id
int64
5
471k
title
stringlengths
1
74
text
stringlengths
0
233k
paragraphs
list
abstract
stringlengths
1
4.6k
wikitext
stringlengths
22
486k
date_created
stringlengths
20
20
date_modified
stringlengths
20
20
is_disambiguation_page
bool
2 classes
is_sexual_page
bool
2 classes
is_violent_page
bool
2 classes
templates
list
url
stringlengths
31
561
11,938
1651年
1651年(1651 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1651年(1651 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1651年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1651}} {{year-definition|1651}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶安]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2311年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[順治]]8年 ** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]5年 ** [[朱亶セキ|朱亶塉]]([[南明]]) : [[定武]]6年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3984年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[慶徳]]3年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]14年 * [[仏滅紀元]] : 2193年 - 2194年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1061年 - 1062年 * [[ユダヤ暦]] : 5411年 - 5412年 * [[ユリウス暦]] : 1650年12月22日 - 1651年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1651}} == できごと == * [[1月1日]] - [[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]が[[スコットランド王国|スコットランド]]王に即位。 * [[9月]]([[7月 (旧暦)|旧暦7月]]) - [[慶安の変]]。兵学者・[[由井正雪]]の[[江戸幕府]]顛覆計画が発覚。事件直後に[[末期養子]]の禁が緩和される。 * [[9月3日]] - [[ウスターの戦い]]。チャールズ2世、敗れてヨーロッパ大陸へ亡命。 * [[10月2日]](慶安4年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]])[[徳川家綱]]が江戸幕府第4代[[征夷大将軍|将軍]]となる。 * [[トマス・ホッブズ]]の『[[リヴァイアサン (ホッブズ)|リヴァイアサン]]』刊行。 * [[イングランド共和国]]政府が[[航海条例]]を制定。 == 誕生 == {{see also|Category:1651年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月2日]] - [[ウィリアム・フィップス]]、[[マサチューセッツ湾直轄植民地]][[総督]](+ [[1695年]]) * [[4月10日]] - [[エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス]]、[[数学者]]、[[物理学者]]、[[医師]]、[[哲学者]](+ [[1708年]]) * [[4月30日]] - [[ジャン=バティスト・ド・ラ・サール]]、[[司祭]]、[[教育者]](+ [[1719年]]) * [[8月6日]] - [[フランソワ・フェヌロン]]、[[神学|神学者]]、[[詩人]]、[[作家]](+ [[1715年]]) * [[9月5日]]? - [[ウィリアム・ダンピア]]、[[私掠船]]船長、[[探検家]](+ 1715年) * [[9月16日]] - [[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]、[[ドイツ]]の医師、[[博物学者]](+ [[1716年]]) * [[10月21日]] - [[ジャン・バール]]、[[海軍大将|提督]]、私掠船船長(+ [[1702年]]) * 月日不明 - [[竹本義太夫]]、[[義太夫節]]の開祖(+ [[1714年]]) == 死去 == {{see also|Category:1651年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月27日]] - [[アブラハム・ブルーマールト]]、風景[[画家]](* [[1564年]]) * [[2月24日]](慶安4年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[毛利秀就]]、[[長州藩]]第2代[[藩主]](* [[1595年]]) * [[4月7日]] - [[レンナート・トルステンソン]]、[[軍人]](* [[1603年]]) * [[5月4日]](慶安4年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]) - [[水野勝成]]、[[備後福山藩]]初代藩主(* [[1565年]]) * [[6月8日]](慶安4年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[徳川家光]]、江戸幕府第3代[[征夷大将軍]](* [[1604年]]) * 6月8日(慶安4年4月20日) - [[堀田正盛]]、[[下総国]][[佐倉藩]]藩主、[[老中]](* [[1609年]]) * [[9月10日]](慶安4年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[由井正雪]]、[[慶安の変]]を計画した軍学者(* [[1605年]]) * [[9月24日]](慶安4年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[丸橋忠弥]]、[[浪人]](* 生年未詳) * [[9月27日]] - [[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)]]、[[バイエルン]][[大公]](* [[1573年]]) * [[10月22日]] - [[ヤーコプ・プレトリウス]]、[[作曲家]]、[[オルガニスト]](* [[1586年]]) * [[11月26日]] - [[ヘンリー・アイアトン]]、軍人(* [[1611年]]) * 月日不明 - [[ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー]]、作曲家、楽器演奏者(* [[1580年]]) * 月日不明 - [[ラジャ・クニン]]、[[パタニ王国]][[女王]](* 生年不明) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1651}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1651ねん}} [[Category:1651年|*]]
null
2021-10-29T17:30:22Z
false
false
false
[ "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:See also", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1651%E5%B9%B4
11,939
1680年
1680年(1680 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1680年(1680 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。", "title": null } ]
1680年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1680}} {{year-definition|1680}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[延宝]]8年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]19年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]34年 *** [[楊起隆]] : [[広徳 (楊起隆)|広徳]]8年 *** [[呉世璠]] : [[洪化]]3年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]6年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4013年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永治 (黎朝)|永治]]5年、[[正和 (黎朝)|正和]]元年10月 - * [[仏滅紀元]] : 2222年 - 2223年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1090年 - 1091年 * [[ユダヤ暦]] : 5440年 - 5441年 * [[ユリウス暦]] : 1679年12月22日 - 1680年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1680}} == できごと == * [[5月]] - [[徳川綱吉]]、[[江戸幕府]]5代[[征夷大将軍]]となる{{要出典|date=2021-03}}。 * 5月 - [[インドネシア]]・[[クラカタウ]]火山が噴火。規模はそれほど大きいものではなかったとされる。 * [[大彗星]]が観測された記録がある。 * この頃、[[ヨハン・パッヘルベル|パッヘルベル]]の[[カノン (パッヘルベル)|カノン]]作曲される。 * ヨーロッパ市場における胡椒価格の大暴落 == 誕生 == {{see also|Category:1680年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月3日]] - [[ヨハン・バプティスト・ツィンマーマン]]([[w:Johann Baptist Zimmermann|Johann Baptist Zimmermann]])、[[画家]](+ [[1758年]]) * [[2月17日]]([[延宝]]8年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[徳川頼職]]、[[紀州徳川家]][[紀州藩]]第4代藩主、[[徳川吉宗]]の兄(+ [[1705年]]) * [[3月30日]] - [[アンジェロ・マリア・クイリーニ]]([[w:Angelo Maria Quirini|Angelo Maria Quirini]])、[[枢機卿]](+ [[1755年]]) * [[4月9日]] - [[フィリップ・ネリコール・デトゥーシュ]]([[w:Philippe Néricault Destouches|Philippe Néricault Destouches]])、[[劇作家]](+ [[1754年]]) * [[5月17日]](延宝8年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - [[一平安代]]、[[刀工]](+ [[1728年]]) * [[7月23日]](延宝8年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]) - [[伊達吉村]]、[[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]]第5代藩主(+ [[1752年]]) * [[9月8日]](延宝8年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]) - [[京極宮文仁親王]]、[[皇族]](+ [[1711年]]) * [[11月5日]](延宝8年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) - [[太宰春台]]、[[儒学者]](+ [[1747年]]) * [[11月14日]](延宝8年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]) - [[幸子女王]]、皇族(+ [[1720年]]) * [[11月18日]] - [[ジャン=バティスト・ルイエ・ド・ロンドル|ジャン=バティスト・ルイエ(ロンドンのルイエ)]]、[[作曲家]](+ [[1730年]]) * [[11月23日]](延宝8年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]) - [[岡部長敬]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]第4代藩主(+[[1724年]]) * 月日不明 - [[岡野包秀]]、[[赤穂浪士]](+ [[1703年]]) * 月日不明 - [[勝田武尭]]、赤穂浪士(+ [[1703年]]) * 月日不明 - [[間光風]]、赤穂浪士(+ [[1703年]]) * 月日不明 - [[岡林直之]]、[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]士(+ [[1704年]]) * 月日不明 - [[大岡春卜]]、画家(+ [[1763年]]) * 月日不明 - [[リチャード・カンティリョン]]([[w:Richard Cantillon|Richard Cantillon]])、[[経済学者]](+ [[1734年]]) * 月日不明 - [[ウィリアム・コルベット]]([[w:William Corbett (composer)|William Corbett]])、作曲家、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1748年]]) * 月日不明 - [[オリヴィエ・ルヴァスール]]([[w:Olivier Levasseur|Olivier Levasseur]])、[[海賊]]([[1690年]]生まれとする説あり、+ [[1730年]]) * 月日不明 - [[イーフレイム・チェンバーズ]]、[[百科事典]]編纂者(+ [[1740年]]) == 死去 == {{see also|Category:1680年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月26日]](延宝7年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]) - [[六姫]]、[[池田光政]]の娘、[[悪妻]]として知られる(* [[1645年]]) * [[2月12日]](康熙19年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[李漁]]、劇作家・小説家(* [[1611年]]) * [[2月17日]] - [[ヤン・スワンメルダム]]、[[博物学者]](* [[1637年]]) * [[2月22日]] - [[カトリーヌ・モンヴォワザン]]([[w:Catherine Monvoisin|Catherine Monvoisin]])、[[毒#利用|毒殺]]犯(* [[1640年]]頃) * [[3月16日]]または[[3月17日]] - [[フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー]]、[[貴族]]、[[モラリスト]][[文学者]](* [[1613年]]) * [[3月23日]] - [[ニコラス・フーケ|ニコラ・フーケ]]、[[大蔵卿]](* [[1615年]]) * [[4月17日]] - [[カーテリ・テカクウィサ]]、[[アメリカ・インディアン]]の[[修道女]](* [[1656年]]) * [[4月19日]](延宝8年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) - [[西嶋八兵衛]]、[[土木]][[技術者]](* [[1596年]]) * [[5月31日]] - [[ヨアヒム・ネアンダー]]、[[神学者]]、[[賛美歌]]作者(* [[1650年]]) * [[6月1日]](延宝8年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[林鵞峰]]、儒学者(* [[1618年]]) * [[6月4日]](延宝8年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[徳川家綱]]、江戸幕府第4代征夷大将軍(* [[1641年]]) * [[6月18日]] - [[サミュエル・バトラー (詩人)|サミュエル・バトラー]]、[[詩人]](* [[1612年]]) * [[6月26日]](延宝8年[[5月30日 (旧暦)|5月30日]]) - [[堀田正信]]、[[佐倉惣五郎]]事件時の[[下総国|下総]][[佐倉藩]]主(*[[1631年]]) * [[8月2日]](延宝8年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[明子女王]]、皇族(* [[1638年]]) * [[8月22日]] - [[ヨハン・ゲオルク2世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク2世]]、[[ザクセン公国|ザクセン]][[選帝侯]](* [[1613年]]) * [[8月24日]] - [[フェルディナント・ボル]]、画家(* [[1616年]]) * [[8月28日]] - [[カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|カール1世ルートヴィヒ]]、[[プファルツ選帝侯]](* [[1617年]]) * [[9月2日]] - [[ペル・ブラーエ]]([[w:Per Brahe the Younger|Per Brahe the Younger]])、[[軍人]](* [[1602年]]) * [[9月11日]](延宝8年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[後水尾天皇]]、第108代[[天皇]](* [[1596年]]) * [[10月4日]] - [[ピエール=ポール・リケ]]、[[技術者]]、[[ミディ運河]]建設者(* [[1609年]]) * [[10月16日]] - [[ライモンド・モンテクッコリ]]、軍人(* [[1608年]]または[[1609年]]) * [[11月27日]] - [[アタナシウス・キルヒャー]]、[[イエズス会]][[司祭]]、[[学者]](* [[1601年]]) * [[11月28日]] - [[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]<ref>{{Cite web|和書 |url = https://kotobank.jp/word/ベルニーニ-130706 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-03-26 }}</ref>、[[彫刻家]]、[[建築家]](* [[1598年]]) * [[11月30日]] - [[ピーター・レリー]]、画家(* [[1618年]]) * [[12月4日]] - [[トーマス・バルトリン]]([[w:Thomas Bartholin|Thomas Bartholin]])、[[医学者]]、[[数学者]](* [[1616年]]) * [[12月10日]] - [[マルコ・ウッチェリーニ]]、作曲家、ヴァイオリニスト(* [[1603年]] - [[1610年]]頃) * 月日不明 - [[ウィレム・クラースゾーン・ヘーダ]]、画家(* [[1594年]]) * 月日不明 - [[テオフィル・ド・ガランシエール]]、[[医師]]、[[ノストラダムス]]の『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集|予言集]]』翻訳者(* [[1610年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1680}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1680ねん}} [[Category:1680年|*]]
2003-07-20T18:06:45Z
2023-09-16T12:12:10Z
false
false
false
[ "Template:年間カレンダー", "Template:Commonscat", "Template:Normdaten", "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:要出典", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:Sup", "Template:See also", "Template:Year-definition" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1680%E5%B9%B4
11,940
1709年
1709年(1709 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1709年(1709 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。", "title": null } ]
1709年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1709}} {{year-definition|1709}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[宝永]]6年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2369年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]48年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]35年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4042年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]5年 * [[仏滅紀元]] : 2253年 - 2254年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1120年 - 1121年 * [[ユダヤ暦]] : 5469年 - 5470年 * [[ユリウス暦]] : 1708年12月21日 - 1709年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1709}} == できごと == * [[2月2日]] - [[ロビンソン・クルーソー]]のモデルといわれるスコットランド人船員のアレキサンダー・セルカークが太平洋の無人島で発見される。 * [[7月8日]] - [[大北方戦争]]: [[ポルタヴァの戦い]]。 === 日本 === * [[3月1日]]([[宝永]]6年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - 将軍[[徳川綱吉]]の死後10日目で[[生類憐れみの令]]が廃止。 * [[徳川家宣]]、[[江戸幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]]となる。 * 徳川家宣が[[朱子学]]者[[新井白石]]を用いる。 == 誕生 == {{see also|Category:1709年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月3日]]([[宝永]]5年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[酒井忠武]]、[[敦賀藩]]藩主(+ [[1731年]]) * [[3月10日]] - [[ゲオルク・シュテラー]]、[[博物学者]]・[[探検家]]・[[医師]](+ [[1746年]]) * [[8月8日]](宝永6年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[徳川家継]]、江戸幕府第7代将軍(+ [[1716年]]) * [[9月18日]] - [[サミュエル・ジョンソン]]、[[文学者]](+ [[1784年]]) * [[11月22日]] - [[フランツ・ベンダ]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1786年]]) == 死去 == {{see also|Category:1709年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月19日]]([[宝永]]6年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[徳川綱吉]]、江戸幕府第5代将軍(* [[1646年]]) * [[3月8日]] - [[ウィリアム・カウパー]]、[[外科医]]・[[解剖学者]](* [[1666年]]) * [[12月7日]] - [[メインデルト・ホッベマ]]、[[画家]](* [[1638年]]) == フィクションのできごと == * レミュエル・ガリヴァー、ラグナグ国から王の推薦状を携えて日本に来訪。[[江戸|エド]]にて皇帝(将軍?)に謁見し、[[長崎市|ナンガサク]]より出国する。([[ジョナサン・スウィフト]]「[[ガリヴァー旅行記]]」) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1709}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1709ねん}} [[Category:1709年|*]]
null
2022-03-13T00:07:46Z
false
false
false
[ "Template:他の紀年法", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1709%E5%B9%B4
11,941
1712年
1712年(1712 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1712年(1712 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1712年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1712}} {{year-definition|1712}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[正徳 (日本)|正徳]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2372年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]51年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]38年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4045年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]8年 * [[仏滅紀元]] : 2254年 - 2255年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1123年 - 1124年 * [[ユダヤ暦]] : 5472年 - 5473年 * [[ユリウス暦]] : 1711年12月21日 - 1712年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1712}} == できごと == * [[7月24日]] - [[スペイン継承戦争]]:[[ドゥナの戦い]]で[[フランス]]将軍[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール]]が[[オーストリア大公国|オーストリア]]・[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]同盟軍に大勝{{要出典|date=2021-02}}。 * [[ロシア]]・[[ツァーリ]][[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]、[[モスクワ]]から[[サンクトペテルブルク]]に[[遷都]]{{要出典|date=2021-03}}。 * [[勘定奉行]][[荻原重秀]]が罷免される。 == 誕生 == {{see also|Category:1712年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月24日]] - [[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]、第3代[[プロイセン王]](+ [[1786年]]) * [[1月28日]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[徳川家重]]、[[江戸幕府]]第9代[[将軍]](+ [[1761年]]) * [[2月2日]](正徳元年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[岡部長著]] 、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第5代藩主(+[[1756年]]) * [[6月28日]] - [[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[哲学者]](+ [[1778年]]) * [[10月14日]] - [[ジョージ・グレンヴィル]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1770年]]) == 死去 == {{see also|Category:1712年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月11日]] - [[リシャール・シモン]]([[w:Richard Simon|Richard Simon]])、[[聖書]]批評家(* [[1638年]]) * [[11月12日]]([[正徳 (日本)|正徳]]2年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[徳川家宣]]、[[江戸幕府]]6代将軍(* [[1662年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1712}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1712ねん}} [[Category:1712年|*]]
null
2021-03-04T10:38:46Z
false
false
false
[ "Template:年代ナビ", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:Year-definition", "Template:他の紀年法", "Template:要出典", "Template:See also" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1712%E5%B9%B4
11,942
1760年
1760年(1760 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1760年(1760 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1760年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1760}} {{year-definition|1760}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[宝暦]]10年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2420年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]25年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]36年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4093年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]21年 * [[仏滅紀元]] : 2302年 - 2303年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1173年 - 1174年 * [[ユダヤ暦]] : 5520年 - 5521年 * [[ユリウス暦]] : 1759年12月21日 - 1760年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1760}} == できごと == * [[4月28日]] - [[サントフォワの戦い]]、フランスがイギリスに勝利{{要出典|date=2021-03}} * [[8月15日]] - [[七年戦争]]、[[リーグニッツの戦い (1760年)|リーグニッツの戦い]] * 10月 - 七年戦争、オーストリア軍、ロシア軍による[[ベルリン襲撃 (1760年)|ベルリン占領]] * [[10月25日]] - [[イギリス]]で[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が国王に即位。 * [[11月3日]] - 七年戦争、[[トルガウの戦い]] * [[インドネシア]]・[[モルッカ諸島]]の[[マキアン]]が噴火 * [[レオンハルト・オイラー]]、制限[[三体問題]]の解である「オイラーの直線解」を確認。[[ラグランジュ点]]発見のきっかけとなる。 == 誕生 == {{see also|Category:1760年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月7日]](宝暦10年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]])- [[松浦静山]]、[[大名]]、[[平戸藩]]第9代藩主(+ [[1841年]]) * [[9月14日]] - [[ルイジ・ケルビーニ]]、フランスの[[作曲家]]・音楽教師(+ [[1842年]]) * [[10月1日]] - [[ウィリアム・トマス・ベックフォード]]、[[作家]](+ [[1844年]]) * [[10月31日]]([[宝暦]]10年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]])? - [[葛飾北斎]]、[[江戸時代]]の[[浮世絵]]師(+ [[1849年]]) * [[11月8日]] - [[アセンシオ・フリア]]、[[画家]](+ [[1832年]]) * [[11月13日]]([[乾隆]]25年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]) - [[嘉慶帝]]、清朝第7代[[皇帝]](+ [[1820年]]) * [[11月30日]](宝暦10年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[華岡青洲]]、[[外科医]](+ [[1835年]]) == 死去 == {{see also|Category:1760年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[10月25日]] - [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]、イギリス国王(* [[1683年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1760}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1760ねん}} [[Category:1760年|*]]
null
2021-04-22T19:45:45Z
false
false
false
[ "Template:See also", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:他の紀年法", "Template:年間カレンダー", "Template:要出典" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1760%E5%B9%B4
11,943
地名
地名(ちめい、英: geographical name, place name)とは、土地に対して付けられた固有名詞。 地名は、広義には住居地名、行政地名、自然地名などがあるのだが、狭義には自然地名を含まない。 地名は厳密に言えば(あくまで厳密に言えばだが)、地表面のある部分やある範囲につけられた呼称であり、(広さという観点からは)地点(点)を指す名称から、一定の地域を指す名称、そして広大な地域を総称するいわゆる「地方名」まである。 古く「地名」という言葉は一国の領土の中にある比較的小さな部分の名と考えられており、国名や海名が地名の一部と考えられるようになったのは20世紀の半ばを過ぎてからである。 なお住民の生活に密着した地名のほかに、学術分野で取り上げられるだけでほとんどの住民が知らない地名もある。 地名は普通、「富士山」の「山」のようにそれが何であるかを表す総称詞と、「富士」のように他の山と区別してどのようなものかを形容する固有詞で構成されるが、総称詞を欠いて用いられることもある。どのようなものが、どのような場合に総称詞を欠くかは、各地名個別の問題でもあるが、言語によっても違ってくる。 中国語では、集落(村落や都市)名には漢字二字からなる地名が圧倒的に多く、山や川などの自然地形は一字が多い。字数が多い地名はたいてい外国語に由来する地名である。地名専用の字が多いのも中国語の特徴である。 日本と朝鮮は中国の影響で漢字二字に地名を改めた歴史を持ち、その後も長く二字表記が暗黙の規制として働いた。日本は713年(和銅6年)に発音はそのままで好ましい字二字で地名を表記するよう一斉に表記を改めた。朝鮮は三国時代には漢字の音を借りて地名を表していた(吏読文字と呼ぶ)が、統一新羅の757年に景徳王が中国風の漢字二字の地名に変更した。 日本語の地名は漢字と仮名の2本立てでできているので、両者が乖離したり片方に引き寄せられたりして複雑な様相を呈する。713年の好字二字令のときに発音と乖離した文字を付けられたのが古い例で、これが字に引きずられて読みが変わることもあった。この種の変化は誤解から生じることも、意図的に変わった表現をとろうとする趣向から生じることもあり、一つの地名で複数の表記や発音が競合することも珍しくない(難読地名)。 定冠詞を持つ言語では、どのような地名に定冠詞を付けるかが言語ごとに異なっている。 地名の由来の探求は、地名学の中心課題である。信頼できる文献で残されている由来や、実地形との対照などから確実視できる由来もあるが、諸説あって定まらないもの、まったく不明とするしかないものも多い。判明した由来は非常に多様であるが、言語・地域や時代による傾向の違いを見出すことはできる。命名の方向から大きく二分すれば、その場所の特徴からとったものと、命名者の願望・思想を付けたものに分かれる。 地形の特徴から地名を作るのは、数多い一般的な命名方法である。特に小範囲の地形、古い時代に付けられた地名に多い。自然改変の結果やその場所の施設・機能に由来する地名が付けられるのは、その種の活動が出現しなければ出てこない。 地形のほかにも、その場所の様々な特徴から地名は作られる。そこにある動植物のような自然物、田畑など半ば人工的に作られた特徴も地名の一部になる。由来となった特徴が消えても地名はなかなか変わらないので、地名が過去の様子を推測する手がかりになることがある。 「山」や「小さな山」など普通名詞そのものが地名になる場合もある。地元の人しか言及しないような小地形では、それだけで場所の特定ができるため、この種の地名が多くなる。こうした地名でも、その言葉が死語か古語になっていたり、外国語起源であったりすると、他の場所と区別する固有名詞としての機能が具わり、地名として定着しやすくなる。 発見者、偉人・聖人のほか、命名者が個人的に愛着する人の名を採った地名である。神の名を付けたものも命名の動機は人名に似る。南北アメリカ大陸には特に多い。起源になるのはヨーロッパ系の人物だけとは限らず、先住民の名を採ったものもある。 古くからの地名を捨てて偉人の名に改めることもある。近代には革命などの体制転換の度に地名が変わる事例が多く見られた。20世紀にソビエト連邦を始めとする社会主義国では、旧来の地名の相当数を革命家の名に改称したが、その多くは体制崩壊後に戻された。 ヨーロッパと南北アメリカでは、個人を顕彰する目的で通りや公園の名を付けたり変えたりするのがごく一般的である。日本や中国にそのような習慣はなかったが、中国には20世紀になって西洋文明の影響でそのような命名が広まった。 日本では江戸時代の新田の名に開墾者の名をつけることがあった。明治時代以降にも開拓地の地名で人名から地名を付けることがあったが、数はあまり多くない。 地名と人名は相互に転化しうる密接な関係を持っているが、人名から地名になる例より、地名から人名が作られる例のほうがおそらく多い。イングランドでは居住地名で姓を生まなかったもののほうが珍しいと言われ、日本も事情は同じである。 人間集団と広域地名の関係は個人名と地名の関係より密なものがあり、部族・民族の名と地方・国の名が対応するのはごく一般的であり、例えば、地名「日本」と民族名「日本人」、民族名「蝦夷」と地名「蝦夷地」などがそうである。 氏族や一族の居住や移住によって比較的小さな村落名が人間集団の名で呼ばれることもある。中部ヨーロッパには民族大移動時代の痕跡を残した小地名が多く残されており、中国にもある一族が集まって住んだところにその姓を冠して付けた地名が残っている。 住民の職業から地名を付ける場合もある。日本では近世の城下町の建設期に、職業を冠した町に職人を集住させた(「肴町」「鍛冶町」など)。集住はやがて解消されたが、町名は各地で残った。 城、港、大きな公園など広い面積を占める施設の名称は、その範囲を指す地名としても用いられる。施設がめだった目標となってその周辺の地名になることもある。この場合、施設名に「前」「脇」などを添えることもあるが、施設名をそのままを地名とすることもある。 また、かつて城や寺院があった場合、門、堀、土居、木戸など文字が変えられている場合もあれど、かつてあった事を示す名もある。 少数であるが、会社、宗教団体の名から採った地名もある。 地名そのものも地名の由来となる。これにはいくつかの方法があり、まず、新しく発見、開拓した土地に故郷の地名を付けることがある。発見・開拓で命名された地名を多く擁している南北アメリカ大陸には特に多い。イギリスのヨークからアメリカ合衆国のニューヨークなどがその典型例として挙げられる。日本の陸奥国の郡や郷には関東地方の郡や郷と同じ名のものがいくつかあるが、それらは関東からの集団移民が作った郡だと考えられている。元の地名に「新」を意味する語を冠することもあるが、そのまま採ることもある。 そうしたことと別に、山や川の名を都市の名にするなど、ほぼ同じ場所にある別の地名から名を採って総称詞だけ変えることもよくある。時おりは近くとはいえない距離で採られることもある(例:「札幌市」から「札幌岳」など)。地名に方角を冠した形の方角地名も、地名由来の地名である。 地名は範囲を拡大したり、縮小したりすることもある。古くからよくあるのは、狭い範囲に付けられた地名を、より広い地域・地方の名称にあてることで(例:「和泉郡」から「和泉国」など)、広い地域の地名を狭い範囲にあてるのは時代的に新しい現象である。 二つの地名から一部ずつ取り出して別の語を組み立てた地名は、合成地名と呼ばれる。漢字二字の地名二つから一字ずつ抜き出して別の二字地名を作り出すのが典型である。三以上の地名から作る例もある。日本で市町村合併時に作られることが多いが、台湾にもある。 基準となる場所からの方角、国や地方の中での位置から付けた地名。元となる地名に方角を冠したり、単に方角のみで地名あるいは地名の固有詞部分とする。東・西・南・北は世界中に現れる地名で、方角地名と言われる。土地の高さで分けるときには、高・低や上・下が用いられる。自国やその中心部から見た遠・近もあり、これを前・後で表すこともある。 漢字二字の慣習的制約がある東アジアで方角地名を作るときには、二字の地名から一字をとって、それに方角・位置を付けることが多い(例:「台湾」から「台北」など)。また、中国では陽と陰で独特の使い分けをする。川の北または山の南にある都市は川・山の名に「陽」を付け、川の南または山の北にある都市には川・山の名に「陰」を付ける。「陽」は日光がよく当たる所で、「陰」は影になりやすい所なのである。中国では咸陽市など、日本では山陰地方や山陽地方などに見られる。 また、日本では古都である奈良や京都との距離などで前・中・後をつけられた地名も数多く存在する。特に旧国名に多い。 命名者の願いをこめた地名を瑞祥地名と言う。めでたい喜ばしい言葉を付けた地名である。元の地名の意味や響きが不吉だとして改めることもある。例えば、日本の北海道にある千歳市の「千歳」はもともと「支笏(しこつ)」であったが、「死骨」に通じるという理由から改称されている。 移住者を呼び込むための宣伝で快適な地名を付けることもあり、その古く有名な例が、グリーンランドである。20世紀後半の日本では、不動産業者が宅地として開発した土地に、宣伝目的で快く響く地名を付けることが多くなされ、実際の地形とは関係なく「丘」「台」を付けるなど、山の手を意識した名称が見られる。 瑞祥にも宣伝にも当てはまらず、笑いをとるために付けられた地名もある。 地名の対象は、点(0次元。例:山頂)、線(1次元。例:国境、軍事境界線)、面(2次元。例:流域、自然保護区、領土)、立体あるいは3次元空間(3次元。例:山、洞窟、坑道、水系、断層)の形をとる。地球上の地名の場合、陸地(山地、平地、洞窟、海岸、湿地など)・水域(川、湖沼、湿地、湾、海など)・生物による地形などといった自然物と、人工的な構造地形(集落、坑道など)、および、国・市町村など政治的に決められたものがある。一部の道路・公園・城・堤防・港などの名も地名として機能する。 日本では、上記のような宅地開発や市町村合併に加えて、住居表示法施行(1962年)によって、新たな地名や合成地名が誕生したり、古来の地名が消滅したりしてきた。こうした動きには批判的な意見もある。地名の保存を強く訴えた民俗学者の谷川健一は1978年に「地名を守る会」を発足させ、1981年には「日本地名研究所」(地名研)を設立。地名研を母体に博物館を作る構想は立ち消えとなったが、神奈川県川崎市教育委員会の「地名資料室」に引き継がれている。 石川県金沢市や東京都千代田区などでは旧町名復活運動が進められ、一部は実現した。 言語はその話者の居住範囲の地名だけを表現できればよいというものではないので、現代の言語は当然に世界中の地名をカバーしなければならない。そこで、一つの対象について正しい地名は一つでなく、言語の数だけ地名があると言うこともできる。とはいうものの、話者の身近にある外国地名もあれば、ほとんど用いられず、意識されることさえない外国地名もある。 外国地名にはほぼ例外なくその場所、あるいは近辺の居住者によって現地語の地名が付けられている。それらを自言語に転写するだけで済むなら外国地名固有の問題はないはずであるが、実際には現地語とずれることが珍しくない。ずれが生じる理由は様々にある。国・地方のような広域地名では、自称で生まれた地名と周辺から呼んだ地名が初めから異なることが多い。そうでなくても、名の意味を自言語に訳すことで別の呼び方になることがある。現地で地名が変化したのに、周辺言語が古い地名を保存することもある。複数言語の住民が混住する地域で、民族・言語によって地名が異なる場合には、国境の変更によって公的な現地語が変わることになる。 文字を共有する別言語で、発音と表記の対応方法が異なる場合には、現地語とのずれは避けがたい。中国語では、漢字表記が定まっていても、方言差のせいで標準語(普通話)である北京語の発音と現地の発音が異なるところが多い。こうしたことはアルファベットを共有するヨーロッパ諸言語の間にもあり、綴り字が同じでも発音が異なることがある。例えば "Chile" は現地のスペイン語で「チレ」というが、英語では「チリ」のように発音する。 各言語の影響力の違いも外国地名の決定要素として無視できない重みがある。影響力のない小言語の現地地名よりも、大言語が外から呼ぶ地名のほうが他の言語に採用されやすいのである。 20世紀後半から、外国地名についてはできるかぎり現地での呼び方を尊重するが、自国語で慣習が根強い場合にはそちらを優先するというのが世界的な傾向になっており、徐々に慣習的な表記を改める動きもある。 2016年に国土地理院は、観光立国の実現や2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を目前にして急増する(と想定された)インバウンド需要への対応策として、地図に記載する地名等に関する英語表記ルールや外国人にわかりやすい地図記号を決定した。英語表記ルールでは置換方式と追加方式の2通りを定め使い分けることとしている。 上記のように、同じ土地に対して周辺住民による呼称が複数ある場合だけでなく、探検や交易、征服・植民地化などを目的にやって来た外来者が、地元呼称と異なる地名を付けることも珍しくない。例えば、ヒマラヤ山脈にある世界最高峰をエベレストと“命名”したのはインドを統治していた英国人であり、それ以前から山麓のネパールでは「サガルマータ」、チベットでは「チョモランマ」と呼ばれていた(エベレスト#名称を参照)。オーストラリアで原住民が「ウルル」と呼んでいた巨大な岩山は、イギリス植民者により「エアーズ・ロック」と名付けられたが、近年は現地において「ウルル」の呼称が尊重されている。 民族問題や領土問題、海洋権益を巡る国家間の争いが生じている地域・海域では、地名とその国際的な通用性も対立の一部となることが多い。例えば竹島 (島根県)について、島を占拠する大韓民国は「独島」(ドクト)と呼称している。その韓国は北朝鮮の地名を認めておらず、1945年8月15日時点の地名を準用している。東欧のマケドニア共和国に対して、その国号を南隣のギリシャは認めず、変更を要求している(マケドニア共和国#マケドニア呼称問題を参照)。 長らく地名はもっぱら地球表面にのみ関わるものばかりであったが、そうは言っても月の特定の場所には地名がつけられることがあった。月探査が進むと、月の地名は増えた。 太陽系内の他天体の観測調査が進むにつれ、そこにも様々な地名が与えられた。 人間が認識可能な特定箇所に対して付けられる固有の名称である。 地表があって詳細な観測の可能な既知の天体では、天体の大きさの違いに関わりなく、学術的注目に適う密度で何らかの地名が付けられている(翻って言えば、注目度が上がらない限り付けられない)。新発見の天体で前述の諸条件が揃うようであれば、ただちにではないにしても、全ての特定地点や特定範囲を座標のみで表すわけにはいかないのが道理であり、自然発生的に、あるいは計画的に、地名が考え出される。地球型惑星(地球、火星、金星、水星)や衛星(月、エウロパなど)だけでなく、小惑星のような小天体にも地名は付けられている場合があり、20箇所近くの地名が付けられている小惑星イトカワなどは好例であろう。 また、地表が存在せず、ガスを主成分とする木星型惑星の場合、通常的にいう「地名」に当たる固有名称は用いられない。しかしながら、このような天体には数十年・数百年もの長きにわたって固定されたように位置の変わらない特定“地点”がいくつか存在するのであり、このような“地点”に付けられた固有名称を「地名」と呼ぶ捉え方の下では、これらの天体にも地名は付けられている、ということになる。なお、太陽の場合は、その表面に長く存在し続ける特定“地点”は生まれないため、この天体に地名が付けられることは無い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "地名(ちめい、英: geographical name, place name)とは、土地に対して付けられた固有名詞。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地名は、広義には住居地名、行政地名、自然地名などがあるのだが、狭義には自然地名を含まない。