場に立って、特に議会による行政統制の重要性を指摘した。
|
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技術的行政学(ぎじゅつてきぎょうせいがく)は、行政学のアプローチのひとつ。政治学者のウッドロウ・ウィルソンによって提唱された。初めて本格的・体系的に成立した行政学であることから、正統派行政学とも称される。 その最大の特徴として、政治と行政を徹底的に峻別していることが挙げられる。技術的行政学が成立する以前、行政の研究は、ウィルソン自身がそうであったように、全て政治学者によって行われていた。そのため、研究の内容も政治学、特に権力論のアプローチを応用したものが主流であった。しかし、ウィルソンら一部の政治学者は、行政には行政独自の性質があり、政治学の視点に固執していたのでは行政に特有の現象を十分に解明することができないだろうと感じ始めていた。彼らによれば、政治とは各人の価値観や利害が衝突する現象で、それを分析する際には闘争や権力の観念が大きな意味を持ってくる。しかし、行政とは規則に基づいて国家の任務を淡々と遂行する行為であり、そこではむしろ効率や合理化こそが重要なのだという。その結果、1920年代の後半には、政治と行政を全く別のものとして考える必要性が認識された。 技術的行政学の主唱者は、政治学に代わって経営学の成果を行政学に取り込んだ。特に、チェスター・バーナードやハーバート・サイモンの組織論は、企業以外の組織にも十分応用できるものだったために重用された。 1920年代から1940年代のアメリカ合衆国で盛んであったが、現代でもこのアプローチを採る行政学者は多い。 政治と行政の同一性を説き、立法機関の行政機能や行政機関の立法機能に着目して研究を進めた機能的行政学と対比される。 スポイルズ・システム(猟官制)の弊害を指摘し、メリット・システム(資格任用制)の採用を肯定的に評価した。 外的責任論の立場に立って、特に議会による行政統制の重要性を指摘した。
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不逮捕特権
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不逮捕特権(ふたいほとっけん)とは、憲法上、国会議員は原則として国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならないという特権(日本国憲法第50条)。ここでいう「逮捕」は刑事訴訟法上の「逮捕」よりも広い意味であり行政措置上の身柄の拘束まで広く含む。なお、これとは異なり日本国憲法第75条では「逮捕」ではなく「訴追」という文言を用いているが「逮捕」と「訴追」の関係については学説に対立がある(以下に詳述)。
不逮捕特権の趣旨は国会議員の活動あるいは両議院の自律性を保障するという点にある。歴史的には君主が議会内の反対派の議員を逮捕したり、政府がその権力によって議員の職務の執行を妨害するために逮捕が行われたことへの反省から認められるに至った権利である。
大日本帝国憲法下でも上記のような国会議員の不逮捕特権(議会開会中の議員の逮捕には特別な勅令を要した)はあったが、内乱罪と外患罪は現行犯でなく、また議院の許可や特別な勅令がなくても逮捕が可能であった。しかしながら、内乱罪と外患罪自体は適用された実例がない。
議員の不逮捕特権については議会の独立が強まったことによって、これが政治的に濫用され犯罪を行った国会議員が不当に保護されるおそれもあり適正な司法の運用を阻害する可能性もあるとの問題点も指摘されている。
国会議員は原則として国会の会期中逮捕されない(日本国憲法第50条)。
不逮捕特権が及ぶのは「会期中」である。継続審査は会期中とはいえず不逮捕特権は及ばない。参議院の緊急集会は会期ではないが会期中に準じて扱われ不逮捕特権が及ぶ(国会法100条参照)。
「逮捕」には刑事訴訟法上の逮捕・勾引・勾留のほか行政上の措置(警察官職務執行法第3条による保護措置や精神保健福祉法第29条による措置入院等)による身柄の拘束を含む。日本国憲法第50条は身体的拘束を伴わない訴追を禁じるものではない。なお、国会議員について確定判決に基づいて自由刑の執行がなされる場合には身体の拘束になるが、文言上あるいは司法権の独立(議院は確定判決の判断を問題とすることは妥当でない)の観点から日本国憲法第50条の「逮捕」には含まれないと解されている。
憲法は不逮捕特権について「法律の定める場合を除いて」として法律による例外を認め(日本国憲法第50条)、国会法33条では「各議院の議員は、院外における現行犯罪の場合を除いては、会期中その院の許諾がなければ逮捕されない」と規定している。
会期前に逮捕された国会議員は、その所属する議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない(日本国憲法第50条)。内閣は、会期前に逮捕された議員があるときは、会期の始めに、その議員の属する議院の議長に、令状の写を添えてその氏名を通知しなければならない(国会法34条の2第1項)。先例では召集当日に通知すべきものとされている(昭和53年衆議院先例集99)。また、内閣は、会期前に逮捕された議員について、会期中に勾留期間の延長の裁判があったときは、その議員の属する議院の議長にその旨を通知しなければならない(国会法34条2第2項)。議員が、会期前に逮捕された議員の釈放の要求を発議するには、議員20人以上の連名で、その理由を附した要求書をその院の議長に提出しなければならない(国会法34条の3)。
なお、日本国憲法下で釈放要求決議が本会議で採決された例はない。
日本国憲法第75条は「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない」と規定し、日本国憲法第50条の場合とは異なり「逮捕」ではなく「訴追」という文言を用いている。
日本国憲法第75条の「訴追」については、刑事訴訟法上の逮捕・勾留を含まないとする説と逮捕・勾留を含むとする説が対立している。
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'''不逮捕特権'''(ふたいほとっけん)とは、[[日本国憲法|憲法]]上、[[日本の国会議員|国会議員]]は原則として[[国会 (日本)|国会]]の会期中逮捕されず、会期前に[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを[[保釈|釈放]]しなければならないという特権([[日本国憲法第50条]])。ここでいう「逮捕」は[[刑事訴訟法]]上の「逮捕」よりも広い意味であり行政措置上の身柄の拘束まで広く含む<ref name="itou-441">伊藤正己著 『憲法 第三版』 弘文堂、1995年、441頁</ref><ref name="matsuzawa-197">松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、197頁</ref>。なお、これとは異なり[[日本国憲法第75条]]では「逮捕」ではなく「[[訴追]]」という文言を用いているが「逮捕」と「訴追」の関係については学説に対立がある<ref name="higuchi-nakamura-satou-urabe-267">樋口陽一・中村睦男・佐藤幸治・浦部法穂著 『注解法律学全集3 憲法Ⅲ(第41条~第75条)』 青林書院、1998年、267頁</ref>(以下に詳述)。
== 概説 ==
不逮捕特権の趣旨は国会議員の活動あるいは両議院の自律性を保障するという点にある。歴史的には君主が議会内の反対派の議員を逮捕したり、政府がその権力によって議員の職務の執行を妨害するために逮捕が行われたことへの反省から認められるに至った権利である<ref name="itou-440">伊藤正己著 『憲法 第三版』 弘文堂、1995年、440頁</ref>。{{seealso|ナチ党の権力掌握#国会議事堂放火事件}}
[[大日本帝国憲法]]下でも上記のような国会議員の不逮捕特権(議会開会中の議員の逮捕には特別な[[勅令]]を要した)はあったが、[[内乱罪]]と[[外患罪]]は現行犯でなく、また議院の許可や特別な勅令がなくても逮捕が可能であった。しかしながら、内乱罪と外患罪自体は適用された実例がない。
議員の不逮捕特権については議会の独立が強まったことによって、これが政治的に濫用され犯罪を行った国会議員が不当に保護されるおそれもあり適正な司法の運用を阻害する可能性もあるとの問題点も指摘されている<ref name="itou-440"/>。
== 内容 ==
=== 原則 ===
国会議員は原則として国会の会期中逮捕されない(日本国憲法第50条)。
不逮捕特権が及ぶのは「会期中」である。継続審査は会期中とはいえず不逮捕特権は及ばない<ref name="itou-441"/><ref name="satou-691"/>。[[参議院の緊急集会]]は会期ではないが会期中に準じて扱われ不逮捕特権が及ぶ<ref name="itou-441"/><ref name="satou-691">佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、691頁</ref><ref name="matsuzawa-198">松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、198頁</ref>([[国会法]]100条参照)。
「逮捕」には刑事訴訟法上の逮捕・勾引・[[勾留]]のほか行政上の措置([[警察官職務執行法]]第3条による保護措置や[[精神保健及び精神障害者福祉に関する法律|精神保健福祉法]]第29条による[[措置入院]]等)による身柄の拘束を含む<ref name="itou-441"/><ref name="matsuzawa-198"/>。日本国憲法第50条は身体的拘束を伴わない訴追を禁じるものではない<ref name="itou-441"/>。なお、国会議員について[[確定判決]]に基づいて[[自由刑]]<ref>[[禁錮]]以上の刑が確定した場合は[[公職選挙法]]第11条・国会法第109条により国会議員失職後に自由刑が科されることになるが、[[拘留]]の場合は国会議員失職とならないまま自由刑が科されることになる。</ref>の執行がなされる場合には身体の拘束になるが、文言上あるいは司法権の独立(議院は確定判決の判断を問題とすることは妥当でない)の観点から日本国憲法第50条の「逮捕」には含まれないと解されている<ref name="itou-441"/>。
=== 例外 ===
憲法は不逮捕特権について「法律の定める場合を除いて」として法律による例外を認め([[日本国憲法第50条]])、[[国会法]]33条では「各議院の議員は、院外における現行犯罪の場合を除いては、会期中その院の許諾がなければ逮捕されない」と規定している。
; 院外の[[現行犯]]
: 現行犯(刑事訴訟法第212条)の場合には基本的に犯罪事実は明白であり不当逮捕のおそれがないことから逮捕しうる<ref name="itou-441"/><ref name="satou-688">佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、688頁</ref><ref name="matsuzawa-198"/>。なお、院内の現行犯については議院の自律性の下で国会法114条の規定に従い議長の議院警察権に服することとなり各議院の自主的措置に委ねられることになる<ref name="itou-442">伊藤正己著 『憲法 第三版』 弘文堂、1995年、442頁</ref><ref name="satou-688"/><ref name="matsuzawa-198"/>([[議院警察権]]を参照)。
: 日本の国会議員が現行犯逮捕された例として[[林百郎]]衆議院議員(日本共産党)が[[1952年]][[5月17日]]に[[器物損壊罪]]で現行犯逮捕された例<ref>{{Cite news|title=林百郎氏を逮捕|publisher=読売新聞|date=1952-05-17}}</ref>、[[楢崎弥之助]]衆議院議員(日本社会党)が[[1964年]][[11月13日]]に公務執行妨害罪で現行犯逮捕された例<ref>{{Cite news|title=楢崎代議士を逮捕 佐世保のデモ まもなく釈放|publisher=読売新聞|date=1964-11-13}}</ref>、[[中西一善]]衆議院議員(自由民主党)が[[2005年]][[3月10日]]に強制わいせつ罪で現行犯逮捕された例の3例がある。
; [[逮捕許諾請求]]
: 各議院の議員の逮捕につきその院の許諾を求めるには、[[内閣 (日本)|内閣]]は、所轄[[日本の裁判所|裁判所]]又は[[裁判官]]が令状を発する前に内閣へ提出した要求書の受理後速かに、その要求書の写を添えて、これを求めなければならない(国会法第34条)。そして、議院において、まず、[[議院運営委員会]]に付託され、その審査を経てから議院において議決されるのが先例である<ref name="matsuzawa-198"/>。許諾の判断については、逮捕に正当な理由がある場合には許諾を与えなければならないとする学説と正当な理由があっても国会活動の重要性を理由として許諾を与えないことも可能であるとする学説に分かれており対立がある<ref name="itou-442"/>。また、逮捕の許諾について条件・期限を付することができるか否かについては、刑事司法の適正という点を重視して条件・期限を付すことは認められないとする消極説と逮捕の許諾の拒否について認められる以上は条件・期限を付すことも認められるとする積極説とが対立する<ref name="itou-443">伊藤正己著 『憲法 第三版』 弘文堂、1995年、443頁</ref><ref name="matsuzawa-199">松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、199頁</ref>。先例としては[[衆議院]]では許諾に期限を付した例(昭和29年2月23日)があるが、[[東京地方裁判所|東京地裁]]の決定では許諾があるならば無条件でなすべきものとしてこの期限を認めなかった(東京地決昭和29年3月6日判時29号3頁)<ref name="itou-442"/><ref name="satou-689-690">佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、689-690頁</ref><ref name="matsuzawa-199"/>。通説によればひとたびなされた許諾はこれを取り消すことができないと考えられているが、条件・期限を付しうるみるのであれば国会の審議状況等から必要であれば許諾の取消しも可能と思われるとする学説もある<ref name="itou-443"/>。
=== 議院の要求による釈放 ===
会期前に逮捕された国会議員は、その所属する議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない(日本国憲法第50条)。内閣は、会期前に逮捕された議員があるときは、会期の始めに、その議員の属する議院の議長に、令状の写を添えてその氏名を通知しなければならない(国会法34条の2第1項)。先例では召集当日に通知すべきものとされている(昭和53年衆議院先例集99)<ref name="matsuzawa-200">松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、200頁</ref>。また、内閣は、会期前に逮捕された議員について、会期中に勾留期間の延長の[[裁判]]があったときは、その議員の属する議院の議長にその旨を通知しなければならない(国会法34条2第2項)。議員が、会期前に逮捕された議員の釈放の要求を発議するには、議員20人以上の連名で、その理由を附した要求書をその院の議長に提出しなければならない(国会法34条の3)。
なお、日本国憲法下で釈放要求決議が[[本会議]]で採決された例はない。
== 諸制度との比較 ==
=== 逮捕・訴追・裁判権の各概念 ===
==== 逮捕と訴追の関係 ====
日本国憲法第75条は「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない」と規定し、日本国憲法第50条の場合とは異なり「逮捕」ではなく「訴追」という文言を用いている。
日本国憲法第75条の「訴追」については、刑事訴訟法上の逮捕・勾留を含まないとする説と逮捕・勾留を含むとする説が対立している<ref name="higuchi-nakamura-satou-urabe-267">樋口陽一・中村睦男・佐藤幸治・浦部法穂著 『注解法律学全集3 憲法Ⅲ(第41条~第75条)』 青林書院、1998年、267頁</ref>。
* 「訴追」には逮捕・勾留を含むとする説
: 「訴追」は本来的には「公訴の提起」を意味するが、憲法75条は国務大臣の身体の自由を保障した趣旨であるという点を理由とする
* 「訴追」には逮捕・勾留を含まないとする説
: 憲法上あるいは諸法令の「訴追」とは裁判・懲戒・罷免の請求を意味するという点を理由とする<ref name="satou-920">佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、920頁</ref>。政府見解でも「訴追」には逮捕を含まないとしている<ref name="higuchi-nakamura-satou-urabe-268">樋口陽一・中村睦男・佐藤幸治・浦部法穂著 『注解法律学全集3 憲法Ⅲ(第41条~第75条)』 青林書院、1998年、268頁</ref>。
==== 裁判権 ====
裁判権は国が司法権を行使して裁判を行う権限をいう。
{{main|裁判管轄#裁判権}}
=== 各種制度 ===
; 天皇及び摂政等
: [[皇室典範]]第21条や[[国事行為臨時代行法]]第6条により、[[摂政]]や[[国事行為臨時代行]]は、摂政在任中又は国事行為臨時代行委任されている間は'''訴追'''されない。ただし、各条文では「訴追の権利は、害されない」としており、摂政在任中又は国事行為臨時代行が委任されている間の訴追は[[公訴時効]]は停止となり、摂政退任又は国事行為臨時代行終了と同時に公訴の提起がされる。[[天皇]]についての条文はないが、摂政の条文から同様に解釈されている<ref>過去に政府委員による国会答弁として「…天皇につきましては訴追を受けないというようなことは、特別の規定はございませんが、皇室典範の摂政の二十一条「摂政は、その在任中、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。」というのがございまして、天皇の場合は、当然そういうことから考えても訴追はされないという解釈でございます」(瓜生順良[[宮内庁|宮内庁次長]])がある。第46回[[参議院]][[内閣委員会]]29号(昭和39年5月7日)発言者番号21</ref>。
; 国務大臣
: 国務大臣について憲法は「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、'''訴追'''されない。但し、これがため、'''訴追'''の権利は、害されない」とする(日本国憲法第75条)。「逮捕」と「訴追」との関係については先述のように学説に対立がある。首相の同意なしで現職閣僚が逮捕された例はある。[[1948年]][[9月30日]]には[[栗栖赳夫]]国務大臣([[経済安定本部]]総務長官兼[[物価庁|物価庁長官]]兼[[経済調査庁|中央経済調査庁長官]])が[[昭和電工事件]]で逮捕された時、東京地裁は「訴追は、逮捕・勾留とは関係ない」との判断を下し、首相の同意なしに逮捕令状を交付した(栗栖は3日後の[[10月2日]]に訴追前に閣僚を辞任している)。なお、栗栖の刑事裁判は1962年に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で有罪が確定している。
; 国会議員
: 国会議員について憲法は「両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中'''逮捕'''されず、会期前に'''逮捕'''された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない」とする(日本国憲法第50条)。
; 外交官
: [[外交関係に関するウィーン条約]]により、[[外交官]]は'''刑事裁判権'''から免除され、'''民事裁判権'''や'''行政裁判権'''も原則として免除される(同条約31条、[[外交特権]])。認証を受けた外交官の違法行為や不良行為に対しては、[[ペルソナ・ノン・グラータ]]しか対抗手段がない。[[国交]]が途絶し敵対関係にある場合にも、この特権は一般に保護されるため、外交官による[[スパイ]]活動を防止するためには、重監視をつけるなど、事実上の軟禁状態に置くような手段が取られる。
: 条約では、刑事裁判および民事・行政裁判権の全てから免除されている(31条)が、外交官本人が自国([[派遣国]])の国内法で捜査・裁判されたり(同条約31条)、派遣国側が免除特権を放棄する場合(同条約32条)、あるいは国外退去処分と外交官認証の撤回ののち、別の条約([[犯罪人引渡し条約]])が適用されることを回避しているものではない。[[外交特権]]も参照
; 在日米軍の構成員等
: [[在日米軍]]の構成員及びその軍属や家族についての日米間の'''刑事裁判権'''の帰属については[[日米地位協定]]によって定まる。
; 大統領
: 一般に国家元首に対する'''訴追'''は否定されており、[[フランス]]、[[イタリア]]では国家反逆罪以外では訴追しないことが憲法に規定されている。この場合[[弾劾]]による議決(判決)により失職することで訴追の対象となる。弾劾制度については各国により対象者の範囲や制度の趣旨、訴追への過程が異なる。
== 脚注 ==
<references />
==関連項目==
*[[指揮権 (法務大臣)]]
*[[中野正剛事件]]
*[[免責特権]] - 不逮捕特権と同じく両議院の議員に認められている特権の一つ。
{{DEFAULTSORT:ふたいほとつけん}}
[[Category:刑事訴訟法]]
[[Category:特権]]
[[Category:抑留・拘禁]]
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徳川宗家
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徳川宗家(とくがわそうけ)は、徳川氏の宗家。徳川氏は1566年に徳川家康が松平から改称したのにはじまり、江戸時代には江戸幕府の征夷大将軍を世襲した。明治維新後に華族に列し、1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられた。
出自は賀茂氏とも、在原氏ともいわれ、明確でない。清和源氏新田氏の末裔と自称する世良田親氏が三河国松平郷に住む松平信重の娘を娶って継ぎ。松平親忠(江戸時代の系譜では松平家第4代とする)を祖とする安城松平家(安祥とも)を直接の祖先とし、戦国時代に松平清康の代に大きな勢力を持つようになった。広忠を経て元康(徳川家康)の代の初期には駿河国の今川氏に属していたが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後には尾張国の織田氏に属し、1566年(同9年)に徳川氏と改称した。
織田信長の死後は豊臣秀吉と争ったが、最終的に臣従し1590年(天正18年)に武蔵国江戸に転封された。
徳川家康は秀吉の死後に起こった1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで勝利を収めて天下人となり、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に就任し、江戸幕府を創設した。以降、1867年(慶応3年)に15代慶喜が大政奉還をするまでの15代264年の間、徳川宗家が将軍職を継承して、日本の実質上の支配者として、武家社会を含む日本社会全体の頂点に君臨した。
家康は将軍職を徳川氏が世襲する体制を固めるために1605年に三男秀忠に将軍職を譲った(その後も家康は死ぬまで大御所として実権は握っていたとされる)。秀忠は次男家光(長男長丸がいたが、既に早世していた)に将軍職を譲って第3代将軍とした。徳川将軍家の男子による将軍職の世襲を確立するため、歴代の当主は多くの側室を大奥に抱えて血統の保持に努めた。しかし、宗家はたびたび実子を欠き、近親の分家や家康の子を祖とする徳川御三家や御三卿から養子を迎えて家系をつなぐことが少なくなかった。第4代将軍家綱に直系の子が無く、徳川将軍家の直系は幕府が始まってから77年で途絶え、傍系である弟綱吉を養子として第5代将軍とした。その綱吉の実子も早世し、家綱の弟で綱吉の兄徳川綱重の長男である甥家宣が第6代将軍となった。家宣の跡は実子家継が継ぎ、第7代将軍となり、家光・家綱父子以来、32、3年ぶりに父子による世襲が実現したが、1716年(正徳6年)に数え年8歳で夭折。ここに秀忠・家光父子の血筋による将軍の世襲は途絶え、紀州家から徳川吉宗が入嗣し、第8代将軍に就任している。吉宗、家重、家治と3代70年の直系での世襲が続いたが、第10代将軍家治の実子が男女共に早世、御三卿の一つである一橋家から徳川家斉を養子とし、第11代将軍となった。家斉の後は子の家慶(第12代将軍)、孫の家定(第13代将軍)と再び父子による世襲が71、2年継続したが、家定に実子が無くまたも家系をつなぐ為に紀州家から徳川慶福(家茂)が迎えられて第14代将軍に就任。その家茂も実子なく死去。水戸家の生まれで一橋家の当主となっていた慶喜が第15代将軍にして最後の将軍となっている。特に慶喜は女系ながら秀忠の血を引いている。計15名の将軍のうち、正室から生まれたのは家康・家光・慶喜の3人だけであり、その中でも初代将軍である家康の父・松平広忠は将軍ではなく、慶喜は水戸家の生まれであるので、「将軍の正室」から生まれたのは家光のみとなる。
家光が元服の時に祖父・家康の名の「家」の字を諱に受け継いだ後、「家」の字が徳川将軍家(徳川宗家)の嫡男の諱に使用する通字となった。歴代徳川将軍で、諱に「家」の字が付かない将軍は、2代秀忠・5代綱吉・8代吉宗・15代慶喜の4名存在する。秀忠はその元服時にまだ幕府が成立しておらず、当時の天下人である豊臣秀吉から「秀」の字を偏諱として賜ったものであり、綱吉・吉宗・慶喜の3名は当初は徳川将軍家の嫡男ではなかったため、時の将軍から偏諱を賜ったものである。即ち、綱吉は3代家光の四男ではあるが嫡男ではなく、元服時に兄である時の将軍・家綱から「綱」の字の偏諱を賜っている。吉宗は紀州家出身であるが、紀州藩主就任時の将軍・綱吉から「吉」の字の偏諱を賜っている。慶喜は水戸家出身であるが、当主が夭折した一橋家を継いだ直後に、時の将軍・家慶から「慶」の字の偏諱を賜っている。なお、6代家宣は甲府徳川家の嫡男として元服時に家綱から偏諱を賜って「綱豊」を名乗っていたが、綱吉の養子となった時に通字を含む家宣に改名したものであり、14代家茂は、紀州家の嫡男として元服時に、時の12代将軍家慶から「慶」の字の偏諱を賜って「慶福」を名乗っていたが、13代家定の養嗣子となった後、14代将軍に就任した際に通字を含む家茂に改名したものである。
最後の将軍となった慶喜は、大政奉還後に将軍を辞職し、一旦は兵を挙げたものの新政府に恭順し、謹慎した。さらに慶喜は隠居して、御三卿の一つ田安徳川家から徳川家達が養子に立てられ、徳川宗家の相続を許された。
第16代当主となった家達は、新政府により駿河・遠江・伊豆に70万石を改めて与えられて駿府(現:静岡県静岡市葵区)に移住し、駿府の町を静岡と改名して静岡藩を立藩した。1869年(明治2年)に家達は華族に列せられ、廃藩置県を経て、1871年(明治4年)に東京へ再移住した。
1876年(明治9年)の秩禄処分で家禄に代えて支給された金禄公債の額は56万4429円であり、その額は10位だった(1位島津公爵家132万2845円、2位前田侯爵家119万4077円、3位毛利公爵家110万7755円、4位細川侯爵家78万280円、5位尾張徳川侯爵家73万8326円、6位紀州徳川侯爵家70万6110円、7位山内侯爵家66万8200円、8位浅野侯爵家63万5433円、9位鍋島侯爵家60万3598円に次ぐ)。
1884年(明治17年)の華族令施行とともに家達は公爵位を授けられた。叙爵内規では公爵の叙爵基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」となっており、武家では徳川宗家だけが偉功なくしても当然に公爵になれる立場だった。また徳川宗家からの直接の分家華族に徳川厚男爵家がある。
その後、家達は、1903年(明治36年)から1933年(昭和8年)の30年にもわたって貴族院議長を務め、嫡子である第17代当主の家正は、戦後に最後の貴族院議長を務めた。
徳川宗家の本邸は1877年(明治10年)から1943年(昭和18年)まで東京府東京市渋谷区千駄ヶ谷にあり、敷地面積は10万坪を超えた。世間からは「千駄ヶ谷御殿」と呼ばれていた。1943年(昭和18年)に東京府が錬成道場として利用するために敷地と邸宅を買収し「葵館」と名付けられた。その後、木造建築物は撤去、鉄筋コンクリートの洋館2棟は移築され、1956年(昭和31年)に東京体育館が建設されて現在に至っている。
2003年(平成15年)、第18代当主・恒孝は、宗家の貴重な遺産を管理するため、財団法人(現:公益財団法人)徳川記念財団を設立した。
恒孝は半世紀あまりに亘って当主の座にあったものの、高齢を理由に2023年(令和5年)1月1日に家督を長男の家広に譲ることになった。
2023年1月1日、家広が家督を継承し、徳川宗家第19代当主となる。同年1月29日、代替わりの儀式として、増上寺で「継宗の儀」が行われた
(2) 太字は当主(将軍)。数字は家督継承順。 (3) 女子および幼時早世した人物は省略。
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徳川宗家(とくがわそうけ)は、徳川氏の宗家。徳川氏は1566年に徳川家康が松平から改称したのにはじまり、江戸時代には江戸幕府の征夷大将軍を世襲した。明治維新後に華族に列し、1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられた。
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{{混同|江戸氏}}
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{{日本の氏族
|家名= 徳川宗家
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|家紋名称= [[三つ葉葵|丸に三つ葉葵]]
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'''徳川宗家'''(とくがわそうけ)は、[[徳川氏]]の[[宗家]]。徳川氏は[[1566年]]に[[徳川家康]]が[[松平氏|松平]]から改称したのにはじまり、[[江戸時代]]には[[江戸幕府]]の[[征夷大将軍]]を[[世襲]]した。[[明治維新]]後に[[華族]]に列し、[[1884年]]([[明治]]17年)には[[公爵]]の[[爵位]]を授けられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=322}}。
== 歴史 ==
=== 江戸時代前 ===
出自は[[賀茂氏]]とも、[[在原氏]]ともいわれ、明確でない<ref name="ブリタニカ">{{Kotobank|1=徳川氏|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。[[清和源氏]][[新田氏]]の末裔と自称する[[松平親氏|世良田親氏]]が[[三河国]][[松平郷]]に住む[[松平信重]]の娘を娶って継ぎ<ref name="ブリタニカ"/>。[[松平親忠]](江戸時代の系譜では松平家第4代とする)を祖とする安城松平家(安祥とも)を直接の祖先とし<ref>村岡幹生「松平氏〈有徳人〉の系譜と徳川〈正史〉のあいだ」平野明夫 編『家康研究の最前線』(洋泉社、2016年)。後、村岡『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)所収。2023年、P28-29.</ref>、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[松平清康]]の代に大きな勢力を持つようになった<ref name="ブリタニカ"/>。[[松平広忠|広忠]]を経て[[徳川家康|元康]](徳川家康)の代の初期には[[駿河国]]の[[今川氏]]に属していたが、[[1560年]](永禄3年)の[[桶狭間の戦い]]後には[[尾張国]]の[[織田氏]]に属し、[[1566年]](同9年)に徳川氏と改称した<ref name="ブリタニカ"/>。
[[織田信長]]の死後は[[豊臣秀吉]]と争ったが、最終的に臣従し[[1590年]](天正18年)に[[武蔵国]][[江戸]]に[[転封]]された<ref name="ブリタニカ"/>。
=== 江戸時代 ===
[[File:Tokugawa Ieyasu 3 cropped.jpg|thumb|初代[[征夷大将軍]]・[[徳川家康]]|left]]
徳川家康は秀吉の死後に起こった[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]で勝利を収めて[[天下人]]となり、[[1603年]]([[慶長]]8年)に征夷大将軍に就任し、[[江戸幕府]]を創設した。以降、[[1867年]]([[慶応]]3年)に15代[[徳川慶喜|慶喜]]が[[大政奉還]]をするまでの15代264年の間、徳川宗家が将軍職を継承して、[[日本]]の実質上の支配者として、[[武家の棟梁|武家社会]]を含む日本社会全体の頂点に君臨した<ref name="ブリタニカ"/>。
家康は将軍職を徳川氏が世襲する体制を固めるために[[1605年]]に三男[[徳川秀忠|秀忠]]に将軍職を譲った<ref name="ニッポニカ">{{Kotobank|1=徳川氏|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>(その後も家康は死ぬまで[[大御所]]として実権は握っていたとされる)。秀忠は次男[[徳川家光|家光]](長男[[徳川長丸|長丸]]がいたが、既に早世していた)に将軍職を譲って第3代将軍とした。徳川将軍家の男子による将軍職の世襲を確立するため、歴代の当主は多くの[[側室]]を[[大奥]]に抱えて血統の保持に努めた。しかし、宗家はたびたび実子を欠き、近親の分家や家康の子を祖とする[[徳川御三家]]や[[御三卿]]から養子を迎えて家系をつなぐことが少なくなかった。第4代将軍[[徳川家綱|家綱]]に直系の子が無く、徳川将軍家の直系は幕府が始まってから77年で途絶え、傍系である弟[[徳川綱吉|綱吉]]を養子として第5代将軍とした。その綱吉の実子も早世し、家綱の弟で綱吉の兄[[徳川綱重]]の長男である甥[[徳川家宣|家宣]]が第6代将軍となった。家宣の跡は実子[[徳川家継|家継]]が継ぎ、第7代将軍となり、家光・家綱父子以来、32、3年ぶりに父子による世襲が実現したが、[[1716年]]([[正徳 (日本)|正徳]]6年)に数え年8歳で夭折。ここに秀忠・家光父子の血筋による将軍の世襲は途絶え、[[紀州徳川家|紀州家]]から[[徳川吉宗]]が入嗣し、第8代将軍に就任している。吉宗、[[徳川家重|家重]]、[[徳川家治|家治]]と3代70年の直系での世襲が続いたが、第10代将軍家治の実子が男女共に早世、御三卿の一つである[[一橋徳川家|一橋家]]から[[徳川家斉]]を養子とし、第11代将軍となった。家斉の後は子の[[徳川家慶|家慶]](第12代将軍)、孫の[[徳川家定|家定]](第13代将軍)と再び父子による世襲が71、2年継続したが、家定に実子が無くまたも家系をつなぐ為に紀州家から[[徳川家茂|徳川慶福(家茂)]]が迎えられて第14代将軍に就任。その家茂も実子なく死去。[[水戸徳川家|水戸家]]の生まれで一橋家の当主となっていた慶喜が第15代将軍にして最後の将軍となっている。特に慶喜は女系ながら秀忠の血<ref group="注釈">徳川秀忠―[[千姫]]―[[円盛院|勝姫]]―[[池田綱政]]―[[池田政純|政純]]―静子―一条溢子―[[徳川治紀]]―[[徳川斉昭|斉昭]]―慶喜</ref>を引いている。計15名の将軍のうち、[[正室]]から生まれたのは家康・家光・慶喜の3人だけであり、その中でも初代将軍である家康の父・[[松平広忠]]は将軍ではなく、慶喜は水戸家の生まれであるので、「将軍の正室」から生まれたのは家光のみとなる。
家光が[[元服]]の時に祖父・家康の名の「家」の字を[[諱]]に受け継いだ後、「家」の字が徳川将軍家(徳川宗家)の嫡男の諱に使用する[[諱#通字|通字]]となった。歴代徳川将軍で、諱に「家」の字が付かない将軍は、2代秀忠・5代綱吉・8代吉宗・15代慶喜の4名存在する。秀忠はその元服時にまだ幕府が成立しておらず、当時の天下人である[[豊臣秀吉]]から「秀」の字を[[諱#偏諱|偏諱]]として賜ったものであり、綱吉・吉宗・慶喜の3名は当初は徳川将軍家の嫡男ではなかったため、時の将軍から偏諱を賜ったものである。即ち、綱吉は3代家光の四男ではあるが嫡男ではなく、元服時に兄である時の将軍・家綱から「綱」の字の偏諱を賜っている。吉宗は紀州家出身であるが、[[紀州藩]]主就任時の将軍・綱吉から「吉」の字の偏諱を賜っている。慶喜は水戸家出身であるが、当主が夭折した一橋家を継いだ直後に、時の将軍・家慶から「慶」の字の偏諱を賜っている。なお、6代家宣は[[甲府徳川家]]の嫡男として元服時に家綱から偏諱を賜って「綱豊」を名乗っていたが、綱吉の養子となった時に通字を含む家宣に改名したものであり、14代家茂は、紀州家の嫡男として元服時に、時の12代将軍家慶から「慶」の字の偏諱を賜って「慶福」を名乗っていたが、13代家定の養嗣子となった後、14代将軍に就任した際に通字を含む家茂に改名したものである。
最後の将軍となった慶喜は、[[大政奉還]]後に将軍を辞職し、一旦は兵を挙げたものの新政府に恭順し、謹慎した。さらに慶喜は[[隠居]]して、御三卿の一つ[[田安徳川家]]から[[徳川家達]]が養子に立てられ、徳川宗家の相続を許された<ref group="注釈" name="yoshinobu">慶喜は、隠居・謹慎の後、[[1902年]](明治35年)には公爵を授けられ、[[徳川慶喜家]]を立てて初代当主となった。</ref>。
{{-}}
=== 明治以降 ===
[[File:Prince Tokugawa Iesato.jpg|thumb|[[徳川家達]](1920年代)]]
第16代当主となった家達は、新政府により[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・[[伊豆国|伊豆]]に70万石を改めて与えられて[[駿府]](現:[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]])に移住し、駿府の町を静岡と改名して'''[[駿府藩|静岡藩]]'''を[[維新立藩|立藩]]した。[[1869年]]([[明治]]2年)に家達は[[華族]]に列せられ、[[廃藩置県]]を経て、[[1871年]](明治4年)に[[東京]]へ再移住した。
[[1876年]](明治9年)の[[秩禄処分]]で家禄に代えて支給された[[金禄公債]]の額は56万4429円であり、その額は10位だった(1位[[島津氏|島津公爵家]]132万2845円、2位[[前田氏|前田侯爵家]]119万4077円、3位[[毛利氏|毛利公爵家]]110万7755円、4位[[細川氏|細川侯爵家]]78万280円、5位尾張徳川侯爵家73万8326円、6位紀州徳川侯爵家70万6110円、7位[[土佐山内氏|山内侯爵家]]66万8200円、8位[[浅野氏|浅野侯爵家]]63万5433円、9位[[鍋島氏|鍋島侯爵家]]60万3598円に次ぐ){{sfn|小田部雄次|2006|p=62}}。
[[1884年]](明治17年)の[[華族令]]施行とともに家達は[[公爵]]位を授けられた。叙爵内規では公爵の叙爵基準について「[[親王]][[王 (皇族)|諸王]]ヨリ臣位に列セラルル者 旧[[摂家]] 徳川宗家 国家二偉功アル者」となっており、武家では徳川宗家だけが偉功なくしても当然に公爵になれる立場だった{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。また徳川宗家からの直接の分家華族に[[徳川厚]][[男爵]]家がある。
その後、家達は、[[1903年]](明治36年)から[[1933年]](昭和8年)の30年にもわたって[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]を務め{{sfn|原口大輔|2018|p=69/250}}、嫡子である第17代当主の[[徳川家正|家正]]は、戦後に最後の貴族院議長を務めた。
徳川宗家の本邸は[[1877年]](明治10年)から[[1943年]](昭和18年)まで[[東京府]][[東京市]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]にあり、敷地面積は10万坪を超えた{{sfn|樋口雄彦|2012|p=49}}。世間からは「千駄ヶ谷御殿」と呼ばれていた{{sfn|保科順子|1998|p=73}}。[[1943年]](昭和18年)に東京府が錬成道場として利用するために敷地と邸宅を買収し「葵館」と名付けられた。その後、木造建築物は撤去、[[鉄筋コンクリート]]の洋館2棟は移築され、[[1956年]](昭和31年)に[[東京体育館]]が建設されて現在に至っている<ref>[https://www.tef.or.jp/tmg/history.jsp 歴史・沿革|東京体育館|公益財団法人東京都スポーツ文化事業団]</ref>。
[[2003年]](平成15年)、第18代当主・[[徳川恒孝|恒孝]]は、宗家の貴重な遺産を管理するため、[[財団法人]](現:公益財団法人)[[徳川記念財団]]を設立した。
恒孝は半世紀あまりに亘って当主の座にあったものの、高齢を理由に[[2023年]]([[令和]]5年)1月1日に家督を長男の[[徳川家広|家広]]に譲ることになった<ref>{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221025/k10013869731000.html|title=徳川家康の子孫 宗家が当主交代 19代家広氏が家督継承へ|publisher=NHKNEWSWEB|date=2022-10-25|accessdate=2022-10-26|archiveurl=https://archive.ph/99ZQe|archivedate=2022-10-25}}</ref>。
2023年1月1日、家広が家督を継承し、徳川宗家第19代当主となる。同年1月29日、代替わりの儀式として、[[増上寺]]で「継宗の儀」が行われた。
{{-}}
== 歴代当主と主な子 ==
{|class="wikitable" style="font-size:80%; "
|-
!colspan="2"|世数
!将軍
!出身
!主な子
|-
!rowspan="15"|徳<br />川<br />将<br />軍<br />家
!初代
|[[徳川家康]]
|安祥松平家
|
#[[松平信康]](長男(嫡男)。のちに切腹を命じられる)
#[[結城秀康]]([[越前松平家]])
#'''秀忠'''(2代将軍)
#[[松平忠吉]](無子。断絶)
#[[松平忠輝]](流罪。断絶)
#[[徳川義直]]([[尾張徳川家|尾張家]])
#[[徳川頼宣]]([[紀州徳川家|紀州家]])- 光貞 - '''吉宗'''(8代将軍)- - - - - - - '''家茂'''(14代将軍)
#[[徳川頼房]]([[水戸徳川家|水戸家]])- - - - - - - - '''慶喜'''(15代将軍)
|-
!2代
|[[徳川秀忠]]
|徳川氏
|
#'''家光'''(3代将軍)
#[[徳川忠長]]([[駿河徳川家|駿河家]]。駿河大納言。切腹して断絶)
#[[徳川和子]]([[後水尾天皇]]の[[中宮]]。東福門院)
#[[保科正之]]([[会津松平家]])- - - - - - - '''恒孝'''(18代当主)
|-
|-
!3代
|[[徳川家光]]
|将軍家
|
#'''家綱'''(4代将軍)
#[[徳川綱重]]([[甲府徳川家|甲府家]])- '''家宣'''(6代将軍)、[[松平清武]]([[越智松平家]])
#'''綱吉'''([[館林徳川家|館林家]]、5代将軍)
|-
!4代
|[[徳川家綱]]
|将軍家
|実子は死産・流産の為、なし
|-
!5代
|[[徳川綱吉]]
|館林家から養子
|
#[[徳川徳松]](夭折)
|-
!6代
|[[徳川家宣]]
|甲府家から養子
|
#'''家継'''(7代将軍)
|-
!7代
|[[徳川家継]]
|将軍家
|実子なし
|-
!8代
|[[徳川吉宗]]
|紀州家から養子
|
#'''家重'''(9代将軍)
#[[徳川宗武]]([[田安徳川家|田安家]])- - - - - - - '''家達'''(16代当主)- '''家正'''(17代当主)
#[[徳川宗尹]]([[一橋徳川家|一橋家]])- 治済 - '''家斉'''(11代将軍)
|-
!9代
|[[徳川家重]]
|将軍家
|
#'''家治'''(10代将軍)
#[[徳川重好]]([[清水徳川家|清水家]])
|-
!10代
|[[徳川家治]]
|将軍家
|
#[[徳川家基]](夭折)
|-
!11代
|[[徳川家斉]]
|一橋家から養子
|
#'''家慶'''(12代将軍)
#[[徳川斉順]](紀州家へ養子)- '''家茂'''(14代将軍)
|-
!12代
|[[徳川家慶]]
|将軍家
|
#'''家定'''(13代将軍)
|-
!13代
|[[徳川家定]]
|将軍家
|実子なし
|-
!14代
|[[徳川家茂]]
|紀州家から養子
|実子なし
|-
!15代
|[[徳川慶喜]]<ref group="注釈" name="yoshinobu"/>
| nowrap="nowrap" |水戸家出身<br />一橋家から養子
|
#[[徳川厚]](分家して男爵を授けられる)
#[[池田仲博]](池田侯爵家・[[池田輝知]]の養子となる)
#[[徳川慶久]](徳川慶喜家第2代当主)
#[[徳川誠]](分家して男爵を授けられる)
#[[勝精]](勝伯爵家・[[勝小鹿]]の養子となる)
#[[徳川茂栄]]([[高須藩|高須松平家]]出身。尾張藩第15代藩主を経て養子となり、一橋徳川家第10代当主となる)
#'''家達'''(田安家から養子。16代当主)
|-
!rowspan="2"|徳<br />川<br />公<br />爵<br />家
!16代
|[[徳川家達]]
|田安家から養子
|
#'''家正'''(17代当主)
|-
!17代
|[[徳川家正]]
|公爵家
|
#[[徳川家英]](早世)
#'''恒孝'''([[会津松平家]]から養子)
|-
!rowspan="2"|徳<br />川<br />宗<br />家
!18代
|[[徳川恒孝]]
|[[会津松平家]]から養子
|
#'''家広'''(19代当主)
|-
!19代
|[[徳川家広]]
|宗家
|実子なし
|}
==系図==
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">宗家(将軍家)系図</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
'''凡例'''
(1) 実線は実子、点線は養子
(2) '''太字'''は当主(将軍)。数字は[[家督]]継承順。
(3) 女子および幼時早世した人物は省略。
{{familytree/start|style=font-size:90%}}
{{familytree|border=0|001|001='''[[徳川家康]]'''{{Sup|1}}}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}
{{familytree|border=0|101|102|002|103|104|105|106|107|108|101=[[松平信康]]|102=[[結城秀康]]<br />([[越前松平家|越前松平]])|002=[[徳川秀忠|'''秀忠''']]{{Sup|2}}|103=[[松平忠吉]]|104=[[武田信吉]]|105=[[松平忠輝]]|106=[[徳川義直|義直]]<br />([[尾張徳川家|尾張家]])|107=[[徳川頼宣|頼宣]]<br />([[紀州徳川家|紀州家]])|108=[[徳川頼房|頼房]]<br />([[水戸徳川家|水戸家]])}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|v|-|-|(}}
{{familytree|border=0|003|202|203|003=[[徳川家光|'''家光''']]{{Sup|3}}|202=[[徳川忠長|忠長]]|203=[[保科正之]]<br />([[会津松平家|会津松平]])}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|.}}
{{familytree|border=0|004|Ko1|303|004=[[徳川家綱|'''家綱''']]{{Sup|4}}|Ko1=[[徳川綱重|綱重]]|303=[[徳川綱吉|綱吉]]}}
{{familytree|border=0| |:|||)|-|-|.}}
{{familytree|border=0|005|Ko2|Ko3|005=[[徳川綱吉|'''綱吉''']]{{Sup|5}}|Ko2=[[徳川家宣|綱豊(家宣)]]|Ko3=[[松平清武]]<br />([[越智松平家|越智松平]])}}
{{familytree|border=0| |:}}
{{familytree|border=0|006|006=[[徳川家宣|'''家宣''']]{{Sup|6}}}}
{{familytree|border=0| |!}}
{{familytree|border=0|007|007=[[徳川家継|'''家継''']]{{Sup|7}}}}
{{familytree|border=0| |:}}
{{familytree|border=0|008|008=[[徳川吉宗|'''吉宗''']]{{Sup|8}}<ref group="*">(紀州)[[徳川光貞]]の四男。頼宣の孫。</ref>}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|.}}
{{familytree|border=0|009|802|803|009=[[徳川家重|'''家重''']]{{Sup|9}}|802=[[徳川宗武|宗武]]<br />([[田安徳川家|田安家]])|803=[[徳川宗尹|宗尹]]<br />([[一橋徳川家|一橋家]])}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|.}}
{{familytree|border=0|010|902|010=[[徳川家治|'''家治''']]{{Sup|10}}|902=[[徳川重好|重好]]<br />([[清水徳川家|清水家]])}}
{{familytree|border=0| |)|~|~|7}}
{{familytree|border=0|1001|011|1001=[[徳川家基|家基]]|011=[[徳川家斉|'''家斉''']]{{Sup|11}}<ref group="*">(一橋)[[徳川治済]]の長男。宗尹の孫。</ref>}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|+|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}
{{familytree|border=0|012|1102|1103|1104|1105|1106|1107|1108|1109|1110|1111|1112|1113|1114|012=[[徳川家慶|'''家慶''']]{{Sup|12}}|1102=[[徳川敦之助|敦之助]]|1103=[[徳川斉順|斉順]]|1104=[[徳川斉明|斉明]]|1105=[[徳川斉荘|斉荘]]|1106=[[池田斉衆]]|1107=[[松平斉民]]|1108=[[徳川斉温|斉温]]|1109=[[松平斉良]]|1110=[[徳川斉彊|斉彊]]|1111=[[松平斉善]]|1112=[[蜂須賀斉裕]]|1113=[[松平斉省]]|1114=[[松平斉宣]]}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|.|||!}}
{{familytree|border=0|013|1202|014a|013=[[徳川家定|'''家定''']]{{Sup|13}}|1202=[[徳川慶昌|慶昌]]|014a=[[徳川家茂|慶福(家茂)]]}}
{{familytree|border=0| |:}}
{{familytree|border=0|014|014=[[徳川家茂|'''家茂''']]{{Sup|14}}}}
{{familytree|border=0| |:}}
{{familytree|border=0|015|015=[[徳川慶喜|'''慶喜''']]{{Sup|15}}<ref group="*">(水戸)[[徳川斉昭]]の七男。一橋家9代当主。</ref>}}
{{familytree|border=0| |D|~|~|V|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}
{{familytree|border=0|Hi08|016|1501|1502|1503|1504|1505|Hi08=[[徳川茂徳|茂栄]]<ref group="*">高須藩主・[[松平義建]]の五男。一橋家10代当主。</ref>|016=[[徳川家達|'''家達''']]{{Sup|16}}<ref group="*">(田安)[[徳川慶頼]]の三男。</ref>|1501=[[徳川厚|厚]]|1502=[[池田仲博]]|1503=[[徳川慶久|慶久]]<br />([[徳川慶喜家|慶喜家]])|1504=[[勝精]]|1505=[[徳川誠|誠]]}}
{{familytree|border=0| ||||!}}
{{familytree|border=0||||017|017=[[徳川家正|'''家正''']]{{Sup|17}}}}
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{{familytree|border=0|1701|018|1701=[[徳川家英|家英]]|018=[[徳川恒孝|'''恒孝''']]{{Sup|18}}<ref group="*">(会津)[[松平一郎]]の次男。母は家正長女・豊子。</ref>}}
{{familytree|border=0| ||||!}}
{{familytree|border=0||||019|019=[[徳川家広|'''家広''']]{{Sup|19}}}}
{{familytree/end}}
</div>
</div>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
{{Reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=原口大輔|title= 貴族院議長・徳川家達と明治立憲制 |publisher= 吉田書店 |isbn= 978-4905497684|year=2018|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=樋口雄彦|title= 第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本 |publisher= 祥伝社 |isbn= 978-4396112967|year=2012|ref=harv}}
* {{cite book|和書|author= 保科順子 |title= 花葵 徳川邸おもいで話 |publisher= 毎日新聞社 |ncid= BA37720408 |isbn= 4620312347|year=1998|ref=harv|}}
*{{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|year=1990|title=事典 昭和戦前期の日本―制度と実態|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642036191|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[徳川将軍一覧]]
* [[松平状]]
* [[徳川氏]]
* [[徳川御三家]]
* [[御三卿]]
* [[徳川将軍家御台所]]
* [[和気氏|半井氏]]
* [[多田神社]]
* [[大樹寺]]
== 外部リンク ==
* [http://www.tokugawa.ne.jp/ 財団法人徳川記念財団]
{{徳川氏歴代当主}}
{{DEFAULTSORT:とくかわそうけ}}
[[Category:江戸幕府の征夷大将軍|*とくかわそうけ]]
[[Category:徳川宗家|*]]
[[Category:徳川家康]]
[[Category:江戸]]
[[Category:日本の公爵家|とくかわ そうけ]]
[[Category:日本の男爵家|とくかわ そうけ]]<!--分家の徳川厚家-->
|
2003-07-19T07:42:03Z
|
2023-11-05T06:02:02Z
| false | false | false |
[
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"Template:Kotobank",
"Template:徳川氏歴代当主",
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"Template:混同",
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"Template:Cite news",
"Template:Sfn",
"Template:Cite book"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%AE%B6
|
11,809 |
比例原則
|
比例原則(ひれいげんそく)とは、達成されるべき目的とそのために取られる手段としての権利・利益の制約との間に均衡を要求する原則である。 「雀を撃つのに大砲を使ってはならない」という言葉でしばしば説明される。例えば、比例原則に基づき行政目的を達成するとき、実現したい行政目的と市民の権利と利益を阻害しない為に、行政目的が達成可能な最も規制が低い実現手段を使いることになる。
「比例原則」が、「行政法における一般原則」として日本行政法の構成要素をなすことは一般に認められている。また、ドイツ警察法に由来する同原則の3要素、即ち、
ということが共通認識であると言われている。ただし日本においては(1)や場合によって(2)が外されることが多い。
大陸法においてしばしば「法の一般原則」と呼ばれる。行政法において当初提唱されたものである(警察比例の原則)が、(法域による違いはあるものの)ヨーロッパにおいてはEU法、人権法、刑事訴訟法、労働法その他幅広い分野において用いられている。
日本においては行政法及び刑事訴訟法(捜査比例の原則)において認められており、人権法においてはアメリカ合衆国から継受した違憲審査基準とともに用いられている。
|
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"text": "大陸法においてしばしば「法の一般原則」と呼ばれる。行政法において当初提唱されたものである(警察比例の原則)が、(法域による違いはあるものの)ヨーロッパにおいてはEU法、人権法、刑事訴訟法、労働法その他幅広い分野において用いられている。",
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"text": "日本においては行政法及び刑事訴訟法(捜査比例の原則)において認められており、人権法においてはアメリカ合衆国から継受した違憲審査基準とともに用いられている。",
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比例原則(ひれいげんそく)とは、達成されるべき目的とそのために取られる手段としての権利・利益の制約との間に均衡を要求する原則である。
「雀を撃つのに大砲を使ってはならない」という言葉でしばしば説明される。例えば、比例原則に基づき行政目的を達成するとき、実現したい行政目的と市民の権利と利益を阻害しない為に、行政目的が達成可能な最も規制が低い実現手段を使いることになる。
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'''比例原則'''(ひれいげんそく)とは、達成されるべき目的とそのために取られる手段としての権利・利益の制約との間に均衡を要求する原則である。
「雀を撃つのに大砲を使ってはならない」という言葉でしばしば説明される。例えば、比例原則に基づき行政目的を達成するとき、実現したい行政目的と市民の権利と利益を阻害しない為に、行政目的が達成可能な最も規制が低い実現手段を使いることになる。
==概要==
「比例原則」が、「行政法における一般原則」として日本行政法の構成要素をなすことは一般に認められている。また、ドイツ警察法に由来する同原則の3要素、即ち、
# 目的適合性の原則(手段が目的達成に適合していなければならない)
# 必要性の原則(規制や制約が必要最小限度でなければならない)
# 狭義の比例性の原則(目的に対して制約の手段が不釣り合いではない、即ち、目的達成の制約が大きすぎてはならない)
ということが共通認識であると言われている。ただし日本においては(1)や場合によって(2)が外されることが多い。
[[大陸法]]においてしばしば「法の一般原則」と呼ばれる。[[行政法]]において当初提唱されたものである([[警察比例の原則]])が、(法域による違いはあるものの)[[ヨーロッパ]]においては[[EU法]]、[[国際人権法#地域的保障|人権法]]、[[刑事訴訟法]]、[[労働法]]その他幅広い分野において用いられている。
日本においては行政法及び刑事訴訟法(捜査比例の原則)において認められており、人権法においては[[アメリカ合衆国]]から継受した[[違憲審査基準]]とともに用いられている<ref>例えば、最高裁昭和50 年4月30日大法廷判決[[薬局距離制限事件|薬局距離制限判決]]が比例原則を用いたとされる裁判例である。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[人権]]
*[[任意処分]]
*[[優越的利益原則]]
*[[費用便益分析]]
*[[職務質問]]
*[[サイバー犯罪条約]]
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11,814 |
執行罰
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執行罰(しっこうばつ)とは、行政上の義務を義務者が怠る場合に、行政庁が、一定の期限を示し、もし期限内に履行しないか履行しても不十分なときは過料を課することを予告して、義務者に心理的圧迫を加える方法により将来に向かって義務の履行を強制する行政上の強制執行をいう。
行政執行法(明治33年6月2日法律第84号)5条1項2号は、不代替的作為義務や不作為義務について、一般的に執行罰の方法による強制執行を認めていたが、1948年(昭和23年)の行政代執行法(昭和23年5月15日法律第43号)の公布・施行により、行政執行法は廃止された。
執行罰は効用が少なく罰則による間接の強制でもその目的を達せられると考えられており、行政執行法廃止前の時代においてもほとんど利用されていなかった。効用の乏しさゆえに一般法で規定しておく必要性が乏しかったことも行政執行法廃止の理由の一つとなった。
執行罰の根拠法規は国法形式としての「法律」によらなけらばならない。これは、行政代執行法1条が、行政上の義務履行確保(=行政上の強制執行)についてその根拠は個別の法律および同法に置くと定めており、また同法2条が私人に義務を賦課する根拠規範としての法律を挙げ、さらに括弧書きを付して委任命令および条例を挙げているので、その反対解釈によるものである。
現在では、砂防法36条が執行罰の方法による強制執行を認める唯一の現行法令となっているが、同法が定める執行罰は500円以内の過料と極めて低額で全く適用されておらず、同法の規定が残されているのも整理漏れに過ぎないと考えられている。
執行罰は、行政罰とは異なり、一定の期間内に義務の履行がないときは、履行まで繰り返しすることができる。
また、行政刑罰とは目的が異なるので、併課できる。
現在、執行罰は上記の通り事実上有名無実化されているものの、根拠を明確に定め、過料の額を少なくとも義務者が心理的圧迫を感じる程度の額に引き上げるなどの法的措置を行えば義務の履行も期待できるため、今後、執行罰を有効に活用すべきであるという主張も少なくない。他方、罰金刑との均衡の問題が生じたり、濫用のおそれがあるなどとして、もし再導入を図るのであれば条件整備・手続的整備の必要性があるとの意見もある。
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執行罰(しっこうばつ)とは、行政上の義務を義務者が怠る場合に、行政庁が、一定の期限を示し、もし期限内に履行しないか履行しても不十分なときは過料を課することを予告して、義務者に心理的圧迫を加える方法により将来に向かって義務の履行を強制する行政上の強制執行をいう。
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'''執行罰'''(しっこうばつ)とは、行政上の義務を義務者が怠る場合に、[[行政庁]]が、一定の期限を示し、もし期限内に履行しないか履行しても不十分なときは[[過料]]を課することを予告して、義務者に心理的圧迫を加える方法により将来に向かって義務の履行を強制する[[行政上の強制執行]]をいう。
== 沿革 ==
[[行政執行法]]([[明治]]33年6月2日法律第84号)5条1項2号は、不代替的作為義務や不作為義務について、一般的に執行罰の方法による強制執行を認めていたが、[[1948年]]([[昭和]]23年)の[[行政代執行法]](昭和23年5月15日法律第43号)の[[公布]]・[[施行]]により、行政執行法は廃止された。
執行罰は効用が少なく罰則による間接の強制でもその目的を達せられると考えられており、行政執行法廃止前の時代においてもほとんど利用されていなかった。効用の乏しさゆえに一般法で規定しておく必要性が乏しかったことも行政執行法廃止の理由の一つとなった<ref>{{harvnb| 小林奉文 |2005|p=9}}</ref>。
== 概要 ==
=== 法源 ===
執行罰の根拠法規は国法形式としての「法律」によらなけらばならない。これは、[[s:行政代執行法#1|行政代執行法1条]]が、行政上の義務履行確保(=[[行政上の強制執行]])についてその根拠は個別の法律および同法に置くと定めており、また同法[[s:行政代執行法#2|2条]]が私人に義務を賦課する根拠規範としての法律を挙げ、さらに括弧書きを付して[[委任命令]]および[[条例]]を挙げているので、その[[反対解釈]]によるものである。
現在では、[[砂防法]]36条が執行罰の方法による強制執行を認める唯一の現行法令となっているが<ref>{{harvnb| 塩野宏 |2015|p=262}}</ref><ref>{{harvnb|宇賀克也|2017|p=224}}</ref>{{sfn|芝池|2016|pp=137}}、同法が定める執行罰は500円以内の過料と極めて低額で全く適用されておらず、同法の規定が残されているのも整理漏れに過ぎないと考えられている{{Efn|現在一般的に認められている[[行政代執行]]ではうまく機能しない場合があるため、執行罰を再度法律で導入すべきとする意見もある{{sfn|芝池|2016|pp=137}}。}}<ref name=“kobayashi28”>{{harvnb| 小林奉文 |2005|p=28}}</ref>。
{{Quotation|
第三十六条 私人ニ於テ此ノ法律若ハ此ノ法律ニ基キテ発スル命令ニ依ル義務ヲ怠ルトキハ国土交通大臣若ハ都道府県知事ハ一定ノ期限ヲ示シ若シ期限内ニ履行セサルトキ若ハ之ヲ履行スルモ不充分ナルトキハ五百円以内ニ於テ指定シタル過料ニ処スルコトヲ予告シテ其ノ履行ヲ命スルコトヲ得| [[砂防法]](明治30年3月30日法律第29号)}}
=== 効果 ===
執行罰は、[[行政罰]]とは異なり、一定の期間内に義務の履行がないときは、履行まで繰り返しすることができる<ref name=“kobayashi28”/>。
また、[[行政刑罰]]とは目的が異なるので、併課できる<ref>{{Cite web|和書|title=行政法講義ノート第19回 |url=http://kraft.cside3.jp/verwaltungsrecht19-6.htm |website=kraft.cside3.jp |access-date=2022-05-21 |author=森稔樹 |year=2017}}</ref>。
== 立法論 ==
現在、執行罰は上記の通り事実上有名無実化されているものの、根拠を明確に定め、過料の額を少なくとも義務者が心理的圧迫を感じる程度の額に引き上げるなどの法的措置を行えば義務の履行も期待できるため、今後、執行罰を有効に活用すべきであるという主張も少なくない。他方、罰金刑との均衡の問題が生じたり、濫用のおそれがあるなどとして、もし再導入を図るのであれば条件整備・手続的整備の必要性があるとの意見もある<ref>{{harvnb| 小林奉文 |2005|p=28-29}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
=== 法律書 ===
* {{cite book|和書|title=行政法Ⅰ 行政法総論 |edition=第六版|author=塩野宏|year=2015|ISBN= 978-4-641-13186-6|publisher=有斐閣|ref=harv}}
* {{Citation|和書|edition=第4版|title=行政法読本|year=2016|chapter=第10講 行政による強制|isbn=978-4-641-13194-1|oclc=945626591|author=芝池義一|author-link=芝池義一}}
* {{cite book|和書|title= 行政法概説Ⅰ 行政法総論 |edition= 第6版 |author= 宇賀克也|year=2017|ISBN= 978-4-641-22738-5|publisher=有斐閣|ref=harv}}
=== 学術論文 ===
* {{citejournal|和書|author=小林奉文|title= 行政の実効性確保に関する諸課題|journal=レファレンス|volume=55|issue=2|pages=7-38|year=2005|ref=harv|naid= 40006647081}}
== 関連項目 ==
* [[過料]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:日本の行政強制]]
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賃貸借
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賃貸借(ちんたいしゃく)とは、当事者の一方(賃貸人、貸主)がある物の使用及び収益を相手方(賃借人、借主)にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うこと及び引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還することを約することを内容とする契約。日本の民法では典型契約の一種とされる(民法第601条)。
賃貸借は当事者間で有償で物を貸し借りする契約類型である。典型例としては、賃貸住宅やレンタカーなどがある。
賃借人が賃貸借契約に基づいて目的物を使用収益する権利を賃借権といい、賃貸人がある物を賃貸借契約の目的物とすることを「賃借権を設定する」という。
賃貸借は消費貸借や使用貸借と同じく貸借型契約(使用許与契約)に分類される。また、不動産賃借権は地上権や永小作権と同様の経済的機能を果たすものとしても扱われるが、本来的に債権である点で地上権や永小作権とは異なる(ただし、賃借権の物権化により地上権に近い効力が認められるようになっている)。
かつては賃貸人が賃貸借の目的物を譲渡した場合、賃借人は(後述の対抗要件を有しない限り)新所有者に対して賃借権を対抗できないとされ、新所有者が賃借権を承認しないときは、賃貸借契約は終了するとされていた。これがローマ法以来「売買は賃貸借を破る」の法格言によって表されてきた原則である。
しかし、所有と利用の分離が進む現代社会において、賃貸借の中でも特に土地(宅地や農地)や建物の賃借権については国民の生活基盤となるものであるが、民法の借主の権利保護は十分とはいえず、借主は土地や建物に投下した資本や労力を回収できないままに追い出される立場に置かれるという問題を生じた。そのため、日本ではヨーロッパと同じく借主保護立法が重ねられ、宅地・建物については建物保護に関する法律、借地法、借家法及びそれらを一本化した借地借家法が制定され、また、農地については農地法など特別法による強化が図られ、その結果、賃貸借には物権に類似した効力が与えられるようになった。これを賃借権の物権化あるいは債権の物権化という。具体的には、借地権の存続期間、借地契約の更新、借地権や借家権の対抗力などを中心とする。
従来、賃借人が借地上の不法占拠者などを排除しようとする場合、債権者代位権(423条)を流用して、賃貸人の所有権に基づく物権的妨害排除請求権を、賃借人が代位行使するという法律構成がとられてきた。しかし、判例は、対抗力のある不動産賃借権については、賃借権の物権化を理由として、賃借権に基づく妨害排除請求権も認める方向にあった(最判昭和30年4月5日民集9巻4号431頁)。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は対抗要件を備えた不動産賃借権に基づく賃借人の妨害排除請求権や返還請求権を明文化した。
一方、アメリカ合衆国やオーストラリアではむしろ貸主保護に傾いているといわれている。
日本の民法は、賃貸借を意思表示の合致により成立する諾成契約として規定している。外国では一定の賃貸借契約については書面を要求する要式契約として規定している立法例も多い。
日本の民法では賃貸借の存続期間の最短期間について規定を置いていない。
日本の民法では賃貸借の存続期間の最長期間を50年としている(604条1項前段)。
民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)による改正前は、20年であった。この規定は民法の起草者において20年を超えるときは地上権や永小作権が設定されるものとみており、また、所有権が長期間にわたって賃貸借により拘束されることになれば改良が進まず社会経済上の不利益となる点が理由とされていた。
中華民国民法、中国契約法では20年である。韓国では堅固建築物などの例外をのぞき20年である。
一方、フランス民法典には規定がない。ケベック州民法典では100年である 。 イングランドでは存続期間の定めがない場合契約が無効であるとされるが、存続期間に規制がない。
先述のように日本の民法は、賃貸借を意思表示の合致により成立する諾成契約として規定しているが、現実には日本でも特に不動産賃貸借については書面が作成されることが多い。また、借地借家法上の定期借地権(借地借家法22条)や定期建物賃貸借(借地借家法38条1項)の設定については公正証書など一定の方式を要する。
農地及び採草放牧地への賃借権設定については原則として農業委員会あるいは都道府県知事の許可を要し(農地法3条1項)、また、農地及び採草放牧地の賃貸借契約について当事者は書面によりその存続期間、借賃等の額及び支払条件その他その契約並びにこれに付随する契約の内容を明らかにしなければならない(農地法21条)。
なお、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で「引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還すること」も契約内容にすることが明確化された。
処分の権限を有しない者(不在者財産管理人、権限の定めのない代理人など)が賃貸借契約を締結する場合には、以下の期間を超えない範囲でのみ契約をすることができる(602条)。このような短期の賃貸借契約を短期賃貸借という。
契約でこれより長い期間を定めたときであっても、その期間は、当該各号に定める期間となるとされており、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明確化された(602条)。
短期賃貸借も更新することができるが、その期間満了前、土地については1年以内、建物については3ヶ月以内、動産については1ヶ月以内に、その更新をしなければならない(603条)。
なお、以前は、短期賃貸借は、その期間の範囲で先に登記された抵当権にも対抗(優先)することができた(旧395条)。しかし、執行妨害で悪用されるなど弊害が目立ったため、2003年の民法改正で対抗できるとしたのを改め、6ヶ月の明け渡しの猶予期間を認めている(395条)。また、2017年改正前の民法には制限行為能力者に関する「処分につき行為能力の制限を受けた者」の文言があったが、制限行為能力者の行為能力は別に定められており、短期賃貸借であれば制限行為能力者も行うことができるとの誤解を生じることから削除された。
民法上の賃貸借の存続期間の規定は借地借家法など特別法による修正を受けている。
旧借地法・旧借家法は借地借家法の施行により廃止されたが(借地借家法附則第2条)、その廃止前に両法によって生じた借地権・借家権の存続期間については原則として借地借家法ではなく旧借地法・旧借家法の適用を受ける(借地借家法附則第4条)。
旧借地法では、借地権の存続期間について堅固な建物の所有を目的とするものについては原則として60年、その他の建物の所有を目的とするものについては原則として30年とされていた(旧借地法2条1項)。
旧借家法では、1年未満の期間を定めた賃貸借は原則として期間の定めのないものとみなされた(旧借家法3条の2)。また、建物の賃貸人は自ら使用する必要がある場合その他正当の事由がある場合でなければ、賃貸借の更新の拒絶や解約の申入れは許されないとしていた(旧借家法1条の2)。
借地借家法上の借地権には通常更新される普通借地権と更新のない定期借地権とがある。
借地借家法上の借家権には更新の拒絶や解約について制限のある普通借家権と更新のない定期借家権とがある。
農地又は採草放牧地の賃貸借について期間の定めがある場合において、その当事者が契約期間満了前の一定期間内において、相手方に対して更新をしない旨の通知をしないときは、原則として従前の賃貸借と同一の条件で更に賃貸借をしたものとみなされる(農地法17条)。また、農地又は採草放牧地の賃貸借の当事者は、政令で定めるところにより都道府県知事の許可を受けなければ、賃貸借の解除をし、解約の申入れをし、合意による解約をし、又は賃貸借の更新をしない旨の通知をしてはならないとされている(農地法18条)。
目的物が不動産である場合には、賃借権設定登記をしたときは、その不動産について物権を取得した者その他の第三者に対抗することができる(605条)。
ただし、民法上は特約のない限り、賃借人は賃貸人に対して登記請求権を有しない(通説・判例。判例として大判大10・7・11民録27輯1378頁)。そこで、建物保護に関する法律や借地法、借家法が制定され、もっと容易に賃借権を新所有者に対抗できるような制度が整備された。その後、これらの規定は借地借家法第10条(借地権の対抗力等)、第31条(建物賃貸借の対抗力等)に吸収されている。なお、2017年改正前の605条は「その不動産について物権を取得した者」とされていたが、一般的な理解では二重賃借人等も含むと解されるため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で「その他の第三者」が追加された。
対抗要件を備えた不動産賃借権の場合、賃借人は、その不動産の占有を第三者が妨害しているときはその妨害の停止の請求、その不動産を第三者が占有しているときは不動産の返還の請求をすることができる(605条の4)。対抗要件を備えた不動産賃借権に基づく賃借人の妨害排除請求権・返還請求権は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された。
罹災建物が滅失し、又は疎開建物が除却された当時から、引き続き、その建物の敷地又はその換地に借地権を有する者は、その借地権の登記及びその土地にある建物の登記がなくても、これを以て、昭和21年7月1日から5年以内において対抗力を有する(罹災都市借地借家臨時処理法10条)。
農地又は採草放牧地の賃貸借は、その登記がなくても、農地又は採草放牧地の引渡しにより対抗力を認める(農地法16条。旧農地法18条)。
動産を目的物とする賃借権は、どのような場合に新所有者に対しても主張できるのか、民法上は明文を欠いている。その動産の引渡しを受けていれば、換言すればその動産を占有していれば、目的物の所有者が代わったとしても、新たな所有者に対して主張することができる。すなわち、引渡し(占有)を解釈上対抗要件とするのが多数説である。
賃貸人Aから賃借人Bが賃借している目的物に関する権利義務を第三者Cにすべて移転させてBが賃貸借関係から離脱することを賃借権の譲渡といい、また、賃貸人Aから賃借人Bが賃借している目的物を第三者Cにさらに賃貸して元の賃貸借関係(AB間の賃貸借契約)は存続する場合を転貸(又貸し)という。
日本の民法においては、賃貸人の承諾を得ないでされた転貸や賃借権の譲渡は、賃貸人に対抗できない上、賃貸借契約の解除原因となっている(第612条)。この点は物権である地上権や永小作権などと異なる点である。
もっとも、賃借権の譲渡を認めるイギリスのような国もあるし、日本でもギュスターヴ・エミール・ボアソナードが起草した旧民法では認められていた(旧民法は法典論争の結果、施行されなかった)。
日本の民法が無断の譲渡・転貸を認めない理由としては、勤勉でない小作人への譲渡や資力のない借家人へ譲渡された場合などには賃料の支払いに不安を生じ、また、使用方法の悪い借家人などへの譲渡などにより賃貸人が思わぬ不利益をこうむることが懸念されたためであるとされる。
なお、賃借権の譲渡や転貸に必要とされる賃貸人の承諾は、賃借人のほか譲受人や転借人に対してなされてもよい。
賃借権が賃借人Bから譲受人Cへ譲渡された場合、それまでの賃借人Bが契約関係から離脱して、従来からの賃貸人Aと新たな賃借人Cの間に契約関係が移転する。ただし、敷金についての法律関係は新たな賃借人(賃借権の譲受人)には移転しない(最判昭53・12・22民集32巻9号1768頁)。Aが一旦賃借権の譲渡を承諾したときは、Bから第三者たるCとの間で賃借権の譲渡契約を締結する前であっても、これを撤回することができない(最判昭30・5・13民集9巻6号698頁)。
賃借人Bが賃貸人Aの承諾を得て行った転借人Cへの転貸は当然有効であり解除原因とならない(612条1項参照)。適法な転貸借がある場合、Bの有する賃借権が対抗要件を具備する限り、Cが自己の転借権について対抗要件を備えていなくても、Cは第三者に対してBの賃借権を援用して自己の転借権を主張することができる(最判昭39・11・20民集18巻9号1914頁)。
借地借家法が適用される場合、転貸や賃借権の譲渡が比較的容易に認められる場合もある。すなわち、借地契約については、一定の場合、賃貸人の承諾がなくても、裁判所の許可を得れば、転貸や譲渡をすることができる(借地借家法19条、20条)。
この規定(特に20条)では、借地上の建物に抵当権が設定されている場合などが想定されている。つまり、抵当権が実行されて借地上の建物が競売にかけられ、買い受けられた場合、建物の所有権とともに土地の賃借権も「従たる権利」(従物の項目を参照)として買受人に移転する(最判昭40・5・4民集19巻4号811頁)。しかし、それは賃借権(借地権)の無断譲渡にほかならず、借地契約の解除原因になってしまうのが原則である。これでは抵当権を設定することが事実上不可能となるため、このような規定が必要になる。
借地契約・借家契約が期間満了又は解約申入れによって終了するときは、賃貸人は転借人に対しそのことを通知しないと契約の終了を転借人に対抗できない(借地借家法34条)。賃貸人が終了の通知をしたときは、転貸借はその通知後6ヶ月を経過すると終了する。
期間の定めのある賃貸借においては契約期間が満了すれば終了する(616条・597条)。この場合に当事者はその期間内に解約をする権利を留保することも可能である(618条)。ただし、特別法(借地借家法及び農地法)により修正を受けている。
期間の定めのない賃貸借または619条により黙示の更新がなされた賃貸借においては解約の申入れにより、申入れの日から所定の期間を経過することにより終了する(617条)。解約の申入れ後直ちに賃借人が目的物を返還したとしても、特約がない限り賃借人は所定の期間分の賃料支払い義務を引き続き負う。
ただし、特別法(借地借家法及び農地法)によりこの規定は修正を受けている。
賃貸借も契約である以上、賃借人に賃料不払や契約上の用法義務違反があれば債務不履行となり賃貸人からの解除が認められるが、これを安易に認めると特に不動産賃貸借においては賃借人は居住や営業といった生活の基盤を失うことになるため、判例は当事者間の信頼関係が破壊されたと認められるか否かを基準とする信頼関係破壊の法理によっている(最判昭39・7・28民集18巻6号1220頁)。なお、債務不履行が悪質なものである場合について無催告解除も認めている(最判昭27・4・25民集6巻4号451頁)。ただし、解約告知については農地法により修正を受けている。
また、民法は以下の場合につき賃借人に解除権を認める。
賃借物の全部が滅失その他の事由により使用及び収益をすることができなくなった場合には、賃貸借は、これによって終了する(616条の2)。616条の2は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化されたもので、それまでも賃貸借の目的物が火災等で滅失しあるいは老朽化により使用困難となった場合には履行不能となり賃貸借は終了するとされていた。
この場合、(1)双方に帰責事由がないときは危険負担の問題となり、(2)賃貸人に帰責事由があるときは賃貸人に債務不履行責任が発生し(賃貸借の性質上、全部滅失した場合には賃料債務は発生しないと解されている)、(3)賃借人に帰責事由があるときは理論的には賃料債務は残るが賃貸人は債務を免れた利益(賃料相当額)の償還義務(536条2項後段)を負うため実質的に賃料債務は消滅する(端的に賃貸借契約の性質から使用収益がない以上は賃料債務は発生しないと構成する学説もある)。
なお、借地借家法第38条第1項の規定による定期借家権のうち、居住の用に供する建物の賃貸借(床面積(建物の一部分を賃貸借の目的とする場合にあっては当該一部分の床面積)が200平方メートル未満の建物に係るものに限る)において、転勤、療養、親族の介護その他のやむを得ない事情により、建物の賃借人が建物を自己の生活の本拠として使用することが困難となったときは、建物の賃借人は建物の賃貸借の解約の申入れをすることができることとされている(借地借家法第38条第5項前段)。この場合においては、建物の賃貸借は、解約の申入れの日から1月を経過することによって終了する(借地借家法第38条第5項後段)。
農地又は採草放牧地の賃貸借の当事者は、農地法第18条第1項但書の各号のいずれかに該当する場合を除いて、政令で定めるところにより都道府県知事の許可を受けなければ、賃貸借の解除をし、解約の申入れをし、合意による解約をし、又は賃貸借の更新をしない旨の通知をしてはならないとされている(農地法第18条第1項)。
賃貸借の解除をした場合には、その解除は将来に向かってのみ効力を生ずる(620条前段)。この場合において、当事者の一方に過失があったときは、その者に対する損害賠償の請求を妨げない(620条後段)。
この場合に損害賠償請求権及び費用償還請求権についての期間の制限は、貸主が返還を受けた時から1年以内に請求しなければならない(621条・600条)。
|
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"text": "賃貸借(ちんたいしゃく)とは、当事者の一方(賃貸人、貸主)がある物の使用及び収益を相手方(賃借人、借主)にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うこと及び引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還することを約することを内容とする契約。日本の民法では典型契約の一種とされる(民法第601条)。",
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"text": "賃貸借は当事者間で有償で物を貸し借りする契約類型である。典型例としては、賃貸住宅やレンタカーなどがある。",
"title": "概説"
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"text": "賃借人が賃貸借契約に基づいて目的物を使用収益する権利を賃借権といい、賃貸人がある物を賃貸借契約の目的物とすることを「賃借権を設定する」という。",
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"text": "賃貸借は消費貸借や使用貸借と同じく貸借型契約(使用許与契約)に分類される。また、不動産賃借権は地上権や永小作権と同様の経済的機能を果たすものとしても扱われるが、本来的に債権である点で地上権や永小作権とは異なる(ただし、賃借権の物権化により地上権に近い効力が認められるようになっている)。",
"title": "概説"
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"text": "かつては賃貸人が賃貸借の目的物を譲渡した場合、賃借人は(後述の対抗要件を有しない限り)新所有者に対して賃借権を対抗できないとされ、新所有者が賃借権を承認しないときは、賃貸借契約は終了するとされていた。これがローマ法以来「売買は賃貸借を破る」の法格言によって表されてきた原則である。",
"title": "概説"
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"text": "しかし、所有と利用の分離が進む現代社会において、賃貸借の中でも特に土地(宅地や農地)や建物の賃借権については国民の生活基盤となるものであるが、民法の借主の権利保護は十分とはいえず、借主は土地や建物に投下した資本や労力を回収できないままに追い出される立場に置かれるという問題を生じた。そのため、日本ではヨーロッパと同じく借主保護立法が重ねられ、宅地・建物については建物保護に関する法律、借地法、借家法及びそれらを一本化した借地借家法が制定され、また、農地については農地法など特別法による強化が図られ、その結果、賃貸借には物権に類似した効力が与えられるようになった。これを賃借権の物権化あるいは債権の物権化という。具体的には、借地権の存続期間、借地契約の更新、借地権や借家権の対抗力などを中心とする。",
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"text": "従来、賃借人が借地上の不法占拠者などを排除しようとする場合、債権者代位権(423条)を流用して、賃貸人の所有権に基づく物権的妨害排除請求権を、賃借人が代位行使するという法律構成がとられてきた。しかし、判例は、対抗力のある不動産賃借権については、賃借権の物権化を理由として、賃借権に基づく妨害排除請求権も認める方向にあった(最判昭和30年4月5日民集9巻4号431頁)。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は対抗要件を備えた不動産賃借権に基づく賃借人の妨害排除請求権や返還請求権を明文化した。",
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"text": "一方、アメリカ合衆国やオーストラリアではむしろ貸主保護に傾いているといわれている。",
"title": "概説"
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"text": "日本の民法は、賃貸借を意思表示の合致により成立する諾成契約として規定している。外国では一定の賃貸借契約については書面を要求する要式契約として規定している立法例も多い。",
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"text": "日本の民法では賃貸借の存続期間の最短期間について規定を置いていない。",
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"text": "日本の民法では賃貸借の存続期間の最長期間を50年としている(604条1項前段)。",
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"text": "民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)による改正前は、20年であった。この規定は民法の起草者において20年を超えるときは地上権や永小作権が設定されるものとみており、また、所有権が長期間にわたって賃貸借により拘束されることになれば改良が進まず社会経済上の不利益となる点が理由とされていた。",
"title": "概説"
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"text": "中華民国民法、中国契約法では20年である。韓国では堅固建築物などの例外をのぞき20年である。",
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"text": "一方、フランス民法典には規定がない。ケベック州民法典では100年である 。 イングランドでは存続期間の定めがない場合契約が無効であるとされるが、存続期間に規制がない。",
"title": "概説"
},
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"text": "先述のように日本の民法は、賃貸借を意思表示の合致により成立する諾成契約として規定しているが、現実には日本でも特に不動産賃貸借については書面が作成されることが多い。また、借地借家法上の定期借地権(借地借家法22条)や定期建物賃貸借(借地借家法38条1項)の設定については公正証書など一定の方式を要する。",
"title": "賃貸借の成立"
},
{
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"text": "農地及び採草放牧地への賃借権設定については原則として農業委員会あるいは都道府県知事の許可を要し(農地法3条1項)、また、農地及び採草放牧地の賃貸借契約について当事者は書面によりその存続期間、借賃等の額及び支払条件その他その契約並びにこれに付随する契約の内容を明らかにしなければならない(農地法21条)。",
"title": "賃貸借の成立"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "なお、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で「引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還すること」も契約内容にすることが明確化された。",
"title": "賃貸借の成立"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "処分の権限を有しない者(不在者財産管理人、権限の定めのない代理人など)が賃貸借契約を締結する場合には、以下の期間を超えない範囲でのみ契約をすることができる(602条)。このような短期の賃貸借契約を短期賃貸借という。",
"title": "賃貸借の成立"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "契約でこれより長い期間を定めたときであっても、その期間は、当該各号に定める期間となるとされており、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明確化された(602条)。",
"title": "賃貸借の成立"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "短期賃貸借も更新することができるが、その期間満了前、土地については1年以内、建物については3ヶ月以内、動産については1ヶ月以内に、その更新をしなければならない(603条)。",
"title": "賃貸借の成立"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "なお、以前は、短期賃貸借は、その期間の範囲で先に登記された抵当権にも対抗(優先)することができた(旧395条)。しかし、執行妨害で悪用されるなど弊害が目立ったため、2003年の民法改正で対抗できるとしたのを改め、6ヶ月の明け渡しの猶予期間を認めている(395条)。また、2017年改正前の民法には制限行為能力者に関する「処分につき行為能力の制限を受けた者」の文言があったが、制限行為能力者の行為能力は別に定められており、短期賃貸借であれば制限行為能力者も行うことができるとの誤解を生じることから削除された。",
"title": "賃貸借の成立"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "民法上の賃貸借の存続期間の規定は借地借家法など特別法による修正を受けている。",
"title": "賃貸借の存続期間"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "旧借地法・旧借家法は借地借家法の施行により廃止されたが(借地借家法附則第2条)、その廃止前に両法によって生じた借地権・借家権の存続期間については原則として借地借家法ではなく旧借地法・旧借家法の適用を受ける(借地借家法附則第4条)。",
"title": "賃貸借の存続期間"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "旧借地法では、借地権の存続期間について堅固な建物の所有を目的とするものについては原則として60年、その他の建物の所有を目的とするものについては原則として30年とされていた(旧借地法2条1項)。",
"title": "賃貸借の存続期間"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "旧借家法では、1年未満の期間を定めた賃貸借は原則として期間の定めのないものとみなされた(旧借家法3条の2)。また、建物の賃貸人は自ら使用する必要がある場合その他正当の事由がある場合でなければ、賃貸借の更新の拒絶や解約の申入れは許されないとしていた(旧借家法1条の2)。",
"title": "賃貸借の存続期間"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "借地借家法上の借地権には通常更新される普通借地権と更新のない定期借地権とがある。",
"title": "賃貸借の存続期間"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "借地借家法上の借家権には更新の拒絶や解約について制限のある普通借家権と更新のない定期借家権とがある。",
"title": "賃貸借の存続期間"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "農地又は採草放牧地の賃貸借について期間の定めがある場合において、その当事者が契約期間満了前の一定期間内において、相手方に対して更新をしない旨の通知をしないときは、原則として従前の賃貸借と同一の条件で更に賃貸借をしたものとみなされる(農地法17条)。また、農地又は採草放牧地の賃貸借の当事者は、政令で定めるところにより都道府県知事の許可を受けなければ、賃貸借の解除をし、解約の申入れをし、合意による解約をし、又は賃貸借の更新をしない旨の通知をしてはならないとされている(農地法18条)。",
"title": "賃貸借の存続期間"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "目的物が不動産である場合には、賃借権設定登記をしたときは、その不動産について物権を取得した者その他の第三者に対抗することができる(605条)。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ただし、民法上は特約のない限り、賃借人は賃貸人に対して登記請求権を有しない(通説・判例。判例として大判大10・7・11民録27輯1378頁)。そこで、建物保護に関する法律や借地法、借家法が制定され、もっと容易に賃借権を新所有者に対抗できるような制度が整備された。その後、これらの規定は借地借家法第10条(借地権の対抗力等)、第31条(建物賃貸借の対抗力等)に吸収されている。なお、2017年改正前の605条は「その不動産について物権を取得した者」とされていたが、一般的な理解では二重賃借人等も含むと解されるため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で「その他の第三者」が追加された。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "対抗要件を備えた不動産賃借権の場合、賃借人は、その不動産の占有を第三者が妨害しているときはその妨害の停止の請求、その不動産を第三者が占有しているときは不動産の返還の請求をすることができる(605条の4)。対抗要件を備えた不動産賃借権に基づく賃借人の妨害排除請求権・返還請求権は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "罹災建物が滅失し、又は疎開建物が除却された当時から、引き続き、その建物の敷地又はその換地に借地権を有する者は、その借地権の登記及びその土地にある建物の登記がなくても、これを以て、昭和21年7月1日から5年以内において対抗力を有する(罹災都市借地借家臨時処理法10条)。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "農地又は採草放牧地の賃貸借は、その登記がなくても、農地又は採草放牧地の引渡しにより対抗力を認める(農地法16条。旧農地法18条)。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "動産を目的物とする賃借権は、どのような場合に新所有者に対しても主張できるのか、民法上は明文を欠いている。その動産の引渡しを受けていれば、換言すればその動産を占有していれば、目的物の所有者が代わったとしても、新たな所有者に対して主張することができる。すなわち、引渡し(占有)を解釈上対抗要件とするのが多数説である。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "賃貸人Aから賃借人Bが賃借している目的物に関する権利義務を第三者Cにすべて移転させてBが賃貸借関係から離脱することを賃借権の譲渡といい、また、賃貸人Aから賃借人Bが賃借している目的物を第三者Cにさらに賃貸して元の賃貸借関係(AB間の賃貸借契約)は存続する場合を転貸(又貸し)という。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本の民法においては、賃貸人の承諾を得ないでされた転貸や賃借権の譲渡は、賃貸人に対抗できない上、賃貸借契約の解除原因となっている(第612条)。この点は物権である地上権や永小作権などと異なる点である。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "もっとも、賃借権の譲渡を認めるイギリスのような国もあるし、日本でもギュスターヴ・エミール・ボアソナードが起草した旧民法では認められていた(旧民法は法典論争の結果、施行されなかった)。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本の民法が無断の譲渡・転貸を認めない理由としては、勤勉でない小作人への譲渡や資力のない借家人へ譲渡された場合などには賃料の支払いに不安を生じ、また、使用方法の悪い借家人などへの譲渡などにより賃貸人が思わぬ不利益をこうむることが懸念されたためであるとされる。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、賃借権の譲渡や転貸に必要とされる賃貸人の承諾は、賃借人のほか譲受人や転借人に対してなされてもよい。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "賃借権が賃借人Bから譲受人Cへ譲渡された場合、それまでの賃借人Bが契約関係から離脱して、従来からの賃貸人Aと新たな賃借人Cの間に契約関係が移転する。ただし、敷金についての法律関係は新たな賃借人(賃借権の譲受人)には移転しない(最判昭53・12・22民集32巻9号1768頁)。Aが一旦賃借権の譲渡を承諾したときは、Bから第三者たるCとの間で賃借権の譲渡契約を締結する前であっても、これを撤回することができない(最判昭30・5・13民集9巻6号698頁)。",
"title": "賃貸借の効力"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "賃借人Bが賃貸人Aの承諾を得て行った転借人Cへの転貸は当然有効であり解除原因とならない(612条1項参照)。適法な転貸借がある場合、Bの有する賃借権が対抗要件を具備する限り、Cが自己の転借権について対抗要件を備えていなくても、Cは第三者に対してBの賃借権を援用して自己の転借権を主張することができる(最判昭39・11・20民集18巻9号1914頁)。",
"title": "賃貸借の効力"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "借地借家法が適用される場合、転貸や賃借権の譲渡が比較的容易に認められる場合もある。すなわち、借地契約については、一定の場合、賃貸人の承諾がなくても、裁判所の許可を得れば、転貸や譲渡をすることができる(借地借家法19条、20条)。",
"title": "賃貸借の効力"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "この規定(特に20条)では、借地上の建物に抵当権が設定されている場合などが想定されている。つまり、抵当権が実行されて借地上の建物が競売にかけられ、買い受けられた場合、建物の所有権とともに土地の賃借権も「従たる権利」(従物の項目を参照)として買受人に移転する(最判昭40・5・4民集19巻4号811頁)。しかし、それは賃借権(借地権)の無断譲渡にほかならず、借地契約の解除原因になってしまうのが原則である。これでは抵当権を設定することが事実上不可能となるため、このような規定が必要になる。",
"title": "賃貸借の効力"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "借地契約・借家契約が期間満了又は解約申入れによって終了するときは、賃貸人は転借人に対しそのことを通知しないと契約の終了を転借人に対抗できない(借地借家法34条)。賃貸人が終了の通知をしたときは、転貸借はその通知後6ヶ月を経過すると終了する。",
"title": "賃貸借の効力"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "期間の定めのある賃貸借においては契約期間が満了すれば終了する(616条・597条)。この場合に当事者はその期間内に解約をする権利を留保することも可能である(618条)。ただし、特別法(借地借家法及び農地法)により修正を受けている。",
"title": "賃貸借の終了"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "期間の定めのない賃貸借または619条により黙示の更新がなされた賃貸借においては解約の申入れにより、申入れの日から所定の期間を経過することにより終了する(617条)。解約の申入れ後直ちに賃借人が目的物を返還したとしても、特約がない限り賃借人は所定の期間分の賃料支払い義務を引き続き負う。",
"title": "賃貸借の終了"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "ただし、特別法(借地借家法及び農地法)によりこの規定は修正を受けている。",
"title": "賃貸借の終了"
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"text": "賃貸借も契約である以上、賃借人に賃料不払や契約上の用法義務違反があれば債務不履行となり賃貸人からの解除が認められるが、これを安易に認めると特に不動産賃貸借においては賃借人は居住や営業といった生活の基盤を失うことになるため、判例は当事者間の信頼関係が破壊されたと認められるか否かを基準とする信頼関係破壊の法理によっている(最判昭39・7・28民集18巻6号1220頁)。なお、債務不履行が悪質なものである場合について無催告解除も認めている(最判昭27・4・25民集6巻4号451頁)。ただし、解約告知については農地法により修正を受けている。",
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"text": "また、民法は以下の場合につき賃借人に解除権を認める。",
"title": "賃貸借の終了"
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"text": "賃借物の全部が滅失その他の事由により使用及び収益をすることができなくなった場合には、賃貸借は、これによって終了する(616条の2)。616条の2は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化されたもので、それまでも賃貸借の目的物が火災等で滅失しあるいは老朽化により使用困難となった場合には履行不能となり賃貸借は終了するとされていた。",
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"text": "この場合、(1)双方に帰責事由がないときは危険負担の問題となり、(2)賃貸人に帰責事由があるときは賃貸人に債務不履行責任が発生し(賃貸借の性質上、全部滅失した場合には賃料債務は発生しないと解されている)、(3)賃借人に帰責事由があるときは理論的には賃料債務は残るが賃貸人は債務を免れた利益(賃料相当額)の償還義務(536条2項後段)を負うため実質的に賃料債務は消滅する(端的に賃貸借契約の性質から使用収益がない以上は賃料債務は発生しないと構成する学説もある)。",
"title": "賃貸借の終了"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "なお、借地借家法第38条第1項の規定による定期借家権のうち、居住の用に供する建物の賃貸借(床面積(建物の一部分を賃貸借の目的とする場合にあっては当該一部分の床面積)が200平方メートル未満の建物に係るものに限る)において、転勤、療養、親族の介護その他のやむを得ない事情により、建物の賃借人が建物を自己の生活の本拠として使用することが困難となったときは、建物の賃借人は建物の賃貸借の解約の申入れをすることができることとされている(借地借家法第38条第5項前段)。この場合においては、建物の賃貸借は、解約の申入れの日から1月を経過することによって終了する(借地借家法第38条第5項後段)。",
"title": "賃貸借の終了"
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"text": "農地又は採草放牧地の賃貸借の当事者は、農地法第18条第1項但書の各号のいずれかに該当する場合を除いて、政令で定めるところにより都道府県知事の許可を受けなければ、賃貸借の解除をし、解約の申入れをし、合意による解約をし、又は賃貸借の更新をしない旨の通知をしてはならないとされている(農地法第18条第1項)。",
"title": "賃貸借の終了"
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"text": "賃貸借の解除をした場合には、その解除は将来に向かってのみ効力を生ずる(620条前段)。この場合において、当事者の一方に過失があったときは、その者に対する損害賠償の請求を妨げない(620条後段)。",
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"paragraph_id": 54,
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"text": "この場合に損害賠償請求権及び費用償還請求権についての期間の制限は、貸主が返還を受けた時から1年以内に請求しなければならない(621条・600条)。",
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}
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賃貸借(ちんたいしゃく)とは、当事者の一方(賃貸人、貸主)がある物の使用及び収益を相手方(賃借人、借主)にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うこと及び引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還することを約することを内容とする契約。日本の民法では典型契約の一種とされる(民法第601条)。 日本の民法は、以下で条数のみ記載する。
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'''賃貸借'''(ちんたいしゃく)とは、当事者の一方(賃貸人<ref group="注">「ちんたいにん」、「ちんがしにん」と読む。</ref>、貸主)がある物の使用及び収益を相手方(賃借人<ref group="注">「ちんしゃくにん」、「ちんがりにん」と読む。</ref>、借主)にさせることを約し、相手方がこれに対してその賃料を支払うこと及び引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還することを約することを内容とする[[契約]]。日本の[[民法 (日本)|民法]]では[[典型契約]]の一種とされる([[b:民法第601条|民法第601条]])。
*日本の民法は、以下で条数のみ記載する。
== 概説 ==
=== 賃貸借の意義 ===
賃貸借は当事者間で有償で物を貸し借りする契約類型である。典型例としては、[[賃貸住宅]]や[[レンタカー]]などがある。
賃借人が賃貸借契約に基づいて目的物を使用収益する権利を'''賃借権'''といい、賃貸人がある物を賃貸借契約の目的物とすることを「賃借権を設定する」という。
賃貸借は[[消費貸借]]や[[使用貸借]]と同じく貸借型契約(使用許与契約)に分類される<ref>川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、109頁</ref><ref>柚木馨・高木多喜男編著 『新版 注釈民法〈14〉債権5』 有斐閣〈有斐閣コンメンタール〉、1993年3月、2頁</ref>。また、不動産賃借権は[[地上権]]や[[永小作権]]と同様の経済的機能を果たすものとしても扱われるが、本来的に[[債権]]である点で[[地上権]]や[[永小作権]]とは異なる(ただし、賃借権の物権化により地上権に近い効力が認められるようになっている)<ref name="oshima88">大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、88頁</ref>。
=== 賃貸借の性質 ===
* 諾成契約
: 賃貸借は[[諾成契約]]である<ref name="kawai211">川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、211頁</ref>。日本の民法が不動産賃貸借まで諾成契約としている点については比較法としては異例であるが、現在では日本でも不動産賃貸借の設定には多くの場合において書面が作成される<ref>内田貴著 『民法II 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、184-185頁</ref>。ただし、借地借家法上の定期借地権([[借地借家法]]22条)や定期建物賃貸借(借地借家法38条1項)の設定については[[公正証書]]など一定の方式を要する<ref name="名前なし-1">川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、243頁・265頁</ref>。
: なお、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で貸借型契約のうち、使用貸借が諾成契約となり(第593条)、消費貸借も書面(または電磁的記録)ですることを条件にした諾成契約の消費貸借が新設された(民法第587条の2)<ref name="toben" /><ref name="leasing" />。
* 有償契約
: 貸借型契約のうち、消費貸借や使用貸借は原則として[[無償契約]]とされるのに対し、賃貸借は[[賃料]]の支払を要素とする[[有償契約]]である<ref name="kawai211"/>。
* 双務契約
: 貸主側の使用収益させる義務と借主側の賃料支払義務は対価関係に立つ<ref>内田貴著 『民法II 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、171頁</ref>。
=== 賃借権の物権化 ===
かつては賃貸人が賃貸借の目的物を譲渡した場合、賃借人は(後述の対抗要件を有しない限り)新所有者に対して賃借権を対抗できないとされ、新所有者が賃借権を承認しないときは、賃貸借契約は終了するとされていた。これが[[ローマ法]]以来「売買は賃貸借を破る」の法格言によって表されてきた原則である。
しかし、所有と利用の分離が進む[[現代社会]]において、賃貸借の中でも特に土地([[宅地]]や[[農地]])や建物の賃借権については国民の生活基盤となるものであるが、民法の借主の権利保護は十分とはいえず、借主は土地や建物に投下した資本や労力を回収できないままに追い出される立場に置かれるという問題を生じた<ref name="kawai212">川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、212頁</ref><ref name="oshima88"/><ref name="wagatsuma313">我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、313頁</ref>。そのため、日本では[[ヨーロッパ]]と同じく借主保護立法が重ねられ、宅地・建物については[[建物保護に関する法律]]、[[借地法]]、[[借家法]]及びそれらを一本化した[[借地借家法]]が制定され、また、農地については[[農地法]]など特別法による強化が図られ、その結果、賃貸借には[[物権]]に類似した効力が与えられるようになった<ref name="kawai212"/><ref name="oshima88"/><ref name="wagatsuma313"/>。これを'''賃借権の物権化'''あるいは'''債権の物権化'''という<ref name="kawai212"/><ref name="oshima88"/>。具体的には、借地権の存続期間、借地契約の更新、借地権や借家権の対抗力などを中心とする。
従来、賃借人が借地上の不法占拠者などを排除しようとする場合、[[債権者代位権]]([[b:民法第423条|423条]])を流用して、賃貸人の[[所有権]]に基づく物権的妨害排除請求権を、賃借人が代位行使するという法律構成がとられてきた。しかし、判例は、対抗力のある不動産賃借権については、賃借権の物権化を理由として、賃借権に基づく妨害排除請求権も認める方向にあった(最判昭和30年4月5日民集9巻4号431頁)<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57449 最高裁昭和30年4月5日判決])</ref>。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は対抗要件を備えた不動産賃借権に基づく賃借人の妨害排除請求権や返還請求権を明文化した<ref name="toben" />。
一方、[[アメリカ合衆国]]や[[オーストラリア]]ではむしろ貸主保護に傾いているといわれている。
=== 各国法制の比較 ===
==== 賃貸借の成立 ====
日本の民法は、賃貸借を[[意思表示]]の合致により成立する[[契約|諾成契約]]として規定している。外国では一定の賃貸借契約については書面を要求する[[要式契約]]として規定している立法例も多い<ref>内田貴著 『民法IIⅡ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、184-185頁</ref>。
==== 賃貸借の存続期間 ====
===== 最短期間 =====
日本の民法では賃貸借の存続期間の最短期間について規定を置いていない<ref>我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、314頁</ref>。
{{節スタブ}}
===== 最長期間 =====
日本の民法では賃貸借の存続期間の最長期間を50年としている([[b:民法第604条|604条]]1項前段)。
民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)による改正前は、20年であった。この規定は民法の起草者において20年を超えるときは地上権や永小作権が設定されるものとみており<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、193頁</ref>、また、所有権が長期間にわたって賃貸借により拘束されることになれば改良が進まず社会経済上の不利益となる点が理由とされていた<ref>川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、215頁</ref>。
[[民法 (台湾)|中華民国民法]]、[[中華人民共和国|中国]]契約法では20年である<ref>([http://lis.ly.gov.tw/lgcgi/lglaw?@153:1804289383:f:NO%3DC704509*%20OR%20NO%3DC004509%20OR%20NO%3DC104509$$4$$$NO 中華民国民法449条]、[http://www.gov.cn/banshi/2005-07/11/content_13695_6.htm 中国契約法214条])</ref>。韓国では堅固建築物などの例外をのぞき20年である<ref>([http://inglaw.moleg.go.kr/PS/jsp/ps02/KlawLink.jsp?OC=inglaw&ID=001706&LD=20090508&LN=09650 651条1項])</ref>。
一方、フランス民法典には規定がない。[[ケベック州]]民法典では100年である <ref>([http://www2.publicationsduquebec.gouv.qc.ca/dynamicSearch/telecharge.php?type=2&file=/CCQ/CCQ_A.html 1880条])</ref>。
[[イングランド]]では存続期間の定めがない場合契約が無効であるとされるが、存続期間に規制がない。
== 賃貸借の成立 ==
=== 諾成契約 ===
先述のように日本の民法は、賃貸借を[[意思表示]]の合致により成立する[[契約|諾成契約]]として規定しているが、現実には日本でも特に不動産賃貸借については書面が作成されることが多い<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、184-185頁</ref><ref name="oshima88"/>。また、借地借家法上の定期借地権(借地借家法22条)や定期建物賃貸借(借地借家法38条1項)の設定については[[公正証書]]など一定の方式を要する<ref name="名前なし-1"/>。
農地及び採草放牧地への賃借権設定については原則として農業委員会あるいは都道府県知事の許可を要し(農地法3条1項)、また、農地及び採草放牧地の賃貸借契約について当事者は書面によりその存続期間、借賃等の額及び支払条件その他その契約並びにこれに付随する契約の内容を明らかにしなければならない(農地法21条)。
なお、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で「引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還すること」も契約内容にすることが明確化された<ref name="leasing">{{Cite web|和書|url=https://www.leasing.or.jp/studies/docs/10_01.pdf|title=民法(債権関係)改正がリース契約等に及ぼす影響|format=PDF |publisher=公益社団法人リース事業協会|accessdate=2020-05-31}}</ref>。
=== 短期賃貸借 ===
処分の権限を有しない者([[不在者|不在者財産管理人]]、権限の定めのない[[代理人]]など)が賃貸借契約を締結する場合には、以下の期間を超えない範囲でのみ契約をすることができる([[b:民法第602条|602条]])。このような短期の賃貸借契約を'''短期賃貸借'''という。
# 樹木の栽植又は伐採を目的とする山林の賃貸借 10年
# 上記以外の土地の賃貸借 5年
# 建物の賃貸借 3年
# 動産の賃貸借 6ヶ月
契約でこれより長い期間を定めたときであっても、その期間は、当該各号に定める期間となるとされており、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明確化された([[b:民法第602条|602条]])<ref name="leasing" />。
短期賃貸借も更新することができるが、その期間満了前、土地については1年以内、建物については3ヶ月以内、動産については1ヶ月以内に、その更新をしなければならない([[b:民法第603条|603条]])。
なお、以前は、短期賃貸借は、その期間の範囲で先に登記された[[抵当権]]にも対抗(優先)することができた(旧395条)。しかし、[[執行妨害]]で悪用されるなど弊害が目立ったため、2003年の民法改正で対抗できるとしたのを改め、6ヶ月の明け渡しの猶予期間を認めている([[b:民法第395条|395条]])。また、2017年改正前の民法には制限行為能力者に関する「処分につき行為能力の制限を受けた者」の文言があったが、制限行為能力者の行為能力は別に定められており、短期賃貸借であれば制限行為能力者も行うことができるとの誤解を生じることから削除された<ref name="leasing" />。
== 賃貸借の存続期間 ==
=== 民法上の存続期間 ===
* 最短期間
: 民法上の賃貸借の最短期間に制限はない。
* 最長期間
: 日本民法では賃貸借の最長期間を50年としている([[b:民法第604条|604条]]1項前段)。社会の変化や実務上の要請から2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で20年から50年に伸長された<ref name="leasing" /><ref name="toben">{{Cite web|和書|url=https://www.toben.or.jp/message/libra/pdf/2018_04/p02-27.pdf|title=すっきり早わかり 債権法改正のポイントと学び方|format=PDF |publisher=東京弁護士会|accessdate=2020-05-31}}</ref>。契約でこれより長い期間を定めたときであっても、その期間は50年に縮減される([[b:民法第604条|604条]]1項後段)。契約の更新は可能であるが、 その場合にも期間は更新時から50年を超えることができない([[b:民法第604条|604条]]2項)。なお、賃貸借の最長期間は各国によってさまざまである([[#各国法制の比較]]参照)。
民法上の賃貸借の存続期間の規定は借地借家法など[[特別法]]による修正を受けている。
=== 旧借地法・旧借家法上の存続期間 ===
旧借地法・旧借家法は借地借家法の施行により廃止されたが(借地借家法附則第2条)、その廃止前に両法によって生じた借地権・借家権の存続期間については原則として借地借家法ではなく旧借地法・旧借家法の適用を受ける(借地借家法附則第4条)。
旧借地法では、借地権の存続期間について堅固な建物の所有を目的とするものについては原則として60年、その他の建物の所有を目的とするものについては原則として30年とされていた(旧借地法2条1項)。
旧借家法では、1年未満の期間を定めた賃貸借は原則として期間の定めのないものとみなされた(旧借家法3条の2)。また、建物の賃貸人は自ら使用する必要がある場合その他正当の事由がある場合でなければ、賃貸借の更新の拒絶や解約の申入れは許されないとしていた(旧借家法1条の2)。
=== 借地借家法上の存続期間 ===
==== 借地権の存続期間 ====
借地借家法上の借地権には通常更新される普通借地権と更新のない定期借地権とがある。
===== 普通借地権 =====
* 最短期間
: 借地借家法上の借地権の存続期間は最短で30年以上とされる([[b:借地借家法第3条|借地借家法3条]]・[[b:借地借家法第9条|9条]])。借地権更新後の存続期間は、最短で最初の更新後は20年以上、次回以降の更新後からは10年以上とされる([[b:借地借家法第4条|借地借家法4条]])。
* 最長期間
: 借地借家法上の借地権の最長期間について制限はない(借地借家法3条・4条)。
* 更新事由
** 合意による更新([[b:借地借家法第4条|借地借家法4条]])
** 更新請求による更新([[b:借地借家法第5条|借地借家法5条]]1項)
** 使用継続による更新([[b:借地借家法第5条|借地借家法5条]]2項)
** 建物再築による更新([[b:借地借家法第7条|借地借家法7条]])
===== 定期借地権 =====
* 一般定期借地権
: 一般定期借地権の存続期間は、50年以上とされる([[b:借地借家法第22条|借地借家法22条]])。この契約は書面でしなければならない。
* 事業用借地権
: 専ら事業の用に供する建物の所有を目的とする借地権の存続期間は、10年以上50年未満とされる([[b:借地借家法第23条|借地借家法23条]])。この契約は公正証書によってしなければならない。
* 建物譲渡特約付借地権
: 借地権の終了時に借地上の建物を相当の対価で譲渡する特約を付した借地権の存続期間は、30年以上とされる([[b:借地借家法第24条|借地借家法24条]])。
==== 借家権の存続期間 ====
借地借家法上の借家権には更新の拒絶や解約について制限のある普通借家権と更新のない定期借家権とがある。
===== 普通借家権 =====
* 最短期間
: 借家関係の賃貸借の存続期間を1年未満とした場合には原則として期間の定めのないものとみなされる(借地借家法29条1項)。この点は旧借家法と同じである。借家権更新後の存続期間については[[b:借地借家法第26条|借地借家法26条]]による。
* 最長期間
: 借地借家法上の借家権の最長期間について制限はない([[b:借地借家法第29条|借地借家法29条]]2項)。
* 契約期間の定めがある場合の法定更新([[b:借地借家法第26条|借地借家法26条]])
* 契約期間の定めがない場合の解約申入れの制限([[b:借地借家法第27条|借地借家法27条]]・[[b:借地借家法第28条|借地借家法28条]])
===== 定期借家権 =====
: 当事者の合意で存続期間を自由に定めることができ、1年未満でも20年を超える契約であってもよいが、期間の定めがない契約はできない([[b:借地借家法第38条|借地借家法38条]])。この契約は書面でしなければならない。
=== 農地法上の存続期間 ===
農地又は採草放牧地の賃貸借について期間の定めがある場合において、その当事者が契約期間満了前の一定期間内において、相手方に対して更新をしない旨の通知をしないときは、原則として従前の賃貸借と同一の条件で更に賃貸借をしたものとみなされる(農地法17条)。また、農地又は採草放牧地の賃貸借の当事者は、政令で定めるところにより都道府県知事の許可を受けなければ、賃貸借の解除をし、解約の申入れをし、合意による解約をし、又は賃貸借の更新をしない旨の通知をしてはならないとされている(農地法18条)<ref group="注">民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)による改正前は、農地又は採草放牧地の賃貸借についての民法第604条 (賃貸借の存続期間)の規定の適用については、同条中「二十年」とあるのは、「五十年」とされていた(農地法旧19条)。</ref>。
== 賃貸借の効力 ==
=== 当事者間の効力 ===
==== 賃貸人の義務 ====
* 使用収益させる義務
*: 賃貸人は賃借人に対して目的物を使用収益させる義務を負う([[b:民法第601条|601条]])。賃貸人は目的物を引き渡す義務を負うとともに、賃借人が目的物を使用するに際してそれを妨害している第三者がいる場合には賃貸人はこれを排除しなければならない(大判昭5・7・26民集9巻704頁)<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、203頁</ref><ref name="kawai217">川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、217頁</ref><ref name="oshima90">大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、90頁</ref>。
* 修繕義務
*: 賃貸人には目的物の使用収益に必要な状態となるよう修繕する義務がある([[b:民法第606条|606条]]1項本文)。ただし、賃借人の責めに帰すべき事由によってその修繕が必要となったときは賃貸人に修繕義務はない(606条1項ただし書)。
*: 賃貸人に責任を帰すべき場合はもちろん不可抗力の場合も賃貸人は修繕義務を負うが、賃借人に帰責事由がある場合の賃貸人の修繕義務については学説に対立があった<ref name="kawai218">川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、218頁</ref>。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は賃借人の責めに帰すべき事由によってその修繕が必要となったときは賃貸人に修繕義務はないとする学説をとり明文化された<ref name="leasing" />。なお、賃貸人の修繕義務については特約で免除できる(大判明37・11・2民録10輯1389頁、最判昭29・6・25民集8巻6号1224頁)。
*: 賃借人は修繕を要する場合につき原則として通知義務を負う([[b:民法第615条|615条]])。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で、賃借人が賃貸人に修繕が必要である旨を通知し、又は賃貸人がその旨を知ったにもかかわらず、賃貸人が相当の期間内に必要な修繕をしないとき、または急迫の事情があるときは賃借人が修繕をすることができると明記された(607条の2)<ref name="leasing" />。賃借人が修繕したときは賃貸人に対して費用償還請求しうる<ref name="kawai217"/>。なお、修繕不能の場合は履行不能の問題となる<ref name="kawai218"/>。
*: 賃貸人が修繕しないことによって賃借人の使用収益が不可能であるような場合には、債務不履行となり、全く使用収益が不能な場合には全額、一部の使用収益が不能な場合は一部減額される(当然減額説が有力視されており、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で賃借物の一部滅失等が賃借人の帰責事由によらずに使用収益できなくなったときは賃料減額請求がなくても当然に減額されることになった(611条1項))<ref name="toben" /><ref>川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、219頁</ref><ref name="oshima90"/>。
* 費用償還義務
*: 賃借人は、賃借物について賃貸人の負担に属する[[必要費]](目的物を使用収益できる状態を維持するために必要な費用)を支出したときは、賃貸人に対し、直ちにその償還を請求することができる([[b:民法第608条|608条]]1項)。この規定は[[任意規定]]であり特約で賃借人の負担としうる<ref name="uchida205">内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、205頁</ref>。
*: 賃借人が賃借物について[[有益費]](目的物の改良のために支出した費用)を支出したときは、賃貸人は、賃貸借の終了の時に、支出した実費又は増価額について、その償還をしなければならない([[b:民法第608条|608条]]2項本文・[[b:民法第196条|196条]]2項)。ただし、裁判所は、賃貸人の請求により、その償還について相当の期限を許与することができる([[b:民法第608条|608条]]2項但書)。
*: 費用の償還は貸主が返還を受けた時から1年以内に請求しなければならない([[b:民法第621条|621条]]・[[b:民法第600条|600条]])。賃貸人が交替した場合には新しい賃貸人が費用償還請求義務を負う(最判昭46・2・19民集25巻1号135頁)。
*: 賃貸人がこれらの費用を償還しない場合、賃借人は[[留置権]]を行使して、建物の明渡しを拒絶できる(大判昭10・5・13民集14巻876頁)。ただし、賃料相当分は[[不当利得]]となるため返還義務を負う<ref name="uchida205"/><ref name="oshima91">大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、91頁</ref>。
* 担保責任
*: 賃貸借契約は有償契約であるから、目的物に契約不適合があれば、賃貸人はこれによる[[担保責任]]を負う([[b:民法第559条|559条]]以下)。
==== 賃借人の義務 ====
* 賃料支払義務
** 原則
**: 賃借人には[[賃料]]を支払う義務がある([[b:民法第601条|601条]])。賃料は賃貸借契約に基づき賃借人が賃貸人に支払う利用料である。賃料の支払時期も、宅地、建物、動産は月末に、それ以外の土地については年末あるいは収穫期の後に、後払いすることを原則とするが([[b:民法第614条|614条]])、任意法規であるから当事者の合意(特約)で先払いにすることもできる<ref name="wagatsuma328">我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、328頁</ref>。
** 地代・家賃の設定・変更・規制
**: 借地(建物所有を目的とする土地賃貸借)・借家(建物賃貸借)の賃料変更については借地借家法に特則がある。借地借家法は、地価や相場の変動に応じて賃料の増減請求権を、貸主と借主の双方に与えている。また、同法においては、賃料改定の紛争のうちでも少額の紛争については、まず[[調停]]を行うべきとする制度も整備されている。
**: 地代についてはかつて[[地代家賃統制令]]による規制があったが、1985年(昭和60年)に廃止されている<ref>我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、325頁</ref>。なお、罹災都市借地借家臨時処理法は地代・家賃について規制を置いている(罹災都市借地借家臨時処理法17条)。
** 小作料の設定・変更・規制
**: 民法は小作関係において、不可抗力によって賃料よりも少ない収穫しか挙げることができなかった場合には、減額請求をすることができ、契約の[[解除]]も認める([[b:民法第609条|609条]]、[[b:民法第610条|第610条]])。しかし、農地の賃料減額請求権については[[農地法]]に特則があるため、民法のこの規定の適用は山林の賃貸借などに限定されるとされる<ref>我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、326頁</ref>。
** 賃借物の一部滅失等
**: 賃借物の一部が滅失その他の事由により使用及び収益をすることができなくなった場合において、それが賃借人の責めに帰することができない事由によるものであるときは、賃料は、その使用及び収益をすることができなくなった部分の割合に応じて、減額される([[b:民法第611条|611条]]1項)。2017年改正前の民法は賃借人の賃料減額請求を定めていたが、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で賃借物の一部滅失等が賃借人の帰責事由によらずに使用収益できなくなったときは賃料減額請求がなくても当然に減額されることになった<ref name="toben" />。
* 目的物保管義務
*: 賃借人は目的物の保管につき[[善管注意義務]]を負い([[b:民法第400条|第400条]])、また、その利用について用法遵守義務を負う<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、206頁</ref><ref name="oshima91"/><ref name="wagatsuma328"/>。
* 目的物返還義務・原状回復義務
** 目的物返還義務
**: 賃借人は契約が終了したときは目的物を返還する義務を負う(第601条)。賃借人の基本的な義務であり2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で601条が改正され明確化された<ref name="leasing" />。
** 原状回復義務
**: 賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う。ただし、その損傷が賃借人の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない([[b:民法第621条|621条]])。
**: 原状回復とは、目的物を契約前の状態に戻すことである。通常の方法で使用収益していた場合以上に目的物が傷んでいたときには、それを修復し、あるいはその分の損害を賠償する義務として現れる(なお、[[敷金]]が交付されている場合は、賃貸人は敷金から[[相殺]]することができる)。
**: 621条は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された規定で、判例(最判平成17年12月16日集民218巻1239頁)に基づき通常損耗や経年変化を対象から除外した<ref name="toben" />。また、賃借人の責めに帰することができない事由による損傷も従来の一般的な理解に従い対象から除外した<ref name="toben" />。
**: 621条は任意規定であり特約で一定限度の通常損耗等の原状回復義務を賃借人に負わせることができるが、賃借人が消費者で特約が[[消費者契約法]]10条に反する不利な特約であるときは無効となる可能性がある<ref name="toben" />。
** 収去権・収去義務
**: 使用貸借の規定が準用される([[b:民法第616条|616条]])。賃借人が、賃借物を受け取った後にこれに附属させた物がある場合において、使用貸借が終了したときは、原則として収去する権利や収去する義務がある(616条・599条)<ref name="leasing" />。使用貸借の規定は、2017年改正前の民法では借主の収去権の規定しかなく収去義務は解釈で認められていたが、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で収去義務が明文化された<ref name="LM11">{{Cite web|和書|url=http://www.lmlo.jp/wp/wp-content/uploads/2018/06/27a4df13470e55eef70915bf42cc91db.pdf|title=改正債権法の要点解説(11) |format=PDF |publisher=LM法律事務所 |accessdate=2020-05-31}}</ref>。ただし、従来の解釈のとおり借用物から分離することができない物又は分離するのに過分の費用を要する物については収去義務はない(第599条1項ただし書)<ref name="leasing" /><ref name="LM11" />。
**: なお借地借家法では、賃借人からの請求があれば賃貸人は価値の増加分の買取に応じなければならない(借地上の建物について[[s:借地借家法#13|借地借家法13条]]、借家に取り付けた造作について[[s:借地借家法#33|借地借家法33条]])。
==== 敷金・権利金・更新料 ====
{{See also|敷金}}
* 敷金 - 622条の2第1項によれば、[[敷金]]とは、いかなる名目によるかを問わず、賃料債務その他の賃貸借に基づいて生ずる賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務を担保する目的で、賃借人が賃貸人に交付する金銭をいう。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で、判例や一般的な理解に基づき、敷金の定義、敷金返還債務の発生時期、敷金充当の規定が明文化された<ref name="toben" /><ref name="leasing" />。
* 権利金 - 賃借人に賃貸借契約締結そのものの対価(謝礼)を支払わせることも多く、この対価を'''[[礼金]]'''(れいきん)という。契約が成立した際、敷金以外に支払われる金銭のことを総称して、'''権利金'''ということもある。
* 更新料 - 契約を更新する際に金銭の支払をすることが合意されていることもあり、'''更新料'''と呼ばれる。
=== 対第三者の効力-賃借権の対抗力 ===
==== 不動産賃借権の対抗力 ====
===== 民法 =====
目的物が不動産である場合には、[[賃借権設定登記]]をしたときは、その不動産について物権を取得した者その他の第三者に対抗することができる([[b:民法第605条|605条]])。
ただし、民法上は特約のない限り、賃借人は賃貸人に対して登記請求権を有しない(通説・判例。判例として大判大10・7・11民録27輯1378頁)<ref>川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、216頁</ref>。そこで、建物保護に関する法律や借地法、借家法が制定され、もっと容易に賃借権を新所有者に対抗できるような制度が整備された。その後、これらの規定は[[b:借地借家法第10条|借地借家法第10条(借地権の対抗力等)]]、[[b:借地借家法第31条|第31条(建物賃貸借の対抗力等)]]に吸収されている。なお、2017年改正前の605条は「その不動産について物権を取得した者」とされていたが、一般的な理解では二重賃借人等も含むと解されるため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で「その他の第三者」が追加された<ref name="leasing" />。
対抗要件を備えた不動産賃借権の場合、賃借人は、その不動産の占有を第三者が妨害しているときはその妨害の停止の請求、その不動産を第三者が占有しているときは不動産の返還の請求をすることができる(605条の4)。対抗要件を備えた不動産賃借権に基づく賃借人の妨害排除請求権・返還請求権は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された<ref name="toben" />。
===== 借地借家法 =====
* 借地権
*: 借地権はその登記がなくても、土地上に借地権者が登記されている建物を所有するときは対抗力が認められる(借地借家法10条1項)。
* 借家権
*: 建物の賃貸借はその登記がなくても、建物の引渡しがあったときは対抗力が認められる(借地借家権31条1項)。
===== 罹災都市借地借家臨時処理法(廃止) =====
{{See also|罹災都市借地借家臨時処理法}}
罹災建物が滅失し、又は疎開建物が除却された当時から、引き続き、その建物の敷地又はその換地に借地権を有する者は、その借地権の登記及びその土地にある建物の登記がなくても、これを以て、昭和21年7月1日から5年以内において対抗力を有する([[罹災都市借地借家臨時処理法]]10条)。
===== 農地法 =====
農地又は採草放牧地の賃貸借は、その登記がなくても、農地又は採草放牧地の引渡しにより対抗力を認める(農地法16条。旧農地法18条)。
==== 動産賃借権の対抗力 ====
動産を目的物とする賃借権は、どのような場合に新所有者に対しても主張できるのか、民法上は明文を欠いている。その動産の引渡しを受けていれば、換言すればその動産を[[占有]]していれば、目的物の所有者が代わったとしても、新たな所有者に対して主張することができる。すなわち、引渡し(占有)を解釈上対抗要件とするのが多数説である。
=== 賃貸借の当事者 ===
==== 賃借権の譲渡・転貸 ====
賃貸人Aから賃借人Bが賃借している目的物に関する権利義務を第三者Cにすべて移転させてBが賃貸借関係から離脱することを'''賃借権の譲渡'''といい、また、賃貸人Aから賃借人Bが賃借している目的物を第三者Cにさらに賃貸して元の賃貸借関係(AB間の賃貸借契約)は存続する場合を'''転貸'''(又貸し)という<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、217頁</ref><ref name="oshima95">大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、95頁</ref>。
日本の民法においては、賃貸人の承諾を得ないでされた転貸や賃借権の譲渡は、賃貸人に対抗できない上、賃貸借契約の解除原因となっている([[b:民法第612条|第612条]])。この点は[[物権]]である[[地上権]]や[[永小作権]]などと異なる点である。
もっとも、賃借権の譲渡を認める[[イギリス]]のような国もあるし、日本でも[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]が起草した旧民法では認められていた(旧民法は[[法典論争]]の結果、[[施行]]されなかった)<ref name="uchida218">内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、218頁</ref>。
日本の民法が無断の譲渡・転貸を認めない理由としては、勤勉でない小作人への譲渡や資力のない借家人へ譲渡された場合などには賃料の支払いに不安を生じ、また、使用方法の悪い借家人などへの譲渡などにより賃貸人が思わぬ不利益をこうむることが懸念されたためであるとされる<ref name="uchida218"/><ref name="oshima95"/>。
なお、賃借権の譲渡や転貸に必要とされる賃貸人の承諾は、賃借人のほか譲受人や転借人に対してなされてもよい<ref name="oshima96">大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、96頁</ref>。
===== 賃貸人の承諾がある譲渡 =====
賃借権が賃借人Bから譲受人Cへ譲渡された場合、それまでの賃借人Bが契約関係から離脱して、従来からの賃貸人Aと新たな賃借人Cの間に契約関係が移転する。ただし、敷金についての法律関係は新たな賃借人(賃借権の譲受人)には移転しない(最判昭53・12・22民集32巻9号1768頁)<ref name="wagatsuma321">我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、321頁</ref>。Aが一旦賃借権の譲渡を承諾したときは、Bから第三者たるCとの間で賃借権の譲渡契約を締結する前であっても、これを撤回することができない(最判昭30・5・13民集9巻6号698頁)。
===== 賃貸人の承諾がある転貸 =====
賃借人Bが賃貸人Aの承諾を得て行った転借人Cへの転貸は当然有効であり解除原因とならない([[b:民法第612条|612条]]1項参照)。適法な転貸借がある場合、Bの有する賃借権が対抗要件を具備する限り、Cが自己の転借権について対抗要件を備えていなくても、Cは第三者に対してBの賃借権を援用して自己の転借権を主張することができる(最判昭39・11・20民集18巻9号1914頁)。
* 賃貸人-賃借人間
*: 賃貸人Aと賃借人Bとの間では従前の法律関係が継続する<ref name="wagatsuma321"/>。賃貸人Aが賃借人Bに対してその権利(賃料支払請求権等)を行使することを妨げない([[b:民法第613条|613条]]2項)。
* 賃借人-転借人間
** 賃借人Bと転借人Cとの間に新たに賃貸借の法律関係が成立する<ref name="wagatsuma321"/>。
** 賃借人が適法に賃借物を転貸したときは、転借人は、賃貸人と賃借人との間の賃貸借に基づく賃借人の債務の範囲を限度として、賃貸人に対して転貸借に基づく債務を直接履行する義務を負う([[b:民法第613条|613条]]1項前段)。賃貸人Aと転借人Cは直接の契約関係に立たないため、本来、原則として両者間に契約上の法律関係は生じないはずであるが、民法は便宜を考慮して転借人Cは賃貸人Aに対して直接に義務を負うとしている<ref>我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、322頁</ref>。賃貸人Aは転借人かCら直接賃料を受け取ることもできるが、賃貸人に望外の利益を得させるためのものではないから、賃貸人が転借人に請求できる金額は、賃借料と転借料のうち低い方の金額が限度となる<ref>大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、97-98頁</ref>。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で「賃貸人と賃借人との間の賃貸借に基づく賃借人の債務の範囲を限度として」の文言が追加された<ref name="leasing" />。例えば、上記の例で、AがBに対して賃料月額20万円で甲不動産を賃貸し、BがCに賃料月額30万円で賃貸している場合、AがCに請求できる金額は20万円である。BがCに賃料月額15万円で賃貸している場合、AがCに請求できる金額は15万円である。
** 転借人が負担する転貸人と賃貸人に対する賃料支払義務は、[[連帯債権]]の関係にあるといわれることがある。また、転借人は賃料を賃借人(転貸人)に前払いしている場合であっても、賃貸人に対抗することができない([[b:民法第613条|613条]]1項後段)。
** 転貸がされている場合、もとの賃貸借契約が[[解除]]されたときに転借人が影響を受けるかどうかが問題となる。
*** 賃貸人がもとの賃貸借契約を[[債務不履行]]によって解除した場合には、転借人は目的物を使用収益する権利を失うとされている(最判平9・2・25民集51巻2号398頁)<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52544 最高裁平成9年2月25日判決・民集51巻2号398頁]</ref>。この場合において転借人に対して延滞賃料の支払いの機会を与えなくてもよい(最判昭37・3・29民集16巻3号662頁)。
*** 一方、賃借人が適法に賃借物を転貸した場合には、賃貸人は、賃借人との間の賃貸借を合意解除したことをもって転借人に対抗することができない(613条3項本文)。613条3項は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された<ref name="leasing" />(判例は、賃貸人と賃借人がもとの賃貸借契約を合意解除した場合でも、特段の事情がない限り、転借人に合意解除の効力を対抗することはできず、転借人は引き続き目的物を使用収益することができるとしていた(最高裁昭和37年2月1日判決)。ただし、その解除の当時、賃貸人が賃借人の債務不履行による解除権を有していたときは、この限りでない(613条3項ただし書)。
===== 賃貸人の承諾のない譲渡・転貸 =====
* 賃借人-譲受人・転借人間
*: 賃借人と譲受人・転借人との間の契約はあくまでも有効であるから、賃借人は譲受人や転借人に対して明渡請求はできないとともに、賃借人は賃貸人に対して遅滞なく承諾を得る義務を生じる<ref name="uchida222">内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、222頁</ref><ref name="oshima96"/><ref>我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、320頁</ref>。ただし、譲受人・転借人は賃貸人に賃借権を対抗できないため、賃貸人に対する明渡しによって譲受人や転借人の使用収益が困難となれば、賃借人は担保責任を負わねばならない([[b:民法第561条|561条]])。
* 賃貸人-賃借人間
*: 賃借人が目的物の転貸や賃借権の譲渡を無断で行ったときは、賃貸人は契約を解除することができる([[b:民法第612条|612条]])。ただし、土地の無断転貸が、賃貸人に対する背信行為と認めるに足りない特段の事情がある場合においては、解除権は発生しない、というのが判例である(最判昭28・9・25民集7巻9号979頁)<ref>
[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56009 最高裁昭和28年9月25日・民集7巻9号979頁]</ref>。これは無断譲渡(最判昭39・6・30民集18巻5号991頁)や借家権についても同様である。これらは[[信頼関係破壊の法理]]として説明されるものであるが<ref name="oshima96"/>、無断譲渡・転貸には原則として背信性があるが賃貸人に対する背信行為と認めるに足りない特段の事情がある場合に限って解除権は発生しないと構成するものであるから、特段の事情については賃借人が立証責任を負う<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、220頁</ref><ref name="oshima96"/>。
*: また、賃貸人は賃借人との間の賃貸借契約を存続させたまま、譲受人・転借人に対して明渡しを請求することもでき、この場合において多数説は賃借人への引渡しのみ認められるとするが、判例は賃貸人への引渡しも認めている(最判昭26・5・31民集5巻6号359頁)<ref name="wagatsuma321"/>。
* 賃貸人-譲受人・転借人間
*: 譲受人・転借人は賃貸人に対しては不法占拠者の地位に立たされることとなり、賃貸人は賃借人との契約の解除の有無を問わず譲受人や転借人に賃貸借の目的物の引渡しを求めうるほか[[損害賠償]]を請求できる(最判昭41・10・21民集20巻8号1640頁)<ref name="uchida222"/><ref name="oshima96"/>
===== 借地借家法による修正等 =====
[[借地借家法]]が適用される場合、転貸や賃借権の譲渡が比較的容易に認められる場合もある。すなわち、借地契約については、一定の場合、賃貸人の承諾がなくても、[[裁判所]]の許可を得れば、転貸や譲渡をすることができる([[s:借地借家法#19|借地借家法19条]]、[[s:借地借家法#20|20条]])。
この規定(特に20条)では、借地上の建物に[[抵当権]]が設定されている場合などが想定されている。つまり、抵当権が実行されて借地上の建物が[[競売]]にかけられ、買い受けられた場合、建物の所有権とともに土地の賃借権も「従たる権利」([[従物]]の項目を参照)として買受人に移転する(最判昭40・5・4民集19巻4号811頁)。しかし、それは賃借権(借地権)の無断譲渡にほかならず、借地契約の解除原因になってしまうのが原則である。これでは抵当権を設定することが事実上不可能となるため、このような規定が必要になる。
借地契約・借家契約が期間満了又は解約申入れによって終了するときは、賃貸人は転借人に対しそのことを通知しないと契約の終了を転借人に対抗できない([[s:借地借家法#34|借地借家法34条]])。賃貸人が終了の通知をしたときは、転貸借はその通知後6ヶ月を経過すると終了する。
== 賃貸借の終了 ==
=== 賃貸借の終了原因 ===
==== 民法上の原則 ====
===== 期間満了 =====
期間の定めのある賃貸借においては契約期間が満了すれば終了する([[b:民法第616条|616条]]・[[b:民法第597条|597条]])。この場合に当事者はその期間内に解約をする権利を留保することも可能である([[b:民法第618条|618条]])。ただし、特別法(借地借家法及び農地法)により修正を受けている。
===== 解約申入れ =====
期間の定めのない賃貸借または[[b:民法第619条|619条]]により黙示の更新がなされた賃貸借においては解約の申入れにより、申入れの日から所定の期間を経過することにより終了する([[b:民法第617条|617条]])<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、237頁</ref><ref>大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、100頁</ref>。解約の申入れ後直ちに賃借人が目的物を返還したとしても、特約がない限り賃借人は所定の期間分の賃料支払い義務を引き続き負う。
# 土地の賃貸借 1年
# 建物の賃貸借 3ヶ月
# 動産及び貸席の賃貸借 1日
ただし、特別法(借地借家法及び農地法)によりこの規定は修正を受けている。
===== 解除 =====
賃貸借も契約である以上、賃借人に賃料不払や契約上の用法義務違反があれば[[債務不履行]]となり賃貸人からの解除が認められるが、これを安易に認めると特に不動産賃貸借においては賃借人は居住や営業といった生活の基盤を失うことになるため、判例は当事者間の信頼関係が破壊されたと認められるか否かを基準とする[[信頼関係破壊の法理]]によっている(最判昭39・7・28民集18巻6号1220頁)<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、243-244頁</ref><ref>大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、101-102頁</ref>。なお、債務不履行が悪質なものである場合について無催告解除も認めている(最判昭27・4・25民集6巻4号451頁)<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、244頁</ref><ref name="oshima102">大島俊之・下村正明・久保宏之・青野博之著 『プリメール民法4 第2版』 法律文化社〈αブックス〉、2003年3月、102頁</ref>。ただし、解約告知については農地法により修正を受けている。
また、民法は以下の場合につき賃借人に解除権を認める。
* 賃借人の意思に反する保存行為
: 賃貸人が賃借人の意思に反して保存行為をしようとする場合において、そのために賃借人が賃借をした目的を達することができなくなるとき([[b:民法第607条|607条]])。
* 減収による解除
: 不可抗力によって引き続き2年以上賃料より少ない収益を得たとき([[b:民法第610条|610条]])。
* 賃借物の一部滅失等
: 賃借物の一部が滅失その他の事由により使用及び収益をすることができなくなった場合において、残存する部分のみでは賃借人が賃借をした目的を達することができないときは、賃借人は、契約の解除をすることができる([[b:民法第611条|611条]]2項)。
: 2017年改正前の民法では賃料減額請求ができる場合(賃借人の責めに帰することができない事由によるものであるとき)に、残存する部分のみでは賃借人が賃借をした目的を達することができないときは、賃借人は、契約の解除をすることができるとされていた。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では賃借物の一部滅失等による賃料の減額(611条1項)とは異なり、賃借物の一部滅失等で残存する部分のみでは賃借人が賃借をした目的を達することができないときは賃借人の帰責事由の有無にかかわらず賃借人は解除できることになった(611条2項)<ref name="toben" />。なお、賃借人に帰責事由があり賃貸人に損害が生じたときは債務不履行として賃貸人は損害賠償請求ができる<ref name="toben" />。
* 無断譲渡・無断転貸
: 賃借人が賃貸人の承諾を得ずに第三者に賃借物の使用又は収益をさせたとき([[b:民法第612条|612条]]2項)
===== 目的物滅失 =====
賃借物の全部が滅失その他の事由により使用及び収益をすることができなくなった場合には、賃貸借は、これによって終了する(616条の2)。616条の2は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化されたもので<ref name="leasing" />、それまでも賃貸借の目的物が火災等で滅失しあるいは老朽化により使用困難となった場合には履行不能となり賃貸借は終了するとされていた<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、245頁</ref><ref>川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、231頁</ref><ref name="oshima102"/>。
この場合、(1)双方に帰責事由がないときは[[危険負担]]の問題となり、(2)賃貸人に帰責事由があるときは賃貸人に債務不履行責任が発生し(賃貸借の性質上、全部滅失した場合には賃料債務は発生しないと解されている)、(3)賃借人に帰責事由があるときは理論的には賃料債務は残るが賃貸人は債務を免れた利益(賃料相当額)の償還義務([[b:民法第536条|536条]]2項後段)を負うため実質的に賃料債務は消滅する(端的に賃貸借契約の性質から使用収益がない以上は賃料債務は発生しないと構成する学説もある)<ref>内田貴著 『民法Ⅱ 第3版 債権各論』 東京大学出版会、2011年2月、245-246頁</ref><ref name="oshima102"/>。
==== 借地借家法上の制限 ====
===== 期間満了における更新請求・使用継続 =====
* 借地契約の場合
** 借地権の存続期間が満了する場合において、借地権者が契約の更新を請求したとき又は借地権者が土地の使用を継続するときは、建物がある場合に限り、原則として従前の契約と同一の条件で契約を更新したものとみなされる(借地借家法第5条第1項本文・第2項)。例外として借地権設定者が遅滞なく異議を述べたときは、この限りでないとされているが(借地借家法第5条第1項但書・第2項)、この異議については借地権設定者及び借地権者(転借地権者を含む)が土地の使用を必要とする事情のほか、借地に関する従前の経過及び土地の利用状況並びに借地権設定者が土地の明渡しの条件として又は土地の明渡しと引換えに借地権者に対して財産上の給付をする旨の申出をした場合におけるその申出を考慮して、正当の事由があると認められる場合でなければ、述べることができないとされている(借地借家法第6条)。
** なお、転借地権が設定されている場合においては、転借地権者がする土地の使用の継続を借地権者がする土地の使用の継続とみなして、借地権者と借地権設定者との間について借地借家法第5条第2項の規定が適用される(借地借家法第5条第3項)。
* 借家契約([[#普通借家権|普通借家権]])の場合
** 建物の賃貸借について期間の定めがある場合において、当事者が期間の満了の1年前から6月前までの間に相手方に対して更新をしない旨の通知又は条件を変更しなければ更新をしない旨の通知をしなかったときは、従前の契約と同一の条件で契約を更新したものとみなす。ただし、その期間は、定めがないものとされる(借地借家法第26条第1項)。
** 前項の通知をした場合であっても、建物の賃貸借の期間が満了した後建物の賃借人が使用を継続する場合において、建物の賃貸人が遅滞なく異議を述べなかったときも、同項と同様とされる(借地借家法第26条第2項)。
** 建物の賃貸人による借地借家法第26条第1項の更新拒絶の通知は、建物の賃貸人及び賃借人(転借人を含む)が建物の使用を必要とする事情のほか、建物の賃貸借に関する従前の経過、建物の利用状況及び建物の現況並びに建物の賃貸人が建物の明渡しの条件として又は建物の明渡しと引換えに建物の賃借人に対して財産上の給付をする旨の申出をした場合におけるその申出を考慮して、正当の事由があると認められる場合でなければ、することができない(借地借家法第28条)。
** なお、建物の転貸借がされている場合においては、建物の転借人がする建物の使用の継続を建物の賃借人がする建物の使用の継続とみなして、建物の賃借人と賃貸人との間について借地借家法第5条第2項の規定が適用される(借地借家法第26条第3項)。
* 借家契約([[#定期借家権|定期借家権]])の場合
** 期間の定めがある建物の賃貸借をする場合においては、公正証書による等書面によって契約をするときに限り、借地借家法第30条の規定にかかわらず、契約の更新がないこととする旨を定めることができる(借地借家法第38条第1項前段)。
** 借地借家法第38条第1項の規定による建物の賃貸借において、期間が1年以上である場合には、建物の賃貸人は、期間の満了の1年前から6月前までの期間に建物の賃借人に対し期間の満了により建物の賃貸借が終了する旨の通知をしなければ、その終了を建物の賃借人に対抗することができない(借地借家法第38条第4項本文)。ただし、建物の賃貸人が通知期間の経過後建物の賃借人に対しその旨の通知をした場合においては、その通知の日から6月を経過した後は、この限りでない(借地借家法第38条第4項但書)。
===== 解約申入れの制限 =====
* 借地契約の場合
: 期間の定めのない借地権は30年存続することとなる(借地借家法3条)<ref name="wagatsuma335">我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法2 債権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、335頁</ref>。
* 借家契約([[#普通借家権|普通借家権]])の場合
** 期間の定めのない借家権において、建物の賃貸人が賃貸借の解約の申入れをした場合には、建物の賃貸借は、解約の申入れの日から6月を経過することによって終了する(借地借家法第27条第1項)<ref name="wagatsuma335"/>。借地借家法第27条第1項・第3項の規定は建物の賃貸借が解約の申入れによって終了した場合に準用される(借地借家法第27条第2項)。
** 建物の賃貸人による建物の賃貸借の解約の申入れも借地借家法第26条第1項の更新拒絶の通知の場合と同様、建物の賃貸人及び賃借人(転借人を含む)が建物の使用を必要とする事情のほか、建物の賃貸借に関する従前の経過、建物の利用状況及び建物の現況並びに建物の賃貸人が建物の明渡しの条件として又は建物の明渡しと引換えに建物の賃借人に対して財産上の給付をする旨の申出をした場合におけるその申出を考慮して、正当の事由があると認められる場合でなければすることができない(借地借家法第28条)。
なお、借地借家法第38条第1項の規定による[[#定期借家権|定期借家権]]のうち、居住の用に供する建物の賃貸借(床面積(建物の一部分を賃貸借の目的とする場合にあっては当該一部分の床面積)が200平方メートル未満の建物に係るものに限る)において、転勤、療養、親族の介護その他のやむを得ない事情により、建物の賃借人が建物を自己の生活の本拠として使用することが困難となったときは、建物の賃借人は建物の賃貸借の解約の申入れをすることができることとされている(借地借家法第38条第5項前段)。この場合においては、建物の賃貸借は、解約の申入れの日から1月を経過することによって終了する(借地借家法第38条第5項後段)。
==== 農地法上の制限 ====
農地又は採草放牧地の賃貸借の当事者は、[[農地法]]第18条第1項但書の各号のいずれかに該当する場合を除いて、政令で定めるところにより都道府県知事の許可を受けなければ、賃貸借の解除をし、解約の申入れをし、合意による解約をし、又は賃貸借の更新をしない旨の通知をしてはならないとされている(農地法第18条第1項)。
=== 賃貸借終了の効果 ===
賃貸借の解除をした場合には、その解除は将来に向かってのみ効力を生ずる([[b:民法第620条|620条]]前段)。この場合において、当事者の一方に過失があったときは、その者に対する損害賠償の請求を妨げない([[b:民法第620条|620条]]後段)。
この場合に損害賠償請求権及び費用償還請求権についての期間の制限は、貸主が返還を受けた時から1年以内に請求しなければならない([[b:民法第621条|621条]]・[[b:民法第600条|600条]])。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[使用貸借]]
* [[民法第387条第1項の同意の登記]]
* [[先取特権#不動産先取特権|不動産賃貸借の先取特権]]
* [[賃貸]]
* [[リース]]
* [[マスターリース]]
* [[サブリース]]
* [[借家人運動]]
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公務員職権濫用罪
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公務員職権濫用罪(こうむいんしょっけんらんようざい)は、刑法193条に規定されている「汚職の罪」(刑法25章)に含まれる犯罪類型であり、公務員がその職権を濫用して、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害する行為を内容とする。
本罪は、刑法193条以下に規定されている、公務員が職権を濫用して職務を行う際に、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害したとき(不作為によるものを含む)に問われる事になる犯罪である(※公務員の職権濫用であっても、これらの権利侵害が伴わない場合はこの罪には該当しない)。公務員職権濫用の罪の保護法益には、公務の公正さに対する信用という国家的法益と、権利侵害をされた相手方の権利という個人的法益との両面があるとされているが、刑法学界においては、個人的法益の側面が重視される傾向にある。
また、公務員職権濫用の罪は、犯罪の性質上、検察官が起訴を不当に怠る場合が生じる可能性が高いため、検察官の起訴独占主義の例外として、裁判所の決定により審判に付する手続である準起訴手続が適用される(刑事訴訟法262条)。ただし、被疑者の身分が警察職員や検察職員の様な刑事行政関係者である必要はなく、該当する権利侵害が公務員該当者(みなし公務員として職務を行っている者を含む)により行われているために問われた本罪が不起訴処分となった場合は、全てが付審判の手続きを適用されうる。
なお、「人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害」する事が行われていない公務員による職権の濫用については、他の罪により責任を問われうる(例えば地方公務員法や国家公務員法における罰則等。また刑事罰とは別にこれらの法による懲戒処分もある事に留意)。
「職権の濫用」とは、公務員が、その一般的職務権限(職権)に属する事項につき、職権の行使に仮託して「実質的、具体的に違法、不当な行為」をすることをいう。
ここで、本罪における「職権」は、必ずしも法律上の強制力を伴うものであることを要せず、それが濫用された場合、実態として、職権行使の相手方に義務のないことを行わせたり、又は行うべき権利を妨害するに足りる権限であれば十分であるとされる。(※ただし、本罪は、具体的な権利侵害についてを罰する罪であるので、単に違法・不当というだけでは成立しない事に注意。)
一般的職務権限に属さない事項につき人に義務のないことを行わせた場合等は、強要罪の問題となる。
刑法35条(正当行為)では「法令又は正当な業務による行為は、罰しない。」という記述があるが、公務員職権濫用となる行為は、その全てが、国家公務員法及び地方公務員法を基本として、行政機関において取り扱われる法令や訓令・通達及び通知等に違反するものとなるものである。
逆に、それらの法令に基づいての正当行為として保護可能な範疇に入るのに相当する妥当適切な行為であれば、公務員職権濫用罪の成立は無い(ただし、法令等が法律・日本国憲法に反している場合については成立が無いとは言えない。)。
法定刑は、2年以下の懲役又は禁錮である。
公務員の職権濫用行為を内容とする犯罪は、刑法193条の公務員職権濫用罪以外にも刑法その他の法律に規定されている。
公安調査官や警察職員の職権濫用行為につき、破壊活動防止法45条や無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律42条・43条や犯罪捜査のための通信傍受に関する法律30条に規定がある。罰則は3年以下の懲役又は禁錮と規定されている。
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公務員職権濫用罪(こうむいんしょっけんらんようざい)は、刑法193条に規定されている「汚職の罪」(刑法25章)に含まれる犯罪類型であり、公務員がその職権を濫用して、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害する行為を内容とする。
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{{出典の明記|date=2022年8月}}
{{law}}
{{日本の犯罪
| 罪名 = 公務員職権濫用罪
| 法律・条文 = [[b:刑法第193条|刑法193条]]
| 保護法益 = 公務の公正(個人の身体・自由)
| 主体 = [[国家公務員]]・[[地方公務員]]・[[特別職|特別職公務員]]・[[みなし公務員]](真正身分犯)
| 客体 = 人
| 実行行為 = [[職権]]を[[濫用]]して、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害する行為
| 主観 = 故意犯
| 結果 = 結果犯、侵害犯
| 実行の着手 = -
| 既遂時期 = 人が義務のないことを行わされ、又は権利の行使が妨害された時点
| 法定刑 = 2年以下の懲役又は禁錮
| 未遂・予備 = なし
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{{日本の刑法}}
{{ウィキプロジェクトリンク|刑法 (犯罪)}}
'''公務員職権濫用罪'''(こうむいんしょっけんらんようざい)は、[[刑法 (日本)|刑法]][[b:刑法第193条|193条]]に規定されている「[[汚職]]の罪」(刑法25章)に含まれる犯罪類型であり、[[日本の公務員|公務員]]がその[[職権]]を[[濫用]]して、人に[[義務]]のないことを行わせ、又は[[権利]]の行使を妨害する行為を内容とする。
== 概要 ==
本罪は、刑法193条以下に規定されている、公務員が職権を濫用して職務を行う際に、'''人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害'''したとき(不作為によるものを含む)に問われる事になる犯罪である(※公務員の職権濫用であっても、これらの権利侵害が伴わない場合はこの罪には該当しない)。公務員職権濫用の罪の[[保護法益]]には、[[公務]]の公正さに対する信用という[[国家的法益]]と、権利侵害をされた相手方の権利という[[個人的法益]]との両面があるとされているが、刑法学界においては、個人的法益の側面が重視される傾向にある。
また、公務員職権濫用の罪は、犯罪の性質上、[[検察官]]が[[起訴]]を不当に怠る場合が生じる可能性が高いため、検察官の[[起訴独占主義]]の例外として、[[裁判所]]の決定により審判に付する手続である[[付審判制度|準起訴手続]]が適用される([[刑事訴訟法]]262条)。ただし、被疑者の身分が警察職員や検察職員の様な刑事行政関係者である必要はなく、該当する権利侵害が公務員該当者([[みなし公務員]]として職務を行っている者を含む)により行われているために問われた本罪が[[不起訴処分]]となった場合は、全てが付審判の手続きを適用されうる。
なお、「人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害」する事が行われていない公務員による職権の濫用については、他の罪により責任を問われうる(例えば[[地方公務員法]]や[[国家公務員法]]における罰則等。また[[刑事罰]]とは別にこれらの法による[[懲戒処分]]もある事に留意)。
== 「職権濫用」の意義 ==
「職権の濫用」とは、公務員が、その一般的職務権限(職権)に属する事項につき、職権の行使に仮託して「実質的、具体的に違法、不当な行為」をすることをいう。
ここで、本罪における「職権」は、必ずしも法律上の強制力を伴うものであることを要せず、それが濫用された場合、実態として、職権行使の相手方に義務のないことを行わせたり、又は行うべき権利を妨害するに足りる権限であれば十分であるとされる<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51196 最高裁判所第二小法廷 昭和55(あ)461 昭和57年1月28日 決定 棄却 刑集 第36巻1号1頁]</ref>。(※ただし、本罪は、具体的な権利侵害についてを罰する罪であるので、単に違法・不当というだけでは成立しない事に注意。)
一般的職務権限に属さない事項につき人に義務のないことを行わせた場合等は、[[強要罪]]の問題となる。
=== 「正当行為」との関係 ===
刑法[[b:刑法第35条|35条]]([[正当行為]])では「法令又は正当な業務による行為は、罰しない。」という記述があるが、公務員職権濫用となる行為は、その全てが、国家公務員法及び地方公務員法を基本として、行政機関において取り扱われる法令や[[訓令]]・[[通達]]及び[[通知]]等に違反するものとなるものである。
逆に、それらの法令に基づいての正当行為として保護可能な範疇に入るのに相当する妥当適切な行為であれば、公務員職権濫用罪の成立は無い(ただし、法令等が法律・[[日本国憲法]]に反している場合については成立が無いとは言えない。)。
== 法定刑 ==
[[法定刑]]は、2年以下の[[懲役]]又は[[禁錮]]である。
== 特殊な類型 ==
公務員の職権濫用行為を内容とする犯罪は、刑法193条の公務員職権濫用罪以外にも刑法その他の法律に規定されている。
=== 刑法における公務員による職権濫用の特殊な類型 ===
;特別公務員職権濫用罪([[b:刑法第194条|刑法194条]])
:[[裁判官|裁判]]、[[検察官|検察]]若しくは[[日本の警察官|警察の職務]]を行う者又はこれらの職務を補助する者がその職権を濫用して、人を[[逮捕]]し、又は[[監禁]]したときは、6月以上10年以下の懲役又は禁錮に処せられる。
;特別公務員暴行陵虐罪([[b:刑法第195条|刑法195条]])
:裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者が、その職務を行うに当たり、被告人、被疑者その他の者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときは、7年以下の懲役又は禁錮に処せられる(刑法195条1項)。また、法令により拘禁された者を看守し又は護送する者がその拘禁された者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときも、第1項の罪と同様である(刑法195条2項)。
;特別公務員職権濫用等致死傷罪([[b:刑法第196条|刑法196条]])
:刑法194条又は195条の犯罪を犯し、よって人を死傷させた者は、[[傷害]]の罪と比較して、重い刑により処断される([[結果的加重犯]])。すなわち、致傷については職権濫用罪又は暴行陵虐罪と[[傷害罪]]の法定刑を比べ、致死については職権濫用罪又は暴行陵虐罪と[[傷害致死罪]]の法定刑を比べ、下限・上限ともに重いほうを選ぶということである。具体的には、職権濫用致傷・拘禁者への暴行陵虐致傷の場合は「6月以上15年以下の懲役」、その他の暴行陵虐致傷の場合は「1月以上15年以下の懲役」であるが、職権濫用致死・暴行陵虐致死の場合は「3年以上の有期懲役」となり、[[裁判員裁判]]の対象となる。
=== 特別刑法における公務員による職権濫用の特殊な類型 ===
[[公安調査官]]や警察職員の職権濫用行為につき、[[破壊活動防止法]]45条や[[無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律]]42条・43条や[[犯罪捜査のための通信傍受に関する法律]]30条に規定がある。罰則は3年以下の懲役又は禁錮と規定されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|刑法各論}}
*[[特別公務員暴行陵虐罪]]
*[[濫用]]
*[[公務執行妨害罪]]
*[[逃走罪]]
*[[賄賂罪]]
*[[付審判制度]]
*[[汚職]]
*[[拷問]]
*[[冤罪]]
{{日本の刑法犯罪}}
{{嫌がらせ}}
{{law-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こうむいんしよつけんらんようさい}}
[[Category:日本の犯罪類型]]
[[Category:腐敗防止法]]
[[Category:日本の汚職事件|*こうむいんしよつけんらんようさい]]
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通貨偽造の罪
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通貨偽造の罪(つうかぎぞうのつみ)とは、日本国における犯罪類型のひとつであり、通貨を発行する権限の無い者が通貨、もしくはそれに類似する物体を偽造、変造などにより作成することを内容とする。刑法の第16章に定められている。通貨偽造罪(148条)、外国通貨偽造及び行使等罪(149条)・偽造通貨等収得罪(150条)および収得後知情行使等罪(152条)、通貨偽造等準備罪(153条)が含まれる。
偽造通貨の流通はその国の信用を揺るがし、最悪の場合、国家の転覆をも生じかねない性質を持つため、どの国においても金額の多少に関わらず重罰が課される。
通貨に対する社会の信用であるという説と、通貨を発行する者の発行権であるという説がある。判例は明確ではないが、前者に傾いている(最判昭和22年12月17日刑集1巻94頁)。
通貨偽造罪とは、行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造又は変造することを内容とする罪(148条1項)。日本国外において犯したすべての者にも適用される(2条4号、講学上のいわゆる保護主義)。無期又は3年以上の懲役に処すると、規定している。
流通におく目的が必要というのが判例・通説である(有価証券偽造罪の場合は、行使する目的で足りる)。他人をして流通におかせる目的でもよい(最判昭和34年6月30日刑集13巻6号985頁)。
偽造通貨行使等罪は、偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入する行為を内容とする(148条2項)。
判例により、両替(最決昭和32年4月25日)、他人に贈与(大判明治35年4月7日)、自動販売機への投入(東京高判昭和53年3月22日)の各行為は行使にあたるとされている。一方、偽造した通貨を自己の信用を示す為に見せること(見せ金行為)、偽造した通貨を犯罪の身代金等として渡す行為は本罪の行使にはあたらないとされる。
判例・通説によれば、行使の目的で、偽貨であると告げて相手に渡すか、偽貨であると知っている相手に渡す場合である(大判明治43年3月10日刑録16輯402頁)。偽貨であることを知らない相手に渡すのは行使罪を構成する。
行使の目的で、日本国内に流通している外国の通貨、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造する行為は、外国通貨偽造罪(149条1項)に該当し、偽造又は変造の外国の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入する行為は、偽造外国通貨行使等罪(149条2項)に該当する。
客体が異なる点を除けば、前述の通貨偽造罪や偽造通貨行使等罪の解釈がこれらの犯罪にも当てはまる。
貨幣・紙幣などを受け取った後で偽造の物と知り、あえてそれを使ったり他人に渡したりする罪。使った額面の3倍以下(最低2,001円)の罰金または科料に処せられる(152条)。
通貨偽造罪の予備行為のうち、貨幣、紙幣又は銀行券の偽造又は変造の用に供する目的で、器械又は原料を準備する行為に関しては、独立した犯罪類型(準備罪)が規定されている(153条)。
通貨偽造等準備罪以外の犯罪類型に関しては、未遂も処罰される(151条)。
2012年3月、鹿児島県鹿屋市で同市立西原小学校教頭(50歳)が、自宅のコピー機付きのインクジェットプリンターで作成した偽一万円札を宮崎県都城市のホテルで外国人の風俗嬢への支払いとして使用し、加えてつり銭まで受け取った。これに対し風俗店側が都城警察署に被害届を出し、教頭は逮捕された。犯行は、教頭が相手が風俗嬢であるので警察に被害を訴えないであろうと高をくくったことが裏目にでたものであった。同年7月、宮崎地裁において教頭に対し懲役3年、執行猶予4年の判決が言い渡された。高額の偽造紙幣を行使したにもかかわらず執行猶予が付いた理由として、被告が教職を懲戒免職となり社会的制裁を受けていること、偽札が精巧に偽造されたものとは言えず、その後流通しなかったことが判決理由で示された。
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"text": "判例・通説によれば、行使の目的で、偽貨であると告げて相手に渡すか、偽貨であると知っている相手に渡す場合である(大判明治43年3月10日刑録16輯402頁)。偽貨であることを知らない相手に渡すのは行使罪を構成する。",
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"text": "行使の目的で、日本国内に流通している外国の通貨、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造する行為は、外国通貨偽造罪(149条1項)に該当し、偽造又は変造の外国の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入する行為は、偽造外国通貨行使等罪(149条2項)に該当する。",
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"text": "客体が異なる点を除けば、前述の通貨偽造罪や偽造通貨行使等罪の解釈がこれらの犯罪にも当てはまる。",
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"text": "貨幣・紙幣などを受け取った後で偽造の物と知り、あえてそれを使ったり他人に渡したりする罪。使った額面の3倍以下(最低2,001円)の罰金または科料に処せられる(152条)。",
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"text": "通貨偽造罪の予備行為のうち、貨幣、紙幣又は銀行券の偽造又は変造の用に供する目的で、器械又は原料を準備する行為に関しては、独立した犯罪類型(準備罪)が規定されている(153条)。",
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"text": "通貨偽造等準備罪以外の犯罪類型に関しては、未遂も処罰される(151条)。",
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"text": "2012年3月、鹿児島県鹿屋市で同市立西原小学校教頭(50歳)が、自宅のコピー機付きのインクジェットプリンターで作成した偽一万円札を宮崎県都城市のホテルで外国人の風俗嬢への支払いとして使用し、加えてつり銭まで受け取った。これに対し風俗店側が都城警察署に被害届を出し、教頭は逮捕された。犯行は、教頭が相手が風俗嬢であるので警察に被害を訴えないであろうと高をくくったことが裏目にでたものであった。同年7月、宮崎地裁において教頭に対し懲役3年、執行猶予4年の判決が言い渡された。高額の偽造紙幣を行使したにもかかわらず執行猶予が付いた理由として、被告が教職を懲戒免職となり社会的制裁を受けていること、偽札が精巧に偽造されたものとは言えず、その後流通しなかったことが判決理由で示された。",
"title": "判例"
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] |
通貨偽造の罪(つうかぎぞうのつみ)とは、日本国における犯罪類型のひとつであり、通貨を発行する権限の無い者が通貨、もしくはそれに類似する物体を偽造、変造などにより作成することを内容とする。刑法の第16章に定められている。通貨偽造罪(148条)、外国通貨偽造及び行使等罪(149条)・偽造通貨等収得罪(150条)および収得後知情行使等罪(152条)、通貨偽造等準備罪(153条)が含まれる。 偽造通貨の流通はその国の信用を揺るがし、最悪の場合、国家の転覆をも生じかねない性質を持つため、どの国においても金額の多少に関わらず重罰が課される。
|
{{日本の犯罪
|罪名=通貨偽造の罪
|法律・条文=刑法148-153条
|保護法益=通貨に対する社会の信用
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|客体=各類型による
|実行行為=各類型による
|主観=故意犯(・目的犯)
|結果=挙動犯、抽象的危険犯
|実行の着手=各類型による
|既遂時期=各類型による
|法定刑=各類型による
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|}}
{{日本の刑法}}
{{ウィキプロジェクトリンク|刑法 (犯罪)}}
'''通貨偽造の罪'''(つうかぎぞうのつみ)とは、日本国における犯罪類型のひとつであり、[[通貨]]を発行する権限の無い者が通貨、もしくはそれに類似する物体を[[偽造]]、[[変造]]などにより作成することを内容とする。[[刑法 (日本)|刑法]]の[[b:コンメンタール刑法#2-16|第16章]]に定められている。通貨偽造罪(148条)、外国通貨偽造及び行使等罪(149条)・偽造通貨等収得罪(150条)および収得後知情行使等罪(152条)、通貨偽造等準備罪(153条)が含まれる。
[[偽造通貨]]の流通はその国の信用を揺るがし、最悪の場合、[[クーデター|国家の転覆]]をも生じかねない性質を持つため、どの国においても金額の多少に関わらず重罰が課される。
==保護法益==
通貨に対する社会の信用であるという説と、通貨を発行する者の発行権であるという説がある。判例は明確ではないが、前者に傾いている(最判昭和22年12月17日刑集1巻94頁)。
==犯罪類型==
===通貨偽造罪===
通貨偽造罪とは、行使の目的で、通用する[[貨幣]]、[[紙幣]]又は[[銀行券]]を偽造又は変造することを内容とする罪(148条1項)。日本国外において犯したすべての者にも適用される(2条4号、講学上のいわゆる[[保護主義]])。[[無期懲役|無期]]又は3年以上の[[懲役]]に処すると、規定している。
====行使の目的====
流通におく目的が必要というのが判例・通説である([[有価証券偽造罪]]の場合は、行使する目的で足りる)。他人をして流通におかせる目的でもよい(最判昭和34年6月30日刑集13巻6号985頁)。
===偽造通貨行使等罪===
偽造通貨行使等罪は、偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入する行為を内容とする(148条2項)。
====行使====
判例により、[[両替]](最決昭和32年4月25日)、他人に[[贈与]](大判明治35年4月7日)、[[自動販売機]]への投入(東京高判昭和53年3月22日)の各行為は行使にあたるとされている。一方、偽造した通貨を自己の信用を示す為に見せること(見せ金行為)、偽造した通貨を犯罪の[[身代金]]等として渡す行為は本罪の行使にはあたらないとされる。
====交付====
判例・通説によれば、行使の目的で、偽貨であると告げて相手に渡すか、偽貨であると知っている相手に渡す場合である(大判明治43年3月10日刑録16輯402頁)。偽貨であることを知らない相手に渡すのは行使罪を構成する。
===外国通貨偽造罪・偽造外国通貨行使等罪===
行使の目的で、日本国内に流通している[[外国]]の通貨、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造する行為は、外国通貨偽造罪(149条1項)に該当し、偽造又は変造の外国の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入する行為は、偽造外国通貨行使等罪(149条2項)に該当する。
客体が異なる点を除けば、前述の通貨偽造罪や偽造通貨行使等罪の解釈がこれらの犯罪にも当てはまる。
===収得後知情行使罪===
貨幣・紙幣などを受け取った後で偽造の物と知り、あえてそれを使ったり他人に渡したりする罪。使った額面の3倍以下(最低2,001円)の罰金または科料に処せられる(152条)。
===通貨偽造等準備罪===
通貨偽造罪の[[予備]]行為のうち、貨幣、紙幣又は銀行券の偽造又は変造の用に供する目的で、器械又は原料を準備する行為に関しては、独立した犯罪類型(準備罪)が規定されている(153条)。
==未遂罪==
通貨偽造等準備罪以外の犯罪類型に関しては、未遂も処罰される(151条)。
==罪数==
*通貨偽造罪と偽造通貨行使罪は[[牽連犯]]の関係に立つ。
*偽造通貨を行使して財物を得た場合、有価証券の場合と異なり、[[詐欺罪]]は[[不可罰的事後行為]]として(争いあり)行使罪に吸収される(大判明治43年6月30日)。
==判例==
2012年3月、[[鹿児島県]][[鹿屋市]]で同市立[[鹿屋市立西原小学校|西原小学校]][[教頭]](50歳)が、自宅のコピー機付きの[[インクジェットプリンター]]で作成した偽一万円札を[[宮崎県]][[都城市]]のホテルで外国人の[[風俗嬢]]への支払いとして使用し、加えて[[つり銭]]まで受け取った。これに対し風俗店側が[[都城警察署]]に被害届を出し、教頭は逮捕された。犯行は、教頭が相手が風俗嬢であるので警察に被害を訴えないであろうと高をくくったことが裏目にでたものであった。同年7月、[[宮崎地裁]]において教頭に対し[[懲役]]3年、[[執行猶予]]4年の判決が言い渡された。高額の偽造紙幣を行使したにもかかわらず執行猶予が付いた理由として、被告が教職を[[懲戒免職]]となり社会的制裁を受けていること、偽札が精巧に偽造されたものとは言えず、その後流通しなかったことが判決理由で示された<ref>「偽札を風俗に利用した元教頭に執行猶予付き判決・宮崎地裁」フジテレビ系(FNN)2012年7月12日(木)19時52分配信</ref><ref>「小学校教頭、風俗支払いに「自分で作った」偽札」『[[読売新聞]]』2012年4月3日</ref><ref>「50歳・教頭、ニセ札"買春"お釣りもらう」『[[スポーツ報知]]』2012年4月4日</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
{{Wikibooks|刑法各論}}
*[[偽札]]
*[[贋金]]
*[[通貨及証券模造取締法]]
*[[外国ニ於テ流通スル貨幣紙幣銀行券証券偽造変造及模造ニ関スル法律]]
*[[紙幣類似証券取締法]]
*[[すき入紙製造取締法]]
*[[子供銀行券]]
==参考文献==
*[[山中敬一]] 『刑法総論II』 成文堂、1999年。
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11,826 |
投資関数
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投資関数(とうしかんすう)は、経済学の概念の一つ。利子率と投資水準の関数。一般的に、投資は利子率の減少関数とみなして分析する。
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投資関数(とうしかんすう)は、経済学の概念の一つ。利子率と投資水準の関数。一般的に、投資は利子率の減少関数とみなして分析する。 利子率が下がれば、投資する額が上がる
利子率が上がれば、投資する額は下がる
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| 出典の明記 = 2019年9月
| 特筆性 = 2019年9月
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'''投資関数'''(とうしかんすう)は、[[経済学]]の概念の一つ。[[利子]]率と[[投資]]水準の[[関数 (数学)|関数]]。一般的に、投資は利子率の[[減少関数]]とみなして分析する。
* 利子率が下がれば、投資する額が上がる
* 利子率が上がれば、投資する額は下がる
== 関連項目 ==
*[[IS-LM分析]]
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11,829 |
無差別曲線
|
無差別曲線(むさべつきょくせん、英: indifference curve)は、消費者の選好関係の幾何学的表現で、同等に好ましい、または、同じ効用が得られる消費計画を結んだ曲線。等効用線ともいう。消費者行動の分析に用いられる。
選好関係が標準的な公理を満たすとき、無差別曲線は、右下がりで、原点に向かって凸の曲線となる。
一般的に消費者は、無差別曲線と予算線と無差別曲線が接するところ(最適消費計画と呼ぶ)で効用を最大化する。無差別曲線と予算線が接するということは、限界代替率が相対価格と等しくなることを意味する。
所得が変動したときの最適消費計画の軌跡を所得消費曲線と呼ぶ。 財の価格が変動したときの最適消費計画の軌跡を価格消費曲線と呼ぶ。
価格変動時における最適消費計画の移動は代替効果と所得効果に分解できる。代替効果とは、財の相対価格の変化による消費量の変化を示し、所得効果とは、価格変化がもたらす実質所得の変化による消費量の変化を示す。この分解はスルツキー分解と呼ばれ、スルツキー方程式で表される。
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財の価格が変動したときの最適消費計画の軌跡を価格消費曲線と呼ぶ。 価格変動時における最適消費計画の移動は代替効果と所得効果に分解できる。代替効果とは、財の相対価格の変化による消費量の変化を示し、所得効果とは、価格変化がもたらす実質所得の変化による消費量の変化を示す。この分解はスルツキー分解と呼ばれ、スルツキー方程式で表される。
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[[Image:ConsumersOptimum.png|thumb|right|200px|無差別曲線の例<br>青が無差別曲線、赤で示すものが予算線であり、ここでは<math>x^*</math>において効用が最大化している。]]
'''無差別曲線'''(むさべつきょくせん、{{lang-en-short|indifference curve}})は、[[消費者]]の[[選好|選好関係]]の幾何学的表現で、同等に好ましい、または、同じ[[効用]]が得られる消費計画を結んだ曲線。'''等効用線'''ともいう。消費者行動の分析に用いられる。
選好関係が標準的な公理を満たすとき、無差別曲線は、右下がりで、原点に向かって凸の曲線となる。
一般的に消費者は、無差別曲線と[[予算線]]と無差別曲線が接するところ('''最適消費計画'''と呼ぶ)で効用を最大化する。無差別曲線と予算線が接するということは、[[限界代替率]]が[[相対価格]]と等しくなることを意味する。
所得が変動したときの最適消費計画の軌跡を'''所得消費曲線'''と呼ぶ。
財の価格が変動したときの最適消費計画の軌跡を'''価格消費曲線'''と呼ぶ。
価格変動時における最適消費計画の移動は[[代替効果]]と[[所得効果]]に分解できる。代替効果とは、財の相対価格の変化による消費量の変化を示し、所得効果とは、価格変化がもたらす[[実質所得]]の変化による消費量の変化を示す。この分解はスルツキー分解と呼ばれ、[[スルツキー分解|スルツキー方程式]]で表される。<!--
== 参考文献 ==
* Bruce R. Beattie and Jeffrey T. LaFrance, "The Law of Demand versus Diminishing Marginal Utility" (2006). ''Review of Agricultural Economics''. 28 (2), pp. 263–271.
* Volker Böhm and Hans Haller (1987). "demand theory," ''The New Palgrave: A Dictionary of Economics'', v. 1, pp. 785–92.
* John Geanakoplos (1987). "Arrow-Debreu model of general equilibrium," ''The New Palgrave: A Dictionary of Economics'', v. 1, pp. 116–24.
* Binger and Hoffman (1998), ''Microeconomics with Calculus'', 2nd ed. Addison-Wesley.
* Perloff (2008). ''Microeconomics, theory & Applications with Calculus''. Addison-Wesley.
* Silberberg and Suen (2000). ''The Structure of Economics A Mathematical Analysis'', 3rd ed. McGraw-Hill.
* {{Cite book|title=An introduction to positive economics|edition=fourth|pages=214–7|first=Richard G.|last=Lipsey|year=1975|publisher=Weidenfeld & Nicolson | isbn=0-297-76899-9}}-->
== 関連項目 ==
* [[選好|選好関係]]
* [[効用|効用関数]]
* [[予算線]]
* [[代替効果]]
* [[所得効果]]
* [[スルツキー分解]]
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11,834 |
暫定予算
|
暫定予算(ざんていよさん)とは、年度開始までに本予算が成立しない場合に本予算の成立までの空白期間をつなぐために組んだ予算のこと。
予算編成が遅れたり、予算審議が長引いたりして本予算が会計年度の開始前に成立しない場合に組まれることが多い。10日間から2ヶ月程度の短期間での予算であり、新規事業費などを盛り込まず、経常的経費と公共事業の継続案件など必要最小限の予算に限られることが多い。議会の承認を受けて、暫定予算が成立する。
その後で本予算が成立すると、暫定予算は本予算に吸収される。
日本では財政法第30条により必要に応じて暫定予算を編成することができる。なお、当初予算又は暫定予算が年度開始前までに成立しなかった場合の予算空白について現行法では全く想定されていない。
かつては野党は国会の日程闘争により審議を長引かせ、政府に年度内成立を断念させることを「成果」としていたため、暫定予算が必要になることが多かった。1972年(昭和47年)~1992年(平成4年)度は21年連続で年度内成立ができなかったが、そのうち半数を超える12年で暫定予算が編成されている。しかし近年は、審議拒否戦術に対する世論の風当たりの強さもあり、野党は予算の成立を遅らせるよりも、審議内容で(首相出席の集中審議を増やすなどして)「実」を取る傾向が強く、予算の成立時期が大幅に遅れたり、暫定予算が編成されることは以前ほど見られなくなっている。近年の例では、野田内閣の2012年(平成24年)度に、補正予算審議が先行したことや政府の不手際から予算審議が遅れ、暫定予算が編成されたが、これは14年ぶりのことだった。1998年(平成10年)の時は橋本内閣のときに大蔵省接待汚職事件が発生して、国会審議が停滞したためである。
安倍内閣の2013年(平成25年)度、2015年(平成27年)度の予算審議にあたっても暫定予算が組まれたが、これはいずれも年末に衆院選(第46回衆議院議員総選挙と第47回衆議院議員総選挙)が行われ、予算編成が遅れたことによる。
なお、暫定予算に関する極端なケースとして1953年に本予算が成立しないまま3月14日に衆議院解散(バカヤロー解散)となり、3月20日に参議院の緊急集会で5月31日までの暫定予算を成立させ、5月30日に国会で6月30日までの暫定予算を成立され、6月30日に国会で7月31日までの暫定予算が成立させる形で、結果的に4月1日から7月31日までの暫定予算が組まれたことがある(最終的に本予算は7月30日に成立した)。また、1948年には暫定予算を4回にわたって編成して国会で成立させたことがある(4月1日に4月分の暫定予算を、4月5日に4月分の暫定補正予算を、5月1日に5月分の暫定予算を、5月28日に5月分の暫定予算が成立し、最終的に本予算は7月4日に成立した)。
また、1994年の細川内閣においては、政治改革関連法案の成立を優先したため予算案の提出自体が3月4日にずれ込み50日間の暫定予算を編成、しかしその後細川首相が退陣して羽田内閣が誕生するといった混乱から暫定予算が想定していた50日を経た5月20日になっても本予算の審議すら出来ず、更に40日間の「暫定予算の補正予算」を編成する事態となった。結局本予算は5月23日に審議入りし、6月23日に成立した。
大日本帝国時代は大日本帝国憲法第71条で本予算が年度開始前までに成立しなかった場合には前年度の予算がそのまま新年度予算として執行される規定があったため、暫定予算が生まれる余地が存在しなかった。
地方自治体は地方自治法第218条により本予算が年度開始前までに成立しなかった場合や地方公共団体の分置廃合があった場合など必要に応じて暫定予算を編成することができ、地方公共団体の首長は特に緊急を要するため議会を招集する時間的余裕がないことが明らかであると認めるときには、専決処分で暫定予算を成立させることができる。
日本放送協会の予算は放送法70条により国会の承認を受ける必要があるが、国会の承認が得られない場合は同法71条により総務大臣の認可によって3ヶ月以内の暫定予算を施行することができる。
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暫定予算(ざんていよさん)とは、年度開始までに本予算が成立しない場合に本予算の成立までの空白期間をつなぐために組んだ予算のこと。
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'''暫定予算'''(ざんていよさん)とは、年度開始までに本予算が成立しない場合に本予算の成立までの空白期間をつなぐために組んだ予算のこと<ref>朝日新聞出版「知恵蔵2007」</ref>。
== 概要 ==
予算編成が遅れたり、予算審議が長引いたりして[[本予算]]が会計年度の開始前に成立しない場合に組まれることが多い。10日間から2ヶ月程度の短期間での予算であり、新規事業費などを盛り込まず、経常的経費と公共事業の継続案件など必要最小限の予算に限られることが多い。議会の承認を受けて、暫定予算が成立する。
その後で本予算が成立すると、暫定予算は本予算に吸収される。
日本では[[財政法]]第30条により必要に応じて暫定予算を編成することができる。なお、当初予算又は暫定予算が年度開始前までに成立しなかった場合の[[予算空白]]について現行法では全く想定されていない。
かつては野党は国会の日程闘争により審議を長引かせ、政府に年度内成立を断念させることを「成果」としていたため、暫定予算が必要になることが多かった。1972年(昭和47年)~1992年(平成4年)度は21年連続で年度内成立ができなかったが、そのうち半数を超える12年で暫定予算が編成されている。しかし近年は、審議拒否戦術に対する世論の風当たりの強さもあり、野党は予算の成立を遅らせるよりも、審議内容で(首相出席の集中審議を増やすなどして)「実」を取る傾向が強く、予算の成立時期が大幅に遅れたり、暫定予算が編成されることは以前ほど見られなくなっている<ref>日本経済新聞2019年2月6日 「予算審議なぜ着々? 野党は統計問題で見せ場 与野党合意が布石」</ref>。近年の例では、[[野田内閣]]の2012年(平成24年)度に、補正予算審議が先行したことや政府の不手際から予算審議が遅れ、暫定予算が編成されたが、これは14年ぶりのことだった。1998年(平成10年)の時は[[橋本内閣]]のときに[[大蔵省接待汚職事件]]が発生して、国会審議が停滞したためである<ref>[http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201203220406.html 14年ぶりに暫定予算編成へ 政府・民主三役会議で了承]朝日新聞 2012年3月22日</ref>。
[[安倍内閣]]の2013年(平成25年)度、2015年(平成27年)度の予算審議にあたっても暫定予算が組まれたが、これはいずれも年末に衆院選([[第46回衆議院議員総選挙]]と[[第47回衆議院議員総選挙]])が行われ、予算編成が遅れたことによる。
なお、暫定予算に関する極端なケースとして[[1953年]]に本予算が成立しないまま3月14日に衆議院解散([[バカヤロー解散]])となり、3月20日に参議院の緊急集会で5月31日までの暫定予算を成立させ、5月30日に国会で6月30日までの暫定予算を成立され、6月30日に国会で7月31日までの暫定予算が成立させる形で、結果的に4月1日から7月31日までの暫定予算が組まれたことがある(最終的に本予算は7月30日に成立した)。また、1948年には暫定予算を4回にわたって編成して国会で成立させたことがある(4月1日に4月分の暫定予算を、4月5日に4月分の暫定補正予算を、5月1日に5月分の暫定予算を、5月28日に5月分の暫定予算が成立し、最終的に本予算は7月4日に成立した)。
また、1994年の細川内閣においては、[[政治改革四法|政治改革関連法案]]の成立を優先したため予算案の提出自体が3月4日にずれ込み50日間の暫定予算を編成、しかしその後細川首相が退陣して羽田内閣が誕生するといった混乱から暫定予算が想定していた50日を経た5月20日になっても本予算の審議すら出来ず、更に40日間の「暫定予算の補正予算」を編成する事態となった。結局本予算は5月23日に審議入りし、6月23日に成立した。
大日本帝国時代は[[大日本帝国憲法第71条]]で本予算が年度開始前までに成立しなかった場合には前年度の予算がそのまま新年度予算として執行される規定があったため、暫定予算が生まれる余地が存在しなかった。
地方自治体は[[地方自治法]]第218条により本予算が年度開始前までに成立しなかった場合や地方公共団体の分置廃合があった場合など必要に応じて暫定予算を編成することができ、地方公共団体の[[首長]]は特に緊急を要するため議会を招集する時間的余裕がないことが明らかであると認めるときには、[[専決処分]]で暫定予算を成立させることができる。
[[日本放送協会]]の予算は[[放送法]]70条により国会の承認を受ける必要があるが、国会の承認が得られない場合は同法71条により[[総務大臣]]の認可によって3ヶ月以内の暫定予算を施行することができる。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[予算]]
**[[本予算]](当初予算)
**[[補正予算]]
* [[予算空白]]
* [[政府閉鎖]]
* [[日切れ法案]]
== 外部リンク ==
* [https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/keizai_prism/backnumber/h30pdf/201817202.pdf 予算の成立時期に関わる諸問題] 参議院のHP
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シェケレ
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シェケレ(shekere, shekele)は、西アフリカ(ヨルバ族)起源の伝統的な民俗音楽の楽器で、大きな中空の瓢箪の周りに植物の種子・豆・ビーズ・貝などを通した網を編んで張り巡らせた打楽器。
ヨルバ語でシェケレ、キューバ(スペイン語)でチェケレ(Chequere)、ブラジル(ブラジルポルトガル語)でもヨルバ語由来のシェケレ(Xequere)ともいうが、実際はカバサ(cabasa、意味:瓢箪)と呼ばれる方が多い。奏法はさまざまで、マラカスのように振り回したり、叩いたりして、音を出し、リズムを取りながら演奏する。
アフリカでは、マリ共和国・ガーナ、ケニアなど多くの国で用いられている。ラテンアメリカではアフリカ音楽とともにキューバやブラジルに伝来し、アフロキューバ音楽・サルサ・ジャズなどのポピュラー音楽や、サンテリア(神々オリシャを崇める西アフリカ伝来の宗教儀式)などで用いられる。
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シェケレは、西アフリカ(ヨルバ族)起源の伝統的な民俗音楽の楽器で、大きな中空の瓢箪の周りに植物の種子・豆・ビーズ・貝などを通した網を編んで張り巡らせた打楽器。 ヨルバ語でシェケレ、キューバ(スペイン語)でチェケレ(Chequere)、ブラジル(ブラジルポルトガル語)でもヨルバ語由来のシェケレ(Xequere)ともいうが、実際はカバサ(cabasa、意味:瓢箪)と呼ばれる方が多い。奏法はさまざまで、マラカスのように振り回したり、叩いたりして、音を出し、リズムを取りながら演奏する。 アフリカでは、マリ共和国・ガーナ、ケニアなど多くの国で用いられている。ラテンアメリカではアフリカ音楽とともにキューバやブラジルに伝来し、アフロキューバ音楽・サルサ・ジャズなどのポピュラー音楽や、サンテリア(神々オリシャを崇める西アフリカ伝来の宗教儀式)などで用いられる。
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|英語名 = Shekere
|ドイツ語名 = Shekere
|フランス語名 = Shekere
|イタリア語名 = Shekere
|画像 = 画像:Shekere-2.jpg
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|画像の説明 = シェケレ([[ナツメヤシ]]を使ったもの)
|分類 = [[打楽器]]、[[楽器分類学#体鳴楽器|体鳴楽器]]
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'''シェケレ'''(shekere, shekele)は、[[西アフリカ]]([[ヨルバ族]])起源の伝統的な[[民俗音楽]]の[[楽器]]で、大きな中空の[[瓢箪]]の周りに植物の[[種子]]・[[豆]]・[[ビーズ]]・[[貝]]などを通した[[網]]を編んで張り巡らせた[[打楽器]]。
[[ヨルバ語]]でシェケレ、キューバ([[スペイン語]])で'''チェケレ'''(Chequere)、ブラジル([[ブラジルポルトガル語]])でもヨルバ語由来のシェケレ(Xequere)ともいうが、実際は[[カバサ]](cabasa、意味:瓢箪)と呼ばれる方が多い。[[奏法]]はさまざまで、[[マラカス]]のように振り回したり、叩いたりして、[[音]]を出し、[[リズム]]を取りながら演奏する。
[[アフリカ]]では、[[マリ共和国]]・[[ガーナ]]、[[ケニア]]など多くの国で用いられている。[[ラテンアメリカ]]では[[アフリカ音楽]]とともに[[キューバ]]や[[ブラジル]]に伝来し、[[アフロキューバ音楽]]・[[サルサ (音楽)|サルサ]]・[[ジャズ]]などの[[ポピュラー音楽]]や、[[サンテリア]](神々[[オリシャ]]を崇める西アフリカ伝来の[[宗教儀式]])などで用いられる。
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== 関連項目 ==
*[[カバサ]]
== 外部リンク ==
* [http://blog.drumcrazy.co.uk/blog/_archives/2007/2/21/2753616.html "How to play a shekere (video)."]{{リンク切れ|date=2014年5月}} - シェケレの演奏法(英語)
* [http://www.youtube.com/watch?v=YerES5koG6s "Shekere instructional video"] - シェケレ入門ビデオ(英語)
* [http://sekere.com/ Build Your Own or Buy a Custom Sekere - All things Sekere at sekere.com]
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[[Category:アフリカの楽器]]
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本願寺の歴史
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本願寺の歴史(ほんがんじのれきし)では、親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院である「本願寺」の歴史を、本願寺が東西に分立するまでの時期について述べる。
弘長2年(1262年 )11月28日(グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、親鸞は京都の押小路南、万里小路東(おしこうじみなみ、までのこうじひがし。現在の京都市中京区柳馬場通押小路下ル)の「善法院」において入滅する。享年90(満89歳)。
後に、覚如によって「宗祖」(「開祖」)に定められる。
翌29日午後8時に葬送。下野国高田の顕智、遠江国池田の専信なども上洛し参列。東山鳥辺野(とりべの)の南、「延仁寺」で荼毘にふす。
翌30日拾骨。鳥辺野の北「大谷」に墓所を築き納骨する。
「大谷廟堂」の詳細については、「大谷廟堂」を参照。
文永9年(1272年)、親鸞の弟子や東国(関東)の門徒の協力を得た覚信尼(親鸞の末娘)により、親鸞の墓所を「大谷」の地より「吉水の北の辺」に改葬し「大谷廟堂」を建立する。
建治3年(1277年)、大谷廟堂の管理・護持する「留守職」(るすしき)は覚信尼が当たる。
弘安3年 (1280年)、覚信尼とその子覚恵(親鸞の孫)の依頼により、如信(親鸞の孫)が大谷廟堂の法灯を継ぐ。
しかし寺務は覚信尼・覚恵に委任し、陸奥国にある大網の草庵に戻り布教活動を続ける(『大谷本願寺通紀』)。
如信は、親鸞の祥月忌のため毎年上洛し、その際に覚如(親鸞の曾孫)に対して宗義を教える。後に、覚如によって如信は「本願寺第二世」に定められる。
弘安6年(1283年)、覚信尼の入滅にともない、覚恵が大谷廟堂の「留守職」を継承する。
永仁3年(1295年)、親鸞の「御影像」を安置・影堂化し「大谷影堂」となる。
正安4年(1302年)、覚恵と唯善(親鸞の孫で覚恵とは異父弟)の間に起こった大谷廟堂の留守職就任問題(唯善事件)が勃発する。
延慶2年(1309年)7月、青蓮院により覚恵の長男である覚如が継承することと裁定が下される。敗れた唯善は「大谷廟堂」を徹底的に破壊して鎌倉へ逃亡する。
延慶3年(1310年)、覚如が東国(関東)の門徒の了承を得て、大谷廟堂の「留守職」を継承する。(~1314年、1322年~1338年、1342年~1350年〈委譲・復職を繰返す。〉) このことから、大谷廟堂が寺院化した後も、本願寺法主は血縁によって継承されるようになる。
延慶4年/応長元年(1311年)、覚如は親鸞の五十回忌に当たり「御影像」と影堂を再建する。
応長2年(1312年)、覚如は「大谷影堂」(「大谷廟堂」)を寺格化しようと「専修寺」と額を掲げるが、延暦寺の反対により撤去する。『存覚一期記』によると、高田門徒の真仏上人の門弟である法智がこの「専修寺」の額を下野国にある高田の如来堂に持ち帰ったという。後に如来堂は専修寺に名称を改めている。
正和3年(1314年)、存覚が留守職を継承する。(~1322年、1338年~1342年)その後、覚如により、解任・復職を繰返す(義絶事件)。
元亨元年(1321年)、覚如が再度寺院化を試み、「本願寺」と号し成立する。これより後、本願寺教団は移転時に「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになる。(便宜上、「大谷本願寺」と呼称される場合もある。)「本願寺」の寺号は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)が由来であるとされる。寺院化にともなって、覚如はそれまで影堂(廟堂)に掛けられていた帰命尽十方無碍光如来の十字名号を本尊とするのではなく、新たに木造の阿弥陀如来立像を本尊にしようとしたが、高田門徒の反対にあい、十字名号が本尊とされた。
覚如は、親鸞の門弟・門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図する。
元弘元年(1331年)、覚如は『口伝鈔』を著し、「三代伝持の血脈(けちみゃく)」を表明し、法灯継承を主張する(法脈...法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如、血統...親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)。
自らを、「本願寺第三世」とし、親鸞を「宗祖」(「開祖」)、如信を「本願寺第二世」に定める。
しかし現実問題として、長年培ってきた経済力、場合によっては軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院に対抗して京都の中で独自の教団を打ち立てる事は困難であった。
正和以後も元徳2年(1330年)・観応3年(1352年)・嘉慶2年(1388年)にも弾圧を受けており、浄土真宗の他派が東国などで勢力を広めている間にも、逆に本願寺のみは衰退して延暦寺の支配下にあった青蓮院の末寺として延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されているという状況であった。
ただし、こうした通説に対して、太田壮一郎は親鸞が青蓮院で九条家出身の青蓮院門跡慈円の下で出家した縁で当初は一条家(九条家の支流)および青蓮院とつながりが深い妙香院門跡の候人となったこと、妙香院が15世紀(本願寺では蓮如の継承前後)に衰退して青蓮院に吸収されたために青蓮院の傘下に移ったこと、候人は門跡に近侍・奉公する立場であるが教義的な拘束はなく、妙香院や青蓮院が本願寺の教義に干渉した記録はない一方で、むしろ延暦寺による法難の際には最後まで本願寺を擁護し続けた事実を指摘して、本願寺が青蓮院の末寺であったとまでは言えず、反対に妙香院・青蓮院による庇護があったとしている。
観応元年(1350年)、存覚は覚如と和解するも、本願寺別当職(留守職に住持職を含めた役)には復職せずに甥の善如に委譲する。
浄土真宗は弱小勢力であった本願寺を横目に、親鸞の門弟たちの教団によって発展していった。
関東では真仏・顕智の系統をひく高田門徒(専修寺を中心とする)・荒木門徒・和田門徒が、他にも鹿島門徒・伊達門徒・横曽根門徒が有力であった。特に高田門徒は非常に盛んであった。
了源の教団は、京都の佛光寺を中心にして「名帳」・「絵系図」によって近畿で発展をとげる。
また、北陸では如道を祖とする三門徒が勢いを持っていた。
康応2年/明徳元年(1390年)、綽如が「本願寺」を継承し第五世になるも、まもなく寺務は法嗣である第2子の巧如に委任する。また、綽如によって本尊が帰命尽十方無碍光如来の十字名号から木造阿弥陀如来立像に変更された。
綽如は越中(富山県)井波に瑞泉寺を建立する。
明徳4年(1393年)4月24日、瑞泉寺にて第五世綽如が入滅する。
応永元年(1394年)、綽如入滅にともない、寺務を委任されていた巧如が「本願寺」を継承し第六世となる。巧如は本堂に阿弥陀如来立像と親鸞御影像の両方を安置させている現状に不満を感じ、阿弥陀如来は阿弥陀堂に、御影像は御影堂に祀るべきだと考えたが、資金がなく実現しなかった。
第六世巧如も瑞泉寺で北陸への教化を行う。つづく第七世存如の時代により発展し、近江(滋賀県)・加賀(石川県)・能登(石川県)・越前(福井県)などで本願寺教団の形成がみられるようになる。
本願寺は、近江や北陸地方を中心に徐々にではあるが教線を拡張する。
本願寺第八世 蓮如の生涯についての詳細は、蓮如「生涯」の節を参照。
応永22年(1415年)、存如の長男・蓮如(幼名・布袋丸)誕生する。
永享8年(1436年)、巧如は長男の存如に本願寺を委譲し、存如が第七世となる。また、存如により、本願寺に阿弥陀堂と御影堂の両堂が建てられた。だがこの時の無理が影響し、本願寺の財政は逼迫する。
長禄元年(1457年)6月18日、存如が入滅する。存如の妻如円尼は実子の蓮照に継職させようと計るものの、存如の弟如乗の支持によって、蓮如が本願寺を継承し第八世となる。
継承当時の本願寺は衰亡の極みにあり、青蓮院の一末寺でしかなく、蓮如の支援者となる堅田本福寺の法住らが参拝しようとした際に、余りにも寂れた本願寺の有様に呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。
そのころ京都は土一揆で騒然。翌々年には大飢饉で、加茂川が餓死者で埋まる。諸国は戦乱が絶えず、深刻な様相を呈していた。
寛正6年(1465年)、本願寺(大谷本願寺)は延暦寺西塔の衆徒によって破却される(寛正の法難)。この法難に遭うまで「本願寺」はこの地にあった。
文明3年(1471年)、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。
社会は徐々に進展し、民衆が力を得た。農村の生産力の増大と、荘園領主の没落で、農民の地位はしだいに向上し、やがて自治的な惣村をつくる。
蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な教化を開始した。蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は、近畿から東海地方に拡がりをみせる。特に近江(滋賀県)では広く帰依し、無碍光本尊が普及するようになる。
文明6年(1474年)、加賀国の守護職を世襲する富樫氏の内紛で、富樫政親から支援の依頼を受ける。
蓮如は、対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。
だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢が生じるようになる。
更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては諸説ある)。
文明7年(1475年)8月21日、蓮如は争いを鎮静化させるため一揆を扇動した下間蓮崇を破門し吉崎を退去する。
小浜、丹波、摂津を経て河内(大阪府)の出口に居を定めた。出口(現在の光善寺)を拠点に積極的な布教を開始。
浄土・聖道諸宗の僧俗が多く帰依する。
文明10年(1478年)、蓮如は出口から山科へおもむき、翌年1月本願寺造営に着手する。
文明13年(1481年)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流する。
経豪は蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。
文明14年(1482年)には真宗出雲路派毫摂寺第八世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて蓮如に合流する。
文明15年(1483年)8月22日、「本願寺」(「山科本願寺」)」が落成する。
伽藍の整備と平行し、寺の周辺に多数の民家が営まれ、寺内町が形成され、諸国から参詣人や各職種の人たちが集い、京都市中をしのぐ賑わいをみせるようになる。
本願寺の教線は、東北から九州にいたる全国にのびた。さらに中国大陸北部の契丹人も教えを求めて来日した。蓮如によって本願寺は日本有数の大教団に成長する。
長享2年(1488年)〜天正8年(1580年)、加賀国の本願寺門徒らが中心による「加賀一向一揆」が起こる。
延徳元年(1489年)、蓮如は5男の実如に本願寺を委譲し、実如が第九世となる。
明応2年(1493年)、真宗木辺派錦織寺の第七代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の40か所の門徒を引き連れて蓮如に合流する。
明応6年(1497年)、蓮如は隠居所として、大坂石山に「大坂御坊」(後の大坂本願寺)を建立する。
明応7年(1498年)11月22日付の蓮如の『御文(御文章)』四帖の十五に、「大坂」という地名が史料にはじめて現れる。
「そもそも當國摂州東成郡生玉に荘内大坂といふ在所は往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、年はやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。」
明応8年(1499年)3月25日、山科本願寺にて蓮如入滅する。
第九世実如・第十世証如・第十一世顕如が本願寺宗主(現在西本願寺では「門主」と言っている)を務める100年間は、戦国混乱の時期にあたる。
本願寺は、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となる。
この間に、教勢は著しく発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたる。
明応9年(1500年)、実如の長男照如、22歳で入寂。
永正年間。
越前(福井県)の朝倉氏の内紛に加賀(石川県)の門徒が介入(九頭竜川の戦いなど)。
永正元年(1504年)、相模(神奈川県)の後北条氏は、この年から50年間にわたって領内の真宗を禁ずる。
永正3年(1506年)、近畿・北陸・東海で、本願寺門徒が一斉に蜂起する。
永正4年(1507年)、家督相続候補の1人が養父である管領細川政元を暗殺(永正の錯乱)。
蓮如以来、政元と親交があった本願寺としては、紛争に巻き込まれることを恐れ、実如と宗祖真影は近江堅田に避難する。
永正6年(1509年)、実如、山科本願寺に戻る。
永正13年(1516年)、後柏原天皇の勅願寺となる。
永正18年(1521年)、越後(新潟県)の長尾氏、本願寺門徒を禁圧する。
永正18年(1521年)8月20日、円如(実如の次男)、32歳で示寂。
大永5年(1525年)2月2日、第九世実如の遷化にともない、孫の証如が本願寺を継承し第十世となる。
享禄5年(1532年)6月、細川晴元の要請を受けた証如は、近畿の門徒2万人を動員して畠山氏・三好氏連合を撃破(飯盛山城の戦い)。堺公方も滅亡。
ところが天文に改元後の同年8月、蜂起させた晴元は本願寺を見限り、法華一揆と結託して一向一揆との全面対決に及んだ。
晴元派の京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍の焼き討ちによって、同月12日に大津顕証寺を、同月24日には山科本願寺を焼失する(山科本願寺の戦い)。
そのため寺基を大坂石山の「大坂御坊」へ移し、「大坂本願寺」(「石山本願寺」)と号する。
「大坂御坊」は、蓮如の隠居所として建立された小規模な坊舎であったが、この頃には拡大されていて、寺内町も形成されていた。
天文10年(1541年)、朝倉氏との間で和談。
天文22年(1553年)、長尾景虎(上杉謙信)は京都への通路を確保するため本願寺と和解。
天文23年(1554年)8月13日 、第十世証如の入滅にともない、顕如が本願寺を継承し第十一世となる。
弘治2年(1556年)、朝倉氏との間で講和成立。
永禄2年(1559年)、顕如、門跡に列せられる。以前より、本願寺は青蓮院門跡の傘下とみなされていたが、証如・蓮如が2代続けて九条家の猶子となったことや青蓮院門跡が一時的に空位になっていたのを機に自立した門跡になれるように朝廷に工作、顕如の叔父・庭田重保の奔走で法相・天台・真言寺院以外では異例の門跡宣下を受けた。
下間氏が坊官、三河本宗寺・播磨本徳寺・河内顕証寺が院家となる。
永禄6年(1563年)、三河(愛知県)の本願寺門徒、徳川家康と争い、翌年に和睦。これ以後、徳川家康は領国内の本願寺門徒を禁圧。解禁と成ったのは、20年後の天正11年(1583年)。
薩摩(鹿児島県)の島津氏、明治初年まで禁教を継続。
永禄9年(1566年)、後北条氏が禁教を解除。上杉謙信と対抗するための連携を目的とするとされているが、禁教が実施されたのが確認できるのは享禄年間までで、天文年間以後善福寺や勝願寺(古河公方領、永禄年間に後北条氏支配下に入る)などの活動は許されていることから、この頃には形骸化していたとみられている。
永禄11年(1568年)、織田信長、京都に入る。
永禄12年(1569年)、顕如の次男顕尊が入寺した興正寺は脇門跡に任ぜられる。
元亀元年(1570年)9月12日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初、顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦する。
石山合戦の頃から、「大坂本願寺」は、「石山御坊」と呼ばれるようになる。
合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となる。
天正8年(1580年)3月、正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れた顕如は、信長との和議に応じる。顕如ら穏健派は石山本願寺から紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠する。しかし、信長を信用せぬ教如は徹底抗戦を主張したため、顕如から義絶されるが、それでもなお「石山本願寺」に籠城する(大坂拘様)。
同年8月2日、近衛前久の退去説得に応じた教如は、「石山本願寺」を信長に明け渡す。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ灰燼と化す。退去に応じただけで強硬姿勢を緩めぬ教如は、その後も強硬派への支持を募る。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長自害。
同年6月23日、顕如、後陽成天皇から教如の赦免を提案される。
同年6月27日、教如は、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助する。
天正11年 (1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築かれる。
同年(1583年)、宗祖真影を奉じて、和泉の貝塚にある石山本願寺の末寺であった寺(のちの願泉寺)に移る。(「貝塚本願寺」)
天正13年(1585年)5月、豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(てんま)に移る。同年8月にまず阿弥陀堂を建て、翌年の8月には十間四面の御影堂が落成する。(大坂天満本願寺)
天正19年(1591年)、豊臣秀吉から京都へ再び寺地の寄進を受け、8月、御影堂を天満から移築する。
天正20年(1592年)7月、阿弥陀堂を新築し「本願寺」が完成する。しかし教団の内部分裂は継続する。
文禄元年(1592年)11月24日、顕如の入滅にともない、教如が本願寺を継承する。この時、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったため、教団内の対立に発展する。
穏健派と顕如の室如春尼(教如の実母)は、顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の准如に継職させるよう直訴。
この訴えを受けた秀吉は、文禄2年(1593年)閏9月12日、教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。
つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の准如に本願寺宗主を譲る旨の命が下される。
教如はこの命に従おうとしたが、周辺の強硬派坊官たちが、秀吉に異義を申し立て、譲り状の真贋を言い立てたため秀吉の怒りを買い、「今すぐ退隠せよ」との命が下される。同年閏9月16日、准如が本願寺宗主を継承し、第十二世となる事が決定する。
教如は本願寺北東の一角に退隠させられ、「裏方」と称せられる。引退後も教如は精力的に布教活動にいそしみ、なお本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行っている。のちの本願寺分立の芽は着々と育っていた。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉歿。
関ヶ原の戦い後、かねてから家康によしみを通じていた教如は家康にさらに接近する。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移しここを本拠とする。
「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世宗主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代宗主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂することになる。
ただし教如の身分は死ぬまで公式には「本願寺隠居」であって必ずしも本願寺が分立したとは言い切れない。
つまり形の上では七条堀川の本願寺の境内の一角に構えていた教如の隠居所(本願寺境内の三分の一を占め阿弥陀堂や御影堂もあった)を、六条烏丸に移させたにすぎない。東本願寺が正式に一派をなすのは次の宣如のときからである。
慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が開かれる。
七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになる。
一説によると、幕府は、准如が関ヶ原の戦いに際して西軍側についたため准如に代えて教如を宗主に就けようとしたが、教如自身がこれを受けなかった。
この時、本多正信が、「本願寺は、現実には表方(准如派)と裏方(教如派)に分かれているのだから無理に一本化する必要はない」との意見を述べたため教如への継職を止め、別に寺地を与えることに決したという。
正信はさらに「天下ノ御為ニモヨロシカルベク存じ奉る」と続けているから(「宇野新蔵覚書」「事書」)、そこに幕府の狙い・つまり本願寺を分立させて教団の力を削ぐという意図が隠されていたことが読み取れる。
現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。
徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。
東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺と興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。
現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。
また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による。
東西分立以降も昭和62年(1987年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である。
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"text": "弘長2年(1262年 )11月28日(グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、親鸞は京都の押小路南、万里小路東(おしこうじみなみ、までのこうじひがし。現在の京都市中京区柳馬場通押小路下ル)の「善法院」において入滅する。享年90(満89歳)。",
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"text": "翌29日午後8時に葬送。下野国高田の顕智、遠江国池田の専信なども上洛し参列。東山鳥辺野(とりべの)の南、「延仁寺」で荼毘にふす。",
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"text": "「大谷廟堂」の詳細については、「大谷廟堂」を参照。",
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"text": "文永9年(1272年)、親鸞の弟子や東国(関東)の門徒の協力を得た覚信尼(親鸞の末娘)により、親鸞の墓所を「大谷」の地より「吉水の北の辺」に改葬し「大谷廟堂」を建立する。",
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"text": "建治3年(1277年)、大谷廟堂の管理・護持する「留守職」(るすしき)は覚信尼が当たる。",
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"text": "弘安3年 (1280年)、覚信尼とその子覚恵(親鸞の孫)の依頼により、如信(親鸞の孫)が大谷廟堂の法灯を継ぐ。",
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"text": "しかし寺務は覚信尼・覚恵に委任し、陸奥国にある大網の草庵に戻り布教活動を続ける(『大谷本願寺通紀』)。",
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"text": "如信は、親鸞の祥月忌のため毎年上洛し、その際に覚如(親鸞の曾孫)に対して宗義を教える。後に、覚如によって如信は「本願寺第二世」に定められる。",
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"text": "弘安6年(1283年)、覚信尼の入滅にともない、覚恵が大谷廟堂の「留守職」を継承する。",
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"text": "永仁3年(1295年)、親鸞の「御影像」を安置・影堂化し「大谷影堂」となる。",
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"text": "正安4年(1302年)、覚恵と唯善(親鸞の孫で覚恵とは異父弟)の間に起こった大谷廟堂の留守職就任問題(唯善事件)が勃発する。",
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"text": "延慶2年(1309年)7月、青蓮院により覚恵の長男である覚如が継承することと裁定が下される。敗れた唯善は「大谷廟堂」を徹底的に破壊して鎌倉へ逃亡する。",
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"text": "延慶3年(1310年)、覚如が東国(関東)の門徒の了承を得て、大谷廟堂の「留守職」を継承する。(~1314年、1322年~1338年、1342年~1350年〈委譲・復職を繰返す。〉) このことから、大谷廟堂が寺院化した後も、本願寺法主は血縁によって継承されるようになる。",
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"text": "延慶4年/応長元年(1311年)、覚如は親鸞の五十回忌に当たり「御影像」と影堂を再建する。",
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"text": "応長2年(1312年)、覚如は「大谷影堂」(「大谷廟堂」)を寺格化しようと「専修寺」と額を掲げるが、延暦寺の反対により撤去する。『存覚一期記』によると、高田門徒の真仏上人の門弟である法智がこの「専修寺」の額を下野国にある高田の如来堂に持ち帰ったという。後に如来堂は専修寺に名称を改めている。",
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"text": "正和3年(1314年)、存覚が留守職を継承する。(~1322年、1338年~1342年)その後、覚如により、解任・復職を繰返す(義絶事件)。",
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"text": "元亨元年(1321年)、覚如が再度寺院化を試み、「本願寺」と号し成立する。これより後、本願寺教団は移転時に「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになる。(便宜上、「大谷本願寺」と呼称される場合もある。)「本願寺」の寺号は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)が由来であるとされる。寺院化にともなって、覚如はそれまで影堂(廟堂)に掛けられていた帰命尽十方無碍光如来の十字名号を本尊とするのではなく、新たに木造の阿弥陀如来立像を本尊にしようとしたが、高田門徒の反対にあい、十字名号が本尊とされた。",
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"text": "覚如は、親鸞の門弟・門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図する。",
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"text": "元弘元年(1331年)、覚如は『口伝鈔』を著し、「三代伝持の血脈(けちみゃく)」を表明し、法灯継承を主張する(法脈...法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如、血統...親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)。",
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"text": "自らを、「本願寺第三世」とし、親鸞を「宗祖」(「開祖」)、如信を「本願寺第二世」に定める。",
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"text": "しかし現実問題として、長年培ってきた経済力、場合によっては軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院に対抗して京都の中で独自の教団を打ち立てる事は困難であった。",
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"text": "正和以後も元徳2年(1330年)・観応3年(1352年)・嘉慶2年(1388年)にも弾圧を受けており、浄土真宗の他派が東国などで勢力を広めている間にも、逆に本願寺のみは衰退して延暦寺の支配下にあった青蓮院の末寺として延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されているという状況であった。",
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"text": "ただし、こうした通説に対して、太田壮一郎は親鸞が青蓮院で九条家出身の青蓮院門跡慈円の下で出家した縁で当初は一条家(九条家の支流)および青蓮院とつながりが深い妙香院門跡の候人となったこと、妙香院が15世紀(本願寺では蓮如の継承前後)に衰退して青蓮院に吸収されたために青蓮院の傘下に移ったこと、候人は門跡に近侍・奉公する立場であるが教義的な拘束はなく、妙香院や青蓮院が本願寺の教義に干渉した記録はない一方で、むしろ延暦寺による法難の際には最後まで本願寺を擁護し続けた事実を指摘して、本願寺が青蓮院の末寺であったとまでは言えず、反対に妙香院・青蓮院による庇護があったとしている。",
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"text": "観応元年(1350年)、存覚は覚如と和解するも、本願寺別当職(留守職に住持職を含めた役)には復職せずに甥の善如に委譲する。",
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"text": "関東では真仏・顕智の系統をひく高田門徒(専修寺を中心とする)・荒木門徒・和田門徒が、他にも鹿島門徒・伊達門徒・横曽根門徒が有力であった。特に高田門徒は非常に盛んであった。",
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"text": "了源の教団は、京都の佛光寺を中心にして「名帳」・「絵系図」によって近畿で発展をとげる。",
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"text": "また、北陸では如道を祖とする三門徒が勢いを持っていた。",
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"text": "康応2年/明徳元年(1390年)、綽如が「本願寺」を継承し第五世になるも、まもなく寺務は法嗣である第2子の巧如に委任する。また、綽如によって本尊が帰命尽十方無碍光如来の十字名号から木造阿弥陀如来立像に変更された。",
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"text": "綽如は越中(富山県)井波に瑞泉寺を建立する。",
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"text": "明徳4年(1393年)4月24日、瑞泉寺にて第五世綽如が入滅する。",
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"text": "応永元年(1394年)、綽如入滅にともない、寺務を委任されていた巧如が「本願寺」を継承し第六世となる。巧如は本堂に阿弥陀如来立像と親鸞御影像の両方を安置させている現状に不満を感じ、阿弥陀如来は阿弥陀堂に、御影像は御影堂に祀るべきだと考えたが、資金がなく実現しなかった。",
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"text": "第六世巧如も瑞泉寺で北陸への教化を行う。つづく第七世存如の時代により発展し、近江(滋賀県)・加賀(石川県)・能登(石川県)・越前(福井県)などで本願寺教団の形成がみられるようになる。",
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"text": "本願寺は、近江や北陸地方を中心に徐々にではあるが教線を拡張する。",
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"text": "本願寺第八世 蓮如の生涯についての詳細は、蓮如「生涯」の節を参照。",
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"text": "応永22年(1415年)、存如の長男・蓮如(幼名・布袋丸)誕生する。",
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"text": "永享8年(1436年)、巧如は長男の存如に本願寺を委譲し、存如が第七世となる。また、存如により、本願寺に阿弥陀堂と御影堂の両堂が建てられた。だがこの時の無理が影響し、本願寺の財政は逼迫する。",
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"text": "長禄元年(1457年)6月18日、存如が入滅する。存如の妻如円尼は実子の蓮照に継職させようと計るものの、存如の弟如乗の支持によって、蓮如が本願寺を継承し第八世となる。",
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"text": "継承当時の本願寺は衰亡の極みにあり、青蓮院の一末寺でしかなく、蓮如の支援者となる堅田本福寺の法住らが参拝しようとした際に、余りにも寂れた本願寺の有様に呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。",
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"text": "そのころ京都は土一揆で騒然。翌々年には大飢饉で、加茂川が餓死者で埋まる。諸国は戦乱が絶えず、深刻な様相を呈していた。",
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"text": "寛正6年(1465年)、本願寺(大谷本願寺)は延暦寺西塔の衆徒によって破却される(寛正の法難)。この法難に遭うまで「本願寺」はこの地にあった。",
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"text": "文明3年(1471年)、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。",
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"title": "中興の祖・蓮如"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては諸説ある)。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "文明7年(1475年)8月21日、蓮如は争いを鎮静化させるため一揆を扇動した下間蓮崇を破門し吉崎を退去する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "小浜、丹波、摂津を経て河内(大阪府)の出口に居を定めた。出口(現在の光善寺)を拠点に積極的な布教を開始。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "浄土・聖道諸宗の僧俗が多く帰依する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 54,
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"text": "文明10年(1478年)、蓮如は出口から山科へおもむき、翌年1月本願寺造営に着手する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "文明13年(1481年)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 56,
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"text": "経豪は蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "文明14年(1482年)には真宗出雲路派毫摂寺第八世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて蓮如に合流する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "文明15年(1483年)8月22日、「本願寺」(「山科本願寺」)」が落成する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "伽藍の整備と平行し、寺の周辺に多数の民家が営まれ、寺内町が形成され、諸国から参詣人や各職種の人たちが集い、京都市中をしのぐ賑わいをみせるようになる。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "本願寺の教線は、東北から九州にいたる全国にのびた。さらに中国大陸北部の契丹人も教えを求めて来日した。蓮如によって本願寺は日本有数の大教団に成長する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "長享2年(1488年)〜天正8年(1580年)、加賀国の本願寺門徒らが中心による「加賀一向一揆」が起こる。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "延徳元年(1489年)、蓮如は5男の実如に本願寺を委譲し、実如が第九世となる。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "明応2年(1493年)、真宗木辺派錦織寺の第七代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の40か所の門徒を引き連れて蓮如に合流する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "明応6年(1497年)、蓮如は隠居所として、大坂石山に「大坂御坊」(後の大坂本願寺)を建立する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "明応7年(1498年)11月22日付の蓮如の『御文(御文章)』四帖の十五に、「大坂」という地名が史料にはじめて現れる。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "「そもそも當國摂州東成郡生玉に荘内大坂といふ在所は往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、年はやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。」",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "明応8年(1499年)3月25日、山科本願寺にて蓮如入滅する。",
"title": "中興の祖・蓮如"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "第九世実如・第十世証如・第十一世顕如が本願寺宗主(現在西本願寺では「門主」と言っている)を務める100年間は、戦国混乱の時期にあたる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "本願寺は、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "この間に、教勢は著しく発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "明応9年(1500年)、実如の長男照如、22歳で入寂。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "永正年間。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "越前(福井県)の朝倉氏の内紛に加賀(石川県)の門徒が介入(九頭竜川の戦いなど)。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "永正元年(1504年)、相模(神奈川県)の後北条氏は、この年から50年間にわたって領内の真宗を禁ずる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "永正3年(1506年)、近畿・北陸・東海で、本願寺門徒が一斉に蜂起する。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "永正4年(1507年)、家督相続候補の1人が養父である管領細川政元を暗殺(永正の錯乱)。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "蓮如以来、政元と親交があった本願寺としては、紛争に巻き込まれることを恐れ、実如と宗祖真影は近江堅田に避難する。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "永正6年(1509年)、実如、山科本願寺に戻る。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "永正13年(1516年)、後柏原天皇の勅願寺となる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "永正18年(1521年)、越後(新潟県)の長尾氏、本願寺門徒を禁圧する。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "永正18年(1521年)8月20日、円如(実如の次男)、32歳で示寂。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "大永5年(1525年)2月2日、第九世実如の遷化にともない、孫の証如が本願寺を継承し第十世となる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 83,
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"text": "享禄5年(1532年)6月、細川晴元の要請を受けた証如は、近畿の門徒2万人を動員して畠山氏・三好氏連合を撃破(飯盛山城の戦い)。堺公方も滅亡。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ところが天文に改元後の同年8月、蜂起させた晴元は本願寺を見限り、法華一揆と結託して一向一揆との全面対決に及んだ。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "晴元派の京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍の焼き討ちによって、同月12日に大津顕証寺を、同月24日には山科本願寺を焼失する(山科本願寺の戦い)。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "そのため寺基を大坂石山の「大坂御坊」へ移し、「大坂本願寺」(「石山本願寺」)と号する。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "「大坂御坊」は、蓮如の隠居所として建立された小規模な坊舎であったが、この頃には拡大されていて、寺内町も形成されていた。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "天文10年(1541年)、朝倉氏との間で和談。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "天文22年(1553年)、長尾景虎(上杉謙信)は京都への通路を確保するため本願寺と和解。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "天文23年(1554年)8月13日 、第十世証如の入滅にともない、顕如が本願寺を継承し第十一世となる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "弘治2年(1556年)、朝倉氏との間で講和成立。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "永禄2年(1559年)、顕如、門跡に列せられる。以前より、本願寺は青蓮院門跡の傘下とみなされていたが、証如・蓮如が2代続けて九条家の猶子となったことや青蓮院門跡が一時的に空位になっていたのを機に自立した門跡になれるように朝廷に工作、顕如の叔父・庭田重保の奔走で法相・天台・真言寺院以外では異例の門跡宣下を受けた。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "下間氏が坊官、三河本宗寺・播磨本徳寺・河内顕証寺が院家となる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "永禄6年(1563年)、三河(愛知県)の本願寺門徒、徳川家康と争い、翌年に和睦。これ以後、徳川家康は領国内の本願寺門徒を禁圧。解禁と成ったのは、20年後の天正11年(1583年)。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "薩摩(鹿児島県)の島津氏、明治初年まで禁教を継続。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "永禄9年(1566年)、後北条氏が禁教を解除。上杉謙信と対抗するための連携を目的とするとされているが、禁教が実施されたのが確認できるのは享禄年間までで、天文年間以後善福寺や勝願寺(古河公方領、永禄年間に後北条氏支配下に入る)などの活動は許されていることから、この頃には形骸化していたとみられている。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "永禄11年(1568年)、織田信長、京都に入る。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "永禄12年(1569年)、顕如の次男顕尊が入寺した興正寺は脇門跡に任ぜられる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "元亀元年(1570年)9月12日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初、顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦する。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "石山合戦の頃から、「大坂本願寺」は、「石山御坊」と呼ばれるようになる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "天正8年(1580年)3月、正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れた顕如は、信長との和議に応じる。顕如ら穏健派は石山本願寺から紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠する。しかし、信長を信用せぬ教如は徹底抗戦を主張したため、顕如から義絶されるが、それでもなお「石山本願寺」に籠城する(大坂拘様)。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "同年8月2日、近衛前久の退去説得に応じた教如は、「石山本願寺」を信長に明け渡す。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ灰燼と化す。退去に応じただけで強硬姿勢を緩めぬ教如は、その後も強硬派への支持を募る。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長自害。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "同年6月23日、顕如、後陽成天皇から教如の赦免を提案される。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "同年6月27日、教如は、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助する。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "天正11年 (1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築かれる。",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "同年(1583年)、宗祖真影を奉じて、和泉の貝塚にある石山本願寺の末寺であった寺(のちの願泉寺)に移る。(「貝塚本願寺」)",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "天正13年(1585年)5月、豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(てんま)に移る。同年8月にまず阿弥陀堂を建て、翌年の8月には十間四面の御影堂が落成する。(大坂天満本願寺)",
"title": "戦国時代の本願寺"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "天正19年(1591年)、豊臣秀吉から京都へ再び寺地の寄進を受け、8月、御影堂を天満から移築する。",
"title": "京都移転"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "天正20年(1592年)7月、阿弥陀堂を新築し「本願寺」が完成する。しかし教団の内部分裂は継続する。",
"title": "京都移転"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "文禄元年(1592年)11月24日、顕如の入滅にともない、教如が本願寺を継承する。この時、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったため、教団内の対立に発展する。",
"title": "京都移転"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "穏健派と顕如の室如春尼(教如の実母)は、顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の准如に継職させるよう直訴。",
"title": "教如退隠"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "この訴えを受けた秀吉は、文禄2年(1593年)閏9月12日、教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。",
"title": "教如退隠"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の准如に本願寺宗主を譲る旨の命が下される。",
"title": "教如退隠"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "教如はこの命に従おうとしたが、周辺の強硬派坊官たちが、秀吉に異義を申し立て、譲り状の真贋を言い立てたため秀吉の怒りを買い、「今すぐ退隠せよ」との命が下される。同年閏9月16日、准如が本願寺宗主を継承し、第十二世となる事が決定する。",
"title": "教如退隠"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "教如は本願寺北東の一角に退隠させられ、「裏方」と称せられる。引退後も教如は精力的に布教活動にいそしみ、なお本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行っている。のちの本願寺分立の芽は着々と育っていた。",
"title": "教如退隠"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "慶長3年(1598年)8月18日、秀吉歿。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "関ヶ原の戦い後、かねてから家康によしみを通じていた教如は家康にさらに接近する。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移しここを本拠とする。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世宗主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代宗主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂することになる。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "ただし教如の身分は死ぬまで公式には「本願寺隠居」であって必ずしも本願寺が分立したとは言い切れない。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "つまり形の上では七条堀川の本願寺の境内の一角に構えていた教如の隠居所(本願寺境内の三分の一を占め阿弥陀堂や御影堂もあった)を、六条烏丸に移させたにすぎない。東本願寺が正式に一派をなすのは次の宣如のときからである。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が開かれる。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになる。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "一説によると、幕府は、准如が関ヶ原の戦いに際して西軍側についたため准如に代えて教如を宗主に就けようとしたが、教如自身がこれを受けなかった。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "この時、本多正信が、「本願寺は、現実には表方(准如派)と裏方(教如派)に分かれているのだから無理に一本化する必要はない」との意見を述べたため教如への継職を止め、別に寺地を与えることに決したという。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "正信はさらに「天下ノ御為ニモヨロシカルベク存じ奉る」と続けているから(「宇野新蔵覚書」「事書」)、そこに幕府の狙い・つまり本願寺を分立させて教団の力を削ぐという意図が隠されていたことが読み取れる。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺と興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による。",
"title": "本願寺分立"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "東西分立以降も昭和62年(1987年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である。",
"title": "東西分立後"
}
] |
本願寺の歴史(ほんがんじのれきし)では、親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院である「本願寺」の歴史を、本願寺が東西に分立するまでの時期について述べる。
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'''本願寺の歴史'''(ほんがんじのれきし)では、[[親鸞]]を[[宗祖]]とする[[浄土真宗]]の寺院である「'''[[本願寺]]'''」の歴史を、本願寺が東西に分立するまでの時期について述べる。
== 親鸞の入滅 ==
[[弘長]]2年([[1262年]]<ref group="注釈">弘長2年11月28日…西暦([[ユリウス暦]]・グレゴリオ暦換算ともに)「1263年」になるが、弘長2年はまだ年を越していないので「1262年」と考える。
よって、文献の「親鸞の示寂」の年の西暦を、和暦に基づいて「1262年」と表記する場合と、新暦に基づいて「1263年」と表記する場合があるので注意が必要である。</ref> )[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]([[先発グレゴリオ暦|グレゴリオ暦換算]] [[1263年]][[1月16日]]<ref group="注釈">[[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]・[[真宗高田派|高田派]]などでは、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、命日を1月16日に改めた。</ref>)、親鸞は京都の押小路南、万里小路東(おしこうじみなみ、までのこうじひがし。現在の京都市中京区柳馬場通押小路下ル)の「善法院」において[[入滅]]する。[[享年]]90(満89歳)。
後に、[[覚如]]によって「宗祖」(「開祖」)に定められる。
翌29日午後8時に葬送。[[下野国]]高田の[[顕智]]、[[遠江国]]池田の[[専信]]なども上洛し参列。東山[[鳥辺野]](とりべの)の南、「[[延仁寺]]」で荼毘にふす。
翌30日拾骨。鳥辺野の北「大谷」に墓所を築き納骨する。
== 廟堂建立 ==
「大谷廟堂」の詳細については、「[[大谷廟堂]]」を参照。
[[文永]]9年([[1272年]])、親鸞の弟子や東国(関東)の門徒の協力を得た[[覚信尼]](親鸞の末娘)により、親鸞の墓所を「大谷」の地より「吉水の北の辺<ref group="注釈">吉水の北の辺…現在の[[東山区]]林下町 [[知恩院]][[塔頭]]の「[[崇泰院]]」付近</ref>」に改葬し「'''[[大谷廟堂]]'''」を建立する。
[[建治]]3年([[1277年]])、大谷廟堂の管理・護持する「留守職」(るすしき)は覚信尼が当たる。
[[弘安]]3年 ([[1280年]])、覚信尼とその子[[覚恵 (浄土真宗)|覚恵]](親鸞の孫)の依頼により、[[如信]](親鸞の孫)が大谷廟堂の法灯を継ぐ。
しかし寺務は覚信尼・覚恵に委任し、[[陸奥国]]にある大網の草庵<ref group="注釈">大網の草庵…大網の草庵は、後に寺格化され「願入寺」となる。</ref>に戻り布教活動を続ける<ref>参考文献…河野法雲・雲山龍珠 監修『真宗辞典』法藏館、新装版、P.605「如信」</ref>(『大谷本願寺通紀』)。
如信は、親鸞の祥月忌のため毎年上洛し、その際に[[覚如]](親鸞の曾孫)に対して宗義を教える。後に、覚如によって如信は「本願寺第二世」に定められる。
弘安6年([[1283年]])、覚信尼の入滅にともない、覚恵が大谷廟堂の「留守職」を継承する。
[[永仁]]3年([[1295年]])、親鸞の「御影像」を安置・影堂化し「大谷影堂」となる。
[[正安]]4年([[1302年]])、覚恵と[[唯善]](親鸞の孫で覚恵とは[[兄弟姉妹#異父母兄弟姉妹|異父弟]])の間に起こった大谷廟堂の留守職就任問題([[唯善事件]])が勃発する。
[[延慶 (日本)|延慶]]2年([[1309年]])7月、[[青蓮院]]<ref group="注釈">大田壮一郎論文(2005年、P19-23)によれば、妙香院が正しいとされる。</ref>により覚恵の長男である覚如が継承することと裁定が下される。敗れた唯善は「大谷廟堂」を徹底的に破壊して鎌倉へ逃亡する。
延慶3年([[1310年]])、覚如が東国(関東)の門徒の了承を得て、大谷廟堂の「留守職」を継承する。(~[[1314年]]、[[1322年]]~[[1338年]]、[[1342年]]~[[1350年]]〈委譲・復職を繰返す。〉) このことから、大谷廟堂が寺院化した後も、本願寺法主は血縁によって継承されるようになる。
延慶4年/[[応長]]元年([[1311年]])、覚如は親鸞の五十回忌に当たり「御影像」と影堂を再建する。
応長2年([[1312年]])、覚如は「大谷影堂」(「大谷廟堂」)を寺格化しようと「専修寺」と額を掲げるが、[[延暦寺]]の反対により撤去する。『[[存覚]]一期記』によると、[[真宗高田派|高田門徒]]の[[真仏]]上人の門弟である法智がこの「専修寺」の額を[[下野国]]にある高田の如来堂に持ち帰ったという。後に如来堂は[[専修寺]]に名称を改めている。
[[正和]]3年([[1314年]])、存覚が留守職を継承する。(~[[1322年]]、[[1338年]]~[[1342年]])その後、覚如により、解任・復職を繰返す([[義絶事件]])。
== 本願寺成立 ==
[[元亨]]元年([[1321年]])、覚如が再度寺院化を試み、「'''本願寺'''」と号し成立する。これより後、本願寺教団は移転時に「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになる。(便宜上、「'''大谷本願寺'''」と呼称される場合もある。)「本願寺」の寺号は、13世紀に[[親鸞]]の廟堂に対して[[亀山天皇]]より下賜された「'''久遠実成阿弥陀本願寺'''」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)が由来であるとされる。寺院化にともなって、覚如はそれまで影堂(廟堂)に掛けられていた帰命尽十方無碍光如来の十字名号を本尊とするのではなく、新たに木造の阿弥陀如来立像を本尊にしようとしたが、高田門徒の反対にあい、十字名号が本尊とされた。
{{indent|覚如は、親鸞の門弟・門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図する。}}
[[元弘]]元年([[1331年]])、覚如は『[[口伝鈔]]』を著し、「三代伝持の血脈(けちみゃく)」を表明し、法灯継承を主張する(法脈…法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如、血統…親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)。
自らを、「本願寺第三世」とし、親鸞を「宗祖」(「開祖」)、如信を「本願寺第二世」に定める。
{{indent|しかし現実問題として、長年培ってきた経済力、場合によっては軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院に対抗して京都の中で独自の教団を打ち立てる事は困難であった。
正和以後も[[元徳]]2年([[1330年]])・[[観応]]3年([[1352年]])・[[嘉慶_(日本)|嘉慶]]2年([[1388年]])にも弾圧を受けており、浄土真宗の他派が東国などで勢力を広めている間にも、逆に本願寺のみは衰退して延暦寺の支配下にあった[[青蓮院]]の末寺として延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されているという状況であった。
ただし、こうした通説に対して、太田壮一郎は親鸞が青蓮院で[[九条家]]出身の青蓮院門跡[[慈円]]の下で出家した縁で当初は一条家(九条家の支流)および青蓮院とつながりが深い[[妙香院]]門跡の候人となったこと、妙香院が15世紀(本願寺では[[蓮如]]の継承前後)に衰退して青蓮院に吸収されたために青蓮院の傘下に移ったこと、候人は門跡に近侍・奉公する立場であるが教義的な拘束はなく、妙香院や青蓮院が本願寺の教義に干渉した記録はない一方で、むしろ延暦寺による法難の際には最後まで本願寺を擁護し続けた事実を指摘して、本願寺が青蓮院の末寺であったとまでは言えず、反対に妙香院・青蓮院による庇護があったとしている<ref>大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年) ISBN 4-7924-0589-0 p11-40</ref>。}}
[[観応]]元年([[1350年]])、存覚は覚如と和解するも、本願寺別当職(留守職に住持職を含めた役)には復職せずに甥の[[善如]]に委譲する。
== 浄土真宗の発展と本願寺教団の形成 ==
浄土真宗は弱小勢力であった本願寺を横目に、親鸞の門弟たちの教団によって発展していった。
関東では[[真仏]]・[[顕智]]の系統をひく高田門徒([[専修寺]]を中心とする)・荒木門徒・和田門徒が、他にも鹿島門徒・伊達門徒・横曽根門徒が有力であった。特に高田門徒は非常に盛んであった。
[[了源]]の教団は、京都の[[佛光寺]]を中心にして「名帳」・「絵系図」によって近畿で発展をとげる。
また、北陸では[[如道]]を祖とする[[真宗三門徒派|三門徒]]が勢いを持っていた。
[[康応]]2年/[[明徳]]元年([[1390年]])、[[綽如]]が「本願寺」を継承し第五世になるも、まもなく寺務は法嗣である第2子の[[巧如]]に委任する。また、綽如によって本尊が帰命尽十方無碍光如来の十字名号から木造阿弥陀如来立像に変更された。
綽如は[[越中国|越中]]([[富山県]])井波に[[真宗大谷派井波別院瑞泉寺|瑞泉寺]]を建立する。
明徳4年([[1393年]])[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]、瑞泉寺にて第五世綽如が入滅する。
[[応永]]元年([[1394年]])、綽如入滅にともない、寺務を委任されていた巧如が「本願寺」を継承し第六世となる。巧如は本堂に阿弥陀如来立像と親鸞御影像の両方を安置させている現状に不満を感じ、阿弥陀如来は阿弥陀堂に、御影像は御影堂に祀るべきだと考えたが、資金がなく実現しなかった。
{{indent|第六世巧如も瑞泉寺で北陸への教化を行う。つづく第七世[[存如]]の時代により発展し、[[近江国|近江]]([[滋賀県]])・[[加賀国|加賀]]([[石川県]])・[[能登国|能登]](石川県)・[[越前国|越前]]([[福井県]])などで本願寺教団の形成がみられるようになる。}}
本願寺は、近江や[[北陸地方]]を中心に徐々にではあるが教線を拡張する。
== 中興の祖・蓮如 ==
本願寺第八世 [[蓮如]]の生涯についての詳細は、[[蓮如#生涯|蓮如「生涯」]]の節を参照。
[[応永]]22年([[1415年]])、存如の長男・[[蓮如|蓮如(幼名・布袋丸)]]誕生する<ref group="注釈">蓮如…大谷派では、「[[ハス|{{JIS2004フォント|蓮}}]]」の字は[[辵部#一点之繞と二点之繞|「{{JIS2004フォント|辶}}」(二点之繞)]]を用いて表記するのが正式であるため、「'''{{JIS2004フォント|蓮}}如'''」と表記するのが正式である</ref>。
[[永享]]8年([[1436年]])、巧如は長男の[[存如]]に本願寺を委譲し、存如が第七世となる。また、存如により、本願寺に阿弥陀堂と御影堂の両堂が建てられた。だがこの時の無理が影響し、本願寺の財政は逼迫する。
[[長禄]]元年([[1457年]])[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]、存如が入滅する。存如の妻[[如円尼]]は実子の[[蓮照]]に継職させようと計るものの、存如の弟[[如乗]]の支持によって、蓮如が本願寺を継承し第八世となる。
継承当時の本願寺は衰亡の極みにあり、青蓮院の一末寺でしかなく、蓮如の支援者となる[[堅田 (大津市)|堅田]][[本福寺 (大津市)|本福寺]]の法住らが参拝しようとした際に、余りにも寂れた本願寺の有様に呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。
{{indent|そのころ京都は[[土一揆]]で騒然。翌々年には大飢饉で、加茂川が餓死者で埋まる。諸国は戦乱が絶えず、深刻な様相を呈していた。}}
[[寛正]]6年([[1465年]])、本願寺([[大谷本願寺]])は延暦寺西塔の衆徒によって破却される(寛正の法難)。この法難に遭うまで「本願寺」はこの地にあった。
[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)[[吉崎御坊|吉崎]]に移り布教する。
{{indent|社会は徐々に進展し、民衆が力を得た。農村の生産力の増大と、荘園領主の没落で、農民の地位はしだいに向上し、やがて自治的な惣村をつくる。
蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な教化を開始した。蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は、近畿から東海地方に拡がりをみせる。特に近江(滋賀県)では広く帰依し、無碍光本尊が普及するようになる。}}
文明6年([[1474年]])、[[加賀国]]の[[守護|守護職]]を世襲する[[富樫氏]]の内紛で、[[富樫政親]]から支援の依頼を受ける。
蓮如は、対立する[[富樫幸千代]]が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。
だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢が生じるようになる。
更に蓮如の配下だった[[下間蓮崇]]が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては諸説ある)。
文明7年([[1475年]])[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]、蓮如は争いを鎮静化させるため一揆を扇動した下間蓮崇を破門し吉崎を退去する。
[[小浜市|小浜]]、[[丹波国|丹波]]、[[摂津国|摂津]]を経て[[河内国|河内]]([[大阪府]])の出口に居を定めた。出口(現在の[[光善寺 (枚方市)|光善寺]])を拠点に積極的な布教を開始。
浄土・聖道諸宗の僧俗が多く帰依する。
文明10年([[1478年]])、蓮如は出口から[[山科区|山科]]へおもむき、翌年1月本願寺造営に着手する。
文明13年([[1481年]])、[[真宗佛光寺派]][[佛光寺]]の法主であった[[蓮教|経豪]]が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流する。
経豪は蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、[[興正寺]]([[真宗興正派]])を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。
文明14年([[1482年]])には[[真宗出雲路派]][[毫摂寺]]第八世で[[真宗山元派]][[證誠寺 (鯖江市)|證誠寺]]の住持でもあった[[善鎮]]が門徒を引き連れて蓮如に合流する。
文明15年([[1483年]])[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]、'''[[山科本願寺|「本願寺」(「山科本願寺」)]]」が落成する。
{{indent|伽藍の整備と平行し、寺の周辺に多数の民家が営まれ、寺内町が形成され、諸国から参詣人や各職種の人たちが集い、京都市中をしのぐ賑わいをみせるようになる。}}
{{indent|本願寺の教線は、東北から九州にいたる全国にのびた。さらに中国大陸北部の[[契丹]]人も教えを求めて来日した。蓮如によって本願寺は日本有数の大教団に成長する。}}
{{indent|[[長享]]2年([[1488年]])〜[[天正]]8年([[1580年]])、加賀国の本願寺門徒らが中心による「[[加賀一向一揆]]」が起こる。}}
[[延徳]]元年([[1489年]])、蓮如は5男の[[実如]]に本願寺を委譲し、実如が第九世となる。
[[明応]]2年([[1493年]])、[[真宗木辺派]][[錦織寺]]の第七代[[慈賢]]の孫[[勝恵]]が[[伊勢国]]・[[伊賀国]]・[[大和国]]の40か所の門徒を引き連れて蓮如に合流する。
明応6年([[1497年]])、蓮如は隠居所として、大坂石山に「大坂御坊」(後の[[石山本願寺|大坂本願寺]])を建立する。
{{indent|明応7年([[1498年]])[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]付の蓮如の『[[御文]](御文章)』四帖の十五に、「大坂」という地名が史料にはじめて現れる。}}
{{indent|「そもそも當國摂州東成郡生玉に荘内大坂といふ在所は往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、年はやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。」}}
明応8年([[1499年]])[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]、山科本願寺にて蓮如入滅する。
== 戦国時代の本願寺 ==
第九世[[実如]]・第十世[[証如]]・第十一世[[顕如]]が本願寺[[宗主]](現在東本願寺では「[[門主]]」と言っている)を務める100年間は、戦国混乱の時期にあたる。
本願寺は、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となる。
この間に、教勢は著しく発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたる。
[[明応]]9年([[1500年]])、[[実如]]の長男[[照如]]、22歳で入寂。
{{indent|永正年間。
越前(福井県)の[[朝倉氏]]の内紛に加賀(石川県)の門徒が介入([[九頭竜川の戦い]]など)。}}
{{indent|[[永正]]元年([[1504年]])、[[相模国|相模]](神奈川県)の[[後北条氏]]は、この年から50年間にわたって領内の[[浄土真宗|真宗]]を禁ずる。}}
{{indent|永正3年([[1506年]])、近畿・北陸・東海で、本願寺門徒が一斉に蜂起する。}}
永正4年([[1507年]])、家督相続候補の1人が養父である[[管領]][[細川政元]]を暗殺([[永正の錯乱]])。
蓮如以来、政元と親交があった本願寺としては、紛争に巻き込まれることを恐れ、[[実如]]と宗祖真影は近江堅田に避難する。
永正6年([[1509年]])、[[実如]]、山科本願寺に戻る。
永正13年([[1516年]])、[[後柏原天皇]]の[[勅願寺]]となる。
{{indent|永正18年([[1521年]])、[[越後国|越後]]([[新潟県]])の[[長尾氏]]、本願寺門徒を禁圧する。}}
永正18年([[1521年]])[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]、[[円如]](実如の次男)、32歳で示寂。
[[大永]]5年([[1525年]])[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]、第九世[[実如]]の遷化にともない、孫の[[証如]]が本願寺を継承し第十世となる。
[[享禄]]5年([[1532年]])6月、[[細川晴元]]の要請を受けた証如は、近畿の門徒2万人を動員して[[畠山氏]]・[[三好氏]]連合を撃破([[飯盛山城#飯盛城の戦い|飯盛山城の戦い]])。[[堺公方]]も滅亡。
{{indent|ところが[[天文 (元号)|天文]]に改元後の同年8月、蜂起させた晴元は本願寺を見限り、[[法華一揆]]と結託して[[一向一揆]]との全面対決に及んだ。}}
{{indent|晴元派の京都の[[日蓮宗]]徒と近江の[[六角定頼]]の連合軍の焼き討ちによって、同月12日に大津顕証寺を、同月24日には山科本願寺を焼失する([[山科本願寺の戦い]])。}}
{{indent|そのため寺基を大坂石山の「大坂御坊」へ移し、'''[[石山本願寺|「大坂本願寺」(「石山本願寺」)]]'''と号する。
「大坂御坊」は、蓮如の隠居所として建立された小規模な坊舎であったが、この頃には拡大されていて、寺内町も形成されていた。}}
天文10年([[1541年]])、朝倉氏との間で和談。
天文22年([[1553年]])、長尾景虎([[上杉謙信]])は京都への通路を確保するため本願寺と和解。
天文23年([[1554年]])[[8月13日 (旧暦)|8月13日]] 、第十世[[証如]]の入滅にともない、[[顕如]]が本願寺を継承し第十一世となる。
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])、朝倉氏との間で講和成立。
[[永禄]]2年([[1559年]])、顕如、[[門跡]]に列せられる。以前より、本願寺は青蓮院門跡の傘下とみなされていたが、証如・蓮如が2代続けて[[九条家]]の猶子となったことや青蓮院門跡が一時的に空位になっていたのを機に自立した門跡になれるように朝廷に工作、顕如の叔父・[[庭田重保]]の奔走で[[法相宗|法相]]・[[天台宗|天台]]・[[真言宗|真言]]寺院以外では異例の門跡宣下を受けた<ref>太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。
{{indent|[[下間氏]]が坊官、三河本宗寺・[[亀山本徳寺|播磨本徳寺]]・[[顕証寺 (八尾市) |河内顕証寺]]が[[院家]]となる。}}
{{indent|永禄6年([[1563年]])、[[三河国|三河]]([[愛知県]])の本願寺[[門徒]]、[[徳川家康]]と争い、翌年に和睦。これ以後、[[徳川家康]]は領国内の本願寺門徒を禁圧。解禁と成ったのは、20年後の[[天正]]11年([[1583年]])。}}
{{indent|[[薩摩国|薩摩]]([[鹿児島県]])の[[島津氏]]、[[明治]]初年まで禁教を継続。}}
永禄9年([[1566年]])、後北条氏が禁教を解除。上杉謙信と対抗するための連携を目的とするとされているが、禁教が実施されたのが確認できるのは[[享禄]]年間までで、天文年間以後[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]や[[勝願寺 (古河市)|勝願寺]](古河公方領、永禄年間に後北条氏支配下に入る)などの活動は許されていることから、この頃には形骸化していたとみられている。<ref>阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年
、第三章第三節「関東公方と一向一揆」</ref>
永禄11年([[1568年]])、[[織田信長]]、京都に入る。
永禄12年([[1569年]])、顕如の次男[[顕尊]]が入寺した[[興正寺]]は脇門跡に任ぜられる。
[[元亀]]元年([[1570年]])[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「[[石山合戦]]」が始まる。合戦当初、顕如は長男・[[教如]]とともに信長と徹底抗戦する。
{{indent|石山合戦の頃から、「大坂本願寺」は、「石山御坊」と呼ばれるようになる。}}
{{indent|合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となる。}}
[[天正]]8年([[1580年]])3月、[[正親町天皇]]の勅使・[[近衛前久]]の仲介による講和を受け入れた顕如は、信長との和議に応じる。顕如ら穏健派は石山本願寺から[[紀伊国|紀伊]]鷺森('''[[本願寺鷺森別院|鷺森本願寺]]''')へ退隠する。しかし、信長を信用せぬ<ref group="注釈" name="shinyou">[[長島一向一揆]]において、信長は和睦成立後に、反故し一揆勢を虐殺した前例があるため。</ref>教如は徹底抗戦を主張したため、顕如から義絶<ref group="注釈" name="gizetsu">信長の目を逸らすための顕如の策略との説もある。</ref>されるが、それでもなお「石山本願寺」に籠城する(大坂拘様)。
同年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]、近衛前久の退去説得に応じた教如は、「石山本願寺」を信長に明け渡す。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ灰燼と化す。退去に応じただけで強硬姿勢を緩めぬ教如は、その後も強硬派への支持を募る。
{{indent|天正10年([[1582年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]、[[本能寺の変]]が起こり、信長自害。}}
同年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]、顕如、[[後陽成天皇]]から教如の赦免を提案される。
同年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]、教如は、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助する。
{{indent|天正11年 ([[1583年]])、石山本願寺跡地を含む一帯に[[豊臣秀吉]]によって[[大坂城]]が築かれる。}}
同年([[1583年]])、宗祖真影を奉じて、[[和泉国|和泉]]の貝塚にある石山本願寺の末寺であった寺(のちの[[願泉寺 (貝塚市)|願泉寺]])に移る。(「'''貝塚本願寺'''」)
天正13年([[1585年]])5月、豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(てんま)に移る。同年8月にまず阿弥陀堂を建て、翌年の8月には十間四面の御影堂が落成する。('''[[天満本願寺|大坂天満本願寺]]''')
== 京都移転 ==
天正19年([[1591年]])、豊臣秀吉から京都へ再び寺地の寄進を受け、8月、御影堂を天満から移築する。
天正20年([[1592年]])7月、阿弥陀堂を新築し「'''本願寺'''」が完成する。しかし教団の内部分裂は継続する。
[[文禄]]元年([[1592年]])[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]、[[顕如]]の入滅にともない、教如が本願寺を継承する。この時、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったため、教団内の対立に発展する。
== 教如退隠 ==
穏健派と顕如の室[[教光院如春尼|如春尼]](教如の実母)は、顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の[[准如]]に継職させるよう直訴。
この訴えを受けた秀吉は、文禄2年([[1593年]])[[閏月|閏]][[9月12日 (旧暦)|9月12日]]、教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。
# 大坂ニ居スワラレ候事。
# 信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。
# 太閤様の御代ニテ、雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラレ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ、天満ヨリ七条ヘ遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。
# 当門跡<ref group="注釈" name="kyounyo">教如の事。</ref>不行儀のこと、先門跡<ref group="注釈" name="kennyo">顕如の事。</ref>時ヨリ連レント申上候事。
# 代ユヅリ状コレアル事、先代<ref group="注釈" name="kennyo"/>ヨリユヅリ状モコレアル由ノ事。
# 先門跡<ref group="注釈" name="kennyo"/>セツカンノ者メシ出サレ候事。
# メシ出サレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届キニ思シ候事。
# 当門主<ref group="注釈" name="kyounyo"/>妻女ノ事。
# ソコ心ヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡ノゴトク殊勝ニタシマミ申スベキ事。
# 右ノゴトクタシナミ候ハバ、十年家ヲモチ、十年メニ理門<ref group="注釈" name="jyunnyo">准如の事。</ref>ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタ手ウチノ仰付ラレ様ニテ候得共、新門跡<ref group="注釈" name="jyunnyo"/>コノウチ御目ヲカケラレ候間、カクノゴドク由ニ候。
# 心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ、三千国無役ニ下サルベク候アイダ、御茶ノ湯トモダチナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。
つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の准如に本願寺宗主を譲る旨の命が下される。
教如はこの命に従おうとしたが、周辺の強硬派坊官たちが、秀吉に異義を申し立て、譲り状の真贋を言い立てたため秀吉の怒りを買い、「今すぐ退隠せよ」との命が下される。同年閏[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]、准如が本願寺宗主を継承し、第十二世となる事が決定する。
教如は本願寺北東の一角に退隠させられ、「裏方」と称せられる。引退後も教如は精力的に布教活動にいそしみ、なお本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行っている。のちの本願寺分立の芽は着々と育っていた。
== 本願寺分立 ==
[[慶長]]3年([[1598年]])[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]、秀吉歿。
[[関ヶ原の戦い]]後、かねてから家康によしみを通じていた[[教如]]は家康にさらに接近する。
慶長7年(1602年)、[[後陽成天皇]]の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移しここを本拠とする。
「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世宗主とする[[西本願寺|本願寺]]教団」(現在の[[浄土真宗本願寺派]])と、「教如を十二代宗主とする[[東本願寺|本願寺]]教団」(現在の[[真宗大谷派]])とに分裂することになる。
ただし教如の身分は死ぬまで公式には「本願寺隠居」であって必ずしも本願寺が分立したとは言い切れない。
つまり形の上では七条堀川の本願寺の境内の一角に構えていた教如の隠居所(本願寺境内の三分の一を占め阿弥陀堂や御影堂もあった)を、六条烏丸に移させたにすぎない。東本願寺が正式に一派をなすのは次の[[宣如]]のときからである。
慶長8年([[1603年]])、[[上野国|上野]]厩橋(群馬県前橋市)の[[妙安寺 (前橋市)|妙安寺]]より「[[親鸞]]上人木像」を迎え、本願寺([[真宗本廟|東本願寺]])が開かれる。
七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「'''東本願寺'''」と通称されるようになり、[[准如]]が継承した七条堀川の本願寺は、「'''西本願寺'''」と通称されるようになる。
一説によると、幕府は、准如が関ヶ原の戦いに際して西軍側についたため准如に代えて教如を宗主に就けようとしたが、教如自身がこれを受けなかった。
この時、本多正信が、「本願寺は、現実には表方(准如派)と裏方(教如派)に分かれているのだから無理に一本化する必要はない」との意見を述べたため教如への継職を止め、別に寺地を与えることに決したという。
正信はさらに「天下ノ御為ニモヨロシカルベク存じ奉る」と続けているから(「宇野新蔵覚書」「事書」)、そこに幕府の狙い・つまり本願寺を分立させて教団の力を削ぐという意図が隠されていたことが読み取れる。
現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。
徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。<ref>上場顕雄『教如上人-その生涯と事績-』東本願寺出版部</ref>
東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった[[西本願寺]]と[[興正寺]]が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。
現在、本願寺派(西本願寺)の[[末寺]]・[[門徒]]が、[[中国地方]]に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、[[北陸地方]]・[[東海地方]]に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。
また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による。
== 東西分立後 ==
東西分立以降も[[昭和]]62年([[1987年]])までは、東西ともに「'''本願寺'''」が正式名称である<ref group="注釈">東本願寺は、昭和62年に「宗教法人 本願寺」を解散し、「宗教法人 真宗大谷派」に合併される。東本願寺の伽藍を「真宗本廟」と改称する。</ref>。
;分立以降の歴史
:西本願寺の歴史については、[[西本願寺#歴史|西本願寺「歴史」]]の項目を参照。
:東本願寺の歴史については、[[東本願寺#年表|東本願寺「年表」]]、および[[真宗大谷派#歴史|真宗大谷派「東西分裂以降の歴史」]]の項目を参照。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
*{{Cite book|和書
|author=河野法雲
|coauthors=雲山龍珠 監修
|year=1994
|title=真宗辞典
|edition=新装版
|publisher=法藏館
|isbn=4-8318-7012-9
}}
*{{Cite book|和書
|author=千葉乗隆|authorlink=千葉乗隆
|year=2005
|title=浄土真宗
|publisher=[[ナツメ社]]
|series=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]]
|isbn=4-8163-3822-5
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*{{Cite book|和書
|author=宮城 顗
|year=1988
|title=<small>宗祖聖人</small>親鸞
|publisher=真宗大谷派宗務所出版部
|isbn=978-4-8341-0182-9
|volume=(下)
}}
*{{Cite book|和書
|author=高松信英
|coauthors=野田晋
|year=1987
|title=親鸞聖人伝絵
|publisher=真宗大谷派宗務所出版部
|isbn=978-4-8341-0164-5
|volume=御伝鈔に学ぶ
}}
*{{Cite book|和書
|author=豊原大成|authorlink=豊原大成
|year=1986
|title=親鸞の生涯
|publisher=法藏館
|isbn=4-8318-2305-8
}}
*{{Cite book|和書
|author=今井雅晴
|year=1998
|title=如信上人
|edition=改訂版
|publisher=真宗大谷派東京教務所
|isbn=
}}
*{{Cite book|和書
|author=東澤眞静
|year=1986
|title=蓮如の生涯
|publisher=法藏館
|isbn=4-8318-2302-3
}}
*{{Cite book|和書
|author=真宗大谷派宗務所 編
|year=2007
|title=真宗の教えと宗門の歩み
|edition=第3版
|publisher=真宗大谷派宗務所出版部
|isbn=978-4-8341-0273-4
}}
== 関連項目 ==
* [[浄土真宗本願寺派]]
* [[真宗大谷派]]
* [[浄土真宗東本願寺派]]
* [[下間氏]]
<!--
== 外部リンク ==
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<!--* (確認用非公開)http://www.hongwanji.or.jp/goeidou/gos_dayori/dayori06_08.htm -->
<!--* (確認用非公開)http://www1.winknet.ne.jp/~k-goboh/honboh-rennyoshonin-gyosekinenpu.pdf -->
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社会保険
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OECD各国平均の税収構造(2014年)
社会保険制度(しゃかいほけんせいど、英語: Social insurance schemes)とは、社会保障の分野のひとつで、疾病、高齢化、失業、労働災害、介護などの事故(リスク)に備えて、事前に雇用者もしくは雇用主、あるいは両者が社会的供出をすることによって、保険によるカバーを受ける仕組みである。
制度は各国によって様々であり、チェコとスロバキアは総税収に占める割合がOECD中で最大(44%)である。一方でオーストラリアとニュージーランドには社会保険制度は存在せず、一般税収財源にて運営される。
日本の制度では、医療保険、年金保険、介護保険、雇用保険、労災保険の5種類の社会保険制度がある。総税収に占める割合は41%で、日本は上位国の一つである。
保険とは、事故(リスク)に備えて、社会生活を営む人が多数集まり、財貨を拠出(保険料)して、共通の準備財産をつくり、それによって個人の経済生活を安定したものにしようとする仕組み(保険方式)である。保険料を主体としてできあがった財産を中心に一つの集団(保険集団)が組織され、保険集団の運営主体(保険者)と参加者(被保険者)の関係(保険関係)が生じる。あらかじめ取り決められた共通の条件(保険事故)が生じた場合に限って保険給付の支払いが行われる。これによって、集団の中で、事故によるリスク分散が図られている。
民間保険では、そもそも対象となる事故(リスク)の範囲が限定的なため、このようなリスク分散を期待できる保険集団の範囲も、被保険者の経済的地位などによって限定されている。しかしながら、社会的には、より大きな規模における貧困のリスクが存在する。そこで、社会保険制度では、扶助原理(ないし扶養原理)に則り、保険の一般原理を修正し、公費負担、事業者負担、応能保険料負担等の制度を用いて、保険集団の範囲を強制的に拡張することにより、所得の再分配による国民の生活保障を図っている。
なお、広く社会保険に対する公費負担、事業者負担、個人負担の保険料を社会保険料という。
公的扶助(生活保護)が、実際に困窮に陥った場合に最低生活を保障する制度(救貧制度)であるのに対し、社会保険は、生活上のリスクによる困窮を予め防ごうとする制度(防貧制度)である。
民間保険(私的保険)が、3つの原則(給付・反対給付均等の原則、保険技術的公平の原則、収支相等の原則)を保険のしくみの基礎としているのに対して、社会保険(公的保険)では、この原則は貫かれていない。これは、目的の一つが所得の再分配にあるからである。
世界で最初の社会保険制度は、1880年代に創設されたドイツの社会保険制度である。当時、イギリス等に比べて経済的に後進国であったドイツは、急速に産業革命を進め経済的発展を図るために、労働運動を抑圧する必要があり社会主義者鎮圧法が制定された。その反面で、労働者にアメを与えること(福祉向上)とし、宰相オットー・フォン・ビスマルクは、1883年に疾病保険法、1884年に災害保険法、1889年に老齢疾病保険法を制定する飴と鞭政策を採った。イギリスは、古くから「友愛組合」という名の共済組合が発達しており、労働者の生活もわりあい恵まれていた。しかし、20世紀に入り、ドイツ、アメリカ等の後進資本主義国が発展し、世界経済市場で競争が激化し、労働者の生活も圧迫されたため、1911年にハーバート・ヘンリー・アスキス内閣のデビッド・ロイド・ジョージ蔵相は健康保険を、ウィンストン・チャーチル内相は失業保険を施行した。強制加入型の失業保険は、世界で最初の制度であった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの多数の国々で社会保険制度が整備された。
1918年の第一次世界大戦の終結前後にかけて、ロシア革命により世界で最初の共産主義政権、ソヴィエト連邦が成立。また西欧においてもドイツやオーストリア等であいついで社会民主党政権が誕生。かかる歴史的な背景のもとで、戦後の社会的・経済的な混乱に起因する革命的政情を回避しつつ、国民生活の安定、つまり労働者と資本家間のあいだで階級妥協をはかるため、ヨーロッパの資本主義各国において、失業保険と年金が整備された。さらに1929年に発生した世界恐慌は、ソ連をのぞく世界各国を不況のどん底におとし入れた。ソ連は医療の社会化を進め、1937年に医療を社会保険から外し、無料で全国民が医療を受けられる制度(ユニバーサルヘルスケア)をつくった。国民社会主義を標榜するナチス・ドイツは国民皆保険を推進した。またそれまで社会保険制度に大きな関心を示さなかったアメリカも制度の創設に踏み切らざるをえなくなった。フランクリン・ルーズベルトのとったニューディール政策の一環として、1935年に連邦社会保障法が制定され、失業保険と老齢年金が整備された。
第二次世界大戦中に、イギリス、アメリカ等の国は、戦後の混乱を回避するため、いちはやく対策を検討していた。イギリスでは、ウィリアム・ベヴァリッジの「ベヴァリッジ報告」で提唱された社会保障計画に基づいて、戦後、相次いで各種の社会保障立法が整備された。ILOも、第二次世界大戦中から戦後にかけて、世界各国における社会保障の整備推進のため国際的指導力を発揮しており、1952年には「社会保障の最低基準に関する条約」(102号条約)を採択している。これらの動きをはじめとして、第二次世界大戦後、世界の主要国においては、何らかの形の社会保険制度を有することになり、日本においても、本格的に社会保険制度が整備された。
なおオーストラリアとニュージーランドには社会保険制度は存在せず、一般税収財源にて運営される。
日本の社会保険は、それぞれの保険集団が、そのグループ構成員に強制加入を求めて、全国民(国民皆保険・皆年金)を包みこんでいる。社会保険の財源は保険料中心であるが、保険料以外の主なものには国庫負担金がある。また、医療保険や介護保険の場合は、被保険者等が支払う一部負担金もある。保険料は、被用者保険では被保険者本人のみならず事業主も負担している(給与税)。また、保険料を軽減するために国や地方公共団体も費用の一部を負担している。こうした制度は低所得者も含めて保険集団としてのまとまり(相互扶助・社会連帯)を作る側面がある。
日本の総税収に占める割合は41.6%であり(2012年)、OECD平均の26.2%を大きく上回り、上位のスロバキア(43.9%)に近い。
歴史としては、第一次世界大戦後に1922年に制定された健康保険法をはじめ、労働者(被用者)を対象として発足しているが、これは世界共通の現象でもある。しかし、第二次世界大戦後は、社会保障の充実の要望を背景として、一般地域住民に対する社会保険制度を整備し、全国民の生活を保障することとした。1961年に国民健康保険制度が完全普及される一方、国民年金制度が発足し、国民皆保険・国民皆年金が実現した。
一時的な労働不能の保険事故には、病気やけが、出産、失業などがあり、医療給付や手当金等の短期給付が行われる。永続的な労働不能の保険事故には、障害、老齢、死亡などがあり、年金等の長期給付が行われる。また、発生原因により、業務上と業務外の区別がある。給付の性質により現物給付と現金給付があり、年金保険、雇用保険はすべて現金給付であるが、医療保険、介護保険、労災保険は制度内に現物給付と現金給付が混在する。
被用者を対象とする社会保険と自営業者等を対象とする社会保険に大別されるが、医療保険では、一般住民が加入する「国保(国民健康保険)」に対し、被用者保険を「社保(社会保険)」と呼ぶことがある。また、企業では、保険料納付手続きの面から区分して、健康保険と厚生年金の2つを合わせて「社会保険」、雇用保険と労働者災害補償保険の2つを合わせて「労働保険」と呼ぶことがある。なお介護保険、後期高齢者医療制度は職域による区別をしていない。ここでいう労働者には、正社員、パートタイマー、アルバイトなどの名称を問わず、事業主の指揮命令系統の下に使用され、賃金を支払われている者ならばすべてを含む。また、法人の代表以外の役員や外務員などであっても、労働者としての実態があり、賃金が支払われている場合は労働者に含む。
社会保険制度は、日本の社会保障制度の中で中核的な存在であり、生活保護が公費(税)による給付を行う救貧制度であるのとは違い、保険のしくみを利用して一定の事故に対する給付を行う防貧制度である。また、個人の努力では救済しきれない経済的損失を、国家または社会が集団の力で救済するという社会的目的のために、私的保険とは違う特色を持つ。
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"text": "社会保険制度は、日本の社会保障制度の中で中核的な存在であり、生活保護が公費(税)による給付を行う救貧制度であるのとは違い、保険のしくみを利用して一定の事故に対する給付を行う防貧制度である。また、個人の努力では救済しきれない経済的損失を、国家または社会が集団の力で救済するという社会的目的のために、私的保険とは違う特色を持つ。",
"title": "日本の制度"
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社会保険制度とは、社会保障の分野のひとつで、疾病、高齢化、失業、労働災害、介護などの事故(リスク)に備えて、事前に雇用者もしくは雇用主、あるいは両者が社会的供出をすることによって、保険によるカバーを受ける仕組みである。 制度は各国によって様々であり、チェコとスロバキアは総税収に占める割合がOECD中で最大(44%)である。一方でオーストラリアとニュージーランドには社会保険制度は存在せず、一般税収財源にて運営される。 日本の制度では、医療保険、年金保険、介護保険、雇用保険、労災保険の5種類の社会保険制度がある。総税収に占める割合は41%で、日本は上位国の一つである。
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{{Redirect|社保|国会の会派|社会保障を立て直す国民会議}}
[[File:OECD Tax revenue.svg|thumb|right|450px|OECD各国税収のタイプ別GDP比(%)。<br>赤は国家間、青は連邦・中央政府、紫は州、橙は地方、緑は社会保障基金への供出{{Sfn|OECD|2014}}。]]
{{OECD平均の税収構造}}
'''社会保険制度'''(しゃかいほけんせいど、{{lang-en|Social insurance schemes}})とは、[[社会保障]]の分野のひとつで、[[疾病]]、[[高齢化]]、[[失業]]、[[労働災害]]、[[介護]]などの[[事故]]([[リスク]])に備えて、事前に[[雇用|雇用者]]もしくは[[雇用|雇用主]]、あるいは両者が社会的供出をすることによって、保険によるカバーを受ける仕組みである<ref>{{Cite web|publisher=OECD |title=glossary of statical terms -SOCIAL INSURANCE SCHEMES |url=http://stats.oecd.org/glossary/detail.asp?ID=2490 |accessdate=2015-03-01 }}</ref>。
制度は各国によって様々であり、[[チェコ]]と[[スロバキア]]は総税収に占める割合がOECD中で最大(44%)である{{Sfn|OECD|2014|pp=29-30}}。一方で[[オーストラリア]]と[[ニュージーランド]]には社会保険制度は存在せず、一般税収財源にて運営される{{Sfn|OECD|2014|pp=29-30}}。
[[#日本の制度|日本の制度]]では、[[医療保険]]、[[年金保険]]、[[介護保険]]、[[雇用保険]]、[[労災保険]]の5種類の社会保険制度がある。総税収に占める割合は41%で、日本は上位国の一つである{{Sfn|OECD|2014|p=93}}。
== 制度 ==
{{Seealso|ベヴァリッジ報告書#福祉レジーム}}
[[保険]]とは、事故(リスク)に備えて、社会生活を営む人が多数集まり、財貨を拠出(保険料)して、共通の準備財産をつくり、それによって個人の経済生活を安定したものにしようとする仕組み(保険方式)である。保険料を主体としてできあがった財産を中心に一つの集団(保険集団)が組織され、保険集団の運営主体(保険者)と参加者(被保険者)の関係(保険関係)が生じる。あらかじめ取り決められた共通の条件('''[[保険事故]]''')が生じた場合に限って保険給付の支払いが行われる。これによって、集団の中で、事故によるリスク分散が図られている。
民間保険では、そもそも対象となる事故(リスク)の範囲が限定的なため、このようなリスク分散を期待できる保険集団の範囲も、被保険者の経済的地位などによって限定されている。しかしながら、社会的には、より大きな規模における貧困のリスクが存在する。そこで、社会保険制度では、扶助原理(ないし扶養原理)に則り、保険の一般原理を修正し、公費負担、事業者負担、応能保険料負担等の制度を用いて、保険集団の範囲を強制的に拡張することにより、所得の再分配による国民の生活保障を図っている。
なお、広く社会保険に対する公費負担、事業者負担、個人負担の保険料を'''社会保険料'''という。
=== 公的扶助との違い ===
[[公的扶助]]([[生活保護]])が、実際に困窮に陥った場合に最低生活を保障する制度(救貧制度)であるのに対し、社会保険は、生活上のリスクによる困窮を予め防ごうとする制度(防貧制度)である<ref name="hiraoka">{{Cite |和書|title=社会福祉学 |author=平岡公一|publisher=有斐閣 |date=2011-12 |isbn=9784641053762 |pages=113-119}}</ref>。
*一定の保護要件にあてはまる人は、すべて扶助の対象にし、また困窮の原因が何の事故によるものかを問わない「無差別平等の原理」に基づいて行われる<ref name=hiraoka />。社会保険は、被保険者である人、また保険料を負担したことのある人に限って給付の対象とし、あらかじめ決められた保険事故に限り給付が行われる。
*一定の保護基準が決まっており、多くの場合、均等の扶助が行われる「最低生活保障の原理([[ナショナル・ミニマム]])」に基づいて行われる<ref name=hiraoka />。社会保険は、現実の生活レベルの保障を目標とし、生活費給付の場合、その給付額は、基本的に賃金所得に比例する。
*保護を受ける人は、自分の能力、その人が利用できる資産や他の社会保障の制度等をフルに活用して、なお最低生活の水準に達しない場合に、その足りない部分を扶助される。また、民法上の扶養義務が扶助に優先し、扶助を受けるには、いつも資産調査([[ミーンズテスト]])が行われる。これらの「保護の補足性の原理」に基づいて生活保護が行われる。社会保険は、一定の要件を備えれば、資産や能力に関係なく給付が行われる。
=== 民間保険との違い ===
民間保険(私的保険)が、3つの原則(給付・反対給付均等の原則、保険技術的公平の原則、収支相等の原則)を保険のしくみの基礎としているのに対して、社会保険(公的保険)では、この原則は貫かれていない。これは、目的の一つが'''[[富の再分配|所得の再分配]]'''にあるからである。
*一定の要件に該当する者を当然の対象とする'''強制加入'''('''[[強制保険]]''')を原則とする。
*保険契約者の個別的な経済需要と保険料支払い能力により、保険給付額が決定される「給付・反対給付均等の原則」であるが、社会保険は、平均的社会的必要に基づいて保険給付額が決定される。
*事故の起こる危険の度合いにより払い込む保険料の額が決まる「保険技術的公平の原則」であり、危険率に応じて保険料が決まる「個別保険料主義」を採用しているが、社会保険は、被保険者全体の平均危険率と被保険者の負担能力(所得)を基にした「平均保険料主義」が採用されている。
*保険事業の支出はすべて保険料収入とその運用益でまかなわれるが、社会保険は、国・地方公共団体が保険料の一部を負担または補助することもあり、事業主も保険料を分担する場合がある。また、運営に要する事務費は、原則として国や地方公共団体が負担している。
== 社会保険の歴史 ==
{{See also|福祉|社会福祉の年表}}
=== 社会保険制度の創設 ===
{{Seealso|オットー・フォン・ビスマルク#社会政策}}
世界で最初の社会保険制度は、[[1880年代]]に創設された[[ドイツ帝国|ドイツ]]の社会保険制度である。当時、[[イギリス]]等に比べて経済的に後進国であったドイツは、急速に[[第二次産業革命|産業革命]]を進め経済的発展を図るために、[[労働運動]]を抑圧する必要があり[[社会主義者鎮圧法]]が制定された。その反面で、[[労働者]]にアメを与えること([[福祉]]向上)とし、宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]は、[[1883年]]に疾病保険法、[[1884年]]に災害保険法、[[1889年]]に老齢疾病保険法を制定する[[飴と鞭]]政策を採った。イギリスは、古くから「友愛組合」という名の[[共済組合]]が発達しており、労働者の生活もわりあい恵まれていた。しかし、[[20世紀]]に入り、ドイツ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]等の後進資本主義国が発展し、世界経済市場で競争が激化し、労働者の生活も圧迫されたため、[[1911年]]に[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]内閣の[[デビッド・ロイド・ジョージ]][[財務大臣 (イギリス)|蔵相]]は健康保険を、[[ウィンストン・チャーチル]][[内務大臣 (イギリス)|内相]]は[[失業保険]]を施行した。強制加入型の失業保険は、世界で最初の制度であった。[[19世紀]]末から20世紀初頭にかけて、[[ヨーロッパ]]の多数の国々で社会保険制度が整備された。
=== 第一次世界大戦後 ===
[[1918年]]の[[第一次世界大戦]]の終結前後にかけて、[[ロシア革命]]により世界で最初の[[共産主義]]政権、[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]が成立。また西欧においてもドイツや[[オーストリア]]等であいついで社会民主党政権が誕生。かかる歴史的な背景のもとで、戦後の社会的・経済的な混乱に起因する革命的政情を回避しつつ、国民生活の安定、つまり労働者と資本家間のあいだで階級妥協をはかるため、ヨーロッパの資本主義各国において、失業保険と年金が整備された。さらに[[1929年]]に発生した[[世界恐慌]]は、ソ連をのぞく世界各国を不況のどん底におとし入れた。ソ連は医療の社会化を進め<ref>[http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=1404602 Noble purpose, grand design, flawed execution, mixed results: Soviet socialized medicine after seventy years]</ref><ref>Zhuraleva ''et al.'', [http://www.cmj.hr/1999/40/1/9933892.htm Teaching History of Medicine in Russia].</ref><ref>[http://lingvo.yandex.ru/en?text=обобществленный&lang=en&search_type=lingvo&st_translate=1 Yandex Lingvo]</ref>、[[1937年]]に医療を社会保険から外し、無料で全国民が医療を受けられる制度([[ユニバーサルヘルスケア]])をつくった。国民社会主義を標榜する[[ナチス・ドイツ]]は国民皆保険を推進した。またそれまで社会保険制度に大きな関心を示さなかったアメリカも制度の創設に踏み切らざるをえなくなった。[[フランクリン・ルーズベルト]]のとった[[ニューディール政策]]の一環として、[[1935年]]に連邦社会保障法が制定され、[[失業保険]]と老齢年金が整備された。
=== 第二次世界大戦後 ===
[[第二次世界大戦]]中に、イギリス、アメリカ等の国は、戦後の混乱を回避するため、いちはやく対策を検討していた。イギリスでは、[[ウィリアム・ベヴァリッジ]]の「[[ベヴァリッジ報告書|ベヴァリッジ報告]]」で提唱された社会保障計画に基づいて、戦後、相次いで各種の社会保障立法が整備された。[[国際労働機関|ILO]]も、第二次世界大戦中から戦後にかけて、世界各国における社会保障の整備推進のため国際的指導力を発揮しており、[[1952年]]には「社会保障の最低基準に関する条約」(102号条約)を採択している。これらの動きをはじめとして、第二次世界大戦後、世界の主要国においては、何らかの形の社会保険制度を有することになり、[[日本]]においても、本格的に社会保険制度が整備された。
== 各国の制度 ==
[[File:OECD Social Security Contributions.svg|thumb|right|450px|OECD各国の社会保障供出歳入(GDP比率%)。<br>赤は[[雇用主]]、青は[[雇用者]]{{Sfn|OECD|2014}}。]]
*[[イギリスの福祉]]では、年金、雇用生活手当、遺族手当、求職者手当は{{仮リンク|国民保険|en|National Insurance}}として社会保険モデルで運営されている{{Sfn|海外情勢報告|2013|loc=Chapt.3.4}}。保険料は被用者の場合、雇用者と雇用主で折半する{{Sfn|海外情勢報告|2013|loc=Chapt.3.4}}。一方で[[イギリスの医療|医療]]は一般税収を原資としており<ref name="OECD2013" />、[[国民保健サービス]]による[[公費負担医療]]である{{Sfn|海外情勢報告|2013|loc=Chapt.3.4}}。
*[[フランス]]では、[[フランスの医療|医療]]<ref name="OECD2013" />、年金、家族手当、労災保険は社会保険モデルで運営される{{Sfn|海外情勢報告|2013|loc=Chapt.3.1}}。保険者は複数あり職域単位となる{{Sfn|海外情勢報告|2013|loc=Chapt.3.1}}。
* [[オランダの医療]]制度は社会保険モデルであり<ref name="OECD2013" />、民間企業が保険者となり、拠出は労使で折半する<ref>{{Cite report|title=医療制度の国際比較 |publisher=[[財務総合政策研究所]] |url=https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk087.htm |date=2010-06-30 |at=Chapt.3}}</ref>。
* [[ドイツの医療]]制度は社会保険モデルであり<ref name="OECD2013" />、複数の公営、民間の中から保険者を選ぶことができ、拠出は労使で行う<ref>{{Cite report|title=医療制度の国際比較 |publisher=[[財務総合政策研究所]] |url=https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk087.htm |date=2010-06-30 |at=Chapt.1}}</ref>。
* [[ノルウェー]]では、老年、障害などを担う国民保険が存在し、社会保険モデルである<ref name="pri079">{{Cite report |title=主要諸外国における国と地方の財政役割の状況 |publisher=[[財務総合政策研究所]] |date=2005-12 |url=https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk079.htm |at=Chapt.11 Sec.4.1.2}}</ref><ref name="emb">{{Cite press release|和書|title=ノルウェーの社会保障制度 |url= https://www.no.emb-japan.go.jp/Japanese/Nikokukan/nikokukan_files/noruweinoshakaihoshouseido.pdf |publisher=ノルウェー日本国大使館 |date=2013-06}}</ref>。一方で[[ノルウェーの医療|医療]]については、大部分を一般税収を原資としている<ref name="OECD2013" />。
* [[シンガポール]]では、労使が共に中央積立基金(CPF)へ拠出する社会保険制度があり、賦課方式ではなく個人単位積立方式である。積立は[[シンガポールの医療|医療支出]]や定年後の資金として引き出すことができ、また遺産相続の対象である<ref>{{Cite report |title=シンガポールにおける医療、社会福祉サービスに関する報告書 |date=2014-01 |publisher=独立行政法人[[日本貿易振興機構]] |url=http://www.jetro.go.jp/industry/service/reports/07001564}}</ref>。
なお[[オーストラリア]]と[[ニュージーランド]]には社会保険制度は存在せず、一般税収財源にて運営される{{Sfn|OECD|2014|pp=29-30}}。
<gallery widths="300px" heights="220px">
File:Public and private health expenditure by country.svg|OECD各国の'''[[保健|保健支出]]'''財源 <ref name="OECD2013">{{Cite report|publisher=OECD |date=2013-11-21 |title=Health at a Glance 2013 |doi=10.1787/health_glance-2013-en }}</ref>。<br>水色は政府一般歳出、紫は社会保険、赤は自己負担、橙は民間保険、緑はその他
</gallery>
== 日本の制度 ==
{{See also|日本の福祉|日本の医療|日本の年金}}
日本の社会保険は、それぞれの保険集団が、そのグループ構成員に'''強制加入'''を求めて、'''全国民'''(国民皆保険・皆年金)を包みこんでいる。社会保険の財源は保険料中心であるが、保険料以外の主なものには国庫負担金がある。また、医療保険や介護保険の場合は、被保険者等が支払う一部負担金もある。保険料は、被用者保険では被保険者本人のみならず事業主も負担している([[給与税]])。また、保険料を軽減するために国や地方公共団体も費用の一部を負担している。こうした制度は低所得者も含めて保険集団としてのまとまり(相互扶助・社会連帯)を作る側面がある。
日本の総税収に占める割合は41.6%であり(2012年)、OECD平均の26.2%を大きく上回り、上位のスロバキア(43.9%)に近い{{Sfn|OECD|2014|p=93}}。
[[File:Revenue of Japan Government.svg|700px|thumb|none|日本の[[一般政府部門]]税収(GDP比)。棒グラフは総額。<br>青は[[所得税|個人所得税]]、橙は[[法人税]]、緑は'''社会保険'''、紫は[[消費税]]、赤は[[資産税]]。]]
歴史としては、第一次世界大戦後に[[1922年]]に制定された[[健康保険法]]をはじめ、労働者(被用者)を対象として発足しているが、これは世界共通の現象でもある。しかし、第二次世界大戦後は、社会保障の充実の要望を背景として、一般地域住民に対する社会保険制度を整備し、全国民の生活を保障することとした。[[1961年]]に国民健康保険制度が完全普及される一方、国民年金制度が発足し、'''国民皆保険・国民皆年金'''が実現した。
{{Main|日本の福祉#歴史}}
=== 日本における種類 ===
==== 給付による分類 ====
一時的な労働不能の保険事故には、病気やけが、出産、失業などがあり、医療給付や手当金等の短期給付が行われる。永続的な労働不能の保険事故には、障害、老齢、死亡などがあり、年金等の長期給付が行われる。また、発生原因により、業務上と業務外の区別がある。給付の性質により現物給付と現金給付があり、年金保険、雇用保険はすべて現金給付であるが、医療保険、介護保険、労災保険は制度内に現物給付と現金給付が混在する。
*[[医療保険]]
**[[健康保険]] - 一般民間被用者(業務外)
**[[船員保険]] - 船員(原則業務外)
**[[日雇健康保険]] - 日雇労働者・日雇特例被保険者(業務外)
**自衛官診療証 - 自衛官等<ref group="注釈">防衛省の職員の給与等に関する法律(昭和27年法律第266号)第22条に基づき国(防衛省)が行う療養の給付であり、本来は医療保険と性質を異にするものであるが、医療保険における療養の給付に相当することから参考として掲げる。</ref>
**[[共済組合]](短期給付) - 公務員・私立学校教職員等
**[[国民健康保険]] - 自営業、無職者等の一般住民、国会議員・地方議会議員
**[[後期高齢者医療制度]] - 75歳(一定の障害があるものは65歳)以上の全住民
*[[日本の年金|年金保険]]
**[[国民年金]] - 自営業、無職者等の一般住民(所定の要件を満たす全住民が[[基礎年金]]として加入)
**[[厚生年金]] - 一般民間被用者・船員、国会議員・地方議会議員、公務員・私立学校教職員等、自衛官等(原則として国民年金と二重加入)
*[[介護保険]] - 40歳以上の全住民
*[[雇用保険]] - 一般民間被用者
*[[労働者災害補償保険]](労災保険) - 一般民間被用者(業務上)
==== 対象者による分類 ====
被用者を対象とする社会保険と自営業者等を対象とする社会保険に大別されるが、医療保険では、一般住民が加入する「国保(国民健康保険)」に対し、被用者保険を「社保(社会保険)」と呼ぶことがある。また、企業では、保険料納付手続きの面から区分して、健康保険と厚生年金の2つを合わせて「社会保険」、雇用保険と労働者災害補償保険の2つを合わせて「[[労働保険]]」と呼ぶことがある。なお介護保険、後期高齢者医療制度は職域による区別をしていない。ここでいう労働者には、正社員、パートタイマー、アルバイトなどの名称を問わず、事業主の指揮命令系統の下に使用され、賃金を支払われている者ならばすべてを含む。また、法人の代表以外の役員や外務員などであっても、労働者としての実態があり、賃金が支払われている場合は労働者に含む。<ref>{{Cite web|和書|title=労働保険料の年度更新で必要な計算方法と仕訳処理をわかりやすく解説! |url=https://keiriplus.jp/tips/roudouhokenryo_shiwake/ |website=経理プラス |date=2021-09-27 |accessdate=2022-03-10}}</ref>
*被用者
**民間企業 - 健康保険、厚生年金、雇用保険、労働者災害補償保険(労災保険)
**公務員 - 共済組合(短期給付)、厚生年金、退職手当、公務員災害補償
**船員 - 船員保険、厚生年金、雇用保険、労災保険
**国会議員・地方議会議員 - 国民健康保険、国民年金
*自営業者等
**自営業者等 - 国民健康保険、国民年金
==== 管掌による分類 ====
*政府直営 - 雇用保険、労災保険
*政府が制度設計し、[[地方公共団体]]が運営 - 国民健康保険(市町村国保)、介護保険(市町村)、後期高齢者医療制度(都道府県単位の[[広域連合]])
*政府が制度設計し、公法人が運営 - 国民年金([[日本年金機構]])、厚生年金(日本年金機構、共済組合)、健康保険([[全国健康保険協会]]、[[健康保険組合]])、船員保険(全国健康保険協会)、国民健康保険(国保組合)、共済組合(国家公務員共済、地方公務員共済、私学共済)
=== 特色 ===
社会保険制度は、日本の社会保障制度の中で中核的な存在であり、[[生活保護]]が公費(税)による給付を行う救貧制度であるのとは違い、保険のしくみを利用して一定の事故に対する給付を行う'''防貧制度'''である。また、個人の努力では救済しきれない経済的損失を、国家または社会が集団の力で救済するという'''社会的目的'''のために、私的保険とは違う特色を持つ。
=== 日本での「社会保険」という語について ===
*講学上は、本項冒頭にあるとおり、社会全体の保険料負担により給付を行う制度である。
*医療保険と年金保険のみを指すことがある。
**旧[[社会保険庁]]([[日本年金機構]])
**[[社会保険労務士]]法では、「労働及び社会保険に関する諸法令」や「労働社会保険諸法令」という文言があり、労働保険を除いたものを「社会保険」と規定している。
*[[医療事務]]では、「国保([[国民健康保険]])」に対して[[被用者保険]]を「社保(社会保険)」と呼ぶことがある。
*[[所得税]]の[[社会保険料控除]]の対象となる「社会保険料」には、任意加入である[[国民年金基金]]や[[厚生年金基金]]の掛金が含まれている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite report|publisher=OECD |title=Revenue Statistics 2014 |date=2014 |doi=10.1787/rev_stats-2014-en-fr |ref={{SfnRef|OECD|2014}} }}
*{{Cite report|publisher=OECD |title=Consumption Tax Trends 2014 |date=2014 |doi=10.1787/ctt-2014-en |ref={{SfnRef|OECD|2014b}} }}
* {{Cite report |publisher=厚生労働省 |title=海外情勢報告 2013年 |date=2013 |url=https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kaigai/14/ |ref={{Sfnref|海外情勢報告|2013}} }}
{{参照方法|date=2016年1月}}
*高橋茂樹編集『公衆衛生対策講座』株式会社MEC、2004
*高橋茂樹他『STEP公衆衛生第5版』海馬書房、2002-10-22、ISBN 4-907704-20-8
*『社会保険の常識(社労士講座テキスト)』日本経営教育センター
*Jose Harris([[柏野健三]]訳)『ウィリアム ベヴァリッジ(上・中・下)』ふくろう出版、1995・1997・1999年
*HMG(英国政府)(柏野健三訳)『新福祉契約 英国の野心』帝塚山大学出版会、2008年
*加藤智章他『社会保障法第4版(有斐閣アルマ)』有斐閣、2009年
== 関連項目 ==
* [[医療制度]]
* [[社会保険労務士]]
* [[DCプランナー]]
* [[ファイナンシャル・プランナー]]
* [[公的保険アドバイザー]]
== 外部リンク ==
*[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudouseisaku/chushoukigyou/roudouhou_shakaihoken.html 基本的な労働法制度・社会保険などについてお調べの方へ] - [[厚生労働省]]
*[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudouzenpan/roudouhou/index.html 知って役立つ労働法~働くときに必要な基礎知識~] - [[厚生労働省]]
*[https://www.mhlw.go.jp/tekiyoukakudai/ 社会保険適用拡大 特設サイト] - [[厚生労働省]]
*{{Kotobank}}
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[[category:社会保険|*]]
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京成大久保駅
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京成大久保駅(けいせいおおくぼえき)は、千葉県習志野市本大久保三丁目にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS27。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅である(八千代台駅管理)。出入口は北口、南口の2か所と臨時口(入場専用)がある。
それぞれ京成津田沼寄りに改札口があるが、ホーム間の連絡通路などはない。かつては構内踏切があったが廃止され、上下線別改札となった。構内踏切があった当時は駅本屋は上りホーム側にあった。南口(1番線ホーム)の改札は切符売り場の裏手にあり、実籾寄りに6時10分から9時のみ供用される入場専用改札口(臨時改札口)が併設されている。なお、この改札口は駅舎建替え工事のため、2020年11月26日から2022年2月16日までの間一時閉鎖されていた。
2021年度の一日平均乗降人員は29,107人で、京成線内69駅中第12位である。京成本線の特急通過駅では最も乗降人員が多い。
近年の一日平均乗降人員および平均乗車人員推移は下表の通りである。
教育施設の集まる文教地区となっており、駅前から日本大学や東邦大学までの区間(ゆうロード)の大久保商店街は学生街を形成し、学生向けの飲食店も多い。また、東邦大学付属の東邦大東邦中高の最寄り駅でもあり、朝夕は学生の利用が非常に多い。さらに、両隣の駅から離れているため、商業店舗も多い。
駅北側には千葉県道69号長沼船橋線が通り、船橋市との市境がある。
駅南側には約1.5 kmの位置に東日本旅客鉄道(JR東日本)・京成電鉄の幕張本郷駅がある。
最寄り停留所は、京成大久保駅、京成大久保駅北口、京成大久保駅南口 となる。以下の路線バスが乗り入れ、京成バスにより運行されている。
京成大久保駅北口(駅北側)
京成大久保駅南口(駅南側)
京成大久保駅(南口より少し西に離れている)
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"text": "教育施設の集まる文教地区となっており、駅前から日本大学や東邦大学までの区間(ゆうロード)の大久保商店街は学生街を形成し、学生向けの飲食店も多い。また、東邦大学付属の東邦大東邦中高の最寄り駅でもあり、朝夕は学生の利用が非常に多い。さらに、両隣の駅から離れているため、商業店舗も多い。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅北側には千葉県道69号長沼船橋線が通り、船橋市との市境がある。",
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"text": "駅南側には約1.5 kmの位置に東日本旅客鉄道(JR東日本)・京成電鉄の幕張本郷駅がある。",
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"text": "最寄り停留所は、京成大久保駅、京成大久保駅北口、京成大久保駅南口 となる。以下の路線バスが乗り入れ、京成バスにより運行されている。",
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"text": "京成大久保駅(南口より少し西に離れている)",
"title": "バス路線"
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] |
京成大久保駅(けいせいおおくぼえき)は、千葉県習志野市本大久保三丁目にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS27。
|
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 京成大久保駅
|画像 = Keisei-OkuboStation outbound line side.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 北口(2023年7月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point}}
|よみがな = けいせいおおくぼ
|ローマ字 = Keisei-Ōkubo
|副駅名 =
|前の駅 = KS26 [[京成津田沼駅|京成津田沼]]
|駅間A = 2.4
|駅間B = 1.9
|次の駅 = [[実籾駅|実籾]] KS28
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|27|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|■}}[[京成本線|本線]]
|キロ程 = 32.1
|起点駅 = [[京成上野駅|京成上野]]
|所在地 = [[千葉県]][[習志野市]]本大久保三丁目10番1号
|所在地幅 = long
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|41|9.2|N|140|2|52.8|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1926年]]([[大正]]15年)[[12月9日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 29,107
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考 =
}}
{|{{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|<br />京成大久保駅<br />配線図|#1155cc}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}
↑[[実籾駅|実籾]]
{{BS2text|2|1|||}}
{{BS2|STRg|STRf|||}}
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{{BS2|STRg|STRf|||}}
{{BS2|STRg|STRf|||}}
{{BS-colspan}}
↓[[京成津田沼駅|京成津田沼]]
|}
|}
[[File:Keisei-OkuboStationexitA-2019-6-17(crooped).jpg|thumb|建て替え前の北口(2019年6月)]]
[[File:Keisei-OkuboStationexitB-2019-6-17.jpg|thumb|建て替え前の南口(2019年6月)]]
'''京成大久保駅'''(けいせいおおくぼえき)は、[[千葉県]][[習志野市]]本大久保三丁目にある、[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[鉄道駅|駅]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-okubo.php |title=京成大久保駅|電車と駅の情報 - 京成電鉄 |access-date=2023-02-14 |publisher=京成電鉄}}</ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS27'''。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2011年12月|section =1|ソートキー=駅}}
* [[1926年]]([[大正]]15年)[[12月9日]] - '''大久保駅'''として開業<ref name="ryokochizucho3">[[日本鉄道旅行地図帳]]3号 関東1([[今尾恵介]] 監修 [[新潮社]] 2008年7月18日発行 ISBN 9784107900210 )37頁</ref>。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月18日]] - '''京成大久保駅'''に改称<ref name="ryokochizucho3"/>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[11月26日]] - 駅舎建替え工事に伴い、上り線仮駅舎の供用を開始<ref name="pr20201124">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20201124_155331882617.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201124072703/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20201124_155331882617.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅舎建替え工事に伴い京成大久保駅の上り線改札口の位置を変更します 11月26日(木)より|publisher=京成電鉄|date=2020-11-24|accessdate=2020-11-27|archivedate=2020-11-24}}</ref>。ほぼ同時に上り線で6両編成の先頭車の停車位置が東側に36m程度ずれ、構内の自動放送も更新。今後は下り線の駅舎も建替え予定。
* [[2023年]](令和5年)[[3月31日]] - 駅舎建て替え、リニューアル工事が完成<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/cms/files/keisei/MASTER/0110/dY8gM7SW.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京成大久保駅駅舎建替え工事が完了しました|publisher=京成電鉄|date=2023-03-31|accessdate=2023-04-05}}</ref>。
== 駅構造 ==
{{出典の明記|date=2011年12月|section =1|ソートキー=駅}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]である([[八千代台駅]]管理)。出入口は北口、南口の2か所と臨時口(入場専用)がある。
それぞれ[[京成津田沼駅|京成津田沼]]寄りに[[改札|改札口]]があるが、ホーム間の連絡通路などはない。かつては[[踏切#構内踏切|構内踏切]]があったが廃止され、上下線別改札となった<ref name="keiseikonjyaku">JTBキャンブックス『京成の駅 今昔・昭和の面影』([[石本祐吉]]・著 2014年2月1日初版発行)98-99頁</ref>。構内踏切があった当時は駅本屋は上りホーム側にあった<ref name="keiseikonjyaku"/>。南口(1番線ホーム)の改札は切符売り場の裏手にあり、[[実籾駅|実籾]]寄りに6時10分から9時のみ供用される入場専用改札口(臨時改札口)が併設されている。なお、この改札口は駅舎建替え工事のため、[[2020年]][[11月26日]]から[[2022年]][[2月16日]]までの間一時閉鎖されていた<ref name="pr20201124"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20220210_141414319538.pdf |title=京成大久保駅の上り線駅舎建替え工事完了に伴い上り線(京成上野・押上方面)改札口の位置を変更します 2022年2月17日(木)始発より |publisher=京成電鉄株式会社 |date=2022-02-10 |accessdate=2023-05-14}}</ref>。
=== のりば ===
<!-- 当駅は2018年5月時点でも新サインシステム未導入。このため近隣の駅のホームの案内標の表記に準拠 -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[八千代台駅|八千代台]]・[[京成成田駅|京成成田]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]方面
|}
* 上表の路線名は[[京成成田空港線|成田空港線]]開業後の旅客案内の名称に基づいている。
<gallery>
Keisei-OkuboStation inbound line side.jpg|南口(2023年7月)
Keisei-OkuboStationexit-ticketgates-2019-6-17.jpg|建て替え前の南口改札(2019年6月)
Keisei-railway-KS27-Keisei-okubo-station-platform-20200727-114412.jpg|ホーム(2021年7月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2021年]]度の一日平均[[乗降人員]]は'''29,107人'''<ref>[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.html 京成電鉄 駅別乗降人員]</ref>で、京成線内69駅中第12位である。京成本線の特急通過駅では最も乗降人員が多い。
近年の一日平均'''乗降'''人員および平均'''乗車'''人員推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!rowspan|年度
!rowspan|一日平均<br />乗降人員
!rowspan|一日平均<br />乗車人員
|-
|1975年(昭和50年)
|
|<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/124n_19.pdf 124 私鉄別1日平均運輸状況…(昭和50年度)]}}、千葉県統計年鑑(昭和51年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>15,665
|-
|1980年(昭和55年)
|
|<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/122n_14.pdf 122 私鉄別1日平均運輸状況…(昭和55年度)]}}、千葉県統計年鑑(昭和56年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>14,612
|-
|1985年(昭和60年)
|
|<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/113n_8.pdf 113 私鉄別1日平均運輸状況…(昭和60年度)]}}、千葉県統計年鑑(昭和61年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>12,338
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_4.pdf 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況…(平成2年度)]}}、千葉県統計年鑑(平成3年)、Page208、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>13,506
|-
|1998年(平成10年)
|
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_3.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成11年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>13,770
|-
|1999年(平成11年)
|
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成12年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>13,822
|-
|2000年(平成12年)
|
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成13年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>13,948
|-
|2001年(平成13年)
|
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成14年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>14,174
|-
|2002年(平成14年)
|
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成15年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>14,209
|-
|2003年(平成15年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0411/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成15年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>28,617
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成16年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>14,371
|-
|2004年(平成16年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0511/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成16年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>28,552
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成17年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>14,239
|-
|2005年(平成17年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0611/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成17年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>28,543
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_2.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成18年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>14,219
|-
|2006年(平成18年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0711/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成18年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>28,862
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_1.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成19年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>14,385
|-
|2007年(平成19年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0811/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成19年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>29,798
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成20年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>14,889
|-
|2008年(平成20年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0910/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成20年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>30,795
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成21年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>15,404
|-
|2009年(平成21年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1010/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成21年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>30,755
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成22年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>15,392
|-
|2010年(平成22年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1110/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成22年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>31,077
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成23年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>15,572
|-
|2011年(平成23年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1210/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成23年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>31,200
|<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}}、千葉県統計年鑑(平成24年)、千葉県公式ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>15,645
|-
|2012年(平成24年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1310/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成24年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>31,888
|15,982
|-
|2013年(平成25年)
|<ref>[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people_top.htm 駅別乗降人員(平成25年度1日平均)]、京成電鉄ホームページ、2014年5月3日閲覧</ref>32,503
|16,309
|-
|2014年(平成26年)
|32,240
|16,169
|-
|2015年(平成27年)
|33,463
|16,779
|-
|2016年(平成28年)
|34,097
|17,109
|-
|2017年(平成29年)
|34,705
|17,417
|-
|2018年(平成30年)
|35,043
|17,575
|-
|2019年(令和元年)
|35,157
|17,647
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|23,967
|12,030
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|29,107
|14,599
|}
== 駅周辺 ==
[[教育施設]]の集まる[[文教地区]]となっており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-okubo.php |title=京成大久保駅|電車と駅の情報 - 京成電鉄 |access-date=2023-02-14 |publisher=京成電鉄}}</ref>、駅前から日本大学や東邦大学までの区間(ゆうロード)の[http://www.etown-okubo.net/ 大久保商店街]は学生街を形成し、学生向けの飲食店も多い。また、東邦大学付属の東邦大東邦中高の最寄り駅でもあり、朝夕は学生の利用が非常に多い。さらに、両隣の駅から離れているため、商業店舗も多い。
=== 北口 ===
[[ファイル:Nihon University Tsudanuma Campus 01.JPG|thumb|[[日本大学]]津田沼キャンパス]]
[[ファイル:Toho Univ harb garden.JPG|thumb|[[東邦大学薬学部薬用植物園]]]]
[[ファイル:Chibaken Saiseikai Narashino Hospital.JPG|thumb|[[千葉県済生会習志野病院]]]]
駅北側には[[千葉県道69号長沼船橋線]]が通り、[[船橋市]]との市境がある。
* [[習志野市消防本部]] 東消防署藤崎出張所
* 習志野市市民プラザ大久保
* [[日本大学]]
** 津田沼キャンパス([[日本大学生産工学部・大学院生産工学研究科|生産工学部]])
** 実籾キャンパス(生産工学部)
* [[東邦大学]]
** 習志野キャンパス([[薬学部]]・[[理学部]])
** [[東邦大学付属東邦中学校・高等学校]]
** [[東邦大学薬学部薬用植物園]]
* [[習志野市立第二中学校]]
* [[船橋市立三田中学校]]
* [[習志野市立大久保小学校]]
* [[習志野市立大久保東小学校]]
* [[習志野市立藤崎小学校]]
* 習志野市立藤崎幼稚園
* 習志野市立大久保東幼稚園
* [[千葉県済生会習志野病院]](旧国立習志野病院)
* 習志野大久保東郵便局
* 習志野藤崎郵便局
* [[三井住友銀行]] 習志野支店
* [[千葉興業銀行]] 習志野支店
* [[アコレ]] 本大久保1丁目店
* [[マルエツ]] 大久保駅前店
* [[ビッグ・エー]] 習志野大久保店
* [[ヤオコー]] 船橋三山店
* キリン住宅 本社ショールーム
* サカエヤ学生堂 大久保本店
* 大和屋書店 本店
* [[千葉テレビ放送]] 船橋三山送信所
* [[誉田八幡神社 (習志野市)|誉田八幡神社]]
* 藤崎森林公園
** 旧大沢家住宅
=== 南口 ===
{{See also|幕張本郷駅#駅周辺}}
[[ファイル:MimomiHongo Park02.JPG|thumb|[[実籾本郷公園]]]]
[[ファイル:MimomiHongo_Park,Tokita-house.JPG|thumb|旧鴇田家住宅]]
駅南側には約1.5 kmの位置に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[京成電鉄]]の[[幕張本郷駅]]がある。
* 千葉県習志野健康福祉センター(習志野保健所)
* [[習志野警察署]] 京成大久保駅前交番
* プラッツ習志野
** [[習志野市立図書館]] 中央図書館(旧大久保図書館)
** 中央公民館(旧大久保公民館および勤労会館)
** 習志野市民ホール(旧市民会館)
** 習志野市中央公園(大久保グラウンド等)
* 習志野市屋敷公民館
* 習志野市シルバー人材センター
* [[千葉県立実籾高等学校]]
* [[習志野市立第六中学校]]
* [[習志野市立屋敷小学校]]
* 習志野市立屋敷幼稚園
* 習志野市立杉の子こども園
* 習志野大久保郵便局
* 習志野屋敷郵便局
* [[京葉銀行]] 大久保支店
* [[生活協同組合コープみらい]] ミニコープ屋敷店
* 屋敷近隣公園
* [[実籾本郷公園]]
** 旧鴇田家住宅
* [[習志野市梅林園]]
== バス路線 ==
最寄り停留所は、'''京成大久保駅'''、'''京成大久保駅北口'''、'''京成大久保駅南口''' となる。以下の[[路線バス]]が乗り入れ、[[京成バス]]により運行されている。
'''京成大久保駅北口'''(駅北側)
* [[習志野市ハッピーバス]] 京成大久保駅ルート - [[新津田沼駅]]北口 / 東部保健福祉センター
'''京成大久保駅南口'''(駅南側)
* [[京成バス船橋営業所#屋敷線|津62]]:[[津田沼駅]] / [[幕張本郷駅]] / 幕張西五丁目
* 津65:津田沼駅
* 幕66:幕張本郷駅
* 習志野市ハッピーバス 京成大久保駅ルート - 新津田沼駅北口 / 東部保健福祉センター
'''京成大久保駅'''(南口より少し西に離れている)
* 津61・津62・津65:津田沼駅
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!停留所名!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!rowspan="1"|京成大久保駅北口
|style="text-align:center;"|京成バス
|[[習志野市ハッピーバス]] 京成大久保駅ルート - [[新津田沼駅]]北口 / 東部保健福祉センター
|
|-
!rowspan="2"|京成大久保駅南口
|style="text-align:center;"rowspan="2"|京成バス
|[[習志野市ハッピーバス]] 京成大久保駅ルート - [[新津田沼駅]]北口 / 東部保健福祉センター
|
|-
|{{Unbulleted list| [[京成バス船橋営業所#屋敷線|津62]]:[[津田沼駅]] / [[幕張本郷駅]] / 幕張西五丁目|津65:津田沼駅|幕66:幕張本郷駅}}
|
|-
!rowspan="1"|京成大久保駅
|style="text-align:center;"|京成バス
|津61・津62・津65:津田沼駅
|
|}
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急
:::; 通過
:: {{Color|#ee86a1|■}}快速・{{Color|#595757|■}}普通
::: [[京成津田沼駅]] (KS26) - '''京成大久保駅 (KS27)''' - [[実籾駅]] (KS28)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Keisei Ōkubo Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-okubo.php 京成大久保駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
{{京成本線}}
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[[Category:千葉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 け|いせいおおくほ]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1926年開業の鉄道駅]]
[[Category:習志野市の交通|けいせいおおくほえき]]
[[Category:習志野市の建築物]]
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格闘技
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格闘技(かくとうぎ)とは、自身の体での攻撃や防御を行う技術、もしくはスポーツ、あるいはそれを基にした興行のことである。挌闘技とも表記される。「格技」「挌技(かくぎ)」「武術(ぶじゅつ)」「体技(たいぎ)」「マーシャルアーツ(Martial Arts)」とも呼ばれる。
狭義では、素手で組み合ったり、手足で打ち合ったりする形式の競技(en:Hand to hand combat)のことである。ルールが明文化され近代スポーツとしての体裁を整えた主として武術由来の試合競技を指す。武術というと武器を使用する技術の体系が含まれるが徒手のそれもあり、ほぼ格闘技と重なる。
格闘技は、競技の分類の一つである。球技、陸上競技と同次元であるといえる。
競技であるため、安全性、実戦性、観戦者への娯楽性、競技者の満足等に鑑みて競技ごとに様々なルール(競技規則、禁止行為)が設けられている。例えばボクシングでは、ナックル以外の部位を使用する攻撃、および上半身の前側面以外の部位に対する攻撃はルールで禁じられている。また、試合を興行として行う例も数多い。それらは一般的スポーツと同様である。
格闘技が他の競技と比して特徴的な点がいくつかある。1つが「1対1」である。エキシビションマッチなどのわずかな場合を除き、試合場内に同時に3人以上の競技者が存在することはない。団体戦にしても1対1を何回か繰り返すものである。
一定の基準を満たす攻撃が成功した場合(例:柔道の投げ技による一本)や特定の状態に持ち込まれた場合(例:ボクシングのKO)には、試合時間やそれまでのポイントにかかわらず、試合の決着がつく点である。つまり、一発逆転のチャンスがあると言える。加えて、大抵の格闘技で、制限時間が定められており、ほぼすべての競技で、引き分けの回避、試合時間の短縮などを目的にポイント制が導入されている。
相手の体を直接どうにかする競技であるため、喧嘩や闘争と似ていることも多い(違法ではない理由は「決闘罪ニ関スル件」を参照)。もともとは、戦場などでの使用を目的とした戦闘技術体系(後述)が、競技化されたものも多い。
他方で対戦を前提としない種目もある。例えばそれぞれの流派に含まれる技法を一定の順で演じるもの、あるいはそれを組み合わせて対戦の様子を再現したりするものである。空手における『型』や中国武術における表演などがあり、これらは個人で行われるものから3人以上で演じられるものもあり、総じて採点制で行われる。
どういう行為が認められているか、で大きく分けて3種に分けられる。
1. 打撃系
2. 組技系
3. 総合系
格闘技は異なる複数の競技をおこなう選手が他のスポーツより多い。特に以下の分類で同じ分類の競技ではより多くなっている。
素手や小さな武器を用いた戦闘技術という意味で「格闘技」を用いる用法もある。
その意味で用いられる格闘技、すなわち体系だった近接格闘術には、いくかの種類があり、白兵戦術、逮捕術、護身術などがそれにあたる。武術も意味的にはこれに含まれるが、武術は含めないのが慣習である。ちなみに徒手武術には沖縄武術や古流柔術などがある。
それぞれ状況は異なるが、実際の闘争での戦闘術であり、競技である格闘技における技術とは似て非なるものである。
格闘技は非常に古くから存在しており、すでに紀元前3千年紀初頭にはボクシングやレスリングの記録がメソポタミアで残されている。古代オリンピックではレスリングやボクシング、パンクラチオンが正式種目のひとつとなっていた。
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] |
格闘技(かくとうぎ)とは、自身の体での攻撃や防御を行う技術、もしくはスポーツ、あるいはそれを基にした興行のことである。挌闘技とも表記される。「格技」「挌技(かくぎ)」「武術(ぶじゅつ)」「体技(たいぎ)」「マーシャルアーツ」とも呼ばれる。 狭義では、素手で組み合ったり、手足で打ち合ったりする形式の競技のことである。ルールが明文化され近代スポーツとしての体裁を整えた主として武術由来の試合競技を指す。武術というと武器を使用する技術の体系が含まれるが徒手のそれもあり、ほぼ格闘技と重なる。
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{{複数の問題
|出典の明記 = 2018年8月
|独自研究 = 2018年8月
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[[File:Egyptmotionseries.jpg|thumb|紀元前2000年ごろのエジプト、[[ベニハッサン村]]にある墓の壁画。格闘技を行っている様子が描かれている。]]
'''格闘技'''(かくとうぎ)とは、自身の体での攻撃や防御を行う技術、もしくは[[スポーツ]]、あるいはそれを基にした[[興行]]のことである。'''挌闘技'''とも表記される<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A0%BC%E9%97%98%E6%8A%80-460605 デジタル大辞泉 かくとう‐ぎ【格闘技/×挌闘技】]</ref>。「'''格技'''」「'''挌技'''(かくぎ)<ref group="注釈">[[連合国軍最高司令官総司令部]]による[[武道]]禁止の[[連合国軍占領下の日本|占領政策]]のもと[[文部省]]の中学[[学習指導要領]]新制[[中学校]]での「武道」([[剣道]]、[[柔道]]、[[アマチュア相撲|相撲]])を「格技」に言い換えた。その後、「武道」という言葉が復活したこともあり、「格技」のほうは「格闘技」と同じような意味で使われるようにもなった。</ref>」「'''[[武術]]'''(ぶじゅつ)<ref name="マーシャル‐アーツ(martial arts)" />」「'''体技'''(たいぎ)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A0%BC%E6%8A%80-43570#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉 かく‐ぎ【格技/×挌技】]</ref>」「'''[[マーシャルアーツ]]'''(''Martial Arts'')<ref name="マーシャル‐アーツ(martial arts)">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%84-632739 デジタル大辞泉 マーシャル‐アーツ(martial arts)]</ref>」とも呼ばれる。
狭義では、素手で組み合ったり、手足で打ち合ったりする形式の競技([[:en:Hand to hand combat]])のことである。ルールが明文化され近代スポーツとしての体裁を整えた主として[[武術]]由来の試合競技を指す。[[武術]]というと武器を使用する技術の体系が含まれるが徒手のそれもあり、ほぼ格闘技と重なる。
== 競技、興行としての格闘技 ==
=== 概要 ===
格闘技は、[[競技]]の分類の一つである。[[球技]]、[[陸上競技]]と同次元であるといえる。
競技であるため、安全性、実戦性、観戦者への[[娯楽]]性、競技者の満足等に鑑みて競技ごとに様々なルール(競技規則、[[反則行為|禁止行為]])が設けられている。例えば[[ボクシング]]では、[[拳骨|ナックル]]以外の部位を使用する攻撃、および上半身の前側面以外の部位に対する攻撃はルールで禁じられている。また、試合を[[興行]]として行う例も数多い。それらは一般的スポーツと同様である。
格闘技が他の競技と比して特徴的な点がいくつかある。1つが「1対1」である。[[エキシビション]]マッチなどのわずかな場合を除き、試合場内に同時に3人以上の競技者が存在することはない。[[団体戦]]にしても1対1を何回か繰り返すものである。
一定の基準を満たす攻撃が成功した場合(例:[[柔道]]の[[投げ技]]による[[一本]])や特定の状態に持ち込まれた場合(例:ボクシングの[[ノックアウト|KO]])には、試合時間やそれまでのポイントにかかわらず、試合の決着がつく点である。つまり、一発逆転のチャンスがあると言える。加えて、大抵の格闘技で、制限時間が定められており、ほぼすべての競技で、[[引き分け]]の回避、試合時間の短縮などを目的にポイント制が導入されている。
相手の体を直接どうにかする競技であるため、[[喧嘩]]や[[戦闘|闘争]]と似ていることも多い(違法ではない理由は「[[決闘罪ニ関スル件]]」を参照)。もともとは、[[戦争|戦場]]などでの使用を目的とした戦闘技術体系(後述)が、競技化されたものも多い。
他方で対戦を前提としない種目もある。例えばそれぞれの流派に含まれる技法を一定の順で演じるもの、あるいはそれを組み合わせて対戦の様子を再現したりするものである。空手における『型』や[[中国武術]]における表演などがあり、これらは個人で行われるものから3人以上で演じられるものもあり、総じて採点制で行われる。
どういう行為が認められているか、で大きく分けて3種に分けられる。
1. '''打撃系'''
: 殴る[[蹴り技|蹴る]]という行為が認められていて、つかむ[[投げ技|投げる]]などの行為が認められていない競技。[[ボクシング]]や[[空手]]など。相手に攻撃を当て、実際のダメージにより勝敗を決する場合(直接打撃制)と、実際に与えたダメージでなく、しっかり当たったかにより勝敗を決する場合がある。前者の例がボクシングであり、後者が空手である。また[[シュートボクシング]]、[[ムエタイ]]、[[ラウェイ]]、[[散打]]のように基本は打撃攻撃で、一部つかみながらの攻撃([[首相撲]]、投げ、[[関節技|立ち関節]])を認めているものもある。
2. '''組技系'''
: つかむ[[投げ技|投げる]]などの行為が認められていて、殴る[[蹴り技|蹴る]]という行為が認められていない競技。相手を倒すまでの攻防がメインの競技と、倒してからの攻防がメインの競技がある。[[相撲]]<ref group="注釈">日本の格闘技[[相撲]]は[[神社]]で奉納相撲が行われるように[[神事]]([[神道]]の[[儀式]])としての側面もあるが、[[江戸時代]]からは興行としても行われている。</ref>、[[アマチュアレスリング|レスリング]]<ref group="注釈">[[プロレス]]は格闘技か否かという議論が多々あり、競技としての性質、興行論やビジネス論も入り混じり解釈が難しいが、プロレスが[[アマチュアレスリング|レスリング]]を基盤にしていることは事実である。1997年10月11日にプロレスラーの[[髙田延彦|高田延彦]]対[[ヒクソン・グレイシー]]戦をメインイベントとした[[PRIDE.1]]が開催され、以後[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]は人気のある総合格闘技興行に成長したように、プロレス興行で行われた[[異種格闘技戦]]や[[プロレス用語一覧#や行|UWF系]]の競技性を強めたプロレス興行は後の総合格闘技興行に影響を与えた。また総合格闘技興行に[[プロレスラー]]が参戦したり、逆にプロレス興行に総合格闘技選手が参戦したりするなど、格闘技とプロレスの関係性は強い。[[K-1]]、[[UFC]]などの興行はプロレス的な演出と、プロレスにはない競技格闘技としての性格を併せ持つことで人気を得た。</ref>、[[柔道]]などがある。
3. '''[[総合格闘技|総合系]] '''
: 殴る蹴る、つかむ投げる絞めるの両者が認められている競技。
=== 種類 ===
格闘技は異なる複数の競技をおこなう選手が他のスポーツより多い。特に以下の分類で同じ分類の競技ではより多くなっている。
; 打撃系格闘技 - 組技系格闘技 - [[総合格闘技]]
:; 打撃系格闘技
:: 打撃技(突き技、蹴り技など)を主体とする格闘技。[[中国武術]]、[[空手道|空手]]、[[テコンドー]]、[[ボクシング]]、[[キックボクシング]]、[[シュートボクシング]]、[[ムエタイ]]、[[ラウェイ]]、[[サバット]]、[[散打]]などがある。ちなみに[[中国武術]]は、[[少林拳]]などの「北派(外家拳)」、[[太極拳]]などの「北派(内家拳)」、[[洪家拳]]などの「南派武術」に分類される。
:; 組技系格闘技
:: 組技([[投げ技]]、[[絞め技]]、[[関節技]]、[[フォール技]]、[[固技]]など)を主体とする格闘技。[[柔道]]、[[ブラジリアン柔術]]、[[サンボ (格闘技)|サンボ]]、[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン|キャッチ]]、[[アマチュアレスリング|レスリング]]、[[相撲]]、[[合気道]]などがある。ちなみにレスリングには[[グレコローマンレスリング|グレコローマンスタイル]]と[[フリースタイルレスリング|フリースタイル]]がある。
:; 総合格闘技
:: 打撃技、組技、立技、寝技の要素を含有する格闘技。[[修斗]]、[[日本拳法]]、[[大道塾空道]]、[[ヨーロピアン柔術]](JJIF)などがある。
; 着衣格闘技 - 裸体格闘技
: 組技の有る格闘技において規則上、着衣を掴めるか掴めないかは重要である。着衣の有無より掴むことを認めるかどうかで分類される。相撲は[[まわし]]を掴めるので着衣格闘技に分類される。
: 柔道、相撲、空手、合気道の日本[[武道]]は「素足の文化」、ボクシング、レスリング、サンボ、キャッチ、サバットの西洋格闘技は「靴の文化」とも言える。
:; 着衣格闘技
:: 柔道、相撲、合気道、日本拳法、空道、ブラジリアン柔術、ヨーロピアン柔術(JJIF)、サンボ、散打などがある。
:; 裸体格闘技
:: レスリング、キャッチ、修斗、ボクシング、キックボクシング、シュートボクシング、ムエタイ、ラウェイなどがある。
; 立技格闘技
: 寝技のない格闘技。相撲、空手道、合気道、ボクシング、キックボクシング、シュートボクシング、カンフー、ムエタイ、ラウェイ、サバット、散打などがある。
; 立技組技系格闘技
: 寝技がなく組技主体の格闘技。総じて「相撲」とも呼ばれる。護身や戦闘よりも[[神事]]、遊戯等を目的にした土着的なものが多い。相撲、[[ブフ]](モンゴル相撲)、[[シュアイジャオ]](中国相撲)、ラム([[セネガル相撲]])、コシティ(インド相撲)、ヤールギュレシ(トルコ相撲)などがある。
== 戦闘技術としての格闘技 ==
素手や小さな武器を用いた[[戦闘技術]]という意味で「格闘技」を用いる用法もある。
その意味で用いられる格闘技、すなわち体系だった[[近接格闘術]]には、いくかの種類があり、[[白兵戦]]術、[[逮捕術]]、[[護身術]]などがそれにあたる。[[武術]]も意味的にはこれに含まれるが、[[武術]]は含めないのが慣習である。ちなみに徒手武術には沖縄武術や古流柔術などがある。
それぞれ状況は異なるが、実際の闘争での戦闘術であり、競技である格闘技における技術とは似て非なるものである。
* '''[[近接格闘術]]'''
: 一般に、'''軍隊格闘術'''、'''軍用格闘技'''、'''軍事格闘技'''などと呼ばれる。競技や興行の格闘技と違い、[[軍隊]]が戦争で行なう[[白兵戦]]を前提としているため、相手を殺傷することを目的とした技術である。全隊員に短期間で一定の戦闘力を身につけさせるため、習得容易で効果的な技が多い。軍隊では格闘術にあまり重きをおいておらず、[[体力]]向上、[[士気]]高揚目的という説もある。
: [[ソビエト連邦]]の[[サンボ (格闘技)|コンバットサンボ]]と[[システマ (格闘技)|システマ]]、[[イスラエル]]の[[クラヴ・マガ]]、[[日本]]の[[自衛隊格闘術]]などがある。自衛隊格闘術は[[戦技競技会]]、徒手格闘選手権大会として競技化されている。
* '''[[逮捕術]]'''
: [[日本の警察官|警察官]]が[[犯人]]を[[逮捕]]するための技術で、主に[[日本拳法]]や[[武道]]をベースとしている。軍隊格闘術と違い、相手を殺傷するのではなく制圧、拘束するのを目的としている。逮捕術も競技化されている。
* '''[[護身術]]'''
: 自分の身体を防護することを目的とした技術であり、相手を攻撃することのみを目的としているのではなく、危険に近づかない知識や安全に逃れる方法を含む。
: 伝統武術系護身術としては、[[截拳道]]系、[[戸隠流]]系、[[シラット]]系、[[合気道]]系、カジュケンポ系等が有名である。
== 格闘技団体・格闘技プロモーション ==
; [[大相撲]]
* [[日本相撲協会]]
; [[空手道|空手]]
* [[世界空手連盟]]
* [[世界空手道連盟 (フルコンタクト空手)|世界空手道連盟]]
* [[世界フルコンタクト協会]]
* [[国際競技空手協会]]
; [[ボクシング]]
* [[日本ボクシングコミッション]]
* [[日本プロボクシング協会]]
* [[日本ボクシング連盟]]
* [[東洋太平洋ボクシング連盟]]
* [[世界ボクシング協会]]
* [[世界ボクシング評議会]]
* [[世界ボクシング機構]]
* [[国際ボクシング協会 (AIBA)|国際ボクシング協会]]
* [[国際ボクシング連盟]]
; [[女子ボクシング]]
* [[日本女子ボクシング協会]]
* [[女子国際ボクシング協会]]
* [[国際女子ボクサー協会]]
* [[国際女子ボクシング連盟]]
* [[女子国際ボクシング連盟]]
* [[G Legend]]
; [[キックボクシング]]
* [[日本キックボクシング]]
* [[新日本キックボクシング協会]]
* [[日本キックボクシング連盟]]
* [[日本プロキックボクシング連盟]]
* [[ニュージャパンキックボクシング連盟]]
* [[マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟]]
* [[ジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ]]
* [[ジャパン・キックボクシング・イノベーション]]
* [[UKFジャパン]]
* [[キック・ユニオン]]
* [[アジア太平洋キックボクシング連盟]]
* [[世界キックボクシング団体協会]]
* [[世界キックボクシング協会 (WKA)|世界キックボクシング協会]]
* [[世界キックボクシング連盟]]
* [[国際キックボクシング連盟]]
* [[K-1]]
* [[国際K-1連盟]]
* [[Krush]]
* [[R.I.S.E.]]