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地名は厳密に言えば(あくまで厳密に言えばだが)、地表面のある部分やある範囲につけられた呼称であり、(広さという観点からは)地点(点)を指す名称から、一定の地域を指す名称、そして広大な地域を総称するいわゆる「地方名」まである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "古く「地名」という言葉は一国の領土の中にある比較的小さな部分の名と考えられており、国名や海名が地名の一部と考えられるようになったのは20世紀の半ばを過ぎてからである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお住民の生活に密着した地名のほかに、学術分野で取り上げられるだけでほとんどの住民が知らない地名もある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "地名は普通、「富士山」の「山」のようにそれが何であるかを表す総称詞と、「富士」のように他の山と区別してどのようなものかを形容する固有詞で構成されるが、総称詞を欠いて用いられることもある。どのようなものが、どのような場合に総称詞を欠くかは、各地名個別の問題でもあるが、言語によっても違ってくる。", "title": "地名の構成と言語" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "中国語では、集落(村落や都市)名には漢字二字からなる地名が圧倒的に多く、山や川などの自然地形は一字が多い。字数が多い地名はたいてい外国語に由来する地名である。地名専用の字が多いのも中国語の特徴である。", "title": "地名の構成と言語" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本と朝鮮は中国の影響で漢字二字に地名を改めた歴史を持ち、その後も長く二字表記が暗黙の規制として働いた。日本は713年(和銅6年)に発音はそのままで好ましい字二字で地名を表記するよう一斉に表記を改めた。朝鮮は三国時代には漢字の音を借りて地名を表していた(吏読文字と呼ぶ)が、統一新羅の757年に景徳王が中国風の漢字二字の地名に変更した。", "title": "地名の構成と言語" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語の地名は漢字と仮名の2本立てでできているので、両者が乖離したり片方に引き寄せられたりして複雑な様相を呈する。713年の好字二字令のときに発音と乖離した文字を付けられたのが古い例で、これが字に引きずられて読みが変わることもあった。この種の変化は誤解から生じることも、意図的に変わった表現をとろうとする趣向から生じることもあり、一つの地名で複数の表記や発音が競合することも珍しくない(難読地名)。", "title": "地名の構成と言語" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "定冠詞を持つ言語では、どのような地名に定冠詞を付けるかが言語ごとに異なっている。", "title": "地名の構成と言語" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "地名の由来の探求は、地名学の中心課題である。信頼できる文献で残されている由来や、実地形との対照などから確実視できる由来もあるが、諸説あって定まらないもの、まったく不明とするしかないものも多い。判明した由来は非常に多様であるが、言語・地域や時代による傾向の違いを見出すことはできる。命名の方向から大きく二分すれば、その場所の特徴からとったものと、命名者の願望・思想を付けたものに分かれる。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "地形の特徴から地名を作るのは、数多い一般的な命名方法である。特に小範囲の地形、古い時代に付けられた地名に多い。自然改変の結果やその場所の施設・機能に由来する地名が付けられるのは、その種の活動が出現しなければ出てこない。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "地形のほかにも、その場所の様々な特徴から地名は作られる。そこにある動植物のような自然物、田畑など半ば人工的に作られた特徴も地名の一部になる。由来となった特徴が消えても地名はなかなか変わらないので、地名が過去の様子を推測する手がかりになることがある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「山」や「小さな山」など普通名詞そのものが地名になる場合もある。地元の人しか言及しないような小地形では、それだけで場所の特定ができるため、この種の地名が多くなる。こうした地名でも、その言葉が死語か古語になっていたり、外国語起源であったりすると、他の場所と区別する固有名詞としての機能が具わり、地名として定着しやすくなる。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "発見者、偉人・聖人のほか、命名者が個人的に愛着する人の名を採った地名である。神の名を付けたものも命名の動機は人名に似る。南北アメリカ大陸には特に多い。起源になるのはヨーロッパ系の人物だけとは限らず、先住民の名を採ったものもある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "古くからの地名を捨てて偉人の名に改めることもある。近代には革命などの体制転換の度に地名が変わる事例が多く見られた。20世紀にソビエト連邦を始めとする社会主義国では、旧来の地名の相当数を革命家の名に改称したが、その多くは体制崩壊後に戻された。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ヨーロッパと南北アメリカでは、個人を顕彰する目的で通りや公園の名を付けたり変えたりするのがごく一般的である。日本や中国にそのような習慣はなかったが、中国には20世紀になって西洋文明の影響でそのような命名が広まった。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本では江戸時代の新田の名に開墾者の名をつけることがあった。明治時代以降にも開拓地の地名で人名から地名を付けることがあったが、数はあまり多くない。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "地名と人名は相互に転化しうる密接な関係を持っているが、人名から地名になる例より、地名から人名が作られる例のほうがおそらく多い。イングランドでは居住地名で姓を生まなかったもののほうが珍しいと言われ、日本も事情は同じである。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "人間集団と広域地名の関係は個人名と地名の関係より密なものがあり、部族・民族の名と地方・国の名が対応するのはごく一般的であり、例えば、地名「日本」と民族名「日本人」、民族名「蝦夷」と地名「蝦夷地」などがそうである。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "氏族や一族の居住や移住によって比較的小さな村落名が人間集団の名で呼ばれることもある。中部ヨーロッパには民族大移動時代の痕跡を残した小地名が多く残されており、中国にもある一族が集まって住んだところにその姓を冠して付けた地名が残っている。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "住民の職業から地名を付ける場合もある。日本では近世の城下町の建設期に、職業を冠した町に職人を集住させた(「肴町」「鍛冶町」など)。集住はやがて解消されたが、町名は各地で残った。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "城、港、大きな公園など広い面積を占める施設の名称は、その範囲を指す地名としても用いられる。施設がめだった目標となってその周辺の地名になることもある。この場合、施設名に「前」「脇」などを添えることもあるが、施設名をそのままを地名とすることもある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、かつて城や寺院があった場合、門、堀、土居、木戸など文字が変えられている場合もあれど、かつてあった事を示す名もある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "少数であるが、会社、宗教団体の名から採った地名もある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "地名そのものも地名の由来となる。これにはいくつかの方法があり、まず、新しく発見、開拓した土地に故郷の地名を付けることがある。発見・開拓で命名された地名を多く擁している南北アメリカ大陸には特に多い。イギリスのヨークからアメリカ合衆国のニューヨークなどがその典型例として挙げられる。日本の陸奥国の郡や郷には関東地方の郡や郷と同じ名のものがいくつかあるが、それらは関東からの集団移民が作った郡だと考えられている。元の地名に「新」を意味する語を冠することもあるが、そのまま採ることもある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そうしたことと別に、山や川の名を都市の名にするなど、ほぼ同じ場所にある別の地名から名を採って総称詞だけ変えることもよくある。時おりは近くとはいえない距離で採られることもある(例:「札幌市」から「札幌岳」など)。地名に方角を冠した形の方角地名も、地名由来の地名である。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "地名は範囲を拡大したり、縮小したりすることもある。古くからよくあるのは、狭い範囲に付けられた地名を、より広い地域・地方の名称にあてることで(例:「和泉郡」から「和泉国」など)、広い地域の地名を狭い範囲にあてるのは時代的に新しい現象である。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "二つの地名から一部ずつ取り出して別の語を組み立てた地名は、合成地名と呼ばれる。漢字二字の地名二つから一字ずつ抜き出して別の二字地名を作り出すのが典型である。三以上の地名から作る例もある。日本で市町村合併時に作られることが多いが、台湾にもある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "基準となる場所からの方角、国や地方の中での位置から付けた地名。元となる地名に方角を冠したり、単に方角のみで地名あるいは地名の固有詞部分とする。東・西・南・北は世界中に現れる地名で、方角地名と言われる。土地の高さで分けるときには、高・低や上・下が用いられる。自国やその中心部から見た遠・近もあり、これを前・後で表すこともある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "漢字二字の慣習的制約がある東アジアで方角地名を作るときには、二字の地名から一字をとって、それに方角・位置を付けることが多い(例:「台湾」から「台北」など)。また、中国では陽と陰で独特の使い分けをする。川の北または山の南にある都市は川・山の名に「陽」を付け、川の南または山の北にある都市には川・山の名に「陰」を付ける。「陽」は日光がよく当たる所で、「陰」は影になりやすい所なのである。中国では咸陽市など、日本では山陰地方や山陽地方などに見られる。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、日本では古都である奈良や京都との距離などで前・中・後をつけられた地名も数多く存在する。特に旧国名に多い。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "命名者の願いをこめた地名を瑞祥地名と言う。めでたい喜ばしい言葉を付けた地名である。元の地名の意味や響きが不吉だとして改めることもある。例えば、日本の北海道にある千歳市の「千歳」はもともと「支笏(しこつ)」であったが、「死骨」に通じるという理由から改称されている。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "移住者を呼び込むための宣伝で快適な地名を付けることもあり、その古く有名な例が、グリーンランドである。20世紀後半の日本では、不動産業者が宅地として開発した土地に、宣伝目的で快く響く地名を付けることが多くなされ、実際の地形とは関係なく「丘」「台」を付けるなど、山の手を意識した名称が見られる。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "瑞祥にも宣伝にも当てはまらず、笑いをとるために付けられた地名もある。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "地名の対象は、点(0次元。例:山頂)、線(1次元。例:国境、軍事境界線)、面(2次元。例:流域、自然保護区、領土)、立体あるいは3次元空間(3次元。例:山、洞窟、坑道、水系、断層)の形をとる。地球上の地名の場合、陸地(山地、平地、洞窟、海岸、湿地など)・水域(川、湖沼、湿地、湾、海など)・生物による地形などといった自然物と、人工的な構造地形(集落、坑道など)、および、国・市町村など政治的に決められたものがある。一部の道路・公園・城・堤防・港などの名も地名として機能する。", "title": "地名の対象" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本では、上記のような宅地開発や市町村合併に加えて、住居表示法施行(1962年)によって、新たな地名や合成地名が誕生したり、古来の地名が消滅したりしてきた。こうした動きには批判的な意見もある。地名の保存を強く訴えた民俗学者の谷川健一は1978年に「地名を守る会」を発足させ、1981年には「日本地名研究所」(地名研)を設立。地名研を母体に博物館を作る構想は立ち消えとなったが、神奈川県川崎市教育委員会の「地名資料室」に引き継がれている。", "title": "地名の変更と保存・復活運動" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "石川県金沢市や東京都千代田区などでは旧町名復活運動が進められ、一部は実現した。", "title": "地名の変更と保存・復活運動" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "言語はその話者の居住範囲の地名だけを表現できればよいというものではないので、現代の言語は当然に世界中の地名をカバーしなければならない。そこで、一つの対象について正しい地名は一つでなく、言語の数だけ地名があると言うこともできる。とはいうものの、話者の身近にある外国地名もあれば、ほとんど用いられず、意識されることさえない外国地名もある。", "title": "異なる言語間での地名の扱い" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "外国地名にはほぼ例外なくその場所、あるいは近辺の居住者によって現地語の地名が付けられている。それらを自言語に転写するだけで済むなら外国地名固有の問題はないはずであるが、実際には現地語とずれることが珍しくない。ずれが生じる理由は様々にある。国・地方のような広域地名では、自称で生まれた地名と周辺から呼んだ地名が初めから異なることが多い。そうでなくても、名の意味を自言語に訳すことで別の呼び方になることがある。現地で地名が変化したのに、周辺言語が古い地名を保存することもある。複数言語の住民が混住する地域で、民族・言語によって地名が異なる場合には、国境の変更によって公的な現地語が変わることになる。", "title": "異なる言語間での地名の扱い" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "文字を共有する別言語で、発音と表記の対応方法が異なる場合には、現地語とのずれは避けがたい。中国語では、漢字表記が定まっていても、方言差のせいで標準語(普通話)である北京語の発音と現地の発音が異なるところが多い。こうしたことはアルファベットを共有するヨーロッパ諸言語の間にもあり、綴り字が同じでも発音が異なることがある。例えば \"Chile\" は現地のスペイン語で「チレ」というが、英語では「チリ」のように発音する。", "title": "異なる言語間での地名の扱い" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "各言語の影響力の違いも外国地名の決定要素として無視できない重みがある。影響力のない小言語の現地地名よりも、大言語が外から呼ぶ地名のほうが他の言語に採用されやすいのである。", "title": "異なる言語間での地名の扱い" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "20世紀後半から、外国地名についてはできるかぎり現地での呼び方を尊重するが、自国語で慣習が根強い場合にはそちらを優先するというのが世界的な傾向になっており、徐々に慣習的な表記を改める動きもある。", "title": "異なる言語間での地名の扱い" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2016年に国土地理院は、観光立国の実現や2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を目前にして急増する(と想定された)インバウンド需要への対応策として、地図に記載する地名等に関する英語表記ルールや外国人にわかりやすい地図記号を決定した。英語表記ルールでは置換方式と追加方式の2通りを定め使い分けることとしている。", "title": "異なる言語間での地名の扱い" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "上記のように、同じ土地に対して周辺住民による呼称が複数ある場合だけでなく、探検や交易、征服・植民地化などを目的にやって来た外来者が、地元呼称と異なる地名を付けることも珍しくない。例えば、ヒマラヤ山脈にある世界最高峰をエベレストと“命名”したのはインドを統治していた英国人であり、それ以前から山麓のネパールでは「サガルマータ」、チベットでは「チョモランマ」と呼ばれていた(エベレスト#名称を参照)。オーストラリアで原住民が「ウルル」と呼んでいた巨大な岩山は、イギリス植民者により「エアーズ・ロック」と名付けられたが、近年は現地において「ウルル」の呼称が尊重されている。", "title": "異なる言語間での地名の扱い" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "民族問題や領土問題、海洋権益を巡る国家間の争いが生じている地域・海域では、地名とその国際的な通用性も対立の一部となることが多い。例えば竹島 (島根県)について、島を占拠する大韓民国は「独島」(ドクト)と呼称している。その韓国は北朝鮮の地名を認めておらず、1945年8月15日時点の地名を準用している。東欧のマケドニア共和国に対して、その国号を南隣のギリシャは認めず、変更を要求している(マケドニア共和国#マケドニア呼称問題を参照)。", "title": "異なる言語間での地名の扱い" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "長らく地名はもっぱら地球表面にのみ関わるものばかりであったが、そうは言っても月の特定の場所には地名がつけられることがあった。月探査が進むと、月の地名は増えた。", "title": "地球以外の天体の地名" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "太陽系内の他天体の観測調査が進むにつれ、そこにも様々な地名が与えられた。", "title": "地球以外の天体の地名" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "人間が認識可能な特定箇所に対して付けられる固有の名称である。", "title": "地球以外の天体の地名" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "地表があって詳細な観測の可能な既知の天体では、天体の大きさの違いに関わりなく、学術的注目に適う密度で何らかの地名が付けられている(翻って言えば、注目度が上がらない限り付けられない)。新発見の天体で前述の諸条件が揃うようであれば、ただちにではないにしても、全ての特定地点や特定範囲を座標のみで表すわけにはいかないのが道理であり、自然発生的に、あるいは計画的に、地名が考え出される。地球型惑星(地球、火星、金星、水星)や衛星(月、エウロパなど)だけでなく、小惑星のような小天体にも地名は付けられている場合があり、20箇所近くの地名が付けられている小惑星イトカワなどは好例であろう。 また、地表が存在せず、ガスを主成分とする木星型惑星の場合、通常的にいう「地名」に当たる固有名称は用いられない。しかしながら、このような天体には数十年・数百年もの長きにわたって固定されたように位置の変わらない特定“地点”がいくつか存在するのであり、このような“地点”に付けられた固有名称を「地名」と呼ぶ捉え方の下では、これらの天体にも地名は付けられている、ということになる。なお、太陽の場合は、その表面に長く存在し続ける特定“地点”は生まれないため、この天体に地名が付けられることは無い。", "title": "地球以外の天体の地名" } ]
地名とは、土地に対して付けられた固有名詞。
{{告知|提案|[[:Category:日本の地名]]の内容入れ替え提案|プロジェクト‐ノート:地理|「Category:日本の地名」の内容入れ替え提案|date=2023年8月}} [[File:Echigo Sekikawa Jabami Village Sign Oct2022.jpg|thumb|地名が記された標識([[新潟県]][[岩船郡]][[関川村]]蛇喰)]] '''地名'''(ちめい、{{lang-en-short|geographical name, place name}}<ref name="britannica_k">『ブリタニカ国際大百科事典』「地名」</ref>)は、[[土地]]に対して付けられた[[固有名詞]]<ref name="britannica_k" />。 == 概説 == 地名は、広義には住居地名、行政地名、自然地名などがあるのだが、狭義には自然地名を含まない<ref name="britannica_k" />。 地名は厳密に言えば(あくまで厳密に言えばだが)、地表面のある部分やある範囲につけられた呼称であり、(広さという観点からは)地点(点)を指す名称から、一定の地域を指す名称、そして広大な地域を総称するいわゆる「地方名」まである<ref name="britannica_k" />。 古く「地名」という言葉は一国の[[領土]]の中にある比較的小さな部分の名と考えられており、国名や海名が地名の一部と考えられるようになったのは[[20世紀]]の半ばを過ぎてからである<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 2-7頁。</ref>。 なお住民の生活に密着した地名のほかに、学術分野で取り上げられるだけでほとんどの住民が知らない地名もある<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 9-11頁。</ref>。 == 地名の構成と言語 == 地名は普通、「[[富士山]]」の「山」のようにそれが何であるかを表す総称詞と、「富士」のように他の山と区別してどのようなものかを形容する固有詞で構成されるが、総称詞を欠いて用いられることもある<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 41頁。</ref>。どのようなものが、どのような場合に総称詞を欠くかは、各地名個別の問題でもあるが、言語によっても違ってくる。 [[中国語]]では、[[集落]]([[村落]]や[[都市]])名には[[漢字]]二字からなる地名が圧倒的に多く、山や川などの[[自然]][[地形]]は一字が多い。字数が多い地名はたいてい[[外国語]]に由来する地名である。地名専用の字が多いのも中国語の特徴である<ref group="*">小国や地方の名前には、音を表す字に「邑」([[おおざと]])を附記し、山の名前には音を表す字「山」を附記し、河川や湖沼の名前には音に[[水部|水部(さんずい)]]を附記するなど。{{Lang|zh|「[[wikt:en:邾|邾]]」「[[wikt:en:郫|郫]]」「[[wikt:en:鄞|鄞]]」「[[wikt:en:嶗|嶗]]」「[[wikt:en:岷|岷]]」「[[wikt:en:灕|灕]]」「[[wikt:en:滇|滇]]」「[[wikt:en:灞|灞]]」}}がその例。</ref>。 [[日本]]と[[朝鮮]]は[[中国]]の影響で漢字二字に地名を改めた歴史を持ち、その後も長く二字表記が暗黙の規制として働いた。日本は[[713年]]([[和銅]]6年)に発音はそのままで好ましい字二字で地名を表記するよう一斉に表記を改めた<ref group="*">『[[続日本紀]]』和銅6年5月2日条 : ここに見える[[詔]]には二字とは書かれていないが、この時点を境にかなり強引に二字にされたことが[[木簡]]資料などで確かめられている。</ref>。朝鮮は[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]には漢字の音を借りて地名を表していた([[吏読文字]]と呼ぶ)が、[[統一新羅]]の[[757年]]に[[景徳王]]が中国風の漢字二字の地名に変更した。 [[日本語]]の地名は漢字と[[仮名 (文字)|仮名]]の2本立てでできているので、両者が乖離したり片方に引き寄せられたりして複雑な様相を呈する。713年の好字二字令のときに発音と乖離した文字を付けられたのが古い例で、これが字に引きずられて読みが変わることもあった<ref group="*">「津(つ)」が「[[摂津国|摂津]](つ)」に変更され、字に引きずられて「摂津(せっつ)」に変化する、など。「[[群馬県|群馬]]」もその例である。</ref>。この種の変化は誤解から生じることも、意図的に変わった表現をとろうとする趣向から生じることもあり<ref group="*">「二荒(ふたら)」を「にこう」と読み替えた上で「[[日光市|日光]](にっこう)」の字をあてる、など。</ref>、一つの地名で複数の表記や発音が競合することも珍しくない<ref group="*">「[[塩竈市|塩竈]]」と「塩釜」など。</ref>([[難読地名]])。 [[定冠詞]]を持つ言語では、どのような地名に定冠詞を付けるかが言語ごとに異なっている<ref group="*">椙村大彬『地理名称の表現序説』14頁。[[英語]]なら川、海、山脈、砂漠には定冠詞を付けるが、集落など他の地名には原則として付けない。[[スペイン語]]では[[普通名詞]]からとった集落名には定冠詞を付けるのが原則である(La Paz [[ラパス]])など)。</ref>。 == 地名の由来 == 地名の由来の探求は、[[地名学]]の中心課題である。信頼できる文献で残されている由来や、実地形との対照などから確実視できる由来もあるが、諸説あって定まらないもの、まったく不明とするしかないものも多い。判明した由来は非常に多様であるが、言語・地域や時代による傾向の違いを見出すことはできる。命名の方向から大きく二分すれば、その場所の特徴からとったものと、命名者の願望・思想を付けたものに分かれる<ref name="名前なし-1">椙村大彬 『地理名称の表現序説』 44頁。</ref>。 === 地形や土地の特徴 === 地形の特徴から地名を作るのは、数多い一般的な命名方法である。特に小範囲の地形、古い時代に付けられた地名に多い。<!--[[未開社会]]での地名に多いとも言われる。|※古い文献にありがちな、差別的概念に基づく論拠の薄い意見をコメントアウト。-->自然改変の結果やその場所の施設・機能に由来する地名が付けられるのは、その種の活動が出現しなければ出てこない<ref name="名前なし-2">椙村大彬 『地理名称の表現序説』</ref>。 地形のほかにも、その場所の様々な特徴から地名は作られる。そこにある動植物のような自然物、[[田畑]]など半ば人工的に作られた特徴も地名の一部になる。由来となった特徴が消えても地名はなかなか変わらないので、地名が過去の様子を推測する手がかりになることがある。 「山」や「小さな山」など普通名詞そのものが地名になる場合もある。地元の人しか言及しないような小地形では、それだけで場所の特定ができるため、この種の地名が多くなる。こうした地名でも、その言葉が[[死語 (言語)|死語]]か[[古語]]になっていたり、外国語起源であったりすると、他の場所と区別する固有名詞としての機能が具わり、地名として定着しやすくなる。 === 人名 === [[発見]]者、[[偉人]]・[[聖人]]のほか、命名者が個人的に愛着する[[人名|人の名]]を採った地名である。[[神]]の名を付けたものも命名の動機は人名に似る。南北[[アメリカ大陸]]には特に多い<ref group="*">[[ジョージ・ワシントン]]から[[ワシントン特別区]]、[[クリストファー・コロンブス|クリストーバル・コロン]]から[[コロンビア]]など。椙村大彬『地理名称の表現序説』84頁。</ref>。起源になるのは[[ヨーロッパ]]系の人物だけとは限らず、[[先住民]]の名を採ったものもある<ref group="*">[[グアイカイプロ]]から[[グアイカイプロ市]]など。</ref>。 古くからの地名を捨てて偉人の名に改めることもある。近代には[[革命]]などの体制転換の度に地名が変わる事例が多く見られた<ref group="*">[[中華民国]]は[[1925年]](民国14年)に[[孫文]](孫中山)の生地を「香山県」から「[[中山市|中山県]]」に改称した。[[ドミニカ共和国]]の「[[サントドミンゴ]]」はトルヒーヨ大統領によって「シウダー・トルヒーヨ」と改められ、[[アルゼンチン]]の「[[ラプラタ (アルゼンチン)|ラプラタ]]市」はペロン大統領によって妻の名と同じ「[[エヴァ・ペロン]]」とされたが、いずれも政権崩壊後に戻された。椙村大彬『地理名称の表現序説』86頁。[[アメリカ合衆国]]の「[[ケープ・カナベラル]]」は暗殺された[[ジョン・F・ケネディ]]大統領の名を採って「ケープ・ケネディ」と改めたが、後に戻された。</ref>。[[20世紀]]に[[ソビエト連邦]]を始めとする[[社会主義国]]では、旧来の地名の相当数を[[革命家]]の名に改称したが<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 84-86頁。</ref>、その多くは体制崩壊後に戻された。 ヨーロッパと南北アメリカでは、個人を[[顕彰]]する目的で[[通り]]や[[公園]]の名を付けたり変えたりするのがごく一般的である。日本や中国にそのような習慣はなかったが、中国には20世紀になって[[西洋文明]]の影響でそのような命名が広まった<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 89頁。</ref>。 日本では[[江戸時代]]の[[新田]]の名に[[開墾]]者の名をつけることがあった。[[明治]]時代以降にも[[開拓|開拓地]]の地名で人名から地名を付けることがあったが、数はあまり多くない。 地名と人名は相互に転化しうる密接な関係を持っているが、人名から地名になる例より、地名から人名が作られる例のほうがおそらく多い。[[イングランド]]では居住地名で[[姓]]を生まなかったもののほうが珍しいと言われ<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 76頁。</ref>、日本も事情は同じである。 === 人間集団と組織 === 人間[[社会集団|集団]]と広域地名の関係は個人名と地名の関係より密なものがあり、[[部族]]・[[民族]]の名と地方・国の名が対応するのはごく一般的であり、例えば、地名「[[日本]]」と民族名「[[日本人]]」、民族名「[[蝦夷]]」と地名「[[蝦夷地]]」などがそうである。 [[氏族]]や一族の居住や移住によって比較的小さな村落名が人間集団の名で呼ばれることもある。中部ヨーロッパには[[民族大移動]]時代の痕跡を残した小地名が多く残されており<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 98-109頁。</ref>、中国にもある一族が集まって住んだところにその姓を冠して付けた地名が残っている<ref group="*">姓+「家荘」、姓+「鎮」、姓+「村」という形で名づける。</ref>。 住民の職業から地名を付ける場合もある。日本では[[近世#日本|近世]]の[[城下町]]の建設期に、職業を冠した町に[[職人]]を集住させた(「[[肴町]]」「[[鍛冶町]]」など)。集住はやがて解消されたが、町名は各地で残った。 === 施設・団体 === [[城]]、[[港]]、大きな[[公園]]など広い面積を占める[[施設]]の名称は、その範囲を指す地名としても用いられる。施設がめだった目標となってその周辺の地名になることもある。この場合、施設名に「前」「脇」などを添えることもあるが、施設名をそのままを地名とすることもある<ref group="*">東京と大阪にある[[日本橋 (曖昧さ回避)|日本橋]]など。</ref>。 また、かつて城や寺院があった場合、門、堀、土居、木戸など文字が変えられている場合もあれど、かつてあった事を示す名もある。 少数であるが、[[会社]]、[[宗教団体]]の名から採った地名もある<ref group="*">アメリカ合衆国の[[モンタナ州]]アナコンダ、日本の[[愛知県]][[豊田市]]、[[奈良県]][[天理市]]など。</ref>。 === 地名 === 地名そのものも地名の由来となる。これにはいくつかの方法があり、まず、新しく発見、開拓した土地に故郷の地名を付けることがある。発見・開拓で命名された地名を多く擁している南北[[アメリカ大陸]]には特に多い。[[イギリス]]の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]から[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク]]などがその典型例として挙げられる。日本の[[陸奥国]]の[[郡#日本の郡|郡]]や郷には[[関東地方]]の郡や郷と同じ名のものがいくつかあるが、それらは関東からの集団移民が作った郡だと考えられている。元の地名に「新」を意味する語を冠することもあるが、そのまま採ることもある。 そうしたことと別に、山や川の名を都市の名にするなど、ほぼ同じ場所にある別の地名から名を採って総称詞だけ変えることもよくある。時おりは近くとはいえない距離で採られることもある(例:「[[札幌市]]」から「[[札幌岳]]」など)。地名に方角を冠した形の[[方角地名]]も、地名由来の地名である。 地名は範囲を拡大したり、縮小したりすることもある。古くからよくあるのは、狭い範囲に付けられた地名を、より広い地域・地方の名称にあてることで(例:「[[和泉郡]]」から「[[和泉国]]」など)、広い地域の地名を狭い範囲にあてるのは時代的に新しい現象である<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 46頁。</ref>。 二つの地名から一部ずつ取り出して別の語を組み立てた地名は、[[合成地名]]と呼ばれる。漢字二字の地名二つから一字ずつ抜き出して別の二字地名を作り出すのが典型である。三以上の地名から作る例もある。日本で[[市町村合併]]時に作られることが多いが、[[台湾]]にもある<ref name="名前なし-1"/>。 === 方角・位置 === 基準となる場所からの[[方位|方角]]、国や地方の中での[[位置]]から付けた地名。元となる地名に方角を冠したり、単に方角のみで地名あるいは地名の固有詞部分とする。東・西・南・北は世界中に現れる地名で、[[方角地名]]と言われる。土地の高さで分けるときには、高・低や上・下が用いられる。自国やその中心部から見た遠・近もあり<ref group="*">英語で使われ日本語でも用いられる近東(Near East)・中東(Middle East)・極東(Far East)。</ref>、これを前・後で表すこともある<ref group="*">日本では[[肥前国]]と[[肥後国]]などにみられる。</ref>。 漢字二字の慣習的制約がある[[東アジア]]で方角地名を作るときには、二字の地名から一字をとって、それに方角・位置を付けることが多い(例:「台湾」から「[[台北市|台北]]」など)。また、中国では[[陰陽|陽と陰]]で独特の使い分けをする。川の北または山の南にある都市は川・山の名に「陽」を付け、川の南または山の北にある都市には川・山の名に「陰」を付ける。「陽」は[[太陽光|日光]]がよく当たる所で、「陰」は影になりやすい所なのである。中国では[[咸陽市]]<ref group="*">九嵕山(きゅうそうざん)の南、渭水の北に当たり「咸(みな)陽」</ref>など、日本では[[山陰地方]]や[[山陽地方]]などに見られる。 また、日本では[[古都]]である[[奈良]]や[[京都]]との[[距離]]などで前・中・後をつけられた地名も数多く存在する。特に[[旧国名]]に多い。 === 瑞祥・宣伝 === 命名者の願いをこめた地名を'''[[瑞祥地名]]'''と言う。めでたい喜ばしい言葉を付けた地名である。元の地名の意味や響きが不吉だとして改めることもある。例えば、日本の[[北海道]]にある[[千歳市]]の「千歳」はもともと「支笏(しこつ)」であったが、「死骨」に通じるという理由から改称されている。 移住者を呼び込むための[[宣伝]]で快適な地名を付けることもあり、その古く有名な例が、[[グリーンランド]]である<ref group="*">詳しくは「[[グリーンランド#「グリーンランド」の由来]]」を参照のこと。</ref>。20世紀後半の日本では、[[不動産会社|不動産業者]]が[[宅地]]として開発した土地に、宣伝目的で快く響く地名を付けることが多くなされ、実際の地形とは関係なく「丘」「台」を付けるなど、[[山の手]]を意識した名称が見られる。 瑞祥にも宣伝にも当てはまらず、笑いをとるために付けられた地名もある<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 42-43頁に[[ニューファンドランド島]]の多数の例を引く。</ref>。 == 地名の対象 == {{独自の研究|section=1|date=2019年4月}} {{要出典範囲|地名の対象は、[[点]]([[0次元]]。例:[[山頂]])、[[線]]([[1次元]]。例:[[国境]]、[[軍事境界線]])、[[面]]([[2次元]]。例:[[流域]]、[[自然保護区]]、[[領土]])、[[立体]]あるいは[[3次元]][[空間]](3次元。例:[[山]]、[[洞窟]]、[[坑道]]、[[水系]]、[[断層]])の形をとる。地球上の地名の場合、[[陸|陸地]]([[山地]]、[[平地]]、[[洞窟]]、[[海岸]]、[[湿地]]など)・[[水域]]([[川]]、[[湖沼]]、湿地、[[湾]]、[[海]]など)・[[生物]]による[[地形]]などといった自然物と、[[人工]]的な構造地形([[集落]]、坑道など)、および、[[国]]・[[市町村]]など[[政治]]的に決められたものがある。一部の<!--※何で「一部」だろう。-->[[道路]]・[[公園]]・[[城]]・[[堤防]]・[[港]]などの名も地名として機能する。|date=2019年4月}} == 地名の変更と保存・復活運動 == 日本では、上記のような宅地開発や市町村合併に加えて、[[住居表示法]]施行(1962年)によって、新たな地名や合成地名が誕生したり、古来の地名が消滅したりしてきた。こうした動きには批判的な意見もある。地名の保存を強く訴えた[[民俗学]]者の[[谷川健一]]<ref>[http://www.zck.or.jp/article/tanigawa/index.html 谷川健一「地名は日本人のアイデンティティ」][[全国町村会]]・論説(第2664号・平成21年1月12日)2018年3月18日閲覧</ref>は1978年に「地名を守る会」を発足させ、1981年には「日本地名研究所」(地名研)を設立。地名研を母体に博物館を作る構想は立ち消えとなったが、神奈川県[[川崎市]]教育委員会の「[https://www.city.kawasaki.jp/880/category/10-6-6-0-0-0-0-0-0-0.html 地名資料室]」に引き継がれている<ref>【わがまちお宝館】川崎市教委地名資料室(高津区)「大地の索引」歴史たどる『[[朝日新聞]]』朝刊2018年2月7日(第2東京面)</ref>。 石川県[[金沢市]]や東京都[[千代田区]]などでは[[旧町名復活運動]]が進められ、一部は実現した。 == 異なる言語間での地名の扱い == === 外国地名 === {{出典の明記|date=2021年6月}} {{Main|エンドニムとエクソニム}} 言語はその話者の居住範囲の地名だけを表現できればよいというものではないので、現代の言語は当然に世界中の地名をカバーしなければならない。そこで、一つの対象について正しい地名は一つでなく、言語の数だけ地名があると言うこともできる。とはいうものの、話者の身近にある外国地名もあれば、ほとんど用いられず、意識されることさえない外国地名もある。 外国地名にはほぼ例外なくその場所、あるいは近辺の居住者によって現地語の地名が付けられている。それらを自言語に転写するだけで済むなら外国地名固有の問題はないはずであるが、実際には現地語とずれることが珍しくない。ずれが生じる理由は様々にある。国・地方のような広域地名では、自称で生まれた地名と周辺から呼んだ地名が初めから異なることが多い。そうでなくても、名の意味を自言語に訳すことで別の呼び方になることがある。現地で地名が変化したのに、周辺言語が古い地名を保存することもある。複数[[言語]]の住民が混住する地域で、[[民族]]・言語によって地名が異なる場合には、国境の変更によって公的な現地語が変わることになる。 文字を共有する別言語で、発音と表記の対応方法が異なる場合には、現地語とのずれは避けがたい。[[中国語]]では、[[漢字]]表記が定まっていても、[[方言]]差のせいで[[標準語]]([[普通話]])である[[北京語]]の発音と現地の発音が異なるところが多い<ref>椙村大彬 『地理名称の表現序説』 179頁。</ref>。こうしたことは[[アルファベット]]を共有するヨーロッパ諸言語の間にもあり、[[綴り字]]が同じでも発音が異なることがある。例えば "Chile" は現地の[[スペイン語]]で「チレ」というが、[[英語]]では「[[チリ]]」のように発音する。 各言語の影響力の違いも外国地名の決定要素として無視できない重みがある。影響力のない小言語の現地地名よりも、大言語が外から呼ぶ地名のほうが他の言語に採用されやすいのである。 20世紀後半から、外国地名についてはできるかぎり現地での呼び方を尊重するが、自国語で慣習が根強い場合にはそちらを優先するというのが世界的な傾向になっており、徐々に慣習的な表記を改める動きもある<ref name="名前なし-2"/>。 {{See also|外国地名および国名の漢字表記一覧}} === 日本の地名の英語表記 === [[File:Naieriver-meihyo.jpg|thumb|Naiegawa Riverと記された[[奈井江川]]の標識]] 2016年に[[国土地理院]]は、[[観光立国推進基本法|観光立国]]の実現や[[2020年東京オリンピック・パラリンピック|2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会]]の開催を目前にして急増する(と想定された)[[訪日外国人旅行|インバウンド]]需要への対応策として、地図に記載する地名等に関する英語表記ルールや外国人にわかりやすい[[地図記号]]を決定した<ref name="gsi">{{Cite web|url=http://www.gsi.go.jp/common/000141460.pdf|title=地名等の英語表記ルールと外国人向け地図記号を決定|work=国土地理院広報第575号(2016年5月発行)|page=10|publisher=国土地理院|accessdate=2016-11-05|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11463405/www.gsi.go.jp/common/000141460.pdf#page=10|archivedate=2020-03-03|deadlinkdate=2022-08}}{{Cite book|url=https://www.gsi.go.jp/common/000111876.pdf|title=地名の英語表記及び外国人にわかりやすい地図記号について|author=外国人にわかりやすい地図表現検討会|chapter=第1部 地図に記載する地名及び施設名の英語表記方法について|pages=4-22|publisher=国土地理院|date=2016年1月6日公表|format=PDF}}</ref>。英語表記ルールでは置換方式と追加方式の2通りを定め使い分けることとしている<ref name="gsi"/>。 * 置換方式 : 地名に含まれる「山」を「Mt.」、「川」を「River」のように、そのまま英語に置き換える方式<ref name="gsi"/>。{{clear}}筑波山はMt.Tsukuba、利根川はTone Riverとなる<ref name="gsi"/>。 * 追加方式 : 地名のローマ字表記に、「山」であれば「Mt.」、「川」であれば「River」などを追加する方式<ref name="gsi"/>。置換方式を適用すると、[[月山]]はMt.Gatsu、[[荒川 (関東)|荒川]]はAra Riverとなるが、日本人には通じにくくなってしまうため、月山は[[:en:Mount Gassan|Mt.Gassan]]、荒川は[[:en:Arakawa River (Kantō)|Arakawa River]]とするもの<ref name="gsi"/>。英語から元の日本語地名を認識することが困難となる場合などには追加方式が適用される<ref name="gsi"/>。{{clear}}施設名称に由来する地名にも追加方式が適用され、例えば[[東大寺]]はTodai TempleでなくTodaiji Templeとなる。 === 民族・領土問題と地名 === {{出典の明記| date = 2021年6月}} {{See also|呼称問題}} 上記のように、同じ土地に対して周辺住民による呼称が複数ある場合だけでなく、[[探検]]や交易、[[征服]]・[[植民地]]化などを目的にやって来た外来者が、地元呼称と異なる地名を付けることも珍しくない。例えば、[[ヒマラヤ山脈]]にある世界[[最高峰]]を[[エベレスト]]と“命名”したのは[[インド]]を統治していた英国人であり、それ以前から山麓の[[ネパール]]では「サガルマータ」、[[チベット]]では「チョモランマ」と呼ばれていた([[エベレスト#名称]]を参照)。[[オーストラリア]]で原住民が「[[ウルル]]」と呼んでいた巨大な岩山は、イギリス植民者により「エアーズ・ロック」と名付けられたが、近年は現地において「ウルル」の呼称が尊重されている。 民族問題や[[領土問題]]、海洋権益を巡る国家間の争いが生じている地域・海域では、地名とその国際的な通用性も対立の一部となることが多い。例えば[[竹島 (島根県)]]について、島を占拠する[[大韓民国]]は「独島」(ドクト)と呼称している。その韓国は北朝鮮の地名を認めておらず、1945年8月15日時点の地名を準用している。東欧の[[マケドニア共和国]]に対して、その国号を南隣の[[ギリシャ]]は認めず、変更を要求している([[マケドニア共和国#マケドニア呼称問題]]を参照)。 == 地球以外の天体の地名 == [[ファイル:Moon names.svg|thumb|220px|[[月の地形一覧|月の地形]]とその名]] 長らく地名はもっぱら地球表面にのみ関わるものばかりであったが、そうは言っても月の特定の場所には地名がつけられることがあった。[[月探査]]が進むと、月の地名は増えた。 {{Seealso|月の地形一覧|月の山の一覧|月の海の一覧}} <!--上述のとおり、-->[[太陽系]]内の他天体の観測調査が進むにつれ、そこにも様々な地名が与えられた。<!--本項目では地名を地理名称と同義の拡張された意味で解説する。--> {{要出典範囲|人間が認識可能な特定箇所に対して付けられる固有の名称である|date=2019年4月}}<!--※学術用語・通用語ともに見当たりません。「地理的表示」は意味合いが違いますし。-->。 地表があって詳細な[[天体観測|観測]]の可能な既知の天体では、天体の大きさの違いに関わりなく、学術的注目に適う密度で何らかの地名が付けられている(翻って言えば、注目度が上がらない限り付けられない)。新発見の天体で前述の諸条件が揃うようであれば、ただちにではないにしても、全ての特定地点や特定範囲を座標のみで表すわけにはいかないのが道理であり、自然発生的に、あるいは計画的に、地名が考え出される。[[地球型惑星]]([[地球]]、[[火星]]、[[金星]]、[[水星]])<ref group="*">「[[火星#地形]]」「[[金星#地形]]」「[[水星#地形]]」を参照のこと。</ref>や[[衛星]]([[月]]、[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]など)<ref group="*">「[[月#地名]]」「[[フォボス (衛星)#地形]]」「[[エウロパの地形一覧]]」「[[イオ (衛星)#地質]]」「[[カリスト (衛星)#表面の地形]]」「[[タイタン (衛星)#表面の特徴]]」「[[トリトン (衛星)#物理的特徴]]」等を参照のこと。</ref>だけでなく、[[小惑星]]のような小天体にも地名は付けられている場合があり、20箇所近くの地名が付けられている[[イトカワ (小惑星)|小惑星イトカワ]]などは好例であろう<ref group="*">「[[イトカワ (小惑星)#地名]]」を参照のこと。</ref>。 また、地表が存在せず、[[気体|ガス]]を主成分とする[[木星型惑星]]の場合、通常的にいう「地名」に当たる固有名称は用いられない。しかしながら、このような天体には数十年・数百年もの長きにわたって固定されたように位置の変わらない特定“地点”がいくつか存在するのであり、このような“地点”に付けられた固有名称を「地名」と呼ぶ捉え方の下では、これらの天体にも地名は付けられている、ということになる。なお、[[太陽]]の場合は、その表面に長く存在し続ける特定“地点”は生まれないため、この天体に地名が付けられることは無い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="*"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=椙村大彬 |date=1978-01 |title=地理名称の表現序説 |publisher=[[古今書院]] |isbn=978-4-7722-1253-3 |ref=Sugimura (1978)}} == 関連項目 == {{Wiktionary|en:地名}} * [[地名学]] - [[地名研究家]]/[[地名接尾辞]] * [[方角地名]]/[[瑞祥地名]]/[[合成地名]]/[[広域地名]]/[[難読地名]]/[[ひらがな・カタカナ地名]] * [[日本の人名地名一覧]]/[[北海道の地名・駅名]] * [[大字]]/[[小字]] * [[町丁]] - 区画用語。 * [[方言字]] * [[珍地名]] * [[国際連合地名標準化会議]] * [[オイコニム]] - 建物や住居から付けられた名前。地名ともなる場合がある。 == 外部リンク == *[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879894/04 地名の研究] [[柳田國男|柳田国男]]、古今書院、1937年、国立国会図書館 {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちめい}} [[Category:地名|*]] [[Category:歴史資料]]
2003-07-20T20:46:52Z
2023-11-04T07:42:25Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Normdaten", "Template:独自の研究", "Template:要出典範囲", "Template:Main", "Template:See also", "Template:Clear", "Template:Lang", "Template:Cite web", "Template:Wiktionary", "Template:告知", "Template:出典の明記", "Template:Seealso" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%90%8D
11,945
升田幸三
升田 幸三(ますだ こうぞう、ますだ こうそう、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1991年〈平成3年〉4月5日)は、将棋棋士。実力制第四代名人。棋士番号18。 木見金治郎の弟子であり、木村義雄・塚田正夫・大山康晴と死闘を演じ、木村引退後は大山と戦後将棋界で覇を競った。 名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した。次男は元東急文化村社長の升田高寛。 父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して家出。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら...」の文言は、後に現実のものとなる(詳細は後述)。 広島市での飲食店やクリーニング店の丁稚奉公など紆余曲折を経て、大阪の木見金治郎八段の門下生となる。同門の先輩には大野源一、角田三男、また後輩には終生のライバル大山康晴がいる。初段でプロになるまで(当時のプロ棋士は初段からだった)が長かったが、1934年(昭和9年)2月に初段になってから、めきめきと頭角を現す。この頃、坂田三吉から「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。 1935年(昭和10年)関西にも奨励会ができ、当時三段だった升田も本来は奨励会員となるはずであったが、特別の強さを認められ三段でありながら引き続き新聞棋戦に登場していた。 1939年(昭和14年)に徴兵されて陸軍に入隊し、1942年(昭和17年)まで広島の部隊に所属。1943年(昭和18年)に再度召集。翌1944年(昭和19年)南方へ派遣され、セニヤビン諸島のポンペイ島(現:ミクロネシア連邦ポンペイ州の主島)に上陸する。同島は米軍の制空権下にあり、補給も途絶し、ジャングルの中を爆撃から逃げ回る苛酷な戦況に戦死も覚悟するが、同島には米軍が上陸してこなかったため玉砕は免れた。戦地では食糧不足に悩み、食べられるものは何でも食べたためかえって体を悪くした。ライバルの木村のことを思い出し「月が通信してくれるなら木村と将棋が指したい」と涙に暮れたという。 1945年(昭和20年)の暮、復員して将棋を再開。このころ、名人戦になかなか登場できなかったが人気抜群の升田のために、公式棋戦以外に以下の番勝負が行われている。 1948年(昭和23年)の第7期名人挑戦者決定三番勝負(対大山戦・高野山の決戦)の第三局において、勝勢であったが手拍子の大悪手を指して、頓死を食らい「錯覚いけない、よく見るよろし」という有名な言葉を残す。当時、毎日新聞社文芸部の副部長として第三局を観戦した井上靖は、勝負の世界の烈しさに強い感動を覚え、小説家となった後の1951年(昭和26年)に、この対局をモデルにして短編小説「勝負」を書いている。 関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す。 タイトル戦でなかなか大山に勝てなかったが、1957年、ついに大山を倒して将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「たどり来て、未だ山麓」との言葉を残す。 「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車・居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。有名な新手には升田式石田流、雀刺し、急戦矢倉、棒銀、ひねり飛車、対ひねり飛車タコ金、角換わり腰掛銀升田定跡、駅馬車定跡、升田式向かい飛車、一間飛車、居飛車穴熊などがある。その功績を記念して、毎年行われる将棋大賞にて、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が、升田の没後3年余り経った1995年(1994年度)から設けられている。 角(角行)使いの名手であり、特に、自陣から敵陣をにらむ「遠見の角」を好んだという。 将棋界に大きな功績を残した升田だったが、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多かった。そのためタイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られなかったが、順位戦A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。将棋連盟では1988年に升田のために新たな称号を作って「実力制第四代名人」の称号を贈った。 順位戦A級在籍は通算31期(名人2期と休場8期含む)。順位戦A級参加時は休場期と最後の皆勤となった第30期で4勝5敗に終わった以外の期はすべて勝ち越しており、A級の勝率0.724(139勝53敗1持将棋)は、2021年3月現在において現役を除く歴代A級棋士の中の最高勝率である。 実質的な後継者は加藤一二三であるとされているが、加藤のみならずその棋風を慕う棋士は多く、米長邦雄は「升田さんの序盤は天才的」と言っている。他にも現在の第一人者の羽生善治も将棋を指したい人は誰かと言う問いに「升田先生と指したい」と述べている。将棋年鑑で「指してみたい棋士」という全棋士アンケートが実施された際にも(羽生世代の棋士は大山と指したことがあるという事情はあるにせよ)、升田の名をあげた棋士の数は、大山・木村を凌いでいる。谷川浩司とはペア将棋では対局したことはあるが、通常の対局で指したことはなかった。 公式戦の絶局は引退後1982年2月27日に羽澤ガーデンにおいてであった。当時プロに匹敵する実力を持つと言われていたアマ名人の真剣師・「新宿の殺し屋」こと小池重明と角落ちで対局し完勝している。アマとはいえ当時の小池はめっぽう強く、十五世名人・大山は角落ちで敗れ、当時の名人中原誠とは角落ちで1勝1敗、棋王・米長邦雄も同様の成績。若手強豪の棋聖・森雞二に至っては三連敗(角落ち、香落ち、平手)とプロが次々に負けていた。この将棋は記録が残っている升田の最後の対局で、引退して3年ほど経っていた升田に春秋に富む気鋭の小池が挑んだものである。対戦前は名人二名、棋王・棋聖と現役強豪トッププロを次々に破っていた小池優勢と見られており、事実途中まで小池は優勢に進めていた。升田は飛車の上に玉を乗せる飛頭の玉という奇手(‘棒玉’と呼ばれている新手の嵌め手)で対抗した(小池重明#エピソード参照)。小池が50手目に指した8五歩において小池は作戦勝ちを確信したという。小池は升田が9四金と逃げるとばかり思っていたというが、升田はあっさりと8五同金と金歩の交換に応じ、その瞬間に小池の勝ちは無くなった。局後升田は小池に「8五歩と打ったのはやはり素人だな。君は私がプロだということを忘れとったろう」と言ってのけた。このように、升田は最後の最後まで新手を出現させた人生であった。 1991年、心不全のため73歳で死去した。晩年は羽生や先崎学といった若手強豪や観戦記者と碁を楽しんでいたという。 升田が将棋指しを目指して家を出たとき、母の使う物差しの裏に書いたとされる言葉である。正確には、「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書いた。「香車を引いて」は香落ちの手合割でという意味で、「勝ったら」は「勝つため」の誤りである。そのため他者の出版物では「勝つため」に直して書かれることがあるものの、実際に書かれたのはあくまで「勝ったら」であると升田は自伝で語っている。また同著で将棋の世界の仕組みがわかっておらず東京には関根名人がいる、大阪では坂田三吉が関西名人を名乗っている、とすると広島にも名人がおるんじゃなかろうか、まず広島名人をやっつけてから大阪にいく。と当て推量しているが当時の心境を全く覚えていないと述懐している。ただし、升田がこの言葉を書いた時点では、棋士同士が駒落ちで対局する公式戦は存在せず、非現実的なものであった。 その後1950年に王将戦が創設されることになり、規定として三番手直りとし、3勝差がついた時点で残りの対局を香落ちと平手を交互に指す(指し込み)制度が定められたことにより、夢が現実となる可能性が生まれた。しかし、この制度に反対したのが当の升田であった。もしも名人と戦えば指し込みに追い込める自信を持つ一方、棋士の格を重んじる性分でもあり、そんな事態になれば棋界の存続にかかわるのではないかと危惧したためである。これに対し、当時の名人である木村義雄が「そんな事はあり得ない」と判断したため、見直されることはなかった。 そして1951年の第1期王将戦で、木村名人と七番勝負を争う。升田は木村に対し4勝1敗とし、続く第6戦を香落ちで戦うことになり、「名人に香車を引く」が実現したが、升田が対局を拒否して不戦敗となっている(陣屋事件)。この時の詳細な状況は不明だが、心境については「できたら指したくなかった」と後年に吐露している。 1956年、今度は弟弟子でもある大山康晴名人との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。この際は棄権せずに対局し、大山に勝っている。「名人に香車を引いて勝つ」を実現した瞬間でもあった。後にも先にも、名人を相手に香車を引いて対局をした棋士も、また勝ったのも升田幸三のみである。 この時の心境について、升田は晩年のインタビューで以下のように語っている。 生涯成績 544勝376敗(勝率:0.591)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "升田 幸三(ますだ こうぞう、ますだ こうそう、1918年〈大正7年〉3月21日 - 1991年〈平成3年〉4月5日)は、将棋棋士。実力制第四代名人。棋士番号18。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "木見金治郎の弟子であり、木村義雄・塚田正夫・大山康晴と死闘を演じ、木村引退後は大山と戦後将棋界で覇を競った。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した。次男は元東急文化村社長の升田高寛。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して家出。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら...」の文言は、後に現実のものとなる(詳細は後述)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "広島市での飲食店やクリーニング店の丁稚奉公など紆余曲折を経て、大阪の木見金治郎八段の門下生となる。同門の先輩には大野源一、角田三男、また後輩には終生のライバル大山康晴がいる。初段でプロになるまで(当時のプロ棋士は初段からだった)が長かったが、1934年(昭和9年)2月に初段になってから、めきめきと頭角を現す。この頃、坂田三吉から「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)関西にも奨励会ができ、当時三段だった升田も本来は奨励会員となるはずであったが、特別の強さを認められ三段でありながら引き続き新聞棋戦に登場していた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1939年(昭和14年)に徴兵されて陸軍に入隊し、1942年(昭和17年)まで広島の部隊に所属。1943年(昭和18年)に再度召集。翌1944年(昭和19年)南方へ派遣され、セニヤビン諸島のポンペイ島(現:ミクロネシア連邦ポンペイ州の主島)に上陸する。同島は米軍の制空権下にあり、補給も途絶し、ジャングルの中を爆撃から逃げ回る苛酷な戦況に戦死も覚悟するが、同島には米軍が上陸してこなかったため玉砕は免れた。戦地では食糧不足に悩み、食べられるものは何でも食べたためかえって体を悪くした。ライバルの木村のことを思い出し「月が通信してくれるなら木村と将棋が指したい」と涙に暮れたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)の暮、復員して将棋を再開。このころ、名人戦になかなか登場できなかったが人気抜群の升田のために、公式棋戦以外に以下の番勝負が行われている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1948年(昭和23年)の第7期名人挑戦者決定三番勝負(対大山戦・高野山の決戦)の第三局において、勝勢であったが手拍子の大悪手を指して、頓死を食らい「錯覚いけない、よく見るよろし」という有名な言葉を残す。当時、毎日新聞社文芸部の副部長として第三局を観戦した井上靖は、勝負の世界の烈しさに強い感動を覚え、小説家となった後の1951年(昭和26年)に、この対局をモデルにして短編小説「勝負」を書いている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "タイトル戦でなかなか大山に勝てなかったが、1957年、ついに大山を倒して将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「たどり来て、未だ山麓」との言葉を残す。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車・居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。有名な新手には升田式石田流、雀刺し、急戦矢倉、棒銀、ひねり飛車、対ひねり飛車タコ金、角換わり腰掛銀升田定跡、駅馬車定跡、升田式向かい飛車、一間飛車、居飛車穴熊などがある。その功績を記念して、毎年行われる将棋大賞にて、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が、升田の没後3年余り経った1995年(1994年度)から設けられている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "角(角行)使いの名手であり、特に、自陣から敵陣をにらむ「遠見の角」を好んだという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "将棋界に大きな功績を残した升田だったが、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多かった。そのためタイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られなかったが、順位戦A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。将棋連盟では1988年に升田のために新たな称号を作って「実力制第四代名人」の称号を贈った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "順位戦A級在籍は通算31期(名人2期と休場8期含む)。順位戦A級参加時は休場期と最後の皆勤となった第30期で4勝5敗に終わった以外の期はすべて勝ち越しており、A級の勝率0.724(139勝53敗1持将棋)は、2021年3月現在において現役を除く歴代A級棋士の中の最高勝率である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "実質的な後継者は加藤一二三であるとされているが、加藤のみならずその棋風を慕う棋士は多く、米長邦雄は「升田さんの序盤は天才的」と言っている。他にも現在の第一人者の羽生善治も将棋を指したい人は誰かと言う問いに「升田先生と指したい」と述べている。将棋年鑑で「指してみたい棋士」という全棋士アンケートが実施された際にも(羽生世代の棋士は大山と指したことがあるという事情はあるにせよ)、升田の名をあげた棋士の数は、大山・木村を凌いでいる。谷川浩司とはペア将棋では対局したことはあるが、通常の対局で指したことはなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "公式戦の絶局は引退後1982年2月27日に羽澤ガーデンにおいてであった。当時プロに匹敵する実力を持つと言われていたアマ名人の真剣師・「新宿の殺し屋」こと小池重明と角落ちで対局し完勝している。アマとはいえ当時の小池はめっぽう強く、十五世名人・大山は角落ちで敗れ、当時の名人中原誠とは角落ちで1勝1敗、棋王・米長邦雄も同様の成績。若手強豪の棋聖・森雞二に至っては三連敗(角落ち、香落ち、平手)とプロが次々に負けていた。この将棋は記録が残っている升田の最後の対局で、引退して3年ほど経っていた升田に春秋に富む気鋭の小池が挑んだものである。対戦前は名人二名、棋王・棋聖と現役強豪トッププロを次々に破っていた小池優勢と見られており、事実途中まで小池は優勢に進めていた。升田は飛車の上に玉を乗せる飛頭の玉という奇手(‘棒玉’と呼ばれている新手の嵌め手)で対抗した(小池重明#エピソード参照)。小池が50手目に指した8五歩において小池は作戦勝ちを確信したという。小池は升田が9四金と逃げるとばかり思っていたというが、升田はあっさりと8五同金と金歩の交換に応じ、その瞬間に小池の勝ちは無くなった。局後升田は小池に「8五歩と打ったのはやはり素人だな。君は私がプロだということを忘れとったろう」と言ってのけた。このように、升田は最後の最後まで新手を出現させた人生であった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1991年、心不全のため73歳で死去した。晩年は羽生や先崎学といった若手強豪や観戦記者と碁を楽しんでいたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "升田が将棋指しを目指して家を出たとき、母の使う物差しの裏に書いたとされる言葉である。正確には、「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書いた。「香車を引いて」は香落ちの手合割でという意味で、「勝ったら」は「勝つため」の誤りである。そのため他者の出版物では「勝つため」に直して書かれることがあるものの、実際に書かれたのはあくまで「勝ったら」であると升田は自伝で語っている。また同著で将棋の世界の仕組みがわかっておらず東京には関根名人がいる、大阪では坂田三吉が関西名人を名乗っている、とすると広島にも名人がおるんじゃなかろうか、まず広島名人をやっつけてから大阪にいく。と当て推量しているが当時の心境を全く覚えていないと述懐している。ただし、升田がこの言葉を書いた時点では、棋士同士が駒落ちで対局する公式戦は存在せず、非現実的なものであった。", "title": "名人に香車を引いて" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その後1950年に王将戦が創設されることになり、規定として三番手直りとし、3勝差がついた時点で残りの対局を香落ちと平手を交互に指す(指し込み)制度が定められたことにより、夢が現実となる可能性が生まれた。しかし、この制度に反対したのが当の升田であった。もしも名人と戦えば指し込みに追い込める自信を持つ一方、棋士の格を重んじる性分でもあり、そんな事態になれば棋界の存続にかかわるのではないかと危惧したためである。これに対し、当時の名人である木村義雄が「そんな事はあり得ない」と判断したため、見直されることはなかった。", "title": "名人に香車を引いて" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "そして1951年の第1期王将戦で、木村名人と七番勝負を争う。升田は木村に対し4勝1敗とし、続く第6戦を香落ちで戦うことになり、「名人に香車を引く」が実現したが、升田が対局を拒否して不戦敗となっている(陣屋事件)。この時の詳細な状況は不明だが、心境については「できたら指したくなかった」と後年に吐露している。", "title": "名人に香車を引いて" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1956年、今度は弟弟子でもある大山康晴名人との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。この際は棄権せずに対局し、大山に勝っている。「名人に香車を引いて勝つ」を実現した瞬間でもあった。後にも先にも、名人を相手に香車を引いて対局をした棋士も、また勝ったのも升田幸三のみである。", "title": "名人に香車を引いて" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この時の心境について、升田は晩年のインタビューで以下のように語っている。", "title": "名人に香車を引いて" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "生涯成績 544勝376敗(勝率:0.591)", "title": "成績" } ]
升田 幸三は、将棋棋士。実力制第四代名人。棋士番号18。 木見金治郎の弟子であり、木村義雄・塚田正夫・大山康晴と死闘を演じ、木村引退後は大山と戦後将棋界で覇を競った。 名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した。次男は元東急文化村社長の升田高寛。
{{Infobox 将棋棋士 |image = [[File:Masuda Kozo.JPG|200px]] |caption = 1952年 |名前 = 升田幸三 |棋士番号 = 18 |生年月日 = {{生年月日と年齢|1918|3|21|no}} |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1918|3|21|1991|4|5}} |プロ年度 = {{年月日|year=1934|month=2|day=}}({{年数|1918|3|21|1934|2|1}}歳)<br>(初段)<ref name="1934-feb-shodan">{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=100-101|loc=とうとう「初段」になった-「きょうから初段だ」}}</ref><!--出典には「昭和9年2月」とあり日付不明のため、便宜上「1934年2月1日」と入力した。--> |出身地 = [[広島県]][[双三郡]][[三良坂町]](現[[三次市]]) |所属 = [[日本将棋連盟]](関西)<br />→将棋大成会(関西)<br />→日本将棋連盟(関西)<br />→日本将棋連盟(関東) |師匠 = [[木見金治郎]]九段 |弟子 = [[桐谷広人]] |肩書 =実力制第四代名人 |段位 = 九段 |タイトル合計 = 7期 |優勝回数 = 6回 |通算成績 = {{勝率|544|376|record=y}} |順位戦クラス =A級(31期<ref>名人2期を含む</ref>) |作成日時 = 2022年2月13日 }} '''升田 幸三'''(ますだ こうぞう、ますだ こうそう、[[1918年]]〈[[大正]]7年〉[[3月21日]] - [[1991年]]〈[[平成]]3年〉[[4月5日]])は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。'''実力制第四代名人'''<!--連盟から贈られた称号であるので漢数字。-->。棋士番号18。 [[木見金治郎]]の弟子であり、[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]・[[塚田正夫]]・[[大山康晴]]と死闘を演じ、木村引退後は大山と戦後将棋界で覇を競った。 名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した<ref>[[東公平]]『升田幸三物語』[[角川書店]]、2003年 ISBN 978-4043714018 10頁。地元の有名人にあやかった名前という。名前に「三」の字が入っているが、三男ではなく四男である。</ref>。次男は元[[Bunkamura|東急文化村]]社長の升田高寛。 == 経歴 == 父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して[[家出]]。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、[[名人 (将棋)|名人]]に[[香車]]を引いて勝ったら…」の文言は、後に現実のものとなる(詳細は後述)。 広島市での飲食店やクリーニング店の[[丁稚]]奉公など紆余曲折を経て、大阪の[[木見金治郎]]八段の門下生となる。同門の先輩には[[大野源一]]、[[角田三男]]、また後輩には終生のライバル[[大山康晴]]がいる。初段でプロになるまで(当時のプロ棋士は初段からだった<ref name=":0">{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=94-97|loc=とうとう「初段」になった-(冒頭)}}</ref>)が長かったが、1934年(昭和9年)2月に初段になってから<ref name="1934-feb-shodan"/>{{Refnest|group="注釈"|1934年(昭和9年)2月(日付は不明)に初段に昇段した升田のプロデビュー戦は、昭和9年2月の「'''中国民報'''([[山陽新聞]]の前身紙)・勝ち抜き戦」(対・[[飯塚勘一郎]]六段)であった<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=102-107|loc=とうとう「初段」になった-第1番 初陣の譜}}</ref>。}}、めきめきと頭角を現す。この頃、[[坂田三吉]]から「あんたの将棋は大きな将棋や、[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]を倒せるのはあんただけや」と激励される。 1935年(昭和10年)関西にも[[奨励会]]ができ、当時三段だった升田も本来は奨励会員となるはずであったが、特別の強さを認められ三段でありながら引き続き新聞棋戦に登場していた<ref>[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]、[[原田泰夫]]『[証言]将棋昭和史』(執筆)[[田辺忠幸]]、毎日コミュニケーションズ P.220-221「将棋昭和史年表」(加藤久弥、[[越智信義]])</ref>。 1939年(昭和14年)に徴兵されて陸軍に入隊し、1942年(昭和17年)まで広島の部隊に所属<REF>『升田幸三物語』P.62</REF>。1943年(昭和18年)に再度召集。翌1944年(昭和19年)南方へ派遣され、セニヤビン諸島の[[ポンペイ島]](現:[[ミクロネシア連邦]][[ポンペイ州]]の主島)に上陸する。同島は米軍の制空権下にあり、補給も途絶し、ジャングルの中を爆撃から逃げ回る苛酷な戦況に戦死も覚悟するが、同島には米軍が上陸してこなかったため玉砕は免れた。戦地では食糧不足に悩み、食べられるものは何でも食べたためかえって体を悪くした。ライバルの木村のことを思い出し「月が通信してくれるなら木村と将棋が指したい」と涙に暮れたという<ref>『名人に香車を引いた男』</ref>。 1945年(昭和20年)の暮、復員して将棋を再開。このころ、名人戦になかなか登場できなかったが人気抜群の升田のために、公式棋戦以外に以下の番勝負が行われている。 *1946年 [[新大阪 (新聞)|新大阪新聞]]主催(企画・[[小谷正一]]<ref>[[早瀬圭一]]「無理難題「プロデュース」します 小谷正一伝説」岩波書店</ref>) 木村義雄名人・升田幸三七段 五番勝負(升田が香落下手、平手、平手と三連勝で終了) *1947年 地方新聞社三社主催 木村義雄前名人・升田幸三八段 三番勝負(升田一勝二敗) *1948年 [[朝日新聞社]]主催 塚田正夫名人・升田幸三八段 五番勝負(升田二勝三敗) 1948年(昭和23年)の第7期名人挑戦者決定三番勝負(対大山戦・高野山の決戦)の第三局において、勝勢であったが手拍子の大悪手を指して、頓死を食らい「''錯覚いけない、よく見るよろし''」という有名な言葉を残す。当時、[[毎日新聞社]]文芸部の副部長として第三局を観戦した[[井上靖]]は、勝負の世界の烈しさに強い感動を覚え、小説家となった後の1951年(昭和26年)に、この対局をモデルにして短編小説「勝負」を書いている<ref>{{Cite book|和書|title=過ぎ去りし日日|year=1977|publisher=日本経済新聞社|pages=53-54|author=井上靖}}</ref>。 関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す<ref group="注釈">同年に大山も同様に、東京に転居している。</ref><REF>週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.148</REF>。 タイトル戦でなかなか大山に勝てなかったが、1957年、ついに大山を倒して将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「''たどり来て、未だ山麓''」との言葉を残す。 「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「'''新手一生'''」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車・居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら<ref group="注釈">理屈としては、一応[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]である以上、最良の手を突き詰めれば「先手必勝」「後手必勝」「両者引き分け(千日手または持将棋)」のいずれかに行き着く。しかし、少なくとも現在考えられうる理論的可能性として、[[組合せ爆発]]のために現実的な話ではない。</ref>、その寿命を300年縮めた男」と評された<ref group="注釈">羽生善治は、昭和20~30年代の升田が既に現代将棋の感覚を持っていたと評価している。1995年9月28日 日本経済新聞夕刊</ref>。有名な新手には[[升田式石田流]]、[[雀刺し]]、[[矢倉囲い#急戦矢倉|急戦矢倉]]、[[棒銀]]、[[ひねり飛車]]、対ひねり飛車タコ金、[[角換わり|角換わり腰掛銀]]升田定跡、駅馬車定跡、升田式向かい飛車、一間飛車、[[穴熊囲い|居飛車穴熊]]<ref group="注釈">[[1968年]]の第27期名人戦第2局で先手番で採用した。ちなみに後手番は大山康晴十五世名人で四間飛車であった。しかし、升田の構想が先進過ぎて、当時の将棋界は升田の「珍しい左穴熊」を居飛車穴熊とは認識できなかった。後年になって升田自ら、この一戦を「升田の将棋指南シリーズ/四間飛車の指南(大泉書店)」でも取り上げており、田中寅彦九段を元祖として居飛車穴熊戦法がプロの間に流行していたことに触れて、自分のことを忘れてもらっては困るともユーモアたっぷりにコメントしていた。</ref>などがある。その功績を記念して、毎年行われる[[将棋大賞]]にて、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「[[升田幸三賞]]」が、升田の没後3年余り経った1995年(1994年度)から設けられている。 [[角行|角]](角行)使いの名手であり、特に、自陣から敵陣をにらむ「遠見の角」を好んだという。 将棋界に大きな功績を残した升田だったが、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多かった。そのためタイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られなかったが、[[順位戦]]A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。将棋連盟では[[1988年]]に升田のために新たな称号を作って「実力制第四代名人」の称号を贈った<ref group="注釈">なお、それ以前に「名誉名人」の称号を升田に打診したが、[[小菅剣之助]]や[[土居市太郎]]のように「名人になっていない棋士」に与えられた称号であったため、升田が拒否した。それまでは「元名人」などの肩書を用いたこともあった。例)『升田のアドバイス 元名人 升田幸三』(近代将棋1986年1月号 別冊付録)</ref>。 順位戦A級在籍は通算31期(名人2期と休場8期含む)。順位戦A級参加時は休場期と最後の皆勤となった第30期で4勝5敗に終わった以外の期はすべて勝ち越しており、A級の勝率0.724(139勝53敗1持将棋)は、2021年3月現在において現役を除く歴代A級棋士の中の最高勝率である。 実質的な後継者は[[加藤一二三]]であるとされているが、加藤のみならずその棋風を慕う棋士は多く、米長邦雄は「升田さんの序盤は天才的」と言っている。他にも現在の第一人者の[[羽生善治]]も将棋を指したい人は誰かと言う問いに「升田先生と指したい」と述べている<ref group="注釈">羽生は、引退後の升田と囲碁を打ったことはあるが将棋は指してもらえなかった。</ref>。[[将棋年鑑]]で「指してみたい棋士」という全棋士アンケートが実施された際にも([[羽生世代]]の棋士は大山と指したことがあるという事情はあるにせよ)、升田の名をあげた棋士の数は、大山・木村を凌いでいる。[[谷川浩司]]とは[[ペア将棋]]では対局したことはあるが、通常の対局で指したことはなかった。 公式戦の絶局は引退後[[1982年]]2月27日に[[羽澤ガーデン]]においてであった。当時プロに匹敵する実力を持つと言われていたアマ名人の真剣師・「新宿の殺し屋」こと[[小池重明]]と角落ちで対局し完勝している。アマとはいえ当時の小池はめっぽう強く、十五世名人・大山は角落ちで敗れ、当時の名人[[中原誠]]とは角落ちで1勝1敗、棋王・[[米長邦雄]]も同様の成績。若手強豪の棋聖・[[森雞二]]に至っては三連敗(角落ち、香落ち、平手)とプロが次々に負けていた。この将棋は記録が残っている升田の最後の対局で、引退して3年ほど経っていた升田に春秋に富む気鋭の小池が挑んだものである。対戦前は名人二名、棋王・棋聖と現役強豪トッププロを次々に破っていた小池優勢と見られており、事実途中まで小池は優勢に進めていた。升田は飛車の上に玉を乗せる飛頭の玉という奇手(‘棒玉’と呼ばれている新手の嵌め手)で対抗した([[小池重明#エピソード]]参照)。小池が50手目に指した8五歩において小池は作戦勝ちを確信したという。小池は升田が9四金と逃げるとばかり思っていたというが、升田はあっさりと8五同金と金歩の交換に応じ、その瞬間に小池の勝ちは無くなった。局後升田は小池に「8五歩と打ったのはやはり素人だな。君は私がプロだということを忘れとったろう」と言ってのけた。このように、升田は最後の最後まで新手を出現させた人生であった。 1991年、心不全のため73歳で死去した。晩年は羽生や[[先崎学]]といった若手強豪や観戦記者と碁を楽しんでいたという。 == エピソード == * ヘビースモーカーであり、一日に300本も吸ったといわれる。また酒豪でもあり、後に[[谷川浩司]]には、「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」とアドバイスしている。反面、ギャンブルは大嫌いで、一応一通り試してみたが「運に左右されるものは勝負じゃない」と終生好まなかった。 * 生涯のライバル[[大山康晴]]との対局について、王将戦の記録係を務めた[[内藤國雄]]はこう語っている。「升田さんはタバコを吸い、大きな灰皿に花びらのようにポーンポーンと吸殻を並べていくんですね。それに対して、大山名人はアゴを引いてジッ…としている。それがまた素晴らしいですね。不動という感じでね。だから全く飽きなかったですね、この2人の対局は。棋譜だけではなく、2人の対局する姿も絵になっていたんですよ。」 * 1947年(昭和22年)の夏、升田が嘱託を務めていた朝日新聞社経由で、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から名指しで「将棋の話を聞きたい」と呼び出された<ref name=":1">{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=219-229|loc=GHQ高官の度肝を抜く}}</ref>。升田が出頭すると数名の[[将官]]が面談した{{Efn|出典には「ベタ金の軍服を着たエラそうなのが四、五人」とある<ref name=":1" />。「ベタ金」とは、階級章が(ほとんど)金色であることからくる、[[将官]]の俗称<ref>{{Harvnb|雨倉|1997|p=|pp=13-14|loc=ベタ金の由来}}</ref>。}}<ref name=":1" />。GHQ高官は「チェスと違い、将棋では取った駒を自分の持ち駒として使う。これは捕虜虐待である」という旨を言った<ref name=":1" />。升田はそのように言われることを予期しており「チェスでは取った駒を使わないが、これは捕虜虐殺である。将棋では、捕虜(取った駒)を、官位(角なら角、金なら金)はもとのまま、能力(駒の働き)を尊重して、味方として登用する。これこそ真の民主主義である」と反論した<ref name=":1" />。更に升田は「チェスは王様が危なくなると女王様まで楯にして逃げようとする。これはあなた方の民主主義やレディファーストに反する行為ではないか」と述べ、担当官を苦笑いさせた。升田は勧められたビール<ref group="注釈">ビールを要求したのは升田自身だった。「相手の意図が分からず、言葉じりをつかまれたらアホくさいので、難しい質問をされたら便所へ立ち、じっくり返事を考えよう」という、升田があらかじめ立てていた作戦による。</ref><ref name=":1" />を飲みながら5 - 6時間も話を続け、「もう帰って良い」と言われて辞去する際に「[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]にいる戦犯の者たちを処刑しないで欲しい。あそこにいるのは役に立つ者たちである」という旨を言い、GHQ高官の一人から「良く分かった。貴公は日本人には珍しく実によくしゃべる」と言われた<ref name=":1" />。 *「女は頭が悪い」「女には将棋はできない」と発言したこともあったが、当時の女流名人[[蛸島彰子]]が升田にサインを求めたところ、升田は快く応じている。まだ十代で美少女棋士として評判だった<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2018/01/07/nakai-2/ 山岸浩史「棋士たちの真情 中井広恵はサムライである:中井広恵女流王将・倉敷藤花」将棋世界2004年10月号]当時写真週刊誌が『美少女棋士のテニスウェア姿を激写!』という企画を組もうとしたという。</ref>[[中井広恵]]には、「女は将棋なんて強くなくても抱き心地さえ良ければいいんだ」と発言をしている<ref>[http://twitter.com/HIROE624/status/36101002281230336 HIROE624] 中井広恵Twitter参照</ref>。 * [[囲碁]]も強く、アマチュアの大会などにも出場し、団体戦出場時は自分が大将(主将)でなければ気がすまなかったといわれている。死後、後輩の[[米長邦雄]]らの尽力により[[日本棋院]]より囲碁アマ八段が贈られている(米長は、升田が「ヒゲの九段」と親しまれていたことから九段追贈を求めたが、さすがに許可が下りなかった)。 * 幼少期は剣道を志していたが、自転車で脚を大怪我をして断念した。棋士になってからも剣豪の話が大好きで、テレビの時代劇に出演したことがある。 * [[参議院議員通常選挙|参院選]]に出馬を打診された際「本業に自信のあるものは政治家にはならない」と断った。 * 1949年の第2回[[十段戦 (将棋)|全日本選手権戦]](後の九段戦、十段戦、[[竜王戦]])の対局前夜の食事会で名人の[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]と口論となり、「ゴミハエ問答」と呼ばれる著名なやり取りをしている。食通の木村が豆腐を食べながら「やっぱり豆腐は木綿ごしに限るよ」と木綿豆腐の良さについて薀蓄を垂れ始めたところ、絹ごし豆腐を好む升田はこれが気に触り、「'''えらそうなことばかり言うとるが、将棋は名人でも、その道の専門家から見りゃ、木村名人の知識なんかゴミみたいなもんだ'''」と噛み付いた。木村が「'''なにい?ゴミだって?名人がゴミなら君はなんだ'''」と問うと、升田は「'''さあね。ゴミにたかる蝿ですか'''」と一言。升田の軽妙なやり取りに食事会は笑いに包まれたが、機嫌を損ねた木村は「君も、えらそうなことばかり言ってないで一度ぐらい、名人挑戦者になったらどうだね」と言い残して席を立ってしまった<ref>東公平『升田幸三物語』日本将棋連盟、1996年。</ref>。翌日の対局は因縁の対決となり、200手を超える泥仕合の末に升田が勝利した。なお、ゴミハエ問答は、升田が対局後に木村の棋力を馬鹿にして発言したものであるという誇張されたエピソードが記載されている書籍もある<ref>なお、升田幸三著『升田幸三名局集』では、「私の自伝『名人に香車を引いた男』では、この朝、(中略)になっている。これは前夜の誤りだ。ここで訂正しておく」と自ら訂正をしている。</ref>。 * [[塚田正夫]]とは仲がよく、一緒に酒を飲むことが多かった。あるとき升田が「俺は太陽で、あんたは月だ」と言うと、普段は無口な塚田も頭にきて「何で俺が月だ」と反論し、太陽だ、月だ、と言いあったことがあった。 * 晩年には「もう一度生まれてきたら、[[天野宗歩]]のように3歳くらいで将棋を覚えて、名人に角を引きたい(ハンデとして自陣の角なしで戦いたい)」と語ったことがある。 * [[朝日新聞]]の将棋嘱託を務めており、昭和50年代の[[名人戦 (将棋)|名人戦]]問題では朝日寄りの言動が目立った。[[加藤一二三]]とともに朝日との棋戦契約存続で運動したが、何かと個性的な両名に共感者の少なかったことが、[[毎日新聞]]への移管につながったといわれる。 * 軍隊に入隊した頃の升田は煙草や酒、不規則な生活で体が相当弱っており、「軍隊に入って規則正しい生活、定期的な運動などしたおかげで大分体調が良くなった。もし入隊していなかったらとっくにくたばっていただろう」と後に述懐している。また銃剣の試合で最初は古参兵にボコボコにされていたが、あるコツをつかんだところ負けなくなったという。そのコツについて升田は後にこう語っていた。「相手の呼吸をよく見るんだ。人間は必ず息を吸って吐く。息を吐いているときは攻撃しても無駄だ。相手が息を吐き終わって吸い始めた瞬間にエイヤと打ち込む。大抵の人間は息を吸い始めた瞬間は無防備になるものだ。それを覚えてからは銃剣で負けなくなった」。升田が将棋でめっぽう強かったのは相手の癖を徹底的に見抜くことにあったことを如実に物語るエピソードである。 * ある対局で、もつれた終盤戦で升田がバチッと力強く勝負手を放った。升田は自信満々に「詰みだな」と一言つぶやいた。相手の棋士は大棋士たる升田が詰みだと自信満々に言うので戦意を喪失してそこで投了してしまった。ところが局後の[[感想戦]]で詰んでいないことが明らかになった。相手方の棋士はつい恨み言を升田にぶつけたところ、升田は「プロがきちんと確認もしないで俺の一言で投了したんじゃあ、お前の棋力はそんなもんだよ」とうそぶいていたという。 * 巨人の[[長嶋茂雄]]と対談した時「野球は3割打ったら上等と言われるが、将棋は7割勝たんと一流とはいえん、精進したまえ」と言われた長嶋はスランプから脱出したという。 * 数々のエピソードが示すとおり、やや放言癖があった。しかし、それも升田の魅力の一つであった。 * 作家の[[五味康祐]]と仲が好かった。二人は風貌も似ていて、間違われる事が多かった。 == 名人に香車を引いて == 升田が将棋指しを目指して家を出たとき、母の使う物差しの裏に書いたとされる言葉である。正確には、「'''この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く'''」と書いた。「香車を引いて」は香落ちの[[将棋の手合割|手合割]]でという意味で、「勝ったら」は「勝つため」の誤りである。そのため他者の出版物では「勝つため」に直して書かれることがあるものの、実際に書かれたのはあくまで「勝ったら」であると升田は自伝で語っている。また同著で将棋の世界の仕組みがわかっておらず東京には関根名人がいる、大阪では坂田三吉が関西名人を名乗っている、とすると広島にも名人がおるんじゃなかろうか、まず広島名人をやっつけてから大阪にいく。と当て推量しているが当時の心境を全く覚えていないと述懐している。ただし、升田がこの言葉を書いた時点では、棋士同士が駒落ちで対局する公式戦は存在せず、非現実的なものであった。 その後1950年に[[王将戦]]が創設されることになり、規定として三番手直りとし、3勝差がついた時点で残りの対局を香落ちと平手を交互に指す(指し込み)制度が定められたことにより、夢が現実となる可能性が生まれた。しかし、この制度に反対したのが当の升田であった。もしも名人と戦えば指し込みに追い込める自信を持つ一方、棋士の格を重んじる性分でもあり、そんな事態になれば棋界の存続にかかわるのではないかと危惧したためである。これに対し、当時の名人である[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]が「そんな事はあり得ない」と判断したため、見直されることはなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/column/2019/01/post_481.html |title=「名人に香車を引く」王将戦の創設時に升田は。【升田幸三特集 第2回】 |publisher=日本将棋連盟 |accessdate=2023-06-11}}</ref>。 そして1951年の第1期王将戦で、木村名人と七番勝負を争う。升田は木村に対し4勝1敗とし、続く第6戦を香落ちで戦うことになり、「名人に香車を引く」が実現したが、升田が対局を拒否して不戦敗となっている([[陣屋事件]])。この時の詳細な状況は不明だが、心境については「できたら指したくなかった」と後年に吐露している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/column/2019/01/post_482.html |title= 陣屋事件--升田の夢が現実になったとき【升田幸三特集 第3回】 |publisher=日本将棋連盟 |accessdate=2023-06-11}}</ref>。 1956年、今度は弟弟子でもある[[大山康晴]]名人との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。この際は棄権せずに対局し、大山に勝っている。「名人に香車を引いて勝つ」を実現した瞬間でもあった。後にも先にも、名人を相手に香車を引いて対局をした棋士も、また勝ったのも升田幸三のみである。 この時の心境について、升田は晩年のインタビューで以下のように語っている。 {{quotation|「喜びがね、日々段々膨れ上がってきた。もう、人は死んで、(自分も)いつ死んでもいいが、何百何千年経ってもね、俺の名前は残るというね。 時が経つほどね、やっぱり負かしといてよかったと。 将棋が始まって私だけだから。名人に駒をおろした人は。」}} ==弟子== ===棋士=== {| class="wikitable" |- ! 名前 !! 四段昇段日!!段位、主な活躍 |- | [[桐谷広人]] || 1975年7月14日 |七段 |} == 昇段履歴 == * 1932年6月30日 [[木見金治郎]]八段(当時)に入門<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=83-86|loc=将棋どころか雑用ばかり-(冒頭)}}</ref>。9級<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=91-93|loc=将棋どころか雑用ばかり-雑用に追われる毎日}}</ref> * 1934年2月 初段(プロ入り)<ref name=":0" /> * 1934年7月 二段<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=108-110|loc=強くなって生意気ざかり-(冒頭)}}</ref> * 1935年8月 三段<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=113-114|loc=強くなって生意気ざかり-兄弟子はいつも弱い}}</ref> * 1936年4月 四段<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=130-133|loc=母の愛で死の床から帰る-(冒頭)}}</ref> * 1936年 五段<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=133-136|loc=東京勢を粉砕して五段へ-(冒頭)}}</ref> * 1938年 六段<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=162-165|loc=宿敵・木村名人と初の対決-妥当木村を公言する}}</ref> * 1943年 七段<ref>{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=178-180|loc=軍隊三年の空白の後に・・・-痛恨の敗戦}}</ref> * 1947年 八段([[順位戦]]A級昇級) * 1958年 九段(順位戦における抜群の成績) * 1979年 引退 * 1988年4月 実力制第四代名人 * 1991年4月5日 逝去(享年73) ==成績== 生涯成績 544勝376敗(勝率:0.591) ===タイトル戦全成績=== {| border="1" class="wikitable" style="text-align:center;" |- style="background-color: #ccf;" |'''タイトル''' |獲得年度 |登場 |'''獲得期数''' |連覇 |備考 |- |'''[[名人戦 (将棋)|名人]]''' |style="text-align:left;"|1957-1958 |<!--登場年度メモ 51,53,54,57,58,59,63,66,68,71-->10 |<!--獲得-->'''2期''' |<!--連覇-->2 |style="text-align:left;"|実力制第四代名人 |- |'''[[十段戦 (将棋)|九段]]''' |style="text-align:left;"|1956-1957 |<!--登場年度メモ 56,57,58-->3 |<!--獲得-->'''2期''' |<!--連覇-->2 |style="text-align:left;"|(升田が現役時に棋戦終了) |- |'''[[十段戦 (将棋)|十段]]''' |- |<!--登場年度メモ 62,63,64-->3 |<!--獲得-->- |<!--連覇--> | |- |'''[[王位戦 (将棋)|王位]]''' |- |<!--登場年度メモ-->0 |<!--獲得-->- |<!--連覇--> | |- |'''[[棋王戦 (将棋)|棋王]]''' |- |<!--登場年度メモ -->0 |<!--獲得-->- |<!--連覇--> | |- |'''[[王将戦|王将]]''' |style="text-align:left;"|1951,1955-1956 |<!--登場年度メモ 51,53,55,56,57 -->5 |<!--獲得-->'''3期''' |<!--連覇-->2 | |- |'''[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]''' |- |<!--登場年度メモ 63後,65前 -->2 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | |- |colspan="6"|登場回数合計23、 獲得合計'''7期''' |- |} {| border="1" class="wikitable" style="font-size:89%" |- align="center" style="background-color: #ccf;" !年度||タイトル||勝敗||相手||備考||保持タイトル |- |1951||[[名人戦 (将棋)|名人]]||●○●●○●||[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]|| ||{{center|-}} |- style="background-color:#ffcccc" |1951||[[王将戦|王将]]||○○●○○指込||木村義雄||初代王将、[[陣屋事件]]||'''王将''' |- |1953||名人||●●○●●||[[大山康晴]]|| ||'''王将''' |- |1953||王将||●●○千●○●||大山康晴||防衛失敗|| {{center|-}} |- |1954||名人||千●●●○●||大山康晴|| ||{{center|-}} |- style="background-color:#ffcccc" |1955||王将||○○○指込||大山康晴||奪取(名人に香車を引いて勝つ)||'''王将''' |- style="background-color:#ffcccc" |1956||王将||千○○●●○○||大山康晴||防衛||'''王将''' |- style="background-color:#ffcccc" |1956<ref>1956年度の九段戦七番勝負が行われたのは1957年2~4月であるため、決着は王将戦より遅かった。