* [[KICKBOXING ZONE|ZONE]]
* [[KNOCK OUT]]
* [[J-NETWORK]]
* [[REBELS]]
* [[HEAT (格闘技イベント)|HEAT]]
* [[ACCEL]]
* [[神風塾]]
* [[ビッグバン〜統一への道〜]]
* [[BLADE FIGHTING CHAMPIONSHIP]]
* [[GLORY (格闘技)|GLORY]]
; [[シュートボクシング]]
* [[シュートボクシング協会]]
* [[S-cup]]
; [[ムエタイ]]
* [[世界プロムエタイ連盟]]
* [[世界ムエタイ評議会]]
* [[S1 (格闘技)|S1]]
* [[M-1ムエタイチャレンジ]]
* [[REBELS]]
; [[総合格闘技]]
* [[日本総合格闘技協会]]
* [[国際競技格闘連盟]]
* [[RIZIN FIGHTING FEDERATION|RIZIN]]
* [[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]
* [[PRIDE武士道]]
* [[DREAM (格闘技イベント)|DREAM]]
* [[HERO'S]]
* [[SENGOKU RAIDEN CHAMPIONSHIP|SRC]]
* [[DEEP (格闘技団体)|DEEP]]
* [[JEWELS|DEEP JEWELS]]
* [[スマックガール]]
* [[和術慧舟會]]
* [[修斗]]
* [[パンクラス]]
* [[リングス]]
* [[ZST]]
* [[イノキ・ゲノム・フェデレーション|IGF]]
* [[HEAT (格闘技イベント)|HEAT]]
* [[ACCEL]]
* [[GLADIATOR]]
* [[CAGE FORCE]]
* [[VALE TUDO JAPAN]]
* [[THE OUTSIDER]]
* [[UFC]]
* [[King of the Cage]]
; その他
* [[巌流島 (格闘技団体)|巌流島]]
* [[U-FILE CAMP#U-FILE SPECIAL|U-FILE SPECIAL]]
* [[日本アーマードバトル・リーグ]]
* [[ブレイキングダウン]]
== 歴史 ==
格闘技は非常に古くから存在しており、すでに[[紀元前3千年紀]]初頭にはボクシングやレスリングの記録が[[メソポタミア]]で残されている<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p205 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。[[古代オリンピック]]ではレスリングやボクシング、[[パンクラチオン]]が正式種目のひとつとなっていた<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p207-208 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[グラップラー]]、[[ストライカー (格闘技)|ストライカー]]
* [[格闘技の一覧]]
* [[世界の相撲一覧]]
* [[ダンス]]と格闘技が組み合わさったもの:[[カポエイラ]]、[[モラング]]、[[ブレイクダンス]]、[[剣舞]](武舞)
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{武道・武術}}
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[[Category:格闘技|*]]
[[Category:スポーツ競技]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E9%97%98%E6%8A%80
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京成西船駅
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京成西船駅(けいせいにしふなえき)は、千葉県船橋市西船四丁目にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS20。
東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東葉高速鉄道の西船橋駅から北に約500 m(徒歩約8分)の場所に位置しており、通常乗り換え案内は行われない。ただし、JR線などに輸送障害が発生した場合には、振替輸送の関係で優等列車が臨時停車をすることがある。そのため、駅ホームの有効長は8両分ある。
1970年代前半、当時の日本国有鉄道(国鉄)のストライキ実施で総武本線が不通になった際(当時武蔵野線や京葉線は未開業)、帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)東西線からの乗り換え客が当駅に殺到したことがあった。その後、1975年頃に駅施設の拡張が行われた。
開業当時、当駅周辺は東葛飾郡葛飾町(その前は葛飾村)であり、元々の駅名は葛飾駅であった。しかし葛飾町は1937年(昭和12年)の合併で船橋市の一部となり、その後1967年(昭和42年)の住居表示実施で周囲の地名が西船橋駅にちなむ「西船」になったこと、また域外の客が東京都葛飾区(旧・南葛飾郡の一部)内の駅と間違えやすいことも要因となり、京成西船駅へと改められた。なお、駅名改称後も駅北側にある船橋市立葛飾小学校や船橋市立葛飾中学校に「葛飾」の名が残っている他、西船橋駅の南西部には「葛飾町」(二丁目の残部)が町域として残っている。
元々の地名でもあり、長年慣れ親しまれてきた駅名の変更については由緒ある「葛飾」の名を残そうとする住民側と「西船」が定着しているとする京成側と対立した。話し合いの結果、自立式駅名標に(旧葛飾)と書き入れ、葛飾の地名の由来や歴史の案内板を作製して設置することで落ち着いた。取り換えられた旧駅名標は地元(船橋市立葛飾小学校)に寄贈された。京成上野方面ホーム上には「葛飾の由来」を示す船橋市の説明板がある。以前の駅名標には「(旧葛飾)」の表記が入っていたが、2010年(平成22年)に更新された際に削除された。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。1番線ホームに改札口があり、ホーム間を連絡する跨線橋がある。バリアフリー対応で、ホームと跨線橋を結ぶエレベーターが設置されている。1番線ホームの海神寄りに直接駅外に出られる階段があるが、通常は使用されていない。自動改札機設置(3台、そのうち1台は車椅子通行可、すべてICカード対応)。
駅改札口(出入口)は南側にあるが、出入口付近には駅北側に通じる地下横断歩道が整備されている。
リニューアル工事後は駅名標とサインシステム等の更新が行われ、今までの「西船」表示から「京成西船」表示と正式駅名での表示に変更された。最近、京成は正式駅名で案内する傾向が見られる。
2022年度の1日平均乗降人員は10,006人で、京成線内69駅中第38位であった。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通り。
正式な乗換駅ではないが、駅南側約500 m(徒歩約8分)の位置に西船橋駅(東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東葉高速鉄道)がある。駅南側には京葉道路(原木インターチェンジ)、国道14号(千葉街道)、千葉県道179号船橋行徳線、駅西側には千葉県道180号松戸原木線、千葉県道283号若宮西船市川線、駅東側には千葉県道9号船橋松戸線が通る。
以下、国道14号(千葉街道)より北側の施設等一覧(南側は「西船橋駅#駅周辺」を参照)。
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京成西船駅(けいせいにしふなえき)は、千葉県船橋市西船四丁目にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS20。
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{{Redirect|西船駅|近隣にある東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東葉高速鉄道の駅|西船橋駅}}
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 京成西船駅*
|画像 = Keisei Nishifuna Sta. 20200628.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎(2020年6月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = けいせいにしふな
|ローマ字 = Keisei-Nishifuna
|副駅名 =
|前の駅 = KS19 [[東中山駅|東中山]]
|駅間A = 0.6
|駅間B = 1.4
|次の駅 = [[海神駅|海神]] KS21
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|20|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|■}}[[京成本線|本線]]
|キロ程 = 22.2
|起点駅 = [[京成上野駅|京成上野]]
|所在地 = [[千葉県]][[船橋市]][[西船 (船橋市)|西船]]四丁目15番27号
|座標 = {{coord|35|42|41.54|N|139|57|32.18|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = [[相対式ホーム|相対式]]2面2線
|開業年月日 = [[1916年]]([[大正]]5年)[[12月30日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="京成" name="keisei2022" />10,006
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = * [[1987年]]に葛飾駅から改称。
}}
'''京成西船駅'''(けいせいにしふなえき)は、[[千葉県]][[船橋市]][[西船 (船橋市)|西船]]四丁目にある、[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS20'''。
== 概要 ==
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東葉高速鉄道]]の[[西船橋駅]]から北に約500 m(徒歩約8分<ref group="注">連絡定期券は発売していない。</ref>)の場所に位置しており、通常乗り換え案内は行われない。ただし、JR線などに[[輸送障害]]が発生した場合には、[[振替輸送]]の関係で[[優等列車]]が[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|臨時停車]]をすることがある。そのため、駅ホームの有効長は8両分ある。
== 歴史 ==
{{出典の明記|section=1|date=2011年12月|ソートキー=駅}}
[[1970年代]]前半、当時の[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[ストライキ]]実施で[[総武本線]]が不通になった際(当時[[武蔵野線]]や[[京葉線]]は未開業)、[[帝都高速度交通営団]](現・東京メトロ)[[東京メトロ東西線|東西線]]からの乗り換え客が当駅に殺到したことがあった<ref name="keiseikonjyaku">JTBキャンブックス『京成の駅 今昔・昭和の面影』([[石本祐吉]]・著 2014年2月1日初版発行)80-81頁</ref>。その後、[[1975年]]頃に駅施設の拡張が行われた。
=== 年表 ===
* [[1916年]]([[大正]]5年)[[12月30日]] - '''葛飾駅'''(かつしかえき)として開業。
**葛飾駅の駅名標は、船橋西図書館で見ることができる。
* [[1974年]]([[昭和]]49年) - 駅本屋を改築、[[跨線橋]]を新設。[[踏切#構内踏切|構内踏切]]を廃止<ref name="keiseikonjyaku"/>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] - '''京成西船駅'''に改称<ref>{{Cite journal|和書 |date=1987-05 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |volume=21 |issue=6 |pages=104 |publisher=鉄道ジャーナル社}}</ref>。
* [[1999年]]([[平成]]11年) - ホームを8両対応に延伸<ref name="keiseikonjyaku"/>。
* [[2019年]]([[令和]]元年) - リニューアル工事を実施。
<gallery>
Keisei-railway-KS20-Keisei-nishifuna-station-building-20170821-175636.jpg|リニューアル前の駅舎(2017年8月)
Keisei Keisei Nishifuna sta 002.jpg|リニューアル前の改札口(2007年2月)
</gallery>
=== 駅名の由来 ===
開業当時、当駅周辺は[[東葛飾郡]][[葛飾町]](その前は葛飾村)であり、元々の駅名は'''葛飾駅'''であった。しかし葛飾町は[[1937年]](昭和12年)の合併で船橋市の一部となり、その後[[1967年]](昭和42年)の[[住居表示]]実施で周囲の地名が西船橋駅にちなむ「西船」になったこと、また域外の客が[[東京都]][[葛飾区]](旧・[[南葛飾郡]]の一部)内の駅と間違えやすいことも要因となり、'''京成西船駅'''へと改められた。なお、駅名改称後も駅北側にある[[船橋市立葛飾小学校]]や[[船橋市立葛飾中学校]]に「葛飾」の名が残っている他、西船橋駅の南西部には「葛飾町」(二丁目の残部)が町域として残っている。
元々の地名でもあり、長年慣れ親しまれてきた駅名の変更については由緒ある「'''葛飾'''」の名を残そうとする住民側と「'''西船'''」が定着しているとする京成側と対立した。話し合いの結果、自立式駅名標に'''(旧葛飾)'''と書き入れ、葛飾の地名の由来や歴史の案内板を作製して設置することで落ち着いた。取り換えられた旧駅名標は地元([[船橋市立葛飾小学校]])に寄贈された。京成上野方面ホーム上には「葛飾の由来」を示す船橋市の説明板がある<ref group="注">同様に住所表記の変更などによる駅名の改称で旧名称を併記した駅としては、[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)の[[とうきょうスカイツリー駅]](旧・業平橋駅)と[[東向島駅]](旧・玉ノ井駅)がある。</ref>。以前の[[駅名標]]には「'''(旧葛飾)'''」の表記が入っていたが、[[2010年]](平成22年)に更新された際に削除された。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。1番線ホームに[[改札|改札口]]があり、ホーム間を連絡する[[跨線橋]]がある。[[バリアフリー]]対応で、ホームと跨線橋を結ぶ[[エレベーター]]が設置されている。<!--「mini shop」(駅売店)はない。-->1番線ホームの[[海神駅|海神]]寄りに直接駅外に出られる階段があるが、通常は使用されていない。[[自動改札機]]設置(3台、そのうち1台は車椅子通行可、すべてICカード対応)。
駅改札口(出入口)は南側にあるが、出入口付近には駅北側に通じる[[地下横断歩道]]が整備されている。
リニューアル工事後は駅名標とサインシステム等の更新が行われ、今までの「西船」表示から「京成西船」表示と正式駅名での表示に変更された。最近、京成は正式駅名で案内する傾向が見られる。
=== のりば ===
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠。新京成線も表記あり -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成高砂駅|京成高砂]]・[[青砥駅|青砥]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京浜急行電鉄|京急線]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]・[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]方面
|}
* 上表の路線名は[[京成成田空港線|成田空港線]]開業後の旅客案内の名称に基づいている。
<gallery>
Keisei Nishifuna Sta. Gate 20200628.jpg|改札口(2020年6月)
Keisei-Nishifuna-STA Platforms.jpg|ホーム(2023年5月)
Keisei-Nishifuna-STA Overpass.jpg|跨線橋(2023年5月)
Keisei-railway-KS20-Keisei-nishifuna-station-sign-20170821-064853.jpg|駅名標(2017年8月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均乗降人員は'''10,006人'''<ref group="京成" name="keisei2022" />で、京成線内69駅中第38位であった。
近年の1日平均'''乗降・乗車'''人員推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.funabashi.chiba.jp/shisei/toukei/0002/p012851.html 船橋市統計書] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20160130081117/http://www.city.funabashi.chiba.jp/shisei/toukei/0002/p012851.html |date=2016年1月30日}}</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[http://www.train-media.net/report/index.html 各種報告書] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/index.html 千葉県統計年鑑]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|4,016
|-
|1999年(平成11年)
|
|3,963
|-
|2000年(平成12年)
|
|3,984
|-
|2001年(平成13年)
|
|3,949
|-
|2002年(平成14年)
|
|3,883
|-
|2003年(平成15年)
|7,966
|<ref group="統計" name="funabashi2008">{{PDFlink|[https://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/toukei/002/p004032_d/fil/H20_I.pdf 平成20年版統計書 I-3 市内鉄道駅別1日平均乗車人員]}}、船橋市公式ホームページ、2021年7月14日閲覧</ref>3,939
|-
|2004年(平成16年)
|7,994
|<ref group="統計" name="funabashi2008"></ref>3,958
|-
|2005年(平成17年)
|8,098
|<ref group="統計" name="funabashi2008"></ref>4,014
|-
|2006年(平成18年)
|8,344
|<ref group="統計" name="funabashi2008"></ref>4,156
|-
|2007年(平成19年)
|8,418
|<ref group="統計" name="funabashi2008"></ref>4,183
|-
|2008年(平成20年)
|8,243
|<ref group="統計" name="funabashi2009">{{PDFlink|[https://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/toukei/002/p004033_d/fil/H21_I.pdf 平成21年版統計書 I-3 市内鉄道駅別1日平均乗車人員]}}、船橋市公式ホームページ、2021年7月14日閲覧</ref>4,102
|-
|2009年(平成21年)
|8,297
|<ref group="統計" name="funabashi2010">{{PDFlink|[https://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/toukei/002/p014733_d/fil/h22toukeisho_i.pdf 平成22年版統計書 I-3 市内鉄道駅別1日平均乗車人員]}}、船橋市公式ホームページ、2021年7月14日閲覧</ref>4,141
|-
|2010年(平成22年)
|8,596
|4,280
|-
|2011年(平成23年)
|8,796
|4,378
|-
|2012年(平成24年)
|9,181
|4,563
|-
|2013年(平成25年)
|9,532
|4,730
|-
|2014年(平成26年)
|9,796
|4,861
|-
|2015年(平成27年)
|9,964
|
|-
|2016年(平成28年)
|10,315
|
|-
|2017年(平成29年)
|10,686
|
|-
|2018年(平成30年)
|11,037
|
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="京成" name="keisei2019">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2019年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2021-07-14 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125810/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>10,934
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="京成" name="keisei2020">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2020年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2021-07-14 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>8,428
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京成" name="keisei2021">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2021年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>9,306
|<ref group="京成" name="keisei2021" />4,653
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>10,006
|<ref group="京成" name="keisei2022" />4,998
|}
== 駅周辺 ==
{{Main|西船橋駅#駅周辺}}
[[ファイル:Katsushika Jinja Shrine Funabashi Chiba.JPG|thumb|[[葛飾神社]]]]
[[ファイル:Mizuho Bank Nishi-Funabashi Branch.jpg|thumb|[[みずほ銀行]] 西船橋支店]]
正式な乗換駅ではないが、駅南側約500 m(徒歩約8分)の位置に[[西船橋駅]]([[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東葉高速鉄道]])がある。駅南側には[[京葉道路]]([[原木インターチェンジ]])、[[国道14号]]([[千葉街道]])、[[千葉県道179号船橋行徳線]]、駅西側には[[千葉県道180号松戸原木線]]、[[千葉県道283号若宮西船市川線]]、駅東側には[[千葉県道9号船橋松戸線]]が通る。
以下、国道14号(千葉街道)より北側の施設等一覧(南側は「[[西船橋駅#駅周辺]]」を参照)。
* [[ファミリーマート]]京成西船店
* [[船橋市役所]] 西船橋出張所
* 船橋市葛飾公民館
* [[船橋市立葛飾中学校]]
* [[船橋市立葛飾小学校]]
* [[船橋市立西海神小学校]]
* 葛飾幼稚園
* [[みずほ銀行]] 西船橋支店
* [[ちば東葛農業協同組合|JAちば東葛]] 西船支店
* [[生活協同組合コープみらい]] ミニコープ西船店
* [[マルヤ]] 西船橋店
* [[くすりの福太郎]] 船橋古作店
* くすりの福太郎 行田店
* [[しまむら|ファッションセンターしまむら]] 西船店
* [[TSUTAYA]] 西船橋店
* [[ニコニコレンタカー]] 京成西船駅店
* [[ガッツレンタカー]] 千葉船橋店
* [[トヨタ勝又グループ|千葉トヨペット]] 中山店
* [[葛飾神社]]
* [[正延寺]]
* [[宝成寺]]
* 勝間田公園
== バス路線 ==
{|class="wikitable"
!のりば!!系統!!主要経由地!!行先!!運行会社!!備考
|-
|rowspan="6"|京成西船駅||Fs01||rowspan="2"|行田団地・前貝塚・桐畑||[[ファイターズ鎌ケ谷スタジアム|ファイターズタウン鎌ケ谷]]||rowspan="6"|[[京成バス市川営業所|京成バス]]||
|-
|Fs02||市川営業所||rowspan="3"|深夜バスあり
|-
|Fs03||行田団地・前貝塚||桐畑
|-
|Fs04||||行田団地
|-
|Fs05||行田団地||前貝塚||
|-
|Fs01<br />Fs02<br />Fs03<br />Fs04<br />Fs05|| ||[[西船橋駅]]||
|}
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#ee86a1|■}}快速
:::: '''通過'''(JR線のダイヤが乱れた場合は臨時停車を行う場合あり)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[東中山駅]] (KS19) - '''京成西船駅 (KS20)''' - [[海神駅]] (KS21)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
; 京成電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京成"|22em}}
;船橋市統計書
{{Reflist|group="統計"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Keisei Nishifuna Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-nishifuna.php 京成西船駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* {{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/121.pdf 京成西船駅]}}
{{京成本線}}
{{DEFAULTSORT:けいせいにしふな}}
[[Category:日本の鉄道駅 け|いせいにしふな]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:船橋市の鉄道駅]]
[[Category:1916年開業の鉄道駅]]
|
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11,849 |
ウシ科
|
ウシ科(ウシか、Bovidae)は、哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目(反芻亜目)に属する科である。
ウシ科に共通の特徴として、その角は洞角であり、角質の鞘と骨質の芯をもつ。シカ科の枝角のように骨質部が生えかわったり、プロングホーンのように鞘が抜け替わったりすることはない。
側方の指は常に不完全で、ふつうは副蹄しかなく、この副蹄ももたないものもある。
ウシ科は Boodontia(直訳: 牛歯類)と Aegedontia(直訳: エーゲ歯類)に分かれる。Boodontia はアジアで、Aegedontia はアフリカで進化した。
より詳細には12族に分類され、Boodontia にはウシ亜科の3族が属す。Aegedontia には残りの9族が属す。しかし、その亜科分類は一定せず、現在では1亜科〜8亜科に分類されるが、ここでは6亜科(ウシ科全体で7亜科)に分けることとする。ただし、この分類でのブラックバック亜科(ブラックバック族 + クリップスプリンガー族 + ローヤルアンテロープ族)は、多系統である。
ウシ科の中ではまずウシ亜科が分岐し、次に (インパラ亜科 + ローヤルアンテロープ族) が分岐した。その後の分岐は不確実である。
ウシ科の正確な姉妹群は不確実だが、ウシ科など5科からなる真反芻下目 Pecora は単系統である。
ウシ科はウシ亜科とそれ以外に分岐したため、ウシ亜科以外をブラックバック亜科にまとめる分類もある。この場合、レイヨウ亜科と訳すこともある。
ガゼル亜科とも。
ローヤルアンテロープ亜科 Neotraginae を分けることもある。
チルー亜科 Pantholopinae を分けることもある。
ハーテビースト亜科 Alcelaphinae を分けることもある。
リードバック亜科とも。
リードバック亜科 Reduncinae を分けることもある。
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ウシ科(ウシか、Bovidae)は、哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目(反芻亜目)に属する科である。
|
{{生物分類表
|名称 = ウシ科<br/>Bovidae
|fossil_range = {{Fossil range|20|0|[[中新世]]前期-[[現世]]}}
|画像 = [[Image:American bison k5680-1.jpg|240px]]
|画像キャプション = [[アメリカバイソン]] {{snamei||Bison bison}}
|省略 = 哺乳綱
|目 = [[鯨偶蹄目]] {{Sname||Cetartiodactyla}}
|亜目 = [[ウシ亜目]] {{Sname||Ruminantia}}
|下目 = [[真反芻下目]] {{sname||Pecora}}
|科 = '''ウシ科''' {{Sname||Bovidae}}
|学名 = Bovidae {{AUY|[[ジョン・エドワード・グレイ|Gray]]|1821}}
|下位分類名 = 亜科{{weight|normal|<ref name="動物の起源と進化74">『動物の起源と進化』 74頁</ref>}}
|下位分類 =
* [[ウシ亜科]] {{sname||Bonvinae}}
* [[ブラックバック亜科]] {{sname||Antilopinae}}
* [[ヤギ亜科]] {{sname||Caprinae}}
* [[ブルーバック亜科]] {{sname||Hippotraginae}}
* [[ダイカー亜科]] {{sname||Cephalophinae}}
* [[インパラ亜科]] {{sname||Aepycerotinae}}
* [[リーボック亜科]] {{sname||Peleinae}}
}}
'''ウシ科'''(ウシか、{{sname|Bovidae}})は、[[哺乳類|哺乳綱]][[鯨偶蹄目]][[ウシ亜目]](反芻亜目)に属する[[科 (分類学)|科]]である。
==形態==
ウシ科に共通の特徴として、その角は[[洞角]]であり、角質の鞘と骨質の芯をもつ。[[シカ科]]の[[枝角]]のように骨質部が生えかわったり、[[プロングホーン]]のように鞘が抜け替わったりすることはない。
側方の指は常に不完全で、ふつうは副蹄しかなく、この副蹄ももたないものもある。
== 系統 ==
{{Clade | style=font-size:small; line-height:1em;
|label1=[[真反芻下目]]
|{{Clade
|label1='''ウシ科'''
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|{{Clade
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|ボック亜族 {{sname|Raphicerina}}
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}}
|[[クリップスプリンガー属|クリップスプリンガー族]] {{sname|en|Oreotragus|Oreotragini}}
|[[ダイカー亜科]] {{sname||Cephalophinae}}
|[[リーボック亜科]] {{sname||Peleinae}}
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}}
|[[ジャコウジカ科]] {{sname||Moschidae}}
|[[シカ科]] {{sname||Cervidae}}
|[[キリン科]] {{sname||Giraffidae}}
|[[プロングホーン科]] {{sname||Antilocapridae}}
}}
}}
<ref name="hassanin">{{cite | title=Pattern and timing of diversification of Cetartiodactyla (Mammalia, Laurasiatheria), as revealed by a comprehensive analysis of mitochondrial genomes | first=Alexandre | last=Hassanin | last2=''et al.'' | journal=[[:fr:Comptes Rendus Biologies|C. R. Biologies]] | volume=335 | year=2012 | issue=1 | pages=32–50 | url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1631069111002800 }}</ref><ref name="yang">{{cite | journal=[[:en:Biochemical Systematics and Ecology|Biochemical Systematics and Ecology]] | volume=48 | year=2013 | pages=136–143 | title=Phylogenetic analyses and improved resolution of the family Bovidae based on complete mitochondrial genomes | first=Chengzhong | last=Yang | last2=''et al.'' | url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0305197812002670 }}</ref>
ウシ科は {{sname|Boodontia}}(直訳: 牛歯類)と {{sname|Aegedontia}}(直訳: エーゲ歯類)に分かれる<ref name="fernandez">{{cite | title=A complete estimate of the phylogenetic
relationships in Ruminantia: a dated
species-level supertree of the extant ruminants | first=Manuel Hernández | last=Fernández | first2=Elisabeth S. | last2=Vrba | journal=Biol. Rev. | year=2005 | volume=80 | pages=269–302 | doi=10.1017/S1464793104006670 | url=http://www.pmmv.com.es/sites/default/files/Hern%C3%A1ndez%20Fern%C3%A1ndez%20&%20Vrba%20%282005a%29%20Supertree_0.pdf }}</ref>。{{sname|Boodontia}} は[[アジア]]で、{{sname|Aegedontia}} は[[アフリカ]]で進化した。
より詳細には12族に分類され<ref name="fernandez"/><ref name="ropiquet"/><ref name="hassanin"/>、{{sname|Boodontia}} にはウシ亜科の3族が属す。{{sname|Aegedontia}} には残りの9族が属す。しかし、その亜科分類は一定せず、現在では1亜科<ref name="ropiquet">{{cite | title=SuperTRI: A new approach based on branch support analyses of multiple independent data sets for assessing reliability of phylogenetic inferences | first=Anne | last=Ropiquet | last2=''et al''. | journal=[[:fr:Comptes Rendus Biologies|C. R. Biologies]] | volume=332 | year=2009 | pages=832–847 | url=http://www.normalesup.org/~bli/Papers/Ropiquet_et_al_2009_SuperTRI.pdf }}</ref><ref name="hassanin"/>〜8亜科<ref name="yang"/>に分類されるが、ここでは6亜科(ウシ科全体で7亜科)に分けることとする<ref name="動物の起源と進化74" />。ただし、この分類での[[ブラックバック亜科]](ブラックバック族 + クリップスプリンガー族 + ローヤルアンテロープ族)は、[[多系統]]である<ref name="fernandez"/><ref name="ropiquet"/><ref name="hassanin"/><ref name="yang"/>。
ウシ科の中ではまずウシ亜科が分岐し、次に (インパラ亜科 + ローヤルアンテロープ族) が分岐した<ref name="hassanin"/><ref name="yang"/>。その後の分岐は不確実である。
ウシ科の正確な姉妹群は不確実だが、ウシ科など5科からなる[[真反芻下目]] {{sname||Pecora}} は単系統である<ref name="hassanin"/>。
== 分類 ==
ウシ科はウシ亜科とそれ以外に分岐したため、ウシ亜科以外をブラックバック亜科にまとめる分類もある<ref name="ropiquet"/><ref name="hassanin"/>。この場合、レイヨウ亜科と訳すこともある。
[[File: Black Buck.jpg|thumb|220px|[[ブラックバック]]<br/>{{snamei||Antilope cervicapra}}]]
[[File: Serengeti Thomson-Gazelle1.jpg|thumb|220px|[[トムソンガゼル]]<br/>{{snamei||Gazella thomsonii}}]]
[[File: Dikdik Looking.JPG|thumb|220px|[[キルクディクディク]]<br/>{{snamei||Madoqua kirkii}}]]
[[File: Serengeti Bueffel1.jpg|thumb|220px|[[アフリカスイギュウ]]<br/>{{snamei||Syncerus caffer}}]]
[[File: Lightmatter japanese serows.jpg|thumb|220px|[[ニホンカモシカ]]<br/>{{snamei||Capricornis crispus}}]]
[[File: USGS ovis canadensis GNP bighorn rams 0.jpg|thumb|220px|[[ビッグホーン]] <br/>{{snamei||Ovis canadensis}}]]
[[File: Blue Wildebeest, Ngorongoro.jpg |thumb|220px|[[オグロヌー]]<br/>{{snamei||Connochaetes taurinus}}]]
[[File: Beisa Oryx, Samburu NR, Kenya.jpg|thumb|220px|[[ベイサオリックス]]<br/>{{snamei||Oryx beisa}}]]
=== ウシ亜科 {{sname|Bovinae}} ===
* ニルガイ族 {{sname||Boselaphini}}
** [[ニルガイ属]] {{snamei||Boselaphus}}
** [[ヨツヅノレイヨウ属]] {{snamei||Tetracerus}}
* ブッシュバック族 {{sname|Tragelaphini}}
** [[ブッシュバック属]] {{snamei||Tragelaphus}}
* [[ウシ族]] {{sname||Bovini}}
** [[バイソン属]] {{Snamei||Bison}}
** [[ウシ属]] {{Snamei||Bos}}
** [[アジアスイギュウ属]] {{Snamei||Bubalus}}
** [[アフリカスイギュウ属]] {{snamei||Syncerus}}
=== ブラックバック亜科 {{sname|Antilopinae}} ===
ガゼル亜科とも。
ローヤルアンテロープ亜科 {{Sname|Neotraginae}} を分けることもある。
* ブラックバック族 {{sname|Antilopini}}
** ブラックバック亜族 {{snamei|Antilopina}}
*** [[ガゼル属]] {{snamei||Gazella}}
*** [[ブラックバック属]] {{snamei||Antilope}}
*** [[ダマガゼル属]] {{snamei||Nanger}}
*** [[トムソンガゼル属]] {{snamei||Eudorcas}}
*** [[スプリングボック属]] {{snamei||Antidorcas}}
*** [[ジェレヌク属]] {{snamei||Litocranius}}
*** [[サイガ属]] {{snamei||Saiga}}
** オリビ亜族 {{sname|Ourebina}}
*** [[オリビ属]] {{snamei||Ourebia}}
** ボック亜族 {{sname|Raphicerina}}
*** [[ディクディク属]] {{snamei||Madoqua}}
*** [[ベイラ属 ]] {{snamei||Dorcatragus}}
*** [[ボック属]] {{snamei||Raphicerus}}
** チベットガゼル亜族 {{sname|Procaprina}}
*** [[チベットガゼル属]] {{Snamei||Procapra}}
* クリップスプリンガー族 {{sname|Oreotragina}}
** [[クリップスプリンガー属]] {{snamei||Oreotragus}}
* ローヤルアンテロープ族 {{Snamei|Neotragina}}
** [[ローヤルアンテロープ属]] {{Sname||Neotragus}}
=== ヤギ亜科 {{sname|Caprinae}} ===
チルー亜科 {{sname|Pantholopinae}} を分けることもある。
* ヤギ族 {{sname|Caprini}}
** ヤギ亜族 {{sname|Caprina}}
*** [[バーバリーシープ属]] {{snamei||Ammotragus}}
*** [[ターキン属]] {{snamei||Budorcas}}
*** [[ヤギ属]] {{Snamei||Capra_(genus)|Capra}}
*** [[タール属]] {{Snamei||Tahr|Hemitragus}}
*** [[シロイワヤギ属]] {{snamei||Oreamnos}}
*** [[ヒツジ属]] {{Snamei||Ovis}}
*** [[バーラル属]] {{Snamei||Pseudois}}
*** [[シャモア属]] {{snamei||Rupicapra}}
*** [[アラビアタール属]] {{Snamei||Arabitragus}}
** ジャコウウシ亜族 {{sname|Ovibina}}
*** [[カモシカ属]] {{Snamei||Serow|Capricornis}}
*** [[ゴーラル属]] {{Snamei||Goral|Nemorhaedus}}
*** [[ジャコウウシ属]] {{snamei||Ovibos}}
** チルー亜族 {{sname|Pantholopina}}
*** [[チルー属]] {{snamei||Pantholops}}
=== ブルーバック亜科 {{sname|Hippotraginae}} ===
ハーテビースト亜科 {{sname|Alcelaphinae}} を分けることもある<ref name="yang"/>。
* ハーテビースト族 {{sname||Alcelaphini}}
** [[ハーテビースト|ハーテビースト属]] {{Snamei||Alcelaphus}}
** [[ヌー属]] {{Snamei||Wildebeest|Connochaetes}}
** [[ダマリスクス属]] {{Snamei||Damaliscus}}
* ブルーバック族 {{sname||Hippotragini}}
** [[アダックス属]] {{snamei||Addax}}
** [[ブルーバック属]] {{Snamei||Hippotragus}}
** [[オリックス属]] {{Snamei||Oryx}}
=== インパラ亜科 {{sname|Aepycerotinae}} ===
* インパラ族 {{sname|Aepycerotini}}
** [[インパラ属]] {{snamei||Aepyceros}}
=== リーボック亜科 {{sname|Peleinae}} ===
リードバック亜科とも。
リードバック亜科 {{sname|Reduncinae}} を分けることもある<ref name="yang"/>。
* リードバック族 {{sname|Reduncini}}
** [[ウォーターバック属]] {{Snamei||Kobus}}
** [[リーボック属]] {{snamei|en|Grey rhebok|Pelea}}
** [[リードバック属]] {{Snamei||Redunca}}
=== ダイカー亜科 {{sname|Cephalophinae}} ===
* ダイカー族 {{Sname|Cephalophini}}
** [[ダイカー属]] {{Snamei||Cephalophus}}
** [[サバンナダイカー属]] {{snamei||Sylvicapra}}(ダイカー属の亜属とする説もあり)
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==参考文献==
* {{Cite book|和書|author= 長谷川政美|authorlink=長谷川政美|title = 新図説 動物の起源と進化 書き換えられた系統樹|year = 2011|publisher = [[八坂書房]]|isbn = 978-4-89694-971-1|pages= 72-74}}
==関連項目==
{{Commonscat|Bovidae}}
{{Wikispecies|Bovidae}}
*[[レイヨウ]]
{{哺乳類}}
{{鯨偶蹄類}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:うしか}}
[[Category:ウシ科|*]]
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B7%E7%A7%91
|
11,850 |
おちよしひこ
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おち よしひこ(本名:越智 善彦〈おち よしひこ〉、1961年9月26日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。多摩芸術学園(多摩美術大学付属)卒。男性。電撃ホビーマガジンでライターとして活動している越智信善は実兄である。
1996年より、本名名義による作品発表を開始。また、同年より成年コミックにおいて、あじす・あべば名義による作品発表も行っている。
代表作は『月刊コロコロコミック』(小学館)に連載されたミニ四駆広報漫画『GO!GO!ミニ四ファイター』など。また小学館発行雑誌誌上におけるスーパー戦隊シリーズを始めとする特撮・アニメ作品のコミカライズ作品も数多く執筆している。
当時既にプロモデラーとして活動中だった兄・越智信善の伝手で、小学館から依頼を受け在学中にデビュー。デビューは1983年に『月刊コロコロコミック』に収録された『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』コミカライズ版。一方で本格的にシリーズ化されたという意味で1984年発表の読切『ゾイド創世記』をデビューとする説もある。デビュー以前においても小学館のコロタン文庫シリーズに数度カットを寄せており、それがデビューのきっかけとなっている。
掲載誌の廃刊・休刊を理由にしたものも含めて連載作品が打ち切りになることが多く、打ち切りに際して欄外の作者コメント等に「また途中で終わってしまいました」という旨のコメントを残したこともある。
一時期、18歳未満購入禁止の「成年コミック」ジャンルに活動の場を移し、そちらでは「あじす・あべば」名義を用いていた。こちらでは作品『百喜夜行』(わらしと家主様シリーズの一部)がOVA化されている。名前の由来はアディスアベバから。
2012年現在、『週刊アスキー』にてAndroidのマスコットキャラクターが登場するサイレント漫画「ドロイどん」を連載中。
2018年に発刊した『マリーとエリ―のアトリエ ザールブルグの錬金術士 SecondSeason』の第8巻あとがきにて、網膜色素変性症を発症し、徐々に視力が低下していることが明かされている。
小学館『てれびくん』に連載
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おち よしひこは、日本の漫画家。東京都出身。多摩芸術学園(多摩美術大学付属)卒。男性。電撃ホビーマガジンでライターとして活動している越智信善は実兄である。 1996年より、本名名義による作品発表を開始。また、同年より成年コミックにおいて、あじす・あべば名義による作品発表も行っている。
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'''おち よしひこ'''(本名:'''越智 善彦'''〈おち よしひこ〉、[[1961年]][[9月26日]]<ref name="hanjuku">てんとう虫コミックス『半熟英雄』1巻奥付より。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身<ref name ="hanjuku" />。多摩芸術学園([[多摩美術大学]]付属)卒。男性。電撃ホビーマガジンでライターとして活動している[[越智信善]]は実兄である。
[[1996年]]より、本名名義による作品発表を開始。また、同年より[[成人向け漫画|成年コミック]]において、'''あじす・あべば'''名義による作品発表も行っている。
== 概要 ==
代表作は『[[月刊コロコロコミック]]』([[小学館]])に連載された[[ミニ四駆]]広報漫画『GO!GO!ミニ四ファイター』など。また小学館発行雑誌誌上における[[スーパー戦隊シリーズ]]を始めとする[[特撮]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品の[[コミカライズ]]作品も数多く執筆している。
当時既にプロモデラーとして活動中だった兄・[[越智信善]]の伝手で、小学館から依頼を受け在学中にデビュー。デビューは[[1983年]]に『[[月刊コロコロコミック]]』に収録された『[[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]]』コミカライズ版。一方で本格的にシリーズ化されたという意味で[[1984年]]発表の読切『ゾイド創世記』をデビューとする説もある<ref name ="hanjuku" />。デビュー以前においても[[小学館]]のコロタン文庫シリーズに数度カットを寄せており、それがデビューのきっかけとなっている。
掲載誌の廃刊・休刊を理由にしたものも含めて連載作品が打ち切りになることが多く、打ち切りに際して欄外の作者コメント等に「'''また'''途中で終わってしまいました」という旨のコメントを残したこともある。
一時期、18歳未満購入禁止の「成年コミック」ジャンルに活動の場を移し、そちらでは「'''あじす・あべば'''」名義を用いていた。こちらでは作品『百喜夜行』(わらしと家主様シリーズの一部)が[[OVA]]化されている。名前の由来は[[アディスアベバ]]から。
2012年現在、『[[週刊アスキー]]』にて[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]のマスコットキャラクターが登場するサイレント漫画「ドロイどん」を連載中。
2018年に発刊した『マリーとエリ―のアトリエ ザールブルグの錬金術士 SecondSeason』の第8巻あとがきにて、[[網膜色素変性症]]を発症し、徐々に視力が低下していることが明かされている。
== 作品リスト ==
=== オリジナル作品 ===
* マイティキャラット
* さいばぁふぉ〜す(雑誌休刊により打ち切り)
* イグドラシル(5巻まで刊行するも、雑誌休刊により打ち切り)
* 風の惑星ゼファー(『イグドラシル』の続編。雑誌休刊により打ち切り。また、登場人物のその後のエピソードと思われる読み切り作品が描かれている)
* ローリングキッズ
* ローリングキッズ2
* 左によって止まりなさい(バイク雑誌『[[バリバリマシン]]』で連載)
* Y-II(注:IIはローマ数字の2)
* 海の人(『[[月刊少年シリウス]]』2005年9月号 - 2006年3月号)
**最終話で「さいばぁふぉ〜す」に登場した自律型ロボット≪AZ-1≫らしき連中が登場した他、単行本書き下ろしのエピローグでは後述の「わらしシリーズ」と繋がっている。
* ドロイどん(『[[週刊アスキー]]』)
=== コミカライズ作品 ===
==== スーパー戦隊シリーズ ====
小学館『[[てれびくん]]』に連載
* [[超電子バイオマン]]1984年
* [[電撃戦隊チェンジマン]]1985年
* [[超新星フラッシュマン]]1986年
* [[光戦隊マスクマン]]1987年
* [[超獣戦隊ライブマン]]1988年
* 10大戦隊まんが 1988年6月号
* [[高速戦隊ターボレンジャー]]1989年
* [[地球戦隊ファイブマン]]1990年
==== アニメ ====
* [[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]](『コロコロコミック』読切)
* [[機動警察パトレイバー]](原作:ヘッドギア、『別冊コロコロコミック』読切)
* [[絶対無敵ライジンオー]](『コロコロコミック』前後編読切)
* [[マクロス7]]外伝 バルキリーロック
==== ゲーム ====
* [[半熟英雄]]
* [[マリーとエリーのアトリエ ザールブルグの錬金術士]] - 『[[マリーのアトリエ|マリーのアトリエGB]]』と『[[エリーのアトリエ|エリーのアトリエGB]]』のコミカライズ作品で、作者の雑誌連載では比較的長期に渡る作品。連載終了後には後日談的な内容の漫画を同人誌で執筆しており、描き溜めたものは[[エンターブレイン]]・マジキューコミックスから「セカンドシーズン」として発刊されている。セカンドシーズン以降は作者の他作品のキャラも[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スター・システム]]的に登場している。
* [[ヴィオラートのアトリエ 〜グラムナートの錬金術士2〜]] - [[ファミ通PS2]]にフルカラーページで連載。掲載誌側の都合によってストーリーがクライマックスに向かう直前で打ち切られたが、後に発売された単行本にはその後の続きが書き下ろしで収録され、無事に完結している。
* [[ファイナルファンタジーUSA ミスティッククエスト|ミスティッククエスト]]
* [[ファイアーエムブレム]] 紋章の謎 - [[高屋敷英夫]]によるノベライズの挿絵を担当した。
* [[アークザラッドII]](注:IIはローマ数字の「2」)
* [[ダービースタリオン]]外伝ダビスタブリーダーズバトル
==== その他 ====
* [[スーパービックリマン]]([[食玩]]シール、原作:[[ロッテ|ロッテアド]]、『コロコロコミック』連載)
* [[ゾイド|ゾイド創世記]](玩具)
* [[仮面ライダーBLACK]](『コロコロコミック』付録読切)
* [[ロードス島戦記|ロードス島戦記 灰色の魔女]]([[角川スニーカー文庫]]の小説、原作:[[水野良]]&[[グループSNE]])
=== 企画連動作品 ===
* [[GO!GO!ミニ四ファイター]](協力:[[田宮模型]])
* 前ちゃんの熱中RCスクール(協力:田宮模型)
* 勝負!(辰巳出版「[[ラジコン]]改造テクニック」掲載)
=== あじす・あべば名義作品 ===
* 成年コミックの単行本化は読み切りも連載もシリーズも一冊にまとめて行われるため、各単行本毎に記す。また、単行本未収録作品もあり。
* シリーズ記述が無いものは読切作品ないしはその巻で完結している作品。
# 百喜夜行 2000年2月発売、[[晋遊舎]]〈晋遊舎コミックス〉、{{ISBN2|4-88380-147-0}}
#* 蒼と翠の流れの中/DNA-17(Mission1 - 3)/野獣
#* [河童・輝美シリーズ] いたァだきィ・ますっ
#* [わらしシリーズ] 宿無し/日記/家主様/狐/わらし
# 夢我夢中 2001年1月発売、晋遊舎〈晋遊舎コミックス〉、{{ISBN2|4-88380-192-6}}
#* 空気みたいな
#* [わらしシリーズ] 夢中/物の怪/獏/夢のアト
#* [あかなめ少年シリーズ] おみやげ/萌え滾る
#* [河童・輝美シリーズ] おいしい事うれしい事
# 快既人蝕(かいきにっしょく) 2003年3月1日(2003年1月24日発売<ref>{{Wayback|url=http://www.shinyusha.co.jp/pub_html/other/kaiki.html|title=快既人蝕 - 晋遊舎コミックス|date=20030201155630}}</ref>)、晋遊舎〈晋遊舎コミックス〉、{{ISBN2|4-88380-318-X}}
#* [わらしシリーズ] 化かしあい/おっはにゅう(第1話 - 第6話)
#* 妖人 ビニューン(第1話 - 第3話)
#** この話は終了後「わらしシリーズ」完結編「おっはにゅう」第1話に合流している
#* わらしシリーズキャラクター相関図/あとがき/ゲスト([[弐駆緒]])/イラスト(カバー裏)
# おっはにゅう 2005年3月18日発売<ref>{{Wayback|url=https://www.shinyusha.co.jp/|title=|date=20050413075621TOPページ - 晋遊舎}}</ref>、晋遊舎〈晋遊舎コミックス〉、{{ISBN2|4-88380-456-9}}
#* [わらしシリーズ] おっはにゅう(第7話 - 第13話)まで
#** 最終話(第13話)は単行本描き下ろし。
# 人の形 2007年1月1日初版発行(2006年11月24日発売<ref>{{Wayback|url=http://www.shinyusha.co.jp/~top/pub_html/comic/comic32.html|title=人の形 あじす・あべば 晋遊舎コミックス 晋遊舎|date=20070108220517}}</ref>)、晋遊舎〈晋遊舎コミックス〉、{{ISBN2|978-4-88380-588-4}}
#* [人の形シリーズ] ひとのかたち/みにまむ/妄想のススメ/かわ/ざっぶん!!/付喪神
#* [鈴の音シリーズ] 第1話 - 第4話
#** 「海の人」の美国、紅嬢、ネモの出会いを描いている。最終話(第4話)は単行本描き下ろし。
#* あとがき/イラスト(カバー裏)
== 漫画以外 ==
* [[時空戦記ムー]](1991年9月13日、[[ハドソン]]から発売された[[ゲームボーイ]]用ソフト)キャラクターデザイン
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[日本の漫画家一覧]]
* [[日本の成人向け漫画家の一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://twinshot.sakura.ne.jp/ TWIN SHOT] 結樹飛龍(おちの妻)による活動公式ページ。同人情報も。
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オイラーのφ関数
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オイラーのトーシェント関数(オイラーのトーシェントかんすう、英: Euler's totient function)とは、正の整数 n に対して、 n と互いに素である 1 以上 n 以下の自然数の個数 φ(n) を与える数論的関数 φ である。これは
と表すこともできる(ここで (m, n) は m と n の最大公約数を表す)。慣例的にギリシャ文字の φ(あるいは φ {\displaystyle \phi } )で表記されるため、オイラーの φ 関数(ファイかんすう、phi function)とも呼ばれる。また、簡略的にオイラーの関数と呼ぶこともある。
1761年にレオンハルト・オイラーが発見したとされるが、それより数年前に日本の久留島義太が言及したとも言われる。
1 から 20 までの値は以下の通りである。
p を素数とすると、1 から p − 1 のうちに p の素因子である p を因子として含むものは存在しないから、φ(p) = p − 1 が成り立つ。さらに、k を自然数としたとき、1 から p の中で p を因子として含むもの、すなわち p の倍数は p 個あるから、次が成立することが確かめられる。
定理 ― φ ( p k ) = p k − p k − 1 = p k − 1 ( p − 1 ) = p k ( 1 − 1 p ) {\displaystyle \varphi (p^{k})=p^{k}-p^{k-1}=p^{k-1}(p-1)=p^{k}\left(1-{\frac {1}{p}}\right)}
また、m, n を互いに素な自然数とすると、φ(mn) = φ(m)φ(n) が成り立つ。これをオイラーの関数は(互いに素な数の積に関して)乗法的であると言う。これらのことからさらに、任意の自然数 n における値を知ることができる。実際に、pk はどの二つも相異なる素因数であるとして、以下のように φ(n) を計算することができる。
定理 ― n の素因数分解が次のように
と与えられているならば、
自然数 n, d で d が n を割り切るものとすると、1 から n までの自然数のうち n との最大公約数が n/d であるものの数は φ(d) 個である。特に、1 から n までの自然数は n との最大公約数によって類別されるから、d が n の正の約数全てをわたる和に関して等式
が成り立つ(d | n は d が n を割り切るの意)。
G を位数 n の巡回群とすれば、n の約数 d に対して G の位数 d の元は φ(d) 個存在する。特に、巡回群 G の生成元になりうる元は φ(n) 個存在する。
自然数 a, m (1 ≤ a < m) とするとき、剰余環 Z/mZ に属する剰余類 a + mZ が既約、つまり Z/mZ の単数である必要十分な条件は代表元 a が m と互いに素であることであるから、既約剰余類の数は φ(m) に等しい。同じことだが、群 G の位数を #G, 環 R の単数群を R で表すとき、等式
が成立する。これは特に、オイラーの定理 a φ ( m ) ≡ 1 ( mod m ) {\displaystyle a^{\varphi (m)}\equiv 1{\pmod {m}}} の成立を意味する。また同じ式から、1 の m 乗根で原始的であるものの一つを ζ とし、既約剰余類群 (Z/mZ) を円分拡大 Q(ζ)/Q のガロア群と見れば φ(m) が円の m 分多項式の次数に等しいことも従う。
n > 1 ならば φ(n) < n である。また、n > 3 ならば
が成り立つ。ここで γ はオイラー定数である。もし n ≠ 2 ⋅ 3 ⋅ 5 ⋅ 7 ⋅ 11 ⋅ 13 ⋅ 17 ⋅ 19 ⋅ 23 であれば 2.50637 のかわりに 2.5 とおくことができる。一般に任意の ε > 0 に対して
が十分大きな n に対して成り立つ。簡明な下界として φ ( n ) ≥ n 2 {\displaystyle \varphi (n)\geq {\sqrt {\frac {n}{2}}}} がある。
σ(n) を約数関数とすると、n > 1 において、
が成り立つ。
トーシェント関数の値域に含まれない自然数をノントーシェントという。
x が 1 より大きい奇数の時、x はノントーシェントである。また、偶数であるノントーシェントは無数に存在することが知られている。φ(n) = x となる n が存在するならば、それは少なくとも2つ存在するだろうと予想されているが、未だに証明されていない。一方、任意の k > 1 に対して、φ(n) = x となる n の個数がちょうど k 個であるような x は無数に存在することが知られている。
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オイラーのトーシェント関数とは、正の整数 n に対して、 n と互いに素である 1 以上 n 以下の自然数の個数 φ(n) を与える数論的関数 φ である。これは と表すこともできる。慣例的にギリシャ文字の φで表記されるため、オイラーの φ 関数とも呼ばれる。また、簡略的にオイラーの関数と呼ぶこともある。 1761年にレオンハルト・オイラーが発見したとされるが、それより数年前に日本の久留島義太が言及したとも言われる。
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{{出典の明記|date=2017-12}}
[[画像:EulerPhi100.PNG|thumb|φ(''n'')最初の100個の値のグラフ]]
[[画像:EulerPhi.svg|thumb|φ(''n'')の最初の1000個の値]]
'''オイラーのトーシェント関数'''(オイラーのトーシェントかんすう、{{lang-en-short|Euler's totient function}}{{refnest|英語の[[:en:wikt:totient|totient]]はラテン語の[[:en:wikt:tot#Latin|tot]]に由来する<ref>{{Cite book |last=Schwartzman |first=S. |year=1994 |title=The Words of Mathematics: An Etymological Dictionary of Mathematical Terms Used in English |url={{google books|iuoZSkSOBQsC|plainurl=yes}} |publisher=Mathematical Association of America |isbn=0-88385-511-9 |mr=1270906 |zbl=0864.00007}}</ref>。}})とは、正の[[整数]] {{mvar|n}} に対して、 {{mvar|n}} と[[互いに素 (整数論)|互いに素]]である {{math|1}} 以上 {{mvar|n}} 以下の自然数の個数 {{math|''φ''(''n'')}} を与える[[数論的関数]] {{mvar|φ}} である。これは
:<math>\varphi(n) = \textstyle\sum\limits_{1 \le m \le n \atop (m,n)=1} 1</math>
と表すこともできる(ここで {{math2|(''m'', ''n'')}} は {{mvar|m}} と {{mvar|n}} の[[最大公約数]]を表す)。慣例的に[[ギリシャ文字]]の {{math|''[[φ]]''}}(あるいは<math>\phi</math>)で表記されるため、オイラーの '''{{mvar|φ}} 関数'''(ファイかんすう、{{lang|en|phi function}})とも呼ばれる。また、簡略的に'''オイラーの関数'''と呼ぶこともある。
[[1761年]]に[[レオンハルト・オイラー]]が発見したとされるが、それより数年前に[[日本]]の[[久留島喜内|久留島義太]]が言及したとも言われる。
== 例 ==
* {{math2|1, 2, 3, 4, 5, 6}} のうち {{math|6}} と互いに素なのは {{math2|1, 5}} の 2個であるから、 {{math2|1=''φ''(6) = 2}} である。
* {{math2|1, 2, 3, 4, 5, 6, 7}} のうち {{math|7}} 以外は全て {{math|7}} と互いに素だから、{{math2|1=''φ''(7) = 6}} である。
{{math|1}} から {{math|20}} までの値は以下の通りである<ref>{{OEIS|A000010}}</ref>。
:1, 1, 2, 2, 4, 2, 6, 4, 6, 4, 10, 4, 12, 6, 8, 8, 16, 6, 18, 8,…
== 性質 ==
{{mvar|p}} を[[素数]]とすると、{{math|1}} から {{math2|''p'' − 1}} のうちに {{mvar|p}} の素因子である {{mvar|p}} を因子として含むものは存在しないから、{{math2|1=''φ''(''p'') = ''p'' − 1}} が成り立つ。さらに、{{mvar|k}} を自然数としたとき、{{math|1}} から {{mvar|p{{sup|k}}}} の中で {{mvar|p}} を因子として含むもの、すなわち {{mvar|p}} の倍数は {{math2|''p''{{sup|''k'' − 1}}}} 個あるから、次が成立することが確かめられる。
{{math theorem|<math>\varphi(p^k) = p^k - p^{k-1} = p^{k-1} (p-1) = p^k \left( 1 - \frac{1}{p} \right)</math>}}
また、{{math2|''m'', ''n''}} を互いに素な自然数とすると、{{math2|1=''φ''(''mn'') = ''φ''(''m'')''φ''(''n'')}} が成り立つ。これをオイラーの関数は(互いに素な数の積に関して)'''[[乗法的関数|乗法的]]'''であると言う。これらのことからさらに、任意の自然数 {{mvar|n}} における値を知ることができる。実際に、{{mvar|p{{sub|k}}}} はどの二つも相異なる[[素因数]]であるとして、以下のように {{math2|''φ''(''n'')}} を計算することができる。
{{math theorem|''n'' の[[素因数分解]]が次のように
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と与えられているならば、
:<math>\varphi(n) = \textstyle\prod\limits_{k=1}^d \left( {p_k}^{e_k}-{p_k}^{e_k-1} \right) = n \prod\limits_{k=1}^d \left( 1-\dfrac{1}{p_k} \right)</math>}}
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が成り立つ({{math2|''d'' {{!}} ''n''}} は {{mvar|d}} が {{mvar|n}} を割り切るの意)。
{{mvar|G}} を位数 {{mvar|n}} の[[巡回群]]とすれば、{{mvar|n}} の約数 {{mvar|d}} に対して {{mvar|G}} の位数 {{mvar|d}} の[[元 (数学)|元]]は {{math|''φ''(''d'')}} 個存在する。特に、巡回群 {{mvar|G}} の[[生成元]]になりうる元は {{math2|''φ''(''n'')}} 個存在する。
自然数 {{math2|''a'', ''m'' (1 ≤ ''a'' < ''m'')}} とするとき、[[剰余類環|剰余環]] {{math2|'''Z'''/''m'''''Z'''}} に属する剰余類 {{math2|''a'' + ''m'''''Z'''}} が既約、つまり {{math2|'''Z'''/''m'''''Z'''}} の単数である必要十分な条件は代表元 {{mvar|a}} が {{mvar|m}} と互いに素であることであるから、既約剰余類の数は {{math|''φ''(''m'')}} に等しい。同じことだが、群 {{mvar|G}} の[[位数 (群論)|位数]]を {{math|#''G''}}, 環 {{mvar|R}} の[[単数群]]を {{math|''R''{{sup|×}}}} で表すとき、等式
:<math>\varphi(m) = \#(\mathbb{Z}/m\mathbb{Z})^\times</math>
が成立する。これは特に、[[オイラーの定理 (数論)|オイラーの定理]] <math>a^{\varphi(m)} \equiv 1\pmod m</math> の成立を意味する。また同じ式から、[[1の冪根|{{math|1}} の {{mvar|m}} 乗根]]で原始的であるものの一つを {{mvar|ζ}} とし、既約剰余類群 {{math|('''Z'''/''m'''''Z'''){{sup|×}}}} を円分拡大 {{math2|'''Q'''(ζ)/'''Q'''}} の[[ガロア群]]と見れば {{math2|''φ''(''m'')}} が円の {{mvar|m}} 分多項式の次数に等しいことも従う。
{{math2|''n'' > 1}} ならば {{math2|''φ''(''n'') < ''n''}} である。また、{{math2|''n'' > 3}} ならば
:<math>\varphi(n) \geq e^{-\gamma} \cfrac{n}{\log\log n+\cfrac{2.50637}{e^{\gamma}\log\log n}}</math>
が成り立つ。ここで {{mvar|γ}} は[[オイラー定数]]である。もし {{math2|''n'' ≠ [[223092870|2 ⋅ 3 ⋅ 5 ⋅ 7 ⋅ 11 ⋅ 13 ⋅ 17 ⋅ 19 ⋅ 23]]}} であれば {{math|2.50637}} のかわりに {{math|2.5}} とおくことができる。一般に任意の {{math2|''ε'' > 0}} に対して
:<math>\varphi(n) > n^{1 - \varepsilon}</math>
が十分大きな {{mvar|n}} に対して成り立つ<ref>{{Cite book |title=Additive Number Theory: The Classic Bases |author=M. B. Nathanson |year=1996 |publisher=Springer |isbn=0-387-94656-X |page=315}}</ref>。簡明な下界として <math>\varphi(n) \ge \sqrt{\frac{n}{2}}</math> がある<ref>{{Cite web |title=Is the Euler phi function bounded below? |url=https://math.stackexchange.com/questions/301837 |work=Mathematics Stack Exchange |accessdate=2020-03-26}}</ref>。
{{math2|''σ''(''n'')}} を[[約数関数]]とすると、{{math2|''n'' > 1}} において、
:<math>\frac {6 n^2} {\pi^2} < \varphi(n) \sigma(n) < n^2</math>
が成り立つ。
トーシェント関数の[[値域]]に含まれない自然数を[[ノントーシェント]]という。
{{mvar|x}} が {{math|1}} より大きい奇数の時、{{mvar|x}} は[[ノントーティエント|ノントーシェント]]である。また、偶数であるノントーシェントは無数に存在することが知られている。{{math|''φ''(''n'') {{=}} ''x''}} となる {{mvar|n}} が存在するならば、それは少なくとも2つ存在するだろうと予想されているが、未だに証明されていない。一方、任意の {{math2|''k'' > 1}} に対して、{{math2|1=''φ''(''n'') = ''x''}} となる {{mvar|n}} の個数がちょうど {{mvar|k}} 個であるような {{mvar|x}} は無数に存在することが知られている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[完全トーシェント数]]
* [[久留島喜内]]
* [[初等整数論]]
* [[フェルマーの小定理]]
== 外部リンク ==
* {{高校数学の美しい物語|667|オイラーのファイ関数のイメージと性質}}
* {{MathWorld|title=Totient Function|urlname=TotientFunction}}
* Kevin Ford, [http://www.math.uiuc.edu/~ford/wwwpapers/sierp.pdf The number of solutions of φ(x)=m], Ann. of Math. 150(1999), 283--311.
* D. Miyata & M. Yamashita, [http://yamashita-lab.net/open/mathconf-0.pdf Note on derived logarithmic functions of Euler's functions ]
{{DEFAULTSORT:おいらあのふあいかんすう}}
[[Category:数論]]
[[Category:整数論的関数]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:レオンハルト・オイラー]]
[[Category:数学のエポニム]]
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大清水さち
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大清水 さち(おおしみず さち、12月28日 - )は、日本の漫画家。北海道出身。女性。血液型A型。代表作に、『TWIN SIGNAL』、『マリオノール・ゴーレム』、『オーベルジュ ろわぞぶりゅ』。
1991年に「冒険少年ナン」で第1回ビッグルーキー大賞佳作。1992年、『フレッシュガンガン』春号掲載の『TWIN SIGNAL』でデビュー。漫画家を志す過程で石ノ森章太郎に触発されたようである(本人談)。
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大清水 さちは、日本の漫画家。北海道出身。女性。血液型A型。代表作に、『TWIN SIGNAL』、『マリオノール・ゴーレム』、『オーベルジュ ろわぞぶりゅ』。 1991年に「冒険少年ナン」で第1回ビッグルーキー大賞佳作。1992年、『フレッシュガンガン』春号掲載の『TWIN SIGNAL』でデビュー。漫画家を志す過程で石ノ森章太郎に触発されたようである(本人談)。
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{{存命人物の出典明記|date=2020-05}}
'''大清水 さち'''(おおしみず さち、[[12月28日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]]出身<ref name="sonorama">[http://sonorama.asahi.com/author/oshimizusachi.html 大清水さち[マンガ無料ためし読み]|ソノラマプラス]</ref>。女性。血液型A型。代表作に、『[[TWIN SIGNAL]]』、『マリオノール・ゴーレム』、『オーベルジュ ろわぞぶりゅ』<ref name="sonorama"/>。
[[1991年]]に「冒険少年ナン」で第1回ビッグルーキー大賞佳作。[[1992年]]、『[[フレッシュガンガン]]』春号掲載の『TWIN SIGNAL』でデビュー<ref name="sonorama"/>。漫画家を志す過程で[[石ノ森章太郎]]に触発されたようである(本人談)。
== 作品リスト ==
* [[マリオノール・ゴーレム]] - 『[[月刊Gファンタジー]]』連載、スクウェア・エニックス発行、単巻
* [[TWIN SIGNAL]] - 『[[月刊少年ガンガン]]』連載、スクウェア・エニックス発行、全19巻
** 新装版 - [[朝日ソノラマ]]発行、全11巻
** '''TWIN SIGNAL Biennial - 『ART Street』連載、2019年 -'''
* TWIN SIGNAL外伝 呪われし電脳神[モイラ] - 『[[月刊ガンガンWING]]』連載、スクウェア・エニックス発行、全2巻
* [[オーベルジュ ろわぞぶりゅ]] - 『[[月刊Gファンタジー]]』連載、[[スクウェア・エニックス]]発行、上下巻
* 緑波島冒険譚 - 『[[月刊ドラゴンジュニア]]』掲載、未刊行
* 屠竜神譜 - 自主出版
* [[腐らんす日記]] - 『[[ヤングマガジンサード]]』連載(漫画:[[ヤス (イラストレーター)|ヤス]])、全2巻 2014年 -
== アシスタント ==
* [[白石琴似]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://manmade.seesaa.net/ MANMADE/ウェブリブログ]
* {{pixiv|100828|さち}}
* {{Twitter|sachishimizu}}
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[[Category:北海道出身の人物]]
[[Category:生年未記載]]
[[Category:存命人物]]
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11,862 |
資格任用制
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資格任用制(しかくにんようせい、英語: merit system)とは、公務員などの採用において、専門能力の優劣によって採否が決められる制度である。閉鎖的任用制ともいう。英語からメリット・システムとも。
資格任用制の下では、一般的に、職業公務員は、中立的な人事行政機関によって実施される資格試験(公務員試験)の合格者から選抜される。採用された公務員の身分は基本的に保障され、昇進も個人の能力に応じる。すなわち、官職が政治動向や個人の個性から完全に独立したものとなる。
この制度の下で、19世紀の民主国家で盛んに行われた猟官制とは異なり、公務員には一定の専門的知識、能力が求められる。20世紀に入り、福祉国家現象(行政国家現象)が進行した結果、行政事務が増大し、その事務処理に求められる知識が複雑化、専門化していく中で専門的知識を持ち職務に一貫して専業する官僚が必要となり、資格任用制は主要国の大半に普及した。
また、職務に専業する官僚の登場によって、現代国家における官僚制度の形成にも寄与した。
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資格任用制とは、公務員などの採用において、専門能力の優劣によって採否が決められる制度である。閉鎖的任用制ともいう。英語からメリット・システムとも。
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'''資格任用制'''(しかくにんようせい、{{lang-en|merit system}})とは、[[公務員]]などの採用において、専門能力の優劣によって採否が決められる制度である。閉鎖的任用制ともいう。英語から'''メリット・システム'''とも。
== 概要 ==
資格任用制の下では、一般的に、職業公務員は、中立的な人事行政機関によって実施される資格試験([[公務員試験]])の合格者から選抜される。採用された公務員の[[身分]]は基本的に保障され、昇進も個人の能力に応じる。すなわち、[[官職]]が政治動向や個人の個性から完全に独立したものとなる。
この制度の下で、19世紀の民主国家で盛んに行われた[[猟官制]]とは異なり、公務員には一定の専門的知識、能力が求められる。20世紀に入り、[[福祉国家]]現象([[行政国家]]現象)が進行した結果、行政事務が増大し、その事務処理に求められる知識が複雑化、専門化していく中で専門的知識を持ち職務に一貫して専業する[[官僚]]が必要となり、資格任用制は主要国の大半に普及した。
また、職務に専業する官僚の登場によって、現代国家における官僚制度の形成にも寄与した。
== 関連項目 ==
* [[メリトクラシー]]
* [[猟官制]]
* [[政治任用制]]
* [[官僚制]]
* [[人事院]]
* [[革新官僚]]
* [[科挙]]
* [[進士 (日本)]]
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11,865 |
三木眞一郎
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三木 眞一郎(みき しんいちろう、1968年3月18日 - )は、日本の男性声優。東京都出身。81プロデュース所属。既婚。
姉が第一次声優ブームの中にいた人物のため、小学生の頃から職業としての声優は知っていた。ヤングサンデーで連載されていた漫画『TWIN』がビデオアニメになる時にしていた読者声優募集に応募。スタジオに呼ばれて現場でオーディションをして、一番セリフの多い役をもらっていた。その時は「声優できたじゃん」と自分の中で思っていたが、それはまだ中途半端な時期で、本気で声優になろうとは思っていなかった。
子どものころから声優という職に就く自分の姿が頭にあり、当然のように「できる」と思っていたが、周囲からは「儲からない」という理由で反対されていた。当時は映画『刑事物語2 りんごの詩』を見て、武田鉄矢がカッコイイと思い、事務所を調べていた。「何でもいいんで武田鉄矢さんと仕事がしたいんで入れて」とお願いしていたが、「そんなムチャな」と断られていた。
高校は三木曰く共学という名前の男子校で、工業高校で、全校で女性は2人だった。高校時代は美術部で部室に閉じこもっており、文化部で唯一部室があり、学校に行って朝部室に行くと、1日出てこなず、授業に出られなかった。出席日数が足りなくなり、卒業できなくなるところで、あまり良い生徒ではなかった。美術部で絵を描かないとまずいため、文化祭に向けて描いていた。ただし、部員も漫画描いていた人物が多く、マンガクラブのようになってしまった。三木自身も「バイクのレーサーを目指しつつ、アニメーターもいいかナ......」と学生時代はレーサーとアニメーター志望だった。
81アクターズスタジオ第1期卒業生(前身の研究会では高山みなみや関俊彦などがいる)。友人が舞台の芝居をしており、手伝いで三木も出ており、その友人に「こういう事務所もあるよ」と教えてもらったのがのちに所属することになる81プロデュースだった。その81プロデュースに、「入れてくれ」と直接電話をしたが断られ、履歴書だけ送ったところ、研究生のオーディション案内が送られてきた。他の応募者はどこかの養成所に所属しているグループばかりで、無所属は三木だけだったがオーディションに合格。研究生の中でトップを目指し、わからないことがあればすぐ講師に聞きに行った。しかし、ひとりだけ熱心だったことが逆に仇となり、講師からは媚を売っているふうに映って煙たがられてしまったとのことで、真意を理解してもらうのに半年かかったという。同期からは妬まれており、いじめを受けていたが、三木は気にしなかった。研究生でありながら声優の仕事が入るようになり、3年制だった課程を2年で終えた。1989年、『ダッシュ!四駆郎』の神崎操役で声優デビュー。
2010年には第4回声優アワード「助演男優賞」、2014年には第8回声優アワード「富山敬賞」をそれぞれ受賞している。
2019年には声優界初の本格的レーシングチーム『VART(Voice Actors Racing Team)』を、声優の石川界人・浪川大輔・畠中祐、音響監督の三間雅文らとともに結成した。
声種はバリトン。
バイク・カーマニアであり、『Tipo』などの自動車雑誌に自らコラムを執筆する他、ケーターハムスーパー7、ルノー5ターボ、そして『頭文字D』で主人公の藤原拓海が劇中で乗っていた車両と同型のスプリンタートレノ(AE86型)を所有している。高校時代、バイクの免許を取得しており、早生まれなため、周囲に比べて損だった。車とバイクは、免許取得前から慣れ親しんでいたため、取得は楽だった。あと、ずっとアルバイトはしており、当初はファーストフードに始まり転々と、給料はバイクを買い換え買い換えで、バイクに使っているお金と時間が非常に長かったという。
また、2008年には川上とも子、豊口めぐみ、水樹奈々、浪川大輔や三間雅文音響監督らとともに、ツインリンクもてぎで開催されたレーシングカート耐久レース「K-TAI」に「ロボットレーシング」のドライバーの一人として出場している。
プロの二輪ライダーを目指していたことがあったが、ある日、まるで異次元の走りをする人を見て、「この世界ではプロになれない」と感じて諦めている。
特技はスノーボード。
キャラクターのイメージを大事にしたいという理由から、CDドラマなどのブックレット写真では、顔を隠していることが多い。また筆記コメントが簡潔なのも、作品に対する先入観を少なく、という想いからである。逆に、雑誌などで個人としてグラビアをやるのであれば、その中で自分のできるコトを出すようにしているとのこと。「僕に声帯を任せてくれた役が、僕の声で満足してくれているかなって、いつも心の中で思っていますね」と石川智晶との対談で話している。
自らの声優観として「タレントや俳優と違って声優は影の存在。僕らは声を出すことができないキャラクターの人生を再現するのが仕事です。マイクの前に立ったとき、三木眞一郎という存在には一切の価値がないんです。キャラクターの人生を立体的にして、声帯を任せてもらったキャラクターの血と肉を視聴者に届ける。だから僕は自分が“役を演じている”と思ったことはないし、恐れ多くてそんな表現を使ったこともありません」と語っている。ラジオ出演の際などに「〜を演じている」という表現を避け、「〜の声」と自己紹介しているのはそのためである。
自身が担当するキャラクターについて理解するために、監督に「役の履歴書を教えてくれ」と頼んでいる。『天空のエスカフローネ』に取り組んだとき、初めて事前に全話分のシナリオをもらって、役の履歴書を完全に理解することができ、スタジオでマイクの前に立った瞬間、憑依に近い感覚で、心が勝手に動いていくとのことで、スタジオに入っている時の記憶が全くなかったと語っている。
森久保祥太郎にたくさん芝居のアドバイスをしていたという。家の方向も全然違うが、最後の店までくっついて行って飲んでいたという。
2002年に元ファンの一般女性と結婚。2006年6月に自身の公式サイトで前年2005年10月に父親になったことを公表している。
『頭文字D』で監修を務めた土屋圭市と親交があり、同乗走行を体験した他、ステアリングを貰ったことがあるという。
太字はメインキャラクター。
※はインターネット配信。
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三木 眞一郎は、日本の男性声優。東京都出身。81プロデュース所属。既婚。
|
{{別人|三木俊一郎|x1=[[CMディレクター]]の}}
{{声優
| 名前 = 三木 眞一郎
| ふりがな = みき しんいちろう
| 画像ファイル = Shin-ichiro Miki.jpg
| 画像サイズ = <!-- descriptive text for use by speech synthesis (text-to-speech) software -->
| 画像コメント =
| 本名 = 三木 眞一郎<ref name="talent">『日本タレント名鑑(2018年版)』VIPタイムズ社、2018年1月25日、355頁。{{ISBN2|978-4-904674-09-3}}</ref>
| 愛称 = ミキシン<ref>{{Cite web|url=http://www.miki-ha.com/project/dailylife/dailylife_090101.html|title=ミキシンです|publisher=三木眞一郎公式サイト|language=[[日本語]]|date=2009-01-01|accessdate=2023-08-31}}</ref><ref name="アニメイトタイムズ">{{Cite web|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=439|title=三木眞一郎のアニメキャラ・最新情報まとめ|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2019-09-28}}</ref>
| 性別 = [[男性]]
| 出生地 =
| 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]]<ref name="oricon">{{Cite web |url=https://www.oricon.co.jp/prof/69180/|title=三木眞一郎(出典:VIPタイムズ社) |work=Oricon News |publisher=オリコン |accessdate=2019-09-28}}</ref>{{R|アニメイトタイムズ}}
| 死没地 =
| 生年 = 1968
| 生月 = 3
| 生日 = 18
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 血液型 = [[ABO式血液型|AB型]]{{R|oricon}}{{R|アニメイトタイムズ}}
| 身長 =
| 職業 = [[声優]]
| 事務所 = [[81プロデュース]]{{R|oricon}}{{R|アニメイトタイムズ}}<ref name="81produce">{{Cite web|url=https://www.81produce.co.jp/actor_search/index.php/item?&id=118|title=三木眞一郎|publisher=[[81プロデュース]]|language=[[日本語]]|accessdate=2018-08-03}}</ref>
| 配偶者 = あり<ref name="三木派20060604">{{Cite web|url=http://www.miki-ha.com/dailylife_060604.html|title=気が付けば|publisher=三木眞一郎公式サイト|language=[[日本語]]|date=2006-06-04|accessdate=2013-06-30}}</ref>
| 著名な家族 =
| 公式サイト = [http://www.miki-ha.com/ 三木派]
| 公称サイズ出典 = {{Cite web|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M96-0464|title=三木 眞一郎|work=日本タレント名鑑|accessdate=2020-02-10}}
| 身長2 = 180
| 体重 = 58
| 活動期間 = [[1989年]]<ref name="world">{{Cite web|url=http://worldjc.com/11690/|title=他人からねたまれるのは自分が上昇している証 – 三木眞一郎|publisher=ワールドジョイントクラブ|language=[[日本語]]|date=2013-06-20|accessdate=2013-09-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190416171919/https://worldjc.com/11690/|archivedate=2019-04-16}}</ref> -
| デビュー作 = 神崎操(『[[ダッシュ!四駆郎]]』){{R|world}}
}}
'''三木 眞一郎'''<ref group="注">一部のクレジットでは[[新字体]]で「三木真一郎」と表記されている。</ref>(みき しんいちろう、[[1968年]][[3月18日]]<ref>[http://www.miki-ha.com/dailylife_060327.html 朗読CDを収録(06.3/27)]</ref><ref>{{Cite news |url= https://www.excite.co.jp/news/dictionary/person/PE8fdb3d39597e50c426da63ce8d29e3668c032f65/ |title=三木眞一郎|newspaper= Excite News |date= |agency=エキサイト株式会社|accessdate= 2021-10-01}}</ref><ref name="声優事典 第二版">{{Cite book ja |chapter= 男性篇 |date=1996-03-30 |editor= 掛尾良夫 |title=声優事典 第二版 |pages=280-281|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn= 4-87376-160-3}}</ref>{{R|U18272}} - )は、[[日本]]の[[男性]][[声優]]。[[東京都]]出身{{R|oricon|アニメイトタイムズ|U18272}}。[[81プロデュース]]所属{{R|oricon|アニメイトタイムズ|81produce|U18272}}。{{VOICE Notice Hidden|冒頭部分に記載する代表作は、編集合戦誘発の原因となりますので、多数の出典で確認できるものに限ってください。[[プロジェクト:芸能人#記事の書き方]]にてガイドラインが制定されていますので、そちらも参照して下さい。}}既婚。
== 経歴 ==
昔から芝居が好きで、小学校時代の芸術鑑賞会で、[[劇団四季]]の『[[人間になりたがった猫]]』を観に行ってその日の夜、熱を出して寝込んでしまったという<ref name="bonolon">{{Cite web|和書|date=2022-08|url=https://bonolon.jp/about/web/interview/104.php|title= ウェブえほん 声優インタビュー|work=森の戦士ボノロン|accessdate=2023-12-31|archiveurl=https://archive.is/AuiAx|archivedate=2022-12-22}}</ref>。学校を巡回していた劇団が来ていた時は、控え室までサインをもらいに行ったこともあり、このことを、その頃から芝居への熱量は高かったという{{R|bonolon}}。
姉が第一次声優ブームの中にいた人物のため、小学生の頃から職業としての声優は知っていた<ref name="はばたきウォッチャー">{{Cite book ja|author=|title=はばたきウォッチャー2002冬号|chapter= Persons/三木眞一郎さん |pages=19-21|publisher=[[コナミ]]|isbn=978-4-7571-8132-8|date=December 2002}}</ref>。[[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]で連載されていた漫画『[[TWIN (六田登の漫画)|TWIN]]』がビデオアニメになる時にしていた読者声優募集に応募{{R|はばたきウォッチャー}}。スタジオに呼ばれて現場でオーディションをして、一番セリフの多い役をもらっていた{{R|はばたきウォッチャー}}。その時は「声優できたじゃん」と自分の中で思っていたが、それはまだ中途半端な時期で、本気で声優になろうとは思っていなかった{{R|はばたきウォッチャー}}。
子どものころから声優という職に就く自分の姿が頭にあり、当然のように「できる」と思っていたが、周囲からは「儲からない<ref group="注">実際、三木のデビュー当時のギャラは、30分作品に出演して6,000円だった。</ref>」という理由で反対されていた{{R|world}}。当時は映画『[[刑事物語2 りんごの詩]]』を見て、[[武田鉄矢]]がカッコイイと思い、事務所を調べていた{{R|はばたきウォッチャー}}。「何でもいいんで武田鉄矢さんと仕事がしたいんで入れて」とお願いしていたが、「そんなムチャな」と断られていた{{R|はばたきウォッチャー}}。
中学時代の卒業文集に、将来は「イラストレーターかアニメーターか、声優になる」と書いていたという{{R|bonolon}}。
高校は三木曰く共学という名前の男子校で、工業高校で、全校で女性は2人だった{{R|はばたきウォッチャー}}。高校時代は美術部で部室に閉じこもっており、文化部で唯一部室があり、学校に行って朝部室に行くと、1日出てこなず、授業に出られなかった{{R|はばたきウォッチャー}}。出席日数が足りなくなり、卒業できなくなるところで、あまり良い生徒ではなかった{{R|はばたきウォッチャー}}。美術部で絵を描かないとまずいため、文化祭に向けて描いていた{{R|はばたきウォッチャー}}。ただし、部員も漫画描いていた人物が多く、マンガクラブのようになってしまった{{R|はばたきウォッチャー}}。三木自身も「バイクのレーサーを目指しつつ、アニメーターもいいかナ……」と学生時代はレーサーとアニメーター志望だった{{R|はばたきウォッチャー}}。
81アクターズスタジオ第1期卒業生(前身の研究会では[[高山みなみ]]や[[関俊彦]]などがいる)<ref>{{Cite web|url=https://www.81actors-studio.jp/81group/senior|title=卒業生からのメッセージ - 81ACTOR'S STUDIO|accessdate=2019-10-11}}</ref>。友人が舞台の芝居をしており、手伝いで三木も出ており、その友人に「こういう事務所もあるよ」と教えてもらったのがのちに所属することになる[[81プロデュース]]だった{{R|はばたきウォッチャー}}。その81プロデュースに、「入れてくれ」と直接電話をしたが断られ、[[履歴書]]だけ送ったところ、研究生の[[オーディション]]案内が送られてきた{{R|world}}。他の応募者はどこかの養成所に所属しているグループばかりで、無所属は三木だけだったがオーディションに合格{{R|world}}。研究生の中でトップを目指し、わからないことがあればすぐ講師に聞きに行った{{R|world}}。しかし、ひとりだけ熱心だったことが逆に仇となり、講師からは媚を売っているふうに映って煙たがられてしまったとのことで、真意を理解してもらうのに半年かかったという{{R|world}}。同期からは妬まれており、[[いじめ]]を受けていたが、三木は気にしなかった{{R|world}}。研究生でありながら声優の仕事が入るようになり、3年制だった課程を2年で終えた{{R|world}}。1989年、『[[ダッシュ!四駆郎]]』の神崎操役で声優デビュー{{R|world|U18272}}。
[[2010年]]には第4回[[声優アワード]]「助演男優賞」<ref>{{Cite web|url=http://www.famitsu.com/anime/news/1232750_1558.html|title=主演賞は小野大輔と沢城みゆき! “第四回 声優アワード”|publisher=[[ファミ通]]|language=[[日本語]]|date=2010-03-07|accessdate=2013-06-30}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://seiyuawards.jp/201003/06200000.php|title=第四回声優アワード 受賞者発表|publisher=[[声優アワード]]|language=[[日本語]]|accessdate=2013-06-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150322150312/http://seiyuawards.jp/201003/06200000.php|archivedate=2015年3月22日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、[[2014年]]には第8回声優アワード「[[富山敬]]賞」をそれぞれ受賞している<ref>{{Cite web|publisher=声優アワード|url=http://seiyuawards.jp/201403/05173926.php|title=第八回声優アワード授賞者発表|accessdate=2014-02-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141007170400/http://seiyuawards.jp/201403/05173926.php|archivedate=2014年10月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
2019年には声優界初の本格的レーシングチーム『VART(Voice Actors Racing Team)』を、声優の[[石川界人]]・[[浪川大輔]]・[[畠中祐]]、[[音響監督]]の[[三間雅文]]らとともに結成した<ref>{{Cite web|title=声優界初の本格レーシングチーム“VART”発足 主将・三木眞一郎「車の面白さを伝えたい」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2147835/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2019-11-18}}</ref>。
== 人物 ==
[[音域#人声の音域|声種]]は[[バリトン]]<ref>{{Cite book ja |title=日本音声製作者名鑑2007 |publisher=[[小学館]] |page=102|date=2007-03-25 |isbn=978-4-09-526302-1}}</ref>。
=== 趣味・特技 ===
[[オートバイ|バイク]]・[[カーマニア]]であり、『Tipo』などの自動車雑誌に自らコラムを執筆する他、[[ケーターハム]][[ロータス・スーパーセブン|スーパー7]]、[[ルノー]][[ルノー 5|5ターボ]]、そして『[[頭文字D]]』で主人公の[[藤原拓海]]が劇中で乗っていた車両と同型の[[トヨタ・スプリンタートレノ|スプリンタートレノ]]([[トヨタ・AE86|AE86型]])を所有している<ref>{{Cite web|url=http://www.racerk.jp/salon/salon010805_01.html|title=Driver's Meeting|Driver's Salon 三木眞一郎|publisher=[[Driver's Meeting]]|language=[[日本語]]|accessdate=2013-06-30}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.carland86.com/star/miki/|title=カーランド的“D仕様ハチロク”プロジェクト|publisher=カーランド|language=[[日本語]]|accessdate=2013-06-30}}</ref>。高校時代、バイクの免許を取得しており、早生まれなため、周囲に比べて損だった{{R|はばたきウォッチャー}}。車とバイクは、免許取得前から慣れ親しんでいたため、取得は楽だった{{R|はばたきウォッチャー}}。あと、ずっとアルバイトはしており、当初はファーストフードに始まり転々と、給料はバイクを買い換え買い換えで、バイクに使っているお金と時間が非常に長かったという{{R|はばたきウォッチャー}}。
また、[[2008年]]には[[川上とも子]]、[[豊口めぐみ]]、[[水樹奈々]]、[[浪川大輔]]や[[三間雅文]]音響監督らとともに、[[ツインリンクもてぎ]]で開催された[[レーシングカート]]耐久レース「K-TAI」に「ロボットレーシング」のドライバーの一人として出場している<ref>{{Cite web|url=http://www.ota-suke.jp/news/40578|title=病気療養中の川上とも子が声優チームでカートレースに出走|publisher=にゅーあきば|language=[[日本語]]|date=2010-07-22|accessdate=2013-06-30}}</ref>。
プロの二輪ライダーを目指していたことがあったが、ある日、まるで異次元の走りをする人を見て、「この世界ではプロになれない」と感じて諦めている{{R|world}}。
特技は[[スノーボード]]{{R|oricon}}。
=== エピソード ===
キャラクターのイメージを大事にしたいという理由から、CDドラマなどのブックレット写真では、顔を隠していることが多い。また筆記コメントが簡潔なのも、作品に対する先入観を少なく、という想いからである。逆に、雑誌などで個人としてグラビアをやるのであれば、その中で自分のできるコトを出すようにしているとのこと。「僕に声帯を任せてくれた役が、僕の声で満足してくれているかなって、いつも心の中で思っていますね」と石川智晶との対談で話している<ref>{{Cite web|url=https://www.jvcmusic.co.jp/chiaki/special/index1.html|title=《第1回》 石川智晶VS三木眞一郎|publisher=Victor Entertainment|language=[[日本語]]|accessdate=2014-08-24}}</ref>。
自らの声優観として「[[タレント]]や[[俳優]]と違って声優は影の存在。僕らは声を出すことができないキャラクターの人生を再現するのが仕事です。マイクの前に立ったとき、三木眞一郎という存在には一切の価値がないんです。キャラクターの人生を立体的にして、声帯を任せてもらったキャラクターの血と肉を視聴者に届ける。だから僕は自分が“役を演じている”と思ったことはないし、恐れ多くてそんな表現を使ったこともありません」と語っている。ラジオ出演の際などに「〜を演じている」という表現を避け、「〜の声」と自己紹介しているのはそのためである{{R|world}}。
自身が担当するキャラクターについて理解するために、監督に「役の[[履歴書]]を教えてくれ」と頼んでいる。『[[天空のエスカフローネ]]』に取り組んだとき、初めて事前に全話分のシナリオをもらって、役の履歴書を完全に理解することができ、スタジオでマイクの前に立った瞬間、憑依に近い感覚で、心が勝手に動いていくとのことで、スタジオに入っている時の記憶が全くなかったと語っている{{R|world}}。
[[森久保祥太郎]]にたくさん芝居のアドバイスをしていたという<ref name="townwork2">{{Cite interview ja|date=2017-10-05 |subject=森久保祥太郎 |interviewer=タウンワークマガジン |url=https://townwork.net/magazine/serial/c_offrecord/45609/ |title=声優インタビュー:森久保祥太郎【先輩のオフレコ!】2 |work=タウンワークマガジン, [[リクルートホールディングス]] |accessdate=2023-08-29}}</ref>。家の方向も全然違うが、最後の店までくっついて行って飲んでいたという{{R|townwork2}}。
=== 私生活 ===
[[2002年]]に元ファンの一般女性と[[結婚]]。[[2006年]]6月に自身の公式サイトで前年2005年10月に父親になったことを公表している{{R|三木派20060604}}。
『頭文字D』で監修を務めた[[土屋圭市]]と親交があり、同乗走行を体験した他、[[ステアリング・ホイール|ステアリング]]を貰ったことがあるという<ref>『頭文字D Third Stage -INITIAL D THE MOVIE-』初日舞台挨拶(2001年1月13日)にて語っている。{{要高次出典|date=2015年9月}}</ref>。
== 出演 ==
'''太字'''はメインキャラクター。
=== テレビアニメ ===
{{dl2
| 1989年 |
* [[ダッシュ!四駆郎]](神崎操)
| 1991年 |
* [[炎の闘球児 ドッジ弾平]](1991年 - 1992年、火浦高志、木下つよし)
| 1992年 |
* [[おぼっちゃまくん]](乗員)
* [[お〜い!竜馬]]([[近藤長次郎]]、[[吉村虎太郎|吉村寅太郎]])
* [[おばけのホーリー]](ゴボンジャ)
* [[それいけ!アンパンマン]](1992年 - 2010年、カモメ、ホッチンワニ〈5代目〉)
* [[チロリン村物語]](シロキチ、レタス)
* [[魔法のプリンセス ミンキーモモ]](暴走族A、スタッフA、手下、教師)
| 1993年 |
* [[恐竜惑星]](ナオー)
* [[ポコニャン!]](楠ノボル)
| 1994年 |
* [[蒼き伝説 シュート!]](ルディ・エリック〈初代〉)
* [[カラオケ戦士マイク次郎]](A・D、漁師)
* [[キャプテン翼J]](1994年 - 1995年、'''[[若林源三]]'''、マッテオ)
* [[ゴールFH]](千田修、土方賢、アナウンサー)
* [[ジーンダイバー]](ドライ6)
* [[超くせになりそう]](奥野細道)
* [[ツヨシしっかりしなさい]](清志、筒見マサト)
* [[覇王大系リューナイト]](エルフ族C)
* [[マクロス7]](イリーナ早川、ディック)
* [[魔法陣グルグル (1994年のアニメ)|魔法陣グルグル]](ロンロン)
* [[メタルファイター・MIKU]](丸米金太)
* [[モンタナ・ジョーンズ]](チャカユン)
| 1995年 |
* [[愛天使伝説ウェディングピーチ]](1995年 - 1996年、'''柳葉和也''' / '''天使リモーネ''')
* [[あずきちゃん]](藤巻拓)
* [[アリス探偵局]](花形先生、グー、キンヤ、白馬野王子 他)
* [[恐竜冒険記ジュラトリッパー]](社長{{R|恐竜冒険記ジュラトリッパー}})
* 孔子傳
* [[天地無用!]](騎士・哲偶)
* [[バーチャファイター (アニメ)|バーチャファイター]](1995年 - 1996年、'''結城晶'''<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20160509115054/http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=108| title = バーチャファイター| newspaper = | publisher = トムス・エンタテイメント| date = | accessdate = 2016-05-05}}</ref>)
* [[ふしぎ遊戯]](夕城奎介 / 美朱の兄、青年、見物人A)
* [[モジャ公]](アナウンサー、友情体験マシン、ホーリーマン、ロッキー)
| 1996年 |
* [[ガンバリスト!駿]]('''真田俊彦'''{{R|ガンバリスト!駿}})
* [[機動戦艦ナデシコ]](高杉三郎太)
* [[超者ライディーン]]('''南條一夜''' / '''ライディーンクロウ''')
* [[天空のエスカフローネ]]('''天野進'''<ref>{{Cite web|url=https://sunrise-world.net/titles/pickup_118.php|title=天空のエスカフローネ|website=サンライズワールド|publisher=[[バンダイナムコフィルムワークス]]|accessdate=2023-08-10}}</ref>、'''アレン・シェザール'''<ref>{{Cite web|url=http://www.escaflowne.jp/story/index.html|title=作品紹介|work=天空のエスカフローネ|publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]|accessdate=2017-03-09}}</ref>)
* [[ハーメルンのバイオリン弾き]](ガイタ)
* [[バケツでごはん]]('''染五郎''')
* [[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]](1996年 - 1997年、社員A、エーリッヒ) - 2シリーズ{{Ras|第1期(1996年)、第2期『WGP』(1997年)}}
* [[B'T-X]](冥夢)
| 1997年 |
* [[吸血姫美夕 (テレビアニメ)|吸血姫美夕]]('''ラヴァ'''、記者、バスの運転手)
* [[VIRUS -VIRUS BUSTER SERGE-]]('''サージ''')
* [[BURN-UP EXCESS]](ハッサン)
* [[BØY|HARELUYA II BØY]]('''日々野晴矢''')
* [[YAT安心!宇宙旅行]](ケンタロー)
* [[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]](1997年 - 2002年、'''[[コジロウ (アニメポケットモンスター)|コジロウ]]'''<ref>{{Cite web|url=http://www.shopro.co.jp/tv/archive/pokemon/chara.html|title=キャラクター紹介|work=ポケットモンスター|publisher=[[小学館プロダクション]]|accessdate=2023-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200207220610fw_/http://www.shopro.co.jp/tv/archive/pokemon/f_chara.html|archivedate=2020-02-07}}</ref>、[[ポケモン図鑑]]、[[タケシ (アニメポケットモンスター)|タケシ]]の[[イシツブテ]]<ref name="アニメージュ2000">『アニメージュ』2000年3月号、徳間書店、2000年3月、95頁。</ref>、タケシの[[ズバット (ポケモン)|ズバット]]→[[ゴルバット]]→[[クロバット]]、[[カスミ (アニメポケットモンスター)|カスミ]]の[[ヒトデマン]]<ref name="声優座談会">「ポケットモンスター 声優座談会」『声優グランプリ』Vol.19(1998年11月号)オプトコミュニケーションズ、1998年11月、65-72頁。}}</ref><ref name="アニメージュ2001">『アニメージュ』2001年3月号、徳間書店、2001年3月、110頁。</ref>、[[サトシ (アニメポケットモンスター)|サトシ]]の[[ヒトカゲ (ポケモン)|ヒトカゲ]]{{R|声優座談会}}→[[リザード (ポケモン)|リザード]]→[[リザードン]]、カスミの[[ニョロモ]]{{R|アニメージュ2000}}→[[ニョロゾ]]{{R|アニメージュ2001}}<ref name="mynavi">{{Cite web|url=https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/30809|title=アニメ「ポケモン」の声優が一緒でビックリするキャラ12選! 「サトシとペルシアン」「タケシとソーナンス」|accessdate=2022-08-26|publisher=株式会社マイナビ|date=2016-01-29|author=中田ボンベ@dcp|website=学生の窓口}}</ref>→[[ニョロトノ]]、[[オーキド・シゲル|シゲル]]の[[ウインディ (ポケモン)|ウインディ]]〈2代目〉 他)
* [[MAZE☆爆熱時空]](ファーマウント王〈ゴールド〉)
| 1998年 |
* [[頭文字D]](1998年 - 2014年、'''[[藤原拓海]]'''<ref>{{Cite web|publisher=頭文字D Fifth Stage | ANIMAX|url=http://www.animax.co.jp/special/initial-d/|title=頭文字D Fifth Stage 新作情報!|accessdate=2012-10-07}}</ref>) - 5シリーズ{{Ras|第1作(1998年)、『Second Stage』(1999年 - 2000年)、『Fourth Stage』(2004年 - 2006年)、『Fifth Stage』(2012年 - 2013年)、『Final Stage』(2014年)}}
* [[AWOL -Absent Without Leave-]]('''ジャン・ビショップ''')
* [[ジェネレイターガウル]]('''コウジ''')
* [[超速スピナー]]([[中村謙一 (スピナー)|中村謙一]])
* [[TRIGUN]]
* [[ヴァイスクロイツ]]('''ヨージ'''〈'''工藤耀爾'''〉)
* [[プリンセスナイン 如月女子高野球部]](小貫教頭<ref>{{Cite web|url=http://www.nifty.com/animefan/fanclb/pri9/chara/etc-otoko.htm|title=その他の登場人物|work=プリンセスナイン|publisher=[[ニフティ]]|accessdate=2021-06-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190212011547/http://www.nifty.com/animefan/fanclb/pri9/chara/etc-otoko.htm|archivedate=2019-02-12|deadlinkdate=2021-05-27}}</ref>)
* [[ブレンパワード]]('''ラッセ・ルンベルク'''{{R|ブレンパワード}})
* [[マスターモスキートン'99]](ライアン)
* [[ももいろシスターズ]]('''竹口栄一''')
| 1999年 |
* [[KAIKANフレーズ]]('''藤堂雪文''')
* [[カウボーイビバップ]](ハーマン)
* [[金田一少年の事件簿 (アニメ)|金田一少年の事件簿]](1999年 - 2007年、シド、城龍也) - 1シリーズ + 特別編{{Ras|第1作(1999年)、テレビスペシャル(2007年11月12日)}}
* [[ゴクドーくん漫遊記]]('''ニアリー'''〈'''プリンス'''〉)
* [[GTO (漫画)|GTO]](大沢秀郎)
* [[ゾイド -ZOIDS-]](ラルフ)
* [[地球防衛企業ダイ・ガード]]('''青山圭一郎'''<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20171208122336/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/6919| title = 地球防衛企業ダイ・ガード| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-27}}</ref>)
* [[ベターマン]](八七木翔)
| 2000年 |
* [[妖しのセレス]](ミカギ)
* [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]](2000年 - 2011年、高波のりお、王子様)
* [[機巧奇傳ヒヲウ戦記]]('''アラシ'''{{R|ヒヲウ戦記}})
* [[銀装騎攻オーディアン]]('''ウォルフ・エリクマイヤー''')
* [[グラビテーション (漫画)|グラビテーション]](相沢滝)
* [[ゲートキーパーズ]](ジム・スカイラーク<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20170826235404/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/7150 |title=GATE KEEPERS |work=メディア芸術データベース |publisher=文化庁 |accessdate=2017-03-19}}</ref>)
* [[THE ビッグオー]](オリバー)
* [[週刊ストーリーランド]](2000年 - 2001年、幸一、速見翔、久松、相田省吾)
* [[HAND MAID メイ]](早乙女卓也 / サイバーX)
* [[BOYS BE…]](岡崎祐基)
* [[ポケットモンスター ミュウツー! 我ハココニ在リ]]('''コジロウ'''、カスミのヒトデマン、カスミのニョロゾ、タケシのイシツブテ、タケシのゴルバット)
* [[闇の末裔]]('''都筑麻斗''')
* [[六門天外モンコレナイト]](緑の風の王、'''黒い翼の天使・ザッハ''')
| 2001年 |
* [[アルジェントソーマ]](リック・シュタイナー)
* [[オフサイド (漫画)|オフサイド]](茅野鷹志)
* [[ギャラクシーエンジェル (アニメ)|ギャラクシーエンジェル]](2001年 - 2002年、ルードヴィッヒ、司会者、ケンジット大尉) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2001年)、第3期『A』(2002年)}}
* [[ココロ図書館]](上沢純)
* [[砂漠の海賊!キャプテンクッパ]]('''サムゲタン'''<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20170418163701/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/7604| title = 砂漠の海賊!キャプテンクッパ| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-08-23}}</ref>)
* [[SAMURAI GIRL リアルバウトハイスクール]](京極刹羅)
* [[シャーマンキング]](クライスラー)
* [[だいすき!ぶぶチャチャ]](アラン)
* [[PROJECT ARMS]](2001年 - 2002年、'''新宮隼人''') - 2シリーズ{{Ras|『PROJECT ARMS』(2001年)、セカンドシーズン『PROJECT ARMS The 2nd Chapter』(2001年 - 2002年)}}
* [[魔法戦士リウイ]](リトラー / レナード)
* [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](2001年 - 2023年、梅本、[[名探偵コナンの登場人物#萩原研二|萩原研二]]{{R|名探偵コナン}}、時津潤哉、相園修)
| 2002年 |
* [[アソボット戦記五九]](ヤズー、カオスII世)
* [[あたしンち]](後輩)
* [[Weiß kreuz Glühen]]('''ヨージ''')
* [[王ドロボウJING]]('''ポスティーノ'''<ref>{{Cite web |url=http://www.aniplex.co.jp/jing/LIST/index-03.html |title=手配者リスト POSTINO |work=KING OF BANDIT JING |publisher=アニプレックス |accessdate=2017-03-26}}</ref>、司会者)
* [[奇鋼仙女ロウラン]]('''建智鉄也''')
* [[GetBackers-奪還屋-]](天子峰猛<ref>{{Cite web2|url=https://www.tbs.co.jp/getbackers/old/etc/staff.html|title=スタッフとキャスト|work=アニメ・ゲットバッカーズ|accessdate=2023-04-01}}</ref>)
* [[最終兵器彼女]]('''テツ'''<ref>{{Cite web | url = http://www.gonzo.co.jp/works/saikano/| title = 最終兵器彼女| publisher = GONZO公式サイト| accessdate = 2016-06-29}}</ref>)
* [[サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER]](カール)
* [[週刊ポケモン放送局]]('''コジロウ''')
* [[東京アンダーグラウンド]]('''赤'''<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20171207141320/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/7869| title = 東京アンダーグラウンド| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2017-03-12}}</ref>)
* [[.hack//SIGN]]('''クリム''')
* [[ドラゴンドライブ]](ヤコウ)
* [[NARUTO -ナルト- (アニメ)|NARUTO -ナルト-]](ミズキ)
* [[ヒートガイジェイ]]('''シュン・アウローラ''')
* [[フルメタル・パニック!]](2002年 - 2005年、'''クルツ・ウェーバー'''<ref>{{Cite web | url = http://www.gonzo.co.jp/works/full-metal-panic/| title = フルメタル・パニック!| publisher = GONZO公式サイト| accessdate = 2016-07-01}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://fullmeta-iv.com/#staff|title=STAFF/CAST|work=TVアニメ「フルメタル・パニック! Invisible Victory」公式サイト|accessdate=2017-10-21}}</ref>) - 4シリーズ{{Ras|第1作(2002年)、第2作『フルメタル・パニック? ふもっふ』(2003年)、第3作『The Second Raid』(2005年)、第4作『Invisible Victory』(2018年)<!-- 2018-04-13 -->}}
* [[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]](2002年 - 2006年、'''コジロウ'''、サトシの[[コータス]]<ref>『アニメージュ』2006年3月号、徳間書店、2006年3月、177頁。</ref>{{R|mynavi}}、[[シュウ (アニメポケットモンスター)|シュウ]]の[[フライゴン]]、ポケモン図鑑、サトシのリザードン、タケシの[[ヌマクロー]]、タケシのイシツブテ、タケシのクロバット 他)
* [[ポケットモンスター サイドストーリー]](2002年 - 2004年、クロバット、ニョロトノ、コジロウ、プテラ、ポケモン図鑑)
* [[円盤皇女ワるきゅーレ]](2002年 - 2003年、トリアム) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2002年)、第2期『十二月の夜想曲』(2003年)}}
| 2003年 |
* [[R.O.D -THE TV-]](リー・リンホー)
* [[アストロボーイ・鉄腕アトム]](ジェリービーンズ、ガリバー)
* [[エアマスター]](駒田シゲオ)
* [[E'S OTHERWISE]](エドガー・ハンソン)
* [[F-ZERO ファルコン伝説]]([[F-ZEROの登場人物#『F-ZERO X』より登場|ジェームズ・マクラウド]])
* [[コロッケ!]](マロン)
* [[スクラップド・プリンセス]]('''シャノン・カスール''')
* [[探偵学園Q]](2003年 - 2004年、七海光太郎、二次試験担当者)
* [[デ・ジ・キャラットにょ]](W.C.肉オール)
* [[PEACE MAKER 鐵]](青蛾中将)
* [[魔探偵ロキ RAGNAROK]]('''闇野竜介'''〈'''ミドガルズオルム'''〉)
* [[魔法遣いに大切なこと]](多佳子の夫)
* [[ヤミと帽子と本の旅人]]('''ガルガンチュア''')
* [[らいむいろ戦奇譚]]('''馬飼新太郎''')
* [[LAST EXILE]]('''モラン・シェトランド'''<ref>{{Cite web | url = http://www.gonzo.co.jp/works/lastexile/| title = LAST EXILE| publisher = GONZO公式サイト| accessdate = 2016-05-16}}</ref>)
* [[ロックマンエグゼAXESS]](2003年 - 2004年、バーナーマン)
| 2004年 |
* [[エリア88]]('''新庄真''')
* [[お伽草子 (アニメ)|お伽草子]]('''源頼光''' / '''万歳楽''')
* [[かいけつゾロリ]](ダンク)
* [[学園アリス]](ペルソナ)
* [[今日からマ王!]](2004年 - 2008年、眞王) - 2シリーズ{{Ras|第1シリーズ(2004年)、第3シリーズ(2008年)}}
* [[SAMURAI 7]]('''キュウゾウ'''<ref>{{Cite web | url = http://www.gonzo.co.jp/works/samurai7/| title = SAMURAI 7| publisher = GONZO公式サイト| accessdate = 2016-05-15}}</ref>)
* [[サムライチャンプルー]](菱川師宣)
* [[天上天下]]('''ボブ牧原''')
* [[遙かなる時空の中で-八葉抄-]]('''源頼久''')
* [[BLEACH (アニメ)|BLEACH]](2004年 - 2012年、'''[[浦原喜助]]'''<ref>{{Cite web |url= https://pierrot.jp/title/bleach/chara.html |title=Character 空座町 浦原喜助 |publisher=株式会社ぴえろ |work=BLEACH公式サイト |accessdate=2022-12-14}}</ref>、通行人)
* [[ビューティフル ジョー]]('''アラストル''')
* [[ボボボーボ・ボーボボ]](ハレクラニ)
* [[舞-HIME]](石上亘)
| 2005年 |
* [[IGPX]](アレックス・カニンガム)
* [[うえきの法則]](マシュー<ref>{{Cite web|publisher=うえきの法則|url=https://mv.avex.jp/ueki/staff.html|title=スタッフ&キャスト|accessdate=2023-03-17}}</ref>)
* [[ガラスの仮面]](里美茂)
* [[機動新撰組 萌えよ剣 TV]]('''[[平賀源内]]''')
* [[地獄少女]](エスパー☆ワタナベ)
* [[好きなものは好きだからしょうがない!!]]('''水都真一朗''')
* [[ツバサ・クロニクル]](2005年 - 2006年、桃矢) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2005年)、第2期(2006年)}}
* [[Paradise Kiss]](如月星次)
* [[BLACK CAT]]('''クリード=ディスケンス'''<ref>{{Cite web | url = http://www.gonzo.co.jp/works/black-cat/| title = BLACK CAT| publisher = GONZO公式サイト| accessdate = 2016-07-06}}</ref>)
* [[ブラック・ジャック (テレビアニメ)|ブラック・ジャック]](鯨岡の息子、大和屋暁)
| 2006年 |
* [[学園ヘヴン BOY'S LOVE HYPER!]]('''成瀬由紀彦''')
* [[牙 -KIBA-]]('''ロベス''')
* [[銀魂 (アニメ)|銀魂]](2006年 - 2018年、'''坂本辰馬'''<ref>{{Cite web |url= https://www.bn-pictures.co.jp/gintama/character/04.php |title=その他|人物紹介 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ]] |work=銀魂公式サイト |accessdate=2023-03-20}}</ref>、渡辺篤之助) - 4シリーズ{{Ras|第1期(2006年 - 2007年)、第2期『銀魂’』(2011年 - 2012年)、第3期『銀魂゚』(2015年)、第4期『銀魂.』(2017年 - 2018年)}}
* [[スーパーロボット大戦OG -ディバイン・ウォーズ-]]('''[[SRX計画#リュウセイ・ダテ|リュウセイ・ダテ]]'''<ref>{{Cite web | url = http://www.suparobo-anime.jp/anime_staff.html| title = STAFF&CAST| publisher = スーパーロボット大戦OG -ディバイン・ウォーズ-公式サイト| accessdate = 2016-06-19}}</ref>)
* [[天保異聞 妖奇士]]('''江戸元閥''')
* [[TOKYO TRIBE2]](ンコイ)
* [[.hack//Roots]]('''クーン''')
* [[パンプキン・シザーズ]](レオニール・テイラー)
* [[Fate/stay night]]('''アサシン''')
* [[ブラック・ジャック21]](鯨岡の息子)
* [[プリンセス・プリンセス (漫画)|プリンセス・プリンセス]](坂本英季)
* [[ポケットモンスター ダイヤモンド&パール]](2006年 - 2010年、'''コジロウ'''、サトシの[[ナエトル]]<ref>『アニメージュ』2009年3月号、徳間書店、2009年3月、127頁。</ref>→[[ハヤシガメ]]<ref name="アニメージュ2011">『アニメージュ』2011年3月号、徳間書店、2011年3月、108頁。</ref>→[[ドダイトス]]{{R|アニメージュ2011}}、[[ジュン (アニメポケットモンスター)|ジュン]]の[[ムクホーク]]、ジュンの[[ヘラクロス]]、シンジの[[トリトドン]]、サトシのコータス 他)
* [[まじめにふまじめ かいけつゾロリ]](ダンク)
| 2007年 |
* [[エル・カザド]](ハインツ・シュナイダー)
* [[機動戦士ガンダム00]](2007年 - 2009年、'''初代ロックオン・ストラトス'''〈'''ニール・ディランディ'''〉<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20180302164028/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/10182| title = 機動戦士ガンダム00| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-25}}</ref>、'''二代目ロックオン・ストラトス'''〈'''ライル・ディランディ'''〉) - 2シリーズ{{Ras|ファーストシーズン(2007年 - 2008年)、セカンドシーズン(2008年 - 2009年)}}
* [[鋼鉄三国志]]('''周瑜公瑾''')
* [[DARKER THAN BLACK -黒の契約者-]](エリック西島)
* [[D.Gray-man]]('''バク・チャン'''<ref>{{Cite web | url = https://www.tms-e.co.jp/alltitles/2000s/622101.html| title = D.Gray-man| publisher = トムス・エンタテインメント| accessdate = 2016-06-14}}</ref>)
* [[デビルメイクライ (アニメ)|Devil May Cry]](モデウス)
* [[遙かなる時空の中で3#テレビアニメ|遙かなる時空の中で3]](2007年 - 2010年、'''有川将臣''') - 特別編2作品{{Ras|『紅の月』(2007年12月28日)、『終わりなき運命』(2010年1月3日)}}
* [[BUZZER BEATER]](将軍)
* [[BLUE DRAGON (アニメ)|BLUE DRAGON]](ルメール)
* [[もっけ]](兄)
* [[REIDEEN]]('''前田崎太郎''')
* [[湾岸ミッドナイト]]('''島達也''')
| 2008年 |
* [[きらりん☆レボリューション STAGE3]](司会者)
* [[クリスタル ブレイズ]]('''シュウ''')
* [[黒塚 KUROZUKA]](嵐山<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20171201030818/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/10650| title = 黒塚 KUROZUKA| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2017-03-15}}</ref>)
* [[ゴルゴ13]](2008年 - 2009年、カッツ・ドーベル、リー)
* [[スケアクロウマン]](スコット)
* [[西洋骨董洋菓子店 〜アンティーク〜]]('''小野裕介''')
* [[絶対可憐チルドレン (アニメ)|絶対可憐チルドレン]](ミツオ)
* [[To LOVEる -とらぶる-]](ピカリー)
* [[破天荒遊戯]]('''バロックヒート''')
* [[無限の住人]](尸良)
* [[魍魎の匣]](増岡則之)
* [[モノクローム・ファクター]](石野鏡)
| 2009年 |
* [[空中ブランコ (小説)#テレビアニメ|空中ブランコ]](星山純一)
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第5シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第5作)]](一つ目小僧 / 一つ橋)
* [[ご姉弟物語]](町田俊介)
* [[極上!!めちゃモテ委員長]](天城高見)
* [[こばと。]](沖浦和斗)
* [[そらのおとしもの]](2009年 - 2010年、空のマスター〈ミーノース〉) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2009年)、第2期『f』(2010年)}}
* [[ねぎぼうずのあさたろう]](そら豆の時太郎)
* [[鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST]]('''ロイ・マスタング'''<ref>{{Cite web | url = http://www.hagaren.jp/fa/about/staffcast.html| title = STAFF&CAST| publisher = 鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST 公式ホームページ| accessdate = 2016-06-04}}</ref>)
* [[ミチコとハッチン]](ジュリオ)
* [[RIDEBACK -ライドバック-]]('''ロマノフ・カレンパーク''')
* [[ONE OUTS -ワンナウツ-]](スコット・ウイリアムス)
| 2010年 |
* [[裏切りは僕の名前を知っている]](祗王橘)
* [[おおきく振りかぶって 〜夏の大会編〜]](三橋の父)
* [[スーパーロボット大戦OG -ジ・インスペクター-]]('''リュウセイ・ダテ'''<ref>{{Cite web | url = http://www.suparobo.jp/srw_lineup/srw_ogin/about/cast.html| title = キャスト紹介| publisher = スーパーロボット大戦OG -ジ・インスペクター-公式サイト| accessdate = 2016-06-14}}</ref>)
* [[STAR DRIVER 輝きのタクト]](カタシロ・リョウスケ / 議長)
* [[薄桜鬼]](2010年 - 2016年、'''土方歳三'''<ref>{{Cite web|work=テレビアニメ「薄桜鬼 〜御伽草子〜」公式サイト|url=http://www.hakuoki-otogi.com/story/|title=ストーリー&キャラクター|accessdate=2015-12-10}}</ref>) - 4シリーズ{{Ras|第1期(2010年)、第2期『碧血録』(2010年)、第3期『黎明録』(2012年)、短編アニメ『〜御伽草子〜』(2016年)}}
* [[パンティ&ストッキングwithガーターベルト]](アナウンサー、司会者)
* [[ポケットモンスター ベストウイッシュ]](2010年 - 2013年、'''コジロウ'''<ref>{{Cite web|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/pokemon_bw/staff/|title=スタッフ・キャスト|work=ポケットモンスター ベストウイッシュ シーズン2 デコロラアドベンチャー|publisher=あにてれ:テレビ東京|accessdate=2021-04-02}}</ref>、シューティーの[[ツタージャ]]、[[デント (アニメポケットモンスター)|デント]]の[[イシズマイ]]→[[イワパレス]]、サトシのリザードン 他) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2010年 - 2012年)、第2期(2012年 - 2013年)}}
| 2011年 |
* [[UN-GO]]('''海勝麟六''')
* [[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]](RD-00、スタッフ)
* [[C3 -シーキューブ-|C<sup>3</sup> -シーキューブ-]](日村素直 / 電話の声)
* [[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビ朝日版第2期)]](デポン・アレックス)
* [[トリコ]](2011年 - 2014年、スタージュン)
* [[Dororonえん魔くん メ〜ラめら]](マーク・エンゼル<ref name="enma">{{Cite web|publisher=「Dororonえん魔くん メ〜ラめら」公式サイト | url=http://king-cr.jp/special/dororon-enmakun/staff/|title=スタッフ&キャスト|accessdate=2022-12-17}}</ref>)
* [[NARUTO -ナルト- 疾風伝]](2011年 - 2017年、ミズキ)
* [[NO.6]](楊眠)
* [[へうげもの]]([[高山右近]]<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20171222105159/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/14687| title = へうげもの| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2016-08-04}}</ref>)
* [[魔法少女まどか☆マギカ]](ホストB)
* [[リングにかけろ1 (アニメ)|リングにかけろ1 世界大会編]](アポロン)
| 2012年 |
* [[エリアの騎士]](岩城鉄平)
* [[君と僕。2]](店長)
* [[黒子のバスケ (アニメ)|黒子のバスケ]](2012年 - 2015年、ナレーション、相田景虎)
* [[CØDE:BREAKER]](人見<ref>{{Cite web|publisher=コード:ブレイカー CODE:BREAKER|title=CAST|url=http://www.code-breaker.jp/?page_id=45|accessdate=2012-07-10}}</ref>)
* [[ダンボール戦機W]](ビリー・スタリオン)
* [[夏色キセキ]](紗季の父)
* [[偽物語]]('''貝木泥舟''')
* [[BRAVE10]]([[直江兼続]]<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20180301164608/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/15568| title = BRAVE10| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-27}}</ref>)
* [[マギ (漫画)|マギ]](2012年 - 2014年、マルッキオ、家庭教師、銀行屋、イスナーン) - 2シリーズ{{Ras|第1期『マギ The labyrinth of magic』(2012年 - 2013年)、第2期『マギ The kingdom of magic』(2014年)}}
* [[ROBOTICS;NOTES]](澤田敏行<ref>{{Cite web|publisher=マイコミジャーナル|url=http://news.mynavi.jp/news/2012/07/21/025/index.html|title=[ロボティクス・ノーツ]アニメ版の制作スタッフとキャスト発表 ビジュアルも公開|accessdate=2012-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120924012049/http://news.mynavi.jp/news/2012/07/21/025/index.html|archivedate=2012年9月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>)
| 2013年 |
* [[アイカツ! (アニメ)|アイカツ!]](虹ヶ原マコト)
* [[アウトブレイク・カンパニー]](ガリウス・エン・コルドバル<ref>{{Cite web|publisher=アウトブレイク・カンパニー 公式ホームページ|url=https://www.tbs.co.jp/anime/obc/staffcast/|title=STAFF&CAST|accessdate=2013-09-06}}</ref>)
* [[イナズマイレブンGO ギャラクシー]](2013年 - 2014年、'''ポトムリ'''<ref>{{Cite web|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/inazumago/staff/|title=スタッフ・キャスト|website=あにてれ:イナズマイレブンGO ギャラクシー|work=イナズマイレブンGO ギャラクシー|publisher=テレビ東京|accessdate=2023-07-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130502051507/http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/inazumago/staff/|archivedate=2013-05-02}}</ref>)
* [[キルラキル]]('''美木杉愛九郎'''<ref>古林英明「神衣鮮血 キルラキル」『月刊ニュータイプ』2013年10月号、角川書店、2013年9月10日、41頁。</ref>)
* [[ぎんぎつね]]('''銀太郎'''<ref>{{Cite web|publisher=TVアニメ『ぎんぎつね』公式サイト|url=http://gingitsune.net/staff.html|title=スタッフ/キャスト|accessdate=2013-07-19}}</ref>)
* [[ちはやふる2]](アンソニー・ソーブ)
* [[はじめの一歩 Rising]](2013年 - 2014年、[[沢村竜平]]<ref>{{Cite web|publisher=はじめの一歩|title=キャラクター|url=http://www.ntv.co.jp/ippo/character/sawamura.html|accessdate=2013-09-20}}</ref>)
* [[八犬伝―東方八犬異聞―]]('''犬山道節'''<ref>{{Cite web|publisher=アニメ 八犬伝 公式サイト|url=http://hakken-den.com/staff/index.html|title=スタッフ・キャスト|accessdate=2012-12-21}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=アニメ 八犬伝 公式サイト|url=http://hakken-den.com/staff/index.html|title=STAFF&CAST|accessdate=2013-06-03}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2013年)、第2期(2013年)}}
* [[HUNTER×HUNTER (2011年のアニメ)|HUNTER×HUNTER(第2作)]](2013年 - 2014年、ノヴ<ref>{{Cite web|work=MANTANWEB|url=https://mantan-web.jp/article/20130414dog00m200043000c.html|title=HUNTER×HUNTER : “蟻編”のキャスト発表 メルエムは内山昂輝、ピトー役に藤村歩|accessdate=2013-04-15}}</ref>)
* [[プリティーリズム・レインボーライブ]](法月仁)
* [[ポケットモンスター XY]](2013年 - 2016年、'''コジロウ'''<ref>{{cite web|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/pokemon_xy/staff/|title=スタッフ・キャスト|work=ポケットモンスター エックスワイ:あにてれ|publisher=テレビ東京|accessdate=2017-01-29}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/pokemon_xyz/staff/ |title=スタッフ・キャスト |work=あにてれ ポケットモンスター XY&Z |publisher=テレビ東京 |accessdate=2017-01-29}}</ref>、サトシの[[ルチャブル]]、[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#トロバ|トロバ]]のヒトカゲ→リザード→リザードン、[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#ティエルノ|ティエルノ]]の[[カメール]] 他) - 2シリーズ + 特別編{{Ras|『XY』(2013年 - 2015年)、『XY 特別編 最強メガシンカ』(2014年)、『XY&Z』(2015年 - 2016年)}}
* [[ムシブギョー]](望月六郎<ref>{{Cite web|date=2013-07-01|url=http://mushibugyo.jp/news/#6561|title=十傑蟲のキャストが決定しました!|work=TVアニメ「ムシブギョー」公式サイト|author=|publisher=[[セブン・アークス|セブン・アークス・ピクチャーズ]]|accessdate=2013-07-01}}</ref>)
* [[〈物語〉シリーズ セカンドシーズン]]('''貝木泥舟''')
* [[よんでますよ、アザゼルさん。Z]](変人48面相)
| 2014年 |
* [[甘城ブリリアントパーク]](ジョー)
* [[俺、ツインテールになります。]](パピヨンギルディ)
* [[GO-GO たまごっち!]](モフモフっち)
* [[スミ子]](吉田熊五郎<ref>[https://sumiko.operahouse.co.jp キャスト|アニメ「スミ子」公式サイト]</ref>)
* [[トリニティセブン]](学園長<ref>{{Cite web|publisher=TVアニメ「トリニティセブン」公式サイト|url=http://trinity-7.com/cast.php|title=CAST|accessdate=2014-09-27}}</ref>)
* [[曇天に笑う]](嘉神直人<ref>{{Cite web|publisher=[[バップ]]|title=スタッフ|work=TVアニメ「曇天に笑う」公式サイト|url=https://www.vap.co.jp/dontenniwarau/staff/index.html|accessdate=2018-03-02}}</ref>)
* [[ハイキュー!!]](2014年 - 2020年、追分拓朗) - 3シリーズ{{Ras|第1期(2014年)、第2期『セカンドシーズン』(2016年)、第4期『TO THE TOP』第1クール(2020年)}}
* [[花物語 (西尾維新)|花物語]](貝木泥舟)
* [[Fate/stay night (アニメ)#テレビアニメ第2作|Fate/stay night [Unlimited Blade Works]]](2014年 - 2015年、'''アサシン'''<ref>{{Cite web|publisher=「Fate/stay night」TVアニメ公式サイト|title=STAFF/CAST|url=http://www.fate-sn.com/ubw/staff/|accessdate=2014-07-28}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|1stシーズン(2014年)、2ndシーズン(2015年)}}
* [[ブラック・ブレット]]('''薙沢彰磨''')
* [[ログ・ホライズン (アニメ)|ログ・ホライズン]](2014年 - 2021年、KR) - 2シリーズ{{Ras|第2シリーズ(2014年 - 2015年)、第3シリーズ『円卓崩壊』(2021年)}}
| 2015年 |
* [[うしおととら]](2015年 - 2016年、雷信<ref>{{Cite web|work=TVアニメ「うしおととら」公式サイト|url=http://ushitora.tv/staff/|title=スタッフ&キャスト|accessdate=2015-06-15}}</ref>)
* [[Classroom☆Crisis]](誘拐犯リーダー、イブラ・アーリントン)
* [[コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜]](2015年 - 2016年、人吉孫竹) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2015年)、第2期『THE LAST SONG』(2016年)}}
* [[対魔導学園35試験小隊]]('''鳳颯月'''<ref>{{Cite web|title=アニメ『対魔導学園35試験小隊』公式サイト|url=http://35shoutai.jp/|accessdate=2015-08-19}}</ref>)
* [[トリアージX]](犬鳴慎一郎<ref>{{Cite web |url=http://triagex-anime.jp/staff/ |title=Staff&Cast |work=トリアージX -イクス- TVアニメ公式サイト |accessdate=2015-03-05}}</ref>)
* [[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]](2015年 - 2021年、スレイダー) - 4シリーズ{{Ras|第1期(2015年)、特別編『聖戦の予兆』(2016年)、第2期『戒めの復活』(2018年)、第4期『憤怒の審判』(2021年)}}
* [[パックワールド]](ミイラ、魔性の入れ歯)
* [[ワンパンマン]](2015年 - 2019年、蛇咬拳のスネック<ref>{{Cite web2|url=https://onepunchman-anime.net/character/#/hero/snek|title=蛇咬拳のスネック TVアニメ「ワンパンマン」公式サイト|accessdate=2023-03-22}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2015年)、第2期(2019年)}}
| 2016年 |
* [[紅殻のパンドラ]](ジョー・ライト伍長)
* [[3月のライオン]](2016年 - 2018年、島田開<ref>{{Cite web|work=TVアニメ「3月のライオン」公式サイト|url=http://3lion-anime.com/news/?id=40048|title=HPリニューアル!キャスト情報追加解禁&場面カット初公開|date=2016-09-09|accessdate=2016-09-09}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1シリーズ(2016年 - 2017年)、第2シリーズ(2017年 - 2018年)}}
* [[タイムトラベル少女〜マリ・ワカと8人の科学者たち〜]]([[ベンジャミン・フランクリン]]<ref>{{Twitter status|mariwaka_anime|737179303960412161}}</ref>)
* [[ドラゴンボール超]](ザマス<ref>{{Cite web|publisher=[[東映アニメーション]]|work=ドラゴンボール超|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/dragon_s/chara/32.html|title=キャラクター|accessdate=2022-12-05}}</ref>、合体ザマス)
* [[忍たま乱太郎]]の宇宙大冒険 with [[コズミックフロント☆NEXT]] 天の川で赤ちゃん星を見つけた!の段('''彦星''')
* [[バトルスピリッツ 烈火魂|バトルスピリッツ烈火魂<バーニングソウル>]](ナゾオトナ)
* [[ばくおん!!]](凜の父<ref>{{Cite web|publisher=アニメ『ばくおん!!』公式サイト|url=http://bakuon-anime.com/staffcast/index.html|title=STAFF &CAST|accessdate=2016-02-12}}</ref>)
* [[文豪ストレイドッグス]](ジイド<ref>{{Cite web|work=アニメ『文豪ストレイドッグス』公式サイト|url=http://bungo-stray-dogs.jp/news/?news=news-character-gide|title=ジイドのCVが公開!|date=2016-10-14|accessdate=2016-10-14}}</ref>)
* [[ポケットモンスター サン&ムーン]](2016年 - 2019年、'''コジロウ'''<ref>{{Cite web |url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/pokemon_sunmoon/staff/ |title=スタッフ・キャスト |work=あにてれ ポケットモンスター サン&ムーン |publisher=[[テレビ東京]] |accessdate=2016-10-23}}</ref>、[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#グラジオ|グラジオ]]の[[ルガルガン]]、タケシのイシツブテ、タケシのクロバット、カスミのヒトデマン、[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#ハウ|ハウ]]の[[フクスロー]]→[[ジュナイパー]]、[[アクジキング]] 他)
* [[モブサイコ100]](2016年 - 2022年、誇山) - 3シリーズ{{Ras|第1期(2016年)、第2期『II』(2019年)、第3期『III』(2022年)<!-- 2022-12-08 -->}}
* [[ReLIFE]](上司(2))
* [[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]](2016年 - 2023年、ペドロ<ref>{{Cite web|publisher=ONE PIECE.com|url=https://one-piece.com/news/detail/20160729_4317|title=アニメ『ワンピース』いよいよゾウ編突入!新キャラクターのワンダ役に折笠富美子さん、キャロット役に伊藤かな恵さん、ペドロ役に三木眞一郎さん!||date=2016-07-29|accessdate=2016-07-29}}</ref>)
| 2017年 |
* [[超・少年探偵団NEO]](ナレーション)<!-- 2017-01-02 -->
* [[幼女戦記 (アニメ)|幼女戦記]]('''レルゲン'''<ref>{{Cite web|url=http://youjo-senki.jp/tv/staffcast/|title=STAFF&CAST|website=「幼女戦記」アニメ公式サイト|accessdate=2023-04-02}}</ref>)<!-- 2017-01-06 -->
* [[セイレン (アニメ)|セイレン]](湯木尚武<ref>{{Cite web|work=「セイレン」公式ホームページ|title=湯木尚武|url=https://www.tbs.co.jp/anime/seiren/chara/yuki_naotake.html|publisher=TBSテレビ|accessdate=2017-03-17}}</ref>)<!-- 2017-01-20 -->
* [[鬼平 (アニメ)|鬼平]](近藤勘四郎)<!-- 2017-03-21 -->
* [[笑ゥせぇるすまんNEW]](道原駆<ref>{{Cite web|work=TVアニメ「笑ゥせぇるすまんNEW」公式サイト|url=http://warau-new.jp/story/|title=ストーリー|accessdate=2017-04-20}}</ref>)<!-- 2017-04-24 -->
* [[戦姫絶唱シンフォギアAXZ]]('''アダム・ヴァイスハウプト'''<ref>{{Cite web|url=https://www.symphogear-axz.com/characters/adam.php|title=アダム・ヴァイスハウプト キャラクター|work=TVアニメ「戦姫絶唱シンフォギアAXZ」公式サイト|accessdate=2017-10-18}}</ref>)<!-- 2017-07-16 -->
* [[THE REFLECTION]]('''エクスオン'''<ref>{{Cite web|work=THE REFLECTION –ザ・リフレクション–|title=スタッフ&キャスト|url=http://thereflection-anime.net/staffcast/index.html|accessdate=2017-06-02}}</ref>)<!-- 2017-07-22 -->
* [[潔癖男子!青山くん]](伊吹誠吾<ref>{{Cite web|work=TVアニメ「潔癖男子!青山くん」公式サイト|url=http://kda-anime.com/staff.html|title=STAFF/CAST|accessdate=2017-06-29}}</ref>)<!-- 2017-09-04 -->
* [[カイトアンサ]](ジャックスパサブロウ)<!-- 2017-09-20 -->
* [[つうかあ (アニメ)|つうかあ]]('''棚橋コーチ'''<ref>{{Cite web|url=http://twocartv.jp/#staff|title=キャスト|work=つうかあ アニメ公式サイト|accessdate=2017-08-30}}</ref>)<!-- 2017-10-08 -->
| 2018年 |
* [[バジリスク 〜桜花忍法帖〜]](根来転寝<ref>{{Cite web|url=http://basilisk-ouka.jp/staffcast/|title=スタッフ・キャスト|work=TVアニメ「バジリスク 〜桜花忍法帖〜」公式サイト|accessdate=2017-11-24}}</ref>)<!-- 2018-01-09 -->
* [[HUGっと!プリキュア]](2018年 - 2019年、リストル<ref>{{Cite news|publisher=ナターシャ|work=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/268018|title=「HUGっと!プリキュア」悪役キャストに三木眞一郎や田村ゆかりら|date=2018-02-03|accessdate=2018-02-03}}</ref>)<!-- 2018-02-04 -->
* [[スナックワールド]](魔王デミグラス、兵士)<!-- 2018-04-05 -->
* [[銀河英雄伝説 Die Neue These 邂逅]]('''[[ワルター・フォン・シェーンコップ]]'''<ref>{{Cite web|url=http://gineiden-anime.com/tvseries/staff.html|work=アニメ「銀河英雄伝説 Die Neue These 邂逅」公式サイト|title=キャスト&スタッフ|accessdate=2019-05-13}}</ref>)<!-- 2018-05-08 -->
* [[BEATLESS]](海内剛) - 2シリーズ{{Ras|『BEATLESS』<!-- 2018-06-09 -->、『BEATLESS Final Stage』}}
* [[深夜!天才バカボン]]([[YOSHIKI]])<!-- 2018-07-11 -->
* [[ロード オブ ヴァーミリオン 紅蓮の王]](カーク鏑木<ref>{{Cite web|url=http://lord-of-vermilion.com/|title=TVアニメ「ロード オブ ヴァーミリオン 紅蓮の王」公式サイト|accessdate=2018-05-10}}</ref>)<!-- 2018-07-14 -->
* [[BAKUMATSU]](2018年 - 2019年、'''坂本龍馬'''<ref>{{Cite web|url=https://www.tbs.co.jp/anime/BAKUMATSU/staffcast/|title=STAFF&CAST|work=TVアニメ「BAKUMATSUクライシス」|publisher=TBSテレビ|accessdate=2019-02-19}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2018年)<!-- 2018-10-05 -->、第2期『クライシス』(2019年)}}
* [[イナズマイレブン オリオンの刻印]](2018年 - 2019年、新条琢磨)<!-- 2018-10-05 -->
* [[DOUBLE DECKER! ダグ&キリル]](グッドルッキング・ジョー)<!-- 2018-11-11 -->
* [[学園BASARA]](後藤又兵衛<ref>{{Cite web|url=https://www.tbs.co.jp/anime/gakuen_basara/staffcast/|title=スタッフ&キャスト|work=TVアニメ「学園BASARA」公式ホームページ|publisher=TBSテレビ|accessdate=2018-09-10}}</ref>)<!-- 2018-11-23 -->
* [[ガイコツ書店員 本田さん]](天蓋)<!-- 2018-12-17 -->
| 2019年 |
* [[爆丸バトルプラネット]](2019年 - 2020年、ベントン・ダスク、お便りをくれた子供たち)<!-- 2019-04-01 -->
* [[KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-]](法月仁<ref>{{Cite web|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1528606956|title=『キンプリ』新作アニメ『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』2019年春劇場公開&テレビ放送決定!プリズムスタァ候補生たちのストーリーに|publisher=アニメイトタイムズ|date=2018-06-10|accessdate=2018-06-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://kinpri.com/staffcast/|title=スタッフ&キャスト|work=「KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-」公式サイト|accessdate=2019-04-08}}</ref>)<!-- 2019-04-16 -->
* [[異世界かるてっと]](2019年 - 2020年、'''レルゲン'''<ref>{{Cite web|url=http://isekai-quartet.com/staffcast/|title=STAFF&CAST|work=TVアニメ「異世界かるてっと」オフィシャルサイト|accessdate=2019-03-08}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2019年)<!-- 2019-04-24 -->、第2期『2』(2020年)}}
* [[超可動ガール1/6]](空手魔王)<!-- 2019-05-25 -->
* [[ポチっと発明 ピカちんキット]](ドク)<!-- 2019-07-06 -->
* [[鬼滅の刃 (アニメ)|鬼滅の刃]](2019年 - 2021年、竈門炭十郎) - 2シリーズ{{Ras|第1期『竈門炭治郎 立志編』(2019年)<!-- 2019-08-10 -->、特別編『無限列車編』(2021年)<!-- 2021-10-24 -->}}
* [[けだまのゴンじろー]](一匹狼の男性)<!-- 2019-08-17 -->
* [[コップクラフト]](ヘルマンデス)<!-- 2019-08-27 -->
* [[ゾイドワイルド ZERO]](2019年 - 2020年、アルドリッジ少佐)<!-- 2019-10-18 -->
* [[僕のヒーローアカデミア (アニメ)|僕のヒーローアカデミア]](2019年 - 2020年、サー・ナイトアイ<ref>{{Cite web|url=http://heroaca.com/character.html|title=CHARACTER|work=TVアニメ『僕のヒーローアカデミア』|accessdate=2019-06-16}}</ref>)<!-- 2019-10-19 -->
* [[Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-]](2019年 - 2020年、レオニダス一世<ref>{{Cite web|url=https://anime.fate-go.jp/ep7-tv/staffcast/|title=STAFF&CAST|work=TVアニメ「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」公式サイト|accessdate=2019-08-04}}</ref>)<!-- 2019-10-19 -->
* [[ポケットモンスター (2019年のアニメ)|ポケットモンスター]](2019年 - 2023年、'''コジロウ'''<ref>{{Cite web|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1571999336|title=『ポケットモンスター』TVアニメ新シリーズ、ロケット団が今作も続投! 声優の林原めぐみさん・三木眞一郎さん・犬山イヌコさんからコメント到着|publisher=アニメイトタイムズ|date=2019-10-25|accessdate=2019-10-27}}</ref>、ゴウの[[パラセクト]]、ゴウの[[カイロス]]、ゴウの[[ストライク (ポケモン)|ストライク]]→[[ハッサム]]、ゴウの[[ニドラン♂]]、サトシの[[カモネギ]]→[[ネギガナイト]]、サトシのリザードン、シゲルのスマホロトム、シゲルのウインディ、グラジオのルガルガン、サトシのコータス、サトシのドダイトス、サトシのルチャブル、カスミのニョロトノ、タケシのヌマクロー 他) - 2シリーズ + 特別編{{Ras|『ポケットモンスター』(2019年 - 2022年)<!-- 2019-11-17 -->、『遥かなる青い空』(2022年)<!-- 2022-12-23 -->、第2期『めざせポケモンマスター』<ref>{{Cite web|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/pocketmonster/staff/|title=スタッフ・キャスト|website=ポケットモンスター|publisher=テレビ東京|accessdate=2022-12-23}}</ref>(2023年)<!-- 2023-01-13 -->}}
* [[あんさんぶるスターズ!]](氷鷹誠矢)<!-- 2019-11-24 -->
* [[ルパン三世 プリズン・オブ・ザ・パスト]]<ref>{{Cite news|title=テレビも映画も新作登場!「ルパン祭り 2019」金曜ロードSHOW!で2週連続放送決定!&初の3DCG映画公開! |newspaper=金曜ロードシネマクラブ| date=2019-10-20|url= https://kinro.ntv.co.jp/article/detail/20191018|accessdate=2019-10-20}}</ref>(ベルテ〈フィオ王子〉)<!-- 2019-11-29 -->
* [[ノー・ガンズ・ライフ]](ダニー・ヨー)<!-- 2019-12-20 -->
| 2020年 |
* [[ブレーカーズ (テレビアニメ)|ブレーカーズ]]('''成田錬'''<ref>{{Cite web|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/program/detail.html?i=breakers|title=ブレーカーズ|work=NHKアニメワールド|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2019-12-11}}</ref>)<!-- 2020-01-07 -->
* [[SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!]](2020年 - 2021年、ユーダス校長 / ジュダさん) - 2シリーズ{{Ras|『ましゅまいれっしゅ!!』(2020年)<!-- 2020-01-23 -->、『STARS!!』(2021年)}}
* [[ドロヘドロ]](ターキー<ref>{{Cite web|url=https://dorohedoro.net/#staffcast|title=作ってるひとたち|work=アニメ『ドロヘドロ』|accessdate=2019-11-12}}</ref>)<!-- 2020-02-03 -->
* [[啄木鳥探偵處]](夏目漱石<ref>{{Cite web|url=http://kimikoe.com/kitsutsuki/#story|title=各話あらすじ|work=TVアニメ「啄木鳥探偵處」公式サイト|accessdate=2020-04-21}}</ref>)<!-- 2020-04-27 -->
* [[ド級編隊エグゼロス]](庵野丈<ref>{{Cite web|url=https://hxeros.com/staffcast/|title=STAFF/CAST|work=TVアニメ「ド級編隊エグゼロス」公式サイト|accessdate=2020-05-02}}</ref>)<!-- 2020-07-04 -->
* [[文豪とアルケミスト 〜審判ノ歯車〜]](菊池寛)<!-- 2020-07-11 -->
* [[THE GOD OF HIGH SCHOOL ゴッド・オブ・ハイスクール]]<ref>{{Cite news|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1593762395|title=アニメ『ゴッド・オブ・ハイスクール』配信情報&出演声優陣が解禁! さらに第1話あらすじや放送カウントダウン動画も公開|work=アニメイトタイムズ|publisher=アニメイト|date=2020-07-03|accessdate=2020-07-03}}</ref>(オ・ソンジン、フェイロン)<!-- 2020-07-27 -->
* [[魔王学院の不適合者 〜史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う〜]](2020年 - 2023年、ゾロ・アンガート) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2020年)<!-- 2020-09-19 -->、第2期『II』(2023年)<!-- 2023-01-29 -->}}
* [[GO!GO!アトム]]<!-- 2020-10-01 -->
* [[魔王城でおやすみ]](睡魔<ref>{{Cite web|url=https://maoujo-anime.com/staff/|title=Staff/Cast|work=TVアニメ『魔王城でおやすみ』公式サイト|accessdate=2020-10-15}}</ref>)<!-- 2020-11-17 -->
| 2021年 |
* [[バック・アロウ]](ルドルフ・コンダクトーレ)<!-- 2021-03-13 -->
* [[魔入りました!入間くん]](2021年 - 2023年、アリさん<ref>{{Cite web|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=10322|title=「魔入りました!入間くん」第2シリーズ アリさん役は三木眞一郎さん!! |work=NHKアニメワールド|publisher=日本放送協会|date=2021-03-16|accessdate=2021-03-16}}</ref>、デルキラ{{R|魔入りました!入間くんOB}}) - 2シリーズ{{Ras|第2シリーズ(2021年)<!-- 2021-04-17 -->、第3シリーズ(2022年 - 2023年)<!-- 2022-10-22 -->}}
* [[100万の命の上に俺は立っている]](カンティル<ref>{{Cite web|url=https://1000000-lives.com/staffcast/|title=STAFF&CAST|work=TVアニメ「100万の命の上に俺は立っている」公式サイト|accessdate=2021-03-19}}</ref>)<!-- 2021-07-17 -->
* [[うらみちお兄さん]](風呂出油佐男<ref>{{Cite web|url=http://uramichi-anime.com/staff_cast/|title=Staff&Cast|work=TVアニメ「うらみちお兄さん」公式サイト|accessdate=2021-03-19}}</ref>)<!-- 2021-08-10 -->
* [[迷宮ブラックカンパニー]](ゼクス=ハラー)<!-- 2021-08-13 -->
* [[ドラゴンクエスト ダイの大冒険 (2020)]](2021年 - 2022年、[[魔王軍 (ダイの大冒険)#ハドラー親衛騎団|ヒム]]<ref>{{Cite news|publisher=ナターシャ|work=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/434249 |title=「ダイの大冒険」第4クールの新キャストに東地宏樹・岡本信彦ら、ハドラー親衛騎団も|date=2021-06-26|accessdate=2021-06-26}}</ref>)<!-- 2021-08-21 -->
* [[SDガンダムワールド ヒーローズ]](窮奇ストライクフリーダムガンダム<ref>{{Cite web|title=窮奇ストライクフリーダムガンダム|url=https://sd-gundam-world.net/heroes/character/34.php|website=SDガンダムワールド ヒーローズ 公式サイト|accessdate=2022-01-13}}</ref>)<!-- 2021-09-02 -->
* [[名探偵コナン 警察学校編 Wild Police Story]](2021年 - 2023年、'''萩原研二'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/452504|title=「名探偵コナン 警察学校編」松田陣平描く第1弾が12月4日放送、以降も不定期にOA|newspaper=コミックナタリー|date=2021-11-08|accessdate=2021-11-08}}</ref>)<!-- 2021-12-04 -->
| 2022年 |
* [[怪人開発部の黒井津さん]](ロングレンジ・アンクル<ref>{{Cite web|title=STAFF&CAST|url=https://kuroitsusan-anime.com/staffcast/ |website=「怪人開発部の黒井津さん」アニメ公式サイト|accessdate=2022-01-13}}</ref>)<!-- 2022-01-09 -->
* [[SHAMAN KING]](麻倉葉賢<ref>{{Cite web|title=CAST|work=TVアニメ『SHAMAN KING』公式サイト|url=https://shamanking-project.com/cast|accessdate=2022-01-20}}</ref>)<!-- 2022-01-27 -->
* [[リーマンズクラブ]]('''宮澄建'''<ref>{{Cite web|title=Staff&Cast|work=TVアニメ『リーマンズクラブ』公式サイト|url=https://rymansclub.com/staffcast/|accessdate=2021-12-27}}</ref>)<!-- 2022-01-30 -->
* [[エスタブライフ グレイトエスケープ]]('''ウルラ'''<ref>{{Cite web|url=https://establife.tokyo/#cast|title=CAST|website=アニメ「エスタブライフ」公式サイト|accessdate=2022-02-03}}</ref>)<!-- 2022-04-07 -->
* [[名探偵コナン 本庁の刑事恋物語〜結婚前夜〜]](萩原研二)<!-- 2022-04-15 -->
* [[RWBY 氷雪帝国]](ローマン・トーチウィック<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/479188|title=「RWBY 氷雪帝国」追加キャストに潘めぐみや前野智昭、放送情報も明らかに|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-05-27|accessdate=2022-05-27}}</ref>)<!-- 2022-07-03 -->
* [[ブッチギレ!]]('''ソウゲン'''〈'''踪玄'''〉<ref>{{Cite web2|url=https://www.bucchigire.com/staffcast/|title=登場人物|website=オリジナルTVアニメ「ブッチギレ!」|accessdate=2022-04-14}}</ref>)<!-- 2022-07-08 -->
* [[ちみも]](金持紳士)<!-- 2022-07-29 -->
* [[転生したら剣でした]]('''師匠'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/467106|title=TVアニメ「転生したら剣でした」師匠役で三木眞一郎、フラン役で加隈亜衣が出演|newspaper=コミックナタリー|date=2022-02-25|accessdate=2022-02-25}}</ref>)<!-- 2022-10-05 -->
* [[BLEACH 千年血戦篇]](2022年 - 2023年、'''浦原喜助'''<ref>{{Cite web|url=https://bleach-anime.com/|title=TVアニメ「BLEACH 千年血戦篇」公式サイト|accessdate=2021-12-18}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1クール(2022年)<!-- 2022-10-18 -->、第2クール『-訣別譚-』(2023年)<!-- 2023-07-08 -->}}
| 2023年 |
* [[スパイ教室]](ギード) - 2シリーズ{{Ras|1st season(2023年)<!-- 2023-01-05 -->、2nd season(2023年)<!-- 2023-08-10 -->}}
* [[火狩りの王]](灰十<ref>{{Cite news|publisher=ナターシャ|newspaper=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/499013|title=「火狩りの王」キャスト第2弾に國立幸、三宅健太、小林千晃、宮野真守、石田彰ら|date=2022-10-26|accessdate=2022-10-26}}</ref>)<!-- 2023-01-14 -->
* [[メガトン級ムサシ]](ハルマ・リュウセイ)<!-- 2023-02-03 -->
* [[マイホームヒーロー]]('''麻取義辰'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/495710|title=アニメ「マイホームヒーロー」来年4月放送!ティザーPV公開、鳥栖哲雄役は諏訪部順一|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-09-30|accessdate=2022-09-30}}</ref>)<!-- 2023-04-02 -->
* [[THE MARGINAL SERVICE]]('''セオドア・トンプソン'''<ref>{{Cite news|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1671764184|title=オリジナルアニメ『THE MARGINAL SERVICE』2023年4月より放送開始! キービジュアル、PV解禁! 声優・宮野真守さん、森川智之さんら出演決定! キャラクター情報やコメント動画も到着!|newspaper=アニメイトタイムズ|publisher=アニメイト|date=2022-12-23|accessdate=2022-12-23}}</ref>)<!-- 2023-04-12 -->
* [[異世界召喚は二度目です]](レグルス・レオネール<ref>{{Cite web|url=https://isenido.com/#home-character|title=Character & Cast|website=【公式】TVアニメ「異世界召喚は二度目です」|accessdate=2023-04-09}}</ref>)<!-- 2023-05-28 -->
* [[マッシュル-MASHLE-]](イノセント・ゼロ)<!-- 2023-07-01 -->
* [[ゾン100〜ゾンビになるまでにしたい100のこと〜]](ジョン)<!-- 2023-07-09 -->
* [[アンデッドガール・マーダーファルス]](シャーロック・ホームズ<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/523271|title=「アンデッドガール・マーダーファルス」シャーロック・ホームズ役に三木眞一郎|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-05-02|accessdate=2023-05-02}}</ref>)<!-- 2023-08-03 -->
* [[呪術廻戦 懐玉・玉折/渋谷事変]](日下部篤也)<!-- 2023-09-07 -->
* [[MFゴースト]](ナレーション)<!--2023-10-02 -->
* [[ダークギャザリング]](殉國禁獄鬼軍曹<ref>{{Cite news|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1695888546|title=『ダークギャザリング』第13話「出獄」より、先行場面カット&あらすじ公開! ゲスト声優に八代拓さん・江原正士さん・三木眞一郎さん|newspaper=アニメイトタイムズ|publisher=アニメイト|date=2023-09-28|accessdate=2023-09-28}}</ref>)<!-- 2023-10-02 -->
* [[ブルバスター]]('''田島鋼二'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/501859|title=ロボットヒーロープロジェクト「ブルバスター」アニメ化決定、2023年放送開始|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-11-18|accessdate=2022-11-18}}</ref>)<!-- 2023-10-04 -->
* [[聖女の魔力は万能です]](セイラン<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/539837|title=「聖女の魔力は万能です」2期に逢坂良太、小林千晃、三木眞一郎 PV第1弾公開|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-09-06|accessdate=2023-09-06}}</ref>)<!-- 2023-10-10 -->
* [[SHY (漫画)|SHY]]('''スターダスト'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/530814|title=TVアニメ「SHY」キービジュ&本PV公開!キャストに東山奈央、杉田智和、能登麻美子ら|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-06-29|accessdate=2023-06-29}}</ref>)<!-- 2023-10-17 -->
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (2023)]](エスピラール・ロタシオン)<!-- 2023-11-17 -->
* [[ゴブリンスレイヤーII]](国王 / 金剛石の騎士)<!-- 2023-12-08 -->
| 2024年 |
* [[異修羅]]('''通り禍のクゼ'''<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20231026dog00m200046000c.html|title=異修羅:三木眞一郎が不死身の始末屋 堀江由衣が天使の暗殺者に テレビアニメ追加キャスト|newspaper=MANTANWEB|publisher=MANTAN|date=2023-10-26|accessdate=2023-10-26}}</ref>)<!-- 2024-01- -->
* [[異世界でもふもふなでなでするためにがんばってます。]](神様<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/549661|title=「もふなで」追加キャストに梅田修一朗・古谷徹ら7人、OP聴ける新PVも公開|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-18|accessdate=2023-11-18}}</ref>)<!-- 2024-01- -->
* [[じいさんばあさん若返る]]('''正蔵'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/549750|title=アニメ「じいさんばあさん若返る」来年4月放送開始 三木眞一郎らがボイコミから続投|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-19|accessdate=2023-11-19}}</ref>)<!-- 2024-04- -->
}}
=== 劇場アニメ ===
{{dl2
| 1993年 |
* [[蒼い記憶 満蒙開拓と少年たち]]('''田中順平''')
* [[みいちゃんのてのひら]](警防団員)
| 1994年 |
* [[餓狼伝説 -THE MOTION PICTURE-]](ラオコーン・ゴーダマス)
* [[ダークサイド・ブルース]](クリス)
| 1996年 |
* [[クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険]](駅員)
| 1998年 |
* [[機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-]]('''高杉三郎太''')
* [[パーフェクトブルー]]<ref>{{Cite web | url = https://www.madhouse.co.jp/works/1999-1997/works_movie_perfectblue.html| title = PERFECT BLUE| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-06-16}}</ref>
* [[ポケットモンスター (劇場版)|劇場版ポケットモンスター]](1998年 - 2020年、コジロウ 他) - 23作品<ref>{{Cite web | url = http://www.pokemon-movie.jp| title = 劇場版ポケットモンスター みんなの物語| accessdate = 2018-04-22}}</ref> + 短編7作品{{Ras|『[[ピカチュウのなつやすみ]]』(1998年)、『[[ピカチュウたんけんたい]]』(1999年)、『[[ピチューとピカチュウ]]』(2000年)、『[[おどるポケモンひみつ基地]]』(2003年)、『[[メロエッタのキラキラリサイタル]]』(2012年)、『[[ピカチュウ、これなんのカギ?]]』(2014年)、『[[ピカチュウとポケモンおんがくたい]]』(2015年)}}
| 2000年 |
* [[エスカフローネ]]('''アレン・シェザール'''<ref>{{Cite web|url=https://sunrise-world.net/titles/pickup_031.php|title=エスカフローネ|website=サンライズワールド|publisher=バンダイナムコフィルムワークス|accessdate=2023-08-10}}</ref>)
| 2001年 |
* [[頭文字D|頭文字D Third Stage -INITIAL D THE MOVIE-]]('''藤原拓海''')
| 2002年 |
* [[エクスドライバー|エクスドライバー the Movie]](ラルフ)
| 2004年 |
* [[名探偵コナン 銀翼の奇術師]](新庄功)
| 2005年 |
* [[AIR (ゲーム)|AIR]](橘敬介)
| 2006年 |
* [[劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜]]('''源頼久''')
* [[劇場版BLEACH MEMORIES OF NOBODY]]('''浦原喜助''')
| 2007年 |
* [[劇場版BLEACH The DiamondDust Rebellion もう一つの氷輪丸]]('''浦原喜助''')
* [[.hack//G.U. TRILOGY]]('''クーン''')
| 2008年 |
* [[ストレイト・ジャケット|劇場版 ストレイト・ジャケット]]('''レイオット・スタインバーグ''')
* [[劇場版BLEACH Fade to Black 君の名を呼ぶ]]('''浦原喜助''')
| 2009年 |
* [[仏陀再誕#アニメ映画|仏陀再誕-The REBIRTH of BUDDHA]](謎の僧侶 覚念)
| 2010年 |
* [[いばらの王|いばらの王 -King of Thorn-]](ピーター・スティーブンス)
* [[宇宙ショーへようこそ]](ペット大王)
* [[劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-]]('''ロックオン・ストラトス〈ライル・ディランディ〉'''<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20171222105026/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/12545| title = 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-12-04}}</ref>)
* [[銀魂 (アニメ)|銀魂]](2010年 - 2021年、坂本辰馬) - 3作品{{Ras|『[[劇場版 銀魂 新訳紅桜篇]]』(2010年)、『[[劇場版 銀魂 完結篇 万事屋よ永遠なれ]]』(2013年)、『[[銀魂 THE FINAL]]』(2021年)}}
* [[Fate/stay night (アニメ)#劇場アニメ第1作|劇場版 Fate/stay night UNLIMITED BLADE WORKS]](アサシン)
| 2011年 |
* [[UN-GO#劇場版|UN-GO episode:0 因果論]]('''海勝麟六''')
* [[そらのおとしもの|劇場版 そらのおとしもの 時計じかけの哀女神]](空のマスター)
* [[トワノクオン]]('''上代源治''')
* [[鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星]]('''ロイ・マスタング'''<ref>{{Cite web | url = https://www.hagaren-movie.net/staffcast/| title = CAST| publisher = 鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星 公式サイト| accessdate = 2016-06-04}}</ref>)
| 2012年 |
* [[劇場版 魔法少女まどか☆マギカ|劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語]](ホスト)
* [[神秘の法]](ユチカ)
* [[花の詩女 ゴティックメード]](ユーゴ・マウザー)
| 2013年 |
* [[劇場版 トリコ 美食神の超食宝]](スタージュン)
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|劇場版 薄桜鬼 第一章 京都乱舞]]('''土方歳三'''<ref>{{Cite web|publisher=薄桜鬼(はくおうき)OFFICIAL Site|title=作品情報(2013/04/18)「劇場版 薄桜鬼」スタッフ・キャスト、全国公開館決定!|url=http://www.geneonuniversal.jp/rondorobe/anime/hakuoki/|accessdate=2013-04-23}}</ref>)
* [[STAR DRIVER 輝きのタクト|スタードライバー THE MOVIE]](カタシロ・リョウスケ<ref>{{Cite web|publisher=スタードライバー THE MOVIE|title=STAFF/CAST|url=http://www.stardriver-movie.net/|accessdate=2012-09-05}}</ref>)
| 2014年 |
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|劇場版 薄桜鬼 第二章 士魂蒼穹]]('''土方歳三'''<ref>江口聡「劇場版 薄桜鬼 第二章 士魂蒼穹」『電撃Girl's Style』2014年2月号(雑誌06533-02)KADOKAWA、2014年1月10日、57頁。</ref>)
* [[楽園追放 -Expelled from Paradise-]]('''ディンゴ〈ザリク・カジワラ〉'''<ref>{{Cite web|publisher=アニメイトTV|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1380180732|title=アニメ映画『楽園追放 -Expelled from Paradise-』ボイスキャスト発表! 釘宮理恵さん、三木眞一郎さんの出演が明らかに|accessdate=2013-09-26}}</ref>)
| 2015年 |
* [[コードギアス 亡国のアキト]] 第3章「輝くもの天より堕つ」(ブラドー・フォン・ブライスガウ)
* [[屍者の帝国]](アレクセイ・カラマーゾフ<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20150721045424/http://www.m-on.press/lisani/0000017897| title = 『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』に続くノイタミナムービー第2弾「Project Itoh」より、『屍者の帝国』のメインキャストが解禁!細谷佳正、村瀬歩、花澤香菜ら豪華キャストが集結!| newspaper = | publisher =M-ON! Press | date = 2015-07-17| accessdate = 2015-07-17}}</ref>)
* [[ハーモニー (小説)|ハーモニー]](エリヤ・ヴァシロフ<ref>{{Cite news | url = https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1438247643| title = 『ハーモニー』沢城みゆきさんらメインキャスト情報が解禁| newspaper = | publisher =アニメイトTV | date = 2015-07-30| accessdate = 2015-07-31}}</ref>)
| 2016年 |
* [[KING OF PRISM by PrettyRhythm]]('''法月仁'''<ref>{{Cite web|publisher=「KING OF PRISM by PrettyRhythm」|公式サイト|url=http://kinpri.com/staffcast/|title=Staff&Cast|accessdate=2015-11-07}}</ref>)
* [[頭文字D|新劇場版 頭文字D Legend3-夢現-]](86の男<ref>スペシャルサンクスに「Shinichiro Miki」と表記。</ref>)
| 2017年 |
* [[劇場版 トリニティセブン]](2017年 - 2019年、学園長<ref>{{Cite web|work=劇場版「トリニティセブン」公式サイト|url=https://movie.trinity-7.com/ea/staffcast.php|title=STAFF / CAST|accessdate=2016-10-07}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://movie.trinity-7.com/staffcast/|title=STAFF/CAST|work=劇場版「トリニティセブン」公式サイト|accessdate=2019-01-16}}</ref>) - 2作品<!-- 2017-02-25 -->
* [[黒子のバスケ (アニメ)|劇場版 黒子のバスケ LAST GAME]](相田景虎<ref>{{Cite web|work=劇場版 黒子のバスケ LAST GAME|url=http://kurobas-lg.com/character/|title=CHARACTER|accessdate=2017-01-04}}</ref>)<!-- 2017-03-18 -->
* [[KING OF PRISM -PRIDE the HERO-]]('''法月仁'''<ref>{{Cite web|publisher=「KING OF PRISM -PRIDE the HERO-」|公式サイト|url=http://kinpri.com/staffcast/|title=Staff&Cast|accessdate=2017-06-12}}</ref>)<!-- 2017-06-10 -->
* [[打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?#アニメ映画|打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?]](なずなの母の再婚相手)<!-- 2017-08-18 -->
* [[Fate/stay night (アニメ)#劇場アニメ第2作(シリーズ)|劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] I.presage flower]](アサシン<ref>{{Cite web|url=https://www.fate-sn.com/1st/staffcast/cast.html|work=劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] I.presage flower |title=STAFF/CAST |accessdate=2018-07-28}}</ref>)<!-- 2017-10-14 -->
| 2018年 |
* [[君の膵臓をたべたい#アニメ映画|君の膵臓をたべたい]](「僕」の父<ref>{{Cite web|url=http://kimisui-anime.com/?cast|work=劇場アニメ「君の膵臓をたべたい|title=CAST|accessdate=2018-06-09}}</ref>)<!-- 2018-09-01 -->
* [[K (アニメ)#K SEVEN STORIES|K SEVEN STORIES Episode4「Lost Small World 〜檻の向こうに〜」]]('''伏見仁希'''<ref>{{Cite web|url=http://k-project.jpn.com/k7s_lsw/staff_cast/|title=STAFF/CAST|Lost Small World 〜檻の向こうに〜|work=「K SEVEN STORIES」オフィシャルサイト|accessdate=2018-04-11}}</ref>)<!-- 2018-10-06 -->
* [[交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション]](2018年 - 2021年、バンクス<ref>{{Cite web|url=https://natalie.mu/comic/news/440213|title=映画「エウレカセブン」キービジュ&新たな特報が到着、公開日は11月26日に|website=[[コミックナタリー]]|date=2021-08-10|accessdate=2021-08-10}}</ref>) - 2シリーズ<!-- 2018-11-10 -->
| 2019年 |
* [[幼女戦記 (アニメ)#劇場アニメ|劇場版 幼女戦記]]('''エーリッヒ・フォン・レルゲン'''<ref>{{Cite web|url=http://youjo-senki.jp/#Staffcast|title=STAFF&CAST|website=劇場版「幼女戦記」アニメ公式サイト|accessdate=2018-10-10}}</ref>)<!-- 2019-02-08 -->
* [[甲鉄城のカバネリ 海門決戦]]('''景之'''<ref>{{Cite web|url=https://kabaneri.com/#staff|title=STAFF CAST|work=劇場中編アニメーション「甲鉄城のカバネリ 海門決戦」公式サイト|accessdate=2019-08-11}}</ref>)<!-- 2019-05-10 -->
* [[歎異抄をひらく]]('''慧信房'''<ref>{{Cite web|url=https://tannisho.jp/news/20190322-2374/|title=新キャストが決定しました!|work=歎異抄をひらく[映画公式サイト]|TANNISHO|親鸞|accessdate=2019-03-22}}</ref>)<!-- 2019-05-24 -->
| 2020年 |
* [[泣きたい私は猫をかぶる]](カキヌマ)<!-- 2020-06-18 -->
* [[劇場版 鬼滅の刃 無限列車編]](竈門炭十郎<ref>『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』パンフレット([[アニプレックス]])、49頁。</ref>)<!-- 2020-10-16 -->
| 2021年 |
* [[フラ・フラダンス]](日羽の父<ref>{{Cite web|url=https://hula-fulladance.com/news/?id=58539|title=豪華 新キャスト公開! - NEWS |work=オリジナルアニメ映画『フラ・フラダンス』|date=2021-09-09|accessdate=2021-09-09}}</ref>)<!-- 2021-12-03 -->
* [[さよなら、ティラノ]]('''ティラノ'''<ref>{{Cite web|url=https://www.sayonara-tyrano.jp/character.html|title=キャラクター|work=映画『さよなら、ティラノ』オフィシャルサイト|accessdate=2020-05-20}}</ref>)<!-- 2021-12-10 -->
* [[劇場版 呪術廻戦 0]](日下部篤也<ref>{{Cite web|url=https://jujutsukaisen-movie.jp/character/|title=CHARACTER|website=『劇場版 呪術廻戦 0』公式サイト|accessdate=2021-12-27}}</ref>)<!-- 2021-12-24 -->
| 2022年 |
* [[名探偵コナン ハロウィンの花嫁]](萩原研二)<!-- 2022-04-15 -->
* [[バブル (2022年の映画)|バブル]](関東マッドロブスター・リーダー<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/465696|title=映画「バブル」三木眞一郎出演、小畑健がキャラクター原案で意識したことを明かす|work=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-15|accessdate=2022-02-15}}</ref>)<!-- 2022-05-13 -->
| 2024年 |
* [[BLOODY ESCAPE -地獄の逃走劇-]](ウルラ<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/549551|title=谷口悟朗のアニメ映画「BLOODY ESCAPE」予告映像とキャストが一挙に解禁|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-17|accessdate=2023-11-17}}</ref>)<!-- 2024-01-05 -->
}}
=== OVA ===
{{dl2
| 1989年 |
* [[イース (OVA)|イース]](自衛団員)
* [[魔狩人 デーモンハンター]](生徒C)
| 1990年 |
* [[A.D.POLICE]]
* 楳図かずおの呪い
* [[ガッデム]](エリック)
* [[ビー・バップ・ハイスクール|BE-BOP-HIGHSCHOOL]](天保工業不良B)
* [[魔物ハンター妖子|魔物ハンター妖子<sup>2</sup>]](佐野)
* [[緑野原迷宮]]
| 1991年 |
* [[DETONATORオーガン]]
* [[BURN-UP]]
* [[炎の転校生]]
| 1992年 |
* [[創世機士ガイアース]](フェイク)
* [[BASTARD!! -暗黒の破壊神-]](1992年 - 1993年、兵士 他)
* [[三毛猫ホームズシリーズ#OVA|三毛猫ホームズの幽霊城主]]
| 1993年 |
* [[今日から俺は!!]](佐川直也、増田)
* [[ジェノサイバー|ジェノサイバー 虚界の魔獣]]
* [[ドミニオン (漫画)|特捜戦車隊ドミニオン]](鑑識官)
* [[モルダイバー]]
| 1994年 |
* [[青空少女隊]]('''石動拓也''')
* [[I・R・I・A ZEIRAM THE ANIMATION]](警備B)
* [[LEVEL-C|快楽の方程式 LEVEL-C]](本城一臣)
* [[科学忍者隊ガッチャマン|GATCHMAN]](ブラックバード)
* [[キャプテン翼 最強の敵!オランダユース]](若林源三)
* [[湘南純愛組!]](木田)
* [[プラスチックリトル]]
* プリンセス・ロード〜薔薇と髑髏の紋章〜('''アンドレアス''')※18禁作品
* [[マーズ (漫画)|マーズ]](P-3Cパイロット)
* [[ワイルド7#OVA版|ワイルド7]](秘書)
| 1995年 |
* [[セイバーマリオネット|SMガールズ セイバーマリオネットR]](サンチェスト)
* [[お天気お姉さん (漫画)|お天気お姉さん]](宮本) - 2作品{{Ras|『お天気お姉さん』『お天気お姉さん2』}}
* [[下級生 MY PRETTY CLASS STUDENT]]('''七星かける''')
* [[紺碧の艦隊]](鈴木恒明)
* [[プリンセス・ミネルバ]](ヤァ・マハ)
| 1996年 |
* [[ウェディングピーチDX]]('''柳葉和也''')
* [[お嬢様捜査網]](モルコフ)
* [[覚悟のススメ]](カズ)
* [[カメレオン (漫画)|カメレオン5]](新屋力)
* [[KEY THE METAL IDOL]](1996年 - 1997年、吊木光)
* [[小鉄の大冒険]](向井賢一)
* [[クロノ・トリガー#時空冒険 ぬうまもんじゃ〜|時空冒険 ぬうまもんじゃ〜]](ジョニー)
* [[タトゥーン★マスター]](ハイドラ江田)
* [[ふしぎ遊戯]](夕城奎介)
| 1997年 |
* [[世紀末麗魔伝キメイラ]](ジョン・ロイ)
* [[B'T-X|B'T-X NEO]](冥夢)
* [[ふしぎ遊戯|ふしぎ遊戯 第二部]](夕城奎介)
* [[SPRITE (漫画)|真奈美&ナミ スプライト]](雅也)
| 1998年 |
* [[青の6号 (アニメ)|青の6号]](ユン、尹明海)
* [[吸血姫美夕 (テレビアニメ)|吸血姫美夕 Integral]]('''ラヴァ''')
* [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説外伝 千億の星、千億の光]](マルティン・ブーフホルツ)
* [[ジオブリーダーズ]]('''田波洋一''')
* [[スレイヤーズ (アニメ)|スレイヤーズえくせれんと]](アルフォンス)
* [[鉄拳シリーズ|鉄拳 -TEKKEN-]](リー・チャオラン)
* [[ポケットモンスター (OVA)|ポケットモンスター]](1998年 - 2011年、イシツブテ、ニョロモ、コータス、ゴース、ヌマクロー、ナエトル、ハヤシガメ、ドダイトス、ダルマッカ) - 11作品{{Ras|『ピカチュウのふゆやすみ 雪であそぼ!』(1998年)、『ピカチュウのふゆやすみ2000 こおりであそぼう クリスマスの夜』(1999年)、『ピチューとピカチュウのふゆやすみ2001 デリバードのプレゼント ホワイトストーリー』(2000年)、『ピカチュウのなつまつり』(2004年)、『ピカチュウのおばけカーニバル』(2005年)、『ピカチュウのわんぱくランド』(2006年)、『ピカチュウたんけんクラブ』(2007年)、『ピカチュウ 氷の大冒険』(2008年)、『ピカチュウのキラキラだいそうさく!』(2009年)、『ピカチュウのふしぎなふしぎな大冒険』(2010年)、『ピカチュウのサマー・ブリッジ・ストーリー』(2011年)}}
* [[MASTERキートン]](フランク・ミラー)
| 1999年 |
* [[最遊記シリーズ|最遊記]](焔椎)
* [[卒業M#OVA 卒業M〜オレ達のカーニバル〜|卒業M〜オレ達のカーニバル〜]](鴬谷雪之丞)
* [[太陽の船 ソルビアンカ]](ブースター)
* [[超神姫ダンガイザー3]](1999年 - 2001年、D・D)<!-- 1999-09-24 -->
* [[ヴァイスクロイツ|ヴァイスクロイツ verbrechen / strafe]]('''ヨージ''')
* [[ニーベルングの指環 (漫画)|HARLOCK SAGA ニーベルングの指環]](ファフナー)
| 2000年 |
* [[エクスドライバー]](藤堂奨)
* [[sin THE MOVIE]](ティム)
* [[天使禁猟区]](カタン)
| 2001年 |
* [[ふしぎ遊戯|ふしぎ遊戯 外伝-永光伝-]](夕城奎介)
| 2002年 |
* [[I'll|I'll/CKBC]]('''山崎義生''')
* [[頭文字D|頭文字D Battle Stage]]('''藤原拓海''')
* [[.hack|.hack//GIFT]]('''クリム''')
* [[遙かなる時空の中で-紫陽花ゆめ語り-]]('''源頼久''')
| 2003年 |
* [[アクエリアンエイジ|アクエリアンエイジSagaII〜Don't forget me…〜]](レイ・アルカード)
* [[機動新撰組 萌えよ剣]](平賀源内)
* [[サブマリン707|サブマリン707R]](アーサー<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20180302104000/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/8660| title = サブマリン707R| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2016-08-06}}</ref>)
* [[.hack//SIGN]](クリム)
* [[遙かなる時空の中で2-白き龍の神子-]]('''源頼忠''')
* [[羊のうた]]('''水無瀬''')
| 2004年 |
* 頭文字D to the Next Stage 〜プロジェクトDへ向けて〜('''藤原拓海''')
* [[王ドロボウJING|王ドロボウJING in Seventh Heaven]]('''ポスティーノ''')
* [[春を抱いていた]]('''香藤洋二''')
* [[らいむいろ戦奇譚|らいむいろ戦奇譚 南国夢浪漫]](馬飼新太郎)
| 2005年 |
* [[最終兵器彼女|最終兵器彼女〜Another love song〜]]('''テツ''')
* [[スーパーロボット大戦ORIGINAL GENERATION THE ANIMATION]]('''リュウセイ・ダテ''')
* [[聖闘士星矢 冥王ハーデス編|聖闘士星矢 冥王ハーデス冥界編]]([[冥闘士#アイアコス|アイアコス]])
* [[天上天下|天上天下 ULTIMATE FIGHT]](ボブ牧原)
* [[パパとKISS IN THE DARK]]('''宗方鏡介''')
| 2006年 |
* [[フルメタル・パニック!|フルメタル・パニック! わりとヒマな戦隊長の一日]]('''クルツ・ウェーバー''')
* [[舞-乙HiME#OVA|舞-乙HiME Zwei]](ワッタール・イシガーミン)
| 2007年 |
* 頭文字D Battle Stage 2('''藤原拓海''')
* [[まるマシリーズ#OVA|今日からマ王! R]](眞王)
* [[真救世主伝説 北斗の拳|真救世主伝説 北斗の拳 ユリア伝]]('''[[レイ (北斗の拳)|レイ]]''')
* [[ストレイト・ジャケット]]('''レイオット・スタインバーグ''')
* [[.hack//G.U. Returner]]('''クーン''')
* [[冬の蝉]]('''草加十馬''')
| 2008年 |
* 頭文字D Extra Stage 2 〜旅立ちのグリーン〜(藤原拓海)
* [[仮面ライダー電王|「イマジンあにめ」]]('''ジーク''')
* 劇場版銀魂 〜白夜叉降誕〜 予告篇(坂本辰馬)
* [[バットマン ゴッサムナイト]]('''ブルース・ウェイン''')
| 2009年 |
* [[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]('''牡羊座のシオン''')
* [[腐女子の品格]](セム)
| 2011年 |
* [[TAKE MOON|カーニバル・ファンタズム]](アサシン)
* [[かってに改蔵]](マリオ)
* [[スーパーナチュラル|SUPERNATURAL: THE ANIMATION]](ジェイク)
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|薄桜鬼 雪華録]]('''[[土方歳三]]''')
| 2012年 |
* [[間の楔|間の楔 第2期]]('''カッツェ''')
* [[Holy Knight]](クリフ)
| 2013年 |
* [[暗殺教室]]('''レッドアイ''')※ジャンプスーパーアニメツアー2013上映作品<ref>{{Cite web|publisher=ジャンプスーパーアニメツアー2013|url=http://www.jumpfesta.com/anime/ansatukyoucitu.html|title=上映アニメ|accessdate=2013-09-29}}</ref>
| 2014年 |
* 銀魂「布団に入ってから拭き残しに気付いて寝るに寝れない時もある」(坂本辰馬)※コミックス第58巻DVD同梱版
| 2015年 |
* [[トリアージX]](犬鳴慎一郎)※コミックス12巻Blu-ray付き限定版
| 2018年 |
* [[ReLIFE 完結編]](上司)
| 2021年 |
* [[Fate/Grand Carnival]](ヴァン・ホーエンハイム・パラケルスス)
}}
=== Webアニメ ===
{{dl2
| 2005年 |
* [[リーンの翼]](コットウ・ヒン)
| 2006年 |
* [[戦慄のミラージュポケモン]]([[コジロウ (アニメポケットモンスター)|コジロウ]])
| 2008年 |
* [[めぐみ (漫画)#アニメ|めぐみ]](同僚<ref>{{Cite web | url = http://www.rachi.go.jp/jp/megumi/gaiyou.html| title = アニメ「めぐみ」| publisher = 日本国政府:北朝鮮による日本人拉致問題 | accessdate = 2016-06-15}}</ref>)
| 2015年 |
* [[マンガで分かる心療内科|アニメで分かる心療内科]]('''心内療'''<ref>{{Cite web|publisher=「アニメで分かる心療内科」公式サイト|url=http://www.mental-anime.jp/staff/|title=スタッフ&キャスト|accessdate=2014-11-10}}</ref>)
* [[ニンジャスレイヤー フロムアニメイシヨン]](ナカタ)
| 2016年 |
* [[暦物語 (西尾維新)|暦物語]](貝木泥舟)
| 2018年 |
* [[衛宮さんちの今日のごはん]](アサシン)<!-- 2018-04-01 -->
| 2019年 |
* [[スーパードラゴンボールヒーローズ|スーパードラゴンボールヒーローズ 宇宙騒乱編プロモーションアニメ]](ザマス)<!-- 2019-01-09 -->
* [[銀河英雄伝説 Die Neue These 星乱]]('''ワルター・フォン・シェーンコップ'''<ref>{{Cite web|url=http://gineiden-anime.com/staff.html|work=アニメ「銀河英雄伝説 Die Neue These 星乱」公式サイト|title=キャスト&スタッフ|accessdate=2019-05-13}}</ref>)<!-- 2019-09-27 -->
| 2020年 |
* [[爆丸アーマードアライアンス]](2020年 - 2021年、ベントン・ダスク)<!-- 2020-04-03 -->
| 2021年 |
* 銀魂 THE SEMI-FINAL 真選組篇(2021年、坂本辰馬)<!-- 2021-01-20 -->
* [[爆丸ジオガンライジング]](2021年、ベントン・ダスク)<!-- 2021-04-02 -->
* [[スター・ウォーズ:ビジョンズ]]
** 九人目のジェダイ(ジーマ<ref>{{Cite web|url=https://disneyplus.disney.co.jp/news/2021/visions_voice-actors.html|title=『スター・ウォーズ:ビジョンズ』超豪華声優&予告編が全世界解禁!|website=Disney+公式|date=2021-08-17|accessdate=2021-08-17}}</ref>)<!-- 2021-09-22 -->
| 2022年 |
* [[爆丸エボリューションズ]](2022年 - 2023年、ベントン・ダスク)<!-- 2022-04-01 -->
| 2023年 |
* [[爆丸レジェンズ]](ベントン・ダスク)<!-- 2023-03-31 -->
* [[境界戦機|境界戦機 極鋼ノ装鬼]]('''三澤ジン'''<ref>{{Cite web|url=https://www.kyoukai-senki.net/kyokko-no-souki/staff-cast/|title=スタッフ&キャスト|website=境界戦機 極鋼ノ装鬼|accessdate=2023-05-11}}</ref>)<!-- 2023-08-10 -->
* [[崩壊:スターレイル]] ショートアニメ(2023年、応星 / 刃 )<!-- 2023-08-29 -->
}}
=== ゲーム ===
{{dl2
| 1993年 |
* [[機装ルーガ]](1993年 - 1995年、'''ヴァイス''') - 2作品{{Ras|『機装ルーガ』(1993年)、『II』(1995年)}}
| 1994年 |
* [[バーチャファイターシリーズ]](1994年 - 2021年、'''[[バーチャファイターの登場人物#結城晶(ゆうき あきら)[Akira Yuki]|結城晶]]''') - 11作品{{Ras|『[[バーチャファイター2|2]]』(1994年)、『[[バーチャファイター3|3]]』(1996年)、『3 tb』(1997年)、『[[バーチャファイター4|4]]』(2001年)、『4 エボリューション』(2002年)、『4 ファイナルチューンド』、『サイバージェネレーション 〜ジャッジメントシックスの野望〜』(2004年)、『[[バーチャファイター5|5]]』(2006年)、『5 R』(2008年)、『5 ファイナルショーダウン』(2010年)、『5 esports』(2021年)}}
* [[バステッド (ゲーム)|バステッド]](ラルグライム)
* [[ウルトラセブン]] - 地球防衛作戦 -(アラキ隊員)
* バトルZEQUE伝
| 1995年 |
* ガンナーズヘヴン(ヴァイカート)
* [[ストリートファイターZERO]] シリーズ(1995年 - 2006年、[[サガット]]、ナレーション<ref>『ALL ABOUT ストリートファイターZERO2』電波新聞社、1996年6月30日、323頁。</ref>) - 6作品{{Ras|『[[ストリートファイターZERO|ZERO]]』(1995年)、『ZERO2』『ZERO2 ALPHA』(1996年)、『ZERO3』(1998年)、『ZERO3↑』(2001年)、『ZERO3↑↑』(2006年)}}
| 1996年 |
* [[ラングリッサーII|デアラングリッサーFX]](スコット)
* [[新スーパーロボット大戦]]('''[[SRX計画#リュウセイ・ダテ|リュウセイ・ダテ]]'''、兵士)
* [[人造人間ハカイダー|人造人間ハカイダー -ラストジャッジメント-]](グルジェフ)
* [[TIZ -Tokyo Insect Zoo-]](ハンミョウ)
* Princess Quest('''ウィロー''')
* ストームブレード('''ラッキー・J・ストライカー''')
| 1997年 |
* EOS〜Edge of Skyhigh〜('''ジュリアス''')
* [[この世の果てで恋を唄う少女YU-NO]](豊富秀夫)
* [[スタンバイSay You!]](高木淳)
* [[天外魔境 第四の黙示録]](純銀のブリザード)
| 1998年 |
* [[エアガイツ]]([[セフィロス]])
* [[機動戦艦ナデシコ|機動戦艦ナデシコ The blank of 3years]](高杉三郎太)
* [[金田一少年の事件簿#ゲーム|金田一少年の事件簿 星見島 悲しみの復讐鬼]](大山孝志)
* [[サウザンドアームズ]]('''ソウシ・マホロバ''')
* [[サクラ大戦2 〜君、死にたもうことなかれ〜]](天笠士郎)
* [[スーパーロボットスピリッツ]](リュウセイ・ダテ)
* [[デストレーガ]](ファルマ)
* [[爆走兄弟レッツ&ゴー!! エターナルウィングス]](エーリッヒ)
* [[プリンセスクエスト]](ウィロー)
* [[リアルロボッツファイナルアタック]](リュウセイ・ダテ)
| 1999年 |
* [[アークザラッドIII]]('''ヴェルハルト''')
* [[エスピオネージェンツ]](シャルル・ファルー)
* [[北へ。|北へ。〜White illumination〜]](蒼き月の夜)
* 機動戦艦ナデシコ NADESICO THE MISSION(高杉三郎太)
* [[グローランサー]]('''アリオスト''')
* [[後夜祭]](鈴木悟)
* [[サーカディア]](影守聖)
* [[ジャスティス学園|私立ジャスティス学園 熱血青春日記2]](波川流)
* [[真・魔装機神 PANZER WARFARE]](ケイゴ=クルツ=フェルディナン)
* [[スーパーヒーロー作戦]](リュウセイ・ダテ)
* [[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]](1999年 - 2018年、'''リザードン'''、ヒトカゲ、ヒトデマン、ハッサム、[[ダークライ]]、アキラ〈結城晶〉) - 6作品{{Ras|『[[ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ|第1作]]』(1999年)、『[[大乱闘スマッシュブラザーズDX|DX]]』(2001年)、『[[大乱闘スマッシュブラザーズX|X]]』(2008年)、『[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U|for 3DS]]』『for Wii U』(2014年)、『[[大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL|SPECIAL]]』(2018年)}}
* [[デバイスレイン]](J.B.)
* [[ときめきメモリアルドラマシリーズ|ときめきメモリアルドラマシリーズ Vol.3 旅立ちの詩]](沢渡透)
* [[爆走デコトラ伝説|爆走デコトラ伝説2 男人生夢一路]](大蔵)
* [[悠久幻想曲|悠久幻想曲3 Perpetual Blue]]('''ゼファー・ボルティ''')
* [[レジェンドオブドラグーン]]('''アルバート''')
| 2000年 |
* [[カプコン バーサス エス・エヌ・ケイ ミレニアムファイト 2000|CAPCOM VS. SNK MILLENNIUM FIGHT 2000]](サガット)
* CARRIER(ロバート・イーグルフェザー)
* [[スーパーロボット大戦α]](リュウセイ・ダテ)
* [[タツノコファイト]]('''ヴォルター'''〈'''バッテリング'''〉)
* [[デビルマン#ゲーム|デビルマン]]([[不動明|'''不動明''' / '''デビルマン''']])
* トリコロールクライシス(アルク・シャール)
* [[遙かなる時空の中で]]('''源頼久''')
* 燃えろ!ジャスティス学園(波川流)
* 悠久組曲 All Star Project('''ゼファー・ボルティ''')
* [[ロックマンDASH2 エピソード2 大いなる遺産]](ジジ)
| 2001年 |
* [[AIR (ゲーム)|AIR]](橘敬介)
* アドベンチャーオブ東京ディズニーシー 〜失われた宝石の秘密(アラジン、セサミ)
* CAPCOM VS. SNK MILLENNIUM FIGHT 2000 PRO(サガット)
* [[CAPCOM VS. SNK 2 MILLIONAIRE FIGHTING 2001]](サガット)
* [[グローランサーII]](アリオスト)
* [[スーパーロボット大戦α外伝]](リュウセイ・ダテ)
* [[スパイダーマン|SPIDER-MAN]]('''[[スパイダーマン]]''' / '''ピーター・パーカー'''、強盗、[[ヒューマン・トーチ|ヒューマントーチ]])
* [[デビルマン#ゲーム|悪魔雀〜デビルマージャン〜]]('''不動明''' / '''デビルマン'''、ゼノン)
* [[遙かなる時空の中で2]]('''源頼忠''')
* Fragrance Tale('''クレイドル''')
* [[ロックマンX6]]
| 2002年 |
* [[王子さまLV1]](レイヴン・ロストハート)
* [[学園ヘヴン BOY'S LOVE SCRAMBLE!]]('''成瀬由紀彦''')
* [[ガレリアンズ:アッシュ]]('''アッシュ''')
* [[機動新撰組 萌えよ剣]](平賀源内)
* [[GALAXY ANGEL]](エオニア・トランスバール)
* [[キングダム ハーツ]](アラジン)
* [[グランディア エクストリーム]]('''エヴァン''')
* [[スーパーロボット大戦IMPACT]](高杉三郎太)
* SPIDER-MAN2 〜ENTER:ELECTRO〜('''スパイダーマン''')
* [[ときめきメモリアル Girl's Side]]('''三原色''')
* 星のまほろば('''江藤水史''')
| 2003年 |
* [[頭文字D ARCADE STAGE|頭文字D Special Stage]]('''藤原拓海''')
* [[ヴィーナス&ブレイブス〜魔女と女神と滅びの予言〜]]('''イゴール''')
* [[オペレーターズサイド]]('''アレン・オザワ''')
* 怪盗アプリコット('''屋敷渉''')
* [[最終兵器彼女#ゲーム|最終兵器彼女]](テツ)
* [[第2次スーパーロボット大戦α]](ラッセ・ルンベルク)
* [[遙かなる時空の中で-盤上遊戯-]]('''源頼久''')
| 2004年 |
* 学園ヘヴン BOY'S LOVE SCRAMBLE! Type B('''成瀬由紀彦''')
* [[キングダム ハーツ チェイン オブ メモリーズ]](アラジン)
* 空の森 〜追憶ノ棲ム館〜(桜庭隼人)
* [[スーパーロボット大戦MX]] / MXポータブル(2004年 - 2005年、タカスギ・サブロウタ) - 2作品
* [[テイルズ オブ リバース]](ミルハウスト・セルカーク)
* [[幕末恋華 新選組]]('''[[斎藤一]]''')
* [[遙かなる時空の中で3]]('''有川将臣''')
* [[プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂]]('''プリンス''')
| 2005年 |
* [[キングダム ハーツII]](アラジン)
* [[新選組群狼伝]]('''永倉新八''')
* [[第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ]](リュウセイ・ダテ)
* [[.hack|.hack//fragment]]('''クリム''')
* [[BALDR FORCE|BALDR FORCE EXE]](野々村優哉)
* 遙かなる時空の中で3 十六夜記('''有川将臣''')
* 遙かなる時空の中で 八葉抄('''源頼久''')
* BLEACH 〜選ばれし魂〜('''浦原喜助''')
* [[BLEACH 〜ヒート・ザ・ソウル〜]]('''浦原喜助''')
* BLEACH 〜ヒート・ザ・ソウル〜2('''浦原喜助''')
* [[魔探偵ロキ#ゲーム|魔探偵ロキ RAGNAROK 魔妖画 〜失われた微笑〜]]('''闇野竜介''')
* LIVE×EVIL 灼熱のエデマ(コウ・テラカド)
| 2006年 |
* 頭文字D STREET STAGE('''藤原拓海''')
* [[学園アリス|学園アリス〜きらきら☆メモリーキッス]](ペルソナ)
* [[ガンパレード・オーケストラ|ガンパレード・オーケストラ 緑の章 〜狼と彼の少年〜]](先内剣)
* [[機動戦士ガンダム スピリッツオブジオン]]('''ロビン・ブラッドジョー中尉''')
* [[グローランサーV|グローランサーV Generations]]('''クライアス''')
* [[SAMURAI 7]]('''キュウゾウ''')
* [[サモンナイト4]]('''セイロン''')
* [[ゼノサーガI・II]](ヘルマン)
* [[.hack//G.U. (ゲーム)|.hack//G.U.]](2006年 - 2017年、'''クーン''') - 4作品{{Ras|『Vol.1 再誕』<!-- 2006-05-18 -->『Vol.2 君想フ声』<!-- 2006-09-28 -->(2006年)、『Vol.3 歩くような速さで』<!-- 2007-01-18 -->(2007年)、『Last Recode』<!-- 2017-11-01 -->(2017年)}}<!-- 2006-05-18 -->
* [[バテン・カイトスII 始まりの翼と神々の嗣子]](ジャコモ)
* [[花帰葬]]('''玄冬''')
* 遙かなる時空の中で3 運命の迷宮('''有川将臣''')
* [[劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜|遙かなる時空の中で 舞一夜]]('''源頼久''')
* [[BLEACH 〜放たれし野望〜]]('''浦原喜助''')
* [[BLEACH 〜ブレイド・バトラーズ〜]]('''浦原喜助''')
* BLEACH 〜ヒート・ザ・ソウル〜3('''浦原喜助''')
* [[炎の宅配便]](ブラックジロー)
* [[ラスト・エスコート|ラスト・エスコート〜深夜の黒蝶物語〜]]('''鷹見彬''')
| 2007年 |
* 頭文字D Arcade Stage 4('''藤原拓海''')
* [[銀魂 万事屋ちゅ〜ぶ ツッコマブル動画]](坂本辰馬)
* [[キングダム ハーツ チェイン オブ メモリーズ|キングダム ハーツ Re:チェイン オブ メモリーズ]](アラジン)
* [[スーパーロボット大戦OG ORIGINAL GENERATIONS]]('''リュウセイ・ダテ''')
* [[スーパーロボット大戦OG外伝]]('''リュウセイ・ダテ''')
* [[聖闘士星矢 冥王ハーデス編|聖闘士星矢 冥王ハーデス十二宮編]](ガルーダ アイアコス)
* [[チョコボの不思議なダンジョン 時忘れの迷宮]]('''[[シド (ファイナルファンタジー)|シド]]''')
* [[Fate/stay night|Fate/stay night [Realta Nua]]](アサシン〈[[佐々木小次郎]]〉、[[ベディヴィエール]]) - [[PlayStation 2|PS2]]版
** [[とびだせ!トラぶる花札道中記]](アサシン)
** [[フェイト/タイガーころしあむ]](アサシン)
* BLEACH 〜ブレイド・バトラーズ2nd〜('''浦原喜助''')
* BLEACH 〜ヒート・ザ・ソウル〜4('''浦原喜助''')
* LIVE×EVIL 熱砂のプロメテウス(コウ・テラカド)
| 2008年 |
* 頭文字D EXTREME STAGE('''藤原拓海''')
* [[インフィニット アンディスカバリー]]('''エドアルド''')
* [[機動戦士ガンダム00]]('''ロックオン・ストラトス''')
* 機動戦士ガンダム00 ガンダムマイスターズ('''ロックオン・ストラトス''')
* [[銀のエクリプス]]('''アーヤ''')
* [[シドとチョコボの不思議なダンジョン 時忘れの迷宮DS+]]('''シド''')
* [[スーパーロボット大戦A|スーパーロボット大戦A PORTABLE]](高杉三郎太)
* [[スターオーシャン セカンドストーリー|スターオーシャン2 Second Evolution]](ルシフェル)
* [[チョコボと魔法の絵本 魔女と少女と5人の勇者]]('''シド''')
* [[テイルズ オブ ハーツ]](クリード・グラファイト)
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜]]('''[[土方歳三]]''')
* [[遙かなる時空の中で4]]('''柊''')
* 遙かなる時空の中で 夢浮橋('''源頼久'''、'''源頼忠'''、'''有川将臣''')
* [[Fate/unlimited codes]](アサシン)
* フェイト/タイガーころしあむ アッパー(アサシン)
* BLEACH 〜ヒート・ザ・ソウル〜5('''浦原喜助''')
* [[BLEACH 〜ソウル・カーニバル〜]]('''浦原喜助''')
* [[ブレイザードライブ]]('''クロキ''')
* [[らき☆すた 〜陵桜学園 桜藤祭〜]](殿鬼ガイ)
| 2009年 |
* [[Another Time Another Leaf 鏡の中の探偵]](アイヴァン・ローチ)
* 頭文字D Arcade Stage 5('''藤原拓海''')
* [[SDガンダム GGENERATION|SDガンダム GGENERATION シリーズ]](2009年 - 2019年、ロックオン・ストラトス〈ニール・ディランディ、ライル・ディランディ〉<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|work=SDガンダム GGENERATION CROSSRAYS|url=https://ggcr.ggame.jp/character/gundam00.php|title=CHARACTER|accessdate=2019-01-30}}</ref>、マイキャラクターボイス壮年3〈OVER WORLD〉) - 5作品{{Ras|『WARS』<!-- 2009-08-06 -->(2009年)、『WORLD』<!-- 2011-02-24 -->『3D』<!-- 2011-12-22 -->(2011年)、『OVER WORLD』<!-- 2012-09-27 -->(2012年)、『CROSSRAYS』<!-- 2019-11-28 -->(2019年)}}
* [[鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST]](2009年 - 2022年、'''ロイ・マスタング''') - 5作品{{Ras|『暁の王子』<!-- 2009-08-13 -->『背中を託せし者』<!-- 2009-10-15 -->『黄昏の少女』<!-- 2009-12-10 -->(2009年)、『約束の日へ』<!-- 2010-05-20 -->(2010年)、『[[鋼の錬金術師 MOBILE|MOBILE]]』<ref>{{Cite web|url=https://www.jp.square-enix.com/hagane-mobile/character/|title=CHARACTER|work=鋼の錬金術師 MOBILE|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|accessdate=2022-03-05}}</ref><!-- 2022-08-04 -->(2022年)}}
* 薄桜鬼 ポータブル('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 随想録('''土方歳三''')
* 遙かなる時空の中で 夢浮橋 Special('''源頼久'''、'''源頼忠'''、'''有川将臣''')
* BLEACH 〜ヒート・ザ・ソウル〜6('''浦原喜助''')
* BLEACH 〜ソウル・カーニバル2〜('''浦原喜助''')
* [[ポケパークWii 〜ピカチュウの大冒険〜]]
| 2010年 |
* [[Another Century's Episode:R]](クルツ・ウェーバー、リュウセイ・ダテ)
* [[裏切りは僕の名前を知っている -黄昏に堕ちた祈り-]](祗王橘)
* [[英雄伝説VII|英雄伝説 零の軌跡]]('''[[ランディ・オルランド]]''')
* [[仮面ライダー クライマックスヒーローズ|仮面ライダー クライマックスヒーローズ オーズ]](仮面ライダー電王 超クライマックスフォーム)
* [[仮面ライダーバトル ガンバライド]](仮面ライダー電王 ウイングフォーム)
* [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス]](ロックオン・ストラトス〈ニール・ディランディ、ライル・ディランディ〉)
* [[Chaos Rings|ケイオスリングス]](ギャリック)
* [[斬撃のREGINLEIV]](ヴェルンド)
* SANGOKU CHAOS 〜三国CHAOS〜(曹洪、諸葛亮)
* [[ソニック&セガ オールスターズ レーシング]](結城晶)
* [[三国恋戦記〜オトメの兵法!〜]]('''玄徳''')
* TAKUYO Mix Box 〜ファーストアニバーサリー〜('''屋敷渉''')
* [[.hack//Link]](クリム、クーン)
* 薄桜鬼 DS('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 随想録 ポータブル('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 遊戯録('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 巡想録('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 黎明録('''土方歳三''')
* B's-LOG パーティー♪('''土方歳三''')
| 2011年 |
* 頭文字D ARCADE STAGE 6 AA('''藤原拓海''')
* 英雄伝説 碧の軌跡('''ランディ・オルランド''')
* [[エルシャダイ]]('''イーノック'''、'''アルマロス'''、メトセラ)
* [[お菓子な島のピーターパン 〜Sweet Never Land〜]]('''シザー=ガビアルウォッチ''')
* 学園ヘヴン おかわりっ!('''成瀬由紀彦''')
* 仮面ライダー クライマックスヒーローズ フォーゼ(仮面ライダー電王 超クライマックスフォーム)
* [[忍道2 散華]]('''火祭りのゼン''')
* [[STAR DRIVER 輝きのタクト|STAR DRIVER 輝きのタクト 銀河美少年伝説]](カタシロ・リョウスケ)
* Star Project('''トリアンダーフィロ・ブレ・キュアノス''')
* [[セブンスドラゴン2020]]
* [[第2次スーパーロボット大戦Z|第2次スーパーロボット大戦Z 破界篇 / 再世篇]](2011年 - 2012年、青山圭一郎、ロックオン・ストラトス〈ニール・ディランディ、ライル・ディランディ〉) - 2作品
* [[ドラゴンボールヒーローズ]](2011年 - 2017年、ザマス / 合体ザマス、フリーザ一族アバター〈ヒーロータイプ〉) - 6作品{{Ras|『ドラゴンボールヒーローズ』(2011年 - 2016年)、『アルティメットミッション』(2013年)、『アルティメットミッション2』(2014年)、『[[スーパードラゴンボールヒーローズ]]』(2016年)、『アルティメットミッションX』(2017年)、『[[スーパードラゴンボールヒーローズ ワールドミッション|ワールドミッション]]』<!-- 2019-04-04 -->(2019年)}}
* [[トリコ グルメサバイバル!]](スタージュン)
* 薄桜鬼 3D('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 随想録 DS('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 遊戯録 DS('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 黎明録 ポータブル('''土方歳三''')
* [[ファンタシースターポータブル2 インフィニティ]]('''ワイナール''')
* [[文明開華 葵座異聞録]]('''諏訪七巳''')
* [[ポケパーク2 〜Beyond the World〜]]
* [[魔人と失われた王国]](トゥペレアクル)
* LEGEND of VALHALLA 〜レジェンド オブ ヴァルハラ〜('''ソラリス''')
| 2012年 |
* [[アブナイ恋の捜査室|アブナイ★恋の捜査室]]('''穂積泪''')
* 英雄伝説 零の軌跡 Evolution('''ランディ・オルランド''')
* [[エクストルーパーズ]](リーガン・ワッツ)
* [[エルクローネのアトリエ 〜Dear for Otomate〜]]('''エルハルト''')
* [[鬼武者Soul]]([[今川義元]]、[[宇喜多直家]]、[[長宗我部元親]]、[[有馬晴信]]、[[大友義鎮|大友宗麟]]、[[森成利|森蘭丸]] 他)
* 仮面ライダー クライマックスヒーローズ フォーゼ(仮面ライダー電王 超クライマックスフォーム)
* [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス フルブースト]](ロックオン・ストラトス〈ニール・ディランディ、ライル・ディランディ〉)
* [[キミカレ|キミカレ〜新学期〜]]('''綾瀬川彩人''')
* [[源狼 GENROH]]('''[[佐藤継信]]''')
* [[Confidential Money 〜300日で3000万ドル稼ぐ方法〜]]('''ダニエル・ジョンソン''')
* 星葬ドラグニル(コバック)
* [[デッド オア アライブ5|DEAD OR ALIVE 5]](アキラ)
* [[特殊報道部]](熊崎)
* [[トリコ グルメサバイバル!2]](スタージュン)
* [[トリコ グルメモンスターズ!]](スタージュン)
* 薄桜鬼 幕末無双録('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 黎明録 DS('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 黎明録 名残り草('''土方歳三''')
* 薄桜鬼 遊戯録弐 祭囃子と隊士達('''土方歳三''')
* [[ヒーローズファンタジア]](レナード)
* [[百鬼夜行〜怪談ロマンス〜]]('''宮前慎二''')
* [[BLACK WOLVES SAGA|BLACK WOLVES SAGA -Bloody Nightmare-]]('''ネッソ・ガーランド''')
* BLACK WOLVES SAGA -Last Hope-('''ネッソ・ガーランド''')
* [[PROJECT X ZONE]](結城晶)
* 文明開華 葵座異聞録 再演('''諏訪七巳''')
* [[嫁コレ]](土方歳三)
* [[ROBOTICS;NOTES]](澤田敏行)
| 2013年 |
* [[イナズマイレブンGO|イナズマイレブンGO ギャラクシー ビッグバン/スーパーノヴァ]]('''ポトムリ・エムナトル''')
* 裏語 薄桜鬼(土方歳三<ref>江口聡 編「裏語 薄桜鬼」『電撃Girl's Style』2013年2月号(雑誌06533-02)アスキー・メディアワークス、2013年1月10日、21頁。</ref>)
* [[銀魂のすごろく]](坂本辰馬)
* [[ゴッドイーター|ゴッドイーター2]](真壁ハルオミ)
* 三国恋戦記〜オトメの兵法!〜 思いでがえし('''玄徳'''<ref>江口聡 編「三国恋戦記〜オトメの兵法!〜 思いでがえし」『電撃Girl's Style』2013年2月号(雑誌06533-02)アスキー・メディアワークス、2013年1月10日、88頁。</ref>)
* [[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル]]('''ジャイロ・ツェペリ'''<ref>{{Cite web|publisher=ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル|url=http://mirror.bandaigames.channel.or.jp/list/asb/chara_07steelballrun2jir.html|title=CHARACTER|accessdate=2013-12-04}}</ref>)
* [[スーパーロボット大戦OG INFINITE BATTLE]](リュウセイ・ダテ<ref>{{Cite web|publisher=スーパーロボット大戦OG INFINITE BATTLE|url=http://srwog-ib.suparobo.jp/mechanic/15.php|title=登場機体|accessdate=2013-11-07}}</ref>)
* [[スーパーロボット大戦UX]](コットウ・ヒン、ロックオン・ストラトス〈ライル・ディランディ〉)
* [[聖闘士星矢 ブレイブ・ソルジャーズ]](天雄星ガルーダ アイアコス)
* [[セブンスドラゴン2020-II]]<ref>[[浜村弘一]] 編「第1報 セブンスドラゴン2020-II」『週刊ファミ通』2012年12月20日増刊号、エンターブレイン、2012年12月6日、42頁。</ref>
* [[Tiny×MACHINEGUN]]('''ライアン・ジェンキンス'''<ref>江口聡 編「タイニー×マシンガン(CD+PC)」『電撃Girl's Style』2012年10月号(雑誌06533-10)アスキー・メディアワークス、2012年9月10日、137頁。</ref>)
* テイルズ オブ ハーツ R(クリード・グラファイト<ref>浜村弘一 編「読者が選ぶ 期待の新作トップ30 ランクインソフト情報 テイルズ オブ ハーツ R」『週刊ファミ通』2013年2月21日号、エンターブレイン、2013年2月7日、201頁。</ref>)
* DEAD OR ALIVE 5 ULTIMATE(アキラ<ref>{{Cite web|publisher=DEAD OR ALIVE 5 ULTIMATE|url=https://www.gamecity.ne.jp/doa5/ultimate/home.html#characters|title=CHARACTERS|accessdate=2013-08-21}}</ref>)
* [[トリコ グルメガバトル!]](スタージュン)
* 薄桜鬼 鏡花録('''土方歳三'''<ref>坂本武郎 編「薄桜鬼 鏡花録」『B's-LOG』2013年10月号、エンターブレイン、2013年8月20日、19頁。</ref>)
* 百物語〜怪談ロマンス〜('''宮前慎二'''<ref>{{Cite web ja|publisher=QuinRose|url=http://quinrose.com/game/100mono/character.html|website=百物語〜怪談ロマンス〜|title=登場人物|accessdate=2013-01-19|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20130928035426/http://quinrose.com/game/100mono/character.html|archive-date=2013-09-28}}</ref>)
* [[BEYOND: Two Souls]](ライアン・クレイトン)
* [[LORD of VERMILION|LORD of VERMILION III]]('''アズーラ'''<ref>{{Cite web|publisher=LORD of VERMILION III|url=http://www.lordofv.com/lov3/characters/|title=CHARACTERS|accessdate=2013-08-15}}</ref>)
| 2014年 |
* [[穢翼のユースティア|穢翼のユースティア Angel's blessing]](ジークフリード・グラード<ref>{{Cite web|publisher=穢翼のユースティア Angel's blessing|url=http://dramaticcreate.com/eustia/character/chara_07.html|title=人物紹介|accessdate=2014-03-13}}</ref>)
* [[アサシン クリード ユニティ]]('''アルノ・ヴィクトル・ドリアン'''<ref>{{Cite web|publisher=[[Ubisoft]]|url=http://www.ubisoft.co.jp/acu/characters/index.html|title=Characters|work=Assassin's Creed Unity|accessdate=2018-02-12}}</ref>)
* [[英雄伝説 碧の軌跡|英雄伝説 碧の軌跡 Evolution]]('''ランディ・オルランド'''<ref>{{Cite web|publisher=英雄伝説 碧の軌跡 Evolution|url=http://www.ao-full.com/character|title=キャラクター|accessdate=2014-04-10}}</ref>)
* [[仮面ライダー サモンライド!]](ジーク / 仮面ライダー電王 超クライマックスフォーム)
* [[仮面ライダー バトライド・ウォー|仮面ライダー バトライド・ウォーII]](ジーク / 仮面ライダー電王 ウイングフォーム)
* [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス マキシブースト]](ロックオン・ストラトス〈ニール・ディランディ、ライル・ディランディ〉)
* [[神撃のバハムート]](アラミス<ref>{{Twitter status|bahamut_cygames|541857617174220800}}</ref>、ワルツ<ref>{{Twitter status|bahamut_cygames|726386866132381699}}</ref>)
* [[スーパーヒーロージェネレーション]](ジーク / 仮面ライダー電王、ケルディムガンダム)
* [[ダンガンロンパシリーズ|絶対絶望少女 ダンガンロンパ Another Episode]](塔和灰慈<ref>{{Cite web|publisher=ファミ通.com|url=http://www.famitsu.com/news/201407/15057202.html|title=【先出し週刊ファミ通】『絶対絶望少女 ダンガンロンパ Another Episode』にシリーズ初のアニメムービーの挿入が発覚! 真っ白と真っ黒のクマも!?(2014年7月17日発売号)|accessdate=2014-07-15}}</ref>)
* [[戦国BASARA|戦国BASARA4]](後藤又兵衛<ref>『週刊ファミ通』2013年9月5日号、エンターブレイン、2013年8月22日。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>)
* [[第3次スーパーロボット大戦Z|第3次スーパーロボット大戦Z 時獄篇 / 天獄篇]](2014年 - 2015年、ロックオン・ストラトス〈ライル・ディランディ〉、青山圭一郎、クルツ・ウェーバー) - 2作品
* [[電撃文庫 FIGHTING CLIMAX]]('''結城晶''')
* 薄桜鬼SSL 〜sweet school life〜('''土方歳三'''<ref>『電撃Girl's Style』2014年1月号、アスキー・メディアワークス、2013年12月10日。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>)
* はじめの一歩(沢村竜平<ref>{{Cite web|publisher=はじめの一歩 |url=http://ippo.bngames.net/character/character09.html|title=CHARACTER|accessdate=2014-10-02}}</ref>)
* [[Fate/hollow ataraxia]](アサシン〈佐々木小次郎〉)
* [[マギ (漫画)|マギ 新たなる世界]](イスナーン<ref>{{Cite web|publisher=マギ 新たなる世界|url=http://game-magi.channel.or.jp/sekai/character/ithnan.php|title=キャラクター|accessdate=2013-12-04}}</ref>)
* [[魔女王]](マリオン=ナイトハルト<ref>『B's-LOG』2014年3月号、エンターブレイン、2014年1月20日。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>)
* [[ロストディメンション]]('''ソウジロウ・サガラ'''<ref>{{Cite web|publisher=電撃オンライン|url=http://dengekionline.com/elem/000/000/870/870986/|title=fripSideの主題歌と浅倉大介さんの曲に乗せて『ロストディメンション』の世界観を凝縮させたPVが公開|accessdate=2014-06-19}}</ref>)
| 2015年 |
* アブナイ恋の捜査室 〜Eternal Happiness〜('''穂積泪'''<ref name="gs1">『電撃Girl's Style』2015年2月号、アスキー・メディアワークス、2015年1月12日。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>)
* [[レッドドラゴン (TRPG)|ケイオスドラゴン 混沌戦争]](ダイム・ディアス<ref>{{Cite web ja|website=【公式】ケイオスドラゴン 混沌戦争|url=http://chaosdragon.sega-net.com/state/index.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20150705003108/http://chaosdragon.sega-net.com/state/index.html|title=国家|accessdate=2015-07-04|archive-date=2015-07-05|url-status=dead}}</ref>)
* ゴッドイーター2 レイジバースト(真壁ハルオミ<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|バンダイナムコゲームス]]|work=ゴッドイーター2 レイジバースト|title=CHARACTERS|url=https://ge2rb.godeater.jp/chara/goe.php?cpath=8|accessdate=2014-12-12}}</ref>)
* [[PSYCHO-PASS サイコパス|PSYCHO-PASS サイコパス 選択なき幸福]]('''剱拓真'''<ref>{{Cite web|publisher=電撃オンライン|url=http://dengekionline.com/elem/000/000/917/917476/|title=ゲーム版『PSYCHO-PASS サイコパス』に三木眞一郎さん、遠藤綾さん、梶裕貴さんが演じる新キャラが登場決定!|accessdate=2014-08-29}}</ref>)
* [[ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン]]('''ジャイロ・ツェペリ'''<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|work=ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン|url=http://jojogame.bngames.net/character/chr/07/02.html|title=CHARACTER|accessdate=2015-10-30}}</ref>)
* [[スーパーロボット大戦BX]](ロックオン・ストラトス〈ライル・ディランディ〉、高杉三郎太)
* [[聖闘士星矢 ソルジャーズ・ソウル]](天雄星ガルーダ アイアコス)
* [[絶対階級学園〜Eden with roses and phantasm〜]](エドワード高崎<ref name="gs1"/>)
* 戦国BASARA4 皇(後藤又兵衛<ref>{{Cite web|work=戦国BASARA4 皇 公式サイト|publisher=[[カプコン]]|url=http://www.capcom.co.jp/basara4sumeragi/chara_goto.html|title=登場人物|accessdate=2015-07-03}}</ref>)
* [[セブンナイツ]]('''絶対守護者 ルディ'''<ref>{{Cite web|publisher=電撃オンライン|url=http://dengekionline.com/elem/000/001/156/1156968/|title=今冬配信『セブンナイツ』の主人公役は浪川大輔さんと佐藤利奈さん。CBTに1,000名を招待|accessdate=2015-11-13}}</ref>)
* [[戦魂-SENTAMA-]](徳川家康、北条氏康<ref>{{Cite web|work=戦魂 -SENTAMA- 公式サイト|url=https://sen-tama.jp/|title=武将紹介|accessdate=2015-03-30}}</ref>)
* DEAD OR ALIVE 5 LAST ROUND(アキラ<ref>{{Cite web|publisher=DEAD OR ALIVE 5 LAST ROUND|title=CHARACTERS|url=https://www.gamecity.ne.jp/doa5/lastround/top.html|accessdate=2014-10-23}}</ref>)
* 電撃文庫 FIGHTING CLIMAX IGNITION('''結城晶''')
* 薄桜鬼 真改('''土方歳三'''<ref name="bslog1">『B's-LOG』2014年11月号、エンターブレイン、2014年9月20日。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>)
* 薄桜鬼 随想録 面影げ花('''土方歳三'''<ref name="bslog1"/>)
* [[BAD APPLE WARS]](バケツ先生<ref>『電撃Girl's Style』2015年7月号、アスキー・メディアワークス、2015年6月10日。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>)
* [[Fate/Grand Order]](2015年 - 2023年、レオニダス一世、佐々木小次郎、ヴァン・ホーエンハイム・パラケルスス、フィン・マックール<ref>『TYPE-MOONエース』VOL.11 別冊付録「Fate/Grand Order Servant Storage」、KADOKAWA、2016年4月23日。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>) - 2作品{{Ras|『Grand Order』(2015年 - 2023年)<!-- 2015-07-30 -->、『[[Fate/Grand Order Arcade|Arcade]]』(2018年)<!-- 2018-07-26 -->}}<!-- 2015-07-30 -->
* [[PROJECT X ZONE 2:BRAVE NEW WORLD]](結城晶<ref>{{Cite web|publisher=ファミ通.com|url=http://www.famitsu.com/news/201504/13076330.html|title=『PROJECT X ZONE 2:BRAVE NEW WORLD(プロジェクト クロスゾーン2:ブレイブニューワールド)』始動!! |accessdate=2015-04-13}}</ref>)
* [[夢王国と眠れる100人の王子様]](ロイエ<ref>{{Cite web|publisher=夢王国と眠れる100人の王子様|title=キャラクター紹介|url=http://www.yume-100.com/character/profile/roie.html|accessdate=2015-12-06}}</ref>、土方歳三)
| 2016年 |
* アイカツ! フォトonステージ!!(虹ヶ原マコト)
* 仮面ライダー バトライド・ウォー創生(ジーク / 仮面ライダー電王 ウイングフォーム)
* [[クロバラノワルキューレ|クロバラノワルキューレ Black Rose Valkyrie]](風見ナオユキ<ref>{{Cite web|publisher=[[コンパイルハート]]|work=クロバラノワルキューレ|url=http://www.compileheart.com/brv/chara/?page=7|title=CHARACTER|accessdate=2016-06-01}}</ref>)
* [[サモンナイト6 失われた境界たち]]('''セイロン'''<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|work=サモンナイト6 失われた境界たち|url=http://www.summonnight.net/sn6/character/43.html|title=キャラクター|accessdate=2016-02-25}}</ref>)
* シノビナイトメア(ハオウマル<ref>{{Cite web|publisher=gumi|work=ダンジョン探索型"大河"RPG『シノビナイトメア(シノビナ)公式サイト』|url=https://sn.fg-games.co.jp/samurai/|title=サムライ|accessdate=2016-05-16}}</ref>)
* [[白猫プロジェクト]](ヨシナカ<ref>{{Cite web|publisher=アスキー・メディアワークス|work=電撃オンライン|url=http://dengekionline.com/elem/000/001/275/1275612/|title=『白猫』フォースター19th投票開始。アンドロイドや後藤邑子さん演じるラクアが登場|date=2016-05-18|accessdate=2016-05-19}}</ref>)
* [[スーパーロボット大戦OG ムーン・デュエラーズ]](リュウセイ・ダテ)
* [[セバスチャン・ローブ ラリー EVO]]('''セバスチャン・ローブ'''<ref>{{Cite web|title=ラリードライバーのセバスチャン・ローブ氏をフィーチャーしたPS4用レースゲーム「セバスチャン・ローブ ラリー EVO」のトレイラーが公開に|url=https://www.4gamer.net/games/330/G033049/20160115050/|accessdate=2016-01-15}}</ref>)
* [[7'scarlet]]('''叢雲ユヅキ'''<ref>{{Cite web|title=7'scarlet|url=http://www.otomate.jp/7scarlet/|accessdate=2015-08-17}}</ref>)
* 戦国BASARA 真田幸村伝(後藤又兵衛<ref>{{Cite web|publisher=アスキー・メディアワークス|work=電撃オンライン|url=http://dengekionline.com/elem/000/001/334/1334054/|title=『戦国BASARA 真田幸村伝』後藤又兵衛(声優:三木眞一郎)の情報が公開。奇刃と体術を駆使して戦う|date=2016-08-03|accessdate=2016-08-03}}</ref>)
* ドラゴンボールヒーローズゴッドミッション10弾(ザマス)
* 薄桜鬼 真改 華ノ章('''土方歳三'''<ref>{{Cite web|publisher=[[オトメイト]]|work=薄桜鬼 真改 華ノ章|url=http://www.otomate.jp/hakuoki/shinkai/hana/chara/?page=1|title=登場人物|accessdate=2016-01-26}}</ref>)
* ヤマトクロニクル創世(イザナギ<ref>{{Cite web ja|publisher=ジュピット|work=ヤマトクロニクル創世|url=https://yama96ss.jp/#anchor_l_content5|title=キャラクター紹介|accessdate=2016-06-06|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20160808154100/https://yama96ss.jp/#anchor_l_content5|archive-date=2016-08-08}}</ref>)
* [[ワールド オブ ファイナルファンタジー]](エドガー<ref>坂本武郎 編「特集『ファイナルファンタジー』の期待作を追う! 」『週刊ファミ通』2016年7月7日号、カドカワ、2016年6月23日、145頁。</ref>)
* [[文豪とアルケミスト]](菊池寛)
| 2017年 |
* [[ファイアーエムブレム ヒーローズ]]('''謎の男'''<ref>{{Cite web|url=https://fire-emblem-heroes.com/ja/sp/|title=キャラクター紹介|website=ファイアーエムブレム ヒーローズ|publisher=Nintendo|accessdate=2019-04-13}}</ref> / '''ブルーノ'''〈'''ザカリア'''〉)<!-- 2017-02-02 -->
* [[フォーオナー]](大蛇〈男〉<ref>{{Cite web|url=https://www.4gamer.net/games/305/G030582/20170125023/|title=「フォーオナー」,日本語版キャラクターボイスを務める声優陣を発表。新トレイラー「赤き道」の公開も|author=T田|publisher=4Gamer.net|accessdate=2017-01-26|date=2017-01-25}}</ref>)<!-- 2017-02-16 -->
* [[スーパーロボット大戦V]](ロックオン・ストラトス〈ライル・ディランディ〉、タカスギ・サブロウタ)<!-- 2017-02-23 -->
* 遙かなる時空の中で3 Ultimate('''有川将臣''')<!-- 2017-02-23 -->
* [[ガールフレンド(仮)]](悪彦星<ref>{{Cite web|publisher=ガールフレンド(仮)公式ブログ|url=https://ameblo.jp/girlfriend-kari/entry-12285385515.html|title=イベント『たすけて!マイヒーロー〜七夕編〜』開催中♪|date=2017-06-30|accessdate=2017-07-01}}</ref>、悪参拝客)<!-- 2017-06-30 -->
* [[ザ・ロストチャイルド]](イーノック、段田リオン<ref>{{Cite web|work=The Lost Child 公式サイト|url=http://thelostchild.jp/character/|title=CHARACTER|accessdate=2017-06-28}}</ref>)<!-- 2017-08-26 -->
* [[スターオーシャン:アナムネシス]](ルシフェル)
* [[仁王 (ゲーム)|仁王]](真田幸村)
* [[英雄伝説 閃の軌跡|英雄伝説 閃の軌跡 III]](ランドルフ・オルランド<ref>『電撃PlayStation』Vol.639、KADOKAWA、2017年5月25日。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>)<!-- 2017-09-28 -->
* [[刀剣乱舞-ONLINE-]](大般若長光)<!-- 2017-10-18 -->
* [[グランブルーファンタジー]](2017年 - 2023年、ザ・スター、グンター<ref>{{Cite web|publisher=[[Cygames]]|work=『グランブルーファンタジー』公式サイト|url=https://granbluefantasy.jp/sp/pages/?p=26952|title=イベント「SIEGFRIED」開催のお知らせ|date=2019-09-26|accessdate=2019-09-27}}</ref>、坂本辰馬<ref>{{Cite web2|url=https://granbluefantasy.jp/pages/?p=38524|title=『グランブルーファンタジー』×『銀魂』コラボレーションイベント開催のお知らせ|work=[[グランブルーファンタジー]]|date=2021-10-14|accessdate=2021-10-14}}</ref>)<!-- 2017-11-29 -->
* [[オトメ勇者]](クロービス<ref>{{Cite web |url=http://www.otome-yusha.jp/character/clovis.html|title=24人のスレイヤー|publisher=オトメ勇者 |accessdate=2017-08-13}}</ref>)<!-- 2017-12-15 -->
* [[コード・オブ・ジョーカー]] THE AGENTS(ノア、ジキル&ハイド、英雄聖王アーサー)
| 2018年 |
* 茜さすセカイでキミと詠う(坂本龍馬<ref>{{Cite web|publisher=茜さすセカイでキミと詠う|url=http://www.akaseka.com/character/baku/baku11_ryoma.html|title=登場人物|accessdate=2018-02-18}}</ref>、土方歳三<ref>{{Cite web|publisher=茜さすセカイでキミと詠う|url=http://www.akaseka.com/korabocp/|title=薄桜鬼 × 茜さすセカイでキミと詠うコラボ|accessdate=2018-10-04}}</ref>)<!-- 2018-01-10 -->
* [[銀魂乱舞]](坂本辰馬)<!-- 2018-01-18 -->
* 七つの大罪 ブリタニアの旅人(スレイダー<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|work=七つの大罪 ブリタニアの旅人|url=https://ps47ds.bn-ent.net/character/p18.html|title=Character|accessdate=2018-01-16}}</ref>)<!-- 2018-01-25 -->
* 遙かなる時空の中で Ultimate('''源頼久''')<!-- 2018-02-22 -->
* [[ドラゴンボール ファイターズ]](ザマス / ザマス〈合体〉)<!-- 2018-02-01 -->
* [[ポポロクロイス物語#作品|ポポロクロイス物語 〜ナルシアの涙と妖精の笛]](ディケイド<ref>{{Cite web|work=『ポポロクロイス物語 〜ナルシアの涙と妖精の笛』公式サイト |url=http://popolocrois.sega.jp/cast/|title=CAST|accessdate=2017-10-24}}</ref>)<!-- 2018-05-08 -->
* [[フルメタル・パニック!|フルメタル・パニック! 戦うフー・デアーズ・ウィンズ]]('''クルツ・ウェーバー'''<ref>{{Cite web|publisher=KADOKAWA|work=フルメタル・パニック! 戦うフー・デアーズ・ウィンズ|url=https://fmp-wdw.bn-ent.net/character/|title=CHARACTER|accessdate=2018-01-31}}</ref>)<!-- 2018-05-31 -->
* [[ゼノブレイド2]](マウマウ<ref>{{Twitter status2|XenobladeJP|1035060645744373760|2018年8月30日|accessdate=2022-12-05}}</ref>)<!-- 2018-06-15 -->
* [[ゼノブレイド2 黄金の国イーラ]]('''ミノチ''')<!-- 2018-09-14 -->
* [[戦姫絶唱シンフォギアXD UNLIMITED]](アダム)<!-- 2018-09-25 -->
* 英雄伝説 閃の軌跡IV -THE END OF SAGA-(ランディ・オルランド<ref>『電撃PlayStation』Vol.663、KADOKAWA、2018年5月24日。</ref>)<!-- 2018-09-27 -->
* ゲシュタルト・オーディン(土方歳三<ref>{{Cite web|url=https://official.gestaltodin.jp|title=CHARACTER|work=ゲシュタルト・オーディン|accessdate=2018-10-12}}</ref>)<!-- 2018-10-18 -->
* [[逆転オセロニア]](ナルシサス)
* [[あんさんぶるスターズ!]](氷鷹誠矢<ref>{{Cite web|publisher=HappyElements|work=あんさんぶるスターズ!|title=CHARACTER|url=https://em1.ensemble-stars.jp/character/hidaka_seiya/|accessdate=2020-04-25}}</ref>)
* [[IdentityV 第五人格]](2018年 - 2021年、'''探偵 オルフェウス''' / '''小説家 オルフェウス''')
* [[共闘ことばRPG コトダマン]](2018年 - 2023年、結城晶、ロイ・マスタング<ref>{{cite web|url=https://kotodaman.jp/info/detail/075885GuiJ9XUwXrzk.html|title=鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST コラボ開催!!|work=【公式】共闘ことばRPG コトダマン|publisher=[[XFLAG]]|date=2022-01-05|accessdate=2022-01-08}}</ref>、坂本辰馬<ref>{{cite web|url=https://kotodaman.jp/special/gintama_2nd/|title=【公式】TVアニメ『銀魂』×コトダマン コラボ第2弾特設サイト|work=【公式】共闘ことばRPG コトダマン|publisher=[[XFLAG]]|accessdate=2022-02-22}}</ref>、貝木泥舟<ref>{{Cite web ja|url=https://kotodaman.jp/info/detail/078076vAiTQ6yGnkvL.html|title=「コトダマン」×「〈物語〉シリーズ」コラボ開催!!|work=【公式】共闘ことばRPG コトダマン|publisher=[[MIXI]]|date=2023-11-25|accessdate=2023-11-26}}</ref>)
| 2019年 |
* [[仮面ライダーバトル ガンバライド]](2019年 - 2020年、仮面ライダー電王 ウイングフォーム / 超クライマックスフォーム)<!-- 2019-01-10 -->
* 非人類学園 Extraordinary Ones(広目天)<!-- 2019-01-30 -->
* ウィザーズ シンフォニー(ヴァシレウス<ref>{{Cite web|publisher=[[アークシステムワークス]]|url=http://www.arcsystemworks.jp/wizards_symphony/character_14.html|title=CHARACTER|accessdate=2019-01-17}}</ref>)<!-- 2019-02-28 -->
* [[スーパーロボット大戦X-Ω]](2019年 - 2020年、リュウセイ・ダテ)<!-- 2019-03-16 -->
* [[スーパーロボット大戦T]](タカスギ・サブロウタ)<!-- 2019-03-20 -->
* トリニティセブン -夢幻図書館と第7の太陽-(学園長<ref>{{Cite web|work=ゲーム「トリニティセブン -夢幻図書館と第7の太陽-」公式サイト|url=https://game.trinity-7.com/character2/#master|title=キャラクター|accessdate=2019-04-18}}</ref>) <!-- 2019-03-22 -->
* [[テイルズ オブ ザ レイズ]](クリード・グラファイト、ルシフェル)<!-- 2019-05-25 -->
* [[ドラえもん のび太の牧場物語]](ロコッド<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|work=ドラえもん のび太の牧場物語|url=https://bd.bn-ent.net/character/|title=キャラクター|accessdate=2019-05-03}}</ref>)<!-- 2019-06-13 -->
* 戦国BASARA バトルパーティー(後藤又兵衛<ref>{{Cite web|work=4Gamer.net|url=https://www.4gamer.net/games/460/G046018/20190521013/|title=「戦国BASARA バトルパーティー」,メインモード「物語」と武将の強化要素の情報を公開。登場キャラによる「バサラ技」の様子も必見|accessdate=2019-05-21}}</ref>)<!-- 2019-06-24 -->
* [[キルラキル ザ・ゲーム -異布-]]('''美木杉愛九郎'''<ref>{{Cite web|publisher=[[アークシステムワークス]]|work=キルラキル ザ・ゲーム -異布- 公式サイト|url=https://www.kill-la-kill-game.jp/character/12.php|title=CHARACTER|accessdate=2018-09-19}}</ref>)<!-- 2019-07-25 -->
* 妖怪餐廳(琴師<ref>{{cite AV media ja|date=2019-12-07|title=《妖怪餐廳》日語配音(CV:小倉唯、三木真一郎、桑島法子、花江夏樹)|url=https://www.youtube.com/watch?v=E2jgGak1dug|medium=YouTube|publisher=妖怪餐廳|accessdate=2020-12-11}}</ref>)<!-- 2019-07-29 -->
* [[スーパーロボット大戦DD]](2019年 - 2023年、ロックオン・ストラトス〈ニール・ディランディ、ライル・ディランディ〉、クルツ・ウェーバー、リュウセイ・ダテ)<!-- 2019-08-21 -->
* [[快感・フレーズ|快感♥フレーズ CLIMAX -NEXT GENERATION-]]('''藤堂雪文'''<ref>{{Cite web|work=快感♥フレーズ CLIMAX -NEXT GENERATION-|url=https://kaikan-project.com/climax/character|title=CHARACTER|accessdate=2018-09-23}}</ref>)<!-- 2019-10-15 -->
* OVERHIT(暁月)
* HUNTER×HUNTER グリードアドベンチャー(ノヴ)
| 2020年 |
* [[ドラゴンクエストライバルズ]](エルギオス)<!-- 2020-02-20 -->
* [[ペルソナ5 スクランブル ザ・ファントム ストライカーズ]]('''ウルフ''' / '''長谷川善吉''')<!-- 2020-02-20 -->
* ONE PUNCH MAN A HERO NOBODY KNOWS(蛇咬拳のスネック<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|work=ONE PUNCH MAN A HERO NOBODY KNOWS|url=https://opmhnk.bn-ent.net/character/|title=CHARACTER|accessdate=2020-02-07}}</ref>)<!-- 2020-02-27 -->
* 僕のヒーローアカデミア One's Justice 2(サー・ナイトアイ<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|work=僕のヒーローアカデミア One's Justice 2|url=https://mhaoj2.bn-ent.net|title=CHARACTER|accessdate=2019-12-16}}</ref>)<!-- 2020-03-12 -->
* ブリガンダイン ルーナジア戦記(アンジェ・シズラー<ref>{{Cite web|title=ブリガンダイン ルーナジア戦記 公式サイト|work=ブリガンダイン ルーナジア戦記|publisher=株式会社ハピネット|url=https://brigandine.happinet-games.com/|accessdate=2019-09-05}}</ref>)<!-- 2020-06-25 -->
* [[ポケモンマスターズ]](コジロウ)<!-- 2020-07-09 -->
* [[北斗の拳|北斗の拳 LEGENDS ReVIVE]](結城晶)<!-- 2020-07-31 -->
* [[東京放課後サモナーズ]](ヤマサチヒコ<ref>{{Twitter status2|4jhapp_lw|1291665666924191744|accessdate=2020-08-09}}</ref>)<!-- 2020-08-07 -->
* [[英雄伝説 創の軌跡]]('''ランディ・オルランド'''<ref>{{Cite web|publisher=[[日本ファルコム]]|work=英雄伝説 創の軌跡|url=https://www.falcom.co.jp/hajimari/story/crossbell.html|title=CHARACTER|accessdate=2020-03-27}}</ref>)<!-- 2020-08-27 -->
* [[聖闘士星矢|聖闘士星矢 ライジングコスモ]]([[暗黒聖闘士#ブラックドラゴン|暗黒ドラゴン]]、[[海闘士#バイアン|海馬のバイアン]])<!-- 2020-09-17 -->
* [[Shadowverse]](ピースキーパー・ヴィンセント<ref>{{Cite web|url=https://shadowverse.jp/cards/cardpack/stormoverrivayle?lang=ja|title=Storm Over Rivayle / レヴィールの旋風|work=Shadowverse 公式サイト|accessdate=2020-10-01}}</ref>)<!-- 2020-09-29 -->
* [[真・女神転生III NOCTURNE HD REMASTER]](車椅子の老紳士<ref>{{Cite web|Publisher=[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]|work=真・女神転生III NOCTURNE HD REMASTER - 公式サイト|url=http://shin-megamitensei.jp/3hd/sp/story_character/|title=STORY&CHARACTER|accessdate=2020-09-17}}</ref>、ルシファー)<!-- 2020-10-29 -->
* [[セブンナイツ〜時空の旅人〜]]('''ルディ'''<ref>{{Cite web|work=セブンナイツ -時空の旅人-|url=https://7knights4s.netmarble.com/ja/characters|title=CHARACTERS|accessdate=2020-10-23}}</ref>)<!-- 2020-11-05 -->
* サンクタス戦記-GYEE-(トリトン<ref>”[https://twitter.com/sanctus_senki/status/1326435099634618368 キャラクター|サンクタス戦記-GYEE-]” 2020年11月11日閲覧。</ref>)<!-- 2020-11-11 -->
* RANBU 三国志乱舞('''趙雲'''<ref>{{Cite web|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|work=RANBU 三国志乱舞|url=https://www.jp.square-enix.com/RANBU/character/shoku.html|title=CHARACTER|accessdate=2020-10-30}}</ref>)<!-- 2020-11-16 -->
* [[THE KING OF FIGHTERS ALLSTAR]](2020年 - 2023年、ルディ<ref>{{Twitter status2|kof_allstar|1331160631362334727|accessdate=2020-11-24}}</ref>、結城晶)<!-- 2020-11-26 -->
* [[ファンタジア・リビルド]](クルツ・ウェーバー<ref>{{Twitter status2|project_frb|1324728272349990912|4=【公式】ファンタジア・リビルドの2020年11月7日のツイート|5=2020-11-15}}</ref><ref>{{cite web|url=https://project-frb.jp/staff/|title=STAFF&CAST|work=ファンタジア・リビルド - ファンタジア文庫作品が集うクロスオーバーRPG|publisher=[[KADOKAWA]]|accessdate=2020-11-01}}</ref>)<!-- 2020-12-17 -->
| 2021年 |
* ソード&ブレイド(禅淵<ref>{{Cite web|publisher=5X Games|work=ソード&ブレイド|url=https://www.soubure.com/#cv|title=キャラクター|accessdate=2021-05-06}}</ref>)<!-- 2021-05-13 -->
* [[ファミコン探偵倶楽部|ファミコン探偵倶楽部 うしろに立つ少女]](日比野達也<ref>{{Cite web|publisher=[[任天堂]]|work=ファミコン探偵倶楽部 うしろに立つ少女|url=https://www.nintendo.co.jp/switch/aw3ca/famitan2/index.html|title=登場人物|accessdate=2021-03-26}}</ref>)<!-- 2021-05-14 -->
* 異世界かるてっと 〜激突! ぱずるすくーる〜('''レルゲン'''<ref>{{Cite web|work=異世界かるてっと 〜激突! ぱずるすくーる〜|url=https://www.isekaru-puzzle.com/#character|title=キャラクター|accessdate=2021-05-14}}</ref>)<!-- 2021-07-29 -->
* [[クッキーラン: キングダム]](千年樹クッキー<ref>{{Cite web|url=https://www.cookierun-kingdom.com/ja/#character|title=キャラクター|work=クッキーラン:キングダム|accessdate=2021-09-04}}</ref>)<!-- 2021-09-02 -->
* [[モンスターストライク]](2021年 - 2023年、浦原喜助<ref>{{Cite web|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000197.000025121.html|title=モンスト、『BLEACH』とのコラボ第2弾を開催決定!9月2日(木)12:00より開始|work=PR TIMES|date=2021-08-26|accessdate=2023-03-22}}</ref>、ロイ・マスタング<ref>{{Cite web|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000372.000025121.html|title=モンスト×TVアニメ「鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」コラボ第2弾を2月12日(日)12:00より開催!|work=PR TIMES|date=2023-02-09|accessdate=2023-03-22}}</ref>)<!-- 2021-09-02 -->
* [[鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚]](竈門炭十郎)<!-- 2021-10-14 -->
* [[モナーク/Monark]](一橋鞍馬<ref>{{Cite web|publisher=[[フリュー]]|work=モナーク/Monark|url=https://www.monarkgame.com/character/|title=CHARACTER|accessdate=2021-06-10}}</ref>)<!-- 2021-10-14 -->
* [[スーパーロボット大戦30]](2021年 - 2022年、リュウセイ・ダテ)<!-- 2021-10-28 -->
* セブンナイツ2(ルディ<ref>{{Cite web|publisher=[[netmarble]]|work=セブンナイツ2|url=https://7k2.netmarble.com/ja/heroinfo/sevenknights/rudy|title=キャラ紹介|accessdate=2021-11-16}}</ref>)<!-- 2021-11-10 -->
* [[真・女神転生V]](ルシファー)<!-- 2021-11-11 -->
* [[僕のヒーローアカデミア#モバイルゲーム|僕のヒーローアカデミア ULTRA IMPACT]](サー・ナイトアイ<ref>{{Twitter status2|heroaca_ui|1463342105904906243|2021年11月24日|accessdate=2021-11-25}}</ref>)<!-- 2021-11-25 -->
* [[陰陽師 (ゲーム)|陰陽師]](玉藻前)
| 2022年 |
* [[アークナイツ]](リ-)<!-- 2022-01-25 -->
* [[クイズRPG 魔法使いと黒猫のウィズ]](ダンタリオン / デイヴィッド)<!-- 2022-03-18 -->
* [[機動戦士ガンダム アーセナルベース]](ロックオン・ストラトス〈ニール・ディランディ〉)<!-- 2022-05-26 -->
* [[穢翼のユースティア]](ジークフリード・グラード<ref>{{Cite web|url =https://www.gamer.ne.jp/news/202202240050/|title=PS4/Switch「穢翼のユースティア」が6月23日に発売決定!高解像度でノーヴァス・アイテルが美しく蘇る|publisher=[[GAMER]]|accessdate =2022-02-25}}</ref>)<!-- 2022-06-23 -->
* [[SDガンダム バトルアライアンス]](ロックオン・ストラトス<ref>{{cite web|url=https://gba.ggame.jp/character/detail.php?s=00&id=ougl2kjt|title=CHARACTER|work=【公式】SDガンダム バトルアライアンス(バトアラ)|バンダイナムコエンターテインメント公式サイト|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|accessdate=2022-07-02}}</ref>)<!-- 2022-08-25 -->
* [[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトルR]]('''ジャイロ・ツェペリ'''<ref>{{Cite web|url=https://jojoasbr.bn-ent.net/character/character.php?chara=a2sbpxq8|title=CHARACTER|work=ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトルR|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|accessdate=2022-03-10}}</ref>)<!-- 2022-09-01 -->
* [[とある魔術の禁書目録 幻想収束]](ロイ・マスタング)<!-- 2022-11-11 -->
| 2023年 |
* [[仮面ライダーバトル ガンバレジェンズ]](仮面ライダー電王 ウイングフォーム / 超クライマックスフォーム)<!-- 2023-03-23 -->
* [[崩壊:スターレイル]](刃<ref>{{Cite tweet|user=houkaistarrail|number=1529356593791385600|title=【先取り特集号(特別編)】キャラクター紹介|date=2022-05-25|accessdate=2023-03-25}}</ref>)<!-- 2023-04-26 -->
* [[Fate/Samurai Remnant]](佐々木小次郎〈回想〉<ref>{{Cite web2|url=https://www.famitsu.com/news/202309/21317941.html|title=『Fate/サムライレムナント』アーチャーの実機プレイ映像が解禁。佐々木小次郎のエピソードの一部が特別公開【TGS2023】|website=[[ファミ通.com]]|date=2023-09-21|accessdate=2023-09-21}}</ref><ref>{{Twitter status2|FateSR_Official|1704860532145262897|4=【公式】Fate/Samurai Remnant(フェイト/サムライレムナント)の2023年9月21日のツイート|5=2023年9月21日}}</ref>)<!-- 2023-09-28 -->
* STAR OCEAN THE SECOND STORY R(ルシフェル<ref>{{Cite web|url=https://s.famitsu.com/news/202310/26321843.html|title=【SO2R】『スターオーシャン セカンドストーリー R』“神の十賢者”が登場するファイナルトレーラーが公開。ED後も遊びやすくなる“NEW GAME+”の情報も|work=ファミ通.com|accessdate=2023-10-26}}</ref>)<!-- 2023-11-02 -->
* スカイフォートレス-オデッセイ(クロウ<ref>{{Twitter status2|skyfortress_jp|1722155209684832651|2023年11月8日|5=2023年11月16日}}</ref>)<!-- 2023-11-16 -->
}}
=== 吹き替え ===
==== 担当俳優 ====
{{dl2
| [[ジョニー・リー・ミラー]] |
* [[エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY]](2013年 - 2019年、'''[[シャーロック・ホームズ]]'''<ref>{{Cite web|url=https://www.wowow.co.jp/detail/102960/01|title=エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY|website=WOWOW|accessdate=2022-06-07}}</ref>) - 7シリーズ
* [[トップ・ランナー]]('''グレアム・オブリー''')
* [[プランケット&マクレーン]]('''ジェイムズ・マクレーン''')
| [[スコット・スピードマン]] |
* アンダーワールドシリーズ('''マイケル・コーヴィン''')
** [[アンダーワールド (2003年の映画)|アンダーワールド]]
** [[アンダーワールド: エボリューション]]
* [[死ぬまでにしたい10のこと]]('''ドン・マトランド''')
* [[フェリシティの青春]]('''ベン・コヴィントン''')
| [[呉彦祖|ダニエル・ウー]] |
* [[エンター・ザ・フェニックス]]('''ジョージ''')
* [[新宿インシデント]]('''阿傑 “アージェ”''')
* [[TAICHI/太極 ヒーロー]](怪僧)
* [[ドラゴン・プロジェクト]](ジェイソン)
* [[ブラッド・ブラザーズ -天堂口-]]('''フォン''')
* [[プロジェクトBB]](現金輸送車警備員B)
* [[香港国際警察/NEW POLICE STORY]]('''ジョー・クアン''')
| [[チョン・ウソン]] |
* [[アテナ (韓国のテレビドラマ)|ATHENA -アテナ-]]('''イ・ジョンウ''')
* [[ザ・キング]]('''ハン・ガンシク''')
* [[サッド・ムービー]]('''ジヌ''')
* [[人狼 (2018年の映画)|人狼]]('''チャン・ジンテ''')
* [[デイジー (映画)|デイジー]]('''パクウィ''')
* [[トンケの蒼い空]]('''チョルミン “トンケ”''')
* [[パダムパダム 〜彼と彼女の心拍音〜]]('''ヤン・ガンチル''')
* [[レストレス 〜中天〜]]('''イ・グァク''')
* [[私の頭の中の消しゴム]]('''チェ・チョルス''')※DVD版
* [[藁にもすがる獣たち]]('''テヨン'''<ref>{{Cite web|publisher=[[クロックワークス]]|url=https://klockworx.com/bluraydvd/p-409290/|title=藁にもすがる獣たち|accessdate=2021-05-07}}</ref>)
| [[マイケル・ファスベンダー]] |
* [[X-MEN (映画シリーズ)|X-MENシリーズ]]([[マグニートー (マーベル・コミック)|'''エリック・レーンシャー''' / '''マグニートー''']])
** [[X-MEN:ファースト・ジェネレーション]]
** [[X-MEN:フューチャー&パスト]]
** [[X-MEN:アポカリプス]]
** [[X-MEN:ダーク・フェニックス]]<ref>{{Cite web|work=アニメイトタイムズ|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1559026075|title=映画『X-MEN:ダーク・フェニックス』日本語吹替版声優として能登麻美子さん、木村良平さん、三木眞一郎さん、浅沼晋太郎さん、内山昂輝さんら出演決定!コメントも到着!|accessdate=2019-05-29}}</ref>
* [[ジェーン・エア (2011年の映画)|ジェーン・エア]]('''エドワード・フェアファックス・ロチェスター''')
| [[マット・デイモン]] |
* [[バガー・ヴァンスの伝説]]('''ラナルフ・ジュナ''')
* [[ボーンシリーズ]]('''[[ジェイソン・ボーン]]''')
** [[ボーン・アイデンティティー]] ※フジテレビ版
** [[ボーン・アルティメイタム]] ※フジテレビ版
** [[ジェイソン・ボーン (映画)|ジェイソン・ボーン]] ※BSテレ東版<ref>{{Cite web|url=https://www.bs-tvtokyo.co.jp/cinema/smp/?p=202210101830|title=ジェイソン・ボーン <新録吹き替え版>|website=BSテレ東|date=2022-10-10|accessdate=2022-10-10}}</ref>
}}
==== 映画 ====
* [[悪魔のくちづけ]]('''ミニア・クローム'''〈[[ユアン・マクレガー]]〉)
* [[アタック・オブ・ザ・ジャイアントウーマン]](マーク)
* [[アップダウン・ガールズ]](ニール・フォックス〈[[ジェシー・スペンサー]]〉)
* [[アリゲーター2]](不動産ブローカー)※ビデオ版
* [[安市城 グレート・バトル]]('''ヤン・マンチュン'''〈[[チョ・インソン (俳優)|チョ・インソン]]〉)
* [[イグジステンズ]]('''テッド・パイクル'''〈[[ジュード・ロウ]]〉)
* [[イップ・マン 葉問]]('''ウォン・レオン'''〈[[黄暁明|ホヮン・シャオミン]]〉)
* [[インセプション]](ロバート・フィッシャー〈[[キリアン・マーフィー]]〉)※劇場公開版
* [[インファナル・アフェア]](若きヤン〈[[余文楽|ショーン・ユー]]〉)※テレビ東京版
* [[インファナル・アフェア 無間序曲]]('''チャン・ウィンヤン'''〈ショーン・ユー〉)※テレビ東京版
* [[ヴィクトリア女王 世紀の愛]]('''アルバート公'''〈[[ルパート・フレンド]]〉<ref>{{Cite web|url= https://www.star-ch.jp/channel/detail.php?movie_id=19922 |title= ヴィクトリア女王 世紀の愛[吹] |publisher=スターチャンネル |accessdate=2023-08-13}}</ref>)
* [[ウィンター・ゲスト]](アレックス)
* [[ヴェルサイユの宮廷庭師]]('''[[アンドレ・ル・ノートル]]'''〈[[マティアス・スーナールツ]]〉)
* [[ウォンテッド (映画)|ウォンテッド]](リペアマン〈[[マーク・ウォーレン]]〉<ref>{{cite news|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/information/2019/02/13/213999.html|title=声優界の大スターたちが奇跡の大集結!!新録吹替版!「ウォンテッド」|publisher=BSテレ東|date=2019-02-13|accessdate=2019-02-14}}</ref>)※BSテレ東版
* [[海の上のピアニスト]]('''ナインティーン・ハンドレッド'''〈[[ティム・ロス]]〉)※DVD・ビデオ版
* [[エクスカリバーII 伝説の聖杯]]('''ジャック'''〈ジョン・リードン〉)
* [[エクソシスト 信じる者]](ドン・レヴァンス〈[[ラファエル・スバージ]]〉<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/546466|title=「エクソシスト 信じる者」吹替版に諏訪部順一、佐倉綾音、鬼頭明里、竹村叔子が参加|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-10-26|accessdate=2023-10-26}}</ref>)<!-- 2023-12-01 -->
* [[NYPD15分署]](ボビー・ヴー〈[[バイロン・マン]]〉)※DVD・ビデオ版
* [[ガン&スピリット]]('''マシュー'''〈ダニエル・エドワーズ〉)
* [[ガン&トークス]]('''ジェヨン'''〈[[チョン・ジェヨン]]〉)
* [[キス&キル]]('''スペンサー・エイムス'''〈[[アシュトン・カッチャー]]〉)
* [[今日も僕は殺される]]('''イアン・ストーン'''〈[[マイク・ヴォーゲル]]〉)
* [[グランツーリスモ (映画)|グランツーリスモ]]('''ダニー・ムーア'''〈[[オーランド・ブルーム]]〉<ref>{{Cite web|url=https://www.oricon.co.jp/news/2292061/full/|title=映画『グランツーリスモ』松岡禎丞、三宅健太、三木眞一郎ら吹替声優発表 日本語演出は音響監督の三間雅文【コメントあり】|website=ORICON NEWS|date=2023-08-24|accessdate=2023-08-24}}</ref>)<!-- 2023-09-15 -->
* [[グリース (映画)|グリース]]('''ダニー'''〈[[ジョン・トラボルタ]]〉)※ソフト版
* [[クルーエル・インテンションズ]](グレッグ〈[[エリック・メビウス]]〉)
* [[決戦・紫禁城]]('''009'''〈[[ニック・チョン]]〉)
* [[ゴージャス (映画)|ゴージャス]] ※ポニーキャニオンDVD・BD版
* [[コードネーム>エタニティ]](エタニエル〈キャメロン・バンクロフト〉)
* [[ゴーン・ベイビー・ゴーン]](パトリック・ケンジー〈[[ケイシー・アフレック]]〉)
* [[サイバーネット]](エマヌエル・ゴールドステイン〈[[マシュー・リラード]]〉)
* [[ザ・クロッシング]](サム)
* [[サタデー・ナイト・フィーバー]]('''トニー'''〈ジョン・トラボルタ〉)※DVD新録版
* [[サハラに舞う羽根]]('''ハリー・フェバーシャム'''〈[[ヒース・レジャー]]〉)
* [[ザ・メイカー]]('''ジョシュ・ミネル'''〈[[ジョナサン・リス=マイヤーズ]]〉)
* 斬撃 -ZANGEKI-(ディラン〈ダニエル・パーシヴァル〉)
* [[60セカンズ]](フレブ〈[[ジェームズ・デュヴァル]]〉)※ソフト版
* [[ジョーズ -恐怖の12日間-]](アレックス〈[[コリン・エッグレスフィールド]]〉)
* [[白い嵐]](ギル・マーティン〈[[ライアン・フィリップ]]〉)
* [[白い帽子の女]](フランソワ〈[[メルヴィル・プポー]]〉)
* スクールデイズ('''鷹'''〈[[金城武]]〉)
* [[スクリーム (1996年の映画)|スクリーム]](ビリー・ルーミス〈[[スキート・ウールリッチ]]〉)
** [[スクリーム (2022年の映画)|スクリーム (2022)]]<ref>{{Cite web|publisher=[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]|url=https://db2.nbcuni.co.jp/contents/hp0002/list.php?CNo=2&AgentProCon=53375|title=スクリーム (2022)|accessdate=2022-03-25}}</ref>
** [[スクリーム6]]<ref>{{Cite web2|df=ja|publisher=吹替キングダム|url=https://www.fukikaekingdom.com/post-22488/|title=スクリーム6 -日本語吹き替え版|accessdate=2023-08-05}}</ref>
* [[ステイ (映画)|ステイ]]('''ヘンリー・レサム'''〈[[ライアン・ゴズリング]]〉)
* [[SLASH!]]('''マック'''〈ジェームズ・オシェア〉)
* [[セイント (映画)|セイント]](イリヤ・トレティアック〈ヴァレリー・ニコラエフ〉)※ソフト版
* [[ソードフィッシュ (映画)|ソードフィッシュ]](アクセル・トーバルズ〈[[ルドルフ・マーティン]]〉)※日本テレビ版
* [[太陽と月に背いて]]('''アルチュール・ランボー'''〈[[レオナルド・ディカプリオ]]〉)
* [[ダンサー (2000年の映画)|ダンサー]](スティーヴン〈[[ジョシュ・ルーカス]]〉)
* [[チャ刑事]]('''チャ刑事'''〈[[カン・ジファン]]〉)
* [[Death Note/デスノート]]('''[[L (DEATH NOTE)|L]]'''〈[[ラキース・スタンフィールド]]〉)
* [[テッド (映画)|テッド]](レックス〈[[ジョエル・マクヘイル]]〉)
* [[鉄板英雄伝説]]('''ピーター'''〈アダム・キャンベル〉)
* [[遠い空の向こうに]]('''ホーマー・ヒッカム'''〈[[ジェイク・ジレンホール]]〉)
* [[トラブルメーカー (映画)|トラブルメーカー]]('''ウー'''〈金城武〉)
* [[ドント・ウォーリー・ダーリン]](フランク〈[[クリス・パイン]]〉<ref>{{Cite news|url=https://warnerbros.co.jp/c/news/2023/01/3419.html|title=『ドント・ウォーリー・ダーリン』2月8日ダウンロード販売開始!3月3日デジタルレンタル、ブルーレイ・ DVDセル&レンタル開始!|newspaper=ワーナー公式|date=2023-01-06|accessdate=2023-01-06}}</ref>)
* [[ナイト・オブ・ザ・リビングデッド]](ジョニー〈[[ラッセル・ストライナー]]〉<ref>{{Cite web|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0126270|title=『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』日本語吹替版、メインキャストの声優発表!|website=シネマトゥデイ|date=2021-10-01|accessdate=2021-10-01}}</ref>)
* [[28日後...]]('''ジム'''〈キリアン・マーフィー〉)
* [[バーティカル・リミット]]('''ピーター・ギャレット'''〈[[クリス・オドネル]]〉)※DVD・ビデオ版
* [[バードケージ]](ヴァル・ゴールドマン〈[[ダン・フッターマン]]〉)※ソフト版
* [[バレエ・カンパニー]]('''ジョシュ'''〈[[ジェームズ・フランコ]]〉)
* [[反則王]]('''デホ'''〈[[ソン・ガンホ]]〉)
* [[ファイナル・デスティネーション]](アレックス・ブラウニング〈[[デヴォン・サワ]]〉)※DVD版
* [[ファニーゲーム U.S.A.]](ポール〈[[マイケル・ピット]]〉)
* [[フォーカス (2015年の映画)|フォーカス]](ガリーガ〈[[ロドリゴ・サントロ]]〉)
* [[ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男]]('''ブライアン・ジョーンズ'''〈レオ・グレゴリー〉)
* [[ブラッド・イン ブラッド・アウト]]
* [[ブラッド・パラダイス]]('''アレックス'''〈[[ジョシュ・デュアメル]]〉)
* [[プレイデッド]](クリス・オニール)
* [[ヘアスプレー (2007年の映画)|ヘアスプレー]](リンク・ラーキン〈[[ザック・エフロン]]〉)
* [[ヘラクレス 選ばれし勇者の伝説]]('''ヘラクレス'''〈ポール・テルファー〉)
* [[ボウリング・フォー・コロンバイン]]([[マリリン・マンソン]])※テレビ東京版
* [[マイ・ルーム]](ハンク〈レオナルド・ディカプリオ〉)
* [[マルチュク青春通り]](ウシク)
* [[Mr.ウッドコック -史上最悪の体育教師-]](ジョン・ファーリー〈[[ショーン・ウィリアム・スコット]]〉)
* [[名探偵ピカチュウ (映画)|名探偵ピカチュウ]](ロジャー・クリフォード〈クリス・ギア〉<ref>{{cite news|url=https://meitantei-pikachu.jp/info/?page=2019/05/03/pikachu/|title=名探偵ピカチュウの日本語吹替えは西島秀俊!|work=映画「名探偵ピカチュウ」公式サイト|accessdate=2019-05-03}}</ref>、ヒトカゲ<ref>{{Cite web|url=https://mobile.twitter.com/Sunma47/status/1124191198724235265|title=音響監督 三間雅文 twitter(2019年5月3日)|accessdate=2019-05-03}}</ref>)
* [[メイド・イン・アメリカ (1993年の映画)|メイド・イン・アメリカ]](撮影アシスタント)
* [[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]] ※テレビ朝日版
* [[ラストデイズ]]('''ブレイク'''〈マイケル・ピット〉)
* [[ラッキー・ガール]](デヴィッド・ペニントン〈[[クリス・カーマック]]〉)
* [[ラブ・アクチュアリー]](カール〈ロドリゴ・サントロ〉、クリス)
* [[リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線|リゾーリ&アイルズ]] シーズン4 第10話 (ブランドン・トーマス“B.T.”・サロン〈[[エリック・ウィンター]]〉)
* [[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]('''マキシム'''〈[[ローレンス・オリヴィエ]]〉<ref>{{Cite web|work=シネマノヴェチェント|url=https://cinema1900.wixsite.com/home/3-1-15-new-era-movies|title=NEW ERA MOVIES②|accessdate=2020-07-08}}</ref>)※N.E.M版
* [[ロード・トリップ]](フロント)
* [[ロビン・ウィリアムズのクリスマスの奇跡]]('''ボイド・ミッチラー'''〈ジョエル・マクヘイル〉)
* [[ワールド・ウォーZ]](パイロット)
==== ドラマ ====
* [[iCarly]]
* [[ER緊急救命室]]シリーズ
** シーズン4 #20(ジョー)
** シーズン9 #13(エイデン〈リカルド・メディナ・Jr〉)
** シーズン13 #16(ニック〈[[ショーン・サイポス]]〉)
** シーズン15 #20(ジェイ〈[[ディエゴ・クラテンホフ]]〉)
* [[英国サスペンス「THE BAY 〜空白の一夜〜」]](ショーン・メレディス〈ジョナス・アームストロング〉<ref>{{Cite web|publisher=[[WOWOW]]|url=https://www.wowow.co.jp/detail/172565?utm_source=twitter_drama_kaigai&utm_medium=social&utm_campaign=210316_twkd_pg_0106&utm_content=pgsns|title=英国サスペンス「THE BAY 〜空白の一夜〜」|accessdate=2021-03-16}}</ref>)
* [[NCIS: ニューオーリンズ]] シーズン2 #2(トラヴィス・ダルトン)
* [[王の顔]]('''ソンジョ'''〈ソ・インジェ〉)
* [[月が浮かぶ川|王女ピョンガン 月が浮かぶ川]](オン・ダル〈[[ナ・イヌ]]〉<ref>{{Cite web|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|work=王女ピョンガン 月が浮かぶ川|url=https://www9.nhk.or.jp/kaigai/pyeonggang/chara/|title=登場人物・相関図|accessdate=2021-10-18}}</ref>)
* [[コードネーム>エタニティ]]('''エタニエル'''〈キャメロン・バンクロフト〉)
* [[ザ・ホスピタル]](チェン・クァン〈[[唐治平|タン・ジーピン]]〉)
* [[産婦人科医アダムの赤裸々日記]]('''アダム'''〈[[ベン・ウィショー]]〉<ref>{{Cite web|publisher=[[WOWOW]]|url=https://www.wowow.co.jp/detail/176845/001/01|title=ベン・ウィショー主演「産婦人科医アダムの赤裸々日記」|accessdate=2022-03-06}}</ref>)
* [[シー・ハルク:ザ・アトーニー]]('''エミル・ブロンスキー''' / '''アボミネーション'''〈ティム・ロス〉<ref>{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0131793|title=井上麻里奈、三木眞一郎、加藤英美里らマーベルドラマ「シー・ハルク:ザ・アトーニー」日本版声優に決定|newspaper=シネマトゥデイ|date=2022-08-16|accessdate=2022-08-16}}</ref>)
* [[シカゴ・メッド]] シーズン1 #18(ジェフ・クラーク〈ジェフ・へフナー〉)
* [[ジーニアス (テレビドラマ)|ジーニアス:世紀の天才 アインシュタイン]](青年期の[[ハンス・アルベルト・アインシュタイン]]〈[[ジョシュア・エイクハースト]]〉)
* [[新スタートレック]](グリーソン大尉、レニー・マー、ヘイズ少尉)
* [[神鵰侠侶 (2006年のテレビドラマ)|神鵰侠侶]]('''[[楊過]]'''〈ホアン・シャオミン〉)
* [[スーパーナチュラル]](トム〈[[セバスチャン・スペンス]]〉)
* [[スリーピー・ホロウ (テレビドラマ)|スリーピー・ホロウ]]('''イカボッド・クレーン'''〈[[トム・マイソン]]〉)
* [[聖石傳説]](傲笑紅塵)
* [[セックス・アンド・ザ・シティ|SEX AND THE CITY]]<!--日本の題名はSEX AND THE CITY-->(ジェリー “スミス”・ジェロッド〈[[ジェイソン・ルイス]]〉)
** [[セックス・アンド・ザ・シティ (映画)|セックス・アンド・ザ・シティ]]
** [[セックス・アンド・ザ・シティ2]]
* [[対決スペルバインダー]]('''ポール・レイノルズ'''〈ズビフ・トロフィミウク〉)
* [[推奴 (テレビドラマ)|推奴]]('''イ・テギル'''〈[[チャン・ヒョク]]〉)※テレビ東京版
* [[DMZ ニューヨーク非武装地帯]]('''パルコ・デルガード'''〈[[ベンジャミン・ブラット]]〉<ref>{{Cite news|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001104.000031998.html|title=DCコミックス原作、無法化したマンハッタンの勢力争いに希望を信じ立ち向かう女性を描くサバイバルアクション『DMZ ニューヨーク非武装地帯』が9月9日(金)よりU-NEXTにて見放題で独占配信!|newspaper=PR TIMES|date=2022-08-26|accessdate=2022-08-26}}</ref>)
* [[パリの恋人 (テレビドラマ)|パリの恋人]]('''ユン・スヒョク'''〈[[イ・ドンゴン]]〉)
* [[ビッグ 〜愛は奇跡〈ミラクル〉〜]]('''ソ・ユンジェ''' / '''カン・キョンジュン'''〈[[コン・ユ]]〉<ref>{{Cite web|url=https://www.tc-ent.co.jp/sp/big/cast_staff.php|title=キャスト&スタッフ - ビッグ〜愛は奇跡<ミラクル>〜特設ページ|website=TCエンタテインメント|accessdate=2022-06-07}}</ref>)
* [[ビヨンド・ザ・ブレイク]](ジャスティン・ヒーリー)
* [[ブルーブラッド 〜NYPD家族の絆〜]](キャシディ)
* [[ベイウォッチ]](ローガン・ファウラー)
* [[ミディアム 霊能者アリソン・デュボア|ミディアム4 霊能者アリソン・デュボア]] #16(チャールズ・ウィンターズ〈[[ノア・ビーン]]〉)
* [[名探偵モンク|名探偵モンク3]] #16(ジェイコブ・カーライル)
* 名犬ファング
* [[愉快なシーバー家]](ジョナサン)
* [[リベンジ (テレビドラマ)|リベンジ]]('''ノーラン・ロス'''〈[[ガブリエル・マン]]〉)
==== アニメ ====
* [[アイアンマン]](ホーマー)
* [[悪魔城ドラキュラ -キャッスルヴァニア-]]('''アルカード'''<ref>{{Cite web|publisher=[[KADOKAWA]]|work=ファミ通.com|url=https://www.famitsu.com/news/201707/05137006.html|title=アニメ『悪魔城ドラキュラ ―キャッスルヴァニア―』予告編映像と吹き替えキャスト情報を公開【動画あり】|accessdate=2017-07-05}}</ref>)
* [[悪魔城ドラキュラ -キャッスルヴァニア-: 月夜のノクターン]]('''アルカード''')
* [[アドベンチャー・タイム]](ブタ)
* [[ATOM (映画)|ATOM]](スパークス)
* アラジンシリーズ('''アラジン''')
** [[アラジン (1992年の映画)|アラジン]] ※2008年版
** [[アラジン ジャファーの逆襲]] ※2008年版
** [[アラジン完結編 盗賊王の伝説]]
** [[アラジンの大冒険]]
* [[X-メン|X-MEN(テレビ東京版)]](センチネル、スターボルト)
* [[ガジェット警部]]
* [[絵文字の国のジーン]](悪魔、ロケット<ref>{{Cite web|url=http://eiga.com/news/20171208/9/|title=絵文字が題材のアニメ映画、18年2月公開!櫻井孝宏、杉田智和が吹き替え担当|work=映画.com|accessdate=2017-12-08}}</ref>)
* [[オズ めざせ! エメラルドの国へ]](かかし<ref>{{Cite web ja|publisher=映画「オズ めざせ! エメラルドの国へ」公式サイト|url=http://www.finefilms.co.jp/oz/|title=キャスト&スタッフ|accessdate=2014-11-24|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20161111093550/http://www.finefilms.co.jp/oz/|archive-date=2016-11-11}}</ref>)
* [[きかんしゃトーマス]](アーサー)※テレビ東京版
* [[キャッツ&カンパニー]]
* [[スター・ウォーズ: ビジョンズ]](ジーマ)
* [[ドラゴンブースター]]('''モードリッド・ペイン''')
* [[ドン・キホーテ (テレビアニメ)|ドン・キホーテ]](アンドレス)
* [[ハウス・オブ・マウス]](アラジン)
* [[バズ・ライトイヤー (映画)|バズ・ライトイヤー]]('''モー・モリソン'''<!-- 〈声:[[タイカ・ワイティティ]]〉 --><ref>{{Cite news|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1655186161|title=映画『バズ・ライトイヤー』日本語吹き替え版に声優・三木眞一郎さん、沢城みゆきさん、銀河万丈さんらが出演決定&コメント到着!|newspaper=アニメイトタイムズ|publisher=アニメイト|date=2022-06-15|accessdate=2022-06-15}}</ref>)<!-- 2022-07-01 -->
* [[バットマン ゴッサムナイト]]([[バットマン (架空の人物)|'''バットマン''' / '''ブルース・ウェイン''']])
* [[ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー]]('''インフェルノ'''、コンピューター〈代役〉)
* [[ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー|CG版ビーストウォーズ 激突!ビースト戦士]](1998年、'''インフェルノ''')
* [[ビーストウォーズメタルス 超生命体トランスフォーマー]]('''インフェルノ''')
* [[ビーストウォーズメタルス 超生命体トランスフォーマー|CG版ビーストウォーズ メタルス]](1998年、'''インフェルノ''')
* [[ビーストウォーズメタルス 超生命体トランスフォーマー|ビーストウォーズメタルス コンボイ大変身!]](1999年、'''インフェルノ''')
* [[ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー アゲイン]]('''インフェルノ''')
* [[フェ〜レンザイ -神さまの日常-]]('''ヨウゼン'''<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2281662/full/|title=『フェ〜レンザイ』キャスト全14人公開 内田真礼・杉田智和・高橋優斗・中村嶺亜ら|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2023-06-05|accessdate=2023-06-05}}</ref>)<!-- 2023-07-05 -->
* [[ヘラクレス (TVシリーズ)|ヘラクレス]](アラジン)
* [[マスターオブスキル For the GLORY]](陶軒<ref>{{Cite web|url=http://chuka-eiga.com/for_the_glory_jp/#staff-section|title=CAST|website=映画『マスターオブスキル ーFor the Gloryー』公式サイト|accessdate=2023-05-16}}</ref>)<!-- 2023-07-08 -->
* [[ミッキーの悪いやつには負けないぞ!]](アラジン)
* [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (1987年のアニメ)|ミュータント・タートルズ(1987年テレビ東京版)]]('''ビーバップ''')
* [[RWBY]]('''ローマン・トーチウィック'''<ref>{{Cite web|publisher=アニメイトTV|url=http://sp.animate.tv/news/details.php?id=1439861104|title=北米発の美少女3DCGアニメ『RWBY』、下野紘さん・洲崎綾さんら9名の追加キャスト発表! BD&DVD発売情報もお届け|accessdate=2015-08-18}}</ref>)
* [[ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-]](アラジン)
==== テレビ番組 ====
* The Wine Show -極上のワインに魅せられて-('''[[マシュー・リス|マシュー・リース]]'''〈本人〉<ref>{{Cite web|url=https://winart.jp/column/7587|title=ふたりの英国人気俳優とワインエキスパートが旅するワイン番組『The Wine Show』が日本上陸!|website=Winart|date=2019-01-10|accessdate=2021-03-12}}</ref>)※ボイスオーバー
=== 特撮 ===
{{dl2
| 1999年 |
* [[ボイスラッガー]](カオス)
| 2007年 |
* [[仮面ライダー電王]](ジークの声、ナレーション)
* [[劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!]]('''ジーク'''の声)
| 2008年 |
* [[劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン]]('''ジーク'''の声)
| 2009年 |
* [[仮面ライダーディケイド]](ジークの声)
* [[劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦]]('''ジーク'''の声)
| 2010年 |
* [[仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー]] EPISODE BLUE 派遣イマジンはNEWトラル('''ジーク'''の声)
| 2011年 |
* [[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー#ネットムービー|ネット版 オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー 〜ガチで探せ! 君だけのライダー48〜]]('''ジーク'''の声)
| 2014年 |
* [[仮面ライダー×仮面ライダー ドライブ&鎧武 MOVIE大戦フルスロットル]](メガヘクスの声)
| 2022年 |
* [[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突』|ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突]]([[帰ってきたウルトラマン|ウルトラマンジャック]]の声<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/471646|title=「ウルトラギャラクシーファイト」にウルトラフォース参戦、PVや声優発表|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-29|accessdate=2022-03-29}}</ref>)<!-- 2022 -->
| 2023年 |
* [[王様戦隊キングオージャー]]('''カメジム'''の声<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20230214dog00m200001000c.html|title=王様戦隊キングオージャー:“敵”バグナラクの統括者デズナラク8世を志村知幸 宰相カメジムを三木眞一郎|newspaper=まんたんウェブ|publisher=MANTAN|date=2023-02-14|accessdate=2023-02-14}}</ref>、'''カメジム・ウンカ'''の声<ref>{{Cite web|work=王様戦隊キングオージャー|publisher=[[テレビ朝日]]|url=https://www.tv-asahi.co.jp/king-ohger/news/0033/|title=新たな脅威と驚異は宇宙から?宇蟲王(うちゅうおう)に豪華声優陣参戦!さらに…「キョウリュウジャー」も登場!? |accessdate=2023-08-27}}</ref>)<!-- 2023-03-05 -->
* [[王様戦隊キングオージャー#スピンオフ|王様戦隊キングオージャー ラクレス王の秘密]](ナレーション、カメジムの声)<!-- 2023-04-23 -->
}}
=== デジタルコミック ===
* [[V・B・ローズ]](2005年、杉本真紀) - 『[[花とゆめ]]』2005年 応募者全員サービス
* [[VOMIC]] [[NARUTO -ナルト-]](2009年、ミズキ)
* VOMIC [[BLEACH]](2011年、浦原喜助)
* [[BeeTV]] [[近キョリ恋愛]](2012年、'''櫻井ハルカ''')
* [[声優戦隊ボイストーム7]](2013年、'''ボイスリー''' / '''三廻部洋'''<ref>{{Cite web|publisher=声優戦隊ボイストーム7|title=キャスト・スタッフ|url=http://www.ntv.co.jp/voicetorm7/cast_staff/index.html|accessdate=2013-07-27}}</ref>)
* [[じいさんばあさん若返る]](2020年、2021年、'''斎藤正蔵'''<ref>{{Cite web|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000009414.000007006.html|title=三木眞一郎&能登麻美子がおしどり夫婦を演じる作品に、新たに東山奈央が出演! シリーズ累計60万部突破の若返りコメディ『じいさんばあさん若返る』コミックス最新④巻発売&ボイスコミック第2弾公開! |accessdate=2021-10-22|website=PR TIMES}}</ref>)<!-- 2020-11-20 -->
=== ラジオ ===
<!-- 単発のゲスト出演などは不要。レギュラー番組のみ。-->
※は[[インターネットラジオ|インターネット配信]]。
* [[アニキンFREEDOM]](1994年 - 1998年、[[東海ラジオ放送]])
* エンペラー黒田のゲーム業界裏の裏〜ゲームクリエイター・オフレコミーティング〜([[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]])
* フリーダム探偵局 大沼探偵部(1998年 - 2000年、[[ラジオ関西|AM神戸]])
* [[ゲートキーパーズ#ラジオ|眞一郎と綾子のミッドナイトキーパーズ]](1999年 - 2000年、[[文化放送]])
* [[ネオロマンスシリーズ#ラジオ|ネオロマンス Paradise]](2001年 - 2002年、ラジオ日本・[[ラジオ関西]])
* [[ネオロマンスシリーズ#ラジオ|ネオロマンス Paradise Cure!]](2003年 - 2004年、[[大阪放送|ラジオ大阪]]・文化放送)
* ファイナルファンタジータクティクス アドバンス・ラジオエディション
* [[NARUTO -ナルト- (ラジオ)|オー!NARUTOニッポン]](2005年、文化放送)
* [[BLEACH “B” STATION]](2006年、文化放送)
* [[韓風ラジオ]](2006年 - 2007年、韓風.com※)
* [[破天荒遊戯#Webラジオ|破天荒Radio]](2007年 - 2008年、[[アニメイトTV]]※)
* [[悪魔城ドラキュラ ラジオクロニクル]](2008年、[[KONAMI STATION]]※)
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜#WEBラジオ|薄桜鬼WEBラジオ 新選組通信]](2009年 - 2010年、アニメイトTV※)
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜#薄桜鬼集会 放送録|薄桜鬼集会 放送録]](2011年 - 2014年、アニメイトTV※)
* [[Pokémon Radio Show! ロケット団ひみつ帝国]](2012年、[[エフエムインターウェーブ|InterFM]]※)
* [[頭文字D#Webラジオ|頭文字D Radio Stage]](2012年 - 2013年、[[音泉]]※・[[HiBiKi Radio Station]]※<ref>{{Cite web |url=http://hibiki-radio.jp/description/initial_D |title=響 - HiBiKi Radio Station -「頭文字D Radio Stage」番組詳細 |accessdate=2012-11-04}}</ref>)
* [[ぎんぎつね#Webラジオ|TVアニメぎんぎつね 銀とハルの稲荷通信]](2013年、アニメイトTV※<ref>{{Cite web ja|website=TVアニメ『ぎんぎつね』公式サイト|url=https://gingitsune.net/special.html|title=TVアニメぎんぎつね 銀とハルの稲荷通信|accessdate=2023-12-22}}</ref>)
* [[キルラキル#WEBラジオ|キルラキルラジオ]](2013年 - 2014年、音泉※)<ref>{{Cite web|publisher=音泉|title=「キルラキルラジオ」番組紹介|url=http://www.onsen.ag/program/killlakill/|accessdate=2014-04-30}}</ref>
* [[キルラキル#WEBラジオ|キルラキルラジオ改]](2014年、音泉※)<ref>{{Cite web|publisher=音泉|title=キルラキルラジオがキルラキルラジオ改(あらため)にリニューアル!|url=http://www.onsen.ag/blog/?p=34731|accessdate=2014-05-24}}</ref>
* [[PSYCHO-PASS サイコパス#Webラジオ|PSYCHO-PASS サイコパスラジオ 公安局刑事課24時 選択なき幸福]](2015年、音泉※)<ref>{{Cite web|publisher=音泉|title=『PSYCHO-PASS サイコパス 選択なき幸福』関智一さん&三木眞一郎さんのWebラジオ番組が4月15日よりスタート!|url=http://www.famitsu.com/news/201503/23074782.html|accessdate=2015-03-23}}</ref>
* [[PSYCHO-PASS サイコパス#Webラジオ|PSYCHO-PASS サイコパスラジオ 公安局刑事課24時 選択なき幸福【移植版】]](2016年、音泉※)<ref>{{Cite web|publisher=音泉|title=PSYCHO-PASS サイコパスラジオ 公安局刑事課24時 選択なき幸福【移植版】配信決定!|url=http://www.onsen.ag/blog/?p=44624|accessdate=2016-01-16}}</ref>
* [[幼女戦記 (アニメ)#Webラジオ|幼女戦記 ラジオの悪魔]](2017年、音泉※)<ref>{{Cite web |url=http://youjo-senki.jp/news/#news-12 |title=TVアニメ「幼女戦記」のWEBラジオが配信決定!! |publisher=TVアニメ「幼女戦記」公式サイト |date=2016-12-24 |accessdate=2017-01-16}}</ref>
* 三木眞一郎の「あいや暫」(2017年 - 2018年、音泉※)<ref>{{Cite web|publisher=タブリエ・コミュニケーションズ|title=三木眞一郎の「あいや暫」|url=http://www.onsen.ag/program/shibaraku/|accessdate=2017-11-04}}</ref>
* 三木眞一郎の三木印(2020年 - 、音泉※)<ref>{{Cite web|publisher=タブリエ・コミュニケーションズ|title=三木眞一郎の三木印|url=https://www.onsen.ag/program/mikizirushi/|accessdate=2020-07-31}}</ref>
* [[転生したら剣でした#Webラジオ|転生したら剣でした 師匠、一緒にラジオする]](2022年、音泉※)
=== ラジオドラマ ===
<!-- ラジオ局、およびラジオ番組内のコーナーで発表された音声ドラマのみ。その他の音声ドラマは「その他コンテンツ」節に記載。 -->
※は[[インターネットラジオ|Webラジオ番組]]。
* [[悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲|悪魔城ドラキュラX 追憶の夜想曲]]('''リヒター・ベルモンド''')
* [[フルメタル・パニック!#オーディオドラマ|フルメタル・パニック! 踊るベリー・メリー・クリスマス]]('''クルツ・ウェーバー''')
* [[魔道祖師]] 日本語版ラジオドラマ(ナレーション<ref>{{Twitter status2|mimifm11|1220659136993488897|2020年1月24日|accessdate=2020年4月30日}}</ref>)
* 琵琶ロック(2022年※、ジョン・レノン似の男<ref>{{Cite web|url=https://audee.jp/voice/show/42207|title=羽多野渉と古賀葵 コエ×コエ|オーディオドラマ・アワード 優秀賞『琵琶ロック』|work=AuDee(オーディー)|accessdate=2022-03-31}}</ref>)<!-- 2022-03-30 -->
* [[転生したら剣でした#ショートボイスドラマ|転生したら剣でした ABEMA限定配信ショートボイスドラマ]](2022年、'''師匠''')<!-- 2022-10-05 -->
=== CD ===
==== ドラマCD ====
* [[穢翼のユースティア]](ジークフリート・グラード)
* [[青春鉄道]] ドラマCD2 〜高速鉄道編〜('''[[東北新幹線]]''')
* [[悪霊シリーズ|悪霊狩り〜ゴースト・ハント]]シリーズ(安原修)
** 悪霊狩り〜ゴースト・ハント CDシネマ1 ヲリキリさまの鬼火
** 悪霊狩り〜ゴースト・ハント CDシネマ2 ウラドは其処に居る
** 悪霊狩り〜ゴースト・ハント CDシネマ3 えびす異神論
** 悪霊狩り〜ゴースト・ハント CDシネマ4 悪夢の棲む家
* [[阿佐ヶ谷Zippy]]('''嵯峨トオル''')
* [[アニメ店長]]シリーズ('''殿鬼ガイ''')
* [[アブナイ恋の捜査室|アブナイ★恋の捜査室]] シリーズ('''穂積泪''')
** アブナイ★恋の捜査室 〜楽しい温泉旅行編〜
** アブナイ★恋の捜査室 〜彼女の合コンを阻止せよ!編〜<ref>{{Cite web ja|publisher=TEAM Entertainment|url=http://www.team-e.co.jp/products/kdsd-00593.html|title=アブナイ★恋の捜査室 〜彼女の合コンを阻止せよ!編〜|accessdate=2012-09-03|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20160311180814/http://www.team-e.co.jp/products/kdsd-00593.html|archive-date=2016-03-11}}</ref>
** アブナイ★恋の捜査室 〜恐怖のキャンプ編〜<ref>{{Cite web ja|publisher=TEAM Entertainment|url=http://www.team-e.co.jp/products/kdsd-00626.html|title=アブナイ★恋の捜査室ドラマCD 〜恐怖のキャンプ編〜|accessdate=2013-02-15|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20160311223639/http://www.team-e.co.jp/products/kdsd-00626.html|archive-date=2016-03-11}}</ref>
* [[戦ー少女イクセリオン]](助手A、機動歩兵、ホームアナウンス、兵士B、タクシー運転手)
* [[いつでも召喚!サモンナイト4]] 第2巻 ('''セイロン''')
* [[イノセント・サイズ#ドラマCD|イノセント・サイズ]](青鈍和摩)
* [[ヴァイスクロイツ|Weiß kreuz]] シリーズ('''ヨージ''')
* [[ヴァンパイア (ゲーム)#ドラマCD、テープ|ヴァンパイア・ナイト 〜お笑い夜の祭典〜]]([[ガロン (ヴァンパイア)|ガロン]]、[[オルバス]]、[[サスカッチ (ヴァンパイア)|サスカッチ]])
* TVアニメーション「[[裏切りは僕の名前を知っている]]」オリジナルドラマCD2・3(祗王橘)
* [[英雄伝説VII|英雄伝説 零の軌跡]] シリーズ('''ランディ・オルランド''')
** 零の軌跡 レン物語 〜陽光のぬくもりに抱かれて〜
** 零の軌跡 第一章 〜神狼たちの午後〜
* [[AR 〜忘れられた夏〜|AR 〜another epilogue〜]](ロウ)
* [[E'S]]('''曳士''')
* [[EX!]]('''大和陽介''')
* [[Lの季節 〜A piece of memories〜]](舞波聖邪)
* [[おまけの小林クン]]('''小林千尋''')
* [[怪盗アプリコット]](屋敷渉)
* [[カオシックルーン]](四屍マモル)
* [[影執事マルクシリーズ|影執事マルクの響き]] 2(ドミニク)
* [[風まかせ月影蘭]] CDシネマ「CDネタにとっといた。」(岩崎岩兵衛)
* [[彼方から]]('''イザーク''')
* [[神to戦国生徒会]]('''木田流''')
* [[KEY THE METAL IDOL#ドラマCD|KEY THE METAL IDOL RADIO PROGRAM 3「憧れ」]](吊木光)
* [[キッシ〜ズ]](小栗次郎)
* [[鬼の風水]] 透子 -TOUKO-(魏震華)
* [[沙藤いつき|鬼絆 〜KIZUNA〜]]シリーズ([[茨木童子]])
* [[機動戦士ガンダム00]]シリーズ('''ロックオン・ストラトス''')
** 機動戦士ガンダム00 CDドラマ・スペシャル アナザーストーリー MISSION-2306
** 機動戦士ガンダム00 CDドラマ・スペシャル アナザーストーリー Road to 2307
** 機動戦士ガンダム00 CDドラマ・スペシャル アナザーストーリー COOPERATION-2312
* [[ウインライト|君とナイショの…今日から彼氏]](キミカレ) ドラマCD('''綾瀬川頓人''')
* [[Captain HOOK love's lock.]]シリーズ('''ダーリング''')
* [[赤井ヒガサ|キューカンバー×サンドイッチ]]('''アレクセイ''')
* [[まるマシリーズ#テレビアニメ|今日からマ王!]] O.S.T.2 + D('''眞王''')
* [[三浦実子|KIRAI]]('''花田慎太郎''')
* [[霧 - the route of infection KANARIA.]]('''レイン''')
* [[軍靴のバルツァー]]('''ルドルフ・フォン・リープクネヒト'''<ref>{{Cite web|url=https://natalie.mu/comic/news/270491|title=「不能犯」神崎裕也の新連載&「BTOOOM!」スピンオフが月刊コミックバンチで始動|work=[[コミックナタリー]]|date=2018-02-21|accessdate=2018-04-18}}</ref>)※コミックス第11巻ドラマCD付き限定版
* [[GATE]]('''城北力''')
* [[ゲーマーズヘブン!]] 第1巻(ラッシュ)
* [[ゲムドラナイトスペシャル 大正浪漫雑記帳]](黒井伯爵)
* [[本宮ことは|幻獣降臨譚]](ユリストル)
* [[コーセルテルの竜術士物語]](カディオ)
* ドラマCD [[恋人はキャプテン]]('''神坂龍之介''')
* [[鋼鉄三国志]]('''[[周瑜|周瑜公瑾]]''')
* [[こゝろ|こころ]](吉岡)
* [[三千世界の鴉を殺し]] 1 - 5('''サラディン・アラムート''')
* [[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード秘密基地セット]](係官A)
* [[ジハード (小説)|ジハード]]('''ラスカリス''')
* [[十二国記]] 東の海神 西の滄海(成笙)
* [[12人の優しい殺し屋]] Fate:Topaz('''天野隼人''')
* 10年初恋 春にして想うこと(園村高志)
* [[小公女セーラ|小公女セーラ物語]]('''ミンチン校長'''〈'''マリア・ミンチン'''〉)
* [[まんだ林檎|少年探偵 鹿鳴敬介]](呉警部)
* [[新宿Guardian]](向井政彦)
* [[スイス時計の謎]](野毛耕司)
* [[スクラップド・プリンセス]]('''シャノン・カスール''')
* [[硝音あや|S・L・H ストレイ・ラブ・ハーツ!]] ドラマCD 第1巻(野生司恋雪)
* [[世紀末プライムミニスター]]('''岡崎彼方''')
* [[奇談シリーズ|生誕祭奇談]](伊月崇)
* [[声優戦隊ボイストーム7]]('''ボイスリー''' / '''三廻部洋''')※ドラマCD付きコミックス<ref>{{Cite web|publisher=コミックナタリー|title=「声優戦隊ボイストーム7」ドラマCDに81の声優陣続々|url=https://natalie.mu/comic/news/84799|accessdate=2013-02-13}}</ref>
* [[両道渡|世界最強の魔王ですが誰も討伐しにきてくれないので、勇者育成機関に潜入することにしました。]]ドラマCD「魔王様監督? 適性試験実施」(2020年、リューディオ<ref>{{Cite web|publisher=小学館集英社プロダクション|website=GAGAGA SHOP ONLINE|url=https://www.pal-shop.jp/category/GA_001_000_000/J20200066.html|title=世界最強の魔王ですが誰も討伐にきてくれないので、勇者育成機関に潜入することにしました。:【小学館】GAGAGA SHOP ONLINE|小学館の総合通販サイトPAL-SHOP”.|accessdate=2020-05-25}}</ref>)<!--(オーディオブックとは異なる)-->
* [[世界でいちばん大嫌い]]('''杉本真紀''')
* ドラマCD [[ゼノサーガシリーズ|ゼノサーガOUTER FILE]] Vol.1 - 3(ヘルマン)
* [[ZERO ZANY.]]シリーズ ('''WHITEHEAD''')
* Tiny×Machinegunシリーズ('''ライアン・ジェンキンス''')
** Tiny×Machinegun タイニー・マクダニエル捜査ファイル「THE KNOCKDOWN」
** Tiny×Machinegun タイニー・マクダニエル捜査ファイル FILE No.2「SHADES OF GREY」
** Tiny×Machinegun タイニー・マクダニエル捜査ファイル FILE No.3「BLOOD AND CIRCUSES」
* [[篁破幻草子]]([[嵯峨天皇|嵯峨帝]]・神野)
* [[断章のグリム]] ドラマCD -小人と靴屋-(鹿狩雅孝)
* [[ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-|ツバサ・クロニクル]] ドラマ&キャラソンアルバム『王宮のマチネ』三部作(桃矢)
* [[翼を持つ者]](十夜・イグラム)
* [[停電少女と羽蟲のオーケストラ]] 第五楽章:涙(青明)
* [[テイルズ オブ リバース]](ミルハウスト・セルカーク)
* [[天歌奏流-TENKASOUL-]]('''斉藤道三'''<ref>{{Cite news|publisher=株式会社ナターシャ|work=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/353934|title=戦国ロック活劇「天歌奏流」第1弾PV解禁、全キャスト&ボイスドラマCD化を発表|date=2019-11-02|accessdate=2019-11-02}}</ref>)
* [[天使禁猟区]]シリーズ(カタン)
* [[天使1/2方程式]](杉本真紀)※ドラマCD付き第4・7巻初回限定版<ref>{{Cite web|publisher=コミックナタリー|title=日高万里「天使1/2方程式」ドラマCD化、花澤香菜ら出演|url=https://natalie.mu/comic/news/95837|accessdate=2013-07-26}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=白泉社|title=「天使1/2方程式」7巻ドラマCD付き初回限定版|url=http://www.hanayume.com/tenshi_limited/|accessdate=2016-01-20}}</ref>
* [[転生王女は今日も旗を叩き折る]] 0('''レオンハルト''')
* [[電脳戦機バーチャロン]] ドラマCD 『CyberNet Rhapsody』(敵A)
** 電脳戦機バーチャロン ドラマCD 『COUNTER POINT 009A』
* [[東京クレイジーパラダイス]](白神竜二)
* [[ときめきメモリアル Girl's Side]]シリーズ('''三原色''')
* ときめきメモリアル 虹色の青春 forever vol.1 - 5(沢渡透)
* [[ドラゴン騎士団 (漫画)|ドラゴン騎士団]](リュクレオン)
* [[トリニティ・ブラッド|Trinity Blood]](ブラザー・マタイ)
* [[トルネコの大冒険 不思議のダンジョン|ドラマCD トルネコの大冒険 不思議のダンジョン]](王子)
* [[里中満智子|長屋王残照記]]('''[[長屋王]]''')
* [[夏子の酒]]('''黒岩慎吾''')
* [[ネバギバ!]](真野先生)
* [[バウンティソード・ファースト|バウンティソード]]外伝・鋼鉄の龍(ロジャー)
* [[覇王大系リューナイト]] CDシネマ「カイオリスへの旅立ち」第1章、第4章(セイル)
* [[鋼の錬金術師|鋼の錬金術師 霧のオクダーレ]](ブランドン・ザッカーマン)※本誌付録のドラマCD
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|薄桜鬼]] シリーズ('''[[土方歳三]]''')
** 薄桜鬼 ドラマCD 〜新選組捕物控〜 前編・後編
** 薄桜鬼 ドラマCD 〜若殿道中記〜
** 薄桜鬼 ドラマCD 〜千鶴誘拐事件帳〜
** 薄桜鬼 ドラマCD 〜島原騒動記〜
** 薄桜鬼 ドラマCD 〜寒桜絵巻〜
** 薄桜鬼 ドラマCD 〜会津隠密帳〜<ref>{{Cite web|publisher=TEAM Entertainment|title=薄桜鬼 ドラマCD 〜会津隠密帳〜|url=http://www.team-e.co.jp/products/gnca-7178.html|accessdate=2012-08-24}}{{リンク切れ|date=2018年2月}}</ref>
** 薄桜鬼 ドラマCD 〜近藤さんの悩みの種〜<ref>{{Cite web|publisher=TEAM Entertainment|title=薄桜鬼 ドラマCD 〜近藤さんの悩みの種〜|url=http://www.team-e.co.jp/products/gnca-7182.html|accessdate=2013-04-02}}{{リンク切れ|date=2018年2月}}</ref>
** 薄桜鬼 黎明録 ドラマCD 〜龍之介淡恋秘話〜
** 薄桜鬼 〜音声奏曲集〜
** アニメ「薄桜鬼」ドラマCD 〜星夜の想い〜
** アニメ「薄桜鬼」ドラマCD 〜改名秘帖録〜
* [[幕末志士の恋愛事情]] シリーズ('''[[岡田以蔵]]''')
** 幕末志士の恋愛事情 ドラマCD 〜姫こう夜伽 ひかる君の手〜
** 幕末志士の恋愛事情 ドラマCD あまつ乙女の争奪さわぎ 〜ほろ酔い祇園の夢一夜〜<ref>{{Cite web|publisher=TEAM Entertainment|title=幕末志士の恋愛事情 ドラマCD あまつ乙女の争奪さわぎ 〜ほろ酔い祇園の夢一夜〜|url=http://www.team-e.co.jp/products/kdsd-00583.html|accessdate=2012-08-17}}{{リンク切れ|date=2018年2月}}</ref>
* [[幕末恋華 新選組]]('''[[斎藤一]]''')
* 箱詰めCD2 吸血鬼と一緒に箱詰め(吸血鬼 兄)
* [[はじめの一歩]]('''[[幕之内一歩]]''')
* [[佐原ミズ|バス走る。]]「空曲がり停留所」('''木村''')
* [[破天荒遊戯]]シリーズ('''バロックヒート''')
* [[花帰葬]]シリーズ('''玄冬''')
* [[花ざかりの君たちへ]]('''難波南''')
* [[話が違う]]
* [[流行り神 警視庁怪異事件ファイル|流行り神 ドラマCD]](末松浩次)
* [[Barico]] シリーズ('''アルバート・ファーカー'''〈'''アル'''〉)
** Barico 珈琲円舞曲 -coffee waltz-
** Barico 子猫狂詩曲 -kitten rhapsody-
* [[遙かなる時空の中でシリーズ]]('''源頼久'''、'''源頼忠'''、'''有川将臣'''、'''柊'''、[[降三世明王]])
* [[ハーレムビートは夜明けまで]] 1 - 3('''蒼夜''')
* [[羊のうた]]('''水無瀬''')
* [[封殺鬼]]シリーズ(野坂三吾)
* Fate/Prototype 蒼銀のフラグメンツ Drama CD('''キャスター'''<ref>{{Cite web|url=https://fate-pt-sougin.com/chara/|title=ドラマCD「Fate/Prototype 蒼銀のフラグメンツ」|accessdate=2018-12-04|publisher=アニプレックス|website=fate-pt-sougin.com}}</ref>)
* ふたりじめ 戦国夫婦物語('''[[細川忠興]]'''<ref>{{Cite web|publisher=コミックナタリー|title=武将夫婦の恋愛オムニバスを男性声優のみでドラマCD化|url=https://natalie.mu/comic/news/108479|accessdate=2014-01-28}}</ref>)
* [[BLACK WOLVES SAGA]] Original Sound Track plus Drama('''ネッソ・ガーランド''')
* [[BLACK CAT]]('''クリード=ディスケンス''')
* [[BLOOD ALONE]]シリーズ('''スライ''')
* プリンセスハーツ〜麗しの仮面夫婦の巻〜('''キーマ・パパラギ''')
* [[PROJECT ARMS]]('''新宮隼人''')
* [[ベルサイユのばら]]-忘れ得ぬ人・オスカル-('''[[アンドレ・グランディエ]]''')
* [[ヘルズキッチン (漫画)|ヘルズキッチン]]('''ドグマ''')
* [[ホットギミック (漫画)|ホットギミック]] ドラマCD(成田凌)
* [[魔界学園|魔界学園II 激闘編]](使者、部員B)
* [[マフィアな★ダーリン]]('''袴田睦月''')
* [[魔法使いの娘]]('''鈴の木無山''')
* <[[81プロデュース]]オリジナルドラマCD> まもりたい('''マイヤー・リェン・ミ・キア''')
* [[無法地帯 〜放し飼い動物園〜]]('''ツエツエバエ'''、'''五反田三木'''、'''シマウマ''')
* 名作文学(笑)VSシリーズ [[北風と太陽|北風VS太陽]]('''北風''')
* [[縹けいか|モーテ -水葬の少女-]]('''ジャンカ'''<ref>{{Cite web|url=http://bc.mediafactory.jp/bunkoj/morte/|title=モーテ 水葬の少女|publisher=MF文庫J|accessdate=2014-09-26}}</ref>)
* [[山田太郎ものがたり]]('''山田和夫''')
* [[ラスト・エスコート]]('''鷹見彬''')
* [[さかもと麻乃|ラノベ王子☆聖也]]('''高良翼'''<ref>{{Cite web|publisher=ドラマCD ラノベ王子☆聖也【HOBiRECORDS】|title=キャスト|url=http://www.hobirecords.com/seiya/|accessdate=2012-10-08}}</ref>)
* [[ルイの魔裁判]]2(カガシュ)
* [[LUCIFER]](佐久間和斗)
* [[愛の戦士レインボーマン|レインボーマン]]('''嵐大樹''')
* [[レーカン!]](天海朝陽<ref>{{Cite web|publisher=マイコミジャーナル|url=https://news.mynavi.jp/article/20130117-a102/|title=霊感少女4コマ「レーカン!」ドラマCDに遠藤綾、戸松遥ら|accessdate=2013-01-17}}</ref>)
* [[レヴァリアース]] シリーズ(ザード)
* [[魔術使いシド&リドシリーズ|ロマネスクバリエ〜伝奇的変奏曲〜]]('''シド・アゼル''')
* [[WILD ADAPTER]]シリーズ(関谷純)
* [[ワンダル・ワンダリング!]](オンマル)
==== BLCD ====
* [[Unit Vanilla|アーサーズ・ガーディアン]] 赤版('''クリスティアン・シュナイダー''')
* 愛かもしれない -[[山田ユギ]]バンブーセレクションCD2-('''吉村''')
* [[間の楔]]('''カッツェ''')
* [[桑原水菜|赤の神紋]](新渡戸新)
* あなたと恋におちたい('''喜多野遼一''')
* あなたのためならどこまでも ('''七海洋一''')
* [[杉本亜未|ANIMAL X]](友人、ヤクザ2)
* [[斑鳩サハラ|危ない]]シリーズ('''佐渡章吾''')
** 危ない修学旅行
** 危ないサマーバケイション
* [[井村仁美|アンバサダーは夜に囁く]](ジャック)
* [[あさぎり夕|美しいひと]](周防カイエ)
* [[海ニ眠ル花]](サカキ)
* [[英田サキ|エス]]シリーズ(篠塚英之)
* [[ESCAPE (BLゲーム)|ESCAPE]]4・5(幸淳生)
* [[N大附属病院 夢の後ろ姿]]('''菊池尊臣''')
* [[真船るのあ|オープン・セサミ]]('''香住由貴・佳樹・ユキ・牙・たっくん''')
* [[王子様☆ゲーム]]('''傲龍''')
* [[王子さまLV1]]シリーズ('''レイブン・ロストハート''')
** スパイメモをチェックせよ
* [[斑鳩サハラ|お兄さんは生徒会長様]]('''桜庭知華''')
* [[あさぎり夕|親猫シリーズ]]4 親猫は愛を宿す(天野悟)
* [[中田雅喜|御界/ON-KAI]]('''仁竜''')
* [[剛しいら|顔のない男]]('''飛滝惣三郎''')
* [[吉原理恵子|子供(ガキ)の領分]]シリーズ('''小林芳樹''')
* [[みさき志織|学園エンペラー]]〜愛してみやがれ〜('''ケント''')
* [[学園ヘヴン]] DJCD BL学園放送部『ベル☆ラジ』(成瀬由紀彦)
* [[こいでみえこ|片恋パラダイス]](矢部祐二)
* [[吉原理恵子|影の館]]シリーズ('''[[ミカエル]]''')
* [[駒崎優|歓楽の都]]('''レイ''')
* [[遠野春日|貴族シリーズ]]6 高潔な貴族は愛を得る('''クレイトン公爵ヴィクター''')
* [[おおや和美|Candy-Store]]('''保坂光一郎''')
* [[南野ましろ|Candy Quartz apartment]]シリーズ('''暁''')
* [[あさぎり夕|金のカイン]]('''火野カイン''')
* [[きたざわ尋子|きわどい賭]](布施圭梧)
* [[クリムゾン・スペル]] 1・2('''ハルヴィル・フロプト''')
* [[久能千明|グレイ・ゾーン]]シリーズ('''由利潤一郎''')
* [[沢城利穂|くらっしゅ+ゴーストハンターズ]]シリーズ('''柊聖弥''')
** 〜Nightmere 夢の住人〜
* [[如月弘鷹|兄弟限定!BROTHER×BROTHER]]シリーズ(尾木)
** 兄弟限定!BROTHER×BROTHER 2
* [[獣たちの…妄執。]](イアン・エヴァンス)
* [[井村仁美|恋の診察室]](海都洋)
* [[砂原糖子|恋のはなし]]('''新山慶吾''')
* [[水上ルイ|豪華客船で恋は始まる]]シリーズ(ゴールドスミス)
* [[砂原糖子|言ノ葉ノ世界]]('''仮原眞也''')
* [[真船るのあ|ごはんを食べよう]]シリーズ('''月島晶''')
* [[水壬楓子|コルセーア]]シリーズ(セサーム)
* SASRA 3(鈴村幸之助)
* 座布団 シリーズ(山九亭初助)
* 三百年の恋の果て(祥真)
* [[こうじま奈月|幸せのLEVEL]]シリーズ(羽丘愁那)
* 地獄めぐり(上)([[烏枢沙摩明王]])
* [[崎谷はるひ|慈英&臣]]シリーズ('''秀島慈英''')
** しなやかな熱情
** ひめやかな殉情
** あざやかな恋情
** さらさら。
** やすらかな夜のための寓話
** はなやかな哀情
** たおやかな真情
** あでやかな愁情
* [[GP学園生徒会執行部]]シリーズ('''敦賀鳴一''')
** GP学園情報処理部
** GP学園情報処理部2
** GP学園生徒会執行部
* [[霧島珠樹|社長のおじかん。]]('''鳥居亮''')
* 少年四景 〜[[小野塚カホリ]]作品集〜('''関''')
* [[井村仁美|職員室でナイショのロマンス]]('''有賀玲一郎''')
* [[斑鳩サハラ|しょせんケダモノ]]シリーズ('''桃川祐也''')
* [[崎谷はるひ|白鷺シリーズ]](弥刀紀章)
* [[崎谷はるひ|信号機シリーズ]] オレンジのココロ -トマレ-(伊勢逸見)
* [[こうじま奈月|紳士協定を結ぼう!]]('''梛契己''')
* [[雲田はるこ|新宿ラッキーホール]]('''桧山苦味''')
* 新説・[[源氏物語]] -[[藤壺]]の章-('''[[光源氏]]''')
* [[好きなものは好きだからしょうがない!!]]シリーズ('''水都真一朗''')
* [[スキャンダルシリーズ]]('''道前寺司''')
** あいつとスキャンダル
** 放課後はスキャンダル
** 学園祭はスキャンダル
* [[本橋馨子|ストロベリー・デカダン]]シリーズ('''小暮太郎''')
* 清澗寺家シリーズ('''清澗寺貴久''')
* 世界は二人のために(樫尾凪)
* [[抱かれたい男1位に脅されています]]シリーズ(羽柴)
* [[タクミくんシリーズ]](斉木晴臣、タケル)
** Sincerely
** ギイがサンタになる夜は
* [[南原兼|男子寮でロマンスを]]('''一条冬彦''')
* [[本仁戻|探偵青猫]]('''蜂王子刑事''')
* [[南原兼#CD作品|ツインズ シリーズ]](三千院夜人)
* [[ツーリング・エクスプレス]](セザール・ガブリエル)
* [[英田サキ|デコイ 迷鳥]](篠塚英之)
* [[英田サキ|DEADLOCK]](ネイサン・クラーク)
* [[水城せとな|同棲愛]]('''馬堀貴文''')
* [[南原兼|いナイトはお熱いのがお好き]]('''三千院夜人''')
* [[殴る白衣の天使]]('''正宗誠一郎''')
* [[如月弘鷹|名も無き鳥の飛ぶ夜明け]](蝙蝠)
* [[凪良ゆう|憎らしい彼]](上田秀樹)
** 悩ましい彼
* [[吉原理恵子|二重螺旋]]シリーズ('''篠宮雅紀''')
** 二重螺旋
** 二重螺旋2 -愛情鎖縛-
** 二重螺旋3 -攣哀感情-
** 二重螺旋4 -相思喪曖-
** 二重螺旋5 -深想心理-
** 情愛のベクトル(全員サービスドラマCD)
* [[染井吉乃|虹の入り江 トラブルスタジオ]](古井修〈レトロ〉)
* [[水上ルイ|ニュースセンターの恋人]](小篠和哉)
* [[愁堂れな|花嫁は二度さらわれる]](ローランド・モリエール)
* [[南原兼|パパ×ミラシリーズ]]('''宗方鏡介''')
* [[水戸泉 (小説家)|薔薇の名前]](紗倉巧)
* [[春を抱いていた]]シリーズ('''香藤洋二''')
* [[あさぎり夕|デリバリーホストシリーズ]]2 秘書は艶然とうそをつく('''高根一磨''')
* [[井村仁美|110番は恋の始まり]]('''剣持薫''')
** 110番は甘い鼓動
* [[畑亜貴|Fragrance Tale「エバーラスティング・ノート」]]('''クレイドル''')
* [[桜城やや|プラス20cmの距離]]('''榊木蓉一''')
* [[佐野真砂輝&わたなべ京|プラチナ]](魔法使い・テロリスト)
* [[斑鳩サハラ|Pretty Baby]]シリーズ(稲葉佳慧)
* [[松岡なつき|FLESH&BLOOD]] 第9巻(キット〈マーロウ〉)
* [[井村仁美|ベンチマークに恋をして]]('''五十嵐邦彦''')
* ボーダー・ラインI・II・III ('''由利潤一郎''')
* [[新田祐克|僕の声]] 金のがちょう編('''保坂條一郎''')
* [[こうじま奈月|僕らの王国]] 1 - 2(リュセル・シグレ・黒崎)
** 僕らの王国 バラエティCD
* [[義月粧子|ホーム・スウィート・ホーム]](青木和貴)
* [[南原兼#CD作品|まほデミー週番日誌シリーズ]](ノワール)
** 魔法学園微熱クラブ
** 魔法学園秘密ガーデン
** 魔法学園夢幻パレス
** 魔法学園誘惑レッスン
** 魔法学園大運動会 前夜祭
** 魔法学園流星ワルツ
** 魔法学園迷宮ロマンス
** 魔法学園禁断ポエム
* [[宮川ゆうこ|マルサのお・と・こ]]('''氷室刃''')
* [[榎田尤利|マンガ家]] シリーズ(甘利)
** きみがいなけりゃ息もできない
** きみがいるなら世界の果てでも
* [[胸さわぎシリーズ]](藤島優)
* [[桃季さえ|MOMO CAN〜桃缶]]シリーズ('''風鬼''')
* [[不破慎理|優しい関係]]('''印南司''')
* [[闇に契りし者、汝の血を]](ユベール)
* [[高座朗|やんなっちゃうくらい愛してる]]('''最上享二''')
* [[あすか (小説家)|唯我独尊な男]]('''ジャック・ライアン''')
* [[中原一也|よくある話。]]('''袴田俊樹''')
* [[山藍紫姫子|ラ・ヴィアン・ローズ]]('''横田一眞''')
* [[ふゆの仁子|龍を飼う男]](劉光良)
* LIVE×EVIL 灼熱のエデマ/熱砂のプロメテウス(コウ・テラカド)
* [[LEVEL-C]]シリーズ('''本城一臣''')
* [[高嶋上総|ワイルド・ロック]](少年時代のセレム)
* [[御木宏美|WORKDAY WARRIORS]]('''今井恭章''')
==== 朗読・ラジオCD ====
* [[うずらっぱ]]朗読CD「[[山月記]]」([[小西克幸]]との掛合い朗読)
* 彼氏以外4 〜元彼との過ち〜(佐倉ハル)
* 感応時間10 〜海神の呼ぶ声〜(海狼)
* 官能昔話6 〜戦国恋絵巻〜
* [[機動戦士ガンダム00]] VoiceActerSingle II 三木眞一郎 come across ロックオン・ストラトス
* 月刊男前図鑑シリーズ特別編 月刊[[光源氏]]図鑑 [[六条御息所|六条]]|[[朝顔 (源氏物語)#朝顔の姫君|朝顔]]編 白椿盤
* 月刊男前図鑑 年上編 白盤
* オリジナル朗読CDシリーズ The Time Walkers 2 [[坂本龍馬]]
* [[12人の優しい殺し屋]]「INTRODUCTION」(天野隼人)
* 戦国武将物語〜豪傑編 その弐〜(第五話「[[榊原康政]]物語」)
* [[ソレスタルステーション00]] GN粒子最大散布スペシャルCD 第1巻(ゲスト)
* 薄桜鬼通信WEBラジオ 新選組通信録 第1〜9集
* [[ふしぎ工房症候群]] EPISODE.6「クリスマスの出来事」
=== オーディオブック ===
* [[天地明察]](2015年<!--7月17日-->、関孝和)
* 蒼のファンファーレ(2020年<!-- 2月14日 --><ref>{{Cite web|title=「蒼のファンファーレ」のオーディオブック|website=audiobook.jp|url=https://audiobook.jp/product/245717|accessdate=2020-06-28}}</ref>)
* 世界最強の魔王ですが誰も討伐しにきてくれないので、勇者育成機関に潜入することにしました。1〜2(2020年、リューディオ<ref>{{Cite web|publisher=小学館ガガガ文庫|url=https://gagagabunko.jp/information/#200519b|title=オーディオブック第14弾、5月20日配信!!!|accessdate=2020-05-25}}</ref><ref>{{Cite web|title=オーディオブック第19弾好評配信中!!!|url=https://gagagabunko.jp/information/#201021b|website=小学館ガガガ文庫|accessdate=2020-12-12|language=ja}}</ref>)<!--(ドラマCDとは異なる)-->
* 剣と魔法の税金対策(2022年、ブルー・ゲイセント<ref>{{Cite web|title=オーディオブック第35弾2月21日より配信開始!!!|url=https://gagagabunko.jp/information/#220218a|website=小学館ガガガ文庫|accessdate=2022-02-23|language=ja}}</ref>)
=== 映像商品 ===
* SUPER VOICE WORLD 夢と自由とハプニング DVD
* BLEACH SOUL SONIC 2005 "夏"
* [[トヨタ・AE86|ハチロク]]極([[MONDO TV|MONDO21]])
* イベントDVD [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|薄桜鬼]] 〜桜の宴〜
=== CM ===
* 機動戦士ガンダム00 ガンダムマイスターズ(ロックオン・ストラトス)
* スーパーロボット大戦シリーズ(リュウセイ・ダテ)
** スーパーロボット大戦ORIGINAL GENERATION
** スーパーロボット大戦OG ORIGINAL GENERATION2
** スーパーロボット大戦OG ORIGINAL GENERATIONS
* [[CHEMISTRY]]シングル [[Period (CHEMISTRYの曲)|Period]](ナレーション、ロイ・マスタング)
=== ナレーション ===
* [[BSマンガ夜話]]
* ともに生きていく 〜SHELLYとダニエルが歩いた 東北500キロ〜
* [[天才てれびくんシリーズ|Let's天才てれびくん]]
* [[ゲッタウェイ スーパースネーク]](日本版劇場予告編)
* [[DAZN#モータースポーツ 2|WEDNESDAY F1 TIME]]
* [[MFゴースト]]<ref>{{Cite web|title=「MFゴースト」上映会に藤原拓海役の三木眞一郎が登場、内田雄馬への“継承の儀式”|website=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=[[株式会社ナターシャ|ナターシャ]]|url=https://natalie.mu/comic/news/539347|date=2023-09-01|accessdate=2023-09-05}}</ref>
=== 携帯コンテンツ ===
* カレフォン(鷹村一哉)
* 君とナイショの…今日から彼氏(綾瀬川彩人)
* 恋人はキャプテン(神坂龍之介)
* ドラマ配信サービス 「GP学園情報処理部」(敦賀鳴一)
* [[幕末志士の恋愛事情]] [[iOS]]版([[岡田以蔵]]<ref>『B's-LOG』2012年6月号、エンターブレイン、2012年4月。{{要ページ番号|date=2018年2月}}</ref>)
=== テレビドラマ ===
* [[連続テレビ小説]]『[[エール (テレビドラマ)|エール]]』([[2020年]][[11月16日]]、NHK) - 後宮春樹役<ref>{{Cite web|url=https://mantan-web.jp/article/20201115dog00m200041000c.html|title=エール:声優・三木眞一郎が登場! 恒松あゆみと「君の名は」春樹&真知子に|publisher=[[MANTANWEB]]|date=2020-11-16|accessdate=2021-07-06}}</ref>
=== 舞台 ===
* Messiah〈GAKI PRODUCE〉(1999年11月、[[東京芸術劇場]]小ホール) - ライ 役
* 乱童 RAN-DOH(2009年10月30日・31日、[[天王洲 銀河劇場]])
* 乱童 RAN-DOH(再演)(2010年1月3日 - 5日、[[青山劇場]])
* リーディングドラマ LOVE LETTERS 20th Anniversary Special(2010年6月26日、[[PARCO劇場]])<ref>{{Cite web|title=LOVE LETTERS|PARCO STAGE -パルコステージ-|url=https://stage.parco.jp/program/ll_20th|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* 音楽劇 オリビアを聴きながら(2011年9月18日 - 24日、[[青山円形劇場]])
* リーディングドラマ LOVE LETTERS 2011 21st Anniversary(2011年11月23日、PARCO劇場)<ref>{{Cite web|title=LOVE LETTERS 2011 21st Anniversary|PARCO STAGE -パルコステージ-|url=https://stage.parco.jp/program/ll_21st|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* 音楽劇 オリビアを聴きながら(再演)(2012年8月22日 - 31日、青山円形劇場)<ref>{{Cite web|title=三木眞一郎主演の舞台『オリビアを聴きながら』8月に再演決定|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1343028484|website=animate Times|date=2012-07-23|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* The MERCY SEAT〈[[:en:The Mercy Seat (play)|The Mercy Seat (play)]]〉(2016年4月13日 - 17日、[[シアタートラム]]) - ベン 役
* 新朗読企画 久世光彦 黄昏かげろう座「江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』『人でなしの恋』」(2016年12月10日 - 11日、スペースFS汐留)<ref>{{Cite web|title= 三木眞一郎×田畑智子、国仲涼子×植田圭輔が久世光彦の愛した作品を朗読|url=https://natalie.mu/stage/news/207322 |website= ステージナタリー|date=2016-10-30|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* 音楽朗読劇 [[さよならソルシエ]](2016年12月3日・4日、[[サウンドシアター]]) - ジャン・サントロ 役
* 舞台版 声優に死す〜other side〜(2017年10月28日、[[スペース・ゼロ|全労済ホール/スペース・ゼロ]])<ref>{{Cite web|title=舞台版 声優に死す〜other side〜|劇団ヘロヘロQカムパニー|url=https://heroq.com/archives/56/|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* オーディオドラマシアター『[[黄昏流星群]]』(2017年11月22日、eplus LIVING ROOM CAFE&DINING)<ref>{{Cite web|title= 弘兼憲史「黄昏流星群」の作品世界を生演奏に乗せて朗読劇で|url=https://natalie.mu/stage/news/250246 |website= ステージナタリー|date=2017-09-28|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* 『神楽坂怪奇譚「棲」』 再再演(2018年11月24日、THEGLEE) - 女(12時半、16時公演)、泉鏡花(20時半公演)役<ref>{{Cite web|title= 神楽坂怪奇譚「棲」 再再演 | 藤沢文翁オフィシャルサイト|url=http://www.bun-o.com/2018/09/231/ |accessdate=2021-11-07}}</ref>
* 朗読劇 タチヨミ -第六巻-(2020年1月11日 - 12日、[[小劇場B1]])<ref>{{Cite web|title=タチヨミ -朗読劇- 第六巻|2020/01/10 (金) 〜 2020/01/19 (日) |url=http://9states.jp/tachiyomi/2020/index.html|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* オーディオドラマシアター『黄昏流星群』Vol.4(2020年2月3日 - 4日、eplus LIVING ROOM CAFE&DINING)<ref>{{Cite web|title= 弘兼憲史・四季のドラマ オーディオコミックシアターVol.4 『黄昏流星群』 2020年2月3・4日 上演!|url=https://theatertainment.jp/japanese-play/23475/ |website= シアターテイメントNEWS|date=2020-09-13|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* リーディング 曲がり角の悲劇(2020年7月31日 - 8月9日、オンライン配信)<ref>{{Cite web|url=https://natalie.mu/stage/news/389225|title=三木眞一郎×倉本朋幸、みきくらのかい「曲がり角の悲劇」配信に江口拓也|website=ステージナタリー|date=2020-07-27|accessdate=2021-11-02}}</ref>
* 風吹く街の短篇集 第三章 「リーディング『LYNX reading』」(2020年9月23日 - 24日、[[本多劇場]])<ref>{{Cite web|title= 「グッドディスタンス」第三章に、朗読劇・芝居・ミュージカル・LIVE・落語・狂言|url=https://natalie.mu/stage/news/396220 |website= ステージナタリー|date=2020-09-13|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* 朗読劇 素晴らしき哉!人生!(2020年10月25日、オンライン配信)<ref>{{Cite web|url=https://natalie.mu/stage/news/400106|title=三木眞一郎&蒼井翔太で朗読劇「素晴らしき哉!人生!」配信、全役を2人で演じ分ける|website=ステージナタリー|date=2020-10-12|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* 10knocks〜その扉を叩き続けろ〜「ドラマチック・リーディング『いとしの儚 -100DaysLove-』」(2020年12月10日、[[紀伊國屋ホール|新宿紀伊國屋ホール]])<ref>{{Cite web|title= 劇団扉座第68回公演 扉座40周年記念★with コロナ緊急前倒し企画 『10knocks〜その扉を叩き続けろ〜』- 扉座|url=https://tobiraza.co.jp/10knocks-1010 |accessdate=2021-11-13}}</ref>
* リーディング 怪談贋皿屋敷(2020年12月19日、[[日本教育会館]]一ツ橋ホール)<ref>{{Cite web|url=https://natalie.mu/stage/news/409493|title=三木眞一郎&宮野真守が切ない恋を紡ぐ、みきくらのかい「怪談贋皿屋敷」本日開催|website=ステージナタリー|date=2020-12-19|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* 朗読と能で描く陰陽師と鬼の世界「幽玄朗読舞『KANAWA』」(2021年9月5日、[[博品館劇場|銀座博品館劇場]]) - 安倍晴明 役<ref>{{Cite web|title=KANAWA|公演情報|東京音協 |url=https://t-onkyo.co.jp/roudoku_seiyu/kanawa/|website=東京音協 |accessdate=2021-11-13}}</ref>
* 狂言朗読公演『狂言男師 響 〜宵の月【二人大名・棒縛】〜』(2021年11月27日、セルリアンタワー能楽堂) - ツレ大名(二人大名)、次郎冠者(棒縛)役<ref>{{Cite web|title= ホーム2 - 狂言男師公式サイト|url=https://www.kyogendanshi.com/%E7%8B%82%E8%A8%80%E5%85%AC%E6%BC%94-%E8%83%BD%E6%A5%BD%E7%94%B7%E5%B8%AB-%E9%9F%BF/|accessdate=2021-11-13}}</ref>
* ミュージカル 明治座で逆風に帆を張・る!!(2021年12月28日 - 29日、[[明治座]])<ref>{{Cite web|title=キャスト・スタッフ - 【シン る・ひま】オリジナ・るミュージカ・る『明治座で逆風に帆を張・る!!』 |url=https://shin-lehima.com/cast|accessdate=2021-11-13}}</ref>
=== 玩具 ===
* COMPLETE SELECTION MODIFICATION(玩具、ジーク)
** デンオウベルト & ケータロス(2017年9月)
** デンオウベルト MOVIE EDITION(2021年12月)<ref>{{Cite web|work=MANTANWEB|url=https://mantan-web.jp/article/20210628dog00m200043000c.html|title=仮面ライダー電王:CSMデンオウベルトMOVIE EDITION 電王 ウイングフォーム、ガオウ、幽汽に変身 三木眞一郎、渡辺裕之、神谷浩史のせりふも|date=2021-06-29|accessdate=2021-06-29}}</ref>
=== パチンコ・パチスロ ===
* ローズテイルシリーズ([[CRローズテイルアルティメット]]、CR野薔薇物語 [[豊丸産業]]の[[パチンコ]]台):ディーラー 役
* CR忍術決戦月影(隼)
* [[うる星やつら]]関連('''[[面堂終太郎]]''')
** サミー「[[パチスロうる星やつら]]」
** サミー「[[パチスロうる星やつら2]]」
** サミー「パチスロうる星やつら3」
=== その他コンテンツ ===
* バナナ白書〜何でもありの僕と彼女(1994年、顔出し出演)
* [[あの歌がきこえる]]
* 祝15周年!ポケモン映画名シーン超ランキングスペシャル!!(コジロウ)
* [[12人の優しい殺し屋]]('''天野隼人''')
* [[東京ディズニーシー]] [[海底2万マイル (アトラクション)|海底2万マイル]](クルー)
* [[アニ店特急]] 2007年夏(パーソナリティ)
* [[東京国立博物館]]特別展「北京[[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]200選」音声ガイド([[乾隆帝]])
* [[東京ディズニーリゾート]](アラジン)
* [[実録世界のミステリー|世界の衝撃ストーリー]](声の出演)
* 世界が騒然!本当にあった(秘)ミステリー(声の出演)
* [[ブルバスター]] 激録!波止工業24時(田島鋼二)
== ディスコグラフィ ==
{{main2|Weißでの活動|ヴァイスクロイツ}}
=== キャラクターソング ===
{{VOICE Notice Hidden|
◆ 「キャラクター(声優名)」で統一してください。
◆ 当記事の声優のみ「キャラクター('''声優名''')」としてください。
◆ ユニットの場合は{{Vau}}を用います。使い方は[[Template:Vau]]を参照。}}
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 発売日 !! 商品名 !! 歌 !! 楽曲 !! 備考
|-
! colspan="5" | 1997年
|-
| rowspan="2" | 12月10日
| rowspan="2" | [[ロケット団よ永遠に]]
| {{vau|ロケット団|1}}
| 「ロケット団よ永遠に」
| テレビアニメ『[[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]]』挿入歌
|-
| [[コジロウ (アニメポケットモンスター)|コジロウ]]('''三木眞一郎''')
| 「ラッキーラッキー」
| テレビアニメ『ポケットモンスター』関連曲
|-
! colspan="5" | 1999年
|-
| 10月27日
| [[ニャースのパーティ]]
| 歌:ニャース([[犬山イヌコ|犬山犬子]])、ゲスト:[[ムサシ (アニメポケットモンスター)|ムサシ]]([[林原めぐみ]])とコジロウ('''三木眞一郎''')
| 「ニャースのパーティ」
| テレビアニメ『ポケットモンスター』エンディングテーマ
|-
! colspan="5" | 2001年
|-
| rowspan="2" | 7月21日
| rowspan="2" | [[前向きロケット団!]]
| rowspan="2" | {{vau|ロケット団|2}}
| 「前向きロケット団!」
| テレビアニメ『ポケットモンスター』エンディングテーマ
|-
| 「もっと前向きロケット団!(RE-MIX Ver.)」
| テレビアニメ『ポケットモンスター』関連曲
|-
! colspan="5" | 2008年
|-
| 3月26日
| Double-Action Wing form
| 野上良太郎([[佐藤健 (俳優)|佐藤健]])、ジーク('''三木眞一郎''')
| 「Double-Action Wing form」
| テレビドラマ『[[仮面ライダー電王]]』挿入歌
|-
! colspan="5" | 2016年
|-
| 10月26日
| [[アニメ「ポケットモンスターXY&Z」キャラソンプロジェクト集#vol.2 -総集編-|アニメ「ポケットモンスターXY&Z」キャラソンプロジェクト集vol.2 -総集編-]]
| {{vau|ロケット団|2}}
| 「ロケット団 団歌」
| テレビアニメ『[[ポケットモンスター XY|ポケットモンスター XY&Z]]』エンディングテーマ
|}
=== その他参加作品 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 発売日 !! 商品名 !! 歌 !! 楽曲 !! 備考
|-
! colspan="5" | 1999年
|-
| 3月25日
| INITIAL D VOCAL BATTLE
| '''三木眞一郎'''、[[川澄綾子]]
| 「[[around the world (moveの曲)|around the world]]」
| テレビアニメ『[[頭文字D]]』関連曲
|-
! colspan="5" | 2000年
|-
| 2月10日
| [[dream power-翼なき者たちへ-]]
| {{Vau|A・G・A・S}}
| 「dream power-翼なき者たちへ-」
| 『[[文化放送A&Gゾーン]]』イメージソング
|-
| 2月17日
| 悠久音楽祭 〜エンフィールドからシープクレストへ〜 ボーカル編
| [[氷上恭子]]、[[折笠愛]]、[[西原久美子]]、[[長沢美樹]]、[[浅田葉子]]、[[飯塚雅弓]]、[[置鮎龍太郎]]、[[畑亜貴]]、[[徳永愛|清水夕紀美]]、[[池澤春菜]]、[[笠原弘子]]、'''三木眞一郎'''、[[堀江由衣]]、[[おみむらまゆこ|麻績村まゆ子]]
| 「友達といるときは」
| ライブイベント『悠久音楽祭 〜エンフィールドからシープクレストへ〜』歌唱曲
|-
| 8月23日
| 悠久組曲 All Star Project サウンドトラック
| 置鮎龍太郎、[[子安武人]]、氷上恭子、飯塚雅弓、西原久美子、'''三木眞一郎'''、[[松本保典]]、[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]、麻績村まゆ子、長沢美樹
| 「the world of eternity song」
| ゲーム『悠久組曲 All Star Project』エンディングテーマ
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
{{Ras|col=30em}}
{{Vau|col=30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em
|refs=
<ref name="魔入りました!入間くんOB">{{Cite book ja |chapter=キャラクター紹介 |date=2023-04-01 |editor=斉藤優己 |isbn = 978-4-295-20504-3 |page=27 |publisher=[[エムディエヌコーポレーション]] |title=アニメ「魔入りました!入間くん」オフィシャルファンブック}}</ref>
<ref name="恐竜冒険記ジュラトリッパー">{{Cite web | accessdate = 2022-12-04 | publisher = [[葦プロダクション]] | title = 恐竜冒険記 ジュラトリッパー | url = http://ashipro.jp/works/tv_series/w028.html |website = 株式会社 葦プロダクション 公式サイト}}</ref>
<ref name="名探偵コナン">{{Cite web|url=https://www.ytv.co.jp/conan/character/character4/hagiwara.html|title=萩原研二|キャラクター|work=名探偵コナン|publisher=読売テレビ|accessdate=2023-02-06}}</ref>
<ref name="ガンバリスト!駿">{{Cite web | accessdate = 2023-01-04 | publisher = [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] | title = ガンバリスト!駿 | url = http://sunrise-world.net/titles/pickup_044.php | website = サンライズワールド}}</ref>
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}}
== 参考文献 ==
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== 外部リンク ==
* {{Official website|http://www.miki-ha.com/|三木派}} - 個人の公式ホームページ
* {{81プロフィール}}
* {{Twitter|miki_shin318}}
{{三木眞一郎}}
{{81プロデュース}}
{{ガンダムシリーズ主演声優}}
{{声優アワード|助演男優賞}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:みき しんいちろう}}
[[Category:日本の男性声優]]
[[Category:81プロデュース]]
[[Category:声優アワード]]
[[Category:東京都出身の人物]]
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[[Category:存命人物]]
[[Category:自動車に関する人物]]
|
2003-07-19T17:48:46Z
|
2023-12-31T07:44:07Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E7%9C%9E%E4%B8%80%E9%83%8E
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名古屋鉄道
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名古屋鉄道株式会社(なごやてつどう、英: Nagoya Railroad Co.,Ltd.)は、東海地方の愛知県・岐阜県を基盤とする鉄道会社である。通称、名鉄(めいてつ、Meitetsu)。日本の大手私鉄の一つで、民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ老舗企業である。
本社は愛知県名古屋市中村区名駅1丁目2番4号名鉄名古屋駅上に設けた名鉄バスターミナルビル(名鉄百貨店本店メンズ館ビル)内に置いている。中京圏(名古屋都市圏)では最大の444.2kmの路線規模を擁する。
本業の鉄道業では、愛知・岐阜両県に総営業距離では近畿日本鉄道(近鉄)・東武鉄道(東武)に次いで日本の私鉄第3位(JRを除く)の444.2kmにおよぶ路線網、275駅を擁する(詳細は「路線」節を参照)、中京圏を本拠とする唯一の大手私鉄である。年間利用人員はおよそ2億9623万5000人(2020年度)、旅客車両数は1,076両(2021年3月31日時点)である。
コーポレート・スローガンは「ココロをつなぐ、あしたへはこぶ。」。
名古屋鉄道は東海銀行(現・三菱UFJ銀行)・中部電力・東邦瓦斯(東邦ガス)・松坂屋(現・大丸松坂屋百貨店)と共に名古屋経済界の中核名門企業、旧「名古屋五摂家」の1社に数えられる。東海地方を中心に数多くの不動産を所有する企業であり、これらの「開発事業」も経営の重要な柱となっている。レジャー・流通産業など関連事業を中心に多角的な企業展開を行っており、連結決算の対象・非対象あわせて200社以上のグループ企業を擁する名鉄グループの中核的企業である。
2005年(平成17年)に開港した中部国際空港(セントレア)に空港線を通じて空港連絡鉄道として乗り入れる唯一の鉄道会社である。
2022年(令和4年)現在、大手私鉄で唯一、女性専用車両を導入していない。
営業路線の詳細は「路線」の節を、その他の詳細は以下の各記事を参照。
現在のシンボルマークは会社創立100周年に先立つ1992年(平成4年)4月より使用を開始している。これはCI導入計画の一環としてランドーアソシエイツによるデザイン開発により策定されたもので、同時にコーポレートカラーも制定されている。
シンボルマークは社名略称の英称「MEITETSU」をモチーフとし、特にM字型のマークはMEITETSU ウイングと呼ばれる。2色のコーポレートカラー(人や地球への優しさを表す「MEITETSU Blue」、知的さ、信頼性を表す「MEITETSU Green」)によって構成されるMEITETSU ウイングは名鉄が地域とともに躍進する姿を表現している。このほか、シンボルマークに準ずるものとしてMEITETSU Blue、MEITETSU Greenに赤を加えたアロー(スピードアロー)があり、マークパターンとしてシンボルマークの下にアローを配するタイプとMEITETSU ウイングの下にMEITETSU、アローを配するタイプが設定されている。
社章は中央に図案化した「名」を、鉄道の象徴である「工」を5つ円形に配置したものである。5つの「工」は五徳による社員の総親和を表すとともに、名古屋から放射状にのびる路線網も表現している。CI導入以降は掲示物などへの使用が全面的にシンボルマークへ切り替えられており、100系の前面飾り帯の装飾など現存箇所は少数に留まっている。
現在の名古屋鉄道は、太平洋戦争の終結以前に中京圏の多くの鉄道会社が合併して成立したものであるが、その起源は1894年(明治27年)6月に名古屋市内で馬車鉄道を運行する名目で設立された企業の愛知馬車鉄道である。
愛知馬車鉄道は当初、馬車鉄道を敷設するための特許を得ていたが、計画を電気鉄道に変更し、1896年(明治29年)に名古屋電気鉄道に社名を改めた。1898年(明治31年)には、京都電気鉄道(のちに市営化され京都市電となる)に次ぐ日本で2番目の電車運行を開始。以後、同社は市内各所へ網の目のように路線網を構築していった。1912年(大正元年)には初の郊外路線(郡部線)を開業させ、以降は尾張北中部の各市町と名古屋市を結ぶ郊外路線を充実させていった。
1921年(大正10年)、市内線の市営化が決定する。その前段階として名古屋電気鉄道は6月に郊外線部門を引き継ぐ(旧)名古屋鉄道を新たに設立し、第二の創業とした。翌1922年(大正11年)8月には名古屋市電気局(のちの名古屋市交通局)へ市内線部門を乗務員ごと譲渡して名古屋市電が発足し、(旧)名古屋鉄道の発足後も市内線の営業を続けていた名古屋電気鉄道は解散した。なお、市営化後も柳橋 - 押切町間の郊外線から市内線への乗り入れ(営業権)は、譲渡条件として保持されたまま(当該区間は市営・名鉄の二重免許区間)であった。
その後(旧)名古屋鉄道は、名古屋電気鉄道当時はおまけのような存在であった郊外線部門を生かす形で名古屋市と岐阜市という2つの大都市を直結する都市間路線を形成することを目論み、1928年(昭和3年)4月10日にはその第一歩として名岐線の丸ノ内 - 西清洲(現・新清洲)間を開通させたことにより、押切町 - 新一宮(現・名鉄一宮)間が開通した。
1930年(昭和5年)8月、岐阜市周辺の路面電車などを経営していた美濃電気軌道を合併した(旧)名古屋鉄道は、名岐間輸送を社の重点目標としたことから、合併翌月に社名を名岐鉄道と改称した。この時点で開通していたのは押切町 - 新一宮間および笠松(現・西笠松) - 新岐阜(現・名鉄岐阜)間であったが、木曽川橋梁の完成にともない1935年(昭和10年)4月29日に新一宮 - 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜間が全通している。
1909年(明治42年)には、名古屋以西の路線(名古屋本線の東枇杷島駅以西・犬山線など)を建設していた名古屋電気鉄道に対し、以東の路線(名古屋本線の神宮前駅以東・常滑線など)を建設することになる愛知電気鉄道が設立された。
愛知電気鉄道(愛電)は、1910年(明治43年)に知多半島西岸の振興と、それまで舟運に頼っていた常滑焼など特産品の効率的な運送を図るために設立された鉄道会社で、1913年(大正2年)に現在の常滑線を全通させ、続いて旧東海道沿いに名古屋市と三河地方との連絡を意図した路線(豊橋線、現在の名古屋本線神宮前駅以東に相当)の建設を開始した。一方、官設鉄道(のちの国鉄・現JR)東海道本線以外に、私鉄による第2幹線を建設しようと東海道電気鉄道が設立され、愛知郡御器所村(現・名古屋市昭和区)から豊橋市にいたるまでの路線免許を得て、さらに豊橋市から浜名湖北岸をまわり浜松市にいたる計画を持っていた遠三電気鉄道にも出資していたが、その最大の資本提供者で過去に日本電気鉄道(東京 - 大阪間電気鉄道敷設計画)の計画も推し進めていた安田善次郎が1921年(大正10年)に暗殺されたため、計画は宙に浮くことになった。
そのような状況下、東海道電気鉄道の創設者であり、かつて愛知電気鉄道の2代目社長を務めた福澤桃介(福澤諭吉の娘婿)は、愛知電気鉄道に対して救済合併を申し入れ、愛知電気鉄道側もこれを承諾し、東海道電気鉄道は愛電に吸収合併された。その後、愛知電気鉄道は東海道電気鉄道計画を継承し、当時有松裏駅(現・有松駅)まで開通していた愛電有松線を延伸する形で、豊橋方面への路線の建設に着工した。東海道電気鉄道は当初から画期的な高速鉄道を目指しており、豊橋線はそれに見合う高規格で建設され、1927年(昭和2年)6月に吉田(現・豊橋)までの全線が開通した。この豊橋線は当時の愛知電気鉄道の資本金総額を上回る莫大な建設費用を投じて建設されたことから、この設備投資による負債が経営を圧迫し、さらに当時の日本はアメリカに端を発した世界恐慌による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛知電気鉄道は深刻な経営難に陥った。その後、景気回復と3代目社長である藍川清成以下経営陣の尽力によって、愛知電気鉄道は経営危機を脱している。
現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して発足したものである。
合併前の名岐・愛電の両社は、名岐が名古屋式経営と称される多くの内部留保を抱える無借金経営を行っていた一方、愛電は積極的な設備投資に起因する負債(当時の金額で226万円)を抱えていた。もっとも、経営規模・払込資本金額・経常利益・株式配当といった経営規模・財務内容はほぼ同等であった。
それまでの両社は、三重県方面への進出(伊勢電気鉄道の買収工作)や名古屋地下鉄道の運営方法など、当地域の鉄道運営の主導権をめぐって対立することも多かったが、当時の日本は世界恐慌を境として、大陸(現在の中国など)への進出・利権を廻って欧米列強との対決(戦時)色が強くなり始めたころであり、民間企業の間では国内(同一民族間)での競争・対立を止めて協調・合同(民族団結)へ向かう機運が次第に高まった時代であった。合併話が持ち上がった時点では、陸上交通事業調整法や戦時立法の国家総動員法も構想段階であったが、当地の交通事業を再編・統合して安定した鉄道輸送を図るべく、名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。
当初は両社とも合併には消極的で、特に名岐側は企業体質がまったく異なる愛電との合併に対して強い拒否反応を示したとされる。その後も名岐は「自社が愛電を合併する」という形態にこだわり、最終的に名岐鉄道を存続会社として愛知電気鉄道は解散し、合併後の新会社の社長には当時の名岐社長であった跡田直一が就任し、愛電社長の藍川は副社長となることが内定した。合併比率は名岐1対愛電1の対等合併とされた。
合併期日は1935年(昭和10年)8月1日と決定したが、新会社の社長就任が内定していた跡田が同年7月17日に死去したため、急遽藍川が繰り上がる形で現・名古屋鉄道の初代社長に就任した。このことを指して、旧名岐の社員からは「愛電による名岐乗っ取り」との声も聞かれたという。旧名岐の社員であった土川元夫(のちに名鉄社長・会長を歴任)は自身の自叙伝において、合併契約により取締役に次ぐ上級部長職である理事職(現在の執行役に近い職位)の割り当てを受けていたが、合併後に「お前はまだ若いから」との藍川の一言で降格され、他の旧名岐社員も同様に左遷されたことを振り返っている。
両社の合併によって現・名鉄という中核企業が発足した愛知・岐阜両県では、陸上交通事業調整法施行後も法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした鉄道事業者統合は、戦時体制への移行という時流の要請に沿って、その多くが事業者間の合意によって自発的に行われた。これは周辺の鉄道事業者の多くが名鉄と資本的なつながりを有する、または名鉄の子会社であったことが最たる要因として挙げられる。もっとも、名鉄と資本的つながりを持たない独立系事業者であった瀬戸電気鉄道および三河鉄道の合併に際しては交渉が難航し、後者については鉄道省による仲介の末、ようやく合併に漕ぎ着けている。
合併後の名鉄は最初の課題として、旧名岐鉄道路線(西部線)と旧愛知電気鉄道路線(東部線)の連絡線建設を進め、当時の省線(現JR)名古屋駅の移転跡地を譲受し、そこに新ターミナルとして地下駅の新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)を建設・開業し、新生名鉄(東西連絡)のシンボルとした。
新駅には手狭になった西部線のターミナル押切町駅を置き換える目的もあったため、まず西部線から建設を進め、次第に物資統制が厳しくなる中にあって1941年(昭和16年)に完成・開業させ、その後、東部線のターミナル神宮前までの路線建設に着手し、1944年(昭和19年)に連絡線が開通した。その間、太平洋戦争の開戦など情勢は日増しに悪化する中、戦時緊急整備路線の指定を受けて鉄道省(当時)の全面的な協力を得たものの、それでさえ建設資材の調達には困難をきわめ、不要不急路線・設備の転用を図り、さらには新名古屋 - 山王間の高架橋部分を一部木材で代用するなど、急場しのぎの工事であった。また、線路は一応つながったものの、当初同時期に予定された西部線の昇圧工事はこの情勢では見送らざるを得ず、金山駅を境にして以西は架線電圧が600Vに据え置かれ、結局、架線電圧が1,500Vの東部線とは直通運転ができないままに終戦を迎えた。なお、当初計画では、新名古屋駅地上には本社を兼ねた駅ビルの建設も予定していたが、情勢悪化を受けて基礎部分の対応工事のみに留められた。
終戦直後は、名鉄も他の各私鉄・国鉄(当時)と同様に車両や設備の疲労・消耗が激しく、定時運行もままならない、さらには満足な資材とて揃わない中ではあったが、いち早く西部線の主要各線を東部線と同じ1,500Vへ昇圧する工事に着手し、東西路線の一体化を戦後復興の第一目標に据えて取り組んだ。この結果、戦災の傷がいまだ癒えない1948年(昭和23年)には第一次の昇圧工事が完成し、新岐阜(現・名鉄岐阜)・新鵜沼・津島 - 新名古屋 - 神宮前 - 豊橋・常滑間などが一体的に運営(直通運転)されるようになり、現在の運行形態の基礎ができ上がった。
なお、合併前の1929年(昭和4年)にも先述の「名古屋地下鉄道」として直通路線の構想は存在したが、着工までに至らなかった。
戦後の混乱が収まるにつれて、名鉄も他の大手私鉄と同様に事業の多角化を図るようになり、その手始めとして、戦時中に計画が頓挫していた新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)の駅ビル建設に着手して百貨店を併設した。当初の計画では、地元の老舗百貨店松坂屋にテナントとしての出店交渉を進めたが不調に終わり、自前での百貨店経営を決意して、電鉄系百貨店の元祖である阪急百貨店の全面的な協力 を得て1954年(昭和29年)12月に名鉄百貨店を開業し、流通業界へ進出する足がかりとした。その後も沿線の団地を手始めに名鉄ストアー を開業して、駅の改修にあわせて順次出店を進めた。
1960年代になると、沿線各地の開発をはじめ、北陸地方への進出を図るため、現地の鉄道会社を中心に提携を持ちかけていった。手始めに福井鉄道を傘下に収め、当時、労働争議で揺れていた北陸鉄道へは労務管理のスペシャリストを派遣して徐々に労使の意識を「名鉄グループ」寄りへと導いていき、のちに傘下入りさせるなど、経営に深く関わっていった。富山地方鉄道に対しても経営(資本)参加を持ちかけ、中古車両(3800系=富山地鉄14710形)の融通や看板列車「北アルプス号」の立山駅乗り入れなどさまざまな経営支援を行ってグループ内への取り込みを図ったものの、良好な会社関係の構築以上には進展せずに終わり、結果として富山県への進出は1980年(昭和55年)ごろと大幅に出遅れることとなった。
他の地域への進出は名鉄側からアプローチしたものよりも、先方から経営参加を呼びかけられる例が多かった。前述の北陸鉄道の争議終結によって「労務管理の土川(名鉄)」と当時社長であった土川元夫の評判が地方交通事業者の間で一気に広がり、経営に行き詰まった会社が「立て直し」を依頼するケースが相次いだ。その代表例としては宮城交通・網走バスなどが挙げられ、それまで東北・北海道には進出の足がかりもなかっただけに、名鉄側も積極的に応じた。また、海外への進出も手がけるようになり、香港・サイパン・ミクロネシアには現地法人(観光施設・ホテルなど)を次々に立ち上げていった。
グループ形成のもう一方の柱として、名鉄本体から現業(保守)部門を分社化する形で独立させた事業がある。鉄道車両の保守・修繕・改造部門を分社化した「名鉄住商車両工業」、信号の保守部門を独立させた「名古屋電気工業」(現・名鉄EIエンジニア)、バスの整備部門をグループ内のトラック・タクシー会社と共通化して一般(自家用車)にも開放した「名鉄自動車整備」など、従来の鉄道・バス関連の保守事業で培った技術を使い、他社・一般向けの仕事も請け負うことで独立採算制(コスト部門から脱却して利益を生み出す仕組み)を導入するなど、1960年代からユニークな試みも行われた。また、分社化に際しては名鉄の100%子会社とはせず、それぞれ関係の深かった取引先からも出資を募って『合弁企業』の形態を基本とし、その点でも、昨今の私鉄各社に見られる保守部門等の分社化とは一線を画すものであった。
1973年(昭和48年)のオイルショックを境に低成長時代となり、名鉄も事業計画を大幅に見直さざるを得なかった。喫緊の課題として自家用車から転移した影響による通勤客の著しい増加に対応するため、事業投資も路線・車両・駅施設の整備など本業優先となり、本格的な「大都市圏鉄道」へと脱皮を促すきっかけとなった。それまでの名鉄は快適な車内設備(クロスシート車)にこだわり、いわゆる『通勤型車』(3扉以上のロングシート車)を持たない 大手私鉄として有名であったが、東京急行電鉄(のちの東急株式会社)から純通勤車(3880系=東急3700系)を緊急導入したのをきっかけに、1976年(昭和51年)以降は本格的な『通勤車』の導入(6000系)を開始し、朝夕の通勤輸送に本腰を入れて取り組むようになった。ほかにも、名古屋本線を中心に待避設備の整備を加速して列車設定(ダイヤ)の自由度を上げ、犬山線を中心に各駅ホームの有効長延長に取り組むなど旧弊な路線設備の刷新を行い、同時に駅建物の重層化(駅ビル建設)による不動産価値(賃貸料収入)の増大も志向した。
本業に多額の設備投資を続けざるを得ない中にあっても、運輸省(当時)が採った公共料金抑制政策の影響もあり、旅客運賃は長らく他の大手私鉄と同列に扱われ続け、名鉄特有の事情(多くの不採算路線の保有)から独自の運賃改定の必要性を訴え続けていたが、なかなか認められなかった。そんな中、1974年(昭和49年)の運賃改定では、他の私鉄にはない広範囲な擬制キロ(不採算路線の営業キロ割増し)を設定し、1983年(昭和58年)には大手私鉄では初めて単独での運賃改定が認められた。以降の運賃改定は徐々に名鉄特有の事情が認められるようになり、それに比例して老朽化した旧型車の取り替えや駅設備の近代化・整備が進められた。
グループ企業についても、低成長時代に合わせて全国的な展開より本業(鉄道・バス)に付随する関連事業への深度化が進められ、駅ビル建設にともない名鉄ストアーの出店を加速するなど流通事業への進出強化や、保有する広大な山林を開発して宅地分譲を行う不動産事業など、また、貨物輸送の終焉による駅周辺の遊休地を利用してスイミングスクールをはじめスポーツ・健康産業への進出など、名鉄沿線に密着した事業展開へと拡大の方向性にも転換がみられた。
昭和後期から平成初期にかけてのバブル景気のころは、新舞子・蒲郡など海辺を中心として沿線開発にもいっそう拍車がかかり、沖縄など遠隔地でもリゾート開発事業を手がけるなど、高度成長期と同様に手を伸ばせるだけ伸ばした感のあった名鉄グループであったが、新規事業は既存の事業の延長線上に展開された事例が多く、また、事業開発の面においては先発組より後発組に属することが多かった。このため、いわゆる「先行利得」を享受できたものはわずかであり、グループ内の事業規模(売上)は拡大したものの、利益面での貢献は期待したほどの成果をもたらすまでには至らなかった。
一方で、鉄軌道路線の整理縮減も再び開始され、1988年(昭和63年)に岐阜市内線の一部を廃止したのを皮切りに不採算路線の廃止を漸次進め、最終的には全営業路線の約5分の1に相当する路線の廃止を行った(「閑散線区の合理化・廃止」も参照)。これは、バブル後「失われた10年」による経済環境の厳しさに加えて、国鉄からJRへ移行したあとの猛烈な巻き返し(JR東海との旅客争奪戦)への対抗上、名古屋本線をはじめとする主要路線の設備投資に経営資源を集中させる必要と、収支悪化にともない不採算路線への内部補助(赤字補填)が利益を圧迫し始めた影響によるもので、全体の事業継続のためには廃止せざるを得ない路線に対して、沿線市町村との話し合いを行いつつ進められた。
1990年代のバブル崩壊後には非鉄道事業への投資が徐々に負担となり、事業の選択と経営資源(人材・資本など)の集中を余儀なくされた。手始めとして関連会社の整理・統合が行われ、グループ内で同様の事業を行っている会社同士を統合して間接費用(後方事務・管理部門など)の圧縮を試み、採算が悪化した事業(会社)の整理が行われた。
1999年(平成11年)3月期決算では名鉄総合企業の資金運用損失(株式譲渡損)180億円の計上をはじめ、文化レジャー事業やリゾート事業の収益低下により230億円の連結決算上の赤字となり、文化レジャー事業の一部施設の閉鎖が検討されるようになる。また、名鉄本体のスリム化に手をつけ、不採算路線の多いバス事業の分社化を積極的に進め、現在のバス事業をすべて分社化した形の基礎を築いた。
2002年(平成14年)9月には、不採算事業の撤退による固定資産売却損などの特別損失計上により、2003年(平成15年)3月期中間配当が1948年(昭和23年)10月期(半年間)決算以来55年ぶりの無配となる事態が発生。同3月期決算においては598億円の経常損失を計上し、55年ぶりに名鉄単体での赤字決算となった。これにより2003年(平成15年)1月に、不採算が続いた文化レジャー事業とバス事業を中心としたリストラ・事業分社化を柱とした2006年(平成18年)3月期までの経営合理化策を発表し、実行に移した。
2005年(平成17年)に開催された『愛・地球博』(愛知万博)を契機として東海地方の交通再編が行われることとなり、その目玉として中部国際空港の開港が決定され、それにともない名鉄も空港輸送を中心とした体制へと再編することになった。空港線の建設は名鉄が直接的な形では行わず、空港の関連事業の一環として「中部国際空港連絡鉄道株式会社」を設立して、同社が建設を行った。名鉄は空港線を第2種鉄道事業者(路線を借り受け運行のみを担当)として営業し、フィーダーとなる常滑線に関しては徹底的に路盤強化・カーブの付け替えなどを行い、空港連絡特急用車を用意するなどの設備投資を積極的に行った。
その後も車両・駅設備のバリアフリー・安全機能の対応などをはじめ、名鉄の特徴であった2扉クロスシート車の廃車(置き換え)を積極的に進めるなど、都市間連絡輸送から都市圏輸送を主体とした輸送形態への変更を推進している。また、IC乗車券への対応を前提とした駅設備・自動改札機の整備もあわせて行い、鉄道運営に関する総コストを圧縮するための設備投資を中心に行っている。これに関連して、車両設計においても鉄道会社独自の事情を考慮したフルオーダー設計から東日本旅客鉄道(JR東日本)が提唱した標準設計・部品に基づく車両の新造導入により、イニシャルコスト(車両単価)の圧縮も志向している。加えて、関連会社の整理・統合もさらに推し進め、以前に分社化した車両現業部門の再統合(名鉄住商工業の名鉄本体への吸収・直轄事業化)や、福井鉄道・パレマルシェ(旧名鉄ストアー)など不採算子会社・事業の譲渡を行い、他の私鉄各社と同様に名鉄グループ全体の採算性向上と連結決算利益を重視する経営に向けて一層の徹底を志向している。
2027年度に開業を予定しているリニア中央新幹線に備え、現在の名鉄本社ビル、名鉄百貨店、名鉄レジャックと隣接する近鉄百貨店名古屋店(近鉄パッセ)を再開発することが決定している。これに加え、これらの地下部に存在する名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一つのターミナル駅として一体化する方針も打ち出している。
2021年1月14日、中部経済新聞により、グループ体制を見直したうえで純粋持株会社体制への移行を検討していると報じられた。
1894年(明治27年)の創業時は市内路線の敷設に注力していたが、1912年(大正元年)に郊外路線へ進出後は主に尾張地方北部に路線を伸ばしていった。その後、市内路線を名古屋市へ譲渡するため1921年(大正10年)に郊外路線のみを独立(旧名古屋鉄道設立)させ、1930年(昭和5年)には美濃電気軌道を合併(名岐鉄道へ改称)して岐阜県南部へ進出し、1935年(昭和10年)には尾張地方南部・三河地方に路線を伸ばしていた愛知電気鉄道と合併(名古屋鉄道へ再び改称)し、第二次世界大戦中には愛知・岐阜県内の中小鉄道を合併(吸収)して現在の路線網が完成した。
総営業キロ数は、鉄道線437.0km、軌道線7.2km の合計444.2km、駅数は275駅におよび(2014年3月31日現在)、本拠地・愛知県内では高密度に路線が配置されている。幹線からローカル線にいたるまでさまざまな性格の路線を抱えており、路線1キロあたりの利用客や収入に関する比率は日本の大手私鉄の中では最下位である。総距離に対する幹線(たとえば名古屋本線)が占める割合は他の長大私鉄より比較的低く、多くの支線が分散する路線網からかつては「ミニ国鉄」と揶揄されることもあった。
2000年以降の600V線区をはじめとする相次ぐ赤字路線廃止が始まるまでは、JRを除く日本の民鉄の中で営業距離は近鉄に次ぐ2位、駅数は1位 であったが、2005年(平成17年)4月以降は営業距離では近畿日本鉄道(近鉄)と東武鉄道(東武)に続く3位、駅数では近鉄に次ぐ2位となっている。なお、過去には何度か営業キロが1位となった時期があり、1941年(昭和16年)に三河鉄道(99.9km)を合併して営業キロが500kmを超えたとき がその初めである。これは戦前の交通統合(合併)が関東・関西地区と比べて先行したことが影響している。その後、名鉄は1位ではなくなるが、東武が伊香保軌道線の一部廃止を始めた1953年度から再び最長私鉄となり、1965年に近鉄が三重電気鉄道を吸収合併するまで私鉄営業キロ1位を維持していた。
2003年から駅集中管理システムを、また乗車券確認システムを2005年6月29日から小牧線に、2006年4月29日から名古屋本線はじめ主要9線区に導入し、一部区間を除く全線に順次導入を進めるなど合理化を加速させている。
名鉄の路線網の特徴は、名古屋を中心に岐阜・犬山・常滑・豊橋方面の四方に路線が広がっていることである。各方面の路線から名古屋市内へ直通する列車の多くは名古屋市内を通過したあとに反対側の各方面の路線に入るという運行形態をとり、中核駅(ターミナル)の名鉄名古屋始発・終着となる列車は東西直通運転を始めた1948年以降、伝統的に多くは設定されていない。営業運転上は同駅止まりであっても、同駅で折り返しを行う列車は皆無であり、回送を含めたダイヤ上ではすべての列車が進行方向を変えずに運行している。
この運行形態は、名鉄名古屋駅を通過する乗客には乗り換える必要がなく、3面2線の駅構造で最大限の列車本数を設定できるメリットがある反面、行先が多方面にわたってダイヤが複雑化したり、各路線の列車が集まる金山 - 枇杷島分岐点間は複線のままであるため、日中時間帯も過密ダイヤとなるなどの短所も抱える。また、ある路線が事故などでダイヤが乱れると間を置かずに他の路線へも波及したり、運転を見合わせる区間が広範囲に及ぶ弊害もある。
1989年に金山駅が金山総合駅として整備され、1990年には神宮前 - 金山間の複々線化によって、金山駅発着(または折り返し)で名鉄名古屋へ向かわない列車が多数設定されるようになった。しかし、名駅地区の開発などを反映して、2008年以降は名鉄名古屋 - 金山以東の列車が増加傾向にある。また、近年では全体的な乗客の減少やワンマン化が影響して、名古屋本線から支線へ直通する列車は最盛期に比べると減少傾向にある。
なお、瀬戸線は名鉄他線とは接続がない孤立路線である。
名鉄では、旅客案内上「方面」名称を多用する。これは名鉄名古屋駅を中心として広がる路線網の展開する地域ごとに区分けしたもので、警察や軍隊における「方面」(方面本部、方面隊など)に似た概念である。これは前述の通り路線にかかわらず名鉄名古屋駅を直通する運転形態を重視している事情による。2000年代中ごろまでの路線図には、路線名ではなく方面名称が記されていたほどであり、沿線住民にも浸透している。名鉄の鉄道路線図は名古屋本線を除きこの方面ごとに色分けがなされてきた伝統があり、現在の名古屋本線以外の路線色(ラインカラー)はおおむね方面の色に由来する。三河線の路線色が知立を境に異なるのはこのためである。ただし、名古屋市営地下鉄上飯田線直通開始後の小牧線は独自色となっている(近年のラインカラーの変遷は日本の鉄道ラインカラー一覧#名古屋鉄道を参照)。こうした案内手法をとる日本の鉄道事業者は少なく、西日本旅客鉄道(JR西日本)の路線記号制(2014年 - )や京王電鉄の「ゾーンカラー」がやや似ている程度で後者は短期間で廃れている。
現在の路線図は路線名記載となり「方面」の使用は減少傾向にあるが、方面表記を主体とする路線図は名鉄名古屋駅の中央改札口前などにみられる(2018年現在)。
上記とは逆に同一路線でも運行形態が分断されている場合、同一路線を線区別に分ける際に「方面」が用いられることもある。かつて公式サイトでは三河線、尾西線、広見線が方面別に路線が区分されていたが、2019年3月現在は駅名による区間表記に改められている。
路線網配置の節で述べたように、岐阜方面と豊橋方面に支線を持ち、双方が名古屋方面に集中する。名鉄岐阜 - 豊橋・犬山 - 常滑など、名鉄名古屋駅を経由する電車がほとんどであり、路線が集中する名古屋本線枇杷島分岐点 - 神宮前間は上下ともに約2分30秒間隔で行き来する高密度運転区間である。金山 - 神宮前間の複々線ではさらに常滑線の普通列車が毎時4往復加わり、終日の上下列車本数は1,000本を超える。
名鉄の西半分を建設した会社である名岐鉄道は、市内線(路面電車)事業を発展させる形で路線を建設したことから、市内線の市営化後も1941年まで、名鉄の電車が市電に乗り入れて市内の柳橋駅をターミナル駅にしていた。
名古屋本線は古くからの市街地・宿場町を結ぶ目的で敷設された関係から、名古屋電気鉄道の建設した枇杷島橋(現・枇杷島分岐点)- 丸ノ内間、美濃電気軌道の建設した茶所 - 名鉄岐阜間と、愛知電気鉄道の建設した神宮前 - 桶狭間(現・中京競馬場前付近)間は曲線区間が多い。特に名鉄名古屋 - 名鉄岐阜間では、名鉄岐阜駅付近(最小半径100m)をはじめ、名鉄名古屋駅へ乗り入れる枇杷島橋以南の路線も最小半径130m(両者とも戦後に緩和されたがそれでも160m)の急曲線で建設したことから、並行するJR東海の東海道本線に対して所要時間・運賃いずれにおいても相当に不利な条件となっている。同じ名古屋本線でも、郊外の区間では高速運転を前提に敷設し、優等列車が120km/h運転(対応車のみ)を行っているのとは対照的である。
名古屋本線の伊奈 - 豊橋間のうち、平井信号場 - 豊橋間はJR東海飯田線と線路を共用している。1920年代中期、小坂井駅まで到達した名鉄の前身の愛知電気鉄道(愛電)が豊橋への延長を模索するにあたって、飯田線の前身である豊川鉄道が自社に並行する愛電線の建設を遮る動きがあったため、愛電・豊川鉄道がそれぞれ敷設した単線の線路同士を互いに共用することで複線として機能させる協定を結んだ。愛電が名鉄に、豊川鉄道が国鉄からJR東海の路線へとそれぞれ移管された現在でもこの線路共用の協定は継続している。このため同区間は、最高速度が飯田線の規格である85km/hに、豊橋駅の発着番線が1線に、列車乗り入れ本数が毎時6本以内(現行では快速特急・特急・急行とも各2本)にそれぞれ制限されるなど、名鉄ダイヤの大きなボトルネックとなっている。この影響で、毎時2本の急行が国府駅から豊川線へ分かれ豊川稲荷駅で、同様に本線系の普通も伊奈駅で折り返さざるを得なくなっている。一部の豊橋発着列車では、特急列車として運用された列車が急行列車になったり、急行列車として運用された列車が特急列車として運用されたりするケースがある。その際には特急車両を使用するため、特急以外の運用の際は特別車両部分を閉め切って営業している(回送でも記載)。
また、名古屋本線の名鉄岐阜駅ホームに入る直前も単線になっており、東海道線と直接競合する区間の両端にボトルネックを抱えていることになる。
名鉄線で使用されている踏切警報機は1980年代から、閃光灯を覆う部分が四角い独特の形状になっている。これは、自動車からの踏切視認性(特に警報時)を考慮したものであり、名鉄の特徴となっている。
2008年(平成20年)12月27日のダイヤ改正より7種類の列車種別が存在している。名鉄では列車種別のほかに「一般車」と「特別車」の概念があり、このうち特急以上の列車に存在する「特別車」の乗車には乗車券のほかミューチケットが必要である。ミュースカイは全車両が、快速特急と特急(全車一般車特急を除く)は2両分が特別車となっている(これらの詳細については「名鉄特急」を参照)。
1990年(平成2年)から2005年(平成17年)までの間、瀬戸線を除く各線は「特急」・「急行」・「普通」の3種別で運行されていた。2005年(平成17年)1月の中部国際空港開港にともなうダイヤ改正で、従来の特急・急行は停車駅によって細分化(「快速特急」と「特急」、「快速急行」・「急行」・「準急」へ種別を分割)され、各種別の停車駅の明確化を図った。
停車駅は種別ごとに一定の法則性は確保しているものの、同種別でも必要に応じて特別停車や特別通過、途中駅での種別変更を行っており、細かなニーズに対応している。前記した2005年(平成17年)のダイヤ改正以前は、平日ダイヤ換算で1日あたり延べ1,300回以上の特別停車が行われており、複雑な運行形態から「迷鉄」と揶揄される所以にもなっていた。2019年(令和元年)1月以後も、名古屋本線だけで平日下り82本、上り72本の列車が特別停車を行っている。
なお、1977年(昭和52年)より1990年(平成2年)まで、それ以前の追加料金が不要の「特急」を「高速」へ、「座席指定券」が必要な「座席特急」を「特急」へ種別呼称を改めて運行していたが、「特急」(指定席)と「高速」(一般席)を併結した形の「一部指定席(現・特別車)特急」へ変更したことで、再び「特急」に統合された。また、同様に1990年(平成2年)までは「準急」の種別も存在しており(現在と停車駅が若干異なる)、これに関しては「急行」の特別停車駅を増やして統合している(2005年(平成17年)の種別増加とは逆の流れとみなせる)。また、一つの列車が途中駅で種別を変更するダイヤも日常的に用いられている。過去には「特急」(座席指定)から「急行」・「普通」などへ種別変更を行う場合もみられた が、現在では「快速急行」以下の種別相互で行われている。
普通および一部路線の優等列車(▲△)は各駅停車。●▲は全区間、○△は一部区間を除いて設定。 臨時列車では定期列車に存在しない種別を設定する場合がある(毎年11月の岐阜基地航空祭開催日の各務原線など)
朝ラッシュ時は優等列車中心となる中での小駅の利便性を確保するなどのさまざまな事情により、一時期よりは減少したものの、列車種別の節で述べたような特別停車が多い。かつては朝ラッシュ時や臨時の特急列車や、椋岡駅(廃止)・学校前駅(廃止)・江吉良駅などでは近年(最終は椋岡駅の2006年)まで残っていた普通列車の特別通過もあった。特別通過は2011年3月26日のダイヤ改正で朝ラッシュの上り特急の笠松駅・新木曽川駅において復活したが、2023年3月18日のダイヤ改正で廃止されて消滅した。また、同様の理由で途中駅での種別変更も多く、中には2 - 3回種別変更する列車もあり、特に朝ラッシュ時にはさまざまなパターンが見られる。特別停車も見られ、日中でも行われる列車がある(佐屋・弥富 - 吉良吉田間の急行は豊明駅に日中も特別停車する)。
本線系の路線では始発列車・最終列車が普通列車ではなく優等列車となる場合が多い。終着駅への到着時間は遅くできないので、途中の駅を通過させることで都心から郊外への終電を遅くするためでもある。他社の路線ではあまり見られない特徴である。
ダイヤ策定の際に編成両数はあまり考慮されておらず、ドアカットが頻繁に発生している(種別表示には「締切」と表示される)。実施例については当該項目を参照。
以前は大晦日に、初詣客用として午前3時台まで普通列車(末期には神宮前駅と豊明駅、新一宮駅、犬山遊園駅、太田川駅の各駅間)を約1時間間隔で運転していたが、2004年大晦日の運転をもって中止した。
お盆期間(8月13日 - 15日)と年末年始(12月29日 - 1月3日)は休日ダイヤでの運行となる。ただし豊橋駅 - 伊奈駅間はJRに乗り入れていることから、JRが平日ダイヤとなるお盆期間と12月29日はJRに合わせて一部列車の豊橋駅発着時刻が通常より数分変更される。
毎年1月・2月(2月は土休日のみ)は豊川稲荷への初詣客用のために豊川線に直通する特急列車(全車指定席、のちに全車特別車)を増発していた時期もあった。2005年の空港線開業後は中部国際空港への輸送を比重に置いているため、豊川線内の区間列車の増発のみに留まっている。
名鉄名古屋駅付近の高密度ダイヤ設定のためや、きめ細かくスピードアップ(または逆に余裕時分の付加)を行うために、ダイヤ(列車運行図表)上の運転時分・停車時分は5秒単位で設定されている。極端な例をあげると、発車時刻が0分55秒であっても、時刻表には案内上00分発と表示され、01分発となることはない。なお、一部の支線は10秒単位、豊橋駅付近のJR共用区間は15秒単位となっている。
名古屋鉄道の新造車両は、名古屋臨海鉄道の機関車牽引によってJR東海道本線笠寺駅から名古屋臨海鉄道、名鉄築港線を経由して大江駅に搬入され、その日の終電後に豊明駅や舞木検査場などへ自力走行する。瀬戸線は孤立した路線のため、東名古屋港駅岸壁の日本国外輸出用の留置線でトレーラーに乗せ換えて、一般道経由で尾張旭の車両基地に搬入される。名鉄から他社に車両を売却する場合は逆の経路で笠寺駅まで出て、そこから売却先へと輸送される。 また、名古屋市交通局日進工場に搬入される名古屋市営地下鉄鶴舞線・桜通線・上飯田線の新造車両は、大江駅までは名鉄の新車と同じ経路をたどり、大江→金山→知立→豊田市→赤池の経路で名鉄の機関車が牽引する。これは名鉄において名電築港駅 - 赤池駅間の貨物輸送として取り扱われる。
なお、先述の東名古屋港駅岸壁では一般の輸出車両の積み込みも行われており、名古屋臨海鉄道の機関車が牽引して名鉄築港線の名電築港駅 - 東名古屋港駅 (0.4km) を走行する。これも名鉄において貨物輸送として取り扱われる。
過去、国鉄時代の刈谷駅では貨物扱いを行っており、側線を通じ名鉄刈谷駅で新製車両の搬入を行っていた時期があった。また瀬戸線も過去には大曽根駅構内にあった貨物扱い用の側線を使って国鉄線から車両の搬入・搬出を行っていたが、栄町乗り入れによる大曽根駅のホーム延伸にともない側線が廃止されたため、瀬戸線の車両搬入は前述の方法に変更された。
古い車両の解体は長らく名電築港駅(築港線と名古屋臨海鉄道東築線が交差する部分の空き地)で行ってきたが、2004年以降は大きく変化した。2004年〜2005年に廃車になった車両は間内駅近くの空き地で解体を行い、その後は再び名電築港駅での解体を行うも、現在は金属リサイクル工場へ車両を持ち込む形になっている。持ち込みに際し名電築港駅で車体を半分に切断することもあるが、直接の解体は2009年に廃車になったパノラマカー7011Fが最後になっている。
-の右側は主な乗務区間(列車により相違あり)
社員の制服は2014年6月以降はダークネイビーを基調としている。 冬季に上着を着用する場合、駅乗務員などの係員は「PRU(私鉄総連)」のバッジを着用している。夏季は開襟シャツを着用する。なお、役職によって上着の形状が異なり、管理職以上はダブルの上着を着用。制帽に関しては、役職によって巻かれている線の太さが違い、乗務区長・幹事駅長や駅長・副区長・副駅長、各主任などの管理職は赤帯に金線2本。主任補佐、駅長補佐、上席助役、助役は太い銀線1本(駅の当務助役は赤帯が追加される)。助役補佐、役職なしの係員は細い青線1本である。
車掌から運転士に対する出発合図は、電鈴を使用する場合は短2音である。運転士はワンマン列車以外は車掌からの出発合図を受けなければ発車してはならない。大半の車両は「チン、チン」と鳴るベル式の電鈴を装備しているが、2002年登場の300系以降の新造車両はブザーを採用しているため、合図は「プッ、プッ」となっている。また、進行方向後ろの乗務員室からホームが外側にカーブしているなどで、列車全体の乗降確認ができない場合、運転士が見えない部分の乗降確認を行い、車掌に乗降完了を知らせるために鳴らすことがある。この場合も短2音である。
以前、車掌が駅発車時の側面監視をする際、相互直通運転をしている名古屋市交通局や京阪電気鉄道同様、車内電鈴スイッチに手をかけて行い、非常時には電鈴を乱打して(「直ちに停車せよ」を意味する)、運転士に非常ブレーキを要求する方式をとっていたが、2016年夏ごろに大半の鉄道会社同様、車掌弁もしくは非常ブレーキスイッチを掴んで側面監視を行い、非常時には車掌が直接非常ブレーキを扱う方式に変更されている(ただし6000系初期車や100系のように車掌弁が進行方向と逆についている車両や、乗り入れてくる名市交車のように乗務員扉の上に非常ブレーキスイッチがついている場合など、物理的に車掌弁を掴みにくい車両については、引き続き電鈴保持を行うこともある)。
駅到着番線(入線ホーム)の伝達も電鈴が使用される。これは到着番線が列車によって異なる名鉄岐阜駅で主に行われており(それ以外の駅でも行われる場合はあり)、運転士が信号・進路などを確認、電鈴を使用して車掌に合図(1回で進行方向右側、2回で進行方向左側)を送り、車内アナウンスで下車扉を正しく案内できるように補うものである。この場合は、車掌が電鈴を待ってから下車のアナウンスをするケースが多い。
普通列車などが優等列車を通過待ちするときは、停車中の列車乗務員は必ずホームに立ち通過監視を行う。そのとき、運転士はブレーキハンドルを非常ブレーキにセットし、リバースハンドル(主幹制御器に取りつける前進・後進の切り替えハンドル)を所持してホームに立つ。なお、固定式ワンハンドル列車の場合、リバースハンドルの代わりにマスコンキー(固定式ハンドルを動かすために使う鍵)を所持し監視にあたる。ただし、運転席が2階にあったパノラマカー(現在は運用を離脱)では、運転席からホームへの移動が大変なため行わない場合が多かった。車掌はリーズブックと呼ばれる釣り銭の入ったものを持ち、ホームに立つ。原則として、ホームの非常停止ボタン付近に立つことになっている。
運転士のスタフ(社内では「運転時刻カード」と呼ばれている)は進行方向から見て左に置かれている(2000系・1700系と名古屋市交通局3000形・3050形のみ構造上右側)。そのため指差確認はJRのように右手で行わず、左手で行っている(ブレーキハンドルから手を離さないためでもある)。なお、6000系などの2ハンドル車において、力行中マスコンから手を離すとデッドマン装置が動作してしまうため、加速中に指差確認を行う場合は、マスコンから手を離さず、左手人差し指を対象物に向ける動作で済ませている。
運転中の指差称呼はJRに比べて少なめで、基本的に指差確認称呼を行うのは、発車前に行う次停車駅の確認と出発信号機(警戒表示以上)の確認、駅の停止・通過確認で、分岐点(平井信号場と枇杷島分岐点)や待避線がある駅の通過側信号確認時に行い、それ以外(閉塞信号機表示確認・制限速度確認等)では口頭で済ませる。
増解結を行う際、作業を担当する駅員は必ずヘルメットを着用する。作業で使用する旗もしくは合図灯は、赤が「停止」、緑が「進行」である。
速度制限標識は、制限速度の下に曲線(半径m単位)、下り勾配、分岐(方向は矢印で表示)、構内、ATSなどの理由が記載されている。これが数字のみのものは制限速度で通過した場合の速度制限を受ける秒数を表す(JRなどのような距離ではない)。いずれの場合も口頭では制限速度のみを称呼する。
閉塞信号機の名称番号は、キロポストに基づいた起点からの距離 (m) ÷100の近似値が方向により偶数・奇数に分けて付番されている。口頭では現示と進行・停止以外における制限速度のみ(「注意65」「減速85」など)を喚呼するが、豊橋 - 平井信号場間のJR共用区間ではJRの規則に従って「第3閉塞・注意45」「第2閉塞・減速65」のように称呼する。なお、信号喚呼位置標識はJR共用区間を除いて信号警標の基本デザインたる縦長方形で黄色地に黒縞が斜めに2本入ったものである。
ほかに名鉄独特の標識としては、指示速度やパラレル止めなどのノッチ指定を記した力行標や惰行標(通称オフ板)があるが、名古屋本線では1990年代にスピードアップが進む過程で撤去されほとんど残っていない。したがって現在は、本線ではフルノッチに投入し区間最高速度まで上げる走行が原則となっている。なお、制動標(通称H板、本来はHSCブレーキ車用制動標。自動ブレーキ車用はA板であった)については各線とも引き続き掲出され、分岐方(副本線)用の表示にはブレーキ初速度を併記している。
単線区間での列車交換(行き違い)のことを、名古屋鉄道では離合と呼んでいる。
名古屋鉄道の運賃は営業キロではなく、あらかじめ一定の割合を乗じた「運賃計算キロ程」によって運賃を計算する。計算方法は以下の通り(子供は半額、5円の端数は切り上げ)。運賃額は2019年10月1日改定時点。
乗車券類には淡黄色で「Meitetsu」と地紋が印刷されている。また、磁気定期券には偽造防止用に薄くピンク色で「M」と書かれている。
新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)発行の乗車券は、今までに淡青色・淡緑色など他駅とは違った地紋色を使用していた期間がある(1950年代には発駅地帯ごとに地紋色を変えていた時期があった)。
かつての「座席指定券」(現・ミューチケット)は淡黄色の地紋が基本で、ほかに淡緑色・淡紅色などもあった。オンライン発券開始(1983年)以降は淡緑色の地紋を使用していたが、普通乗車券なども発売できる「複合端末」導入後は他の乗車券類と共通の地紋に変更されている。
かつては設備面などにおいて他の大手私鉄会社と比較すると近代化が立ち後れている面が否めなかった。しかし中部国際空港の開港や名鉄グループ内での大幅なリストラ、トランパス導入にともなう駅集中管理システム導入の推進などもあって、近年はユニバーサルデザインのピクトグラムを導入するなど首都圏の大手私鉄会社にひけをとらない水準にまで向上している。しかし一部の主要駅では一世代前(CI展開初期)のものが使われている駅もある。
JRの敷地内にある豊橋駅と弥富駅を除く名鉄駅のホームの表示はJRのように駅舎がある側から1番線、2番線...ではなく、その駅の所属する路線の下り方向を向いて左側から1番線、2番線...と表示している(西尾線・蒲郡線・三河線山線の一部・尾西線の一部を除く)。
各主要駅のホームや改札口などに設置されている発車標は名鉄名古屋駅で液晶式のものが使用されているのを除くと、行灯式や反転フラップ式のものが広く使われていたが、近年のバリアフリー化などにともない、それらは順次LED式のものに交換され、いずれもその数を減らしつつある。なお、LED式のものについては、従来は3色式であったが、交換もしくは新設されたものは種別部分のみフルカラー表示(ただし、喜多山駅の発車標はすべてフルカラー表示)となっている。
主要駅の乗車位置は1 - 16と2扉車用に表示されている。しかし、現在は3扉車の割合が高くなっていることから、奇数と偶数の間に「3扉車の中間扉」の表示をつけた駅や、1 - 24と3扉車を前提に表示されている駅もある。地下鉄に直通している小牧線と豊田線は4扉で統一しているため、小牧線(4両)は1 - 16、豊田線(6両)は1 - 24になっている。
車内放送はミュースカイ、特急列車(全車一般車は除く)、犬山線の鶴舞線直通列車、豊田線、瀬戸線やワンマン列車では自動放送で案内される。また特急列車や三河線のワンマン列車では英語での案内放送を行なっており、かつては特急列車と急行列車の一部で中日新聞ニュースも文字放送で流していた。
LEDの車内案内装置を搭載している車両では走行中、列車の走行を模した速度表示が行われることがある。左側に速度を表示し、速度に合わせて右端から車両が姿を見せ、最高速度 (120km/h) で速度表示の隣に達する。また、下段は線路をイメージしており、速度に応じて動きが変化する。なお、出てくる車両の形は系列によって異なっている。
列車の案内放送は、基本的に「種別・行先」の順(例:快速特急・新鵜沼行き)であるが、駅ホームの自動放送では「行先・種別」の順(例:犬山行き普通)である。しかしながら、最近になって自動放送装置が更新された駅では「種別・行先」の順で放送される。なお、近年投入された車輌には、乗降促進メロディの吹奏装置が設置されている。ただし、鶴舞線直通用の車輌と3100系3次車は「プルル、プルル、プルル」という音の交通局で使われているものと同一(ただし若干音が甲高い)の発車の際に鳴らすブザーが設置されている。
列車の行き先の中には、須ヶ口、佐屋、柏森、伊奈など地元住民・利用客以外は所在地・行政名をすぐに連想できない駅名がいくつかある。そのため特に名鉄名古屋駅では「名古屋本線・伊奈行き急行」、その他の駅では「名古屋方面・急行須ヶ口行き」や「津島方面の電車がまいります」などのような案内放送が聞かれる。過去、支線直通が盛んな時代には特急森上行き、今渡行きなどの列車もあり、系統板の使用が一般的であった時代には、行先横に『名古屋方面』と肩書き(朱書き)されたり、『名古屋』を中央に大書し下部に『方面』、横に小さく本来の行先(『今渡』など)を配した系統板が多用された。
準急以上の列車が各駅停車の区間を走る場合、種別表示幕の表示は時刻表上の種別表示に従う。岩倉以北の準急、豊川線、知多新線などでは、普通に種別変更しない限りは優等種別を表示したまま運行する。
種別板を使用する列車の場合は、1964年ごろから各編成の前頭部に全種別をセットした種別板を装備(常備) し、普通列車は無表示(車体色と同色)の板を使用する。7700系までの各系列・車両(ただし、種別も一体で表示する「逆さ富士」板が装備された7000系・7500系などをのぞく)では系統板とともに日常的に使用されていたが、7700系の廃車(2010年3月)以降は種別幕の故障(破損)などで臨時に使用される場合に限られる。種別板は1964年(昭和39年)5月6日に表示改正され、特急が白地に赤字、急行が黄地に黒字、準急が緑地(青地)に黒字と制定された。その後の変遷は以下のとおりである。
数多くの鉄道会社の合併や運営路線の譲り受けによって成立した名古屋鉄道は、多くの閑散線区を抱えることになり、そうした線区の合理化・廃止が進められてきた。特に、トヨタ自動車を核とした自動車産業が盛んな愛知県では車社会の進展が早く、1950年代から路線の廃止が相次いでいる(ただし近年廃止された路線の多くは岐阜県内の路線である)。1984年には広見線・八百津線にレールバス導入・ワンマン運転化がなされ、1985年に三河線・猿投 - 西中金間、1990年に三河線・碧南 - 吉良吉田間にもレールバスが導入された。鉄道事業法が2000年に改正され、それまでは許可制で所轄官庁の許可が必要だった鉄道廃止が届出制に変わると、閑散線区の廃止を相次いで表明している。
名鉄は合併によって閑散線区を抱えたのと同様に、前身事業者の施策の違いによって駅間距離が短すぎる線区も多く抱えることになった。そのため、名鉄はスピードアップや駅勢圏の調整といった合理化策の下で駅の廃止、統合を個別に実施したほか、過去二回、全線にわたる駅の整理を行っている。
一度目の整理は1944年に実施された。輸送力や資材を確保するために閑散路線が「不要不急線」として休止されたように、乗降客の少ない小駅が相次いで休止されている。戦後に復活した駅も少なくないが、復活しなかった駅の大半は1969年4月5日に廃止手続きがとられた。
二度目の整理は駅集中管理システム導入にともなう閑散駅の削減である。2001年度より導入が始まった同システムは、自動改札機・自動券売機・自動精算機・列車接近警報装置を該当駅に設置し、近隣の管理駅から遠隔操作するものである。これらを全駅に導入するにあたり、費用対効果が低い小駅の廃止が検討された。
駅集中管理システムは2007年度までに全線全駅で導入される見込みであったが、弥富駅、広見線明智駅以東、蒲郡線(吉良吉田駅を除く)には導入されなかった。導入前は有人駅であったが導入後は無人駅となった駅も多く、ミューチケットや企画きっぷなどを購入できないケースも出てきている(のちに一部の無人駅でもタッチパネル式の新型自動券売機を利用すればミューチケットを購入できるようになった)。
かつてはバス事業も行い、名古屋駅からの高速バス、名古屋空港へのバス、路線バス、観光バスなどを展開していた。2004年10月1日から、愛知県内は名鉄バスとして分社され、岐阜県内はグループ企業の岐阜乗合自動車(岐阜バス)に移管された。また、名鉄バスとして残った路線も、一部路線について運営を子会社などに委託するケースが現れている(例:犬山地区路線の「岐阜バスコミュニティ」への委託等〈2006年12月に名鉄バスは犬山地区の運営から撤退し、委託先だった岐阜バスコミュニティに路線のすべてを移譲した〉)。
名古屋鉄道は、博物館明治村やリトルワールド等の施設を経営していたことでも知られ、これは「文化レジャー事業」としていた。しかし名鉄の1999年3月期決算で名鉄総合企業・バス・レジャー事業といった関連事業を起因とする連結決算での赤字計上により、陸運事業のリストラのほか、知多新線沿線の開発にともない開業したレジャー施設の閉鎖が検討された。このうち阿久比スポーツ村の運営撤退(現・阿久比町立阿久比スポーツ村)を除いて撤回されたものの、2003年3月期の中間・期末の両方で無配となったことにともない、2003年1月にグループ合理化策を発表した。
特に不採算が強かった以下の事業については名鉄直下で廃止された。
その他の文化レジャー施設を経営・運営する子会社として「名鉄インプレス」が設立され、2003年10月から次のような体制に変化した。
閑散駅の合理化で駅員非配置の駅が増えたことや、トランパス導入に際してカードにプレミアムをつけたこと、合理化のためもあって、昨今では大幅に「パノラマパック」などの企画割引乗車券を廃止する傾向が出ている。普通回数乗車券は他の大手私鉄に先駆けて2012年2月末で販売終了した。近畿日本鉄道・南海電気鉄道と共同で出していた「3・3・SUNフリーきっぷ」も、2006年夏限りで廃止した。
名古屋鉄道、およびその前身となった鉄道にも数多くの幻となった路線が存在する。一部は以下のとおりである。
バス・文化レジャー事業の分社化のあと、本社の鉄軌道事業以外の事業は、全日本空輸の航空代理業、ビル、駐車場などの賃貸、土地の分譲などとなり、これを「開発事業」と呼称している。
名鉄は、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、名古屋地区総代理店として愛知・岐阜・三重・静岡・長野の5県の全日本空輸の業務を行ってきた。総代理店とは、全日本空輸の黎明期から、各就航地において、地元の有力企業に全日本空輸の市内(営業)・空港業務を委託した制度である。名鉄では、名古屋・静岡・長野(市内業務)と名古屋空港(空港業務)の4航空営業所を展開して、名古屋空港(現・県営名古屋空港)の空港ハンドリングも含め全日本空輸総代理店業務を推進してきた。中部国際空港の開港で名古屋空港航空営業所は廃止され、中部空港航空営業所が設置された。また、ANAセールス株式会社の展開で総代理店の市内業務の中身も変化した。最後まで残った総代理店業務も、名古屋予約センター・栄カウンター業務は2006年12月末で、中部国際空港国内線旅客・貨物業務は2007年6月末で契約終了、業務は終了した。現在、名古屋カウンター業務はANAセールス株式会社が、中部国際空港ハンドリング業務は、名鉄も出資しているANA中部空港株式会社(元の国際エアラインサービス)で行っている。
また、全日本空輸の名古屋 - 南紀白浜線が就航していた当時は、白浜航空営業所を設置して南紀白浜地区総代理店業務を受託していた。
現在の競合はJR東海との間で繰り広げられているが、過去には近畿日本鉄道(近鉄、現・近鉄グループホールディングス株式会社)や東京急行電鉄(東急、現・東急株式会社)と路線やグループ企業の拡大をめぐって競合していた時期がある。
昭和初期の三重県には伊勢電気鉄道(伊勢電)が、岐阜県の西部には養老鉄道(養老鉄道養老線の前身だが2007年10月より同線を運営している養老鉄道とは別企業)が営業を開始していた。当時の名岐鉄道は三重県への拡大を目指しており、昭和恐慌の影響で経営難に陥っていた伊勢電に触手を伸ばし、名古屋 - 桑名間の路線免許を申請していた。同時期、近鉄の前身の一社である参宮急行電鉄(参急、のちの関西急行鉄道)も名古屋進出の足がかりとして伊勢電を欲しており、両社が吸収合併を目的とした支援合戦を繰り広げていた。結局、この争いは参急側に軍配が上がり、現在の近鉄名古屋線の大部分を占める重要路線を手にした。
なお、1960年ごろ(近鉄名古屋線の狭軌時代)まで、新名古屋駅(当時、現在の名鉄名古屋駅)と隣接する近鉄名古屋駅の間には連絡線が敷設されており、名鉄線 - 近鉄線相互間で団体列車に限り直通運転を行っていた。また、戦前から戦後の一時期に新名古屋駅で近鉄線の発券および改札を行っていた時期があった(2001年までは、名鉄線各駅 - 近鉄線各駅相互間の連絡切符も通常発売していた)。
その後、近鉄は1959年の名古屋線の標準軌改軌(名阪直通特急の運転開始)を境にして、名鉄の牙城である東海地方への進出を積極的に行うようになり、1961年には、旧養老鉄道岐阜線免許を使用して大垣 - 羽島間の新線の建設を発表、さらに岐阜への延長を画策した。名鉄では対抗策として岐阜から羽島を経由して養老を結ぶモノレール線の建設(この計画は、のちに羽島線建設に変更・縮小された)を発表するなど、高度経済成長期の事業拡張にともない、両社の関係は再び険悪化して行った。
他にも、名神高速道路が一宮まで開通した折には高速バスの路線免許をめぐって争いが発生し、名鉄主導の日本急行バスで一本化が決まっていた私鉄系のバス会社(路線) に対し、土壇場で近鉄主導による日本高速バス(現・三重交通グループホールディングス・名阪近鉄バス)が参入を強行し、開業後も激しい競合のために両社が共倒れ寸前に陥りかけた。また、近鉄がテリトリーとしていた石川県において、名鉄が中部運輸局(運輸省・当時)の要請に呼応して北陸鉄道の支援を行った際には、対抗措置として北陸日本交通なるバス会社の設立を目論む(のちに北日本観光自動車へ合併させるが、路線拡大は却下された)など、名鉄と近鉄の両社は1970年ごろまで激しく対立していた。
しかし1980年代以降、次第に両社は競合から協調関係に入り、名鉄各駅や電車内に近鉄グループの「志摩スペイン村」や近鉄特急アーバンライナー・ひのとりなどの広告を、近鉄各駅や電車内に名鉄グループの「明治村」や名鉄特急ミュースカイなどの広告を互いに出すようになり、南海電気鉄道とともに「3・3・SUNフリーきっぷ」(2006年に販売終了)を発行するなど、近鉄とは完全な提携関係を築いている。また、名鉄名古屋駅のタクシー乗り場は「名鉄・近鉄タクシーのりば」として、名鉄交通など名鉄グループに加え、名古屋近鉄タクシーも乗り入れている。
2012年には、名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一体化し、相互の乗り換えを便利にする構想が発表された。
2013年3月23日には名鉄で発行しているICカード乗車券「manaca」が近鉄線で、近鉄で発行しているICカード乗車券「PiTaPa」「ICOCA」が名鉄線でそれぞれ利用できるようになった。また、2014年9月21日には近鉄とのmanaca・ICOCAのIC連絡定期券も発行された。
名鉄はグループ展開を行う過程において、東京急行電鉄(東急グループ、現・東急株式会社)と激しく競合・対立していた時期がある。そのもっとも有名なものとして「全日本空輸」(全日空、現・ANAホールディングス)設立時の経営権をめぐる争いがあげられる。全日本空輸は「日本ヘリコプター輸送」(日ペリ)と「極東航空」が合併して誕生したが、当時の日ペリは名鉄が経営権を握り、極東航空は東急系列として誕生していたため、合併後の経営権をめぐって、株式や株主総会の議決権を委任する委任状の取得合戦を展開するなど、一時はお互い一歩も引かぬ総力戦の様相を呈した。やがて名鉄は争いに疲れて全日本空輸の経営権を諦めるが、近年になって東急側がグループ再編の一環として全日本空輸株の一部を名鉄側に譲り渡し、再び名鉄が筆頭株主となり中部国際空港の開港を契機として、名鉄と全日本空輸はいっそう結びつきを増している。
また、北海道東部を自社グループのテリトリーとしていた東急は、名鉄が「網走バス」の支援を決めるとさまざまな対抗策を打ち出して、名鉄の北海道進出を阻止する動きを見せた。その一つとして、名古屋の観光バス業界では老舗である「鯱バス」が経営難に陥った折、名鉄に先んじて有利な支援を次々に行った。名鉄も地元の名門を手に入れるチャンスであっただけに、熾烈な支援合戦を展開したが、結局東急は「鯱バス」をグループへ取り込むことに成功して名鉄に一矢報いている(なお鯱バスは2009年10月1日をもって東急グループから離脱しジェイ・コーチグループに入り、網走バスも2012年に名鉄グループを離脱した)。
2006年7月15日より放送が開始された同社の企業広告である「いってらっしゃい。おかえりなさい。名古屋鉄道」のCMソングに、シンガーソングライターの小田和正が楽曲を提供。デビューから37年が経つ小田が地方ローカルCMへ楽曲を提供することは初めてであり、小田のファンや鉄道ファンの話題を呼ぶ(楽曲名『大好きな君に』・アルバム「そうかな」収録)。2008年10月からは「ありふれた日々篇」の放送が開始され、使用楽曲は小田が1993年に発表した「風の坂道」に変更となる。CMタイトルの「ありふれた日々」というのは「風の坂道」の歌詞からの引用である。また小田和正関連では、後述する「エモーション」にもCM楽曲として「キラキラ」を提供している。
かつてはダイヤ改正の都度「名鉄時刻表」を発行し、主要駅や駅サービスセンター、駅構内売店、名鉄観光主要支店および名古屋鉄道ショッピングサイト「M‐M@LL(エム‐モール) 」などで販売していた。2019年改正時など、近年の改正では名鉄時刻表が販売されなくなっていたが、2021年10月のダイヤ改正では公式ホームページ上に路線別時刻表というページを設け、名鉄時刻表と同形式の時刻表をPDF形式で公開した。
毎月、沿線の観光情報や名鉄の取り組みを紹介する『Wind』という冊子を発行している。Windは名鉄の有人駅や、近鉄の主要駅などで配布、およびWebサイト上でデジタルブックとして公開されている。
近年では犬山(日本モンキーパーク・博物館明治村など)の観光PRを強化しており、近畿圏や首都圏の大手私鉄の広報誌でのコラボ企画や吊り広告の展開を行っているほか、「エモーション」と銘打った沿線を軸にした企業広告活動も展開している。
沿線の施設などでイベントがある際は、宣伝も兼ねてラッピング車両が走ることがよくある。代表的なものでは、春から夏の時期に子供たちに人気のあるポケットモンスターのラッピングを2000系などに施すことや、受験シーズンのキットカットのラッピングなどがあげられる。
2012年からメ~テレで放送されている『名古屋行き最終列車』シリーズの制作には、終電後や臨時列車を走らせての撮影も実施するなど、全面協力している。
テレビでは提供クレジットは英字で「Meitetsu」と表示されるが、読み上げられる場合は日本語で「名古屋鉄道」となる。なおグループの名鉄百貨店は異なるロゴの「MEITETSU」をクレジットに使用している。
ほか。
2002年、中京競馬場でスタートしたレース「名鉄杯」に賞を出している。中央4場では観客輸送に関わる大手私鉄が賞を出しているが、それに続く形となった。発走時のファンファーレは通常の中京・小倉共通特別競走(非重賞)用のものではなく、パノラマカーのミュージックホーンをアレンジしたものが名鉄ブラスバンドにより生演奏されており、中京のファンに親しまれている。
また中京競馬場の施設運営を行う名古屋競馬株式会社の出資者でもあり、同競馬場内にはかつて現役で運用されていたパノラマカー7000系の車両を利用した「ビュッフェ・パノラマステーション」がある。
なお競馬開催時の臨時列車は現在設定されていないが、最寄の中京競馬場前駅には急行と午前中の快速特急が臨時停車する(場外発売時の土曜日は夕方のみで特急系列は通過、日曜は夕方まで、開催日は場外日曜時より早い時間帯から急行の停車、高松宮記念とチャンピオンズカップおよび有馬記念当日は夕方の特急・快速特急も停車)。
名鉄はボートレース常滑にも名鉄杯争奪納涼お盆レースとして毎年賞を出しており、地元選手が一堂に会するボートレース常滑のお盆の風物詩となっている。なお、過去にはボートレース常滑の開催日に臨時列車を運転していたがこちらは廃止されている。なお、ムーンライトレースのボートレース蒲郡には名鉄ではなく名鉄バスが賞を出しており、名鉄バス杯争奪戦が行われている。
2013年現在、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、単体で発行済株式の2.07%をもち、前述したようにかつては全日本空輸総代理店業務を行っていた。
1952年(昭和27年)に全日本空輸の前身となる「日本ヘリコプター輸送(日ペリ航空)」が設立された際に名鉄は出資を引き受けて関係を持つようになったが、日ペリ航空の経営は苦しい状態が続き、1954年(昭和29年)に名鉄に対し資金援助を要請。名鉄は当時の金額で3,500万円を融資し、窮地から救った。全日本空輸創業以来の役員で1987年(昭和62年)当時副社長であった福本柳一は手記の中で次のように述べている。
「名鉄が全日空生い立ちのために(中略)神野社長以下3代にわたり何くれとなく尽くしてくれた並々ならぬ恩義に対しては、いやしくも全日空の食をはむ者の断じて忘れてはならないことである」
その後も、名鉄傘下の中日本航空が運航していた定期路線便は1965年(昭和40年)に全日本空輸に譲渡、名鉄、中日本航空、全日本空輸3社の出資でコミューター会社の「エアーセントラル」(現・ANAウイングス、旧・中日本エアラインサービス)の設立など両社は現在にいたるまで常に深い関係にある。また、金山駅南口にある「金山南ビル」の「ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋」も名鉄と全日本空輸の協力関係の中で設立されている。
そのほか、御園座などにも出資しており、かつては丸栄や名古屋観光ホテルにも出資していた。
1951年からは中日ドラゴンズに出資(これにともない、球団名を「名古屋ドラゴンズ」に変更)、中日新聞社と隔年で球団経営を行ったが、3年で撤退。その後、球団数拡大を目指すパシフィック・リーグから新球団設立の話を持ちかけられたが、中日との観客の奪い合いによって共倒れになることを恐れたため断っている。2リーグ分裂の話が持ち上がった1949年にも、プロ野球への参入を考えていた朝日新聞が、名鉄と地方紙「新東海」を提携させて鳴海球場を本拠とする新球団を発足させる構想(「朝日レッドソックス」という名称が報じられたこともあった)があった。
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"text": "名古屋鉄道株式会社(なごやてつどう、英: Nagoya Railroad Co.,Ltd.)は、東海地方の愛知県・岐阜県を基盤とする鉄道会社である。通称、名鉄(めいてつ、Meitetsu)。日本の大手私鉄の一つで、民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ老舗企業である。",
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"text": "本業の鉄道業では、愛知・岐阜両県に総営業距離では近畿日本鉄道(近鉄)・東武鉄道(東武)に次いで日本の私鉄第3位(JRを除く)の444.2kmにおよぶ路線網、275駅を擁する(詳細は「路線」節を参照)、中京圏を本拠とする唯一の大手私鉄である。年間利用人員はおよそ2億9623万5000人(2020年度)、旅客車両数は1,076両(2021年3月31日時点)である。",
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"text": "名古屋鉄道は東海銀行(現・三菱UFJ銀行)・中部電力・東邦瓦斯(東邦ガス)・松坂屋(現・大丸松坂屋百貨店)と共に名古屋経済界の中核名門企業、旧「名古屋五摂家」の1社に数えられる。東海地方を中心に数多くの不動産を所有する企業であり、これらの「開発事業」も経営の重要な柱となっている。レジャー・流通産業など関連事業を中心に多角的な企業展開を行っており、連結決算の対象・非対象あわせて200社以上のグループ企業を擁する名鉄グループの中核的企業である。",
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"text": "社章は中央に図案化した「名」を、鉄道の象徴である「工」を5つ円形に配置したものである。5つの「工」は五徳による社員の総親和を表すとともに、名古屋から放射状にのびる路線網も表現している。CI導入以降は掲示物などへの使用が全面的にシンボルマークへ切り替えられており、100系の前面飾り帯の装飾など現存箇所は少数に留まっている。",
"title": "社章・シンボルマーク・コーポレートカラー"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "現在の名古屋鉄道は、太平洋戦争の終結以前に中京圏の多くの鉄道会社が合併して成立したものであるが、その起源は1894年(明治27年)6月に名古屋市内で馬車鉄道を運行する名目で設立された企業の愛知馬車鉄道である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "愛知馬車鉄道は当初、馬車鉄道を敷設するための特許を得ていたが、計画を電気鉄道に変更し、1896年(明治29年)に名古屋電気鉄道に社名を改めた。1898年(明治31年)には、京都電気鉄道(のちに市営化され京都市電となる)に次ぐ日本で2番目の電車運行を開始。以後、同社は市内各所へ網の目のように路線網を構築していった。1912年(大正元年)には初の郊外路線(郡部線)を開業させ、以降は尾張北中部の各市町と名古屋市を結ぶ郊外路線を充実させていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1921年(大正10年)、市内線の市営化が決定する。その前段階として名古屋電気鉄道は6月に郊外線部門を引き継ぐ(旧)名古屋鉄道を新たに設立し、第二の創業とした。翌1922年(大正11年)8月には名古屋市電気局(のちの名古屋市交通局)へ市内線部門を乗務員ごと譲渡して名古屋市電が発足し、(旧)名古屋鉄道の発足後も市内線の営業を続けていた名古屋電気鉄道は解散した。なお、市営化後も柳橋 - 押切町間の郊外線から市内線への乗り入れ(営業権)は、譲渡条件として保持されたまま(当該区間は市営・名鉄の二重免許区間)であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "その後(旧)名古屋鉄道は、名古屋電気鉄道当時はおまけのような存在であった郊外線部門を生かす形で名古屋市と岐阜市という2つの大都市を直結する都市間路線を形成することを目論み、1928年(昭和3年)4月10日にはその第一歩として名岐線の丸ノ内 - 西清洲(現・新清洲)間を開通させたことにより、押切町 - 新一宮(現・名鉄一宮)間が開通した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1930年(昭和5年)8月、岐阜市周辺の路面電車などを経営していた美濃電気軌道を合併した(旧)名古屋鉄道は、名岐間輸送を社の重点目標としたことから、合併翌月に社名を名岐鉄道と改称した。この時点で開通していたのは押切町 - 新一宮間および笠松(現・西笠松) - 新岐阜(現・名鉄岐阜)間であったが、木曽川橋梁の完成にともない1935年(昭和10年)4月29日に新一宮 - 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜間が全通している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1909年(明治42年)には、名古屋以西の路線(名古屋本線の東枇杷島駅以西・犬山線など)を建設していた名古屋電気鉄道に対し、以東の路線(名古屋本線の神宮前駅以東・常滑線など)を建設することになる愛知電気鉄道が設立された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "愛知電気鉄道(愛電)は、1910年(明治43年)に知多半島西岸の振興と、それまで舟運に頼っていた常滑焼など特産品の効率的な運送を図るために設立された鉄道会社で、1913年(大正2年)に現在の常滑線を全通させ、続いて旧東海道沿いに名古屋市と三河地方との連絡を意図した路線(豊橋線、現在の名古屋本線神宮前駅以東に相当)の建設を開始した。一方、官設鉄道(のちの国鉄・現JR)東海道本線以外に、私鉄による第2幹線を建設しようと東海道電気鉄道が設立され、愛知郡御器所村(現・名古屋市昭和区)から豊橋市にいたるまでの路線免許を得て、さらに豊橋市から浜名湖北岸をまわり浜松市にいたる計画を持っていた遠三電気鉄道にも出資していたが、その最大の資本提供者で過去に日本電気鉄道(東京 - 大阪間電気鉄道敷設計画)の計画も推し進めていた安田善次郎が1921年(大正10年)に暗殺されたため、計画は宙に浮くことになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "そのような状況下、東海道電気鉄道の創設者であり、かつて愛知電気鉄道の2代目社長を務めた福澤桃介(福澤諭吉の娘婿)は、愛知電気鉄道に対して救済合併を申し入れ、愛知電気鉄道側もこれを承諾し、東海道電気鉄道は愛電に吸収合併された。その後、愛知電気鉄道は東海道電気鉄道計画を継承し、当時有松裏駅(現・有松駅)まで開通していた愛電有松線を延伸する形で、豊橋方面への路線の建設に着工した。東海道電気鉄道は当初から画期的な高速鉄道を目指しており、豊橋線はそれに見合う高規格で建設され、1927年(昭和2年)6月に吉田(現・豊橋)までの全線が開通した。この豊橋線は当時の愛知電気鉄道の資本金総額を上回る莫大な建設費用を投じて建設されたことから、この設備投資による負債が経営を圧迫し、さらに当時の日本はアメリカに端を発した世界恐慌による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛知電気鉄道は深刻な経営難に陥った。その後、景気回復と3代目社長である藍川清成以下経営陣の尽力によって、愛知電気鉄道は経営危機を脱している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して発足したものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "合併前の名岐・愛電の両社は、名岐が名古屋式経営と称される多くの内部留保を抱える無借金経営を行っていた一方、愛電は積極的な設備投資に起因する負債(当時の金額で226万円)を抱えていた。もっとも、経営規模・払込資本金額・経常利益・株式配当といった経営規模・財務内容はほぼ同等であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "それまでの両社は、三重県方面への進出(伊勢電気鉄道の買収工作)や名古屋地下鉄道の運営方法など、当地域の鉄道運営の主導権をめぐって対立することも多かったが、当時の日本は世界恐慌を境として、大陸(現在の中国など)への進出・利権を廻って欧米列強との対決(戦時)色が強くなり始めたころであり、民間企業の間では国内(同一民族間)での競争・対立を止めて協調・合同(民族団結)へ向かう機運が次第に高まった時代であった。合併話が持ち上がった時点では、陸上交通事業調整法や戦時立法の国家総動員法も構想段階であったが、当地の交通事業を再編・統合して安定した鉄道輸送を図るべく、名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "当初は両社とも合併には消極的で、特に名岐側は企業体質がまったく異なる愛電との合併に対して強い拒否反応を示したとされる。その後も名岐は「自社が愛電を合併する」という形態にこだわり、最終的に名岐鉄道を存続会社として愛知電気鉄道は解散し、合併後の新会社の社長には当時の名岐社長であった跡田直一が就任し、愛電社長の藍川は副社長となることが内定した。合併比率は名岐1対愛電1の対等合併とされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "合併期日は1935年(昭和10年)8月1日と決定したが、新会社の社長就任が内定していた跡田が同年7月17日に死去したため、急遽藍川が繰り上がる形で現・名古屋鉄道の初代社長に就任した。このことを指して、旧名岐の社員からは「愛電による名岐乗っ取り」との声も聞かれたという。旧名岐の社員であった土川元夫(のちに名鉄社長・会長を歴任)は自身の自叙伝において、合併契約により取締役に次ぐ上級部長職である理事職(現在の執行役に近い職位)の割り当てを受けていたが、合併後に「お前はまだ若いから」との藍川の一言で降格され、他の旧名岐社員も同様に左遷されたことを振り返っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "両社の合併によって現・名鉄という中核企業が発足した愛知・岐阜両県では、陸上交通事業調整法施行後も法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした鉄道事業者統合は、戦時体制への移行という時流の要請に沿って、その多くが事業者間の合意によって自発的に行われた。これは周辺の鉄道事業者の多くが名鉄と資本的なつながりを有する、または名鉄の子会社であったことが最たる要因として挙げられる。もっとも、名鉄と資本的つながりを持たない独立系事業者であった瀬戸電気鉄道および三河鉄道の合併に際しては交渉が難航し、後者については鉄道省による仲介の末、ようやく合併に漕ぎ着けている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "合併後の名鉄は最初の課題として、旧名岐鉄道路線(西部線)と旧愛知電気鉄道路線(東部線)の連絡線建設を進め、当時の省線(現JR)名古屋駅の移転跡地を譲受し、そこに新ターミナルとして地下駅の新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)を建設・開業し、新生名鉄(東西連絡)のシンボルとした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "新駅には手狭になった西部線のターミナル押切町駅を置き換える目的もあったため、まず西部線から建設を進め、次第に物資統制が厳しくなる中にあって1941年(昭和16年)に完成・開業させ、その後、東部線のターミナル神宮前までの路線建設に着手し、1944年(昭和19年)に連絡線が開通した。その間、太平洋戦争の開戦など情勢は日増しに悪化する中、戦時緊急整備路線の指定を受けて鉄道省(当時)の全面的な協力を得たものの、それでさえ建設資材の調達には困難をきわめ、不要不急路線・設備の転用を図り、さらには新名古屋 - 山王間の高架橋部分を一部木材で代用するなど、急場しのぎの工事であった。また、線路は一応つながったものの、当初同時期に予定された西部線の昇圧工事はこの情勢では見送らざるを得ず、金山駅を境にして以西は架線電圧が600Vに据え置かれ、結局、架線電圧が1,500Vの東部線とは直通運転ができないままに終戦を迎えた。なお、当初計画では、新名古屋駅地上には本社を兼ねた駅ビルの建設も予定していたが、情勢悪化を受けて基礎部分の対応工事のみに留められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "終戦直後は、名鉄も他の各私鉄・国鉄(当時)と同様に車両や設備の疲労・消耗が激しく、定時運行もままならない、さらには満足な資材とて揃わない中ではあったが、いち早く西部線の主要各線を東部線と同じ1,500Vへ昇圧する工事に着手し、東西路線の一体化を戦後復興の第一目標に据えて取り組んだ。この結果、戦災の傷がいまだ癒えない1948年(昭和23年)には第一次の昇圧工事が完成し、新岐阜(現・名鉄岐阜)・新鵜沼・津島 - 新名古屋 - 神宮前 - 豊橋・常滑間などが一体的に運営(直通運転)されるようになり、現在の運行形態の基礎ができ上がった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "なお、合併前の1929年(昭和4年)にも先述の「名古屋地下鉄道」として直通路線の構想は存在したが、着工までに至らなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "戦後の混乱が収まるにつれて、名鉄も他の大手私鉄と同様に事業の多角化を図るようになり、その手始めとして、戦時中に計画が頓挫していた新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)の駅ビル建設に着手して百貨店を併設した。当初の計画では、地元の老舗百貨店松坂屋にテナントとしての出店交渉を進めたが不調に終わり、自前での百貨店経営を決意して、電鉄系百貨店の元祖である阪急百貨店の全面的な協力 を得て1954年(昭和29年)12月に名鉄百貨店を開業し、流通業界へ進出する足がかりとした。その後も沿線の団地を手始めに名鉄ストアー を開業して、駅の改修にあわせて順次出店を進めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1960年代になると、沿線各地の開発をはじめ、北陸地方への進出を図るため、現地の鉄道会社を中心に提携を持ちかけていった。手始めに福井鉄道を傘下に収め、当時、労働争議で揺れていた北陸鉄道へは労務管理のスペシャリストを派遣して徐々に労使の意識を「名鉄グループ」寄りへと導いていき、のちに傘下入りさせるなど、経営に深く関わっていった。富山地方鉄道に対しても経営(資本)参加を持ちかけ、中古車両(3800系=富山地鉄14710形)の融通や看板列車「北アルプス号」の立山駅乗り入れなどさまざまな経営支援を行ってグループ内への取り込みを図ったものの、良好な会社関係の構築以上には進展せずに終わり、結果として富山県への進出は1980年(昭和55年)ごろと大幅に出遅れることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "他の地域への進出は名鉄側からアプローチしたものよりも、先方から経営参加を呼びかけられる例が多かった。前述の北陸鉄道の争議終結によって「労務管理の土川(名鉄)」と当時社長であった土川元夫の評判が地方交通事業者の間で一気に広がり、経営に行き詰まった会社が「立て直し」を依頼するケースが相次いだ。その代表例としては宮城交通・網走バスなどが挙げられ、それまで東北・北海道には進出の足がかりもなかっただけに、名鉄側も積極的に応じた。また、海外への進出も手がけるようになり、香港・サイパン・ミクロネシアには現地法人(観光施設・ホテルなど)を次々に立ち上げていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "グループ形成のもう一方の柱として、名鉄本体から現業(保守)部門を分社化する形で独立させた事業がある。鉄道車両の保守・修繕・改造部門を分社化した「名鉄住商車両工業」、信号の保守部門を独立させた「名古屋電気工業」(現・名鉄EIエンジニア)、バスの整備部門をグループ内のトラック・タクシー会社と共通化して一般(自家用車)にも開放した「名鉄自動車整備」など、従来の鉄道・バス関連の保守事業で培った技術を使い、他社・一般向けの仕事も請け負うことで独立採算制(コスト部門から脱却して利益を生み出す仕組み)を導入するなど、1960年代からユニークな試みも行われた。また、分社化に際しては名鉄の100%子会社とはせず、それぞれ関係の深かった取引先からも出資を募って『合弁企業』の形態を基本とし、その点でも、昨今の私鉄各社に見られる保守部門等の分社化とは一線を画すものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1973年(昭和48年)のオイルショックを境に低成長時代となり、名鉄も事業計画を大幅に見直さざるを得なかった。喫緊の課題として自家用車から転移した影響による通勤客の著しい増加に対応するため、事業投資も路線・車両・駅施設の整備など本業優先となり、本格的な「大都市圏鉄道」へと脱皮を促すきっかけとなった。それまでの名鉄は快適な車内設備(クロスシート車)にこだわり、いわゆる『通勤型車』(3扉以上のロングシート車)を持たない 大手私鉄として有名であったが、東京急行電鉄(のちの東急株式会社)から純通勤車(3880系=東急3700系)を緊急導入したのをきっかけに、1976年(昭和51年)以降は本格的な『通勤車』の導入(6000系)を開始し、朝夕の通勤輸送に本腰を入れて取り組むようになった。ほかにも、名古屋本線を中心に待避設備の整備を加速して列車設定(ダイヤ)の自由度を上げ、犬山線を中心に各駅ホームの有効長延長に取り組むなど旧弊な路線設備の刷新を行い、同時に駅建物の重層化(駅ビル建設)による不動産価値(賃貸料収入)の増大も志向した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "本業に多額の設備投資を続けざるを得ない中にあっても、運輸省(当時)が採った公共料金抑制政策の影響もあり、旅客運賃は長らく他の大手私鉄と同列に扱われ続け、名鉄特有の事情(多くの不採算路線の保有)から独自の運賃改定の必要性を訴え続けていたが、なかなか認められなかった。そんな中、1974年(昭和49年)の運賃改定では、他の私鉄にはない広範囲な擬制キロ(不採算路線の営業キロ割増し)を設定し、1983年(昭和58年)には大手私鉄では初めて単独での運賃改定が認められた。以降の運賃改定は徐々に名鉄特有の事情が認められるようになり、それに比例して老朽化した旧型車の取り替えや駅設備の近代化・整備が進められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "グループ企業についても、低成長時代に合わせて全国的な展開より本業(鉄道・バス)に付随する関連事業への深度化が進められ、駅ビル建設にともない名鉄ストアーの出店を加速するなど流通事業への進出強化や、保有する広大な山林を開発して宅地分譲を行う不動産事業など、また、貨物輸送の終焉による駅周辺の遊休地を利用してスイミングスクールをはじめスポーツ・健康産業への進出など、名鉄沿線に密着した事業展開へと拡大の方向性にも転換がみられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "昭和後期から平成初期にかけてのバブル景気のころは、新舞子・蒲郡など海辺を中心として沿線開発にもいっそう拍車がかかり、沖縄など遠隔地でもリゾート開発事業を手がけるなど、高度成長期と同様に手を伸ばせるだけ伸ばした感のあった名鉄グループであったが、新規事業は既存の事業の延長線上に展開された事例が多く、また、事業開発の面においては先発組より後発組に属することが多かった。このため、いわゆる「先行利得」を享受できたものはわずかであり、グループ内の事業規模(売上)は拡大したものの、利益面での貢献は期待したほどの成果をもたらすまでには至らなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "一方で、鉄軌道路線の整理縮減も再び開始され、1988年(昭和63年)に岐阜市内線の一部を廃止したのを皮切りに不採算路線の廃止を漸次進め、最終的には全営業路線の約5分の1に相当する路線の廃止を行った(「閑散線区の合理化・廃止」も参照)。これは、バブル後「失われた10年」による経済環境の厳しさに加えて、国鉄からJRへ移行したあとの猛烈な巻き返し(JR東海との旅客争奪戦)への対抗上、名古屋本線をはじめとする主要路線の設備投資に経営資源を集中させる必要と、収支悪化にともない不採算路線への内部補助(赤字補填)が利益を圧迫し始めた影響によるもので、全体の事業継続のためには廃止せざるを得ない路線に対して、沿線市町村との話し合いを行いつつ進められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1990年代のバブル崩壊後には非鉄道事業への投資が徐々に負担となり、事業の選択と経営資源(人材・資本など)の集中を余儀なくされた。手始めとして関連会社の整理・統合が行われ、グループ内で同様の事業を行っている会社同士を統合して間接費用(後方事務・管理部門など)の圧縮を試み、採算が悪化した事業(会社)の整理が行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1999年(平成11年)3月期決算では名鉄総合企業の資金運用損失(株式譲渡損)180億円の計上をはじめ、文化レジャー事業やリゾート事業の収益低下により230億円の連結決算上の赤字となり、文化レジャー事業の一部施設の閉鎖が検討されるようになる。また、名鉄本体のスリム化に手をつけ、不採算路線の多いバス事業の分社化を積極的に進め、現在のバス事業をすべて分社化した形の基礎を築いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成14年)9月には、不採算事業の撤退による固定資産売却損などの特別損失計上により、2003年(平成15年)3月期中間配当が1948年(昭和23年)10月期(半年間)決算以来55年ぶりの無配となる事態が発生。同3月期決算においては598億円の経常損失を計上し、55年ぶりに名鉄単体での赤字決算となった。これにより2003年(平成15年)1月に、不採算が続いた文化レジャー事業とバス事業を中心としたリストラ・事業分社化を柱とした2006年(平成18年)3月期までの経営合理化策を発表し、実行に移した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2005年(平成17年)に開催された『愛・地球博』(愛知万博)を契機として東海地方の交通再編が行われることとなり、その目玉として中部国際空港の開港が決定され、それにともない名鉄も空港輸送を中心とした体制へと再編することになった。空港線の建設は名鉄が直接的な形では行わず、空港の関連事業の一環として「中部国際空港連絡鉄道株式会社」を設立して、同社が建設を行った。名鉄は空港線を第2種鉄道事業者(路線を借り受け運行のみを担当)として営業し、フィーダーとなる常滑線に関しては徹底的に路盤強化・カーブの付け替えなどを行い、空港連絡特急用車を用意するなどの設備投資を積極的に行った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "その後も車両・駅設備のバリアフリー・安全機能の対応などをはじめ、名鉄の特徴であった2扉クロスシート車の廃車(置き換え)を積極的に進めるなど、都市間連絡輸送から都市圏輸送を主体とした輸送形態への変更を推進している。また、IC乗車券への対応を前提とした駅設備・自動改札機の整備もあわせて行い、鉄道運営に関する総コストを圧縮するための設備投資を中心に行っている。これに関連して、車両設計においても鉄道会社独自の事情を考慮したフルオーダー設計から東日本旅客鉄道(JR東日本)が提唱した標準設計・部品に基づく車両の新造導入により、イニシャルコスト(車両単価)の圧縮も志向している。加えて、関連会社の整理・統合もさらに推し進め、以前に分社化した車両現業部門の再統合(名鉄住商工業の名鉄本体への吸収・直轄事業化)や、福井鉄道・パレマルシェ(旧名鉄ストアー)など不採算子会社・事業の譲渡を行い、他の私鉄各社と同様に名鉄グループ全体の採算性向上と連結決算利益を重視する経営に向けて一層の徹底を志向している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2027年度に開業を予定しているリニア中央新幹線に備え、現在の名鉄本社ビル、名鉄百貨店、名鉄レジャックと隣接する近鉄百貨店名古屋店(近鉄パッセ)を再開発することが決定している。これに加え、これらの地下部に存在する名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一つのターミナル駅として一体化する方針も打ち出している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2021年1月14日、中部経済新聞により、グループ体制を見直したうえで純粋持株会社体制への移行を検討していると報じられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1894年(明治27年)の創業時は市内路線の敷設に注力していたが、1912年(大正元年)に郊外路線へ進出後は主に尾張地方北部に路線を伸ばしていった。その後、市内路線を名古屋市へ譲渡するため1921年(大正10年)に郊外路線のみを独立(旧名古屋鉄道設立)させ、1930年(昭和5年)には美濃電気軌道を合併(名岐鉄道へ改称)して岐阜県南部へ進出し、1935年(昭和10年)には尾張地方南部・三河地方に路線を伸ばしていた愛知電気鉄道と合併(名古屋鉄道へ再び改称)し、第二次世界大戦中には愛知・岐阜県内の中小鉄道を合併(吸収)して現在の路線網が完成した。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "総営業キロ数は、鉄道線437.0km、軌道線7.2km の合計444.2km、駅数は275駅におよび(2014年3月31日現在)、本拠地・愛知県内では高密度に路線が配置されている。幹線からローカル線にいたるまでさまざまな性格の路線を抱えており、路線1キロあたりの利用客や収入に関する比率は日本の大手私鉄の中では最下位である。総距離に対する幹線(たとえば名古屋本線)が占める割合は他の長大私鉄より比較的低く、多くの支線が分散する路線網からかつては「ミニ国鉄」と揶揄されることもあった。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2000年以降の600V線区をはじめとする相次ぐ赤字路線廃止が始まるまでは、JRを除く日本の民鉄の中で営業距離は近鉄に次ぐ2位、駅数は1位 であったが、2005年(平成17年)4月以降は営業距離では近畿日本鉄道(近鉄)と東武鉄道(東武)に続く3位、駅数では近鉄に次ぐ2位となっている。なお、過去には何度か営業キロが1位となった時期があり、1941年(昭和16年)に三河鉄道(99.9km)を合併して営業キロが500kmを超えたとき がその初めである。これは戦前の交通統合(合併)が関東・関西地区と比べて先行したことが影響している。その後、名鉄は1位ではなくなるが、東武が伊香保軌道線の一部廃止を始めた1953年度から再び最長私鉄となり、1965年に近鉄が三重電気鉄道を吸収合併するまで私鉄営業キロ1位を維持していた。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2003年から駅集中管理システムを、また乗車券確認システムを2005年6月29日から小牧線に、2006年4月29日から名古屋本線はじめ主要9線区に導入し、一部区間を除く全線に順次導入を進めるなど合理化を加速させている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "名鉄の路線網の特徴は、名古屋を中心に岐阜・犬山・常滑・豊橋方面の四方に路線が広がっていることである。各方面の路線から名古屋市内へ直通する列車の多くは名古屋市内を通過したあとに反対側の各方面の路線に入るという運行形態をとり、中核駅(ターミナル)の名鉄名古屋始発・終着となる列車は東西直通運転を始めた1948年以降、伝統的に多くは設定されていない。営業運転上は同駅止まりであっても、同駅で折り返しを行う列車は皆無であり、回送を含めたダイヤ上ではすべての列車が進行方向を変えずに運行している。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "この運行形態は、名鉄名古屋駅を通過する乗客には乗り換える必要がなく、3面2線の駅構造で最大限の列車本数を設定できるメリットがある反面、行先が多方面にわたってダイヤが複雑化したり、各路線の列車が集まる金山 - 枇杷島分岐点間は複線のままであるため、日中時間帯も過密ダイヤとなるなどの短所も抱える。また、ある路線が事故などでダイヤが乱れると間を置かずに他の路線へも波及したり、運転を見合わせる区間が広範囲に及ぶ弊害もある。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1989年に金山駅が金山総合駅として整備され、1990年には神宮前 - 金山間の複々線化によって、金山駅発着(または折り返し)で名鉄名古屋へ向かわない列車が多数設定されるようになった。しかし、名駅地区の開発などを反映して、2008年以降は名鉄名古屋 - 金山以東の列車が増加傾向にある。また、近年では全体的な乗客の減少やワンマン化が影響して、名古屋本線から支線へ直通する列車は最盛期に比べると減少傾向にある。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "なお、瀬戸線は名鉄他線とは接続がない孤立路線である。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "名鉄では、旅客案内上「方面」名称を多用する。これは名鉄名古屋駅を中心として広がる路線網の展開する地域ごとに区分けしたもので、警察や軍隊における「方面」(方面本部、方面隊など)に似た概念である。これは前述の通り路線にかかわらず名鉄名古屋駅を直通する運転形態を重視している事情による。2000年代中ごろまでの路線図には、路線名ではなく方面名称が記されていたほどであり、沿線住民にも浸透している。名鉄の鉄道路線図は名古屋本線を除きこの方面ごとに色分けがなされてきた伝統があり、現在の名古屋本線以外の路線色(ラインカラー)はおおむね方面の色に由来する。三河線の路線色が知立を境に異なるのはこのためである。ただし、名古屋市営地下鉄上飯田線直通開始後の小牧線は独自色となっている(近年のラインカラーの変遷は日本の鉄道ラインカラー一覧#名古屋鉄道を参照)。こうした案内手法をとる日本の鉄道事業者は少なく、西日本旅客鉄道(JR西日本)の路線記号制(2014年 - )や京王電鉄の「ゾーンカラー」がやや似ている程度で後者は短期間で廃れている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "現在の路線図は路線名記載となり「方面」の使用は減少傾向にあるが、方面表記を主体とする路線図は名鉄名古屋駅の中央改札口前などにみられる(2018年現在)。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "上記とは逆に同一路線でも運行形態が分断されている場合、同一路線を線区別に分ける際に「方面」が用いられることもある。かつて公式サイトでは三河線、尾西線、広見線が方面別に路線が区分されていたが、2019年3月現在は駅名による区間表記に改められている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "路線網配置の節で述べたように、岐阜方面と豊橋方面に支線を持ち、双方が名古屋方面に集中する。名鉄岐阜 - 豊橋・犬山 - 常滑など、名鉄名古屋駅を経由する電車がほとんどであり、路線が集中する名古屋本線枇杷島分岐点 - 神宮前間は上下ともに約2分30秒間隔で行き来する高密度運転区間である。金山 - 神宮前間の複々線ではさらに常滑線の普通列車が毎時4往復加わり、終日の上下列車本数は1,000本を超える。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "名鉄の西半分を建設した会社である名岐鉄道は、市内線(路面電車)事業を発展させる形で路線を建設したことから、市内線の市営化後も1941年まで、名鉄の電車が市電に乗り入れて市内の柳橋駅をターミナル駅にしていた。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "名古屋本線は古くからの市街地・宿場町を結ぶ目的で敷設された関係から、名古屋電気鉄道の建設した枇杷島橋(現・枇杷島分岐点)- 丸ノ内間、美濃電気軌道の建設した茶所 - 名鉄岐阜間と、愛知電気鉄道の建設した神宮前 - 桶狭間(現・中京競馬場前付近)間は曲線区間が多い。特に名鉄名古屋 - 名鉄岐阜間では、名鉄岐阜駅付近(最小半径100m)をはじめ、名鉄名古屋駅へ乗り入れる枇杷島橋以南の路線も最小半径130m(両者とも戦後に緩和されたがそれでも160m)の急曲線で建設したことから、並行するJR東海の東海道本線に対して所要時間・運賃いずれにおいても相当に不利な条件となっている。同じ名古屋本線でも、郊外の区間では高速運転を前提に敷設し、優等列車が120km/h運転(対応車のみ)を行っているのとは対照的である。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "名古屋本線の伊奈 - 豊橋間のうち、平井信号場 - 豊橋間はJR東海飯田線と線路を共用している。1920年代中期、小坂井駅まで到達した名鉄の前身の愛知電気鉄道(愛電)が豊橋への延長を模索するにあたって、飯田線の前身である豊川鉄道が自社に並行する愛電線の建設を遮る動きがあったため、愛電・豊川鉄道がそれぞれ敷設した単線の線路同士を互いに共用することで複線として機能させる協定を結んだ。愛電が名鉄に、豊川鉄道が国鉄からJR東海の路線へとそれぞれ移管された現在でもこの線路共用の協定は継続している。このため同区間は、最高速度が飯田線の規格である85km/hに、豊橋駅の発着番線が1線に、列車乗り入れ本数が毎時6本以内(現行では快速特急・特急・急行とも各2本)にそれぞれ制限されるなど、名鉄ダイヤの大きなボトルネックとなっている。この影響で、毎時2本の急行が国府駅から豊川線へ分かれ豊川稲荷駅で、同様に本線系の普通も伊奈駅で折り返さざるを得なくなっている。一部の豊橋発着列車では、特急列車として運用された列車が急行列車になったり、急行列車として運用された列車が特急列車として運用されたりするケースがある。その際には特急車両を使用するため、特急以外の運用の際は特別車両部分を閉め切って営業している(回送でも記載)。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また、名古屋本線の名鉄岐阜駅ホームに入る直前も単線になっており、東海道線と直接競合する区間の両端にボトルネックを抱えていることになる。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "名鉄線で使用されている踏切警報機は1980年代から、閃光灯を覆う部分が四角い独特の形状になっている。これは、自動車からの踏切視認性(特に警報時)を考慮したものであり、名鉄の特徴となっている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)12月27日のダイヤ改正より7種類の列車種別が存在している。名鉄では列車種別のほかに「一般車」と「特別車」の概念があり、このうち特急以上の列車に存在する「特別車」の乗車には乗車券のほかミューチケットが必要である。ミュースカイは全車両が、快速特急と特急(全車一般車特急を除く)は2両分が特別車となっている(これらの詳細については「名鉄特急」を参照)。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)から2005年(平成17年)までの間、瀬戸線を除く各線は「特急」・「急行」・「普通」の3種別で運行されていた。2005年(平成17年)1月の中部国際空港開港にともなうダイヤ改正で、従来の特急・急行は停車駅によって細分化(「快速特急」と「特急」、「快速急行」・「急行」・「準急」へ種別を分割)され、各種別の停車駅の明確化を図った。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "停車駅は種別ごとに一定の法則性は確保しているものの、同種別でも必要に応じて特別停車や特別通過、途中駅での種別変更を行っており、細かなニーズに対応している。前記した2005年(平成17年)のダイヤ改正以前は、平日ダイヤ換算で1日あたり延べ1,300回以上の特別停車が行われており、複雑な運行形態から「迷鉄」と揶揄される所以にもなっていた。2019年(令和元年)1月以後も、名古屋本線だけで平日下り82本、上り72本の列車が特別停車を行っている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "なお、1977年(昭和52年)より1990年(平成2年)まで、それ以前の追加料金が不要の「特急」を「高速」へ、「座席指定券」が必要な「座席特急」を「特急」へ種別呼称を改めて運行していたが、「特急」(指定席)と「高速」(一般席)を併結した形の「一部指定席(現・特別車)特急」へ変更したことで、再び「特急」に統合された。また、同様に1990年(平成2年)までは「準急」の種別も存在しており(現在と停車駅が若干異なる)、これに関しては「急行」の特別停車駅を増やして統合している(2005年(平成17年)の種別増加とは逆の流れとみなせる)。また、一つの列車が途中駅で種別を変更するダイヤも日常的に用いられている。過去には「特急」(座席指定)から「急行」・「普通」などへ種別変更を行う場合もみられた が、現在では「快速急行」以下の種別相互で行われている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "普通および一部路線の優等列車(▲△)は各駅停車。●▲は全区間、○△は一部区間を除いて設定。 臨時列車では定期列車に存在しない種別を設定する場合がある(毎年11月の岐阜基地航空祭開催日の各務原線など)",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "朝ラッシュ時は優等列車中心となる中での小駅の利便性を確保するなどのさまざまな事情により、一時期よりは減少したものの、列車種別の節で述べたような特別停車が多い。かつては朝ラッシュ時や臨時の特急列車や、椋岡駅(廃止)・学校前駅(廃止)・江吉良駅などでは近年(最終は椋岡駅の2006年)まで残っていた普通列車の特別通過もあった。特別通過は2011年3月26日のダイヤ改正で朝ラッシュの上り特急の笠松駅・新木曽川駅において復活したが、2023年3月18日のダイヤ改正で廃止されて消滅した。また、同様の理由で途中駅での種別変更も多く、中には2 - 3回種別変更する列車もあり、特に朝ラッシュ時にはさまざまなパターンが見られる。特別停車も見られ、日中でも行われる列車がある(佐屋・弥富 - 吉良吉田間の急行は豊明駅に日中も特別停車する)。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "本線系の路線では始発列車・最終列車が普通列車ではなく優等列車となる場合が多い。終着駅への到着時間は遅くできないので、途中の駅を通過させることで都心から郊外への終電を遅くするためでもある。他社の路線ではあまり見られない特徴である。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ダイヤ策定の際に編成両数はあまり考慮されておらず、ドアカットが頻繁に発生している(種別表示には「締切」と表示される)。実施例については当該項目を参照。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "以前は大晦日に、初詣客用として午前3時台まで普通列車(末期には神宮前駅と豊明駅、新一宮駅、犬山遊園駅、太田川駅の各駅間)を約1時間間隔で運転していたが、2004年大晦日の運転をもって中止した。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "お盆期間(8月13日 - 15日)と年末年始(12月29日 - 1月3日)は休日ダイヤでの運行となる。ただし豊橋駅 - 伊奈駅間はJRに乗り入れていることから、JRが平日ダイヤとなるお盆期間と12月29日はJRに合わせて一部列車の豊橋駅発着時刻が通常より数分変更される。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "毎年1月・2月(2月は土休日のみ)は豊川稲荷への初詣客用のために豊川線に直通する特急列車(全車指定席、のちに全車特別車)を増発していた時期もあった。2005年の空港線開業後は中部国際空港への輸送を比重に置いているため、豊川線内の区間列車の増発のみに留まっている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "名鉄名古屋駅付近の高密度ダイヤ設定のためや、きめ細かくスピードアップ(または逆に余裕時分の付加)を行うために、ダイヤ(列車運行図表)上の運転時分・停車時分は5秒単位で設定されている。極端な例をあげると、発車時刻が0分55秒であっても、時刻表には案内上00分発と表示され、01分発となることはない。なお、一部の支線は10秒単位、豊橋駅付近のJR共用区間は15秒単位となっている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "名古屋鉄道の新造車両は、名古屋臨海鉄道の機関車牽引によってJR東海道本線笠寺駅から名古屋臨海鉄道、名鉄築港線を経由して大江駅に搬入され、その日の終電後に豊明駅や舞木検査場などへ自力走行する。瀬戸線は孤立した路線のため、東名古屋港駅岸壁の日本国外輸出用の留置線でトレーラーに乗せ換えて、一般道経由で尾張旭の車両基地に搬入される。名鉄から他社に車両を売却する場合は逆の経路で笠寺駅まで出て、そこから売却先へと輸送される。 また、名古屋市交通局日進工場に搬入される名古屋市営地下鉄鶴舞線・桜通線・上飯田線の新造車両は、大江駅までは名鉄の新車と同じ経路をたどり、大江→金山→知立→豊田市→赤池の経路で名鉄の機関車が牽引する。これは名鉄において名電築港駅 - 赤池駅間の貨物輸送として取り扱われる。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "なお、先述の東名古屋港駅岸壁では一般の輸出車両の積み込みも行われており、名古屋臨海鉄道の機関車が牽引して名鉄築港線の名電築港駅 - 東名古屋港駅 (0.4km) を走行する。これも名鉄において貨物輸送として取り扱われる。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "過去、国鉄時代の刈谷駅では貨物扱いを行っており、側線を通じ名鉄刈谷駅で新製車両の搬入を行っていた時期があった。また瀬戸線も過去には大曽根駅構内にあった貨物扱い用の側線を使って国鉄線から車両の搬入・搬出を行っていたが、栄町乗り入れによる大曽根駅のホーム延伸にともない側線が廃止されたため、瀬戸線の車両搬入は前述の方法に変更された。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "古い車両の解体は長らく名電築港駅(築港線と名古屋臨海鉄道東築線が交差する部分の空き地)で行ってきたが、2004年以降は大きく変化した。2004年〜2005年に廃車になった車両は間内駅近くの空き地で解体を行い、その後は再び名電築港駅での解体を行うも、現在は金属リサイクル工場へ車両を持ち込む形になっている。持ち込みに際し名電築港駅で車体を半分に切断することもあるが、直接の解体は2009年に廃車になったパノラマカー7011Fが最後になっている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "-の右側は主な乗務区間(列車により相違あり)",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "社員の制服は2014年6月以降はダークネイビーを基調としている。 冬季に上着を着用する場合、駅乗務員などの係員は「PRU(私鉄総連)」のバッジを着用している。夏季は開襟シャツを着用する。なお、役職によって上着の形状が異なり、管理職以上はダブルの上着を着用。制帽に関しては、役職によって巻かれている線の太さが違い、乗務区長・幹事駅長や駅長・副区長・副駅長、各主任などの管理職は赤帯に金線2本。主任補佐、駅長補佐、上席助役、助役は太い銀線1本(駅の当務助役は赤帯が追加される)。助役補佐、役職なしの係員は細い青線1本である。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "車掌から運転士に対する出発合図は、電鈴を使用する場合は短2音である。運転士はワンマン列車以外は車掌からの出発合図を受けなければ発車してはならない。大半の車両は「チン、チン」と鳴るベル式の電鈴を装備しているが、2002年登場の300系以降の新造車両はブザーを採用しているため、合図は「プッ、プッ」となっている。また、進行方向後ろの乗務員室からホームが外側にカーブしているなどで、列車全体の乗降確認ができない場合、運転士が見えない部分の乗降確認を行い、車掌に乗降完了を知らせるために鳴らすことがある。この場合も短2音である。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "以前、車掌が駅発車時の側面監視をする際、相互直通運転をしている名古屋市交通局や京阪電気鉄道同様、車内電鈴スイッチに手をかけて行い、非常時には電鈴を乱打して(「直ちに停車せよ」を意味する)、運転士に非常ブレーキを要求する方式をとっていたが、2016年夏ごろに大半の鉄道会社同様、車掌弁もしくは非常ブレーキスイッチを掴んで側面監視を行い、非常時には車掌が直接非常ブレーキを扱う方式に変更されている(ただし6000系初期車や100系のように車掌弁が進行方向と逆についている車両や、乗り入れてくる名市交車のように乗務員扉の上に非常ブレーキスイッチがついている場合など、物理的に車掌弁を掴みにくい車両については、引き続き電鈴保持を行うこともある)。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "駅到着番線(入線ホーム)の伝達も電鈴が使用される。これは到着番線が列車によって異なる名鉄岐阜駅で主に行われており(それ以外の駅でも行われる場合はあり)、運転士が信号・進路などを確認、電鈴を使用して車掌に合図(1回で進行方向右側、2回で進行方向左側)を送り、車内アナウンスで下車扉を正しく案内できるように補うものである。この場合は、車掌が電鈴を待ってから下車のアナウンスをするケースが多い。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "普通列車などが優等列車を通過待ちするときは、停車中の列車乗務員は必ずホームに立ち通過監視を行う。そのとき、運転士はブレーキハンドルを非常ブレーキにセットし、リバースハンドル(主幹制御器に取りつける前進・後進の切り替えハンドル)を所持してホームに立つ。なお、固定式ワンハンドル列車の場合、リバースハンドルの代わりにマスコンキー(固定式ハンドルを動かすために使う鍵)を所持し監視にあたる。ただし、運転席が2階にあったパノラマカー(現在は運用を離脱)では、運転席からホームへの移動が大変なため行わない場合が多かった。車掌はリーズブックと呼ばれる釣り銭の入ったものを持ち、ホームに立つ。原則として、ホームの非常停止ボタン付近に立つことになっている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "運転士のスタフ(社内では「運転時刻カード」と呼ばれている)は進行方向から見て左に置かれている(2000系・1700系と名古屋市交通局3000形・3050形のみ構造上右側)。そのため指差確認はJRのように右手で行わず、左手で行っている(ブレーキハンドルから手を離さないためでもある)。なお、6000系などの2ハンドル車において、力行中マスコンから手を離すとデッドマン装置が動作してしまうため、加速中に指差確認を行う場合は、マスコンから手を離さず、左手人差し指を対象物に向ける動作で済ませている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "運転中の指差称呼はJRに比べて少なめで、基本的に指差確認称呼を行うのは、発車前に行う次停車駅の確認と出発信号機(警戒表示以上)の確認、駅の停止・通過確認で、分岐点(平井信号場と枇杷島分岐点)や待避線がある駅の通過側信号確認時に行い、それ以外(閉塞信号機表示確認・制限速度確認等)では口頭で済ませる。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "増解結を行う際、作業を担当する駅員は必ずヘルメットを着用する。作業で使用する旗もしくは合図灯は、赤が「停止」、緑が「進行」である。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "速度制限標識は、制限速度の下に曲線(半径m単位)、下り勾配、分岐(方向は矢印で表示)、構内、ATSなどの理由が記載されている。これが数字のみのものは制限速度で通過した場合の速度制限を受ける秒数を表す(JRなどのような距離ではない)。いずれの場合も口頭では制限速度のみを称呼する。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "閉塞信号機の名称番号は、キロポストに基づいた起点からの距離 (m) ÷100の近似値が方向により偶数・奇数に分けて付番されている。口頭では現示と進行・停止以外における制限速度のみ(「注意65」「減速85」など)を喚呼するが、豊橋 - 平井信号場間のJR共用区間ではJRの規則に従って「第3閉塞・注意45」「第2閉塞・減速65」のように称呼する。なお、信号喚呼位置標識はJR共用区間を除いて信号警標の基本デザインたる縦長方形で黄色地に黒縞が斜めに2本入ったものである。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ほかに名鉄独特の標識としては、指示速度やパラレル止めなどのノッチ指定を記した力行標や惰行標(通称オフ板)があるが、名古屋本線では1990年代にスピードアップが進む過程で撤去されほとんど残っていない。したがって現在は、本線ではフルノッチに投入し区間最高速度まで上げる走行が原則となっている。なお、制動標(通称H板、本来はHSCブレーキ車用制動標。自動ブレーキ車用はA板であった)については各線とも引き続き掲出され、分岐方(副本線)用の表示にはブレーキ初速度を併記している。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "単線区間での列車交換(行き違い)のことを、名古屋鉄道では離合と呼んでいる。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "名古屋鉄道の運賃は営業キロではなく、あらかじめ一定の割合を乗じた「運賃計算キロ程」によって運賃を計算する。計算方法は以下の通り(子供は半額、5円の端数は切り上げ)。運賃額は2019年10月1日改定時点。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "乗車券類には淡黄色で「Meitetsu」と地紋が印刷されている。また、磁気定期券には偽造防止用に薄くピンク色で「M」と書かれている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)発行の乗車券は、今までに淡青色・淡緑色など他駅とは違った地紋色を使用していた期間がある(1950年代には発駅地帯ごとに地紋色を変えていた時期があった)。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "かつての「座席指定券」(現・ミューチケット)は淡黄色の地紋が基本で、ほかに淡緑色・淡紅色などもあった。オンライン発券開始(1983年)以降は淡緑色の地紋を使用していたが、普通乗車券なども発売できる「複合端末」導入後は他の乗車券類と共通の地紋に変更されている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "かつては設備面などにおいて他の大手私鉄会社と比較すると近代化が立ち後れている面が否めなかった。しかし中部国際空港の開港や名鉄グループ内での大幅なリストラ、トランパス導入にともなう駅集中管理システム導入の推進などもあって、近年はユニバーサルデザインのピクトグラムを導入するなど首都圏の大手私鉄会社にひけをとらない水準にまで向上している。しかし一部の主要駅では一世代前(CI展開初期)のものが使われている駅もある。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "JRの敷地内にある豊橋駅と弥富駅を除く名鉄駅のホームの表示はJRのように駅舎がある側から1番線、2番線...ではなく、その駅の所属する路線の下り方向を向いて左側から1番線、2番線...と表示している(西尾線・蒲郡線・三河線山線の一部・尾西線の一部を除く)。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "各主要駅のホームや改札口などに設置されている発車標は名鉄名古屋駅で液晶式のものが使用されているのを除くと、行灯式や反転フラップ式のものが広く使われていたが、近年のバリアフリー化などにともない、それらは順次LED式のものに交換され、いずれもその数を減らしつつある。なお、LED式のものについては、従来は3色式であったが、交換もしくは新設されたものは種別部分のみフルカラー表示(ただし、喜多山駅の発車標はすべてフルカラー表示)となっている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "主要駅の乗車位置は1 - 16と2扉車用に表示されている。しかし、現在は3扉車の割合が高くなっていることから、奇数と偶数の間に「3扉車の中間扉」の表示をつけた駅や、1 - 24と3扉車を前提に表示されている駅もある。地下鉄に直通している小牧線と豊田線は4扉で統一しているため、小牧線(4両)は1 - 16、豊田線(6両)は1 - 24になっている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "車内放送はミュースカイ、特急列車(全車一般車は除く)、犬山線の鶴舞線直通列車、豊田線、瀬戸線やワンマン列車では自動放送で案内される。また特急列車や三河線のワンマン列車では英語での案内放送を行なっており、かつては特急列車と急行列車の一部で中日新聞ニュースも文字放送で流していた。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "LEDの車内案内装置を搭載している車両では走行中、列車の走行を模した速度表示が行われることがある。左側に速度を表示し、速度に合わせて右端から車両が姿を見せ、最高速度 (120km/h) で速度表示の隣に達する。また、下段は線路をイメージしており、速度に応じて動きが変化する。なお、出てくる車両の形は系列によって異なっている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "列車の案内放送は、基本的に「種別・行先」の順(例:快速特急・新鵜沼行き)であるが、駅ホームの自動放送では「行先・種別」の順(例:犬山行き普通)である。しかしながら、最近になって自動放送装置が更新された駅では「種別・行先」の順で放送される。なお、近年投入された車輌には、乗降促進メロディの吹奏装置が設置されている。ただし、鶴舞線直通用の車輌と3100系3次車は「プルル、プルル、プルル」という音の交通局で使われているものと同一(ただし若干音が甲高い)の発車の際に鳴らすブザーが設置されている。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "列車の行き先の中には、須ヶ口、佐屋、柏森、伊奈など地元住民・利用客以外は所在地・行政名をすぐに連想できない駅名がいくつかある。そのため特に名鉄名古屋駅では「名古屋本線・伊奈行き急行」、その他の駅では「名古屋方面・急行須ヶ口行き」や「津島方面の電車がまいります」などのような案内放送が聞かれる。過去、支線直通が盛んな時代には特急森上行き、今渡行きなどの列車もあり、系統板の使用が一般的であった時代には、行先横に『名古屋方面』と肩書き(朱書き)されたり、『名古屋』を中央に大書し下部に『方面』、横に小さく本来の行先(『今渡』など)を配した系統板が多用された。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "準急以上の列車が各駅停車の区間を走る場合、種別表示幕の表示は時刻表上の種別表示に従う。岩倉以北の準急、豊川線、知多新線などでは、普通に種別変更しない限りは優等種別を表示したまま運行する。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "種別板を使用する列車の場合は、1964年ごろから各編成の前頭部に全種別をセットした種別板を装備(常備) し、普通列車は無表示(車体色と同色)の板を使用する。7700系までの各系列・車両(ただし、種別も一体で表示する「逆さ富士」板が装備された7000系・7500系などをのぞく)では系統板とともに日常的に使用されていたが、7700系の廃車(2010年3月)以降は種別幕の故障(破損)などで臨時に使用される場合に限られる。種別板は1964年(昭和39年)5月6日に表示改正され、特急が白地に赤字、急行が黄地に黒字、準急が緑地(青地)に黒字と制定された。その後の変遷は以下のとおりである。",
"title": "鉄軌道事業"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "数多くの鉄道会社の合併や運営路線の譲り受けによって成立した名古屋鉄道は、多くの閑散線区を抱えることになり、そうした線区の合理化・廃止が進められてきた。特に、トヨタ自動車を核とした自動車産業が盛んな愛知県では車社会の進展が早く、1950年代から路線の廃止が相次いでいる(ただし近年廃止された路線の多くは岐阜県内の路線である)。1984年には広見線・八百津線にレールバス導入・ワンマン運転化がなされ、1985年に三河線・猿投 - 西中金間、1990年に三河線・碧南 - 吉良吉田間にもレールバスが導入された。鉄道事業法が2000年に改正され、それまでは許可制で所轄官庁の許可が必要だった鉄道廃止が届出制に変わると、閑散線区の廃止を相次いで表明している。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "名鉄は合併によって閑散線区を抱えたのと同様に、前身事業者の施策の違いによって駅間距離が短すぎる線区も多く抱えることになった。そのため、名鉄はスピードアップや駅勢圏の調整といった合理化策の下で駅の廃止、統合を個別に実施したほか、過去二回、全線にわたる駅の整理を行っている。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "一度目の整理は1944年に実施された。輸送力や資材を確保するために閑散路線が「不要不急線」として休止されたように、乗降客の少ない小駅が相次いで休止されている。戦後に復活した駅も少なくないが、復活しなかった駅の大半は1969年4月5日に廃止手続きがとられた。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 109,
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"text": "二度目の整理は駅集中管理システム導入にともなう閑散駅の削減である。2001年度より導入が始まった同システムは、自動改札機・自動券売機・自動精算機・列車接近警報装置を該当駅に設置し、近隣の管理駅から遠隔操作するものである。これらを全駅に導入するにあたり、費用対効果が低い小駅の廃止が検討された。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "駅集中管理システムは2007年度までに全線全駅で導入される見込みであったが、弥富駅、広見線明智駅以東、蒲郡線(吉良吉田駅を除く)には導入されなかった。導入前は有人駅であったが導入後は無人駅となった駅も多く、ミューチケットや企画きっぷなどを購入できないケースも出てきている(のちに一部の無人駅でもタッチパネル式の新型自動券売機を利用すればミューチケットを購入できるようになった)。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "かつてはバス事業も行い、名古屋駅からの高速バス、名古屋空港へのバス、路線バス、観光バスなどを展開していた。2004年10月1日から、愛知県内は名鉄バスとして分社され、岐阜県内はグループ企業の岐阜乗合自動車(岐阜バス)に移管された。また、名鉄バスとして残った路線も、一部路線について運営を子会社などに委託するケースが現れている(例:犬山地区路線の「岐阜バスコミュニティ」への委託等〈2006年12月に名鉄バスは犬山地区の運営から撤退し、委託先だった岐阜バスコミュニティに路線のすべてを移譲した〉)。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "名古屋鉄道は、博物館明治村やリトルワールド等の施設を経営していたことでも知られ、これは「文化レジャー事業」としていた。しかし名鉄の1999年3月期決算で名鉄総合企業・バス・レジャー事業といった関連事業を起因とする連結決算での赤字計上により、陸運事業のリストラのほか、知多新線沿線の開発にともない開業したレジャー施設の閉鎖が検討された。このうち阿久比スポーツ村の運営撤退(現・阿久比町立阿久比スポーツ村)を除いて撤回されたものの、2003年3月期の中間・期末の両方で無配となったことにともない、2003年1月にグループ合理化策を発表した。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "特に不採算が強かった以下の事業については名鉄直下で廃止された。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "その他の文化レジャー施設を経営・運営する子会社として「名鉄インプレス」が設立され、2003年10月から次のような体制に変化した。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "閑散駅の合理化で駅員非配置の駅が増えたことや、トランパス導入に際してカードにプレミアムをつけたこと、合理化のためもあって、昨今では大幅に「パノラマパック」などの企画割引乗車券を廃止する傾向が出ている。普通回数乗車券は他の大手私鉄に先駆けて2012年2月末で販売終了した。近畿日本鉄道・南海電気鉄道と共同で出していた「3・3・SUNフリーきっぷ」も、2006年夏限りで廃止した。",
"title": "合理化"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "名古屋鉄道、およびその前身となった鉄道にも数多くの幻となった路線が存在する。一部は以下のとおりである。",
"title": "未成線"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "バス・文化レジャー事業の分社化のあと、本社の鉄軌道事業以外の事業は、全日本空輸の航空代理業、ビル、駐車場などの賃貸、土地の分譲などとなり、これを「開発事業」と呼称している。",
"title": "開発事業"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "名鉄は、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、名古屋地区総代理店として愛知・岐阜・三重・静岡・長野の5県の全日本空輸の業務を行ってきた。総代理店とは、全日本空輸の黎明期から、各就航地において、地元の有力企業に全日本空輸の市内(営業)・空港業務を委託した制度である。名鉄では、名古屋・静岡・長野(市内業務)と名古屋空港(空港業務)の4航空営業所を展開して、名古屋空港(現・県営名古屋空港)の空港ハンドリングも含め全日本空輸総代理店業務を推進してきた。中部国際空港の開港で名古屋空港航空営業所は廃止され、中部空港航空営業所が設置された。また、ANAセールス株式会社の展開で総代理店の市内業務の中身も変化した。最後まで残った総代理店業務も、名古屋予約センター・栄カウンター業務は2006年12月末で、中部国際空港国内線旅客・貨物業務は2007年6月末で契約終了、業務は終了した。現在、名古屋カウンター業務はANAセールス株式会社が、中部国際空港ハンドリング業務は、名鉄も出資しているANA中部空港株式会社(元の国際エアラインサービス)で行っている。",
"title": "開発事業"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "また、全日本空輸の名古屋 - 南紀白浜線が就航していた当時は、白浜航空営業所を設置して南紀白浜地区総代理店業務を受託していた。",
"title": "開発事業"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "現在の競合はJR東海との間で繰り広げられているが、過去には近畿日本鉄道(近鉄、現・近鉄グループホールディングス株式会社)や東京急行電鉄(東急、現・東急株式会社)と路線やグループ企業の拡大をめぐって競合していた時期がある。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "昭和初期の三重県には伊勢電気鉄道(伊勢電)が、岐阜県の西部には養老鉄道(養老鉄道養老線の前身だが2007年10月より同線を運営している養老鉄道とは別企業)が営業を開始していた。当時の名岐鉄道は三重県への拡大を目指しており、昭和恐慌の影響で経営難に陥っていた伊勢電に触手を伸ばし、名古屋 - 桑名間の路線免許を申請していた。同時期、近鉄の前身の一社である参宮急行電鉄(参急、のちの関西急行鉄道)も名古屋進出の足がかりとして伊勢電を欲しており、両社が吸収合併を目的とした支援合戦を繰り広げていた。結局、この争いは参急側に軍配が上がり、現在の近鉄名古屋線の大部分を占める重要路線を手にした。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "なお、1960年ごろ(近鉄名古屋線の狭軌時代)まで、新名古屋駅(当時、現在の名鉄名古屋駅)と隣接する近鉄名古屋駅の間には連絡線が敷設されており、名鉄線 - 近鉄線相互間で団体列車に限り直通運転を行っていた。また、戦前から戦後の一時期に新名古屋駅で近鉄線の発券および改札を行っていた時期があった(2001年までは、名鉄線各駅 - 近鉄線各駅相互間の連絡切符も通常発売していた)。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "その後、近鉄は1959年の名古屋線の標準軌改軌(名阪直通特急の運転開始)を境にして、名鉄の牙城である東海地方への進出を積極的に行うようになり、1961年には、旧養老鉄道岐阜線免許を使用して大垣 - 羽島間の新線の建設を発表、さらに岐阜への延長を画策した。名鉄では対抗策として岐阜から羽島を経由して養老を結ぶモノレール線の建設(この計画は、のちに羽島線建設に変更・縮小された)を発表するなど、高度経済成長期の事業拡張にともない、両社の関係は再び険悪化して行った。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "他にも、名神高速道路が一宮まで開通した折には高速バスの路線免許をめぐって争いが発生し、名鉄主導の日本急行バスで一本化が決まっていた私鉄系のバス会社(路線) に対し、土壇場で近鉄主導による日本高速バス(現・三重交通グループホールディングス・名阪近鉄バス)が参入を強行し、開業後も激しい競合のために両社が共倒れ寸前に陥りかけた。また、近鉄がテリトリーとしていた石川県において、名鉄が中部運輸局(運輸省・当時)の要請に呼応して北陸鉄道の支援を行った際には、対抗措置として北陸日本交通なるバス会社の設立を目論む(のちに北日本観光自動車へ合併させるが、路線拡大は却下された)など、名鉄と近鉄の両社は1970年ごろまで激しく対立していた。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "しかし1980年代以降、次第に両社は競合から協調関係に入り、名鉄各駅や電車内に近鉄グループの「志摩スペイン村」や近鉄特急アーバンライナー・ひのとりなどの広告を、近鉄各駅や電車内に名鉄グループの「明治村」や名鉄特急ミュースカイなどの広告を互いに出すようになり、南海電気鉄道とともに「3・3・SUNフリーきっぷ」(2006年に販売終了)を発行するなど、近鉄とは完全な提携関係を築いている。また、名鉄名古屋駅のタクシー乗り場は「名鉄・近鉄タクシーのりば」として、名鉄交通など名鉄グループに加え、名古屋近鉄タクシーも乗り入れている。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "2012年には、名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一体化し、相互の乗り換えを便利にする構想が発表された。",
"title": "他私鉄との競合"
},
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"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "2013年3月23日には名鉄で発行しているICカード乗車券「manaca」が近鉄線で、近鉄で発行しているICカード乗車券「PiTaPa」「ICOCA」が名鉄線でそれぞれ利用できるようになった。また、2014年9月21日には近鉄とのmanaca・ICOCAのIC連絡定期券も発行された。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 128,
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"text": "名鉄はグループ展開を行う過程において、東京急行電鉄(東急グループ、現・東急株式会社)と激しく競合・対立していた時期がある。そのもっとも有名なものとして「全日本空輸」(全日空、現・ANAホールディングス)設立時の経営権をめぐる争いがあげられる。全日本空輸は「日本ヘリコプター輸送」(日ペリ)と「極東航空」が合併して誕生したが、当時の日ペリは名鉄が経営権を握り、極東航空は東急系列として誕生していたため、合併後の経営権をめぐって、株式や株主総会の議決権を委任する委任状の取得合戦を展開するなど、一時はお互い一歩も引かぬ総力戦の様相を呈した。やがて名鉄は争いに疲れて全日本空輸の経営権を諦めるが、近年になって東急側がグループ再編の一環として全日本空輸株の一部を名鉄側に譲り渡し、再び名鉄が筆頭株主となり中部国際空港の開港を契機として、名鉄と全日本空輸はいっそう結びつきを増している。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "また、北海道東部を自社グループのテリトリーとしていた東急は、名鉄が「網走バス」の支援を決めるとさまざまな対抗策を打ち出して、名鉄の北海道進出を阻止する動きを見せた。その一つとして、名古屋の観光バス業界では老舗である「鯱バス」が経営難に陥った折、名鉄に先んじて有利な支援を次々に行った。名鉄も地元の名門を手に入れるチャンスであっただけに、熾烈な支援合戦を展開したが、結局東急は「鯱バス」をグループへ取り込むことに成功して名鉄に一矢報いている(なお鯱バスは2009年10月1日をもって東急グループから離脱しジェイ・コーチグループに入り、網走バスも2012年に名鉄グループを離脱した)。",
"title": "他私鉄との競合"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "2006年7月15日より放送が開始された同社の企業広告である「いってらっしゃい。おかえりなさい。名古屋鉄道」のCMソングに、シンガーソングライターの小田和正が楽曲を提供。デビューから37年が経つ小田が地方ローカルCMへ楽曲を提供することは初めてであり、小田のファンや鉄道ファンの話題を呼ぶ(楽曲名『大好きな君に』・アルバム「そうかな」収録)。2008年10月からは「ありふれた日々篇」の放送が開始され、使用楽曲は小田が1993年に発表した「風の坂道」に変更となる。CMタイトルの「ありふれた日々」というのは「風の坂道」の歌詞からの引用である。また小田和正関連では、後述する「エモーション」にもCM楽曲として「キラキラ」を提供している。",
"title": "広報・広告"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "かつてはダイヤ改正の都度「名鉄時刻表」を発行し、主要駅や駅サービスセンター、駅構内売店、名鉄観光主要支店および名古屋鉄道ショッピングサイト「M‐M@LL(エム‐モール) 」などで販売していた。2019年改正時など、近年の改正では名鉄時刻表が販売されなくなっていたが、2021年10月のダイヤ改正では公式ホームページ上に路線別時刻表というページを設け、名鉄時刻表と同形式の時刻表をPDF形式で公開した。",
"title": "広報・広告"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "毎月、沿線の観光情報や名鉄の取り組みを紹介する『Wind』という冊子を発行している。Windは名鉄の有人駅や、近鉄の主要駅などで配布、およびWebサイト上でデジタルブックとして公開されている。",
"title": "広報・広告"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "近年では犬山(日本モンキーパーク・博物館明治村など)の観光PRを強化しており、近畿圏や首都圏の大手私鉄の広報誌でのコラボ企画や吊り広告の展開を行っているほか、「エモーション」と銘打った沿線を軸にした企業広告活動も展開している。",
"title": "広報・広告"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "沿線の施設などでイベントがある際は、宣伝も兼ねてラッピング車両が走ることがよくある。代表的なものでは、春から夏の時期に子供たちに人気のあるポケットモンスターのラッピングを2000系などに施すことや、受験シーズンのキットカットのラッピングなどがあげられる。",
"title": "広報・広告"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "2012年からメ~テレで放送されている『名古屋行き最終列車』シリーズの制作には、終電後や臨時列車を走らせての撮影も実施するなど、全面協力している。",
"title": "広報・広告"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "テレビでは提供クレジットは英字で「Meitetsu」と表示されるが、読み上げられる場合は日本語で「名古屋鉄道」となる。なおグループの名鉄百貨店は異なるロゴの「MEITETSU」をクレジットに使用している。",
"title": "広報・広告"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "ほか。",
"title": "広報・広告"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "2002年、中京競馬場でスタートしたレース「名鉄杯」に賞を出している。中央4場では観客輸送に関わる大手私鉄が賞を出しているが、それに続く形となった。発走時のファンファーレは通常の中京・小倉共通特別競走(非重賞)用のものではなく、パノラマカーのミュージックホーンをアレンジしたものが名鉄ブラスバンドにより生演奏されており、中京のファンに親しまれている。",
"title": "競馬"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "また中京競馬場の施設運営を行う名古屋競馬株式会社の出資者でもあり、同競馬場内にはかつて現役で運用されていたパノラマカー7000系の車両を利用した「ビュッフェ・パノラマステーション」がある。",
"title": "競馬"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "なお競馬開催時の臨時列車は現在設定されていないが、最寄の中京競馬場前駅には急行と午前中の快速特急が臨時停車する(場外発売時の土曜日は夕方のみで特急系列は通過、日曜は夕方まで、開催日は場外日曜時より早い時間帯から急行の停車、高松宮記念とチャンピオンズカップおよび有馬記念当日は夕方の特急・快速特急も停車)。",
"title": "競馬"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "名鉄はボートレース常滑にも名鉄杯争奪納涼お盆レースとして毎年賞を出しており、地元選手が一堂に会するボートレース常滑のお盆の風物詩となっている。なお、過去にはボートレース常滑の開催日に臨時列車を運転していたがこちらは廃止されている。なお、ムーンライトレースのボートレース蒲郡には名鉄ではなく名鉄バスが賞を出しており、名鉄バス杯争奪戦が行われている。",
"title": "競艇"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "2013年現在、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、単体で発行済株式の2.07%をもち、前述したようにかつては全日本空輸総代理店業務を行っていた。",
"title": "代表的な名鉄グループ企業"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "1952年(昭和27年)に全日本空輸の前身となる「日本ヘリコプター輸送(日ペリ航空)」が設立された際に名鉄は出資を引き受けて関係を持つようになったが、日ペリ航空の経営は苦しい状態が続き、1954年(昭和29年)に名鉄に対し資金援助を要請。名鉄は当時の金額で3,500万円を融資し、窮地から救った。全日本空輸創業以来の役員で1987年(昭和62年)当時副社長であった福本柳一は手記の中で次のように述べている。",
"title": "代表的な名鉄グループ企業"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "「名鉄が全日空生い立ちのために(中略)神野社長以下3代にわたり何くれとなく尽くしてくれた並々ならぬ恩義に対しては、いやしくも全日空の食をはむ者の断じて忘れてはならないことである」",
"title": "代表的な名鉄グループ企業"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "その後も、名鉄傘下の中日本航空が運航していた定期路線便は1965年(昭和40年)に全日本空輸に譲渡、名鉄、中日本航空、全日本空輸3社の出資でコミューター会社の「エアーセントラル」(現・ANAウイングス、旧・中日本エアラインサービス)の設立など両社は現在にいたるまで常に深い関係にある。また、金山駅南口にある「金山南ビル」の「ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋」も名鉄と全日本空輸の協力関係の中で設立されている。",
"title": "代表的な名鉄グループ企業"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "そのほか、御園座などにも出資しており、かつては丸栄や名古屋観光ホテルにも出資していた。",
"title": "代表的な名鉄グループ企業"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "1951年からは中日ドラゴンズに出資(これにともない、球団名を「名古屋ドラゴンズ」に変更)、中日新聞社と隔年で球団経営を行ったが、3年で撤退。その後、球団数拡大を目指すパシフィック・リーグから新球団設立の話を持ちかけられたが、中日との観客の奪い合いによって共倒れになることを恐れたため断っている。2リーグ分裂の話が持ち上がった1949年にも、プロ野球への参入を考えていた朝日新聞が、名鉄と地方紙「新東海」を提携させて鳴海球場を本拠とする新球団を発足させる構想(「朝日レッドソックス」という名称が報じられたこともあった)があった。",
"title": "代表的な名鉄グループ企業"
}
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名古屋鉄道株式会社は、東海地方の愛知県・岐阜県を基盤とする鉄道会社である。通称、名鉄(めいてつ、Meitetsu)。日本の大手私鉄の一つで、民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ老舗企業である。 本社は愛知県名古屋市中村区名駅1丁目2番4号名鉄名古屋駅上に設けた名鉄バスターミナルビル(名鉄百貨店本店メンズ館ビル)内に置いている。中京圏(名古屋都市圏)では最大の444.2kmの路線規模を擁する。
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{{pp-vandalism|small=yes}}
<!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください-->
{{脚注の不足|date=2018年10月}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 名古屋鉄道株式会社
| 英文社名 = Nagoya Railroad Co.,Ltd.
| ロゴ = [[File:Meitetsu logo full.svg|250px]]
| 画像 = [[File:Meitetsu Bus Terminal Building - 01.JPG|250px]]
| 画像説明 = 名古屋鉄道本社のある名鉄バスターミナルビル
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 = [[監査役会設置会社]]<ref>[https://www.meitetsu.co.jp/profile/esg/governance/about/index.html コーポレート・ガバナンス] - 名古屋鉄道株式会社</ref>
| 市場情報 = {{上場情報|東証プライム|9048|1954年12月16日}}{{上場情報|名証プレミア|9048|1949年5月16日}}
| 略称 = 名鉄
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 450-8501
| 本社所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]][[名駅]]一丁目2番4号([[名鉄バスセンター|名鉄バスターミナルビル]])
| 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 10|本社緯度秒 = 6.7|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 136|本社経度分 = 53|本社経度秒 = 3|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1921年]](大正10年)[[6月13日]]<br / >創業 [[1894年]](明治27年)[[6月25日]]<ref name="概要">{{Cite web|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/company/about/index.html |title=会社概要|publisher=名古屋鉄道|accessdate=2021-10-01}}</ref>
| 業種 = 5050
| 事業内容 = 旅客鉄道事業ほか
| 代表者 = 代表取締役会長 [[安藤隆司]]<br />代表取締役社長執行役員 [[髙﨑裕樹]]<br />代表取締役副社長執行役員 鈴木清美
| 資本金 = 1011億5800万円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=名古屋鉄道株式会社 |date=2023-06-29 |title=第159期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書 |url=https://www.meitetsu.co.jp/ir/reference/securities/__icsFiles/afieldfile/2023/06/28/yukashoken159.pdf |accessdate=2023-10-17 }}</ref>
| 発行済株式総数 = 1億9670万0692株<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 売上高 = 連結: 5515億0400万円<br />単独: 903億3200万円<br />(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 = 連結: 22億7310万円<br />単独: 68億4100万円<br />(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 = 連結: 263億6200万円<br />単独: 84億7500万円<br />(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 = 連結: 198億4000万円<br />単独: 72億7000万円<br />(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 = 連結: 4290億8900万円<br />単独: 2886億1600万円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 = 連結: 1兆2313億7800万円<br />単独: 891億2950万円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 = 連結: 28,216人<br />単独: 4,987人<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 決算期 = [[3月31日]]
| 会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref name="fy" />
| 主要株主 = [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 14.19%<br />[[日本カストディ銀行]](信託口) 4.40%<br />[[日本生命保険]] 2.57%<br />[[JPモルガン・チェース|ジェーピー モルガン チェース バンク 385781]] 1.34%<br />[[三菱UFJ銀行]] 1.25%<br />ステート ストリート バンク ウェスト クライアント トリーティー 505234 1.16%<br />[[東京海上日動火災保険]] 1.02%<br />INDUS JAPAN LONG ONLY MASTER FUND, LTD 1.00%<br />[[三井住友海上火災保険]] 0.94%<br />[[バンク・オブ・ニューヨーク・メロン|ザ バンク オブ ニューヨーク メロン 140042]] 0.88%<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 主要子会社 = [[名鉄グループ]]を参照
| 関係する人物 = [[藍川清成]]<br />[[岡本清三]]<br />[[神野金之助 (2代目)|神野金之助]]<br />[[千田憲三]]<br />[[土川元夫]]<br />[[竹田弘太郎]]<br />[[跡田禎三]]<br />[[小池澄]]
| 外部リンク = https://top.meitetsu.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''名古屋鉄道株式会社'''(なごやてつどう、{{Lang-en-short|Nagoya Railroad Co.,Ltd.}}<ref>名古屋鉄道株式会社 定款 第1章第1条</ref>)は、[[東海地方]]の[[愛知県]]・[[岐阜県]]を基盤とする[[鉄道会社]]である。通称、'''名鉄'''(めいてつ、'''Meitetsu''')。日本の[[大手私鉄]]の一つで、民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ[[日本の老舗一覧#鉄道業|老舗企業]]である。
本社は愛知県[[名古屋市]][[中村区]][[名駅]]1丁目2番4号[[名鉄名古屋駅]]上に設けた[[名鉄バスセンター|名鉄バスターミナルビル]]([[名鉄百貨店]]本店メンズ館ビル)内に置いている。[[中京圏]]([[名古屋都市圏]])では最大の444.2km<ref name="mintetsu" />の路線規模を擁する。
== 概要 ==
本業の鉄道業では、愛知・岐阜両県に総営業距離では[[近畿日本鉄道]](近鉄)・[[東武鉄道]](東武)に次いで日本の私鉄第3位(JRを除く)の444.2kmにおよぶ路線網、275駅を擁する<ref name="meitetsu2014_p159">{{Cite book|和書|author=名鉄120年史編纂委員会事務局(編)|year=2014|title=名鉄120年:近20年のあゆみ|publisher=名古屋鉄道|page=159}}</ref><ref name="mintetsu" />(詳細は「[[#路線|路線]]」節を参照)、[[中京圏]]を本拠とする唯一の[[大手私鉄]]である<ref group="注釈">中京圏には近鉄[[近鉄名古屋線|名古屋線]]が乗り入れているが、近鉄は[[近畿地方|近畿圏]]を本拠とする大手私鉄(いわゆる[[関西私鉄]])。</ref>。年間利用人員はおよそ2億9623万5000人(2020年度)<ref>{{PDFlink|[https://www.meitetsu.co.jp/ir/reference/statement/__icsFiles/afieldfile/2021/06/08/kessan_des210511.pdf 2021年3月期 決算説明資料]}} - 名古屋鉄道、2021年5月11日</ref><!--<ref name="mintetsu" />-->、旅客車両数は1,076両(2021年3月31日時点)<ref name="mintetsu">{{Cite web|和書|url=http://www.mintetsu.or.jp/corporate/companys/meitetsu/index.html |title=加盟会社紹介 名古屋鉄道株式会社|publisher=日本民営鉄道協会|accessdate=2022-03-02}}</ref>である。
コーポレート・スローガンは「'''ココロをつなぐ、あしたへはこぶ。'''」<ref>{{Cite web|和書|title=コミュニケーションスローガン|publisher=名古屋鉄道|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/company/slogan/index.html|accessdate=2021-10-01}}</ref>。
名古屋鉄道は[[東海銀行]](現・[[三菱UFJ銀行]])・[[中部電力]]・[[東邦瓦斯]](東邦ガス)・[[松坂屋]](現・[[大丸松坂屋百貨店]])と共に名古屋経済界の中核名門企業、旧「[[愛知県#かつての五摂家|名古屋五摂家]]」の1社に数えられる<ref>[http://www.jnpc.or.jp/cgi-bin/pb/article.php?id=768 日本記者クラブ]</ref>。[[東海地方]]を中心に数多くの[[不動産]]を所有する企業であり、これらの「開発事業」も経営の重要な柱となっている。[[レジャー産業|レジャー]]・[[物流|流通]]産業など関連事業を中心に[[多角化|多角的]]な企業展開を行っており、[[連結財務諸表|連結決算]]の対象・非対象あわせて200社以上の[[#代表的な名鉄グループ企業|グループ企業]]を擁する[[名鉄グループ]]の中核的企業である。
[[2005年]](平成17年)に開港した[[中部国際空港]](セントレア)に[[名鉄空港線|空港線]]を通じて[[空港連絡鉄道]]として乗り入れる唯一の鉄道会社である。
[[2022年]]([[令和]]4年)現在、大手私鉄で唯一、[[女性専用車両]]を導入していない。
'''営業路線'''の詳細は「'''[[#路線|路線]]'''」の節を、その他の詳細は以下の各記事を参照。
* 「'''[[名古屋鉄道の車両形式]]'''」… 車両に関する記述
* 「'''[[名鉄特急]]'''」… 特急列車の変遷などに関する記述
* 「'''[[パノラマカー]]'''」… 前面展望車両の愛称に関する記述
* 「'''[[名鉄バス]]'''」… 分社化した路線バス(運営子会社)に関する記述
== 社章・シンボルマーク・コーポレートカラー ==
現在のシンボルマークは会社創立100周年に先立つ1992年(平成4年)4月より使用を開始している。これは[[コーポレートアイデンティティ|CI]]導入計画の一環として[[ランドーアソシエイツ]]によるデザイン開発により策定されたもので、同時に[[コーポレートカラー]]も制定されている<ref name=CI100>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=609}}</ref>。
シンボルマークは社名略称の英称「MEITETSU」をモチーフとし、特にM字型のマークは'''MEITETSU ウイング'''と呼ばれる。2色のコーポレートカラー(人や地球への優しさを表す「MEITETSU Blue」、知的さ、信頼性を表す「MEITETSU Green」)によって構成されるMEITETSU ウイングは名鉄が地域とともに躍進する姿を表現している<ref name=symbol>{{Cite web|和書|date=2015-02|url=http://www.jametro.or.jp/upload/subway/EheafAoqDpUz.pdf|author=村本真菜|title=名古屋鉄道シンボルマークについて|work=SUBWAY 日本地下鉄協会報 第204号|format=PDF|publisher=[[日本地下鉄協会]]|accessdate=2018-09-29|pages=48-49}}</ref>。このほか、シンボルマークに準ずるものとしてMEITETSU Blue、MEITETSU Greenに赤を加えたアロー(スピードアロー)があり、マークパターンとしてシンボルマークの下にアローを配するタイプとMEITETSU ウイングの下にMEITETSU、アローを配するタイプが設定されている<ref name=CI100/>。
社章は中央に図案化した「名」を、鉄道の象徴である「工」を5つ円形に配置したものである。5つの「工」は[[五常|五徳]]による社員の総親和を表すとともに、名古屋から放射状にのびる路線網も表現している<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1988|title=グラフで見る名鉄 1988|publisher=名古屋鉄道|page=5}}</ref>。CI導入以降は掲示物などへの使用が全面的にシンボルマークへ切り替えられており<ref name=CI100/>、[[名鉄100系電車|100系]]の前面飾り帯の装飾など現存箇所は少数に留まっている。
<gallery>
Meitetsu logo.svg|シンボルマーク
Meitetsu logomark 2.svg|MEITETSU ウイング
Central Japan International Airport Station 001.JPG|アローの使用例
Meitetsu logomark 1.svg|社章
Meitetsu 100 series Company Logo.jpg|100系前面飾り帯
</gallery>
== 歴史 ==
<!--路線の詳細な沿革は各路線の記事で記述-->
=== 創業・黎明期 ===
現在の名古屋鉄道は、太平洋戦争の終結以前に[[中京圏]]の多くの鉄道会社が合併して<!-- 陸上交通事業調整法以前のものを含む -->成立したものであるが、その起源は[[1894年]](明治27年)6月に[[名古屋市]]内で[[馬車鉄道]]を運行する名目で設立された企業の'''愛知馬車鉄道'''である。
==== 名古屋電気鉄道 ====
{{Main|名古屋電気鉄道}}
[[File:Nagoya-dentetsu_Route_Map_02.PNG|250px|thumb|right|名古屋電気鉄道“郡部線”(1921年6月)]]
愛知馬車鉄道は当初、馬車鉄道を敷設するための[[特許 (行政法)|特許]]を得ていたが、計画を[[電気鉄道]]に変更し、[[1896年]](明治29年)に'''名古屋電気鉄道'''に社名を改めた。[[1898年]](明治31年)には、[[京都電気鉄道]](のちに市営化され[[京都市電]]となる)に次ぐ日本で2番目の[[電車]]運行を開始。以後、同社は市内各所へ網の目のように路線網を構築していった。[[1912年]](大正元年)には初の郊外路線(郡部線)<!--1910年開業の枇杷島線は市内線-->を開業させ、以降は尾張北中部の各市町と名古屋市を結ぶ郊外路線を充実させていった。
[[1921年]](大正10年)、市内線の市営化が決定する。その前段階として名古屋電気鉄道は6月に郊外線部門を引き継ぐ(旧)'''名古屋鉄道'''を新たに設立し、第二の創業とした。翌[[1922年]](大正11年)8月には名古屋市電気局(のちの[[名古屋市交通局]])へ市内線部門を乗務員ごと譲渡して[[名古屋市電]]が発足し、(旧)名古屋鉄道の発足後も市内線の営業を続けていた名古屋電気鉄道は[[解散]]した。なお、市営化後も柳橋 - 押切町間の郊外線から市内線への乗り入れ(営業権)は、譲渡条件として保持されたまま(当該区間は市営・名鉄の二重免許区間)であった。
その後(旧)名古屋鉄道は、名古屋電気鉄道当時はおまけのような存在であった郊外線部門を生かす形で名古屋市と[[岐阜市]]という2つの大都市を直結する都市間路線を形成することを目論み、[[1928年]](昭和3年)[[4月10日]]にはその第一歩として名岐線の丸ノ内 - 西清洲(現・新清洲)間を開通させたことにより、押切町 - 新一宮(現・[[名鉄一宮駅|名鉄一宮]])間が開通した。<!-- 一宮線東一宮までは名古屋電気鉄道時代の1913年に開通していますので、これは名岐線(後の名古屋本線)の方です。-->
[[1930年]](昭和5年)8月、岐阜市周辺の路面電車などを経営していた[[美濃電気軌道]]を合併した(旧)名古屋鉄道は、名岐間輸送を社の重点目標としたことから、合併翌月に社名を'''名岐鉄道'''と改称した。この時点で開通していたのは押切町 - 新一宮間および笠松(現・[[西笠松駅|西笠松]]) - 新岐阜(現・[[名鉄岐阜駅|名鉄岐阜]])間であったが、[[木曽川橋梁 (名鉄名古屋本線)|木曽川橋梁]]の完成にともない[[1935年]](昭和10年)[[4月29日]]に新一宮 - 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜間が全通している。
==== 愛知電気鉄道の発足 ====
{{Main|愛知電気鉄道}}
[[1909年]](明治42年)には、名古屋以西の路線([[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]の[[東枇杷島駅]]以西・[[名鉄犬山線|犬山線]]など)を建設していた名古屋電気鉄道に対し、以東の路線(名古屋本線の[[神宮前駅]]以東・[[名鉄常滑線|常滑線]]など)を建設することになる'''愛知電気鉄道'''が設立された。
愛知電気鉄道(愛電)は、1910年(明治43年)に[[知多半島]]西岸の振興と、それまで舟運に頼っていた[[常滑焼]]など特産品の効率的な運送を図るために設立された鉄道会社で、[[1913年]](大正2年)に現在の[[名鉄常滑線|常滑線]]を全通させ、続いて旧[[東海道#道(みち)としての東海道|東海道]]沿いに名古屋市と[[三河国|三河]]地方との連絡を意図した路線(豊橋線、現在の名古屋本線神宮前駅以東に相当)の建設を開始した。一方、官設鉄道(のちの国鉄・現JR)[[東海道本線]]以外に、[[私鉄]]による第2幹線を建設しようと東海道電気鉄道が設立され、愛知郡[[御器所村]](現・名古屋市[[昭和区]])から[[豊橋市]]にいたるまでの路線免許を得て、さらに豊橋市から浜名湖北岸をまわり[[浜松市]]にいたる計画を持っていた遠三電気鉄道にも出資していたが、その最大の資本提供者で過去に[[日本電気鉄道]](東京 - 大阪間電気鉄道敷設計画)の計画も推し進めていた[[安田善次郎]]が1921年(大正10年)に暗殺されたため、計画は宙に浮くことになった。
そのような状況下、東海道電気鉄道の創設者であり、かつて愛知電気鉄道の2代目社長を務めた[[福澤桃介]]([[福澤諭吉]]の[[娘婿]])は、愛知電気鉄道に対して救済合併を申し入れ、愛知電気鉄道側もこれを承諾し、東海道電気鉄道は愛電に吸収合併された。その後、愛知電気鉄道は東海道電気鉄道計画を継承し、当時有松裏駅(現・[[有松駅]])まで開通していた愛電有松線を延伸する形で、豊橋方面への路線の建設に着工した。東海道電気鉄道は当初から画期的な[[高速鉄道]]を目指しており、豊橋線はそれに見合う高規格で建設され、1927年(昭和2年)6月に吉田(現・豊橋)までの全線が開通した。この豊橋線は当時の愛知電気鉄道の資本金総額を上回る莫大な建設費用を投じて建設されたことから、この[[設備投資]]による[[負債]]が経営を圧迫し、さらに当時の日本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に端を発した[[世界恐慌]]による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛知電気鉄道は深刻な経営難に陥った。その後、景気回復と3代目社長である[[藍川清成]]以下経営陣の尽力によって、愛知電気鉄道は経営危機を脱している。
=== 「名鉄」発足の経緯 ===
[[File:Nagoya Railroad Linemap 1935.svg|300px|thumb|right|発足当時の名古屋鉄道(1935年8月)]]
現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して発足したものである。
合併前の名岐・愛電の両社は、名岐が名古屋式経営と称される多くの[[内部留保]]を抱える[[無借金経営]]を行っていた一方、愛電は積極的な設備投資に起因する負債(当時の金額で226万円)を抱えていた。もっとも、経営規模・払込資本金額・経常利益・株式配当といった経営規模・財務内容はほぼ同等であった。
それまでの両社は、三重県方面への進出([[伊勢電気鉄道]]の買収工作)や[[名古屋地下鉄道]]の運営方法など、当地域の鉄道運営の主導権をめぐって対立することも多かったが、当時の日本は世界恐慌を境として、大陸(現在の[[中華人民共和国|中国]]など)への進出・利権を廻って[[列強|欧米列強]]との対決(戦時)色が強くなり始めたころであり、民間企業の間では国内(同一民族間)での競争・対立を止めて協調・合同(民族団結)へ向かう機運が次第に高まった時代であった。合併話が持ち上がった時点では、[[陸上交通事業調整法]]や戦時立法の[[国家総動員法]]も構想段階であったが、当地の交通事業を再編・統合して安定した鉄道輸送を図るべく、名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。
当初は両社とも合併には消極的で、特に名岐側は企業体質がまったく異なる愛電との合併に対して強い拒否反応を示したとされる。その後も名岐は「自社が愛電を合併する」という形態にこだわり、最終的に名岐鉄道を存続会社として愛知電気鉄道は解散し、合併後の新会社の社長には当時の名岐社長であった[[跡田直一]]が就任し、愛電社長の藍川は副社長となることが内定した。合併比率は名岐1対愛電1の対等合併とされた。
合併期日は1935年(昭和10年)8月1日と決定したが、新会社の社長就任が内定していた跡田が同年7月17日に死去したため、急遽藍川が繰り上がる形で現・名古屋鉄道の初代社長に就任した。このことを指して、旧名岐の社員からは「愛電による名岐乗っ取り」との声も聞かれたという。旧名岐の社員であった[[土川元夫]](のちに名鉄社長・会長を歴任)は自身の自叙伝において、合併契約により[[取締役]]に次ぐ上級部長職である理事職(現在の[[執行役]]に近い職位)の割り当てを受けていたが、合併後に「お前はまだ若いから」との藍川の一言で降格され、他の旧名岐社員も同様に[[左遷]]されたことを振り返っている。
両社の合併によって現・名鉄という中核企業が発足した愛知・岐阜両県では、陸上交通事業調整法施行後も法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした鉄道事業者統合は、[[戦時体制]]への移行という時流の要請に沿って、その多くが事業者間の合意によって自発的に行われた。これは周辺の鉄道事業者の多くが名鉄と資本的なつながりを有する、または名鉄の子会社であったことが最たる要因として挙げられる。もっとも、名鉄と資本的つながりを持たない独立系事業者であった瀬戸電気鉄道および三河鉄道の合併に際しては交渉が難航し、後者については鉄道省による仲介の末、ようやく合併に漕ぎ着けている。
=== 戦中・戦後の動き ===
合併後の名鉄は最初の課題として、旧名岐鉄道路線(西部線)と旧愛知電気鉄道路線(東部線)の連絡線建設を進め、当時の省線(現JR)[[名古屋駅]]の移転跡地を譲受し、そこに新ターミナルとして地下駅の[[名鉄名古屋駅|'''新名古屋駅''']](現・名鉄名古屋駅)を建設・開業し、新生名鉄(東西連絡)のシンボルとした。
新駅には手狭になった西部線のターミナル[[押切町駅]]を置き換える目的もあったため、まず西部線から建設を進め、次第に物資統制が厳しくなる中にあって[[1941年]](昭和16年)に完成・開業させ、その後、東部線のターミナル[[神宮前駅|神宮前]]までの路線建設に着手し、[[1944年]](昭和19年)に連絡線が開通した。その間、[[太平洋戦争]]の開戦など情勢は日増しに悪化する中、戦時緊急整備路線の指定を受けて鉄道省(当時)の全面的な協力を得たものの、それでさえ建設資材の調達には困難をきわめ、不要不急路線・設備の転用を図り、さらには新名古屋 - [[山王駅 (愛知県)|山王]]間の高架橋部分を一部木材で代用するなど、急場しのぎの工事であった。また、線路は一応つながったものの、当初同時期に予定された西部線の昇圧工事はこの情勢では見送らざるを得ず、[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]を境にして以西は架線電圧が600Vに据え置かれ、結局、架線電圧が1,500Vの東部線とは直通運転ができないままに終戦を迎えた。なお、当初計画では、新名古屋駅地上には本社を兼ねた駅ビルの建設も予定していたが、情勢悪化を受けて基礎部分の対応工事のみに留められた。
終戦直後は、名鉄も他の各私鉄・国鉄(当時)と同様に車両や設備の疲労・消耗が激しく、定時運行もままならない、さらには満足な資材とて揃わない中ではあったが、いち早く西部線の主要各線を東部線と同じ1,500Vへ昇圧する工事に着手し、東西路線の一体化を戦後復興の第一目標に据えて取り組んだ。この結果、戦災の傷がいまだ癒えない[[1948年]](昭和23年)には第一次の昇圧工事が完成し、新岐阜(現・名鉄岐阜)・新鵜沼・津島 - 新名古屋 - 神宮前 - 豊橋・常滑間などが一体的に運営(直通運転)されるようになり、現在の運行形態の基礎ができ上がった。
なお、合併前の[[1929年]](昭和4年)にも先述の「名古屋地下鉄道」として直通路線の構想は存在したが、着工までに至らなかった。
=== 名鉄グループの形成 === <!--昭和30年〜40年代の事象を予定-->
[[File:MEITETSU Department Store - Head Store - 01.JPG|thumb|200px|名鉄名古屋駅・名鉄百貨店本店]]
戦後の混乱が収まるにつれて、名鉄も他の[[大手私鉄]]と同様に事業の多角化を図るようになり、その手始めとして、戦時中に計画が頓挫していた新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)の[[駅ビル]]建設に着手して[[百貨店]]を併設した。当初の計画では、地元の老舗百貨店松坂屋にテナントとしての出店交渉を進めたが不調に終わり、自前での百貨店経営を決意して、電鉄系百貨店の元祖である[[阪急百貨店]]の全面的な協力<ref group="注釈" name="ex03">[[松坂屋]]との交渉決裂を受けて、阪急の創業者[[小林一三]]の提案が百貨店進出のきっかけとなっており、開業までの準備や社員研修など阪急グループの強力なバックアップがあった。</ref> を得て[[1954年]](昭和29年)12月に[[名鉄百貨店]]を開業し、流通業界へ進出する足がかりとした。その後も沿線の団地を手始めに[[パレマルシェ|名鉄ストアー]]<ref group="注釈" name="ex04">現在の「パレマルシェ」。ただし、現在は名鉄グループから離脱している。</ref> を開業して、駅の改修にあわせて順次出店を進めた。
[[1960年代]]になると、沿線各地の開発をはじめ、[[北陸地方]]への進出を図るため、現地の鉄道会社を中心に提携を持ちかけていった。手始めに[[福井鉄道]]を傘下に収め、当時、[[労働争議]]で揺れていた[[北陸鉄道]]へは[[労務管理]]のスペシャリストを派遣して徐々に労使の意識を「[[名鉄グループ]]」寄りへと導いていき、のちに傘下入りさせるなど、経営に深く関わっていった。[[富山地方鉄道]]に対しても経営(資本)参加を持ちかけ、中古車両([[名鉄3800系電車#富山地方鉄道|3800系=富山地鉄14710形]])の融通や看板列車「[[北アルプス (列車)|北アルプス号]]」の[[立山駅]]乗り入れなどさまざまな経営支援を行ってグループ内への取り込みを図ったものの、良好な会社関係の構築以上には進展せずに終わり、結果として[[富山県]]への進出は1980年(昭和55年)ごろと大幅に出遅れることとなった。
他の地域への進出は名鉄側からアプローチしたものよりも、先方から経営参加を呼びかけられる例が多かった。前述の北陸鉄道の争議終結によって「労務管理の土川(名鉄)」と当時社長であった土川元夫の評判が地方交通事業者の間で一気に広がり、経営に行き詰まった会社が「立て直し」を依頼するケースが相次いだ。その代表例としては[[宮城交通]]・[[網走バス]]などが挙げられ、それまで東北・[[北海道]]には進出の足がかりもなかっただけに、名鉄側も積極的に応じた。また、海外への進出も手がけるようになり、[[香港]]・[[サイパン]]・[[ミクロネシア]]には現地法人(観光施設・ホテルなど)を次々に立ち上げていった。
グループ形成のもう一方の柱として、名鉄本体から現業(保守)部門を分社化する形で独立させた事業がある。鉄道車両の保守・修繕・改造部門を分社化した「名鉄住商車両工業」<ref group="注釈" name="ex05">後の「名鉄住商工業」。現在は再び名鉄直轄事業として、名鉄本体へ吸収合併された。</ref>、信号の保守部門を独立させた「名古屋電気工業」(現・[[名鉄EIエンジニア]])、バスの整備部門をグループ内のトラック・タクシー会社と共通化して一般(自家用車)にも開放した「[[名鉄自動車整備]]」など、従来の鉄道・バス関連の保守事業で培った技術を使い、他社・一般向けの仕事も請け負うことで独立採算制([[コスト]]部門から脱却して利益を生み出す仕組み)を導入するなど、1960年代からユニークな試みも行われた。また、分社化に際しては名鉄の100%子会社とはせず、それぞれ関係の深かった取引先からも出資を募って『[[合弁企業]]』の形態<ref group="注釈" name="ex06">「名鉄住商車両工業」はその名から分かる通り、車両納入に際して関係の深かった[[住友商事]]との合弁の形を取り、信号関係は[[京三製作所]]、通信関係は[[東芝]]など、単純に名鉄本体から切り離す『分社化』とは違い、取引企業との共同出資を基本とした。</ref>を基本とし、その点でも、昨今の私鉄各社に見られる保守部門等の分社化とは一線を画すものであった。
=== 本業への回帰 === <!--昭和50年代-->
[[1973年]](昭和48年)の[[オイルショック]]を境に低成長時代となり、名鉄も事業計画を大幅に見直さざるを得なかった。喫緊の課題として[[自家用車]]から転移した影響による通勤客の著しい増加に対応するため、事業投資も路線・車両・駅施設の整備など本業優先となり、本格的な「大都市圏鉄道」へと脱皮を促すきっかけとなった。それまでの名鉄は快適な車内設備(クロスシート車)にこだわり、いわゆる『通勤型車』(3扉以上のロングシート車)を持たない<ref group="注釈" name="ex07">戦中の製造車([[名鉄3550系電車|3550系]]など)、または終戦直後に割当てられた初代3700系([[国鉄63系電車|国鉄63型]])など少数の例外はあった。</ref> 大手私鉄として有名であったが、[[東京急行電鉄]](のちの[[東急|東急株式会社]])から純通勤車([[東急3700系電車|3880系=東急3700系]])を緊急導入したのをきっかけに、[[1976年]](昭和51年)以降は本格的な『通勤車』の導入([[名鉄6000系電車|6000系]])を開始し、朝夕の通勤輸送に本腰を入れて取り組むようになった。ほかにも、名古屋本線を中心に待避設備の整備を加速して列車設定([[ダイヤグラム|ダイヤ]])の自由度を上げ、犬山線を中心に各駅ホームの有効長延長に取り組むなど旧弊な路線設備の刷新を行い、同時に駅建物の重層化(駅ビル建設)による不動産価値(賃貸料収入)の増大も志向した。
本業に多額の設備投資を続けざるを得ない中にあっても、[[運輸省]](当時)が採った[[公共料金]]抑制政策の影響もあり、旅客運賃は長らく他の大手私鉄と同列に扱われ続け、名鉄特有の事情(多くの不採算路線の保有)から独自の運賃改定の必要性を訴え続けていたが、なかなか認められなかった。そんな中、[[1974年]](昭和49年)の運賃改定では、他の私鉄にはない広範囲な[[擬制キロ]](不採算路線の営業キロ割増し)を設定し、[[1983年]](昭和58年)には大手私鉄では初めて単独での運賃改定が認められた。以降の運賃改定は徐々に名鉄特有の事情が認められるようになり、それに比例して老朽化した旧型車の取り替えや駅設備の近代化・整備が進められた。
グループ企業についても、低成長時代に合わせて全国的な展開より本業(鉄道・バス)に付随する関連事業への深度化が進められ、駅ビル建設にともない名鉄ストアー<ref group="注釈" name="ex04" />の出店を加速するなど流通事業への進出強化や、保有する広大な山林を開発して宅地分譲を行う不動産事業など、また、貨物輸送の終焉による駅周辺の遊休地を利用して[[スイミングスクール]]をはじめスポーツ・健康産業への進出など、名鉄沿線に密着した事業展開へと拡大の方向性にも転換がみられた。
=== 事業の選択と集中 === <!--昭和60年以降-->
昭和後期から平成初期にかけてのバブル景気のころは、新舞子・蒲郡など海辺を中心として沿線開発にもいっそう拍車がかかり、沖縄など遠隔地でもリゾート開発事業を手がけるなど、高度成長期と同様に手を伸ばせるだけ伸ばした感のあった名鉄グループであったが、新規事業は既存の事業の延長線上に展開された事例が多く、また、事業開発の面においては先発組より後発組に属することが多かった。このため、いわゆる「先行利得」を享受できたものはわずかであり、グループ内の事業規模(売上)は拡大したものの、利益面での貢献は期待したほどの成果をもたらすまでには至らなかった。
一方で、鉄軌道路線の整理縮減も再び開始され、[[1988年]](昭和63年)に岐阜市内線の一部を廃止したのを皮切りに不採算路線の廃止を漸次進め、最終的には全営業路線の約5分の1に相当する路線の廃止を行った(「[[#閑散線区の合理化・廃止|閑散線区の合理化・廃止]]」も参照)。これは、バブル後「[[失われた10年]]」による経済環境の厳しさに加えて、[[国鉄分割民営化|国鉄からJRへ移行]]したあとの猛烈な巻き返し([[東海旅客鉄道|JR東海]]との旅客争奪戦)への対抗上、名古屋本線をはじめとする主要路線の設備投資に経営資源を集中させる必要と、収支悪化にともない不採算路線への内部補助(赤字補填)が利益を圧迫し始めた影響によるもので、全体の事業継続のためには廃止せざるを得ない路線に対して、沿線市町村との話し合いを行いつつ進められた<ref group="注釈" name="ex08">規制緩和の一環として導入された『参入・退出の自由』化で『届出後1年で廃止可能』となった影響が大きい。また、世界的な巨大企業へと成長した『[[トヨタ自動車]]』が象徴するように、自家用車の浸透による旅客減の影響も無視できない。</ref>。
[[1990年代]]の[[バブル崩壊]]後には非鉄道事業への投資が徐々に負担となり、事業の選択と経営資源(人材・資本など)の集中を余儀なくされた。手始めとして関連会社の整理・統合が行われ、グループ内で同様の事業を行っている会社同士を統合して間接費用(後方事務・管理部門など)の圧縮を試み、採算が悪化した事業(会社)の整理が行われた。
1999年(平成11年)3月期決算では[[名鉄総合企業]]の資金運用損失(株式譲渡損)180億円の計上をはじめ、文化レジャー事業やリゾート事業の収益低下により230億円の[[連結決算]]上の赤字となり、[[#文化レジャー事業の分社化|文化レジャー事業の一部施設の閉鎖]]が検討されるようになる。また、名鉄本体のスリム化に手をつけ、不採算路線の多いバス事業の分社化を積極的に進め、現在のバス事業をすべて分社化した形の基礎を築いた。
2002年(平成14年)9月には、不採算事業の撤退による[[固定資産]]売却損などの[[特別損失]]計上により、2003年(平成15年)3月期[[決算期|中間]][[配当]]が1948年(昭和23年)10月期(半年間)決算以来55年ぶりの[[配当|無配]]となる事態が発生。同3月期決算においては598億円の[[経常損失]]を計上し、55年ぶりに名鉄単体での赤字決算となった。これにより2003年(平成15年)1月に、不採算が続いた文化レジャー事業とバス事業を中心としたリストラ・事業分社化を柱とした2006年(平成18年)3月期までの経営合理化策を発表し、実行に移した。
=== 愛知万博と空港線開業 === <!-- 平成15年以降 -->
2005年(平成17年)に開催された[[2005年日本国際博覧会|『愛・地球博』(愛知万博)]]を契機として東海地方の交通再編が行われることとなり、その目玉として[[中部国際空港]]の開港が決定され、それにともない名鉄も空港輸送を中心とした体制へと再編することになった。空港線の建設は名鉄が直接的な形では行わず、空港の関連事業の一環として「中部国際空港連絡鉄道株式会社」を設立して、同社が建設を行った。名鉄は空港線を第2種鉄道事業者(路線を借り受け運行のみを担当)として営業し、フィーダーとなる常滑線に関しては徹底的に路盤強化・カーブの付け替えなどを行い、空港連絡特急用車を用意するなどの設備投資を積極的に行った。
その後も車両・駅設備のバリアフリー・安全機能の対応などをはじめ、名鉄の特徴であった2扉クロスシート車の廃車(置き換え)を積極的に進めるなど、都市間連絡輸送から都市圏輸送を主体とした輸送形態への変更を推進している。また、[[IC乗車券]]への対応を前提とした駅設備・[[自動改札機]]の整備もあわせて行い、鉄道運営に関する総コストを圧縮するための設備投資を中心に行っている。これに関連して、車両設計においても鉄道会社独自の事情を考慮したフルオーダー設計から[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が提唱した標準設計・部品に基づく車両の新造導入により、イニシャルコスト(車両単価)の圧縮も志向している。加えて、関連会社の整理・統合もさらに推し進め、以前に分社化した車両現業部門の再統合(名鉄住商工業の名鉄本体への吸収・直轄事業化)や、[[福井鉄道]]・[[パレマルシェ]](旧名鉄ストアー)など不採算子会社・事業の譲渡を行い、他の私鉄各社と同様に名鉄グループ全体の採算性向上と連結決算利益を重視する経営に向けて一層の徹底を志向している。
2027年度に開業を予定している[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]に備え、現在の名鉄本社ビル、名鉄百貨店、名鉄レジャックと隣接する[[近鉄百貨店名古屋店]](近鉄パッセ)を再開発することが決定している。これに加え、これらの地下部に存在する名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一つのターミナル駅として一体化する方針も打ち出している。
2021年1月14日、[[中部経済新聞]]により、グループ体制を見直したうえで純粋[[持株会社]]体制への移行を検討していると報じられた<ref>[https://www.chukei-news.co.jp/news/2021/01/14/OK0002101140101_01/ 名鉄、持ち株会社化へ グループ体制見直し] - 中部経済新聞、2021年1月14日</ref>。
== 年表 ==
=== (旧)名古屋鉄道・名岐鉄道 ===
* [[1921年]](大正10年)
** 6月13日 - [[名古屋電気鉄道]]の全額出資<ref group="注釈" name="ex09">厳密には、新会社の設立時に名古屋電気鉄道の経営陣(事実上オーナー)も直接出資(10%程度)しているため同社の100%出資ではないが、出資者はすべて新会社(分割会社)の経営陣へ横滑り(兼務)しており、直接出資分は発足時の「増資」(手持ち資金の確保・拡充)とも捉えられるため、実質的には「全額出資」と見なしてよい。</ref> により、(旧)'''名古屋鉄道株式会社'''設立。
** 7月1日 - 名古屋電気鉄道から郡部線部門を譲受(資産の現物出資と郡部線を担当する社員の移籍)<ref group="注釈" name="ex10">これを現代風に言うと「会社分割」にあたる。一部の事業部門(この場合「郡部線部門」)を分社化したものと捉えることができる。</ref>。
* [[1923年]](大正12年)11月1日 - 蘇東電気軌道(未開業)を合併。同社が保有していた免許線は名鉄の手で[[名鉄起線|蘇東線]]として開業(のちの起線。現在廃止)。
* [[1925年]](大正14年)8月1日 - 1896年(明治29年)6月に設立され、現在の[[名鉄尾西線|尾西線]]などを当時運営していた尾西鉄道の鉄道事業を譲受。
* [[1927年]](昭和2年)11月20日 - [[昭和天皇]]が犬山行幸時に押切町 - 犬山橋間を往復乗車。
* [[1928年]](昭和3年)
** 4月10日 - 岐阜へ直接向かう路線の延長を計画し、その第一歩となる名岐線の丸ノ内駅 - 西清洲駅(現・新清洲駅)間が開通し、押切町駅 - 新一宮駅(現・[[名鉄一宮駅]])間が全通。
** 4月28日 - ライン遊園(現在の可児川駅)- 北陽館前で直営の乗合自動車の営業開始。日本ライン下りの送迎が目的の路線であった。
* [[1929年]](昭和4年)4月1日 - 現在の[[名鉄小牧線|小牧線]]などの免許を保有していた城北電気鉄道、尾北鉄道の事業を譲受。
* [[1930年]](昭和5年)
** 8月20日 - [[1909年]](明治42年)11月に設立され、廃止された[[名鉄岐阜市内線|岐阜市内線]]などを当時運営していた[[美濃電気軌道]]を合併。
** 9月5日 - 名古屋鉄道が'''名岐鉄道株式会社'''に社名変更。
* [[1932年]](昭和7年)10月8日 - [[鉄道省]](当時)[[高山本線|高山線]]直通の温泉客用定員制列車「下呂行直通特急」(柳橋 - 下呂間)を運転開始(大戦末期に中止)<ref>名古屋鉄道広報宣伝部(編) 『名古屋鉄道百年史』 名古屋鉄道、1994年、954頁。</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)
** 3月28日 - [[1924年]](大正13年)4月に設立され、現在の[[名鉄各務原線|各務原線]]を当時運営していた各務原鉄道を合併。
** 4月29日 - [[木曽川橋梁 (名鉄名古屋本線)|木曽川橋梁]]の完成により名岐線の新一宮(現・名鉄一宮)- 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜(現・名鉄岐阜)間が全通。新製車の[[名岐鉄道デボ800形電車|デボ800形電車]]を用いて、同区間を34分で結ぶ直通特急を設定。
=== 愛知電気鉄道 ===
* [[1906年]](明治39年)12月4日 - [[藍川清成]]らが「知多電気鉄道」として私設鉄道法による熱田 - 常滑間の免許を申請。
* [[1909年]](明治42年)9月23日 -「知多電車軌道」に改め[[軌道条例]]による特許申請に切り替え。
* [[1910年]](明治43年)
**8月3日 - [[軽便鉄道法]]による免許申請に切り替え。
**11月21日 - 知多電車軌道が名称変更し、'''愛知電気鉄道株式会社'''設立。
* [[1912年]](明治45年)2月18日 - 初の路線である、伝馬町(現在廃止、名古屋市熱田区)- 大野間(現・[[大野町駅]])が開業。
* [[1913年]](大正2年)8月31日 - 現在の常滑線にあたる、[[神宮前駅|神宮前]] - [[常滑駅|常滑]]間が全線開業。
* [[1917年]](大正6年)3月19日 - 名古屋本線の東側の第一歩にあたる、有松線(現名古屋本線の一部)神宮前 - 笠寺(現・本笠寺)間開業。
* [[1922年]](大正11年)7月8日 - [[1919年]](大正8年)9月に設立され、御器所(名古屋市昭和区)- [[下地町 (愛知県)|下地町]](豊橋市)間の鉄道免許を得ていた東海道電気鉄道を合併。
* [[1926年]](大正15年)
** 4月1日 - 豊橋線(現名古屋本線の一部)東岡崎 - 小坂井間開通。豊川鉄道の豊川まで直通運転を開始。
** 12月1日 - 1910年(明治43年)2月に設立され、現在の[[名鉄西尾線|西尾線]]西尾駅以南や廃止された[[名鉄平坂支線|平坂支線]]などを当時運営していた西尾鉄道を合併。
* [[1927年]](昭和2年)6月1日 - 伊奈 - 吉田(現・[[豊橋駅|豊橋]])間開業により、神宮前 - 吉田間全通。豊川鉄道との相互乗り入れ(双方の単線を相互利用して複線運転)を開始。新製の[[愛知電気鉄道電7形電車|電7形電車]]を用いて、直通急行(1往復のみ特急)運転開始。このとき特急は63分、急行は72分運転であった。なお、この特急の[[表定速度]]59km/hは当時日本一であった。
* [[1930年]](昭和5年)
** 4月30日 - 電鉄事業と並ぶ主力事業であった電気供給事業を[[愛知電力]]に譲渡(翌年さらに[[東邦電力]]へ譲渡)。
** 9月20日 - [[愛知電気鉄道デハ3300形電車|デハ3300形電車]]を用いて、神宮前 - 吉田間を57分で結ぶ[[超特急]]「あさひ」運行開始。
** 10月30日 - 1927年(昭和2年)9月に設立され、豊橋 - 気賀間の鉄道免許を得ていた遠三鉄道の免許を譲受。
* [[1934年]](昭和9年)5月1日 - 神宮前駅本屋を東海道線の西側に新築移転。
=== 名古屋鉄道 ===
==== 戦前・戦中 ====
* 1935年(昭和10年)8月1日 - 名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併し(新)'''名古屋鉄道株式会社'''が発足(形式上は名岐鉄道が存続会社となって(新)名古屋鉄道と改称し、愛知電気鉄道は解散した)<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100116633|title=日本一の私鉄名古屋鉄道成る : 名岐と愛電合併す|oldmeta=00103370}} 1935年8月2日付報知新聞](神戸大学附属図書館新聞記事文庫)</ref>。
** この日より、旧「名岐鉄道」の各線を「西部線」、旧「愛知電気鉄道」の各線を「東部線」と総称した。
**この時点では愛電の子会社であった愛電自動車は社名を変更せず、翌1936年に名鉄自動車に変更している。したがってこの時点では名岐由来の名鉄直営の自動車部門と愛電由来の名鉄自動車が併立する形となった。
* 1938年(昭和13年)5月10日 - 現在の中央道特急バスの前身となる名飯線名古屋 - 飯田間の急行バスを[[飯田街道]]([[国道153号|国道153号線]])経由で運転開始。名鉄自動車・尾三自動車・南信自動車(現・信南交通)の共同運行(1941年8月休止、[[1952年]]7月再開)。
* 1939年(昭和14年)9月1日 - [[1902年]](明治35年)3月に設立され、現在の[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]を当時運営していた瀬戸電気鉄道を合併。
* [[1940年]](昭和15年)9月1日 - 1922年(大正11年)3月に設立され、現在の[[豊橋鉄道]][[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]を当時運営していた渥美電鉄を合併。
* [[1941年]](昭和16年)
** 6月1日 - 1912年(明治45年)5月に設立され、現在の[[名鉄三河線|三河線]]などを運営していた三河鉄道を合併。
** 8月12日 - [[新名古屋地下トンネル]]が竣工。東枇杷島駅(移設) - 新名古屋(現・名鉄名古屋)駅間を開業。「郡部線」当時からのターミナルであった押切町駅 - 東枇杷島駅間と[[柳橋駅 (愛知県)|柳橋駅]]までの市電乗り入れを廃止し、国鉄(現JR)名古屋駅前に地下線(駅)で乗り入れる。
* [[1943年]](昭和18年)
** 2月1日 - [[1927年]](昭和2年)10月に設立され、現在の[[名鉄河和線|河和線]]を運営していた[[知多鉄道]]を合併。
** 3月1日 - 1926年(大正15年)9月に設立され、現在の[[名鉄広見線|広見線]]新可児駅以東などを当時運営していた[[東美鉄道]]と、[[1919年]](大正8年)11月に設立され、現在の[[名鉄竹鼻線|竹鼻線]]を当時運営していた竹鼻鉄道を合併。
** 8月11日 - 子会社の名鉄自動車へ名鉄直営のバス事業を譲渡・統合。同時に愛知県内の[[尾三自動車]]をはじめ12事業者を名鉄自動車が合併。また同じ年の4月に岐阜乗合自動車、6月に知多乗合自動車、11月に豊橋乗合自動車を分社化、それぞれの地区のバス事業を一本化している。
* [[1944年]](昭和19年)
** 3月1日 - 以下4社を合併。
***1925年(大正14年)5月に設立され、現在の西尾線西尾駅以北などを運営していた[[碧海電気鉄道]]。
***1924年(大正13年)1月に設立され、廃止された[[名鉄谷汲線|谷汲線]]を当時運営していた谷汲鉄道。
***1896年(明治29年)2月に設立され、[[飯田線]]の一部として運営路線が[[戦時買収私鉄|国家買収]]されていた[[豊川鉄道]](証券類等事務上の処理のみ)。
***1921年(大正10年)9月に設立され、飯田線の一部として運営路線が国家買収されていた[[鳳来寺鉄道]](同上)。
** 9月1日 - 東西連絡線新名古屋 - 神宮前が営業開始。旧名岐鉄道系の路線(西部線)と旧愛知電気鉄道系の路線(東部線)が、金山駅(翌1945年に金山橋駅に改称。現・[[金山駅 (愛知県)|金山駅]])でつながる<ref>当時は架線電圧が名岐系の西部線は600V、愛電系の東部線は1500Vであったため、金山駅を境とした。</ref>。
==== 戦後 ====
* [[1945年]](昭和20年)12月10日 - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]](駐留軍)の指導により、名古屋鉄道労働組合(名鉄労組)を結成。
* [[1947年]](昭和22年)6月10日 - 名鉄自動車を譲受<!--合併ではない-->。バス事業をすべて名鉄直営とする。
* [[1948年]](昭和23年)5月16日 - [[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1948年5月16日改正|白紙ダイヤ改正]]。西部線の主要路線を東部線と同じ1,500Vへ昇圧し、東西路線の直通運転を開始。
** この日より、新岐阜駅(現・名鉄岐阜駅)- 豊橋駅間を「[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]」と名称変更(全線にわたって路線名を見直し・変更)。
* 1949年(昭和24年)11月10日 - 浄心・山口町・大曽根・東田町・東山・中村を起点に郊外に向けて運行していた名鉄バスが名古屋駅前に乗り入れ開始。
* [[1950年]](昭和25年)
** 4月25日 - 飯田線への直通運転を不定期列車で再開(1954年、小坂井支線とともに廃止)。
** 8月4日 - 名鉄共栄社を設立、駅構内の物販などを行う。現在の名鉄産業、名鉄観光サービス、電通名鉄コミュケーションズなどの基となった。
* [[1952年]](昭和27年)
** 4月10日 - 創業記念日を(旧)名古屋鉄道の設立日である6月13日に制定。
** 12月27日 - 日本ヘリコプター輸送設立、現在のANAホールディングスの前身にあたり、名鉄はこの日ペリ設立時から出資者である。
* [[1953年]](昭和28年)[[6月1日]] - 起線休止、[[バス代行|バス代行輸送]]開始。バスは新一宮駅へ乗り入れ。翌1954年6月1日に起線は正式に廃止、名鉄バス起線となる。
* [[1954年]](昭和29年)
** 10月1日 - 渥美線を[[豊橋鉄道]]へ譲渡。
** 12月1日 - 名鉄百貨店名古屋本店オープン。新名古屋駅直上に地上3階地下1階の規模で暫定営業開始。
* [[1957年]](昭和32年)7月29日 - 名鉄ビル全館完成。本社事務所をビル内に移転、業務開始。これにともない名鉄百貨店も増床、翌8月には同ビル内の名鉄ホールが宝塚歌劇団星組公演で杮落とし。
* [[1958年]](昭和33年)
** 3月16日 - [[庄内川橋梁 (名鉄名古屋本線)|庄内川橋梁]]を新橋梁へ切り替え。これにより名古屋本線の最急曲線を緩和し、枇杷島分岐点の通過速度を20km/hから40km/h(のちに50km/h)へ引き上げ。
** 7月18日 - 名鉄・阪急・京阪・近江鉄道の共同出資で[[名古屋観光日急|日本急行バス]]設立、1964年に[[名神ハイウェイバス]]の運行を開始。
* [[1959年]](昭和34年)
** 4月1日 - [[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1959年4月1日改正|白紙ダイヤ改正]]。[[名鉄5500系電車|5500系電車]]が登場し、量産車としては日本国内初となる料金不要冷房車の運行を開始。また、[[知立駅]]新設(移転)・配線変更により、名古屋方面から[[名鉄三河線|三河線]]への直通列車を増発。
** 9月26日 - [[伊勢湾台風]]により各路線で被害。中でも[[名鉄常滑線|常滑線]]と[[名鉄尾西線|尾西線]]の一部区間は[[高潮]]により長期間水没した。常滑線は11月15日(単線での仮復旧)、尾西線は11月23日に開通。
* 1960年(昭和35年)4月22日 - 高富線長良北町 - 高富間廃止。名鉄バス高富線岐阜駅前 - 高富間にバス転換。7月22日には高富線跡地をバス専用道路として使用開始。
* [[1961年]](昭和36年)6月12日 - [[パノラマカー]]([[名鉄7000系電車|7000系電車]])が就役し、名古屋本線の特急に投入される。これにより、[[鉄道の最高速度|最高運転速度]]を110km/hに引き上げ認可・運行開始。
* [[1962年]](昭和37年)
** 2月1日 - 名鉄バス善太線、神島田線、弥富線でマイクロバスによるワンマン運転を試験導入。
** 3月21日 - ラインパーク(現・モンキーパーク)モノレール線、日本国内初の跨座式モノレールとして開通。
** 6月17日 - 岡崎市内線、福岡線の福岡町 - 大樹寺間廃止、名鉄バスの岡崎市内線としてバス転換。翌年、岡崎駅前 - 福岡町と岡崎井田 - 大樹寺間がレール撤去後、バス専用道路となる。
*[[1964年]](昭和39年)[[10月4日]] - 鏡島線千手堂 - 西鏡島間全線を廃止しバス化。バス路線は先に開通していた高富線と一体化し高富 - 新岐阜 - 岐阜駅前 - 西鏡島間で名鉄バスの岐阜市内線として運行開始。
*[[1965年]](昭和40年)
** 4月25日 - 一宮線廃止、バス化。バスは東一宮から尾張一宮駅を経由し一宮市民病院まで延伸。
**8月5日 - 戦前に行われていたが中断していた[[日本国有鉄道|国鉄]][[高山本線]]との[[直通運転]]を、神宮前駅 - [[高山駅]]間に[[準急列車|準急]]「[[名鉄特急#高山本線直通列車|たかやま]]」を新設したことで再開する。
** 12月30日 - [[鳴海駅]] - [[須ヶ口駅]]間にM式ATS(速度照査式ATS)を設置。[[1968年]](昭和43年)7月までに全線(岐阜地区の軌道線区間を除く)の設置を完了。
* [[1967年]](昭和42年)
** 6月1日 - [[名鉄バスセンター]]開業、本社事務所を同バスターミナルビル内に移転。日本国内初のビル(立体)型[[バスターミナル]]であり、当時としては東洋一の規模を誇った。また同ビルの1階から6階までにメルサ<ref group="注釈">MELSAとは'''M'''eitetsu '''E'''legance '''L'''adies '''S'''hopping '''A'''venue の頭文字文字を取った造語である。</ref>がオープン、これも日本初となるビル全体を専門店街とする構成はのちに流通業界に「メルサ方式」として広まることになる。
**8月15日 - 東京急行電鉄・静岡鉄道など12社と共同で東名急行バスを設立。1969年より名鉄バスセンター - 渋谷駅間など東名高速道路経由で運行開始するも、新幹線や国鉄バスとのダブルトラックですでに供給過大であり、1975年廃止、解散となる。
** 8月22日 - [[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1967年8月22日改正|ダイヤ改正]]。本線区の急行を廃止して特急を増発し、[[名鉄特急#各線に特急があった時代|都市間輸送を重視した特急列車網]]を展開。
* 1969年(昭和44年)6月1日 - 津島駅に定期券専用の自動改札機を設置。光学読取式であったが、その後、磁気券式自動改札機が主流になったため、1975年以降、撤去された。
* [[1970年]](昭和45年)
** 6月25日 - [[名鉄田神線|田神線]]が開通、[[名鉄モ600形電車 (2代)|モ600形電車]]を使用して新岐阜駅 - 美濃駅間の直通運転を開始。世界的にも稀有な軌道車両による鉄道線乗り入れが始まる。
** 11月20日 - 新岐阜駅に定期券専用自動改札機(光学読取式)を設置。津島駅同様、1975年以降に撤去。
* [[1971年]](昭和46年)
** 3月31日 - [[日本民営鉄道協会]](民鉄協)を脱退(1982年8月に民鉄協へ復帰)。
** 9月1日 - 名鉄と[[住友商事]]が共同出資で名鉄住商車両工業(のちに名鉄住商工業に社名変更)を設立。日本国内で初めて車両保守部門を分社化し全面委託を行う。
* [[1973年]](昭和48年)
** 2月3日 - 名鉄バス名多線で低床バス<ref group="注釈">現在でいうところのワンステップバス。</ref>試験導入。
** 8月18日 - 岐阜市内線でワンマン運転を開始。
==== オイルショック後(高度経済成長期終焉後) ====
* [[1974年]](昭和49年)9月17日 - [[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1974年9月17日改正|白紙ダイヤ改正]]。点輸送(拠点駅間の速達輸送重視)から線輸送(中間駅を含む相互駅間輸送重視)への転換を図り、特急を格下げして急行を増発。
* [[1975年]](昭和50年)8月24日 - 中央自動車道・中津川 - 駒ヶ根間開通を機に、一般道経由で運行していた「名飯急行バス」を高速経由に改めた「中央道特急バス(現・[[中央道高速バス]])」として開業。名飯線同様、信南交通と共同運行で、直営では初の高速バス路線(事業)となる。
* [[1976年]](昭和51年)
** 6月28日 - 名鉄バス名古屋・津島線、岐阜市内線に冷房車を投入。
** 12月 - 名鉄初の本格的な3扉通勤車[[名鉄6000系電車|6000系]]登場。第1次[[オイルショック]]後に急増した通勤客輸送で威力を発揮し、名鉄における「[[通勤型電車|通勤車]]」の地位を確立。M式[[自動解結装置]]([[連結器#電気連結器|自動電気・空気連結器]])運用開始。
* [[1977年]](昭和52年)3月20日 - [[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1977年3月20日改正|ダイヤ改正]]。座席指定特急のみを「特急」とし、料金不要の特急を「[[高速 (列車)|高速]]」に種別変更(1度目の特急料金政策変更)。
* [[1978年]](昭和53年)8月20日 - [[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]東大手 - 栄町間の地下新線(栄町地下トンネル)が開通。長年の悲願であった名鉄線の栄地区への乗り入れが実現。また、栄町開業に先立つ3月には1,500Vへの昇圧も実施される。新たに設置された栄町・東大手の両駅には名鉄の駅では初めて磁気券方式の自動改札機を導入、これらにより瀬戸線の近代化が成る。
* [[1979年]](昭和54年)7月29日 - [[名鉄豊田線|豊田新線]]が開通。[[名古屋市営地下鉄鶴舞線]]との間で名鉄初の都市型[[直通運転|相互直通運転]]を開始。
* [[1982年]](昭和57年)3月21日 - [[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1982年3月21日改正|ダイヤ改正]]。7000系5編成を名鉄初の線内特急の専用車(通称白帯車)に改造・運用開始。以降、特急運用の専用車化を進め、1988年(昭和63年)に特急専用車[[名鉄1000系電車|1000系]]「パノラマSuper」を新造・登場させるきっかけとなる。
* [[1983年]](昭和58年)
** 6月10日 - 特急列車に女性乗客係<!--昭和58年時点で名鉄の職制で「掛」表記は存在しない-->(正式な乗務員としては戦後国内初)が乗務を開始。以降、順次増員を進めて早朝・深夜を除く全特急列車(指定席)に乗務となる。
** 11月24日 - 特急座席管理システム完成、座席指定券のオンライン発売(前売)を開始。12月1日の全列車から機械発券に切り替え。
* [[1984年]](昭和59年)
** 1月1日 - 貨物営業を廃止。ただしその後も鉄道車両の輸送が行われている(後述)。
** 3月20日 - [[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1984年3月20日改正|ダイヤ改正]]。全線を網羅した「名鉄電車・バス時刻表」(現・「名鉄時刻表」)を初刊行。以後、2011年12月17日改正までダイヤ改正ごとに刊行。
**12月15日 - [[名鉄8800系電車|8800系]]「パノラマDX」運行開始。日本初の先頭部ハイデッカー展望室はのちに登場する[[ジョイフルトレイン]]群にも影響を与えた。
* [[1985年]](昭和60年)
**3月14日 - [[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1985年3月14日改正|ダイヤ改正]]。前年に八百津線へ導入した軽量気動車「[[LE-Car|LEカー]]」を、広見線(新可児 - 御嵩間)・三河線(猿投 - 西中金間)にも導入・本格運用を開始し、ワンマン運転を実施。
** 3月21日 - 名古屋国際展示場でワールドインポートフェア開幕。 円滑な経済関係の増進に寄与するとともに各国の技術、文化、生活などを広く紹介し、国際交流の推進を図ることを目的に当時、名古屋商工会議所会頭でもあった名鉄会長竹田弘太郎の提唱により開催。名鉄もベルギーのバンホールより中型ワンステップバスのAU138Jを導入し、シャトルバスとして運行。
**4月30日 - 名鉄バス本地ヶ原線を[[基幹バス]]化。大津通 - 引山間を中央走行方式バスレーンとし、名古屋市交通局との共同運行を実施。
* [[1987年]](昭和62年)
** 2月12日 - [[1987年から2004年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1987年2月12日改正|白紙ダイヤ改正]]。支線直通列車を増発。
** 3月23日 - 新名古屋駅(現・名鉄名古屋)全面改装工事完成。これにより、普通乗車券を含めた自動改札機の本格使用を開始(以降、主要駅の自動改札化を進める)。
* [[1988年]](昭和63年)5月12日 - 全日本空輸・名鉄グループ各社の共同出資で[[エアーセントラル|中日本エアラインサービス]] (NAL) を設立。コミューター路線の開拓に着手。
* [[1989年]](平成元年)
** 7月9日 - [[金山駅 (愛知県)|金山総合駅]]完成。東西連絡線開業時からの金山橋駅を移転し、駅名も「金山」に改称し全列車停車駅に昇格。[[名鉄名古屋駅|新名古屋駅]]乗り入れ列車に限り100%冷房化<ref group="注釈">ただし、運用上どうしても新名古屋駅に停車する営業列車に非冷房車が連結される場合が存在したが、その場合は同駅において該当車両のドア扱いを行わないことで「100%」とした。</ref>。
** 9月1日 - 名鉄初となる夜行高速バス、名古屋・長崎線「グラバー号」運行開始。長崎自動車と隔日での共同運行。開設当時、日本最長のバス路線であった。
* [[1990年]](平成2年)
** 4月1日 - 名鉄初のプリペイドカード「パノラマカード」を発売開始、名古屋本線金山 - 神宮前間の複々線化完成。
** 6月8日 - [[名鉄東部観光バス|サンライズバス]]設立。同年10月1日に名鉄バス蒲郡営業所(名古屋鉄道蒲郡自動車営業所)を移管し、採算(存続)の難しいバス路線を分社化する嚆矢となる。
** 8月 - 特急専用車(1000系)増備により、名古屋本線特急の、[[鉄道の最高速度|最高速度]]120km/h運転を開始。
** 10月29日 - [[1987年から2004年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1990年10月29日改正|ダイヤ改正]]。本線特急を指定席車と自由席車併結(一部指定席化)とし、自由席特急の性格を持っていた「高速」を統合(2度目の特急料金政策変更)。また、瀬戸線以外の準急を急行へ統合し、停車駅の見直し(特別停車駅による停車駅調整)を行う。またこの改正より民鉄で初めて前照灯の[[昼間点灯]]を開始。
==== バブル崩壊後(安定成長期終焉後) ====
* [[1991年]](平成3年)4月21日 - 片道普通乗車券の様式を、郡部線開業時より続いた行先表示から金額表示式へ変更。これにより切符売場の券売機を更新(これ以前には新名古屋駅では方面別に券売機を分けていたが、この変更により方面別での区分けを廃止し、同駅の全券売機で自社線全方面の行先を購入可能に変更)。
* [[1992年]](平成4年)
** 4月1日 - [[コーポレートアイデンティティ|CI]]導入、シンボルマーク、コーポレートカラー(メイテツブルー)などを制定。
** 11月24日 - [[1987年から2004年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1992年11月24日改正|白紙ダイヤ改正]]。1000-1200系の増備にともない一部指定席車編成を特急専用車両に統一。
* [[1993年]](平成5年)
**[[5月30日]] - 全駅で朝夕のラッシュ時間帯のみ禁煙とする「禁煙タイム」を実施<ref>“名鉄 ラッシュ時、全駅禁煙に” [[交通新聞]] (交通新聞社): p2. (1993年6月1日)</ref>。
** 8月12日 - 上小田井駅周辺の連続立体化工事完成により、犬山線も地下鉄鶴舞線と相互直通運転を開始。
* [[1994年]](平成6年)6月 - 創業100周年を記念し、岐阜県可児市に[[名鉄資料館]]が開館<ref>{{Cite news |title=名鉄資料館を公開 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-06-16 |page=3 }}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)
** 5月30日 - 美濃町線・岐阜市内線を除く全駅を終日禁煙とする(ただし、地下駅以外では喫煙コーナーを設ける)<ref>“名鉄全駅が終日禁煙に” [[交通新聞]] (交通新聞社): p1. (1995年5月19日)</ref>。
** 7月29日 - 新一宮駅高架化。翌年6月には付近の立体交差事業完成と新一宮駅バスターミナルの使用開始。その後、2000年11月に名鉄百貨店一宮店の移転開業をもって新一宮駅再開発が完成を見ることとなる。
* [[1996年]](平成8年)4月8日 - [[1987年から2004年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1996年4月8日改正|ダイヤ改正]]。旧型(非冷房)車淘汰により1,500V路線の全車冷房化を達成。
* [[1998年]](平成10年)6月1日 - 西尾線・蒲郡線(西尾 - 蒲郡間)でワンマン運転を開始(1,500V線区では初。2008年以降は蒲郡線のみとなる)。
* [[1999年]](平成11年)
** 4月1日 - 美濃町線(新関 - 美濃)を廃止。
** 5月10日 - [[1987年から2004年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1999年5月10日改正|ダイヤ改正]]。[[名鉄1600系電車|1600系(後の1700系)]]が運行開始。あわせて、従来の「指定席車」(座席指定券)を「特別車」(特別車両券「ミューチケット」)へ変更する制度改正も実施<ref group="注釈" name="ex11">特急列車を「出入台」・「リクライニングシート」など設備の整った専用車での運用に統一し、7000系白帯車はこの改正から特急運用を外される。ただし、この改正では後に行われる「特急政策の見直し」までは想定していない。</ref>。また、1990年代を通じて展開されたJR東海とのスピード競争<ref group="注釈" name="ex12">主に名古屋 - 豊橋間で展開。指揮に当っていた当時の副社長[[犬飼栄輝]]が、名古屋本線特急の運行状況を中日本航空のヘリに乗って上空からチェックする程の熱の入れようであったという。</ref> は本改正で終息となる。
** 10月 - 名鉄バス加木屋管理所を[[知多乗合]](知多バス)へ移管。
* [[2001年]](平成13年)10月1日 - ダイヤ改正。特急「[[名鉄特急#高山本線直通列車|北アルプス号]]」を廃止。これをもって36年間継続した(名岐鉄道の乗り入れ開始から中断をはさんで49年目を数えた)高山本線への直通運転が終了。同時に揖斐線(黒野 - 本揖斐)、谷汲線、八百津線、竹鼻線(江吉良 - 大須間)を廃止。
* [[2003年]](平成15年)3月27日 - [[上飯田連絡線]]が開通、[[名鉄小牧線|小牧線]]と新規開業の[[名古屋市営地下鉄上飯田線|地下鉄上飯田線]]への直通運転を開始。同時にSFカードシステム「[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]」を小牧線に導入(SFパノラマカード発売開始)。以後、順次「トランパス」導入路線(駅)の拡大を進める。また、[[前後駅]]に建設されていた待避線の使用を開始し、急行などの頻度が増えた。2003年度は車両の新造がまったく行われない異例の年となった。
* [[2004年]](平成16年)
** 4月1日 - 三河線西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間を廃止。
** 5月11日 - 名鉄の全額出資会社として「[[名鉄バス]]」を設立。10月1日付で路線バス部門<ref group="注釈" name="ex13">[[名古屋観光日急|名古屋観光]]を設立以降、名鉄本体に貸切バス専門の事業部門はない。</ref> を全面的に「名鉄バス」へ移管。また、岐阜市内・近郊路線は[[岐阜乗合自動車]](岐阜バス)へ譲渡。
** 10月1日 - 創業110周年記念事業 「名鉄お客さまセンター」営業開始。
* [[2005年]](平成17年)
** 1月29日 - [[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2005年1月29日改正|白紙ダイヤ改正]]。[[名鉄空港線|空港線]]が正式開業し、[[名鉄2000系電車|2000系]]「ミュースカイ」・[[名鉄2200系電車|2200系]]が運行開始。また、定期列車として初めて[[名鉄特急#豊橋方面へ直通した空港特急|豊橋駅から常滑線への直通特急列車]]を設定。同年2月、[[中部国際空港]]開港により[[空港連絡鉄道]]としての使命を担う。
*** 特別停車などで曖昧だった列車種別を、今までの“[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車|急行]]・普通”の3種別から“[[快速特急]]・特急・[[快速急行]]・急行・[[準急列車|準急]]・普通”の6種別に分割し、例外を極力減らして各種別の停車駅を明確化した。
*** 空港線開業と同時に、[[名鉄名古屋駅|新名古屋]]・[[名鉄一宮駅|新一宮]]・[[名鉄岐阜駅|新岐阜]]の3駅を「新◯◯」から「名鉄◯◯」に改称する駅名変更を行う{{refnest|group="注釈"|「新◯◯駅」から「名鉄◯◯駅」に変更することで、一目で名鉄の駅であることを地域外客に認識させることを狙った駅名改称である<ref>“[https://web.archive.org/web/20031226112158/http://www.meitetsu.co.jp/news/161.html 中部国際空港連絡鉄道の路線名と駅名が決定]”、名古屋鉄道([[インターネットアーカイブ#ウェイバックマシン|ウェイバックマシン]]による[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]]。2003年12月26日取得)、2014年8月12日閲覧。</ref>。[[新岐阜駅前駅|新岐阜駅前電停]]については岐阜市内線の廃止が決定していたので改称されずに廃止となった。なお、JRと共用の豊橋駅を除き、行き先の表示・駅や車内での放送では「名鉄◯◯」の「名鉄」を省略している。}}。
*** 空港線開業による改正で、利用者が少ない特急列車の廃止や各列車の運行区間縮小など輸送力の見直しも実施。
** 2月1日 - 豊橋 - 金山・名鉄名古屋間の2枚組回数乗車券「[[なごや特割2]]平日」「なごや特割2土休日」発売開始。
** 4月1日 - [[名鉄岐阜線|岐阜600V線区]](岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線)を全廃し、全線が直流1,500V電化の路線となり、併用軌道が存在せず事実上「[[日本の鉄道#概説|鉄道]]線」として運行されている[[名鉄豊川線|豊川線]]を除き、[[軌道法|軌道]]線(いわゆる路面電車路線)が消滅。これにより総営業キロが[[東武鉄道]](463.3km)を下回り、JR以外の民鉄第2位から第3位に後退。
* 6月 - 名鉄住商工業を解散。
* [[2006年]](平成18年)
** 4月29日 - [[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2006年4月29日改正|ダイヤ改正]]にあわせ名古屋本線(伊奈駅 - 黒田駅間)など9線区130駅に、乗車駅の磁気情報を記録する「乗車券確認システム」を導入。
** 9月 - 空港特急「ミュースカイ」を除く全特急列車を一部特別車編成とする、特急政策の見直し計画を発表<ref group="注釈" name="ex15">特急に「座席確保(指定)」料金制度(期間限定)を導入した1964年、「座席指定特急」を通年運行とした1970年、「特急」(座席指定)と「高速」を分離した1977年、「特急」に一部指定制(一般車の併結・「高速」を「特急」へ併合)を導入した1990年、そして今回と、名鉄による『特急政策』の大幅な方針転換は5度目となる。<!--ただし、「座席確保」(予約制含む・料金不要)の概念そのものは名岐鉄道時代(1932年「下呂行直通特急」)からあり、戦後間もなく(1952年「フリージャ号」など)には復活していた。--></ref>。
* [[2007年]](平成19年)6月30日 - [[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2007年6月30日改正|ダイヤ改正]]。犬山線 - 河和線直通系統の特急列車の約半数を、一部特別車編成に置き換える。
* [[2008年]](平成20年)
** 12月27日 - [[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2008年12月27日改正|ダイヤ改正]]。パノラマカー7000系が定期運行を終了。中部国際空港連絡への速達列車「ミュースカイ」<ref group="注釈">「ミュースカイ」が正式に列車種別となったのはこの改正からである。</ref>以外は全特急(快速特急)が一部特別車編成で運行となる。2006年に発表した特急政策の見直しが完了。
** 12月29日 - [[福井鉄道]][[福井鉄道福武線|福武線]]の赤字補填と存続問題の解決策として、同社に対して1株(10億円)の増資を行うと同時に、保有する全福井鉄道株を沿線の支援団体や第三セクターに1株1円で譲渡し、福井鉄道の経営から撤退<ref>{{PDFlink|[https://www.meitetsu.co.jp/ir/reference/disclosure/__icsFiles/afieldfile/2021/06/15/release081215.pdf 関連会社株式の譲渡に関するお知らせ]}} - 名古屋鉄道(2008年12月15日)</ref>。これにより福井鉄道は名鉄グループではなくなった。
* [[2009年]](平成21年)
** 4月1日 - 豊橋 - 金山・名鉄名古屋間の2枚組回数乗車券「なごや特割2平日」の発売価格を1,800円から1,700円に値下げ。
** 5月9日 - [[定額給付金]]の支給に合わせて1セット1万2,000円(SFパノラマカード2,000円分、名鉄百貨店商品券1万円分、名鉄百貨店特別お買物券1,000円分)を4,000セット発売。
* [[2010年]](平成22年)9月16日 - 携帯位置登録ゲーム「[[コロニーな生活☆PLUS]](以下コロプラ)」のキャンペーン「日本縦断!花いっぱい位置ゲーの旅」に参加。
* [[2011年]](平成23年)
** 2月11日 - ICカード[[manaca]]を、蒲郡線と広見線を除く全線に導入。
** 3月26日 - [[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2011年3月26日改正|ダイヤ改正]]。朝ラッシュ時における特急需要に対応。
** 3月29日 - [[ファミリーマート]]と基本契約書を締結。
** 6月14日 - コミュニケーションスローガン『ココロをつなぐ、あしたへはこぶ。』を策定。
* [[2012年]](平成24年)
** 2月29日 - トランパス、バスカードの利用終了。回数乗車券の販売終了(特殊割引回数券を除く)。
** 4月 - [[神宮前駅]]東口に鉄道センタービル竣工。これにともない、鉄道事業本部の管理部門を[[名鉄バスセンター|名鉄バスターミナルビル]]から鉄道センタービルへ移転。
** 4月5日 - コロプラとタイアップ第2弾「乗り物コロカ付き1DAY フリーきっぷ」発売。
** 4月21日 - manacaについてJR東海の[[TOICA]]との相互利用を開始<ref>“[https://web.archive.org/web/20150502133208/https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2011/20111222.html manaca(マナカ)とTOICAの乗車券機能の相互利用サービスを平成24年4月21日(土)に開始します] ”、名古屋鉄道、2011年12月22日([[インターネットアーカイブ#ウェイバックマシン|ウェイバックマシン]]による[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]]。2015年5月2日取得、2021年10月1日閲覧)。</ref>。
* [[2013年]](平成25年)3月23日 - [[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC乗車カード全国相互利用]]開始で、[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。
* [[2014年]](平成26年)
** 3月6日 - [[三菱UFJニコス]]と提携し、名鉄グループ[[クレジットカード]]「MEITETSU μ's Card」の発行を開始<ref>“[https://web.archive.org/web/20150322221025/https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2013/__icsFiles/afieldfile/2014/02/14/release140213_card.pdf 名鉄グループクレジットカード「MEITETSU μ’s Card」を3月6日(木)から募集開始します] ”(PDF)、名古屋鉄道、2014年2月13日([[インターネットアーカイブ#ウェイバックマシン|ウェイバックマシン]]による[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]]。2015年5月22日取得、2021年10月1日閲覧)。</ref>。
** 6月1日 - 創業120周年を記念し、社員の制服を変更。
* [[2016年]](平成28年)3月中旬以降 - [[駅ナンバリング]]を導入。
* [[2017年]](平成29年)
** 3月29日 - 名古屋駅地区再開発全体計画を発表<ref name="meitetsu20170329">“[https://web.archive.org/web/20170329151313/https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2016/__icsFiles/afieldfile/2017/03/29/release170329_nagoyastation.pdf 名鉄 名古屋駅地区再開発 全体計画] ”(PDF)、名古屋鉄道、2017年3月29日([[インターネットアーカイブ#ウェイバックマシン|ウェイバックマシン]]による[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]]。2017年5月29日取得、2021年10月1日閲覧)。</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** 12月23日 - [[名鉄5700系電車|5300系]]引退。これにより2扉車は[[名鉄特急|特急の特別車]]のみとなった。
* [[2020年]](令和2年)
** 11月10日 - 名古屋駅地区再開発計画の着工を当初予定の2022年から延期すると表明。[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症の流行]]にともなうテナントの需要を見極めるため、2024年度をめどに見直し後の計画を決める方針。再開発計画の着工時期は「未定」と改める<ref>{{Cite news |title=名鉄、名駅周辺の再開発延期 21年3月期初の営業赤字 |newspaper=日本経済新聞 |date=2020-11-10 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66051940Q0A111C2L91000/ |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2020-12-11}}</ref>。
** 12月25日 - 岐阜県可児市の名鉄資料館が閉館<ref>{{Cite news |title=名鉄資料館閉館でファンお別れ 岐阜県可児市〔地域〕|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021010400252&g=soc |newspaper=時事通信 |publisher時事通信社 |date=2021-01-04 |accessdate=2021-01-14}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
** 5月22日 - ダイヤ改正。このダイヤ改正から冊子の「ポケット時刻表」の配布を廃止<ref>[https://nordot.app/778159339905597440 ポケット時刻表が相次ぎ廃止、なぜ?] 47NEWS、2021年6月21日閲覧。</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** 2月7日 - 子会社である[[名鉄運輸]]の完全子会社化を目的に、[[株式公開買い付け]](TOB)を実施すると発表<ref>[https://www.meitetsu.co.jp/ir/reference/disclosure/__icsFiles/afieldfile/2022/02/07/meitetsuunyukaiji_20220207.pdf 名鉄運輸株式会社株式(証券コード:9077)に対する公開買付けの開始に関するお知らせ] - 名古屋鉄道、2022年2月7日</ref>。
** 3月16日 - [[三井住友カード]]と提携し、名鉄グループクレジットカード「MEITETSU μs Card」の発行を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2021/__icsFiles/afieldfile/2022/03/15/220315shinmscard.pdf |title=名古屋鉄道と三井住友カードが提携し新たな「名鉄ミューズカード」を発行~名鉄グループおよび沿線・地域でのご利用でさらに便利に~ |accessdate=2022年3月25日 |publisher=名古屋鉄道}}</ref>。
** 7月1日 - バス事業中間持株会社「名鉄グループバスホールディングス」を設立<ref>[https://www.meitetsu.co.jp/ir/reference/disclosure/__icsFiles/afieldfile/2022/05/10/tekijibus220511_1.pdf 会社分割(簡易新設分割)による中間持株会社設立に関するお知らせ] - 名古屋鉄道、2022年5月11日</ref>。
* [[2024年]](令和6年)
** [[中部国際空港駅]]、[[名鉄名古屋駅]]、[[金山駅 (愛知県)#名古屋鉄道|金山駅]]などにおいて手持ちのタッチ決済対応のカード([[クレジットカード|クレジット]]・[[デビットカード|デビット]]・[[プリペイドカード|プリペイド]])や、同カードが設定された[[スマートフォン]]による[[非接触型決済]]を対象とした[[社会実験|実証実験]]を実施(予定)<ref>{{cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20230920-2775084/|title=名古屋鉄道、2024年春から一部の駅でタッチ決済による乗車の実証実験開始|newspaper=[[マイナビ]]ニュース|date=2023-09-20|accessdate=2023-10-13}}</ref>。
=== 沿革図 ===
{{wide image|Company history of Nagoya Railroad (railway operator).svg|1500px|alt=沿革図}}
== 鉄軌道事業 ==
[[File:Nagoya Railroad Linemap.svg|400px|thumb|right|路線図(クリックで拡大)]]
=== 路線 ===
[[1894年]](明治27年)の創業時は市内路線の敷設に注力していたが、[[1912年]](大正元年)に郊外路線へ進出後は主に尾張地方北部に路線を伸ばしていった。その後、市内路線を名古屋市へ譲渡するため[[1921年]](大正10年)に郊外路線のみを独立(旧名古屋鉄道設立)させ、1930年(昭和5年)には美濃電気軌道を合併(名岐鉄道へ改称)して岐阜県南部へ進出し、[[1935年]](昭和10年)には尾張地方南部・三河地方に路線を伸ばしていた愛知電気鉄道と合併(名古屋鉄道へ再び改称)し、[[第二次世界大戦]]中には愛知・岐阜県内の中小鉄道を合併(吸収)して現在の路線網が完成した。
総[[営業キロ]]数は、鉄道線437.0km、軌道線7.2km<ref group="注釈" name="ex17">法規上は軌道線の豊川線</ref> の合計444.2km、駅数は275駅におよび(2014年3月31日現在<ref name="meitetsu2014_p159"/>)、本拠地・愛知県内では高密度に路線が配置されている。幹線からローカル線にいたるまでさまざまな性格の路線を抱えており、路線1キロあたりの利用客や収入に関する比率は日本の大手私鉄の中では最下位である。総距離に対する幹線(たとえば名古屋本線)が占める割合は他の長大私鉄より比較的低く、多くの支線が分散する路線網からかつては「ミニ国鉄」と揶揄されることもあった<ref>{{Cite journal |和書|author = 梶井健一|author2 = 飯田経夫|authorlink2= 飯田経夫|author3 = 大谷健|title = <交通経営フォーラム> 鼎談・名古屋鉄道―その経営観、経営戦略|date = 1986-05|publisher = 運輸調査局|journal = 運輸と経済|volume = 46|issue = 5|page = 4}}</ref>。
2000年以降の[[名鉄岐阜線|600V線区]]をはじめとする相次ぐ赤字路線廃止が始まるまでは、JRを除く日本の民鉄の中で営業距離は近鉄に次ぐ2位、駅数は1位<ref group="注釈">[[四国旅客鉄道|JR四国]]をも上回り、JR各社を含めても日本全国第6位</ref> であったが、[[2005年]](平成17年)4月以降は営業距離では[[近畿日本鉄道]](近鉄)と[[東武鉄道]](東武)に続く3位、駅数では近鉄に次ぐ2位となっている。なお、過去には何度か営業キロが1位となった時期があり、[[1941年]](昭和16年)に三河鉄道(99.9km)を合併して営業キロが500kmを超えたとき<ref>『名古屋鉄道社史』 名古屋鉄道、1961年、227頁。ASIN B000JAMKU4。</ref> がその初めである。これは戦前の交通統合(合併)が関東・関西地区と比べて先行したことが影響している。その後、名鉄は1位ではなくなるが、東武が[[東武伊香保軌道線|伊香保軌道線]]の一部廃止を始めた1953年度から再び最長私鉄となり、1965年に近鉄が三重電気鉄道を吸収合併するまで私鉄営業キロ1位を維持していた<ref>近鉄の営業キロ推移 - 近畿日本鉄道(編)『近畿日本鉄道100年のあゆみ』、近畿日本鉄道、2010年、pp.201, 673-674<br />
東武の営業キロ推移 - 東武鉄道社史編纂室(編)『東武鉄道百年史 資料編』、東武鉄道、1998年、pp.114-119 および 東武鉄道年史編纂事務局(編)『東武鉄道六十五年史』、東武鉄道、1964年、pp.796-799<br />
名鉄の営業キロ推移 - 名古屋鉄道広報宣伝部(編纂)『名古屋鉄道百年史』、名古屋鉄道、1994年、pp.840-841</ref>。
[[2003年]]から[[駅集中管理システム]]を、また[[乗車券確認システム]]を[[2005年]]6月29日から小牧線に、[[2006年]]4月29日から名古屋本線はじめ主要9線区に導入し、一部区間を除く全線に順次導入を進めるなど合理化を加速させている。
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ファイル:Change of the operating kilometers of Kintetsu, Tōbu and Meitetsu.svg|名古屋鉄道(赤)の営業キロ推移(クリックで拡大)
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<!--デフォルトは公式サイト掲載順-->
{{-}}
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%"
|-
!路線名
! style="white-space:nowrap" |路線<br />記号
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! class="unsortable" style="white-space:nowrap" |複々線
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| data-sort-value="なこや" style="white-space:nowrap" | [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]
|{{名鉄駅番号|NH}}
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|[[豊橋駅]] - [[名鉄岐阜駅]]
|style="text-align:right;"|60
|style="text-align:right;"|99.8 km
|style="text-align:right;"|2.2 km
|style="text-align:right;"|92.6 km
|style="text-align:right;"|5.0 km
|豊橋駅 - [[平井信号場]]間は[[名鉄名古屋本線#ボトルネックとなっている区間|飯田線との共用区間]](名鉄とJRがそれぞれ単線を所有)。
|-
| data-sort-value="とよかわ" | [[名鉄豊川線|豊川線]]
|{{名鉄駅番号|TK}}
|style="text-align:center;"|C
|[[国府駅 (愛知県)|国府駅]] - [[豊川稲荷駅]]
|style="text-align:right;"|4
|style="text-align:right;" data-sort-value="07.2 km"|7.2 km
|{{n/a}}
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|7.2 km
|全区間[[専用軌道]]の[[軌道法|軌道線]]。
|-
| data-sort-value="にしお" | [[名鉄西尾線|西尾線]]
|{{名鉄駅番号|GN}}
|style="text-align:center;"|B
|[[新安城駅]] - [[吉良吉田駅]]
|style="text-align:right;"|13
|style="text-align:right;"|24.7 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|3.2 km
|style="text-align:right;"|21.5 km
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="かまこおり" | [[名鉄蒲郡線|蒲郡線]]
|{{名鉄駅番号|GN}}
|style="text-align:center;"|B
|吉良吉田駅 - [[蒲郡駅]]
|style="text-align:right;"|9
|style="text-align:right;"|17.6 km
|{{n/a}}
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|17.6 km
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="みかわ" | [[名鉄三河線|三河線]]
|{{名鉄駅番号|MY}}<br />{{名鉄駅番号|MU}}
|style="text-align:center;"|C
|[[猿投駅]] - [[知立駅]](山線) <br />[[知立駅]] - [[碧南駅]](海線)
|style="text-align:right;"|22
|style="text-align:right;"|39.8 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|5.8 km
|style="text-align:right;"|34.0 km
|[[知立駅]]を境に方面表記(後述)・路線色・路線記号が異なる。
|-
| data-sort-value="とよた" | [[名鉄豊田線|豊田線]]
|{{名鉄駅番号|TT}}
|style="text-align:center;"|B+
|[[梅坪駅]] - [[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]]
|style="text-align:right;"|7
|style="text-align:right;"|15.2 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|15.2 km
|{{n/a}}
|[[名鉄豊田線#加算運賃|加算運賃]]の設定あり。
|-
| data-sort-value="とこなめ" | [[名鉄常滑線|常滑線]]
|{{名鉄駅番号|TA}}
|style="text-align:center;"|B
|[[神宮前駅]] - [[常滑駅]]
|style="text-align:right;"|22
|style="text-align:right;"|29.3 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|29.3 km
|{{n/a}}
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="くうこう" | [[名鉄空港線|空港線]]
|{{名鉄駅番号|TA}}
|style="text-align:center;"|B+
|style="white-space:nowrap" |常滑駅 - [[中部国際空港駅]]
|style="text-align:right;"|2
|style="text-align:right;" data-sort-value="04.2 km"|4.2 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|4.2 km
|{{n/a}}
|[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業]]([[中部国際空港連絡鉄道]]が[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種]])。[[名鉄空港線#加算運賃|加算運賃]]の設定あり。
|-
| data-sort-value="ちつこう" | [[名鉄築港線|築港線]]
|{{名鉄駅番号|CH}}
|style="text-align:center;"|B
|[[大江駅 (愛知県)|大江駅]] - [[東名古屋港駅]]
|style="text-align:right;"|1
|style="text-align:right;" data-sort-value="01.5 km"|1.5 km
|{{n/a}}
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|1.5 km
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="こうわ" | [[名鉄河和線|河和線]]
|{{名鉄駅番号|KC}}
|style="text-align:center;"|B
|[[太田川駅]] - [[河和駅]]
|style="text-align:right;"|18
|style="text-align:right;"|28.8 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|25.8 km
|style="text-align:right;"|3.0 km
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="ちたしん" | [[名鉄知多新線|知多新線]]
|{{名鉄駅番号|KC}}
|style="text-align:center;"|C+
|[[富貴駅]] - [[内海駅 (愛知県)|内海駅]]
|style="text-align:right;"|5
|style="text-align:right;"|13.9 km
|{{n/a}}
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|13.9 km
|[[名鉄知多新線#加算運賃|加算運賃]]の設定あり。
|-
| data-sort-value="せと" | [[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]
|{{名鉄駅番号|ST}}
|style="text-align:center;"|B
|[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]] - [[尾張瀬戸駅]]
|style="text-align:right;"|20
|style="text-align:right;"|20.6 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|20.6 km
|{{n/a}}
|本線系と接続しない孤立路線。
|-
| data-sort-value="つしま" | [[名鉄津島線|津島線]]
|{{名鉄駅番号|TB}}
|style="text-align:center;"|B
|[[須ヶ口駅]] - [[津島駅]]
|style="text-align:right;"|7
|style="text-align:right;"|11.8 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|11.8 km
|{{n/a}}
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="ひさい" | [[名鉄尾西線|尾西線]]
|{{名鉄駅番号|TB}}<br />{{名鉄駅番号|BS}}
|style="text-align:center;"|C
|[[弥富駅]] - [[玉ノ井駅]]
|style="text-align:right;"|20
|style="text-align:right;"|30.9 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|11.6 km
|style="text-align:right;"|19.3 km
|[[津島駅]]を境に路線記号が異なる。
|-
| data-sort-value="いぬやま" | [[名鉄犬山線|犬山線]]
|{{名鉄駅番号|IY}}
|style="text-align:center;"|B
|[[枇杷島分岐点]] - [[新鵜沼駅]]
|style="text-align:right;"|17
|style="text-align:right;"|26.8 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|26.8 km
|{{n/a}}
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="かかみかはら" | [[名鉄各務原線|各務原線]]
|{{名鉄駅番号|KG}}
|style="text-align:center;"|B
|名鉄岐阜駅 - 新鵜沼駅
|style="text-align:right;"|16
|style="text-align:right;"|17.6 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|17.6 km
|{{n/a}}
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="ひろみ" | [[名鉄広見線|広見線]]
|{{名鉄駅番号|HM}}
|style="text-align:center;"|C
|[[犬山駅]] - [[御嵩駅]]
|style="text-align:right;"|10
|style="text-align:right;"|22.3 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|14.9 km
|style="text-align:right;"|7.4 km
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="こまき" | [[名鉄小牧線|小牧線]]
|{{名鉄駅番号|KM}}
|style="text-align:center;"|B
|[[上飯田駅]] - 犬山駅
|style="text-align:right;"|13
|style="text-align:right;"|20.6 km
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|9.8 km
|style="text-align:right;"|10.8 km
|上飯田駅 - [[味鋺駅]]間は[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業]]([[上飯田連絡線]]が[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種]])。
|-
| data-sort-value="たけはな" | [[名鉄竹鼻線|竹鼻線]]
|{{名鉄駅番号|TH}}
|style="text-align:center;"|C
|[[笠松駅]] - [[江吉良駅]]
|style="text-align:right;"|8
|style="text-align:right;"|10.3 km
|{{n/a}}
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|10.3 km
|style="text-align:center;"|-
|-
| data-sort-value="はしま" | [[名鉄羽島線|羽島線]]
|{{名鉄駅番号|TH}}
|style="text-align:center;"|C+
|江吉良駅 - [[新羽島駅]]
|style="text-align:right;"|1
|style="text-align:right;" data-sort-value="01.3 km"|1.3 km
|{{n/a}}
|{{n/a}}
|style="text-align:right;"|1.3 km
|[[名鉄羽島線#加算運賃|加算運賃]]の設定あり。
|- class="sortbottom"
! colspan="4" |合計
!style="text-align:right;"|275
!style="text-align:right;" style="white-space:nowrap" |444.2 km
!style="text-align:right;" style="white-space:nowrap" |2.2 km
!style="text-align:right;" style="white-space:nowrap" |289.2 km
!style="text-align:right;" style="white-space:nowrap" |152.8 km
!style="text-align:center;"|
|}
{{Main2|廃止路線は「[[#閑散線区の合理化・廃止|閑散線区の合理化・廃止]]」の節を}}
==== 路線網配置 ====
[[File:Meitetsu Biwajima Junction 005.JPG|thumb|right|320px|多数の列車が往来する枇杷島分岐点]]
名鉄の路線網の特徴は、名古屋を中心に岐阜・犬山・常滑・豊橋方面の四方に路線が広がっていることである。各方面の路線から名古屋市内へ直通する列車の多くは名古屋市内を通過したあとに反対側の各方面の路線に入るという運行形態をとり、中核駅(ターミナル)の[[名鉄名古屋駅|名鉄名古屋]]始発・終着となる列車は東西直通運転を始めた1948年以降、伝統的に多くは設定されていない。営業運転上は同駅止まりであっても、同駅で折り返しを行う列車は皆無であり、回送を含めたダイヤ上ではすべての列車が進行方向を変えずに運行している。
この運行形態は、名鉄名古屋駅を通過する乗客には乗り換える必要がなく、3面2線の駅構造で最大限の列車本数を設定できるメリットがある反面、行先が多方面にわたってダイヤが複雑化したり、各路線の列車が集まる[[金山駅 (愛知県)|金山]] - [[枇杷島分岐点]]間は[[複線]]のままであるため、日中時間帯も過密ダイヤとなるなどの短所も抱える。また、ある路線が事故などでダイヤが乱れると間を置かずに他の路線へも波及したり、運転を見合わせる区間が広範囲に及ぶ弊害もある。
1989年に金山駅が金山総合駅として整備され、1990年には神宮前 - 金山間の[[複々線]]化によって、金山駅発着(または折り返し)で名鉄名古屋へ向かわない列車が多数設定されるようになった。しかし、名駅地区の開発などを反映して、2008年以降は名鉄名古屋 - 金山以東の列車が増加傾向にある。また、近年では全体的な乗客の減少やワンマン化が影響して、名古屋本線から支線へ直通する列車は最盛期に比べると減少傾向にある。
なお、瀬戸線は名鉄他線とは接続がない孤立路線である。
==== 方面別案内 ====
{{ external media
| image1 = [https://web.archive.org/web/20031209030828/http://www.meitetsu.co.jp/t_b/train/rosenzu/imgs/rosen_max.gif 方面別案内図](アーカイブ)
}}
名鉄では、旅客案内上「'''方面'''」名称を多用する。これは名鉄名古屋駅を中心として広がる路線網の展開する地域ごとに区分けしたもので、警察や軍隊における「方面」(方面本部、[[方面隊]]など)に似た概念である<ref>“[https://web.archive.org/web/20031219065957/http://www.meitetsu.co.jp/t_b/train/rosenzu/main.html 名鉄電車 路線図]([https://web.archive.org/web/20031209030828/http://www.meitetsu.co.jp/t_b/train/rosenzu/imgs/rosen_max.gif 案内図])”、名古屋鉄道(ウェイバックマシンによるアーカイブ。2003年12月19日取得)、2015年3月13日閲覧。</ref>。これは前述の通り路線にかかわらず名鉄名古屋駅を直通する運転形態を重視している事情による。[[2000年代]]中ごろまでの路線図には、路線名ではなく方面名称が記されていたほどであり、沿線住民にも浸透している。名鉄の鉄道路線図は名古屋本線を除きこの方面ごとに色分けがなされてきた伝統があり、現在の名古屋本線以外の路線色(ラインカラー)はおおむね方面の色に由来する。三河線の路線色が知立を境に異なるのはこのためである。ただし、[[名古屋市営地下鉄上飯田線]]直通開始後の小牧線は独自色となっている(近年のラインカラーの変遷は[[日本の鉄道ラインカラー一覧#名古屋鉄道]]を参照)。こうした案内手法をとる日本の鉄道事業者は少なく、[[駅ナンバリング#JR西日本|西日本旅客鉄道(JR西日本)の路線記号制(2014年 - )]]や[[京王電鉄]]の「ゾーンカラー」がやや似ている程度で後者は短期間で廃れている。
現在の路線図は路線名記載となり「方面」の使用は減少傾向にあるが、方面表記を主体とする路線図は名鉄名古屋駅の中央改札口前などにみられる(2018年現在)<ref name="方面路線図">{{Cite book|和書|author1=井上マサキ|author2=西村まさゆき|title=楽しい路線図|year=2018|publisher=グラフィック社|isbn=978-4766131871|page=76}}</ref>。
{| border="0" cellpadding="1" style="margin-left:0;" class="wikitable"
|-
|+ 名鉄名古屋駅に掲示された方面表記案内図<ref name="方面路線図"/>
!style="width:auto;"|方面
!主な駅(◇表記)
!所属路線
|-
|{{Color|#d12027|■}}岐阜
|[[名鉄岐阜駅]]・[[笠松駅]]・[[名鉄一宮駅]]・[[国府宮駅]]・[[須ヶ口駅]]
|[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]
|-
|{{Color|#d7a629|■}}新羽島
|[[新羽島駅]]
|[[名鉄竹鼻線|竹鼻線]]・[[名鉄羽島線|羽島線]]
|-
|{{Color|#e85624|■}}津島
|[[津島駅]]・[[弥富駅]]・[[玉ノ井駅]]
|[[名鉄津島線|津島線]]・[[名鉄尾西線|尾西線]]
|-
|{{Color|#d12027|■}}名古屋
|[[名鉄名古屋駅]]・[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]・[[神宮前駅]]
|[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]
|-
|{{Color|#018b44|■}}犬山
|[[上小田井駅]]・[[西春駅]]・[[岩倉駅 (愛知県)|岩倉駅]]・[[江南駅 (愛知県)|江南駅]]・[[犬山駅]]・[[新鵜沼駅]]・[[西可児駅]]・[[御嵩駅]]・[[小牧駅]]・[[上飯田駅]]
|[[名鉄犬山線|犬山線]]・[[名鉄各務原線|各務原線]]・[[名鉄広見線|広見線]]・{{Color|#da5290|■}}[[名鉄小牧線|小牧線]]
|-
|{{Color|#1065ab|■}}中部国際空港
|[[太田川駅]]・[[常滑駅]]・[[中部国際空港駅]]・[[東名古屋港駅]]
|[[名鉄常滑線|常滑線]]・[[名鉄空港線|空港線]]・{{Color|#727171|■}}[[名鉄築港線|築港線]]
|-
|{{Color|#2a9dd8|■}}内海・河和
|[[知多半田駅]]・[[富貴駅]]・[[内海駅 (愛知県)|内海駅]]・[[河和駅]]
|[[名鉄河和線|河和線]]・[[名鉄知多新線|知多新線]]
|-
|{{Color|#d12027|■}}豊橋
|[[鳴海駅]]・[[前後駅]]・[[知立駅]]・[[新安城駅]]・[[東岡崎駅]]・[[国府駅 (愛知県)|国府駅]]・[[豊橋駅]]・[[豊川稲荷駅]]
|名古屋本線・[[名鉄豊川線|豊川線]]
|-
|{{Color|#9eb03a|■}}豊田市
|[[豊田市駅]]・[[梅坪駅]]・[[猿投駅]]・[[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]]
|[[名鉄三河線|三河線]](山線)・[[名鉄豊田線|豊田線]]
|-
|{{Color|#654e9e|■}}碧南
|[[刈谷駅]]・[[碧南駅]]
|三河線(海線)
|-
|{{Color|#654e9e|■}}西尾・蒲郡
|[[西尾駅]]・[[蒲郡駅]]
|[[名鉄西尾線|西尾線]]・[[名鉄蒲郡線|蒲郡線]]
|-
|{{Color|#7c2982|■}}瀬戸
|[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]]・[[大曽根駅]]・[[尾張瀬戸駅]]
|[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]
|-
|}
上記とは逆に同一路線でも運行形態が分断されている場合、同一路線を線区別に分ける際に「方面」が用いられることもある。かつて公式サイトでは三河線、尾西線、広見線が方面別に路線が区分されていたが、2019年3月現在は駅名による区間表記に改められている。
{| border="0" cellpadding="1" style="margin-left:0;" class="wikitable"
|-
|+ 線内区分としての方面表記の一例(2018年3月当時)
!路線名
!方面
!路線<br />記号
!区間
|-
| rowspan="2" |三河線<ref>“[https://web.archive.org/web/20180327212838/https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line04/index.html 三河線 路線・駅情報]”、名古屋鉄道、ウェイバックマシンによるアーカイブ、2018年3月27日取得。</ref>
|猿投方面
|{{名鉄駅番号|MY}}
|猿投駅 - 知立駅
|-
|碧南方面
|{{名鉄駅番号|MU}}
|知立駅 - 碧南駅
|-
| rowspan="3" |尾西線<ref>“[https://web.archive.org/web/20180327212331/http://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line10/index.html 尾西線 路線・駅情報]”、名古屋鉄道、ウェイバックマシンによるアーカイブ、2018年3月27日取得</ref>
|弥富方面
|{{名鉄駅番号|TB}}
|弥富駅 - 津島駅
|-
|津島方面
| rowspan="2" |{{名鉄駅番号|BS}}
|津島駅 - 名鉄一宮駅
|-
|玉ノ井方面
|名鉄一宮駅 - 玉ノ井駅
|-
| rowspan="2" |広見線<ref>“[https://web.archive.org/web/20180327212451/http://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line13/index.html 広見線 路線・駅情報]”、名古屋鉄道、ウェイバックマシンによるアーカイブ、2018年3月27日取得</ref>
|新可児方面
| rowspan="2" |{{名鉄駅番号|HM}}
|犬山駅 - 新可児駅
|-
|御嵩方面
|新可児駅 - 御嵩駅
|-
|}
==== 路線の特徴 ====
[[File:Meitetsu Line Timetable Diagram 20230318.svg|thumb|right|300px|名古屋を軸に各方面へ直通列車を設定する運行体制]]
[[#路線網配置|路線網配置]]の節で述べたように、岐阜方面と豊橋方面に支線を持ち、双方が名古屋方面に集中する。名鉄岐阜 - 豊橋・犬山 - 常滑など、名鉄名古屋駅を経由する電車がほとんどであり、路線が集中する名古屋本線枇杷島分岐点 - 神宮前間は上下ともに約2分30秒間隔で行き来する高密度運転区間である。金山 - 神宮前間の複々線ではさらに常滑線の普通列車が毎時4往復加わり、終日の上下列車本数は1,000本を超える。
名鉄の西半分を建設した会社である名岐鉄道は、[[名古屋市電|市内線]](路面電車)事業を発展させる形で路線を建設したことから、市内線の市営化後も1941年まで、名鉄の電車が市電に乗り入れて市内の[[柳橋駅 (愛知県)|柳橋駅]]を[[ターミナル駅]]にしていた。
名古屋本線は古くからの市街地・宿場町を結ぶ目的で敷設された関係から、名古屋電気鉄道の建設した枇杷島橋(現・枇杷島分岐点)- 丸ノ内間、美濃電気軌道の建設した茶所 - 名鉄岐阜間と、愛知電気鉄道の建設した神宮前 - 桶狭間(現・中京競馬場前付近)間は曲線区間が多い。特に名鉄名古屋 - 名鉄岐阜間では、名鉄岐阜駅付近(最小半径100m)をはじめ、名鉄名古屋駅へ乗り入れる枇杷島橋以南の路線も最小半径130m(両者とも戦後に緩和されたがそれでも160m)の急曲線で建設したことから、並行するJR東海の[[東海道本線]]に対して所要時間・運賃いずれにおいても相当に不利な条件となっている。同じ名古屋本線でも、郊外の区間では高速運転を前提に敷設し、優等列車が120km/h運転(対応車のみ)を行っているのとは対照的である。
名古屋本線の伊奈 - 豊橋間のうち、平井信号場 - 豊橋間はJR東海[[飯田線]]と線路を共用している。1920年代中期、[[小坂井駅]]まで到達した名鉄の前身の愛知電気鉄道(愛電)が豊橋への延長を模索するにあたって、飯田線の前身である[[豊川鉄道]]が自社に並行する愛電線の建設を遮る動きがあったため、愛電・豊川鉄道がそれぞれ敷設した単線の線路同士を互いに共用することで複線として機能させる協定を結んだ。愛電が名鉄に、豊川鉄道が国鉄からJR東海の路線へとそれぞれ移管された現在でもこの線路共用の協定は継続している。このため同区間は、最高速度が飯田線の規格である85km/hに、豊橋駅の発着番線が1線に、列車乗り入れ本数が毎時6本以内(現行では快速特急・特急・急行とも各2本)にそれぞれ制限されるなど、名鉄ダイヤの大きな[[ボトルネック]]となっている。この影響で、毎時2本の急行が[[国府駅 (愛知県)|国府駅]]から[[名鉄豊川線|豊川線]]へ分かれ[[豊川稲荷駅]]で、同様に本線系の普通も[[伊奈駅]]で折り返さざるを得なくなっている。一部の豊橋発着列車では、特急列車として運用された列車が急行列車になったり、急行列車として運用された列車が特急列車として運用されたりするケースがある。その際には特急車両を使用するため、特急以外の運用の際は特別車両部分を閉め切って営業している([[回送]]でも記載)。
また、名古屋本線の名鉄岐阜駅ホームに入る直前も単線になっており、東海道線と直接競合する区間の両端にボトルネックを抱えていることになる。
名鉄線で使用されている[[踏切警報機]]は[[1980年代]]から、閃光灯を覆う部分が四角い独特の形状になっている。これは、自動車からの踏切視認性(特に警報時)を考慮したものであり、名鉄の特徴となっている。
==== 乗降人員上位30駅 ====
*数値は2019年度の一日平均乗降人員。2019年度は「移動等円滑化取組報告書」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/barrier-free/__icsFiles/afieldfile/2021/06/14/torikumihokoku_eki.pdf|title=令和元年度 移動等円滑化取組報告書(鉄道駅)|accessdate=2021-10-01|format=PDF|publisher=名古屋鉄道}}</ref>(豊橋駅のみ『豊橋市統計書』<ref>[https://www.city.toyohashi.lg.jp/8017.htm 豊橋市統計書] - 豊橋市</ref>)、2013年度は『名鉄120年:近20年のあゆみ』<ref name="Meitetsu2014_p160">{{Cite book|和書|author=名鉄120年史編纂委員会事務局(編)|year=2014|title=名鉄120年:近20年のあゆみ|publisher=名古屋鉄道|pages=160-162}}</ref>に掲載された統計資料による。
*{{↑}} {{↓}} {{→}} は2013年度と比較して増 ({{↑}}) 減 ({{↓}}) 増減なし ({{→}}) を表す。
{| class="wikitable" style="font-size:85%"
|-
!順位!!駅名!!人数!!2013年度比<br />(%)!!2013年度<br />順位!!2013年度<br />人数!!路線!!所在地!!備考
|-
!{{→}} 1
|[[名鉄名古屋駅]]||style="text-align:right;" style="white-space:nowrap" |301,998||style="text-align:right;"|{{↑}} 6.8||style="text-align:right;"|1||style="text-align:right;"|282,810||{{Color|crimson|■}}[[名鉄名古屋本線|名本]]||[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]||
|-
!{{→}} 2
|[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]||style="text-align:right;"|172,387||style="text-align:right;"|{{↑}} 10.1||style="text-align:right;"|2||style="text-align:right;"|156,516||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県名古屋市[[熱田区]]||
|-
!{{→}} 3
|[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]]||style="text-align:right;"|42,090||style="text-align:right;"|{{↑}} 5.1||style="text-align:right;"|3||style="text-align:right;"|40,035||{{Color|purple|■}}[[名鉄瀬戸線|瀬戸]]||愛知県名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]]||
|-
!{{→}} 4
|[[東岡崎駅]]||style="text-align:right;"|39,249||style="text-align:right;"|{{↑}} 4.4||style="text-align:right;"|4||style="text-align:right;"|37,583||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県[[岡崎市]]||
|-
!{{↑}} 5
|[[豊田市駅]]||style="text-align:right;"|36,470||style="text-align:right;"|{{↑}} 18.9||style="text-align:right;"|11||style="text-align:right;"|30,660||{{Color|#7fc342|■}}[[名鉄三河線|三河]]||愛知県[[豊田市]]||
|-
!{{→}} 6
|[[名鉄一宮駅]]||style="text-align:right;"|35,867||style="text-align:right;"|{{↑}} 2.6||style="text-align:right;"|6||style="text-align:right;"|34,972||{{Color|crimson|■}}名本・{{Color|orange|■}}[[名鉄尾西線|尾西]]||愛知県[[一宮市]]||
|-
!{{↓}} 7
|[[名鉄岐阜駅]]||style="text-align:right;"|35,345||style="text-align:right;"|{{↓}} 0.3||style="text-align:right;"|5||style="text-align:right;"|35,447||{{Color|crimson|■}}名本・{{Color|green|■}}[[名鉄各務原線|各務原]]||[[岐阜県]][[岐阜市]]||
|-
!{{↓}} 8
|[[豊橋駅]]||style="text-align:right;"|35,285||style="text-align:right;"|{{↑}} 2.8||style="text-align:right;"|7||style="text-align:right;"|34,320||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県[[豊橋市]]||
|-
!{{→}} 9
|[[大曽根駅]]||style="text-align:right;"|34,943||style="text-align:right;"|{{↑}} 9.9||style="text-align:right;"|9||style="text-align:right;"|31,799||{{Color|purple|■}}瀬戸||愛知県名古屋市東区||
|-
!{{↓}} 10
|[[知立駅]]||style="text-align:right;"|33,768||style="text-align:right;"|{{↑}} 4.9||style="text-align:right;"|8||style="text-align:right;"|32,179||{{Color|crimson|■}}名本・{{Color|#7fc342|■}}{{Color|#615da5|■}}三河||愛知県[[知立市]]||
|-
!{{↓}} 11
|[[神宮前駅]]||style="text-align:right;"|33,766||style="text-align:right;"|{{↑}} 6.4||style="text-align:right;"|10||style="text-align:right;"|31,749||{{Color|crimson|■}}名本・{{Color|#01b3d6|■}}[[名鉄常滑線|常滑]]||愛知県名古屋市熱田区||
|-
!{{↑}} 12
|[[中部国際空港駅]]||style="text-align:right;"|29,863||style="text-align:right;"|{{↑}} 33.8||style="text-align:right;"|16||style="text-align:right;"|22,311||{{Color|#01b3d6|■}}[[名鉄空港線|空港]]||愛知県[[常滑市]]||
|-
!{{→}} 13
|[[刈谷駅]]||style="text-align:right;"|28,655||style="text-align:right;"|{{↑}} 17.5||style="text-align:right;"|13||style="text-align:right;"|24,395||{{Color|#615da5|■}}三河||愛知県[[刈谷市]]||
|-
!{{↓}} 14
|[[江南駅 (愛知県)|江南駅]]||style="text-align:right;"|26,888||style="text-align:right;"|{{↑}} 3.3||style="text-align:right;"|12||style="text-align:right;"|26,022||{{Color|green|■}}[[名鉄犬山線|犬山]]||愛知県[[江南市]]||
|-
!{{↓}} 15
|[[岩倉駅 (愛知県)|岩倉駅]]||style="text-align:right;"|24,486||style="text-align:right;"|{{↑}} 3.0||style="text-align:right;"|14||style="text-align:right;"|23,764||{{Color|green|■}}犬山||愛知県[[岩倉市]]||
|-
!{{↑}} 16
|[[新安城駅]]||style="text-align:right;"|24,413||style="text-align:right;"|{{↑}} 24.0||style="text-align:right;"|19||style="text-align:right;"|19,683||{{Color|crimson|■}}名本・{{Color|#615da5|■}}[[名鉄西尾線|西尾]]||愛知県[[安城市]]||
|-
!{{→}} 17
|[[西春駅]]||style="text-align:right;"|23,983||style="text-align:right;"|{{↑}} 7.6||style="text-align:right;"|17||style="text-align:right;"|22,288||{{Color|green|■}}犬山|| style="white-space:nowrap" |愛知県[[北名古屋市]]||
|-
!{{↓}} 18
|[[国府宮駅]]||style="text-align:right;"|22,767||style="text-align:right;"|{{↑}} 1.5||style="text-align:right;"|15||style="text-align:right;"|22,441||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県[[稲沢市]]||
|-
!{{↓}} 19
|[[前後駅]]||style="text-align:right;"|21,465||style="text-align:right;"|{{↑}} 7.5||style="text-align:right;"|18||style="text-align:right;"|19,964||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県[[豊明市]]||
|-
!{{→}} 20
|[[上小田井駅]]||style="text-align:right;"|20,709||style="text-align:right; white-space:nowrap" |{{↑}} 13.6||style="text-align:right;"|20||style="text-align:right;"|18,231||{{Color|green|■}}犬山||愛知県名古屋市[[西区 (名古屋市)|西区]]||
|-
!{{↑}} 21
|[[太田川駅]]||style="text-align:right;"|20,593||style="text-align:right;"|{{↑}} 41.6||style="text-align:right;"|23||style="text-align:right;"|14,541||{{Color|#01b3d6|■}}常滑・{{Color|#01b3d6|■}}[[名鉄河和線|河和]]||愛知県[[東海市]]||
|-
!{{↓}} 22
|[[鳴海駅]]||style="text-align:right;"|19,299||style="text-align:right;"|{{↑}} 6.3||style="text-align:right;"|21||style="text-align:right;"|18,148||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県名古屋市[[緑区 (名古屋市)|緑区]]||
|-
!{{↓}} 23
|[[犬山駅]]||style="text-align:right;"|17,532||style="text-align:right;"|{{↑}} 9.2||style="text-align:right;"|22||style="text-align:right;"|16,057|| style="white-space:nowrap" |{{Color|green|■}}犬山・{{Color|green|■}}[[名鉄広見線|広見]]・{{Color|pink|■}}[[名鉄小牧線|小牧]]||愛知県[[犬山市]]||
|-
!{{→}} 24
|[[有松駅]]||style="text-align:right;"|14,999||style="text-align:right;"|{{↑}} 8.5||style="text-align:right;"|24||style="text-align:right;"|13,826||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県名古屋市緑区||
|-
!{{→}} 25
|[[堀田駅 (名鉄)|堀田駅]]||style="text-align:right;"|14,441||style="text-align:right;"|{{↑}} 6.2||style="text-align:right;"|25||style="text-align:right;"|13,602||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県名古屋市[[瑞穂区]]||
|-
!{{↑}} 26
|[[栄生駅]]||style="text-align:right;"|13,664||style="text-align:right;"|{{↑}} 31.0||style="text-align:right;"|34||style="text-align:right;"|10,431||{{Color|crimson|■}}名本||愛知県名古屋市西区||
|-
!{{↑}} 27
|[[大同町駅]]||style="text-align:right;"|13,614||style="text-align:right;"|{{↑}} 7.8||style="text-align:right;"|28||style="text-align:right;"|12,633||{{Color|#01b3d6|■}}常滑||愛知県名古屋市[[南区 (名古屋市)|南区]]||
|-
!{{↑}} 28
|[[小幡駅]]||style="text-align:right;"|13,381||style="text-align:right;"|{{↑}} 10.7||style="text-align:right;"|29||style="text-align:right;"|12,084||{{Color|purple|■}}瀬戸||愛知県名古屋市[[守山区]]||
|-
!{{↓}} 29
| style="white-space:nowrap" |[[大森・金城学院前駅]]||style="text-align:right;"|12,690||style="text-align:right;"|{{↓}} 1.4||style="text-align:right;"|27||style="text-align:right;"|12,867||{{Color|purple|■}}瀬戸||愛知県名古屋市守山区||
|-
!{{↓}} 30
|[[津島駅]]||style="text-align:right;"|11,994||style="text-align:right;"|{{↓}} 11.8||style="text-align:right;"|26||style="text-align:right;"|13,598||{{Color|orange|■}}[[名鉄津島線|津島]]・{{Color|orange|■}}尾西||愛知県[[津島市]]||
|}
=== 列車種別 ===
[[File:Meitetsu Limited Express Lineup.jpg|thumb|right|250px|特別車が使われる列車種別。ミュースカイは全車両が、快速特急・特急は一部特別車編成の2両のみが特別車である。]]
[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2008年12月27日改正|2008年(平成20年)12月27日のダイヤ改正]]より7種類の列車種別が存在している。名鉄では列車種別のほかに「一般車」と「特別車」の概念があり、このうち特急以上の列車に存在する「特別車」の乗車には乗車券のほか[[ミューチケット]]が必要である。ミュースカイは全車両が、快速特急と特急(全車一般車特急を除く)は2両分が特別車となっている(これらの詳細については「[[名鉄特急]]」を参照)。
1990年(平成2年)から2005年(平成17年)までの間<ref group="注釈">1992年までは「デラックス特急」、1995年から2003年までの間には「快速急行」が設定されていた。また、瀬戸線は栄町延伸から現在に至るまで「急行」・「準急」・「普通」の3種別体制である。</ref>、瀬戸線を除く各線は「特急」・「急行」・「普通」の3種別で運行されていた。2005年(平成17年)1月の[[中部国際空港]]開港にともなう[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2005年1月29日改正|ダイヤ改正]]で、従来の特急・急行は停車駅によって細分化(「快速特急」と「特急」、「快速急行」・「急行」・「準急」へ種別を分割)され、各種別の停車駅の明確化を図った。
停車駅は種別ごとに一定の法則性は確保しているものの、同種別でも必要に応じて[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|特別停車や特別通過]]、途中駅での種別変更を行っており、細かなニーズに対応している。前記した2005年(平成17年)のダイヤ改正以前は、平日ダイヤ換算で1日あたり延べ1,300回以上の特別停車が行われており、複雑な運行形態から「'''迷鉄'''」と揶揄される所以にもなっていた。2019年(令和元年)1月以後も、名古屋本線だけで平日下り82本、上り72本の列車が特別停車を行っている<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20190125-OYT8T50069/2/ 列車種別の難解さは日本一? 名鉄は「迷鉄」か] - 読売新聞、2019年1月28日</ref>。
; [[名鉄特急|ミュースカイ]](全車特別車)
: 中部国際空港アクセスの最速達列車で、2008年(平成20年)12月27日のダイヤ改正で新設された種別。もともと[[名鉄2000系電車|2000系]]の車両愛称として用いていたが、それを種別名としても用いるようになった。改正前は「快速特急」としていた。全車両特別車の2000系を使用する列車に命名され、神宮前 - 中部国際空港間をノンストップ運行(早朝の一部を除く)している。神宮前以西(以北)では特急停車駅のうち、新木曽川・笠松・柏森を通過する。「特急」との所要時間の差は[[名鉄常滑線|常滑線]]・[[名鉄空港線|空港線]]系統で7 - 8分となっている。
: 白背景に赤文字で{{Colors|#FF0000|#FFFFFF|'''ミュースカイ'''}}<ref name="PHP20">{{Cite book |和書 |title=名古屋鉄道のひみつ|author =PHP研究所(編)|publisher=PHP研究所|ISBN=978-4569815428|year=2013|page=20}}</ref> と表示される。英語表記は「μSKY Limited Express」<ref name="MWebE-Map">{{Cite web |url= https://www.meitetsu.co.jp/eng/train/route/map/index.html|title= Route Map|publisher=Meitetsu|accessdate=2021-10-01}}</ref> が正式で、「μSKY Ltd. Exp.」<ref name="PHP20" /> と略されるが、当のミュースカイ車内では「This is the μSKY bound for...」と放送されたり、また[[犬山駅]]の方面別[[発車標]]では「μ Rpd. Ltd. Exp.<ref group="注釈">μ快速特急 : 2000系登場当初の「快速特急」運用時代の名残か。</ref>」と表記されるなどしており、一貫してない。
; [[快速特急|快速特別急行]]<ref name="TT26-C3">{{Cite book|和書||year=2011|title=名鉄時刻表 Vol.26 2011.12.17号|publisher=名古屋鉄道|page=③頁(丸3頁)<!--p.2ではない-->}}</ref>(快速特急)(一部特別車)
: 2005年(平成17年)1月29日のダイヤ改正で再設定された種別。改正前の特急のうち新安城・国府に特別停車しなかった特急を別種別として格上げしたものである。名古屋本線西部・[[名鉄犬山線|犬山線]]などでは「特急」と同じ停車駅で、「特急」との所要時分の差は本線系統で3 - 4分。2008年(平成20年)のダイヤ改正以降は(特急を含め)停車駅を増やす傾向にあり、速達性よりもフリークエントサービスに重点を置いている。
: 白背景に赤文字で{{Colors|#FF0000|#FFFFFF|'''快速特急'''}}<ref name="PHP20" /> と表示され、「快特」<ref name="TT26-C3"/> と略される。英語表記は「Rapid Limited Express」<ref name="MWebE-Map"/> で、「Rapid Ltd. Exp.」<ref name="PHP20" /> と略される。
; [[特別急行列車|特別急行]]<ref name="TT26-C3"/> (特急)(一部特別車・全車一般車)
: 沿線市町の中でも特に利用者が多い駅や、支線の分岐駅・普通との接続駅などに停車駅を絞った列車。名古屋本線では新安城・国府にも停車し、常滑線では太田川や常滑など5駅に停車する。快速特急同様、一部特別車が基本であるが、一部は全車一般車で運転されている。
: 赤背景に白文字で{{Colors|#FFFFFF|#FF0000|'''特急'''}}<ref name="PHP20" /> と表示される。正式な英語表記は「Limited Express」<ref name="MWebE-Map"/> で、「Ltd. Exp.」と略される。
; [[快速急行]]<ref name="TT26-C3"/>(以下、全車一般車)
: 2005年(平成17年)1月29日のダイヤ改正で再設定された種別。改正前の標準停車駅のみに停車していた急行を別種別として格上げしたものである。2008年(平成20年)12月のダイヤ改正以前は多数運行されていたが、同改正後は早朝・深夜の中部国際空港発着列車と平日朝ラッシュ時のみの運行。2011年(平成23年)3月26日のダイヤ改正以後は、深夜の中部国際空港発がなくなり、早朝の中部国際空港着列車と平日朝ラッシュ時のみの運行となる。
: 白背景に青文字で{{Colors|#0000FF|#FFFFFF|'''快速急行'''}}<ref name="PHP20" /> と表示され、「快急」<ref name="TT26-C3"/> と略される。英語表記は「Rapid Express」<ref name="MWebE-Map"/>。
; [[急行列車|急行]]<ref name="TT26-C3"/>
: 沿線の中核駅などに停車し快速特急や特急を補完する。快速急行よりも名古屋本線では1駅(栄生)、常滑線では5駅(大江・寺本・古見・大野町・りんくう常滑)多く停車する。その他の線区では快速急行と同じ停車駅に停車。なお、[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]では急行が最優等種別である。
: 青背景に白文字で{{Colors|#FFFFFF|#0000FF|'''急行'''}}<ref name="PHP20" /><ref group="注釈">幕式方向幕では水背景に白文字({{Colors|#FFFFFF|#00cccc|'''急行'''}})になっている。</ref> と表示される。英語表記は「Express」<ref name="MWebE-Map"/>。
; [[準急列車|準急行]]<ref name="TT26-C3"/>(準急)
: 普通のみでは停車本数が不足する駅などに停車する列車。急行の停車駅よりも、名古屋本線では8駅(藤川・男川・矢作橋・豊明・中京競馬場前・有松・二ツ杁・大里)、瀬戸線では2駅(印場・旭前)、犬山線では3駅(石仏・木津用水・犬山口)、常滑線では2駅(大同町・聚楽園)多く停車。[[名鉄豊川線|豊川線]]、空港線、河和線、[[名鉄津島線|津島線]]、[[名鉄尾西線|尾西線]]は急行と同じ停車駅である。
: 緑背景に白文字で{{Colors|#FFFFFF|#009500|'''準急'''}}<ref name="PHP20" /> と表示される。英語表記は「Semi Express」<ref name="MWebE-Map"/><ref group="注釈">2005年(平成17年)改正前は「Sub Express」となっていた。</ref>。
; [[普通列車|普通]]<ref name="TT26-C3"/>
: 全駅に停車する列車。名鉄では「各駅停車(各停)」の語を種別名としては用いない。かつては[[椋岡駅]]・[[学校前駅 (岐阜県)|学校前駅]](ともに廃駅)など一部の駅を通過する普通列車が設定されていたが、同駅が廃止された2006年(平成18年)12月以降はない。全線で設定されているが名古屋本線豊橋駅 - 伊奈駅間では運行されない。
: 黒背景に白文字で{{Colors|#FFFFFF|#000000|'''普通'''}}<ref name="PHP20" /><ref group="注釈">LED式表示器では灰背景に白文字({{Colors|#FFFFFF|#7f7f7f|'''普通'''}})になっている。</ref> と表示される。英語表記は「Local」<ref name="MWebE-Map"/>。
なお、1977年(昭和52年)より1990年(平成2年)まで、それ以前の追加料金が不要の「特急」を「[[高速 (列車)|高速]]」へ、「[[座席指定券]]」が必要な「座席特急」を「特急」へ種別呼称を改めて運行していたが、「特急」(指定席)と「高速」(一般席)を併結した形の「一部指定席(現・特別車)特急」へ変更したことで、再び「特急」に統合された。また、同様に1990年(平成2年)までは「準急」の種別も存在しており(現在と停車駅が若干異なる)、これに関しては「急行」の特別停車駅を増やして統合している(2005年(平成17年)の種別増加とは逆の流れとみなせる)。また、一つの列車が途中駅で種別を変更するダイヤも日常的に用いられている。過去には「特急」(座席指定)から「急行」・「普通」などへ種別変更を行う場合もみられた<ref group="注釈" name="ex19">「急行」・「普通」などから「特急」へ種別変更するケースは特殊な場合をのぞいて見られなかった。「特急」同士では「北アルプス」が社線内特急(料金種別が異なるので、特急券と座席指定券が個別に必要)へ変更するケースは存在した。</ref> が、現在では「快速急行」以下の種別相互で行われている。
[[File:Meitetsu Line Network 20230318.svg|800px|none|thumb|停車駅(2023年3月18日改正)]]
{| class="wikitable" style="text-align:center; width:34em;"
|+路線別運行列車種別([[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2023年3月18日改正|2023年3月18日ダイヤ改正]]現在)
|-
!路線名
!style="width: 3.5em;"|{{Colors|#FF0000|#FFFFFF|'''ミュー<br />スカイ'''}}<br />
!style="width: 2.5em;"|{{Colors|#FF0000|#FFFFFF|'''快速<br />特急'''}}<br />
!style="width: 2.5em;"|{{Colors|#FFFFFF|#FF0000|'''特急'''}}<br />
!style="width: 2.5em;"|{{Colors|#0000FF|#FFFFFF|'''快速<br />急行'''}}<br />
!style="width: 2.5em;"|{{Colors|#FFFFFF|#0000FF|'''急行'''}}<br />
!style="width: 2.5em;"|{{Colors|#FFFFFF|#009500|'''準急'''}}<br />
!style="width: 2.5em;"|{{Colors|#FFFFFF|#000000|'''普通'''}}<br />
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]
|○||●||●||○||●||○||○
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄豊川線|豊川線]]
|<nowiki>-</nowiki>||▲||▲||-||▲||▲||●
|-
!style="text-align: left"|[[名鉄西尾線|西尾線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||●||-||●||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄蒲郡線|蒲郡線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||-||-||-||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄三河線|三河線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||-||-||-||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄豊田線|豊田線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||-||-||-||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄常滑線|常滑線]]
|●||-||●||●||●||●||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄空港線|空港線]]
|●||-||●||●||▲||▲||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄築港線|築港線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||-||-||-||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄河和線|河和線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||●||●||●||●||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄知多新線|知多新線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||▲||▲||▲||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||-||-||●||●||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄津島線|津島線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||●||-||●||●||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄尾西線|尾西線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||△||-||△||△||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄犬山線|犬山線]]
|●||●||●||●||●||●||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄各務原線|各務原線]]
||-||-||-||-||-||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄広見線|広見線]]
||○||-||-||-||-||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄小牧線|小牧線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||-||-||-||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄竹鼻線|竹鼻線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||-||-||-||-||●
|-
!style="text-align: left;"|[[名鉄羽島線|羽島線]]
|<nowiki>-</nowiki>||-||-||-||-||-||●
|}
普通および一部路線の優等列車(▲△)は各駅停車。●▲は全区間、○△は一部区間を除いて設定<ref>{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20230318023249/https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/rosenzu.pdf|title= 名鉄線 路線案内図 2023.3.18|publisher=名古屋鉄道|accessdate=2023-03-18}}</ref>。
臨時列車では定期列車に存在しない種別を設定する場合がある(毎年11月の[[岐阜基地]]航空祭開催日の各務原線など)
=== ダイヤ ===
{{Main2|ダイヤ改正|名古屋鉄道のダイヤ改正}}
朝[[ラッシュ時]]は優等列車中心となる中での小駅の利便性を確保するなどのさまざまな事情により、一時期よりは減少したものの、[[#列車種別|列車種別]]の節で述べたような[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|特別停車]]が多い。かつては朝ラッシュ時や[[臨時列車|臨時]]の特急列車や、[[椋岡駅]](廃止)・[[学校前駅 (岐阜県)|学校前駅]](廃止)・[[江吉良駅]]などでは近年(最終は椋岡駅の2006年)まで残っていた普通列車の特別通過もあった。特別通過は2011年3月26日のダイヤ改正で朝ラッシュの上り特急の[[笠松駅]]・[[新木曽川駅]]において復活したが、2023年3月18日のダイヤ改正で廃止されて消滅した。また、同様の理由で途中駅での種別変更も多く、中には2 - 3回種別変更する列車もあり、特に朝ラッシュ時にはさまざまなパターンが見られる。特別停車も見られ、日中でも行われる列車がある(佐屋・弥富 - 吉良吉田間の急行は豊明駅に日中も特別停車する)。
本線系の路線では[[始発列車]]・[[終電|最終列車]]が普通列車ではなく優等列車となる場合が多い。終着駅への到着時間は遅くできないので、途中の駅を通過させることで都心から郊外への終電を遅くするためでもある。他社の路線ではあまり見られない特徴である。
ダイヤ策定の際に編成両数はあまり考慮されておらず、[[ドアカット]]が頻繁に発生している(種別表示には「締切」と表示される)。実施例については当該項目を参照。
以前は[[大晦日]]に、[[初詣]]客用として午前3時台まで普通列車(末期には[[神宮前駅]]と[[豊明駅]]、[[名鉄一宮駅|新一宮駅]]、[[犬山遊園駅]]、[[太田川駅]]の各駅間)を約1時間間隔で運転していたが、[[2004年]]大晦日の運転をもって中止した。
お盆期間(8月13日 - 15日)と年末年始(12月29日 - 1月3日)は休日ダイヤでの運行となる。ただし豊橋駅 - 伊奈駅間はJRに乗り入れていることから、JRが平日ダイヤとなるお盆期間と12月29日はJRに合わせて一部列車の豊橋駅発着時刻が通常より数分変更される。
毎年1月・2月(2月は土休日のみ)は豊川稲荷への初詣客用のために[[名鉄豊川線|豊川線]]に直通する特急列車(全車指定席、のちに全車特別車)を増発していた時期もあった。[[2005年]]の空港線開業後は中部国際空港への輸送を比重に置いているため、豊川線内の区間列車の増発のみに留まっている。
名鉄名古屋駅付近の高密度ダイヤ設定のためや、きめ細かくスピードアップ(または逆に余裕時分の付加)を行うために、ダイヤ(列車運行図表)上の運転時分・停車時分は5秒単位で設定されている。極端な例をあげると、発車時刻が0分55秒であっても、時刻表には案内上00分発と表示され、01分発となることはない。なお、一部の支線は10秒単位、豊橋駅付近のJR共用区間は15秒単位となっている。
=== 車両 ===
{{See|名古屋鉄道の車両形式}}
<gallery widths="200">
Meitetsu 2000 Series and R1200 Series-FC.jpg|[[名鉄1000系電車|1200系]]「パノラマスーパー」と<br />[[名鉄2000系電車|2000系]]「ミュースカイ」
Nagoya Railroad - Fuki Station - 02a.JPG|[[名鉄3500系電車 (2代)#3700系|3700系]]と[[名鉄5700系電車|5700系]]
Meitetsu 4000 series EMU 011.JPG|[[名鉄4000系電車|4000系]]
</gallery>
==== 車両の輸送 ====
名古屋鉄道の新造車両は、名古屋臨海鉄道の機関車牽引によってJR[[東海道本線]][[笠寺駅]]から[[名古屋臨海鉄道]]、[[名鉄築港線]]を経由して[[大江駅 (愛知県)|大江駅]]に搬入され、その日の終電後に[[豊明駅]]や[[舞木検査場]]などへ自力走行する。瀬戸線は孤立した路線のため、東名古屋港駅岸壁の日本国外輸出用の留置線でトレーラーに乗せ換えて、一般道経由で尾張旭の車両基地に搬入される。名鉄から他社に車両を売却する場合は逆の経路で笠寺駅まで出て、そこから売却先へと輸送される。
<!-- 要出典
名鉄が(名古屋本線経由で)豊橋から直接車両を搬入しない理由は、新車運行手続き・自力走行するための整備に必要なスペースが豊橋にないこと、名古屋本線の国府 - 東岡崎間では急勾配が続くため機関車等での牽引による搬入が不適なことによる。(諸説あり)
-->
また、[[名古屋市交通局]][[名古屋市交通局日進工場|日進工場]]に搬入される[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]・[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]・[[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]]<ref group="注釈">上飯田線の車両は日進工場で検査を行わないが、メーカーからの引き渡しは日進工場で行われる。</ref>の新造車両は、大江駅までは名鉄の新車と同じ経路をたどり、大江→金山→知立→豊田市→赤池の経路で名鉄の機関車が牽引する。これは名鉄において名電築港駅 - 赤池駅間の貨物輸送として取り扱われる<ref group="注釈">平成24年度刊愛知県統計年鑑によると、平成22年度に築港線・常滑線・名古屋本線・三河線・豊田線の貨物輸送実績が計上されている。</ref>。
なお、先述の東名古屋港駅岸壁では一般の輸出車両の積み込みも行われており、名古屋臨海鉄道の機関車が牽引して名鉄築港線の名電築港駅 - 東名古屋港駅 (0.4km) を走行する。これも名鉄において貨物輸送として取り扱われる<ref group="注釈">平成22年度刊愛知県統計年鑑によると、平成20年度に築港線において輸送トン数3千t、延トンキロ1千tkmが計上されており、これは輸送距離が約0.333kmであることを示す。</ref>。
過去、国鉄時代の刈谷駅では貨物扱いを行っており、側線を通じ名鉄刈谷駅で新製車両の搬入を行っていた時期があった。また瀬戸線も過去には大曽根駅構内にあった貨物扱い用の側線を使って国鉄線から車両の搬入・搬出を行っていたが、栄町乗り入れによる大曽根駅のホーム延伸にともない側線が廃止されたため、瀬戸線の車両搬入は前述の方法に変更された。
==== 廃車車両の処分 ====
古い車両の解体は長らく[[名電築港駅]](築港線と[[名古屋臨海鉄道東築線]]が交差する部分の空き地)で行ってきたが、[[2004年]]以降は大きく変化した。2004年〜2005年に廃車になった車両は[[間内駅]]近くの空き地で解体を行い、その後は再び名電築港駅での解体を行うも、現在は金属リサイクル工場へ車両を持ち込む形になっている。持ち込みに際し名電築港駅で車体を半分に切断することもあるが、直接の解体は[[2009年]]に廃車になった[[名鉄7000系電車|パノラマカー7011F]]が最後になっている。
=== 乗務員区所 ===
-の右側は主な乗務区間(列車により相違あり)
* 名古屋乗務区 - 名古屋本線全線・豊川線・常滑線(神宮前 - 大江間の一部の回送列車のみ)・津島線・尾西線・竹鼻線・羽島線
*: 名古屋乗務区には特急の特別車改札を専門で行う専務車掌が配属されており、改札業務に限り常滑線・空港線・河和線・犬山線の一部列車も担当する。
* 神宮前乗務区 - 常滑線・空港線・河和線・知多新線(本線直通列車は栄生まで乗務する列車もあり)
*: かつては築港線も担当していたが、2011年3月26日のワンマン運転開始以降は担当から外れ、金山幹事駅係員が同線の運転業務を担当している。
* 犬山乗務区 - 犬山線(本線直通列車は神宮前まで乗務)・各務原線・広見線・小牧線・[[名古屋市営地下鉄上飯田線|地下鉄上飯田線]]
*: 2001年の特急「北アルプス」廃止までは気動車の運転免許を持った運転士がこの乗務区に配置され、車掌とともにJR高山本線鵜沼 - 美濃太田間も乗務していた<!--(名古屋本線・常滑線などの全車指定席特急での運用時は不明)-->。
*: 2001年の八百津線廃止まではレールバスの運転もこの乗務区に配置された気動車運転士が担当していた(2004年に廃止された三河線非電化区間のレールバスは知立乗務区担当)。
* 知立乗務区 - 三河線・豊田線・西尾線・蒲郡線(いずれの線区も本線直通列車は神宮前まで乗務)
* 喜多山乗務区 - 瀬戸線
==== 過去にあった乗務員区所 ====
* 名古屋運転区 - 現在の名古屋乗務区。
* 名古屋車掌区 - 現在の名古屋乗務区。1983年(昭和58年)6月10日から1999年(平成11年)まで存在した特急(北アルプスをのぞく)乗客係の'''[[パノラマメイツ]]'''はここに所属していた。
* 岐阜運輸部 - [[名鉄岐阜線|岐阜市内線・揖斐線・谷汲線・美濃町線・田神線]]・各務原線(新岐阜 - 田神間)の運転を担当。2005年3月31日限りで廃止。
* 鵜沼乗務区 - 現在の犬山乗務区。
* 刈谷乗務区 - 現在の知立乗務区。
* モンキーパークモノレール線は犬山幹事駅職員が運転を担当していた。
=== 乗務員と運転業務 ===
{{独自研究|section=1|date=2019年3月25日 (月) 19:26 (UTC)}}
社員の[[制服]]は2014年6月以降はダークネイビーを基調としている<ref>“[https://web.archive.org/web/20150425164838/http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2013/__icsFiles/afieldfile/2014/03/31/release140331_new_uniforms.pdf 名鉄創業120周年にあわせ係員の制服を一新します] ”(PDF)、名古屋鉄道、2014年3月31日([[インターネットアーカイブ#ウェイバックマシン|ウェイバックマシン]]による[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]]。2015年4月25日取得、2021年10月1日閲覧)。</ref>。 冬季に上着を着用する場合、駅乗務員などの係員は「PRU([[日本私鉄労働組合総連合会|私鉄総連]])」のバッジを着用している。夏季は開襟シャツを着用する。なお、役職によって上着の形状が異なり、管理職以上はダブルの上着を着用。制帽に関しては、役職によって巻かれている線の太さが違い、乗務区長・幹事駅長や駅長・副区長・副駅長、各主任などの管理職は赤帯に金線2本。主任補佐、駅長補佐、上席助役、助役は太い銀線1本(駅の当務助役は赤帯が追加される)。助役補佐、役職なしの係員は細い青線1本である。
車掌から運転士に対する出発合図は、[[発車ベル#車両の電鈴|電鈴]]を使用する場合は短2音である。運転士はワンマン列車以外は車掌からの出発合図を受けなければ発車してはならない。大半の車両は「チン、チン」と鳴るベル式の電鈴を装備しているが、2002年登場の300系以降の新造車両はブザーを採用しているため、合図は「プッ、プッ」となっている。<!--従来の地下鉄車両は名鉄と地下鉄でブザーと電鈴を使い分けていたが、[[名古屋市交通局N3000形電車]]([[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]])は両区間ともブザーになった。[[名古屋市交通局7000形電車]]([[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]])の場合、現在の小牧線(上飯田線含む)はワンマン運転を行なっているためブザーを鳴らす機会がない。 →この記事では名鉄の車両のこと以外は余談にすぎない。-->また、進行方向後ろの乗務員室からホームが外側にカーブしているなどで、列車全体の乗降確認ができない場合、運転士が見えない部分の乗降確認を行い、車掌に乗降完了を知らせるために鳴らすことがある。この場合も短2音である。
以前、車掌が駅発車時の側面監視をする際、相互直通運転をしている名古屋市交通局や京阪電気鉄道同様、車内電鈴スイッチに手をかけて行い、非常時には電鈴を乱打して(「直ちに停車せよ」を意味する)、運転士に非常ブレーキを要求する方式をとっていたが、2016年夏ごろに大半の鉄道会社同様、車掌弁もしくは非常ブレーキスイッチを掴んで側面監視を行い、非常時には車掌が直接非常ブレーキを扱う方式に変更されている(ただし6000系初期車や100系のように車掌弁が進行方向と逆についている車両や、乗り入れてくる名市交車のように乗務員扉の上に非常ブレーキスイッチがついている場合など、物理的に車掌弁を掴みにくい車両については、引き続き電鈴保持を行うこともある)。
駅到着番線(入線ホーム)の伝達も電鈴が使用される。これは到着番線が列車によって異なる名鉄岐阜駅で主に行われており(それ以外の駅でも行われる場合はあり)、運転士が信号・進路などを確認、電鈴を使用して車掌に合図(1回で進行方向右側、2回で進行方向左側)を送り、車内アナウンスで下車扉を正しく案内できるように補うものである。この場合は、車掌が電鈴を待ってから下車のアナウンスをするケースが多い。
普通列車などが優等列車を通過待ちするときは、停車中の列車乗務員は必ずホームに立ち'''通過監視'''を行う。そのとき、運転士はブレーキハンドルを非常ブレーキにセットし、リバースハンドル(主幹制御器に取りつける前進・後進の切り替えハンドル)を所持してホームに立つ。なお、固定式ワンハンドル列車の場合、リバースハンドルの代わりにマスコンキー(固定式ハンドルを動かすために使う鍵)を所持し監視にあたる。ただし、運転席が2階にあった[[パノラマカー]](現在は運用を離脱)では、運転席からホームへの移動が大変なため行わない場合が多かった。車掌はリーズブックと呼ばれる釣り銭の入ったものを持ち、ホームに立つ。原則として、ホームの非常停止ボタン付近に立つことになっている。
運転士の[[乗務行路表|スタフ]](社内では「運転時刻カード」と呼ばれている)は進行方向から見て左に置かれている(2000系・1700系と名古屋市交通局3000形・3050形のみ構造上右側)。そのため[[指差喚呼|指差確認]]はJRのように右手で行わず、左手で行っている(ブレーキハンドルから手を離さないためでもある)。なお、6000系などの2ハンドル車において、力行中[[マスター・コントローラー|マスコン]]から手を離すと[[デッドマン装置]]が動作してしまうため、加速中に指差確認を行う場合は、マスコンから手を離さず、左手人差し指を対象物に向ける動作で済ませている。
運転中の[[指差喚呼|指差称呼]]はJRに比べて少なめで、基本的に指差確認称呼を行うのは、発車前に行う次停車駅の確認と出発信号機(警戒表示以上)の確認、駅の停止・通過確認で、分岐点(平井信号場と枇杷島分岐点)や待避線がある駅の通過側信号確認時に行い、それ以外(閉塞信号機表示確認・制限速度確認等)では口頭で済ませる。
[[増解結]]を行う際、作業を担当する駅員は必ず[[ヘルメット]]を着用する。作業で使用する旗もしくは合図灯は、赤が「停止」、緑が「進行」である。
[[鉄道標識|速度制限標識]]は、制限速度の下に曲線(半径m単位)、下り勾配、分岐(方向は矢印で表示)、構内、ATSなどの理由が記載されている。これが数字のみのものは制限速度で通過した場合の速度制限を受ける秒数を表す(JRなどのような距離ではない)。いずれの場合も口頭では制限速度のみを称呼する。
[[日本の鉄道信号#閉塞信号機|閉塞信号機]]の名称番号は、キロポストに基づいた起点からの距離 (m) ÷100の近似値が方向により偶数・奇数に分けて付番されている。口頭では現示と進行・停止以外における制限速度のみ(「注意65」「減速85」など)を喚呼するが、豊橋 - 平井信号場間のJR共用区間ではJRの規則に従って「第3閉塞・注意45」「第2閉塞・減速65」のように称呼する。なお、[[鉄道標識|信号喚呼位置標識]]はJR共用区間を除いて信号警標の基本デザインたる縦長方形で黄色地に黒縞が斜めに2本入ったものである。
ほかに名鉄独特の標識としては、指示速度やパラレル止めなどのノッチ指定を記した力行標や惰行標(通称オフ板)があるが、名古屋本線では1990年代にスピードアップが進む過程で撤去されほとんど残っていない。したがって現在は、本線ではフルノッチに投入し区間最高速度まで上げる走行が原則となっている。なお、制動標(通称H板、本来はHSCブレーキ車用制動標。自動ブレーキ車用はA板であった)については各線とも引き続き掲出され、分岐方(副本線)用の表示にはブレーキ初速度を併記している。
単線区間での[[列車交換]](行き違い)のことを、名古屋鉄道では離合と呼んでいる。
=== 運賃 ===
名古屋鉄道の運賃は[[営業キロ]]ではなく、あらかじめ一定の割合を乗じた「[[営業キロ#換算キロ・擬制キロ・運賃計算キロ|運賃計算キロ]]程」によって運賃を計算する。計算方法は以下の通り(子供は半額、5[[円 (通貨)|円]]の端数は切り上げ)。運賃額は[[2019年]][[10月1日]]改定時点<ref>{{Cite press release |和書 |title=鉄軌道旅客運賃・料金等の改定について |publisher=名古屋鉄道 |url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2019/__icsFiles/afieldfile/2021/08/11/release190905_unkai.pdf |format=PDF |date=2019-09-05|accessdate=2021-10-01}}</ref>。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center;" summary="この表は運賃表で各距離ごとの運賃を表す。"
|+大人キロ制区間運賃表
|-
!scope="col"|キロ程!!scope="col"|運賃!!scope="col"|キロ程!!scope="col"|運賃!!scope="col"|キロ程!!scope="col"|運賃
|-
!id="k3"|初乗り3km
|headers="k3"|170円
!id="k33"|33 - 36
|headers="k33"|620円
!id="k73"|73 - 76
|headers="k73"|1,240円
|-
!id="k4"|4
|headers="k4"|190円
!id="k37"|37 - 40
|headers="k37"|680円
!id="k77"|77 - 80
|headers="k77"|1,290円
|-
!id="k5"|5 - 7
|headers="k5"|230円
!id="k41"|41 - 44
|headers="k41"|750円
!id="k81"|81 - 85
|headers="k81"|1,350円
|-
!id="k8"|8
|headers="k8"|240円
!id="k45"|45 - 48
|headers="k45"|810円
!id="k86"|86 - 90
|headers="k86"|1,400円
|-
!id="k9"|9 - 12
|headers="k9"|300円
!id="k49"|49 - 52
|headers="k49"|880円
!id="k91"|91 - 95
|headers="k91"|1,450円
|-
!id="k13"|13 - 16
|headers="k13"|360円
!id="k53"|53 - 56
|headers="k53"|950円
!id="k96"|96 - 100
|headers="k96"|1,500円
|-
!id="k17"|17 - 20
|headers="k17"|410円
!id="k57"|57 - 60
|headers="k57"|1,010円
!id="k101"|101 - 110
|headers="k101"|1,590円
|-
!id="k21"|21 - 24
|headers="k21"|460円
!id="k61"|61 - 64
|headers="k61"|1,070円
!id="k111"|111 - 120
|headers="k111"|1,680円
|-
!id="k25"|25 - 28
|headers="k25"|510円
!id="k65"|65 - 68
|headers="k65"|1,140円
!id="k121"|121 - 130
|headers="k121"|1,760円
|-
!id="k29"|29 - 32
|headers="k29"|570円
!id="k69"|69 - 72
|headers="k69"|1,190円
!id="k131"|131 - 143
|headers="k131"|1,850円
|}
# 乗車する区間の各乗車線区ごとに、営業キロを算出する。
#* 列車乗り換えの都合上、[[枇杷島分岐点]] - [[東枇杷島駅]]・[[栄生駅]]・名鉄名古屋駅間を折り返し乗車する場合には、この区間の営業キロは含まない<ref group="注釈">名鉄名古屋駅までの折り返し乗車は無条件でできるわけではない。以下の例は不正乗車となる。
* 名鉄一宮駅から名鉄名古屋駅まで特急を利用し、栄生駅まで普通で折り返す(東枇杷島駅、下小田井駅以遠までの場合は不正乗車にはならない)
* 名鉄一宮駅から名鉄名古屋駅まで急行を利用し、犬山駅まで急行を利用する(急行以下同士の場合は栄生駅で乗り換えなければならない、津島・岐阜方面と犬山方面のどちらか一方が快速急行以上でなければならない)など</ref>。
#* 以下にあげる区間を経由する場合は、最短経路で計算する。
#** 名古屋本線(枇杷島分岐点 - 名鉄岐阜駅間)
#** 津島線([[須ヶ口駅]] - [[津島駅]]間)
#** 尾西線(津島駅 - 名鉄一宮駅間)
#** 犬山線(枇杷島分岐点 - [[新鵜沼駅]]間)
#** 各務原線(名鉄岐阜駅 - 新鵜沼駅間)
#: (例)[[名鉄岐阜駅]] -(名古屋本線)- [[神宮前駅]] -(常滑線)- [[太田川駅]] -(河和線)- [[富貴駅]] -(知多新線)- [[内海駅 (愛知県)|内海駅]]の運賃の場合、
#:* 名古屋本線(A) 名鉄岐阜駅 - 神宮前駅37.6キロ
#:* 常滑線(B) 神宮前駅 - 太田川駅12.3キロ
#:* 河和線(B) 太田川駅 - 富貴駅22.3キロ
#:* 知多新線(C) 富貴駅 - 内海駅13.9キロ
#: と各線区に分け、営業キロを計算する。
# 各々の線区の運賃計算上の区分([[#路線|路線]]節の表を参照)が同じ線区同士の営業キロを足し合わせ、以下の倍率をかけ、小数点第2位以下を切り上げる。このキロ程が「運賃計算キロ程」である(倍率と区分は1975年制定<ref>{{Cite journal |和書|author = 梶井健一|author2 = 飯田経夫|authorlink2= 飯田経夫|author3 = 大谷健|title = <交通経営フォーラム> 鼎談・名古屋鉄道―その経営観、経営戦略|date = 1986-05|publisher = 運輸調査局|journal = 運輸と経済|volume = 46|issue = 5|page = 7}}</ref>)。
#; A:1.00倍 B:1.15倍 C:1.25倍
#: (例)A:名古屋本線 《37.6キロ×1.00=37.6キロ》
#:: B:常滑線・河和線 《(12.3キロ+22.3キロ)×1.15=39.790→39.8キロ》
#:: C:知多新線 《13.9キロ×1.25=17.375→17.4キロ》
# 運賃計算キロ程を足し合わせ、小数点以下を切り上げ、上の運賃表に照らし合わせる。
#: (例)37.6キロ+39.8キロ+17.4キロ=94.8キロ→95キロ から、1,450円
# [[運賃#加算運賃|加算額]]を設定している線区([[#路線|路線]]節の表にあるB+、C+表記の路線)が含まれる場合は、加算額を加算する。加算額は以下の各項目を参照。
#: [[名鉄豊田線#加算運賃|豊田線]]、[[名鉄空港線#加算運賃|空港線]]、[[名鉄知多新線#加算運賃|知多新線]]、[[名鉄羽島線#加算運賃|羽島線]]
#: (例)知多新線は加算額設定線区であるので、上記の運賃1,450円に富貴駅 - 内海駅間の加算額70円を加算し、この区間の運賃は'''1,520円'''である。
* 以下のような乗り継ぎの場合には乗継割引運賃が適用され、大人20円・子供10円引きとなる(ただし普通乗車券か交通系ICカードで利用の場合)。
** [[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]]を経由し、豊田線[[米野木駅]]・[[日進駅 (愛知県)|日進駅]]と[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|地下鉄鶴舞線]][[平針駅]] - [[植田駅 (名古屋市)|植田駅]]間各駅の間
** [[上小田井駅]]を経由し、犬山線[[下小田井駅]]・[[中小田井駅]]・[[西春駅]]・[[徳重・名古屋芸大駅]]と地下鉄鶴舞線[[庄内緑地公園駅]]・[[庄内通駅]]の間
** [[上飯田駅]]を経由し、小牧線[[味美駅 (名鉄)|味美駅]]・[[味鋺駅]]と[[名古屋市営地下鉄上飯田線|地下鉄上飯田線]]を経由して[[名古屋市営地下鉄名城線|地下鉄名城線]][[黒川駅 (愛知県)|黒川駅]] - [[ナゴヤドーム前矢田駅]]間各駅の間
* 次の区間の運賃は競合上の理由から[[運賃#特定区間運賃|特定額]]に設定されている。また、この区間内で下記の運賃を上回る区間の運賃は下記の額を採用する。
** [[金山駅 (愛知県)|金山駅]] - [[名鉄一宮駅]]間:450円
** [[名鉄名古屋駅]] - 名鉄一宮駅間:380円
** 名鉄一宮駅 - 名鉄岐阜駅間:300円
** [[新木曽川駅]] - 名鉄岐阜駅間:240円
* 次の区間には、駅の移転にともなう負担増を防ぐため、運賃計算キロの特例がある<ref>『名鉄時刻表 Vol.26』名古屋鉄道、2011年</ref>。
** [[西ノ口駅]] - 大野町駅以遠の各駅(南桜井駅を除く)を利用する場合、大野町駅 - 西ノ口駅(営業キロ1.3km)の運賃計算キロを1.15km(1.0km×1.15)とする。
** [[柳津駅 (岐阜県)|柳津駅]] - 南宿駅以遠の各駅を利用する場合、柳津駅 - 南宿駅(営業キロ2.3km)の運賃計算キロを2.625km(2.1km×1.25)とする。
** [[上飯田駅]] - 味鋺駅以遠の各駅(南桜井駅・りんくう常滑駅・中部国際空港駅を除く)を利用する場合、上飯田駅 - 味鋺駅(営業キロ2.3km)の運賃計算キロを2.415km(2.1km×1.15)とする。
=== 乗車券類の特徴 ===
[[乗車券]]類には淡黄色で「Meitetsu」と地紋が印刷されている。また、磁気定期券には偽造防止用に薄くピンク色で「M」と書かれている。
新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)発行の乗車券は、今までに淡青色・淡緑色など他駅とは違った地紋色を使用していた期間がある(1950年代には発駅地帯ごとに地紋色を変えていた時期があった)。
かつての「座席指定券」(現・ミューチケット)は淡黄色の地紋が基本で、ほかに淡緑色・淡紅色などもあった。オンライン発券開始(1983年)以降は淡緑色の地紋を使用していたが、普通乗車券なども発売できる「複合端末」導入後は他の乗車券類と共通の地紋に変更されている。
=== 旅客案内 ===
==== 駅の案内表示 ====
かつては設備面などにおいて他の大手私鉄会社と比較すると近代化が立ち後れている面が否めなかった。しかし[[中部国際空港]]の開港や名鉄グループ内での大幅なリストラ、[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]導入にともなう[[駅集中管理システム]]導入の推進などもあって、近年は[[ユニバーサルデザイン]]のピクトグラムを導入するなど[[首都圏 (日本)|首都圏]]の大手私鉄会社にひけをとらない水準にまで向上している。しかし一部の主要駅では一世代前(CI展開初期)のものが使われている駅もある。
JRの敷地内にある豊橋駅と弥富駅を除く名鉄駅のホームの表示はJRのように駅舎がある側から1番線、2番線…ではなく、その駅の所属する路線の下り方向を向いて左側から1番線、2番線…と表示している(西尾線・蒲郡線・三河線山線の一部・尾西線の一部を除く)。
各主要駅のホームや改札口などに設置されている[[発車標]]は名鉄名古屋駅で液晶式のものが使用されているのを除くと、行灯式や[[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ式]]のものが広く使われていたが、近年のバリアフリー化などにともない、それらは順次[[発光ダイオード|LED]]式のものに交換され、いずれもその数を減らしつつある。なお、LED式のものについては、従来は3色式であったが、交換もしくは新設されたものは種別部分のみフルカラー表示(ただし、喜多山駅の発車標はすべてフルカラー表示)となっている。
主要駅の乗車位置は1 - 16と2扉車用に表示されている。しかし、現在は3扉車の割合が高くなっていることから、奇数と偶数の間に「3扉車の中間扉」の表示をつけた駅や、1 - 24と3扉車を前提に表示されている駅もある。地下鉄に直通している小牧線と豊田線は4扉で統一しているため、小牧線(4両)は1 - 16、豊田線(6両)は1 - 24になっている。
==== 車内放送等 ====
車内放送はミュースカイ、特急列車(全車一般車は除く)、犬山線の鶴舞線直通列車、豊田線、瀬戸線やワンマン列車では自動放送で案内される。また特急列車や三河線のワンマン列車では英語での案内放送を行なっており、かつては特急列車と急行列車の一部で[[中日新聞|中日新聞ニュース]]も文字放送で流していた。
LEDの[[車内案内表示装置|車内案内装置]]を搭載している車両では走行中、列車の走行を模した速度表示が行われることがある。左側に速度を表示し、速度に合わせて右端から車両が姿を見せ、最高速度 (120km/h) で速度表示の隣に達する。また、下段は線路をイメージしており、速度に応じて動きが変化する。なお、出てくる車両の形は系列によって異なっている。
==== 種別・行先案内 ====
列車の案内放送は、基本的に「種別・行先」の順(例:[[快速特急]]・新鵜沼行き)であるが、駅ホームの自動放送では「行先・種別」の順(例:犬山行き普通)である。しかしながら、最近になって自動放送装置が更新された駅では「種別・行先」の順で放送される。なお、近年投入された車輌には、乗降促進メロディの吹奏装置が設置されている。ただし、鶴舞線直通用の車輌と[[名鉄3100系電車|3100系3次車]]は「プルル、プルル、プルル」という音の交通局で使われているものと同一(ただし若干音が甲高い)の発車の際に鳴らすブザーが設置されている。
列車の行き先の中には、須ヶ口、佐屋、柏森、伊奈など地元住民・利用客以外は所在地・行政名をすぐに連想できない駅名がいくつかある。そのため特に名鉄名古屋駅では「名古屋本線・伊奈行き急行」、その他の駅では「名古屋方面・急行須ヶ口行き」や「津島方面の電車がまいります」などのような案内放送が聞かれる。過去、支線直通が盛んな時代には特急[[森上駅|森上]]行き、[[日本ライン今渡駅|今渡]]行きなどの列車もあり、系統板の使用が一般的であった時代には、行先横に『名古屋方面』と肩書き(朱書き)されたり、『名古屋』を中央に大書し下部に『方面』、横に小さく本来の行先(『今渡』など)を配した系統板が多用された。
準急以上の列車が各駅停車の区間を走る場合、種別表示幕の表示は時刻表上の種別表示に従う。岩倉以北の準急、豊川線、知多新線などでは、普通に種別変更しない限りは優等種別を表示したまま運行する。
種別板を使用する列車の場合は、1964年ごろから各編成の前頭部に全種別をセットした種別板を装備(常備)<ref group="注釈" name="ex21">それ以前は普通が種別板なし(系統板のみ)、準急以上の列車には各種別の種別板(円形が基本)を前頭部の右側(種別差し)へその都度装着した。</ref> し、普通列車は無表示(車体色と同色)の板を使用する。7700系までの各系列・車両(ただし、種別も一体で表示する「逆さ富士」板が装備された7000系・7500系などをのぞく)では系統板とともに日常的に使用されていたが、7700系の廃車(2010年3月)以降は種別幕の故障(破損)などで臨時に使用される場合に限られる。種別板は1964年(昭和39年)5月6日に表示改正され、特急が白地に赤字、急行が黄地に黒字、準急が緑地(青地)に黒字と制定された<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=1014}}</ref><ref name=RP1018-80>{{Cite journal |和書|author=豊田浩基|title =名古屋鉄道の列車種別|date=2023-11|publisher=電気車研究会|journal=鉄道ピクトリアル|volume=1018|page=80}}</ref>。その後の変遷は以下のとおりである。
* 準急の種別板は1980年から橙色地に白抜き文字(ごく短期間のみ使用)、1981年以降は上半白地・下半黄色地に黒字という変遷をたどっている<ref name=RP1018-80/>。
* 急行の種別板は一貫して黄色地に黒字である。また、2005年まで存在した600V区間用の各車両(種別幕装備車を除く)は円形の種別板を装備し、白地に黒字であった(裏面は車体色と同色)。
* 特急の種別板は、1982年までが白地に赤字、1982年以降は銀色地に赤字(グレーの縁取り)となった<ref name=RP1018-80/>。また、特急(座席指定)の系統板も白帯車登場(1982年)前までが黄色地に黒字、それ以降は緑地に黒字<ref group="注釈" name="ex22">白帯車常備のいわゆる『小富士』に標準装備された各行先は茶色字であった(地色も明るい緑色)。</ref> へと変更した。
* 1977年から1990年まで存在した「高速」の種別板は、白地に青字であった。
* 回送、団体の種別板は、緑地に黒字である。
== 合理化 ==
=== 閑散線区の合理化・廃止 ===
[[File:Nagoya Railroad Linemap (Abandoned Lines).svg|300px|thumb|right|廃止路線の分布(クリックで拡大)]]
数多くの鉄道会社の合併や運営路線の譲り受けによって成立した名古屋鉄道は、多くの閑散線区を抱えることになり、そうした線区の合理化・廃止が進められてきた。特に、[[トヨタ自動車]]を核とした[[自動車産業]]が盛んな[[愛知県]]では[[モータリゼーション|車社会]]の進展が早く、[[1950年代]]から路線の廃止が相次いでいる(ただし近年廃止された路線の多くは[[岐阜県]]内の路線である)。[[1984年]]には広見線・八百津線に[[レールバス]]導入・[[ワンマン運転]]化がなされ、[[1985年]]に三河線・猿投 - 西中金間、[[1990年]]に三河線・碧南 - 吉良吉田間にもレールバスが導入された。[[鉄道事業法]]が[[2000年]]に改正され、それまでは許可制で所轄官庁の許可が必要だった鉄道廃止が届出制に変わると、閑散線区の廃止を相次いで表明している。
; 名古屋鉄道成立後の廃止路線
: 経路変更や駅移設による延長・短縮を除く。
: 運賃計算区分が設定されていた路線は路線名の後のカッコ内にその区分を示す。
:* [[名鉄勝川線|勝川線]] - 1936年4月8日に休止、1937年2月1日に廃止。
:* [[碧南駅#大浜口支線|大浜口支線]] - 1946年8月1日に廃止。
:* [[名鉄清洲線|清洲線]] - 1944年6月10日に休止、1948年8月3日に廃止。
:** 戦時中の線路供出(東西連絡線の建設など)のため「[[不要不急線]]」に指定されたことによる廃止。
:* [[名鉄起線|起線]] - 1953年6月1日に休止、1954年6月1日に廃止。
:** 起線についてはいわゆる「閑散線区」ではなく、単線で行き違い設備の乏しい路線(少ない線路容量)に比べて乗客が多すぎるため、増発が自由に行えるバス化が妥当との結論に達して廃止が行われた。
:* [[豊橋鉄道渥美線|渥美線]](三河田原 - 黒川原間)- 1944年6月5日に休止、1954年11月20日に廃止。
:** 残存区間(新豊橋 - 三河田原間)は豊橋鉄道に譲渡され現在も営業中。
:* [[名鉄小坂井支線|小坂井支線]] - 1954年12月25日に廃止。
:** 豊川市内線(現豊川線)延伸による、飯田線乗り入れ中止に伴う廃止。
:* [[新川町駅#新川口支線|新川口支線]] - 1955年2月1日に廃止。
:* [[名鉄西尾線|(旧)西尾線]] - 1959年11月25日に福岡町 - 西尾間廃止。
:** 1943年に岡崎新 - 福岡町 - 西尾間休止、1951年に岡崎駅前 - 福岡町間が福岡線として営業再開。戦時中の線路供出(東西連絡線の建設など)のため「不要不急線」に指定され、戦後も復活されずに休止中だった路線を正式に廃止とした(尾西線の玉ノ井 - 木曽川港間も同様)。
:* [[名鉄尾西線|尾西線]] - 1959年11月25日に玉ノ井 - 木曽川港間廃止。
:** 1944年に奥町 - 玉ノ井 - 木曽川港間休止、1951年に奥町 - 玉ノ井間が営業再開。
:* [[名鉄平坂支線|平坂支線]] - 1960年3月27日に廃止。
:** いわゆる「閑散路線」として初の廃止路線。
:* [[名鉄高富線|高富線]] - 1960年4月22日に廃止。
:** 閑散路線ではなかった。理由は起線とほぼ同じ。
:* [[名鉄安城支線|安城支線]] - 1961年7月30日に廃止。
:* [[名鉄岡崎市内線|岡崎市内線・福岡線]] - 1962年6月17日に廃止。
:* [[名鉄岩倉支線|岩倉支線]] - 1964年4月26日に廃止。
:* [[名鉄鏡島線|鏡島線]] - 1964年10月4日に廃止。
:* [[名鉄一宮線|一宮線]] - 1965年4月25日に廃止。
:* [[名鉄挙母線|挙母線]] - 1962年6月17日に岡崎井田 - 大樹寺間廃止、1973年3月4日に大樹寺 - 上挙母間廃止。
:** 岡崎井田 - 大樹寺間は岡崎市内線と一体で運行されていたため、岡崎市内線と同日に廃止された。
:* [[名鉄瀬戸線|瀬戸線]] - 1976年2月15日に堀川 - 東大手間廃止。
:** 同日に東大手 - 土居下間を休止とし、1978年の栄町 - 東大手間の地下新線開業と同時に営業再開(土居下駅は廃止)。
:* [[知立信号所|知立連絡線]] - 1984年4月1日に廃止。
:* [[名鉄岐阜市内線|岐阜市内線]] - 1988年6月1日に徹明町 - 長良北町間廃止、2003年12月1日に岐阜駅前 - 新岐阜駅前間休止、2005年4月1日に岐阜駅前 - 忠節間廃止。
:* [[名鉄美濃町線|美濃町線]](C) - 1999年4月1日に関 - 美濃(実態は新関 - 美濃)間廃止、2005年4月1日に徹明町 - 関間廃止。
:* [[名鉄八百津線|八百津線]](C) - 2001年10月1日に廃止。
:* [[名鉄竹鼻線|竹鼻線]](C) - 2001年10月1日に江吉良 - 大須間廃止。
:* [[名鉄谷汲線|谷汲線]](C) - 2001年10月1日に廃止。
:* [[名鉄揖斐線|揖斐線]](C) - 2001年10月1日に黒野 - 本揖斐間廃止、2005年4月1日に忠節 - 黒野間廃止。
:* [[名鉄三河線|三河線]](C) - 2004年4月1日に西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間廃止。
:* [[名鉄田神線|田神線]] - 2005年4月1日に廃止。
:* [[名鉄モンキーパークモノレール線|モンキーパークモノレール線]] - 2008年12月28日に廃止。
=== 閑散駅の廃統合 ===
名鉄は合併によって閑散線区を抱えたのと同様に、前身事業者の施策の違いによって駅間距離が短すぎる線区も多く抱えることになった。そのため、名鉄はスピードアップや[[駅勢圏]]の調整といった合理化策の下で駅の廃止、統合を個別に実施したほか、過去二回、全線にわたる駅の整理を行っている<ref>{{Cite journal|和書|author=名古屋鉄道|title=名古屋鉄道の現勢|date=1971-01 |publisher=電気車研究会 |journal=鉄道ピクトリアル |volume=246|page=10}}</ref>。
一度目の整理は1944年に実施された。輸送力や資材を確保するために閑散路線が「不要不急線」として休止されたように、乗降客の少ない小駅が相次いで休止されている。戦後に復活した駅も少なくないが、復活しなかった駅の大半は1969年4月5日に廃止手続きがとられた。
; 1944年に休止された駅
: 凡例:
: (無印) - 1969年4月5日に廃止された駅
: <sup>×</sup> - 1969年4月5日以前に廃止された駅
: <sup>●</sup> - 1969年4月5日以前に復活した駅
: <sup>○</sup> - 1969年4月5日以前に復活したが後年廃止された駅(廃線による廃駅を除く)
: <sup>※</sup> - 1969年4月5日以降も休止扱いだったが後年廃止された駅
: <sup>◆</sup> - 1969年4月5日以降も休止扱いだったが後年復活した駅
: <sup>■</sup> - 1969年4月5日に一度廃止されたが後年同名で再開業した駅
:* 名古屋本線 - [[東笠寺駅]]<sup>×</sup>、[[井戸田駅]]、[[西枇杷島駅]]<sup>●</sup>、[[増田口駅]]、[[石刀駅]]<sup>●</sup>、[[八剣駅]]、[[加納駅 (岐阜県)|安良田町駅]]<sup>●</sup>
:* 西尾線 - [[碧海古井駅]]<sup>●</sup>、[[鎌谷駅]]<sup>○</sup>、[[東富田駅]]
:* 平坂支線 - [[羽塚駅]]<sup>●</sup>
:* 蒲郡線 - [[宮崎口駅]]<sup>※</sup>、[[こどもの国駅 (愛知県)|洲崎駅]]<sup>●</sup>、竹谷駅<sup>×</sup>、江畑駅<sup>×</sup>
:* 三河線 - 北寺津駅
:* 挙母線 - 八ツ木駅、百々駅
:* 常滑線 - [[道徳駅]]<sup>●</sup>、[[新日鉄前駅|加家駅]]<sup>●</sup>、[[西ノ口駅]]<sup>●</sup>、[[多屋駅]]<sup>●</sup>
:* 河和線 - 加木屋駅、[[半田口駅]]<sup>●</sup>、[[成岩駅]]<sup>●</sup>、[[浦島駅]]、[[時志駅]]
:* 瀬戸線 - [[東大手駅]]<sup>◆</sup>、社宮祠駅<sup>×</sup>、[[駅前駅 (名古屋市)|駅前駅]]<sup>×</sup>、[[守山口駅]]、[[瓢箪山駅 (愛知県)|瓢箪山駅]]<sup>●</sup>、[[笠寺道駅]]、小幡原駅、[[霞ヶ丘駅 (愛知県)|霞ヶ丘駅]]、[[印場駅]]<sup>■</sup>、[[平池駅]]、[[根ノ鼻駅]]
:* 津島線 - [[新居屋駅]]、[[津島口駅]]
:* 尾西線 - [[弥富口駅]]<sup>○</sup>、[[南津島駅]]、[[町方駅|兼平駅]]<sup>●</sup>、[[二子駅]]<sup>●</sup>、[[観音寺駅 (愛知県)|観音寺駅]]<sup>●</sup>、[[西宮後駅]]
:* 起線 - [[馬引駅]]<sup>●</sup>、篭屋駅<sup>●</sup>、西三条駅<sup>●</sup>、新三条駅<sup>●</sup>、[[西中島駅|工業学校前駅]]<sup>●</sup>
:* 犬山線 - [[九ノ坪駅]]、[[徳重・名古屋芸大駅|徳重駅]]<sup>●</sup>、[[稲荷前駅]]、[[小折口駅]]、[[宮後駅]]、[[木津用水駅]]<sup>●</sup>、[[犬山遊園駅|犬山橋駅]]<sup>●</sup>
:* 一宮線 - [[羽根駅 (愛知県)|羽根駅]]<sup>●</sup>、[[印田駅]]<sup>●</sup>
:* 各務原線 - [[安良田駅]]<sup>×</sup>、[[高田橋駅]]<sup>●</sup>、[[市民公園前駅|高農駅]]<sup>●</sup>、[[羽場駅 (岐阜県)|羽場駅]]<sup>●</sup>
:* 広見線 - [[前波駅 (岐阜県)|前波駅]]
:* 八百津線 - [[東伏見駅 (岐阜県)|東伏見駅]]、[[城門駅]]、[[伊岐津志駅]]
:* 小牧線 - [[春日井口駅]]、[[間内駅]]<sup>●</sup>、[[小牧口駅]]<sup>●</sup>、[[上新町駅]]、[[小牧原駅]]<sup>●</sup>、[[田県神社前駅|久保一色駅]]<sup>●</sup>、[[楽田原駅]]、[[五郎丸駅 (愛知県)|五郎丸駅]]
:* 岩倉支線 - [[中市場駅]]<sup>×</sup>
:* 竹鼻線 - [[東須賀駅]]、[[東柳津駅]]、[[門間駅]]、[[曲利駅]]、[[本覚寺前駅]]、[[江吉良駅]]<sup>◆</sup>、[[長間駅]]<sup>●</sup>、[[沖駅 (岐阜県)|沖駅]]、[[美濃石田駅]]、[[正専寺前駅]]、[[桑原駅]]
:* 岐阜市内線 - [[金宝町駅]]<sup>●</sup>、[[金町駅 (岐阜県)|高野町駅]]<sup>●</sup>、[[鵜飼屋駅]]<sup>●</sup>
:* 高富線 - [[粟野駅 (岐阜県)|粟野駅]]
:* 揖斐線 - [[萱場駅]]、[[尻毛橋駅]]、[[川部橋駅]]、[[八ツ又駅]]、[[麻生駅 (岐阜県)|麻生駅]]、[[八丈岩駅]]
:* 谷汲線 - [[黒野西口駅]]、[[豊木駅]]<sup>●</sup>、[[八王子坂駅]]、[[長瀬茶所駅]]<sup>×</sup>
:* 美濃町線 - [[野一色駅]]<sup>●</sup>
:* 渥美線 - 花田駅<sup>×</sup>、[[愛知大学前駅|高師口駅]]<sup>●</sup>、町畑駅<sup>※</sup>、空池駅<sup>※</sup>、[[芦原駅]]<sup>●</sup>、[[やぐま台駅|谷熊駅]]<sup>◆</sup>、天白駅<sup>※</sup>、[[神戸駅 (愛知県)|神戸駅]]<sup>■</sup>
[[File:Vehicle ridership, such as Hekikai Horiuchi Station.png|thumb|right|250px|2006年に廃止が検討された6駅の年間乗車人員推移<ref>[https://www.pref.aichi.jp/toukei/jyoho/nhistory.html 愛知県統計年鑑]</ref>。[[堀内公園駅|碧海堀内駅]]は安城市の改修費負担により存続。]]
二度目の整理は[[駅集中管理システム]]導入にともなう閑散駅の削減である。[[2001年]]度より導入が始まった同システムは、[[自動改札機]]・[[自動券売機]]・[[自動精算機]]・列車接近警報装置を該当駅に設置し、近隣の管理駅から遠隔操作するものである。これらを全駅に導入するにあたり、[[コストパフォーマンス|費用対効果]]が低い小駅の廃止が検討された。
; 2005年1月29日廃止(乗降客数200人以下)
:* 名古屋本線 - [[東笠松駅]]
:* 広見線 - [[学校前駅 (岐阜県)|学校前駅]]
; 2006年12月16日廃止(乗降客数300人以下)
:* 西尾線 - 鎌谷駅、[[三河荻原駅]]
:* 河和線 - [[椋岡駅]]、[[布土駅]]
:* 尾西線 - 弥富口駅
駅集中管理システムは[[2007年]]度までに全線全駅で導入される見込みであったが、[[弥富駅]]、広見線明智駅以東、蒲郡線(吉良吉田駅を除く)には導入されなかった。導入前は有人駅であったが導入後は無人駅となった駅も多く、ミューチケットや企画きっぷなどを購入できないケースも出てきている(のちに一部の無人駅でもタッチパネル式の新型自動券売機を利用すればミューチケットを購入できるようになった)。
=== 自動車事業の分社化・委託 ===
かつてはバス事業も行い、名古屋駅からの[[高速バス]]、[[名古屋飛行場|名古屋空港]]へのバス、[[路線バス]]、[[観光バス]]などを展開していた。[[2004年]][[10月1日]]から、愛知県内は'''[[名鉄バス]]'''として分社され、岐阜県内はグループ企業の'''[[岐阜乗合自動車]]'''(岐阜バス)に移管された。また、名鉄バスとして残った路線も、一部路線について運営を子会社などに委託するケースが現れている(例:犬山地区路線の「[[岐阜バスコミュニティ]]」への委託等〈2006年12月に名鉄バスは犬山地区の運営から撤退し、委託先だった岐阜バスコミュニティに路線のすべてを移譲した〉)。
=== 文化レジャー事業の分社化 ===
名古屋鉄道は、[[博物館明治村]]や[[リトルワールド]]等の施設を経営していたことでも知られ、これは「'''文化レジャー事業'''」としていた。しかし名鉄の1999年3月期決算で名鉄総合企業・バス・レジャー事業といった関連事業を起因とする[[連結経営|連結決算]]での赤字計上により、陸運事業のリストラのほか、知多新線沿線の開発にともない開業したレジャー施設の閉鎖が検討された。このうち阿久比スポーツ村の運営撤退(現・[[阿久比町立阿久比スポーツ村野球場|阿久比町立阿久比スポーツ村]])を除いて撤回されたものの、2003年3月期の中間・期末の両方で[[配当|無配]]となったことにともない、2003年1月にグループ合理化策を発表した。
特に不採算が強かった以下の事業については名鉄直下で廃止された。
*[[日本ライン#日本ライン下り|日本ライン観光]]
*[[内海フォレストパーク]]
*沖縄県内のリゾート・不動産事業は名鉄直轄で他社へ売却し撤退。
その他の文化レジャー施設を経営・運営する子会社として「'''[[名鉄インプレス]]'''」が設立され、[[2003年]][[10月]]から次のような体制に変化した。
* 明治村・リトルワールド・杉本美術館は、名鉄が経営主体となり、名鉄インプレスに運営を委託。
* [[日本モンキーパーク]]、カルチャーセンター、スイミングスクール、テニススクール、[[南知多ビーチランド]]については名鉄インプレスに譲渡させ、同社の経営とする。
=== 企画乗車券の大幅廃止 ===
閑散駅の合理化で駅員非配置の駅が増えたことや、[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]導入に際してカードにプレミアムをつけたこと、合理化のためもあって、昨今では大幅に「パノラマパック」などの企画割引乗車券を廃止する傾向が出ている。普通[[回数乗車券]]は他の大手私鉄に先駆けて2012年2月末で販売終了した。[[近畿日本鉄道]]・[[南海電気鉄道]]と共同で出していた「[[3・3・SUNフリーきっぷ]]」も、2006年夏限りで廃止した。
== 未成線 ==
名古屋鉄道、およびその前身となった鉄道にも数多くの幻となった路線が存在する。一部は以下のとおりである。
* 名古屋電気鉄道の未成線については[[名古屋電気鉄道#未成線]]を参照。
* 美濃電気軌道の未成線については[[美濃電気軌道#未成線]]を参照。
* 愛知電気鉄道の未成線については[[愛知電気鉄道#未成線]]を参照。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"| 尾西鉄道<ref name="ID2-112">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|pages=112-116}}</ref><ref name="ID3-178">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=178}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| 一宮 - 犬山 - 可児郡 - 多治見 || 40.0 km || 1897年2月 || 却下 || ||
|-
!
| 奥町 - 起 || 2.8 km || 1911年10月 || 1912年3月取得 || 1917年9月 ||
|-
!
| 清洲 - 起 || 15.4 km || 1912年8月 || 1913年10月却下 || ||
|-
!
| 名古屋 - 大治 - 津島 || 15.5 km || 1912年8月 || 1913年10月却下 || ||
|-
!
| 津島 - 多度 || 7.9 km || 1912年8月 || 1913年10月取得 || 1915年5月 ||
|-
!style="text-align:right" | 中村線
| [[名鉄一宮駅|新一宮駅]] - 甚目寺 - 中村 || 16.2 km || 1919年10月 || 1920年11月取得 || (旧)名鉄へ継承 ||
|-
!
| 稲葉地 - 則武 || 3.4 km || 1923年10月 || 1925年4月却下 || ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| 瀬戸電気鉄道<ref name="ID2-218">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|pages=216-218}}</ref><ref name="ID3-182">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=182}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor =名古屋鉄道|year =1961|title = 名古屋鉄道社史|asin = B000JAMKU4|pages=287-288}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=瀬戸市史編纂委員会(編)|year=2010|title=瀬戸市史 通史編(下)|publisher=瀬戸市|pages=76-81}}</ref><ref>運輸省『第十門・地方鉄道及軌道・六、敷設請願却下・巻五十五・昭和四年』「[https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000385067 品野電気鉄道敷設願却下ノ件]」、1929年6月19日(国立公文書館デジタルアーカイブ)</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!style="text-align:right" | 小牧線
| [[大曽根駅]] - 小牧 || 11.8 km || 1907年10月 || 1914年7月不許可 || ||
|-
!style="text-align:right" | 車道線
| 大曽根駅 - 東矢場町 - 精進川 || || 1909年2月 || 不許可 || ||
|-
!style="text-align:right" | 久屋線
| 久屋町通 - 栄町 || || 1909年2月 || 不許可 || ||
|-
!style="text-align:right" | 品野線
| [[尾張瀬戸駅|瀬戸駅]] - 品野 || 4.5 km || 1912年3月 || 1914年12月取得 || 1916年8月 ||
|-
!style="text-align:right" | 龍泉寺線
| [[小幡駅]] - 志段味(竜泉寺) || 2.8 km || rowspan="3"| 1912年2月 || rowspan="3"| 1914年12月取得 || rowspan="3"| 1916年8月 || rowspan="3"|
|-
!style="text-align:right" | 瀬戸町内線
| 瀬戸一ノ坪 - 刎田 || 1.2 km
|-
!style="text-align:right" | 東山線
| [[矢田駅 (愛知県)|矢田駅]] - 東山村(覚王山) || 4.0 km
|-
!style="text-align:right" | 有松線
| 東山村(覚王山) - 鳴海 || 13.2 km || rowspan="5"| 1912年9月 || rowspan="5"| 1914年5月却下 || rowspan="5"| || rowspan="5"|
|-
!style="text-align:right" rowspan="4" | 有松線支線
| 御器所村北山前 - 小針 || 1.2 km
|-
| 御器所村滝子 - 熱田東町沢下 || 1.1 km
|-
| 呼続町瑞穂田光 - 熱田東町 || 1.0 km
|-
| 呼続町瑞穂市場 - 熱田東町内浜 || 1.1 km
|-
!style="text-align:right" rowspan="2" | 愛岐鉄道
| [[瀬戸市役所前駅|追分駅]] - 品野 - 笠原 - 下石 - [[瑞浪駅]] || || 1918年6月 || 下案に変更 || ||
|-
| 追分駅 - 品野 - 笠原 - 下石 || || 1919年10月 || 1920年5月取得 || 失効 ||
|-
!style="text-align:right" | 品野電気鉄道
| 追分駅(瀬戸口駅) - 下品野(品野駅) || || 1928年1月 || 1929年6月却下 || ||
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"|西尾鉄道<ref name="ID3-217">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=217}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author = 藤井建|title = 岡崎を中心とした名鉄電車こぼれ話|date = 2009-03 |publisher = 鉄道図書刊行会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 816|pages=162-163}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| [[岡崎駅前駅|岡崎新駅]] - 岩津村 || 9.0 km || 1915年11月 || 1915年12月却下 || ||
|-
!
| 吉田村 - 幡豆村西幡豆 || 16.4 km || 1921年12月 || 1922年12月返付 || ||
|-
!
| 岡崎新駅 - 豊富村 || 16.5 km || 1923年1月 || 1923年12月取得 || [[愛知電気鉄道#岡崎 - 豊富村間|愛電へ継承]] ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| 岡崎電気軌道<ref>{{Cite journal|和書|author = 青木栄一|title = 名古屋鉄道のあゆみ -その路線網の形成と地域開発-|date = 1986-12 |publisher = 鉄道図書刊行会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 473|page=81}}</ref><ref name="ID3-213">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|pages=213-214}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| 井田町 - 門立 - 松平村 || 10.5 km || 1921年9月 || 1922年4月取得 || 三鉄へ継承 ||
|-
!
| 羽根 - 岩津 || 7.1 km || 不明 || 1924年5月取得 || 三鉄へ継承 ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| 三河鉄道<ref name="ID3-213"/><ref name="ID2-165">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|pages=165-169}}</ref><ref name="ID3-220">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=220}}</ref><ref name="ID3-221">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=221}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=新實守|chapter=三鉄ものがたり|editor =徳田耕一|year =2001|title = 名鉄の廃線を歩く|publisher =JTB|isbn = 978-4533039232|pages=148-149}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author = 河野敬一|title = 大正・昭和戦前期における鉄道敷設申請却下について|date = 1996-03 |publisher = 国立公文書館 |journal = 北の丸 |volume = 28|page=48}}</ref><ref>[{{NDLDC|2956767/7}} 『官報』1928年1月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| 平針 - 東郷 - 高岡 - 矢作 || 23.5 km || 1912年9月 || 1913年3月却下 || ||
|-
!
| 知立 - 若林 - 矢作 || 8.5 km || 1913年9月 || 1913年11月却下 || ||
|-
!
| [[越戸駅]] - 保見 - 瀬戸 || 25.2 km || 1913年9月 || 1913年11月却下 || ||
|-
!
| [[若林駅 (愛知県)|若林駅]] - 矢作 || 8.6 km || 1914年6月 || 1914年9月却下 || ||
|-
!
| 有松裏 - 富士松 - 安城 - 矢作 || 21.0 km || 1915年11月 || 1916年1月却下 || ||
|-
!
| 蒲郡 - 御津 - 牟呂 - 豊橋 || 18.9 km || 1916年11月 || 1917年7月却下 || ||
|-
! style="text-align:right" | 足助方面線
| [[西中金駅]] - 足助 || 7.3 km || 1919年11月 || 1921年11月取得 || 名鉄へ継承 ||
|-
!
| 足助 - 武節 - 豊根 - 富草 - 飯田 || 101.9 km || 1920年3月 || 1921年11月却下 || ||
|-
!
| 猿投 - 保見 - 長久手 - 水野 || 19.8 km || 1920年11月 || 1921年11月却下 || ||
|-
!
| [[蒲郡駅]] - 御津 - 国府 - 豊川 || 20.2 km || 1921年8月 || 1922年2月却下 || ||
|-
!
| 岡崎村戸崎 - 針崎<!--原典は針碕だが誤植?--> || 1.3 km || 1923年5月 || 1924年8月下戻 || || 貨物線
|-
!
| 猿投 - 日進 - 天白 - 東大曽根 || 26.2 km || 1924年4月 || 1925年9月取下 || ||
|-
! style="text-align:right" | 明治村線
| [[三河高浜駅]] - 明治村 || 9.3 km || 不明 || 1925年12月取得 || 1930年8月 || 尾三鉄道より継承
|-
!
| [[門立駅]] - 九久平 || 4.6 km || colspan="2" | 岡崎電気軌道より継承 || 1931年8月 || 岡崎線(門立支線)の残区間
|-
!
| 羽根 - 岩津 || 7.1 km || colspan="2" | 岡崎電気軌道より継承 || 1932年10月 || 貨物線
|-
!
| 上郷 - 挙母 || 2.6 km || 1930年6月 || 1931年7月取得 || 1935年5月 || 貨物線
|-
! style="text-align:right" | 中部日本鉄道
| 石野 - 稲橋村夏焼 || 40.4 km || 1924年10月 || 1929年10月却下 || ||
|-
! style="text-align:right" | 名南鉄道
| 刈谷 - 鳴海 - 千種 || 16.4 km || 1927年9月 || 1930年3月却下 || ||
|-
! style="text-align:right" | 豊浜電鉄
| [[柳生橋駅]] - [[浜松駅]] || 35.4 km || 1929年3月 || 1931年12月却下 || ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"|[[新三河鉄道]]<ref name="ID3-220"/><ref name="ID2-169">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|page=169-171}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
! style="text-align:right" | 大曽根線
| 大曽根 - 八事 - 挙母 || rowspan="2"| 36.5 km || rowspan="2"| 1926年3月 || rowspan="2"| 1926年10月取得 || rowspan="2"| 1935年8月 || [[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]](一部)・[[名鉄豊田線|豊田線]]の原型
|-
! style="text-align:right" | 八事線
| 広路 - 八事 ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"|尾三電気鉄道・東海道電気鉄道<ref name="ID3-217"/><ref name="ID2-117">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|page=117}}</ref><ref name="ID2-171">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|pages=171-184}}</ref><ref name="ID3-120">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|pages=120-128}}</ref><ref name="ID3-185">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=185-186}}</ref><ref name="ID3-212">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=212}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| 熱田 - 有松 - 知立 - 岡崎<br /> - 本宿 - 国府 - 下地 - 豊橋 || 65.6 km || 1910年5月 || rowspan="2"| 1911年5月却下 || || [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]東部の原型
|-
!
| 御津 - 国府 - 豊川 || 7.4 km || 1910年10月 || ||
|-
!
| 千種 - 矢作 || 33.4 km || 1911年10月 || 1913年2月却下 || ||
|-
!
| 千種 - 御器所 - 知立 - 岡崎<br /> - 本宿 - 国府 - 下地 - 豊橋 || rowspan="2"| 75.2 km<br />↓<br />33.6 km || rowspan="2"| 1913年4月<br />↓(変更)<br />1914年4月 || rowspan="2"| 岡崎 - 下地間<br />33.6kmのみ<br />1914年6月取得 || rowspan="2"| || rowspan="2"| 取得区間は愛電へ継承され、愛電豊橋線(名古屋本線)の一部となる
|-
!
| 御津 - 国府 - 豊川
|-
!
| 知立 - 岡崎 || 12.0 km || 1914年6月 || 1914年9月却下 || ||
|-
!
| 有松裏 - 知立 - 岡崎 || 21.6 km || 1916年1月 || 1916年3月却下 || ||
|-
!
| 東八事駅 - 岡崎 || 28.0 km || 1918年2月 || 1918年7月取得 || [[愛知電気鉄道#東海道電気鉄道の設立とその頓挫|愛電へ継承]] ||
|-
!
| 千種 - 鵜沼 || || 1919年1月 || 取下 || ||
|-
!
| 知立 - 宇頭 || 7.8 km || 1919年9月 || 1920年8月却下 || ||
|-
!
| 国府 - 豊川 - 宇利峠 - 浜松 || 54.9 km || 1919年8月 || 1922年9月返付 || || 遠三電気鉄道として事業を分離
|-
!
| 古沢 - 平針 || 11.2 km || 1920年1月 || 1920年6月取得 || 愛電へ継承 ||
|-
!
| 古沢 - 愛知 - 中村 - 稲沢<br /> - 起 - 竹ヶ鼻 - 大垣 - 赤坂 || 43.2 km || 1920年4月 || 不明 || ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| 遠三電気鉄道・遠三鉄道<ref name="ID3-120"/><ref name="ID3-218">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=218}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| [[豊橋駅]] - 東田 - 多米峠 - 気賀 || 29.3 km || rowspan="2"| 1920年3月 || rowspan="2"| 下案に変更 || rowspan="2"| || rowspan="2"|
|-
!
| 東田 - 豊川 || 8.6 km
|-
!
| 豊橋駅 - 東田 - 多米峠 - 気賀 || rowspan="2"| 32.5 km || rowspan="2"| 1921年11月 || rowspan="2"| 1922年9月取得 || rowspan="2"| 下案に変更 || rowspan="2"|
|-
!
| 東田 - 下地
|-
!
| 豊橋駅 - 石巻 - 本坂峠 - 気賀 || rowspan="2"| 35.2 km || rowspan="2"| 1924年10月 || 1926年12月認可 || [[愛知電気鉄道#事業者合併および子会社設立による路線網拡大|愛電へ継承]] ||
|-
!
| 石巻 - 豊川・牛久保 || 却下 || ||
|-
!
| 石巻 - 豊川町 || 5.9 km || 1927年10月 || 1928年5月取得 || 愛電へ継承 ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| 渥美電鉄<ref name="ID3-217"/><ref name="ID3-228">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=228}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
! style="text-align:right" | 渥美線
| [[三河田原駅]] - 福江 || 15.9 km || 1920年1月 || 1921年4月取得 || 1937年10月 || 1938年以降に国鉄線として工事が再開されるが未成に終わる
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"|谷汲鉄道<ref name="ID3-170">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=170}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| [[広神戸駅]] - [[黒野駅]] || 7.1 km || 1922年6月 || 1923年12月返付 || ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| [[東美鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2956330/4}} 「鉄道免許状下付」『官報』1926年7月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
! style="text-align:right" | 八百津線
| [[八百津駅]] - 錦織 || 2.6 km || 1923年1月 || 1926年7月取得 || 名鉄へ継承 ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"|中央電気鉄道・城北電気鉄道<ref name="ID3-31">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|pages=31-36}}</ref><ref name="ID3-187">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=187}}</ref><ref name="ID3-179">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|pages=179-181}}</ref><ref name="ID3-200">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|pages=200-201}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| 押切町 - 上飯田 - 勝川 - 坂下 - 豊岡 || 14.3 km || rowspan="2"| 1924年2月 || rowspan="2" colspan="2" | 下案に分割されて一部取得 || rowspan="2"| 上飯田 - 味鋺 - 小牧間、味鋺 - 勝川間は取得後開業
|-
!
| 勝川 - 小牧 || 7.7 km
|-
!
| 押切町 - 上飯田 || 5.2 km || rowspan="4"| 上案を分割 || 1926年8月取得 || 名岐へ継承 ||
|-
!
| 勝川 - 坂下 || 7.5 km || 1926年8月取得 || 名岐へ継承 ||
|-
!
| 坂下 - 豊岡 || || 1926年8月却下 || ||
|-
!
| 小牧 - 西小牧 || 1.1 km || 1926年8月取得 || 名岐へ継承 ||
|-
!
| 上飯田 - 下飯田 || 1.4 km || 1928年3月 || rowspan="2" colspan="2" | (旧)名鉄へ継承 || rowspan="2"|
|-
!
| 下飯田 - 東大曽根 || 0.33 km || 1928年12月
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| [[知多鉄道]]<ref>[{{NDLDC|2958193/10}} 「鉄道免許状下付」 『官報』 1932年9月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| [[知多武豊駅]] - [[武豊駅]] || 1.4 km || 1932年3月 || 1932年9月取得 || 名鉄へ継承 ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| (旧)名古屋鉄道・名岐鉄道<ref name="ID3-187"/><ref name="ID3-179"/><ref name="ID3-200"/><ref name="ID2-136">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|pages=136-137}}</ref><ref name="ID2-244">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|pages=244-247}}</ref><ref name="ID3-167">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=167}}</ref><ref name="ID3-202">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=202}}</ref><ref name="M-182">{{Cite book|和書|author=森口誠之|title=鉄道未成線を歩く 私鉄編|year=2001|publisher =JTB|isbn = 978-4533039225|page=182}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
! style="text-align:right" | 八百津線
| 土田村 - 錦津村 || 11.8 km || 1921年7月 || 1922年9月返付 || ||
|-
!
| [[西枇杷島駅]] - [[枇杷島駅]] || 0.7 km || 1921年1月 || 1922年10月返付 || ||
|-
! style="text-align:right" | 循環線
| 枇杷島 - 四女子 - 西築地 - 東築地<br /> - 呼続 - 御器所 - 大曽根 - 枇杷島 || rowspan="2" | 37.3 km || rowspan="2" |1919年4月 || rowspan="2" |1924年7月取下 || rowspan="2" | || rowspan="2" |
|-
! style="text-align:right" | 横断線
| 四女子 - 御器所
|-
! style="text-align:right" | 太田線
| [[日本ライン今渡駅|今渡駅]] - 太田 || 1.0 km || colspan="2" | 名古屋電気鉄道より継承 || 1925年6月 ||
|-
! style="text-align:right" rowspan="2" | 尾北循環線
| [[清洲町駅|清洲駅]] - [[奥田駅]] - 萩原町 - [[起駅]] - [[奥町駅]] || 9.6 km || rowspan="2" |1921年4月 || rowspan="2" |1923年5月取得 || 1929年9月 || rowspan="2" |
|-
| [[奥町駅]] - 木曽川 - 浅井 - [[江南駅 (愛知県)|古知野駅]] || 16.1 km || 1927年6月
|-
! style="text-align:right" | 関線
| [[新鵜沼駅]] - 関 || 12.1 km || colspan="2" | 名古屋電気鉄道より継承 || 1927年8月 || 関線([[名鉄犬山線|犬山線]])の残区間
|-
!
| 中村町 - 稲永新田 || 13.1 km || 不明 || 不明 || 1930年3月 ||
|-
! style="text-align:right" rowspan="5" | 城北線
| 押切町 - 上飯田 || 5.2 km || rowspan="3" colspan="2" | 城北電気鉄道より継承 || 1931年2月 || 城北線([[名鉄小牧線|小牧線]])の残区間
|-
| [[新勝川駅]] - 坂下 || 7.5 km || 1931年2月 || 城北線([[名鉄勝川線|勝川線]])の残区間
|-
| [[小牧駅|新小牧駅]] - 西小牧 || 1.1 km || 名鉄へ継承 ||
|-
| [[上飯田駅]] - 下飯田 || 1.4 km || rowspan="2" |城北電鉄が<br />出願 || rowspan="2" |1931年2月取得 || rowspan="2" | 名鉄へ継承 || rowspan="2" |
|-
| 下飯田 - 東大曽根 || 0.33 km
|-
! style="text-align:right" | 中村線
| 中村町 - 甚目寺 - [[新清洲駅]] || 8.3 km || colspan="2" | 尾西鉄道より継承 || 1932年5月 || 中村線(国府宮支線)の残区間
|-
! style="text-align:right" rowspan="2" | 祖父江線
| [[国府宮駅]] - 森上 - 祖父江 || 10.8 km || 1927年2月 || 1927年6月取得 || 下案に変更 || rowspan="2" |
|-
| [[奥田駅]] - 森上 - 祖父江 || 11.7 km || colspan="2" | 1929年1月(上案から変更) || 1932年6月
|-
!
| [[名鉄岐阜駅|長住町駅]] - 芥見村 || 12.3 km || 不明 || 1928年6月取得 || 1932年11月 ||
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| [[名古屋地下鉄道]]<ref name="ID3-201">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=201}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| 熱田 - 栄町 - 名古屋駅前 || || 1929年1月 || 1931年6月却下 || || 名岐・愛電が共同出資
|-
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
|+style="text-align:left;"| (現)名古屋鉄道<ref name="ID3-179"/><ref name="ID3-200"/><ref name="M-182"/><ref name="ID3-174">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=174}}</ref><ref name="ID3-222">{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=222}}</ref><ref name="M-95">{{Cite book|和書|author=森口誠之|title=鉄道未成線を歩く 私鉄編|year=2001|publisher =JTB|isbn = 978-4533039225|page=95}}</ref><ref name="M-97">{{Cite book|和書|author=森口誠之|title=鉄道未成線を歩く 私鉄編|year=2001|publisher =JTB|isbn = 978-4533039225|page=97}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|pages=1004-1006}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=中村隆義|year=1995|title=鉄路風雪の百年 なるほど・ザ・名鉄|publisher=中部経済新聞社|isbn=978-4885200175|page=267}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author = 白井良和|title = 名古屋鉄道ラインパーク線(名鉄犬山モノレール)|date = 1970-4 |publisher = 鉄道図書刊行会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 236|page=35}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author = 名古屋鉄道|title = 名古屋鉄道の現勢|date = 1971-1 |publisher = 鉄道図書刊行会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 246|page=10}}</ref><ref>[{{NDLDC|2961483/9}} 「鉄道起業廃止」『官報』1943年8月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>{{Cite book|和書|author=愛知県企画部(編)|year=1983|title=あいちの交通|publisher=愛知県企画部|pages=27頁、29頁、表紙}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/tetudo/toshitetu/pdf/03_11_02.pdf 平成4年1月10日運輸政策審議会答申第12号 名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(抄)]}}</ref>
|-
! style="width:6.5em;"| 名称
! style="width:20em;"| 区間
! style="width:3.5em;"| 距離
! style="width:6em;"| 出願
! style="width:8em;"| 免許
! style="width:8em;"| 失効
! style="width:17em;"| 備考
|-
!
| 新小牧駅 - 西小牧 || 1.1 km || colspan="2" | 名岐鉄道より継承 || 1937年11月 || 城北線(小牧線)の残区間
|-
! style="text-align:right" rowspan="2" | 大曽根線
| 上飯田 - 下飯田 || 1.4 km || rowspan="2" colspan="2" | 名岐鉄道より継承 || rowspan="2" |1939年2月 ||rowspan="2" |
|-
| 下飯田 - 東大曽根 || 0.33 km
|-
! style="text-align:right" | 八百津線
| 八百津駅 - 錦織 || 2.6 km || colspan="2" | 東美鉄道より継承 || 1943年8月 || 八百津線の残区間
|-
!
| [[植田駅 (愛知県豊橋市)|植田駅]] - 船渡町 || 2.5 km || 1943年1月 || 1944年4月返付 || ||
|-
!
| [[河和駅]] - 内海 || 7.6 km || 1944年7月 || 1945年10月返付 || ||
|-
! style="text-align:right" | 工廠線
| 豊橋市花田 - 八幡村 || 7.6 km || rowspan="2" |1940年 || rowspan="2" |1947年12月返付 || rowspan="2"| || rowspan="2"|
|-
! style="text-align:right" | 飛行場線
| 豊橋市花田 - 豊橋市大崎 || 8.1 km
|-
! style="text-align:right" | [[名鉄三河線#未成区間|三河線]]
| 西中金駅 - 足助 || 7.3 km || colspan="2" | 三河鉄道より継承 || 1958年6月 || 三鉄足助方面線の残区間
|-
! style="text-align:right" | [[愛知電気鉄道#市内乗入線・金山線|市内乗入線]]
| 天白信号所 - 熱田 || 6.0 km || colspan="2" | 愛知電気鉄道より継承 || 1958年6月 || 愛電市内乗入線の残区間
|-
!