</ref>||[[十段戦 (将棋)|九段]]||●○○○○||[[塚田正夫]]||奪取||'''王将・九段''' |- style="background-color:#ffcccc" |1957||名人||○●○○●○||大山康晴||奪取、三冠独占||'''名人・王将・九段 (全冠)''' |- style="background-color:#ffcccc" |1957||九段||○○●●○○||大山康晴||防衛||'''名人・王将・九段 (全冠)''' |- |1957||王将||○○●●○●●||大山康晴||防衛失敗||'''名人・九段''' |- style="background-color:#ffcccc" |1958||名人||○○○持●●○||大山康晴||防衛||'''名人・九段''' |- |1958||九段||○○●●●●||大山康晴||防衛失敗||'''名人''' |- |1959||名人||千○●●●●||大山康晴||防衛失敗、大山が三冠独占||{{center|-}} |- |1962||[[十段戦 (将棋)|十段]]||●○●●○○●||大山康晴|| ||rowspan="9"|{{center|-}} |- |1963||名人||●●●○●||大山康晴|| |- |1963||十段||●○●●○○●||大山康晴|| |- |1963||[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]・後||●●○●||大山康晴|| |- |1964||十段||●○●●○●||大山康晴|| |- |1965||棋聖・前||○●○●●||大山康晴|| |- |1966||名人||○○●●●●||大山康晴|| |- |1968||名人||●●●●||大山康晴|| |- |1971||名人||●○○●○●●||大山康晴||(「[[升田式石田流]]」で接戦に) |} === 一般棋戦優勝 === *[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]] 3回(1952・1957・1963年度) *[[九・八・七段戦]] 1回(1956年度) *[[全八段戦]] 1回(1955年度) *共同杯AB級対抗勝抜戦 1回(5連勝、1953年度) === 在籍クラス === {{main2|竜王戦と順位戦のクラス|将棋棋士の在籍クラス}} {{将棋棋士年別在籍クラスA}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1946|JJ=1|j=#|#=六・七段戦1位|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1947|JJ=2|j=A|#=07|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1948|JJ=3|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1949|JJ=4|j=A|#=03|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1950|JJ=5|j=A|#=02|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1951|JJ=6|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1952|JJ=7|j=A|#=01|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1953|JJ=8|j=A|#=01|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1954|JJ=9|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1955|JJ=10|j=A|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1956|JJ=11|j=A|#=02|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1957|JJ=12|j=名人|#=|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1958|JJ=13|j=名人|#=|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1959|JJ=14|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1960|JJ=15|j=A|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1961|JJ=16|j=A|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1962|JJ=17|j=A|#=02|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1963|JJ=18|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1964|JJ=19|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1965|JJ=20|j=A|#=03|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1966|JJ=21|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1967|JJ=22|j=A|#=11|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1968|JJ=23|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1969|JJ=24|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1970|JJ=25|j=A|#=03|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1971|JJ=26|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1972|JJ=27|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1973|JJ=28|j=A|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1974|JJ=29|j=A|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1975|JJ=30|j=A|#=03|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=|j=#|#=主催者移行問題により中止|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1977|JJ=36|j=A|#=05|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1978|JJ=37|j=A|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラスZ|note=}} == 記録(歴代1位のもの) == * タイトル戦全三冠制覇([[1957年]]、史上初) == 栄典 == * [[1973年]][[11月3日]] [[紫綬褒章]] ==著書== *升田将棋 升田幸三 著 朝日新聞社 1948 *将棋 升田幸三 著 朝日新聞社 1953 (アサヒ相談室) *現代将棋大全集 駒落篇 升田幸三 監修 湯川弘文社 1953 *勝負の虫 升田幸三 著 朝日新聞社 1960 *歩を金にする法 升田幸三 著 講談社 1963 小学館文庫 *将棋野郎 : 人の使い方・駒の使い方 升田幸三 著 秋田書店 1967 (サンデー新書) *升田十五番勝負 : 升田将棋教室 升田幸三 著 秋田書店 1968 (サンデー新書) *升田将棋次の一手 升田幸三 著 秋田書店 1968 (サンデー新書) *私ならこう勝負する : 勝負の勘とビジネスの極意 升田幸三 著 学習研究社 1969 (Gakken business) *升田の将棋入門 升田幸三 著 弘文社 1969 (升田将棋シリーズ ; 第1) *升田将棋入門 升田幸三 著 秋田書店 1969 (サンデー新書) *勝負 升田幸三 著 サンケイ新聞社出版局 1970  のち『勝負 : 人生は日々これ戦場』として成甲書房 *ここでこう指せ 升田幸三 著 弘文社 1970 (初段をめざして ; 4) *升田流新戦法 升田幸三 著 弘文社 1971 *升田式石田流 升田幸三 著 日本将棋連盟 1973 1994年新版 *人生勝負 : 戦いに負けたくない人のために 升田幸三 著 学習研究社 1974 (アインブックス ; 27) *升田将棋勝局集 升田幸三 著 講談社 1975 のち文庫 *王手 升田幸三 著 サンケイ新聞社出版局 1975 (Sankei drama books) のち『王手 : ここ一番の勝負哲学』として成甲書房、のち中公文庫 *鬼手の研究 強い奴に勝つ将棋 升田 幸三 経済界(タツの本) 1978 *ひねり飛車の指南 升田幸三 著 大泉書店 1979 (升田の将棋指南シリーズ) *升田流戦術の指南 升田幸三 著 大泉書店 1979 (升田の将棋指南シリーズ) *向い飛車の指南 升田幸三 著 大泉書店 1980 (升田の将棋指南シリーズ) *四間飛車の指南 升田幸三 著 大泉書店 1980 (升田の将棋指南シリーズ) *角交換戦法の指南 升田幸三 著 大泉書店 1980 (升田の将棋指南シリーズ) *名人に香車を引いた男 : 升田幸三自伝 升田幸三 著,[[田村龍騎兵]] 筆録 朝日新聞社 1980 のち朝日文庫 のち『升田幸三 : 名人に香車を引いた男』(日本図書センター)のち中公文庫 ISBN 4-12-204247-X *中飛車の指南 升田幸三 著 大泉書店 1980 (升田の将棋指南シリーズ) *矢倉戦法の指南 升田幸三 著 大泉書店 1980 (升田の将棋指南シリーズ) *三間飛車の指南 升田幸三 著 大泉書店 1980 (升田の将棋指南シリーズ) *現代将棋名局集 9 升田幸三名局集 筑摩書房 1981 *升田将棋選集 第1巻~第5巻 升田幸三 著 朝日新聞社 1985 - 1986 ISBN 4-02-255411-8 *升田幸三全局集 升田幸三全局集製作委員会 著 講談社 2005 *升田幸三名局集 升田幸三 著 日本将棋連盟 2012 *升田の研究 : 鬼手と石田流 升田幸三 著 日本将棋連盟 2015 (将棋連盟文庫) **『鬼手の研究』と『升田式石田流』の合本 ==関連書・研究本== *『棋界の風雲児 升田八段』 [[樋口金信]] 誠光社 1948.2 - 大阪毎日新聞の記者による半生記。巻頭に[[木見金治郎]]による推薦文。 *『作家が見た升田将棋』 朝日新聞社(編)朝日新聞出版 1993.4 - 観戦記集 **[[坂口安吾]]、[[長与善郎]]、[[梅原龍三郎]]、[[富本憲吉]]、[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]、[[倉島竹二郎]]、[[藤沢桓夫]]、升田幸三、[[金子金五郎]]、[[井伏鱒二]]、[[永井龍男]]、[[上林暁]]、[[瀧井孝作]]、[[田村孝雄]](龍)、[[東公平]](紅) *『好妻好局 夫・升田幸三との40年』 升田静尾、藤田健二 文藝春秋 1996.4 - 升田夫人による回顧談。 *『升田幸三物語』 [[東公平]] 日本将棋連盟 1996.3 *『升田幸三全局集』 升田幸三全局集製作委員会 講談社 2005.1 - 現存する升田の全棋譜をCD-ROMに収録。 *『升田将棋の世界』 [[真部一男]] 日本将棋連盟 2005.7 ==テレビ番組== *[[名勝負の解説]]([[囲碁将棋チャンネル]]) #第1回 朝日番付戦 決勝戦 升田幸三六段 vs 木村義雄名人 対局日:1943年8月20日 #木村・升田 五番勝負 第3局 升田幸三七段 vs 木村義雄名人 1946年 #第7期名人戦挑戦者決定戦 高野山の決戦 升田幸三八段 vs 大山康晴七段 1948年 #塚田・升田五番勝負 駅馬車定跡 第4局 塚田正夫名人 vs 升田幸三八段 1948年10月7日 #不明 #第1期 王将戦 挑戦手合七番勝負 第5局 升田幸三八段 vs 木村義雄王将 1952年2月 #第5期 王将戦 挑戦手合七番勝負 第1局 升田幸三八段 vs 大山康晴王将 1955年12月 #第5期 王将戦 挑戦手合七番勝負 第3局 升田幸三八段 vs 大山康晴王将 1956年1月 #第5期 王将戦 挑戦手合七番勝負 第4局 升田幸三王将(香落ち) vs 大山康晴名人 1956年1月19日 #第6期 王将戦 挑戦手合七番勝負 第5局 升田幸三王将 vs 大山康晴名人 1957年2月18日,19日 #第7期 九段戦 決勝七番勝負 第5局 升田幸三王将 vs 塚田正夫九段 1957年4月18日 #不明 #不明 #不明 #不明 #不明 #不明 #第30期 名人戦 挑戦手合七番勝負 第3局 升田幸三九段 vs 大山康晴名人 1971年 ==脚注== ===注釈=== {{Reflist|group="注釈"}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Citation|和書|last=雨倉|first=孝之|authorlink=雨倉孝之|year=1997|title=海軍アドミラル軍制物語|edition=|publisher=[[潮書房光人新社|光人社]]|isbn=|series=|ref=harv}} *{{Citation |和書 |last=升田 |first=幸三 |authorlink=升田幸三 |year=2003 |title=名人に香車を引いた男 升田幸三自伝 |edition= |publisher=中央公論新社(中公文庫)}} == 関連項目 == *[[名人 (将棋)]] *[[将棋棋士一覧]] *[[棋戦 (将棋)]] *[[将棋のタイトル在位者一覧]] *[[棋風]] *[[升田幸三杯将棋大会]] *[[永野重雄]] *[[将棋大賞]] - 升田幸三賞 == 外部リンク == * [https://www.shogi.or.jp/player/pro/18.html 升田幸三|棋士データベース|日本将棋連盟] * {{NHK人物録|D0009072286_00000}} {{-}} {{Navboxes |title=タイトル(3冠)7期 |titlestyle=background-color:#FCF16E |list1= </span> {{名人戦 (将棋)|2期}} {{王将戦|3期}} {{九段戦|2期}} }} {{Navboxes |title=一般棋戦優勝 4回 |titlestyle=background-color:#88CCEE |list1= {{最強者決定戦|1|2|優勝 1回}} {{NHK杯テレビ将棋トーナメント|優勝 3回}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ますた こうそう}} [[Category:名人 (将棋)]] [[Category:将棋棋士]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:太平洋戦争の人物]] [[Category:1918年生]] [[Category:1991年没]]
2003-07-21T00:12:57Z
2023-11-15T08:26:47Z
false
false
false
[ "Template:Efn", "Template:Citation", "Template:NHK人物録", "Template:Normdaten", "Template:Main2", "Template:将棋棋士年別在籍クラスA", "Template:将棋棋士年別在籍クラスZ", "Template:Harvnb", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:Navboxes", "Template:Infobox 将棋棋士", "Template:Reflist", "Template:-", "Template:Refnest", "Template:Quotation", "Template:Center", "Template:将棋棋士年別在籍クラス" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%87%E7%94%B0%E5%B9%B8%E4%B8%89
11,946
リージョナリズム
リージョナリズム(英: regionalism)とは、文脈によって2つの意味を持つ政治用語である。 意味としては共に「地方主義」「地域主義」と呼べるが、2つの定義は大きく異なり、どちらの意図で用いているかに留意する必要がある。 日本においてはリージョナリズムとは地域的に近接し、一定の共通性や利害を共にする複数の国が、経済的・社会的・軍事的にその関係を強化することを目指す立場を指す場合が多い。こうした場合、リージョナリズムは地域統合と訳されることもある。 国際的なリージョナリズムは、グローバリズムやナショナリズムと対立することがあると考えられることがある。グローバリズムは地球あるいは世界全体の利益を追求する立場であるので、リージョナリズムが追求する利益の範囲は狭すぎ、逆にナショナリズムは一国を中心とした利益を追求する立場であるのでリージョナリズムが追求する利益の範囲は広すぎる、という理解からである。 しかし、覇権主義的なナショナリズムは、一国を中心としたリージョナリズムに帰結するのであるから、こうした理解は必ずしも正しくない。そもそも、リージョナリズムは歴史的には第二次世界大戦前のブロック経済に由来するものであり、帝国主義の新たな形態であると捉えることも可能である。 さらに、そもそも地域(リージョン)は相互排他的なものではなく相互重複的かつ重層的に設定可能であるから、グローバリズムと整合的なものと捉えることも可能である。環境経済学者の寺西俊一は、グローバルな利益の実現は各層でのリージョンの利益を積み上げることによってこそ可能になる、というインター・リージョナリズムの考え方を提唱している。 戦後、冷戦のもと、ブロック経済の批判的な継承として誕生したECやEFTA、あるいは東南アジアで作られた ASEAN、南アジアのSAARC、アフリカのAU、南米での南部共同体(メルコスール)、太平洋諸島フォーラム(PIF)などの地域統合の動きは、何れもリージョナリズムが具体的な形で実現したものである。それらには、米ソ2大超大国、あるいはそれらに準ずる地域大国や、他地域での地域統合に対し、弱小を自認する国々が地域的に連合して対抗するもの、あるいは少なくとも地域内の利害対立を調整して域外国につけいる隙をなくしていくためのもの、という性格もあった。冷戦後、旧社会主義圏を含めた自由、無差別、多角的貿易秩序を目指すWTOの動きが本格化する中で、リージョナリズムは特定地域間の経済的取り決めを促進する点で相反するものとみなされる。しかし、WTOの前身であるGATTの加盟国がGATTのルールによらず、2国間あるいは数カ国間で輸出自主規制措置や自由貿易地域の合意などがとられた事実と照らし合わせると、全世界規模での貿易の取り決めは難しく、地域的経済統合により拡大された経済関係を作り出すことに意義があると言われている。 現実にヨーロッパではECがEUとして統合を強めるとともに範囲を拡大し、北米でもNAFTAが成立するなど、リージョナリズムは強まる方向にある。アジアにおいてもヨーロッパ・北米の試みに刺激され、地域的経済統合の兆候がある。1991年には ASEAN経済閣僚会議で「東アジア経済グループ」が提唱されたものの、アメリカなどによりアジアでのブロック政策として強く批判され、具体化しなかった。その後2000年代に「東アジア経済グループ」を発展させた東アジア共同体の構想が唱えられたが沈静化し、2010年代には首脳会談開催も困難なレベルに対立が加速している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "リージョナリズム(英: regionalism)とは、文脈によって2つの意味を持つ政治用語である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "意味としては共に「地方主義」「地域主義」と呼べるが、2つの定義は大きく異なり、どちらの意図で用いているかに留意する必要がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本においてはリージョナリズムとは地域的に近接し、一定の共通性や利害を共にする複数の国が、経済的・社会的・軍事的にその関係を強化することを目指す立場を指す場合が多い。こうした場合、リージョナリズムは地域統合と訳されることもある。", "title": "国際的なリージョナリズム" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国際的なリージョナリズムは、グローバリズムやナショナリズムと対立することがあると考えられることがある。グローバリズムは地球あるいは世界全体の利益を追求する立場であるので、リージョナリズムが追求する利益の範囲は狭すぎ、逆にナショナリズムは一国を中心とした利益を追求する立場であるのでリージョナリズムが追求する利益の範囲は広すぎる、という理解からである。", "title": "国際的なリージョナリズム" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかし、覇権主義的なナショナリズムは、一国を中心としたリージョナリズムに帰結するのであるから、こうした理解は必ずしも正しくない。そもそも、リージョナリズムは歴史的には第二次世界大戦前のブロック経済に由来するものであり、帝国主義の新たな形態であると捉えることも可能である。", "title": "国際的なリージョナリズム" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "さらに、そもそも地域(リージョン)は相互排他的なものではなく相互重複的かつ重層的に設定可能であるから、グローバリズムと整合的なものと捉えることも可能である。環境経済学者の寺西俊一は、グローバルな利益の実現は各層でのリージョンの利益を積み上げることによってこそ可能になる、というインター・リージョナリズムの考え方を提唱している。", "title": "国際的なリージョナリズム" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "戦後、冷戦のもと、ブロック経済の批判的な継承として誕生したECやEFTA、あるいは東南アジアで作られた ASEAN、南アジアのSAARC、アフリカのAU、南米での南部共同体(メルコスール)、太平洋諸島フォーラム(PIF)などの地域統合の動きは、何れもリージョナリズムが具体的な形で実現したものである。それらには、米ソ2大超大国、あるいはそれらに準ずる地域大国や、他地域での地域統合に対し、弱小を自認する国々が地域的に連合して対抗するもの、あるいは少なくとも地域内の利害対立を調整して域外国につけいる隙をなくしていくためのもの、という性格もあった。冷戦後、旧社会主義圏を含めた自由、無差別、多角的貿易秩序を目指すWTOの動きが本格化する中で、リージョナリズムは特定地域間の経済的取り決めを促進する点で相反するものとみなされる。しかし、WTOの前身であるGATTの加盟国がGATTのルールによらず、2国間あるいは数カ国間で輸出自主規制措置や自由貿易地域の合意などがとられた事実と照らし合わせると、全世界規模での貿易の取り決めは難しく、地域的経済統合により拡大された経済関係を作り出すことに意義があると言われている。", "title": "国際的なリージョナリズム" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現実にヨーロッパではECがEUとして統合を強めるとともに範囲を拡大し、北米でもNAFTAが成立するなど、リージョナリズムは強まる方向にある。アジアにおいてもヨーロッパ・北米の試みに刺激され、地域的経済統合の兆候がある。1991年には ASEAN経済閣僚会議で「東アジア経済グループ」が提唱されたものの、アメリカなどによりアジアでのブロック政策として強く批判され、具体化しなかった。その後2000年代に「東アジア経済グループ」を発展させた東アジア共同体の構想が唱えられたが沈静化し、2010年代には首脳会談開催も困難なレベルに対立が加速している。", "title": "国際的なリージョナリズム" } ]
リージョナリズムとは、文脈によって2つの意味を持つ政治用語である。 意味としては共に「地方主義」「地域主義」と呼べるが、2つの定義は大きく異なり、どちらの意図で用いているかに留意する必要がある。
{{出典の明記|date=2012年10月}} {{国際関係論}} '''リージョナリズム'''({{Lang-en-short|regionalism}})とは、文脈によって2つの意味を持つ政治用語である。 意味としては共に「地方主義」「地域主義」と呼べるが、2つの定義は大きく異なり、どちらの意図で用いているかに留意する必要がある。 == 地域主義としてのリージョナリズム == {{See|地域主義}} == 国際的なリージョナリズム == 日本においてはリージョナリズムとは[[地域]]的に近接し、一定の共通性や利害を共にする複数の[[国]]が、経済的・社会的・軍事的にその関係を強化することを目指す立場を指す場合が多い。こうした場合、リージョナリズムは'''地域統合'''と訳されることもある。 国際的なリージョナリズムは、[[グローバリズム]]や[[ナショナリズム]]と対立することがあると考えられることがある。グローバリズムは地球あるいは世界全体の利益を追求する立場であるので、リージョナリズムが追求する利益の範囲は狭すぎ、逆にナショナリズムは一国を中心とした利益を追求する立場であるのでリージョナリズムが追求する利益の範囲は広すぎる、という理解からである。 しかし、[[覇権主義]]的なナショナリズムは、一国を中心としたリージョナリズムに帰結するのであるから、こうした理解は必ずしも正しくない。そもそも、リージョナリズムは歴史的には[[第二次世界大戦]]前の[[ブロック経済]]に由来するものであり、[[帝国主義]]の新たな形態であると捉えることも可能である。 さらに、そもそも地域(リージョン)は相互排他的なものではなく相互重複的かつ重層的に設定可能であるから、グローバリズムと整合的なものと捉えることも可能である。環境経済学者の寺西俊一は、グローバルな利益の実現は各層でのリージョンの利益を積み上げることによってこそ可能になる、というインター・リージョナリズムの考え方を提唱している<ref>{{Cite book|和書|title=地球環境問題の政治経済学|year=1992|publisher=東洋経済新報社,|pages=138-139|author=寺西俊一}}</ref>。 戦後、[[冷戦]]のもと、ブロック経済の批判的な継承として誕生した[[ヨーロッパ共同体|EC]]や[[欧州自由貿易連合|EFTA]]、あるいは東南アジアで作られた [[東南アジア諸国連合|ASEAN]]、[[南アジア]]の[[南アジア地域協力連合|SAARC]]、[[アフリカ]]の[[アフリカ連合|AU]]、南米での南部共同体([[メルコスール]])、[[太平洋諸島フォーラム]](PIF)などの'''地域統合'''の動きは、何れもリージョナリズムが具体的な形で実現したものである。それらには、米ソ2大[[超大国]]、あるいはそれらに準ずる地域大国や、他地域での地域統合に対し、弱小を自認する国々が地域的に連合して対抗するもの、あるいは少なくとも地域内の利害対立を調整して域外国につけいる隙をなくしていくためのもの、という性格もあった。冷戦後、旧[[社会主義]]圏を含めた自由、無差別、多角的貿易秩序を目指す[[世界貿易機関|WTO]]の動きが本格化する中で、リージョナリズムは特定地域間の経済的取り決めを促進する点で相反するものとみなされる。しかし、WTOの前身である[[関税および貿易に関する一般協定|GATT]]の加盟国がGATTのルールによらず、2国間あるいは数カ国間で輸出自主規制措置や自由貿易地域の合意などがとられた事実と照らし合わせると、全世界規模での貿易の取り決めは難しく、地域的経済統合により拡大された経済関係を作り出すことに意義があると言われている。 現実に[[ヨーロッパ]]ではECが[[ヨーロッパ連合|EU]]として統合を強めるとともに範囲を拡大し、[[北アメリカ|北米]]でも[[NAFTA]]が成立するなど、リージョナリズムは強まる方向にある。[[アジア]]においても[[ヨーロッパ]]・[[北アメリカ|北米]]の試みに刺激され、地域的経済統合の兆候がある。[[1991年]]には [[東南アジア諸国連合|ASEAN]]経済閣僚会議で「東アジア経済グループ」が提唱されたものの、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などによりアジアでのブロック政策として強く批判され、具体化しなかった。その後2000年代に「東アジア経済グループ」を発展させた[[東アジア共同体]]の構想が唱えられたが沈静化し、2010年代には首脳会談開催も困難なレベルに対立が加速している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[グローバリゼーション]](グローバル化、地球規模化) * [[グローバリズム]](地球主義) {{地域統合}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りいしよなりすむ}} [[Category:リージョナリズム|*]] [[Category:脱中央集権]] [[Category:地域統合]] [[Category:国際関係論]] [[Category:政治地理学]]
null
2023-03-07T03:50:05Z
false
false
false
[ "Template:国際関係論", "Template:Lang-en-short", "Template:See", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:地域統合", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
11,948
ニース条約
ニース条約(ニースじょうやく)は、欧州連合の基本条約のうち、ローマ条約とマーストリヒト条約について修正を加えた条約。 2000年12月11日にニースで開かれた欧州理事会において合意され、2001年2月26日調印、2003年2月1日に発効した。 ニース条約の主要な目的は、将来の拡大に対応するための機構改革を実施することである。この目的は本来、アムステルダム条約に関する政府間会合 (IGC) の決定において実施される予定だったが、アムステルダム条約では不十分な点が多く含まれていたため、新たな対応が求められていた。 ニース欧州理事会で採択された本条約は多方面からの反対を受けた。ドイツは欧州連合理事会の表決手続きに関して、自国の人口をより考慮した票の配分を求めたが、これにはフランスが反対した。フランスはドイツとともに欧州連合に対する影響力を保持したいとの考えから、両国の票の配分は同等であるべきだと主張した。また多くの加盟国が従来の方式を大幅に単純化するべきとの考え方から、特定多数決方式に代わって、加盟国の投票とその人口による二重の多数決の導入が提案されたが、これもフランスが同様の理由で拒否した。これらを踏まえ二重の多数決について、加盟国の投票に加え、賛成を投じた加盟国の連合全体における人口の割合を考慮して、一定以上の市民の意見を代表しているかという観点で決するという妥協案に合意がまとまった。 またニース条約では将来の拡大に備えて、欧州議会の議員定数を732とした。これはアムステルダム条約で定められた定数では対応しきれないために修正したものである。 拡大後の欧州委員会の規模の削減については急場しのぎで対応されている。つまり、ニース条約では加盟国数が27に達したときは、委員の定数を新規加盟直後は加盟国数と同数とするが、その後27を下回る数に減らすことを定めている。しかしこの方法では真の意味における削減の目的にかなうものではない。一時的な対処として、2005年1月1日以降、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、スペインは2人目の委員を出すことを中止している。 このほか、ニース条約では欧州司法裁判所と第一審裁判所に、特許などの特定分野を係属する付属的な法廷を設置することについて定めている。 ところで、ニース条約において緊密な協力に関する新たな規定が導入されている。これはもともとアムステルダム条約において新設された規定であるが、実行不可能であると考えられているため、いまだにその規定が適用されたことはない。 またオーストリアの連立政権にイェルク・ハイダー率いるオーストリア自由党が加わったことに対する制裁措置の効果が出ず、拡大のさいにおける新規加盟国の安定性に関する、将来起こりうる危険を受けて、ニース条約では加盟国に対する制裁措置の適用に関する規定を初めて取り入れた。 さらにニース条約ではパリ条約の失効による欧州石炭鉄鋼共同体の消滅による財政面の影響に関する規定を盛り込んでいる。 欧州委員会の定数に関しても述べたが、ニース条約は広範囲にわたる欧州連合の機構制度の根本的な改革には触れられていないものと広く認識されている。欧州連合の機構制度は広い視野で見るとあまりにも複雑すぎていて、そのためニース欧州理事会において、2004年の IGC に先立ち、コンベンション(協議会)を設立することが合意された。 欧州議会の委員会ではニースにおける IGC で、機構改革や欧州検察官の任命など欧州共同体の新たな権限を新設することに関する自らが提案したその多くが取り入れられていないことに不満を感じていた。欧州議会は、自身には拒否権が与えられていないとはいえ、ニース条約の対抗案を採択する構えを見せ、またイタリア議会でも、欧州議会の同意が得られないのであるならば批准を拒否するという機運があったが、最終的には両者ともニース条約を受け入れた。 欧州連合の3つの柱構造について、ニース条約では維持されたものの、多くの加盟国が複雑なものであるとした。これについては個別の基本条約を一本化し、また異なる法人格を持つ3つの共同体(欧州共同体、欧州原子力共同体、欧州石炭鉄鋼共同体)を1つにさせ、そのうえで欧州共同体と欧州連合の枠組みを統合させて欧州連合に法人格を持たせるべきであるとの議論がなされた。これについてもドイツは加盟各国と欧州連合の権限の違いは明確にしておくことを求めた。 このほかニース条約では欧州連合基本権憲章に関する協力にも触れているが、これは2004年の IGC 以降もイギリスが反対したために、議論が先送りされた。 条約修正に関する従来の規定では、対象となる条約は後発の条約によってのみ修正され、その修正条約が発効するには全加盟国の批准がなされなければならない。 アイルランドを除く全ての加盟国は、それぞれの議会において批准手続きを完了させた。アイルランド最高裁判所はかつて単一欧州議定書に関する裁判で、基本条約の根本的な変更は、国民に由来する主権についてのアイルランド憲法の規定にかかわるものであるという判決を下しているため、ニース条約の批准に先立って憲法改正手続きを実施しなければならず、その手続きは国民投票によるものとされていた。 2001年6月のアイルランドの国民投票でニース条約批准を拒否する結果となり、これは欧州統合を進めてきたヨーロッパの政界に驚きをもって受け止められた。この国民投票の投票率自体は34%と低く、アイルランドの主要政党が余り熱心に批准についての議論をせず、これまでの基本条約と同様に、有権者の多くがニース条約についても賛成するだろうと当て込んでしまった結果であると言える。ところが多くの有権者は条約の内容に不満を抱き、ニース条約で小国が低く扱われるものと判断したのである。このほかアイルランドの中立性に関して、条約の影響に一部の有権者は懐疑的であったということもあった。また欧州連合の主導権に関して、実態にそぐわない面や傲慢さがあるものと判断され、これにより各国首脳は条約に対する批判に耳を傾けなければならないという認識を持つようになった(同様の例としてデンマークでの国民投票でマーストリヒト条約が反対されたことがある)。結局は、反対派がただ投票をせずとも、「反対票を投じよう」という運動はニース条約の意義に関して重大な問題を投げかける効果があったというために、ニース条約は否定されてしまったのである。 アイルランド政府は、欧州理事会がアイルランドの軍事政策と距離を置くとするセビリア宣言を受けて、2002年10月19日、再度ニース条約に関する国民投票を実施した。この投票のさいに、条約批准に当たって2つの重要な条件を課しており、1つが「緊密化した協力」についてドイル・エアラン(議会下院)の承認を要するというもので、もう1つが欧州連合の共通防衛政策にアイルランドは参加しないとするものである。主要政党や、アイルランド出身の欧州議会議長パット・コックスやチェコ大統領ヴァーツラフ・ハヴェル、アイルランド元大統領パトリック・ヒラリー、元首相ギャレット・フィッツジェラルドら欧州統合主義を掲げる著名人による遊説やメディアへの登場など大規模な賛成運動が展開された。投票の結果、前回の国民投票の2倍近くとなる60%が賛成票であり、すべての選挙区において賛成が反対を大きく上回った。 これにより全加盟国がニース条約に批准したことになった。ニース条約は2002年末までに批准を完了することとされており、批准が完了されていなければ破棄されることとなっていた。 ニース条約は無駄の多い欧州連合の統治メカニズムを効率的に修正し、政策の決定過程を合理化する狙いがあるとして、これらは欧州連合を中欧地域に拡大するのに欠かせないとされている。さらに旧共産圏諸国の統合と将来の発展においてニース条約は非常に重要な役割を持つともされている。ところが欧州連合というプロジェクトにより大きな権限を持たせるべきであると考える多くの者にとって、ニース条約は不十分であると感じられるもので、いずれ将来において欧州連合の憲法や連邦制に移行するなどといった新たな条約や協定に変えられるものとされている。 ニース条約に反対を唱える者は、本条約は民主的ではなく実務的なものであり、各国の主権や議会の機能をさらに奪い、また権威的で無責任な官僚制に権限を集中させるものであるとして、政治的な権限を深めるものであっても広めるものではないとして批判している。また現行制度では5つの加盟申請国が新たに欧州連合に加盟できるかもしれないが、ほかの加盟を希望する国は個別の基準で協議することになり、これでは先に挙げた申請国に有利になっているとしている。さらにニース条約では欧州連合域内に格差を生じさせ、フランスやドイツといった大国が、自国に有利な欧州連合の政策を実施しかねないという懸念もある。反ニース条約の政治家には、アイルランド以外で国民投票を実施していたと仮定すると、同様に反対票が上回ることもありうると指摘する者もいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ニース条約(ニースじょうやく)は、欧州連合の基本条約のうち、ローマ条約とマーストリヒト条約について修正を加えた条約。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2000年12月11日にニースで開かれた欧州理事会において合意され、2001年2月26日調印、2003年2月1日に発効した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ニース条約の主要な目的は、将来の拡大に対応するための機構改革を実施することである。この目的は本来、アムステルダム条約に関する政府間会合 (IGC) の決定において実施される予定だったが、アムステルダム条約では不十分な点が多く含まれていたため、新たな対応が求められていた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ニース欧州理事会で採択された本条約は多方面からの反対を受けた。ドイツは欧州連合理事会の表決手続きに関して、自国の人口をより考慮した票の配分を求めたが、これにはフランスが反対した。フランスはドイツとともに欧州連合に対する影響力を保持したいとの考えから、両国の票の配分は同等であるべきだと主張した。また多くの加盟国が従来の方式を大幅に単純化するべきとの考え方から、特定多数決方式に代わって、加盟国の投票とその人口による二重の多数決の導入が提案されたが、これもフランスが同様の理由で拒否した。これらを踏まえ二重の多数決について、加盟国の投票に加え、賛成を投じた加盟国の連合全体における人口の割合を考慮して、一定以上の市民の意見を代表しているかという観点で決するという妥協案に合意がまとまった。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "またニース条約では将来の拡大に備えて、欧州議会の議員定数を732とした。これはアムステルダム条約で定められた定数では対応しきれないために修正したものである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "拡大後の欧州委員会の規模の削減については急場しのぎで対応されている。つまり、ニース条約では加盟国数が27に達したときは、委員の定数を新規加盟直後は加盟国数と同数とするが、その後27を下回る数に減らすことを定めている。しかしこの方法では真の意味における削減の目的にかなうものではない。一時的な対処として、2005年1月1日以降、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、スペインは2人目の委員を出すことを中止している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このほか、ニース条約では欧州司法裁判所と第一審裁判所に、特許などの特定分野を係属する付属的な法廷を設置することについて定めている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ところで、ニース条約において緊密な協力に関する新たな規定が導入されている。これはもともとアムステルダム条約において新設された規定であるが、実行不可能であると考えられているため、いまだにその規定が適用されたことはない。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "またオーストリアの連立政権にイェルク・ハイダー率いるオーストリア自由党が加わったことに対する制裁措置の効果が出ず、拡大のさいにおける新規加盟国の安定性に関する、将来起こりうる危険を受けて、ニース条約では加盟国に対する制裁措置の適用に関する規定を初めて取り入れた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "さらにニース条約ではパリ条約の失効による欧州石炭鉄鋼共同体の消滅による財政面の影響に関する規定を盛り込んでいる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "欧州委員会の定数に関しても述べたが、ニース条約は広範囲にわたる欧州連合の機構制度の根本的な改革には触れられていないものと広く認識されている。欧州連合の機構制度は広い視野で見るとあまりにも複雑すぎていて、そのためニース欧州理事会において、2004年の IGC に先立ち、コンベンション(協議会)を設立することが合意された。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "欧州議会の委員会ではニースにおける IGC で、機構改革や欧州検察官の任命など欧州共同体の新たな権限を新設することに関する自らが提案したその多くが取り入れられていないことに不満を感じていた。欧州議会は、自身には拒否権が与えられていないとはいえ、ニース条約の対抗案を採択する構えを見せ、またイタリア議会でも、欧州議会の同意が得られないのであるならば批准を拒否するという機運があったが、最終的には両者ともニース条約を受け入れた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "欧州連合の3つの柱構造について、ニース条約では維持されたものの、多くの加盟国が複雑なものであるとした。これについては個別の基本条約を一本化し、また異なる法人格を持つ3つの共同体(欧州共同体、欧州原子力共同体、欧州石炭鉄鋼共同体)を1つにさせ、そのうえで欧州共同体と欧州連合の枠組みを統合させて欧州連合に法人格を持たせるべきであるとの議論がなされた。これについてもドイツは加盟各国と欧州連合の権限の違いは明確にしておくことを求めた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "このほかニース条約では欧州連合基本権憲章に関する協力にも触れているが、これは2004年の IGC 以降もイギリスが反対したために、議論が先送りされた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "条約修正に関する従来の規定では、対象となる条約は後発の条約によってのみ修正され、その修正条約が発効するには全加盟国の批准がなされなければならない。", "title": "批准手続き" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アイルランドを除く全ての加盟国は、それぞれの議会において批准手続きを完了させた。アイルランド最高裁判所はかつて単一欧州議定書に関する裁判で、基本条約の根本的な変更は、国民に由来する主権についてのアイルランド憲法の規定にかかわるものであるという判決を下しているため、ニース条約の批准に先立って憲法改正手続きを実施しなければならず、その手続きは国民投票によるものとされていた。", "title": "批准手続き" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2001年6月のアイルランドの国民投票でニース条約批准を拒否する結果となり、これは欧州統合を進めてきたヨーロッパの政界に驚きをもって受け止められた。この国民投票の投票率自体は34%と低く、アイルランドの主要政党が余り熱心に批准についての議論をせず、これまでの基本条約と同様に、有権者の多くがニース条約についても賛成するだろうと当て込んでしまった結果であると言える。ところが多くの有権者は条約の内容に不満を抱き、ニース条約で小国が低く扱われるものと判断したのである。このほかアイルランドの中立性に関して、条約の影響に一部の有権者は懐疑的であったということもあった。また欧州連合の主導権に関して、実態にそぐわない面や傲慢さがあるものと判断され、これにより各国首脳は条約に対する批判に耳を傾けなければならないという認識を持つようになった(同様の例としてデンマークでの国民投票でマーストリヒト条約が反対されたことがある)。結局は、反対派がただ投票をせずとも、「反対票を投じよう」という運動はニース条約の意義に関して重大な問題を投げかける効果があったというために、ニース条約は否定されてしまったのである。", "title": "批准手続き" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アイルランド政府は、欧州理事会がアイルランドの軍事政策と距離を置くとするセビリア宣言を受けて、2002年10月19日、再度ニース条約に関する国民投票を実施した。この投票のさいに、条約批准に当たって2つの重要な条件を課しており、1つが「緊密化した協力」についてドイル・エアラン(議会下院)の承認を要するというもので、もう1つが欧州連合の共通防衛政策にアイルランドは参加しないとするものである。主要政党や、アイルランド出身の欧州議会議長パット・コックスやチェコ大統領ヴァーツラフ・ハヴェル、アイルランド元大統領パトリック・ヒラリー、元首相ギャレット・フィッツジェラルドら欧州統合主義を掲げる著名人による遊説やメディアへの登場など大規模な賛成運動が展開された。投票の結果、前回の国民投票の2倍近くとなる60%が賛成票であり、すべての選挙区において賛成が反対を大きく上回った。", "title": "批准手続き" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これにより全加盟国がニース条約に批准したことになった。ニース条約は2002年末までに批准を完了することとされており、批准が完了されていなければ破棄されることとなっていた。", "title": "批准手続き" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ニース条約は無駄の多い欧州連合の統治メカニズムを効率的に修正し、政策の決定過程を合理化する狙いがあるとして、これらは欧州連合を中欧地域に拡大するのに欠かせないとされている。さらに旧共産圏諸国の統合と将来の発展においてニース条約は非常に重要な役割を持つともされている。ところが欧州連合というプロジェクトにより大きな権限を持たせるべきであると考える多くの者にとって、ニース条約は不十分であると感じられるもので、いずれ将来において欧州連合の憲法や連邦制に移行するなどといった新たな条約や協定に変えられるものとされている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ニース条約に反対を唱える者は、本条約は民主的ではなく実務的なものであり、各国の主権や議会の機能をさらに奪い、また権威的で無責任な官僚制に権限を集中させるものであるとして、政治的な権限を深めるものであっても広めるものではないとして批判している。また現行制度では5つの加盟申請国が新たに欧州連合に加盟できるかもしれないが、ほかの加盟を希望する国は個別の基準で協議することになり、これでは先に挙げた申請国に有利になっているとしている。さらにニース条約では欧州連合域内に格差を生じさせ、フランスやドイツといった大国が、自国に有利な欧州連合の政策を実施しかねないという懸念もある。反ニース条約の政治家には、アイルランド以外で国民投票を実施していたと仮定すると、同様に反対票が上回ることもありうると指摘する者もいる。", "title": "評価" } ]
ニース条約(ニースじょうやく)は、欧州連合の基本条約のうち、ローマ条約とマーストリヒト条約について修正を加えた条約。 2000年12月11日にニースで開かれた欧州理事会において合意され、2001年2月26日調印、2003年2月1日に発効した。