| 知多武豊駅 - 武豊駅 || 1.4 km || colspan="2" | 知多鉄道より継承 || 1958年6月 ||
|-
! style="text-align:right" | 鳥居松線
| 新小牧駅 - 鷹来 - 新勝川駅 - [[味鋺駅]] || 12.7 km || rowspan="2" |1941年9月 || 却下 || || rowspan="2" |
|-
! style="text-align:right" | [[名鉄鷹来線|鷹来線]]
| 新小牧駅 - 鷹来 || 4.4 km || 1943年10月取得 || 1961年7月
|-
! style="text-align:right" |岐垣鉄道
| [[茶所駅]] - [[西大垣駅]] || || - || || || 名鉄・近鉄・岐阜市・大垣市出資<br />1953年7月に名鉄が計画発表
|-
! style="text-align:right" rowspan="2" | [[名鉄羽島線#歴史|養老長良線]]
| [[長良橋駅]] - 新岐阜駅 - 宇佐 - 大垣 - 養老滝 || 32.1 km || rowspan="2" |1961年3月 || rowspan="2" |不明 || rowspan="2" | || rowspan="2" | モノレール構想
|-
| 宇佐 - 羽島 || 11.1 km
|-
! style="text-align:right" |藤岡新線
| 尾張瀬戸駅 - 藤岡 || || - || || || 昭和47年[[都市交通審議会]]答申
|-
! style="text-align:right" |[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について#名鉄名古屋空港線|名古屋空港線]]
| [[味美駅 (名鉄)|味美駅]] - 名古屋空港 || || - || || || 平成4年[[運輸政策審議会]]答申
|}
== 開発事業 ==
バス・文化レジャー事業の分社化のあと、本社の鉄軌道事業以外の事業は、[[全日本空輸]]の航空代理業、ビル、駐車場などの賃貸、土地の分譲などとなり、これを「開発事業」と呼称している。
=== 全日本空輸総代理店 ===
{{See also|#その他関係の深い企業}}
名鉄は、[[ANAホールディングス]](全日空、旧[[全日本空輸]])の筆頭株主であり、名古屋地区総代理店として[[愛知県|愛知]]・[[岐阜県|岐阜]]・[[三重県|三重]]・[[静岡県|静岡]]・[[長野県|長野]]の5県の全日本空輸の業務を行ってきた。総代理店とは、全日本空輸の黎明期から、各就航地において、地元の有力企業に全日本空輸の市内(営業)・空港業務を委託した制度である。名鉄では、名古屋・静岡・長野(市内業務)と名古屋空港(空港業務)の4航空営業所を展開して、[[名古屋飛行場|名古屋空港]](現・県営名古屋空港)の空港ハンドリングも含め全日本空輸総代理店業務を推進してきた。[[中部国際空港]]の開港で名古屋空港航空営業所は廃止され、中部空港航空営業所が設置された。また、ANAセールス株式会社の展開で総代理店の市内業務の中身も変化した。最後まで残った総代理店業務も、名古屋予約センター・栄カウンター業務は2006年12月末で、中部国際空港国内線旅客・貨物業務は2007年6月末で契約終了、業務は終了した。現在、名古屋カウンター業務はANAセールス株式会社が、中部国際空港ハンドリング業務は、名鉄も出資しているANA中部空港株式会社(元の国際エアラインサービス)で行っている。
また、全日本空輸の名古屋 - [[南紀白浜空港|南紀白浜]]線が就航していた当時は、白浜航空営業所を設置して南紀白浜地区総代理店業務を受託していた。
== 他私鉄との競合 ==
現在の競合はJR東海との間で繰り広げられているが、過去には[[近畿日本鉄道]](近鉄、現・[[近鉄グループホールディングス|近鉄グループホールディングス株式会社]])や[[東京急行電鉄]](東急、現・[[東急|東急株式会社]])と路線やグループ企業の拡大をめぐって競合していた時期がある。
=== 近鉄との競合 ===
昭和初期の三重県には[[伊勢電気鉄道]](伊勢電)が、岐阜県の西部には養老鉄道([[養老鉄道養老線]]の前身だが2007年10月より同線を運営している[[養老鉄道]]とは別企業)が営業を開始していた。当時の名岐鉄道は三重県への拡大を目指しており、昭和恐慌の影響で経営難に陥っていた伊勢電に触手を伸ばし、名古屋 - 桑名間の路線免許を申請していた。同時期、近鉄の前身の一社である'''[[参宮急行電鉄]]'''(参急、のちの関西急行鉄道)も名古屋進出の足がかりとして伊勢電を欲しており、両社が吸収合併を目的とした支援合戦を繰り広げていた。結局、この争いは参急側に軍配が上がり、現在の[[近鉄名古屋線]]の大部分を占める重要路線を手にした。
なお、[[1960年]]ごろ(近鉄名古屋線の狭軌時代)まで、[[名鉄名古屋駅|新名古屋駅]](当時、現在の名鉄名古屋駅)と隣接する[[近鉄名古屋駅]]の間には連絡線が敷設されており、名鉄線 - 近鉄線相互間で団体列車に限り直通運転を行っていた。また、戦前から戦後の一時期に新名古屋駅で近鉄線の発券および改札を行っていた時期があった([[2001年]]までは、名鉄線各駅 - 近鉄線各駅相互間の連絡切符も通常発売していた)。
その後、近鉄は1959年の名古屋線の標準軌改軌(名阪直通特急の運転開始)を境にして、名鉄の牙城である東海地方への進出を積極的に行うようになり、[[1961年]]には、旧養老鉄道岐阜線免許を使用して大垣 - 羽島間の新線の建設を発表、さらに岐阜への延長を画策した。名鉄では対抗策として岐阜から羽島を経由して養老を結ぶ[[モノレール]]線の建設(この計画は、のちに羽島線建設に変更・縮小された)を発表するなど、[[高度経済成長]]期の事業拡張にともない、両社の関係は再び険悪化して行った。
他にも、'''[[名神高速道路]]'''が一宮まで開通した折には高速バスの路線免許をめぐって争いが発生し、名鉄主導の[[名古屋観光日急|日本急行バス]]で一本化が決まっていた私鉄系のバス会社(路線)<ref group="注釈" name="ex20">当初の運輸省案では、私鉄連合(1社)にのみ路線免許を与え、国内の高速道路すべてをこの枠組みで進める目論見で、名神高速道路沿線の私鉄(名鉄25%・京阪12.5%・阪急12.5%)を中心に大手私鉄各社(在京7社・在阪3社は各5%)に出資を求めた。後に国鉄(当時)も参入の意欲を示し、主導権が取れず不満を持っていた在阪の3社(近鉄・南海・阪神)も、独自参入を強行するきっかけとなった。</ref> に対し、土壇場で近鉄主導による[[日本高速バス]](現・[[三重交通グループホールディングス]]・[[名阪近鉄バス]])が参入を強行し、開業後も激しい競合のために両社が共倒れ寸前に陥りかけた。また、近鉄がテリトリーとしていた[[石川県]]において、名鉄が中部運輸局(運輸省・当時)の要請に呼応して[[北陸鉄道]]の支援を行った際には、対抗措置として北陸日本交通なるバス会社の設立を目論む(のちに[[北日本観光自動車]]へ合併させるが、路線拡大は却下された)など、名鉄と近鉄の両社は[[1970年]]ごろまで激しく対立していた。
しかし[[1980年代]]以降、次第に両社は競合から協調関係に入り、名鉄各駅や電車内に近鉄グループの「[[志摩スペイン村]]」や[[近鉄特急]][[アーバンライナー]]・[[近鉄80000系電車|ひのとり]]などの広告を、近鉄各駅や電車内に名鉄グループの「[[博物館明治村|明治村]]」や名鉄特急[[ミュースカイ]]などの広告を互いに出すようになり、[[南海電気鉄道]]とともに「'''[[3・3・SUNフリーきっぷ]]'''」(2006年に販売終了)を発行するなど、近鉄とは完全な提携関係を築いている。また、名鉄名古屋駅のタクシー乗り場は「名鉄・近鉄タクシーのりば」として、名鉄交通など名鉄グループに加え、名古屋近鉄タクシーも乗り入れている。
2012年には、名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅<!--の間の壁を取り払い-->を一体化し、相互の乗り換えを便利にする構想が発表された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120601/biz12060110440023-n1.htm 名鉄と近鉄が駅の一体化を検討 名古屋駅の再開発で] - 産経新聞、2012年6月1日</ref>。
2013年3月23日には名鉄で発行しているICカード乗車券「[[manaca]]」が近鉄線で、近鉄で発行しているICカード乗車券「[[PiTaPa]]」「[[ICOCA]]」が名鉄線でそれぞれ利用できるようになった。また、2014年9月21日には近鉄とのmanaca・ICOCAのIC連絡定期券も発行された<ref>“[https://web.archive.org/web/20150701185202/http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2014/__icsFiles/afieldfile/2014/08/20/release140821_meitetsukintetsu.pdf 「名鉄・近鉄IC連絡定期乗車券」の発売開始日について] ”(PDF)、名古屋鉄道、2014年8月21日([[インターネットアーカイブ#ウェイバックマシン|ウェイバックマシン]]による[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]]。2015年7月1日取得、2021年10月1日閲覧)。</ref>。
=== 東急との競合 ===
名鉄はグループ展開を行う過程において、東京急行電鉄([[東急グループ]]、現・東急株式会社)と激しく競合・対立していた時期がある。そのもっとも有名なものとして「'''[[全日本空輸]]'''」(全日空、現・[[ANAホールディングス]])設立時の経営権をめぐる争いがあげられる。全日本空輸は「日本ヘリコプター輸送」(日ペリ)と「極東航空」が合併して誕生したが、当時の日ペリは名鉄が経営権を握り、極東航空は東急系列として誕生していたため、合併後の経営権をめぐって、株式や株主総会の議決権を委任する委任状の取得合戦を展開するなど、一時はお互い一歩も引かぬ総力戦の様相を呈した。やがて名鉄は争いに疲れて全日本空輸の経営権を諦めるが、近年になって東急側がグループ再編の一環として全日本空輸株の一部を名鉄側に譲り渡し、再び名鉄が筆頭株主となり中部国際空港の開港を契機として、名鉄と全日本空輸はいっそう結びつきを増している。
また、[[北海道]]東部を自社グループのテリトリーとしていた東急は、名鉄が「'''[[網走バス]]'''」の支援を決めるとさまざまな対抗策を打ち出して、名鉄の北海道進出を阻止する動きを見せた。その一つとして、名古屋の観光バス業界では老舗である「'''[[鯱バス]]'''」が経営難に陥った折、名鉄に先んじて有利な支援を次々に行った。名鉄も地元の名門を手に入れるチャンスであっただけに、熾烈な支援合戦を展開したが、結局東急は「鯱バス」をグループへ取り込むことに成功して名鉄に一矢報いている(なお鯱バスは[[2009年]][[10月1日]]をもって東急グループから離脱し[[ジェイ・コーチ]]グループに入り、網走バスも2012年に名鉄グループを離脱した)。
== 広報・広告 ==
2006年7月15日より放送が開始された同社の企業広告である「いってらっしゃい。おかえりなさい。名古屋鉄道」のCMソングに、シンガーソングライターの[[小田和正]]が楽曲を提供。デビューから37年が経つ小田が地方ローカルCMへ楽曲を提供することは初めてであり、小田のファンや鉄道ファンの話題を呼ぶ(楽曲名『大好きな君に』・アルバム「[[そうかな]]」収録)。2008年10月からは「ありふれた日々篇」の放送が開始され、使用楽曲は小田が1993年に発表した「風の坂道」に変更となる。CMタイトルの「ありふれた日々」というのは「風の坂道」の歌詞からの引用である。また小田和正関連では、後述する「エモーション」にもCM楽曲として「キラキラ」を提供している。
かつてはダイヤ改正の都度「[[時刻表#名鉄時刻表|名鉄時刻表]]」を発行し、主要駅や駅サービスセンター、駅構内売店、名鉄観光主要支店および名古屋鉄道ショッピングサイト「M‐M@LL(エム‐モール) 」などで販売していた<ref>“[https://web.archive.org/web/20150502124706/https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2008/20081119_02.html ~平成20年12月27日ダイヤ改正~名鉄時刻表Vol.24を11月27日(木)から発売します]”、名古屋鉄道。2008年11月19日([[インターネットアーカイブ#ウェイバックマシン|ウェイバックマシン]]による[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]]。2015年5月2日取得、2021年10月1日閲覧)。</ref>。2019年改正時など<ref>“[https://web.archive.org/web/20210802155209/https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2018/__icsFiles/afieldfile/2019/01/23/release190123_train.pdf 3月16日(土)に一部ダイヤ改正を実施します] ”(PDF)、名古屋鉄道、2019年1月23日([[インターネットアーカイブ#ウェイバックマシン|ウェイバックマシン]]による[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]]。2021年8月2日取得、2021年10月1日閲覧)。</ref>、近年の改正では名鉄時刻表が販売されなくなっていたが、2021年10月のダイヤ改正では公式ホームページ上に路線別時刻表というページを設け、名鉄時刻表と同形式の時刻表をPDF形式で公開した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meitetsu.co.jp/train/timetable/ |title=路線別時刻表|publisher=名古屋鉄道|accessdate=2021-10-01}}</ref>。
毎月、沿線の観光情報や名鉄の取り組みを紹介する『Wind』という冊子を発行している。Windは名鉄の有人駅や、近鉄の主要駅などで配布、およびWebサイト上で[[デジタルブック]]として公開されている。
近年では犬山([[日本モンキーパーク]]・[[博物館明治村]]など)の観光PRを強化しており、近畿圏や首都圏の大手私鉄の広報誌でのコラボ企画や吊り広告の展開を行っているほか、「エモーション」と銘打った沿線を軸にした企業広告活動も展開している。
沿線の施設などでイベントがある際は、宣伝も兼ねて[[ラッピング車両]]が走ることがよくある。代表的なものでは、春から夏の時期に子供たちに人気のある[[ポケットモンスター]]のラッピングを[[名鉄2000系電車|2000系]]などに施すことや、受験シーズンの[[キットカット]]のラッピングなどがあげられる。
2012年から[[名古屋テレビ放送|メ~テレ]]で放送されている『[[名古屋行き最終列車]]』シリーズの制作には、終電後や臨時列車を走らせての撮影も実施するなど、全面協力している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ1T3V90J1TOIPE00P.html|title=松井玲奈、第4作も「乗車」 「名古屋行き最終列車」|publisher=朝日新聞|date=2016-01-29|accessdate=2016-02-12}}</ref>。
=== 提供番組 ===
<!-- 番組名の記述は、[[一社提供]]および[[冠スポンサー]]番組のみにしてください。また、番組やCMなどの過剰な加筆は行わないよう、ご注意願います([[プロジェクト:放送番組|PJ放送番組]]での合意に基づく)。-->
テレビでは提供クレジットは英字で「'''''Meitetsu'''''」と表示されるが、読み上げられる場合は日本語で「'''名古屋鉄道'''」となる。なおグループの名鉄百貨店は<!-- 英大文字の -->異なるロゴの「'''''MEITETSU'''''」をクレジットに使用している。
; 現在(2019年現在)
:*[[ゴリ夢中]]([[中京テレビ放送|中京テレビ]]、名鉄グループ各社の一社提供)
:*[[祭人魂]](東海テレビ、名鉄グループ各社の一社提供)
:*[[サンデードラゴンズ]]([[CBCテレビ]]。かつては名鉄グループの一社提供。現在は名鉄グループ各社筆頭の複数社提供)
:* [[四季の小窓]]([[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]。東海地方のみ)
:*[[NEWSぎふチャン]]([[岐阜放送|ぎふチャン]]。岐阜県のみ)
:
; 過去
:* [[ふるさと紀行]]([[東海テレビ]]。かつては全国放送だったが、名古屋ローカルになったあとはスポンサーからも撤退。その後2007年9月で終了)
:* [[夢のちから]](東海テレビ。一部地域にも番組販売されているが、それらの局ではスポンサーが異なる)
:* [[阪急ドラマシリーズ]](東海テレビでのスポンサー。ただし制作局[[関西テレビ放送|関西テレビ]]は[[阪急阪神東宝グループ|阪急東宝グループ]]が提供)
:* [[旅はパノラマ]](中京テレビ)
:* [[主役はキミだ!わんだほキッズ]](東海テレビ、[[名鉄グループ]]の一社提供)
:* 季節の中で(水曜日・金曜日にコーナーが放送。内容が名鉄バスや名鉄観光のパック旅行などを使った旅の提案だったことからか、CMは放送されていなかった。[[宮地佑紀生の聞いてみや〜ち]]内。[[東海ラジオ放送]])
:* MEITETSU THE NO.1 HITS([[ZIP-FM]]、[[MORNING JACK]]内)
:* MEITETSU トゥディズ・ホロスコープ([[エフエム愛知]]、[[ラブ・オンライン|LOVE ONLINE]]内)
:*[[東海オンエアラジオ]]([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]])
ほか。
== 競馬 ==
[[2002年]]、[[中京競馬場]]でスタートしたレース「[[名鉄杯]]」<ref group="注釈">クラスは開催年度によって違い、1000万下・1600万下・オープンと度々変遷し、2023年では[[リステッド競走]]として行われている。</ref>に賞を出している。中央4場では観客輸送に関わる[[中央競馬の冠競走一覧#鉄道|大手私鉄が賞]]を出しているが、それに続く形となった。発走時の[[ファンファーレ (競馬)|ファンファーレ]]は通常の中京・[[小倉競馬場|小倉]]共通[[特別競走]](非重賞)用のものではなく、パノラマカーの[[ミュージックホーン]]をアレンジしたものが名鉄ブラスバンドにより生演奏されており、中京のファンに親しまれている。
また中京競馬場の施設運営を行う名古屋競馬株式会社<!-- 県競馬組合が運営する競馬場ではない方のため、「株式会社」も便宜上表記。 -->の出資者<!-- (愛知県・名古屋市に次ぐ3位) -->でもあり、同競馬場内にはかつて現役で運用されていたパノラマカー[[名鉄7000系電車|7000系]]の車両を利用した「ビュッフェ・パノラマステーション」がある。
なお[[競馬]]開催時の[[臨時列車]]は現在設定されていないが、最寄の[[中京競馬場前駅]]には急行と午前中の快速特急が臨時停車する(場外発売時の土曜日は夕方のみで特急系列は通過、日曜は夕方まで、開催日は場外日曜時より早い時間帯から急行の停車、[[高松宮記念 (競馬)|高松宮記念]]と[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|チャンピオンズカップ]]および[[有馬記念]]当日は夕方の特急・快速特急も停車)。
== 競艇 ==
名鉄は[[常滑競艇場|ボートレース常滑]]にも名鉄杯争奪納涼お盆レースとして毎年賞を出しており、地元選手が一堂に会するボートレース常滑のお盆の風物詩となっている。なお、過去にはボートレース常滑の開催日に臨時列車を運転していたがこちらは廃止されている。なお、ムーンライトレースの[[蒲郡競艇場|ボートレース蒲郡]]には名鉄ではなく名鉄バスが賞を出しており、名鉄バス杯争奪戦が行われている。
== 代表的な名鉄グループ企業 ==
{{Main|名鉄グループ}}
=== 愛知県に拠点を置く運輸業 ===
{{Col-begin}}
{{Col-break|width=50%}}
* [[豊橋鉄道]]
** [[豊鉄バス]]
** [[豊鉄タクシー]]
* [[名鉄バス]]
** [[名鉄バス東部]](名鉄バスへ再統合)
** [[名鉄バス中部]](名鉄バスへ再統合)
* [[知多乗合]](知多バス)
* [[名鉄観光バス]]
* [[太平洋フェリー]]
* [[名鉄海上観光船]]
{{Col-break}}
* [[名鉄運輸]]
* [[名鉄交通]](名鉄タクシー)
* 愛電交通
* 名鉄名古屋タクシー
* 名鉄西部交通
* [[名鉄東部交通]]
* 名鉄岡崎タクシー
* [[名鉄知多タクシー]]
* 名鉄蒲郡タクシー
* [[中日本航空]]
{{Col-end}}
=== 愛知県以外に拠点を置く運輸業 ===
* [[北陸鉄道]]
** [[北鉄金沢バス]]
** [[北鉄白山バス]]
** [[北鉄加賀バス]]([[加賀温泉バス]]と[[小松バス]]が合併し発足)
** [[北鉄能登バス]]
** [[北鉄奥能登バス]]
* 石川交通(タクシー)
* [[岐阜乗合自動車]](岐阜バス)
** [[岐阜バスコミュニティ]]
** [[岐阜バスコミュニティ八幡]]
** [[岐阜バス観光]]
** [[西濃華陽観光バス]]
* [[東濃鉄道]](東鉄バス)
* [[濃飛乗合自動車]](濃飛バス)
** [[濃飛観光]]
** [[濃飛交通]]
* [[北恵那交通]]
* [[宮城交通]]
** [[ミヤコーバス]]
* [[レインボー観光自動車]]
=== その他グループ企業 ===
{{Col-begin}}
{{Col-break|width=50%}}
* [[名鉄百貨店]]
* [[メルサ]]
* [[名鉄トヨタホテル]]
* [[名鉄レストラン]]
* [[名鉄観光サービス]]
* [[矢作建設工業]]
* [[メイエレック]]
* [[岐阜グランドホテル]]
* [[名鉄都市開発]] - 2022年4月1日、名鉄不動産から社名変更<ref>{{Cite press release|和書|title=不動産事業の再編の方針に関するお知らせ|publisher=名古屋鉄道|date=2021-11-08|url=https://www.meitetsu.co.jp/ir/reference/disclosure/__icsFiles/afieldfile/2021/11/05/tekijifudosan211108.pdf|format=PDF|accessdate=2021-11-10}}</ref>
* 県営名古屋空港ビルディング
* 学校法人名鉄学園
** [[名鉄自動車学校]]
** [[名鉄自動車専門学校]]
** [[杜若高等学校]]
* はなの木幼稚園
* 桂幼稚園
* [[名鉄協商]]
* [[名鉄グランドホテル]]
* [[名鉄ニューグランドホテル]]
* [[名鉄犬山ホテル]]([[名鉄小牧ホテル]]も含む)
* [[セントレアホテル]]
* ホテル穂高
* 旅館御岳
* 乗鞍観光ホテル
* びわ湖アルプス山荘
* [[名鉄イン|名鉄イン名古屋金山]]
* [[ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋|ホテルグランコート名古屋]]
* 名鉄自動車整備
* [[電通名鉄コミュニケーションズ]]
* 名鉄生活創研
* 名鉄クリーニング
{{Col-break}}
* [[知多自動車学校]]
* [[名鉄エリアパートナーズ]]
* クラビクラ
* 名鉄交通商事
* 名鉄薬品
* [[名鉄AUTO]](名鉄協商)
* 東鉄商事
* [[名鉄インプレス]]
* 長島スポーツランド
* 伊良湖旅客ターミナル
* [[奥飛観光開発]]([[新穂高ロープウェイ]])
* 中央アルプス観光([[駒ヶ岳ロープウェイ]])
* [[岐阜観光索道]]([[金華山ロープウェー]])
* 奥飛騨白山観光
* めいほう高原観光([[めいほうスキー場]])
* [[茶臼山高原スキー場]]
* 犬山カンツリー倶楽部
* 伊良湖シーサイドゴルフ倶楽部
* [[メイテツコム]]
* 名鉄情報システム
* 名鉄OA
* 名鉄保険代行
* [[ニッポンレンタカー名鉄]]
* サニクリーン名古屋
* 名鉄美装
* 名鉄セコム
* JALスカイ名古屋
* 国際エアラインサービス
* 名古屋エアケータリング
* 名鉄スカイパーキング
* めいかん企画
{{Col-end}}
=== 過去のグループ企業 ===
* [[東京モノレール]] - [[日立製作所|日立]]等との共同経営でスタート。数年で経営難に陥り、日立グループが全株式を引き取る。現在は[[東日本旅客鉄道]]が株式の約8割を保有。
* [[根室交通]] - [[北都交通 (北海道)|北都交通]]に譲渡。
* [[おんたけ交通]] - 地元自治体への株式譲渡によりグループ離脱。
* [[東名急行バス]] - 解散。
* [[札幌観光バス]] - 売却によりグループ離脱。
* ニュー東京観光自動車<ref group="注釈">元々は[[防長交通]]系列。ただし、同社が[[近鉄グループ]]入りする前に譲受している。</ref> - 売却によりグループ離脱。現在は[[国際自動車]]系列の[[kmモビリティサービス]]東京事業部足立営業所。
* [[名古屋遊覧バス]] - ナゴヤユーランバス。名古屋市と共同経営。2006年3月で運行終了の上、会社解散。
* 大阪名鉄観光バス - [[クリスタル (企業)|クリスタル]]に売却、[[グッドウィル・グループ]]になった後に[[大阪バス]]へ譲渡。現・大阪バス近畿・本社営業所。
* 名鉄神戸観光バス - 大阪名鉄観光バスと同時にクリスタルに売却、グッドウィル・グループ加入後、大阪バスへ譲渡。現・大阪バス神戸営業所。
* 大阪名鉄タクシー - クリスタルに売却、現・クリスタルタクシー大阪(クリスタルタクシー和歌山の傘下で、現在でも残っている[[クリスタル観光バス]]の系列ではない)。
* [[パレマルシェ|名鉄パレ]](現・パレマルシェ) - 売却によりグループ離脱。
* [[磐光ホテル|磐梯グランドホテル]]・磐光パラダイス
* [[名古屋観光日急]]・[[名鉄西部観光バス]]・[[名鉄東部観光バス]] - 合併して名鉄観光バスとなった。
* [[福井鉄道]] - 地元商工会議所・支援団体・第三セクターへの株式譲渡によりグループ離脱。
* ひるがの高原スキー場 - ジェイ・マウンテンズ・グループの中部スノーアライアンスに移管。
* [[伊良湖シーパーク&スパ|伊良湖ガーデンホテル]](現・伊良湖シーパーク&スパ)・[[ホテルクラウンパレス浜松|浜松名鉄ホテル]](現・ホテルクラウンパレス浜松) - [[ホテルマネージメントインターナショナル]]に売却。
* [[グリーンシティケーブルテレビ]] - [[中部電力]]系企業の[[シーテック (電設)|シーテック]]に50%、[[東海デジタルネットワークセンター]]および[[ひまわりネットワーク]]に25%ずつ、それぞれ持ち株を売却。
* [[新岐阜百貨店]] - [[2005年]][[12月28日]]閉店。
* 名鉄インテリア - 解散。
* [[遠鉄タクシー|浜松名鉄交通]] - [[2010年]][[6月30日]]に[[遠州鉄道]]が全株式を取得し、[[遠州鉄道#関連事業|遠鉄グループ]]となり、[[遠鉄交通]]に社名変更。さらに[[2014年]][[4月1日]]に[[遠鉄タクシー]]に合併。
* [[伊勢湾フェリー]] - 2010年9月末をもって資本撤退。
* [[網走バス]]・網走ハイヤー・[[道東観光開発]] - [[2012年]][[4月2日]]付で[[タカハシ (北海道)|タカハシ]]に持ち株を売却。
* [[名鉄レジャック]] - [[2015年]][[4月1日]]付で、ビル資産管理事業を本体に承継したうえでメルサが吸収合併。
* ケイビーエスオート - 2015年7月1日、名鉄AUTOが吸収合併。
* [[大井川鐵道]] - 2015年8月31日に離脱。
* 夫婦岩パラダイス - 2015年9月16日に全株式を日本産業推進機構に売却<ref>{{Cite web|和書|date=2015-09-16 |url=http://www.nsskjapan.com/news/NSSK_20150916.pdf |title=株式会社夫婦岩パラダイスの株式取得完了のお知らせ |format=PDF |publisher=日本産業推進機構 |accessdate=2016-03-06}}</ref>。
* [[びわ湖バレイ]] - 2006年に[[日本ケーブル]]の子会社NCリゾーツに譲渡。
* [[ホテルグランテラス富山|名鉄トヤマホテル]] - 2012年に[[ブリーズベイホテル]]に譲渡。
* [[千羽平ゴルフクラブ]] - 2016年に[[アイランドゴルフ]]グループに売却。
* [[豊鉄ターミナルホテル]] - 2020年に閉鎖・清算。
* [[金沢丸越百貨店|金沢名鉄丸越百貨店]]・[[金沢スカイホテル]] - 2021年に[[ヒーロー (茨城県の企業)|ヒーロー]]に譲渡。
=== その他関係の深い企業 ===
2013年現在、[[ANAホールディングス]](全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、単体で発行済株式の2.07%をもち、前述したようにかつては[[#全日本空輸総代理店|全日本空輸総代理店]]業務を行っていた。
1952年(昭和27年)に全日本空輸の前身となる「[[日本ヘリコプター輸送]](日ペリ航空)」が設立された際に名鉄は出資を引き受けて関係を持つようになったが、日ペリ航空の経営は苦しい状態が続き、1954年(昭和29年)に名鉄に対し資金援助を要請。名鉄は当時の金額で3,500万円を融資し、窮地から救った。全日本空輸創業以来の役員で1987年(昭和62年)当時副社長であった[[福本柳一]]は手記の中で次のように述べている。
<blockquote>
「名鉄が全日空生い立ちのために(中略)[[神野金之助 (2代目)|神野]]社長以下3代にわたり何くれとなく尽くしてくれた並々ならぬ恩義に対しては、いやしくも全日空の食をはむ者の断じて忘れてはならないことである」<ref>私の人生行路(2)福本柳一(1987年8月)</ref>
</blockquote>
その後も、名鉄傘下の[[中日本航空]]が運航していた定期路線便は1965年(昭和40年)に全日本空輸に譲渡、名鉄、中日本航空、全日本空輸3社の出資でコミューター会社の「[[エアーセントラル]]」(現・[[ANAウイングス]]、旧・中日本エアラインサービス)の設立など両社は現在にいたるまで常に深い関係にある。また、[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]南口にある「[[金山南ビル]]」の「[[ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋]]」も名鉄と全日本空輸の協力関係の中で設立されている。
そのほか、[[御園座]]などにも出資しており、かつては[[丸栄]]や[[名古屋観光ホテル]]にも出資していた。
[[1951年]]からは[[中日ドラゴンズ]]に出資(これにともない、球団名を「名古屋ドラゴンズ」に変更)、[[中日新聞社]]と隔年で球団経営を行ったが、3年で撤退。その後、球団数拡大を目指す[[パシフィック・リーグ]]から新球団設立の話を持ちかけられたが、中日との観客の奪い合いによって共倒れになることを恐れたため断っている。2リーグ分裂の話が持ち上がった[[1949年]]にも、プロ野球への参入を考えていた[[朝日新聞]]が、名鉄と地方紙「新東海」を提携させて[[鳴海球場]]を本拠とする新球団を発足させる構想(「朝日レッドソックス」という名称が報じられたこともあった)があった<ref>中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』(筑摩書房、2001年)P137</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | editor = 名古屋鉄道広報宣伝部 編 | title = 名鉄まるわかりブック | publisher = 名古屋鉄道 | date = 2007年7月発行 | ref = 名鉄まるわかりブック}}
* {{Cite book | 和書 | editor = 名古屋鉄道広報宣伝部 編 | title = 名古屋鉄道百年史 | publisher = 名古屋鉄道 | date = 1994年6月13日発行}}
== 関連項目 ==
{{Main2|テレビ番組等は「[[#広報・広告|広報・広告]]」の節を}}
* [[電車でGO!]] - 名古屋鉄道を舞台とした『電車でGO!名古屋鉄道編』がある。
* [[鉄道にっぽん!Real Pro]] - 名古屋鉄道を舞台とした『鉄道にっぽん!Real Pro特急走行!名古屋鉄道編』がある。
* [[日本の鉄道事業者一覧]]
== 外部リンク ==
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* [https://top.meitetsu.co.jp/ 名古屋鉄道]
* [https://www.meitetsu.co.jp/profile/group/train_bus/index.html 名鉄グループ 業種別リスト]
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阿含経
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阿含経(あごんきょう、あごんぎょう、梵・巴: āgama, アーガマ)とは、最も古い仏教経典集(スートラ)であり、釈迦の言葉を色濃く反映した真正な仏教の経典ものとされる。阿含(あごん)とは、サンスクリット・パーリ語のアーガマの音写で、「伝承された教説、その集成」という意味である。阿含の類義語には部(ぶ、Nikāya)があり、パーリ仏典ではそれが用いられている。
釈迦の死後、その教説は迦葉や阿難を始めとする弟子たちを中心として何回かの結集を経てまとめられ、経蔵(sutta-piṭaka, スッタ・ピタカ)を形成した。他方、守るべき規則は律蔵(vinaya-piṭaka, ヴィナヤ・ピタカ)としてまとめられたが、一般に紀元前4世紀から紀元前1世紀にかけて徐々に作成されたものであると言われている 。その経蔵はそれぞれ阿含(āgama, アーガマ)または部(nikāya、ニカーヤ)の名で呼ばれた。
これらの現存するものは、スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムに伝えられている『パーリ語仏典』と、それに相応する漢訳経典などである。漢訳では長・中・雑・増一の四阿含(しあごん)があり、大正蔵では冒頭の阿含部に収録されている。パーリ語訳では五部が伝えられている。両者は、伝持した部派や原語は異なるものの、共に同一の阿含経典群から訳されたもので一定の対応関係がある。
パーリ語仏典の経蔵と、漢訳『阿含経』の主な対応関係は以下の通り。
上記の漢訳「四阿含」は、分別説部(上座部仏教大寺派)で一括的に継承されてきた「パーリ五部」とは異なり、異なる部派の『阿含経』(アーガマ)を寄せ集めたものである。今日考えられている各『阿含経』(アーガマ)の所持部派を示すと以下のようになる。
中国においても原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録もあるが、大勢を占めることはなかった。天台宗の教相判釈である五時八教では、『阿含経』は釈迦が布教最初期に一般人向けに説いた、最も平易かつ初歩的な教えだと位置付けているくらいである。日本にも仏教の伝播初期から伝えられており、倶舎宗で研究されていたとされるが、五時八教の影響が強かったため久しく読まれることがなく、江戸時代になってから儒学者の富永仲基に再評価された程度であった。
『阿含経』はむしろ近代文献学を事とするヨーロッパの研究者たちによって正当な評価を受けた。
上述の通り、阿含経は日本の仏教者にとって永らく注目されずにあったものだが、ヨーロッパの研究者に学んだ明治以降は日本でも盛んに研究され今日に至っている。以下、パーリ語の研究史とも併せて略史を記す。
研究の契機は、イギリスによるセイロン島支配(1815年に英領編入が完了)であった。1824年、イギリス人宣教師クラフによってパーリ語の文法書が出版されて以来、まずパーリ語の研究が始まる。これはセイロンの歴史書研究の必要性からであった。フランスも、同じくパーリ語仏教圏であるタイとビルマに勢力を伸ばしており、1826年ビュルヌフによるパーリ語に関する学的論文が発表される。やがてこれらの研究の成果として、1837年セイロン島史『マハーヴァンサ』(大史)がパーリ語原典からターナーによって英訳された。
同じ頃、ブライアン・ホートン・ホジソンによって1826年にネパールのサンスクリット(以下、梵語)仏典が紹介されており、欧州は仏典に梵語によるものとパーリ語によるものの別が存在することを知った。この両者の新古をめぐって論争が起こり、仏典の比較研究が始まる。1852年に上述のビュルヌフは『法華経』をフランス語訳したが、このようにパーリ語仏典の研究は梵語の研究と深い関係を持つものであった。ホジソンはやがて梵語仏典が古層であるという自説を撤回したが、ビュルヌフにしても、梵パ仏典の前後関係については資料不足のために結論を出すことは出来なかった。
1855年ファウスベルが『法句経』のパーリ語原文とラテン語訳を出版して以降、原典出版が盛んとなり、1881年にはリス・デイヴィッズによってパーリ聖典協会(Pāli Text Society)がロンドンに設立され、パーリ語学者の総力を挙げて組織的な出版が開始されるに至る。今日に至るまで、同協会の出版がパーリ語仏典研究の基礎である。
既に記したように、パーリ語の研究は当初キリスト教の宣教師によって開始されたもので、宣教師の研究動機は「仏教よりもキリスト教が優れている」ことを証明するためであった。これに対し、植民地支配の構造とも相俟って劣勢に置かれた仏教徒の反論がなされた。1873年セイロンのグナーナンダは新聞社主催の討論でキリスト教を論破し、仏教の威信を回復した。これを機会に1874年コロンボにヴィドヨーダヤ大学が設立されて、仏教徒による研究が起こった。
セイロンの仏教は、ポルトガル・オランダ・ヒンドゥー教徒の国王の迫害などによって数度にわたり出家比丘サンガの伝統が途絶えた。現存する比丘サンガは、1756年にタイから、ついでビルマから具足戒を逆輸入することで復興された。このために、タイ・ビルマの仏教徒の研究と出版の成果が、国際色の強いセイロンから発表されるという構図を取ることとなった。セイロンは南伝上座部仏教の国際センターといった地位を獲得したのである。
明治以降の日本の仏教者も、セイロンやタイへの留学が先行して流行した。その後、梵語仏典やインド哲学一般との関係、仏教一般といった視点の獲得を求めて欧州への留学が盛んとなった。日本の仏教者は大乗仏教徒であり、欧州留学の主要な動機も梵語研究にあった。しかし、梵語を習得すればパーリ語の読解も比較的容易であるため、当初は梵語に比べて二次的な関心しか払われなかったパーリ語研究も、時間が経つにつれて梵語・パーリ語・漢語・チベット語の比較対照研究といった方面から盛んとなる。
南条文雄は1883年に英訳『大明三蔵聖教目録』(南条目録と呼ばれる)を出版したが、その中で漢訳の阿含経とパーリ語のアーガマが対応関係にあることを指摘した。この、漢訳仏典との関係という方面については、欧州ではほとんど研究されていない分野であり、その関係も不明とされていた。
高楠順次郎が1896年に漢訳『善見律毘婆沙』がパーリ語律蔵の注釈書『サマンタパーサーディカー』の翻訳であることを発表、パーリ語仏典と漢訳仏典の対応を証明した。高楠は帰国後に東京大学で梵語とパーリ語の講義を開始、その後に彼の主導によって編纂がなされた『大正新修大蔵経』には、阿含部と律蔵についてパーリ語仏典の相当箇所が注記されている。
姉崎正治・椎尾弁匡によるパーリ五部と漢訳四阿含の綿密な対照研究以降、渡辺海旭・長井真琴・干潟竜祥・渡辺楳雄・赤沼智善・木村泰賢・宇井伯寿らによってなされた比較研究は、漢文を苦手とした二十世紀初頭までの欧州の研究を基礎としつつ、伝統的な漢訳仏典研究の基盤というアドバンテージのある日本の研究者の独擅場となる。ここに、日本の近代仏教学の国際的地位が確立した。その精華として、日本の研究者がその総力を挙げてパーリ語の仏典を国訳した『南伝大蔵経』は、翻訳事業としては欧州の研究を規模において凌ぐものであった。
日本では、学問的に還元されうる原始仏教への強い関心からも阿含の研究が盛んとなったのであるが、パーリ語のアーガマにも新古の層があることが判明してゆくにつれ、大乗非仏説に対する小乗非仏説まで登場した。中村元と三枝充悳も『阿含経』の重要性を強調するいっぽうで「現存の『阿含経』は釈尊の教えを原型どおりに記しているのでは、決してない」と主張している。一方で、テキストの中に釈迦の金口直説(こんくじきせつ)が含まれるのだとすれば、それは阿含と律であるとされる。
1990年代以降、現存最古の写本であるガンダーラ語仏教写本の研究が進んだが、馬場紀寿は、ガンダーラ語仏教写本には四阿含や三蔵といった集成をなした痕跡が見られないと評価している。馬場紀寿によると、21世紀現在の学界では、「書写がはじまってから(書写とともに)律の本体部分や四阿含がまとめられていった。」とする説があるという。馬場は、現段階ではこれを証明する根拠はないものの、その可能性を踏まえて初期仏教を研究する必要があると主張している。
21世紀現在、写本にもとずく文献学的研究からは、阿含経が最古の経典であるとは断定できなくなっている。
直説経典であるため、釈迦の言動、並びにその教法――とりわけ七科三十七道品として知られる成道法(修行法)が記されてある。
パーリ仏典の阿含経は「古層経典」であり、原始仏教の要素を伝えている。とはいえ、釈迦仏教に最も近いと考えられる「最古層経典」と比較すれば、パーリ仏典の阿含経といえども後世の改変が多くあり、注意が必要である。
現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀の近代という新しいもので、しかも文献学的な来歴が不明である(下田2020p.1041)。下田正弘は「この点,漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比すると,その歴史資料としての価値にはかなりの限界がある」と指摘する(下田2020p.1040)。
パーリ仏典の阿含経典には、歴史に実在した釈迦の「直説」が残っている可能性がある。が、それは現行の阿含経典の全てが釈迦の直説であるということを意味しない。
漢訳の『阿含経』はパーリ語のニカーヤを原典とした翻訳とは考えられない形跡があり、俗語やサンスクリット語で伝えられていた原典がパーリ語訳とは別に漢訳されたと考えられている。一般に、漢訳は意訳も多く、明らかに原語にない言葉が挿入されている場合がある。
三枝充悳は、「(阿含経の)原型はブッダ入滅後まもなくまとめられ、伝承の間に多くのものを付加した。現存の経の成立はかなり遅い」とする一方、「ゴータマ・ブッダおよび初期仏教の思想その他は、以上の四阿含と五ニカーヤとを資料としてのみ、学び知ることができる」とも述べている。
以上のように、漢訳『阿含経』の信頼性はより低いものという見方もある。
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"text": "日本では、学問的に還元されうる原始仏教への強い関心からも阿含の研究が盛んとなったのであるが、パーリ語のアーガマにも新古の層があることが判明してゆくにつれ、大乗非仏説に対する小乗非仏説まで登場した。中村元と三枝充悳も『阿含経』の重要性を強調するいっぽうで「現存の『阿含経』は釈尊の教えを原型どおりに記しているのでは、決してない」と主張している。一方で、テキストの中に釈迦の金口直説(こんくじきせつ)が含まれるのだとすれば、それは阿含と律であるとされる。",
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"text": "1990年代以降、現存最古の写本であるガンダーラ語仏教写本の研究が進んだが、馬場紀寿は、ガンダーラ語仏教写本には四阿含や三蔵といった集成をなした痕跡が見られないと評価している。馬場紀寿によると、21世紀現在の学界では、「書写がはじまってから(書写とともに)律の本体部分や四阿含がまとめられていった。」とする説があるという。馬場は、現段階ではこれを証明する根拠はないものの、その可能性を踏まえて初期仏教を研究する必要があると主張している。",
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"text": "21世紀現在、写本にもとずく文献学的研究からは、阿含経が最古の経典であるとは断定できなくなっている。",
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"text": "直説経典であるため、釈迦の言動、並びにその教法――とりわけ七科三十七道品として知られる成道法(修行法)が記されてある。",
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"text": "パーリ仏典の阿含経は「古層経典」であり、原始仏教の要素を伝えている。とはいえ、釈迦仏教に最も近いと考えられる「最古層経典」と比較すれば、パーリ仏典の阿含経といえども後世の改変が多くあり、注意が必要である。",
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"text": "現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀の近代という新しいもので、しかも文献学的な来歴が不明である(下田2020p.1041)。下田正弘は「この点,漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比すると,その歴史資料としての価値にはかなりの限界がある」と指摘する(下田2020p.1040)。",
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"text": "パーリ仏典の阿含経典には、歴史に実在した釈迦の「直説」が残っている可能性がある。が、それは現行の阿含経典の全てが釈迦の直説であるということを意味しない。",
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"text": "漢訳の『阿含経』はパーリ語のニカーヤを原典とした翻訳とは考えられない形跡があり、俗語やサンスクリット語で伝えられていた原典がパーリ語訳とは別に漢訳されたと考えられている。一般に、漢訳は意訳も多く、明らかに原語にない言葉が挿入されている場合がある。",
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"text": "三枝充悳は、「(阿含経の)原型はブッダ入滅後まもなくまとめられ、伝承の間に多くのものを付加した。現存の経の成立はかなり遅い」とする一方、「ゴータマ・ブッダおよび初期仏教の思想その他は、以上の四阿含と五ニカーヤとを資料としてのみ、学び知ることができる」とも述べている。",
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"text": "以上のように、漢訳『阿含経』の信頼性はより低いものという見方もある。",
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] |
阿含経とは、最も古い仏教経典集(スートラ)であり、釈迦の言葉を色濃く反映した真正な仏教の経典ものとされる。阿含(あごん)とは、サンスクリット・パーリ語のアーガマの音写で、「伝承された教説、その集成」という意味である。阿含の類義語には部(ぶ、Nikāya)があり、パーリ仏典ではそれが用いられている。 釈迦の死後、その教説は迦葉や阿難を始めとする弟子たちを中心として何回かの結集を経てまとめられ、経蔵(sutta-piṭaka, スッタ・ピタカ)を形成した。他方、守るべき規則は律蔵(vinaya-piṭaka, ヴィナヤ・ピタカ)としてまとめられたが、一般に紀元前4世紀から紀元前1世紀にかけて徐々に作成されたものであると言われている。その経蔵はそれぞれ阿含または部(nikāya、ニカーヤ)の名で呼ばれた。 これらの現存するものは、スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムに伝えられている『パーリ語仏典』と、それに相応する漢訳経典などである。漢訳では長・中・雑・増一の四阿含(しあごん)があり、大正蔵では冒頭の阿含部に収録されている。パーリ語訳では五部が伝えられている。両者は、伝持した部派や原語は異なるものの、共に同一の阿含経典群から訳されたもので一定の対応関係がある。
|
{{複数の問題
|出典の明記=2016年4月17日 (日) 04:18 (UTC)
|独自研究=2016年4月17日 (日) 04:18 (UTC)
}}
{{Infobox Buddhist term
| title = アーガマ
| en = "sacred work"<ref name="MWD">Monier-Williams (1899), p. 129, see "Āgama," retrieved 12 Dec 2008 from "U. Cologne" at http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/scans/MWScan/MWScanpdf/mw0129-Akhara.pdf.</ref> , "scripture"<ref name="PED">Rhys Davids & Stede (1921-25), p. 95, entry for "Āgama," retrieved 12 Dec 2008 from "U. Chicago" at http://dsal.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.0:1:2582.pali.</ref>
| pi = āgama
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| my-Latn =
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}}
{{初期仏教・部派仏教}}
'''阿含経'''(あごんきょう、あごんぎょう、[[サンスクリット|梵]]・{{lang-pi-short|āgama}}, '''アーガマ''')とは、最も古い[[仏教]][[経]]典集([[スートラ]])であり、[[釈迦]]の言葉を色濃く反映した真正な仏教の経典ものとされる。'''阿含'''(あごん)とは、[[サンスクリット]]・[[パーリ語]]のアーガマの音写で、「伝承された[[教説]]、その集成」という意味である{{Sfn|馬場紀寿|2018|pp=56-59}}。阿含の類義語には'''[[部派|部]]'''(ぶ、Nikāya)があり、[[パーリ仏典]]ではそれが用いられている{{Sfn|馬場紀寿|2018|pp=56-59}}。
[[釈迦]]の死後、その教説は[[大迦葉|迦葉]]や[[阿難]]を始めとする弟子たちを中心として何回かの[[結集]]を経てまとめられ、[[経蔵]](sutta-piṭaka, スッタ・ピタカ)を形成した{{Sfn|馬場紀寿|2018|pp=56-59}}。他方、守るべき規則は[[律蔵]](vinaya-piṭaka, ヴィナヤ・ピタカ)としてまとめられたが{{Sfn|馬場紀寿|2018|pp=56-59}}、一般に[[紀元前4世紀]]から[[紀元前1世紀]]にかけて徐々に作成されたものであると言われている<ref name="ブリタニカ">ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿含経」 https://kotobank.jp/word/阿含経-24948</ref> 。その経蔵はそれぞれ'''阿含'''(āgama, アーガマ)または'''[[部派|部]]'''(nikāya、ニカーヤ)の名で呼ばれた{{Sfn|馬場紀寿|2018|pp=56-59}}。
これらの現存するものは、[[スリランカ]]、[[ミャンマー]]、[[タイ王国|タイ]]、[[カンボジア]]、[[ラオス]]、[[ベトナム]]に伝えられている『[[パーリ語仏典]]』と、それに相応する漢訳経典などである{{Sfn|馬場紀寿|2018|pp=56-59}}。漢訳では[[長阿含経|長]]・[[中阿含経|中]]・[[雑阿含経|雑]]・[[増一阿含経|増一]]の'''四阿含'''(しあごん)があり、[[大正新修大蔵経|大正蔵]]では冒頭の'''[[阿含部 (大正蔵)|阿含部]]'''に収録されている。パーリ語訳では五部が伝えられている。両者は、伝持した部派や原語は異なるものの、共に同一の阿含経典群から訳されたもので一定の対応関係がある。
==構成==
{{Seealso|部派仏教#現存資料}}
パーリ語仏典の経蔵と、漢訳『阿含経』の主な対応関係は以下の通り。
#「[[長部 (パーリ)|長部]]」({{lang-pi-short|dīgha-nikāya}}, ディーガ・ニカーヤ) : 『'''[[長阿含経]]'''』(じょう-) - 長編の経典集。全30経。
#「[[中部 (パーリ)|中部]]」({{lang-pi-short|majjhima-nikāya}}, マッジマ・ニカーヤ) : 『'''[[中阿含経]]'''』 - 中編の経典集。全222経。
#「[[相応部]]」({{lang-pi-short|saṃyutta-nikāya}}, サンユッタ・ニカーヤ) : 『'''[[雑阿含経]]'''』(ぞう-)- 短編の経典集。全1362経。
#「[[増支部]]」({{lang-pi-short|aṅguttara-nikāya}}, アングッタラ・ニカーヤ) : 『'''[[増一阿含経]]'''』(ぞういつ-)- 法数ごとに集められた短篇の経典集。全473経を全11集にまとめたもの。
# (「[[小部 (パーリ)|小部]]」({{lang-pi-short|khuddaka-nikāya}}, クッダカ・ニカーヤ) - 『[[法句経]]』(ほっくきょう)や『[[本生経]]』(ほんじょうきょう)など。漢訳では相当文が散在するが、主に[[大正新脩大蔵経|大蔵経]]の「'''[[本縁部 (大正蔵)|本縁部]]'''」に相当する。)
===所持部派===
上記の漢訳「四阿含」は、[[分別説部]]([[上座部仏教]]大寺派)で一括的に継承されてきた「パーリ五部」とは異なり、異なる部派の『阿含経』(アーガマ)を寄せ集めたものである。今日考えられている各『阿含経』(アーガマ)の所持部派を示すと以下のようになる<ref>[http://www.sakya-muni.jp/pdf/mono01_r01_010.pdf 「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」の目的と方法論 - 【10】本研究の原始仏教聖典観とその取り扱い方] [[中央学術研究所]]、[[森章司]]</ref>。
*『長阿含経』({{lang-sa-short|Dīrgha-āgama}}) --- [[法蔵部]]
*『中阿含経』({{lang-sa-short|Madhyama-āgama}}) --- [[説一切有部]]
*『雑阿含経』({{lang-sa-short|Saṃyukta-āgama}}) --- 説一切有部
*『増一阿含経』({{lang-sa-short|Ekottarika-āgama}}) --- [[大衆部]]
== 歴史 ==
中国においても原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録もあるが、大勢を占めることはなかった。[[天台宗]]の[[教相判釈]]である五時八教では、『阿含経』は釈迦が布教最初期に一般人向けに説いた、最も平易かつ初歩的な教えだと位置付けているくらいである。
日本にも仏教の伝播初期から伝えられており、[[倶舎宗]]で研究されていたとされるが{{Sfn|友松|1981|p=17}}、五時八教の影響が強かったため久しく読まれることがなく、[[江戸時代]]になってから儒学者の[[富永仲基]]に再評価された程度であった{{Sfn|友松|1981|p=33}}。
富永仲基は『出定後語』で「大乗非仏説」を説き、『阿含経』を再評価したが、その富永さえ「其実阿難所集則纔阿含数章已」(その実、阿難の集むる所は則ち纔かに阿含の数章のみ)<ref>富永仲基『出定後語』「如是我聞第三」。 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/992108/1/12</ref>云々の考察を述べていることに注意すべきである。富永は、『阿含経』のうち釈迦の直説と考えてよいのはせいぜい数章だけで、『阿含経』といえども大部分は後世の付加である、と考察した。この見解は、近現代の学界の『阿含経』に対する評価と基本的に同じである。
[[中村元 (哲学者)|中村元]]と[[三枝充悳]]も、『阿含経』の重要性を強調するいっぽうで「現存の『阿含経』は釈尊の教えを原型どおりに記しているのでは、決してない」と釘を刺している<ref name="中村・三枝2009">中村元・三枝充悳『バウッダ[佛教]』(講談社学術文庫、2009年)p.52</ref>。三枝充悳は「ゴータマ・ブッダおよび初期仏教の思想その他は、以上の四阿含と五ニカーヤとを資料としてのみ、学び知ることができる」<ref name="日本大百科全書"/>と述べる一方、「(阿含経の)原型はブッダ入滅後まもなくまとめられ、'''伝承の間に多くのものを付加した。現存の経の成立はかなり遅い'''」<ref name="日本大百科全書">三枝充悳、日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿含経」 https://kotobank.jp/word/阿含経-24948</ref>、つまり現存の『阿含経』の全部を釈迦の直説とする見解は間違いであると述べる。
=== 研究史 ===
{{Seealso|仏教学}}
『阿含経』はむしろ近代文献学を事とするヨーロッパの研究者たちによって正当な評価を受けた。
上述の通り、阿含経は日本の仏教者にとって永らく注目されずにあったものだが、ヨーロッパの研究者に学んだ明治以降は日本でも盛んに研究され今日に至っている。以下、パーリ語の研究史とも併せて略史を記す。
研究の契機は、[[イギリス]]による[[セイロン島]]支配(1815年に英領編入が完了)であった。1824年、イギリス人[[宣教師]]クラフによってパーリ語の文法書が出版<ref>Clough,Benjamin: A Compendious Pali Grammar, with a Copious Vocabulary in the same Language, Colombo, 1824.</ref>されて以来、まずパーリ語の研究が始まる。これはセイロンの歴史書研究の必要性からであった。[[フランス]]も、同じくパーリ語仏教圏である[[タイ王国|タイ]]と[[ビルマ]]に勢力を伸ばしており、1826年[[ウジェーヌ・ビュルヌフ|ビュルヌフ]]によるパーリ語に関する学的論文が発表される。やがてこれらの研究の成果として、1837年セイロン島史『[[マハーヴァンサ]]』(大史)がパーリ語原典から[[ジョージ・ターナー (歴史家)|ターナー]]によって英訳された。
[[ファイル:BHHodgson91.jpg|サムネイル|198x198ピクセル|ブライアン・ホートン・ホジソン]]
同じ頃、[[ブライアン・ホートン・ホジソン]]によって1826年に[[ネパール]]の[[サンスクリット]](以下、梵語)仏典が紹介されており、欧州は仏典に梵語によるものとパーリ語によるものの別が存在することを知った。この両者の新古をめぐって論争が起こり、仏典の比較研究が始まる。1852年に上述のビュルヌフは『[[法華経]]』をフランス語訳したが、このようにパーリ語仏典の研究は梵語の研究と深い関係を持つものであった。ホジソンはやがて梵語仏典が古層であるという自説を撤回したが、ビュルヌフにしても、梵パ仏典の前後関係については資料不足のために結論を出すことは出来なかった。
1855年[[ヴィゴ・ファウスベル|ファウスベル]]が『[[法句経]]』のパーリ語原文と[[ラテン語]]訳を出版して以降、原典出版が盛んとなり、1881年には[[トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ|リス・デイヴィッズ]]によって[[パーリ聖典協会]](Pāli Text Society)がロンドンに設立され、パーリ語学者の総力を挙げて組織的な出版が開始されるに至る。今日に至るまで、同協会の出版がパーリ語仏典研究の基礎である。
既に記したように、パーリ語の研究は当初[[キリスト教]]の宣教師によって開始されたもので、宣教師の研究動機は「仏教よりもキリスト教が優れている」ことを証明するため<ref>[[水野弘元]]『パーリ語文法』(山喜房仏書林, 1955), pp209. 注で当時の宣教師P. Bigandetが出版した仏伝の序文も掲載している。</ref>であった。これに対し、植民地支配の構造とも相俟って劣勢に置かれた仏教徒の反論がなされた。1873年セイロンの[[:en: Migettuwatte Gunananda Thera |グナーナンダ]]は新聞社主催の討論でキリスト教を論破し、仏教の威信を回復した。これを機会に1874年[[コロンボ]]に[[:en: Vidyodaya Pirivena |ヴィドヨーダヤ大学]]が設立されて、仏教徒による研究が起こった。
セイロンの仏教は、[[ポルトガル]]・[[オランダ]]・[[ヒンドゥー教]]徒の国王の迫害などによって数度にわたり出家比丘サンガの伝統が途絶えた。現存する比丘サンガは、1756年にタイから、ついでビルマから具足戒を逆輸入することで復興された。このために、タイ・ビルマの仏教徒の研究と出版の成果が、国際色の強いセイロンから発表されるという構図を取ることとなった。セイロンは南伝[[上座部仏教]]の国際センターといった地位を獲得したのである。
明治以降の日本の仏教者も、セイロンやタイへの留学が先行して流行した。その後、梵語仏典やインド哲学一般との関係、仏教一般といった視点の獲得を求めて欧州への留学が盛んとなった。日本の仏教者は[[大乗仏教]]徒であり、欧州留学の主要な動機も梵語研究にあった。しかし、梵語を習得すればパーリ語の読解も比較的容易であるため、当初は梵語に比べて二次的な関心しか払われなかったパーリ語研究も、時間が経つにつれて梵語・パーリ語・漢語・チベット語の比較対照研究といった方面から盛んとなる。
[[南条文雄]]は1883年に英訳『大明三蔵聖教目録』(南条目録と呼ばれる)を出版したが、その中で漢訳の阿含経とパーリ語のアーガマが対応関係にあることを指摘した。この、漢訳仏典との関係という方面については、欧州ではほとんど研究されていない分野であり、その関係も不明とされていた。
[[高楠順次郎]]が1896年に漢訳『善見律毘婆沙』がパーリ語律蔵の注釈書『サマンタパーサーディカー』の翻訳であることを発表、パーリ語仏典と漢訳仏典の対応を証明した。高楠は帰国後に[[東京大学]]で梵語とパーリ語の講義を開始、その後に彼の主導によって編纂がなされた『[[大正新修大蔵経]]』には、阿含部と律蔵についてパーリ語仏典の相当箇所が注記されている。
{{Vertical images list|Anesaki Masaharu 2.jpg|姉崎正治|Benkyo Shiio.jpg|椎尾弁匡|寄せ=右|幅=133px}}
[[姉崎正治]]・[[椎尾弁匡]]によるパーリ五部と漢訳四阿含の綿密な対照研究以降、[[渡辺海旭]]・[[長井真琴]]・[[干潟竜祥]]・[[渡辺楳雄]]・[[赤沼智善]]・[[木村泰賢]]・[[宇井伯寿]]らに{{Sfn|友松|1981|p=35}}よってなされた比較研究は、漢文を苦手とした二十世紀初頭までの欧州の研究を基礎としつつ、伝統的な漢訳仏典研究の基盤というアドバンテージのある日本の研究者の独擅場となる。ここに、日本の近代仏教学の国際的地位が確立した。その精華として、日本の研究者がその総力を挙げてパーリ語の仏典を国訳した『[[南伝大蔵経]]』は、翻訳事業としては欧州の研究を規模において凌ぐものであった。
日本では、学問的に還元されうる[[原始仏教]]への強い関心からも阿含の研究が盛んとなったのであるが、パーリ語のアーガマにも新古の層があることが判明してゆくにつれ、[[大乗非仏説]]に対する[[大乗非仏説#小乗非仏説論|小乗非仏説]]まで登場した。[[中村元 (哲学者)|中村元]]と[[三枝充悳]]も『阿含経』の重要性を強調するいっぽうで「現存の『阿含経』は釈尊の教えを原型どおりに記しているのでは、決してない」と主張している<ref name="中村・三枝2009"/>。一方で、テキストの中に釈迦の金口直説(こんくじきせつ)が含まれるのだとすれば、それは阿含と律であるとされる<ref>『仏典解題事典』(春秋社, 1966, 1977) 阿含経の項目参照。</ref>。
=== 書写と共に発達したとする立場 ===
1990年代以降、{{信頼性要検証範囲|title=ガンダーラ語写本は複数あり、写本によって年代が大幅に異なる|現存最古の写本である|date=2023年9月}}[[ガンダーラ語仏教写本]]の研究が進んだが<ref name="馬場2019">大正大学 綜合仏教研究所 公開講座「初期仏教の研究方法」2019.11.27 https://www.tais.ac.jp/library_labo/sobutsu/blog/20200109/63113/</ref>、[[馬場紀寿]]は、ガンダーラ語仏教写本には四阿含や三蔵といった集成をなした痕跡が見られないと評価している<ref name="馬場2019"/>。<br/>{{信頼性要検証範囲|title=具体的にどのような学者がどの論文でそのような成立過程を提示しているのか明らかにされていない。|[[馬場紀寿]]によると、21世紀現在の学界では、「書写がはじまってから(書写とともに)律の本体部分や四阿含がまとめられていった。」とする説があるという<ref name="馬場2019"/>|date=2023年9月}}。馬場は、現段階ではこれを証明する根拠はないものの、その可能性を踏まえて初期仏教を研究する必要があると主張している<ref name="馬場2019"/>。
{{要出典範囲|21世紀現在、写本にもとずく文献学的研究からは、阿含経が最古の経典であるとは断定できなくなっている。|date=2023年9月}}
{{Clear}}
== 内容 ==
直説経典である{{要出典|date=2022年8月}}ため、釈迦の言動、並びにその教法――とりわけ七科三十七道品として知られる成道法(修行法)が記されてある。
=== パーリ仏典の阿含経の信頼性 ===
パーリ仏典の阿含経は「古層経典」であり、原始仏教の要素を伝えている。とはいえ、釈迦仏教に最も近いと考えられる「最古層経典」と比較すれば、パーリ仏典の阿含経といえども後世の改変が多くあり、注意が必要である。<br>
: 例えば、原始仏典『ヴィナヤ』(パーリ語の律蔵)では釈迦は初法転輪の際の共同生活において5人の'''弟子たちと平等に'''3人づつ交互に乞食(托鉢)に出かけていた、とあるのに、権威主義的な[[説一切有部]]系の『中阿含経』では'''釈迦の神格化'''の一環として釈迦は乞食の当番からはずれていたように書き換えられた(植木2011<ref name="植木雅俊2011">植木雅俊『仏教、本当の教え』(中公新書、2011年)</ref>p.29)。<br>
: [[並川孝儀]]によれば、阿含経が説く三十七道品などの修行法も最古層経典には見えず、これらは「古層経典の時代になって説かれ始め、仏教が成立した当初から存在していたものではない」(並川2023<ref name="並川孝儀2023">並川 孝儀「初期韻文経典にみる修行に関する説示 : 三十七道品と三界」(小野田俊蔵教授 本庄良文教授古稀記念号)佛教大学仏教学会紀要 28 1-21, 2023-03-25</ref>p.1)。
現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀の近代という新しいもので、しかも文献学的な来歴が不明である(下田2020<ref name="下田正弘2020">下田正弘「「正典概念とインド仏教史」を再考する――直線的歴史観からの解放――」, 印度學佛教學研究 68 (2), 1043-1035, 2020-03-20 日本印度学仏教学会</ref>p.1041)。[[下田正弘]]は「この点,漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比すると,その'''歴史資料としての価値にはかなりの限界がある'''」と指摘する(下田2020<ref name="下田正弘2020"/>p.1040)。<br>
: 実際、『[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]]』(パーリ仏典経蔵長部。漢訳の長阿含経に相当)を訳出した[[中村元 (哲学者)|中村元]]も、訳注において「([[西晋]]の恵帝の時代の漢訳仏典である)白法祖本には欠けているから後代の付加であろう」(中村1980<ref name="中村元1980">中村元訳『ブッダ最後の旅: 大パリニッバーナ経』(岩波文庫、1980年)</ref>p.254)というように、文献学的に来歴が確かな漢訳阿含経をもとにパーリ仏典の改変を指摘している。<br>
パーリ仏典の阿含経典には、歴史に実在した釈迦の「直説」が残っている可能性がある。が、それは現行の阿含経典の全てが釈迦の直説であるということを意味しない。
=== 漢訳阿含経の信頼性 ===
漢訳の『阿含経』はパーリ語のニカーヤを原典とした翻訳とは考えられない形跡があり、俗語やサンスクリット語で伝えられていた原典がパーリ語訳とは別に漢訳されたと考えられている。一般に、漢訳は意訳も多く、明らかに原語にない言葉が挿入されている場合がある<ref>[https://web.archive.org/web/20090508061348/http://vayo.at.infoseek.co.jp/angulimala.htm アングリマーラ経]、[https://web.archive.org/web/20110514153007/http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/OukutumaKyou/OukutumaKyou.htm 鴦掘摩経]</ref>。
以上のように、漢訳『阿含経』の信頼性はより低いものという見方もある。
==日本語訳==
===全訳===
*『国訳一切経』「印度撰述部 阿含部」 第1-10巻 [[大東出版社]]
===部分訳===
*『新国訳大蔵経』「長阿含経I-III、雑阿含経I-II」 [[大蔵出版]]
*『現代語訳「阿含経典」』 第1-6巻(長阿含経) [[平河出版社]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=阿含経入門|date=1981-04-10|year=1981|publisher=[[講談社]]|author=友松円諦|authorlink=友松円諦|ref={{SfnRef|1981|友松}}|isbn=978-4061585461|series=講談社学術文庫}}
*[[中村元 (哲学者)|中村元]]『広説佛教語大辞典』上巻 [[東京書籍]]、2001年6月、13-14頁。
* {{Cite |和書|title=初期仏教――ブッダの思想をたどる |series=岩波新書 |author=馬場紀寿 |isbn=978-4004317357 |date=2018 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
*[[初期仏教]]
*[[部派仏教]]
*[[阿含部 (大正蔵)]]
*[[パーリ語経典]]
== 外部リンク ==
* [https://www.kosaiji.org/Buddhism/early.htm 原始仏教] - [[広済寺 (尼崎市)|広済寺]]ホームページ
* [https://web.archive.org/web/20070703171956/http://ekottara.googlepages.com/ Ekottara Agama(Bhikkhu Sujatoによる増一阿含経の英訳)](英文)
* [https://www.youtube.com/watch?v=5Z5l8wdHr6U&list=PLmwYOQLkF8YjWhs1SAb9nzf_vst9AjwOz 佐々木閑「阿含経の教え」] - 仏教学者による解説動画集
{{仏教典籍}}
{{Buddhism2}}
{{DEFAULTSORT:あこんきよう}}
[[Category:部派仏教]]
[[Category:経]]
[[Category:阿含部 (大正蔵)]]
|
2003-07-19T22:46:14Z
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1272年
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1272年(1272 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1272年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]]:[[壬申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[文永]]9年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1932年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]]:[[咸淳]]8年
** [[元 (王朝)|元]]:[[至元 (元世祖)|至元]]9年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]]:[[元宗 (高麗王)|元宗]]13年
** [[檀君紀元|檀紀]]3605年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]]:[[紹隆]]15年
* [[仏滅紀元]]:1814年 - 1815年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:670年 - 671年
* [[ユダヤ暦]]:5032年 - 5033年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1272|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[11月17日]] - [[イングランド]]で[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が国王に即位。
* [[二月騒動]]
* [[西本願寺]]創建
* 鎌倉幕府は、[[異国警固番役]]を設置し、[[鎮西奉行]]であった[[少弐氏]]([[武藤氏]])や[[大友氏]]に対して指揮を命じた。
* 『[[高麗史]]』によると、[[高麗]]の王世子の諶(しん、後の[[忠烈王]])が、大元朝の[[クビライ]]皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、軍容を継耀かし、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、勉めて心力を尽くして 小しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」と具申した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1272年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月14日]](文永8年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[北条貞時]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[鎌倉幕府]]第9代[[執権]](+ [[1311年]])
* [[河越貞重]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、鎌倉幕府[[御家人]](+ [[1333年]])
* [[吾丘衍]]、[[元 (王朝)|元]]の[[著述家]]、[[文人]](+ [[1311年]])
* [[祥興帝]]、[[南宋]]の最後の[[皇帝]](+ [[1279年]])
* [[少弐貞経]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将(+ [[1336年]])
* [[東明慧日]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[曹洞宗]]の渡来僧(+ [[1340年]])
* [[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]]、[[シチリア王国|シチリア王]](+ [[1337年]])
* [[北条貞房]]、鎌倉時代の武将、歌人(+ [[1310年]])
* [[北条久時]]、鎌倉時代の武将、歌人(+ [[1307年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1272年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月11日]](文永9年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[北条時章]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[鎌倉幕府]]の[[評定衆]](* [[1215年]])
* 3月11日(文永9年2月11日) - [[北条教時]]、鎌倉時代の武将(* [[1235年]])
* [[3月15日]](文永9年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[北条時輔]]、鎌倉時代の武将、鎌倉幕府の[[六波羅探題]]南方(* [[1248年]])
* [[3月17日]](文永9年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - [[後嵯峨天皇]]、第88代[[天皇]](* [[1220年]])
* [[4月2日]] - [[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]、[[コーンウォール]]伯(* [[1209年]])
* [[5月8日]](文永9年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]) - [[島津忠時]]、鎌倉時代の武将、[[島津氏]]の第2代当主(* [[1202年]])
* [[8月6日]] - [[イシュトヴァーン5世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン5世]]、[[アールパード朝]][[ハンガリー王国]]の[[国王]](* 1239年/1240年)
* [[8月27日]](文永9年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[源雅忠]]、鎌倉時代の[[公卿]](* [[1228年]])
* [[9月2日]](文永9年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - [[洞院佶子]]、[[亀山天皇]]の[[皇后]](* [[1245年]])
* [[11月16日]] - [[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]、[[プランタジネット朝]]第4代[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1207年]])
* [[世良田頼氏]]、鎌倉時代の[[武士]]、鎌倉幕府[[御家人]](* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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東急多摩川線
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東急多摩川線(とうきゅうたまがわせん)は、多摩川駅と蒲田駅とを結ぶ東急電鉄が運営する鉄道路線である。全区間が東京都大田区内に所在する。
路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは臙脂色、路線記号はTM。
本路線は、かつての目蒲線の一部であった。東横線田園調布駅 - 武蔵小杉駅間の複々線化工事が完成し、2000年9月26日から目黒駅において営団地下鉄(帝都高速度交通営団、現・東京地下鉄)南北線および都営地下鉄三田線(東京都交通局)との相互直通運転を実施するため、目蒲線において路線再編が行われ、同年8月6日に目黒駅 - 武蔵小杉駅間を「目黒線」とし、残った多摩川駅 - 蒲田駅間が分離・区間運転化されて成立した。
なお、東急がかつて運営していた玉川線(いわゆる玉電)とは無関係である。
この路線は、単に「多摩川線」ではなく会社の略称「東急」を含めた「東急多摩川線」が届出上の正式な路線名称であり、車内の自動放送や路線図などにおいても必ずこのように呼ばれている。これは、名称設定時にすでに都内に存在していた西武多摩川線(こちらは多摩川線が正式名称)との混同を防ぐためであると同時に、同じ読み方である「玉川線」および「新玉川線」という名称がかつて東急に存在しており、それを区別するためでもある。なお、駅の一部案内や池上線蒲田駅の乗り換え案内放送(車内および蒲田駅ホームとも)では単に「多摩川線」と案内されることもあり、新7000系と1000系1500番台の前面の路線名表示では「多摩川線」と表記される。
なお、新玉川線は2000年8月6日に東急多摩川線の成立と同時に田園都市線に編入された。これは、運行形態上は一つの路線であるにもかかわらず、二子玉川駅を境に異なる二つの名称が存在することで利用者から「わかりづらい」との声を反映した結果である。
東急多摩川線の列車種別は各駅停車のみで、池上線と共通の18m車3両編成で運行される 。基本は多摩川駅 - 蒲田駅間の折り返し運行で途中駅での折り返しはないが、一部に蒲田駅を経由して池上線と直通して五反田行きや、雪が谷大塚行きとなる列車がある。これは東急多摩川線に独自の車両基地がなく、全列車に池上線の雪が谷大塚駅にある雪が谷検車区に所属する車両が用いられているため、車両の入出庫に伴う運用としてのものでもある。ただし、駅掲示の時刻表上はこれらの列車もすべて「蒲田」行きとなっている。
多摩川駅と蒲田駅を除くすべての中間駅において、上下線ホーム、および改札が分離されており、両ホームを連絡する跨線橋、地下通路、踏切等がなく、駅構内でホーム間を往来できないことが特徴である。
ワンマン運転を行っている。転落や車両との接触を防止するため、当線すべての駅のホームにセンサー付固定式ホーム柵、監視モニターが設置されている。また、全駅がバリアフリーに対応している。
多摩川駅に1本、蒲田駅に2本の車両の夜間停泊が行われている。
目蒲線時代には奥沢駅に所在した雪が谷検車区奥沢班に配置されていた4両編成で運行されていたため、踏切に挟まれてホームが3両分のみだった鵜の木駅を除き、ホームは4両編成分の長さがある。また、同駅では1両をドアカットしていた。
池上線と共通運用になっている。2022年6月現在の使用車両は以下の通り。
田園調布開発のために設立された目黒蒲田電鉄が最初に開業した路線の一部で、東急の発祥路線でもある。
※駅の新設・廃止・改称は多摩川 - 蒲田間の駅のみ記す。分割前は「東急目蒲線」も参照。
2007年11月3日から11日まで、「古代から未来へ 10分7駅多摩川線」をテーマに、東急多摩川線の全駅で「多摩川アートラインプロジェクト アートウィーク2007」が展開された。これは、この路線を未来の鉄道とイメージして浅葉克己を始めとする17名の有名アーティストが個性的なアートを繰り広げるものである。これに併せて、同月30日まで7700系7903Fが「レインボートレーン」として運転されていた。
2008年11月2日と3日には、7000系による貸切列車が東急多摩川線で運転され、車内で演劇が行われた。
エイトライナー構想や蒲蒲線構想では、当路線も組み込まれている。これに関連して当路線の大幅改良工事が計画されており、現在18m車両4両編成対応を20m車両10両編成対応に拡大することが検討されている。
東急多摩川線での遺失物は、多摩川 - 鵜の木間では目黒駅、下丸子 - 蒲田間では五反田駅に収集される。
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東急多摩川線(とうきゅうたまがわせん)は、多摩川駅と蒲田駅とを結ぶ東急電鉄が運営する鉄道路線である。全区間が東京都大田区内に所在する。 路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは臙脂色、路線記号はTM。
|
{{混同|東急玉川線}}
<!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください-->
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tokyu Railways.svg|baseline|20px|東急電鉄|link=東急電鉄]] 東急多摩川線
|路線色=#ae0378
|ロゴ=File:Tokyu TM line symbol 06.svg|20px
|ロゴサイズ=40px
|画像=Tokyu-Tamagawa-Line_Series7000-7307.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=東急多摩川線を走行する[[東急7000系電車 (2代)|7000系]]<br>(2021年12月 [[沼部駅]] - [[鵜の木駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]][[大田区]]
|起点=[[多摩川駅]]
|終点=[[蒲田駅]]
|駅数=7駅
|路線記号=TM
|路線色3=臙脂色
|開業=[[1923年]][[3月11日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東急電鉄]]
|運営者=東急電鉄
|車両基地=
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=5.6 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#東急型ATS|東急型ATS]]
|最高速度=80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="kiseki">三好好三『京浜東北線100年の軌跡』JTBパブリッシング、2015年 p.186</ref>
|路線図=File:Tokyu Corporation Linemap.svg
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ae0378}}
{{BS-table}}
{{BS3|tBS2+l|tBS2c4|O2=tBS2+l|tBS2+r|||[[東急東横線|東横線]]・[[東急目黒線|目黒線]]|}}
{{BS3|tSTRe|tSTRe|tSTRe||||}}
{{BS3|hSTR|tSTRa|hSTR||||}}
{{BS3|hBHF|O1=HUBaq|tBHF|O2=HUBq|hBHF|O3=HUBeq|0.0|TM01 [[多摩川駅]]||}}
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{{BS|KRZu|||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[横須賀線]]|}}
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{{BS3|exKRW+l|eKRWgr|||||}}
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{{BS3|exSTR|hSTRa|hSTRa||||}}
{{BS3|exSTRl|exKBHFeq|O2=hKBHFe|P2=HUBaq|hKBHFe|O3=HUBlg|5.6|TM07 [[蒲田駅]]||}}
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{{BS3||STRq|STRq|||JR東:[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]|}}
|}
|}
'''東急多摩川線'''(とうきゅうたまがわせん)は、[[多摩川駅]]と[[蒲田駅]]とを結ぶ[[東急電鉄]]が運営する[[鉄道路線]]である。全区間が[[東京都]][[大田区]]内に所在する。
[[路線図]]や[[駅ナンバリング]]で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|路線カラー]]は臙脂色、路線記号は'''TM'''。
== 概要 ==
本路線は、かつての[[東急目蒲線|目蒲線]]の一部であった。[[東急東横線|東横線]][[田園調布駅]] - [[武蔵小杉駅]]間の[[複々線]]化工事が完成し、[[2000年]][[9月26日]]から[[目黒駅]]において営団地下鉄([[帝都高速度交通営団]]、現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ南北線|南北線]]および[[都営地下鉄]][[都営地下鉄三田線|三田線]]([[東京都交通局]])との[[直通運転|相互直通運転]]を実施するため、目蒲線において路線再編が行われ、同年[[8月6日]]に目黒駅 - 武蔵小杉駅間を「目黒線」とし、残った多摩川駅 - 蒲田駅間が分離・区間運転化されて成立した。
なお、東急がかつて運営していた'''[[東急玉川線|玉川線]]'''(いわゆる'''玉電''')とは無関係である。
=== 名称について ===
この路線は、単に「多摩川線」ではなく会社の略称「東急」を含めた「'''東急多摩川線'''」が届出上の正式な路線名称であり<ref group="*">同様の例として自社路線では[[東急新横浜線]]が該当するほか、他社では[[西武秩父線]]、[[西武有楽町線]]、[[相鉄新横浜線]]、[[阪神なんば線]]、[[JR東西線]]などがある。</ref>、車内の自動放送や路線図などにおいても必ずこのように呼ばれている。これは、名称設定時にすでに都内に存在していた[[西武多摩川線]](こちらは多摩川線が正式名称)との混同を防ぐためであると同時に、同じ読み方である「玉川線」および「新玉川線」という名称がかつて東急に存在しており、それを区別するためでもある。なお、駅の一部案内や[[東急池上線|池上線]]蒲田駅の乗り換え案内放送(車内および蒲田駅ホームとも)では単に「多摩川線」と案内されることもあり、[[東急7000系電車 (2代)|新7000系]]と[[東急1000系電車#1000系1500番台|1000系1500番台]]の前面の路線名表示では「多摩川線」と表記される。
なお、新玉川線は[[2000年]][[8月6日]]に東急多摩川線の成立と同時に[[東急田園都市線|田園都市線]]に編入された。これは、運行形態上は一つの路線であるにもかかわらず、[[二子玉川駅]]を境に異なる二つの名称が存在することで利用者から「わかりづらい」との声を反映した結果である<ref name="tokyu20000328">{{PDFlink|[http://www.tokyu.co.jp/file/000328.pdf 目蒲線の運行系統変更による線名変更などを実施 平成12年8月6日(日)から]}} - 東京急行電鉄、2000年3月28日</ref>。
=== 路線データ ===
* 路線距離:5.6km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:7駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#東急型ATS|東急型ATS]]
* 最高速度:80km/h<ref name="kiseki" />
== 運行形態・設備 ==
東急多摩川線の[[列車種別]]は[[各駅停車]]のみで、[[東急池上線|池上線]]と共通の18m車3両編成で運行される<ref name="PIC2004-7EX">鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2004年7月臨時増刊号特集「東京急行電鉄」145・146頁記事。</ref> 。基本は[[多摩川駅]] - [[蒲田駅]]間の折り返し運行で途中駅での折り返しはないが、一部に蒲田駅を経由して池上線と直通して五反田行きや、雪が谷大塚行きとなる列車がある<ref name="PIC2004-7EX"/>。これは東急多摩川線に独自の車両基地がなく、全列車に池上線の[[雪が谷大塚駅]]にある[[雪が谷検車区]]に所属する車両が用いられているため、車両の入出庫に伴う運用としてのものでもある<ref name="PIC2004-7EX"/>。ただし、駅掲示の時刻表上はこれらの列車もすべて「蒲田」行きとなっている。
多摩川駅と蒲田駅を除くすべての中間駅において、上下線[[プラットホーム#相対式ホーム|ホーム]]、および[[改札]]が分離されており、両ホームを連絡する[[跨線橋#駅構内の跨線橋|跨線橋]]、地下[[通路]]、[[踏切#構内踏切|踏切]]等がなく、駅構内でホーム間を往来できないことが特徴である。
[[ワンマン運転]]を行っている<ref group="*">なお、2023年時点で東急の路線でワンマン運転を実施している路線は、池上線と東急多摩川線の他は[[東急目黒線|目黒線]]と[[東急こどもの国線|こどもの国線]]、[[東急東横線|東横線]]のみである。</ref>。転落や車両との接触を防止するため、当線すべての駅の[[プラットホーム|ホーム]]に[[プラットホーム#ホームセンサー|センサー]]付固定式[[プラットホーム#柵|ホーム柵]]<ref>[http://ii.tokyu.co.jp/homedoor/ ぞくぞくと、ホームドア] - 東急電鉄</ref>、監視モニターが設置されている。また、全駅が[[バリアフリー]]に対応している。
多摩川駅に1本、蒲田駅に2本の車両の[[夜間滞泊|夜間停泊]]が行われている<ref name="PIC2004-7EX"/>。
目蒲線時代には[[奥沢駅]]に所在した[[奥沢検車区|雪が谷検車区奥沢班]]に配置されていた4両編成<!--奥沢検車区時代は3両編成-->で運行されていたため、[[踏切]]に挟まれてホームが3両分のみだった[[鵜の木駅]]を除き、ホームは4両編成分の長さがある。また、同駅では1両を[[ドアカット]]していた。
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ファイル:Tokyu kamata sta.JPG|蒲田駅では東急多摩川線(左)と池上線(右)が接続する。東急多摩川線は[[多摩川]]に沿って北西に向かう。
ファイル:Yaguchi-no-watashi_Station_Old_Platform.jpg|目蒲線時代に4両目が停止していた矢口渡駅のホーム部分。現在は立ち入り禁止になっている。
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== 使用車両 ==
池上線と共通運用になっている。2022年6月現在の使用車両は以下の通り。
* [[東急1000系電車|1000系]] - 3両編成7本(21両)
* [[東急1000系電車#1000系1500番台|1000系1500番台]] - 3両編成9本(27両)
* [[東急7000系電車 (2代)|7000系]] - 3両編成15本(45両)
**[[東急5000系電車 (2代)|5000系]]をベースとした池上線と共通の新型車両。[[2007年]]度は3両編成2本(計6両)を導入し、第1編成は<!-- 「年」と「年度」は意味が全く違う -->2007年(平成19年)[[12月25日]]から池上線において営業運転を開始した<ref name="RAIL FAN671">鉄道友の会「RAIl FAN」No.671「2007年度 東急総決算」記事。</ref> 。なお、東急多摩川線での営業運転は2008年(平成20年)1月9日からである<ref name="RAIL FAN671"/>。当初は[[2011年]]度までに3両編成19本(計57両)を製造予定であった<ref>[http://www.tokyu.co.jp/file/071213-2.pdf PDFファイルによる公式発表]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20071028074857/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/poster/Ikegami-Tamagawa-newcar.html 駅で掲出中のポスター](東京急行電鉄、2007年10月28日時点での[[インターネットアーカイブ]])</ref>が、その後の計画変更により1000系を改造して投入する方針としたことから、在籍車両数は予定増備数を下回っていた<ref>交友社「鉄道ファン」2012年8月号付録「大手私鉄車両ファイル2012」。</ref>。2017年より増備が再開されている。
=== 過去に運用された車両 ===
{{Main2|目蒲線時代の車両|東急目蒲線#車両}}
* [[東急7700系電車|7700系]] - [[2018年]](平成30年)11月に運転を終了した。
* [[東急7600系電車|7600系]] - [[2015年]](平成27年)2月に運転を終了した。
== 歴史 ==
田園調布開発のために設立された[[目黒蒲田電鉄]]が最初に開業した路線の一部で、東急の発祥路線でもある。
※駅の新設・廃止・改称は多摩川 - 蒲田間の駅のみ記す。分割前は「[[東急目蒲線]]」も参照。
* [[1923年]]([[大正]]12年)
** [[3月11日]] - 目黒線目黒 - 丸子(現在の沼部)間開業。
** [[10月]] - 目黒不動前駅を不動前駅に改称。
** [[11月1日]] - 丸子 - 蒲田間開業(全通)。目蒲線に改称。
* [[1924年]](大正13年)
** [[2月29日]] - 鵜ノ木駅(現在の鵜の木駅)開業。
**[[4月1日]] - 新田駅を武蔵新田駅に改称。
** [[5月2日]] - 下丸子駅開業。
** [[6月1日]] - 丸子駅を武蔵丸子駅に改称。
* [[1925年]](大正14年)[[10月12日]] - 矢口(現在の矢口渡) - 蒲田間に本門寺道駅開業。
* [[1926年]](大正15年)[[1月1日]] - 多摩川駅を丸子多摩川駅に、武蔵丸子駅を沼部駅に改称。
* [[1930年]]([[昭和]]5年)[[5月21日]] - 矢口駅を矢口渡駅に改称。
* [[1931年]](昭和6年)1月1日 - 丸子多摩川駅を多摩川園前駅に改称。
* [[1936年]](昭和11年)1月1日 - 本門寺道駅を道塚駅に改称。
* [[1945年]](昭和20年)
** 6月1日 - 矢口渡 - 道塚 - 蒲田間休止(1946年廃止)。
** [[8月14日]] - 矢口渡 - 蒲田間の新線開業。
* [[1955年]](昭和30年)[[11月5日]] - 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1966年]](昭和41年)[[1月20日]] - 鵜ノ木駅を鵜の木駅に改称。
* [[1989年]](平成元年)3月18日 - 3両編成を4両編成化。なお、池上線は3両編成のまま。
* [[2000年]]([[平成]]12年)
** [[7月3日]] - 多摩川での系統分離に備え、一部列車が3両編成化となる<ref>{{Cite journal |和書 |title=目蒲線の一部列を3両編成で運行 |journal =HOT ほっと TOKYU |date=2000-07-01 |issue =221 |url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/2000/2000_07.pdf |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2015-01-17 |format=pdf}}</ref>。
** [[8月6日]] - 多摩川 - 蒲田間を分離し、東急多摩川線に改称。多摩川園駅を多摩川駅に改称。ワンマン運転開始。池上線との車両共通化で4両編成から3両編成となる。
* [[2005年]](平成17年)[[6月10日]] - 日中の平均運転間隔を7分30秒から6分に短縮し増発を行う。
* [[2007年]](平成19年)
** [[11月3日]] - 「古代から未来へ」をテーマに多摩川アートラインプロジェクト アートウィーク2007を開催(11日まで)。
* [[2008年]](平成20年)
** [[1月9日]] - 新型車両7000系(2代)が東急多摩川線において営業運転開始<ref name="RAIL FAN671"/>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[東京都]][[大田区]]内に所在。
* [[駅ナンバリング|駅番号]]は、[[2012年]]2月上旬から順次導入<ref>[http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/120126-1.html 東急線全駅で駅ナンバリングを導入します] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121119182520/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/120126-1.html |date=2012年11月19日 }} - 東京急行電鉄、2012年1月26日、2012年1月26日閲覧。</ref>。
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!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #ae0378;"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px #ae0378;"|駅名
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|[[多摩川駅]]
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|[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線|東横線]] (TY09) ・[[ファイル:Tokyu MG line symbol.svg|18px|MG]] [[東急目黒線|目黒線]] (MG09)
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|
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|
|-
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|[[蒲田駅]]
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|東急電鉄:[[ファイル:Tokyu IK line symbol.svg|18px|IK]] [[東急池上線|池上線]] (IK15)(一部列車直通運転)<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 17)
|}
== 多摩川アートラインプロジェクト ==
{{main|多摩川アートラインプロジェクト}}
[[2007年]][[11月3日]]から[[11月11日|11日]]まで、「古代から未来へ 10分7駅多摩川線」をテーマに、東急多摩川線の全駅で「多摩川アートラインプロジェクト アートウィーク2007」が展開された。これは、この路線を未来の鉄道とイメージして[[浅葉克己]]を始めとする17名の有名アーティストが個性的なアートを繰り広げるものである。これに併せて、同月[[11月30日|30日]]まで[[東急7700系電車|7700系]]7903Fが「レインボートレーン」として運転されていた。
[[2008年]][[11月2日]]と3日には、[[東急7000系電車 (2代)|7000系]]による貸切列車が東急多摩川線で運転され、車内で演劇が行われた。
== エイトライナー・蒲蒲線との関連 ==
[[エイトライナー]]構想や[[蒲蒲線]]構想では、当路線も組み込まれている。これに関連して当路線の大幅改良工事が計画されており、現在18m車両4両編成対応を20m車両10両編成対応に拡大することが検討されている。
== 遺失物 ==
東急多摩川線での[[遺失物]]は、多摩川 - 鵜の木間では[[目黒駅]]、下丸子 - 蒲田間では[[五反田駅]]に収集される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[多摩川アートラインプロジェクト]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Tōkyū Tamagawa Line}}
* [https://www.tokyu.co.jp/railway/data/train_line/tm.html 東急多摩川線 路線情報] - 東急電鉄
* [https://www.tokyu.co.jp/railway/station/tm.html 東急多摩川線 各駅情報] - 東急電鉄
{{東急電鉄の路線}}
{{デフォルトソート:とうきゆうたまかわせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|とうきゆうたまかわせん]]
[[Category:東急電鉄の鉄道路線|とうきゆうたまかわせん]]
[[Category:東京都の交通]]
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11,878 |
一等車
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一等車(いっとうしゃ、英: First Class Car)は、鉄道車両の等級の一つ。1等車とも記す。接客設備(アコモデーション)の違いにより、展望車を含む座席車と寝台車に大別できる。
ヨーロッパの鉄道では、19世紀中頃に一等から三等までの三等級制が定着した。このうち一等車は高級馬車を模して設計されており、貨車同然の三等車やかろうじて雨風をしのげる二等車と差がつけられていた。(詳細は鉄道車両の歴史#初期の客車と貨車を参照)。1920年代になるとワゴンリー社のプルマン車が一部の特急列車に連結された。このプルマン車は通常の一等車(向かい合わせ3人がけシートの区分座席車)に比べて、一人がけのソファとテーブルを配し、定員は24名程度という豪華な車両で、中には個室やキッチンを備えた車両も存在した。第二次世界大戦後には三等級制から二等級制に移行し、ビジネス客を主な対象とした一等専用の国際特急列車であるTEEが登場した。1970年代以降は一等専用列車の需要は衰え、多くの優等列車が一等車と二等車の双方を連結するようになった。
現在でもヨーロッパ各国の列車には、一等車が普通列車を含む多くの列車に連結されている。
中華人民共和国においては「軟座車」 (soft class) ・「硬座車」 (hard class) といわれる区分があり、それぞれ「一等車」・「二等車」に相当する。また、台湾の鉄道では、台湾鉄路管理局が運行する莒光号の一部と、台湾高速鉄道に一等車に相当する「商務車」 (business class) という車両が連結されている。
アメリカ合衆国のアムトラックでは、高速列車「アセラ・エクスプレス」にファーストクラス車が一両連結されており、食事のシートサービスが行われている。このほかの列車にはファーストクラスの設定はないが、一部列車では普通席にあたる「コーチ」より上等の「ビジネスクラス」席が設けられている。
日本においては、国鉄などが定めた旅客列車の車両にあった等級の一つ。古くは私鉄でも国鉄と同様の区分を設けていたほか、戦後になっても国鉄から乗り入れる車両を受け入れるないしは国鉄と相互乗り入れしている会社が設けていた。時期により以下のとおり三等級制および二等級制の時代の二つに分類される。
明治以来の三等級制下においては、最上級位車両。車体表記はイ。戦前には窓下に白色の帯を塗装しており、優等車両の象徴となっていたが、太平洋戦争後に日本に進駐した連合国軍がこの塗装を専用塗装として専有したため、以後はクリーム色が用いられた。
1872年の鉄道開業の際に、客車は3等級とされ、上等・中等・下等に区分したが、1897年(明治30年)11月に一等・二等・三等へ変わった。「下等」の名称が乗客の感情を害するためであったと報じられている。また客車の帯色の塗りわけは1896年関西鉄道が採用、官鉄も1897年に上記と同時に実施した。一等寝台車については、A寝台#等級制時代を参照されたい。
なお称号規定上は一等車が「イ」、一等寝台車が「イネ」と区別されるので、厳密に言えば一等寝台車は狭義の一等車(座席車)とは別カテゴリである。また一等展望車「イテ」は、一等食堂車「イシ」などと同様で、一等車と展望車の合造車を意味し、一等の展望車ではない。一等座席車のうちその多くが、現在でいうロングシート座席であった。
1919年10月1日から、需要減少のためそれまで小区間運転以外おおむね連結されていた一等車が、主要幹線の急行や直行列車の一部にのみ連結されることとなった。1934年には東海道・山陽本線の特急・急行列車に用いられる展望室付車両および一等寝台車以外は廃止され、それ以外の余った一等車は貴賓・要人用の車両として一部が残されたほか、二等車に格下げされたものもあった。ただし、山陽本線のバイパス兼軍事輸送上の重要路線として1935年に全通した呉線は一等車を連結した急行列車が山陽本線から直通することになり、九州島内も関門トンネル開通以降は本州直通列車の一等車として復活する。
1944年4月1日、決戦非常措置要綱に基づき寝台車や食堂車とともに一等車の連結が廃止された。
第二次世界大戦直後は休止状態が続いて、一般に利用できる一等車はなかった。ただしアメリカ軍の進駐により遊休優等車が接収されたのみならず、他の客車も様々な車種に改造して利用に供されたため、軍用客車に関しては、一等車、一等寝台車の形式がむしろ増えた。
日本人も利用できる一等寝台車は1948年から復活した。11月10日夜の東京 - 大阪間急行に用いられた新製のマイネ40がそれである。また接収を免れた展望車が1949年に復活した戦後初の特急「へいわ」に充当された。しかし、一等寝台車は利用者の航空機への移行による利用率の低下に伴い、1955年に全車が二等寝台車に格下げされた(A寝台の項を参照)。
この結果、国鉄の一等車は東海道本線の特急「つばめ」・「はと」の一等展望車と、外国人団体観光客向けに皇室用の供奉車を転用改造した座席車マイ38形および1953年の改番で90番台形式を付された元特別職用車の特別営業客車のみとなった。一等展望車以外に残ったものは表の通り。
1960年6月1日東海道本線特急の電車化に伴い、定期での一等展望車の使用が終了した(実質的に旧一等車の運用終了)。これを受けて7月1日に二等級制に移行、旧一等展望車と外国人客向け一等車はともに旧二等車と統合されて新しい二等級制の一等車(次項参照)になった。形式もイからロに修正されたが、以後ほとんど使用されず、1960年代前半に廃車となった。
1960年以降における二等級制時の上級位の車両。それ以前の二等車が中心であるが、少数ながら前項の車両も含まれた。記号表記はロ。
車体には側面窓下に淡緑色の帯。ドアのそばには「1」の表記もあった。なお、一部客車には「1」の表記の代わりに客用扉の最上部に「1等」の表示灯が取り付けられた。
なお1960年ごろは多くの線区で利用が少なくても普通列車にも一等車が連結されていたが、当時は一等車が運転されているだけで、乗っても乗らなくても官庁では一等の出張旅費が出ることがあり、強い陳情が行われたためだとされる。
この時代の一等車には、座席配置としては座席間隔の広い固定クロスシートや転換または回転クロスシートを装備した車両(並ロ)とリクライニングシートを装備した車両(旧特別二等車、特ロ)が混在していたが、前者は設備の見劣りから、近郊形電車113系のサロ111形・サロ110形を除き1968年までに全車二等車(現行の普通車)に格下げされた。なお、サロ110形は準急形・東海形と称された153系のサロ153形を113系に改造・編入したものである。したがって旧並ロの装備でのちのグリーン車は上記サロ111形とサロ110形以外存在しないが、これは使用線区でのグリーン車の利用率が非常に高く、豪華さよりも定員を増やして着席需要に応える方が重要であったことによる。
1969年5月10日のモノクラス制移行後は、グリーン車と呼ばれるようになった。
その後、イについては、1982年に大井川鉄道(現・大井川鐵道)の展望車としてスイテ82形客車(スイテ82 1)が製造され、1987年にJR西日本の交通科学館(のちの交通科学博物館)で静態保存されていたマイテ49形客車(マイテ49 2)が車籍復活した。ただし、スイテ82形は当初から一等車として作られた車両ではなく、改造車である。
1950年に製造されたマイネ41を最後に、製造当初から形式名称に「イ」がつく車両は姿を消していた が、2013年、JR九州のななつ星 in 九州(マイ77・マイネ77・マイネフ77)が63年ぶりに新造された。2017年6月13日、JR西日本が運行開始した「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」(キイテ87・キサイネ87)も形式名称に「イ」を付している。
1969年より日本国有鉄道ではモノクラス制を採用したことから、運賃、特急・急行料金は一本化されており、グリーン車利用の場合は特別料金を払うこととなっているが、等級制時代には、運賃および特急・急行料金は等級別に異なっていた。
また切符の色も等級別に異なっており、客車の帯の色から一等は「白切符」(実際には黄色)、二等は「青切符」、三等は「赤切符」と呼ばれていた。
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"text": "日本人も利用できる一等寝台車は1948年から復活した。11月10日夜の東京 - 大阪間急行に用いられた新製のマイネ40がそれである。また接収を免れた展望車が1949年に復活した戦後初の特急「へいわ」に充当された。しかし、一等寝台車は利用者の航空機への移行による利用率の低下に伴い、1955年に全車が二等寝台車に格下げされた(A寝台の項を参照)。",
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"text": "この結果、国鉄の一等車は東海道本線の特急「つばめ」・「はと」の一等展望車と、外国人団体観光客向けに皇室用の供奉車を転用改造した座席車マイ38形および1953年の改番で90番台形式を付された元特別職用車の特別営業客車のみとなった。一等展望車以外に残ったものは表の通り。",
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] |
一等車は、鉄道車両の等級の一つ。1等車とも記す。接客設備(アコモデーション)の違いにより、展望車を含む座席車と寝台車に大別できる。
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'''一等車'''(いっとうしゃ、{{lang-en-short|First Class Car}})は、[[鉄道車両]]の[[等級 (鉄道車両)|等級]]の一つ。'''1等車'''とも記す。接客設備(アコモデーション)の違いにより、[[展望車]]を含む[[座席車]]と[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]に大別できる。
== 世界における一等車 ==
ヨーロッパの鉄道では、19世紀中頃に一等から三等までの三等級制が定着した。このうち一等車は高級[[馬車]]を模して設計されており、[[貨車]]同然の[[三等車]]やかろうじて雨風をしのげる[[二等車]]と差がつけられていた。(詳細は[[鉄道車両の歴史#初期の客車と貨車]]を参照)。1920年代になると[[国際寝台車会社|ワゴンリー社]]のプルマン車が一部の特急列車に連結された。このプルマン車は通常の一等車(向かい合わせ3人がけシートの[[コンパートメント車|区分座席車]])に比べて、一人がけのソファとテーブルを配し、定員は24名程度という豪華な車両で、中には個室やキッチンを備えた車両も存在した。[[第二次世界大戦]]後には三等級制から二等級制に移行し、ビジネス客を主な対象とした一等専用の国際特急列車である[[TEE]]が登場した。[[1970年代]]以降は一等専用列車の需要は衰え、多くの優等列車が一等車と二等車の双方を連結するようになった。
現在でもヨーロッパ各国の列車には、一等車が普通列車を含む多くの列車に連結されている。
[[中華人民共和国]]においては「軟座車」 (soft class) ・「硬座車」 (hard class) といわれる区分があり、それぞれ「一等車」・「二等車」に相当する。また、[[台湾の鉄道]]では、[[台湾鉄路管理局]]が運行する[[莒光号]]の一部と、[[台湾高速鉄道]]に一等車に相当する「商務車」 (business class) という車両が連結されている。
[[アメリカ合衆国]]の[[アムトラック]]では、高速列車「[[アセラ・エクスプレス]]」にファーストクラス車が一両連結されており、食事のシートサービスが行われている。このほかの列車にはファーストクラスの設定はないが、一部列車では普通席にあたる「コーチ」より上等の「ビジネスクラス」席が設けられている。
== 日本での一等車 ==
日本においては、[[日本国有鉄道|国鉄]]などが定めた[[旅客列車]]の車両にあった等級の一つ。古くは[[私鉄]]でも国鉄と同様の区分を設けていたほか、戦後になっても国鉄から乗り入れる車両を受け入れるないしは国鉄と相互乗り入れしている会社が設けていた。時期により以下のとおり三等級制および二等級制の時代の二つに分類される。
=== 三等級制時代(1960年以前)の一等車(旧一等) ===
==== 明治から昭和戦前 ====
[[ファイル:Inside-of-japanese-1st-class-PC.jpg|thumb|right|250px|大正時代の一等車の内部]]
[[ファイル:JRWest PC maite492 inside.jpg|thumb|right|250px|昭和初期の一等車の内部の例(マイテ49形)]]
明治以来の三等級制下においては、最上級位車両。車体表記は'''イ'''<ref group="注釈">これは「[[いろは歌]]」に準拠しており、一等車はイ、二等車はロ、三等車はハとなっている。</ref>。戦前には窓下に白色の帯を塗装しており、優等車両の象徴となっていたが、[[太平洋戦争]]後に日本に進駐した[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍がこの塗装を専用塗装として専有したため、以後はクリーム色が用いられた。
[[1872年]]の[[日本の鉄道開業|鉄道開業]]の際に、客車は3[[等級 (鉄道車両)|等級]]とされ、上等・中等・下等に区分したが、[[1872年-1907年の国鉄ダイヤ改正#1898年(明治31年)|1897年]](明治30年)11月に一等・二等・三等へ変わった。「下等」の名称が乗客の感情を害するためであったと報じられている<ref group="注釈">厳密には続いて1898年1月に変更した山陽鉄道についてであるが、官鉄も同様であろう。長船、p.128。</ref>。また客車の帯色の塗りわけは1896年[[関西鉄道]]が採用、官鉄も1897年に上記と同時に実施した。一等寝台車については、[[A寝台#等級制時代]]を参照されたい。
なお称号規定上は一等車が「イ」、一等寝台車が「イネ」と区別されるので、厳密に言えば一等寝台車は狭義の一等車(座席車)とは別カテゴリである。また一等展望車「イテ」は、一等食堂車「イシ」などと同様で、一等車と[[展望車]]の合造車を意味し、一等の展望車ではない。一等座席車のうちその多くが、現在でいう[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート座席]]であった。
1919年10月1日から、需要減少のためそれまで小区間運転以外おおむね連結されていた一等車が、主要幹線の急行や直行列車の一部にのみ連結されることとなった<ref>『大正8年度鉄道院年報』1921年(大正10年)、32頁。</ref>。[[1934年]]には[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線]]の[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車]]に用いられる[[展望車|展望室付車両]]および[[A寝台|一等寝台車]]以外は廃止され、それ以外の余った一等車は貴賓・要人用の車両として一部が残されたほか、二等車に格下げされたものもあった。ただし、山陽本線のバイパス兼軍事輸送上の重要路線として[[1935年]]に全通した[[呉線]]は一等車を連結した急行列車が山陽本線から直通することになり、九州島内も[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]開通以降は本州直通列車の一等車として復活する。
[[1944年]]4月1日、[[決戦非常措置要綱]]に基づき[[寝台車]]や[[食堂車]]とともに一等車の連結が廃止された<ref>{{Cite web|和書|date= 2020-08-17|url=https://bunshun.jp/articles/-/39684?page=2 |title=「鉄道旅行は不要不急だ」「機関士が運転台で撃たれて死んだ」戦争中、鉄道マンはいかに列車を走らせた? |publisher=文春オンライン |accessdate=2020-08-16}}</ref>。
====戦後====
[[第二次世界大戦]]直後は休止状態が続いて、一般に利用できる一等車はなかった。ただしアメリカ軍の進駐により遊休優等車が接収されたのみならず、他の客車も様々な車種に改造して利用に供されたため、軍用客車に関しては、一等車、一等寝台車の形式がむしろ増えた。
{| class="wikitable" style="float:right; margin:1em;"
|+ 三等級制度末期の[[展望車]]をのぞく一等車一覧
|-
!車両<br/>形式!!在籍<br/>両数!!その他概要
|-
|[[国鉄スハ32系客車#一等車(改造車)|マイ38]]||align=right|2両||1人掛け[[鉄道車両の座席#リクライニングシート(自在腰掛)|リクライニングシート]]車、元[[皇室用客車#供奉車|供奉車]]
|-
|[[国鉄オハ35系客車#特別職用車|マイフ97]]||align=right|1両||rowspan="3"|特別営業客車<br />(元[[特別職用車]])
|-
|[[国鉄スハ32系客車#一等展望車(二重屋根車)|マイ98]]||align=right|1両
|-
|[[国鉄オハ31系客車#進駐軍用改造車|スイ99]]||align=right|1両
|}
日本人も利用できる一等寝台車は1948年から復活した。11月10日夜の東京 - 大阪間急行に用いられた新製の[[国鉄マロネ40形客車|マイネ40]]がそれである<ref>星晃「戦後の寝台車事情」『回想の旅客車』下、学研、2008年、52頁。</ref>。また接収を免れた展望車が[[1949年]]に復活した戦後初の特急「へいわ」に充当された。しかし、一等寝台車は利用者の航空機への移行による利用率の低下に伴い、[[1955年]]に全車が二等寝台車に格下げされた([[A寝台#戦後の展開|A寝台]]の項を参照)。
この結果、国鉄の一等車は[[東海道本線]]の[[特別急行列車|特急]][[つばめ_(列車)#戦後・国鉄「つばめ」「はと」|「つばめ」・「はと」]]の一等展望車と、外国人団体観光客向けに[[皇室用客車|皇室用の供奉車]]を転用改造した座席車マイ38形および1953年の改番で90番台形式を付された元[[特別職用車]]の特別営業客車のみとなった。一等展望車以外に残ったものは表の通り。
[[1960年]][[6月1日]]東海道本線特急の[[電車]]化に伴い、定期での一等展望車の使用が終了した(実質的に旧一等車の運用終了)。これを受けて7月1日に二等級制に移行、旧一等展望車と外国人客向け一等車はともに旧二等車と統合されて新しい二等級制の一等車(次項参照)になった。形式も'''イ'''から'''ロ'''に修正されたが、以後ほとんど使用されず、1960年代前半に廃車となった。
=== 二等級制時代(1960年 - 1969年)の一等車(新一等) ===
[[1960年]]以降における二等級制時の上級位の車両。それ以前の[[二等車]]が中心であるが、少数ながら前項の車両も含まれた。記号表記は'''ロ'''<ref group="注釈">車両等級は格上げされたが、車両形式は格上げされず、一等車(のちのグリーン車)がロ、二等車(のちの普通車)がハとなった。車両等級格上げと同時に、車両形式も格上げしないとおかしいという意見も出たが、表記の書き換えが面倒(実際には旅客車全般の表記を書き替えねばならず莫大なコストがかかる)ということで格上げしなかったという。</ref>。
車体には側面窓下に淡緑色の帯。ドアのそばには「1」の表記もあった。なお、一部客車には「1」の表記の代わりに客用扉の最上部に「1等」の表示灯が取り付けられた。
なお1960年ごろは多くの線区で利用が少なくても普通列車にも一等車が連結されていたが、当時は一等車が運転されているだけで、乗っても乗らなくても官庁では一等の出張旅費が出ることがあり、強い陳情が行われたためだとされる<ref>『鉄道ピクトリアル』2003年12月増刊号 p.48</ref>。
この時代の一等車には、[[鉄道車両の座席|座席配置]]としては座席間隔の広い固定クロスシートや転換または回転クロスシートを装備した車両('''並ロ''')と[[リクライニングシート]]を装備した車両(旧[[特別二等車]]、'''特ロ''')が混在していたが、前者は設備の見劣りから、[[近郊形車両|近郊形電車]][[国鉄113系電車|113系]]のサロ111形・サロ110形を除き1968年までに全車二等車(現行の[[普通車 (鉄道車両)|普通車]])に格下げされた。なお、サロ110形は[[急行形車両|準急形]]・[[東海 (列車)|東海形]]と称された[[国鉄153系電車|153系]]のサロ153形を113系に改造・編入したものである。したがって旧並ロの装備でのちのグリーン車は上記サロ111形とサロ110形以外存在しないが、これは使用線区でのグリーン車の利用率が非常に高く、豪華さよりも定員を増やして着席需要に応える方が重要であったことによる。
{{See also|国鉄113系電車#グリーン車}}
[[1969年]][[5月10日]]のモノクラス制移行後は、[[グリーン車]]と呼ばれるようになった。
=== モノクラス制時代(1970年 - )の一等車 ===
その後、'''イ'''については、[[1982年]]に大井川鉄道(現・[[大井川鐵道]])の[[展望車]]として[[大井川鉄道スイテ82形客車|スイテ82形客車]](スイテ82 1)が製造され、[[1987年]]に[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の交通科学館(のちの[[交通科学博物館]])で静態保存されていた[[国鉄スハ32系客車|マイテ49形客車]](マイテ49 2)が車籍復活した<ref name="trivia222">[https://news.mynavi.jp/article/trivia-222/ 鉄道トリビア(222)JR九州「ななつ星 in 九州」で63年ぶり復活の「イ」とは? - マイナビニュース]</ref>。ただし、スイテ82形は当初から一等車として作られた車両ではなく、改造車である。
[[1950年]]に製造された[[国鉄マロネ41形客車|マイネ41]]を最後に、製造当初から形式名称に「イ」がつく車両は姿を消していた<ref name="trivia222" /> が、[[2013年]]、[[九州旅客鉄道|JR九州]]の[[ななつ星 in 九州]](マイ77・マイネ77・マイネフ77)が63年ぶりに新造された<ref name="trivia222" />。[[2017年]][[6月13日]]、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が運行開始した「[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]]」(キイテ87・キサイネ87)も形式名称に「イ」を付している<ref>[http://newswitch.jp/p/8885 2017年05月02日 「四季島」VS「瑞風」豪華列車、個性競い合う] 『[[日刊工業新聞]]』「ニュースイッチ」 明豊</ref>。
=== 運賃・料金 ===
1969年より[[日本国有鉄道]]ではモノクラス制を採用したことから、運賃、特急・急行料金は一本化されており、[[グリーン車]]利用の場合は[[グリーン券|特別料金]]を払うこととなっているが、等級制時代には、運賃および特急・急行料金は等級別に異なっていた。
:例えば1960年以前であれば、三等運賃・料金を基準とすると、二等運賃・料金はおおむねその2倍、一等運賃は二等運賃の2倍、一等特急料金は三等の3倍が収受されることになっていた<ref group="注釈">ただし、実際には一・二等運賃や料金には[[通行税]]2割が課せられていたので、一等料金は三等の3.6倍の金額になった。(日本交通公社『時刻表』1959年7月号による)</ref>。 なお、この倍率は採用時期・採用会社によって相当異なっており、国鉄でも例えば1950年4月1日改定以前は、二等が三等の3倍であった<ref>星晃『回想の旅客車』上、p.67。</ref>。
また切符の色も等級別に異なっており、客車の帯の色から一等は「白切符」(実際には黄色)、二等は「青切符」、三等は「赤切符」と呼ばれていた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 長船友則『山陽鉄道物語―先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』、JTBパブリッシング、2008年。
* かわぐちつとむ『食堂車の明治・大正・昭和』、グランプリ出版、2002年 ISBN 4876872406。
* 日本国有鉄道『[[日本国有鉄道百年史]]』全19巻(『百年史』と略し、巻、頁で示す)。
* 星晃『回想の旅客車』上下、学研、2008年。
* 『<small>鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10</small> 国鉄客車開発記 1950』 電気車研究会 2006年
** 星 晃「寝台車戦後版 <small>-戦後における寝台車復活事情について-</small>」(初出:『[[鉄道ピクトリアル]]』1953年9-11月号 No.26 - 28) pp.61 - 72
** 平林喜三造「1等寝台車の廃止」(初出:『鉄道ピクトリアル』1955年8月号 No.49) pp.116 - 117
** [[齋藤雅男]]「『イネ』を始末する」(初出:『鉄道ピクトリアル』1955年8月号 No.49) pp.118 - 120
== 関連項目 ==
* [[ファーストクラス]]
* [[グリーン車#DXグリーン|デラックスグリーン席]] - 通常のグリーン料金とは異なる料金体系の座席。
* [[グランクラス]] - 同上。
* [[ななつ星 in 九州]] - 豪華車両で構成され、形式名称に「イ」がつく。
* [[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]] - 同上。
* [[名鉄特急#料金制度|特別車 (名鉄)]] - 名鉄特急の区分で、英語表記は「FIRST CLASS CAR」
{{国鉄・JRの客車}}
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[[Category:鉄道のサービス]]
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2003-07-20T02:50:02Z
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2023-11-10T07:49:21Z
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11,880 |
香取秀真
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香取 秀真(かとり ほつま、1874年1月1日 - 1954年1月31日)は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。
帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。
千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。1889年、佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)に学ぶ。また和歌を作りはじめ、佐倉集成学校の蔵書『万葉集』を写し作歌を学んだ。この頃から、古代への関心が更に強くなり、昔から作られていた様な仏像などを自分の手で作ってみたいと思うようになる。そこで、秀真は、秀綱に上京したい、と願い出た。秀真が東京に出て仏師になった場合、後を継いで麻賀多神社の宮司になる人がいなくなってしまうが、秀綱自身も、学問に優れた人で、秀真の実力は認めていたため、その願いを聞き入れた。秀真は後に、「私が東京に出て勉強できたのは養父の恩恵によるものです。」と回顧している。麻賀多神社の境内には、現在でも秀真が作った釣り灯篭が奉納されている。
1891年、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に首席で合格、鋳金科へ進み1896年に卒業。卒業制作は『上古婦人立像』。その翌年、佐倉市にある旅館の娘たまと結婚。翌年、長男香取正彦が生まれる。
1898年に「日本美術協会展」で『獅子置物』が褒状1等になり、1900年のパリ万国博覧会で銀賞碑を受けるなど国際的に活躍。しかし実際には作品はなかなか売れず、厳しい生活が続いていた。鋳金を行うには、模型や鋳型を作ったり、金属を溶かしたりするので、一人では出来ず、何人かの弟子とともに生活していた。秀真は妻の嫁入り道具を売り、彼らを養った、といわれている。やがて、極度の貧困生活に耐えかねた妻、たまが、故郷に帰ってしまい秀真は途方に暮れる。そんな時、印西市吉高に住む友人、富井惣之助の家を何度か訪れては、実家や養父に言えぬ心の内を明かしていたという。秀真の身の回りの世話をしていた養母の母である、金子うしの協力もあり、秀真は再起の努力を続け、1903年に再婚。1933年には東京美術学校教授となり学問として母校で「鋳金史」「彫金史」などを講義、多くの後進を育てた。秀真はこの後意欲的に作品を制作。その技術を高め、名実とともに鋳金の世界の第一人者として認められるようになる。また、金工史の研究にも取り組み『日本金工史』『金工史談』『日本鋳工史』など学術著書は40冊を超え、同時に多くの研究論文も残す。また帝展(帝国美術展覧会、現在の日展)の工芸部設置では同郷の津田信夫と共に尽力し、金工(金属工芸)を美術として社会的に認知させる努力をした。1934年12月3日帝室技芸員となる。1953年、これらの功績を認められ文化勲章を叙勲された。同年に文化功労者として顕彰。
伊藤左千夫、長塚節らと、正岡子規門下の根岸短歌会のアララギ派の歌人としても活躍し、1954年の宮中新年歌会始の召人として召歌を奏上することが許された。生前に『天之真榊』など数冊の歌集を出版した。小説家の芥川龍之介、高浜虚子とも親交があったとされる。
1954年に急性肺炎のため81歳で没する。墓所は豪徳寺(東京都世田谷区)。
秀真の作品は「古典派」「伝統派」と呼ばれ、東洋や日本の古い形・紋様を基本としながら、実用性重視の作品を制作していた。
と実用の重要性を述べている。更に
使用することを前提とし、使いやすく、手触りが良く、その上美しいことが重要である、と主張している。古い作品から学び取った事を自分の作品に投影して古典に基づく制作をしていた。伝統派の秀真であるが、新思潮によるフォルムや、新たな想像性を作品に加えることも行っている。例えば秀真の作品の一つである「鳳凰香炉」では、古代からの形に、写実的な動物の顔や手足を組み合わせている。鳳凰の顔はそれまでの鳳凰に比べ、丸みを帯びたフォルムが特徴的である。また「鳩香炉」では、羽には古い紋様が施され、古典的なイメージを保ちながらも、鳩の脚はアール・デコを思わせる直線的な面取りがなされ、新たな主張を意識した作品になっている。
|
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香取 秀真は日本の鋳金工芸作家、歌人である。学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。 帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。
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{{出典の明記|date=2015年3月5日 (木) 20:08 (UTC)}}
{{Infobox 芸術家
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: ほか、多数
* '''[[パリ万国博覧会_(1900年)|パリ万国博覧会]] 銀賞碑'''(1900年)
* '''[[文化勲章]]'''(1953年)
| elected = [[帝室技芸員]]、[[文化功労者]]
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}}
'''香取 秀真'''(かとり ほつま、[[1874年]][[1月1日]] - [[1954年]][[1月31日]])は[[日本]]の[[鋳金]][[工芸]][[作家]]、[[歌人]]である。学問としての金工史を確立し、[[研究者]]としても優れた。日本における美術の工芸家として初の[[文化勲章]]を受章。東京美術学校(現在の[[東京藝術大学]])[[教授]]、[[芸術院]]会員。
帝室博物館(現在の[[東京国立博物館]])技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は[[雅号]]で、本名は秀治郎。金工の[[人間国宝]]である[[香取正彦]]は長男。
== 生涯 ==
[[千葉県]][[印旛郡]]船穂村(現在の[[印西市]])に生まれるも、5歳で[[佐倉市|佐倉]]の[[麻賀多神社 (佐倉市鏑木町)|麻賀多神社]]の宮司、郡司秀綱の[[養子]]となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。[[1889年]]、佐倉集成学校(現在の[[千葉県立佐倉高等学校]])に学ぶ。また[[和歌]]を作りはじめ、佐倉集成学校の蔵書『万葉集』を写し作歌を学んだ。この頃から、古代への関心が更に強くなり、昔から作られていた様な仏像などを自分の手で作ってみたいと思うようになる。そこで、秀真は、秀綱に上京したい、と願い出た。秀真が東京に出て仏師になった場合、後を継いで麻賀多神社の宮司になる人がいなくなってしまうが、秀綱自身も、学問に優れた人で、秀真の実力は認めていたため、その願いを聞き入れた。秀真は後に、「私が東京に出て勉強できたのは養父の恩恵によるものです。」と回顧している。麻賀多神社の境内には、現在でも秀真が作った釣り灯篭が奉納されている。
[[1891年]]、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に首席で合格、[[鋳金]]科へ進み[[1896年]]に卒業。卒業制作は『上古婦人立像』。その翌年、佐倉市にある旅館の娘たまと結婚。翌年、長男[[香取正彦]]が生まれる。
[[1898年]]に「日本美術協会展」で『獅子置物』が褒状1等になり、[[1900年]]の[[パリ万国博覧会_(1900年)|パリ万国博覧会]]で銀賞碑を受けるなど国際的に活躍。しかし実際には作品はなかなか売れず、厳しい生活が続いていた。鋳金を行うには、模型や鋳型を作ったり、金属を溶かしたりするので、一人では出来ず、何人かの弟子とともに生活していた。秀真は妻の嫁入り道具を売り、彼らを養った、といわれている。やがて、極度の貧困生活に耐えかねた妻、たまが、故郷に帰ってしまい秀真は途方に暮れる。そんな時、印西市吉高に住む友人、富井惣之助の家を何度か訪れては、実家や養父に言えぬ心の内を明かしていたという。秀真の身の回りの世話をしていた養母の母である、金子うしの協力もあり、秀真は再起の努力を続け、[[1903年]]に再婚。[[1933年]]には東京美術学校[[教授]]となり学問として母校で「鋳金史」「彫金史」などを講義、多くの後進を育てた。秀真はこの後意欲的に作品を制作。その技術を高め、名実とともに鋳金の世界の第一人者として認められるようになる。また、金工史の研究にも取り組み『日本金工史』『金工史談』『日本鋳工史』など学術著書は40冊を超え、同時に多くの研究論文も残す。また[[日展|帝展]](帝国美術展覧会、現在の[[日展]])の工芸部設置では同郷の[[津田信夫]]と共に尽力し、金工(金属工芸)を[[美術]]として社会的に認知させる努力をした。[[1934年]]12月3日[[帝室技芸員]]となる<ref>『官報』第2378号、昭和9年12月4日。</ref>。[[1953年]]、これらの功績を認められ[[文化勲章]]を叙勲された。同年に[[文化功労者]]として顕彰。
[[伊藤左千夫]]、[[長塚節]]らと、[[正岡子規]]門下の[[根岸短歌会]]の[[アララギ派]]の[[歌人]]としても活躍し、[[1954年]]の宮中新年[[歌会始]]の召人として召歌を奏上することが許された。生前に『天之真榊』など数冊の歌集を出版した。小説家の[[芥川龍之介]]、[[高浜虚子]]とも親交があったとされる。
1954年に急性肺炎のため81歳で没する<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)8頁</ref>。墓所は[[豪徳寺]]([[東京都]][[世田谷区]])。
== 『伝統派』香取秀真 ==
秀真の作品は「古典派」「伝統派」と呼ばれ、東洋や日本の古い形・紋様を基本としながら、実用性重視の作品を制作していた。{{Quotation|工芸は使用するものであるから、使用するのに便利であるとか、或は手に持つものならば持ちいいとかいふやうなことがある。<ref name="名前なし-1">香取秀真と津田信夫の工芸観(前川公秀)より。</ref>}}と実用の重要性を述べている。更に{{Quotation|眼で見たところの美しいものとか、いふことが、第一条件のやうに思はれる。<ref name="名前なし-1"/>}}使用することを前提とし、使いやすく、手触りが良く、その上美しいことが重要である、と主張している。古い作品から学び取った事を自分の作品に投影して古典に基づく制作をしていた。伝統派の秀真であるが、新思潮によるフォルムや、新たな想像性を作品に加えることも行っている。例えば秀真の作品の一つである「鳳凰香炉」では、古代からの形に、写実的な動物の顔や手足を組み合わせている。鳳凰の顔はそれまでの鳳凰に比べ、丸みを帯びたフォルムが特徴的である。また「鳩香炉」では、羽には古い紋様が施され、古典的なイメージを保ちながらも、鳩の脚は[[アール・デコ]]を思わせる直線的な面取りがなされ、新たな主張を意識した作品になっている。
== 主な作品 ==
=== 工芸品 ===
*「八稜鏡瑞鳥文喰籠」([[京都国立近代美術館]]蔵)青銅・鋳造 一合 昭和初期(20世紀)
*「雷文鋳銅花瓶」([[東京国立近代美術館]]蔵)
*「瑞鳥銅印」([[東京藝術大学大学美術館]]蔵)
*「霊獣文大花瓶」([[千葉県立美術館]]蔵)
*「笑獅子香炉」(千葉県立美術館蔵)
*「鴛鴦文銅花瓶」([[佐倉市立美術館]]蔵)
*「鳩香炉」(佐倉市立美術館蔵)
*「金銅獅子脚」([[メタルアートミュージアム光の谷]]蔵)銅・鍍金 一合 大正14年(1925年)
*「両耳三足香炉」(メタルアートミュージアム光の谷蔵)一合 昭和3年(1928年)
*「唐草文花瓶」(メタルアートミュージアム光の谷蔵)
*「[[高山寺]]梵鐘」(高山寺蔵) 青銅 昭和6年(1931年)<ref name="meiji">『京都の明治文化財 美術・工芸』 財団法人京都府文化財保護基金発行兼編集、1970年4月30日、pp.224-227。。</ref>
*「[[仁和寺]]金堂梵鐘」(仁和寺蔵) 青銅 昭和14年(1939年)<ref name="meiji" />
*「獅子牡丹文水盤」
*「獅子置物」
=== 学術著書・研究論文 ===
*『日本金工史』
*『金工史談』
*『続金工史談』
*『日本鋳工史』
=== 歌集 ===
*『天之真榊』
*『還暦以後』
== 参考番組 ==
* スカパー!CS342chヒストリーチャンネル「第3回ヒストリーアワード」入選作品 [http://www.catv296.co.jp/ 広域高速ネット二九六]『[http://www.historychannel.co.jp/detail.php?p_id=00840 香取秀真と津田信夫~二人の鋳金作家~]』{{出典無効|date=2018年7月12日 (木) 16:37 (UTC)}}<!-- 公式方針[[WP:TVWATCH]]違反 -->{{リンク切れ|date=2018年7月}}
: 番組内のナレーションより抜粋。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[金属加工]]
== 外部リンク ==
* {{東文研 |id=8770 }}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かとり ほつま}}
[[Category:19世紀日本の美術教育者]]
[[Category:20世紀日本の美術教育者]]
[[Category:19世紀の歌人]]
[[Category:20世紀の歌人]]
[[Category:日本の工芸家]]
[[Category:帝室技芸員]]
[[Category:文化勲章受章者]]
[[Category:日本藝術院会員]]
[[Category:東京芸術大学の教員]]
[[Category:東京芸術大学出身の人物]]
[[Category:東京国立博物館の人物]]
[[Category:正岡子規]]
[[Category:千葉県立佐倉高等学校出身の人物]]
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[[Category:1874年生]]
[[Category:1954年没]]
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11,881 |
浅井忠
|
浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家、教育者。号は黙語(もくご)。
江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部大学校(現在の東京大学工学部)附属の工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。フォンタネージの帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、1878年11月に小山正太郎や松岡寿ら同士11人とともに退学し、十一会を結成。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。
1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授・教頭となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
『吾輩ハ猫デアル』の単行本の挿画を他の2人とともに描いている。
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浅井 忠は、明治期の洋画家、教育者。号は黙語(もくご)。
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'''浅井 忠'''(あさい ちゅう、[[1856年]][[7月22日]]([[安政]]3年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]) - [[1907年]]([[明治]]40年)[[12月16日]])は、明治期の[[洋画家]]、[[教育|教育者]]。号は黙語(もくご)。
==生涯==
[[江戸]]の[[佐倉藩]]中屋敷に[[藩士]]・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の[[佐倉市]]将門町で[[1863年]]から[[1872年]]までを過ごし佐倉藩の[[藩校]]・成徳書院(現在の[[千葉県立佐倉高等学校]]の前身。父・常明は、この成徳書院の[[校長]]をしていたこともある)で[[四書五経]]などの[[儒教]]や[[武芸 (日本)|武芸]]を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・[[黒沼槐山]]に[[花鳥画]]を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
[[1873年]]に上京。はじめは[[英語]]の塾で学んでいたが、[[1875年]]に[[彰技堂]]で[[国沢新九郎]]の指導のもと[[油絵]]を学び、[[1876年]]に[[工部大学校]](現在の[[東京大学]][[工学部]])附属の[[工部美術学校]]に入学、西洋画を学び特に[[アントニオ・フォンタネージ]]の薫陶を受けた<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 21頁。</ref>。フォンタネージの帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、[[1878年]]11月に[[小山正太郎]]や[[松岡寿]]ら同士11人とともに退学し、十一会を結成。卒業後は、新聞画家としての[[中国]]派遣などを経て、[[1889年]]には忠が中心になって[[明治美術会]]を設立した。[[1894年]]、[[日清戦争]]に従軍。[[1895年]]、京都で開催された第4回[[内国勧業博覧会]]に出品して妙技二等賞受賞<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801929/195 『第四回内国勧業博覧会授賞人名録 第2部』第四回内国勧業博覧会事務局、1895年、p.3]</ref>。[[1898年]]に[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]])の教授となる。その後、[[1900年]]から[[フランス]]へ西洋画のために留学した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948290/4 『官報』第4997号、明治33年3月2日、p.30]、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813192/33 『東京美術学校一覧 従明治32年至明治33年』東京美術学校、1900年、p.58]</ref>。<!---日本の西洋美術を牽引することになる。---->
[[1902年]]に帰国<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949060/3 『官報』第5757号、明治35年9月10日、p.148]</ref>後、[[京都高等工芸学校 (旧制)|京都高等工芸学校]](現在の[[京都工芸繊維大学]])教授・教頭となり、個人的にも、[[1903年]]に[[聖護院]]洋画研究所([[1906年]]に[[関西美術院]])を開いて後進の育成にも努力した。[[安井曽太郎]]、[[梅原龍三郎]]、[[石井柏亭]]、[[津田青楓]]、[[向井寛三郎]]を輩出しており、画家としてだけではなく[[教育者]]としても優れた人物であった。また、[[正岡子規]]にも西洋画を教えており、[[夏目漱石]]の小説『[[三四郎]]』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
『[[吾輩は猫である|吾輩ハ猫デアル]]』の単行本の挿画を他の2人とともに描いている。
[[1907年]][[12月16日]]、[[リウマチ]]により入院中の[[東京大学病院]]において心臓麻痺のため死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)12頁</ref>。墓地は京都の[[金地院]]。
==代表作品==
*「春畝」([[東京国立博物館]]蔵・[[重要文化財]]指定<ref>[https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100325 春畝] e国宝</ref>)
*「収穫」([[東京芸術大学]]蔵<ref name="asahi1993914">{{Cite news
| title = 名画の秘密を解剖 赤外線や顕微鏡で
| newspaper = [[朝日新聞]]
| date = 1993-09-14
| author =
| publisher = 朝日新聞社
| page = 夕刊 3
}}</ref>・重要文化財指定)
*「グレーの秋」(東京国立博物館蔵)
*「グレーの洗濯場」
*「雲」
*「農家(日傘のある風景)」
*「八瀬の秋」
*「漁婦」
*「藁屋根」([[千葉県立美術館]]蔵<ref name="asahi199183">{{Cite news
| title = コレクション 20選 県立美術館 1.浅井忠 藁屋根
| newspaper = [[朝日新聞]]
| date = 1991-08-03
| author =
| publisher = 朝日新聞社
| page = 朝刊 20
}}</ref>)
*「農夫とカラス」
*「フォンテンブローの森」
*「桜」
*「裸婦座像」
*「八王子付近の街」([[愛知県美術館]]蔵)
*「武士山狩図」(京都工芸繊維大学美術工芸資料館蔵)
<gallery>
Image:Asai chu morning.jpg|''Morning Sun''
Image:Asai Chu - Woman Sewing - Google Art Project.jpg|''Sewing Woman''
Image:Asai_chu_kotaba.jpg|''The Village Kotaba''
Image:Asai_chu_pulling.jpg|''Pulling Boat''
File:Asai chu vegetable.jpg|''Spring Ridge''
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
{{参照方法|date=2017年6月}}
*「浅井忠 新潮日本美術文庫 第26巻」[[新潮社]]。ISBN 4106015463
*「浅井忠画集」[[京都新聞社]]、1986
*「浅井忠全作品集」[[求龍堂]]([[東京美術倶楽部]]監修)、2016
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
*[[日本の画家一覧]]
*[[明治美術会]]
*[[絵画]]
*[[芸術家]] - [[画家]]
== 外部リンク ==
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/225/ 浅井忠 近代日本人の肖像(国立国会図書館)]
* [http://www.kanbi.org/index.php 関西美術院]
* [https://www.ndl.go.jp/jikihitsu/part3/s1_1.html#n107 第1章 絵画 | あの人の直筆] - [[国立国会図書館]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あさい ちゆう}}
[[Category:19世紀日本の美術教育者]]
[[Category:20世紀日本の美術教育者]]
[[Category:洋画家]]
[[Category:東京芸術大学の教員]]
[[Category:京都工芸繊維大学の教員]]
[[Category:日清戦争のジャーナリスト]]
[[Category:工部美術学校出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:千葉県出身の人物]]
[[category:幕末佐倉藩の人物]]
[[category:武蔵国の人物]]
[[Category:1856年生]]
[[Category:1907年没]]
[[Category:房総の魅力500選]]
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11,882 |
1858年
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1858年(1858 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。
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1858年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
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{{年代ナビ|1858}}
{{year-definition|1858}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[戊午]]
* 日本([[天保暦]])
** [[安政]]4年11月17日 - 安政5年11月27日
** [[皇紀]]2518年
* [[清]]
** [[咸豊]]7年11月17日 - 咸豊8年11月27日
* [[朝鮮]]
<!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし-->
** [[李氏朝鮮]] : [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]9年
** [[檀君紀元|檀紀]]4191年
* [[阮朝]]([[ベトナム]])
** [[嗣徳]]11年
* [[仏滅紀元]]:2400年 - 2401年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1274年5月15日 - 1275年5月25日
* [[ユダヤ暦]]:5618年4月15日 - 5619年4月24日
* [[修正ユリウス日]](MJD):-320 - 44
* [[リリウス日]](LD):100521 - 100885
<div style="font-size:smaller">
※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br />
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1858}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月1日]] - [[カナダの歴史|英領カナダ]]が通貨に[[10進法]]を導入
* 1月1日 - [[アロー戦争]]: [[広州の戦い (1857年)|広州の戦い]]終結、広州陥落。
* [[1月14日]] - [[フェリーチェ・オルシーニ]]が[[ナポレオン3世]]暗殺未遂
* [[1月15日]]([[安政]]4年12月1日) - 南部藩士[[大島高任]]が洋式[[高炉]]で出銑に成功(日本初の近代製鉄)
* [[1月25日]] - 英[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の長女[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア王女]]とプロイセン皇太弟[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]](後のヴィルヘルム1世)の長男[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ]](後のフリードリヒ3世)の結婚式
: <small>[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の[[結婚行進曲]]が演奏され同曲が有名となる</small>
=== 2月 ===
* [[2月11日]] - [[ルルド]]で[[聖母マリア]]が出現したとされる
* [[2月25日]] - 第2次[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]内閣([[保守党 (イギリス)|保守党]]政権)成立
=== 3月 ===
* [[3月30日]] - [[:en:Hymen Lipman|Hymen Lipman]]が[[消しゴム]]付き[[鉛筆]]の米国特許を取得(1875年却下)
* [[インド大反乱]]の終結。[[ムガル帝国]]の滅亡。
=== 4月 ===
* [[4月9日]](安政5年2月26日) - [[飛越地震]]
=== 5月 ===
* [[5月11日]] - 米国で[[ミネソタ州|ミネソタ]]が32番目に州となる
* [[5月15日]] - 英国で[[ロイヤル・オペラ・ハウス|ロイヤル・イタリアン・オペラ]]新築開場([[コヴェント・ガーデン]])
* [[5月28日]] - 露清間で[[アイグン条約]]締結
=== 6月 ===
* [[6月2日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ドナティ]]が[[ドナティ彗星 (C/1858 L1)|彗星]]を発見する
* [[6月4日]](安政5年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - [[井伊直弼]]が[[大老]]に就任
* [[6月13日]] - [[6月27日]] - [[アロー戦争]]: [[天津条約 (1858年)|天津条約]]締結
=== 7月 ===
* [[7月1日]] - [[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]と[[アルフレッド・ラッセル・ウォレス|ウォレス]]の[[自然選択説]]が[[ロンドン・リンネ学会]]で公表
* [[7月29日]](安政5年6月19日) - [[日米修好通商条約]]調印
=== 8月 ===
* [[8月3日]] - 英国が[[イギリス東インド会社|東インド会社]]への委託統治を廃止し直接統治とする
* [[8月5日]] - 初の[[大西洋横断電信ケーブル]]敷設
* [[8月11日]] - [[チャールズ・バリントン]]が[[アイガー]]初登頂
* [[8月14日]](安政5年7月6日) - 第13代征夷大将軍[[徳川家定]]薨去
* [[8月16日]](安政5年7月8日)
** [[外国奉行]]を設置
** [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア英女王]]と[[ジェームズ・ブキャナン|ブキャナン米大統領]]が[[大西洋]]横断[[海底ケーブル]]の完成を祝うメッセージを交換する。
* [[8月18日]](安政5年7月10日) - [[日蘭修好通商条約]]調印
* [[8月19日]](安政5年7月11日) - [[日露修好通商条約]]調印
* [[8月26日]](安政5年7月18日) - [[日英修好通商条約]]調印
=== 9月 ===
* [[9月14日]](安政5年8月8日) - [[戊午の密勅]]
* [[9月28日]] - 彗星が初めて写真撮影される([[ドナティ彗星 (C/1858 L1)]])
=== 10月 ===
* [[10月7日]]、精神疾患のプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]に代わってその弟[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]が摂政に就任。
* [[10月9日]](安政5年9月3日) - [[日仏修好通商条約]]調印
* [[10月11日]](安政5年9月5日) - [[安政の大獄]]による捕縛開始
* [[10月21日]] - [[ジャック・オッフェンバック]]喜歌劇「[[天国と地獄 (オペレッタ)|天国と地獄]]」初演([[ブフ・パリジャン座]])
=== 11月 ===
* [[11月6日]] - プロイセン摂政ヴィルヘルム、[[カール・アントン (ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯)|カール・アントン侯]]を首相に任じ、自由主義派閣僚が多数参加する「{{仮リンク|新時代 (プロイセン)|de|Neue Ära|label=新時代}}」内閣を発足させる。
* [[11月15日]]~[[11月25日|25日]]頃 - [[福澤諭吉]]が蘭学塾(後の[[慶應義塾]])を開く<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/4.html <nowiki>[慶應義塾豆百科]</nowiki> No.4 慶應義塾の起源]</ref>
* [[11月30日]](安政5年10月25日) - 第14代征夷大将軍に[[徳川家茂]]が就任
* 11月中、[[プロイセン衆議院]]総選挙。自由主義派圧勝。保守派大惨敗。
=== 12月 ===
* [[12月16日]] - [[オランダ]]政府が[[スホクラントとその周辺|スホクラント]]の放棄を決定(1859年施行)
* [[12月31日]] - ヴィクトリア英女王がオタワをカナダの首都と定める。
=== 日付不詳 ===
* [[ベルギー]]の[[ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール]] (1822–1900) が、[[蒸気機関]]の後継となった[[内燃機関]]を発明
* [[イギリス議会]]で{{仮リンク|ユダヤ人解放法|en|Jews Relief Act 1858}}が成立。ユダヤ人に議会の扉が開かれる。
* [[かどや製油]]創業
== 誕生 ==
{{see also|Category:1858年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月1日]] - [[ヒュー・ニコル]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1921年]])
* [[1月6日]] - [[アルバート・マンセル]]、[[マンセル・カラー・システム|マンセル表色系]]の発案者(+ [[1918年]])
* [[1月13日]] - [[エドモン=フランソワ・アマン=ジャン]]、[[画家]](+ [[1936年]])
* [[1月15日]]([[安政]]4年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[植村正久]]、[[思想家]]・[[伝道者]]・[[牧師]]・[[神学者]](+ [[1925年]])
* 1月15日(安政4年12月1日) - [[箕作佳吉]]、[[動物学者]](+ [[1909年]])
* 1月15日 - [[ジョヴァンニ・セガンティーニ]]、画家(+ [[1898年]])
* [[1月22日]] - [[フレデリック・ルガード]]、[[軍人]]・[[探検家]]・[[香港総督]]・[[ナイジェリア]]総督(+ [[1945年]])
* [[2月6日]](安政4年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[山縣伊三郎]]、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]・[[政治家]](+ [[1927年]])
* [[2月12日]] - [[ウィリアム・ベリマン・スコット]]、[[古生物学者]](+ [[1947年]])
* [[2月28日]](安政5年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[元田肇]]、政治家(+ [[1938年]])
* [[3月1日]] - [[ゲオルク・ジンメル]]、[[社会学者]](+ 1918年)
* [[3月10日]](安政5年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[御木本幸吉]]、[[ミキモト]]創業者(+ [[1954年]])
* [[3月18日]](安政5年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[井上円了]]、[[哲学者]]・[[教育者]](+ [[1919年]])
* 3月18日 - [[ルドルフ・ディーゼル]]、[[発明家]](+ [[1913年]])
* [[3月23日]](安政5年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[北条時敬]]、[[数学者]](+ [[1929年]])
* [[3月29日]](安政5年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[和井内貞行]]、養魚事業家(+ [[1922年]])
* [[3月30日]](安政5年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]])- [[湯浅半月]]、[[聖書学者]]・[[詩人]](+ [[1943年]])
* [[4月23日]] - [[マックス・プランク]]、ドイツの[[物理学者]](+ [[1947年]])
* [[4月28日]](安政5年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]) - [[楠瀬幸彦]]、[[陸軍軍人]](+ 1927年)
* [[5月5日]] - [[ピエール・アドルフォ・ティリンデッリ]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1937年]])
* [[5月8日]] - [[ダン・ブローザーズ]]、メジャーリーガー(+ [[1932年]])
* [[5月25日]] - [[ティップ・オニール (野球)|ティップ・オニール]]、メジャーリーガー(+ [[1915年]])
* [[6月19日]](安政5年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]) - [[大島健一]]、陸軍軍人・政治家(+ [[1947年]])
* [[6月23日]](安政5年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[長岡外史]]、陸軍軍人・政治家(+ [[1933年]])
* [[7月4日]](安政5年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[徳川義宜]]、第16代[[尾張藩]]主(+ [[1875年]])
*[[7月7日]](安政5年[[5月27日]]) - [[志摩清直]]、[[大日本帝国海軍|海軍]]軍人(最終階級:海軍[[大尉]]) (+ [[1894年]])
* [[7月16日]] - [[ウジェーヌ・イザイ]]、[[指揮者]]・作曲家・ヴァイオリニスト(+ [[1931年]])
* [[8月2日]](安政5年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[成瀬仁蔵]]、牧師・教育者(+ 1919年)
* [[8月15日]] - [[イーディス・ネズビット]]、[[児童文学作家]](+ [[1924年]])
* [[8月21日]] - [[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]、オーストリア皇太子(+ [[1889年]])
* [[8月22日]] - [[コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)|コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ]]、ロシアの皇族・[[劇作家]](+ [[1915年]])
* [[9月7日]](安政5年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[團琢磨]]、[[実業家]](+ [[1932年]])
* [[9月12日]] - [[フェルナン・クノップフ]]、画家(+ [[1921年]])
* [[9月15日]] - [[イェネー・フバイ]]、ヴァイオリニスト・作曲家(+ [[1937年]])
* [[9月16日]] - [[アンドルー・ボナー・ロー]]、[[イギリスの首相]](+ [[1923年]])
* [[9月24日]](安政5年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]) - [[藤井較一]]、海軍軍人(+ [[1926年]])
* 9月24日(安政5年8月18日) - [[櫻井錠二]]、[[化学者]](+ [[1939年]])
* [[9月25日]] - [[アルブレヒト・ペンク]]、[[地理学者]]・[[地質学者]](+ [[1945年]])
* [[10月2日]] - [[イェラルド・ドゥ・イェール]]、地質学者(+ [[1943年]])
* [[10月11日]] - [[ニルス・キュレーゲル]]、画家(+ [[1930年]])
* [[10月16日]](安政5年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[富井政章]]、[[法学者]]・教育者(+ [[1935年]])
* [[10月26日]](安政5年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]) - [[島村速雄]]、海軍軍人(+ [[1923年]])
* [[10月27日]] - [[セオドア・ルーズベルト]]、第26代アメリカ合衆国大統領(+ 1919年)
* [[11月1日]] - [[ジョセフ・ティレル]]、[[地質学者]]・[[古生物学者]](+ [[1957年]])
* [[11月11日]] - [[マリ・バシュキルツェフ]]、画家・[[彫刻家]]・[[作家]](+ [[1884年]])
* [[11月20日]] - [[セルマ・ラーゲルレーヴ]]、女流[[小説家]](+ [[1940年]])
* [[12月2日]](安政5年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[斎藤実]]、海軍軍人・第30代内閣総理大臣(+ 1936年)
* [[12月20日]] - [[ヤン・トーロップ]]、画家(+ [[1928年]])
* [[12月22日]] - [[ジャコモ・プッチーニ]]、作曲家(+ 1924年)
* 12月22日 - [[快楽亭ブラック (初代)|快楽亭ブラック]]、落語家(+ 1923年)
* [[12月24日]](安政5年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[尾崎行雄]]、政治家(+ 1954年)
* [[12月28日]] - [[リッカルド・ベリ]]、画家(+ 1919年)
== 死去 ==
{{see also|Category:1858年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月5日]] - [[ヨーゼフ・ラデツキー]]、[[貴族]]・[[軍人]](* [[1766年]])
* [[1月30日]] - [[コンラート・ヤコブ・テミンク]]、[[鳥類学者]](* [[1778年]])
* [[3月4日]] - [[マシュー・ペリー]]、[[米国]]の[[海軍]]軍人(* [[1794年]])
* [[4月3日]] - [[ジギスムント・フォン・ノイコム]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]](* [[1778年]])
* [[4月7日]] - [[アントニオ・ディアベリ]]、作曲家(* [[1781年]])
* [[4月21日]]([[安政]]5年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]]) - [[大原幽学]]、農政学者(* [[1797年]])
* [[4月28日]] - [[ヨハネス・ペーター・ミュラー]]、[[ドイツ]]の[[生理学者]]・[[解剖学者]](* [[1801年]])
* [[6月3日]] - [[ユリウス・ロイプケ]]、[[音楽家]](* [[1834年]])
* [[6月10日]] - [[ロバート・ブラウン]]、[[英国]]の[[植物学者]](* [[1773年]])
* [[6月15日]] - [[アリ・シェフェール]]、[[画家]](* [[1795年]])
* [[6月21日]](安政5年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[月性]]、[[尊皇攘夷]]派の[[僧]](* [[1817年]])
* [[8月14日]](安政5年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]) - [[徳川家定]]、[[江戸幕府]]第13代[[征夷大将軍]](* [[1824年]])
* [[8月24日]](安政5年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[島津斉彬]]、[[薩摩藩]]第11代藩主(* [[1809年]])
* 8月24日(安政5年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[鷹見泉石]]、[[蘭学者]](* [[1785年]])
* [[8月26日]]( 安政5年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[市河米庵]]、[[書家]](* [[1779年]])
* [[9月25日]](安政5年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[鹿持雅澄]]、[[国学者]](* [[1791年]])
* [[10月5日]](安政5年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]) - [[渋江抽斎]]、[[医師]]・[[時代考証|考証家]]・[[書誌学者]](* [[1805年]])
* [[10月8日]](安政5年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[梁川星巌]]、[[漢詩]]人(* [[1789年]])
* [[10月12日]](安政5年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]) - [[歌川広重]]、[[浮世絵師]](* [[1797年]])
* [[10月30日]](安政5年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]) - [[山東京山]]、[[戯作者]](* [[1769年]])
* [[11月15日]] - [[ヨハンナ・キンケル]]、作曲家・[[小説家]](* [[1810年]])
* [[11月17日]] - [[ロバート・オウエン]]、英国の[[社会主義]]者(* [[1771年]])
* [[12月20日]](安政5年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]) - [[月照]]、尊皇攘夷派の僧(* [[1813年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|1858}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
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[[Category:1858年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1858%E5%B9%B4
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11,883 |
香川松石
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香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年3月3日) - 明治44年(1911年)9月28日)は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。
1844年、下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市)に生まれる。佐倉藩の藩校である成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で書学を学び、書風は初め成徳書院書学所の師範の平林庄右ェ門、同岡田耕鶴(長尾流)らの御家流の影響を受けた。のちに日下部鳴鶴に学ぶ。1881年に千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部の前身)習字科の教師となり、翌年、初の小学校の習字教科書『楷書千字文』を刊行。その他、文部省から依頼を受けて国定教科書の習字の手本を執筆し、800冊以上の教科書を出版、全国の書道教育の定着に貢献した。明治44年9月、66歳で没する。墓は千葉県千葉市中央区弁天4丁目の常光山本敬寺(ほんきょうじ)墓地にあり、千葉市中央区千葉寺町の千葉寺に彰徳碑がある。
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香川松石は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。
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{{出典の明記| date = 2022-10}}
'''香川松石'''(かがわ しょうせき、[[弘化]]元年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]([[1844年]][[3月3日]]) - [[明治]]44年([[1911年]])[[9月28日]])は、学校で用いられる[[書道]]の[[教科書]]を記した[[書家|書道家]]。[[千葉師範学校]](現在の[[千葉大学]][[教育学部]])教諭。通称、'''香川熊蔵'''。
== 略歴 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-10}}
1844年、[[下総国]][[佐倉市|佐倉]](現在の[[千葉県]][[佐倉市]])に生まれる。[[佐倉藩]]の[[藩校]]である成徳書院(現在の[[千葉県立佐倉高等学校]]の前身)で書学を学び、書風は初め成徳書院書学所の[[師範]]の[[平林庄右ェ門]]、同[[岡田耕鶴]]([[長尾流]])らの[[御家流]]の影響を受けた。のちに[[日下部鳴鶴]]に学ぶ。[[1881年]]に千葉師範学校(現在の[[千葉大学]][[教育学部]]の前身)[[習字]]科の教師となり、翌年、初の小学校の習字教科書『楷書千字文』を刊行。その他、[[文部省]]から依頼を受けて国定[[教科書]]の[[習字]]の手本を執筆し、800冊以上の教科書を出版、全国の書道教育の定着に貢献した。明治44年9月、66歳で没する。墓は千葉県[[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]弁天4丁目の常光山本敬寺(ほんきょうじ)[[墓地]]にあり、千葉市中央区千葉寺町の[[千葉寺]]に彰徳碑がある。
== 主な著書 ==
*『楷書千字文』
*『尋常小学書き方手本』
*『肉筆折手本』
*『筆法図解 三体千字文』(泰光堂)
*『明治実業文字』(辰文館)
*『小学日用文』(日進堂)
*『尋常小学習字帖』(阪上書屋)
*『高等小学習字帖』(阪上書屋)
*『三體千字文』 (昭和38年/泰光堂)
== 関連項目 ==
*[[日本の書道史]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かかわ しようせき}}
[[Category:1844年生]]
[[Category:1911年没]]
[[Category:日本の能書家]]
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紀元前2世紀
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紀元前2世紀(きげんぜんにせいき)は、西暦による紀元前200年から紀元前101年までの100年間を指す世紀。
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紀元前2世紀(きげんぜんにせいき)は、西暦による紀元前200年から紀元前101年までの100年間を指す世紀。
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{{出典の明記|date=2013年5月}}
{{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 2 | 年代 = 100 | BC = 1 }}
[[Image:Zhang Qian.jpg|thumb|300px|[[張騫]]使節団。[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の命により[[月氏|大月氏]]へと派遣され、[[西域]]との交流といわゆる[[シルクロード]](絲綢之路)の発展を促した。画像は[[敦煌]][[莫高窟]]に描かれた張騫。]]
'''紀元前2世紀'''(きげんぜんにせいき)は、[[西暦]]による[[紀元前200年]]から[[紀元前101年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== できごと ==
[[File:Xian 2006 4-19.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|陽陵 (漢)|zh|汉阳陵|label=漢の景帝陵(陽陵)}}。景帝は[[呉楚七国の乱]]を平定したことで父の文帝から続く前漢の安定期である「文景の治」を現出した。画像は景帝陵に副葬されていた陶俑の数々({{仮リンク|咸陽漢陽陵博物館|zh|咸阳汉阳陵博物馆}}蔵)。]]
[[ファイル:Lacquer Coffin Unearthed from the 2nd-century-BC Han Tomb No.1 at Mawangdui 2011-07.JPG|thumb|250px|[[馬王堆漢墓]]。1972年に湖南省長沙市で発見された前漢[[長沙国]]の高官[[利蒼]]一族の墳墓で、生けるがごとく保存状態の良い利蒼夫人辛追の遺体が埋葬されていた。画像はその朱塗りの漆の模様が描かれた木棺(湖南省博物館蔵)。]]
[[ファイル:Si lü yu yi.JPG|thumb|250px|[[南越国]]の繁栄と没落。南越は5代93年にわたり中国南部からベトナム北部を支配した王国で前漢に秘してひそかに帝位を称するほどであったが、前漢の武帝により滅ぼされた。画像は[[趙眜]]陵墓で発見された王の遺体を包んでいた絲縷玉衣([[西漢南越王博物館]]蔵)。]]
[[File:古滇国贮贝器.jpg|thumb|right|250px|[[雲南]]の[[滇]]。[[漢の南方拡大]]は南越だけでなく雲南にも及び、西南夷とされた彼らも武帝の時代までには漢の支配下に組み込まれた。画像は雲南省晋寧県石寨山出土の「七牛貯貝器([[上海博物館]]蔵)」。]]
[[ファイル:Pergamonmuseum Pergamonaltar.jpg|thumb|250px|ペルガモンのゼウス大祭壇。ドイツの発掘調査と遺物の移送により「神々と巨人族との戦い(ギガントマキア)」の浮彫を含む往時の姿が[[ベルリン]]の[[ペルガモン博物館]]で再現されている。]]
[[ファイル:Nike of Samothrake Louvre Ma2369 n4.jpg|thumb|right|180px|[[サモトラケのニケ]]。[[ヘレニズム]]芸術を代表する作品で現在は[[ルーヴル美術館]]の所蔵となっている。]]
[[ファイル:The Antikythera Mechanism (3209887483).jpg|thumb|250px|[[アンティキティラ島の機械]]。天体運行を計算するための歯車式の機械であり、古代ギリシアの技術の高さを裏付ける貴重な証拠となっている。沈没船から発見され、現在は[[アテネ国立考古学博物館]]の所蔵となっている。]]
[[ファイル:Rosetta Stone.JPG|thumb|right|200px|[[ロゼッタ・ストーン]]。もとは[[プトレマイオス5世]]がメンフィスで出した勅令を刻んだもので、[[神聖文字]]・[[民衆文字]]・[[ギリシア文字]]が併記されていたことから[[シャンポリオン]]が神聖文字の解読するための足掛かりとなった。現在は[[大英博物館]]の所蔵となっている。]]
[[ファイル:Xong-e Ashdar Parthian relief.jpg|thumb|right|200px|[[パルティア]]王国の拡大。西アジアではイラン系遊牧民が建てた国家パルティアが国王[[ミトラダテス1世]]の時代に勢力を拡大した。画像はイランの[[フーゼスターン州]]イゼーのXong-e Ashdarにあるミトラダテス1世を記念する浮彫。]]
[[ファイル:MenandrosCoin.jpg|thumb|right|200px|[[メナンドロス1世]]。ヘレニズム系ギリシア人による[[インド・グリーク朝]]の国王で仏典の『[[ミリンダ王の問い]]』では仏教に帰依したことで知られている。画像はこの王の肖像が刻まれたコイン([[大英博物館]]蔵)。]]
[[File:Catapulta by Edward Poynter.jpg|thumb|right|250px|[[カルタゴ]]陥落。[[第三次ポエニ戦争]]によりローマは宿敵カルタゴを制圧。住民を捕虜奴隷にし、都市機能を完膚なきまでに破壊した。画像は19世紀のイギリス人画家[[エドワード・ポインター]]のカルタゴ包囲戦の歴史画で、中央に投石器([[カタパルト (投石機)|カタパルト]])が描かれている。]]
[[ファイル:Death of Gaius Gracchus.jpg|thumb|right|250px|[[グラックス兄弟]]の改革。ポエニ戦争終結後のローマ社会構造の大きな変化に合わせるべく改革が行われたが、元老院派の反発が強く兄弟の改革は挫折した。画像は{{仮リンク|フランソワ・トピノ・ルブラン|en|François Topino-Lebrun}}による歴史画「[[ガイウス・グラックス]]の死」。]]
=== 東アジア ===
* 紀元前200年 - [[白登山の戦い]]で[[匈奴]]の[[冒頓単于]]が[[前漢]]の[[劉邦]]を破る。
* 紀元前196年 - 淮陰侯[[韓信]]・梁王[[彭越]]・淮南王[[英布]]が処刑される。
* 紀元前195年
** 前漢で高祖劉邦が死去、[[恵帝 (漢)|恵帝]]が即位( - [[紀元前188年]])。[[呂雉|呂后]]の専横が始まる。
** 燕の[[衛満]]が[[箕子朝鮮]]を滅ぼし、[[衛氏朝鮮]]を建てる( - [[紀元前108年]])。
* 紀元前180年 - [[前漢]]で呂后死去。[[呂氏の乱]]にて呂氏一族が誅殺され、[[文帝 (漢)|文帝]]が即位( - [[紀元前157年]])。
* 紀元前177年 - 匈奴の冒頓単于が[[月氏]](ユエジ)を攻撃し、月氏は大月氏・小月氏に分裂する。
** 大月氏は[[サカ族]]を逐って[[イリ地方]]の[[イシク湖]]周辺に移動し、小月氏は[[甘粛]]・[[青海]]に留まる。
* 紀元前162年 - 匈奴の[[老上単于]]が大月氏の王を敗死させ、大月氏は[[ソグディアナ]](粟特)に移動。
** 大月氏はその後、隣接する[[トハラ]](大夏)も支配下に置く。
* 紀元前161年 - 匈奴の老上単于が死去し、その支配下にあった[[烏孫]]が西方に移動。
* 紀元前157年 - 前漢で文帝が死去し、[[景帝 (漢)|景帝]]が即位( - [[紀元前141年]])。
** [[西安市]]白鹿原江村大墓が文帝の帝陵「覇陵」とされている。
* 紀元前154年 - 前漢で[[呉楚七国の乱]]。
* 紀元前150年頃 - [[甘粛省]]の放馬灘から出土した「[[放馬灘紙]]」はこの時期のもの。
* 紀元前141年 - 前漢で景帝が死去し、[[武帝 (漢)|武帝]]が即位( - [[紀元前87年]])。
** [[咸陽市]]渭城区の合葬墓が景帝の帝陵「陽陵」とされている。
* 紀元前139年 - 前漢の[[張騫]]が[[月氏|大月氏]]に派遣される。
* 紀元前136年 - 前漢で[[董仲舒]]の献策で[[儒教]]が官学とされ、[[五経博士]]が置かれる。
* 紀元前134年
** 前漢で[[孝廉]]の制が導入される([[郷挙里選]]の始まり)。
** 董仲舒が「{{仮リンク|罷黜百家、独尊儒術|zh|独尊儒术}}」を表明する。
* 紀元前127年
** 前漢で[[推恩の令]]。
** 前漢の将軍[[衛青]]が匈奴から河南([[オルドス地方]])を奪う。
* 紀元前126年 - 張騫が長安に帰還する。
* 紀元前122年 - 淮南王[[劉安]]が自害する。
* 紀元前121年 - [[祁連山脈]]を本拠としていた匈奴の[[伊稚斜単于]]が前漢の[[霍去病]]に敗れ、[[河西回廊]]は前漢の領土となる。
** 河西回廊には[[酒泉郡]]([[紀元前121年]])、[[武威郡]]([[紀元前115年]])、[[張掖郡]]([[紀元前111年]])、[[敦煌郡]]([[紀元前88年]])の四郡を設置する。
* 紀元前119年
** 衛青と霍去病が匈奴を撃破し漠南([[内モンゴル]])を獲得。
** 前漢で塩鉄専売制を導入する。
* 紀元前115年 - 前漢で[[均輸・平準法|均輸法]]の実施。
* 紀元前113年
** 汾陰での銅鼎の発見によりこの年を「[[元鼎]]4年」とする([[元号]]制度の始まり)。
*** 武帝の統治初年(紀元前140年)に遡り「[[建元 (漢)|建元]]」「[[元光 (漢)|元光]]」「[[元朔]]」「[[元狩]]」の6年ごとの元号も併せて定められる。
** 前漢の武帝の異母兄である中山靖王[[劉勝]]が死去し、[[満城漢墓]]に葬られる。
*** 後に発見されたこの陵墓からは「{{仮リンク|金縷玉衣|zh|刘胜金缕玉衣}}」「{{仮リンク|長信宮灯|zh|長信宮燈}}」などの副葬品が出土した。
* 紀元前111年 - 前漢の武帝が[[南越]]を滅ぼし、[[南海郡 (中国)|南海郡]]を設置する。
* 紀元前110年
** 前漢の武帝が[[泰山]]で[[封禅]]の儀を執行する。
** 前漢で[[均輸・平準法|平準法]]の実施。
* 紀元前109年 - 前漢の武帝が[[雲南省]]東部にあった[[南蛮]]の[[滇]]を服属させる。
* 紀元前108年 - 前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、[[楽浪郡]]・[[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]を設置する。
* 紀元前106年 - 前漢の武帝が全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に[[刺史]]を設置、州・郡・県の三層構造となる。
* 紀元前105年 - 前漢の江都公主([[劉細君]])が[[烏孫]]王[[昆莫]]に降嫁する。
* 紀元前102年
** 前漢の武帝の命で[[李広利]]が[[大宛]]を征服し[[汗血馬]]を獲得する。
** [[甘粛省]][[酒泉市]]の居延烽燧遺跡から出土した[[居延漢簡]]の最も古い記録がこの年のもの。
* 紀元前101年
** [[烏孫]]王[[昆莫]]の孫[[岑陬]]軍須靡に嫁した江都公主が死去、前漢から新たに{{仮リンク|解憂公主|en|劉解憂}}が岑陬に降嫁する。
=== 地中海世界 ===
* 紀元前2世紀頃 - [[ナバテア人]]による[[乳香]]や[[没薬]]といった香料交易が盛んとなる。
** [[ハルザ]]・[[マムシト]]・[[アヴダト]]・[[シヴタ]]などの「[[ネゲヴ砂漠の香の道と都市群]]」はこの時代のもの。
* 紀元前200 - 190年頃 - [[ヘレニズム時代]]の彫刻「[[サモトラケのニケ]]([[ルーブル美術館]]蔵)」が作られる。
* 紀元前200年 - {{仮リンク|パネイオンの戦い|en|Battle of Panium}}でセレウコス朝がプトレマイオス朝に勝利し、パレスティナを占領する。
* 紀元前196年
** [[プトレマイオス5世]]の「{{仮リンク|メンフィス勅令|en|Rosetta Stone decree}}(Decree of Memphis)」が刻まれた「[[ロゼッタ・ストーン]]」が建立される。
** [[共和政ローマ]]の前執政官[[ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス|フラミニヌス]]が「ギリシアの自由」を宣言。
* 紀元前193年 - [[ムティナの戦い (紀元前193年)|ムティナの戦い]]で共和政ローマがガリア人に勝利し、[[ローマ・ガリア戦争]]が終結する。
* 紀元前192年 - [[共和政ローマ]]と[[セレウコス朝]]の[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]が[[ローマ・シリア戦争|戦争]]( - [[紀元前188年]])。
* 紀元前190年
** [[グレコ・バクトリア王国]]の[[デメトリオス1世 (バクトリア王)|デメトリオス1世]]が西北インドに進出し[[タキシラ]]を占領。
** マグネシアの戦いで共和政ローマがセレウコス朝に勝利。
** [[ペルガモン]]王[[エウメネス2世]]により[[ヒエラポリス]]が建設される。
* 紀元前189年 - [[アルタクシアス1世]]により[[アルメニア王国]]がセレウコス朝から独立する。
* 紀元前188年 - [[アパメイアの和約]]。セレウコス朝がヨーロッパから撤退する。
* 紀元前187年 - [[アエミリア街道]]の建設。
* 紀元前185年 - [[スキピオ・アフリカヌス]]が弾劾される。
* 紀元前183/182年 - [[ビテュニア]]にてカルタゴの元将軍[[ハンニバル]]が自殺する。
* 紀元前180年頃 - [[ブリハドラタ・マウリヤ|ブリハドラタ]]王が[[タキシラ]]で殺害されマウリヤ朝が滅亡、[[プシャミトラ]]が[[シュンガ朝]]を建てる。
** 『{{仮リンク|阿育王伝|en|Ashokavadana}}』などの仏教徒の伝承ではプシャミトラ王が大規模な仏教弾圧をしたと伝わる。
* 紀元前178年頃 - [[セレウコス4世]]がイェルサレム神殿の宝物を没収しようと財務大臣{{仮リンク|へリオドロス|en|Heliodorus (minister)}}を派遣する。
** 「{{仮リンク|ヘリオドロスの石碑|fr|Stèle d'Héliodore}}([[イスラエル博物館]]蔵)」はこの時代のもの。
* 紀元前175年 - セレウコス4世が財務大臣へリオドロスに暗殺される。
* 紀元前175年頃 - [[エウクラティデス1世]]が反乱を起こし、グレコ・バクトリア王国の王位を簒奪。
** 中央アジアのギリシア人勢力は[[グレコ・バクトリア王国|バクトリア]]と[[インド・グリーク朝|インド]]に分裂する。
* 紀元前168年
** [[ピュドナの戦い (紀元前168年)|ピュドナの戦い]]でローマがマケドニアに勝利。[[ポリュビオス]]がローマに連行される。
** 共和政ローマが[[イリュリア王国]]を滅ぼす。
* 紀元前167年頃 - [[ユダ・マカバイ]]が[[エルサレム神殿]]を回復。[[ハスモン家]]によるユダヤ支配のはじまり。
* 紀元前155年 - [[ルシタニア]]戦争。
* 紀元前150 - 100年頃 - ギリシアで[[アンティキティラ島の機械]]が製作される。
** これは現在確認できる世界最古の歯車式[[アナログ計算機]]とされている。
* 紀元前148年
** 共和政ローマが[[マケドニア属州|マケドニア]]を属州にする。
** [[ヌミディア]]王[[マシニッサ]]死去。[[エル・フロウブ]](現[[アルジェリア]])の墓に葬られる。
** セレウコス朝支配下のイランで「{{仮リンク|べヒストゥーンのヘラクレス像|en|Statue of Hercules in Behistun}}」が建設される。
* 紀元前146年
** [[第3次ポエニ戦争]]により[[カルタゴ]]が共和政ローマに滅ぼされる。
** [[コリントスの戦い]]により[[コリントス]]が共和政ローマに滅ぼされる。
*** [[アカイア同盟]]は解体され、[[古代ギリシア|ギリシア]]各都市は属州[[アカエア]]に編入される。
* 紀元前145年頃
** グレコ・バクトリア王国の主要都市[[アイ・ハヌム]]が月氏に滅ぼされる。
** [[プトレマイオス8世]]が[[アレクサンドリア]]から[[サモトラケのアリスタルコス|アリスタルコス]]ら多数の知識人を追放する。
* 紀元前142年 - [[ハスモン家]]の大祭司ヨナタンが殺害され、弟のシモンがセレウコス朝の支配から独立。
* 紀元前141年 - パルティア国王[[ミトラダテス1世]]がバビロニアに侵攻してセレウコス朝の[[セレウキア]]を陥落させる。
** パルティアはティグリス川に面したセレウキア対岸のオピス(後のクテシフォン)を拡充する。
* 紀元前133年
** ローマで[[ティベリウス・グラックス]]が[[護民官]]となり、「センプロニウス農地法」を提出するが反対派に暗殺される。
*** ティベリウスの死を契機に共和政ローマは「[[内乱の一世紀]]」へ突入( - [[紀元前27年]])。
** [[ペルガモン]]国王アッタロス3世が領土をローマに遺贈する。
*** これに不満を持つ王族のアリストニコスが[[エウメネス3世]]を名乗り反乱を起こす。
** [[ヌマンティア戦争]]で[[スキピオ・アエミリアヌス]]がヌマンティアを陥落させる。
* 紀元前132年 - [[シャンルウルファ|エデッサ]]や[[ハッラーン|カルラエ]]を含む北シリアにオスロエネ王国が成立( - [[244年]])。
* 紀元前130年代 - グレコ・バクトリア王国が[[トハラ]](大夏)人によって滅ぼされる。
* 紀元前130 - 100年頃 - ヘレニズム時代の彫刻「[[ミロのヴィーナス]](ルーブル美術館蔵)」が作られる。
* 紀元前129年頃 - [[パルティア]]が[[ヘカトンピュロス]]から[[クテシフォン]]に都を遷す。
* 紀元前128年 - [[ハスモン朝]]の[[ヨハネ・ヒルカノス1世]]が[[サマリア]]人の[[ゲリジム山]]の神殿を破壊する。
* 紀元前123年 - 共和政ローマで[[ガイウス・グラックス]]が護民官となる。
* 紀元前121年
** [[元老院最終勧告]]によりガイウス・グラックスが公敵と見做され逃亡した後に自害、支持者3000人余も処刑される。
** 共和政ローマが[[ガリア・ナルボネンシス]](ガリア・トランスアルピナ)を属州にする。
* 紀元前113年 - [[キンブリ・テウトニ戦争]]( - [[紀元前101年]])。
* 紀元前112年 - [[ユグルタ戦争]]( - [[紀元前105年]])。
* 紀元前107年 - 共和政ローマで[[ガイウス・マリウス]]の軍制改革。
=== その他 ===
<!-- ここから下は、紀元前2世紀に起こったことであるが、東アジアと地中海世界以外で年がはっきりしていない事柄である。 -->
* [[上座部仏教]](テーラワーダ仏教)が[[スリランカ]]に伝わる。
* インド中部マディヤ・プラデーシュ州の[[バールフット]]仏塔の塔門と欄楯が作られる。
* [[メキシコ]]で[[テオティワカン]]が築かれる。
* [[ポーランド]]中南部から[[ウクライナ]]西部に[[プシェヴォルスク文化]]、ウクライナ北部から[[ベラルーシ]]南部に[[ザルビンツィ文化]]が展開。
* 紀元前2世紀 - 紀元後1世紀
** 日本では青銅器の使用が広がる
*** [[出雲]]地方の[[荒神谷遺跡]]や[[加茂岩倉遺跡]]で大量の青銅器が出土。
*** [[淡路島]]でも「菱環鈕式」の最古級の[[銅鐸]]が出土している。
** [[奈良県]][[田原本町]]の[[唐古・鍵遺跡]]の大型建造物跡はこの時代のもの。
== 伝説・架空のできごと ==
* 紀元前146年 - [[カルタゴ]]へ遠征途上の[[スキピオ・アエミリアヌス]]は、夢の中で祖父の[[スキピオ・アフリカヌス]]に出会い、国を守ることの尊さと霊魂の永遠を諭される。そしてその献身により九つの天球の宇宙のもとで、心地よい調和の音楽を耳にすると言われる([[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]『国家論』の中の「{{仮リンク|スキピオの夢|en|Somnium Scipionis}}」)。
* 紀元前126年以前 - 前漢の[[武帝]]の命で西域へと赴いた[[張騫]]は、[[大夏]]から[[黄河]]の源流を探り、不思議な[[浮槎]](いかだ)に乗って[[天の河]]を遡った。そこで[[牽牛]]・[[織女]]に会ったという(西晋の[[張華]]による『[[博物志]]』などから発展した「張騫乗槎(じょうさ)伝説」)。
* 紀元前100年代 - 前漢の武帝の寵愛した[[李夫人 (漢武帝)|李夫人]](将軍[[李広利]]の妹)は昌邑王[[劉髆]]を産むと間もなく亡くなった。李夫人を忘れられずにいた武帝は道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという([[白居易]]『李夫人詩』の「[[反魂香]]」の故事)。
== 人物 ==
=== 地中海世界 ===
==== 共和政ローマ ====
{{main|[[:Category:紀元前2世紀の古代ローマ人]]}}
* [[スキピオ・アフリカヌス|大スキピオ]]([[紀元前236年|前236年]] - [[紀元前183年|前183年]])- ローマ共和政時代の[[政治家]]・[[将軍]]・[[ハンニバル]]を[[ザマの戦い]]で破る
* [[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス|大カトー]]([[紀元前234年|前234年]] - [[紀元前149年|前149年]])- ローマ共和政時代の政治家・[[執政官]]・『農業論』『起源論』の著者・「[[カルタゴ滅ぶべし|カルタゴ滅ぼすべし]]」で有名
* [[プビリウス・テレンティウス・アフェル|テレンティウス]]([[紀元前195年|前195年]]/[[紀元前185年|前185年]] - [[紀元前159年|前159年]]) - ローマ共和政時代の喜劇作家・作品に『兄弟』『宦官』がある
* [[スキピオ・アエミリアヌス|小スキピオ]]([[紀元前185年|前185年]] - [[紀元前129年|前129年]]) - ローマ共和政時代の軍人・政治家・[[第三次ポエニ戦争]]で[[カルタゴ]]を破壊
* [[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ|スキピオ・ナシカ]]([[紀元前183年|前183年]]頃 - [[紀元前132年|前132年]]) - ローマ共和政時代の政治家・[[グラックス兄弟|グラックス(兄)]]の改革に反対しその暗殺に加担したか
==== カルタゴ・ヌミディア ====
* [[ハンニバル・バルカ]]([[紀元前247年|前247年]] - [[紀元前183年|前183年]]) - カルタゴの[[政治家]]・[[将軍]]・[[第二次ポエニ戦争]]でローマを翻弄する
* [[マシニッサ]]([[紀元前238年|前238年]] - [[紀元前148年|前148年]]) - [[ヌミディア]]の王(在位[[紀元前202年|前202年]] - [[紀元前148年|前148年]])・第二次と[[第三次ポエニ戦争|第三次]]のポエニ戦争でローマに協力
* [[ユグルタ]]([[紀元前160年|前160年]] - [[紀元前104年|前104年]]) - ヌミディア王(在位[[紀元前118年|前118年]] - [[紀元前106年|前106年]])・[[マシニッサ]]の孫・[[ユグルタ戦争]]でローマと戦う
==== ギリシアとヘレニズム諸国 ====
* [[ナビス]](? - [[紀元前192年|前192年]]) - [[スパルタ]]最後の王(在位[[紀元前206年|前206年]] - [[紀元前192年|前192年]])・スパルタの再興を目指すが[[アカイア同盟]]とローマに敗北
* [[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]([[紀元前241年|前241年]] - [[紀元前187年|前187年]]) - セレウコス朝の王(在位[[紀元前223年|前223年]] - [[紀元前187年|前187年]])・[[ローマ・シリア戦争]]で敗北
* [[エウメネス2世]](? - [[紀元前159年|前159年]]) - [[アッタロス朝]][[ペルガモン]]の王(在位[[紀元前197年|前197年]] - [[紀元前159年|前159年]])・ペルガモンの大図書館を充実させる
* [[アンティオコス4世エピファネス|アンティオコス4世]]([[紀元前215年|前215年]]? - [[紀元前163年|前163年]]) - セレウコス朝の王(在位[[紀元前175年|前175年]] - [[紀元前163年|前163年]])・[[マカバイ戦争]]を誘発
* [[ユダ・マカバイ]](?- [[紀元前160年|前160年]]) - セレウコス朝支配下にあったユダヤでマカバイ戦争を指揮し[[ハスモン朝]]の基礎を築く
* [[カルネアデス]]([[紀元前214年|前214年]] - [[紀元前129年|前129年]]) - ギリシアの哲学者・[[アカデメイア]]学頭・「[[カルネアデスの板]]」という問題で知られる
* [[ペルセウス (マケドニア王)|ペルセウス]]([[紀元前212年|前212年]]頃 - [[紀元前166年|前166年]]) - [[アンティゴノス朝]][[マケドニア]]最後の王(在位[[紀元前179年|前179年]] - [[紀元前168年|前168年]])・[[ピュドナの戦い (紀元前168年)|ピュドナの戦い]]で敗北
* [[ポリュビオス]]([[紀元前204年|前204年]]? - [[紀元前125年|前125年]]?) - ギリシアの歴史家で『[[歴史 (ポリュビオス)|歴史]]』の著者・[[ピュドナの戦い (紀元前168年)|ピュドナの戦い]]で捕虜となりローマに送られる
* [[ヒッパルコス]]([[紀元前190年|前190年]]頃 - [[紀元前120年|前120年]]頃) - ギリシアの天文学者・46星座を決定し[[視等級]]や[[歳差運動]]などの分野で業績を残す
* [[アレクサンドリアのヘロン]](生没年不詳) - エジプトの工学者・数学者・[[クテシビオス]]の弟子か・「[[ヘロンの公式]]」や「[[ヘロンの噴水]]」で有名
* [[キュジコス]]のエウドクソス(生没年不詳) - ギリシア出身の航海家・エジプト王[[プトレマイオス8世]]の支援により[[紅海]]経由のインド航路を発見
* [[ディオニュシオス・トラクス]]([[紀元前170年|前170年]] - [[紀元前90年|前90年]]) - エジプトの文法学者・ギリシア語の『文法の技法』を執筆し[[品詞]]の概念をまとめる
* [[アッタロス3世]]([[紀元前170年|前170年]]頃 - [[紀元前133年|前133年]]) - アッタロス朝ペルガモンの最後の王(在位[[紀元前138年|前138年]] - [[紀元前133年|前133年]])・ローマにペルガモンを遺贈
* [[エウメネス3世]](? - [[紀元前129年|前129年]]) - アッタロス朝の王族(アリストニコス)・アッタロス3世死後に王を僭称・太陽国家(ヘリオポリス)の建設を訴えるがローマに鎮圧される
* [[ミトラダテス2世]]([[紀元前123年|前123年]] - [[紀元前88年|前88年]]/[[紀元前87年|87年]]) - [[アルサケス朝]][[パルティア]]の王・[[クテシフォン]]に遷都し「諸王の王」と呼ばれる
=== 中央アジア・インド ===
* [[デメトリオス1世 (バクトリア王)|デメトリオス1世]](在位[[紀元前200年|前200年]]頃 - [[紀元前180年|前180年]]頃) - ギリシア系[[バクトリア王国]]の国王・[[ガンダーラ]]を制圧し最盛期をもたらす
* [[プシャミトラ]](在位[[紀元前180年|前180年]]頃 - [[紀元前144年|前144年]]頃) - インドの国王・[[マウリヤ朝]]を滅ぼし[[シュンガ朝]]を立てる
* [[パタンジャリ]](生没年不詳) - インド(シュンガ朝時代)の文法学者・[[ヨーガ学派]]の重要文献である『[[ヨーガ・スートラ]]』の編纂者
* [[メナンドロス1世]](在位[[紀元前155年|前155年]]頃 - [[紀元前130年|前130年]]頃) - 西北インドのギリシア系王国の国王・仏典の『[[ミリンダ王の問い]]』でも有名
* [[ナーガセーナ]](生没年不詳) - インドの仏教僧(比丘)・『ミリンダ王の問い』では王と問答し仏教に帰依させたと伝えられる
=== 中国と周辺諸国 ===
* [[叔孫通]](生没年不詳) - 前漢の儒者・博士・太常・廃絶された儀礼を組織し[[劉邦|高祖劉邦]]のもとで儒教の振興に尽くす
* [[衛満]](生没年不詳) - [[衛氏朝鮮]]の建国者・燕王[[盧綰]]が呂后政権を恐れ匈奴に出奔した後に朝鮮北部で自立する
* [[利蒼]](? - [[紀元前186年|前186年]]) - 前漢の政治家・[[呉氏長沙国]]の相をつとめ初代軑侯となる・発掘された[[馬王堆漢墓]]にその妻子と葬られていた
* [[呂雉]](? - [[紀元前180年|前180年]]) - 前漢の高祖劉邦の皇后・恵帝の母・劉邦の死後に政権を恣にし呂氏一族を登用する
* [[冒頓単于]](? - [[紀元前174年|前174年]]) - 匈奴の[[単于]](在位[[紀元前209年|前209年]] - [[紀元前174年|前174年]])・[[月氏]]や[[東胡]]を討ち国家統一・[[秦]]から前漢の中国を圧倒する
* [[趙佗]](? - [[紀元前137年|前137年]]) - 南越の初代王(武帝)(在位[[紀元前203年|前203年]] - [[紀元前137年|前137年]])・[[楚漢戦争]]で独立・60余年在位で100余歳で逝去?
* [[陳平]](? - [[紀元前178年|前178年]]) - 前漢の政治家・丞相・呂雉没後に[[周勃]]らとともに政変を起こし呂氏一族を粛清した
* [[周勃]](? - [[紀元前169年|前169年]]) - 前漢の武将・丞相・呂雉没後に[[陳平]]らとともに政変を起こし呂氏一族を粛清した
* [[劉濞]]([[紀元前215年|前215年]] - [[紀元前154年|前154年]]) - 前漢の皇族・劉邦の甥で呉王となる・景帝時代に楚王[[劉戊]]らと呉楚七国の乱を起こす
* [[文帝 (漢)|文帝]]([[紀元前203年|前203年]] - [[紀元前157年|前157年]]) - 前漢の第5代皇帝(在位[[紀元前180年|前180年]] - [[紀元前157年|前157年]])・呂氏一族が誅滅された後に即位・「[[文景の治]]」を現出
* [[賈誼]]([[紀元前200年|前200年]] - [[紀元前168年|前168年]]) - 前漢の政治家・文人・文帝に仕え国政を改革・「弔屈原文」「鵩鳥賦」「過秦論」の作がある
* [[中行説]](生没年不詳) - 前漢の宦官・文帝の時代に匈奴に嫁した公主に従い[[老上単于]]に仕える・恨みから前漢に仇をなすようになる
* 河上公(生没年不詳) - 前漢の隠者・文帝に『老子』の注釈書である『老子道徳経章句』を開示したと伝わる
* [[公孫弘]]([[紀元前200年|前200年]] - [[紀元前121年|前121年]]) - 前漢の学者・丞相・武帝の治世を補佐する一方で[[主父偃]]や[[董仲舒]]を失脚させる
* [[景帝 (漢)|景帝]]([[紀元前188年|前188年]] - [[紀元前141年|前141年]]) - 前漢の第6代皇帝(在位[[紀元前156年|前156年]] - [[紀元前141年|前141年]])・諸侯への領土削減策から呉楚七国の乱を招く
* [[晁錯|鼂錯]](? - [[紀元前154年|前154年]]) - 前漢の政治家・諸侯の勢力削減策を進め呉楚七国の乱を招く・反乱鎮圧のためと称して殺される
* [[袁盎]](生没年不詳) - 前漢の政治家・文帝から景帝に仕える・呉楚七国の乱に際し政敵であった鼂錯の処刑を進言する
* [[周亜夫]](? - [[紀元前143年|前143年]]) - 前漢の将軍・政治家・周勃の子・呉楚七国の乱を鎮圧したが景帝と不和になり餓死する
* [[劉安]]([[紀元前179年|前179年]] - [[紀元前122年|前122年]]) - 前漢の皇族・劉邦の孫で淮南王となる・『[[淮南子]]』の著者・武帝に叛意を疑われ自害
* [[主父偃]](生没年不詳) - 前漢の政治家・諸侯の領土を細分化する「推恩の令」を建策・諸侯に憎まれ武帝に誅殺される
* [[司馬相如]]([[紀元前179年|前179年]] - [[紀元前117年|前117年]]) - 前漢の文章家・武帝に仕え「天子游獵賦」など賦で知られる
* [[董仲舒]]([[紀元前176年|前176年]]? - [[紀元前104年|前104年]]?) - 前漢の[[儒学者]]・五経博士の設置などでいわゆる儒教の官学化に貢献
* [[劉勝]](? - [[紀元前113年|前113年]]) - 前漢の皇族・武帝の庶兄で中山王(靖王)となる・埋葬した墓地から金縷玉衣が出土・[[蜀]]の[[劉備]]の遠祖
* [[武帝 (漢)|武帝]]([[紀元前156年|前156年]] - [[紀元前87年|前87年]]) - 前漢の第7代皇帝(在位[[紀元前141年|前141年]] - [[紀元前87年|前87年]])・匈奴に対する外征を行い[[西域]]に勢力を拡大
* [[張騫]](? - [[紀元前114年|前114年]]) - 前漢の政治家・外交官・武帝の命で匈奴に対する同盟のため大月氏へと赴き西域を踏破する
* [[衛青]](? - [[紀元前106年|前106年]]) - 前漢の武将・大将軍大司馬・甥の霍去病とともに匈奴征討に大きく貢献・姉の[[衛子夫]]は武帝の皇后
* [[東方朔]]([[紀元前154年|前154年]] - [[紀元前92年|前92年]]) - 前漢の政治家・文人・その滑稽と機知で武帝に愛された・死後は伝説化し[[仙人]]とされる
* [[司馬遷]]([[紀元前145年|前145年]] - [[紀元前87年|前87年]]) - 前漢の[[歴史家]]・『[[史記]]』の著者・武帝の前で[[李陵]]を弁護して怒りを買い[[宮刑]]に処せられる
* [[霍去病]]([[紀元前140年|前140年]] - [[紀元前117年|前117年]]) - 前漢の武将・大司馬・叔父の[[衛青]]とともに匈奴征討に大きく貢献・[[霍光]]は異母弟
* [[李広利]](? - [[紀元前88年|前88年]]) - 前漢の[[軍人]]・武帝の命で[[汗血馬]]を求め[[大宛]]を攻略・後年は匈奴に降伏し粛清される
== 関連項目 ==
* [[年表]]
== 外部リンク ==
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紀元前6世紀
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紀元前6世紀(きげんぜんろくせいき)は、西暦による紀元前600年から紀元前501年までの100年間を指す世紀。
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紀元前6世紀(きげんぜんろくせいき)は、西暦による紀元前600年から紀元前501年までの100年間を指す世紀。
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[[ファイル:Persepolis stairs of the Apadana relief02.JPG|thumb|right|250px|[[アケメネス朝ペルシア]]の栄光。オリエントの再統一を果たすとともに多民族を緩やかに包含した安定した国家システムを構築した。画像は[[ペルセポリス]]のアパダナ(謁見の間)の階段側面の浮き彫りに刻まれた朝貢使節団。]]
[[ファイル:Persepolis - carved Faravahar.JPG|thumb|right|250px|[[ゾロアスター教]]の総合。宗祖[[ゾロアスター]]の生没年は現在でも意見の一致を見ていないが、アケメネス朝では王朝成立の頃からこの宗教を国家の支柱としていた。画像はペルセポリスに残るゾロアスター教の象徴でもある聖霊[[フラワシ]](プラヴァシ)の像。]]
[[File:Meeting Between Cambyses II and Psammetichus III.jpg|thumb|right|280px|{{仮リンク|ペルシウムの戦い|en|Battle of Pelusium (525 BC)}}。ペルシア王カンビュセス2世によりエジプトが軍門に下り、ここに全オリエント世界が統一された。画像は、この戦いの後に会見するペルシア王カンビュセス2世とエジプト王{{仮リンク|プサメティコス3世|en|Psamtik III}}を描いた{{仮リンク|アドリアン・ギニェ|fr|Adrien Guignet}}の歴史画([[ルーヴル美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Fotothek df ps 0002470 Innenräume ^ Ausstellungsgebäude.jpg|thumb|right|250px|[[新バビロニア]]の盛衰。アッシリアから独立して強盛を誇ったが、後にアケメネス朝に併合された。画像はベルリンの[[ペルガモン博物館]]で復元された[[イシュタル門]]。]]
[[ファイル:Columns of the Temple of Apollo at Delphi, Greece.jpeg|thumb|right|250px|[[デルポイ]]の[[アポロン]]神殿。紀元前548年に炎上した後、紀元前530年にアテナイの貴族[[クレイステネス]]により新たに奉献された。[[巫女]](ピュティア)による[[神託]]の場所としてギリシア人に重んじられた。]]
[[ファイル:Exekias, anfora con achille e aiace che giocano a dai, castore e polluce, da vulci, 540-30 ac ca. 03.JPG|thumb|right|250px|ギリシアの黒絵式陶器。アテナイの[[エクセキアス]]など高度な技術を持つ絵付師が活躍した。画像は「[[アキレウス]]と[[アイアース]]の[[アンフォラ]]」([[バチカン美術館]]蔵)。]]
[[File:Capitoline Brutus Musei Capitolini MC1183.jpg|thumb|right|200px|[[共和政ローマ]]の始まり。[[エトルリア]]系の王が追放されたことでローマの国政は大きく変革された。画像は共和政の樹立に功があり、初代の執政官[[コンスル]]ともなった[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]のものとされる肖像彫刻([[カピトリーノ美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Spring and Autumn Bronze Ding.jpg|thumb|right|250px|[[楚 (春秋)|楚]]の伸長。[[春秋五覇]]である荘王の時代には、楚は中原にも勢力を拡大し「鼎の軽重を問う」の故事にみられる権勢を誇るようになった。画像は楚の荘王の公子午(子庚)に捧げられた銅鼎([[中国国家博物館]]蔵)。]]
{{読み仮名_ruby不使用|'''紀元前6世紀'''|きげんぜんろくせいき}}は、[[西暦]]による[[紀元前600年]]から[[紀元前501年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== できごと ==
=== 紀元前600年代 ===
* 紀元前600年頃
** [[ギリシア]]系[[フォカイア]]人が南フランスに植民市[[マルセイユ|マッシリア]]を建設。
** ギリシアで[[アルカイック期#美術|アルカイック期]]中期。
*** 彫刻「スニオンのクーロス([[アテネ国立考古学博物館]]蔵)」、「クレオビスとビトンの像([[デルポイ]]考古学博物館蔵)」が作成される。
** [[プラエネステのフィーブラ|プラエネステのフィーブラ(留め具)]](ローマのピゴリーニ国立先史民族博物館蔵)が作成される。
*** 黄金の基体に現存最古の[[ラテン語]]([[古ラテン語]])の刻文がある。
** 中央ヨーロッパで[[ハルシュタット文化]]D期。
*** 「{{仮リンク|ヒルシュランデンの戦士像|en|Warrior of Hirschlanden}}([[シュトゥットガルト]]の[[ヴュルテンベルク]]州立博物館蔵)」が作られる。
*** 「{{仮リンク|ビチ・スカラ洞窟|en|Býčí skála Cave}}の牡牛像([[ウィーン自然史博物館]]蔵)」が作られる。
** 現ロシア連邦の[[トゥヴァ共和国]]サリグ・ブルン(Saryg-Bulun)で少女の戦士が埋葬される。
** [[内モンゴル]]南部の[[黄河]]屈曲部で[[オルドス青銅器文化]](綏遠青銅器文化)が展開( - 紀元前100年頃)。
** インドで[[マガダ国]]や[[コーサラ国]]などの[[十六大国]]が成立する。
=== 紀元前590年代 ===
* 紀元前599年 - [[陳 (春秋)|陳]]の[[霊公 (陳)|霊公]]が寵姫[[夏姫]]の息子[[夏徴舒]]に殺害され国内が混乱。楚の荘王が陳を一時併合する。
* 紀元前598年 - [[新バビロニア]]が[[ユダ王国]]を屈服させ、[[エホヤキン]]王を[[バビロン]]に連行する。
* 紀元前597年 - [[晋 (春秋)|晋]]と[[楚 (春秋)|楚]]が[[河南省]]鄭州市の邲において激突し、楚の大勝利に終わる([[邲の戦い]])。
** 敗戦後、司寇屠岸賈により戦争の責を問われ[[趙朔]]ら趙氏一族が滅せられる(下宮の難)。
* 紀元前595年 - [[第一次神聖戦争]]で[[デルポイ]][[隣保同盟]]と[[キラ]]が戦う( - 紀元前585年)。
* 紀元前594年 - [[アテナイ]]で[[ソロン]]が[[アルコン]]に選ばれ政治改革を行う。
=== 紀元前580年代 ===
* 紀元前589年
** 晋と斉が[[山東省]]の鞍において激突し、晋が勝利し斉の復権は阻止される({{仮リンク|鞍の戦い|en|Battle of An}})。
** エジプト王アプリエスの即位( - 紀元前570年)。
*** この王の時代に[[サイス]]で作られたのがローマ市にある[[サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会]]前の「{{仮リンク|象のオベリスク|en|Elephant and Obelisk}}」。
* 紀元前588年 - [[アルバニア]]の植民市[[アポロニア]]が[[ケルキラ]]と[[コリント]]からのギリシャ人入植者により建設される。
* 紀元前586年 - [[新バビロニア]]が[[ゼデキヤ (ユダ王)|ゼデキヤ]]王を捕虜として連行し[[ユダ王国]]を滅ぼす。
** [[エルサレム神殿]]が破壊され、[[ヘブライ人]]の[[バビロン捕囚]]が行われる。
* 紀元前585年
** [[日食の戦い]]([[クズルウルマク川|ハリュス川]]の戦いともいう)。
*** [[リディア|リュディア王国]]の[[アリュアッテス]]と[[メディア王国]]の[[キュアクサレス2世]]が交戦。
*** 5月28日頃現れた[[皆既日食]]により停戦にいたったため、「日食の戦い」と呼ばれる。
*** [[ヘロドトス]]によればこの皆既日食を[[ミレトス]]の[[タレス]]が予測していた。
** [[ウラルトゥ]]がスキタイによって滅ぼされる。
* 紀元前582年 - [[コリントス]]の第1回[[イストミア大祭]]が行われる。
* 紀元前582年以降 - [[デルポイ]]の第1回[[ピューティア大祭]]が行われる。
* 紀元前581年 - 『[[日本書紀]]』によれば[[綏靖天皇]]が即位。
* 紀元前580年頃
** [[クレタ島]]と[[ロードス島]]のギリシア系移民により[[シチリア島]]の[[アクラガス]](アグリジェント)が建設される。
** ギリシアの[[ケルキラ]](コルフ)島の[[アルテミス]]神殿破風彫刻の[[メドゥーサ]]像(ケルキラ考古学博物館蔵)が作成される。
** [[クシュ]]国王アスペルタあるいはその後継者により{{仮リンク|ナパタ|en|Napata}}から[[メロエ]]に都が遷され、以後メロエ王国と呼ぶ( - 紀元前568年)。
=== 紀元前570年代 ===
{{main|紀元前570年代}}
* 紀元前579年 - 第5代ローマ王[[タルクィニウス・プリスクス]]が暗殺され、娘婿の[[セルウィウス・トゥッリウス]]が王となる。
* 紀元前578年 - 晋と秦が麻隧の戦いで激突し、晋が秦に大勝する。
* 紀元前575年
** 晋と楚が鄢陵(河南省鄢陵)にて激突し、晋が勝利する([[鄢陵の戦い]])。
** ネブカドネザル2世が[[バビロン]]の[[イシュタル門]]を建設。
* 紀元前573年以前 - [[ネメア]]で第1回[[ネメア大祭]]が行われる。
* 紀元前573年 - [[欒書]]と[[中行偃|荀偃(中行偃)]]が晋の[[厲公 (晋)|厲公]]を殺害し、[[悼公 (晋)|悼公]]を擁立する。
* 紀元前570年 - エジプト王アプリエスを倒し、{{仮リンク|イアフメス2世(アマシス2世)|en|Amasis II}}が王となる。
** イアフメスはギリシア人傭兵を優遇しナイル川デルタ西端の[[ナウクラティス]]への定住を許可する。
* 紀元前570年頃
** アルカイック期中期のギリシア彫刻「子牛を担ぐ人(アテネ国立考古学博物館蔵)」「[[ナクソス島|ナクソス]]の[[スフィンクス]](デルポイ博物館蔵)」が作られる。
** イタリアの[[キウージ]]近郊フォンテ・ロテッラの[[ネクロポリス]]にあるエトルリア人墳墓から出土した「[[フランソワの壺]]」が作られる。
** [[シチリア島]]の[[アクラガス]]で[[ファラリス]]が実権を握る( - 紀元前544年頃)。
=== 紀元前560年代 ===
* 紀元前566年 - アテナイで[[パナテナイア祭]]が始まる。
* 紀元前565年頃 - ローマ王[[セルウィウス・トゥッリウス]]が[[ローマの七丘|ローマの七つの丘]]を囲む「[[セルウィウスの城壁]]」を築く。
* 紀元前561年 - [[ペイシストラトス]]が[[僭主]]となりアテナイでの実権を握る。
** この頃、[[ラウレイオン]]銀山の採掘が始まる。{{仮リンク|ヘカトンペドン神殿|en|Hekatompedon temple}}(古パルテノン神殿)が完成する。
* 紀元前560年 - [[クロイソス]]がリュディア王に即位。
* 紀元前560年頃 - 「{{仮リンク|テネアのクーロス|en|Kouros of Tenea}}([[ミュンヘン]]・[[グリュプトテーク]](彫刻館)蔵)」が作られる。
=== 紀元前550年代 ===
[[ファイル:British Museum gold coin of Croesus.jpg|サムネイル|right|250px|クロイソスの金貨。大英博物館所蔵。]]
* 紀元前556年 - [[スパルタ]]でキロンが監督官(エポロス)に選ばれ改革を行う。
* 紀元前555年頃 - [[シッパル]]出土の「[[ナボニドゥスの円筒形碑文]]([[大英博物館]]蔵)」( - 紀元前540年頃)。
* 紀元前553年頃 - 新バビロニア王ナボニドゥスのシリア・アラビア遠征。
** ナボニドゥスは[[タイマー (サウジアラビア)]]に根拠地を置いて長期滞在、バビロニアは息子[[ベルシャザル]]に統治を委託。
* 紀元前550年 - [[ペルシア]]に[[アケメネス朝]]が成立し、[[キュロス2世]]がメディア王国を滅ぼし、[[エクバタナ]]を占領。
* 紀元前550年頃
** クロイソスが信頼に足る最初の通貨を流通させる。リディア人は不純物を取り除いて金貨を作り、ライオンの部位の刻印により重さを示した。{{Sfn|マクレガー|2012|p=232-235|ps=「25 クロイソスの金貨」}}[[クロイソスの金貨]]と呼ばれる遺物が大英博物館に所蔵されている。
** リュディア王クロイソスの資金提供により[[エフェソス]]の[[アルテミス神殿]]が建てられる。
** ギリシアの[[アイギナ島]]でも[[スタテル]]貨が作られる。
** アルカイック期中期のギリシア彫刻「{{仮リンク|ランパンの騎士|fr|Cavalier Rampin}}(アテネ国立考古学博物館・[[ルーヴル美術館]]蔵)」が作成される。
=== 紀元前540年代 ===
* 紀元前548年
** [[斉 (春秋)|斉]]の[[崔杼]]が[[荘公光]]を殺害し、弟の杵臼([[景公 (斉)|景公]])を擁立する。
** 『日本書紀』によれば[[懿徳天皇]]が即位。
* 紀元前547年 - ペルシアのキュロス2世が[[テュンブラの戦い]]に勝利し[[サルディス]]を占領、[[リュディア|リュディア王国]]を滅ぼす。
* 紀元前546年
** 晋と楚の間で{{仮リンク|弭兵の会|zh|弭兵之盟}}が行われる。
** キュロス2世が[[パサルガダエ]]の造営に着手。
* 紀元前544年 - 一説によると[[仏陀]]が[[入滅]]した年とされ、[[東南アジア]]諸国で使われている[[仏暦]]はこの年をあてている。
** 翌年の紀元前543年を元年として起算している。
* 紀元前540年頃 - ギリシア系フォカイア人が南イタリアに植民市[[ヴェーリア (アシェーア)|エレア]]を建設。
* 紀元前540 - 535年 - [[コルシカ島]]{{仮リンク|アレリア沖の戦い|en|Battle of Alalia}}で、[[カルタゴ]]人と[[エトルリア人]]の連合軍が[[ギリシア人]]・[[サルデーニャ]]人の連合軍を破り、エトルリア人がアレリアを占領する。
=== 紀元前530年代 ===
* 紀元前539年 - [[オピスの戦い]]でペルシアのキュロス2世が新バビロニアの[[ナボニドゥス]]を破る。
** 続いてナボニドゥスの王子ベルシャザルが支配する首都[[バビロン]]占領し新[[バビロニア]]王国を滅ぼす。
*** バビロンで発見された「[[キュロス・シリンダー|キュロスの円筒印章]]」([[大英博物館]]蔵)はこの経緯をペルシア側から記録したもの。
** 同年にキュロス2世はイランのスシアナ地方にあった[[エラム]]王国を滅ぼし、[[スサ]]を占領する。
* 紀元前538年
** ペルシアのキュロス2世がヘブライ人のエルサレム帰還と神殿の再建を許可する。
** [[ポリュクラテス]]が[[サモス]]の僭主となる。
*** この僭主の時代にエウパリノスの地下導水路など[[サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿|サモス島のピタゴリオ]]や[[サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿|ヘーラー神殿]]が建造される。
* 紀元前536年 - [[鄭]]の宰相[[子産]]が中国で最初の成文法を作る。
* 紀元前535年頃 - ケルト系{{仮リンク|サルウィイ族|en|Salluvii}}によりギリシア系植民市テリネが占領され、アレラーテ(現[[アルル]])と名付けられる。
* 紀元前534年 - アテナイの[[ディオニューシア祭]]で[[テスピス]]による最古の[[ギリシア悲劇]]が演じられる。
* 紀元前530年頃
** 南イタリアの[[クロトーネ|クロトン]]に[[ピタゴラス]]が移住し、この地に「[[ピタゴラス教団]]」を設立する。
** ハルシュタット文化に属するドイツの{{仮リンク|ホッホドルフ墳丘墓|en|Hochdorf Chieftain's Grave}}が作られる。
* 紀元前530年頃 - 紀元前510年頃
** 「{{仮リンク|夫婦の人型棺|en|Sarcophagus of the Spouses}}([[ヴィラ・ジュリア国立博物館|ヴィラ・ジュリア国立エトルリア博物館]]蔵)」が作られる。
=== 紀元前520年代 ===
* 紀元前529年 - ペルシアのキュロス2世が[[トミュリス]]女王率いる[[マッサゲタイ]]人との戦いで戦死。[[カンビュセス2世]]が後継の王となる。
** 都[[パサルガダエ]]に「{{仮リンク|キュロスの墓|en|Tomb of Cyrus}}」が建設される。
* 紀元前527年 - アテナイの僭主ペイシストラトスが死去、長子[[ヒッピアス (僭主)|ヒッピアス]]が僭主となる。
* 紀元前525年 - ペルシアのカンビュセス2世が{{仮リンク|ペルシウムの戦い|en|Battle of Pelusium (525 BC)}}に勝利してエジプトを占領。
** [[エジプト第26王朝|第26王朝]]を滅ぼしたペルシアが[[エジプト第27王朝|第27王朝]]となり、古代オリエント世界を統一。
** [[エレファンティネ島]]のユダヤ人共同体遺跡から出土した[[アラム語]]文書はこの時代のもの([[エレファンティネ・パピルス]])。
* 紀元前522年 - ペルシアのカンビュセス2世死去。簒奪者[[ガウマタ]](または王弟[[スメルディス]])を倒し[[ダレイオス1世]]が即位。
** 「[[ベヒストゥーン碑文]]」にはこの簒奪阻止の記念にダレイオス1世が[[ゾロアスター教]]の[[フラワシ]]像に礼拝する様子が描かれている。
* 紀元前520年 - ペルシアのダレイオス1世が[[ペルセポリス]]の造営に着手。
* 紀元前520年 - 紀元前500年頃
** トルコの[[チャナッカレ]]州ビガ近郊の古墳にて出土した「{{仮リンク|ポリュクセネーの石棺|en|Polyxena sarcophagus}}」はこの時代のもの。
=== 紀元前510年代 ===
* 紀元前518年 - ペルシアのダレイオス1世が[[タキシラ]]を含む[[ガンダーラ]]地方を征服する。
* 紀元前517年頃 - ギリシア語著作家[[ミレトスのヘカタイオス]]による「[[ケルト人]]」についての最初の言及。
* 紀元前516年 - [[エルサレム]]の[[第二神殿]]が完成する。
* 紀元前514年 - ペイシストラトスの次子{{仮リンク|ヒッパルコス(政治家)|en|Hipparchus (son of Peisistratos)}}が殺害される。
* 紀元前510年
** アテナイで[[クレイステネス]]が僭主[[ヒッピアス (僭主)|ヒッピアス]]を追放。
*** [[五百人評議会]]や将軍職の設置、[[陶片追放]](オストラキスモス)の制度を定める。
** ヘレスポントスの[[ガリポリ半島|ケルソネソス]][[僭主]][[ミルティアデス]]が[[リムノス島]]を占領する。
* 紀元前510年頃
** エトルリア人彫刻家{{仮リンク|ウルカ|en|Vulca}}により「{{仮リンク|ウェイイのアポロン像|en|Apollo of Veii}}」が作られる( - 紀元前500年頃)。
** タルクィニア地下墳墓群の「{{仮リンク|軽業師の墓|fr|Tombe des Jongleurs}}」の壁画が描かれる。
=== 紀元前500年代 ===
* 紀元前509年 - 伝承によれば国王[[タルクィニウス・スペルブス]]が追放され[[古代ローマ|ローマ]]で[[共和政]]が始まる([[共和政ローマ]])。
** 最初の[[執政官]]として[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]と[[ルキウス・タルクィニウス・コッラティヌス]]が務めたとされる。
** 同年、[[カピトリヌス]]の丘の[[ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿]]の奉献式が行われる。
* 紀元前506年 - [[柏挙の戦い]]に勝利した[[呉 (春秋)|呉]]王[[闔閭]]が楚の都の[[郢]]を陥落させる。
** 楚の[[昭王 (楚)|昭王]]は随に逃亡、呉の[[伍子胥]]が楚の先王である[[平王 (楚)|平王]]の墓を暴いて復讐する。
* 紀元前502年
** ペルシアの支配に対する[[ナクソス島]]の反乱。
** 魯の[[陽虎]]が[[三桓氏]]排除のため乱を起こす。
* 紀元前501年 - 共和政ローマで[[ティトゥス・ラルキウス・フラウス]]が最初の[[独裁官]]に選出される。
* 紀元前500年以前
** [[スパルタ]]王[[クレオメネス1世]]により[[ペロポネソス同盟]]が結成される。
** ギリシアの[[アテナイ]]で「[[赤絵式]]」陶器が発明される。
** フランスの北部[[ブルゴーニュ]]地方で発見された「{{仮リンク|ヴィクスの墳墓|en|Vix Grave}}」が作られる。副葬品の「ヴィクスのクラテール」が有名。
== 人物 ==
=== 中国(周・春秋時代) ===
* [[荘王 (楚)|荘王]](? - 前591年) - [[春秋時代]]の楚の王(在位[[紀元前614年|前614年]] - [[紀元前591年|前591年]])・[[春秋五覇]]の1人・[[邲の戦い]]で勝利
* [[孫叔敖]](生没年不詳) - 春秋時代の楚の政治家([[令尹]])・荘王に仕えて楚の富国強兵を成し遂げ荘王に天下の覇権を握らせた
* [[巫臣]](生没年不詳) - 春秋時代の楚の政治家・荘王に仕えるがその没後は夏姫を伴い晋に亡命・宰相となり呉と国交を結ぶ
* [[景公 (晋)|景公]](? - 前581年) - 春秋時代の晋の君主(在位[[紀元前600年|前600年]] - 前581年)・邲の戦いでは楚に敗北
* [[荀林父]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・[[将軍]]・正卿(宰相)・中行氏の祖・邲の戦いでは敗北するが鄭を屈服させる
* [[士会]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・范氏の祖・邲の戦いでは敗北するが復権し「范武子の法」を定める
* [[韓厥]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・邲の戦いでは敗北・屠岸賈を倒し趙家再興を働きかけたことでも有名
* [[郤克]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・正卿・邲の戦いでは楚に敗北するが鞍の戦いでは斉を撃破する
* [[欒書]](? - [[紀元前573年|前573年]]) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・鄢陵の戦いで勝利・後に晋の厲公を殺害し悼公を擁立
* [[共王 (楚)|共王]](? - 前560年) - 春秋時代の楚の王(在位前591年 - 前560年)・眼を射られ鄢陵の戦いで敗北する
* [[悼公 (晋)|悼公]](前587年 - 前559年) - 春秋時代の晋の君主(在位前573年 - 前559年)・鄢陵の戦い以後の晋の覇権を保持
* [[中行偃]](? - [[紀元前554年|前554年]]) - 春秋時代の晋の政治家・将軍・欒書とともに厲公を殺害・斉の討伐でも活躍
* [[崔杼]](? - [[紀元前546年|前546年]]) - 春秋時代の斉の政治家・荘公を殺害し景公を擁立・「崔杼弑君」の記事でも有名
* [[苗賁皇]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・楚からの亡命者・鄢陵の戦いでは晋の軍師として楚を撃破する
* [[趙武]](前598年 - 前541年) - 春秋時代の晋の[[政治家]]・「[[趙氏孤児]]」のモデルで屠岸賈を倒し正卿となる・弭兵の会を開く
* [[羊舌肸]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・平公を支え晋の勢力を維持・晏嬰や子産と交流があった
* [[華元]](生没年不詳) - 春秋時代の[[宋 (春秋)|宋]]の政治家・[[商丘]]攻防戦で宋を死守・晋と楚の和平を取り持つ
* 向戌(生没年不詳) - 春秋時代の宋の政治家・華元の後を継いで右師となり晋と楚を取り持ち弭兵の会を開く
* [[王子喬]](生没年不詳) - 春秋時代の東周[[霊王]]の太子(晋)・父王に諫言して王位を断念・後年は[[仙人]]になったという
* [[子産]](? - [[紀元前522年|前522年]]) - 春秋時代の[[鄭]]の政治家・鄭の政治改革を進め中国最初の[[成文法]]を制定
* [[晏嬰]](? - [[紀元前500年|前500年]]) - 春秋時代の斉の政治家・崔杼らの政変を避けて斉を支える
* [[司馬穰苴]](生没年不詳) - 春秋時代の斉の将軍・晏嬰に推薦され任官される・兵法書『[[司馬法]]』の著者
* [[季札]](生没年不詳) - 春秋時代の呉の政治家・呉王寿夢の少子「延陵の季子」として知られ晏嬰や子産と交わる
* [[闔閭]](? - [[紀元前496年|前496年]]) - 春秋時代の[[呉 (春秋)|呉]]の王(在位[[紀元前514年|前514年]] - [[紀元前496年|前496年]])・春秋五覇の1人
* [[孔子]](前551年 - [[紀元前479年|前479年]]) - 春秋時代の[[魯]]の[[思想家]]([[儒家]])
=== 西アジア ===
==== オリエント諸国 ====
* [[キュアクサレス2世]](? - [[紀元前584年|前584年]]) - メディア王国の王(在位[[紀元前652年|前652年]]/[[紀元前624年|前624年]] - [[紀元前584年|前584年]])・最盛期をもたらす
* [[アステュアゲス]](? - [[紀元前550年|前550年]]以降) - メディア最後の王(在位[[紀元前585年|前585年]] - [[紀元前550年|前550年]])・娘マンダネの子キュロス2世に征服される
* [[ネブカドネザル2世]](? - [[紀元前562年|前562年]]) - 新バビロニア王国の王(在位[[紀元前605年|前605年]] - [[紀元前562年|前562年]])・ユダ王国を滅ぼし[[バビロン捕囚]]を行う
* [[ナボニドゥス]](? - [[紀元前539年|前539年]]) - 新バビロニア最後の王(在位[[紀元前555年|前555年]] - [[紀元前539年|前539年]])・息子ベルシャザルに国内統治を委ねていた
* [[ベルシャザル]](? - [[紀元前539年|前539年]]) - 新バビロニア王ナボニドゥスの息子・旧約聖書『ダニエル書』では新バビロニア最後の王とされる
* [[キュロス2世]]([[紀元前600年|前600年]]頃 - [[紀元前529年|前529年]]) - アケメネス朝ペルシアの初代国王(在位[[紀元前550年|前550年]] - [[紀元前529年|前529年]])・新バビロニア他を滅ぼす
* [[クロイソス]]([[紀元前595年|前595年]] - [[紀元前547年|前547年]]頃?) - リュディア王国最後の王(在位[[紀元前560年|前560年]]頃 - [[紀元前547年|前547年]]頃)・貨幣制度を発明?
* [[トミュリス]](生没年不詳) - 遊牧民[[マッサゲタイ]]の女王・息子スパルガピセスを失いながらもペルシア王キュロス2世を討ち果たすと伝わる
* [[カンビュセス2世]](? - [[紀元前522年|前522年]]) - アケメネス朝ペルシアの国王([[紀元前529年|前529年]] - [[紀元前522年|前522年]])・[[エジプト]]を征服しオリエントを統一
* [[ダレイオス1世]]([[紀元前558年|前558年]] - [[紀元前486年|前486年]]) - アケメネス朝ペルシアの国王([[紀元前522年|前522年]] - [[紀元前486年|前486年]])・[[ペルセポリス]]を造営
==== ユダヤ ====
* [[エレミヤ]]([[紀元前7世紀|前7世紀]]末 - 前6世紀前半) - [[旧約聖書]]『[[エレミヤ書]]』に登場する古代ユダヤの[[預言者]]・バビロン捕囚前に活躍
* [[エゼキエル]](生没年不詳) - [[旧約聖書]]『[[エゼキエル書]]』に登場する古代ユダヤの預言者・バビロン捕囚で連行される
* [[ダニエル]](生没年不詳) - 旧約聖書『[[ダニエル書]]』に登場する古代ユダヤの預言者・新バビロニアの滅亡を予言する
* [[ゼルバベル]](生没年不詳) - 旧約聖書のユダヤ人指導者・バビロン捕囚から解放されたユダヤ人と[[第二神殿|エルサレム第二神殿]]を再建
=== 地中海世界 ===
==== ギリシア ====
* [[ギリシア七賢人]]
** アテナイの[[ソロン]]([[紀元前639年|前639年]]頃 - [[紀元前559年|前559年]]頃) - [[政治家]]・債務奴隷の禁止など「財産政治」と呼ばれる改革を行う
** [[ミレトス学派|ミレトス]]の[[タレス]]([[紀元前624年|前624年]] - [[紀元前546年|前546年]]頃) - 哲学者・万物の根源を「水」とする・日食の予言や[[ピラミッド]]測量で有名
** スパルタのキロン(生没年不詳) - 監督官(エポロス)・外交方針を征服から同盟へと転換し[[ペロポネソス同盟]]の基礎を築く
** プリエネのビアス(生没年不詳) - 弁論家・頭脳明晰で弁論に優れ「ギリシア七賢人」の筆頭に位置づけられることもある
** ミュティレネのピッタコス([[紀元前640年|前640年]]頃 - [[紀元前564年|前564年]]頃) - 僭主・調停者(アイシュムネテス)とも呼ばれ善政を行い民から慕われたと伝わる
** リンドスのクレオブロス(生没年不詳) - 僭主・ペイシストラトスにアテナイから追放されたソロンをリンドスに招いたという伝承がある
** コリントスのペレアンドロス([[紀元前627年|前627年]]以前 - [[紀元前585年|585年]]頃) - 僭主・コリントス港の改築などで知られるが暴君で冷酷との評もある
** ケナイのミュソン(生没年不詳) - 農夫・[[プラトン]]の『プロタゴラス』ではペレアンドロスの代わりに七賢人となっている
* [[エピメニデス]](生没年不詳) - 詩人・預言者・「嘘つきのクレタ人([[エピメニデスのパラドックス]])」で有名
* {{仮リンク|アナカルシス|en|Anacharsis}}(生没年不詳) - [[スキタイ]]の王族・ギリシアで哲学者として活躍・書簡集は偽作の疑いあり
* {{仮リンク|アルゴスのポリュメデス|en|Polymedes of Argos}}(生没年不詳) - [[アルカイック期]]の彫刻家・「[[クレオビスとビトン]]」の彫刻で有名
* [[アイソーポス|アイソポス]]([[紀元前620年|前620年]] - [[紀元前560年|前560年]]頃) - 小アジア出身の寓話作家・いわゆる「イソップ寓話集」をまとめた
* [[ファラリス]](? - [[紀元前554年|前554年]]頃) - シチリア島の[[アクラガス]]の僭主・その名がつけられた処刑器具「[[ファラリスの雄牛]]」で有名
* [[アナクシマンドロス]]([[紀元前610年|前610年]] - [[紀元前546年|前546年]]) - ミレトス学派(イオニア学派)の哲学者・万物の根源を「[[アペイロン]]」とする
* [[ミレトスのアナクシメネス|アナクシメネス]]([[紀元前585年|前585年]] - [[紀元前525年|前525年]]) - ミレトス学派(イオニア学派)の哲学者・万物の根源を「空気」とする
* [[メガラ]]の[[テオグニス]](生没年不詳) - 詩人・貴族と民衆の政争の犠牲になり亡命生活を送る・エレゲイア詩形による格言詩が有名
* [[ペイシストラトス]](前6世紀頃 - [[紀元前527年|前527年]]) - アテナイの[[僭主]]・ラウレイオン銀山の採掘を始めアテナイの産業を育成
* [[エクセキアス]](活動時期[[紀元前550年|前550年]]頃 - [[紀元前525年|前525年]]頃) - アテナイの陶芸家・絵付師・[[黒絵式]]陶器「[[アキレウス]]と[[アイアース]]」が有名
* [[サモス島|サモス]]の[[ピタゴラス]]([[紀元前582年|前582年]] - [[紀元前496年|前496年]]) - [[ピタゴラス教団|ピタゴラス学派]]の[[哲学者]]・[[ピタゴラスの定理]]の発見など数学者としても知られる
* {{仮リンク|ザルモクシス|en|Zalmoxis}}(生没年不詳) - [[トラキア]]の神官・神秘主義者・ピタゴラスの奴隷であったころ霊魂不滅説の影響を受けたという説もある
* [[アナクレオン]]([[紀元前582年|前582年]] - [[紀元前485年|前485年]]) - イオニアのテオス出身の詩人・[[9歌唱詩人|九歌唱詩人]]の一人・酒飲みと賛美歌で有名
* イビュコス(前6世紀) - レギオン出身の抒情詩人・九歌唱詩人の一人・サモス島僭主ポリュクラテスの宮廷活躍・物語詩に優れる
* コロポンの[[クセノパネス]](生没年不詳) - 哲学者・詩人・ホメロスやヘシオドスの神々の描き方を批判しプラトンに影響を与えた
* [[クロトンのミロン]](生没年不詳) - [[レスリング]]競技者・[[オリュンピア祭]]では前540年 - 前516年に6回のレスリング優勝者となる・逸話も多い
* [[テスピス|イカリアのテスピス]](生没年不詳) - 舞台に立った最初の劇俳優・前534年のアテナイの[[ディオニューシア祭]][[悲劇]]競技会で優勝
* [[ヒッピアス (僭主)|ヒッピアス]](前6世紀後半 - [[紀元前5世紀|前5世紀]]前半) - アテナイの僭主・ペイシストラトスの子・アルクメオン家らによって追放される
* [[クレイステネス]](前6世紀後半 - [[紀元前5世紀|前5世紀]]前半) - アテナイの政治家・五百人評議会を設置し将軍職を定めるなど民主政の基礎を確立
[[ファイル:WLA metmuseum Bronze chariot inlaid with ivory 3.jpg|thumb|right|250px|モンテレオーネの[[チャリオット]]。1902年、[[モンテレオーネ・ディ・スポレート]]にて出土<ref>{{cite web |author=Moore ,Malcolm |date=2007-04-09 |url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/1548072/Italian-villagers-fight-New-Yorks-Met-for-2600-year-old-chariot.html |title=Italian villagers fight New York's Met for 2,600-year-old chariot |publisher=The Telegraph |accessdate=2013-12-08}}</ref>。]]
==== ローマ ====
* [[セルウィウス・トゥッリウス]](? - [[紀元前535年|前535年]]) - 王政ローマ第6代の王(在位[[紀元前578年|前578年]] - [[紀元前535年|前535年]])
* [[ルキウス・タルクィニウス・スペルブス]](? - [[紀元前496年|前496年]]) - 王政ローマ第7代の最後の王(在位[[紀元前535年|前535年]] - [[紀元前509年|前509年]])
* [[ルキウス・タルキニウス・コッラティヌス]](生没年不明) - 共和政ローマの設立者・王を追放し初代[[執政官]](コンスル)に就任
* [[ルクレティア]](? - [[紀元前509年|前509年]]) - 初代執政官のコッラティヌスの妻・タルクィニウス王の息子に辱められたことで夫たちに復讐を依頼する
* [[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]([[紀元前545年|前545年]]頃 - [[紀元前509年|前509年]]) - 共和政ローマの設立者・王を追放し初代執政官(コンスル)に就任
== 架空のできごと ==
* 紀元前6世紀 - 古代ギリシアで女流詩人として名高いサッフォーと同時期に、別の女流詩人ビリティスがいた。その146歌の散文詩が19世紀末に発見されて、ギリシャ学者[[ピエール・ルイス]]によってフランス語訳され、[[ドビュッシー]]もこの詩に曲をつけることになった(ピエール・ルイスの擬似翻訳「[[ビリティスの歌]]」)。
* 紀元前525年以降 - エジプトを征服したペルシア王[[カンビュセス2世]]はさらに[[エチオピア]]に大軍を派遣するが、困難極まる旅程で程なく食糧は尽き、兵士たちは籤を引いて食糧となる人物を選ばざるを得なくなる。折悪しく籤で引いて犠牲者となることが確定した兵士サルタはそのまま逃亡し、不毛の砂漠を駆け抜けた。その先には謎の少女エステルが待ち受けていた([[藤子・F・不二雄]]『[[カンビュセスの籤]]』)。
<!-- '''注釈'''
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== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=[[ニール・マクレガー]] |year=2012 |title=100のモノが語る世界の歴史 1 文明の誕生 |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4-480-01551-8 |ref={{Sfnref|マクレガー|2012}}}}<!-- 2012年4月15日初版第一刷 -->
== 関連項目 ==
* [[年表]]
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline}}
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[[Category:紀元前6世紀|*]]
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紀元前7世紀
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紀元前7世紀(きげんぜんななせいき、きげんぜんしちせいき)は、西暦による紀元前700年から紀元前601年までの100年間を指す世紀。
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紀元前7世紀(きげんぜんななせいき、きげんぜんしちせいき)は、西暦による紀元前700年から紀元前601年までの100年間を指す世紀。
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{{出典の明記|date=2013年5月}}
{{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 7 | BC = 1 }}
[[File:Exhibition I am Ashurbanipal king of the world, king of Assyria, British Museum (31033563287).jpg|thumb|right|250px|アッシリアの世界帝国。強力な軍事力と過酷な統治体制でアッシリアは最初の「世界帝国」を樹立した。画像は都[[ニネヴェ]]の北宮殿を飾っていたアッシリア王[[アッシュールバニパル]]の「{{仮リンク|獅子狩り|en|Lion Hunt of Ashurbanipal}}」浮き彫り([[ロンドン]]の[[大英博物館]]蔵)。]]
[[ファイル:Pyramids of Nuri.jpg|thumb|right|250px|[[ヌビアのピラミッド]]。[[エジプト第25王朝|第25王朝]]の崩壊とともにエジプトを離れ故地へと南下した[[ヌビア]]人はこの地に幾つものピラミッドを造営した。]]
[[ファイル:Panel Almaqah Louvre DAO18.jpg|thumb|right|200px|[[南アラビア文字]]。この時代の[[アラビア半島]]の[[イエメン]]には[[サバ王国]]があり、[[アッシリア]]とも交流があったことが判明している。画像はセム系[[サバ語]]を南アラビア文字で記録した月神アルマカへの奉納文(ルーヴル美術館蔵)。]]
[[ファイル:Sparti in-river-Eurotas-valley flanked-by-Taygetos-mountains.jpg|thumb|right|250px|[[スパルタ]]。[[第二次メッセニア戦争]]で[[メッセニア]]人に勝利したことでスパルタは厳しい軍律を定める国民皆兵の社会を確立した。画像は現在のスパルタで、前景に古代の遺跡を、中景に新市街[[スパルティ]]を、後景に[[タイゲトス]]山を望むことができる。]]
[[ファイル:Gold scythian belt title from Mingachevir, Azerbaijan.JPG|thumb|right|200px|騎馬民族[[スキタイ]]。スキタイはユーラシア中央部に拠点を持ち交易や略奪を通じてオリエント諸国に大きな影響を与えた。画像は[[アゼルバイジャン]]の[[ミンゲチェヴィル]]で発見された黄金製動物意匠のベルトの留め金。]]
[[File:Kultwagen Strettweg.jpg|thumb|right|200px|[[ハルシュタット文化]]。ヨーロッパは青銅器時代から鉄器時代に移行しつつあった。画像はオーストリア南東部の墳墓で発見された青銅製の「{{仮リンク|ストレットヴェクの祭式馬車|en|Strettweg Cult Wagon}}」で女性像を中心に多くの人物が置かれている([[グラーツ]]のヨアネウム博物館蔵)。]]
[[ファイル:Emperor Jimmu.jpg|thumb|right|200px|[[神武天皇]]。『[[日本書紀]]』『[[古事記]]』の[[神武東征]]の記録によると日向高千穂から出立し瀬戸内海を経て大和に入り、橿原宮で即位し初代の天皇になったとされる。画像は[[月岡芳年]]『大日本名将鑑』の金の鵄(とび)を従えて敵を圧倒する神武天皇。]]
[[ファイル:Michinoomi no Mikoto following a crow to the enemy's lair LACMA M.2000.105.97.jpg|サムネイル|200px|[[道臣命]]]]
{{読み仮名_ruby不使用|'''紀元前7世紀'''|きげんぜんななせいき|きげんぜんしちせいき}}は、[[西暦]]による[[紀元前700年]]から[[紀元前601年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== 出来事 ==
=== 紀元前700年代 ===
{{main|紀元前700年代}}
* 紀元前700年頃
** ギリシアで{{仮リンク|東方様式期|en|Orientalizing period}}から初期アルカイック期への移行。
*** [[テーバイ]]出土の青銅製の「マンティクロスの[[アポロン]]神像(Mantiklos Apollo)」([[ボストン美術館]]蔵)が作られる。
** [[キプロス島]]北西アギアイリニ神域で発見された2000体の男性奉献像({{仮リンク|ニコシア・キプロス考古学博物館|bg|кипърски музей#Зала 4}}蔵)が作られる。
** [[ユダ王国]]の[[ヒゼキヤ]]王により、[[ギホン]]の泉からシロアム池に流れる地下水路が作られる。
*** この地下水路から発見されたのが[[シロアム碑文]]で、最古級の[[古代ヘブライ文字]]が書かれている。
** [[エチオピア]]最古の{{仮リンク|イェーハ|en|Yeha}}[[神殿]]が建立される。
** ドイツ北部で[[ヤストルフ文化]](ヤストルフ期)が成立する( - 紀元前400年頃)。
** [[シベリア]]南部[[ミヌシンスク盆地]]を中心に[[タガール文化]]が成立する( - 紀元前300年頃)。
*** この地は当時ユーラシア大陸最大の青銅器の産地であり、大規模な墳丘墓([[クルガン]])が発見されている。
** [[メキシコ]]のオルメカ文化の影響を受け{{仮リンク|チアパデコルソ|en|Chiapa de Corzo (Mesoamerican site)}}を中心とするソケ文化が成立する。
** メキシコ南西部の[[ゲレロ州]]{{仮リンク|バルサス川|en|Balsas River}}流域で{{仮リンク|メスカラ文化|en|Mezcala culture}}が成立する( - [[紀元前200年]]頃)。
=== 紀元前690年代 ===
{{main|紀元前690年代}}
* 紀元前695年 - アナトリア半島に侵入した[[キンメリア]]人により[[フリギア]]王国の都[[ゴルディオン]]が破壊される。
* 紀元前693年 - [[シチリア島]][[エトナ山]]で[[火山噴火の歴史|火山噴火の最古の記録]]。
* 紀元前691年 - ハルールの戦いで[[ムシェズィプ・マルドゥク]]率いるバビロニア軍にアッシリア軍が敗北し一時撤退。
=== 紀元前680年代 ===
{{main|紀元前680年代}}
* 紀元前689年 - アッシリア王[[センナケリブ]]のバビロニア遠征。バビロンは陥落しアッシリアの直接支配下におかれる。
* 紀元前687年頃 - リュディア王[[カンダウレス]]を倒した{{仮リンク|ギュゲス (リュディア)|en|Gyges of Lydia|label=ギュゲス}}が王となり、{{仮リンク|メルムナデス朝|en|List of kings of Lydia#Mermnadae}}が成立。
* 紀元前685年 - [[斉 (春秋)|斉]]の[[桓公 (斉)|桓公]]が君主となり、[[管仲]]を宰相に迎える。
* 紀元前685年頃 - ギリシアの[[メガラ]]人により植民市[[カルケドン]]が建設される。
* 紀元前683年 - アテナイの[[アルコン]]の任期が10年から1年に限定され、翌年クレオンがその任期で職務に就く。
* 紀元前681年- アッシリア王センナケリブが暗殺される。王位継承争いを制した王子[[エサルハドン]]が即位。
=== 紀元前670年代 ===
{{main|紀元前670年代}}
* 紀元前679年 - 斉の桓公による鄄の会盟。
* 紀元前677年
** 姫称が晋を再統一し、晋の[[武公 (晋)|武公]]となる。
** [[秦]]の[[徳公 (秦)|徳公]]が平陽から[[雍城]]に都を遷す。
* 紀元前673年 - [[トゥッルス・ホスティリウス]]が第3代[[ローマ王]]に選出される。
* 紀元前671年 - アッシリア王エサルハドンのエジプト遠征。
** [[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]陥落によりエジプト王{{仮リンク|タハルカ|en|Taharqa}}は[[テーベ]]に逃亡。
** この時期アッシリアの領土は最大となり、[[オリエント]]世界の統一が達成される。
* 紀元前670年頃
** 最古の「[[トロイアの木馬]]」が描かれた「{{仮リンク|ミコノスの壷|en|Mykonos vase}}(ミコノス考古学博物館蔵)」が作られる。
** [[リュディア]]王ギュゲスが世界最初の鋳造貨幣[[エレクトロン貨]]を発行する。
=== 紀元前660年代 ===
{{main|紀元前660年代}}
* 紀元前669年 - ヒュシアイの戦いで[[アルゴス]]僭主フェイドンが[[スパルタ]]に勝利し覇権を握る。
* 紀元前668年 - アッシリア王[[アッシュールバニパル]]の即位。
** アッシュールバニパル王は都[[ニネヴェ]]のクユンジクの丘に「[[アッシュールバニパルの図書館]]」を設立。
* 紀元前667年頃
** [[第二次メッセニア戦争]]にスパルタが勝利しメッセニアを再占領。
** ギリシアのメガラ人により植民市[[ビュザンティオン]](現[[イスタンブール]])が建設される。
* 紀元前665年
** アッシュールバニパル王が、ルッディ王グッグを救援するためギミライを攻撃する。
*** 「ルッディ王グッグ」は、歴史家[[ヘロドトス]]の記録した「[[リディア]]王{{仮リンク|ギュゲス (リュディア)|en|Gyges of Lydia}} 」に相当し、「ギミライ」は「[[キンメリア人]]」に相当すると推定されている。
* 紀元前664年
** [[楚 (春秋)|楚]]の[[成王 (楚)|成王]]が[[英 (春秋)|英]]を滅ぼす。
** [[エジプト第25王朝]]の崩壊。アッシリアの支援でプサメティコス1世により[[サイス]]に[[エジプト第26王朝|第26王朝]]が成立。
* 紀元前663年
** アッシリア王アッシュールバニパルのエジプト遠征。
*** 再起を図ったエジプト第25王朝のタヌトアメンはテーベ陥落によりヌビアに逃亡。第26王朝の支配が確定。
** 斉の桓公が[[燕]]を救援するため、[[山戎]]を征伐し、[[孤竹国]]を滅ぼす。
* [[紀元前660年]]
** 熒沢の戦いで、[[衛]]の[[懿公 (衛)|懿公]]が[[狄|翟(狄)]]に敗死、都の[[朝歌]]が略奪され衛は一時滅亡。
** 初代[[神武天皇]]即位、日本建国。辛酉年、春正月、庚辰の朔日の日、天皇[[橿原神宮|橿原宮]]にあまつひつぎしろしめし、天皇の元年とす(『[[日本書紀]]』)。
* 紀元前660年頃 - [[マンナエ]]王国がアッシリアに敗北し衰退に向かう。
** イランの[[クルディスタン]]地方[[ウルミア湖]]沿いの{{仮リンク|ジビエ(遺跡)|en|Ziwiyeh Castle}}で発見された「{{仮リンク|ジビエの遺宝|en|Ziwiye hoard}}」はこの王国のものか。
=== 紀元前650年代 ===
{{main|紀元前650年代}}
* [[紀元前657年]] - [[キュプセロス (僭主)|キュプセロス]]がバッキアダイを追放し[[コリントス]]の[[僭主]]となる。
* 紀元前656年 - 斉の桓公による召陵の会盟。
* 紀元前655年 - 晋の[[献公 (晋)|献公]]が虢と虞を滅ぼす。[[驪姫]]の讒言のため公子[[重耳]]・公子夷吾らが晋を出奔。
* 紀元前654年 - [[フェニキア]]人が[[イビサ島]]に植民市を築く。
* 紀元前653年
** [[スキタイ]]王{{仮リンク|マデュエス|en|Madyes}}が[[メディア王国|メディア]]各地を席巻し支配下に置く。
** エジプトのプサメティコス1世がアッシリアの支配から離脱。
** ギリシア系[[アンフィサ]]人が[[マグナ・グラエキア]]に植民市[[ロクリ]]を建設する。
* 紀元前652年 - 斉の桓公による洮の会盟。
* 紀元前651年 - 斉の桓公による葵丘の会盟。桓公はこれにより周王より伯位を賜り最初の[[覇者]]となる。
* 紀元前650年頃
** ギリシアで初期アルカイック期。
*** [[デロス島]]出土の「ニカンドラの奉納像」([[アテネ国立考古学博物館]]蔵)、「オーセールの婦人像」([[ルーブル美術館]]蔵)が作られる。
** ポーランドで[[ルサチア文化]]から発展した[[ポメラニア文化]]が成立する( - 紀元前200年頃)。
=== 紀元前640年代 ===
{{main|紀元前640年代}}
* 紀元前647年 - アッシリア王アッシュールバニパルの[[エラム]]遠征。[[スーサの戦い|スサの戦い]]でエラムの首都スサが陥落し、破壊される。
* 紀元前645年
** 斉の宰相である管仲が死去。
** 秦の[[穆公 (秦)|穆公]]と晋の[[恵公 (晋)|恵公]]が激突。秦が大勝し晋の恵公を捕虜とする([[韓原の戦い]])。
* 紀元前643年 - 斉の桓公が死去し、斉の覇権は終わる。
* 紀元前640年頃
** アッシリア軍が[[キンメリア]]軍を破り、キンメリアの王リュグダミス(ドゥグダッメ)も[[キリキア]]地方で死去。
**「{{仮リンク|キージの壺|en|Chigi vase}}(ローマの[[ヴィラ・ジュリア国立博物館]]蔵)」が作られる。
=== 紀元前630年代 ===
{{main|紀元前630年代}}
* 紀元前639年 - [[宋 (春秋)|宋]]の[[襄公 (宋)|襄公]]による鹿上の会盟・盂の会盟。
* 紀元前638年 - 宋の襄公と[[楚 (春秋)|楚]]の[[成王 (楚)|成王]]が泓水(現:河南省柘城県)にて激突し、楚が大勝する([[泓水の戦い]])。
* 紀元前636年 - 重耳が亡命19年の後即位し、[[晋 (春秋)|晋]]の[[文公 (晋)|文公]]となる。
* 紀元前635年 - エジプト王[[プサメティコス1世]]が{{仮リンク|アシュドッドを陥落させる|en|Fall of Ashdod}}。
* 紀元前632年 - 文公が率いる晋と楚が城濮(現:[[山東省]]西部の濮県の南)にて激突し、晋が大勝する([[城濮の戦い]])。
** この勝利により晋の文公は践土の会盟を行い覇者となる。
* 紀元前630年頃
** {{仮リンク|キュロン|en|Cylon of Athens}}が[[アテナイ]]の[[アクロポリス]]を占拠し[[僭主]]の地位を得ようとするが失敗し殺害される。
*** キュロン殺害を促したメガクレスとアルクマイオン一族は追放され、これが原因でアテナイと[[メガラ]]の間で戦争が起こる。
** [[リビア]]の植民都市[[キュレネ]]がティラ島のギリシャ人によって建設される。
=== 紀元前620年代 ===
{{main|紀元前620年代}}
* 紀元前627年 - 秦と晋が{{仮リンク|殽の戦い|zh|殽之戰}}で激突し、晋が勝利する。
* 紀元前627年頃
** 植民都市エピダムノス(現[[アルバニア]]の第2の都市[[ドゥラス]])がギリシアの[[コリントス]]人や[[ケルキラ]]人などにより建設される。
** アッシリア王アッシュールバニパルが死去。
* 紀元前625年頃
** [[ナボポラッサル]]がアッシリアからバビロンを奪取し[[新バビロニア]]を建国。
** [[キュアクサレス2世]]がスキタイの支配からメディアを独立させる。
*** イラン北西部[[ハマダーン]]州の「火の神殿」がある{{仮リンク|テペ・ヌシ=イ・ジャン|en|Noushijan}}遺跡はこの時期までのもの。
** 秦と晋が彭衙の戦いで激突。
* 紀元前624年 - 秦と晋が王官の戦いで激突し、秦が勝利する。
* 紀元前623年 - 秦と晋が新城の戦いで激突。秦の穆公が西戎を制圧し、西戎の覇者となる。
* 紀元前622年 - エルサレム聖殿で大祭司ヒルキヤが律法の書を発見、それに基づいてユダ国王[[ヨシヤ]]が「[[申命記]]改革」を行う。
* 紀元前621年 - 秦の穆公が死去し、177名の殉死者が出たことで、秦の国力が低下する。
* 紀元前621年頃 - ギリシアのアテナイで[[ドラコン (立法者)|ドラコン]]が法典を成文化する。
* 紀元前620年頃 - ギリシアの[[コリントス]]で「[[黒絵式]]」陶器が発明される。
=== 紀元前610年代 ===
{{main|紀元前610年代}}
* 紀元前616年
** メディアがマンナエを併合する。
** [[エトルリア]]系で[[タルクイーニア]]出身の[[タルクィニウス・プリスクス]]が[[王政ローマ|ローマ]]の第5代王に選ばれる。
*** この王とこれに続く第6代と第7代のローマ王もエトルリア系で、ラテン系を圧倒するほどの勢力があった。
*** [[タルクイーニア]]近郊[[モンテロッツィのネクロポリス|モンテロッツィ遺跡]]は[[チェルヴェーテリ]]近郊[[バンデタッチャのネクロポリス|バンディタッチャ遺跡]]とともにエトルリア地下墳墓([[ネクロポリス]])で有名。
*紀元前614年 - [[アッシュール]]市を制圧した新バビロニア王[[ナボポラッサル]]とメディア王[[キュアクサレス2世]]が同盟を締結。
* 紀元前612年 - 新バビロニアとメディア連合軍により[[アッシリア]]の首都[[ニネヴェ]]が陥落。
** [[シン・シャル・イシュクン]]王は戦死するが、ハッラーンにアッシリア残存勢力が結集する。
* 紀元前611年 - 楚・[[秦]]・巴の攻撃で[[庸 (春秋)|庸]]が滅亡。
* 紀元前610年 - エジプト王[[ネコ2世]]が即位。ネコ2世の治世に王の命令でフェニキア人がアフリカ周航を行う。
* 紀元前610年頃 - エジプトの[[ナイル川]]デルタ地帯にギリシア系[[ミレトス]]人が植民市[[ナウクラティス]]を建設。
=== 紀元前600年代 ===
{{main|紀元前600年代}}
* 紀元前609年
** ハッラーンの戦いで敗北し、[[アッシュール・ウバリト2世]]が戦死しアッシリアが完全に滅亡。
** [[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]]でエジプト王ネコ2世がユダ王[[ヨシヤ]]を戦死させる。
*** ヨシヤの三男[[ヨアハズ (ユダ王)|ヨアハズ]]が王となるも廃位されてエジプトに連行され、兄の[[エホヤキム_(ユダ王)|エホヤキム]]が王となる。
*** 以後ユダはエジプトの服属国となり、「[[ウィア・マリス|海の道]](Derekh Ha Yam)」の要衝としてのメギドの地位は低落。
*** 戦場となった「メギドの丘」を意味する「[[ハルマゲドン]]」の語は後に[[黙示文学]]において「[[終末もの|最終戦争]]」の意味で転用されるようになる。
* 紀元前607年 - 趙穿が晋の[[霊公 (晋)|霊公]]を殺害する。亡命途上の[[趙盾]]が帰国し[[成公 (晋)|成公]]を擁立。
* 紀元前606年 - 楚の[[荘王 (楚)|荘王]]が周の都[[洛邑]]へ進軍し「鼎の軽重」を問う。
* 紀元前605年
** [[カルケミシュの戦い]]で新バビロニアがエジプトに勝利。
** 新バビロニアで[[ネブカドネザル2世]]が即位。
* 紀元前600年以前 - リュディア王[[アリュアッテス]]が[[キンメリア人]]を撃滅する。
== 遺物 ==
* {{仮リンク|フラッド・タブレット|en|Gilgamesh flood myth}}:現在の[[イラク]]で紀元前7世紀頃に記された。{{Sfn|マクレガー|2012|p=155|ps=「16 フラッド・タブレット―洪水を語る粘土板」}}[[ファイル:British Museum Flood Tablet.jpg|サムネイル|right|150px|フラッド・タブレット。大英博物館所蔵。]]
== 人物 ==
=== オリエント世界 ===
* [[ヒゼキヤ]](在位[[紀元前710年|前710年]] - [[紀元前687年|前687年]]) - [[ユダ王国]]の王
* [[センナケリブ]](在位[[紀元前705年|前705年]] - [[紀元前681年|前681年]]) - アッシリア王国の王・[[バビロニア]]の征服者
* [[ナキア]](生没年不詳) - アッシリア王センナケリブの側室・エサルハドンの母
* {{仮リンク|ギュゲス (リュディア)|label=ギュゲス|en|Gyges of Lydia}}(在位[[紀元前687年|前687年]] - [[紀元前652年|前652年]]) - [[リュディア]]王国の王
* [[マナセ_(ユダ王)|マナセ]](在位[[紀元前687年|前687年]] - [[紀元前643年|前643年]]) - ユダ王国の王
* [[エサルハドン]](在位[[紀元前681年|前681年]] - [[紀元前669年|前669年]]) - アッシリア王国の王・[[古代エジプト|エジプト]]を征服
* [[アッシュールバニパル]](在位[[紀元前668年|前668年]] - [[紀元前627年|前627年]]頃) - アッシリア王国の王・最後の繁栄時代を現出
* [[プサメティコス1世]](在位[[紀元前664年|前664年]] - [[紀元前610年|前610年]]) - エジプト第26王朝のファラオ
* [[ナボポラッサル]](在位[[紀元前625年|前625年]] - [[紀元前605年|前605年]]) - 新バビロニアの初代の王
* [[キュアクサレス2世]](在位[[紀元前625年|前625年]] - [[紀元前584年|前584年]]) - メディア王国の王
* [[ヨシヤ]](在位[[紀元前641年|前641年]] - [[紀元前609年|前609年]]) - ユダ王国の王
* [[ネコ2世]](在位[[紀元前610年|前610年]] - [[紀元前595年|前595年]]) - エジプト第26王朝のファラオ
=== 南アジア世界 ===
* [[ヤージュニャヴァルキヤ]](生没年不詳) - 古代インドの[[ウパニシャッド]]の哲人
=== 中国(周・春秋時代) ===
* [[懿公 (衛)|懿公]](? - [[紀元前660年|前660年]]) - [[春秋時代]]の[[衛]]の[[君主]](在位[[紀元前668年|前668年]] - [[紀元前660年|前660年]])・鶴の溺愛で国を滅ぼす
* [[管仲]](? - [[紀元前645年|前645年]]) - 春秋時代の斉の[[政治家]]・桓公が覇者となるのを補佐する
* [[鮑叔]](生没年不詳) - 春秋時代の斉の政治家・管仲との「管鮑の交わり」で有名
* [[桓公 (斉)|桓公]](? - [[紀元前643年|前643年]]) - 春秋時代の斉の[[君主]](在位[[紀元前685年|前685年]] - [[紀元前643年|前643年]])・[[春秋五覇]]の一人・葵丘の会盟を行う
* [[襄公 (宋)|襄公]](? - [[紀元前637年|前637年]]) - 春秋時代の宋の君主・(在位[[紀元前651年|前651年]] - [[紀元前637年|前637年]])・春秋五覇の一人・[[泓水の戦い]]での「[[宋襄の仁]]」で有名
* [[驪姫]](? - [[紀元前651年|前651年]]) - 春秋時代の晋の[[献公 (晋)|献公]]の寵姫・驪姫の乱を起こす
* [[文公 (晋)|文公]]([[紀元前696年|前696年]] - [[紀元前628年|前628年]]) - 春秋時代の晋の君主(在位[[紀元前636年|前636年]] - [[紀元前628年|前628年]])・春秋五覇の一人・諸国遍歴19年の後に君主となる
* [[介子推]](? - [[紀元前636年|前636年]]) - 春秋時代の晋の文公の陪臣・主君の流浪生活を支えるも帰国後は恩賞を辞退し隠棲する
* [[成王 (楚)|成王]](? - [[紀元前626年|前626年]]) - 春秋時代の楚の君主(在位[[紀元前671年|前671年]] - [[紀元前626年|前626年]])・泓水の戦いで勝利
* [[成得臣]](子玉)(? - [[紀元前632年|前632年]]) - 春秋時代の楚の将軍・城濮の戦いでは敗北の責をとり自殺
* [[穆公 (秦)|穆公]](? - [[紀元前621年|前621年]]) - 春秋時代の秦の君主(在位[[紀元前659年|前659年]] - [[紀元前621年|前621年]])・春秋五覇の一人・文公没後の晋を討って勝利
* [[百里奚]](生没年不詳) - 春秋時代の秦の政治家・穆公に仕える
* [[襄公 (晋)|襄公]](? - [[紀元前621年|前621年]]) - 春秋時代の晋の君主(在位[[紀元前628年|前628年]] - [[紀元前621年|前621年]])・文公の子
* [[霊公 (晋)|霊公]](? - [[紀元前607年|前607年]]) - 春秋時代の晋の君主(在位[[紀元前620年|前620年]] - [[紀元前607年|前607年]])・襄公の子
* [[荘王 (楚)|荘王]](? - [[紀元前591年|前591年]]) - 春秋時代の楚の王(在位[[紀元前614年|前614年]] - [[紀元前591年|前591年]])・春秋五覇の一人・邲の戦いで勝利
* [[荀林父]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・[[邲の戦い]]では敗北
* [[士会]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・[[将軍]]・邲の戦いでは敗北
* [[趙盾]](生没年不詳) - 春秋時代の晋の政治家・霊公を擁立するが後に対立
=== 地中海世界 ===
==== ギリシア ====
* [[アリストメネス]](紀元前7世紀) - [[第二次メッセニア戦争]]のメッセニア人指導者
* テュルタイオス(紀元前7世紀) - スパルタの詩人・第二次メッセニア戦争でも活躍する
* フェイドン(紀元前7世紀) - アルゴスの僭主・スパルタと対立しペロポネソスに覇を唱える
* [[アルクマン]](紀元前7世紀) - スパルタの詩人・[[九歌唱詩人]]の一人
* アリオン(紀元前7世紀) - [[レスボス島]]出身の詩人
* ザレウコス(紀元前7世紀) - ロクロイの政治家・ギリシア最初の[[成文法]]を制定
* [[タソス島|タソス]]の[[アルキロコス]]([[紀元前680年|前680年]]頃 - [[紀元前609年|前609年]]) - ギリシアの詩人
* キュロン(? - [[紀元前630年|前630年]]頃) - アテナイの政治家・政変を起こし僭主を望むが失敗する
* [[ドラコン (立法者)|ドラコン]]([[紀元前650年|前650年]]頃 - ?) - アテナイの立法者
* [[シチリア島|シケリア]]の[[ステシコロス]]([[紀元前640年|前640年]] - [[紀元前555年|前555年]]) - ギリシアの叙情詩人・九歌唱詩人の一人
* [[アテナイ]]の[[ソロン]]([[紀元前638年|前638年]] - [[紀元前558年]]) - [[ギリシャ七賢人|ギリシア七賢人]]の一人
* [[ミレトス]]の[[タレス]]([[紀元前635年|前635年]] - [[紀元前543年]]) - [[イオニア]]の自然哲学者
* ミュティレネの[[アルカイオス]]([[紀元前620年|前620年]]頃 - 前6世紀) - ギリシアの詩人・九歌唱詩人の一人
* レスボスの[[サッポー]](生没年不詳) - ギリシアの女流詩人・九歌唱詩人の一人
==== 王政ローマ ====
* [[トゥッルス・ホスティリウス]](在位[[紀元前710年|前710年]] - [[紀元前641年|前641年]]) - 王政ローマの第3代の王
* [[アンクス・マルキウス]](在位[[紀元前675年|前675年]] - [[紀元前616年|前616年]]) - 王政ローマの第4代の王
* [[タルクィニウス・プリスクス]](在位[[紀元前616年|前616年]] - [[紀元前579年|前579年]]) - 王政ローマの第5代の王
* [[ホラティウス三兄弟]](前7世紀) - [[アルバ・ロンガ]]との戦いではクリアティウス三兄弟と決闘する
== 架空のできごと ==
* 前668年以降 - [[アッシリア]]の碩学ナブ・アヘ・エリバ博士が、文字の霊が人間に及ぼす災いについて研究し、[[アッシュールバニパル]]王に進言するものの認められず、最後には文字の霊の祟りで図書館の粘土板が落下し圧死する([[中島敦]]『[[文字禍]]』)。
* 前609年以前 - アッシリアの最後の王であるサルダナパロスは、放蕩の限りを尽くした暴君として知られ、その最期は寵姫・侍者・財宝もろとも自ら宮殿に火を放って死んだと伝えられる([[シケリアのディオドロス]]によって記録される「サルダナパロス王」は[[アッシュールバニパル]]ほかアッシリア帝国末期の諸王の事績が混交した半ば伝説上の人物。後世、[[バイロン]]の戯曲『サーダナパラス(1821年)』や[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]の絵画「[[サルダナパールの死]](1827年)」の着想の源泉となった)。
<!-- == 注釈 ==
{{Reflist|group="†"}} -->
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author={{仮リンク|ニール・マクレガー|en|Neil MacGregor}} |year=2012 |title=100のモノが語る世界の歴史 1 文明の誕生 |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4-480-01551-8 |ref={{Sfnref|マクレガー|2012}}}}<!-- 2012年4月15日初版第一刷 -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|7th century BC}}
* [[年表]]
<!--{{十年紀と各年| 世紀 = 7 | 年代 = 600 | BC = 1 }}-->
{{世紀}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:紀元前7世紀|*]]
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2003-07-20T04:00:38Z
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2023-12-04T21:49:55Z
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紀元前8世紀
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紀元前8世紀(きげんぜんはちせいき、きげんぜんはっせいき)は、西暦による紀元前800年から紀元前701年までの100年間を指す世紀。
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紀元前8世紀(きげんぜんはちせいき、きげんぜんはっせいき)は、西暦による紀元前800年から紀元前701年までの100年間を指す世紀。
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{{出典の明記|date=2013年5月}}
{{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 8 | BC = 1 }}
[[ファイル:Capitoline she-wolf Musei Capitolini MC1181.jpg|thumb|right|250px|「{{仮リンク|カピトリヌスの雌狼|en|Capitoline Wolf}}([[カピトリーノ美術館]]蔵)」。画像は牝狼の乳を飲む[[ロームルス]]と[[レムス]]の銅像。ロームルスは都市国家ローマを紀元前753年に建国したと伝えられる初代王。]]
[[ファイル:Dypilon vase.JPG|thumb|right|220px|「{{仮リンク|ディピュロンのアンフォラ|en|Dipylon Amphora}}」。ギリシア陶器の幾何学様式後期を代表する名品で現在は[[アテネ国立考古学博物館]]が所蔵している。]]
[[ファイル:William-Adolphe Bouguereau (1825-1905) - Homer and his Guide (1874).jpg|thumb|right|220px|[[ホメーロス|ホメロス]]。『[[イリアス]]』『[[オデュッセイア]]』をまとめたとされる盲目の吟遊詩人。画像は[[ウィリアム・ブーグロー]]による歴史画「ホメロスと案内人」({{仮リンク|ミルウォーキー美術館|en|Milwaukee Art Museum}}蔵)。]]
[[File:Bronze horse Louvre Br90.jpg|thumb|right|220px|聖地[[オリンピア (ギリシャ)|オリンピア]]。もともと[[ゼウス]]神が祀られていた神域で、紀元前8世紀からこの神に捧げられるオリンピアの競技が行われることになった。画像は紀元前740年頃に作製され競技に際し奉献されたラコニア様式の青銅製の馬の像([[ルーヴル美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Khaldi.JPG|thumb|right|220px|[[ウラルトゥ王国]]の繁栄と凋落。ウラルトゥの王[[サルドゥリ2世]]の時に勢力が最大となったが、隣国アッシリアに攻め込まれて衰退した。画像はウラルトゥの主神ハルディの像([[アルメニア]]・[[エレバン]]・エレブニ要塞博物館蔵)。]]
[[ファイル:Sargon II and dignitary.jpg|thumb|right|220px|[[ドゥル・シャルキン]]。アッシリア王[[サルゴン2世]]の時代に造営された都で10年余ほど用いられた後、[[ニネヴェ]]に改めて遷都され放棄された。保存状態は悪くなく多くの浮彫で飾られた宮殿の城壁が発掘されている。画像はサルゴン2世と家臣の浮彫(ルーヴル美術館蔵)。]]
[[File:Eastern Antiquities in the Louvre - Room 4, 05.JPG|thumb|right|250px|アッシリア支配下のフェニキア人。海上交易を保護されたフェニキア人はこの時代にも大きな足跡を残した。画像はドゥル・シャルキンにかつてあった浮き彫りで、船舶を用いて木材運搬に従事するフェニキア人たちが刻まれている(ルーヴル美術館蔵)。]]
[[ファイル:History of King Yu.jpg|thumb|right|250px|[[西周]]の滅亡。西周の[[幽王]]は極めて愚かで美女[[褒姒]]に溺れて戯れに烽火を焚いて危急に駆け付けた諸侯を慰み者にしたと伝わる。この伝説的な話はともあれ、申侯の手引きにより遊牧民族[[犬戎]]が侵入し、都の[[鎬京]]が陥落したあげく幽王が殺害され、西周が滅亡したことは事実であろう。画像は『{{仮リンク|帝鑑圖說|zh|帝鑑圖說}}』幽王本紀の「戲舉烽火」の場面。]]
{{読み仮名_ruby不使用|'''紀元前8世紀'''|きげんぜんはちせいき|きげんぜんはっせいき}}は、[[西暦]]による紀元前800年から紀元前701年までの100年間を指す世紀。
== 出来事 ==
=== 紀元前800年代 ===
* 紀元前800年頃
** ギリシア各地で[[ポリス]](都市国家)の誕生。
*** 人口の大幅な増加、英雄祭祀と聖域の成立、都市への集住([[シュノイキスモス]])などが随伴して見られる。
*** ギリシアの陶器は「[[幾何学様式]]」から「{{仮リンク|東洋化期|label=東方化様式|en|Orientalizing period}}」に移行する。
** ギリシア人による地中海および黒海沿岸での{{仮リンク|ギリシアの植民|label=植民市(アポイキア)|en|Greek colonisation}}建設が始まる。
*** [[エウボイア]]人によるシリア沿岸の植民市{{仮リンク|アル・ミナ|en|Al-Mina}}やナポリ湾イスキア島の植民市[[ピテクサイ]]がこの時期のもの。
** [[アナトリア半島]][[キリキア]]地方の[[カラテペ]]遺跡から出土したフェニキア文字と象形文字[[ルウィ語]]の併用の石碑({{仮リンク|カラテぺ二言語併用石碑|en|Karatepe bilingual}})が作られる。
** 中央ヨーロッパは鉄器時代初期で[[ハルシュタット文化]](ハルシュタットC期)が広がる。
*** ハルシュタットは世界最古の塩坑があり、アルプス以北と地中海とを結ぶ「塩の道」の要衝となった。
*** ハルシュタット東方には[[ルサチア文化]]([[ラウジッツ文化]])があり、その代表は現ポーランドの{{仮リンク|ビスクピン|en|Biskupin}}遺跡である。
** イベリア半島の[[グアダルキビル川]]下流域の[[タルテッソス]]王国が繁栄する。
*** 「錫の国」と呼ばれた現在のイギリスの[[コーンウォール]]地方から錫を独占し、フェニキア人との交易も行われる。
*** [[セビリア]]近郊で発掘された「{{仮リンク|カランボロの財宝|en|Treasure of El Carambolo}}」が代表とされる。
** 中央アメリカの[[オルメカ文明]]は[[ラ・ベンタ]]期( - 紀元前400年頃)。
*** この時期を代表する[[翡翠輝石]]製の群像彫刻「{{仮リンク|会議をする人々|es|Ofrenda 4 de La Venta}}([[国立人類学博物館|メキシコ国立人類学博物館]]蔵)」が作られる。
** 南アラビアにサバア王国が成立する。
*** 都マアリブの近郊には{{仮リンク|マアリブ・ダム|en|Marib Dam}}が造営され、{{仮リンク|アワム神殿|en|Temple of Awwam}}や{{仮リンク|バラン神殿|en|Barran Temple}}が建てらる。
** イラン北西部ソルダス谷の{{仮リンク|テッペ・ハサンル遺跡|en|Teppe Hasanlu}}出土の「[[ハサンルの恋人たち]]」が埋葬される。
*** テッペ・ハサンル遺跡からは「{{仮リンク|ハサンルの黄金の盃|en|Golden cup of Hasanlu}}([[イラン国立博物館]]蔵)」も出土している。
* 紀元前800-500年頃 - 古散文[[ウパニシャッド]]文献が成立する。
** 最古層の『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』が代表とされる。
=== 紀元前780年代 ===
* 紀元前789年 - 周の宣王が{{仮リンク|千畝の役|zh|千畝之戰}}で[[戎|姜戎]]と戦うが敗退する。
* 紀元前786年 - ウラルトゥ王アルギシュティ1世が即位し、ウラルトゥの領土拡大が始まる。
* 紀元前780年 - 周で涇水・渭水・洛水の三川の水が涸れて岐山が崩れる大地震が発生(三川岐山地震)。
=== 紀元前770年代 ===
* 紀元前776年7月1日
** 記録に残る最古の[[古代オリンピック]]第1回大会が[[古代ギリシア|ギリシア]]の[[オリンピア (ギリシャ)|オリンピア]]で開催される。
*** またギリシアにおいて最古の文字使用例が特定された年でもある。
* 紀元前776年9月6日
** 幽王六年十月朔日辛卯のこの年に日食が起こる(『[[詩経]]』「小雅・十月之交」)。
* 紀元前771年 - 申侯の乱で、[[鎬京]]が[[犬戎]]に攻められ[[周|西周]]の[[幽王 (周)|幽王]]が殺される。
** 幽王の子[[平王 (周)|平王]]は鎬京を離れ[[洛陽|洛邑]]に[[遷都]]し東周が成立(周の東遷)。
** これより[[春秋時代]]が始まる。平王を擁立した秦の[[襄公 (秦)|襄公]]が諸侯に列する。
=== 紀元前760年代 ===
* 紀元前763年6月15日
** アッシリア王[[アッシュール・ダン3世]]が日食を記録した([[アッシリアの日食]])。
*** それを天文学的に割り出すと正確な日付が特定できたため、[[アッシリア学|アッシリア年代学]]の基点となっている。
* 紀元前762年 - 秦の[[文公 (秦)|文公]]が汧水と[[渭水]]の合流地点の秦邑に本拠を遷す。
* 紀元前760年頃
** [[ユダ王国]]の[[ウジヤ]]王の治世に大地震が起きたと、預言書『[[アモス書]]』に言及がある。
*** 考古学者[[イガエル・ヤディン]]や{{仮リンク|イスラエル・フィンケルスタイン|en|Israel Finkelstein}}は[[ガリラヤ湖]]北部の[[ハツォル]]遺跡({{仮リンク|ハツォル遺丘|label=テル・ハツォル|en|Tel Hazor}})第6層の倒壊した建造物等とこの地震の年代が符合すると論証している。
=== 紀元前750年代 ===
* 紀元前756年 - 洛邑の平王が鎬京の携王を倒し、周の王統は統一される。
* 紀元前753年 - {{仮リンク|カロプス(アルコン)|de|Charops (Archon)}}がアテナイのアルコンに就任し、これ以後アルコンの任期は10年となる。
* 紀元前753年4月21日
** 伝承によれば[[ロームルス]]がラテン人による[[ローマ]]を建国([[王政ローマ]])。
*** この年がローマ建国紀元元年となり、[[ティベル川]]に面した[[ローマの七丘|ローマの七つの丘]]が整備される。
* 紀元前753年頃
** [[アッシュール・ニラリ5世]]が遠征により[[アルパド]]王マティールを服属させる。
* 紀元前8世紀半ば
** [[ホメロス]]の『[[イリアス]]』『[[オデュッセイア]]』が成立。
** ギリシア陶器が幾何学様式後期になり人物表現が復活する。
*** 逸名絵付師「{{仮リンク|ディピュロン・マスター|en|Dipylon Master}}」の「ディピュロンのアンフォラ」(アテネ国立考古学博物館蔵)が有名。
** クレタ島{{仮リンク|ドレロス|es|Dreros}}のアポロン神殿から出土したアポロン・アルテミス・レトの青銅製三神像(Apollonian Triad AMH)が作成される(イラクリオン考古学博物館蔵)。
** トルコ南部([[キリキア]])アダナ県で出土した[[ルウィ語]]と[[フェニキア語]]の二言語併記の{{仮リンク|チネキョイ碑文|en|Çineköy inscription}}が作られる。
=== 紀元前740年代 ===
* 紀元前745年 - [[ティグラト・ピレセル3世]]がアッシリア王となる。軍制改革が行われ常備軍が導入される。
* 紀元前743年 - 第一次メッセニア戦争始まる( - 紀元前724年)。
* 紀元前743年頃
** [[アナトリア]]・[[アルメニア]]の[[ウラルトゥ王国]]の[[サルドゥリ2世]]が最大領土を実現。
** ギリシア系[[カルキス]]人が[[メッシーナ海峡]]を望む[[イタリア半島]]先端に植民市レギオン(現[[レッジョ・カラブリア]])を建設。
* 紀元前740年 - [[アッシリア王国|アッシリア]]王[[ティグラト・ピレセル3世]]がシリアの[[アルパド]]を陥落させる。
* 紀元前740年頃
** [[ギリシア文字]]の最古級の銘文である「{{仮リンク|ディピュロンの銘文|en|Dipylon inscription}}」が刻まれた酒注ぎ(オイコノエ)が作られる(アテネ国立考古学博物館蔵)。
** フリギア王国の首都[[ゴルディオン]](トルコの{{仮リンク|ヤッス・ホユック|en|Yassıhüyük, Polatlı}}遺跡)の「{{仮リンク|ミダス王の墓(Tumulus MM)|la|Tumulus MM (Gordium)}}」が建てられる。
*** ゴルディオンで最も大きな墳丘であり、最古級の木槨墓でもある。木製品などの副葬品が残存していた。
*** [[アンカラ]]の{{仮リンク|アナトリア文明博物館|en|Museum of Anatolian Civilizations}}に木槨墓が再現してある。
=== 紀元前730年代 ===
* 紀元前735年 - アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がウラルトゥ王サルドゥリ2世に勝利し都のトゥシュパ([[ヴァン]])を攻撃。
* 紀元前734年頃 - ギリシアの[[コリントス]]人によりシチリア島に植民市[[シュラクサイ]]が建設される。
* 紀元前732年 - [[アッシリア王国|アッシリア]]王[[ティグラト・ピレセル3世]]による[[シリア・エフライム戦争]]。地中海東岸の[[ダマスカス|ダマスコ]]・[[サマリア]]などを征服。
=== 紀元前720年代 ===
* 紀元前729年 - アッシリア王ティグラト・ピレセル3世によるバビロニア遠征。ナブー・ムキン・ゼリを打倒しバビロンを占領。
* 紀元前728年 - [[メディア王国|メディア]]の初代国王[[デイオケス]]が即位し、都の[[エクバタナ]]を建設する。
* 紀元前727年
** [[ヌビア]]人の王[[ピアンキ]]がヘルモポリスの王国とヘラクレオポリスの王国を征服。
*** さらに[[エジプト第23王朝|第23王朝]](レオントポリス)・[[エジプト第22王朝|第22王朝]](タニス)・[[エジプト第24王朝|第24王朝]](サイス)の王が順に降伏して全エジプトを支配下におく。
*** ピアンキにより[[エジプト第25王朝]]が成立する。[[ゲベル・バルカル]]のアメン神殿「{{仮リンク|勝利の碑文|fr|Stèle des victoires de Piânkhy}}」にその記録が残る。
** アッシリア王ティグラト・ピレセル3世死去、[[シャルマネセル5世]]が即位。
* 紀元前724年 - [[イトメ山の戦い]]でのメッセニア王[[アリストデモス (メッセニア王)|アリストデモス]]が自殺。[[スパルタ]]が勝利しメッセニアを占領。
* 紀元前722年
** [[魯]]の隠公元年。この年より『[[春秋]]』の記述が始まる。
** [[メロダク・バルアダン2世]]がバビロン王になりアッシリアに対して反乱を起こす。
** アッシリア王シャルマネセル5世が廃位され、[[サルゴン2世]]がアッシリア王となる。
*** この王位継承は簒奪の可能が高く、この王から[[サルゴン王朝]]が開始されるという。
*** サルゴン2世により[[イスラエル王国]]が滅亡する。[[イスラエルの失われた10支族|イスラエル10部族]]の[[アッシリア捕囚]]。
* 紀元前720年 - サルゴン2世が[[ダマスカス]]などの反乱を鎮圧。
=== 紀元前710年代 ===
* 紀元前719年 - [[衛]]の公子[[州吁]]が兄の[[桓公 (衛)|桓公]]を殺害し君主となる。
** 州吁は鄭の公子[[共叔段]]と組み[[衛]]・[[宋 (春秋)|宋]]・[[陳 (春秋)|陳]]・[[蔡]]・[[魯]]と連合して、鄭の[[荘公 (鄭)|荘公]]を攻撃するが失敗し処刑される({{仮リンク|東門の戦い|zh|東門之戰}})。
* 紀元前717年
** アッシリア王サルゴン2世が[[ニムルド|カルフ]](ニムルド)から[[ドゥル・シャルキン]](コルサバド遺跡)へ遷都。
** アッシリア王サルゴン2世が新ヒッタイト系の[[カルケミシュ|カルケミシュ王国]]を征服する。
* 紀元前716年頃
** [[リュディア]]でヘラクレス家の[[カンダウレス]]王に代わり、メルムナス家の{{仮リンク|ギュゲス (リュディア)|en|Gyges of Lydia}}が王になる。
** アッシリア王サルゴン2世の石碑に[[サバア王国]]の王イタァアマルの貢納の記録が残る。
* 紀元前716年 - 初代ローマ王ロームルスが死去。
* 紀元前715年 - [[サビニ人]][[ヌマ・ポンピリウス]]が第2代ローマ王に選出される。
** ヌマの42年間の治世では戦争が起こらなかったとされ、[[フォルム・ロマヌム]]の[[ヤヌス神殿]]が建立されたと伝わる。
* 紀元前714年 -
** アッシリア王サルゴン2世によりウラルトゥ王ルサ1世が大敗し、{{仮リンク|ムサシル|en|Musasir}}が陥落、領土を奪われる。
** 秦の[[寧公]](憲公)が平陽に都を遷す。
* 紀元前713年 - アッシリア王サルゴン2世が新ヒッタイト系のタバル王国を制圧する。
* 紀元前712年頃 - ギリシア系[[メガラ]]人の植民市として[[ニコメディア]]({{仮リンク|アスタコス|en|Astacus (Bithynia)}})が建設される。
* 紀元前710年頃 - レラントス戦争により[[ハルキス]]と[[エレトリア]]がエウボイアの覇権をめぐり激突( - 紀元前650年頃)
=== 紀元前700年代 ===
* 紀元前709年
** アッシリア王サルゴン2世が[[バビロン]]を陥落させ「バビロニア王」を名乗る。
** [[フリギア]]王[[ミダス]](ムシュキ王ミタ)がアッシリア王サルゴン2世に和平を申し入れる。
** 陘廷の戦いで、晋の分家である曲沃の姫称(後の晋の[[武公 (晋)|武公]])が宗家の哀侯と小子侯を滅ぼす。
* 紀元前707年 - 東周の[[桓王]]が蔡・衛・陳と連合して鄭を攻撃したが撃退される({{仮リンク|繻葛の戦い|zh|繻葛之战}})。
** 鄭の荘公はこの戦いで威信を高め「春秋の小覇」と呼ばれた。対して周王室の力の衰えが明らかになった。
* 紀元前706年 - スパルタのパルテニアイらによるタラス(イタリア半島南端の現[[タレントゥム]])植民市の建設。
* 紀元前705年 - アッシリア王サルゴン2世がアナトリアの小国{{仮リンク|タバル|en|Tabal}}との戦争中に戦死。
** 後継の[[センナケリブ]]は[[ドゥル・シャルキン]]から[[ニネヴェ]]へ遷都。
* 紀元前704年 - 楚の熊徹が沈鹿の会盟を行い、王号を名乗る([[武王 (楚)|楚の文王]])。
* 紀元前703年 - アッシリア王センナケリブがバビロニア王[[メロダク・バルアダン2世]]を倒し、傀儡政権を擁立するがバビロニアの政情は不安定。
* 紀元前700年以前 - [[フリギア]]王国の「{{仮リンク|ミダス王の記念碑|en|Midas Monument}}([[トルコ]]の{{仮リンク|エスキシェヒル県のヤズルカヤ|en|Yazılıkaya, Eskişehir}}遺跡)」が建てられる。
* 紀元前700年頃 - [[ヘシオドス]]の『[[神統記]]』『[[仕事と日]]』が成立。
== 人物 ==
=== 中国 ===
* [[幽王 (周)|幽王]](? - [[紀元前771年|前771年]]) - [[周|西周]]の第12代の王(在位[[紀元前781年|前781年]] - [[紀元前771年|前771年]])
* [[褒姒]](前8世紀前半) - 周の幽王の后・申后に代わり后にされる・絶世の美女で亡国の原因とされる
* [[虢石父]](? - [[紀元前771年|前771年]]) - 周の王族・虢の君主・幽王に遊興を勧め亡国の因をなしたか
* 申侯(前8世紀前半) - 周の諸侯・娘は幽王の后(申后)・[[犬戎]]と結んで幽王を倒し平王を擁立
* [[平王 (周)|平王]](? - [[紀元前720年|前720年]]) - 東周の初代(周の第13代)の王(在位[[紀元前771年|前771年]] - [[紀元前720年|前720年]])
* [[襄公 (秦)|襄公]](? - [[紀元前766年|前766年]]) - 西周から東周の秦の初代君主(在位[[紀元前777年|前777年]] - [[紀元前766年|前766年]])
* [[文侯 (晋)|文侯]]([[紀元前807年|前807年]] - [[紀元前746年|前746年]]) - 西周から東周の[[晋 (春秋)|晋]]の君主(在位[[紀元前780年|前780年]] - [[紀元前746年|前746年]])
* [[武公 (鄭)|武公]](? - [[紀元前744年|前744年]]) - [[春秋時代]]初期の[[鄭]]の君主(在位[[紀元前770年|前770年]] - [[紀元前744年|前744年]])
* [[荘公 (鄭)|荘公]](? - [[紀元前701年|前701年]]) - 春秋時代初期の鄭の君主(在位[[紀元前743年|前743年]] - [[紀元前701年|前701年]])
=== 王政ローマ ===
* [[ロームルス]](在位[[紀元前771年|前771年]] - [[紀元前716年|前716年]]) - [[古代ローマ|王政ローマ]]の建国者
* [[ヌマ・ポンピリウス]](在位[[紀元前716年|前716年]] - [[紀元前673年|前673年]]) - 王政ローマの第2代の王
=== ギリシア ===
* [[リュクルゴス (立法者)|リュクルゴス]](前820年頃 - 前730年頃?) - スパルタの伝説的立法者・軍国主義制度を確立
* [[アリストデモス (メッセニア王)|アリストデモス]](在位前744年? - 前724年?) - メッセニア最後の王・第一次メッセニア戦争で敗北
* [[テオポンポス (スパルタ王)|テオポンポス]](在位前720年 - 前675年) - スパルタ王・第一次メッセニア戦争では将軍として活躍
* [[ホメロス]](前8世紀) - [[イオニア]]出身の詩人([[アオイドス]])・『[[イリアス]]』『[[オデュッセイア]]』の伝統的作者
* [[エーリス|エリス]]の[[イピトス]](前8世紀) - エリスの王・[[デルポイの神託]]により[[オリュンピア祭]]競技を行う
* [[コロイボス|エリスのコロイボス]](前8世紀) - ギリシアの陸上選手・最古のオリュンピア祭競技の[[スタディオン走]]の優勝者
* [[ヘシオドス]](前8世紀頃 - 前7世紀頃) - {{仮リンク|アスクラ|en|Ascra}}の詩人・『[[仕事と日]]』『[[神統記]]』などがある
=== オリエント ===
* [[ミダース]](前8世紀後期) - [[アナトリア]]の[[フリギア]]の王
* [[ヒゼキヤ]](? - [[紀元前687年|前687年]]) - ユダ王国の王(在位[[紀元前715年|前715年]] - [[紀元前687年|前687年]])
* [[イザヤ]](前8世紀) - 旧約聖書『[[イザヤ書]]』に登場するユダ王国の預言者
* [[ヨナ]](前8世紀) - 旧約聖書『[[ヨナ書]]』に登場するイスラエル王国の預言者
* [[ティグラト・ピレセル3世]](? - [[紀元前727年|前727年]]) - アッシリアの王(在位[[紀元前744年|前744年]] - [[紀元前727年|前727年]])
* [[サルゴン2世]](? - [[紀元前705年|前705年]]) - アッシリアの王(在位[[紀元前722年|前722年]] - [[紀元前705年|前705年]])
* [[ルサ1世]](? - [[紀元前714年|前714年]]) - ウラルトゥの王(在位[[紀元前735年|前735年]]頃 - [[紀元前714年|前714年]])
* [[ピアンキ]](? - [[紀元前716年|前716年]]) - ヌビアの王・エジプト第25王朝のファラオ(在位[[紀元前747年|前747年]] - [[紀元前716年|前716年]])
=== 南アジア ===
* [[ウッダーラカ・アールニ]](生没年不詳) - 古代インドの[[ウパニシャッド]]の哲人・[[ヤージュニャヴァルキヤ]]の師
== 日本の社会 ==
* この頃[[日本]]で[[弥生時代]]が始まる(確定していない)。
** 中国の戦乱の余波を受け、中国から日本に移住が続いたことが想定されている。
** [[古事記]]、[[日本書紀]]によると、紀元前711年に[[神武天皇]]が生まれたとされている([[日本神話]])。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|8th century BC}}
* [[年表]]
{{世紀}}
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{{十年紀と各年| 世紀 = 8 | 年代 = 500 | BC = 1 }}
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[[Category:紀元前8世紀|*]]
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紀元前9世紀
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紀元前9世紀(きげんぜんきゅうせいき)は、西暦による紀元前900年から紀元前801年までの100年間を指す世紀。
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紀元前9世紀(きげんぜんきゅうせいき)は、西暦による紀元前900年から紀元前801年までの100年間を指す世紀。
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{{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 9 | BC = 1 }}
[[ファイル:Turner Dido Building Carthage.jpg|thumb|right|250px|[[カルタゴ]]建設。伝承では[[フェニキア]]系[[テュロス]]の王女[[ディードー]]が故国を離れて女王となって建設したと伝わる。画像は[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]の歴史画「{{仮リンク|カルタゴを建設するディドー|en|Dido building Carthage}}」([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]蔵)。]]
[[ファイル:The Gate of Nimrud (Metropolitan Museum).jpg|thumb|right|250px|[[ニムルド]]の繁栄。[[アッシリア]]王[[アッシュル・ナツィルパル2世]]により造営された都で、宮殿遺跡としても保存状態がよい。画像は[[メトロポリタン美術館]]所蔵の{{仮リンク|ラマッス|en|Lamassu}}(人頭有翼牡牛)像。ニムルドでは宮殿などの入り口を守護するものとしてラマッスの巨大な像が建てられていた。]]
[[ファイル:Guojizibai pan 01.jpg|thumb|right|250px|西周の宣王。父の厲王が流謫の果てに死んだのちに王となり中興の英主と呼ばれた。画像は異民族の玁狁を討った虢季子白を称えて宣王が作らせた銘文が残る「虢季子白盤([[中国国家博物館]]蔵)」。]]
[[File:Centaur Chiron of Lefkandi, Archaeological museum of Eretria, Greece.jpg|right|thumb|180px|{{仮リンク|レフカンディ|en|Lefkandi}}遺跡。[[暗黒時代 (古代ギリシア)|暗黒時代]]のギリシアにあっても[[エウボイア]]島近辺では復興の兆しが見え始めた。その代表的な遺跡がレフカンディで、画像はこの地から出土した[[ケンタウロス]]像([[エレトリア]]考古学博物館蔵)。]]
[[File:Chavin de Huantar El Castillo 06122009.jpg|thumb|right|250px|[[チャビン文化]]。南米アンデス地域の最も古い神殿文化で、紀元前1200年頃から紀元前300年頃まで続いた。画像はその代表である[[ペルー]]のワリ郡にある[[チャビン・デ・ワンタル]]遺跡で、紀元前900年代から紀元前500年代がその最盛期であった。]]
{{読み仮名_ruby不使用|'''紀元前9世紀'''|きげんぜんきゅうせいき}}は、[[西暦]]による[[紀元前900年]]から[[紀元前801年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== 出来事 ==
=== 紀元前900年代 ===
* 紀元前900年頃 - 紀元前300年頃
** {{仮リンク|鉄器時代の寒冷期|en|Iron Age Cold Epoch}} 。
* 紀元前900年頃
** [[メキシコ湾]]岸の[[オルメカ]]文明の中心が[[サン・ロレンソ・テノチティトラン]]の破壊により、[[ラ・ベンタ]]に移る。
** スペインの[[ガリシア]]地方から[[ポルトガル]]に至る地域に{{仮リンク|カストロ文化|en|Castro culture}}が成立する( - [[紀元前100年]]頃)。
** [[イタリア]]で{{仮リンク|ヴィラノーヴァ文化|en|Villanovan culture}}(ヴィラノーヴァII期 - 紀元前700年頃)。
*** 「[[琥珀の道]]」を通じての中央ヨーロッパの[[ハルシュタット文化]]や[[ウルネンフェルト文化]]と交流が見られる。
** ギリシアの[[エウボイア]]島の「レフカンディの[[ケンタウルス|ケンタウロス]]([[エレトリア]]考古学博物館蔵)」が作られる。
** [[陝西省]][[宝鶏市|宝鶏]]出土の虎型青銅器二対([[フリーア美術館]]蔵)はこの時代に作られたもの。
** 日本は[[縄文時代]]晩期から[[弥生時代]]後期。
*** [[福岡県]]の[[板付遺跡]]からは水田跡と木製農機具・[[石包丁]]などが出土。
**** 灌漑施設があり、日本最古の[[環壕集落]]があったことも確認されている。
=== 紀元前880年代 ===
* 紀元前883年 - [[アッシリア]]王[[アッシュル・ナツィルパル2世]]が[[アッシュール]]から[[ニムルド|カルフ]](ニムルド)へ遷都。
=== 紀元前870年代 ===
* 紀元前877年頃 - 西周で[[厲王]]が即位。即位後間もなく厲王は南国服子の討伐を行い、記念に{{仮リンク|宗周鐘|zh|宗周鐘}}が作られる。
* 紀元前876年頃 - [[ジムリ]]のクーデターが失敗し、[[オムリ]]が[[イスラエル王国]]の王となる(オムリ朝の成立)。
* 紀元前870年頃 - イスラエル王国のオムリがティルツァから[[サマリア]]へ遷都する。
=== 紀元前860年代 ===
* 紀元前869年頃 - イスラエル王オムリ死去、息子[[アハブ]]が王となる。
** アハブはシリア王女[[イゼベル]]を王妃としたためシリアの[[バアル]]神崇拝が流入する。
** この時期のバアル神崇拝への熱心な反対者として『[[列王記]]』に名が残る預言者[[エリヤ]]がいる。
* 紀元前860年 - 斉の[[胡公 (斉)|胡公]]が異母兄弟の[[献公 (斉)|姜山]]に倒され殺害される([[斉のクーデター (紀元前860年)|紀元前860年の斉の政変]])。
* 紀元前860-830年頃 - [[アラマ]]と[[ルティプリ]]のもとで[[ウラルトゥ王国]]([[アララト]]王国)が成立する。
=== 紀元前850年代 ===
* 紀元前855年 - アッシリア王[[シャルマネセル3世]]が[[アラム人|アラム]]系国家ビト・アディニ([[ティル・バルシプ]]遺跡)を征服。
* 紀元前854年頃 - 「厲王二十三年」の銘が残る「{{仮リンク|大克鼎|zh|大克鼎}}([[上海博物館]]蔵)」が作られる。
* 紀元前853年 - [[カルカルの戦い]]で[[シリア]]諸国同盟軍が[[シャルマネセル3世]]率いるアッシリア軍に勝利。
* 紀元前850年頃 - イスラエルから[[モアブ]]人の王[[メシャ]]が独立。
** この事績は[[古ヘブライ文字]]最古の記録「[[メシャ碑文]]([[ルーブル美術館]]蔵)」で知られる。
=== 紀元前840年代 ===
* 紀元前843年頃 - アラム系ダマスクスの王ハザエル王が即位。
** イスラエル北部で出土した「[[テル・ダン石碑]]([[イスラエル博物館]]蔵)」はこの王によるものであり、旧約聖書以外の考古資料として[[ダビデ|ダヴィデ]]家について言及している。
* 紀元前842年頃 - 北イスラエル王ヨラムを倒した[[イエフ]]が王となり、[[バアル]]神信仰を禁止する。
* 紀元前841年
** [[周]]の[[厲王]]が国人に追放され、{{仮リンク|彘|zh|彘}}([[山西省]][[霍県]])に亡命する。
*** 周王の不在により共和政治が行われる( - 紀元前828年)。『[[史記]]』の年表はこの年より始まる。
** アッシリア王シャルマネセル3世が北イスラエル王イエフを屈服させる(→紀元前825年)。
=== 紀元前830年代 ===
* 紀元前833年頃 - ウラルトゥ王[[サルドゥリ1世]]がアルザシュクンからトゥシュパ([[ヴァン]])に遷都する。
* 紀元前830年頃 - [[アラム]]人の王ハザエルが[[ペリシテ]]人の都市ガト(テル・アル・サフィ遺跡)を陥落させる。
=== 紀元前820年代 ===
* 紀元前828年 - 周の厲王が死去し、[[宣王 (周)|宣王]]が即位する(周の中興)。
** 「[[毛公鼎]]([[台北]][[国立故宮博物院]]蔵)」が鋳造される。宣王が叔父の毛公を褒め称えた銘文が残る。
* 紀元前827年 - シャルマネセル3世の王子アッシュール・ダイン・アピルが反乱を起こしアッシリアが一時弱体化。
* 紀元前825年頃
** シャルマネセル3世を記念して[[ニムルド]]遺跡の「[[黒色オベリスク]]([[大英博物館]]蔵)」が建立される(→紀元前841年)。
** 現トルコ南部のサマル(ジンジルリ・ヒョユク)出土の「{{仮リンク|キラムワ碑文|en|Kilamuwa Stela}}」が建立される。
* 紀元前823年 - 周の宣王の重臣[[尹吉甫]]が所有した「兮甲盤」の銘文はこの年のもの。
* 紀元前822年 - 周の宣王の命を受け[[秦仲]]が[[西戎]]を討伐するが敗死する。
** 宣王は秦仲の子の[[荘公 (秦)|荘公]]を西垂大夫として西戎を攻めさせ撃破させる。荘公は{{仮リンク|犬丘|zh|西犬丘}}に本拠を置く。
=== 紀元前810年代 ===
* 紀元前818年 - エジプトで[[エジプト第22王朝|第22王朝]]の弱体化とともに王族ペディバステトが独立し[[エジプト第23王朝|23王朝]]が始まる。
* 紀元前816年 - 周の宣王が虢季子白に命じて洛河の北方にて[[獫允|玁狁]]を攻撃。
** 「虢季子白盤(北京[[中国国家博物館]]蔵)」が鋳造される。虢季子白が玁狁に勝利したことを称えた銘文が残る。
* 紀元前814年 - 現在の[[チュニス]]の近くの港に[[フェニキア人]]によって[[カルタゴ]]が建設される。
* 紀元前812年 - 晋の献侯が死去。その墓に「晋侯蘇編鐘([[上海博物館]]蔵)」が副葬された。
=== 紀元前800年代 ===
* 紀元前808年頃 - [[カラノス (マケドニア王)|カラノス]]が[[アイガイ]]([[ヴェルギナ]])を都として[[マケドニア王国]]を建てる。
* 紀元前806年 - 周の宣王が弟の王子友を[[鄭]]の(桓公)として封じる。
* 紀元前800年頃
** [[イベリア半島]]で[[古代ギリシア|ギリシア]]人とフェニキア人の交易が始まる。
** [[サルディニア島]]で出土した「{{仮リンク|ノラ碑文|en|Nora Stone}}([[カリャリ]]国立考古学博物館蔵)」はこの時代のもので、この地の最古の[[フェニキア語]]碑文。
== 人物 ==
=== 中国 ===
* [[懿王]](在位前900年 - 前892年) - [[周]]の第7代王
* [[厲王]](在位前857年 - 前842年) - 周の第10代王
* [[宣王 (周)|宣王]](在位前842年 - 前782年) - 周の第11代王
* 共伯和(紀元前9世紀) - 周の諸侯で厲王が逃亡し宣王が即位するまでの間に政務を執った
* [[尹吉甫]](紀元前9世紀) - 周の王臣で詩人・宣王に仕え『[[詩経]]』詩編をまとめる
=== 西アジア ===
* [[トゥクルティ・ニヌルタ2世]](在位前891年 - 前883年) - [[アッシリア]]王
* [[アッシュールナツィルパル2世]](在位前883年 - 前859年) - アッシリア王
* [[シャルマネセル3世]](在位前858年 - 前824年) - アッシリア王
* [[シャムシ・アダド5世]](在位前823年 - 前811年) - アッシリア王
* サンムラマート([[セミラミス]])(在任前810年 - 前805年) - アッシリア王[[アダド・ニラリ3世]]の王母で[[摂政]]
* [[イゼベル]](前9世紀前半) - イスラエル王国の[[アハブ]]の王妃・フェニキア人でシドン王エトバアルの娘・[[バアル]]神信仰を導入
* [[アタルヤ]](在位前841年 - 前835年) - ユダ王国の[[アハズヤ (ユダ王)|アハズヤ]]の母・ユダ王国で唯一の女王
* [[エリヤ]](前9世紀) - 旧約聖書『[[列王記|列王記上]]』に登場するイスラエル王国の預言者
* [[エリシャ]](前9世紀) - 旧約聖書『[[列王記|列王記下]]』に登場するイスラエル王国の預言者
=== 北アフリカ ===
* [[ディードー]](エリッサ)(生没年不明) - 伝承では[[ティルス]]の王女・[[カルタゴ]]の建設者
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 ==-->
== 関連項目 ==
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* [[年表]]
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[[Category:紀元前9世紀|*]]
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P進数
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p 進数(ピーしんすう、英: p-adic number)とは、1897年に始まるクルト・ヘンゼルの一連の研究の中で導入された、数の体系の一つである。文脈によっては、その体系の個々の数を指して p 進数と呼ぶこともある。有理数の体系を実数や複素数の体系に拡張するのとは別の方法で、各素数 p に対して p 進数の体系が構成される。それらは有理数のつくる空間の局所的な姿を記述していると考えられ、数学の中でも特に数論において重要な役割を果たす。数学のみならず、素粒子物理学の理論などで使われることもある(例えば p 進量子力学を参照)。
「p 進数」とは「2進数」や「3進数」の総称に過ぎないので、文字 p がすでに他の場所で用いられている場合、q 進数や l 進数などと表現されることもある。
なお、位取り記数法である「N 進法(表記)」を指して「N 進数」と呼ばれることがあるが、これは「p 進数」とは別のものである。
有理数体 Q から実数体 R を構成するには、通常の絶対値の定める距離 d∞(x, y) = | x − y | に関して有理数体を完備化するのであった。それに対し、p 進付値より定まる距離(p 進距離)dp によって有理数体を完備化したものが p 進数体 Qp である。p 進数と実数は異なる特徴を持つ別々の数体系である一方で、数論においては極めて深い関係を持つ対象であると捉えられる。有理数から実数を構成する過程は、小数展開に循環しない可算無限桁を許すことを意味する。p 進数体 Qp における小数展開の類似物は p 進展開である。p 進数の中で考えた有理数は p の高い冪を因数に含めば含むほど小さいと考えられ、p 進数の p 進展開は、p 進整数(ぴーしんせいすう、p-adic integer)を可算無限桁の整数と捉える見方を与える。これにより、実数の場合と並行して、p 進数は有理数の算術まで込めた拡張であることを見ることができる。
実数体 R と p 進数体 Qp をひとまとまりにしたアデールの概念が扱われることもある。有理数体のアデール AQ は簡単に言えば、実数体 R と全ての素数 p にわたる p 進数体 Qp との位相まで込めた直積である。有理数体 Q はそのアデール AQ のなかに(対角線に)埋め込むことができる。有理数体をアデールに埋め込んで考えることは、有理数体を素数(と無限遠)を点とする空間 Spec Z 上の代数関数体として捉えるという視点を与える。ここでは、Qp は有限素点 p における局所的な振る舞いを、R は無限遠での振る舞いを表すものとして並行に扱われる。このような解析的な取り扱いにおいては、p 進展開はテイラー展開の類似物であると考えられる。
実数体と p 進数体は有理数体の完備化であるが、一般の代数体でも同様の完備化が考えられる。
本節における p 進数の導入方法や記法は、数学的に正式なものではない。ただし、本節の解釈は、現実には有限の桁しか扱えない計算機の理論においては有用である。後述の p 進展開も参照。
以下の数の表記は p 進表記によるものとする。328.125 のような有限小数に、小数側に無限桁の数を加えて得られる 328.12587453... のようなものは実数のひとつである。逆に、整数側に無限桁加えたもの、例えば ...1246328.125 のようなものが p 進数であると解釈できる。実数の場合とは逆に、小数側が有限桁でなければならない。p 進数の中でも、小数点以下がない ...1246328 のようなものは p 進整数と呼ばれるものに対応する。
p 進数同士の足し算、引き算、掛け算は、p 進表記の有理数における通常のアルゴリズムを自然に無限桁に拡張することで得られ、割り算は掛け算の逆演算として定義される。実数の場合とは異なり、p 進数においては、別途負の数を導入せずとも加法の逆元が存在する。たとえば2進数で 1 と ...1111 を足すと 0 になるため、1 の加法逆元 −1 は ...1111 に等しい。また、p 進数においては有限桁の小数範囲で必ず逆数が存在する。たとえば、実数の世界においては、2進表記で 11 の逆数は 0.010101... であるのに対し、2進数の世界においては 11 の逆数は ...010101011 である。
p は素数である必要があり、さもなくば2つの 0 でない p 進数の積が 0 になってしまうことや、逆数が存在しないことがある。p が素数であればそのようなことはなく、実数の加減乗除とよく似た性質を満たす。p 進整数は p 進表記の整数を無限桁に拡張したものであるから、p 進整数の n + 1 桁目以降を「切り捨てる」事で有限桁の整数が得られる。先に n + 1 桁目以降を切り捨ててから足し算、引き算、掛け算を行っても、先に足し算、引き算、掛け算を行ってから n + 1 桁目以降を切り捨てても同じ結果になる。
実数に距離の概念があるように、p 進数にも距離の概念(p 進距離)がある。例えば2つの実数 a, b の差が 0.0...0125... であるとき、連続する 0 の部分が長いほど数直線上の a と b は近い。p 進数の場合、a と b の差が ...1250...0 であるとき、連続する 0 の部分が長いほど a と b は近いとみなされる。
有理数体 Q の p 進付値が定める距離(p 進距離)dp による完備化を Qp と表し、その元を p 進数と呼ぶ。Qp は Q における四則演算と距離空間の位相とを自然に拡張した演算と、p 進距離により定まる位相構造とを持つ。この四則演算に関して Qp は体をなし、演算はこの距離位相に関して連続である。この両立する演算と位相を持つ位相体 Qp を p 進数体という。
p 進数 x は、その付値 vp(x) が 0 以上であるとき、p 進整数と呼ばれる。p 進整数の全体の成す集合
を Zp で表す。Zp は環を成し、p 進整数環と呼ばれる。
Ap = {0, 1, 2, ..., p − 1} とする。Qp の任意の元 x に対し、整数 N と Ap における数列 {an}n ≧ N が存在して、
と一意的に展開される(N は x の p 進付値 vp(x) に一致する)。これを x の p 進展開という。逆に、Ap における数列 {an}n ≧ N が与えられたとき、和 ∞∑n=N anp は p 進距離に関して収束して、p 進数を一意的に定める。この展開は、整数環 Z の p を法とする剰余環 Z/pZ を n ≧ 1 の各値で考えたものたち(とそれらの間の自然な射影たち)の成す射影系 {Z/pZ}n ≧ 1 の射影極限として Zp が得られることを示している。逆に、射影極限として Zp を定義し、その商体として Qp を定義する流儀もある。{Z/pZ}n ≧ 1 の全ての元の共通部分は {0} なので、この展開は完備化の操作を具体的に記述したものと見ることができる。
p 進数が p 進展開と一対一に対応することから、p 進数体は連続体濃度を持つ。Q を部分体として含むので、標数は 0 である。どのように順序を入れても順序体にはできない。実数体 R の代数閉包(複素数体 C)が二次拡大で完備であるのに対し、p 進数体 Qp の代数閉包 Qp は無限次拡大でしかも完備ではない。その完備化は代数閉体であって、Cp と表される。これは複素数体 C と体として同型であるが、同型写像の存在は選択公理に依存しており、具体的に同型写像を与えることはできない。
Zp の単数群(可逆元全体の成す乗法群)は Zp = {x ∈ Qp | vp(x) = 0} となる。Zp は局所環であり、その唯一の極大イデアルは
と表される。これは p で生成される単項イデアル (p) = pZp である。Zp の pZp による剰余体 Zp/pZp (これを通常は p 進数体の剰余体などと呼ぶ)は p 元体 Fp = Z/pZ に同型であり、上で用いた展開の係数の集合 Ap は、しばしばこれと同一視される。
Qp の任意の元 x に対し、x = up (n = vp(x)) となる u ∈ Zp が一意的に存在する。したがって、Zp は単項イデアル整域であり、その任意のイデアルは (p) = pZp の形である。
p 進数体は離散付値である p 進付値に関して完備で、剰余体が有限であるので局所体のひとつである。p 進距離の定める位相に関して Zp は Qp の開かつ極大コンパクトな部分環である。同様に、Zp の任意のイデアルは開かつコンパクトとなる。さらに、これらのイデアルたちは 0 の基本近傍系を成す。特に、Qp は完全不連結局所コンパクトな位相体になる。
p 進数体が n 分体を含むための必要十分条件は n が p − 1 を割ることである。とくに、p が奇素数のときは、p 進数体は 1 の原始 p 乗根を含まない。
p 進数は純数学的な数の体系であり、現実世界に対応するものを持たないことから、p 進数の集合を正確に図示することはできない。しかし、ともかくも p 進数全体は集合であることから、部分集合の包含関係をオイラー図で表すことはできる。また、距離や測度も定義されることから、オイラー図を描くときに距離や測度の特徴を捉えて描くことも部分的には可能である。以下にこうした図の例を限界とともに述べる。
p 進数の部分集合について状況に応じた適切なイメージを頭の中に思い描くことは p 進解析や p 進幾何の理解を容易にしてくれる。
整数 n に対して p 進数体の分数イデアル pZp ⊂ Qp を考える。これは次のフィルトレーション
を定める。全ての和集合を取ると Qp となり、全ての共通部分を取ると {0} になる。これをオイラー図で表したものが右図である。
剰余類環 Zp / pZp は有限体であり、各剰余類の代表元としては n = 0, 1, ..., p − 1 が取れる。したがって Zp は n+pZp の非交和
でかける。右図はこれを図で表したものである。
p 進数が数論において重要な役割を果たす文脈の一つとして、ハッセ の局所大域原理がある。
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"tag": "p",
"text": "を Zp で表す。Zp は環を成し、p 進整数環と呼ばれる。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "Ap = {0, 1, 2, ..., p − 1} とする。Qp の任意の元 x に対し、整数 N と Ap における数列 {an}n ≧ N が存在して、",
"title": "p 進展開"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "と一意的に展開される(N は x の p 進付値 vp(x) に一致する)。これを x の p 進展開という。逆に、Ap における数列 {an}n ≧ N が与えられたとき、和 ∞∑n=N anp は p 進距離に関して収束して、p 進数を一意的に定める。この展開は、整数環 Z の p を法とする剰余環 Z/pZ を n ≧ 1 の各値で考えたものたち(とそれらの間の自然な射影たち)の成す射影系 {Z/pZ}n ≧ 1 の射影極限として Zp が得られることを示している。逆に、射影極限として Zp を定義し、その商体として Qp を定義する流儀もある。{Z/pZ}n ≧ 1 の全ての元の共通部分は {0} なので、この展開は完備化の操作を具体的に記述したものと見ることができる。",
"title": "p 進展開"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "p 進数が p 進展開と一対一に対応することから、p 進数体は連続体濃度を持つ。Q を部分体として含むので、標数は 0 である。どのように順序を入れても順序体にはできない。実数体 R の代数閉包(複素数体 C)が二次拡大で完備であるのに対し、p 進数体 Qp の代数閉包 Qp は無限次拡大でしかも完備ではない。その完備化は代数閉体であって、Cp と表される。これは複素数体 C と体として同型であるが、同型写像の存在は選択公理に依存しており、具体的に同型写像を与えることはできない。",
"title": "p 進数体の性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "Zp の単数群(可逆元全体の成す乗法群)は Zp = {x ∈ Qp | vp(x) = 0} となる。Zp は局所環であり、その唯一の極大イデアルは",
"title": "p 進数体の性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "と表される。これは p で生成される単項イデアル (p) = pZp である。Zp の pZp による剰余体 Zp/pZp (これを通常は p 進数体の剰余体などと呼ぶ)は p 元体 Fp = Z/pZ に同型であり、上で用いた展開の係数の集合 Ap は、しばしばこれと同一視される。",
"title": "p 進数体の性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "Qp の任意の元 x に対し、x = up (n = vp(x)) となる u ∈ Zp が一意的に存在する。したがって、Zp は単項イデアル整域であり、その任意のイデアルは (p) = pZp の形である。",
"title": "p 進数体の性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "p 進数体は離散付値である p 進付値に関して完備で、剰余体が有限であるので局所体のひとつである。p 進距離の定める位相に関して Zp は Qp の開かつ極大コンパクトな部分環である。同様に、Zp の任意のイデアルは開かつコンパクトとなる。さらに、これらのイデアルたちは 0 の基本近傍系を成す。特に、Qp は完全不連結局所コンパクトな位相体になる。",
"title": "p 進数体の性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "p 進数体が n 分体を含むための必要十分条件は n が p − 1 を割ることである。とくに、p が奇素数のときは、p 進数体は 1 の原始 p 乗根を含まない。",
"title": "p 進数体の性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "p 進数は純数学的な数の体系であり、現実世界に対応するものを持たないことから、p 進数の集合を正確に図示することはできない。しかし、ともかくも p 進数全体は集合であることから、部分集合の包含関係をオイラー図で表すことはできる。また、距離や測度も定義されることから、オイラー図を描くときに距離や測度の特徴を捉えて描くことも部分的には可能である。以下にこうした図の例を限界とともに述べる。",
"title": "視覚化"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "p 進数の部分集合について状況に応じた適切なイメージを頭の中に思い描くことは p 進解析や p 進幾何の理解を容易にしてくれる。",
"title": "視覚化"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "整数 n に対して p 進数体の分数イデアル pZp ⊂ Qp を考える。これは次のフィルトレーション",
"title": "視覚化"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "を定める。全ての和集合を取ると Qp となり、全ての共通部分を取ると {0} になる。これをオイラー図で表したものが右図である。",
"title": "視覚化"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "剰余類環 Zp / pZp は有限体であり、各剰余類の代表元としては n = 0, 1, ..., p − 1 が取れる。したがって Zp は n+pZp の非交和",
"title": "視覚化"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "でかける。右図はこれを図で表したものである。",
"title": "視覚化"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "p 進数が数論において重要な役割を果たす文脈の一つとして、ハッセ の局所大域原理がある。",
"title": "局所大域原理"
}
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p 進数とは、1897年に始まるクルト・ヘンゼルの一連の研究の中で導入された、数の体系の一つである。文脈によっては、その体系の個々の数を指して p 進数と呼ぶこともある。有理数の体系を実数や複素数の体系に拡張するのとは別の方法で、各素数 p に対して p 進数の体系が構成される。それらは有理数のつくる空間の局所的な姿を記述していると考えられ、数学の中でも特に数論において重要な役割を果たす。数学のみならず、素粒子物理学の理論などで使われることもある。 「p 進数」とは「2進数」や「3進数」の総称に過ぎないので、文字 p がすでに他の場所で用いられている場合、q 進数や l 進数などと表現されることもある。 なお、位取り記数法である「N 進法(表記)」を指して「N 進数」と呼ばれることがあるが、これは「p 進数」とは別のものである。
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{{DISPLAYTITLE:{{mvar|p}}進数}}
'''{{mvar|p}} 進数'''(ピーしんすう、{{lang-en-short|{{mvar|p}}-adic number}})とは、1897年に始まる[[クルト・ヘンゼル]]の一連の研究の中で導入された<ref>{{Cite book|和書|year=1972|title=可換代数 4|others=成田正雄・清水達雄訳|series=ブルバキ数学原論 第39|publisher=東京図書|page=133|id={{NDLDC|1383321|format=NDLJP}}}}</ref>、数の体系の一つである。文脈によっては、その体系の個々の数を指して '''{{mvar|p}} 進数'''と呼ぶこともある。[[有理数]]の体系を[[実数]]や[[複素数]]の体系に拡張するのとは別の方法で、各[[素数]] {{mvar|p}} に対して {{mvar|p}} 進数の体系が構成される。それらは有理数のつくる空間の[[局所環|局所]]的な姿を記述していると考えられ、[[数学]]の中でも特に[[数論]]において重要な役割を果たす。数学のみならず、[[素粒子物理学]]の理論などで使われることもある(例えば[[p-進量子力学| {{mvar|p}} 進量子力学]]を参照)。
「{{mvar|p}} 進数」とは「2進数」や「3進数」の総称に過ぎないので、文字 {{mvar|p}} がすでに他の場所で用いられている場合、{{mvar|q}} 進数や {{mvar|l}} 進数などと表現されることもある。
なお、[[位取り記数法]]である「{{Mvar|N}} 進法(表記)」を指して「{{Mvar|N}} 進数」と呼ばれることがあるが、これは「{{mvar|p}} 進数」とは別のものである。
== 概要 ==
有理数[[可換体|体]] '''Q''' から実数体 '''R''' を構成するには、通常の[[絶対値]]の定める[[距離関数|距離]] {{math|''d''<sub>∞</sub>(''x'', ''y'') {{=}} {{abs| ''x'' − ''y'' }}}} に関して有理数体を[[完備距離空間|完備化]]するのであった。それに対し、[[p進付値|{{mvar|p}} 進付値]]より定まる距離({{mvar|p}} 進距離){{math|''d''<sub>p</sub>}} によって有理数体を完備化したものが {{mvar|p}} 進数体 '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> である。{{mvar|p}} 進数と実数は異なる特徴を持つ別々の数体系である一方で、数論においては極めて深い関係を持つ対象であると捉えられる。有理数から実数を構成する過程は、小数展開に循環しない可算無限桁を許すことを意味する。{{mvar|p}} 進数体 '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> における小数展開の類似物は {{mvar|p}} 進展開である。{{mvar|p}} 進数の中で考えた有理数は {{mvar|p}} の高い冪を因数に含めば含むほど小さいと考えられ、{{mvar|p}} 進数の {{mvar|p}} 進展開は、'''{{mvar|p}} 進整数'''(ぴーしんせいすう、{{lang|en|{{mvar|p}}-adic integer}})を可算無限桁の整数と捉える見方を与える。これにより、実数の場合と並行して、{{mvar|p}} 進数は有理数の算術まで込めた拡張であることを見ることができる。
実数体 '''R''' と {{mvar|p}} 進数体 '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> をひとまとまりにした[[アデール環|アデール]]の概念が扱われることもある。有理数体のアデール '''A'''<sub>'''Q'''</sub> は簡単に言えば、実数体 '''R''' と全ての素数 {{mvar|p}} にわたる {{mvar|p}} 進数体 '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> との[[位相空間|位相]]まで込めた[[直積集合|直積]]である。有理数体 '''Q''' はそのアデール '''A'''<sub>'''Q'''</sub> のなかに(対角線に)埋め込むことができる。有理数体をアデールに埋め込んで考えることは、有理数体を素数(と無限遠)を点とする空間 [[素スペクトル|Spec]] '''Z''' 上の代数関数体として捉えるという視点を与える。ここでは、'''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は有限素点 {{mvar|p}} における局所的な振る舞いを、'''R''' は無限遠での振る舞いを表すものとして並行に扱われる。このような解析的な取り扱いにおいては、{{mvar|p}} 進展開は[[テイラー展開]]の類似物であると考えられる。
実数体と {{mvar|p}} 進数体は有理数体の完備化であるが、一般の[[代数体]]でも同様の完備化が考えられる。
== 略式の解説 ==
''本節における p 進数の導入方法や記法は、数学的に正式なものではない''。ただし、本節の解釈は、現実には有限の桁しか扱えない計算機の理論においては有用である。後述の [[#p-進展開|{{mvar|p}} 進展開]]も参照。
以下の数の表記は {{mvar|p}} [[位取り記数法|進表記]]によるものとする。328.125 のような有限小数に、小数側に無限桁の数を加えて得られる 328.12587453… のようなものは実数のひとつである。逆に、整数側に無限桁加えたもの、例えば …1246328.125 のようなものが '''{{mvar|p}} 進数'''であると解釈できる。実数の場合とは逆に、小数側が有限桁でなければならない。{{mvar|p}} 進数の中でも、小数点以下がない …1246328 のようなものは '''{{mvar|p}} 進整数'''と呼ばれるものに対応する。
{{mvar|p}} 進数同士の足し算、引き算、掛け算は、{{mvar|p}} 進表記の有理数における通常の[[アルゴリズム]]を自然に無限桁に拡張することで得られ、割り算は掛け算の逆演算として定義される。実数の場合とは異なり、{{mvar|p}} 進数においては、別途負の数を導入せずとも加法の[[逆元]]が存在する。たとえば2進数で 1 と …1111 を足すと 0 になるため、1 の加法逆元 −1 は …1111 に等しい。また、{{mvar|p}} 進数においては有限桁の小数範囲で必ず逆数が存在する。たとえば、実数の世界においては、2進表記で 11 の逆数は 0.010101… であるのに対し、2進数の世界においては 11 の逆数は …010101011 である。
{{mvar|p}} は素数である必要があり、さもなくば2つの 0 でない {{mvar|p}} 進数の積が 0 になってしまうことや、逆数が存在しないことがある。{{mvar|p}} が素数であればそのようなことはなく、実数の加減乗除とよく似た性質を満たす{{efn|数学的には、{{mvar|p}} が素数でなければ {{mvar|p}} 進数の集合は[[整域]]でないが、{{mvar|p}} が素数だと[[可換体|体]]になる、ということを意味している。}}。{{mvar|p}} 進整数は {{mvar|p}} 進表記の整数を無限桁に拡張したものであるから、{{mvar|p}} 進整数の {{math|''n'' + 1}} 桁目以降を「切り捨てる」事で有限桁の整数が得られる。先に {{math|''n'' + 1}} 桁目以降を切り捨ててから足し算、引き算、掛け算を行っても、先に足し算、引き算、掛け算を行ってから {{math|''n'' + 1}} 桁目以降を切り捨てても同じ結果になる{{efn|数学的には、「{{math|''n'' + 1}} 桁目以降切り捨て」という写像は {{mvar|p}} 進整数環から '''Z'''/{{mvar|p}}<sup>{{mvar|n}}</sup>'''Z''' への環[[準同型]]写像になる、ということを意味している。}}。
実数に距離の概念があるように、{{mvar|p}} 進数にも距離の概念({{mvar|p}} 進距離)がある。例えば2つの実数 {{mvar|a}}, {{mvar|b}} の差が 0.0…0125… であるとき、連続する 0 の部分が長いほど数直線上の {{mvar|a}} と {{mvar|b}} は近い。{{mvar|p}} 進数の場合、{{mvar|a}} と {{mvar|b}} の差が …1250…0 であるとき、連続する 0 の部分が長いほど {{mvar|a}} と {{mvar|b}} は近いとみなされる。
== 定義 ==
有理数体 '''Q''' の [[p進付値|{{mvar|p}} 進付値]]が定める距離({{mvar|p}} 進距離){{mvar|d}}<sub>{{mvar|p}}</sub> による完備化を '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> と表し、その元を '''{{mvar|p}} 進数'''と呼ぶ。'''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は '''Q''' における四則演算と[[距離空間]]の位相とを自然に拡張した演算と、{{mvar|p}} 進距離により定まる[[位相空間|位相構造]]とを持つ。この四則演算に関して '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は[[可換体|体]]をなし、演算はこの距離位相に関して連続である。この両立する演算と位相を持つ[[位相体]] '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> を {{mvar|p}}''' 進数体'''という。
{{mvar|p}} 進数 {{mvar|x}} は、その付値 {{mvar|v}}<sub>{{mvar|p}}</sub>({{mvar|x}}) が 0 以上であるとき、'''{{mvar|p}} 進整数'''と呼ばれる。{{mvar|p}} 進整数の全体の成す集合
:<math>\{x \in \mathbb{Q}_p \mid v_p(x) \geqq 0\}</math>
を '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> で表す。'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は[[環 (数学)|環]]を成し、{{mvar|p}}''' 進整数環'''と呼ばれる。
== {{mvar|p}} 進展開 ==
''A''<sub>{{mvar|p}}</sub> = {0, 1, 2, …, {{math|''p'' − 1}}} とする。'''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> の任意の元 {{mvar|x}} に対し、整数 ''N'' と ''A''<sub>{{mvar|p}}</sub> における数列 {{(}}{{mvar|a}}<sub>{{mvar|n}}</sub>{{)}}<sub>{{mvar|n}} ≧ ''N''</sub> が存在して、
:<math>x = \sum_{n=N}^{\infty} a_n p^n </math>
と一意的に展開される(''N'' は {{mvar|x}} の {{mvar|p}} 進付値 {{math|''v''<sub>''p''</sub>(''x'')}} に一致する)。これを {{mvar|x}} の {{mvar|p}}''' 進展開'''という。逆に、''A''<sub>{{mvar|p}}</sub> における数列 {{(}}{{mvar|a}}<sub>{{mvar|n}}</sub>{{)}}<sub>{{mvar|n}} ≧ ''N''</sub> が与えられたとき、和 {{math|{{sum|''n''{{=}}''N''|∞|d}} ''a''<sub>''n''</sub>''p''<sup>''n''</sup>}} は {{mvar|p}} 進距離に関して収束して、{{mvar|p}} 進数を一意的に定める。この展開は、整数環 '''Z''' の {{mvar|p}}<sup>{{mvar|n}}</sup> を法とする剰余環 '''Z'''/{{mvar|p}}<sup>{{mvar|n}}</sup>'''Z''' を {{math|''n'' ≧ 1}} の各値で考えたものたち(とそれらの間の自然な射影たち)の成す射影系 {'''Z'''/{{mvar|p}}<sup>{{mvar|n}}</sup>'''Z'''}<sub>{{mvar|n}} ≧ 1</sub> の[[射影極限]]として '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> が得られることを示している。逆に、射影極限として '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> を定義し、その[[商体]]として '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> を定義する流儀もある。{'''Z'''/{{mvar|p}}<sup>{{mvar|n}}</sup>'''Z'''}<sub>{{mvar|n}} ≧ 1</sub> の全ての元の共通部分は {0} なので、この展開は完備化の操作を具体的に記述したものと見ることができる。
== {{mvar|p}} 進数体の性質 ==
{{mvar|p}} 進数が {{mvar|p}} 進展開と[[全単射|一対一]]に対応することから、{{mvar|p}} 進数体は[[連続体濃度]]を持つ。'''Q''' を部分体として含むので、[[標数]]は 0 である。どのように[[順序集合|順序]]を入れても[[順序体]]にはできない。実数体 '''R''' の[[代数閉包]](複素数体 '''C''')が二次[[体の拡大|拡大]]で完備であるのに対し、{{mvar|p}} 進数体 '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> の[[代数閉包]] <span style="text-decoration:overline">'''Q'''</span><sub>{{mvar|p}}</sub> は無限次拡大でしかも完備ではない。その完備化は代数閉体であって、'''C'''<sub>{{mvar|p}}</sub> と表される。これは複素数体 '''C''' と体として[[同型]]であるが、同型写像の存在は[[選択公理]]に依存しており、具体的に同型写像を与えることはできない。
'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> の[[単数群]](可逆元全体の成す乗法[[群 (数学)|群]])は '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub><sup>×</sup> = {{(}}{{mvar|x}} ∈ '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> | ''{{mvar|v}}<sub>{{mvar|p}}</sub>''(''x'') = 0{{)}} となる。'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は[[局所環]]であり、その唯一の極大イデアルは
:<math>\mathfrak{p} = \{ x \in \mathbb{Z}_p \mid v_p(x) > 0\}</math>
と表される。これは {{mvar|p}} で生成される[[単項イデアル]] ({{mvar|p}}) = {{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> である。'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> の {{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> による剰余体 '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>/{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> (これを通常は {{mvar|p}} 進数体の剰余体などと呼ぶ)は [[有限体|{{mvar|p}} 元体]] '''F'''<sub>{{mvar|p}}</sub> = '''Z'''/{{mvar|p}}'''Z''' に同型であり、上で用いた展開の係数の集合 ''A''<sub>{{mvar|p}}</sub> は、しばしばこれと同一視される。
'''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> の任意の元 {{mvar|x}} に対し、{{math|''x'' {{=}} ''up<sup>n</sup>'' (''n'' {{=}} ''v<sub>p</sub>''(''x''))}} となる {{mvar|u}} ∈ '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub><sup>×</sup> が一意的に存在する。したがって、'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は[[単項イデアル整域]]であり、その任意のイデアルは {{math|(''p<sup>k</sup>'') {{=}} {{mvar|p}}<sup>''k''</sup>'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} の形である。
{{mvar|p}} 進数体は離散[[付値]]である {{mvar|p}} 進付値に関して完備で、剰余体が有限であるので[[局所体]]のひとつである。{{mvar|p}} 進距離の定める位相に関して '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> の開かつ極大コンパクトな部分環である。同様に、'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> の任意のイデアルは開かつコンパクトとなる。さらに、これらのイデアルたちは 0 の[[基本近傍系]]を成す。特に、'''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は[[連結空間|完全不連結]][[局所コンパクト]]な[[位相体]]になる。
{{mvar|p}} 進数体が [[円分体|{{mvar|n}} 分体]]を含むための必要十分条件は {{mvar|n}} が {{math|''p'' − 1}} を割ることである。とくに、{{mvar|p}} が奇素数のときは、{{mvar|p}} 進数体は 1 の原始 {{mvar|p}} 乗根を含まない。
== 視覚化 ==
{{mvar|p}} 進数は純数学的な数の体系であり、現実世界に対応するものを持たないことから、{{mvar|p}} 進数の集合を正確に図示することはできない。しかし、ともかくも {{mvar|p}} 進数全体は集合であることから、部分集合の包含関係を[[オイラー図]]で表すことはできる。また、距離や測度も定義されることから、オイラー図を描くときに距離や測度の特徴を捉えて描くことも部分的には可能である。以下にこうした図の例を限界とともに述べる。
{{mvar|p}} 進数の部分集合について状況に応じた適切なイメージを頭の中に思い描くことは [[p進解析|{{mvar|p}} 進解析]]や {{mvar|p}} 進幾何の理解を容易にしてくれる。
=== フィルトレーション ===
[[File:Basic filtration of Qp.svg|thumb|分数イデアルによる '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> のフィルトレーション]]
整数 {{mvar|n}} に対して {{mvar|p}} 進数体の[[分数イデアル]] {{Nowrap|{{mvar|p<sup>n</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> ⊂ '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} を考える。これは次のフィルトレーション
: <math> \cdots \subset p^2\mathbb{Z}_p \subset p\mathbb{Z}_p \subset \mathbb{Z}_p \subset p^{-1}\mathbb{Z}_p \subset \cdots</math>
を定める。全ての[[和集合]]を取ると '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> となり、全ての[[共通部分]]を取ると {{math|{{mset|0}}}} になる。これをオイラー図で表したものが右図である。
* {{mvar|p<sup>n</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は0との {{mvar|p}} 進距離が {{mvar|p<sup>−n</sup>}} 以下の元の集まりである。図はあくまでもオイラー図であるが、{{mvar|p<sup>n</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> を円で表すことによりこのことを表現している。
* [[差集合]] {{Nowrap|{{mvar|p<sup>n</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> ∖ {{mvar|p<sup>n+1</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} を考える。図はオイラー図なので、図の円環部分がこの集合に対応する。しかし、この集合は0との {{mvar|p}} 進距離が {{mvar|p<sup>−n</sup>}} に等しいものの集まりなので、このことは図で正確に表現できていない。
* {{mvar|p<sup>n</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> はコンパクトな集合である。このことは表せている。
* 任意のコンパクトな部分集合 {{mvar|K}} に対して、{{Nowrap|{{mvar|K}} ⊂ '''Q'''<sub>{{mvar|p}}</sub> {{=}} ∪<sub>{{mvar|n}}</sub> {{mvar|p<sup>n</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} は[[開被覆]]になっていることから、ある {{mvar|n}} が存在して {{Nowrap|{{mvar|K}} ⊂ {{mvar|p<sup>n</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} が成り立つ。このこともこの図で表せている。
* 数列 {{math|1, 2, 3, ...}} を考える。この数列は実数では無限に発散していく。一方、{{mvar|p}} 進数の場合は '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> というコンパクトな集合から抜け出せない。
=== 細分 ===
[[File:An subdivision of Zp.svg|thumb|{{mvar|p}} 進整数環 '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> を剰余類で分割した様子]]
剰余類環
{{Nowrap|'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> / {{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}}
は有限体であり、各剰余類の代表元としては
{{math|1={{mvar|n}} = 0, 1, ..., {{mvar|p}} − 1}}
が取れる。したがって '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> は
{{Nowrap|{{mvar|n}}+{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}}
の[[非交和]]
: <math> \mathbb{Z}_p = \bigsqcup_{n=0}^{p-1} \left(n+p\mathbb{Z}_p \right) </math>
でかける。右図はこれを図で表したものである。
* {{Nowrap|{{mvar|n}}+{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} は {{math|+''n''}} するという写像による {{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> の像である。したがって、加法についての[[ハール測度]]の定義により、これらの測度は全て等しい。この図では、{{Nowrap|{{mvar|n}}+{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} に対応する四角形を全て同じ面積で描くことにより、このことを表現している。
* '''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> 上のハール測度 {{mvar|μ}} で {{Nowrap|1={{mvar|μ}}('''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>) = 1}} となるものをとる。以下、ハール測度と言ったらこれのこととする。{{Nowrap|{{mvar|μ}}({{mvar|n}}+{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>)}} は全て等しいので、この非交和の両辺のハール測度を取ることにより {{Nowrap|1={{mvar|μ}}({{mvar|n}}+{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>) = {{math|1/''p''}}}} がわかる<ref>
{{Cite book|和書 |author=ニコラ・ブルバキ|authorlink=ニコラ・ブルバキ |title=積分4 |series=ブルバキ数学原論 |translator=[[宮崎浩]]・清水達雄 |year=1969 |origyear=1963 |publisher=東京図書 |id={{NDLDC|1383312|format=NDLJP}}|page=17}}ここでは同様の議論で {{Nowrap|1={{mvar|μ}}({{mvar|p}}{{sup|{{mvar|n}}}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>) = {{math|''p''{{sup|−''n''}}}}}} を導いている。
</ref>。
* {{math|+''n''}} するという写像は実数の場合には平行移動という写像なので形を変えない。{{mvar|p}} 進数の場合にもこの写像は {{mvar|p}} 進距離を保つ。この図では、{{Nowrap|{{mvar|n}}+{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} に対応する四角形を全て同じ形で描くことでこのことを表現している。
* {{Nowrap|{{mvar|n}}+{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} は {{mvar|n}} との {{mvar|p}} 進距離が {{math|1/{{mvar|p}}}} 以下であるものの集まりである。このことは図で表せていない。
* {{Nowrap|{{mvar|n}}+{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} 上で[[複素数]]値 {{math|''a''<sub>''n''</sub>}} を取る、'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> 上の[[局所定数関数]]を考える。ハール測度 {{mvar|μ}} でのこの関数の[[ルベーグ積分|積分値]]は {{math|''a''<sub>''n''</sub>}} の総和を {{mvar|p}} で割ったものになる。こういった局所定数関数の積分は {{mvar|ζ}} 関数を[[イデール]]上の積分で表す[[テイト論文|岩澤テイトの方法]]や[[保型表現]]論でよく現れる。例えば、{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> 上で自明になる加法指標などがこういった局所定数関数の例である。
* {{math|mod {{mvar|p}}<sup>2</sup>}} での剰余類を考えることによりさらに細かく分割できる。例えば、{{mvar|p}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub> を {{Nowrap|{{mvar|p}}{{mvar|n}} +{{mvar|p<sup>2</sup>}}'''Z'''<sub>{{mvar|p}}</sub>}} の非交和で表すことができる。この細分も同様の図で表せる。
* この図は2次元的に描いたものであるが、1次元的に描くこともできる。
== 局所大域原理 ==
{{mvar|p}} 進数が数論において重要な役割を果たす文脈の一つとして、[[ヘルムート・ハッセ|ハッセ]] の'''局所大域原理'''がある。
{{Main|局所大域原理|}}
== 歴史 ==
* 1897年 ヘンゼルが論文 {{harvtxt|Hensel|1897}} を発表する。この年に {{mvar|p}} 進数が創始されたとする文献もある<ref>
例えば
[https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/keywords/13/01.html p進数]
など。
</ref>。しかしこの論文で扱われているのは代数的数の {{mvar|p}} 進展開だけで、代数的数ではない {{mvar|p}} 進数は現れていない<ref name="Narkiewicz_2018_79">
{{Harvnb|Narkiewicz|2018|p={{Google books quote|id=AVmEDwAAQBAJ|page=79|79}}}}. この文献ではヘンゼルの1897年の論文の日付は1899年となっている。
</ref>。論文の冒頭でヘンゼルは、一変数代数関数の理論と代数的整数論の類似から、代数的数を代数関数のようにべき級数展開すればそれが理想因子への分解の代わりとして使えるのではないか、という考えを述べている。
* 1900年 [[ダフィット・ヒルベルト]]が[[国際数学者会議]]で23の問題を提起する{{Sfn|Hilbert|1902}}。[[ヒルベルトの第12問題|第12問題]]を述べる中でヒルベルトは、ヘンゼルは一変数代数関数論におけるべき級数展開の代数的整数論での類似を提唱し研究した、とヘンゼルの研究に言及している{{Sfn|Hilbert|1902|p=460}}。
* 1902年 ヘンゼルは {{harvtxt|Hensel|1897}} で述べた着想を詳細化し論文として公表する{{Sfn|Hensel|1902}}<ref name="Narkiewicz_2018_79" />。ここでも {{mvar|p}} 進展開が考えられているだけであり、代数的数ではないような {{mvar|p}} 進数はまだ考えられていない{{Sfn|Narkiewicz|2018|p={{Google books quote|id=AVmEDwAAQBAJ|page=80|80}}}}。
* 1904年 ヘンゼルは論文 {{harvtxt|Hensel|1904}} を発表する。この論文ではじめて代数的数とは限らない {{mvar|p}} 進数が考えられている{{Sfn|Narkiewicz|2018|p={{Google books quote|id=AVmEDwAAQBAJ|page=80|80}}}}。かつて[[レオポルト・クロネッカー]]は「神が整数を作り給うた。他はすべて人間業である」と言った<ref>
{{MacTutor Biography|id=Kronecker|title=Leopold Kronecker}}
</ref>。{{mvar|p}} 進数という新しい数を作った(もしくは発見した)ヘンゼルはクロネッカーの学生であった<ref>
{{MathGenealogy|id=34268|title=Kurt Hensel}}
</ref>。論文の冒頭には、「算術において正の整数は、そしてこれらだけが天から与えられたものである; 零、負の整数、分数、無理数、虚数は、すべての計算がうまくいくようにするためには、受け入れねばならない記号なのである」と書かれている{{Sfn|足立|1991|p=38}}。
* 1908年 ヘンゼルが著作『代数的数の理論』{{Efn|原題は『Theorie der algebraischen Zahlen』。}}を出版する{{Sfn|Hensel|1908}}。この著作の目次に {{mvar|p}} 進数({{lang-de-short|{{mvar|p}}-adischen Zahlen}})の文字が見える{{Efn|
一方、{{harvtxt|Narkiewicz|2018|p={{Google books quote|id=AVmEDwAAQBAJ|page=81|81}}}} には {{mvar|p}} 進数という言葉は1914年のヘンゼルの二次体についての論文ではじめて現れたように見えると書かれている。
}}。
* 1910年 {{仮リンク|エルンスト・シュタイニッツ|en|Ernst Steinitz}}が論文「体の代数的理論」{{Efn|原題は「Algebraische Theorie der Körper」。}} を発表する{{Sfn|Steinitz|1910}}。この論文で、体の標数や単拡大、有限次拡大、超越拡大といった現代の体論でも使われている概念が導入された{{Sfn|Narkiewicz|2018|p={{Google books quote|id=AVmEDwAAQBAJ|page=115|115}}}}。シュタイニッツがこの論文を書いた主な動機は {{mvar|p}} 進数にあった{{Sfn|Gouvêa|p=9}}。
* 1912年 {{仮リンク|ヨージェフ・キュールシャーク|en|József Kürschák}}が国際数学者会議で付値({{lang-de-short|Bewertung}})の定義を述べた{{Sfn|Kürschák|1912|p=285}}。付値の理論はここから始まった{{Sfn|Roquette|2003|p=4}}。「素数で割り切れる回数」の考え方は数学でずっと古くから使われてきたが、付値を公理的に定義し体系的な研究をおこなったのはこれがはじめてであった。この発表当時、キュールシャークは48歳であった{{Sfn|Roquette|2003|p=8}}。
* 1913年 キュールシャークは国際数学者会議で発表した内容を論文として公表する{{Sfn|Kürschák|1913}}。この論文では付値が定義された体を完備な代数閉体に埋め込めることが証明されている{{Sfn|Roquette|2003|p=5}}。キュールシャークはヘンゼルの1908年の著作に触発されたと言っており、この論文のねらいはヘンゼルの {{mvar|p}} 進数を[[ゲオルク・カントール]]が実数・複素数に対して行ったのと同様の方法で厳密に基礎づけることにあった。当時は数といえば複素数のことだったので、{{mvar|p}} 進数は本当に存在するのかどうか不安を持たれていた。この論文はこの不安を解消するために書かれたものだった。
== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書|author1=加藤文元|author2=中井保行|date=2016-09|title=天に向かって続く数|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4-535-79806-9|ref={{Harvid|加藤|中井|2016}}}} - {{mvar|p}}進数の入門書。
*{{Cite book|和書|author=Jay R. Goldman|others=鈴木将史 訳|date=2013-02-25|title=数学の女王 歴史から見た数論入門|chapter=第23章 p進数と付値|publisher=共立出版|pages=533-562|isbn=978-4-320-11032-8|ref={{Harvid|Goldman|2013}}}}
*{{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|date=1971-04-28|title=代数的整数論|chapter=第10章 素数進法(<math>\textstyle\mathfrak{p}</math> 進法)|edition=第2版|publisher=[[岩波書店]]|pages=126-138|isbn=978-4-00-005630-4|ref={{Harvid|高木|1971}}}}
*{{Cite book|和書|author=ユルゲン・ノイキルヒ|others=[[足立恒雄]] 監修、梅垣敦紀 訳|date=2003-12-08|title=代数的整数論|chapter=第II章 付値|publisher=[[丸善出版]]|pages=101-185|isbn=978-4-621-06287-6|ref={{Harvid|ノイキルヒ|2003}}}}
*{{Cite book|和書|author=雪江明彦|date=2013-08-10|title=整数論1 初等整数論から {{mvar|p}} 進数へ|chapter=第9章 {{mvar|p}} 進数|publisher=[[日本評論社]]|pages=303-332|isbn=978-4-535-78736-0|ref={{Harvid|雪江|2013}}}}
*{{cite book | first= George| last= Bachman| year= 1964| title= Introduction to {{mvar|p}}-adic Numbers and Valuation Theory| publisher= Academic Press| isbn=0-12-070268-1 }} ({{Google books|_Fw6AAAAMAAJ|online copy}})
*{{cite book | first=J.W.S. | last=Cassels | title=Local Fields | series=London Mathematical Society Student Texts | volume=3 | publisher=[[Cambridge University Press]] | year=1986 | isbn=0-521-31525-5 | zbl=0595.12006 }} ({{Google books|UY52SQnV9w4C|online copy}})
*{{cite book | first= Fernando Q.| last= Gouvêa| year= 2000| title= {{mvar|p}}-adic Numbers : An Introduction| edition= 2nd| publisher= [[Springer]]| isbn=3-540-62911-4 }} ({{Google books|g1QHBOBzo9kC|online copy}})
*{{cite book | last=Koblitz | first=Neal | title={{mvar|p}}-adic analysis: a short course on recent work | series=London Mathematical Society Lecture Note Series | volume=46 | publisher=[[Cambridge University Press]] | year=1980 | isbn=0-521-28060-5 | zbl=0439.12011 }} ({{Google books|qqs8AAAAIAAJ|online copy}})
*{{cite book | first= Neal| last= Koblitz | year= 1996| title= {{mvar|P}}-adic Numbers, {{mvar|p}}-adic Analysis, and Zeta-Functions | edition= 2nd| publisher= Springer| isbn=0-387-96017-1 }} ({{Google books|4kTHgCT52lgC|online copy}})
*{{cite book | first= Alain M.| last= Robert| year= 2000| title= A Course in {{mvar|p}}-adic Analysis| publisher= Springer| isbn=0-387-98669-3 }} ({{Google books|H6sq_x2-DgoC|online copy}})
*{{cite book | first= Lynn Arthur| last= Steen | year= 1978| title=Counterexamples in Topology | publisher= Dover| isbn=0-486-68735-X }} ({{Google books|DkEuGkOtSrUC|online copy}})
=== 歴史関連 ===
* {{Cite book| publisher = Springer| isbn = 978-3-030-03754-3| last = Narkiewicz| first = Władysław| title = The Story of Algebraic Numbers in the First Half of the 20th Century: From Hilbert to Tate| date = 2018 | ref = harv}}
* {{Citation
|url = https://www-fourier.ujf-grenoble.fr/~panchish/Mag2009L3/GouveaHensel2.pdf
|title = Hensel's p-adic Numbers: early history
|first1 = Fernando Q.
|last1 = Gouvêa
|ref = harv
}}
* {{Citation
|url = https://www.mathi.uni-heidelberg.de/~roquette/hist_val.pdf
|title = History of Valuation Theory
|first1 = Peter
|last1 = Roquette
|year = 2003
|ref = harv
}}
* {{Citation|和書
| author = [[足立恒雄]]
| contribution = p進解析の系譜
| title = [https://www2.tsuda.ac.jp/suukeiken/math/suugakushi/sympo01/ 19世紀数学史, 第1回数学史シンポジウム報告集]
| contribution-url = https://www2.tsuda.ac.jp/suukeiken/math/suugakushi/sympo01/01adachi.pdf
| format = PDF
| year = 1991
| series = 津田塾大学数学・計算機科学研究所報
| pages = 32-42
| publisher = 津田塾大学数学・計算機科学研究所
| ref = {{SfnRef|足立|1991}}
}}
=== 原論文 ===
* {{cite journal | last = Hensel | first = Kurt | title = Über eine neue Begründung der Theorie der algebraischen Zahlen | journal = [http://www.digizeitschriften.de/resolveppn/PPN37721857X&L=2 Jahresbericht der Deutschen Mathematiker-Vereinigung] | volume = 6 | year = 1897 | issue = 3 | pages = 83–88 | url = https://eudml.org/doc/144593 | ref = harv}}
* {{Cite journal| volume = 55| pages = 301–336| last = Hensel| first = Kurt| title = Ueber die Entwickelung der algebraischen Zahlen in Potenzreihen.| journal = Mathematische Annalen| date = 1902| url = https://eudml.org/doc/158041 | ref = harv}}
* {{Cite journal| volume = 127| pages = 51–84| last = Hensel| first = Kurt| title = Neue Grundlagen der Arithmetik.| journal = Journal für die reine und angewandte Mathematik| date = 1904| url = https://eudml.org/doc/149178 | ref = harv}}
* {{Cite book| last = Hensel| first = Kurt| title = Theorie der algebraischen Zahlen| date = 1908
| url = {{Google books|CHUAAAAAMAAJ|Theorie der algebraischen Zahlen|plainurl=yes}}
| ref = harv}}
* {{Cite journal| volume = 8| issue = 10| pages = 437–479| last = Hilbert| first = David| title = Mathematical problems| journal = Bulletin of the American Mathematical Society| date = 1902| url = https://projecteuclid.org/journals/bulletin-of-the-american-mathematical-society/volume-8/issue-10/Mathematical-problems/bams/1183417035.full | ref = harv | origyear=1900}}
* {{Cite journal| volume = 137| pages = 167–309| last = Steinitz| first = Ernst| title = Algebraische Theorie der Körper.| journal = Journal für die reine und angewandte Mathematik| date = 1910| url = https://eudml.org/doc/149323 | ref = harv}}
* {{Citation
| last = Kürschák
| first = Josef
| contribution = Über Limesbildung und allgemeine Körpertheorie
| title = [https://www.mathunion.org/icm/proceedings Proceedings of the Fifth International Congress of Mathematicians (Cambridge, 22-28 August 1912)]
| year = 1912
| series = International Congress of Mathematicians
| issue = 1
| pages = 285–289
| ref = harv
}}
* {{Cite journal| volume = 142| pages = 211–253| last = Kürschák| first = Josef| title = Über Limesbildung und allgemeine Körpertheorie.| journal = Journal für die reine und angewandte Mathematik| date = 1913| url = https://eudml.org/doc/149394 | ref = harv}}
== 関連項目 ==
<!--項目の50音順-->
*[[アデール環]]
*[[完備距離空間]]
*[[局所体]]
*[[距離空間]]
*[[実数]]
*[[有理数]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|p進数|2=[[寺田文行]]}}
*{{MathWorld|title=p-adic Number|urlname=p-adicNumber}}
*{{youtube|CV8rw9dCf2U|1+2+4+8+…{{=}}-1 p進数の話}}
*{{youtube|f2q_29gpByY|はてな宇宙「第28回:P進整数」}}
{{DEFAULTSORT:Pしんすう}}
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ハーモニー
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ハーモニー(英語: harmony)は、ギリシャ神話のハルモニア(Harmonia、ギリシア語: ‛αρμονία)に由来する言葉で一般に物事の調和のこと。オリジナルはギリシャ語で「一致、連結」を意味する。
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ハーモニーは、ギリシャ神話のハルモニアに由来する言葉で一般に物事の調和のこと。オリジナルはギリシャ語で「一致、連結」を意味する。
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'''ハーモニー'''({{lang-en|harmony}})は、[[ギリシャ神話]]の[[ハルモニアー|ハルモニア]](Harmonia、{{lang-el|‛αρμονία}})に由来する言葉<ref name="kotobank_1">{{Cite web|和書| work=[[コトバンク]] | title=ハーモニーとは | publisher=[[朝日新聞社|株式会社 朝日新聞社]] | date= | url=https://kotobank.jp/word/ハーモニー | accessdate=2016年11月03日}}</ref>で一般に物事の調和のこと。オリジナルはギリシャ語で「一致、連結」を意味する。
== 音楽 ==
* ハーモニー - [[スウェーデン]]の[[デスメタル]][[バンド (音楽)|バンド]]。後に[[メイズ・オブ・トーメント]]名義で活動。
* [[和声]] - 和音の進行と各声部の配置や進行の組み合わせのこと。
* [[ポピュラー和声]] - 17世紀後期から20世紀初頭までの西洋音楽において作曲技法の基礎となった狭義の和声。
* 俗に[[和音]]のこと。
== 楽曲のタイトル ==
* ハーモニー - [[井上あずみ]]の曲。NHK『[[みんなのうた]]』テーマ曲。
* ハーモニー - [[EPO]]の曲。
* ハーモニー - [[My Little Lover]]の曲。雑誌サイズCDとして発売されたシングル「MY LITTLE LOVER×kitson ハーモニー」に収録。
* [[魔法の黄色い靴|ハーモニー]] - [[チューリップ (バンド)|チューリップ]]のシングルB面曲。アルバム「[[魔法の黄色い靴 (アルバム)|魔法の黄色い靴]]」にも収録。
* [[Harmony (安良城紅の曲)]] - 安良城紅([[BENI]])のシングル曲。
* Harmony - [[國府田マリ子]]の曲。シングル「[[僕らのステキ/Harmony]]」に収録。
* Harmony - [[ミトカツユキ]]の曲。アルバム『Natural Soul』に収録。
* Harmony - [[Full Of Harmony]]の曲。[[村山晋一郎]]作詞・作曲。アルバム『DRAMA』に収録。
* Harmony - [[本多俊之]]作曲のピアノ曲。『[[ニュースステーション]]』テーマ曲(演奏は[[江黒真理衣]]による)。
* HARMONY - [[MAX (音楽グループ)|MAX]]の曲。アルバム『[[MAXIMUM II]]』に収録。
* HARMONY - [[SUPERCAR]]の曲。アルバム『[[ANSWER (SUPERCARのアルバム)|ANSWER]]』に収録。
* HARMONY - [[Little Glee Monster]]の曲。アルバム『[[Little Glee Monster (Little Glee Monsterのアルバム)|Little Glee Monster]]』『[[Colorful Monster]]』に収録。
== アルバムのタイトル ==
* Harmony - [[井上あずみ]]のミニアルバム。上記の曲を収録。
* [[HARMONY (EPOのアルバム)]] - [[EPO]]のアルバム。上記の曲を収録。
* HARMONY - [[FreeTEMPO]]のミニアルバム。表題曲を収録。
* ハーモニー - ワーナーミュージックジャパンから2007年4月25日に発売されたオムニバスアルバム。
* HARMONY - [[avex club]]の通販CD。
== 書籍 ==
=== 小説 ===
* [[ハーモニー (小説)]] - [[伊藤計劃]]のSF小説。
=== 写真集 ===
* harmony - [[彩月貴央]]の写真集。
=== 雑誌 ===
*[[ハーモニー (雑誌)]] - [[全日本合唱連盟]]発行の[[合唱]]に特化した機関誌。年4回の季刊で発行される。
== 映画 ==
* [[ハーモニー (小説)|ハーモニー]] - [[伊藤計劃]]のSF小説を映画化したもの。
* [[ハーモニー 心をつなぐ歌]] - [[キム・ユンジン]]主演の韓国映画。
*{{仮リンク|ハーモニー (1996年の映画)|en|Cosi (film)}}- 『[[コジ・ファン・トゥッテ]]』を題材とするオーストラリア映画
* [[HARMONY (2019年の映画)]]
== 組織 ==
=== 企業・ブランド ===
* [[HARMONY (企業)]] - 日本のウェブソリューション企業。
* [[ハーモニープロモーション]] - 日本の芸能事務所。
* プロダクションハーモニー - 日本の芸能事務所。
* [[イーハーモニー]] - アメリカのコミュニティサイト。
* [[ハーモニー (介護)]] - かつて存在した日本の介護事業者。
== 地名 ==
* ハーモニー - かつての[[鹿児島県]][[加世田市]]の町名。2005年の市町村合併により[[南さつま市]]の町名となり「[[加世田ハーモニー]]」に改称。
== その他 ==
* ハーモニック・ドローバー - [[ハモンドオルガン]]においてトーンホイールを操作するボリュームスイッチ。
* [[ハーモニー (ISS)]] - [[国際宇宙ステーション]] (ISS) のモジュールのひとつ。
* [[Apache Harmony]] - [[オープンソース]]の[[Java]]実装のひとつ。
* [[タバコ]]の銘柄のひとつ。現在、販売されていない。
* ハーモニー OS - [[2019年]]8月、[[米中貿易戦争]]を受けて[[ファーウェイ]]が公表した[[スマートフォン]]用[[オペレーティングシステム|オペレーションシステム]]<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-09 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3239283 |title=ファーウェイ、独自OS「HarmonyOS」を公開 「世界に調和もたらす」 |publisher=AFP |accessdate=2019-08-12}}</ref>。
== 参考資料 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|harmony}}
*[[ビザンティン・ハーモニー]] - [[正教会]]と国家の関係を巡る政治理念。
*[[コンコード]] - [[ラテン語]]起源で同じく「調和」を意味する。語源となる[[コンコルディア (神話)|コンコルディア]]はハルモニアと同一視されている。
{{aimai}}
{{デフォルトソート:はあもにい}}
[[Category:英語の語句]]
[[Category:ギリシア語の語句]]
[[Category:美学の概念]]
[[Category:同名の作品]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC
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11,897 |
速さ
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物理学の運動学における速さ(はやさ、英: speed)は、速度ベクトルの大きさを指す用語である。各時刻の位置が特定できるような何らかの'もの'があって、その'もの'が時間とともに移動していく場合に、その(道のりとしての)移動距離が時間的に増していく変化のすばやさ(変化率)を表す量である。速度が一定の場合は、単位時間あたりの移動距離である。
物体の位置ベクトルを r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} 、時刻を t {\displaystyle t} で表すとき、物体の速度 d r d t {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {r}}}{dt}}} に対する 速さ V {\displaystyle V} の定義は以下のとおりである。
V = | d r d t | {\displaystyle V=\left|{\frac {d{\boldsymbol {r}}}{dt}}\right|}
速さは、移動の方向(含前後進の別)を考慮しない(問わない)正のスカラー量であり、その次元は、速度と同じく、[距離] ÷ [時間] となる。
以下、簡単化した例で説明するために、ある物体が一つの直線上を運動する場合を考え、この直線を x {\displaystyle x} 軸にとることにする。 この場合、時刻が Δ t {\displaystyle \Delta t} だけ増加する間に物体が移動した道のりは、その間の物体の x {\displaystyle x} 座標の増加分 Δ x {\displaystyle \Delta x} となる。 ここで、道のりが時間に対して一定の割合(変化率)で増していくときには、(1次元的な)速度は Δ x Δ t {\displaystyle {\frac {\Delta x}{\Delta t}}} によって表される。
一般には、道のりの時間に対する変化率は一定ではない(落体, 加・減速する乗り物, 飛翔する昆虫などを思い描くとよい.)。その場合には、 x {\displaystyle x} の 時刻 t {\displaystyle t} に対する変化を表すグラフを考え、そのグラフの(各時刻における)勾配をもって速度 v {\displaystyle v} の定義とする。これは、数学的には x {\displaystyle x} を t {\displaystyle t} で微分した量に他ならない。
このように、速度が一定でない場合に、ゼロでない時間間隔における比の量 Δ x Δ t {\displaystyle {\frac {\Delta x}{\Delta t}}} を、 Δ t {\displaystyle \Delta t} の間の平均速度と称する。
ここにおいて、速度の絶対値を速さ V {\displaystyle V} 、平均速度の絶対値を平均の速さ V ̄ {\displaystyle {\bar {V}}} とする。
以上の例で、速度(平均速度)は符号付きのスカラー量、速さ(平均の速さ)は正のスカラー量になっていることに注意されたい。
速さの単位には次の様なものがある
重要な単位相互間の変換
「tacho()」は「speed、速さ」を意味する英語接頭辞(仮名書きは日本語外来語)。同義の古代ギリシア語 Ταχος (ラテン文字化:takhos、タコス)を語源とする。この接頭辞を持つ語には「tachometer」(タコメーター)、「tachograph」(タコグラフ)などがある。
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"text": "速さは、移動の方向(含前後進の別)を考慮しない(問わない)正のスカラー量であり、その次元は、速度と同じく、[距離] ÷ [時間] となる。",
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"text": "このように、速度が一定でない場合に、ゼロでない時間間隔における比の量 Δ x Δ t {\\displaystyle {\\frac {\\Delta x}{\\Delta t}}} を、 Δ t {\\displaystyle \\Delta t} の間の平均速度と称する。",
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"title": "tacho"
}
] |
物理学の運動学における速さは、速度ベクトルの大きさを指す用語である。各時刻の位置が特定できるような何らかの'もの'があって、その'もの'が時間とともに移動していく場合に、その(道のりとしての)移動距離が時間的に増していく変化のすばやさ(変化率)を表す量である。速度が一定の場合は、単位時間あたりの移動距離である。
|
{{物理量
| 名称 =
| 英語 = speed
| 画像 =
| 記号 = ''v'', ''u'', ''w''
| 次元 =
| M =
| L = 1
| T = −1
| I =
| Θ =
| J =
| 階 = スカラー
| SI = [[メートル毎秒]] (m/s)
| CGS = [[センチメートル毎秒]] (cm/s)
| MTS =
| FPS = [[フィート毎秒]] (ft/s)
| MKSG =
| CGSG =
| FPSG =
| プランク = [[光速度]] (''c'')
| 原子 =
}}
{{古典力学}}
物理学の[[運動 (物理学)|運動学]]における'''速さ'''(はやさ、{{lang-en-short|speed}})は、[[速度]]ベクトルの大きさを指す用語である。各時刻の位置が特定できるような何らかの'もの'<ref>ここで言う 'もの' は、実際の固体物体を指す場合の他、系の中の仮想点や[[連続体]]の仮想境界であったり、さらに一般には位置と時間で決まる関数の特徴的な点を追うなど、(各時刻の位置が定まるという条件さえ満たせば)対象は様々である.</ref>があって、その'もの'が[[時間]]とともに移動していく場合に、その(道のりとしての)移動距離が[[時間]]的に増していく変化のすばやさ(変化率)を表す[[量]]である。[[速度]]が一定の場合は、単位[[時間]]あたりの移動[[距離]]である。
{{Reflist}}
==速さと速度==
物体の[[位置ベクトル]]を<math>\boldsymbol{r}</math>、時刻を<math>t</math>で表すとき、物体の[[速度]] <math>{\frac{d\boldsymbol{r}}{dt}}</math> に対する 速さ <math>V</math> の定義は以下のとおりである。
{{Indent|<math>V=\left|\frac{d\boldsymbol{r}}{dt}\right|</math>}}
速さは、移動の方向(含前後進の別)を考慮しない(問わない)正の[[スカラー量]]であり、その[[量の次元|次元]]は、[[速度]]と同じく、'''[距離] ÷ [時間]''' となる。
----------
以下、簡単化した例で説明するために、ある物体が一つの直線上を運動する場合を考え、この直線を<math>x</math>軸にとることにする。
この場合、時刻が<math>\Delta t</math>だけ増加する間に物体が移動した道のりは、その間の物体の<math>x</math>座標の増加分 <math>\Delta x</math>
となる。
ここで、道のりが時間に対して一定の割合(変化率)で増していくときには、(1次元的な)速度は <math>\frac{\Delta x}{\Delta t}</math> によって表される。
一般には、道のりの時間に対する変化率は一定ではない(落体, 加・減速する乗り物, 飛翔する昆虫などを思い描くとよい.)。その場合には、<math>x</math>の 時刻<math>t</math>に対する変化を表すグラフを考え、そのグラフの(各時刻における)勾配をもって速度<math>v</math>の定義とする。これは、数学的には <math>x</math>を<math>t</math>で[[微分]]した量に他ならない。
:<math>v = \frac{dx}{dt}</math>
このように、速度が一定でない場合に、ゼロでない時間間隔における比の量 <math>\frac{\Delta x}{\Delta t}</math> を、<math>\Delta t</math>の間の平均速度と称する。
ここにおいて、速度の[[絶対値]]を速さ <math>V</math>、平均速度の[[絶対値]]を平均の速さ <math>\bar{V}</math> とする。
:<math>V = \left|\frac{dx}{dt}\right|</math>
:<math>\bar{V} = \left|\frac{\Delta x}{\Delta t}\right|</math>
以上の例で、速度(平均速度)は符号付きのスカラー量、速さ(平均の速さ)は正のスカラー量になっていることに注意されたい。
== 単位 ==
速さの[[単位]]には次の様なものがある
* [[メートル毎秒]]、(単位記号 m/s)、[[SI組立単位]]
* [[キロメートル毎時]]、(単位記号km/h)
* [[マイル毎時]]、(単位記号mph、mi/h)
* [[ノット]]、(単位記号kt、kn)
* [[マッハ数]]、(速さを[[音速]]で[[除法|除した]]、または割った値)
* [[真空]]中の[[光]]の速さ(一般的に記号cで表記)で表される[[自然単位系]]の1つ)
:c = 299 792 458 m/s(正確に)
重要な単位相互間の[[変換 (数学)|変換]]
:1 m/s = 3.6 km/h
:1 mph = 1.609 344 km/h
:1 knot = 1.852 km/h = 約0.514 m/s
== 速さの比較 ==
{{see also|速さの比較}}
* 一般的な[[カタツムリ]]の速さ= 0.001 m/s; 0.004 km/h; 0.002 mph (1 [[ミリメートル]]毎秒)。
* 一般的な人の[[歩行]]の速さ= 1.1 m/s; 4 km/h; 2.5 mph。
* [[近代オリンピック|オリンピック]]の[[短距離走]]の速さ([[100メートル競走]]の日本記録)= 10 m/s; 36 km/h; 22 mph。
* [[フランス]][[オートルート]]の制限された速さ= 36 m/s; 130 km/h; 80 mph。
* [[台北101]]のエレベーターの速さ= 1010 m/min; 16.7 m/s; 60.6 km/h; 37.6 mph。
* [[ボーイング]][[ボーイング747#B747-8 シリーズ|747-8型]]最大航行の速さ= 290 m/s; 1050 km/h; 650 mph; ([[マッハ]]0.85)。
* [[海面]]の高さで[[温度]]20 °C (293 [[ケルビン]])の[[乾燥]]した[[空気]]中の[[音速]]は343 m/s ≈ 1235 km/h ≈ 768 mph (= [[マッハ]] 1 と[[定義]]される)。
* [[国際航空連盟]]によって決められた方法での公式最大飛行速さ= 980 m/s; 3,530 km/h; 2,194 mph。
* [[スペースシャトル]]が[[地球]]へ[[スペースシャトル#概要|帰還]]時の大気圏再突入の速さ= 7,800 m/s; 28,000 km/h; 17,500 mph。
* [[地球]]の平均[[公転周期]]の速さ= 29,783 m/s; 107,218 km/h; 66,623 mph。
* [[真空]]中の[[光]]の速さ(一般的に記号cで表記)299,792,458 m/s(定義された正式値)。
=={{lang|en|tacho}}==
「{{読み仮名|{{lang|en|tacho}}|タコ}}」は「{{lang|en|speed}}、速さ」を意味する英語接頭辞(仮名書きは日本語外来語)。同義の古代ギリシア語 {{lang|el|Ταχος}} ([[ラテン文字化]]:{{ラテン翻字|el|takhos}}、タコス)を語源とする。この接頭辞を持つ語には「{{lang|en|tachometer}}」([[タコメーター]])、「{{lang|en|tachograph}}」([[タコグラフ]])などがある。
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|はやさ}}
{{Wikidata property}}
* [[速度計]]
* [[加速度]]
* [[単位時間]]
* [[微分]]
* [[運動方程式]]
{{古典力学のSI単位}}
== 参考文献 ==
* [[リチャード・P・ファインマン]]、Robert B. Leighton, Matthew Sands, ''The Feynman Lectures on Physics''(''ファインマン物理学'')、 Volume I, Section 8-2. Addison-Wesley, Reading, Massachusetts (1963). ISBN 0-201-02116-1.
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はやさ}}
[[Category:速度|*]]
[[Category:速度の単位]]
[[Category:物理量]]
[[Category:初等数学]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E3%81%95
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多摩動物公園駅
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多摩動物公園駅(たまどうぶつこうえんえき)は、東京都日野市程久保にある、京王電鉄・多摩都市モノレールの駅である。
駅前に多摩動物公園が立地する。
当駅 - 高幡不動駅間は京王動物園線と多摩都市モノレール線の併走区間になっている。
当駅における両線間の連絡運輸の設定はない。
都道503号相模原立川線を挟んで、両社線の構内が独立している。
動物園線の終着駅であり、多摩動物公園正門の都道を挟んで反対側に位置する。京王西管区所属。駅番号はKO47。
頭端式ホーム1面2線を有する地上駅。2番線ホームは有効長4両編成分で、転落防止柵が設置されている。なお、新宿方面からの直通電車はすべて1番線に到着していた。
多摩モノレール線開業前は、当駅が中央大学・明星大学の最寄り駅であった。1番線の南側に歩行者通路が整備されており、改札を出て左に進むと明星大学の旧正門がある程久保二丁目・三丁目方面へ通行できるようになっている。
元来、当駅は多客時対策として両ホームとも乗降分離が可能な構造で建設されており、両側に降車ホームがあった。その後、改札口に通じる箇所が柵で閉め切られ、使用停止となり、2010年4月までにトイレと通路部分を除いて撤去された。これを利用してフリーマーケットなどのイベントが開催されていた。平日昼間は閑散とした終着駅であり、構内が広く、京王電鉄が協力的なこともあり、府中競馬正門前駅とともにテレビ番組やCMのロケーション撮影に使われることが多かった。2013年現在、その跡地には多摩動物公園で見られる動物の写真などが掲示された看板が設置されている。また、1番線に電車を停車させてイベントを開催する時がある。
トイレはかつて1番線側の降車ホームに設置されていたが、新しい京王れーるランドの建設に伴い、2013年7月31日から旧・京王れーるランド側に移設し、リニューアルした。また、外壁は動物のイラストが施されている。ユニバーサルデザインの一環として「だれでもトイレ」を併設する。
駅舎に併設する形で「京王れーるランド」があり、多摩動物公園に来園する子供を主な対象に京王の鉄道グッズなどを販売していたが、2013年8月25日に旧施設の営業を終了した。その後、施設を反対側に移転し、同年10月10日にリニューアルオープンした。当駅についても、駅舎・トイレ・ホームの大規模リニューアルを実施し、駅全体が動物園スタイルに改装するとともに、「(京王れーるランド)」の副駅名を導入した。
現在、京王れーるランドの車両展示スペースがある場所は、同施設の建設以前は駅前広場であった。ここには1969年から1996年までデハ2400形の2410号が保存展示されていた。同車はその後、京王平山研修センター内の京王資料館に移設され、跡地は植え込みになっていたが、2013年4月に京王れーるランドの拡張リニューアルに伴い、以前の保存場所に戻ることとなった。
京王電鉄は2018年春、駅舎を挟んで京王れーるランドの反対側(多摩都市モノレール寄り)に子供向け遊戯施設「京王あそびの森HUGHUG(ハグハグ)」を開設している。
かつて、京王電鉄で唯一、トライビジョン式の発車標を使用していた。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。駅は道路脇上(正門前)にある。駅番号はTT05。
かつて、コンコース内に1000系電車運転台部分のモックアップが設置されていたが、その後木製の四角い待合室風の小屋になり、中には木製ベンチと、多摩動物公園の建設経緯や歴史についての展示がある。
開業以降の1日平均乗降人員および乗車人員推移は下表の通りである。
|
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"text": "トイレはかつて1番線側の降車ホームに設置されていたが、新しい京王れーるランドの建設に伴い、2013年7月31日から旧・京王れーるランド側に移設し、リニューアルした。また、外壁は動物のイラストが施されている。ユニバーサルデザインの一環として「だれでもトイレ」を併設する。",
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"title": "駅構造"
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"text": "京王電鉄は2018年春、駅舎を挟んで京王れーるランドの反対側(多摩都市モノレール寄り)に子供向け遊戯施設「京王あそびの森HUGHUG(ハグハグ)」を開設している。",
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] |
多摩動物公園駅(たまどうぶつこうえんえき)は、東京都日野市程久保にある、京王電鉄・多摩都市モノレールの駅である。 駅前に多摩動物公園が立地する。 当駅 - 高幡不動駅間は京王動物園線と多摩都市モノレール線の併走区間になっている。
|
{{出典の明記|date=2013年8月}}
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 =多摩動物公園駅
|画像 = KeioTamaZooStation 20131012.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 京王動物園線駅舎(2013年10月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
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}}
|よみがな = たまどうぶつこうえん
|ローマ字 = Tama-dōbutsukōen
|所属事業者 = [[京王電鉄]]([[#京王電鉄|駅詳細]])<br />[[多摩都市モノレール]]([[#多摩都市モノレール|駅詳細]])
|所在地 = [[東京都]][[日野市]]程久保
}}{{座標一覧}}
'''多摩動物公園駅'''(たまどうぶつこうえんえき)は、[[東京都]][[日野市]]程久保にある、[[京王電鉄]]・[[多摩都市モノレール]]の[[鉄道駅|駅]]である。
駅前に[[多摩動物公園]]が立地する。
当駅 - [[高幡不動駅]]間は[[京王動物園線]]と[[多摩都市モノレール線]]の併走区間になっている。
== 利用可能な鉄道路線 ==
* 京王電鉄
** [[京王動物園線|動物園線]]([[終着駅]])
* 多摩都市モノレール
** [[多摩都市モノレール線]]
当駅における両線間の[[連絡運輸]]の設定はない。
== 歴史 ==
* [[1964年]]([[昭和]]39年)[[4月29日]]:京王帝都電鉄多摩動物公園線(現・京王電鉄動物園線)の開業に合わせて駅開業。
* (時期不明):多摩動物公園線が動物園線と改称され、動物園線の駅となる。
* [[2000年]]([[平成]]12年)[[1月10日]]:多摩都市モノレール線の駅が開業<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=7 }}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[10月10日]]:京王電鉄動物園線の駅に「京王れーるランド」の副駅名を導入。
== 駅構造 ==
[[神奈川県道・東京都道503号相模原立川線|都道503号相模原立川線]]を挟んで、両社線の構内が独立している。
=== 京王電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #dd0077
|文字色 =
|駅名 = 京王 多摩動物公園駅
|画像 = KeioTamaZooStationPlatform.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = ホーム(2008年4月)
|よみがな = たまどうぶつこうえん
|ローマ字 = Tama-dōbutsukōen
|副駅名 = 京王れーるランド
|隣の駅 =
|前の駅 = KO29 [[高幡不動駅|高幡不動]]
|駅間A = 2.0
|駅間B =
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KO|47|#dd0077|5}}
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王動物園線|動物園線]]
|キロ程 = 2.0 km([[高幡不動駅|高幡不動]]起点)<br />[[新宿駅|新宿]]から31.7
|起点駅 =
|所在地 = [[東京都]][[日野市]]程久保三丁目36-39
|座標 = {{coord|35|38|56.7|N|139|24|16|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[4月29日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />4,207
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
動物園線の終着駅であり、多摩動物公園正門の都道を挟んで反対側に位置する。京王西管区所属。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO47'''。
[[頭端式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。2番線ホームは[[有効長]]4両編成分で、転落防止柵が設置されている。なお、[[新宿駅|新宿]]方面からの直通電車はすべて1番線に到着していた。
<!--運行ダイヤは路線記事で言及している-->多摩モノレール線開業前は、当駅が[[中央大学]]・[[明星大学]]の最寄り駅であった。1番線の南側に歩行者通路が整備されており、改札を出て左に進むと明星大学の旧正門がある程久保二丁目・三丁目方面へ通行できるようになっている。
元来、当駅は多客時対策として両ホームとも乗降分離が可能な構造で建設されており、両側に降車ホームがあった。その後、[[改札|改札口]]に通じる箇所が柵で閉め切られ、使用停止となり、2010年4月までに[[便所|トイレ]]と通路部分を除いて撤去された。これを利用して[[蚤の市|フリーマーケット]]などのイベントが開催されていた。平日昼間は閑散とした終着駅であり、構内が広く、京王電鉄が協力的なこともあり、[[府中競馬正門前駅]]とともに[[テレビ番組]]や[[コマーシャルメッセージ|CM]]の[[ロケーション撮影]]に使われることが多かった。2013年現在、その跡地には多摩動物公園で見られる動物の写真などが掲示された看板が設置されている。また、1番線に電車を停車させてイベントを開催する時がある。
トイレはかつて1番線側の降車ホームに設置されていたが、新しい京王れーるランドの建設に伴い、2013年7月31日から旧・京王れーるランド側に移設し、リニューアルした。また、外壁は動物のイラストが施されている。[[ユニバーサルデザイン]]の一環として「だれでもトイレ」を併設する。
駅舎に併設する形で「[[京王れーるランド]]」があり、多摩動物公園に来園する子供を主な対象に京王の鉄道グッズなどを販売していたが、2013年8月25日に旧施設の営業を終了した。その後、施設を反対側に移転し、同年10月10日にリニューアルオープンした。当駅についても、駅舎・トイレ・ホームの大規模リニューアルを実施し、駅全体が動物園スタイルに改装するとともに、「(京王れーるランド)」の副駅名を導入した。
現在、京王れーるランドの車両展示スペースがある場所は、同施設の建設以前は[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]であった。ここには1969年から1996年まで[[京王電気軌道400形電車|デハ2400形]]の2410号が保存展示されていた。同車はその後、京王平山研修センター内の[[京王資料館]]に移設され、跡地は植え込みになっていたが、2013年4月に京王れーるランドの拡張リニューアルに伴い、以前の保存場所に戻ることとなった。
京王電鉄は2018年春、駅舎を挟んで京王れーるランドの反対側(多摩都市モノレール寄り)に子供向け遊戯施設「京王あそびの森HUGHUG(ハグハグ)」を開設している<ref>{{Cite press release|和書|title=多摩動物公園駅前のお子様向け遊戯施設の名称が「京王あそびの森 HUGHUG(ハグハグ)」に決定!|publisher=京王電鉄|date=2017-10-31|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr171031_keio-hughug.pdf|format=PDF|access-date=2022-05-06}}</ref>。
かつて、京王電鉄で唯一、トライビジョン式の[[発車標]]を使用していた。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 動物園線
|[[高幡不動駅|高幡不動]]・[[調布駅|調布]]・[[明大前駅|明大前]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|-
!2
|高幡不動方面(4両編成ワンマン専用)
|}
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
TamaDobutsuKoenStation.JPG|京王動物園線ホーム(2014年11月)
KeioTamaZooStation 20130814.jpg|リニューアル中の駅舎(2013年8月)
KeioTamaZooSt.JPG|リニューアル前の駅舎(2006年6月)
Tamadoubutsukoueneki.keio.kaisatsu.jpg|改札内より改札口(リニューアル後)。左奥に多摩モノレールの駅舎が、右奥には多摩動物公園の入園口が見える(2017年11月3日)
</gallery>
{{-}}
=== 多摩都市モノレール ===
{{駅情報
|社色 = #ff6633
|文字色 =
|駅名 = 多摩都市モノレール 多摩動物公園駅
|画像 = Tama-Dōbutsukōen Station 2.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅全景(2021年10月)
|よみがな = たまどうぶつこうえん
|ローマ字 = Tama-Dobutsukoen
|副駅名 =
|前の駅 = TT06 [[程久保駅|程久保]]
|駅間A = 1.0
|駅間B = 1.1
|次の駅 = [[中央大学・明星大学駅|中央大学・明星大学]] TT04
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|TT|05|#28635f|1}}
|所属事業者 = [[多摩都市モノレール]]
|所属路線 = {{Color|#ff6633|■}}[[多摩都市モノレール線]]
|キロ程 = 12.3
|起点駅 = [[上北台駅|上北台]]
|所在地 = [[東京都]][[日野市]]程久保七丁目1
|座標 = {{coord|35|38|55|N|139|24|13.3|E|region:JP_type:railwaystation}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[2000年]]([[平成]]12年)[[1月10日]]<ref name="sone30"/>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="モノ" name="tamamono2022" />1,077
|乗降人員 = <ref group="モノ" name="tamamono2022" />2,108
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]である。駅は道路脇上(正門前)にある。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''TT05'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tama-monorail.co.jp/info/list/mt_img/290630_press_Station_code.pdf |title=多摩モノレール全駅に「駅ナンバリング」を導入します!! |access-date=2022-05-06 |format=PDF |website=多摩モノレール |deadlinkdate=2022-05 |date=2017-06-30 |archive-date=2022-02-22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220222171539/https://www.tama-monorail.co.jp/info/list/mt_img/290630_press_Station_code.pdf}}</ref>。
かつて、[[コンコース]]内に[[多摩都市モノレール1000系電車|1000系電車]][[操縦席|運転台]]部分の[[木型|モックアップ]]が設置されていたが、その後木製の四角い待合室風の小屋になり、中には木製ベンチと、多摩動物公園の建設経緯や歴史についての展示がある。
==== のりば ====
{| class="wikitable"
!番線!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tama-monorail.co.jp/monorail/station/tama-dobutsukoen/ |title=多摩動物公園駅 駅構内図 |publisher=多摩都市モノレール |accessdate=2023-06-06}}</ref>
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Tama Monorail Line symbol.svg|15px|TT]] 多摩都市モノレール線
|[[上北台駅|上北台]]方面
|-
!2
|[[多摩センター駅|多摩センター]]方面
|}
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Tama_Doubutsu_Kouen_Station.jpg|駅入口(2008年11月)
Tama_Monorail_in_Tama_Dobutsu_Kouen_Station.jpg|駅に停車中の[[ライオン]]のイラストが描かれた1000系(2008年11月)
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''京王電鉄''' - 2022年度の一日平均[[乗降人員]]は'''4,207人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。京王電鉄全駅では[[府中競馬正門前駅]]に次いで乗降客数が少ない。
** [[1970年代]]後半には中央大学の移転によって乗降人員が大幅に増加したが、多摩都市モノレールの開通により通学需要が激減し、乗降人員は大きく減少した。ただし「多摩動物公園駅」の利用に限定した場合はモノレールよりも乗降人員が多い。
* '''多摩都市モノレール''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]は'''1,077人'''である<ref group="モノ" name="tamamono2022" />。
開業以降の1日平均乗降人員および乗車人員推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
!rowspan=2|年度
!colspan=2|京王電鉄
!多摩都市<br />モノレール
!rowspan=2|出典
|-
!1日平均<br />乗降人員<ref>[http://www.train-media.net/report/index.html 各種報告書] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員
!1日平均<br />乗車人員
|-
|1964年(昭和39年)
|<ref group="注">動物園線開業年度</ref>3,338
|
|style="text-align:center" rowspan="16"|未開業
|
|-
|1965年(昭和40年)
|5,054
|
|
|-
|1970年(昭和45年)
|11,301
|
|
|-
|1975年(昭和50年)
|12,799
|
|
|-
|1980年(昭和55年)
|37,338
|
|
|-
|1981年(昭和56年)
|<ref group="注">当駅の乗降人員最高値年度</ref>37,619
|
|
|-
|1985年(昭和60年)
|34,323
|
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|30,403
|15,195
|<ref group="*">東京都統計年鑑(平成2年)229ページ</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|15,508
|<ref group="*">東京都統計年鑑(平成3年)235ページ</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|15,649
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|15,742
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|15,762
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|31,648
|15,683
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|15,230
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|14,515
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|14,222
|<!--<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>-->
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="注">多摩都市モノレールの駅開業年度</ref>27,763
|13,631
|<ref group="モノ" name="jyousha2018">{{Cite web|和書|author=多摩都市モノレール株式会社|url=https://www.tama-monorail.co.jp/company/2019.7.11_joukoujinnin.pdf|title=駅別乗降人員(一日平均)- 多摩モノレール|format=PDF|accessdate=2020-06-14}}</ref>1,449
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|19,322
|9,205
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,274
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|
|7,230
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,271
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|
|6,208
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,225
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|11,522
|5,355
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,205
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|10,188
|4,707
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,138
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|9,258
|4,479
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,232
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|7,844
|4,014
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,261
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|7,026
|3,563
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,216
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|6,599
|3,364
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,265
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|6,107
|3,104
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,219
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|5,961
|3,019
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,109
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|5,958
|3,032
|<ref group="モノ" name="tama2020 />1,074
|<ref group="#" name="jousya2011-2015" />
|-
|2012年(平成24年)
|6,290
|3,202
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,093
|<ref group="#" name="jousya2011-2015" />
|-
|2013年(平成25年)
|6,616
|3,377
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,249
|<ref group="#" name="jousya2011-2015" />
|-
|2014年(平成26年)
|6,539
|3,334
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,252
|<ref group="#" name="jousya2011-2015" />
|-
|2015年(平成27年)
|6,584
|<ref group="#" name="hino-city-R02" />3,344
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,262
|<ref group="#" name="jousya2011-2015">[http://www.city.hino.lg.jp/index.cfm/196,85157,c,html/85157/105.xls 日野市の統計について - 第105表 市内駅別1日当たり乗降客数]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|6,483
|<ref group="#" name="hino-city-R02">{{Cite web|和書|author=日野市|authorlink=日野市|title=第51回とうけい日野|url=https://www.city.hino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/643/2020_toukeihino.zip|page=159|format=zip|date=|accessdate=2023-08-02}}</ref>3,287
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,157
|
|-
|2017年(平成29年)
|6,562
|<ref group="#" name="hino-city-R04" />3,350
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,243
|
|-
|2018年(平成30年)
|6,609
|<ref group="#" name="hino-city-R04" />3,322
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,219
|
|-
|2019年(令和元年)
|6,073
|<ref group="#" name="hino-city-R04" />3,068
|<ref group="モノ" name="tama2020" />1,166
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="京王" name="keio2021" />2,295
|<ref group="#" name="hino-city-R04" />1,141
|<ref group="モノ" name="tama2020">[https://www.tama-monorail.co.jp/company/3_2020_jyoukou_yusou_syunyu.pdf 駅別乗降人員( 一日平均)]、多摩都市モノレール公式ホームページ、2021年7月22日閲覧</ref>666
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2022-05-16 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink= |}}</ref>2,948
|<ref group="#" name="hino-city-R04">{{Cite web|和書|author=日野市|authorlink=日野市|title=第53回とうけい日野|url=https://www.city.hino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/643/2022toukeihino.pdf|page=137|format=pdf|date=2022-12|accessdate=2023-08-02}}</ref>1,475
|<ref group="モノ" name="tamamono2022" />774
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-08-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>4,207
|
|<ref group="モノ" name="tamamono2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(一日平均)|url=https://www.tama-monorail.co.jp/company/jyoukou_yusou_syunyu2022.pdf|page=|accessdate=2023-08-01|publisher=多摩都市モノレール|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>1,077
|
|}
== 駅周辺 ==
* [[京王れーるランド]]
* 京王あそびの森 HUGHUG<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio-hughug.jp/about.html |title=京王あそびの森 HUGHUG(ハグハグ) |access-date=2023-12-26 |publisher=京王あそびの森 HUGHUG}}</ref> - 木育・知育・体育をテーマとした屋内型児童施設。カフェや売店を併設。
* [[多摩動物公園]]
* [[中央大学]] 多摩キャンパス
* [[明星大学]] 日野キャンパス
=== バス路線 ===
* 「多摩動物公園駅」停留所([[京王電鉄バス]])
** [[京王電鉄バス桜ヶ丘営業所#動物園線|高11]] 高幡不動駅行 ※土曜の朝1本のみ
* かつては多摩テック行が運行されていたが、2009年9月27日に廃止された(多摩テックは同年9月30日に閉園)。また、中央大学行・[[多摩センター駅]]行のバスも運行されていたが、モノレール開業と同時に廃止された。
* 2012年4月28日から高速バス「多摩河口湖線」が当停留所に乗り入れたが、2014年3月31日をもって廃止された。
== その他 ==
* 京王帝都電鉄時代に全廃となった[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]や[[グリーン車 (京王)|グリーン車]]の先頭車前面行先表示器の当駅の表示コマには、多摩動物公園に因み[[ライオン]]の横顔がバックにデザインされていた。この幕は後に方向幕梱包テープとして商品化され、京王電鉄線の他駅の行き先幕(※一部の終着駅を除く)も同品に収録された<ref>{{Cite web|和書|url=https://ef5861.stores.jp/items/616f87964e80826569f5f538 |title=京王電鉄旧5000系方向幕梱包テープ |access-date=2023-12-26 |publisher=STORES 株式会社 |archive-date=2023-12-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231225122106/https://ef5861.stores.jp/items/616f87964e80826569f5f538 |work=TRAIN_ART TAPE STORE}}</ref>。
* [[映画]]『[[ふりむけば愛]]』(1978年公開)では、[[山口百恵]]がプラットホームに降り立つシーンで、同駅京王線ホームがロケに使われている。
== 隣の駅 ==
; 京王電鉄
: [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 動物園線
:: [[高幡不動駅]] (KO29) - '''多摩動物公園駅 (KO47)'''
; 多摩都市モノレール
: [[File:Tama Monorail Line symbol.svg|15px|TT]] 多摩都市モノレール線
:: [[程久保駅]] (TT06) - '''多摩動物公園駅 (TT05)''' - [[中央大学・明星大学駅]] (TT04)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
; 京王電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京王"|3}}
; 多摩都市モノレールの1日平均利用客数
{{Reflist|group="モノ"|3}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|17em}}
; 日野市の統計関係
{{Reflist|group="#"|3}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keio.co.jp/train/station/ko47_tama-dobutsukoen/ 京王電鉄 多摩動物公園駅]
* [https://www.tama-monorail.co.jp/monorail/station/tama-dobutsukoen/ 多摩都市モノレール 多摩動物公園駅]
{{京王線}}
{{多摩都市モノレール線}}
{{DEFAULTSORT:たまとうふつこうえんえき}}
[[Category:日野市の鉄道駅|たまとうふつこうえん]]
[[Category:日本の鉄道駅 た|まとうふつこうえん]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅|たまとうふつこうえん]]
[[Category:多摩都市モノレールの鉄道駅]]
[[Category:1964年開業の鉄道駅]]
[[Category:多摩動物公園|えき]]
|
2003-07-20T06:13:33Z
|
2023-12-26T05:03:52Z
| false | false | false |
[
"Template:Reflist",
"Template:京王線",
"Template:Cite press release",
"Template:Cite web",
"Template:Commons",
"Template:-",
"Template:0",
"Template:PDFlink",
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:多摩都市モノレール線",
"Template:出典の明記",
"Template:駅情報"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%85%AC%E5%9C%92%E9%A7%85
|
11,899 |
日本の鉄道模型メーカーの一覧
|
日本の鉄道模型メーカーの一覧(にほんのてつどうもけいメーカーのいちらん)では、日本国内の鉄道模型メーカーを五十音順に挙げる。
主に車輌模型を作るメーカーを記すが、車輌本体だけでなく、キット作成にかかわるパーツや塗料、専用工具類、収納ケース、走行に必要な線路や制御機器などを扱うメーカーについてもあわせて表記する。なお一覧中には、廃業、撤退などにより現存していないメーカーを含む。また、ハイフン以下は主に扱うスケール/ゲージを示す。
|
[
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"text": "日本の鉄道模型メーカーの一覧(にほんのてつどうもけいメーカーのいちらん)では、日本国内の鉄道模型メーカーを五十音順に挙げる。",
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日本の鉄道模型メーカーの一覧(にほんのてつどうもけいメーカーのいちらん)では、日本国内の鉄道模型メーカーを五十音順に挙げる。 主に車輌模型を作るメーカーを記すが、車輌本体だけでなく、キット作成にかかわるパーツや塗料、専用工具類、収納ケース、走行に必要な線路や制御機器などを扱うメーカーについてもあわせて表記する。なお一覧中には、廃業、撤退などにより現存していないメーカーを含む。また、ハイフン以下は主に扱うスケール/ゲージを示す。
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'''日本の鉄道模型メーカーの一覧'''(にほんのてつどうもけいメーカーのいちらん)では、日本国内の[[鉄道模型]]メーカーを[[五十音順]]に挙げる。
主に車輌模型を作るメーカーを記すが、車輌本体だけでなく、キット作成にかかわるパーツや塗料、専用工具類、収納ケース、走行に必要な線路や制御機器などを扱うメーカーについてもあわせて表記する。なお一覧中には、廃業、撤退などにより現存していないメーカーを含む。また、ハイフン以下は主に扱うスケール/ゲージを示す。
<!--注記:鉄道模型のオリジナル製品(OEMを含む)を販売した実績のあるメーカー(アマチュア団体を除く)を中心に記述-->
==大手7社==
*[[天賞堂]]
*[[カツミ]]
*[[エンドウ_(鉄道模型メーカー)|エンドウ]]
* [[関水金属]] (KATO)
* [[トミーテック]] ([[TOMIX]]、[[ジオラマコレクション]]シリーズ)
* [[マイクロエース]](旧・有井製作所)
* [[グリーンマックス]] (GM)
== あ行 ==
* アイコム
* AOBA MODEL - 1/80、金属製ベースキットが中心。
*[[青島文化教材社]] - アイコムとのコラボレーションによるキャラメルNゲージを発売(「スカイネット」ブランド)。以前はNゲージのコンテナ類を扱っていた。
* [[赤い電車 (鉄道関連製品製造会社)|赤い電車]] - [[Nゲージ]] 、金属製完成品が中心。
* アキア (akia) - [[Zゲージ|Z(ZJ)ゲージ]]、食玩ブラインド方式で、国鉄485系のプラスチック製完成品を販売。撤退。一部商品はプラスアップが引き継ぐ。
* アクラス事業部 - 1/80、プラスチック製完成品や一部キットが中心。
* [[朝日屋 (大阪府)|朝日屋]] - 戦前のメーカー。35mmゲージの製品を販売。廃業。
* あすかモデル - 1/80、気動車系金属製キットが中心。
* [[アスターホビー]] - [[1番ゲージ]]の[[ライブスチーム]]を製造・発売。
* [[安達製作所]] (アダチ) - 1/80、1/45、金属製キットが中心。
* [[あまぎモデリングイデア]] - Nゲージ、金属製キットが中心。
* [[奄美屋]] - 1/80、Nゲージ、金属製キットが中心。
* 有井製作所→マイクロエース(新会社)へ事業移管。会社自体は存続。
* アリゲーター
* [[アルモデル]] - 1/80、金属製キットが中心。
* IORI工房 - Nゲージ、紙製車体キット、ストラクチャー(ペーパーキット、レーザーカット)が中心。
* いこま工房 (IKOMA商会) - 1/80、1/45、紙製車体キット(ペーパーキット、レーザーカット)が中心。
* いさみやロコワークス - 1/80、紙製車体キット(ペーパーキット)やパーツ関連が中心。紙製キットの新開発休止。
* イチフジ模型 - 1/80、少量の金属製キットとパーツ、紙製型紙を展開。車両収納ケース。
* 猪高工房 - 1/80、Nゲージ。
* [[稲見鉄道模型製作所]] - OJゲージのキットを販売。
* 今井製作所 - パワーパックの製造販売。店主は鉄道模型社出身<ref name="tms599">赤井哲朗「鉄道模型社のこと」『鉄道模型趣味』No.599</ref>。
* 岩橋商会 -Nゲージ 、路面電車のエッチングキットが中心。
* [[ウィン (鉄道模型メーカー)|ウィン]] - Nゲージ、プラスチック製完成品が中心。廃業。
* WesterWiese(ヴェスターヴィーゼ) - 1/87、金属製キットとパーツを展開。
* ウイストジャパン - 1/80、蒸気機関車向けパーツが中心。
* [[歌川模型]] - 1/80、Nゲージ、旧型電機、紙製型紙、オリジナル工具が中心。[[鉄道模型社]]廃業後に一部製品を引き継ぐ。
* FEF - OJゲージを販売。廃業。
* 永大 (グリップ) - Nゲージ[車輌・線路・ホームと駅舎・制御機器]、プラスチック製完成品が中心。廃業。製品は学研が引き継ぐ。
* [[エコーモデル]] - 1/80、小パーツや工具類、工作用素材が中心。
<!--* [[エポック社]] - 1/80、プラスチック製完成品(OEMを含む)が中心。撤退。-->
* FAB - 1/80、1/87、金属製完成品やキットを展開。
* エフトイズ・コンフェクト (F-toys) -[[ Zゲージ]]、食玩ブラインド方式で、国鉄0系新幹線のプラスチック製完成品([[PLATZ]] OEM供給)を販売。
* エムエムモデル - 1/80、私鉄系金属製キットが中心。
* エムズコレクション - 1/80、紙製ストラクチャーキットを展開。
* S&G - 1/80、おそらく[[16番ゲージ]]初の日本型蒸気機関車として[[鉄道模型趣味]]1949年6月号に[[国鉄2120形蒸気機関車|2120形]]の広告が掲載された。後続がない幻のメーカー<ref>貫名英一「B級コレクター道」『とれいん』No.479</ref>。
* [[エンドウ (鉄道模型メーカー)|エンドウ]] (TER) - 1/80、1/87、Nゲージ[車輌・線路]、金属製完成品が中心。
* 大阪亀屋 - 1/80の金属製キットが中心。ホビーメイトオカと同建物に店舗を構える。
* 大阪プラスチックモデル - Nゲージ、グリーンマックスキットの塗装用マスキング型紙などを製造販売。問屋業が中心。
* [[小川精機]] - 模型用内燃機関(ラジコン用エンジン)とライブスチーム(7.5/5/3.5 inchゲージ)を製造。レイアウト保有。定期的に運転会を開催。
* 岡山模型店DAN - 1/80、荷物車系金属製キットが中心。
* 大谷模型 - 1/80、オリジナルで近鉄の金属製キットやペーパーキットを販売。新開発休止。
== か行 ==
* [[学研ホールディングス#玩具|学研]] - Nゲージ[車輌・線路・ホームと駅舎・制御機器]、プラスチック製完成品が中心。[[撤退#企業における撤退|撤退]]。
* [[カツミ]] (KTM) - 1/80、1/87、[[Oゲージ]]、金属製完成品・キットが中心。
* [[河合商会]] - Nゲージ、プラスチック製完成品が中心。廃業。貨車製品はポポンデッタが引き継ぐ。また製品ラインナップにシーナリー用品や[[ストラクチャー]]に使える[[プラモデル]]があり、一部はマイクロエースから再販された。
* [[カワイモデル]] - O(零番)ゲージ、1/80、1/87、35mmゲージ、金属製完成品が中心。現存する日本最古の鉄道模型メーカー。
* きがらや模型 - 1/80、パワーパックのキット。廃業。
* 技功舎 - ライブスチームを販売。
* ギースヒュッテ - 2001年頃閉店。Nゲージの特注品および京成グループの車両や関連部品を製造していた。
* [[kitcheN]] (キッチン) - Nゲージ、金属製キットが中心。
* CASCO - 1/80、Nゲージ、車両ケース向けの収納ウレタンが中心。
* CAB→鉄道模型社。CABブランドでNゲージ車輌の販売実績あり、実質的に関水金属に次いで日本で二番目<ref>トミー・スリーオーゲージ、多田製作所を含めれば四番目(ソニー・マイクロトレーンは未発売なので除外)</ref>に日本型車輌をNゲージで販売した。
* 京都模型 - 1/80、金属製完成品が中心。問屋業が中心。
* [[銀河モデル]] -Nゲージ、パーツが中心。
* [[キングスホビー]] - Nゲージ、金属製キットや完成品が中心。2013年12月をもって完全閉店。廃業。
* [[熊田貿易]] (KMT) - 1/87、1/160、1/45、金属製完成品が中心。主にアメリカ向け輸出製品を手がけていた。
* クラウンモデル(PRMLOCO、プリモロコ) - Zゲージ、プラスチック製完成品が中心。
* クラフトエス - Nゲージ、 レジン樹脂製キットが中心。廃業。
* [[グリーンマックス]] - Nゲージ[車輌・ストラクチャー]、プラスチック製完成品・キットが中心。プラスチック模型用塗料([[鉄道カラー]])を発売。
** ジーエムストアー - グリーンマックス・ザ・ストアー専売品を「クロスポイント」ブランドで発売。
* くろま屋 - 1/45、1/80、Nゲージ、インレタ専門店。
* KSモデル - 1/80、Nゲージ、金属製キットが中心。
*甲府モデル(パンケーキコンテナ) - Nゲージ、1/80、貨車など紙製キット(ペーパーキット、レーザーカット)が中心
* 工房ひろ - 1/80、1/87、金属製キットやパーツが中心。
* COSMIC(コスミック) - パワーパック系が中心。運転台型コントローラーや配電盤などを手掛ける。車輌キットもあり。
* 小高模型 - 1/80、1/45、紙製キットが中心。<s>廃業</s>。ペーパーキット、関連部品、通信販売にて販売は継続。
* KODAMA MODEL - 1/80、私鉄系金属製キットが中心。
* [[こみや]] - 1/45、1/80、金属製キットやデカールが中心。廃業。
* コモンワークス (Lazy Jack) - 1/45、1/80、1/87、Nゲージ、金属製キットやパーツが中心。信号機関連が有名。
== さ行 ==
* さんけい - 1/80、Nゲージ、Zゲージ、着色済ストラクチャーペーパーキットが中心。
* [[珊瑚模型店]] - 1/80、1/87、金属製キットが中心。社主は鉄道模型社出身<ref name="tms599"/>。昭栄、あずさ模型、乗工社製品の販売も手掛けていたためNゲージ製品も取り扱う。
* SUN WORKS - Nゲージ、ベースキットが中心。
* シージェープロ (CJ-PRO)
* ジェイズ - 鉄道カラー塗料や図面系書籍が中心。
* [[しなのマイクロ]] (マイクロクス) - 1/80、Nゲージ、金属製完成品・キットが中心。マイクロクスは同社のNゲージブランド。廃業。Nゲージの一部製品を[[マイクロエース]]が引き継ぐ。
* [[篠原模型店]] - 1/80 金属製完成品・キットが中心。各ゲージの線路を製造。廃業。一部製品はModels IMONが引き継ぐ。
* [[シバサキ模型]] - Nゲージ、金属製キットが中心。1994年廃業。製品はキングスホビーが引き継ぐ。
* [[乗工社]] - 金属製キットが中心。廃業。スタッフはModels IMONへ移籍。
* 湘南グリーンランド (moto works) - 各種工具・治具、1/80 金属製完成品・キットが中心。他社へOEM供給。日本におけるレイアウト受注製作の創始者。
* [[Shop-KIHA]] - 1/80、1/87、Nゲージ、他、車体エッチング板、紙製型紙(ペーパーシートシリーズ)が中心。
* [[新貨車工房]] - Nゲージ、金属製キットが中心。
* 杉山模型 - 1/87(ナローゲージ)、金属製キット・完成品が中心。
* [[スタジオフィール]] - Nゲージ、1/200、金属製キットが中心。
* スパイクモデル - 1/80(13mmゲージ)、パーツが中心。
* [[関水金属]] (KATO) - 1/87、1/80、Nゲージ[車輌・線路・ストラクチャー・アクセサリー・シーナリー用品]、プラスチック製完成品が中心。
** [[ホビーセンターカトー]] - KATO製品の塗装変更品や、メイクアップパーツなどを発売。
* [[関電機製作所]] - 戦前のメーカー。廃業。
* 関根模型 - 1/80、ペーパー完成車体と完成品が中心。廃業。
* [[セッテ]] - 1/45、1/80、1/87、OJゲージを製造・発売。金属製完成品が中心。
* [[ボークス|造形村]](ボークス、Vorks) - 1/87、1/80、プラスチック製完成品が中心。
* 世田谷総合車輛センター - Nゲージを中心としたパーツを展開。関東系列が多い。
== た行 ==
* [[タヴァサホビーハウス]] - Nゲージ、金属製キット・パーツが中心。
* タカタモケイ - ライブスチーム製造。廃業。
*[[高木産業]](現[[パーパス]]) - ライブスチーム製造。事業撤退。
* たつた工業 - 1/80、塗料やパーツが中心。撤退。Nゲージ用もあり。
* 谷川製作所 - 1/80、金属製キットが中心。
* [[タミヤ模型]] - 1/80、木製キットが中心。撤退。<!--「特別展タミヤ模型の仕事」で確認-->
* だるまや - 小型車両用のパーツが中心。路面電車や旧型車向けが多い。
* 中央堂模型 - 1/80、紙製完成品が中心。
* [[千代田計器工作所]] - 戦前のメーカー。35mmゲージ、32mm製品を販売。32mm製品は零番ゲージ規格発想の元となった。廃業。
* ツカサ模型 - 1/80、路面電車のオリジナル完成品が中心。
* [[津川洋行]] - 1/80、1/87、Nゲージ[車輌・ストラクチャー・アクセサリー・シーナリー用品]、車輌・ストラクチャーはプラスチック製完成品が中心。創業当初から、ストラクチャー・アクセサリー・シーナリー用品を発売。車輌は1990年代以降の発売で一時期はHOナロー製品も販売していた
* [[つぼみ堂模型店]] - 1/80、1/45、金属製完成品が中心。1978年廃業<ref>「広告」『鉄道模型趣味』No.359、65頁</ref>。
* DDF - 1/80、Nゲージ、レイアウト、ジオラマの製造が中心。
* [[鉄道模型社]] - 1/80、金属製完成品・キットが中心。1995年店主死去により廃業<ref name="tms599"/>。一部製品を歌川模型が引き継ぐ。
* [[天賞堂]] - 1/87、1/80、Nゲージ、Zゲージ、金属製完成品が中心。プラスチック製完成品(OEM供与)もあり。
* [[でんてつ工房]] - 1/80、金属製完成品が中心。
* Terranetz Co.(テラネッツ) -Zゲージ 、プラスチック製完成品が中心。撤退。
* トイテック (六半、ROKUHAN) - Zゲージ[車輌・線路・ストラクチャー・制御機器]、プラスチック製完成品が中心。
* [[東京堂モデルカンパニー]](TEXT) - 1/80、Nゲージ、レジン製完成品やパーツが中心。廃業。
* [[東京マルイ]] (PRO-Z) - Zゲージ、プラスチック製完成品が中心。撤退。
* トーマモデルワークス - 1/80、1/87、Nゲージ、金属製キットが中心。[[3Dプリンター]]出力製品やプラキットもあり。
* 動輪舎 - 5インチゲージ、ライブスチームを販売。
* [[トビー (模型メーカー)|トビー]] - 1/80、金属製完成品が中心。撤退。
* [[トミー (企業)|トミー]]→[[トミーテック]] -Nゲージ[車輌・線路・ストラクチャー・アクセサリー・シーナリー用品・制御機器] 、1/80、車輌・ストラクチャーは、プラスチック製完成品が中心。鉄道模型関連のブランドやシリーズ名として[[TOMIX]](トミックス)・[[ジオラマコレクション|ジオコレ(ジオラマコレクション)]]シリーズがあるが、過去にはスリーオーゲージ、ナインスケールなどのブランド名も使用していた。
* トラムウェイ - 1/80、Nゲージ、プラスチック製完成品が中心。
* トレジャータウン -Nゲージ 、金属製キットが中心。
* とろりぃすぱーく - Nゲージ、1/80、金属製キットが中心。主に近畿日本鉄道の車種や同車種向けのパーツを製品化。
== な行 ==
* 中西工房 - 社主は鉄道模型社出身<ref name="tms599"/>。
* [[中村精密]](ナカセイ) - 1/80、1/87、Nゲージ、プラスチック製キット、金属製完成品・キットが中心。社主は鉄道模型社出身<ref name="tms599"/>。
* 永末システム事務所 - DCC、デジタル関連機器メーカー。
* 南洋物産 - 紙製キット・完成品が中心。鉄道模型に関する貿易商を兼業。
* 日光モデル - 1/80の[[鉄道車両の台車|台車]]を製造。SAKURA名義でアメリカ型蒸気機関車も製造していた<ref>山崎喜陽「ミキスト」『鉄道模型趣味』No.523</ref>。
* [[日車夢工房]] - 1/80、金属製完成品が中心。 2017年をもって部門終了。
* [[日東科学教材]] - 1/80、金属製完成品が中心。撤退。
* ニワモケイ - [[ロストワックス]]パーツを製造。
* [[ネコ・パブリッシング]] - 「ホビダス」ブランドでOEM外注品の車両キットなどを発売。
* NEXT - 1/80、1/45、紙製キット(ペーパーキット)が中心。
* のぞみ工房 - 1/80、紙製キットが中心(製品はYAMA模型にて取り扱い)。
== は行 ==
* [[パイオニア (模型メーカー)]] - かつて輸出用Oゲージを製造。
* はぐるまや模型 - Oゲージ、パーツ関連が中心。
* [[ハセガワ]] ([[ハセガワ#鉄道模型へ参入|MODEMO]]) - Nゲージ、1/80、プラスチック製完成品が中心。
* 花園製作所 - 1/80、金属製キットやパーツが中心。天賞堂販売のパワートラックのメーカー。
* [[バンダイ]] - 1/87、Nゲージ、かつて増田屋やプレイアート製造のHOゲージセットを発売、自社企画の[[Bトレインショーティー]]シリーズを製造販売した。
** [[BANDAI SPIRITS]] - バンダイからBトレインショーティーシリーズを吸収分割により引き継ぐ。
* ビッグニワ
* ピノチオ模型 - 1/80、1/150、金属製キットが中心。廃業。初代店主は『[[模型と工作]]』で鉄道模型製作記事を執筆していた。
* HINODE MODEL - OJゲージ、完成品が中心。
* [[ヒルマモデルクラフト]] - 1/45、1/80、紙製ストラクチャーキット、アクリル車体キットが中心。
* フェニックス模型店 - 1/80、金属製キットが中心。一部製品をKSモデル、フジモデル、KODAMA MODELブランドが引き継ぐ。
* フォムラスモデル
* ひかり模型 - 1/80、金属製キットが中心。創業者は鉄道模型社出身<ref>「編集者の手帖」『鉄道模型趣味』NO.618</ref><ref name="tms599"/>。製品にはナローゲージもあり。
* [[福島模型製作所]] - 1/80、パンタグラフを製造。廃業。スタッフと一部製品はModels IMONへ移籍。オーナーは1953年より展示模型を製作し、[[青梅鉄道公園]]や[[交通科学博物館]]のレイアウトも手掛けた。
* 福原金属 - 1/80、金属製車体エッチング板や金属素材、工具が中心。廃業。
* 不二商 - [[メルクリン]]や[[レーマン|LGB]]の代理店であった。メルクリンシステムに対応する16番ゲージのキハ58系を販売したことで有名。撤退。
* フジモデル - 1/80、金属製キットが中心。
* プラスアップ(リアルZJ) - Z(ZJ)ゲージ、プラスチック製完成品が中心。撤退。一部商品はTerranetz Co.(テラネッツ)が引き継ぐ。
* [[PLATZ]](プラッツ) - Nゲージ、Zゲージ、プラスチック製完成品(天賞堂、エフトイズOEM供給を含む)・キット(グリーンマックスOEM供与)が中心。Nゲージではレジン樹脂製車輌キット・コンテナ完成品を発売。
* プレスアイゼンバーン - 1/87、金属製完成品が中心。雑誌とれいんの関連会社。
* [[ペアーハンズ]] - Nゲージ、金属製キットが中心。東武鉄道の模型を精力的に発売。
* 部屋の中こうぼう - Nゲージの3Dプリント品が中心。数多くの九州の車両に対応した部品を販売している。またデカールやステッカーも販売している。
* PENGUIN MODEL(ペンギンモデル)
* 豊和製作所 (HOWA) - 鉄道模型社の下請。鉄道模型社製品をHOWAブランドで販売していた。
* BONA FIDE PRODUCT(ボナファイデ) - 1/80、1/87、Nゲージ、金属製キットが中心。
* ホビーメイトオカ - 1/45、1/80、1/87、Nゲージ、金属製キットや特製完成品が中心。
* [[ホビーモデル]] - 1/80、金属製キットやプラスチック製キットが中心。
* [[ポポンデッタ_(鉄道模型店)|ポポンデッタ]] - Nゲージ、プラスチック製完成品が中心。河合商会の製品を引き継ぐ。
== ま行 ==
* [[マイクロエース]] - 1/80、Nゲージ、プラスチック製完成品が中心。一時期は有井製作所のブランド名。
* マイクロキャスト - 1/80が中心。
* [[マイクロキャスト水野]] - 廃業。社主は鉄道模型社出身<ref name="tms599"/>。
* MAX MODEL - 1/80、プラスチック製キットが中心。
* [[マッハ模型]] - 1/80が中心。金属模型用[[ラッカー]]塗料や工具、パーツ類を発売。金属製完成品やキット、車体エッチング板、ペーパーキットが中心。2022年6月をもって廃業。マッハ模型ブランド製品の販売は[[Models IMON]]から継続される。
* [[マツモト模型]] - 1/80、紙製完成品とキット(ペーパーキット)が中心。ダブルルーフ系車両が有名。キットは製造中止。
* まゆ模型 - 1/80、紙製完成品が中心。
* マルタ模型 - 1/80、金属製完成品が中心。廃業。
* ミカド模型 - 1/80、客車系サンロイドキットが有名。廃業。
* 三ツ星商店 - 1/80、Nゲージ、オリジナル商品を販売。問屋業が中心。2003年廃業<ref>「編集者の手帖」『鉄道模型趣味』No.710</ref>。
* みどりや - 1/80、Nゲージ、金属製完成品・キットとペーパーキットを発売。1993年廃業<ref>「広告」『鉄道模型趣味』No.572、99頁</ref>。
* みのり堂 - 1/80、紙製完成品が中心。
* [[宮沢模型]] - 1/80、金属製完成品が中心。模型[[卸売|卸売問屋]]へ移行後はOEM供与のNゲージ・プラスチック製完成品を発売。
* ムサシノモデル - 1/45、1/80、(Nゲージ)、金属製完成品が中心。
* メディアリンクス(マスターピース) - 1/87、Nゲージ、金属製キットが中心。
* モア - 1/45、1/80、金属製完成品が中心。
* モア - Nゲージ。上記のモアとは別会社。鉄道模型製品は車輌1形式のみ。
* [[Models IMON]] - 1/87、1/80、(Nゲージ)、金属製完成品が中心、乗工社製品の継承が起業の発端。12mmゲージ規格の車両や線路も制作・販売。
* 模型工房サイトウ - OJゲージ、ライブステーム、特製品を販売<ref>「中京・東海信頼の模型店」『とれいん』No.221、72頁</ref>。
* 模型工房たぶれっと- デカール。
*模型工房パーミル‐1/80、Nゲージ、ペーパーキットが中心。
*モデルアイコン - 1/80、Nゲージ、プラスチック製キットが中心。
* モデル8 - 1/80、金属製キットやパーツが中心。
*モデルキングダム - Oゲージ、1/80、金属製完成品が中心。<!--床下やインテリアなど細部の精巧な作りが魅力。-->
* モデル倶楽部 - 1/80、パーツが中心。
* モデルシーダー - 1/80、信号機関連が有名。
* モデルニクス - 5インチ、乗用電動[[ライブスチーム]]を製造。
* モデルパーツ MIKI - 1/80、私鉄系金属製キットが中心。
* モデルワークス - 1/80、1/45、紙製キット・完成品が中心。
* モデルワーゲン - 1/87、ナローゲージ。金属製製品を製造。代表は珊瑚模型店で企画設計をしていた<ref>『写真と図面で楽しむ鉄道模型 2』二玄社、2012年、111頁</ref>。
* モデルワム - 1/80、1/87、金属製完成品が中心。
* モデル524 - 1/150、1/80、阪急用のエッチングパーツが中心。
* [[モリタ (鉄道模型メーカー)|モリタ]] - Nゲージ 、金属製キットが中心。プラスチック模型用塗料を発売。2019年3月をもって廃業。
== や行 ==
*やえもんデザイン - Nゲージ、金属製の蒸気機関車キットやパーツを発売。
* 八雲工芸 - 1/80、Nゲージ、金属製完成品やキットが中心。
* [[YAMA模型]] - 1/80、紙製キット・完成品が中心(のぞみ工房製品取り扱い)。車両収納ケース。
* U-TRAINS - 1/45、1/80、金属製完成品や一部キットが中心。
* [[夢屋 (鉄道模型メーカー)|夢屋]] - 1/80、Nゲージ、金属製キットが中心。
* ヨシダ模型製作所 (YSD) - 1/80、紙製ペーパーキットや半完成品が中心。製造販売終了(いさみや、大谷模型、マッハ模型、みどりやなどのペーパーキットを製造していた)。
== ら行 ==
* リアルライン - Nゲージ 、精密な蒸気機関車が中心。
* リトルジャパン - Nゲージ、プラスチック製キットが中心。
* レイルロード - 鉄道趣味書の出版社。1/80、Nゲージ、金属製エッチングキットが中心。
* れーるぎゃらりーろっこう - 1/80、金属製キットを製造販売。
* レールクラフト阿波座 - Nゲージ、金属製キットが中心。
* レボリューションファクトリー - Nゲージ、金属製キットが中心。
* Railroad model R - Nゲージの3Dプリント品パーツ中心。
* ろく公房(るー模型) - ライブスチームを販売。
* [[ロコモデル]] - 1/80、紙製キット・完成品が中心。廃業。一部製品をエムズコレクションが引き継ぐ。
== わ行 ==
* [[和田ワークス]] - ライブスチームや実車同様の機構を持つディーゼル機関車等の製品を販売。
* [[ワールド工芸]] - Nゲージ、1/87、1/80、金属製完成品・キットが中心、2015年以降プラスチック(アクリル)製キットもあり。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[鉄道模型]]
* [[日本国外の鉄道模型メーカーの一覧]]
{{Rail-stub}}
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[[Category:日本の鉄道模型メーカー|*]]
[[Category:鉄道模型]]
[[Category:日本の製造業者一覧|てつとうもけい]]
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日本国外の鉄道模型メーカーの一覧
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日本国外の鉄道模型メーカーの一覧 (にほんこくがいのてつどうもけいメーカーのいちらん) では、日本国外の鉄道模型メーカーをアルファベット順に挙げる。
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日本国外の鉄道模型メーカーの一覧 (にほんこくがいのてつどうもけいメーカーのいちらん) では、日本国外の鉄道模型メーカーをアルファベット順に挙げる。
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'''日本国外の鉄道模型メーカーの一覧''' (にほんこくがいのてつどうもけいメーカーのいちらん) では、日本国外の[[鉄道模型]]メーカーをアルファベット順に挙げる。
:主に列車模型を作るメーカーを記す。
:一覧中には現存していないメーカーを含む。
:ハイフン以下はメーカーのある国・地域と主に扱う縮尺・軌間を示す。
<!--買収等を経てブランド化しているものも「メーカー」として記しました。-->
== A ==
* [[アクメ (鉄道模型メーカー)|アクメ]] (ACME) - [[イタリア]]、[[HOゲージ|HO]]、[[Nゲージ|N]]
* [[アジン精工]] (AJIN) - [[大韓民国|韓国]]、[[Oゲージ|O]]、HO、N
** アジン・トレイン・モデル (ATM) - 韓国、HO
* [[アメリカンフライヤー]] (American Flyer) - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]、O、[[Sゲージ|S]]
* アリストクラフト (Aristo-Craft) - アメリカ、[[Gゲージ|G]](A)
* [[アーノルト (鉄道模型)|アーノルト]] (Arnold) - [[西ドイツ]]・[[ドイツ]]、[[TTゲージ|TT]]、N
* [[アサーン]] (Athern) - アメリカ、HO、N
* [[:en:Atlas Model Railroad|アトラス]] (Atlas) - アメリカ、O、HO、N
== B ==
* [[バックマン (鉄道模型)|バックマン]] (Bachmann) - アメリカ・[[イギリス]]・[[中華人民共和国|中国]]、G、O、[[OOゲージ|OO]]、HO、N
* [[バセット・ローク|バセットローク]] (Bassett-Lowke) - イギリス、[[2番ゲージ|2]]、[[1番ゲージ|1]]、O、OO
* [[ベモ (鉄道模型)|ベモ]] (Bemo) - 西ドイツ・ドイツ、HO、HOナロー
* [[ビング (模型製造会社)|ビング]] (Bing) - ドイツ、3、[[1番ゲージ|1]]、O、OO
* [[ボックホルト]] (Bockholt) - 西ドイツ・ドイツ、1
* [[BRAWA|ブラヴァ]] (BRAWA) - 西ドイツ・ドイツ、G、HO、TT、N
<!--== C ==-->
== D ==
* [[Dapol|ダポール]] (Dapol) - イギリス、OO、N
== E ==
* [[エガーバーン]] (Egger-bahn) - ドイツ、HOナロー
* [[エレクトロトレン]] (Electrotren) - [[スペイン]]、HO、N
* エレットレン (Elettren) - イタリア、O
== F ==
* [[フライシュマン (鉄道模型メーカー)|フライシュマン]] (Fleischmann) - 西ドイツ・ドイツ、O、HO、N
* [[フルグレックス]] (Fulgurex) - [[スイス]]、O、HO、N
== G ==
* [[グラハム・ファリッシュ]] (Graham Falish) - イギリス、OO、N
== H ==
* [[ハグ (鉄道模型)|ハグ]] (HAG) - スイス、O、HO、N
* [[ホーンビィ]] (Hornby) - イギリス、OO、HO、N
* [[ヒュプナー・ファインヴェルクテヒニーク|ヒューブナー]] (Hübner) - 西ドイツ・ドイツ、1
* 韓国精密模型 (Hantrck)[https://www.facebook.com/hkpm7788] - 韓国、O、HO、1、コンピュータ数値制御
== I ==
* [[:en:Ibertren|イベルトレン]] (Ibertren) - スペイン、HO、N
* [[:en:Ives Manufacturing Company|アイヴス]] (Ives) - アメリカ、1、O
== J ==
* [[Jouef|ジョエフ]] (Jouef) - [[フランス]]、HO
* [[JEP|ジェップ]] (JEP) - フランス、O、OO、HO
== K ==
* [[ケーディー]] (Kadee) - アメリカ、G、1、O、S、HO
* [[クラインバーン]] (Kleinbahn) - [[オーストリア]]、HO
* [[:de:Klein Modellbahn|クラインモデルバーン]] (Klein Modellbahn) - オーストリア、HO
== L ==
* [[レーマン]] (Lehmann) - 西ドイツ・ドイツ、G
* [[レマコ]] (Lemaco) - スイス、O、HO、N
* [[ライフライク]] (Life-Like) - アメリカ、HO、N
* [[:de:Liliput_(Modelleisenbahn)|リリプット]] (Liliput) - オーストリア、G、HO、HOナロー、N
* [[リマ (鉄道模型)|リマ]] (LIMA) - イタリア、O、HO、N
* [[ラインズ・ブラザーズ]] (Lines Bros.) - イギリス、OO、HO、TT
* [[ライオネル]] (Lionel) - アメリカ、2、1、O、HO
* ロンバルディ (Lombardi) - イタリア、O
== M ==
* [[メルクリン]] (Märklin) - 西ドイツ・ドイツ、1、O、OO、HO、N、[[Zゲージ|Z]]
* [[メカノ]] (Meccano) - イギリス・フランス、O、OO、HO
* [[メハノ]] (MEHANO) - [[ユーゴスラビア]]・[[スロベニア]]、HO、TT、N
* [[マイクロメタキット]] (Micro-Metakit) - ドイツ、HO
<!--== N ==-->
== O ==
* [[オーバーランド・モデルズ]] (Overland Models) - アメリカ、O、HO
== P ==
* [[Peco|ピィコ]] (Peco) - イギリス、G、O、OO、HO、N、Z
* [[PIKO|ピコ]] (PIKO) - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]・ドイツ、G、HO、TT、N
<!--== Q ==-->
== R ==
* [[リバロッシ]] (Rivarossi) - イタリア、O、OO、HO、N
* [[ロコ (鉄道模型)|ロコ]] (Roco) - オーストリア、Oナロー、HO、TT、N
* [[レーヴァ]] (Röwa) - 西ドイツ、HO、N
== S ==
* ザクセンモデレ (Sachsenmodelle) - 東ドイツ・ドイツ、HO
* [[三弘社|サムホンサ]] (Samhongsa) - 韓国、O、HO、N
== T ==
* [[:de:Tillig|ティリーヒ]] (Tillig) - 東ドイツ・ドイツ、HO、TT
* [[鉄支路模型|鐵支路模型]] (Touch-Rail Models) - [[台湾]]、N
* [[トリックス]] (TRIX) - 西ドイツ・ドイツ・イギリス、OO、HO、N
<!--== U ==
== V ==
== W ==
== X ==
== Y ==
== Z ==-->
== 関連項目 ==
* [[鉄道模型]]
* [[日本の鉄道模型メーカーの一覧]]
* [[全米鉄道模型協会]] (NMRA)
* [[MOROP]]
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月曜日
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月曜日(げつようび)または月曜(げつよう)は、日曜日と火曜日の間にある週の1日。日本では平日の始まり。
日本語の名称は七曜(七政・七星期)の1つである(天体の)月の日にちなむ。同様に英語のMondayも月にちなむ。七曜の順番は木火日金水月土であるが、曜日の順番は日月火水木金土である。アラビア語やベトナム語ではこの順番により月曜を「第二日」(al-athnayni, ngày thứ hai)と呼ぶ。また国際航空業界の時刻表は、IATA(国際航空運送協会)のSSIM(Standard Schedules Information Manual)規格に準拠して、月曜日を「1」と表記する。現代中国語でも「星期一」もしくは「礼拜一」といい、同じく週の第1日目としている。ただし、清末までは中国の暦書においても「月曜」または「月二」と呼んでいた。
ニューヨーク株式相場が大暴落した1987年10月19日は月曜日であったので、ブラックマンデーと呼ばれる。
日本では、前日の日曜日が国民の祝日である場合は振替休日となる。また、特定の月の特定の週の月曜日と定められている国民の祝日(一部のみ)もある(2021年現在は、成人の日・海の日・敬老の日・スポーツの日)。これは、土曜日・日曜日と併せて3連休になることを見込んで日付を変えられたもので、月曜固定祝日・月曜強制休日・ハッピーマンデーと呼ばれているが、月曜日を強制的に休日にさせる反動で前週金曜日・3連休翌日の負担が増大するため、一部の企業や人々は月曜固定祝日に関しては祝日として認めないケースがある(カレンダーの平日表記扱い。トヨタカレンダーも参照。)など現状と違う不利益が生じている。行事の関係で日曜日に出校日や休日出勤だった場合は、振替休業となる。
月曜の朝(月曜固定祝日も含む)に現れる憂鬱から心身に不調が現れるトラブルをブルーマンデー症候群と呼ぶ。1週間のうち最も自殺者が多いのは月曜日である。
日本のプロ野球においては月曜日は原則として予備日であるため、休養日としている。なお、パ・リーグでは2001年から2005年まで月曜日に試合を開催していた(マンデーパ・リーグも参照)。
組合に加盟している理容店のほとんどは月曜日を定休日としていた ので、組合主催の講習会などが開かれる事もある。ハッピーマンデー制度や適正化規定の廃止によって事情が変わってきた。
銭湯も月曜日は利用者が少ないため、月曜定休が多い。東京都浴場組合ではオイルショック以降、燃料が入手しづらい時期が続き、週1回の休みが義務づけられた。
飲食店では土日が書き入れ時となるため、それを過ぎた月曜日を定休日にしているところがある。
公共図書館は月曜日を休館日とすることが多い。『図書館読本』(本の雑誌社、2000年、ISBN 4-938463-85-7)が行なったアンケートによれば、1998年時点で月曜日を休館日としている公共図書館は426館、割合にして全体の75%に上っている。なお、次点で火曜日(44館)、日曜日(27館)と続く。これは、一般社会では休業することの多い日曜日に開館する代わりに翌日を振替休日として休館とするためである。ただし、指定管理者制度の導入で休館日の削減を図っている図書館も存在しており、「月曜日すなわち休館日」は過去のものになりつつある。公共図書館の休館日をまとめた逐次刊行物として『日本の図書館 統計と名簿』があり、CD-ROM版も発売されている。
博物館や美術館、観光施設の多くも月曜日を休館(休業)日としている。月曜日が国民の祝日や振替休日の時は開館して火曜日など次の平日が休館日になるところが多い。ただし、2020年代では「学校の振替休日が月曜日に設定されることが多いこと」「有給休暇取得が容易になったこととも相まって、日曜日から月曜日の泊りがけの旅行が増えたこと」などの事情から、火曜日などに変更する施設も現れている。
鉄道においては朝の通勤ラッシュが激しい曜日である。これは出張や外出などで直接会社に出社しない場合がある他の曜日と比較して、実際に会社に出社するビジネスマンが多いためである。これに合わせて西日本旅客鉄道(JR西日本)では毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)早朝に単身赴任者向けの臨時列車としてビジネスサンダーバードを運行している。
道路交通においても同様に前記した事情や物流業にとって休み明けであるため、道路が混雑する傾向があると言われるが、実際のところは金曜日ほど顕著なものではない。
週刊誌では週刊ポスト・週刊現代・週刊大衆・週刊プレイボーイといった男性向け週刊誌と週刊ダイヤモンド・週刊東洋経済・エコノミストといった経済週刊誌の発売日である。漫画週刊誌では週刊少年ジャンプと週刊ヤングマガジンとビッグコミックスピリッツの発売日である。
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月曜日(げつようび)または月曜(げつよう)は、日曜日と火曜日の間にある週の1日。日本では平日の始まり。
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'''月曜日'''(げつようび)または'''月曜'''(げつよう)は、[[日曜日]]と[[火曜日]]の間にある[[週]]の1日。[[日本]]では[[平日]]の始まり。
== 各言語での名称 ==
[[日本語]]の名称は[[七曜]](七政・七星期)の1つである(天体の)[[月]]の日にちなむ。同様に[[英語]]の{{lang|en|Monday}}も月にちなむ。七曜の順番は木火日金水月土であるが、曜日の順番は日月火水木金土である。[[アラビア語]]や[[ベトナム語]]ではこの順番により月曜を「第二日」(al-athnayni, ngày {{Lang|vn|thứ hai}})と呼ぶ。また国際航空業界の時刻表は、IATA([[国際航空運送協会]])のSSIM(Standard Schedules Information Manual)規格<ref>[http://diyssim.com/GuideToSSIM/default.htm?turl=WordDocuments%2Fscheduleinformationdatalines.htm Schedule Information Data Line(s)] Guide to Using SSIM、IATA、「Day(s) of operation. 1 = Monday 7 = Sunday 0=non operational」</ref><ref>[http://www.schedule-coordination.jp/jpn/faqs/iata.html#05 SSIMって何?] 国際線発着調整事務局、一般財団法人日本航空協会</ref>に準拠して、月曜日を「1」と表記する<ref>例えば「1_34__7」の表記は、月・水・木・日を示す。</ref>。
[[中国語|現代中国語]]でも「{{lang|zh|星期一}}」もしくは「{{lang|zh|礼拜一}}」といい、同じく週の第1日目としている。ただし、清末までは中国の暦書においても「月曜」または「月二」と呼んでいた。
== 月曜日に起きた出来事 ==
ニューヨーク株式相場が大暴落した[[1987年]][[10月19日]]は月曜日であったので、[[ブラックマンデー]]と呼ばれる。
== 日本 ==
=== 振替休日 ===
{{main|振替休日}}
[[日本]]では、前日の日曜日が[[国民の祝日]]である場合は[[振替休日]]となる<ref>但し、[[2005年]]に[[国民の祝日に関する法律|祝日法]]が改正されて、[[2007年]]から[[ゴールデンウィーク]]の[[5月4日]]が祝日・[[みどりの日]]になったので、5月4日、ないしは前日の[[5月3日]]([[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]])が日曜と重なるときは、曜日に関係なく[[5月6日]]が振替休日となる</ref>。また、特定の月の特定の週の月曜日と定められている国民の祝日(一部のみ)もある(2021年現在は、[[成人の日]]・[[海の日]]・[[敬老の日]]・[[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]])。これは、[[土曜日]]・日曜日と併せて3連休になることを見込んで日付を変えられたもので、月曜固定祝日・月曜強制休日・[[ハッピーマンデー制度|ハッピーマンデー]]と呼ばれているが、月曜日を強制的に休日にさせる反動で前週金曜日・3連休翌日の負担が増大するため、一部の企業や人々は月曜固定祝日に関しては祝日として認めないケースがある(カレンダーの平日表記扱い。[[トヨタカレンダー]]も参照。)など現状と違う不利益が生じている。行事の関係で日曜日に出校日や[[休日出勤]]だった場合は、[[振替休業]]となる。
=== ブルーマンデー症候群 ===
{{main|サザエさん症候群}}
月曜の朝(月曜固定祝日も含む)に現れる憂鬱から心身に不調が現れるトラブルを[[サザエさん症候群|ブルーマンデー症候群]]と呼ぶ。1週間のうち最も[[自殺]]者が多いのは月曜日である。
=== 休業とする業種 ===
[[日本野球機構|日本のプロ野球]]においては月曜日は原則として予備日であるため、休養日としている。なお、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]では[[2001年]]から[[2005年]]まで月曜日に試合を開催していた([[パシフィック・リーグ#マンデー・パ・リーグ|マンデーパ・リーグ]]も参照)。
[[組合]]に加盟している[[理容所|理容店]]のほとんどは月曜日を定休日としていた<ref>[[理容所]]の項参照。</ref> ので、[[組合]]主催の講習会などが開かれる事もある。[[ハッピーマンデー制度]]や適正化規定の廃止によって事情が変わってきた。
[[銭湯]]も月曜日は利用者が少ないため、月曜定休が多い。東京都浴場組合では[[オイルショック]]以降、燃料が入手しづらい時期が続き、週1回の休みが義務づけられた<ref>[http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20070927-90002786-r25 業種ごとに決まっている!?定休日のナゾとルーツに迫る!] - webR25</ref>。
[[飲食店]]では土日が書き入れ時となるため、それを過ぎた月曜日を定休日にしているところがある<ref>[https://paraft.jp/r000016000833 不動産・美容院・病院・飲食……業界ごとに異なる「休業日」] - PARAFT</ref>。
[[公共図書館]]は月曜日を休館日とすることが多い。『図書館読本』(本の雑誌社、2000年、ISBN 4-938463-85-7)が行なったアンケートによれば、1998年時点で月曜日を休館日としている公共図書館は426館、割合にして全体の75%に上っている<ref>{{Cite book|和書|title= 図書館読本|series= 別冊本の雑誌13|editor= 本の雑誌編集部|publisher= 本の雑誌社|date= 2000-01-30|edition= 初版|isbn= 4-938463-85-7|page= 51}}</ref>。なお、次点で火曜日(44館)、日曜日(27館)と続く<ref>{{Cite book|和書|title= 図書館読本|series= 別冊本の雑誌13|editor= 本の雑誌編集部|publisher= 本の雑誌社|date= 2000-01-30|edition= 初版|isbn= 4-938463-85-7|page= 52}}</ref>。これは、一般社会では休業することの多い[[日曜日]]に開館する代わりに翌日を[[振替休日]]として休館とするためである<ref name="b-chive"/>。ただし、指定管理者制度の導入で休館日の削減を図っている図書館も存在しており<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/choken/2014/all.pdf|title= 大学図書館職員長期研修 講義資料|page=45(PDF頁番号47)|publisher= 筑波大学|accessdate= 2017-01-09}}</ref>、「月曜日すなわち休館日」は過去のものになりつつある<ref name="b-chive">{{Cite web|和書|url= http://b-chive.com/neta/getuyouyasumi.html|title= 博物館美術館なぜ月曜休み?|date= 2017-01-02|accessdate= 2017-01-09|publisher= 天才工場}}</ref>。公共図書館の休館日をまとめた逐次刊行物として『日本の図書館 統計と名簿』があり、CD-ROM版も発売されている。
[[博物館]]や[[美術館]]、[[観光]]施設の多くも月曜日を休館(休業)日としている。月曜日が[[国民の祝日]]や[[振替休日]]の時は開館して[[火曜日]]など次の[[平日]]が休館日になるところが多い<ref name="b-chive"/>。ただし、[[2020年代]]では「学校の振替休日が月曜日に設定されることが多いこと」「[[年次有給休暇|有給休暇]]取得が容易になったこととも相まって、日曜日から月曜日の泊りがけの旅行が増えたこと」などの事情から、火曜日などに変更する施設も現れている<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220426075614/https://www.pref.aichi.jp/press-release/koen0426.html|url=https://www.pref.aichi.jp/press-release/koen0426.html|accessdate=2022-05-06|date=2022-04-26|archivedate=2022-04-26|title=愛・地球博記念公園の休業日の変更について|publisher=[[愛知県]]}}</ref>。
=== 交通 ===
鉄道においては朝の通勤ラッシュが激しい曜日である。これは出張や外出などで直接会社に出社しない場合がある他の曜日と比較して、実際に会社に出社するビジネスマンが多いためである<ref>[https://mansionmarket-lab.com/commuter-rush-ranking 通勤ラッシュがキツイ!東京の満員電車 混雑率ランキング・混雑時間帯] - マンションくらし研究所。</ref>。これに合わせて[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)では毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)早朝に[[単身赴任]]者向けの[[臨時列車]]として[[サンダーバード (列車)|ビジネスサンダーバード]]を運行している。
道路交通においても同様に前記した事情や物流業にとって休み明けであるため、道路が混雑する傾向があると言われるが<ref>[https://www.fk-tosikou.or.jp/guide/jyutai-map/fukuoka.shtml 近年の主要渋滞発生箇所(福岡都市高速)] - 福岡北九州高速道路公社</ref>、実際のところは金曜日ほど顕著なものではない<ref>[https://www.shutoko.jp/sp/traffic/traffic-info/guide/guide_01/ 渋滞が起きやすい時間帯を避ける!] − 首都高ドライバーズサイト</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/5004/00095717/1-12.pdf 大阪府域における曜日別・月別交通渋滞発生状況]}} - 大阪府</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.dik.or.jp/wp-content/uploads/2017/01/p_120329_54.pdf 熊本市中心部の交通渋滞実態調査]}} - 地方経済総合研究所</ref>。
=== 発売日 ===
週刊誌では[[週刊ポスト]]・[[週刊現代]]・[[週刊大衆]]・[[週刊プレイボーイ]]といった男性向け週刊誌と[[週刊ダイヤモンド]]・[[週刊東洋経済]]・[[エコノミスト (日本の雑誌)|エコノミスト]]といった経済週刊誌の発売日である。漫画週刊誌では[[週刊少年ジャンプ]]と[[週刊ヤングマガジン]]と[[ビッグコミックスピリッツ]]の発売日である。
== 月曜日に関する作品 ==
<!--本項は月曜日を作品のテーマとした物を記述すること-->
* 映画
** 『月曜日のユカ』(1964年、[[日本]])
** 『[[MONDAY]]』(2000年、日本)
** 『月曜日に乾杯!』(2002年、[[フランス]]=[[イタリア]])
** 『[[シグナル〜月曜日のルカ〜]]』(2012年、日本)
* 音楽
** [[哀愁のマンデイ]](歌:[[ブームタウン・ラッツ]])
** [[小さな願い (Le Coupleのアルバム)#収録曲|After the rain ~月曜日も会いたい]](歌: [[Le Couple]])
** 雨の月曜日(歌:[[アグネス・チャン]])
** [[雨の日と月曜日は]](歌:[[カーペンターズ]]、[[オリビア・ニュートン=ジョン]]、作詞・作曲:Roger Nichols/Paul Williams)
** 月曜日にはバラを(歌:[[稲垣潤一]])
** 月曜日の朝(歌:[[内田有紀]])
** [[ドミノ (山崎まさよしのアルバム)|月曜日の朝]](歌:[[山崎まさよし]])
** [[月曜日の朝、スカートを切られた]] (歌:[[欅坂46]])
** [[ゆず一家|月曜日の週末]](歌:[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]])
** [[rosette|月曜日の失踪]](歌:[[工藤静香]])
** [[ダイアモンドダストが消えぬまに|月曜日のロボット]](歌:[[松任谷由実]])
** 先週の月曜日(歌:[[奥田民生]])
** [[Miss YOKOHAMADULT#収録曲|冷たい月曜日]](歌:[[原由子]])
** [[ブルー・マンデー (ニュー・オーダーの曲)|ブルー・マンデー]](歌:[[ニュー・オーダー]])[[イギリス|英国]]で最も売れた[[12インチシングル]]。
** マニック・マンデー(歌:[[バングルス]])作曲:[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]
** Monday(歌:[[ザ・コレクターズ|THE COLLECTORS]])
** Monday (歌:[[sumika]])
** MONDAY BLUE(歌:[[山下達郎]])
** MONDAY MORNING(歌:[[ブレッド&バター]])
** [[マンデー・モナリザ・クラブ]] (歌:[[ピンク・レディー]])
** ミスター・マンデイ(歌:[[オリジナル・キャスト]])オリジナル・キャストの日本での最大のヒットシングル。
** [[acacia (松任谷由実のアルバム)|Lundi]](歌:[[松任谷由実]])
** [[BLUE MONDAY]](歌:[[桑田佳祐]])
** New Moon On Monday(歌:[[デュラン・デュラン]])
** Monday Morning(歌:[[フリートウッド・マック]])
** {{lang|zh|星期一天氣晴我離開你}}(歌:[[孫燕姿]])
** 月曜日のクリームソーダ(歌:Jelly PoP Beans)
* テレビ番組
** [[月曜ロードショー]]([[1969年]]~[[1987年]]、[[TBSテレビ|TBS]])
** [[月曜ワイド劇場]]([[1982年]]~[[1986年]]、[[テレビ朝日]])
** [[月曜ドラマランド]]([[1983年]]~1987年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
** [[月曜ドラマスペシャル]]([[1989年]]~[[2001年]]、TBS)
** [[月曜ドラマ・イン]]([[1991年]]~[[2000年]]、テレビ朝日)
** [[月曜ミステリー劇場]](2001年~[[2006年]]、TBS)
** [[月曜エンタぁテイメント]]([[2004年]]~2006年、[[テレビ東京]])
** [[月曜ゴールデン]](2006年~[[2016年]]、TBS)
** [[月曜プレミア!]]([[2010年]]~[[2012年]]、テレビ東京)
** [[月曜ミステリーシアター]]([[2013年]]~[[2015年]]、TBS)
** [[月曜名作劇場]](2016年~[[2019年]]、TBS)
** [[月曜プレミア8]]([[2020年]]~、テレビ東京)
* ドラマ
** [[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]](フジテレビ)
** [[BLOODY MONDAY|ブラッディ・マンデイ]](2008年・2010年、TBS。ただし、放送されていたのは[[土曜日]]である)
* バラエティ
** [[がっちりマンデー!!]](TBS。ただし、放送されているのは[[日曜日]]である)
** [[月曜から夜ふかし]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
** [[ちゃちゃ入れマンデー]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]。ただし、放送されているのは[[火曜日]]である)<ref>2015年3月までは月曜日に放送されていた。</ref>
** [[帰れマンデー見っけ隊!!]](テレビ朝日)
*漫画
** [[月曜日のたわわ]] (作:[[比村奇石]]、[[週刊ヤングマガジン]])
** 月曜日の友達 (作:[[阿部共実]]、[[ビッグコミックスピリッツ]])
== 記号 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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== 脚注 ==
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{{Reflist}}
== 関連項目 ==
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* [[マンデーナイトフットボール]]
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[[Category:曜日]]
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火曜日
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火曜日(かようび)または火曜(かよう)は、月曜日と水曜日の間にある週の1日。
日本語や朝鮮語、また、ロマンス諸語の名称は、七曜の1つである火星 (Mars) の日にちなむ。また、五行思想の火を火行をする。
英語のTuesdayは北欧神話の神テュールから来ている。
ベトナム語では第3を意味する「thứ ba」が火曜日の意味にも使われるが、中国語では「星期二」もしくは「礼拜二」という。
アメリカ合衆国では選挙の投票日を火曜日に設定している。アメリカ合衆国大統領予備選挙の集中日は「ジュニア・チューズデー」や「スーパー・チューズデー」と呼ばれる。
オーストラリアでは毎年11月の第1火曜日に競馬のGIレースメルボルンカップが行われる。メルボルン市内はもとより、オーストラリア全土で公休となる所が多く、国民が注目するオーストラリア最大のスポーツイベントである。
週明け(正確には平日の始まり)の次の日であるため、土日が繁盛期となり、ハッピーマンデーにより祝日になることもある月曜日の次の日であるため、火曜日を定休日にしている店舗がある。特にチェーン店以外の飲食店でこの傾向が見られる。これには諸説あり、火事や火災、帳簿が火の車になることを嫌ったことから火曜定休にしているという説もある。自動車ディーラーなどでも同様の理由で火曜日を定休日しているところがある。
かつては大型スーパーやデパートでも同様の理由で火曜日を定休日に設定することがあった。これは大規模小売店舗法で規制緩和するまでは週1回の定休日を定めていたためである。ただし定休日とする曜日の設定は運営会社で定めており、美容院のようにすべての運営会社が同じ曜日に定休日としていたわけではない(ジャスコ、ダイエーは水曜日が定休日であった)。1990年代半ば以降は大規模小売店舗法の規制緩和(後に廃止)により、年中無休とする店舗も現れるなど、状況が変化した。
東京都内のほとんどの美容院では火曜日が定休日である。これは東京都では「適正化規定」という、都が定めた組合が遵守する条例に基づくものである(その他の地域では月曜定休が多い)。
長野県の不動産業者では火曜日を定休日としている。これは小売業は水曜日に休業する人が多く、休日に部屋探しをするため、曜日をずらして休業日としたものである(その他の地域では水曜休業が多いが、地域によっては水曜日と日曜日を休業とする地域もある。北日本地域などでは日曜日を休業とする地域もある)。
コンビニエンスストアでは新商品が続々と発売する。これは火曜日と水曜日の売り上げを元にして、最も売上の多い週末に向けて人気商品の発注を木曜日にかけることができるためである。
大手スーパーでは特売日が実施されることがある(イオン「火曜市」など)。
週刊誌では女性週刊誌2誌(女性自身、週刊女性)の発売日である(もう1誌の女性週刊誌である女性セブンは木曜発売)。その他の週刊誌では週刊朝日・サンデー毎日・FLASHの発売である。一方、週刊漫画雑誌の発売は2015年時点ではない(かつては週刊少年ジャンプと週刊少年サンデーの発売日としていた)。
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火曜日(かようび)または火曜(かよう)は、月曜日と水曜日の間にある週の1日。
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{{出典の明記|date=2014年1月21日 (火) 09:34 (UTC)|ソートキー=曜日2}}
'''火曜日'''(かようび)または'''火曜'''(かよう)は、[[月曜日]]と[[水曜日]]の間にある[[週]]の1日。
== 各言語での名称 ==
[[日本語]]や[[朝鮮語]]、また、[[ロマンス諸語]]の名称は、[[七曜]]の1つである[[火星]] (Mars) の日にちなむ。また、[[五行思想]]の[[火]]を火行をする。
[[英語]]の{{lang|en|Tuesday}}は北欧神話の神[[テュール]]から来ている<ref>{{Cite book|和書|author=S・ベアリング=グールド|authorlink=セイバイン・ベアリング=グールド|translator=今泉忠義|year=1955|title=民俗学の話|publisher=角川文庫|page=60}}</ref>。
[[ベトナム語]]では第3を意味する「{{Lang|vn|thứ ba}}」が火曜日の意味にも使われるが、[[中国語]]では「{{lang|zh|星期二}}」もしくは「{{lang|zh|礼拜二}}」という。
==各国の火曜日==
===アメリカ===
[[アメリカ合衆国]]では[[選挙]]の[[選挙の日 (アメリカ合衆国)|投票日]]を火曜日に設定している。[[アメリカ合衆国大統領予備選挙]]の集中日は「ジュニア・チューズデー」や「[[スーパー・チューズデー]]」と呼ばれる。
===オーストラリア===
[[オーストラリア]]では毎年11月の第1火曜日に競馬のGIレース[[メルボルンカップ]]が行われる。メルボルン市内はもとより、オーストラリア全土で公休となる所が多く、国民が注目するオーストラリア最大のスポーツイベントである。
===日本===
====サービス業====
週明け(正確には平日の始まり)の次の日であるため、[[土日]]が繁盛期となり、ハッピーマンデーにより祝日になることもある月曜日の次の日であるため、火曜日を定休日にしている店舗がある。特にチェーン店以外の[[飲食店]]でこの傾向が見られる<ref>[https://paraft.jp/r000016000833 不動産・美容院・病院・飲食……業界ごとに異なる「休業日」] - PARAFT</ref>。これには諸説あり、火事や火災、帳簿が火の車になることを嫌ったことから火曜定休にしているという説もある<ref name=netarika>[https://netallica.yahoo.co.jp/news/20170614-20682777-tenkijp なぜ不動産店は水曜日、理容店は月曜日休みが多いの?] - ネタりか</ref>。自動車ディーラーなどでも同様の理由で火曜日を定休日しているところがある。
かつては大型スーパーやデパートでも同様の理由で火曜日を定休日に設定することがあった。これは[[大規模小売店舗法]]で規制緩和するまでは週1回の定休日を定めていたためである。ただし定休日とする曜日の設定は運営会社で定めており、[[美容院]]のようにすべての運営会社が同じ曜日に定休日としていたわけではない([[ジャスコ]]、[[ダイエー]]は水曜日が定休日であった)。[[1990年代]]半ば以降は大規模小売店舗法の規制緩和(後に廃止)により、年中無休とする店舗も現れるなど、状況が変化した。
[[東京都]]内のほとんどの美容院では火曜日が定休日である。これは東京都では「適正化規定」という、都が定めた組合が遵守する条例に基づくものである(その他の地域では月曜定休が多い)<ref>[http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20070927-90002786-r25 業種ごとに決まっている!?定休日のナゾとルーツに迫る!] - webR25</ref><ref name=netarika/>。
[[長野県]]の不動産業者では火曜日を定休日としている。これは小売業は水曜日に休業する人が多く、休日に部屋探しをするため、曜日をずらして休業日としたものである(その他の地域では水曜休業が多いが、地域によっては水曜日と日曜日を休業とする地域もある。[[北日本]]地域などでは日曜日を休業とする地域もある<ref>[https://www.sumaistar.com/magazine/article/column/sumaistarmagazine/3820 長野県は火曜休み!?各県で違う不動産会社の定休日事情] - スマイスターMagaZine編集部</ref>)。
[[コンビニエンスストア]]では新商品が続々と発売する。これは火曜日と水曜日の売り上げを元にして、最も売上の多い週末に向けて人気商品の発注を木曜日にかけることができるためである<ref>[https://web.archive.org/web/20130206115141/http://www.tbs.co.jp/gacchiri-academy/onair/20110218_2_1.html がっちりアカデミー] - TBS(2013年2月6日時点のウェブアーカイブ)</ref>。
大手スーパーでは特売日が実施されることがある([[イオン (店舗ブランド)|イオン]]「火曜市」など)。
====メディア====
週刊誌では女性週刊誌2誌([[女性自身]]、[[週刊女性]])の発売日である(もう1誌の女性週刊誌である[[女性セブン]]は木曜発売)。その他の週刊誌では[[週刊朝日]]・[[サンデー毎日]]・[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]の発売である。一方、週刊漫画雑誌の発売は2015年時点ではない(かつては[[週刊少年ジャンプ]]と[[週刊少年サンデー]]の発売日としていた)。
== 火曜日に関する作品 ==
<!--本項は火曜日を作品のテーマとした物を記述すること-->
*[[映画]]
**[[火曜日ならベルギーよ]](1969年、[[アメリカ合衆国|米国]])
**[[モリー先生との火曜日]](1999年、米国)
*[[楽曲]]
**火曜日 (歌:[[乙三]].)
**Tuesday Morning (歌:[[ミシェル・ブランチ]])
**Ruby Tuesday (歌:[[ローリング・ストーンズ]])
**Tuesday (歌:[[MONORAL]])
**[[up to you (19のアルバム)|毎週火曜日]] (歌:[[19 (音楽グループ)|19]])
**NO TUESDAY(歌:[[pre-school]])
*小説
**『[[火曜クラブ]] (The Thirteen Problems) 』([[アガサ・クリスティ]]著)
*漫画
**『毎週火曜はチューズデー』
*テレビ番組
**旧[[NHK歌謡コンサート]]
**新[[うたコン]]
**[[火曜ワイドスペシャル]]
**[[火曜ワイドスペシャル|火・曜・特・番!!]]
**[[カスペ!]]
**[[火曜劇場]]
**[[火曜サスペンス劇場]]
**[[火曜ドラマゴールド]]
**[[火曜ドラマ]]
**[[火曜エンタテイメント!]]
**[[火曜サプライズ]]
**[[火曜曲!]]
**[[火曜エンタ]]
*テレビドラマ
**『[[火曜日の女シリーズ]]』
== 記号 ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
{{commonscat|Tuesday}}
*[[地方民間放送共同制作協議会]]('''火曜会''')
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[[Category:曜日]]
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水曜日
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水曜日(すいようび)または水曜(すいよう)は、火曜日と木曜日の間にある週の1日。
日本語や朝鮮語の名称は、七曜の1つである水星(Mercury)の日にちなむ。また、五行思想の最後で、水は水行をする。
ロマンス諸語ではメルクリウスの日であるが、英語: Wednesdayのようにゲルマン諸語ではオーディンの日である。これは古代ローマで、ゲルマン神話の魔術神オーディンを自分たちのメルクリウスのような神と見なしたからである。
ベトナム語では第4を意味する「thứ tư」が水曜日の意味にも使われ、またドイツ語でも「真ん中の日」(Mittwoch)と呼ばれるのに対し、中国語では「星期三」もしくは「禮拜三」という。
灰の水曜日はキリスト教徒の懺悔の日である。正教会を始めとする東方教会では、イスカリオテのユダがキリストを裏切った日であると伝承する。このため特定の時期を除き斎の日とする。
学校では、教職員が会議や研究会を行うところが少ないので、生徒の下校時間が遅くなる。
多くの企業では定時の帰宅を促す「定時退社日」または「ノー残業デー」に指定されている。
日本の不動産業者やUR都市機構の営業所、住宅メーカーなど、多くの地域では定休日にすることがある。これは週の中間なのでちょうどよい水曜日を定休日としている説と、週末を現地案内や契約、週明けを契約書類の作成にあてるため水曜日を定休日としている説と、俗説として契約が「水」に流れるのを嫌うからという説もある。ただし不動産業者によっては地域によって異なり、水曜日と日曜日を休業としている地域もある。また、長野県では火曜日を定休日にしており、北日本地域などでは日曜日を定休日としている。これは不動産業者が物件を紹介する際に他の会社が休んでいると仕事にならないため、定休日を一律としている。
同様の傾向は自動車販売店(カーディーラー)などにおいても見られるが、定休日は運営会社の方針で定めているため、理髪店や美容院のように組合や業界で定めていたりかつての大型小売店のように法令で定めているわけではないので、必ずしもこれらの業種全てが水曜定休というわけではない。カーディーラーによっては月曜日ないしは火曜日が休業とするところがある。
市場では水曜日を休業している。これに関連して水曜日を定休日としているサービス業もあり、鮮魚店と青果店、チェーン店を除く飲食店などでこの傾向がみられる。
大手スーパーではイオングループ(旧ジャスコ・旧ダイエー)は水曜日を定休日としていた(その他のスーパーは火曜日がほとんどであった)。
開業医が運営する医療機関(医院・診療所)でも半日ないしは全日休診とするところがある。休診日の設定は医療機関の権限で自由に定めることができるため(行政が関与できるものでもない)、必ずしも全ての医療機関が水曜日を休診にしているわけではないが(水曜日、日曜日以外では木曜日が多い)、これは医療界特有の事情であり、土曜日に診察する医療機関が多くその振り替えもあることと、医療機関が所属している学会や勉強会が水曜日に開催されるところがあるためとされている。
漫画週刊誌では週刊少年マガジンと週刊少年サンデーの発売日である。その他の週刊誌では特定ジャンルの週刊誌が発売される曜日でもある。テレビ雑誌であるザテレビジョン・週刊TVガイド・NHKウイークリーステラや、スポーツ週刊誌である週刊プロレス・週刊ベースボールの発売日である。
CDの発売日に指定するにちょうどよい曜日でもある。これは、CDを月曜日に工場から出荷させて火曜日に店頭に並ばせれば、オリコンの集計上6日分の売上が計上され、上位に行くことが期待できるためである。かつては直前の月曜日や火曜日に祝日があるときは、各社とも直後の木曜日に発売日を設定していたが、最近はこのパターンでも水曜日に発売日を設定するレコード会社が増えてきた。また、2015年より洋楽のCDアルバムに限り、金曜日にも発売される事が多い。
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水曜日(すいようび)または水曜(すいよう)は、火曜日と木曜日の間にある週の1日。
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{{otheruses||[[20th Century (グループ)|20th Century]]の楽曲|水曜日 (20th Centuryの曲)}}
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{{出典の明記|date=2014年1月21日 (火) 09:32 (UTC)|ソートキー=曜bcngv日3}}
'''水曜日'''(すいようび)または'''水曜'''(すいよう)は、[[火曜日]]と[[木曜日]]の間にある[[週]]の1日。
== 各言語での名称 ==
[[日本語]]や[[朝鮮語]]の名称は、[[七曜]]の1つである[[水星]](Mercury)の日にちなむ。また、五行思想の最後で、[[水]]は水行をする。
[[ロマンス諸語]]では[[メルクリウス]]の日であるが、{{lang-en|Wednesday}}のように[[ゲルマン諸語]]では[[オーディン]]の日である。これは古代ローマで、[[ゲルマン神話]]の魔術神オーディンを自分たちのメルクリウスのような神と見なしたからである。
[[ベトナム語]]では第4を意味する「{{Lang|vn|thứ tư}}」が水曜日の意味にも使われ、またドイツ語でも「真ん中の日」({{lang|de|Mittwoch}})と呼ばれるのに対し、[[中国語]]では「{{lang|zh|星期三}}」もしくは「{{lang|zh|禮拜三}}」という。
== キリスト教における水曜日 ==
[[灰の水曜日]]はキリスト教徒の懺悔の日である。[[正教会]]を始めとする東方教会では、[[イスカリオテのユダ]]が[[キリスト]]を裏切った日であると伝承する。このため特定の時期を除き[[斎]]の日とする。
== 日本における水曜日 ==
=== 学校 ===
学校では、教職員が会議や研究会を行うところが少ないので、生徒の下校時間が遅くなる。
=== 企業 ===
==== 定時退社日 ====
多くの企業では定時の帰宅を促す「定時退社日」または「ノー残業デー」に指定されている<ref>[http://moneyzine.jp/article/detail/185945 増加する「ノー残業デー」に商機あり 新需要の掘り起こしに活気づく水曜商戦(MONEYzine)]</ref>。
==== 休業とする業種 ====
日本の不動産業者や[[UR都市機構]]の営業所、住宅メーカーなど、多くの地域では定休日にすることがある。これは週の中間なのでちょうどよい水曜日を定休日としている説と、週末を現地案内や契約、週明けを契約書類の作成にあてるため水曜日を定休日としている説と、俗説として契約が「水」に流れるのを嫌うからという説もある<ref name="webr25">[http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20070927-90002786-r25 業種ごとに決まっている!?定休日のナゾとルーツに迫る!] - webR25</ref><ref name="PARAFT">[https://paraft.jp/r000016000833 不動産・美容院・病院・飲食……業界ごとに異なる「休業日」] - PARAFT</ref>。ただし不動産業者によっては地域によって異なり、水曜日と日曜日を休業としている地域もある。また、[[長野県]]では火曜日を定休日にしており、[[北日本]]地域などでは日曜日を定休日としている。これは不動産業者が物件を紹介する際に他の会社が休んでいると仕事にならないため、定休日を一律としている<ref>[https://www.sumaistar.com/magazine/article/column/sumaistarmagazine/3820 長野県は火曜休み!?各県で違う不動産会社の定休日事情] - スマイスターMagaZine編集部</ref>。
同様の傾向は自動車販売店(カーディーラー)などにおいても見られるが、定休日は運営会社の方針で定めているため、[[理髪店]]や[[美容院]]のように組合や業界で定めていたりかつての大型小売店のように法令で定めているわけではないので、必ずしもこれらの業種全てが水曜定休というわけではない。カーディーラーによっては月曜日ないしは火曜日が休業とするところがある。
[[市場]]では水曜日を休業している。これに関連して水曜日を定休日としているサービス業もあり、鮮魚店と青果店<ref name="webr25"/>、チェーン店を除く[[飲食店]]などでこの傾向がみられる<ref name="PARAFT"/>。
大手スーパーでは[[イオングループ]](旧[[ジャスコ]]・旧[[ダイエー]])は水曜日を定休日としていた(その他のスーパーは火曜日がほとんどであった)。
[[開業医]]が運営する[[医療機関]]([[医院]]・[[診療所]])でも半日ないしは全日休診とするところがある。休診日の設定は医療機関の権限で自由に定めることができるため(行政が関与できるものでもない<ref>[http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/kocho/page-c_01473.html#1 平成23年7月から9月に寄せられた主な提案と市の考え方] - 平塚市</ref>)、必ずしも全ての医療機関が水曜日を休診にしているわけではないが(水曜日、日曜日以外では木曜日が多い)<ref name="docrabo"/>、これは医療界特有の事情であり、土曜日に診察する医療機関が多くその振り替えもあることと、医療機関が所属している学会や勉強会が水曜日に開催されるところがあるためとされている<ref name="docrabo">[http://doclabo.jp/contents/135 歯医者の定休日はいつが多い?素朴な疑問に即、お答え致します!] - どくらぼ</ref>。
=== 発売日 ===
==== 週刊誌 ====
漫画週刊誌では[[週刊少年マガジン]]と[[週刊少年サンデー]]の発売日である。その他の週刊誌では特定ジャンルの週刊誌が発売される曜日でもある。テレビ雑誌である[[ザテレビジョン]]・[[週刊TVガイド]]・[[NHKウイークリーステラ]]や、スポーツ週刊誌である[[週刊プロレス]]・[[週刊ベースボール]]の発売日である。
==== 音楽ソフト ====
[[コンパクトディスク|CD]]の発売日に指定するにちょうどよい曜日でもある。これは、CDを月曜日に工場から出荷させて火曜日に店頭に並ばせれば、[[オリコンチャート|オリコン]]の集計上6日分の売上が計上され、上位に行くことが期待できるためである。かつては直前の月曜日や火曜日に[[国民の祝日|祝日]]があるときは、各社とも直後の木曜日に発売日を設定していたが、最近はこのパターンでも水曜日に発売日を設定するレコード会社が増えてきた。また、2015年より洋楽のCDアルバムに限り、[[金曜日]]にも発売される事が多い<ref>[http://jp.reuters.com/article/2015/07/10/music-release-day-idJPKCN0PK0A220150710 アルバム・シングル発売日、世界で金曜日に統一] [[トムソン・ロイター]] 2015年7月10日配信、8月10日閲覧</ref>。
== 水曜日に関する作品 ==
{{commonscat|Wednesday}}
<!--テーマが水曜日にであるもの-->
* 今日は何の日
** 「[[ニーボ]]の日」
* 映画
** 『水曜日の戀』(1933年、[[アメリカ合衆国|米国]])
** 『水曜ならいいわ』(1966年、米国)
** 『[[ビッグ・ウェンズデー]]』(1978年、米国)
* テレビドラマ
** 『[[水曜ドラマ]]』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[TBSテレビ|TBS]])
** 『[[水曜劇場]]』(TBS・[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
** 『[[水曜グランドロマン]]』(日本テレビ)
** 『[[女と愛とミステリー|水曜女と愛とミステリー]]』([[テレビ東京]])
** 『[[水曜ミステリー9]]』([[テレビ東京]])
** 『[[水曜日の情事]]』(フジテレビ)
* 楽曲
** 「[[柿の実色した水曜日/青空|柿の実色した水曜日]]」(歌:[[ふきのとう (フォークグループ)|ふきのとう]]、作詞・作曲:[[山木康世]])
** 「水曜日の午後」(歌:[[オフコース]]、作詞・作曲:[[小田和正]])
** 「水曜日に会いましょう」(歌・作詞・作曲:[[カズン (歌手グループ)|カズン]])
** 「[[A LONG VACATION|雨のウェンズディ]]」(歌・作曲:[[大瀧詠一]]、作詞:[[松本隆]])
** 「[[Wednesday Moon]]」(歌・作詞・作曲:[[徳永英明]])
** 「水曜日の朝」(歌・作詞・作曲:[[河口恭吾]])
** 「水曜の朝、午前3時」(歌:[[サイモン&ガーファンクル]])
** 「[[キャンディーズ 1 1/2〜やさしい悪魔〜#曲目|パステルカラーの水曜日]]」(歌:[[キャンディーズ]])
** 「[[A Face in a Vision#収録曲|水曜日のクオレ]]」(歌:[[山口百恵]])
** 「星期三的約會」(歌:[[宇珩]])
** 「水曜日のアリス」(歌:[[チームサプライズ]])
** 「[[ALMIGHTY|水曜の朝午前3時]]」(歌:[[THE ALFEE|Alfee]])
* テレビ番組
** 『[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー(日本テレビ版)]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
** 『[[水曜どうでしょう]]』([[北海道テレビ放送]])
** 『[[水曜ロードショー (TBS)|水曜ロードショー(TBS版)]]』([[TBSテレビ|TBS]])
** 「[[水曜プレミア]]」(TBS)
** 「[[水トク!]]」(TBS)
** 『[[水曜ノンフィクション]]』(TBS)
** 『[[水曜プレミアシネマ]]』(TBS)
** 『[[水曜日のダウンタウン]]』(TBS)
** 『[[水曜日のハウマッチ?]]』(MBS)
** 「[[水曜スペシャル]]」([[テレビ朝日]])
** 「[[水10!]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]])
** 『[[Love music|水曜歌謡祭]]』(フジテレビ)
** 「[[ビッグ・ウェンズデイ]]」([[MBSテレビ|毎日放送]])
** 「[[水曜エンタ!]]」(毎日放送)
** 『[[ウエンズデー J-POP]]』([[日本放送協会|NHK]])
** 『[[水曜シアター9]]』([[テレビ東京]])
** 「[[水曜エンタ]]」(テレビ東京)
* 店の名前
** [[水曜日のアリス]] - 菓子、アクセサリー、雑貨の専門店。[[東京都|東京]]・[[渋谷区|渋谷]]、[[大阪府|大阪]]・[[心斎橋]]、[[名古屋市|名古屋]]・[[大須 (名古屋市)|大須]]の3店舗がある。[http://www.aliceonwednesday.jp/]
* バンド名
** [[水曜日のカンパネラ]]
<!--本項は水曜日を作品のテーマとした物を記述すること-->
== 記号 ==
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== 脚注 ==
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[[Category:曜日]]
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金曜日
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金曜日(きんようび)または金曜(きんよう)は、木曜日と土曜日の間にある週の1日。
日本語や朝鮮語の名称は、七曜の1つである 金星 (Venus) の日にちなむ。五行思想のは、金の金行をする。
アラビア語では「الجمعة」(al-jumʿa)と呼び、「جمع」(jamaʿa、集まる)という語根(動詞)から派生した言葉で、『クルアーン』にある金曜の合同礼拝に由来する。トルコ語のCuma、ペルシャ語の「جمعه」(jomʿe)、ウルドゥー語の「جمعہ」(jumʿa)、マレー語のJumaat、インドネシア語のJumatも同じ語源。アフリカ東海岸のスワヒリ語でもIjumaa(イジュマー)と呼ばれる。
英語のFridayは、北欧神話のオーディンの妻・フリッグ(Frigg)のアングロ・サクソン形のFrigeの日に由来するとも、同じく北欧神話の女神フレイヤのフレイヤの日から来ているとも言われる。英語に限らずゲルマン諸語では北欧神話にちなんでいる。また、ラテン諸語でもローマ神話の女神ヴィーナスの日を意味する(例:イタリア語のVenerdì)。
ギリシア語ではパラスケヴィ(Παρασκευή)、すなわち準備の日という。ユダヤ人の安息日の前日に由来し、福音書の書き方に倣っている。
ベトナム語では第6を意味する「thứ sáu」が金曜日の意味にも使われるが、中国語では「星期五」もしくは「礼拝五」という。
ユダヤ教では安息日(土曜日)には仕事、旅行、料理を休む都合から、その前日、金曜日を「準備の日」とする。
キリスト教の『福音書』によれば、イエスが十字架刑で死んだのは金曜日である。そのためキリスト教圏では金曜日は伝統的に断食の日とされている。断食の仕方は東方教会と西方教会で異なるが、肉を食べないことは東西に共通する。現在では毎週金曜日の断食は西方教会では廃れているが、東方教会では守られている。このため正教会を始めとする東方教会では特定の時期を除き金曜日は斎(ものいみ)の日とする。ちなみに西ヨーロッパの大学では金曜日の学生食堂のメニューは魚料理になる。
毎年の受難週の金曜日は特に「聖金曜日」「聖大金曜日」といい、正教会などの東方教会だけでなくカトリックも断食を行う。
英語圏などで不吉とされる「13日の金曜日」はキリスト教と直接の関係は無いといわれているが、一説では1307年10月13日のフランス国王によるテンプル騎士団弾圧の日をその起源とするとも言われる。
イスラームにおいてはムスリムの集団礼拝の日であり、アラビア語でも「الجمعة」(アル・ジュムア)、すなわち「集まる日」と呼ぶ。この日に行われる礼拝を「صلاة الجمع」と呼び、「集団礼拝」=「金曜礼拝」という意味になる。また、この中で行われる説法を「خطبة الجمعة」と呼ぶ。よって、イスラム圏では金曜日が休日であることが多い。ちなみに金曜日の集団礼拝はコーランにより定められた。
放送番組においてはテレビ・ラジオを問わず金曜日だけ構成・放送時間・出演者を変えている平日の帯番組もある。
音楽業界では、2015年にCDの発売曜日を世界基準に合わせて金曜日にすることが発表されたことから、日本でもCDの発売曜日が金曜日に移行されつつある。現状では洋楽のみで、邦楽に関しては引き続き水曜日に発売されている。
週刊漫画雑誌では『週刊漫画TIMES』と『週刊漫画ゴラク』の発売日である。その他の週刊誌においては『週刊金曜日』と写真週刊誌である『FRIDAY』の発売日である。
週休二日制の場合には休日の前日となることがある。そのため、遅い時間まで消費活動が活発になされることもあり、鉄道などは朝ラッシュ時のピーク級の混雑となる場合もある。これに合わせ、金曜日(または休日の前日)のみ独自のダイヤが設定されたり、金曜日(または休日の前日)のみ運転される臨時列車が設定される線区もあり、例として以下のものが挙げられる。
このほかに静岡鉄道や高松琴平電鉄など、金曜日(路線によっては土曜日も)に限り終電後に臨時列車を設定している路線もある。
道路交通においても同様に前述の事情の他に物流業にとっても休日の前日であり、書き入れ時となるため、交通量が最も多い曜日である。
1980年代から週休二日制を採用する企業が増加すると、翌日が休日となる金曜日の価値が急上昇し、金曜日は俗に「花金」と呼ばれるようになった(バブル終焉とともにオフィス死語になったという指摘もある)。『半ドン#関連用語』も参照のこと。2017年2月からは「プレミアムフライデー」の一環として一部の企業では毎月最終金曜日に午後3時(15時)に退社するというものがあった。
映画館では週休二日制が定着したことから、土曜日が一般的だった映画の封切りが金曜日になる劇場が増える傾向にある。
海上自衛隊では、全ての部署で金曜日にカレーライスを食べるのが習慣となっている。『海軍カレー』も参照のこと。
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"text": "週休二日制の場合には休日の前日となることがある。そのため、遅い時間まで消費活動が活発になされることもあり、鉄道などは朝ラッシュ時のピーク級の混雑となる場合もある。これに合わせ、金曜日(または休日の前日)のみ独自のダイヤが設定されたり、金曜日(または休日の前日)のみ運転される臨時列車が設定される線区もあり、例として以下のものが挙げられる。",
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"text": "1980年代から週休二日制を採用する企業が増加すると、翌日が休日となる金曜日の価値が急上昇し、金曜日は俗に「花金」と呼ばれるようになった(バブル終焉とともにオフィス死語になったという指摘もある)。『半ドン#関連用語』も参照のこと。2017年2月からは「プレミアムフライデー」の一環として一部の企業では毎月最終金曜日に午後3時(15時)に退社するというものがあった。",
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"text": "映画館では週休二日制が定着したことから、土曜日が一般的だった映画の封切りが金曜日になる劇場が増える傾向にある。",
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"text": "海上自衛隊では、全ての部署で金曜日にカレーライスを食べるのが習慣となっている。『海軍カレー』も参照のこと。",
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金曜日(きんようび)または金曜(きんよう)は、木曜日と土曜日の間にある週の1日。
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{{otheruseslist|[[曜日]]|[[週刊誌]]とそれを[[出版社|出版している]]株式会社金曜日|週刊金曜日|[[講談社]]の[[写真週刊誌]]|フライデー (雑誌)|1930年代のフランスの週刊新聞|ヴァンドルディ}}
{{出典の明記|date=2014年1月21日 (火) 09:25 (テオぇぇぇぇあUTC)|ソートキー=曜日6}}
'''金曜日'''(きんようび)または'''金曜'''(きんよう)は、[[木曜日]]と[[土曜日]]の間にある[[週]]の1日。
== 各言語での名称 ==
[[日本語]]や[[朝鮮語]]の名称は、[[七曜]]の1つである [[金星]] (Venus) の日にちなむ。五行思想のは、[[金]]の金行をする。
[[アラビア語]]では「[[:ar:الجمعة|الجمعة]]」(al-jumʿa)と呼び、「جمع」(jamaʿa、集まる)という[[語根]]([[動詞]])から派生した言葉で、『[[クルアーン]]』にある[[合同礼拝 (クルアーン)|金曜の合同礼拝]]に由来する。[[トルコ語]]のCuma、[[ペルシャ語]]の「جمعه」(jomʿe)、[[ウルドゥー語]]の「جمعہ」(jumʿa)、[[マレー語]]のJumaat、[[インドネシア語]]のJumatも同じ語源。[[アフリカ]]東海岸の[[スワヒリ語]]でも[[:sw:ijumaa|Ijumaa]](イジュマー)と呼ばれる。
英語のFridayは、[[北欧神話]]の[[オーディン]]の妻・[[フリッグ]](Frigg)のアングロ・サクソン形の'''[[:en:Frige|Frige]]の日'''に由来するとも、同じく北欧神話の女神[[フレイヤ]]の'''フレイヤの日'''から来ているとも言われる<ref>{{Cite book|和書|author=S・ベアリング=グールド|authorlink=セイバイン・ベアリング=グールド|translator=[[今泉忠義]]|year=1955|title=民俗学の話|publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|pages=65}}</ref>。英語に限らず[[ゲルマン諸語]]では北欧神話にちなんでいる。また、[[ロマンス語|ラテン諸語]]でもローマ神話の女神[[ヴィーナス]]の日を意味する(例:[[イタリア語]]の[[:it:venerdì|Venerdì]])。
[[ギリシア語]]ではパラスケヴィ({{lang|el|Παρασκευή}})、すなわち準備の日という。[[安息日#ユダヤ教|ユダヤ人の安息日]]の前日に由来し、福音書の書き方に倣っている。
[[ベトナム語]]では第6を意味する「{{Lang|vn|thứ sáu}}」が金曜日の意味にも使われるが、[[中国語]]では「星期五」もしくは「礼拝五」という。
== 各宗教における金曜日 ==
=== ユダヤ教 ===
[[ユダヤ教]]では[[安息日]](土曜日)には仕事、旅行、料理を休む都合から、その前日、金曜日を「準備の日」<ref>『[[マルコによる福音書]]』15:42.</ref>とする。
=== キリスト教 ===
[[キリスト教]]の『[[福音書]]』によれば、イエスが十字架刑で死んだのは金曜日である<ref>[https://kotobank.jp/word/Fish%20day-1232062 「Fish day」『世界大百科事典』内のFish dayの言及【魚】より]コトバンク、2020年3月26日閲覧。</ref><ref>「[[キリストの磔刑#十字架刑]]」参照。</ref>。そのためキリスト教圏では金曜日は伝統的に[[断食]]の日とされている。断食の仕方は[[東方教会]]と[[西方教会]]で異なるが、肉を食べないことは東西に共通する。現在では毎週金曜日の断食は西方教会では廃れているが、東方教会では守られている。このため[[正教会]]を始めとする東方教会では特定の時期を除き金曜日は[[正教会#斎(ものいみ)について|斎]](ものいみ)の日とする。ちなみに西ヨーロッパの大学では金曜日の学生食堂のメニューは魚料理になる<ref>[[玉村豊男]]は『食卓は学校である』([[集英社新書]] [[2010年]])pp.184-187「カーニバルの意味」で「いまでも特定の共同体に属する人びとに昼食を提供するような施設では、金曜日のメニューには肉料理がありません」といい、「一般の家庭ではもう気にかける人もほとんどいなくなったようですが、ひと昔前までは、金曜日だけはステック・フリットの代わりにたとえばブランダードという、干ダラの身をほぐしてミルクでぐずぐず煮込んだ魚料理などを家で食べる人がかなりいたようです」という。</ref>。
毎年の[[受難週]]の金曜日は特に「[[聖金曜日]]」「聖大金曜日」といい、正教会などの東方教会だけでなく[[カトリック]]も断食を行う<ref>「[[大斎 (カトリック教会)|大斎]]」参照。</ref>。
英語圏などで不吉とされる「[[13日の金曜日]]」はキリスト教と直接の関係は無いといわれているが、一説では[[1307年]][[10月13日]]のフランス国王による[[テンプル騎士団]]弾圧の日をその起源とするとも言われる。
=== イスラーム ===
[[イスラーム]]においては[[ムスリム]]の集団礼拝の日であり、[[アラビア語]]でも「[[:ar:الجمعة|الجمعة]]」([[アル・ジュムア]])、すなわち「集まる日」と呼ぶ。この日に行われる礼拝を「صلاة الجمع」と呼び、「[[合同礼拝 (クルアーン)|集団礼拝]]」=「金曜礼拝」という意味になる。また、この中で行われる説法を「[[:ar:خطبة الجمعة|خطبة الجمعة]]」と呼ぶ。よって、イスラム圏では金曜日が休日であることが多い。ちなみに金曜日の集団礼拝はコーランにより定められた。<ref>62:9 おお、信じた者よ、[アダーン] がジュムア [金曜日] の日に祈りを求められたら、アッラーを念じて商売をやめなさい。あなただけが知っていれば、それはあなたにとってより良いです。</ref>
== 日本における金曜日 ==
=== メディア ===
放送番組においてはテレビ・ラジオを問わず金曜日だけ構成・放送時間・出演者を変えている平日の帯番組もある。
音楽業界では、2015年に[[コンパクトディスク|CD]]の発売曜日を世界基準に合わせて金曜日にすることが発表されたことから、日本でもCDの発売曜日が金曜日に移行されつつある<ref>[http://jp.reuters.com/article/2015/07/10/music-release-day-idJPKCN0PK0A220150710 アルバム・シングル発売日、世界で金曜日に統一] [[トムソン・ロイター]] 2015年7月10日配信、8月10日閲覧</ref>。現状では洋楽のみで、邦楽に関しては引き続き[[水曜日]]に発売されている。
週刊[[漫画雑誌]]では『[[週刊漫画TIMES]]』と『[[週刊漫画ゴラク]]』の発売日である。その他の[[週刊誌]]においては『[[週刊金曜日]]』と[[写真週刊誌]]である『[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]』の発売日である。
=== 交通 ===
[[週休二日制]]の場合には休日の前日となることがある。そのため、遅い時間まで消費活動が活発になされることもあり、鉄道などは朝[[ラッシュ時]]のピーク級の混雑となる場合もある<ref>[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の資料によると金曜日には57.6%の生活者が店舗利用をしており、同じ平日でも月曜日より多くの人が消費行動を行っている結果が出ている。出典:{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_4/46-53.pdf 駅を中心とする移動と消費に関する調査研究]}} </ref>。これに合わせ、金曜日(または休日の前日)のみ独自のダイヤが設定されたり、金曜日(または休日の前日)のみ運転される[[臨時列車]]が設定される線区もあり、例として以下のものが挙げられる。
*[[東北新幹線]]では毎週金曜日と休前日に[[やまびこ (列車)|やまびこ]]249号を運行しており、到着駅である[[仙台駅]]に接続する[[仙台市地下鉄]]・[[東北本線]]・[[仙山線]]・[[仙石線]]において仙台駅を発車する最終列車を繰り下げたダイヤ設定になっている<ref>[[JTBパブリッシング]]『JTB時刻表』各当該路線のページを参照</ref>。
*[[沖縄都市モノレール]]では、2017年8月より日中の運転本数を増やした「金曜ダイヤ」を導入した<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/77255/|title=「金曜ダイヤ」とは? 「ゆいレール」が新設、背景に沖縄特有の事情が|publisher=乗りものニュース|date=2017-07-28|accessdate=2017-12-02}}</ref>。
このほかに[[静岡鉄道]]や[[高松琴平電鉄]]など、金曜日(路線によっては土曜日も)に限り終電後に臨時列車を設定している路線もある。
{{main|終電}}
道路交通においても同様に前述の事情の他に物流業にとっても休日の前日であり、書き入れ時となるため、交通量が最も多い曜日である<ref>[https://www.shutoko.jp/sp/traffic/traffic-info/guide/guide_01/ 渋滞が起きやすい時間帯を避ける!] − 首都高ドライバーズサイト</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/5004/00095717/1-12.pdf 大阪府域における曜日別・月別交通渋滞発生状況]}} - 大阪府</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.dik.or.jp/wp-content/uploads/2017/01/p_120329_54.pdf 熊本市中心部の交通渋滞実態調査]}} - 地方経済総合研究所</ref>。
===その他の文化===
[[1980年代]]から週休二日制を採用する企業が増加すると、翌日が休日となる金曜日の価値が急上昇し、金曜日は俗に「'''花金'''」と呼ばれるようになった(バブル終焉とともにオフィス死語になったという指摘もある)<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/194758?page=3 |title=写メ・ハナキン…、「おじさん言葉」受け流し術|publisher=東洋経済オンライン |accessdate=2019-09-16}}</ref>。『[[半ドン#関連用語]]』も参照のこと。2017年2月からは「'''[[プレミアムフライデー]]'''」の一環として一部の企業では毎月最終金曜日に午後3時(15時)に退社するというものがあった。
[[映画館]]では週休二日制が定着したことから、土曜日が一般的だった映画の[[封切り]]が金曜日になる劇場が増える傾向にある。
[[海上自衛隊]]では、全ての部署で金曜日に[[カレーライス]]を食べるのが習慣となっている。『[[海軍カレー]]』も参照のこと。
== 金曜日に関する作品 ==
<!--本項は金曜日を作品のテーマとした物を記述すること-->
=== 映画 ===
* 『[[13日の金曜日シリーズ#13日の金曜日(1980年)|13日の金曜日]]』(1980年、[[アメリカ合衆国|米国]])
* 『Freaky Friday (1995 film)』(1995年、米国)
=== テレビドラマ ===
* 『[[金曜日の妻たちへ]]』
* 『[[金曜日には花を買って]]』
=== 楽曲 ===
* 「Black Friday」(歌:[[Steely Dan]])
* 「Friday Night」(歌:[[アラベスク (歌手)|Arabesque]])
* 「Friday Night, Saturday Morning」(歌:[[スペシャルズ|The Specials]])
* 「哀愁の金曜日」(歌:[[奥田民生]])
* 「嵐の金曜日」(歌:[[HOUND DOG]])
* 「怒りの金曜日」(歌:[[レベッカ (バンド)|レベッカ]])
* 「金曜日の朝」(歌:[[八神純子]])
* 「[[よしだたくろう ベスト・セレクション#収録曲|金曜日の朝]]」(歌:[[吉田拓郎|よしだたくろう]])
* 「金曜日のおはよう」(歌:[[Gero]])
* 「金曜日のおはよう -another story-」(歌:[[雨宮天]])
* 「金曜日の女」(歌:美川憲一)
* 「金曜日のバレリーナ」(歌:中村あゆみ)
* 「金曜日のフリーズ・ムーン」(歌:矢沢永吉)
* 「[[金曜日のライオン (Take it to the lucky)]]」(歌:[[TM NETWORK]])
* 「[[決戦は金曜日/太陽が見てる|決戦は金曜日]]」(歌:[[DREAMS COME TRUE]])
* 「[[FATHER'S SON|I DON'T LIKE "FRIDAY"]]」(歌:[[浜田省吾]])
* 「少しだけFRIDAY KISS」(歌:[[早見優]])
* 「[[RISKY (アルバム)|FRIDAY MIDNIGHT BLUE]]」(歌:[[B'z]])
* 「真夏のFriday Night」(歌:[[TUBE]])
* 「わがまま金曜日」(歌:[[榊原郁恵]])
* 「Freaky Friday」(歌:[[アクア (バンド)|AQUA]])
* 「[[FRiDAY-MA-MAGiC]]」(歌:[[miwa]])
* 「[[根こそぎ|花金ナイトフィーバー]]」(歌:[[般若]])
=== 書籍・雑誌 ===
* 『金曜日ラビは寝坊した』 [[ハリイ・ケメルマン]]著([[1964年]]、ハヤカワ文庫)
* [[週刊金曜日]](金曜日)
* [[フライデー (雑誌)|FRIDAY]]([[講談社]])
=== テレビ番組 ===
* [[シャキーン!|謎新聞ミライタイムズ]] 解答編([[NHK教育テレビジョン|Eテレ]])
* クルーズモンスター 解読編(Eテレ)
* グッと!金ようび(チバテレビ)
* [[金曜ロードショー]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列)
* [[金曜スーパープライム]](日本テレビ系列)
* [[金曜エンタテイメント]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列)
* [[金曜プレステージ]](フジテレビ系列)
* [[金曜ファミリーワイド]](フジテレビ系列)
* [[おもしろバラエティ|金曜おもしろバラエティ]](フジテレビ系列)
* [[ファミリーランド (フジテレビ)|金曜ファミリーランド]](フジテレビ系列)
* [[花の金曜ゴールデンスタジオ|花の金曜ゴールデンスタジオ→ハナキンスタジオ]](フジテレビ系列)
* [[いきなりフライデーナイト]](フジテレビ系列)
* [[独占!金曜日の告白]](フジテレビ系列)
* [[金曜日のキセキ]](フジテレビ系列)
* [[欽ちゃんの週刊欽曜日]]([[TBSテレビ|TBS]]系列)
* [[金曜ドラマ (NHK)|金曜ドラマ]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])
* [[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]](TBS系列)
* [[金曜ドラマ (フジテレビ)|金曜ドラマ]](フジテレビ系列)
* [[金曜テレビの星!]](TBS系列)
* [[スーパーフライデー]](TBS系列)
* [[金スペ!]](TBS系列)
* [[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]](TBS系列)
* [[Friday Break]](TBS系列)
* [[フライデードラマNEO]](TBS系列)
* [[爆報! THE フライデー]](TBS系列)
* [[金曜ナイトドラマ]]([[テレビ朝日]]系列)
* [[はなきんデータランド]](テレビ朝日系列)
* [[ロンドンハーツ|金曜★ロンドンハーツ]](テレビ朝日系列)
* [[金曜スペシャル]]([[テレビ東京]]系列)
* [[金曜バラエティー]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])
* [[金曜8時のドラマ]](テレビ東京系列)
* [[金曜プレミアム]](フジテレビ系列)
* [[ザワつく!金曜日|ザワつく!金曜日 一茂良純ちさ子の会]](テレビ朝日系列)
* [[テレビ朝日金曜7時30分枠の連続ドラマ]](テレビ朝日系列)
* [[テレビ朝日系列金曜夜7時台枠のアニメ]] (テレビ朝日系列)ほか
=== ラジオ番組 ===
* [[FRIDAY SUPER COUNTDOWN 50]]([[文化放送]])
* [[スーパーフライデー オールジャパンベスト20]]([[エフエム東京|TOKYO FM]])
* [[ファンキーフライデー]]([[エフエムナックファイブ|NACK5]])
* [[FRIDAY GOES ON! 〜あっ、それいただきっ!〜]]([[全国FM放送協議会|JFN]])
* [[ALL GOOD FRIDAY]]([[J-WAVE]])
* [[上柳昌彦 ごごばん!|上柳昌彦・山瀬まみごごばん!フライデースペシャル]]([[ニッポン放送]])
* [[金曜ブラボー。]](ニッポン放送) ほか
== 記号 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[TGIF]]
* [[戦艦フライデー]]
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日曜日
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日曜日(にちようび)または日曜(にちよう)は、土曜日と月曜日の間にある週の1日。カレンダーでは赤色で表記される例が比較的多い。
日本語の名称は、七曜の1つである太陽の日にちなむ。
日本語以外では、英語: Sunday、ドイツ語: Sonntag、オランダ語: Zondag、スペイン語: Domingo、ラテン語: Dies solisなどと呼び、これらは日本語同様、由来は「太陽の日」である。
そのほかに「主日」に由来する名で呼ぶ言語も多い。
神が天地の創造を6日間で終え、7日目に休んだとされる安息日は土曜日であり、週の始まりの日が日曜日である。
ヘレニズム文化が発達した地中海世界で、太陽が支配する曜日として紀元前1世紀に初登場し、途絶えることなく現代に伝わっている。占星術により、土曜日は不吉とされて外出などが忌避されたかわりに日曜日は吉日となった。
1世紀以降、インド・ペルシャの太陽神(ミスラ)を主神とするミトラス教がローマ帝国に流入し、広く信仰された。 古代、太陽神が広く信仰されていた時代は日曜日が礼拝日であったという。
キリスト教では、福音書のとおり、イエスはユダヤ人の安息日の翌日に復活したと信じられるが、後に、これを記念するとして、毎週日曜日に教会で礼拝が行われるようになっていった。2世紀以降、ローマ教会は毎年の過越の聖餐をせず、土曜日が終わるまで断食し、日曜日に聖餐をするようになった。その後4世紀になって、ローマ帝国では日曜日を休日とし、休業するように皇帝が命じた。皇帝はキリスト教などの全ての宗教を公認したが、国教は定めなかった。
キリスト教圏では一般にこの日は休日であるほか、現在ではキリスト教圏以外でも日曜日を休日とする習慣が広がっている。
イギリスで1802年に世界初の「工場法」ができ、以後、20世紀にかけて世界各地では労働運動を背景として、雇用主は労働者に週1日の休みを与えるよう法制化された。国・地域によっては、労働者の権利として認められるのは遅く、たとえば、ポルトガルが週6日労働を法制化したのは1911年であり、1918年南米コロンビアでは、農園労働者が週6日労働などを要求して長期のストライキを闘ったが敗北に終わったことがある。日本では明治時代に七曜が導入され、神武天皇即位の日が日曜日であるという理由から休日となった。戦後1947年に日本国憲法にともなって労働基準法ができ、1週間に1日または4週間に4日の休日を与えることが定められた。一方、農村では「生活改善運動」が組織され、農家の働く女性の休日を実現するため、住民自治により月2回の定休日を設けたことがあるにとどまっていたが、高度成長期における人口移動を通じて都市部の勤労者が多数となったことから、社会人が日曜日に休む習慣が日本でも普及した。
黎明期のメジャーリーグベースボールでは、日曜日は安息日という理由から、試合開催はタブー視されていた。しかしアメリカン・アソシエーションは日曜日にも試合開催を積極的に行い、観客動員数増加に貢献した。
日本では文明開化の中で導入され、紀元前660年2月11日(神武天皇の即位の日)が日曜日であったことから休日となり、市町村役場、初等学校などを通じて地方に普及した。ちなみに導入以前は官庁は5日周期の休日(一六日)としていたため、日曜日を休日とすることで、かえって労働時間は増加した。
全国共通して日曜日を官庁の休日と定める法律は「国会に置かれる機関の休日に関する法律」「裁判所の休日に関する法律」「行政機関の休日に関する法律」があり、行政機関・裁判所などの当該機関の休日を日曜日(および土曜日・祝日・指定された日)と定めている。しかし、民間企業にも適用される労働基準法において休日に関する具体的な曜日は指定されていない。 祝日法の振替休日の規定は民間企業には適用されないが、日曜日を休日であるという前提に基づいているため、事実上、日曜日が休日であると一般的に認識はされている。
官庁では1876年の日曜日導入まで五十日(ごとおび)の翌日と朔(ついたち:月の初日)を公休日としていた(一六日)。しかし、人口の大多数を占めた農家には農作業を休む日として毎月定例の「市」が立つ日、「講」の集まりがあるほかは、毎週の定休日は無く、むしろ、農繁期には家業を手伝わせるため学校も休校した。1945年以前、ところにより月1回の一斉休業日が設けられるにとどまる。
日時が決まっているイベントや風習によっては、当日が日曜日に当たった場合は翌日もしくは直前の金曜日などに変更される場合がある。
現在では休日となることが多いが、行事の都合で出校日にする学校や、業務内容の関係で休日としない会社もある。この場合、その日に一番近い平日を振替休日または通常の休日とする。消費者に相対する小売業をはじめ第三次産業に従事する人口の比率が高まっており、日曜日を定休日としない事業所は多い。製造業の代表的な職場では、祝日法に定める振替休日は無視されている(トヨタカレンダー参照)。
これとは別に、日本では1973年より日曜日と祝日が重複した場合は振替休日が設けられるようになった。
鉄道においては平日とは異なり、朝や夜間の利用者は少なく、日中の利用者は若干多い。そのため、終電が繰り上げになる路線があったり、鶴見線・名鉄築港線・和田岬線のように工場への通勤が主体となる鉄道路線では平日よりも本数が極端に減少する路線もある。
路線バスにおいても通学利用が主体となる路線(特に地方)では日曜日(または休日)が運休となる路線もある。
道路交通においては観光地や商業施設周辺などでは日中は道路が混み合うこともあるが、物流業界にとっては休業日であるため、実際は交通量が最も少ない曜日である。
銀行・役所・役場・郵便局の多くは日曜日の業務を休業している。これは法律によって定められたものであるが、現在は実情に合わせて柔軟な対応ができるよう改正がされており、日曜日に業務を行うところも現れている。
公立図書館・美術館・博物館の多くは月曜日を定休日(休館日)としているが、国立国会図書館は日曜日が休館日である。
医療機関の多くは日曜日を休診としている。休診日の設定に明確な決まりや制限はないものの、他のサービスやスタッフとの連携に問題があるためとされている。
私立中学校のいわゆる名門校は、地域によってある一定の日時(東京都においては2月1日)に入試を行うことによって併願を制限している。しかし、その日が日曜日にあたる場合、一部のキリスト教系私立中学校では入試が実施されず、翌日に設定されることがある。従ってその年度の受験生は通常併願できない組み合わせの学校同士を受験できることとなり、入学のチャンスが増える。一方で、例年とは異なる受験者層が受験することにより当該学校のみならず地域全体の学校の難易度に変化が生じ、合否の予測が困難となることもある。一部ではサンデーショックと呼ばれる。
歴史上、日曜日に発生した騒乱・虐殺事件について、血の日曜日事件 (Bloody Sunday) と呼ぶ事がある。この名前で呼ばれる事件はいくつかあるが、その中でも代表的なのは以下の物である。
|
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"text": "私立中学校のいわゆる名門校は、地域によってある一定の日時(東京都においては2月1日)に入試を行うことによって併願を制限している。しかし、その日が日曜日にあたる場合、一部のキリスト教系私立中学校では入試が実施されず、翌日に設定されることがある。従ってその年度の受験生は通常併願できない組み合わせの学校同士を受験できることとなり、入学のチャンスが増える。一方で、例年とは異なる受験者層が受験することにより当該学校のみならず地域全体の学校の難易度に変化が生じ、合否の予測が困難となることもある。一部ではサンデーショックと呼ばれる。",
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"text": "歴史上、日曜日に発生した騒乱・虐殺事件について、血の日曜日事件 (Bloody Sunday) と呼ぶ事がある。この名前で呼ばれる事件はいくつかあるが、その中でも代表的なのは以下の物である。",
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日曜日(にちようび)または日曜(にちよう)は、土曜日と月曜日の間にある週の1日。カレンダーでは赤色で表記される例が比較的多い。
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{{混同|にちようび}}
{{出典の明記|date=2014年1月21日 (火) 09:21 (UTC)|ソートキー=曜日0}}
'''日曜日'''(にちようび)または'''日曜'''(にちよう)は、[[土曜日]]と[[月曜日]]の間にある[[週]]の1日。[[カレンダー]]では[[赤|赤色]]で表記される例が比較的多い。
== 各言語での名称 ==
日本語の名称は、[[七曜]]の1つである[[太陽]]の日にちなむ。
[[日本語]]以外では、{{lang-en|Sunday}}、{{lang-de|Sonntag}}、{{lang-nl|Zondag}}、{{lang-es|Domingo}}、{{Lang-la|Dies solis}}などと呼び、これらは日本語同様、由来は「太陽の日」である。
そのほかに「[[主日]]」に由来する名で呼ぶ言語も多い。
;太陽に由来する呼称を用いる言語
* 日本語
* [[中国語]]
* [[朝鮮語]]
* [[英語]]
* [[ドイツ語]]
* [[オランダ語]]
* [[スウェーデン語]]
* [[ケチュア|ケチュア語]]
;[[カトリック教会]]や[[正教会]]などの[[典礼]]・[[奉神礼]]暦用語由来の呼称を用いる言語
* [[ギリシア語]]
* [[フランス語]] - {{fr|dimanche}}({{lang-la|dominus}}「主」に由来)
* [[イタリア語]] - {{it|domenica}}(同上)
* [[スペイン語]]および[[ポルトガル語]] - {{es|domingo}} (同上)
* [[ベトナム語]]
* [[マレー語]]
;[[キリスト教]]におけるキリストの[[復活 (キリスト教)|復活]]を記念した「復活日」に由来する呼称を用いている言語
* [[ロシア語]]
;[[安息日]]に由来する呼称を用いる言語
* [[トルクメン語]]の新語
* [[ポーランド語]]
:ヨーロッパの多くの言語では安息日に由来する言葉を[[土曜日]]にあてている。
;「週の一日目」に由来する呼称を用いる言語
* [[ヘブライ語]](יום ראשון、ラテン文字化:Yom Rishon ) - 『[[創世記]]』の順序に従い週の初めとなった。そして土曜日が安息日である<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000192037 |title=週という概念ができたのはいつ頃からか、また、なぜ日月火水木金土の順なのかを調べたい。 |access-date=2023-05-16 |last=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース |language=ja}}</ref>。
* [[アラビア語]]
* [[タイ語]]
{{節スタブ}}
== 起源・沿革 ==
=== 旧約聖書 ===
神が天地の創造を6日間で終え、7日目に休んだとされる[[安息日]]は[[土曜日]]であり、週の始まりの日が日曜日である。
=== ヘレニズム ===
[[ヘレニズム|ヘレニズム文化]]が発達した[[地中海世界]]で、太陽が支配する曜日として[[紀元前1世紀]]に初登場し、途絶えることなく現代に伝わっている。[[西洋占星術|占星術]]により、土曜日は不吉とされて外出などが忌避されたかわりに日曜日は吉日となった。
=== キリスト教の礼拝日として ===
[[1世紀]]以降、インド・ペルシャの太陽神([[ミスラ]])を主神とする[[ミトラ教|ミトラス教]]が[[ローマ帝国]]に流入し、広く信仰された。 [[古代]]、[[太陽神]]が広く信仰されていた時代は日曜日が[[礼拝]]日であったという。
[[キリスト教]]では、[[福音書]]のとおり、イエスはユダヤ人の[[安息日]]の翌日に[[復活 (キリスト教)|復活]]したと信じられるが、後に、これを記念するとして、毎週日曜日に[[教会 (キリスト教)|教会]]で礼拝が行われるようになっていった。[[2世紀]]以降、[[カトリック教会|ローマ教会]]は毎年の[[過越]]の[[聖餐]]をせず、土曜日が終わるまで断食し、日曜日に聖餐をするようになった。その後[[4世紀]]になって、ローマ帝国では日曜日を[[休日]]とし、休業するように皇帝が命じた。皇帝はキリスト教などの全ての宗教を公認したが、[[国家宗教|国教]]は定めなかった。
=== 休日としての普及 ===
キリスト教圏では一般にこの日は[[休日]]であるほか、現在ではキリスト教圏以外でも日曜日を休日とする習慣が広がっている。
イギリスで[[1802年]]に世界初の「工場法」ができ、以後、[[20世紀]]にかけて世界各地では[[労働運動]]を背景として、雇用主は労働者に週1日の休みを与えるよう法制化された。国・地域によっては、労働者の権利として認められるのは遅く、たとえば、[[ポルトガル]]が週6日労働を法制化したのは[[1911年]]であり、[[1918年]]南米[[コロンビア]]では、農園労働者が週6日労働などを要求して長期の[[ストライキ]]を闘ったが敗北に終わったことがある。日本では明治時代に七曜が導入され、[[神武天皇]]即位の日が日曜日であるという理由から休日となった。戦後[[1947年]]に日本国憲法にともなって[[労働基準法]]ができ、1週間に1日または4週間に4日の休日を与えることが定められた。一方、農村では「生活改善運動」が組織され、農家の働く女性の休日を実現するため、住民自治により月2回の定休日を設けたことがあるにとどまっていたが、高度成長期における人口移動を通じて都市部の勤労者が多数となったことから、社会人が日曜日に休む習慣が日本でも普及した。
黎明期の[[メジャーリーグベースボール]]では、日曜日は安息日という理由から、試合開催は[[タブー]]視されていた。しかし[[アメリカン・アソシエーション (19世紀)|アメリカン・アソシエーション]]は日曜日にも試合開催を積極的に行い、観客動員数増加に貢献した。
; 休日とする法律
* {{ill2|安息日への冒涜|en|Sabbath desecration}} - ユダヤ教の安息日など、宗教的に休みとする日を冒涜して労働する事に対する罪。
* {{ill2|ブルー・ロー|en|Blue law}}(Sunday laws) - キリスト教世界では、特に日曜日に礼拝へ行かせるため、あらゆる勤労を制限する法律が課された。
* [[コンスタンティヌス1世]] - 西暦321年3月7日の日曜は、キリスト教では[[復活祭]]の日曜日、ローマ帝国の太陽神[[ソル・インウィクトゥス]]の祝日であるため、農業以外で働くことを禁じた。また[[テオドシウス法典]]2,8,1として、西暦321年3月3日に日曜日を週の休みとした。
== 日本における日曜日 ==
日本では[[文明開化]]の中で導入され、紀元前660年2月11日(神武天皇の即位の日)が日曜日であったことから休日となり、市町村役場、初等学校などを通じて地方に普及した。ちなみに導入以前は官庁は5日周期の休日([[一六日]])としていたため、日曜日を休日とすることで、かえって労働時間は増加した。
全国共通して日曜日を官庁の休日と定める法律は[[休日#国の機関・地方公共団体の休日に関する法律|「国会に置かれる機関の休日に関する法律」「裁判所の休日に関する法律」「行政機関の休日に関する法律」]]があり、行政機関・裁判所などの当該機関の休日を日曜日(および土曜日・祝日・指定された日)と定めている。しかし、民間企業にも適用される[[労働基準法]]において休日に関する具体的な曜日は指定されていない。
祝日法の[[振替休日]]の規定は民間企業には適用されないが、日曜日を休日であるという前提に基づいているため、事実上、日曜日が休日であると一般的に認識はされている。
官庁では[[1876年]]の日曜日導入まで[[五十日]](ごとおび)の翌日と朔(ついたち:月の初日)を公休日としていた([[一六日]])。しかし、人口の大多数を占めた農家には農作業を休む日として毎月定例の「市」が立つ日、「[[講]]」の集まりがあるほかは、毎週の定休日は無く、むしろ、農繁期には家業を手伝わせるため学校も休校した。[[1945年]]以前、ところにより月1回の一斉休業日が設けられるにとどまる。
日時が決まっているイベントや風習によっては、当日が日曜日に当たった場合は翌日もしくは直前の金曜日などに変更される場合がある。
=== 振替休日 ===
{{main|振替休日}}
現在では休日となることが多いが、行事の都合で出校日にする学校や、業務内容の関係で休日としない会社もある。この場合、その日に一番近い[[平日]]を[[振替休日]]または通常の休日とする。消費者に相対する小売業をはじめ[[第三次産業]]に従事する人口の比率が高まっており、日曜日を定休日としない事業所は多い。製造業の代表的な職場では、祝日法に定める振替休日は無視されている([[トヨタカレンダー]]参照)。
これとは別に、日本では[[1973年]]より日曜日と[[国民の祝日|祝日]]が重複した場合は振替休日が設けられるようになった。
=== 交通状況 ===
{{see also|休日#交通機関における休日}}
鉄道においては平日とは異なり、朝や夜間の利用者は少なく、日中の利用者は若干多い<ref>[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の資料によると、時間帯ごとの移動者数は7時 - 8時台と18時 - 19時台は平日よりも休日の方が移動者数が少なく、10時 - 16時台は平日よりも休日の方が移動者数が若干多いという結果が出ている。出典:{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_4/46-53.pdf 駅を中心とする移動と消費に関する調査研究]}} 。</ref>。そのため、[[終電]]が繰り上げになる路線があったり、[[鶴見線]]・[[名鉄築港線]]・[[和田岬線]]のように工場への通勤が主体となる鉄道路線では平日よりも本数が極端に減少する路線もある。
路線バスにおいても通学利用が主体となる路線(特に地方)では日曜日(または休日)が運休となる路線もある。
道路交通においては観光地や商業施設周辺などでは日中は道路が混み合うこともあるが、物流業界にとっては休業日であるため、実際は交通量が最も少ない曜日である<ref>[https://www.shutoko.jp/sp/traffic/traffic-info/guide/guide_01/ 渋滞が起きやすい時間帯を避ける!] − 首都高ドライバーズサイト</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/5004/00095717/1-12.pdf 大阪府域における曜日別・月別交通渋滞発生状況]}} - 大阪府</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.dik.or.jp/wp-content/uploads/2017/01/p_120329_54.pdf 熊本市中心部の交通渋滞実態調査]}} - 地方経済総合研究所</ref>。
=== 休業とする業種 ===
[[銀行]]・[[役所|役所・役場]]・[[郵便局]]の多くは日曜日の業務を休業している。これは法律によって定められたものであるが、現在は実情に合わせて柔軟な対応ができるよう改正がされており、日曜日に業務を行うところも現れている<ref>[https://oggi.jp/6058829 業界ごとにお休みが決まっている?〜木曜日以降編〜] - Oggi.jp</ref>。
公立[[図書館]]・[[美術館]]・[[博物館]]の多くは月曜日を定休日(休館日)としているが、[[国立国会図書館]]は日曜日が休館日である<ref>[https://www.ndl.go.jp/jp/kansai/time.html 利用時間・休館日] - 国立国会図書館</ref>。
医療機関の多くは日曜日を休診としている。休診日の設定に明確な決まりや制限はないものの、他のサービスやスタッフとの連携に問題があるためとされている<ref>[http://news.ameba.jp/20140407-115/ なぜ、土日に開いている病院が少ないのでしょうか?] - アメーバニュース</ref>。
{{see also|医療機関#休診日}}
=== サンデーショック ===
[[私立学校|私立中学校]]のいわゆる名門校は、地域によってある一定の日時([[東京都]]においては[[2月1日]])に入試を行うことによって[[併願]]を制限している。しかし、その日が日曜日にあたる場合、一部の[[キリスト教主義学校|キリスト教系私立中学校]]では入試が実施されず、翌日に設定されることがある。従ってその年度の受験生は通常併願できない組み合わせの学校同士を受験できることとなり、入学のチャンスが増える。一方で、例年とは異なる受験者層が受験することにより当該学校のみならず地域全体の学校の難易度に変化が生じ、合否の予測が困難となることもある。一部では'''[[サンデーショック]]'''と呼ばれる。
== 日曜日に発生した歴史的事件 ==
歴史上、日曜日に発生した騒乱・虐殺事件について、[[血の日曜日事件]] (Bloody Sunday) と呼ぶ事がある。この名前で呼ばれる事件はいくつかあるが、その中でも代表的なのは以下の物である。
* [[1905年]][[1月22日]]([[グレゴリオ暦]]、ロシア旧暦([[ユリウス暦]])では1月9日) - [[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク]]で発生した[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]。労働者を中心とした皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]への誓願デモに警察が発砲し、1000人以上の死者を出し、[[ロシア第一革命]]の引き金となった。
* [[1972年]][[1月30日]] - [[イギリス]]領[[北アイルランド]]の[[ロンドンデリー]]市で発生した[[血の日曜日事件 (1972年)|血の日曜日事件]]。公民権を求めた[[カトリック教会|カトリック]]系市民にイギリス軍が発砲して13人の死者を出し、[[北アイルランド問題|北アイルランド紛争]]を悪化させた。この事件に関し、同年に[[ジョン・レノン]]が「[[血まみれの日曜日]]」、[[1983年]]に[[U2]]が「[[WAR(闘)|ブラディ・サンデー]]」を発表した。
== 「日曜日」を語源とする文物 ==
* オランダ語の Zondag が[[博多どんたく]]の「どんたく」の[[語源]]になった。
* [[スバル・ドミンゴ]] [[富士重工業]]が以前生産・販売していたワンボックスタイプの乗用車(スペイン語から)。
* [[サンデー (デザート)|サンデー]] デザートの1つ。宗教的理由で綴りは変更された。
* 『[[週刊少年サンデー]]』に始まる、『[[週刊ヤングサンデー]]』、『[[月刊サンデージェネックス]]』などの[[小学館]]の[[漫画雑誌]]。
* [[レッツゴーヤング#サンデーズ|サンデーズ]] - [[日本放送協会|NHK]]の[[音楽番組]]『[[レッツゴーヤング]]』のバックダンサー。同番組が日曜日に放送されていたことに由来する。
* サンデー兆治 - 元ロッテオリオンズ(現[[千葉ロッテマリーンズ]])投手の[[村田兆治]]が日曜日に登板することが多く、それにちなんでつけられた呼称。
== 「日曜」を冠した番組 ==
<!--本項は日曜日を作品のテーマとした物を記述すること-->
=== テレビ ===
* [[日曜討論]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])
* [[日曜美術館]]([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]])
* [[日曜スペシャル]]
* [[日曜劇場|東芝日曜劇場→日曜劇場]]([[TBSテレビ|TBS]]系列 系列外では[[秋田放送|ABS]]、[[福井放送|FBC]]、[[四国放送|JRT]]で放送)
* [[日曜エンターテインメント]]([[テレビ朝日]]系列)
** [[日曜洋画劇場]]
* [[日曜ナイトドラマ]]→[[日曜ナイトプレミア]](テレビ朝日系列)
* [[日曜ビッグスペシャル]]([[テレビ東京]]系列)
* [[日曜ビッグバラエティ (テレビ東京)|日曜ビッグバラエティ]](テレビ東京系列)
* [[日曜特集 (NHK)|日曜特集]](NHK総合)
* [[日曜特集]](TBS系列 [[1981年]])
* [[日曜特集・新世界紀行]](TBS系列)
* [[末廣演芸会|(グラスロン→長崎タンメン)日曜演芸会]]([[テレビ朝日|NET]]系列)
* [[日曜はダメ!!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列 ※ただし、放送は[[土曜日]]だった。)
* [[日曜の夜は遊び座です]](日本テレビ系列)
* [[日曜ゴールデン特版]](TBS系列)
* [[日曜ゴールデンで何やってんだテレビ]](TBS系)
* [[日曜×芸人]](テレビ朝日系列)
* [[サンデージャポン|サンデー・ジャポン]](TBS系列 一部地域を除く)
* [[サンデープレゼント]](テレビ朝日系列)
* [[スペシャルサンデー]](テレビ朝日系列 一部地域を除く)
* [[サンデードラゴンズ]]([[CBCテレビ]])
* [[サンデースポーツ]](NHK総合テレビ)
* [[サンデーヤングミュージック]]([[NHK衛星第2テレビジョン|NHKBS2]])
* [[パソコンサンデー]](テレビ東京系列)
* [[ポケモン☆サンデー]](テレビ東京系列)
* [[ドラマチック・サンデー]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列)
* [[フジテレビ系列日曜夜7時台枠のアニメ]](フジテレビ系列)
* [[フジテレビ日曜朝9時台枠のアニメ]](フジテレビ系列)
* [[フジテレビ系列日曜夕方6時台枠のアニメ]](フジテレビ系列)
* [[ふれあい広場・サンデー九]]([[札幌テレビ放送]])
* [[シルシルミシル|知って見て得する情報バラエティ シルシルミシルさんデー]](テレビ朝日系列)
* [[Mr.サンデー]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]・フジテレビ系列)
* [[日10☆演芸パレード]]([[MBSテレビ|毎日放送]]・TBS系)
* [[日曜ドラマ]](日本テレビ系列)
* [[日曜プライム]](テレビ朝日系列)
* [[日曜THEリアル!]]→[[日曜ワンダー!]](フジテレビ系列)
; 日曜のみ放送のニュース・情報番組
* [[NNNニュースサンデー]]
* [[THE・サンデー|The・サンデー]]→[[THE・サンデーNEXT]](日本テレビ系列 [[テレビ宮崎|UMK]]は除く)
* [[NNN日曜夕刊]]→[[NNNニュースプラス1|NNNニュースプラス1・サンデー]]→[[THE独占サンデー|The独占サンデー]]([[日本ニュースネットワーク|NNN]]系列)
* [[サンデープロジェクト]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]・テレビ朝日系列)
* [[サンデー・フロントライン]](テレビ朝日系列)
* [[報道ステーション SUNDAY]](テレビ朝日系列)
* [[サタデージャングル・サンデージャングル|サンデージャングル]](テレビ朝日系列)
* [[サンデーステーション]](テレビ朝日系列)
* [[サンデーモーニング|関口宏のサンデーモーニング→新サンデーモーニング→サンデーモーニング]](TBS系列)
* [[報道プライムサンデー]](フジテレビ系列)
* [[日曜報道 THE PRIME]](フジテレビ系列)
* [[中日新聞テレビ日曜夕刊]]([[東海テレビ放送|東海テレビ]]・[[富山テレビ放送|富山テレビ]]・[[石川テレビ放送|石川テレビ]])
* [[SUN-TV日曜夕刊]]([[サンテレビジョン|サンテレビ]])
* [[ニュースSUNデー]](サンテレビ)
* [[OHKサンデースピーク]]([[岡山放送]])
; テレビドラマのタイトル
* [[日曜はダメよ (テレビドラマ)|日曜はダメよ]](日本テレビ系列 1993年。ただし[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜グランド劇場]]で放送)
=== ラジオ ===
* [[山下達郎のサンデー・ソングブック|サンデー・ソングブック]]([[全国FM放送協議会|JFN]]系)
* [[ハート・オブ・サンデー]](JFN系)
* [[有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER]](JFN系)
* [[爆笑問題の日曜サンデー]]([[TBSラジオ]])
* [[安住紳一郎の日曜天国]](TBSラジオ 略称「'''にち10'''」)
* [[伊集院光 日曜日の秘密基地]](TBSラジオ)
* [[ラ・ラ・ラ♪日ようび]](TBSラジオ)
* [[キンキンのサンデー・ラジオ]]([[文化放送]])
* [[三宅裕司のサンデーヒットパラダイス]]([[ニッポン放送]])
* [[日曜競馬ニッポン]](ニッポン放送)
* [[笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ]](ニッポン放送)
* [[野中藍 ラリルれ、にちようび。]]
* [[NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS|SUNDAY LIONS]]([[エフエムナックファイブ|NACK5]])
* [[SUNDAY IN THE PARK]]([[エフエム富士|FM FUJI]])
* [[日曜ワイド われら夢の途中]]([[京都放送|KBS京都]])
* [[カードファイト!! ヴァンガード ラジオ|立ち上がれ!僕らのヴァンガード サンデー]]([[大阪放送|ラジオ大阪]])
* [[大泉洋のサンサンサンデー]]([[HBCラジオ]])
== 日曜日に関する作品 ==
=== 小説 ===
* 日曜日([[三島由紀夫]])
=== 映画 ===
* {{仮リンク|悪魔の日曜日|de|The Devil’s Holiday}}(1930年、[[アメリカ合衆国|米国]])
* {{仮リンク|ある日曜日の午後|en|One Sunday Afternoon}}(1933年、米国)
* [[日曜はダメよ (映画)|日曜はダメよ]](1960年、米国)
* [[シベールの日曜日]](1962年、[[フランス]])
* [[日曜日が待ち遠しい!]](1982年、フランス)
* [[田舎の日曜日]](1984年、フランス)
* [[日曜日のピュ]](1992年、[[スウェーデン]])
* [[暗い日曜日 (映画)|暗い日曜日]](1999年、[[ドイツ]]・[[ハンガリー]])
* [[恋する日曜日]](2006年、日本)
=== 楽曲 ===
* [[暗い日曜日]]
* 日曜日は嫌い (原題 Le droit d'aimer) (歌: [[エディット・ピアフ]])
* [[日曜日~ひとりぼっちの祈り~]]([[蓬萊泰三]]作詞、[[南安雄]]作曲の合唱曲。)
* 会えない長い日曜日(歌: [[藤本美貴]])
* [[青い日曜日]](歌:[[野口五郎]])
* いじわる雨の日曜日(歌: [[アグネス・チャン]])
* 風の日曜日(歌:[[熊谷幸子]])
* [[悲しみの日曜日]](歌:野口五郎)
* キミに恋する日曜日(歌: [[半場友恵]]・[[神崎ちろ]])
* 恋する日曜日(歌:[[木村佳乃]])
* 『コンクリート』『ジャパニーズ』『サンデー』(歌:[[TOKIO]])
* SUNDAY(歌: [[ザ・ベイビースターズ]])
* サンデイ (歌: [[ASIAN KUNG-FU GENERATION]])
* [[Until Strawberry Sherbet|Sunday Afternoon]](歌: [[林原めぐみ]])
* Sunday early morning(歌: [[桃井はるこ]])
* Sunday Girl(歌: [[ブロンディ (バンド)|Blondie]])
* Sunday Circus Songl(歌: [[The Cardigans]])
* [[Sunny Day Sunday]](歌: [[センチメンタル・バス]])
* Sunday People(歌: [[SUPERCAR]])
* Sunday Bloody Sunday(歌: [[U2]])
* Sunday Morning(歌: [[Maroon 5]])
* サンデーモーニング(歌: [[くるり]])
* サンデーモーニング(歌: [[つじあやの]])
* 静かな日曜日(歌:小野正利)
* sweet sunday(歌: [[しほの涼]])
* 退屈な日曜日(歌:[[SMAP]])
* ため息の日曜日(歌:[[原田知世]])
* ためいきの日曜日(歌: [[Mr.Children]])
* 小さな日曜日(歌:[[石川セリ]])
* 東京の日曜日(歌:[[石原裕次郎]])
* [[愛の世代の前に|土曜の夜と日曜の朝]](歌: [[浜田省吾]])
* どんたく(歌:[[サディスティック・ミカ・バンド]])
* 日曜 (歌:[[Galileo Galilei]])
* 日曜の朝(歌:[[宇多田ヒカル]])
* 日曜は何処へ行った?(歌:[[松たか子]])
* 日曜はベルが鳴る前に(歌:[[EPO]])
* [[名前をつけてやる|日曜日]](歌: [[スピッツ (バンド)|スピッツ]])
* 日曜日(歌: [[レミオロメン]])
* [[ひとりじゃない (DEENの曲)|日曜日]](歌: [[DEEN]])
* 日曜日(歌: [[milk rings]])
* [[日曜日 (back numberの曲)|日曜日]](歌: [[back number]])
* 日曜日(歌: [[Kra]])
* 日曜日(歌: [[紘毅]])
* [[にちようび]](歌: [[JITTERIN'JINN]])
* にちようび(歌: 近衛木乃香【声優: [[野中藍]]】)
* [[幸せ -EP-|にちようび]] (歌: [[緑黄色社会]])
* にちようび feat. MURO, BOO(歌: [[SOUL SCREAM]])
* 日曜日が足りない(歌:[[永井真理子]])
* 日曜日のアニキの役(歌:SMAP)
* [[ゆずスマイル|日曜日の午後]](歌: [[ゆず (音楽グループ)|ゆず]])
* 日曜日の午後(歌: [[スガシカオ]])
* 日曜日の太陽(歌: [[THE NEUTRAL]] )
* 日曜日の娘/来週の日曜日(歌: [[奥田民生]])
* 日曜日の娘(歌: [[PUFFY]])
* [[西田佐知子歌謡大全集#Disc 5|日曜はいやよ]](歌: [[西田佐知子]])
* 日曜日はいらない(歌:[[生稲晃子]])
* [[日曜日はストレンジャー]](歌: [[石野真子]])
* 日曜日はダメよ(歌: [[三浦理恵子]])
* [[LINDBERG V|日曜日はドライブ日和]](歌: [[リンドバーグ (バンド)|リンドバーグ]])
* [[日曜日よりの使者]](歌: [[THE HIGH-LOWS]])
* はじめての日曜日(歌: 野中藍)
* [[金色のリボン|HAPPY SUNDAY]](歌: [[松田聖子]])
* [[MAGIC (DREAMS COME TRUEのアルバム)|花曇りの日曜日]](歌: [[DREAMS COME TRUE]])
* 晴れた日曜日(歌:[[森高千里]])
* [[transition#収録曲|晴れた日と日曜日は]](歌: [[山崎まさよし]])
* ひとりぼっちの日曜日(歌:石川セリ)
* [[ビューティフル・サンデー]](歌: [[ダニエル・ブーン (歌手)|ダニエル・ブーン]]、[[田中星児]])
* [[ふたりの日曜日]](歌: [[天地真理]])
* [[ステキな日曜日〜Gyu Gyu グッデイ!〜]](歌: [[芦田愛菜]])
== 記号 ==
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!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|12848|3230|-|全角括弧付き日<br />PARENTHESIZED IDEOGRAPH SUN}}
{{CharCode|12944|3290|-|丸日<br />CIRCLED IDEOGRAPH SUN}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日曜日から始まる平年]]
* [[日曜日から始まる閏年]]
* [[教会学校]](日曜学校)
* [[ドンタク]]
* [[半ドン]]
* [[サザエさん症候群]]
* [[サンデーロースト]]
* [[サンデードライバー]] - 日曜にしか自動車を運転しない者、転じて運転技術が低く拙い運転をする者を揶揄する言葉
{{曜日}}
{{Normdaten}}
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[[Category:曜日]]
[[Category:日曜日|*]]
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双子素数
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双子素数(ふたごそすう、英: twin prime)とは、差が 2 である二つの素数の組を構成する各素数のことである。双子素数の組は、(2, 3) を除いた、最も近い素数の組である。双子素数を小さい順に並べた列は、次の通りである。
各組の2素数の平均値(中間の偶数)は、次の通りである。3連続した数 (a, a+1, a+2) は2と3双方の倍数を含むことから、3の倍数で唯一素数である 3 を含む (3, 5) の組である 4 以外は全て 6 (=2x3) の倍数となる。
素数が無数に存在することは古代ギリシアで既に知られており、ユークリッドの『原論』に証明がある。これに対し、双子素数が無数に存在するかという問題、いわゆる「双子素数の予想」は、いまだに数学上の未解決問題である。
双子素数予想が古代ギリシア時代から知られていたとの記述も一部文献に見られるが、確証は得られていない。A. de Polignac (1849年) は、双子素数予想を一般化して、任意の偶数を差とする素数の組が無数にあるか、という問題を提出している。
上からの評価式など部分的な結果があるが、その中でも漸近公式の予想は注目に値する。双子素数の組の数の漸近公式はハーディ・リトルウッド予想の一部であり、これは素数定理と似通った次のような双子素数の漸近的な分布公式を予想している。
x 以下の双子素数の組の数は、漸近的に
で与えられる。後者の積分による表示式の方が良い近似を与える。ここで、定数 C は次のような無限積で定義される。
この定数 C は「ハーディ・リトルウッド定数」の一つである。
この問題は、特に2素数の場合のゴールドバッハの予想に密接に関係しており、篩法などの研究者によって双方の研究が同時に進められてきた。
2004年5月に、「双子素数が無数に存在することの証明」と題された論文が Richard Arenstorf によって提出され、上記のハーディ・リトルウッドの予想が正しいと主張されたが、内容に重大な誤りがあるとして著者自身によって撤回された。
(3, 5), (5, 7), (11, 13), (17, 19), (29, 31), (41, 43), (59, 61), (71, 73), (101, 103), (107, 109), (137, 139), (149, 151), (179, 181), (191, 193), (197, 199), (227, 229), (239, 241), (269,271), (281, 283), (311, 313), ...
2020年7月現在で知られている最大の双子素数は、388,342 桁の 2996863034895 × 2 ± 1 である。これは、2016年9月に分散コンピューティングプロジェクトの一つである PrimeGrid により発見された。
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"title": "例"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2020年7月現在で知られている最大の双子素数は、388,342 桁の 2996863034895 × 2 ± 1 である。これは、2016年9月に分散コンピューティングプロジェクトの一つである PrimeGrid により発見された。",
"title": "例"
}
] |
双子素数とは、差が 2 である二つの素数の組を構成する各素数のことである。双子素数の組は、(2, 3) を除いた、最も近い素数の組である。双子素数を小さい順に並べた列は、次の通りである。 各組の2素数の平均値(中間の偶数)は、次の通りである。3連続した数 は2と3双方の倍数を含むことから、3の倍数で唯一素数である 3 を含む の組である 4 以外は全て 6 (=2x3) の倍数となる。
|
'''双子素数'''(ふたごそすう、{{lang-en-short|twin prime}})とは、差が 2 である二つの[[素数]]の組を構成する各素数のことである。双子素数の組は、(2, 3) を除いた、最も近い素数の組である。双子素数を小さい順に並べた列は、次の通りである。
: ([[3]], [[5]]), ([[5]], [[7]]), ([[11]], [[13]]), ([[17]], [[19]]), ([[29]], [[31]]), …
各組の2素数の平均値(中間の偶数)は、次の通りである。3連続した数 ({{math|a, a+1, a+2}}) は2と3双方の倍数を含むことから、3の倍数で唯一素数である 3 を含む (3, 5) の組である 4 以外は全て 6 (=2x3) の倍数となる。
: [[4]], [[6]], [[12]], [[18]], [[30]], [[42]], [[60]], [[72]], [[102]], [[108]], [[138]], …
== 双子素数の予想 ==
{{Unsolved|数学上|双子素数は無限に存在するか。}}
素数が無数に存在することは[[古代ギリシア]]で既に知られており、[[素数が無数に存在することの証明|ユークリッドの『原論』に証明がある]]。これに対し、双子素数が無数に存在するかという問題、いわゆる「双子素数の予想」は、いまだに[[数学上の未解決問題]]である。
双子素数予想が古代ギリシア時代から知られていたとの記述も一部文献に見られるが、確証は得られていない。A. de Polignac ([[1849年]]) は、双子素数予想を一般化して、任意の偶数を差とする素数の組が無数にあるか、という問題を提出している。
上からの評価式など部分的な結果があるが、その中でも漸近公式の予想は注目に値する。双子素数の組の数の漸近公式は[[ハーディ・リトルウッド予想]]の一部であり、これは[[素数定理]]と似通った次のような双子素数の漸近的な分布公式を予想している。
{{mvar|x}} 以下の双子素数の組の数は、漸近的に
:<math>2C\frac{x}{(\log x)^2}</math>、あるいは <math>2C\int_2^x \frac{dx}{(\log x)^2}</math>
で与えられる。後者の積分による表示式の方が良い近似を与える。ここで、定数 {{mvar|C}} は次のような無限積で定義される。
:<math>C=\prod_{p>2} \left\{ 1-\frac{1}{(p-1)^2} \right\} =0.6601\cdots</math>
この定数 {{mvar|C}} は「ハーディ・リトルウッド定数」の一つである。
この問題は、特に2素数の場合の[[ゴールドバッハの予想]]に密接に関係しており、[[篩法]]などの研究者によって双方の研究が同時に進められてきた。
[[2004年]]5月に、「双子素数が無数に存在することの証明」と題された論文が Richard Arenstorf によって提出され<ref>[http://arxiv.org/abs/math.NT/0405509 Proof of Infinitely many Twin Primes]</ref>、上記のハーディ・リトルウッドの予想が正しいと主張されたが、内容に重大な誤りがあるとして著者自身によって撤回された。
== 例 ==
=== 最初の20組の双子素数 ===
([[3]], [[5]]), ([[5]], [[7]]), ([[11]], [[13]]), ([[17]], [[19]]), ([[29]], [[31]]), ([[41]], [[43]]), ([[59]], [[61]]), ([[71]], [[73]]), ([[101]], [[103]]), ([[107]], [[109]]), ([[137]], [[139]]), ([[149]], [[151]]), ([[179]], [[181]]), ([[191]], [[193]]), ([[197]], [[199]]), ([[227]], [[229]]), ([[239]], [[241]]), ([[269]],[[271]]), ([[281]], [[283]]), ([[311]], [[313]]), …
=== 各組の双子素数の関数 ===
{|class="wikitable" style="text-align: center;"
! 数 !! [[OEIS]]
|-
! 小さいほうの数
| {{OEIS2C|A001359}}
|-
! 大きいほうの数
| {{OEIS2C|A006512}}
|-
! 平均値の偶数
| {{OEIS2C|A014574}}
|-
! 和
| {{OEIS2C|A054735}}
|-
! 積
| {{OEIS2C|A037074}}
|}
=== 知られている最大の双子素数 ===
2020年7月現在で知られている最大の双子素数は、388,342 桁の {{math|2996863034895 × 2{{sup|1290000}} ± 1}} である。これは、[[2016年]][[9月]]に[[分散コンピューティング]]プロジェクトの一つである [[PrimeGrid]] により発見された<ref>PrimePages, [https://primes.utm.edu/primes/page.php?id=122213 The Prime Database: 2996863034895*2^1290000-1]</ref>。
== 双子素数に関する諸結果 ==
*{{math|(3, 5)}} を除く全ての双子素数は {{math|(6''n'' − 1, 6''n'' + 1)}}({{mvar|n}} は特定の[[自然数]])の形であり、これは{{math|(3, 5)}} を除く双子素数同士の和が、常に12の倍数であることを意味する。
*最初の2組を除き、双子素数の一の位は([[十進法]]で){{math|(1, 3), (7, 9), (9, 1)}} のいずれかである。
*{{mvar|x}} より小さな双子素数の個数は高々 <math>O\left( x/( \log x)^2 \right)</math> である。したがって、{{mvar|p}} と {{math|''p'' + 2}} がともに素数の場合、次式は収束する (Brun, 1919)。
*:<math>B_2 =\sum_p \left( \frac{1}{p} +\frac{1}{p+2} \right)</math>(双子素数の[[逆数]][[総和|和]])
:この値 (1.90強) を[[ブルン定数]]と呼ぶ。素数の逆数和は発散するので、素数の中で双子素数は、さほど多くはないといえる。また、すべての偶数は、高々9個の素数の積で表される2つの整数の差として無限通りに表すことができることも[[ヴィーゴ・ブルン]]は示している (Brun, 1920)。これらの結果は[[篩法]]によるものであり、篩法の最初の本格的な成果である。それと同時に、双子素数に関する最初の理論的な結果であり、双子素数に関する研究の出発点となった。
*ブルン定数 {{math|''B''{{sub|2}}}} の2005年時点での最も正確な値は、{{math|''B''{{sub|2}} {{=}} 1.902160583104…}} である。この値は、{{math|10{{sup|16}}}} までに現れる双子素数を使用して求められた (Sebah, 2002)。なお、[[1994年]]にブルン定数を計算する過程で P54C [[Pentium]] の[[Pentium_FDIV_バグ|浮動小数点演算命令にバグが存在する]]ことが発見され、話題となった(詳しくは[[Intel Pentium (1993年)#全数リコール|Pentium]]を参照)。
*[[陳景潤]] (Chen Jing Run) は、{{math|''p'' + 2}} が[[半素数|高々2個の素数の積]]となるような素数 {{mvar|p}} が無数に存在することを示している (Chen, 1966)。
*{{math|''p'' + 2}} が高々2個の素数の積となるような素数 {{mvar|p}} を[[陳素数]]と定義したとき、無限個の陳素数の3項等差数列が存在する(Ben Green, [[テレンス・タオ]], 2005)。
*{{math|(''n'', ''n'' + 2)}} が双子素数であるための必要十分条件は、{{math|4{(''n'' − 1)! + 1} + ''n'' ≡ 0 (mod ''n''(''n'' + 2))}} である (Clement, 1949)。
*2005年、D. Goldston-J. Pintz-C. Yildirim によって次式が証明された。
*:<math>\liminf_{n\to \infty} \frac{p_{n+1} -p_n}{\log p_n} =0.</math>
=== 素数間間隔ごとの無限存在証明 ===
*[[2013年]][[4月17日]]に、{{仮リンク|ニューハンプシャー大学|en|University of New Hampshire}}の[[張益唐]] (Zhang Yitang) は、「隣り合った素数の隔たりが、7千万以下のものが無数組存在する」こと、言い換えると
*:<math>\liminf_{n\to\infty} (p_{n+1} -p_n )<7\times 10^7</math>
:を証明した[[論文]] “Bounded Gaps Between Primes” を発表し、''[[Annals of Mathematics]]'' に[[アクセプト]]された<ref>[http://annals.math.princeton.edu/articles/7954 Bounded gaps between primes|Annals of Mathematics]</ref>。なお,張益唐の定理に先行する主要な研究結果の詳細解説がテレンス・タオらによって与えられている<ref>{{citation
|first = Terence
|last = Tao
|title = The prime tuples conjecture, sieve theory, and the work of Goldston-Pintz-Yildirim, Motohashi-Pintz, and Zhang
|url = http://terrytao.wordpress.com/2013/06/03/the-prime-tuples-conjecture-sieve-theory-and-the-work-of-goldston-pintz-yildirim-motohashi-pintz-and-zhang/
|year = 2013
|date = 2013-06-03
|accessdate = 2016-01-14
}}</ref>。
*2013年、張益唐の結果から数か月後、ジェームズ・メイナードとテレンス・タオがそれぞれ独立に、素数をm個含む連続した整数の区間が無数に存在する条件を解明した。区間の幅はmに依存する。例としてm=2である場合、連続した整数を {{math|600}} ごとに区切ると素数が2個含まれる場合が無数にあり<ref>別の表現をすると「素数が2個含まれる連続した {{math|600}} の整数の組の最大値は存在しない」</ref>、m=3とすると、素数を3個含み39万5122の幅を持つ区間が無数に存在する。これは張益唐の「7000万ごと」を大幅に小さくする成果である<ref>{{cite news
|title = 素数の間隔で新定理発見 極端な偏りなく分布、米英数学者
|url = https://www.chibanippo.co.jp/newspack/20140226/181201
|publisher = 千葉日報オンライン
|date = 2014-02-26|accessdate = 2022-03-19}}</ref><ref name="sportnippon20140226">{{cite news
|title = 素数の新定理発見 極端な偏りなく分布 米英数学者「夢のような成果」
|url = http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/02/26/kiji/K20140226007668140.html
|publisher = [[スポーツニッポン]]
|date = 2014-02-26
|accessdate = 2014-12-06
}}</ref>{{リンク切れ|date=2022年3月}}<ref name="47news20140226">{{cite news
|title = 素数の間隔で新定理発見 極端な偏りなく分布、米英数学者
|url = https://web.archive.org/web/20140302012802/http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014022601001180.html
|publisher = [[47NEWS]]
|date = 2014-02-26
|accessdate = 2014-12-06
}}</ref>{{リンク切れ|date=2022年3月}}<ref name="ryukyu20140226">{{cite news
|title = 素数の間隔で新定理発見 極端な偏りなく分布、米英数学者
|url = http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-220227-storytopic-1.html
|publisher = [[琉球新報]]
|date = 2014-02-26
|accessdate = 2014-12-06
}}</ref>{{リンク切れ|date=2022年3月}}。メイナードはこの発見を含む業績により2022年の[[フィールズ賞]]を受賞した<ref>{{citation | url=https://www.mathunion.org/imu-awards/fields-medal/fields-medals-2022 | title=Fields Medals 2022 | accessdate=2022-07-05 | date=2022-07-05 | publisher=国際数学連合 | author=国際数学連合 | authorlink=国際数学連合}}</ref>。
*2014年12月現在、張益唐が与えた7千万という間隔(上記のm=2である場合の区間の幅)は {{math|246}} まで狭められている。すなわち、間隔が {{math|246}} 以内である素数の組は無数に存在する<ref>{{citation
|first = Erica
|last = Klarreich
|title = Prime Gap Grows After Decades-Long Lull
|url = https://www.quantamagazine.org/20141210-prime-gap-grows-after-decades-long-lull/
|publisher = QUANTA magazine
|year = 2014
|date = 2014-12-10
|accessdate = 2016-01-14
}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
*A. de Polignac, Six propositions arithmetiques deduites de crible d'Eratosthenes, Nouv. Ann. Math., 8 (1849), 423-429.
*V. Brun, Le crible d'Erathostene et la theoreme de Goldbach, Videnskapsselskapets Skrifter Kristiania, Mat.-nat. K1. 1920, No. 3, 36 pages.
*J. R. Chen, On the representation of a large even integer as the sum of a prime and the product of at most two primes, I, Sci. Sinica, 16(1973), 157-176 and II, ibid. 21(1978), 421-430.
*本橋洋一,解析的整数論 I -- 素数分布論 --,朝倉書店,東京 2009 (第2刷 2012:加筆含む)ISBN 978-4-254-11821-6
*本橋洋一,[https://doi.org/10.11429/sugaku1947.57.138 篩法概観],日本数学会「数学」57 (2005), 138-163.
*[[日本数学会]]市民講演 {{PDFlink|[http://mathsoc.jp/publication/tushin/1001/motohashi.pdf “素数の翼に乗って”]}}本橋洋一(日本大学理工学部)
*H. Davenport, Multiplicative Number Theory, 3rd edition, Springer-Verlag, 2002.
*H. Halberstam and H. E. Richert, Sieve Methods, Academic Press, 1974.
*M. B. Nathanson, Additive Number Theory: The Classical Bases, Springer-Verlag, 1996.
*P. Sebar, Counting twin primes and Brun's constant new computation, [email protected] mailing list, 2002
== 関連項目 ==
*[[三つ子素数]]
*[[四つ子素数]]
*[[いとこ素数]](素数の差が4)
*[[セクシー素数]](素数の差が6)
*[[Prime k-tuple]]
*[[素数定理]]
*[[ハーディ・リトルウッド予想]]
*[[階乗]]
*[[合同算術]]
*[[ブルンの定理]]
== 外部リンク ==
*{{高校数学の美しい物語|1208|双子素数にまつわるいくつかの話題}}
*{{MathWorld|urlname=TwinPrimes|title=Twin Primes}}
*Prime Pages, [http://primes.utm.edu/top20/page.php?id=1 Top-20 Twin Primes]
{{素数の分類}}
{{DEFAULTSORT:ふたこそすう}}
[[Category:素数]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
2003-07-20T06:58:37Z
|
2023-12-06T15:17:05Z
| false | false | false |
[
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"Template:高校数学の美しい物語"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E5%AD%90%E7%B4%A0%E6%95%B0
|
11,909 |
数学記号の表
|
数学的概念を記述する記号を数学記号という。数学記号は、数学上に抽象された概念を簡潔に表すためにしばしば用いられる。
数学記号が示す対象やその定義は、基本的にそれを用いる人に委ねられるため、一見して同じ記号であっても内容が異なっていたり、逆に異なる記号であっても、同じ対象を示していることがある。従って本項に示す数学記号とそれに対応する数学的対象は、数多くある記号や概念のうち、特に慣用されうるものに限られる。
以下の解説において、文字 P, Q, R はそれぞれ何らかの命題を表すものとする。
以下の解説において、S, T は任意の集合を、 ∙ {\displaystyle \bullet } は記号の作用素を表す。
以下、X, Y などは集合を表す。
ある数学定数を表すために広く習慣的に使われる記号がいくつかある。
|
[
{
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"text": "数学的概念を記述する記号を数学記号という。数学記号は、数学上に抽象された概念を簡潔に表すためにしばしば用いられる。",
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"text": "数学記号が示す対象やその定義は、基本的にそれを用いる人に委ねられるため、一見して同じ記号であっても内容が異なっていたり、逆に異なる記号であっても、同じ対象を示していることがある。従って本項に示す数学記号とそれに対応する数学的対象は、数多くある記号や概念のうち、特に慣用されうるものに限られる。",
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},
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"text": "以下の解説において、文字 P, Q, R はそれぞれ何らかの命題を表すものとする。",
"title": "記号論理の記号"
},
{
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"tag": "p",
"text": "以下の解説において、S, T は任意の集合を、 ∙ {\\displaystyle \\bullet } は記号の作用素を表す。",
"title": "集合論の記号"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "以下、X, Y などは集合を表す。",
"title": "位相空間論の記号"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "ある数学定数を表すために広く習慣的に使われる記号がいくつかある。",
"title": "定数"
}
] |
数学的概念を記述する記号を数学記号という。数学記号は、数学上に抽象された概念を簡潔に表すためにしばしば用いられる。 数学記号が示す対象やその定義は、基本的にそれを用いる人に委ねられるため、一見して同じ記号であっても内容が異なっていたり、逆に異なる記号であっても、同じ対象を示していることがある。従って本項に示す数学記号とそれに対応する数学的対象は、数多くある記号や概念のうち、特に慣用されうるものに限られる。
|
{{otheruses||導入年別の表|数学記号の表 (導入年別)}}
{{redirect|数学記号|ウィキペディアにおける数式の書き方|m:Help:Displaying a formula/ja{{!}}ヘルプ:数式の書き方}}
[[数学]]的概念を記述する[[記号]]を'''数学記号'''という。数学記号は、数学上に抽象された概念を簡潔に表すためにしばしば用いられる。
数学記号が示す対象やその定義は、基本的にそれを用いる人に委ねられるため、同じ記号に見えても内容が異なっているということがあれば、逆に、異なって見える記号が同じ対象を示しているということもある<ref group="注">数学においては、各々の記号はそれ単独では「意味」を持たないものと理解される。それらは常に、[[数式]]あるいは [[Well-formed formula]] として文脈(時には暗黙のうちに掲げられている、前提や枠組み)に即して評価をされて初めて、値として意味を生じるのである。ゆえにここに掲げられる意味は慣用的な一例に過ぎず絶対ではないことに事前の了解が必要である。記号の「読み」は記号の見た目やその文脈における意味、あるいは記号の由来(例えば[[エポニム (数学)|エポニム]])など便宜的な都合(たとえば、特定のグリフを[[インプットメソッド]]を通じてコードポイントを指定して利用するために何らかの呼称を与えたりすること)などといったものに従って生じるために、「記号」と「読み」との間には相関性を見いだすことなく分けて考えるのが妥当である。</ref>。従って本項に示す数学記号とそれに対応する数学的対象は、数多くある記号や概念のうち、特に慣用されうるものに限られる。
==記号論理の記号==
以下の解説において、文字 {{math|''P'', ''Q'', ''R''}} はそれぞれ何らかの[[命題]]を表すものとする。
{| class="wikitable" style="width:90%"
|-
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! <math>\land</math>
| [[論理積]]、連言 (AND) || 「{{math|''P'' ∧ ''Q''}}」は「命題 {{mvar|P}} と命題 {{mvar|Q}} がともに真」という命題を表す。
|-
! <math>\lor</math>
| [[論理和]]、選言 (OR) ||「{{math|''P'' ∨ ''Q''}}」は「命題 {{mvar|P}} と命題 {{mvar|Q}} の少なくとも一方は真」という命題を表す。
|-
! <math>\neg</math>
| [[否定]] (NOT) ||「{{math|¬''P''}}」は「命題 {{mvar|P}} が偽」という命題を表す。
|-
!<math>\Rightarrow</math>
| rowspan="2" | [[論理包含]]、含意
| rowspan="2" | 「{{math|''P'' ⇒ ''Q''}}」は、「命題 {{mvar|P}} が真なら必ず命題 {{mvar|Q}} も真」という命題を表す。{{mvar|P}} が偽の場合は {{math|''P'' ⇒ ''Q''}} は真である。
|-
! <math>\rightarrow</math>
|-
!<math>\Leftrightarrow,\ \text{iff},\ \equiv</math>
| [[同値]]
| 「{{math|''P''⇔''Q''}}」、「{{math|''P''≡''Q''}}」は {{mvar|P}} と {{mvar|Q}} の真偽が必ず一致することを意味する。'''iff''' は '''if and only if''' の略である。
|-
! <math>\vDash</math>
| [[論理的帰結]]、伴意
|主に意味論的な帰結関係に使われる。
* 「{{Math|Γ ⊨ φ}}」と書いて「Γの全ての論理式が真であるなら、論理式φが真である」を意味する。
* 「{{Math|M ⊨ Γ}}」と書いて「(事前に定まっている理論の)モデルMにおいて、Γに属する論理式がすべて真である」を意味する。
* 「{{Math|⊨ φ}}」と書いて「(事前に定まっている理論の)任意のモデルにおいて、論理式φが真である」を意味する。
|-
! <math>\vdash</math>
| [[推論]]
| 主に形式的な帰結関係に使われる。「{{Math|Γ ⊢ φ}}」と書いて、論理式の集合(または多重集合)Γから、形式的に論理式φが推論できることを表す。
|-
! <math>\forall</math>
| [[全称記号|全称限量記号]]
| しばしば {{math|∀''x''∈''S''(''P''(''x''))}} のように書かれ、[[集合]] {{mvar|S}} の[[任意]]の[[元 (数学)|元]] {{mvar|x}} に対して命題 {{math|''P''(''x'')}} が成立することを表す。
|-
! <math>\exists</math>
| [[存在記号|存在限量記号]]
| しばしば {{math|∃''x''∈''S''(''P''(''x''))}} のように書かれ、集合 {{mvar|S}} の中に条件 {{math|''P''(''x'')}} を成立させるような元 {{mvar|x}} が少なくとも1つ存在することを表す。
|-
!<math>\exists_1,\ \exists1,\ \exists\,!</math>
| [[一意性 (数学)#述語論理|一意的]]に存在
| しばしば {{math|∃<sub>1</sub>''x''∈''S''(''P''(''x''))}} のように書かれ、集合 {{mvar|S}} の中に条件 {{math|''P''(''x'')}} を成立させるような元 {{mvar|x}} が'''唯一つ存在'''することを表す。他の記法も同様である。
|-
! [[∴|<math>\therefore</math>]]
| 結論
|文頭に記され、その文の主張が前述の内容を受けて述べられていることを示す。ゆえに。
|-
! <math>\because</math>
| 理由・根拠
| 文頭に記され、その文の内容が前述の内容の理由説明であることを示す。”なぜならば”。
|-
!<math>:=,\ :\Leftrightarrow</math>
| [[定義]]
| 「{{math|''A'' {{coloneqq}} ''X''}}」は、{{mvar|A}} という記号の意味するところを、{{mvar|X}} と定義することである。「{{math|''A'' :⇔ ''X''}}」とも書く。また "<math>=</math>" の上に "<math>\mathrm{def}</math>" ないし "<math>\bigtriangleup</math>" を書くこと(<math>\stackrel{\mathrm{def}}{=},\stackrel{\bigtriangleup}{=}</math>)もある。<math>\ :\Leftrightarrow</math>は命題を定義するときに使い、<math>:=</math> は何らかの数量や対象を定義するときに使う。
|}
==集合論の記号==
以下の解説において、{{math|''S'', ''T''}} は任意の集合を、<math>\bullet</math> は記号の作用素を表す。
{| class="wikitable" style="width:90%"
|-
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
!<math>\{\ :\ \},\ \{\ \mid\ \},\ \{\ ;\ \}</math>
| {{仮リンク|集合の内包的記法|en|set-builder notation}}
| |{{math|{{mset| (代表元) : (代表元の満たすべき条件)}}}} のように用いる。例えば {{math|{{mset|''x'' | ''x'' ∈ ''S'', ''P''(''x'')}}}} は {{mvar|S}} の元のうち、命題 {{math|''P''(''x'')}} が真であるものすべてを集めた集合を意味し、これはまた {{math|{{mset|''x'' ∈ ''S''|''P''(''x'')}}}} のようにもしばしば略記される(「{{math|''x'' ∈ ''S''}}」のような条件が省略されている場合、{{仮リンク|内包公理|en|axiom of comprehension|label=無制限の内包}}であるか[[分出公理|紛れのおそれがないので省略した]]のかは文脈を読むべきである)。
|-
!<math>\in,\ \ni,\ \notin,\ \not\ni</math>
|[[元 (数学)|集合に対する元の帰属関係]]
| 「{{math|''x''∈''S''}}」は、{{mvar|x}} が集合 {{mvar|S}} の元であることを意味する。「{{math|''x''∉''S''}}」は、{{math|''x''∈''S''}} の否定、すなわち {{mvar|x}} が {{mvar|S}} の元でないことを意味する。
|-
! [[等号|<math>=</math>]]
| 集合の一致
| 「{{math|1=''S'' = ''T''}}」は集合 {{mvar|S}} と集合 {{mvar|T}} が等しいことを示す。
|-
! [[等号|<math>\ne</math>]]
| <math>=</math> の否定
| 「{{math|''S'' ≠ ''T''}}」は集合 {{mvar|S}} と集合 {{mvar|T}} が等しくないことを示す。
|-
! [[集合間の関係を表す記号|<math>\subseteq,\ \supseteq,\ \subset,\ \supset,</math>]]<math>\subsetneq,\ \supsetneq,\ \not\subset,\ \not\supset</math>
| 集合の[[包含関係]]
|「{{math|''S'' ⊆ ''T''}}」は {{mvar|S}} が {{mvar|T}} の[[部分集合]]であることを意味する。必要に応じて「{{math|''T'' ⊇ ''S''}}」とも書く。他も同じ。
{{math|⊆}} は {{mvar|S}} と {{mvar|T}} が等しい場合を含み、[[真部分集合]]に対しては {{math|⊊}} が用いられる。{{math|⊂}} は[[真部分集合]]のみを指す流儀と、一般の部分集合を指す流儀がある。{{math|⊂}} が一般の部分集合を表す場合には真部分集合を {{math|⊊}} によって表わし、{{math|⊂}} が真部分集合を表す場合には一般の部分集合を {{math|⊆}} によって表わす。<br />
{{math|∈}} と同様、{{math|⊄, ⊊}} などの記号もある。
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|集合演算
|-
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[∩|<math>\cap</math>]]
| [[共通部分 (数学)|共通部分]]
| 「{{math|''S'' ∩ ''T''}}」は集合 {{mvar|S}} と集合 {{mvar|T}} の共通部分を表す。また<math>\textstyle\bigcap\limits_{\lambda\in\Lambda} S_\lambda</math>は、[[集合族]] {{math|(''S''<sub>''λ''</sub>)<sub>''λ''∈''Λ''</sub>}} の共通部分を表す。<math>\mathfrak{S}:=\{S_{\lambda}\ |\ \lambda \in \Lambda\}</math> のとき、上の集合族を <math>\textstyle\bigcap \mathfrak{S}</math>と書くことがある。
|-
! [[∪|<math>\cup</math>]]
| [[合併 (集合論)|和集合]]
| 「{{math|''S'' ∪ ''T''}}」は集合 {{mvar|S}} と集合 {{mvar|T}} の和集合を表す。また、<math>\textstyle\bigcup\limits_{\lambda\in\Lambda} S_\lambda</math>は、集合族 {{math|(''S''<sub>''λ''</sub>)<sub>''λ''∈''Λ''</sub>}} の和集合を表す。<math>\mathfrak{S}</math> が上欄のものであるとき、上の集合族を <math>\textstyle\bigcup \mathfrak{S}</math>と書くことがある。
|-
! [[プラス記号とマイナス記号|<math>+,</math>]] [[余積|<math>\sqcup,\coprod</math>]]
|[[非交和]]集合
|「<math>S\sqcup T</math>」は「{{math|''S'' ∪ ''T''}}」に同じであるが、{{math|''S'' ∩ ''T''}} が[[空集合]]であることを暗に述べている。
この場合、集合族の和集合は<math>\textstyle \coprod\limits_{\lambda\in\Lambda} S_\lambda</math>のように記す。
|-
!<math>\setminus,\ -</math>
|[[差集合]]
| 「{{math|''S'' {{Unicode|∖}} ''T''}}」は、集合 {{mvar|S}} から集合 {{mvar|T}} を除いた差集合を表す。「{{math|''S''−''T''}}」も同じ。
|-
![[C|<math>\bullet^\mathrm{c},\ \complement \bullet</math>]]
|[[差集合|補集合]]
|{{math|''S''<sup>c</sup>}} は集合 {{mvar|S}} の補集合を表す。c は {{en|complement}} の略である。「<math>\complement S</math>」も同じ。
|-
![[2|<math>2^\bullet,\ \mathfrak{P}(\bullet),\ \mathcal{P}(\bullet)</math>]]
|[[冪集合]]
|{{math|2<sup>''S''</sup>}} は、{{mvar|S}} の部分集合をすべて集めた集合を表す。<math>\mathfrak{P}(S)</math> とも書く。
|-
! [[括弧|<math>(\bullet,\bullet,\dotsc)</math>]]
| [[タプル|順序対]]
| 元の順序付けられた組
|-
! [[×|<math>\times,\ \textstyle \prod</math>]]
| [[直積集合]]
| 「{{math|''S'' × ''T''}}」は {{mvar|S}} と {{mvar|T}} の直積を表す。一般に、集合族 {{math|(''S''<sub>''λ''</sub>)<sub>''λ''∈''Λ''</sub>}} の直積を<math>\textstyle\prod\limits_{\lambda\in\Lambda} S_\lambda</math>のように記す。
|-
! [[スラッシュ (記号)|<math>\bullet/\bullet</math>]]
| [[同値関係#商集合|商集合]]
| 「{{math|''S''/∼}}」は、集合 {{mvar|S}} の[[同値関係]] {{math|∼}} によって定まる {{mvar|S}} の商集合を表す。
|-
! [[Map|<math>\operatorname{Map}(\bullet,\bullet),\ \bullet^\bullet,\ \mathcal{F}(\bullet,\bullet)</math>]]
| [[配置集合]]
| {{math|Map(''S'', ''T'')}} や {{mvar|T<sup>S</sup>}} は {{mvar|S}} から {{mvar|T}} への写像をすべて集めた集合を表す。
|-
!<math>\triangle,\ \ominus</math>
| [[対称差]]
| [[対称差]]は、二つの集合に対し、一方には含まれるが他方には含まれない元をすべて集めた集合を表す: <math>P \, \triangle \, Q := ( P \cup Q ) \setminus ( P \cap Q )= ( P \setminus Q ) \cup ( Q \setminus P )</math></td></tr>
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|写像
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[矢印|<math>f\colon\bullet\to\bullet</math>]]
| 写像
| 「{{math|{{Mvar|f}}: {{Mvar|S}} → {{Mvar|T}}}}」は、{{mvar|f}} が {{mvar|S}} から {{mvar|T}} への写像であることを示す。
|-
! [[矢印|<math>\bullet\mapsto\bullet</math>]]
| 元の対応
| <math>x \,\stackrel{f}{\mapsto}\, y</math> は、{{mvar|x}} を写像 {{mvar|f}} によって写したものが {{mvar|y}} であることを意味する。文脈上明らかであれば {{mvar|f}} の記述は省略される。
|-
! [[ビュレット (記号)|<math>\circ</math>]]
| [[写像の合成|合成写像]]
| 「<math>f\circ g</math>」は写像 {{Mvar|g}} と写像 {{Mvar|f}} の合成を表す。すなわち <math>(f\circ g)(x)=f(g(x))</math> である。
|-
!<math>\text{Im},\ \text{Image},\ \bullet[\bullet]</math>
| 像 || 写像 ''φ'' に対して、Image ''φ'' はその写像の像全体の集合(値域)を表す。写像<math>\varphi \colon X \to Y</math>に対して <math>\varphi[X]</math>とも書く。
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|二項関係演算
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[等号|<math>=</math>]]
| 相等 || {{Math|{{Mvar|x}} {{=}} {{Mvar|y}}}} は {{Mvar|x}} と {{Mvar|y}} が等しいことを表す。
|-
! [[等号|<math>\ne</math>]]
| 不一致 || {{Math|{{Mvar|x}} ≠ {{Mvar|y}}}} は {{Mvar|x}} と {{Mvar|y}} が等しくないことを表す。
|-
! <math>\sim,\simeq,\approx,\fallingdotseq,\risingdotseq</math>
([[等号#ほぼ等しい]]を参照)
| ほぼ等しい
| 「{{Math|{{Mvar|x}} ≒ {{Mvar|y}}}}」または「{{math|{{Mvar|x}} ≈ {{Mvar|y}}}}」は {{mvar|x}} と {{mvar|y}} がほぼ等しいことを表す。記号 {{math|≒}} は日本など少数の地域でのみ通用し、{{math|≈}} の方が標準的である。その他にも {{math|∼, ≃, ≅}} などを同様の意味で用いることもある。近似においてどのくらい違いを容認するかは文脈による。多くの場合、[[誤差]]解析的な意味で用いられ、ある誤差の見積もりの下で両者が等しいことを示すが、そのほかにも[[漸近]]解析においては漸近的に等しいという意味で用いられる。
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|順序構造
! style="width:15%" | 記号
! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[不等号|<math> < , > </math>]]
| 大小関係, [[順序集合|順序]]
| 「{{Mvar|x}} < {{Mvar|y}}」は {{Mvar|x}} と {{Mvar|y}} の間に何らかの[[順序]]が定まっていて、{{Mvar|x}} の方が「先」であることを示す。必要に応じて「{{Mvar|y}} > {{Mvar|x}}」とも書く。
|-
!<math>\le,\ \ge,\ \leqq,\ \geqq</math>
| 大小関係, 順序
| 「{{Math|{{Mvar|x}} ≦ {{Mvar|y}}}}」とは「{{Math|{{Mvar|x}} < {{Mvar|y}}}} または {{Math|{{Mvar|x}} {{=}} {{Mvar|y}}}}」のことである。「{{Math|{{Mvar|x}} ≧ {{Mvar|y}}}}」も同様に定義される。
|-
!<math>(\cdot,\cdot),\ ]\cdot,\cdot[</math>
| 開区間
| ({{Mvar|a, b}}) は {{Math|<nowiki>{</nowiki>{{Mvar|x}} : {{Mvar|a}} < {{Mvar|x}} < {{Mvar|b}}<nowiki>}</nowiki>}} を表す。
|-
!<math>[\cdot,\cdot]</math>
| 閉区間 ||{{Math|[{{Mvar|a}}, {{Mvar|b}}]}} は <nowiki>{</nowiki>{{Mvar|x}} : {{Math|{{Mvar|a}} ≦ {{Mvar|x}} ≦ {{Mvar|b}}<nowiki>}</nowiki>}} を表す。
|-
!<math>(\cdot,\cdot],\ ]\cdot,\cdot],\ [\cdot,\cdot),\ [\cdot,\cdot[</math>
| 半開区間
| ({{Mvar|a}}, {{Mvar|b}}] は {{Math|<nowiki>{</nowiki>{{Mvar|x}} : {{Mvar|a}} < {{Mvar|x}} ≦ {{Mvar|b}}<nowiki>}</nowiki>}} を表す
|-
! <math>\sup</math>
| [[上限 (数学)|上限]]
| 集合 {{Mvar|S}} に対し、{{Math|sup {{Mvar|S}}}} は {{Mvar|S}} の上限を表す。また、写像 {{Mvar|f}} に対し、{{Math|{{Mvar|f}} ({{Mvar|S}})}} の上限を<math>\sup_{x\in S} f(x)</math>とも書く. これは <math>\sup\{f(x);\ x\in S\}</math>の略記である。
その他、幾つかの記法のバリエーションがある。
|-
! <math>\inf</math>
| [[下限]]
| 上限の対義語で、記法は上限と同様。
|-
! <math>\max</math>
| [[最大値]]
| 記法は上限と同様
|-
! <math>\min</math>
| [[最小値]]
| 記法は上限と同様
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|特定の集合
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
|-
! [[空集合|<math>\varnothing,\emptyset</math>]]
| [[空集合]]
|-
! [[P|<math>\mathbf{P},\ \mathbb{P}</math>]]
| [[素数]] (Prime numbers) の全体、[[射影空間]]など
|-
! [[N|<math>\mathbf{N},\ \mathbb{N}</math>]]
|[[自然数]] (Natural numbers) の全体
|-
! [[Z|<math>\mathbf{Z},\ \mathbb{Z}</math>]]
| [[整数]] (独: Zahlen) の全体
|-
! [[Q|<math>\mathbf{Q},\ \mathbb{Q}</math>]]
|[[有理数]] (Rational numbers) の全体
|-
! [[R|<math>\mathbf{R},\ \mathbb{R}</math>]]
| [[実数]] (Real numbers) の全体
|-
! [[A|<math>\mathbf{A},\ \mathbb{A}</math>]]
|[[代数的数]] (Algebraic numbers) の全体、アフィン空間、アデールなど
|-
! [[C|<math>\mathbf{C},\ \mathbb{C}</math>]]
| [[複素数]] (Complex numbers) の全体
|-
! [[H|<math>\mathbf{H},\ \mathbb{H}</math>]]
|[[四元数]] (Hamilton numbers) の全体
|-
! [[O|<math>\mathbf{O},\ \mathbb{O}</math>]]
| [[八元数]] (Octonions) の全体
|-
! [[S|<math>\mathbf{S},\ \mathbb{S}</math>]]
|[[十六元数]] (Sedenions) の全体
|-
! [[U|<math>\mathbf{U},\ \mathbb{U}</math>]]
|[[グロタンディーク宇宙]] (Grothendieck universe) の全体
|-
! <math>\mathbb{F}_q, \operatorname{GF}(q)</math>
| 位数 {{Mvar|q}} の[[有限体]]
|-
! <math>\Delta_X</math>
| [[対角線集合]]:<math>\Delta_X :=\{ (x,x);\ x \in X\}</math>。
|-
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|濃度
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[バーティカルバー|{{Unicode||•|}}]], card, #
| [[基数|濃度]]
| {{Unicode||{{Mvar|S}}|}} は集合 {{Mvar|S}} の濃度を表す。{{Math|card {{Mvar|S}}}} や {{Math|#{{Mvar|S}}}} も同じ。
|-
!<math>\aleph_0,\ \mathfrak{a},\ \beth_0</math>
|[[可算無限集合|可算]]濃度
|自然数全体の集合の濃度。これは極小([[選択公理]]を認める場合は最小)の無限濃度である。
|-
!<math>\aleph,\ \mathfrak{c},\ \beth_1</math>
|[[連続体濃度]]
|実数全体の集合の濃度。これが可算濃度の次の濃度であるというのが[[連続体仮説]]である。
|}
==位相空間論の記号==
以下、{{Mvar|X, Y}} などは集合を表す。
{| class="wikitable" style="width:90%"
|-
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! <math>\mathcal{O},\ \mathfrak{O}</math>
| [[開集合]]系 || {{Mvar|X}} 上に定まる開集合系を表す。開集合系によって位相を定める文脈では {{Mvar|X}} を <math>(X,\mathcal{O})</math> などとも書く。
|-
! <math>\mathcal{C},\ \mathfrak{C}</math>
| [[閉集合]]系 || {{Mvar|X}} 上に定まる閉集合系を表す。閉集合系によって位相を定める文脈では {{Mvar|X}} を <math>(X,\mathcal{C})</math> などとも書く。
|-
! <math>B(x,r),\ B_r(x),\ B_X(x,r)</math>
| 開[[球体]] || <math>x \in X</math> を中心とする半径 <math>r>0</math> の開球体を表す。どの集合の位相で考えているかを明記するときは <math>B_X(x,r)</math> のように書く。
|-
! <math>\text{Int}\, X,\ X^\circ</math>
| [[内部 (位相空間論)|内部]]、開核 || {{Mvar|X}} の内部 (interior) を表す。
|-
! <math>X^-,\ \overline{X},\ \text{Cl}\, X</math>
| [[閉包 (位相空間論)|閉包]]
| {{Mvar|X}} の閉包 (closure) を表す。
|-
! <math>\partial X</math>
| [[境界 (位相空間論)|境界]]
| {{Mvar|X}} の境界 (frontier, boundary) を表す。
|-
! <math>\mathcal{O}_Y</math>
| [[相対位相]] || 位相空間 <math>(X,\mathcal{O})</math> と <math>Y \subset X</math> に対して、<math>\mathcal{O}_Y</math> は相対位相を表す。
|-
|}
== 定数 ==
{{main|数学定数}}
ある数学定数を表すために広く習慣的に使われる記号がいくつかある。
{|class="wikitable" style="width:90%"
! style="width:15%" | 記号!!意味
! style="width:60%" | 解説
|-
![[0|<math>0</math>]], [[O|<math>O</math>]]
|[[加法単位元]]([[零元]])
|[[加法]]における単位元、乗法の零元などを指す。加法的代数系の単位元を {{math|0}} あるいは {{math|0{{sub|''S''}}}} と書く。
|-
![[1|<math>1</math>]]
|[[乗法単位元]]
|[[乗法]]における単位元、加法の零元などを指す。乗法的代数系の単位元を 1 あるいは {{math|1{{sub|''S''}}}} と書く。
|-
![[Π|{{π}}]]
|[[円周率]]
|円の直径に対する円周の比。しばしば平面の名称にも用いられる。
|-
![[e|{{Mvar|e}}]]
|[[ネイピア数]](自然対数の底)
|リンク先参照。定義の一例として<math>\frac{d}{dx} a^x =a^x</math> なる {{Mvar|a}}。
|-
![[i|{{Mvar|i}}]], [[j|{{Mvar|j}}]], [[k|{{Mvar|k}}]]
|[[虚数単位]]
|[[自乗]]して {{Math|−1}} となる数。[[電気工学]]系では電流 {{Mvar|i}} との混同を避けるためしばしば {{Mvar|j}} を用いて、{{Math|1}}, {{Mvar|i}} と共に四元数体の、<math>\mathbb{R}</math>上のベクトル空間としての基底をなす。
|}
== 幾何学の記号 ==
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|初等幾何
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[合同記号|<math>\equiv</math>]]
| [[図形の合同|合同]] || 適当な方法で一致させることができる図形の間の関係。
|-
! [[相似記号|∽]], <math>\sim</math>
| [[相似]]
| △{{Mvar|ABC}}∽△{{Mvar|DEF}}で△{{Mvar|ABC}}と△{{Mvar|DEF}}が相似であることを表す。
|-
! [[括弧|<math>(\bullet,\bullet,\dotsc)</math>]]
| [[座標]]
| {{Math|({{Mvar|a}}, {{Mvar|b}}) {{=}} (1, 4)}}で平面における座標{{Mvar|a, b}}がそれぞれ{{Math|1}}と{{Math|4}}に位置することを表す。
|-
! [[角記号|<math>\angle</math>]]
| [[角度|角]]
|∠{{Mvar|ABC}}や∠{{Mvar|B}}で点{{Mvar|B}}における角を表す。また、複素数の複素平面上におけるベクトルが実軸となす角度を表す。
|-
! [[直角記号|∟]]
| [[直角]]
| ∟{{Mvar|ABC}}で点{{Mvar|B}}における角が直角であることを表す。
|-
! [[垂直記号|<math>\bot</math>]]
| [[垂直]]
| {{Mvar|AB}}⊥{{Mvar|CD}}で直線{{Mvar|AB}}と直線{{Mvar|CD}}が垂直であることを表す。
|-
! [[平行記号|<math>/\!/,\ \parallel</math>]]
| [[平行]]
| {{Math|{{Mvar|AB}}∥{{Mvar|CD}}}}で直線{{Mvar|AB}}と直線{{Mvar|CD}}が平行であることを表す。
|-
! [[⌒|<math>\frown</math>]]
| [[弧]]
| {{Mvar|{{overset|⏜|AB}}}} で点 {{Mvar|A}} と点 {{Mvar|B}} を結ぶ弧を表す。
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|距離空間
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! <math>d(\bullet,\bullet)</math>
| [[距離函数|距離関数]] || {{Math|{{Mvar|d}}({{Mvar|x, y}})}} で {{Mvar|x}} と {{Mvar|y}} との距離を表す。
|-
! <math>\operatorname{diam}(\bullet)</math>
| [[径]] || {{Math|diam({{Mvar|X}})}} は {{Math|{{Mvar|d}}({{Mvar|x, y}})}} ({{Mvar|x, y}} ∈ {{Mvar|X}}) 全体の集合の上限。
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|[[代数的トポロジー]]
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[H|<math>H^\bullet(\bullet)</math>]]
| [[コホモロジー]]
| ホモロジー論と代数トポロジーにおいては[[コチェイン複体]]から定義されるアーベル群の列を意味する一般的な用語である。
|-
! [[H|<math>H_\bullet(\bullet)</math>]]
| [[ホモロジー (数学)|ホモロジー]]
| [[代数的位相幾何学]]や[[抽象代数学]]において、'''ホモロジー''' (「同一である」ことを意味する[[ギリシャ語]]のホモス (ὁμός) に由来)は与えられた数学的対象。
|-
! [[Π|<math>\pi(\bullet)</math>]]
| [[ホモトピー]]
| ホモトピーとは、点や線や面などの幾何学的対象、あるいはそれらの間の連続写像が連続的に移りあうということを定式化した位相幾何学における概念のひとつである。
|}
== 解析学の記号 ==
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|極限操作
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[不等号|<math>\ll</math>]]
| 非常に小, [[ランダウの記号#その他の漸近記法|漸近記法]]
| 「{{Math|{{Mvar|x}} ≪ {{Mvar|y}}}}」は {{Mvar|x}} が {{Mvar|y}} に比べて非常に小さいことを表す。「どれくらい」小さいかは文脈による。
また、函数の漸近挙動を表すこともある。{{Mvar|D}} を <math>\mathbb{R}^{n}</math> または <math>\overline{\mathbb{R}}</math> の部分集合とし、<math>a \in \overline{D}</math> とする。函数 {{Mvar|g}} は、{{Mvar|a}} の除外近傍 {{Math|{{Mvar|U}}{{sub|0}}}} と {{Mvar|D}} の共通部分 <math>U_{0} \cap D</math> 上で <math>g(x) \neq 0</math> となる函数とする。函数 {{Mvar|f}} が
<math>\lim_{x \to a ,x \neq a}\frac{f(x)}{g(x)}=0</math>
をみたすとき、{{Mvar|a}} において {{Mvar|f}} は {{Mvar|g}} にくらべて'''無視できる'''といい、<math>f \ll g</math> と記す。<ref>{{Cite book|和書|title=解析入門I|date=2019年5月13日|publisher=一般財団法人 東京大学出版会|page=114|author=杉浦光夫|author-link=杉浦光夫|language=日本語|isbn=978-4-13-062005-5}}</ref>
|-
! [[不等号|<math>\gg</math>]]
| 非常に大
| 「{{Math|{{Mvar|x}} ≫ {{Mvar|y}}}}」は {{Mvar|x}} が {{Mvar|y}} に比べて非常に大きいことを表す。「どれくらい」大きいかは文脈による。
|-
! <math>\wedge,\ \vee</math>
| 小さくない方, 大きくない方
| <math>x\wedge y</math> で {{Mvar|x}}, {{Mvar|y}} の小さくない方を、<math>x\vee y</math> で {{Mvar|x}}, {{Mvar|y}} の大きくない方を表すことがある。
|-
! [[lim|<math>\lim</math>]]
| [[極限]] || 数列 {{Math|{{Mvar|a}}{{sub|{{Mvar|n}}}}}} に対し、<math>\lim_{n\to\infty} a_n</math> はその数列の極限値を表す。<br>
また、関数 {{Math|{{Mvar|f}} ({{Mvar|x}})}} に対し、<math>\lim_{x\to c} f(x)</math> は {{Math|{{Mvar|f}} ({{Mvar|x}})}} の {{Mvar|c}} における極限値を表す。
|-
! [[lim|<math>\limsup, \varlimsup</math>]]
| [[上極限]] || <math>\limsup_{n\to\infty} a_n = \inf_{n \in \mathbb{N}} \sup_{k \geq n} a_k</math>
|-
! [[lim|<math>\liminf, \varliminf</math>]]
| [[下極限]] || <math>\liminf_{n\to\infty} a_n = \sup_{n \in \mathbb{N}} \inf_{k \geq n} a_k</math>
|-
! [[O|<math>o(\bullet)</math>]]
| rowspan="6" | [[ランダウの記号#その他の漸近記法|漸近記法]]
| rowspan="6" | 関数の漸近挙動を表す。
|-
! [[O|<math>O(\bullet)</math>]]
|-
! [[Θ|<math>\Theta(\bullet)</math>]]
|-
! [[Ω|<math>\Omega(\bullet)</math>]]
|-
! [[チルダ|<math>\bullet\sim\bullet</math>]]
|-
! [[等号#ほぼ等しい|<math>\bullet\approx\bullet</math>]]
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|微分積分
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! [[プライム|<math>\bullet'</math>]]
| rowspan="2" | [[導関数]], [[微分]]
| rowspan="2" | 関数 {{mvar|f}} に対し、{{mvar|f{{'}}}} は {{mvar|f}} の導関数を表す([[ラグランジュの記法]])。{{'}} はダッシュとも[[プライム]]とも読まれる。
また、次のようにも表記される。
:<math>\frac{d}{dx}f(x),\ \frac{df}{dx}(x)</math>
|-
! <math>\frac{d}{dx}\bullet</math>
|-
! [[∂|<math>\partial</math>]]
| [[偏微分]]
| <math>\frac{\partial f(x,y)}{\partial x}</math>:多変数関数 {{math|''f'' (''x'', ''y'')}} の {{mvar|x}} に関する偏微分を表す。
|-
! rowspan="3" | [[積分記号|<math>\int</math>]]
| rowspan="3" | [[積分]]
| <math>\int_{a}^b f(x) dx</math> : 関数 {{Math|''f'' (''x'')}} の区間 {{Math|[{{Mvar|a}}, {{Mvar|b}}]}} における積分を表す。
|-
| <math>\int_D \,f(x) dx</math> : {{Math|''f'' (''x'')}} の領域 {{Math|''D''}} における積分を表す。
|-
| <math>\int f(x) dx</math> : {{Math|''f'' (''x'')}} の不定積分。または、積分域が明らかな場合の略記。
|-
! [[積分記号|<math>\oint</math>]]
| [[線積分]]
| <math>\oint_D \,f(x) dx</math> : {{Math|''f'' (''x'')}} の領域 {{Math|''D''}} における線積分を表す。
|-
! [[積分記号|<math>\iint</math>]]
| [[面積分]]
| <math>\iint_D \,f(x) dx</math> : {{Math|''f'' (''x'')}} の領域 {{Math|''D''}} における面積分を表す。
|-
! [[積分記号|<math>\iiint</math>]]
| [[体積積分]]
| <math>\iiint_D \,f(x) dx</math> : {{Math|''f'' (''x'')}} の領域 {{Math|''D''}} における体積積分を表す。
|-
! [[ナブラ|<math>\nabla\bullet</math>]]
| [[ナブラ]]
| 各成分を微分するベクトル微分作用素を表す。
|-
! [[△|<math>\triangle\bullet</math>]]
| rowspan="2" | [[ラプラシアン]]
| rowspan="2" | 2つの {{math|∇}} の内積になるラプラスの微分作用素を表す。
|-
! [[Δ|<math>\Delta\bullet</math>]]
|-
! [[四角 (記号)|<math>\Box\bullet</math>]]
| [[ダランベルシアン]]
| 物理学において、[[時空]]の空間成分のラプラシアンに[[時間]]成分を加えたもの。
|-
! <math>C^\bullet</math>
|
| <math>C^k = C^k(D)</math> は {{Math|''D''}} 上で定義された {{Math|''k''}} 回[[連続微分可能]]な関数からなる集合を表す。
|-
! <math>\operatorname{div}\bullet</math>
| [[発散 (ベクトル解析)|発散(湧き出し)]]
| [[ベクトル場]] {{math|'''A'''('''x''')}} に対する {{math|∇⋅'''A'''('''x''')}} を与える。
|-
! <math>\operatorname{rot}\bullet,\operatorname{curl}\bullet</math>
| [[回転 (ベクトル解析)|回転(渦度)]]
|[[ベクトル場]] {{math|'''A'''('''x''')}} に対する {{math|∇×'''A'''('''x''')}} を与える。
|-
! <math>\operatorname{grad}\bullet</math>
| [[勾配 (ベクトル解析)|勾配]]
| [[スカラー場]] {{math|''f'' ('''x''')}} に対する {{math|∇''f'' ('''x''')}} を与える。
|}
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|関数グラフ
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! <math>\beta(x)</math>
| [[ベータ関数]]
|
|-
! <math>\zeta(x)</math>
| [[ゼータ関数]]
|
|-
! <math>\mathrm{erf}(x)</math>
| [[誤差関数]]
|特殊関数の一種。
<math>\mathrm{erf}\left(x\right) \colon = \frac{2}{\sqrt{\pi}}\int_0^x e^{-t^2}\,dt</math>
で定義される。
|-
! [[∝]]
| [[比例]]
| 変数が比例の関係にある場合に使用する。例として、{{Mvar|y}} が {{Mvar|x}} に比例するとき、{{Math|''y'' ∝ ''x''}}と表す。
|}
== 代数学の記号 ==
{|class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|算術記号
!style="width:15%"|記号!!意味
!style="width:60%"|解説
|-
![[プラス記号とマイナス記号|<math>+</math>]]
|正符号
|rowspan="2"|{{mvar|x}} の[[反数]]([[加法]]に関する[[逆元]])を表すために負符号を用いて {{math|−''x''}} と記す。反数を与える演算を負符号で表すことに対応して、{{mvar|x}} 自身を与える[[恒等写像|恒等変換]]に正符号を用い、その結果を {{math|+''x''}} のように表すことがある。
|-
![[プラス記号とマイナス記号|<math>-</math>]]
|負符号
|-
![[プラス記号とマイナス記号|<math>+</math>]]
|[[加法]]||{{math|''x'' + ''y''}} は {{mvar|x}} と {{mvar|y}} の和を表す
|-
![[Σ|<math>\textstyle\sum</math>]]
|[[総和]]||
:<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^n a_k := a_1 + a_2 + \dotsb + a_{n-1} + a_n</math>
と定義され、その[[極限]]として定まる[[無限和]]を
:<math>\textstyle\sum\limits_{k=1}^\infty a_k \equiv \lim\limits_{n \to \infty} \sum\limits_{k=1}^n a_k</math>
と書く。またある命題 {{math|''P''(''x'')}} があるとき、{{math|''P''(''x'')}} を満たすような各 {{mvar|k}} についての和を取ることを
:<math>\textstyle\sum\limits_{P(k)} \,a_k</math>
と書く。
|-
![[プラス記号とマイナス記号|<math>-</math>]]
|[[減法]]||{{math|''x'' − ''y''}} は {{mvar|x}} と {{mvar|y}} の差を表す。通常、{{mvar|y}} の[[反数]] {{math|−''y''}} を用いて {{math|''x'' + (−''y'')}} と定義されている。
|-
![[プラスマイナス記号|<math>\pm</math>]]
|[[加法]]と[[減法]]||{{math|''x'' ± ''y''}} は {{mvar|x}} と {{mvar|y}} の和と差を表す。
|-
![[×|<math>\times</math>]]
|rowspan="3"|[[乗法]]
|rowspan="3"|{{math|''x'' × ''y''}} は {{mvar|x}} と {{mvar|y}} の積を表す。[[中黒]] (bullet operatorまたはdot operator) を使って {{math|''x'' · ''y''}} と書いたり、アスタリスクを使って {{math|''x'' * ''y''}} とも書く。特にアスタリスクは多くの[[プログラミング言語]]において乗法の演算子として用いられる。
|-
![[中黒|<math>\cdot</math>]]
|-
![[アスタリスク|<math>*</math>]]
|-
!<math>\bullet^{-1}</math>
|[[乗法逆元]]
|{{Math|{{Mvar|x}}{{sup|-1}}}}はある数{{Mvar|x}}との積が{{Math|1}}となる数を表す。{{Sfrac|1|{{Mvar|x}}}}と書かれることもある。
|-
![[Π|<math>\textstyle\prod</math>]]
|[[総乗]]||<math>\textstyle \sum</math> はたくさんの加法を一挙に表すものであったが、<math>\textstyle\prod</math> はたくさんの乗法を一挙に表すものである。
:<math>\textstyle\prod\limits_{k=1}^n a_k = a_1 \times a_2 \times \dots\times a_n</math>
他の記法のバリエーションも <math>\textstyle \sum</math> に同じ。
|-
![[除算記号|<math>\div</math>]]
|rowspan="2"|[[除法]]
|rowspan="2"|{{math|''x'' ÷ ''y''}} は {{mvar|x}} を {{mvar|y}} で割った[[除法|商]]と[[剰余]]の組か、あるいは商を表す。{{math|''x'' ÷ ''y''}} の商はしばしば[[分数]] {{math|{{sfrac|''x''|''y''}}}} で表され、また斜線自体を商を与える演算子と見なすことがある。多くの[[プログラミング言語]]においては商を与える演算子として <code>/</code> が定義されている。
|-
![[スラッシュ (記号)|<math>/</math>]]
|-
![[感嘆符|<math>!,</math>]][[$|<math>\, \$</math>]]
|(順に)[[階乗]], [[超階乗]]||{{math|''n''!}} は {{mvar|n}} の階乗を表す。{{math|''n''$}} は {{mvar|n}} の[[超階乗]]を表す。
|-
!<math>\delta_{ij}</math>
|[[クロネッカーのデルタ]]||{{math|1=''i'' = ''j''}} のとき {{math|1}}、{{math2|''i'' ≠ ''j''}} のとき {{math|0}}。
|-
!<math>\lfloor \bullet \rfloor, [ \bullet ]</math>
|[[床関数と天井関数|床関数]]||<math>\lfloor x \rfloor</math> は {{mvar|x}} 以下の最大整数を表す。
|-
!<math>\lceil \bullet \rceil</math>
|[[床関数と天井関数|天井関数]]||<math>\lceil x \rceil</math> は {{mvar|x}} 以上の最小整数を表す。
|-
!<math>\binom{n}{k},\, {}_n\text{C}_k,\, C_k^n</math>
|[[二項係数]]([[組合せ (数学)|組合せ]])
|通常は括弧書きで表される。C を使った記法は様々なバリエーションがある。
|}
{|class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|合同算術・初等数論
!style="width:15%"|記号!!意味
!style="width:60%"|解説
|-
!<math>\operatorname{mod},</math>[[パーセント記号|<math>\, \%</math>]]
|[[除法|剰余]]
|「{{math2|''x'' mod ''y''}}」は整数 {{mvar|x}} の属する法 {{mvar|y}} の[[合同式|剰余類]]や、{{mvar|x}} を {{mvar|y}} で割った余りを表す<ref>{{cite|url=https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%88%9D%E7%AD%89%E6%95%B4%E6%95%B0%E8%AB%96/%E5%90%88%E5%90%8C%E5%BC%8F#%E5%AE%9A%E7%BE%A9|title=初等整数論/合同式 - Wikibooks|accessdate=2022,June-01}}</ref>。[[C言語]]やその影響を受けた[[プログラミング言語]]などでは整数の剰余を与える演算子として <code>%</code> が定義されている<ref group="注">言語によっては <code>%</code> を[[エスケープ文字|エスケープ]]する必要があり、たとえば[[R言語]]では <code>%%</code> が用られる。</ref>。[[Fortran]] のように <code>mod</code> を用いる言語も存在する。
|-
![[バーティカルバー|<math>|</math>]]
|割り切る||{{math|''x'' <math>|</math> ''y''}} は、{{mvar|x}} が {{mvar|y}} を割り切る、つまり {{mvar|x}} は {{mvar|y}} の[[約数]]であることを表す。
|-
!<math>\not|</math>
| <math>|</math> の否定(割り切れない)
|<!--「(x|y)の否定」の説明文-->{{math|''x'' <math>\not|</math> ''y''}} は、{{mvar|x}} は {{mvar|y}} の約数ではないことを表す。
|-
![[合同記号|<math>\bullet \equiv \bullet \pmod \bullet</math>]]
|[[合同式|合同]]
|{{math|''n'' ≡ ''m'' (mod ''d'')}} は {{mvar|n}} と {{mvar|m}} が {{mvar|d}} を[[除法|法]]として合同であることを示す。
|-
!<math>\operatorname{ord}(\bullet)</math>
|[[位数 (群論)|位数]]
|ある[[群 (数学)|群]]の[[元 (数学)|元]]の個数を群の位数という。また群の元 {{mvar|x}} に対し、{{math|ord ''x''}} は {{mvar|x}} の生成する[[巡回群]]の位数を表す。
|-
!<math>(\bullet,\bullet)</math>
|rowspan="2"|[[最大公約数]]
|rowspan="2"|{{math|(''a'', ''b'')}} は {{mvar|a}} と {{mvar|b}} の最大公約数を表す。{{math|gcd}} は {{en|greatest common divisor}} の略である。[[プログラミング言語]]の数学ライブラリにおいて、最大公約数を与える関数([[サブルーチン]])が <code>gcd</code> としてしばしば定義される。
|-
!<math>\gcd(\bullet,\bullet)</math>
|-
!<math>\bullet^{-1}</math>
|[[モジュラ逆数]]
|整数 {{Mvar|a}} と法 {{Mvar|m}} について
<math>ax \equiv 1 \pmod{m}</math>
を満たす {{Mvar|x}} をモジュラ逆数といい、{{Math|{{Mvar|a}}{{sup|-1}}}} で表す。
|}
{|class="wikitable" style="width:90%"
!style="width:15%"|記号!!意味
!width="60%"|解説
|-
![[E|<math>e</math>]]
|冪等元
|環の冪等元をしばしば {{mvar|e}} で表す。
|-
![[p|<math>p</math>]]
|プラスチック数
|{{mvar|p}} は<math>x^3=x+1,\;</math>という代数方程式の唯一の解。
|}
{|class="wikitable" style="width:90%"
!style="width:15%"|記号!!意味
!style="width:60%"|解説
|-
!<math>|\bullet|</math>
|rowspan="2"|[[絶対値]]
|rowspan="2"|{{math|{{abs|''x''}}}} は {{mvar|x}} の絶対値である。
|-
!<math>\operatorname{abs}(\bullet)</math>
|-
![[双柱|<math>\|\bullet\|</math>]]
|[[ノルム]]||{{math|{{norm|''x''}}}} は {{mvar|x}} のノルムである。
|-
!<math>\Re\bullet</math>
|rowspan="2"|実部
|rowspan="4"|[[複素数]] {{mvar|z}} に対し、{{math|Re(''z'')}} はその実部を、{{math|Im(''z'')}} はその虚部を表す。{{math2|''z'' {{=}} Re(''z'') + ''i'' Im(''z'')}}
|-
!<math>\operatorname{Re}\bullet</math>
|-
!<math>\Im\bullet</math>
|rowspan="2"|虚部
|-
!<math>\operatorname{Im}\bullet</math>
|-
![[オーバーライン|<math>\overline{\bullet}</math>]]
|[[共役複素数]]
|複素数 {{mvar|z}} に対し、<math>\bar z</math> はその共役複素数を表す。
|-
!<math>\operatorname{deg}\bullet</math>
|次数
|多項式 {{mvar|f}} に対して、{{math|deg ''f''}} はその次数を表す。
|-
![[根号|<math>\sqrt{\bullet},\sqrt[\bullet]{\bullet}</math>]]
|[[冪根]]、[[根基]]
|{{math|{{radic|''x''|''n''}}}} は {{mvar|x}} の {{mvar|n}}乗根を表す。{{mvar|n}} が 2 であるときには単に {{math|{{sqrt|''x''}}}} と書くことが多い。イデアルの根基を表す。
|-
!<math>\langle\bullet,\bullet\rangle</math>
|rowspan="2"|[[内積]]
|rowspan="2"|{{math|<''x'', ''y''>}} は {{mvar|x}} と {{mvar|y}} の内積を表す。
|-
!<math>(\bullet,\bullet)</math>
|}
{|class="wikitable" style="width:90%"
!style="width:15%"|記号!!意味
!style="width:60%"|解説
|-
!<math>\dim_\bullet \bullet</math>
|[[次元]]||[[ベクトル空間]] {{mvar|V}} に対し、「{{math|dim ''V''}}」は {{mvar|V}} の次元を表す。
|-
!<math>|\bullet|</math>
|rowspan="2"|[[行列式]]
|rowspan="2"|{{math|{{abs|''X''}}}} は[[正方行列]] {{mvar|X}} の行列式である。
|-
!<math>\det(\bullet)</math>
|-
!<math>\operatorname{tr}(\bullet)</math>
|[[跡 (線型代数学)|跡]]
|{{math|tr(''X'')}} は正方行列 {{mvar|X}} の跡である。
|-
!<math>{}^t\bullet, \bullet^t</math>
|[[転置行列|転置]]
|{{mvar|{{sup|t}}X}} は行列 {{mvar|X}} の転置行列である。
|-
!<math>\operatorname{rank}\bullet</math>
|[[行列の階数|階数]]||[[線形写像]] {{mvar|φ}} に対して、{{math|rank ''φ''}} は {{math|dim Im(''φ'')}} を表す。また、行列 {{mvar|A}} に対して、{{math|rank ''A''}} は {{mvar|A}} の階数を表す。
|-
!<math>\operatorname{Ker}\bullet,\ \ker\bullet</math>
|[[核 (代数学)|核]]、[[零空間]]
|[[群 (数学)|群]]や[[環 (数学)|環]]の[[準同型]]、ベクトル空間の間の線形写像 {{mvar|φ}} に対して、{{math|Ker ''φ''}} はその準同型の核を表す。
|-
!<math>\operatorname{Im}\bullet,\ \operatorname{im}\bullet</math>
|[[像 (数学)|像]]
|[[群 (数学)|群]]や[[環 (数学)|環]]の[[準同型]]、ベクトル空間の間の線形写像 {{mvar|φ}} に対して、{{math|Im ''φ''}} はその準同型の像を表す。
|-
!<math>\operatorname{Hom}_\bullet(\bullet,\bullet)</math>
|[[準同型]]の[[集合]]
|{{math|Hom{{sub|'''K'''}}(''F'', ''G'')}} は、作用域 {{mathbf|K}} のある代数系 {{math2|''F'', ''G''}} の間の作用準同型 ({{en|homomorphism}}) 全体からなる集合を表す。
|-
!<math>\operatorname{Aut}(\bullet)</math>
|[[自己同型群]]
|{{math|Aut(''G'')}} は、{{mvar|G}} のそれ自身に対する[[同型]] ({{en|automorphism}}) 全体からなる[[群 (数学)|群]]を表す。
|-
!<math>\operatorname{Inn}(\bullet)</math>
|内部自己同型群
|{{math|Inn(''G'')}} は、{{mvar|G}} の[[内部自己同型]] ({{en|inner automorphism}}) 全体からなる[[群 (数学)|群]]を表す。
|-
!<math>\operatorname{End}(\bullet)</math>
|[[自己準同型]]
|{{math|End(''G'')}} は、{{mvar|G}} のそれ自身に対する準同型 (endomorphism) 全体からなる集合([[モノイド]])を表す。
|}
{|class="wikitable" style="width:90%"
!style="width:15%"|記号!!意味
!style="width:60%"|解説
|-
!<math>\langle \bullet \rangle</math>
|[[生成 (数学)|生成]]
|{{mvar|G}} を[[群 (数学)|群]]とすると、{{mvar|G}} の部分集合 {{mvar|S}} に対し、{{math|⟨''S''⟩}} は {{mvar|S}} の[[群の生成系|生成する部分群]]を表す。特に、{{mvar|S}} が[[シングルトン|一元集合]] {{math|1=''S'' = {{mset|''x''}}}} であるときには {{math|⟨''x''⟩}} とも書く。これは {{mvar|x}} の生成する巡回群である。環やベクトル空間などについても同様の記法を使う。
|-
!<math>(\bullet)</math>
|生成する[[イデアル]]||{{math|(''a'', ...)}} は {{math|''a'', ...}} の生成するイデアル
|-
!<math>K[\bullet]</math>
|[[多項式環]]、生成する環||{{mvar|K}} を[[可換環]]とするとき、{{math|''K''[''x'', ...]}} は {{mvar|K}} と {{math|{''x'', ...}}} を含む最小の[[環 (数学)|環]]。生成系が[[不定元]]のみからなれば多項式の環である。
|-
!<math>K(\bullet)</math>
|有理関数環、生成する体||{{mvar|K}} を[[可換体]]とするとき、{{math|'''K'''(''x'', ...)}} は {{mvar|K}} と {{math|{''x'', ...}}} を含む最小の[[体 (数学)|体]]。生成系が[[不定元]]のみからなれば有理式の体である。
|-
!<math>K\langle\bullet\rangle</math>
|非可換多項式環、生成する環||{{mvar|K}} を非可換環とするとき、{{math|''K''⟨''x'', ...⟩}} は {{mvar|K}} と {{math|{''x'', ...}}} を含む最小の環。
|}
== 統計学の記号 ==
{| class="wikitable" style="width:90%"
|+ style="text-align:left;"|統計学
! style="width:15%" | 記号 !! 意味
! style="width:60%" | 解説
|-
! r. v.
| [[確率変数]]
| {{en|random variable}} の略
|-
! p. m. f. あるいは pmf
| [[確率質量関数]]
| {{en|probability mass function}} の略
|-
! p. d. f. あるいは pdf
| [[確率密度関数]]
| {{en|probability density function}} の略
|-
! <math>\sim</math>
| “確率変数”が“確率分布”に従う
| <math>\textstyle X \sim \mathcal{D}</math> は[[確率変数]] {{mvar|X}} が[[確率分布]] <math>\textstyle \mathcal{D}</math> に従うことを表す
|-
! i. i. d.
| [[独立同分布]]
| {{en|independent and identically distributed}} の略。{{math|''X''<sub>1</sub>, ..., ''X<sub>n</sub>'' i.i.d.}} は確率変数 {{math|''X''<sub>1</sub>, ..., ''X''<sub>''n''</sub>}} が同じ[[確率分布]]に[[独立 (確率論)|独立]]に従うことを表す
|-
! <math>P(\bullet), \mathbb{P}(\bullet)</math>
| [[確率]]
| {{math|''P''(''E'')}} は[[事象 (確率論)|事象]] {{mvar|E}} の確率
|-
! <math>E(\bullet), \mathbb{E}(\bullet)</math>
| [[期待値]]
| {{math|''E''(''X'')}} は[[確率変数]] {{mvar|X}}の期待値。
確率分布に対して定義する場合は「平均」と呼ばれる。
|-
! <math>V(\bullet)</math>
| [[分散 (確率論)|分散]]
| {{math|''V''(''X'')}} は[[確率変数]] {{mvar|X}} の分散
|-
! <math>\operatorname{Cov}(\bullet, \bullet)</math>
| [[共分散]]
| {{math|Cov(''X'', ''Y'')}} は[[確率変数]] {{mvar|X, Y}} の共分散
|-
! <math>N(\mu, \sigma^2)</math>
| [[正規分布]]
| [[平均]] {{mvar|μ}}, [[分散 (確率論)|分散]] {{math|''σ''<sup>2</sup>}} の正規分布
|-
! <math>\rho</math>
| [[相関係数]]
| [[確率変数]]の相関係数
|-
! <math>dsv</math>
| [[代表値]]
| dsvはdescriptive statistics valueから来ている。
|-
! <math>median</math>
| [[中央値]]
| メジアン、メディアン、メデアンとも呼ぶ。
|-
! <math>range</math>
| [[範囲]]
| レンジとも呼ぶ。
|-
! <math>mode</math>
| [[最頻値]]
| モードとも呼ぶ。
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考資料 ==
*[[日本工業規格|JIS]] Z8201 数学記号
== 関連項目 ==
* [[物理定数]]
* [[黒板太字]]
* [[ISO 80000-2]] - [[ISO 31-11]]
* [https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%88%9D%E7%AD%89%E6%95%B0%E5%AD%A6%E8%A8%98%E5%8F%B7%E9%9B%86 初等数学記号集(wikibooks)]
{{数学}}
{{DEFAULTSORT:すうかくきこうのひよう}}
[[Category:数学記号|*]]
[[Category:論理記号|*]]
[[Category:数学の一覧]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
2003-07-20T07:43:01Z
|
2023-12-30T02:36:34Z
| false | false | false |
[
"Template:Redirect",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E8%A8%98%E5%8F%B7%E3%81%AE%E8%A1%A8
|
11,915 |
ハモンドオルガン
|
ハモンドオルガン(英: Hammond Organ)とは電気楽器の一種。
1934年にローレンス・ハモンドによって発明された。パイプオルガンのパイプの代わりに、トーンホイール(英語版)(歯車状の磁性金属製の円盤)を回転させて、近接して設置された電磁ピックアップにより磁界変化の波を音源として出力する。このように生成された正弦波を基音または倍音として、パイプオルガンと同様にミックスして音を作り出す。
機種や演奏環境によって若干の差異はあるが、空気感に富む明朗な音色が特徴である。複雑な発音方式から生じる深みのあるサウンドを利して、ジャズやロックなど比較的近代的な音楽に導入している例も少なからず見受けられる。
1930年代初頭、既に真空管を使ったシンプルな電子楽器が製品化されていたが、大規模で本格的な電子楽器はまだ研究途上にあり、真空管式電子オルガンの製品化には困難があった 。ローレンス・ハモンドは(もちろん当時としては)軽量かつ小型で、どこでも正確な音程で演奏出来るように、自身が開発した電気時計に採用した、電源周波数に同期した同期電動機(シンクロナス・モーター、synchronous AC motor)を用いてトーンホイールを回転させることにした。多数のトーンホイールは、多数の減速歯車によって同期回転させて各音程の周波数を発生させる。しかし整数比の歯車の作り出す音程は正確な十二平均律ではないため、合成音はコーラス効果で独特な音色となり、いわゆるハモンド・サウンドといわれるものとなる。
パイプを用いないこの楽器を人々は当初、「オルガン」とは認めなかったが、シカゴ大学のホールでパイプオルガンとハモンドオルガンを多くの人々の前でブラインドテストした結果、この楽器は「オルガンである」と認められたという。日本ではウィリアム・メレル・ヴォーリズが輸入代理店を開き、広く紹介したことにより普及した。
1940年代ごろから、ハモンドオルガンを身近に感じて育った子どもたちがジャズなどのミュージシャンとなり、一部のジャズプレイヤーはピアノに代わる選択肢としてハモンドオルガンを演奏するようになった。ジャズオルガニストの中でもジミー・スミスはジャズの世界にとどまらない影響を与え続けることになる。
1950年代、ロックンロールなどの黒人音楽の影響が強い音楽が一世を風靡すると、ハモンドオルガンはこうした音楽にも導入されていった。エレクトリック・ギターなどの電気楽器が次々登場し、ますます大きくなるバンドの音量に負けまいと鍵盤奏者が必死になってピアノの鍵盤を強打していたこの時代、比較的簡単に大音量が得られ、ドラムキットや管楽器、エレクトリック・ギターに負けない攻撃的なトーンをも生み出せるハモンドオルガンは、一躍多くの鍵盤奏者たちに愛されることとなった。1960年代後半にはディープ・パープル、ザ・ナイス、ステッペンウルフといったロックバンドのオルガン奏者がギタリストと対等に渡り合う、もしくはギタリストの在籍しないロックバンドが次々と登場。クラシックの技法なども導入され、たくさんのヒットレコードにハモンドオルガンの音は記録された。
ハモンドオルガン・カンパニーは専用アンプとしてPR-40などの専用トーンキャビネットを製造し、推奨していた。1940年代、オルガン奏者であったドン・レスリーという人物はパイプオルガンの響きが左右に動いて聴こえるのに気づき、回転する高音用ホーンと低音用ローターをもったスピーカーを開発する。「レスリー・スピーカー」の誕生である。ローレンス・ハモンドは生前、レスリー・スピーカーを認めることはなかったが、オルガニストたちはこぞってこのスピーカーを使い始める。瞬く間にハモンドオルガンとレスリー・スピーカーは殆どの場合セットで用いられることになり、現在ではレスリー・スピーカーはハモンドオルガンの個性の半分以上を担うと看做されるようになった。
ギターアンプなどに内蔵されたスプリング・リバーブユニットに衝撃を与えると爆発音や雷のような音が出ることが発見されてから、一部のロックオルガニストたちはより「ロックな」パフォーマンスを行うため、本来リバーブを内蔵しないB-3やC-3にユニットを組み込み、オルガンを揺らし、叩き付け、ドラムスティックなどで直接ユニットのバネを擦って攻撃的なノイズを発生させるようになった。また、一部のオルガニストはギターアンプを用いてオルガンサウンドを増幅することでギターへの憧憬を表したり、より攻撃的なトーンを作り出したりした。この代表選手はディープ・パープルのジョン・ロードであろう。
ザ・ナイス~ELPのキース・エマーソンはジミ・ヘンドリックスなどの影響からフィードバック(ハウリング)やスプリング・リバーブの衝撃音、ナイフ(鍵盤の間に突き刺し、音を出たままの状態にする)まで利用し、オルガンに馬乗りになったり下敷きになったりして演奏するという強烈なパフォーマンスを行い、観客の目も耳も釘付けにした。ジョン・ロードはスプリングリバーブの衝撃音やリングモジュレーターを使って印象的なノイズを多用したことで有名である。また1969年から1972年までのディープ・パープルのいわゆる「第2期」にはレスリー・スピーカーを用いずにギターアンプ(マーシャル社のベースアンプ)を使用した。
1970年代後半には、元々レスリースピーカーを真似て作られたエフェクターであるフェイズシフターを、大きくかさばるレスリースピーカーの代用として使う奏者も現れた。フェイズシフターの音はレスリーとはまったく異なるものであったが、これも個性的なオルガンサウンドを生み出した。オルガンの機構を利用した特殊奏法も、様々なものが編み出されている。これについては「メカニズム」の項で例を挙げることとする。
ポピュラー音楽での使用頻度増加に伴い、1960年代初めごろにはトランジスタ回路でハモンドオルガンの音を模倣した「コンボオルガン」が多くのメーカーから発売されるようになった。代表的なものはヴォックス(VOX)社製とファルフィッサ(英語版)社製である。機構が比較的単純なためハモンドオルガンよりコンパクトで軽く、安価でもあったためアマチュアバンドに広く利用された後、ドアーズ、ビートルズ、アニマルズ、ピンク・フロイドなど、プロのバンドにもよく使われるようになり、1960年代後半のサイケデリック・ロックの特徴の一つともなった。音色自体はハモンドオルガンには全く似ていないチープなものであるが、これが独自の個性を確立し、現在まで評価されている。
大きく重くならざるを得ないトーンホイールシステムは、鍵盤楽器の小型化・軽量化の流れにやがて取り残された。1974年末に全てのトーンホイールオルガンの生産が終了し、電子回路による発振に置き換えられて、完全に電子化された。全盛期にはどんなヒット曲でも聴くことのできたハモンド・サウンドはやがて飽きられ、1970年代末から急速に発展していたシンセサイザーに取って代わられることになった。
1986年末ハモンド・オルガンカンパニーの経営は緩やかに終息を迎えた。 修理部品と保守サービスは別会社に移行され 、商標その他はハモンド・オーストラリアに譲渡された 。 唯一の生産拠点となった日本ハモンドの権利関係は複雑化し、最終的に親会社 阪田商会は関連事業を鈴木楽器に譲渡した 。 鈴木楽器は1991年ハモンド、1992年レスリーをそれぞれ買収し、旧・日本ハモンドの流れを汲むトランジスタ発振方式の製品や、新しいサンプリング音を利用したハモンドオルガン、レスリー・スピーカーの生産を開始した 。シンセサイザーの音が飽きられ始め、古い電気・電子楽器の音が再評価されるようになった1990年代前後からは多くのメーカーでPCM音源や物理モデル音源を利用したオルガンが作られるようになる。現在ハモンドオルガンの商標を持っているハモンドスズキ(Hammond-Suzuki)の製品はビンテージのB-3のトーンホイール一つ一つからサンプリングした音を使用しており、他社のものは物理モデル音源を用いて再現しているものが多い。これらのオルガンは「クローンホイール(Clonewheel)」と呼ばれている。しかしながら、旧式のトーンホイールから生み出される深みのある太い音は、現在の技術で完全に代替出来ているとは言い難い。このため、今でもヴィンテージのハモンドオルガンを買い求める演奏家は多い。
また伝統的なトーンホイール・オルガンを再生産するメーカーも存在する(Pari.E Electromagnetic organ)。
B-3の場合で91枚のトーンホイールを回転させるために要するトルクは大きいため、始動時にはより回転力のあるモーターを同時に動かす必要がある。このためオルガン本体には、自動車のセルモーターに相当するStartモーターを回す"Start"スイッチ(電源スイッチとStartモーターの始動スイッチを兼ねる)と、トーンホイールを一定速度で回すシンクロナス・モーター用の"Run"スイッチがある。演奏の準備のためには、まずStartスイッチを10秒近く押し上げ、モーター音が安定したところでRunスイッチを押し上げる。その後Startスイッチは指を離すと中央で止まり、プリアンプの真空管が暖まれば演奏が可能となる。鍵盤を押しながらRunスイッチを切ると、トーンホイールが減速~停止する一方、プリアンプには電気が供給されているために発音を続けるので、音程のベンドダウンを行うことができる。完全に停止してしまうと、再び立ち上げ動作を行う必要があり、10秒以上演奏できなくなる。Startモーターを演奏中に回すことでベンドアップも可能である(Startモーターの回転数に依存するため、音程変化量は個体差がある)。1970年代にはロックバンドで頻用された裏技である。なお、前述のようにシンクロナス・モーターは電源周波数により回転速度を決定しているため、日本の関東地方など50Hz圏で正しい音程で使用するには、サイクルチェンジャーの組み込みが必要である。50Hz圏でそのまま使用すると、約短3度音程が低下する。一部の業者では50Hzを60Hzに変換するだけでなく、様々な電源周波数に切り替えることで好みの調に移調できるように製作したものがある。
ハモンドオルガンのすべての楽音を生み出すのは、上述したとおりトーンホイールと呼ばれる歯車状のパーツである。その縁には正弦波を模した波形が刻まれており、ピックアップとの距離が周期的に変化することによって生じる磁界の変化を音として出力する(エレクトリックギターの弦振動とほぼ同じようなものである)。代表的機種のB-3で91枚が組み込まれている。ペダル鍵盤用の12枚とメインの79枚に分けられ、ペダル用の12枚は低音を聞こえやすくするために正弦波よりも複雑な波形を持っている。それぞれのトーンホイールが生み出した音源信号は、いくつもの系統に分けられて出力される。「上鍵盤のBプリセット用・8'のドローバーに接続される系統」「下鍵盤のA#プリセット用・2'のドローバーに接続され、かつビブラート回路を通る系統」「2ndパーカッションとして出力される系統」といった具合である。このため、トーンホイール・ジェネレーターは非常に複雑な配線がなされている。各トーンホイールはピックアップとの距離が調整されており、聴感上目立つ高音の出力が低音より抑えられていることに加え、コンソールモデルでは一度に押されている鍵盤の数、引かれているドローバーの数、演奏される音域に関わらず音量が概ね一定となるように設計されており、これによって主旋律が伴奏に埋もれてしまうことや多数のドローバーが引かれた際に音量が過大になるのを防ぐことができる(Loudness Robbingと呼ばれる)。ジェネレーターは機械式であるため、年1回程度、トーンジェネレーターとモーターに専用の潤滑油を注油する必要がある。フェルト製のトーンジェネレーターカバーに数カ所、漏斗に似た形の給油口が取り付けられていて、専用潤滑油を少量入れておけばよい。注がれたオイルを適所に補給するため、ホイールを回転させる歯車やモーターのベアリングに接触するように糸が取り付けられており、オイルが浸透して必要な部分に伝達される。
ハーモニック・ドローバーは、基本的には9本で構成される、パイプオルガンのストップ(音栓)にあたる操作子である。これを引き出すことで倍音を重ね、オルガンの音を作り上げる。それぞれ音量が0から8までの9段階あり、向こう側に押し込んだ状態(0)では音が出ず、手前にいっぱいに引く(8)と最大音量となる。ドローバーは左から16'(16フィート)・5-1/3'(5と3分の1フィート)・8'・4'・2-2/3'・2'・1-3/5'・1-1/3'・1'となっている(パイプオルガンの、相当するパイプの長さを示す)。このうち8'は「基音」と呼ばれ、この音を中心にドローバーを調整して音色を作り上げていく。白のドローバーは基音およびそれとオクターブの関係にある倍音で、右に行くほどオクターブが上がる。黒のドローバーは基音の第3、第5、第6倍音である。ペダル鍵盤は16'と8'の2本で音色を作る(ペダル専用の倍音を多く持つトーンホイールと通常のトーンホイールを併用している)。5-1/3'のドローバーは8'の左側にあるが、これは8'ではなく16'の整数次倍音(基音の整数倍の高さの音。5-1/3'は16'の第3倍音)だからである。8'を基音とした音に深みを与えたりする場合などに使用される。16'・5-1/3'のドローバーのみ色は茶色になっている。ドローバーの組み合わせをレジストレーションとよび、「88 8000 000」などと表記する。B-3などのコンソールタイプでは上下鍵盤それぞれに9本のセットが二つずつ、ペダル用に2本のセットが一つ設置される。安価かつ小型のスピネットタイプでは上鍵盤に9本のセットが一つ、下鍵盤に7本ないし8本のセットが一つ、ペダル用に1本が設置されている。
手鍵盤の16'担当分、最低オクターブは上のオクターブの繰り返しとなる。また、1'の最高オクターブはその下のオクターブの繰り返しとなる。これをフォールドバック(折り返し)という。これは人間の可聴域を超えるトーンホイールを省略しつつ、細くなりがちな高音域の音を太く、過剰に響きがちな低音域を引き締める効果がある。パイプオルガンにも同様の理由で折り返しがある。61鍵の音域で9つの倍音を持たせると単純計算で109枚のトーンホイールを要するはずだが、これにより91枚に留まる(この中には12枚のペダル専用トーンホイールも含まれる)。電子回路を用いたコンボオルガンの多くはフォールドバックを持たなかったため、ハモンドオルガンと電子オルガンを分ける個性とされる。ハモンドでも小型のスピネットオルガンにはフォールドバックは装備されない(しかし、サードパーティーからフォールドバックを追加するキットがオプションとして発売されている)。クローンホイールオルガンでは、ユーザーがフォールドバックの程度を調整できるものもある。
鍵盤の各キーにはドローバー9本それぞれに対応するスイッチが上下方向、櫛状に並んでおり、キーをゆっくり押し込んでいくと高次倍音から順に発音される(多列接点)。また、これらのスイッチが接触するときの電気的スパークはキークリックと呼ばれる。ハモンドの開発陣はこの音を余計なものとして、6kHz以上の周波数を取り除くフィルターを設置する等して取り除く努力をしたが、後年この音はアタックを強調し打楽器的な演奏をより魅力的なものにするためオルガン奏者から愛され、ハモンドサウンドの特徴の一つとされている。多列接点は1970年代までの電子オルガンではハモンドに限らず採用しているものは多かったが、これは単に当時の技術の限界による設計で、機構の複雑化や重量の増加を招いていたため、1970年代末から1980年代初期を以て淘汰されていった。しかし、単接点鍵盤を持つクローンホイールオルガンは、デジタル・アナログ問わずキークリックを発音するように設計され、多くはクリックの音量も調整できる。ただし単接点では鍵盤の微妙な押し込み具合によるキークリックのばらつき(ゴーストノートを多用する場合、ノリを生み出す要素となる)や多くのドローバーを引き出したレジストレーションを用いて演奏するスローテンポの楽曲におけるハープのような効果を演出することができず、これらを利用するスタイルを持つオルガン奏者にとっては不満が残った。そこで、2003年にハモンド鈴木から発売された「New B-3」では、多列接点もハモンドオルガンの魅力であるとして、デジタル式クローンホイールオルガンで初めて機械式多列接点が採用された(本来は足鍵盤も4列接点だが、これは単接点になっている。アナログ式クローンホイールオルガンについては、フィンランドのウルム社製「HIT Organ」や日本のエース電子工業製の「GT-7」など、多列接点が廃れる以前に設計されたものがある)。
4'と2-2/3のドローバーに対応する倍音は、スイッチを入れることにより「コン」という減衰音としても出力される。これを「パーカッション」と呼び、B-3以降に開発されたオルガンのほとんどに搭載されている。4'に対応するものが「セカンド(第2倍音)」、2-2/3'に対応するものが「サード(第3倍音)」と表記される。発音はコンデンサに溜められた電力を放出することにより行われる。すべての鍵盤を離すと再充電されるが、一つでも鍵盤を押さえていると電力は放出され続けるため、レガートで演奏する場合にはパーカッションは発音しない。減衰速度、音量は2段階から選択可能で、音量を大きい設定にするとパーカッション音量が少し大きくなるだけでなく、パーカッションを強調するためにオルガントーン音量が3 dBほど低下する。また、バランスよく聴かせるために低音部は大きく、高音部は小さく鳴るように作られ、最低音と最高音で1dB程度の音量差を設けている。パーカッションをonにすると、1'に対応する接点がパーカッション用に充てられるため、1'の倍音は発音しなくなる。また、パーカッションは上鍵盤でのみ発音し、コンソールタイプでは上鍵盤用の2つのドローバーセットのうち右側の音色(プリセット"B")を選択したときのみ発音する。
B-2/C-2など、パーカッションが装備されないオルガンのために、他のメーカーから後付け用のパーカッション回路も販売されている。セカンド、サード以外の倍音(第5倍音など)も選択可能、かつ、複数のパーカッショントーンをミックスして使えるタイプもある。
ドローバーを全て引っ込めた状態で、パーカッションの音だけを用いてエレクトリックピアノのように演奏することもある。左側のドローバー3本をいっぱいに引き出した音(俗に「下3本」)とサード・パーカッションを組み合わせた音色はジミー・スミスやキース・エマーソンのオルガンスタイルを代表する音色となった。
BV/CV以降のコンソール型ハモンドオルガンでは、スキャナービブラートという機構を採用している。コイルのタップ切替による位相変調方式で、円筒の中をプロペラのようなパーツが回転し、周囲に設けられた16個のコイル・タップを切り替えて位相遅れを変更し、周期的に音程を上下させる。B-2/C-2以降のモデルでは、ビブラートを上下の鍵盤それぞれに独立してon/offを設定できる。ビブラート音と原音を混ぜることでコーラス効果も作ることができ、それぞれ3段階の深さがセットされている。なお、L-100などの廉価版(スピネット型)では電子回路(フェイズシフター)を用いたビブラートユニットが装備されているが、音の厚みは劣る。ちなみに最初の製品「モデルA」ではトレモロを内蔵していた。次に開発された「モデルBC」では大型のコーラスジェネレーターが内蔵されていた(モデルBCのコーラス無しのモデルがBキャビネットを使用した最初の製品「モデルAB」である)。
B-3などの上位機種では、上下の鍵盤の左端に白黒反転カラーの鍵盤が装備されているが、これはドローバーで生成した音色およびプリセットの選択スイッチになっていて、押し込むと下がったままになる。上下鍵盤用にそれぞれ2セットずつ装備されたドローバーの音色はBおよびA♯のスイッチで選択できる。2つ以上のスイッチを同時に押すと、両方を組み合わせた音色になる(例:88 8000 000+00 8444 200=88 8444 200)。Cスイッチはキャンセルキーで、これを押すと選択されていたスイッチは解放され、音が出なくなる。なお、前述したパーカッションは上鍵盤のBスイッチの音色にだけ作動する。また、右手で鍵盤を押さえておいて、左手でCスイッチを押しながら残りのプリセットキーをランダムに押すことで倍音構成を次々に変化させる特殊奏法がある。なお、L-100など安価なスピネットタイプでは鍵盤上に舌のように突き出たスイッチ群の中にプリセットを選択する機能が割り当てられている(プリセットは下鍵盤に1つか2つ、上鍵盤に4つ。パーカッションは上鍵盤でドローバー音色を選んだ際に有効になる)。
200種類以上あるといわれているハモンドオルガンの中で、代表的かつ最も人気のある機種。最初のハモンドオルガン「モデルA」から採用されている、演奏者の足が見えるように作られた四足の外観が特徴(ただし、B-3に用いられるBキャビネットは当初大型のコーラスジェネレーターを採用した「モデルBC」として開発されたため、Aキャビネットより大型)。このモデル以降パーカッションが装備される。ほとんどのジャズオルガン奏者やポピュラーバンドに使われており、ユーザーは枚挙に暇が無い。ハモンドNew B-3やローランドVK-88などといった、現在製造されているオルガンは外見的にB-3を意識しているものが多い。ロックコンサートで使用するために、鍵盤およびメカニズムを取り出し、軽量で簡素な筐体に内蔵する改造もよく行われた(以下、RT-3まで、この改造モデルのベースとしてよく使われた。これらをHammond Chop(s)と呼ぶ)。
B-3と並んで有名なものはC-3。チャーチモデルと呼ばれるC-3は音源部分はB-3と同一だが、教会のパイプオルガンの演奏台に似た筐体を持つ(このタイプが作られた理由は「教会で使用するため」とも「スカートをはいた女性が演奏しやすくするため」ともいわれている)。筐体以外の音源部分・鍵盤部分はB-3と同一である。外観には3種類あり、アメリカ製のものは彫刻が多く施された豪華な初期型と、筐体上部の彫刻が省略された1958年以降のものがある。イギリス製は1965年以降、彫刻を省略して側面が平らで全体的に鋭角的な外観の筐体となった。また、イギリスの工場ではC-3とA-100がB-3よりも多く生産されたため、イギリスの市場では新品のB-3は高価・希少となった。このためミュージシャンは同一機能を持ち、入手しやすいC-3を多く買い求めることになった。そのためディープ・パープルのジョン・ロードや、ELPのキース・エマーソン、イエスのリック・ウェイクマンなど、主にイギリスのロックオルガニストがC-3ユーザーとして有名になった。一部のロックミュージシャンはオルガンを改造した。よく行われたのは筐体を上下に分割することとスプリングリバーブの内蔵である。ジョン・ロードはさらにRMIエレクトラピアノを組み込んで、オルガントーンと組み合わせて使用できるようにした。4本足のB-3と比べて鍵盤部が前にせり出したC-3は揺れに不安定であり、オルガンを揺さぶってリバーブに衝撃を与えてノイズを出すパフォーマンスが行いやすかった。
B-3/C-3のバリエーションで、家庭用に作られたもの。「A」と銘打たれているが、最初の製品「モデルA」の直接発展したものではない。音源部分はB-3と同一であるが、筐体は前後幅が短縮されたスリムなものとなった。本来B-3やC-3でもビブラートユニットの小型化により前後幅の短縮は可能になっているのだが、筐体の小型化は新設計のこのモデルにおいてようやくなされた。鍵盤の蓋は省略され、B-3やC-3とは異なるタイプの譜面台を持つ。設置スペースを省くためにスピーカーとスプリングリバーブを装備。猫足の優雅な外観を持つA-102やC-3と同一筐体を使用するA-105などのバリエーションがある。前後幅の短縮ゆえ、オルガンの上に他の鍵盤楽器を載せることが多いロックバンドではあまり使われず、内蔵スピーカーを装備しているため重く、ジャズでの使用例も少ない。そのためか、Hammond Chopの材料や、B-3の部品取り用に使われることが多かった。現在はそのデザインが再評価されている。なお、イギリスでは需要があったようで、アメリカで1964年に生産中止となって以降も、1975年のトーンホイール廃止まで生産された。ジャズオルガニストの河合代介はスピーカーを取り外し、レスリースピーカー用のジャックを追加したものを使用している。
C-3のバリエーションで、コンサートモデルと呼ばれるカテゴリーに属する。足鍵盤が25鍵からアメリカン・ギルド・オブ・オルガニスツ(AGO)準拠の32鍵(Cから2オクターブ上のGまで)に拡張され、ペダルドローバーの音に重ねてパイプオルガン並みの重低音を実現するために真空管式の発振器を装備した。このため、横幅は高音側が15cmほど大きい。このモデルの筐体もC-3同様のバリエーション(初期・後期・イギリス製)がある。スピーカー内蔵タイプとしてD-100シリーズがある。中でもD-152はアビー・ロード・スタジオにも設置され、ビートルズやピンク・フロイドのレコーディングでも使用された。
以下は上記までのコンソールモデルと比べて小型かつ安価なモデルで、スピネットモデルという分類に入る。スピネットモデルは内蔵スピーカーを備え、上下鍵盤は各々44鍵で下鍵盤は低音側、上鍵盤は高音側にオフセットされている。フォールドバックを持たないため高音域の音が薄い。また手鍵盤用の低音域トーンホイールを持たない(ドローバーも下鍵盤用は16'と5-1/3'を欠く)ためコンソールモデルと違い下鍵盤でベースラインを弾けないという特徴がある。足鍵盤用ドローバーは16'が1本のみである。
M-3は最初のスピネットオルガン"M型"の改良型であり、ブッカー・T・ジョーンズが使用していたことで有名。鍵盤やスイッチ類はB-3と同じもの(ウォーターフォール型鍵盤、タブレットスイッチ)を装備。M-3までのモデルはリバーブおよびプリセットを持たない(M-100以降で採用)。特徴的な機能として、エクスプレッションペダル左側にペダル鍵盤のサステインスイッチを持つ(この機能を持たせるためにペダルドローバーにはコンデンサーが接続されている。M-100以降では廃止)。またペダル鍵盤はCからBまでの12鍵(M-100以降で13鍵に改良される)。M-100以降のM型は他のスピネットタイプと同様の仕様(ダイビングボード型鍵盤、フリップスイッチ)になる。M型全体での特徴は、下鍵盤のドローバーセットにL型以降のスピネット同様の7本(16'と5-1/3'を欠く)に加えて1本で24度(第10倍音)と26度(第12倍音)の音程を同時にコントロールするもの(合計8本)を持つことと、B-3同様のスキャナービブラートを装備していることである。M-100シリーズはジョン・ポール・ジョーンズがレッド・ツェッペリンの1枚目のアルバムで使用したほか、プロコル・ハルムでマシュー・フィッシャーがM-102を使用した例が有名。スピネット第1世代のM型は1960年代から第2世代のL型に交代していった。
M-100シリーズの改良型。キークリックを特に抑制するため、高音域の出力を上げたうえでフィルターを用いて高音域を削る設計になっている(上述したように、キークリックは当時、ハモンドオルガン・カンパニーのスタッフおよび教会オルガン奏者にとっては邪魔なものであった。B-3などでも6kHz以上の周波数をカットするように設計されている)。下鍵盤のドローバーの数は7本と少なくなっている(Mシリーズまでの「下鍵盤用の8本目のドローバー」は廃止された)。ペダル用ドローバーはMシリーズ同様の1本。プリセットは上鍵盤に4つ、下鍵盤に1つ。ビブラート回路は簡単なものに置き換えられ、2段階に切り替え可能なスプリングリバーブとスピーカーを内蔵。プリセットやビブラート、リバーブはコンソール型で見られるロッカースイッチではなく、舌型のフリップスイッチで選択する。キース・エマーソンが、有名なナイフを刺して馬乗りになるなどの破壊行為を行ったのはこのオルガンである(スピーカーがあることでフィードバックノイズを作りやすいうえに小型・軽量であるためにステージを引きずり回すのに好都合だった)。その他、イエスの初代オルガニストトニー・ケイらが使用していた。スピーカーと木製の筐体を取り払った「Porta-B」というモデルもある。脚や筐体の仕様の違いでL-112などのバリエーションあり。L-200シリーズはロータリースピーカーを内蔵している。
L型の発展型。プリアンプはトランジスタ式となり、リズムボックスを内蔵している。ジェネシスのトニー・バンクスが数少ない有名な使用例。脚や筐体の仕様の違いでT-112などのバリエーションあり。T-200シリーズはロータリースピーカーを内蔵している。1975年のトーンホイール・ジェネレーター廃止まで生産された。
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"text": "ハモンドオルガン(英: Hammond Organ)とは電気楽器の一種。",
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"text": "1934年にローレンス・ハモンドによって発明された。パイプオルガンのパイプの代わりに、トーンホイール(英語版)(歯車状の磁性金属製の円盤)を回転させて、近接して設置された電磁ピックアップにより磁界変化の波を音源として出力する。このように生成された正弦波を基音または倍音として、パイプオルガンと同様にミックスして音を作り出す。",
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"text": "1930年代初頭、既に真空管を使ったシンプルな電子楽器が製品化されていたが、大規模で本格的な電子楽器はまだ研究途上にあり、真空管式電子オルガンの製品化には困難があった 。ローレンス・ハモンドは(もちろん当時としては)軽量かつ小型で、どこでも正確な音程で演奏出来るように、自身が開発した電気時計に採用した、電源周波数に同期した同期電動機(シンクロナス・モーター、synchronous AC motor)を用いてトーンホイールを回転させることにした。多数のトーンホイールは、多数の減速歯車によって同期回転させて各音程の周波数を発生させる。しかし整数比の歯車の作り出す音程は正確な十二平均律ではないため、合成音はコーラス効果で独特な音色となり、いわゆるハモンド・サウンドといわれるものとなる。",
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"text": "パイプを用いないこの楽器を人々は当初、「オルガン」とは認めなかったが、シカゴ大学のホールでパイプオルガンとハモンドオルガンを多くの人々の前でブラインドテストした結果、この楽器は「オルガンである」と認められたという。日本ではウィリアム・メレル・ヴォーリズが輸入代理店を開き、広く紹介したことにより普及した。",
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"text": "1940年代ごろから、ハモンドオルガンを身近に感じて育った子どもたちがジャズなどのミュージシャンとなり、一部のジャズプレイヤーはピアノに代わる選択肢としてハモンドオルガンを演奏するようになった。ジャズオルガニストの中でもジミー・スミスはジャズの世界にとどまらない影響を与え続けることになる。",
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"text": "1950年代、ロックンロールなどの黒人音楽の影響が強い音楽が一世を風靡すると、ハモンドオルガンはこうした音楽にも導入されていった。エレクトリック・ギターなどの電気楽器が次々登場し、ますます大きくなるバンドの音量に負けまいと鍵盤奏者が必死になってピアノの鍵盤を強打していたこの時代、比較的簡単に大音量が得られ、ドラムキットや管楽器、エレクトリック・ギターに負けない攻撃的なトーンをも生み出せるハモンドオルガンは、一躍多くの鍵盤奏者たちに愛されることとなった。1960年代後半にはディープ・パープル、ザ・ナイス、ステッペンウルフといったロックバンドのオルガン奏者がギタリストと対等に渡り合う、もしくはギタリストの在籍しないロックバンドが次々と登場。クラシックの技法なども導入され、たくさんのヒットレコードにハモンドオルガンの音は記録された。",
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"text": "1970年代後半には、元々レスリースピーカーを真似て作られたエフェクターであるフェイズシフターを、大きくかさばるレスリースピーカーの代用として使う奏者も現れた。フェイズシフターの音はレスリーとはまったく異なるものであったが、これも個性的なオルガンサウンドを生み出した。オルガンの機構を利用した特殊奏法も、様々なものが編み出されている。これについては「メカニズム」の項で例を挙げることとする。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ポピュラー音楽での使用頻度増加に伴い、1960年代初めごろにはトランジスタ回路でハモンドオルガンの音を模倣した「コンボオルガン」が多くのメーカーから発売されるようになった。代表的なものはヴォックス(VOX)社製とファルフィッサ(英語版)社製である。機構が比較的単純なためハモンドオルガンよりコンパクトで軽く、安価でもあったためアマチュアバンドに広く利用された後、ドアーズ、ビートルズ、アニマルズ、ピンク・フロイドなど、プロのバンドにもよく使われるようになり、1960年代後半のサイケデリック・ロックの特徴の一つともなった。音色自体はハモンドオルガンには全く似ていないチープなものであるが、これが独自の個性を確立し、現在まで評価されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "大きく重くならざるを得ないトーンホイールシステムは、鍵盤楽器の小型化・軽量化の流れにやがて取り残された。1974年末に全てのトーンホイールオルガンの生産が終了し、電子回路による発振に置き換えられて、完全に電子化された。全盛期にはどんなヒット曲でも聴くことのできたハモンド・サウンドはやがて飽きられ、1970年代末から急速に発展していたシンセサイザーに取って代わられることになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1986年末ハモンド・オルガンカンパニーの経営は緩やかに終息を迎えた。 修理部品と保守サービスは別会社に移行され 、商標その他はハモンド・オーストラリアに譲渡された 。 唯一の生産拠点となった日本ハモンドの権利関係は複雑化し、最終的に親会社 阪田商会は関連事業を鈴木楽器に譲渡した 。 鈴木楽器は1991年ハモンド、1992年レスリーをそれぞれ買収し、旧・日本ハモンドの流れを汲むトランジスタ発振方式の製品や、新しいサンプリング音を利用したハモンドオルガン、レスリー・スピーカーの生産を開始した 。シンセサイザーの音が飽きられ始め、古い電気・電子楽器の音が再評価されるようになった1990年代前後からは多くのメーカーでPCM音源や物理モデル音源を利用したオルガンが作られるようになる。現在ハモンドオルガンの商標を持っているハモンドスズキ(Hammond-Suzuki)の製品はビンテージのB-3のトーンホイール一つ一つからサンプリングした音を使用しており、他社のものは物理モデル音源を用いて再現しているものが多い。これらのオルガンは「クローンホイール(Clonewheel)」と呼ばれている。しかしながら、旧式のトーンホイールから生み出される深みのある太い音は、現在の技術で完全に代替出来ているとは言い難い。このため、今でもヴィンテージのハモンドオルガンを買い求める演奏家は多い。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "また伝統的なトーンホイール・オルガンを再生産するメーカーも存在する(Pari.E Electromagnetic organ)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "B-3の場合で91枚のトーンホイールを回転させるために要するトルクは大きいため、始動時にはより回転力のあるモーターを同時に動かす必要がある。このためオルガン本体には、自動車のセルモーターに相当するStartモーターを回す\"Start\"スイッチ(電源スイッチとStartモーターの始動スイッチを兼ねる)と、トーンホイールを一定速度で回すシンクロナス・モーター用の\"Run\"スイッチがある。演奏の準備のためには、まずStartスイッチを10秒近く押し上げ、モーター音が安定したところでRunスイッチを押し上げる。その後Startスイッチは指を離すと中央で止まり、プリアンプの真空管が暖まれば演奏が可能となる。鍵盤を押しながらRunスイッチを切ると、トーンホイールが減速~停止する一方、プリアンプには電気が供給されているために発音を続けるので、音程のベンドダウンを行うことができる。完全に停止してしまうと、再び立ち上げ動作を行う必要があり、10秒以上演奏できなくなる。Startモーターを演奏中に回すことでベンドアップも可能である(Startモーターの回転数に依存するため、音程変化量は個体差がある)。1970年代にはロックバンドで頻用された裏技である。なお、前述のようにシンクロナス・モーターは電源周波数により回転速度を決定しているため、日本の関東地方など50Hz圏で正しい音程で使用するには、サイクルチェンジャーの組み込みが必要である。50Hz圏でそのまま使用すると、約短3度音程が低下する。一部の業者では50Hzを60Hzに変換するだけでなく、様々な電源周波数に切り替えることで好みの調に移調できるように製作したものがある。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ハモンドオルガンのすべての楽音を生み出すのは、上述したとおりトーンホイールと呼ばれる歯車状のパーツである。その縁には正弦波を模した波形が刻まれており、ピックアップとの距離が周期的に変化することによって生じる磁界の変化を音として出力する(エレクトリックギターの弦振動とほぼ同じようなものである)。代表的機種のB-3で91枚が組み込まれている。ペダル鍵盤用の12枚とメインの79枚に分けられ、ペダル用の12枚は低音を聞こえやすくするために正弦波よりも複雑な波形を持っている。それぞれのトーンホイールが生み出した音源信号は、いくつもの系統に分けられて出力される。「上鍵盤のBプリセット用・8'のドローバーに接続される系統」「下鍵盤のA#プリセット用・2'のドローバーに接続され、かつビブラート回路を通る系統」「2ndパーカッションとして出力される系統」といった具合である。このため、トーンホイール・ジェネレーターは非常に複雑な配線がなされている。各トーンホイールはピックアップとの距離が調整されており、聴感上目立つ高音の出力が低音より抑えられていることに加え、コンソールモデルでは一度に押されている鍵盤の数、引かれているドローバーの数、演奏される音域に関わらず音量が概ね一定となるように設計されており、これによって主旋律が伴奏に埋もれてしまうことや多数のドローバーが引かれた際に音量が過大になるのを防ぐことができる(Loudness Robbingと呼ばれる)。ジェネレーターは機械式であるため、年1回程度、トーンジェネレーターとモーターに専用の潤滑油を注油する必要がある。フェルト製のトーンジェネレーターカバーに数カ所、漏斗に似た形の給油口が取り付けられていて、専用潤滑油を少量入れておけばよい。注がれたオイルを適所に補給するため、ホイールを回転させる歯車やモーターのベアリングに接触するように糸が取り付けられており、オイルが浸透して必要な部分に伝達される。",
"title": "メカニズム"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "ハーモニック・ドローバーは、基本的には9本で構成される、パイプオルガンのストップ(音栓)にあたる操作子である。これを引き出すことで倍音を重ね、オルガンの音を作り上げる。それぞれ音量が0から8までの9段階あり、向こう側に押し込んだ状態(0)では音が出ず、手前にいっぱいに引く(8)と最大音量となる。ドローバーは左から16'(16フィート)・5-1/3'(5と3分の1フィート)・8'・4'・2-2/3'・2'・1-3/5'・1-1/3'・1'となっている(パイプオルガンの、相当するパイプの長さを示す)。このうち8'は「基音」と呼ばれ、この音を中心にドローバーを調整して音色を作り上げていく。白のドローバーは基音およびそれとオクターブの関係にある倍音で、右に行くほどオクターブが上がる。黒のドローバーは基音の第3、第5、第6倍音である。ペダル鍵盤は16'と8'の2本で音色を作る(ペダル専用の倍音を多く持つトーンホイールと通常のトーンホイールを併用している)。5-1/3'のドローバーは8'の左側にあるが、これは8'ではなく16'の整数次倍音(基音の整数倍の高さの音。5-1/3'は16'の第3倍音)だからである。8'を基音とした音に深みを与えたりする場合などに使用される。16'・5-1/3'のドローバーのみ色は茶色になっている。ドローバーの組み合わせをレジストレーションとよび、「88 8000 000」などと表記する。B-3などのコンソールタイプでは上下鍵盤それぞれに9本のセットが二つずつ、ペダル用に2本のセットが一つ設置される。安価かつ小型のスピネットタイプでは上鍵盤に9本のセットが一つ、下鍵盤に7本ないし8本のセットが一つ、ペダル用に1本が設置されている。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "手鍵盤の16'担当分、最低オクターブは上のオクターブの繰り返しとなる。また、1'の最高オクターブはその下のオクターブの繰り返しとなる。これをフォールドバック(折り返し)という。これは人間の可聴域を超えるトーンホイールを省略しつつ、細くなりがちな高音域の音を太く、過剰に響きがちな低音域を引き締める効果がある。パイプオルガンにも同様の理由で折り返しがある。61鍵の音域で9つの倍音を持たせると単純計算で109枚のトーンホイールを要するはずだが、これにより91枚に留まる(この中には12枚のペダル専用トーンホイールも含まれる)。電子回路を用いたコンボオルガンの多くはフォールドバックを持たなかったため、ハモンドオルガンと電子オルガンを分ける個性とされる。ハモンドでも小型のスピネットオルガンにはフォールドバックは装備されない(しかし、サードパーティーからフォールドバックを追加するキットがオプションとして発売されている)。クローンホイールオルガンでは、ユーザーがフォールドバックの程度を調整できるものもある。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "鍵盤の各キーにはドローバー9本それぞれに対応するスイッチが上下方向、櫛状に並んでおり、キーをゆっくり押し込んでいくと高次倍音から順に発音される(多列接点)。また、これらのスイッチが接触するときの電気的スパークはキークリックと呼ばれる。ハモンドの開発陣はこの音を余計なものとして、6kHz以上の周波数を取り除くフィルターを設置する等して取り除く努力をしたが、後年この音はアタックを強調し打楽器的な演奏をより魅力的なものにするためオルガン奏者から愛され、ハモンドサウンドの特徴の一つとされている。多列接点は1970年代までの電子オルガンではハモンドに限らず採用しているものは多かったが、これは単に当時の技術の限界による設計で、機構の複雑化や重量の増加を招いていたため、1970年代末から1980年代初期を以て淘汰されていった。しかし、単接点鍵盤を持つクローンホイールオルガンは、デジタル・アナログ問わずキークリックを発音するように設計され、多くはクリックの音量も調整できる。ただし単接点では鍵盤の微妙な押し込み具合によるキークリックのばらつき(ゴーストノートを多用する場合、ノリを生み出す要素となる)や多くのドローバーを引き出したレジストレーションを用いて演奏するスローテンポの楽曲におけるハープのような効果を演出することができず、これらを利用するスタイルを持つオルガン奏者にとっては不満が残った。そこで、2003年にハモンド鈴木から発売された「New B-3」では、多列接点もハモンドオルガンの魅力であるとして、デジタル式クローンホイールオルガンで初めて機械式多列接点が採用された(本来は足鍵盤も4列接点だが、これは単接点になっている。アナログ式クローンホイールオルガンについては、フィンランドのウルム社製「HIT Organ」や日本のエース電子工業製の「GT-7」など、多列接点が廃れる以前に設計されたものがある)。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "4'と2-2/3のドローバーに対応する倍音は、スイッチを入れることにより「コン」という減衰音としても出力される。これを「パーカッション」と呼び、B-3以降に開発されたオルガンのほとんどに搭載されている。4'に対応するものが「セカンド(第2倍音)」、2-2/3'に対応するものが「サード(第3倍音)」と表記される。発音はコンデンサに溜められた電力を放出することにより行われる。すべての鍵盤を離すと再充電されるが、一つでも鍵盤を押さえていると電力は放出され続けるため、レガートで演奏する場合にはパーカッションは発音しない。減衰速度、音量は2段階から選択可能で、音量を大きい設定にするとパーカッション音量が少し大きくなるだけでなく、パーカッションを強調するためにオルガントーン音量が3 dBほど低下する。また、バランスよく聴かせるために低音部は大きく、高音部は小さく鳴るように作られ、最低音と最高音で1dB程度の音量差を設けている。パーカッションをonにすると、1'に対応する接点がパーカッション用に充てられるため、1'の倍音は発音しなくなる。また、パーカッションは上鍵盤でのみ発音し、コンソールタイプでは上鍵盤用の2つのドローバーセットのうち右側の音色(プリセット\"B\")を選択したときのみ発音する。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "B-2/C-2など、パーカッションが装備されないオルガンのために、他のメーカーから後付け用のパーカッション回路も販売されている。セカンド、サード以外の倍音(第5倍音など)も選択可能、かつ、複数のパーカッショントーンをミックスして使えるタイプもある。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "ドローバーを全て引っ込めた状態で、パーカッションの音だけを用いてエレクトリックピアノのように演奏することもある。左側のドローバー3本をいっぱいに引き出した音(俗に「下3本」)とサード・パーカッションを組み合わせた音色はジミー・スミスやキース・エマーソンのオルガンスタイルを代表する音色となった。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "BV/CV以降のコンソール型ハモンドオルガンでは、スキャナービブラートという機構を採用している。コイルのタップ切替による位相変調方式で、円筒の中をプロペラのようなパーツが回転し、周囲に設けられた16個のコイル・タップを切り替えて位相遅れを変更し、周期的に音程を上下させる。B-2/C-2以降のモデルでは、ビブラートを上下の鍵盤それぞれに独立してon/offを設定できる。ビブラート音と原音を混ぜることでコーラス効果も作ることができ、それぞれ3段階の深さがセットされている。なお、L-100などの廉価版(スピネット型)では電子回路(フェイズシフター)を用いたビブラートユニットが装備されているが、音の厚みは劣る。ちなみに最初の製品「モデルA」ではトレモロを内蔵していた。次に開発された「モデルBC」では大型のコーラスジェネレーターが内蔵されていた(モデルBCのコーラス無しのモデルがBキャビネットを使用した最初の製品「モデルAB」である)。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "B-3などの上位機種では、上下の鍵盤の左端に白黒反転カラーの鍵盤が装備されているが、これはドローバーで生成した音色およびプリセットの選択スイッチになっていて、押し込むと下がったままになる。上下鍵盤用にそれぞれ2セットずつ装備されたドローバーの音色はBおよびA♯のスイッチで選択できる。2つ以上のスイッチを同時に押すと、両方を組み合わせた音色になる(例:88 8000 000+00 8444 200=88 8444 200)。Cスイッチはキャンセルキーで、これを押すと選択されていたスイッチは解放され、音が出なくなる。なお、前述したパーカッションは上鍵盤のBスイッチの音色にだけ作動する。また、右手で鍵盤を押さえておいて、左手でCスイッチを押しながら残りのプリセットキーをランダムに押すことで倍音構成を次々に変化させる特殊奏法がある。なお、L-100など安価なスピネットタイプでは鍵盤上に舌のように突き出たスイッチ群の中にプリセットを選択する機能が割り当てられている(プリセットは下鍵盤に1つか2つ、上鍵盤に4つ。パーカッションは上鍵盤でドローバー音色を選んだ際に有効になる)。",
"title": "メカニズム"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "200種類以上あるといわれているハモンドオルガンの中で、代表的かつ最も人気のある機種。最初のハモンドオルガン「モデルA」から採用されている、演奏者の足が見えるように作られた四足の外観が特徴(ただし、B-3に用いられるBキャビネットは当初大型のコーラスジェネレーターを採用した「モデルBC」として開発されたため、Aキャビネットより大型)。このモデル以降パーカッションが装備される。ほとんどのジャズオルガン奏者やポピュラーバンドに使われており、ユーザーは枚挙に暇が無い。ハモンドNew B-3やローランドVK-88などといった、現在製造されているオルガンは外見的にB-3を意識しているものが多い。ロックコンサートで使用するために、鍵盤およびメカニズムを取り出し、軽量で簡素な筐体に内蔵する改造もよく行われた(以下、RT-3まで、この改造モデルのベースとしてよく使われた。これらをHammond Chop(s)と呼ぶ)。",
"title": "代表的なハモンド・トーンホイールオルガン"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "B-3と並んで有名なものはC-3。チャーチモデルと呼ばれるC-3は音源部分はB-3と同一だが、教会のパイプオルガンの演奏台に似た筐体を持つ(このタイプが作られた理由は「教会で使用するため」とも「スカートをはいた女性が演奏しやすくするため」ともいわれている)。筐体以外の音源部分・鍵盤部分はB-3と同一である。外観には3種類あり、アメリカ製のものは彫刻が多く施された豪華な初期型と、筐体上部の彫刻が省略された1958年以降のものがある。イギリス製は1965年以降、彫刻を省略して側面が平らで全体的に鋭角的な外観の筐体となった。また、イギリスの工場ではC-3とA-100がB-3よりも多く生産されたため、イギリスの市場では新品のB-3は高価・希少となった。このためミュージシャンは同一機能を持ち、入手しやすいC-3を多く買い求めることになった。そのためディープ・パープルのジョン・ロードや、ELPのキース・エマーソン、イエスのリック・ウェイクマンなど、主にイギリスのロックオルガニストがC-3ユーザーとして有名になった。一部のロックミュージシャンはオルガンを改造した。よく行われたのは筐体を上下に分割することとスプリングリバーブの内蔵である。ジョン・ロードはさらにRMIエレクトラピアノを組み込んで、オルガントーンと組み合わせて使用できるようにした。4本足のB-3と比べて鍵盤部が前にせり出したC-3は揺れに不安定であり、オルガンを揺さぶってリバーブに衝撃を与えてノイズを出すパフォーマンスが行いやすかった。",
"title": "代表的なハモンド・トーンホイールオルガン"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "B-3/C-3のバリエーションで、家庭用に作られたもの。「A」と銘打たれているが、最初の製品「モデルA」の直接発展したものではない。音源部分はB-3と同一であるが、筐体は前後幅が短縮されたスリムなものとなった。本来B-3やC-3でもビブラートユニットの小型化により前後幅の短縮は可能になっているのだが、筐体の小型化は新設計のこのモデルにおいてようやくなされた。鍵盤の蓋は省略され、B-3やC-3とは異なるタイプの譜面台を持つ。設置スペースを省くためにスピーカーとスプリングリバーブを装備。猫足の優雅な外観を持つA-102やC-3と同一筐体を使用するA-105などのバリエーションがある。前後幅の短縮ゆえ、オルガンの上に他の鍵盤楽器を載せることが多いロックバンドではあまり使われず、内蔵スピーカーを装備しているため重く、ジャズでの使用例も少ない。そのためか、Hammond Chopの材料や、B-3の部品取り用に使われることが多かった。現在はそのデザインが再評価されている。なお、イギリスでは需要があったようで、アメリカで1964年に生産中止となって以降も、1975年のトーンホイール廃止まで生産された。ジャズオルガニストの河合代介はスピーカーを取り外し、レスリースピーカー用のジャックを追加したものを使用している。",
"title": "代表的なハモンド・トーンホイールオルガン"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "C-3のバリエーションで、コンサートモデルと呼ばれるカテゴリーに属する。足鍵盤が25鍵からアメリカン・ギルド・オブ・オルガニスツ(AGO)準拠の32鍵(Cから2オクターブ上のGまで)に拡張され、ペダルドローバーの音に重ねてパイプオルガン並みの重低音を実現するために真空管式の発振器を装備した。このため、横幅は高音側が15cmほど大きい。このモデルの筐体もC-3同様のバリエーション(初期・後期・イギリス製)がある。スピーカー内蔵タイプとしてD-100シリーズがある。中でもD-152はアビー・ロード・スタジオにも設置され、ビートルズやピンク・フロイドのレコーディングでも使用された。",
"title": "代表的なハモンド・トーンホイールオルガン"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "以下は上記までのコンソールモデルと比べて小型かつ安価なモデルで、スピネットモデルという分類に入る。スピネットモデルは内蔵スピーカーを備え、上下鍵盤は各々44鍵で下鍵盤は低音側、上鍵盤は高音側にオフセットされている。フォールドバックを持たないため高音域の音が薄い。また手鍵盤用の低音域トーンホイールを持たない(ドローバーも下鍵盤用は16'と5-1/3'を欠く)ためコンソールモデルと違い下鍵盤でベースラインを弾けないという特徴がある。足鍵盤用ドローバーは16'が1本のみである。",
"title": "代表的なハモンド・トーンホイールオルガン"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "M-3は最初のスピネットオルガン\"M型\"の改良型であり、ブッカー・T・ジョーンズが使用していたことで有名。鍵盤やスイッチ類はB-3と同じもの(ウォーターフォール型鍵盤、タブレットスイッチ)を装備。M-3までのモデルはリバーブおよびプリセットを持たない(M-100以降で採用)。特徴的な機能として、エクスプレッションペダル左側にペダル鍵盤のサステインスイッチを持つ(この機能を持たせるためにペダルドローバーにはコンデンサーが接続されている。M-100以降では廃止)。またペダル鍵盤はCからBまでの12鍵(M-100以降で13鍵に改良される)。M-100以降のM型は他のスピネットタイプと同様の仕様(ダイビングボード型鍵盤、フリップスイッチ)になる。M型全体での特徴は、下鍵盤のドローバーセットにL型以降のスピネット同様の7本(16'と5-1/3'を欠く)に加えて1本で24度(第10倍音)と26度(第12倍音)の音程を同時にコントロールするもの(合計8本)を持つことと、B-3同様のスキャナービブラートを装備していることである。M-100シリーズはジョン・ポール・ジョーンズがレッド・ツェッペリンの1枚目のアルバムで使用したほか、プロコル・ハルムでマシュー・フィッシャーがM-102を使用した例が有名。スピネット第1世代のM型は1960年代から第2世代のL型に交代していった。",
"title": "代表的なハモンド・トーンホイールオルガン"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "M-100シリーズの改良型。キークリックを特に抑制するため、高音域の出力を上げたうえでフィルターを用いて高音域を削る設計になっている(上述したように、キークリックは当時、ハモンドオルガン・カンパニーのスタッフおよび教会オルガン奏者にとっては邪魔なものであった。B-3などでも6kHz以上の周波数をカットするように設計されている)。下鍵盤のドローバーの数は7本と少なくなっている(Mシリーズまでの「下鍵盤用の8本目のドローバー」は廃止された)。ペダル用ドローバーはMシリーズ同様の1本。プリセットは上鍵盤に4つ、下鍵盤に1つ。ビブラート回路は簡単なものに置き換えられ、2段階に切り替え可能なスプリングリバーブとスピーカーを内蔵。プリセットやビブラート、リバーブはコンソール型で見られるロッカースイッチではなく、舌型のフリップスイッチで選択する。キース・エマーソンが、有名なナイフを刺して馬乗りになるなどの破壊行為を行ったのはこのオルガンである(スピーカーがあることでフィードバックノイズを作りやすいうえに小型・軽量であるためにステージを引きずり回すのに好都合だった)。その他、イエスの初代オルガニストトニー・ケイらが使用していた。スピーカーと木製の筐体を取り払った「Porta-B」というモデルもある。脚や筐体の仕様の違いでL-112などのバリエーションあり。L-200シリーズはロータリースピーカーを内蔵している。",
"title": "代表的なハモンド・トーンホイールオルガン"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "L型の発展型。プリアンプはトランジスタ式となり、リズムボックスを内蔵している。ジェネシスのトニー・バンクスが数少ない有名な使用例。脚や筐体の仕様の違いでT-112などのバリエーションあり。T-200シリーズはロータリースピーカーを内蔵している。1975年のトーンホイール・ジェネレーター廃止まで生産された。",
"title": "代表的なハモンド・トーンホイールオルガン"
}
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ハモンドオルガンとは電気楽器の一種。 1934年にローレンス・ハモンドによって発明された。パイプオルガンのパイプの代わりに、トーンホイール(歯車状の磁性金属製の円盤)を回転させて、近接して設置された電磁ピックアップにより磁界変化の波を音源として出力する。このように生成された正弦波を基音または倍音として、パイプオルガンと同様にミックスして音を作り出す。 機種や演奏環境によって若干の差異はあるが、空気感に富む明朗な音色が特徴である。複雑な発音方式から生じる深みのあるサウンドを利して、ジャズやロックなど比較的近代的な音楽に導入している例も少なからず見受けられる。
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{{出典の明記|date=2021年6月}}
[[画像:Hammond b3 con leslie 122.jpg|thumb|300px|ハモンドB-3とレスリースピーカー]]
'''ハモンドオルガン'''({{Lang-en-short|Hammond Organ}})とは[[電気楽器]]の一種。
[[1934年]]に[[ローレンス・ハモンド]]によって発明された。[[パイプオルガン]]のパイプの代わりに、'''{{仮リンク|トーンホイール|en|Tonewheel}}'''(歯車状の[[磁性体|磁性金属]]製の円盤)を回転させて、近接して設置された電磁[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]により[[磁界]]変化の波を音源として出力する。このように生成された[[正弦波]]を[[基本周波数|基音]]または[[倍音]]として、パイプオルガンと同様にミックスして音を作り出す。
機種や演奏環境によって若干の差異はあるが、空気感に富む明朗な音色が特徴である。複雑な発音方式から生じる深みのあるサウンドを利して、[[ジャズ]]や[[ロック_(音楽)|ロック]]など比較的[[現代の音楽|近代的な音楽]]に導入している例も少なからず見受けられる。
== 歴史 ==
[[画像:Tonewheel-p.svg|thumb|200px|トーンホイールの模式図]]
=== 誕生 ===
[[1930年代]]初頭、既に[[真空管]]を使ったシンプルな[[電子楽器]]が製品化されていたが、大規模で本格的な電子楽器はまだ研究途上にあり、真空管式電子オルガンの製品化には困難があった <ref group="注釈">ハモンドは後の[[1937年|1937]] - [[1938年]]に真空管式[[ポリフォニックシンセサイザー]]「ノバコード」を、[[1940年]]には単音電子楽器「Solovox」を開発・販売している. また1938年にはアーレン・オルガンが「世界最初の」真空管式電子オルガンを開発している. 詳細は記事[[電子オルガン]]および [http://www.hammond-organ.com/History/hammond_accomplishments.htm hammond-organ.com]を参照</ref>。ローレンス・ハモンドは(もちろん当時としては)軽量かつ小型で、どこでも正確な音程で演奏出来るように、自身が開発した電気時計に採用した、電源周波数に同期した[[同期電動機]](シンクロナス・モーター、synchronous AC motor)を用いてトーンホイールを回転させることにした。多数のトーンホイールは、多数の[[減速機|減速歯車]]によって[[同期]]回転させて各音程の[[周波数]]を発生させる。しかし[[整数]]比の歯車の作り出す音程は正確な[[十二平均律]]ではないため、合成音は[[コーラス (音響機器)|コーラス]]効果で独特な音色となり、いわゆるハモンド・サウンドといわれるものとなる。
パイプを用いないこの楽器を人々は当初、「オルガン」とは認めなかったが、シカゴ大学のホールでパイプオルガンとハモンドオルガンを多くの人々の前で[[ブラインドテスト]]した結果、この楽器は「オルガンである」と認められたという。[[日本]]では[[ウィリアム・メレル・ヴォーリズ]]が輸入代理店を開き、広く紹介したことにより普及した。
=== 全盛期 ===
[[1940年代]]ごろから、ハモンドオルガンを身近に感じて育った子どもたちがジャズなどのミュージシャンとなり、一部のジャズプレイヤーは[[ピアノ]]に代わる選択肢としてハモンドオルガンを演奏するようになった。ジャズ[[オルガニスト]]の中でも[[ジミー・スミス]]はジャズの世界にとどまらない影響を与え続けることになる。
[[1950年代]]、[[ロックンロール]]などの黒人音楽の影響が強い音楽が一世を風靡すると、ハモンドオルガンはこうした音楽にも導入されていった。[[エレクトリック・ギター]]などの[[電気楽器]]が次々登場し、ますます大きくなるバンドの音量に負けまいと[[キーボーディスト|鍵盤奏者]]が必死になってピアノの鍵盤を強打していたこの時代、比較的簡単に大音量が得られ、[[ドラムキット]]や[[管楽器]]、[[エレクトリック・ギター]]に負けない攻撃的なトーンをも生み出せるハモンドオルガンは、一躍多くの鍵盤奏者たちに愛されることとなった。[[1960年代]]後半には[[ディープ・パープル]]、[[ナイス (バンド)|ザ・ナイス]]、[[ステッペンウルフ]]といったロックバンドのオルガン奏者が[[ギタリスト]]と対等に渡り合う、もしくはギタリストの在籍しないロックバンドが次々と登場。[[クラシック音楽|クラシック]]の技法なども導入され、たくさんの[[ヒット曲|ヒットレコード]]にハモンドオルガンの音は記録された。
[[ファイル:Lesliebox Animation.gif|thumb|upright|レスリー・スピーカー模式図]]
=== サウンドの発展 ===
ハモンドオルガン・カンパニーは専用[[アンプ (楽器用)|アンプ]]としてPR-40などの専用トーンキャビネットを製造し、推奨していた。1940年代、オルガン奏者であったドン・レスリーという人物はパイプオルガンの響きが左右に動いて聴こえるのに気づき、回転する高音用ホーンと低音用ローターをもったスピーカーを開発する。「[[ロータリースピーカー|レスリー・スピーカー]]」の誕生である。ローレンス・ハモンドは生前、レスリー・スピーカーを認めることはなかったが、オルガニストたちはこぞってこのスピーカーを使い始める。瞬く間にハモンドオルガンとレスリー・スピーカーは殆どの場合セットで用いられることになり、現在ではレスリー・スピーカーはハモンドオルガンの個性の半分以上を担うと看做されるようになった。
ギターアンプなどに内蔵された[[リバーブレーター#スプリング・リバーブ|スプリング・リバーブユニット]]に衝撃を与えると[[爆発]]音や[[雷]]のような音が出ることが発見されてから、一部のロックオルガニストたちはより「ロックな」パフォーマンスを行うため、本来リバーブを内蔵しないB-3やC-3にユニットを組み込み、オルガンを揺らし、叩き付け、[[ドラムスティック]]などで直接ユニットのバネを擦って攻撃的なノイズを発生させるようになった。また、一部のオルガニストはギターアンプを用いてオルガンサウンドを増幅することでギターへの憧憬を表したり、より攻撃的なトーンを作り出したりした。この代表選手は[[ディープ・パープル]]の[[ジョン・ロード]]であろう。
[[ファイル:Arrow Festival8 Deep Purple-6.JPG|thumb|upright|ディープ・パープル と B-3(後ろで[[ドン・エイリー]]が演奏している)]]
[[ナイス (バンド)|ザ・ナイス]]~[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]の[[キース・エマーソン]]は[[ジミ・ヘンドリックス]]などの影響からフィードバック([[ハウリング]])やスプリング・リバーブの衝撃音、[[ナイフ]](鍵盤の間に突き刺し、音を出たままの状態にする)まで利用し、オルガンに馬乗りになったり下敷きになったりして演奏するという強烈なパフォーマンスを行い、観客の目も耳も釘付けにした。ジョン・ロードはスプリングリバーブの衝撃音やリングモジュレーターを使って印象的なノイズを多用したことで有名である。また1969年から1972年までのディープ・パープルのいわゆる「第2期」にはレスリー・スピーカーを用いずにギターアンプ([[マーシャル (アンプ)|マーシャル]]社のベースアンプ)を使用した。
[[1970年代]]後半には、元々レスリースピーカーを真似て作られたエフェクターであるフェイズシフターを、大きくかさばるレスリースピーカーの代用として使う奏者も現れた。フェイズシフターの音はレスリーとはまったく異なるものであったが、これも個性的なオルガンサウンドを生み出した。オルガンの機構を利用した特殊奏法も、様々なものが編み出されている。これについては「メカニズム」の項で例を挙げることとする。
ポピュラー音楽での使用頻度増加に伴い、1960年代初めごろには[[トランジスタ]]回路でハモンドオルガンの音を模倣した「[[コンボオルガン]]」が多くのメーカーから発売されるようになった。代表的なものは[[ヴォックス (楽器メーカー)|ヴォックス]](VOX)社製とファルフィッサ([[:en:Farfisa|英語版]])社製である。機構が比較的単純なためハモンドオルガンよりコンパクトで軽く、安価でもあったため[[アマチュア]]バンドに広く利用された後、[[ドアーズ]]、[[ビートルズ]]、[[アニマルズ]]、[[ピンク・フロイド]]など、プロのバンドにもよく使われるようになり、1960年代後半の[[サイケデリック・ロック]]の特徴の一つともなった。音色自体はハモンドオルガンには全く似ていないチープなものであるが、これが独自の個性を確立し、現在まで評価されている。
=== 衰退と再評価 ===
大きく重くならざるを得ないトーンホイールシステムは、鍵盤楽器の小型化・軽量化の流れにやがて取り残された。[[1974年]]末に全てのトーンホイールオルガンの生産が終了し、[[発振回路|電子回路による発振]]に置き換えられて、完全に電子化された。全盛期にはどんなヒット曲でも聴くことのできたハモンド・サウンドはやがて飽きられ、1970年代末から急速に発展していた[[シンセサイザー]]に取って代わられることになった。
[[ファイル:Los Potatos w Lizard King (1).jpg|thumb|upright|ハモンドスズキ XK-1]]
1986年末ハモンド・オルガンカンパニーの経営は緩やかに終息を迎えた。 修理部品と保守サービスは別会社に移行され <ref>{{cite web |title=Frequently Asked Questions - 2. Is the Hammond Organ Company still in business? |url=http://organservicecompany.com/FAQ.html#2. |publisher=ORGAN SERVICE COMPANY, INC. |accessdate=2009-08-13}}<br/>1986年末のHammond Organ Company終焉に先立ち、保守サービスはHammond Organ Service Companyに移行された。社名は後に商標権の問題で Organ Service Company に変更されたものの、現在も保守サービスを地域限定で提供している。</ref>、商標その他はハモンド・オーストラリアに譲渡された <ref>{{cite news |title=Marmon Group sells Hammond Organ rights |url=http://www.encyclopedia.com/doc/1P2-3743847.html |newspaper=Chicago Sun-Times |date=January 3, 1986 }}</ref>。 唯一の生産拠点となった日本ハモンドの権利関係は複雑化し、最終的に親会社 [[サカタインクス|阪田商会]]は関連事業を[[鈴木楽器製作所|鈴木楽器]]に譲渡した <ref name="SakataHammond">「ハモンドメッセージ 43号」, ハモンドスズキ(2005年3月)<br /> 鈴木楽器製作所が阪田商会からハモンドを引き継いだ事情や、当時ハモンド・ブランドの保有権がオーストラリアの投資家にあったことなどが紹介されている。[http://erineko.txt-nifty.com/hammond/2009/03/43hkd-100-3997.html]</ref>。 鈴木楽器は[[1991年]]ハモンド、[[1992年]]レスリーをそれぞれ買収し、旧・日本ハモンドの流れを汲むトランジスタ発振方式の製品や、新しい[[サンプリング]]音を利用したハモンドオルガン、レスリー・スピーカーの生産を開始した <ref group="注釈" name=SuzukiOEM>鈴木楽器は1980年代後半、多くの海外有名ブランドの国内生産を手がけており(Kurzwell製品、Ensoniqのサンプラー、Oberheim Matrixシンセ等)、その過程で日本独自仕様の製品を生み出すなどして堅実な技術の蓄積を行ったと推定される </ref>。シンセサイザーの音が飽きられ始め、古い電気・電子楽器の音が再評価されるようになった[[1990年代]]前後からは多くのメーカーで[[PCM音源]]や[[物理モデル音源]]を利用したオルガンが作られるようになる。現在ハモンドオルガンの商標を持っているハモンドスズキ(Hammond-Suzuki)の製品はビンテージのB-3のトーンホイール一つ一つからサンプリングした音を使用しており、他社のものは[[物理モデル音源]]を用いて再現しているものが多い。これらのオルガンは「クローンホイール(Clonewheel)」と呼ばれている。しかしながら、旧式のトーンホイールから生み出される深みのある太い音は、現在の技術で完全に代替出来ているとは言い難い。このため、今でも[[ヴィンテージ]]のハモンドオルガンを買い求める演奏家は多い。
また伝統的なトーンホイール・オルガンを再生産するメーカーも存在する(Pari.E Electromagnetic organ)<ref>{{cite web |title=Pari Organ |url=http://www.dairiki.org/HammondWiki/PariOrgans |publisher=HammondWiki |accessdate=2009-10-12}}<br/> Pari Organsは 1960年代初期Anton Parieがベルギーに設立したオルガンメーカー。1970年代末にいったん生産を終了した後、2005年にイタリアでPARI.Eという新たな名前で復活し、トーンホイール・オルガン「K-61」を発売した。同社は2007年電子楽器ブランドのクルーマー(CRUMAR)をもつBG's Instruments社の傘下となり、ハミコード(Hamichord)という名称のデジタルオルガン([[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]を[[オペレーティングシステム|OS]]としてVSTインストゥルメントを動作させる方式)を発表。1段鍵盤タイプやラックマウント音源など、バリエーション展開をしている。K-61については2009年のBG's Instruments社のカタログには掲載されているが、現在も販売されているか否かは不明である。[http://www.parieorgan.it/ Pari. E公式サイト]</ref>。
== メカニズム ==
[[ファイル:Hammond B3 switches.jpg|thumb|upright|起動スイッチ]]
[[ファイル:Hammond C2 internals-1 (Supernatural).jpg|thumb|Hammond C-2 の内部 <br/><small>上から順に ドローバー/鍵盤/トーンジェネレータ/アンプ&電源部が並ぶ。右側の白い円筒2つが給油口。</small>]]
=== 2つの起動スイッチ ===
B-3の場合で91枚のトーンホイールを回転させるために要するトルクは大きいため、始動時にはより回転力のあるモーターを同時に動かす必要がある。このためオルガン本体には、自動車のセルモーターに相当するStartモーターを回す"Start"スイッチ(電源スイッチとStartモーターの始動スイッチを兼ねる)と、トーンホイールを一定速度で回すシンクロナス・モーター用の"Run"スイッチがある。演奏の準備のためには、まずStartスイッチを10秒近く押し上げ、モーター音が安定したところでRunスイッチを押し上げる。その後Startスイッチは指を離すと中央で止まり、プリアンプの真空管が暖まれば演奏が可能となる。鍵盤を押しながらRunスイッチを切ると、トーンホイールが減速~停止する一方、プリアンプには電気が供給されているために発音を続けるので、音程のベンドダウンを行うことができる。完全に停止してしまうと、再び立ち上げ動作を行う必要があり、10秒以上演奏できなくなる。Startモーターを演奏中に回すことでベンドアップも可能である(Startモーターの回転数に依存するため、音程変化量は個体差がある)。1970年代にはロックバンドで頻用された裏技である。なお、前述のようにシンクロナス・モーターは電源周波数により回転速度を決定しているため、[[日本]]の関東地方など50Hz圏で正しい音程で使用するには、サイクルチェンジャーの組み込みが必要である。50Hz圏でそのまま使用すると、約短3度音程が低下する。一部の業者では50Hzを60Hzに変換するだけでなく、様々な電源周波数に切り替えることで好みの調に移調できるように製作したものがある。
=== トーンホイール・ジェネレーター ===
ハモンドオルガンのすべての楽音を生み出すのは、上述したとおりトーンホイールと呼ばれる歯車状のパーツである。その縁には[[正弦波]]を模した波形が刻まれており、ピックアップとの距離が周期的に変化することによって生じる磁界の変化を音として出力する([[エレクトリックギター]]の弦振動とほぼ同じようなものである)。代表的機種のB-3で91枚が組み込まれている。ペダル鍵盤用の12枚とメインの79枚に分けられ、ペダル用の12枚は低音を聞こえやすくするために正弦波よりも複雑な波形を持っている。それぞれのトーンホイールが生み出した音源信号は、いくつもの系統に分けられて出力される。「上鍵盤のBプリセット用・8'のドローバーに接続される系統」「下鍵盤のA#プリセット用・2'のドローバーに接続され、かつビブラート回路を通る系統」「2ndパーカッションとして出力される系統」といった具合である。このため、トーンホイール・ジェネレーターは非常に複雑な配線がなされている。各トーンホイールはピックアップとの距離が調整されており、聴感上目立つ高音の出力が低音より抑えられていることに加え、コンソールモデルでは一度に押されている鍵盤の数、引かれているドローバーの数、演奏される音域に関わらず音量が概ね一定となるように設計されており、これによって主旋律が伴奏に埋もれてしまうことや多数のドローバーが引かれた際に音量が過大になるのを防ぐことができる(Loudness Robbingと呼ばれる)。ジェネレーターは機械式であるため、年1回程度、トーンジェネレーターとモーターに専用の[[潤滑油]]を注油する必要がある。フェルト製のトーンジェネレーターカバーに数カ所、漏斗に似た形の給油口が取り付けられていて、専用潤滑油を少量入れておけばよい。注がれたオイルを適所に補給するため、ホイールを回転させる歯車やモーターのベアリングに接触するように糸が取り付けられており、オイルが浸透して必要な部分に伝達される。
=== ドローバー ===
[[画像:Hammond-drawbars-plain.svg|thumb|300px|ドローバーの配列]]
ハーモニック・ドローバーは、基本的には9本で構成される、パイプオルガンのストップ(音栓)にあたる操作子である。これを引き出すことで倍音を重ね、オルガンの音を作り上げる。それぞれ音量が0から8までの9段階あり、向こう側に押し込んだ状態(0)では音が出ず、手前にいっぱいに引く(8)と最大音量となる。ドローバーは左から16'(16フィート)・5-1/3'(5と3分の1フィート)・8'・4'・2-2/3'・2'・1-3/5'・1-1/3'・1'となっている(パイプオルガンの、相当するパイプの長さを示す)。このうち8'は「基音」と呼ばれ、この音を中心にドローバーを調整して音色を作り上げていく。白のドローバーは基音およびそれとオクターブの関係にある倍音で、右に行くほどオクターブが上がる。黒のドローバーは基音の第3、第5、第6倍音である。ペダル鍵盤は16'と8'の2本で音色を作る(ペダル専用の倍音を多く持つトーンホイールと通常のトーンホイールを併用している)。5-1/3'のドローバーは8'の左側にあるが、これは8'ではなく16'の整数次倍音(基音の整数倍の高さの音。5-1/3'は16'の第3倍音)だからである。8'を基音とした音に深みを与えたりする場合などに使用される。16'・5-1/3'のドローバーのみ色は茶色になっている。ドローバーの組み合わせをレジストレーションとよび、「88 8000 000」などと表記する。B-3などのコンソールタイプでは上下鍵盤それぞれに9本のセットが二つずつ、ペダル用に2本のセットが一つ設置される。安価かつ小型のスピネットタイプでは上鍵盤に9本のセットが一つ、下鍵盤に7本ないし8本のセットが一つ、ペダル用に1本が設置されている。
=== フォールドバック ===
手鍵盤の16'担当分、最低オクターブは上のオクターブの繰り返しとなる。また、1'の最高オクターブはその下のオクターブの繰り返しとなる。これをフォールドバック(折り返し)という。これは人間の可聴域を超えるトーンホイールを省略しつつ、細くなりがちな高音域の音を太く、過剰に響きがちな低音域を引き締める効果がある。パイプオルガンにも同様の理由で折り返しがある。61鍵の音域で9つの倍音を持たせると単純計算で109枚のトーンホイールを要するはずだが、これにより91枚に留まる(この中には12枚のペダル専用トーンホイールも含まれる)。電子回路を用いたコンボオルガンの多くはフォールドバックを持たなかったため、ハモンドオルガンと電子オルガンを分ける個性とされる。ハモンドでも小型のスピネットオルガンにはフォールドバックは装備されない(しかし、サードパーティーからフォールドバックを追加するキットがオプションとして発売されている)。クローンホイールオルガンでは、ユーザーがフォールドバックの程度を調整できるものもある。
=== 多列接点 ===
鍵盤の各キーにはドローバー9本それぞれに対応するスイッチが上下方向、櫛状に並んでおり、キーをゆっくり押し込んでいくと高次倍音から順に発音される(多列接点)。また、これらのスイッチが接触するときの電気的スパークはキークリックと呼ばれる。ハモンドの開発陣はこの音を余計なものとして、6kHz以上の周波数を取り除くフィルターを設置する等して取り除く努力をしたが、後年この音はアタックを強調し打楽器的な演奏をより魅力的なものにするためオルガン奏者から愛され、ハモンドサウンドの特徴の一つとされている。多列接点は1970年代までの電子オルガンではハモンドに限らず採用しているものは多かったが、これは単に当時の技術の限界による設計で、機構の複雑化や重量の増加を招いていたため、1970年代末から1980年代初期を以て淘汰されていった。しかし、単接点鍵盤を持つクローンホイールオルガンは、デジタル・アナログ問わずキークリックを発音するように設計され、多くはクリックの音量も調整できる。ただし単接点では鍵盤の微妙な押し込み具合によるキークリックのばらつき(ゴーストノートを多用する場合、ノリを生み出す要素となる)や多くのドローバーを引き出したレジストレーションを用いて演奏するスローテンポの楽曲におけるハープのような効果を演出することができず、これらを利用するスタイルを持つオルガン奏者にとっては不満が残った。そこで、2003年にハモンド鈴木から発売された「New B-3」では、多列接点もハモンドオルガンの魅力であるとして、デジタル式クローンホイールオルガンで初めて機械式多列接点が採用された(本来は足鍵盤も4列接点だが、これは単接点になっている。アナログ式クローンホイールオルガンについては、フィンランドのウルム社製「HIT Organ」や日本の[[エース電子工業]]製の「GT-7」など、多列接点が廃れる以前に設計されたものがある)。
=== パーカッション ===
4'と2-2/3のドローバーに対応する倍音は、スイッチを入れることにより「コン」という減衰音としても出力される。これを「[[パーカッション]]」と呼び、B-3以降に開発されたオルガンのほとんどに搭載されている。4'に対応するものが「セカンド(第2倍音)」、2-2/3'に対応するものが「サード(第3[[倍音]])」と表記される。発音は[[コンデンサ]]に溜められた電力を放出することにより行われる。すべての鍵盤を離すと再充電されるが、一つでも鍵盤を押さえていると電力は放出され続けるため、[[レガート]]で演奏する場合にはパーカッションは発音しない。減衰速度、音量は2段階から選択可能で、音量を大きい設定にするとパーカッション音量が少し大きくなるだけでなく、パーカッションを強調するためにオルガントーン音量が3 [[デシベル|dB]]ほど低下する。また、バランスよく聴かせるために低音部は大きく、高音部は小さく鳴るように作られ、最低音と最高音で1dB程度の音量差を設けている。パーカッションをonにすると、1'に対応する接点がパーカッション用に充てられるため、1'の倍音は発音しなくなる。また、パーカッションは上鍵盤でのみ発音し、コンソールタイプでは上鍵盤用の2つのドローバーセットのうち右側の音色(プリセット"B")を選択したときのみ発音する。
B-2/C-2など、パーカッションが装備されないオルガンのために、他のメーカーから後付け用のパーカッション回路も販売されている。セカンド、サード以外の倍音(第5倍音など)も選択可能、かつ、複数のパーカッショントーンをミックスして使えるタイプもある。
ドローバーを全て引っ込めた状態で、パーカッションの音だけを用いて[[エレクトリックピアノ]]のように演奏することもある。左側のドローバー3本をいっぱいに引き出した音(俗に「下3本」)とサード・パーカッションを組み合わせた音色は[[ジミー・スミス]]や[[キース・エマーソン]]のオルガンスタイルを代表する音色となった。
=== コーラスとビブラート ===
BV/CV以降のコンソール型ハモンドオルガンでは、スキャナービブラートという機構を採用している。[[コイル#用途|コイル]]の[[タップ (変圧器)|タップ]]切替による[[位相変調]]方式で、円筒の中を[[プロペラ]]のようなパーツが回転し、周囲に設けられた16個のコイル・タップを切り替えて位相遅れを変更し、周期的に音程を上下させる。B-2/C-2以降のモデルでは、ビブラートを上下の鍵盤それぞれに独立してon/offを設定できる。ビブラート音と原音を混ぜることでコーラス効果も作ることができ、それぞれ3段階の深さがセットされている。なお、[[#L-100シリーズ|L-100]]などの廉価版([[スピネット]]型)では電子回路([[フェイザー (音響機器)|フェイズシフター]])を用いたビブラートユニットが装備されているが、音の厚みは劣る。ちなみに最初の製品「モデルA」では[[トレモロ]]を内蔵していた。次に開発された「モデルBC」では大型のコーラスジェネレーターが内蔵されていた(モデルBCのコーラス無しのモデルがBキャビネットを使用した最初の製品「モデルAB」である)。
[[ファイル:Hammond preset keys.jpg|thumb|upright|プリセット・キー]]
=== プリセット ===
B-3などの上位機種では、上下の鍵盤の左端に白黒反転カラーの鍵盤が装備されているが、これはドローバーで生成した音色およびプリセットの選択スイッチになっていて、押し込むと下がったままになる。上下鍵盤用にそれぞれ2セットずつ装備されたドローバーの音色はBおよびA♯のスイッチで選択できる。2つ以上のスイッチを同時に押すと、両方を組み合わせた音色になる(例:88 8000 000+00 8444 200=88 8444 200)。Cスイッチはキャンセルキーで、これを押すと選択されていたスイッチは解放され、音が出なくなる。なお、前述したパーカッションは上鍵盤のBスイッチの音色にだけ作動する。また、右手で鍵盤を押さえておいて、左手でCスイッチを押しながら残りのプリセットキーをランダムに押すことで倍音構成を次々に変化させる特殊奏法がある。なお、L-100など安価なスピネットタイプでは鍵盤上に舌のように突き出たスイッチ群の中にプリセットを選択する機能が割り当てられている(プリセットは下鍵盤に1つか2つ、上鍵盤に4つ。パーカッションは上鍵盤でドローバー音色を選んだ際に有効になる)。
== 代表的なハモンド・トーンホイールオルガン ==
[[ファイル:Hammond b3 con leslie 122.jpg|thumb|upright|B-3 <small>(左は[[ロータリースピーカー|レスリー]])</small>]]
=== B-3 ===
200種類以上あるといわれているハモンドオルガンの中で、代表的かつ最も人気のある機種。最初のハモンドオルガン「モデルA」から採用されている、演奏者の足が見えるように作られた四足の外観が特徴(ただし、B-3に用いられるB[[筐体|キャビネット]]は当初大型のコーラスジェネレーターを採用した「モデルBC」として開発されたため、Aキャビネットより大型)。このモデル以降パーカッションが装備される。ほとんどのジャズオルガン奏者やポピュラーバンドに使われており、ユーザーは枚挙に暇が無い。ハモンドNew B-3や[[ローランド]]VK-88などといった、現在製造されているオルガンは外見的にB-3を意識しているものが多い。ロックコンサートで使用するために、鍵盤およびメカニズムを取り出し、軽量で簡素な筐体に内蔵する改造もよく行われた(以下、RT-3まで、この改造モデルのベースとしてよく使われた。これらをHammond Chop(s)と呼ぶ)。
[[ファイル:Hammond c3 Emilio Muñoz.jpg|thumb|upright|C3]]
=== C-3 ===
B-3と並んで有名なものはC-3。チャーチモデルと呼ばれるC-3は音源部分はB-3と同一だが、教会のパイプオルガンの演奏台に似た筐体を持つ(このタイプが作られた理由は「教会で使用するため」とも「スカートをはいた女性が演奏しやすくするため」ともいわれている)。筐体以外の音源部分・鍵盤部分はB-3と同一である。外観には3種類あり、アメリカ製のものは彫刻が多く施された豪華な初期型と、筐体上部の彫刻が省略された1958年以降のものがある。イギリス製は1965年以降、彫刻を省略して側面が平らで全体的に鋭角的な外観の筐体となった。また、イギリスの工場ではC-3とA-100がB-3よりも多く生産されたため、イギリスの市場では新品のB-3は高価・希少となった。このためミュージシャンは同一機能を持ち、入手しやすいC-3を多く買い求めることになった。そのため[[ディープ・パープル]]の[[ジョン・ロード]]や、[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]の[[キース・エマーソン]]、[[イエス (バンド)|イエス]]の[[リック・ウェイクマン]]など、主にイギリスのロックオルガニストがC-3ユーザーとして有名になった。一部のロックミュージシャンはオルガンを改造した。よく行われたのは筐体を上下に分割することとスプリングリバーブの内蔵である。ジョン・ロードはさらに[[RMIエレクトラピアノ]]を組み込んで、オルガントーンと組み合わせて使用できるようにした。4本足のB-3と比べて鍵盤部が前にせり出したC-3は揺れに不安定であり、オルガンを揺さぶってリバーブに衝撃を与えてノイズを出すパフォーマンスが行いやすかった。
=== A-100シリーズ ===
B-3/C-3のバリエーションで、家庭用に作られたもの。「A」と銘打たれているが、最初の製品「モデルA」の直接発展したものではない。音源部分はB-3と同一であるが、筐体は前後幅が短縮されたスリムなものとなった。本来B-3やC-3でもビブラートユニットの小型化により前後幅の短縮は可能になっているのだが、筐体の小型化は新設計のこのモデルにおいてようやくなされた。鍵盤の蓋は省略され、B-3やC-3とは異なるタイプの譜面台を持つ。設置スペースを省くためにスピーカーとスプリングリバーブを装備。猫足の優雅な外観を持つA-102やC-3と同一筐体を使用するA-105などのバリエーションがある。前後幅の短縮ゆえ、オルガンの上に他の鍵盤楽器を載せることが多いロックバンドではあまり使われず、内蔵スピーカーを装備しているため重く、ジャズでの使用例も少ない。そのためか、Hammond Chopの材料や、B-3の[[部品取り]]用に使われることが多かった。現在はそのデザインが再評価されている。なお、イギリスでは需要があったようで、アメリカで1964年に生産中止となって以降も、1975年のトーンホイール廃止まで生産された。ジャズオルガニストの河合代介はスピーカーを取り外し、レスリースピーカー用の[[フォーンプラグ|ジャック]]を追加したものを使用している。
=== RT-3 ===
C-3のバリエーションで、コンサートモデルと呼ばれるカテゴリーに属する。足鍵盤が25鍵からアメリカン・ギルド・オブ・オルガニスツ(AGO)準拠の32鍵(Cから2オクターブ上のGまで)に拡張され、ペダルドローバーの音に重ねてパイプオルガン並みの重低音を実現するために真空管式の発振器を装備した。このため、横幅は高音側が15cmほど大きい。このモデルの筐体もC-3同様のバリエーション(初期・後期・イギリス製)がある。スピーカー内蔵タイプとしてD-100シリーズがある。中でもD-152は[[アビー・ロード・スタジオ]]にも設置され、[[ビートルズ]]や[[ピンク・フロイド]]のレコーディングでも使用された。
=== M-3およびM-100シリーズ ===
以下は上記までのコンソールモデルと比べて小型かつ安価なモデルで、スピネットモデルという分類に入る。スピネットモデルは内蔵スピーカーを備え、上下鍵盤は各々44鍵で下鍵盤は低音側、上鍵盤は高音側にオフセットされている。フォールドバックを持たないため高音域の音が薄い。また手鍵盤用の低音域トーンホイールを持たない(ドローバーも下鍵盤用は16'と5-1/3'を欠く)ためコンソールモデルと違い下鍵盤でベースラインを弾けないという特徴がある。足鍵盤用ドローバーは16'が1本のみである。
M-3は最初のスピネットオルガン"M型"の改良型であり、[[ブッカー・T・ジョーンズ]]が使用していたことで有名。鍵盤やスイッチ類はB-3と同じもの(ウォーターフォール型鍵盤、タブレットスイッチ)を装備。M-3までのモデルはリバーブおよびプリセットを持たない(M-100以降で採用)。特徴的な機能として、エクスプレッションペダル左側にペダル鍵盤のサステインスイッチを持つ(この機能を持たせるためにペダルドローバーにはコンデンサーが接続されている。M-100以降では廃止)。またペダル鍵盤はCからBまでの12鍵(M-100以降で13鍵に改良される)。M-100以降のM型は他のスピネットタイプと同様の仕様(ダイビングボード型鍵盤、フリップスイッチ)になる。M型全体での特徴は、下鍵盤のドローバーセットにL型以降のスピネット同様の7本(16'と5-1/3'を欠く)に加えて1本で24度(第10倍音)と26度(第12倍音)の音程を同時にコントロールするもの(合計8本)を持つことと、B-3同様のスキャナービブラートを装備していることである。M-100シリーズは[[ジョン・ポール・ジョーンズ (ミュージシャン)|ジョン・ポール・ジョーンズ]]が[[レッド・ツェッペリン]]の1枚目のアルバムで使用したほか、[[プロコル・ハルム]]で[[マシュー・フィッシャー]]がM-102を使用した例が有名。スピネット第1世代のM型は1960年代から第2世代のL型に交代していった。
[[ファイル:Hammond l100.jpg|thumb|upright|L-100 (鍵盤部)]]
=== L-100シリーズ ===
M-100シリーズの改良型。キークリックを特に抑制するため、高音域の出力を上げたうえでフィルターを用いて高音域を削る設計になっている(上述したように、キークリックは当時、ハモンドオルガン・カンパニーのスタッフおよび教会オルガン奏者にとっては邪魔なものであった。B-3などでも6kHz以上の周波数をカットするように設計されている)。下鍵盤のドローバーの数は7本と少なくなっている(Mシリーズまでの「下鍵盤用の8本目のドローバー」は廃止された)。ペダル用ドローバーはMシリーズ同様の1本。プリセットは上鍵盤に4つ、下鍵盤に1つ。ビブラート回路は簡単なものに置き換えられ、2段階に切り替え可能なスプリングリバーブとスピーカーを内蔵。プリセットやビブラート、リバーブはコンソール型で見られるロッカースイッチではなく、舌型のフリップスイッチで選択する。キース・エマーソンが、有名なナイフを刺して馬乗りになるなどの破壊行為を行ったのはこのオルガンである(スピーカーがあることでフィードバックノイズを作りやすいうえに小型・軽量であるためにステージを引きずり回すのに好都合だった)。その他、[[イエス (バンド)|イエス]]の初代オルガニスト[[トニー・ケイ]]らが使用していた。スピーカーと木製の筐体を取り払った「Porta-B」というモデルもある。脚や筐体の仕様の違いでL-112などのバリエーションあり。L-200シリーズはロータリースピーカーを内蔵している。
[[ファイル:Hammond TR200.jpg|thumb|upright|TR-200 <small>(T-200派生)</small>]]
=== T-100シリーズ ===
L型の発展型。プリアンプはトランジスタ式となり、リズムボックスを内蔵している。[[ジェネシス (バンド)|ジェネシス]]の[[トニー・バンクス (ミュージシャン)|トニー・バンクス]]が数少ない有名な使用例。脚や筐体の仕様の違いでT-112などのバリエーションあり。T-200シリーズはロータリースピーカーを内蔵している。1975年のトーンホイール・ジェネレーター廃止まで生産された。
== 日本での普及 ==
* ハモンドオルガンは日本で販売されるようになった当初は、[[メンターム]]で知られる[[近江兄弟社]]が販売代理を行っていた。これは創業者がオルガン奏者だったことによる。
* 旧[[後楽園球場]]では[[1970年]]代から[[1980年]]代後半にかけてハモンドオルガンが設置され、女性演奏者が[[プロ野球]]の試合前や攻守交替時に軽快なオルガンの演奏を行っていた。現在は[[西武ドーム|メットライフドーム]]でのみハモンドオルガンの音色を<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20160829070503/http://www.sanspo.com/baseball/news/20160323/lio16032308000002-n2.html|title = 西武Dにだけ残る昭和の風物詩、球場の「生」を伝える電子オルガン |publisher = www.sanspo.com |date = 2016-03-23 |accessdate = 2019-05-01}}</ref>[[NPB]]試合中の攻守交代時に聴くことができる。
* [[ハモンドスズキ]]が販売する最新のクローンホイールによる電子オルガンは、XK-5<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20180815164110/https://www.suzuki-music.co.jp/products/65891/|title = XK-5 |publisher = www.suzuki-music.co.jp|date = 2018-08-15 |accessdate = 2019-05-01}}</ref>。
== 代表的なハモンドオルガン奏者 ==
* チェスター・トンプソン([[タワー・オブ・パワー]])
* [[ジミー・スミス]](ジャズ)
* [[ブッカー・T・ジョーンズ]] (元[[ブッカー・T&ザ・MG's]])
* [[アラン・プライス]](元[[アニマルズ]])
* [[アル・クーパー]]
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* [[オーデル・ブラウン]]
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* [[小室哲哉]]
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* [[金子雄太]]
* [[大高清美]]
* [[ジョージ紫]]([[紫 (バンド)|紫]])
* 敦賀明子 [http://www.akikotsuruga.com/]
* 田代ユリ [http://www003.upp.so-net.ne.jp/yuri_inout/]
* [[橋本有津子]](Atsuko Hashimoto:英語)[[:en:Atsuko_Hashimoto|[:en]]]
* [[須藤賢一]]
* [[前田憲男]]
* [[古関裕而]]<ref>[https://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/hall/exhibit.html 展示資料] - [[福島市古関裕而記念館]]</ref>
<!--国内の日本人奏者の場合、リンク先からオルガン奏者と確認できない人は、なるべく掲載しないでください。
* [[ジョン・ノヴェロ]]
* [http://www.netlaputa.ne.jp/~u-sakai// 酒井潮]**[http://www.daisukekawai.com// 河合代介]-->
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
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* [http://www.suzuki-music.co.jp/ 株式会社鈴木楽器製作所]
* [http://www.suzuki-music.co.jp/hammond/ 株式会社ハモンド・スズキ]
* [http://www.hammond.jp/ 高木庵]
* [http://www.ys-co.org/ ワイエスコーポレーション]
* [http://www.jackhollow.co.uk/hammond/modellist/models.html Hammond Leslie Model List:下記とほぼ同内容ながら最新版で写真が豊富である(英文)]
* [http://theatreorgans.com/hammond/faq/models.html Theaterorgans.com内のバリエーション紹介ページ(英文)]
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遣唐使
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遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。
舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣が再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった。
遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。山上憶良(歌人)、吉備真備(右大臣)、最澄(天台宗開祖)、空海(真言宗開祖)などが名高い。
唐の先進的な技術や政治制度や文化、ならびに仏典等の収集が目的とされた。白村江の戦いで日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった。遣唐使は日本からは原材料の朝貢品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易で、物品は正倉院にも残る。それだけでは需要に不足し、私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されていたが、遣唐使一行は調達の努力をしていた。旧唐書倭国伝には、日本の吉備真備と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が残されている。
第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は唐の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。この歳貢を免ずる措置は、倭国に唐への歳貢義務があることが前提で、唐国は倭国を冊封する国家関係を当然のものと考えていた、と指摘している。
なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用したと、唐の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在せず天皇号の使用自体を伏せていたとされる。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、日本の遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせるという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国大陸王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。
その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
他に14回、15回、16回、18回説がある。
日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)の隋の滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ死去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の朝命を伝える役目を果たせずに帰国した。争った相手については、難波迎賓館での折衝段階と思われるが、『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王としている。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での歓迎の賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを示している。これは唐側が日本への冊封を命じようとして舒明天皇がこれを拒んだと推定されている。その後、この冊封拒否の影響で、23年間日本からの遣使は行われず、唐側も高句麗との対立や、突厥や高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる。唐が周囲国と争う中で2代皇帝即位後に納得はしないまま、外交戦略として倭国の方針が受忍され、白雉4年(653年)「不臣の外夷」の立場で冊封関係のない遣唐使の朝貢が再開された。冊封を受けなかったことは、天皇号の成立や「日本」国号の変更、独自の律令制度制定など、後の歴史に大きくかかわる。
再開後、天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、唐と朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に斉明天皇5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する(白村江の戦い)。その後の第5次から7次遣使は両国の関係改善と唐による「倭国討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。天智天皇8年(669年)7回遣使直後の天智天皇10年(671年)に11月2日対馬国を経由して唐使郭務悰が2000人の軍兵と思われる多人数の使者で突如来航し、まもなく筑紫国に着き駐留し深刻な進攻状態となった。翌年交渉の末に唐使らに大量の甲冑弓矢の武器や布などの贈物をすることで5月30日帰国させた 。やがて、唐と新羅の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も壬申の乱の混乱とその後の律令体制確立への専念のために再び遣使が行われなくなる。
遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された第8次遣唐使である。日本側では遣使に文武天皇が初めて節刀を与えて国交正常化を目指し(一時期有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝は律令が天下に君臨する皇帝の定める帝国法だと、周辺諸国の律令導入と編纂を認めなかったとする説が有力となったことから、成立困難となっている)。当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「周」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。粟田真人大使により日本の国号変更が報告され、中国皇帝は東アジアでの国号調整権を持ち則天武后が承認したのもこの時である(『新唐書』「東夷伝」日本条)。記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったという説がある。
8世紀になると東アジアの情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。9世紀前半に日本側も朝貢を前提とし「20年1貢」を原則としていたが、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。また、宝亀6年(775年)の遣唐使の際には唐の粛宗の意向で帰国する遣唐使に随行する形で唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の趙宝英は船の難破によって水死し、判官が代行の形で光仁天皇と会見している)。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた。
9世紀に入ると遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では安史の乱以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは新羅に関しても同様で、9世紀前半の張保皐の活動はその代表的な存在である)。また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、延暦23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『日本後紀』延暦24年6月乙巳条)であったが、やがて、冷遇されていく。
一方、日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な航海技術・造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して篁が乗船を拒否して隠岐へ配流されるが、根底に遣唐使の意義に疑問があったとされる。さらに、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官長岑高名が対立するなど、諸問題が一気に露呈した。
承和5年(835年)の遣唐使の時には留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条)などの冷遇を受けた。承和の留学生であった円載は官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。承和の遣唐使の天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『性霊集』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている。
唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える。
遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川 通称・細井川)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那大津(福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。
839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。
遣唐使船はジャンク船に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた。網代帆は開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく優れた帆走性を持っている。船体は、耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。
後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する。東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする。
羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)。
長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の「礼見」と内々の会見の儀式の「対見」、帰国の途に就く際に行われた対面儀式の「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀や朔旦冬至が重なった場合には関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品(位階)が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要からその原則が破られることは珍しくはなかった。
最後に遣唐使は皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺の官人が送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の高表仁・宝亀年間の趙宝英(ただし、日本に向かう途中に水死したため判官孫興進が大使の代行を務めた)がこれに該当する。また、安史の乱最中の天平宝字年間には遣唐使の護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)。
『延喜式』大蔵省式による遣唐使一行は以下の通りである。
遣唐使は次第に派遣回数が減少し、承和5年(838年)を最後に50年以上中断状態にあった。さらに唐では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は洛陽・長安を陥落させ、斉(880–884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。
既に民間交易も活発化し、朝使が薬香を民間商船で日唐間を往来し手に入れた事例もあるため、遣唐使派遣が検討されること自体が減少していった。
当時の日本の対唐観の変化として、「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。
寛平6年(894年)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられた。8月21日、遣唐大使に菅原道真が任命された。しかし二十日後、道真によって遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出された。
道真は、この年5月に唐人によって伝えられた、在唐留学僧中瓘の書状を基として遣唐使派遣の是非を問うた。奏状の概要は以下のとおりである。
『日本紀略』には道真の奏状が提出された同年の九月三十日条に「其日、遣唐使を停める」という記事があったため、長らく道真の建議によって遣唐使が「停止」されたと見られていた。しかし1990年、石井正敏が『日本紀略』において「其日」が「某日」と同意義で使われていることなどから、この記述に史料性はないとし、この日付で遣唐使が停止されたという事実はないという結論を発表した。この結論は研究者によって概ね支持されている。道真ら遣唐使予定者はこれ以降も引き続き遣唐使の職位を帯び、道真が最後に遣唐大使と称された記録は寛平9年(897年)5月13日であり、遣唐副使の紀長谷雄は延喜元年(901年)10月28日に公的文書で使用した例が残っている。また寛平8年(896年)には宇多天皇が唐人李環(梨懐)を召して直接話を聞いているが、これは遣唐使派遣のための情報収集とみられている。
しかし、国内の災害や唐の衰退、道真・長谷雄の昇進による人事の問題により、遣唐使派遣は遅々として進まなかった。ついに延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。
遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「渡海制」と唐や宋などの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から次回の安置まで10余年の間隔を空ける)を定めた「年紀制」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・遣新羅使・遣渤海使など)以外の往来を禁じた各国律令法の規定の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅ではこの規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」もこの仕組を維持するための政策であったと言える。だが、海外への渡海制限は無いという研究もある。
しかし、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかったため、唐宋商人は大宰府に近い博多に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った。とは言え、摂関期・院政期でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも鳥羽院政の時代(12世紀中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、平忠盛のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する日宋貿易が本格化することになる。
また、日本では遣唐使停止以後に独自の文化である国風文化が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書も漢文で作成され続けた。また、王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても様々な指摘がされている。こうした風潮は中世の武士の時代になっても同様であり、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は、中国大陸から輸入した色糸が必要不可欠であった。
遣唐使船は、これまでに数隻が復元されている。
1984年公開の映画「空海」では、海上撮影のために航行可能な遣唐使船が建造された。
長門の造船歴史館(広島県呉市)において、1989年(平成元年)に復元した遣唐使船が展示されている。
2010年(平成22年)の上海国際博覧会に際しては、ジャパンデーに合わせて財団法人の角川文化振興財団(理事長:角川歴彦)の企画「遣唐使船再現プロジェクト」(協賛:森ビル、読売新聞社、経済産業省、文化庁など)によって全長30m、全幅9.6m、排水量164.7tでエンジン付き遣唐使船(名誉船長:夢枕獏)が復元され、かつての遣唐使と同一の航路で大阪港から上海に入港した。出港式では住吉大社の安全祈願と歌手の坂本真綾によるプロジェクトのテーマソング『美しい人』(作曲・編曲:菅野よう子)の披露が行われた。プロジェクトの親善大使を務める俳優の渡辺謙を乗せて会場内を流れる黄浦江を航行している。
2010年(平成22年)の平城遷都1300年祭に際しても、同年開館の平城京歴史館と合わせて全長約30m、全幅9.6m、排水量300tの遣唐使船が復元された。2016年(平成28年)に平城京歴史館は閉館し遣唐使船の公開も中止されていたが、2018年(平成30年)の平城宮跡歴史公園朱雀門ひろばの開園とともに遣唐使船も改めて公開されている。
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"text": "遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。",
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"text": "舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣が再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった。",
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"text": "遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。山上憶良(歌人)、吉備真備(右大臣)、最澄(天台宗開祖)、空海(真言宗開祖)などが名高い。",
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"text": "唐の先進的な技術や政治制度や文化、ならびに仏典等の収集が目的とされた。白村江の戦いで日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった。遣唐使は日本からは原材料の朝貢品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易で、物品は正倉院にも残る。それだけでは需要に不足し、私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されていたが、遣唐使一行は調達の努力をしていた。旧唐書倭国伝には、日本の吉備真備と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が残されている。",
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"text": "第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は唐の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。この歳貢を免ずる措置は、倭国に唐への歳貢義務があることが前提で、唐国は倭国を冊封する国家関係を当然のものと考えていた、と指摘している。",
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"text": "なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用したと、唐の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在せず天皇号の使用自体を伏せていたとされる。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、日本の遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせるという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国大陸王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。",
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"text": "その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。",
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"text": "遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。",
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"text": "回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。",
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"text": "他に14回、15回、16回、18回説がある。",
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"text": "日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)の隋の滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ死去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の朝命を伝える役目を果たせずに帰国した。争った相手については、難波迎賓館での折衝段階と思われるが、『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王としている。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での歓迎の賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを示している。これは唐側が日本への冊封を命じようとして舒明天皇がこれを拒んだと推定されている。その後、この冊封拒否の影響で、23年間日本からの遣使は行われず、唐側も高句麗との対立や、突厥や高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる。唐が周囲国と争う中で2代皇帝即位後に納得はしないまま、外交戦略として倭国の方針が受忍され、白雉4年(653年)「不臣の外夷」の立場で冊封関係のない遣唐使の朝貢が再開された。冊封を受けなかったことは、天皇号の成立や「日本」国号の変更、独自の律令制度制定など、後の歴史に大きくかかわる。",
"title": "歴史"
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"text": "再開後、天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、唐と朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に斉明天皇5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する(白村江の戦い)。その後の第5次から7次遣使は両国の関係改善と唐による「倭国討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。天智天皇8年(669年)7回遣使直後の天智天皇10年(671年)に11月2日対馬国を経由して唐使郭務悰が2000人の軍兵と思われる多人数の使者で突如来航し、まもなく筑紫国に着き駐留し深刻な進攻状態となった。翌年交渉の末に唐使らに大量の甲冑弓矢の武器や布などの贈物をすることで5月30日帰国させた 。やがて、唐と新羅の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も壬申の乱の混乱とその後の律令体制確立への専念のために再び遣使が行われなくなる。",
"title": "歴史"
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"text": "遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された第8次遣唐使である。日本側では遣使に文武天皇が初めて節刀を与えて国交正常化を目指し(一時期有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝は律令が天下に君臨する皇帝の定める帝国法だと、周辺諸国の律令導入と編纂を認めなかったとする説が有力となったことから、成立困難となっている)。当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「周」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。粟田真人大使により日本の国号変更が報告され、中国皇帝は東アジアでの国号調整権を持ち則天武后が承認したのもこの時である(『新唐書』「東夷伝」日本条)。記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったという説がある。",
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"text": "8世紀になると東アジアの情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。9世紀前半に日本側も朝貢を前提とし「20年1貢」を原則としていたが、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。また、宝亀6年(775年)の遣唐使の際には唐の粛宗の意向で帰国する遣唐使に随行する形で唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の趙宝英は船の難破によって水死し、判官が代行の形で光仁天皇と会見している)。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた。",
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"text": "9世紀に入ると遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では安史の乱以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは新羅に関しても同様で、9世紀前半の張保皐の活動はその代表的な存在である)。また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、延暦23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『日本後紀』延暦24年6月乙巳条)であったが、やがて、冷遇されていく。",
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"text": "一方、日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な航海技術・造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して篁が乗船を拒否して隠岐へ配流されるが、根底に遣唐使の意義に疑問があったとされる。さらに、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官長岑高名が対立するなど、諸問題が一気に露呈した。",
"title": "歴史"
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"text": "承和5年(835年)の遣唐使の時には留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条)などの冷遇を受けた。承和の留学生であった円載は官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。承和の遣唐使の天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『性霊集』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている。",
"title": "歴史"
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"text": "唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える。",
"title": "歴史"
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"text": "遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川 通称・細井川)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那大津(福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。",
"title": "航路と遣唐使船"
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"text": "663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。",
"title": "航路と遣唐使船"
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"text": "839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。",
"title": "航路と遣唐使船"
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"text": "遣唐使船はジャンク船に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた。網代帆は開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく優れた帆走性を持っている。船体は、耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。",
"title": "航路と遣唐使船"
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"text": "後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する。東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする。",
"title": "航路と遣唐使船"
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"text": "羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)。",
"title": "遣唐使の行程"
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"text": "長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の「礼見」と内々の会見の儀式の「対見」、帰国の途に就く際に行われた対面儀式の「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀や朔旦冬至が重なった場合には関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品(位階)が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要からその原則が破られることは珍しくはなかった。",
"title": "遣唐使の行程"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "最後に遣唐使は皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺の官人が送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の高表仁・宝亀年間の趙宝英(ただし、日本に向かう途中に水死したため判官孫興進が大使の代行を務めた)がこれに該当する。また、安史の乱最中の天平宝字年間には遣唐使の護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)。",
"title": "遣唐使の行程"
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"text": "『延喜式』大蔵省式による遣唐使一行は以下の通りである。",
"title": "派遣者一覧"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "遣唐使は次第に派遣回数が減少し、承和5年(838年)を最後に50年以上中断状態にあった。さらに唐では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は洛陽・長安を陥落させ、斉(880–884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。",
"title": "遣唐使の衰退"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "既に民間交易も活発化し、朝使が薬香を民間商船で日唐間を往来し手に入れた事例もあるため、遣唐使派遣が検討されること自体が減少していった。",
"title": "遣唐使の衰退"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "当時の日本の対唐観の変化として、「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。",
"title": "遣唐使の衰退"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "寛平6年(894年)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられた。8月21日、遣唐大使に菅原道真が任命された。しかし二十日後、道真によって遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出された。",
"title": "遣唐使の消滅"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "道真は、この年5月に唐人によって伝えられた、在唐留学僧中瓘の書状を基として遣唐使派遣の是非を問うた。奏状の概要は以下のとおりである。",
"title": "遣唐使の消滅"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "『日本紀略』には道真の奏状が提出された同年の九月三十日条に「其日、遣唐使を停める」という記事があったため、長らく道真の建議によって遣唐使が「停止」されたと見られていた。しかし1990年、石井正敏が『日本紀略』において「其日」が「某日」と同意義で使われていることなどから、この記述に史料性はないとし、この日付で遣唐使が停止されたという事実はないという結論を発表した。この結論は研究者によって概ね支持されている。道真ら遣唐使予定者はこれ以降も引き続き遣唐使の職位を帯び、道真が最後に遣唐大使と称された記録は寛平9年(897年)5月13日であり、遣唐副使の紀長谷雄は延喜元年(901年)10月28日に公的文書で使用した例が残っている。また寛平8年(896年)には宇多天皇が唐人李環(梨懐)を召して直接話を聞いているが、これは遣唐使派遣のための情報収集とみられている。",
"title": "遣唐使の消滅"
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"text": "しかし、国内の災害や唐の衰退、道真・長谷雄の昇進による人事の問題により、遣唐使派遣は遅々として進まなかった。ついに延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。",
"title": "遣唐使の消滅"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「渡海制」と唐や宋などの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から次回の安置まで10余年の間隔を空ける)を定めた「年紀制」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・遣新羅使・遣渤海使など)以外の往来を禁じた各国律令法の規定の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅ではこの規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」もこの仕組を維持するための政策であったと言える。だが、海外への渡海制限は無いという研究もある。",
"title": "遣唐使停止後の日本の外交・貿易"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "しかし、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかったため、唐宋商人は大宰府に近い博多に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った。とは言え、摂関期・院政期でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも鳥羽院政の時代(12世紀中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、平忠盛のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する日宋貿易が本格化することになる。",
"title": "遣唐使停止後の日本の外交・貿易"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "また、日本では遣唐使停止以後に独自の文化である国風文化が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書も漢文で作成され続けた。また、王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても様々な指摘がされている。こうした風潮は中世の武士の時代になっても同様であり、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は、中国大陸から輸入した色糸が必要不可欠であった。",
"title": "遣唐使停止後の日本の外交・貿易"
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"text": "遣唐使船は、これまでに数隻が復元されている。",
"title": "復元遣唐使船"
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"text": "1984年公開の映画「空海」では、海上撮影のために航行可能な遣唐使船が建造された。",
"title": "復元遣唐使船"
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"text": "長門の造船歴史館(広島県呉市)において、1989年(平成元年)に復元した遣唐使船が展示されている。",
"title": "復元遣唐使船"
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"text": "2010年(平成22年)の上海国際博覧会に際しては、ジャパンデーに合わせて財団法人の角川文化振興財団(理事長:角川歴彦)の企画「遣唐使船再現プロジェクト」(協賛:森ビル、読売新聞社、経済産業省、文化庁など)によって全長30m、全幅9.6m、排水量164.7tでエンジン付き遣唐使船(名誉船長:夢枕獏)が復元され、かつての遣唐使と同一の航路で大阪港から上海に入港した。出港式では住吉大社の安全祈願と歌手の坂本真綾によるプロジェクトのテーマソング『美しい人』(作曲・編曲:菅野よう子)の披露が行われた。プロジェクトの親善大使を務める俳優の渡辺謙を乗せて会場内を流れる黄浦江を航行している。",
"title": "復元遣唐使船"
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"text": "2010年(平成22年)の平城遷都1300年祭に際しても、同年開館の平城京歴史館と合わせて全長約30m、全幅9.6m、排水量300tの遣唐使船が復元された。2016年(平成28年)に平城京歴史館は閉館し遣唐使船の公開も中止されていたが、2018年(平成30年)の平城宮跡歴史公園朱雀門ひろばの開園とともに遣唐使船も改めて公開されている。",
"title": "復元遣唐使船"
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遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。 舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣が再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった。 遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。山上憶良(歌人)、吉備真備(右大臣)、最澄(天台宗開祖)、空海(真言宗開祖)などが名高い。
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[[File:Japanese embassy to the Tang court.jpg|thumb|300px|right|遣唐使船]]
'''遣唐使'''(けんとうし)とは、[[日本]]が[[唐]]に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として[[朝貢国]]として扱い{{Sfn|西嶋定生|1985|p=148}}『[[旧唐書]]』や『[[新唐書]]』の記述では、「倭国が唐に派遣した[[朝貢]]使」とされる。中国大陸では[[618年]]に[[隋]]が滅び[[唐]]が建ったので、それまで派遣していた[[遣隋使]]に替えてこの名称となった。
[[舒明天皇]]2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は[[寛平]]6年([[894年]])に56年ぶりに使節派遣が再開が計画されたが、[[907年]]に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった{{sfn|石井正敏|2011|pp=118-124|ps=、以前の菅原道真建議での廃止説を遣唐使・副使後年の使用を指摘して覆し、定説となっている。 }}。
遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・[[日本の仏教|仏僧]]・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。[[山上憶良]](歌人)、[[吉備真備]]([[右大臣]])、[[最澄]]([[天台宗]]開祖)、[[空海]]([[真言宗]]開祖)などが名高い。<!--留学生[[井真成]]の墓も中国で発見された。-->
== 目的 ==
唐の先進的な技術や政治制度{{efn|遣隋使の留学生の622年の帰国者の薬師恵日らが、「唐国は法式備定の宝の国だから通交すべきだ」と上奏しており、それも受けた開始とされている{{sfn|石井正敏他(編)|2011|pp=38-39|ps=、森公章「東アジアの変動と日本外交」 }}。}}や文化、ならびに[[仏典]]等の収集が目的とされた。[[白村江の戦い]]で日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった{{Sfn|石井正敏他(編)|2011|pp=59、62、218|ps=、古瀬奈津子「隋唐と日本外交」、石田実洋「留学生・留学僧と渡来した人々」 }}。遣唐使は日本からは原材料の[[朝貢]]品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易で、物品は[[正倉院]]にも残る。それだけでは需要に不足し、私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されていたが、遣唐使一行は調達の努力をしていた{{Sfn|石井正敏|2018|pp=28-35|ps=、「遣唐使の貿易活動」}}。[[旧唐書]]倭国伝には、日本の[[吉備真備]]と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が残されている{{sfn|東野治之|2007|p=120}}。
第一次遣唐使は、[[舒明天皇]]2年([[630年]])の[[犬上御田鍬]]の派遣によって始まった。本来、朝貢は唐の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。この歳貢を免ずる措置は、倭国に唐への歳貢義務があることが前提で、唐国は倭国を冊封する国家関係を当然のものと考えていた、と指摘している{{Sfn|西嶋定生|1985|pp=102-104}}。[[File:Buddhist Expansion.svg|thumb|right|300px|[[仏教のシルクロード伝播]]]]
*貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
*太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)
なお、日本は以前の[[遣隋使]]において、「天子の国書」を送って[[煬帝]]を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用したと、唐の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在せず天皇号の使用自体を伏せていたとされる。むしろ[[天平勝宝]]5年([[753年]])の朝賀において、日本の遣唐使副使の[[大伴古麻呂]]が新羅の使者と席次を争い、日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせるという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や[[邪馬台国]]の女王[[卑弥呼]]、[[倭の五王]]が中国大陸王朝の臣下としての[[冊封]]を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。
その後、唐僧・[[維躅]](ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして[[仏教]]の日本への伝播に大いに貢献した。
== 回数 ==
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
*12回説:藤家禮之助
*20回説:[[東野治之]]、王勇
他に14回、15回、16回、18回説がある。
{|border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:95%;"
|+'''遣唐使派遣一覧'''
|-bgcolor="#EEEEEE"
!次数||出発||帰国||使節|| nowrap="nowrap" |その他の派遣者||船数||備考
|-
|align="center"|1||舒明2年<br />([[630年]])||舒明4年<br />([[632年]])|| nowrap="nowrap" |[[犬上御田鍬]](大使)||[[薬師恵日]](副使) || ||犬上御田鍬は614年に[[遣隋使]]として渡航経験がある。朝鮮半島経由の北路を通ったとされる。一行は631年に皇帝太宗と謁見した。『旧唐書』に拠れば太宗はその道中の遠いことに同情し、以降の毎年の入貢を止めさせた<ref>『旧唐書』巻一百九十九、東夷伝、倭国条</ref>。帰国の際、唐の送使[[高表仁]]が同行来日し、僧[[旻]]・[[勝鳥養]]・[[霊雲]]らも同行帰国した。新羅の送使も帰国に同行しているため、朝鮮半島経由コースであったと推測される。8月に対馬に帰着。高表仁らは10月4日に難波津に着き、翌年1月26日に帰国した。高表仁は滞在中に格式などと推定される揉め事により、親書を読まずに帰国し、帰国後に咎められている<ref>『新唐書』</ref>が、本邦側の記録ではそのことは記されていない。
|-
|align="center"|2||白雉4年<br />([[653年]])||白雉5年<br />([[654年]])||第1船・[[吉士長丹]](大使)・[[吉士駒]](副使)/第2船・[[高田根麻呂]](大使)・[[掃守小麻呂]](副使)||[[道昭]]・[[定恵]]・[[粟田真人|道観(のちの粟田真人)]]・安達([[中臣大島|中臣大嶋]]の兄)・道福・義向・道光(以上留学僧)・[[坂合部磐積|坂合部磐積(石積)]](学生)・巨勢薬(学生)・[[氷老人]](学生)・[[韓智興]]?・[[趙元宝]]?||align="center"|2||第1船は121人、第2船は120人。出航より一月半後の7月、第2船は往途の薩摩沖で遭難した。よって往路は南島コースであったと考えられる。高田根麻呂ら100余名が死亡または行方不明。生き残った5人は破材一枚に捕まり6日間の漂流の後に[[甑島列島]]の[[上甑島]]に漂着し、島で竹を伐採して筏を作り帰還した。生還した門部金が褒賞を受けた。<ref>『日本書紀』孝徳天皇白雉4年7月条</ref>第1船は唐に到着し皇帝に拝謁。654年7月に新羅・百済の送使と共に帰還したため、復路は朝鮮半島経由コースだったと考えられる。このときは「西海使」(にしのみちのつかい)と『[[日本書紀]]』巻第二十五に記されている<ref>『日本書紀』孝徳天皇 白雉5年7月24日条</ref>。
|-
|align="center"|3||白雉5年<br />([[654年]])||斉明元年<br />([[655年]])||[[高向玄理]]([[押使]])・[[河辺麻呂]](大使)・[[薬師恵日]](副使)||[[中臣間人老]](判官)・[[置始大伯]](判官)・[[書麻呂]](判官)・[[田辺史鳥]](判官) ||align="center"|2||高向玄理は608年の遣隋使で留学し、30年を大陸で学び、隋の滅亡と唐の建国を目の当たりにしている。その後も646年に[[遣新羅使]]として外交派遣された人材であり、「大使」より格上の「押使」であった。しかしこの渡航で唐で病没し帰国できず。654年2月に出発。往路は北路で新羅を経由して山東省に到着し、長安にて高宗と謁見した。謁見の際、日本の位置や神話を尋ねられた。唐側の記録として『[[旧唐書]]』に「[[永徽]]5年12月に、倭国が[[メノウ|瑪瑙]](めのう)を献上した」とある<ref>『旧唐書』高宗本紀</ref>。655年8月、帰朝<ref>『日本書紀』斉明天皇元年8月1日条</ref>。
|-
|align="center"|4||斉明5年<br />([[659年]])||斉明7年<br />([[661年]])||[[坂合部磐鍬|坂合部磐鍬(石布)]](大使)・[[津守吉祥]](副使)||[[伊吉連博徳|伊吉博徳]]、[[東漢長阿利麻]]、[[坂合部稲積]]、[[韓智興]]、[[東漢草足嶋]]、[[西漢大麻呂]]||align="center"|2||659年7月3日に出航。8月11日に博多を出て江南路を選択した。百済情勢が緊張しており、北路を使う選択はできなかったと推測される。第2船の副使・津守吉祥らは10月1日に越州(浙江省紹興)に着き、[[駅馬]]で長安に入り[[洛陽]]にて皇帝高宗に拝謁。大和朝廷の服属国民として[[蝦夷]]人男女を伴っており、皇帝に献上している。同年11月1日、冬至の儀に参加。「朝貢してくる国々の中で、倭の使節が最も勝れている」と賞賛されている。しかし一行はその後、[[韓智興]]の従者([[東漢草足嶋]]か[[西漢大麻呂]]か?)による讒言があり、また唐と百済の戦役の都合などにより暫く長安に幽閉・抑留された。韓智興は唐の政府によって、三千里の外に流罪とされた。伊吉博徳の弁明奏上と660年8月の百済滅亡により戦争が無くなったことから、同年9月12日に抑留は解かれ、一行は同19日に洛陽へ向かった。一方の第1船は往途で659年9月13日に百済の南の島に到着した。9月15日日没後、逆風で遭難し、南海の島「爾加委」([[喜界島]]と推定される)に漂着し略奪に遭い、大使の坂合部磐鍬が殺された。[[東漢長阿利麻]]・[[坂合部稲積]]ら生き残った5人は島民の船を奪って脱出に成功し、大陸の[[括州]](現在の[[浙江省]][[麗水]])に至り、役人に護送されて洛陽に運ばれた。その後どうなっていたかは不明だが、長安の2船の一行同様、洛陽にて抑留されていたと推測される。前述の通り、監禁が解け洛陽に移動した津守吉祥らと5人は10月19日に再会した。11月1日、国が滅ぼされ捕虜となった[[百済]]の[[義慈王]]ら王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が唐の朝廷に護送されるのを目撃している。同24日、長安を出発。翌661年4月1日に越州から帰国の途についた。同7日、[[舟山郡島]]の[[須岸島]]南岸に到着した。翌8日夜明けに出発するも、暴風に遭い9日間漂流した。[[耽羅]]([[済州島]])に漂着し、耽羅国王子の[[阿波伎]]等9人を伴って帰国(『[[遣耽羅使]]』も参照)。東漢草足嶋は帰路で落雷により死亡。この回の遣唐使に関しては、『[[伊吉博徳#『伊吉博徳書』|伊吉博徳書]]』・『難波吉士男([[津守吉祥]])人書』が日本書紀に引用されたために道中が比較的詳しい。
|-
|align="center"|5||天智4年<br />([[665年]])||天智6年<br />([[667年]])||colspan="2"|[[守大石]](送唐客使)・[[坂合部磐積]]・吉士岐彌・吉士針間|| ||665年秋に留学僧の[[定恵]]や[[郭務悰]]を伴い、250余人の大使節団と共に来日した唐使の[[劉徳高]]らを送る使節であり<ref>『日本書紀』巻二五白雉五年二月条「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」</ref>、同年12月に出立した。送使であるが、旧唐書本紀などに拠れば高宗の[[封禅の儀]](即位式)への参列を求めた使節であるとされる。翌666年1月に封禅の議は既に行われており、道中日程を考えれば時機を逸しているが、劉徳高に比べ守大石の官位がかなり高いこと、劉徳高が封禅の儀の会場である[[泰山]]に近い地域の役人であったことなどから、送使とは言いつつ、式典参列を意図した使節である可能性が高い。これは[[白村江の戦い]]以降に悪化していた唐との関係改善を、日本側が求めていた動きであると推測される。667年11月、唐の百済鎮将(旧百済占領軍)の[[劉仁願]]が派遣した文官([[熊津都督府]][[熊山県]]令)の[[司馬法聡]]と共に帰国。ただし帰国の際の代表は坂合部磐積となっており<ref>『日本書紀』天智天皇6年11月9日条</ref>、守大石は唐に留まったか、現地で死亡したと推測される。
|-
|align="center"|(6)||天智6年<br />([[667年]])||天智7年<br />([[668年]])||colspan="2"|[[伊吉博徳]](送唐客使)|| ||副使・[[笠諸石]]。同年11月9日に来日した唐使の司馬法聡の帰国([[熊津都督府]]=旧百済国の占領地へ帰還)を送る使節で、11月13日に任命。唐本土には行かず?