{{条約 |題名 = |画像 = |画像サイズ = |画像キャプション = |通称 = |起草 =[[2000年]][[12月11日]](ニース) |署名 =[[2001年]][[2月26日]] |発効 =[[2003年]][[2月1日]] |捺印 = |効力発生 = |現況 = |失効 = |締約国 = |当事国 = |寄託者 = |文献情報 = |言語 = |内容 =[[ローマ条約]]と[[マーストリヒト条約]]について修正を加えた |関連 =[[ローマ条約]]、[[マーストリヒト条約]] |ウィキソース = |リンク = }} '''ニース条約'''(ニースじょうやく)は、[[欧州連合]]の基本条約のうち、[[ローマ条約]]と[[マーストリヒト条約]]について修正を加えた[[条約]]。 [[2000年]][[12月11日]]に[[ニース]]で開かれた[[欧州理事会]]において合意され、[[2001年]][[2月26日]]調印、[[2003年]][[2月1日]]に発効した。 == 内容 == ニース条約の主要な目的は、将来の[[欧州連合の拡大|拡大]]に対応するための機構改革を実施することである。この目的は本来、[[アムステルダム条約]]に関する政府間会合 (IGC) の決定において実施される予定だったが、アムステルダム条約では不十分な点が多く含まれていたため、新たな対応が求められていた。 {| style="float:right; padding:0; margin:0; font-size:90%; border-width:1px; border-style:solid;" |+ 欧州連合理事会における1票の格差<br/>2007年1月1日 !国||分配数||人口<br />(100万人)||倍率<ref>人口に対する各国の票数の比重。ドイツを1としたときの倍率。</ref><br />比重 |- | style="border-top:1px solid" | {{DEU}} || style="border-top:1px solid" |29 || style="border-top:1px solid" |82.0 || style="border-top:1px solid" |1.00 |- | {{GBR}} || 29 || 59.4 || 1.38 |- | {{FRA}} || 29 || 59.1 || 1.39 |- | {{ITA}} || 29 || 57.7 || 1.42 |- | {{ESP}} || 27 || 39.4 || 1.94 |- | {{POL}} || 27 || 38.6 || 1.98 |- | {{ROU}} || 14 || 22.3 || 1.78 |- | {{NLD}} || 13 || 15.8 || 2.33 |- | {{GRC}} || 12 || 10.6 || 3.20 |- | {{CZE}} || 12 || 10.3 || 3.29 |- | {{BEL}} || 12 || 10.2 || 3.33 |- | {{HUN}} || 12 || 10.0 || 3.39 |- | {{PRT}} || 12 || 9.9 || 3.42 |- | {{SWE}} || 10 || 8.9 || 3.18 |- | {{AUT}} || 10 || 8.1 || 3.49 |- | {{BGR}} || 10 || 7.7 || 3.67 |- | {{SVK}} || 7 || 5.4 || 3.67 |- | {{DNK}} || 7 || 5.3 || 3.73 |- | {{FIN}} || 7 || 5.2 || 3.81 |- | {{LTU}} || 7 || 3.7 || 5.35 |- | {{IRL}} || 7 || 3.7 || 5.35 |- | {{LVA}} || 4 || 2.4 || 4.71 |- | {{SVN}} || 4 || 2.0 || 5.67 |- | {{EST}} || 4 || 1.4 || 8.08 |- | {{CYP}} || 4 || 0.8 || 14.14 |- | {{LUX}} || 4 || 0.4 || 28.28 |- | {{MLT}} || 3 || 0.4 || 21.26 |- | style="border-top:1px solid" |合計 || style="border-top:1px solid" |345 || style="border-top:1px solid" |490 || |} ニース欧州理事会で採択された本条約は多方面からの反対を受けた。[[ドイツ]]は[[欧州連合理事会]]の表決手続きに関して、自国の人口をより考慮した票の配分を求めたが、これには[[フランス]]が反対した。フランスはドイツとともに欧州連合に対する影響力を保持したいとの考えから、両国の票の配分は同等であるべきだと主張した。また多くの[[欧州連合加盟国|加盟国]]が従来の方式を大幅に単純化するべきとの考え方から、[[特定多数決方式]]に代わって、加盟国の投票とその人口による二重の多数決の導入が提案されたが、これもフランスが同様の理由で拒否した。これらを踏まえ二重の多数決について、加盟国の投票に加え、賛成を投じた加盟国の連合全体における人口の割合を考慮して、一定以上の市民の意見を代表しているかという観点で決するという妥協案に合意がまとまった。 またニース条約では将来の拡大に備えて、[[欧州議会]]の議員定数を732とした。これはアムステルダム条約で定められた定数では対応しきれないために修正したものである。 拡大後の[[欧州委員会]]の規模の削減については急場しのぎで対応されている。つまり、ニース条約では加盟国数が27に達したときは、委員の定数を新規加盟直後は加盟国数と同数とするが、その後27を下回る数に減らすことを定めている。しかしこの方法では真の意味における削減の目的にかなうものではない。一時的な対処として、[[2005年]][[1月1日]]以降、ドイツ、フランス、[[イギリス]]、[[イタリア]]、[[スペイン]]は2人目の委員を出すことを中止している。 このほか、ニース条約では[[欧州司法裁判所]]と[[第一審裁判所 (EU)|第一審裁判所]]に、特許などの特定分野を係属する付属的な法廷を設置することについて定めている。 ところで、ニース条約において緊密な協力に関する新たな規定が導入されている。これはもともとアムステルダム条約において新設された規定であるが、実行不可能であると考えられているため、いまだにその規定が適用されたことはない。 また[[オーストリア]]の[[連立政権]]に[[イェルク・ハイダー]]率いる[[オーストリア自由党]]が加わったことに対する制裁措置の効果が出ず、拡大のさいにおける新規加盟国の安定性に関する、将来起こりうる危険を受けて、ニース条約では加盟国に対する制裁措置の適用に関する規定を初めて取り入れた。 さらにニース条約では[[パリ条約 (1951年)|パリ条約]]の失効による[[欧州石炭鉄鋼共同体]]の消滅による財政面の影響に関する規定を盛り込んでいる。 欧州委員会の定数に関しても述べたが、ニース条約は広範囲にわたる欧州連合の機構制度の根本的な改革には触れられていないものと広く認識されている。欧州連合の機構制度は広い視野で見るとあまりにも複雑すぎていて、そのためニース欧州理事会において、[[2004年]]の IGC に先立ち、コンベンション(協議会)を設立することが合意された。 欧州議会の委員会ではニースにおける IGC で、機構改革や[[欧州検察官]]の任命など[[欧州共同体]]の新たな権限を新設することに関する自らが提案したその多くが取り入れられていないことに不満を感じていた。欧州議会は、自身には[[拒否権]]が与えられていないとはいえ、ニース条約の対抗案を採択する構えを見せ、また[[イタリア議会]]でも、欧州議会の同意が得られないのであるならば批准を拒否するという機運があったが、最終的には両者ともニース条約を受け入れた。 欧州連合の3つの柱構造について、ニース条約では維持されたものの、多くの加盟国が複雑なものであるとした。これについては個別の基本条約を一本化し、また異なる法人格を持つ3つの共同体(欧州共同体、[[欧州原子力共同体]]、欧州石炭鉄鋼共同体)を1つにさせ、そのうえで欧州共同体と欧州連合の枠組みを統合させて欧州連合に[[法人格]]を持たせるべきであるとの議論がなされた。これについてもドイツは加盟各国と欧州連合の権限の違いは明確にしておくことを求めた。 このほかニース条約では[[欧州連合基本権憲章]]に関する協力にも触れているが、これは2004年の IGC 以降もイギリスが反対したために、議論が先送りされた。 == 批准手続き == 条約修正に関する従来の規定では、対象となる条約は後発の条約によってのみ修正され、その修正条約が発効するには全加盟国の批准がなされなければならない。 [[アイルランド]]を除く全ての加盟国は、それぞれの議会において批准手続きを完了させた。[[アイルランド最高裁判所]]はかつて[[単一欧州議定書]]に関する裁判で、[[欧州連合基本条約|基本条約]]の根本的な変更は、国民に由来する[[主権]]についての[[アイルランド憲法]]の規定にかかわるものであるという判決を下しているため、ニース条約の批准に先立って憲法改正手続きを実施しなければならず、その手続きは[[国民投票]]によるものとされていた。 2001年6月のアイルランドの国民投票でニース条約批准を拒否する結果となり、これは[[欧州統合]]を進めてきたヨーロッパの政界に驚きをもって受け止められた。この国民投票の投票率自体は34%と低く、アイルランドの主要政党が余り熱心に批准についての議論をせず、これまでの基本条約と同様に、有権者の多くがニース条約についても賛成するだろうと当て込んでしまった結果であると言える。ところが多くの有権者は条約の内容に不満を抱き、ニース条約で小国が低く扱われるものと判断したのである。このほかアイルランドの中立性に関して、条約の影響に一部の有権者は懐疑的であったということもあった。また欧州連合の主導権に関して、実態にそぐわない面や傲慢さがあるものと判断され、これにより各国首脳は条約に対する批判に耳を傾けなければならないという認識を持つようになった(同様の例として[[デンマーク]]での国民投票でマーストリヒト条約が反対されたことがある)。結局は、反対派がただ投票をせずとも、「反対票を投じよう」という運動はニース条約の意義に関して重大な問題を投げかける効果があったというために、ニース条約は否定されてしまったのである。 アイルランド政府は、欧州理事会がアイルランドの軍事政策と距離を置くとする[[セビリア宣言]]を受けて、2002年[[10月19日]]、再度ニース条約に関する国民投票を実施した。この投票のさいに、条約批准に当たって2つの重要な条件を課しており、1つが「緊密化した協力」について[[ドイル・エアラン]](議会下院)の承認を要するというもので、もう1つが欧州連合の共通防衛政策にアイルランドは参加しないとするものである。主要政党や、アイルランド出身の欧州議会議長[[パット・コックス]]や[[チェコ]][[チェコの大統領|大統領]][[ヴァーツラフ・ハヴェル]]、アイルランド元[[アイルランドの大統領|大統領]][[パトリック・ヒラリー]]、元[[アイルランドの首相|首相]][[ギャレット・フィッツジェラルド]]ら欧州統合主義を掲げる著名人による遊説やメディアへの登場など大規模な賛成運動が展開された。投票の結果、前回の国民投票の2倍近くとなる60%が賛成票であり、すべての選挙区において賛成が反対を大きく上回った。 これにより全加盟国がニース条約に批准したことになった。ニース条約は2002年末までに批准を完了することとされており、批准が完了されていなければ破棄されることとなっていた。 == 評価 == ニース条約は無駄の多い欧州連合の統治メカニズムを効率的に修正し、政策の決定過程を合理化する狙いがあるとして、これらは欧州連合を[[中央ヨーロッパ|中欧]]地域に拡大するのに欠かせないとされている。さらに旧[[東側諸国|共産圏諸国]]の統合と将来の発展においてニース条約は非常に重要な役割を持つともされている。ところが欧州連合というプロジェクトにより大きな権限を持たせるべきであると考える多くの者にとって、ニース条約は不十分であると感じられるもので、いずれ将来において欧州連合の憲法や連邦制に移行するなどといった新たな条約や協定に変えられるものとされている。 ニース条約に反対を唱える者は、本条約は民主的ではなく実務的なものであり、各国の主権や議会の機能をさらに奪い、また権威的で無責任な官僚制に権限を集中させるものであるとして、政治的な権限を深めるものであっても広めるものではないとして批判している。また現行制度では5つの加盟申請国が新たに欧州連合に加盟できるかもしれないが、ほかの加盟を希望する国は個別の基準で協議することになり、これでは先に挙げた申請国に有利になっているとしている。さらにニース条約では欧州連合域内に格差を生じさせ、フランスやドイツといった大国が、自国に有利な欧州連合の政策を実施しかねないという懸念もある。反ニース条約の政治家には、アイルランド以外で国民投票を実施していたと仮定すると、同様に反対票が上回ることもありうると指摘する者もいる。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[欧州懐疑主義]] == 外部リンク == * [http://ec.europa.eu/comm/nice_treaty/ The Treaty of Nice](欧州委員会、英語ほか) * [http://www.deljpn.ec.europa.eu/home/news_jp_newsobj223.php ニース条約に関するアイルランド国民投票の結果に対するプロディ欧州委員会委員長の声明](駐日欧州委員会代表部) {{EU-timeline}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にいすしようやく}} [[Category:欧州連合基本条約]] [[Category:ニースの歴史]] [[Category:2001年の条約]]
null
2022-04-30T05:58:29Z
false
false
false
[ "Template:IRL", "Template:DEU", "Template:NLD", "Template:GRC", "Template:CZE", "Template:BEL", "Template:条約", "Template:ESP", "Template:EU-timeline", "Template:ROU", "Template:SVK", "Template:LTU", "Template:LUX", "Template:MLT", "Template:POL", "Template:DNK", "Template:LVA", "Template:EST", "Template:Normdaten", "Template:GBR", "Template:ITA", "Template:PRT", "Template:FIN", "Template:SVN", "Template:FRA", "Template:BGR", "Template:SWE", "Template:CYP", "Template:Reflist", "Template:HUN", "Template:AUT" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
11,949
関税及び貿易に関する一般協定
関税及び貿易に関する一般協定(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい、英語: General Agreement on Tariffs and Trade、フランス語: Accord Général sur les Tarifs Douaniers et le Commerce)は、1947年10月30日にジュネーヴにおいて署名開放された条約、またはこれに基づいて事実上国際組織として活動した締約国団を指す。GATT(ガット)の略称で呼ばれる。 1995年に、GATTの規定を事実上吸収したWTO協定が発効する時点で128カ国が締約国(Contracting Party)であったが、正式には発効せず、暫定適用議定書(当初の加盟国について)及び加入議定書(発足の後の加盟国について)に基づいて適用され続けた。 この、1947年に署名開放されたGATTを改正した1994年の関税及び貿易に関する一般協定は、WTO協定と不可分の一部とされているが(WTO協定第2条第2項)、1947年のGATTと、WTO協定や1994年のGATTとは、別個の条約である(WTO協定第2条第4項)。 改正前のGATTのことを「1947年のGATT」、改正後のGATTのことを「1994年のGATT」と言い、区別される。 今日のWTO体制は、アメリカ合衆国が1934年に制定した互恵通商協定法に基づき、諸外国と二国間通商協定を締結していったことに歴史的起源をもつ。アメリカは協定の締結に基づき交渉によって相手国と互いに関税を引き下げ合い、協定の無条件最恵国待遇条項によって通商の自由化を推し進めたのである。 第二次世界大戦後の1948年3月24日、1930年代の世界恐慌やブロック経済が諸国の経済的対立を激化させ、これが第二次世界大戦発生の一因にもなったとの反省から、1944年のブレトン・ウッズ会議で設立された国際通貨基金(IMF)や国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行)と並ぶ戦後の国際経済組織の支柱として、国際貿易機関(ITO)を設立するための国際貿易機関憲章(通称ハバナ憲章)が採択され、53カ国が署名した。 本来GATTはハバナ憲章に従属するものとして作成されたものであり、1947年10月30日に、スイスのジュネーヴにて採択された。ハバナ憲章の一部は後にGATTに取り入れられ実施されていくことになった。しかしGATTは、効力発生の要件としてGATTを批准した国家貿易額が、GATT加盟国の貿易額の85パーセントを超えることを正式な発効要件としていたため、この効力発生要件を満たす見込みがなかった。またアメリカの互恵通商協定法が1948年に失効するなどといった事情から、アメリカ合衆国を含む多くの国々がハバナ憲章の批准を見送ったため、GATTだけを先に成立させる必要が生じた。 そのため、特にアメリカ合衆国議会の審議を受けることを避ける目的で「暫定適用議定書」を作成し、GATTを正式には発効させないまま1948年1月1日から「暫定適用議定書」に基づくGATTの暫定適用が始まった。「暫定適用議定書」もまたGATTとは別個の法的拘束力を有する条約であり、GATTは同議定書を通じて実質的に各国に対する拘束力をもつものとなったが、この議定書には「現行の法令に反しない最大限度において」のみGATT第2部の規定が適用される(GATT第1部及び第3部についてはこのような限定はなく全面的に適用される)旨を定めた条項(通称「祖父条項」)が含まれていたほか、このようにして成立したGATT体制においては各国は関税譲許率のみを約束するのみとされ、またGATT第25条第5項には締約国団の承認により義務の免除を行うことができる規定、いわゆるウェーバー条項と呼ばれる条項がおかれた。これらに加えて各国のGATT規定上の義務違反も頻発し、大きな制約を受けることになったGATTの規律は極めて弱いものとならざるを得なかった。 このようにして適用が開始されたGATTは、雇用問題、労働基準、開発、国際投資ルール、国際カルテルや制限的商慣行といった競争法上の幅広い分野について規定していたハバナ憲章から、貿易関連規定だけを抜き出したものとなった。ハバナ憲章の一部を暫定的に適用する形で開始された戦後のGATTは、その後約50年間にわたり世界の多角的貿易体制を支えていくことになる。 GATTは、国内の産業保護の手段として関税のみを認めていたが、GATT締約国はその関税引き下げのためには二国間で交渉するよりも多数国間で交渉するほうが効率的であるとして、多角的貿易交渉を行い関税水準を引き下げてきた。 これは1947年のGATTを一部改正した、1994年のGATTを含むWTO協定が発効した後も継続されている。第1回からディロン・ラウンドまでの計五回にわたる交渉では、関税の引き下げについて交渉が行われたが、ケネディ・ラウンドでは関税引き下げのみではなく、非関税障壁であるアンチダンピング問題についても検討された。東京ラウンドでは、ダンピング防止や政府調達のような非関税障壁の問題に加えて、発展途上国が関心を持っていた熱帯産品に関する交渉が開始された。 1986年から1994年に行われた、ウルグアイ・ラウンドでは世界貿易機関の発足が決定され、本来国際貿易機関発足までの暫定的な体制であった筈のGATTが、実質的に国際組織として活動している異常な状況を解消した。GATT体制下で行われた8回の多角的貿易交渉を通じて、先進諸国の平均関税率はGATT以前の4パーセントにまで低下した。 最初の多角的貿易交渉は1947年の4月から10月、1948年の2月から3月、同年8月から9月の3回にわけて、スイスのジュネーヴにて行われた。23カ国が交渉に参加し1947年10月30日にはGATTの署名がなされ、またこのときには国際貿易機関設立に向けた交渉がなされたほか、45,000品目の関税引き下げについて合意に至った。こうして行われた関税引き下げによって100億ドルの貿易に影響を及ぼしたといわれる。1947年11月21日、国際貿易機関を設立するための本格的な交渉がキューバのハバナで開始され、1948年3月には国際貿易機関憲章(ハバナ憲章)の採択に至ったが前記のとおり(#経緯参照)国際貿易機関が設立されることはなかった。そのかわりに1948年1月1日には、後にハバナ憲章の一部として採択される予定であったGATTの適用を暫定的に開始することを定めた「暫定適用議定書」の適用が23カ国の間で開始され、これにより様々な制約つきではあったがGATTの適用が開始されることとなった。 第2回多角的貿易交渉は1949年4月から8月にかけてフランスのアヌシーで行われ、13カ国が参加した(アヌシー・ラウンド)。主な議題は関税の引き下げであり、5,000品目の関税引き下げについて合意されたほか、さらに10カ国の参加が決定した。しかしこの会期中にアメリカがハバナ憲章を批准しないことを宣言し、そのためこのとき国際貿易機関の設立が不可能であることが決定的となった。 第3回多角的貿易交渉は1950年9月から翌年4月までイギリスのトーキーで、38カ国の参加によって行われた(トーキー・ラウンド)。このときには8,700品目が関税引き下げの対象となった。 第4回多角的貿易交渉は第1回と同じジュネーヴで1956年1月から5月にかけて行われ、26カ国が交渉に参加した(ジュネーブ・ラウンド)。3,000品目の関税引き下げが決定された。 既に述べたようにGATTはITOの設立を予定したものであったため組織に関する規定が不足しており、これを解消するため1955年に貿易協力機構を設立してGATTに組織的な基盤を設けようとしたが、やはりこれもアメリカが受諾しなかったために成立することはなかった。GATTに唯一規定されていた組織はGATT全締約国からなる「締約国団」(CONTRACTING PARTIES)のみであり、次第にこの「締約国団」の会合が通常の国際組織で言うところの総会としての役割を事実上果たしていくことになる。1960年6月4日に「締約国団」が理事会の設置を決議し、また本来ITOを設立するための準備的機関であったITO中間委員会の書記局長が、1948年9月のGATTの締約国団とITO中間委員会との取決めにより、事実上の事務局となった。こうして本来ハバナ憲章の一部にしか過ぎなかったGATTは総会、理事会、事務局という国際組織に特徴的な三部構造を備えることになり、GATTは実質的に国際組織としての機能を果たしていくことになる。 1958年、アメリカ経済担当国務次官ダグラス・ディロンが5度目の多角的貿易交渉の開催を提唱した。これは1958年1月1日に欧州経済共同体(EEC)が発足し、EEC内で10パーセントの関税引き下げと20パーセントの数量制限緩和が行われることが決定され、このときEEC内の一部に当時EEC非加盟国であったイギリスなど欧州経済協力機構(OEEC)にまで貿易自由化を拡大すべきとする考え方があったのに対して、そのような対米貿易格差は許容できず貿易自由化はGATTの枠内で進められるべきと主張しアメリカが反発する立場をとったためである。このような背景から1960年9月1日からスイスのジュネーヴで開催された多角的貿易交渉は、ダグラス・ディロンの名を冠してディロン・ラウンドと呼ばれる。このディロン・ラウンド以降、多角的貿易交渉は交渉の開催を提唱した人や提唱がされた地名にちなんで「XXXXラウンド」と呼ばれるようになる。ディロン・ラウンドでは、特にEEC加盟諸国が個別に定めていた関税率をEEC加盟国で共通域外関税に移行するかどうか、EEC加盟国間で共通農業政策を導入するか、などが主な議題として取り上げられた。 1962年10月、アメリカで既存の関税を50パーセント削減するための交渉権限と、アメリカと欧州経済共同体(EEC)が世界全体の80パーセント以上を占める品目の関税を削減または廃止するための交渉権限を、議会から大統領に授権することを定めた1962年通商拡大法が制定された。このときアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディにちなみ、1964年5月4日からジュネーヴで開催された多角的貿易交渉はケネディ・ラウンドと呼ばれる。このケネディ・ラウンドでは、二国間交渉の成果を最恵国待遇原則に基づきGATT全加盟国に適用するというそれまでの交渉方式を改め、GATT全加盟国が関税譲許表を示しそれらを一括で検討するという一括交渉方式が採用された。それまでの二国間方式では各国が自国への不利益を避けるために効果を縮小化しようとする傾向があり、これを避けるためこのような交渉方式の変更がなされた。このようにして行われた関税引き下げ交渉では、工業製品に付加される関税を平均で35パーセント以上引き下げることに成功した。これはディロン・ラウンドの約8倍にも相当する成果であった。 1973年9月にGATT閣僚会議が東京が行われ、このとき採択された「東京宣言」に従い7回目の多角的貿易交渉決定され、1973年9月から1979年11月までジュネーヴで東京ラウンドが開催された。交渉参加国が増加したことから合意を早めるためにアメリカ、EC、日本、カナダが合意した内容をGATT全締約国がコンセンサスにより承認する方式が慣行的に取り入れられるようになった。東京ラウンドでは、補助金、製品の規格などといった貿易の技術的障害、輸入許可手続きといった関税以外の貿易障壁について規律する協定が締結された。また東京ラウンドでもケネディ・ラウンドと同じように関税引き下げ交渉は一括交渉方式がとられたが、ECが既存の関税率が高い国と低い国に同率の関税引き下げを求めるべきではないと主張したため、以下のように交渉開始前の関税率を国ごとに反映した関税引き下げが行われた。 z = a x a + x {\displaystyle z={\frac {ax}{a+x}}} z:引き下げ後の関税率、x:既存税率、a:国別定数(例:ECは16、アメリカ・日本は14) ケネディ・ラウンドと同様に東京ラウンドでも工業製品の関税引き下げについては大きな成果を上げたが、農産品貿易の自由化交渉については成果を上げることができなかった。 1986年9月15日から20日にかけてウルグアイのプンタ・デル・エステで行われたGATT閣僚会議において、増加するサービスの貿易や知的所有権の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された。 そのため、それまでの7回の多角的貿易交渉では、関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドでは、サービスや知的所有権など、それまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また非関税障壁についても交渉されるなど、市場開放のあり方についてより広く交渉が行われた。 その結果、ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりも遥かに長い8年もの歳月を要することとなった。また、このようにGATT締約国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の貿易摩擦問題が多発していた。 これをきっかけにして、GATT規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、GATTは次第に形骸化・後退していくことになる。例えばアメリカ合衆国は、1984年に大統領のファスト・トラック権限をGATTの多国間交渉から二国間自由貿易協定交渉まで広げる通商関税法を制定し、これに基づき、アメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える。 こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には第二次オイルショックの影響から、世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや、GATTが規律対象としていたモノ(財)貿易には該当しないサービスや直接投資の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ、それまで国際貿易システムを支えてきたGATTシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである。 こうした流れは、暫定的なGATT体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカ合衆国の1974年通商法第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった。 全ての交渉テーマについて、ようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた。GATTは一部改正され1994年のGATTとしてWTO協定の附属書1Aに組み込まれた。 WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のGATTと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと国際貿易機関が設立されるまでの暫定的な組織であったGATTを引き継ぐ国際組織として、世界貿易機関が設立されたのである。 ウルグアイラウンドの結果、WTOが1995年1月1日に発足し、GATTはWTOへ移行することになった。しかしWTOの発足時点でWTO協定を受諾した国は76カ国及びEUにとどまり、1947年のGATTの加盟国の128の約6割にとどまっていた。 1947年のGATTはそのままの内容でWTO協定の一部となったが、法的には1947年のGATTは、1994年のGATTとは別個のものであるため、WTOに加盟をしていない1947年のGATTの締約国との関係を維持するために、WTOに加盟した国も1947年のGATTに暫時留まる必要があった。 しかしまたWTO発足後、旧体制である1947年のGATTがいつまでも存在することは好ましくないとの認識は各国の共有するところであった。そのため1994年12月8日の1947年のGATTの締約国団・WTO準備委員会は、1947年のGATTをWTO発足後1年、すなわち1996年1月1日に終了させる決定をした。この決定は、予期せざる自体が発生した場合、終了の日を1年以内の期間で延長することができる規定を含んでいたが、1995年12月12日の1947年のGATTの締約国団による第51回GATT総会は延長を行わず、1994年の決定どおり1996年1月1日に終了させることとした。こうして1947年のGATTは、WTO発足後1年で法的に消滅した。 また東京ラウンド諸協定についても、WTO協定附属書1Aに新たに含まれたものと東京ラウンド当時のものが並存していたが、これらの協定についても各協定の委員会で1996年1月1日に終了することが決定された。 東京ラウンド諸協定のうち、WYO附属書4となる、民間航空機貿易に関する協定及び 政府調達に関する協定については、別途の扱いとなった。民間航空機貿易に関する協定は、改正交渉が妥結しなかったため、東京ラウンドで作成された協定がそのままWTO協定附属書4に添付された扱いになった。政府調達に関する協定については、新協定が1996年1月1日に発効することにより東京ラウンドにおける協定の適用が終了した。 WTOと1947年のGATT及び東京ラウンド諸協定が並存する場合の法的問題(例えば、農業の関税化に伴う関税の引き上げをWTOにまだ加盟していない1947年のGATTの加盟国に適用可能か)については、1994年12月8日の1947年のGATTの締約国団・WTO準備委員会の決定(さらに東京ラウンド諸協定についてはその後の各協定の委員会の決定)で、 として法的問題を解決した。 1947年のGATTは、前述のように明白な規定のないまま実態的に存在していた。主な機関は次のようである。 WTOもそうであるが組織規定のある場合、全締約国の代表からなる総会が置かれるが、1947年のGATTの場合、共同行動する締約国である締約国団のみが法的存在でありその会合が通常の機関の総会となる。第1回の総会は、第25条2の規定に基づき1948年2月28日から3月23日までハバナで開催され、以後定期総会(基本的に年1回)と特別総会が開催され、またこれとは別に閣僚レベルの会合も開催された。 設立の当初は、GATTは総会を中心に運営されていたが、ITOの発足が望めないことが明白になり増加する諸問題に対処するため、1962年10月の第6回総会において”ad hoc Committee for Agenda and International Business"が設置された。これは1953年3月の第9回総会で17名からなる会期間委員会(Intercessional Committee)に改組されたが依然として総会が最終決定するため運営の遅延が解消されなかった。そのため1960年6月4日の第16回総会において理事会設置の決定がされ会期間委員会は廃止された。理事会は、他の国際機関によくあるような、加盟国から選出(あるいは特定国が予め指定)されて理事会のメンバーになるのではなく、「メンバーとしての責務を受諾する意思を有するすべての締約国の代表で構成」(設置決定第1項)となっており、1995年1月1日の段階でGATT締約国128のうち97カ国が理事会に参加していた。 事務局をもたなかった1947年のGATTの締約国団は、その第2回締約国会議(1948年9月)において、GATTの締約国団とITOの中間委員会(ICITO)と取決めを結び、ITOICの書記局長はGATT締約団に必要なサービスを提供(ICITOの執行委員会は書記局長に全権を付与)するとされ、GATTの事務局長はITOICの書記局長が勤めることになった。そのため、GATTの事務局長の選任の直前に、ITCの執行委員会が開催され、ICITOの書記局長としての選出を行っていた。ただし、実質的な選任については、GATT側で行われる。1995年は、WTOと1947年のGATTが並存したため、1995年4月にWTO事務局長に選任されたレナート・ルジェロ(Renato Ruggiero)は、1947年のGATTの締約国団の事務局長を兼ねることになり、そのため1995年4月11日のITCの執行委員会でICITO書記局長としての選出されているすでに1995年3月24日の第7回特別総会で選出されているものの形式的には、ITCの執行委員会による選出が必要であった。なお、1965年3月までは書記局長 (Executive Secretary)であったが、1965年3月23日の第22回締約国会議決定により事務局長(Director-General)に改称された。ただしITOICの書記局長という立場は変更されないので、GATTの締約団の事務局長でありITOICの書記局長ということになる。 歴代GATT事務局長 GATTの設立目的は自由貿易の促進である。これはデヴィッド・リカードが提唱した比較優位の理論に基づくものである。つまりリカードの理論によれば、各国が他国と比較して生産効率の良い(これを比較優位という)分野での生産に特化し互いに自由貿易を行うことで、そのような貿易を行った国々がより大きな利益を得ることができるというものである。本節ではこうした考え方に基づくGATT規定の基本的原則について述べる。 「無差別」はGATTの基本的原則とされ、これには最恵国待遇という側面と、内国民待遇という側面とがある。これらはWTOの中核的なルールとしても引き継がれている。 最恵国待遇は、貿易の相手国とその他の国とを差別せずに貿易相手国に対しそれ以外の国々に与える待遇の中で最も有利な待遇を与えるというもので、多国間条約の中でGATTは初めてこの最恵国待遇の原則を定めた(第1条第1項)。他国に最恵国待遇を与えるための条件として、その相手国に対し自国の産品に対し特定の有利な待遇を保証することを要求してはならない。1947年のGATTのとりまとめ交渉の中で、この最恵国待遇を盛り込むにあたってアメリカとイギリスの間で対立があった。1941年以降国務長官コーデル・ハルのもとで国務省を中心に貿易自由化を志し国際的貿易体制の検討を続けてきたアメリカに対し、1932年以来イギリス帝国内の植民地で適用されてきた排他的帝国特恵関税制度の存続を求めたイギリスが反発したのである。最終的に帝国特恵関税制度のような地域的特恵制度が最恵国待遇原則の例外として認められることとなり、また帝国特恵関税制度以外に一定の条件下で地域経済統合のような地域的特恵制度を新たに締結することもこの最恵国待遇に対する例外として認められた(第24条)。 内国民待遇とは他国や他国産品を自国や自国産品と差別することなく待遇することをいい、GATTでは輸入品に対する税金や国内法令について規定した(第3条)。輸入品が輸入国の国内で輸入品と同種の国産品目より不利に扱われれば貿易自由化の妨げになるとされたのである。 最恵国待遇は特定の国の輸入品がそれ以外の国からの同種の輸入品と差別されないことを、内国民待遇は輸入品が国内産の同種の産品と差別されないことを定める原則である。最恵国待遇・内国民待遇いずれの原則においても、同種の品目に該当するかどうかは、産品の用途、産品の性質・属性、消費者の選好、関税分類、という4つの基準に照らし判断される。 国内産業を保護するための手段としては関税以外は認めず、この関税についても多角的貿易交渉により引き下げを目指した(#多角的貿易交渉を参照)。WTOが発足するまでこの多角的貿易交渉は8度開催され、そのたびに関税引き下げを実現してきた。これらの貿易交渉や加入時の交渉の結果の引下げ結果を具体的に定めるものが譲許表(Schedules of Concessions)である。各締約国は、他の締約国の通商に対し、この協定に附属する該当の譲許表の該当の部に定める待遇より不利でない待遇を許与するものとする(第2条第1項)と規定され、譲許表に定める率を越える関税を課すことはできない(第2条第2項)。譲許表は締約国毎に作成され、それぞれSchedules XXXVIIIのように番号(ローマ数字)を付すことになっている。譲許表は原締約国であるオーストラリアのSchedules Iから最新のWTO加盟国であるリベリアのSchedules CVXXIV(第174表)まで作成されている。なお、現在のWTO加盟国の数(164)より譲許表の数が多いのは、1947GATTを脱退した締約国の番号が欠番となること、一旦加盟交渉が終了し譲許表を作成したが、期限内に加盟議定書を受諾せず締約国にならなかった場合があること、EUが拡大の都度新しい表としている等の事情による。 譲許表はつぎのような構成となっている。 第2部の特恵関税率表は、GATT第1条2により最恵国待遇の例外となる特恵関税についてのものであり、オーストラリア、カナダ、セイロン、キューバ、インド、ニュージーランド、南アフリカ、英国及び米国が第2部の特恵関税率表を有していたが、現在修正撤回等により実効はない。第5部は、最近の加盟国であるロシア、ウクライナ等にある。 GATTの締約国の加入交渉において関税交渉を行い譲許表を作成しなければいけないという直接の規定はなく、GATT第33条に基づく加入議定書に定める条件によるものである。しかし実際の加入条件のほとんどは譲許表の作成を前提にしており、加入条件に関税による譲許表の設定は不文律となっていた。しかしGATT第26条5(c)により、GATTの締約国から独立し、旧宗主国の宣言によりGATTの締約国になった場合、独立時点の宗主国の地位を継承することになっている。この場合、旧宗主国が属領のために譲許表を作成していないとその国は譲許表なしの状態となる。これらの国はその後のラウンドなどで譲許表を作成する場合もあるが、WTO発足の1995年1月1日の段階で1947年のGATTのうち41国は、譲許表を有していなかった。WTO協定第11条は、1947年のGATTの締約国にWTOの原加盟国になる資格を認めたが1994年のGATT及びGATSに譲許表を添付することを条件とした。そのためこれらの41カ国もそれぞれのWTO加盟の時点から譲許表を有することとなった。 数量制限禁止もGATTの基本的原則のひとつである。貿易自由化を妨げるのは関税だけではなく、特定の産品を輸入することを禁じたり制限するといった輸入の数量制限措置が行われると外国産品は国内市場に参入すること自体ができなくなるという点で関税以上に貿易制限効果が高いとされ、そうした数量制限は原則として禁止されることとなった(第11条第1項)。 セーフガードとは、特定の品目輸入が急増することによって国内産業が打撃を受けることを予防するため、関税賦課や輸入数量制限といった形で行われる措置であり、GATT第19条に規定された。これは特定の国からの輸入が一時的に急増することで国内産業に被害が発生した場合に、セーフガードとして緊急避難的に一時的な輸入制限措置を発動することを認めたものである。しかしセーフガードを発動するために国内産業が被害を受けたことを立証することは容易なことではなく、また無差別原則にのっとった多角的セーフガードの発動はできても、特定の国の輸入に対してだけセーフガードを発動することは認められず。セーフガードとして関税を引き上げる場合には他の品目で同等程度の関税引き下げを行わなければならないなど一定の制約があり、GATTの規定上認められた権利であったにもかかわらず実際にセーフガードが発動された件数はそれほど多くはなかった。セーフガード発動の権利を行使するためには輸入国側が自らに貿易摩擦の原因があることを認めなければならないため、自由貿易を標榜する先進国としてはセーフガードの権利を行使することがためらわれたのである。こうした理由から、GATTの規定上は必ずしも明確に定められていない輸出自主規制のような、保護主義的な政策が横行していくことになる。これはGATT体制見直しの大きな一因となった(#ウルグアイ・ラウンド参照)。 GATTは締約国間の紛争解決に関して、締約国は他の締約国に対して紛争に関する協議を要請でいることとし(第22条)、また締約国がGATT上の利益を無効にされた場合、または侵害された場合の救済について定めた(第23条)。これらの規定に基づき紛争当事国間で解決できなかったGATT上の利益に関する国際紛争の処理は、GATT締約国団の検討に付される。第23条によれば、相手国がGATT協定に違反した場合に締約国団に申し立てることができる(違反申立て)だけでなく、相手国の協定に違反しない措置により本来であれば協定上保障されていたはずの利益が無効になっている場合にも申し立てをすることができる(無違反申立て)とされた。この無違反申立ての制度はWTOのもとに設置されたWTO紛争解決機関(英語版)にも引き継がれていく。GATTの初期においては作業部会によって紛争についての検討がなされ解決案が紛争当事国に提示されたが、後に締約国団はパネルを設置し、このパネルが理事会に紛争解決に関する報告書を提出するようになった。こうしたGATTにおける紛争解決に関する決定を得るためには、締約国団のコンセンサスを得なければならないとされていた。つまり自国にとってパネルの紛争解決が不利なものであれば、その締約国はパネルの決定に反対しパネルによる紛争解決を妨げることが可能となっていたのである。WTO紛争解決機関はこのGATT紛争解決手続きの不備を改善し、全ての締約国が一致して紛争解決に反対しない限り紛争解決手続きを進行させることができると定められた(逆コンセンサス方式)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "関税及び貿易に関する一般協定(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい、英語: General Agreement on Tariffs and Trade、フランス語: Accord Général sur les Tarifs Douaniers et le Commerce)は、1947年10月30日にジュネーヴにおいて署名開放された条約、またはこれに基づいて事実上国際組織として活動した締約国団を指す。GATT(ガット)の略称で呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1995年に、GATTの規定を事実上吸収したWTO協定が発効する時点で128カ国が締約国(Contracting Party)であったが、正式には発効せず、暫定適用議定書(当初の加盟国について)及び加入議定書(発足の後の加盟国について)に基づいて適用され続けた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この、1947年に署名開放されたGATTを改正した1994年の関税及び貿易に関する一般協定は、WTO協定と不可分の一部とされているが(WTO協定第2条第2項)、1947年のGATTと、WTO協定や1994年のGATTとは、別個の条約である(WTO協定第2条第4項)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "改正前のGATTのことを「1947年のGATT」、改正後のGATTのことを「1994年のGATT」と言い、区別される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "今日のWTO体制は、アメリカ合衆国が1934年に制定した互恵通商協定法に基づき、諸外国と二国間通商協定を締結していったことに歴史的起源をもつ。アメリカは協定の締結に基づき交渉によって相手国と互いに関税を引き下げ合い、協定の無条件最恵国待遇条項によって通商の自由化を推し進めたのである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の1948年3月24日、1930年代の世界恐慌やブロック経済が諸国の経済的対立を激化させ、これが第二次世界大戦発生の一因にもなったとの反省から、1944年のブレトン・ウッズ会議で設立された国際通貨基金(IMF)や国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行)と並ぶ戦後の国際経済組織の支柱として、国際貿易機関(ITO)を設立するための国際貿易機関憲章(通称ハバナ憲章)が採択され、53カ国が署名した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本来GATTはハバナ憲章に従属するものとして作成されたものであり、1947年10月30日に、スイスのジュネーヴにて採択された。ハバナ憲章の一部は後にGATTに取り入れられ実施されていくことになった。しかしGATTは、効力発生の要件としてGATTを批准した国家貿易額が、GATT加盟国の貿易額の85パーセントを超えることを正式な発効要件としていたため、この効力発生要件を満たす見込みがなかった。またアメリカの互恵通商協定法が1948年に失効するなどといった事情から、アメリカ合衆国を含む多くの国々がハバナ憲章の批准を見送ったため、GATTだけを先に成立させる必要が生じた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そのため、特にアメリカ合衆国議会の審議を受けることを避ける目的で「暫定適用議定書」を作成し、GATTを正式には発効させないまま1948年1月1日から「暫定適用議定書」に基づくGATTの暫定適用が始まった。「暫定適用議定書」もまたGATTとは別個の法的拘束力を有する条約であり、GATTは同議定書を通じて実質的に各国に対する拘束力をもつものとなったが、この議定書には「現行の法令に反しない最大限度において」のみGATT第2部の規定が適用される(GATT第1部及び第3部についてはこのような限定はなく全面的に適用される)旨を定めた条項(通称「祖父条項」)が含まれていたほか、このようにして成立したGATT体制においては各国は関税譲許率のみを約束するのみとされ、またGATT第25条第5項には締約国団の承認により義務の免除を行うことができる規定、いわゆるウェーバー条項と呼ばれる条項がおかれた。これらに加えて各国のGATT規定上の義務違反も頻発し、大きな制約を受けることになったGATTの規律は極めて弱いものとならざるを得なかった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このようにして適用が開始されたGATTは、雇用問題、労働基準、開発、国際投資ルール、国際カルテルや制限的商慣行といった競争法上の幅広い分野について規定していたハバナ憲章から、貿易関連規定だけを抜き出したものとなった。ハバナ憲章の一部を暫定的に適用する形で開始された戦後のGATTは、その後約50年間にわたり世界の多角的貿易体制を支えていくことになる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "GATTは、国内の産業保護の手段として関税のみを認めていたが、GATT締約国はその関税引き下げのためには二国間で交渉するよりも多数国間で交渉するほうが効率的であるとして、多角的貿易交渉を行い関税水準を引き下げてきた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これは1947年のGATTを一部改正した、1994年のGATTを含むWTO協定が発効した後も継続されている。第1回からディロン・ラウンドまでの計五回にわたる交渉では、関税の引き下げについて交渉が行われたが、ケネディ・ラウンドでは関税引き下げのみではなく、非関税障壁であるアンチダンピング問題についても検討された。東京ラウンドでは、ダンピング防止や政府調達のような非関税障壁の問題に加えて、発展途上国が関心を持っていた熱帯産品に関する交渉が開始された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1986年から1994年に行われた、ウルグアイ・ラウンドでは世界貿易機関の発足が決定され、本来国際貿易機関発足までの暫定的な体制であった筈のGATTが、実質的に国際組織として活動している異常な状況を解消した。GATT体制下で行われた8回の多角的貿易交渉を通じて、先進諸国の平均関税率はGATT以前の4パーセントにまで低下した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "最初の多角的貿易交渉は1947年の4月から10月、1948年の2月から3月、同年8月から9月の3回にわけて、スイスのジュネーヴにて行われた。23カ国が交渉に参加し1947年10月30日にはGATTの署名がなされ、またこのときには国際貿易機関設立に向けた交渉がなされたほか、45,000品目の関税引き下げについて合意に至った。こうして行われた関税引き下げによって100億ドルの貿易に影響を及ぼしたといわれる。1947年11月21日、国際貿易機関を設立するための本格的な交渉がキューバのハバナで開始され、1948年3月には国際貿易機関憲章(ハバナ憲章)の採択に至ったが前記のとおり(#経緯参照)国際貿易機関が設立されることはなかった。そのかわりに1948年1月1日には、後にハバナ憲章の一部として採択される予定であったGATTの適用を暫定的に開始することを定めた「暫定適用議定書」の適用が23カ国の間で開始され、これにより様々な制約つきではあったがGATTの適用が開始されることとなった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第2回多角的貿易交渉は1949年4月から8月にかけてフランスのアヌシーで行われ、13カ国が参加した(アヌシー・ラウンド)。主な議題は関税の引き下げであり、5,000品目の関税引き下げについて合意されたほか、さらに10カ国の参加が決定した。しかしこの会期中にアメリカがハバナ憲章を批准しないことを宣言し、そのためこのとき国際貿易機関の設立が不可能であることが決定的となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第3回多角的貿易交渉は1950年9月から翌年4月までイギリスのトーキーで、38カ国の参加によって行われた(トーキー・ラウンド)。このときには8,700品目が関税引き下げの対象となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第4回多角的貿易交渉は第1回と同じジュネーヴで1956年1月から5月にかけて行われ、26カ国が交渉に参加した(ジュネーブ・ラウンド)。3,000品目の関税引き下げが決定された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "既に述べたようにGATTはITOの設立を予定したものであったため組織に関する規定が不足しており、これを解消するため1955年に貿易協力機構を設立してGATTに組織的な基盤を設けようとしたが、やはりこれもアメリカが受諾しなかったために成立することはなかった。GATTに唯一規定されていた組織はGATT全締約国からなる「締約国団」(CONTRACTING PARTIES)のみであり、次第にこの「締約国団」の会合が通常の国際組織で言うところの総会としての役割を事実上果たしていくことになる。1960年6月4日に「締約国団」が理事会の設置を決議し、また本来ITOを設立するための準備的機関であったITO中間委員会の書記局長が、1948年9月のGATTの締約国団とITO中間委員会との取決めにより、事実上の事務局となった。こうして本来ハバナ憲章の一部にしか過ぎなかったGATTは総会、理事会、事務局という国際組織に特徴的な三部構造を備えることになり、GATTは実質的に国際組織としての機能を果たしていくことになる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1958年、アメリカ経済担当国務次官ダグラス・ディロンが5度目の多角的貿易交渉の開催を提唱した。これは1958年1月1日に欧州経済共同体(EEC)が発足し、EEC内で10パーセントの関税引き下げと20パーセントの数量制限緩和が行われることが決定され、このときEEC内の一部に当時EEC非加盟国であったイギリスなど欧州経済協力機構(OEEC)にまで貿易自由化を拡大すべきとする考え方があったのに対して、そのような対米貿易格差は許容できず貿易自由化はGATTの枠内で進められるべきと主張しアメリカが反発する立場をとったためである。このような背景から1960年9月1日からスイスのジュネーヴで開催された多角的貿易交渉は、ダグラス・ディロンの名を冠してディロン・ラウンドと呼ばれる。このディロン・ラウンド以降、多角的貿易交渉は交渉の開催を提唱した人や提唱がされた地名にちなんで「XXXXラウンド」と呼ばれるようになる。ディロン・ラウンドでは、特にEEC加盟諸国が個別に定めていた関税率をEEC加盟国で共通域外関税に移行するかどうか、EEC加盟国間で共通農業政策を導入するか、などが主な議題として取り上げられた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1962年10月、アメリカで既存の関税を50パーセント削減するための交渉権限と、アメリカと欧州経済共同体(EEC)が世界全体の80パーセント以上を占める品目の関税を削減または廃止するための交渉権限を、議会から大統領に授権することを定めた1962年通商拡大法が制定された。このときアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディにちなみ、1964年5月4日からジュネーヴで開催された多角的貿易交渉はケネディ・ラウンドと呼ばれる。このケネディ・ラウンドでは、二国間交渉の成果を最恵国待遇原則に基づきGATT全加盟国に適用するというそれまでの交渉方式を改め、GATT全加盟国が関税譲許表を示しそれらを一括で検討するという一括交渉方式が採用された。それまでの二国間方式では各国が自国への不利益を避けるために効果を縮小化しようとする傾向があり、これを避けるためこのような交渉方式の変更がなされた。このようにして行われた関税引き下げ交渉では、工業製品に付加される関税を平均で35パーセント以上引き下げることに成功した。これはディロン・ラウンドの約8倍にも相当する成果であった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1973年9月にGATT閣僚会議が東京が行われ、このとき採択された「東京宣言」に従い7回目の多角的貿易交渉決定され、1973年9月から1979年11月までジュネーヴで東京ラウンドが開催された。交渉参加国が増加したことから合意を早めるためにアメリカ、EC、日本、カナダが合意した内容をGATT全締約国がコンセンサスにより承認する方式が慣行的に取り入れられるようになった。東京ラウンドでは、補助金、製品の規格などといった貿易の技術的障害、輸入許可手続きといった関税以外の貿易障壁について規律する協定が締結された。また東京ラウンドでもケネディ・ラウンドと同じように関税引き下げ交渉は一括交渉方式がとられたが、ECが既存の関税率が高い国と低い国に同率の関税引き下げを求めるべきではないと主張したため、以下のように交渉開始前の関税率を国ごとに反映した関税引き下げが行われた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "z = a x a + x {\\displaystyle z={\\frac {ax}{a+x}}} z:引き下げ後の関税率、x:既存税率、a:国別定数(例:ECは16、アメリカ・日本は14)", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ケネディ・ラウンドと同様に東京ラウンドでも工業製品の関税引き下げについては大きな成果を上げたが、農産品貿易の自由化交渉については成果を上げることができなかった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1986年9月15日から20日にかけてウルグアイのプンタ・デル・エステで行われたGATT閣僚会議において、増加するサービスの貿易や知的所有権の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "そのため、それまでの7回の多角的貿易交渉では、関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドでは、サービスや知的所有権など、それまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また非関税障壁についても交渉されるなど、市場開放のあり方についてより広く交渉が行われた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "その結果、ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりも遥かに長い8年もの歳月を要することとなった。また、このようにGATT締約国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の貿易摩擦問題が多発していた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "これをきっかけにして、GATT規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、GATTは次第に形骸化・後退していくことになる。例えばアメリカ合衆国は、1984年に大統領のファスト・トラック権限をGATTの多国間交渉から二国間自由貿易協定交渉まで広げる通商関税法を制定し、これに基づき、アメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には第二次オイルショックの影響から、世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや、GATTが規律対象としていたモノ(財)貿易には該当しないサービスや直接投資の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ、それまで国際貿易システムを支えてきたGATTシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "こうした流れは、暫定的なGATT体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカ合衆国の1974年通商法第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "全ての交渉テーマについて、ようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた。GATTは一部改正され1994年のGATTとしてWTO協定の附属書1Aに組み込まれた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のGATTと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと国際貿易機関が設立されるまでの暫定的な組織であったGATTを引き継ぐ国際組織として、世界貿易機関が設立されたのである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ウルグアイラウンドの結果、WTOが1995年1月1日に発足し、GATTはWTOへ移行することになった。しかしWTOの発足時点でWTO協定を受諾した国は76カ国及びEUにとどまり、1947年のGATTの加盟国の128の約6割にとどまっていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1947年のGATTはそのままの内容でWTO協定の一部となったが、法的には1947年のGATTは、1994年のGATTとは別個のものであるため、WTOに加盟をしていない1947年のGATTの締約国との関係を維持するために、WTOに加盟した国も1947年のGATTに暫時留まる必要があった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかしまたWTO発足後、旧体制である1947年のGATTがいつまでも存在することは好ましくないとの認識は各国の共有するところであった。そのため1994年12月8日の1947年のGATTの締約国団・WTO準備委員会は、1947年のGATTをWTO発足後1年、すなわち1996年1月1日に終了させる決定をした。この決定は、予期せざる自体が発生した場合、終了の日を1年以内の期間で延長することができる規定を含んでいたが、1995年12月12日の1947年のGATTの締約国団による第51回GATT総会は延長を行わず、1994年の決定どおり1996年1月1日に終了させることとした。こうして1947年のGATTは、WTO発足後1年で法的に消滅した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また東京ラウンド諸協定についても、WTO協定附属書1Aに新たに含まれたものと東京ラウンド当時のものが並存していたが、これらの協定についても各協定の委員会で1996年1月1日に終了することが決定された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東京ラウンド諸協定のうち、WYO附属書4となる、民間航空機貿易に関する協定及び 政府調達に関する協定については、別途の扱いとなった。民間航空機貿易に関する協定は、改正交渉が妥結しなかったため、東京ラウンドで作成された協定がそのままWTO協定附属書4に添付された扱いになった。政府調達に関する協定については、新協定が1996年1月1日に発効することにより東京ラウンドにおける協定の適用が終了した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "WTOと1947年のGATT及び東京ラウンド諸協定が並存する場合の法的問題(例えば、農業の関税化に伴う関税の引き上げをWTOにまだ加盟していない1947年のGATTの加盟国に適用可能か)については、1994年12月8日の1947年のGATTの締約国団・WTO準備委員会の決定(さらに東京ラウンド諸協定についてはその後の各協定の委員会の決定)で、", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "として法的問題を解決した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1947年のGATTは、前述のように明白な規定のないまま実態的に存在していた。主な機関は次のようである。", "title": "GATTの機関" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "WTOもそうであるが組織規定のある場合、全締約国の代表からなる総会が置かれるが、1947年のGATTの場合、共同行動する締約国である締約国団のみが法的存在でありその会合が通常の機関の総会となる。第1回の総会は、第25条2の規定に基づき1948年2月28日から3月23日までハバナで開催され、以後定期総会(基本的に年1回)と特別総会が開催され、またこれとは別に閣僚レベルの会合も開催された。", "title": "GATTの機関" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "設立の当初は、GATTは総会を中心に運営されていたが、ITOの発足が望めないことが明白になり増加する諸問題に対処するため、1962年10月の第6回総会において”ad hoc Committee for Agenda and International Business\"が設置された。これは1953年3月の第9回総会で17名からなる会期間委員会(Intercessional Committee)に改組されたが依然として総会が最終決定するため運営の遅延が解消されなかった。そのため1960年6月4日の第16回総会において理事会設置の決定がされ会期間委員会は廃止された。理事会は、他の国際機関によくあるような、加盟国から選出(あるいは特定国が予め指定)されて理事会のメンバーになるのではなく、「メンバーとしての責務を受諾する意思を有するすべての締約国の代表で構成」(設置決定第1項)となっており、1995年1月1日の段階でGATT締約国128のうち97カ国が理事会に参加していた。", "title": "GATTの機関" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "事務局をもたなかった1947年のGATTの締約国団は、その第2回締約国会議(1948年9月)において、GATTの締約国団とITOの中間委員会(ICITO)と取決めを結び、ITOICの書記局長はGATT締約団に必要なサービスを提供(ICITOの執行委員会は書記局長に全権を付与)するとされ、GATTの事務局長はITOICの書記局長が勤めることになった。そのため、GATTの事務局長の選任の直前に、ITCの執行委員会が開催され、ICITOの書記局長としての選出を行っていた。ただし、実質的な選任については、GATT側で行われる。1995年は、WTOと1947年のGATTが並存したため、1995年4月にWTO事務局長に選任されたレナート・ルジェロ(Renato Ruggiero)は、1947年のGATTの締約国団の事務局長を兼ねることになり、そのため1995年4月11日のITCの執行委員会でICITO書記局長としての選出されているすでに1995年3月24日の第7回特別総会で選出されているものの形式的には、ITCの執行委員会による選出が必要であった。なお、1965年3月までは書記局長 (Executive Secretary)であったが、1965年3月23日の第22回締約国会議決定により事務局長(Director-General)に改称された。ただしITOICの書記局長という立場は変更されないので、GATTの締約団の事務局長でありITOICの書記局長ということになる。", "title": "GATTの機関" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "歴代GATT事務局長", "title": "GATTの機関" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "GATTの設立目的は自由貿易の促進である。これはデヴィッド・リカードが提唱した比較優位の理論に基づくものである。つまりリカードの理論によれば、各国が他国と比較して生産効率の良い(これを比較優位という)分野での生産に特化し互いに自由貿易を行うことで、そのような貿易を行った国々がより大きな利益を得ることができるというものである。本節ではこうした考え方に基づくGATT規定の基本的原則について述べる。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「無差別」はGATTの基本的原則とされ、これには最恵国待遇という側面と、内国民待遇という側面とがある。これらはWTOの中核的なルールとしても引き継がれている。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "最恵国待遇は、貿易の相手国とその他の国とを差別せずに貿易相手国に対しそれ以外の国々に与える待遇の中で最も有利な待遇を与えるというもので、多国間条約の中でGATTは初めてこの最恵国待遇の原則を定めた(第1条第1項)。他国に最恵国待遇を与えるための条件として、その相手国に対し自国の産品に対し特定の有利な待遇を保証することを要求してはならない。1947年のGATTのとりまとめ交渉の中で、この最恵国待遇を盛り込むにあたってアメリカとイギリスの間で対立があった。1941年以降国務長官コーデル・ハルのもとで国務省を中心に貿易自由化を志し国際的貿易体制の検討を続けてきたアメリカに対し、1932年以来イギリス帝国内の植民地で適用されてきた排他的帝国特恵関税制度の存続を求めたイギリスが反発したのである。最終的に帝国特恵関税制度のような地域的特恵制度が最恵国待遇原則の例外として認められることとなり、また帝国特恵関税制度以外に一定の条件下で地域経済統合のような地域的特恵制度を新たに締結することもこの最恵国待遇に対する例外として認められた(第24条)。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "内国民待遇とは他国や他国産品を自国や自国産品と差別することなく待遇することをいい、GATTでは輸入品に対する税金や国内法令について規定した(第3条)。輸入品が輸入国の国内で輸入品と同種の国産品目より不利に扱われれば貿易自由化の妨げになるとされたのである。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "最恵国待遇は特定の国の輸入品がそれ以外の国からの同種の輸入品と差別されないことを、内国民待遇は輸入品が国内産の同種の産品と差別されないことを定める原則である。最恵国待遇・内国民待遇いずれの原則においても、同種の品目に該当するかどうかは、産品の用途、産品の性質・属性、消費者の選好、関税分類、という4つの基準に照らし判断される。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "国内産業を保護するための手段としては関税以外は認めず、この関税についても多角的貿易交渉により引き下げを目指した(#多角的貿易交渉を参照)。WTOが発足するまでこの多角的貿易交渉は8度開催され、そのたびに関税引き下げを実現してきた。これらの貿易交渉や加入時の交渉の結果の引下げ結果を具体的に定めるものが譲許表(Schedules of Concessions)である。各締約国は、他の締約国の通商に対し、この協定に附属する該当の譲許表の該当の部に定める待遇より不利でない待遇を許与するものとする(第2条第1項)と規定され、譲許表に定める率を越える関税を課すことはできない(第2条第2項)。譲許表は締約国毎に作成され、それぞれSchedules XXXVIIIのように番号(ローマ数字)を付すことになっている。譲許表は原締約国であるオーストラリアのSchedules Iから最新のWTO加盟国であるリベリアのSchedules CVXXIV(第174表)まで作成されている。なお、現在のWTO加盟国の数(164)より譲許表の数が多いのは、1947GATTを脱退した締約国の番号が欠番となること、一旦加盟交渉が終了し譲許表を作成したが、期限内に加盟議定書を受諾せず締約国にならなかった場合があること、EUが拡大の都度新しい表としている等の事情による。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "譲許表はつぎのような構成となっている。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "第2部の特恵関税率表は、GATT第1条2により最恵国待遇の例外となる特恵関税についてのものであり、オーストラリア、カナダ、セイロン、キューバ、インド、ニュージーランド、南アフリカ、英国及び米国が第2部の特恵関税率表を有していたが、現在修正撤回等により実効はない。第5部は、最近の加盟国であるロシア、ウクライナ等にある。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "GATTの締約国の加入交渉において関税交渉を行い譲許表を作成しなければいけないという直接の規定はなく、GATT第33条に基づく加入議定書に定める条件によるものである。しかし実際の加入条件のほとんどは譲許表の作成を前提にしており、加入条件に関税による譲許表の設定は不文律となっていた。しかしGATT第26条5(c)により、GATTの締約国から独立し、旧宗主国の宣言によりGATTの締約国になった場合、独立時点の宗主国の地位を継承することになっている。この場合、旧宗主国が属領のために譲許表を作成していないとその国は譲許表なしの状態となる。これらの国はその後のラウンドなどで譲許表を作成する場合もあるが、WTO発足の1995年1月1日の段階で1947年のGATTのうち41国は、譲許表を有していなかった。WTO協定第11条は、1947年のGATTの締約国にWTOの原加盟国になる資格を認めたが1994年のGATT及びGATSに譲許表を添付することを条件とした。そのためこれらの41カ国もそれぞれのWTO加盟の時点から譲許表を有することとなった。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "数量制限禁止もGATTの基本的原則のひとつである。貿易自由化を妨げるのは関税だけではなく、特定の産品を輸入することを禁じたり制限するといった輸入の数量制限措置が行われると外国産品は国内市場に参入すること自体ができなくなるという点で関税以上に貿易制限効果が高いとされ、そうした数量制限は原則として禁止されることとなった(第11条第1項)。", "title": "基本的原則" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "セーフガードとは、特定の品目輸入が急増することによって国内産業が打撃を受けることを予防するため、関税賦課や輸入数量制限といった形で行われる措置であり、GATT第19条に規定された。これは特定の国からの輸入が一時的に急増することで国内産業に被害が発生した場合に、セーフガードとして緊急避難的に一時的な輸入制限措置を発動することを認めたものである。しかしセーフガードを発動するために国内産業が被害を受けたことを立証することは容易なことではなく、また無差別原則にのっとった多角的セーフガードの発動はできても、特定の国の輸入に対してだけセーフガードを発動することは認められず。セーフガードとして関税を引き上げる場合には他の品目で同等程度の関税引き下げを行わなければならないなど一定の制約があり、GATTの規定上認められた権利であったにもかかわらず実際にセーフガードが発動された件数はそれほど多くはなかった。セーフガード発動の権利を行使するためには輸入国側が自らに貿易摩擦の原因があることを認めなければならないため、自由貿易を標榜する先進国としてはセーフガードの権利を行使することがためらわれたのである。こうした理由から、GATTの規定上は必ずしも明確に定められていない輸出自主規制のような、保護主義的な政策が横行していくことになる。これはGATT体制見直しの大きな一因となった(#ウルグアイ・ラウンド参照)。", "title": "セーフガード" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "GATTは締約国間の紛争解決に関して、締約国は他の締約国に対して紛争に関する協議を要請でいることとし(第22条)、また締約国がGATT上の利益を無効にされた場合、または侵害された場合の救済について定めた(第23条)。これらの規定に基づき紛争当事国間で解決できなかったGATT上の利益に関する国際紛争の処理は、GATT締約国団の検討に付される。第23条によれば、相手国がGATT協定に違反した場合に締約国団に申し立てることができる(違反申立て)だけでなく、相手国の協定に違反しない措置により本来であれば協定上保障されていたはずの利益が無効になっている場合にも申し立てをすることができる(無違反申立て)とされた。この無違反申立ての制度はWTOのもとに設置されたWTO紛争解決機関(英語版)にも引き継がれていく。GATTの初期においては作業部会によって紛争についての検討がなされ解決案が紛争当事国に提示されたが、後に締約国団はパネルを設置し、このパネルが理事会に紛争解決に関する報告書を提出するようになった。こうしたGATTにおける紛争解決に関する決定を得るためには、締約国団のコンセンサスを得なければならないとされていた。つまり自国にとってパネルの紛争解決が不利なものであれば、その締約国はパネルの決定に反対しパネルによる紛争解決を妨げることが可能となっていたのである。WTO紛争解決機関はこのGATT紛争解決手続きの不備を改善し、全ての締約国が一致して紛争解決に反対しない限り紛争解決手続きを進行させることができると定められた(逆コンセンサス方式)。", "title": "紛争解決" } ]
関税及び貿易に関する一般協定は、1947年10月30日にジュネーヴにおいて署名開放された条約、またはこれに基づいて事実上国際組織として活動した締約国団を指す。GATT(ガット)の略称で呼ばれる。
{{redirect|GATT|Bluetoothプロファイル|Bluetoothプロファイルの一覧#GATT}} {{条約 |題名 = 関税及び貿易に関する一般協定 |画像 = Cwr lake facade2.jpg |画像キャプション = [[スイス]]の[[ジュネーヴ]]にある旧GATT本部。現在はWTO本部。 |通称 = GATT(ガット)、1947年のGATT(改正前)、1994年のGATT(改正後)<ref name="筒井52-53">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、52-53頁。</ref> |起草 = |署名 = 1947年10月30日 |署名場所=[[ジュネーヴ]]<ref name="筒井52-53"/> |効力発生 = 1947年のGATTは、正式には発効せず1948年1月1日より暫定適用<ref name="筒井52-53"/>。1994年のGATTは、WTO協定附属書1Aの一部として1995年1月1日発効。 |締約国=128カ国(1995年) |寄託者 = [[国際連合事務総長]](第26条第3項)(1947年のGATT) |番号 = |言語 = 英語、フランス語(第26条第3項) |内容 = 関税その他の貿易障害の軽減<br />国際通商における差別待遇の廃止<br/>(前文より) |関連 = [[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定]](WTO協定) |ウィキソース = |リンク = [https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/it/page1w_000135.html 日本語訳]([[外務省]])<br/>[http://www.wto.org/english/docs_e/legal_e/gatt47_01_e.htm 英語正文]([[世界貿易機関|WTO]])<br/>[http://www.wto.org/french/docs_f/legal_f/gatt47_01_f.htm 仏語正文](WTO) }} '''関税及び貿易に関する一般協定'''(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい、{{Lang-en|General Agreement on Tariffs and Trade}}、{{Lang-fr|Accord Général sur les Tarifs Douaniers et le Commerce}})は、1947年10月30日に[[ジュネーヴ]]において署名開放された[[条約]]、またはこれに基づいて事実上[[国際組織]]として活動した締約国団を指す<ref name="筒井52-53"/><ref name="中川12-15">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、12-15頁。</ref>。'''GATT'''(ガット)の略称で呼ばれる<ref name="筒井52-53"/>。 ==概要== 1995年に、GATTの規定を事実上吸収した[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定|WTO協定]]が発効する時点で128カ国が締約国(Contracting Party)であったが{{efn|name="GATT members"|{{cite web|title=GATT members|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/gattmem_e.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-10-14}}}}{{efn|一旦締約国となったが脱退した国(中華民国、レバノン、シリア、リベリア)、国家消滅により締約国でなくなった国(チェコスロバキア。なおチェコとスロバキアが締約国になった。)は128にははいっていない。}}、正式には発効せず、暫定適用議定書(当初の加盟国について)及び加入議定書(発足の後の加盟国について)に基づいて適用され続けた<ref name="筒井52-53"/>。 この、1947年に署名開放されたGATTを[[条約の改正|改正]]した[[1994年の関税及び貿易に関する一般協定]]は、WTO協定と不可分の一部とされているが(WTO協定第2条第2項)、1947年のGATTと、WTO協定や1994年のGATTとは、別個の条約である(WTO協定第2条第4項)<ref name="筒井52-53"/>。 改正前のGATTのことを「'''1947年のGATT'''」、改正後のGATTのことを「'''1994年のGATT'''」と言い、区別される<ref name="筒井52-53"/>。 == 沿革 == === 経緯 === {{bar box |float=right |title=GATT締約国数の推移{{efn|name="GATT members"|}}<ref name="Members and Observers">{{cite web|title=Members and Observers|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/whatis_e/tif_e/org6_e.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-10-20}}</ref> |left1=年代 |right1=締約国数 |width=400px |bars= {{bar pixel|1948-1949|blue|19||19}} {{bar pixel|1950-1959|blue|36||36}} {{bar pixel|1960-1969|blue|75||75}} {{bar pixel|1970-1979|blue|84||84}} {{bar pixel|1980-1989|blue|95||95}} {{bar pixel|1990-1994|blue|128||128}} {{bar pixel|WTO加盟国(2019年現在)|blue|164||164}} |caption= }} 今日の[[世界貿易機関|WTO]]体制は、[[アメリカ合衆国]]が1934年に制定した[[互恵通商協定法]]に基づき、諸外国と二国間通商協定を締結していったことに歴史的起源をもつ<ref name="小寺384-385">[[#小寺(2006)|小寺(2006)]]、385-386頁。</ref>。アメリカは協定の締結に基づき交渉によって相手国と互いに[[関税]]を引き下げ合い、協定の無条件[[最恵国待遇]]条項によって通商の自由化を推し進めたのである<ref name="小寺384-385"/>。 [[第二次世界大戦]]後の1948年3月24日、[[1930年代]]の[[世界恐慌]]や[[ブロック経済]]が諸国の経済的対立を激化させ、これが第二次世界大戦発生の一因にもなったとの反省から、1944年の[[ブレトン・ウッズ会議]]で設立された[[国際通貨基金]](IMF)や[[国際復興開発銀行]](IBRD、世界銀行)と並ぶ戦後の国際経済組織の支柱として、[[国際貿易機関]](ITO)を設立するための国際貿易機関憲章(通称[[シャーマン法#ウェッブ・ポメリン法|ハバナ憲章]])が採択され、53カ国が署名した<ref name="荒木24">[[#荒木(2011)|荒木(2011)]]、24頁。</ref><ref name="筒井120-121">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、120-121頁。</ref>。 本来GATTはハバナ憲章に従属するものとして作成されたものであり、1947年10月30日に、[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]にて採択された<ref name="筒井52-53"/>。ハバナ憲章の一部は後にGATTに取り入れられ実施されていくことになった<ref name="筒井120-121"/>。しかしGATTは、効力発生の要件としてGATTを批准した国家貿易額が、GATT加盟国の貿易額の85パーセントを超えることを正式な発効要件としていたため{{efn|この85パーセントの要件が1994年に満たされたとの文献<ref name="若杉220">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、220頁。</ref>があるが、すでにWTOの発足が決まった1994年に1947年のGATTを正式に受諾することはありえないのでこの文献はWTO協定が1994年のGATTを含むことと混同していると思われる。}}、この効力発生要件を満たす見込みがなかった<ref name="若杉220"/>。またアメリカの互恵通商協定法が1948年に失効するなどといった事情から、アメリカ合衆国を含む多くの国々がハバナ憲章の批准を見送ったため、GATTだけを先に成立させる必要が生じた<ref name="筒井52-53"/>。 そのため、特に[[アメリカ合衆国議会]]の審議を受けることを避ける目的で「暫定適用議定書」を作成し、GATTを正式には発効させないまま1948年1月1日から「暫定適用議定書」に基づくGATTの暫定適用が始まった<ref name="筒井52-53"/>。「暫定適用議定書」もまたGATTとは別個の法的拘束力を有する[[条約]]であり、GATTは同議定書を通じて実質的に各国に対する拘束力をもつものとなったが、この議定書には「現行の法令に反しない最大限度において」のみGATT第2部の規定が適用される(GATT第1部及び第3部についてはこのような限定はなく全面的に適用される)旨を定めた条項(通称「祖父条項」)が含まれていたほか<ref name="筒井226">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、226頁。</ref>、このようにして成立したGATT体制においては各国は関税譲許率のみを約束するのみとされ<ref name="奥脇71">[[#奥脇(2006)|奥脇(2006)]]、71頁。</ref>、またGATT第25条第5項には締約国団の承認により義務の免除を行うことができる規定{{efn|この条項に基づき、アメリカの農産物13品目を貿易自由化の義務対象外とした。}}、いわゆる[[ウェーバー条項]]と呼ばれる条項がおかれた<ref name="奥脇71"/><ref name="古内28">[[#古内(2011)|古内(2011)]]、28頁。</ref>。これらに加えて各国のGATT規定上の義務違反も頻発し、大きな制約を受けることになったGATTの規律は極めて弱いものとならざるを得なかった<ref name="筒井52-53"/><ref name="奥脇71"/>。 このようにして適用が開始されたGATTは、雇用問題、労働基準、開発、国際投資ルール、国際カルテルや制限的商慣行といった[[競争法]]上の幅広い分野について規定していたハバナ憲章から、貿易関連規定だけを抜き出したものとなった<ref name="荒木24"/>。ハバナ憲章の一部を暫定的に適用する形で開始された戦後のGATTは、その後約50年間にわたり世界の多角的貿易体制を支えていくことになる<ref name="荒木24"/>。 === 多角的貿易交渉 === GATTは、国内の産業保護の手段として[[関税]]のみを認めていたが、GATT締約国はその関税引き下げのためには二国間で交渉するよりも多数国間で交渉するほうが効率的であるとして、多角的貿易交渉を行い関税水準を引き下げてきた<ref name="筒井231-232">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、231-232頁。</ref>。 これは1947年のGATTを一部改正した、1994年のGATTを含む[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定|WTO協定]]が発効した後も継続されている<ref name="筒井231-232"/>。第1回から[[ディロン・ラウンド]]までの計五回にわたる交渉では、関税の引き下げについて交渉が行われたが、[[ケネディ・ラウンド]]では関税引き下げのみではなく、[[非関税障壁]]であるアンチ[[不当廉売|ダンピング]]問題についても検討された<ref name="浦田39">[[#浦田(2001)|浦田(2001)]]、39頁。</ref>。[[東京ラウンド]]では、ダンピング防止や政府調達のような非関税障壁の問題に加えて、発展途上国が関心を持っていた[[熱帯]]産品に関する交渉が開始された<ref name="浦田39"/>。 1986年から1994年に行われた、[[ウルグアイ・ラウンド]]では[[世界貿易機関]]の発足が決定され、本来[[国際貿易機関]]発足までの暫定的な体制であった筈のGATTが、実質的に[[国際組織]]として活動している異常な状況を解消した<ref name="筒井210-211">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、210-211頁。</ref>。GATT体制下で行われた8回の多角的貿易交渉を通じて、先進諸国の平均関税率はGATT以前の4パーセントにまで低下した<ref name="浦田39"/>。 ==== 第1-4回 ==== {| class="wikitable" style="float:right; line-height:1.4em; margin:0px 0px 3px 7px;" |+ これまでの多角的貿易交渉<ref name="ドーハ・ラウンドとは"/><ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh">{{cite web|title=The GATT years: from Havana to Marrakesh|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/whatis_e/tif_e/fact4_e.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-10-14}}</ref><ref name="The Doha agenda">{{cite web|title=The Doha agenda|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/whatis_e/tif_e/doha1_e.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-10-14}}</ref><ref name="若杉221">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、221頁。</ref><ref name="Kehoe">{{Cite journal|author=Kehoe, William J.|year=2004|title=International agencies (Services)|url=http://www.freepatentsonline.com/article/Journal-International-Business-Research/166850551.html|journal=Journal of International Business Research|volume=3|number=1|publisher=The DreamCatchers Group, LLC|issn=1544-0222}}</ref> ! !! 期間 !! style="line-height:1.25em;" | 参加<br />国数 !! style="line-height:1.25em;" | 関税引き下げ<br />対象品目数 |- | 第1回 ([[ジュネーヴ]]) || 1947 || style="text-align:right;" | 23 || style="text-align:right;" | 45,000 |- | 第2回 ([[アヌシー]]) || 1949 || style="text-align:right;" | 13 || style="text-align:right;" | 5,000 |- | 第3回 ([[トーキー (イングランド)|トーキー]]) || 1950-1951 || style="text-align:right;" | 38 || style="text-align:right;" | 8,700 |- | 第4回 (ジュネーヴ) || 1956 || style="text-align:right;" | 26 || style="text-align:right;" | 3,000 |- | [[ディロン・ラウンド]] || 1960-1961 || style="text-align:right;" | 26 || style="text-align:right;" | 4,400 |- | [[ケネディ・ラウンド]] || 1964-1967 || style="text-align:right;" | 62 || style="text-align:right;" | 30,300 |- | [[東京ラウンド]] || 1973-1979 || style="text-align:right;" | 102 || style="text-align:right;" | 33,000 |- | style="white-space:nowrap;" | [[ウルグアイ・ラウンド]] || 1986-1994 || style="text-align:right;" | 123{{efn|ウルグアイ・ラウンドの交渉終了時点のGATT締約国の数。GATT文書MTM/TNC/44。GATT文書MTM.TNC/MIN(94)/INF/1では125としている。これは、GATTの締約国でないECとアルジェリアを含むためである。アルジェリアは1987年から加盟交渉中であり、ウルグアイラウンドの最終議定書に署名もしたが1994年のGATTの締約国にならす、WTOについても加盟交渉中である。}} || style="text-align:right;" | 305,000 |- | colspan="4" style="background-color:#e6e6e6;" | '''WTO発足(1995年)''' |- | [[ドーハラウンド]] ||2001- || style="text-align:right;" | 164{{efn|すべてのWTO加盟国が交渉に参加している。}} || 交渉中 |} 最初の多角的貿易交渉は1947年の4月から10月、1948年の2月から3月、同年8月から9月の3回にわけて、[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]にて行われた<ref name="Kehoe"/>。23カ国が交渉に参加し1947年10月30日にはGATTの署名がなされ<ref name="筒井52-53"/>、またこのときには[[国際貿易機関]]設立に向けた交渉がなされたほか<ref name="Kehoe"/>、45,000品目の関税引き下げについて合意に至った<ref name="若杉221"/>。こうして行われた関税引き下げによって100億ドルの貿易に影響を及ぼしたといわれる<ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/><ref name="Kehoe"/>。1947年11月21日、国際貿易機関を設立するための本格的な交渉が[[キューバ]]の[[ハバナ]]で開始され、1948年3月には国際貿易機関憲章(ハバナ憲章)の採択に至ったが前記のとおり([[#経緯]]参照)国際貿易機関が設立されることはなかった<ref name="筒井52-53"/>。そのかわりに1948年1月1日には、後にハバナ憲章の一部として採択される予定であったGATTの適用を暫定的に開始することを定めた「暫定適用議定書」の適用が23カ国の間で開始され、これにより様々な制約つきではあったがGATTの適用が開始されることとなった<ref name="筒井52-53"/><ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/>。 第2回多角的貿易交渉は1949年4月から8月にかけて[[フランス]]の[[アヌシー]]で行われ<ref name="Kehoe"/>、13カ国が参加した<ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/>(アヌシー・ラウンド)。主な議題は関税の引き下げであり、5,000品目の関税引き下げについて合意されたほか<ref name="若杉221"/>、さらに10カ国の参加が決定した<ref name="Kehoe"/>。しかしこの会期中にアメリカがハバナ憲章を批准しないことを宣言し、そのためこのとき国際貿易機関の設立が不可能であることが決定的となった<ref name="Kehoe"/>。 第3回多角的貿易交渉は1950年9月から翌年4月まで[[イギリス]]の[[トーキー (イングランド)|トーキー]]で、38カ国の参加によって行われた<ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/><ref name="Kehoe"/>(トーキー・ラウンド)。このときには8,700品目が関税引き下げの対象となった<ref name="若杉221"/>。 第4回多角的貿易交渉は第1回と同じジュネーヴで1956年1月から5月にかけて行われ、26カ国が交渉に参加した<ref name="Kehoe"/>(ジュネーブ・ラウンド)。3,000品目の関税引き下げが決定された<ref name="若杉221"/>。 既に述べたようにGATTはITOの設立を予定したものであったため組織に関する規定が不足{{efn|若杉(2009)p156-157では、GATTの当初の案から最終案までの変遷を分析して、GATTが機構であることを意味する可能性のある規定が、最終案では、削除され、意図的に組織規定を含まないこととなったことを指摘している。}}しており、これを解消するため1955年に貿易協力機構を設立してGATTに組織的な基盤を設けようとしたが、やはりこれもアメリカが受諾しなかったため{{efn|発効要件として、受諾国の対外貿易額が、世界全体の対外貿易額に占める割合の85パーセントを越えること(協定第17条(c))となっており、アメリカの比率が20パーセントを越しているため、アメリカの受諾が必須であった。}}に成立することはなかった<ref name="筒井52-53"/>。GATTに唯一規定されていた組織はGATT全締約国からなる「締約国団」(CONTRACTING PARTIES<ref>複数形かつ大文字で表記する。</ref>)のみであり、次第にこの「締約国団」の会合が通常の国際組織で言うところの[[総会]]としての役割を事実上果たしていくことになる<ref name="筒井52-53"/>。1960年6月4日に「締約国団」が理事会の設置を決議<ref>津久井(1997) p710</ref><ref>BISD 9S/8</ref>し、また本来ITOを設立するための準備的機関であったITO中間委員会の書記局長が、1948年9月のGATTの締約国団とITO中間委員会との取決め<ref>津久井(1997) p712</ref>により、事実上の[[事務局]]となった<ref name="筒井52-53"/>。こうして本来ハバナ憲章の一部にしか過ぎなかったGATTは総会、理事会、事務局という[[国際組織]]に特徴的な三部構造を備えることになり、GATTは実質的に国際組織としての機能を果たしていくことになる<ref name="筒井52-53"/>。 ==== ディロン・ラウンド ==== {{see also|ディロン・ラウンド}} 1958年、[[アメリカ合衆国国務次官(経済・実業・農業担当)|アメリカ経済担当国務次官]][[C・ダグラス・ディロン|ダグラス・ディロン]]が5度目の多角的貿易交渉の開催を提唱した<ref name="益田(2008)53-54">[[#益田(2008)|益田(2008)]]、53-54頁。</ref><ref name="益田(2010)70-71">[[#益田(2010)|益田(2010)]]、70-71頁。</ref>。これは1958年1月1日に[[欧州経済共同体]](EEC)が発足し<ref name="筒井25-30">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、25-30頁。</ref>、EEC内で10パーセントの関税引き下げと20パーセントの数量制限緩和が行われることが決定され、このときEEC内の一部に当時EEC非加盟国であった[[イギリス]]など[[欧州経済協力機構]](OEEC)にまで貿易自由化を拡大すべきとする考え方があったのに対して、そのような対米貿易格差は許容できず貿易自由化はGATTの枠内で進められるべきと主張し[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が反発する立場をとったためである<ref name="益田(2010)70-71"/>。このような背景から1960年9月1日から[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]で開催された多角的貿易交渉は、ダグラス・ディロンの名を冠して[[ディロン・ラウンド]]と呼ばれる<ref name="slide7">{{Cite web|title=Slideshow Slide 7 The Dillon Round, Geneva, 1960-61|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/minist_e/min98_e/slide_e/slide008.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-12-3}}</ref>。このディロン・ラウンド以降、多角的貿易交渉は交渉の開催を提唱した人や提唱がされた地名にちなんで「XXXXラウンド」と呼ばれるようになる<ref name="筒井231-232"/><ref name="ドーハ・ラウンドとは">{{Cite web|和書|title=ドーハ・ラウンドとは|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11094748/www.meti.go.jp/policy/trade_policy/wto/1_doha/Doha_Round.html|publisher=[[経済産業省]] 国立国会図書館アーカイブ|accessdate=2013-10-14}}</ref>{{efn|英語では"Geneva Round"、"Annecy Round"、"Torquay Round"と、第1回交渉から"Round"を付して呼ばれることがある<ref name="Kehoe"/>。}}。ディロン・ラウンドでは、特にEEC加盟諸国が個別に定めていた関税率をEEC加盟国で共通域外関税に移行するかどうか、EEC加盟国間で[[共通農業政策]]を導入するか、などが主な議題として取り上げられた<ref name="益田(2008)53-54"/>。 ==== ケネディ・ラウンド ==== {{see also|ケネディ・ラウンド}} 1962年10月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で既存の関税を50パーセント削減するための交渉権限と、アメリカと[[欧州経済共同体]](EEC)が世界全体の80パーセント以上を占める品目の関税を削減または廃止するための交渉権限を、[[アメリカ合衆国議会|議会]]から[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に授権することを定めた[[1962年通商拡大法]]が制定された<ref name="富田102-104">[[#富田(2010)|富田(2010)]]、102-104頁。</ref>。このときアメリカ大統領であった[[ジョン・F・ケネディ]]にちなみ、1964年5月4日から[[ジュネーヴ]]で開催された多角的貿易交渉は[[ケネディ・ラウンド]]と呼ばれる<ref name="slide8">{{Cite web|title=Slideshow Slide 8 The Kennedy Round, Geneva, 1964-1967|url=http://www.wto.org/english/thewto_e/minist_e/min98_e/slide_e/slide009.htm|publisher=[[世界貿易機関|WTO]]|accessdate=2013-12-3}}</ref>。このケネディ・ラウンドでは、二国間交渉の成果を[[最恵国待遇]]原則に基づきGATT全加盟国に適用するというそれまでの交渉方式を改め、GATT全加盟国が関税譲許表を示しそれらを一括で検討するという一括交渉方式が採用された<ref name="島野42">[[#島野(1969)|島野(1969)]]、42頁。</ref><ref name="山本1-2">[[#山本(2003)|山本(2003)]]、1-2頁。</ref>。それまでの二国間方式では各国が自国への不利益を避けるために効果を縮小化しようとする傾向があり、これを避けるためこのような交渉方式の変更がなされた<ref name="島野42"/>。このようにして行われた関税引き下げ交渉では、工業製品に付加される関税を平均で35パーセント以上引き下げることに成功した<ref name="富田102-104"/>。これはディロン・ラウンドの約8倍にも相当する成果であった<ref name="富田102-104"/>。 ==== 東京ラウンド ==== {{see also|東京ラウンド}} 1973年9月にGATT閣僚会議が東京が行われ、このとき採択された「東京宣言」に従い7回目の多角的貿易交渉決定され<ref name="財金月報1">[[#「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」|「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」]]、1頁。</ref>、1973年9月から1979年11月までジュネーヴで[[東京ラウンド]]が開催された<ref name="Kehoe"/><ref name="The GATT years: from Havana to Marrakesh"/>。交渉参加国が増加したことから合意を早めるためにアメリカ、EC、日本、カナダが合意した内容をGATT全締約国がコンセンサスにより承認する方式が慣行的に取り入れられるようになった<ref name="中川19-20"/>。東京ラウンドでは、[[補助金]]、製品の[[規格]]などといった貿易の技術的障害、輸入許可手続きといった関税以外の貿易障壁について規律する協定が締結された<ref name="中川19-20">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、19-20頁。</ref>。また東京ラウンドでもケネディ・ラウンドと同じように関税引き下げ交渉は一括交渉方式がとられたが、[[欧州共同体|EC]]が既存の関税率が高い国と低い国に同率の関税引き下げを求めるべきではないと主張したため、以下のように交渉開始前の関税率を国ごとに反映した関税引き下げが行われた<ref name="中川19-20"/><ref name="財金月報2">[[#「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」|「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」]]、2頁。</ref>。 <math>z=\frac{ax}{a+x}</math>   z:引き下げ後の関税率、x:既存税率、a:国別定数(例:ECは16、アメリカ・日本は14) ケネディ・ラウンドと同様に東京ラウンドでも工業製品の関税引き下げについては大きな成果を上げたが、農産品貿易の自由化交渉については成果を上げることができなかった<ref name="中川20-21">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、20-21頁。</ref>。 ==== ウルグアイ・ラウンド ==== {{see also|ウルグアイ・ラウンド}} [[File:Marrakesh Agreement April 1994 (9308758258).jpg|300px|thumb|1994年のWTO協定署名の様子。[[マラケシュ]]にて。]] 1986年9月15日から20日にかけて[[ウルグアイ]]の[[プンタ・デル・エステ]]で行われたGATT閣僚会議において、増加する[[サービス]]の貿易や[[知的所有権]]の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された<ref name="奥573-574">[[#奥(1995)|奥(1995)]]、573-574頁。</ref>。 そのため、それまでの7回の多角的貿易交渉では、関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドでは、サービスや知的所有権など、それまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また[[非関税障壁]]についても交渉されるなど、[[市場開放]]のあり方についてより広く交渉が行われた<ref name="奥575">[[#奥(1995)|奥(1995)]]、575頁。</ref>。 その結果、ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりも遥かに長い8年もの歳月を要することとなった<ref name="中川25-26">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、25-26頁。</ref>。また、このようにGATT締約国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の[[貿易摩擦]]問題が多発していた<ref name="若杉221-223">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、221-223</ref>。 これをきっかけにして、GATT規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、GATTは次第に形骸化・後退していくことになる<ref name="若杉221-223"/>。例えばアメリカ合衆国は、1984年に[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[ファスト・トラック権限]]をGATTの多国間交渉から二国間[[自由貿易協定]]交渉まで広げる通商関税法を制定し<ref name="荒木25">[[#荒木(2011)|荒木(2011)]]、25頁。</ref><ref name="滝井30-31">[[#滝井(2007)|滝井(2007)]]、30-31頁。</ref>、これに基づき、アメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された<ref name="荒木25"/>。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える<ref name="荒木25"/>。 こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には[[第二次オイルショック]]の影響から、世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや<ref name="浦田39"/><ref name="荒木25"/><ref name="若杉223-225">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、223-225頁。</ref>、GATTが規律対象としていたモノ([[財]])貿易には該当しない[[サービス]]や[[直接投資]]の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ<ref name="浦田39"/>、それまで国際貿易システムを支えてきたGATTシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである<ref name="若杉223-225"/>。 こうした流れは、暫定的なGATT体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく<ref name="荒木25"/>。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカ合衆国の[[1974年通商法]]第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった<ref name="荒木25"/>。 