|-
|align="center"|7||天智8年<br />([[669年]])||不明||[[河内鯨]](大使)||([[黄文本実]]) || ||唐に高句麗平定の祝賀を述べる使節と推測される。第5次から第7次は、唐との交渉のためとする。この時期、日本と唐は、唐の対新羅問題を巡って軍事的緊張が続いている。黄文本実はこの回に渡航したと推測されている。唐の[[王玄策]]が[[天竺]]([[インド]])に使節で赴いた際に転写し持ち帰った[[仏足石|仏足石図]]を、黄文は長安の普光寺で再転写し、日本に伝えたとされている。黄文が[[671年]]に天皇に献上した土木・建築に用いる水臬(みずばかり=水準器)についても<ref>『日本書紀』天智天皇10年3月3日条</ref>、同じく唐より持ち帰った物と推測される<ref>坂本,平野[1990: 245]</ref>。
|-
|align="center"|8||大宝2年<br />([[702年]])||慶雲元年<br />([[704年]])||[[粟田真人]](執節使)・[[高橋笠間]](大使、赴任せず)・[[坂合部大分]](副使、のち大使)・[[巨勢邑治]](大位、のち副使)||[[賀茂吉備麻呂]](中位・判官)・[[山上憶良]](少録・歌人)・[[垂水広人|大津広人(垂水広人)]](大[[訳語|通事]])・[[道慈]]・[[弁正]]||align="center"|4|| 701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも風浪が激しく渡海できず。翌702年6月に改めて出立するも、高橋笠間は別の任([[大安寺]]造営)に充てられ渡航せず、元副使の坂合部大分を大使とした。701年の出立の際に参議という高職となっていた粟田は、[[文武天皇]]から[[節刀]]を授けられた。これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例とされる。栗田は自らも編纂に関わった[[大宝律令]]を持参していた。初めて対外的に「日本」の国号を使用し、首都([[藤原京]])を定め造営したこと、法である大宝律令を制定したことを示し、国としての体裁を上昇させた上で、[[白村江の戦い]]以来の正式な国交回復を目的としていた。この目的のため、朝廷での格も高く、大宝律令の編纂に関わった粟田が使節として派遣されたと推測される。一行は楚州に到着し、どこからの使者か、との問いに「日本」と返答している。当時、唐は[[武則天]](則天武后)の簒奪により周王朝となっていたが、この社会混乱を把握していなかった遣唐使一行は混乱するも、703年に武則天と謁見した。粟田真人らは慶雲元年(704年)7月、白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて[[五島列島]][[福江島]]に漂着帰国した。副使の巨勢邑治は残留し707年3月に帰国した。大使の坂合部大分も残留し、次の遣唐使の帰国船に同行した。この遣唐使一行が、唐の地で実運用されている律令制や都市作りを実際に目の当たりにし、唐の官僚らのアドバイスを得たことが、大宝律令の修正や貨幣鋳造([[和同開珎]])などの[[慶雲の改革]]、新都[[平城京]]への遷都などに繋がった。また、無事往復に成功した粟田真人の乗船「佐伯」に対し、従五位下の位が授けられた。弁正は囲碁の名人であり、唐の皇子[[李隆基]](のちの皇帝玄宗)に度々称賛された。そのまま還俗し唐にて子を成し、死去した。
|-
|align="center"|9||養老元年<br />([[717年]])||養老2年<br />([[718年]])||[[多治比縣守]](押使)・[[大伴山守]](大使)・[[藤原宇合|藤原馬養(藤原宇合)]](副使)||残留 [[阿倍仲麻呂]]・[[吉備真備]]・[[玄昉]]・[[井真成]]・[[羽栗吉麻呂]](阿部仲麻呂の従者)、[[播磨弟兄]]([[播磨乙安]]?、[[典鋳司|鋳生]])||align="center"|4|| 前回の倍以上となる総勢557人<ref>多治比縣守の親は左大臣、大伴山守の親は右大臣、藤原馬養の親は太政大臣[[藤原不比等]]、阿倍仲麻呂の祖父は将軍[[阿倍比羅夫]]、と、構成員も豪華である。</ref>。霊亀2年(716年)8月に縣守が押使に任命され、翌霊亀3年(717年)3月に節刀を授けられている。よって出発は以降の日付となり、南路を選択したと推測されている。716年9月、[[阿倍安麻呂]]に代えて大伴山守が遣唐大使となる。717年10月1日長安に到着した。残留した留学生を除き、翌年の養老2年(718年)10月に使節の主だった者は全員無時に大宰府に帰還に成功した。同行して前回の留学僧であった道慈も帰国。同年12月に県守は朝廷に復命し、翌年正月10日に帰国した一同が唐で与えられた朝服で天皇に拝謁した。藤原馬養は唐滞在中に「宇合」と名を改めた。播磨弟兄は725年に、唐から持ち帰った[[コウジ (柑橘類)|甘子]]の種子の栽培に成功したとして昇進されている。前回に渡唐した弁正の子の[[秦朝元]]は、この回の帰路に同行して来日した。この回は珍しく、行き帰りおよび滞在中、大したことはなく恙無く済んでいる。
|-
|align="center"|10||天平5年<br />([[733年]])||天平6年<br />([[734年]])||[[多治比広成]](大使)・[[中臣名代]](副使)||[[平群広成]](判官)・[[秦朝元]](判官)・[[田口養年富]](判官)・[[紀馬主]](判官)・[[大伴古麻呂]](留学生)・[[秦大麻呂]](請益)・[[栄叡]]・[[普照]]||align="center"|4||多治比広成は前回押使の縣守の弟。4隻の船で難波津を4月に発ち[[奄美]]([[奄美大島]])を経由して<ref>[[735年]](天平7年)、朝廷は遣唐使の利便のため、南島(奄美諸島など)に碑を建てさせた。碑には島名と停泊地、水の補給場所が記されていた。また、遣唐使一行に[[奄美語]]の通訳を同行させることとした。この碑の現物は見つかっていない。 - 『[[延喜式]]』第50巻(雑式)</ref>、往路は4隻無時で蘇州に到着し、734年4月に唐朝に拝謁した。唐生まれの秦朝元は、父親と玄宗皇帝との縁から皇帝の覚えが良く賞賜を与えられた。大伴古麻呂は帰国にあたって、唐人の陳延昌に託された[[大乗仏教|大乗仏典]]を日本にもたらす<ref>『遺教経』跋語(石山寺蔵)</ref>。帰路、734年10月に同時に出航するも各船遭難し、第1船の多治比広成は11月に[[種子島]]に帰着し(吉備真備・玄昉帰国。[[羽栗吉麻呂]]・[[羽栗翼|翼]]・[[羽栗翔|翔]]親子も帰国)、3月に節刀を返上した。第2船の中臣名代は唐に流し戻され、735年3月に長安に戻された。唐の援助で船を修復し、11月に唐人・ペルシャ人ら<ref>唐人の[[皇甫東朝]]・[[道璿]]・[[袁晋卿]]、波斯(ペルシャ)人の[[李密翳]]、[[インド]]人の[[菩提僊那]](のち東大寺の大仏開眼式に参加)、菩提僊那の弟子で[[林邑国]]の[[仏哲]]など</ref>を連れて帰国し、736年8月には都に帰還している。栄叡と普照は日本にて正式な受戒を行ってくれる僧侶の招聘を目的としており、僧の[[道璿]]が栄叡・普照の要請により鑑真に先駆けて来日し、日本にて伝戒を行った。第3船の平群広成は難破して崑崙国([[チャンパ王国]]、南ベトナム)に漂着し、現地勢力の襲撃を受けて100余名が4人となり、さらに抑留されるが脱出し唐に戻った。唐に滞在していた阿倍仲麻呂が仲介に奔走したことにより、唐から海路[[渤海国]]に入って帰国を目指した。天平11年([[739年]])5月、渤海大使[[胥要徳]]と共に渤海船2隻で日本海を渡るも、1隻が波にのまれて転覆し胥要徳ら40人が死亡。残った1隻は平群広成や渤海副使の将軍[[己珎蒙]]と共に7月出羽国へ到着し、10月27日に帰京した。第4船は行方不明。
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|align="center"|(11)||天平18年<br />([[746年]])||align="center"| - ||[[石上乙麻呂]](大使)|| ||align="center"|-||停止。緊張関係にあった新羅への牽制と、黄金の輸入を目的としたものと想像されている。一方で、石上乙麻呂は政治権力の策動に巻き込まれがちな人物でもあった。
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|align="center"|12|| nowrap="nowrap" |天平勝宝4年<br />([[752年]])|| nowrap="nowrap" |天平勝宝6年<br />([[754年]])||[[藤原清河]](大使)・[[吉備真備]](副使)・大伴古麻呂(副使)||[[高麗大山]](遣唐判官)・[[大伴御笠]](遣唐判官)・[[布勢人主]](遣唐判官)・[[藤原刷雄]](留学生)、[[膳大丘]]||align="center"|4||752年に唐に入り、[[長安]]で皇帝の[[玄宗 (唐)|玄宗]]に拝謁した。753年の正月に長安の[[大明宮]]にて[[玄宗 (唐)|玄宗]]臨御の、[[朝貢]]諸国の使節による[[朝賀]]に出席した。この朝賀の際当初、[[日本]]の席次は西畔(西側)第二席、第一席[[吐蕃]]の下であり、東畔第一席が[[新羅]](二席[[イスラム帝国|大食国]]の上)であった。すなわち新羅より下位に置かれていたことから、大伴古麻呂は「長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていない」として抗議し、日本と新羅の席を交換させている<ref>『続日本紀』天平勝宝6年正月30日条)</ref>。753年11月16日、4隻で帰路に就いた。この際にこれまで5回の来日失敗をしていた僧の[[鑑真]]が同行を志すが、唐当局によって鑑真の搭乗を禁止された。このため第1船の清河は鑑真を船から降ろすが、第2船の古麻呂が鑑真・[[法進]]を秘密裏に乗せた。また、在唐35年で唐の高官となっていた阿部仲麻呂が第1船にて帰国の途に就いた。第3船は11月20日に、第1・第2船は21日に沖縄本島に到達した。半月を島に停泊したのちの12月6日、南風を得た3隻は本土を目指し、まず種子島を目標としたが、藤原清河と阿倍仲麻呂らの第1船は出航直後に座礁し、その後暴風雨に遭い安南(現在のベトナム中部)に漂着した。現地民の襲撃に遭いほとんどが客死する中、清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えた。大伴古麻呂・鑑真、鑑真と同行した[[法進]]ら14人の僧侶・胡国人の[[如宝]]らを乗せた第2船は7日に[[屋久島]]に到達し、太宰府と連絡を取り18日に島を後にした。翌19日に嵐に逢い漂流したが、[[薩摩国]]坊津に漂着し、12月26日に太宰府に入った。吉備真備の第3船は屋久島までは第2船と同行し、同じく出航したが19日の嵐で漂流し、[[紀伊国]][[太地町|太地]]に漂着した。この帰還に成功した船2隻は「播磨」「速鳥」の名を持ち、758年にこの2船に対して従五位下の位が与えられた。判官・布勢人主らの第4船は途上で船が火災に遭うも、舵取の[[川部酒麻呂]]の勇敢な行動もあり鎮火に成功し、754年4月になって薩摩国石籬浦(現在の[[鹿児島県]][[揖宿郡]][[頴娃町]]石垣)に漂着帰国した。鑑真が予定通り第1船に乗船していた場合、来日はまたも失敗に終わっていたはずである。また、前述の唐朝賀での席次争いに反発した新羅は、同年の日本からの[[遣新羅使]]であった[[小野田守]]と[[景徳王]]の面会を拒否したため、使節は帰国した。これにより朝廷内、特に実力者であった[[藤原仲麻呂]]の主導により、[[新羅征討計画]]が立てられた。
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|align="center"|12|| nowrap="nowrap" |天平宝字3年<br />([[759年]])|| nowrap="nowrap" |天平宝字5年<br />([[761年]])||[[高元度]](迎入唐大使)・[[内蔵全成]](迎入唐使判官)||[[羽栗翔]](遣唐録事)、[[阿保人上]](遣唐録事)||align="center"|1||藤原清河を”迎える”ために派遣された。そのため、通常の4分の1である遣唐使船1隻、総勢99名の小規模となった。[[安史の乱]]の混乱の影響を考え、渤海経由で入唐を図る。大使の高元度は[[高句麗]]王族系の渡来人。[[渤海使]]・[[揚承慶]]の帰国と共に渤海路より渡航。渤海に到着したが、乱の影響により唐に入る人数を大使の高元度や録事(通訳)の羽栗翔ら11人に減らすこととなり、残りの副使・内蔵全成ら80余人は引き返すこととなった。同年10月に渤海から渤海使の[[高南申]]・副使の[[高興福]]と共に帰国するも、暴風で遭難し対馬に漂着、12月に難波津に到着。高南申は清河が渤海に依頼していた上表文を携えていた。一方の高元度ら11人は渤海国の遣唐賀正使節の揚方慶と共に入唐するも、乱による混乱および政治的駆け引きなどのため清河の帰国・渡航を止められ、目的は果たせず。一行は中謁者(皇帝の側近)の謝時和と共に蘇州に向かい、帰路は南路を選択した。謝時和は蘇州刺史の李岵と協議して長さ8丈(24m)の船1隻を建造させ、9人の水手と30人をもって送使[[沈惟岳]]と共に[[蘇州]]から761年8月に出発、南路で大宰府に帰国。帰国に際し唐の[[皇帝]]・[[粛宗 (唐)|粛宗]]より、安史の乱で不足した武器類の(材料の)補充を日本側は求められているため、清河の身柄は交換条件にされた可能性がある。この唐の要請を受けて日本側は[[安芸国]]に[[上毛野広浜]]らを派遣し10月から4隻の船を建造すると共に、武器材料となる牛角の徴発と備蓄を始めている。さらに唐は兵器の見本として甲冑・刀・槍・矢などを与えているため、唐は軍事的連携を視野に入れていた可能性もある。この際に伝えられた新型の鎧「[[綿襖甲]]」は「唐国新様」と呼ばれ、翌年の762年正月から大量に生産することが命じられている。行路を渤海経由とした理由については、[[藤原仲麻呂]]が推進していた[[新羅征討計画]]を渤海国と連携して進める目的もあったとされる。『[[遣渤海使]]』項目も参照。なお、一行は録事で唐人と[[羽栗吉麻呂]](第9回で入唐)のハーフで唐生まれである羽栗翔を清河の下へ残留させている。その後の羽栗翔の行方は不明だが、兄弟の[[羽栗翼]]もまた、この後の第16回遣唐使で入唐している。前回入唐した[[膳大丘]]はこの回の帰路に同行帰国した。膳は『[[金剛般若経]]』を持ち帰ったとされる。
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|align="center"|(14)||天平宝字5年<br />([[761年]])||align="center"| - ||[[仲石伴]](大使)・[[藤原田麻呂]](副使)|| [[中臣鷹主]](遣唐判官)|||4||762年3月に遣唐副使が[[石上宅嗣]]から[[藤原田麻呂]]に交代<ref>『続日本紀』天平宝字6年3月1日条</ref>。4月、予定されていた船4隻を安芸から回航する際に1隻が座礁、さらに1隻も破損したため使節の規模縮小を余儀なくされ、同時に正副大使の仲石伴・藤原田麻呂は解任。遣唐判官の中臣鷹主が遣唐大使に任ぜられた。以下、15回へ。
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|align="center"|(15)||天平宝字6年<br />([[762年]])||align="center"| - ||colspan="2"|[[中臣鷹主]](送唐客使)・[[藤原田麻呂]](副使)・[[高麗広山]]<ref>高麗大山の弟</ref>(副使)||2||規模を縮小した上で、唐使[[沈惟岳]]を送らんとするも夏のうちは風浪に恵まれず、安史の乱の影響もあり渡海できないまま7月に正式に中止<ref>『続日本紀』天平宝字6年7月是月条</ref>。翌年正月17日、[[渤海使]]の[[王新福]]が混乱する唐の情勢を伝え、これを鑑みた朝廷は沈惟岳をしばらく大宰府に留まらせるよう命令。大使らは都へ帰還を命じられる。その後、沈惟岳は日本に帰化し、姓と官位が与えられた。
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|align="center"|16||宝亀8年<br />([[777年]])||宝亀9年<br />([[778年]])||[[佐伯今毛人]](大使)・[[小野石根]](持節副使・大使代行)・[[大神末足]](副使)<br />/[[大伴益立]](副使)・[[藤原鷹取]](副使)||[[海上三狩]](遣唐判官)・[[大伴継人]](遣唐判官)・[[小野滋野]](遣唐判官)・[[下道長人]](遣唐判官)・[[上毛野大川]](遣唐録事)・[[韓国源]] (遣唐録事)・[[羽栗翼]](遣唐録事→准判官)||align="center"|4||安芸国で船4隻を建造。775年6月に任命された大使・佐伯今毛人らは776年4月に出航し肥前松浦まで到達するも、順風が吹かないことを理由に一旦博多に帰還した。8月、佐伯は来年夏への延期を奏上して許可され、11月に大宰府から都に帰還し節刀を返上。この間も遣唐副使の大伴益立や判官・海上三狩らは大宰府に留まり入唐の期を窺っており、人々は留まった副使らの姿勢を褒めた。同月遣唐録事となる。同年8月、羽栗翼、録事から准判官に昇格。しかし12月に大伴益立・藤原鷹取の両副使は更迭され、替わって副使に小野石根と大神末足が任命された。しかし翌777年4月、(同日に渤海からの使者が朝廷に参内している。この使者は行路に暴風に遭い、2/3以上の犠牲者を出している)都を出立した佐伯は直後に病と称し、難波津より先に行くことを拒否した。同年6月に副使であった小野石根が大使代行として、大使不在の弁明の書を携えて使節団は渡航した。光仁天皇から藤原清河に対しての帰朝の命令の書簡が出されるなど、藤原清河を迎える目的もあった使節だが、この年の5月頃に清河は既に死去していた。なお同年1月には阿倍仲麻呂も死去。6月24日に遣唐使一行は出航し、7月3日に揚州に到着。長安を目指すも、[[安禄山の乱]]による混乱から、長安行きの人数を40余人に制限される。翌778年1月に大使・副使・羽栗翼・小野滋野・上毛野大川・韓国源ら43名は長安着。3月に皇帝[[代宗 (唐)|代宗]]へ拝謁し、4月に長安を離れて揚州に入り、9月に南路から順次帰国の途に就いた。第3船の判官[[小野滋野]]や唐送使(判官)の[[孫興進]]らは9月9日に出航、3日後に浅瀬に座礁し航行不能となった。どうにか修理して再浮上させ10月16日航海再開、23日に五島列島に到着。朝廷で唐での顛末を報告した。11月5日に第1船と第2船、同時に出航した。第2船は13日に薩摩国出水郡に到着。第1船は8日に嵐で遭難、船体は大破し破断した。小野石根、唐大使[[趙宝英]]らは死亡した。同船に乗っていた大伴継人や羽栗翼、藤原清河と唐人の間に生まれた娘の[[藤原喜娘]]ら40余名は2つに裂けた船の片方の残骸にしがみついて漂流した。生存者と二つの船体だったものは薩摩国甑島郡と[[肥前国]][[天草郡]]西仲嶋(現在の[[鹿児島県]][[出水郡]][[長島 (鹿児島県)|長島]])に漂着し、11月に[[平城京]]に入った。第4船の海上三狩らは[[楚州 (江蘇省)|楚州]][[塩城県]]から出帆するが<ref>『続日本紀』宝亀9年11月13日条</ref>、耽羅島([[済州島]])に流れ着いてしまい島人に略奪され船を留置された。ここで録事・韓国源ら40余名は船ごと島からの脱出に成功し、同年11月に[[薩摩国]][[甑島郡]]へ到着した<ref>『続日本紀』宝亀9年11月10日条</ref>。三狩はそのまま残されたが、のちに[[日本]]からの要請を受けて捜索していた[[新羅]]に発見される<ref>『続日本紀』宝亀11年正月5日条</ref>。翌779年2月に三狩らを迎えるために、元は遣唐判官の同僚であった大宰少監の[[下道長人]]が[[遣新羅使]]に任ぜられ<ref>『続日本紀』宝亀10年2月13日条</ref>、同年7月に下道に率いられて三狩は帰国した<ref>『続日本紀』宝亀10年7月15日条</ref>。大神末足らは779年3月に帰国した。羽栗翼は唐にて日本で採れた[[鉱物]]を鑑定してもらい<ref>「[[昆解宮成]]」参照</ref>、また、帰国後に『宝応五紀暦経』を朝廷に献上し、唐では当時日本で使用されていた[[大衍暦]]が既に廃止され、[[五紀暦]]が採用されていることを報告している。778年11月、唐使の慰問を、元副使の藤原鷹取が行っている。なお佐伯・大伴益立・藤原鷹取らは777年中から779年にかけて官界に復帰している。大使は遭難したものの、その後孫興進が使節代表となったが、唐使節の来日は高表仁以来、一世紀半ぶりのことであり、朝廷は対応に慌てた。
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|align="center"|17||宝亀10年<br />([[779年]])||天応元年<br />([[781年]])6月||[[布勢清直]](送唐客使)||[[甘南備清野]](判官)・[[多治比浜成]](判官)||align="center"|2||唐使[[孫興進]]らを送る。船二艘を安芸国で建造。
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|align="center"|18||延暦23年<br />([[804年]])||延暦24年<br />(805年)7月||[[藤原葛野麻呂]](大使)・[[石川道益]](副使)||[[空海]](留学僧)・[[最澄]](請益僧)・[[義真]](最澄の弟子。[[訳語]])・[[橘逸勢]](留学生)・[[霊仙]]・[[伴雄堅魚|大伴雄堅魚]]([[棋士 (囲碁)|碁師]])・[[菅原清公]](遣唐判官)・[[三棟今嗣]](遣唐判官)・[[高階遠成]](遣唐判官)・[[上毛野穎人]](録事)・[[朝野鹿取]](准録事)・粟田飽田麻呂(留学生)||align="center"|4||803年に出発するがすぐに船が損傷し航行不能となる。翌804年7月に再度出発した。往途、第3船、肥前松浦郡で[[座礁]]遭難。第4船も遭難し<ref>『日本後紀』延暦24年6月8日条</ref>、大使と空海らの第1船、副使石川道益と菅原清公・最澄らの第2船のみが中国に到達した。不明となった第3船と第4船を捜索するために、当時の風向きなどを考慮して[[大伴峰麻呂]]が[[遣新羅使]]として派遣されている<ref>『日本後紀』延暦23年9月18日条</ref>。第3船の三棟今嗣らは船を放棄・脱出して大宰府まで帰り着いた<ref>『日本後紀』延暦24年7月16日条</ref>。放棄された船は805年7月22日に能登国珠洲に漂着し、三棟今嗣は処罰された。第4船も遭難したが、高階遠成らが生還した。大使[[藤原葛野麻呂]]の第1船は8月10日に福州の海岸に漂着したが、現地で役人に[[海賊]]の疑いをかけられ、役人らの連絡待ちの間の50日間待機させられた。このとき葛野麻呂が福州の長官へ嘆願書を書いたが、これが悪文悪筆であったため却って嫌疑を招いてしまったため、代わりに一行中でも全く無名の留学僧だった[[空海]](のちの[[三筆]])が嘆願書を代筆し、これにより嫌疑が晴れた。またこの時に空海は個人での長安入京留学の嘆願書も提出し、「20年」の予定であると記述している<ref>[[渡辺照宏]]、[[宮坂宥勝]]『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.69、242</ref>。一行は同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安入りし、[[徳宗 (唐)|徳宗]]への謁見を果たす。一方、菅原清公や最澄が乗った第2船は9月1日に明州に到着したが、第2船に乗船していた副使の[[石川道益]]は、病に伏し唐で没した。最澄・義真らは天台山へ向かうために別れ、長安へ向かった一行は第1船の人員と合流し、805年1月の[[徳宗 (唐)|徳宗]]の[[崩御]]と[[順宗 (唐)|順宗]]の[[即位]]式に遭遇した。一行は第1船・第2船に分乗し、同年5月18日に明州から帰国の途に就き、6月5日対馬を経由して7月に帰国した。同期の遣唐使ではあるが、この頃既に名声のあった最澄と一介の留学僧の空海は、この時点で面識はほぼ無く、唐でも目的を別にして全く別行動を取っている。いわゆる短期留学生の最澄は大使らと共に帰国した。また、留学生の[[橘逸勢]]は語学が苦手だったようであり、現地での言葉の壁による学習の障害を嘆いている。このため逸勢は話し言葉の疎通をあまり必要としない琴と書を熱心に学び、帰国後それぞれの道の第一人者となった(のちの[[三筆]])。[[霊仙]]は45歳<ref>当時の寿命と入唐人員の選任基準から鑑みると、誤伝の可能性が高い。</ref>で入唐し、のちに「[[三蔵法師]]」の称号を与えられた。一方でその秘伝を守る目的で帰国を禁じられ、のち唐で客死した。大伴雄堅魚は当時19歳で、唐で皇帝が選んだ碁の名人の顧師言と対戦した、とする話が伝わる。菅原清公はのちに「男子の名前は漢字で訓読みで二文字か訓読みで一字、女子の名前は「○子」とする」といった、漢風の名前の使用について奏上を行い、これが日本に定着した。
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|align="center"|(18)||延暦24年<br />(805年)||元和元年<br />(806年)||[[高階遠成]](遣唐使判官)|||||||藤原葛野麻呂らの帰国直後に急遽任命され出発した。前回行けなかった第3船・第4船が改めて(遅れて)派遣されたと考えることができる。その他にも「第4船は遅れながらちゃんと唐に到達した」「一旦帰航後、改めて1隻だけ派遣された」など諸説・諸解釈があることに留意したい。またこの使節派遣は、順宗即位の賀を述べる使節と考えることもできる。高階遠成は在唐中の806年に唐朝より中大夫・試太子允の官を与えられた。帰路は遣唐留学生の橘逸勢や留学僧の空海らを伴って8月に明州を出発した。暴風雨に遭遇したため五島列島[[福江島]]に停泊したが、806年10月に大宰府に到着し、12月に朝廷に復命した。この12月、高階遠成は突然遣唐使に任命されて休む暇もなく出発した心中を哀れまれて、特別に正六位上から二階昇進して従五位上に叙せられた。高階は唐朝で官職を与えられていたため、それに合わせて本朝の官位も昇進させねばならない事情があり、加えて、遣唐使の任を全うして帰国に成功した官吏はおよそ大きく昇進するのが通例であった。一方、(長期)留学僧として20年の留学予定であったはずが、僅か2年で「留学の滞在費がなくなったこと」を表向きの理由として高階遠成を通じて帰国を唐朝に上奏し許可を得て、しかし[[経典]]や[[曼荼羅]]など多数の文物を収集して帰国した空海に対して、朝廷は対応に困ったのか大同4年(809年)まで入京を許可しなかった。このため空海は入京許可が下りるまで、大宰府の[[観世音寺]]に数年滞在した<ref>[[渡辺照宏]]、[[宮坂宥勝]]『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.87-92</ref>。
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|align="center"|19||承和5年<br />([[838年]])||承和6年<br />([[839年]])||[[藤原常嗣]](大使)<br />/[[小野篁]](副使)||[[藤原豊並]](判官・第二船)・[[丹墀文雄|丹墀文雄(多治比文雄)]](判官・第三船→遭難死)・[[菅原善主]](判官・第四船)<ref>前回の遣唐使であった菅原清公の三男</ref>・[[藤原貞敏]](准判官・第一船)・[[長岑高名]](准判官・第一船)・[[良岑長松]](准判官・第二船)・[[山代氏益]](録事)・[[大神宗雄]](録事)・[[高丘百興]](准録事)・[[菅原梶成]](知乗船事・医師・第四船)・[[伴有仁]](知乗船事・第二船)・[[円仁]](請益僧)・[[円載]](留学僧)・[[円行]](請益僧・第四船)・[[常暁]](請益僧)・[[真済]](請益僧)・[[真然]](留学僧)・粟田家継(絵師・大使傔従)・[[伴須賀雄]])<ref>18回の伴雄堅魚の甥</ref>([[棋士 (囲碁)|碁師]]、別請益生)・春道永蔵(知乗船事)||align="center"|4||[[天台山]]留学を切望していた僧の[[円仁]]の渡航のために、大使の常嗣は便宜を図った<ref>『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条</ref>。承和元年(834年)、30年ぶりとなる遣唐使が計画され、[[丹墀貞成|丹墀貞成(多治比貞成)]]が造舶使長官に任じられた。承和3年・承和4年ともに渡航失敗。承和3年(836年)5月に一旦出航するも、嵐に遭い摂津国[[大輪田泊]]から進めず<ref>『続日本後紀』承和3年5月18日条</ref>、九州に至るまでに時間を要した。承和3年(836年)7月2日に太宰府を発って出航するも、全船が遭難し、同月から翌月までに肥前国など九州各地に漂着した。第3船が最も悲惨であり、対馬沖で遭難し、船体が崩壊したとみられ、判官の[[丹墀文雄|丹墀文雄(多治比文雄)]]以下、100余人が死亡した。真済・真然の子弟ら生き残りは筏に乗り換え23日間漂流した。この筏の30余人はほとんどが餓死したが真済・真然らは生き残り島に漂着し、現地島民に助けられた。この船の生存者は3名であった。翌承和4年7月に残った3隻で仕切り直しとなるが逆風によりこれも失敗、翌承和5年に改めて3艘で出航した。ここまでの過程で第1船が損傷したため、大使の常嗣は自身の乗船である第1船と副使の[[小野篁]]が乗る予定の第2船を交換した。これを不服とした小野は、常嗣への不信と親の介護さらに自身の病を挙げて渡航を拒否したため、使節は小野を残して出発した。小野は朝廷批判を行ったため同年12月に[[隠岐国]]へ流罪となった。小野に限らず、当時の朝廷ではもはや遣唐使の意義が薄れたことを理由に、危険な遣唐使を再検討すべきだとの批判があったとも指摘されているが、さらに[[伴有仁]]ら4名も乗船を拒否して逃亡し処罰を受けている<ref>『続日本後紀』承和6年3月丁酉条</ref>。これらにより第2船は出航せず、2隻となった一行は小野篁の拒否により正副使が不在となったが、現地では長岑高名や藤原貞敏らが副使を代行した。6月17日に出港したこの往路の渡航は、志賀島から揚州まで8日間で到達した。円仁の乗船であった第1船は6月28日に到達するも揚州の海岸に乗り上げて大破全壊している。この様子は円仁の『[[入唐求法巡礼行記]]』に記されている。第4船も揚州にたどり着くが船体が損傷しており、舟を乗り換えて第1船の皆と合流した。出向時の混乱のあった第2船は1か月遅れの7月29日に大宰府を出発、8月10日に海州に到達した。揚州到達後、唐の政情不安により、10月に34名のみ長安に赴いた。翌承和6年(839年)常嗣らは長安で[[文宗 (唐)|文宗]]に拝謁したのち閏1月に長安を立ち、楚州へ向かった。この道中で判官の藤原豊並が病死した。帰途は第1船・第4船が航行不能であったため、楚州で新羅船9隻を雇い分乗し、新羅の南岸沿いの航路を利用し、第6新羅船の大神宗雄らをを先頭におよそ8月に肥前国などに帰国した。山代氏益が乗った船は遅れて10月に博多に着いた<ref>『続日本後紀』承和6年10月9日条</ref>。9月には帰国した使節それぞれに叙爵が行われている。この帰国時の渡航ルートを巡って、常嗣と判官の[[長岑高名]]が対立するが、全責任者の常嗣の意見はしかし高名の主張に敗れた<ref>『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年4月1-4日条</ref>。帰途、第1新羅船に乗るはずだった円仁・常暁・円載ら四人が勝手に下船し、唐での勉強を続けようとしたが、唐の役人に捜索され、まだ停泊していた第2船に無理に乗せられた。しかし第2新羅船に乗って帰国の途に就いたはずの円仁らは途中下船して、五台山を目指した。こののち第2船は8月に南海の島に漂着し、現地民の襲撃を受けた。良岑長松、菅原梶成らは協力し廃材を集めて島で船を作り、島を脱出した。承和7年4月8日、菅原梶成らの小船が大隅国に漂着し、報告を受けた朝廷から、同じく海上を漂流しているはずの良岑長松らの小船を捜索する命が下った。しかし良岑は見つからなかったが、二か月後の6月18日に良岑長松らの小船は大隅国に漂着し、帰国に成功した。また、先立つ承和3年(836年)7月、途上の便宜を新羅に要請するために[[紀三津]]が遣新羅使として派遣されるが、この際に三津と新羅側の双方の態度が新羅と日本の間に外交問題を引き起こした。背景に、積年の格下蕃国扱いに対する新羅の反発離脱の意図もあったのではないか、と指摘されている<ref>『続日本後紀』承和3年12月3日条</ref>。准判官を勤め、[[琵琶]]の名手としても知られた藤原貞敏は唐で琵琶の名人の門下となり、さらに師の娘を娶った。貞敏は琵琶の名器「玄象」「青山」を持ち帰ったが、同時にこの妻も一緒に帰国し、日本に[[筝]]を伝えたとされる<ref>『[[教訓抄]]』</ref>。本来短期留学の予定であった円仁は一行から勝手に離脱し、以降は不法滞在しながら仏法を学び、9年後に「[[会昌の廃仏]]」の影響を利用して帰国した。円載は以降40年近く唐に滞在し、862年には入唐した[[高岳親王|真如法親王(高岳親王)]]の世話をしている。なお円載は後に帰国の途上にて遭難死した。伴須賀雄は帰国直後の10月1日、叔父の[[伴雄堅魚]]と共に[[仁明天皇]]の御前に召し出され、遣唐使准判官であった藤原貞敏が琵琶を奏で、皆が酒を楽しむ中で、伴氏同士の賞金付き囲碁の対戦を行った。伴須賀雄は同時に正六位上・備後権掾の官位を下された。これは天皇主催の、いわゆる帰国者慰労のパーティであったと思われる。大使の藤原常嗣は功により従三位に任じられたが、翌年4月23日、45歳で死去した。若[[藤原松影]]は834年に判官に任じられたが、老齢の母を理由に再三固辞し、辞官を許された。なお、最初の第3船生き残りの真済・真然は、仕切り直し出航の際に「縁起が悪い」として渡航を許されなかった。
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|align="center"|(20)||寛平6年<br />([[894年]])||align="center"| - ||[[菅原道真]](大使)・[[紀長谷雄]](副使)|| || ||唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により停止となった。ただし大使の任は解かれず。この後、907年に唐が滅亡したため、遣唐使は廃止となる。
|}
*<div class="references-small">次数は20回説を採用。</div>
*<div class="references-small">()は入唐しなかった遣唐使。</div>
*<div class="references-small">送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名に付した。</div>
*<div class="references-small">『日本三代実録』貞観16年6月17日(874年8月2日)条にある朝廷が香薬調達のために[[大神己井]]・[[多治安江]]らを唐に派遣した一件も遣唐使に加えるべきとする説もある<ref name=enomoto2005>榎本淳一「遣唐使と通訳」(『[[#唐王朝と古代日本|唐王朝と古代日本]]』(原論文:2005年)) {{要ページ番号|date=2016-04-29 }}</ref>。</div>
== 歴史 ==
日本が最初に遣唐使を派遣したのは、[[舒明天皇]]2年([[630年]])のことである。[[推古天皇]]26年([[618年]])の[[隋]]の滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、[[聖徳太子]]・[[蘇我馬子]]・推古天皇と国政指導者の相次ぐ死去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、[[高句麗]]は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に[[高表仁]]を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の朝命を伝える役目を果たせずに帰国した。争った相手については、難波迎賓館での折衝段階と思われるが、『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王としている。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での歓迎の賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを示している。これは唐側が日本への[[冊封]]を命じようとして舒明天皇がこれを拒んだと推定されている{{Sfn|西嶋定生|1985|pp=103、162-163}}。その後、この冊封拒否の影響で、23年間日本からの遣使は行われず、唐側も[[高句麗]]との対立や、[[突厥]]や[[高昌]]との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる<ref name=enomoto2005/><ref name=mori2006>森公章「遣唐使の時期区分と大宝度の遣唐使」(初出:『国史学』189号(2006年)/所収:森『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>。唐が周囲国と争う中で2代皇帝即位後に納得はしないまま、外交戦略として倭国の方針が受忍され、白雉4年(653年)「不臣の外夷」の立場で冊封関係のない遣唐使の朝貢が再開された。冊封を受けなかったことは、天皇号の成立や「日本」国号の変更、独自の律令制度制定など、後の歴史に大きくかかわる{{Sfn|大津透|2017|pp=259-260}}。
再開後、天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、唐と朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に[[斉明天皇]]5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する([[白村江の戦い]])。その後の第5次から7次遣使は両国の関係改善と唐による「[[倭国]]討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。天智天皇8年(669年)7回遣使直後の天智天皇10年(671年)に11月2日[[対馬国]]を経由して唐使[[郭務悰]]が2000人の軍兵と思われる多人数の使者で突如来航し、まもなく[[筑紫国]]に着き駐留し深刻な進攻状態となった。翌年交渉の末に唐使らに大量の甲冑弓矢の武器や布などの贈物をすることで5月30日帰国させた{{Sfn|上田雄|2006|pp=67-69}} 。やがて、唐と[[新羅]]の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も[[壬申の乱]]の混乱とその後の[[律令体制]]確立への専念のために再び遣使が行われなくなる<ref name=mori2005/>。
遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、[[大宝 (日本)|大宝]]2年(702年)に派遣された第8次遣唐使である。日本側では遣使に文武天皇が初めて節刀を与えて国交正常化を目指し(一時期有力視された[[石母田正]]の「[[大宝律令]]を唐側に披露した」という説は、唐王朝は律令が天下に君臨する皇帝の定める帝国法だと、周辺諸国の律令導入と編纂を認めなかったとする説が有力となったことから、成立困難となっている{{Efn|唐国側が朝貢された「調布」と記された布にその律令制的な名前に疑義が生じ日本での律令制施行を知らない(『旧唐書 日本国伝』){{sfn|石井正敏他(編)|2011|p=54||ps =、森公章「朝鮮三国の動乱と倭国」 }}}})<ref> [[坂上康俊]]「大宝律令制定前後における日中間の情報伝播」池田温・劉俊文編『日中文化交流史叢書』二、法律制度、大修館書店、1997年、p.49</ref>。当時[[則天武后]]の末期にあたり、唐(当時は「[[武周|周]]」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。[[粟田真人]]大使により日本の[[国号]]変更が報告され、中国皇帝は東アジアでの国号調整権を持ち則天武后が承認したのもこの時である(『新唐書』「東夷伝」日本条)<ref>[[神野志隆光]]『「日本」 国号の由来と歴史』 講談社学術文庫、2016年、第三章「古代中国における「倭」と「日本」」1節「倭の意味」</ref>。記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったという説がある<ref name=mori2006/><ref name=mori2005>森公章「大宝度の遣唐使とその意義」(初出:『続日本紀研究』355号(2005年)/所収:森『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>。
[[8世紀]]になると[[東アジア]]の情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。9世紀前半に日本側も朝貢を前提とし「20年1貢」を原則としていたが<ref>東野治之「遣唐使の朝貢年期」『[[#遣唐使と正倉院|遣唐使と正倉院]]』、岩波書店 1990年 p.24</ref>、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。また、[[宝亀]]6年(775年)の遣唐使の際には唐の[[粛宗 (唐)|粛宗]]の意向で帰国する遣唐使に随行する形で唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の[[趙宝英]]は船の難破によって水死し、判官が代行の形で[[光仁天皇]]と会見している)<ref name="enomoto2005" />。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた<ref name="enomoto2008">榎本淳一「遣唐使による漢籍将来」『[[#唐王朝と古代日本|唐王朝と古代日本]]』 {{要ページ番号|date=2016-04-29 }}</ref>。
[[9世紀]]に入ると遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では[[安史の乱]]以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは[[新羅]]に関しても同様で、9世紀前半の[[張保皐]]の活動はその代表的な存在である)<ref name=enomoto2005/>。また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、[[延暦]]23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『[[日本後紀]]』延暦24年6月乙巳条)であったが、やがて、冷遇されていく。
一方、日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「[[渡海制]]」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な[[航海技術]]・[[造船]]技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。結果的には「最後の遣唐使」となった[[承和 (日本)|承和]]5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使[[藤原常嗣]]と副使[[小野篁]]が対立して篁が乗船を拒否して隠岐へ[[配流]]されるが、根底に遣唐使の意義に疑問があったとされる{{Sfn|佐伯有清|2007|pp=14-16、32-34、79-80|ps=、出典は旧版の講談社現代新書、1978年}}。さらに、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官[[長岑高名]]が対立するなど、諸問題が一気に露呈した<ref name=2008b/>。
[[承和 (日本)|承和]]5年(835年)の遣唐使の時には留学生・[[請益生]](短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『[[入唐求法巡礼行記]]』(唐)[[開成 (唐)|開成]]4年2月24・27日条)などの冷遇を受けた<ref name=2008b>森公章「漂流・遭難、唐の国情変化と遣唐使事業の行方」『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』) {{要ページ番号|date=2016-04-29 }}</ref>。承和の留学生であった[[円載]]は官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。承和の遣唐使の[[天台宗]]を日本に伝えた[[最澄]]は漢語が出来ず、弟子の[[義真]]が訳語(通訳)を務め、[[橘逸勢]]は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『[[性霊集]]』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている<ref name=mori2008a>森公章「遣唐使と唐文化の移入」『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>。
唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、[[寛平]]6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える<ref name=2008b/>。
== 航路と遣唐使船 ==
[[ファイル:Kentoshi route.png|300px|right|thumb|遣唐使の航路]]
遣唐使船は、[[大阪]][[住吉区|住吉]]の[[住吉大社]]で海上安全の祈願を行い、[[海の神]]の「[[住吉大神]]」を船の舳先に祀り、[[住吉津]]([[大阪市]][[住吉区]])から出発し、[[住吉区|住吉]]の細江(現・細江川 通称・細井川)から[[大阪湾]]に出、[[難波津]](大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]])に立ち寄り、[[瀬戸内海]]を経て、[[博多|那大津]]([[福岡県]][[福岡市]][[博多区]])に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。
# '''北路'''
#*北九州([[対馬]]を経由する場合もある)より[[朝鮮半島]]西海岸沿いを経て、[[遼東半島]]南海岸から[[山東半島]]の登州へ至るルート。
#*630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化{{Sfn|東野治之|2007|p=64}}により使用しなくなった。
# '''南路'''
#*[[五島列島]]から東シナ海を横断するルート。日本近海で[[対馬海流]]を横断して西進する。
#*702年から838年までの航路。
# '''南島路'''
#*[[薩摩国|薩摩]]の[[坊津]]([[鹿児島県]][[南さつま市]])より出帆し、[[南西諸島]]経由して[[東シナ海]]を横断するルート。
#*[[杉山宏]]の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられ{{Sfn|東野治之|2007|pp=64-65}}、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないとする説もある<ref>森公章「遣唐使の時期区分と大宝度の遣唐使」『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』(原論文:2006年)pp. 54-55.</ref>。
[[663年]]の[[白村江の戦い]]で日本は[[朝鮮半島]]での足場が無くなり、[[676年]]の[[唐・新羅戦争]]で[[新羅]]が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。
839年の帰路は、山東半島南海岸から[[黄海]]を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。
遣唐使船は[[ジャンク船]]に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた{{Sfn|東野治之|2007}}。網代帆は開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく優れた帆走性を持っている{{Sfn|上田雄|2006|pp=258-260}}。船体は、耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。
後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に[[佐伯有清]]は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する{{Sfn|佐伯有清|2007|pp=152-154、157-159|ps=、出典は旧版の講談社現代新書、1978年}}。東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している{{Sfn|東野治之|2007}}。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする<ref>石井謙治監修『復元するシリーズ4 日本の船を復元する 古代から近世まで』学習研究社、2002年、P14-15</ref>。
== 遣唐使の行程 ==
[[羅針盤]]などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能<ref name=enomoto2005/>であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は[[駅伝制]]を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、[[安史の乱]]以後は安全上の問題から長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。[[長安]]到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の[[鴻臚館]]に相当する)<ref name=mori2003>森公章「遣唐使が見た唐の賓礼」(初出:『続日本紀研究』343号(2003年)/所収:森『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>。
長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の「礼見」と内々の会見の儀式の「対見」、帰国の途に就く際に行われた対面儀式の「辞見」が行われた。前者は通常は[[宣政殿]]にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀や[[朔旦冬至]]が重なった場合には関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品([[位階]])が授けられた(なお、『[[続日本紀]]』などによれば大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した<ref name=enomoto2008/><ref name= mori2003/>。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要からその原則が破られることは珍しくはなかった<ref name=enomoto2005/>。
最後に遣唐使は皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から[[鴻臚寺]]の[[官人]]が送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の[[高表仁]]・[[宝亀]]年間の[[趙宝英]](ただし、日本に向かう途中に水死したため判官[[孫興進]]が大使の代行を務めた)がこれに該当する。また、[[安史の乱]]最中の[[天平宝字]]年間には遣唐使の護衛として[[越州]][[浦陽府]]押水手官の[[沈惟岳]]が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)<ref name= mori2003/>。
== 派遣者一覧 ==
『[[延喜式]]』大蔵省式による遣唐使一行は以下の通りである。
* 大使、副使、判官、録事、知乗船事、[[通訳|訳語生]]、請益生、[[神主|主神]]、[[医師]]、[[陰陽師]]、[[画家|絵師]]、史生、[[歩兵#歴史的な分類|射手]]、[[船長|船師]]、[[指揮者|音声長]]、[[新羅語|新羅]]・[[奄美方言|奄美]]訳語生、[[占い|卜部]]、[[留学生]]、学問僧、傔従、雑使、[[演奏者|音声生]]、[[ガラス工芸|玉生]]、[[鍛冶|鍛生]]、[[鋳造|鋳生]]、[[木工|細工生]]、[[大工#船大工|船匠]]、[[舵|柂師]]、傔人、[[舵|挟杪]]、水手長、水手など<ref>{{Cite web|和書|author=[[鈴木靖民]] |url=https://kotobank.jp/word/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF-60954 |title=遣唐使(けんとうし) |work=日本大百科全書(ニッポニカ) |publisher=コトバンク |accessdate=2016-04-29 |quote='...時期によって規模・内容を異にするが...大使(たいし)、副使(ふくし)、判官(はんがん)、録事(ろくじ)、知乗船事(ちじょうせんじ)、訳語(おさ)、請益生(しょうやくしょう)、主神(しゅじん)、医師(いし)、陰陽師(おんみょうじ)、画師(えし)、史生(ししょう)、射手(しゃしゅ)、船師(ふなし)、音声長(おんじょうちょう)、新羅(しらぎ)・奄美訳語(あまみのおさ)、卜部(うらべ)、留学生(りゅうがくしょう)、学問僧(がくもんそう)、※けん従(けんじゅう)、雑使(ぞうし)、音声生(おんじょうしょう)、玉生(ぎょくしょう)、鍛生(たんしょう)、鋳生(ちゅうしょう)、細工生(さいくしょう)、船匠(ふなしょう)、※かじ師(かじし)、※けん人(けんじん)、※カジ杪(かじとり)、水手長(かこちょう)、水手(かこ)...''}}。注:引用元で外字が用いられている漢字を※印とよみがなで表示している。引用文中の「※けん」は記事本文中では「傔」、「※かじ」は「柂」、「※カジ」は「挟」で表示している。</ref>{{refnest|group="注釈"|大使と副使は遣唐使の代表と副代表、判官は一行のまとめ役、知乗船事は4隻の船の責任者、船師はそれぞれの船の責任者、史生と議事は文章の記録と編纂、雑使は船内の雑役係、傔人は大使らの身の回りの世話係、挾杪と柁師は船の舵取りとその責任者、水手は船を漕ぐ係、留学生と学問僧は長期間唐に留まって勉学し傔従が彼らの世話係、請益生は勉学にあたるが遣唐使と共に帰国する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.resource-room.aichi-edu.ac.jp/kyozai_syakai/syakai_kyouzai.pdf |title=外国人児童のための小学校社会科教材(小学校6年生 歴史教材) |publisher=[[愛知教育大学]]外国人児童生徒支援リソースルーム |format=PDF |accessdate=2016-04-29 |quote=p. 8:''大使:代表 副使:副代表 判官:まとめ役 録事:記録や文章をまとめる。史生:記録や文章を作る。雑使:船の生活でのさまざまな仕事をする。傔人:大使などの世話をする。'' p. 9:''1) 知乗船事:4隻の船の責任者。2) 船師:各船の船長。...4) 柁師:船の舵取りの責任者。5) 挾杪:船の舵取りをする。6) 水手長:水夫の責任者。7) 水手 :船をこぐ人。...'' p. 10:''1) 留学生:長期間、唐で勉強する。2) 学問僧:長期間、唐で仏教を学ぶ。3) 傔従:留学生、留学僧の世話をする。...5) 請益生:遣唐使がいる間,唐で勉強する。'' }}</ref>。}}
== 遣唐使の選考基準 ==
『伊吉博徳書』『懐風藻』『続日本後紀』『文徳実録』などの諸文献から、唐に集まる各国使臣の中で国際的地位を高める使命を背負う遣唐使は、容貌・身長・風采等の身なりを選考基準で重視したのではないかという指摘がある。<ref>{{Cite journal|和書|author=[[王勇]] |title=中国資料に描かれた日本人像 遣唐大使の風貌を中心に |journal=『境界と日本文学-画像と言語表現- |publisher=国文学研究資料館 |year=2001 |pages=11-13 |url=https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/record/2631/files/I2401.pdf}}</ref>
== 遣唐使の衰退 ==
遣唐使は次第に派遣回数が減少し、承和5年([[838年]])を最後に50年以上中断状態にあった。さらに唐では[[874年]]頃から[[黄巣の乱]]が起きた。[[黄巣]]は[[洛陽]]・[[長安]]を陥落させ、[[黄巣|斉]](880–884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。
既に民間交易も活発化し、朝使が薬香を民間商船で日唐間を往来し手に入れた事例もあるため、遣唐使派遣が検討されること自体が減少していった。
<!-- #遣唐使とはもともと日中交流のために開始したのに、いつの間にか朝貢使のように扱われており、国辱である{{Citation needed|date=July 2015}}の文言は、菅原道眞記載の「請令諸公卿議定遣唐使進止状」に記載はないため、コメントアウトした。なお、森公章が、『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』(吉川弘文館、2008年)のpp. 191-195にて、「対唐優越感と「日本の恥」」という節で論じているのは、優越感醸成の結果、唐に送った使者・学者が未熟であり、「もし中国に日本の学芸・技能が劣っていることが暴露したら、「日本の恥」になる」(同書p. 195)という文脈で「恥」を論じている-->
当時の日本の対唐観の変化として、「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成<ref>森公章『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』p. 177。ただしこの意識が文献的に確認できるのは10-11世紀の文献である(同書p. 191)</ref>」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。
== 遣唐使の消滅 ==
[[寛平]]6年([[894年]])、唐国[[温州]]長官・朱褒の求めに応じる形で、[[宇多天皇]]主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられた{{sfn|石井正敏|2011}}。8月21日、遣唐大使に[[菅原道真]]が任命された。しかし二十日後、道真によって遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」<ref>{{Cite web|和書|url=http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-46601&IMG_SIZE=&IMG_NO=219 |title=請令諸公卿議定遣唐使進止状印本 |work=菅家文草・菅家後集 |accessdate=2015-07-17 }}[http://www.nijl.ac.jp/pages/database/ 国文学資料館]掲載。</ref>が提出された{{sfn|滝川幸司|2019|p=170}}。
道真は、この年5月に唐人によって伝えられた、在唐留学僧[[中瓘]]の書状を基として遣唐使派遣の是非を問うた{{sfn|滝川幸司|2019|p=165}}。奏状の概要は以下のとおりである{{sfn|滝川幸司|2019|p=170}}。
# 中瓘の伝えてくることによれば、唐では内乱が続いており、唐の衰えは甚だしく、既に日本と唐の交流は停止している。
# 過去の記録の伝えることによれば、遣唐使の多くは遭難したり盗賊に遭うなどしていたが、唐に渡ってからは危険が及んだ例はない。しかし、唐が衰えている現状では唐に渡ってからも危うい。
# 中瓘の情報を公卿・諸学者は、よく検討し、派遣の可否を決めて欲しい。
『[[日本紀略]]』には道真の奏状が提出された同年の九月三十日条に「其日、遣唐使を停める」という記事があったため、長らく道真の建議によって遣唐使が「停止」されたと見られていた{{sfn|滝川幸司|2019|p=170}}。しかし[[1990年]]、[[石井正敏]]が『日本紀略』において「其日」が「某日」と同意義で使われていることなどから、この記述に史料性はないとし、この日付で遣唐使が停止されたという事実はないという結論を発表した{{sfn|滝川幸司|2019|p=170-171}}。この結論は研究者によって概ね支持されている{{sfn|滝川幸司|2019|p=171}}。道真ら遣唐使予定者はこれ以降も引き続き遣唐使の職位を帯び{{sfn|石井正敏|2011|pp=.118-124}}、道真が最後に遣唐大使と称された記録は寛平9年([[897年]])5月13日であり、遣唐副使の[[紀長谷雄]]は[[延喜]]元年([[901年]])10月28日に公的文書で使用した例が残っている。また寛平8年([[896年]])には宇多天皇が唐人[[李環]](梨懐)を召して直接話を聞いているが、これは遣唐使派遣のための情報収集とみられている{{sfn|滝川幸司|2019|p=172-173}}。
しかし、国内の災害や唐の衰退、道真・長谷雄の昇進による人事の問題により、遣唐使派遣は遅々として進まなかった{{sfn|滝川幸司|2019|p=173}}。ついに[[延喜]]7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした{{sfn|滝川幸司|2019|p=173}}<ref name=mori2006c>森公章「菅原道真と寛平度の遣唐使計画」(初出:『続日本紀研究』362号(2006年)/所収:森『[[#遣唐使と古代日本の対外政策|遣唐使と古代日本の対外政策]]』) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>{{sfn|石井正敏|2011}}。
== 遣唐使停止後の日本の外交・貿易 ==
遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「[[渡海制]]」と唐や[[宋 (王朝)|宋]]などの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から次回の安置まで10余年の間隔を空ける<ref name=watanabe2009a>渡邊誠「年紀制と中国海商」(『[[#平安時代貿易管理制度史の研究|平安時代貿易管理制度史の研究]]』(原論文:『歴史学研究』856号、2006年)) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref><ref name=watanabe2009b>渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」(『[[#平安時代貿易管理制度史の研究|平安時代貿易管理制度史の研究]]』(原論文:『ヒストリア』217号、2006年)) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>)を定めた「[[年紀制]]」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・[[遣新羅使]]・[[遣渤海使]]など)以外の往来を禁じた各国[[律令法]]の規定<ref group="注釈">ただし、その根拠としては[[衛禁律]]に求める説と[[賊盗律]]の[[謀叛]]に相当するとみる説がある(榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(原論文:1991年)) )。</ref>の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅ではこの規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた<ref group="注釈">養老律令の関市令の国家による交易先買権の規定の存在から民間貿易の存在を前提にしていたという説もあるが、『延喜式』における同令の解釈においても大蔵省や内蔵寮の属官が関与することが前提となっているため、同令の交易の規定は外国からの使節が日本の都にて交易を行う際の規定であり、実際には民間貿易が大宰府などで行われていた『延喜式』の時代になっても制度上は民間貿易は存在しないことになっていたという見方もある(榎本淳一「日本古代貿易管理制度の構造・特質と展開」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P149-152. )。</ref>。同様に「年紀制」もこの仕組を維持するための政策であったと言える<ref name=enomoto1991>榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『[[#唐王朝と古代日本|唐王朝と古代日本]]』(原論文:1991年)) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>。だが、海外への渡海制限は無いという研究もある{{sfn|東野治之|2007|p=178|ps=、資料は、榎本淳一『「小右記」にみる渡海制』}}。
しかし、貴族や寺院を中心とした「[[唐物]]」の流行など中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、[[10世紀]]後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」<ref group="注釈">ただし、実際の受け入れ先となった大宰府における対外業務は外国使節への対応と海外からの帰化に関する職掌しか与えられていなかったため、外国商船の来航については「帰化」の規定を拡大解釈することになった(榎本淳一「日本古代貿易管理制度の構造・特質と展開」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P150-152. )。</ref>が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や[[高麗]]に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかった<ref group="注釈">「年紀制」違反による処分は、滞在中の[[需要と供給#歴史用語としての「供給」|供給(滞在費用)]]支給拒否と朝廷との取引停止の効果しかなく、個々の貴族や寺社・商人との取引までを禁じたものではなかった。このため、「年紀制」制定意図を朝廷による唐物交易と財政支出の抑制とみる考えもある(渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」 {{要ページ番号|date=2016-04-29}})。</ref>ため、唐宋商人は[[大宰府]]に近い[[博多]]に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った<ref group="注釈">唐宋商人の中には来航後、長期にわたって博多の唐坊を拠点に貿易・商業活動を行い、次の年紀到来直前に帰国して「年紀法」に違反しない形で再度来航する者もいた{{要出典|date=2016-04-29}}。</ref>。とは言え、[[摂関期]]・[[院政期]]でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも[[鳥羽天皇|鳥羽]][[院政]]の時代([[12世紀]]中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、[[平忠盛]]のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する[[日宋貿易]]が本格化することになる<ref name=enomoto1991/><ref name=watanabe2009b/>。
また、日本では遣唐使停止以後に独自の文化である[[国風文化]]が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、[[公文書]]も漢文で作成され続けた。また、[[王羲之]]の書や[[白居易]]の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても様々な指摘がされている<ref name=enomoto1997>榎本淳一「〈国風文化〉の成立」(『[[#唐王朝と古代日本|唐王朝と古代日本]]』(原論文:1997年)) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>。こうした風潮は中世の[[武士]]の時代になっても同様であり、一例として[[大鎧]]に代表される武士の豪奢な鎧は、中国大陸から輸入した色糸が必要不可欠であった。
== 復元遣唐使船 ==
[[ファイル:Japanese envoy to Tang Dynasty China ship 2010.jpg|thumb|right|上海万博の復元遣唐使船]]
[[File:Kentoshi Ship in Nara Palace Site Historical Park.jpg|thumb|right|平城宮跡歴史公園の復元遣唐使船]]
遣唐使船は、これまでに数隻が復元されている。
[[1984年]]公開の映画「[[空海 (映画)|空海]]」では、海上撮影のために航行可能な遣唐使船が建造された。
長門の造船歴史館(広島県呉市)において、1989年(平成元年)に復元した遣唐使船が展示されている<ref>{{Cite web |title=長門の造船歴史館 - 呉市ホームページ |url=https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/67/m000161.html |website=www.city.kure.lg.jp |access-date=2023-12-03}}</ref>。
[[2010年]](平成22年)の[[上海国際博覧会]]に際しては、ジャパンデーに合わせて[[財団法人]]の[[角川文化振興財団]](理事長:[[角川歴彦]])の企画「遣唐使船再現プロジェクト」(協賛:[[森ビル]]、[[読売新聞社]]、[[経済産業省]]、[[文化庁]]など)によって全長30m、全幅9.6m、排水量164.7tでエンジン付き遣唐使船(名誉船長:[[夢枕獏]])が復元され、かつての遣唐使と同一の航路で[[大阪港]]から上海に入港した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.recordchina.co.jp/b42848-s0-c70-d0000.html|title=<上海万博>「遣唐使船」が到着、12日のジャパン・デーにお披露目―上海市|publisher=[[Record China]] |date=2010-06-11 |accessdate=2018-01-19}}</ref>。出港式では住吉大社の安全祈願と歌手の[[坂本真綾]]によるプロジェクトのテーマソング『美しい人』(作曲・編曲:[[菅野よう子]])の披露が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.walkerplus.com/article/14515/|title=再現された遣唐使船が中国・上海へ向けて大阪を出港!|publisher=NewsWalker |date=2010-05-08 |accessdate=2018-04-01}}</ref>。プロジェクトの親善大使を務める俳優の[[渡辺謙]]を乗せて会場内を流れる黄浦江を航行している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/06/13/kiji/K20100613Z00002020.html|title=渡辺謙 遣唐使船に乗って上海万博を訪問 |publisher=[[スポニチ]] |date=2010-06-13 |accessdate=2018-01-19}}</ref>。
2010年(平成22年)の[[平城遷都1300年記念事業|平城遷都1300年祭]]に際しても、同年開館の平城京歴史館と合わせて全長約30m、全幅9.6m、排水量300tの遣唐使船が復元された。2016年(平成28年)に平城京歴史館は閉館し遣唐使船の公開も中止されていたが、2018年(平成30年)の平城宮跡歴史公園朱雀門ひろばの開園とともに遣唐使船も改めて公開されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
* {{Cite book |和書 |author=佐伯有清|authorlink=佐伯有清 |title=最後の遣唐使 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] 1847 |date=2007-11 |isbn=978-4-06-159847-8 |ref={{SfnRef|佐伯有清|2007}} }} (旧版は[[講談社現代新書]]、1978年10月、ISBN 978-4-06-145520-7)<!--2006年3月28日 (火) 14:11 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=西嶋定生 |authorlink=西嶋定生 |title=日本歴史の国際環境 |publisher=[[東京大学出版会]] |series=UP選書 235 |date=1985-01 |isbn=978-4130020350 |ref={{SfnRef|西嶋定生|1985}} }}
* {{Cite book |和書 |author=榎本淳一 |title=唐王朝と古代日本 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=2008-07 |isbn=978-4-642-02469-3 |ref=唐王朝と古代日本 }}
* {{Cite book |和書 |author=東野治之|authorlink=東野治之 |title=遣唐使と正倉院 |publisher=[[岩波書店]] |date=1992-07 |isbn=978-4-00-000622-4 |ref=遣唐使と正倉院 }}<!--2006年3月28日 (火) 14:11 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=上田雄 |title=遣唐使全航海 |publisher=[[草思社]] |date=2006-12 |isbn=978-4-7942-1544-4 |ref={{SfnRef|上田雄|2006}} }}
* {{Cite book |和書 |author=東野治之 |title=遣唐使 |publisher=岩波書店 |series=[[岩波新書]] 新赤版 1104 |date=2007-11 |isbn=978-4-00-431104-1 |ref={{SfnRef|東野治之|2007}} }}<!--2008年3月9日 (日) 08:01 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=森公章|authorlink=森公章 |title=遣唐使と古代日本の対外政策 |publisher=吉川弘文館 |date=2008-11 |isbn=978-4-642-02470-9 |ref=遣唐使と古代日本の対外政策 }}<!--2015年7月17日 (金) 06:14 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=大津透|authorlink=大津透 |title= 神話から歴史へ|publisher=講談社 |series=天皇の歴史 01|ISBN 978-4-062924818|ref={{SfnRef|大津透|2017}} }}
* {{Cite book |和書 |author=渡邊誠 |title=平安時代貿易管理制度史の研究 |publisher=[[思文閣出版]] |date=2012-02 |isbn=978-4-7842-1612-3 |ref=平安時代貿易管理制度史の研究 }}
* {{Cite book |和書 |author=石井正敏 |authorlink=石井正敏 |chapter=寛平六年の遣唐使計画 |title=情報の歴史学 |publisher=中央大学出版部 |series=中央大学人文科学研究所研究叢書 52 |date=2011-03 |isbn=978-4-805-74213-6 |ref={{SfnRef|石井正敏|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |editor1-first=正敏|editor1-last=石井|editor2-first=章介|editor2-last=村井|editor2-link=村井章介|editor3-first=泰典|editor3-last=荒野|editor3-link=荒野泰典 |title=律令国家と東アジア |publisher=吉川弘文館 |series=日本の対外関係 2| |date=2011-05 |isbn=978-4-642-01702-2 |ref={{SfnRef|石井正敏他(編)|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=石井正敏 |authorlink=石井正敏 |chapter=|title=遣唐使から巡礼僧へ |publisher=[[勉誠出版]] |series=石井正敏著作集 2 |date=2018-07 |isbn=978-4-585-22202-6 |ref={{SfnRef|石井正敏|2018}} }}
{{参照方法|date=2016年4月29日 (金) 12:45 (UTC)}}
* {{Cite book |和書 |author=[[王勇 (歴史学者)|王勇]]|title=唐から見た遣唐使 - 混血児たちの大唐帝国 |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ 125 |date=1998-03 |isbn=978-4-06-258125-7 |ref= }}<!--2006年3月28日 (火) 14:11 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |editor1=専修大学|editor1-link=専修大学|editor2=西北大学共同プロジェクト |title=遣唐使の見た中国と日本 - 新発見「井真成墓誌」から何がわかるか |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=[[朝日選書]] 780 |date=2005-07 |isbn=978-4-02-259880-6 |ref= }}<!--2006年3月28日 (火) 14:11 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=東野治之 |title=遣唐使船 - 東アジアのなかで |publisher=朝日新聞出版 |series=朝日選書 634 |date=1999-09 |isbn=978-4-02-259734-2 |ref= }}<!--2006年3月28日 (火) 14:11 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=古瀬奈津子 |title=遣唐使の見た中国 |publisher=吉川弘文館 |series=[[歴史文化ライブラリー]] 154 |date=2003-05 |isbn=978-4-642-05554-3 |ref= }}<!--2006年3月28日 (火) 14:11 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=茂在寅男他|authorlink=茂在寅男 |title=遣唐使研究と史料 |publisher=[[学校法人東海大学出版部|東海大学出版会]] |date=1987-04 |isbn=978-4-486-00946-7 |ref= }}<!--2006年3月28日 (火) 14:11 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=曹復 |others=「[[人民中国]]」翻訳部訳 |title=遣唐使が歩いた道 |publisher=[[二玄社]] |date=1999-07 |isbn=978-4-544-05208-4 |ref= }}<!--2006年3月28日 (火) 14:11 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=滝川幸司 |title=菅原道真 学者政治家の栄光と没落 |publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]] |date=2019 |isbn=978-4-12-102559-3 |ref=harv }}
== 関連書籍 ==
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい。
書籍の宣伝はおやめ下さい。-->
* 森公章 『遣唐使の光芒 - 東アジアの歴史の使者』 [[角川学芸出版]]〈角川選書 468〉、2010年4月。ISBN 978-4-04-703468-6。<!--2010年8月17日 (火) 12:37 (UTC)-->
== 関連項目 ==
* [[遣渤海使]]
* [[遣新羅使]]
* [[遣耽羅使]]
* [[日宋貿易]]
* [[遣明使]]
* [[五山文学]]
* [[入唐求法巡礼行記]]
* [[道の駅遣唐使ふるさと館]] - [[長崎県]][[五島市]](旧[[三井楽町]])が南路の寄港地だったことにちなむ。遣唐使関連の展示コーナーがある。
=== 遣唐使を扱った作品 ===
* 映画
** 『[[天平の甍]]』(1980年、[[東宝]]。原作:[[井上靖]]、監督:[[熊井啓]])
* ゲーム
** 『遣唐使の戦い』(1985年、[[翔企画]]。デザイナー:不明)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Japanese expatriates in the Tang Dynasty|Japanese expatriates in the Tang Dynasty<!--唐に滞在した日本人?-->}}
<!--個人サイトのためコメントアウト。
* [http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gaikou.html 天平外交史年表] - 個人サイト「波流能由伎(はるのゆき)」
* [http://www.tetsureki.com/home/library/shiryoukan/kentoushi.html 遣唐使の苦難] - 徹底歴史研究同盟 -->
* [http://kurekiken.web.fc2.com/data/2003/030418.html 遣唐使~その歴史的経緯と役割~] - 京都大学歴史研究会、2003年4月18日
* [http://www.manreki.com/gaiyou/tenjihin/kentoushi.htm 遣唐使船の模型] - [[高岡市]]万葉歴史館<!--2016-04-29-->
* {{PDFLink|[http://env.sc.niigata-u.ac.jp/~uda/past/toyama.pdf 気象学的にみた遣隋使・遣唐使の風]}} - 外山真澄([[新潟大学]])<!--2016-04-29-->
* 『[https://www.uta-net.com/song/107278/ 美しい人]』 - [[歌ネット]]
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唐
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唐(とう、拼音: Táng、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。
西晋の滅亡以来、中国は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが北朝隋の文帝により、589年に再統一が為された。文帝は内政面でも律令の制定・三省六部を頂点とする官制改革・郡を廃止して州県制を導入・科挙制度の創設など多数の改革を行った。
604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広(煬帝)が後を継ぐ。煬帝は大運河・洛陽新城などの大規模土木工事を完成させた。さらに612年から3年連続で高句麗に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる(隋の高句麗遠征)。その最中の613年に起きた楊玄感の反乱をきっかけにして隋全体で反乱が勃発、大小200の勢力が相争う内乱状態となった(隋末唐初)。
国内の混乱が激しくなる中、北の東突厥に面する太原の留守とされていた唐国公李淵は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、すぐに大興城(長安)を陥落させることに成功。煬帝を太上皇帝に祭り上げて、煬帝の孫で大興城の留守である楊侑を傀儡の皇帝に立てた、この時、煬帝は江都(揚州)で現実から逃避して酒色に溺れる生活を送っていたが、長安占拠の報によって煬帝の親衛隊の間に動揺が広がり、618年に宇文化及を頭としたクーデターにより煬帝は弑逆された。
同年、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位。武徳と元号を改め、唐を建国した。この時点で王世充・李密・竇建徳・劉武周など各地に群雄が割拠していた。李淵(以下高祖とする)は長男の李建成を皇太子とし、次男の李世民を尚書令として、各地の群雄討伐に向かわせた。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた。
抜群の功績を挙げた李世民は皇太子である李建成および四男の李元吉と後継の座を巡って対立するようになるが、高祖は曖昧な態度でことを決めることができなかった。626年、李世民は長安宮城の北門玄武門にて李建成と李元吉を殺し(玄武門の変)、さらに父の高祖に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった(太宗)。
帝位を継いだ太宗は626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた朔方郡の梁師都を平定し、統一を果たした。更に630年には突厥の内紛に乗じて李靖・李勣を派遣してこれを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった鉄勒諸部から天可汗(テングリ=カガン)の称号を奉じられた。647年にはこの地に燕然都護府をおいて鉄勒を羈縻支配においた。635年には吐谷渾を破り、更にチベットの吐蕃も支配下に入れた。ただし吐蕃には度々公主を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった。
内政面においては房玄齢・杜如晦の皇子時代からの腹心に加え、李建成に仕えていた魏徴・李密の配下であった李勣など多数の人材を集めて政治に当たった。この結果、627年の時に米一斗が絹一匹と交換されていたのが、630年には米一斗が4・5銭まで下がり、一年間の死刑者数は29人しかおらず、(盗賊がいなくなったので)みな外扉を閉めないようになり、道中で支給があったので数千里を旅する者でも食料をもたないようになったといい、貞観の治と呼ばれる太平の時代とされた。この時代のことを記した『貞観政要』は後世に政治の手本として扱われた。しかし統一から間もないこの時点でそこまで国力を回復できたか疑問が多く、貞観の治の実態に対して史書や『貞観政要』の記述はかなりの潤色が疑われる。
太宗の政治も徐々に弛緩が見えるようになり、643年に魏徴が死ぬとその傾向に拍車がかかった。
642年、高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こし、唐から遼東郡王に冊封されていた栄留王を殺し、その弟の宝蔵王を王位につけた。太宗はすぐに出兵を考えたが、一旦は取りやめる。しかし新羅からの要請を受けて645年から三度(645年、647年、648年)にわたって高句麗遠征を行うが、いずれも失敗した(唐の高句麗遠征)。
三回目の高句麗遠征が終わった後の649年に太宗は崩御。太宗の九男の晋王李治が三代皇帝高宗となった。
太宗と長孫皇后の間には李承乾(長男)・李泰(四男)・李治(九男)の三人の男子がいた。最初に李承乾が皇太子に立てられたが、李承乾は成長するにつれ奇行が目立つようになり、最後には謀反の疑いにより廃された。次いで太宗は学問に通じた李泰を皇太子にしようとしたが、長孫皇后の兄の長孫無忌が凡庸な治を次代皇帝に推薦し、太宗もこれを入れて李治が後継に決まった。長孫無忌には凡庸な皇帝の後見役になることで権勢を振るうという意図があった。
高宗の治世初期は長孫無忌・褚遂良・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた。ここに登場するのが武照、後の武則天である。
武照は太宗の後宮で才人だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って昭儀となった。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った。皇后となった武則天により長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、垂簾の政を行い、武則天は高宗と並んで「二聖」と呼ばれた。
この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる。
683年に高宗が死去すると武則天は高宗との間の子の李顕を帝位につけた(中宗)が、わずか54日でこれを廃し、弟の李旦をこれに替えた(睿宗)。当然実権は武則天にあり、彼らは武則天が皇位に登るまでのつなぎに過ぎなかった。武則天に対する反乱も684年に起きた。李勣の孫の李敬業が起こしたもので、反乱軍の中に初唐を代表する詩人の一人駱賓王がおり、駱賓王が書いた檄文を読んだ武則天はその文才に感心し、「このような才能のある者を流落させているのは宰相の責任だ」といったという。
この反乱も程なく鎮圧され、690年に遂に武則天は帝位に登り、国号を周とした。中国史上唯一の女帝である。睿宗は皇嗣に格下げされて武の性を賜った。
武則天の政治は女性が皇帝になったこと、武承嗣・武三思ら武氏一族、薛懐義や張易之・張昌宗兄弟など武則天の寵愛を受けた者たちなどが権力を握って専横したということ、酷吏を使って密告政治を行ったことなどで評判が悪い。一方で武則天は当時はまだ有効に機能していたなかった科挙から人材を組み上げており、武則天により抜擢された姚崇は後の玄宗時代に活躍し、開元の治を導いたと評される。また武周の15年はほぼ平穏な時代であり、この時代に唐は最大版図を実現している。
老いた武則天の後継者として武承嗣たちは自らが後継になることを画策したが、武則天が最も信頼をおいていた重臣の狄仁傑はこれに強く反対。最終的に武則天の決断により廃されていた中宗が戻り、698年に皇太子に復された。更に705年、狄仁傑に推薦されて宰相となっていた張柬之は張易之・張昌宗兄弟を斬殺し、ついには病床の武則天に迫って彼女を退位に追い込み、中宗を即位させ、唐が復活した。同年に武則天は死去。
武則天死後、中宗の皇后韋氏が第二の武則天にならんと政治に容喙するようになった。710年に韋后とその娘安楽公主は中宗を毒殺、殤帝を傀儡とした後自らが帝位に登らんと画策したが、睿宗の三男の李隆基と武則天の娘の太平公主によるクーデターにより韋后と安楽公主は誅殺され、睿宗が再び即位した。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。
2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼ぶ。
712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年に太平公主を処刑して実権を掌握した。
親政を始めた玄宗は前述の姚崇を抜擢して宰相とした。これに答えて姚崇は「宦官を政治に介入させないこと」「皇帝に親しい臣が不正を行うのをとりしまること」「外戚に政治介入させないこと」などを提言し、玄宗もこれを受け入れて政治に取り組んだ。姚崇のあとを受けた宋璟も姚崇の方針を受け継いで政治改革を進めていった。姚崇と宋璟は貞観の房(玄齢)・杜(如晦)に対して姚・宋と称される。この治世により太宗の時に戸数が300万に満たなかったのが、726年(開元十四年)には戸数は760万あまりとなり、人口も4千万を超えた。穀物価格も低価で、兵士は武器を扱うことがなく、道に物が落ちていても拾う者はいなかったという。この時代を開元の治とよび、唐の極盛期とされる。文化的にも杜甫・李白の漢詩を代表する詩人たちが登場し、最盛期を迎えた。
ただしその裏では唐の根本である律令体制の崩壊が始まっていた。律令体制では民を本籍地で登録し、それを元に租庸調・役(労役・兵役)を課すことになっていた。しかし負担に耐えかねて本籍地から逃亡する民が増えた。これを逃戸と呼ぶ。この現象は武則天時代から問題になっていたが、その後も増え続けていた。これに対しての政策が宇文融によって出された括戸政策である。全国的に逃戸を調査し、逃戸を逃亡先の戸籍に新たに登録し(これを客戸という)、再び国家の支配下に組み入れようとしたものである。721年から724年にかけて行われた結果、80万余りの戸が新たに登録された。
またもう一つの変化が節度使の設置である。上述の理由により兵制である府兵制もまた破綻しており、国防のために睿宗時代の710年に亀茲に安西節度使を設置したのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれていた。
さて宇文融は北周帝室に祖を持つ貴族であり、恩蔭(官僚が自分の子を官僚にする権利)の出身者である。姚崇・宋璟の後、科挙出身者である張説・張九齢らが宰相となったが、次第に政界では貴族出身者が権力を握るようになる。宇文融の他に裴耀卿は大運河の運用を改善して漕運改革を行い、首都長安の食糧事情を大きく改善する功績を挙げた。これらは実務に長けた貴族出身官僚であり、この流れを受けて李林甫が登場する。
李林甫は高祖の祖父の李虎の末裔で、734年から752年に没するまでの19年間宰相の地位にあった。李林甫の政策として租庸などの運搬の際の煩雑な書類を簡素にしたというものがある。実務には長けていたが、「口に蜜あり、腹に剣あり」と呼ばれた性格で、玄宗やその寵妃たち・側近の高力士らに上手く取り入る一方で、自分に対抗する政敵を策謀を持って排除し自らの地位保全に熱心であった。
この姿勢の一環として行われたのが、節度使に異民族を採用するという政策である。節度使のうち、長城の内側の節度使はそれまでは高級文官が就任するのが常であったが、李林甫はこれに異民族出身の蕃将を任命するようにした。節度使が宰相への出世コースになっていたのを潰す意図があったとされる。このことが後の安禄山台頭に繋がったといえる。
玄宗は太子時代の妃であった王氏を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である武恵妃を寵愛し、その子である第十八子の寿王李瑁を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵(後の粛宗)を太子に立てていた。この寿王李瑁の妃の一人であったのが楊貴妃である。
一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は白居易の『長恨歌』に歌われている。その中に「此れ従り君主は早く朝せられず」とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた。
楊貴妃を愛する玄宗はその一族も引き立てた。その中の一人が楊貴妃の又従兄弟の楊国忠である。元は酒と博打で身を持ち崩した一族の鼻つまみものであったが、楊貴妃のおかげで官界に入った後は財務関係の実務で功績を挙げて出世を続け、750年には御史大夫兼京兆尹に、更に752年に李林甫が死去すると遂に宰相となった。
楊国忠と権力を争ったのが安禄山である。安禄山はソグド人の父と突厥の母の間に生まれた雑胡(混血の異民族)であった。范陽節度使の張守珪に史思明と共に登用されてその仮子となって戦功を挙げて、742年に平盧節度使に任じられた。更に744年に范陽節度使・751年に河東節度使を兼任して、その総兵力は18万を超える膨大なものとなった。このような大出世を遂げた要因の一つが玄宗・楊貴妃に取り入ったことにある。安禄山は玄宗からその大きな腹の中には何が詰まっているのかと問われた時に「ただ赤心(忠誠)のみが詰まっています」と答えた、あるいは自ら願って楊貴妃の養児となって錦繍の産着を着て玄宗と楊貴妃を喜ばせたなどというエピソードが残る。
楊国忠と安禄山は対立し、互いに相手を追い落とさんとするが、常に玄宗のそばにいる楊国忠がこの争いでは有利であった。危機感を感じた安禄山は「君側の奸楊国忠を除く」という名分を立てて遂に挙兵した。この反乱は安禄山とその部下史思明の名を取って安史の乱と呼ばれる。
755年の11月に根拠地の幽州(范陽郡)から兵力15万と8千騎を持って出陣した安禄山軍は破竹の勢いで勝ち進み、同年12月には洛陽を陥落させ、翌年の1月1日に皇帝に即位、国号を大燕と称した。更に同年6月には首都長安の東・関中の入り口に当たる潼関を陥落させる。この報に狼狽した唐政府は蜀への避難を決める。避難の途中の馬嵬においてこの事態に怒った兵士たちにより楊国忠が殺され、楊貴妃も自殺させられている。皇太子李亨(李璵から改名している)は途中で玄宗と別行動を取って、朔方節度使郭子儀の元に向かい、兵士を鼓舞するために玄宗の許可無く、皇帝に即位した(粛宗)。
安禄山は757年に子の安慶緒に殺され、その後を継いだ史思明も761年にこれも子の史朝義に殺される。郭子儀率いる軍は回紇の支援を得て757年に長安、762年に洛陽を奪還。翌763年に史朝義が部下に殺され、ここに安史の乱は終結した。
何とか乱を収めた唐であったが、そのダメージは非常に大きかった。防衛体制の緩みをつかれて吐蕃に長安を一時期占領されるという事態が起きている。また反乱軍の将を寝返らせるために節度使の職を持って勧誘した。これが後に河北三鎮と呼ばれ、中央の意向を無視した半独立勢力となり、歴代政府の懸念事項となった。乱により荒れ果てた華北では多数の流民が生じ、755年に890万戸を数えたのが764年には293万戸までに激減している。
逃戸の増大により均田租庸調制・府兵制の両制度は機能しなくなり、周辺民族の活発化により羈縻政策もまた破綻。これらの事態は開元の治以前から進行していたが、安史の乱によりはっきりとこの事態に対する新たな対応策が必要となっていた。これに対するのが律令には存在しない使職という新たな役職である。最初は地方の観察を後に地方の最高行政官となる観察使・税を司る度支使・漕運を司る転運使・専売制を司る塩鉄使などがあり、いずれも非常に重要な役割を果たした。特に758年に開始された塩の専売は大きな利益を上げて、以後の唐の財政に不可欠のものとなった。ゆえに塩鉄使の地位は非常に重要視され、宰相に準ずる職となった。しかし専売に対して密売の私塩が止まず、塩賊と呼ばれる私塩業者が各地で活動した。
前述の節度使も使職の一つであり、安史の乱以後に節度使は観察使を兼職するようになり、それまでの軍事権に加えて行政権も握るようになった。江南では節度使は置かれず観察使が防禦使・経略使などの軍事職を兼任してこちらも軍事・行政を司るようになった。これらを総称して藩鎮と呼ぶ。首都長安と副都洛陽が所属する京兆府と河南府を除き、全国に40-50ほどの藩鎮が置かれた。京兆府と河南府以外の土地は全ていずれかの藩鎮の勢力圏となった。先に挙げた河北三鎮のような中央の意向を無視するような藩鎮を反則藩鎮と呼ぶ(逆に従順な藩鎮を順地という)。これら反則藩鎮は領内において勝手に税を取り立て、さらに中央に納めるべき上供も怠ることが多かった。
また逃戸・客戸の増大により租庸調の収入は激減し、それを埋めるために青苗銭・戸税などの税が徴収されるようになる。農民の負担はますます重くなり、農民の没落・逃戸の増大に繋がるという悪循環に陥っていた。これら複雑化した税制を一本化したものが780年に宰相の楊炎の権限によって実施された両税法である。両税法では夏税(6月納期)としてムギ・秋税(11月納期)にアワ・コメを税として取り立て、それ以外の税を禁止した。藩鎮・地方官が勝手な名目で税を取り立てることを防ぐ意味もあった。そして均田租庸調が民一人一人を対象とするのに対して、戸を対象とし、その資産を計って税額を決める、銅銭での納税が原則とされた。
両税法の実施により唐は均田制を自ら否定したことになり、それまで規制していた大土地所有を事実上公認したことになる。この後は荘園が拡大していくことになる。
770年ごろになると安史軍から投降して節度使になった李懐仙・薛嵩・田承嗣らが相次いで死去する。藩鎮側は節度使の世襲を望んだが、唐政府は新任の節度使の赴任と藩鎮の兵力削減を言い渡した。両税法が実施されたことを切っ掛けに、781年に河北三鎮(盧龍・天雄・成徳)を中心に7の藩鎮が唐に対して反乱を起こした。反乱軍により長安を落とされ、時の皇帝徳宗は梁州に避難した。のちに長安は回復するものの藩鎮の罪を問うことはできず、赦免せざるを得なかった。
805年に新たに即位した憲宗はこの事態に断固たる態度で臨んだ。両税法の実施により財政に余裕ができたことで禁軍である神策軍を大幅に強化し、兵力15万を数えるまでになった。この兵力を元に806年から次々と藩鎮を征伐し、819年から821年にかけて河北三鎮を順地化することに成功した。
これと並行して、それまで藩鎮内の属州の兵力を全て節度使が指揮していたのものを属州の兵は属州の刺史が統括するものとした。また属州の税収は州県の取り分(留県・留州)を取った後は節度使の費用を取った(留使)後に中央へと送られていた(上供)ものを県から直接上供することにした。これらの政策により節度使の持つ兵力・財力は大幅に削減されることになる。更に節度使には中央から派遣した官僚を就けることとし、その任期も3年ほどと短くした。また節度使の監察を行うために宦官を監軍として付けることにした。
このようにして憲宗は藩鎮の抑圧・中央集権の回復に成功した。これにより憲宗は中興の英主と讃えられる。
この頃になると科挙、特に進士科出身の官僚は官界での勢力を拡大し、旧来の貴族勢力と拮抗するまでになった。また貴族の子弟たちの中でも任子ではなく、科挙受験の道を選ぶ者も増えていた。科挙出身者はその年の試験の責任者と受験者たちの間で座主門生と称する縦の、同期の合格者同士で横の、それぞれ人間関係を構築していた。この関係性を元に官界でも派閥が作られるようになる。
この延長線上に起きたのが牛李の党争である。牛僧孺・李宗閔ら進士出身の党と李徳裕の貴族層の党が820年から以後40年に渡って政界で激しく争い、負けた方の派閥の人間は全て失脚して左遷・争いが逆転すると同じことをやり返すという状態になる。このことを文宗(第17代皇帝、穆宗の2代後)は「河北の賊を去るのは難しくないが、朋党の争いを収めるのは難しい」と嘆いた。
文宗の頭を悩ませたもう一つの問題が宦官である。藩鎮討伐に使われた神策軍の司令官は宦官が就くことになっており、宦官はこれにより大きな軍事力を握ることになった。また藩鎮に付けられた監軍はこれも宦官が務めたが、文官の節度使は任期が終わる際に勤務実績を良く報告してもらうために監軍に賄賂を送るようになった。これにより中央官僚の人事にも権限を持つようになった宦官は、遂には皇帝の廃立すら決めるようになった。第12代穆宗から第19代昭宗までの間で第13代敬宗を除く7人は全て宦官に擁立されたものである。先述の党争においても宦官の権力を利用して政敵を排除している。
文宗は宦官排除を目論んで計画を立てる。それは宮中に甘露が降ったという嘘を上奏させ、宦官たちが集まったところで一気に誅滅してしまおうという計画であった。しかし直前で計画が宦官側に露見して失敗。文宗の立場はますます弱いものとなり、「朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いた(甘露の変)。
文宗を継いだ弟の武宗は道教を崇拝すること厚く、道教側の要請もあり、廃仏(会昌の廃仏)を行った。まず845年から始まった廃仏により、還俗させられた僧尼が26万人余り・廃棄寺院4600・仏具や仏像は鋳潰されて銅銭などになった。寺院は長安・洛陽に4、各州に1とし、それぞれに30から50の僧侶が所属するのみとした。これによって仏教界は大打撃を受けた。後世に三武一宗の廃仏と言われるうちの3番目である。この廃仏は単に道教に傾倒した武宗と道教側の策謀によるものだけではない。同時期に祆教・摩尼教・景教(唐代三夷教)も弾圧されているように、唐の国際性が薄れて一種の民族主義的なものが前面に出てきたことにもよる。
846年に武宗が死去し、後を継いだ宣宗により廃仏は終わった。
牛李の党争が終わった10年ほどの後の858年に張潜という官僚が藩鎮で行われていた羨余という行為について非難する上奏文を出した。羨余とは藩鎮が税を徴収した後、藩鎮の費用と上供分を除いて余った分のことを指し、それを倉庫にためた後に進奉といって正規の上供分とは別に中央に送った。この行為を政府は盛んに奨励し、進奉の額が節度使の勤務評価の基準ともなっていた。その出所はといえば民からの苛斂誅求に他ならず、民を大いに苦しめることとなった。これに対しての批判が先に挙げた張潜であるが、増大する経費を賄うには政府は進奉に頼らざるを得なくなっていた。
また民を搾り取るだけでは足らず、兵士の人員の削減・給料のピンハネなども行われた。このような節度使に対して兵士たちは不満を抱き、節度使・観察使を追い出す兵乱が続発する。これら兵乱に刺激を受けて起きたのが裘甫の乱である。
859年にわずか100人を率いて蜂起した裘甫は浙東藩鎮の海岸部象山県次いで剡県を攻略、近くの海賊や盗賊・無頼の徒を集め、3万という大軍に膨れ上がった。その後浙東を転戦したが、政府は安南討伐に功を挙げた王式を派遣し、ウイグルや吐蕃の精兵も投入し、翌860年に鎮圧した。続けて868年、南詔に対する防衛のために桂州に山東で集められた兵士の部隊が派遣されていたが、いつまでたっても交代の兵は来ず、前述のような給料のピンハネもあり、不満を爆発させて龐勛を指導者として反乱を起こした(龐勛の乱)。龐勛軍はまず故郷である山東の徐州へと帰還し、失職兵士や没落農民、各種の賊を入れて一気に大勢力となった。さらにこの乱の特徴として貧農ばかりではなく地主層もこの乱に参加したことが挙げられる。ここにいたってこの乱は当初の兵乱から農民反乱の様相を呈することとなった。しかし雑多な寄せ集めの軍ゆえに内部の統制が取れなくなり、また龐勛の方針も、唐に対して節度使の職を求めたりなど一定しなかった。のでますます内部が乱れた。これに対して唐は7万の軍と突厥沙陀族の精兵騎兵3000を投入し、869年にこれを鎮圧した。
裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である黄巣の乱である。870年くらいから唐には旱魃・蝗害などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝僖宗に出した被害報告が「イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった。
このような状態に対して874年(あるいは875年)に濮州の塩賊の王仙芝が滑州で挙兵、これに同じく曹州の塩賊の黄巣が呼応したことで「黄巣の乱」が始まった。(詳細は「黄巣の乱」を参照)
この反乱集団には非常に雑多な人種が参加した。没落農民・失業兵士・塩賊・茶賊・大道芸人などなど。これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した。唐政府はこれに対して王仙芝に禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため黄巣は強く反対。これを機に黄巣と王仙芝は別行動を取ることになった。
878年、王仙芝は唐軍の前に敗死した。黄巣軍は江南・広州に入って唐に対して節度使の職を要求するが、唐はこれを却下した。怒った黄巣は広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った。
しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした。
880年、黄巣軍は洛陽南の汝州に入り、ここで黄巣は自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに黄巣軍は長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を「大斉」とし、金統と改元した。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。
882年、黄巣軍の同州防御使であった朱温(後の朱全忠)は黄巣軍に見切りを付け、黄巣を裏切り、唐の官軍に投降した。さらに突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加した。
883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗した。その後、黄巣は河南へと逃げるが李克用の追撃を受けて884年に自殺した。こうして、「黄巣の乱」は終結した。
黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることでその権威を借りて号令する目論見があった。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使李茂貞を滅ぼして皇帝昭宗を自らの根拠地である汴州に近い洛陽へと連れ出した。
そして907年。朱全忠は唐の最後の皇帝哀帝から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を「梁」(後世からは後梁と呼ばれる)とした。ここに300年近くに渡った唐王朝の歴史は終わりを告げた。しかしこの時点で後梁の支配地域は河南や山東などごく一部の領域に過ぎず、これから宋が再び統一するまでの約70年間、五代十国時代と呼ばれる分裂時代となる。
律令は、西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝の時に「開皇律令」が編纂されていた。唐もそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた。律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。
後述する官制・府兵制・均田制なども全て律令の規定するところである。
唐の律令は何度か改変され、玄宗の開元二十五年(737年)に完成を見る。この律令は開元二十五年律令と呼ばれ、後世に唐代律令の典範とされた。しかしこの時点で既に現実社会と律令体制の間に乖離が生じおり、この間を埋めるのが皇帝の意思たる詔勅およびそこから法となった格が重要視されるようになる。唐代においてはあくまで皇帝の意思が律令に優先するが、あくまで律令が根本であり、皇帝であっても恣意的に律令を覆すことは批判の対象であった。これが隋唐の律令支配の特徴とされる。
安史の乱を契機として唐の律令体制は急速にその力を失い、現実社会に対応するために律令に無い両税法・使職などの制度が設けられることになる。
唐の官僚は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられており、ここまでを「流内官」と呼び、この下を「流外官」という。
これら官僚に付与される肩書には散官・職事官・勲官・爵の四種類がある。この内、職事官が実際の職務を表すものであり、散官は実務を伴わずその人物がどの品階にいるかということを示すものである。散官の官品と職事官の官品とは一致するのが原則であったが、散官よりも官品の高い職事官に就く場合は職事官の職名の頭に「守」の字、逆の場合は「行」の字を付けて区別されていた。
勲官は軍功によって付与される恩典で、爵は皇族や高い功績を挙げた功臣に与えられるものである。
これら官人に与えられる特権として、九品以上の流内官は本人の課役が免除され、五品以上は同居親族の課役が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた。また罪を犯した場合であっても最も重い死刑でなければ銅を納めることで免れることができた。
官人になるためには、前述の「蔭」で任用されるか、あるいは科挙に合格することが必要となる。しかし当時はまだ科挙出身者は蔭出身者に対して大きな不利を背負わされていた。
律令制下の官制は三省を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令であるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった。
これら六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定された。後に皇帝の命によって新たに参与朝政・同中書門下三品などの肩書で参加する例が増え、逆に僕射が宰相会議のメンバーから外れた。この宰相会議は最初門下省内の聖事堂で行われていたが、後に中書省に移り、中書門下と改称した。
尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。
また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった。
8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するために律令で規定されない新たな官職が設けられるようになった。これらの新たな官を使職という。主なものに州の監察を行う観察使、専売制を司る塩鉄使、税および出納を司る度支使・物資の運送を司る転運使などがある。
度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。
またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった。これら翰林学士はいわば皇帝の秘書官であり。宰相に継ぐ大きな権限を持つことになる。
唐では隋から引き継いで州県制を採った。州の下に数県が所属し、州は全国で約350、県は全国でおよそ1550あった。特別な州として府があり、唐初には首都長安・副都洛陽が所属する京兆府と河南府、唐の故地である太原府があったが、安史の乱以降は徐々に増やされて唐末には10あった。また重要拠点に置かれる州を都督府と呼び、長官は都督。規模によって大中小の三等に分けられる。通常の州の長官は刺史であり、戸数によってこちらも上中下の三等に分けられる。州の下に県があり、こちらも戸数によって上・中・中下・下の四等に分けられる。また府に属する県のうち城内にある県は京、城外にある県は畿と呼ばれた。
県の下の行政単位が、郷と里(郷里制)である。100戸をまとめて里として里正を起き、5里をまとめて郷とする(郷正は一時期を除いて置かれなかった)。里正は里の者から選ばれ、戸籍の作成・勧農・里内の不正の監視・労役の割付などにあたった。また都市には坊ごとに坊正が置かれ、聚落には100戸ごとに村正が置かれた(100戸以下の場合は一人、以上なら複数となる)。
更に州の上に道があり、太宗の時に全国を10の道に分けた。元々、道はその下にある州県の行政を観察するために設けられた単位であり、観風俗使・宣労使などの名前を持った臨時の役職が派遣されていた。武后期に各道ごとに按察使などの役職が監察に当たり、玄宗期の711年には按察使の職を州の長官たる刺史等が兼任するようになる。更に玄宗の734年に15道に再編成した。それに伴って各道の刺史の中から一人を選んで採訪処置使としてそれぞれの道の治所に駐在させた。ここに至って道は州の上の行政単位となった
採訪処置使が後の安史の乱後に観察処置使(略して観察使)と名を変えて、節度使や防御使などの軍事職と観察使を兼任することで藩鎮となる。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える。ただし観察使の職掌範囲(=藩鎮の勢力範囲)は数州くらいと15道よりも狭く、藩道と呼んで区別する。村落の方でも里正・村正などの政府によって置かれた役人の力は衰え、代わって村の有力地主層が村長・村耆などの名前で村の行政を司るようになった。
均田制は全国の丁男(21歳から59歳までの男性)及び中男(18歳以上の男性)一人につき、永業田が20畝・口分田が80畝まで支給される。永業田は世襲が認められる田地で、クワ・ナツメ・ニレを植えることが義務付けられる。口分田は穀物を育てる田地で60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない。なお人口に対して田地が少なく十分な給付が出来ない土地(これを狭郷と呼び、対して普通の所を寛郷と呼ぶ)では規定の半額が支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。
これに対して、農民は租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両(または布2.5丈と麻3斤)を収める。年間20日の労役の義務があり、これを免除して貰うために納める税を庸と呼び、労役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。これに加えて雑徭という臨時的に徴される力役がある(雑徭に関しては諸説あり、ここでは詳細は省く)。府兵制は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す(#兵制で後述)。
以上が理念的な均田制であるが、給付・返還の実態については諸説ある所であり、かつては均田制は土地所有の制限を定めたものであり、土地の返還は行われていなかったとする見解もあった。しかし新史料の発見により、少なくとも部分的には給付・返還が行われていたと考えられている。
男丁を基準に給付と課税が行われるのであるからその運用には戸内の男丁の数を把握する戸籍が必要である。唐では戸籍が三年に一回作られ、戸の資産ごとに上上・、中、上下、中上...、下下と分ける九等(戸等制)に分けられた。ただし戸等によって租庸調の額は変化せず、役や受田の順番などによって負担の均一が図られた。
しかし武則天期から天災や異民族の侵入、あるいは大土地所有者の増加などにより本籍地から逃亡する民(逃戸)が増え始めた。逃戸が逃亡先で定住したものを客戸と呼ぶ。逃戸が増えるとその分の税収が減ることになる。玄宗期には更にこの傾向は進み、何らかの対策が必要とされた。その一つが宇文融の発案で行なった括戸政策である。客戸を逃亡先の土地で戸籍に登録するこの政策により八十余万戸が新たに登録されたという。
しかし大土地所有の進行・村落での階層分化などの社会変化傾向は変わらず、更に安史の乱終結後に各地に配された藩鎮勢力は租庸調とは別の税を勝手に取り立てて自分たちの収入としていた。もはやここに至って均田制・租調役制は完全に行き詰まったといえる。
780年、宰相楊炎により租庸調に変わる新たな税制両税法が上申された。両税法の主な特徴は以下の通り。
両税法の施行は均田制下での土地所有制限を自ら否定したに等しく、これ以降の唐では大土地所有が更に加速することになる。ただし形式的には唐滅亡まで均田制・租庸調制は続いた。
両税法より前の758年に塩の専売制を実施した。専売の統括をする役職が塩鉄使である。基本的に中国では塩の産地が少なく、産地を集中的に監視下に置きやすいという環境があった。産地の種類によって海塩・池塩・井塩・土塩に分けられる。それぞれ海水の塩・塩湖の塩・塩分が多い地下水の塩・塩分が多い土を精製した塩である。各地の塩産地には製塩業者が集められて登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。
専売制によってかけられる税は莫大で、専売制実施前に1斗が銭10文であったのが実施後には110文になり、更に値上げされて唐を通じて250文から300文、もっとも高い時で370文にもなった。そのため貧しくて塩が買えず淡色という味気ない食事しか出来ない者もいたという。
このような高額の官塩に対して私塩と呼ばれる密売塩が出回ることになる。塩製造には厳しい監視が付けられており、私塩の出所は官塩からの横流しが大半を占めていた。私塩に対して唐は厳しい取り締まりを行なったが、私塩業者の方も対抗して武装し、内部での結束を高めるために宗教的な掟を定めるなどしていた。これが後の中国の秘密結社のルーツとなったとされる。このような私塩集団を塩賊と呼び、唐を実質的に滅ぼした黄巣らもまた塩賊出身であった。
また茶葉にもはじめの793年に価格の10分の1、821年に増額して5割、835年に更に増税される。と塩に比べればまだ安いものの高額な税がかけられ、塩と同じように茶賊と呼ばれる集団が活動した。
商工業に対して、関所などの通行税や市に登録した商人に対する市租などを取っていた。両税法では店構えや家屋などを元に算出した資産額によって課税し、行商人に対しては運搬する商品の30分の1の額を取った(翌年に10分の1に増額。)。
唐初の兵制は隋から引き継いだ府兵制である。府兵制では全国に折衝府という組織を置く。折衝府には地域の農民が登録され、租庸調を免除される代わりに兵役の義務を負う。
府兵の兵役の内容は主に、衛士と呼ばれる首都勤務と、防人と呼ばれる国境警備があった。衛士は府兵は5ヶ月に1回、京師に1ヶ月番上する。辺境には鎮・戍という防衛組織があり、府兵は生涯のうちに一度、3年間を防人として努めなければならなかった。また京師の番上や国境警備に出ていない場合に州県へと番上して警備や様々な色役を行った。またそれ以外の時に年三度の訓練を行った。なお衛士・防人共に武器・防具及び駐在中の食料などは全て府兵自身の負担であった。
折衝府は全国に約600が存在しており、そのうちの400程が長安・洛陽周辺に集中していた。所属する兵員によって上中下があり、元は上が1000・中が800・下が600であったが、後の武則天の時に増員されて上が1200・中が1000・下が800となっている。600×1000=60万が唐の常備兵力ということになる。60万の内、10万が衛士・10万が防人に使われており、遠征等に動かせる兵力は40万以下であった。国外遠征などでより兵が必要な場合は臨時の徴兵が行われる。これは兵募と呼ばれるが強制的なもので、折衝府がある無しに関係なく行われた。ただし府兵が全て自弁であったのに対して、兵募の諸物資は官給であった。
しかし衛士・防人共にその負担は非常に重いものがあり、兵役拒否などにより府兵制は早期に立ち行かなくなった。首都防衛については北衙禁軍、辺境防衛についても737年に辺境の軍鎮に長期にわたって駐屯する長征健児制が出来る。これらの兵士には国から衣食住が支給され、家族と共に住む場合には田宅も支給された。また従来の鎮戍にも府兵ではなく兵募が務めるようになった。これを丁防・防丁と呼ぶ。
このような変化により、有名無実の存在となった折衝府は749年に廃止され、府兵制は消滅した。
唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は長安城内に駐屯し、ここに務める兵力は府兵が担いこれを衛士といった。長安には府兵が属する組織として十二衛府六率府があり、十二衛(左右衛・左右驍衛・左右威衛・左右両軍衛)は各4-50の折衝府を管理し、皇帝の儀仗や宿衛、皇族や各官庁の警護にあたった。六率府(左右衛率府・左右司禦率府・左右清道率府)には各3-6の折衝府を管理し、皇太子の宿衛儀仗にあたった。南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、京師周辺の下等戸から優先して徴兵する彍騎制を行って兵力を確保しようとしたが、こちらも早期に頓挫。京師警備の任務も北衙禁軍が担うこととなった。
北衙禁軍は、高祖のときの元従禁軍を元とし、太宗の638年(貞観十二年)に老齢化した彼らに代わって二等戸以上から選抜して飛騎と呼んで皇帝親衛軍とし、更に飛騎の中から選抜して百騎とした。飛騎の駐屯地は長安宮城北の玄武門の左右にあったので北衙と呼ばれる。この時点での北衙の兵力は南衙に比べれば微々たるものであったが、高宗の662年(龍朔二年)に左右羽林軍として独立した軍となる。更に百騎が689年に千騎・705年に万騎と改称されてその都度増員され、玄宗の738年(開元二重六年)に万騎が左右龍武軍として独立、北衙は四軍となった。
安史の乱の際に、本来の北衙禁軍である羽林軍は壊滅しており、これに代わって禁軍の中核となったのが神策軍である。憲宗のときにこの神策軍を大幅に拡充して15万を数えるようになり、この兵力を基に反則藩鎮の順地化に成功した(#藩鎮との攻防で先述)。しかしこの神策軍の拡充の費用に当てられたのが先述の羨余であり、民衆を大いに苦しめることとなった。
唐初では辺境防衛には、先述した「鎮」や「戍」という拠点が置かれ、ここに府兵が防人として配置され、都護府が統括した。鎮に配置された兵は500人以下、戍には50人以下であり、鎮戍は太宗時代は千ほど置かれ、総兵力は10万人程度であった。羈縻政策が破綻するにつれ、鎮戍制では対応が不可能となり、異民族の攻撃によって境界線は後退した。そのため、高宗時代頃から、鎮戍とは別に軍鎮という新たな軍組織が置かれるようになる。こちらも最初は都護府の管轄に置かれていたが、後に節度使がこの役割を担うようになる。710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた。
また地方の治安維持として団錬兵・団結兵と呼ばれる新しい兵種が生まれる。元は武則天時代に設置された武騎団という組織が始まりで、契丹の反乱に対処するためのものだった。これが玄宗期に団練兵と呼ばれるようになる。団練兵の兵員はその地方の農民が徴兵されるもので、彼らは普段は農業に従事し、農閑期には訓練を施された。団錬兵の指揮官として団錬使という使職が設けられたが、後に州刺史がこれを兼任するようになる。また、都市には城謗という徴兵による治安維持の兵が置かれた。
安史の乱後は長安・洛陽周辺部を除いた地方はほぼ全てが節度使率いる藩鎮の支配下に入ることとなる。その組織構造については#藩鎮を参照。
初唐に権力を握ったのは皇室の李氏を含め関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴貴族集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。関隴集団は武川鎮軍閥とも呼ばれ、北周以来の支配者集団が貴族化したものである。
関隴集団以外の貴族として漢以来の長い伝統を持つ山東貴族があり、影響力には乏しいが社会的な名望は関隴系よりも上だった。太宗は貴族を九等に格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、はじめ山東貴族の崔氏が第一等、皇室の李氏が第三等とされていた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、皇室の李氏を第一等・外戚の長孫氏や独孤氏などを第二等、崔氏を三等とした。
五品以上の官品を持つ者(ないし皇族・姻戚)にはその子弟が無条件で官品を得られる権利があった。これを資蔭といい、これによって官僚になった者を任子と呼ぶ。例えば最高の一品官の子であれば正七品上が与えられる。一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、科挙では最高でも正八品上から任官することになり、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。更に試験に合格したとしてもすぐに任官できるわけではなく、尚書吏部で行われる身・言・書・判という人物審査に合格して初めて任官することが出来た。この人物審査は貴族的な立ち居振る舞いを求める物であり、科挙の制度の中に貴族の既得権益を守る意図があった。
武則天は権力奪取の過程において長孫無忌などの関隴貴族および伝統的な門閥貴族と対立し、これに対抗するために科挙官僚を優遇して積極的に引き上げた。後の玄宗治世の前半に科挙官僚が中心になって開元の治を導いた。玄宗後半になると関隴系が息を吹きかえし、再び政治上の主導権を握るようになった。その代表と言えるのが活戸政策を主導した宇文融であり、その後に19年の長きにわたって宰相の地位にあった李林甫である。李林甫によって関隴系の優位は確固たるものとなる。
安史の乱の後になると科挙合格者に対する社会的声望が高まり、任子の資格を持つものであっても科挙を受けるものが出てくる。9世紀に入ることになると科挙官僚の勢力は貴族勢力と伍するほどになっていた。
そのような中で起きたのが牛李の党争である。任子出身の李徳裕と科挙出身の牛僧孺・李宗閔の両派閥が鋭く対立した(この党争の捉え方に対して種々の意見・議論がある。その内容については牛李の党争の項目を参照)。
その後の乱の続発・藩鎮勢力の復権などの情勢の変化の中で貴族の勢力は大きく衰退し、五代から宋に至る中で貴族勢力は完全に滅びたと考えられる。そして宋では科挙に合格して官僚資格を得た新興地主層が士大夫と呼ばれる新たな支配者集団を形成することとなる。
府兵制が逃戸の増大・兵役拒否などによって立ち行かなくなったことにより、それまでの徴兵制から募兵制に変更せざるを得なくなった。またそれ以前から周辺民族の活動が活発化し、辺境防衛の強化が求められていた。
この頃の地方防衛では軍・城・守捉・鎮と呼ばれる軍事組織を各地に配置していた。これらをまとめて軍鎮と呼ぶ。軍鎮の長官を軍使といい、軍鎮1つあたり平均して1万、総兵力60万と号していた。これら軍鎮の統括は当初は都護府が行っていたが、後にこれをまとめるために置かれたのが藩鎮であり、その長が節度使である。
710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた。この10の節度使の総兵力は49万・軍馬数は7-8万となりとなり、唐の中央軍の兵力を大きく上回っていた。この10の節度使のうち、安西(亀茲)・北庭(庭州)・平盧(営州)の3つが万里の長城の外にある長城外節度使であり、他7つが長城内節度使である。長城外節度使には軍人や蕃将(異民族の将軍)が任命され、長城内節度使にはもっぱら高級文官が就いた。長城内節度使は宰相へのエリートコースとされ、玄宗即位から李林甫登場までの25人の宰相の内、節度使から宰相になった者が14人いる。李林甫がこのコースを潰すために長城内節度使にも軍人・蕃将を任命するようにし、それが安禄山の出世・さらに結果として安史の乱に繋がることになる。
安史の乱を平定するに当たり、それまで設置していなかった内地にも藩鎮を設置するようになる。また安史軍の幹部であった李宝臣・李懐仙・田承嗣の三人をそれぞれ成徳軍・盧龍軍・天雄軍の節度使に封じることで懐柔し、乱を収めた。こうして9世紀半ばには全国に4-50の藩鎮が置かれ、長安・洛陽の二都が所属する京兆府・河南府を除くすべての地域がいずれかの藩鎮の支配地域となった。
藩鎮はそれまでは軍権だけを持つものであったが、乱後は観察使を兼任することで行政権も握るようになる。江南地域では節度使は置かれず、観察使が防御使などの軍事職を兼任することでこちらも行政・軍事権を握った。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える。
藩鎮の内、唐政府に対して反抗的な藩鎮を反則(藩鎮、の地)、対して比較的従順な藩鎮を順地と呼んだ。先に挙げた成徳・盧龍・天雄の3者が反則の典型で、これを河北三鎮と呼ぶ。反則藩鎮では政府に収めるべき上供も送られないことが多く、領内での徴税・官吏や兵士の任命などを勝手に行い、半独立した状態となった。
藩鎮の領内の内、節度使の府(幕府)である使府が置かれている州を使府州(または会府)といい、節度使自身がこの州の長官たる刺史を兼ねる。そしてここに常駐している軍を牙軍・牙中軍といい、藩鎮兵力の中核をなす。また領内の要所に軍鎮が配置されて守備にあたる。これを外鎮軍・牙外軍という。藩鎮は平均して5-6州をその領内に持つが、使府州以外の州は巡属州(または支郡)などと呼ばれ、それぞれの州刺史が防御使などの軍事職を兼任して州ごとに軍を持って治安維持に当たる。これらの兵士は全て傭兵であり、官費で養われる。またこれらとは別に家兵などと呼ばれる節度使の私軍を抱えることが多い。これら家兵は節度使と仮父子関係を結ぶことで個人的紐帯を強くした。
藩鎮の中核を為す支配機関が使院と呼ばれる機関で、ここに所属する官を幕職官という。この幕職官は辟召により、藩鎮が独自に任命し、中央はそれを後で追認するだけであった。この幕職官の主な供給源となったのが科挙落第者である。科挙に合格することは非常に困難であり、毎年数百人の落第者が生まれていた。落第者とはいえ知識人であり、有用な人材である彼らを辟召によって藩鎮が吸収していった。
このような構造を持つ藩鎮だが、その長たる藩帥(節度使・観察使)の地位は必ずしも安定したものではなかった。牙軍の兵士は自らの待遇問題に敏感で、これが十分ではない場合は不満を抱いて兵乱を起こすこともあった。最悪の場合は藩帥を追放・殺害してすげ替えるといった事態に発展する。前述の家兵も、反抗的な牙軍に対して自衛のために個人的忠誠心の強い部隊が必要とされたものである。
820年に即位した憲宗は各反則藩鎮を武力で討伐してこれらを順地とすることに成功した。これと並行して順属州の兵権と税収を節度使から取り上げ、さらに節度使を中央から派遣される高級文官が就くこととし、任期も数年で交代するようにした。これにより藩鎮の勢力は大幅に減少し、唐はある程度中央集権を回復することに成功した。ただし河北三鎮は一旦順地化した後に再び反則となった。
黄巣の乱が起きると乱の中で成り上がってきた朱全忠・李克用らが節度使の職を帯びて、藩鎮勢力が再び形成される。しかしこの唐末の藩鎮とかつての反則藩鎮とは決定的に違う部分がある。反則藩鎮は財政基盤が弱く、大量の兵士を養うためには中央からの官費が不可欠であって、唐に対して反抗的ではあっても唐と分離して存続できない存在であった。これに対して黄巣の乱後の唐は一地方政権に堕しており、藩鎮は完全に自立した存在となった。
藩鎮間の抗争と統合が行われ、唐も907年に滅ぼされる。この後の五代政権の創業者はほとんどが節度使から皇帝となっており、五代政権自体が唐の藩鎮の性格を色濃く受け継いだものと言える。
唐は歴代王朝の中でも後漢・明と並んで宦官悪の顕著な時代とされている。
六省の一つ内侍省が後宮の管理を行う部署である。長官は内侍監(正三品)。
唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の高力士である。高力士は皇太子時代から玄宗に仕え、太平公主討伐などに功績を挙げて、玄宗の信頼を勝ち取るに至った。玄宗が皇太子を立てる際に高力士は忠王李璵(後の粛宗)を推薦し、玄宗はこの意見に従っている。このように玄宗からの信頼は非常に厚いものがあったが、玄宗退位後に粛宗を補佐して権勢を握ったこれも宦官の李輔国から誣告を受けて失脚している。
高力士までは宦官はあくまで皇帝の影の存在だったが、先に挙げた李輔国のころから宦官が表舞台に現れてくるようになる。さらに代宗のときの程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭以後、宦官の存在は唐の中で大きな位置を占めるようになる。安史の乱により唐の南北禁軍(中央軍を参照)は壊滅しており、これに代わって神策軍を代表とする北衙禁軍が再構成される。神策軍の司令官には代々宦官が任じられることになり、宦官勢力が大きな兵力を握ることとなった。この北衙禁軍により唐は藩鎮勢力の討伐に成功し、このことで宦官の勢力は増大する。さらに藩鎮に対して宦官が監軍として監察に当たるようになり、また新たに設置された枢密使が宦官の任命されて皇帝と宰相との連絡役とされるなど、もはや宦官は宮中の中だけの存在ではなくなった。
ここに至って宦官は皇帝の廃立すら決めるようになった。12代穆宗から19代昭宗までの8人の皇帝のうち宦官に擁立されなかったのは13代敬宗だけであり、その敬宗も在位2年で宦官に殺されている。皇帝を擁立した宦官は定策国老と呼ばれ、擁立された皇帝は門生天子(皇帝を科挙の受験者に見立てている)とまで呼ばれた。この状態に対して14代文宗は宦官を誅滅しようとし、宰相李訓・鳳翔節度使の鄭注と共に宦官殺害の策を練る。835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし直前に情報が宦官側に漏れて計画は失敗、李訓らは殺される。これを甘露の変と呼ぶ。
強大な権力を持つ宦官に対して、官僚側も接近し、牛李の党争の際には双方の党が宦官の力を借りて政敵を追い落としている。
このように権勢を振るった宦官であったが、その権勢の源はあくまで皇帝にあり、皇帝と離れては権勢を保ち得ない存在であった。黄巣の乱の後、唐が大幅にその力を減じ、一地方政権となった後でも官僚・宦官等による宮廷内での権力争いは続けられていたが、それも藩鎮軍閥勢力による代理戦争に過ぎず、現実になんら影響を及ぼすものではなかった。
903年、朱全忠は宮中にて数百人の宦官を皆殺しにした。中央における有利を確立した朱全忠にとってはもはや宦官に利用価値は残っていなかった。そして4年後の907年に唐自体が滅亡することとなる。
※唐代の単位については以下の通り。1頃=100畝≒5.22アール。10斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=42.5 - 40g。
#均田制および#地方制度で先述したように、唐代の農民は丁男(21歳から59歳までの男性)と中男(18歳以上の男性)一人に永業田が20畝・口分田が80畝まで支給される。永業田は世襲が認められ、口分田は60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない。これに対して租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両(または布2.5丈と麻3斤)を納め、年間20日の労役の義務を負う。永業田はクワ・ニレ・ナツメなどの果樹を植えるための土地であり、口分田で穀物を育てる。唐初の主力穀物はアワであり、租として納めるのがアワなのもそれ故である。これら農村に対する行政単位が郷と里(郷里制)である。100戸をまとめて里として里正を起き、5里をまとめて郷とする(郷正は一時期を除いて置かれなかった)。里正は里の者から選ばれ、戸籍の作成・勧農・里内の不正の監視・労役の割付などにあたった。また村の中の100戸ごとに村正が置かれた(100戸以下の場合は一人、以上なら複数となる)。
これが唐初を過ぎると粉食の習慣が一般的になり、より粉食に向いたムギが盛んに栽培されるようになる。各地の荘園では碾磑(水力を利用した石臼)が設けられ、荘園での製粉に加えて民間にも貸し出されて、その借賃が荘園の大きな収入となった。これら碾磑に使われる水は灌漑用水から引かれたので水利を阻害し、一般農民からの訴えにより政府は碾磑を撤去するようにしたが、撤去後にすぐに再建されたために効果はなかった。更に華北ではムギ栽培の普及とともに早熟のアワとムギを組み合わせた二年三毛作が成立する。
両税法がムギとアワ(ないし稲)を徴税対象としているのもこのような状況に対応したものであり、また均田制の崩壊と両税法の施行により大土地所有が公認されたことで荘園が増大した。唐代の荘園は100頃ぐらいを上限、4、5頃を下限とした。荘園の形態としては一箇所に集中して存在するものと、他家の土地に混在して存在するものがあり、唐後期になるに従って後者の例が増える。これら荘園を耕す労働力は傭客(良民が契約して耕作に預かる者)・憧僕(荘園主所有の私賤民)と呼ばれる人々が担う。また小作に出されることも多く、荘戸・荘客(後の佃戸)と呼ばれる小作人がこれを耕作した。
村落内の秩序構造も変化した。前述したように里正・村正は実質的な権限を失い、代わって村落の有力者が村長などと呼ばれて実質的な指導者となり、村落の自治組織の上に州県がのる形となった。また村とは別に社という自治組織があった。社は元々土地神を信仰する地域集団を指す言葉であるが、唐代においては仏教を中心とした社の他に民衆の間での特に宗教目的ではない社(社邑)も存在した。社内部でのとりきめを社条といい、慶弔事や災害に対しての相互援助などが定められた。特に葬式に際しての援助・香典が盛んに行われ、これらの事項を連絡するために『社司転帖』という回覧板が回された。
唐代の都市は外側を全て城壁で囲み、内部も坊墻と呼ばれる壁によって坊という区画に分けられた。坊は首都長安で108(後述する東市と西市を含めて110)あり、坊の大きさは南北500から600m弱。東西で565mから1100m強。各坊には坊門があり、朝4時に開けられ夕方日没とともにに閉じられ、時間外の坊外への外出は禁じられた。また「市」と呼ばれる箇所があり、唐前半期では基本的にこの市の中でしか商業活動は認められていなかった。「市」も坊と同じく墻壁と市門によって区画され、時間外の商業は禁止だった。「市」はその他の坊と違って井の字の形をしており(これが市井という言葉の語源となったとも言われる)、井の字の中心に「市」を統括する市署が、その隣に平準署という役所があった。商人は行商を行う客商と店(肆舗)を構える「座賈(ざこ)」に分けられ、市署にて市籍に登録されて管理された。長安には東市・西市、洛陽には南市北市と西市があり、それ以外でも州や県の機関がある場所に市署が設けられた。市内部には商人の各店舗(肆舗)の他に客商のための倉庫として邸店があった(邸店は 飲食・宿泊施設も兼ねた)。市の中の店は扱う商品によって一箇所にまとめられた。これを行と呼び、絹行(呉服)、薬行、肉行、金銀行・銀行(金銀細工)、覊轡行(しゅうひこう、馬具)、衣行(仕立て屋)、秤行などの多種多様の行があった。
商業活動の活発化とともにこれらも大きく変化を見せる。決められた「市」以外の場所にも店が進出するようになり、禁じられていた夜間営業も行われるようになる。坊の方でも坊墻が壊されて街路に出入りし、坊門の開閉も厳密に守られないようになっていた。地方の農村においても交通の要衝などには「草市」と呼ばれる商業地域が誕生するようになる。このような状態で市署の存在は有名無実のものとなり、縮小廃止への道を進むこととなる。また行もそれまでの同業種の店舗が連なる形式から同業組合いわゆるギルドへと変化した。
漢代以来700年以上の長きに渡って五銖銭が使われていたが、唐建国4年後の621年に新たな銅銭である開元通宝を発行した。この開元通宝は五代までの340年間に通行した。なおこの銅銭のことは開通元宝と読むという説もあり、どちらが正しいかは現在でも確定していない。1文の重さは2銖4参≒4g。10文=1両、1000文=1貫となる。唐の間に開元通宝以外の高額面銅銭が何度か発行されたが、いずれも定着はしていない。
唐政府による正式な銅銭(官銭)に対して民間で勝手に鋳造する私鋳銭が横行した。政府は私鋳は死罪として厳しく取り締まったが、それにも関わらず唐代の私鋳は歴代でも最も激しいとされる。723年には銅錫の売買と銅器の製造を禁止する銅禁令を出して私鋳業者が原料の銅を入手することを困難にした。私鋳銭の中でも官銭の2銖4参に近い重量を持つ良銭もあれば、銅を少なくした悪銭もある。政府は良銭であれば通行することを認め、悪銭を取り締まった。
安史の乱以降、#兵制が府兵制から募兵制へと移行したことで、軍事支出が大幅に増加したこと・両税法の導入により納税が銅銭を基本とすることとなったことなどから銅銭の需要が激増し、銅銭の不足をもたらした(これを銭荒と呼ぶ)。これにより銅の価格は高騰し、銅銭を鋳潰して銅として売る行為(私銷)が増えた。こうなると私鋳銭で良銭を作ることは難しくなり、悪銭が増えて横行することとなる。政府も私銷や積銭(銅銭を溜め込むこと)の禁止などで銅銭不足に対応しようとしたが、原料の銅不足はいかんともしがたかった。これが会昌の廃仏により、各地の仏像を鋳潰したことでそれを原料とした銅銭が大量に発行された。
ただし当時の貨幣としては銅銭以外に絹などの現物貨幣が使われていた。
漢代までは江南は後進地であり、中原の経済に大きな影響を与えるようなものではなかった。これが六朝時代を通じて開発が進み、飛躍的な発展を遂げた。さらに大運河の完成により、華北と江南の経済が結びついた。当初中国の物流は西(四川・陝西)と東(江南・河北・華南)に分断されており、2つが洛陽と長安間の道を通じてか細く繋がっているに過ぎなかった。そのため首都長安では100万と謳われた人口を支えることが出来ず、朝廷ごと洛陽に引っ越して食を確保する「東都就食」という行為が頻繁に行われた。裴耀卿は733年に大規模な漕運改革を行い、南から洛陽・長安へ食料供給するシステムを作り上げることに成功する。これら漕運を統括するために設置されたのが転運使である。以前は南から北へ運送できる穀物の量はせいぜい10~20万石であったのが、改革以降は毎年200万石の穀物を送ることができるようになった。
安史の乱後に#専売制が始まると、その運送においても大運河が大きな役割を果たす。それに伴い乱の影響で機能不全に陥っていた大運河の再整備が行われ、塩の販売利益がそれに当てられた。塩専売を司る塩鉄使と密接な関係を持つ転運使は両者が兼任されるようになり、宰相に次ぐ重要ポストとされた。この時の財政関連として塩鉄転運使の他に六分の一つ戸部と財政全般を司る度支があり、度支が陝西・山西・四川の唐西部を塩鉄転運使が河北・河南・山東・江南の唐東部を管轄するようになる。
安史の乱以後の北方民族との戦闘に必要な諸経費・物資を専売制の利益・江南からの富(と関中における屯田・和糴)で支える南北分業体制が整えられたのである。
当時の国外交易には朝貢と互市の2つの形式がある。朝貢は国外からの使節が貢物として持ってきたものに対して絹製品を中心とした回賜品が与えられる形態で、互市は辺境の特定の場所に限って交易が認められた。
西方および北方とは主に馬を輸入し、絹で贖う絹馬交易が行われた。安史の乱以後はウイグル帝国と取引が行われた。この北方・西方との交流に大きな役割を果たしたのがソグド人商人たちである。彼らが構築したネットワークは民間交易だけではなく、軍需物資の運搬などの公的業務も請け負った。
南の東南アジア諸国とは南海交易が行われた。拠点となったのが広州で、ここに市舶司が置かれて積み荷の検閲・課税・管理などが行われた。主な輸入品は香料・染料・タイマイなどである。安史の乱以降はシルクロードが吐蕃の占領により途絶してしまい、南海交易の重要度は増した。また多数のイスラム商人が来て商売を行い、広州は大いに繁栄する。しかし黄巣の乱の際に甚大な被害を受けて交易港としての機能を喪失し、回復までに数十年の時を要した。
東の日本・新羅・渤海とも朝貢貿易が行われ、人参や工芸品が献上された。
唐は歴代でも漢詩の黄金時代とされる。唐の文化を初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分することが南宋の厳羽が提唱して以来、一般化している。散文は盛唐までは漢詩の影に隠れて目立たない存在であったが、中唐に韓愈らが古文復興運動が起こして注目を集めた。同じく中唐以降に小説や講唱などの通俗文学も発展を遂げた。
初唐は建国直後から玄宗即位までの618年から712年までの期間である。この時期に六朝からの流れを受けて近体詩(五言・七言、絶句・律詩)の規則・形式が確立した。
建国直後の詩人として名が挙がるのが魏徴と王積である。魏徴は太宗の諫臣として名高く、詩人としては豪快な詩風で代表作「述懐」は『唐詩選』の巻頭を飾る。王積は官界で栄達せず隠退し、陶淵明風の素朴な隠士としての生活を詠んだ詩が特徴。太宗本人も詩や書など文化面においても高い評価を受ける人物であり、文学の士を幕下に多く置いた。その中のひとりが上官儀であり、上官体と呼ばれる詩風で朝廷を風靡した。
初唐の代表的詩人とされるのが王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王の四人で、初唐四傑と称される。いずれも高宗期に活躍した詩人で、四人とも官界に入るも不遇だったという共通点があり、その影響から彼らの詩には自照の傾向が強い。
その後の武則天は積極的に文化を称揚し、科挙の進士科に詩を必須のものとしたことで唐詩の隆盛を導いたと評される。武則天期の代表詩人として「沈宋」と称される沈佺期と宋之問がいる。沈は七言律詩、宋は五言律詩を得意とした。
これら南朝から受け継いだ技巧的な詩風に対して、陳子昂は漢魏の詩風に学んで質実剛健な詩を作り、盛唐の詩へ影響を与えた。
盛唐は玄宗が即位した712年から退位させられた玄宗が死去する762年までの期間である。この時代を代表するのは何と言っても李白・杜甫であり、孟浩然・王維がそれに次ぐ。
李白は西域出身で子供の頃に蜀に移住。若き日は江南を旅し、40代になってから一度仕官したものの朝廷の気風と合わず、官界を追放される。その後はまた旅をして最後は当塗にて病死した。伝説では舟遊びの最中に酔って水面に写った月を取ろうとして転落し、溺死したという。その詩の特徴は豪快で明るく、流動感に溢れ、詩仙と称される。
杜甫は河南省鞏県(現鞏義市)の生まれで、その遠祖は西晋の将軍杜預である。24歳のときに科挙進士科を受験するが落第。以後も官位を得るために活動するもなかなか上手く行かず、44歳のときにようやく士官が叶うが直後に安史の乱が勃発。以後、粛宗の元で一時的に官職を得るも乱の激化により家族を連れて各地を転々として最後は船の上で没した。その詩は社会や自身を直視した現実的な姿勢が特徴である。
孟浩然は襄陽(現襄陽市)の人で科挙に落第して、各地を放浪・隠逸生活に入った。その生活を詠んだ「春暁」が特に有名。しかし孟浩然は官途が絶たれたことに失意を感じていたようであり、隠逸生活を楽しんでいた陶淵明に対して、孟浩然は失意・孤独・寂寥感を感じさせる詩が特徴的である。
王維は当時の名門貴族・太原王氏の出身で若き頃より才能を発揮して社交界の寵児となった。21歳のときに科挙に及第して官僚の地位を得ると地方に転出した後に中央へと戻って朝廷詩人として名声を得た。しかし安史の乱が勃発すると捕らえられて反乱軍の官に就かされ、乱終結後にこのことを罪に問われて降格されるが、その後は尚書右丞まで登る。王維は自然詩を得意とする。
中唐は安史の乱終結の763年から840年までの期間である。この時代を代表する詩人が白居易・元稹である。
白居易は15の頃から詩作と勉学に励み、29歳のときに科挙進士に合格、中央で官歴を積んだ。しかし44歳のときに左遷されて地方へ転出、以後は地方官を歴任し、引退後は洛陽で隠居生活に入った。このような経緯から若き日は政治・社会批判を行った詩(諷喩詩)を多く詠み、左遷以後は世俗を超越し身近な生活を描いた詩(閑適詩)を詠んだ。代表作には「新楽府」・「長恨歌」など。
元稹は白居易の同期生で、生涯に渡って友情が続き、その友情は元白の交わりと呼ばれる。官は同中書門下平章事にまで登ったが、剛直な性格によりしばしば左遷された。詩風は白居易と共通するものがあり、2人の詩風を元和体と呼ぶ。
またこの時期に韓愈・柳宗元が中心となって古文復興運動が行われた。六朝時代からの対句と装飾に重きを置いた駢文(四六駢儷体)を排除し、『史記』を模範とした文章に回帰することを目指す運動で、北宋の欧陽脩を経て文壇を支配するようになり、清末までその状態が続いた。
晩唐は840年から唐が滅亡する907年までの期間である。この時期を代表する詩人として杜牧・李商隠らが挙がる。
杜牧は親族から宰相を出す名門の出身で、自らも26歳で進士に合格。職務に励むが、剛直な性格から上から疎まれることもあった。その後、弟ら親類を養うために志願して収入の良い地方官を歴任し、49歳のときに中央に呼び戻されるが翌年に病没した。詩風は軽妙洒脱。
李商隠は懐州河内県(現在の河南省焦作市沁陽市)の人。典故を並べた華麗かつ難解な詩が特徴。詩作のときに書物を多数並べていたので、「獺祭魚」と呼ばれた。
絵画の分野においては、唐の後期には水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られる。同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は、この代表として王墨・李霊省・張志和の3人を挙げている。
書道の分野においては、玄宗の時代の人物である顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立て、後に北宋の書家・画家の蘇軾は「書は顔魯公に至りて畢(おわ)れり。」と評した。
コモンズの唐代の美術のカテゴリも参照。
唐の最大領域は高宗期の660年代で、直接統治地域は東西が朝鮮北部から天山山脈のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域でも異民族の自治による間接支配を執っている。
唐の北方異民族支配は羈縻支配と呼ばれる。異民族の支配地に唐の直接統治機関である都督府・羈縻州を設置し、その長官たる都督や刺史にその地の異民族の長を任命してその部族の自治権を認めるものである。
都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。
盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、高句麗の高仙芝、百済の黒歯常之、日本人の阿倍仲麻呂や雑胡(異民族の混血)の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。
安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境へ藩鎮の配置を進め、羈縻支配を改めていったが、吐蕃により唐の西北国境は不安定となる。9世紀にはウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。また、唐の衰退は東方の諸国においても動揺を与え、唐の滅亡から30年経たないうちに渤海・新羅が相次いで滅亡・日本においても律令体制が動揺することとなる。
6世紀に巨大帝国を築いた突厥は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の626年には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。
しかし唐が統一を果たした628年以降に攻勢に転じ、630年には突厥から鉄勒が離反したことに乗じて東突厥を滅ぼすことに成功した。突厥の後に台頭した鉄勒部族の一つ薛延陀も646年に制圧し、翌年に安北都護府(もしくは燕然都護府)・単于都護府を設置した。太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗(カガン)はハーン、すなわち遊牧民世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。
その後、突厥は唐の単于都護府下に支配されていたが、度々唐に対して反抗し、682年に突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において自立した。突厥は唐に侵攻して辺境を悩ませ、突厥の勢力を取り戻した。この時期のことを記したものが突厥碑文と呼ばれる石碑文である。その後、突厥は内紛で勢力を落とし、744年に鉄勒の一部族であったウイグル(回鶻)を中心とした部族連合(「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)によって滅ぼされ、ウイグルが突厥にかわってモンゴル高原を支配下においた。その後に安史の乱が起きると唐からウイグルに要請があり、それに応えて援軍を送った。その見返りとして莫大な絹を唐からウイグルへ送ることとなり、絹馬交易(絹と馬を交換する交易。#外国交易参照)にてウイグル側に有利なレートで交易を迫り、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし840年に天災とキルギス人の攻撃によりウイグル国家は崩壊、この後に高原を統一する勢力はモンゴル帝国まで待たねばならない。
唐は640年に高昌国(現トルファン)を滅ぼしたのを初めとして、シルクロード沿いのオアシス国家を服属させて安西都護府(クチャ)を設置し、西域経営を行った。
また635年に青海の吐谷渾を支配下に置き、チベット高原の吐蕃も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を吐蕃公主として嫁がせるなどして懐柔に努めた。
唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・パミール高原以西のトランスオクシアナにまで及ぶが、751年のタラス河畔の戦いで敗戦したことによって頓挫し、中央アジアの支配権はイスラム帝国に譲ることになる。なお、この戦いの捕虜により、製紙法が西方に伝わった。
安史の乱が起こると、吐蕃は乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードの河西回廊は吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。その後、唐の立ち直りにより敵対関係は続けるもののその攻勢を弱め、822年に唐と完全に和睦。以降は唐と吐蕃の間では戦闘はなくなる。
現在の雲南省を支配した南詔は元は大蒙国と号し、唐から刺史の位をもらっていた。その後、勢力を拡大して唐から雲南王に任ぜられ、更に勢力を拡大して雲南全てを統一した。その後、唐に対して背き、750年の唐の討伐軍を撃退。独立を果たしたが、独力ではそれを維持できず、吐蕃の援助を受けることとなる。
唐が成立した618年に高句麗・百済・新羅の三国は唐に朝貢し、それに対して三国は唐からそれぞれ遼東郡王・帯方郡王・楽浪郡王に冊封されていた。642年に高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こしたことと新羅からの要請で太宗は高句麗に3度に渡って遠征軍を送るが失敗に終わる(唐の高句麗遠征)。太宗が崩御したことで高句麗遠征は一旦終了するが、次の高宗のときに新羅が高句麗・百済の侵攻を受けたことで唐に救援要請を送り、658年と659年に二度遠征軍を送るがこれも失敗に終わる。660年の遠征ではまず南の百済を滅ぼした。このときに百済移民が日本へと救援要請を送り、663年に白村江の戦いが起こるがこれに大勝して追い返した。孤立した高句麗に攻撃をかけ、668年には高句麗首都平壌を陥落させて、高句麗を滅ぼした。唐はこの土地に安東都護府を設置する。
その後、新羅が半島にあった唐の都督府ほか各地の行政機関を襲撃(唐・新羅戦争)した結果、安東都護府は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。
一方で東北地方(満州)ではこの地方に移住させられていた契丹が反乱を起こした混乱に乗じて、高句麗の遺民と粟末靺鞨が中心となり震国を立てる。唐から渤海郡王に冊封されたのを期に渤海と改める。
太宗時代に日本は遣唐使を送っていたが、白村江の戦いの後、唐の来襲を恐れて大宰府などに大規模な防備体制を敷いて、遣唐使は中断された。遣唐使が再開するのは702年のことでその後は唐滅亡までに16回送られた。遣使の中にいた阿倍仲麻呂(中国名「朝衡」ないし「晁衡」)は唐に残って朝廷に仕えて出世し、節度使の地位まで登った。また唐からも鑑真が生命を賭して日本へと渡った。しかし安史の乱以降の唐が衰退したことで危険を犯して送る意義が少なくなり、頻度は激減する。そして838年を最期に遣使は途絶え、894年、菅原道真の建議により遣唐使は停止された。
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"text": "唐(とう、拼音: Táng、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。",
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"text": "西晋の滅亡以来、中国は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが北朝隋の文帝により、589年に再統一が為された。文帝は内政面でも律令の制定・三省六部を頂点とする官制改革・郡を廃止して州県制を導入・科挙制度の創設など多数の改革を行った。",
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"text": "604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広(煬帝)が後を継ぐ。煬帝は大運河・洛陽新城などの大規模土木工事を完成させた。さらに612年から3年連続で高句麗に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる(隋の高句麗遠征)。その最中の613年に起きた楊玄感の反乱をきっかけにして隋全体で反乱が勃発、大小200の勢力が相争う内乱状態となった(隋末唐初)。",
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"text": "国内の混乱が激しくなる中、北の東突厥に面する太原の留守とされていた唐国公李淵は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、すぐに大興城(長安)を陥落させることに成功。煬帝を太上皇帝に祭り上げて、煬帝の孫で大興城の留守である楊侑を傀儡の皇帝に立てた、この時、煬帝は江都(揚州)で現実から逃避して酒色に溺れる生活を送っていたが、長安占拠の報によって煬帝の親衛隊の間に動揺が広がり、618年に宇文化及を頭としたクーデターにより煬帝は弑逆された。",
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"text": "同年、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位。武徳と元号を改め、唐を建国した。この時点で王世充・李密・竇建徳・劉武周など各地に群雄が割拠していた。李淵(以下高祖とする)は長男の李建成を皇太子とし、次男の李世民を尚書令として、各地の群雄討伐に向かわせた。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた。",
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"text": "抜群の功績を挙げた李世民は皇太子である李建成および四男の李元吉と後継の座を巡って対立するようになるが、高祖は曖昧な態度でことを決めることができなかった。626年、李世民は長安宮城の北門玄武門にて李建成と李元吉を殺し(玄武門の変)、さらに父の高祖に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった(太宗)。",
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"text": "帝位を継いだ太宗は626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた朔方郡の梁師都を平定し、統一を果たした。更に630年には突厥の内紛に乗じて李靖・李勣を派遣してこれを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった鉄勒諸部から天可汗(テングリ=カガン)の称号を奉じられた。647年にはこの地に燕然都護府をおいて鉄勒を羈縻支配においた。635年には吐谷渾を破り、更にチベットの吐蕃も支配下に入れた。ただし吐蕃には度々公主を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった。",
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"text": "太宗の政治も徐々に弛緩が見えるようになり、643年に魏徴が死ぬとその傾向に拍車がかかった。",
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"text": "642年、高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こし、唐から遼東郡王に冊封されていた栄留王を殺し、その弟の宝蔵王を王位につけた。太宗はすぐに出兵を考えたが、一旦は取りやめる。しかし新羅からの要請を受けて645年から三度(645年、647年、648年)にわたって高句麗遠征を行うが、いずれも失敗した(唐の高句麗遠征)。",
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"text": "三回目の高句麗遠征が終わった後の649年に太宗は崩御。太宗の九男の晋王李治が三代皇帝高宗となった。",
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"text": "太宗と長孫皇后の間には李承乾(長男)・李泰(四男)・李治(九男)の三人の男子がいた。最初に李承乾が皇太子に立てられたが、李承乾は成長するにつれ奇行が目立つようになり、最後には謀反の疑いにより廃された。次いで太宗は学問に通じた李泰を皇太子にしようとしたが、長孫皇后の兄の長孫無忌が凡庸な治を次代皇帝に推薦し、太宗もこれを入れて李治が後継に決まった。長孫無忌には凡庸な皇帝の後見役になることで権勢を振るうという意図があった。",
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"text": "高宗の治世初期は長孫無忌・褚遂良・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた。ここに登場するのが武照、後の武則天である。",
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"text": "武照は太宗の後宮で才人だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って昭儀となった。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った。皇后となった武則天により長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、垂簾の政を行い、武則天は高宗と並んで「二聖」と呼ばれた。",
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"text": "この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる。",
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"text": "683年に高宗が死去すると武則天は高宗との間の子の李顕を帝位につけた(中宗)が、わずか54日でこれを廃し、弟の李旦をこれに替えた(睿宗)。当然実権は武則天にあり、彼らは武則天が皇位に登るまでのつなぎに過ぎなかった。武則天に対する反乱も684年に起きた。李勣の孫の李敬業が起こしたもので、反乱軍の中に初唐を代表する詩人の一人駱賓王がおり、駱賓王が書いた檄文を読んだ武則天はその文才に感心し、「このような才能のある者を流落させているのは宰相の責任だ」といったという。",
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"text": "この反乱も程なく鎮圧され、690年に遂に武則天は帝位に登り、国号を周とした。中国史上唯一の女帝である。睿宗は皇嗣に格下げされて武の性を賜った。",
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"text": "武則天の政治は女性が皇帝になったこと、武承嗣・武三思ら武氏一族、薛懐義や張易之・張昌宗兄弟など武則天の寵愛を受けた者たちなどが権力を握って専横したということ、酷吏を使って密告政治を行ったことなどで評判が悪い。一方で武則天は当時はまだ有効に機能していたなかった科挙から人材を組み上げており、武則天により抜擢された姚崇は後の玄宗時代に活躍し、開元の治を導いたと評される。また武周の15年はほぼ平穏な時代であり、この時代に唐は最大版図を実現している。",
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"text": "老いた武則天の後継者として武承嗣たちは自らが後継になることを画策したが、武則天が最も信頼をおいていた重臣の狄仁傑はこれに強く反対。最終的に武則天の決断により廃されていた中宗が戻り、698年に皇太子に復された。更に705年、狄仁傑に推薦されて宰相となっていた張柬之は張易之・張昌宗兄弟を斬殺し、ついには病床の武則天に迫って彼女を退位に追い込み、中宗を即位させ、唐が復活した。同年に武則天は死去。",
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"text": "武則天死後、中宗の皇后韋氏が第二の武則天にならんと政治に容喙するようになった。710年に韋后とその娘安楽公主は中宗を毒殺、殤帝を傀儡とした後自らが帝位に登らんと画策したが、睿宗の三男の李隆基と武則天の娘の太平公主によるクーデターにより韋后と安楽公主は誅殺され、睿宗が再び即位した。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼ぶ。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年に太平公主を処刑して実権を掌握した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "親政を始めた玄宗は前述の姚崇を抜擢して宰相とした。これに答えて姚崇は「宦官を政治に介入させないこと」「皇帝に親しい臣が不正を行うのをとりしまること」「外戚に政治介入させないこと」などを提言し、玄宗もこれを受け入れて政治に取り組んだ。姚崇のあとを受けた宋璟も姚崇の方針を受け継いで政治改革を進めていった。姚崇と宋璟は貞観の房(玄齢)・杜(如晦)に対して姚・宋と称される。この治世により太宗の時に戸数が300万に満たなかったのが、726年(開元十四年)には戸数は760万あまりとなり、人口も4千万を超えた。穀物価格も低価で、兵士は武器を扱うことがなく、道に物が落ちていても拾う者はいなかったという。この時代を開元の治とよび、唐の極盛期とされる。文化的にも杜甫・李白の漢詩を代表する詩人たちが登場し、最盛期を迎えた。",
"title": "歴史"
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"text": "ただしその裏では唐の根本である律令体制の崩壊が始まっていた。律令体制では民を本籍地で登録し、それを元に租庸調・役(労役・兵役)を課すことになっていた。しかし負担に耐えかねて本籍地から逃亡する民が増えた。これを逃戸と呼ぶ。この現象は武則天時代から問題になっていたが、その後も増え続けていた。これに対しての政策が宇文融によって出された括戸政策である。全国的に逃戸を調査し、逃戸を逃亡先の戸籍に新たに登録し(これを客戸という)、再び国家の支配下に組み入れようとしたものである。721年から724年にかけて行われた結果、80万余りの戸が新たに登録された。",
"title": "歴史"
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"text": "またもう一つの変化が節度使の設置である。上述の理由により兵制である府兵制もまた破綻しており、国防のために睿宗時代の710年に亀茲に安西節度使を設置したのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれていた。",
"title": "歴史"
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"text": "さて宇文融は北周帝室に祖を持つ貴族であり、恩蔭(官僚が自分の子を官僚にする権利)の出身者である。姚崇・宋璟の後、科挙出身者である張説・張九齢らが宰相となったが、次第に政界では貴族出身者が権力を握るようになる。宇文融の他に裴耀卿は大運河の運用を改善して漕運改革を行い、首都長安の食糧事情を大きく改善する功績を挙げた。これらは実務に長けた貴族出身官僚であり、この流れを受けて李林甫が登場する。",
"title": "歴史"
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"text": "李林甫は高祖の祖父の李虎の末裔で、734年から752年に没するまでの19年間宰相の地位にあった。李林甫の政策として租庸などの運搬の際の煩雑な書類を簡素にしたというものがある。実務には長けていたが、「口に蜜あり、腹に剣あり」と呼ばれた性格で、玄宗やその寵妃たち・側近の高力士らに上手く取り入る一方で、自分に対抗する政敵を策謀を持って排除し自らの地位保全に熱心であった。",
"title": "歴史"
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"text": "この姿勢の一環として行われたのが、節度使に異民族を採用するという政策である。節度使のうち、長城の内側の節度使はそれまでは高級文官が就任するのが常であったが、李林甫はこれに異民族出身の蕃将を任命するようにした。節度使が宰相への出世コースになっていたのを潰す意図があったとされる。このことが後の安禄山台頭に繋がったといえる。",
"title": "歴史"
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"text": "玄宗は太子時代の妃であった王氏を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である武恵妃を寵愛し、その子である第十八子の寿王李瑁を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵(後の粛宗)を太子に立てていた。この寿王李瑁の妃の一人であったのが楊貴妃である。",
"title": "歴史"
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"text": "一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は白居易の『長恨歌』に歌われている。その中に「此れ従り君主は早く朝せられず」とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた。",
"title": "歴史"
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"text": "楊貴妃を愛する玄宗はその一族も引き立てた。その中の一人が楊貴妃の又従兄弟の楊国忠である。元は酒と博打で身を持ち崩した一族の鼻つまみものであったが、楊貴妃のおかげで官界に入った後は財務関係の実務で功績を挙げて出世を続け、750年には御史大夫兼京兆尹に、更に752年に李林甫が死去すると遂に宰相となった。",
"title": "歴史"
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"text": "楊国忠と権力を争ったのが安禄山である。安禄山はソグド人の父と突厥の母の間に生まれた雑胡(混血の異民族)であった。范陽節度使の張守珪に史思明と共に登用されてその仮子となって戦功を挙げて、742年に平盧節度使に任じられた。更に744年に范陽節度使・751年に河東節度使を兼任して、その総兵力は18万を超える膨大なものとなった。このような大出世を遂げた要因の一つが玄宗・楊貴妃に取り入ったことにある。安禄山は玄宗からその大きな腹の中には何が詰まっているのかと問われた時に「ただ赤心(忠誠)のみが詰まっています」と答えた、あるいは自ら願って楊貴妃の養児となって錦繍の産着を着て玄宗と楊貴妃を喜ばせたなどというエピソードが残る。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "楊国忠と安禄山は対立し、互いに相手を追い落とさんとするが、常に玄宗のそばにいる楊国忠がこの争いでは有利であった。危機感を感じた安禄山は「君側の奸楊国忠を除く」という名分を立てて遂に挙兵した。この反乱は安禄山とその部下史思明の名を取って安史の乱と呼ばれる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "755年の11月に根拠地の幽州(范陽郡)から兵力15万と8千騎を持って出陣した安禄山軍は破竹の勢いで勝ち進み、同年12月には洛陽を陥落させ、翌年の1月1日に皇帝に即位、国号を大燕と称した。更に同年6月には首都長安の東・関中の入り口に当たる潼関を陥落させる。この報に狼狽した唐政府は蜀への避難を決める。避難の途中の馬嵬においてこの事態に怒った兵士たちにより楊国忠が殺され、楊貴妃も自殺させられている。皇太子李亨(李璵から改名している)は途中で玄宗と別行動を取って、朔方節度使郭子儀の元に向かい、兵士を鼓舞するために玄宗の許可無く、皇帝に即位した(粛宗)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "安禄山は757年に子の安慶緒に殺され、その後を継いだ史思明も761年にこれも子の史朝義に殺される。郭子儀率いる軍は回紇の支援を得て757年に長安、762年に洛陽を奪還。翌763年に史朝義が部下に殺され、ここに安史の乱は終結した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "何とか乱を収めた唐であったが、そのダメージは非常に大きかった。防衛体制の緩みをつかれて吐蕃に長安を一時期占領されるという事態が起きている。また反乱軍の将を寝返らせるために節度使の職を持って勧誘した。これが後に河北三鎮と呼ばれ、中央の意向を無視した半独立勢力となり、歴代政府の懸念事項となった。乱により荒れ果てた華北では多数の流民が生じ、755年に890万戸を数えたのが764年には293万戸までに激減している。",
"title": "歴史"
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"text": "逃戸の増大により均田租庸調制・府兵制の両制度は機能しなくなり、周辺民族の活発化により羈縻政策もまた破綻。これらの事態は開元の治以前から進行していたが、安史の乱によりはっきりとこの事態に対する新たな対応策が必要となっていた。これに対するのが律令には存在しない使職という新たな役職である。最初は地方の観察を後に地方の最高行政官となる観察使・税を司る度支使・漕運を司る転運使・専売制を司る塩鉄使などがあり、いずれも非常に重要な役割を果たした。特に758年に開始された塩の専売は大きな利益を上げて、以後の唐の財政に不可欠のものとなった。ゆえに塩鉄使の地位は非常に重要視され、宰相に準ずる職となった。しかし専売に対して密売の私塩が止まず、塩賊と呼ばれる私塩業者が各地で活動した。",
"title": "歴史"
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"text": "前述の節度使も使職の一つであり、安史の乱以後に節度使は観察使を兼職するようになり、それまでの軍事権に加えて行政権も握るようになった。江南では節度使は置かれず観察使が防禦使・経略使などの軍事職を兼任してこちらも軍事・行政を司るようになった。これらを総称して藩鎮と呼ぶ。首都長安と副都洛陽が所属する京兆府と河南府を除き、全国に40-50ほどの藩鎮が置かれた。京兆府と河南府以外の土地は全ていずれかの藩鎮の勢力圏となった。先に挙げた河北三鎮のような中央の意向を無視するような藩鎮を反則藩鎮と呼ぶ(逆に従順な藩鎮を順地という)。これら反則藩鎮は領内において勝手に税を取り立て、さらに中央に納めるべき上供も怠ることが多かった。",
"title": "歴史"
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"text": "また逃戸・客戸の増大により租庸調の収入は激減し、それを埋めるために青苗銭・戸税などの税が徴収されるようになる。農民の負担はますます重くなり、農民の没落・逃戸の増大に繋がるという悪循環に陥っていた。これら複雑化した税制を一本化したものが780年に宰相の楊炎の権限によって実施された両税法である。両税法では夏税(6月納期)としてムギ・秋税(11月納期)にアワ・コメを税として取り立て、それ以外の税を禁止した。藩鎮・地方官が勝手な名目で税を取り立てることを防ぐ意味もあった。そして均田租庸調が民一人一人を対象とするのに対して、戸を対象とし、その資産を計って税額を決める、銅銭での納税が原則とされた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "両税法の実施により唐は均田制を自ら否定したことになり、それまで規制していた大土地所有を事実上公認したことになる。この後は荘園が拡大していくことになる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "770年ごろになると安史軍から投降して節度使になった李懐仙・薛嵩・田承嗣らが相次いで死去する。藩鎮側は節度使の世襲を望んだが、唐政府は新任の節度使の赴任と藩鎮の兵力削減を言い渡した。両税法が実施されたことを切っ掛けに、781年に河北三鎮(盧龍・天雄・成徳)を中心に7の藩鎮が唐に対して反乱を起こした。反乱軍により長安を落とされ、時の皇帝徳宗は梁州に避難した。のちに長安は回復するものの藩鎮の罪を問うことはできず、赦免せざるを得なかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "805年に新たに即位した憲宗はこの事態に断固たる態度で臨んだ。両税法の実施により財政に余裕ができたことで禁軍である神策軍を大幅に強化し、兵力15万を数えるまでになった。この兵力を元に806年から次々と藩鎮を征伐し、819年から821年にかけて河北三鎮を順地化することに成功した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "これと並行して、それまで藩鎮内の属州の兵力を全て節度使が指揮していたのものを属州の兵は属州の刺史が統括するものとした。また属州の税収は州県の取り分(留県・留州)を取った後は節度使の費用を取った(留使)後に中央へと送られていた(上供)ものを県から直接上供することにした。これらの政策により節度使の持つ兵力・財力は大幅に削減されることになる。更に節度使には中央から派遣した官僚を就けることとし、その任期も3年ほどと短くした。また節度使の監察を行うために宦官を監軍として付けることにした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "このようにして憲宗は藩鎮の抑圧・中央集権の回復に成功した。これにより憲宗は中興の英主と讃えられる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "この頃になると科挙、特に進士科出身の官僚は官界での勢力を拡大し、旧来の貴族勢力と拮抗するまでになった。また貴族の子弟たちの中でも任子ではなく、科挙受験の道を選ぶ者も増えていた。科挙出身者はその年の試験の責任者と受験者たちの間で座主門生と称する縦の、同期の合格者同士で横の、それぞれ人間関係を構築していた。この関係性を元に官界でも派閥が作られるようになる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "この延長線上に起きたのが牛李の党争である。牛僧孺・李宗閔ら進士出身の党と李徳裕の貴族層の党が820年から以後40年に渡って政界で激しく争い、負けた方の派閥の人間は全て失脚して左遷・争いが逆転すると同じことをやり返すという状態になる。このことを文宗(第17代皇帝、穆宗の2代後)は「河北の賊を去るのは難しくないが、朋党の争いを収めるのは難しい」と嘆いた。",
"title": "歴史"
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"text": "文宗の頭を悩ませたもう一つの問題が宦官である。藩鎮討伐に使われた神策軍の司令官は宦官が就くことになっており、宦官はこれにより大きな軍事力を握ることになった。また藩鎮に付けられた監軍はこれも宦官が務めたが、文官の節度使は任期が終わる際に勤務実績を良く報告してもらうために監軍に賄賂を送るようになった。これにより中央官僚の人事にも権限を持つようになった宦官は、遂には皇帝の廃立すら決めるようになった。第12代穆宗から第19代昭宗までの間で第13代敬宗を除く7人は全て宦官に擁立されたものである。先述の党争においても宦官の権力を利用して政敵を排除している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "文宗は宦官排除を目論んで計画を立てる。それは宮中に甘露が降ったという嘘を上奏させ、宦官たちが集まったところで一気に誅滅してしまおうという計画であった。しかし直前で計画が宦官側に露見して失敗。文宗の立場はますます弱いものとなり、「朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いた(甘露の変)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "文宗を継いだ弟の武宗は道教を崇拝すること厚く、道教側の要請もあり、廃仏(会昌の廃仏)を行った。まず845年から始まった廃仏により、還俗させられた僧尼が26万人余り・廃棄寺院4600・仏具や仏像は鋳潰されて銅銭などになった。寺院は長安・洛陽に4、各州に1とし、それぞれに30から50の僧侶が所属するのみとした。これによって仏教界は大打撃を受けた。後世に三武一宗の廃仏と言われるうちの3番目である。この廃仏は単に道教に傾倒した武宗と道教側の策謀によるものだけではない。同時期に祆教・摩尼教・景教(唐代三夷教)も弾圧されているように、唐の国際性が薄れて一種の民族主義的なものが前面に出てきたことにもよる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "846年に武宗が死去し、後を継いだ宣宗により廃仏は終わった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "牛李の党争が終わった10年ほどの後の858年に張潜という官僚が藩鎮で行われていた羨余という行為について非難する上奏文を出した。羨余とは藩鎮が税を徴収した後、藩鎮の費用と上供分を除いて余った分のことを指し、それを倉庫にためた後に進奉といって正規の上供分とは別に中央に送った。この行為を政府は盛んに奨励し、進奉の額が節度使の勤務評価の基準ともなっていた。その出所はといえば民からの苛斂誅求に他ならず、民を大いに苦しめることとなった。これに対しての批判が先に挙げた張潜であるが、増大する経費を賄うには政府は進奉に頼らざるを得なくなっていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "また民を搾り取るだけでは足らず、兵士の人員の削減・給料のピンハネなども行われた。このような節度使に対して兵士たちは不満を抱き、節度使・観察使を追い出す兵乱が続発する。これら兵乱に刺激を受けて起きたのが裘甫の乱である。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "859年にわずか100人を率いて蜂起した裘甫は浙東藩鎮の海岸部象山県次いで剡県を攻略、近くの海賊や盗賊・無頼の徒を集め、3万という大軍に膨れ上がった。その後浙東を転戦したが、政府は安南討伐に功を挙げた王式を派遣し、ウイグルや吐蕃の精兵も投入し、翌860年に鎮圧した。続けて868年、南詔に対する防衛のために桂州に山東で集められた兵士の部隊が派遣されていたが、いつまでたっても交代の兵は来ず、前述のような給料のピンハネもあり、不満を爆発させて龐勛を指導者として反乱を起こした(龐勛の乱)。龐勛軍はまず故郷である山東の徐州へと帰還し、失職兵士や没落農民、各種の賊を入れて一気に大勢力となった。さらにこの乱の特徴として貧農ばかりではなく地主層もこの乱に参加したことが挙げられる。ここにいたってこの乱は当初の兵乱から農民反乱の様相を呈することとなった。しかし雑多な寄せ集めの軍ゆえに内部の統制が取れなくなり、また龐勛の方針も、唐に対して節度使の職を求めたりなど一定しなかった。のでますます内部が乱れた。これに対して唐は7万の軍と突厥沙陀族の精兵騎兵3000を投入し、869年にこれを鎮圧した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である黄巣の乱である。870年くらいから唐には旱魃・蝗害などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝僖宗に出した被害報告が「イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "このような状態に対して874年(あるいは875年)に濮州の塩賊の王仙芝が滑州で挙兵、これに同じく曹州の塩賊の黄巣が呼応したことで「黄巣の乱」が始まった。(詳細は「黄巣の乱」を参照)",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "この反乱集団には非常に雑多な人種が参加した。没落農民・失業兵士・塩賊・茶賊・大道芸人などなど。これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した。唐政府はこれに対して王仙芝に禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため黄巣は強く反対。これを機に黄巣と王仙芝は別行動を取ることになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "878年、王仙芝は唐軍の前に敗死した。黄巣軍は江南・広州に入って唐に対して節度使の職を要求するが、唐はこれを却下した。怒った黄巣は広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "880年、黄巣軍は洛陽南の汝州に入り、ここで黄巣は自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに黄巣軍は長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を「大斉」とし、金統と改元した。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "882年、黄巣軍の同州防御使であった朱温(後の朱全忠)は黄巣軍に見切りを付け、黄巣を裏切り、唐の官軍に投降した。さらに突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗した。その後、黄巣は河南へと逃げるが李克用の追撃を受けて884年に自殺した。こうして、「黄巣の乱」は終結した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることでその権威を借りて号令する目論見があった。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使李茂貞を滅ぼして皇帝昭宗を自らの根拠地である汴州に近い洛陽へと連れ出した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "そして907年。朱全忠は唐の最後の皇帝哀帝から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を「梁」(後世からは後梁と呼ばれる)とした。ここに300年近くに渡った唐王朝の歴史は終わりを告げた。しかしこの時点で後梁の支配地域は河南や山東などごく一部の領域に過ぎず、これから宋が再び統一するまでの約70年間、五代十国時代と呼ばれる分裂時代となる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "律令は、西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝の時に「開皇律令」が編纂されていた。唐もそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた。律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "後述する官制・府兵制・均田制なども全て律令の規定するところである。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "唐の律令は何度か改変され、玄宗の開元二十五年(737年)に完成を見る。この律令は開元二十五年律令と呼ばれ、後世に唐代律令の典範とされた。しかしこの時点で既に現実社会と律令体制の間に乖離が生じおり、この間を埋めるのが皇帝の意思たる詔勅およびそこから法となった格が重要視されるようになる。唐代においてはあくまで皇帝の意思が律令に優先するが、あくまで律令が根本であり、皇帝であっても恣意的に律令を覆すことは批判の対象であった。これが隋唐の律令支配の特徴とされる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "安史の乱を契機として唐の律令体制は急速にその力を失い、現実社会に対応するために律令に無い両税法・使職などの制度が設けられることになる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "唐の官僚は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられており、ここまでを「流内官」と呼び、この下を「流外官」という。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "これら官僚に付与される肩書には散官・職事官・勲官・爵の四種類がある。この内、職事官が実際の職務を表すものであり、散官は実務を伴わずその人物がどの品階にいるかということを示すものである。散官の官品と職事官の官品とは一致するのが原則であったが、散官よりも官品の高い職事官に就く場合は職事官の職名の頭に「守」の字、逆の場合は「行」の字を付けて区別されていた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "勲官は軍功によって付与される恩典で、爵は皇族や高い功績を挙げた功臣に与えられるものである。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "これら官人に与えられる特権として、九品以上の流内官は本人の課役が免除され、五品以上は同居親族の課役が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた。また罪を犯した場合であっても最も重い死刑でなければ銅を納めることで免れることができた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "官人になるためには、前述の「蔭」で任用されるか、あるいは科挙に合格することが必要となる。しかし当時はまだ科挙出身者は蔭出身者に対して大きな不利を背負わされていた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "律令制下の官制は三省を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令であるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "これら六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定された。後に皇帝の命によって新たに参与朝政・同中書門下三品などの肩書で参加する例が増え、逆に僕射が宰相会議のメンバーから外れた。この宰相会議は最初門下省内の聖事堂で行われていたが、後に中書省に移り、中書門下と改称した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった。",
"title": "政治"
},
{
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"tag": "p",
"text": "8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するために律令で規定されない新たな官職が設けられるようになった。これらの新たな官を使職という。主なものに州の監察を行う観察使、専売制を司る塩鉄使、税および出納を司る度支使・物資の運送を司る転運使などがある。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 78,
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"text": "またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった。これら翰林学士はいわば皇帝の秘書官であり。宰相に継ぐ大きな権限を持つことになる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "唐では隋から引き継いで州県制を採った。州の下に数県が所属し、州は全国で約350、県は全国でおよそ1550あった。特別な州として府があり、唐初には首都長安・副都洛陽が所属する京兆府と河南府、唐の故地である太原府があったが、安史の乱以降は徐々に増やされて唐末には10あった。また重要拠点に置かれる州を都督府と呼び、長官は都督。規模によって大中小の三等に分けられる。通常の州の長官は刺史であり、戸数によってこちらも上中下の三等に分けられる。州の下に県があり、こちらも戸数によって上・中・中下・下の四等に分けられる。また府に属する県のうち城内にある県は京、城外にある県は畿と呼ばれた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 80,
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"text": "県の下の行政単位が、郷と里(郷里制)である。100戸をまとめて里として里正を起き、5里をまとめて郷とする(郷正は一時期を除いて置かれなかった)。里正は里の者から選ばれ、戸籍の作成・勧農・里内の不正の監視・労役の割付などにあたった。また都市には坊ごとに坊正が置かれ、聚落には100戸ごとに村正が置かれた(100戸以下の場合は一人、以上なら複数となる)。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "更に州の上に道があり、太宗の時に全国を10の道に分けた。元々、道はその下にある州県の行政を観察するために設けられた単位であり、観風俗使・宣労使などの名前を持った臨時の役職が派遣されていた。武后期に各道ごとに按察使などの役職が監察に当たり、玄宗期の711年には按察使の職を州の長官たる刺史等が兼任するようになる。更に玄宗の734年に15道に再編成した。それに伴って各道の刺史の中から一人を選んで採訪処置使としてそれぞれの道の治所に駐在させた。ここに至って道は州の上の行政単位となった",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "採訪処置使が後の安史の乱後に観察処置使(略して観察使)と名を変えて、節度使や防御使などの軍事職と観察使を兼任することで藩鎮となる。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える。ただし観察使の職掌範囲(=藩鎮の勢力範囲)は数州くらいと15道よりも狭く、藩道と呼んで区別する。村落の方でも里正・村正などの政府によって置かれた役人の力は衰え、代わって村の有力地主層が村長・村耆などの名前で村の行政を司るようになった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "均田制は全国の丁男(21歳から59歳までの男性)及び中男(18歳以上の男性)一人につき、永業田が20畝・口分田が80畝まで支給される。永業田は世襲が認められる田地で、クワ・ナツメ・ニレを植えることが義務付けられる。口分田は穀物を育てる田地で60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない。なお人口に対して田地が少なく十分な給付が出来ない土地(これを狭郷と呼び、対して普通の所を寛郷と呼ぶ)では規定の半額が支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "これに対して、農民は租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両(または布2.5丈と麻3斤)を収める。年間20日の労役の義務があり、これを免除して貰うために納める税を庸と呼び、労役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。これに加えて雑徭という臨時的に徴される力役がある(雑徭に関しては諸説あり、ここでは詳細は省く)。府兵制は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す(#兵制で後述)。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "以上が理念的な均田制であるが、給付・返還の実態については諸説ある所であり、かつては均田制は土地所有の制限を定めたものであり、土地の返還は行われていなかったとする見解もあった。しかし新史料の発見により、少なくとも部分的には給付・返還が行われていたと考えられている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "男丁を基準に給付と課税が行われるのであるからその運用には戸内の男丁の数を把握する戸籍が必要である。唐では戸籍が三年に一回作られ、戸の資産ごとに上上・、中、上下、中上...、下下と分ける九等(戸等制)に分けられた。ただし戸等によって租庸調の額は変化せず、役や受田の順番などによって負担の均一が図られた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "しかし武則天期から天災や異民族の侵入、あるいは大土地所有者の増加などにより本籍地から逃亡する民(逃戸)が増え始めた。逃戸が逃亡先で定住したものを客戸と呼ぶ。逃戸が増えるとその分の税収が減ることになる。玄宗期には更にこの傾向は進み、何らかの対策が必要とされた。その一つが宇文融の発案で行なった括戸政策である。客戸を逃亡先の土地で戸籍に登録するこの政策により八十余万戸が新たに登録されたという。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "しかし大土地所有の進行・村落での階層分化などの社会変化傾向は変わらず、更に安史の乱終結後に各地に配された藩鎮勢力は租庸調とは別の税を勝手に取り立てて自分たちの収入としていた。もはやここに至って均田制・租調役制は完全に行き詰まったといえる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "780年、宰相楊炎により租庸調に変わる新たな税制両税法が上申された。両税法の主な特徴は以下の通り。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "両税法の施行は均田制下での土地所有制限を自ら否定したに等しく、これ以降の唐では大土地所有が更に加速することになる。ただし形式的には唐滅亡まで均田制・租庸調制は続いた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "両税法より前の758年に塩の専売制を実施した。専売の統括をする役職が塩鉄使である。基本的に中国では塩の産地が少なく、産地を集中的に監視下に置きやすいという環境があった。産地の種類によって海塩・池塩・井塩・土塩に分けられる。それぞれ海水の塩・塩湖の塩・塩分が多い地下水の塩・塩分が多い土を精製した塩である。各地の塩産地には製塩業者が集められて登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "専売制によってかけられる税は莫大で、専売制実施前に1斗が銭10文であったのが実施後には110文になり、更に値上げされて唐を通じて250文から300文、もっとも高い時で370文にもなった。そのため貧しくて塩が買えず淡色という味気ない食事しか出来ない者もいたという。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "このような高額の官塩に対して私塩と呼ばれる密売塩が出回ることになる。塩製造には厳しい監視が付けられており、私塩の出所は官塩からの横流しが大半を占めていた。私塩に対して唐は厳しい取り締まりを行なったが、私塩業者の方も対抗して武装し、内部での結束を高めるために宗教的な掟を定めるなどしていた。これが後の中国の秘密結社のルーツとなったとされる。このような私塩集団を塩賊と呼び、唐を実質的に滅ぼした黄巣らもまた塩賊出身であった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "また茶葉にもはじめの793年に価格の10分の1、821年に増額して5割、835年に更に増税される。と塩に比べればまだ安いものの高額な税がかけられ、塩と同じように茶賊と呼ばれる集団が活動した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "商工業に対して、関所などの通行税や市に登録した商人に対する市租などを取っていた。両税法では店構えや家屋などを元に算出した資産額によって課税し、行商人に対しては運搬する商品の30分の1の額を取った(翌年に10分の1に増額。)。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "唐初の兵制は隋から引き継いだ府兵制である。府兵制では全国に折衝府という組織を置く。折衝府には地域の農民が登録され、租庸調を免除される代わりに兵役の義務を負う。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "府兵の兵役の内容は主に、衛士と呼ばれる首都勤務と、防人と呼ばれる国境警備があった。衛士は府兵は5ヶ月に1回、京師に1ヶ月番上する。辺境には鎮・戍という防衛組織があり、府兵は生涯のうちに一度、3年間を防人として努めなければならなかった。また京師の番上や国境警備に出ていない場合に州県へと番上して警備や様々な色役を行った。またそれ以外の時に年三度の訓練を行った。なお衛士・防人共に武器・防具及び駐在中の食料などは全て府兵自身の負担であった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "折衝府は全国に約600が存在しており、そのうちの400程が長安・洛陽周辺に集中していた。所属する兵員によって上中下があり、元は上が1000・中が800・下が600であったが、後の武則天の時に増員されて上が1200・中が1000・下が800となっている。600×1000=60万が唐の常備兵力ということになる。60万の内、10万が衛士・10万が防人に使われており、遠征等に動かせる兵力は40万以下であった。国外遠征などでより兵が必要な場合は臨時の徴兵が行われる。これは兵募と呼ばれるが強制的なもので、折衝府がある無しに関係なく行われた。ただし府兵が全て自弁であったのに対して、兵募の諸物資は官給であった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "しかし衛士・防人共にその負担は非常に重いものがあり、兵役拒否などにより府兵制は早期に立ち行かなくなった。首都防衛については北衙禁軍、辺境防衛についても737年に辺境の軍鎮に長期にわたって駐屯する長征健児制が出来る。これらの兵士には国から衣食住が支給され、家族と共に住む場合には田宅も支給された。また従来の鎮戍にも府兵ではなく兵募が務めるようになった。これを丁防・防丁と呼ぶ。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "このような変化により、有名無実の存在となった折衝府は749年に廃止され、府兵制は消滅した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は長安城内に駐屯し、ここに務める兵力は府兵が担いこれを衛士といった。長安には府兵が属する組織として十二衛府六率府があり、十二衛(左右衛・左右驍衛・左右威衛・左右両軍衛)は各4-50の折衝府を管理し、皇帝の儀仗や宿衛、皇族や各官庁の警護にあたった。六率府(左右衛率府・左右司禦率府・左右清道率府)には各3-6の折衝府を管理し、皇太子の宿衛儀仗にあたった。南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、京師周辺の下等戸から優先して徴兵する彍騎制を行って兵力を確保しようとしたが、こちらも早期に頓挫。京師警備の任務も北衙禁軍が担うこととなった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "北衙禁軍は、高祖のときの元従禁軍を元とし、太宗の638年(貞観十二年)に老齢化した彼らに代わって二等戸以上から選抜して飛騎と呼んで皇帝親衛軍とし、更に飛騎の中から選抜して百騎とした。飛騎の駐屯地は長安宮城北の玄武門の左右にあったので北衙と呼ばれる。この時点での北衙の兵力は南衙に比べれば微々たるものであったが、高宗の662年(龍朔二年)に左右羽林軍として独立した軍となる。更に百騎が689年に千騎・705年に万騎と改称されてその都度増員され、玄宗の738年(開元二重六年)に万騎が左右龍武軍として独立、北衙は四軍となった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "安史の乱の際に、本来の北衙禁軍である羽林軍は壊滅しており、これに代わって禁軍の中核となったのが神策軍である。憲宗のときにこの神策軍を大幅に拡充して15万を数えるようになり、この兵力を基に反則藩鎮の順地化に成功した(#藩鎮との攻防で先述)。しかしこの神策軍の拡充の費用に当てられたのが先述の羨余であり、民衆を大いに苦しめることとなった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "唐初では辺境防衛には、先述した「鎮」や「戍」という拠点が置かれ、ここに府兵が防人として配置され、都護府が統括した。鎮に配置された兵は500人以下、戍には50人以下であり、鎮戍は太宗時代は千ほど置かれ、総兵力は10万人程度であった。羈縻政策が破綻するにつれ、鎮戍制では対応が不可能となり、異民族の攻撃によって境界線は後退した。そのため、高宗時代頃から、鎮戍とは別に軍鎮という新たな軍組織が置かれるようになる。こちらも最初は都護府の管轄に置かれていたが、後に節度使がこの役割を担うようになる。710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "また地方の治安維持として団錬兵・団結兵と呼ばれる新しい兵種が生まれる。元は武則天時代に設置された武騎団という組織が始まりで、契丹の反乱に対処するためのものだった。これが玄宗期に団練兵と呼ばれるようになる。団練兵の兵員はその地方の農民が徴兵されるもので、彼らは普段は農業に従事し、農閑期には訓練を施された。団錬兵の指揮官として団錬使という使職が設けられたが、後に州刺史がこれを兼任するようになる。また、都市には城謗という徴兵による治安維持の兵が置かれた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "安史の乱後は長安・洛陽周辺部を除いた地方はほぼ全てが節度使率いる藩鎮の支配下に入ることとなる。その組織構造については#藩鎮を参照。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "初唐に権力を握ったのは皇室の李氏を含め関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴貴族集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。関隴集団は武川鎮軍閥とも呼ばれ、北周以来の支配者集団が貴族化したものである。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "関隴集団以外の貴族として漢以来の長い伝統を持つ山東貴族があり、影響力には乏しいが社会的な名望は関隴系よりも上だった。太宗は貴族を九等に格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、はじめ山東貴族の崔氏が第一等、皇室の李氏が第三等とされていた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、皇室の李氏を第一等・外戚の長孫氏や独孤氏などを第二等、崔氏を三等とした。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "五品以上の官品を持つ者(ないし皇族・姻戚)にはその子弟が無条件で官品を得られる権利があった。これを資蔭といい、これによって官僚になった者を任子と呼ぶ。例えば最高の一品官の子であれば正七品上が与えられる。一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、科挙では最高でも正八品上から任官することになり、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。更に試験に合格したとしてもすぐに任官できるわけではなく、尚書吏部で行われる身・言・書・判という人物審査に合格して初めて任官することが出来た。この人物審査は貴族的な立ち居振る舞いを求める物であり、科挙の制度の中に貴族の既得権益を守る意図があった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "武則天は権力奪取の過程において長孫無忌などの関隴貴族および伝統的な門閥貴族と対立し、これに対抗するために科挙官僚を優遇して積極的に引き上げた。後の玄宗治世の前半に科挙官僚が中心になって開元の治を導いた。玄宗後半になると関隴系が息を吹きかえし、再び政治上の主導権を握るようになった。その代表と言えるのが活戸政策を主導した宇文融であり、その後に19年の長きにわたって宰相の地位にあった李林甫である。李林甫によって関隴系の優位は確固たるものとなる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "安史の乱の後になると科挙合格者に対する社会的声望が高まり、任子の資格を持つものであっても科挙を受けるものが出てくる。9世紀に入ることになると科挙官僚の勢力は貴族勢力と伍するほどになっていた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "そのような中で起きたのが牛李の党争である。任子出身の李徳裕と科挙出身の牛僧孺・李宗閔の両派閥が鋭く対立した(この党争の捉え方に対して種々の意見・議論がある。その内容については牛李の党争の項目を参照)。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "その後の乱の続発・藩鎮勢力の復権などの情勢の変化の中で貴族の勢力は大きく衰退し、五代から宋に至る中で貴族勢力は完全に滅びたと考えられる。そして宋では科挙に合格して官僚資格を得た新興地主層が士大夫と呼ばれる新たな支配者集団を形成することとなる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "府兵制が逃戸の増大・兵役拒否などによって立ち行かなくなったことにより、それまでの徴兵制から募兵制に変更せざるを得なくなった。またそれ以前から周辺民族の活動が活発化し、辺境防衛の強化が求められていた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "この頃の地方防衛では軍・城・守捉・鎮と呼ばれる軍事組織を各地に配置していた。これらをまとめて軍鎮と呼ぶ。軍鎮の長官を軍使といい、軍鎮1つあたり平均して1万、総兵力60万と号していた。これら軍鎮の統括は当初は都護府が行っていたが、後にこれをまとめるために置かれたのが藩鎮であり、その長が節度使である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた。この10の節度使の総兵力は49万・軍馬数は7-8万となりとなり、唐の中央軍の兵力を大きく上回っていた。この10の節度使のうち、安西(亀茲)・北庭(庭州)・平盧(営州)の3つが万里の長城の外にある長城外節度使であり、他7つが長城内節度使である。長城外節度使には軍人や蕃将(異民族の将軍)が任命され、長城内節度使にはもっぱら高級文官が就いた。長城内節度使は宰相へのエリートコースとされ、玄宗即位から李林甫登場までの25人の宰相の内、節度使から宰相になった者が14人いる。李林甫がこのコースを潰すために長城内節度使にも軍人・蕃将を任命するようにし、それが安禄山の出世・さらに結果として安史の乱に繋がることになる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "安史の乱を平定するに当たり、それまで設置していなかった内地にも藩鎮を設置するようになる。また安史軍の幹部であった李宝臣・李懐仙・田承嗣の三人をそれぞれ成徳軍・盧龍軍・天雄軍の節度使に封じることで懐柔し、乱を収めた。こうして9世紀半ばには全国に4-50の藩鎮が置かれ、長安・洛陽の二都が所属する京兆府・河南府を除くすべての地域がいずれかの藩鎮の支配地域となった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "藩鎮はそれまでは軍権だけを持つものであったが、乱後は観察使を兼任することで行政権も握るようになる。江南地域では節度使は置かれず、観察使が防御使などの軍事職を兼任することでこちらも行政・軍事権を握った。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "藩鎮の内、唐政府に対して反抗的な藩鎮を反則(藩鎮、の地)、対して比較的従順な藩鎮を順地と呼んだ。先に挙げた成徳・盧龍・天雄の3者が反則の典型で、これを河北三鎮と呼ぶ。反則藩鎮では政府に収めるべき上供も送られないことが多く、領内での徴税・官吏や兵士の任命などを勝手に行い、半独立した状態となった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "藩鎮の領内の内、節度使の府(幕府)である使府が置かれている州を使府州(または会府)といい、節度使自身がこの州の長官たる刺史を兼ねる。そしてここに常駐している軍を牙軍・牙中軍といい、藩鎮兵力の中核をなす。また領内の要所に軍鎮が配置されて守備にあたる。これを外鎮軍・牙外軍という。藩鎮は平均して5-6州をその領内に持つが、使府州以外の州は巡属州(または支郡)などと呼ばれ、それぞれの州刺史が防御使などの軍事職を兼任して州ごとに軍を持って治安維持に当たる。これらの兵士は全て傭兵であり、官費で養われる。またこれらとは別に家兵などと呼ばれる節度使の私軍を抱えることが多い。これら家兵は節度使と仮父子関係を結ぶことで個人的紐帯を強くした。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "藩鎮の中核を為す支配機関が使院と呼ばれる機関で、ここに所属する官を幕職官という。この幕職官は辟召により、藩鎮が独自に任命し、中央はそれを後で追認するだけであった。この幕職官の主な供給源となったのが科挙落第者である。科挙に合格することは非常に困難であり、毎年数百人の落第者が生まれていた。落第者とはいえ知識人であり、有用な人材である彼らを辟召によって藩鎮が吸収していった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "このような構造を持つ藩鎮だが、その長たる藩帥(節度使・観察使)の地位は必ずしも安定したものではなかった。牙軍の兵士は自らの待遇問題に敏感で、これが十分ではない場合は不満を抱いて兵乱を起こすこともあった。最悪の場合は藩帥を追放・殺害してすげ替えるといった事態に発展する。前述の家兵も、反抗的な牙軍に対して自衛のために個人的忠誠心の強い部隊が必要とされたものである。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "820年に即位した憲宗は各反則藩鎮を武力で討伐してこれらを順地とすることに成功した。これと並行して順属州の兵権と税収を節度使から取り上げ、さらに節度使を中央から派遣される高級文官が就くこととし、任期も数年で交代するようにした。これにより藩鎮の勢力は大幅に減少し、唐はある程度中央集権を回復することに成功した。ただし河北三鎮は一旦順地化した後に再び反則となった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "黄巣の乱が起きると乱の中で成り上がってきた朱全忠・李克用らが節度使の職を帯びて、藩鎮勢力が再び形成される。しかしこの唐末の藩鎮とかつての反則藩鎮とは決定的に違う部分がある。反則藩鎮は財政基盤が弱く、大量の兵士を養うためには中央からの官費が不可欠であって、唐に対して反抗的ではあっても唐と分離して存続できない存在であった。これに対して黄巣の乱後の唐は一地方政権に堕しており、藩鎮は完全に自立した存在となった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "藩鎮間の抗争と統合が行われ、唐も907年に滅ぼされる。この後の五代政権の創業者はほとんどが節度使から皇帝となっており、五代政権自体が唐の藩鎮の性格を色濃く受け継いだものと言える。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "唐は歴代王朝の中でも後漢・明と並んで宦官悪の顕著な時代とされている。",
"title": "政治"
},
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"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "六省の一つ内侍省が後宮の管理を行う部署である。長官は内侍監(正三品)。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 128,
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"text": "唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の高力士である。高力士は皇太子時代から玄宗に仕え、太平公主討伐などに功績を挙げて、玄宗の信頼を勝ち取るに至った。玄宗が皇太子を立てる際に高力士は忠王李璵(後の粛宗)を推薦し、玄宗はこの意見に従っている。このように玄宗からの信頼は非常に厚いものがあったが、玄宗退位後に粛宗を補佐して権勢を握ったこれも宦官の李輔国から誣告を受けて失脚している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 129,
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"text": "高力士までは宦官はあくまで皇帝の影の存在だったが、先に挙げた李輔国のころから宦官が表舞台に現れてくるようになる。さらに代宗のときの程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭以後、宦官の存在は唐の中で大きな位置を占めるようになる。安史の乱により唐の南北禁軍(中央軍を参照)は壊滅しており、これに代わって神策軍を代表とする北衙禁軍が再構成される。神策軍の司令官には代々宦官が任じられることになり、宦官勢力が大きな兵力を握ることとなった。この北衙禁軍により唐は藩鎮勢力の討伐に成功し、このことで宦官の勢力は増大する。さらに藩鎮に対して宦官が監軍として監察に当たるようになり、また新たに設置された枢密使が宦官の任命されて皇帝と宰相との連絡役とされるなど、もはや宦官は宮中の中だけの存在ではなくなった。",
"title": "政治"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ここに至って宦官は皇帝の廃立すら決めるようになった。12代穆宗から19代昭宗までの8人の皇帝のうち宦官に擁立されなかったのは13代敬宗だけであり、その敬宗も在位2年で宦官に殺されている。皇帝を擁立した宦官は定策国老と呼ばれ、擁立された皇帝は門生天子(皇帝を科挙の受験者に見立てている)とまで呼ばれた。この状態に対して14代文宗は宦官を誅滅しようとし、宰相李訓・鳳翔節度使の鄭注と共に宦官殺害の策を練る。835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし直前に情報が宦官側に漏れて計画は失敗、李訓らは殺される。これを甘露の変と呼ぶ。",
"title": "政治"
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"tag": "p",
"text": "強大な権力を持つ宦官に対して、官僚側も接近し、牛李の党争の際には双方の党が宦官の力を借りて政敵を追い落としている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "このように権勢を振るった宦官であったが、その権勢の源はあくまで皇帝にあり、皇帝と離れては権勢を保ち得ない存在であった。黄巣の乱の後、唐が大幅にその力を減じ、一地方政権となった後でも官僚・宦官等による宮廷内での権力争いは続けられていたが、それも藩鎮軍閥勢力による代理戦争に過ぎず、現実になんら影響を及ぼすものではなかった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "903年、朱全忠は宮中にて数百人の宦官を皆殺しにした。中央における有利を確立した朱全忠にとってはもはや宦官に利用価値は残っていなかった。そして4年後の907年に唐自体が滅亡することとなる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "※唐代の単位については以下の通り。1頃=100畝≒5.22アール。10斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=42.5 - 40g。",
"title": "社会・経済"
},
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"paragraph_id": 135,
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"text": "#均田制および#地方制度で先述したように、唐代の農民は丁男(21歳から59歳までの男性)と中男(18歳以上の男性)一人に永業田が20畝・口分田が80畝まで支給される。永業田は世襲が認められ、口分田は60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない。これに対して租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両(または布2.5丈と麻3斤)を納め、年間20日の労役の義務を負う。永業田はクワ・ニレ・ナツメなどの果樹を植えるための土地であり、口分田で穀物を育てる。唐初の主力穀物はアワであり、租として納めるのがアワなのもそれ故である。これら農村に対する行政単位が郷と里(郷里制)である。100戸をまとめて里として里正を起き、5里をまとめて郷とする(郷正は一時期を除いて置かれなかった)。里正は里の者から選ばれ、戸籍の作成・勧農・里内の不正の監視・労役の割付などにあたった。また村の中の100戸ごとに村正が置かれた(100戸以下の場合は一人、以上なら複数となる)。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "これが唐初を過ぎると粉食の習慣が一般的になり、より粉食に向いたムギが盛んに栽培されるようになる。各地の荘園では碾磑(水力を利用した石臼)が設けられ、荘園での製粉に加えて民間にも貸し出されて、その借賃が荘園の大きな収入となった。これら碾磑に使われる水は灌漑用水から引かれたので水利を阻害し、一般農民からの訴えにより政府は碾磑を撤去するようにしたが、撤去後にすぐに再建されたために効果はなかった。更に華北ではムギ栽培の普及とともに早熟のアワとムギを組み合わせた二年三毛作が成立する。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "両税法がムギとアワ(ないし稲)を徴税対象としているのもこのような状況に対応したものであり、また均田制の崩壊と両税法の施行により大土地所有が公認されたことで荘園が増大した。唐代の荘園は100頃ぐらいを上限、4、5頃を下限とした。荘園の形態としては一箇所に集中して存在するものと、他家の土地に混在して存在するものがあり、唐後期になるに従って後者の例が増える。これら荘園を耕す労働力は傭客(良民が契約して耕作に預かる者)・憧僕(荘園主所有の私賤民)と呼ばれる人々が担う。また小作に出されることも多く、荘戸・荘客(後の佃戸)と呼ばれる小作人がこれを耕作した。",
"title": "社会・経済"
},
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"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "村落内の秩序構造も変化した。前述したように里正・村正は実質的な権限を失い、代わって村落の有力者が村長などと呼ばれて実質的な指導者となり、村落の自治組織の上に州県がのる形となった。また村とは別に社という自治組織があった。社は元々土地神を信仰する地域集団を指す言葉であるが、唐代においては仏教を中心とした社の他に民衆の間での特に宗教目的ではない社(社邑)も存在した。社内部でのとりきめを社条といい、慶弔事や災害に対しての相互援助などが定められた。特に葬式に際しての援助・香典が盛んに行われ、これらの事項を連絡するために『社司転帖』という回覧板が回された。",
"title": "社会・経済"
},
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"paragraph_id": 139,
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"text": "唐代の都市は外側を全て城壁で囲み、内部も坊墻と呼ばれる壁によって坊という区画に分けられた。坊は首都長安で108(後述する東市と西市を含めて110)あり、坊の大きさは南北500から600m弱。東西で565mから1100m強。各坊には坊門があり、朝4時に開けられ夕方日没とともにに閉じられ、時間外の坊外への外出は禁じられた。また「市」と呼ばれる箇所があり、唐前半期では基本的にこの市の中でしか商業活動は認められていなかった。「市」も坊と同じく墻壁と市門によって区画され、時間外の商業は禁止だった。「市」はその他の坊と違って井の字の形をしており(これが市井という言葉の語源となったとも言われる)、井の字の中心に「市」を統括する市署が、その隣に平準署という役所があった。商人は行商を行う客商と店(肆舗)を構える「座賈(ざこ)」に分けられ、市署にて市籍に登録されて管理された。長安には東市・西市、洛陽には南市北市と西市があり、それ以外でも州や県の機関がある場所に市署が設けられた。市内部には商人の各店舗(肆舗)の他に客商のための倉庫として邸店があった(邸店は 飲食・宿泊施設も兼ねた)。市の中の店は扱う商品によって一箇所にまとめられた。これを行と呼び、絹行(呉服)、薬行、肉行、金銀行・銀行(金銀細工)、覊轡行(しゅうひこう、馬具)、衣行(仕立て屋)、秤行などの多種多様の行があった。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 140,
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"text": "商業活動の活発化とともにこれらも大きく変化を見せる。決められた「市」以外の場所にも店が進出するようになり、禁じられていた夜間営業も行われるようになる。坊の方でも坊墻が壊されて街路に出入りし、坊門の開閉も厳密に守られないようになっていた。地方の農村においても交通の要衝などには「草市」と呼ばれる商業地域が誕生するようになる。このような状態で市署の存在は有名無実のものとなり、縮小廃止への道を進むこととなる。また行もそれまでの同業種の店舗が連なる形式から同業組合いわゆるギルドへと変化した。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 141,
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"text": "漢代以来700年以上の長きに渡って五銖銭が使われていたが、唐建国4年後の621年に新たな銅銭である開元通宝を発行した。この開元通宝は五代までの340年間に通行した。なおこの銅銭のことは開通元宝と読むという説もあり、どちらが正しいかは現在でも確定していない。1文の重さは2銖4参≒4g。10文=1両、1000文=1貫となる。唐の間に開元通宝以外の高額面銅銭が何度か発行されたが、いずれも定着はしていない。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 142,
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"text": "唐政府による正式な銅銭(官銭)に対して民間で勝手に鋳造する私鋳銭が横行した。政府は私鋳は死罪として厳しく取り締まったが、それにも関わらず唐代の私鋳は歴代でも最も激しいとされる。723年には銅錫の売買と銅器の製造を禁止する銅禁令を出して私鋳業者が原料の銅を入手することを困難にした。私鋳銭の中でも官銭の2銖4参に近い重量を持つ良銭もあれば、銅を少なくした悪銭もある。政府は良銭であれば通行することを認め、悪銭を取り締まった。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 143,
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"text": "安史の乱以降、#兵制が府兵制から募兵制へと移行したことで、軍事支出が大幅に増加したこと・両税法の導入により納税が銅銭を基本とすることとなったことなどから銅銭の需要が激増し、銅銭の不足をもたらした(これを銭荒と呼ぶ)。これにより銅の価格は高騰し、銅銭を鋳潰して銅として売る行為(私銷)が増えた。こうなると私鋳銭で良銭を作ることは難しくなり、悪銭が増えて横行することとなる。政府も私銷や積銭(銅銭を溜め込むこと)の禁止などで銅銭不足に対応しようとしたが、原料の銅不足はいかんともしがたかった。これが会昌の廃仏により、各地の仏像を鋳潰したことでそれを原料とした銅銭が大量に発行された。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 144,
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"text": "ただし当時の貨幣としては銅銭以外に絹などの現物貨幣が使われていた。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 145,
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"text": "漢代までは江南は後進地であり、中原の経済に大きな影響を与えるようなものではなかった。これが六朝時代を通じて開発が進み、飛躍的な発展を遂げた。さらに大運河の完成により、華北と江南の経済が結びついた。当初中国の物流は西(四川・陝西)と東(江南・河北・華南)に分断されており、2つが洛陽と長安間の道を通じてか細く繋がっているに過ぎなかった。そのため首都長安では100万と謳われた人口を支えることが出来ず、朝廷ごと洛陽に引っ越して食を確保する「東都就食」という行為が頻繁に行われた。裴耀卿は733年に大規模な漕運改革を行い、南から洛陽・長安へ食料供給するシステムを作り上げることに成功する。これら漕運を統括するために設置されたのが転運使である。以前は南から北へ運送できる穀物の量はせいぜい10~20万石であったのが、改革以降は毎年200万石の穀物を送ることができるようになった。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 146,
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"text": "安史の乱後に#専売制が始まると、その運送においても大運河が大きな役割を果たす。それに伴い乱の影響で機能不全に陥っていた大運河の再整備が行われ、塩の販売利益がそれに当てられた。塩専売を司る塩鉄使と密接な関係を持つ転運使は両者が兼任されるようになり、宰相に次ぐ重要ポストとされた。この時の財政関連として塩鉄転運使の他に六分の一つ戸部と財政全般を司る度支があり、度支が陝西・山西・四川の唐西部を塩鉄転運使が河北・河南・山東・江南の唐東部を管轄するようになる。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 147,
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"text": "安史の乱以後の北方民族との戦闘に必要な諸経費・物資を専売制の利益・江南からの富(と関中における屯田・和糴)で支える南北分業体制が整えられたのである。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 148,
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"text": "当時の国外交易には朝貢と互市の2つの形式がある。朝貢は国外からの使節が貢物として持ってきたものに対して絹製品を中心とした回賜品が与えられる形態で、互市は辺境の特定の場所に限って交易が認められた。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 149,
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"text": "西方および北方とは主に馬を輸入し、絹で贖う絹馬交易が行われた。安史の乱以後はウイグル帝国と取引が行われた。この北方・西方との交流に大きな役割を果たしたのがソグド人商人たちである。彼らが構築したネットワークは民間交易だけではなく、軍需物資の運搬などの公的業務も請け負った。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "南の東南アジア諸国とは南海交易が行われた。拠点となったのが広州で、ここに市舶司が置かれて積み荷の検閲・課税・管理などが行われた。主な輸入品は香料・染料・タイマイなどである。安史の乱以降はシルクロードが吐蕃の占領により途絶してしまい、南海交易の重要度は増した。また多数のイスラム商人が来て商売を行い、広州は大いに繁栄する。しかし黄巣の乱の際に甚大な被害を受けて交易港としての機能を喪失し、回復までに数十年の時を要した。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 151,
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"text": "東の日本・新羅・渤海とも朝貢貿易が行われ、人参や工芸品が献上された。",
"title": "社会・経済"
},
{
"paragraph_id": 152,
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"text": "唐は歴代でも漢詩の黄金時代とされる。唐の文化を初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分することが南宋の厳羽が提唱して以来、一般化している。散文は盛唐までは漢詩の影に隠れて目立たない存在であったが、中唐に韓愈らが古文復興運動が起こして注目を集めた。同じく中唐以降に小説や講唱などの通俗文学も発展を遂げた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 153,
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"text": "初唐は建国直後から玄宗即位までの618年から712年までの期間である。この時期に六朝からの流れを受けて近体詩(五言・七言、絶句・律詩)の規則・形式が確立した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "建国直後の詩人として名が挙がるのが魏徴と王積である。魏徴は太宗の諫臣として名高く、詩人としては豪快な詩風で代表作「述懐」は『唐詩選』の巻頭を飾る。王積は官界で栄達せず隠退し、陶淵明風の素朴な隠士としての生活を詠んだ詩が特徴。太宗本人も詩や書など文化面においても高い評価を受ける人物であり、文学の士を幕下に多く置いた。その中のひとりが上官儀であり、上官体と呼ばれる詩風で朝廷を風靡した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 155,
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"text": "初唐の代表的詩人とされるのが王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王の四人で、初唐四傑と称される。いずれも高宗期に活躍した詩人で、四人とも官界に入るも不遇だったという共通点があり、その影響から彼らの詩には自照の傾向が強い。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "その後の武則天は積極的に文化を称揚し、科挙の進士科に詩を必須のものとしたことで唐詩の隆盛を導いたと評される。武則天期の代表詩人として「沈宋」と称される沈佺期と宋之問がいる。沈は七言律詩、宋は五言律詩を得意とした。",
"title": "文化"
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{
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"text": "これら南朝から受け継いだ技巧的な詩風に対して、陳子昂は漢魏の詩風に学んで質実剛健な詩を作り、盛唐の詩へ影響を与えた。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 158,
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"text": "盛唐は玄宗が即位した712年から退位させられた玄宗が死去する762年までの期間である。この時代を代表するのは何と言っても李白・杜甫であり、孟浩然・王維がそれに次ぐ。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 159,
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"text": "李白は西域出身で子供の頃に蜀に移住。若き日は江南を旅し、40代になってから一度仕官したものの朝廷の気風と合わず、官界を追放される。その後はまた旅をして最後は当塗にて病死した。伝説では舟遊びの最中に酔って水面に写った月を取ろうとして転落し、溺死したという。その詩の特徴は豪快で明るく、流動感に溢れ、詩仙と称される。",
"title": "文化"
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"text": "",
"title": "文化"
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"text": "杜甫は河南省鞏県(現鞏義市)の生まれで、その遠祖は西晋の将軍杜預である。24歳のときに科挙進士科を受験するが落第。以後も官位を得るために活動するもなかなか上手く行かず、44歳のときにようやく士官が叶うが直後に安史の乱が勃発。以後、粛宗の元で一時的に官職を得るも乱の激化により家族を連れて各地を転々として最後は船の上で没した。その詩は社会や自身を直視した現実的な姿勢が特徴である。",
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"text": "孟浩然は襄陽(現襄陽市)の人で科挙に落第して、各地を放浪・隠逸生活に入った。その生活を詠んだ「春暁」が特に有名。しかし孟浩然は官途が絶たれたことに失意を感じていたようであり、隠逸生活を楽しんでいた陶淵明に対して、孟浩然は失意・孤独・寂寥感を感じさせる詩が特徴的である。",
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"title": "文化"
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"text": "王維は当時の名門貴族・太原王氏の出身で若き頃より才能を発揮して社交界の寵児となった。21歳のときに科挙に及第して官僚の地位を得ると地方に転出した後に中央へと戻って朝廷詩人として名声を得た。しかし安史の乱が勃発すると捕らえられて反乱軍の官に就かされ、乱終結後にこのことを罪に問われて降格されるが、その後は尚書右丞まで登る。王維は自然詩を得意とする。",
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"text": "中唐は安史の乱終結の763年から840年までの期間である。この時代を代表する詩人が白居易・元稹である。",
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"text": "白居易は15の頃から詩作と勉学に励み、29歳のときに科挙進士に合格、中央で官歴を積んだ。しかし44歳のときに左遷されて地方へ転出、以後は地方官を歴任し、引退後は洛陽で隠居生活に入った。このような経緯から若き日は政治・社会批判を行った詩(諷喩詩)を多く詠み、左遷以後は世俗を超越し身近な生活を描いた詩(閑適詩)を詠んだ。代表作には「新楽府」・「長恨歌」など。",
"title": "文化"
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"text": "元稹は白居易の同期生で、生涯に渡って友情が続き、その友情は元白の交わりと呼ばれる。官は同中書門下平章事にまで登ったが、剛直な性格によりしばしば左遷された。詩風は白居易と共通するものがあり、2人の詩風を元和体と呼ぶ。",
"title": "文化"
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"text": "またこの時期に韓愈・柳宗元が中心となって古文復興運動が行われた。六朝時代からの対句と装飾に重きを置いた駢文(四六駢儷体)を排除し、『史記』を模範とした文章に回帰することを目指す運動で、北宋の欧陽脩を経て文壇を支配するようになり、清末までその状態が続いた。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 170,
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"text": "晩唐は840年から唐が滅亡する907年までの期間である。この時期を代表する詩人として杜牧・李商隠らが挙がる。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "杜牧は親族から宰相を出す名門の出身で、自らも26歳で進士に合格。職務に励むが、剛直な性格から上から疎まれることもあった。その後、弟ら親類を養うために志願して収入の良い地方官を歴任し、49歳のときに中央に呼び戻されるが翌年に病没した。詩風は軽妙洒脱。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 172,
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"text": "李商隠は懐州河内県(現在の河南省焦作市沁陽市)の人。典故を並べた華麗かつ難解な詩が特徴。詩作のときに書物を多数並べていたので、「獺祭魚」と呼ばれた。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 173,
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"text": "絵画の分野においては、唐の後期には水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られる。同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は、この代表として王墨・李霊省・張志和の3人を挙げている。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 174,
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"text": "書道の分野においては、玄宗の時代の人物である顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立て、後に北宋の書家・画家の蘇軾は「書は顔魯公に至りて畢(おわ)れり。」と評した。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 175,
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"text": "コモンズの唐代の美術のカテゴリも参照。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 176,
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"text": "唐の最大領域は高宗期の660年代で、直接統治地域は東西が朝鮮北部から天山山脈のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域でも異民族の自治による間接支配を執っている。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 177,
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"text": "唐の北方異民族支配は羈縻支配と呼ばれる。異民族の支配地に唐の直接統治機関である都督府・羈縻州を設置し、その長官たる都督や刺史にその地の異民族の長を任命してその部族の自治権を認めるものである。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、高句麗の高仙芝、百済の黒歯常之、日本人の阿倍仲麻呂や雑胡(異民族の混血)の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境へ藩鎮の配置を進め、羈縻支配を改めていったが、吐蕃により唐の西北国境は不安定となる。9世紀にはウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。また、唐の衰退は東方の諸国においても動揺を与え、唐の滅亡から30年経たないうちに渤海・新羅が相次いで滅亡・日本においても律令体制が動揺することとなる。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "6世紀に巨大帝国を築いた突厥は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の626年には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "しかし唐が統一を果たした628年以降に攻勢に転じ、630年には突厥から鉄勒が離反したことに乗じて東突厥を滅ぼすことに成功した。突厥の後に台頭した鉄勒部族の一つ薛延陀も646年に制圧し、翌年に安北都護府(もしくは燕然都護府)・単于都護府を設置した。太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗(カガン)はハーン、すなわち遊牧民世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 183,
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"text": "その後、突厥は唐の単于都護府下に支配されていたが、度々唐に対して反抗し、682年に突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において自立した。突厥は唐に侵攻して辺境を悩ませ、突厥の勢力を取り戻した。この時期のことを記したものが突厥碑文と呼ばれる石碑文である。その後、突厥は内紛で勢力を落とし、744年に鉄勒の一部族であったウイグル(回鶻)を中心とした部族連合(「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)によって滅ぼされ、ウイグルが突厥にかわってモンゴル高原を支配下においた。その後に安史の乱が起きると唐からウイグルに要請があり、それに応えて援軍を送った。その見返りとして莫大な絹を唐からウイグルへ送ることとなり、絹馬交易(絹と馬を交換する交易。#外国交易参照)にてウイグル側に有利なレートで交易を迫り、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし840年に天災とキルギス人の攻撃によりウイグル国家は崩壊、この後に高原を統一する勢力はモンゴル帝国まで待たねばならない。",
"title": "国際関係"
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"text": "唐は640年に高昌国(現トルファン)を滅ぼしたのを初めとして、シルクロード沿いのオアシス国家を服属させて安西都護府(クチャ)を設置し、西域経営を行った。",
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"text": "また635年に青海の吐谷渾を支配下に置き、チベット高原の吐蕃も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を吐蕃公主として嫁がせるなどして懐柔に努めた。",
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"text": "唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・パミール高原以西のトランスオクシアナにまで及ぶが、751年のタラス河畔の戦いで敗戦したことによって頓挫し、中央アジアの支配権はイスラム帝国に譲ることになる。なお、この戦いの捕虜により、製紙法が西方に伝わった。",
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"text": "安史の乱が起こると、吐蕃は乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードの河西回廊は吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。その後、唐の立ち直りにより敵対関係は続けるもののその攻勢を弱め、822年に唐と完全に和睦。以降は唐と吐蕃の間では戦闘はなくなる。",
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"text": "現在の雲南省を支配した南詔は元は大蒙国と号し、唐から刺史の位をもらっていた。その後、勢力を拡大して唐から雲南王に任ぜられ、更に勢力を拡大して雲南全てを統一した。その後、唐に対して背き、750年の唐の討伐軍を撃退。独立を果たしたが、独力ではそれを維持できず、吐蕃の援助を受けることとなる。",
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"text": "唐が成立した618年に高句麗・百済・新羅の三国は唐に朝貢し、それに対して三国は唐からそれぞれ遼東郡王・帯方郡王・楽浪郡王に冊封されていた。642年に高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こしたことと新羅からの要請で太宗は高句麗に3度に渡って遠征軍を送るが失敗に終わる(唐の高句麗遠征)。太宗が崩御したことで高句麗遠征は一旦終了するが、次の高宗のときに新羅が高句麗・百済の侵攻を受けたことで唐に救援要請を送り、658年と659年に二度遠征軍を送るがこれも失敗に終わる。660年の遠征ではまず南の百済を滅ぼした。このときに百済移民が日本へと救援要請を送り、663年に白村江の戦いが起こるがこれに大勝して追い返した。孤立した高句麗に攻撃をかけ、668年には高句麗首都平壌を陥落させて、高句麗を滅ぼした。唐はこの土地に安東都護府を設置する。",
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"text": "その後、新羅が半島にあった唐の都督府ほか各地の行政機関を襲撃(唐・新羅戦争)した結果、安東都護府は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。",
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"text": "一方で東北地方(満州)ではこの地方に移住させられていた契丹が反乱を起こした混乱に乗じて、高句麗の遺民と粟末靺鞨が中心となり震国を立てる。唐から渤海郡王に冊封されたのを期に渤海と改める。",
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"paragraph_id": 192,
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"text": "太宗時代に日本は遣唐使を送っていたが、白村江の戦いの後、唐の来襲を恐れて大宰府などに大規模な防備体制を敷いて、遣唐使は中断された。遣唐使が再開するのは702年のことでその後は唐滅亡までに16回送られた。遣使の中にいた阿倍仲麻呂(中国名「朝衡」ないし「晁衡」)は唐に残って朝廷に仕えて出世し、節度使の地位まで登った。また唐からも鑑真が生命を賭して日本へと渡った。しかし安史の乱以降の唐が衰退したことで危険を犯して送る意義が少なくなり、頻度は激減する。そして838年を最期に遣使は途絶え、894年、菅原道真の建議により遣唐使は停止された。",
"title": "国際関係"
}
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唐は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。
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{{Otheruses}}
{{redirect|唐人|佐賀市の字の唐人|唐人 (佐賀市)}}
{{基礎情報 過去の国
|日本語国名 = 唐
|公式国名 =
|建国時期 = [[618年]]
|亡国時期 = [[907年]]
|先代1 = 隋
|次代1 = 五代十国時代
|位置画像 = 唐疆变迁.gif
|位置画像説明 = 唐の領土の変遷
|公用語 = [[中古漢語]]
|首都 = [[長安]]
|宗教 = [[儒教]]、[[仏教]]、[[道教]]<br />[[ゾロアスター教]]、[[キリスト教]]、[[マニ教]]<br />[[イスラム教]]
|面積測定時期1 = [[653年]]
|面積値1 = 10,760,000
|面積測定時期2 = [[668年]]
|面積値2 = 12,370,000
|人口測定時期1 = [[639年]]
|人口値1 = 12,371,700
|人口測定時期2 = [[701年]]
|人口値2 = 37,140,000
|人口測定時期3 = [[753年]]
|人口値3 = 53,701,370
|人口測定時期4 = [[9世紀]]
|人口値4 = 約71,000,000
|元首等肩書 = 皇帝
|元首等年代始1 = 618年
|元首等年代終1 = 626年
|元首等氏名1 = 高祖[[李淵]]
|元首等年代始2 = 904年
|元首等年代終2 = 907年
|元首等氏名2 = [[哀帝 (唐)|哀帝]]
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = [[618年]]
|変遷2 = [[突厥]]を服属させる
|変遷年月日2 = [[630年]]
|変遷3 = [[高句麗]]を滅ぼす
|変遷年月日3 = [[668年]]
|変遷4 = [[武則天]]の簒奪([[武周]])
|変遷年月日4 = [[690年]] - [[705年]]
|変遷5 = [[タラス河畔の戦い]]
|変遷年月日5 = [[751年]]
|変遷6 = [[安史の乱]]
|変遷年月日6 = [[756年]] - [[763年]]
|変遷7 = [[黄巣の乱]]
|変遷年月日7 = [[874年]] - [[884年]]
|変遷8 = 滅亡、[[五代十国時代]]へ
|変遷年月日8 = [[907年]]
|通貨 = [[開元通宝]]など
|注記 =
|面積値3=5,400,000|面積測定時期3=[[715年]]<ref>{{cite journal |last1=Turchin|first1=Peter|last2=Adams|first2=Jonathan M.|last3=Hall|first3=Thomas D | title = East-West Orientation of Historical Empires | journal = Journal of world-systems research|date=December 2006 |volume=12|issue=2 |page=222 |url =http://jwsr.pitt.edu/ojs/index.php/jwsr/article/view/369/381 |issn= 1076-156X}}</ref><ref>{{cite journal |title=Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia |first=Rein |last=Taagepera |author-link=Rein Taagepera |journal=[[International Studies Quarterly]] |year=1997 |volume=41 |issue=3 |pages=475–504 |doi=10.1111/0020-8833.00053 |jstor=2600793}} p. 492.</ref>}}
{{ウィキポータルリンク|中国}}
{{中国の歴史}}
'''唐'''(とう、{{ピン音|Táng}}、[[618年]] - [[907年]])は、[[中国]]の[[王朝]]。[[李淵]]が[[隋]]を滅ぼして建国した。[[7世紀]]の最盛期には、[[中央アジア]]の砂漠地帯も支配する大[[帝国]]で[[中央アジア]]や[[東南アジア]]、[[北東アジア]]諸国([[朝鮮半島]]や[[渤海 (国)|渤海]]、[[日本]]など)、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は[[長安]]に置かれた。
== 歴史 ==
[[File:Tang gao zu.jpg|left|thumb|200px|建国者 李淵]]
=== 前期 ===
==== 建国 ====
[[西晋]]の滅亡以来、[[中国]]は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが北朝[[隋]]の[[文帝 (隋)|文帝]]により、589年に再統一が為された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=285}}。文帝は内政面でも[[律令]]の制定{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=285-287}}・[[三省六部]]を頂点とする官制改革{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=287-289}}・[[郡]]を廃止して[[州県制]]を導入{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=288-289}}・[[科挙]]制度の創設{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=289-290}}など多数の改革を行った{{Sfn|氣賀澤|2005|p=378}}。
604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広([[煬帝]])が後を継ぐ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=293}}。煬帝は[[大運河]]・[[洛陽]]新城などの大規模土木工事を完成させた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=294-295}}。さらに612年から3年連続で[[高句麗]]に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる([[隋の高句麗遠征]]){{Sfn|氣賀澤|2005|pp=57-58}}。その最中の613年に起きた[[楊玄感]]の反乱をきっかけにして隋全体で反乱が勃発{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=299}}、大小200の勢力が相争う内乱状態となった([[隋末唐初]]){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=298}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=58}}。
国内の混乱が激しくなる中、北の東[[突厥]]に面する[[并州|太原]]の[[留守官|留守]]とされていた唐国公[[李淵]]は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、すぐに大興城(長安)を陥落させることに成功。煬帝を[[太上皇|太上皇帝]]に祭り上げて、煬帝の孫で大興城の留守である[[恭帝侑|楊侑]]を傀儡の皇帝に立てた、この時、煬帝は江都([[揚州 (江蘇省)|揚州]])で現実から逃避して酒色に溺れる生活を送っていたが{{Sfn|布目|栗原|1997|p=72}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=67}}、長安占拠の報によって煬帝の親衛隊の間に動揺が広がり、618年に[[宇文化及]]を頭としたクーデターにより煬帝は弑逆された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=311-312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=72}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=67}}。
同年、李淵は恭帝から[[禅譲]]を受けて即位。[[武徳]]と元号を改め、'''唐'''を建国した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=72}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=67}}。この時点で[[王世充]]・[[李密]]・[[竇建徳]]・[[劉武周]]など各地に群雄が割拠していた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=66}}。李淵(以下高祖とする)は長男の[[李建成]]を[[皇太子]]とし、次男の[[李世民]]を[[尚書令]]として{{Sfn|布目|栗原|1997|p=73}}、各地の群雄討伐に向かわせた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=74}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=68}}。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=74}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=69}}。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}。
抜群の功績を挙げた李世民は皇太子である李建成および四男の[[李元吉]]{{Refnest|group="注釈"|name="李淵三男"|三男の李玄覇は早世している{{Sfn|氣賀澤|2005|p=68}}。}}と後継の座を巡って対立するようになるが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}、高祖は曖昧な態度でことを決めることができなかった{{Sfn|氣賀澤|2005|p=71}}。[[626年]]、李世民は長安宮城の北門玄武門にて李建成と李元吉を殺し([[玄武門の変]])、さらに父の高祖に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった(太宗){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=77}}。
==== 貞観の治 ====
[[File:TangTaizong.jpg |left |thumb |200px|太宗 李世民]]帝位を継いだ太宗は626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた[[朔方郡]]の[[梁師都]]を平定し、統一を果たした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=319}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=79}}。更に630年には突厥の内紛に乗じて[[李靖]]・[[李勣]]を派遣してこれを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった[[鉄勒]]諸部から天可汗([[テングリ]]=[[カガン]])の称号を奉じられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=76}}。647年にはこの地に燕然都護府をおいて鉄勒を[[羈縻支配]]においた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}。635年には[[吐谷渾]]を破り、更に[[チベット]]の[[吐蕃]]も支配下に入れた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。ただし吐蕃には度々[[公主]]を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。
内政面においては[[房玄齢]]・[[杜如晦]]の皇子時代からの腹心に加え、李建成に仕えていた[[魏徴]]・李密の配下であった李勣など多数の人材を集めて政治に当たった。この結果、627年の時に米一斗が絹一匹と交換されていたのが、630年には米一斗が4・5銭まで下がり、一年間の死刑者数は29人しかおらず、(盗賊がいなくなったので)みな外扉を閉めないようになり、道中で支給があったので数千里を旅する者でも食料をもたないようになったといい、[[貞観の治]]と呼ばれる太平の時代とされた。この時代のことを記した『[[貞観政要]]』は後世に政治の手本として扱われた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=322}}。しかし統一から間もないこの時点でそこまで国力を回復できたか疑問が多く、貞観の治の実態に対して史書や『貞観政要』の記述はかなりの潤色が疑われる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=80}}。
太宗の政治も徐々に弛緩が見えるようになり、643年に魏徴が死ぬとその傾向に拍車がかかった{{Sfn|氣賀澤|2005|p=80}}。
642年、高句麗で[[泉蓋蘇文]]がクーデターを起こし、唐から遼東郡王に[[冊封]]されていた[[栄留王]]を殺し、その弟の[[宝蔵王]]を王位につけた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=328}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=101}}。太宗はすぐに出兵を考えたが、一旦は取りやめる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=101}}。しかし[[新羅]]からの要請を受けて645年から三度(645年、647年、648年)にわたって高句麗遠征を行うが、いずれも失敗した([[唐の高句麗遠征]]){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=128}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=101-102}}。
三回目の高句麗遠征が終わった後の649年に太宗は崩御{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=321}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=107}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=82}}。太宗の九男の晋王李治が三代皇帝[[高宗 (唐)|高宗]]となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=320-321}}。
==== 武周革命 ====
太宗と[[長孫皇后]]の間には[[李承乾]](長男)・[[李泰]](四男)・李治(九男)の三人の男子がいた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=120}}。最初に李承乾が皇太子に立てられたが、李承乾は成長するにつれ奇行が目立つようになり、最後には謀反の疑いにより廃された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=120}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=88}}。次いで太宗は学問に通じた李泰を皇太子にしようとしたが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=320}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=88}}、長孫皇后の兄の[[長孫無忌]]が凡庸な治を次代皇帝に推薦し、太宗もこれを入れて李治が後継に決まった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=320}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=88}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=82}}。長孫無忌には凡庸な皇帝の後見役になることで権勢を振るうという意図があった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=320}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=82}}。
高宗の治世初期は長孫無忌・[[褚遂良]]・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=331}}。ここに登場するのが武照、後の[[武則天]]である。
武照は太宗の後宮で[[才人]]だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って[[昭儀]]となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=331-332}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=111-112}}。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=114-115}}。皇后となった武則天により長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、[[垂簾の政]]を行い、武則天は高宗と並んで「二聖」と呼ばれた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=119}}。
この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=328-329}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=84}}。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。
[[File:武则天画像.jpg|right|thumb|200px|武則天]]
683年に高宗が死去すると武則天は高宗との間の子の李顕を帝位につけた([[中宗 (唐)|中宗]])が{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}、わずか54日でこれを廃し、弟の李旦をこれに替えた([[睿宗 (唐)|睿宗]]){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}。当然実権は武則天にあり、彼らは武則天が皇位に登るまでのつなぎに過ぎなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}。武則天に対する反乱も684年に起きた。李勣の孫の[[徐敬業|李敬業]]が起こしたもので、反乱軍の中に初唐を代表する詩人の一人[[駱賓王]]がおり、駱賓王が書いた檄文を読んだ武則天はその文才に感心し、「このような才能のある者を流落させているのは宰相の責任だ」といったという{{Sfn|布目|栗原|1997|p=123-124}}。
この反乱も程なく鎮圧され、[[690年]]に遂に武則天は帝位に登り、国号を'''周'''とした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=333}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=128}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=88}}。中国史上唯一の女帝である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=333}}。睿宗は皇嗣に格下げされて武の性を賜った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=333}}。
武則天の政治は女性が皇帝になったこと、[[武承嗣]]・[[武三思]]ら武氏一族、[[薛懐義]]や[[張易之]]・[[張昌宗]]兄弟など武則天の寵愛を受けた者たちなどが権力を握って専横したということ、酷吏を使って密告政治を行ったことなどで評判が悪い{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=334}}。一方で武則天は当時はまだ有効に機能していたなかった科挙{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=290}}から人材を組み上げており、武則天により抜擢された[[姚崇]]は後の[[玄宗 (唐)|玄宗]]時代に活躍し、[[開元の治]]を導いたと評される{{Sfn|布目|栗原|1997|p=146}}。また武周の15年はほぼ平穏な時代であり、この時代に唐は最大版図を実現している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=333-334}}。
老いた武則天の後継者として武承嗣たちは自らが後継になることを画策したが、武則天が最も信頼をおいていた重臣の[[狄仁傑]]はこれに強く反対{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=335}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=132}}。最終的に武則天の決断により廃されていた中宗が戻り、698年に皇太子に復された。更に[[705年]]、狄仁傑に推薦されて宰相となっていた張柬之は張易之・張昌宗兄弟を斬殺し、ついには病床の武則天に迫って彼女を退位に追い込み、中宗を即位させ、唐が復活した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=335}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=132}}。同年に武則天は死去{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=339}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=132}}。
武則天死後、中宗の皇后[[韋皇后 (唐中宗)|韋氏]]が第二の武則天にならんと政治に容喙するようになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=339}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=135}}。710年に韋后とその娘[[安楽公主]]は中宗を毒殺{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=340}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=136}}、[[殤帝 (唐)|殤帝]]を傀儡とした後自らが帝位に登らんと画策したが、睿宗の三男の[[玄宗 (唐)|李隆基]]と武則天の娘の[[太平公主]]によるクーデターにより韋后と安楽公主は誅殺され、睿宗が再び即位した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=340}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=136}}。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=343}}。
2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「[[武韋の禍]]」と呼ぶ{{Sfn|氣賀澤|2005|p=90}}。
==== 開元の治 ====
[[File:Tang_XianZong.jpg|left|thumb|200px|玄宗]]
[[File:Tang Dynasty in the 8th century ja.svg|right|thumb|400px|8世紀前半の唐]]
[[712年]]([[先天 (唐)|先天]]元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した([[玄宗 (唐)|玄宗]])。翌年に太平公主を処刑して実権を掌握した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=344}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=143}}。
親政を始めた玄宗は前述の[[姚崇]]を抜擢して宰相とした。これに答えて姚崇は「宦官を政治に介入させないこと」「皇帝に親しい臣が不正を行うのをとりしまること」「外戚に政治介入させないこと」などを提言し、玄宗もこれを受け入れて政治に取り組んだ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=345}}。姚崇のあとを受けた[[宋璟]]も姚崇の方針を受け継いで政治改革を進めていった。姚崇と宋璟は貞観の房(玄齢)・杜(如晦)に対して姚・宋と称される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=345}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=146}}。この治世により太宗の時に戸数が300万に満たなかったのが、726年(開元十四年)には戸数は760万あまりとなり、人口も4千万を超えた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=147}}。穀物価格も低価で、兵士は武器を扱うことがなく、道に物が落ちていても拾う者はいなかったという{{Sfn|布目|栗原|1997|p=147-148}}。この時代を[[開元の治]]とよび、唐の極盛期とされる{{Sfn|氣賀澤|2005|pp=379-380}}。文化的にも[[杜甫]]・[[李白]]の漢詩を代表する詩人たちが登場し、最盛期を迎えた。
ただしその裏では唐の根本である律令体制の崩壊が始まっていた。律令体制では民を本籍地で登録し、それを元に[[租庸調]]・役(労役・兵役)を課すことになっていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=394}}。しかし負担に耐えかねて本籍地から逃亡する民が増えた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=394}}。これを[[逃戸]]と呼ぶ{{Sfn|布目|栗原|1997|p=244}}。この現象は武則天時代から問題になっていたが、その後も増え続けていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=395}}。これに対しての政策が[[宇文融]]によって出された[[括戸政策]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=395}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=244}}。全国的に逃戸を調査し、逃戸を逃亡先の戸籍に新たに登録し(これを客戸という)、再び国家の支配下に組み入れようとしたものである。721年から724年にかけて行われた結果、80万余りの戸が新たに登録された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=395}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=244}}。
またもう一つの変化が[[節度使]]の設置である。上述の理由により兵制である[[府兵制]]もまた破綻しており{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=447}}、国防のために睿宗時代の710年に[[亀茲]]に安西節度使を設置したのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=161-162}}。
さて宇文融は北周帝室に祖を持つ貴族であり、[[恩蔭]](官僚が自分の子を官僚にする権利)の出身者である{{Sfn|氣賀澤|2005|p=92}}。姚崇・宋璟の後、科挙出身者である[[張説]]・[[張九齢]]らが宰相となったが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=395}}、次第に政界では貴族出身者が権力を握るようになる。宇文融の他に[[裴耀卿]]は[[大運河]]の運用を改善して漕運改革を行い、首都長安の食糧事情を大きく改善する功績を挙げた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=158}}。これらは実務に長けた貴族出身官僚であり、この流れを受けて[[李林甫]]が登場する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}。
李林甫は高祖の祖父の[[李虎]]の末裔で{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=347}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=156}}、734年から752年に没するまでの19年間宰相の地位にあった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=347}}。李林甫の政策として租庸などの運搬の際の煩雑な書類を簡素にしたというものがある{{Sfn|布目|栗原|1997|p=158}}。実務には長けていたが、「口に蜜あり、腹に剣あり」と呼ばれた性格で、玄宗やその寵妃たち・側近の[[高力士]]らに上手く取り入る一方で、自分に対抗する政敵を策謀を持って排除し自らの地位保全に熱心であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=347}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=162}}。
この姿勢の一環として行われたのが、節度使に異民族を採用するという政策である。節度使のうち、[[万里の長城|長城]]の内側の節度使はそれまでは高級文官が就任するのが常であったが、李林甫はこれに異民族出身の蕃将を任命するようにした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=347}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=161}}。節度使が宰相への出世コースになっていたのを潰す意図があったとされる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=347}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=161}}。このことが後の[[安禄山]]台頭に繋がったといえる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=347}}。
[[File:Pao-Shan Tomb Wall-Painting of Liao Dynasty (寳山遼墓壁畫:頌經圗).jpg|right|thumb|300px|楊貴妃]]
玄宗は太子時代の妃であった王氏を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である[[武恵妃]]を寵愛し、その子である第十八子の寿王[[李瑁]]を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=348}}、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵(後の[[粛宗 (唐)|粛宗]])を太子に立てていた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=155}}。この寿王李瑁の妃の一人であったのが[[楊貴妃]]である。
一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は[[白居易]]の『[[長恨歌]]』に歌われている。その中に「此れ従り君主は早く朝せられず」とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=165-166}}。
==== 安史の乱 ====
楊貴妃を愛する玄宗はその一族も引き立てた。その中の一人が楊貴妃の又従兄弟の[[楊国忠]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=349}}。元は酒と博打で身を持ち崩した一族の鼻つまみものであったが、楊貴妃のおかげで官界に入った後は財務関係の実務で功績を挙げて出世を続け、750年には[[御史大夫]]兼[[京兆尹]]に、更に752年に李林甫が死去すると遂に宰相となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=349}}。
楊国忠と権力を争ったのが安禄山である。安禄山は[[ソグド人]]の父と[[突厥]]の母の間に生まれた雑胡(混血の異民族)であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=353}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=294}}。范陽節度使の[[張守珪]]に[[史思明]]と共に登用されてその[[仮子]]{{Refnest|group="注釈"|name="仮父子"|[[仮父子]]というのは義理の親子関係であるが、家を継がせるための養子とは違う{{Sfn|布目|栗原|1997|p=295}}。仮の父子関係を結ぶことで紐帯を強くして主従関係を強固にするためのもので、唐及び[[五代十国時代|五代]]の節度使の組織の中でよく見られるものである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=353-354}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=295}}。}}となって戦功を挙げて、742年に平盧節度使に任じられた。更に744年に范陽節度使・751年に河東節度使を兼任して、その総兵力は18万を超える膨大なものとなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=353}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=299}}。このような大出世を遂げた要因の一つが玄宗・楊貴妃に取り入ったことにある{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=353}}。安禄山は玄宗からその大きな腹の中には何が詰まっているのかと問われた時に「ただ赤心(忠誠)のみが詰まっています」と答えた、あるいは自ら願って楊貴妃の養児となって錦繍の産着を着て玄宗と楊貴妃を喜ばせたなどというエピソードが残る{{Sfn|布目|栗原|1997|p=298}}。
[[File:An Lu Shan.jpeg|left|thumb|200px|安禄山]]
楊国忠と安禄山は対立し、互いに相手を追い落とさんとするが、常に玄宗のそばにいる楊国忠がこの争いでは有利であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=354}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=301-302}}。危機感を感じた安禄山は「君側の奸楊国忠を除く」という名分を立てて遂に挙兵した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=354}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=302}}。この反乱は安禄山とその部下史思明の名を取って'''[[安史の乱]]'''と呼ばれる。
755年の11月に根拠地の[[幽州]](范陽郡)から兵力15万と8千騎を持って出陣した安禄山軍は破竹の勢いで勝ち進み、同年12月には洛陽を陥落させ、翌年の1月1日に皇帝に即位、国号を大燕と称した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=355-356}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=304}}。更に同年6月には首都長安の東・関中の入り口に当たる[[潼関]]を陥落させる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=356}}。この報に狼狽した唐政府は[[蜀州|蜀]]への避難を決める。避難の途中の馬嵬においてこの事態に怒った兵士たちにより楊国忠が殺され、楊貴妃も自殺させられている{{Sfn|布目|栗原|1997|p=304}}。皇太子李亨(李璵から改名している)は途中で玄宗と別行動を取って、朔方節度使[[郭子儀]]の元に向かい、兵士を鼓舞するために玄宗の許可無く、皇帝に即位した([[粛宗 (唐)|粛宗]]){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=356}}。
安禄山は757年に子の[[安慶緒]]に殺され、その後を継いだ史思明も761年にこれも子の[[史朝義]]に殺される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=356}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=305}}。郭子儀率いる軍は回紇の支援を得て757年に長安、762年に洛陽を奪還。翌763年に史朝義が部下に殺され、ここに安史の乱は終結した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=356}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=306}}。
=== 後期 ===
==== 律令体制の崩壊 ====
何とか乱を収めた唐であったが、そのダメージは非常に大きかった。防衛体制の緩みをつかれて吐蕃に長安を一時期占領されるという事態が起きている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=357}}。また反乱軍の将を寝返らせるために節度使の職を持って勧誘した。これが後に河北三鎮と呼ばれ、中央の意向を無視した半独立勢力となり、歴代政府の懸念事項となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=357}}。乱により荒れ果てた華北では多数の流民が生じ、755年に890万戸を数えたのが764年には293万戸までに激減している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=357}}。
逃戸の増大により均田租庸調制・府兵制の両制度は機能しなくなり、周辺民族の活発化により羈縻政策もまた破綻。これらの事態は開元の治以前から進行していたが、安史の乱によりはっきりとこの事態に対する新たな対応策が必要となっていた。これに対するのが律令には存在しない使職という新たな役職である。最初は地方の観察を後に地方の最高行政官となる[[観察使]]・税を司る[[度支使]]・漕運を司る[[転運使]]・専売制を司る[[塩鉄使]]{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=445-447}}などがあり、いずれも非常に重要な役割を果たした。特に758年に開始された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}塩の専売は大きな利益を上げて、以後の唐の財政に不可欠のものとなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=446}}。ゆえに塩鉄使の地位は非常に重要視され、宰相に準ずる職となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=447}}。しかし専売に対して密売の私塩が止まず、[[塩賊]]と呼ばれる私塩業者が各地で活動した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=460-461}}。
前述の節度使も使職の一つであり、安史の乱以後に節度使は観察使を兼職するようになり、それまでの軍事権に加えて行政権も握るようになった。江南では節度使は置かれず観察使が[[防禦使]]・[[経略使]]などの軍事職を兼任してこちらも軍事・行政を司るようになった。これらを総称して[[藩鎮]]と呼ぶ。首都長安と副都洛陽が所属する[[京兆府]]と[[河南府]]を除き、全国に40-50ほどの藩鎮が置かれた。京兆府と河南府以外の土地は全ていずれかの藩鎮の勢力圏となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=343}}。先に挙げた河北三鎮のような中央の意向を無視するような藩鎮を反則藩鎮と呼ぶ(逆に従順な藩鎮を順地という){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=350}}。これら反則藩鎮は領内において勝手に税を取り立て{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=454}}、さらに中央に納めるべき[[上供]]も怠ることが多かった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=455}}。
また逃戸・客戸の増大により租庸調の収入は激減し、それを埋めるために[[青苗銭]]・[[戸税]]などの税が徴収されるようになる。農民の負担はますます重くなり、農民の没落・逃戸の増大に繋がるという悪循環に陥っていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=454}}。これら複雑化した税制を一本化したものが780年に宰相の[[楊炎]]の権限によって実施された[[両税法]]である。両税法では夏税(6月納期)として[[ムギ]]・秋税(11月納期)に[[アワ]]・[[コメ]]を税として取り立て{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=489}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=333}}、それ以外の税を禁止した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=489}}。藩鎮・地方官が勝手な名目で税を取り立てることを防ぐ意味もあった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=489}}。そして均田租庸調が民一人一人を対象とするのに対して、戸を対象とし、その資産を計って税額を決める{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=489-490}}、[[銅銭]]での納税が原則とされた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=490}}。
両税法の実施により唐は均田制を自ら否定したことになり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=490}}、それまで規制していた大土地所有を事実上公認したことになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=489}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=499}}。この後は[[荘園]]が拡大していくことになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=499}}。
==== 藩鎮との攻防 ====
[[File:Tang Xianzong.jpg|left|thumb|200px|憲宗]]
770年ごろになると安史軍から投降して節度使になった[[李懐仙]]・[[薛嵩]]・[[田承嗣]]らが相次いで死去する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=456}}。藩鎮側は節度使の世襲を望んだが、唐政府は新任の節度使の赴任と藩鎮の兵力削減を言い渡した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=456}}。両税法が実施されたことを切っ掛けに、781年に河北三鎮(盧龍・天雄・成徳)を中心に7の藩鎮が唐に対して反乱を起こした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=456}}。反乱軍により長安を落とされ、時の皇帝[[徳宗 (唐)|徳宗]]は[[梁州]]に避難した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457}}。のちに長安は回復するものの藩鎮の罪を問うことはできず、赦免せざるを得なかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457}}。
805年に新たに即位した[[憲宗 (唐)|憲宗]]はこの事態に断固たる態度で臨んだ。両税法の実施により財政に余裕ができたことで[[禁軍]]である[[神策軍]]を大幅に強化し、兵力15万を数えるまでになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457}}。この兵力を元に806年から次々と藩鎮を征伐し、819年から821年にかけて河北三鎮を順地化することに成功した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=457-459}}{{Refnest|group="注釈"|name="穆宗"|憲宗は820年に死去しており、成徳・盧龍を討伐したのは後を継いだ[[穆宗 (唐)|穆宗]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=118}} }}。
これと並行して、それまで藩鎮内の属州の兵力を全て節度使が指揮していたのものを属州の兵は属州の[[刺史]]が統括するものとした。また属州の税収は州県の取り分(留県・留州)を取った後は節度使の費用を取った(留使)後に中央へと送られていた([[上供]])ものを県から直接上供することにした。これらの政策により節度使の持つ兵力・財力は大幅に削減されることになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}。更に節度使には中央から派遣した官僚を就けることとし、その任期も3年ほどと短くした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}。また節度使の監察を行うために[[宦官]]を監軍として付けることにした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}。
このようにして憲宗は藩鎮の抑圧・中央集権の回復に成功した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}。これにより憲宗は中興の英主と讃えられる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=118}}。
==== 朋党の禍・宦官の台頭 ====
この頃になると[[科挙]]、特に進士科出身の官僚は官界での勢力を拡大し、旧来の[[貴族 (中国)|貴族]]勢力と拮抗するまでになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=472}}。また貴族の子弟たちの中でも[[任子]]ではなく、科挙受験の道を選ぶ者も増えていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=471}}。科挙出身者はその年の試験の責任者と受験者たちの間で座主門生と称する縦の、同期の合格者同士で横の、それぞれ人間関係を構築していた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=471}}。この関係性を元に官界でも派閥が作られるようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=471}}。
この延長線上に起きたのが[[牛李の党争]]である。[[牛僧孺]]・[[李宗閔]]ら進士出身の党と[[李徳裕]]の貴族層の党が820年から以後40年に渡って政界で激しく争い、負けた方の派閥の人間は全て失脚して左遷・争いが逆転すると同じことをやり返すという状態になる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=473}}{{Refnest|group="注釈"|name="牛李の党争"|なおこの党争の原因・実態などに関しては非常に多くの議論がある。詳しくは[[牛李の党争]]の記事を参照。}}。このことを[[文宗 (唐)|文宗]](第17代皇帝、穆宗の2代後)は「河北の賊を去るのは難しくないが、朋党の争いを収めるのは難しい」と嘆いた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=473}}。
文宗の頭を悩ませたもう一つの問題が[[宦官]]である。藩鎮討伐に使われた神策軍の司令官は宦官が就くことになっており{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=473}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=370}}、宦官はこれにより大きな軍事力を握ることになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=473}}。また藩鎮に付けられた監軍はこれも宦官が務めたが、文官の節度使は任期が終わる際に勤務実績を良く報告してもらうために監軍に賄賂を送るようになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}。これにより中央官僚の人事にも権限を持つようになった宦官は、遂には皇帝の廃立すら決めるようになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}。第12代穆宗から第19代[[昭宗 (唐)|昭宗]]までの間で第13代[[敬宗 (唐)|敬宗]]を除く7人は全て宦官に擁立されたものである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=392}}。先述の党争においても宦官の権力を利用して政敵を排除している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=475-476}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=392}}。
文宗は宦官排除を目論んで計画を立てる。それは宮中に甘露が降ったという嘘を上奏させ、宦官たちが集まったところで一気に誅滅してしまおうという計画であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=393}}。しかし直前で計画が宦官側に露見して失敗。文宗の立場はますます弱いものとなり、「朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いた([[甘露の変]]){{Sfn|布目|栗原|1997|p=393}}。
==== 会昌の廃仏 ====
[[File:Tang Wuzong.jpg|left|thumb|200px|武宗]]
文宗を継いだ弟の[[武宗 (唐)|武宗]]は[[道教]]を崇拝すること厚く{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=528}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=404}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=286}}、道教側の要請もあり{{Sfn|氣賀澤|2005|p=286}}、廃仏([[会昌の廃仏]])を行った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=528}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=402}}。まず845年から始まった廃仏により、還俗させられた僧尼が26万人余り・廃棄寺院4600・仏具や仏像は鋳潰されて銅銭などになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=403}}。寺院は長安・洛陽に4、各州に1とし{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=403}}、それぞれに30から50の僧侶が所属するのみとした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}。これによって仏教界は大打撃を受けた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=403}}。後世に[[三武一宗の廃仏]]と言われるうちの3番目である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=527-528}}。この廃仏は単に道教に傾倒した武宗と道教側の策謀によるものだけではない{{Sfn|氣賀澤|2005|p=286}}。同時期に祆教・摩尼教・景教([[唐代三夷教]])も弾圧されているように、唐の国際性が薄れて一種の民族主義的なものが前面に出てきたことにもよる{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=403-404}}。
846年に武宗が死去し、後を継いだ[[宣宗 (唐)|宣宗]]により廃仏は終わった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}。
==== 乱の続発 ====
牛李の党争が終わった10年ほどの後の858年に[[張潜]]という官僚が藩鎮で行われていた[[羨余]]という行為について非難する上奏文を出した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=462}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=410}}。羨余とは藩鎮が税を徴収した後、藩鎮の費用と上供分を除いて余った分のことを指し、それを倉庫にためた後に進奉といって正規の上供分とは別に中央に送った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=410}}。この行為を政府は盛んに奨励し{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=463}}、進奉の額が節度使の勤務評価の基準ともなっていた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=411}}。その出所はといえば民からの苛斂誅求に他ならず、民を大いに苦しめることとなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=465}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=411}}。これに対しての批判が先に挙げた張潜であるが、増大する経費を賄うには政府は進奉に頼らざるを得なくなっていた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=411}}。
また民を搾り取るだけでは足らず、兵士の人員の削減・給料のピンハネなども行われた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=462}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=411}}。このような節度使に対して兵士たちは不満を抱き、節度使・観察使を追い出す兵乱が続発する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=462}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=413}}。これら兵乱に刺激を受けて起きたのが[[裘甫の乱]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=465}}。
859年にわずか100人を率いて蜂起した裘甫は浙東藩鎮の海岸部[[象山県]]次いで[[剡県]]を攻略、近くの海賊や盗賊・無頼の徒を集め、3万という大軍に膨れ上がった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=465-466}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=420}}。その後浙東を転戦したが、政府は安南討伐に功を挙げた[[王式]]を派遣し{{Sfn|布目|栗原|1997|p=422}}、ウイグルや[[吐蕃]]の精兵も投入し、翌860年に鎮圧した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=466}}。続けて868年、[[南詔]]に対する防衛のために[[桂州]]に山東で集められた兵士の部隊が派遣されていたが、いつまでたっても交代の兵は来ず、前述のような給料のピンハネもあり、不満を爆発させて[[龐勛]]を指導者として反乱を起こした([[龐勛の乱]]){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=425-426}}。龐勛軍はまず故郷である山東の[[徐州]]へと帰還し、失職兵士や没落農民、各種の賊を入れて一気に大勢力となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}。さらにこの乱の特徴として貧農ばかりではなく地主層もこの乱に参加したことが挙げられる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=427}}。ここにいたってこの乱は当初の兵乱から農民反乱の様相を呈することとなった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=427}}。しかし雑多な寄せ集めの軍ゆえに内部の統制が取れなくなり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}、また龐勛の方針も、唐に対して節度使の職を求めたりなど一定しなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=470}}。のでますます内部が乱れた。これに対して唐は7万の軍と[[突厥]][[沙陀族]]の精兵騎兵3000を投入し、869年にこれを鎮圧した{{Sfn|氣賀澤|2005|p=133}}{{Refnest|group="注釈"|name="朱邪赤心"|この時に活躍した沙陀族の長が{{仮リンク|朱邪赤心|zh|朱邪赤心}}で、この功績により国姓の李を授けられて李国昌を名乗る。[[後唐]]太祖[[李克用]]の父親である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=413}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=456}}。}}。
==== 滅亡 ====
[[File:Emperor Taizu of Later Liang Zhu Wen.jpg|right|thumb|200px|朱全忠]]
裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である[[黄巣の乱]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=476}}。870年くらいから唐には[[旱魃]]・[[蝗害]]などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝[[僖宗]]に出した被害報告が「イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。
このような状態に対して874年(あるいは875年)に[[濮州]]の塩賊の[[王仙芝]]が[[滑州]]で挙兵、これに同じく[[曹州]]の塩賊の[[黄巣]]が呼応したことで''「''[[黄巣の乱]]''」''が始まった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=436}}。(詳細は''「''[[黄巣の乱]]''」を参照)''
この反乱集団には非常に雑多な人種が参加した。没落農民・失業兵士・塩賊・茶賊{{Refnest|group="注釈"|name="茶賊"|塩賊の茶バージョン。茶には塩ほどではないが、高額の税がかけられていたので、それを回避する私茶が横行、これを取り扱う私茶業者を茶賊と呼んだ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=461}}。}}・大道芸人などなど{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=478}}。これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=478}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=437}}。唐政府はこれに対して王仙芝に禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため黄巣は強く反対。これを機に黄巣と王仙芝は別行動を取ることになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}。
878年、王仙芝は唐軍の前に敗死した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=438}}。黄巣軍は江南・[[広州 (広東省)|広州]]に入って唐に対して節度使の職を要求するが、唐はこれを却下した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=438}}。怒った黄巣は広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}。
しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした{{Sfn|布目|栗原|1997|p=439}}。
880年、黄巣軍は洛陽南の[[汝州]]に入り、ここで黄巣は自ら天補平均大将軍を名乗る{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}。同年の秋に洛陽を陥落させる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=441}}。さらに黄巣軍は長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=441-442}}。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を「大斉」とし、金統と改元した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=442}}。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、[[食人]]が横行した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
882年、黄巣軍の[[同州]]防御使であった朱温(後の[[朱全忠]])は黄巣軍に見切りを付け、黄巣を裏切り、唐の官軍に投降した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。さらに突厥沙陀族出身の[[李克用]]が大軍を率いて黄巣討伐に参加した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗した。その後、黄巣は河南へと逃げるが李克用の追撃を受けて884年に自殺した。こうして、''「''[[黄巣の乱]]''」''は終結した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=484}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=447}}。
黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=452-453}}。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることでその権威を借りて号令する目論見があった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使[[李茂貞]]を滅ぼして皇帝[[昭宗 (唐)|昭宗]]を自らの根拠地である[[汴州]]に近い洛陽へと連れ出した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}。
そして907年。朱全忠は唐の最後の皇帝[[哀帝 (唐)|哀帝]]から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を「梁」(後世からは[[後梁]]と呼ばれる)とした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=486}}。ここに300年近くに渡った唐王朝の歴史は終わりを告げた{{Sfn|氣賀澤|2005|p=137}}。しかしこの時点で後梁の支配地域は河南や山東などごく一部の領域に過ぎず{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|p=12}}、これから宋が再び統一するまでの約70年間、[[五代十国時代]]と呼ばれる分裂時代となる{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|pp=3-4}}。
== 政治 ==
=== 律令体制とその崩壊 ===
[[律令]]は、[[西晋]]で作られた[[泰始律令]]以来、何度か改変が重ねられ、[[隋]]の[[楊堅|文帝]]の時に「開皇律令」が編纂されていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=365}}。唐もそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=365-366}}。律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして'''格式'''がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=366}}。
後述する官制・[[府兵制]]・[[均田制]]なども全て律令の規定するところである{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=187}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=194-195}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=201-202}}。
唐の律令は何度か改変され、[[玄宗 (唐)|玄宗]]の[[開元]]二十五年(737年)に完成を見る{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=487}}。この律令は開元二十五年律令と呼ばれ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=366}}、後世に唐代律令の典範とされた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=487}}。しかしこの時点で既に現実社会と律令体制の間に乖離が生じおり、この間を埋めるのが皇帝の意思たる詔勅およびそこから法となった格が重要視されるようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=366}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=487}}。唐代においてはあくまで皇帝の意思が律令に優先するが、あくまで律令が根本であり、皇帝であっても恣意的に律令を覆すことは批判の対象であった。これが隋唐の律令支配の特徴とされる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=366}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=182}}。
[[安史の乱]]を契機として唐の律令体制は急速にその力を失い、現実社会に対応するために律令に無い[[両税法]]・[[使職]]などの制度が設けられることになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=487}}。
=== 官制 ===
==== 官品制度 ====
唐の官僚は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられており{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=368}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=144}}、ここまでを「流内官」と呼び、この下を「流外官」という{{Sfn|氣賀澤|2005|p=144}}。
これら官僚に付与される肩書には[[散官]]・[[職事官]]・[[勲官]]・[[爵]]の四種類がある{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=368}}。この内、職事官が実際の職務を表すものであり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=368}}、散官は実務を伴わずその人物がどの品階にいるかということを示すものである{{Sfn|氣賀澤|2005|p=144}}。散官の官品と職事官の官品とは一致するのが原則であったが、散官よりも官品の高い職事官に就く場合は職事官の職名の頭に「守」の字、逆の場合は「行」の字を付けて区別されていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=369}}{{Sfn|氣賀澤|2005|pp=144-146}}。
勲官は軍功によって付与される恩典で{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=369}}、爵は皇族や高い功績を挙げた功臣に与えられるものである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=369}}<!--([[#爵制]]で後述)-->。
これら官人に与えられる特権として、九品以上の流内官は本人の課役が免除され、五品以上は同居親族の課役が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=369}}。また罪を犯した場合であっても最も重い[[死刑]]でなければ銅を納めることで免れることができた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=369}}。
官人になるためには、前述の「蔭」で任用されるか、あるいは[[科挙]]に合格することが必要となる。しかし当時はまだ科挙出身者は[[蔭]]出身者に対して大きな不利を背負わされていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=371}}。
==== 中央官制 ====
律令制下の[[官制]]は三省を頂点とする。[[中書省]]が詔勅(皇帝の命令)の起草、[[門下省]]がその審議を行ない、[[尚書省]]が配下の六部([[礼部]]・[[吏部]]・[[戸部 (六部)|戸部]]・[[兵部]]・[[刑部]]・[[工部 (六部)|工部]])を通して詔勅を実行する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=375}}。門下省の長官は[[侍中]](2名)、中書省の長官は[[中書令]](2名)、尚書省の長官は[[尚書令]]であるが、尚書令は皇子時代の[[太宗 (唐)|太宗]]が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の[[僕射]](ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=376}}{{Sfn|氣賀澤|2005|pp=146-147}}。
これら六名の長官が[[宰相]]職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=376}}。後に皇帝の命によって新たに[[参与朝政]]・[[同中書門下三品]]などの肩書で参加する例が増え{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=376}}、逆に僕射が宰相会議のメンバーから外れた。この宰相会議は最初門下省内の聖事堂で行われていたが、後に中書省に移り、中書門下と改称した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=376}}。
尚書六部の下には[[漢]]代以来の実務機関である[[九寺]]、[[五監]]があり、庶務を担当した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=376}}。
また三省とは別に宮中の文書を扱う[[秘書省]]・皇帝の衣食などを取り扱う[[殿中省]]・[[後宮]]の管理を行う[[内侍省]]があり、合わせて[[六省]]と呼ばれる。他に監察機関として[[御史台]]があり、[[官僚]]たちの[[監察]]を行なった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=376}}。
8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するために律令で規定されない新たな官職が設けられるようになった。これらの新たな官を[[使職]]という{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=444-448}}。主なものに[[州]]の監察を行う[[観察使]]{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=444}}、[[専売制]]を司る[[塩鉄使]]{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=445}}、税および出納を司る[[度支使]]{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=444}}・物資の運送を司る[[転運使]]{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=444-445}}などがある。
度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=444}}、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=447}}。
またそれまで[[中書省]]の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した[[翰林学士]]が行う事となった。これら翰林学士はいわば皇帝の秘書官であり。宰相に継ぐ大きな権限を持つことになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=488}}。
==== 地方制度 ====
{{see also|州県制}}
唐では隋から引き継いで[[州県制]]を採った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=377}}。州の下に数県が所属し、州は全国で約350、県は全国でおよそ1550あった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=377}}。特別な州として府があり、唐初には首都長安・副都洛陽が所属する京兆府と河南府、唐の故地である太原府があったが、安史の乱以降は徐々に増やされて唐末には10あった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=377}}。また重要拠点に置かれる州を都督府と呼び、長官は[[都督]]。規模によって大中小の三等に分けられる。通常の州の長官は[[刺史]]であり、戸数によってこちらも上中下の三等に分けられる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=377}}。州の下に県があり、こちらも戸数によって上・中・中下・下の四等に分けられる。また府に属する県のうち城内にある県は京、城外にある県は畿と呼ばれた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=378}}。
県の下の行政単位が、郷と里([[郷里制]])である。100戸をまとめて里として里正を起き、5里をまとめて郷とする(郷正は一時期を除いて置かれなかった){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=378}}。里正は里の者から選ばれ、戸籍の作成・勧農・里内の不正の監視・労役の割付などにあたった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=378-379}}。また都市には[[坊制|坊]]ごとに坊正が置かれ、聚落には100戸ごとに村正が置かれた(100戸以下の場合は一人、以上なら複数となる){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=379}}。
更に州の上に道があり、太宗の時に全国を10の道に分けた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=381}}。元々、道はその下にある州県の行政を観察するために設けられた単位であり、観風俗使・宣労使などの名前を持った臨時の役職が派遣されていた。武后期に各道ごとに[[按察使]]などの役職が監察に当たり、玄宗期の711年には按察使の職を州の長官たる刺史等が兼任するようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=381}}。更に玄宗の734年に15道に再編成した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=381}}{{Sfn|氣賀澤|2005|pp=150}}。それに伴って各道の刺史の中から一人を選んで[[採訪処置使]]としてそれぞれの道の治所に駐在させた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=381}}。ここに至って道は州の上の行政単位となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=381}}
[[File:742 Tang 15Circuit.png|right|thumb|600px|15道図]]
# [[京畿道 (唐)|京畿道]]、治所[[長安]]
# [[関内道]]、治所長安
# [[都畿道]],治所[[洛陽]]
# [[河南道]],治所[[汴州]](現[[開封市]])
# [[河東道 (唐)|河東道]],治所[[蒲州]](現[[永済市]])
# [[河北道 (唐)|河北道]],治所[[魏州]](現[[河北省]][[大名県]]東北)
# [[山南西道]],治所[[梁州]](現[[漢中市]])
# [[山南東道]],治所[[襄州]](現[[襄陽市]][[襄州区]])
# [[淮南道]],治所[[揚州]](現[[揚州市]])
# [[江南東道]],治所[[蘇州]](現[[蘇州市]])
# [[江南西道]],治所[[洪州]](現[[江西省]][[南昌市]])
# [[黔中道 (唐)|黔中道]],治所[[黔州]](現[[重慶市]][[彭水ミャオ族トゥチャ族自治県]])
# [[隴右道]],治所[[鄯州]](現[[海東市]][[楽都県]])
# [[剣南道]]、治[[益州]](現[[成都市]])
# [[嶺南道 (唐)|嶺南道]]、治[[広州]](現[[広州市]])
採訪処置使が後の安史の乱後に観察処置使(略して[[観察使]])と名を変えて、[[節度使]]や[[防御使]]などの軍事職と観察使を兼任することで[[藩鎮]]となる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える{{Sfn|布目|栗原|1997|p=346}}。ただし観察使の職掌範囲(=藩鎮の勢力範囲)は数州くらいと15道よりも狭く、藩道と呼んで区別する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=548}}。村落の方でも里正・村正などの政府によって置かれた役人の力は衰え、代わって村の有力地主層が村長・村耆などの名前で村の行政を司るようになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=502}}。
=== 税制 ===
==== 均田・租調役 ====
{{main|均田制|租庸調}}
均田制は全国の丁男(21歳から59歳までの男性)及び中男(18歳以上の男性)一人につき、[[永業田]]が20[[畝 (単位)|畝]]・[[口分田]]が80畝まで支給される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。永業田は世襲が認められる田地で、[[クワ]]・[[ナツメ]]・[[ニレ]]を植えることが義務付けられる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。口分田は穀物を育てる田地で60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=195-196}}。なお人口に対して田地が少なく十分な給付が出来ない土地(これを狭郷と呼び、対して普通の所を寛郷と呼ぶ)では規定の半額が支給される{{Sfn|布目|栗原|1997|p=196}}。また官職にある者は[[職分田]]が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・[[道士]]などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=385}}。
これに対して、農民は[[租庸調]]と呼ばれる税を納める義務を負う。[[租]]は粟(穀物)2[[石]]、[[調]]は[[絹]]2[[丈]]と[[綿]]3[[両]](または布2.5丈と麻3斤)を収める。年間20日の[[労役]]の義務があり、これを免除して貰うために納める税を[[庸]]と呼び、労役1日に対し絹3[[尺]]あるいは布3.75尺を収める。これに加えて雑徭という臨時的に徴される力役がある(雑徭に関しては諸説あり、ここでは詳細は省く){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=388}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=200-201}}。[[府兵制]]は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す([[#兵制]]で後述)。
以上が理念的な均田制であるが、給付・返還の実態については諸説ある所であり、かつては均田制は土地所有の制限を定めたものであり、土地の返還は行われていなかったとする見解もあった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=390-392}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=196-198}}{{Sfn|氣賀澤|1994|pp=131-132}}。しかし新史料の発見により、少なくとも部分的には給付・返還が行われていたと考えられている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=390-392}}{{Sfn|氣賀澤|1994|pp=134-135}}。
男丁を基準に給付と課税が行われるのであるからその運用には戸内の男丁の数を把握する[[戸籍]]が必要である。唐では戸籍が三年に一回作られ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=389}}、戸の資産ごとに上上・、中、上下、中上…、下下と分ける九等([[戸等制]])に分けられた。ただし戸等によって租庸調の額は変化せず、役や受田の順番などによって負担の均一が図られた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=389}}。
しかし武則天期から天災や異民族の侵入、あるいは大土地所有者の増加などにより本籍地から逃亡する民(逃戸)が増え始めた。逃戸が逃亡先で定住したものを客戸と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=394}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=244-245}}。逃戸が増えるとその分の税収が減ることになる。[[玄宗 (唐)|玄宗]]期には更にこの傾向は進み、何らかの対策が必要とされた。その一つが[[宇文融]]の発案で行なった[[括戸政策]]である。客戸を逃亡先の土地で戸籍に登録するこの政策により八十余万戸が新たに登録されたという{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=394-395}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=153}}。
しかし大土地所有の進行・村落での階層分化などの社会変化傾向は変わらず、更に[[安史の乱]]終結後に各地に配された[[藩鎮]]勢力は租庸調とは別の税を勝手に取り立てて自分たちの収入としていた。もはやここに至って均田制・租調役制は完全に行き詰まったといえる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=489}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=313}}。
==== 両税法 ====
{{main|両税法}}
[[780年]]、宰相[[楊炎]]により租庸調に変わる新たな税制[[両税法]]が上申された。両税法の主な特徴は以下の通り{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=489}}。
#両税への一本化。
#*以前から租庸調とは別に戸に課税する戸税・土地に課税する地税・同じく土地に課税する青苗銭などの税金があったがこれを全廃する。既述のような藩鎮の勝手な徴収を防ぐ意味もあった。
#6月に麦を納める夏税、11月に粟・稲を納める秋税の二回徴収とする。これが両税の名の由来である。
#*当時華北では麦の栽培と粉食が一般的になり、麦と粟の二年三毛作が行われていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=492}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=329-330}}。
#戸を対象に課税し、資産の多寡によって税額が変わる。
#*それまでの丁男を等質と見なす考えを捨て、戸ごとに財産を計って課税額を決める。
#量入制出から量出制入への移行。
#*まず必要な予算を先に決め、両税以外の歳入を全て計算。予算に足りない分を両税の税額とした。
#資産計算・納税共に[[銅銭|銭]]が原則。
#*当時農村でも銅銭が普及しつつあり、それに対応するもの。ただし現物による折納も認める。
#主戸・客戸の区別の撤廃。
#*主戸・客戸の区別なく土地を所有するならば全てに課税する。逆に[[佃戸]]<ref group="注釈">他人の土地を耕作して小作料を納める小作人の戸</ref>などには課税されない。
両税法の施行は均田制下での土地所有制限を自ら否定したに等しく、これ以降の唐では大土地所有が更に加速することになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=489}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=333}}。ただし形式的には唐滅亡まで均田制・租庸調制は続いた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=489}}。
==== 専売制 ====
両税法より前の[[758年]]に[[塩]]の[[専売制]]を実施した。専売の統括をする役職が[[塩鉄使]]である。基本的に中国では塩の産地が少なく、産地を集中的に監視下に置きやすいという環境があった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=495}}。産地の種類によって海塩・池塩・井塩・土塩に分けられる。それぞれ海水の塩・塩湖の塩・塩分が多い地下水の塩・塩分が多い土を精製した塩である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=495}}。各地の塩産地には製塩業者が集められて登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された{{Sfn|布目|栗原|1997|p=322}}。
専売制によってかけられる税は莫大で、専売制実施前に1斗が銭10文であったのが実施後には110文になり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=460}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=322-323}}、更に値上げされて唐を通じて250文から300文、もっとも高い時で370文にもなった{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=322-323}}。そのため貧しくて塩が買えず淡色という味気ない食事しか出来ない者もいたという{{Sfn|布目|栗原|1997|p=323}}。
このような高額の官塩に対して私塩と呼ばれる密売塩が出回ることになる。塩製造には厳しい監視が付けられており、私塩の出所は官塩からの横流しが大半を占めていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=460}}。私塩に対して唐は厳しい取り締まりを行なったが、私塩業者の方も対抗して武装し、内部での結束を高めるために宗教的な掟を定めるなどしていた。これが後の中国の[[秘密結社]]のルーツとなったとされる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=460-461}}。このような私塩集団を塩賊と呼び、唐を実質的に滅ぼした[[黄巣]]らもまた塩賊出身であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=436}}。
また茶葉にもはじめの793年に価格の10分の1、821年に増額して5割、835年に更に増税される{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=430-431}}。と塩に比べればまだ安いものの高額な税がかけられ、塩と同じように茶賊と呼ばれる集団が活動した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=460-461}}。
==== その他の税 ====
商工業に対して、関所などの通行税や市に登録した商人に対する市租などを取っていた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=334}}。両税法では店構えや家屋などを元に算出した資産額によって課税し、行商人に対しては運搬する商品の30分の1の額を取った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=334}}(翌年に10分の1に増額{{Sfn|布目|栗原|1997|p=337}}。)。
=== 軍事 ===
==== 兵制 ====
{{main|府兵制}}
唐初の兵制は隋から引き継いだ[[府兵制]]である。府兵制では全国に折衝府という組織を置く{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=404}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=202}}。折衝府には地域の農民が登録され、租庸調を免除される代わりに兵役の義務を負う。
府兵の兵役の内容は主に、衛士と呼ばれる首都勤務と、防人と呼ばれる国境警備があった。衛士は府兵は5ヶ月に1回、京師に1ヶ月番上する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=405}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=204}}。辺境には鎮・戍という防衛組織があり、府兵は生涯のうちに一度、3年間を防人として努めなければならなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=405}}。また京師の番上や国境警備に出ていない場合に州県へと番上して警備や様々な[[色役]]を行った。またそれ以外の時に年三度の訓練を行った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=405}}。なお衛士・防人共に武器・防具及び駐在中の食料などは全て府兵自身の負担であった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=259}}。
折衝府は全国に約600が存在しており、そのうちの400程が長安・洛陽周辺に集中していた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=405}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=202}}。所属する兵員によって上中下があり、元は上が1000・中が800・下が600であったが、後の武則天の時に増員されて上が1200・中が1000・下が800となっている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=405}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=}}。600×1000=60万が唐の常備兵力ということになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=406}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=202}}。60万の内、10万が衛士・10万が防人に使われており、遠征等に動かせる兵力は40万以下であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=406}}。国外遠征などでより兵が必要な場合は臨時の徴兵が行われる。これは兵募と呼ばれるが強制的なもので、折衝府がある無しに関係なく行われた。ただし府兵が全て自弁であったのに対して、兵募の諸物資は官給であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=406}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=203}}。
しかし衛士・防人共にその負担は非常に重いものがあり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=408}}、兵役拒否などにより府兵制は早期に立ち行かなくなった。首都防衛については北衙禁軍{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=409}}、辺境防衛についても[[737年]]に辺境の軍鎮に長期にわたって駐屯する長征健児制が出来る。これらの兵士には国から衣食住が支給され、家族と共に住む場合には田宅も支給された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=407}}。また従来の鎮戍にも府兵ではなく兵募が務めるようになった。これを丁防・防丁と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=407}}。
このような変化により、有名無実の存在となった折衝府は749年に廃止され、府兵制は消滅した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=407}}。
==== 中央軍 ====
唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は長安城内に駐屯し、ここに務める兵力は府兵が担いこれを衛士といった。長安には府兵が属する組織として十二衛府六率府があり、十二衛(左右衛・左右驍衛・左右威衛・左右両軍衛)は各4-50の折衝府を管理し、皇帝の[[儀仗]]や宿衛、皇族や各官庁の警護にあたった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=404}}。六率府(左右衛率府・左右司禦率府・左右清道率府)には各3-6の折衝府を管理し、皇太子の宿衛儀仗にあたった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=404-405}}。南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、京師周辺の下等戸から優先して徴兵する[[彍騎制]]を行って兵力を確保しようとしたが、こちらも早期に頓挫。京師警備の任務も北衙禁軍が担うこととなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=405}}。
北衙禁軍は、[[李淵|高祖]]のときの元従禁軍を元とし{{Sfn|布目|栗原|1997|p=271}}、[[太宗 (唐)|太宗]]の638年([[貞観]]十二年)に老齢化した彼らに代わって二等戸以上から選抜して飛騎と呼んで皇帝親衛軍とし、更に飛騎の中から選抜して百騎とした。飛騎の駐屯地は長安宮城北の玄武門の左右にあったので北衙と呼ばれる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=408-409}}。この時点での北衙の兵力は南衙に比べれば微々たるものであったが、[[高宗 (唐)|高宗]]の662年([[龍朔]]二年)に左右羽林軍として独立した軍となる。更に百騎が689年に千騎・705年に万騎と改称されてその都度増員され、玄宗の738年([[開元]]二重六年)に万騎が左右龍武軍として独立、北衙は四軍となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=409}}。
安史の乱の際に、本来の北衙禁軍である羽林軍は壊滅しており、これに代わって禁軍の中核となったのが[[神策軍]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=370}}。[[憲宗 (唐)|憲宗]]のときにこの神策軍を大幅に拡充して15万を数えるようになり、この兵力を基に反則藩鎮の順地化に成功した([[#藩鎮との攻防]]で先述){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457-459}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=371-374}}。しかしこの神策軍の拡充の費用に当てられたのが[[#乱の続発|先述]]の[[羨余]]であり、民衆を大いに苦しめることとなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=463}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=371}}。
==== 地方軍・辺境軍 ====
唐初では辺境防衛には、先述した「鎮」や「戍」という拠点が置かれ、ここに府兵が防人として配置され、[[都護府]]が統括した。鎮に配置された兵は500人以下、戍には50人以下であり、鎮戍は太宗時代は千ほど置かれ、総兵力は10万人程度であった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=274}}。羈縻政策が破綻するにつれ、鎮戍制では対応が不可能となり、異民族の攻撃によって境界線は後退した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=406}}。そのため、高宗時代頃から、鎮戍とは別に軍鎮という新たな軍組織が置かれるようになる。こちらも最初は都護府の管轄に置かれていたが、後に[[節度使]]がこの役割を担うようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=406}}。710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=286-287}}。
また地方の治安維持として団錬兵・団結兵と呼ばれる新しい兵種が生まれる。元は武則天時代に設置された武騎団という組織が始まりで、[[契丹]]の反乱に対処するためのものだった。これが玄宗期に団練兵と呼ばれるようになる。団練兵の兵員はその地方の農民が徴兵されるもので、彼らは普段は農業に従事し、農閑期には訓練を施された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=406}}。団錬兵の指揮官として団錬使という使職が設けられたが、後に州刺史がこれを兼任するようになる{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=263-264}}。また、都市には城謗という徴兵による治安維持の兵が置かれた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=264}}。
安史の乱後は長安・洛陽周辺部を除いた地方はほぼ全てが節度使率いる藩鎮の支配下に入ることとなる。その組織構造については[[#藩鎮]]を参照。
=== 政治勢力 ===
==== 科挙官僚と貴族 ====
{{see also|科挙|貴族 (中国)}}
初唐に権力を握ったのは皇室の李氏を含め関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴貴族集団と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=308-309}}。関は[[関中]]([[陝西省]])、隴は現在の[[甘粛省]]東部のことである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=309}}。関隴集団は[[武川鎮軍閥]]とも呼ばれ、[[北周]]以来の支配者集団が貴族化したものである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=308-310}}。
関隴集団以外の貴族として漢以来の長い伝統を持つ山東貴族があり、影響力には乏しいが社会的な名望は関隴系よりも上だった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=324}}{{Sfn|宮崎|1997|p=83}}。太宗は貴族を九等に格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、はじめ山東貴族の崔氏が第一等、皇室の李氏が第三等とされていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=324}}。これに怒った太宗は作り直しを命じ、皇室の李氏を第一等・外戚の長孫氏や独孤氏などを第二等、崔氏を三等とした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=324}}。
五品以上の官品を持つ者(ないし皇族・姻戚)にはその子弟が無条件で官品を得られる権利があった。これを資蔭といい、これによって官僚になった者を[[任子]]と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=369}}。例えば最高の一品官の子であれば正七品上が与えられる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=369}}。一方、隋から受け継いだ[[科挙]]も実施されていたものの、科挙では最高でも正八品上から任官することになり、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=372}}。更に試験に合格したとしてもすぐに任官できるわけではなく、尚書[[吏部]]で行われる身・言・書・判{{Refnest|group="注釈"|name="身・言・書・判"|身は身体風貌、言は言辞がそれぞれ卑でないか。書は筆跡、判は模擬的に[[四六文]]で判決文を作らせること{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=452}}。}}という人物審査に合格して初めて任官することが出来た{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=452}}。この人物審査は貴族的な立ち居振る舞いを求める物であり、科挙の制度の中に貴族の既得権益を守る意図があった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=452}}。
武則天は権力奪取の過程において[[長孫無忌]]などの関隴貴族および伝統的な門閥貴族と対立し、これに対抗するために科挙官僚を優遇して積極的に引き上げた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=334-335}}。後の[[玄宗 (唐)|玄宗]]治世の前半に科挙官僚が中心になって[[開元の治]]を導いた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=345}}。玄宗後半になると関隴系が息を吹きかえし、再び政治上の主導権を握るようになった。その代表と言えるのが[[活戸政策]]を主導した[[宇文融]]であり、その後に19年の長きにわたって宰相の地位にあった[[李林甫]]である。李林甫によって関隴系の優位は確固たるものとなる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}。
[[安史の乱]]の後になると科挙合格者に対する社会的声望が高まり、任子の資格を持つものであっても科挙を受けるものが出てくる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=471}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=389}}。9世紀に入ることになると科挙官僚の勢力は貴族勢力と伍するほどになっていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=472}}。
そのような中で起きたのが[[牛李の党争]]である。任子出身の[[李徳裕]]と科挙出身の[[牛僧孺]]・[[李宗閔]]の両派閥が鋭く対立した(この党争の捉え方に対して種々の意見・議論がある。その内容については[[牛李の党争]]の項目を参照)。
その後の乱の続発・藩鎮勢力の復権などの情勢の変化の中で貴族の勢力は大きく衰退し、[[五代十国時代|五代]]から[[北宋|宋]]に至る中で貴族勢力は完全に滅びたと考えられる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=474}}。そして宋では科挙に合格して官僚資格を得た新興地主層が[[士大夫]]と呼ばれる新たな支配者集団を形成することとなる{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|p=117}}。
==== 藩鎮 ====
{{Main|藩鎮}}
府兵制が逃戸の増大・兵役拒否などによって立ち行かなくなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=447}}ことにより、それまでの徴兵制から[[募兵制]]に変更せざるを得なくなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=447}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=283}}。またそれ以前から周辺民族の活動が活発化し、辺境防衛の強化が求められていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=447}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=285}}。
この頃の地方防衛では軍・城・守捉・鎮と呼ばれる軍事組織を各地に配置していた。これらをまとめて軍鎮と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=406}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=278}}。軍鎮の長官を軍使といい、軍鎮1つあたり平均して1万、総兵力60万と号していた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=466}}。これら軍鎮の統括は当初は都護府が行っていたが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=406}}、後にこれをまとめるために置かれたのが藩鎮であり、その長が[[節度使]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=447}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=285}}。
710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=286-287}}。この10の節度使の総兵力は49万・軍馬数は7-8万となり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=448}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=288}}となり、唐の中央軍の兵力を大きく上回っていた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=288}}。この10の節度使のうち、安西([[亀茲]])・北庭([[庭州]])・平盧([[営州]])の3つが万里の長城の外にある長城外節度使であり、他7つが長城内節度使である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=448}}。長城外節度使には軍人や蕃将(異民族の将軍)が任命され、長城内節度使にはもっぱら高級文官が就いた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=448}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=288-289}}。長城内節度使は宰相へのエリートコースとされ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=448}}、玄宗即位から[[李林甫]]登場までの25人の宰相の内、節度使から宰相になった者が14人いる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=292}}。李林甫がこのコースを潰すために長城内節度使にも軍人・蕃将を任命するようにし、それが[[安禄山]]の出世・さらに結果として[[安史の乱]]に繋がることになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=448}}。
安史の乱を平定するに当たり、それまで設置していなかった内地にも藩鎮を設置するようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=448}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=343}}。また安史軍の幹部であった[[李宝臣]]・[[李懐仙]]・[[田承嗣]]の三人をそれぞれ成徳軍・盧龍軍・天雄軍の節度使に封じることで懐柔し、乱を収めた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=450}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=348}}。こうして9世紀半ばには全国に4-50の藩鎮が置かれ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=343}}、[[長安]]・[[洛陽]]の二都が所属する[[京兆府]]・[[河南府]]を除くすべての地域がいずれかの藩鎮の支配地域となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=343}}。
藩鎮はそれまでは軍権だけを持つものであったが、乱後は[[観察使]]を兼任することで行政権も握るようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=345}}。江南地域では節度使は置かれず、観察使が防御使などの軍事職を兼任することでこちらも行政・軍事権を握った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える{{Sfn|布目|栗原|1997|p=346}}。
藩鎮の内、唐政府に対して反抗的な藩鎮を反則(藩鎮、の地)、対して比較的従順な藩鎮を順地と呼んだ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=449}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=350}}。先に挙げた成徳・盧龍・天雄の3者が反則の典型で、これを[[河北三鎮]]と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=450}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=350}}。反則藩鎮では政府に収めるべき上供も送られないことが多く、領内での徴税・官吏や兵士の任命などを勝手に行い、半独立した状態となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=450}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=350}}。
藩鎮の領内の内、節度使の府(幕府)である使府が置かれている州を使府州(または会府)といい{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=345}}、節度使自身がこの州の長官たる[[刺史]]を兼ねる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=345}}。そしてここに常駐している軍を牙軍・牙中軍といい、藩鎮兵力の中核をなす{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=361}}。また領内の要所に軍鎮が配置されて守備にあたる。これを外鎮軍・牙外軍という{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=361}}。藩鎮は平均して5-6州をその領内に持つが{{Sfn|布目|栗原|1997|p=345}}、使府州以外の州は巡属州(または支郡)などと呼ばれ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=346}}、それぞれの州刺史が防御使などの軍事職を兼任して州ごとに軍を持って治安維持に当たる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}。これらの兵士は全て傭兵であり、官費で養われる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}。またこれらとは別に家兵などと呼ばれる節度使の私軍を抱えることが多い{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=362}}。これら家兵は節度使と[[仮父子]]関係{{Refnest|group="注釈"|name="仮父子"}}を結ぶことで個人的紐帯を強くした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=362}}。
藩鎮の中核を為す支配機関が使院と呼ばれる機関で、ここに所属する官を[[幕職官]]という{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=452}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=346}}。この幕職官は[[辟召]]により、藩鎮が独自に任命し、中央はそれを後で追認するだけであった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=452}}。この幕職官の主な供給源となったのが科挙落第者である。科挙に合格することは非常に困難であり、毎年数百人の落第者が生まれていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=452}}。落第者とはいえ知識人であり、有用な人材である彼らを辟召によって藩鎮が吸収していった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=452-453}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=386-387}}。
このような構造を持つ藩鎮だが、その長たる藩帥(節度使・観察使)の地位は必ずしも安定したものではなかった。牙軍の兵士は自らの待遇問題に敏感で、これが十分ではない場合は不満を抱いて兵乱を起こすこともあった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=360}}。最悪の場合は藩帥を追放・殺害してすげ替えるといった事態に発展する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=360}}。前述の家兵も、反抗的な牙軍に対して自衛のために個人的忠誠心の強い部隊が必要とされたものである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=362}}。
820年に即位した[[憲宗 (唐)|憲宗]]は各反則藩鎮を武力で討伐してこれらを順地とすることに成功した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=457-459}}。これと並行して順属州の兵権と税収を節度使から取り上げ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=374-376}}、さらに節度使を中央から派遣される高級文官が就くこととし{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=379}}、任期も数年で交代するようにした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}。これにより藩鎮の勢力は大幅に減少し、唐はある程度中央集権を回復することに成功した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=379}}。ただし河北三鎮は一旦順地化した後に再び反則となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=459}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=379}}。
[[黄巣の乱]]が起きると乱の中で成り上がってきた[[朱全忠]]・[[李克用]]らが節度使の職を帯びて、藩鎮勢力が再び形成される{{Sfn|布目|栗原|1997|p=450-451}}。しかしこの唐末の藩鎮とかつての反則藩鎮とは決定的に違う部分がある。反則藩鎮は財政基盤が弱く、大量の兵士を養うためには中央からの官費が不可欠であって、唐に対して反抗的ではあっても唐と分離して存続できない存在であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=451}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=451}}。これに対して黄巣の乱後の唐は一地方政権に堕しており{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=452-453}}、藩鎮は完全に自立した存在となった{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=451-452}}。
藩鎮間の抗争と統合が行われ、唐も907年に滅ぼされる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=484}}。この後の[[五代十国時代|五代]]政権の創業者はほとんどが節度使から皇帝となっており{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|p=25}}、五代政権自体が唐の藩鎮の性格を色濃く受け継いだものと言える{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|p=6}}{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|p=25}}。
==== 宦官 ====
唐は歴代王朝の中でも[[後漢]]・[[明]]と並んで[[宦官]]悪の顕著な時代とされている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=474}}。
六省の一つ[[内侍省]]が後宮の管理を行う部署である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=376}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=148}}。長官は内侍監(正三品){{Sfn|布目|栗原|1997|p=149}}。
唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の[[高力士]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=}}。高力士は皇太子時代から玄宗に仕え、太平公主討伐などに功績を挙げて、玄宗の信頼を勝ち取るに至った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=149}}。玄宗が皇太子を立てる際に高力士は忠王李璵(後の[[粛宗 (唐)|粛宗]])を推薦し、玄宗はこの意見に従っている{{Sfn|布目|栗原|1997|p=155}}。このように玄宗からの信頼は非常に厚いものがあったが、玄宗退位後に粛宗を補佐して権勢を握ったこれも宦官の[[李輔国]]から誣告を受けて失脚している{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=149-150}}。
高力士までは宦官はあくまで皇帝の影の存在だったが、先に挙げた李輔国のころから宦官が表舞台に現れてくるようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}。さらに[[代宗 (唐)|代宗]]のときの[[程元振]]などを経て、[[神策軍]]を擁した[[魚朝恩]]の台頭以後、宦官の存在は唐の中で大きな位置を占めるようになる{{Sfn|氣賀澤|2005|p=121}}。安史の乱により唐の南北[[禁軍]]([[#中央軍|中央軍]]を参照)は壊滅しており{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=370}}、これに代わって神策軍を代表とする北衙禁軍が再構成される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=370}}。神策軍の司令官には代々宦官が任じられることになり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=495}}、宦官勢力が大きな兵力を握ることとなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=495}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=370}}。この北衙禁軍により唐は[[藩鎮]]勢力の討伐に成功し、このことで宦官の勢力は増大する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=495}}。さらに藩鎮に対して宦官が[[監軍]]として監察に当たるようになり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=391}}、また新たに設置された[[枢密使]]が宦官の任命されて皇帝と宰相との連絡役とされる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=391}}など、もはや宦官は宮中の中だけの存在ではなくなった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=391}}。
ここに至って宦官は皇帝の廃立すら決めるようになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=392}}。12代[[穆宗 (唐)|穆宗]]から19代[[昭宗 (唐)|昭宗]]までの8人の皇帝のうち宦官に擁立されなかったのは13代[[敬宗 (唐)|敬宗]]だけであり、その敬宗も在位2年で宦官に殺されている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=392}}。皇帝を擁立した宦官は定策国老と呼ばれ、擁立された皇帝は門生天子(皇帝を科挙の受験者に見立てている)とまで呼ばれた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=392}}。この状態に対して14代[[文宗 (唐)|文宗]]は宦官を誅滅しようとし、宰相[[李訓]]・鳳翔節度使の[[鄭注]]と共に宦官殺害の策を練る。835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし直前に情報が宦官側に漏れて計画は失敗、李訓らは殺される。これを[[甘露の変]]と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=475}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=393}}。
強大な権力を持つ宦官に対して、官僚側も接近し、[[牛李の党争]]の際には双方の党が宦官の力を借りて政敵を追い落としている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=475-476}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=392-393}}。
このように権勢を振るった宦官であったが、その権勢の源はあくまで皇帝にあり、皇帝と離れては権勢を保ち得ない存在であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=476}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=392}}。黄巣の乱の後、唐が大幅にその力を減じ、一地方政権となった後でも官僚・宦官等による宮廷内での権力争いは続けられていたが、それも藩鎮軍閥勢力による代理戦争に過ぎず{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}、現実になんら影響を及ぼすものではなかった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=461}}。
903年、[[朱全忠]]は宮中にて数百人の宦官を皆殺しにした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=137}}。中央における有利を確立した朱全忠にとってはもはや宦官に利用価値は残っていなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=486}}。そして4年後の907年に唐自体が滅亡することとなる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=486}}。
== 社会・経済 ==
※唐代の単位については以下の通り。1[[頃]]=100[[畝 (単位)|畝]]≒5.22[[アール (単位)|アール]]。10斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=42.5 - 40g。
=== 農村・農業 ===
[[#均田制]]および[[#地方制度]]で先述したように、唐代の農民は丁男(21歳から59歳までの男性)と中男(18歳以上の男性)一人に[[永業田]]が20[[畝 (単位)|畝]]・[[口分田]]が80畝まで支給される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。永業田は世襲が認められ{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}、口分田は60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=195-196}}。これに対して[[租]]は粟(穀物)2[[石]]、[[調]]は[[絹]]2[[丈]]と[[綿]]3[[両]](または布2.5丈と麻3斤)を納め、年間20日の労役の義務を負う。永業田は[[クワ]]・[[ニレ]]・[[ナツメ]]などの果樹を植えるための土地であり、口分田で穀物を育てる。唐初の主力穀物は[[アワ]]であり、租として納めるのがアワなのもそれ故である{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=327-328}}。これら農村に対する行政単位が郷と里([[郷里制]])である。100戸をまとめて里として里正を起き、5里をまとめて郷とする(郷正は一時期を除いて置かれなかった){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=378}}。里正は里の者から選ばれ、戸籍の作成・勧農・里内の不正の監視・労役の割付などにあたった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=378-379}}。また村の中の100戸ごとに村正が置かれた(100戸以下の場合は一人、以上なら複数となる){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=379}}。
これが唐初を過ぎると[[粉食]]の習慣が一般的になり、より粉食に向いた[[ムギ]]が盛んに栽培されるようになる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=328}}。各地の荘園では[[碾磑]](水力を利用した石臼)が設けられ{{Sfn|布目|栗原|1997|p=328}}、荘園での製粉に加えて民間にも貸し出されて、その借賃が荘園の大きな収入となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=500}}。これら碾磑に使われる水は灌漑用水から引かれたので水利を阻害し、一般農民からの訴えにより政府は碾磑を撤去するようにしたが、撤去後にすぐに再建されたために効果はなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=500}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=328-329}}。更に華北ではムギ栽培の普及とともに早熟のアワとムギを組み合わせた二年三毛作が成立する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=492}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=329}}。
[[両税法]]がムギとアワ(ないし稲)を徴税対象としているのもこのような状況に対応したものであり、また均田制の崩壊と両税法の施行により大土地所有が公認されたことで荘園が増大した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=499}}。唐代の荘園は100[[頃]]ぐらいを上限、4、5頃を下限とした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=}}。荘園の形態としては一箇所に集中して存在するものと、他家の土地に混在して存在するものがあり、唐後期になるに従って後者の例が増える{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=499}}。これら荘園を耕す労働力は傭客(良民が契約して耕作に預かる者)・憧僕(荘園主所有の私賤民)と呼ばれる人々が担う{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=499}}。また小作に出されることも多く、荘戸・荘客(後の[[佃戸]])と呼ばれる小作人がこれを耕作した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=500}}。
村落内の秩序構造も変化した。前述したように里正・村正は実質的な権限を失い、代わって村落の有力者が村長などと呼ばれて実質的な指導者となり、村落の自治組織の上に州県がのる形となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=501-502}}。また村とは別に[[社]]という自治組織があった。社は元々土地神を信仰する地域集団を指す言葉であるが、唐代においては仏教を中心とした社の他に民衆の間での特に宗教目的ではない社(社邑)も存在した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=502}}。社内部でのとりきめを社条といい、慶弔事や災害に対しての相互援助などが定められた。特に葬式に際しての援助・香典が盛んに行われ、これらの事項を連絡するために『社司転帖』という回覧板が回された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=502}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=227}}。
=== 商業・都市 ===
唐代の都市は外側を全て城壁で囲み、内部も坊墻と呼ばれる壁によって坊という区画に分けられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}。坊は首都長安で108(後述する東市と西市を含めて110)あり{{Sfn|布目|栗原|1997|p=209}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=209}}、坊の大きさは南北500から600m弱。東西で565mから1100m強{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=209-210}}。各坊には坊門があり、朝4時に開けられ夕方日没とともにに閉じられ、時間外の坊外への外出は禁じられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=210}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=209}}。また「市」と呼ばれる箇所があり、唐前半期では基本的にこの市の中でしか商業活動は認められていなかった。「市」も坊と同じく墻壁と市門によって区画され、時間外の商業は禁止だった{{Sfn|氣賀澤|2005|p=215}}。「市」はその他の坊と違って井の字の形をしており(これが市井という言葉の語源となったとも言われる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=214}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=215}})、井の字の中心に「市」を統括する市署が、その隣に平準署という役所があった。商人は行商を行う客商と店(肆舗)を構える「座賈(ざこ)」に分けられ、市署にて市籍に登録されて管理された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}{{Sfn|氣賀澤|2005|pp=215-216}}。長安には東市・西市、洛陽には南市北市と西市があり、それ以外でも州や県の機関がある場所に市署が設けられた{{Sfn|氣賀澤|2005|p=213}}。市内部には商人の各店舗(肆舗)の他に客商のための倉庫として[[邸店]]があった(邸店は
飲食・宿泊施設も兼ねた){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}。市の中の店は扱う商品によって一箇所にまとめられた。これを[[行 (同業組合)|行]]と呼び、絹行(呉服)、薬行、肉行、金銀行・銀行(金銀細工)、覊轡行(しゅうひこう、馬具)、衣行(仕立て屋)、秤行などの多種多様の行があった{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=330-331}}。
商業活動の活発化とともにこれらも大きく変化を見せる。決められた「市」以外の場所にも店が進出するようになり、禁じられていた夜間営業も行われるようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}。坊の方でも坊墻が壊されて街路に出入りし、坊門の開閉も厳密に守られないようになっていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}。地方の農村においても交通の要衝などには「草市」と呼ばれる商業地域が誕生するようになる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=331}}。このような状態で市署の存在は有名無実のものとなり、縮小廃止への道を進むこととなる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}。また行もそれまでの同業種の店舗が連なる形式から同業組合いわゆる[[ギルド]]へと変化した{{Sfn|布目|栗原|1997|p=331}}。
=== 貨幣 ===
{{main|開元通宝}}
[[File:100 Tang Kaiyuan Coins.jpg|right|thumb|200px|開元通宝]]
漢代以来700年以上の長きに渡って[[五銖銭]]が使われていたが、唐建国4年後の[[621年]]に新たな[[銅銭]]である[[開元通宝]]を発行した。この開元通宝は[[五代十国時代|五代]]までの340年間に通行した{{Sfn|宮澤|2007|p=144}}。なおこの銅銭のことは開通元宝と読むという説もあり、どちらが正しいかは現在でも確定していない{{Sfn|宮澤|2007|p=145}}。1文の重さは2銖4参≒4g。10文=1両、1000文=1貫となる{{Sfn|宮澤|2007|p=146}}。唐の間に開元通宝以外の高額面銅銭が何度か発行されたが、いずれも定着はしていない。
唐政府による正式な銅銭(官銭)に対して民間で勝手に鋳造する私鋳銭が横行した。政府は私鋳は死罪として厳しく取り締まったが、それにも関わらず唐代の私鋳は歴代でも最も激しいとされる{{Sfn|宮澤|2007|p=147}}。723年には銅錫の売買と銅器の製造を禁止する[[銅禁]]令を出して私鋳業者が原料の銅を入手することを困難にした{{Sfn|宮澤|2007|p=149}}。私鋳銭の中でも官銭の2銖4参に近い重量を持つ良銭もあれば、銅を少なくした悪銭もある。政府は良銭であれば通行することを認め、悪銭を取り締まった{{Sfn|宮澤|2007|p=150}}。
安史の乱以降、[[#兵制]]が[[府兵制]]から[[募兵制]]へと移行したことで、軍事支出が大幅に増加したこと・[[両税法]]の導入により納税が銅銭を基本とすることとなったことなどから銅銭の需要が激増し、銅銭の不足をもたらした(これを[[銭荒]]と呼ぶ)。これにより銅の価格は高騰し、銅銭を鋳潰して銅として売る行為(私銷)が増えた{{Sfn|宮澤|2007|p=155}}。こうなると私鋳銭で良銭を作ることは難しくなり、悪銭が増えて横行することとなる{{Sfn|宮澤|2007|p=155}}。政府も私銷や積銭(銅銭を溜め込むこと)の禁止などで銅銭不足に対応しようとしたが、原料の銅不足はいかんともしがたかった{{Sfn|宮澤|2007|p=166}}。これが[[会昌の廃仏]]により、各地の仏像を鋳潰したことでそれを原料とした銅銭が大量に発行された{{Sfn|宮澤|2007|p=166}}。
ただし当時の貨幣としては銅銭以外に絹などの現物貨幣が使われていた{{Sfn|丸橋|2013|p=108}}{{Sfn|丸橋|2013|p=117}}。
=== 交通・交易 ===
==== 国内 ====
[[漢]]代までは江南は後進地であり、中原の経済に大きな影響を与えるようなものではなかった。これが六朝時代を通じて開発が進み、飛躍的な発展を遂げた。さらに[[大運河]]の完成により、華北と江南の経済が結びついた{{Sfn|丸橋|2013|p=106}}。当初中国の物流は西(四川・陝西)と東(江南・河北・華南)に分断されており、2つが洛陽と長安間の道を通じてか細く繋がっているに過ぎなかった{{Sfn|丸橋|2013|p=108}}。そのため首都長安では100万と謳われた人口を支えることが出来ず、朝廷ごと洛陽に引っ越して食を確保する「東都就食」という行為が頻繁に行われた{{Sfn|丸橋|2013|p=108}}{{Sfn|愛宕|1996a|p=346}}。[[裴耀卿]]は733年に大規模な漕運改革を行い、南から洛陽・長安へ食料供給するシステムを作り上げることに成功する{{Sfn|愛宕|1996a|p=446}}。これら漕運を統括するために設置されたのが[[転運使]]である{{Sfn|愛宕|1996a|p=445}}。以前は南から北へ運送できる穀物の量はせいぜい10~20万石であったのが、改革以降は毎年200万石の穀物を送ることができるようになった{{Sfn|愛宕|1996a|p=446}}。
[[安史の乱]]後に[[#専売制]]が始まると、その運送においても大運河が大きな役割を果たす{{Sfn|金子|1996|p=493}}。それに伴い乱の影響で機能不全に陥っていた大運河の再整備が行われ、塩の販売利益がそれに当てられた{{Sfn|森部|2023|p=216}}。塩専売を司る塩鉄使と密接な関係を持つ転運使は両者が兼任されるようになり、宰相に次ぐ重要ポストとされた{{Sfn|愛宕|1996a|p=447}}。この時の財政関連として塩鉄転運使の他に六分の一つ[[戸部]]と財政全般を司る[[度支]]があり、度支が陝西・山西・四川の唐西部を塩鉄転運使が河北・河南・山東・江南の唐東部を管轄するようになる{{Sfn|丸橋|2013|p=115}}。
安史の乱以後の北方民族との戦闘に必要な諸経費・物資を専売制の利益・江南からの富(と関中における屯田・[[和糴]])で支える南北分業体制が整えられたのである{{Sfn|丸橋|2013|p=115}}。
==== 国外 ====
当時の国外交易には[[朝貢]]と[[互市]]の2つの形式がある。朝貢は国外からの使節が貢物として持ってきたものに対して絹製品を中心とした回賜品が与えられる形態で、互市は辺境の特定の場所に限って交易が認められた{{Sfn|金子|1996b|p=508}}。
西方および北方とは主に[[ウマ|馬]]を輸入し、絹で贖う[[絹馬交易]]が行われた。安史の乱以後は[[ウイグル帝国]]と取引が行われた{{Sfn|金子|1996b|p=508}}{{Refnest|group="注釈"|name="絹馬交易について"|絹馬交易についてはウイグルが優位な立場を背景に質・価格とも問題があり、更には必要以上の馬数を売りつけようとしたので、唐は支払いに苦しんでいたとされている{{Sfn|金子|1996b|p=508}}。しかし実際には価格は適正なものであり、唐が支払いに苦しんだのは唐の財政事情によるという見解がある<ref>{{Cite journal|和書|author=齋藤勝 |authorlink=齋藤勝 |title=唐・回鶻絹馬交易再考 |url=https://doi.org/10.24471/shigaku.106.12_2174_1 |journal=史学雑誌 |publisher=史学会 |year=1999 |volume=108 |issue=10 |page=33}}</ref>。 }}。この北方・西方との交流に大きな役割を果たしたのが[[ソグド人]]商人たちである{{Sfn|丸橋|2013|p=107}}。彼らが構築したネットワークは民間交易だけではなく、軍需物資の運搬などの公的業務も請け負った{{Sfn|丸橋|2013|p=107}}。
南の東南アジア諸国とは[[南海交易]]が行われた。拠点となったのが[[広州]]で、ここに[[市舶司]]が置かれて積み荷の検閲・課税・管理などが行われた。主な輸入品は香料・染料・[[タイマイ]]などである{{Sfn|金子|1996b|p=510}}。安史の乱以降はシルクロードが吐蕃の占領により途絶してしまい、南海交易の重要度は増した{{Sfn|愛宕|1996b|p=481}}。また多数のイスラム商人が来て商売を行い、広州は大いに繁栄する{{Sfn|愛宕|1996b|p=481}}。しかし[[黄巣の乱]]の際に甚大な被害を受けて交易港としての機能を喪失し、回復までに数十年の時を要した{{Sfn|愛宕|1996b|p=481}}。
東の日本・新羅・渤海とも朝貢貿易が行われ、人参や工芸品が献上された{{Sfn|金子|1996b|p=510}}。
== 文化 ==
=== 文学 ===
唐は歴代でも[[漢詩]]の黄金時代とされる{{Sfn|宇野|2005|p=119}}。唐の文化を初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分することが[[南宋]]の[[厳羽]]が提唱して以来、一般化している{{Sfn|宇野|2005|p=119}}{{Sfn|池田|1996a|p=427}}。散文は盛唐までは漢詩の影に隠れて目立たない存在であったが、中唐に[[韓愈]]らが[[古文復興運動]]が起こして注目を集めた{{Sfn|池田|1996|p=427}}。同じく中唐以降に小説や[[講唱]]などの通俗文学も発展を遂げた{{Sfn|池田|1996a|p=427}}。
==== 初唐 ====
初唐は建国直後から玄宗即位までの618年から712年までの期間である。この時期に六朝からの流れを受けて[[近体詩]](五言・七言、絶句・律詩)の規則・形式が確立した{{Sfn|宇野|2005|p=119}}{{Sfn|池田|1996|p=427}}。
建国直後の詩人として名が挙がるのが[[魏徴]]と[[王積]]である。魏徴は太宗の諫臣として名高く、詩人としては豪快な詩風で代表作「述懐」は『[[唐詩選]]』の巻頭を飾る{{Sfn|宇野|2005|p=121}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=231}}。王積は官界で栄達せず隠退し、[[陶淵明]]風の素朴な隠士としての生活を詠んだ詩が特徴{{Sfn|宇野|2005|p=123}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=231}}。太宗本人も詩や書など文化面においても高い評価を受ける人物であり、文学の士を幕下に多く置いた。その中のひとりが[[上官儀]]であり、上官体と呼ばれる詩風で朝廷を風靡した{{Sfn|宇野|2005|p=127}}。
初唐の代表的詩人とされるのが[[王勃]]・[[楊炯]]・[[盧照鄰]]・[[駱賓王]]の四人で、[[初唐四傑]]と称される{{Sfn|宇野|2005|p=127}}{{Sfn|池田|1996|p=427}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=231}}。いずれも[[高宗 (唐)|高宗]]期に活躍した詩人で、四人とも官界に入るも不遇だったという共通点があり{{Sfn|宇野|2005|pp=127-128}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=231-232}}、その影響から彼らの詩には[[自照文学|自照]]の傾向が強い{{Sfn|宇野|2005|p=128}}。
その後の武則天は積極的に文化を称揚し、[[科挙]]の[[進士]]科に詩を必須のものとしたことで唐詩の隆盛を導いたと評される{{Sfn|布目|栗原|1997|p=232}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=339}}。武則天期の代表詩人として「沈宋」と称される[[沈佺期]]と[[宋之問]]がいる。沈は七言律詩、宋は五言律詩を得意とした{{Sfn|布目|栗原|1997|p=233}}。
これら南朝から受け継いだ技巧的な詩風に対して、[[陳子昂]]は[[漢]][[魏 (三国)|魏]]の詩風に学んで質実剛健な詩を作り、盛唐の詩へ影響を与えた{{Sfn|宇野|2005|p=137}}{{Sfn|池田|1996|p=427}}。
==== 盛唐 ====
盛唐は玄宗が即位した712年から退位させられた玄宗が死去する762年までの期間である{{Sfn|宇野|2005|p=141}}。この時代を代表するのは何と言っても'''[[李白]]'''・'''[[杜甫]]'''であり、[[孟浩然]]・[[王維]]がそれに次ぐ。
李白は[[西域]]出身で子供の頃に蜀に移住。若き日は江南を旅し、40代になってから一度仕官したものの朝廷の気風と合わず、官界を追放される。その後はまた旅をして最後は[[当塗県|当塗]]にて病死した。伝説では舟遊びの最中に酔って水面に写った月を取ろうとして転落し、溺死したという{{Sfn|宇野|2005|pp=159-165}}。その詩の特徴は豪快で明るく、流動感に溢れ{{Sfn|宇野|2005|p=166}}、詩仙と称される{{Sfn|池田|1996a|p=427}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=237}}。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 峨眉山月歌<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P167に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
|峨眉山月半輪秋
|峨眉山月 半輪の秋
|-
|影入平羌江水流
|影は平羌江水に入って流る
|-
|夜発清溪向三峡
|夜 清溪を発っして三峡に向ふ
|-
|思君不見下渝州
|君を思へども見ず 渝州に下る
|-
|}
杜甫は河南省鞏県(現[[鞏義市]])の生まれで、その遠祖は[[西晋]]の将軍[[杜預]]である。24歳のときに[[科挙]][[進士]]科を受験するが落第。以後も官位を得るために活動するもなかなか上手く行かず、44歳のときにようやく士官が叶うが直後に[[安史の乱]]が勃発。以後、粛宗の元で一時的に官職を得るも乱の激化により家族を連れて各地を転々として最後は船の上で没した{{Sfn|宇野|2005|pp=171-175}}。その詩は社会や自身を直視した現実的な姿勢が特徴である{{Sfn|宇野|2005|p=175}}。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 貧交行<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P171に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 翻手作雲覆手雨
| 手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨
|-
| 紛紛軽薄何須数
| 紛紛たる軽薄 何ぞ数ふるを須いん
|-
| 君不見管鮑貧時交
| 君見ずや [[管鮑の交わり|管鮑]]貧時の交はりを
|-
| 此道今人棄如土
| 此道 今人 棄てて土の如し
|}
孟浩然は襄陽(現[[襄陽市]])の人で科挙に落第して、各地を放浪・隠逸生活に入った{{Sfn|宇野|2005|pp=148-149}}。その生活を詠んだ「[[春暁]]」が特に有名。しかし孟浩然は官途が絶たれたことに失意を感じていたようであり、隠逸生活を楽しんでいた[[陶淵明]]に対して、孟浩然は失意・孤独・寂寥感を感じさせる詩が特徴的である{{Sfn|宇野|2005|p=152}}。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | [[春曉]]<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P148に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 春眠不覺曉
| 春眠 曉を覺ず
|-
| 處處聞啼鳥
| 処々 啼鳥を聞く
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| 夜來風雨聲
| 夜來 風雨の声
|-
| 花落知多少
| 花落つること知る多少
|}
王維は当時の名門貴族・[[太原王氏]]の出身で若き頃より才能を発揮して社交界の寵児となった。21歳のときに科挙に及第して官僚の地位を得ると地方に転出した後に中央へと戻って朝廷詩人として名声を得た。しかし安史の乱が勃発すると捕らえられて反乱軍の官に就かされ、乱終結後にこのことを罪に問われて降格されるが、その後は[[尚書省|尚書]]右丞まで登る{{Sfn|宇野|2005|pp=152-156}}。王維は[[自然詩]]を得意とする。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 竹里館<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P156に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 独坐幽篁裏
| 独り坐す 幽篁の裏
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| 弾琴復長嘯
| 弾琴 復た長嘯
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| 深林人不知
| 深林 人を不らず
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| 明月来相照
| 明月 来って相照らす
|}
==== 中唐 ====
中唐は安史の乱終結の763年から840年までの期間である。この時代を代表する詩人が[[白居易]]・[[元稹]]である{{Sfn|池田|1996b|p=529}}。
白居易は15の頃から詩作と勉学に励み、29歳のときに科挙進士に合格、中央で官歴を積んだ。しかし44歳のときに左遷されて地方へ転出、以後は地方官を歴任し、引退後は洛陽で隠居生活に入った{{Sfn|宇野|2005|pp=195-196}}。このような経緯から若き日は政治・社会批判を行った詩(諷喩詩)を多く詠み、左遷以後は世俗を超越し身近な生活を描いた詩(閑適詩)を詠んだ{{Sfn|宇野|2005|p=197}}。代表作には「[[新楽府]]」・「[[長恨歌]]」など。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 閑遊に勉む<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P202に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 天時人事常多故
| 天時人事 常に故多し
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| 一歳春能幾處遊
| 一歳 春能く幾処にか遊ぶ
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| 不是塵埃便風雨
| 是れ塵埃ならざれば便ち風雨
|-
| 若非疾病即悲愁
| 若し疾病に非ざれば即ち悲愁
|-
| 貧窮心苦多無興
| 貧窮なれば心苦しくして多く興無く
|-
| 富貴身忙不自由
| 富貴なれば身忙がしくして自由ならず
|-
| 唯有分司官恰好
| 唯だ分司の 官の恰かも好しき有り
|-
| 閑遊雖老未能休
| 閑遊老いたりと雖も未だ休む能はず
|}
元稹は白居易の同期生で、生涯に渡って友情が続き、その友情は元白の交わりと呼ばれる。官は[[同中書門下平章事]]にまで登ったが、剛直な性格によりしばしば左遷された{{Sfn|宇野|2005|p=206}}。詩風は白居易と共通するものがあり、2人の詩風を[[元和体]]と呼ぶ{{Sfn|宇野|2005|pp=205-206}}。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 聞楽天授江州司馬<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P206-207に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 残灯無焔影幢幢
| 残灯 焔無くして影幢幢
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| 此夕聞君謫九江
| 此の夕べ 君が九江に謫せられしを聞く
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| 垂死病中驚坐起
| 垂死の病中 驚いて坐起すれば
|-
| 暗風吹雨入寒窓
| 暗風 雨を吹いて寒窓に入る
|}
またこの時期に[[韓愈]]・[[柳宗元]]が中心となって[[古文復興運動]]が行われた。六朝時代からの対句と装飾に重きを置いた[[駢文]](四六駢儷体)を排除し、『[[史記]]』を模範とした文章に回帰することを目指す運動で、[[北宋]]の[[欧陽脩]]を経て文壇を支配するようになり、[[清]]末までその状態が続いた{{Sfn|池田|1996b|p=529}}。
==== 晩唐 ====
晩唐は840年から唐が滅亡する907年までの期間である{{Sfn|宇野|2005|p=229}}。この時期を代表する詩人として[[杜牧]]・[[李商隠]]らが挙がる。
杜牧は親族から宰相を出す名門の出身で、自らも26歳で進士に合格。職務に励むが、剛直な性格から上から疎まれることもあった。その後、弟ら親類を養うために志願して収入の良い地方官を歴任し、49歳のときに中央に呼び戻されるが翌年に病没した{{Sfn|宇野|2005|p=231}}。詩風は軽妙洒脱{{Sfn|宇野|2005|p=232-233}}。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 遣懐<ref group="注釈">書き下しは池田1996b P537に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 落魄江湖載酒行
| 江湖に落魄して酒を載せて行く、
|-
| 楚腰繊細掌中輕
| 楚腰繊細 掌中に輕し。
|-
| 十年一覺揚州夢
| 十年一たび覚む揚州の夢、
|-
| 贏得青楼薄倖名
| 贏ち得たり青楼薄倖の名。
|}
李商隠は[[懐州]]河内県(現在の[[河南省]][[焦作市]][[沁陽市]])の人。典故を並べた華麗かつ難解な詩が特徴。詩作のときに書物を多数並べていたので、「[[獺祭魚]]」と呼ばれた{{Sfn|宇野|2005|p=235}}。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 登樂遊原<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 PP238-239に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 向晩意不適
| 晩に向意適はず
|-
| 驅車登古原
| 車駆りて古原に登る
|-
| 夕陽無限好
| 夕陽 無限に好し
|-
| 只是近黄昏
| 只だ是れ黄昏に近し
|}
=== 美術 ===
[[File:Longmen lu she na.jpg|thumb|龍門石窟]]
絵画の分野においては、唐の後期には水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られる。同時代の絵画評論文集『[[唐朝名画録]]』は、この代表として[[王墨]]・[[李霊省]]・[[張志和]]の3人を挙げている。
[[書道]]の分野においては、玄宗の時代の人物である[[顔真卿]]は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立て、後に北宋の書家・画家の蘇軾は「書は顔魯公に至りて畢(おわ)れり。」と評した{{Sfn|氣賀澤|2005|p=331}}。
=== ギャラリー ===
コモンズの[[Commons:Category:Art of the Tang Dynasty|唐代の美術]]のカテゴリも参照。
<gallery>
Image:Westerner_on_a_camel.jpg|唐三彩
Image:Tang horse.jpg|唐三彩
Image:CMOC Treasures of Ancient China exhibit - pottery horse, detail 1.jpg|唐三彩
Image:Plat à offrandes Chine Musée Guimet 2418 1.jpg|唐三彩
Image:CMOC Treasures of Ancient China exhibit - tri-coloured figure of a civil official.jpg|文官の唐三彩
Image:Gilt silver eared cup.jpg|花をモチーフにした金箔の銀茶わん
Image:Gilt silver jar with pattern of dancing horses.jpg|馬をモチーフにした金箔の銀つぼ
Image:Spring Outing of the Tang Court.jpg|唐宮廷の絵画
Image:A palace concert.jpg|唐宮廷の絵画
Image:Palefrenier menant deux chevaux par Han Gan.jpg|[[韓幹]]による鞍馬画
Image:Emperor Taizongs horses by Yan Liben.jpg|兵士と馬のレリーフ
Image:Wild goose pagoda xian china.jpg|長安の大雁塔
Image:Leshan Buddha Statue View.JPG|四川省楽山市の楽山大仏
</gallery>
== 国際関係 ==
[[File:唐朝疆域(繁).png|center|thumb|600px|唐領域図]]
唐の最大領域は高宗期の660年代で{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=331}}、直接統治地域は東西が朝鮮北部から[[天山山脈]]のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域でも異民族の自治による間接支配を執っている。
唐の北方異民族支配は[[羈縻政策|羈縻支配]]と呼ばれる。異民族の支配地に唐の直接統治機関である[[都督府]]・[[羈縻州]]を設置し、その長官たる[[都督]]や[[刺史]]にその地の異民族の長を任命してその部族の自治権を認めるものである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=326-327}}。
都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。
* [[安西都護府]] - [[640年]]設置。[[シルクロード]]の天山南路の守備。
* [[安北都護府]] - [[647年]]設置。外[[モンゴル]]支配。
* [[単于都護府]] - [[650年]]設置。内モンゴル支配。
* [[安東都護府]] - [[668年]]設置。[[朝鮮]]・[[満州]]支配。
* [[安南都護府]] - [[679年]]設置。[[ベトナム]]・その他の南海諸国支配。
* [[北庭都護府]] - [[701年]]設置。天山北路の守備。
盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、[[高句麗]]の[[高仙芝]]、[[百済]]の[[黒歯常之]]、[[日本人]]の[[阿倍仲麻呂]]や雑胡(異民族の混血)の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=294}}。
安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境へ藩鎮の配置を進め、羈縻支配を改めていったが、吐蕃により唐の西北国境は不安定となる。9世紀にはウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。また、唐の衰退は東方の諸国においても動揺を与え、唐の滅亡から30年経たないうちに渤海・新羅が相次いで滅亡・日本においても律令体制が動揺することとなる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=331}}{{efn|日本への影響を直後の[[承平天慶の乱]]の発生は唐滅亡後の混乱や変革とは直接的な関係はなく、むしろ200年以上遅れる形で[[平氏政権]]の成立に影響を与えたとする理解もある{{Sfn|榎本|1998}} }}。
=== 北方 ===
[[6世紀]]に巨大帝国を築いた[[突厥]]は隋の時代に東西に分裂していたが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=302}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=60}}、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=317}}。太宗即位の[[626年]]には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=317}}。
しかし唐が統一を果たした[[628年]]以降に攻勢に転じ、[[630年]]には突厥から[[鉄勒]]が離反したことに乗じて東突厥を滅ぼすことに成功した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=317}}。突厥の後に台頭した鉄勒部族の一つ[[薛延陀]]も[[646年]]に制圧し、翌年に[[安北都護府]](もしくは燕然都護府)・[[単于都護府]]を設置した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=326-327}}。太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている{{Sfn|布目|栗原|1997|p=79}}。可汗(カガン)は[[ハーン]]、すなわち[[遊牧民]]世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}。
[[ファイル:Gok turk Epigraph Copy in Gazi University Ankara.jpg|thumb|ビルゲ・カガン碑文のレプリカ([[アンカラ]]の[[ガズィ大学]])。]]
その後、突厥は唐の単于都護府下に支配されていたが、度々唐に対して反抗し、[[682年]]に突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において自立した{{Sfn|布目|栗原|1997|p=142}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=310}}。突厥は唐に侵攻して辺境を悩ませ、突厥の勢力を取り戻した{{Sfn|氣賀澤|2005|p=311}}。この時期のことを記したものが[[突厥碑文]]と呼ばれる石碑文である{{Sfn|氣賀澤|2005|p=311}}。その後、突厥は内紛で勢力を落とし、[[744年]]に鉄勒の一部族であった[[ウイグル]](回鶻)を中心とした部族連合(「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)によって滅ぼされ、ウイグルが突厥にかわってモンゴル高原を支配下においた{{Sfn|氣賀澤|2005|p=312}}。その後に安史の乱が起きると唐からウイグルに要請があり、それに応えて援軍を送った。その見返りとして莫大な絹を唐からウイグルへ送ることとなり、[[絹馬交易]](絹と馬を交換する交易。[[#外国交易]]参照)にてウイグル側に有利なレートで交易を迫り、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|pp=390-391}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=313}}。しかし[[840年]]に天災と[[キルギス人]]の攻撃によりウイグル国家は崩壊、この後に高原を統一する勢力は[[モンゴル帝国]]まで待たねばならない{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|p=391}}。
=== 西方 ===
唐は[[640年]]に[[高昌国]](現[[トルファン]])を滅ぼしたのを初めとして、[[シルクロード]]沿いの[[オアシス]]国家を服属させて[[安西都護府]]([[クチャ]])を設置し、[[西域]]経営を行った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。
また[[635年]]に[[青海省|青海]]の[[吐谷渾]]を支配下に置き、[[チベット高原]]の[[吐蕃]]も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を吐蕃[[公主]]として嫁がせるなどして懐柔に努めた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。
唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・[[パミール高原]]以西の[[マー・ワラー・アンナフル|トランスオクシアナ]]にまで及ぶが、[[751年]]の[[タラス河畔の戦い]]で敗戦したことによって頓挫し、中央アジアの支配権は[[イスラム帝国]]に譲ることになる。なお、この戦いの捕虜により、[[紙|製紙法]]が西方に伝わった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=176p-177}}。
安史の乱が起こると、吐蕃は乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=357}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=174}}。長安からはすぐに撤退したものの[[甘粛]]は吐蕃の領域に入り、シルクロードの[[河西回廊]]は吐蕃の手に入った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。その後の[[787年]]には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。その後、唐の立ち直りにより敵対関係は続けるもののその攻勢を弱め、822年に唐と完全に和睦{{Sfn|氣賀澤|2005|p=321}}。以降は唐と吐蕃の間では戦闘はなくなる{{Sfn|氣賀澤|2005|p=321}}。
現在の[[雲南省]]を支配した[[南詔]]は元は大蒙国と号し、唐から刺史の位をもらっていた。その後、勢力を拡大して唐から雲南王に任ぜられ、更に勢力を拡大して雲南全てを統一した{{Sfn|布目|栗原|1997|p=175}}。その後、唐に対して背き、[[750年]]の唐の討伐軍を撃退。独立を果たしたが、独力ではそれを維持できず、吐蕃の援助を受けることとなる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=175}}。
=== 東方 ===
唐が成立した618年に[[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]の三国は唐に朝貢し、それに対して三国は唐からそれぞれ遼東郡王・帯方郡王・楽浪郡王に[[冊封]]されていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=328}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=100}}。[[642年]]に高句麗で[[泉蓋蘇文]]がクーデターを起こしたことと新羅からの要請で[[太宗 (唐)|太宗]]は高句麗に3度に渡って遠征軍を送るが失敗に終わる([[唐の高句麗遠征]]){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=328}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=101-102}}。太宗が崩御したことで高句麗遠征は一旦終了するが、次の[[高宗 (唐)|高宗]]のときに新羅が高句麗・百済の侵攻を受けたことで唐に救援要請を送り、658年と659年に二度遠征軍を送るがこれも失敗に終わる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=137}}。[[660年]]の遠征ではまず南の[[百済]]を滅ぼした。このときに百済移民が日本へと救援要請を送り、[[663年]]に[[白村江の戦い]]が起こるがこれに大勝して追い返した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=328}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=137}}。孤立した高句麗に攻撃をかけ、[[668年]]には高句麗首都[[平壌]]を陥落させて、高句麗を滅ぼした。唐はこの土地に[[安東都護府]]を設置する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=328}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=138}}。
その後、新羅が半島にあった唐の都督府ほか各地の行政機関を襲撃([[唐・新羅戦争]])した結果、安東都護府は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。
一方で東北地方([[満州]])ではこの地方に移住させられていた契丹が反乱を起こした混乱に乗じて、高句麗の遺民と[[粟末靺鞨]]が中心となり震国を立てる。唐から渤海郡王に冊封されたのを期に[[渤海 (国)|渤海]]と改める{{Sfn|布目|栗原|1997|p=169}}。
太宗時代に日本は[[遣唐使]]を送っていたが{{Sfn|布目|栗原|1997|p=103}}、白村江の戦いの後、唐の来襲を恐れて[[大宰府]]などに大規模な防備体制を敷いて、遣唐使は中断された{{Sfn|布目|栗原|1997|p=140}}。遣唐使が再開するのは[[702年]]のことでその後は唐滅亡までに16回送られた。遣使の中にいた[[阿倍仲麻呂]](中国名「朝衡」ないし「晁衡」)は唐に残って朝廷に仕えて出世し、[[節度使]]の地位まで登った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=172}}。また唐からも[[鑑真]]が生命を賭して日本へと渡った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=172}}。しかし安史の乱以降の唐が衰退したことで危険を犯して送る意義が少なくなり、頻度は激減する。そして838年を最期に遣使は途絶え、[[894年]]、[[菅原道真]]の建議により遣唐使は停止された{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=394-395}}。
== 唐の皇帝と元号 ==
[[ファイル:Tang Dynasty family map.png|180px|thumb|right|唐の系図]]
<!--この表はウィキ英語版[[EN:Tang Dynasty|Tang Dynasty]]から持ってきたものです。-->
{| class="wikitable"
|-
! style="background:#efefef;" | 皇帝
! style="background:#efefef;" | 名
! style="background:#efefef;" | 統治年数
! style="background:#efefef;" | 元号
|-
| [[李淵|高祖]] || 李淵 || [[618年]]-[[626年]]
| [[武徳]] [[618年]]-[[626年]]<br />
|-
| [[太宗 (唐)|太宗]] || 李世民 || 626年-[[649年]]
| [[貞観 (唐)|貞観]] [[627年]]-[[649年]]<br />
|-
| [[高宗 (唐)|高宗]] || 李治 || [[650年]]-[[683年]]
| [[永徽]] [[650年]]-[[655年]]<br />
[[顕慶]] [[656年]]-[[661年]]<br />
[[龍朔]] 661年-[[663年]]<br />
[[麟徳]] [[664年]]-[[665年]]<br />
[[乾封]] [[666年]]-[[668年]]<br />
[[総章]] 668年-[[670年]]<br />
[[咸亨]] 670年-[[674年]]<br />
[[上元 (唐高宗)|上元]] 674年-[[676年]]<br />
[[儀鳳]] 676年-[[679年]]<br />
[[調露]] 679年-[[680年]]<br />
[[永隆 (唐)|永隆]] 680年-[[681年]]<br />
[[開耀]] 681年-[[682年]]<br />
[[永淳]] 682年-[[683年]]<br />
[[弘道 (唐)|弘道]] 683年
|-
| [[中宗 (唐)|中宗]] || 李顕 || [[684年]]{{efn|即位後わずか54日で廃位された。}}<br />([[705年]]-[[710年]]に[[重祚]])
| [[嗣聖]] [[684年]]
|-
| [[睿宗 (唐)|睿宗]] || 李旦 || 684年-[[690年]]<br />(710年-[[712年]]に重祚)
| [[文明 (唐)|文明]] 684年<br />
[[光宅]] 684年<br />
[[垂拱]] [[685年]]-[[688年]]<br />
[[永昌 (唐)|永昌]] [[689年]]<br />
[[載初]] [[690年]]
|-
| align="center" style="background:#efefef;" colspan="4" | '''武周([[690年]] - [[705年]])'''唐の中断
|-
| 則天大聖皇帝 || [[武則天|武曌]] <ref group="注釈">「曌」は「照」の[[則天文字]]。</ref>|| 690年-705年<ref group="注釈">705年、中宗に譲位して唐が復活。武周は一代15年で終わった。</ref>
| [[天授 (武周)|天授]] 690年<br />
[[如意 (元号)|如意]] [[692年]]<br />
[[長寿 (武周)|長寿]] 692年<br />
[[延載]] [[694年]]<br />
[[証聖]] [[695年]]<br />
[[天冊万歳]] 695年<br />
[[万歳登封]] [[696年]]<br />
[[万歳通天]] 696年<br />
[[神功]] [[697年]]<br />
[[聖暦]] [[698年]]<br />
[[久視]] [[700年]]<br />
[[大足 (年号)|大足]] [[701年]]<br />
[[長安 (元号)|長安]] 701年
|-
| align="center" style="background:#efefef;" colspan="4" | '''唐の復興'''
|-
| 中宗([[重祚]]) || 李顕 || [[705年]]-[[710年]]
| [[神龍 (唐)|神龍]] [[705年]]-[[707年]]<br />
[[景龍 (唐)|景龍]] 707年-[[710年]]
|-
| [[殤帝 (唐)|殤帝]] || 李重茂 || 710年<ref group="注釈">中宗に代わり韋皇后によって皇帝に擁立されたが1ヶ月で睿宗に譲位させられた。</ref>
| [[唐隆]] 710年
|-
| 睿宗([[重祚]]) || 李旦 || 710年-[[712年]]
| [[景雲 (唐)|景雲]] 710年-[[711年]]<br />
[[太極 (唐)|太極]] [[712年]]<br />
[[延和 (唐)|延和]] 712年
|-
| [[玄宗 (唐)|玄宗]] || 李隆基 || 712年-[[756年]]
| [[先天 (唐)|先天]] 712年-[[713年]]<br />
[[開元]] 713年-[[741年]]<br />
[[天宝 (唐)|天宝]] [[742年]]-[[756年]]
|-
| [[粛宗 (唐)|粛宗]] || 李亨 || 756年-[[762年]]
| [[至徳 (唐)|至徳]] 756年-[[758年]]<br />
[[乾元 (唐)|乾元]] 758年-[[760年]]<br />
[[上元 (唐粛宗)|上元]] 760年-[[761年]]
|-
| [[代宗 (唐)|代宗]] || 李豫 || 762年-[[779年]]
| [[宝応]] [[762年]]-[[763年]]<br />
[[広徳 (唐)|広徳]] 763年-[[764年]]<br />
[[永泰 (唐)|永泰]] [[765年]]-[[766年]]<br />
[[大暦]] 766年-[[779年]]
|-
| [[徳宗 (唐)|徳宗]] || 李适 || [[780年]]-[[805年]]
| [[建中 (唐)|建中]] [[780年]]-[[783年]]<br />
[[興元]] [[784年]]<br />
[[貞元 (唐)|貞元]] [[785年]]-[[805年]]
|-
| [[順宗 (唐)|順宗]] || 李誦 || 805年<ref group="注釈">病気が元で即位後7ヶ月で譲位。</ref>
| [[永貞 (唐)|永貞]] 805年
|-
| [[憲宗 (唐)|憲宗]] || 李純 || [[806年]]-[[820年]]
| [[元和 (唐)|元和]] [[806年]]-[[820年]]
|-
| [[穆宗 (唐)|穆宗]] || 李恒 || [[821年]]-[[824年]]
| [[長慶]] [[821年]]-[[824年]]
|-
| [[敬宗 (唐)|敬宗]] || 李湛 || [[825年]]-[[826年]]
| [[宝暦 (唐)|宝暦]] 824年-[[826年]]
|-
| [[文宗 (唐)|文宗]] || 李昂 || 826年-[[840年]]
| 宝暦 826年<br />
[[大和 (唐)|大和]][[元号一覧 (中国)#唐|<sup>1</sup>]] [[827年]]-[[835年]]<br />
[[開成 (唐)|開成]] [[836年]]-[[840年]]
|-
| [[武宗 (唐)|武宗]] || 李瀍 || 840年-[[846年]]
| [[会昌]] [[841年]]-[[846年]]
|-
| [[宣宗 (唐)|宣宗]] || 李忱 || 846年-[[859年]]
| [[大中]] [[847年]]-[[859年]]
|-
| [[懿宗 (唐)|懿宗]] || 李漼 || 859年-[[873年]]
| 大中 859年<br />
[[咸通]] [[860年]]-[[873年]]
|-
| [[僖宗]] || 李儇 || 873年-[[888年]]
| 咸通 873年-[[874年]]<br />
[[乾符]] 874年-[[879年]]<br />
[[広明 (唐)|広明]] [[880年]]-[[881年]]<br />
[[中和 (唐)|中和]] 881年-[[885年]]<br />
[[光啓]] 885年-[[888年]]<br />
[[文徳 (唐)|文徳]] 888年<br />
|-
| [[昭宗 (唐)|昭宗]] || 李敏 || 888年-[[904年]]
| [[龍紀 (唐)|龍紀]] [[889年]]<br />
[[大順 (唐)|大順]] [[890年]]-[[891年]]<br />
[[景福 (唐)|景福]] [[892年]]-[[893年]]<br />
[[乾寧]] [[894年]]-[[898年]]<br />
[[光化]] 898年-[[901年]]<br />
[[天復 (唐)|天復]] 901年-[[904年]]<br />
[[天祐 (唐)|天祐]] 904年
|-
| (徳王[[李裕]]) || 李裕 || [[900年]]-[[901年]]<ref group="注釈">宦官勢力によって父・昭宗が失脚させられた際に皇帝として擁立されたが、2ヶ月足らずで昭宗が返り咲いたため李裕の即位の事実は否定された。通例として歴代皇帝には数えられていない。</ref>
| [[光化]] 898年-901年
|-
| [[哀帝 (唐)|哀帝]] || 李柷 || 904年-[[907年]]
| 天祐 904年-[[907年]]
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
=== 総論・歴史 ===
* {{Cite book|和書|last1=布目 |first1=潮渢 |authorlink1=布目潮渢 |last2=栗原 |first2=益男 |authorlink2=栗原益男|title=隋唐帝国 |year=1997 |publisher=[[講談社]] |edition=初版 |series=講談社学術文庫 |isbn=4061593005 |ref={{SfnRef|布目|栗原|1997}} }}
* {{Cite book|和書|editor=[[池田温]] |title=中国史2 三国〜唐 |year=1996 |publisher=[[山川出版社]] |location= |series=世界歴史大系 |volume=2 |edition=初版 |isbn=4634461609 |ref={{SfnRef|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996}} }}
** 第五章「唐」
*# {{Citation|和書|author=愛宕元 |authorlink=愛宕元 |contribution=唐代前期の政治 |title= |p=305-363 |ref={{SfnRef|愛宕|1996a}} }}
*# {{Citation|和書|author=金子修一 |authorlink=金子修一 |contribution=唐代前期の国制と社会経済 |p=364-412 |title= |ref={{SfnRef|金子|1996a}} }}
*# {{Citation|和書|author=池田温 |authorlink=池田温 |contribution=隋・唐代前期の文化 |title= |p=413-443 |ref={{SfnRef|池田|1996}} }}
*# {{Citation|和書|author=愛宕元 |contribution=唐代後期の政治 |title= |p=444-486 |ref={{SfnRef|愛宕|1996b}} }}
*# {{Citation|和書|author=金子修一 |contribution=唐代後期の社会経済 |title= |p=486-514 |ref={{SfnRef|金子|1996b}} }}
*# {{Citation|和書|author=池田温 |contribution=唐代後期の文化 |title= |p=515-551 |ref={{SfnRef|池田|1996b}} }}
* {{Cite book|和書|last1=愛宕 |first1=元 |authorlink1=愛宕元 |last2=梅原 |first2=郁 |authorlink2=梅原郁 |last3=溝口 |first3=雄三 |authorlink3=溝口雄三 |last4=森田 |first4=憲司 |authorlink4=森田憲司 |last5=杉山 |first5=正明 |authorlink5=杉山正明 |editor=[[斯波義信]] |title=中国史 五代〜宋 |year=1997 |publisher=[[山川出版社]] |location= |series=世界歴史大系 |volume=3 |edition=初版 |isbn=4634461706 |ref={{SfnRef|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997}} }}
* {{Cite book|和書|last=氣賀澤 |first=保規|authorlink=氣賀澤保規|year=2005 |title=中国の歴史6 絢爛たる世界帝国:隋唐時代 | publisher=[[講談社]] |edition=初版 |series= |isbn=978-4062740562 |ref={{SfnRef|氣賀澤|2005}} }}
** {{Cite book|和書|last=氣賀澤 |first=保規|authorlink=氣賀澤保規|year=2020 |title=中国の歴史6 絢爛たる世界帝国:隋唐時代 |publisher=[[講談社]]|series=講談社学術文庫|isbn=978-4-06-521907-2|ref={{SfnRef|氣賀澤|2020}} }}
<!--* {{Cite book|和書|last=谷川 |first=道雄 |authorlink=谷川道雄 |title=世界帝国の形成 |edition= |date= |year=1977 |publisher=[[講談社]] |series=中国の歴史 |volume=2 |isbn=978-4061158528 |ref={{SfnRef|谷川|1977}} }}
** {{Cite book|和書|last=谷川 |first=道雄 |authorlink=谷川道雄 |title=隋唐世界帝国の形成 |edition= |date= |year=2008 |publisher=[[講談社]] |series= |volume= |isbn=978-4061598942 |ref={{SfnRef|谷川|2008}} }}
* {{Cite book|和書|last=礪波 |first=護 |authorlink=礪波護 |title=隋唐帝国と古代朝鮮 |edition= |date= |year=1997 |publisher=[[中央公論社]] |location= |series= |volume= |isbn=4-12-403406-7 |ref={{SfnRef|礪波|1997}} }}
* [[外山軍治]]「中国文明の歴史〈5〉隋唐世界帝国 (中公文庫)」(中央公論新社、2000年) ISBN 978-4122036727
* 稲畑耕一郎監修「図説中国文明史6」(創元社、2006年) ISBN 978-4422202570
* [[森安孝夫]]「シルクロードと唐帝国 (興亡の世界史05)」(講談社、2007年) ISBN 978-4062807050
* [[宮崎市定]]「大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)」(中央公論社、1998年) ISBN 978-4122015463
* {{Cite journal|和書|author=陳寅恪, 森部豊 |title=[翻訳]陳寅恪『唐代政治史述論稿』 : 「上篇 統治階級之氏族及其升降」訳注稿(1) |url=https://doi.org/10.32286/00023737 |journal=関西大学東西学術研究所紀要 |ISSN=0287-8151 |publisher=関西大学東西学術研究所 |year=2021 |volume=54 |page=283-307 |doi=10.32286/00023737 |naid=120007037564 |ref={{harvid|[翻訳]陳寅恪『唐代政治史述論稿』}}}}-->
=== 政治 ===
* [[佐藤武敏]]「長安 (講談社学術文庫)」(講談社、2004年) ISBN 978-4061596634
* [[礪波護]]「唐の行政機構と官僚 (中公文庫)」(中央公論社、1998年) ISBN 978-4122032163
* [[妹尾達彦]] 「長安の都市計画」(講談社選書メチエ、2001年) ISBN 978-4062582230
=== 社会・経済 ===
* {{Citation|和書|last=氣賀澤 |first=保規|authorlink=氣賀澤保規|contribution=均田制研究の展開|title=戦後日本の中国史論争|ref={{SfnRef|氣賀澤|1993}}}}
** {{Cite book|和書|editor-last=谷川 |editor-first=道雄|authorlink=谷川道雄|year=1993 |title=戦後日本の中国史論争 | publisher=[[河合教育文化研究所]] |isbn=978-4879999894 |ref={{SfnRef|氣賀澤|1993}} }}
* {{Cite book|和書|author=山田勝芳 |authorlink=山田勝芳 |year=2000 |title=貨幣の中国古代史 | publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=978-4022597601 |ref={{SfnRef|山田|2000}} }}
* {{Cite book|和書|author=森部豊 |authorlink=森部豊 |year=2023 |title=唐―東ユーラシアの大帝国 | publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4121027429 |ref={{SfnRef|森部|2023a}} }}
** {{Cite book|和書|author= |year=2023 |title=電子書籍版 | publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|森部|2023a}} }}
* {{Cite book|和書| editor=[[岡本隆司]] |year=2013 |title=中国経済史 | publisher=[[名古屋大学出版会]] |isbn=978-4815807511 |ref=}}
** {{Citation|和書|author=丸橋充拓 |authorlink=丸橋充拓 |contribution=魏晋南北朝~隋唐五代 |title= |p=305-363 |ref={{SfnRef|丸橋|2014}} }}
<!--
* 上野直明「唐代社会経済の構造的研究」(こだま社、1982年)
* [[宮澤知之]]「中国銅銭の世界―銭貨から経済史へ」(佛教大学通信教育部、2007年)ISBN 978-4784213467
* [[エドウィン・O・ライシャワー]](著)田村完誓(訳)「円仁 唐代中国への旅」 (講談社学術文庫、1999年) ISBN 978-4061593794
* {{Cite book|和書|last=渡辺 |first=信一郎 |authorlink=渡辺信一郎 (中国史学者)|title=中國古代の財政と國家 |edition= |year=2010 |publisher=[[汲古書院]] |series= |volume= |isbn=9784762925900 |ref={{SfnRef|渡辺|2010}} }}
** {{Cite journal|和書|last=渡辺 |first=信一郎 |title=唐代後半期の中央財政 : 戸部財政を中心に |url=http://id.nii.ac.jp/1122/00003897/ |journal=京都府立大學學術報告. 人文 |publisher=[[京都府立大学]] |year=1988 |volume=40 |page=30_a-1_a |id={{CRID|1050564287579063296 |ref={{SfnRef|渡辺|1988}} }}、渡辺2010 14章に所収。-->
=== 国際関係 ===
* {{Cite journal |和書 |author=榎本淳一 |authorlink=榎本淳一 |year=1998 |title=唐代の朝貢と貿易 |journal=古代文化 |volume=50 |issue=9 |publisher=古代学協会 |issn=00459232 |url= |format= }} - 下記二書に所収。
** {{Cite book|和書 |editor=[[平川南]]他 |title= 文字と古代日本2 文字による交流 |year=2005 |publisher=[[吉川弘文館]] |location= |series= |volume= |edition= |isbn=978-4642078634 |ref= }}
** {{Cite book|和書 |author=榎本淳一 |authorlink=榎本淳一 |title= 唐王朝と古代日本 |year=2008 |publisher=[[吉川弘文館]] |location= |series= |volume= |edition= |isbn=9784642024693 |ref= }}
<!--* [[金子修一]] 『隋唐の国際秩序と東アジア』 名著刊行会 2001年
* {{Cite journal|和書|author=齊藤茂雄 |date=2015-04 |title=突厥有力者と李世民―唐太宗期の突厥羈縻支配について― |url=https://hdl.handle.net/10112/9279 |journal=関西大学東西学術研究所紀要 |ISSN=0287-8151 |publisher=関西大学東西学術研究所 |volume=48 |pages=77-99 |naid=120005688413 |ref={{harvid|齊藤(2015)}}}}-->
<!--
=== 軍事 ===
* 篠田耕一「武器と防具〈中国編〉 (Truth In Fantasy)」(新紀元社、1992年) ISBN 978-4883172115
=== 文化 ===
* 『唐代の詩人 その伝記』 [[小川環樹]]編 [[大修館書店]] 1976年
* 『校注 唐詩解釈辞典』[[松浦友久]]編 [[大修館書店]] 1987年
* 『唐代の文論』 [[京都大学]]中国文学研究室編 研文出版 2008年
* 『中国古典小説選 4.5.6』 [[竹田晃]] / 黒田真美子編 [[明治書院]] 2005年 - 2008年
* 古鏡記 遊仙窟他、
* [[枕中記]] 李娃伝 鴬鴬伝他
* 広異記 玄怪録 宣室志他
* 中国古典文学全集〈第6巻〉六朝・唐・宋小説集」(平凡社、1959年)
* 中国古典文学大系〈第24巻〉六朝・唐・宋小説選」(平凡社、1968年)
* [[今村与志雄]](訳)「唐宋伝奇集〈下〉杜子春他39篇 (岩波文庫)」(岩波書店、1988年) ISBN 978-4003203828
=== 社会・生活・風習 ===
* [[石田幹之助]]「長安の春 (東洋文庫)」(平凡社、1967年) ISBN 978-4582800913
* 朱恵良「中国人の生活と文化」(二玄社、筒井茂徳・蔡敦達 訳、1994年)ISBN 978-4544011425
* 高世瑜「大唐帝国の女性たち」(岩波書店、小林一美・任明 訳、1999年)ISBN 978-4000012881
* 尚秉和「中国社会風俗史 (東洋文庫)」(平凡社、秋田成明 訳、1969年)ISBN 978-4000012881
* [[大室幹雄]]「パノラマの帝国―中華唐代人生劇場」(三省堂、1994/年) ISBN 978-4385355993
* 相田洋「橋と異人―境界の中国中世史」(研文出版、2009年) ISBN 978-4876363025
* エドワード・H. シェーファー(著)吉田真弓(訳)「サマルカンドの金の桃―唐代の異国文物の研究」(勉誠出版、2007年) ISBN 978-4585020820
* 崔令欽・孫棨「教坊記・北里志」(平凡社、東洋文庫、齋藤茂訳注、1992年)ISBN 4582805493
* 斎藤茂「妓女と中国文人 (東方選書)」(東方書店、2000年) ISBN 978-4497200051
* [[松浦友久]]・[[植木久行]] 「長安・洛陽物語 (中国の都城)」(集英社、1987年) ISBN 978-4081620029
* 郭伯南「中国文化のルーツ〈上巻〉」(東京美術、1989年) ISBN 978-4808705398
* 郭伯南「中国文化のルーツ〈下巻〉」(東京美術、1989年) ISBN 978-4808705510
* [[大室幹雄]]「遊蕩都市―中世中国の神話・笑劇・風景」(三省堂、1996/年) ISBN 978-4385357577
* 「長安の都市空間と詩人たち(アジア遊学)」(勉誠出版、2004年) ISBN 978-4585103110
* [[中尾佐助]]「花と木の文化史」(岩波書店、1986年) ISBN 978-4004203575
* 華梅「中国服装史―五千年の歴史を検証する」(白帝社、2003年) ISBN 978-4891745882
* 「「大唐王朝女性の美」展 図録」(中日新聞社、2004年)
* 張競「中華料理の文化史 (ちくま文庫)」(筑摩書房、2013年) ISBN 978-4480430694
* 譚璐美「中華料理四千年 (文春新書)」(文藝春秋、2004年) ISBN 978-4166603961
* [[段成式]]、[[今村与志雄]](訳)「酉陽雑俎 (東洋文庫)」(平凡社、1980年)
* 中野謙二 「囲碁 中国四千年の知恵」(創土社、2002年) ISBN 978-4789301138
* 「世界歴史シリーズ〈第7巻〉大唐の繁栄」( 世界文化社、1969年)
* 「長安―絢爛たる唐の都 (角川選書)」(角川書店、1996年)
* 孔令敬「中国茶・五感の世界―その歴史と文化 (NHKブックス)」(日本放送出版協会、2002年)
* 王仁湘、鈴木博(訳)「中国飲食文化」(青土社、2001年) ISBN 978-4791759231
* [[岡崎由美]] 「漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 (あじあブックス)」(大修館書店、2002年) ISBN 978-4469231878
* 大沢正昭「唐宋時代の家族・婚姻・女性」(明石書店、2005年) ISBN 978-4750321035
* [[杉山二郎]]「遊民の系譜」(河出書房新社、2009年) ISBN 978-4309409535
-->
== 関連項目 ==
* [[唐朝の官職]]
* [[唐朝におけるイスラーム]]
* [[黄巣の乱]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tang Dynasty}}
* {{Kotobank}}
{{先代次代
|唐
|618年 - 907年
|[[隋]]
|[[後梁]]<br />
[[五代十国時代]]
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[[Category:唐朝|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
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戸倉町
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戸倉町(とぐらまち)は、かつて長野県埴科郡にあった町である。
2003年(平成15年)9月1日に、更埴市、更級郡上山田町と合併し、千曲市となったため廃止した。
江戸時代は北国街道の宿場町、大正時代から戸倉上山田温泉などで温泉町として発達し、近年は旧更埴市や、長野市・上田市への通勤の利便性から人口が増加傾向にあった。
本項では町制前の名称である戸倉村(とぐらむら)についても述べる。
北信地方の長野地域に位置し、町の中心を千曲川が流れている。
同地にある鏡台山の山陰に倉科村があり、戸倉はその山陽にあたるので「外倉科」と呼んだ。その後、「科」を取って「外倉」とし、後日「戸倉」と改めた。
他にも鎌倉時代か室町時代かに「土倉」と呼ばれる金融を業とする者の倉があったからとする説もある。
『大日本篤農家名鑑』によれば、戸倉村の篤農家は「小出熊次郎、岡本藤次郎、瀧澤勝、瀧澤民治、乃木博、永井寅重、柳澤専次郎、宮本十良右衛門、小出九右衛門、宮本兼助、瀧澤延太郎、坂井量之助、高野覚治、中村留三郎、高野育太郎、山崎菊次郎、柳澤立志郎、柳澤喜市、柳澤義美、中村周平、瀧澤菅四郎」などがいた。
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戸倉町(とぐらまち)は、かつて長野県埴科郡にあった町である。 2003年(平成15年)9月1日に、更埴市、更級郡上山田町と合併し、千曲市となったため廃止した。 江戸時代は北国街道の宿場町、大正時代から戸倉上山田温泉などで温泉町として発達し、近年は旧更埴市や、長野市・上田市への通勤の利便性から人口が増加傾向にあった。 本項では町制前の名称である戸倉村(とぐらむら)についても述べる。
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{{otheruses|かつて長野県にあった町|愛知県愛西市の地名|戸倉町 (愛西市)}}
{{日本の町村 (廃止)
| 画像 = ファイル:Sasaya_Hotel.jpg
| 画像の説明 = [[戸倉上山田温泉]]・[[笹屋ホテル]]
| 廃止日 = 2003年9月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = [[更埴市]]、[[上山田町]]、'''戸倉町'''→[[千曲市]]
| 現在の自治体 = [[千曲市]]
| 自治体名 = 戸倉町
| よみがな = とぐらまち
| 区分 = 町
| 都道府県 = 長野県
| 郡 = [[埴科郡]]
| 旗 = [[ファイル:Flag_of_Togura_Nagano.png|100px|戸倉町旗]]
| 旗の説明 = 戸倉[[市町村旗|町旗]]
| 紋章 = [[ファイル:Togura_Nagano_chapter.JPG|80px|戸倉町章]]
| 紋章の説明 = 戸倉[[市町村章|町章]]
| コード = 20522-2
| 面積 = 25.23
| 境界未定 = なし
| 人口 = 18343
| 人口の出典 = [[推計人口]]
| 人口の時点 = 2003年8月1日
| 隣接自治体 = [[更埴市]]、[[更級郡]] [[上山田町]]、[[埴科郡]] [[坂城町]]、[[東筑摩郡]] [[麻績村]]、[[坂井村 (長野県)|坂井村]]
| 木 = [[ヤマザクラ]]、[[ヤナギ]]、[[エンジュ]]
| 花 = [[ツツジ]]、[[マツヨイグサ]]、[[キク]]
| シンボル名 =
| 鳥など =
| 郵便番号 = 389-0892
| 所在地 = 埴科郡戸倉町戸倉2388番地<br/>[[file:Chikuma city Togura branch office.jpg|thumb|240px|戸倉町役場(現・千曲市役所戸倉庁舎)]]
| 外部リンク = [https://web.archive.org/web/*/http://www.town.togura.nagano.jp/ 戸倉町]([[Internet Archive]])
| 座標 = {{Coord|format=dms|type:city(18343)_region:JP-20|display=inline,title}}
| 位置画像 = [[ファイル:Map.Togura-Town.Nagano.PNG|戸倉町の県内位置図]]
| 特記事項 =
}}
'''戸倉町'''(とぐらまち)は、かつて[[長野県]][[埴科郡]]にあった[[町]]である。
[[2003年]](平成15年)[[9月1日]]に、[[更埴市]]、[[更級郡]][[上山田町]]と合併し、[[千曲市]]となったため廃止した。
江戸時代は[[北国街道 (信越)|北国街道]]の[[宿場|宿場町]]、大正時代から[[戸倉上山田温泉]]などで温泉町として発達し、近年は旧更埴市や、[[長野市]]・[[上田市]]への通勤の利便性から人口が増加傾向にあった。
本項では町制前の名称である'''戸倉村'''(とぐらむら)についても述べる。
== 地理 ==
[[北信地方]]の[[長野地域]]に位置し、町の中心を[[千曲川]]が流れている。
* 河川:[[千曲川]]
=== 隣接していた自治体 ===
* [[更埴市]]
* [[更級郡]] [[上山田町]]
* [[埴科郡]] [[坂城町]]
* [[東筑摩郡]] [[麻績村]]、[[坂井村 (長野県)|坂井村]]
== 歴史 ==
* [[1881年]]([[明治]]14年)[[1月28日]] - [[近世]]以来の下戸倉村が改称して戸倉村となる。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、戸倉村が単独で自治体を形成。
* [[1940年]]([[昭和]]15年)[[4月17日]] - 戸倉村が町制施行して'''戸倉町'''となる。
* [[1955年]](昭和30年)4月1日 - [[更級郡]][[更級村]]と合併し、改めて'''戸倉町'''が発足。
* 1955年(昭和30年)[[7月1日]] - [[五加村 (長野県)|五加村]]の一部(上徳間村・内川・千本柳・小船山)と合併し、改めて'''戸倉町'''が発足。
** 五加村の残部(中)は[[埴生町]]に編入。
* [[2003年]]([[平成]]15年)[[9月1日]] - [[更埴市]]・[[更級郡]][[上山田町]]と合併して'''[[千曲市]]'''が発足。同日戸倉町廃止。
=== 地名の由来 ===
同地にある[[鏡台山]]の山陰に[[倉科村]]があり、戸倉はその山陽にあたるので「外倉科」と呼んだ。その後、「科」を取って「外倉」とし、後日「戸倉」と改めた<ref>{{Cite web|和書|title=戸倉とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E5%80%89-104939|website=コトバンク|accessdate=2020-12-26|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典|last=小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。
他にも鎌倉時代か室町時代かに「土倉」と呼ばれる金融を業とする者の倉があったからとする説もある。
== 経済 ==
=== 産業 ===
; 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば、戸倉村の[[農家|篤農家]]は「小出熊次郎、岡本藤次郎、瀧澤勝、瀧澤民治、乃木博、永井寅重、柳澤専次郎、宮本十良右衛門、小出九右衛門、宮本兼助、瀧澤延太郎、坂井量之助、高野覚治、中村留三郎、高野育太郎、山崎菊次郎、柳澤立志郎、柳澤喜市、柳澤義美、中村周平、瀧澤菅四郎」などがいた<ref>[{{NDLDC|782783/192}} 『大日本篤農家名鑑』]379-380頁([[国立国会図書館デジタルコレクション]])。2019年9月2日閲覧。</ref>。
; 商工業
* 坂井たか、宮本又五郎([[酒]]商)<ref name="syoko1919">[{{NDLDC|948754/278}} 『商工興信録 本州中部地方』]66-67頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年9月2日閲覧。</ref>
* 大瀧留五郎、宮本嘉助([[醤油]]醸造業)<ref name="syoko1919"/>
; 店
* 松根屋商店([[呉服]]太物商)<ref name="syoko1919"/>
== 教育 ==
* 戸倉上山田組合立戸倉上山田中学校
* 戸倉町立五加小学校
* 戸倉町立更級小学校
* 戸倉町立戸倉小学校
== 交通 ==
=== 鉄道路線 ===
* [[しなの鉄道]]
** [[しなの鉄道線]]:[[戸倉駅]]
=== 道路 ===
* 一般国道
** [[国道18号]]
* 主要地方道
** [[長野県道55号大町麻績インター千曲線]]
** [[長野県道77号長野上田線]]
* 一般県道
** [[長野県道338号内川姨捨停車場線]]
** [[長野県道498号聖高原千曲線]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
* 商工興信合資会社編『商工興信録 本州中部地方』商工興信合資会社、1919年。
* 年表戸倉町の今昔 戸倉町教育委員会 昭和49年3月30日。
== 関連項目 ==
* [[長野県の廃止市町村一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.gappei-archive.soumu.go.jp/db/20nagano/61-tikuma/index.html 更埴市・戸倉町・上山田町 一市二町合併協議会]
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11,922 |
上田市
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上田市(うえだし)は、長野県東部(東信地方)にある市。東信地方および上田地域の中心都市で、長野県内では長野市、松本市に次ぐ3番目の規模の都市である。
国際会議観光都市および計量特定市に指定されている。
現在の上田市は、2006年3月6日に旧上田市・丸子町・真田町・武石村が合併して発足した。
千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれる。上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷(旧・真田町)に達する。都市圏は佐久地域にまでおよび、都市圏人口は定義次第では37万人になる。
上田市は、長野県の中央からやや東北の所にあり、県庁所在地の長野市から40キロメートル、東京から190キロメートルのところにある。 市域は上田盆地全体に広がり、それを二分するように千曲川が横断している。市中心部(狭義の上田)は千曲川の河岸段丘上に位置する(標高約450メートル)。
市のほぼ中央を東から北西に千曲川が流れる。 千曲川右岸の河岸段丘上に、上田城を中心とした市街地が位置する。 市街地の北側の扇状地上ではりんごをはじめとした果樹栽培がさかん。 千曲川左岸の塩田地区には水田地帯がひろがる。
宅地3,459.4、田3,219.6、畑3,655.4、山林28,076.9、原野3,108.9、雑種地1,008.1、池沼地24.3、公共用地他12,650.9(単位:ヘクタール、平成30年1月1日)。
上田市の全域は、信濃川水系に属し、本流の千曲川の支流の主な水系としては以下があげられる。
上田市には、大きい地区とそれをさらに区切った小さい地区がある。カッコ内には、小さい地区に所属する大字町丁(住所)を掲載している。 ただし、2006年3月の合併による新・上田市発足に際し、大字の表記を廃止しており、上田地区の踏入から緑が丘、真田地区の菅平高原、および丸子地区の鹿教湯温泉を除いた地名は、旧来の大字に相当する。
内訳は上田中央地域30,363人、上田西部地域12,242人、上田城南地域29,563人、神科・豊殿地区21,981人、塩田地区19,716人、川西地区6,530人、丸子地区21,288人、真田地区9,847人、武石地区3,286人。令和3年10月1日現在。
関ヶ原の戦い後、真田昌幸は次男である信繁とともに紀州高野山に幽閉されたため、上田城は一時空城となったが、依田肥前守信守が守衛の任に当たる。その後、徳川家康の女婿となっていた昌幸の長男真田信之が、徳川方に属し将軍秀忠のもとで上田城攻撃を行う忠誠を尽くしたことが評価され、沼田藩とともに上田藩の藩主にもなり、父の地盤を受け継いだ。
現在の上田市(新上田市)は新設合併によって設置された自治体であり、それ以前に存在した上田市(旧上田市)は廃止されている。新上田市(2006年3月6日以降)と旧上田市(2006年3月5日まで)は同名の別法人となる自治体であり、国勢調査などのデータは、2006年3月6日の合併前と合併後とでは、全くの別物となっている。
旧上田市の市役所本庁舎は、現在では新上田市役所本庁舎となっている。なお、自治体コードは旧上田市と新上田市で同一のものを使っている。
2006年3月1日の人口推計では、丸子町が24,441人、真田町が11,208人、武石村が4,089人であり、旧上田市は2005年の推計で163,651人だった。
上田市、東御市、長和町、青木村、坂城町は特別地方公共団体(広域連合)「上田地域広域連合」を設置し、一部の行政業務を共同で行っている。
最高裁判所
東京高等裁判所
上田簡易裁判所
長野県警察
上田警察署(上田市天神3-15-74)
出典
上田地域広域連合消防本部(上田市大手2-7-16)
出典:
日本郵便が展開する以下の郵便局がある。
市は「上田市図書館条例」に基づき、上田図書館・上田情報ライブラリー・丸子図書館・真田図書館を設置している。 上田創造館内には上田図書館の分室が置かれており、塩田・武石公民館内にも公民館図書室が置かれる。また、市は「長野県上田点字図書館条例」に基づき点字図書館を設置している。
このほか、信州大学繊維学部・長野大学・上田女子短大といった市内にある大学は大学図書館を設置している。
1995年12月より、上田市・東御市・長和町・青木村・坂城町の各図書館同士をネットワーク連携した「上田地域図書館情報ネットワーク」(愛称:エコール、山彦の「エコー」に図書館を意味するlibraryの「L」を組み合わせた造語)が稼働し、利便性の向上を図っている。
国公立
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上田市(うえだし)は、長野県東部(東信地方)にある市。東信地方および上田地域の中心都市で、長野県内では長野市、松本市に次ぐ3番目の規模の都市である。 国際会議観光都市および計量特定市に指定されている。
|
{{日本の市
| 自治体名 = 上田市
| 画像 = Ueda-jo.jpg
| 画像の説明 = [[上田城]]<br />{{Infobox mapframe|zoom=10}}
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Ueda, Nagano.svg|100px|border|上田市旗]]
| 市旗の説明 = 上田[[市町村旗|市旗]]<br />[[2006年]][[3月6日]]制定
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Ueda, Nagano.svg|75px|上田市章]]
| 市章の説明 = 上田[[市町村章|市章]]<br />[[2006年]][[3月6日]]制定
| 都道府県 = 長野県
| コード = 20203-7
| 隣接自治体 = [[東御市]]、[[松本市]]、[[須坂市]]、[[長野市]]、[[千曲市]]、[[小県郡]][[長和町]]、[[青木村]]、[[埴科郡]][[坂城町]]、[[北佐久郡]][[立科町]]、[[東筑摩郡]][[筑北村]]<br />[[群馬県]][[吾妻郡]][[嬬恋村]]
| 花 = [[サクラ]]
| シンボル名 = キャッチ<br />フレーズ
| 鳥など = 日本のまん中 人がまん中 生活快適都市
| 郵便番号 = 386-8601
| 所在地 = 上田市大手一丁目11番16号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-20|display=inline,title}}<br />[[File:Ueda City Office 2022-12 1.jpg|250px]]<br />上田市役所 本庁舎
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|20|203|image=Ueda in Nagano Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}
| 特記事項 = '''都市圏人口'''<br />上田都市圏:379,071人([[2005年]][[8月1日]])<br />上田地方中核都市圏:356,500人(2005年8月1日)<br />上田小都市雇用圏:227,062人(2005年8月1日)
}}
'''上田市'''(うえだし)は、[[長野県]]東部([[東信地方]])にある[[市]]。東信地方および[[上田地域]]の中心都市で、長野県内では[[長野市]]、[[松本市]]に次ぐ3番目の規模の都市である。
[[国際会議観光都市]]および[[計量特定市]]に指定されている。
== 概要 ==
現在の上田市は、[[2006年]]3月6日に旧上田市・[[丸子町]]・[[真田町]]・[[武石村 (長野県)|武石村]]が合併して発足した<ref>[https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/gyokan/6028.html 上田市ホームページ]</ref>。
[[信濃川|千曲川]]右岸の旧市街は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[真田氏]]が築いた[[上田城]]を中心とする[[城下町]]。千曲川左岸の塩田は[[鎌倉時代]]の[[執権]][[北条氏]]の一族塩田北条氏の所領で、[[安楽寺 (上田市)|安楽寺]]、[[北向観音]]などの多くの文化遺産が残されており「信州の[[鎌倉]]」の異称で呼ばれる。上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷(旧・[[真田町]])に達する。都市圏は[[佐久地域]]にまでおよび、都市圏人口は定義次第では37万人になる。
==地理==
[[File:Ueda city center area Aerial photograph.1975.jpg|thumb|200px|上田市中心部周辺の空中写真。<br />1975年撮影の3枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
===位置===
上田市は、長野県の中央からやや東北の所にあり、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の[[長野市]]から40キロメートル、東京から190キロメートルのところにある。
市域は[[上田盆地]]全体に広がり、それを二分するように千曲川が横断している。市中心部(狭義の上田)は千曲川の[[河岸段丘]]上に位置する(標高約450メートル)。
===地形===
[[File:Ueda Basin Relief Map, SRTM-1.jpg|thumb|200px|上田盆地の地形]]
市のほぼ中央を東から北西に千曲川が流れる。
千曲川右岸の[[河岸段丘]]上に、[[上田城]]を中心とした市街地が位置する。
市街地の北側の[[扇状地]]上では[[リンゴ|りんご]]をはじめとした果樹栽培がさかん。
千曲川左岸の塩田地区には水田地帯がひろがる。
;土地の地目別面積
宅地3,459.4、田3,219.6、畑3,655.4、山林28,076.9、原野3,108.9、雑種地1,008.1、池沼地24.3、公共用地他12,650.9(単位:ヘクタール、平成30年1月1日)<ref name="toukei">上田市の統計 平成30年</ref>。
====河川====
上田市の全域は、信濃川水系に属し、本流の千曲川の支流の主な水系としては以下があげられる。
;主な川
*[[神川 (長野県)|神川]]水系:市域北部を南流し、岩下地区付近で千曲川に[[合流]]する。[[傍陽川]]などを支流にもつ。
*[[浦野川]]水系:市域中央部の川西地区、塩田地区を流域とし、小泉地区付近で千曲川に合流する。[[産川]]、[[湯川 (上田市)|湯川]]などを支流にもつ。
*[[依田川]]水系:市域南部の丸子地区、武石地区を流域として北流し、生田地区付近で千曲川に合流する。依田川のほか、[[内村川]]、武石川などを支流にもつ。
====山地====
;主な山
*北部:[[菅平高原]]を中心とした、[[四阿山]](2,354メートル)、根子岳(2,207メートル)のほか、[[烏帽子岳 (上田市・東御市)|烏帽子岳]](2,066m)などの2,000メートル級の山。
*南部:[[美ヶ原|美ヶ原高原]]を中心とした、王ヶ頭(2,034メートル)、物見石山(1,985メートル)、武石峰(1,973メートル)など。
*その他:塩田地区の南部には、[[独鈷山]](1,266メートル)、上田市中心部の北側には、[[太郎山 (長野県上田市)|太郎山]](1,164メートル)などが聳え、古くから市民に親しまれている。
===気候===
:盆地部分の年平均気温は、約12℃。年間の最高気温は35℃<ref>上田市内で猛暑日ゼロになった年は2016年が最後である。</ref>前後、最低気温は-10℃程度。昼夜、冬夏の寒暑の差が大きい典型的な[[内陸性気候]]。晴天率が高く、年間の平均降水量が約900ミリメートルと全国でも有数の少雨乾燥地帯。ただし、[[菅平高原]]などの山岳地帯は、夏季冷涼、冬季寒冷である。
:少雨地帯であるものの、中心を流下する千曲川の支流の依田川、神川、浦野川等の豊富な水量と近代的な[[菅平ダム]]、[[内村ダム]]をはじめ、[[江戸時代]]から発達した農業用ため池や、昭和9年に完成した[[沢山湖]]などにより深刻な水不足はない。ため池では、[[コイ]]、[[フナ]]の養殖が盛んに行われる。
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|source = [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=48&block_no=0402&year=&month=&day=&view= 気象庁]
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| Mar record high C = 18.1
| Apr record high C = 23.8
| May record high C = 27.9
| Jun record high C = 28.9
| Jul record high C = 30.3
| Aug record high C = 30.4
| Sep record high C = 28.9
| Oct record high C = 24.2
| Nov record high C = 18.8
| Dec record high C = 15.7
| year record high C = 30.4
|Jan high C = -1.5
|Feb high C = -0.5
|Mar high C = 3.5
|Apr high C = 10.7
|May high C = 16.8
|Jun high C = 19.9
|Jul high C = 23.7
|Aug high C = 24.7
|Sep high C = 20.0
|Oct high C = 14.0
|Nov high C = 8.3
|Dec high C = 1.8
|Jan low C = -13.0
|Feb low C = -12.6
|Mar low C = -7.9
|Apr low C = -1.3
|May low C = 4.4
|Jun low C = 9.8
|Jul low C = 14.8
|Aug low C = 15.3
|Sep low C = 11.2
|Oct low C = 4.1
|Nov low C = -2.4
|Dec low C = -8.7
| Jan record low C= -29.0
| Feb record low C= -29.2
| Mar record low C= -22.8
| Apr record low C= -17.8
| May record low C= -5.3
| Jun record low C= -1.9
| Jul record low C= 6.1
| Aug record low C= 5.8
| Sep record low C= -1.0
| Oct record low C= -8.6
| Nov record low C= -18.3
| Dec record low C= -26.4
| year record low C = -29.2
|Jan precipitation mm = 78.0
|Feb precipitation mm = 68.7
|Mar precipitation mm = 80.8
|Apr precipitation mm = 79.7
|May precipitation mm = 93.9
|Jun precipitation mm = 117.7
|Jul precipitation mm = 161.9
|Aug precipitation mm = 119.4
|Sep precipitation mm = 151.6
|Oct precipitation mm = 129.8
|Nov precipitation mm = 64.9
|Dec precipitation mm = 72.0
|Jan snow cm = 192
|Feb snow cm = 153
|Mar snow cm = 136
|Apr snow cm = 35
|May snow cm = 0
|Jun snow cm = 0
|Jul snow cm = 0
|Aug snow cm = 0
|Sep snow cm = 0
|Oct snow cm = 0
|Nov snow cm = 12
|Dec snow cm = 121
|unit precipitation days = 1.0 mm
|Jan precipitation days = 14.5
|Feb precipitation days = 12.1
|Mar precipitation days = 12.7
|Apr precipitation days = 10.7
|May precipitation days = 10.3
|Jun precipitation days = 12.1
|Jul precipitation days = 14.0
|Aug precipitation days = 10.8
|Sep precipitation days = 11.1
|Oct precipitation days = 10.5
|Nov precipitation days = 9.6
|Dec precipitation days = 12.9
|Jan sun = 135.5
|Feb sun = 135.9
|Mar sun = 161.1
|Apr sun = 189.8
|May sun = 214.5
|Jun sun = 165.4
|Jul sun = 166.6
|Aug sun = 189.4
|Sep sun = 143.4
|Oct sun = 156.4
|Nov sun = 155.6
|Dec sun = 139.1
|source = [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=48&block_no=0992&year=&month=&day=&view= 気象庁]
|Dec mean C=-3.0|Nov mean C=3.0|Oct mean C=8.9|Sep mean C=15.3|Aug mean C=19.5|Jul mean C=18.8|Jun mean C=14.7|May mean C=10.7|Apr mean C=4.8|Mar mean C=-1.8|Feb mean C=-5.6|Jan mean C=-6.2|year high C=11.8|year mean C=6.6|year low C=1.1|year sun=1955.2|year precipitation mm=1220.5|year snow cm=648|year precipitation days=141.1}}
===地域===
{{上田市の町・字}}
[[File:Ueda city Sanada branch office.jpg|thumb|200px|真田地域自治センター]]
[[File:Ueda city Maruko regional autonomy center.jpg|thumb|200px|丸子地域自治センター]]
[[File:Ueda city Takeshi regional autonomy center.jpg|thumb|200px|武石地域自治センター]]
====地名====
上田市には、大きい地区とそれをさらに区切った小さい地区がある。カッコ内には、小さい地区に所属する大字町丁(住所)を掲載している。
ただし、2006年3月の合併による新・上田市発足に際し、[[大字]]の表記を廃止しており、上田地区の踏入から緑が丘、真田地区の菅平高原、および丸子地区の鹿教湯温泉を除いた地名は、旧来の大字に相当する。
;上田地区
*上田地区(踏入(1〜2丁目)、常田(1〜3丁目)、常入(1丁目)、材木町(1〜2丁目)、天神(1〜4丁目)、大手(1〜2丁目)、中央(1〜6丁目)、中央東、中央北(1〜3丁目)、中央西(1〜2丁目)、二の丸、常磐城(1〜6丁目)、緑が丘(1〜3丁目)、上田、常入(丁目なし)、国分、常磐城(丁目なし))
*城下地区(小牧、諏訪形、御所、中之条)
*塩尻地区(秋和、上塩尻、下塩尻)
*神川地区(大屋、岩下、蒼久保、国分)
:上田地区は地理的にも経済的にも市の中心にあり、[[城下町]]の面影をのぞくことができる。幹線道路や鉄道駅を中心とした交通網の整備も進んでいる。地区の周辺部には広大な田畑や商業地、住宅地が広がっている。りんごの生産地。千曲川左岸の城下地区は上田市成立後最初に市に編入された小県郡[[城下村 (長野県)|城下村]]の旧村域であり、また「[[昭和の大合併]]」以前に市に編入された地域である。[[上田電鉄別所線]]は開業当初、旧城下村の中心地区三好町を起点としていた。
:1980年代までは、上田地区が市の人口重心であったが、近年の人口移動で逆転現象により、千曲川の対岸(城下地区・川辺地区・泉田地区・塩田地区・川西地区)に人口重心が移りつつある。
;神科豊殿地区
*神科地区([[上野 (上田市)|上野]]、古里、住吉)
*豊里地区(芳田)
*殿城地区(林之郷、殿城、漆戸)
:神科地区は市の中心部から見て北東にある田畑が中心の地区。りんごの生産地。[[上信越自動車道]]の[[上田菅平インターチェンジ]]があり、[[幹線道路]]の整備が進んでいる。この地区を通る[[国道18号]]線(上田バイパス)や[[国道144号]]線、浅間サンライン沿線などには各種の郊外型商店や遊興施設(パチンコ、アミューズメント店舗等)などが建つ。豊殿地区は神科地区よりもさらに東にあり、農地と住宅地が目立つ。
;塩田地区
*東塩田地区(富士山(ふじやま)、古安曽、下之郷)
*中塩田地区(中野、小島、保野、舞田、八木沢、本郷、五加)
*西塩田地区(前山、手塚、山田、[[野倉]]、新町、十人)
*別所地区(別所温泉)
:塩田地区は旧・上田市の南部にあり、[[塩田平]]と呼ばれる平地が広がる。平地部は田畑が中心。降水量が少ないため、農業用水の確保のために多くのため池が点在し、中には鯉の養殖が行われている池もある。「塩田鯉」と呼ばれる。同地区には、平安時代から室町時代の建造物が残り、日本で唯一の八角三重塔([[安楽寺 (上田市)|安楽寺]])、「未完成完成の塔」と呼ばれる前山寺の三重塔などは有名。なかでも[[鎌倉時代]]に立てられた建造物や史跡が点在していることから「信州の鎌倉」と呼ばれる。山のふもとには[[別所温泉]]がある。
;川辺地区
*川辺地区(上田原、下之条、神畑、築地、福田、吉田)
:2000年代には平井寺トンネル方面へのバイパス道路建設を機に上田原・神畑・築地のバイパス道路周辺に大規模商業施設が立ち並び、商業的な中心地になりつつあり、特に神畑は休耕田を所有していた実業家が多いためか、千曲川西岸にはパチンコ店が集中している。
;川西地区
*泉田地区(福田、吉田、小泉)
*浦里地区(仁古田、岡、浦野、越戸)
*室賀地区(下室賀、上室賀)
:川西地区は旧・上田市の南西にあり田畑や山林が中心である。
;真田地区(真田町本原、真田町傍陽(そえひ)、真田町長(おさ)、菅平高原)
:真田地区は市の北部にあり、合併以前は真田町であった。主に神川(かんがわ)水系に位置する。[[菅平高原]]は、夏はラグビー・サッカー、冬はスキーをはじめとするスポーツが盛んで、スポーツ施設とともに、宿泊施設が集積している。夏の冷涼な気候を利用し、高原野菜の栽培が盛んに行われている。
;丸子地区(生田、御嶽堂、長瀬、本海野、塩川、下丸子、中丸子、上丸子、藤原田、[[腰越 (上田市)|腰越]]、東内、平井、西内、鹿教湯温泉)
:丸子地区は市の南部にあり、合併以前は丸子町であった。主に依田川水系に位置し、この地区、武石地区および小県郡長和町の一帯は依田窪地区とも呼ばれる。上田市内有数の工業地帯でもある。当地区の西部には、鹿教湯温泉をはじめとした温泉が点在する。鹿教湯温泉のホテル天竜閣には[[松代藩]]江戸中屋敷が以前は[[佐久市]]野沢にあった中島公園より移築されている。
;武石地区(武石沖、武石鳥屋、下武石、上武石、武石小沢根、武石余里、武石下本入、武石上本入)
:武石地区は市の南部にあり、平成18年の合併以前は旧上田市とは別の自治体の武石村であった。主に依田川水系に位置し、背後に[[美ヶ原|美ヶ原高原]]を擁する。
:また、この美ヶ原は長野県内の[[テレビ]]([[NTSC|地上アナログ]]、[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル]])、[[ラジオ]]([[ラジオ#ラジオ放送の種類|FM]])の送信所(親局)がある。放送局により上田市の地籍になる局と隣市の松本市の地籍になる局がある。(ちなみに、上田市の大半の地域ではこの美ヶ原送信所からの電波を直接受信できるが、一部受信不可の地域は真田サテライト局(テレビは地上アナログ、デジタル両方に対応、ただしFMは無い)などでカバーしている)
====別称====
*三好町(上田地区-城下地区の諏訪形および御所の一部。旧城下村の中心地域)
*千曲町(上田地区-城下地区の中之条の一部。[[長野県上田千曲高等学校]]周辺)
*川辺町(上田地区-上田原地区の一部。旧川辺村の中心地域)
*番外地(上田地区-城下地区の御所の一部。千曲川河川敷)
===人口===
*[[人口集中地区|DID]]人口比は30.1%(2015年国勢調査)。
{{人口統計|code=20203|name=上田市|image=Population distribution of Ueda, Nagano, Japan.svg}}
内訳は上田中央地域30,363人、上田西部地域12,242人、上田城南地域29,563人、神科・豊殿地区21,981人、塩田地区19,716人、川西地区6,530人、丸子地区21,288人、真田地区9,847人、武石地区3,286人。令和3年10月1日現在。
===隣接自治体===
;{{Flagicon|長野県}}[[長野県]]
*[[東御市]]
*[[松本市]]
*[[須坂市]]
*[[長野市]]
*[[千曲市]]
*[[小県郡]]([[長和町]]、[[青木村]])
*[[埴科郡]]([[坂城町]])
*[[北佐久郡]]([[立科町]])
*[[東筑摩郡]]([[筑北村]])
;{{Flagicon|群馬県}}[[群馬県]]
*[[吾妻郡]]([[嬬恋村]])
==歴史==
===古代===
;奈良時代
*すでに[[別所温泉]]が開湯されていたという。奈良時代以前の[[景行天皇]]の時代、[[日本武尊]]の東征の折りに発見されたとも伝わる<ref>{{Cite web |url=https://www.bessho-spa.jp/history/ |title=別所温泉の歴史 |access-date=2023-12-04 |publisher=別所温泉}}</ref>。
*8世紀に[[信濃国分寺]]、国分尼寺が建立された。最初の[[国府]]もこの近くに置かれたとする説もある。
*奈良末期から平安時代初頭にかけての時期に、国府が[[松本市|松本]]に移る。
;平安時代
*[[938年]]([[承平 (日本)|承平]]8年) - [[平将門]]に追われて東山道を京にむけて関東を脱出しようとした[[平貞盛]]が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と[[信濃国分寺]]付近で戦った記録が残されている。このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする信濃[[勅旨牧|御牧]]の牧監(管理者)[[滋野氏]]の下に立ち寄っている。旧知の間柄であったとも伝わるが、正確な関係は不明である。滋野氏のみならず、郡司とされる[[他田氏|他田真樹]]ら信濃[[国衙]]の関係者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れたとされる。この戦闘によって国分寺は焼かれたものと考えられている。
===中世===
;鎌倉時代
*[[鎌倉幕府]][[政所]]初代別当[[大江広元]]の孫[[大江佐房]]が[[承久の乱]]の後上田に所領を得たという。その子らが上田を名乗るが、1285年([[弘安]]8年)[[霜月騒動]]で没落した。
*13世紀に鎌倉幕府の執権北条氏の一族[[塩田流北条氏]]が信濃[[守護]]として三代60年間にわたって治めた。守護館は[[塩田城]]。
===近世===
;戦国時代
*[[1583年]]([[天正]]11年)4月、[[甲斐武田氏]]の家臣・[[真田昌幸]]は、小泉氏の居城である尼ヶ淵城を改修して上田城とし、翌年城の完成とともに小県郡伊勢山の[[戸石城]]からこの城に移ったという。一方で、上田城は越後国の[[上杉氏]]に対して[[徳川家康]]により築城された城で、後に家康から昌幸に下賜された城であるとする説もある。築城後、真田昌幸は、真田氏に縁故のある海野郷(現在の東御市の一部)と原郷(市内の(旧)真田町の一部に本原の地名がみられる)の住民を招いて城下町を形成するに至る。
*[[1585年]](天正13年)8月 - [[徳川家康]]がさしむけた真田討伐の大軍をむかえたが、真田昌幸は少ない兵と上田城や周辺の地理的条件を利用して、遂にこれを撃退せしめた。第一次[[上田合戦]]
*[[1600年]]([[慶長]]5年)- [[関ヶ原の戦い]]のとき、真田昌幸とその子[[真田信繁]](幸村)は、[[徳川秀忠]]が率いて押し寄せた大軍を完全に阻止し、そのため秀忠が関ヶ原の戦期を失うに至ったことは、史上名高いところである。(第二次[[上田合戦]])
関ヶ原の戦い後、真田昌幸は次男である信繁とともに紀州[[高野山]]に幽閉されたため、上田城は一時空城となったが、依田肥前守信守が守衛の任に当たる。その後、徳川家康の女婿となっていた昌幸の長男[[真田信之]]が、徳川方に属し将軍秀忠のもとで上田城攻撃を行う忠誠を尽くしたことが評価され、沼田藩とともに上田藩の藩主にもなり、父の地盤を受け継いだ。
;江戸時代
*[[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年)- [[真田信之]]が松代(現:長野市)に移り、その後小諸の[[仙石忠政]]が上田に移る。仙石家は3代85年にわたった。この間に現在残っている上田城が築かれる。
*[[1742年]]([[寛保]]2年)- [[戌の満水]]・寛保の大水とも言われる千曲川の大洪水で市域に広く被害が及んだ。
*[[1706年]]([[宝永]]3年)- 但馬出石の[[松平忠周]]と所替になる。松平氏は在城7代164年の長きに及んだが、明治2年の[[版籍奉還]]によって[[上田藩]]となる。
===近代===
;明治時代
*[[1871年]]([[明治]]4年)
**7月 - [[廃藩置県]]に伴って上田県となる。
**11月 - 上田県が[[長野県]]に統一。
*[[1877年]](明治10年)11月8日 - [[第十九国立銀行]]開業。
*[[1879年]](明治12年)1月14日 - [[小県郡]]郡役所が上田町に設置される。
*[[1886年]](明治19年)8月15日 - 官設鉄道[[上田駅]]開業。
*[[1889年]](明治22年) - 小県郡丸子村に[[依田社]]が、翌年には同郡上田町に[[信陽館]]が設立され昭和時代の前半にかけて[[製糸業]]で賑わう。
*[[1893年]](明治26年)4月1日 - [[信越本線]]([[上野駅]]〜[[直江津駅]])が開通。
*[[1896年]](明治29年)1月20日 - 信越本線[[大屋駅]]開業。
*[[1900年]](明治33年)【この年】 - [[諏訪郡]][[岡谷市|平野村]]の製糸業者笠原組が[[常田館]]を設立。(28年後吸収合併し笠原組→笠原工業上田工場と改称)
;大正時代
*[[1918年]]([[大正]]7年)11月21日 - [[上田丸子電鉄丸子線|丸子鉄道線]]が開業。
*[[1920年]](大正9年)6月1日 - 信越本線の[[西上田駅|北塩尻駅]]開業。(※ 1956年(昭和31年)4月10日に西上田駅と改称した。)
*[[1921年]](大正10年)6月17日 - 上田温泉電軌の[[上田温泉電軌青木線|本線]]・[[上田電鉄別所線|川西線]]が開業。[[1928年]](昭和3年)5月1日までに路線を拡大。1943年(昭和18年)10月21日に両社が合併し[[上田交通|上田丸子電鉄]]と改称する。
*[[1926年]](大正15年)6月30日 - 自治体としての小県郡が廃止されたため市内にあった小県郡役所廃止。
;昭和時代
*[[1930年]]([[昭和]]5年) - [[菅平高原]]の開発が本格化した。
*[[1931年]](昭和6年)
**時期不詳 - 上田市営飛行場が開港するが翌年に[[帝国陸軍]]に献納され陸軍上田飛行場と改称。
**8月1日 - [[第十九国立銀行|第十九銀行]]が[[第六十三国立銀行|六十三銀行]]と対等合併し[[八十二銀行]]発足。これにより同行の上田支店となる。
*[[1937年]](昭和12年) - [[クラシエホールディングス|鐘紡]]の上田工場が上田市小牧右岸に設置される。戦後[[進駐軍]]接収の後[[日本専売公社]]に譲渡される。
*[[1944年]](昭和19年) - この時期に特攻隊の秘密基地が建設された。
*[[1945年]](昭和20年) - 現在の上田市東部市街地が空襲を受ける。敗戦と同時に陸軍上田飛行場が閉鎖。
===現代===
;昭和時代
*[[1949年]]([[昭和]]24年)10月1日 - 上田市小牧右岸地籍に[[日本専売公社]]の上田工場が設置される。上田工場は1985年(昭和60年)4月1日の[[日本たばこ産業]]の発足に伴い同社上田工場となる。
*[[1957年]](昭和32年) - [[長野県上田高等学校|上田松尾高校(現:上田高校)]]が[[第39回全国高等学校野球選手権大会]]に初出場。以降現校名時代を含め2度出場。
*[[1958年]](昭和33年)10月25日 - [[信越放送]]が現在の大字武石下本入の高原地帯[[美ヶ原]]にテレビ塔を完成、初の長野県全域でのテレビ放送を開始。
*[[1962年]](昭和37年) - [[長野県丸子修学館高等学校|丸子実業高校(現:丸子修学館高校)]]が[[第34回選抜高等学校野球大会]]に初出場。以降春3回出場。
*[[1963年]](昭和38年)7月15日 - 信越本線上野駅〜長野駅間電化。
*[[1965年]](昭和40年) - [[長野県丸子修学館高等学校|丸子実業高校(現:丸子修学館高校)]]が[[第47回全国高等学校野球選手権大会]]に初出場。以降夏7回出場。
*[[1966年]](昭和41年)10月1日 - 上田駅を停車する信越本線初の特急列車『[[あさま]]』登場。
*[[1972年]](昭和47年)[[2月19日]] - [[モータリゼーション]]の波で[[上田交通|上田丸子電鉄→上田交通]]の電車路線がこの日までに[[上田電鉄別所線|別所線]]を残し廃止となる。
*[[1981年]](昭和56年)4月1日 - [[霧ヶ峰有料道路]]がこの日全通。(※ 2002年(平成14年)4月20日全線無料開放)
*[[1988年]](昭和63年) - [[長野県上田東高等学校|上田東高校]]が[[第70回全国高等学校野球選手権大会]]に初出場。
;平成時代
*[[1996年]](平成8年)11月14日 - [[上信越自動車道]][[小諸インターチェンジ]]〜[[上田菅平インターチェンジ]]〜[[更埴ジャンクション]]開通。上田市周辺も高速時代に突入。
*[[1997年]](平成9年)10月1日 - [[北陸新幹線]]開業<ref name="shinmai-np-1997-10-1-1">“信濃路に新風、一番列車 響く万歳、歓迎太鼓” [[信濃毎日新聞]] (信濃毎日新聞社). (1997年10月1日)</ref>。[[信越本線]]並行区間は[[しなの鉄道]][[しなの鉄道線|路線]]として移管される<ref name="shinmai-np-1997-10-1-3">“期待と不安乗せ しなの鉄道スタート” [[信濃毎日新聞]] (信濃毎日新聞社). (1997年10月1日)</ref>。
*[[2005年]](平成17年)3月31日 - 日本たばこ産業上田工場操業停止。同年6月閉鎖。
*[[2006年]](平成18年)4月1日 - [[NHK長野放送局]]が[[美ヶ原]]のテレビ塔を地上デジタルテレビアンテナに改良、初の長野県全域での地上デジタルテレビ放送を開始。
*[[2007年]](平成19年)10月2日 - 『上田市民憲章』制定<ref name="kensyo">[https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/hisho/2394.html 上田市民憲章] 上田市 2020年2月25日更新 2021年10月9日閲覧。</ref>{{refnest|group="注釈"|
;上田市民憲章
:(前文)
: 上田市は 千曲川の清流と菅平高原から美ヶ原高原までひろがる豊かな自然や先人の築いた歴史と文化を大切にするまちです
: わたくしたちは 上田市民であることに誇りと責任を持ち 未来への発展を願って ここに市民憲章を定めます
:(本文)
:1 美しい自然を守り 歴史や伝統に学ぶ 文化の薫るまちをつくります
:1 共に尊重し合い 平和を愛し やさしさあふれるまちをつくります
:1 未来を担う子どもらが健やかに育つ 夢あるまちをつくります
:1 多彩な産業と資源をいかし 希望と活力みなぎるまちをつくります<ref name="kensyo"/>}}
*[[2011年]](平成23年)4月21日<ref name="nissyoku-2011-4-20-11">“イトーヨーカ堂、「アリオ上田」オープン 地域SC競合激化は必至”. [[日本食糧新聞]](日本食糧新聞社). (2011年4月20日)</ref> - <ref name="shinano-mainichi-np-2010-11-21">“イトーヨーカドー上田店閉店へ 新商業施設開店で” [[信濃毎日新聞]] (信濃毎日新聞社). (2010年11月21日)</ref>上田工場跡地に<ref name="shinano-mainichi-np-2008-10-3">“リヴィン上田店 来年をめどに閉店の方針” [[信濃毎日新聞]] (信濃毎日新聞社). (2008年10月3日)</ref>[[複合商業施設]]「[[アリオ上田]]」が開店<ref name="nissyoku-2011-4-20-11" />。
*[[2014年]](平成26年)
**10月2日 - 日本たばこ産業上田工場跡地に市立の交流文化施設「[[サントミューゼ]]」(上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館)が開館<ref name="asahi-np-2014-10-3">“文化の拠点施設、上田にオープン ホールや美術館”. [[朝日新聞]](朝日新聞社). (2014年10月3日)</ref>。
**12月26日 - 上田市交流文化芸術センター開設に伴い上田市民会館を廃止、閉館。
;令和時代
*[[2019年]]([[令和]]元年)[[9月21日]] - 丸子地区に[[メルシャン|シャトー・メルシャン]]椀子(まりこ)ワイナリー開業<ref>[https://www.kirin.co.jp/company/news/2019/0523_01.html 「シャトー・メルシャン 椀子ワイナリー」9月21日(土)オープン] [[キリンホールディングス|KIRIN]] 2019年5月23日</ref> 。
==行政==
{{日本の市 (廃止)
| 市旗 = [[ファイル:Flag_of_Former_Ueda_Nagano.JPG|100px|旧上田市旗]]
| 市旗の説明 = 旧上田市旗
| 市章 = [[ファイル:Former Emblem of Ueda, Nagano.svg|75px|旧上田市章]]
| 市章の説明 = 旧上田市章
| 廃止日 = 2006年3月6日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = '''上田市 (旧)'''、小県郡[[丸子町]]、[[真田町]]、[[武石村 (長野県)|武石村]]→上田市 (新)
| 現在の自治体 = 上田市(新)
| よみがな = うえだし
| 自治体名 = 上田市
| 都道府県 = 長野県
| コード = 20203-7
| 面積 = 176.73
| 境界未定 = なし
| 人口 = 125498
| 人口の時点 = 2005年10月1日
| 隣接自治体 = <!--''長野県'':[[千曲市]]、[[東御市]]、[[坂城町]]、[[丸子町]]、[[真田町]]、[[筑北村]]、[[青木村]]|-->''長野県'':[[東御市]]、[[千曲市]]、[[丸子町]]、[[真田町]]、[[坂城町]]、[[青木村]]、[[筑北村]]
| 木 =
| 花 =
| シンボル名=市の鳥
| 郵便番号 = 386-8601
| 所在地 = 上田市大手一丁目11番16号
| 外部リンク = [http://kyuueda.city.ueda.nagano.jp/hp/~cityueda/index.shj 上田市]
| 経度 =
| 緯度 =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
現在の上田市(新上田市)は新設合併によって設置された自治体であり、それ以前に存在した上田市(旧上田市)は廃止されている。新上田市(2006年3月6日以降)と旧上田市(2006年3月5日まで)は同名の別法人となる自治体であり、[[国勢調査]]などのデータは、2006年3月6日の合併前と合併後とでは、全くの別物となっている。
旧上田市の市役所本庁舎は、現在では新上田市役所本庁舎となっている。なお、[[自治体コード]]は旧上田市と新上田市で同一のものを使っている。
2006年3月1日の人口推計では、丸子町が24,441人、真田町が11,208人、武石村が4,089人であり、旧上田市は2005年の推計で163,651人だった。
===首長===
====歴代市長====
{|class=wikitable
!代!!氏名!!就任!!退任!!備考
|-
! colspan="5" | 上田町長(官選)<ref>『上田市誌 人物編:明日をひらいた上田の人びと』上田市、2003年、253頁。</ref>
|-
|初||船越重舒||1889年||1892年||
|-
|2||浅野舒次郎||1892年||1893年||
|-
|3||山下譲||1893年||1896年||
|-
|4||浅野舒次郎||1896年||1898年||再任
|-
|5||馬場歳次||1898年||1903年||
|-
|6||岡本幸次郎||1903年||1906年||
|-
|7||石田四方太||1906年||1914年||
|-
|8||[[細川吉次郎]]||1914年||1919年||
|-
! colspan="5" | 旧上田市長(官選)
|-
|初||[[細川吉次郎]]||1919年8月21日||1924年5月25日||在任中死去
|-
|2||[[勝俣英吉郎]]||1924年7月14日||1930年4月17日||在任中死去
|-
|3||[[成沢伍一郎]]||1930年5月9日||1938年5月8日||
|-
|4||[[伊藤伝兵衛]]||1938年6月24日||1940年12月18日||
|-
|5||[[浅井敬吾]]||1940年12月21日||1946年11月16日||[[公職追放]]による辞任
|-
! colspan="5" | 旧上田市長(公選)
|-
|市長職務執行代理者||広瀬淳||1946年||1947年4月5日||
|-
|6||[[井上柳梧]]||1947年4月6日||1951年4月5日||1期
|-
|7||[[水野鼎蔵]]||1951年4月23日||1959年4月30日||2期
|-
|8||[[堀込義雄]]||1959年5月1日||1963年2月10日||1期
|-
|9||[[小山一平]]||1963年3月10日||1973年10月11日||2期・3期中途辞任
|-
|10||[[石井泉]]||1973年11月11日||1982年2月4日||2期・3期中途死去辞任
|-
|11||[[永野裕貞]]||1982年3月28日||1994年3月27日||3期
|-
|12||[[竹下悦男]]||1994年3月28日||1998年3月27日||1期
|-
|13||[[平尾哲男]]||1998年3月28日||2002年3月27日||1期
|-
|14||母袋創一||2002年3月28日||2006年3月5日||1期
|-
! colspan="5" | 上田市長(公選)
|-
| 市長職務執行者 || 堀内憲明 ||2006年3月6日||2006年4月9日||
|-
| 初-3代 || [[母袋創一]] || 2006年4月9日 || 2018年4月8日 || 旧上田市長
|-
| 4代 || [[土屋陽一]] || 2018年4月9日 || ||
|}
===行政区画の変遷===
*[[1889年]]([[明治]]22年)4月1日 - [[町村制]]の施行により、小県郡常入村・常磐城村および上田町の一部(山口・金井・蛇沢を除く)の区域をもって'''上田町'''が発足。
**上田町の残部(山口・金井・蛇沢)は[[神科村]]の一部となる。
*[[1919年]]([[大正]]8年)5月1日 - [[市制]]施行により'''上田市'''となる。
*[[1921年]](大正10年)9月10日 - 小県郡[[城下村 (長野県)|城下村]]を編入。
*[[1954年]]([[昭和]]29年)4月1日 - 小県郡[[塩尻村]]・[[川辺村 (長野県小県郡)|川辺村]]を編入。
*[[1956年]](昭和31年)9月30日 - 小県郡[[神川村 (長野県)|神川村]]・[[泉田村]]を編入。
*[[1957年]](昭和32年)
**3月31日 - 半過を除く大字小泉が分割され、小県郡[[川西村 (長野県)|川西村]]の一部となる。
**[[8月1日]] - 小県郡神科村を編入。
*[[1958年]](昭和33年)4月1日 - 小県郡[[豊殿村]]を編入。
*[[1970年]](昭和45年)4月1日 - 小県郡[[塩田町 (長野県)|塩田町]]を編入。
*[[1973年]](昭和48年)4月1日 - 小県郡川西村を編入。
*[[2006年]](平成18年)3月6日 - 小県郡[[丸子町]]・[[真田町]]・[[武石村 (長野県)|武石村]]と合併し、改めて'''上田市'''が発足<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ueda.nagano.jp/contents/gappeikyo/newweb_edit/image/01/pdf/20050218kyouteisho.pdf |title=合併協定書 |date=2005-02-18 |publisher=上田市・丸子町・真田町・武石村 |accessdate=2019-02-10 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ueda.nagano.jp/contents/gappeikyo/newweb_edit/image/07/pdf/20040618hensen.pdf |title=4市町村の変遷 |publisher=上田市・丸子町・真田町・武石村合併協議会 |accessdate=2019-02-10 }}</ref>。
===広域行政===
上田市、東御市、長和町、青木村、坂城町は[[特別地方公共団体]]([[広域連合]])「[[上田地域広域連合]]」を設置し、一部の行政業務を共同で行っている。
:広域連合とは別に、上田市と東御市、長和町、青木村、坂城町、立科町、嬬恋村が個々に協定を締結して共通の行政事務事業を行う「上田地域[[定住自立圏構想研究会|定住自立圏]]<ref>[http://www.city.ueda.nagano.jp/kikaku/shise/sesaku/tejujiritsuken/index.html 上田地域定住自立圏]上田市</ref>」を設定している。構成市町村のうち上田市を中心市とし、東御市、長和町、青木村、坂城町、立科町、嬬恋村を連携市町村とする。
==議会==
===市議会===
{{main|上田市議会}}
=== 県議会 ===
{{Main|2023年長野県議会議員選挙}}
* 選挙区:上田市・小県郡選挙区
* 定数:4人
* 任期:2023年4月30日 - 2027年4月29日
* 投票日:2023年4月9日
* 当日有権者数:134,528人
* 投票率:44.47%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 清水純子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 58 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 12,436票
|-
| 高村京子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 69 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 現 || 11,583票
|-
| 林和明 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 36 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || 10,888票
|-
| 山田英喜 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 38 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 10,345票
|-
| 金子和夫 || style="text-align:center;" | 落 || style="text-align:center" | 60 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || 7,162票
|-
| 飯島幸宏 || style="text-align:center;" | 落 || style="text-align:center" | 60 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || 6,729票
|}
===衆議院===
* 選挙区:[[長野県第3区|長野3区]](上田市、[[小諸市]]、[[佐久市]]、[[千曲市]]、[[東御市]]、[[南佐久郡]]、[[北佐久郡]]、[[小県郡]]、[[埴科郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:399,168人
* 投票率:59.32%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[井出庸生]] || align="center" | 43 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 120,023票 || align="center" | ○
|- style="background-color:#ffdddd;"
| 比当 || [[神津健]] || align="center" | 44 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 109,179票 || align="center" | ○
|-
| || 池高生 || align="center" | 53 || <small>[[政治家女子48党|NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で]]</small> || align="center" | 新 || align="right" | 3,722票 || align="center" | ○
|}
== 司法 ==
=== 最高裁判所 ===
[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]
=== 高等裁判所 ===
;管轄
[[東京高等裁判所]]
=== 地方・家庭裁判所 ===
;管轄
*長野地方・家庭裁判所
*長野地方・家庭裁判所 上田支部
=== 簡易裁判所 ===
;管轄
上田簡易裁判所<ref>[https://www.courts.go.jp/about/sosiki/saikosaibansyo/index.html 最高裁判所] 裁判所 2021年10月12日閲覧。</ref><ref>[https://www.courts.go.jp/saiban/tetuzuki/kankatu/nagano/index.html 長野県内の管轄区域表] 裁判所 2021年10月12日閲覧。</ref>
==施設==
===警察===
;本部
[[長野県警察]]
;管轄
[[上田警察署]](上田市天神3-15-74)
;交番・駐在所
*染谷交番(上田市材木町1丁目2-11)
*国分交番(上田市国分1丁目5-4)
*上田駅前交番(上田市天神1丁目1887-28)
*川辺交番(上田市吉田46-1)
*塩田交番(上田市下之郷799-1)
*大屋交番(上田市大屋236-9)
*神科交番(上田市上野字大和町4-4)
*丸子警部交番(上田市上丸子224-3)
*別所温泉警察官駐在所(上田市別所温泉1768-2)
*真田町警察官駐在所(上田市真田町長7172-6)
*西内警察官駐在所(上田市平井1670-3)
*依田警察官駐在所(上田市生田4008-7)
*丸子北部警察官駐在所(上田市長瀬2883-1)
*武石警察官駐在所(上田市上武石67-1)
出典<ref>[https://www.pref.nagano.lg.jp/police/keisatsusho/ueda.html 上田警察署(うえだけいさつしょ)] 長野県警察 2021年10月12日閲覧。</ref>
===消防===
;本部
[[上田地域広域連合]]消防本部(上田市大手2-7-16)
;消防署
*上田中央消防署(上田市大手2-7-16)
*上田南部消防署(上田市小島550-1)
*上田東北消防署(上田市芳田1515-1)
*川西消防署(上田市浦野126-2)
*丸子消防署(上田市上丸子1603-1)
*真田消防署(上田市真田町長7174-1)
出典:<ref>[http://www.area.ueda.nagano.jp/?page_id=333 所在地一覧] 上田地域広域連合 2021年10月12日閲覧。</ref>
===医療===
;主な病院
*[[国立病院機構信州上田医療センター]]
*[[鹿教湯三才山リハビリテーションセンター三才山病院]]
*[[千曲荘病院]]
===郵便局===
日本郵便が展開する以下の郵便局がある。
;[[集配郵便局]]
{{col|
*[[上田郵便局]]
*浦里郵便局
*真田郵便局
|
*塩田郵便局
*武石郵便局
*別所郵便局
|
*東塩田郵便局
*[[丸子郵便局]]
}}
;無集配郵便局
{{col|
*上田駅前郵便局
*上田大手郵便局{{refnest|group="注釈"|2021年5月17日に上田市役所内郵便局に改称予定<ref>[https://www.post.japanpost.jp/newsrelease/storeinformation/detail/index.php?id=4959 改称:上田大手郵便局] 日本郵便</ref>。}}
*上田古里郵便局
*上田材木町郵便局
*上田新町郵便局
*上田常入郵便局
*上田緑が丘郵便局
*上田三好町郵便局
*大屋郵便局
*鹿教湯郵便局
|
*上塩尻郵便局
*神科郵便局
*上本郷郵便局
*川辺郵便局
*塩川郵便局
*信濃国分郵便局
*菅平郵便局
*傍陽郵便局
*殿城郵便局
|
*豊里郵便局
*長瀬郵便局
*西内郵便局
*西塩田郵便局
*原町郵便局
*東内郵便局
*富士山郵便局
*丸子駅前郵便局
*室賀郵便局
}}
;[[簡易郵便局]]
{{col|
*蒼久保簡易郵便局
*秋和簡易郵便局
*石井簡易郵便局
|
*伊勢山簡易郵便局
*上田常磐町簡易郵便局
*上田中之条簡易郵便局
|
*上田原簡易郵便局
*菅平口簡易郵便局
*中丸子簡易郵便局
}}
===図書館===
市は「上田市図書館条例」に基づき、上田図書館・上田情報ライブラリー・丸子図書館・真田図書館を設置している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ueda.nagano.jp/contents/reiki/reiki_int/reiki_honbun/r360RG00000236.html |title=上田市図書館条例 |publisher=上田市 |date=2006-03-06 |accessdate=2018-10-25 }}</ref>。
上田創造館内には上田図書館の分室が置かれており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ueda.nagano.jp/toshokan/tanoshimu/toshokan/sozokan/index.html |title=上田図書館 創造館分室 |publisher=上田市 |date=2018-10-01 |accessdate=2018-10-25 }}</ref>、塩田<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ueda.nagano.jp/siodak/tanoshimu/kominkan/shioda/riyo/floor.html |title=塩田公民館フロア案内 |publisher=上田市 |date=2016-06-23 |accessdate=2018-10-26 }}</ref>・武石公民館<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ueda.nagano.jp/takesik/tanoshimu/kominkan/takeshi/tosho/index.html |title=武石公民館図書室 |publisher=上田市 |date=2015-04-14 |accessdate=2018-10-25 }}</ref>内にも[[公民館図書室]]が置かれる。また、市は「長野県上田点字図書館条例」に基づき[[点字図書館]]を設置している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ueda.nagano.jp/contents/reiki/reiki_int/reiki_honbun/r360RG00000357.html |title=長野県上田点字図書館条例 |publisher=上田市 |date=2006-03-06 |accessdate=2018-10-25 }}</ref>。
;主な図書館
*[[上田市立図書館]]
**上田図書館
*** 上田図書館[[上田創造館|創造館]]分室
**[[パレオ (上田市)#上田情報ライブラリー|上田情報ライブラリー]]
**[[上田市立丸子図書館|丸子図書館]]
**真田図書館
*塩田[[公民館]]図書コーナー
*武石[[公民館図書室]]
*長野県上田[[点字図書館]]
*[[信州大学]]付属図書館 繊維学部図書館
*[[長野大学]]付属図書館
*[[上田女子短期大学]]付属図書館
このほか、信州大学繊維学部<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shinshu-u.ac.jp/institution/library/textiles/ |title=繊維学部図書館 |publisher=信州大学附属図書館 |accessdate=2018-10-25 }}</ref>・長野大学<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagano.ac.jp/outline/facilities/library/ |title=附属図書館 |publisher=長野大学 |accessdate=2018-10-25 }}</ref>・上田女子短大<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.uedawjc.ac.jp/libhp/ |title=上田女子短期大学附属図書館 |publisher=上田女子短期大学 |accessdate=2018-10-25 }}</ref>といった市内にある大学は大学図書館を設置している。
[[1995年]]12月より、上田市・東御市・長和町・青木村・坂城町の各図書館同士を[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]連携した「上田地域図書館情報ネットワーク」(愛称:エコール、[[山彦]]の「エコー」に図書館を意味するlibraryの「L」を組み合わせた[[造語]])が稼働し、利便性の向上を図っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.echol.gr.jp/inet/index.html |title=エコールとは |publisher=上田地域図書館情報ネットワーク連絡協議会(エコール) |accessdate=2018-10-25 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.area.ueda.nagano.jp/?page_id=51 |title= 図書館情報ネットワーク |publisher=[[上田地域広域連合]] |accessdate=2018-10-26 }}</ref>。
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
====国内====
;姉妹都市
*{{Flagicon|神奈川県}}[[鎌倉市]]([[関東地方]] [[神奈川県]])
**[[1979年]]([[昭和]]54年)[[11月5日]] - 友好都市締結。
*{{Flagicon|兵庫県}}[[豊岡市]]([[近畿地方]] [[兵庫県]])
**[[1979年]]([[昭和]]54年)[[11月5日]] - 旧[[出石町]]と友好都市締結。
*{{Flagicon|新潟県}}[[上越市]]([[中部地方]] [[新潟県]])
**[[1979年]]([[昭和]]54年)[[11月5日]] - 友好都市締結。
;提携都市
*{{Flagicon|東京都}}[[練馬区]]([[関東地方]] [[東京都]])
**[[1994年]]([[平成]]6年) - 旧[[武石村 (長野県)|武石村]]と友好都市締結。
====海外====
;姉妹都市
*{{Flagicon|SWI}}[[ダボス]]([[スイス連邦]] [[グラウビュンデン州]])
**[[1976年]]([[昭和]]51年)- 旧[[真田町]]と友好交流都市締結。
;提携都市
*{{Flagicon|CHN}}[[寧波市]]([[中華人民共和国]] [[浙江省]])
**[[1995年]]([[平成]]7年)- 友好交流都市締結。
==経済==
===第一次産業===
====農業====
;果樹・野菜栽培
*[[ブドウ|ぶどう]]、[[リンゴ|りんご]]、[[ハクサイ|白菜]]、[[キャベツ]]、[[クルミ]]
*[[マツタケ|松茸]] - 9月下旬から10月下旬。長野県内有数の産地で、特に[[塩田平]]南部([[別所温泉]]・[[山田 (上田市)|山田]]・[[前山 (上田市)|前山]]・[[古安曽]]・[[富士山 (上田市)|富士山]])に松茸料理店が多い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.ueda.nagano.jp/kankojoho/gurume/matsutake.html |title=上田市で松茸料理を提供しているお店 |publisher=上田市 |date=2019-09-05 |accessdate=2019-09-05 }}</ref>。
===第二次産業===
====工業====
*古くは、養蚕業が盛んで、特に明治期においては、日本の主力産業であった繭の重要な供給地であった。特に、塩尻地区は養種業が盛んで、世界の養種(蚕の卵)の中心地でもあった。
*現在は、[[電気機器]]、[[自動車]]部品などの生産が盛んであり、製造品出荷額は県内で[[安曇野市]]に次いで2位である(合併前は4位)。
;主力工場を置く企業
* [[山洋電気]]
* [[長野計器]]
* [[東京特殊電線]]
* [[エスビー食品]]
* [[チャコット]]
* [[わらべや日洋]]
;協力工場を置く企業
* [[日精樹脂工業]]
* [[日精エー・エス・ビー機械]]
===本社機能を置く企業===
* [[シナノケンシ]]([[プレクスター]]製造元)
* [[日本電産セイミツ]]
* [[日置電機]]
* [[信州ハム]]
* [[オルガン針]]
* [[アート金属工業]]
* [[シーティーエス (長野県)|シーティーエス]]
* [[ホテルルートイン|ルートインジャパン]](東京・大阪と3本社制)
* [[しなの鉄道]]
* [[八十二証券]]
* [[松山 (企業)|松山株式会社]]
* [[やおふく]]
* [[上田日本無線]]
* [[上田交通]]
* [[上田電鉄]]
* [[上田バス]]
* [[R&Cながの青果]](長野市と2本社制)
==交通==
[[File:Ueda-STA Castle-side-Entrance.jpg|thumb|200px|[[上田駅]]]]
[[File:Ueda-Roman Bridge 1.jpg|thumb|200px|上信越自動車道・[[上田ローマン橋]]]]
===鉄道===
;[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
*[[北陸新幹線]]
**[[上田駅]]
;[[しなの鉄道]]
*[[しなの鉄道線]]
**[[大屋駅]] - [[信濃国分寺駅]] - 上田駅 - [[西上田駅]]
;[[上田電鉄]]
*[[上田電鉄別所線|別所線]](全線市内)
**上田駅 - [[城下駅]] - [[三好町駅]] - [[赤坂上駅]] - [[上田原駅]] - [[寺下駅]] - [[神畑駅]] - [[大学前駅 (長野県)|大学前駅]] - [[下之郷駅]] - [[中塩田駅]] - [[塩田町駅]] - [[中野駅 (長野県)|中野駅]] - [[舞田駅]] - [[八木沢駅]] - [[別所温泉駅]]
:中心となる駅:上田駅
===バス===
====高速バス====
*[[千曲三線]]
:[[バスタ新宿]]・キンカ堂前西武高速バス乗り場([[池袋駅|池袋駅東口]]) - [[西武バス|西武観光バス]]・[[千曲バス]]共同運行
*[[上田・小諸 - 立川線|立川線]]
:[[立川駅|立川駅北口]] - 千曲バス
*[[千曲川ライナー]]
:[[京都市|京都]]([[京都駅|京都駅八条口]])・[[大阪市|大阪]]([[大阪阿部野橋駅|あべの橋駅]]) - 千曲バス・[[近鉄バス]]共同運行
====路線バス====
* [[上電バス|上田バス]]
: [[アリオ上田]]
: 菅平高原(西菅平)
: 菅平高原(サニアパーク)- 期間運転(5月1日〜9月30日)
: 菅平高原(ダボス)
: 真田
: 真田(上渋沢)
: 傍陽(大倉)
: 傍陽(入軽井沢)
: 傍陽(横道)
: 赤坂
: [[信州上田医療センター]]
: [[別所温泉]]
: 合同庁舎方面市内循環バス(あおバス)
: [[西上田駅]]方面市内循環バス(あおバス)
: 高齢者福祉センター(オレンジバス)
* [[千曲バス]]
: 下秋和(千曲バス上田営業所)
: 上田
: 丸子・鹿教湯
: 平井寺・鹿教湯
: 丸子・奥鹿教湯
: [[丸子]]
: 青木
: [[室賀]]
: [[上室賀]]
: 町吉田・中吉田
: 祢津
: 下半過
<!--: [[美ヶ原|美ヶ原高原]]※期間運転8/1〜8/20-->
: 合同庁舎方面市内循環バス(あかバス)
: [[西上田駅]]方面市内循環バス(あかバス)
: 高齢者福祉センター(オレンジバス)
: ※佐久上田線は2021年9月30日をもって廃止された<ref>[http://chikuma-bus.com/home/modules/route_bus/index.php?content_id=1 運行状況のお知らせ(路線バス)]</ref>。
* [[信州観光バス]](温泉口乗り場)
: [[戸倉駅]]
: 上山田温泉公園前
* [[ジェイアールバス関東小諸支店|JRバス関東]]
: 長久保([[長和町]])
* 運賃低減バス運行計画
: 平成25年10月1日からはじまったバス運賃を抑制する上田市の事業。初乗りは100円で最も遠いところでは500円上限となっている。
: 対象は上田市と青木村を運行するバス路線であるが、高速バスや特急バス、上田-松本線、JRバス関東の路線は対象外である。
: また上田市と青木村以外の自治体に跨った区間から通常料金である。
: 但し祢津線の中吉田坂上バス停は東御市にあるが同路線の終点ということもあり本事業の対象である。
===道路===
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
====高速道路====
*[[上信越自動車道]]([[上田菅平インターチェンジ|上田菅平IC]])
{{Col-2}}
====国道====
*[[国道18号]](群馬県[[高崎市]]〜新潟県[[上越市]])(国道141号と重複する区間がある)([[上田バイパス]]・[[上田篠ノ井バイパス|上田坂城バイパス]]を建設中)
*[[国道141号]](山梨県[[韮崎市]]〜上田市)(国道18号と重複する区間がある)
*[[国道143号]](長野県[[松本市]]〜上田市)(松本街道)
*[[国道144号]](群馬県[[長野原町]]〜上田市)(国道406号と重複する区間がある)([[しなの木通り]]、[[上州街道]])
*[[国道152号]](上田市〜静岡県[[浜松市]])(国道254号と重複する区間がある)
*[[国道254号]](東京都[[文京区]]〜長野県松本市)(国道152号と重複する区間がある)
*[[国道406号]](長野県[[大町市]]〜群馬県高崎市)(国道144号と重複する区間がある)
{{Col-end}}
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
====県道====
:主要地方道
* [[長野県道4号真田東部線]](旧菅平有料道路)
* [[長野県道12号丸子信州新線]]
* [[長野県道34号長野菅平線]]
* [[長野県道35号長野真田線]]
* [[長野県道62号美ヶ原公園沖線]]
* [[長野県道65号上田丸子線]]
* [[長野県道77号長野上田線]]
* [[長野県道79号小諸上田線]](一部区間が通称[[浅間サンライン]])
* [[長野県道81号丸子東部インター線]]
* [[長野県道82号別所丸子線]]
{{Col-2}}
:一般県道
* [[長野県道158号傍陽菅平線]]
* [[長野県道160号上室賀坂城停車場線]]
* [[長野県道162号上田停車場線]]
* [[長野県道171号塩田仁古田線]]
* [[長野県道174号荻窪丸子線]]
* [[長野県道175号矢沢真田線]]
* [[長野県道176号下原大屋停車場線]]
* [[長野県道177号鹿教湯別所上田線]](コスモス街道)
* [[長野県道180号住吉上田線]]
* [[長野県道182号菅平高原線]]
* [[長野県道186号上田塩川線]]
* [[長野県道273号真田新田線]]
* [[長野県道460号美ヶ原公園東餅屋線]] (通称[[ビーナスライン]]・旧[[霧ヶ峰有料道路]])
{{Col-end}}
====市道====
;主な市道
* 秋和上堀線(祝町大通り)
* 二の丸通り
* 大手通り
* 戸石米山城通り
====農道====
*[[浅間山麓広域農道]]([[浅間サンライン]])
*[[千曲川左岸広域農道]]([[千曲ビューライン]])
====観光道路====
*[[ビーナスライン]]([[観光道路]])
===道の駅===
;[[道の駅]]
*[[道の駅上田 道と川の駅]]
*[[道の駅美ヶ原高原]]
==教育==
===大学===
'''国公立'''
*[[信州大学繊維学部]]
*[[長野大学]]
===短期大学===
;私立
*[[上田女子短期大学]]
===専修学校===
*上田看護専門学校
*上田情報ビジネス専門学校
*上田総合文化専門学校
*上田福祉敬愛学院
*専門学校長野外語カレッジ
*信州上田医療センター附属看護学校
*長野医療衛生専門学校
===高等学校===
;公立
*[[長野県上田高等学校]]
*[[長野県上田染谷丘高等学校]](そめやおか)
*[[長野県上田東高等学校]](ひがし)
*[[長野県上田千曲高等学校]](ちくま)
*[[長野県丸子修学館高等学校]](まるこしゅうがくかん)
;私立
*[[上田西高等学校]]
*[[さくら国際高等学校]]
*[[コードアカデミー高等学校]]
*[[クラーク記念国際高等学校]]長野キャンパス(国際高等学院長野校)
*[[つくば開成高等学校|つくば開成学園高等学校]]上田学習センター
===中学校===
;市立
*[[上田市立第一中学校]]
*[[上田市立第二中学校]]
*[[上田市立第三中学校]]
*[[上田市立第四中学校]]
**原峠分室
*[[上田市立第五中学校]]
*[[上田市立第六中学校]]
*[[上田市立塩田中学校]]
*[[上田市立丸子中学校]]
*[[上田市立丸子北中学校]]
*[[上田市立真田中学校]]
*[[上田市立菅平小中学校]]
;公立
*[[上田市長和町中学校組合立依田窪南部中学校]]
===小学校===
;市立
* [[上田市立清明小学校]] (せいめい)
* [[上田市立東小学校]] (ひがし)
* [[上田市立西小学校]] (にし)
* [[上田市立北小学校]] (きた)
* [[上田市立城下小学校]] (しろした)
* [[上田市立塩尻小学校]] (しおじり)
* [[上田市立川辺小学校]] (かわべ)
* [[上田市立神川小学校]] (かんがわ)
* [[上田市立神科小学校]] (かみしな)
* [[上田市立豊殿小学校]] (ほうでん)
* [[上田市立東塩田小学校]] (ひがししおだ)
* [[上田市立中塩田小学校]] (なかしおだ)
* [[上田市立塩田西小学校]] (しおだにし)
* [[上田市立浦里小学校]] (うらさと)
* [[上田市立川西小学校]] (かわにし)
* [[上田市立南小学校]] (みなみ)
* [[上田市立塩川小学校]] (しおかわ)
* [[上田市立丸子北小学校]] (まるこきた)
* [[上田市立丸子中央小学校]] (まるこちゅうおう)
* [[上田市立西内小学校]] (にしうち)
* [[上田市立傍陽小学校]] (そえひ)
* [[上田市立長小学校]] (おさ)
* [[上田市立本原小学校]] (もとはら)
* [[上田市立菅平小中学校]] (すがだいら)
* [[上田市立武石小学校]] (たけし)
===特別支援学校===
;公立
*[[長野県上田養護学校]]
===職業能力開発校===
;職業能力開発短大
*[[長野県工科短期大学校]]
==観光==
[[File:Ueda Castle.JPG|thumb|200px|上田城跡公園]]
[[File:Anrakuji_Hakkakusanjyuunotou_BessyoOnsen.jpg|thumb|200px|別所温泉安楽寺八角三重塔]]
===名所・旧跡===
;[[真田氏]]関連史跡
** [[上田城跡公園]]([[上田合戦]])
** [[戸石城]]跡:県指定史跡。
** [[真田氏館]]
** [[真田本城]](別称:[[真田山城]]、松尾城)跡
** [[長谷寺 (上田市)|長谷寺]]
** [[信綱寺]]
** [[芳泉寺]]
** [[大輪寺]]
** [[角間渓谷]]
*[[上田原古戦場]]([[上田原の戦い]])
;主な城郭
*[[塩田城]]跡:県指定史跡。
*[[丸子城 (信濃国)]]
*[[岡城 (信濃国)|岡城]]跡
*[[信濃国分寺]](三重塔)
*[[信濃国分寺史跡公園]]
;主な神社
*[[科野大宮社]](「信濃」の[[語源]]とされる)
*[[生島足島神社]]
;主な寺院
*[[長福寺 (上田市)|長福寺]](信州夢殿)
*[[北向観音]]
*[[常楽寺 (上田市)|常楽寺]](北向観音本坊)
*[[安楽寺 (上田市)|安楽寺]](国宝八角三重塔)
*[[前山寺]](三重塔)
*[[中禅寺 (上田市)|中禅寺]](薬師堂)
*[[毘沙門堂 (多聞庵)]]
*[[岩門大日堂]]
*[[龍洞院 (上田市)|龍洞院]]
;街道
*[[北国街道 (信越)|北国街道]]街並み
**[[柳町 (上田市)|柳町]]
;主な史跡
*[[養蚕業]]関連の建造物等
===観光スポット===
;温泉
* [[別所温泉]]
* 丸子温泉郷([[国民保養温泉地]])
** [[鹿教湯温泉]]
** [[霊泉寺温泉]]
** [[大塩温泉 (長野県)|大塩温泉]]
* [[角間温泉]]
;美術館・博物館
市街地
* [[上田市立博物館]]
* [[信濃国分寺|上田市立信濃国分寺資料館]]
* [[池波正太郎真田太平記館]]
* [[石井鶴三]]美術資料室
* [[尾澤木彫美術館]]
* Editor's Museum 「[[小宮山量平]]の編集室」
* [[赤松小三郎]]記念館・平八郎茶屋
* [[サントミューゼ]](上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館)
** [[山本鼎]]記念館(2014年9月末日を以て「サントミューゼ」内の上田市立美術館に統合し閉館)
* 蚕都上田館 - 上田の蚕糸業をテーマにした交流館。[[1915年]]に上田男子小学校(現・[[上田市立清明小学校]])の明治記念館として建てられた上田市指定文化財「旧上田市立図書館」を利用していた。2015年5月10日閉館。<ref>[http://santo.naganoblog.jp/e1703657.html/ 蚕都上田館だより]</ref>
真田地域
* [[真田氏]]歴史館
* [[菅平高原自然館]]
塩田・別所地域
* [[北向観音|常楽寺]]美術館
* [[無言館]]
* [[KAITA EPITAPH 残照館]](旧・信濃デッサン館)
* [[旧宣教師館]]
* 民俗資料館(上田創造館内)
丸子地域
* [[丸子郷土博物館]]
武石地域
* [[武石ともしび博物館]]
* [[美ヶ原高原美術館]]
;自然
* [[美ヶ原|美ヶ原高原]]
* [[菅平高原]]
* [[須川湖 (長野県)|須川湖]]
* [[岩鼻 (長野県)|岩鼻]]
==文化・名物==
[[File:Sugadaira2.JPG|thumb|200px|菅平高原スキー場]]
===名産・特産===
*[[美味だれ焼き鳥]](郷土料理)
*ツナノスイート、ツナノゴールドなどのりんご
===スポーツ===
*[[菅平高原スキー場]]
*[[番所ヶ原スキー場]]
*[[サニアパーク]]
*[[菅平グリーンゴルフ]]
*[[上田菅平高原グランヴィリオゴルフ倶楽部]]
*[[上田城跡公園野球場]]
*[[長野県営上田野球場]]
====スポーツチーム====
*[[ルートインホテルズ Brilliant Aries]]([[V.LEAGUE]]所属)
== 著名な出身者 ==
{{Col|
* [[真田氏]]
** [[真田頼昌]] (戦国武将)
** [[真田昌幸]] (戦国武将)
** [[真田信之]] (戦国武将)
** [[真田信繁|真田信繁(真田幸村)]] (戦国武将)
* [[赤松小三郎]] (兵学者)
* [[山極勝三郎]] (病理学者、[[東京大学]]教授)
* [[伊藤眞]] (民事訴訟法学者、東京大学教授)
* [[鈴木一人]](政治学者、東京大学教授)
* [[塩入諭]](工学者、[[東北大学]]教授)
* [[小川原正道]] (政治学者、[[慶應義塾大学]]教授)
* [[新田潤]] (作家)
* [[一ノ瀬綾]] (作家)
* [[加舎白雄]] (俳人)
* 飯島保作([[第十九国立銀行]]頭取、銀行家、実業家、文筆家)
* [[ハリー・K・シゲタ]] (写真家)
* [[兎束龍夫]] (ヴァイオリニスト)
* [[尾澤千春]](工芸家)
* [[尾澤正毅]](彫刻家)
* [[半田孝淳]] (第256世[[天台座主]]。上田市名誉市民)
* [[清水谷孝尚]]([[浅草寺]]27世貫首)
* [[清水澄子 (女学生)|清水澄子]](女学生、『さゝやき』著者)
* [[小宮山量平]] ([[理論社]]創業者・社長、編集者)
* [[永山勝利]]([[ホテルルートイン]]グループ創業者・会長)
* [[北野ミヤ]] ([[メジロ牧場]]会長)
* [[真保正子]]([[陸上競技]]選手、[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]4位入賞、長野県初の女子オリンピック選手<ref>{{cite book|和書|author=勝場勝子・村山茂代|title=二階堂を巣立った娘たち―戦前オリンピック選手編―|date=2013-04-18|publisher=不昧堂出版|isbn=978-4-8293-0498-3|page=100-111}}</ref>)
* [[依田郁子]] (陸上競技選手、[[1964年東京オリンピック]]5位入賞、元女子[[100メートルハードル|80mハードル]]日本記録保持者、旧[[丸子町]]出身)
* [[塩沢勝吾]] ([[アルティスタ浅間]]所属サッカー選手、旧[[真田町]]出身)
* [[リュウ・ヌグラハ]]([[AC長野パルセイロ]]所属サッカー選手)
* [[稲福卓]]([[松本山雅FC]]所属サッカー選手)
* [[坂口光治]] ([[東京都]][[西東京市]]長、[[東京都議会]]議員)
* [[清水逸平]] ([[衆議院議員]]。[[狭山市]]名誉市民)
* [[加藤学 (政治家)|加藤学]] ([[衆議院議員]])
* [[土屋貴子]] (女優、信州上田観光大使)
|
* [[宮澤寿梨]] (女優、タレント)
* [[林恵理]] (女優、タレント)
* [[林マヤ]] (モデル、タレント)
* [[真田アサミ]] (声優)
* [[月影瞳]] (元[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]・[[星組 (宝塚歌劇)|星組]]トップ娘役)
* [[伊倉一恵]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://radichubu.jp/kamiya/contents/id=23124&contents_type=322 |title=『シティーハンター』槇村香役の伊倉一恵、人生で一番飛び跳ねた日 |website=ラジチューブ |work=CBCラジオインフォメーション |publisher=[[CBCラジオ]] |date=2019-01-26 |accessdate=2021-11-04}}</ref> (女優、声優)
* [[富沢美智恵]] (女優、声優)
* [[中村久美]] (女優、市内在住)
* [[藤村延魚]] (国際観光ジャーナリスト、ホテルマン)
* [[瀧澤信秋]] (ホテル評論家、旅行作家)
* [[田中渉]] (作家)
* [[おかざき真里]] (漫画家)
* [[樋田和彦]] (漫画家)
* [[北沢直樹]] (イラストレーター、キャラクターデザイナー)
* [[立川談慶]] (落語家)
* [[三遊亭鬼丸]] (落語家)
* [[H2O (日本の歌手グループ)|H<sub>2</sub>O]] (フォークデュオ)
* [[MOROHA]] (ラップユニット)
* [[PIERROT]] (ロックバンド)
* [[山口あかり]]([[作詞家]])
* [[小林すすむ]] (俳優、お笑い芸人、元[[ヒップアップ]])
* [[小出真保]] (お笑い芸人、[[麦芽 (お笑い)|麦芽]])
* ヤジマリー。(お笑い芸人、[[スカチャン (お笑いコンビ)|スカチャン]])
* [[グレート☆無茶]](プロレスラー、長野市議会議員)
* [[中牧昭二]] (プロレスラー、暴露本著者)
* [[藤澤亨明]] (プロ野球選手([[埼玉西武ライオンズ]])
* [[星野八千穂]] (プロ野球選手)
* [[西沢一希]] (プロ野球審判員)
* [[溜田剛士]] ([[プロボクサー]])
* [[西澤ヨシノリ]] (プロボクサー)
* [[今井胡桃]] (プロスノーボーダー、2018年平昌オリンピック女子ハーフパイプ日本代表)
* [[牛山美耶子]] (元信越放送アナウンサー、旧武石村出身)
* [[塩原桜]] (元[[山形テレビ]]アナウンサー)
* [[坂口千夏]]([[アナウンサー]])
* [[成沢昌茂]](脚本家、映画監督)
* [[関田康雄]]([[国土]][[交通]][[官僚]]、第26代[[気象庁長官]])
}}
==上田を舞台とした作品==
; [[小説]]
:* [[真田太平記]] / [[池波正太郎]]
:* 真田幸村 / [[柴田錬三郎]]
:* 真田幸村の妻 / [[阿井景子]]
:* 謀将 真田昌幸 / [[南原幹雄]]
:* オーダーメイド殺人クラブ / [[辻村深月]]
; [[楽曲]]
:*[[信濃の国]] 上田(歌: [[さくらゆき]]、作詞: [[浅井洌|浅井冽]]、作曲: [[北村季晴]]、編曲: [[真鍋貴之]])
; [[民話]]
:* [[小泉小太郎伝説]]
:* [[塩田平の民話]]
; [[漫画]]
:* 「[[京四郎]]」([[樋田和彦]])
:* 「イナカナかれっじ」([[法田恵]])
; [[映画]]
:* 「[[サマーウォーズ]]」
:* 「[[サムライフ]]」
===ロケ地===
; 映画
:* [[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]
:* [[野性の証明]]
:* [[卓球温泉]]
:* [[たそがれ清兵衛]]
:* [[嫌われ松子の一生 (映画)|嫌われ松子の一生]]
:* [[恋する日曜日|恋する日曜日 LOVE ON SUNDAY]]
:* [[ラストゲーム 最後の早慶戦]]
:* [[たとえ世界が終わっても]]
:* [[私は貝になりたい]]
:* [[スパイ・ゾルゲ]]
:* [[シグナル (小説)|シグナル〜月曜日のルカ〜]]
:* サムライフ
:* [[青天の霹靂 (小説)|青天の霹靂]]
:* [[るろうに剣心 京都大火編]]
:*[[博士の愛した数式]]
: <!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
; ドラマ
:* [[トリック (テレビドラマ)|TRICK]]
:* [[鉄板少女アカネ!!]]