全ての交渉テーマについて、ようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた<ref name="中川26-28">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、26-28頁。</ref>。GATTは一部改正され1994年のGATTとして[[世界貿易機関を設立するマラケシュ協定|WTO協定]]の附属書1Aに組み込まれた<ref name="小寺386-387">[[#小寺(2006)|小寺(2006)]]、386-387頁。</ref>。 WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のGATTと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった<ref name="筒井52-53"/>。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと[[国際貿易機関]]が設立されるまでの暫定的な組織であったGATTを引き継ぐ国際組織として、[[世界貿易機関]]が設立されたのである<ref name="中川30">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、30頁。</ref>。 ==== WTOの発足と1947年のGATTの終焉==== ウルグアイラウンドの結果、WTOが1995年1月1日に発足し、GATTはWTOへ移行することになった。しかしWTOの発足時点でWTO協定を受諾した国は76カ国及びEUにとどまり、1947年のGATTの加盟国{{efn|EUはそれ自体では1947年のGATTに加盟していなかった。}}の128の約6割にとどまっていた。 1947年のGATTはそのままの内容でWTO協定の一部となったが、法的には1947年のGATTは、1994年のGATTとは別個のものであるため、WTOに加盟をしていない1947年のGATTの締約国との関係を維持するために、WTOに加盟した国も1947年のGATTに暫時留まる必要があった。 しかしまたWTO発足後、旧体制である1947年のGATTがいつまでも存在することは好ましくないとの認識は各国の共有するところであった。そのため1994年12月8日の1947年のGATTの締約国団・WTO準備委員会は、1947年のGATTをWTO発足後1年、すなわち1996年1月1日に終了させる決定をした<ref>WTO文書 PC/12</ref>。この決定は、予期せざる自体が発生した場合、終了の日を1年以内の期間で延長することができる規定を含んでいたが、1995年12月12日の1947年のGATTの締約国団による第51回GATT総会は延長を行わず、1994年の決定どおり1996年1月1日に終了させることとした<ref>1995年12月28日外務省告示第683号</ref>。こうして1947年のGATTは、WTO発足後1年で法的に消滅した。 また東京ラウンド諸協定についても、WTO協定附属書1Aに新たに含まれたものと東京ラウンド当時のものが並存していたが、これらの協定についても各協定の委員会で1996年1月1日に終了することが決定された<ref>関税及び貿易に関する一般協定第6条の実施に関する協定(アンチダンピング協定) 1994年12月8日の決定。GATT文書ADP/132 1995年12月28日外務省告示第678号</ref><ref>関税及び貿易に関する一般協定第6条、第16条及び第23条の実施に関する協定(補助金相殺措置協定) 1994年12月8日の決定。GATT文書SCM/186 1995年12月28日外務省告示第679号</ref><ref>関税及び貿易に関する一般協定第7条の実施に関する協定(関税評価協定) 1995年12月24日の決定。GATT文書VAL/57 1995年12月28日外務省告示第680号</ref><ref>貿易の技術的障害に関する協定(TBT協定)1995年12月20日の決定。GATT文書TBT/40 1995年12月28日外務省告示第681号</ref><ref>輸入許可手続に関する協定(ライセンス協定)1995年10月12日の決定。GATT文書LIC/25 1995年12月28日外務省告示第682号</ref>。 東京ラウンド諸協定のうち、WYO附属書4となる、[[民間航空機貿易に関する協定]]及び [[政府調達に関する協定]]については、別途の扱いとなった。[[民間航空機貿易に関する協定]]は、改正交渉が妥結しなかったため、東京ラウンドで作成された協定がそのままWTO協定附属書4に添付された扱いになった。[[政府調達に関する協定]]については、新協定が1996年1月1日に発効することにより東京ラウンドにおける協定の適用が終了した。 WTOと1947年のGATT及び東京ラウンド諸協定が並存する場合の法的問題(例えば、農業の関税化に伴う関税の引き上げをWTOにまだ加盟していない1947年のGATTの加盟国に適用可能か)については、1994年12月8日の1947年のGATTの締約国団・WTO準備委員会の決定<ref>WTO文書 PC/11、PC/12、PC/13、PC/14</ref>(さらに東京ラウンド諸協定についてはその後の各協定の委員会の決定)で、 # WTOの加盟国は、1947年のGATTに合致していない措置であってもWTO協定上の措置を採用できる。 # WTO協定の加盟国は、1947年のGATTにのみ留まる国に対してウルグアイラウンドの成果を適用しないことができる。 # WTO協定加盟国にたいする紛争案件については1947年のGATTの規定を適用せず、WTOに一本化する。 として法的問題を解決した。 == GATTの機関 == 1947年のGATTは、前述のように明白な規定のないまま実態的に存在していた。主な機関は次のようである。 === 総会 === WTOもそうであるが組織規定のある場合、全締約国の代表からなる総会が置かれるが、1947年のGATTの場合、共同行動する締約国である締約国団のみが法的存在でありその会合が通常の機関の総会となる。第1回の総会は、第25条2の規定<ref>国際連合事務総長は、締約国団の第1回会合を招集するように要請される。その会合は、1948年3月1日以前に行うものとする。</ref>に基づき1948年2月28日から3月23日までハバナで開催<ref>津久井(1997) p695-696</ref>され、以後定期総会(基本的に年1回){{efn|最後の総会は1995年12月12日の第55回総会である。GATT文書W.51}}と特別総会{{efn|最後の特別総会は、1995年3月24日の第7回特別総会である。GATT文書7SS/SR/1}}が開催され、またこれとは別に閣僚レベルの会合も開催された。 === 理事会 === 設立の当初は、GATTは総会を中心に運営されていたが、ITOの発足が望めないことが明白になり増加する諸問題に対処するため、1962年10月の第6回総会において”ad hoc Committee for Agenda and International Business"が設置された。これは1953年3月の第9回総会で17名からなる会期間委員会(Intercessional Committee)に改組されたが依然として総会が最終決定するため運営の遅延が解消されなかった。そのため1960年6月4日の第16回総会において理事会設置の決定<ref>GATT文書BISD 9S/8</ref>がされ会期間委員会は廃止された<ref>{{cite news|title = GATT Analytical Index Institutions and procedure p1100-1110|url =https://www.wto.org/english/res_e/booksp_e/gatt_ai_e/appendix_e.pdf|publisher = World Trade Organization|date = | accessdate = 2019-3-8}}</ref><ref>津久井(1997) p711</ref>。理事会は、他の国際機関によくあるような、加盟国から選出(あるいは特定国が予め指定)されて理事会のメンバーになるのではなく、「メンバーとしての責務を受諾する意思を有するすべての締約国の代表で構成」(設置決定第1項)となっており、1995年1月1日の段階でGATT締約国128のうち97カ国<ref>{{cite news|title = GATT Analytical Index APPENDIX p1137|url =https://www.wto.org/english/res_e/booksp_e/gatt_ai_e/appendix_e.pdf|publisher = World Trade Organization|date = | accessdate = 2019-3-8}}</ref>が理事会に参加していた。 === 事務局 === 事務局をもたなかった1947年のGATTの締約国団は、その第2回締約国会議(1948年9月)において、GATTの締約国団と[[ITO]]の中間委員会(ICITO)と取決めを結び、ITOICの書記局長はGATT締約団に必要なサービスを提供(ICITOの執行委員会は書記局長に全権を付与)するとされ、GATTの事務局長はITOICの書記局長が勤めることになった<ref name="TG">津久井(1997) p712</ref>。そのため、GATTの事務局長の選任の直前に、ITCの執行委員会が開催され、ICITOの書記局長としての選出を行っていた<ref name="TG" />。ただし、実質的な選任については、GATT側で行われる<ref>津久井(1997) p712-713</ref>。1995年は、WTOと1947年のGATTが並存したため、1995年4月にWTO事務局長に選任されたレナート・ルジェロ(Renato Ruggiero)は、1947年のGATTの締約国団の事務局長を兼ねることになり、そのため1995年4月11日のITCの執行委員会でICITO書記局長としての選出されている<ref>{{cite news|title =ICITO/1/40|url =https://docs.wto.org/gattdocs/q/GG/ICITO/1-40.PDF|publisher = |date = | accessdate = 2019-3-5}}。</ref>すでに1995年3月24日の第7回特別総会で選出<ref>GATT文書6SS/SR/1</ref>されているものの形式的には、ITCの執行委員会による選出が必要であった。なお、1965年3月までは書記局長 (Executive Secretary)であったが、1965年3月23日の第22回締約国会議決定<ref>GATT文書BISD 13S/12</ref>により事務局長(Director-General)に改称された。ただしITOICの書記局長という立場は変更されないので、GATTの締約団の事務局長でありITOICの書記局長ということになる。 歴代GATT事務局長 * [[エリック・ウィンダム・ホワイト]](Eric Wyndham White)(英国) 1948年–1968年 * [[オリビエ・ロング]](Olivier Long)(スイス) 1968年–1980年 * [[アーサー・ダンケル]](Arthur Dunkel)(スイス) 1980年–1993年 * [[ピーター・サザーランド]](Peter Sutherland(アイルランド) 1993年–1995年 * [[レナート・ルジェロ]](Renato Ruggiero)(イタリア) 1995年{{efn|WTOの事務局長としては1999年まで在任。}} == 基本的原則 == {{See also|自由貿易|比較優位}} GATTの設立目的は[[自由貿易]]の促進である<ref name="辻40-43">[[#辻(2005)|辻(2005)]]、40-43頁。</ref>。これは[[デヴィッド・リカード]]が提唱した[[比較優位]]の理論に基づくものである<ref name="辻40-43"/>。つまりリカードの理論によれば、各国が他国と比較して生産効率の良い(これを比較優位という)分野での生産に特化し互いに自由貿易を行うことで、そのような貿易を行った国々がより大きな利益を得ることができるというものである<ref name="辻40-43"/>。本節ではこうした考え方に基づくGATT規定の基本的原則について述べる。 === 無差別 === 「無差別」はGATTの基本的原則とされ、これには[[最恵国待遇]]という側面と、[[内国民待遇]]という側面とがある<ref name="筒井52-53"/>。これらはWTOの中核的なルールとしても引き継がれている<ref name="中川80-81">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、80-81頁。</ref>。 最恵国待遇は、貿易の相手国とその他の国とを差別せずに貿易相手国に対しそれ以外の国々に与える待遇の中で最も有利な待遇を与えるというもので、多国間条約の中でGATTは初めてこの最恵国待遇の原則を定めた(第1条第1項)<ref name="筒井162">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、162頁。</ref><ref name="中川81-82">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、81-82頁。</ref>。他国に最恵国待遇を与えるための条件として、その相手国に対し自国の産品に対し特定の有利な待遇を保証することを要求してはならない<ref name="中川81-82"/>。1947年のGATTのとりまとめ交渉の中で、この最恵国待遇を盛り込むにあたって[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]の間で対立があった<ref name="中川81-82"/><ref name="中川6-7">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、6-7頁。</ref>。1941年以降[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[コーデル・ハル]]のもとで[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]を中心に貿易自由化を志し国際的貿易体制の検討を続けてきたアメリカに対し<ref name="中川3-5">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、3-5頁。</ref>、1932年以来[[イギリス帝国]]内の[[植民地]]で適用されてきた排他的帝国特恵関税制度の存続を求めたイギリスが反発したのである<ref name="中川81-82"/><ref name="中川6-7"/>。最終的に帝国特恵関税制度のような地域的特恵制度が最恵国待遇原則の例外として認められることとなり、また帝国特恵関税制度以外に一定の条件下で[[地域経済統合]]のような地域的特恵制度を新たに締結することもこの最恵国待遇に対する例外として認められた(第24条)<ref name="筒井162"/><ref name="中川81-82"/>。 内国民待遇とは他国や他国産品を自国や自国産品と差別することなく待遇することをいい、GATTでは[[輸入品]]に対する[[税金]]や国内法令について規定した(第3条)<ref name="筒井260">[[#筒井(2002)|筒井(2002)]]、260頁。</ref>。輸入品が輸入国の国内で輸入品と同種の国産品目より不利に扱われれば貿易自由化の妨げになるとされたのである<ref name="中川83">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、83頁。</ref>。 最恵国待遇は特定の国の輸入品がそれ以外の国からの同種の輸入品と差別されないことを、内国民待遇は輸入品が国内産の同種の産品と差別されないことを定める原則である<ref name="中川81-82"/><ref name="中川83"/>。最恵国待遇・内国民待遇いずれの原則においても、同種の品目に該当するかどうかは、産品の用途、産品の性質・属性、消費者の選好、関税分類、という4つの基準に照らし判断される<ref name="中川81-82"/><ref name="中川83"/>。 === 譲許表 === 国内産業を保護するための手段としては[[関税]]以外は認めず、この関税についても多角的貿易交渉により引き下げを目指した([[#多角的貿易交渉]]を参照)<ref name="筒井52-53"/>。WTOが発足するまでこの多角的貿易交渉は8度開催され、そのたびに関税引き下げを実現してきた<ref name="ドーハ・ラウンドとは"/>。これらの貿易交渉や加入時の交渉の結果の引下げ結果を具体的に定めるものが譲許表({{Lang|en|Schedules of Concessions}})である。各締約国は、他の締約国の通商に対し、この協定に附属する該当の譲許表の該当の部に定める待遇より不利でない待遇を許与するものとする(第2条第1項)と規定され、譲許表に定める率を越える関税を課すことはできない(第2条第2項)。譲許表は締約国毎に作成され、それぞれSchedules XXXVIII<ref>第38表 日本の譲許表である。</ref>のように番号(ローマ数字)を付すことになっている。譲許表は原締約国であるオーストラリアのSchedules I{{efn|原締約国についてはアルファベット順に番号を割り当てたため、オーストラリア(Australia)が第1表となり、米国(United States of America)が第20表となっている。}}から最新のWTO加盟国であるリベリアのSchedules CVXXIV(第174表)<ref>{{cite news|title =Current Situation of Schedules of WTO Members|url =https://www.wto.org/english/tratop_e/schedules_e/goods_schedules_table_e.htm|publisher = WTO|date = | accessdate = 2019-2-22}}</ref>まで作成されている。なお、現在のWTO加盟国の数(164)より譲許表の数が多いのは、1947GATTを脱退した締約国の番号が欠番{{efn|例えばリベリアは、1947GATTに1950年5月20日に加盟しSchedules XXVII(第28表)を有していたが1953年6月13日に脱退している。}}となること、一旦加盟交渉が終了し譲許表を作成したが、期限内に加盟議定書を受諾せず締約国にならなかった場合{{efn|例えば韓国は、第3回 (トーキー)関税交渉(1951年)に参加し、Schedules XXXIV(第34表)が作成されたが、朝鮮戦争のため加盟できず、1960年にSchedules LX(第60表)で加盟した。}}があること、EUが拡大の都度新しい表としている{{efn|現在はSchedules CVXXIII(第173表)であるが、過去にSchedules XL(第40表)、Schedules LXXII(第72表)、Schedules LXXX(第80表)、Schedules CXL(第140表)を有していた}}等の事情による。 譲許表はつぎのような構成となっている<ref>{{cite news|title =Members’ commitments|url =https://www.wto.org/english/tratop_e/schedules_e/goods_schedules_e.htm|publisher = WTO|date = | accessdate = 2019-2-26}}</ref>。 : 第1部:最恵国関税率表。 :: 第1A節 - 農産品関税 :: 第1B節 - 農産品の関税割当 :: 第2節 - その他の製品 : 第2部:特恵関税率表(GATT第1条に記載されている貿易協定に関連する関税) : 第3部:非関税措置譲許表 : 第4部:農産品に対する国内及び輸出補助金に関する約束 : 第5部:輸出税 第2部の特恵関税率表は、GATT第1条2により最恵国待遇の例外となる特恵関税についてのものであり、オーストラリア、カナダ、セイロン、キューバ、インド、ニュージーランド、南アフリカ、英国及び米国が第2部の特恵関税率表を有していた<ref>津久井(1997) p192</ref>が、現在修正撤回等により実効はない。第5部は、最近の加盟国であるロシア、ウクライナ等にある。 ==== 譲許表をもたなかった締約国 ==== GATTの締約国の加入交渉において関税交渉を行い譲許表を作成しなければいけないという直接の規定はなく、GATT第33条に基づく加入議定書に定める条件によるものである。しかし実際の加入条件のほとんど{{efn|ポーランドは1967年にGATTに加入したが、その時点のポーランドは国家貿易を行っていたため関税の約束の意味がないとして加入議定書で年率7%以上の輸入増加を約束しただけで関税の譲許表は添付しなかった。GATT文書BISD15S/46 津久井(1997) p819}}は譲許表の作成を前提にしており、加入条件に関税による譲許表の設定は不文律となっていた<ref>津久井(1997) p814</ref>。しかしGATT第26条5(c)により、GATTの締約国から独立し、旧宗主国の宣言によりGATTの締約国になった場合、独立時点の宗主国の地位を継承することになっている。この場合、旧宗主国が属領のために譲許表を作成していないとその国は譲許表なしの状態となる。これらの国はその後のラウンドなどで譲許表を作成する場合もあるが、WTO発足の1995年1月1日の段階で1947年のGATTのうち41国<ref>1993年5月時点の27カ国(津久井(1997) p192)にそれ以降のGATT第26条5(c)による加盟国の14を加算。</ref>は、譲許表を有していなかった。WTO協定第11条は、1947年のGATTの締約国にWTOの原加盟国になる資格を認めたが1994年のGATT及びGATSに譲許表を添付することを条件とした。そのためこれらの41カ国もそれぞれのWTO加盟の時点から譲許表を有することとなった。 ==== GATT・WTOの各締約国の加入の日、譲許表 ==== {| class="wikitable" style="width:133%" style="font-size:75%" ! 国名(英語) !! 国名 !!WTO加盟<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/res_e/booksp_e/gatt_ai_e/appendix_e.pdf |title= WTO Analytical Index General Agreement on Tariffs and Trade (GATT) 1994 p1151 |date= |accessdate= 2019-2-25}}</ref> !! GATT加盟<ref>{{cite web|url= https://www.wto.org/english/res_e/booksp_e/gatt_ai_e/appendix_e.pdf |title= WTO Analytical Index General Agreement on Tariffs and Trade (GATT) 1994 p1136 |date= |accessdate= 2019-2-25}}</ref> !! GATT加盟方式 !! 譲許表番号<ref>内田(1959) p279-280</ref><ref>津久井(1997) p192-193</ref><ref name="CPTPPtariff">{{cite news|title = Current Situation of Schedules of WTO Members|url = https://www.wto.org/english/tratop_e/schedules_e/goods_schedules_table_e.htm|publisher = World Trade Organization|date = | accessdate = 2019-1-1/}}</ref>!! 注 |- | Australia || オーストラリア || 1995年1月1日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 1 || |- | Belgium || ベルギー || 1995年1月1日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 2 || {{efn|name="EC"|EU加盟により失効}}{{efn|name="Benelux"|ベルギー、オランダ、ルクセンブルクで共通の表}} |- | Luxembourg || ルクセンブルク || 1995年1月1日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 2 || {{efn|name="EC" |}}{{efn|name="Benelux" |}} |- | Netherlands || オランダ || 1995年1月1日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 2 || {{efn|name="EC" |}}{{efn|name="Benelux" |}} |- | Brazil || ブラジル || 1995年1月1日 || 1948年7月30日 || 暫定適用議定書 || 3 || |- | Myanmar || ミャンマー || 1995年1月1日 || 1948年7月29日 || 暫定適用議定書 || 4 || {{efn|加入時はビルマ}} |- | Canada || カナダ || 1995年1月1日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 5 || |- | Sri Lanka || スリランカ || 1995年1月1日 || 1948年7月29日 || 暫定適用議定書 || 6 || {{efn|加入時はセイロン}} |- | Chile || チリ || 1995年1月1日 || 1949年3月16日 || 33条(ただし原加盟国) || 7 || |- | Republic of China || 中華民国 || || 1948年5月21日 || 暫定適用議定書 || 8 || {{efn|1950年5月5日脱退(GATT/CP/54)}} |- | Cuba || キューバ || 1995年4月20日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 9 || |- | Czechoslovakia || チェコスロバキア || || 1948年4月20日 || 暫定適用議定書 || 10 || {{efn|国家分裂により消滅(1993年1月1日)}} |- | France || フランス || 1995年1月1日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 11 || {{efn|name="EC" |}} |- | India || インド || 1995年1月1日 || 1948年7月8日 || 暫定適用議定書 || 12 || |- | New Zealand || ニュージーランド || 1995年1月1日 || 1948年7月30日 || 暫定適用議定書 || 13 || |- | Norway || ノルウェー || 1995年1月1日 || 1948年7月10日 || 暫定適用議定書 || 14 || |- | Pakistan || パキスタン || 1995年1月1日 || 1948年7月30日 || 暫定適用議定書 || 15 || |- | Southern Rhodesia || 南ローデシア || style="white-space:nowrap"|ジンバブエの項参照 || 1948年7月11日 || 暫定適用議定書 || 16 || {{efn|後ローデシア・ニアサランド連邦、再度分裂の際譲許表は消滅}} |- | Syria || シリア || || 1948年7月30日 || 暫定適用議定書 || 17 ||{{efn|1951年8月6日脱退(GATT/CP/118)}}{{efn|name="Syria"|}} |- | Lebanon || レバノン || || 1948年7月29日 || 暫定適用議定書 || 17 ||{{efn|1951年2月25日脱退(GATT/CP 91 and GATT/CP/91+Corr.1)}}{{efn|name="Syria"|シリア、レバノンで共通の表}} |- | South Africa || 南アフリカ || 1995年1月1日 || 1948年6月13日 || 暫定適用議定書 || 18 || |- | United Kingdom || イギリス || 1995年1月1日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 19 || {{efn|EEC加盟により撤回されたが、EU離脱により2021年1月1日より再度設定}} |- | United States of America || アメリカ合衆国 || 1995年1月1日 || 1948年1月1日 || 暫定適用議定書 || 20 || |- | Indonesia || インドネシア || 1995年1月1日 || 1950年2月24日 || 26条5(c) || 21 || |- | Denmark || デンマーク || 1995年1月1日 || 1950年5月28日 || 33条(アヌシー議定書) || 22 || {{efn|name="EC" |}} |- | Dominican Republic || ドミニカ共和国 || 1995年3月9日 || 1950年5月19日 || 33条(アヌシー議定書) || 23 || |- | Finland || フィンランド || 1995年1月1日 || 1950年5月25日 || 33条(アヌシー議定書) || 24 || {{efn|name="EC" |}} |- | Greece || ギリシャ || 1995年1月1日 || 1950年3月1日 || 33条(アヌシー議定書) || 25 || {{efn|name="EC" |}} |- | Haiti || ハイチ || 1996年1月30日 || 1950年1月1日 || style="white-space:nowrap"|33条(アヌシー議定書) || 26 || |- | Italy || イタリア || 1995年1月1日 || 1950年5月30日 || 33条(アヌシー議定書) || 27 || {{efn|name="EC" |}} |- | Liberia || リベリア || || 1950年5月20日 || 33条(アヌシー議定書) || 28 ||{{efn|1953年6月13日脱退(G/45 and G/36-46/ADD.4)}} |- | Nicaragua || ニカラグア || 1995年9月3日 || 1950年5月28日 || 33条(アヌシー議定書) || 29 || |- | Sweden || スウェーデン || 1995年1月1日 || 1950年4月30日 || 33条(アヌシー議定書) || 30 || {{efn|name="EC" |}} |- | Uruguay || ウルグアイ || 1995年1月1日 || 1953年12月6日 || 33条(アヌシー議定書) || 31 || |- | Austria || オーストリア || 1995年1月1日 || 1951年10月19日 || 33条(トーキー議定書) || 32 || {{efn|name="EC" |}} |- | Germany || ドイツ || 1995年1月1日 || 1951年10月1日 || 33条(トーキー議定書) || 33 || {{efn|name="EC" |}} |- | Republic of Korea || 大韓民国{{efn|第3回関税交渉(トーキー) に参加し、加入承認決議<ref>[https://treaties.un.org/doc/Publication/UNTS/Volume%20142/v142.pdf 国連条約集142巻18ページ 142UNTA18]</ref>を受けてトーキー議定書<ref name="名前なし-1">[https://treaties.un.org/doc/Publication/UNTS/Volume%20142/v142.pdf 国連条約集142巻34ページ 142UNTA34]</ref>に譲許表(第34表)<ref>[https://treaties.un.org/doc/Publication/UNTS/Volume%20142/v147.pdf 国連条約集147巻161ページ 147UNTA161]</ref>を作成するが、期限までにトーキー議定書に署名せず、加入しなかった。}} || || 加入せず || 33条(トーキー議定書) || 34 || <ref>174表の項参照</ref> |- | Peru || ペルー || 1995年1月1日 || 1951年10月7日 || 33条(トーキー議定書) || 35 || |- | Philippines || フィリピン{{efn|第3回関税交渉(トーキー) に参加し、加入承認決議<ref>[https://treaties.un.org/doc/Publication/UNTS/Volume%20142/v142.pdf 国連条約集142巻26ページ 142UNTA26]</ref>を受けてトーキー議定書<ref name="名前なし-1"/>に譲許表(第36表)<ref>[https://treaties.un.org/doc/Publication/UNTS/Volume%20142/v147.pdf 国連条約集147巻209ページ 147UNTA209]</ref>を作成するが、期限までにトーキー議定書に署名せず、加入しなかった。}} || || 加入せず || 33条(トーキー議定書) || 36 ||<ref> 75表参照</ref> |- | Turkey || トルコ || 1995年3月26日 || 1951年10月17日 || 33条(トーキー議定書) || 37 || |- | Japan || 日本 || 1995年1月1日 || 1955年9月10日 || 33条 || 38 || |- | Malaysia || マレーシア || 1995年1月1日 || style="white-space:nowrap"|1957年10月24日 || 26条5(c) || 39 || |- | European Economic Community || ヨーロッパ経済共同体 || || || || 40 || {{efn|72表で代替}} |- | Cambodia || カンボジア{{efn|1962年4月6日に加入議定書<ref>[https://exhibits.stanford.edu/gatt/catalog/pg170yr1616 GATT文書INSTRUMENT_NO_78]</ref>が作成されるが、カンボジアが受諾せず、未発効<ref>GATT文書BISD11S/12</ref>。}} || || 加入せず || 33条 || 41 || {{efn|156表参照}} |- | Israel || イスラエル || 1995年4月21日 || 1962年7月5日 || 33条 || 42 || |- | Nigeria || ナイジェリア || 1995年1月1日 || 1960年11月18日 || 26条5(c) || 43 || |- | Portugal || ポルトガル || 1995年1月1日 || 1962年5月6日 || 33条 || 44 || {{efn|name="EC" |}} |- | Spain || スペイン || 1995年1月1日 || 1963年8月29日 || 33条 || 45 || {{efn|name="EC" |}} |- | Burkina Faso || ブルキナファソ || 1995年6月3日 || 1963年5月3日 || 26条5(c) || 46 || |- | Gabon || ガボン || 1995年1月1日 || 1963年5月3日 || 26条5(c) || 47 || |- | Benin || ベニン || 1996年2月22日 || 1963年9月12日 || 26条5(c) || 48 || |- | Senegal || セネガル || 1995年1月1日 || 1963年9月27日 || 26条5(c) || 49 || |- | Mauritania || モーリタニア || 1995年5月31日 || 1963年9月30日 || 26条5(c) || 50 || |- | Madagascar || マダガスカル || 1995年11月17日 || 1963年9月30日 || 26条5(c) || 51 || |- | Cote d'Ivoire || コートジボワール || 1995年1月1日 || 1963年12月31日 || 26条5(c) || 52 || |- | Niger || ニジェール || 1996年12月13日 || 1963年12月31日 || 26条5(c) || 53 || |- | Zimbabwe || ジンバブエ || 1995年3月5日 || 1948年7月11日 || 暫定適用議定書 || 54 || {{efn|加入時は南ローデシア}} |- | Burundi || ブルンジ || 1995年7月23日 || 1965年3月13日 || 26条5(c) || 55 || |- | Rwanda || ルワンダ || 1996年5月22日 || 1966年1月1日 || 26条5(c) || 56 || |- | Yugoslavia || ユーゴスラビア || || 1966年8月25日 || 33条 || 57 || {{efn| 国家分裂により消滅(L/2681)}} |- | Malawi || マラウイ || 1995年5月31日 || 1964年8月28日 || 26条5(c) || 58 || |- | Liechtenstein || リヒテンシュタイン || 1995年9月1日 || 1994年3月29日 || 26条5(c) || 59 || {{efn|name="swiss"|スイス、リヒテンシュタインで共通の表}} |- | Switzerland || スイス || 1995年7月1日 || 1966年8月1日 || 33条 || 59 || {{efn|name="swiss"|}} |- | Republic of Korea || 大韓民国 || 1995年1月1日 || 1967年4月14日 || 33条 || 60 || |- | Ireland || アイルランド || 1995年1月1日 || 1967年12月22日 || 33条 || 61 || {{efn|name="EC" |}} |- | Iceland || アイスランド || 1995年1月1日 || 1968年4月21日 || 33条 || 62 || |- | Egypt || エジプト || 1995年6月30日 || 1970年5月9日 || 33条 || 63 || |- | Argentina || アルゼンチン || 1995年1月1日 || 1967年10月11日 || 33条 || 64 || |- | Poland || ポーランド || 1995年7月1日 || 1967年10月18日 || 33条 || 65 || {{efn|name="EC" |}} |- | Jamaica || ジャマイカ || 1995年3月9日 || 1963年12月31日 || 26条5(c) || 66 || |- | Trinidad and Tobago || トリニダード・トバゴ || 1995年3月1日 || 1962年10月23日 || 26条5(c) || 67 || |- | Congo,Democratic Republic of the || コンゴ民主共和国 || 1997年1月1日 || 1971年8月11日 || 33条 || 68 || |- | Romania || ルーマニア || 1995年1月1日 || 1971年11月14日 || 33条 || 69 || |- | Bangladesh || バングラデシュ || 1995年1月1日 || 1972年12月16日 || 33条 || 70 || |- | Hungary || ハンガリー || 1995年1月1日 || 1973年9月9日 || 33条 || 71 || {{efn|name="EC" |}} |- | European Communities || ヨーロッパ共同体 || || || || 72 || {{efn|80表で代替}} |- | Singapore || シンガポール || 1995年1月1日 || 1973年8月20日 || 26条5(c) || 73 || |- | Suriname || スリナム || 1995年1月1日 || 1978年3月22日 || 26条5(c) || 74 || |- | Philippines || フィリピン || 1995年1月1日 || 1979年12月27日 || 33条 || 75 || |- | Colombia || コロンビア || 1995年4月30日 || 1981年10月3日 || 33条 || 76 || |- | Mexico || メキシコ || 1995年1月1日 || 1986年8月24日 || 33条 || 77 || |- | Zambia || ザンビア || 1995年1月1日 || 1982年2月10日 || 26条5(c) || 78 || |- | Thailand || タイ || 1995年1月1日 || 1982年11月20日 || 33条 || 79 || |- | European Union || 欧州連合 || 1995年1月1日 || || || 80 || {{efn|140表で代替}} |- | Morocco || モロッコ || 1995年1月1日 || 1987年6月17日 || 33条 || 81 || |- | Hong Kong || 香港 || 1995年1月1日 || 1986年4月23日 || 26条5(c) || 82 || |- | Tunisia || チュニジア || 1995年3月29日 || 1990年8月29日 || || 83 || |- | Bolivia || ボリビア || 1995年9月12日 || 1990年9月8日 || 33条 || 84 || |- | Costa Rica || コスタリカ || 1995年1月1日 || 1990年11月24日 || 33条 || 85 || |- | Bolivarian Republic of Venezuela || ベネズエラ || 1995年1月1日 || 1990年8月31日 || 33条 || 86 || |- | El Salvador || エルサルバドル || 1995年5月7日 || 1991年5月22日 || 33条 || 87 || |- | Guatemala || グアテマラ || 1995年7月21日 || 1991年10月10日 || 33条 || 88 || |- | Macao || マカオ || 1995年1月1日 || 1991年1月11日 || 26条5(c) || 89 || |- | Namibia || ナミビア || 1995年1月1日 || 1992年9月15日 || 26条5(c) || 90 || |- | Paraguay || パラグアイ || 1995年1月1日 || 1994年1月6日 || 33条 || 91 || |- | Czech Republic || チェコ共和国 || 1995年1月1日 || 1993年4月15日 || 33条(ただし原加盟国) || 92 || {{efn|name="EC" |}} |- | Slovak Republic || スロバキア共和国 || 1995年1月1日 || 1993年4月15日 || 33条(ただし原加盟国) || 93 || {{efn|name="EC" |}} |- | Mali || マリ || 1995年5月31日 || 1993年1月11日 || 26条5(c) || 94 || |- | Honduras || ホンジュラス || 1995年1月1日 || 1994年4月10日 || 33条 || 95 || |- | Slovenia || スロベニア || 1995年7月30日 || 1994年10月30日 || 33条 || 96 || |- | Antigua and Barbuda || アンティグアバーブーダ || 1995年1月1日 || 1987年3月30日 || 26条5(c) || 97 || |- | Bahrain || バーレーン || 1995年1月1日 || 1993年12月13日 || 26条5(c) || 98 || |- | Barbados || バルバドス || 1995年1月1日 || 1967年2月15日 || 26条5(c) || 99 || |- | Belize || ベリーズ || 1995年1月1日 || 1983年10月7日 || 26条5(c) || 100 || |- | Botswana || ボツワナ || 1995年5月31日 || 1987年8月28日 || 26条5(c) || 101 || |- | Brunei Darussalam || ブルネイ・ダルサラーム国 || 1995年1月1日 || 1993年12月9日 || 26条5(c) || 102 || |- | Cameroon || カメルーン || style="white-space:nowrap"|1995年12月13日 || 1963年5月3日 || 26条5(c) || 103 || |- | Central African Republic || 中央アフリカ共和国 || 1995年5月31日 || 1963年5月3日 || 26条5(c) || 104 || |- | Chad || チャド || 1996年10月19日 || 1963年7月12日 || 26条5(c) || 105 || |- | Congo || コンゴ || 1997年3月27日 || 1963年5月3日 || 26条5(c) || 106 || |- | Cyprus || キプロス || 1995年7月30日 || 1963年7月15日 || 26条5(c) || 107 || |- | Dominica || ドミニカ || 1995年1月1日 || 1993年4月20日 || 26条5(c) || 108 || |- | Fiji || フィジー || 1996年1月14日 || 1993年11月16日 || 26条5(c) || 109 || |- | The Gambia || ガンビア || 1996年10月23日 || 1965年2月22日 || 26条5(c) || 110 || |- | Ghana || ガーナ || 1995年1月1日 || 1957年10月17日 || 26条5(c) || 111 || |- | Guyana || ガイアナ || 1995年1月1日 || 1966年7月5日 || 26条5(c) || 112 || |- | Kenya || ケニア || 1995年1月1日 || 1964年2月5日 || 26条5(c) || 113 || |- | Kuwait || クウェート || 1995年1月1日 || 1963年5月3日 || 26条5(c) || 114 || |- | Lesotho || レソト || 1995年5月31日 || 1988年1月8日 || 26条5(c) || 115 || |- | Maldives || モルディブ || 1995年5月31日 || 1983年4月19日 || 26条5(c) || 116 || |- | Malta || マルタ || 1995年1月1日 || 1964年11月17日 || 26条5(c) || 117 || |- | Mauritius || モーリシャス || 1995年1月1日 || 1970年9月2日 || 26条5(c) || 118 || |- | Mozambique || モザンビーク || 1995年8月26日 || 1992年7月27日 || 26条5(c) || 119 || |- | Sierra Leone || シエラレオネ || 1995年7月23日 || 1961年5月19日 || 26条5(c) || 120 || |- | Saint Lucia || セントルシア || 1995年1月1日 || 1993年4月13日 || 26条5(c) || 121 || |- | Saint Vincent & the Grenadines || セントビンセント・グレナディーン諸島 || 1995年1月1日 || 1993年5月18日 || 26条5(c) || 122 || |- | Eswatini || エスワティニ || 1995年1月1日 || 1993年2月8日 || 26条5(c) || 123 || {{efn|加盟時はスワジランド}} |- | Tanzania || タンザニア || 1995年1月1日 || 1961年12月9日 || 26条5(c) || 124 || |- | Togo || トーゴ || 1995年5月31日 || 1964年3月20日 || 26条5(c) || 125 || |- | Uganda || ウガンダ || 1995年1月1日 || 1962年10月23日 || 26条5(c) || 126 || |- | Grenada || グレナダ || 1996年2月22日 || 1994年2月9日 || 26条5(c) || 127 || |- | Saint Kitts and Nevis || セントクリストファーネイビス || 1996年2月21日 || 1994年3月24日 || 26条5(c) || 128 || |- | Angola || アンゴラ || 1996年11月23日 || 1994年4月8日 || 26条5(c) || 129 || |- | Guinea-Bissau || ギニアビサウ || 1995年5月31日 || 1994年3月17日 || 26条5(c) || 130 || |- | Qatar || カタール || 1996年1月13日 || 1994年4月7日 || 26条5(c) || 131 || |- | United Arab Emirates || アラブ首長国連邦 || 1996年4月10日 || 1994年3月8日 || 26条5(c) || 132 || |- | Ecuador || エクアドル || 1996年1月21日 || || || 133 || |- | Mongolia || モンゴル || 1997年1月29日 || || || 134 || |- | Solomon Islands || ソロモン諸島 || 1996年7月26日 || 1994年12月28日 || 26条5(c) || 135 || |- | Guinea || ギニア || 1995年10月25日 || 1994年12月8日 || 26条5(c) || 136 || |- | Djibouti || ジブチ || 1995年5月31日 || 1994年12月16日 || 26条5(c) || 137 || |- | Papua New Guinea || パプアニューギニア || 1996年6月9日 || 1994年12月16日 || 26条5(c) || 138 || |- | Bulgaria || ブルガリア || 1996年12月1日 || || || 139 || |- | European Union || 欧州連合 || 1995年1月1日 || || || 140 || {{efn| 173表で代替。EC-25}} |- | Panama || パナマ || 1997年9月6日 || || || 141 || |- | Kyrgyz Republic || キルギス共和国 || 1998年12月20日 || || || 142 || |- | Latvia || ラトビア || 1999年2月10日 || || || 143 || |- | Estonia || エストニア || 1999年11月13日 || || || 144 || |- | Georgia || ジョージア || 2000年6月14日 || || || 145 || |- | Albania || アルバニア || 2000年9月8日 || || || 146 || |- | Croatia || クロアチア || 2000年11月30日 || || || 147 || |- | Jordan || ヨルダン || 2000年4月11日 || || || 148 || |- | Oman || オマーン || 2000年11月9日 || || || 149 || |- | Lithuania || リトアニア || 2001年5月31日 || || || 150 || |- | Moldova || モルドバ || 2001年7月26日 || || || 151 || |- | China || 中国 || 2001年12月11日 || || || 152 || |- | Chinese Taipe || 台湾 || 2002年1月11日 || || || 153 || {{efn|正式な名称は“Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu”(台湾、澎湖諸島、金門及び馬祖から成る独立の関税地域)}} |- | North Macedonia || 北マケドニア|| 2003年4月4日 || || || 154 || {{efn|加盟時はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国}} |- | Armenia || アルメニア || 2003年2月5日 || || || 155 || |- | Cambodia || カンボジア || 2004年10月13日 || || || 156 || |- | Nepal || ネパール || 2004年4月23日 || || || 157 || |- | Saudi Arabia || サウジアラビア || 2005年12月11日 || || || 158 || |- | Tonga || トンガ || 2007年7月27日 || || || 159 || |- | Viet Nam || ベトナム || 2007年1月11日 || || || 160 || |- | Cabo Verde || カボヴェルデ || 2008年7月23日 || || || 161 || |- | Ukraine || ウクライナ || 2008年5月16日 || || || 162 || |- | Vanuatu || バヌアツ || 2012年8月24日 || || || 163 || |- | Samoa || サモア || 2012年5月10日 || || || 164 || |- | Russian Federation || ロシア連邦 || 2012年8月22日 || || || 165 || |- | Montenegro || モンテネグロ || 2012年4月29日 || || || 166 || |- | Lao Peoplefs Democratic Republic || ラオス人民民主共和国 || 2013年2月2日 || || || 167 || |- | Tajikistan || タジキスタン || 2013年3月2日 || || || 168 || |- | Yemen || イエメン || 2014年6月26日 || || || 169 || |- | Afghanistan || アフガニスタン || 2016年7月29日 || || || 170 || |- | Seychelles || セイシェル || 2015年4月26日 || || || 171 || |- | Kazakhstan || カザフスタン || 2015年11月30日 || || || 172 || |- | European Union || 欧州連合 || 1995年1月1日 || || || 173 || {{efn|EC-28}} |- | Liberia || リベリア || 2016年7月14日 || || || 174 || |} === 数量制限禁止 === 数量制限禁止もGATTの基本的原則のひとつである<ref name="筒井52-53"/>。