:* [[あいくるしい]]
:* [[ギャルサー (テレビドラマ)|ギャルサー]]
:* [[赤い糸の女]]
:* [[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]<ref>以上出典。[http://www.ueda-cb.gr.jp/fc/loca.htm 上田ロケ作品]、信州上田フィルムコミッション、2014年5月24日閲覧。</ref>
:* [[南極大陸 (テレビドラマ)|南極大陸]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{Wikivoyage|Ueda|上田市 {{en icon}}}}
* [[真田氏]]
* [[上田わっしょい]]
* [[上田ジェンシャン]](サッカークラブ)
== 外部リンク ==
* {{Official website}}
* {{Twitter|cityueda}}
* {{YouTube|user = cityuedakoho/}}
* [http://www.ueda-cb.gr.jp/uedajo/ 上田城観光ガイド -上田観光コンベンション協会-]
* [http://www.uedajo-senbonzakura.jp/ 上田城千本桜まつり公式ガイド]
* [http://www.uedasanadamatsuri.jp/ 上田真田まつり公式ガイド]
* [https://museum.umic.jp/ 上田市デジタルアーカイブポータルサイト]
* [http://www.d-emu.co.jp/nostalgic-ueda/pdf/nostalgic-ueda_vol01_B2.pdf 古写真「ノスタルジックうえだ」]
* {{Googlemap|上田市}}
* {{ウィキトラベル インライン|上田市|上田市}}
{{長野県の自治体}}
{{上田市の町・字}}
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[[Category:長野県の市町村]]
[[Category:城下町]]
[[Category:上田市|*]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:2006年設置の日本の市町村]]
|
2003-07-20T14:05:03Z
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2023-12-27T13:27:20Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%B8%82
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君主
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君主(くんしゅ)とは、世襲により国家を統治する最高の地位にある人。伝統的には国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であるが、世襲君主の他、選挙君主も存在する。通常は王、皇帝などの君主号を伴うが、特定の称号を持たないものもある。
この概念は歴史的なもので、通常は、王、皇帝などの特定の称号を伴う地位であるが、ローマ皇帝のように必ずしも特定の称号によって示されないものもある。法学の見地からは、対外的に国家を代表し、統治の重要な部分(少なくとも行政権)を担任する世襲の独任機関で、国の象徴としての役割をもつものと定義される。もっとも、後述のように選挙君主や共同君主も存在し、必ずしも定義は容易でない。歴史的には古代神権政や近世絶対君主制をピークとして君主の権力は強大であった。その権力は市民革命を経て徐々に制限され、立憲(制限)君主に移行していった。さらに権力の執行機関から名誉職的な(象徴)君主に、移行している。君主の地位の継承方法によって、世襲君主と選挙君主に分かれる。
地位は世襲によって継承されることが多いが、かつてのモンゴルにおけるクリルタイやポーランド・リトアニア連合王国や神聖ローマ帝国(のローマ王)のように選挙によって君主が選出される選挙王制の場合、現代のアンドラのように2人以上の人物を共同君主とする場合、マレーシアのように州ごとの世襲君主(スルターン)が交代で5年任期の連邦国家の君主となる場合など、世襲以外の継承も珍しくない。ローマ帝国の皇帝は養子縁組を行うことで世襲を擬制したが、各皇帝の多くは必ずしも血縁関係にはなかった。
君主がその地位を得ることを一般に即位と呼ぶ。即位の際にはこれを公に示すための儀式を行なうことが多く、即位の礼や戴冠式などが代表的なものであるが、戦乱や経済的な困窮などを理由に行なわれなかったこともあり、儀式の存在が必ずしも君主の地位の必要条件ということはない。地位の承継とその儀式が異なる用語(「践祚」と「即位」や、「即位」と「戴冠」など)によって区別されることもある。
日本語の民主主義の民主とは君主の対義語として作られた語である。大正期に、吉野作造らによって唱えられた「民本主義」は、実質民主主義そのものであった。だが、民主主義と君主の存在は直接的に関係せず両立し得ると考える吉野は、「民主」という言葉が「君主(天皇)」を否定するものと捉えられることで、その本質を外れた無用の批判が生じることを避けるために、「民本」と言い換えた。
君主が統治する政体を君主制という。君主制をとる国を君主国といい、君主の称号に応じて王国(王が君主)、帝国(皇帝が君主)などという。君主が絶対的な権力を持っている政体は絶対君主制という。立憲主義に基づいて君主の権力が制限される政体を立憲君主制という。君主制国家の人民は、一般に、「統治される客体」として「臣民」(subject)と呼ばれることがあり、イギリスにおいては現在も法令用語として用いられている。
君主の多くは世襲で継承され、同一家系から君主が連なるときにその連続体を王朝と呼ぶ。王朝は時として実力行使(易姓革命など)や他家への継承によって交代する。
世襲によらない君主制もある。君主権は、起源において、臣下の承認によって成立したものである。だから、当初は君主が自由に処分できるものではなかった。その承認は(少なくとも支配集団の)共同の利益を実現する職能に対して与えられた。だから、無能な人物を血縁上の順位を理由に君主にする必然性もなかった。ローマ皇帝は、世襲原理をとらなかった顕著な例である。単数・複数の血族集団の中で年齢と能力を認められた者が君主を継承する慣行は、夏(殷)、日本、新羅のそれぞれ初期など数多くある。日本の天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた時代にも、群臣の推挙によって一定資格を持つ王家の成員から選ばれていたとする学説も存在する。中世のドイツやポーランドやハンガリーでは、王家の断絶をきっかけに選挙王制が成立した。モンゴルの諸ウルスは事実上の世襲だが、クリルタイによる選挙で君主を決めた。なお、決まらない期間が長期に渡ると、空位(くうい)という状態となる。
君主の地位の継承ルールが明確でない場合、君主の死の際に継承者争いを引き起こすことがある。複数の君主候補の下で栄達や褒賞を欲するさまざまな政治的集団が継承の争いに干渉してたびたび激しい暴力行為を生むこともある。そこで、地位の継承の安定を図り、前君主の希望も反映させるために、前君主の在位中に確定的な継承者(法定推定相続人)を定める例がある。法定推定相続人には、「皇太子」のような特別の称号が与えられることが多い。同様の目的で共同統治という形式が用いられることもある。
継承がさらに制度化されると、継承順位が世襲の原則によって規定されることがある。その原則には長男相続制があてられる場合が多かった(モンゴルでは末子相続制があった)。長男相続制は次代の君主を自動的に一人に確定でき、君主の継承の争いを最小限にした。しかし血縁の順位のみで選ぶと無能な君主や幼少の君主の出現が避けられない。そのような治世は政治が混乱しがちで、多くの場合摂政がその任を代行したが、政治の安定と引き換えに統治の実権を臣下に移すきっかけになることもあった。
特異な事例として、アンドラ公国の君主がある。アンドラ公国は歴史的な経緯により、フランス大統領とスペインのウルヘル司教を共同君主とする立憲君主制を採っている。共和制国家フランスの元首と、スペインの宗教指導者が、他の独立国の君主を兼ねるという興味深い事例となっている。
|
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] |
君主(くんしゅ)とは、世襲により国家を統治する最高の地位にある人。伝統的には国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であるが、世襲君主の他、選挙君主も存在する。通常は王、皇帝などの君主号を伴うが、特定の称号を持たないものもある。
|
{{Otheruses|国家元首}}
{{出典の明記|date=2013年1月}}
{{君主主義}}
[[ファイル:Louis XIV of France.jpg|thumb|[[ルイ14世 (フランス王)|フランス国王ルイ14世]]。「太陽王」と呼ばれ[[絶対君主制]]の代表例とされる。]]
'''君主'''(くんしゅ)とは、[[世襲]]により[[国家]]を統治する最高の地位にある人。[[伝統]]的には国家で特定の一人が[[主権]]を持つ場合、その主権者が君主である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8フランク・B・ギブニー編 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典』、ティビーエス・ブリタニカ、2016年。]</ref>が、[[世襲君主制|世襲君主]]の他、[[選挙君主制|選挙君主]]も存在する。通常は[[王]]、[[皇帝]]などの[[君主号]]を伴うが、特定の称号を持たないものもある。
== 概要 ==
この概念は歴史的なもので、通常は、[[王]]、[[皇帝]]などの特定の[[称号]]を伴う地位であるが、[[ローマ皇帝]]のように必ずしも特定の称号によって示されないものもある。法学の見地からは、対外的に[[国家]]を代表し、統治の重要な部分(少なくとも[[行政権]])を担任する世襲の[[独任制|独任]][[機関 (法)|機関]]で、[[国家|国]]の[[象徴]]としての役割をもつものと定義される<ref>『法律学小辞典』(第5版、有斐閣)「君主」の項。</ref>。もっとも、後述のように選挙君主や共同君主も存在し、必ずしも定義は容易でない。歴史的には古代神権政や近世絶対君主制をピークとして君主の権力は強大であった。その権力は[[市民革命]]を経て徐々に制限され、立憲(制限)君主に移行していった。さらに権力の執行機関から名誉職的な(象徴)君主に、移行している。君主の地位の継承方法によって、[[世襲君主制|世襲君主]]と[[選挙君主制|選挙君主]]に分かれる。
地位は世襲によって継承されることが多いが、かつての[[モンゴル]]における[[クリルタイ]]や[[ポーランド・リトアニア連合王国]]や[[神聖ローマ帝国]](のローマ王)のように[[選挙]]によって君主が選出される選挙王制の場合、現代の[[アンドラ]]のように2人以上の人物を共同君主とする場合、[[マレーシア]]のように州ごとの世襲君主([[スルターン]])が交代で5年任期の[[連邦国家]]の君主となる場合など、世襲以外の継承も珍しくない。[[ローマ帝国]]の皇帝は養子縁組を行うことで世襲を擬制したが、各皇帝の多くは必ずしも血縁関係にはなかった。
君主がその地位を得ることを一般に[[即位]]と呼ぶ。即位の際にはこれを公に示すための[[儀式]]を行なうことが多く、[[即位の礼]]や[[戴冠式]]などが代表的なものであるが、戦乱や経済的な困窮などを理由に行なわれなかったこともあり、儀式の存在が必ずしも君主の地位の必要条件ということはない。地位の承継とその儀式が異なる用語(「[[践祚]]」と「即位」や、「即位」と「戴冠」など)によって区別されることもある。
[[日本語]]の[[民主主義]]の民主とは君主の対義語として作られた語である。[[大正]]期に、[[吉野作造]]らによって唱えられた「[[民本主義]]」は、実質民主主義そのものであった。だが、民主主義と君主の存在は直接的に関係せず両立し得ると考える吉野は、「民主」という言葉が「君主(天皇)」を否定するものと捉えられることで、その本質を外れた無用の批判が生じることを避けるために、「民本」と言い換えた。
== 君主の統治 ==
君主が統治する[[政体]]を[[君主制]]という。君主制をとる国を[[君主制|君主国]]といい、君主の称号に応じて[[王国]]([[王]]が君主)、[[帝国]]([[皇帝]]が君主)などという。君主が絶対的な権力を持っている政体は[[絶対君主制]]という。[[立憲主義]]に基づいて君主の権力が制限される政体を[[立憲君主制]]という。君主制国家の人民は、一般に、「統治される客体」として「[[臣民]]」(subject)と呼ばれることがあり、イギリスにおいては現在も法令用語として用いられている。
== 君主の継承 ==
{{also|王位継承|皇位継承}}
君主の多くは世襲で継承され、同一[[家系]]から君主が連なるときにその連続体を[[王朝]]と呼ぶ。王朝は時として実力行使([[易姓革命]]など)や他家への継承によって交代する。
世襲によらない君主制もある。君主権は、起源において、臣下の承認によって成立したものである。だから、当初は君主が自由に処分できるものではなかった。その承認は(少なくとも支配集団の)共同の利益を実現する職能に対して与えられた。だから、無能な人物を血縁上の順位を理由に君主にする必然性もなかった。[[ローマ皇帝]]は、世襲原理をとらなかった顕著な例である。単数・複数の血族集団の中で年齢と能力を認められた者が君主を継承する慣行は、夏([[殷]])、日本{{要出典|date=2019-11}}、[[新羅]]のそれぞれ初期など数多くある。{{要出典範囲|日本の天皇が[[大王 (ヤマト王権)|大王]](おおきみ)と呼ばれていた時代にも、群臣の推挙によって一定資格を持つ王家の成員から選ばれていたとする学説も存在する|date=2019-11}}。[[中世]]の[[ドイツ]]や[[ポーランド]]や[[ハンガリー]]では、王家の断絶をきっかけに選挙王制が成立した。[[モンゴル]]の諸[[ウルス]]は事実上の世襲だが、[[クリルタイ]]による[[選挙]]で君主を決めた。なお、決まらない期間が長期に渡ると、'''空位'''(くうい)という状態となる。
君主の地位の継承ルールが明確でない場合、君主の死の際に継承者争いを引き起こすことがある。複数の君主候補の下で栄達や褒賞を欲するさまざまな政治的集団が継承の争いに干渉してたびたび激しい暴力行為を生むこともある。そこで、地位の継承の安定を図り、前君主の希望も反映させるために、前君主の在位中に確定的な継承者(法定推定相続人)を定める例がある。法定推定相続人には、「皇太子」のような特別の称号が与えられることが多い。同様の目的で共同統治という形式が用いられることもある。
継承がさらに制度化されると、継承順位が世襲の原則によって規定されることがある。その原則には[[長子相続|長男相続制]]があてられる場合が多かった(モンゴルでは[[末子相続|末子相続制]]があった)。長男相続制は次代の君主を自動的に一人に確定でき、君主の継承の争いを最小限にした。しかし血縁の順位のみで選ぶと無能な君主や幼少の君主の出現が避けられない。そのような治世は[[政治]]が混乱しがちで、多くの場合[[摂政]]がその任を代行したが、政治の安定と引き換えに統治の実権を臣下に移すきっかけになることもあった。
特異な事例として、[[アンドラ君主一覧|アンドラ公国の君主]]がある。[[アンドラ公国]]は歴史的な経緯により、[[フランス大統領]]とスペインの[[ウルヘル司教]]を共同君主とする立憲君主制を採っている。共和制国家[[フランス]]の元首と、スペインの宗教指導者が、他の独立国の君主を兼ねるという興味深い事例となっている。
== 現在の君主 ==
{{main|現在の君主の一覧}}
* [[王]] 18名
* [[公|公・大公]] 4名
* [[スルターン]] 2名
* [[アミール|アミール(首長)]] 2名
* [[大統領|アラブ首長国連邦の大統領]] 1名
* [[教皇]] 1名
* [[天皇]]<ref>https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352</ref> 1名
* [[オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー]]<ref group="注">[[サモア]]の[[元首]]。「君主」にあたるか議論がある。</ref> 1名
== 主な国の最後の君主 ==
{{also|君主制廃止論}}
{| class="wikitable"
!国
!colspan="2"|君主
!退位年
!継承国
|-
|{{Flagicon|FRA}} [[フランス第二帝政|フランス帝国]]
|[[フランス皇帝|皇帝]]
|[[ナポレオン3世]]
|[[1870年]][[9月4日]]
|[[フランス第三共和政|フランス第三共和国]]
|-
|[[ファイル:Flag of Brazil (1870–1889).svg|25px|border]] [[ブラジル帝国]]
|[[ブラジル君主一覧|皇帝]]
|[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]
|[[1889年]][[11月15日]]
|{{仮リンク|ブラジル合衆国|pt|Primeira República Brasileira|en|First Brazilian Republic|preserve=1}}
|-
|[[ファイル:Flag of China (1889–1912).svg|25px|border]] [[大清帝国]]
| [[中国帝王一覧#清(後金)|皇帝]]
| rowspan="2" |[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]([[愛新覚羅溥儀|康德帝]])
| rowspan="2" |[[1912年]][[2月12日]]<ref group="注">[[大満州帝国]][[満州国皇帝|皇帝]]退位は[[1945年]][[8月18日]]。</ref>
| rowspan="2" |大清帝国→大満州帝国/[[中華民国]]→[[中華人民共和国]]
|-
|[[ファイル:Flag of Manchukuo.svg|25px|border]] [[大満州帝国]]
|[[満州国皇帝|皇帝]]
|-
|[[ファイル:Flag of Korea 1882.svg|25px|border]] [[大韓帝国]]
|[[朝鮮の君主一覧#大韓帝国|皇帝]]
|[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]
|[[1910年]][[8月29日]]
|[[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国領]]→[[大韓民国]]/[[朝鮮民主主義人民共和国]]
|-
|{{Flagicon|PRT1830}} [[ポルトガル王国]]
|[[ポルトガル君主一覧|王]]
|[[マヌエル2世 (ポルトガル王)|マヌエル2世]]
|[[1910年]][[10月4日]]
|[[ポルトガル共和国]]
|-
|{{Flagicon|RUS}} [[ロシア帝国]]
|[[ロシア皇帝|皇帝]]
|[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]
|[[1917年]][[3月15日]]
|[[ソビエト連邦]]→[[ロシア連邦]]
|-
|[[ファイル:Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg|25px|border]] [[オーストリア=ハンガリー帝国]]
|[[オーストリア皇帝|皇帝]]
|[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]
|[[1918年]][[11月11日]]
|[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア第一共和国]]→[[ナチス・ドイツ統治下のオーストリア|ドイツ第三帝国領]]→[[オーストリア|オーストリア第二共和国]]
|-
|{{Flagicon|DEU1871}} [[ドイツ帝国]]
|[[ドイツ皇帝|皇帝]]
|[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]
|[[1918年]][[11月28日]]
|[[ワイマール共和国]]→[[ドイツ第三帝国]]→[[ドイツ連邦共和国]]/[[ドイツ民主共和国]]→[[ドイツ連邦共和国]]
|-
|[[ファイル:Ottoman flag.svg|25px|border]] [[オスマン帝国]](オスマン・トルコ)
|[[オスマン帝国の君主|皇帝]]
|[[メフメト6世]]
|[[1922年]][[11月1日]]
|[[トルコ共和国]]
|-
|[[ファイル:Flag of Mongolia (1911-1921).svg|25px|border]] [[ボグド・ハーン政権|大モンゴル国]]
|[[ハーン|皇帝]]
|[[ボグド・ハーン]]
|[[1924年]][[5月20日]]
|[[モンゴル人民共和国]]→[[モンゴル国]]
|-
|{{Flagicon|ITA1861}} [[イタリア王国]]
|[[イタリア王#サヴォイア時代|王]]
|[[ウンベルト2世]]
|[[1946年]][[6月12日]]
|[[イタリア共和国]]
|-
|{{Flagicon|EGY1922}} [[エジプト王国]]
|[[近代エジプトの国家元首の一覧#エジプト王国|王]]
|[[フアード2世 (エジプト王)|フアード2世]]
|[[1953年]][[6月18日]]
|[[エジプト共和国 (1953年-1958年)|エジプト共和国]]→[[アラブ連合共和国]]→[[エジプト・アラブ共和国]]
|-
|{{Flagicon|IRQ1924}} [[イラク王国]]
|[[イラク国王一覧#ハーシム朝・イラク (1921年-1958年)|王]]
|[[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]]
|[[1958年]][[7月14日]]
|[[イラク共和国]]
|-
|{{Flagicon|LBY}} [[リビア王国]]
|[[リビアの元首一覧|王]]
|[[イドリース1世 (リビア王)|イドリース1世 ]]
|[[1969年]][[9月1日]]
|[[リビア・アラブ共和国]]→[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国]]→[[リビア|リビア国]]
|-
|{{Flagicon|GRC1828}} [[ギリシャ王国]]
|[[ギリシャ国王の一覧|王]]
|[[コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス2世]]
|[[1973年]][[6月1日]]
|[[ギリシャ共和国]]
|-
|{{Flagicon|AFG1930}} [[アフガニスタン王国]]
|[[アフガニスタンの国家元首の一覧#君主の一覧|王]]
|[[ザーヒル・シャー]]
|[[1973年]][[7月17日]]
|([[アフガニスタン民主共和国|共産主義政権]]や[[タリバン政権]]など多数の政体変更を経て)[[アフガニスタン・イスラム共和国]]→[[アフガニスタン|アフガニスタン・イスラム首長国]]
|-
|[[ファイル:Flag of Ethiopia (1974–1975).svg|25px|border]] [[エチオピア帝国]]
|[[エチオピアの国家元首の一覧|皇帝]]
|[[アムハ・セラシエ1世]]
|[[1975年]][[3月12日]]
|社会主義エチオピア→[[エチオピア人民民主共和国]]→[[エチオピア]]→エチオピア連邦民主共和国
|-
|{{Flagicon|IRN1964}} [[イラン帝国]]
|[[シャー|皇帝]]
|[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|パフラヴィー2世]](パーレビ)
|[[1979年]][[2月11日]]
|[[イラン・イスラム共和国]]
|-
|{{Flagicon|CAF}} [[中央アフリカ帝国]]
|[[皇帝]]
|[[ジャン=ベデル・ボカサ]]
|[[1979年]][[9月20日]]
|[[中央アフリカ共和国]]
|-
|{{Flagicon|NEP}} [[ネパール王国]]
|[[ネパール王国の君主|王]]
|[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]
|[[2008年]][[5月28日]]
|[[ネパール連邦民主共和国]]
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|君主}}
* [[王宮の一覧]]
* [[絶対君主制]]、[[立憲君主制]]
* [[君主号]]([[皇帝]]、[[王]]、[[教皇]]、[[天皇]]、[[ファラオ]]、[[ハーン]]・・・)
* [[君主論]]
* [[元首]]
*{{prefix}}
*{{intitle}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くんしゆ}}
[[Category:君主|*]]
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2003-07-20T14:06:49Z
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2023-10-19T22:11:41Z
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11,925 |
Mozilla Firefox
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Mozilla Firefox(モジラ・ファイアーフォックス)は、Mozilla Foundationおよびその傘下のMozilla Corporationによって開発されているフリーかつオープンソースのウェブブラウザである。単にFirefoxと呼称されるほか、fireおよびfoxの和訳から火狐とも呼称される。
マルチプラットフォームに対応しておりMicrosoft Windows、macOS、Linuxで動作する。スマートフォンなどのモバイルデバイス (Android / iOS) にはFirefox for Mobileが利用可能である。
2004年にバージョン1がリリースされ、大きなシェアを獲得することに成功した。
Servoテクノロジーが用いられたGeckoレンダリングエンジンを搭載している。ベンチマーク結果はGoogle Chromeと同等であった。またマルチコア、マルチスレッドに対応している。
Mozillaはプライバシーを重視し、そのための機能が用意されている。プライベートブラウジング機能によりトラッキングを防止し、ユーザーのプライバシーを強力に保護することができる。
アドオン(拡張機能)をインストールすることで機能を追加することができる。例えばuBlock Originなどをインストールすることで悪質な広告をブロックし、より安全にブラウジングを行うことができる。特にAndroid端末においては標準ブラウザであるChromeがアドオンに非対応なので、Firefoxはアドオンが使える貴重なブラウザである。但し後述のFirefox 57以降、従来程のカスタマイズ性は失われた。
Firefoxは、HTML、XML、XHTML、SVG 1.1 (一部)CSS、JavaScript、DOM、MathML、DTD、XSLT、XPath、アルファ合成を含むPNGなど、多くのウェブ標準をサポートしている。
ソースコードが公開されているため透明性が確保されている。そのためバグは迅速に発見され、また修正される。
営利企業であるGoogleやAppleとは異なり、Mozillaは非営利組織であるため、利益ではなくユーザーのためのソフトウェアである。
StatCounterによれば、2009年12月の時点でFirefoxのすべてのバージョン合計で32%のシェアを占めていた。バージョン別ではFirefox 3.5がInternet Explorerの諸バージョンを抑え最も利用者が多かった。その後、Net Applicationsのデータによると、2016年9月の時点でFirefoxのパソコン向けブラウザのシェアは9.2%にまで低下したが、2017年9月には12.9%に回復している。
2018年6月現在のシェアは世界全体で10%程である。
MozillaはFirefox 4のリリース以降、Googleの開発しているGoogle Chromeのようにラピッドリリースを行うと発表した。そのため、セキュリティアップデートや脆弱性の修正といったマイナーなアップデートはFirefox 4で終了する。Firefox 4の13週間後の2011年6月21日(米国時間)にFirefox 5がリリースされた。Firefox 5から6の間は例外的に8週間だが、Firefox 6以降は基本6週間ごとに最新版がリリースされ、2011年中にはFirefox 9までアップデートされた。2013年はFirefox 26まで、2014年はFirefox 34まで、2015年はFirefox 43までリリースされた。 2016年より6〜8週間の間隔での休日に合わせた不規則なリリーススケジュールとなり、2019年後半からは4週間毎のリリースとなっている。 また、88から89の間と89から90の間は例外的に6週間を要している。
ラピッドリリース移行後、以下の5種類のエディションがリリースされるようになった。下の物ほど不安定で更新頻度が高く、Firefox Beta(ベータ版)では正式版の次のバージョン、Aurora(アルファ2版)ではベータ版のさらに次のバージョン、Nightly(アルファ1版)ではそのさらに次のバージョンが開発されている。Firefox Betaは原則毎週更新、Aurora及びNightlyは原則毎日更新。開発中の新機能の追加は主にアルファ版で行われ、ベータ版では基本的にアルファ版で加えられた変更へ安定性や互換性の修正が行われる。2014年11月10日より、AuroraからDeveloper Editionに名称が変更された。また、2017年3月31日にFirefox 54を最後にAuroraを廃止する旨を発表し、Firefox55には廃止となった。
このラピッドリリースの開始に伴い、企業や自治体などでのブラウザサポートに不安が生じていることから、延長サポート版となるESR(Extended Support Release) が用意されることになった。最初のESRはFirefox 10 となり、以後正式版リリース8回ごと(バージョン17、24...)にESRがリリースされる。ESRはリリースから54週間(約12か月半)のサポートが行われる。その間、通常リリースと同様に6週間毎に修正版のリリースが行われる。バージョンナンバーは XX.0.Y(XXがメジャーバージョン、Yがリビジョン番号、0から8)となる。ESRが用意されるのはWindows版、Mac版、Linux版のみ。詳細はESRのダウンロードを参照。
Firefoxのソースコード自体は、様々なプラットフォーム向けにコンパイル可能である。しかし、公式に配布されているバイナリは以下のプラットフォーム向けに限られている。
Android版においては、幅 320 ピクセル×高さ 240 ピクセル以上の画面が必要である。
2015年11月現在、Linux、macOSおよびWindows向けにFirefoxの64ビットビルドが提供されている。
以下のプラットフォームにはMozillaによる公式ビルドは提供されていないが、有志によって非公式ビルドが提供されている。
当時、Netscapeが9割近くのシェアを持っていたが、マイクロソフトのInternet Explorerが無料でかつWindowsにバンドルされていたために、凄まじい勢いでシェアを獲得しつつあった。
そのような背景の中で1998年1月22日、ネットスケープはNetscape Communicator 5.0のソースコードを公開し、オープンソース化することを発表。1998年2月23日、ネットスケープが公開するオープンソースコードを共同開発するためにmozilla.orgが立ち上げられた。 そして1998年3月31日、Netscape Communicator 5.0のソースコードが公開された。
Mozilla Application Suiteではなくスタンドアロンのブラウザを求めたMozillaのコミュニティによって、「Phoenix」が開発された。
オープンソースとして開発されたMozillaスイートは、Netscape Communicatorと同様にウェブブラウザ機能やメール・ニュース機能、ウェブページ作成機能など多くの機能を含んだインターネットアプリケーションスイートであったが、動作が重くソースコードも複雑であった。 そこで2002年中頃から、Mozillaスイートも開発を継続しながら、ウェブブラウザ部分 (Mozilla Firefox) とメール・ニュース部分 (Mozilla Thunderbird) を個別に開発することになった。
この戦略には、Appleが2003年1月に開発を発表したウェブブラウザ、SafariがMozilla Organizationの開発しているGeckoではなく、KDEプロジェクトが開発しているレンダリングエンジンKHTMLを採用したことが同じく絡んでいるとされる。「軽量・高速性」への需要は、アプリケーションスイートとして開発されていたMozillaには満たせないものであった。
そのようにして誕生した軽量なブラウザはPhoenixと名付けられ、2002年9月にリリースされた最初のバージョン0.1から0.5まで用いられた。しかし、この名称はPhoenix Technologies社の商標権を侵害することが判明したため、変更せざるを得ない状況に追い込まれた。
こうして次項にも述べられる名称、Firebirdという名称が採用されることとなった。プロダクト名としてのPhoenixは放棄されるも、開発ロードマップ上は、継続的にPhoenixという名称が使用された。
ユーザからどのような名称がよいかなどを投票で集め、かつ商標権に抵触しない名称を考慮した結果にFirebirdという新名称が決定した。しかしこの名称が新たな問題を引き起こしてしまうこととなる。Firebirdという名前が、Mozillaと同じくオープンソースで開発されている関係データベースプロジェクトの名称であることが判明し、同データベースFirebirdプロジェクトからMozilla Organizationに攻撃的な形で強い苦情があった。これを受けてMozilla OrganizationはMozilla Brandingというブランディング戦略を発表した。
Mozilla Brandingで述べられていたことは次のようなものである。
このブランディング戦略によりデータベースFirebirdプロジェクトとの名称問題は沈静化した。2003年5月には、Firebirdとして初のリリースとなる0.6が登場した。
その後、Firefox 1.0系列のプロダクトは、Mozilla 1.7系列の基盤に即すものとする方針となった。
ブランド戦略により、Firebirdという名前は一時的なものとなった。しかしMozilla 1.4がリリースされた後も依然としてMozilla Browserという名称変更が行われる気配がなかった。Firebirdの完成度がメインプロダクトとして機能するほど充分な状態になかったことが原因であったが、さらにFirebirdという名称が使われ続ける原因となるMozilla Foundationの設立である。
2003年5月末に起こったAOLとマイクロソフトの和解により、AOL傘下のネットスケープとマイクロソフト間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。また同時に、Internet Explorerを数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、ブラウザを提供するネットスケープの存在価値が危ういものとなった。これはネットスケープのコードベースにもなっているMozillaの存在価値をも揺るがす問題であった。こうした事態を受けて 2003年7月、Mozilla OrganizationはAOLから資金提供を受け、Mozillaの開発を支援する団体であるMozilla Foundationを設立した。
Mozilla Foundationの設立により、ネットスケープ社が担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標がMozilla Foundationにも覆い被さることとなった。それまでネットスケープ社がリリースしたもののサポートを含め、Mozilla FoundationはMozillaをその後もリリースしていかざるを得ない状況となってしまった。これにより4月に発表されたブランドにおける「Mozilla Firebird/Thunderbirdへの開発体制移行」が閉ざされてしまうこととなった。
これにより、一時的とされていたFirebirdという名称を使い続けることに対する懸念が生まれた。そのため同年11月頃から開発チームが新たな名称への変更をするための動きが水面下で行われた。商標に関するトラブルはもちろん、他のプロジェクトで使われている名称との衝突を避けるため、念入りにリサーチが行われた結果、Mozilla Firefoxという名称がこのブラウザの正式名称となることが決定した。名称の由来はレッサーパンダ (Red Panda) の別名からきている。
バージョン1がリリースされ、それから9か月間で6000万回ダウンロードされるという成功をおさめ、初めてInternet Explorer 6の牙城を崩したブラウザとなった。
Googleとの契約が終了し資金面で苦戦。Firefox OSへの注力やWindows 8版の開発中止、共同創設者Brendan Eichの政治献金問題など混乱する。
Firefox 57がリリースされた。これはFirefox Quantumというブランドネームが付けられた大型アップデートとして位置づけられた。
XULが廃止され、WebExtensionsに移行した。これらはFirefoxのパフォーマンス、安定性、セキュリティを向上させるために行われているが、Firefoxの特徴であった拡張性は制限されることになる。また、これにより旧来のアドオンが使用不可能となり、ユーザーから大きな反発を招いた。WebExtensionsへの移行は、ブラウザの動作をシングルスレッドからマルチスレッドに移行してGeckoのレンダリングエンジンをServoに更新することで動作の高速化を図ること、内部のXUL/XPCOMコンポーネントをアドオンが直接操作することで起きる様々な問題の解消などの目的があった。特にブラウザの設計上の問題でアドオンは内部のXUL/XPCOMコンポーネントを直接操作せざるを得ず、そのため特定のアドオンを入れるとブラウザの動作が重くなってしまったり、アドオンの組み合わせによって相性問題が生じたり、Adobe Flash Playerアドオンのようにアドオンの不具合によりブラウザのクラッシュを引き起したり、コンテンツの改ざんが可能であったり、開発の進展によりコンポーネントの内部の仕様変更とアドオンのための下位互換性の確保との両立がかなりの負担になっていたり、コンポーネントの下位互換性の確保が不十分であったことによりアドオンが動かなくなる事態が頻発していたなどの問題があった。Frederic LardinoisはTechCrunchにて、Firefox Quantumに対し「Firefoxにもう一回チャンスを与えるべきときだ」と記し、Chromeと比べて大幅に良いとは言えないながらも、対抗できるだけの性能を備えたことを評価している。窓の杜の記事では、旧式のアドオンが使えなくなるなどの問題はあるが、Firefox Quantumが成し遂げたパフォーマンスの向上はその欠点を補って余りあるとしている。Webdesigner Depotの記事では、Firefox QuantumはChromeよりも高速であり、Mozillaの「前年比2倍」の表現さえ控えめなものだとしている。また、Digg.comによる2015年製のMacBook Airを用いたテストでは、Firefox QuantumはChromeより消費メモリが40%少なかったとしている。
従来のアドオンで使われていたものと同等の機能を備えるWebExtensions APIが少なかったこともあり、カスタマイズ性・アドオンの機能低下を嫌ったユーザのFirefox離れが進み、各種調査でもそれ以前と比べてFirefoxのシェアが大きく落ちてしまった。
ネット銀行「PayPay銀行」は2022年3月25日にFirefoxのサポートを終了した。2022年2月の調査では、日本国内シェアは、1位がChrome(69.22%)、2位はMicrosoft Edge(15.13%)、3位がFirefox(5.68%)となっており苦戦している。「シェアが低いなら仕方がないか」という反応の一方、Firefox愛用者からは、「それでも使い続ける」との声もあった。
Firefoxのソースコードはフリーソフトウェアで使われるライセンスのひとつであるMozilla Public License(MPL)を採用している。Firefoxのソースコードを利用して開発された派生のソフトウェアには後期のNetscapeや、Iceweasel、Songbirdなどがある。
当初はMPL単独のライセンスとして提供してきたが、フリーソフトウェア財団がMPLについて派生物の作成に制約が課せられているなど、コピーレフトの要素が弱いとして批判した。そこでMozillaはMPL/GPL/LGPLのトリプルライセンスで提供し、利用者はいずれかを選択して利用するということでFirefoxのコピーレフトの要素を強めた。
2012年1月3日にMPLをバージョン2.0に改定し、GPLなどのコピーレフトなライセンスとの互換性を強化させた。これを受けて2012年6月5日にリリースされたFirefox 13から再びMPLの単独ライセンスとして提供されている。
「Mozilla Firefox」とオフィシャルロゴは登録商標であり、 特定の条件の下でのみ使用が許可される。Firefoxの名前とブランドを使ったオフィシャル・バイナリは、改変を加えなければ誰でも配布することができるが、ソースに変更を行った場合制限が課される。このような一部のディストリビューションに「Firefox」の商標を使わせない方針は論争を呼ぶことになった。この論争についてMozilla FoundationのCEOであるミチェル・ベイカー (Mitchell Baker) は2007年のインタビューで「ソースコードを改変しない場合は自由にFirefox商標を使用できる。Mozilla Foundationの狙いはFirefoxのユーザエクスペリエンスを確固たるものにしたいということだけだ」と述べている。
Firefoxのソースコードはオフィシャル以外のビルドが作成できるようにブランドの有無が切り替えられるようになっている。ソースコードを改変した派生版や、アルファ版・ベータ版のリリースに使われる。ブランドを付けないビルドでは、自由に配布できる代替ロゴと、元になったFirefoxのバージョンに対応する名前が付けられる。Firefox 1.5/2.0/3.0の派生版はそれぞれDeer Park/Bon Echo/Gran Paradisoと呼ばれている。
コミュニティ版用の例外を除いては、Firefoxの名前をつけた派生版はソースコードの変更に関してMozillaからの許可が必要であり、またその場合も 全ての ブランディングを適用しなければならない。例えば、オフィシャルロゴは使わずにFirefoxの名前だけを使うといったことはできない。Debianは2006年にDebianフリーソフトウェアガイドラインの制約から、Firefoxのオフィシャルロゴを使わないと決定したが、Mozilla FoundationはDebian版Firefoxにおいてロゴのみの変更は認められず、商標ガイドラインを遵守しオフィシャルロゴを使うか、Firefoxの名前を使わないか選択しなければならないと伝えた。 結局、DebianはこのFirefoxをIceweaselという名前に変更し、独自のロゴをつけることになった。
Mozilla Japanは狐をモチーフとした公認のマスコット「フォクすけ」をプロモーションに使用しており、Firefox 3公開時には日本では「今度のキツネは爆速だぜ」というコピーを含んだ広告を山手線、中央線内で流した。
Firefoxは「FireFox」「FireFOX」「FIREFOX」「Fire fox」「Fire Fox」などと表記されることがあるが、正式にはこれらは全て誤表記である。また、日本のみならず英語圏などでも「FF」と略記されることがあるが、バージョン1のリリースノートでは略称として「Fx」あるいは「fx」が推奨されていた。ただし、バージョン2以降のリリースノートではこの記述が削除されている。日本や中国のユーザー間において「火狐」や「狐」と称されることもある。
|
[
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"text": "Mozilla Firefox(モジラ・ファイアーフォックス)は、Mozilla Foundationおよびその傘下のMozilla Corporationによって開発されているフリーかつオープンソースのウェブブラウザである。単にFirefoxと呼称されるほか、fireおよびfoxの和訳から火狐とも呼称される。",
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"text": "マルチプラットフォームに対応しておりMicrosoft Windows、macOS、Linuxで動作する。スマートフォンなどのモバイルデバイス (Android / iOS) にはFirefox for Mobileが利用可能である。",
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"text": "2004年にバージョン1がリリースされ、大きなシェアを獲得することに成功した。",
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"text": "Servoテクノロジーが用いられたGeckoレンダリングエンジンを搭載している。ベンチマーク結果はGoogle Chromeと同等であった。またマルチコア、マルチスレッドに対応している。",
"title": "特徴"
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"text": "Mozillaはプライバシーを重視し、そのための機能が用意されている。プライベートブラウジング機能によりトラッキングを防止し、ユーザーのプライバシーを強力に保護することができる。",
"title": "特徴"
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"text": "アドオン(拡張機能)をインストールすることで機能を追加することができる。例えばuBlock Originなどをインストールすることで悪質な広告をブロックし、より安全にブラウジングを行うことができる。特にAndroid端末においては標準ブラウザであるChromeがアドオンに非対応なので、Firefoxはアドオンが使える貴重なブラウザである。但し後述のFirefox 57以降、従来程のカスタマイズ性は失われた。",
"title": "特徴"
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"text": "Firefoxは、HTML、XML、XHTML、SVG 1.1 (一部)CSS、JavaScript、DOM、MathML、DTD、XSLT、XPath、アルファ合成を含むPNGなど、多くのウェブ標準をサポートしている。",
"title": "特徴"
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"text": "ソースコードが公開されているため透明性が確保されている。そのためバグは迅速に発見され、また修正される。",
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"text": "営利企業であるGoogleやAppleとは異なり、Mozillaは非営利組織であるため、利益ではなくユーザーのためのソフトウェアである。",
"title": "特徴"
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"text": "StatCounterによれば、2009年12月の時点でFirefoxのすべてのバージョン合計で32%のシェアを占めていた。バージョン別ではFirefox 3.5がInternet Explorerの諸バージョンを抑え最も利用者が多かった。その後、Net Applicationsのデータによると、2016年9月の時点でFirefoxのパソコン向けブラウザのシェアは9.2%にまで低下したが、2017年9月には12.9%に回復している。",
"title": "市場シェア"
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"text": "2018年6月現在のシェアは世界全体で10%程である。",
"title": "市場シェア"
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"text": "MozillaはFirefox 4のリリース以降、Googleの開発しているGoogle Chromeのようにラピッドリリースを行うと発表した。そのため、セキュリティアップデートや脆弱性の修正といったマイナーなアップデートはFirefox 4で終了する。Firefox 4の13週間後の2011年6月21日(米国時間)にFirefox 5がリリースされた。Firefox 5から6の間は例外的に8週間だが、Firefox 6以降は基本6週間ごとに最新版がリリースされ、2011年中にはFirefox 9までアップデートされた。2013年はFirefox 26まで、2014年はFirefox 34まで、2015年はFirefox 43までリリースされた。 2016年より6〜8週間の間隔での休日に合わせた不規則なリリーススケジュールとなり、2019年後半からは4週間毎のリリースとなっている。 また、88から89の間と89から90の間は例外的に6週間を要している。",
"title": "リリースサイクル"
},
{
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"text": "ラピッドリリース移行後、以下の5種類のエディションがリリースされるようになった。下の物ほど不安定で更新頻度が高く、Firefox Beta(ベータ版)では正式版の次のバージョン、Aurora(アルファ2版)ではベータ版のさらに次のバージョン、Nightly(アルファ1版)ではそのさらに次のバージョンが開発されている。Firefox Betaは原則毎週更新、Aurora及びNightlyは原則毎日更新。開発中の新機能の追加は主にアルファ版で行われ、ベータ版では基本的にアルファ版で加えられた変更へ安定性や互換性の修正が行われる。2014年11月10日より、AuroraからDeveloper Editionに名称が変更された。また、2017年3月31日にFirefox 54を最後にAuroraを廃止する旨を発表し、Firefox55には廃止となった。",
"title": "リリースサイクル"
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"text": "このラピッドリリースの開始に伴い、企業や自治体などでのブラウザサポートに不安が生じていることから、延長サポート版となるESR(Extended Support Release) が用意されることになった。最初のESRはFirefox 10 となり、以後正式版リリース8回ごと(バージョン17、24...)にESRがリリースされる。ESRはリリースから54週間(約12か月半)のサポートが行われる。その間、通常リリースと同様に6週間毎に修正版のリリースが行われる。バージョンナンバーは XX.0.Y(XXがメジャーバージョン、Yがリビジョン番号、0から8)となる。ESRが用意されるのはWindows版、Mac版、Linux版のみ。詳細はESRのダウンロードを参照。",
"title": "リリースサイクル"
},
{
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"text": "Firefoxのソースコード自体は、様々なプラットフォーム向けにコンパイル可能である。しかし、公式に配布されているバイナリは以下のプラットフォーム向けに限られている。",
"title": "システム要件"
},
{
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"text": "Android版においては、幅 320 ピクセル×高さ 240 ピクセル以上の画面が必要である。",
"title": "システム要件"
},
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"text": "2015年11月現在、Linux、macOSおよびWindows向けにFirefoxの64ビットビルドが提供されている。",
"title": "システム要件"
},
{
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"text": "以下のプラットフォームにはMozillaによる公式ビルドは提供されていないが、有志によって非公式ビルドが提供されている。",
"title": "システム要件"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "当時、Netscapeが9割近くのシェアを持っていたが、マイクロソフトのInternet Explorerが無料でかつWindowsにバンドルされていたために、凄まじい勢いでシェアを獲得しつつあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "そのような背景の中で1998年1月22日、ネットスケープはNetscape Communicator 5.0のソースコードを公開し、オープンソース化することを発表。1998年2月23日、ネットスケープが公開するオープンソースコードを共同開発するためにmozilla.orgが立ち上げられた。 そして1998年3月31日、Netscape Communicator 5.0のソースコードが公開された。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "Mozilla Application Suiteではなくスタンドアロンのブラウザを求めたMozillaのコミュニティによって、「Phoenix」が開発された。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "オープンソースとして開発されたMozillaスイートは、Netscape Communicatorと同様にウェブブラウザ機能やメール・ニュース機能、ウェブページ作成機能など多くの機能を含んだインターネットアプリケーションスイートであったが、動作が重くソースコードも複雑であった。 そこで2002年中頃から、Mozillaスイートも開発を継続しながら、ウェブブラウザ部分 (Mozilla Firefox) とメール・ニュース部分 (Mozilla Thunderbird) を個別に開発することになった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "この戦略には、Appleが2003年1月に開発を発表したウェブブラウザ、SafariがMozilla Organizationの開発しているGeckoではなく、KDEプロジェクトが開発しているレンダリングエンジンKHTMLを採用したことが同じく絡んでいるとされる。「軽量・高速性」への需要は、アプリケーションスイートとして開発されていたMozillaには満たせないものであった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "そのようにして誕生した軽量なブラウザはPhoenixと名付けられ、2002年9月にリリースされた最初のバージョン0.1から0.5まで用いられた。しかし、この名称はPhoenix Technologies社の商標権を侵害することが判明したため、変更せざるを得ない状況に追い込まれた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "こうして次項にも述べられる名称、Firebirdという名称が採用されることとなった。プロダクト名としてのPhoenixは放棄されるも、開発ロードマップ上は、継続的にPhoenixという名称が使用された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "ユーザからどのような名称がよいかなどを投票で集め、かつ商標権に抵触しない名称を考慮した結果にFirebirdという新名称が決定した。しかしこの名称が新たな問題を引き起こしてしまうこととなる。Firebirdという名前が、Mozillaと同じくオープンソースで開発されている関係データベースプロジェクトの名称であることが判明し、同データベースFirebirdプロジェクトからMozilla Organizationに攻撃的な形で強い苦情があった。これを受けてMozilla OrganizationはMozilla Brandingというブランディング戦略を発表した。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "Mozilla Brandingで述べられていたことは次のようなものである。",
"title": "歴史"
},
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"text": "このブランディング戦略によりデータベースFirebirdプロジェクトとの名称問題は沈静化した。2003年5月には、Firebirdとして初のリリースとなる0.6が登場した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "その後、Firefox 1.0系列のプロダクトは、Mozilla 1.7系列の基盤に即すものとする方針となった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "ブランド戦略により、Firebirdという名前は一時的なものとなった。しかしMozilla 1.4がリリースされた後も依然としてMozilla Browserという名称変更が行われる気配がなかった。Firebirdの完成度がメインプロダクトとして機能するほど充分な状態になかったことが原因であったが、さらにFirebirdという名称が使われ続ける原因となるMozilla Foundationの設立である。",
"title": "歴史"
},
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"text": "2003年5月末に起こったAOLとマイクロソフトの和解により、AOL傘下のネットスケープとマイクロソフト間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。また同時に、Internet Explorerを数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、ブラウザを提供するネットスケープの存在価値が危ういものとなった。これはネットスケープのコードベースにもなっているMozillaの存在価値をも揺るがす問題であった。こうした事態を受けて 2003年7月、Mozilla OrganizationはAOLから資金提供を受け、Mozillaの開発を支援する団体であるMozilla Foundationを設立した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "Mozilla Foundationの設立により、ネットスケープ社が担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標がMozilla Foundationにも覆い被さることとなった。それまでネットスケープ社がリリースしたもののサポートを含め、Mozilla FoundationはMozillaをその後もリリースしていかざるを得ない状況となってしまった。これにより4月に発表されたブランドにおける「Mozilla Firebird/Thunderbirdへの開発体制移行」が閉ざされてしまうこととなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "これにより、一時的とされていたFirebirdという名称を使い続けることに対する懸念が生まれた。そのため同年11月頃から開発チームが新たな名称への変更をするための動きが水面下で行われた。商標に関するトラブルはもちろん、他のプロジェクトで使われている名称との衝突を避けるため、念入りにリサーチが行われた結果、Mozilla Firefoxという名称がこのブラウザの正式名称となることが決定した。名称の由来はレッサーパンダ (Red Panda) の別名からきている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "バージョン1がリリースされ、それから9か月間で6000万回ダウンロードされるという成功をおさめ、初めてInternet Explorer 6の牙城を崩したブラウザとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "Googleとの契約が終了し資金面で苦戦。Firefox OSへの注力やWindows 8版の開発中止、共同創設者Brendan Eichの政治献金問題など混乱する。",
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"text": "Firefox 57がリリースされた。これはFirefox Quantumというブランドネームが付けられた大型アップデートとして位置づけられた。",
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"text": "XULが廃止され、WebExtensionsに移行した。これらはFirefoxのパフォーマンス、安定性、セキュリティを向上させるために行われているが、Firefoxの特徴であった拡張性は制限されることになる。また、これにより旧来のアドオンが使用不可能となり、ユーザーから大きな反発を招いた。WebExtensionsへの移行は、ブラウザの動作をシングルスレッドからマルチスレッドに移行してGeckoのレンダリングエンジンをServoに更新することで動作の高速化を図ること、内部のXUL/XPCOMコンポーネントをアドオンが直接操作することで起きる様々な問題の解消などの目的があった。特にブラウザの設計上の問題でアドオンは内部のXUL/XPCOMコンポーネントを直接操作せざるを得ず、そのため特定のアドオンを入れるとブラウザの動作が重くなってしまったり、アドオンの組み合わせによって相性問題が生じたり、Adobe Flash Playerアドオンのようにアドオンの不具合によりブラウザのクラッシュを引き起したり、コンテンツの改ざんが可能であったり、開発の進展によりコンポーネントの内部の仕様変更とアドオンのための下位互換性の確保との両立がかなりの負担になっていたり、コンポーネントの下位互換性の確保が不十分であったことによりアドオンが動かなくなる事態が頻発していたなどの問題があった。Frederic LardinoisはTechCrunchにて、Firefox Quantumに対し「Firefoxにもう一回チャンスを与えるべきときだ」と記し、Chromeと比べて大幅に良いとは言えないながらも、対抗できるだけの性能を備えたことを評価している。窓の杜の記事では、旧式のアドオンが使えなくなるなどの問題はあるが、Firefox Quantumが成し遂げたパフォーマンスの向上はその欠点を補って余りあるとしている。Webdesigner Depotの記事では、Firefox QuantumはChromeよりも高速であり、Mozillaの「前年比2倍」の表現さえ控えめなものだとしている。また、Digg.comによる2015年製のMacBook Airを用いたテストでは、Firefox QuantumはChromeより消費メモリが40%少なかったとしている。",
"title": "歴史"
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"text": "従来のアドオンで使われていたものと同等の機能を備えるWebExtensions APIが少なかったこともあり、カスタマイズ性・アドオンの機能低下を嫌ったユーザのFirefox離れが進み、各種調査でもそれ以前と比べてFirefoxのシェアが大きく落ちてしまった。",
"title": "歴史"
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"text": "ネット銀行「PayPay銀行」は2022年3月25日にFirefoxのサポートを終了した。2022年2月の調査では、日本国内シェアは、1位がChrome(69.22%)、2位はMicrosoft Edge(15.13%)、3位がFirefox(5.68%)となっており苦戦している。「シェアが低いなら仕方がないか」という反応の一方、Firefox愛用者からは、「それでも使い続ける」との声もあった。",
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"text": "Firefoxのソースコードはフリーソフトウェアで使われるライセンスのひとつであるMozilla Public License(MPL)を採用している。Firefoxのソースコードを利用して開発された派生のソフトウェアには後期のNetscapeや、Iceweasel、Songbirdなどがある。",
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"text": "当初はMPL単独のライセンスとして提供してきたが、フリーソフトウェア財団がMPLについて派生物の作成に制約が課せられているなど、コピーレフトの要素が弱いとして批判した。そこでMozillaはMPL/GPL/LGPLのトリプルライセンスで提供し、利用者はいずれかを選択して利用するということでFirefoxのコピーレフトの要素を強めた。",
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"text": "2012年1月3日にMPLをバージョン2.0に改定し、GPLなどのコピーレフトなライセンスとの互換性を強化させた。これを受けて2012年6月5日にリリースされたFirefox 13から再びMPLの単独ライセンスとして提供されている。",
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"text": "「Mozilla Firefox」とオフィシャルロゴは登録商標であり、 特定の条件の下でのみ使用が許可される。Firefoxの名前とブランドを使ったオフィシャル・バイナリは、改変を加えなければ誰でも配布することができるが、ソースに変更を行った場合制限が課される。このような一部のディストリビューションに「Firefox」の商標を使わせない方針は論争を呼ぶことになった。この論争についてMozilla FoundationのCEOであるミチェル・ベイカー (Mitchell Baker) は2007年のインタビューで「ソースコードを改変しない場合は自由にFirefox商標を使用できる。Mozilla Foundationの狙いはFirefoxのユーザエクスペリエンスを確固たるものにしたいということだけだ」と述べている。",
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"text": "Firefoxのソースコードはオフィシャル以外のビルドが作成できるようにブランドの有無が切り替えられるようになっている。ソースコードを改変した派生版や、アルファ版・ベータ版のリリースに使われる。ブランドを付けないビルドでは、自由に配布できる代替ロゴと、元になったFirefoxのバージョンに対応する名前が付けられる。Firefox 1.5/2.0/3.0の派生版はそれぞれDeer Park/Bon Echo/Gran Paradisoと呼ばれている。",
"title": "ライセンス"
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"text": "コミュニティ版用の例外を除いては、Firefoxの名前をつけた派生版はソースコードの変更に関してMozillaからの許可が必要であり、またその場合も 全ての ブランディングを適用しなければならない。例えば、オフィシャルロゴは使わずにFirefoxの名前だけを使うといったことはできない。Debianは2006年にDebianフリーソフトウェアガイドラインの制約から、Firefoxのオフィシャルロゴを使わないと決定したが、Mozilla FoundationはDebian版Firefoxにおいてロゴのみの変更は認められず、商標ガイドラインを遵守しオフィシャルロゴを使うか、Firefoxの名前を使わないか選択しなければならないと伝えた。 結局、DebianはこのFirefoxをIceweaselという名前に変更し、独自のロゴをつけることになった。",
"title": "ライセンス"
},
{
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"text": "Mozilla Japanは狐をモチーフとした公認のマスコット「フォクすけ」をプロモーションに使用しており、Firefox 3公開時には日本では「今度のキツネは爆速だぜ」というコピーを含んだ広告を山手線、中央線内で流した。",
"title": "マーケティング"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "Firefoxは「FireFox」「FireFOX」「FIREFOX」「Fire fox」「Fire Fox」などと表記されることがあるが、正式にはこれらは全て誤表記である。また、日本のみならず英語圏などでも「FF」と略記されることがあるが、バージョン1のリリースノートでは略称として「Fx」あるいは「fx」が推奨されていた。ただし、バージョン2以降のリリースノートではこの記述が削除されている。日本や中国のユーザー間において「火狐」や「狐」と称されることもある。",
"title": "表記・略称など"
}
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Mozilla Firefox(モジラ・ファイアーフォックス)は、Mozilla Foundationおよびその傘下のMozilla Corporationによって開発されているフリーかつオープンソースのウェブブラウザである。単にFirefoxと呼称されるほか、fireおよびfoxの和訳から火狐とも呼称される。 マルチプラットフォームに対応しておりMicrosoft Windows、macOS、Linuxで動作する。スマートフォンなどのモバイルデバイス にはFirefox for Mobileが利用可能である。 2004年にバージョン1がリリースされ、大きなシェアを獲得することに成功した。
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{{Otheruses|ウェブブラウザ|オペレーティングシステム|Firefox OS|その他|ファイヤーフォックス}}
{{更新|date= 2021年3月}}
{{Infobox Software
| 名称 = Mozilla Firefox
| ロゴ = Firefox logo, 2019.svg
| スクリーンショット = [[File:Firefox 96 screenshot.png|290px]]
| 説明文 = [[Arch Linux]]上で動作するFirefox 96
| 開発元 = [[Mozilla Foundation]], [[Mozilla Corporation]]ならびにコミュニティ
| 初版 = {{Start date and age|2002|9|23}}
| プログラミング言語 = [[C++]]、[[C言語]]、[[Rust (プログラミング言語)|Rust]]<ref>{{cite web|url=http://www.infoworld.com/article/3165424/web-browsers/mozilla-binds-firefoxs-fate-to-the-rust-language.html|title=Mozilla binds Firefox's fate to the Rust language|last=Yegulalp|first=Serdar|date=February 3, 2017|work=InfoWorld|accessdate=August 19, 2017}}</ref>、[[アセンブリ言語]]ほか。[[ユーザインタフェース|UI]]のために[[JavaScript]] (および[[HTML]]、[[Cascading Style Sheets|CSS]])
| 対応OS = {{plainlist|
* [[Microsoft Windows|Windows]] [[Microsoft Windows 7|7]] 以降
* [[macOS]] [[macOS Sierra|Sierra]] 以降
* [[Linux]]
* [[iOS]] [[iOS 13|13]] 以降<ref name="ios_req">{{Cite web|和書|title=「Firefox ウェブブラウザー」をApp Storeで|work=App Store|url=https://apps.apple.com/jp/app/id989804926|publisher=Apple|accessdate=2021-12-31}}</ref>
* [[Android (オペレーティングシステム)|Android]] 5.0 以降
}}
| エンジン = {{plainlist|
* [[Gecko]](HTML レンダリング)
* [[WebKit]](HTML レンダリング、iOS版のみ)
* [[SpiderMonkey]](JavaScript)
}}
| 対応プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]]
| サポート状況 = 開発中
| 種別 = [[ウェブブラウザ]]
| ライセンス = [[Mozilla Public License|MPL]] 2.0<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mozilla.jp/about/licensing/|title=ライセンスと商標|組織概要|Mozilla Japan|accessdate=2012-08-25|publisher=Mozilla Japan|quote=Firefox や Thunderbird など(中略)実行可能なソフトウェアバイナリは、Mozilla Public License (MPL) の条件の下で公開されています。}}</ref>
| 公式サイト = {{URL|1=https://www.mozilla.org/firefox/new/}}
| 対応言語 = 97 言語<ref>{{Cite web|和書|date=2021-12-31 |url=https://www.mozilla.org/ja/firefox/all/#product-desktop-release |title=日本語ほか 90 か国語以上に対応した Firefox ブラウザー をダウンロード |publisher=[[Mozilla]] |accessdate=2021-12-31}}</ref>
}}
'''Mozilla Firefox'''(モジラ・ファイアーフォックス<ref>{{Cite web|和書|date=2004-11-10 |url=http://e-words.jp/w/Firefox.html |title=Firefox(ファイアーフォックス)とは - IT用語辞典 |publisher=[[インセプト]] |accessdate=2017-10-07}}</ref>)は、[[Mozilla Foundation]]およびその傘下の[[Mozilla Corporation]]によって開発されている[[フリーソフトウェア|フリー]]かつ[[オープンソース]]の[[ウェブブラウザ]]である<ref name="LWNtrademark">{{cite web |url=https://lwn.net/Articles/118268/|title=Debian and Mozilla ? a study in trademarks |publisher=[[LWN.net]] |accessdate=2011-09-14}}</ref>。単に'''Firefox'''と呼称されるほか、{{lang|en|fire}}および{{lang|en|fox}}の和訳から'''火狐'''とも呼称される。
マルチプラットフォームに対応しており[[Microsoft Windows]]、[[macOS]]、[[Linux]]で動作する。スマートフォンなどのモバイルデバイス ([[Android (オペレーティングシステム)|Android]] / [[iOS]]) には[[Firefox for Mobile]]が利用可能である。
2004年にバージョン1がリリースされ<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/3993959.stm|title=Firefox browser takes on Microsoft|newspaper=BBC NEWS|publisher=BBC|date=2004-11-09|accessdate=2021-01-27|language=en-GB}}</ref>、大きなシェアを獲得することに成功した<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/4508897.stm|title=The assault on software giant Microsoft|newspaper=BBC NEWS|publisher=BBC|date=2005-05-09|accessdate=2019-06-26}}</ref>。
== 特徴 ==
{{Firefox TOC}}
=== スピード ===
[[Servo]]テクノロジーが用いられた[[Gecko]]レンダリングエンジンを搭載している。ベンチマーク結果は[[Google Chrome]]と同等であった<ref>{{Cite web|和書|title=「Firefox Quantum」は「Chrome」を超える?--性能をベンチマーク対決|url=https://japan.cnet.com/article/35110690/|website=CNET Japan|date=2017-11-21|accessdate=2019-06-26|language=ja}}</ref>。またマルチコア、マルチスレッドに対応している<ref>{{Cite web|和書|title=Mozilla幹部に聞いた「Firefox Quantum」は何がすごい?|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20171107-firefoxquantum/|website=マイナビニュース|date=2017-11-07|accessdate=2019-06-26|language=ja}}</ref>。
=== プライバシー ===
Mozillaはプライバシーを重視し<ref>{{Cite web|和書|title=Mozilla幹部に聞いた「Firefox Quantum」は何がすごい?|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20171107-firefoxquantum/|website=マイナビニュース|date=2017-11-07|accessdate=2019-06-26|language=ja}}</ref>、そのための機能が用意されている。プライベートブラウジング機能により[[HTTP cookie#トラッキング・クッキー|トラッキング]]を防止し、ユーザーのプライバシーを強力に保護することができる。
=== 高いカスタマイズ性 ===
アドオン(拡張機能)をインストールすることで機能を追加することができる。例えば[[uBlock Origin]]などをインストールすることで悪質な[[アドブロック|広告をブロック]]し、より安全にブラウジングを行うことができる。特にAndroid端末においては標準ブラウザであるChromeがアドオンに非対応なので、Firefoxはアドオンが使える貴重なブラウザである。但し後述のFirefox 57以降、従来程のカスタマイズ性は失われた。
=== ウェブ標準への準拠 ===
Firefoxは、[[HyperText Markup Language|HTML]]、[[Extensible Markup Language|XML]]、[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]、[[Scalable Vector Graphics|SVG]] 1.1 (一部)<ref>{{cite web|url=http://developer.mozilla.org/ja/docs/SVG_in_Firefox|title=SVG in Firefox - MDC|accessdate=2008-02-08}}</ref>[[Cascading Style Sheets|CSS]]、[[JavaScript]]、[[Document Object Model|DOM]]、[[Mathematical Markup Language|MathML]]、[[Document Type Definition|DTD]]、[[XSL Transformations|XSLT]]、[[XML Path Language|XPath]]、[[アルファチャンネル|アルファ合成]]を含む[[Portable Network Graphics|PNG]]など、多くの[[ウェブ標準]]をサポートしている<ref>{{cite web|url=http://developer.mozilla.org/ja/docs/Gecko_FAQ|title=Gecko FAQ - MDC|accessdate=2008-02-08}}</ref>。
=== オープンソース ===
[[ソースコード]]が公開されているため[[透明|透明性]]が確保されている。そのため[[バグ]]は迅速に発見され、また修正される。
=== 非営利組織による開発 ===
[[企業|営利企業]]である[[Google]]や[[Apple]]とは異なり、Mozillaは[[非営利団体|非営利組織]]であるため、利益ではなくユーザーのためのソフトウェアである<ref>{{Cite web|和書|title=利益ではなく、人々のためのインターネット|url=https://www.mozilla.org/ja/|website=Mozilla|accessdate=2019-06-28|language=ja}}</ref>。
== 市場シェア ==
[[ファイル:StatCounter-browser-ww-monthly-202009-202009-map.png|thumb|300px|[[StatCounter]]によるウェブブラウザの利用シェア (2020年9月)<ref>{{Cite web|url=https://gs.statcounter.com/browser-market-share#monthly-202009-202009-map|title= Browser Market Share Worldwide {{!}} StatCounter Global Stats|accessdate=2020/09/23}}</ref>]]
{{Main|ウェブブラウザの利用シェア}}
[[StatCounter]]によれば、2009年12月の時点でFirefoxのすべてのバージョン合計で32%のシェアを占めていた。バージョン別ではFirefox 3.5が[[Internet Explorer]]の諸バージョンを抑え最も利用者が多かった<ref>[http://blog.seattlepi.com/microsoft/archives/188906.asp?from=blog_last3 Firefox 3.5 is world's most popular browser, StatCounter says], Nick Eaton. seattlepi blogs. December 21, 2009. Retrieved December 22, 2009.</ref>。その後、[[Net Applications]]のデータによると、2016年9月の時点でFirefoxのパソコン向けブラウザのシェアは9.2%にまで低下したが、2017年9月には12.9%に回復している<ref>{{Cite web|和書|last=Keizer|first=Gregg|date=2017-10-10|url=http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/idg/14/481709/101000367/?ST=cio-appli&P=2|title=Firefox、Windows XPとVistaのサポートを2018年6月で終了へ|publisher=[[Computerworld]]|accessdate=2017-10-13}}</ref>。
2018年6月現在のシェアは世界全体で10%程である<ref>{{Citation|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1528446978507/|title=Firefoxのブラウザシェア率ついに10%切る Chromeとどこで差がついたのか?|date=June 8, 2018}}</ref>。
== リリースサイクル ==
{{See also|Mozilla Firefoxのバージョンの変遷}}
MozillaはFirefox 4のリリース以降、Googleの開発している[[Google Chrome]]のようにラピッドリリースを行うと発表した。そのため、セキュリティアップデートや脆弱性の修正といったマイナーなアップデートはFirefox 4で終了する。Firefox 4の13週間後の2011年6月21日(米国時間)にFirefox 5がリリースされた。Firefox 5から6の間は例外的に8週間だが、Firefox 6以降は基本6週間ごとに最新版がリリースされ、2011年中にはFirefox 9までアップデートされた<ref>[https://dev.mozilla.jp/2011/11/firefox9/ Firefox 9の主な新機能を紹介します]</ref>。2013年はFirefox 26まで、2014年はFirefox 34まで、2015年はFirefox 43までリリースされた。
2016年より6〜8週間の間隔での休日に合わせた不規則なリリーススケジュールとなり、2019年後半からは4週間毎のリリースとなっている。
なお、例外的に89と90が前バージョンから6週間、95・96・109が前バージョンから5週間を要している。
ラピッドリリース移行後、以下の5種類のエディションがリリースされるようになった<ref>[http://mozilla.github.com/process-releases/draft/development_specifics/ Mozilla Firefox: Development Specifics]</ref><ref>[http://mozilla.jp/firefox/preview/ 次世代ブラウザFirefox -プレビューリリース]</ref><ref>[http://nightly.mozilla.org/ Firefox Nightly Builds]</ref>。下の物ほど不安定で更新頻度が高く、Firefox Beta(ベータ版)では正式版の次のバージョン、Aurora(アルファ2版)ではベータ版のさらに次のバージョン、Nightly(アルファ1版)ではそのさらに次のバージョンが開発されている。Firefox Betaは原則毎週更新、Aurora及びNightlyは原則毎日更新。開発中の新機能の追加は主にアルファ版で行われ、ベータ版では基本的にアルファ版で加えられた変更へ安定性や互換性の修正が行われる。2014年11月10日より、AuroraからDeveloper Editionに名称が変更された<ref>"Version 35.0a2, first offered to Firefox Developer Edition users on November 10, 2014" {{cite web|url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/35.0a2/auroranotes/|title=Firefox — Aurora Notes (35.0a2) — Mozilla|date=2014-11-10|accessdate=2014-11-21}}</ref><ref>{{cite web|url=https://bugzilla.mozilla.org/show_bug.cgi?id=1072181|title=Bug 1072181 - Investigate tweaking aurora for developers |accessdate=2014-11-21}}</ref>。また、2017年3月31日にFirefox 54を最後にAuroraを廃止する旨を発表し、Firefox55には廃止となった<ref>{{cite web|url=https://mail.mozilla.org/pipermail/mobile-firefox-dev/2017-March/002243.html|title=Project Dawn or the end of Aurora |date=2017-03-31|accessdate=2017-05-23}}</ref>。
このラピッドリリースの開始に伴い、企業や自治体などでのブラウザサポートに不安が生じていることから、延長サポート版となるESR(Extended Support Release) が用意されることになった。最初のESRはFirefox 10 となり、以後正式版リリース8回ごと(バージョン17、24…)にESRがリリースされる。ESRはリリースから54週間(約12か月半)のサポートが行われる。その間、通常リリースと同様に6週間毎に修正版のリリースが行われる。バージョンナンバーは XX.0.Y(XXがメジャーバージョン、Yがリビジョン番号、0から8)となる。ESRが用意されるのはWindows版、Mac版、Linux版のみ。詳細は[https://www.mozilla.org/ja/firefox/all/#product-desktop-release ESRのダウンロード]を参照。
#Firefox ESR(延長サポート版)
#Firefox(正式版)
#Firefox Beta(ベータ版)
#Firefox Developer Edition(アルファ2版)
#Nightly(アルファ1版)
== システム要件 ==
Firefoxのソースコード自体は、様々なプラットフォーム向けにコンパイル可能である。しかし、公式に配布されているバイナリは以下のプラットフォーム向けに限られている。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ 推奨システム要件<ref name="sysreq">{{cite web|url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/95.0/system-requirements/|title=Firefox 95.0 System Requirements|publisher=Mozilla|accessdate=2021-12-31}}</ref><ref name="sysreq_esr">{{cite web|url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/91.4.1/system-requirements/|title=Firefox ESR 91.4.1 System Requirements|publisher=Mozilla|accessdate=2021-12-31}}</ref>
|-
!
! Windows
! Linux <small>デスクトップ</small>
! macOS
! Android<ref name="mobile_req"/>
! iOS
|-
! [[CPU]]
| colspan="2" | [[Pentium 4]]およびそれ以降の[[SSE2]]対応プロセッサ
| [[Apple M1]] / Intel プロセッサ
| [[ARMアーキテクチャ|ARM]]<br><small>(ARMv6は2015年以降サポートされない<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.mozilla.org/ja/kb/will-firefox-work-my-mobile-device |title=Firefox が動作するモバイル端末 | Android 版 Firefox ヘルプ |accessdate=2014-10-11}}</ref>)</small>
|[[Appleシリコン#Aシリーズ|Apple Aシリーズ]]
|-
! [[メモリ]]
| colspan = "3" | 32ビット版: 512 [[メガバイト|MB]] / 64ビット版: 2[[ギガバイト|GB]]
| 384 MB
| ?
|-
! [[ハードディスク]]の空き容量
| colspan = "3" | 200 MB
| 50 MB
| ?
|-
! OS
| [[Microsoft Windows 7|7]] <small>(デスクトップ)</small><br>[[Microsoft Windows Server 2008 R2|Server 2008 R2]] <small>(サーバ)</small><br>およびそれ以降
| 以下のライブラリまたはパッケージを含むもの<small>
; 最低限
* [[GTK (ツールキット)|GTK]] 3.14以上
* [[GLib]] 2.22以上
* [[X.Org Server|X.Org]] 1.0以上
* [[Standard Template Library|libstdc++]] 4.8.1以上
* [[GNU Cライブラリ|glibc]] 2.17以上
; 推奨
* [[X.Org Server|X.Org]] 1.7以上
* [[NetworkManager]] 0.7以上
* [[D-Bus|DBus]] 1.0以上
* [[GNOME]] 2.16以上</small>
* [[PulseAudio]]
| [[MacOS Sierra|macOS 10.12]]以降
| 5.0以降<ref name="mobile_req">{{Cite web|和書|title=Firefox ブラウザー: 高速、プライベート、安全なウェブブラウザー |work=Google Play |url=https://play.google.com/store/apps/details?id=org.mozilla.firefox |publisher=Google |accessdate=2020-10-20}}</ref>
| 13以降<ref name="ios_req"/>
|}
Android版においては、幅 320 ピクセル×高さ 240 ピクセル以上の画面が必要である<ref name="mobile_req"/>。
=== OSのバージョンごとのサポート ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin-top: 0px;"
! rowspan="2" | [[オペレーティングシステム|OS]]
! colspan="2" | Firefoxリリース
! rowspan="2" | 最小 [[オペレーティングシステム|OS]]<br>必要なバージョン
! rowspan="2" | サポート状況
|-
! バージョン
! リリース日
|-
| rowspan="12" |[[Microsoft Windows|Windows]]
| {{Version |c | [https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/{{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q2804309}}/win64-aarch64/ {{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q2804309}}] }} {{wikidata2|references|preferred|edit|Q698|P348|P548=Q2804309}} (ARM64)
| {{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q2804309|P577}}
| rowspan="2" |[[Microsoft Windows 10のバージョン履歴#バージョン 1709|10 v1709]],<br>[[Microsoft Windows Server 2019|Server 2019]]
| rowspan="2" |2015–
|-
| {{Version |co | [{{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q104243413|P4945}}win64-aarch64/ {{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q104243413}}] }} {{wikidata2|references|preferred|edit|Q698|P348|P548=Q104243413}} (ARM64)
| {{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q104243413|P577}}
|-
| {{Version |c | [https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/{{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q2804309}}/win64/ {{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q2804309}}] }} {{wikidata2|references|preferred|edit|Q698|P348|P548=Q2804309}} (x64)
| {{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q2804309|P577}}
| rowspan="4" |[[Microsoft Windows 7|7]],<br>[[Microsoft Windows Server 2008 R2|Server 2008 R2]]
| rowspan="4" |2009–
|-
| {{Version |co | [{{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q104243413|P4945}}win64/ {{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q104243413}}] }} {{wikidata2|references|preferred|edit|Q698|P348|P548=Q104243413}} (x64)
| {{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q104243413|P577}}
|-
| {{Version |c | [https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/{{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q2804309}}/win32/ {{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q2804309}}] }} {{wikidata2|references|preferred|edit|Q698|P348|P548=Q2804309}} (IA-32)
| {{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q2804309|P577}}
|-
| {{Version |co | [{{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q104243413|P4945}}win32/ {{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q104243413}}] }} {{wikidata2|references|preferred|edit|Q698|P348|P548=Q104243413}} (IA-32)
| {{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q104243413|P577}}
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/52.9.0esr/win32/ 52.9.0esr (IA-32)]}}<ref>{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/52.9.0/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox ESR 52.9.0 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |access-date=June 26, 2018}}</ref>
| 2018-06-26
| rowspan="2" |[[Microsoft Windows XP|XP SP2]],<br>[[Microsoft Windows Server 2003|Server 2003 SP1]]
| 2004–2018
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/52.0.2/win32/ 52.0.2 (IA-32)]}}<ref>{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/52.0.2/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox 52.0.2 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |access-date=March 28, 2017}}</ref><ref>{{cite web|url=https://blog.mozilla.org/futurereleases/2016/12/23/firefox-support-for-xp-and-vista/ |title=Update on Firefox Support for Windows XP and Vista|accessdate=23 December 2016|work=Firefox Future Releases Blog|publisher=[[Mozilla Foundation]]|via=blog.mozilla.org}}</ref>
| 2017-03-28
| 2004–2017
|-
| {{Version|o|[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/10.0.12esr/win32/ 10.0.12esr]}}<ref name="sysreq2013">{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/10.0.12/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox ESR 10.0.12 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |access-date=January 8, 2013}}</ref>
| 2013-01-08
| rowspan="2" |[[Microsoft Windows 2000|2000]]
| 2004–2013
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/12.0/win32/ 12.0]}}<ref>{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/12.0/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox 12.0 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |access-date=April 24, 2012}}</ref><ref name="12-support-changes">{{cite web |last=Keybl |first=Alex |title=Upcoming Firefox Support Changes |url=https://blog.mozilla.org/futurereleases/2012/03/23/upcoming-firefox-support-changes/ |work=Firefox Future Releases Blog |access-date=December 10, 2017}}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.computerworld.com/article/2502032/mozilla-sets-end-of-firefox-for-win2k--early-xp.html |title=Mozilla sets end of Firefox for Win2K, early XP|date=2012-03-26|access-date=2020-05-07}}</ref>
| 2012-04-24
| 2004–2012
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/2.0.0.20/win32/ 2.0.0.20]}}<ref name="sysreq2008">{{cite web|url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/2.0/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox 2.0 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |accessdate=October 24, 2006}}</ref>
| 2008-12-18
| [[Microsoft Windows NT 4.0|NT 4.0]] (IA-32),<br>[[Microsoft Windows 98|98]]
| 2004–2008
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/1.5.0.12/win32/ 1.5.0.12]}}
| 2007-05-30
| [[Microsoft Windows 95|95]]
| 2004–2007
|-
| rowspan="11" |[[macOS]]
| {{Version |c | [https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/{{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q2804309}}/mac/ {{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q2804309}}] }} {{wikidata2|references|preferred|edit|Q698|P348|P548=Q2804309}}
| {{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q2804309|P577}}
| rowspan="2" |[[macOS Sierra|10.12]] (x64)<br>[[macOS Big Sur|11]] (ARM64)
| rowspan="2" |2016– (x64)<br>2020– (ARM64)
|-
| {{Version |co | [{{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q104243413|P4945}}mac/ {{wikidata2|property|preferred|Q698|P348|P548=Q104243413}}] }} {{wikidata2|references|preferred|edit|Q698|P348|P548=Q104243413}}
| {{wikidata2|qualifier|raw|preferred|single|Q698|P348|P548=Q104243413|P577}}
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/78.15.0esr/mac/ 78.15.0esr]}}<ref name="esrsysreq2">{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/78.15.0/system-requirements/ |title=Firefox ESR 78.15.0 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |accessdate=5 October 2021}}</ref>
| 2021-10-05
| rowspan="2" |[[OS X Mavericks|10.9]]
| 2013–2021
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/78.0.2/mac/ 78.0.2]}}<ref>{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/78.0.2/system-requirements/ |title=Firefox 78.0.2 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |accessdate=July 9, 2020}}</ref><ref>{{cite news |date=June 23, 2020 |title=Update on Firefox Support for macOS 10.9, 10.10 and 10.11 |url=https://blog.mozilla.org/futurereleases/2020/06/23/update-on-firefox-support-for-macos-10-9-10-10-and-10-11/|work=Firefox Future Releases Blog|publisher=[[Mozilla Foundation]]|via=blog.mozilla.org}}</ref><!-- References only to verify that OS X 10.9-10.11 support is ending in 2020, this can be moved or removed after the end of support -->
| 2020-07-09
| 2013–2020
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/45.9.0esr/mac/ 45.9.0esr]}}<ref>{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/45.9.0/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox ESR 45.9.0 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |accessdate=April 19, 2017}}</ref>
| 2017-04-19
| rowspan="2"|[[Mac OS X v10.6|10.6]]
| 2009–2017
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/48.0.2/mac/ 48.0.2]}}<ref>{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/48.0.2/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox 48.0.2 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |accessdate=August 24, 2016}}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/48.0/releasenotes/ |title=Firefox 48.0 release notes |accessdate=August 2, 2016}}</ref><ref>{{cite news |last=Brinkmann |first=Martin |date=September 20, 2016 |title=Firefox 49 Release: Find out what is new |url=https://www.ghacks.net/2016/09/20/firefox-49-release/ |work=Ghacks |access-date=June 7, 2020}}</ref><ref>{{cite web |url=https://venturebeat.com/2016/04/29/mozilla-will-retire-firefox-support-for-os-x-10-6-10-7-and-10-8-in-august-2016/ |title=Mozilla will retire Firefox support for OS X 10.6, 10.7, and 10.8 in August 2016 |first=Emil |last=Protalinski |accessdate=April 29, 2016 |website=VentureBeat}}</ref>
| 2016-08-24
| 2009–2016
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/10.0.12esr/mac/ 10.0.12esr]}}<ref name="sysreq2013"/>
| 2013-01-08
| rowspan="2"|[[Mac OS X v10.5|10.5]]
| 2007–2013
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/16.0.2/mac/ 16.0.2]}}<ref>{{cite web |url=https://www.mozilla.org/en-US/firefox/16.0.2/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox 16.0.2 System Requirements |website=mozilla.org |publisher=Mozilla Foundation |access-date=November 20, 2012}}</ref>
| 2012-10-26
| 2007–2012
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/3.6.28/mac/ 3.6.28]}}<ref>{{cite web |url=https://web.archive.org/web/20121214090716/https://www.mozilla.org/en-US/firefox/3.6/system-requirements/ |title=Mozilla Firefox 3.6 System Requirements |website=archive.org |publisher=Mozilla Foundation |date=January 21, 2010 |access-date=December 14, 2012}}</ref>
| 2012-03-13
| [[Mac OS X v10.4|10.4]]
| 2005–2012
|-
| {{Version |o |[https://archive.mozilla.org/pub/firefox/releases/2.0.0.20/mac/ 2.0.0.20]}}<ref name="sysreq2008"/>
| 2008-12-18
| [[Mac OS X v10.2|10.2]]
| 2004–2008
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| 2006-04-13
| [[Mac OS X v10.0|10.0]]
| 2004–2006
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=== CPU アーキテクチャ ===
2015年11月現在、Linux、macOSおよびWindows向けにFirefoxの[[64ビット]]ビルドが提供されている<ref name="platform support">{{cite web
| title = Supported build configurations
| url = https://developer.mozilla.org/en-US/docs/Supported_build_configurations
| publisher = [[Mozilla]]
| work = Mozilla Developer Network
| date = 2013-03-04
| accessdate = 2014-10-11
}}</ref><ref name="64-bit-win">{{cite web |title=Mozilla FTP directory for Firefox releases |publisher=Mozilla |url=https://ftp.mozilla.org/pub/firefox/releases/latest/win64/ |accessdate=2015-11-04}}</ref>。
* Linux: Firefox 4以降、Linux向けにはtier 1として64ビット版ビルドが公式に提供されている<ref name="platform support" /><ref>{{cite web
| title = Proposed changes to supported build configurations (tiers)
| url = https://groups.google.com/d/topic/mozilla.dev.planning/jCUxGOwDs30/discussion
| accessdate = 2014-10-11
}}</ref><ref>{{cite web |title=Mozilla FTP directory for 64-bit Linux builds of Firefox 4 |publisher=Mozilla |url=ftp://ftp.mozilla.org/pub/mozilla.org/firefox/releases/4.0/linux-x86_64/ |accessdate=2014-10-11}}</ref><ref>{{cite web |title=Expose x86_64 Linux builds on the download pages |work=Bugzilla |publisher=Mozilla|url=https://bugzilla.mozilla.org/show_bug.cgi?id=527907 |accessdate=2014-10-11}}</ref>。[[SUSE Linux]]、[[Red Hat Linux]]、[[Ubuntu]]では、Mozillaによる公式サポートに先駆けてベンダーによって64ビット版ビルドが提供されていた<ref>{{cite web |title=FTP directory for Mozilla Firefox 13.0.1 nightly build candidates |publisher=Mozilla |url=http://ftp.mozilla.org/pub/mozilla.org/firefox/nightly/13.0.1-candidates/build1/ |archiveurl= https://web.archive.org/web/20120619185311/http://ftp.mozilla.org/pub/mozilla.org/firefox/nightly/13.0.1-candidates/build1/ |archivedate=2012-06-19|accessdate=2014-10-11}}</ref><ref>{{cite web |title=10.04 firefox 3.6 JIT not active on x86_64 |url=http://ubuntuforums.org/showthread.php?t=1472610 |accessdate=2014-10-11}}</ref><ref>{{cite web |last=Zbarsky |first=Boris |authorlink=Boris Zbarsky |title=Re: Requirements for being called Firefox 4 |work=mozilla.dev.planning |publisher=Google Groups |url=https://groups.google.com/d/msg/mozilla.dev.planning/_9lkbHHuzuQ/TelJHovXuqgJ |accessdate=2014-10-11}}</ref>
* macOS: Firefox 4以降、macOS向けの公式ビルドは[[Universal Binary]]であり、32ビット版と64ビット版が同梱されている。ブラウザプロセスは64ビット、プラグインプロセスは32ビットで動作しており、64ビットに未対応のプラグインを利用することが可能である<ref>{{cite web |last=Aas |first=Josh |title=Firefox 4 for Mac OS X: Under the Hood |work=Boom Swagger Boom |publisher=WordPress |date=November 10, 2010 |url=http://boomswaggerboom.wordpress.com/2010/11/10/firefox-4-for-mac-os-x-under-the-hood/ |accessdate=2014-10-11}}</ref>。
* Windows: 32ビット版ビルドのFirefoxは、32ビット版、64ビット版いずれのWindows上でも利用可能である<ref name="sysreq" />。2014年10月時点では、プラグインの対応状況やそのほかの問題のため、リリース版、Beta、Auroraでは32ビット版ビルドのみが提供されており<ref name="platform support" />、Nightlyでのみ64ビット版ビルドが提供されていた<ref>{{cite web |title=First sighting of Firefox 64bit builds on Window64 |publisher=oduinn.com |date=2010-05-28 |url=http://oduinn.com/blog/2010/05/28/first-sighting-of-firefox-64bit-builds-on-window64/ |accessdate=2014-10-11}}</ref><ref>{{cite web |title=Bug 471090 –[meta] Windows x64 build tracking bug |work=Bugzilla |publisher=Mozilla |date=2008-12-24 |url=https://bugzilla.mozilla.org/show_bug.cgi?id=471090 |accessdate=2014-10-11}}</ref>。2012年にWindows向け64ビット版ビルドの提供を取りやめる意向を表明したが<ref name="win64build">{{cite web |title=Bug 814009 - Disable windows 64 builds for now |work=Bugzilla|publisher=bugzilla.mozilla.org |url=https://bugzilla.mozilla.org/show_bug.cgi?id=814009 |accessdate=2014-10-11}}</ref>、後に撤回された<ref>{{cite news |title=Mozilla backpedals on Firefox 64-bit for Windows, will keep nightly builds coming after all |date=2012-12-22 |url= http://thenextweb.com/apps/2012/12/22/mozilla-backpedals-on-firefox-64-bit-for-windows-will-keep-nightly-builds-coming-after-all/ |accessdate=2014-10-11}}</ref>。2015年4月、Beta版のバージョン38<ref name="win64-38.0beta">{{Cite web|和書| url = https://www.mozilla.org/ja/firefox/beta/all/ | title = Web ブラウザ Mozilla Firefox — 各国語版の Firefox Beta をダウンロード — Mozilla | accessdate = 2015-04-08}}</ref>においてWindows向けの64ビット版ビルドが利用可能となった。2015年11月にリリースされたバージョン42より、Windows向けの64ビルドが正式に利用可能となったが、Adobe Flash Playerを除く[[NPAPI]]プラグインを利用することはできない<ref>{{cite web |title=Use the Java plugin to view interactive content on websites |publisher=Mozilla |url=https://support.mozilla.org/en-US/kb/use-java-plugin-to-view-interactive-content |accessdate=2015-11-04}}</ref>。
=== 非公式ビルド ===
以下のプラットフォームにはMozillaによる公式ビルドは提供されていないが、有志によって非公式ビルドが提供されている。
* [[FreeBSD]]<ref name="FreeBSD">{{cite web|url=http://www.freshports.org/www/firefox/|title=FreeBSD port of Firefox|publisher=|accessdate=2014-10-11}}</ref>
* [[NetBSD]]<ref name="NetBSD1">[ftp://ftp.fr.netbsd.org/pub/pkgsrc/packages/NetBSD/amd64/6.1.2/All/firefox-24.0.tgz NetBSD binary package of Firefox 24]</ref>
* [[OpenBSD]]<ref name="OpenBSD">{{cite web|url=http://ports.su/www/mozilla-firefox|title=OpenBSD port of Firefox|accessdate=2014-12-23}}</ref>
* [[OpenIndiana]]<ref name="OpenIndiana">[http://pkgsrc-repo.uk.openindiana.org/packages/www/firefox-l10n-3.6.15.tgz Source package of Firefox 3.6.15]</ref>
* [[HP-UX]] 11i向けでは、[[ヒューレット・パッカード]]によってビルドされたFirefox 3.5.9が最新である<ref>{{cite web |title=Firefox/Thunderbird Web Browsers for HP-UX 11i |format=Requires HP Passport Sign-in |publisher=Hewlett-Packard |url=https://h20392.www2.hp.com/portal/swdepot/try.do?productNumber=HPUXFIREFOX |accessdate=2014-10-11}}</ref>
* [[RISC OS]]向けに、Firefox 2.0がポートされた<ref>{{cite news |url=http://tech.slashdot.org/story/05/06/20/196213/Firefox-on-RISC-OS |title=Firefox on RISC OS |accessdate=2014-10-11 |date=June 20, 2005-06-20 |work=[[Slashdot]] |publisher=[[Geeknet]] |quote=Ian Chamberlain writes: "RISC OS users have crowed for years about the intuitiveness of their operating system's GUI. But that vaunted usability is of little utility in this modern world without a modern web browser to go with it. So you'll understand the importance of the RISC OS Firefox port released today."}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.drobe.co.uk/riscos/artifact1379.html |title=Firefox first beta published |publisher=[[Drobe]] |date=2005-05-20 |accessdate=2014-10-11 |author=Williams, Chris |quote=The first public beta version of the RISC OS Firefox port is now available for download.}}</ref><ref>{{cite web |url= http://www.drobe.co.uk/riscos/artifact2231.html |title=New release of RISC OS Firefox available |accessdate=2014-10-11 |date=2008-02-22 |publisher=[[Drobe]] |quote=new version of the RISC OS Firefox 2 web browser port has been released today for punters to download. Release 3 has been significantly bug-fixed and uses the latest source code from the mainstream Firefox project.}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.riscos.org/support/firefox/index.html |title=Riscos: RISC OS Software Using Firefox |publisher=Riscos |accessdate=2014-10-11}}</ref>
* [[Microsoft Windows 8|Windows 8]] のMetro(のちの[[Modern UI]])向けプロジェクトはベータ版のリリースまで到達していたが<ref>{{cite web |url=https://blog.mozilla.org/futurereleases/2014/03/14/metro/ |title=Update on Metro |author=Johnathan Nightingale |date=2014-03-14 |accessdate=201410-11}}</ref>、2014年3月にキャンセルされた。
== 歴史 ==
{{Main|ブラウザ戦争}}
=== 1998年 ===
当時、[[Netscapeシリーズ|Netscape]]が9割近くのシェアを持っていたが、[[マイクロソフト]]の[[Internet Explorer]]が無料でかつ[[Microsoft Windows|Windows]]にバンドルされていたために、凄まじい勢いでシェアを獲得しつつあった。
そのような背景の中で1998年1月22日、[[ネットスケープコミュニケーションズ|ネットスケープ]]は[[Netscapeシリーズ|Netscape Communicator 5.0]]のソースコードを公開し、[[オープンソース]]化することを発表<ref>{{Cite web|和書|date=1998-01-23|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/980123/freenn.htm|title=ネットスケープ社が「Netscape Navigator」の無償配布開始|publisher=INTERNET Watch|accessdate=2012-09-05}}</ref>。1998年2月23日、ネットスケープが公開するオープンソースコードを共同開発するために[[Mozilla Foundation|mozilla.org]]が立ち上げられた。
そして1998年3月31日、Netscape Communicator 5.0のソースコードが公開された<ref>[http://mozlinks-jp.blogspot.com/2008/01/mozilla-10.html 『Mozilla Links日本語版Mozillaの10年』]</ref><ref>[<nowiki>http://mozillazine.jp/?p=520</nowiki>mozillaZine『10年前の今日、Netscape社がNetscape Communicatorのソースコードを公開すると発表』]</ref>。
=== 2002-2003年 ===
[[Mozilla Application Suite]]ではなくスタンドアロンのブラウザを求めたMozillaのコミュニティによって、「Phoenix」が開発された。
オープンソースとして開発された[[Mozilla Application Suite|Mozillaスイート]]は、Netscape Communicatorと同様にウェブブラウザ機能やメール・ニュース機能、ウェブページ作成機能など多くの機能を含んだインターネットアプリケーションスイートであったが、動作が重くソースコードも複雑であった。
そこで2002年中頃から、Mozillaスイートも開発を継続しながら、ウェブブラウザ部分 (Mozilla Firefox) とメール・ニュース部分 ([[Mozilla Thunderbird]]) を個別に開発することになった。
この戦略には、[[Apple]]が2003年1月に開発を発表したウェブブラウザ、[[Safari]]がMozilla Organizationの開発している[[Gecko]]ではなく、[[KDE]]プロジェクトが開発しているレンダリングエンジン[[KHTML]]を採用したことが同じく絡んでいるとされる<ref>{{cite web|url=http://www-archive.mozilla.org/browser-innovation.html|title=Browser Innovation, Gecko and the Mozilla Project|last=Baker|first=Mitchell|publisher=Mozilla|accessdate=2011-07-11}}</ref>。「軽量・高速性」への需要は、アプリケーションスイートとして開発されていたMozillaには満たせないものであった。
そのようにして誕生した軽量なブラウザは'''Phoenix'''と名付けられ、2002年9月にリリースされた最初のバージョン0.1から0.5まで用いられた。しかし、この名称はPhoenix Technologies社の商標権を侵害することが判明したため、変更せざるを得ない状況に追い込まれた。
こうして次項にも述べられる名称、'''Firebird'''という名称が採用されることとなった。プロダクト名としてのPhoenixは放棄されるも、開発ロードマップ上は、継続的にPhoenixという名称が使用された。
ユーザからどのような名称がよいかなどを投票で集め、かつ商標権に抵触しない名称を考慮した結果にFirebirdという新名称が決定した。しかしこの名称が新たな問題を引き起こしてしまうこととなる。Firebirdという名前が、Mozillaと同じく[[オープンソース]]で開発されている[[関係データベース]]プロジェクトの名称であることが判明し、同データベース[[Firebird (データベース)|Firebird]]プロジェクトから[[Mozilla Foundation|Mozilla Organization]]に攻撃的な形で強い苦情があった。これを受けてMozilla OrganizationはMozilla Brandingというブランディング戦略を発表した。
Mozilla Brandingで述べられていたことは次のようなものである。
*Mozillaプロジェクトはメインで開発しているMozillaを1.4まで開発する。その後はFirebirdおよび同じくMozilla派生のスタンドアロンメーラ、Thunderbirdをメインに開発していく。
*開発体制がシフトしたあとは、Firebird/ThunderbirdはそれぞれMozilla Browser/Mozilla Mailと名称を変えて開発していく。
*それまでの措置としてFirebird/ThunderbirdをMozilla Firebird/Mozilla Thunderbirdと呼ぶ。
このブランディング戦略によりデータベースFirebirdプロジェクトとの名称問題は沈静化した。2003年5月には、Firebirdとして初のリリースとなる0.6が登場した。
その後、Firefox 1.0系列のプロダクトは、Mozilla 1.7系列の基盤に即すものとする方針となった。
ブランド戦略により、Firebirdという名前は一時的なものとなった。しかしMozilla 1.4がリリースされた後も依然としてMozilla Browserという名称変更が行われる気配がなかった。Firebirdの完成度がメインプロダクトとして機能するほど充分な状態になかったことが原因であったが、さらにFirebirdという名称が使われ続ける原因となるMozilla Foundationの設立である。
2003年5月末に起こった[[AOL]]と[[マイクロソフト]]の和解により、AOL傘下の[[ネットスケープコミュニケーションズ|ネットスケープ]]とマイクロソフト間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。また同時に、[[Internet Explorer]]を数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、ブラウザを提供するネットスケープの存在価値が危ういものとなった。これはネットスケープのコードベースにもなっているMozillaの存在価値をも揺るがす問題であった。こうした事態を受けて 2003年7月、Mozilla OrganizationはAOLから資金提供を受け、Mozillaの開発を支援する団体である[[Mozilla Foundation]]を設立した。
Mozilla Foundationの設立により、ネットスケープ社が担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標がMozilla Foundationにも覆い被さることとなった。それまでネットスケープ社がリリースしたもののサポートを含め、Mozilla FoundationはMozillaをその後もリリースしていかざるを得ない状況となってしまった。これにより4月に発表されたブランドにおける「Mozilla Firebird/Thunderbirdへの開発体制移行」が閉ざされてしまうこととなった。
これにより、一時的とされていたFirebirdという名称を使い続けることに対する懸念が生まれた。そのため同年11月頃から開発チームが新たな名称への変更をするための動きが水面下で行われた。商標に関するトラブルはもちろん、他のプロジェクトで使われている名称との衝突を避けるため、念入りにリサーチが行われた結果、'''Mozilla Firefox'''という名称がこのブラウザの正式名称となることが決定した。名称の由来は[[レッサーパンダ]] (Red Panda) の別名からきている<ref>Steven Garrity et al, "What's a Firefox?" in "''Mozilla Firefox - Brand Name FAQ''," 2004.([http://www.mozilla.org/projects/firefox/firefox-name-faq.html 原文(英文)]、[http://www.mozilla-japan.org/projects/firefox/firefox-name-faq.html 和文])</ref>。
=== 2004年 ===
バージョン1がリリースされ、それから9か月間で6000万回ダウンロードされるという成功をおさめ、初めて[[Internet Explorer 6]]の牙城を崩したブラウザとなった<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/business/4508897.stm|title=Business ? The assault on software giant Microsoft|publisher=BBC}}</ref>。
=== 2014年 ===
Googleとの契約が終了し資金面で苦戦。[[Firefox OS]]への注力や[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]版の開発中止、共同創設者Brendan Eichの政治献金問題など混乱する<ref>[https://japan.zdnet.com/article/35058241/2/ 実は2014年に終結していた?--ブラウザ戦争の現状をおさらい] [[ZDnet]]</ref>。
=== 2017年 ===
Firefox 57がリリースされた。これはFirefox Quantumというブランドネームが付けられた大型アップデートとして位置づけられた。
[[XUL]]が廃止され、WebExtensionsに移行した。これらはFirefoxのパフォーマンス、安定性、セキュリティを向上させるために行われているが、Firefoxの特徴であった拡張性は制限されることになる<ref>{{Cite web|和書|date=2017-03-13|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/1048985.html|title=有名拡張機能や「Cyberfox」が終了 ~「Firefox」のレガシー排除といかに向き合うか|publisher=[[窓の杜]]|accessdate=2017-09-15}}</ref>。また、これにより旧来のアドオンが使用不可能となり、ユーザーから大きな反発を招いた。WebExtensionsへの移行は、ブラウザの動作をシングルスレッドからマルチスレッドに移行して[[Gecko]]のレンダリングエンジンを[[Servo]]に更新することで動作の高速化を図ること、内部の[[XUL]]/[[XPCOM]]コンポーネントをアドオンが直接操作することで起きる様々な問題の解消などの目的があった。特にブラウザの設計上の問題でアドオンは内部のXUL/XPCOMコンポーネントを直接操作せざるを得ず、そのため特定のアドオンを入れるとブラウザの動作が重くなってしまったり、アドオンの組み合わせによって相性問題が生じたり、Adobe Flash Playerアドオンのようにアドオンの不具合によりブラウザのクラッシュを引き起したり、コンテンツの改ざんが可能であったり、開発の進展によりコンポーネントの内部の仕様変更とアドオンのための下位互換性の確保との両立がかなりの負担になっていたり、コンポーネントの下位互換性の確保が不十分であったことによりアドオンが動かなくなる事態が頻発していたなどの問題があった<ref>“[https://yoric.github.io/post/why-did-mozilla-remove-xul-addons/ Why Did Mozilla Remove XUL Add-ons?]”. David Teller (2020年8月20日).</ref>。Frederic Lardinoisは[[TechCrunch]]にて、Firefox Quantumに対し「Firefoxにもう一回チャンスを与えるべきときだ」と記し、Chromeと比べて大幅に良いとは言えないながらも、対抗できるだけの性能を備えたことを評価している<ref>{{Cite web|和書|last=Lardinois|first=Frederic|date=2017-09-30|url=http://jp.techcrunch.com/2017/09/30/20170929its-time-to-give-firefox-another-chance/|title=Firefoxにもう一度チャンスを与えるべきときが来た…v57はMozillaの最高の自信作|publisher=[[TechCrunch]] Japan|accessdate=2017-09-30}}</ref>。[[窓の杜]]の記事では、旧式のアドオンが使えなくなるなどの問題はあるが、Firefox Quantumが成し遂げたパフォーマンスの向上はその欠点を補って余りあるとしている<ref name="forest20171115">{{Cite web|和書|author=樽井秀人|date=2017-11-15|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1091601.html|title=「Firefox Quantum」が正式公開 ~6カ月前と比べて2倍以上に高速化、新UIも導入|publisher=[[窓の杜]]|accessdate=2017-11-16}}</ref>。[[Webdesigner Depot]]の記事では、Firefox QuantumはChromeよりも高速であり、Mozillaの「前年比2倍」の表現さえ控えめなものだとしている<ref>{{Cite web|last=MacDonnell|first=Paddi|date=2017-11-17|url=https://www.webdesignerdepot.com/2017/11/is-firefox-quantum-really-any-good/|title=Is Firefox Quantum Really Any Good?|publisher=[[Webdesigner Depot]]|accessdate=2017-11-26}}</ref>。また、[[Digg.com]]による2015年製の[[MacBook Air]]を用いたテストでは、Firefox QuantumはChromeより消費メモリが40%少なかったとしている<ref>{{Cite web|last=Fallon|first=Dan|date=2017-11-14|url=http://digg.com/2017/firefox-quantum-is-it-good|title=You Should Really Try The New Version Of Firefox|publisher=[[Digg.com]]|accessdate=2017-11-26}}</ref>。
従来のアドオンで使われていたものと同等の機能を備えるWebExtensions APIが少なかったこともあり、カスタマイズ性・アドオンの機能低下を嫌ったユーザのFirefox離れが進み、各種調査でもそれ以前と比べてFirefoxのシェアが大きく落ちてしまった<ref>佐藤尚 (2018年6月8日). “[https://www.excite.co.jp/news/article/E1528446978507/ Firefoxのブラウザシェア率ついに10%切る Chromeとどこで差がついたのか?]”. エキサイトニュース.</ref><ref>AnkushDas (2021年8月4日). “[https://news.itsfoss.com/firefox-decline/ Firefox Lost Almost 50 million Users: Here's Why It is Concerning]”. It's FOSS News.</ref>。
=== 2022年 ===
ネット銀行「[[PayPay銀行]]」は2022年3月25日にFirefoxのサポートを終了した。2022年2月の調査では、日本国内シェアは、1位がChrome(69.22%)、2位はMicrosoft Edge(15.13%)、3位がFirefox(5.68%)となっており苦戦している。「シェアが低いなら仕方がないか」という反応の一方、Firefox愛用者からは、「それでも使い続ける」との声もあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/trend/2022/03/26433910.html?p=all|title=「Firefox」サポートしないサービス続々 国内シェア今や6%足らずに|publisher=J-CASTトレンド|date=2022-03-26|accessdate=2022-03-27}}</ref>。
== ライセンス ==
Firefoxのソースコードは[[自由ソフトウェア|フリーソフトウェア]]で使われるライセンスのひとつである[[Mozilla Public License]](MPL)を採用している。Firefoxのソースコードを利用して開発された派生のソフトウェアには[[Netscapeシリーズ|後期のNetscape]]や、[[Iceweasel]]、[[Songbird (ソフトウェア)|Songbird]]などがある。
当初はMPL単独のライセンスとして提供してきたが、[[フリーソフトウェア財団]]がMPLについて派生物の作成に制約が課せられているなど、[[コピーレフト]]の要素が弱いとして批判した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gnu.org/licenses/license-list.html#MPL|title=さまざまなライセンスとそれらについての解説 - GNU プロジェクト - フリーソフトウェア財団 (FSF) - GPLと矛盾するフリーソフトウェアライセンス - Mozilla 公衆利用許諾契約書 (Mozilla Public License) (MPL)|accessdate=2012-08-25}}</ref>。そこでMozillaは[[Mozilla Public License|MPL]]/[[GNU General Public License|GPL]]/[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]のトリプルライセンスで提供し、利用者はいずれかを選択して利用するということでFirefoxのコピーレフトの要素を強めた。
2012年1月3日にMPLをバージョン2.0に改定し、GPLなどのコピーレフトなライセンスとの互換性を強化させた<ref>{{Cite web|和書|date=2012-01-16|url=http://sourceforge.jp/magazine/12/01/06/1047228|title=Mozilla、Mozilla Public License(MPL)を10年ぶりにアップデート - SourceForge.JP Magazine|accessdate=2012-08-25}}</ref>。これを受けて2012年6月5日にリリースされたFirefox 13から再びMPLの単独ライセンスとして提供されている<ref>{{cite web|url=http://www.h-online.com/open/news/item/Firefox-13-released-now-using-SPDY-by-default-1605039.html|title=Firefox 13 released -- now using SPDY by default|accessdate=2012-08-25|language=英語|publisher=[[The H Open Source]]}}</ref>。
=== トレードマークとロゴ問題 ===
[[ファイル:Deer Park Globe.png|thumb|非公式のバイナリに使われるロゴ]]
「Mozilla Firefox」とオフィシャルロゴは[[商標|登録商標]]であり、 特定の条件の下でのみ使用が許可される。Firefoxの名前とブランドを使ったオフィシャル・バイナリは、改変を加えなければ誰でも配布することができるが、ソースに変更を行った場合制限が課される<ref>{{cite web|url=http://www.mozilla.org/foundation/trademarks/policy.html|title=Mozilla Trademark Policy|accessdate=2007-01-30|publisher=mozilla.org }}</ref>。このような一部のディストリビューションに「Firefox」の商標を使わせない方針は論争を呼ぶことになった。この論争についてMozilla FoundationのCEOであるミチェル・ベイカー (Mitchell Baker) は2007年のインタビューで「ソースコードを改変しない場合は自由にFirefox商標を使用できる。Mozilla Foundationの狙いはFirefoxのユーザエクスペリエンスを確固たるものにしたいということだけだ」と述べている<ref>{{cite web
|url=http://apcmag.com/6051/the_stoush_over_linux_distributions_using_the_firefox_trademark
|title=The stoush over Linux distributions using the Firefox trademark
|accessdate=2008-01-18
|author=Dan Warne
|authorlink=http://danwarne.com
|date=2007-05-07
|work=APC Magazine
|publisher=ACP Magazines Ltd
}}</ref>。
Firefoxのソースコードはオフィシャル以外のビルドが作成できるようにブランドの有無が切り替えられるようになっている。ソースコードを改変した派生版や、アルファ版・ベータ版のリリースに使われる。ブランドを付けないビルドでは、自由に配布できる代替ロゴと、元になったFirefoxのバージョンに対応する名前が付けられる。Firefox 1.5/2.0/3.0の派生版はそれぞれDeer Park/Bon Echo/Gran Paradisoと呼ばれている。
コミュニティ版用の例外を除いては、Firefoxの名前をつけた派生版はソースコードの変更に関してMozillaからの許可が必要であり、またその場合も ''全ての'' ブランディングを適用しなければならない。例えば、オフィシャルロゴは使わずにFirefoxの名前だけを使うといったことはできない。[[Debian]]は2006年に[[Debianフリーソフトウェアガイドライン]]の制約から、Firefoxのオフィシャルロゴを使わないと決定したが、Mozilla FoundationはDebian版Firefoxにおいてロゴのみの変更は認められず、商標ガイドラインを遵守しオフィシャルロゴを使うか、Firefoxの名前を使わないか選択しなければならないと伝えた<ref>{{cite web|url=http://bugs.debian.org/cgi-bin/bugreport.cgi?bug=354622|title=Debian Bug report logs - #354622: Uses Mozilla Firefox trademark without permission|accessdate=2007-01-30|publisher=Debian.org}}</ref>。<!-- is this important enough to include in the context of this article? - Some Debian developers had misunderstood previous communication to be an agreement that allowed them to do this, but Mozilla disputed this assertion. -->
結局、DebianはこのFirefoxを[[Iceweasel]]という名前に変更し、独自のロゴをつけることになった。
== マーケティング ==
Mozilla Japanは狐をモチーフとした公認のマスコット「[[フォクすけ]]」をプロモーションに使用しており、Firefox 3公開時には日本では「今度のキツネは爆速だぜ」というコピーを含んだ広告を[[山手線]]、[[中央線快速|中央線]]内で流した<ref>{{Cite web|和書|url=http://mozilla.jp/articles/firefox3-pantograph/|title=Mozilla Japan- 特集記事 - グランプリ受賞のユニットが Firefox 3の 15 秒 CM に挑戦! ~パンタグラフさんの映像作りの舞台裏を紹介~|accessdate=2008-08-27|publisher=Mozilla Japan|deadlinkdate=2020-09-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101218005159/http://mozilla.jp/articles/firefox3-pantograph/|archivedate=2010-12-18}}</ref>。
== 表記・略称など ==
Firefoxは「FireFox」「FireFOX」「FIREFOX」「Fire fox」「Fire Fox」などと表記されることがあるが、正式にはこれらは全て誤表記である。また、日本のみならず英語圏などでも「FF」と略記されることがあるが、バージョン1のリリースノートでは略称として「Fx」あるいは「fx」が推奨されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mozilla.jp/firefox/1.5.0.12/releasenotes/#FAQ|title=Mozilla Firefox 1.5.0.12 リリースノート|accessdate=2008-08-30|publisher=Mozilla Japan}}</ref>。ただし、バージョン2以降のリリースノートではこの記述が削除されている。[[日本]]や[[中華人民共和国|中国]]のユーザー間において「火狐」や「狐」と称されることもある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}}
{{Commons|Mozilla Firefox}}
*[[Mozilla Firefoxのバージョンの変遷]]
*[[Mozilla Add-ons]]
*[[フォクすけ]]
*[[Mozilla Thunderbird]]
*[[Firefox OS]]
*[[Firefox for Mobile]]
*[[Pale Moon]]
*[[Waterfox]]
*[[Floorp]]
== 外部リンク ==
* {{official website}}
* {{Twitter|mozillajp|Mozilla Japan コミュニティ}}
* {{Twitter|firefox|Firefox}}
* {{Facebook|Firefox|Firefox}}
{{Mozilla プロジェクト}}
{{ウェブブラウザ}}
{{FOSS}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:もしらふあいああふおつくす}}
[[Category:Geckoを用いたウェブブラウザ]]
[[Category:Mozilla|Firefox]]
[[Category:Mozilla Firefox|*]]
[[Category:オープンソースソフトウェア]]
[[Category:グッドデザイン賞]]
[[Category:クロスプラットフォームのソフトウェア]]
[[Category:ギネス世界記録]]
[[Category:2002年のソフトウェア]]
[[Category:C++でプログラムされたフリーソフトウェア]]
|
2003-07-20T15:48:55Z
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2023-11-27T18:39:14Z
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Mozilla Thunderbird
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Mozilla Thunderbird(モジラ・サンダーバード)は、Mozillaを起源とし、オープンソースで開発が行われている電子メールクライアントおよびニュースリーダーである。プロジェクト開始当初はMinotaur(ミノタウアー)と呼ばれていた。レンダリングエンジンGeckoを使用し、優れた描画性能、高速性、拡張機能、テーマ機能など拡張性に富む。Mozilla SuiteあるいはNetscape Mail/Newsと同様の機能を持つ。
RSSを取得・購読するためのRSSリーダーや、ベイズ理論による学習型迷惑メールフィルタ機能(受信時に迷惑メールと判断されたメールに迷惑メールの印を付け、設定によってはさらに「迷惑メールフォルダ」へ振り分けることも可能)、タブ表示インターフェイスを標準で備えるなど、他の電子メールクライアントに見られない独自の利便性を打ち出している。Outlook Expressなどの他の電子メールクライアントからの容易な移行機構も備える。
Mozilla Firefoxと同じように、Geckoエンジン上にXULを用いて構築されているため、マルチプラットフォームでありながら、開発ソースは単一である。またXULを利用して非常に自由度の高い拡張機能が利用できたが、バージョン78よりXULを使用した拡張機能はサポートされなくなった。ただし、Geckoエンジンに問題が発生すると、Thunderbirdも影響を受けるため、アップデートの必要性が生じてくる。
Outlook Expressなどのメールソフトに見られるような、左にフォルダ、右上部にメール一覧、右下部にメールの内容が表示されるという3ペインのインターフェイスをしている(設定により、2ペインに変更可能)。メールソフトとして利用できるプロトコルはPOP3、SMTP、IMAPである。それ以外には、ニュースグループの購読や、HTTP を通じて RSS、Atomの取得をしたり、RSS を通じてポッドキャスティングされたデータを取得することが可能である。
Thunderbirdのソースコードを利用した派生電子メールクライアントとしてEudoraの後継となるPenelopeが開発中であったが、2010年に開発が終了した。
それまでプロジェクトを推し進めてきたMozilla Foundationは2008年2月19日にThunderbirdプロジェクトのための新組織Mozilla Messagingの設立を発表した。ThunderbirdはMozillaの開発側やコミュニティがFirefoxほどに注力しておらず小規模開発となっていることが原因で、切り離しはThunderbirdに興味・意欲のある人間を集めて開発を活性化させることが目的であった。
これに際し、Mozilla Corporationの最高経営責任者ミッチェル・ベイカー(英語版)は以下の3つの選択肢を掲げ、どのような形態で運営するかの検討を進めていた。
なお、この切り離しに際してネット上で「広告収入を供与しているGoogleがGmailとの競合を理由に圧力をかけたのではないか」という噂が流れたが、ベイカーはこれを否定した。
その後、Mozillaファウンデーションは2011年4月に、Thunderbirdの開発チームをMozilla Labsに統合すると発表した。
Mozillaは2017年5月9日、引き続きMozilla FoundationがThunderbirdを支援するが、運用面ではMozilla Corporationから分離させていく方針を明らかにした。Software Freedom ConservancyやThe Document Foundationへの移管も検討されていたが、当面の間はMozillaに留まることになった。将来的には、ThunderbirdのプロジェクトはMozillaから独立することになる。
2020年1月28日、ThunderbirdがMozilla Foundationの子会社MZLA Technologies Corporationに移管された。
Firefoxと並行してアップデートが行われるためバージョンの数字は同時期リリースのFirefoxに合わせられる。このため、2.0系列まではたびたびバージョンの数字が飛んでいた。3.0系列や3.1系列では同時期のFirefoxのバージョンとずれていたため(それぞれ3.5と3.6)数字が飛ぶことは無かったが、5.0以降は再びFirefoxに合わせられたため、4.0系列が跳ばされている。
なお、MozillaはFirefox 4以降、Firefoxのリリースサイクル(周期)を短縮すると発表した(詳細はMozilla Firefoxを参照)。これに伴い、Thunderbirdもリリースサイクルを短縮し、今後は6週間ごとに定期的なアップデートを行っていく予定。
Firefoxと同様、正式版の他に、ベータ版 (Thunderbird)・オーロラ版(Earlybird)・ナイトリー版(Daily)の3種類のエディションがリリースされている。ベータ版は原則毎週、オーロラ版とナイトリー版は毎日更新される。
2012年7月、Thunderbirdの主要開発チームは不具合の修正に専念する計画が発表され、新機能の追加はコミュニティが行うこととなった。
Firefoxの対応するバージョンにおける修正とほぼ同じである。Geckoエンジンのバージョンは1.7.x。
Firefoxと同様、もともとは1.1としてリリースされる予定だったものが1.5として改められた。Geckoエンジンのバージョンは1.8.0.x。
2010年6月までセキュリティアップデートが提供された。Geckoのバージョンは1.8.1.x。
コードネームはShredder(シュレッダー)。Geckoエンジンのバージョンは1.9.1.x。検索エンジン「Gloda」による検索機能の強化やタブ表示などのインターフェイスの変更が行われた。2010年12月サポート終了。
追加された主な機能として、以下のものがある。
コードネームはLanikai(ラニカイ)。バージョン3.0と比べ、メッセージの索引作成を高速化、直感的な検索が可能なクイックフィルタツールバーを搭載するなどの改良を行った。Firefoxではバージョンが当初の3.1から3.5に変更されたが、Thunderbirdでは変更されず正式に3.1としてリリースされた。Geckoエンジンのバージョンは1.9.2.x。2012年4月サポート終了。
バージョン5.0以降はリリースサイクルが短縮され、6週間間隔(5.0と6.0の間は例外的に8週間)で新バージョンがリリースされるようになった。後述の法人ユーザー向けの延長サポート版を除き、最新のバージョンがリリースされた時点で前のバージョンのサポートは終了する。Firefoxと同じく、Geckoのバージョンはバージョン番号と統一されている。
バージョン10.0以降は、高速リリース版に加え、法人ユーザー向けに延長サポート版 (ESR: Extended Support Release) も提供される。ESR は7バージョンごとにリリースされ、セキュリティ・安定性の問題を修正するアップデートが54週間提供される。
開発計画の変更により、新バージョンの短期的なリリースを止め、不具合やセキュリティ問題の修正に専念していくことが決定された。Thunderbird 17.0 系列のリリース版は、Firefox ESR 17.0系列相当の内容となった。
Thunderbird 17.0系列に続くメジャーバージョンアップ。通常版とESR版が統合された。
Thunderbird 24系列のリリース版は、Firefox ESR 24系列相当の内容となった。Thunderbird 18.0から23.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
Thunderbird 24.0系列に続くメジャーバージョンアップ。次のメジャーバージョンアップは、Thunderbird 38の予定。
Thunderbird 31系列のリリース版は、Firefox ESR 31系列相当の内容となる。Thunderbird 25.0から30.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
Thunderbird 31.0系列に続くメジャーバージョンアップ。次のメジャーバージョンアップは、Thunderbird 45の予定。
Thunderbird 38系列のリリース版は、Firefox ESR 38系列相当の内容となる。Thunderbird 32.0から38.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
Thunderbird 38.0系列に続くメジャーバージョンアップ。次のメジャーバージョンアップは、Thunderbird 52の予定。
Thunderbird 45系列のリリース版は、Firefox ESR 45系列相当の内容となる。Thunderbird40.0から44.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
Thunderbird 45.0系列に続くメジャーバージョンアップ。
Thunderbird 52系列のリリース版は、Firefox ESR 52系列相当の内容となる。Thunderbird 46.0から51.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
52系列に続くメジャーバージョンアップ。WebExtensionが有効化されたため、旧式のアドオンは使用できなくなった。また、RustをベースとしたMozillaの最新技術を利用するようになった。
2019年8月27日にリリース
2020年7月17日にリリース
2021年8月11日にリリース
2022年6月20日にリリース
2023年7月11日にリリース
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"title": "概要"
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"title": "Mozillaからの切り離しと再統合"
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"text": "なお、この切り離しに際してネット上で「広告収入を供与しているGoogleがGmailとの競合を理由に圧力をかけたのではないか」という噂が流れたが、ベイカーはこれを否定した。",
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"title": "バージョンの変遷"
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"text": "なお、MozillaはFirefox 4以降、Firefoxのリリースサイクル(周期)を短縮すると発表した(詳細はMozilla Firefoxを参照)。これに伴い、Thunderbirdもリリースサイクルを短縮し、今後は6週間ごとに定期的なアップデートを行っていく予定。",
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Mozilla Thunderbird(モジラ・サンダーバード)は、Mozillaを起源とし、オープンソースで開発が行われている電子メールクライアントおよびニュースリーダーである。プロジェクト開始当初はMinotaur(ミノタウアー)と呼ばれていた。レンダリングエンジンGeckoを使用し、優れた描画性能、高速性、拡張機能、テーマ機能など拡張性に富む。Mozilla SuiteあるいはNetscape Mail/Newsと同様の機能を持つ。 RSSを取得・購読するためのRSSリーダーや、ベイズ理論による学習型迷惑メールフィルタ機能(受信時に迷惑メールと判断されたメールに迷惑メールの印を付け、設定によってはさらに「迷惑メールフォルダ」へ振り分けることも可能)、タブ表示インターフェイスを標準で備えるなど、他の電子メールクライアントに見られない独自の利便性を打ち出している。Outlook Expressなどの他の電子メールクライアントからの容易な移行機構も備える。
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{{Infobox Software
| 名称 = Mozilla Thunderbird
| ロゴ = [[File:Thunderbird 2023 icon.svg|80px]]
| スクリーンショット = [[File:Thunderbird 115.png|300px]]
| 説明文 = Mozilla Thunderbird 115
| 開発元 = [[Mozilla Foundation]](旧Mozilla Messaging)<br />MZLA Technologies Corporation
| frequently updated = Yes
| プログラミング言語 = [[C言語]], [[C++]]、[[JavaScript]]<ref>{{cite web |title=Firefox's addons are written in JavaScript |url=http://www.rietta.com/firefox/Tutorial/backend.html |publisher=Rietta |accessdate=December 19, 2009 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090804172858/http://www.rietta.com/firefox/Tutorial/backend.html |archivedate=August 4, 2009 }}</ref>、[[Cascading Style Sheets|CSS]]<ref>{{cite web |title=Firefox uses an "html.css" stylesheet for default rendering styles |url=https://davidwalsh.name/firefox-internal-rendering-css |publisher=David Walsh |accessdate=December 19, 2009}}</ref><ref>{{cite web|title=The Firefox addon, Stylish takes advantage of Firefox's CSS rendering to change the appearance of Firefox |url=https://userstyles.org/styles;app |publisher=userstyles.org |accessdate=December 19, 2009 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090523083344/http://userstyles.org/styles;app |archivedate=May 23, 2009 }}</ref>、[[Rust]]、[[XUL]]、{{仮リンク|XBL|en|XBL}}
| 対応OS = [[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS]]、[[Linux]]、[[BSDの子孫|BSD系]]
| 対応プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]]
| 種別 = [[電子メールクライアント]]、[[ニュースリーダー (ニュースグループ)|ニュースリーダー]]
| ライセンス = [[Mozilla Public License|MPL]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mozilla.jp/about/licensing/|title=ライセンスと商標|accessdate=2012-08-29|publisher=Mozilla Japan}}</ref>
}}
'''Mozilla Thunderbird'''(モジラ・サンダーバード)は、[[Mozilla Application Suite|Mozilla]]を起源とし、[[オープンソース]]で開発が行われている[[電子メールクライアント]]および[[ニュースリーダー (ニュースグループ)|ニュースリーダー]]である。プロジェクト開始当初は'''Minotaur'''(ミノタウアー)と呼ばれていた。[[レンダリングエンジン]][[Gecko]]を使用し、優れた描画性能、高速性、[[拡張機能 (Mozilla)|拡張機能]]、テーマ機能など拡張性に富む。[[Mozilla Application Suite|Mozilla Suite]]あるいは[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Mail/News]]と同様の機能を持つ。
[[RSS]]を取得・購読するための[[RSSリーダー]]や、[[ベイジアンフィルタ|ベイズ理論による学習型迷惑メールフィルタ]]機能(受信時に[[スパム (メール)|迷惑メール]]と判断されたメールに迷惑メールの印を付け、設定によってはさらに「迷惑メールフォルダ」へ振り分けることも可能)、タブ表示インターフェイスを標準で備えるなど、他の電子メールクライアントに見られない独自の利便性を打ち出している。[[Outlook Express]]などの他の電子メールクライアントからの容易な移行機構も備える。
== 概要 ==
[[Mozilla Firefox]]と同じように、Geckoエンジン上に[[XUL]]を用いて構築されているため、マルチプラットフォームでありながら、開発ソースは単一である。またXULを利用して非常に自由度の高い拡張機能が利用できたが、バージョン78よりXULを使用した拡張機能はサポートされなくなった。ただし、Geckoエンジンに問題が発生すると、Thunderbirdも影響を受けるため、アップデートの必要性が生じてくる。
Outlook Expressなどのメールソフトに見られるような、左にフォルダ、右上部にメール一覧、右下部にメールの内容が表示されるという3ペインのインターフェイスをしている(設定により、2ペインに変更可能)。メールソフトとして利用できる[[プロトコル]]は[[Post Office Protocol|POP3]]、[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]、[[Internet Message Access Protocol|IMAP]]である。それ以外には、[[ニュースグループ]]の購読や、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]] を通じて RSS、[[Atom (ウェブ標準)|Atom]]の取得をしたり、RSS を通じて[[ポッドキャスト|ポッドキャスティング]]されたデータを取得することが可能である。
Thunderbirdの[[ソースコード]]を利用した派生電子メールクライアントとして[[Eudora]]の後継となる[[Penelope]]が開発中であったが、2010年に開発が終了した。
==Mozillaからの切り離しと再統合 ==
それまでプロジェクトを推し進めてきたMozilla Foundationは2008年2月19日にThunderbirdプロジェクトのための新組織Mozilla Messagingの設立を発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=http://mozilla.jp/press/releases/2008/02/19/|title=Mozilla Messaging、業務を開始|publisher=Mozilla Japan|date=2008-02-19|accessdate=2010-01-24}}</ref>。ThunderbirdはMozillaの開発側やコミュニティがFirefoxほどに注力しておらず小規模開発となっていることが原因で、切り離しはThunderbirdに興味・意欲のある人間を集めて開発を活性化させることが目的であった。
これに際し、[[Mozilla Corporation]]の[[最高経営責任者]]{{仮リンク|ミッチェル・ベイカー|en|Mitchel Baker}}は以下の3つの選択肢を掲げ、どのような形態で運営するかの検討を進めていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/07/27/16472.html|title=Mozilla Foundation、Thunderbirdのスピンアウトを検討|publisher=インプレス|date=2007-07-27|accessdate=2012-04-01}}</ref>。
*Mozillaファウンデーションのように別組織を設立する
*Mozillaファウンデーションの下に子会社を設立する
*[[Camino]]や[[SeaMonkey]]のようにコミュニティプロジェクトとして分離し、コミュニティが新会社設立などによる開発を行う
なお、この切り離しに際してネット上で「広告収入を供与している[[Google]]が[[Gmail]]との競合を理由に圧力をかけたのではないか」という噂が流れたが、ベイカーはこれを否定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0707/30/news054.html|title=「ThunderbirdスピンオフはGoogleと無関係」、ベイカーCEOが噂を否定|publisher=Itmedia News|date=2007-07-30|accessdate=2012-04-01}}</ref>。
その後、Mozillaファウンデーションは2011年4月に、Thunderbirdの開発チームをMozilla Labsに統合すると発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://sourceforge.jp/magazine/11/04/06/034221|title=Mozillaが組織再編、Mozilla MessagingをMozilla Labsに統合|publisher=SourceForge.jp|date=2011-04-06|accessdate=2012-04-01}}</ref>。
Mozillaは2017年5月9日、引き続きMozilla FoundationがThunderbirdを支援するが、運用面ではMozilla Corporationから分離させていく方針を明らかにした。[[Software Freedom Conservancy]]や[[The Document Foundation]]への移管も検討されていたが、当面の間はMozillaに留まることになった。将来的には、ThunderbirdのプロジェクトはMozillaから独立することになる<ref>{{Cite web|和書|author=樽井秀人 |date=2017-05-10 |url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1058872.html |title=Mozilla、「Thunderbird」の受け入れ先に関する調査を完了 |publisher=[[窓の杜]] |accessdate=2017-10-07}}</ref>。
2020年1月28日、ThunderbirdがMozilla Foundationの子会社MZLA Technologies Corporationに移管された<ref>{{Cite web|和書|author=樽井秀人 |date=2020-01-30 |url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1232179.html |title=「Thunderbird」プロジェクトがMozilla財団の完全子会社MZLA Technologiesへ移管される |publisher=[[窓の杜]] |accessdate=2020-02-13}}</ref>。
== バージョンの変遷 ==
Firefoxと並行してアップデートが行われるためバージョンの数字は同時期リリースのFirefoxに合わせられる。このため、2.0系列まではたびたびバージョンの数字が飛んでいた。3.0系列や3.1系列では同時期のFirefoxのバージョンとずれていたため(それぞれ3.5と3.6)数字が飛ぶことは無かったが、5.0以降は再びFirefoxに合わせられたため、4.0系列が跳ばされている。
なお、Mozillaは[[Firefox 4]]以降、Firefoxのリリースサイクル(周期)を短縮すると発表した(詳細は[[Mozilla Firefox#リリースサイクル|Mozilla Firefox]]を参照)。これに伴い、Thunderbirdもリリースサイクルを短縮し、今後は6週間ごとに定期的なアップデートを行っていく予定<ref>{{Cite web|和書|url=http://mozilla.jp/blog/entry/6950/|title=Mozilla Japanブログ -Mozilla、Thunderbirdの新バージョンを公開 - より快適な操作性、安全なメール環境、新しいアドオン管理画面を提供|accessdate=2013-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://mozilla.jp/firefox/preview/faq/|title=高速リリースサイクルに関するよくある質問|accessdate=2013-09-17}}</ref>。
Firefoxと同様、正式版の他に、ベータ版 (Thunderbird)・オーロラ版(Earlybird)・ナイトリー版(Daily)の3種類のエディションがリリースされている。ベータ版は原則毎週、オーロラ版とナイトリー版は毎日更新される。
2012年7月、Thunderbirdの主要開発チームは不具合の修正に専念する計画が発表され、新機能の追加はコミュニティが行うこととなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20120709/407802/|title=Mozilla、「Thunderbird」の開発を停止へ、セキュリティアップデートは継続|accessdate=2013-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/545740.html|title=Mozilla、「Thunderbird」の新機能開発を停止する計画を発表|accessdate=2013-09-17}}</ref>。
=== 1.0系列 ===
Firefoxの対応するバージョンにおける修正とほぼ同じである。Geckoエンジンのバージョンは1.7.x。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|1.0 || nowrap|[[2004年]][[12月6日]]<br />(日本語版は24日) || 最初の正式リリース
|-
| nowrap|1.0.2 || nowrap|[[2005年]]3月15日 ||GIF画像の処理におけるヒープオーバーフロー等を修正
|-
| nowrap|1.0.5 || nowrap|2005年7月12日 ||JavaScript無効時にも XBL スクリプトが実行される[[脆弱性]]等の修正。英語版のみリリース。
|-
| nowrap|1.0.6 || nowrap|2005年7月19日 || 1.0.5 における拡張機能関連 API の不具合の解消
|-
| nowrap|1.0.7 || nowrap|2005年9月29日 || ヘルプが「Not Found」になる問題等の修正
|-
| nowrap|1.0.8 || nowrap|[[2006年]]4月21日 || 安定性の向上、セキュリティフィックス。1.0系列の最終アップデート。
|}
=== 1.5系列 ===
Firefoxと同様、もともとは1.1としてリリースされる予定だったものが1.5として改められた。Geckoエンジンのバージョンは1.8.0.x。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|1.5 || nowrap|2006年1月11日 || 正式リリース
|-
| nowrap|1.5.0.2 || nowrap|2006年4月21日 || 安定性の向上、セキュリティフィックス
|-
| nowrap|1.5.0.4 || nowrap|2006年6月1日 || [[Intel Mac]]への正式対応。安定性の向上、セキュリティフィックス。Firefox 1.5.0.4と同時リリース。
|-
| nowrap|1.5.0.5 || nowrap|2006年7月27日 || 安定性の向上、セキュリティフィックス。Firefox 1.5.0.5と同時リリース。
|-
| nowrap|1.5.0.7 || nowrap|2006年9月14日 || 安定性の向上、セキュリティフィックス。Firefox 1.5.0.7と同時リリース。
|-
| nowrap|1.5.0.8 || nowrap|2006年11月7日 || 安定性の向上、セキュリティフィックス。Firefox 1.5.0.8と同時リリース。
|-
| nowrap|1.5.0.9 || nowrap|2006年12月19日 || 安定性の向上、セキュリティフィックス。Firefox 1.5.0.9と同時リリース。
|-
| nowrap|1.5.0.10 || nowrap|[[2007年]]3月1日 || 安定性の向上、[[Secure Sockets Layer|SSL]] 2 の処理に関するバッファオーバーフロー等の修正。
|-
| nowrap|1.5.0.12 || nowrap|2007年5月30日 || 安定性の向上、[[Post Office Protocol|APOP]]認証に関する脆弱性などの修正。
|-
| nowrap|1.5.0.13 || nowrap|2007年8月23日 || 2.0.0.5、2.0.0.6と同等の修正。
|-
| nowrap|1.5.0.14 || nowrap|2007年12月19日 ||FirefoxとInternet Explorerの相互作用で発生する深刻な脆弱性を修正、およびメモリ破損でクラッシュが起きる不具合を修正。また、1.5系列の最終アップデート。
|}
=== 2.0系列 ===
2010年6月までセキュリティアップデートが提供された<ref>{{Cite web|和書|url=http://mozilla.jp/thunderbird/download/older/|title=Thunderbird – 旧バージョンのダウンロード|author=Mozilla Japan|accessdate=2010-01-24}}</ref>。Geckoのバージョンは1.8.1.x。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|2.0.0.0 || nowrap|2007年4月18日 || 正式リリース。Geckoのバージョンは1.8.1.3。正式版公開は2007年第一四半期を予定<ref>[http://www.mozilla.org/projects/thunderbird/roadmap.html Mozilla Thunderbird 2 Roadmap]{{リンク切れ|date=2013年9月}}</ref>していたが、Firefoxの予期せぬセキュリティフィックス作業に伴い延期となり、4月にずれ込んだ<ref>{{Cite news|url=https://japan.cnet.com/article/20346601/|title=Mozilla、「Thunderbird 2」RC1を公開--正式版は4月中に|work=CNET Japan|accessdate=2010-01-24}}</ref>。
|-
| nowrap|2.0.0.4 || nowrap|2007年5月30日 || 安定性の向上、APOP認証に関する脆弱性などの修正。Geckoのバージョンは1.8.1.4。
|-
| nowrap|2.0.0.5 || nowrap|2007年7月19日 || IE経由でのURLハンドラを悪用した脆弱性の修正。メモリ破損に関連した脆弱性の修正。[[朝鮮語]]版のリリース。
|-
| nowrap|2.0.0.6 || nowrap|2007年8月1日 || 外部プログラムに渡されるURIがエスケープされていない問題の修正。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.9 || nowrap|2007年11月15日 || メッセージ作成ウインドウを開いたときにクラッシュする不具合の修正等。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.12 || nowrap|[[2008年]]2月27日 || 外部MIMEボディ内のヒープバッファオーバーフローの修正等。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.14 || nowrap|2008年5月2日 || 「JavaScriptの特権昇格と任意のコード実行」の修正等。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.16 || nowrap|2008年7月23日 || 「[[Cascading Style Sheets|CSS]]参照カウンタのオーバーフローによるリモートコード実行」の修正等。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.17 || nowrap|2008年9月26日 || 「UTF-8 URL スタックバッファオーバーフロー」等、最高2件を含む7件の修正。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.18 || nowrap|2008年11月20日 || 「Canvasと HTTP リダイレクトを通じた画像の読み取り」等7件の修正。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.19 || nowrap|2008年12月31日 || 「<code>loadBindingDocument</code>を通じた情報の読み取り」等7件の修正。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.21 || nowrap|[[2009年]]3月19日 || 「メモリ安全性の問題を修正するための PNG ライブラリの更新」等5件の修正。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.22 || nowrap|2009年6月22日 || 「<code>text/enhanced</code>パートを含む<code>multipart/alternative</code>メッセージを表示したときのクラッシュ」等7件の修正。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.23 || nowrap|2009年8月20日 || 「証明書の正規表現パースにおけるヒープオーバーフロー」等2件の修正。セキュリティフィックス。
|-
| nowrap|2.0.0.24 || nowrap|2010年3月16日 || 「潜在的に悪用可能なクラッシュ修正の旧版ブランチへの移植」等5件の修正。セキュリティフィックス。2.0.0.x 系の最後のセキュリティアップデート。
|}
=== 3.0系列 ===
コードネームはShredder(シュレッダー)。Geckoエンジンのバージョンは1.9.1.x。検索エンジン「Gloda」による検索機能の強化やタブ表示などのインターフェイスの変更が行われた<ref>[http://mozilla.jp/thunderbird/3.0/releasenotes/Thunderbird 3.0 リリースノート]</ref>。2010年12月サポート終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://mozilla.jp/thunderbird/download/older/|title=無料メールソフトThunderbird- 旧バージョンのダウンロード|author=Mozilla Japan|accessdate=2010-12-12}}</ref>。
追加された主な機能として、以下のものがある。
;メッセージアーカイブ機能
:選択したメッセージを年別のアーカイブフォルダへ移動して、まとめて保管できる。
;自動メールアカウント設定機能
:名前と[[メールアドレス]]、パスワードの入力のみで、Mozillaの保有する[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]データベースを参照し、自動的に[[メールサーバ|サーバ]]関連([[Post Office Protocol|POP]]や[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]サーバ名、ポート番号など)の設定が行われ、メールを送受信する設定が完了する。プロバイダデータベースに登録されていない場合も、[[ポートスキャン]]により自動設定を試みる。
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|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|3.0 || nowrap|2009年12月8日 || 正式リリース。Geckoのバージョンは1.9.1.5。
|-
| nowrap|3.0.1 || nowrap|2010年1月20日 || セキュリティフィックスとインターフェイスの若干の見直し。添付ファイルの取り扱いに対する不具合の修正。Geckoのバージョンは1.9.1.7。
|-
| nowrap|3.0.2 || nowrap|2010年2月25日 || 安定性とセキュリティの強化。Thunderbird 2からThunderbird 3へのアップグレードに関する修正。IMAPに関するいくつかの修正。Geckoのバージョンは1.9.1.8。
|-
| nowrap|3.0.3 || nowrap|2010年3月1日 ||Thunderbird 3.0.2 へ更新を行った後、場合によって一部メールフォルダが表示されない、あるいはフォルダペインが空欄になってしまう問題の修正。Geckoのバージョンは1.9.1.8のまま。
|-
| nowrap|3.0.4 || nowrap|2010年3月30日 || 安定性とセキュリティの強化。ユーザインタフェースに関するいくつかの修正。Geckoのバージョンは1.9.1.9。
|-
| nowrap|3.0.5 || nowrap|2010年6月17日 || 安定性とセキュリティの強化。ユーザインタフェースに関するいくつかの修正。メッセージの索引付けと、ネットワーク上に保存されているプロファイルへのアクセスにかかるパフォーマンス向上。Mac OS Xでの未読メッセージ通知の表示改善。Geckoのバージョンは1.9.1.10。
|-
| nowrap|3.0.6 || nowrap|2010年7月21日 || 安定性とセキュリティの強化。Geckoのバージョンは1.9.1.11。
|-
| nowrap|3.0.7 || nowrap|2010年9月8日 || 安定性とセキュリティの強化。Geckoのバージョンは1.9.1.12。
|-
| nowrap|3.0.8 || nowrap|2010年9月16日 || 安定性の強化。Geckoのバージョンは1.9.1.12のまま。
|-
| nowrap|3.0.9 || nowrap|2010年10月19日 || 安定性とセキュリティの強化。Geckoのバージョンは1.9.1.14。
|-
| nowrap|3.0.10 || nowrap|2010年10月27日 || 重大なセキュリティ問題1件の修正。Geckoのバージョンは1.9.1.15。
|-
| nowrap|3.0.11 || nowrap|2010年12月9日 || 安定性とセキュリティの強化。Geckoのバージョンは1.9.1.16。3.0.x系の最後のセキュリティアップデート。
|}
=== 3.1系列 ===
コードネームはLanikai(ラニカイ)<ref>米国[[ハワイ州]][[オアフ島]]の砂浜に由来。</ref>。バージョン3.0と比べ、メッセージの索引作成を高速化、直感的な検索が可能なクイックフィルタツールバーを搭載するなどの改良を行った。Firefoxではバージョンが当初の3.1から3.5に変更されたが、Thunderbirdでは変更されず正式に3.1としてリリースされた。Geckoエンジンのバージョンは1.9.2.x。2012年4月サポート終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://mozilla.jp/blog/entry/7751/|title=FirefoxとThunderbirdの法人向け延長サポート版を公開しました|accessdate=2013-09-17}}</ref>。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|3.1 || nowrap|2010年6月24日 || 正式リリース。Geckoのバージョンは1.9.2.4。
|-
| nowrap|3.1.1 || nowrap|2010年7月21日 || 安定性とセキュリティの強化。ユーザインタフェースに関するいくつかの修正。Geckoのバージョンは1.9.2.7。
|-
| nowrap|3.1.2 || nowrap|2010年8月6日 || 安定性の強化とユーザインタフェースに関するいくつかの修正。Geckoのバージョンは1.9.2.8。
|-
| nowrap|3.1.3 || nowrap|2010年9月8日 || 安定性とセキュリティの強化。ユーザインタフェースに関するいくつかの修正。Geckoのバージョンは1.9.2.9。
|-
| nowrap|3.1.4 || nowrap|2010年9月16日 || 安定性の強化とユーザインタフェースに関するいくつかの修正。Geckoのバージョンは1.9.2.9のまま。
|-
| nowrap|3.1.5 || nowrap|2010年10月19日 || 安定性の強化とユーザインタフェースに関するいくつかの修正。Geckoのバージョンは1.9.2.11。
|-
| nowrap|3.1.6 || nowrap|2010年10月27日 || 重大なセキュリティ問題1件の修正。Geckoのバージョンは1.9.2.12。
|-
| nowrap|3.1.7 || nowrap|2010年12月9日 || パフォーマンスと安定性、安全性を改善するいくつかの修正。ローカルに保存されている巨大なフォルダやファイルの処理を改善するいくつかの修正。IMAPメールボックスのローカルコピーが破損する状況を防ぐいくつかの修正。Geckoのバージョンは1.9.2.13。
|-
| nowrap|3.1.8 || nowrap|2011年3月1日 || 安定性とセキュリティの強化。Geckoのバージョンは1.9.2.14。
|-
| nowrap|3.1.9 || nowrap|2011年3月4日 || 3.1.8 で一部のユーザに影響していた、更新後のクラッシュを修正。
|-
| nowrap|3.1.10 || nowrap|2011年4月28日 || 2件のセキュリティ問題を修正。Geckoのバージョンは1.9.2.17。
|-
| nowrap|3.1.11 || nowrap|2011年6月21日 || 6件のセキュリティ問題を修正。バグ22個修正。Geckoのバージョンは1.9.2.18。
|-
| nowrap|3.1.12 || nowrap|2011年8月16日 || 1件のセキュリティ問題を修正。Geckoのバージョンは1.9.2.20。
|-
| nowrap|3.1.13 || nowrap|2011年8月30日 || 不正なSSL証明書に関する問題を修正。
|-
| nowrap|3.1.14 || nowrap|2011年9月6日 || 証明書の信頼例外を削除。
|-
| nowrap|3.1.15 || nowrap|2011年9月27日 || 安定性とセキュリティの強化。
|-
| nowrap|3.1.16 || nowrap|2011年11月8日 || 安定性とセキュリティの強化。
|-
| nowrap|3.1.17 || nowrap|2011年12月20日 || セキュリティの強化。
|-
| nowrap|3.1.18 || nowrap|2012年1月31日 || パフォーマンス・安定性・安全性の改善。
|-
| nowrap|3.1.19 || nowrap|2012年2月16日 || 1件のセキュリティ問題の修正。
|-
| nowrap|3.1.20 || nowrap|2012年3月13日 || いくつかのセキュリティ問題の修正。3.1.x系の最後のセキュリティアップデート。
|}
=== 5.0 - 16.0系列 ===
バージョン5.0以降はリリースサイクルが短縮され、6週間間隔(5.0と6.0の間は例外的に8週間)で新バージョンがリリースされるようになった。後述の法人ユーザー向けの延長サポート版を除き、最新のバージョンがリリースされた時点で前のバージョンのサポートは終了する。Firefoxと同じく、Geckoのバージョンはバージョン番号と統一されている。
バージョン10.0以降は、高速リリース版に加え、法人ユーザー向けに延長サポート版 (ESR: Extended Support Release) も提供される。ESR は7バージョンごとにリリースされ、セキュリティ・安定性の問題を修正するアップデートが54週間提供される。
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|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|5.0 || nowrap|2011年6月28日 || 起動時間の短縮、操作の応答性向上、新しいアドオンマネージャの導入、タブをドラッグ・アンド・ドロップで並べ替えたり、他のウィンドウへ移動できるようにするなどの改良を行った。当初はバージョン3.3として開発されていた。
|-
| nowrap|6.0 || nowrap|2011年8月16日 ||[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]のジャンプリストへの対応、ユーザーインターフェースの改良。
|-
| nowrap|6.0.1 || nowrap|2011年8月30日 || 不正なSSL証明書に関する問題を修正。
|-
| nowrap|6.0.2 || nowrap|2011年9月6日 || 証明書の信頼例外を削除。
|-
| nowrap|7.0 || nowrap|2011年9月27日 || UIの改良、添付ファイル処理の修正、アドレス帳のバックエンドの改良、複数のメールの要約を印刷する機能を追加。
|-
| nowrap|7.0.1 || nowrap|2011年9月30日 || 一部のアドオンが表示されなくなる問題を修正。
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| nowrap|8.0 || nowrap|2011年11月8日 || アドオン管理機能の強化、検索機能のキーボードショートカットの変更、添付ファイル一覧のアクセシビリティの改善、フォルダペイン切り替えボタンを削除。
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| nowrap|9.0 || nowrap|2011年12月20日 || パフォーマンスデータをMozillaに送信するオプトインを追加、メッセージ編集ウィンドウとアドレス帳ウィンドウがPersonasに対応、添付ファイルのキーボード処理を改善、Windows版でメニューバーを {{Keypress|Alt}}キーで隠せるようになった。
|-
| nowrap|9.0.1 || nowrap|2011年12月23日 ||Windows 2000、XPで起動しないことがある問題を修正。
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| nowrap|10.0、ESR 10.0 || nowrap|2012年1月31日 || ウェブ検索機能の追加、メッセージ検索機能の改良、メッセージの下書き機能に関する問題の修正。ESRはバージョン19.0のリリース時までサポートされる予定。
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| nowrap|10.0.1、ESR 10.0.1 || nowrap|2012年2月12日 || 安定性とセキュリティの強化。
|-
| nowrap|10.0.2、ESR 10.0.2 || nowrap|2012年2月16日 || 1件のセキュリティ問題の修正。
|-
| nowrap|ESR 10.0.3 || nowrap|2012年3月13日 || いくつかのセキュリティ問題、添付ファイルの表示に関する問題、および不正なURLを含む署名付きのメッセージを編集した場合に生じる問題の修正。
|-
| nowrap|ESR 10.0.4 || nowrap|2012年4月24日 || いくつかのセキュリティ問題を修正、オフラインモード時、MAPIを通じて送信されたメッセージを送信済みトレイに正しく保存するようになる、言語パックがESRの全バージョンに対応。
|-
| nowrap|ESR 10.0.5 || nowrap|2012年6月5日 || いくつかのセキュリティ問題を修正、相互運用性を向上させるため MAPI インタフェースに <code>MAPIResolveName</code> API を追加。
|-
| nowrap|ESR 10.0.6 || nowrap|2012年7月17日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
|-
| nowrap|ESR 10.0.7 || nowrap|2012年8月28日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
|-
| nowrap|ESR 10.0.8 || nowrap|2012年10月9日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
|-
| nowrap|ESR 10.0.9 || nowrap|2012年10月12日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
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| nowrap|ESR 10.0.10 || nowrap|2012年10月29日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
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| nowrap|ESR 10.0.11 || nowrap|2012年11月20日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
|-
| nowrap|ESR 10.0.12 || nowrap|2013年1月8日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
|-
| nowrap|11.0 || nowrap|2012年3月13日 || タブをメニューバーの上に移動、Growl 1.3 以降で通知が表示されない問題を修正。
|-
| nowrap|11.0.1 || nowrap|2012年3月28日 ||IMAPアカウント上のメッセージを処理する際にハングを引き起こす可能性のある問題とメッセージを特定のフォルダへ移動させるフィルタが誤って変更されてしまう問題を修正。
|-
| nowrap|12.0 || nowrap|2012年4月24日 || グローバル検索の結果のメッセージの抜粋を表示する機能の追加、RSSフィードの購読と処理を改善、様々な形式のローカルメールストレージを提供するアドオンに対応。
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| nowrap|12.0.1 || nowrap|2012年4月30日 ||POP3アカウントの新着メッセージ通知とメッセージフィルタに関するいくつかの問題、起動時のクラッシュ、およびMovemail使用時にメッセージ本文が読み込まれない問題を修正。
|-
| nowrap|13.0 || nowrap|2012年6月5日 || オンラインストレージサービスへのファイルアップロード機能、Gandi、Hoverのメールアドレスを取得できる機能を追加。このバージョンよりWindows XP SP2 以降のみに対応する。
|-
| nowrap|13.0.1 || nowrap|2012年6月15日 || |YouSendItへアップロードしたファイルへのリンクが1週間以降期限切れにならない問題、パスワードを変更していないにもかかわらずネットワークエラー発生時にパスワードの再入力を求められる場合がある問題、Linuxでインストールディレクトリ以外から起動できない場合がある問題、安定性と表示に関するいくつかの問題を修正。
|-
| nowrap|14.0 || nowrap|2012年7月17日 || 様々なバグ修正とパフォーマンスの向上、いくつかのセキュリティ問題を修正。
|-
| nowrap|15.0 || nowrap|2012年8月28日 || チャット機能に対応([[Internet Relay Chat|IRC]]、[[Twitter]]等)、Do Not Track<ref>ウェブ検索でトラッキングの拒否を明示する機能。</ref>が有効に、FilelinkのオンラインストレージサービスUbuntu One追加、新しいテーマデザインAustralisを採用しタブやツールバーなどのインターフェイスを刷新。
|-
| nowrap|15.0.1 || nowrap|2012年9月10日 || メッセージの検索や転送を行ったときにクラッシュする安定性の問題を修正。編集画面で検索・置換など一部の機能が正しく動作しない問題を修正。
|-
| nowrap|16.0 || nowrap|2012年10月9日 ||Filelinkのオンラインストレージサービス <code>box.com</code>を追加、サイレントバックグラウンドアップデートに対応。
|-
| nowrap|16.0.1 || nowrap|2012年10月11日 || 悪意のあるサイトにアクセスした際に履歴情報が漏洩する脆弱性を修正<ref name="thunderbird-16.0-bug">{{Cite web|和書|url=http://www.mozilla.jp/blog/entry/10002/|title=Firefox 16 のセキュリティ脆弱性について |Mozilla Japanブログ|accessdate=2013-09-17}}</ref>。
|-
| nowrap|16.0.2 || nowrap|2012年10月29日 || セキュリティ問題(<code>Location</code>オブジェクトの悪用)を修正。IMAPアカウントでメールをダウンロードし続けることがある問題を修正。
|}
=== 17.0系列 ===
開発計画の変更により、新バージョンの短期的なリリースを止め、不具合やセキュリティ問題の修正に専念していくことが決定された。Thunderbird 17.0 系列のリリース版は、Firefox ESR 17.0系列相当の内容となった。
{| class="wikitable"
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! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|17.0、ESR 17.0 || nowrap|2012年11月20日 || 新しいメニューボタンが画面右上側(デフォルトで「検索バー」の隣)に追加された(「≡」のアイコン)。タブがタイトルバーの場所へ移動(Windowsのみ)。
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| nowrap|17.0.2、ESR 17.0.2 || nowrap|2013年1月8日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。Windowsでウィンドウを閉じるボタンを押したとき、アプリケーション全体を終了するのではなく、そのウィンドウ1つだけを閉じるようにした。フィルタ処理の後でローカルフォルダがまれに破損する問題が修正。オフラインモードの使用中にIMAPフォルダに保存した草稿が削除されてしまう問題が修正。
|-
| nowrap|17.0.3、ESR 17.0.3 || nowrap|2013年2月19日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。メール編集ウィンドウで添付ファイルをキーボード操作では削除できないことがあった問題を修正。
|-
| nowrap|17.0.4、ESR 17.0.4 || nowrap|2013年3月11日 || HTML エディタのメモリ解放後、その領域を利用して任意のコードが実行できる脆弱性を修正。
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| nowrap|17.0.5、ESR 17.0.5 || nowrap|2013年4月2日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。メールの編集時のフォントサイズ変更が簡単に。
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| nowrap|17.0.6、ESR 17.0.6 || nowrap|2013年5月14日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。Twitter APIを1.1へ変更。
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| nowrap|17.0.7、ESR 17.0.7 || nowrap|2013年6月25日 || いくつかのセキュリティ問題(8件)を修正。
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| nowrap|17.0.8、ESR 17.0.8 || nowrap|2013年8月6日 || いくつかのセキュリティ問題(8件)を修正。
|-
| nowrap|ESR 17.0.9 || nowrap|2013年9月17日 || いくつかのセキュリティ問題(9件)を修正。
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| nowrap|ESR 17.0.10 || nowrap|2013年10月29日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
|-
| nowrap|ESR 17.0.11 || nowrap|2013年11月19日 || いくつかのセキュリティ問題を修正。
|}
=== 24系列 ===
Thunderbird 17.0系列に続くメジャーバージョンアップ。通常版とESR版が統合された。
Thunderbird 24系列のリリース版は、Firefox ESR 24系列相当の内容となった。Thunderbird 18.0から23.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
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| nowrap|24.0 || nowrap|2013年9月17日 || メールをスレッド単位で無視できるようになった。IDNに基づくメールアドレスにメールを送れるようになった。編集ウィンドウでのズーム機能の実装。編集ウィンドウでの {{Keypress|Ctrl}} + {{Keypress|+}}、{{Keypress|Cmd}} + {{Keypress|+}}、{{Keypress|Ctrl}} + {{Keypress|-}}、{{Keypress|Cmd}} + {{Keypress|-}}の振る舞いの変更。Twitterにおいてツイートへの返信がすべてのユーザに対して送られるようになった。フィルタリストダイアログの操作性の向上。チャットで言及されたユーザの名前がハイライトされるようになった。IRCでの長いメッセージが分割されて送信され、省略されなくなった。セキュリティ修正(13件)。
|-
| nowrap|24.0.1 || nowrap|2013年10月11日 || メール編集時のスペルチェック機能をオフにできない不具合を修正。ニュースグループ購読ダイアログ表示時にクラッシュする場合がある不具合を修正。表示色のコントラストに関する問題を修正。
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| nowrap|24.1.0 || nowrap|2013年10月29日 || 署名が可読性を失うほど白に近い灰色で表示される問題を修正。メールに返信時に、自動 CC が動作しない場合がある問題を修正。セキュリティ修正(9件)。
|-
| nowrap|24.1.1 || nowrap|2013年11月19日 || セキュリティ修正(1件)。
|-
| nowrap|24.2.0 || nowrap|2013年12月10日 || 複数の署名がついた長いメールを読めなくなる場合がある不具合を修正。ローカルフォルダが標準と異なる場所に設定されている場合、アカウント情報を編集できなくなる場合がある不具合を修正。セキュリティ修正(9件)。
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| nowrap|24.3.0 || nowrap|2014年2月4日 || reply-to ヘッダの取り扱いを修正。セキュリティ修正(7件)。
|-
| nowrap|24.4.0 || nowrap|2014年3月18日 || 返信時の BCC の取り扱いを修正。セキュリティ修正(10件)。
|-
| nowrap|24.5.0 || nowrap|2014年4月29日 || セキュリティ修正(8件)。
|-
| nowrap|24.6.0 || nowrap|2014年6月10日 || セキュリティ修正(3件)。
|-
| nowrap|24.7.0 || nowrap|2014年7月22日 || セキュリティ修正(6件)。
|-
| nowrap|24.8.0 || nowrap|2014年9月2日 || セキュリティ修正(2件)。
|-
| nowrap|24.8.1 || nowrap|2014年9月24日 || セキュリティ修正(1件)。
|}
=== 31系列 ===
Thunderbird 24.0系列に続くメジャーバージョンアップ。次のメジャーバージョンアップは、Thunderbird 38の予定。
Thunderbird 31系列のリリース版は、Firefox ESR 31系列相当の内容となる。Thunderbird 25.0から30.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|31.0 || nowrap|2014年7月22日 || 名前もしくはメールアドレスの一部を入力することで、補完が利用できるようになった。ニュースグループへのメール作成時にニュースグループ名が補完されるようになった。NTLMv2以前の安全でない[[NT LAN Manager|NTLM]]認証が利用できなくなった。セキュリティ修正(10件)。
|-
| nowrap|31.1.0 || nowrap|2014年9月2日 || サイズの大きいアドレス帳に対する補完の性能を向上。いくつかの種類のIMAPサーバ上でフォルダ検索が遅くなる問題を修正。タイトルバーやツールバーにおける、テーマに関するいくつかの問題を修正。セキュリティ修正(5件)。
|-
| nowrap|31.1.1 || nowrap|2014年9月9日 || メーリングリストの自動補完に関する問題を修正。起動時にクラッシュすることがある問題を修正。
|-
| nowrap|31.1.2 || nowrap|2014年9月24日 || HTMLメールでアンカーリンクが機能しない問題を修正。セキュリティ修正(1件)。
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| nowrap|31.2.0 || nowrap|2014年10月14日 || 同一の名前を持つカードが連絡帳内にある場合、メールが誤送信されることがある不具合を修正。セキュリティ修正(6件)。
|-
| nowrap|31.3.0 || nowrap|2014年12月1日 || アドレスリストの編集中に、LDAPの自動補完が終了し空白のエントリーができることがある不具合を修正。チャンネルから離れる際に、チャンネルの参加者が表示から削除されない不具合を修正。標準のクライアントを設定するダイアログ中の「統合をスキップ」を認識しない不具合を修正。セキュリティ修正(6件)。
|-
| nowrap|31.4.0 || nowrap|2015年1月13日 || 日本語環境のOS X版における問題点を修正。Thunderbird内で拡張をインストールする場合、拡張をファイルとしてダウンロードしインストールする必要がなくなった。セキュリティ修正(3件)。
|-
| nowrap|31.5.0 || nowrap|2015年2月24日 || セキュリティ修正(5件)。
|-
| nowrap|31.6.0 || nowrap|2015年3月31日 || セキュリティ修正(5件)。
|-
| nowrap|31.7.0 || nowrap|2015年5月12日 || セキュリティ修正(6件)。
|}
=== 38系列 ===
Thunderbird 31.0系列に続くメジャーバージョンアップ。次のメジャーバージョンアップは、Thunderbird 45の予定。
Thunderbird 38系列のリリース版は、Firefox ESR 38系列相当の内容となる。Thunderbird 32.0から38.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|38.0.1 || nowrap|2015年6月11日 || [[Gmail]]の認証に[[OAuth2]]を利用可能になった。[[Lightning (ソフトウェア) |Lightning]]を同梱。ほか
|-
| nowrap|38.1.0 || nowrap|2015年7月9日 || プレーンテキストエディタにコピー&ペーストをすると、引用された文から新しい行が消えることがある不具合を修正。Newsgroups: 以降のグループの区切り文字がカンマではなく、カンマ + 空白文字だったことによる、クロスポストできない不具合を修正。Exchangeサーバ経由でメールを送ることができない不具合を修正 (NTLM)。GB2312エンコードされた漢字が表示されない不具合を修正。接続するサーバにimap.gmail.comもしくはsmtp.gmail.comと指定した場合、GMailのOAuth2認証が動作しない不具合を修正
|-
| nowrap|38.2.0 || nowrap|2015年8月14日 || クラッシュを避けるため、ハードウェアアクセラレーションが標準ではオフになったほか、いくつかのバグを修正。いくつかの理由により、maildirをUIから設定できなくなった
|-
| nowrap|38.3.0 || nowrap|2015年9月29日 || 今回は安定性の向上がメインで、脆弱性の修正はない。保存した添付ファイルなどのダウンロード履歴を表示する[保存したファイル]タブにフィルター機能が追加。[保存したファイル]タブの右上にあるテキストボックスにキーワードを入力すると、名前がそれにマッチするファイルだけが絞り込み表示される。また、ダウンロード履歴を全て削除する[ログを消去]ボタンも追加されている。その他にも、Maildir形式のメールにフィルターを適用するとクラッシュする不具合や、長い参照ヘッダーをもつメールが正しく復号されない問題なども解消した。
|-
| nowrap|38.4.0 || nowrap|2015年11月23日 || maildir形式のフォルダからmbox形式のフォルダへ複数のメールの移動に失敗する問題を修正
|-
| nowrap|38.5.0 || nowrap|2015年12月23日 || アドレス帳サイドバーにおいて、直近に選択したアドレス帳を記憶するようになった。Microsoftの新しい署名要件に合わせるため、SHA-256で署名された証明書へ切り替えるための準備(Windows版)
|-
| nowrap|38.5.1 || nowrap|2016年1月7日 || Microsoftの新しい署名要件に合わせるため、SHA-256で署名された証明書を使用するようになった(Windows版)
|-
| nowrap|38.6.0 || nowrap|2016年2月16日 || ローミングプロファイルを使用していると、Thunderbirdの更新後にメッセージが表示されなくなる問題を修正 (Lightningの更新に関連、Windows版)。選択したフォルダ以外にもフィルタが動作する問題を修正
|-
| nowrap|38.7.0 || nowrap|2016年3月14日 || セキュリティ修正
|-
| nowrap|38.7.1 || nowrap|2016年3月25日 || Graphiteライブラリの無効化
|-
| nowrap|38.7.2 || nowrap|2016年4月4日 || Graphiteライブラリの無効化
|-
| nowrap|38.8.0 || nowrap|2016年5月4日 || セキュリティ修正
|}
=== 45系列 ===
Thunderbird 38.0系列に続くメジャーバージョンアップ。次のメジャーバージョンアップは、Thunderbird 52の予定。
Thunderbird 45系列のリリース版は、Firefox ESR 45系列相当の内容となる。Thunderbird<!--39.0Beta版はリリース予定なし-->40.0から44.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|45.0 || nowrap|2016年4月12日 || XMPP関連の改善、OpenStreetMapの採用。ほか
|-
| nowrap|45.1.0 || nowrap|2016年5月11日 || 複数のバグ修正
|-
| nowrap|45.1.1 || nowrap|2016年5月31日 || 複数のバグ修正
|-
| nowrap|45.2.0 || nowrap|2016年6月30日 || 複数のバグ修正
|-
| nowrap|45.3.0 || nowrap|2016年8月30日 || 複数のバグ修正
|}
=== 52系列 ===
Thunderbird 45.0系列に続くメジャーバージョンアップ。
Thunderbird 52系列のリリース版は、Firefox ESR 52系列相当の内容となる。Thunderbird 46.0から51.0は、ベータ版までの公開で、リリース版は公開されなかった。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|52.0 || nowrap|2017年4月4日 ||
|-
| nowrap|52.0.1 || nowrap|2017年4月14日 || 複数のバグ修正
|-
| nowrap|52.1.0 || nowrap|2017年4月30日 || 複数のバグ修正と、21件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|52.1.1 || nowrap|2017年5月15日 || 複数のバグ修正
|-
| nowrap|52.2.0 || nowrap|2017年6月14日 || 複数のバグ修正と、21件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|52.3.0 || nowrap|2017年8月16日 || 複数のバグ修正と、16件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|52.4.0 || nowrap|2017年10月6日 || 複数のバグ修正と、9件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|52.5.0 || nowrap|2017年11月23日 || 複数のバグ修正と、3件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|52.6.0 || nowrap|2018年1月25日 || 複数のバグ修正と、32件のセキュリティ修正
|-
|52.7.0
|2018年3月23日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5669|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 52.7.0 がリリースされた|accessdate=2018-11-06|website=mozillazine.jp}}</ref>
|複数のバグ修正と、6件のセキュリティ修正
|-
|52.8.0
|2018年5月18日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5703|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 52.8.0 がリリースされた|accessdate=2018-11-06|website=mozillazine.jp}}</ref>
|複数のバグ修正と、13件のセキュリティ修正
|-
|52.9.0
|2018年7月3日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5741|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 52.9.1 がリリースされた|accessdate=2018-11-06|website=mozillazine.jp}}</ref>
|複数のバグ修正と、12件のセキュリティ修正
|}
=== 60系列 ===
52系列に続くメジャーバージョンアップ。WebExtensionが有効化されたため、旧式のアドオンは使用できなくなった。また、[[Rust (プログラミング言語)|Rust]]をベースとしたMozillaの最新技術を利用するようになった。
{| class="wikitable"
|-
! バージョン !! リリース日 !! 備考
|-
| nowrap|60.0 || nowrap|2018年8月6日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5752|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60 がリリースされた|accessdate=2018-11-06|website=mozillazine.jp}}</ref>|| 正式リリース 新機能が19件、変更が19件、セキュリティ修正が14件
|-
|60.2.1
|2018年10月2日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5790|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.2.1 がリリースされた|accessdate=2018-11-06|website=mozillazine.jp}}</ref>
|無効化されていた自動更新が再開。他、変更が2件、修正が9件
|-
|60.3.0
|2018年10月31日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5807|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.3.0 がリリースされた|accessdate=2018-11-06|website=mozillazine.jp}}</ref>
|変更が9件、セキュリティ修正が5件
|-
|60.3.1
|2018年11月15日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5820|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.3.1 がリリースされた|accessdate=2018-12-16}}</ref>
|[[HTTP cookie|Cookie]]の削除ができない問題の修正。他、5件の修正
|-
|60.3.2
|2018年11月30日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5827|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.3.2 がリリースされた|accessdate=2018-12-16}}</ref>
|特定の環境において、macOS上のThunderbirdがいわゆるAppleDoubleフォーマットと呼ばれる添付ファイルを送信してしまう問題の修正。他、7件の修正
|-
|60.3.3
|2018年12月5日<ref>{{Cite web|和書|url=https://mozillazine.jp/?p=5829|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.3.3 がリリースされた|accessdate=2018-12-16}}</ref>
|3件の修正
|-
|60.4.0
|2018年12月20日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.4.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=5848|accessdate=2019-02-03}}</ref>
|FileLink APIの実装。他、2件の修正、6件のセキュリティ修正
|-
|60.5.0
|2019年1月29日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.5.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=5866|accessdate=2019-02-03}}</ref>
|新機能が5件、修正が2件、セキュリティ修正が4件
|-
|60.5.1
|2019年2月14日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.5.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=5879|accessdate=2019-02-17}}</ref>
|一部のサーバーで[[CalDAV|CalDav]]のアクセスが機能しない問題の修正。他、4件の修正
|-
|60.5.2
|2019年2月25日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.5.2 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=5890|accessdate=2019-03-19}}</ref>
|3件の修正
|-
|60.5.3
|2019年3月5日
|1件の修正
|-
|60.6.0
|2019年3 月20 日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.6.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=5918|accessdate=2019-05-11}}</ref>
|10件のセキュリティ修正
|-
|60.6.1
|2019年3月25日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.6.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=5930|accessdate=2019-05-11}}</ref>
|2件のセキュリティ修正
|-
|60.7.0
|2019年5月21日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.7.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=5977|accessdate=2019-06-02}}</ref>
|1件の変更点、16件のセキュリティ修正
|-
|60.7.1
|2019年6月13日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.7.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6001|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|[[S/MIME]]署名を行うときに、スマートカードのPIN入力のためのプロンプトが表示されない問題の修正および、4件のセキュリティ修正
|-
|60.7.2
|2019年6月20日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.7.2 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6013|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|2件のセキュリティ修正
|-
|60.8.0
|2019年7月9日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.8.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6046|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|予定の時間の編集における、英語以外のロケールでの午前/午後の設定に関する問題の修正および、10件のセキュリティ修正
|-
|60.9.0
|2019年9月6日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.9.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6099|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|Office 365のExchangeアカウントへの接続
|-
|60.9.1
|2019年11月5日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 60.9.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6202|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|OAuth2に関する問題の修正
|-
|}
=== 68系列 ===
2019年8月27日にリリース<ref>{{Cite web|和書|title=「Thunderbird 68」を正式公開 ~「Thunderbird 60」系統からのメジャーバージョンアップ/「Firefox ESR 68」ベースとなったほか、多くの新機能が導入|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1203921.html|website=窓の杜|date=2019-08-28|accessdate=2020-03-04|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref><ref name="mzzn68">{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6067|accessdate=2020-03-04}}</ref>
* アカウントの全フォルダーを既読にできるようになった
* フィルターを定期的に実行できるようになった
* Yandex での OAuth2 認証のサポート
* IMAPプロトコルでのTCP Keep-Aliveをサポート
{| class="wikitable"
|+
!バージョン
!リリース日
!備考
|-
| nowrap|68.0
| nowrap|2019年8月27日<ref name="mzzn68" />
|正式リリース
|-
| nowrap|68.1.0
| nowrap|2019年9月11日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.1.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6106|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|複数の修正と、7件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.1.1
| nowrap|2019年9月25日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.1.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6132|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|IMAP メッセージの添付ファイルに関する問題や、メーリングリストの編集が機能しない問題など複数の修正および、1件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.1.2
| nowrap|2019年10月10日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.1.2 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6145|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|[[CSV形式|CSV]]からのアドレス帳のインポートに関する問題など複数の修正
|-
| nowrap|68.2.0
| nowrap|2019年10月22日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.2.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6174|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|アドオンからメッセージの表示と検索を行うためのAPIが追加された。9件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.2.1
| nowrap|2019年10月31日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.2.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6185|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|表示言語を詳細設定から選択できるようになった
|-
| nowrap|68.2.2
| nowrap|2019年11月7日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.2.2 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6193|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|64ビット版のThunderbirdをバージョン60から68にアップグレードすると、新しいプロファイルが作成されてしまう問題の修正
|-
| nowrap|68.3.0
| nowrap|2019年12月3日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.3.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6214|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|アドオン検索から開かれたタブなど、コンテンツタブ内でナビゲーションボタンを利用可能になった。8件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.3.1
| nowrap|2019年12月16日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.3.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6229|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|2件の変更と、5件の修正
|-
| nowrap|68.4.1
| nowrap|2020年1月9日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.4.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6248|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|特定の環境で、ファイル名に空白を含む添付ファイルを開くことができない問題など複数の修正1件の変更および、7件のセキュリティ修正。68.4.0はスキップされた。
|-
| nowrap|68.4.2
| nowrap|2020年1月24日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.4.2 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6260|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|タスクと予定のツリーの色が、ダークテーマに合うよう変更された。LDAP検索に失敗したS/MIME証明書の扱いに関する問題など複数の修正
|-
| nowrap|68.5.0
| nowrap|2020年2月11日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.5 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6279|accessdate=2020-03-04}}</ref>
|POP3アカウントにおいてOAuth 2.0認証をサポート。7件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.6.0
| nowrap|2020年3月12日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.6 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6299|accessdate=2020-05-06}}</ref>
|7件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.7.0
| nowrap|2020年4月8日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.7 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6323|accessdate=2020-05-06}}</ref>
|5件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.8.0
| nowrap|2020年5月5日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.8 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6342|accessdate=2020-05-06}}</ref>
|6件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.8.1
| nowrap|2020年5月22日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.8.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6362|accessdate=2020-05-23}}</ref>
|3件の修正
|-
| nowrap|68.9.0
| nowrap|2020年6月3日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.9 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6381|accessdate=2020-06-04}}</ref>
|3件の修正、5件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.10.0
| nowrap|2020年7月1日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.10 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6410|accessdate=2020-07-02}}</ref>
|2件の修正、6件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.11.0
| nowrap|2020年7月30日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.11 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6487|accessdate=2020-07-30}}</ref>
|1件の修正、4件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.12.0
| nowrap|2020年8月25日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.12 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6531|accessdate=2020-08-27}}</ref>
|3件のセキュリティ修正
|-
| nowrap|68.12.1
| nowrap|2020年10月1日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 68.12.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6611|accessdate=2020-10-02}}</ref>
|1件の変更
|}
=== 78系列 ===
2020年7月17日にリリース<ref name="mzzn78">{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6451|accessdate=2020-07-19}}</ref>
* 旧形式のアドオンのサポートを終了、MailExtensions形式のアドオンのみサポート。
* 上記に伴い[[Enigmail]]が使えなくなることから、[[Pretty Good Privacy#OpenPGP|OpenPGP]]のサポート。
{| class="wikitable"
|+
!バージョン
!リリース日
!備考
|-
|78.0
|2020年7月17日<ref name="mzzn78" />
|正式リリース。OpenPGPの一部の実装(既定で無効)
|-
|78.0.1
|2020年7月21日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.0.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6464|accessdate=2020-07-22}}</ref>
|11件の修正
|-
|78.1.0
|2020年7月30日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.1.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6484|accessdate=2020-07-31}}</ref>
|1件の変更、7件の修正、10件のセキュリティ修正。OpenPGPの実装の完了(既定で無効)
|-
|78.1.1
|2020年8月6日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.1.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6504|accessdate=2020-08-07}}</ref>
|3件の変更、6件の修正
|-
|78.2.0
|2020年8月25日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.2.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6526|accessdate=2020-08-26}}</ref>
|5件の変更、22件の修正、3件のセキュリティ修正
|-
|78.2.1
|2020年8月29日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.2.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6544|accessdate=2020-08-30}}</ref>
|2件の変更、2件の修正。OpenPGPが既定で有効化
|-
|78.2.2
|2020年9月10日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.2.2 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6572|accessdate=2020-09-13}}</ref>
|3件の変更、12件の修正
|-
|78.3.0
|2020年9月24日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.3.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6598|accessdate=2020-09-26}}</ref>
|6件の変更、7件の修正、4件のセキュリティ修正
|-
|78.3.1
|2020年9月26日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.3.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6605|accessdate=2020-09-26}}</ref>
|1件の修正
|-
|78.3.2
|2020年10月7日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.3.2 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6615|accessdate=2020-10-07}}</ref>
|1件の変更、6件の修正
|-
|78.3.3
|2020年10月16日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.3.3 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6625|accessdate=2020-10-18}}</ref>
|4件の修正
|-
|78.4.0
|2020年10月20日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.4.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6638|accessdate=2020-10-22}}</ref>
|3件の変更、8件の修正、2件のセキュリティ修正
|-
|78.4.1
|2020年11月6日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.4.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6670|accessdate=2020-11-07}}</ref>
|9件の修正
|-
|78.4.2
|2020年11月9日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.4.2 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6678|accessdate=2020-11-10}}</ref>
|1件のセキュリティ修正
|-
|78.4.3
|2020年11月11日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.4.3 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6684|accessdate=2020-11-12}}</ref>
|2件の修正
|-
|78.5.0
|2020年11月17日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.5.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6707|accessdate=2020-11-19}}</ref>
|1件の変更、4件の修正、12件のセキュリティ修正
|-
|78.5.1
|2020年12月2日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.5.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6719|accessdate=2020-12-02}}</ref>
|2件の変更、11件の修正、1件のセキュリティ修正
|-
|78.6.0
|2020年12月15日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.6.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6738|accessdate=2020-12-16}}</ref>
|4件の変更、16件の修正、8件のセキュリティ修正
|-
|78.6.1
|2021年1月11日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.6.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6763|accessdate=2021-01-13}}</ref>
|1件の変更、13件の修正、1件のセキュリティ修正
|-
|78.7.0
|2021年1月26日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.7.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6791|accessdate=2021-01-29}}</ref>
|2件の変更、10件の修正、6件のセキュリティ修正
|-
|78.7.1
|2021年2月5日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.7.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6800|accessdate=2021-02-06}}</ref>
|1件の変更、5件の修正
|-
|78.8.0
|2021年2月23日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.8.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6820|accessdate=2021-02-24}}</ref>
|7件の修正、4件のセキュリティ修正
|-
|78.8.1
|2021年3月8日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.8.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6832|accessdate=2021-03-09}}</ref>
|14件の修正
|-
|78.9.0
|2021年3月23日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.9.0 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6846|accessdate=2021-03-27}}</ref>
|10件の修正、5件のセキュリティ修正
|-
|78.9.1
|2021年4月8日<ref>{{Cite web|和書|title=MozillaZine.jp » Blog Archive » Thunderbird 78.9.1 がリリースされた|url=https://mozillazine.jp/?p=6859|accessdate=2021-04-09}}</ref>
|2件の修正、3件のセキュリティ修正
|}
=== 91系列 ===
2021年8月11日にリリース
* 新しいアカウント設定画面
* 添付のドラッグアンドドロップ
* UI Density Control
* カレンダーの改善
* より良いダークテーマ
* PDF Viewer
* [[Appleシリコン]]のネイティブサポート
* [[CardDAV]]形式アドレス帳のサポート
* 印刷UIの改良
* アカウント表示順の変更が可能に
* ダブルクリックによるICSファイルの登録
{| class="wikitable"
!バージョン
!リリース日
!備考
|-
| nowrap|91.0
| nowrap|2021年8月11日
|正式リリース
|-
| nowrap|91.0.1
| nowrap|2021年8月17日
|2件の修正
|-
| nowrap|91.0.2
| nowrap|2021年8月23日
|2件の追加、1件の変更、7件の修正
フィルター編集においてタグが色付けされて表示されるようになった。
Windows版で未読メッセージ数のバッジをタスクバー上のアイコンに表示させない設定が追加された。
|-
| nowrap|91.0.3
| nowrap|2021年8月26日
|12件の修正
|-
| nowrap|91.1.0
| nowrap|2021年9月7日
|1件の変更、5件の修正
|-
| nowrap|91.1.1
| nowrap|2021年9月16日
|1件の追加、1件の変更、21件の修正
メニューに件名の暗号化を無効にする項目が追加された。
|-
| nowrap|91.1.2
| nowrap|2021年9月28日
|1件の変更、10件の修正
|-
| nowrap|91.2.0
| nowrap|2021年10月7日
|1件の変更、9件の修正
|-
| nowrap|91.2.1
| nowrap|2021年10月21日
|1件の追加、15件の修正
設定にRSSフィードの更新情報取得に失敗した際の自動停止の無効化機能を追加された。
|-
| nowrap|91.3.0
| nowrap|2021年11月3日
|12件の修正
|-
| nowrap|91.3.1
| nowrap|2021年11月15日
|4件の変更、9件の修正
|-
| nowrap|91.3.2
| nowrap|2021年11月19日
|2件の変更、12件の修正
|-
| nowrap|91.4.0
| nowrap|2021年12月7日
|16件の修正
|-
| nowrap|91.4.1
| nowrap|2021年12月17日
|20件の修正
|-
| nowrap|91.5.0
| nowrap|2022年1月11日
|3件の修正
|-
| nowrap|91.5.1
| nowrap|2022年1月24日
|5件の修正
|-
| nowrap|91.6.0
| nowrap|2022年2月8日
|1件の追加、5件の修正
大きな添付ファイルを送信する際にFileLink機能の使用を促すようになった
|-
| nowrap|91.6.1
| nowrap|2022年2月15日
|1件の変更、3件の修正
|-
| nowrap|91.6.2
| nowrap|2022年3月5日
|2件の修正
|-
| nowrap|91.7.0
| nowrap|2022年3月8日
|1件の変更、5件の修正
|-
| nowrap|91.8.0
| nowrap|2022年4月5日
|1件の変更、8件の修正
|-
| nowrap|91.8.1
| nowrap|2022年4月18日
|6件の修正
|-
| nowrap|91.9.0
| nowrap|2022年5月3日
|1件の変更、5件の修正
|-
| nowrap|91.9.1
| nowrap|2022年5月20日
|1件の修正
|-
| nowrap|91.10.0
| nowrap|2022年5月31日
|2件の修正
|-
| nowrap|91.11.0
| nowrap|2022年6月28日
|3件の修正
|-
| nowrap|91.12.0
| nowrap|2022年7月26日
|1件の変更、2件の修正
|-
| nowrap|91.13.0
| nowrap|2022年8月23日
|1件の変更、1件の修正
|-
| nowrap|91.13.1
| nowrap|2022年9月19日
|1件の修正(Thunderbird 102.2.1で修正された重大なセキュリティ問題のバックポート)
|}
=== 102系列 ===
2022年6月20日にリリース
* メッセージヘッダーの再設計
* 新しいアドレス帳
* 新しいインポート・エクスポートウィザード
* 新しいスペースツールバー
* [[Matrix (プロトコル)|Matrix]]チャットプロトコルのサポート
* 新しいアイコンとデフォルトのフォルダーカラー
* 電子メールアカウントなしでのThunderbirdの利用(例.RSSリーダーとしての利用)
* [[OpenPGP]]に関する多数の改良
* CalendarLocalパーサーの[[JavaScript]]への置き換え
* TodayペインのカレンダーUIの改良
* JavaScriptによるPOP3の実装
* アカウント設定をmacOSのアプリケーションメニューへ移動
{| class="wikitable"
!バージョン
!リリース日
!備考
|-
| nowrap|102.0
| nowrap|2022年6月29日
|正式リリース
|-
| nowrap|102.0.1
| nowrap|2022年7月5日
|10件の修正
|-
| nowrap|102.0.2
| nowrap|2022年7月12日
|1件の変更、15件の修正
|-
| nowrap|102.0.3
| nowrap|2022年7月20日
|1件の変更、11件の修正
|-
| nowrap|102.1.0
| nowrap|2022年7月26日
|6件の修正
|-
| nowrap|102.1.1
| nowrap|2022年8月8日
|1件の変更、31件の修正、3件の未解消
|-
| nowrap|102.1.2
| nowrap|2022年8月9日
|1件の修正、4件の未解消
|-
| nowrap|102.2.0
| nowrap|2022年8月23日
|1件の追加、5件の変更、15件の修正、2件の未解消
設定エディターにメッセージ編集画面での「OpenPGP エンドツーエンド暗号化が可能です」のリマインダーを非表示にする項目が追加された。
|-
| nowrap|102.2.1
| nowrap|2022年9月1日
|1件の追加、1件の変更、15件の修正、2件の未解消
Thunderbird起動時にカレンダー画面を表示させるコマンドライン引数が追加された。
|-
| nowrap|102.2.2
| nowrap|2022年9月7日
|1件の変更、7件の修正
|-
| nowrap|102.3.0
| nowrap|2022年9月20日
|2件の変更、17件の修正
|-
| nowrap|102.3.1
| nowrap|2022年9月28日
|2件の変更、5件の修正
|-
| nowrap|102.3.2
| nowrap|2022年10月7日
|1件の変更、15件の修正
|-
| nowrap|102.3.3
| nowrap|2022年10月12日
|1件の追加、2件の変更、6件の修正
|-
| nowrap|102.4.0
| nowrap|2022年10月19日
|1件の変更、11件の修正
|-
| nowrap|102.4.1
| nowrap|2022年10月26日
|1件の追加、9件の修正
[[vCard]]内の正しくない形式の日付を検知し、エラーとしてレポートする機能が追加された
|-
| nowrap|102.4.2
| nowrap|2022年11月4日
|1件の変更、11件の修正
|-
| nowrap|102.5.0
| nowrap|2022年11月15日
|1件の変更、12件の修正
|-
| nowrap|102.5.1
| nowrap|2022年12月1日
|1件の変更、3件の修正
|-
| nowrap|102.6.0
| nowrap|2022年12月13日
|8件の修正
|-
| nowrap|102.6.1
| nowrap|2022年12月20日
|4件の修正
|-
| nowrap|102.7.0
| nowrap|2023年1月19日
|1件の追加、10件の修正、1件の未解消
EnterpriseポリシーでThunderbird固有の設定がサポートされた
|-
| nowrap|102.7.1
| nowrap|2023年2月1日
|7件の修正
|-
| nowrap|102.7.2
| nowrap|2023年2月7日
|1件の修正
|-
| nowrap|102.8.0
| nowrap|2023年2月15日
|2件の追加、3件の修正、1件の未解消
トラブルシューティング情報のページにThunderbirdが使用中のOpenPGPバックエンドライブラリのバージョン情報を表示するようになった
ビルドオプションが追加され、RNPライブラリーのバックエンドにOpenSSLを指定可能になった
|-
| nowrap|102.9.0
| nowrap|2023年3月14日
|5件の修正
|-
| nowrap|102.9.1
| nowrap|2023年3月28日
|4件の修正
|-
| nowrap|102.10.0
| nowrap|2023年4月11日
|1件の変更、2件の修正
|-
| nowrap|102.10.1
| nowrap|2023年4月24日
|4件の修正
|-
| nowrap|102.11.0
| nowrap|2023年5月10日
|3件の修正
|-
| nowrap|102.11.1
| nowrap|2023年5月25日
|5件の修正
|-
| nowrap|102.11.2
| nowrap|2023年5月27日
|1件の修正
|-
| nowrap|102.12.0
| nowrap|2023年6月7日
|4件の修正
|-
| nowrap|102.13.0
| nowrap|2023年7月5日
|1件の変更、2件の修正
about:dialogからリリースノートを参照する際にデフォルトブラウザーが使用されるようになった
|-
|102.13.1
|2023年7月26日
|1件の修正
|-
|102.14.0
|2023年8月2日
|1件の修正
|-
|102.15.0
|2023年8月30日
|2件の修正
|-
|102.15.1
|2023年9月12日
|1件の修正
|}
=== 115系列 ===
2023年7月11日にリリース
* Dynamic Unified Toolbar
* 美しく一新されたアイコン
* UI密度の簡単な制御
* アプリケーションメニューの直感的な操作
* ソート可能なフォルダーモードの搭載
* 見つけやすいタグビューの搭載
* モダンなカードビューの搭載
* アドレス帳の改良
* アクセサビリティーの向上
* カレンダーデザインの改良
{| class="wikitable"
|+
!バージョン
!リリース日
!備考
|-
| nowrap|115.0
| nowrap|2023年7月11日
|27件の追加、17件の変更、78件の修正
|-
|115.0.1
|2023年7月20日
|1件の変更、13件の修正
about:dialogにSupernovaブランドを追加した
|-
|115.1.0
|2023年8月1日
|2件の変更、11件の修正
クイックフィルターバーはデフォルトが非表示となった
メールタブツールバーと統合ツールバーの一貫性を保つための高さの調整
|-
|115.1.1
|2023年8月15日
|14件の修正
|-
|115.2.0
|2023年8月30日
|1件の追加、2件の変更、16件の修正
MSIX形式のパッケージがarchive.mozilla.orgで提供されるようになった
サイズ、未読、総数のカラムが右寄せに変更
メッセージリストヘッダーのニュースグループ名が省略されるようになった
|-
|115.2.1
|2023年9月11日
|1件の追加、8件の修正
|-
|115.2.2
|2023年9月12日
|1件の修正
|-
|115.2.3
|2023年9月20日
|1件の変更、22件の修正、1件の未解消
カードビューと垂直レイアウトが新規プロファイルではフォルト値となった
|-
|115.3.0
|2023年9月26日
|13件の修正
|-
|115.3.1
|2023年9月29日
|4件の修正
|-
|115.3.2
|2023年10月11日
|11件の修正
|-
|115.3.3
|2023年10月18日
|6件の修正
|-
|115.4.1
|2023年10月25日
|1件の追加、23件の修正
ニュースグループの利用時にアカウントセントラルへ「ニュースグループ購読の管理」が表示されるようになった
|-
|115.4.2
|2023年11月6日
|13件の修正
|-
|115.4.3
|2023年11月16日
|10件の修正
|-
|115.5.0
|2023年11月21日
|6件の修正
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モナコ
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モナコ公国(モナコこうこく、プランシポテ・ドゥ・モナコ、フランス語: Principauté de Monaco)、モナコ(Monaco)は、イタリアのリグーリア州に隣接するコート・ダジュールに位置する西ヨーロッパの主権都市国家、ミニ国家である。北、東、西はフランスと国境を接し、南は地中海に面している。
世界で最も物価が高く、裕福な場所のひとつとして広く知られている。公用語はフランス語であるが、モナコ語(リグリア語の方言)、イタリア語、英語も話されており、多くの人が理解している。
面積は2.1 km (0.81 sq mi)で、バチカン市国に次いで世界で2番目に小さい主権国家であるが、1平方キロメートルあたりの人口が19,009人であることから、世界で最も人口密度の高い主権国家となっている。モナコの陸地の境界線は5.47km、海岸線は約3.83kmで、その幅は1,700〜349mの間である。国内で最も高い場所は、レ・レヴォワール区のモント・アゲルの斜面にあるシュマン・デ・レヴォワールと名付けられた細い小道で、海抜は161mである。
公国はイタリアとの国境から約15kmに位置している。最も人口の多い区はラルボット/バス・ムーラン区で、2008年時の人口は5,443人である。埋め立てにより、モナコの国土は20%拡大した。2005年の面積はわずか1.974平方キロメートルであった。
モナコ公国はアルベール2世を国家元首とする立憲君主制を採用している。アルベール2世は立憲君主であるが、絶大な政治力を持っており、国務大臣が政府の長になる。国務大臣にはモナコ人とフランス人が就くことができ、君主は任命の前にフランス政府に相談する。1297年以来、グリマルディ家が一時的に中断しながらモナコを統治してきた。モナコの主権は、1861年の仏・モネガスク条約によって正式に認められ、1993年には国連の正式な投票権を持つ国となった。モナコの独立性と独立した外交政策にもかかわらず、その防衛はフランスの責任である。しかし、モナコは2つの小さな軍隊を保持している。
19世紀後半、モナコ初のカジノであるモンテカルロ・カジノがオープンし、パリとの鉄道も開通したことで、経済発展が加速した。その後も、温暖な気候や景観、ギャンブル施設の充実などから、観光地や富裕層の保養地としての地位を確立してきた。
近年では主要な銀行の中心地となり、サービス業や小規模で高付加価値の無公害産業に経済の多様化を図っている。モナコは所得税がなく、事業税も低く、タックス・ヘイヴンとして有名である。居住者の30%以上がミリオネアで、2018年には不動産価格が1平方メートルあたり10万ユーロ(14万2,000ドル)に達している。モナコは正式には欧州連合(EU)の一員ではないが、税関や国境管理など、EUの一部の政策に参加している。フランスとの関係から、モナコは唯一の通貨としてユーロを使用しているが、それ以前はモネガスク・フランを使用していた。モナコは2004年に欧州評議会に加盟し、フランコフォニー国際機関(OIF)にも加盟している。
F1グランプリの原型の一つであるストリートサーキットのモーターレース、モナコグランプリが毎年開催されている。フランス・リーグ・アンに所属するサッカーのクラブチームASモナコがあり、これまでに通算8度のリーグ優勝に輝いている。海洋保護の研究の中心地であるモナコには、世界で初めて保護された海洋生息地のひとつ、海洋博物館、国連組織の中で唯一の海洋研究所である国際原子力機関環境研究所がある。
モナコという地名は、現在のモナコの近隣に6世紀にあったポカイア人の入植地の名に由来する。その地はギリシャ語で「一軒家」を意味する Μόνοικος Monoikos の名で呼ばれていた。ギリシア神話では、ヘラクレスが現在のモナコの地を通りかかり土地の神々を退散させたとあり、それにちなんで1つの神殿が作られた。その1つの神殿が「一軒家」に転じ、地名が生じた。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世から1191年にこの土地を与えられたジェノヴァ共和国は、1228年に現在のモナコを建設した。1297年、ギベリン(皇帝派)に占領されていたモナコの要塞に、フランシスコ会の修道士姿に変装し法衣の下に武装して侵入したフランソワ・グリマルディらは、要塞の占拠に成功した。グリマルディは、現在のモナコ公家であるグリマルディ家の始祖である。そのため、グリマルディは、「狡猾な男」とあだ名される。1419年、グリマルディ家はアラゴン王国からモナコを購入し、正式な支配者となる。1528年、アンドレア・ドーリアがジェノヴァの貴族層と庶民層の合体を企て、そのために政権を特定の28氏族へ集中させた。グリマルディ家はその一つに数えられた。また、1612年から prince の称号を自称し始めた。オノレ2世の時代にはフランス王ルイ13世の保護下に入ることでスペイン(アラゴン王国の後身)の支配を抜け出し、歴代のモナコ公は独立君主であると同時にフランス王の臣下(ヴァランティノワ公爵)として宮廷で高い地位を占めた。
1793年、フランス革命軍がモナコを占領・併合した。1814年までモナコはフランス第一帝政の直接支配下におかれた。1815年に催されたウィーン会議の結果、モナコはサルデーニャ王国の保護下に入った。サルデーニャはジェノヴァの後継である。
1858年のプロンビエールの密約で、サルデーニャは、イタリア統一運動をフランスに支援してもらう代償として、1860年にはサヴォワ(サヴォワ県とオート=サヴォワ県)とニース伯領(アルプ=マリティーム県)をフランスに割譲する。モナコ公の課す重税に倦み、サルデーニャへの併合を希望するマントンとロクブリュヌは、モナコからの独立を宣言する。
シャルル3世は1861年、フランス・モナコ保護友好条約を締結、領土の95%にあたるマントンとロクブリュヌをフランスに売却し、見返りにモナコ公国の主権を回復した。
1911年、憲法を制定したことで立憲君主制となるも、モナコ大公は依然として絶対君主として振る舞い、アルベール1世はすぐに憲法を停止した。第一次世界大戦が勃発すると大公子ルイ(後のルイ2世)はフランス陸軍に志願、軍功をあげ将軍に上り詰めた。1918年、保護友好条約を再締結、フランスの保護国となった。ヴェルサイユ条約などの第一次世界大戦の講和条約においては、この条約を各国が承認する規定が設けられている。1922年、ルイ2世が即位する。モナコを文化・観光都市にする試みを続け、モナコ・グランプリの開催、ASモナコの創設などを行った。
第二次世界大戦中の1943年にイタリア軍がモナコを占領し、ファシスト政権を樹立した。ベニート・ムッソリーニの政権が崩壊すると、今度はナチス・ドイツのドイツ国防軍が占領した。ドイツは同地でもユダヤ人の迫害を行った。
ルイが1949年に死去すると、孫のレーニエ3世が即位した。1956年にはハリウッド女優のグレース・ケリーと結婚した。1962年、新憲法を制定した。この憲法で死刑が廃止され、女性参政権が実現し、また最高裁判所が設置された。1993年にモナコは国際連合に加盟した。
2005年、レーニエ3世が死去し、息子のアルベール2世が即位した。同年12月、フランス・モナコ友好協力条約を締結した。この条約は、グリマルディ家に跡継ぎがなくなっても公国は将来も存続することをフランスが保証する代わりに、モナコの防衛は今後もフランス軍が行うことを骨子としている。また、モナコの自主的外交における制限が緩和され、外国と国交を結ぶ際のフランスによる事前同意が不要になった。
政体はグリマルディ家が世襲する大公(公、プランス)を元首とする立憲君主制である。「公国」ながら日本ではしばしば元首を「大公」と呼ぶ背景は「公国」の概要の項目を参照。なお、1918年にフランスと結ばれた条約からモナコはフランスにより保護的な一定の主権の制限を受け、外交・軍事はフランスが責任を持っていた。この条約により、モナコ大公の即位継承にはフランスの同意が必要となり、また大公家が断絶した場合はフランスに編入されることになっていた。
その後、2005年の新条約ではフランスとの特別な協調関係は維持するが、外交面での制限が緩和され、大公家が断絶してもモナコ公国の存続を保証した。
元首である大公のもとに、首相に相当する「国務大臣」が任命されて政府を組織する。「国務大臣」の下に、対外関係省、財務経済省、内務省、社会厚生省、設備・環境・都市開発省をそれぞれ所掌する5名の「政府顧問」が置かれており、これが他国での大臣に相当する。
外交面では従来、モナコが他国と外交関係を結ぶ際にはフランスの事前同意が必要と定められていた。日本政府はこれをフランスとの条約とも併せて「国家主権の制限」と看做し、長らく正式な国交は樹立されなかったが、代わりにモナコ「名誉総領事館」(総領事館ではない)が、1973年に東京(東京都千代田区)に設置された。
外交に関するフランスとの規定は2005年の条約で改められ、フランスの事前同意が無くても国交を結べるようになり、日本とモナコの間でも2006年12月14日に外交関係が樹立され、2007年に駐フランス日本大使がモナコを兼轄することとなった。なお、モナコ国内に大使館はない。それまではモナコは、日本政府が承認している国の中で唯一、外交関係を有していない国だった。一方、モナコも日本を担当する大使を任命しているが、本国駐在であり、日本国内に大使館は置かれていない。
モナコは1993年に国連へ加盟しており、現在も国連と積極的に関わっている国の代表として認知されている。また2004年10月4日付で欧州評議会へ加盟している。欧州連合(EU)の加盟国ではないものの、フランスとの関税同盟および公式の通貨としてのユーロを通じて、EUの経済機構と密接な関連性を持ち合わせている。
国際水路機関(IHO)がモナコに本部を設置している。
・在留日本人数111人(2021年10月時点)
モナコは、1963年5月13日の関税条約によりフランスと関税同盟の関係にあり、EU関税法第3条第2項(a)の規定によりEUの加盟国ではないがEUの関税領域となっており、フランスとの境界に税関は存在しない。日本・EU経済連携協定第1・3条3の「欧州連合の関税領域の区域であって1の規定の対象でないもの並びに附属書3-E及び附属書3-Fに規定する区域についても適用する」に基づき、モナコ産品について、日本は日本・EU経済連携協定に基づくEPA税率を適用する。
軍事面では、フランスが領土防衛の責任を持つ。モナコは大公銃騎兵中隊を有しているが、事実上警備・儀仗部隊であり、他に消防隊も市民防衛の一環として銃の訓練は受ける。2005年締結の条約により、「緊急事態」を除きフランス軍の派兵にはモナコの同意ないし要請が必要となった。
ケッペンの気候区分では地中海性気候(Csa)に属する。夏は極端に暑くならず、冬は極端に寒くならない穏やかな気候で、降雪は10年に1度か2度しかなく非常に珍しい。
旧市街地と新市街地があり、世界的に見ても人口密度が高い。この点から都市計画が提案されており、計画は今も進められている。
市町村のような地方公共団体は存在しないが、4つの地区(カルティエ)に分けられている。このため、首都も厳密には存在しないが、モナコ市街区が事実上の首都に該当する。
モナコの人口は3万人余りであるが、2009年のGDPは69億1900万ドルで、チャドやベナンなどアフリカの人口1000万人程度の中規模国に匹敵する。また人口56万人を擁する鳥取県の県内総生産の30%程の経済規模である。2008年または2009年の1人当たり国民総所得は18万3150ドルで、世界銀行によれば、統計のある国連加盟国・非自治地域中トップであり、世界で最も裕福な地域の1つとされる。
主要な産業は観光で、特にカジノは、19世紀の一時期は国家収入の9割を占めていたこともある。なお、現在では5%以下であり、経営も半官半民のソシエテ・デ・バン・ド・メールへ移管されている。郵便切手の発行が重要な収入源となっていたこともある。
モナコはタックス・ヘイヴンのひとつとして知られており、(租税条約が結ばれている)他国からの移住者の多くは億万長者である。 2011年3月には、イギリスのシンクタンクにより世界第51位の金融センターと評価されている。
モナコは欧州連合の加盟国ではないが、フランスとの通商関係が緊密で、通貨もフランスと同じユーロを使用している。2002年以前はモナコも独自のフラン硬貨「モネガスク・フラン」を鋳造していた。現在も、各国が自由にデザインできる硬貨の裏面をモナコ独自のデザインにした独自のユーロ硬貨を製造する権利を有している。
化粧品製造が産業として確立しているため、周辺産業としてガラス加工、香水、化学薬品の製造が行われている。
同国にはモナコ労働組合連合(スペイン語版)という組織が存在する。この組織は1944年に設立されたモナコ最大の労働組合であり、欧州労働組合連合へ加盟している。
モナコは個人居住者に対して所得税を課していない(1957年以降に移住したフランス国籍者は例外として税金をフランス政府に納める。これがフランスが併合を強要しない主な理由である)。所得税がないため、モナコ国外からほとんどの収入を得ている富裕者の多くがこの国にやってくる。F1ドライバーなどの有名人も多いが、その多くは実業家である。2000年のフランス国会議員は、モナコはカジノを含め、資金洗浄に対し監視が甘い政策で、モナコ政府による圧力があり司法当局が疑惑に対して適切に調査していないという疑いを報告した。
経済協力開発機構(OECD)のタックス・ヘイヴン報告では、モナコは2004年までリストアップされていなかったが、その後アンドラ、リヒテンシュタイン、リベリア、マーシャル諸島などと共に、財政情報の公開や提供に協力的でないとして、タックスヘイヴンとしてリストアップされた。国際通貨基金(IMF)も2003年までに他の36地域と共にタックスヘイヴンと認定した。
モナコ国内の鉄道は、モナコ政府ではなく、フランス国鉄(SNCF)が運営する。マルセイユ~ニース~モンテカルロ~マントン~ヴェンティミーリア(イタリア)間の路線の一部を成している。モナコ国内の鉄道路線は約1.7kmである。
1867年にモンテカルロ駅(英語版、フランス語版)が開業した。当初は地上に鉄道の線路が敷かれていたが、狭隘な土地の有効活用の目的もあり、1958年~1964年にかけて、モンテカルロ駅から東の区間を地下化した。その後1993年~1999年にかけて、モンテカルロ駅の移転・地下化と、モンテカルロ駅から西の区間を地下化した。これにより、モナコ国内の鉄道は、ほぼ全区間が地下線となっている。
パリから直通するTGVが1日1往復存在する。所要時間は約6時間。
モナコの海港は2ヶ所のみとなっている。
モナコには空港が存在しない。ヘリ・エア・モナコが同国で唯一の航空機関となっている。
1960年にレーニエ3世の主導で、同国唯一の科学研究所である「モナコ科学研究所(フランス語版)」が開設されている。
モナコには38,682人の住民が住んでいる。
住民の内の9,486人がモナコ人である。
言語は公用語に規定されているのはフランス語のみだが、その他リグリア語の一方言であるモナコ語、イタリア語、オック語の一つであるプロヴァンス語などが少数話される。また、外国籍者が多いことから英語も通じる。
宗教はローマ・カトリックが90%である。また、信教の自由は憲法によって保証されている。
モナコの治安は比較的良好とされているが、盗難などの犯罪被害に遭う可能性があるとの報告が挙げられている。
モナコは世界で一人当たりの警察官の数が最も多い国の1つであり、38,000人の住民に対して517人の警官が存在している。
モナコでは中絶が2009年から合法化されている。現在、この合法化を巡る問題が続いており現在も解決はしていない。
Monaco Info (Monaco Channel / MC Channel)と言う名の政府が出資する国際チャンネルと、Radio Monte Carlo TV (RMC TV)というRadio Monte Carlo Network が運営する音楽チャンネルでイタリアとモナコで放送されているもので二つのチャンネルがある。
モナコの料理はイタリアとフランスの食文化の影響を強く受けている面を持つ。
ルイス・ノタリ(フランス語版)はモナコにおける「文学の父」として広く知られている。またノタリは、同国の国歌の歌詞を手掛けた人物でもある。
モナコ国際映画祭が世界的に広く知られている。
モナコは現在、ヨーロッパにおける唯一の世界遺産未登録国である。
フランス・リーグ・アンで通算8度の優勝を誇っており、同リーグにおける強豪クラブの一つとなっている。ホームスタジアムは、フォン・ヴュエイユ地区にあるスタッド・ルイ・ドゥである。
UEFAチャンピオンズリーグでは2003-04シーズンに準優勝に輝いている。2016-17シーズンではキリアン・エムバペ、ベルナルド・シウバ、ラダメル・ファルカオ、ファビーニョなど数々のスター選手を擁し欧州ベスト4の成績を収めた。
モナコ国内ではフォーミュラ1のモナコグランプリや、WRCのラリー・モンテカルロなどの世界選手権大会が開催されている。
1987年に設立された陸上競技大会であり、会場はASモナコの本拠地でもあるスタッド・ルイ・ドゥで行われている。2010年以降はダイヤモンドリーグの1大会として開催されている。
男子プロテニス協会が主催し毎年4月末に行われている、国際テニス競技大会である。
モナコは第1回大会から参加しており、第2回大会と第12回大会がモナコで開催された。また、2025年にも3度目の開催が予定されている。
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"text": "2005年、レーニエ3世が死去し、息子のアルベール2世が即位した。同年12月、フランス・モナコ友好協力条約を締結した。この条約は、グリマルディ家に跡継ぎがなくなっても公国は将来も存続することをフランスが保証する代わりに、モナコの防衛は今後もフランス軍が行うことを骨子としている。また、モナコの自主的外交における制限が緩和され、外国と国交を結ぶ際のフランスによる事前同意が不要になった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "政体はグリマルディ家が世襲する大公(公、プランス)を元首とする立憲君主制である。「公国」ながら日本ではしばしば元首を「大公」と呼ぶ背景は「公国」の概要の項目を参照。なお、1918年にフランスと結ばれた条約からモナコはフランスにより保護的な一定の主権の制限を受け、外交・軍事はフランスが責任を持っていた。この条約により、モナコ大公の即位継承にはフランスの同意が必要となり、また大公家が断絶した場合はフランスに編入されることになっていた。",
"title": "政治"
},
{
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"tag": "p",
"text": "その後、2005年の新条約ではフランスとの特別な協調関係は維持するが、外交面での制限が緩和され、大公家が断絶してもモナコ公国の存続を保証した。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "元首である大公のもとに、首相に相当する「国務大臣」が任命されて政府を組織する。「国務大臣」の下に、対外関係省、財務経済省、内務省、社会厚生省、設備・環境・都市開発省をそれぞれ所掌する5名の「政府顧問」が置かれており、これが他国での大臣に相当する。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "外交面では従来、モナコが他国と外交関係を結ぶ際にはフランスの事前同意が必要と定められていた。日本政府はこれをフランスとの条約とも併せて「国家主権の制限」と看做し、長らく正式な国交は樹立されなかったが、代わりにモナコ「名誉総領事館」(総領事館ではない)が、1973年に東京(東京都千代田区)に設置された。",
"title": "国際・外交関係"
},
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"text": "外交に関するフランスとの規定は2005年の条約で改められ、フランスの事前同意が無くても国交を結べるようになり、日本とモナコの間でも2006年12月14日に外交関係が樹立され、2007年に駐フランス日本大使がモナコを兼轄することとなった。なお、モナコ国内に大使館はない。それまではモナコは、日本政府が承認している国の中で唯一、外交関係を有していない国だった。一方、モナコも日本を担当する大使を任命しているが、本国駐在であり、日本国内に大使館は置かれていない。",
"title": "国際・外交関係"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "モナコは1993年に国連へ加盟しており、現在も国連と積極的に関わっている国の代表として認知されている。また2004年10月4日付で欧州評議会へ加盟している。欧州連合(EU)の加盟国ではないものの、フランスとの関税同盟および公式の通貨としてのユーロを通じて、EUの経済機構と密接な関連性を持ち合わせている。",
"title": "国際・外交関係"
},
{
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"text": "国際水路機関(IHO)がモナコに本部を設置している。",
"title": "国際・外交関係"
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{
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"text": "・在留日本人数111人(2021年10月時点)",
"title": "国際・外交関係"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "モナコは、1963年5月13日の関税条約によりフランスと関税同盟の関係にあり、EU関税法第3条第2項(a)の規定によりEUの加盟国ではないがEUの関税領域となっており、フランスとの境界に税関は存在しない。日本・EU経済連携協定第1・3条3の「欧州連合の関税領域の区域であって1の規定の対象でないもの並びに附属書3-E及び附属書3-Fに規定する区域についても適用する」に基づき、モナコ産品について、日本は日本・EU経済連携協定に基づくEPA税率を適用する。",
"title": "国際・外交関係"
},
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"text": "軍事面では、フランスが領土防衛の責任を持つ。モナコは大公銃騎兵中隊を有しているが、事実上警備・儀仗部隊であり、他に消防隊も市民防衛の一環として銃の訓練は受ける。2005年締結の条約により、「緊急事態」を除きフランス軍の派兵にはモナコの同意ないし要請が必要となった。",
"title": "軍事"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "ケッペンの気候区分では地中海性気候(Csa)に属する。夏は極端に暑くならず、冬は極端に寒くならない穏やかな気候で、降雪は10年に1度か2度しかなく非常に珍しい。",
"title": "地理"
},
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"text": "旧市街地と新市街地があり、世界的に見ても人口密度が高い。この点から都市計画が提案されており、計画は今も進められている。",
"title": "地方行政区分"
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{
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"text": "市町村のような地方公共団体は存在しないが、4つの地区(カルティエ)に分けられている。このため、首都も厳密には存在しないが、モナコ市街区が事実上の首都に該当する。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "モナコの人口は3万人余りであるが、2009年のGDPは69億1900万ドルで、チャドやベナンなどアフリカの人口1000万人程度の中規模国に匹敵する。また人口56万人を擁する鳥取県の県内総生産の30%程の経済規模である。2008年または2009年の1人当たり国民総所得は18万3150ドルで、世界銀行によれば、統計のある国連加盟国・非自治地域中トップであり、世界で最も裕福な地域の1つとされる。",
"title": "経済"
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{
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"text": "主要な産業は観光で、特にカジノは、19世紀の一時期は国家収入の9割を占めていたこともある。なお、現在では5%以下であり、経営も半官半民のソシエテ・デ・バン・ド・メールへ移管されている。郵便切手の発行が重要な収入源となっていたこともある。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "モナコはタックス・ヘイヴンのひとつとして知られており、(租税条約が結ばれている)他国からの移住者の多くは億万長者である。 2011年3月には、イギリスのシンクタンクにより世界第51位の金融センターと評価されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "モナコは欧州連合の加盟国ではないが、フランスとの通商関係が緊密で、通貨もフランスと同じユーロを使用している。2002年以前はモナコも独自のフラン硬貨「モネガスク・フラン」を鋳造していた。現在も、各国が自由にデザインできる硬貨の裏面をモナコ独自のデザインにした独自のユーロ硬貨を製造する権利を有している。",
"title": "経済"
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{
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"text": "化粧品製造が産業として確立しているため、周辺産業としてガラス加工、香水、化学薬品の製造が行われている。",
"title": "経済"
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{
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"text": "同国にはモナコ労働組合連合(スペイン語版)という組織が存在する。この組織は1944年に設立されたモナコ最大の労働組合であり、欧州労働組合連合へ加盟している。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "モナコは個人居住者に対して所得税を課していない(1957年以降に移住したフランス国籍者は例外として税金をフランス政府に納める。これがフランスが併合を強要しない主な理由である)。所得税がないため、モナコ国外からほとんどの収入を得ている富裕者の多くがこの国にやってくる。F1ドライバーなどの有名人も多いが、その多くは実業家である。2000年のフランス国会議員は、モナコはカジノを含め、資金洗浄に対し監視が甘い政策で、モナコ政府による圧力があり司法当局が疑惑に対して適切に調査していないという疑いを報告した。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "経済協力開発機構(OECD)のタックス・ヘイヴン報告では、モナコは2004年までリストアップされていなかったが、その後アンドラ、リヒテンシュタイン、リベリア、マーシャル諸島などと共に、財政情報の公開や提供に協力的でないとして、タックスヘイヴンとしてリストアップされた。国際通貨基金(IMF)も2003年までに他の36地域と共にタックスヘイヴンと認定した。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "モナコ国内の鉄道は、モナコ政府ではなく、フランス国鉄(SNCF)が運営する。マルセイユ~ニース~モンテカルロ~マントン~ヴェンティミーリア(イタリア)間の路線の一部を成している。モナコ国内の鉄道路線は約1.7kmである。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1867年にモンテカルロ駅(英語版、フランス語版)が開業した。当初は地上に鉄道の線路が敷かれていたが、狭隘な土地の有効活用の目的もあり、1958年~1964年にかけて、モンテカルロ駅から東の区間を地下化した。その後1993年~1999年にかけて、モンテカルロ駅の移転・地下化と、モンテカルロ駅から西の区間を地下化した。これにより、モナコ国内の鉄道は、ほぼ全区間が地下線となっている。",
"title": "交通"
},
{
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"tag": "p",
"text": "パリから直通するTGVが1日1往復存在する。所要時間は約6時間。",
"title": "交通"
},
{
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"text": "モナコの海港は2ヶ所のみとなっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "モナコには空港が存在しない。ヘリ・エア・モナコが同国で唯一の航空機関となっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "1960年にレーニエ3世の主導で、同国唯一の科学研究所である「モナコ科学研究所(フランス語版)」が開設されている。",
"title": "科学技術"
},
{
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"text": "モナコには38,682人の住民が住んでいる。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "住民の内の9,486人がモナコ人である。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "言語は公用語に規定されているのはフランス語のみだが、その他リグリア語の一方言であるモナコ語、イタリア語、オック語の一つであるプロヴァンス語などが少数話される。また、外国籍者が多いことから英語も通じる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "宗教はローマ・カトリックが90%である。また、信教の自由は憲法によって保証されている。",
"title": "国民"
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"tag": "p",
"text": "モナコの治安は比較的良好とされているが、盗難などの犯罪被害に遭う可能性があるとの報告が挙げられている。",
"title": "治安"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "モナコは世界で一人当たりの警察官の数が最も多い国の1つであり、38,000人の住民に対して517人の警官が存在している。",
"title": "治安"
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{
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"text": "モナコでは中絶が2009年から合法化されている。現在、この合法化を巡る問題が続いており現在も解決はしていない。",
"title": "治安"
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{
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"text": "Monaco Info (Monaco Channel / MC Channel)と言う名の政府が出資する国際チャンネルと、Radio Monte Carlo TV (RMC TV)というRadio Monte Carlo Network が運営する音楽チャンネルでイタリアとモナコで放送されているもので二つのチャンネルがある。",
"title": "マスコミ"
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{
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"text": "モナコの料理はイタリアとフランスの食文化の影響を強く受けている面を持つ。",
"title": "文化"
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"text": "ルイス・ノタリ(フランス語版)はモナコにおける「文学の父」として広く知られている。またノタリは、同国の国歌の歌詞を手掛けた人物でもある。",
"title": "文化"
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{
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"text": "モナコ国際映画祭が世界的に広く知られている。",
"title": "文化"
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"text": "モナコは現在、ヨーロッパにおける唯一の世界遺産未登録国である。",
"title": "文化"
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{
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"text": "フランス・リーグ・アンで通算8度の優勝を誇っており、同リーグにおける強豪クラブの一つとなっている。ホームスタジアムは、フォン・ヴュエイユ地区にあるスタッド・ルイ・ドゥである。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "UEFAチャンピオンズリーグでは2003-04シーズンに準優勝に輝いている。2016-17シーズンではキリアン・エムバペ、ベルナルド・シウバ、ラダメル・ファルカオ、ファビーニョなど数々のスター選手を擁し欧州ベスト4の成績を収めた。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "モナコ国内ではフォーミュラ1のモナコグランプリや、WRCのラリー・モンテカルロなどの世界選手権大会が開催されている。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1987年に設立された陸上競技大会であり、会場はASモナコの本拠地でもあるスタッド・ルイ・ドゥで行われている。2010年以降はダイヤモンドリーグの1大会として開催されている。",
"title": "スポーツ"
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{
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"text": "男子プロテニス協会が主催し毎年4月末に行われている、国際テニス競技大会である。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "モナコは第1回大会から参加しており、第2回大会と第12回大会がモナコで開催された。また、2025年にも3度目の開催が予定されている。",
"title": "スポーツ"
}
] |
モナコ公国、モナコ(Monaco)は、イタリアのリグーリア州に隣接するコート・ダジュールに位置する西ヨーロッパの主権都市国家、ミニ国家である。北、東、西はフランスと国境を接し、南は地中海に面している。
|
{{otheruses|ヨーロッパの国}}
{{基礎情報 国
|略名 = モナコ
|日本語国名 = モナコ公国
|公式国名 = {{Lang|fr|'''Principauté de Monaco'''}}
|国旗画像 = Flag of Monaco.svg
|国章画像 = [[File:Coat of Arms of Monaco.svg|100px|モナコの国章]]
|国章リンク = ([[モナコの国章|国章]])
|標語 = {{Lang|la|''Deo Juvante''}}<br />([[ラテン語]]:我、神のご加護と共にあらん)
|国歌 = [[モナコの国歌|{{lang|fr|Hymne Monégasque}}]]{{fr icon}}<br/>''モナコ国歌''<br/>{{center|[[file:Monaco National Anthem.ogg]]}}
|位置画像 = Monaco in Europe (zoomed).svg
|公用語 = [[フランス語]]
|首都 = モナコ([[都市国家]])<ref group="注">行政府所在地は[[モナコ=ヴィル|モナコ市街区]]。</ref>
|最大都市 = モナコ(都市国家)<ref group="注">人口最大地区は[[モンテカルロ]]。</ref>
|元首等肩書 = [[モナコ統治者の一覧|公爵]]
|元首等氏名 = [[アルベール2世 (モナコ公)|アルベール2世]]
|首相等肩書 = [[国務大臣 (モナコ)|国務大臣]]
|首相等氏名 = {{ill2|ピエール・ダルトゥ|fr|Pierre Dartout}}<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/monaco/data.html モナコ公国(Principality of Monaco)基礎データ 4.政府] - [[外務省]]</ref>
|面積順位 = 194
|面積大きさ = 1 E6
|面積値 = 2.02
|水面積率 = 極僅か
|人口統計年 = 2020
|人口順位 = 190
|人口大きさ = 1 E4
|人口値 = 39,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/mc.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref>
|人口密度値 = 26,373.8<ref name=population/>
|GDP統計年MER = 2020
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|GDP統計年 = 2016
|GDP順位 =
|GDP値 = 6,500,000,000
|GDP/人 = 168,000
|GDP追記 = (2016年)
|建国形態 = 建国
|確立形態1 = [[グリマルディ家]]による統治開始
|確立年月日1 = 1297年
|確立形態2 = [[フランス第一帝政|フランス帝国]]より独立
|確立年月日2 = 1814年5月17日
|確立形態3 = [[第六次対仏大同盟]]より独立
|確立年月日3 = 1814年6月17日
|確立形態4 = フランス・モナコ保護友好条約締結
|確立年月日4 = 1861年
|確立形態5 = 憲法制定
|確立年月日5 = 1911年
|通貨 = [[ユーロ]](€)
|通貨追記 = <ref group="注">1999年までの通貨は[[フランス・フラン]]および[[モネガスク・フラン]]。</ref><ref group="注">[[モナコのユーロ硬貨]]も参照。</ref>
|通貨コード = EUR
|時間帯 = +1
|夏時間 = +2
|ISO 3166-1 = MC / MCO
|ccTLD = [[.mc]]
|国際電話番号 = 377
|注記 = {{Reflist|group="注"}}
|GDP MER/人=173,688}}
'''モナコ公国'''<ref group="注">日本[[外務省]]の表記。「モナコ大公国」や「モナコ王国」と訳す場合もある。</ref>(モナコこうこく、プランシポテ・ドゥ・モナコ、{{Lang-fr|''Principauté de Monaco''}})、'''モナコ'''({{Lang|fr|''Monaco''}})は、[[イタリア]]の[[リグーリア州]]に隣接する[[コート・ダジュール]]に位置する[[西ヨーロッパ]]の主権[[都市国家]]、[[ミニ国家]]である。北、東、西は[[フランス]]と国境を接し、南は地中海に面している。
== 概要 ==
世界で最も物価が高く、裕福な場所のひとつとして広く知られている。公用語はフランス語であるが、[[モナコ語]]([[リグリア語]]の方言)、[[イタリア語]]、[[英語]]も話されており、多くの人が理解している。
面積は{{convert|2.1|km2|abbr=on}}で、[[バチカン市国]]に次いで世界で2番目に小さい主権国家であるが、1平方キロメートルあたりの人口が19,009人であることから、[[国の人口密度順リスト|世界で最も人口密度の高い主権国家]]となっている。モナコの陸地の境界線は5.47km、海岸線は約3.83km<ref>{{Cite web|url=http://www.monacostatistics.mc/IMSEE/Publications/monaco-statistics-pocket|title=Monaco Statistics / IMSEE — Monaco IMSEE|language=fr|publisher=Imsee.mc|accessdate=3 August 2016}}</ref>で、その幅は1,700〜349mの間である。国内で最も高い場所は、レ・レヴォワール区のモント・アゲルの斜面にあるシュマン・デ・レヴォワールと名付けられた細い小道で、[[海抜]]は161mである。
公国はイタリアとの国境から約15kmに位置している<ref>{{Cite web|url=https://www.distanza.org/Ventimiglia/Principato%20di%20Monaco|title=Ventimiglia - Principato di Monaco|website=www.distanza.org|accessdate=8 April 2020}}</ref>。最も人口の多い区はラルボット/バス・ムーラン区で、2008年時の人口は5,443人である。[[埋立地|埋め立て]]により、モナコの国土は20%拡大した。2005年の面積はわずか1.974平方キロメートルであった。
モナコ公国はアルベール2世を国家元首とする[[立憲君主制]]を採用している。[[アルベール2世 (モナコ公)|アルベール2世]]は立憲君主であるが、絶大な政治力を持っており、国務大臣が[[政府の長]]になる。国務大臣にはモナコ人とフランス人が就くことができ、君主は任命の前に[[政府 (フランス第五共和政)|フランス政府]]に相談する。1297年以来、[[グリマルディ家]]が一時的に中断しながらモナコを統治してきた<ref>In fact [[François Grimaldi|Francesco Grimaldi]], who captured [[Monaco-Ville|the Rock]] on the night of 8 January 1297, was forced to flee Monaco only four years after the fabled raid, never to come back.</ref>。モナコの主権は、1861年の仏・モネガスク条約によって正式に認められ、1993年には国連の正式な投票権を持つ国となった。モナコの独立性と独立した外交政策にもかかわらず、その防衛はフランスの責任である。しかし、モナコは[[モナコの軍事|2つの小さな軍隊]]を保持している。
19世紀後半、モナコ初のカジノであるモンテカルロ・カジノがオープンし、[[マルセイユ・ヴェンティミーリア線|パリとの鉄道]]も開通したことで、経済発展が加速した<ref>{{Cite web|url=http://www.montecarlolegend.com/monte-carlo-the-birth-of-a-legend/|title=Monte Carlo: The Birth of a Legend|publisher=SBM Group|accessdate=23 August 2013}}</ref>。その後も、温暖な気候や景観、ギャンブル施設の充実などから、観光地や富裕層の保養地としての地位を確立してきた。
近年では主要な銀行の中心地となり、サービス業や小規模で高付加価値の無公害産業に経済の多様化を図っている。モナコは[[所得税]]がなく、事業税も低く、[[タックス・ヘイヴン]]として有名である。居住者の30%以上がミリオネアで、2018年には不動産価格が1平方メートルあたり10万ユーロ(14万2,000ドル)に達している<ref>{{Cite web|author=Beck|first=Katie|title=The country running out of space for its millionaires|url=https://www.bbc.com/worklife/article/20180206-the-country-running-out-of-space-for-its-millionaires|accessdate=25 September 2020|website=www.bbc.com|language=en}}</ref>。モナコは正式には欧州連合(EU)の一員ではないが、税関や国境管理など、EUの一部の政策に参加している。フランスとの関係から、モナコは唯一の通貨として[[ユーロ]]を使用しているが、それ以前は[[モネガスク・フラン]]を使用していた。モナコは2004年に[[欧州評議会]]に加盟し、[[フランコフォニー国際機関]](OIF)にも加盟している。
[[F1グランプリ]]の原型の一つであるストリートサーキットのモーターレース、[[モナコグランプリ]]が毎年開催されている。フランス・[[リーグ・アン]]に所属する[[サッカー]]のクラブチーム[[ASモナコ]]があり、これまでに通算8度のリーグ優勝に輝いている。海洋保護の研究の中心地<ref>{{Cite web|date=13 February 2020|title=Monaco's Prince Albert II: Oceans are a 'family heritage,' with little time to save them|url=https://www.latimes.com/environment/story/2020-02-13/an-interview-with-prince-albert-ii-of-monaco-on-the-state-of-the-planet|accessdate=26 September 2020|website=Los Angeles Times|language=en-US}}</ref>であるモナコには、世界で初めて保護された海洋生息地のひとつ、[[モナコ海洋博物館|海洋博物館]]、[[国際連合|国連]]組織の中で唯一の[[海洋学|海洋研究所]]である[[国際原子力機関]]環境研究所がある<ref>{{Cite web|title=Ocean Acidification International Coordination Centre (OA-ICC)|url=https://www.un.org/Depts/los/consultative_process/icp20presentations/Swarzenski.pdf|publisher=United Nations|accessdate=8/4/2021}}</ref>。
=== 国名の由来 ===
モナコという地名は、現在のモナコの近隣に[[6世紀]]にあった[[ポカイア]]人の入植地の名に由来する。その地は[[ギリシャ語]]で「一軒家」を意味する {{lang|el|Μόνοικος}} {{lang|grc-latn|''Monoikos''}} の名で呼ばれていた。[[ギリシア神話]]では、[[ヘラクレス]]が現在のモナコの地を通りかかり土地の神々を退散させたとあり、それにちなんで1つの神殿が作られた。その1つの神殿が「一軒家」に転じ、地名が生じた。
== 歴史 ==
{{Main|モナコの歴史}}
=== 17世紀まで ===
[[ファイル:Meyers b9 s0067b.jpg|サムネイル|left|180px|モナコ [[イタリア本土 (古代ローマ)]] [[紀元前1世紀]].]]
[[ファイル:Italia 1494-it.svg|サムネイル|left|180px|モナコ [[ジェノヴァ共和国]], [[イタリア]] 1494.]]
[[ファイル:Italia 1796-es.svg|サムネイル|left|180px|モナコ [[ジェノヴァ共和国]], [[イタリア]] 1796.]]
[[ファイル:County of nice.svg|サムネイル|left|180px|フランスの侵攻 1860.]]
[[File:Frontiere Monaco.gif|thumb|青が[[マントン]]と[[ロクブリュヌ=カップ=マルタン|ロクブリュヌ]]、1860年のトリノ条約で分離独立した。オレンジが現在のモナコ。]]
[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]から1191年にこの土地を与えられた[[ジェノヴァ共和国]]は、1228年に現在のモナコを建設した。1297年、[[教皇派と皇帝派|ギベリン(皇帝派)]]に占領されていたモナコの要塞に、[[フランシスコ会]]の修道士姿に変装し法衣の下に武装して侵入した[[フランソワ・グリマルディ]]らは、要塞の占拠に成功した。グリマルディは、現在のモナコ公家である[[グリマルディ家]]の始祖である<ref group="注">実際には[[フランソワ・グリマルディ|フランソワ]](フランチェスコ)は4年後にはモナコを追われている。グリマルディ家のモナコ支配が固まるのは[[15世紀]]初めであり、現在のグリマルディ家はフランチェスコの直系子孫ではない(Anne Edwards ''The Grimaldis of Monaco'')。</ref>。そのため、グリマルディは、「狡猾な男」とあだ名される。1419年、グリマルディ家は[[アラゴン連合王国|アラゴン王国]]からモナコを購入し、正式な支配者となる。1528年、[[アンドレア・ドーリア]]がジェノヴァの貴族層と庶民層の合体を企て、そのために政権を[[:en:Albergo (family)|特定の28氏族]]へ集中させた。グリマルディ家はその一つに数えられた。また、1612年から {{lang|fr|[[プリンス|prince]]}} の称号を自称し始めた。[[:en:Honoré II, Prince of Monaco|オノレ2世]]の時代にはフランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の保護下に入ることで[[スペイン]](アラゴン王国の後身)の支配を抜け出し、歴代のモナコ公は独立君主であると同時にフランス王の臣下(ヴァランティノワ公爵)として宮廷で高い地位を占めた<ref group="注">フランスの保護国となることで公家のフランス化も進んだ。また格式を保つため領民には重税が課せられた。</ref>。
=== 18 - 19世紀 ===
1793年、[[フランス革命]]軍がモナコを占領・併合した。1814年までモナコは[[フランス第一帝政]]の直接支配下におかれた。1815年に催された[[ウィーン会議]]の結果、モナコは[[サルデーニャ王国]]の保護下に入った。サルデーニャはジェノヴァの後継である。
1858年の[[プロンビエールの密約]]で、サルデーニャは、[[イタリア統一運動]]をフランスに支援してもらう代償として、1860年には[[サヴォワ]]([[サヴォワ県]]と[[オート=サヴォワ県]])と[[ニース]]伯領([[アルプ=マリティーム県]])をフランスに割譲する。モナコ公の課す重税に倦み、サルデーニャへの併合を希望する[[マントン]]と[[ロクブリュヌ=カップ=マルタン|ロクブリュヌ]]は、モナコからの独立を宣言する。
[[シャルル3世 (モナコ大公)|シャルル3世]]は1861年、{{仮リンク|フランス・モナコ保護友好条約|en|Franco-Monegasque Treaty}}を締結、領土の95%にあたるマントンとロクブリュヌをフランスに売却し、見返りにモナコ公国の主権を回復した。
{{節スタブ}}
=== 20世紀 ===
1911年、憲法を制定したことで[[立憲君主制]]となるも、モナコ大公は依然として[[絶対君主制|絶対君主]]として振る舞い、[[アルベール1世 (モナコ大公)|アルベール1世]]はすぐに憲法を停止した。[[第一次世界大戦]]が勃発すると大公子ルイ(後の[[ルイ2世 (モナコ大公)|ルイ2世]])は[[フランス陸軍]]に志願、軍功をあげ将軍に上り詰めた。[[1918年]]、保護友好条約を再締結、フランスの[[保護国]]となった。[[ヴェルサイユ条約]]などの第一次世界大戦の講和条約においては、この条約を各国が承認する規定が設けられている。1922年、ルイ2世が即位する。モナコを文化・観光都市にする試みを続け、[[モナコ・グランプリ]]の開催、[[ASモナコ]]の創設などを行った。
[[第二次世界大戦]]中の1943年にイタリア軍がモナコを占領し、[[ファシスト]]政権を樹立した。[[ベニート・ムッソリーニ]]の政権が崩壊すると、今度は[[ナチス・ドイツ]]の[[ドイツ国防軍]]が占領した。ドイツは同地でも[[ユダヤ人]]の迫害を行った。
{{See also|{{仮リンク|第二次世界大戦時のモナコの歴史|fr|Histoire de Monaco pendant la Seconde Guerre mondiale}}}}
ルイが1949年に死去すると、孫の[[レーニエ3世]]が即位した。1956年には[[ハリウッド]]女優の[[グレース・ケリー]]と結婚した。1962年、新憲法を制定した。この憲法で死刑が廃止され、[[女性参政権]]が実現し、また最高裁判所が設置された。1993年にモナコは[[国際連合]]に加盟した。
=== 21世紀 ===
2005年、レーニエ3世が死去し、息子の[[アルベール2世 (モナコ大公)|アルベール2世]]が即位した。同年12月、[[フランス・モナコ友好協力条約]]を締結した。この条約は、グリマルディ家に跡継ぎがなくなっても公国は将来も存続することをフランスが保証する代わりに、モナコの防衛は今後もフランス軍が行うことを骨子としている。また、モナコの自主的外交における制限が緩和され、外国と国交を結ぶ際のフランスによる事前同意が不要になった。
[[File:PW0018.jpg|thumb|center|upright=2.20|<center>モナコ全景(2017年)</center>]]
== 政治 ==
[[File:UNESCO_Headquarters,_Paris_on_3_May_2010,_H.S.H._Prince_Albert_II_of_Monaco,_participated_in_the_5th_Global_Conference_on_Oceans,_Coasts_and_Islands.jpg|thumb|220px|[[アルベール2世 (モナコ大公)|アルベール2世]](2010年)]]
{{Main|{{仮リンク|モナコの政治|fr|Politique à Monaco|en|Politics of Monaco|es|Política de Mónaco}}}}
政体は[[グリマルディ家]]が[[世襲]]する[[大公]](公、[[プリンス|プランス]])を元首とする[[立憲君主制]]である。「公国」ながら日本ではしばしば元首を「大公」と呼ぶ背景は「[[公国]]」の概要の項目を参照。なお、1918年にフランスと結ばれた条約からモナコはフランスにより保護的な一定の主権の制限を受け、[[外交]]・[[軍事]]はフランスが責任を持っていた。この条約により、モナコ大公の即位継承にはフランスの同意が必要となり、また大公家が断絶した場合はフランスに編入されることになっていた。
その後、2005年の新条約ではフランスとの特別な協調関係は維持するが、外交面での制限が緩和され、大公家が断絶してもモナコ公国の存続を保証した。
{{See also|{{仮リンク|モナコの憲法|en|Constitution of Monaco}}}}
=== 行政 ===
元首である大公のもとに、[[首相]]に相当する「'''国務大臣'''」が任命されて政府を組織する。「国務大臣」の下に、対外関係省、財務経済省、内務省、社会厚生省、設備・環境・都市開発省をそれぞれ所掌する5名の「'''政府顧問'''」が置かれており、これが他国での大臣に相当する。
=== 立法 ===
{{Main|[[国民議会 (モナコ)|国民議会]]|{{仮リンク|モナコ王冠評議会|es|Consejo de la Corona de Mónaco}}}}
{{節スタブ}}
=== 司法 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコ最高裁判所|es|Tribunal Supremo de Mónaco}}}}
{{節スタブ}}
== 国際・外交関係 ==
{{Main|{{仮リンク|モナコの国際関係|en|Foreign relations of Monaco}}}}
外交面では従来、モナコが他国と外交関係を結ぶ際にはフランスの事前同意が必要と定められていた。[[日本]]政府はこれをフランスとの条約とも併せて「国家[[主権]]の制限」と看做し、長らく正式な[[国交]]は樹立されなかったが、代わりにモナコ「名誉総領事館」([[総領事館]]ではない)が、1973年に東京([[東京都]][[千代田区]])に設置された。
外交に関するフランスとの規定は2005年の条約で改められ、フランスの事前同意が無くても国交を結べるようになり、日本とモナコの間でも2006年12月14日に外交関係が樹立され、2007年に駐[[フランス]]日本[[大使]]がモナコを兼轄することとなった。なお、モナコ国内に大使館はない。それまではモナコは、日本政府が[[国家の承認|承認]]している国の中で唯一、外交関係を有していない国だった<ref>{{Cite press release |和書 |title= モナコ公国との外交関係開設について |publisher= 日本外務省 |date= 2006-12-14 |url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_1214c.html |accessdate= 2021-09-05 }}</ref>。一方、モナコも日本を担当する大使を任命しているが、本国駐在であり、日本国内に大使館は置かれていない。
モナコは1993年に[[国連]]へ加盟しており、現在も国連と積極的に関わっている国の代表として認知されている。また2004年10月4日付で[[欧州評議会]]へ加盟している。[[欧州連合]](EU)の加盟国ではないものの、フランスとの関税同盟および公式の通貨としてのユーロを通じて、EUの経済機構と密接な関連性を持ち合わせている。
[[国際水路機関]](IHO)がモナコに本部を設置している。
・在留日本人数111人(2021年10月時点)<ref>{{Cite web|和書|title=モナコ基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/monaco/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2023-09-19 |language=ja}}</ref>
=== 通商関係 ===
モナコは、1963年5月13日の関税条約<ref>Journal officiel de la République française (Official Journal of the French Republic) of 27 September 1963, p. 8679</ref>によりフランスと関税同盟の関係にあり、EU関税法第3条第2項(a)の規定<ref>{{cite news|title = REGULATION (EC) No 450/2008 OF THE EUROPEAN PARLIAMENT AND OF THE COUNCIL of 23 April 2008 laying down the Community Customs Code (Modernised Customs Code)|url =https://eur-lex.europa.eu/eli/reg/2008/450/2013-06-19|publisher = the Publications Office of the EU|date = | accessdate = 2019/2/27}}</ref>によりEUの加盟国ではないがEUの関税領域となっており、フランスとの境界に税関は存在しない。[[日本・EU経済連携協定]]第1・3条3の「欧州連合の関税領域の区域であって1の規定の対象でないもの並びに附属書3-E及び附属書3-Fに規定する区域についても適用する」に基づき、モナコ産品について、日本は[[日本・EU経済連携協定]]に基づくEPA税率を適用する。
== 軍事 ==
{{Main|モナコの軍事}}
軍事面では、フランスが領土防衛の責任を持つ。モナコは[[大公銃騎兵中隊]]を有しているが、事実上警備・儀仗部隊であり、他に消防隊も[[民間防衛|市民防衛]]の一環として銃の訓練は受ける。2005年締結の条約により、「緊急事態」を除きフランス軍の派兵にはモナコの同意ないし要請が必要となった。
== 地理 ==
[[File:Monaco-carte.jpg|thumb|モナコの地図]]
[[File:Monaco_City_001.jpg|thumb|center|upright=2.20|<center>[[モンテカルロ]]全景</center>]]
{{Main|{{仮リンク|モナコの地理|fr|Géographie de Monaco}}}}
{{節スタブ}}
=== 気候 ===
[[ケッペンの気候区分]]では[[地中海性気候|地中海性気候(Csa)]]に属する。[[夏]]は極端に暑くならず、冬は極端に寒くならない穏やかな気候で、[[降雪]]は10年に1度か2度しかなく非常に珍しい<ref>{{Cite web|和書|title=モナコ公国気温 - 旅行のとも、ZenTech|url=https://www.travel-zentech.jp/world/kion/Monaco/index.htm|website=www.travel-zentech.jp|accessdate=2021-05-19}}</ref>。
{{Weather box
|location =モナコ
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|source 1 =Monaco website<ref>[http://www.visitmonaco.com/fr/Monaco-Pratique/Climat "Climatological information for Monaco"] – Monaco website</ref>
|date=September 2010
}}
== 地方行政区分 ==
[[File:Monaco satellite map.png|thumb|モナコの衛星写真]]
[[File:Monaco wards color.png|thumb|モナコの行政区画図]]
{{Main|モナコの行政区画}}
旧市街地と新市街地があり、世界的に見ても人口密度が高い。この点から[[都市計画]]が提案されており、計画は今も進められている。
{{See also|{{仮リンク|モナコの都市計画|fr|Urbanisme à Monaco}}}}
市町村のような[[地方公共団体]]は存在しないが、4つの'''地区'''(カルティエ)に分けられている。このため、[[首都]]も厳密には存在しないが、モナコ市街区が事実上の首都に該当する。
* [[モナコ=ヴィル|モナコ市街地区]](宮殿・政府のある中心地区で、事実上の首都)
* [[モンテカルロ|モンテカルロ地区]](カジノ・リゾート地区)
* [[ラ・コンダミーヌ地区]](港湾地区)
* [[フォンヴェイユ地区]](新興地区)
== 経済 ==
[[画像:MonacoLibreDeDroits.jpg|thumb|モナコ市街]]
[[画像:Vista_de_Mónaco,_2016-06-23,_DD_13.jpg|thumb|東側よりモンテカルロを眺める 2016年]]
{{Main|{{仮リンク|モナコの経済|fr|Économie de Monaco|en|Economy of Monaco}}}}
モナコの人口は3万人余りであるが、2009年の[[国内総生産|GDP]]は69億1900万ドルで、[[チャド]]や[[ベナン]]などアフリカの人口1000万人程度の中規模国に匹敵する<ref>[http://siteresources.worldbank.org/DATASTATISTICS/Resources/GDP.pdf]</ref>。また人口56万人を擁する[[鳥取県]]の[[県民経済計算|県内総生産]]の30%程の経済規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/kenmin/h18/main.html 県民経済計算]</ref>。2008年または2009年の1人当たり[[国民総所得]]は18万3150ドルで、[[世界銀行]]によれば、統計のある国連加盟国・[[国際連合非自治地域リスト|非自治地域]]中トップであり<ref>[http://data.worldbank.org/sites/default/files/gnipc.pdf]</ref>、世界で最も裕福な地域の1つとされる<ref>{{cite web|url=http://profit.ndtv.com/news/global-economy/article-one-in-three-is-a-millionaire-in-monaco-study-650514|title=One in Three is a Millionaire in Monaco: Study|work=ndtv.com|accessdate=2019-07-10}}</ref><ref>Alleyne, Richard (4 October 2007). "Prince Albert: We want more for Monaco". The Daily Telegraph.</ref>。
{{See also|{{仮リンク|モナコ経済開発会議所|fr|Chambre de développement économique de Monaco}}}}
主要な産業は観光で、特にカジノは、19世紀の一時期は国家収入の9割を占めていたこともある。なお、現在では5%以下であり、経営も半官半民のソシエテ・デ・バン・ド・メールへ移管されている。郵便切手の発行が重要な収入源となっていたこともある。
モナコは[[タックス・ヘイヴン]]のひとつとして知られており、(租税条約が結ばれている)他国からの移住者の多くは億万長者である。 2011年3月には、[[イギリス]]の[[シンクタンク]]により世界第51位の[[金融センター]]と評価されている<ref>[http://www.zyen.com/GFCI/GFCI%209.pdf The Global Financial Centres Index 9]</ref>。
モナコは[[欧州連合]]の加盟国ではないが、フランスとの通商関係が緊密で、通貨もフランスと同じ[[ユーロ]]を使用している。2002年以前はモナコも独自のフラン硬貨「[[モネガスク・フラン]]」を鋳造していた。現在も、各国が自由にデザインできる硬貨の裏面をモナコ独自のデザインにした独自の[[ユーロ硬貨]]を製造する権利を有している。
化粧品製造が産業として確立しているため、周辺産業としてガラス加工、香水、化学薬品の製造が行われている。
同国には{{仮リンク|モナコ労働組合連合|es|Unión de los Sindicatos de Mónaco}}という組織が存在する。この組織は1944年に設立されたモナコ最大の労働組合であり、[[欧州労働組合連合]]へ加盟している。
{{節スタブ}}
=== タックス・ヘイヴン ===
モナコは個人居住者に対して[[所得税]]を課していない([[1957年]]以降に移住したフランス国籍者は例外として税金をフランス政府に納める。これがフランスが併合を強要しない主な理由である)。所得税がないため、モナコ国外からほとんどの収入を得ている富裕者の多くがこの国にやってくる。[[フォーミュラ1|F1]]ドライバーなどの有名人も多いが、その多くは実業家である。2000年のフランス国会議員は、モナコはカジノを含め、[[資金洗浄]]に対し監視が甘い政策で、モナコ政府による圧力があり司法当局が疑惑に対して適切に調査していないという疑いを報告した。
[[経済協力開発機構]](OECD)の[[タックス・ヘイヴン]]報告では、モナコは2004年までリストアップされていなかったが、その後[[アンドラ]]、[[リヒテンシュタイン]]、[[リベリア]]、[[マーシャル諸島]]などと共に、財政情報の公開や提供に協力的でないとして<ref>Declaration of April 18th, 2004, by the representative of the OECD Centre for Tax Policy and Administration Gabriel Makhlouf regarding the list of alleged tax havens non-cooperatives countries comparable</ref>、タックスヘイヴンとしてリストアップされた<ref>Stage Report 2004: Project of OECD on the detrimental tax practices, OECD, Paris, 2004</ref>。[[国際通貨基金]](IMF)も2003年までに他の36地域と共にタックスヘイヴンと認定した<ref>« Financial Centres with Significant Offshore Activities » in Offshore Financial Centres. The Assessment Program. A Progress Report Supplementary Information, IMF, Washington, 2005</ref>。
== 交通 ==
{{Main|{{仮リンク|モナコの交通|en|Transport in Monaco|fr|Transport à Monaco}}}}
モナコ国内の鉄道は、モナコ政府ではなく、[[フランス国鉄]](SNCF)が運営する。[[マルセイユ]]~[[ニース]]~モンテカルロ~[[マントン]]~[[ヴェンティミーリア]]([[イタリア]])間の路線の一部を成している。モナコ国内の鉄道路線は約1.7kmである。[[File:Train station, Monaco.jpg|thumb|モンテカルロ駅]]1867年に{{仮リンク|モンテカルロ駅|en|Monaco-Monte-Carlo station|fr|Gare de Monaco - Monte-Carlo}}が開業した。当初は地上に鉄道の線路が敷かれていたが、狭隘な土地の有効活用の目的もあり、1958年~1964年にかけて、モンテカルロ駅から東の区間を地下化した。その後1993年~1999年にかけて、モンテカルロ駅の移転・地下化と、モンテカルロ駅から西の区間を地下化した。これにより、モナコ国内の鉄道は、ほぼ全区間が地下線となっている。
[[パリ]]から直通する[[TGV]]が1日1往復存在する。所要時間は約6時間。
{{See also|{{仮リンク|モナコの鉄道|en|Rail transport in Monaco|fr|Transport ferroviaire à Monaco}}}}
モナコの海港は2ヶ所のみとなっている。
{{See also|{{仮リンク|モナコの港|fr|Port de Monaco}}}}
モナコには空港が存在しない。[[ヘリ・エア・モナコ]]が同国で唯一の航空機関となっている。
{{節スタブ}}
== 科学技術 ==
1960年にレーニエ3世の主導で、同国唯一の科学研究所である「{{仮リンク|モナコ科学研究所|fr|Centre scientifique de Monaco}}」が開設されている。
{{節スタブ}}
== 国民 ==
{{Main|{{仮リンク|モナコの人口統計|en|Demographics of Monaco|fr|Démographie de Monaco|es|Demografía de Mónaco}}}}
{{See also|{{仮リンク|モナコ統計経済研究所|fr|Institut monégasque de la statistique et des études économiques}}}}
モナコには38,682人の住民が住んでいる<ref>{{Cite web|url=https://data.worldbank.org/indicator/SP.POP.TOTL?locations=MC|title=Population, total|publisher=World Bank|accessdate=18 September 2019}}</ref>。
=== 民族 ===
住民の内の9,486人が[[モナコ人]]である<ref>{{Cite web|title=Demography / Population and employment / IMSEE - Monaco IMSEE|url=https://www.monacostatistics.mc/Population-and-employment/Demography|accessdate=25 September 2020|website=www.monacostatistics.mc}}</ref>。
{{節スタブ}}
=== 言語 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコの言語|es|Lenguas de Mónaco|fr|Langues à Monaco}}}}
言語は[[公用語]]に規定されているのは[[フランス語]]のみだが、その他[[リグリア語]]の一方言である[[モナコ語]]、[[イタリア語]]、[[オック語]]の一つである[[プロヴァンス語]]などが少数話される。また、外国籍者が多いことから[[英語]]も通じる。
=== 宗教 ===
[[File:Monaco BW 2011-06-07 16-07-20.jpg|thumb|モナコのカトリック教会]]
{{Main|{{仮リンク|モナコの宗教|es|Religión en Mónaco}}}}
宗教は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が90%である。また、[[信教の自由]]は憲法によって保証されている。
=== 教育 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコの教育|it|Istruzione nel Principato di Monaco}}}}
{{節スタブ}}
=== 保健 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコの保健|en|Health in Monaco}}}}
{{節スタブ}}
== 治安 ==
モナコの治安は比較的良好とされているが、[[盗難]]などの犯罪被害に遭う可能性があるとの報告が挙げられている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_284.html 海外安全ホームページ: 安全対策基礎データ :モナコ] [[外務省]]</ref>。
{{節スタブ}}
=== 警察 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコ警察|en|Monaco Police Department}}}}
モナコは世界で一人当たりの警察官の数が最も多い国の1つであり、38,000人の住民に対して517人の警官が存在している。
{{節スタブ}}
=== 人権 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコの人権|en|Human rights in Monaco}}}}
モナコでは[[中絶]]が2009年から合法化されている。現在、この合法化を巡る問題が続いており現在も解決はしていない。
{{See also|{{仮リンク|モナコにおける中絶|fr|Avortement à Monaco|en|Abortion in Monaco}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|モナコにおけるLGBTの権利|en|LGBT rights in Monaco}}}}
== マスコミ ==
{{Main|{{仮リンク|モナコのメディア|es|Medios de comunicación en Mónaco}}}}
=== テレビ局 ===
Monaco Info (Monaco Channel / MC Channel)と言う名の政府が出資する国際チャンネルと、Radio Monte Carlo TV (RMC TV)というRadio Monte Carlo Network が運営する音楽チャンネルで<ref>{{Cite web|和書|title=モナコのテレビ局 (ライブ放送 / 動画ニュース / ビデオ) {{!}} イカテレビ |url=https://ikaten.squidtv.net/worldtv/europe/monaco/ |website=ikaten.squidtv.net |access-date=2023-10-16}}</ref>イタリアとモナコで放送されているもので二つのチャンネルがある。{{節スタブ}}
== 文化 ==
{{Main|{{仮リンク|モナコの文化|es|Cultura de Mónaco|fr|Culture de Monaco}}}}
[[File:Monaco004.jpg|thumb|Fontvielle、モナコ]]
[[File:Casinò - panoramio.jpg|thumb|[[モンテカルロ]][[カジノ]]]]
=== 食文化 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコ料理|en|Monégasque cuisine}}}}
モナコの料理はイタリアとフランスの食文化の影響を強く受けている面を持つ。
{{節スタブ}}
=== 文学 ===
{{Main|モナコ文学}}
{{仮リンク|ルイス・ノタリ|fr|Louis Notari}}はモナコにおける「文学の父」として広く知られている。またノタリは、同国の国歌の歌詞を手掛けた人物でもある。
{{節スタブ}}
=== 音楽 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコの音楽|en|Music of Monaco}}}}
{{節スタブ}}
=== 映画 ===
[[モナコ国際映画祭]]が世界的に広く知られている。
{{節スタブ}}
=== 建築 ===
{{Main|{{仮リンク|モナコの建築|en|Architecture of Monaco}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|モナコの高層ビルの一覧|fr|Liste des gratte-ciel à Monaco}}}}
=== 世界遺産 ===
モナコは現在、ヨーロッパにおける唯一の世界遺産未登録国である。
{{See also|世界遺産を保有していない国の一覧#ヨーロッパ}}
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable"
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
|-
|1月1日||[[元日]]||rowspan="13"| || rowspan="2" |
|-
|1月27日||聖ディボートの日
|-
|rowspan="2"|3月~4月||[[イースター]]||rowspan="2"|移動祝日
|-
|イースターマンデー
|-
|5月1日||レイバーデー||
|-
|rowspan="2"|5月||キリスト昇天祭||rowspan="3"|移動祝日
|-
|ウィットサンデー
|-
|6月||聖体節
|-
|8月15日||[[聖母の被昇天|聖母被昇天祭]]|| rowspan="5" |
|-
|11月1日||[[諸聖人の日|万聖節]]
|-
|11月19日||ナショナルデー
|-
|12月8日||[[聖母受胎祭]]
|-
|12月25日||[[クリスマス]]
|}
== スポーツ ==
{{Main|{{仮リンク|モナコのスポーツ|fr|Sport à Monaco}}}}
{{See also|{{仮リンク|モナコのサッカー|en|Football in Monaco}}|サッカーモナコ代表}}
[[File:Stadion von Monaco Seitenansicht.jpg|160px|thumb|[[スタッド・ルイ・ドゥ]]]]
; [[ASモナコ]]
[[フランス]]・[[リーグ・アン]]で通算8度の優勝を誇っており、同リーグにおける強豪クラブの一つとなっている。ホームスタジアムは、フォン・ヴュエイユ地区にある[[スタッド・ルイ・ドゥ]]である。
[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では[[UEFAチャンピオンズリーグ 2003-04|2003-04シーズン]]に準優勝に輝いている。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2016-17|2016-17シーズン]]では[[キリアン・エムバペ]]、[[ベルナルド・シウバ]]、[[ラダメル・ファルカオ]]、[[ファビオ・エンリケ・タバレス|ファビーニョ]]など数々のスター選手を擁し欧州ベスト4の成績を収めた。
; [[モータースポーツ]]
モナコ国内では[[フォーミュラ1]]の[[モナコグランプリ]]や、[[世界ラリー選手権|WRC]]の[[ラリー・モンテカルロ]]などの[[世界選手権大会]]が開催されている。
; [[ヘラクレス (陸上競技)|ヘラクレス]]
1987年に設立された[[陸上競技]]大会であり、会場は[[ASモナコ]]の本拠地でもある[[スタッド・ルイ・ドゥ]]で行われている<ref>[http://www.herculis.com/_association/_resultats/HISTORIQUE_1890-2009_14.09.2009.pdf LES GRANDES DATES DE L'ATHLETISME A MONACO de 1900 à 2008] Fédération Monégasque d’athlétisme. [[2011年]][[7月30日]]閲覧</ref>。2010年以降は[[ダイヤモンドリーグ]]の1大会として開催されている。
; [[モンテカルロ・マスターズ]]
[[男子プロテニス協会]]が主催し毎年4月末に行われている、国際[[テニス]]競技大会である。
; [[欧州小国競技大会]]
モナコは第1回大会から参加しており、第2回大会と第12回大会がモナコで開催された。また、2025年にも3度目の開催が予定されている。
== 著名な関係者 ==
{{Main|Category:モナコの人物}}
=== 主な出身者 ===
* [[ドミニク・ストロス=カーン]] - [[経済学者]]、[[法律家]]、[[フランス社会党]]の[[政治家]]
* [[エルベ・ファルチアニ]] - 元[[銀行]]員[[情報技術|IT]]担当
* [[ルイ・シロン]] - [[レーシングドライバー]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
* [[オリビエ・ベレッタ]] - レーシングドライバー、元F1ドライバー
* [[シャルル・ルクレール (レーシングドライバー)|シャルル・ルクレール]] - レーシングドライバー、F1ドライバー
* [[ポリーヌ・デュクリュエ]] - [[飛込競技]]選手、モナコ公族
* [[オリヴィエ・ボスカリ]] - [[プロサッカー選手|サッカー選手]]、[[OGCニース|ニース]]や[[PSVアイントホーフェン|PSV]]で活躍
=== 主な居住者 ===
* [[オーギュスト・エスコフィエ]] - [[モンテカルロ]]で死去。[[フランス料理]]人
** [[リッツ・ロンドン]]などのシェフであり、"近代フランス料理の父"とも呼ばれる。
* [[マルティーヌ・キャロル]] - モンテカルロの[[ホテル]]で死去。[[俳優#性別での分類|女優]]
* [[セシル・シャミナード]] - 晩年モナコ居住。[[ピアニスト]]、[[作曲家]]
* [[ジョセフィン・ベーカー]] - 埋葬地が{{仮リンク|モナコ墓地|fr|Cimetière de Monaco|en|Monaco Cemetery}}。[[ジャズ]][[歌手]]、[[俳優#性別での分類|女優]]
* [[ロジャー・ムーア]] - 埋葬地がモナコ墓地。[[俳優]]
* [[ジョシュア・チェプテゲイ]]<ref>{{Cite web|和書|title=陸上1万mで驚異的世界新 「26分11秒00」に海外メディア衝撃「長距離の歴史的な夜に」|url=https://the-ans.jp/news/130306/|website=THE ANSWER スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト|accessdate=2021-08-06|language=ja}}</ref> - [[陸上競技]]選手。[[10000メートル競走|10000m]]の[[世界記録]]保持者
* [[ランド・ノリス]] - レーシングドライバー、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
* {{仮リンク|ドミトリー・リボロフレフ|en|Dmitry Rybolovlev}} - [[ASモナコ]]の筆頭株主
=== 日本人関係者 ===
* [[中田英寿]]<ref>{{Cite web|和書|title=asahi.com:中田英寿さんがモナコ市民権を取得 - スポーツ|url=http://www.asahi.com/sports/fb/AMZ200707110060.html|website=www.asahi.com|accessdate=2020-08-24}}</ref> - 元サッカー選手、[[実業家]]。モナコ[[市民権]]取得
* [[南野拓実]]<ref>{{cite web|url=https://www.liverpoolfc.com/news/takumi-minamino-completes-permanent-move-monaco|title=Takumi Minamino completes permanent move to Monaco|date=2022-6-28|accessdate=2022-6-29|website=Liverpool FC|language=en}}</ref> - サッカー選手。2022年6月28日にASモナコへ移籍
* [[伊達公子]]<ref>{{Cite web|和書|title=バイオグラフィー {{!}} 伊達公子 公式サイト - Kimiko Date|THE TENNIS DAILY|url=https://kimiko-date.thetennisdaily.jp/biography.php|website=kimiko-date.thetennisdaily.jp|accessdate=2020-08-27|language=ja-JP}}</ref> - 元[[テニス選手]]。モナコ市民権取得
* [[デューク更家]]<ref>{{Cite web|和書|title=DUKESWALK デューク更家のウォーキングエクササイズ モナコダイアリー モナコに住む|url=https://www.dukeswalk.net/monaco/0612.html|website=www.dukeswalk.net|accessdate=2020-08-27}}</ref> - [[ウォーキングトレーナー]]
* [[原田哲也]]<ref>{{Cite web|和書|title=世界GP王者・原田哲也のバイクトーク Vol.3「『オレがオレが!』に日本人として立ち向かう」 {{!}} WEBヤングマシン|最新バイク情報|url=https://young-machine.com/2019/02/15/26047/|website=WEBヤングマシン|date=2019-02-15|accessdate=2020-08-27}}</ref> - 元[[オートバイ]]・[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]ライダー
* [[井上隆智穂]] - レーシングドライバー、元F1ドライバー、実業家
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
{{節スタブ}}
== 関連項目 ==
* [[ミュンヘン]] - [[ドイツ]]・[[バイエルン州|バイエルン自由州]]の都市
** [[イタリア語]]で「モナコ・ディ・バヴィエラ({{Lang|it|Monaco di Baviera}}, バイエルン地方のモナコ)」と言い、イタリアで「モナコ」と言えばこちらを指す。一方、モナコ公国は「[[モンテカルロ]]」と呼ぶのが一般的。「モナコ」も「ミュンヘン」も「修道士」を意味する両語に由来する。
* [[日本とモナコの関係]]
* [[モンテカルロ歌劇場]]
* [[モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Monaco|Monaco}}
; 政府
* [https://www.gouv.mc/ モナコ公国政府]{{Fr icon}}{{En icon}}
; 日本政府
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/monaco/index.html 日本外務省 - モナコ]{{Ja icon}}
* [https://www.fr.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在フランス日本国大使館] - 在モナコ大使館を兼轄{{Ja icon}}
; 観光
* [https://www.visitmonaco.com/ja モナコ政府観光会議局]{{Ja icon}}
* [http://micemonaco.jp/index.html モナコ政府観光会議局 日本事務所、モナコMICEガイド]{{Ja icon}}
{{ヨーロッパ}}
{{OIF}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:もなこ}}
[[Category:モナコ|*]]
[[Category:ヨーロッパの国]]
[[Category:現存する君主国]]
[[Category:公国]]
[[Category:保護国]]<!-- [[保護国]]でなくなったら外して下さい -->
[[Category:先進国]]
[[Category:都市国家]]
[[Category:フランコフォニー加盟国]]
[[Category:国際連合加盟国]]
[[Category:ヨーロッパの都市]]
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[[Category:コート・ダジュール]]
[[Category:フランス語圏]]
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11,928 |
1690年
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1690年(1690 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1690年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元禄]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2350年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]29年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]16年
** [[檀君紀元|檀紀]]4023年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]11年
* [[仏滅紀元]] : 2232年 - 2233年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1101年 - 1102年
* [[ユダヤ暦]] : 5450年 - 5451年
* [[ユリウス暦]] : 1689年12月22日 - 1690年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1690}}
== できごと ==
* [[2月]]-3月 - [[イングランド王国|イングランド]]で{{仮リンク|1695年イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election, 1690}}
* [[7月12日]] - [[ウィリアマイト戦争]]: [[ボイン川の戦い]]
* 12月頃 - [[ジョヴァンニ・カッシーニ]]がこの時期に[[木星]]の模様を記録。[[1997年]]に小天体が衝突した痕跡と見られると推定された。
* [[ロンドン]]で[[バークレイズ]]銀行の前身が設立。
* オランダの物理学者、[[クリスティアーン・ホイヘンス]]が[[光の波動説]]を主張。
* イギリスが[[フォークランド諸島]]を命名。
* [[イギリス東インド会社]]がインド東部の[[コルカタ]](カルカッタ)周辺地域を取得。
=== 日本 ===
* [[11月14日]](元禄3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[水戸徳川家]]の[[徳川光圀]]、[[水戸藩]]の藩主の座を甥の[[徳川綱條]]に譲る。
* [[近衛基熙]]、[[一条冬経]]に代わり[[関白]]に就く。
* [[徳川綱吉]]、[[江戸]]の[[湯島]]に[[孔子廟]]を移設させ、後の[[湯島聖堂]]の原型となる。
* [[山本山]]、江戸で茶商人として創業。
* [[エンゲルベルト・ケンペル]](ケンプファー)、[[長崎市|長崎]]・[[出島]]の[[オランダ商館]]医師として来日。
* [[朱子学]]が幕府の[[官学]]になる。
* [[別子銅山]]が発見される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1690年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月1日]] - [[フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1768年]])
* [[3月18日]] - [[クリスティアン・ゴールドバッハ]]、[[数学者]](+ [[1764年]])
* [[9月10日]]([[元禄]]3年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[前田吉徳]]、[[加賀藩]]第6代[[藩主]](+ [[1745年]])
* 月日不明 - [[本多忠良]]、[[老中]](+ [[1751年]])
* 月日不明 - [[本因坊道知]]、[[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]](+ [[1727年]])
* 月日不明 - [[丹羽秀延]]、第7代[[二本松藩|二本松藩主]] (+ [[1728年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1690年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月22日]] - [[シャルル・ルブラン]]、[[画家]](* [[1619年]])
* [[5月27日]] - [[ジョヴァンニ・レグレンツィ]]、作曲家(* [[1626年]])
* [[6月13日]](元禄3年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[本因坊道的]]、囲碁棋士(* [[1669年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1690}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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11,930 |
合成数
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合成数(ごうせいすう、英: Composite number)は、自然数で、1とその数自身以外の約数を持つ数である。
2つ以上の素数の積で表すことのできる自然数と定義してもよい。
例えば、15は1と15自身以外に3と5を約数に持つ(または 3×5 と素数の積で表される)ので合成数である。
約数は3個以上となる。
最小の素数は2であり、これを2乗した4が最小の合成数となる。合成数は無数にあり、4から小さい順に列記すると次のようになる。
素数を2乗した数は1つしか素因数を持たないが、9 = 3×3 のように2つの素数の積で表せる合成数である。 このような数は4から順に列記するとこのようになる。
合成数はおおよそ「素数でない自然数」と考えられる。
ただし自然数の内 1 は合成数や素数ではない。また自然数に 0 を含む場合は 0 も合成数や素数ではない。
言い換えれば、「1 と素数と合成数から自然数が構成される」とも捉えることが出来る。解釈によっては、これに 0 を加える。
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合成数は、自然数で、1とその数自身以外の約数を持つ数である。
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{{出典の明記|date=2022年2月}}
'''合成数'''(ごうせいすう、{{lang-en-short|''Composite number''}})は、[[自然数]]で、[[1]]とその数自身以外の[[約数]]を持つ数である。
==概要==
2つ以上の[[素数]]の[[積]]で表すことのできる自然数と定義してもよい。
例えば、[[15]]は1と15自身以外に[[3]]と[[5]]を[[約数]]に持つ(または 3×5 と素数の積で表される)ので合成数である。
約数は3個以上となる。
最小の素数は[[2]]であり、これを2乗した4が最小の合成数となる。合成数は無数にあり、4から小さい順に列記すると次のようになる。
:[[4]], [[6]], [[8]], [[9]], [[10]], [[12]], [[14]], [[15]], [[16]], [[18]], [[20]], [[21]], [[22]], [[24]], [[25]], [[26]], [[27]], [[28]], [[30]], …({{OEIS|A002808}})
素数を2乗した数は1つしか[[素因数]]を持たないが、9 = 3×3 のように2つの素数の積で表せる合成数である。
このような数は4から順に列記するとこのようになる。
:[[4]]、[[9]]、[[25]]、[[49]]、[[121]]、[[169]]、[[289]]、[[361]]、[[529]]、[[841]]、[[961]]、[[1369]]、[[1681]]の順。
合成数はおおよそ「素数でない自然数」と考えられる。
ただし自然数の内 [[1]] は合成数や素数ではない。また自然数に [[0]] を含む場合は 0 も合成数や素数ではない。
言い換えれば、「1 と素数と合成数から自然数が構成される」とも捉えることが出来る。解釈によっては、これに 0 を加える。
== 数学的性質 ==
* [[4]]以上の全ての[[偶数]]は合成数である。[[6]]以上の全ての偶数は最低4個の約数を持つ。
* [[6]]以上の数では一の位が 0, 2, 4, 5, 6, 8 であれば全て合成数である。
* 10以上の数で[[数字和]]が[[3]]の倍数となる数([[21]]、[[27]]、[[33]]、[[39]]、[[51]]、[[57]]、[[63]]、[[69]]、[[81]]、[[87]]、[[93]]、[[99]]等)は全て合成数である。
* <math>(n-1)! \,\,\, \equiv \,\, 0 \pmod{n}</math> 6 ≦ ''n'' である合成数 ''n'' はこの式を満たす。{{main|[[ウィルソンの定理]]}}
* 合成数は少なくとも3個の約数を持つ。また素数の2乗以外の合成数は最低4個の約数を持つ。最少個の約数を持つ合成数は素数 ''p'' を2乗した ''p''<sup>2</sup> で、1, ''p'', ''p''<sup>2</sup> の3つがその約数である。
* 3番目以降の[[多角数]]は合成数である。また、[[完全数]]や[[過剰数]]も全て合成数である。
* 任意の自然数 ''n'' に対して、連続する ''n'' 個の合成数を自然数列から取り出すことができる。
** (''n'' + 1)! + 2, (''n'' + 1)! + 3, …, (''n'' + 1)! + (''n'' + 1) は連続する ''n'' 個の合成数である。
* [[十進法|10進数]]では、8以上の[[ハーシャッド数]]は全て合成数である。また、8以上で[[レピュニット]]でない[[ズッカーマン数]]も全て合成数である。
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|合成数}}
*[[高度合成数]]
*[[素数]]
*[[半素数]]
*[[楔数]]
*[[数字和]]
*[[完全数]]
*[[友愛数]]
*[[社交数]]
*[[過剰数]]
{{素数の分類|state=expanded}}
{{Classes of natural numbers}}
{{デフォルトソート:こうせいすう}}
[[Category:素数|*こうせいすう]]
[[Category:数論]]
[[Category:整数の類]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
2003-07-20T17:03:52Z
|
2023-10-08T05:52:46Z
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"Template:Classes of natural numbers"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%88%90%E6%95%B0
|
11,931 |
ウィルコム
|
ウィルコム(WILLCOM)は、2005年2月2日から2014年7月31日まで存在したPHSサービスのブランド名である。旧称のDDIポケット(ディーディーアイポケット)から改称して発足した。
サービス自体はソフトバンク株式会社と株式会社ウィルコム沖縄が運営するY!mobileブランドのPHS部門として存続していたが2021年1月31日にPHSのサービス自体が一部法人向けを除き終了した。
株式会社ウィルコム(英: WILLCOM, Inc.)は、2014年5月31日までウィルコムブランドのPHS事業を行っていた電気通信事業者である。
社名は2005年2月に「DDIポケット」から改称した。新社名は社内公募によって決定し、今後構築するネットワーク"Wireless IP Local Loop"と、より快適で利便性の高い通信サービスを提供するという意志(WILL)、ワイヤレス通信が実現する未来(未来形のWILL)をワイヤレスコミュニケーション(Communication)を通じて実現する思いという意味合いを象徴する形で名づけられた。
携帯電話との加入者獲得競争で劣勢に立ち、高速化(XGP方式)への対応を図るため、2009年9月より事業再生ADR手続によって再建が進められていた。しかし、業況は好転せず、通信事業者では過去最大の2060億円の負債を抱え、2010年2月18日に東京地方裁判所に会社更生手続開始の申立てを行った。後に100%出資の親会社となるソフトバンクグループのグループ企業であり、移動体通信事業を手がけるソフトバンクモバイル(現・ソフトバンク)の取締役が管財人・管財人代理として派遣された。2013年7月1日、東京地方裁判所はウィルコムの会社更生手続終結を決定。再建を果たした。同日付けでソフトバンクの連結子会社(完全子会社)となった。
2014年3月27日、ソフトバンクが保有する株式をヤフーが買収してイー・アクセスと経営統合、ワイモバイルに改称してブランドも「Y! mobile」とすることが明らかになった。5月19日にヤフーの株式買収は中止となったが、6月1日にイー・アクセスに吸収合併され、法人格としてのウィルコムは消滅。7月1日にイー・アクセスはワイモバイルに商号変更。8月1日に旧イー・アクセスが展開していた「イー・モバイル」とブランド統合し、ブランド名が「Y!mobile」に変更され、ブランド名としてのウィルコムは9年半で幕を下ろした。
以後ウィルコムの事業を継承したイー・アクセスがワイモバイルに改称し、ワイモバイルがソフトバンクモバイルに吸収合併され、さらにソフトバンクに改称されるに至ってもなお、ウィルコムの名称はウィルコム沖縄に残っていた。ウィルコム沖縄も当初、「ワイモバイル+沖縄」を冠した社名へ変更となる可能性もあったが、最終的には却下された。ウィルコム沖縄は旧ウィルコムブランドの契約とY!mobileブランド移行後の契約のみを手掛け、イー・アクセス旧契約、イー・アクセスの旧プランとなる端末の契約およびソフトバンクの契約はソフトバンクが担当していた。2022年4月1日にソフトバンクがウィルコム沖縄を吸収合併し、これによりウィルコムの名称は完全に消滅した。
2018年3月31日にソフトバンク・ウィルコム沖縄がPHSの新規契約受付を終了した。2020年7月末にはサービスの終了を予定していたものの、新型コロナウィルスの感染拡大によって携帯電話への移行手続きが困難になり、医療機関をはじめとする利用者からの延期を要望する声が上がっていることを踏まえ、サービス終了予定日が2021年1月末に延期され、同日に終了した。法人向けPHSテレメタリングサービスについては2019年3月31日に新規契約受付を終了し、2023年3月31日にサービスを終了する予定である。
1994年に第二電電が中心となって企画会社が設立されて事業会社に移行後、1995年に「ポケット電話」の名称でPHS事業を開始した。アステルやNTTパーソナル(以下、同業2社)による20ミリワット(mW)の基地局よりも出力・受信感度が高い500mWの基地局(建柱)を中心に整備した。これは、他事業者は主要株主のNTTグループや電力会社が所有する電柱などの設備を利用してアンテナを設置していたが、本サービスはより少ない設置場所でエリアを確保する必要があったためとされる。
基地局が高出力で、サービス開始初期は都内など基地局の設置が過密な地域において干渉が発生し、通話不能となるトラブルが発生した。このトラブル解消のために一時的にサービスを中止して、基地局間の同期を取るよう改修を実施した。そうした初期のつまずきはあったものの500mW高出力という特徴を生かし、他の同業各社に比べて利用可能エリアの拡大が早かったためPHSではトップグループとなった。
しかし当時のPHS全体の問題として同時期に普及し始めた携帯電話との相互通話ができず、1996年10月の暫定接続以後も携帯電話・PHS間の通話料も高額だった。携帯電話側が料金を値下げした結果、料金面でもPHSの優位性が縮小した。携帯電話と比較した場合、郊外や山間部などで通話エリアの劣勢が指摘された。
1999年9月、対抗策としてDDIポケットは端末側のハンドオーバー処理を高速化し高速移動中の通話安定性を向上した新シリーズの「H"(エッジ)」を「ハイブリッド携帯」のキャッチフレーズで展開開始(従来のポケット電話も併売)。その翌2000年11月に、当時としては高品質なカラー液晶や音源等、およびダイバシティアンテナを搭載した新カテゴリー「feel H"(フィールエッジ)」を発売した。この頃にポケット電話はほぼ終売しH"シリーズとなる。「H"」という名称は、英語のedgeで時代の先端という意味のほかロゴ全体でDDIポケットの基地局のアンテナを形取り、H(エッチ)に濁点をつけて「エッヂ」と読ませたものである。ハイスピード、ハイクォリティーの頭文字のHが2つでH"と読ませるなど複数の意味をもつとしていた。
この時は、「PHS」という名称を積極的に用いておらず、単にブランド名の「H"」や「ハイブリッド携帯」の語句のみ使用していた。これは、「簡易型携帯電話」とも表記されていたPHS全体のブランドイメージ低下を払拭しようとの対策だった。当時の携帯電話と比較して音質面では優れていたものの、一般的消費者への浸透をみることはなかった。その他の諸事情も併せ、結果的に契約者数の減少傾向に確実な歯止めを掛けられずにいた。
同業2社では2002年前半に音声端末(今で言うフィーチャーホン)の新機種開発・発売をほぼ打ち切ったが、DDIポケットでは引き続き新型機を発売しており、2002年9月に従来の「H"」機種で『Eメール使い放題』を開始。2003年4月に、ドコモPHSの「ブラウザホン」、アステルの「ドットi」で導入されていたiモード等と同様のcHTMLを表示できるブラウザを搭載し、音声端末初のパケット通信に対応した「AirH" PHONE(エアーエッジフォン、後のAIR-EDGE PHONE)」が遅まきながら導入された。2004年5月に京セラから発売されたAH-K3001Vでは、日本国内の携帯電話・PHSで初めてフルブラウザのOperaを搭載した。このヒットにより、300万弱で横ばいだった契約者数の底打ちに成功している。
1997年4月1日、2G携帯電話に比して高速な通信速度が可能なデータ通信を前面に打ち出したPIAFS1.0に準拠した回線交換方式32kbpsデータ通信「 αDATA 32」を開始。PIAFSに準拠しない独自方式の「 αDATA 」も存在し、PIAFS未対応のG3FAXやワープロ・パソコン類のアナログモデムなどアナログ固定電話回線向けの機器と接続してデータ通信が行えるサービスも存在した。
1999年7月30日に、PIAFS2.1規格を導入した64kbps通信「 αDATA 64」が可能となる。32k通信については同業2社と足並みをそろえたが、64k通信については全国ほぼ一斉に64kbps通信のサービス開始を可能としたため、4月に先行していたドコモPHSのサービスエリアに対しては優位に立った。これは他社はハードウェアの交換作業が伴ったのに対し、DDIポケットはリモートでのソフトウェアアップグレードという方法で対応できたためである。ただし、ドコモPHSの64kデータ通信はギャランティ接続であるのに対して「αDATA64」はベストエフォート接続のため、十分な回線速度が出なかったり、ハンドオーバー時に切断されるなど不都合な点が残る形となった。
2000年9月に、富士通のモバイルノートパソコン「FMV BIBLIO LOOX」に、αDATA64対応のデータ通信モジュール「 H" IN 」が内蔵された「LOOX S5/53W」「LOOX T5/T3W」が発売された。これらは購入後にオンラインサインアップで回線契約を行うことができ、MWAや、2010年前後に普及した3G方式のワイヤレスWANモジュール内蔵ノートパソコンの趨りと言える機種である。
2001年6月1日、日本のPHS事業者では唯一であるパケット通信サービス「AirH"(エアーエッジ、後のAIR-EDGE)」を開始。定額制で最高32kbpsのパケット通信が可能なことから、モバイル利用ユーザを中心に大ヒット。そのおかげでようやく契約者数の減少に歯止めを掛けることができた。翌年に最高128kbpsもサービスインした。前述した最高64kbpsの回線交換方式のデータ通信も併せ、パソコンやPDAとの接続でのモバイルデータ通信定額制(後にパケット定額制へと繋がる)が可能であることを強みに携帯電話との差別化に成功した。
AirH" PHONEの開始に併せて最初は台湾、次いでタイ、ベトナムとPHSの国際ローミングサービスも提供を開始した。
2004年6月21日にアメリカ合衆国のカーライル・グループによる買収が発表され、10月1日に同社が筆頭株主となった。買収額は2200億円。
経営移行手続完了となる2005年1月1日時点での資本構成はカーライルが60%で筆頭株主、従来のDDIポケット(以下「旧DDIポケット」)の第2位株主で13.25%出資していた京セラ株式会社が30パーセント、旧DDIポケットの筆頭株主で80.93%出資していたKDDI株式会社が10%となる(旧DDIポケットの株式の所有割合は2004年3月31日現在のもの)。
カーライル・グループが買収した動機付けとしてはPHS/AIR-EDGEのモバイルデータ通信市場での優位性や将来性、さらにそれらの中国/国際市場への展開も視野に入っていると考えられていた。
2005年2月2日、ウィルコムへ社名を変更し、エアーエッジの表記も「AirH"」から「AIR-EDGE」へ変更された。社名変更に伴うブランドイメージの刷新という意味合いもあるが、「AirH"という表記では日本人以外はエアーエッジと読むことができない」という問題点に基づいたものであり、ウィルコムの筆頭株主であるカーライル・グループの意向が強く働いたとされていた。AirH"という命名の根拠だった元ブランドの「H"(エッジ)」に関しては表記の変更は発表されなかったことから、事実上「H"」ブランドの将来的な消滅を示唆するものとなった。パケットデータ通信規格に別にEDGE (Enhanced Data Rates for GSM Evolution) と呼ばれるものが存在するが、全く無関係である。
同日、高速化サービス「AIR-EDGE MEGA PLUS」(旧トルネードWebサービスの改良版)を開始し、2月18日に256kbpsの定額データ通信サービス「AIR-EDGE[PRO]」を開始した。
DDIポケットだった当時はKDDIグループ内部における携帯電話auとの兼ね合いからデータ通信を中心にした事業展開を行っており、音声通話に対しては消極的だった。しかしKDDIグループからの離脱に伴い、音声通話についても積極策に転じた。
2005年3月15日、ウィルコム沖縄を含むウィルコム同士のメール定額を含む音声通話定額制プラン「ウィルコム定額プラン」を発表、5月1日に開始した。ウィルコム定額プラン専用のデータ通信が定額制となるオプションプランも併せて導入。移動体通信としては日本国内初の通話定額制サービスの開始となった。
音声定額制導入に伴って契約数は増加に転じ、2005年3月末までの契約数は子会社ウィルコム沖縄を含めたグループ全体で300万契約を取り戻した。その後も加入者数は増加し続け、2005年12月23日付けでDDIポケット時代の1998年7月に記録した約361万件の過去最高契約数を更新した。その後2006年5月末に400万件、2007年3月末に450万件を突破した。
しかし2006年10月から携帯電話事業者間で始まった番号ポータビリティとそれに伴う料金値下げ競争から価格優位性が薄れた。特にソフトバンクモバイルの定額プラン「ホワイトプラン」の影響が大きいとされる。データ転送速度の遅さ、ワンセグやおサイフケータイなど携帯端末の高機能・多機能化の流れにも取り残されて純増数が鈍化傾向となり、ついに2007年8月は純減となった。
音声定額制導入に当たってはNTT東西会社への接続料(アクセスチャージ)を削減するため、VoIP対応交換機(ITX:Ip Transit eXchange)を高トラフィックな地域に優先的に導入していた。
KDDI傘下を離れたことに関係しそれまではできなかった携帯電話と比較してのSAR値の低さなどを大きな売りとしてアピールできるようになっていた。
2005年12月1日から、「ウィルコムADSL」サービスを旧アッカ・ネットワークス(イー・アクセスに吸収されたため、同社の回線)のADSL回線のホールセールにより開始。ウィルコムのPHSサービスとの同時契約による割引なども導入。
2006年2月1日から、テレマティクス(カーナビゲーションのインターネット接続)分野でHondaインターナビと協業、「カーナビ専用定額サービス」を開始。月額1,050円のカーナビ専用定額制を導入。
2006年3月1日から、J:COMとの提携によりウィルコムのPHSサービスを「J:COM MOBILE」としてJ:COMが再販。同社の固定電話サービス「J:COM PHONE」のオプションサービス「とくとく・トーク」に加入すると、J:COM MOBILEへの通話料を割り引く。
2006年6月1日から、NTTコミュニケーションズとの提携により同社の公衆無線LANサービス「ホットスポット」を、「ウィルコム無線LANオプション」としてウィルコムが再販。
2006年2月23日から、高度化PHSであるW-OAM方式の採用により、大都市を中心に一部地域で最大408kbpsの通信速度サービスを開始。今後さらに1.5Mbps以上のデータ通信サービスを提供する計画もある。
2006年末以降発売の音声通話型端末では音声通話においてW-OAM方式の一種であるBPSKによる通信方式にも対応したものが増えていた。
2007年12月21日、次世代PHS技術を採用した広帯域移動無線アクセスシステム(BWA)の特定基地局の開設計画認定の申請に対して総務省より開設認定を取得。これにより、2009年10月からの次世代PHSサービスが実現可能となっていた。2008年5月26日には次世代PHSのブランド名を「WILLCOM CORE」(ウィルコムコア)とすると一旦、発表した。COREは、英語の「核」と、Communication Of Revolution and Evolutionの略から来ていた。ただし、2009年1月22日にこの“次世代PHS=WILLCOM CORE”という位置づけから、次世代PHSだけではなく従来PHS、3G携帯MVNO、無線LANと複数の通信手段を利用して快適に通信できるサービス全体をWILLCOM CORE、次世代PHSサービスのみの呼称はWILLCOM CORE XGP(XGP:eXtended Global Platform)とするという方針の変更を発表していた。
そのため、XGPが展開される前に2009年3月9日よりNTTドコモのFOMAハイスピード網のMVNOを利用したWILLCOM CORE 3Gサービスを開始していた。提供は、最長で2012年12月までを予定していた。XGPエリア網の進展により、イー・モバイルのドコモローミング同様、都道府県単位での繰り上げ終了も有り得るとしていた。従来のPHS契約からWILLCOM CORE 3Gサービスへの「機種変更」(契約変更)も可能だが、実質的には既存PHSの解約・WILLCOM CORE 3Gの新規契約と同様であるため、契約期間の引き継ぎやサポートコインの引き継ぎは出来ず、電話番号の維持も出来なくなる。ただし、端末の分割分が残っている場合の支払は引き続き必要だが、その他年間契約の解除手数料などは一部免除される。サポートコインについては、同一請求の回線があり、そちらを存続させる場合に限り、その回線の上限分までは継承可能。サポートコインの提供やW-Value selectに付随するW-VALUEサポートの適用、あるいは、ウィルコムあんしんサポートの対象外となる。
WILLCOM CORE XGPについては、2009年10月1日からサービスを開始することを公式発表した。開始当初は、東京都山手線内の一部地区からのサービス提供となることや対応する通信機器の台数に限りがあることから、2010年3月まではXGP専用の料金プランである「XGPデータ定額フラット」並びにPRIN接続料を無料とするキャンペーン期間に設定し、対応通信機器も無償レンタル(貸与)される。ただし、申込自体は東京特別区内の住所で契約し、ウィルコムの契約を既に持っている場合に限る。
ウィルコムは「次世代PHS」という名称はすでに公式には使用しなくなっており、メディアに対しても使わないようにと要望していた。これは、XGPブランドの浸透を図るだけでなく、XGPではデータ通信サービスしか行う予定がなく、電話のイメージのあるPHSという言葉を入れると誤解を招くからである。
2009年9月18日、ウィルコムは、私的整理のひとつで第三者機関が仲介する裁判外紛争解決手続(事業再生ADR)に入る方針を取引金融機関に伝え、約1000億円の債務返済期限の延長を求める方向で最終調整に入ったことが一部報道で明らかになった。9月24日に事業再生実務家協会への事業再生ADRの手続きを正式申請し、受理された。現在の通信事業を継続しつつ、経営再建を目指す方針としていた。
しかし、事業再生ADRの手続きが明らかになったことで、顧客に先行きの不安感が流れたためか、契約数が減少する負のスパイラルを引き起こす結果となり、2010年2月18日、東京地裁に会社更生法の適用を申請した。2009年12月末での負債総額は単体ベースで2060億円であり、通信業の経営再建会社としては平成電電の負債額を抜き過去最悪となった。同時に、企業再生支援機構へ支援を正式に要請した。今後ソフトバンクとアドバンテッジ パートナーズからの支援を前提に協議を行う。会社更生法申請に伴い、久保田幸雄社長は事業統括担当の管財人代理兼代表執行役員として、新たな経営陣に加わって経営に参画するが、他の取締役はすべて辞任を余儀なくされた。その後、4月1日に管財人および管財人代理が追加選出された事に加え、久保田自身の体調不良などの理由により、久保田管財人代理兼代表執行役員が4月23日付で辞任し、旧経営陣はすべて姿を消すことになった。
子会社のウィルコム沖縄については会社更生法の適用申請を行っておらず、沖縄県での事業については、本件に伴う特段の影響はないとしていた。ただし、ウィルコム本体と兼任していた役員は総辞職した。
事業再生スキームとしては、PHSサービスやMVNO事業はウィルコムを更生させて従前通り継続させる方針だが、WILLCOM CORE XGPについては、スポンサー会社が今後設立する受け皿会社が譲受して、事業分割する方針いわゆる、新旧分離の方針を掲げていた。ただ2010年8月2日には、XGP事業の譲受とPHS事業のコスト削減に協力する立場だったソフトバンクが、管財人からの要請により、PHS事業も含めたウィルコム全体の直接支援を行うことで合意していた。管財人にソフトバンクモバイルCOO宮内謙、管財人代理にソフトバンクモバイル取締役専務執行役員CTO宮川潤一、同社執行役員経営企画本部長田中錬・同社財務経理本部長内藤隆志が就任していた。管財人は、ウィルコムの事業の経営並びに財産の管理及び処分をする権利の全権を、独占して握っていた。
2010年10月14日付で更生計画案が東京地裁に提出され、現在のPHS事業そのもののみをソフトバンクグループの完全子会社となるウィルコムに残した上で、ソフトバンクグループとアドバンテッジ パートナーズによる受け皿会社であるWireless City Planning株式会社(WCP)を2010年6月に設立の上、XGP事業および、PHSを含む設備の資産(基地局・電柱を含む)およびロケーションの賃貸借にかかわる権利をWCPが吸収分割方式にて譲受することを明らかにした。東京地裁からの認可が正式に下りた時点で事業家管財人が代表取締役、事業家管財人代理が取締役へ横滑りした上で、追加で取締役・監査役を選任する予定としていた。その後、2010年11月30日付で更生計画案が認可され、12月1日付でソフトバンクグループ4社目の通信事業者となり、宮内管財人が代表取締役に正式に就任した。
ソフトバンク傘下に入ってからは「だれとでも定額」や「もう1台無料キャンペーン」などの料金施策を打ち出し、2011年1月には契約者数が純増に転じ、2012年4月には累計契約者数が過去最高の468万1000件(2007年7月の465万9100件以来、4年8ヵ月振り、ただし、SoftBank 3Gを含む、以下同)となる急激な回復成長をし、9月23日に500万件を突破した。
WCPによる当該事業の譲受は2010年12月21日付で実施。WCPへ移行後のXGPについては、中国移動が導入予定とされる次期PHSに転換する方向も検討していることをソフトバンクグループが明らかにしていた。これはPHSではなく、TD-SCDMAの後継方式であり、第3.9世代移動通信システムの一つであるTD-LTE方式(AXGP)による音声携帯電話あるいは、同方式によるデータ通信ともいわれていた。WCPのAXGP基地局を展開する際は既存のウィルコム基地局を利用し建物制限が無い限りは全てPHSとの併設のオムニアンテナ新型機に替えていた。
2011年7月7日に3年かけPHS基地局を現在の16万局から約3割減の11万―12万局にすると発表した。ソフトバンクの第3世代携帯電話(3G)の鉄塔基地局にPHS専用基地局を併置。基地局の賃料や電気代、回線料などの負担を軽減できソフトバンクのインフラ活用により、年550億円かかっていたPHS基地局の維持費を同250億―同350億円に圧縮し、経営改善につなげる。すでに3月から一部作業を進めていた。2014年夏までにすべての作業を完了する。ウィルコムはこれにより設備維持費を年200億―同300億円削減できると試算していた。高さが40メートルあるソフトバンクの3G鉄塔基地局は、上部にPHS専用の基地局を併設でき、半径2キロメートルの地域を補える。ウィルコムは今後、3G鉄塔基地局との併設により、不要なPHS基地局を選定していくとした。
2012年6月14日にソフトバンクモバイル取締役専務執行役員CTOで、ウィルコムの管財人代理も務める宮川潤一のTwitterによると、圏外でウィルコムが使用できない全国すべての道の駅について、ウィルコムの基地局を設置する計画がほぼ固まったとの事、設置にあたってはすぐに取りかかれるところと時間がかかるところとで1年強の差が生じるものの、宮川はやりきることを表明。ソフトバンクモバイルが基地局用に利用していた鉄塔にウィルコムの基地局を設置する動きも始まったとしていた。
2013年1月17日より、「ウィルコムプラザ」においてグループ会社のイー・アクセスやソフトバンクモバイルが販売していた製品やサービスの取り扱いを開始しており、特に、イー・アクセスとは当社の製品やサービスの「イー・モバイルショップ」への供給も行われており、グループ内での交流も盛んになっていた。7月1日付で東京地裁から会社更生手続終結の決定を受けたことを発表したことで、会社更生法の適用申請から約3年4ヶ月で再建を果たした。同日付けでソフトバンクの連結子会社となったことが発表された。
2013年12月3日に、グループ会社のイー・アクセスに2014年4月1日付で吸収合併されることが発表されたが、合併期日は2014年2月17日に延期(2014年6月1日付けに変更)が発表された。
合併発表後、PHSサービスに関する問合わせが相次いだことから、合併により法人としてのウィルコムは消滅するが、PHSサービスについては、継続して提供することが発表された。
2014年3月27日、6月1日実施の合併の翌日にソフトバンクが保有する普通・優先株式のすべてをヤフーが買収することになり、社名を「イー・アクセス株式会社」から「ワイモバイル株式会社」に改称、ブランドも「Y!mobile」への改称を表明した。しかし、2014年5月19日に株式買収を中止して協業に留めることを発表、ワイモバイルへの社名変更も当面見送ることになった。ただし、ウィルコムの吸収合併は予定通り行われた。見送られていたワイモバイルへの社名変更については当初予定から1ヶ月遅れの7月1日に実施。ブランド変更は8月1日付で「Y!mobile」へ変更することが7月17日に正式発表された。法人としてのワイモバイルは、2015年4月1日付けで、親会社のソフトバンクテレコム、ソフトバンクモバイル、ソフトバンクBBのグループ3社と合併し、存続会社の「ソフトバンクモバイル」(合併後の7月に「ソフトバンク」へ社名変更)に吸収され消滅したが、PHS事業を含む「Y!mobile」のブランドは継続・承継された。
2018年3月31日、ソフトバンク・ウィルコム沖縄がPHSの新規契約受付を停止。
人口カバー率については2004年1月に97パーセントを達成し、2006年3月に99%を達成。
実際には大都市・都市の辺縁部や地方市町村の周辺部、居住者が少ない村落、山間、山岳、海上などはエリア外となる事が多い。PHSの特性上、1つの基地局のカバーエリアが携帯電話よりも狭く数多くの基地局を建てなければならないため、エリア展開上不利になっていた。ソフトバンクの3G鉄塔基地局上部にPHS専用の基地局を併設を進めており半径2キロメートルの地域を補えるようになった。通信に利用していた電波の周波数(1.9 GHz)の性質上、屋内への電波の到達性が低く障害物による減衰が大きい。そのため、屋内へのアンテナ(ナノセルシステムなど)設置や道の駅やスキー場などスポット的なエリア化などの小回りは効くものの圏外となる空白地帯(いわゆるエリア内の穴)は地方では多い。
ただし、同業のアステルやドコモPHSとは基地局の構造が大きく異なる高出力型であることから、両社がエリア外としていた三大都市圏・県庁所在地から離れた郊外の町村・地方都市(例えば北海道稚内市など)においても積極的に展開し、同業2社や三大都市圏にエリアを限定していたドコモのシティフォン(携帯電話)よりも広域なサービスエリアとなっていた。
「ポケット電話」の開始当初は、利用者その他からの「つながらない」「すぐ切れる」との批判が多かったが、都市部・市街地においてはその問題は少なくなってきていた。高感度・高指向性アンテナやアダプティブアレイ技術の採用など、基地局のセル性能は開始当初の半径500mから補える範囲が半径1kmと向上していた。高速ハンドオーバー(前述「H"(エッジ)」を参照)の採用などにより一般道路や普通電車などでの移動中でも音声通話は概ね可能となり、データ通信(ウェブ・メール他)ならば高速道路や在来線特急電車等の高速移動中でも利用できる場合がある。
2006年末以降発売の音声通話型端末では音声通話においてW-OAM方式の一種であるBPSKによる通信方式にも対応するものが増えていた。これにより、W-OAM対応エリアにおいては従来のPHS方式(π/4-shift QPSK)に加え実効上、屋内浸透性や高速移動時の安定度をより向上させた音声通話が可能となっていた。
1つの基地局で数キロメートルのエリアをカバーしている基地局(マクロセル方式)を採用している携帯電話は災害発生時、1つの基地局に通話が集中して交換機がダウンしないよう携帯通信会社が発信規制をかけるが、PHSは1つの基地局のカバーエリアが携帯電話よりも狭く、数多くの基地局(マイクロセル方式)を建ててエリアをカバーしていたため、通話が集中しても1つの基地局にかかる負荷が分散されるため発信規制がかかることはまず無いと言われていた。そのため、以前から災害発生時直後でもPHSは通話可能と言われていた。
未曾有の大災害となった東北地方太平洋沖地震発生当日には、発信規制が続く携帯電話や固定電話と違い、ウィルコムのPHSはほとんど発信規制が無かった。PHSから都道府県内・外の固定・携帯電話・PHSへは数回かけ直しただけでつながったことでPHSは災害時でもつながりやすいと注目され、後日マスコミでも報道された。その後2011年から3年間で、PHS基地局を16万局から約3割減の11万 - 12万局に減じた。
記載の価格には消費税が含まれていない。
料金プランには特定の端末のみ契約出来るプランと、どの端末でも契約出来るプランの大まかな2種類が存在していた。
基本料金の計算期間は、電話番号の新規契約日によって変化し、各月の1〜19日に契約した場合は月末締め、20日〜末日に契約した場合は15日締めとなる。前者となった場合は、お客様番号の数字10桁の後に付く枝番が「-A」となり、後者となった場合は枝番が「-B」となる。「-A」の回線と「-B」の回線を請求統合した場合は、設定時に指定したお客様番号側の計算期間に併せられるが(この場合、何れの回線とも月末締めないしは15日締めに統一され、1ヶ月のみ、一方の請求がなされないかわりに、請求期間の丸めのために請求のなかった翌月は1.5ヶ月分の徴収となる)、枝番自体は変化しない。ただし、例外として、新ウィルコム定額プランGを契約した場合は、新規契約日にかかわらず、お客様番号の数字10桁の後に付く枝番が「-A」となり、計算期間は月末締めとなる。同様に、請求統合の如何に関わらず、機種変更前に「-B」となっていた顧客についても、「-A」に変更となる。「WILLCOM CORE 3G」の契約者についても、新規契約日に関わらず、お客様番号上は「-A」の扱いとなるため、料金計算は月末締めとなる。
2013年7月請求分より、月末締めに統一され、引落日ないしは請求書での支払期限日が毎月26日に変更される形で統一される(事実上、お客様番号上「-A」の扱いに統一され、加えて、引落日ないしは請求書支払期限がソフトバンクモバイルの末日締ユーザの扱いに併せられる)。
ウィルコムは郵送の請求書は有料であった。
金融機関からの引き落としは、自社が直接行うか、不可能な金融機関についてはアプラスが収納代行の形で行ってきたが、2011年9月の引き落とし分より、自社およびアプラスの代行を取りやめ、セディナによる収納代行を利用した引き落としに変更されることになった
2013年6月20日より、年間契約の契約期間が見直され、契約日に関わらず、契約から12ヶ月後の月末となった。「新ウィルコム定額プランS/GS(新規受付を終了した「新ウィルコム定額プランG」を含む)」は契約満了日が3年後から3年後の月末に変更となった。いずれの場合も、契約満了日付で解約等を行った場合は解除手数料が発生する。ただし、「新ウィルコム定額プランS/GS」及び「新ウィルコム定額プランG」を利用中のユーザーには、契約満了日の前月末に変更となる。
本来は契約更新月以外にプラン変更や解約を行った場合にかかる契約解除料については、特定端末向け料金プランや一部の音声端末料金プラン(すべてのスマートフォン向け料金プラン及びウィルコムプランW・新ウィルコム定額プランS/G/GS)から機種変更などでY!mobileブランドで提供されている「スマホプランS/M/L」にプラン変更した場合は免除される。
以下に述べるプランは2015年10月以降も新規および変更受付が可能な料金プランである。
以下の料金プランはY!mobileのホームページに「受付終了プラン」として掲載されていた料金プランである。
「ウィルコム定額プラン」、「スーパーパックS/L/LL」、「昼特コース」は2010年12月31日に店頭での受付が終了し、新規契約や機種変更を伴わないプラン変更も2011年2月28日に受付を終了している。
2014年7月31日には「ウィルコムプランW」を除くすべての音声通話(電話機)向け料金プランと「ウィルコムプランD+/Lite」が、2015年9月30日には2014年8月以降も継続していたすべての音声通話向けプランと「3Gデータ定額S」が順次、新規および変更の申込受付を終了した。これにより、ウィルコムから継続していた料金プランは特定端末向けプランと一部のデータ通信端末向けプランのみとなった。
契約中のユーザーは、料金プランの変更を行わない限り、申込時の料金プランで継続利用が可能であった。
新ウィルコム定額プランS
新ウィルコム定額プラン
標準コース
通話相手先限定
ウィルコム定額プラン
スーパーパックS/L/LL
昼得コース
お気軽コース
オプションサービスの集約化に伴い、2010年12月31日に店頭の受付を終了、既存ユーザー向けの追加受付も2011年2月28日に終了。「ウィルコムあんしんサポート」2013年1月31日、「あんしん保証サービス」は11月13日に新規受付を終了した。
「Y!mobile」へのブランド統合に伴うオプションサービスの見直しにより、「新通話パック」・「ソフトバンク/イー・モバイル通話定額」・「テザリングオプション」は2014年7月31日に新規受付を終了した。
現在利用中のユーザーは継続利用が可能である。
各種条件により適用の可否があるため、公式ウェブサイト等で確認のこと。
以下の割引サービスはオプションサービスの集約化に伴い、店頭での受付は2010年12月31日付で、既存ユーザー向けの受付も2011年2月28日付でそれぞれ終了した。さらに、複数割引サービスは2013年5月31日付で、ファミリーパックとハートフルサポートは2014年7月31日付で順次終了した。現在利用中のユーザーは割引が引き続き適用される。
電話機をW-VALUE SELECT用販売価格にて一括または24回払いで購入すると、以下の特典を受けることができる。詳細はW-VALUE SELECTを参照。
導入時は機種変更に対してのみ提供していたが、後に新規購入時にもW-VALUE SELECTを利用できるようになった。 先行するSoftBankブランドの「スーパーボーナス」同様、利用者の電話機購入初期費用を抑えるとともにキャリア(この場合はウィルコム)のインセンティブ負担を確実に回収するものとなっていた。開始当初はSoftBankブランドの場合と異なり、利用者の契約する料金プランやオプションによってもW-VALUE割引の上限額が変動していたが2007年10月10日以降から機種による違いのみに改定された。
基礎情報にもある通り旧法人・DDIポケットと現法人・ウィルコムとで設立年月日が異なり、かつ現法人の方が旧法人よりも古い。これは事業主体移行において執られた、登記上の手続きによるもの。
太字は、その時点で一般利用者が直接の契約関係を持つ会社である。
開業当初は当時の郵政省の電波・通信行政の方針により、(他の携帯電話・PHSキャリアと同様に)地方ごとにいくつかの地域会社に分かれて事業を行っていたが、その後の行政方針の転換を受けて2000年にディーディーアイ東京ポケット電話株式会社を存続法人として地域会社を合併し、他のキャリアに先駆けて日本全国を業務区域とする事業者となった。
しかし、2005年1月25日にアステル沖縄を継承するための新会社「ウィルコム沖縄」がDDIポケットと沖縄電力の共同出資により設立された。ワイモバイルへ転換後もウィルコム沖縄は引き続き存置され、これにより現在は2社体制となっている。
※2015年7月1日現在
直営拠点であるウィルコムプラザの電話番号は非公開(ただし、2010年2月より公開開始していたが、簡単な問い合わせ以上は応じないとしていた)なので、連絡は直接出向くかサービスセンターへの電話連絡にて行うのが原則となる。かつてはDDIポケット時代からあった一部拠点でPHS番号で公開していたところもあったが、現在は全て伏せられていた。同社は「ウィルコムプラザに直接来店した顧客の対応を優先するため電話では十分な対応が至らず、来店がかなわない場合はサービスセンターへ電話連絡、来店可能な場合はウィルコムプラザへ直接来店という形で棲み分けを図る意味合いがある」と説明していた。一部業務の制限はあるがウィルコムカウンターもある。こちらは電話番号は公開されていた。受付の業務内容は新規加入、機種変更の他解約なども受付可能である。料金収納やオプション変更(一部機種変更と同時受付のみ可能)はごく一部を除きできない。
ただし、ここではWILLCOM CORE 3Gのみのメーカーを除く。
2007年初頭時点では、一般的な移動体端末メーカーよりも産業系機器のメーカーが多い。
以下、年別に発売された端末を列挙(日付は発売日)。DDIポケット時代の端末は、H"対応端末(Air H"の「AH」で始まる型番に統一された)より前の機種ではキャリア独自の型番が付けられておらず、メーカー独自の型番をそのまま使用していた。
☆はY!mobileブランド移行後も継続販売されたもの。 ×は、ガードバンド移行後の帯域での利用ができないため、2012年に使用停止されたもの。 ▼は、ガードバンド移行後の帯域に対応しているが、SHA-2非対応のため、本体のブラウザでは、暗号化されたサイト(主に、TLSがかかったサイト)の閲覧ができなくなった端末。
このころからPHSのデータ通信方式はPIAFS方式が一般的になり、みなし通信やモデム変換サービスを内包していたα-DATAとPIAFS方式を内包したα-DATA32が標準となる。
2004年5月にOperaブラウザを搭載しパソコン向けのホームページを閲覧することも可能なウィルコム(旧・DDIポケット)の京セラ製端末AH-K3001Vが発売された。
これ以降、W-SIM端末以外の音声端末は原則としてW-OAM対応となる(W-OAM/4xパケット方式対応により通信速度は最大204kbps)。WX220J/WX321J/WX320Kはいずれもダイバーシティアンテナ搭載、通話中音声着信表示対応、自動時刻補正機能あり。
これ以降の音声端末のほとんどに、赤外線通信機能が搭載されている。外部接続端子がmicroUSBに変化している。
Wireless City Planningへの移行に伴い、2010年12月21日以降は、同社の「XGPサービス」に変更された。2012年1月31日を以って停波。
☆はY!mobileブランド移行後も継続販売されたもの。
旧ウィルコムは、オペレータ共通のアクセサリ等のオプションをほとんど出していなかったため、オンラインショップで扱っていないものについては、京セラやネクスなど、端末メーカーのECサイトで注文する形式も取られていた。ウィルコム時代末期には、ソフトバンクグループの強みを生かして、ソフトバンクBB(同社の当該事業は、2014年4月1日より、ソフトバンクコマース&サービスが吸収分割にて継承している)がウィルコムブランドでACアダプタを発売していた。
現在はなし。ラジオCM自体も現在はやっていない。
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[
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"text": "ウィルコム(WILLCOM)は、2005年2月2日から2014年7月31日まで存在したPHSサービスのブランド名である。旧称のDDIポケット(ディーディーアイポケット)から改称して発足した。",
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"text": "サービス自体はソフトバンク株式会社と株式会社ウィルコム沖縄が運営するY!mobileブランドのPHS部門として存続していたが2021年1月31日にPHSのサービス自体が一部法人向けを除き終了した。",
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},
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"text": "株式会社ウィルコム(英: WILLCOM, Inc.)は、2014年5月31日までウィルコムブランドのPHS事業を行っていた電気通信事業者である。",
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},
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"text": "社名は2005年2月に「DDIポケット」から改称した。新社名は社内公募によって決定し、今後構築するネットワーク\"Wireless IP Local Loop\"と、より快適で利便性の高い通信サービスを提供するという意志(WILL)、ワイヤレス通信が実現する未来(未来形のWILL)をワイヤレスコミュニケーション(Communication)を通じて実現する思いという意味合いを象徴する形で名づけられた。",
"title": "概略"
},
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"text": "携帯電話との加入者獲得競争で劣勢に立ち、高速化(XGP方式)への対応を図るため、2009年9月より事業再生ADR手続によって再建が進められていた。しかし、業況は好転せず、通信事業者では過去最大の2060億円の負債を抱え、2010年2月18日に東京地方裁判所に会社更生手続開始の申立てを行った。後に100%出資の親会社となるソフトバンクグループのグループ企業であり、移動体通信事業を手がけるソフトバンクモバイル(現・ソフトバンク)の取締役が管財人・管財人代理として派遣された。2013年7月1日、東京地方裁判所はウィルコムの会社更生手続終結を決定。再建を果たした。同日付けでソフトバンクの連結子会社(完全子会社)となった。",
"title": "概略"
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"text": "2014年3月27日、ソフトバンクが保有する株式をヤフーが買収してイー・アクセスと経営統合、ワイモバイルに改称してブランドも「Y! mobile」とすることが明らかになった。5月19日にヤフーの株式買収は中止となったが、6月1日にイー・アクセスに吸収合併され、法人格としてのウィルコムは消滅。7月1日にイー・アクセスはワイモバイルに商号変更。8月1日に旧イー・アクセスが展開していた「イー・モバイル」とブランド統合し、ブランド名が「Y!mobile」に変更され、ブランド名としてのウィルコムは9年半で幕を下ろした。",
"title": "概略"
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"text": "以後ウィルコムの事業を継承したイー・アクセスがワイモバイルに改称し、ワイモバイルがソフトバンクモバイルに吸収合併され、さらにソフトバンクに改称されるに至ってもなお、ウィルコムの名称はウィルコム沖縄に残っていた。ウィルコム沖縄も当初、「ワイモバイル+沖縄」を冠した社名へ変更となる可能性もあったが、最終的には却下された。ウィルコム沖縄は旧ウィルコムブランドの契約とY!mobileブランド移行後の契約のみを手掛け、イー・アクセス旧契約、イー・アクセスの旧プランとなる端末の契約およびソフトバンクの契約はソフトバンクが担当していた。2022年4月1日にソフトバンクがウィルコム沖縄を吸収合併し、これによりウィルコムの名称は完全に消滅した。",
"title": "概略"
},
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"paragraph_id": 7,
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"text": "2018年3月31日にソフトバンク・ウィルコム沖縄がPHSの新規契約受付を終了した。2020年7月末にはサービスの終了を予定していたものの、新型コロナウィルスの感染拡大によって携帯電話への移行手続きが困難になり、医療機関をはじめとする利用者からの延期を要望する声が上がっていることを踏まえ、サービス終了予定日が2021年1月末に延期され、同日に終了した。法人向けPHSテレメタリングサービスについては2019年3月31日に新規契約受付を終了し、2023年3月31日にサービスを終了する予定である。",
"title": "概略"
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1994年に第二電電が中心となって企画会社が設立されて事業会社に移行後、1995年に「ポケット電話」の名称でPHS事業を開始した。アステルやNTTパーソナル(以下、同業2社)による20ミリワット(mW)の基地局よりも出力・受信感度が高い500mWの基地局(建柱)を中心に整備した。これは、他事業者は主要株主のNTTグループや電力会社が所有する電柱などの設備を利用してアンテナを設置していたが、本サービスはより少ない設置場所でエリアを確保する必要があったためとされる。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "基地局が高出力で、サービス開始初期は都内など基地局の設置が過密な地域において干渉が発生し、通話不能となるトラブルが発生した。このトラブル解消のために一時的にサービスを中止して、基地局間の同期を取るよう改修を実施した。そうした初期のつまずきはあったものの500mW高出力という特徴を生かし、他の同業各社に比べて利用可能エリアの拡大が早かったためPHSではトップグループとなった。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "しかし当時のPHS全体の問題として同時期に普及し始めた携帯電話との相互通話ができず、1996年10月の暫定接続以後も携帯電話・PHS間の通話料も高額だった。携帯電話側が料金を値下げした結果、料金面でもPHSの優位性が縮小した。携帯電話と比較した場合、郊外や山間部などで通話エリアの劣勢が指摘された。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1999年9月、対抗策としてDDIポケットは端末側のハンドオーバー処理を高速化し高速移動中の通話安定性を向上した新シリーズの「H\"(エッジ)」を「ハイブリッド携帯」のキャッチフレーズで展開開始(従来のポケット電話も併売)。その翌2000年11月に、当時としては高品質なカラー液晶や音源等、およびダイバシティアンテナを搭載した新カテゴリー「feel H\"(フィールエッジ)」を発売した。この頃にポケット電話はほぼ終売しH\"シリーズとなる。「H\"」という名称は、英語のedgeで時代の先端という意味のほかロゴ全体でDDIポケットの基地局のアンテナを形取り、H(エッチ)に濁点をつけて「エッヂ」と読ませたものである。ハイスピード、ハイクォリティーの頭文字のHが2つでH\"と読ませるなど複数の意味をもつとしていた。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "この時は、「PHS」という名称を積極的に用いておらず、単にブランド名の「H\"」や「ハイブリッド携帯」の語句のみ使用していた。これは、「簡易型携帯電話」とも表記されていたPHS全体のブランドイメージ低下を払拭しようとの対策だった。当時の携帯電話と比較して音質面では優れていたものの、一般的消費者への浸透をみることはなかった。その他の諸事情も併せ、結果的に契約者数の減少傾向に確実な歯止めを掛けられずにいた。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "同業2社では2002年前半に音声端末(今で言うフィーチャーホン)の新機種開発・発売をほぼ打ち切ったが、DDIポケットでは引き続き新型機を発売しており、2002年9月に従来の「H\"」機種で『Eメール使い放題』を開始。2003年4月に、ドコモPHSの「ブラウザホン」、アステルの「ドットi」で導入されていたiモード等と同様のcHTMLを表示できるブラウザを搭載し、音声端末初のパケット通信に対応した「AirH\" PHONE(エアーエッジフォン、後のAIR-EDGE PHONE)」が遅まきながら導入された。2004年5月に京セラから発売されたAH-K3001Vでは、日本国内の携帯電話・PHSで初めてフルブラウザのOperaを搭載した。このヒットにより、300万弱で横ばいだった契約者数の底打ちに成功している。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 14,
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"text": "1997年4月1日、2G携帯電話に比して高速な通信速度が可能なデータ通信を前面に打ち出したPIAFS1.0に準拠した回線交換方式32kbpsデータ通信「 αDATA 32」を開始。PIAFSに準拠しない独自方式の「 αDATA 」も存在し、PIAFS未対応のG3FAXやワープロ・パソコン類のアナログモデムなどアナログ固定電話回線向けの機器と接続してデータ通信が行えるサービスも存在した。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1999年7月30日に、PIAFS2.1規格を導入した64kbps通信「 αDATA 64」が可能となる。32k通信については同業2社と足並みをそろえたが、64k通信については全国ほぼ一斉に64kbps通信のサービス開始を可能としたため、4月に先行していたドコモPHSのサービスエリアに対しては優位に立った。これは他社はハードウェアの交換作業が伴ったのに対し、DDIポケットはリモートでのソフトウェアアップグレードという方法で対応できたためである。ただし、ドコモPHSの64kデータ通信はギャランティ接続であるのに対して「αDATA64」はベストエフォート接続のため、十分な回線速度が出なかったり、ハンドオーバー時に切断されるなど不都合な点が残る形となった。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2000年9月に、富士通のモバイルノートパソコン「FMV BIBLIO LOOX」に、αDATA64対応のデータ通信モジュール「 H\" IN 」が内蔵された「LOOX S5/53W」「LOOX T5/T3W」が発売された。これらは購入後にオンラインサインアップで回線契約を行うことができ、MWAや、2010年前後に普及した3G方式のワイヤレスWANモジュール内蔵ノートパソコンの趨りと言える機種である。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2001年6月1日、日本のPHS事業者では唯一であるパケット通信サービス「AirH\"(エアーエッジ、後のAIR-EDGE)」を開始。定額制で最高32kbpsのパケット通信が可能なことから、モバイル利用ユーザを中心に大ヒット。そのおかげでようやく契約者数の減少に歯止めを掛けることができた。翌年に最高128kbpsもサービスインした。前述した最高64kbpsの回線交換方式のデータ通信も併せ、パソコンやPDAとの接続でのモバイルデータ通信定額制(後にパケット定額制へと繋がる)が可能であることを強みに携帯電話との差別化に成功した。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "AirH\" PHONEの開始に併せて最初は台湾、次いでタイ、ベトナムとPHSの国際ローミングサービスも提供を開始した。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 19,
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"text": "2004年6月21日にアメリカ合衆国のカーライル・グループによる買収が発表され、10月1日に同社が筆頭株主となった。買収額は2200億円。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "経営移行手続完了となる2005年1月1日時点での資本構成はカーライルが60%で筆頭株主、従来のDDIポケット(以下「旧DDIポケット」)の第2位株主で13.25%出資していた京セラ株式会社が30パーセント、旧DDIポケットの筆頭株主で80.93%出資していたKDDI株式会社が10%となる(旧DDIポケットの株式の所有割合は2004年3月31日現在のもの)。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "カーライル・グループが買収した動機付けとしてはPHS/AIR-EDGEのモバイルデータ通信市場での優位性や将来性、さらにそれらの中国/国際市場への展開も視野に入っていると考えられていた。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2005年2月2日、ウィルコムへ社名を変更し、エアーエッジの表記も「AirH\"」から「AIR-EDGE」へ変更された。社名変更に伴うブランドイメージの刷新という意味合いもあるが、「AirH\"という表記では日本人以外はエアーエッジと読むことができない」という問題点に基づいたものであり、ウィルコムの筆頭株主であるカーライル・グループの意向が強く働いたとされていた。AirH\"という命名の根拠だった元ブランドの「H\"(エッジ)」に関しては表記の変更は発表されなかったことから、事実上「H\"」ブランドの将来的な消滅を示唆するものとなった。パケットデータ通信規格に別にEDGE (Enhanced Data Rates for GSM Evolution) と呼ばれるものが存在するが、全く無関係である。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "同日、高速化サービス「AIR-EDGE MEGA PLUS」(旧トルネードWebサービスの改良版)を開始し、2月18日に256kbpsの定額データ通信サービス「AIR-EDGE[PRO]」を開始した。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "DDIポケットだった当時はKDDIグループ内部における携帯電話auとの兼ね合いからデータ通信を中心にした事業展開を行っており、音声通話に対しては消極的だった。しかしKDDIグループからの離脱に伴い、音声通話についても積極策に転じた。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2005年3月15日、ウィルコム沖縄を含むウィルコム同士のメール定額を含む音声通話定額制プラン「ウィルコム定額プラン」を発表、5月1日に開始した。ウィルコム定額プラン専用のデータ通信が定額制となるオプションプランも併せて導入。移動体通信としては日本国内初の通話定額制サービスの開始となった。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "音声定額制導入に伴って契約数は増加に転じ、2005年3月末までの契約数は子会社ウィルコム沖縄を含めたグループ全体で300万契約を取り戻した。その後も加入者数は増加し続け、2005年12月23日付けでDDIポケット時代の1998年7月に記録した約361万件の過去最高契約数を更新した。その後2006年5月末に400万件、2007年3月末に450万件を突破した。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "しかし2006年10月から携帯電話事業者間で始まった番号ポータビリティとそれに伴う料金値下げ競争から価格優位性が薄れた。特にソフトバンクモバイルの定額プラン「ホワイトプラン」の影響が大きいとされる。データ転送速度の遅さ、ワンセグやおサイフケータイなど携帯端末の高機能・多機能化の流れにも取り残されて純増数が鈍化傾向となり、ついに2007年8月は純減となった。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "音声定額制導入に当たってはNTT東西会社への接続料(アクセスチャージ)を削減するため、VoIP対応交換機(ITX:Ip Transit eXchange)を高トラフィックな地域に優先的に導入していた。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "KDDI傘下を離れたことに関係しそれまではできなかった携帯電話と比較してのSAR値の低さなどを大きな売りとしてアピールできるようになっていた。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2005年12月1日から、「ウィルコムADSL」サービスを旧アッカ・ネットワークス(イー・アクセスに吸収されたため、同社の回線)のADSL回線のホールセールにより開始。ウィルコムのPHSサービスとの同時契約による割引なども導入。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2006年2月1日から、テレマティクス(カーナビゲーションのインターネット接続)分野でHondaインターナビと協業、「カーナビ専用定額サービス」を開始。月額1,050円のカーナビ専用定額制を導入。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2006年3月1日から、J:COMとの提携によりウィルコムのPHSサービスを「J:COM MOBILE」としてJ:COMが再販。同社の固定電話サービス「J:COM PHONE」のオプションサービス「とくとく・トーク」に加入すると、J:COM MOBILEへの通話料を割り引く。",
"title": "概歴"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2006年6月1日から、NTTコミュニケーションズとの提携により同社の公衆無線LANサービス「ホットスポット」を、「ウィルコム無線LANオプション」としてウィルコムが再販。",
"title": "概歴"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2006年2月23日から、高度化PHSであるW-OAM方式の採用により、大都市を中心に一部地域で最大408kbpsの通信速度サービスを開始。今後さらに1.5Mbps以上のデータ通信サービスを提供する計画もある。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2006年末以降発売の音声通話型端末では音声通話においてW-OAM方式の一種であるBPSKによる通信方式にも対応したものが増えていた。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2007年12月21日、次世代PHS技術を採用した広帯域移動無線アクセスシステム(BWA)の特定基地局の開設計画認定の申請に対して総務省より開設認定を取得。これにより、2009年10月からの次世代PHSサービスが実現可能となっていた。2008年5月26日には次世代PHSのブランド名を「WILLCOM CORE」(ウィルコムコア)とすると一旦、発表した。COREは、英語の「核」と、Communication Of Revolution and Evolutionの略から来ていた。ただし、2009年1月22日にこの“次世代PHS=WILLCOM CORE”という位置づけから、次世代PHSだけではなく従来PHS、3G携帯MVNO、無線LANと複数の通信手段を利用して快適に通信できるサービス全体をWILLCOM CORE、次世代PHSサービスのみの呼称はWILLCOM CORE XGP(XGP:eXtended Global Platform)とするという方針の変更を発表していた。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "そのため、XGPが展開される前に2009年3月9日よりNTTドコモのFOMAハイスピード網のMVNOを利用したWILLCOM CORE 3Gサービスを開始していた。提供は、最長で2012年12月までを予定していた。XGPエリア網の進展により、イー・モバイルのドコモローミング同様、都道府県単位での繰り上げ終了も有り得るとしていた。従来のPHS契約からWILLCOM CORE 3Gサービスへの「機種変更」(契約変更)も可能だが、実質的には既存PHSの解約・WILLCOM CORE 3Gの新規契約と同様であるため、契約期間の引き継ぎやサポートコインの引き継ぎは出来ず、電話番号の維持も出来なくなる。ただし、端末の分割分が残っている場合の支払は引き続き必要だが、その他年間契約の解除手数料などは一部免除される。サポートコインについては、同一請求の回線があり、そちらを存続させる場合に限り、その回線の上限分までは継承可能。サポートコインの提供やW-Value selectに付随するW-VALUEサポートの適用、あるいは、ウィルコムあんしんサポートの対象外となる。",
"title": "概歴"
},
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"paragraph_id": 38,
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"text": "WILLCOM CORE XGPについては、2009年10月1日からサービスを開始することを公式発表した。開始当初は、東京都山手線内の一部地区からのサービス提供となることや対応する通信機器の台数に限りがあることから、2010年3月まではXGP専用の料金プランである「XGPデータ定額フラット」並びにPRIN接続料を無料とするキャンペーン期間に設定し、対応通信機器も無償レンタル(貸与)される。ただし、申込自体は東京特別区内の住所で契約し、ウィルコムの契約を既に持っている場合に限る。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "ウィルコムは「次世代PHS」という名称はすでに公式には使用しなくなっており、メディアに対しても使わないようにと要望していた。これは、XGPブランドの浸透を図るだけでなく、XGPではデータ通信サービスしか行う予定がなく、電話のイメージのあるPHSという言葉を入れると誤解を招くからである。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2009年9月18日、ウィルコムは、私的整理のひとつで第三者機関が仲介する裁判外紛争解決手続(事業再生ADR)に入る方針を取引金融機関に伝え、約1000億円の債務返済期限の延長を求める方向で最終調整に入ったことが一部報道で明らかになった。9月24日に事業再生実務家協会への事業再生ADRの手続きを正式申請し、受理された。現在の通信事業を継続しつつ、経営再建を目指す方針としていた。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "しかし、事業再生ADRの手続きが明らかになったことで、顧客に先行きの不安感が流れたためか、契約数が減少する負のスパイラルを引き起こす結果となり、2010年2月18日、東京地裁に会社更生法の適用を申請した。2009年12月末での負債総額は単体ベースで2060億円であり、通信業の経営再建会社としては平成電電の負債額を抜き過去最悪となった。同時に、企業再生支援機構へ支援を正式に要請した。今後ソフトバンクとアドバンテッジ パートナーズからの支援を前提に協議を行う。会社更生法申請に伴い、久保田幸雄社長は事業統括担当の管財人代理兼代表執行役員として、新たな経営陣に加わって経営に参画するが、他の取締役はすべて辞任を余儀なくされた。その後、4月1日に管財人および管財人代理が追加選出された事に加え、久保田自身の体調不良などの理由により、久保田管財人代理兼代表執行役員が4月23日付で辞任し、旧経営陣はすべて姿を消すことになった。",
"title": "概歴"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "子会社のウィルコム沖縄については会社更生法の適用申請を行っておらず、沖縄県での事業については、本件に伴う特段の影響はないとしていた。ただし、ウィルコム本体と兼任していた役員は総辞職した。",
"title": "概歴"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "事業再生スキームとしては、PHSサービスやMVNO事業はウィルコムを更生させて従前通り継続させる方針だが、WILLCOM CORE XGPについては、スポンサー会社が今後設立する受け皿会社が譲受して、事業分割する方針いわゆる、新旧分離の方針を掲げていた。ただ2010年8月2日には、XGP事業の譲受とPHS事業のコスト削減に協力する立場だったソフトバンクが、管財人からの要請により、PHS事業も含めたウィルコム全体の直接支援を行うことで合意していた。管財人にソフトバンクモバイルCOO宮内謙、管財人代理にソフトバンクモバイル取締役専務執行役員CTO宮川潤一、同社執行役員経営企画本部長田中錬・同社財務経理本部長内藤隆志が就任していた。管財人は、ウィルコムの事業の経営並びに財産の管理及び処分をする権利の全権を、独占して握っていた。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2010年10月14日付で更生計画案が東京地裁に提出され、現在のPHS事業そのもののみをソフトバンクグループの完全子会社となるウィルコムに残した上で、ソフトバンクグループとアドバンテッジ パートナーズによる受け皿会社であるWireless City Planning株式会社(WCP)を2010年6月に設立の上、XGP事業および、PHSを含む設備の資産(基地局・電柱を含む)およびロケーションの賃貸借にかかわる権利をWCPが吸収分割方式にて譲受することを明らかにした。東京地裁からの認可が正式に下りた時点で事業家管財人が代表取締役、事業家管財人代理が取締役へ横滑りした上で、追加で取締役・監査役を選任する予定としていた。その後、2010年11月30日付で更生計画案が認可され、12月1日付でソフトバンクグループ4社目の通信事業者となり、宮内管財人が代表取締役に正式に就任した。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ソフトバンク傘下に入ってからは「だれとでも定額」や「もう1台無料キャンペーン」などの料金施策を打ち出し、2011年1月には契約者数が純増に転じ、2012年4月には累計契約者数が過去最高の468万1000件(2007年7月の465万9100件以来、4年8ヵ月振り、ただし、SoftBank 3Gを含む、以下同)となる急激な回復成長をし、9月23日に500万件を突破した。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "WCPによる当該事業の譲受は2010年12月21日付で実施。WCPへ移行後のXGPについては、中国移動が導入予定とされる次期PHSに転換する方向も検討していることをソフトバンクグループが明らかにしていた。これはPHSではなく、TD-SCDMAの後継方式であり、第3.9世代移動通信システムの一つであるTD-LTE方式(AXGP)による音声携帯電話あるいは、同方式によるデータ通信ともいわれていた。WCPのAXGP基地局を展開する際は既存のウィルコム基地局を利用し建物制限が無い限りは全てPHSとの併設のオムニアンテナ新型機に替えていた。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2011年7月7日に3年かけPHS基地局を現在の16万局から約3割減の11万―12万局にすると発表した。ソフトバンクの第3世代携帯電話(3G)の鉄塔基地局にPHS専用基地局を併置。基地局の賃料や電気代、回線料などの負担を軽減できソフトバンクのインフラ活用により、年550億円かかっていたPHS基地局の維持費を同250億―同350億円に圧縮し、経営改善につなげる。すでに3月から一部作業を進めていた。2014年夏までにすべての作業を完了する。ウィルコムはこれにより設備維持費を年200億―同300億円削減できると試算していた。高さが40メートルあるソフトバンクの3G鉄塔基地局は、上部にPHS専用の基地局を併設でき、半径2キロメートルの地域を補える。ウィルコムは今後、3G鉄塔基地局との併設により、不要なPHS基地局を選定していくとした。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2012年6月14日にソフトバンクモバイル取締役専務執行役員CTOで、ウィルコムの管財人代理も務める宮川潤一のTwitterによると、圏外でウィルコムが使用できない全国すべての道の駅について、ウィルコムの基地局を設置する計画がほぼ固まったとの事、設置にあたってはすぐに取りかかれるところと時間がかかるところとで1年強の差が生じるものの、宮川はやりきることを表明。ソフトバンクモバイルが基地局用に利用していた鉄塔にウィルコムの基地局を設置する動きも始まったとしていた。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2013年1月17日より、「ウィルコムプラザ」においてグループ会社のイー・アクセスやソフトバンクモバイルが販売していた製品やサービスの取り扱いを開始しており、特に、イー・アクセスとは当社の製品やサービスの「イー・モバイルショップ」への供給も行われており、グループ内での交流も盛んになっていた。7月1日付で東京地裁から会社更生手続終結の決定を受けたことを発表したことで、会社更生法の適用申請から約3年4ヶ月で再建を果たした。同日付けでソフトバンクの連結子会社となったことが発表された。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2013年12月3日に、グループ会社のイー・アクセスに2014年4月1日付で吸収合併されることが発表されたが、合併期日は2014年2月17日に延期(2014年6月1日付けに変更)が発表された。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "合併発表後、PHSサービスに関する問合わせが相次いだことから、合併により法人としてのウィルコムは消滅するが、PHSサービスについては、継続して提供することが発表された。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2014年3月27日、6月1日実施の合併の翌日にソフトバンクが保有する普通・優先株式のすべてをヤフーが買収することになり、社名を「イー・アクセス株式会社」から「ワイモバイル株式会社」に改称、ブランドも「Y!mobile」への改称を表明した。しかし、2014年5月19日に株式買収を中止して協業に留めることを発表、ワイモバイルへの社名変更も当面見送ることになった。ただし、ウィルコムの吸収合併は予定通り行われた。見送られていたワイモバイルへの社名変更については当初予定から1ヶ月遅れの7月1日に実施。ブランド変更は8月1日付で「Y!mobile」へ変更することが7月17日に正式発表された。法人としてのワイモバイルは、2015年4月1日付けで、親会社のソフトバンクテレコム、ソフトバンクモバイル、ソフトバンクBBのグループ3社と合併し、存続会社の「ソフトバンクモバイル」(合併後の7月に「ソフトバンク」へ社名変更)に吸収され消滅したが、PHS事業を含む「Y!mobile」のブランドは継続・承継された。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2018年3月31日、ソフトバンク・ウィルコム沖縄がPHSの新規契約受付を停止。",
"title": "概歴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "人口カバー率については2004年1月に97パーセントを達成し、2006年3月に99%を達成。",
"title": "サービスエリア等"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "実際には大都市・都市の辺縁部や地方市町村の周辺部、居住者が少ない村落、山間、山岳、海上などはエリア外となる事が多い。PHSの特性上、1つの基地局のカバーエリアが携帯電話よりも狭く数多くの基地局を建てなければならないため、エリア展開上不利になっていた。ソフトバンクの3G鉄塔基地局上部にPHS専用の基地局を併設を進めており半径2キロメートルの地域を補えるようになった。通信に利用していた電波の周波数(1.9 GHz)の性質上、屋内への電波の到達性が低く障害物による減衰が大きい。そのため、屋内へのアンテナ(ナノセルシステムなど)設置や道の駅やスキー場などスポット的なエリア化などの小回りは効くものの圏外となる空白地帯(いわゆるエリア内の穴)は地方では多い。",
"title": "サービスエリア等"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ただし、同業のアステルやドコモPHSとは基地局の構造が大きく異なる高出力型であることから、両社がエリア外としていた三大都市圏・県庁所在地から離れた郊外の町村・地方都市(例えば北海道稚内市など)においても積極的に展開し、同業2社や三大都市圏にエリアを限定していたドコモのシティフォン(携帯電話)よりも広域なサービスエリアとなっていた。",
"title": "サービスエリア等"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "「ポケット電話」の開始当初は、利用者その他からの「つながらない」「すぐ切れる」との批判が多かったが、都市部・市街地においてはその問題は少なくなってきていた。高感度・高指向性アンテナやアダプティブアレイ技術の採用など、基地局のセル性能は開始当初の半径500mから補える範囲が半径1kmと向上していた。高速ハンドオーバー(前述「H\"(エッジ)」を参照)の採用などにより一般道路や普通電車などでの移動中でも音声通話は概ね可能となり、データ通信(ウェブ・メール他)ならば高速道路や在来線特急電車等の高速移動中でも利用できる場合がある。",
"title": "サービスエリア等"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2006年末以降発売の音声通話型端末では音声通話においてW-OAM方式の一種であるBPSKによる通信方式にも対応するものが増えていた。これにより、W-OAM対応エリアにおいては従来のPHS方式(π/4-shift QPSK)に加え実効上、屋内浸透性や高速移動時の安定度をより向上させた音声通話が可能となっていた。",
"title": "サービスエリア等"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1つの基地局で数キロメートルのエリアをカバーしている基地局(マクロセル方式)を採用している携帯電話は災害発生時、1つの基地局に通話が集中して交換機がダウンしないよう携帯通信会社が発信規制をかけるが、PHSは1つの基地局のカバーエリアが携帯電話よりも狭く、数多くの基地局(マイクロセル方式)を建ててエリアをカバーしていたため、通話が集中しても1つの基地局にかかる負荷が分散されるため発信規制がかかることはまず無いと言われていた。そのため、以前から災害発生時直後でもPHSは通話可能と言われていた。",
"title": "サービスエリア等"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "未曾有の大災害となった東北地方太平洋沖地震発生当日には、発信規制が続く携帯電話や固定電話と違い、ウィルコムのPHSはほとんど発信規制が無かった。PHSから都道府県内・外の固定・携帯電話・PHSへは数回かけ直しただけでつながったことでPHSは災害時でもつながりやすいと注目され、後日マスコミでも報道された。その後2011年から3年間で、PHS基地局を16万局から約3割減の11万 - 12万局に減じた。",
"title": "サービスエリア等"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "記載の価格には消費税が含まれていない。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "料金プランには特定の端末のみ契約出来るプランと、どの端末でも契約出来るプランの大まかな2種類が存在していた。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "基本料金の計算期間は、電話番号の新規契約日によって変化し、各月の1〜19日に契約した場合は月末締め、20日〜末日に契約した場合は15日締めとなる。前者となった場合は、お客様番号の数字10桁の後に付く枝番が「-A」となり、後者となった場合は枝番が「-B」となる。「-A」の回線と「-B」の回線を請求統合した場合は、設定時に指定したお客様番号側の計算期間に併せられるが(この場合、何れの回線とも月末締めないしは15日締めに統一され、1ヶ月のみ、一方の請求がなされないかわりに、請求期間の丸めのために請求のなかった翌月は1.5ヶ月分の徴収となる)、枝番自体は変化しない。ただし、例外として、新ウィルコム定額プランGを契約した場合は、新規契約日にかかわらず、お客様番号の数字10桁の後に付く枝番が「-A」となり、計算期間は月末締めとなる。同様に、請求統合の如何に関わらず、機種変更前に「-B」となっていた顧客についても、「-A」に変更となる。「WILLCOM CORE 3G」の契約者についても、新規契約日に関わらず、お客様番号上は「-A」の扱いとなるため、料金計算は月末締めとなる。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2013年7月請求分より、月末締めに統一され、引落日ないしは請求書での支払期限日が毎月26日に変更される形で統一される(事実上、お客様番号上「-A」の扱いに統一され、加えて、引落日ないしは請求書支払期限がソフトバンクモバイルの末日締ユーザの扱いに併せられる)。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ウィルコムは郵送の請求書は有料であった。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "金融機関からの引き落としは、自社が直接行うか、不可能な金融機関についてはアプラスが収納代行の形で行ってきたが、2011年9月の引き落とし分より、自社およびアプラスの代行を取りやめ、セディナによる収納代行を利用した引き落としに変更されることになった",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2013年6月20日より、年間契約の契約期間が見直され、契約日に関わらず、契約から12ヶ月後の月末となった。「新ウィルコム定額プランS/GS(新規受付を終了した「新ウィルコム定額プランG」を含む)」は契約満了日が3年後から3年後の月末に変更となった。いずれの場合も、契約満了日付で解約等を行った場合は解除手数料が発生する。ただし、「新ウィルコム定額プランS/GS」及び「新ウィルコム定額プランG」を利用中のユーザーには、契約満了日の前月末に変更となる。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "本来は契約更新月以外にプラン変更や解約を行った場合にかかる契約解除料については、特定端末向け料金プランや一部の音声端末料金プラン(すべてのスマートフォン向け料金プラン及びウィルコムプランW・新ウィルコム定額プランS/G/GS)から機種変更などでY!mobileブランドで提供されている「スマホプランS/M/L」にプラン変更した場合は免除される。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "以下に述べるプランは2015年10月以降も新規および変更受付が可能な料金プランである。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "以下の料金プランはY!mobileのホームページに「受付終了プラン」として掲載されていた料金プランである。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "「ウィルコム定額プラン」、「スーパーパックS/L/LL」、「昼特コース」は2010年12月31日に店頭での受付が終了し、新規契約や機種変更を伴わないプラン変更も2011年2月28日に受付を終了している。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2014年7月31日には「ウィルコムプランW」を除くすべての音声通話(電話機)向け料金プランと「ウィルコムプランD+/Lite」が、2015年9月30日には2014年8月以降も継続していたすべての音声通話向けプランと「3Gデータ定額S」が順次、新規および変更の申込受付を終了した。これにより、ウィルコムから継続していた料金プランは特定端末向けプランと一部のデータ通信端末向けプランのみとなった。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "契約中のユーザーは、料金プランの変更を行わない限り、申込時の料金プランで継続利用が可能であった。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "新ウィルコム定額プランS",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "新ウィルコム定額プラン",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "標準コース",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "通話相手先限定",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ウィルコム定額プラン",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "スーパーパックS/L/LL",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "昼得コース",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "お気軽コース",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "オプションサービスの集約化に伴い、2010年12月31日に店頭の受付を終了、既存ユーザー向けの追加受付も2011年2月28日に終了。「ウィルコムあんしんサポート」2013年1月31日、「あんしん保証サービス」は11月13日に新規受付を終了した。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "「Y!mobile」へのブランド統合に伴うオプションサービスの見直しにより、「新通話パック」・「ソフトバンク/イー・モバイル通話定額」・「テザリングオプション」は2014年7月31日に新規受付を終了した。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "現在利用中のユーザーは継続利用が可能である。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "各種条件により適用の可否があるため、公式ウェブサイト等で確認のこと。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "以下の割引サービスはオプションサービスの集約化に伴い、店頭での受付は2010年12月31日付で、既存ユーザー向けの受付も2011年2月28日付でそれぞれ終了した。さらに、複数割引サービスは2013年5月31日付で、ファミリーパックとハートフルサポートは2014年7月31日付で順次終了した。現在利用中のユーザーは割引が引き続き適用される。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "電話機をW-VALUE SELECT用販売価格にて一括または24回払いで購入すると、以下の特典を受けることができる。詳細はW-VALUE SELECTを参照。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "導入時は機種変更に対してのみ提供していたが、後に新規購入時にもW-VALUE SELECTを利用できるようになった。 先行するSoftBankブランドの「スーパーボーナス」同様、利用者の電話機購入初期費用を抑えるとともにキャリア(この場合はウィルコム)のインセンティブ負担を確実に回収するものとなっていた。開始当初はSoftBankブランドの場合と異なり、利用者の契約する料金プランやオプションによってもW-VALUE割引の上限額が変動していたが2007年10月10日以降から機種による違いのみに改定された。",
"title": "料金体系"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "基礎情報にもある通り旧法人・DDIポケットと現法人・ウィルコムとで設立年月日が異なり、かつ現法人の方が旧法人よりも古い。これは事業主体移行において執られた、登記上の手続きによるもの。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "太字は、その時点で一般利用者が直接の契約関係を持つ会社である。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "開業当初は当時の郵政省の電波・通信行政の方針により、(他の携帯電話・PHSキャリアと同様に)地方ごとにいくつかの地域会社に分かれて事業を行っていたが、その後の行政方針の転換を受けて2000年にディーディーアイ東京ポケット電話株式会社を存続法人として地域会社を合併し、他のキャリアに先駆けて日本全国を業務区域とする事業者となった。",
"title": "業務区域"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "しかし、2005年1月25日にアステル沖縄を継承するための新会社「ウィルコム沖縄」がDDIポケットと沖縄電力の共同出資により設立された。ワイモバイルへ転換後もウィルコム沖縄は引き続き存置され、これにより現在は2社体制となっている。",
"title": "業務区域"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "業務区域"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "※2015年7月1日現在",
"title": "業務区域"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "直営拠点であるウィルコムプラザの電話番号は非公開(ただし、2010年2月より公開開始していたが、簡単な問い合わせ以上は応じないとしていた)なので、連絡は直接出向くかサービスセンターへの電話連絡にて行うのが原則となる。かつてはDDIポケット時代からあった一部拠点でPHS番号で公開していたところもあったが、現在は全て伏せられていた。同社は「ウィルコムプラザに直接来店した顧客の対応を優先するため電話では十分な対応が至らず、来店がかなわない場合はサービスセンターへ電話連絡、来店可能な場合はウィルコムプラザへ直接来店という形で棲み分けを図る意味合いがある」と説明していた。一部業務の制限はあるがウィルコムカウンターもある。こちらは電話番号は公開されていた。受付の業務内容は新規加入、機種変更の他解約なども受付可能である。料金収納やオプション変更(一部機種変更と同時受付のみ可能)はごく一部を除きできない。",
"title": "業務区域"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "ただし、ここではWILLCOM CORE 3Gのみのメーカーを除く。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "2007年初頭時点では、一般的な移動体端末メーカーよりも産業系機器のメーカーが多い。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "以下、年別に発売された端末を列挙(日付は発売日)。DDIポケット時代の端末は、H\"対応端末(Air H\"の「AH」で始まる型番に統一された)より前の機種ではキャリア独自の型番が付けられておらず、メーカー独自の型番をそのまま使用していた。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "☆はY!mobileブランド移行後も継続販売されたもの。 ×は、ガードバンド移行後の帯域での利用ができないため、2012年に使用停止されたもの。 ▼は、ガードバンド移行後の帯域に対応しているが、SHA-2非対応のため、本体のブラウザでは、暗号化されたサイト(主に、TLSがかかったサイト)の閲覧ができなくなった端末。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "このころからPHSのデータ通信方式はPIAFS方式が一般的になり、みなし通信やモデム変換サービスを内包していたα-DATAとPIAFS方式を内包したα-DATA32が標準となる。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "2004年5月にOperaブラウザを搭載しパソコン向けのホームページを閲覧することも可能なウィルコム(旧・DDIポケット)の京セラ製端末AH-K3001Vが発売された。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "これ以降、W-SIM端末以外の音声端末は原則としてW-OAM対応となる(W-OAM/4xパケット方式対応により通信速度は最大204kbps)。WX220J/WX321J/WX320Kはいずれもダイバーシティアンテナ搭載、通話中音声着信表示対応、自動時刻補正機能あり。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "これ以降の音声端末のほとんどに、赤外線通信機能が搭載されている。外部接続端子がmicroUSBに変化している。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "Wireless City Planningへの移行に伴い、2010年12月21日以降は、同社の「XGPサービス」に変更された。2012年1月31日を以って停波。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "☆はY!mobileブランド移行後も継続販売されたもの。",
"title": "通信端末"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "旧ウィルコムは、オペレータ共通のアクセサリ等のオプションをほとんど出していなかったため、オンラインショップで扱っていないものについては、京セラやネクスなど、端末メーカーのECサイトで注文する形式も取られていた。ウィルコム時代末期には、ソフトバンクグループの強みを生かして、ソフトバンクBB(同社の当該事業は、2014年4月1日より、ソフトバンクコマース&サービスが吸収分割にて継承している)がウィルコムブランドでACアダプタを発売していた。",
"title": "端末のキャリア設定オプション扱い"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "現在はなし。ラジオCM自体も現在はやっていない。",
"title": "スポンサー"
}
] |
ウィルコム(WILLCOM)は、2005年2月2日から2014年7月31日まで存在したPHSサービスのブランド名である。旧称のDDIポケット(ディーディーアイポケット)から改称して発足した。 サービス自体はソフトバンク株式会社と株式会社ウィルコム沖縄が運営するY!mobileブランドのPHS部門として存続していたが2021年1月31日にPHSのサービス自体が一部法人向けを除き終了した。 株式会社ウィルコムは、2014年5月31日までウィルコムブランドのPHS事業を行っていた電気通信事業者である。
|
{{Otheruses||沖縄県を管轄する事業者|ウィルコム沖縄}}
{{Pathnav|ソフトバンクグループ|ソフトバンク|Y!mobile|frame=1}}
{{更新|date=2017年4月}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 株式会社ウィルコム
|英文社名 = WILLCOM, Inc.
|ロゴ = [[ファイル:Willcom logo.svg|300px|ウィルコム]]
|種類 = [[株式会社]]
|市場情報 =
|略称 =
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 105-7313
|本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[東新橋]]一丁目9番1号<br />[[東京汐留ビルディング]]<br /><small>{{coord|35|39|46.8|N|139|45|40.4|E|type:landmark|display=inline,title}}</small>
|設立 = 1990年10月1日(ジーエルグローリーリーシング有限会社→カーライル・ジャパン・ホールディングス・シックス株式会社→ディーディーアイポケット株式会社→株式会社ウィルコム)<br />初代法人は1994年7月1日(株式会社DDIポケット企画→DDI東京ポケット電話株式会社→DDIポケット株式会社→カーライル・ジャパン・ホールディングス・シックス株式会社に事業譲渡)
|業種 = 情報・通信業
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = [[電気通信事業法]]に基づく[[PHS]]による通信サービスの提供
|代表者 = 代表取締役社長 [[宮内謙]]([[ソフトバンクグループ|ソフトバンク]]COO・副社長)
|資本金 = 1億5000万円(2013年7月1日時点)
|売上高 = 単独:1693億2300万円<br />(2013年3月期)
|純資産 = 単独:56億1100万円<br />(2013年3月期)
|総資産 = 単独:1490億8400万円<br />(2013年3月期)
|従業員数 = 連結:1,038人 単独:1,018人<br />(2008年3月31日現在)
|決算期 = 3月末日
|主要株主 = [[ソフトバンクグループ|ソフトバンク]] 100%
|主要子会社 = [[ウィルコム沖縄|株式会社ウィルコム沖縄]] 80.0%
|外部リンク = 閉鎖
|特記事項 = 初代法人の設立日は1994年7月1日。2代目法人は、2014年6月1日付で[[イー・アクセス]]と合併し消滅。上記は合併時点でのデータである。
}}'''ウィルコム'''({{En|WILLCOM}})は、[[2005年]]2月2日から[[2014年]]7月31日まで存在した[[PHS]]サービスのブランド名である。旧称の'''DDIポケット'''(ディーディーアイポケット)から改称して発足した。
サービス自体は[[ソフトバンク|ソフトバンク株式会社]]と[[ウィルコム沖縄|株式会社ウィルコム沖縄]]が運営する'''[[Y!mobile]]'''ブランドのPHS部門として存続していたが[[2021年]]1月31日にPHSのサービス自体が一部法人向けを除き終了した。
'''株式会社ウィルコム'''({{Lang-en-short|WILLCOM, Inc.}})は、[[2014年]]5月31日までウィルコムブランドのPHS事業を行っていた[[電気通信事業者]]である。
== 概略 ==
社名は[[2005年]]2月に「'''[[第二電電|DDI]]ポケット'''」から改称した。新社名は社内公募によって決定し、今後構築するネットワーク"'''W'''ireless '''I'''P '''L'''ocal '''L'''oop"と、より快適で利便性の高い通信サービスを提供するという意志('''WILL''')、[[ワイヤレス通信]]が実現する未来(未来形の'''WILL''')をワイヤレスコミュニケーション('''Com'''munication)を通じて実現する思いという意味合いを象徴する形で名づけられた。
<!--
個人サイトの記述をオフィシャル的に扱うのはどうかと 旧社名の時代はその社名に由来して、一部ではDポ(ディーポ)やポケットなどと呼ばれていた<ref>[http://www.phs-mobile.com/dpo/index.html コラム] - 「でぃーぽ」等に名残が見られる。</ref>--同様にかつてのライバルだった[[NTTパーソナル]]は「Nパ」、ドコモPHSも「ドコP」などと呼ばれていた。
-->
携帯電話との加入者獲得競争で劣勢に立ち、高速化([[eXtended Global Platform|XGP]]方式)への対応を図るため、[[2009年]]9月より[[裁判外紛争解決手続|事業再生ADR手続]]によって再建が進められていた。しかし、業況は好転せず、通信事業者では過去最大の2060億円の負債を抱え、2010年2月18日に[[東京地方裁判所]]に[[会社更生手続]]開始の申立てを行った。後に100%出資の親会社となる[[ソフトバンクグループ]]のグループ企業であり、[[移動体通信]]事業を手がけるソフトバンクモバイル(現・[[ソフトバンク]])の取締役が[[管財人]]・管財人代理として派遣された。[[2013年]]7月1日、[[東京地方裁判所]]はウィルコムの会社更生手続終結を決定。再建を果たした。同日付けでソフトバンクの[[連結子会社]]([[完全子会社]])となった。
[[2014年]]3月27日、ソフトバンクが保有する株式を[[ヤフー (企業)|ヤフー]]が買収して[[イー・アクセス]]と経営統合、'''[[ワイモバイル]]'''に改称してブランドも「Y! mobile」とすることが明らかになった<ref>[http://pr.yahoo.co.jp/release/2014/03/27b/ ヤフー株式会社によるイー・アクセス株式会社の株式の取得に関するお知らせ] - ヤフー プレスリリース(2014年3月27日)</ref>。5月19日にヤフーの株式買収は中止となった<ref>[http://pr.yahoo.co.jp/release/2014/05/19a/ ヤフー株式会社によるイー・アクセス株式会社の株式取得の中止と今後の協業について] - 同上(2014年5月19日)</ref>が、6月1日にイー・アクセスに吸収合併され、法人格としてのウィルコムは消滅。7月1日にイー・アクセスはワイモバイルに商号変更<ref name="ym_pr140701">[http://www.softbank.jp/corp/group/ym/news/press/2014/20140701_01/ 社名変更に関するお知らせ] - ソフトバンク 旧ワイモバイルプレスリリース(2014年7月1日)</ref>。8月1日に旧イー・アクセスが展開していた「イー・モバイル」とブランド統合し、ブランド名が「'''[[Y!mobile]]'''」に変更され、ブランド名としてのウィルコムは9年半で幕を下ろした。
以後ウィルコムの事業を継承したイー・アクセスがワイモバイルに改称し、'''[[ワイモバイル]]'''がソフトバンクモバイルに吸収合併され、さらにソフトバンクに改称されるに至ってもなお、ウィルコムの名称は'''[[ウィルコム沖縄]]'''に残っていた。ウィルコム沖縄も当初、「ワイモバイル+沖縄」を冠した社名へ変更となる可能性もあったが、最終的には却下された。ウィルコム沖縄は旧ウィルコムブランドの契約とY!mobileブランド移行後の契約のみを手掛け、イー・アクセス旧契約、イー・アクセスの旧プランとなる端末の契約およびソフトバンクの契約はソフトバンクが担当していた。[[2022年]]4月1日にソフトバンクがウィルコム沖縄を吸収合併し<ref name="株式会社インプレス">{{Cite web|和書|title=ソフトバンク、ウィルコム沖縄を22年4月に吸収|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1376420.html|website=ケータイ Watch|date=2021-12-22|accessdate=2021-12-22|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>、これによりウィルコムの名称は完全に消滅した。
[[2018年]]3月31日にソフトバンク・ウィルコム沖縄がPHSの新規契約受付を終了した。[[2020年]]7月末にはサービスの終了を予定していたものの、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウィルスの感染拡大]]によって携帯電話への移行手続きが困難になり、医療機関をはじめとする利用者からの延期を要望する声が上がっていることを踏まえ、サービス終了予定日が[[2021年]]1月末に延期され、同日に終了した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ymobile.jp/support/relief/nwinfo/phs/|title=PHS向け料金プランの終了について|publisher=ワイモバイル|accessdate=2018-8-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=[特集:ケータイ Watch20周年] 【今日は何の日?】ウィルコムが誕生した日|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/special/20th/1303510.html|website=ケータイ Watch|date=2021-02-01|accessdate=2021-02-01|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。法人向けPHSテレメタリングサービスについては2019年3月31日に新規契約受付を終了し、[[2023年]]3月31日にサービスを終了する予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.softbank.jp/corp/news/press/sbkk/2019/20190424_01/?sbpr=info|title=PHSテレメタリングプランの提供終了について|publisher=ソフトバンク|date=2019-4-23|accessdate=2020-12-11}}</ref>。
== 概歴 ==
=== 創業期 ===
[[ファイル:WILLCOM PHS Mobile phone tower.jpg|thumb|right|130px|500mW[[基地局]]<br />2006年]]
{{Main2|後述の[[#沿革|沿革]]も}}
1994年に[[第二電電]]が中心となって企画会社が設立されて事業会社に移行後、1995年に「'''ポケット電話'''」の名称でPHS事業を開始した。[[アステル]]や[[NTTパーソナル]](以下、同業2社)による20ミリ[[ワット]](mW)の基地局よりも出力・受信[[感度]]が高い500mWの[[基地局]](建柱)を中心に整備した。これは、他事業者は主要株主の[[NTTグループ]]や[[電力会社]]が所有する[[電柱]]などの設備を利用してアンテナを設置していたが、本サービスはより少ない設置場所でエリアを確保する必要があったためとされる。<!--できたら出典-->
基地局が高出力で、サービス開始初期は都内など基地局の設置が過密な地域において干渉が発生し、通話不能となるトラブルが発生した。このトラブル解消のために一時的にサービスを中止して、基地局間の同期を取るよう改修を実施した。そうした初期のつまずきはあったものの500mW高出力という特徴を生かし、他の同業各社に比べて利用可能エリアの拡大が早かったためPHSではトップグループとなった。
しかし当時のPHS全体の問題として同時期に普及し始めた[[携帯電話]]との相互通話ができず<ref>[https://www.icr.co.jp/newsletter/topics/1996/t96003C.html PHSから自動車・携帯電話の相互通話が可能に]</ref>、1996年10月の暫定接続以後も携帯電話・PHS間の通話料も高額だった<ref>[https://www.tramsystem.jp/voice/voice-2005/ PHSとは|2020年に終了したPHSの歴史を振り返る|トラムシステム]</ref>。携帯電話側が料金を値下げした結果、料金面でもPHSの優位性が縮小した<ref>[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r01/html/nd111110.html#n1101060 黎明期から普及までの携帯電話の基本料金の推移]</ref><ref>[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r01/html/nd111110.html#n1101080 ポケベル、PHS、携帯電話の加入者数推移]</ref>。携帯電話と比較した場合、郊外や山間部などで通話エリアの劣勢が指摘された<ref>[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r01/html/nd111110.html#n1101070 普及開始時期における携帯電話・PHSの進化]</ref>。
=== H"(エッジ) ===
<!--{{要出典範囲|中学・高校生の間で[[無線呼び出し|ポケットベル]]に代わり[[Pメール]]などの[[ショートメッセージサービス|SMS]]機能が充実し低価格でもあった「ポケット電話」はある程度の普及を見たが、その反面「PHSは子供のもの」というイメージを広めることとなる|date=2018年6月}}<ref>[https://web.archive.org/web/20041024131210/http://www.swa.gr.jp/tel/mobp1.html (1) PHS、子供向けなら便利かも - 維持費の安い携帯電話・PHS を探す 2004年]{{出典無効|date=2018年6月|title=「Wikipedia:信頼できる情報源」に該当しない個人サイト}}</ref>{{出典無効|date=2018年6月|title=「Wikipedia:信頼できる情報源」に該当しない個人サイト}}。-->
1999年9月、対抗策としてDDIポケットは端末側の[[ハンドオーバー]]処理を高速化し高速移動中の通話安定性を向上した新シリーズの「'''H"'''(エッジ)」を「''ハイブリッド携帯''」のキャッチフレーズで展開開始(従来のポケット電話も併売)。その翌2000年11月に、当時としては高品質なカラー液晶や音源等、および[[ダイバシティアンテナ]]を搭載した新カテゴリー「'''feel H"'''(フィールエッジ)」を発売した。この頃にポケット電話はほぼ終売しH"シリーズとなる。「H"」という名称は、英語のedgeで時代の先端という意味のほかロゴ全体でDDIポケットの[[基地局]]のアンテナを形取り、H(エッチ)に濁点をつけて「エッヂ」と読ませたものである。ハイスピード、ハイクォリティーの頭文字のHが2つでH"と読ませるなど複数の意味をもつとしていた<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/1999/07/12/index.html WILLCOM|99.07.12 高機能通信端末"エッジ"の導入!!]<br />[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2000/09/22/index.html WILLCOM|00.09.22 『feelH"(フィール・エッジ)』のリリースについて]</ref>。
この時は、「PHS」という名称を積極的に用いておらず、単にブランド名の「H"」や「ハイブリッド携帯」の語句のみ使用していた。これは、「簡易型携帯電話」とも表記されていたPHS全体の[[ブランド]]イメージ低下を払拭しようとの対策だった。当時の携帯電話と比較して音質面では優れていたものの、一般的[[消費者]]への浸透をみることはなかった。その他の諸事情も併せ、結果的に契約者数の減少傾向に確実な歯止めを掛けられずにいた<ref>[https://www.watch.impress.co.jp/mobile/news/1999/11/09/tca.htm TCA、10月末日現在の携帯電話/PHS加入者数を発表]</ref>。
同業2社では2002年前半に音声端末(今で言う[[フィーチャーホン]])の新機種開発・発売をほぼ打ち切ったが、DDIポケットでは引き続き新型機を発売しており、2002年9月に従来の「H"」機種で『Eメール使い放題』を開始。2003年4月に、ドコモPHSの「ブラウザホン」、アステルの「ドットi」で導入されていた[[iモード]]等と同様の[[compact HTML|cHTML]]を表示できるブラウザを搭載し、音声端末初のパケット通信に対応した「'''AirH" PHONE'''(エアーエッジフォン、後の'''[[AIR-EDGE|AIR-EDGE PHONE]]''')」が遅まきながら導入された<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2003/02/27/index.html WILLCOM|03.02.27 AirH"PHONE 【エアーエッジフォン】 の導入について]</ref>。2004年5月に京セラから発売された[[AH-K3001V]]では、日本国内の携帯電話・PHSで初めて[[フルブラウザ]]の[[Opera]]を搭載した<ref>[http://www.kyocera.co.jp/news/2004/0407.html 京セラ | ニュースリリース]</ref>。このヒットにより、300万弱で横ばいだった契約者数の底打ちに成功している。
=== データ通信 ===
[[ファイル:DDI-Pocket Kyocera AH-K3001V 2.jpg|thumb|right|130px|エアーエッジフォン]]
1997年4月1日、[[第二世代携帯電話|2G携帯電話]]に比して高速な通信速度が可能なデータ通信を前面に打ち出した[[Personal Handyphone System Internet Access Forum Standard|PIAFS]]1.0に準拠した回線交換方式32kbpsデータ通信「''' ''αDATA'' ''' ''32''」を開始<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/1997/04/01/index.html WILLCOM|97.04.01 32kbpsデータ通信、4月1日より全国一斉開始]</ref>。PIAFSに準拠しない独自方式の「''' ''αDATA'' '''」も存在し、PIAFS未対応のG3[[FAX]]や[[ワープロ]]・[[パソコン]]類のアナログ[[モデム]]など[[電話回線|アナログ固定電話回線]]向けの機器と接続してデータ通信が行えるサービスも存在した。
1999年7月30日に、PIAFS2.1規格を導入した64kbps通信「''' ''αDATA'' ''' ''64''」が可能となる<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/1999/07/23/index.html WILLCOM|99.07.23 64kbpsデータ通信の提供について]</ref>。32k通信については同業2社と足並みをそろえたが、64k通信については全国ほぼ一斉に64kbps通信のサービス開始を可能としたため、4月に先行していた[[ドコモPHS]]のサービスエリアに対しては優位に立った。これは他社はハードウェアの交換作業が伴ったのに対し、DDIポケットはリモートでのソフトウェアアップグレードという方法で対応できたためである。ただし、ドコモPHSの64kデータ通信は[[ギャランティ]]接続であるのに対して「αDATA64」は[[ベストエフォート]]接続のため、十分な回線速度が出なかったり、ハンドオーバー時に切断されるなど不都合な点が残る形となった。
2000年9月に、[[富士通]]のモバイル[[ノートパソコン]]「[[FMV]] BIBLIO LOOX」に、αDATA64対応のデータ通信モジュール「''' ''H" IN'' '''」が内蔵された「LOOX S5/53W」「LOOX T5/T3W」が発売された。これらは購入後にオンラインサインアップで回線契約を行うことができ、[[無線アクセス#Mobile Wireless Access|MWA]]や、2010年前後に普及した[[第三世代携帯電話|3G]]方式のワイヤレス[[Wide Area Network|WAN]]モジュール内蔵ノートパソコンの趨りと言える機種である。
==== パケット通信 ====
2001年6月1日、日本のPHS事業者では唯一である[[パケット通信]]サービス「AirH"(エアーエッジ、後の[[AIR-EDGE]])」を開始<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2001/05/16/index.html WILLCOM|01.05.16 新データ通信サービス『AirH"(エアーエッジ)』の開始について]</ref>。定額制で最高32kbpsのパケット通信が可能なことから、モバイル利用ユーザを中心に大ヒット。そのおかげでようやく契約者数の減少に歯止めを掛けることができた<ref>[http://k-tai.ascii24.com/k-tai/news/2001/12/07/631890-000.html TCA、11月の携帯電話契約者数を発表]</ref>。翌年に最高128kbpsもサービスインした。前述した最高64kbpsの回線交換方式のデータ通信も併せ、パソコンやPDAとの接続での[[モバイルデータ通信定額制]](後に[[パケット定額制]]へと繋がる)が可能であることを強みに携帯電話との差別化に成功した。
AirH" PHONEの開始に併せて最初は[[台湾]]、次いで[[タイ王国|タイ]]、[[ベトナム]]とPHSの[[国際ローミング]]サービスも提供を開始した<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2003/03/18/index.html WILLCOM|03.03.18 台湾地域での国際ローミングサービスの提供について]</ref>。
=== カーライル・グループによる買収 ===
2004年6月21日に[[アメリカ合衆国]]の[[カーライル・グループ]]による買収が発表され、10月1日に同社が筆頭株主となった。買収額は2200億円<ref>[http://www.kddi.com/corporate/news_release/2004/0621/ KDDI 会社情報:ニュースリリース > カーライル・グループ及び京セラによるDDIポケット買収でKDDIと合意]</ref><ref>[http://www.carlyle.jp/fund/buyout/willcom/case.html/ ThecarlyleGroup >fund >buyout >casestudy >WILLCOM]<!--リンク先消失時用魚拓 https://megalodon.jp/2010-0605-1201-19/www.carlyle.jp/fund/buyout/willcom/case.html --></ref>。
経営移行手続完了となる2005年1月1日時点での資本構成はカーライルが60%で筆頭株主、従来のDDIポケット(以下「旧DDIポケット」)の第2位株主で13.25%出資していた[[京セラ]]株式会社が30パーセント、旧DDIポケットの筆頭株主で80.93%出資していた[[KDDI]]株式会社が10%となる(旧DDIポケットの株式の所有割合は2004年3月31日現在のもの)。
カーライル・グループが買収した動機付けとしてはPHS/AIR-EDGEのモバイルデータ通信市場での優位性や将来性、さらにそれらの中国/国際市場への展開も視野に入っていると考えられていた。
2005年2月2日、ウィルコムへ社名を変更し、エアーエッジの表記も「'''AirH"'''」から「'''AIR-EDGE'''」へ変更された。社名変更に伴うブランドイメージの刷新という意味合いもあるが、「AirH"という表記では日本人以外はエアーエッジと読むことができない」という問題点に基づいたものであり、ウィルコムの筆頭株主であるカーライル・グループの意向が強く働いたとされていた<ref>[https://news.mynavi.jp/news/2005/01/18/002.html 通信速度256kbps、体感で1Mbps強 - 新「AIR-EDGE」サービス、2月18日から (MYCOMジャーナル)]</ref>。AirH"という命名の根拠だった元ブランドの「H"(エッジ)」に関しては表記の変更は発表されなかったことから、事実上「H"」ブランドの将来的な消滅を示唆するものとなった。パケットデータ通信規格に別にEDGE ([[Enhanced Data Rates for GSM Evolution]]) と呼ばれるものが存在するが、全く無関係である。
同日、高速化サービス「AIR-EDGE MEGA PLUS」(旧トルネードWebサービスの改良版)を開始し、2月18日に256kbpsの定額データ通信サービス「AIR-EDGE[PRO]」を開始した<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2005/01/18/index_03.html WILLCOM|05.01.18 AIR-EDGE MEGA PLUSおよびAIR-EDGE(PRO)の開始等について]</ref>。
=== 音声定額制 ===
DDIポケットだった当時はKDDIグループ内部における携帯電話[[au (携帯電話)|au]]との兼ね合いからデータ通信を中心にした事業展開を行っており、[[音声通話]]に対しては消極的だった。しかしKDDIグループからの離脱に伴い、音声通話についても積極策に転じた。
2005年3月15日、[[ウィルコム沖縄]]を含むウィルコム同士のメール定額を含む[[音声通話定額制]]プラン「ウィルコム定額プラン」を発表、5月1日に開始した。ウィルコム定額プラン専用のデータ通信が定額制となるオプションプランも併せて導入。[[移動体通信]]としては日本国内初の通話定額制サービスの開始となった<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2005/03/15/index.html WILLCOM|05.03.15 WILLCOM新サービス「ウィルコム定額プラン」等の提供について]</ref>。
音声定額制導入に伴って契約数は増加に転じ、2005年3月末までの契約数は子会社ウィルコム沖縄を含めたグループ全体で300万契約を取り戻した。その後も加入者数は増加し続け、2005年12月23日付けでDDIポケット時代の1998年7月に記録した約361万件の過去最高契約数を更新した。その後2006年5月末に400万件、2007年3月末に450万件を突破した。
しかし2006年10月から携帯電話事業者間で始まった[[番号ポータビリティ]]とそれに伴う料金値下げ競争から価格優位性が薄れた。特に[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]の定額プラン「[[ホワイトプラン]]」の影響が大きいとされる。データ転送速度の遅さ、[[ワンセグ]]や[[おサイフケータイ]]など携帯端末の高機能・多機能化の流れにも取り残されて純増数が鈍化傾向となり、ついに2007年8月は純減となった。
音声定額制導入に当たってはNTT東西会社への接続料([[アクセスチャージ]])を削減するため、[[VoIP]]対応交換機(ITX:Ip Transit eXchange)<ref>[http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2005/02/60_02pdf/b05.pdf]([[Portable Document Format|PDF]])</ref>を高トラフィックな地域に優先的に導入していた<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/parts/image_for_link/136388-31966-7-2.html ITX導入済収容局マップ、2006年11月公式発表、インプレス報道]</ref>。
KDDI傘下を離れたことに関係しそれまではできなかった携帯電話と比較しての[[SAR値]]の低さなどを大きな売りとしてアピールできるようになっていた。
=== 他事業者との事業提携強化 ===
2005年12月1日から、「ウィルコムADSL」サービスを旧[[アッカ・ネットワークス]]([[イー・アクセス]]に吸収されたため、同社の回線)の[[ADSL]]回線のホールセールにより開始。ウィルコムのPHSサービスとの同時契約による割引なども導入<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2005/11/22/index_04.html WILLCOM|「ウィルコムADSLサービス」の開始について]</ref>。
2006年2月1日から、[[テレマティクス]]([[カーナビゲーション]]のインターネット接続)分野でHonda[[インターナビ]]と協業、「カーナビ専用定額サービス」を開始。月額1,050円のカーナビ専用定額制を導入<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2005/11/21/index.html WILLCOM|Hondaが提供する「インターナビ・プレミアムクラブ」向けに「カーナビ専用定額サービス」を提供]</ref>。
2006年3月1日から、[[ジュピターテレコム|J:COM]]との提携によりウィルコムのPHSサービスを「J:COM MOBILE」としてJ:COMが再販。同社の[[固定電話]]サービス「J:COM PHONE」のオプションサービス「とくとく・トーク」に加入すると、J:COM MOBILEへの通話料を割り引く<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2005/10/27/index.html WILLCOM|ジュピターテレコムとウィルコム、モバイル事業で提携]</ref>。
2006年6月1日から、[[NTTコミュニケーションズ]]との提携により同社の[[公衆無線LAN]]サービス「[[ホットスポット (NTT)|ホットスポット]]」を、「ウィルコム無線LANオプション」としてウィルコムが再販<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2006/05/31/index.html WILLCOM|「ウィルコム無線LANオプション」サービス開始について]</ref>。
=== 高度化PHS開始 ===
2006年2月23日から、[[高度化PHS]]である[[W-OAM]]方式の採用により、大都市を中心に一部地域で最大408kbpsの通信速度サービスを開始<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2006/01/27/index.html WILLCOM|データ通信サービスの高速・快適化について〜PHS高度化通信規格「W-OAM」の導入〜]</ref>。今後さらに1.5Mbps以上のデータ通信サービスを提供する計画もある<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/service/reason/comfortably/index.html WILLCOM|ますます速く快適に]</ref>。
2006年末以降発売の音声通話型端末では音声通話においてW-OAM方式の一種であるBPSKによる通信方式にも対応したものが増えていた。
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ウィルコムPHS高度化対応アンテナ基地局 2007年.jpg|PHS高度化<br />対応アンテナ基地局 2007年
willcom bs.jpg|高度化PHS対応<br />基地局本体(京セラ製)2007年<br />下の白い箱は<br />[[無停電電源装置]](UPS)
ウィルコムPHS高度化対応アンテナ基地局 ビル屋上設置例1.jpg|都心部のビル屋上に<br />導入が進むPHS<br />高度化対応アンテナ<br />基地局 2007年
</gallery>
<!--PHS高度化対応アンテナの名称由来はこちらの同型PHS高度化対応アンテナのリンク先を参考としました→http://k-tai.impress.co.jp/cda/parts/image_for_link/116212-28288-16-1.html-->
<!--アンテナ基地局は重複したものを削除させて頂きました、新たな画像は「基地局」ページへの掲載もご検討下さい-->
=== 次世代PHS免許取得 ===
2007年12月21日、[[PHS#次世代PHSほか|次世代PHS]]技術を採用した広帯域移動無線アクセスシステム([[BWA]])の特定基地局の開設計画認定の申請に対して[[総務省]]より開設認定を取得。これにより、2009年10月からの次世代PHSサービスが実現可能となっていた<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2007/12/21/index_01.html WILLCOM|「次世代PHS」導入に向けた2.5GHz帯での免許認定について]</ref>。2008年5月26日には次世代PHSのブランド名を「'''[[WILLCOM CORE]]'''」(ウィルコムコア)とすると一旦、発表した。COREは、[[英語]]の「[[核]]」と、'''C'''ommunication '''O'''f '''R'''evolution and '''E'''volutionの略から来ていた。ただし、2009年1月22日にこの“次世代PHS=WILLCOM CORE”という位置づけから、次世代PHSだけではなく従来PHS、3G携帯MVNO、無線LANと複数の通信手段を利用して快適に通信できるサービス全体を[[WILLCOM CORE]]、次世代PHSサービスのみの呼称は[[WILLCOM CORE XGP]]([[XGP]]:[[eXtended Global Platform]])とするという方針の変更を発表していた。
そのため、XGPが展開される前に2009年3月9日より[[NTTドコモ]]の[[FOMAハイスピード]]網の[[MVNO]]を利用した'''[[WILLCOM CORE 3G]]'''サービスを開始していた。提供は、最長で2012年12月までを予定していた。XGPエリア網の進展により、[[イー・モバイル]]のドコモ[[ローミング]]同様、都道府県単位での繰り上げ終了も有り得るとしていた。従来のPHS契約から'''WILLCOM CORE 3G'''サービスへの'''「[[機種変更]]」([[契約変更]])'''も可能だが、実質的には既存PHSの[[解約]]・'''WILLCOM CORE 3G'''の[[新規契約]]と同様であるため、契約期間の引き継ぎやサポートコインの引き継ぎは出来ず、電話番号の維持も出来なくなる。ただし、端末の分割分が残っている場合の支払は引き続き必要だが、その他年間契約の解除手数料などは一部免除される。サポートコインについては、同一請求の回線があり、そちらを存続させる場合に限り、その回線の上限分までは継承可能。サポートコインの提供やW-Value selectに付随するW-VALUEサポートの適用、あるいは、ウィルコムあんしんサポートの対象外となる。
'''[[WILLCOM CORE XGP]]'''については、2009年10月1日からサービスを開始することを公式発表した。開始当初は、東京都山手線内の一部地区からのサービス提供となることや対応する通信機器の台数に限りがあることから、2010年3月まではXGP専用の料金プランである「XGPデータ定額フラット」並びにPRIN接続料を無料とするキャンペーン期間に設定し、対応通信機器も無償レンタル(貸与)される<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2009/09/24/index.html WILLCOM|「WILLCOM CORE XGP」のサービス開始について]</ref>。ただし、申込自体は[[東京特別区]]内の住所で契約し、ウィルコムの契約を既に持っている場合に限る。
ウィルコムは「次世代PHS」という名称はすでに公式には使用しなくなっており、メディアに対しても使わないようにと要望していた。これは、XGPブランドの浸透を図るだけでなく、XGPではデータ通信サービスしか行う予定がなく、電話のイメージのあるPHSという言葉を入れると誤解を招くからである。
=== ソフトバンクの下で経営再建 ===
2009年9月18日、ウィルコムは、[[私的整理]]のひとつで第三者機関が仲介する[[裁判外紛争解決手続]](事業再生ADR)に入る方針を取引金融機関に伝え、約1000億円の債務返済期限の延長を求める方向で最終調整に入ったことが一部報道で明らかになった<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090919AT1D180BA18092009.html NIKKEI NET(日経ネット):ウィルコム、返済延長要請へ 私的整理、PHS継続し再建急ぐ ]</ref>。9月24日に事業再生実務家協会への事業再生ADRの手続きを正式申請し、受理された<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2009/09/24/index_01.html WILLCOM|事業再生ADR手続き利用のお知らせ]</ref>。現在の通信事業を継続しつつ、経営再建を目指す方針としていた。
しかし、事業再生ADRの手続きが明らかになったことで、顧客に先行きの不安感が流れたためか、契約数が減少する負のスパイラルを引き起こす結果となり、2010年2月18日、[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[会社更生法]]の適用を申請した。2009年12月末での負債総額は単体ベースで2060億円であり、通信業の経営再建会社としては[[平成電電]]の負債額を抜き過去最悪となった<ref>[http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3220.html 帝国データバンク]</ref>。同時に、[[企業再生支援機構]]へ支援を正式に要請した。今後[[ソフトバンクグループ|ソフトバンク]]と[[アドバンテッジ パートナーズ]]からの支援を前提に協議を行う。会社更生法申請に伴い、[[久保田幸雄]]社長は事業統括担当の管財人代理兼代表執行役員として、新たな経営陣に加わって経営に参画するが、他の取締役はすべて辞任を余儀なくされた。その後、4月1日に管財人および管財人代理が追加選出された事に加え、久保田自身の体調不良などの理由により、久保田管財人代理兼代表執行役員が4月23日付で辞任し、旧経営陣はすべて姿を消すことになった。
子会社のウィルコム沖縄については会社更生法の適用申請を行っておらず、[[沖縄県]]での事業については、本件に伴う特段の影響はないとしていた。ただし、ウィルコム本体と兼任していた役員は総辞職した。
事業再生スキームとしては、PHSサービスや[[MVNO]]事業はウィルコムを更生させて従前通り継続させる方針だが、WILLCOM CORE XGPについては、スポンサー会社が今後設立する受け皿会社が譲受して、事業分割する方針いわゆる、[[新旧分離]]の方針を掲げていた。ただ2010年8月2日には、XGP事業の譲受とPHS事業のコスト削減に協力する立場だったソフトバンクが、管財人からの要請により、PHS事業も含めたウィルコム全体の直接支援を行うことで合意していた<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1008/02/news087.html ソフトバンク、ウィルコムの現行PHS事業を支援――スポンサー契約締結] - ITmedia +D Mobile 2010年8月3日閲覧</ref>。管財人にソフトバンクモバイルCOO[[宮内謙]]、管財人代理にソフトバンクモバイル取締役専務執行役員CTO[[宮川潤一]]、同社執行役員経営企画本部長田中錬・同社財務経理本部長内藤隆志が就任していた<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2010/08/05/index.html お知らせ:管財人および管財人代理の選任について]</ref>。管財人は、ウィルコムの事業の経営並びに財産の管理及び処分をする権利の全権を、独占して握っていた。
2010年10月14日付で[[更生計画]]案が[[東京地裁]]に提出され、現在のPHS事業そのもののみをソフトバンクグループの完全子会社となるウィルコムに残した上で、ソフトバンクグループと[[アドバンテッジ パートナーズ]]による受け皿会社である'''[[Wireless City Planning]]株式会社'''(WCP)を2010年6月に設立の上、XGP事業および、PHSを含む設備の資産(基地局・電柱を含む)およびロケーションの賃貸借にかかわる権利をWCPが吸収分割方式にて譲受することを明らかにした。東京地裁からの認可が正式に下りた時点で事業家管財人が代表取締役、事業家管財人代理が取締役へ横滑りした上で、追加で取締役・監査役を選任する予定としていた。その後、2010年11月30日付で更生計画案が認可され、12月1日付でソフトバンクグループ4社目の通信事業者となり、宮内管財人が代表取締役に正式に就任した。
ソフトバンク傘下に入ってからは「だれとでも定額」や「もう1台無料キャンペーン」などの料金施策を打ち出し、2011年1月には契約者数が純増に転じ、2012年4月には累計契約者数が過去最高の468万1000件(2007年7月の465万9100件以来、4年8ヵ月振り、ただし、SoftBank 3Gを含む、以下同)となる急激な回復成長をし<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2012/04/06/ ウィルコムの累計契約数が過去最高を突破] ウィルコムプレスリリース(2012年4月6日)</ref>、9月23日に'''500万件'''を突破した<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2012/09/26/ ウィルコムの累計契約数が500万件を突破] ウィルコムプレスリリース(2012年4月6日)</ref>。
WCPによる当該事業の譲受は2010年12月21日付で実施。WCPへ移行後のXGPについては、[[中国移動]]が導入予定とされる次期PHSに転換する方向も検討していることをソフトバンクグループが明らかにしていた。これはPHSではなく、[[TD-SCDMA]]の後継方式であり、[[第3.9世代移動通信システム]]の一つである[[TD-LTE]]方式(AXGP)による音声携帯電話あるいは、同方式によるデータ通信ともいわれていた。WCPのAXGP基地局を展開する際は既存のウィルコム基地局を利用し建物制限が無い限りは全てPHSとの併設のオムニアンテナ新型機に替えていた。[http://www.xgpforum.com/new_XGP/ja/topics/ARIB_prize/ARIB_prize.html]
2011年7月7日に3年かけPHS基地局を現在の16万局から約3割減の11万―12万局にすると発表した。ソフトバンクの第3世代携帯電話(3G)の鉄塔基地局にPHS専用基地局を併置。基地局の賃料や電気代、回線料などの負担を軽減できソフトバンクのインフラ活用により、年550億円かかっていたPHS基地局の維持費を同250億―同350億円に圧縮し、経営改善につなげる。すでに3月から一部作業を進めていた。2014年夏までにすべての作業を完了する。ウィルコムはこれにより設備維持費を年200億―同300億円削減できると試算していた。高さが40メートルあるソフトバンクの3G鉄塔基地局は、上部にPHS専用の基地局を併設でき、半径2キロメートルの地域を補える。ウィルコムは今後、3G鉄塔基地局との併設により、不要なPHS基地局を選定していくとした。[[File:ソフトバンク鉄塔基地局に併設のウィルコム基地局.JPG|thumb|ソフトバンク鉄塔基地局に併設のウィルコム基地局]]
2012年6月14日にソフトバンクモバイル取締役専務執行役員CTOで、ウィルコムの管財人代理も務める宮川潤一のTwitterによると、圏外でウィルコムが使用できない全国すべての[[道の駅]]について、ウィルコムの基地局を設置する計画がほぼ固まったとの事、設置にあたってはすぐに取りかかれるところと時間がかかるところとで1年強の差が生じるものの、宮川はやりきることを表明。ソフトバンクモバイルが基地局用に利用していた鉄塔にウィルコムの基地局を設置する動きも始まったとしていた。
2013年1月17日より、「ウィルコムプラザ」においてグループ会社の[[イー・アクセス]]やソフトバンクモバイルが販売していた製品やサービスの取り扱いを開始しており、特に、イー・アクセスとは当社の製品やサービスの「イー・モバイルショップ」への供給も行われており、グループ内での交流も盛んになっていた。7月1日付で東京地裁から会社更生手続終結の決定を受けたことを発表したことで<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2013/07/01/index.html ウィルコム発表「更生手続終結決定のお知らせ」]</ref>、会社更生法の適用申請から約3年4ヶ月で再建を果たした。同日付けでソフトバンクの連結子会社となったことが発表された<ref>[http://www.softbank.co.jp/ja/news/press/2013/20130701_01/ ソフトバンク発表(株式会社ウィルコムの会社更生手続終結に伴う連結子会社化に関するお知らせ)]</ref><ref>[https://www.rbbtoday.com/article/2013/07/01/109657.html ウィルコム、順調な業績回復で更生手続終結……ソフトバンクの連結子会社に] RBBTODAY(2013年7月1日)</ref>。
=== イー・アクセスと合併、ブランド統合へ ===
2013年12月3日に、グループ会社のイー・アクセスに2014年4月1日付で吸収合併されることが発表されたが、合併期日は2014年2月17日に延期(2014年6月1日付けに変更)が発表された<ref>[http://www.softbank.jp/corp/set/data/group/ym/news/press/2014/20140217_01/pdf/20140217press.pdf 合併効力発生日の延期に関するおしらせ]</ref>。
合併発表後、PHSサービスに関する問合わせが相次いだことから、合併により法人としてのウィルコムは消滅するが、PHSサービスについては、継続して提供することが発表された<ref>[http://www.softbank.jp/corp/group/ym/news/info/2013/20131211_01/ イー・アクセス株式会社との合併に関する報道発表について]</ref>。
2014年3月27日、6月1日実施の合併の翌日にソフトバンクが保有する普通・優先株式のすべてを[[ヤフー (企業)|ヤフー]]が買収することになり、社名を「'''イー・アクセス株式会社'''」から「'''ワイモバイル株式会社'''」に改称、ブランドも「''Y!mobile''」への改称を表明した。しかし、2014年5月19日に株式買収を中止して協業に留めることを発表、ワイモバイルへの社名変更も当面見送ることになった。ただし、ウィルコムの吸収合併は予定通り行われた<ref>[http://pr.yahoo.co.jp/release/2014/05/19a/ ヤフー株式会社によるイー・アクセス株式会社の株式取得の中止と今後の協業について] - ヤフー株式会社2014年5月19日付プレスリリース</ref>。見送られていたワイモバイルへの社名変更については当初予定から1ヶ月遅れの7月1日に実施<ref name="ym_pr140701" />。ブランド変更は8月1日付で「Y!mobile」へ変更することが7月17日に正式発表された<ref>[http://www.ymobile.jp/corporate/press/2014/071705.html 新ブランドおよびブランドロゴについて] - ワイモバイル・ウィルコム沖縄 2社連名によるリリース(配信元:ワイモバイル株式会社) 2014年7月17日(2014年7月28日閲覧)</ref>。法人としてのワイモバイルは、2015年4月1日付けで、親会社の[[ソフトバンクテレコム]]、ソフトバンクモバイル、[[ソフトバンクBB]]のグループ3社と合併し、存続会社の「ソフトバンクモバイル」(合併後の7月に「ソフトバンク」へ社名変更)に吸収され消滅したが、PHS事業を含む「Y!mobile」のブランドは継続・承継された<ref>[http://www.softbank.jp/corp/set/data/group/sbm/news/press/2015/20150123_01/pdf/20150123_01.pdf 合併に関するお知らせ](2015年1月23日 2月25日閲覧)</ref>。
2018年3月31日、ソフトバンク・ウィルコム沖縄がPHSの新規契約受付を停止<ref name=":0">https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1055943.html</ref>。
== サービスエリア等 ==
[[人口カバー率]]については2004年1月に97[[パーセント]]を達成し<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2005/02/09/index.html WILLCOM|05.02.09 サービスエリア拡大について]</ref>、2006年3月に99%を達成<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2006/04/12/index.html WILLCOM|2006年3月度サービスエリア拡大地域について]</ref>。
実際には大都市・都市の辺縁部や地方市町村の周辺部、居住者が少ない村落、山間、山岳、海上などはエリア外となる事が多い。PHSの特性上、1つの基地局のカバーエリアが携帯電話よりも狭く数多くの基地局を建てなければならないため、エリア展開上不利になっていた。ソフトバンクの3G鉄塔基地局上部にPHS専用の基地局を併設を進めており半径2キロメートルの地域を補えるようになった。通信に利用していた[[電波]]の[[周波数]](1.9 GHz)の性質上、屋内への電波の到達性が低く障害物による減衰が大きい。そのため、屋内へのアンテナ([[ナノセルシステム]]<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/biz/service/nanocellsystem/index.html WILLCOM|ナノセルシステム]</ref>など)設置や[[道の駅]]や[[スキー場]]などスポット的なエリア化などの小回りは効くものの圏外となる空白地帯(いわゆるエリア内の穴)は地方では多い。
ただし、同業の[[アステル]]や[[ドコモPHS]]とは基地局の構造が大きく異なる高出力型であることから、両社がエリア外としていた[[三大都市圏]]・[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]から離れた[[郊外]]の[[町村]]・[[地方都市]](例えば北海道[[稚内市]]など)においても積極的に展開し、同業2社や三大都市圏にエリアを限定していたドコモの[[シティフォン]](携帯電話)よりも広域なサービスエリアとなっていた。
「ポケット電話」の開始当初は、利用者その他からの「つながらない」「すぐ切れる」との批判が多かったが、都市部・市街地においてはその問題は少なくなってきていた。高感度・高指向性アンテナや[[アダプティブアレイ]]技術の採用など、基地局のセル性能は開始当初の半径500mから補える範囲が半径1kmと向上していた。高速ハンドオーバー(前述「[[#H"|H"(エッジ)]]」を参照)の採用などにより[[一般道路]]や[[普通列車|普通電車]]などでの移動中でも音声通話は概ね可能となり、[[データ通信]]([[World Wide Web|ウェブ]]・[[電子メール|メール]]他)ならば[[高速道路]]や[[在来線]][[特別急行列車|特急電車]]等の高速移動中でも利用できる場合がある。
2006年末以降発売の音声通話型端末では音声通話において[[W-OAM]]方式の一種であるBPSKによる通信方式にも対応するものが増えていた。これにより、W-OAM対応エリアにおいては従来のPHS方式(π/4-shift QPSK)に加え実効上、屋内浸透性や高速移動時の安定度をより向上させた音声通話が可能となっていた<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20051019/223068/ 【特報】ウィルコムが来年度にカバーエリアを大幅拡大へ:ITpro]<br />[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/event/26661.html 【WILLCOM FORUM 2005】 八剱社長、次世代技術や音声定額の動向を紹介]<br />[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2006/10/18/index_03.html 高度化通信規格「W-OAM」対応のW-SIM発売について]<br />[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2007/01/22/index_02.html ウィルコムの新しい音声端末ラインアップの発売について〜全機種が高度化通信規格「W-OAM」(ダブリュー・オー・エー・エム)に対応〜]</ref>。
=== 災害時の通話発信規制 ===
1つの基地局で数キロメートルのエリアをカバーしている基地局([[基地局#セル方式|マクロセル方式]])を採用している携帯電話は災害発生時、1つの基地局に通話が集中して交換機がダウンしないよう携帯通信会社が発信規制をかけるが、PHSは1つの基地局のカバーエリアが携帯電話よりも狭く、数多くの基地局([[基地局#セル方式|マイクロセル方式]])を建ててエリアをカバーしていたため、通話が集中しても1つの基地局にかかる負荷が分散されるため発信規制がかかることはまず無いと言われていた。そのため、以前から災害発生時直後でもPHSは通話可能と言われていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://tech.nikkeibp.co.jp/it/article/COLUMN/20070829/280583/|title=マイクロセルが生きるPHS,停電にも強いというそのワケは?|publisher=日経 xTECH|date=2007-9-7|accessdate=2018-11-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/net/security/goshinjyutsu/20080818nt07.htm|title=地震に強いPHS:理由は基地局のシステムにあった|publisher=読売新聞|date=2008-8-22|accessdate=2018-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080916062159/http://www.yomiuri.co.jp/net/security/goshinjyutsu/20080818nt07.htm|archivedate=2008-9-16}}</ref>。
未曾有の大災害となった[[東北地方太平洋沖地震]]発生当日には、発信規制が続く携帯電話や固定電話と違い、ウィルコムのPHSはほとんど発信規制が無かった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/pdf/n0010000.pdf|format=PDF|title=東日本大震災における情報通信の状況:平成23年版 情報通信白書|publisher=総務省|accessdate=2018-11-10}}</ref>。PHSから都道府県内・外の固定・携帯電話・PHSへは数回かけ直しただけでつながったことでPHSは災害時でもつながりやすいと注目され、後日マスコミでも報道された<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110416/dst11041621020041-n1.htm|title=災害時は携帯よりPHS・スカイプ 規制少なく「つながる」|publisher=MSN産経ニュース|date=2011-4-16|accessdate=2018-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110419090401/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110416/dst11041621020041-n1.htm|archivedate=2011-4-19}}</ref>。その後2011年から3年間で、PHS基地局を16万局から約3割減の11万 - 12万局に減じた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0220110707bfai.html|title=ウィルコム、PHS基地局を3割減-年300億円圧縮|publisher=日刊工業新聞|date=2011-7-7|accessdate=2018-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110711204828/http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0220110707bfai.html|archivedate=2011-7-11}}</ref>。
== 料金体系 ==
記載の価格には[[消費税]]が含まれていない。
=== 料金プラン ===
料金プランには特定の端末のみ契約出来るプランと、どの端末でも契約出来るプランの大まかな2種類が存在していた。
基本料金の計算期間は、電話番号の'''新規契約日'''によって変化し、各月の1〜19日に契約した場合は月末締め、20日〜末日に契約した場合は15日締めとなる。前者となった場合は、お客様番号の数字10桁の後に付く枝番が「-A」となり、後者となった場合は枝番が「-B」となる。「-A」の回線と「-B」の回線を請求統合した場合は、設定時に指定したお客様番号側の計算期間に併せられるが(この場合、何れの回線とも月末締めないしは15日締めに統一され、1ヶ月のみ、一方の請求がなされないかわりに、請求期間の丸めのために請求のなかった翌月は1.5ヶ月分の徴収となる)、枝番自体は変化しない。ただし、例外として、[[ウィルコム定額プラン#新ウィルコム定額プランG|新ウィルコム定額プランG]]を契約した場合は、新規契約日にかかわらず、お客様番号の数字10桁の後に付く枝番が「-A」となり、計算期間は月末締めとなる。同様に、請求統合の如何に関わらず、機種変更前に「-B」となっていた顧客についても、「-A」に変更となる。「WILLCOM CORE 3G」の契約者についても、新規契約日に関わらず、お客様番号上は「-A」の扱いとなるため、料金計算は月末締めとなる。
2013年7月請求分より、月末締めに統一され、引落日ないしは請求書での支払期限日が毎月26日に変更される形で統一される(事実上、お客様番号上「-A」の扱いに統一され、加えて、引落日ないしは請求書支払期限が[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]の末日締ユーザの扱いに併せられる)。
<!--意図不明かつ誤りを含む。
また、NTT東日本・NTT西日本の固定電話で使用される[[単位料金区域]]が同一ではないため使用時の料金が地域により大きくことなり、または他社よりも高額な料金を請求される場合がある。
NTT東日本・NTT西日本の固定電話および[[日本の公衆電話|公衆電話]]からウィルコムのPHSに掛けた場合はPHS側の料金プランにかかわらず、標準コース扱い(標準コース契約から一般電話にかけた場合)の通話料金が適用になる(定額制の対象外)<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/plan/phone/standard/charge/index.html 標準コース料金表]</ref>。なお東西NTTの[[固定電話]]以外の電話([[直収電話]]、[[日本のIP電話|IP電話]]等)から掛けた場合は、各電話サービスにおける料金体系による。
-->
ウィルコムは郵送の請求書は有料であった。
金融機関からの引き落としは、自社が直接行うか、不可能な金融機関については[[アプラス]]が[[ファクタリング#収納代行|収納代行]]の形で行ってきたが、2011年9月の引き落とし分より、自社およびアプラスの代行を取りやめ、[[セディナ]]による収納代行を利用した引き落としに変更されることになった
2013年6月20日より、年間契約の契約期間が見直され、契約日に関わらず、契約から12ヶ月後の月末となった。「新ウィルコム定額プランS/GS(新規受付を終了した「新ウィルコム定額プランG」を含む)」は契約満了日が3年後から3年後の'''月末'''に変更となった。いずれの場合も、契約満了日付で解約等を行った場合は解除手数料が発生する。ただし、「新ウィルコム定額プランS/GS」及び「新ウィルコム定額プランG」を利用中のユーザーには、契約満了日の前月末に変更となる。
本来は契約更新月以外にプラン変更や解約を行った場合にかかる契約解除料については、特定端末向け料金プランや一部の音声端末料金プラン(すべてのスマートフォン向け料金プラン及びウィルコムプランW・新ウィルコム定額プランS/G/GS)から機種変更などでY!mobileブランドで提供されている「スマホプランS/M/L」にプラン変更した場合は免除される。
==== 2015年時点で新規受付可能な料金プラン ====
以下に述べるプランは2015年10月以降も新規および変更受付が可能な料金プランである。
===== データ通信向け =====
*Two LINK DATA
:後述の「通話相手先限定」と全く同じ料金設定だが、便宜上データ通信用料金プランとして扱われていた。専用端末でのみ利用可能である。
*新つなぎ放題
:すべての方式のPHSパケット通信が基本使用料のみで利用可能な完全定額制プラン。
:パソコン用のインターネット回線として利用するなど、[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]などのアクセスポイントを設定してインターネットを利用する場合は、[[PRIN]]接続料または契約するプロバイダの月額料金が別途発生する。
:[[スマートフォン]]も契約可能だが、所定の通話料がかかる。
:契約期間は2年間である。ただし、スマートフォンへの機種変更に伴って「ウィルコムプランD/D+/Lite」にプラン変更する場合は解除手数料が免除されていた。
===== 特定端末向け =====
*パス専用プラン
:ウィルコム及び[[Y!mobile]]ブランドのPHS同士の通話が24時間無料となる専用プラン。後述のオプションサービス「スーパーだれとでも定額」又は「だれとでも定額」との併用が可能。
:契約期間は3年間である。
*迷惑電話チェッカー専用プラン
:「迷惑電話チェッカー」に関しては他の端末では所定の料金がかかる事務手数料が新規契約時・機種変更時共に無料である。本端末の購入と同時に電話機購入を伴う新規契約をした場合やウィルコムブランド・Y!mobileブランド問わず既存ユーザーはオプション料金のみで利用が可能で2013年9月請求分までは先述の条件に関係なくオプション料金のみで利用できた。
:契約期間は3年間である。
*お知らせ窓センサー専用料金プラン
:「お知らせ窓センサー」に関しては他の端末では所定の料金がかかる新規契約時事務手数料が無料である。機種変更時は他の機種同様、所定の事務手数料がかかる。
:契約期間は1年間である。加入から3年以内に解約した場合、年間契約解除手数料とは別に本料金プランの解除手数料も発生するので注意が必要である。
==== 新規加入・変更を終了した料金プラン ====
{{Wikify|date=2021年12月|section=1}}
以下の料金プランはY!mobileのホームページに「受付終了プラン」として掲載されていた料金プランである。
「ウィルコム定額プラン」、「スーパーパックS/L/LL」、「昼特コース」は2010年12月31日に店頭での受付が終了し、新規契約や機種変更を伴わないプラン変更も2011年2月28日に受付を終了している。
2014年7月31日には「ウィルコムプランW」を除くすべての音声通話(電話機)向け料金プランと「ウィルコムプランD+/Lite」が<ref>[http://www.ymobile.jp/corporate/press/2014/071708.html 4G-Sプラン、ウィルコムプランLiteなどの新規申込み受付終了について] - ワイモバイル・ウィルコム沖縄 2社連名によるリリース 2014年7月17日(2014年7月28日閲覧)</ref>、2015年9月30日には2014年8月以降も継続していたすべての音声通話向けプランと「3Gデータ定額S」が<ref>[http://www.ymobile.jp/info/2015/15072901.html ワイモバイルブランドで提供中の一部料金プランの受付を終了] - ソフトバンク株式会社 お知らせ 2015年7月29日(2015年10月4日閲覧)</ref>順次、新規および変更の申込受付を終了した。これにより、ウィルコムから継続していた料金プランは特定端末向けプランと一部のデータ通信端末向けプランのみとなった。
契約中のユーザーは、料金プランの変更を行わない限り、申込時の料金プランで継続利用が可能であった。
===== 音声通話(スマートフォン)向け =====
* ウィルコムプランLite/D+
:; 両プランに共通の部分
:: 3G/4G対応スマートフォン(デュアル端末を含む)専用の料金プランで、契約期間はさんねん。
::: ''契約期間の定めのないプランは用意されていなかった。''
:: WEB接続料及びパケット定額料とのセット加入が必須である。
:: パケット定額料以外の料金体系、契約解除手数料は後述の「ウィルコムプランD」に準じる。
:: 3G/4Gによるパケット通信については、所定の高速データ通信容量を超過すると、通信速度が低速化する。<br>容量超過による低速化の解除手続(有料)は「My WILLCOM(現「My Y!mobile」)」・サービスセンター(現・カスタマーセンター)・SMSによる通知メール内のリンク(法人契約の場合はサービスセンターからのみ)から行える。<br>PHSとのデュアル端末にて、PHSデータ通信を利用する場合のパケット通信量は、高速データ通信容量の算定基準には含まない。
:: 「3Gデータ通信(S)」からのプラン変更は不可。<br>変更する場合は、一旦ウィルコムとの契約を解約してから改めて新規契約する必要があった。
:; 異なる部分
** ウィルコムプランLite
:: 3G/4G高速データ通信容量は月間1GB。<br>超過時は料金月の末日まで通信速度が低速化する。低速化の解除は0.1GB単位。
::'''通信速度解除の回数が多い場合、低速化解除料金の累計を考慮すると、「ウィルコムプランD+」の上限額よりも高額'''となる可能性があるので注意が必要である。
*** キャンペーンによる割引
::: パケット定額料が本プランへの加入から最大24ヶ月(2年)間割引になる。<br>当初は本プランの加入から最大6ヶ月間割引が適用されていたが、他社からのMNP転入は2013年10月11日より、新規契約・機種変更は2014年1月17日より割引期間が本プランの加入から最大24ヶ月(2年)間にそれぞれ拡大された。
::: 新規契約・機種変更・ソフトバンクグループ(SoftBankブランド、ディズニー・モバイル・オン・ソフトバンク、イー・モバイル)を除く他社からのMNP転入のいずれかを行った場合に適用。
::: 料金プランの新規受付終了に伴いキャンペーンも2014年7月31日に終了した。割引は期間満了まで適用される。
** ウィルコムプランD+
:: 3G/4G高速データ通信容量は月間7GB。<br>超過時は料金月の末日まで通信速度が低速化する。低速化の解除は2GB単位。<br>3日間3GB制限(当初は3日間1GB制限だったが、2015年9月中旬の段階では制限が緩和されていた)<ref>[http://www.ymobile.jp/service/info/tsushin_w.html 通信の制限について(ウィルコム通信サービス)]</ref>があり、これについては通信事業者所定の条件により自動的に行われ、契約者が解除することはできない。
*** キャンペーンによる割引
::: パケット定額料が本プランへの加入から最大24ヶ月(2年)間割引になる。
::: 新規契約・機種変更・ソフトバンクグループ(SoftBankブランド、ディズニー・モバイル・オン・ソフトバンク、イー・モバイル)を除く他社からのMNP転入のいずれかを行った場合に適用。
::: 前述のとおり、料金プランの新規受付終了に伴い、キャンペーンも2014年7月31日に終了した。割引は期間満了まで適用される。
*ウィルコムプランD(現名称「プランD」)
:本プランはWEB接続料と3Gパケット定額とのセット加入が必須である。特定端末のみ加入可能であった。
:070局番の各社PHSへの通話、電子メール、3GおよびPHSデータ通信、ウィルコム3G同士やSoftBankブランド宛のSMSが無料である。
:オプションサービス「だれとでも定額」との同時加入の場合、キャンペーンにより利用期間中は「だれとでも定額」の月額料が無料となる。新規加入の受付終了までキャンペーン終了時期は明記されなかった。
:22歳以下または学生が「HONEE BEEスマホセット」を購入して本プランを契約した場合、月額基本使用料が無料となる「学割パック」が適用されて「だれとでも定額」の無料キャンペーンは適用外となる。
:3Gデータ通信に関しては、前々月のデータ量が1000万パケットを超えた場合、翌月に速度制限が発生する。PHSデータ通信では速度制限の対象外となる。
:契約期間は3年間である。
===== 音声通話(電話機)向け =====
: '''ウィルコムプランW'''(現名称「プランW」・2017年3月31日午前2時にサービス終了<ref name="ymobile.jp">[http://www.ymobile.jp/support/relief/nwinfo/1500mhz/detail/ 1.5GHz帯 対応の一部サービス/機種をお持ちお客さま|安心してご利用いただくために|サポート|Y!mobile(ワイモバイル)]</ref>)
:: 3GモバイルWi-Fiルーター機能付PHS電話機専用料金プラン(契約期間は3年間)
:: 基本使用料についてはキャンペーン価格が適用されていたが、2015年9月の申込受付終了までキャンペーン終了後の通常価格は明記されなかった。
*** 070局番の各社PHSへの通話、電子メール、3Gデータ通信が無料。
*** 3Gデータ通信は一月3000万パケット以上使用すると翌々月速度制限が発生する対象となる。<br>[[テザリング]]利用を前提としたプランであり、他の機器で接続する際の[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダー]]料金も含まれていた。
*** オプションサービスの「だれとでも定額」の利用も可能。
:: '''契約解除手数料'''
*** 契約満了日の翌料金月以外における期間において、解約やY!mobileブランドで提供されている契約期間なしの料金プラン(スマホベーシックプランS/M/L、ケータイベーシックプラン)へプラン変更した場合は料金プラン解除手数料が必要であった。
::: 機種変更により年間契約対象プランや「新つなぎ放題」から本プランにプラン変更を行った場合、変更前の料金プランに設定されている解除手数料が免除されていた。
*** 現在はサービス終了に伴い、自動的に契約解除となり、端末も使用不能となった。
: '''新ウィルコム定額プランGS'''(現名称「プランGS」・2010年10月8日登場~2017年3月31日午前2時に1.5GHzの3G回線部分のみサービス終了<ref name="ymobile.jp"/>。1.5GHz以外は継続。)
:: 契約期間は1年間で、対象となる端末は、
*** [[SoftBank 3G]]とのデュアル端末
*** PHSとSoftBankスマートフォンのセット製品
*** 3GモバイルWi-Fiルーター機能付PHS電話機
:: となり、対象端末による新規加入時および機種変更時のみ契約可能。
*** 契約中に他の料金コースへの変更は出来ない。
*** 対象機種であっても'''持ち込み'''での新規契約や機種変更に伴う料金プラン変更は不可能。<br>(これは他の3Gを含むプランに共通)
:: 基本的な料金体系は後述の「新ウィルコム定額プランS」と同じ。
:: データ通信については、
*** 3Gによるデータ通信は上限額ありの従量制。1ヶ月の通信量による翌月の速度制限あり。
****''端末がWS027SHの場合は一月500万パケット以上''
****''それ以外の端末の場合は一月1000万パケット以上''
*** PHSによるパケット通信は無料。通信量による速度制限は設けられていない。
:: 年間契約解除手数料及び新規加入から3年以内の解約時に発生する解除手数料は、後述の「新ウィルコム定額プランS」に準じる。
'''新ウィルコム定額プランS'''
:2009年12月1日登場。当初は中学生/高校生向けプランで、2010年12月2日に個人であれば特定の条件を伴うことなく契約出来る通常のプランに昇格した(法人契約は不可であった)。
:基本的な料金体系は後述の「新ウィルコム定額プラン」と同じだが、パケット通信料の単価は高くなっていた(ただし、上限金額は「新ウィルコム定額プラン」と同じである)。
:他社の携帯電話および加入電話宛は通話料がかかる。「新ウィルコム定額プラン」よりも高価だが、後述する「だれとでも定額」の登場により価格差はほとんどなくなっていた。
:契約期間は1年間である。契約満了日の翌料金月以外の期間に解約した場合の年間契約解除手数料は「新ウィルコム定額プラン」に準じる。'''新規加入から3年以内に'''解約又は「新ウィルコム定額プランGS」、「ウィルコムプランW/D/D+/Lite」、「パス専用プラン」、「迷惑電話チェッカー専用プラン」以外の料金プランへ変更した場合は解除手数料がかかる。
'''新ウィルコム定額プラン'''
:2009年2月5日登場。070局番の各社PHSへの通話が無料。1通話ごとの無料時間は2時間45分となり、超過分は所定の通話料がかかる。16時間以上の通話は切断される場合がある。回数制限はないので超過前に切断しかけ直せば無料。[[電子メール]]はウィルコムより支給されるドメイン利用時は無料。
:パケット通信料は従量制だが、上限金額が設けられており、上限額に達すると定額になる。
:契約期間は1年間である。契約満了日の翌料金月以外に解約、年間契約の解除、年間契約対象外の料金プランへ変更のいずれかを行った場合は年間契約解除手数料がかかる。
'''標準コース'''
:DDIポケット開業時から存在していたプラン。すべての料金が従量制となり、加入電話への通話料は距離によって異なる他、アクセスチャージとして1通話ごとに10円が発生する。
:パケット通信対応PHSの場合、パケット通信料も従量制であるが、申込不要・無料で利用できるパケット安心サービスにより設定された上限額を超えた場合、超過分は課金されない(2013年6月1日よりサービス内容の変更により、パケット通信料のみで上限額を計算するようになった)。通話料は課金される。
'''通話相手先限定'''
:その名の通り、発信先をあらかじめ登録された3つの電話番号に制限した料金プラン。
:登録した指定の電話番号に加え、留守番電話サービス関連や110(警察)、119(消防)、118(海上保安)、151、116(ワイモバイルサービスセンター(旧・ウィルコムサービスセンター))の発信も可能である。一方で、どこからでも連絡が取れるように着信の制限はなく、Eメールの利用も可能である。
:通話料およびパケット通信料は「標準コース」に準ずる。
:契約可能な端末はウィルコムが指定した特定の端末および[[W-SIM]]に限定される。3Gを含むプランと異なり、持ち込み契約も可能であった。
'''[[ウィルコム定額プラン]]'''
:全てのPHS宛通話(070で始まる局番)が基本使用料のみで利用できる。ただし、悪用防止のため、1回の通話時間が2時間45分を過ぎると通話料が発生してしまうのでそれを過ぎてしまう前に一旦かけ直しが必要。16時間を超える連続通話については切断されることがある。この規定はPHSへの通話料が無料となるすべてのプランに共通する。通話相手の料金プランは問わず、さらに、アクセスチャージは加算されない。契約期間は1年間であるものの、年間契約割引は適用されない。メールの送受信は相手を問わず無料。一般加入電話や他社携帯電話宛の通話料が安く設定されていた。
'''スーパーパックS/L/LL'''
:一定額の無料通話を含むプラン。
:通話料は「スーパーパックS」のみ「標準コース」の2割増しとなっていたが、無料通信分を含んでいたため、利用条件によっては「標準コース」よりも安く済む場合があった。
:「スーパーパックLL」はEメール(ウィルコムから与えられたメールアドレスでパケット通信を利用の場合)並びにライトメールは無料だった(「スーパーパックS」・「スーパーパックL」はパケット通信料がかかる)。
'''昼得コース'''
:主に昼間の利用が多いユーザー向けのプラン。基本使用料を安くする代わりに、夜間(19時〜翌日8時)の固定電話・PHS宛の通話料は標準コースの2倍に設定されていた。
:年間契約割引は適用外である。
'''お気軽コース'''
:通話をほとんど使用しないユーザー向けのプラン。基本料金が標準コースの半額。
:固定電話とPHSへの通話料を終日標準コースの2倍に設定していた。
:2000年6月30日に新規受付終了<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/1352.html DDIポケット、月額1350円の料金プランの受付を終了]</ref>。ウィルコムがソフトバンク傘下入りする前に唯一正式に新規受付を終了したコースであった。
===== データ通信向け =====
*3G データ定額(S)
:3Gデータ通信専用料金プラン。キャンペーン価格が設定されていたが、2015年9月の申込受付終了までキャンペーン終了後の価格は明記されなかった。
:「ULTRA SPEED/データし放題対応エリア(SoftBankブランドの[[ULTRA SPEED]]網)」、「データし放題対応サブエリア(イー・モバイル網)」でのインターネット接続が基本使用料のみで利用可能。SoftBankブランド網では前々月の月間パケット通信量が3000万パケットを超えた場合、イー・モバイル網では24時間ごとのパケット通信量が300万パケットを超えた場合速度制限がかかる。
:対象端末が音声通話非対応の為、音声通話時の料金が設定されなかった。UIMカードの転用も不可。
:契約期間は2年間で、契約満了日の翌料金月以外に解約又は他の料金プランへ変更した場合は解約手数料が発生する。ただし、2013年6月19日以前に新規契約したユーザーは「W-VALUE SELECT」との同時加入で解約手数料が免除される。
*つなぎ放題/つなぎ放題[4x]/つなぎ放題[PRO]
:基本使用料のみで利用可能な完全定額制プラン。「新つなぎ放題」同様、パソコン等のウィルコムPHS以外の機器でインターネットをする場合はPRIN接続料又は契約するプロバイダの月額料金が別途かかる。
:「つなぎ放題」は2xパケット方式(2xパケット方式非対応の機種は1xパケット方式)、「つなぎ放題[4x]」は4xパケット方式、「つなぎ放題[PRO]」は8xパケット方式である。「つなぎ放題[PRO]」は長期割引サービスの適用外だが、長期割引サービスにおける契約期間にはカウントされる。
*ネット25/ネット25[PRO]
:1日1時間程度利用するライトユーザー向けで、無料通信分を含む。超過分は60秒につき10円がかかる。
:「ネット25」は4xパケット方式、「ネット25[PRO]」は8xパケット方式である。「ネット25[PRO]」は長期割引サービスの適用外だが、長期割引サービスにおける契約期間にはカウントされる。
:2013年6月よりサービス内容が変更され、一定時間まで無料から15,000円分の無料通信分付与となった。
*パケコミネット/パケコミネット[PRO]
:PDAを利用する方やデータ量のやり取りが少ないユーザー向けで、パケット通信が月々20万パケットまで定額で利用できるプラン。超過分は所定のパケット通信料がかかる。
:4xパケット方式まで対応する。8xパケット方式に対応する[PRO]も存在するが、通信速度的に20万パケットを簡単に超過してしまうため、ウィルコム側では案内をしていない隠し料金コース的な扱いになっており、契約を申し込もうとすると超過しやすい旨を念押しされていた。
*データパックmini/データパック
:一定額の無料通信分を含むPIAFS方式接続専用プラン(パケット方式は利用不可)。「データパックmini」のデータ通信料は「データパック」の1.5倍となる。
*H"IN使っただけコース
:個人契約のみ利用可能なモジュール内蔵パソコン「H"IN」専用の従量制料金プランで、基本使用料が無料、直送メールを含むデータ通信料金やPRINやH"INメール(Eメール)の利用料金がかかるのみだった。
:本プランはすべての割引サービスやオプションサービスの対象外となるほか、支払方法が[[クレジットカード|クレジット]]払いのみで、利用しているクレジットカード会社の明細が請求書の代替となるため、当社からの請求書や告知物は発送されない。一定期間、一度も通信が行われない回線に関しては自動解約となる。
=== オプションサービス ===
*だれとでも定額
:対象プラン:新ウィルコム定額プラン(S/G/GSを含む)、ウィルコムプランW/D/D/Lite、パス専用プラン
:1回あたり10分以内の国内通話(他社携帯電話、一般加入電話、IP電話宛)を、1料金月あたり500回まで無料で利用できるサービス。
:1回あたり10分を超える通話や'''ウィルコムが指定した電話番号への通話'''は、契約中の料金プランに応じた通話料が発生する。
:1料金月あたり500回を超過した通話は、「新ウィルコム定額プラン」の場合は同プランの通話料金が、その他のプランの場合は所定の通話料金となる(2013年6月より「新ウィルコムプラン」に加入している場合のみ、同プランの通話料が適用されることとなり、通話料が値下げされた)。
:ウィルコム(PHS回線)宛の通話は通話回数にカウントされず、本来のプランの設定通り2時間45分まで通話料無料となる。
:W-SIM対応通信機器利用者の申込みは不可である。ただし、2010年11月30日以前にW-SIM対応通信機器を契約した場合は、2011年2月28日まで申込み可能。
:北海道、宮城県、広島県、沖縄県でのテストマーケティング中に加入した顧客は、現在も加入当時の条件で利用可能。
:本オプションは後述の「新通話パック」との併用ができない。そのため、「新通話パック」加入中のユーザーが「だれとでも定額」に加入した場合、「新通話パック」が自動解約となる。後述の「ソフトバンク/イー・モバイル通話定額」との併用が可能で、本オプションを併用するとソフトバンクグループ(SoftBankブランド、ディズニー・モバイル・オン・ソフトバンク、イー・モバイル)宛の通話も通話回数にカウントされなくなる。
*スーパーだれとでも定額
:対象プラン:新ウィルコム定額プラン(S/GSを含む)、ウィルコムプランW、パス専用プラン
:2014年6月から開始された、月額料のみで国内通話やPHSパケットデータ通信が無料で利用できるオプションサービス。前述の「だれとでも定額」と異なり、通話時間や回数は無制限である(ただし、長時間通話と判断された場合は切断される場合がある)。
:本オプションでは後述の「新通話パック」との併用はできない。そのため、「新通話パック」加入中のユーザーが「スーパーだれとでも定額」に加入した場合、「新通話パック」が自動解約となる。
:「新ウィルコム定額プランG」や「ウィルコムプランD/D+/Lite」は本オプションへの加入はできないので注意が必要。
:6月中は新規契約及び機種変更と同時申込のみの受付となっており、前述の対象プラン加入中の方のオプション追加や「だれとでも定額」からの変更は7月から受付を開始した。
*話し放題
:対象プラン:新つなぎ放題
:月額料を払うことで通話料が「新ウィルコム定額プラン」に準じた料金体系となるサービス。スマートフォンなどデータ通信だけでなく通話も利用するユーザー向け。2013年6月より通話料が若干値下げされた。
==== その他 ====
*スマートフォン基本パック(W)
:2013年9月よりサービスを開始した、スマートフォン向けのオプションサービスをひとまとめにしたパックオプションである。
:加入できるのは一部の機種に限られる。
:「スマートセキュリティ powered by [[マカフィー|McAfee]]」・「紛失ケータイ捜索サービス」・「安心遠隔ロック」の3点。201HWは「留守番電話プラス」・「割込通話」・「グループ通話」を加えた6点となる。
:「スマートセキュリティ powered by McAfee」は有料で単独の申し込みが可能である。
:スマートフォンの購入と同時に本オプションを申し込んだ場合は最大1ヶ月間無料で利用できる。
:利用解除を申し込んでから6ヶ月間は再加入不可。
*あんしん保証サービス プラス
:2013年11月より「あんしん保証サービス」に替わって開始されたサービスで、新規加入又は機種変更時にのみ加入できる。1度加入すると申告による解約をしない限り、機種変更を行った場合でも継続適用される。
:本サービス加入後1年経過時に、手数料を支払うだけで、ウィルコムが指定したPHS電話機又は「STREAM」に'''機種交換'''することができる(007Zと「STREAM」からの機種交換は不可)。通常の'''機種変更'''では、「W-VALUE割引」適用期間中に機種変更を行った場合、変更前の機種の「W-VALUE割引」が終了となり、端末割賦代金(分割支払金)が残っている場合は変更後の機種と合わせて2台分の端末割賦代金(分割支払金)を支払う必要があるが、'''機種交換'''では交換前の機種の「W-VALUE割引」が期間満了まで継続適用されるほか、端末割賦代金(分割支払金)の支払いも交換前の機種分のみで引き続き支払うことができる。通常の機種変更時にかかる機種変更手数料はかからない。交換前の端末割賦代金(分割支払金)の支払いが終わってからも、1年毎(機種交換・機種変更した日から1年経過後)に交換手数料のみで最新機種に交換することができる。
:故障や破損の時には、修理代金が回数無制限で無料(ただし、メーカーの修理保守が終了した端末は修理を受けることができない)。
:全損・水濡れ・盗難・紛失などで端末が使用できなくなった場合は、機種交換時と同料金で良品に交換可能(製造終了などで同一機種がない場合はウィルコムが指定した機種に良品交換される)。2回目以降(「ウィルコムあんしんサポート」・「あんしん保証サービス」で良品交換した場合を含む)は1回目の適用から1年経過後の適用となる。
:同一機種を2年以上継続使用し、「W-VALUE SELECT」を利用して'''機種変更'''する場合は機種変更特別割引が適用され、一括払いの場合は機種変更時の価格を上限に5,400円を機種代金から割引。分割払いの場合は端末割賦代金(分割支払金)と「W-VALUE割引」の差額を上限に毎月の利用料金から割引される。
:Y!mobileへのブランド移行後、PHSの販売数減少に伴う在庫減少の影響で、店舗によっては機種交換や故障交換などのサービスに時間を要するケースが生じていることを受け、機種交換については2017年6月5日より、専用のWEBサイトや電話での申込受付を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=PHS向け「あんしん保証サービス プラス 機種交換」のWEBサイト・電話受付開始について|publisher=Y!mobile|date=2017-05-31|url=http://www.ymobile.jp/info/2017/17053106.html|accessdate=2017-06-15}}</ref>。WEBサイトや電話で機種交換を申し込んだ場合、交換後の端末は郵送で届けられる。
==== 新規受付を終了したオプションサービス ====
オプションサービスの集約化に伴い、2010年12月31日に店頭の受付を終了、既存ユーザー向けの追加受付も2011年2月28日に終了。「ウィルコムあんしんサポート」2013年1月31日、「あんしん保証サービス」は11月13日に新規受付を終了した。
「Y!mobile」へのブランド統合に伴うオプションサービスの見直しにより、「新通話パック」・「ソフトバンク/イー・モバイル通話定額」・「テザリングオプション」は2014年7月31日に新規受付を終了した。
現在利用中のユーザーは継続利用が可能である。
*通話パック
:対象プラン:新ウィルコム定額プラン
:以前は「070以外もお得な通話パック」だったが、2013年6月1日より名称を「通話パック」に改めるとともに、無料通話分の増額、翌月への繰り越し不可(無料通話料の繰り越しは2013年5月利用分で終了)、「新通話パック」利用者との無料通話分の分け合いが可能となり、前述の「新通話パック」と同一のサービス内容となった。
*データ定額
*リアルインターネットプラス
:対象プラン:新ウィルコム定額プラン
:上記2つの詳細は[[AIR-EDGE]]を参照。
*新通話パック
:対象プラン:新ウィルコム定額プラン(S/G/GSを含む)、ウィルコムプランW/D
:月額料のみで、無料通話が利用できるオプションサービス。
:余った無料通話の繰り越しができず、パケット通信料金への充当はできないが、同一請求先内で「新通話パック」を利用中のユーザー同士で無料通話分を分け合うことは可能。2013年6月1日よりサービス内容の変更を行い、「通話パック(旧・070以外もお得な通話パック)」を利用中のユーザーとも無料通話分を分け合うことができるようになった。
:本オプションは前述の「だれとでも定額」や「スーパーだれとでも定額」との併用ができない。そのため、「だれとでも定額」や「スーパーだれとでも定額」加入中のユーザーが「新通話パック」に加入した場合、「だれとでも定額」や「スーパーだれとでも定額」が自動解約となる。
*ソフトバンク/イー・モバイル通話定額
:対象プラン:ウィルコムプランD/D+/Lite
:2013年12月3日よりサービスを開始したスマートフォン向けのオプションサービスで、ソフトバンクグループ(SoftBankブランド、ディズニー・モバイル・オン・ソフトバンク、イー・モバイル)への国内通話が月額料のみで24時間無料通話が利用できるサービス(ただし、悪用防止のため1回あたりの通話時間が2時間45分を超える場合、超過分について所定の通話料がかかる。回数制限はないので、無料通話を続けるには超過になる前に一旦切って再度かけ直す必要がある)。PHS回線・3G回線のどちらから発信しても無料通話の対象となる。
:前述の「だれとでも定額」との併用が可能で、「だれとでも定額」とセットで利用する場合、本オプションの月額料が割引となる。本オプションに加入するとソフトバンクグループへの通話が「だれとでも定額」の通信回数のカウント加算外となる。
:対象プラン以外の料金プランに変更した場合、本オプションが自動解除となるので注意が必要。
*[[テザリング]]オプション
:対象プラン:ウィルコムプランD+/Lite
:グループ会社のソフトバンクモバイル(現・ソフトバンク)が提供するサービスで、スマートフォンが[[モバイルWi-Fiルーター]]の代用となり、Wi-Fiに対応したゲーム機やパソコンなどにはワイヤレスで接続できる。USBポートを有するWindows([[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]以降)搭載パソコンに直接接続して利用することもできる(機種によってはドライバーを別途インストーする必要があるので、使用する機種の取扱説明書を参照のこと)。
:「ウィルコムプランD+」ではテザリングオプション加入後3年目以降、通信速度制限の条件が7GB以上から7.5GB以上に優遇される。本プランと同時加入した場合はキャンペーンにつき、テザリングオプションの月額料が2年間無料となる。
*オプションメール放題
:対象プラン:ネット25、パケコミネット、スーパーパックS/L(LLは不可)、標準コース
:月額料のみでウィルコムから付与されるメールアドレスを利用したパケット方式のEメール、エッジeメール(対応機種のみ)、ライトメール/Pメールが無料となり、PIAFS方式のEメール、DXメール、サイトやコンテンツサービスも半額となるサービス。
:「オプションメール放題&トーク割」・「年契+メール割引サービス」との併用は不可。
*オプションメール放題&トーク割
:対象プラン:ネット25、パケコミネット
:「オプションメール放題」の割引内容に加え、ウィルコム同士の通話料が割引になるサービス。月額料はそのまま無料通信分となり、無料通信分を超えた場合でも各種割引は適用される。
:「オプションメール放題」・「年契+メール割引サービス」との併用は不可。
*年契+メール割引サービス
:対象プラン:ネット25、パケコミネット、スーパーパックS、標準コース
:月額料のみでライトメール、Pメールが無料となり、PIAFS方式のEメール、エッジeメール、DXメールも半額となるサービス。
:本オプションは年間契約割引とセットになっていたため、年間契約割引を解除するとメール割引サービスも終了する。「オプションメール放題」・「オプションメール放題&トーク割」との併用は不可。
===== その他 =====
*あんしん保証サービス
:2013年2月より後述の「ウィルコムあんしんサポート」に替わって開始されたサービスで、新規加入又は機種変更時にのみ加入できる。サービス内容は前述の「あんしん保証サービス プラス」から最新機種への機種交換サービスを除いた内容となる。1度加入すると申告による解約をしない限り、機種変更を行った場合でも継続適用されるが、2013年11月14日以降に機種変更を行った場合は「あんしん保証サービス プラス」に自動移行される。
*ウィルコムあんしんサポート
:新規加入又は機種変更時にのみ加入できる。1度加入すると申告による解約をしない限り、機種変更を行った場合でも継続適用される。解約した場合は次回の機種変更時に前述の「あんしん保証サービス」に加入できる。
:故障や破損の時には、修理代金が特別料金で受けられる。修理回数の制限はない。
:全損や盗難などによる新品交換は前述の「あんしん保証サービス」に準じる。
=== 割引サービス ===
各種条件により適用の可否があるため、公式ウェブサイト等で確認のこと。
* 長期割引サービス
: 契約年数に応じて月額基本使用料を割引くサービス。2015年10月現在加入可能な料金プランでは「Two LINK DATA」のみ適用となっていたが、新規受付を終了した料金プランのうち、「標準コース」・「通話相手先限定」・「スーパーパックS/L/LL」・「昼特コース」・「つなぎ放題([4x]を含む)」・「ネット25」・「パケコミネット」・「データパック(miniを含む)」にも適用される。
: 8xパケット方式データ通信向けの「つなぎ放題[PRO]」と「ネット25[PRO]」は適用外となるが、本サービスにおける契約期間にはカウントされる。
: 2013年6月1日より契約期間の算出方法が変更となり、月途中での加入でも契約月が1ヶ月目とカウントされるようになったため、割引開始のタイミングが1ヶ月前倒しされた。
*W-VALUE割引
**[[ウィルコム#W-VALUE SELECT|W-VALUE SELECT]]の節を参照
==== 現在は新規受付を終了した割引サービス ====
以下の割引サービスはオプションサービスの集約化に伴い、店頭での受付は2010年12月31日付で、既存ユーザー向けの受付も2011年2月28日付でそれぞれ終了した。さらに、複数割引サービスは2013年5月31日付で、ファミリーパックとハートフルサポートは2014年7月31日付で順次終了した。現在利用中のユーザーは割引が引き続き適用される。
* ファミリーパック
: 新ウィルコム定額プラン又はウィルコム定額プランを同一名義、家族、法人などで2回線以上契約した場合に割引されるサービス。個人での契約では6回線まで適用が可能。
:2013年6月1日よりサービス内容の変更が行われ、2回線の場合における料金体系を変更した(合計額の増加はなし)。さらに、同日以降に'''新規契約し'''、AIR-EDGE向けコース・新ウィルコム定額プランS/G/GS・新つなぎ放題のいずれかを契約した場合、ファミリーパックのカウント対象外となった(すでに加入している場合は従来通りカウント対象となる)。
* ハートフルサポート
: 妊娠中、小学生以下の子供がいる、「身体障がい者手帳」・「療育手帳」・「精神障がい者保健福祉手帳(障がい者手帳)」のいずれかの交付を受けている、社会福祉事業者・公的医療機関・医療法人に勤務する職員のいずれかに該当する場合、新ウィルコム定額プラン及びウィルコム定額プランの基本使用料が割引となる。要申込で、条件に該当するための確認書類が別途必要になる。社会福祉事業者・公的機関・医療法人が法人契約する「医療・福祉機関向け専用料金」が別に設定されており、10台以上で一括申込した場合、1回線あたりの基本使用料がさらに割り引かれる<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/biz/charge/phone/discount/medical_co/index.html 医療・福祉機関向け専用料金]</ref>。
: 2013年6月1日よりサービス内容の変更が行われ、60歳以上を対象から除外し、妊娠中・小学生以下の子供がいるユーザーの適用期間が無期限となった。
* 複数割引サービス
: ウィルコムの契約回線が複数の場合、請求先をまとめると各契約回線ごとに割引。申し込み要となっていたが、申し込みは請求をまとめることで実質的に完了する。端末契約は同一名義である必要はない。
: ウィルコム定額プラン、新ウィルコム定額プラン(S/G/GSを含む)、ウィルコムプランW/D、新つなぎ放題、テレメタリング、H"in使っただけコースは割引対象外となる。
* マルチパック
: データ通信向けプラン(新つなぎ放題を除くAIR-EDGE向け料金プラン)、音声通話・電話機向けプラン(新ウィルコム定額プラン又はウィルコム定額プラン)、ウィルコムADSLサービスのうちの2つをまとめて契約することで両方の月額基本使用料が割引となる。
: 2012年10月31日にウィルコムADSLサービスの提供を終了したため、ウィルコムADSLサービスとの組み合わせによる割引も同日に終了された。2013年6月1日付で、医療福祉機関向け専用料金がマルチパックの対象料金プランから除外された。
* A&B割(えーびーわり)
: 同一名義かつ同一住所でデータ通信向けプラン(新つなぎ放題を除くAIR-EDGE向け料金プラン)とウィルコム指定[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]の[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド料金コース]]をセットで契約している場合、データ通信向けプランの基本使用料が割引となる。前述のマルチパックを除くすべての割引サービスと併用可能。
* 年間契約割引
: 1年間の継続利用を前提に、基本使用料が割引になるサービス。「昼得コース」・「通話相手先指定」・「Two LINK DATA」は適用外である。
* データセット割引
: 音声通話向け料金プラン(標準コース又はスーパーパックS/L/LL)とデータ通信向け料金プラン(新つなぎ放題を除くAIR-EDGE向け料金プラン)をセットで利用し、請求書を1つにまとめると音声通話向け料金プランの月額料金が半額となるサービス。長期割引サービスとの併用も可能。
=== W-VALUE SELECT ===
電話機をW-VALUE SELECT用販売価格にて一括または24回払いで購入すると、以下の特典を受けることができる。''詳細は[[W-VALUE SELECT]]を参照。''
*W-VALUE割引
**「W-VALUE SELECT」を利用して電話機を購入した場合に、利用料金の割引を毎月一定額を上限に24か月にわたって受けることができる。W-VALUE割引適用期間中に機種変更や解約をすると割引は終了するので、従前の方法で購入した場合に比べ支払い総額が高くなる恐れがある。
*W-VALUEサポート
**24か月間、故障の際の修理費用(水没全損時除く)・全損や紛失の際の再購入費用(2万円上限)を年一回までウィルコムが補助する。2万円上限というもののウィルコムが補助する金額を差し引いた自己負担額が機種ごとに端末利用期間にかかわらず設定されており、その時点の通常の機種変更での再購入費用が2万円に満たない場合でもある程度の自己負担が生じるようになっていた。2009年8月31日までに新規契約・機種変更が完了した端末に限り適用され、9月1日以降に新規契約・機種変更を行った端末には提供の対象外となる。
導入時は機種変更に対してのみ提供していたが、後に新規購入時にもW-VALUE SELECTを利用できるようになった。
先行するSoftBankブランドの「[[スーパーボーナス]]」同様、利用者の電話機購入初期費用を抑えるとともにキャリア(この場合はウィルコム)のインセンティブ負担を確実に回収するものとなっていた。開始当初はSoftBankブランドの場合と異なり、利用者の契約する料金プランやオプションによってもW-VALUE割引の上限額が変動していたが2007年10月10日以降から機種による違いのみに改定された。
== 沿革 ==
[[ファイル:ワイモバイル関連会社の統廃合図.png|thumb|right|関連会社の統廃合図]]
*1994年
**7月1日
***株式会社DDIポケット企画設立。
**11月
***株式会社DDIポケット企画が商号をDDI東京ポケット電話株式会社に変更。
***DDI北海道ポケット電話株式会社設立。
***DDI東北ポケット電話株式会社設立。
***DDI北陸ポケット電話株式会社設立。
***DDI東海ポケット電話株式会社設立。
***DDI関西ポケット電話株式会社設立。
***DDI中国ポケット電話株式会社設立。
***DDI四国ポケット電話株式会社設立。
***DDI九州ポケット電話株式会社設立。
*1995年
**7月1日
***DDI東京ポケット電話株式会社がサービス開始。
***DDI北海道ポケット電話株式会社がサービス開始。
**10月20日
***DDI東北ポケット電話株式会社がサービス開始。
***DDI北陸ポケット電話株式会社がサービス開始。
***DDI東海ポケット電話株式会社がサービス開始。
***DDI関西ポケット電話株式会社がサービス開始。
***DDI中国ポケット電話株式会社がサービス開始。
***DDI四国ポケット電話株式会社がサービス開始。
***DDI九州ポケット電話株式会社がサービス開始。
*1996年11月20日
**[[Pメール]]をサービス開始。
*1997年4月1日
**32kbpsデータ通信をサービス開始。
*1998年11月6日
**PメールDXセンターを設置し、Eメールとコンテンツサービスの提供開始。
*1999年
**7月12日
***「H"」をリリース。
**7月23日
***64kbpsデータ通信(PIAFS2.1)をサービス開始。
*2000年
**1月1日
***DDI東京ポケット電話株式会社を存続会社として地域会社8社を合併し、商号をDDIポケット株式会社に変更。
**5月16日
***[[PRIN]](PRovider INcluded)を開始。
**9月22日
***「feelH"」をリリース。
*2001年
**6月1日
***[[エアーエッジ|AirH"]](ネット25)を開始。
**8月29日
**AirH"(つなぎ放題コース)を開始。
*2002年
**3月26日
***AirH"(オプション128)を開始。
**9月10日
***Eメール使い放題(エッジeメール放題)を開始。
*2003年
**4月
***AirH" PHONE、[[台湾]]での国際ローミングのサービス開始。
**12月
***[[タイ王国]]での国際ローミングサービス開始。
*2004年
**5月
***日本国内初のOperaブラウザ搭載AirH"PHONE・AH-K3001V導入。
**9月13日
***[[アステル東京]]を運営する[[YOZAN]]がDDIポケットと提携し、DDIポケット網を使用した全国コールサービスを開始。実態はアステル電話機にDDIポケットの番号を書き込むもので、実質的にはMVNOに近いサービス。音声通話以外は一切使えなかった。本サービスの申込みは8月末時点でのアステル東京契約者に限られ、2005年3月頃に受付終了、同年11月にサービス終了。
**10月1日
***カーライル・グループを筆頭株主とする新たなDDIポケット株式会社が発足。
**12月3日
***株式会社[[ウィルコム沖縄]](英文:WILLCOM OKINAWA, Inc.)を子会社として[[沖縄電力]]と共同で設立。
*2005年
**1月25日
***子会社・[[ウィルコム沖縄]]、沖縄電力から[[アステル沖縄]]の事業を譲り受け本体より一足先に新会社としての事業開始。
**2月2日
***商号を株式会社ウィルコム(英名:WILLCOM, Inc.)に、「AirH"」の名称表記を「[[AIR-EDGE]]」に変更 [http://www.willcom-inc.com/top/news/brand/index.html]。
**2月18日
***AIR-EDGE[PRO](256kbps通信サービス:サービス表記「8x」)を開始。
**5月1日
***[[音声通話定額制]]サービス「ウィルコム定額プラン」を開始。データ通信と音声通話の双方が定額で使い放題。
**7月1日
***「ウィルコム定額プラン」専用の[[パケット定額制]]オプション「リアルインターネットプラス[1x]」を開始。
**10月17日
***公式オンラインショップ「ウィルコムストア」開設。
**10月20日
***「ウィルコム無線LANオプション」および[[スマートフォン]]「[[W-ZERO3]]」を発表。
**10月27日
***[[ジュピターテレコム]]との[[仮想移動体通信事業者|MVNO]]提携を発表。<!--事業開始後、開始日付に移動要-->
**11月1日
***ホームアンテナのレンタルサービスを開始。
**11月25日
***「[[W-SIM|WILLCOM SIM STYLE]]」、「WX310シリーズ」をリリース。
***「ウィルコム定額プラン」専用の4xパケット方式・段階的パケット定額制オプション「[[データ定額]]」を開始。
**12月1日
***「ウィルコムADSLサービス」、「電話会議サービスAIR-CONFERENCE」を開始。
***セット料金プラン「マルチパック」の適用開始。
**12月14日
***[[スマートフォン]]「[[W-ZERO3]]」をリリース。
*2006年
**2月1日
***[[インターナビ|Hondaインターナビ]]向けにカーナビ専用のネットワーク接続定額制を開始。
***2xパケット方式の標準化(従来の1xパケット方式料金コースと同等料金で2xパケット方式が利用できるようになり、高速化)
**2月23日
***高度化PHS通信規格「[[W-OAM]]」の開始。
**3月14日
***モバイル[[ブログ]]「W+BLOG」を開始。
**4月6日
***ウィルコム位置検索サービスを開始。以前より安心だフォン・ぴぴっとフォン等による対応端末が限定された同様のサービスは存在したがこのサービスでは被検索側に現行端末メーカーの多くの端末が対応し、検索表示側はPHSのほか携帯電話・パソコン等のC-HTMLまたはHTML対応ブラウザでも対応する。
**4月24日
***ウィルコム国際電話サービスを開始。以前は国際通話には提携[[国際電話]]会社への契約・登録等が必要だったがウィルコム独自サービスの開始により識別番号010以下のダイヤルのみで、事前登録不要で利用可能となる。
*2008年
**1月23日
***[[カーウイングス]]向けにオペレーターとの通話も含む専用定額通信サービス「カーナビ専用サービス for CARWINGS」を開始。
**5月9日
**[[パイオニア]]の[[カーナビゲーション]]「[[サイバーナビ]]」「[[楽ナビ]]」向けに専用定額通信サービス「カーナビ専用サービス for [[カロッツェリア (AV機器)|carrozzeria]]」を発表、5月下旬から専用モジュール発売と同時にサービス開始。
**6月1日
***電子カルテを活用した医療サービス「ポケットカルテ」の試験サービス開始。
**7月11日
***「WILLCOM D4」リリース。
**7月18日
***インターネット上のさまざまな情報を表示するツール「ウィルコム ガジェット」をサービス開始。
*2009年
**2月5日
***「新ウィルコム定額プラン」を開始。
**2月19日
***[[FeliCa|モバイルFeliCa]] ICチップを搭載した端末「WX340K」をリリース。「[[ウィルコムICサービス]]」(いわゆる「[[おサイフケータイ]]」)のサービスを開始。
**3月5日
***「どこでもWi-Fi」をリリース。W-SIMを搭載でき、単三型電池で駆動できる。無線LAN対応端末を接続できる無線LANスポットとして機能する。
**3月9日
***[[NTTドコモ]]の回線を借り受けてデータ通信サービスを提供する「WILLCOM CORE 3G」を法人向けにサービスを開始した。2012年12月末までの時限的なサービス。
**4月27日
***「[[WILLCOM CORE XGP]]」を[[東京特別区]]内の一部地域で、法人・ベンダ・MVNO事業者限定サービス開始。
**6月26日
***「[[WILLCOM CORE 3G]]」の個人向けサービス提供開始。
**7月5日
***「[[モバイルSuica]]」サービスを開始。
**9月1日
***「ウィルコムあんしんサポート」のオプションを提供開始。端末の破損・故障・盗難・紛失時に低額で修理・交換ができる。従来の「W-VALUEサポート」サービスの新規提供を停止した。
**10月1日
***「[[WILLCOM CORE XGP]]」を東京特別区内の一部地域で、東京特別区内の住所で既にウィルコム契約(「[[WILLCOM CORE 3G]]」を含む)している個人・法人ユーザ等を対象とする期間限定のサービスを開始。
*2010年
**2月18日
***[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[会社更生法]]の適用を申請。
**8月5日
***管財人にソフトバンク取締役宮内謙、管財人代理にソフトバンクモバイル取締役専務執行役員CTO宮川潤一、同社執行役員経営企画本部長田中錬・同社財務経理本部長内藤隆志が就任し、“経営再建”の全権を担う。
**11月30日
***東京地裁から更生計画認可を受ける。
**12月1日
***「新ウィルコム定額プラン」・「新ウィルコム定額プランS」対象のオプションサービス「だれとでも定額」開始(12月10日からは期間限定ながら「新ウィルコム定額プランGS」・「新ウィルコム定額プランG(加入中の方のみ)」にも対象範囲を拡大)。
***「新ウィルコム定額プランS」が通常の音声向け料金コースに格上げ。合わせて、既存の料金コース・オプションサービスの集約化を発表。
**12月21日
*** ソフトバンクがウィルコムPHS事業およびXGP事業に供されている電柱等の資産、PHS基地局等およびXGP基地局等に係るロケーションの賃貸借契約等の借主の地位等を承継取得。[[XGP]]事業は、[[Wireless City Planning]]株式会社が譲受。これにより、ウィルコムはソフトバンクグループの完全子会社となる。
*2011年
**5月末
***13年11カ月ぶりに月間純増契約数が10万件を超える。
**7月13日
***1年3か月ぶりにPHS累計契約数が400万件を再突破する。
**10月7日
***[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]の高速データ通信サービス「[[ULTRA SPEED]]」が利用できるデータ通信専用端末向けプラン「3G データ定額(S)」の提供を開始。
*2012年
**3月15日
***「ウィルコムADSLサービス」の新規受付を終了(サービス自体も10月末に終了)。
**3月31日
***NTTドコモの3Gネットワークを活用したMVNOサービスに関する事業を終了。これに伴い、翌4月1日に[[インターネットイニシアティブ]]へ対象のサービスを承継。
***累計契約数(PHSと3Gの合計契約数)が468万1600件に達し、4年8か月ぶりに累計契約数の過去最高値を更新。
**4月11日
***104([[電話番号案内|番号案内]])サービスの提供事業者を[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]]から[[日本マルチメディアサービス]]に変更。
**4月13日
***「着信転送サービス」における、転送された電話の発信者番号および転送元のウィルコムの電話番号を、転送先の電話機で表示を開始。
**4月26日
***3GモバイルWi-Fiルーター機能を搭載したPHS向けのプラン「ウィルコムプランW」提供開始。
**6月21日
***話し放題スマートフォン専用料金プラン「ウィルコムプランD」提供開始。
**9月26日
***累計契約数が500万件を突破。
*2013年
**1月17日
***「ウィルコムプラザ」で[[イー・アクセス]]が「[[イー・モバイル]]」ブランドで発売していたモバイルWi-Fiルーター「Pocket WiFi LTE(GL04P)」の取り扱いを開始。併せて、当社PHS電話機の「イー・モバイルショップ」への商品供給も開始。
**2月1日
***「ウィルコムプラザ」でソフトバンクモバイルが販売する[[スマートフォン]]の取り扱いを開始。
**3月6日
***「ウィルコムプラザ」で「[[iPhone 4S]]」の取り扱いを開始(16GBモデルのみの取り扱い、ソフトバンクモバイルとの契約となる)。
**7月1日
***東京地裁から更生手続終結の決定を受ける<ref name="press130701">[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2013/07/01/index.html 更生手続終結決定のお知らせ] - 株式会社ウィルコム プレスリリース 2013年7月1日</ref>。
***会社更生手続終結により裁判所及び管財人の監督下から離れ、正式にソフトバンクの連結子会社(完全子会社)となる。
***「ウィルコムプラザ」に「イー・モバイルスポット」の設置を開始。併せて、「ウィルコムスポット」の「イー・モバイルショップ」への設置も開始。
**11月12日
***[[NTTコミュニケーションズ]]が提供する[[ナビダイヤル]]・[[テレドーム]]への接続を開始。これにより、ウィルコムのPHS回線からでもナビダイヤル番号・テレドーム番号の発信が可能となる。
**11月14日
***この日発売の新機種([[WX11K]]/[[WX12K]])を対象に、[[PHS]]網を利用した[[緊急速報メール (ウィルコム)|緊急速報メール]]<ref group="注">3G網などとのデュアルモード端末については、ソフトバンクモバイル網を利用した、[[緊急速報メール (SoftBank)]]としてすでに提供済みであり、今後も、3G単独端末及びデュアルモード端末については、ソフトバンクモバイル網による提供を継続する。</ref>と「モバイル迷惑電話チェッカー」のサービス提供を開始。
*2014年
**6月1日
***[[イー・アクセス]]に吸収合併され、解散<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1402/17/news087.html イー・アクセスとウィルコムの合併、6月に延期]</ref><ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/635465.html イー・アクセスとウィルコム、合併を6月に延期]</ref><ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2014/02/17/pdf/20140217press.pdf ウィルコム]</ref><ref>[http://www.eaccess.net/press_img/11779_pdf.pdf イーアクセス]</ref>。合併発表時点で、イー・アクセスの商号改称方針や新会社の手掛けるブランド名については未定としていた。当初は4月1日付の合併としていたが、ブランド変更時期と合併時期(イー・アクセスの商号変更時期)を併せるための処置としており、合併手続きのトラブルがあるわけではないとしていた。その後、合併を予定通り行い、イー・アクセスの商号変更とブランド変更は後日実施されることになったため、当面はイー・アクセスが展開するブランド名として、同社が元々展開している「イー・モバイル」と共に存続された。
**7月1日
***イー・アクセスの商号をワイモバイルに変更<ref name="ym_pr140701" />
**8月1日
***ウィルコムブランドを終了し、[[Y!mobile]]ブランドに移行。旧来からの契約内容は引き続き続行。
*2015年
**4月1日
***'''ソフトバンクモバイル株式会社'''がワイモバイル株式会社を吸収合併。
*2022年
**4月1日
***[[ソフトバンク株式会社]]がウィルコム沖縄を吸収合併<ref>{{Cite web|和書|title=ソフトバンク、ウィルコム沖縄を22年4月に吸収|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1376420.html|website=ケータイ Watch|date=2021-12-22|accessdate=2021-12-22|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。これにより1994年のDDIポケットから続く、28年の歴史に完全に幕を下ろした。
=== 事業主体移行の流れ ===
基礎情報にもある通り旧法人・DDIポケットと現法人・ウィルコムとで設立年月日が異なり、かつ現法人の方が旧法人よりも古い。これは事業主体移行において執られた、登記上の手続きによるもの<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/outline/ir/pdf/200603_Yuho.pdf ウィルコム 有価証券報告書(平成17年度)](PDF)</ref>。
'''太字'''は、その時点で一般利用者が直接の契約関係を持つ会社である。
*2004年
**9月末時点
***'''ディーディーアイポケット株式会社'''(以下、'''旧DDIポケット'''とする)はKDDI、京セラ等の子会社として存在していた。カーライル・グループ、京セラ等が出資するコンソーシアムの子会社としてカーライル・ジャパン・ホールディングス・セブン株式会社(以下、セブンとする)がさらにその子会社としてカーライル・ジャパン・ホールディングス・シックス株式会社(以下、シックスとする)が存在しており、これらは実質的に[[ペーパーカンパニー|休眠状態]]にあった。
**10月1日
***[[会社分割|分社型吸収分割]]により旧DDIポケットのPHS事業をシックスが承継し、シックスの株式が旧DDIポケットへ割り当てられた。シックスが商号を'''ディーディーアイポケット株式会社'''(以下、'''DDIポケット'''とする。)へ変更。従って、2代目事業法人の設立日は、シックスの設立日となっている(設立時の名称はジーエルグローリーリーシング有限会社)。
**10月5日
***旧DDIポケットが商号を飯田橋フェニックス企画株式会社へ変更。
**10月15日
***飯田橋フェニックス企画が'''DDIポケット'''の株式をセブンへ譲渡。
*2005年
**1月1日
***'''DDIポケット'''が親会社であるセブンを合併しカーライル・グループ、京セラ等の子会社となる。
**2月2日
***DDIポケットが商号を'''株式会社ウィルコム'''(英名:WILLCOM, Inc.)へ変更。
**3月18日
***飯田橋フェニックス企画の清算が完了。
*2014年
**6月1日
***'''株式会社イー・アクセス'''が株式会社ウィルコムを吸収合併。
**7月1日
***株式会社イー・アクセスが商号を'''[[ワイモバイル|ワイモバイル株式会社]]'''へ変更。
**8月1日
***ウィルコムブランドを終了し、[[Y!mobile]]ブランドに移行。旧来からの契約内容は引き続き続行。
*2015年
**4月1日
***'''ソフトバンクモバイル株式会社'''がワイモバイル株式会社を吸収合併。
**7月1日
***ソフトバンクモバイル株式会社が商号を'''[[ソフトバンク|ソフトバンク株式会社]]'''へ変更。
== 業務区域 ==
=== 全国一法人化 ===
開業当初は当時の[[郵政省]]の電波・通信行政の方針により、(他の携帯電話・PHSキャリアと同様に)地方ごとにいくつかの地域会社に分かれて事業を行っていたが、その後の行政方針の転換を受けて2000年にディーディーアイ東京ポケット電話株式会社を存続法人として地域会社を合併し、他のキャリアに先駆けて日本全国を業務区域とする事業者となった。
しかし、2005年1月25日に[[アステル沖縄]]を継承するための新会社「ウィルコム沖縄」がDDIポケットと[[沖縄電力]]の共同出資により設立された。ワイモバイルへ転換後もウィルコム沖縄は引き続き存置され、これにより現在は2社体制となっている。
<!-- 都道府県の順番は都道府県コード(JIS X 0401:1973)に倣った。 -->
=== 地域会社時代 ===
*ディーディーアイ北海道ポケット電話株式会社
**[[北海道]]
*ディーディーアイ東北ポケット電話株式会社
**[[青森県]]、[[岩手県]]、[[宮城県]]、[[秋田県]]、[[山形県]]及び[[福島県]]
*ディーディーアイ東京ポケット電話株式会社
**[[茨城県]]、[[栃木県]]、[[群馬県]]、[[埼玉県]]、[[千葉県]]、[[東京都]]、[[神奈川県]]、[[新潟県]]、[[山梨県]]及び[[長野県]]
*ディーディーアイ北陸ポケット電話株式会社
**[[富山県]]、[[石川県]]及び[[福井県]]
*ディーディーアイ東海ポケット電話株式会社
**[[岐阜県]]、[[静岡県]]、[[愛知県]]及び[[三重県]]
*ディーディーアイ関西ポケット電話株式会社(本社は[[京都市]]<ref group="注">他の携帯電話・PHSの地域会社は[[大阪市]]に本社を置いていた。</ref>)
**[[滋賀県]]、[[京都府]]、[[大阪府]]、[[兵庫県]]、[[奈良県]]及び[[和歌山県]]
*ディーディーアイ中国ポケット電話株式会社
**[[鳥取県]]、[[島根県]]、[[岡山県]]、[[広島県]]及び[[山口県]]
*ディーディーアイ四国ポケット電話株式会社
**[[徳島県]]、[[香川県]]、[[愛媛県]]及び[[高知県]]
*ディーディーアイ九州ポケット電話株式会社
**[[福岡県]]、[[佐賀県]]、[[長崎県]]、[[熊本県]]、[[大分県]]、[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]及び[[沖縄県]]<ref group="注">[[DDIセルラーグループ]]とは異なり、電力会社が出資していないため沖縄県は九州会社の管轄となっていた。</ref>
=== 現在 ===
※''2015年7月1日現在''
*[[ソフトバンク]]株式会社
**[[北海道]]・[[本州]]・[[四国]]・[[中国地方|中国]]・[[九州]]地方
*株式会社[[ウィルコム沖縄]]
**[[沖縄県]]
***ウィルコム沖縄は会社としては独立しているが、主な業務実態は契約の受付などの[[代理店]]業務であり(ウィルコム沖縄のみの料金プランなどが存在する)、サービスセンター《116/157》での電話応対・資料請求などといったサポートの大部分や通信サービスはソフトバンク株式会社が行っている(沖縄から発信された116/157も九州等のセンターに接続される)。
=== サポート拠点 ===
==== ウィルコムプラザ ====
[[ファイル:Wilcomplaza maebaru shop.jpg|thumb|right|250px|ウィルコムプラザ前原店<br />([[福岡県]][[糸島市]])]]
直営拠点である'''[[ウィルコムプラザ]]'''の電話番号は非公開(ただし、2010年2月より公開開始していたが、簡単な問い合わせ以上は応じないとしていた)なので、連絡は直接出向くかサービスセンターへの電話連絡にて行うのが原則となる。かつてはDDIポケット時代からあった一部拠点でPHS番号で公開していたところもあったが、現在は全て伏せられていた。同社は「ウィルコムプラザに直接来店した顧客の対応を優先するため電話では十分な対応が至らず、来店がかなわない場合はサービスセンターへ電話連絡、来店可能な場合はウィルコムプラザへ直接来店という形で棲み分けを図る意味合いがある」と説明していた。一部業務の制限はあるが[[ウィルコムカウンター]]もある。こちらは電話番号は公開されていた。受付の業務内容は新規加入、機種変更の他解約なども受付可能である。料金収納やオプション変更(一部機種変更と同時受付のみ可能)はごく一部を除きできない。
{{main|ウィルコムプラザ}}
==== サービスセンター ====
*北海道サービスセンター
**〒060-0001 北海道札幌市中央区北1条西3丁目3 札幌MNビル
***組織統合に伴い北海道サービスセンター(データサーポート)は2009年3月末で業務終了し関西サービスセンターへ業務を引き継いだ。
*東北サービスセンター
**〒983-8549 宮城県仙台市宮城野区榴岡一丁目2-1 イーストンビル8F [[トランスコスモス]]株式会社内
*関西サービスセンター
**〒530-8338 大阪府大阪市北区中之島3丁目2-18 住友中之島ビル13F
*九州サービスセンター
**〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神1丁目6-8 天神ツインビル10F
== 独自のWebサービス ==
*CLUB AIR-EDGE:端末向け公式ポータルサイト。
*W+BLOG*WILLCOM利用者が端末から利用できるblog。無料。機能的には[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]に近いサービス。
== 通信端末 ==
=== 主な参画メーカー ===
ただし、ここでは[[WILLCOM CORE 3G]]のみのメーカーを除く。
*[[京セラ]] 略称「K」
*[[日本無線]] 略称「J」
*[[セイコーソリューションズ]](セイコーグループ再編に伴い2014年7月[[セイコーインスツル]](旧社名:セイコーインスツルメンツ 2004年9月1日に社名変更)より移管。) 略称「S」
*[[ネクスグループ]](旧社名:本多エレクトロン、ネットインデックス 2005年10月1日にネットインデックスに社名変更、2012年12月1日にネクスに社名変更。その後[[ネクスグループ]]に社名変更し、新設子会社のネクスが吸収分割にて継承) 略称「H」(本多エレクトロン時代)、「IN」(ネットインデックスに社名変更後)、「NX」(WX01NX以後)
** 2010年10月末を以って、[[M2M]]向けPHS等の開発・製造などを除き、コンシューマ部門のPHSの製造・開発から撤退し、アスモからの移管分を含むサポート業務のみに集約を予定していたが、2011年10月6日新製品[[WX01NX]]を発売した。
*[[シャープ]] 略称「SH」
*[[エイビット]](2010年9月以前は[[アルテル]]) 略称「A」「AL」(当初はアルテルブランドとして発売されたもの)
*[[TJC (企業)|TJC]](旧社名:テクニッコジャパン 2013年3月31日に社名変更) 略称「TJ」
=== 過去に参画していたメーカー ===
*[[アイワ]](現・[[ソニー]](AIWAブランド)) AP-A102
*[[カシオ計算機|カシオ]] PM-C101
*[[ケンウッド]](現・[[JVCケンウッド]]) ISD-E7他
*[[富士通]] AH-F401U
*[[パナソニック|Panasonic]](九州松下電器、現・[[パナソニック システムネットワークス]]) KX-HV210他。2007年春に「会議用スピーカーホン」で再参入。家庭用中継器(レピーター)は、現在も[[パナソニック電工]]が製造している。
*[[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]]) TN-PZ7他
*[[三菱電機]] TL-PG100([[ピングー]]PHS)他
*[[三洋電機]](現・京セラ(SANYOブランド)) 略称は「SA」。[[WX310SA]]他。京セラへの携帯電話・PHS事業の売却<ref>[http://jp.sanyo.com/news/old/0710news-j/1011-3.html ニュースリリース 京セラ株式会社との携帯電話事業譲渡に関する基本合意のお知らせ]</ref>により撤退。
*[[アスモ (通信機器メーカー)|アスモ]](旧社名:ケーイーエス 2008年10月1日に社名変更) 略称「KE」。2009年11月1日付で、PHS端末の開発および保守事業等をネットインデックスへ譲渡。
*[[NECインフロンティア]](旧社名:日通工) 略称「N」
*[[バンダイ]]
**(ウィルコムの型番ルールに準じた機種を発売したことが無いため略称は存在しない。「papipo!」の型番はKK-B01〜KK-B07)
*[[東芝]](現在は[[富士通モバイルコミュニケーションズ]]へ事業を移管) 略称「T」。2010年10月1日付で、携帯電話・PHSの端末事業を[[富士通東芝モバイルコミュニケーションズ]](2012年4月1日より、[[富士通モバイルコミュニケーションズ]])へ譲渡したため、東芝は撤退している。現在のところ富士通モバイルコミュニケーションズとなってからの新機種はない。
*[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]] 略称「BF」。どこでもWi-Fi(WS024BF)のみ。現在はドコモ向けにのみモバイルWi-Fiルーターを供給。
*ユーティースターコムジャパン 略称「UT」。WX01UTのみ。
*[[ハギワラシスコム]] 略称「HA」。WS008HAのみ。後に倒産。[[エレコム]]の支援により[[ハギワラソリューションズ]]に事業継承したがPHSを含めた通信機器の取り扱いはない。
2007年初頭時点では、一般的な移動体端末メーカーよりも産業系機器のメーカーが多い。<!--理由は不明。-->
以下、年別に発売された端末を列挙(日付は発売日)。DDIポケット時代の端末は、H"対応端末('''A'''ir '''H'''"の「AH」で始まる型番に統一された)より前の機種ではキャリア独自の型番が付けられておらず、メーカー独自の型番をそのまま使用していた。
=== PHS ===
☆は[[Y!mobile]]ブランド移行後も継続販売されたもの。
×は、ガードバンド移行後の帯域での利用ができないため、2012年に使用停止されたもの。
▼は、ガードバンド移行後の帯域に対応しているが、SHA-2非対応のため、本体のブラウザでは、暗号化されたサイト(主に、TLSがかかったサイト)の閲覧ができなくなった端末。
==== 1995年 ====
[[ファイル:PT-101.jpg|thumb|right|160px|PT-101 1995年]]
*[[京セラ]]製
**[[PT-101]]×
***約53mm×27mm×143mm、145g、連続待機時間200時間、連続通話時間5時間。「電話帳」機能は無く、4箇所へのワンタッチダイヤル機能のみ。当時は[[電子メール|Eメール]]どころか[[Pメール]]サービスすら行われておらず、メール関連の機能は一切持たない。
**[[PS-501]] ×7月
*[[カシオ計算機]]製
**[[PH-100]] ×7月
[[画像:Ddipocket phs toshiba dls22p.jpg|thumb|right|160px|DL-S22P]]
*[[東芝]]製
**Carrots [[DL-S22P]]×
**:約44mm×約24mm×約133mm(突起部を含むと約154mm)、約126g。電話帳機能を搭載し、カタカナで名前を入力できる機能を持つ。バイブレーター機能はもちろん、時計機能も搭載されていない。
*[[日本ビクター]]製
**[[TN-PZ1]] ×7月
*[[アイワ]]製
**[[PT-H50]]×
**:半折りたたみ式(フリップ式)と言える筐体。サービス開始当初の端末で唯一着信バイブレーター内蔵端末であり、PHS全体としても、もう1台の内蔵端末であるNTTパーソナル向けの101H([[日立製作所]]製)が部品調達の失敗により少量しか生産されなかったために、当時バイブレーター内蔵端末がほしいユーザーにとっては事実上この端末しか選択肢がなかった。しかし、当時考えうる機能がほとんど網羅されたいわゆる高機能端末であり、特に電話単体の留守録機能は、留守番電話サービス開始前はもちろん、開始後もセンターの留守録機能よりもしっかりしていて、当時最強と言われた。
==== 1996年 ====
*京セラ製
**[[PS-601]]× 3月
[[ファイル:KYOCERA semitransparent PHS PS-702 in 1997.jpg|thumb|right|140px|PS-702 1996年]]
**[[PS-702]]× 初のPメール
*[[日本ビクター]]製
**[[TN-PZ3]]/[[TN-PZ110]]/[[TN-PZ210]] 5月
==== 1997年 ====
[[ファイル:DataScope DS-110 2.jpg|thumb|right|140px|DataScope DS-110 1997年]]
*[[カシオ計算機]]製
**PH-500× 1月
***業界最長の待受時間1000時間を誇る端末。ISDN回線の機能である内線番号通知機能を利用した「[[テレネーム]]」という機能を有しており、料金が発生する前に電話を切れば無料でメッセージを送ることができた。
*[[パナソニック|松下電器産業]]製
**ピノキオ× 2月
***通話と[[パソコン通信]]にのみ対応し、PIAFSやインターネットアクセスには未対応。PHS搭載のPDAとしてスマートフォンのはしり。
**新ピノキオ× 11月
***PIAFS対応、HTML2.0ブラウザ搭載。
*[[九州松下電器]]製
**KX-PH15× 4月
**KX-PH16× 4月
***従来のα-DATA方式(14400bps)を拡張したα-DATA32(32000bps)にいち早く対応した端末。
*[[バンダイ]]製
**[[たまぴっち]]×(九州松下電器の[[OEM]])
*[[京セラ]]製
**[[DataScope]](DS-110)× 2月
*[[日本ビクター]]製
**[[TN-PZ5]]× 3月
**[[TN-PZ7]]×
==== 1998年 ====
[[ファイル:DDI-Pocket Kyocera PS-F10 1.jpg|thumb|right|140px|PS-F10 1998年]]
このころからPHSのデータ通信方式は[[PIAFS]]方式が一般的になり、みなし通信やモデム変換サービスを内包していた[[α-DATA]]<!--←みなし通信とかメディア変換とかPTEとかα-DATA64とかポケットMALとか色々について…ついでにαメールも-->とPIAFS方式を内包したα-DATA32が標準となる。
*[[九州松下電器]]製 6月
**ル・モテ [[KX-PH21F]]×
***全角文字最大1000文字を送受信できるPメールDXにいち早くPDXに対応した端末<!--(なお、ウィルコムのEメールアドレスがpdxなのは、PメールDXに由来する)-->。家庭用子機の規格はα-PHS方式。
*東芝製 7月
**POWER CARROTS DL-S28P
*[[三菱電機]]製 7月
**[[TL-DC101/TD]]×
***[[Two LINK DATA]](通話先限定サービス)に対応したPCカードTYPE II端末。[[PIAFS]][[α-DATA32]]の2方式によるデータ通信のほか、Pメール、位置情報サービスの利用が可能
**TL-PG100×
***[[ピングー]]PHS。ピングーキャラクターのミニゲームなどを内蔵。
*京セラ製
**[[PS-F10]]× 7月
*[[日本ビクター]]製
**[[TN-PZ77]]× 10月
**[[AP-V102]]× 11月
*[[三洋電機]]製
**[[PHS-J70]]× 10月
==== 1999年 ====
[[ファイル:DDI-Pocket Toshiba DL-S200.jpg|thumb|right|140px|DL-S200 1999年]]
[[ファイル:DDI-Pocket panasonic KX-PH23F.jpg|thumb|right|140px|KX-PH23F 1999年]]
*[[東芝]]製
**TEGACKY(テガッキー)PM-T101× 2月
***[[文字電話]]第一弾。PメールDXの全機能のほか、手書き文字を送る機能が追加された。ただし、[[マイクロフォン|マイク]]が無く、音声再生は可能だが通話はできない。
**POWER CARROTS DL-S100× 4月
**HYPER CARROTS DL-S200× 11月
*[[アイワ]]製
**AP-A102× 1月
*[[カシオ計算機]]製
**Me-Tel(メーテル)PM-C101× 4月
***文字電話初の3色カラー[[液晶ディスプレイ|液晶]]表示。
*京セラ製
**[[VP-210]]× 7月
***移動体通信としては世界初の[[テレビ電話]]機能がついた端末で、愛称は'''[[テレビ電話#DDIポケット|VisualPhone]]'''。カメラを初めて搭載した意味で、世界で初めて市販された[[カメラ付き携帯電話]]にもなる。約11万画素のCMOSセンサーと2.0インチの反射型[[薄膜トランジスタ|TFT]]カラー液晶を搭載しており、同じVP-210ユーザー同士であれば、約2コマ/秒のカラー画像をリアルタイムに送受信できる。
*[[ケンウッド]]製
**[[ISD-E7]]× 11月
***ケンウッド最後のPHS。愛称は「Hyper XIT」(ハイパーザイト)。当時のストレート型携帯電話と同等のロングアンテナ(12 cm)を搭載。
*三洋電機製
**[[PHS-J80]]× 7月26日
***[[#H"(エッジ)|H"]]第一弾。愛称は「テ・ブ・ラ パスカル」。
*九州松下電器製
**ル・モテ [[KX-PH32S]]× 3月
**ル・モテ [[KX-PH23F]]× 9月
**ル・モテ [[KX-PH33S]]× 9月
*セイコーインスツルメンツ製
**[[MC-P100]]× 3月
**[[MC-P100|MC-P110/TD]]× 8月
==== 2000年 ====
[[ファイル:MC-P200.jpg|thumb|right|140px|MC-P200 2000年]]
[[ファイル:DDI-Pocket Kyocera Treva 1.jpg|thumb|right|140px|Treva 2000年]]
[[ファイル:RZ J-90.jpg|thumb|right|140px|RZ-J90 2000年]]
*三洋電機製
**[[RZ-J81]]×
***ライトメール機能やEメール自動受信に対応したPHS-J80の後継機種。
**[[RZ-J90]]× 11月25日
***feelH"第一弾。愛称は'''Leje'''(レジェ)。大型カラー液晶、高音質着メロ、折りたたみ型と当時の高機能携帯電話にも匹敵するスペックでケータイ人気投票でも高位にランキングされた。リモコンを追加する事によりRZ-J91と同様にミュージックプレーヤーとして利用可能でその場合SMMCはリモコンに装着する。沖縄で「ハートフル」サービス用の端末として利用されていたが、2006年にラインアップから消えた。
**[[RZ-J91]]× 11月30日
***RZ-J90にミュージックプレーヤー機能を搭載した物。ケータイdeミュージック規格に対応しSoundMarketサービス<!--(現在はサービス停止)-->によりPHS回線から音楽のダウンロードが出来たほか、専用のSMMCリーダーライターを用いパソコンを使っての録音も可能。SMMCは本体に装着する。
*東芝製
**HYPER CARROTS [[DL-S300]]× 9月
**[[DL-M10]]× 12月14日
***ストレート型のfeelH"端末。愛称は'''mega Carrots'''
*[[パナソニック コミュニケーションズ|九州松下電器]]製
**[[KX-PH35S]]× 6月15日
**[[KX-HS100]]× 12月15日
***携帯電話・PHSでは日本国内初の[[SDメモリーカード]]対応端末。画像やメロディの他ボイスレコーダーとして音声の保存も可能。愛称は'''ル・モテ'''
*セイコーインスツルメンツ製
**[[MC-P200]]×
**[[MC-P200|MC-P210/TD]]×
==== 2001年 ====
[[ファイル:MC-P300.jpg|thumb|right|140px|MC-P300 2001年]]
[[ファイル:CFE-02 NEC.jpg|thumb|right|140px|CFE-02 2001年]]
[[ファイル:DDI-Pocket Panasonic KX-HF300.jpg|thumb|right|140px|KX-HF300 2001年]]
[[ファイル:DDI-Pocket Panasonic KX-HV200 2.jpg|thumb|right|140px|KX-HV200 2001年]]
*[[日通工]](現・NECインフロンティア)製
**[[CFE-01]]× 5月
**[[CFE-01/TD]]× 5月
***コンパクトフラッシュ型cardH"端末。コンパクトフラッシュTYPE-II型、アンテナは埋め込み型で縦の長さは51.0mmと短くなっており機器との装着時に出っ張らない。TDは接続先限定サービス"TWO LINK DATA"対応版。
**[[CFE-02]]× 11月
***AirH"端末。形状はCFE-01と同じで色が異なる。[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]に公式対応した。
*京セラ製
**[[PS-C1]]× 1月27日
***<!--電波感度では定評のある京セラ第1弾。--?-->SoundMarketに対応し、RZ-J90同様リモコンを装着すればミュージックプレーヤーとしての使用も可能。対応フォーマットもRZ-J90と同様。愛称は'''TESORO'''(テソロ)
**[[PS-C2]]× 12月1日
***PS-C1のマイナーチェンジ版。液晶の大型化や拡張ライトEメールに対応した。
*九州松下電器製
**[[KX-HF300]]× 2月上旬
***KX-HS100をフリップ型にした物。カラーバリエーションが一部異なるが機能的には変わらない。
**[[KX-AP201]]× 4月26日
***安心だフォン端末。安心だフォンとしては初めてH"LINK(Eメール・コンテンツ)に対応。フリップを閉じた状態でも指定した番号に電話がかけられる。3つのボタンにはそれぞれ固定的に設定した電話番号が割り振られている。
**[[KX-HS110]]× 6月15日
***パナソニックのSoundMarket対応第1弾。三洋や京セラと異なりSDAIRと呼ばれる規格を利用。本体にSDスロットを備えるが、音楽をダウンロードは端末単体では出来ず、対応のミュージックプレーヤーと端末をコードで接続する必要があった。
**[[KX-HV220]]× 12月21日
***intelligentH"第1弾。業界最長の待受時間1200時間を誇る端末。DDIポケット端末では初めてTFT液晶を採用。折りたたみ型で、現在のパナソニック携帯にも受け継がれている、ボタン1つでシェルが開くワンプッシュオープン機能を最初に搭載した。ただし、開くのは90度までで、そこからは手で開ける必要があった。AirH"つなぎ放題や拡張ライトEメールなどに対応。
*セイコーインスツルメンツ製
**[[MC-P300]]× 6月1日
***AirH"対応第一弾。PCカード型の端末で1xパケット方式及びフレックスチェンジ方式に対応。
*[[TDK]]製
**[[RH2000P]]× 10月4日
***AirH"端末としては初のコンパクトフラッシュTYPE-I型。1xパケット方式及びフレックスチェンジ方式に対応。TDKとしては初、かつ2005年現在最後のPHS端末。アンテナが可動式な上、縦の長さが73.0mmと長く機器に装着した際出っ張りが目立つ事が特徴。
*東芝製
**[[DL-B01]]× 4月18日
***DL-M10にSoundMarket機能を追加したもの。規格はパナソニックと同じSDAIRである。これ以降6年間、東芝製の端末は途絶えることになる。
==== 2002年 ====
[[ファイル:G10.jpg|thumb|right|140px|AH-G10 2002年]]
[[ファイル:J700.jpg|thumb|right|140px|J700とケータイdeミュージック対応リモコン装着例 2002年]]
[[ファイル:AH-F401U.jpg|thumb|right|140px|AH-F401U 2002年]]
*九州松下電器製
**[[KX-HV50]]× 2月2日
***KX-HV200のディスプレイをモノクロにした廉価版。法人向けという位置づけ。
**[[KX-HV210]]× 9月10日
***KX-HV200のマイナーチェンジ版。携帯電話・PHSでは日本国内初の[[メール定額制]]「エッジeメール」対応。メールをパケット通信対応にする事によりメール定額を実現。塗装強度を上げる、SDカードアクセスを若干高速化するなどの細かい改良も加えられている。2006年現在松下電器の最終機種。家庭用子機の規格である自営3版に対応する最終機種。
*京セラ製
**[[AP-K301T]]× 6月1日
***[[トヨタ自動車]]との[[コラボレーション]]から生まれた安心だフォン端末。トヨタ自動車の運営する[[au (携帯電話)|au]]携帯電話・PHS販売店「[[PiPit]]」のみで専売されており、ウィルコム販売網では扱われていない。端末の名称も「'''ぴぴっとフォン'''」と呼ばれる。子供向けを意識し、マイクやスピーカーが顔を模した形状で、[[充電]]器も[[椅子]]のような[[デザイン]]になっている。通常の機種のような数字キーは持たずに、ゲーム機のコントローラーのような記号のキーによる3つのボタンを装備している。液晶も2行表示とシンプルである。「ここだよナビ」サービスに対応し、PHSの位置情報通知機能でau携帯電話を持つユーザーがぴぴっとフォン端末の現在地を確認する事も可能。
*三洋電機製
**[[RZ-J700]]× 4月19日
***RZ-J90の後継機種。液晶の大型&高画質化や拡張ライトEメール、AirH"32kパケット通信(1x)対応など。[[台湾]]の[[大衆電信]](FITEL)が販売していたJ95という機種がベースになっていた。
*セイコーインスツルメンツ製
**[[AH-S101S]]× 12月6日
***SDIO規格に対応したSDカード型AirH"端末。1xパケット通信に対応。PHS端末としては世界最小、最軽量。
*本多エレクトロン(現・[[ネットインデックス]])製
**[[AH-G10]]× 1月25日
***AirH"128kパケット通信(4x)対応第1弾。PCカード型。
**[[AH-H401C]]× 8月29日
***4x対応のCFカード型端末。<!--この機種以降、メーカーごとに独自に付けられていた端末の型番が統一される。 -->
**[[AH-H402P]]× 12月18日
***AH-G10のマイナーチェンジ版。1x/4xパケット通信に加えフレックスチェンジ方式、64/32KPIAFSベストエフォート方式にも対応。
*NECインフロンティア製<!--(これ以降に販売された機種のロゴは、infrontierから[[日本電気|NEC]]ロゴに変更)-->
**[[AH-N401C]]× 10月4日
***4x対応のCFカード型端末。AH-H401Cと基本性能はほぼ同等。脱着可能なアンテナが付属している。
*富士通製
**AH-F401U× 10月23日
***4x対応の[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]型端末第一弾。270度回転可動型コネクタを搭載して本体に小型アンテナを内蔵。
==== 2003年 ====
[[ファイル:DDI-Pocket JRC AH-J3002V 2.jpg|thumb|right|140px|AH-J3002V 2003年]]
[[ファイル:SA3001V.jpg|thumb|right|140px|H-SA3001V 2003年]]
*[[日本無線]]製
**[[AH-J3001V]]× 4月1日
***AirH"Phone第1弾。C-HTMLブラウザ、POP3対応メーラー搭載を搭載し、メール・ウェブの端末単体の通信において、携帯電話・PHS業界としては日本国内初の[[パケット定額制]]を実現した。同時に同社としては初のパケット料金制も整備。PHSとしては初の国際ローミング機能を搭載。モデム機能等PCとの接続のための外部接続端子にUSB端子(mini-B)を採用。これ以後の機種の標準仕様となる。その一方でSoundMarketや従来のH"LINK、DXメールとの互換性は省かれた。公式な愛称はないが一部では"'''味ぽん'''"と呼ばれた。この機種よりH"端末は[[自営第3版]]ではなく[[PHS#利用者端末|自営第2版]]への対応となる。
**[[AH-J3002V]]× 4月1日
***AH-J3001Vと同性能だが、同社初でもある背面液晶を搭載したのが相違点。ハーフミラー仕上げのシェルは見た目は綺麗だが指紋が付きやすく、背面液晶に埃が混入するという難点もあった。
*京セラ製
**AP-K302T× 3月1日
***ぴぴっとフォンAP-K301Tの改良版。数字キーが付き、110番や119番等の緊急通報が容易になる等の小改良が施された。
*三洋電機製
**[[H-SA3001V]]× 7月4日
***H"端末では初の内蔵カメラを搭載したintelligentH"端末。DXメール対応としては最終端末となる。カラーの背面液晶も備えるがメイン液晶はRZ-J700よりも小さくなった。愛称であるLejeロゴがウィルコムロゴに置き換わった端末も製造された。台湾で発売されていたJ100という機種がベースとなっている。
*セイコーインスツルメンツ製
**[[AH-S405C]]×
***4xパケット通信対応機としては初のコンパクトフラッシュTYPE-I型。さらなる軽量化と低消費電力を実現した。京セラコミュニケーションシステムが提供するKWINS向けにKW-S101C、[[So-net]]が提供するbitWarp向けにMC-C450と呼ばれる機種があるがAH-S405Cと同型機である。国際ローミングはAH-H403C同様台湾のみ対応。
*本多エレクトロン(現・ネットインデックス)製
**[[AH-H403C]]× 7月18日
***AirH"カード型としては初の国際ローミング対応機。ただし、対応国は[[タイ王国|タイ]]との国際ローミング開始後も台湾のみである。
==== 2004年 ====
2004年5月に[[Opera]]ブラウザを搭載しパソコン向けのホームページを閲覧することも可能な'''ウィルコム'''(旧・DDIポケット)の[[京セラ]]製端末[[AH-K3001V]]が発売された。
[[ファイル:AH-H407P expansion.jpg|thumb|140px|AH-H407P]]
*京セラ製
**[[AH-K3001V]]▼ 5月14日
***AirH"Phone第2弾。携帯電話・PHSとしては日本国内初のフルHTML(HTML4.0)が閲覧可能なOperaブラウザ搭載。RZ-J90以来のロングセラー端末となる。公式な愛称はないが一部では「''味ぽん''」の京セラ版ということで「'''[[京ぽん]]'''」と呼ばれ親しまれた。京セラは後に「京ぽん」を登録商標としている。
**[[AP-K303T]] 9月4日
***AP-K302Tの改良版。子供など向けの安全対策として、ひもスイッチと連動した防犯ブザーおよび「ぴぴっとコール」という登録電話番号先への自動通報機能を追加。Eメールにも追加対応。「ここだよナビ」にも対応。
**[[AP-K202S]](安心だフォン) 9月4日
***KX-AP201以来安心だフォン端末としては4年ぶり。端末のベースはAP-K303Tと同一であるが、「ぴぴっとコール」機能や「ここだよナビ」サービスは装備・対応していない。防犯ブザー・Eメールは装備・対応。
*セイコーインスツル(旧・セイコーインスツルメンツ)製
**[[CH-S203C/TD]] 9月10日
***コンパクトフラッシュTYPE-I型のTwo LINK DATA対応端末。これ以降同対応端末が出ていないため2008年現在でも現役かつ唯一のH"でのデータ端末でカタログやwebサイトに掲載され、オンラインショップを含めた購入も可能である。
*日本無線製
**[[AH-J3003S]]▼ 7月15日
***AirH"Phone端末では初のストレート型。2005年2月に発売されたウィルコムロゴの付いた製品では4xデータ通信やリモートロック機能に対応。それ以前の製品でも、ファームウェアのアップデートにより同一の機能を追加可能。2006年12月時点で、現行機種として販売されており、同月にPHSを停波した[[TOHKnet]]の顧客でウィルコムへの移行希望者に無償配布される端末に選定された。外付けで[[Treva]]を接続すればカメラの利用が可能。
*本多エレクトロン(現・ネットインデックス)製
**[[AH-H407P]] 9月10日
***PCカード型4x対応AirH"端末。アンテナ部分をPCカードスロット内に収納できる。突起部がないため装着中の移動時にも破損のおそれが少ない。
==== 2005年 ====
[[ファイル:Ws002in_rx420al.jpg|140px|thumb|W-SIM「RX420AL」を挿入した状態の[[WS002IN]] “DD”]]
[[ファイル:W-zero3 ws004sh.jpg|140px|thumb|W-ZERO3]]
*NECインフロンティア製
**[[AX510N]] 2月18日
***初めて8xパケット方式に対応した端末。PCカード型。
*京セラ製
**[[AH-K3001V|AH-K3002V]]▼ 9月1日
***AH-K3001Vからカメラ機能を省いた端末。2005年12月に、法人向けにリモートロック・消去機能に対応。
**[[WX300K]]▼ 11月18日
***AH-K3001Vの改良版。内蔵カメラの画素数(35万画素)や内蔵メモリ容量の向上などがはかられ、動作レスポンスも改善されている。AH-K3002Vと同様にリモートロック・消去機能も対応。2006年6月13日よりファームウェアのアップデートにより4xパケット方式通信に対応。公式な愛称はないが一部では「京ぽん改」略して「京改」とも呼ばれる。
**[[WX310K]]▼ 11月25日
***フルブラウザとしてOperaを搭載。[[QRコード]]対応の130万画素カメラ、[[Bluetooth]]、[[SDメモリーカード#miniSDカード|miniSDカード]]スロットを搭載し、4xパケット方式通信に対応。追加機能としてムービー再生、[[Adobe Flash|Macromedia Flash]]再生機能やドキュメントビューアがある。公式な愛称はないが一部では「京ぽん2」と呼ばれる。
*三洋電機製
**[[WX310SA]]▼ 11月25日
***三洋電機製初のフルブラウザNetFront搭載端末。QRコード対応の130万画素カメラ、miniSDスロット、ICレコーダ、ドキュメントビューア等を搭載し、ウィルコムおよびPHSの音声端末では初の[[Javaアプリケーション]]対応。4xパケット通信にも対応。公式な愛称はないが一部では「洋ぽん」と呼ばれる。2008年3月に携帯電話事業を京セラに売却したため、三洋電機の最終機種(京セラSANYOブランドでは出ていない)。
*[[ネットインデックス]]製
**[[W-SIM|RX410IN]] 11月25日(単体発売は無し)
***「[[W-SIM]](ウィルコムシム)」。切手サイズ大の小型通信モジュールである。W-SIMに対応した端末(WILLCOM SIM STYLE=ウィルコムシムスタイル)に添付される形で販売される。
**[[WS001IN]] "TT"(Tiny Talk) 11月25日
***WILLCOM SIM STYLE。音声通話向けに機能を絞り、メールはライトメール・ライトEメールのみ対応でEメールには非対応。
**[[WS002IN]] "DD"(Data Driver) 11月25日
***WILLCOM SIM STYLE。USB接続のデータ通信専用端末。ファームウェアのバージョンアップで[[RX420AL]]を利用した[[W-OAM]]通信に対応する。
*[[シャープ]]製
**WS003SH([[W-ZERO3]]) 12月14日
***WILLCOM SIM STYLE。[[QWERTY配列|QWERTY]]準拠のキーボード、[[Video Graphics Array|VGA]]液晶搭載の[[スマートフォン]]。130万画素カメラ、miniSDスロット、[[IEEE 802.11#IEEE 802.11b|IEEE 802.11b]]通信機能も搭載。OSは[[Microsoft Windows CE|Windows Mobile]] 5.0。[[シャープ]]・'''ウィルコム'''・[[マイクロソフト]]の3社が共同開発。
==== 2006年 ====
[[ファイル:Wzero3es 2.jpg|thumb|right|140px|WS007SH(黒)<br />キーボードスライド時]]
[[ファイル:WS009KE1157.jpg|thumb|right|140px|WS009KE(白)]]
[[ファイル:AX420S.jpg|thumb|140px|AX420S]]
*[[日本無線]]製
**[[WX310J]]▼ 1月18日
***日本無線製で初めてフルブラウザ(NetFront)を搭載した、ストレート形端末。ビジネス向けを意識し、[[PHS#利用者端末|自営2版]]対応でカメラ機能は非搭載。miniSDスロット、ICレコーダ、ドキュメントビューア等を搭載しJavaアプリケーションや4xパケット通信にも対応するなどWX310SAと仕様上の共通点も多い。中央にはカーソルキーを兼ねた[[指紋]]センサーを搭載。
*[[NECインフロンティア]]製
**[[AX520N]] 2月23日
***[[W-OAM]]方式に対応のデータ端末。PCカード型で8xパケット方式に対応し、最大通信速度(理論値)は408kbps。形状は、AX510Nとほぼ同じ。
**[[AX420N]] 2月23日
***W-OAM方式に対応のデータ端末。CFカード型で4xパケット方式に対応し、最大通信速度(理論値)は204kbps。アンテナは360度動くフレキシブルタイプ。
*[[セイコーインスツル]]製
**[[AX420S]] 3月9日
***W-OAM方式に対応のデータ端末。CFカード型で4xパケット方式に対応し、最大通信速度(理論値)は204kbps。スライドアップアンテナ(折り畳み式アンテナ)を採用。
*[[バンダイ]]製
**[[キッズケータイpapipo!]](ぱぴぽ) 7月14日(先行販売は3月下旬)
***WILLCOM SIM STYLE。欠番となっているWS006xxに相当する。折りたたみ型音声端末。30万画素デジタルカメラを内蔵。小学生を主なターゲットとしている。型番はKK-B01/02/03/04/05/06/07で、本体色により異なる。
*[[ネットインデックス]]製
**[[WS005IN]](nico.) 7月13日
***WILLCOM SIM STYLE。ストレート型音声端末。通話とメールに特化した端末であり、Webブラウザーやカメラを持たない。白いボディと丸いボタンからなるポップなデザインを特徴とする。11月に[[日本工業規格|JIS]] Z 2801準拠の抗菌加工モデルも発売。その後も少数生産のオリジナルモデルを数種類発売している。パソコン等に接続してのデータ通信は不可。
*[[シャープ]]製
**WS004SH([[W-ZERO3]]) 6月22日
***WILLCOM SIM STYLE。2005年12月発売の[[WS003SH]]に対して、搭載メモリーを256MBに倍増し、[[三省堂]]の電子辞書ソフト『Dicland』のプリインストール化がなされたマイナーチェンジ型。本体色もガンメタリックとパールホワイトに変更。<!--[[W-OAM]]対応。-->
**[[WS007SH]](W-ZERO3[es]) 7月27日
***WILLCOM SIM STYLE。従来のW-ZERO3のQWERTYキーボード搭載はそのままに、ハードウェアテンキーを追加。VGA液晶ディスプレイを2.8インチに小型化、キーボードの天地方向を縮小し体積約2/3への大幅な小型と175gへの軽量化がなされた。搭載メモリーはWS003SHと同じ128MB。電子辞書ソフトはプリインストールされない。無線LANアダプターを内蔵しない一方、USBホスト機能を持つことで拡張性を高めている。11月16日に名刺リーダ機能を搭載した「Premium version」が発売されている。
*[[ハギワラシスコム]]製
**[[WS008HA]] 11月16日
***WILLCOM SIM STYLE。[[ExpressCard|ExpressCard/34]]規格に対応したデータカード。ファームウェアのバージョンアップで[[RX420AL]]にも対応。
*[[エイビット]]製([[アルテル]]ブランド)
**[[RX420AL]] 12月19日(12月14日に発売された[[WS009KE]]には先行して添付)
***[[W-OAM]]に対応した[[W-SIM]]。4xパケット方式に対応し、最大通信速度(理論値)は204kbps。従来のRX410INと比較して消費電力の低減、リモートロック機能の追加に加えメモリーの増強、軽量化などの機能向上が図られている。
*[[ケーイーエス]]製
**[[WS009KE]]▼(9(nine)) 12月14日
***WILLCOM SIM STYLE。厚さ11.5mmのストレート端末。[[カメラ]]がないなど、通話・メール・Webに機能を絞ったシンプルなデザインを特徴とする。<!--色は、白と黒の2色。新規契約ないしは[[W-SIM]]非対応機種からの機種変更の場合は、-->W-SIMは[[RX420AL]]が添付されている。パソコン等に接続してのデータ通信は不可。[[イヤホン]][[フォーンプラグ|ジャック]]も装備しない。
==== 2007年 ====
これ以降、[[W-SIM]]端末以外の音声端末は原則として[[W-OAM]]対応となる(W-OAM/4xパケット方式対応により通信速度は最大204kbps)。WX220J/WX321J/WX320Kはいずれもダイバーシティアンテナ搭載、通話中音声着信表示対応、自動時刻補正機能あり。
[[ファイル:Wx320k.jpg|thumb|right|140px|WX320K]]
[[ファイル:WILLCOM WX320T(NeoWhite).jpg|thumb|right|140px|WX320T]]
*日本無線製
**[[WX220J]]▼ 1月25日
***[[cHTML]]ブラウザのCompact NetFront搭載。AH-J3003Sをベースモデルとしているが、端末ブラウザは2xパケット方式に対応している。カメラは非搭載で外付けカメラのTrevaにも非対応となった。
**[[WX321J]]▼ 2月15日
***ストレート端末。フルブラウザ(NetFront3.4)搭載。microSDスロット、ICレコーダ、Javaアプリケーションにも対応。WX310Jと同じくカーソルキーを兼ねる指紋認証機能を搭載。
*京セラ製
**[[WX320K]]▼ 2月15日
***WX300Kの上位後継機種。フルブラウザとしてOpera Mobile 7.0を搭載。Javaアプリケーションにも対応。Operaサーバーサービス(RSSリーダー・オンラインストレージ・フォトアルバム・スティッキーノート)に対応。外部メモリ(カードスロット)に対応しないが、内部メモリ容量はさらに増強されている。メール等でのコピー・ペースト可能文字数が1024文字となった。
*パナソニック コミュニケーションズ製
**会議用スピーカーホン [[KX-TS745JP]] 3月29日
***遠隔地どうしの会議用端末。固定回線・PBX・PHS接続用の既存機種KX-TS730JPSを、W-SIMにも対応させたもの。
*[[ネットインデックス]]製
**[[AX530IN]] 4月5日
***[[W-OAM typeG]]対応のデータ端末。
**[[RX420IN]] 4月10日
***[[W-OAM]]に対応した[[W-SIM]]。
*東芝製
**[[WX320T]]▼(Carrots) 7月13日
***約6年ぶりのPHS端末投入となる。折りたたみ型。[[赤外線]]ポート搭載。公式な愛称は「Carrots」だが一部では「芝ぽん」と呼ばれる。「Carrots」の愛称は東芝のみが使用しており、ウィルコムは使用していない。
*シャープ製
**[[WS011SH]](Advanced/W-ZERO3[es]) 7月19日
***従来のW-ZERO3[es]は液晶ディスプレイがVGAだったが、より高解像度のWVGAを採用、それにともなって液晶サイズを3インチとした。[[W-ZERO3]]シリーズとしては初めて[[赤外線]]通信機能も採用。OSはWindows Mobile 6 Classic Edition。W-ZERO3[es]より、さらに携帯電話らしいスマートなフォルムとなった。
*京セラ製
**[[WX320KR]]▼ 9月5日
***WX320Kのデザインを変更した端末。新高速化サービス対応の[[Opera]]7.2EXを搭載。
==== 2008年 ====
これ以降の音声端末のほとんどに、赤外線通信機能が搭載されている。外部接続端子がmicroUSBに変化している。
[[ファイル:WILLCOM 03 WS020SH.jpg|thumb|right|140px|WS020SH<br />キーボードスライド時]]
*[[ネットインデックス]]製
**[[WS005IN]](nico+) 1月10日
***WILLCOM SIM STYLE。nicoに赤外線通信機能を搭載したもの。筐体は抗菌仕様。
**[[WS014IN]] 4月24日
***WILLCOM SIM STYLE。[[PCカード]]・データ通信専用型端末。使用しないときにW-SIMを収納することでPCカードスロットからの出っ張りをなくし、接続したままPCを安心して持ち運ぶことが出来る。
*[[アスモ (通信機器メーカー)|アスモ(旧ケーイーエス)]]製
**[[WS009KE]]▼(9(nine)+)1月31日
*** WILLCOM SIM STYLE。9(nine)に赤外線通信機能を搭載したもの。社名変更後の12月9日以降の入荷ロットには、「ウィルコムガジェット対応版」として、[[国際ローミング]]を搭載(従前のものについてもファームのアップデートの開始次第利用可能予定としているが、ネットインデックスへ移管された2010年9月時点で実施されず)。
**[[WS018KE]]▼(WILLCOM 9)7月18日
***WILLCOM SIM STYLE。WS009KEの後継機種。折りたたみ式に変更され、カメラも搭載。Javaにも対応している。
*[[セイコーインスツル]]製
**[[WX130S]](X PLATE)2月20日
***セイコーインスツル初の音声端末。W-OAM対応だが8PSKには対応せず、1xパケット方式だけ対応。webブラウザ非搭載。[[PIMカード]]により[[中華人民共和国|中国]]内においてPHS端末として利用できる。
**[[AX530S]] 11月7日
***W-OAM typeG対応のデータ端末。未使用時はアンテナをカード本体に格納でき、カード自体もパソコンからはみ出さないジャストPCサイズとなっており、持ち運び時の破損を防止できる。USBアダプタとケーブルを同梱し、PCMCIA接続とUSB接続の両方で利用可能なデュアルインターフェイス。USBアダプタは「平置き・スタンド・ディスプレイなどに掛けて」の3スタイルでの使用が可能。一般向けにも販売されていたが、現在は法人契約向けの販売となる。
*京セラ製
**[[WX331K]]▼(HONEY BEE) 2月22日(ホワイト・ブラック・ピンク) 3月13日(イエロー・ブルー)7月18日([[ブルーシールアイスクリーム]]モデル:S.Fミントチョコ・クッキー&クリーム・ミルクチョコチップ)
***ストレート型音声端末。中身はWX320K/KRの後継だがカメラは無し。[[デコラティブメール]]対応。通話時間2時間超でアラーム音が鳴る機能を搭載。
**[[WX330K]]▼ 3月6日
***WX320KRの後継機種。アンテナは内蔵式。[[デコラティブメール]]対応。microSDメモリカードスロット、Opera7.2EX搭載。
**[[WX331KC]]▼(HONEY BEE 2) 11月7日(ピンク・ホワイト・ブラック) 11月13日(グリーン・ブルー) 2009年3月13日([[ビックカメラ]]・[[ベスト電器]]限定モデル:オレンジ) 3月19日(レッド)
***ストレート型音声端末。WX331K(HONEY BEE)の後継機。カメラ機能を新たに搭載し、より同社サービスである「W+BLOG」「デコラティブメール」などを意識した端末となっている。テンキーやサイドスイッチが従来機よりも大きくなっており、操作性の向上も図られている。液晶画面の周囲に本体と同色のラメを施してあることも特徴。
*シャープ製
**[[WS020SH]](WILLCOM 03) 6月27日(ライムトーン・ゴールドトーン・ピンクトーン) 11月7日(ブラックトーン)
***従来のAdvanced/W-ZERO3[es]を小型化し[[ワンセグ]]、[[Bluetooth]]が追加されている。OSはWindows Mobile 6.1 Classic 日本語版。
**[[WS016SH]](WILLCOM D4) 7月11日
***[[Ultra-Mobile PC]]。3種類のデータ通信に対応。ヘッドセットを使って通話も可能。ワンセグも搭載。OSは[[Windows Vista]] Home Premium Service Pack 1。
*東芝製
**[[WS023T]]▼(WILLCOM LU) 12月4日(ホワイト・ピンク) 12月11日(ブラック)
***ウィルコム初のW-SIM対応スライドタイプの電話機で、同社の新サービス「ウィルコム ミーティング」が簡単に使える「ウィルコムミーティングガジェット」を搭載している。LUとは"Luminous You(あなたを輝かせる)"の略で、ジュエリーのように洗練されたデザインを実現したという。
*日本無線製
**[[WX330J]]▼ 11月13日
***ウィルコム初の防水タイプ電話機で、薄さ約11.5mmと防水タイプとしては国内最薄となっている。よくかける発信先や赤外線通信機能といった、さまざまな機能を登録できる「カスタムボタン」が搭載されている。同社の新サービス「ビジネス安心サービス」とオフィスモード(自営標準第2版)に対応している。
==== 2009年 ====
[[ファイル:WILLCOM Kyocera WX341K 1.JPG|thumb|right|140px|WX341K]]
[[ファイル:WX330JZ E.jpg|thumb|right|140px|WX330J-Z E]]
*京セラ製
**[[WX340K]]☆▼ 2月19日(ブリリアントホワイト・カンパリレッド・ミッドナイトブラック) 7月7日(スパークリングピンク)
***WX330K後継の折りたたみ式端末。ウィルコム初の[[おサイフケータイ]]([[ウィルコムICサービス]])対応機種。
**[[WX341K]](BAUM)▼ 3月19日
***ストレート端末。WX340K同様、おサイフケータイに対応。
**[[WX331KC]](LIZ LISA HONEY BEE 2)▼ 7月3日
***ファッションブランド「LIZ LISA」とHONEY BEE 2のコラボレーションモデル。
**[[WX333K]](HONEY BEE 3) ▼ 11月12日
***WX331KC後継のストレート端末。新たにインカメラを追加している。
*[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]製
**[[WS024BF]](どこでもWi-Fi) 3月5日
***携帯可能な無線LANアクセスポイント端末。当初は2月19日発売予定だったが、あまりの販売店側の反響の大きさに、製品供給体制に万全を期すため延期になった。
*東芝製
**[[WS026T]](WILLCOM NS)▼ 4月24日
***システム手帳に収納可能なインターネット閲覧専用端末。
*ネットインデックス製
**[[WS005IN]](nicoハート) 7月3日
***nico+をベースに、「安心だフォン」専用機種となった。
*日本無線製
**[[WX330J|WX330J E]]▼ 10月16日
**[[WX330J-Z E]]▼ 10月16日
***WX330J EはWX330Jから、WX330J-Z EはWX330J-Zから防水機能を省いた端末。
*エイビット製(アルテルブランド)
**[[W-SIM#RX430AL|RX430AL]] 12月17日
***W-OAM TypeG対応となる[[W-SIM]]モジュール
==== 2010年 ====
[[ファイル:WS027SH.JPG|thumb|right|140px|WS027SH]]
*シャープ製
**[[WS027SH]](HYBRID W-ZERO3) 1月28日(ドコモ網対応版)、10月8日(SBM網対応版)
***スペック上は[[WS020SH]]、UI上は[[WS011SH]]の後継機種となるスマートフォン。[[WILLCOM CORE 3G]]とのデュアルモード対応。OSは[[Windows Mobile|Windows Mobile 6.5 Professional]]日本語版。
***ドコモ網版は[[新ウィルコム定額プランG]]、SBM網版は[[新ウィルコム定額プランGS]]への加入が必須となる。
*京セラ製
**[[WX334K]](HONEY BEE BOX)▼ 2月16日
***HONEY BEEシリーズ第4弾端末で、初の折りたたみとなる。
**[[WX341K P]](Premium Bar presented by BAUM)▼ 7月15日
***[[WX341K]]のマイナーチェンジ版。
**[[WX350K]](HONEY BEE 4)▼ 12月3日
***HONEY BEEシリーズ第5弾端末で、従来より大幅にスペックアップされた上で、シリーズ初の[[NetFront Browser]]を採用。
*[[インベンテック・アプライアンシズ]]製
**[[W-SIM#CM-G100|CM-G100]] 4月22日
***[[GSM]][[トライバンド]]対応となる[[W-SIM]]モジュール。ただし、ウィルコムブランドではなく、インベンテック・アプライアンシズの日本国内における窓口会社にあたる、[[テクニッコジャパン]]によって販売される。
==== 2011年 ====
*京セラ製
** [[WX334K P]](Premium Shell Presented by HONEY BEE BOX)▼ 2月10日
***[[WX334K]]のマイナーチェンジ版。
** [[WX01K]] ▼10月6日
*** [[WX350K]]のスペックを継承したハイスペック機。
** [[WX02K]](Sweetia)▼ 11月10日
*** [[WX350K]]のインカメラ等を省いた端末。
** [[WX03K]](LEBERIO)▼ 11月10日
*** WX02Kよりも少し上の年代をターゲットとしたストレート端末。
*ユーティースターコムジャパン製
** [[WX01UT]] 8月23日(ブラック) 11月11日(レッド)
***日本における[[ユーティースターコム]]初のPHS端末で、音声とライトメールに特化した端末。
* ネットインデックス製
** [[WX01NX]] 10月6日
*** [[W-SIM]]機ではない音声端末としては同社初となる端末。
* セイコーインスツル製
** [[WX01S]](SOCIUS) 10月6日
*** [[Bluetooth]]接続により、[[IP電話]]や[[Skype]]子機としても利用可能な機種。
* エイビット製
** [[WX02A]](イエデンワ) 11月25日
*** 固定電話型端末で、USB給電ないしは乾電池で駆動。
** [[WX01A]]([[安心だフォン]])12月3日
*** 子ども・シニアとターゲットにした、1箇所に1つのボタンで発信可能な端末。充電式ではなく、乾電池で駆動。
==== 2012年 ====
* 京セラ製
** [[WX05K]](Casablanca)▼ 6月7日
*** [[WX01K]]をベースにした、「大人向け」PHS音声端末。
** [[WX04K]]([[DIGNO]] DUAL) 6月21日
*** PHS音声とSBM音声のデュアルモードを実現した[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]スマートフォン。データ通信は、PHSのネットワークを一切使わず、[[WILLCOM CORE 3G]]のネットワークのみを利用する形となるため、本機種の利用には新規契約又は機種変更時に「ウィルコムプランD」の加入が必須となる。
** [[WX07K]](HONEY BEE 5)▼ 11月15日
*** 「HONEY BEE」シリーズ初となる防水(IPX5/IPX7相当)仕様。Bluetoothにも対応し、スマートフォンや携帯電話との連携やヘッドセット・ハンズフリー機器とのリンクも可能。
* シャープ製
** [[WX01SH]]([[PANTONE]])▼ 8月3日
*** [[SoftBank 001SH]]をPHSにリモデルした端末。
** [[WX02SH]]▼ 12月20日
*** [[WX01SH]]をエルダー向けにリモデルした端末。
* エイビット製
** [[WX03A]](ストラップフォン) 1月25日
*** ミントタブレット菓子である、[[FRISK]]のケースのサイズの端末。
** [[WX04A]](お知らせ窓センサー) 3月23日
*** 磁気センサーにより、端末を取り付けた窓の開閉をメールで知らせる端末。音声通話は不可。
* 日本無線製
** [[WX01J]]▼ 3月23日
*** 法人向けをターゲットとした端末。
* ネットインデックス製
** [[TWX01NX-DE]](防災だフォン) 4月18日
*** 乾電池で駆動し、初期費用(端末代と新規事務手数料)のみで3年間基本料金無料、通話料のみで利用できる非常用PHS。3年経過後は、525円/月で利用可能。
* セイコーインスツル製
** [[WX02S]](PORTUS) 4月26日
*** [[WX01S]]をベースに、[[WILLCOM CORE 3G]]のネットワークによる[[モバイルWi-Fiルーター]]機能を一体化した端末。利用には新規契約又は機種変更時に「ウィルコムプランW」への加入が必須となる。11月15日に法人向けモデルのWX02S-H(PORTUS for Biz)を追加発売した。
** [[WX03S]](ENERUS) 12月13日
*** [[WX01S]]をベースに、他のスマートフォンへの充電供給が可能な外付けバッテリー機能を内蔵。
==== 2013年 ====
* 京セラ製
**[[WX08K]](STOLA) 2月7日
*** 軽量・コンパクト設計のストレートタイプ。通話機能に特化しており、メールはウィルコムの対応機種同士でやり取りできるライトメールのみ対応。その他の機能は赤外線通信やセキュリティ関連(リモートロック・リモートロック代行・管理者ロック)のみで、カメラ非搭載である。
** [[WX09K]]▼ 2月21日
*** 折りたたみタイプ。ラインナップは4色だが、3月16日には「ウィルコムプラザ」の一部店舗のみで取り扱うオリジナルモデルとして「シャンパンゴールド」が設定された。
** [[WX10K]](DIGNO DUAL 2)☆ 7月18日
*** WX04K(DIGNO DUAL)の後継機で、デュアル方式のコンセプトはそのままに、新たにウィルコムの端末では初となる4Gデータ通信([[SoftBank 4G]])に対応し、さらに、おサイフケータイやテザリングを新たに備え、ライトメールにも対応した。本機種の利用には新規契約又は機種変更時に「ウィルコムプランLite」又は「ウィルコムプランD+」の加入が必須となる。
** [[WX11K]]☆(LIBERIO 2) 11月14日
*** WX03K(LIBERIO)後継のストレートモデル。Bluetooth対応により、スマートフォンへの着信を受けたり、スマートフォンの電話機経由で発信できるなど、スマートフォンの子機として使用することが可能。[[気象庁]]から配信される[[緊急速報メール (ウィルコム)|緊急速報メール]]を受信できるようになったほか、オプションサービスの「モバイル迷惑電話チェッカー」に対応した。さらに、WX03Kでは非対応だった防水(IPX5/IPX7等級相当)・防塵(IP5X等級相当)・耐衝撃(MIL規格相当)に対応した。
** [[WX12K]]☆ 11月14日
*** Bluetooth対応により、スマートフォンとの連携ができるほか、本機ではあらかじめスマートフォン側で「だれとでも定額パス アプリ」をダウンロードしてインストールすることで、本機が親機となり、スマートフォンからウィルコムの回線で通話ができる。Bluetooth対応のスマートフォン・タブレットが[[Personal Area Network|PAN]]に対応していれば、Bluetooth経由でPHSデータ通信によるテザリングを利用することができる。相手の音声を振動に変換し、ディスプレイ全体を振動させて音を伝えることで騒がしい場所でも聞き取りやすくなる「スマートソニックレシーバー」を備え、防水・防塵・耐衝撃に対応するなど基本性能も充実し、デザインのディテールにもこだわった折り畳みタイプ。
* シャープ製
** [[WX03SH]](PANTONE)▼☆ 4月25日
*** シリーズ初のストレートモデル。WX08K同様、Bluetooth対応によりスマートフォンや携帯電話と連携ができるほか、スマートフォンに専用アプリをダウンロードすることで、スマートフォンに届いたメールや[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]を本端末で閲覧できる「CLIP DISPLAY」にも対応する。
** [[WX04SH]](AQUOS PHONE es) 9月19日
*** [[SoftBank 205SH]]をベースに、PHSと3Gが使用できるデュアル方式に対応し、機能を一部変更したウィルコム初となる「[[AQUOS PHONE]]」シリーズの端末。本端末ではPHSデータ通信を搭載しており、本通信を利用したテザリングも可能である。本機種の利用には新規契約又は機種変更時に「ウィルコムプランLite」又は「ウィルコムプランD+」の加入が必須となる。
* エイビット製
**[[WX06A]](ストラップフォン2) 3月21日
*** [[WX03A]]にEメール機能を追加し、アンテナを可動式に変更した端末。カラーもピンクとブラックを追加した3色展開となる。12,000台の限定販売。
** [[WX07A]]([[迷惑電話]]チェッカー) 7月4日
*** 電話回線と固定電話機の間に付属のモジュラーケーブルを接続するだけですぐに使用でき、迷惑電話からの着信をランプの色と音声ガイドで自動警告することで悪質な迷惑電話を拒否することができる。トビラシステムズから提供される迷惑電話番号リストに加え、同じ端末を持つ他のユーザーが拒否した番号も同じ端末を持つ全ユーザーで共有されるため、初めてかかってきた電話も迷惑電話かどうかを判別してくれる。音声通話は不可。利用の際は専用プランの加入が必須となる。
** [[WX05A]](イエデンワ2)☆ 7月31日
***[[WX02A]](イエデンワ)の後継機で、新たに自宅の固定回線との接続が可能になったことで、PHS回線・固定回線双方で待受・発信ができるようになり、シーンに応じて使い分けできるようになった。また、手が離せない時に便利なハンズフリー機能も追加された。発表当初は5月下旬の発売が予定されていたが、ソフトウェアの開発遅延の為発売が延期になっていた。
* TJC製
** [[WX01TJ]](だれとでも定額パス)☆ 7月31日
*** [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載スマートフォンに専用アプリをダウンロードし、Bluetooth接続を行うことでウィルコム回線を使用した通話が可能なクレジットカードサイズのカード型アダプター。利用の際は専用の料金プランの加入が必須となるが、オプションサービスである「だれとでも定額」との同時加入も可能なため、通信キャリアの乗り換えをすることなく、手持ちのスマートフォンでウィルコムの電話機と同じように「だれとでも定額」を利用できる。
* 日本無線製
** [[WX01JR]] ▼不明
*** 法人向けをターゲットとした端末で、[[WX01J]]の一部スペックアップを実施したリモデル端末。
==== 2014年 ====
* セイコーインスツル製
** [[WX04S]](iiro)☆ 2月20日
*** 本体質量79g、高さ125mmと軽量・コンパクト設計としたストレートモデル。リアカバーは本体同梱色に加え、別売りで13色の付け替え用リアカバーが用意されており、好みで付け替えて2トーンカラーにすることができる。通話やメール機能に特化しており、メール機能はライトメールに加え、Eメール([[Post Office Protocol|POP3]]/[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]])にも対応。その他の機能は赤外線通信やセキュリティ関連(リモートロック・リモートロック代行・管理者ロック)のみで、カメラは非搭載。IPX4等級相当対応の防水性能があり、緊急速報メール、モバイル迷惑電話チェッカーにも対応している。
** XWX02S(PORTUS) 4月17日
*** WX02Sの「ウィルコム定額プランGS」対応モデル。外観やスペックはWX02Sと同等。
* シャープ製
** [[WX05SH]](AQUOS PHONE ef)☆ 3月6日
*** PHSと3Gのデュアル通信に対応したスマートフォン(WX04SH同様、PHSデータ通信も利用可能)。文字やアイコンを大きめに表示し、頻度の高い操作を画面上部に配置。スクロールは縦方向のみとしたシンプルな画面構造を採用したホーム画面により、初めてスマートフォンを持つ方でも簡単に操作でき、拡大表示機能の「かんたんズーム」を画面下部のナビゲーションバーに常時表示することでウェブサイトをすぐに拡大表示させることが可能。コミュニケーションツールの[[LINE (アプリケーション)|LINE]]をプリインストールしており、ダウンロード不要で買ってすぐに使用可能。さらに、[[ペアレンタルコントロール]]アプリの「まもるゾウ」もプリインストールしており、曜日や時間でアプリの利用を制限したり、電話の発着信先別制限をかけることもできるので、シニアだけでなく、子供用として使用できる。本機種の利用には新規契約又は機種変更時に「ウィルコムプランLite」又は「ウィルコムプランD+」の加入が必須となる。
=== WILLCOM CORE XGP ===
[[Wireless City Planning]]への移行に伴い、2010年12月21日以降は、同社の'''「XGPサービス」'''に変更された。2012年1月31日を以って停波。
==== 2009年 ====
*[[ネットインデックス]]製
**[[GX000IN]] 4月27日
***[[PCカード]]型端末。法人等を対象とした、「[[WILLCOM CORE XGP]]」エリア限定サービス専用端末。ウィルコムの端末としては初めて[[PIMカード]]を利用する仕様になっている。
*[[NECインフロンティア]]製
**[[GX000N]] 4月27日
***[[PCカード]]型端末。法人等を対象とした、「WILLCOM CORE XGP」エリア限定サービス専用端末。GX000IN同様、PIMカードを利用する仕様。
**[[GX001N]] 10月1日
***[[PCカード]]型端末。ウィルコム契約を持ち、東京都特別区の住所で契約を届け出ている個人・法人ユーザ限定のサービス専用端末。
=== WILLCOM CORE 3G ===
☆は[[Y!mobile]]ブランド移行後も継続販売されたもの。
==== 2009年 ====
*ネットインデックス(現・[[ネクス]])製
**[[HX001IN]] 3月9日
***「[[WILLCOM CORE 3G]]」対応端末。[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]][[ドングル]]型で、USB端子部分はキャップ取り外し型となっている。法人向けのため個人ユーザーは購入不可。
**[[HX002IN]] 4月27日
***「WILLCOM CORE 3G」対応端末。USBドングル型で、USB端子部分は折り曲げ収納が可能。法人向けのため個人ユーザーは購入不可。
**[[HX004IN]] 10月1日
***「WILLCOM CORE 3G」対応端末。筐体上はHX002INとほぼ同様だが、[[HSUPA]]に対応させている。法人向けのため個人ユーザーは購入不可。
**[[HX005IN]] 10月1日
***「WILLCOM CORE 3G」対応端末。[[CFカード]]型で、PCMCIAカードアダプタ同梱。法人向けのため個人ユーザーは購入不可。
*[[中興通訊]]製
**[[HX003ZT]] 6月26日
***個人向けには初となる「WILLCOM CORE 3G」対応端末。USBドングル型で、USB端子部分は折り曲げが可能。
**[[HX007ZT]] 11月4日
***「WILLCOM CORE 3G」対応端末。[[ExpressCard]]型。HSUPA対応。法人向けのため個人ユーザーは購入不可。
==== 2010年 ====
*[[中興通訊]]製
**[[HX006ZT]] 4月22日
***個人向けには初となる、HSUPAに対応した「WILLCOM CORE 3G」対応端末。USBドングル型で、USB端子部分は折り曲げが可能。
==== 2011年 ====
*[[中興通訊]]製
**[[HX008ZT]] 4月11日
***[[ULTRA SPEED]]網に対応した「WILLCOM CORE 3G」対応端末。USBドングル型で、USB端子部分は折り曲げが可能。本来は法人契約でなければ利用できないが、個人で契約する場合、2011年4月21日以前からPHSデータ専用端末を利用し、4月22日から9月30日の間に専用窓口へ申し込むことでその契約からリプレースすることで契約可能。
** [[007Z]]☆ 10月7日
*** [[SoftBank 007Z]]をウィルコムブランドにリモデルしたもの。ソフトバンクモバイルの契約同様、[[イー・アクセス]]網(サブエリア)での利用も可能。SBMのMVNOというよりも、同社の再販業務のための端末という位置づけ。
**[[HX009ZT]] 11月15日
***ULTRA SPEED網に対応した「WILLCOM CORE 3G」対応端末。事実上、SoftBank 007Z for Bizのウィルコムブランドリモデル。したがって、法人契約専用端末となる。
**[[SoftBank 003Z]](Libero 003Z) 12月3日
***[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載[[スマートフォン]]。本端末は[[WX01NX]]とのセット製品「WX01NX × Libero 003Zセット」の同梱品として扱われており、音声通話はWX01NX側で利用するため不可となっている。利用の際は「新ウィルコム定額プランGS」の契約が必須である。オンラインショップでは[[WX350K]]とのセット販売が行われた。
*[[デル]]製
**[[SoftBank 001DL]](DELL Streak) 6月24日
***Android搭載タブレット。本端末は[[WX130S]]とのセット製品「X PLATE × DELL Streak セット」の同梱品として扱われており、音声通話はWS130S側で利用するため不可となっている。利用の際は「新ウィルコム定額プランGS」の契約が必須である。
==== 2012年 ====
*[[華為技術|華為技術日本]]製
**[[SoftBank 007HW]](Vision 007HW) 2月10日
***Android搭載スマートフォン。本端末はWX01NXとのセット製品「WX01NX × Vision 007HWセット」の同梱品として扱われており、音声通話はWX01NX側で利用するため不可となっている。利用の際は「新ウィルコム定額プランGS」の契約が必須である。オンラインショップでは[[WX130S]](カラーはサクラのみ)とのセット販売が行われた。
*[[シャープ]]製
**[[SoftBank 005SH]](GALAPAGOS 005SH) 2月24日
***Android搭載スマートフォン。本端末は[[WX01S]]とのセット製品「SOCIUS <WX01S> × GALAPAGOS 005SHセット」の同梱品として扱われており、音声通話はWX01S側で利用するため不可となっている。利用の際は「新ウィルコム定額プランGS」の契約が必須である。カラーバリエーションは統一性がある同系色の組み合わせ3タイプとなる。
**[[SoftBank 003SH]](GALAPAGOS 003SH) 4月27日
***Android搭載スマートフォン。本端末はWX01Sとのセット製品「SOCIUS <WX01S> × GALAPAGOS 003SHセット」の同梱品として扱われており、音声通話はWX01S側で利用するため不可となっている。利用の際は「新ウィルコム定額プランGS」の契約が必須である。
*[[京セラ]]製
**[[WX06K]](HONEY BEE) 8月23日
***Android搭載スマートフォン。本端末はWX350Kとのセット製品「HONEY BEEスマホセット」の同梱品として扱われており、仕様はソフトバンクモバイル向けの[[SoftBank 101K]]とほぼ同一である。これまでのPHS電話機+スマートフォンセットとは異なり、契約必須の料金プランがデュアル方式スマートフォン向けの「ウィルコムプランD」となり、音声通話は本端末側でも利用可能となった(本端末での音声通話は[[SoftBank 3G]]を利用する)。
==== 2013年 ====
*[[華為技術日本]]製
**[[201HW]](STREAM) 9月5日
***[[SoftBank 201HW]]のウィルコムブランドリモデルだが、ウィルコム向けに仕様を一部変更している。利用の際は「ウィルコムプランLite」の契約が必要である。
== 端末のキャリア設定オプション扱い ==
旧ウィルコムは、オペレータ共通のアクセサリ等のオプションをほとんど出していなかったため、オンラインショップで扱っていないものについては、[[京セラ]]や[[ネクス]]など、端末メーカーの[[ECサイト]]で注文する形式も取られていた。ウィルコム時代末期には、[[ソフトバンクグループ]]の強みを生かして、[[ソフトバンクBB]](同社の当該事業は、2014年4月1日より、[[ソフトバンクコマース&サービス]]が吸収分割にて継承している)がウィルコムブランドで[[ACアダプタ]]を発売していた。
*ウィルコム用 充電ACアダプタ01(AC-01MU-K、[[ホシデン]]製、[[ソフトバンクBB]]販売)…(商品コード・ZSDAY1)…1.0A出力であったため、PHSだけでなく、ウィルコムブランドのスマートフォンにも流用できた。
== CM出演 ==
=== ウィルコム時代のイメージキャラクター・出演者 ===
*[[佐々木希]]
*[[千原兄弟]]([[千原ジュニア]]・[[千原せいじ]])
*[[桃井かおり]]
*[[高田純次]]
*[[蛭子能収]]
*[[速水もこみち]]
*[[ムーディ勝山]]
*[[バナナマン]]([[設楽統]]・[[日村勇紀]])
*[[ピンクの電話]]([[竹内都子]]・[[清水よし子]])
*[[武井壮]]
*[[ショッカー|ショッカー戦闘員(骨戦闘員)]](『[[仮面ライダー]]』より)
*[[ちっちゃいおっさん]](ゆるキャラ編で登場し、唯一喋っている。このCMで競演し、このキャラクター等同様にしゃべることができる[[ふなっしー]]は喋っていない)
*[[荒俣宏]]
*[[村上隆]]
*[[森山直太朗]]
*[[吉田桂子]]
*[[奥貫薫]]
*[[SHIHO (ファッションモデル)|SHIHO]]
*[[筧利夫]]
*[[笑い飯]](人形アニメーションのシリーズで人形の声を担当)
=== DDIポケット時代のイメージキャラクター・出演者 ===
*[[江口洋介]]
*[[トータス松本]]
*[[川平慈英]]
*[[小野真弓]]
*[[大塚寧々]]
*[[ビビアン・スー]]
*[[チューヤン]]
*[[宮尾すすむ]]
*[[松崎駿司]]
*[[冨貴塚桂香]]
*[[華原朋美]]
*[[梅宮アンナ]]
*[[パパイヤ鈴木]]
*[[太陽とシスコムーン]]
== スポンサー ==
*テレビ番組
**[[情報7days ニュースキャスター]]([[TBSテレビ|TBS]]) - 系列会社の[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]も提供していた。(ただし、提供枠は別)
**[[news every.]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])2013年7月より
*ラジオ番組
現在はなし。ラジオCM自体も現在はやっていない。
*スポーツチーム
**[[R&D SPORT]]([[モータースポーツ]])
*過去スポンサー
**[[2001年のおとこ運]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]製作) - フジテレビ系の[[関西テレビ制作・火曜夜10時枠の連続ドラマ|火曜日夜10時のドラマ]]で、スポンサー名義はfeelH"。劇中に使用していた機種も提供していた。
**[[ニュースJAPAN|ニュースジャパン]](1日おきに提供)([[フジテレビジョン|フジテレビ]])
**[[サンデージャポン]](TBS、[[CBCテレビ|CBC]]、[[MBSテレビ|MBS]]のみ提供)
**[[みんなのアメカン]](日本テレビ) - 同社のイメージキャラクターである[[佐々木希]]が出演していた番組である。
**[[真相報道 バンキシャ!]](日本テレビ)
**[[出没!アド街ック天国]]([[テレビ東京]])
**[[ジャパンエフエムネットワーク (企業)|JFN]]時報 平日20時、22時、深夜0時、深夜2時。放送時期不明。現在は[[ヨドバシ梅田|ヨドバシカメラ]]が提供時間帯のスポンサーに就いている。
**WILLCOM BUZZ UP !([[J-WAVE]])
== その他 ==
*ウィルコムでは、[[市外局番]]を省略して[[電話]]を掛ける事ができる。他にこれが可能な日本国内のPHS事業者は、[[アステルグループ]]のうちの[[PHS#事業者ネットワーク|独自型網]]だけだった。<br />ただし、この方法には問題があるために公式には推奨されていない。
#[[単位料金区域]]制度が[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]]の[[固定電話]]とは同一ではないため、発信時の現在地とは異なる単位料金区域への接続や高額な料金を請求される場合がある。(「ウィルコム定額プラン」「新ウィルコム定額プラン」「新ウィルコム定額プランS」「新ウィルコム定額プランG」「新つなぎ放題」などの「[[ウィルコム定額プラン]]」が開始後以降の新しいプランには固定電話への通話に対し単位料金区域制は採用されておらず、通話時間単位のみの課金となっていた。これはVoIP対応交換機の導入によりNTT網に依存しない固定電話通話が可能となったためである。)
#発信者が区域内であると思っても、場所によっては他区域の同番号に間違ってかかってしまう事がある。
*2006年5月頃、[[名古屋市交通局]]が[[名古屋市営地下鉄|地下鉄]]車両内に掲示した車内マナー広告に使用した端末の画像に関しウィルコムから抗議文書が同局に出され、それを受け同局は謝罪をした<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/info/06050901.html 名古屋市交通局広告への抗議について]<br />[http://www.willcom-inc.com/ja/info/06051101.html 名古屋市交通局からの回答について]</ref>。
<!--現在では利用料金から値引きする形に戻っています *機種変更時に、サポートコインサービスを利用してキャッシュバックを受ける場合、普通為替証書ないしは定額小為替の送付によって行われる。[[普通為替証書]]で送付される場合は[[ゆうちょ銀行さいたま支店]]発行のもの、[[定額小為替]]で送付される場合は、[[ゆうちょ銀行]]長野[[貯金事務センター]]発行(大量発行の場合、同センター発行扱いとなる)のものが申請者に送付される。ただし、送付自体は[[郵便事業]]のサービスを用いず、[[ヤマト運輸]]のセキュリティパッケージ(メール便の書留版のようなもの)を利用する。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
{{columns-list|2|
*[[PHS]]
*[[AIR-EDGE]]
*[[音声通話定額制]]
*[[ウィルコム沖縄]]
*[[大衆電信]](台湾-ローミングに対応)
*[[トゥルー・コーポレーション|TRUE]](タイ-ローミングに対応)
*[[中国聯合通信]](中国・北京-ローミングに対応)
*[[中国電信]](中国・上海-ローミングに対応)
*[[ロッテリア]]
*[[トヨタ自動車]](かつて[[PiPit]]専売端末の「ぴぴっとフォン」を販売していた)
*[[アステルグループ]] - 電力会社の他、デジタルホングループ([[SoftBank (携帯電話)|Softbank]]の前身)も経営に関わっていた。
}}
== 外部リンク ==
* [http://www.prin.ne.jp/ PRIN]
* [https://www.softbank.jp/corp/group/wo/ 株式会社ウィルコム沖縄]
* [http://www.ymobile.jp Y!mobile - サービスサイト]
*{{Twitter|https://mobile.twitter.com/ymobileOfficial?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor|ymobileOfficial}}
*{{Twitter|ymobile_Care|カスタマーサービス担当}}
* [[VoIP]]対応交換機(ITX:Ip Transit eXchange)([https://web.archive.org/web/20210215142904/https://www.toshiba.co.jp/tech/review/ 「東芝レビュー」誌][https://web.archive.org/web/20160410134217/http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2005/02/index_j.htm 2005年2月号])[https://web.archive.org/web/20130626230433/http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2005/02/60_02pdf/b05.pdf]([[Portable Document Format|PDF]])
{{ウィルコムの通信端末}}
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{{かつて存在した日本の携帯電話事業者}}
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[[Category:KDDIグループの歴史]]
[[Category:ソフトバンクグループの歴史]]
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11,932 |
FLOPS
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FLOPS(フロップス、Floating-point Operations Per Second)はコンピュータの性能指標の一つ。
FLoating point number Operations Per Secondの名称が示す通り、1秒間に浮動小数点演算が何回できるかの指標値ひいては性能値の事を指す。
ハードウェアの仕様として用いられるのは理論値であるが、ベンチマークソフトなどの計測から導き出される計測値は、理論値からは原則的に下がる。その為、理論値だけでなく、「理論的に算出された値の何%で実際のプログラムが動作するか」ということが重要になる(実測値)。実際の値が理論値に近いほど、より効率的なコンピュータだと考えられるからである。
パーソナルコンピュータ(以下PCと表記)向けのCPUやGPUメーカーは、計算ノードとしては単一のノードとなるので通常理論値で発表する(理論値がほぼそのまま実効値となる)が、一般的に並列方式スーパーコンピュータ(以下スパコンと表記)では多数の計算ノードのクラスタとして構築されるため、実際の計算能力を理論値に近づけるには高度な運用能力が必要であり、理論値ではなく LINPACK ベンチマークでの実測値がよく使われている。
2016年前後の時点において、普及している家庭用のPCのCPUはGFLOPS、スパコンの世界1位はPFLOPSの単位であるが、ムーアの法則にそって高速化が進んでおり、2018年に並列度1億でLINPACK性能値はEFLOPSの単位に到達すると予想されている。2000年頃からの理論値ではPCとスパコンの比例値は、おおよそ1万倍の差で推移している。
2020年4月現在、世界最高速のスパコンはSummitで200PFLOPS。分散コンピューティングでは、Folding@homeが一時的に2.4EFLOPSを突破した。
Core 2 Duoより1クロックで SSE で加算と乗算が計算できるようになり128ビット幅だと倍精度で 4 FLOPS/クロック。Sandy Bridgeより搭載した Intel AVXは256ビット幅なので8FLOPS/クロック。Intel FMAは融合積和命令により1命令で積と和の2演算ができるので16FLOPS/クロック。単精度だと、これらの演算回数は2倍。Atomは1クロックで1つのSSE加算命令が、2クロックで1つのSSE乗算命令が実行できるため、合計すると倍精度で3FLOPS/クロックとなる。
Bulldozer は1モジュールにつき2つの128ビット積和演算器があり、倍精度は2つのFMA命令を同時実行することにより 8 FLOPS/Cycle。
ARM NEON はCortex-A15までは倍精度が扱えなく、単精度のみ。ARM NEON は 128ビット幅で単精度だと 4 FLOPS/Cycle だが、Cortex-A15 は FMA があるので 8 FLOPS/Cycle。
倍精度は、Cortex-A9 は VFPv3 により、2 cycle で足し算2回、乗算1回、合計3演算できるので、1.5 FLOPS/Cycle。Cortex-A15 は VFPv4 により、1 cycle で1回 FMA が計算できるので、2 FLOPS/Cycle。Cortex-A57より、NEONでも倍精度が扱えるようになる。
※いずれも単精度(FP32)
単精度の積和算を 2 FLOPS/Clock で行える。
ハイエンドでは倍精度(fp64)は 0.5 FLOPS/Cycle であるが、ミドルレンジ以下は 0.125 FLOPS/Cycle であったり、倍精度の計算が出来なかったりする。
HD Graphicsの各EUは4-way SIMDの演算器を備えており、1命令で4並列の単精度浮動小数点演算が可能である。Sandy Bridgeより前の世代では1クロックでEUあたり1つの加算もしくは乗算命令を実行可能で、4FLOPS/EU。Sandy Bridge世代では1クロックでEUあたり1つのFMA命令を実行可能で、8FLOPS/EU。Ivy Bridge世代以降は1クロックでEUあたり2つのFMA命令を実行可能で、16FLOPS/EUとなる。
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] |
FLOPSはコンピュータの性能指標の一つ。
|
{|class="infobox" style="text-align:center;"
!colspan="3" style="background-color:#ccf;"|換算表
|-
!style="background-color:#edf;"|接頭辞
!style="background-color:#edf;"|FLOPS
|-
|style="text-align:left;"|[[ヨタ]](Y)|| 10<sup>24</sup>
|-
|style="text-align:left;"|[[ゼタ]](Z)|| 10<sup>21</sup>
|-
|style="text-align:left;"|[[エクサ]](E)|| 10<sup>18</sup>
|-
|style="text-align:left;"|[[ペタ]](P)|| 10<sup>15</sup>
|-
|style="text-align:left;"|[[テラ]](T)|| 10<sup>12</sup>
|-という能力を理論的/実際的(実験的)に表した値のこと。コンピュータの性能指標としては、他に[[MIPS]]やメモリバンド幅,トランズアクション処理速度などがあるが、FLOPSは[[科学技術計算]]や[[シミュレーション]]を行う[[スーパーコンピュータ]]等の性能を表す際に用いられることが多い。
|style="text-align:left;"|[[ギガ]](G)|| 10<sup>9</sup>
|-
|style="text-align:left;"|[[メガ]](M)|| 10<sup>6</sup>
|}
'''FLOPS'''(フロップス、'''''Fl'''oating-point '''O'''perations '''P'''er '''S'''econd'')は[[コンピュータ]]の[[性能]][[指標]]の一つ。
== 概要 ==
FLoating point number Operations Per Secondの名称が示す通り、'''1秒間に[[浮動小数点演算]]が何回できるか'''の指標値ひいては性能値の事を指す。
ハードウェアの仕様として用いられるのは理論値であるが、[[ベンチマーク]]ソフトなどの計測から導き出される計測値は、理論値からは原則的に下がる。その為、理論値だけでなく、「理論的に算出された値の何%で実際の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]が動作するか」ということが重要になる(実測値)。実際の値が理論値に近いほど、より効率的なコンピュータだと考えられるからである。
[[パーソナルコンピュータ]](以下PCと表記)向けの[[CPU]]や[[Graphics Processing Unit|GPU]]メーカーは、計算[[ノード (ネットワーク)|ノード]]としては単一のノードとなるので通常理論値で発表する(理論値がほぼそのまま実効値となる)が、一般的に並列方式[[スーパーコンピュータ]](以下スパコンと表記)では多数の計算ノードの[[クラスタ]]として構築されるため、実際の計算能力を理論値に近づけるには高度な運用能力が必要であり、理論値ではなく [[LINPACK]] [[ベンチマーク]]での実測値がよく使われている。
[[2016年]]前後の時点において、普及している家庭用のPCのCPUはGFLOPS、スパコンの世界1位はPFLOPSの単位であるが、[[ムーアの法則]]にそって高速化が進んでおり、[[2018年]]に並列度1億でLINPACK性能値はEFLOPSの単位に到達すると予想されている<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20110705-post_kcomputer/ 【レポート】ポスト「京」コンピュータはどうなるのか (1) 次世代スパコンの開発開始で米国に遅れをとっている日本 | エンタープライズ | マイコミジャーナル]</ref>。[[2000年]]頃からの理論値ではPCとスパコンの比例値は、おおよそ1万倍の差で推移している。
2020年4月現在、世界最高速のスパコンは[[Summit (スーパーコンピュータ)|Summit]]で200PFLOPS<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/spv/1906/18/news057.html スパコン世界ランク、米3連覇 日本は「ABCI」8位が最高]</ref>。分散コンピューティングでは、[[Folding@home]]が一時的に2.4EFLOPSを突破した<ref name="fah2.4eflops">{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1246939.html|title=Folding@homeがTOP 500の全スパコンを超える2.4EFLOPSに到達|date=2020-04-14|accessdate=2020-4-14|publisher=PC Watch|author=中村 真司}}</ref>。
== 代表的なハードウェアの浮動小数点数演算能力 ==
=== PC (Intel) ===
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS(倍精度)
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! [[Intel Pentium (1993年)|Pentium]]
| 1コア
| 300MHz
| 300 MFLOPS
|理論値
|1 FLOPS/Clock × 300MHz
|
|-
! [[Pentium II]]
| 1コア
| 450MHz
| 450 MFLOPS
|理論値
|1 FLOPS/Clock × 450MHz
|
|-
! [[Pentium III]]
| 1コア
| 1.4GHz
| 2.1 GFLOPS
|理論値
|1.5 FLOPS/Clock × 1.4GHz
|
|-
! [[Pentium M]]
| 1コア
| 2.26GHz
| 3.39 GFLOPS
|理論値
|1.5 FLOPS/Clock × 2.26GHz
|<ref name="intel_flops_p4">[http://www.intel.com/support/processors/sb/CS-028241.htm Intel® microprocessor export compliance metrics]</ref>
|-
! [[Pentium 4]]
| 1コア
| 3.8GHz
| 7.6 GFLOPS
|理論値
|2 FLOPS/Clock × 3.8GHz
|<ref name="intel_flops_p4"/>
|-
! [[Pentium D]]
| 2コア
| 3.6GHz
| 14.4 GFLOPS
|理論値
|2 FLOPS/Clock × 3.6GHz × 2コア
|<ref name="intel_flops_p4"/>
|-
! [[Intel Atom]]<br/>(Bonnell)
| 2コア
| 1.8GHz
| 5.4 GFLOPS
|理論値
|1.5 FLOPS/Clock × 1.8GHz × 2コア
|<!--<ref name="intel_flops_atom">[http://www.intel.com/jp/support/processors/sb/CS-029431.htm プロセッサー — インテル® マイクロプロセッサー製品の輸出規制基準]</ref>-->
|-
! [[Core Solo]]
| 1コア
| 1.83GHz
| 2.75 GFLOPS
|理論値
|1.5 FLOPS/Clock × 1.83GHz
|<ref name="intel_flops"/>
|-
! [[Core Duo]]
| 2コア
| 2.33GHz
| 6.99 GFLOPS
|理論値
|1.5 FLOPS/Clock × 2.33GHz × 2コア
|<ref name="intel_flops"/>
|-
! [[Core 2 Duo]]
| 2コア
| 3.33GHz
| 26.64 GFLOPS
|理論値
|4 FLOPS/Clock × 3.33GHz × 2コア
|<ref name="intel_flops"/>
|-
! [[Core 2 Extreme]]
| 4コア
| 3.2GHz
| 51.2 GFLOPS
|理論値
|4 FLOPS/Clock × 3.2GHz × 4コア
|<ref name="intel_flops"/>
|-
! [[Intel Core i7|Core i7]]<br/>([[Nehalem]])
| 4コア
| 3.33GHz
| 53.28 GFLOPS
|理論値
|4 FLOPS/Clock × 3.33GHz × 4コア
|<ref name="intel_flops">{{Cite web|和書| url = http://www.intel.com/jp/support/processors/sb/cs-017346.htm | title =インテル® プロセッサー — インテル® マイクロプロセッサー製品の輸出規制基準 | author = Intel Corp. | accessdate = 2015-1-12}}</ref>
|-
! [[Intel Core i7|Core i7]]<br/>([[Westmere]])
| 6コア
| 3.46GHz
| 83.04 GFLOPS
|理論値
|4 FLOPS/Clock × 3.46GHz × 6コア
|<ref name="intel_flops"/>
|-
! [[Intel Core i7|Core i7]]<br/>([[Sandy Bridge]])
| 6コア
| 3.3GHz
| 158.4 GFLOPS
|理論値
|8 FLOPS/Clock × 3.3GHz × 6コア
|<ref name="intel_flops"/><ref name="dell_peta_flops">[http://www.delltechcenter.com/page/PetaFLOPS+for+the+Common+Man-+Pt+3+In+the+next+few+yrs+what+could+PetaFLOPS+Systems+Look++Like PetaFLOPS for the Common Man- Pt 3 In the next few yrs what could PetaFLOPS Systems Look Like - The Dell TechCenter]</ref>
|-
! [[Intel Core i7|Core i7]]<br/>([[Haswell]])
| 8コア
| 3.0 GHz (ベース)<br>3.5 GHz (ターボ)
| 384 GFLOPS (ベース)<br>448 GFLOPS (ターボ)
|理論値
|16 FLOPS/Clock × 3.0 GHz × 8コア
|
|-
! [[Intel Core i7|Core i7]]<br/>([[Broadwellマイクロアーキテクチャ|Broadwell]])
| 10コア
| 3.0 GHz (ベース)<br>3.5 GHz (ターボ)
| 480 GFLOPS (ベース)<br>560 GFLOPS (ターボ)
|理論値
|16 FLOPS/Clock × 3.0 GHz × 10コア
|
|-
![[Intel Core i9|Core i9]]([[Rocket Lakeマイクロプロセッサ|Rocket Lake]])
|8コア
|5.2 GHz (ターボ)
|665 GFLOPS (ターボ)
|理論値
|16 FLOPS/Clock × 5.2 GHz × 8コア
|<ref>"インテル® ターボ・ブースト・マックス・テクノロジー 3.0 の動作周波数<small>‡</small>5.20 GHz" Intel. ''[https://ark.intel.com/content/www/jp/ja/ark/products/212325/intel-core-i911900k-processor-16m-cache-up-to-5-30-ghz.html インテル® Core™ i9-11900K プロセッサー]''. 2022-04-04閲覧.</ref>
|-
![[Intel Core i9|Core i9]]([[Alder Lakeマイクロプロセッサ|Alder Lake]])
|P8/E8
|5.2/4.0 GHz (ターボ)
|1.18 TFLOPS (ターボ)
|理論値
|16 FLOPS/Clock × 5.2 GHz × 8コア
+ 16 FLOPS/Clock × 4.0 GHz × 8コア
|<ref>"Performance-core Max Turbo Frequency 5.20 GHz Efficient-core Max Turbo Frequency 4.00 GHz" Intel. ''[https://ark.intel.com/content/www/jp/ja/ark/products/225916/intel-core-i912900ks-processor-30m-cache-up-to-5-50-ghz.html インテル® Core™ i9-12900KS プロセッサー]''. 2022-04-04閲覧.</ref>
|}
Core 2 Duoより1クロックで [[ストリーミングSIMD拡張命令|SSE]] で加算と乗算が計算できる<ref name="intels-haswell-architecture">[http://www.anandtech.com/show/6355/intels-haswell-architecture/8 Intel's Haswell Architecture Analyzed: Building a New PC and a New Intel]</ref>ようになり128ビット幅だと倍精度で 4 FLOPS/クロック。Sandy Bridgeより搭載した Intel AVXは256ビット幅なので8FLOPS/クロック。[[ストリーミングSIMD拡張命令#FMA3|Intel FMA]]は[[積和演算#%E8%9E%8D%E5%90%88%E7%A9%8D%E5%92%8C%E6%BC%94%E7%AE%97|融合積和]]命令により1命令で積と和の2演算ができるので16FLOPS/クロック<ref>"Intel® AVX 2.0 delivers 16 double precision and 32 single precision floating point operations per second per clock cycle within the 256-bit vectors, with up to two 256-bit fused-multiply add (FMA) units." Intel. ''[https://www.intel.sg/content/www/xa/en/architecture-and-technology/avx-512-overview.html?countrylabel=Asia%20Pacific Intel® Advanced Vector Extensions 512]''. 2022-04-04閲覧.</ref>。単精度だと、これらの演算回数は2倍<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/596202.html IDF Beijingで公開されたHaswellの省電力&オーバークロック機能 - PC Watch]</ref>。Atomは1クロックで1つのSSE加算命令が、2クロックで1つのSSE乗算命令が実行できる<ref name="agner">Agner Fog, [http://www.agner.org/optimize/ The microarchitecture of Intel, AMD and VIA CPUs]</ref>ため、合計すると倍精度で3FLOPS/クロックとなる。
=== サーバ (Intel) ===
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS(倍精度)
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! Xeon<br>([[Nehalem]])
| 8コア
| 2.26 GHz
| 72.32 GFLOPS
| 理論値
| 4 FLOPS/Clock × 2.26 GHz × 8コア
|
|-
! Xeon<br>([[Westmere]])
| 10コア
| 2.4 GHz
| 96 GFLOPS
| 理論値
| 4 FLOPS/Clock × 2.4 GHz × 10コア
|
|-
! Xeon<br>([[Sandy Bridge]])
| 8コア
| 3.1 GHz
| 198.4 GFLOPS
| 理論値
| 8 FLOPS/Clock × 3.1 GHz × 8コア
|
|-
! Xeon<br>([[Ivy Bridge]])
| 15コア
| 2.8 GHz
| 336 GFLOPS
| 理論値
| 8 FLOPS/Clock × 2.8 GHz × 15コア
|
|-
! Xeon<br>([[Haswell]])
| 18コア
| 2.3 GHz
| 662.4 GFLOPS
| 理論値
| 16 FLOPS/Clock × 2.3 GHz × 18コア
|
|-
! Xeon<br>([[Broadwellマイクロアーキテクチャ|Broadwell]])
| 24コア
| 2.2 GHz(ベース)<br>3.4 GHz(ターボ)
| 0.845 TFLOPS(ベース)<br>1.306 TFLOPS(ターボ)
| 理論値
| 16 FLOPS/Clock × 3.4 GHz × 24コア
|
|-
! [[Xeon Phi]]<br>(Knights Corner)
| 61コア
| 1.238 GHz(ベース)<br>1.33 GHz(ターボ)
| 1.208 TFLOPS(ベース)<br>1.298 TFLOPS(ターボ)
| 理論値
| 16 FLOPS/Clock × 1.33 GHz × 61コア
|
|-
! [[Xeon Phi]]<br>(Knights Landing)
| 72コア
| 1.5 GHz(ベース)<br>1.7 GHz(ターボ)
| 3.456 TFLOPS(ベース)<br>3.917 TFLOPS(ターボ)
| 理論値
| 32 FLOPS/Clock × 1.7 GHz × 72コア
|
|}
=== PC/Server (AMD) ===
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS(倍精度)
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! [[AMD_Phenom_II|Phenom II]]<br/>(X4 980 Black Edition)
| 4コア
| 3.7GHz
| 59.2 GFLOPS
| 理論値
| 4 FLOPS/Clock × 3.7GHz × 4コア
|
|-
! [[AMD_Phenom_II|Phenom II]]<br/>(X6 1100T Black Edition)
| 6コア
| 3.3GHz
| 79.2 GFLOPS
| 理論値
| 4 FLOPS/Clock × 3.3GHz × 6コア
|
|-
! AMD Fusion E Series<br/>([[Bobcat (マイクロアーキテクチャ)|Bobcat]])
| 2コア
| 1.65GHz
| 6.6 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/Clock × 1.65GHz × 2コア
|
|-
! AMD Opteron<br/>([[Opteron#Magny-Cours_.28K10.2C_rev_D1.29|Magny-Cours]])
| 12コア
| 2.5GHz
| 120 GFLOPS
|理論値
|4 FLOPS/Clock × 2.5GHz × 12コア
|<ref name="dell_peta_flops"/>
|-
! AMD FX<br/>([[Bulldozer_(マイクロアーキテクチャ)|Bulldozer]])
| 8コア/4モジュール
| 3.9GHz
| 124.8 GFLOPS
| 理論値
| 8 FLOPS/Clock × 3.9GHz × 4モジュール
|
|-
! AMD Opteron<br/>([[Opteron#Interlagos.2FValencia_.28Bulldozer.29|Interlagos]])
| 16コア/8モジュール
| 3.1GHz
| 198.4 GFLOPS
|理論値
|8 FLOPS/Clock × 3.1GHz × 8モジュール
|
|-
! Ryzen 9<br/>([[Ryzen|Vermeer]])
| 16コア
| 4.9GHz(ブースト)
| 1.254 TFLOPS
|理論値
|16 FLOPS/Clock × 4.9GHz × 16コア
|
|-
! EPYC<br/>([[EPYC|Milan]])
| 64コア
| 3.5GHz(ブースト)
| 2.509 TFLOPS(ベース)<br/>3.584 TFLOPS(ブースト)
|理論値
|16 FLOPS/Clock × 3.5GHz × 64コア
|
|}
Bulldozer は1モジュールにつき2つの128ビット積和演算器があり、倍精度は2つのFMA命令を同時実行することにより 8 FLOPS/Cycle。
===[[ARMアーキテクチャ|ARM]]===
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! ARM11
| 1コア
| 700MHz
| 単精度:700 MFLOPS
| 理論値
| 単精度:1 FLOPS/Clock × 700MHz
|
|-
! ARM Cortex-A8
| 1コア
| 1GHz
| 単精度:4 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:4 FLOPS/Clock × 1GHz
|
|-
! ARM Cortex-A9
| 4コア
| 1.5GHz
| 単精度:24 GFLOPS<br>倍精度:9 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:4 FLOPS/Clock × 1.5GHz × 4コア<br>倍精度:1.5 FLOPS/Clock × 1.5GHz × 4コア
|
|-
! ARM Cortex-A15
| 4コア
| 2.0GHz
| 単精度:64 GFLOPS<br>倍精度:16 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:8 FLOPS/Clock × 2.0GHz × 4コア<br>倍精度:2 FLOPS/Clock × 2.0GHz × 4コア
|
|-
! ARM Cortex-A57
| 4コア
| 2.8GHz
| 単精度:89.6 GFLOPS<br>倍精度:44.8 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:8 FLOPS/Clock × 2.8GHz × 4コア<br>倍精度:4 FLOPS/Clock × 2.8GHz × 4コア
|
|}
*[[NetWalker]] PC-Z1: CPU 3.2GFLOPS(ARM Cortex-A8 800MHz,SIMD), 0.64GFLOPS(同VFP)
ARM NEON はCortex-A15までは倍精度が扱えなく、単精度のみ<ref>[http://infocenter.arm.com/help/index.jsp?topic=/com.arm.doc.dui0204ij/CIHDIBDG.html 5.5.2. NEON データ型および VFP データ型 - ARM]</ref>。ARM NEON は 128ビット幅で単精度だと 4 FLOPS/Cycle だが、Cortex-A15 は FMA があるので 8 FLOPS/Cycle。
倍精度は、Cortex-A9 は VFPv3 により、2 cycle で足し算2回、乗算1回、合計3演算できるので、1.5 FLOPS/Cycle。Cortex-A15 は VFPv4 により、1 cycle で1回 FMA が計算できるので、2 FLOPS/Cycle。Cortex-A57より、NEONでも倍精度が扱えるようになる。
=== ゲーム機 ===
※いずれも単精度(FP32)
*[[ドリームキャスト]]: 1.4GFLOPS([[SuperH|SH-4]]単体)<ref>[https://www.hitachi.co.jp/New/cnews/9711/1110.html 組込み型マイコンとして業界最高性能の360MIPSを実現した SH-4「SH7750シリーズ」を製品化]</ref>
*[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]: 1.5GFLOPS
*[[Xbox 360]]: 115.2GFLOPS([[Xenon (マイクロプロセッサ)|Xenon]]単体)<ref name=":360">{{Cite web|和書|title=PLAYSTATION 3のグラフィックスエンジンRSX|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0701/kaigai195.htm|website=PC Watch|accessdate=2021-11-12|language=ja}}</ref>、240GFLOPS([[Xbox_360#GPU|Xenos GPU]]単体)<ref name=":360"/>、1TFLOPS (システム全体):但し詳しい内訳は不明<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20050513/xbox2.htm マイクロソフト、「Xbox 360」ハードウェア編 丸山嘉浩氏「日本で成功しなければ成功したと言えない」 GAME watch 2005/05/13]</ref>
*[[Xbox One]]: 1.3TFLOPS(GPU単体)<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=【後藤弘茂のWeekly海外ニュース】 Xbox One X搭載チップ「Scorpio Engine」の詳細が明らかに |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/1077642.html |website=PC Watch |date=2017-08-28 |access-date=2023-01-11 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>、[[Xbox One|Xbox One S]]: 1.4TFLOPS(GPU単体)<ref name=":1" />、[[Xbox One|Xbox One X]]: 6TFLOPS(GPU単体)<ref name=":1" />
*[[Xbox Series X/S|Xbox Series X]]: 12.15TFLOPS(GPU単体)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=Xbox One Xを圧倒する高性能! Xbox Series S、詳細スペックが公開|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1276117.html|website=GAME Watch|date=2020-09-10|accessdate=2021-06-05|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>、[[Xbox Series X/S|Xbox Series S]]: 4TFLOPS(GPU単体)<ref name=":0" />
*[[PlayStation Portable]]: CPU 2.6GFLOPS / 9.6GFLOPS(ピーク時/システム全体)
*[[PlayStation 2]]: 6.2GFLOPS([[Emotion Engine]]単体)<ref>{{Cite web|和書|date=1999-03-02 |url=http://www.scei.co.jp/corporate/release/pdf/990302_3.pdf |title=次世代プレイステーション向け世界最高速の128ビットCPU Emotion Engine を開発 |format=PDF |publisher=[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] |accessdate=2013-07-11 }}</ref>
*[[PlayStation 3]]: 218GFLOPS([[Cell Broadband Engine]]単体)<ref>{{Cite web|和書|title=ベールを脱いだPlayStation 3の姿|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0518/kaigai180.htm|website=4gamer.net|accessdate=2021-11-12|language=ja}}</ref>、224GFLOPS ([[PlayStation 3#仕様|RSX]]単体)<ref name=ps3gpu>{{Cite web|和書|title=西川善司,PS4にまつわる6つの疑問に答えるそぶりをしてみる~PS4はPS4.1,PS4.2と進化する!?|url=https://www.4gamer.net/games/990/G999024/20130224001/|website=4gamer.net|accessdate=2021-11-12|language=ja}}</ref>、2TFLOPS (システム全体):但し詳しい内訳は不明<ref>[http://www.jp.playstation.com/info/release/nr_20050517_ps3.html PlayStation.com(Japan)]</ref>
*[[PlayStation 4]]: 1.84TFLOPS(GPU単体)<ref name=ps3gpu />、[[PlayStation_4#PlayStation_4_Pro|PlayStation 4 Pro]]: 4.2TFLOPS(GPU単体)<ref>{{Cite web|和書|title=西川善司の3DGE:知られざるPS4 Proの秘密(1)メモリ増量に,Polarisと次世代GPUの機能取り込み!?|url=https://www.4gamer.net/games/990/G999024/20161103002/|website=4gamer.net|accessdate=2021-11-12|language=ja}}</ref>
*[[PlayStation 5]]:10.3TFLOPS(GPU単体)<ref>{{Cite web|和書|title=「PS5」の詳細スペックやシステム設計情報が解禁。ロード時間は2GBをわずか0.27秒、PS4互換はすでに100作を確認、新オーディオエンジンで雨粒から音を再現|url=https://news.denfaminicogamer.jp/news/200319a|website=電ファミニコゲーマー – ゲームの面白い記事読んでみない?|accessdate=2020-03-18|language=ja}}</ref>
<!--*[[ニンテンドーゲームキューブ|ゲームキューブ]]: 13GFLOPS (ピーク時/システム全体)<ref>[https://news.mynavi.jp/news/2000/08/25/14.html ATIのグラフィックスチップ技術が「Nintendo GAMECUBE」に採用(マイコミジャーナル)]</ref>:出展元の情報が変更、削除されていたためコメントアウト-->
<!--*[[Wii]]: 21GFLOPS (システム全体)<ref>[[:fr:Wii]]</ref>:出展元の情報が変更、削除されていたためコメントアウト-->
=== スーパーコンピュータ ===
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! FLOPS
! 理論値/実測値
! システム概要
! 参照
|-
! [[ENIAC]]
| align=right|300FLOPS
|
|1946年完成
|
|-
! [[CRAY-1]]
| align=right|160MFLOPS
| 倍精度, 理論ピーク性能値
|1976年初号機納入
|
|-
! [[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]
| align=right|11.38GFLOPS
|
|1989年開発開始、1997年チェス世界チャンピオンと対戦し、勝利
|
|-
! [[地球シミュレータ]]<br>(第1世代)
| align=right|35.86TFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| [[TOP500]] Jun 2002 1位
|
|-
! [[TSUBAME]] 1.2
| align=right|87.01TFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| TOP500 Jun 2009 41位
|
|-
! [[T2Kオープンスパコン]]
| align=right|101.74TFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
|
|
|-
! 地球シミュレータ<br>(第2世代)
| align=right|122.4TFLOPS
|
| TOP500 Jun 2009 16位
|
|-
! GPUクラスタ<br>([[長崎大学]]、[[濱田剛]]ら)
| align=right|158TFLOPS
|
|
|<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.nagasaki-u.ac.jp/main/gakujutsu/2009/gaku20091126.pdf | title = GPU クラスタによる高性能計算技術の実証:長崎大学濱田剛テニュアトラック助教らのGPU クラスタによる計算がゴードン・ベル賞を受賞 | format = PDF | accessdate = 2010-06-02}}</ref>
|-
! [[Blue Gene|Blue Gene/L]]
| align=right|478.2TFLOPS
|
| TOP500 Nov 2007 1位
|
|-
! [[Roadrunner|IBM Roadrunner]]
| align=right|1.105PFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| TOP500 Jun 2008 1位
|
|-
! [[TSUBAME]] 2.0
| align=right|1.192PFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| TOP500 Nov 2011 4位<br>
Xeon + NVIDIA Tesla
|
|-
! [[天河一号|天河一号A]]
| align=right|2.566PFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| TOP500 Nov 2010 1位<br>
理論値 4.701 PFLOPS。実行効率 54.6%<br>
Xeon + NVIDIA Tesla
|
|-
! [[TSUBAME]] 2.5
| align=right|2.843PFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| TOP500 Nov 2013 11位 , [[Green500]] 6位<br>
理論値 5.609 PFLOPS。実行効率 50.7%<br>
Xeon + NVIDIA Tesla
|
|-
! [[京 (スーパーコンピュータ)|京]]
| align=right|10.510PFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| TOP500 Jun 2011 1位
実行効率 93.2%<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kyokai/456393.html 【森山和道の「ヒトと機械の境界面」】 スパコン「京」を使う「次世代生命体統合シミュレーション」とは]</ref> - CPU数88,128個, 理論値 11,280,384 GFLOPS (=128 GFLOPS×88,128)
|<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20111103-kei_linpack/ 【レポート】「京」コンピュータが京速を達成 - Top500の首位堅持に期待 - エンタープライズ - マイコミジャーナル]</ref><ref>[http://www.nsc.riken.jp/K/diary.html 「京」が第37回TOP500ランキングにおいて世界第一位を獲得!]</ref>
|-
! [[IBM Sequoia]]
| align=right|17.172PFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| TOP500 Nov 2012 1位<br>
理論値 20.133 PFLOPS。実行効率 85.3%<br>
PowerPC A2
|
|-
! [[天河二号]]
| align=right|61.445PFLOPS
| 倍精度, LINPACK実測値
| TOP500 Jun 2013 1位<br>
理論値 100.679 PFLOPS。実行効率 61.0%<br>
Xeon E5-2692v2 + Xeon Phi 31S1P
|
|-
![[神威・太湖之光|神威太湖之光]]
| align=right|93.01PFLOPS
|
|TOP500 Jun 2016 1位<br>
理論値 125.436 PFLOPS。実行効率 74.1%<br>
SW26010, Sunway
|
|-
![[Summit (スーパーコンピュータ)|Summit]]
| align=right|143.5PFLOPS
|
|TOP500 Jun 2018 1位<br>
理論値 200.795 PFLOPS。実行効率 71.4%<br>
Power9 22C, Mellanox dual-rail EDR InfiniBand
|
|-
![[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]
|442.01PFLOPS
|倍精度, LINPACK実測値
|TOP500 Jun 2020 1位
理論値 520PFLOPS。実行効率 82.3%
|
|}
=== [[分散コンピューティング]] ===
{| class="wikitable"
|+
! 名称 || FLOPS || 日付 || 参加台数 || Active率 || 参照
|-
! rowspan="4" | [[Berkeley Open Infrastructure for Network Computing|BOINC]]
| align=right|2.958PFLOPS
| 2009年12月6日
|
|
| rowspan="4" |<ref>[http://boincstats.com/en/stats/-1/project/detail BOINC STATS - BOINC combined]</ref>
|-
| align=right|8.563PFLOPS
| 2013年12月26日
| 986,613台
| 8.51%
|-
| align=right|161.081PFLOPS
| 2015年2月3日
| 376,688台
| 3.54%
|-
|160.76PFLOPS
|2017年3月14日
|739,507台
|4.79%
|-
! rowspan="2" |[[SETI@home]]<BR>(BOINCに含む)
| align=right|658.210TFLOPS
| 2013年12月26日
|
|
|
|-
| align=right|731.599TFLOPS
| 2009年12月6日
|
|
|
|-
![[United Devices|UD Agent]]
| align=right|65TFLOPS
| 2001年10月01日
| 約96万台
|
|
|-
! rowspan="3" |[[Folding@home]]
| align=right|4.273PFLOPS
| 2008年11月22日
| Active 353,966 CPU<BR>(参加約355万台)
|
|
|-
|align=right| 5.427PFLOPS
| 2012年3月23日
|
|
|
|-
|align=right|2.4EFLOPS
| 2020年4月14日
|
|
|<ref name="fah2.4eflops"></ref>
|}
=== [[グラフィックスカード]] ===
単精度の積和算を 2 FLOPS/Clock で行える。
====NVIDIA====
*[[NVIDIA GeForce|GeForce 8600 GTS]]: 92.8GFLOPS / 139GFLOPS(積和算 / 積和算、積算合計)
*[[NVIDIA GeForce|GeForce 8800 GT]]: 336GFLOPS / 504GFLOPS(積和算 / 積和算、積算合計)
*[[NVIDIA GeForce|GeForce 9600 GT]]: 208GFLOPS / 312GFLOPS(積和算 / 積和算、積算合計)
*[[NVIDIA GeForce|GeForce 9800 GTX+]]: 470GFLOPS / 705GFLOPS(積和算 / 積和算、積算合計)
*[[NVIDIA GeForce#GeForce 200 Series|GeForce GTX 280]]: 622GFLOPS / 933GFLOPS(積和算 / 積和算、積算合計)<ref>[https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0806/19/news047_2.html ゲームを超えるミッションとは──NVIDIAが「GT200」にこめたGPUの可能性 (2/3) - ITmedia +D PC USER]</ref><ref>[http://www.nvidia.com/docs/IO/55506/GeForce_GTX_200_GPU_Technical_Brief.pdf GeForce GTX 200 GPU Technical Brief]</ref>
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! GeForce GTX 480
| 480
| 1401 MHz
| 単精度:1.345 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1401 MHz × 480コア
|
|-
! GeForce GTX 580
| 512
| 1544 MHz
| 単精度:1.581 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1544 MHz × 512コア
|
|-
! GeForce GTX 590<br/>(2GPU合計)
| 1024
| 1214 MHz
| 単精度:2.488 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1214 MHz × 1024コア
|
|-
! GeForce GTX 680
| 1536
| 1006 MHz
| 単精度:3.090 TFLOPS<br>倍精度:129 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1006 MHz × 1536コア<br>倍精度:1/12 FLOPS/Clock × 1006 MHz × 1536コア
|
|-
! GeForce GTX 690<br/>(2GPU合計)
| 3072
| 915 MHz
| 単精度:5.621 TFLOPS<br>倍精度:234 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 915 MHz × 3072コア<br>倍精度:1/12 FLOPS/Clock × 915 MHz × 3072コア
|
|-
! GeForce GTX 780 Ti<br/>Special Black Edition
| 2880
| 1000 MHz
| 単精度:5.76 TFLOPS<br>倍精度:240 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1000 MHz × 2880コア<br>倍精度:1/12 FLOPS/Clock × 1000 MHz × 2880コア
|
|-
! GeForce GTX TITAN X
| 3072
| 1000 MHz
| 単精度:6.144 TFLOPS<br>倍精度:192 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1000 MHz × 3072コア<br>倍精度:1/16 FLOPS/Clock × 1000MHz × 3072コア
|<ref name="ascii-titan-x">[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/review/693058.html 【レビュー】Maxwellのモンスター、「GeForce GTX TITAN X」をベンチマーク - PC Watch]</ref>
|-
! GeForce GTX TITAN Z<br>(2GPU合計)
| 5760
| 705 MHz
| 単精度:8.12 TFLOPS<br>倍精度:2.71 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 705 MHz × 5760コア<br>倍精度:2/3 FLOPS/Clock × 705 MHz × 5760コア
|<ref name="ascii-titan-z">[https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/622/2622019/?r=1 2999ドルの超弩級グラフィックボード『GeForce GTX TITAN Z』登場 - 週アスPLUS]</ref>
|-
! GeForce GTX 980
| 2048
| 1126 MHz
| 単精度:4.612 TFLOPS<br>倍精度:144 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1126 MHz × 2048コア<br>倍精度:1/16 FLOPS/Clock × 1126 MHz × 2048コア
| <ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/667569.html 【後藤弘茂のWeekly海外ニュース】高い電力性能比を実現した「Geforce GTX 980」の秘密 - PC Watch]</ref>
|-
!GeForce GTX 1080
|2560
|1733 MHz
|単精度:8.872 TFLOPS<br>倍精度:277 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1733 MHz × 2560コア<br>倍精度:1/16 FLOPS/Clock × 1733 MHz × 2560コア
|<ref>https://www.4gamer.net/games/251/G025177/20160516073/</ref>
|-
!GeForce RTX 2080
|2944
|1710 MHz
|単精度:10.07 TFLOPS<br>倍精度:314 GFLOPS
|理論値
(RT,TensorCoreを除く)
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1710 MHz × 2944コア<br>倍精度:1/16 FLOPS/Clock × 1710 MHz × 2944コア
|<ref>{{Cite web|和書|title=西川善司の3DGE:GeForce RTX 20完全理解。レイトレ以外の部分も強化が入ったTuringアーキテクチャにとことん迫る|url=https://www.4gamer.net/games/421/G042134/20180913178/|website=www.4gamer.net|accessdate=2020-09-05|language=ja|first=Aetas|last=Inc}}</ref>
|-
!GeForce RTX 3080
|8704
|1710 MHz
|単精度:29.77 TFLOPS
倍精度:465 GFLOPS
|理論値
(RT,TensorCoreを除く)
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1710 MHz × 8704コア
倍精度:1/32 FLOPS/Clock × 1710 MHz × 8704コア
|<ref>{{Cite web|和書|title=西川善司の3DGE:GeForce RTX 30シリーズのアーキテクチャを探る。CUDA Coreの増量とRT Coreの高性能化に注目だ |url=https://www.4gamer.net/games/527/G052743/20200911024/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-05-28 |language=ja |first=Aetas |last=Inc}}</ref>
|-
!GeForce RTX 4080 16GB
|9728
|2504 MHz
|単精度:48.74 TFLOPS
倍精度:761 GFLOPS
|理論値
(RT,TensorCoreを除く)
|単精度:2 FLOPS/Clock × 2504 MHz × 9728コア
倍精度:1/32 FLOPS/Clock × 2505 MHz × 9728コア
|<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=西川善司の3DGE:GeForce RTX 40完全解説。シェーダの大増量にレイトレーシングの大幅機能強化など見どころのすべてを明らかに |url=https://www.4gamer.net/games/656/G065603/20221010003/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-05-28 |language=ja |first=Aetas |last=Inc}}</ref>
|-
!GeForce RTX 4090
|16384
|2520 MHz
|単精度:82.58 TFLOPS
倍精度:1.290 TFLOPS
|理論値
(RT,TensorCoreを除く)
|単精度:2 FLOPS/Clock × 2520 MHz × 16384コア
倍精度:1/32 FLOPS/Clock × 2520 MHz × 16384コア
|<ref name=":2" />
|}
====AMD====
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! Radeon HD 3650
| 120
| 725MHz
| 単精度:174 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 725MHz × 120コア
|
|-
! Radeon HD 3870
| 320
| 825MHz
| 単精度:496 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 825MHz × 320コア
|
|-
! Radeon HD 4670
| 320
| 750MHz
| 単精度:480 GFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 750MHz × 320コア
|
|-
! Radeon HD 4870
| 800
| 750MHz
| 単精度:1.2 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 750MHz × 800コア
|
|-
! Radeon HD 5870
| 1600
| 850MHz
| 単精度:2.72 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 850MHz × 1600コア
|
|-
! Radeon HD 5970<br/>(2GPU合計)
| 3200
| 725MHz
| 単精度:4.64 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 725MHz × 3200コア
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20091118-a037/|title=米AMD、2基のGPUを搭載する「ATI Radeon HD 5970」 - 演算性能は4.64TFLOPS - マイコミジャーナル|accessdate=2009-12-07}}</ref>
|-
! Radeon HD 6970
| 1536
| 880MHz
| 単精度:2.703 TFLOPS<br>倍精度:0.676 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 880MHz × 1536コア<br>倍精度:0.5 FLOPS/Clock × 880MHz × 1536コア
|<ref name="amd-radeon-hd-7970-ghz"/>
|-
! Radeon HD 6990<br/>(2GPU合計)
| 3072
| 830 MHz
| 単精度:5.1 TFLOPS<br>倍精度:1.275 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 830 MHz × 3072コア<br>倍精度:0.5 FLOPS/Clock × 830MHz × 3072コア
|
|-
! Radeon HD 7970<br>GHz Edition
| 2048
| 1.05 GHz
| 単精度:4.301 TFLOPS<br>倍精度:1.075 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1.05 GHz × 2048コア<br>倍精度:0.5 FLOPS/Clock × 1.05 GHz × 2048コア
|<ref name="20130424_597160">[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/597160.html GPUアーキテクチャ刷新のサイクル変化が産んだ「Radeon HD 7990」]</ref><ref name="amd-radeon-hd-7970-ghz">[http://www.anandtech.com/show/6025/radeon-hd-7970-ghz-edition-review-catching-up-to-gtx-680 AMD Radeon HD 7970 GHz Edition Review: Battling For The Performance Crown]</ref>
|-
! Radeon HD 7990<br/>(2GPU合計)
| 4096
| 1.0 GHz
| 単精度:8.192 TFLOPS<br>倍精度:2.048 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1.0 GHz × 4096コア<br>倍精度:0.5 FLOPS/Clock × 1.0 GHz × 4096コア
|<ref name="20130424_597160"/>
|-
! Radeon R9 290X
| 2816
| 1.0 GHz
| 単精度:5.632 TFLOPS<br>倍精度:1.408 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1.0 GHz × 2816コア<br>倍精度:0.5 FLOPS/Clock × 1.0 GHz × 2816コア
|
|-
! Radeon R9 295X2<br/>(2GPU合計)
| 5632
| 1.018 GHz
| 単精度:11.467 TFLOPS<br>倍精度:2.867 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1.018 GHz × 5632コア<br>倍精度:0.5 FLOPS/Clock × 1.018 GHz × 5632コア
|
|}
ハイエンドでは倍精度(fp64)は 0.5 FLOPS/Cycle であるが、ミドルレンジ以下は 0.125 FLOPS/Cycle<ref>[http://www.anandtech.com/show/6570/amds-annual-gpu-rebadge-radeon-hd-8000-series-for-oems AMD’s Annual GPU Rebadge: Radeon HD 8000 Series for OEMs]</ref> であったり、倍精度の計算が出来なかったりする。
==== Intel ====
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! [[実行ユニット|EU]]数
! クロック
! FLOPS
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! [[Intel GMA]] X4500
| 10
| 800MHz
| 単精度:32 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:4 FLOPS/Clock × 10EU × 800MHz
| <ref name=sandy_graphics/>
|-
! [[Intel HD Graphics]] (Clarkdale)
| 12
| 900MHz
| 単精度:43.2 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:4 FLOPS/Clock × 12EU × 900MHz
| <ref name=sandy_graphics/>
|-
! Intel HD Graphics 3000
| 12
| 1.35GHz (Max)
| 単精度:129.6 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:8 FLOPS/Clock × 12EU × 1.35GHz
| <ref name=sandy_graphics>[https://software.intel.com/sites/default/files/m/d/4/1/d/8/Sandy_Bridge_Intel_HD_Graphics_DirectX_Developer_s_Guide_2dot9dot6.pdf Intel HD Graphics DirectX Developer's Guide (Sandy Bridge)] PDF</ref>
|-
! Intel HD Graphics 4000
| 16
| 1.35GHz (Max)
| 単精度:345.6 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:16 FLOPS/Clock × 16EU × 1.35GHz
| <ref name=has_graphics/>
|-
! Intel HD Graphics ([[Haswellマイクロアーキテクチャ|Haswell]])
| 10
| 1.2GHz (Max)
| 単精度:192 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:16 FLOPS/Clock × 10EU × 1.2GHz
| <ref name=has_graphics>[https://software.intel.com/sites/default/files/4th_Generation_Core_Graphics_Developers_Guide_Final.pdf DirectX Developer’s Guide for Intel® Processor Graphics Maximizing Graphics Performance on 4th Generation Intel® Core™ Processors] PDF</ref>
|-
! [[Intel HD Graphics|Intel Iris Pro Graphics]] 5200
| 40
| 1.3GHz (Max)
| 単精度:832 GFLOPS<br>倍精度:208 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:16 FLOPS/Clock × 40EU × 1.3GHz<br>倍精度:4 FLOPS/Clock × 40EU × 1.3GHz
| <ref>[https://software.intel.com/sites/default/files/managed/f3/13/Compute_Architecture_of_Intel_Processor_Graphics_Gen7dot5_Aug2014.pdf The Compute Architecture of Intel® Processor Graphics Gen7.5] PDF</ref>
|-
! Iris Pro Graphics 6200
| 48
| 1.15GHz (Max)
| 単精度:883 GFLOPS<br>倍精度:220.8 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:16 FLOPS/Clock × 48EU × 1.15GHz<br>倍精度:4 FLOPS/Clock × 48EU × 1.15GHz
| <ref>[https://software.intel.com/sites/default/files/Compute%20Architecture%20of%20Intel%20Processor%20Graphics%20Gen8.pdf The Compute Architecture of Intel® Processor Graphics Gen8] PDF</ref>
|-
! Intel HD Graphics 530<br>([[Skylakeマイクロアーキテクチャ|Skylake]])
| 24
| 1.15GHz (Max)
| 単精度:441.6 GFLOPS<br>倍精度:110.4 GFLOPS
| 理論値
| 単精度:16 FLOPS/Clock × 24EU × 1.15GHz<br>倍精度:4 FLOPS/Clock × 24EU × 1.15GHz
| <ref>[https://software.intel.com/sites/default/files/managed/c5/9a/The-Compute-Architecture-of-Intel-Processor-Graphics-Gen9-v1d0.pdf The Compute Architecture of Intel® Processor Graphics Gen9] PDF</ref>
|}
HD Graphicsの各EUは4-way SIMDの演算器を備えており、1命令で4並列の単精度浮動小数点演算が可能である。Sandy Bridgeより前の世代では1クロックでEUあたり1つの加算もしくは乗算命令を実行可能で、4FLOPS/EU。Sandy Bridge世代では1クロックでEUあたり1つのFMA命令を実行可能で、8FLOPS/EU。Ivy Bridge世代以降は1クロックでEUあたり2つのFMA命令を実行可能で、16FLOPS/EUとなる。
==== Qualcomm [[Snapdragon]] ====
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! ALU数
! クロック
! FLOPS(単精度)
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! [[Adreno]] 200
| 8
| 245MHz
| 3.92 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 245MHz × 8ALU
|
|-
! Adreno 203<br>Adreno 205
| 16
| 245MHz
| 7.84 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 245MHz × 16ALU
|
|-
! Adreno 220
| 32
| 266MHz
| 17.0 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 266MHz × 32ALU
|
|-
! Adreno 225
| 32
| 400MHz
| 25.6 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 400MHz × 32ALU
|
|-
! Adreno 320<br>(Snapdragon S4 Pro)
| 64
| 400MHz
| 57 GFLOPS
| 理論値
| 2.25 FLOPS/ALU × 400MHz × 64ALU
| <ref name="359gsm">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13152&start=0&st=0&sk=t&sd=a 359gsm.com - Qualcomm Snapdragon 800 & Adreno 330]</ref>
|-
! Adreno 320<br>(Snapdragon 600)
| 96
| 400MHz
| 86.4 GFLOPS
| 理論値
| 2.25 FLOPS/ALU × 400MHz × 96ALU
| <ref name="359gsm">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13152&start=0&st=0&sk=t&sd=a 359gsm.com - Qualcomm Snapdragon 800 & Adreno 330]</ref>
|-
! Adreno 330<br>(Snapdragon 800)
| 128
| 450MHz
| 129.6 GFLOPS
| 理論値
| 2.25 FLOPS/ALU × 450MHz × 128ALU
| <ref name="359gsm">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13152&start=0&st=0&sk=t&sd=a 359gsm.com - Qualcomm Snapdragon 800 & Adreno 330]</ref>
|-
! Adreno 430<br>(Snapdragon 810)
| 288
| 500MHz
| 324 GFLOPS
| 理論値
| 2.25 FLOPS/ALU × 500MHz × 288ALU
|
|}
==== [[Appleシリコン]] ====
{| class="wikitable"
|+
! width="100" | チップセット
! width="100" | GPU コア / クラスタ
! GPU MHz
! FLOPS
! デバイス
! width="400" | GPU モデルと理論値の計算式
! 参照
|-
! rowspan="2" | Apple A4
| rowspan="2" | <center>1 Core</center>
| <center>200MHz</center>
| <center>1.6 GFLOPS</center>
| <center>iPhone 4</center>
| [[PowerVR]] SGX535 @ 200 MHz (2vec4)
4 x 2 х 0.200 = 1.6 GFLOPS
| <ref name="anandtech_iphone5">[http://www.anandtech.com/show/6324/the-iphone-5-performance-preview AnandTech - The iPhone 5 Performance Preview]</ref>
|-
| <center>250MHz</center>
| <center>2 GFLOPS</center>
| <center>iPad</center>
| [[PowerVR]] SGX535 @ 250 MHz (2vec4)
4 x 2 х 0.250 = 2 GFLOPS
|
|-
! rowspan="2" | Apple A5
| rowspan="2" | <center>2 Cores</center>
| <center>200MHz</center>
| <center>14.4 GFLOPS</center>
| <center>iPhone 4S</center>
| [[PowerVR]] SGX543MP2 (dual-core) @ 250 MHz
2vec4 + 1 scalar: 4х2+1=9 * 8 х 0.200 х 9 = 14.4 GFLOPS
| <ref name="359gsm_Apple">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13396 359gsm.com - Apple GPU GFLOPS PowerVR Series5 SGXMP]</ref>
|-
| <center>250MHz</center>
| <center>18 GFLOPS</center>
| <center>iPad 2</center>
| [[PowerVR]] SGX543MP2 (dual-core) @ 200 MHz
2vec4 + 1 scalar: 4х2+1=9 * 8 х 0.200 х 9 = 18 GFLOPS
| <ref name="359gsm_Apple">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13396 359gsm.com - Apple GPU GFLOPS PowerVR Series5 SGXMP]</ref>
|-
! Apple A5X
| <center>4 Cores</center>
| <center>250MHz</center>
| <center>36 GFLOPS</center>
| <center>iPad 3</center>
| [[PowerVR]] SGX543MP4 (quad-core) @ 250 MHz
2vec4 + 1 scalar: 4х2+1=9 * 16 х 0.250 х 9 = 36 GFLOPS
| <ref name="359gsm_Apple">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13396 359gsm.com - Apple GPU GFLOPS PowerVR Series5 SGXMP]</ref>
|-
! Apple A6
| <center>3 Cores</center>
| <center>250MHz</center>
| <center>27 GFLOPS</center>
| <center>iPhone 5</center>
| [[PowerVR]] SGX543MP3 (tri-core) @ 250 MHz
2vec4 + 1 scalar: 4х2+1=9 * 12 х 0.250 х 9 = 27 GFLOPS
| <ref name="359gsm_Apple">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13396 359gsm.com - Apple GPU GFLOPS PowerVR Series5 SGXMP]</ref>
|-
! Apple A6X
| <center>4 Cores</center>
| <center>280MHz</center>
| <center>80 GFLOPS</center>
| <center>iPad 4</center>
| [[PowerVR]] SGX554MP4 (quad-core) @ 280 MHz
2vec4 + 1 scalar: 4х2+1=9 * 32 х 0.280 х 9 = 80 GFLOPS
| <ref name="359gsm_Apple A6">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=12844 359gsm.com - Apple A6X & PowerVR SGX554]</ref>
|-
! rowspan="2" | Apple A7
| rowspan="2" | <center>4 Clusters</center>
| <center>450MHz</center>
| <center>115.2 GFLOPS</center>
| <center>iPhone 5S</center>
| [[PowerVR]] G6430 (quad-clusters) @ 450 MHz
64 USC x 4 Clusters x 0.450 = 115.2 GFLOPS
| <ref name="359gsm_Apple A7">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13972 359gsm.com - Apple A7 & PowerVR G6430]</ref>
|-
| <center>533MHz</center>
| <center>136.4 GFLOPS</center>
| <center>iPad Air</center>
| [[PowerVR]] G6430 (quad-clusters) @ 533 MHz
64 USC x 4 Clusters x 0.533 = 136.4 GFLOPS
| <ref name="359gsm_Apple A7">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13972 359gsm.com - Apple A7 & PowerVR G6430]</ref>
|-
! Apple A8
| <center>4 Clusters</center>
| <center>450MHz</center>
| <center>115.2 GFLOPS</center>
| <center>iPhone 6/6 Plus</center>
| [[PowerVR]] G6450 (quad-clusters) @ 450 MHz
64 USC x 4 Clusters x 0.450 = 115.2 GFLOPS
| <ref>[http://www.notebookcheck.net/Apple-A8-SoC.127992.0.html Apple A8 SoC - NotebookCheck.net Tech]</ref>
|-
! Apple A8X
| <center>8 Clusters</center>
| <center>450MHz</center>
| <center>230.4 GFLOPS</center>
| <center>iPad Air 2</center>
| [[PowerVR]] GXA6850 @ 450 MHz
64 USC x 8 Clusters x 0.450 = 230.4 GFLOPS
| <ref>[http://www.anandtech.com/show/8716/apple-a8xs-gpu-gxa6850-even-better-than-i-thought AnandTech | Apple A8X’s GPU - GXA6850, Even Better Than I Thought]</ref><ref>[http://www.notebookcheck.net/Apple-A8X-iPad-SoC.128403.0.html Apple A8X iPad SoC - NotebookCheck.net Tech]</ref>
|-
!Apple A9
|6 Clusters
|650MHz
|249.6GFLOPS
|iPhone 6s/6s Plus
| rowspan="2" |[[PowerVR]] [[PowerVR#Series 7XT|Series 7XT]] GT7600
|
|-
!Apple A9X
|12 Clusters
|650MHz
|499.2 GFLOPS
|iPad Pro
|
|-
!Apple A10 Fusion
|6 Clusters
|900 MHz
|364.8 GFLOPS
|iPhone 7/7 Plus, iPad (第6世代), iPad (第7世代)
| rowspan="2" |[[PowerVR]] [[PowerVR#Series 7XT|Series 7XT]] GT7600 Plus
|
|-
!Apple A10X Fusion
|12 Clusters
|1000 MHz
|768 GFLOPS
|[[12.9インチiPad Pro (第2世代)]],
[[10.5インチiPad Pro]],
[[Apple TV|Apple TV 4K]]
|
|-
!Apple A11
|3 Clusters
|1066 MHz
|409.3 GFLOPS
|iPhone 8/8 Plus, iPhone X
|
|
|-
!Apple A12 Bionic
|4 Clusters
|1125 MHz
|576 GFLOPS
|[[iPhone XR]],
[[iPhone XS]]/[[IPhone XS Max|XS Max]],
[[iPad Air (第3世代)]],
[[iPad mini (第5世代)]],
[[iPad (第8世代)]],
[[Apple TV#Apple TV+|Apple TV 4K (第2世代)]]
|
|
|-
!Apple A12X Bionic
|7 Clusters
| rowspan="2" |1340 MHz
|1200 GFLOPS
|iPad Pro
|
|
|-
!Apple A12Z Bionic
|8 Clusters
|1372 GFLOPS
|iPad Pro, Developer Transition Kit
|
|
|-
!Apple A13 Bionic
|4 Clusters
|1350 MHz
|691 GFLOPS
|iPhone 11シリーズ, iPhone SE (第2世代), iPad (第9世代)
|
|
|-
!Apple A14 Bionic
|4 Clusters
|975 MHz
|998 GFLOPS
|iPhone 12シリーズ,
iPad Air (第4世代), iPad (第10世代)
|
|
|-
!Apple A15
|4 Clusters
5 Clusters
|1.2 GHz
|1.4 TFLOPS
1.5 TFLOPS
|iPhone 13シリーズ, iPhone 14/14 Plus, iPhone SE (第3世代),iPad mini (第6世代), Apple TV 4K (第3世代)
|
|
|-
!Apple A16
|5 Clusters
|1.2 GHz
|2.0 TFLOPS
|iPhone 14 Pro/14 Pro Max,
|
|
|-
!Apple M1
|7 Clusters
8 Clusters
|1.28 GHz
|2.6 TFLOPS
|MacBook Air, Mac mini, iMac, iPad Pro
|
|
|-
!Apple M1 Pro
|14 Clusters
16 Clusters
| rowspan="3" |1.3 GHz
|4.5 TFLOPS
5.3 TFLOPS
|MacBook Pro
|
|
|-
!Apple M1 Max
|24 Clusters
32 Clusters
|7.8 TFLOPS
10.6 TFLOPS
|MacBook Pro, [[Mac Studio]]
|
|
|-
!Apple M1
Ultra
|48 Clusters
64 Clusters
|15.6 TFLOPS
21.2 TFLOPS
|Mac Studio
|
|
|-
!Apple M2
|8 Clusters
10 Clusters
| rowspan="4" |1.4 GHz
|3.6 TFLOPS
|MacBook Air, Mac mini, iPad Pro
|
|
|-
!Apple M2 Pro
|16 Clusters
19 Clusters
|6.8 TFLOPS
|Mac mini, MacBook Pro
|
|
|-
!Apple M2 Max
|30 Clusters
38 Clusters
|13.6 TFLOPS
|MacBook Pro, Mac Studio
|
|
|-
!Apple M2 Ultra
|60 Clusters
72 Clusters
|27.2 TFLOPS
|Mac Studio, Mac Pro
|
|
|}
==== Texas Instruments OMAP ====
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS(単精度)
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! PowerVR SGX 540
| 4
| 384MHz
| 6.1 GFLOPS
| 理論値
| 4 FLOPS/コア × 384MHz × 4コア
|
|}
==== NVIDIA Tegra ====
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! ALU数
! クロック
! FLOPS(単精度)
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! Tegra 2
| 8
| 333MHz
| 5.6 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 333MHz × 8ALU
|
|-
! Tegra 3
| 12
| 500MHz
| 12.48 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 520MHz × 12ALU
| <ref name="anandtech_ipad3">[http://www.anandtech.com/Show/Index/5663?cPage=5&all=False&sort=0&page=1&slug=analysis-of-the-new-apple-ipad AnandTech - Analysis of the new Apple iPad]</ref><ref name="20130225_589158"/>
|-
! Tegra 4i
| 60
| 660MHz
| 79.2 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 660MHz × 60ALU
|<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20130225-tegra4/3 【レポート】NVIDIA、Tegra 4の詳細をついに公開 - CPUだけでなくGPUも大規模アーキテクチャ変更と明らかに (3) より高性能な製造プロセスを利用するTegra 4i - パソコン - マイナビニュース]</ref>
|-
! Tegra 4
| 72
| 672MHz
| 96.768 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 672MHz × 72ALU
| <ref name="20130225_589158">[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/589158.html 【後藤弘茂のWeekly海外ニュース】NVIDIAがMWCに合わせて「Tegra 4/4i」の詳細を明らかに]</ref>
|-
! Tegra K1
| 192
| 950MHz
| 365 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 950MHz × 192ALU
|
|-
! Tegra X1
| 256
| 1.0 GHz
| 512 GFLOPS
| 理論値
| 2 FLOPS/ALU × 1.0GHz × 256ALU
| <ref>[http://www.anandtech.com/show/8811/nvidia-tegra-x1-preview/2 AnandTech | NVIDIA Tegra X1 Preview & Architecture Analysis]</ref>
|}
==== Samsung [[Exynos]] ====
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS(単精度)
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! Exynos 3
| 1
| 200MHz
| 3.2 GFLOPS
| 理論値
| 16 FLOPS × 200MHz
|
|-
! Exynos 4 Dual (45nm)
| 4
| 266MHz
| 9.6 GFLOPS
| 理論値
| 9 FLOPS/コア × 266MHz × 4コア
|
|-
! Exynos 4 Dual (32nm)
| 4
| 400MHz
| 14.4 GFLOPS
| 理論値
| 9 FLOPS/コア × 400MHz × 4コア
|
|-
! Exynos 4 Quad
| 4
| 440MHz
| 15.84 GFLOPS
| 理論値
| 9 FLOPS/コア × 440MHz × 4コア
|
|-
! Exynos 5 Dual
| 4
| 533MHz
| 72.5 GFLOPS
| 理論値
| Mali T604 MP4 (quad-core) @ 533MHz * 16FP + 1 TMU = 17 x 2 ALU x 4 Core x 0.533= 72.488 GFLOPS
| <ref>[http://www.samsung.com/global/business/semiconductor/minisite/Exynos/data/Enjoy_the_Ultimate_WQXGA_Solution_with_Exynos_5_Dual_WP.pdf Enjoy the Ultimate WQXGA Solution with Exynos 5 Dual]</ref>
|-
! Exynos 5410 Octa
| 3
| 533MHz
| 51.2 GFLOPS
| 理論値
| PowerVR SGX544MP3 (tri-core) @ 533MHz * 2vec4=8 * 12 х 0.533 х 8 = 51.2 GFLOPS
|
|-
! Exynos 5420 Octa
| 6
| 533MHz
| 102.4 GFLOPS
| 理論値
| Mali T628 MP6 (six-core) @ 533MHz * 16FP x 2 ALU x 6 Core x 0.533 = 102.4 GFLOPS
| <ref name="359gsm_Mali">[http://www.359gsm.com/forum/viewtopic.php?f=127&t=13942&p=27561#p27561 359gsm.com - Samsung Exynos 5420 & ARM Mali T628 MP6]</ref>
|}
=== GPUアクセラレーター ===
{| class="wikitable"
|+
! 名称
! コア数
! クロック
! FLOPS
! 理論値/実測値
! 理論値の計算式
! 参照
|-
! [[NVIDIA Tesla]] C870
| 128 || 1.35 GHz || 単精度:345.6 GFLOPS<br>倍精度:不可 || 理論値 || 単精度:2 FLOPS/Clock × 1.35 GHz × 128コア ||
|-
! NVIDIA Tesla C1060
| 240 || 1.3 GHz || 単精度:622 GFLOPS<br>倍精度:78 GFLOPS || 理論値 || 単精度:2 FLOPS/Clock × 1.3 GHz × 240コア<br>倍精度:1/4 FLOPS/Clock × 1.3 GHz × 240コア ||
|-
! NVIDIA Tesla C2070
| 448 || 1.15 GHz || 単精度:1.03 TFLOPS<br>倍精度:0.515 TFLOPS || 理論値 || 単精度:2 FLOPS/Clock × 1.15 GHz × 448コア<br>倍精度:1 FLOPS/Clock × 1.15 GHz × 448コア ||
|-
! NVIDIA Tesla K10<br>(2GPU合計)
| 3072 || 745 MHz || 単精度:4.58 TFLOPS<br>倍精度:0.19 TFLOPS || 理論値 || 単精度:2 FLOPS/Clock × 745 MHz × 3072コア<br>倍精度:1/12 FLOPS/Clock × 745 MHz × 3072コア || <ref name="kepler">[http://www.nvidia.co.jp/content/tesla/pdf/NVIDIA-Tesla-Kepler-Family-Datasheet.pdf Tesla Kepler Family Product Overview - Nvidia]</ref>
|-
! NVIDIA Tesla K20
| 2496 || 706 MHz || 単精度:3.52 TFLOPS<br>倍精度:1.17 TFLOPS || 理論値 || 単精度:2 FLOPS/Clock × 706 MHz × 2496コア<br>倍精度:2/3 FLOPS/Clock × 706 MHz × 2496コア || <ref name="kepler"/>
|-
! NVIDIA Tesla K40
| 2880 || 745 MHz || 単精度:4.29 TFLOPS<br>倍精度:1.43 TFLOPS || 理論値 || 単精度:2 FLOPS/Clock × 745 MHz × 2880コア<br>倍精度:2/3 FLOPS/Clock × 745 MHz × 2880コア|| <ref name="kepler"/>
|-
! NVIDIA Tesla K80<br>(2GPU合計)
| 4992 || 562 MHz || 単精度:5.61 TFLOPS<br>倍精度:1.87 TFLOPS || 理論値 || 単精度:2 FLOPS/Clock × 562 MHz × 4992コア<br>倍精度:2/3 FLOPS/Clock × 562 MHz × 4992コア ||
|-
!NVIDIA Tesla P100 16GB
|3584
|1329MHz
|単精度:9.526 TFLOPS<br>倍精度:4.763 TFLOPS
|理論値
|単精度:2 FLOPS/Clock × 1329 MHz × 3584コア<br>倍精度:1 FLOPS/Clock × 1329 MHz × 3584コア
|
|-
! [[AMD FirePro]] S9150
| 2816 || || 単精度:5.07 TFLOPS<br>倍精度:2.53 TFLOPS || 理論値 || || <ref>[http://www.pcworld.com/article/2462240/amd-claims-supercomputing-gpu-performance-crown-with-firepro-s9150.html AMD claims supercomputing GPU performance crown with FirePro S9150]</ref>
|-
! AMD FirePro S9170
| 2816 || || 単精度:5.24 TFLOPS<br>倍精度:2.62 TFLOPS || 理論値 || || <ref>[http://www.amd.com/en-us/products/graphics/server/s9170 AMD FirePro S9170 Server GPU]</ref>
|}
===FPGA===
{| class="wikitable"
|+ [[アルテラ]]
! 名称
! クロック
! FLOPS<br>(単精度、積和算)
! nowrap="nowrap" | 理論値/実測値
! 理論値の計算式
|-
| nowrap="nowrap" | Stratix IV
| nowrap="nowrap" | 445 MHz
| nowrap="nowrap" | 理論値 245 GFLOPS<br>実測値 171 GFLOPS
| nowrap="nowrap" | 理論値
| 64x64の行列のかけ算1つで128個のDSPを消費し、24.45 GFLOPS。DSP は最大1288個なので、244.5 GFLOPS。FPGAでは整数の積和算は1クロックで計算できるが、GPUとは異なり浮動小数点のかけ算は 445MHz 動作で11クロック必要<ref>[http://www.altera.co.jp/products/ip/dsp/arithmetic/m-alt-float-point.html アルテラ浮動小数点メガファンクション]</ref><ref>[http://www.altera.co.jp/literature/ug/ug_altfp_mfug.pdf 浮動小数点メガファンクション ユーザーガイド]</ref>。それに対して、GPUは1クロックで行える。
|-
| nowrap="nowrap" | Stratix V
| nowrap="nowrap" | 388 MHz
| nowrap="nowrap" | 1.568 TFLOPS
| nowrap="nowrap" | 理論値
| 2048 multiplier / 64 * 49 GFLOPS (388 MHz) = 1.568 TFLOPS<ref>[https://www.altera.com/content/dam/altera-www/global/zh_CN/pdfs/literature/wp/wp-01142-teraflops.pdf Achieving One TeraFLOPS with 28nm FPGA]</ref>。単精度の乗算には 27x27 の multiplier が単精度浮動小数点数あたり 64 個必要。
|-
| nowrap="nowrap" | Stratix 10
| nowrap="nowrap" | 1 GHz
| nowrap="nowrap" | 10 TFLOPS
| nowrap="nowrap" | 理論値
| 2 FLOPS * 5000 DSP * 1 GHz = 10 TFLOPS<ref>[https://www.altera.co.jp/ja_JP/pdfs/literature/wp/wp-01222-understanding-peak-floating-point-performance-claims_j.pdf ピーク浮動小数点性能の本質 - ALTERA]</ref>。
|}
{| class="wikitable"
|+ [[ザイリンクス]]
! 名称
! クロック
! FLOPS<br>(単精度)
! nowrap="nowrap" | 理論値/実測値
! 理論値の計算式
|-
| nowrap="nowrap" | Virtex-5 SX240T
|
| 162.52 GFLOPS
| 理論値
| <ref name="fpga-xilinx"/><ref>[http://www.hpcwire.com/hpcwire/2008-05-14/revaluating_fpgas_for_64-bit_floating-point_calculations.html Revaluating FPGAs for 64-bit Floating-Point Calculations]</ref>
|-
| nowrap="nowrap" | Virtex-6 SX475T
|
| 450 GFLOPS
| 理論値
| <ref name="fpga-xilinx">[http://japan.xilinx.com/support/documentation/white_papers/j_wp375_HPC_Using_FPGAs.pdf FPGAを用いた高性能コンピューティング]</ref>
|-
| nowrap="nowrap" | Virtex-7
|
| 833 GFLOPS
| 理論値
| <ref name="xilinx-dsp"/>
|-
| nowrap="nowrap" | Virtex UltraScale
|
| 1.739 TFLOPS
| 理論値
| <ref name="xilinx-dsp">[http://japan.xilinx.com/products/technology/dsp.html DSP - Xilinx]</ref>
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[MIPS]]
*[[TOP500]]
== 外部リンク ==
* [http://www.top500.org/ TOP500 スーパーコンピュータランキング]
** [http://www.top500.org/list/2014/11 TOP500 List 2014/11]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:FLOPS}}
[[Category:ベンチマーク]]
[[Category:スーパーコンピュータ]]
[[Category:周波数の単位]]
|
2003-07-20T17:16:09Z
|
2023-09-26T07:30:22Z
| false | false | false |
[
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Normdaten"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/FLOPS
|
11,933 |
MIPS
|
MIPS(ミプス)は、100万命令毎秒 (million instructions per second) の略で、コンピュータの性能指標の1つ。1秒間に何百万個の命令が実行できるかを表す。
一般にMIPS値は、ほとんど分岐のない命令列を実行させたピーク性能を示し、実際のアプリケーションの性能を表していないことが多い。
メモリ階層もMIPS値に大きく影響する。キャッシュに収まらないサイズのプログラムの場合、実行速度はCPU性能ではなくメモリとバスの性能で決定する。そのため、MIPSは原則として1次キャッシュに収まるサイズのプログラムで測定される。
またMIPSは、同じ命令セットを持つCPU同士で性能を比べないと意味がない。同じことをするのに必要な命令の数が異なるからである。命令セットの種類が少なく、同じことをするのに多くの命令を使うRISCは、同じ技術レベルのCISCより高いMIPSを持つ。異なるアーキテクチャのプロセッサ性能を比較するにはSPECなどのベンチマークを使用する。
用語としては、
などもある。古いコンピュータの性能はKIPSで表されることがある。2006年現在は1 TIPSを超えるCPUはまだ存在しないが、計画や予想、あるいは統計データ(全アメリカのコンピュータの性能の合計など)にTIPSやQIPSが使われることがある。
1970年代末頃から使われた基準のひとつとして、VAX MIPSという値がある。何らかの共通のベンチマークプログラムを使用し、VAX 11/780の性能を「1 VAX MIPS」として、それとの性能比として表現するものである(同機が1 MIPSだったわけではない)。VAX Unit of Performance・VUPなどとも呼ばれた。Dhrystoneが使われるようになると、DhrystoneによるVAX MIPSがDhrystone MIPS・DMIPSとして使われるようになった。
初期の 8 ビットや 16 ビットのマイクロプロセッサの性能は KIPS 単位である(1 KIPS は 0.001 MIPS)。例えば、最初の汎用8ビットマイクロプロセッサである Intel 8080 は 640 KIPS で動作した。Intel 8086 は 800 KIPS、初期の 32ビットのパーソナルコンピュータは 3MIPS程度の性能である。しかし、2011年現在では、組み込み用のマイクロコントローラですら数MIPS程度の計算力があり、大量購入した場合、1個あたり100円以下で購入できる。
zMIPS はIBMが内部的に使っている用語で、同社のメインフレームであるSystem zの性能指標である。
|
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"text": "MIPS(ミプス)は、100万命令毎秒 (million instructions per second) の略で、コンピュータの性能指標の1つ。1秒間に何百万個の命令が実行できるかを表す。",
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"text": "1970年代末頃から使われた基準のひとつとして、VAX MIPSという値がある。何らかの共通のベンチマークプログラムを使用し、VAX 11/780の性能を「1 VAX MIPS」として、それとの性能比として表現するものである(同機が1 MIPSだったわけではない)。VAX Unit of Performance・VUPなどとも呼ばれた。Dhrystoneが使われるようになると、DhrystoneによるVAX MIPSがDhrystone MIPS・DMIPSとして使われるようになった。",
"title": "バリエーション"
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"text": "zMIPS はIBMが内部的に使っている用語で、同社のメインフレームであるSystem zの性能指標である。",
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] |
MIPS(ミプス)は、100万命令毎秒 の略で、コンピュータの性能指標の1つ。1秒間に何百万個の命令が実行できるかを表す。 一般にMIPS値は、ほとんど分岐のない命令列を実行させたピーク性能を示し、実際のアプリケーションの性能を表していないことが多い。 メモリ階層もMIPS値に大きく影響する。キャッシュに収まらないサイズのプログラムの場合、実行速度はCPU性能ではなくメモリとバスの性能で決定する。そのため、MIPSは原則として1次キャッシュに収まるサイズのプログラムで測定される。 またMIPSは、同じ命令セットを持つCPU同士で性能を比べないと意味がない。同じことをするのに必要な命令の数が異なるからである。命令セットの種類が少なく、同じことをするのに多くの命令を使うRISCは、同じ技術レベルのCISCより高いMIPSを持つ。異なるアーキテクチャのプロセッサ性能を比較するにはSPECなどのベンチマークを使用する。 用語としては、 KIPS / kIPS にTIPSやQIPSが使われることがある。
|
{{otheruses}}
{{単位
|名称=100万命令毎秒
|英字=million instructions per second
|記号=MIPS
|単位系=([[秒]]より派生)
|物理量=時間あたり命令数
|定義=毎[[秒]]100万回の命令実行
|SI=10{{sup|6}} s{{sup|−1}}
}}
'''MIPS'''(ミプス)は、100万命令毎秒 (million instructions per second) の略で、[[コンピュータ]]の[[性能指標]]の1つ。1秒間に何百万個の[[命令 (コンピュータ)|命令]]が実行できるかを表す。
一般にMIPS値は、ほとんど分岐のない命令列を実行させたピーク性能を示し、実際のアプリケーションの性能を表していないことが多い。
[[キャッシュ (コンピュータシステム)#記憶階層 (Memory Hierarchy)|メモリ階層]]もMIPS値に大きく影響する。[[キャッシュメモリ|キャッシュ]]に収まらないサイズのプログラムの場合、実行速度は[[CPU]]性能ではなく[[記憶装置|メモリ]]と[[データバス|バス]]の性能で決定する。そのため、MIPSは原則として1次キャッシュに収まるサイズのプログラムで測定される。
またMIPSは、同じ[[命令セット]]を持つ[[CPU]]同士で性能を比べないと意味がない。同じことをするのに必要な命令の数が異なるからである。命令セットの種類が少なく、同じことをするのに多くの命令を使う[[RISC]]は、同じ技術レベルの[[CISC]]より高いMIPSを持つ。異なるアーキテクチャのプロセッサ性能を比較するには[[Standard Performance Evaluation Corporation|SPEC]]などの[[ベンチマーク]]を使用する。
用語としては、
*'''KIPS''' / '''kIPS''' (Kilo Instructions Per Second) 1000命令毎秒
*'''BIPS''' (Billion Instructions Per Second) 10億命令毎秒
*'''TIPS''' (Trillion Instructions Per Second) 1兆命令毎秒
*'''QIPS''' (Quadrillion Instructions Per Second) 1000兆命令毎秒
などもある。古いコンピュータの性能はKIPSで表されることがある。2006年現在は1 TIPSを超えるCPUはまだ存在しないが、計画や予想、あるいは統計データ(全アメリカのコンピュータの性能の合計など)にTIPSやQIPSが使われることがある。
== バリエーション ==
1970年代末頃から<ref>VAX 11/780は1977年に発表された</ref>使われた基準のひとつとして、[[VAX]] MIPSという値がある。何らかの共通のベンチマークプログラムを使用し、VAX 11/780の性能を「1 VAX MIPS」として、それとの性能比として表現するものである(同機が1 MIPSだったわけではない)。''VAX Unit of Performance''・VUPなどとも呼ばれた。[[Dhrystone]]が使われるようになると、DhrystoneによるVAX MIPSが''Dhrystone MIPS''・DMIPSとして使われるようになった。
初期の 8 ビットや 16 ビットの[[マイクロプロセッサ]]の性能は KIPS 単位である(1 KIPS は 0.001 MIPS)。例えば、最初の汎用8ビット[[マイクロプロセッサ]]である [[Intel 8080]] は 640 KIPS で動作した。[[Intel 8086]] は 800 KIPS、初期の 32ビットのパーソナルコンピュータは 3MIPS程度の性能である。しかし、2011年現在では、組み込み用の[[マイクロコントローラ]]ですら数MIPS程度の計算力があり、大量購入した場合、1個あたり100円以下で購入できる。
'''zMIPS''' は[[IBM]]が内部的に使っている用語で、同社の[[メインフレーム]]である[[System z]]の性能指標である。
== MIPS(KIPS)値の変遷 ==
{| class="wikitable sortable"
!style="background:#CCCCCC;" | プロセッサ
!style="background:#CCCCCC;" | MIPS値(*)
!style="background:#CCCCCC;" | (D)MIPS / 動作周波数
!style="background:#CCCCCC;" | 年
!style="background:#CCCCCC;" | 情報源
|-
|[[Intel 4004]]||{{Sort|00000010|92 kIPS at 740 kHz}}<br/>(Dhrystoneではない)||{{Sort|001|0.1}}||1971||<ref>[http://www.cpushack.net/chippics/Intel/MCS4/IntelP4004.html MCS4 > IntelP4004<!-- Bot generated title -->]</ref>
|-
|[[IBM System/370]] model 158-3||{{Sort|0000010|1 Dhrystone MIPS}}||{{Sort|01|1.0}}||1972||
|-
|[[Intel 8080]]||{{Sort|0000005|500 kIPS at 2 MHz}}<br/>(Dhrystoneではない)||{{Sort|00250|0.3}}||1974||
|-
|[[MOS Technology 6502]]||{{Sort|0000005|500 kIPS at 1 MHz}}<br/>(Dhrystoneではない)||{{Sort|005|0.5}}||1975||
|-
|[[VAX|VAX-11/780]]||{{Sort|0000005|500 kIPS}} at 5 MHz<br/>1 Dhrystone MIPS||{{Sort|005|0.2}}||1977||
|-
|[[Motorola 68000]]||{{Sort|0000010|1 MIPS at 8 MHz}}<br/>(Dhrystoneではない)||{{Sort|00125|0.1}}||1979||
|-
|[[Intel 80286|Intel 286]]||{{Sort|0000027|2.66 MIPS at 12.5 MHz}}||{{Sort|00220|0.2}}||1982||<ref>[http://www.computermuseum.li/Testpage/Chip-Intel80286.htm Intel 80286 Microprocessor Chip] (c1982)]</ref>
|-
|[[MC68020|Motorola 68020]]||{{Sort|0000040|4 MIPS at 20 MHz}}||{{Sort|00200|0.2}}||1984||
|-
|[[Intel 80386|Intel 386DX]]||{{Sort|0000114|11.4 MIPS at 33 MHz}}||{{Sort|00340|0.3}}||1985||
|-
|[[ARMアーキテクチャ|ARM2]]||{{Sort|0000040|4 MIPS at 8 MHz}}||{{Sort|00500|0.5}}||1986||
|-
|[[Motorola 68030]]||{{Sort|0000110|11 MIPS at 33 MHz}}||{{Sort|00330|0.3}}||1987||
|-
|[[Motorola 68040]]||{{Sort|0000440|44 MIPS at 40 MHz}}||{{Sort|01100|1.1}}||1990||<ref>[http://www.freescale.com/webapp/sps/site/prod_summary.jsp?code=MC68040&webpageId=M934310184622&nodeId=018rH3YTLC61654622 Freescale 68040 description]</ref>
|-
|[[Alpha 21064|DEC Alpha 21064 EV4]]||{{Sort|0003000|300 MIPS at 150 MHz}}||{{Sort|02705|2.0}}||1992||<ref>[ftp://137.208.3.70/pub/lib/info/dec/alpha-infosheet.ps.Z Digital's 21064 Microprocessor, Digital Equipment Corporation] (c1992) accessdate=2009-08-29</ref>
|-
|[[Intel 80486|Intel 486DX]]||{{Sort|0000540|54 MIPS at 66 MHz}}||{{Sort|00818|0.8}}||1992||
|-
<!--Dubious:|[[PowerPC|PowerPC 600s (G2)]]||{{sort|0000350|35 MIPS at 33 MHz}}||{{sort|01060|1.1}}||1994||-->
|[[MC68060|Motorola 68060]]||{{Sort|0000880|88 MIPS at 66 MHz}}||{{Sort|01330|1.33}}||1994||
|-
|[[Intel Pentium (1993年)|Intel Pentium]]||{{Sort|0001880|188 MIPS at 100 MHz}}||{{Sort|01880|1.88}}||1994||<ref name="autogenerated0">[http://www.tomshardware.com/charts/cpu-charts-2004/Sandra-CPU-Dhrystone,449.html Tomshardware Cpu chart 2004]</ref>
|-
|[[PIC (コントローラ)|Microchip PIC16F]]||{{Sort|0000040|4 MIPS at 20 MHz}}||{{Sort|00200|0.2}}||1995||<ref>[http://www.microchip.com/wwwproducts/Devices.aspx?dDocName=en010230 PIC16F84A]</ref>
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|[[Atmel AVR|Atmel megaAVR]]||{{Sort|0000160|16 MIPS at 16 MHz}}||{{Sort|01000|1}}||1996||<ref>[http://www.atmel.com/dyn/products/devices.asp?category_id=163&family_id=607&subfamily_id=760&source=left_nav Atmel Corporation - Atmel AVR 8- and 32-bit - megaAVR]</ref>
|-
|[[Acorn Network Computer|ARM 7500FE]]||{{Sort|0000359|35.9 MIPS at 40 MHz}}||{{Sort|00897|0.9}}||1996||
|-
|[[Pentium Pro|Intel Pentium Pro]]||{{Sort|0005410|541 MIPS at 200 MHz}}||{{Sort|02705|2.7}}||1996||<ref>[http://www.sisoftware.co.uk/ SiSoftware Zone<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[PowerPC|PowerPC 750]]||{{Sort|0005250|525 MIPS at 233 MHz}}||{{Sort|02253|2.3}}||1997||
|-
|Zilog [[eZ80]]||{{Sort|0000800|80 MIPS at 50 MHz}}||{{Sort|01600|1.6}}||1999||<ref>{{cite news| url=http://findarticles.com/p/articles/mi_m0CGN/is_3751/ai_55817127 | work=Computergram International | title=Zilog Sees New Lease of Life for Z80 in Internet Appliances | year=1999|archiveurl=https://archive.is/fQ2H|archivedate=2012-05-25}}</ref>
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|[[Pentium III|Intel Pentium III]]||{{Sort|0020540|2,054 MIPS at 600 MHz}}||{{Sort|03423|3.4}}||1999||<ref name="autogenerated0" />
|-
|[[PowerQUICC|Freescale MPC8272]]||{{Sort|0007600|760 MIPS at 400 MHz}}||{{Sort|01900|1.9}}||2000||<ref>[http://www.freescale.com/files/netcomm/doc/fact_sheet/MPC8272FAMFS.pdf Freescale Semiconductor - MPC8272 PowerQUICC II Processor Family]</ref> Integrated Communications Processors
|-
|[[Athlon|AMD Athlon]]||{{Sort|0035610|3,561 MIPS at 1.2 GHz}}||{{Sort|02967|3.0}}||2000||
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|[[Athlon|AMD Athlon XP 2500+]]||{{Sort|0075270|7,527 MIPS at 1.83 GHz}}||{{Sort|04102|4.1}}||2003||<ref name="autogenerated0" />
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|[[Pentium Extreme Edition#Pentium 4 Extreme Edition|Pentium 4 Extreme Edition]]||{{Sort|0097260|9,726 MIPS at 3.2 GHz}}||{{Sort|03039|3.0}}||2003||
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|[[MIPSアーキテクチャ|MIPS32 4KEc]]||{{Sort|0003560|356 MIPS at 233 MHz}}||{{Sort|01527|1.5}}||2004||<ref>[http://www.design-reuse.com/news/8544/mips-architecture-enabling-list-mobile-processors.html]</ref>
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|[[ARMアーキテクチャ|ARM Cortex M3]]||{{Sort|0001250|125 MIPS at 100MHz}}||{{Sort|01250|1.25}}||2004||<ref>[http://www.arm.com/products/processors/cortex-m/cortex-m3.php ARM Cortex-M3]</ref>
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|[[ARMアーキテクチャ|ARM Cortex A8]]||{{Sort|0020000|2,000 MIPS at 1.0 GHz}}||{{Sort|02000|2.0}}||2005||<ref>[http://www.arm.com/products/CPUs/ARM_Cortex-A8.html ARM Cortex-A8<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[Athlon 64|AMD Athlon FX-57]]||{{Sort|0120000|12,000 MIPS at 2.8 GHz}}||{{Sort|04285|4.3}}||2005||
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|[[Athlon 64 X2|AMD Athlon 64 3800+ X2 (Dual Core)]]||{{Sort|0145640|14,564 MIPS at 2.0 GHz}}||{{Sort|07282|7.3}}||2005||<ref name="autogenerated1">[http://www.tomshardware.com/charts/cpu-charts-2007/Synthetic-SiSoft-Sandra-XI-CPU,333.html CPU Charts 2007 - Tom's Hardware<!-- Bot generated title -->]</ref>
|-
|[[Xenon CPU|Xbox 360 IBM "Xenon" Triple Core]]||{{Sort|0192000|19,200 MIPS at 3.2 GHz}}||{{Sort|060|6.0}}||2005||
|-
|[[Cell Broadband Engine|PS3 Cell BE]] ([[Cell_%28microprocessor%29#Power_Processor_Element|PPE]] only)||{{Sort|010240|10,240 MIPS at 3.2 GHz}}{{要出典|date=2014年3月}}||{{Sort|032000|3.2}}||2006||
|-
|[[Athlon 64 X2|AMD Athlon FX-60 (Dual Core)]]||{{Sort|0189380|18,938 MIPS at 2.6 GHz}}||{{Sort|07283|7.3}}||2006||<ref name="autogenerated1" />
|-
|[[Intel Core 2|Intel Core 2 Extreme X6800 (Dual Core)]]||{{Sort|0270790|27,079 MIPS at 2.93 GHz}}||{{Sort|09242|9.2}}||2006||<ref name="autogenerated1" />
|-
|[[Intel Core 2|Intel Core 2 Extreme QX6700 (Quad Core)]]||{{Sort|0491610|49,161 MIPS at 2.66 GHz}}||{{Sort|18481|18.5}}||2006||<ref>[http://www.tomshardware.com/2006/09/10/four_cores_on_the_rampage/page13.html Synthetics, Continued - Tom's Hardware : Intel's Core 2 Quadro Kentsfield: Four Cores on a Rampage<!-- Bot generated title -->]</ref>
|-
|[[MIPSアーキテクチャ|MIPS32 24K]]||{{Sort|00060400|604 MIPS at 400 MHz}}||{{Sort|01510|1.51}}||2006||<ref>http://www.mips.com/products/cores/32-64-bit-cores/mips32-24k/ MIPS32 24K]</ref>
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|[[ARMアーキテクチャ|ARM Cortex R4]]||{{Sort|0004500|450 MIPS at 270 MHz}}||{{Sort|01660|1.66}}||2006||<ref>[http://www.arm.com/products/processors/cortex-r/cortex-r4.php Cortex-R4 Processor]</ref>
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|[[MIPSアーキテクチャ|MIPS64 20Kc]]||{{Sort|0013700|1,370 MIPS at 600 MHz}}||{{Sort|02283|2.3}}||2007||<ref>[http://www.design-reuse.com/sip/view.php?id=3049 Design Reuse - needs free registration ]</ref>
|-
|[[PWRficient|P.A. Semi PA6T-1682M]]||{{Sort|0088000|8,800 MIPS at 2.0 GHz}}||{{Sort|04400|4.4}}||2007||<ref>[http://www.eettaiwan.com/ART_8800460160_675763_a25710d3200704.HTM 登錄電子工程專輯網站,時刻處於電子設計的潮流尖端<!-- Bot generated title -->]</ref>
|-
|[[Intel Core 2|Intel Core 2 Extreme QX9770]]||{{Sort|0594550|59,455 MIPS at 3.2 GHz}}||{{Sort|18580|18.6}}||2008||<ref>[http://www.tomshardware.com/2007/11/19/intel_core_2_extreme_qx9770/page18.html Synthetic - Sandra CPU - Tom's Hardware : Intel Core 2 Extreme QX9770: Paper Tiger?<!-- Bot generated title -->]</ref>
|-
|[[Intel Core i7|Intel Core i7 920 (Quadcore)]]||{{Sort|0823000|82,300 MIPS at 2.66 (Turbo 2.93) GHz}}||{{Sort|30939|30.1}}||2008||<ref name="autogenerated2">[http://www.tomshardware.com/charts/desktop-cpu-charts-2010/ALU-Performance-SiSoftware-Sandra-2010-Pro-ALU,2408.html Tom's Hardware Cpu Charts 2010 ]</ref>
|-
|[[Intel Atom|Intel Atom N270 (Single core)]]||{{Sort|0038460|3,846 MIPS at 1.6 GHz}}||{{Sort|02403|2.4}}||2008||<ref>[http://www.ocworkbench.com/2008/ecs/ECS_945GCT-D_Atom_board/b1.htm OC Workbench ]</ref>
|-
|[[ARMアーキテクチャ|ARM Cortex M0]]||{{Sort|0000450|45 MIPS at 50MHz}}||{{Sort|00900|0.9}}||2009||<ref>[http://www.arm.com/products/processors/cortex-m/cortex-m0.php Cortex-M0 Processor]</ref>
|-
|[[ARMアーキテクチャ|ARM Cortex A9 (Dual core)]]||{{Sort|0075000|7,500 MIPS at 1.5 GHz}}||{{Sort|05000|5.0}}||2009||<ref name="名前なし-1">[http://www.eeejournal.com/2009/12/arm11-vs-cortex-a8-vs-cortex-a9.html EEE Journal]</ref>
|-
|[[ARMアーキテクチャ|ARM Cortex A15 (Quad core)]]||{{Sort|0050000|35,000 MIPS at 2.5 GHz}}||{{Sort|05000|14.0}}||2011||<ref name="名前なし-1"/>
|-
|[[AMD Phenom|AMD Phenom II X4 940 Black Edition]]||{{Sort|0428200|42,820 MIPS at 3.0 GHz}}||{{Sort|14273|14.3}}||2009||<ref>
[http://www.xtremesystems.org/forums/showpost.php?p=3579940&postcount=513 XtremeSystems Member Synthetic - Sandra CPU ]</ref>
|-
|[[z196 CPU|IBM 5.2-GHz z196 (4 cores)(released 9/2010)]]||{{Sort|0522860|52,286 MIPS at 5.2 GHz}}||{{Sort|1005|10.05}}||2010||<ref>
[http://www.tech-news.com/publib/pl2817.html Tech News Chart]</ref>
|-
|[[AMD Phenom|AMD Phenom II X6 1100T]]||{{Sort|0784400|78,440 MIPS at 3.3 GHz}}||{{Sort|23679|23.7}}||2010||<ref name="autogenerated2" />
|-
|[[Intel Core i7|Intel Core i7 Extreme Edition i980EE]]||{{Sort|1476000|147,600 MIPS at 3.3 GHz}}||{{Sort|44727|44.7}}||2010||<ref>
[http://www.overclock3d.net/reviews/cpu_mainboard/intel_980x_gulftown/4 Overclock3D - Sandra CPU ]</ref>
|-
|[[Intel Core i7|Intel Core i7 Extreme Edition 990x]]||{{Sort|1590000|159,000 MIPS at 3.46 GHz}}||{{Sort|45954|46.0}}||2011||<ref>
[http://www.tomshardware.com/reviews/core-i7-990x-extreme-edition-gulftown,2874-6.html Tom's Hardware - Benchmark Results: Synthetics ]</ref>
|-
|[[Intel Core i7|Intel Core i7 4770K]]||{{Sort|1337400|133,740 MIPS at 3.9 GHz}}||{{Sort|34292|34.29}}||2013||<ref>
[http://www.cpu-world.com/benchmarks/browse/910_80,965_61,993_80,1035_96/?c_test=6&PROCESS=Show+Selected cpu-world ]</ref>
|-
|[[Raspberry Pi|Raspberry Pi 2]]||{{Sort|1186|1,186 MIPS /1core at 1.0 GHz}}||{{Sort|1186|1.186}}||2014||<ref>
[http://hackaday.com/2015/02/05/benchmarking-the-raspberry-pi-2/ BENCHMARKING THE RASPBERRY PI 2]</ref>
|}
* * Dhrystone MIPS値と単純な100万命令毎秒の値が混在している。
== 関連項目 ==
* [[FLOPS]]
* [[ベンチマーク]]
==参照==
<references />
{{DEFAULTSORT:みつふす}}
[[Category:ベンチマーク|MIPS]]
[[Category:周波数の単位]]
[[Category:CPU|MIPS]]
|
2003-07-20T17:21:26Z
|
2023-09-09T07:35:19Z
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[
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"Template:要出典",
"Template:Cite news"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/MIPS
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11,936 |
地名接尾辞
|
地名接尾辞(ちめいせつびじ)は接尾辞の一種で、単語のあとにつけることで場所や場所の性質を表す機能を持つ。
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[
{
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"text": "地名接尾辞(ちめいせつびじ)は接尾辞の一種で、単語のあとにつけることで場所や場所の性質を表す機能を持つ。",
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地名接尾辞(ちめいせつびじ)は接尾辞の一種で、単語のあとにつけることで場所や場所の性質を表す機能を持つ。
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{{出典の明記|date=2015年1月}}
'''地名接尾辞'''(ちめいせつびじ)は[[接尾辞]]の一種で、単語のあとにつけることで場所や場所の性質を表す機能を持つ。
== 地名接尾辞の例 ==
=== -abad ===
*「〜の街・場所」を意味する[[ペルシア語]]。「……に満たされた」ととることもある。
*[[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]](Hyder'''abad'''、[[インド]])、[[ジャラーラーバード]](Jalal'''abad'''、[[アフガニスタン]])、[[イスラマバード]](Islam'''abad'''、[[パキスタン]])
=== -bad ===
* ドイツ語で Bad は[[風呂]]や[[温泉]]を意味し、温泉保養地であったことを意味する。
=== -berg ===
* [[ドイツ語]]で Berg は[[山]]を意味する。
* [[ハイデルベルク]](Heidel'''berg'''、[[ドイツ]])
=== -burg ===
* ドイツ語で Burg は[[城砦]](要塞としての機能を備えた中世の城)、避難所(保護者)を意味し、-burg は、ドイツ語・[[オランダ語]]・[[アフリカーンス語]]で城主の管区を意味する接尾辞である。[[英語]]の -burgh, -bury ・[[フランス語]]の -bourg も同様。
* [[ハンブルク]](Ham'''burg'''、ドイツ、詳細は[[ハンブルク#地名の由来|地名の由来]]参照)、[[ヨハネスブルグ]](Johanes'''burg'''、[[南アフリカ]])、[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]](Frei'''burg'''、ドイツ)、[[ティルブルフ]](Til'''burg'''、[[オランダ]])、[[サンクトペテルブルク]]<ref name="サンクトペテルブルク">[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が自分と同名の[[ペトロ|聖人ペテロ]]の名にちなんで、まず、オランダ語風にサンクト・ピーテル'''ブールフ'''と命名、後にドイツ語風に改称。1914年、第一次世界大戦でドイツと敵対したため、"-burg"を"-grad"に対応させてロシア語風のペトロ'''グラード'''に改称。ロシア革命で、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]にちなんでレニン'''グラード'''に改称後、1991年現在の名称に戻った。なお、州名は現在でもレニングラード州である。</ref>(Sankt-Peter'''burg'''、ロシア)、[[ピッツバーグ]](Pitts'''burgh'''、[[アメリカ合衆国]][[ペンシルベニア州]])、[[エディンバラ]](Edin'''burgh'''、[[スコットランド]])、[[カンタベリー]](Canter'''bury'''、イングランド)、[[ストラスブール]](Stras'''bourg'''、[[フランス]])
===-dam===
*オランダ語でdamは[[堤防]]を意味する。[[アムステルダム]](Amsterdam)、[[ロッテルダム]](Rotterdam)、[[フォーレンダム]](volendam)など。
=== -gorsk ===
*ロシア語で「~山の街」の意。
*[[マグニトゴルスク]](Magnito'''gorsk''')、[[エレクトロゴルスク]] (Elektro'''gorsk''') など。
=== -grad, -gorod ===
{{main|グラード}}
*街、都市、城などを意味するスラヴ語。後者はロシアで限定的に使用される。
*[[ヴォルゴグラード]] (Volgo'''grad''' [[ヴォルガ川|ヴォルガ]]の街<ref>1925-1961 '''スターリングラード'''([[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の街)</ref>)、[[レニングラード]]<ref name="サンクトペテルブルク"/>(Lenin'''grad''')、[[ベオグラード]](Beo'''grad''' 「白い街」)
*[[ノヴゴロド]] (Nov'''gorod'''):[[接頭辞]] Nov-(新しい)と -gorod(都市)で新しい都市の意。
*[[ニジニーノヴゴロド]] (Nizhnij Nov'''gorod'''):本来の市名はノヴゴロドだが、上記のノヴゴロドと区別するため、「下の」を意味する形容詞 Nizhnijがついた。
*[[ベルゴロド]](Bel'''gorod''' 「白い街」)
=== -ham, -hampton ===
* -ham, -hampton は英語で領域を意味する。
* [[バーミンガム]]/[[バーミングハム]](Birming'''ham'''、[[イギリス]]・アメリカ合衆国など)、[[バッキンガム]](Bucking'''ham'''、イギリス)、[[ノッティンガム]](Notting'''ham''')など。
=== -hot ===
*[[モンゴル語]]で街、城の意。主に中国の[[内モンゴル自治区]]で見られる。
*[[呼和浩特]] (Hoh'''hot''')、[[烏蘭浩特]] (Ulan'''hot''')など。
=== -ia ===
{{Wiktionary|-ia}}
* [[ラテン語]]の[[形容詞]]語尾
* [[トランシルヴァニア]] (Transylvan'''ia'''):[[ラテン語]]で「横切る」を意味する trans- と、「森」を意味する silva に -iaがついたもの。
* [[オセアニア]] (Ocean'''ia'''):ocean + -iaで、「[[大洋州]]」のこと。
:この接尾辞は広く用いられており、[[アジア]] (As'''ia''')・[[ユーラシア]] (Euras'''ia''')・[[ロシア]] (Russ'''ia''')・[[ルーマニア]] (Ruman'''ia''')・[[リベリア]] (Liber'''ia''')・[[スロバキア]] (Slovak'''ia''')・[[スロヴェニア]] (Sloven'''ia''')・[[ジョージア (国)|ジョージア]] (Georg'''ia''')・[[カリフォルニア州|カリフォルニア]] (Californ'''ia''') などの[[地名]]に見られる。
:[[イタリア]](Ital'''ia''')も同様だが、州名においても多くの州がこの接尾辞を用いる。
:また、-n'''ia'''から変化した -gnaという接尾辞も使用する([[ボローニャ]] Bolo'''gna''')。
:さらに[[イタリア語]]では他国を呼ぶ名称は-iaを付けることが多い。フランス(Franc'''ia''')、ドイツ(German'''ia''')、[[トルコ]](Turch'''ia''')、[[スウェーデン]](Svez'''ia''')、[[ノルウェー]](Norveg'''ia''')、[[フィンランド]](Finland'''ia''')、[[ポーランド]](Polon'''ia''')など。
=== -ington ===
{{see|-ington}}
=== -na ===
* [[ウクライナ]] (Ukraina):[[ウクライナ語]]で「終わり、縁」を意味する krai に、[[地名接頭辞]]の u- と地名接尾辞の -na がついたもの。なお、krainaで「国」という意味。「縁」で囲われたもののこと。
=== -nesia ===
*[[古典ギリシア語]]で「[[諸島]]」を意味するνησιά/nesia(ネーシア、ネシア)に由来する。[[ネシア]]。[[インドネシア]] (Indo'''nesia''')、[[ポリネシア]] (Poly'''nesia''')、[[ミクロネシア]] (Micro'''nesia''')。
=== -polis ===
* -polis (-πολις)は[[ギリシア語]]で都市の意味。 都市を意味する接尾辞として[[命名]]の際しばしば用いられる。地名ではないが、[[メトロポリス]] (metro'''polis''')・[[メガロポリス]] (megalo'''polis''') などの語も同様の意味で「[[ポリス]]」を含んでいる。
* [[ミネアポリス (ミネソタ州)|ミネアポリス]](Minnea'''polis'''、アメリカ合衆国[[ミネソタ州]])、[[インディアナポリス]](Indiana'''polis'''、同[[インディアナ州]])、[[アナポリス (メリーランド州)|アナポリス]](Ana'''polis'''、同[[メリーランド州]])
*[[イタリア語]]では -poliとなり、ギリシャ植民都市であった[[ナポリ]](Napoli)が有名。他には旧イタリア領の[[トリポリ]]など。
*[[スラヴ語派|スラブ語圏]]でも"-poli({{lang|uk|-поль}})"の形で残る。[[セヴァストポリ]]({{lang|uk|Севасто'''поль'''}}、[[ウクライナ]])、[[マリウポリ]]({{lang|uk|Маріу'''поль'''}}、ウクライナ)など。
=== -pur ===
*[[サンスクリット]]起源、[[ヒンディー語]]他インド系言語、その影響を受けた[[マレー語]]などで砦、街の意。[[タイ語]]にも"[[:en:wikt:บุรี|บุรี]]" (bù-rii, ブリー)の形で取り入れられている。[[インド]]、[[東南アジア]]に多数見られる。
*[[ジャイプル]](Jai'''pur''')、[[ナーグプル]](Nag'''pur''')、[[クアラルンプール]](Kuala Lum'''pur''')、[[シンガポール]](Singa'''pore'''←マレー語;Singa'''pura''')、[[チョンブリー]](ชล'''บุรี''')、[[ペッチャブリー]](เพชร'''บุรี''')など。
=== -sk ===
*[[スラヴ語]]の形容詞語尾(英語の -sh などと同源)。
* [[オホーツク]] (Okhot'''sk'''):「[[川]]」を意味する Okata が Okahota に変化し、それに -sk がついて地名化したもの。元は町の名だったが、現在は海の名にも転用されている。
*他に[[ハバロフスク]](Khabarov'''sk'''、[[ロシア]])、[[ノヴォシビルスク]](Novosibir'''sk'''; Novo(新しい) + sibir([[シベリア]]) 、[[ロシア]])、[[グダンスク]](Gdań'''sk'''、 [[ポーランド]])など。
=== -stan ===
{{main|スターン (地名)}}
* 「〜の[[土地]]」を意味する[[ペルシア語]]。
* [[アフガニスタン]] (Afghani'''stan''')は、[[パシュトー語]]で「山の民」を意味する afghan に -stanがついたもの。
*国名としては、[[パキスタン]] (Paki'''stan''', "Pak(پاک)"は「清浄な」を意味するペルシア語・[[ウルドゥー語]]) 、[[中央アジア]]5国として知られる、[[カザフスタン]] (Kazakh'''stan''') ・[[キルギスタン]] (Kirgi'''stan''') ・[[タジキスタン]] (Tajiki'''stan''')・ [[ウズベキスタン]] (Uzbeki'''stan''') ・[[トルクメニスタン]] (Turkmeni'''stan''')などの例がある。中央アジア5国が、[[ソビエト連邦]]を構成していた当時は、[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]・[[キルギス・ソビエト社会主義共和国]]・[[タジク・ソビエト社会主義共和国]] ・ [[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]] ・[[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]]と国名に"-stan"を使用していなかった。
*その他、インドの別称である[[ヒンドゥスターン]] (ヒンドスタン, Hindu'''stan''')は、ペルシア語で[[インダス川]]を意味する「ヒンドゥー」(Hindū) に、-stanをつけた語で、「インダス川(およびそれ以東)の土地」を意味する、また、主として[[クルド人]]が居住する地理的領域を慣習的に[[クルディスタン]]と呼ぶ。
===-statt、-stadt===
*「-statt」「-stadt」はドイツ語で「地域・場所」と言う意味がある。ドイツの[[ハルシュタット (オーバーフランケン)|ハルシュタット]](Hallstadt)、[[ノイシュタット]](Neustadt))、オーストリアの[[ハイリゲンシュタット (ウィーン)|ハイリゲンシュタット]](Heiligenstadt)、[[アイゼンシュタット]](Eisenstadt)など。
=== -ton ===
* -ton は英語で町(town)を意味する接尾辞としてしばしば用いられる。town と[[語源]]は同じ。
* [[アーリントン (バージニア州)|アーリントン]](Arling'''ton'''、アメリカ合衆国[[バージニア州]])、[[リトルトン]](Little'''ton'''、同[[メイン州]]など)
=== -ville ===
* -ville は[[フランス語]]で都市の意味。英語の村(village)と語源を同じくする。英語・フランス語で都市を意味する接尾辞としてしばしば用いられる。
* [[アルベールヴィル]](Albert'''ville'''、[[フランス]])、[[マーティンズヴィル]](Martins'''ville'''、アメリカ合衆国バージニア州)、[[ブラザヴィル]](Brazza'''ville'''、[[コンゴ共和国]])
==関連項目==
{{Wiktionarycat|接尾辞}}
*[[地名接頭辞]]
==脚注==
<references />
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[[Category:接辞]]
[[Category:地名学]]
[[カテゴリ:接尾辞]]
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1623年
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1623年(1623 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1623年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元和 (日本)|元和]]9年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2283年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[天啓 (明)|天啓]]3年
** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天命 (後金)|天命]]8年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[朝鮮]] : [[光海君]]15年、[[仁祖]]元年3月 -
** [[檀君紀元|檀紀]]3956年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永祚 (黎朝)|永祚]]5年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]31年
* [[仏滅紀元]] : 2165年 - 2166年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1032年 - 1033年
* [[ユダヤ暦]] : 5383年 - 5384年
* [[ユリウス暦]] : 1622年12月22日 - 1623年12月21日
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1623}}
== できごと ==
* [[2月23日]] - [[アンボイナ事件]]
* [[8月6日]] - [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]が[[教皇|ローマ教皇]]に選出される。
* [[8月23日]]([[元和 (日本)|元和]]9年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[徳川家光]]の[[将軍宣下]]が行われ、前将軍の[[徳川秀忠]]は[[大御所]]となる。
* [[オスマン帝国]]、[[ムラト4世]]が第17代[[スルタン]]となる。(~[[1640年]])
* [[朝鮮]]において、[[西人]]派により[[光海君]]が追放される(仁祖反正)。
* オスマン帝国において、[[アルメニア人]][[金工]]のアヴェディス・ジルジャンが、[[ジルジャン]]社の起源となる[[シンバル]]製造工房を開く。
* [[スペイン]]で[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]が[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の宮廷画家となる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1623年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月23日]]([[元和 (日本)|元和]]9年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[日政]](元政)、[[日蓮宗]]の[[僧]](+ [[1668年]])
* [[5月26日]] - [[ウィリアム・ペティ]]、[[医師]]、[[経済学者]](+ [[1687年]])
* [[6月19日]] - [[ブレーズ・パスカル|パスカル]]、[[フランス]]の[[哲学者]]、[[数学]]者、[[物理学]]者(+ [[1662年]])
* [[6月29日]](元和9年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[稲葉正則]]、[[老中]]、[[小田原藩]]第2代藩主(+ [[1696年]])
* [[7月2日]]([[天啓 (明)|天啓]]3年<[[尚豊王]]3年>[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[幸地賢忠]](湛水)、[[琉球古典音楽]]の祖(+ [[1684年]])
* [[8月5日]] - [[アントニオ・チェスティ]]、作曲家(+ [[1669年]])
* [[8月8日]](元和9年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]) - [[天王寺屋五兵衛]]、[[大阪]]の[[両替商]](+ [[1695年]])
* [[10月9日]] - [[フェルディナント・フェルビースト|フェルビースト]]、[[ベルギー]]の[[イエズス会]][[宣教師]](+ [[1688年]])
* [[11月1日]]([[天啓 (明)|天啓]]3年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[永暦帝]]、[[南明]]の最後の[[皇帝]](+ [[1661年]])
* [[11月21日]](元和9年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[伊藤坦庵]]、[[儒学者]](+ [[1708年]])
* 月日不明 - [[宮崎安貞]]、[[農学]]者(+ [[1697年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1623年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]] - [[フラ・パオロ・サルピ]]、[[キリスト教]][[聖職者]](* [[1552年]])
* [[4月19日]](元和9年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) - [[上杉景勝]]、[[豊臣政権]]の[[五大老]]・[[米沢藩|米沢藩主]](* [[1556年]])
* [[6月13日]](元和9年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[本因坊算砂]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1559年]])
* [[7月4日]] - [[ウィリアム・バード]]、[[作曲家]](* [[1540年]]?)
* [[7月8日]] - [[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1554年]])
* [[8月29日]](元和9年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]) - [[黒田長政]]、[[戦国武将]]・[[福岡藩|福岡藩主]](* [[1568年]])
* 月日不明 - [[ヤン・ヨーステン]]、[[農学]]者(* [[1556年]]?)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1623}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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