貿易自由化を妨げるのは関税だけではなく、特定の産品を輸入することを禁じたり制限するといった輸入の数量制限措置が行われると外国産品は国内市場に参入すること自体ができなくなるという点で関税以上に貿易制限効果が高いとされ、そうした数量制限は原則として禁止されることとなった(第11条第1項)<ref name="中川86-87">[[#中川(2013)|中川(2013)]]、86-87頁。</ref>。 == セーフガード == [[緊急輸入制限|セーフガード]]とは、特定の品目輸入が急増することによって国内産業が打撃を受けることを予防するため、関税賦課や輸入数量制限といった形で行われる措置であり<ref name="貿易救済措置">{{Cite web|和書|title=貿易救済措置|url=http://www.meti.go.jp/policy/external_economy/trade_control/boekikanri/trade-remedy/sg.html|publisher=経済産業省|accessdate=2013-11-17}}</ref>、GATT第19条に規定された<ref name="浦田9-10">[[#浦田(2010)|浦田(2010)]]、9-10頁。</ref>。これは特定の国からの輸入が一時的に急増することで国内産業に被害が発生した場合に、セーフガードとして緊急避難的に一時的な輸入制限措置を発動することを認めたものである<ref name="若杉144-146">[[#若杉(2009)|若杉(2009)]]、144-146頁。</ref>。しかしセーフガードを発動するために国内産業が被害を受けたことを立証することは容易なことではなく<ref name="若杉144-146"/>、また無差別原則にのっとった多角的セーフガードの発動はできても<ref name="浦田9-10"/>、特定の国の輸入に対してだけセーフガードを発動することは認められず<ref name="若杉144-146"/>。セーフガードとして関税を引き上げる場合には他の品目で同等程度の関税引き下げを行わなければならないなど一定の制約があり、GATTの規定上認められた権利であったにもかかわらず実際にセーフガードが発動された件数はそれほど多くはなかった<ref name="若杉144-146"/>。セーフガード発動の権利を行使するためには輸入国側が自らに[[貿易摩擦]]の原因があることを認めなければならないため、[[自由貿易]]を標榜する先進国としてはセーフガードの権利を行使することがためらわれたのである<ref name="若杉144-146"/>。こうした理由から、GATTの規定上は必ずしも明確に定められていない輸出自主規制のような、[[保護主義]]的な政策が横行していくことになる<ref name="若杉144-146"/><ref name="荒木25"/>。これはGATT体制見直しの大きな一因となった([[#ウルグアイ・ラウンド]]参照)<ref name="荒木25"/>。 == 紛争解決 == GATTは締約国間の紛争解決に関して、締約国は他の締約国に対して紛争に関する協議を要請でいることとし(第22条)、また締約国がGATT上の利益を無効にされた場合、または侵害された場合の救済について定めた(第23条)<ref name="杉原283">[[#杉原(2008)|杉原(2008)]]、283頁。</ref>。これらの規定に基づき紛争当事国間で解決できなかったGATT上の利益に関する[[国際紛争]]の処理は、GATT締約国団の検討に付される<ref name="杉原283"/>。第23条によれば、相手国がGATT協定に違反した場合に締約国団に申し立てることができる(違反申立て)だけでなく、相手国の協定に違反しない措置により本来であれば協定上保障されていたはずの利益が無効になっている場合にも申し立てをすることができる(無違反申立て)とされた<ref name="小寺394-396">[[#小寺(2006)|小寺(2006)]]、394-396頁。</ref>。この無違反申立ての制度はWTOのもとに設置された{{仮リンク|世界貿易機関紛争解決機関|en|Dispute Settlement Body|label=WTO紛争解決機関}}にも引き継がれていく<ref name="小寺394-396"/>。GATTの初期においては作業部会によって紛争についての検討がなされ解決案が紛争当事国に提示されたが、後に締約国団はパネルを設置し、このパネルが理事会に紛争解決に関する報告書を提出するようになった<ref name="杉原283"/>。こうしたGATTにおける紛争解決に関する決定を得るためには、締約国団の[[コンセンサス]]を得なければならないとされていた<ref name="杉原283"/>。つまり自国にとってパネルの紛争解決が不利なものであれば、その締約国はパネルの決定に反対しパネルによる紛争解決を妨げることが可能となっていたのである<ref name="杉原283"/><ref name="荒木26">[[#荒木(2011)|荒木(2011)]]、26頁。</ref>。WTO紛争解決機関はこのGATT紛争解決手続きの不備を改善し、全ての締約国が一致して紛争解決に反対しない限り紛争解決手続きを進行させることができると定められた(逆コンセンサス方式)<ref name="小寺394-396"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=荒木一郎|date=2011-5|title=多角的貿易体制は維持できるか WTOの現状と課題|url=http://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2010/2011-05_004.pdf?noprint|format=PDF|journal=国際問題|number=601|pages=23-33|publisher=日本国際問題研究所|oclc=271534299|ref=荒木(2011)}} * {{Cite journal|和書|author=浦田秀次郎|year=2001|title=グローバル化に伴う社会保障問題とWTO|url=https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/15147805.pdf|format=PDF|journal=海外社会保障研究|number=134|pages=37-50|publisher=国立社会保障人口問題硏究所|oclc=43925478|ref=浦田(2001)}} * {{Cite journal|和書|author=浦田秀次郎、安藤光代|date=2010-12|title=自由貿易協定(FTA)の経済的効果に関する研究|url=https://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/10120006.html|format=PDF|journal=ポリシー・ディスカッション・ペーパー|number=10-P-022|publisher=経済産業研究所|ref=浦田(2010)}} * {{Cite journal|和書|author=奥和義|date=1995-5|title=ウルグアイ・ラウンドをめぐる各国の戦略と日本|url=http://www.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yunoca/handle/C050043000504|format=PDF|journal=山口經濟學雜誌|volume=43|number=5|pages=571-601|publisher=山口大學經濟學會|oclc=835558263|ref=奥(1995)}} * {{Cite book|和書|author=奥脇直也、小寺彰|title=国際法キーワード|year=2006|edition=第2版|publisher=有斐閣|isbn=4-641-05884-9|ref=奥脇(2006)}} * {{Cite book|和書|author=外務省経済局国際機関課長内田宏,大蔵省税関部調査統計課長堀太郎|year=1959|title=ガット 分析と展望|publisher=日本関税協会||ref=内田(1959)}} * {{Cite book|和書|author=小寺彰、岩沢雄司、森田章夫|title=講義国際法|year=2006|publisher=有斐閣|isbn=4-641-04620-4|ref=小寺(2006)}} * {{Cite journal|和書|author=島野卓爾|date=1969-12|title=西欧を中心とした国際関係論序説 : 1960年代の回顧|url=https://hdl.handle.net/10959/739|format=PDF|journal=學習院大學經濟論集|volume=6|number=2|pages=41-72|publisher=学習院大学経済経学会|oclc=42911198|ref=島野(1969)}} * {{Cite book|和書|author=杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映|title=現代国際法講義|year=2008|publisher=有斐閣|isbn=978-4-641-04640-5|ref=杉原(2008)}} * {{Cite journal|和書|author=滝井光夫|year=2007|title=大統領の通商交渉権限と連邦議会|url=http://www.iti.or.jp/kikan69/69takii.pdf|format=PDF|journal=ITI季刊|number=69|pages=28-41|publisher=国際貿易投資研究所|oclc=852436260|ref=滝井(2007)}} * {{Cite book|和書|author=辻正次、田岡文夫|year=2005|title=現代国際マクロ経済学|publisher=多賀出版|isbn=4-81155431-0|ref=辻(2005)}} * {{Cite book|和書|author=津久井 茂充|year=1993|title=ガットの全貌 コンメンタール・ガット|publisher=日本関税協会|isbn=4-88895-160-8|ref=津久井(1993)}} * {{Cite book|和書|author=津久井 茂充|year=1997|title=WTOとガット コンメンタール・ガット 1994|publisher=日本関税協会|isbn=4-88895-196-9|ref=津久井(1997)}} * {{Cite book|和書|author=筒井若水|year=2002|title=国際法辞典|publisher=有斐閣|isbn=4-641-00012-3|ref=筒井(2002)}} * {{Cite journal|和書|author=冨田晃正|date=2010-3|title=経済グローバル化によるアメリカ労働組合AFL-CIOへの影響 : 通商選好「内容」変容の観点からの考察|url=https://hdl.handle.net/2261/35488|format=PDF|journal=アメリカ太平洋研究|volume=10|pages=96-115|publisher=東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター|oclc=62122797|ref=富田(2010)}} * {{Cite book|和書|author=中川淳司|year=2013|title=WTO-貿易自由化を超えて|publisher=岩波新書|isbn=978-4004314165|ref=中川(2013)}} * {{Cite journal|和書|author=古内博行|date=2011-12|title=CAPの発足とその基本的特質|url=http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00099348|format=PDF|journal=千葉大学経済研究|volume=26|number=3|pages=21-67|publisher=千葉大学経済学会|oclc=20811222|ref=古内(2011)}} * {{Cite journal|和書|author=益田実、小川浩之|date=2008-05|title=政権交代期の対外政策転換プロセスへの政治的リーダーシップの影響の比較分析|url=https://hdl.handle.net/10076/9263 |format=PDF|journal=平成17〜平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書|oclc=700075767|ref=益田(2008)}} * {{Cite journal|和書|author=益田実|date=2010-10|title=OEEC 再編過程をめぐる英米関係,1959年―1961年|url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.23-2/04Masuda.pdf|format=PDF|journal=立命館国際研究|volume=23|number=2|pages=67-87|publisher=立命館大学国際関係学会|oclc=458294357|ref=益田(2010)}} * {{Cite book|和書|author=山本 和人|year=1999|title=戦後世界貿易秩序の形成-英米の協調と角逐-|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=4-623-03045-8|ref=山本(1999)}} * {{Cite book|和書|author=山本 和人|year=2012|title=多角的通商協定GATTの誕生プロセス-戦後世界貿易システム成立史研究-|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4-623-06309-3|ref=山本(2012)}} * {{Cite journal|和書|author=山本佳世|date=2003-10|title=交渉決裂で期限内妥結が遠のく新ラウンドの動向|url=http://www.bk.mufg.jp/report/ecorev2003/review20031028.pdf|format=PDF|journal=東京三菱レビュー|number=14|pages=1-8|publisher=東京三菱銀行|ref=山本(2003)}} * {{Cite book|和書|author=若杉隆平|year=2009|title=国際経済学|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-026699-4|ref=若杉(2009)}} * {{Cite journal|和書|date=1982-9|title=ガット閣僚会議の動向|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8379094/www.mof.go.jp/pri/publication/zaikin_geppo/hyou/g365/365_f.pdf|format=PDF|journal=財政金融統計月報|number=341|publisher=財務総合政策研究所|oclc=502169442|ref=「東京ラウンド交渉と諸協定の受諾状況」}} == 関連項目 == {{Col| * [[世界貿易機関]](WTO) * [[国際貿易機関]](ITO) * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/it/page25_000400.html 千九百九十四年の関税及び貿易に関する一般協定]([[外務省]]HP) * [[1994年の関税及び貿易に関する一般協定第6条の実施に関する協定]]([https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/it/page25_000413.html 同協定条文]、外務省HP) * [[1994年の関税及び貿易に関する一般協定第7条の実施に関する協定]]([https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/it/page25_000415.html 同協定条文]、外務省HP) * [[国際経済学]] * [[国際経済法]] }} == 外部リンク == * {{Kotobank|ガット(GATT)}} {{世界貿易機関}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:かんせいおよひほうえきにかんするいつはんきようてい}} [[Category:世界貿易機関]] [[Category:交易の歴史]] [[Category:グローバリゼーション]] [[Category:20世紀の経済]] [[Category:1947年の条約]] [[Category:経済に関する条約]]
2003-07-21T03:15:21Z
2023-12-04T07:07:59Z
false
false
false
[ "Template:Redirect", "Template:Lang-fr", "Template:Lang-en", "Template:Bar box", "Template:Cite journal", "Template:Col", "Template:Authority control", "Template:条約", "Template:Efn", "Template:See also", "Template:Lang", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Cite book", "Template:Kotobank", "Template:世界貿易機関" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%8E%E5%8F%8A%E3%81%B3%E8%B2%BF%E6%98%93%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%B8%80%E8%88%AC%E5%8D%94%E5%AE%9A
11,950
多元的国家論
多元的国家論(たげんてきこっかろん)は国家も社会集団の一つにすぎないという政治学上の考え方。 ただし、諸集団の利害対立を調整する機能を持っている点において国家は他の社会集団に優越する。 多元的国家論は、市民社会を過渡的な一段階とし、その矛盾を克服した存在として国家を論じるヘーゲル国家論を批判否定したが、マルクス国家論とは国家と社会を区別する点で共通している。 多元的国家論を主張した思想家にはハロルド・ラスキ、バーカー、マッキーバーなどがいる。ラスキは労働組合、フィギスは宗教団体を社会集団として重視した。 カール・シュミットは『政治的なものの概念』の中でラスキの多元的国家論を取り上げ、「政治的なもの」に対する定義が無い点を批判している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "多元的国家論(たげんてきこっかろん)は国家も社会集団の一つにすぎないという政治学上の考え方。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ただし、諸集団の利害対立を調整する機能を持っている点において国家は他の社会集団に優越する。", "title": "国家と社会集団との共通点" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "多元的国家論は、市民社会を過渡的な一段階とし、その矛盾を克服した存在として国家を論じるヘーゲル国家論を批判否定したが、マルクス国家論とは国家と社会を区別する点で共通している。", "title": "国家と社会集団との共通点" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多元的国家論を主張した思想家にはハロルド・ラスキ、バーカー、マッキーバーなどがいる。ラスキは労働組合、フィギスは宗教団体を社会集団として重視した。", "title": "国家と社会集団との共通点" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "カール・シュミットは『政治的なものの概念』の中でラスキの多元的国家論を取り上げ、「政治的なもの」に対する定義が無い点を批判している。", "title": "批判" } ]
多元的国家論(たげんてきこっかろん)は国家も社会集団の一つにすぎないという政治学上の考え方。
'''多元的国家論'''(たげんてきこっかろん)は[[国家]]も[[社会集団]]の一つにすぎないという[[政治学]]上の考え方。 ==国家と社会集団との共通点== *統一的な意思決定機関の存在 *成員を規律する規則の存在 *リーダーへの[[権威]]の付与 *非従者に対する制裁 ただし、諸集団の利害対立を調整する機能を持っている点において国家は他の社会集団に優越する。 多元的国家論は、[[市民社会]]を過渡的な一段階とし、その矛盾を克服した存在として国家を論じる[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]国家論を批判否定したが、[[カール・マルクス|マルクス]]国家論とは国家と社会を区別する点で共通している。 多元的国家論を主張した[[思想家]]には'''[[ハロルド・ラスキ]]'''、'''バーカー'''、'''マッキーバー'''などがいる。ラスキは[[労働組合]]、フィギスは[[宗教団体]]を社会集団として重視した。 == 批判 == [[カール・シュミット]]は『政治的なものの概念』の中でラスキの多元的国家論を取り上げ、「政治的なもの」に対する定義が無い点を批判している。 ==日本での主張者== * [[高田保馬]]『社会と国家』1922年 * [[中島重]]『多元的国家論』1922年 * 原田剛『欧米に於ける主権概念の歴史及び再構成』1934年 * [[河合栄治郎]]『ファッシズム批判』1930年 * [[岩崎卯一]]『国家現象の社会学的理解』1942年 ==参考文献== * 原田剛『政治学原論』朝倉書店、1978年 * [[大塚桂]]『多元的国家論の展開――原田剛・岩崎卯一をめぐって』法律文化社、1999年 * [[大塚桂]]『多元的国家論の周辺』信山社、2000年 {{Poli-stub}} {{DEFAULTSORT:たけんてきこつかろん}} [[Category:政治学の理論]]
null
2022-11-15T06:10:28Z
false
false
false
[ "Template:Poli-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%85%83%E7%9A%84%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%AB%96
11,951
加藤一二三
加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年〈昭和15年〉1月1日 - )は、日本の将棋棋士。 ワタナベエンターテインメント所属。 実力制6人目の名人。剱持松二九段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。2017年6月20日に現役を引退した。福岡県嘉麻市出身、同市の名誉市民。仙台白百合女子大学客員教授(2017年6月23日 - )。勲等は旭日小綬章。文化功労者。 戦前生まれの名人経験者としては最後の存命者である。 「神武以来()の天才」 ・「1分将棋の神様」の異名を持つ。 最高齢現役(2017年6月20日引退)、最高齢勝利、最高齢対局、現役勤続年数、通算対局数、通算敗戦数は歴代1位であり、1950年代・1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代の各年代で順位戦最高峰A級に在籍したことがある唯一の棋士である。14歳7か月で当時の史上最年少棋士(62年後の2016年に藤井聡太が更新)・史上初の中学生棋士となった。 順位戦デビュー(C級2組)からA級まで4年連続でのストレート昇級を果たし、最年少A級昇級記録(18歳3か月)を保持している。後に藤井聡太が更新した将棋界の最年少記録の多くは、加藤がかつて有していた記録である。しかし藤井も、加藤の「18歳3か月でA級昇級」の最年少記録については、プロデビューの時点で更新不可能であった。加藤は2016年10月にプロデビュー直後の藤井と対談したが、加藤がそのことを話すと、藤井はその場で指を折って年数を数えてから頷いたとのこと。 19世紀・20世紀・21世紀の3つの世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した、史上唯一の棋士でもある。 また、加藤の引退時点において、加藤自らを除く、全ての実力制名人と対局経験がある。 大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖を相手に、それぞれ100回以上対局している(百番指し)。 1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)で生まれた。カトリック信者であり、1986年にローマ教皇庁から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章している。紫綬褒章(2000年春)。嘉麻市名誉市民(2016年)。旭日小綬章(2018年春)。 京都府立木津高等学校卒業、早稲田大学第二文学部中退。「一二三」という名前の由来は「一月一日(紀元二千六百年)に生まれた三男」。青年棋士時代、他の棋士からの愛称は「一二三」の「一」にちなむ「ピンさん」であり、加藤はこの愛称を気に入っていた。中年時代のあだなは「ベア(熊)」。2017年現在、幅広い層から「ひふみん」の愛称で親しまれている。また自身の洗礼名にちなんだ「パウロ先生」という愛称もある。 中学3年生で棋士になり、学校を頻繁に休まざるを得なかった加藤に、授業のノートを届けてくれた中学校の同級生の女子を妻に迎えた。結婚したのは、1960年1月15日、同い年である二人の成人式の当日のことであった。仲人は、加藤と厚い信頼関係にあった升田幸三が務めた。 加藤は最後の対局では、最初に妻に礼を言いたく感想戦もなく場を後にして帰宅した。引退に際しての記者会見(2017年6月30日)では「同時に、やはり長年にわたって私とともに魂を燃やし、ともに歩んできてくれた妻に対して、深い感謝の気持ちを改めてここに表明する次第ですね、はい。」と語り、妻への謝意を表した。 将棋界でも有数のクラシック音楽通として知られる。また、サッカーファンとしても知られており、特にスペインのサッカーチームであるレアル・マドリードを20年近く応援している。2022 FIFAワールドカップでは開催国(カタール)との時差により、日本時間で深夜・早朝の試合が多いにもかかわらず、日本代表戦を含む多くの試合をリアルタイムで観戦している。 加藤は将棋界においてかなりの健啖家として知られており、また、対局時の食事やおやつのエピソードが多い。現役最晩年の70代になっても変わらず大食漢であった。 このような食生活のため肥満体型であり、2016年現在でも体重が100kgを超えているという。そのため、「エアロバイクに耐荷重オーバーで乗れない」といった問題があり、ダイエットの必要性を意識しているが、なかなか実行に移せないと語っている。 加藤は1970年12月25日に下井草カトリック教会で洗礼を受けた。洗礼名はパウロ。 翌1971年10月にバチカンでおこなわれたマキシミリアノ・コルベの列福式に参列しており、さらに1982年10月10日にはコルベの列聖式にも参列し、彼の出身地・ポーランドも訪れた。1986年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与される。後に湾岸戦争が起こると「(自分は騎士なので)有事の際には馬に乗って駆けつけなければならない」と将棋観戦記者である東公平に冗談を述べており、騎士と棋士に引っ掛ける冗談も多い。 麹町の聖イグナチオ教会では、同教会で挙式するカップルを対象とした「結婚講座」の講師を夫人と共に務めている。2018年に35年目を迎えた。 また、自身の異名の1つである「1分将棋の神様」について、キリスト教徒として「神様」という言葉は重要なものだとし、この呼ばれ方を嫌っている。代わりに「達人」もしくは「名手」と呼んでほしいと語っている。 肩書、タイトルはいずれも当時。 1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)で生まれた。 加藤と将棋の出会いは、幼稚園の頃に近所の子どもが指しているのを見て覚えたことだという。しかし、この時はすぐに周りの子どもたちに常勝するようになり、飽きて将棋から離れてしまった。その後、小学4年生の時に、新聞に載っていた将棋の観戦記と詰将棋に感銘を受け、再び将棋を指し始めた。加藤は特別な将棋の勉強や修行をしたことはなかったと述べ、それでもこの頃の棋力はアマ初段くらいだったという。 1951年9月、南口繁一門下として3級で関西奨励会に入った。この時の入会試験官を務めた奨励会員は有吉道夫であり、加藤は勝利した。この入会の経緯について田丸昇によれば、小学6年生の夏休みに京都の親類を父と共に訪ねた加藤が京都の将棋大会に参加し、審判長を務めていた南口の指導対局を受け、2枚落ちで2連勝し、加藤の棋才に感嘆した南口から棋士を目指すよう勧められたからだという。そして南口の内弟子となり、南口の自宅がある京都府相楽郡木津町(現・木津川市)にて高校を卒業するまで過ごした。 奨励会時代の加藤は、当時の棋界のトップ棋士の一人であった升田幸三に誘われ、関西本部にてよく将棋を指した。加藤によれば升田との出会いはまだ奨励会に入る前、連盟の関西本部で板谷四郎に飛香落ちで指導対局を受けていた折に、偶然通りかかった升田に棋才を見いだされてからだという。この時、小一時間ほども加藤と板谷の対局を見つづけた升田は最後に「この子、凡ならず」と漏らしたと加藤は述べている。この升田との対局は平手かつ升田が自分の研究手をぶつけるほどで、トップ棋士が奨励会員を相手にするには異例の態度であったが、加藤の方も簡単には負けなかったという。後年の加藤は「升田九段は私が小学生の時に出会ってから終生、私に目をかけてくれた。有益な助言も数知れない。」と回顧している。 加藤が四段に昇段する半年ほど前に関西奨励会に6級で入会した内藤國雄は2018年に当時のことを振り返り、今から思えば、この時にすでに加藤がA級八段に近い棋力があったような気がしたと述べている。 1954年8月1日付で四段に昇段し、当時の史上最年少棋士(14歳7か月)・史上初の中学生棋士となった。加藤の最年少棋士記録は、2016年に14歳2か月で四段に昇段した藤井聡太が更新するまで、62年にわたり維持された。なお、加藤によれば自身がプロ入りした時の反響はさほどではなかったという。 8月1日付であったが、順位戦については同年度6月から始まっていた第9期順位戦に途中よりC級2組で参加した(同期四段の佐藤庄平と市川伸も同様)。この年のC級2組はかなり変則的であり、途中より東組(東京)と西組(大阪)で組分けされ、加藤は7名の西組に属して12回戦を戦った(よってリーグ内の同一人物と2回ずつ戦った)。11月2日の畝美与吉六段戦で最年少勝利を挙げるなど、11勝1敗の好成績でC級1組昇級を決め、1955年4月1日付で15歳3か月による最年少五段昇段を果たした。続けてC級1組を10勝3敗、B級2組を9勝2敗、B級1組を10勝2敗でいずれも1期抜けし、1958年4月1日付で18歳3か月でのA級八段となる偉業を成し遂げた。「神武以来(じんむこのかた)の天才」と呼ばれ、朝日新聞の「天声人語」でも取り上げられるなど、大きな反響があった。当時の昇段規定は順位戦のみだったこともあり、これは順位戦の各昇級と各昇段のいずれも当時の最年少記録を次々と塗り替えていく結果も意味していた。 順位戦以外のタイトル棋戦や、一般棋戦での活躍も顕著であり、1955年11月22日には当時始まった新人棋戦である第1回六、五、四段戦で優勝し、15歳10か月で最年少棋戦優勝記録を樹立した。また、1956年度には16歳で王将戦リーグ入りし、1957年1月24日には高松宮賞争奪選手権戦で優勝して、新人棋戦を除く公式棋戦の最年少優勝記録17歳0か月を樹立した。 こうした最年少記録は、先述した62年後の2016年に四段となった藤井聡太が登場するまで脅かされることすらなく、四段昇段(14歳2か月)、初勝利(14歳5か月)、一般棋戦優勝(15歳6か月)、全棋士参加棋戦優勝(15歳6か月)と藤井に更新されてしまったものもあるが、王将戦リーグ入りや、参加時期のズレによる順位戦の各記録は破られていない(ただし、当時とは昇段規定が異なるため六段、七段、八段昇段は藤井に更新されている)。 A級初年度となった第13期順位戦は4勝5敗の負け越しで8位という成績であったが、2年目の第14期(1960年度)は6勝2敗で名人挑戦権を得た。20歳3か月の挑戦は、他棋戦のタイトル初挑戦も含め、当時の最年少記録であり、2020年現在においても名人挑戦は最年少記録を維持している。名人挑戦権を獲得する少し前の1960年2月1日には、朝日新聞朝刊の新聞漫画『サザエさん』で、活躍する若者の代表として、力士の大鵬幸喜(加藤より1学年下)と共に「しょうぎの加藤八段」として言及された。しかし、第19期名人戦七番勝負は1勝4敗で大山康晴名人に敗れた。 新進気鋭の天才として若くしてトップ棋士となったものの、タイトル獲得には時間がかかった。 1960年代は、上記の名人戦を皮切りにタイトル戦に7回登場したが、相手はいずれも大山であった。当時は大山の全盛期であり、毎年全部ないしはほとんどのタイトルを大山が占めていた。しかし、6度目のタイトル挑戦となった1968年度の第7期十段戦において、大山十段(名人を含む四冠)をフルセットの接戦の末に破り、プロ15年目、29歳で、ついに初のタイトル獲得を果たした。7回目はその防衛戦(第8期十段戦)であり、大山の挑戦を受ける形となったが2回の千日手を含む2勝4敗で失冠した。 1970年代から1982年にかけては、一転して中原誠との対決の時代となる(将棋界が「大山時代」から「中原時代」に移行したことも意味する)。 この期間、タイトル戦に14回登場したがそのうち中原との対決は9回にも上った。最初の対決は1973年度の名人戦であり、前年に13年に渡って君臨していた大山から名人位を獲得した中原に挑む形であった(よって中原の初名人防衛戦でもあった)。しかしストレート負けを喫し、以降、中原には十段戦において第15期(1976年度)、第16期(1977年)と連続で挑んだが、いずれも退けられた。中原との対戦成績は、最初の22局(第15期十段戦第1局まで)においては1勝21敗と惨憺たるものとなっていた。 一方、棋王戦においては1976年度に大内延介から2度目のタイトルを獲得し、翌1977年度に中原の挑戦を受けるが今度は逆にストレートで防衛を果たした。これは当時五冠で、棋王を獲得すれば全六冠達成が掛かっていた中原を阻む快挙でもあった(結果、これが中原の複冠の最高記録となる)。続く1978年度では第28期王将戦でも中原からタイトルを獲得し、2冠を達成した。しかし、防衛は両方果たせず、棋王は米長に、王将は大山に奪取され(これは大山の最年長タイトル奪取記録でもある)、2冠は僅かな期間であった。その後は、1980年度の第19期十段戦で中原より十段を奪還し、翌年度の第20期十段戦では米長の挑戦を受けたが防衛を果たす。圧倒的に負け越していた中原に対しても、この期間においては勝ちこしている。 この期間(1960年度-1981年度)はタイトル戦は防衛を含んで19期に及んだが、もっぱら上記の通り大山と中原に阻まれる形で獲得タイトルは6期に留まった。一方で一般棋戦での活躍はめざましく、特にNHK杯将棋トーナメントでは6度の優勝を果たした(1960年・1966年・1971年・1973年・1976年・1981年)。また、1973年には当時の連盟会長であった加藤治郎の提案により、九段昇格規定が見直され、新制度(点数制)の規定に基づき、運用が開始された11月3日付で中原誠・二上達也・丸田祐三と共に九段に昇格した(これ以前で九段であったのは名人3期以上の経験者である塚田正夫・大山康晴・升田幸三の3名のみ)。 1982年度の第40期順位戦A級において8勝1敗の成績で3度目の名人挑戦権を得た。相手は第27期(1973年度)での初対決以来、一度も名人位を失冠することがなかった9連覇中の中原であった。この勝負は、4勝3敗・1持将棋・2千日手という実質十番勝負の熱戦となり、初挑戦から22年、42歳で念願の名人位を獲得した。また、十段と合わせ2度目の2冠制覇でもあった。 同年度の第21期十段戦は挑戦者となった中原に敗れ、これが中原との最後のタイトル戦となった。トータルでは中原とは9回のタイトル戦の中で4回獲得(防衛含む)しており、結果としては全盛期の中原に対して大善戦した形となった。 翌年度の名人戦(第41期)の相手は、かつての加藤と同じく20歳で名人挑戦者となった谷川浩司であった(挑戦の最年少記録としては加藤の方が数ヶ月早く、番勝負開始の数日前に谷川は21歳になった)。立場を変えて、かつての大山のように挑戦者の最年少記録を阻もうとする形となったが、勝負は2勝4敗で敗れ、谷川は最年少名人記録(21歳)を達成した。 その後は、1984年度の第25期王位戦で当時の若手実力者であった高橋道雄から生涯8つ目となるタイトルを奪取するが、翌年に高橋に奪還された。以降はタイトル戦に登場することはなく、通算24期登場、うち獲得合計8期となった。 一般棋戦においては全盛期ほどではなかったものの、1990年の早指し将棋選手権においては50歳にして3度目の優勝を、1993年度のNHK杯では54歳で7度目の優勝を果たした(これは当時、大山の優勝8回に次ぐ記録)。なお、この優勝により、10歳代から50歳代まで各10年ごと、また同時に1950年代から1990年代の各年代で一般棋戦優勝を達成したことになった。 また、1989年8月21日には大山に次いで史上2人目の通算1,000勝(特別将棋栄誉賞)を達成した。 上記の経歴の通り、加藤は順位戦に第9期(1955年度)から参加し、4年連続でストレート昇級して第13期(1959年度)から18歳という史上最年少でA級に在籍した。これ以来、途中何度かB1に落ちながらも第60期(2002年度)に62歳2か月で陥落するまでA級通算36期(名人在位を含む)の記録を達成した。これは通算数、最年長記録共に、現役A級のまま死去した大山の通算44期、69歳4か月に次ぐ記録である。途中陥落があったために、連続としての最高は19期であり、これは一度も陥落することが無かった中原(29期)や米長(26期)、また谷川(32期)には及ばなかったが、生涯4回のA級復帰の内、第16期(1961年度)、第21期(1966年度)、第23期(1968年度)はB1から1期での返り咲きであり、第51期(1992年度)の復帰は一般に棋士のピークが過ぎたと言われる53歳での達成であった。 一方で、名人挑戦は生涯に3度だけであり、最初はA級在籍2年目の第14期(1960年度)にして果たす(対大山名人)が獲得に至らず、その後は13年ぶりの第27期(1973年度)にて挑戦するが中原名人に阻まれた。そして第40期(1982年度)、42歳で3度目の挑戦権を得て、再び中原名人に挑み、獲得した。 後述のように62歳でのA級陥落以降は第63期(2005年度)B級2組、第68期(2010年度)C級1組、第73期(2015年度)C級2組と段々と降級し続けていったが、フリークラス宣言や引退はしなかった。途中では全敗する期もあったが(第71期、第74期)、最終期となった第75期は1勝9敗であり、順位戦での最後の対局(敗局)は上村亘、最後の勝利局は同期第3局の八代弥であった。 順位戦においては上記の通り、第51期(1992年度)に53歳でA級に復帰した後も、これを維持し、2000年にはA級在籍のまま還暦(60歳)を迎えた。間もなく花村元司の記録を抑えて、大山の記録に次ぐ、A級年長記録を達成した。翌2001年には史上3人目の通算1,200勝を達成した(1,000勝が2人目で、今回が3人目なのは途中で中原に抜かれたためである)。棋士会においては、自身が九段昇段後の1,000勝を達成したことを示し、(タイトル称号の「十段」ではなく)段位としての「十段」の新設を提案した。 また、1988年度に十段戦を発展解消する形で始まった竜王戦においては第1期から第4期(1992年度)まで1組に在籍した。その後、1組に復帰することはなかったが、第10期(1997年度)では昇級者決定戦で3組から2組への昇級を決め、その後、2期維持した。しかし、決勝トーナメントへの出場は1度も果たせなかった。 第60期順位戦(2002年度)にて62歳2ヶ月でB級1組への降級が決まる。B級1組は2期在籍したが第62期(2004年度)にさらにB級2組へ降級した。これまでの名人経験者は、B級1組以上の在籍を維持したままの引退・現役死去・フリークラス宣言の事例のみであったが、加藤はこのまま順位戦に留まり、規定により引退するまで指し続けることを宣言した。実際、加藤は後述のようにC級2組で降級点3つを取り、第75期(2017年度)にて規定により引退するまで順位戦を指し続けた。このため、名人経験者によるB級2組、C級1組、C級2組参加及び、C2陥落に伴う規定による引退は加藤が史上初であった。 2007年8月22日、朝日杯将棋オープン戦予選で、戸辺誠四段との対局において、史上初の通算1,000敗を記録する(1,261勝1,000敗)。一見、不名誉な記録にも見えるが、1敗すればそこで終わってしまうトーナメント戦が多い将棋の公式戦において、敗数が多いということは、加藤のキャリアの長さもさることながら、タイトル戦の番勝負や挑戦者決定リーグ戦に数多く登場したことを意味する(例えばプロ棋士として制度上のキャリア最短の記録を持つ熊坂学の通算敗数は156敗であり、ただ負けが多いだけでは1000敗は達成できない)。なお、本人はテレビでこの話題に触れられた際、「150局くらいは逆転負けでした」と述べている。また、同日時点での通算敗数の史上2位は有吉道夫九段の955敗(1,061勝)であり、その後、有吉も通算1,000敗を記録した。 一方では勝ち星も着実に集め、2011年11月1日、史上3人目の1,300勝を達成した。2012年7月26日には通算勝数歴代2位の中原誠に並ぶ1,308勝を達成し、翌年2月15日の第63期王将戦1次予選・対藤森哲也四段戦での勝利によって公式戦通算成績が1,309勝となり、歴代単独2位となった。一方、3月12日の第71期順位戦C級1組10回戦において阿部健治郎に敗北し、通算1,100敗を記録した(1,309勝1,100敗)。 順位戦においてはC級1組に在籍した第69期(2011年度)、第70期(2012年度)では降級点回避のみならず、70歳を過ぎて5勝5敗で指し分けるといった活躍を見せたが、翌71期(2013年度)は順位戦で初めて全敗した。翌72期(2014年度)も全敗は免れたものの、1勝9敗という成績でC級2組への降級が決まった。 他の公式戦では、2010年の第81期棋聖戦にて70歳で挑戦者決定トーナメントに進出する。結果として、これが公式戦本戦クラス進出の最後となった。 2014年4月、74歳3ヶ月の加藤は1954年の順位戦登場以来、59期・60年ぶりにC級2組を迎えた。同組では規定によって降級点が3つになると引退が決定となるが、言い換えればこのまま現役を続ける限り、3期連続で降級点をとっても最低でも77歳3か月で引退することになり、丸田祐三が持つ現役最年長記録77歳0か月を更新する可能性が出てきた(なお、同時期、同じ条件には加藤より1か月ほど生まれが早い内藤國雄もいたが2015年度に自ら引退した)。ここからは各種の最年長記録や年齢差対決、また、その長いキャリアによって生じた珍記録がメディアに注目されるようになっていく。 2015年3月11日の第41期棋王戦予選3回戦で増田康宏(当時17歳4か月)と対局し勝利する。75歳の加藤との年齢差58歳は、年長棋士側から見た史上最多年齢差勝利となった。しかし、この後の岡崎洋六段戦から連敗を喫し、第74期順位戦全敗や2016年度全敗(0勝20敗)を含む公式戦23連敗となった。A級経験者の年度全敗は、2013年の田丸昇九段(当時はフリークラス在籍で0勝10敗)以来であった。 2016年12月24日の第30期竜王戦6組の初戦では、14歳2か月でプロ棋士(四段)となった藤井聡太のデビュー戦の対局相手となり、藤井は加藤が持っていた史上最年少棋士記録(14歳7か月)を62年ぶりに更新、また、当時76歳8か月の加藤との対局は公式戦で最も離れた年齢差(62歳6か月)の対局となった(結果は110手で藤井の勝ち)。また、藤井は初の21世紀生まれプロ棋士(2002年生まれ)であったため、19世紀生まれ(村上真一と野村慶虎の2名)、20世紀生まれ、21世紀生まれの3つの世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した記録を達成した。2014年の時点で19世紀生まれの棋士との対局経験がある現役棋士は加藤のみであったため、この記録は今後も加藤が唯一のものとなる。 2017年1月3日に丸田祐三が持っていた最年長現役棋士記録(77歳+1日)を、1月12日に同じく丸田が持っていた最年長対局記録(76歳11か月)を、さらに1月20日には最年長勝利記録(同)を、それぞれ77歳0か月で更新した。一方で順位戦(第75期)はすでに降級点が2つ付いており、今期に降級点が付けば引退が決まっていた。3回戦で八代弥に勝利したものの、他の対局で敗戦が続き、8回戦終了時点で1勝7敗の成績(1回戦は抜け番)であった。この時点で、加藤が降級点を回避できる条件は、残りの2局を加藤が連勝し、同時点で2勝しかしていない棋士のうち7人が全敗をすることだった。1月19日、当該7人の1人である竹内雄悟が佐藤慎一に勝利したことで、降級点回避条件を満たせなくなり、フリークラス規定による加藤の引退が確定した(残り棋戦の全対局を完了した時点で引退となる)。 引退が決定した翌日の1月20日の第88期棋聖戦二次予選・対飯島栄治戦(この時点の飯島は、順位戦B級1組・竜王戦2組の強豪棋士)では、結果としては現役最後となる勝ち星を挙げ、大きな注目を集めた。これによって先述の通り丸田が持っていた最年長勝利記録を更新した。この対局について飯島はTwitterで「今日の加藤一二三九段戦は完敗でした。」と述べ、形勢不明の場面で出た加藤の妙手について記した。また、この勝利によって棋聖戦次戦は佐藤天彦名人と当たることになり(2月8日)、現役の名人と引退直前の棋士が対局する極めて稀な事態が起こった。この対局は自分自身を除く、木村義雄以来の実力制全名人経験者との対戦ともなった(なお、名人就位前の佐藤とは既に対局経験があり初対局だったわけではない。一方で加藤引退後に名人となった豊島将之との対局経験はない)。 現役最後の対局は2017年6月20日の第30期竜王戦6組昇級者決定戦での対高野智史戦となり、これに敗れ、加藤はこの日をもって現役引退となった。通算成績は1,324勝1,180敗(対局数2,505)。現役最年長記録77歳5か月を樹立。加藤は、事前に連盟を通じて各報道機関に「この日は記者会見はしない。後日に行う」と通知していた。実際の対局では投了する少し前にタクシーを呼んでおき、また観戦記者に感想戦はしない旨を伝え、投了すると集まっていた報道陣には無言のまま直ちに帰宅した。後に自著において加藤は長年にわたり苦楽を共にした妻に直接、引退のことを告げるのを最優先したかったと述べている。 その後、加藤は自身のTwitterで将棋界を支えるスポンサー、将棋ファンに直接に語りかけた。 10歳のとき新聞の観戦記に触れ将棋の本質を悟ったわたくしが、天職である将棋に、最善の環境の中、生涯を懸け全身全霊を傾け打ち込むことができましたのは、御支援賜りましたスポンサー、将棋ファンすべての皆様おひとりおひとりのおかげに他なりません。幸せな棋士人生をありがとうございました。 なお、加藤はまだ気力・体力ともに衰えておらず、公式戦対局への情熱も失っていなかったと言い、将棋界の制度による引退は仕方がなかった、もしそうした制度がなければずっと戦い続けていただろう、と述べている。また、名人位に就いたこともある自分が、その35年後にC級2組にまで下がり、規定で引退することになるまで現役を続けたのは、「77歳でC級2組に在籍していても、名人以外のタイトルは獲得できる」ことに大きな可能性を感じていた、棋士の世界では最後までチャンスがあるのだ、と述べている。 6月30日に、東京・将棋会館で引退に際しての記者会見を行った。記者会見に参加した報道機関は、40社・100名に及んだ。 62年10か月の間の通算対局数は2,505局に及ぶが、休場、不戦敗は一度もなかった。また、1954年8月1日に四段となってから、2017年6月20日に引退するまでの現役勤続年数(62年10か月)は歴代1位である。これは最年少プロ入りかつ最年長引退によって生じたために圧倒的な記録であり、例えば他に70歳を超えて現役であった棋士に内藤國雄(1958年四段 - 2015年引退)や有吉道夫(1955年四段 - 2010年引退)がいるが、60年にも届かない。また、加藤以前の最年長記録者であった丸田は兵役によるブランクで1946年に27歳で四段入りした経歴のため、ちょうど50年(1946年4月1日-1996年3月31日)だった。 2017年6月23日に仙台白百合女子大学客員教授に就任。加藤の次女が同大学の教員という縁があった。客員教授としての初仕事は、同年10月29日、同大学の学園祭での「私の学生時代」をテーマとするトークショーであった。 2017年7月1日にワタナベエンターテインメントとマネジメント契約を結んだ。引退する5年ほど前からバラエティ番組に出演していたが、引退後はメディア出演が増えている。地上波テレビへの出演に加え、インターネットの配信やイベントへの出演も多い。Twitterで頻繁に情報を発信している。 2017年11月2日に胆石性急性胆嚢炎と診断され、同日に手術を受けた。 半世紀にわたる棋士人生を通して居飛車党を貫き、数々の定跡の発展に貢献してきた。また、棒銀を代表として良いと思った戦型はひたすら採用し続ける傾向にあり、勝率が高い流行りの戦法があっても自身の棋理を重視し、採用しないことが多かった。 特に棒銀を好み、加藤棒銀と呼ばれるほどその採用率は高かった。相手の四間飛車への対抗策として穴熊(居飛車穴熊)が一般的に採用されていた時期でも、変わらず棒銀で挑み続けていた。また、角換わりの将棋においても、棒銀を採用する傾向にあった(一般的には腰掛け銀を採用する棋士が多い)。また、棒銀以外には矢倉▲3七銀戦法や、中飛車に対する袖飛車からの急戦は「加藤流」と呼ばれ、多くの棋士が採用している。 対振り飛車戦においては特に大山康晴との戦いの経験を生かして作り上げた居飛車舟囲い急戦の各種の定跡において、加藤の創案が多い。対三間飛車破りの急戦も、加藤の創案した仕掛けが多い。基本的に振り飛車には急戦で立ち向かうが、1980年に居飛車穴熊を主に対大山戦で数局ほど採用したことがある。 ひねり飛車や横歩取り3三桂のような空中戦も得意としており、後者は一時期後手番でも採用したことがある。さらにその後は、後手番では矢倉中飛車を多用した。 棒銀に見られるように駒の中では「銀将」が好きだと述べ、理由として鋭角的でどんどん前に出るから、うまくいけば良くなるからだという。また、その様を会社で例えれば改革で業績を拡大するイメージがあるとして「銀は営業部長」と評している。 常に最善手を探すタイプのため、長考を厭わなかった。この長考のために終盤は持ち時間が無くなり、秒読みに追い込まれることが多かったが、そこからがまた強く「1分将棋の神様」と呼ばれ、早指し棋戦の名手でもあった。しかし本人はクリスチャンなので「1分将棋の”達人”」と呼ばれたいと語っている。 長考の有名なエピソードの1つが1968年の第7期十段戦第4局(大山康晴に挑戦)におけるもので、二日目の初手において、前日の大山の封じ手に対して、1時間55分の長考をした。大山の封じ手は自明であり、実際に加藤の予想通りのものであったが、1日目夜の中断時間中に5時間検討し、その上でさらに2時間近くの大長考をしたものであった。この手は最善手であり、最終的に加藤が勝利した(また、この番勝負で初タイトルを獲得した)。 早指し棋戦においては、NHK杯戦で羽生善治、大山康晴に次いで歴代3位の優勝7回を誇る。他の早指し棋戦(早指し選手権戦、日本シリーズ、早指し王位決定戦)でも多くの優勝を重ねた。 長考やそれに伴う秒読みを恐れない姿勢は60歳を超えても変わらず、河口俊彦は下記のように評した。 一方で中原誠は「加藤さんが『1分将棋の神様』『秒読みに強い』とは言っても、随分、手を間違えている。むしろ、1分将棋・秒読みに強いと感じさせるのは羽生世代だ。」と述べており、加藤自身も時間配分の失敗により敗局したものは100局を下らないと述べている。 大山全盛期時代の棋界の第一人者の1人で、100局近く加藤と公式戦を指し、棋聖戦五番勝負での対局もある二上達也は下記のように加藤を評した。 一般に不利になりかねない特定の戦法に固執したことについて羽生善治は下記のように加藤を評した。 (対戦相手の視点からは)作戦が立てやすいことは立てやすいが、100%同じ戦法で来るとなると不気味でもある。一つの戦法を突き詰めていくのも一つの生き方だし、一局一局が確実に次への知識になる。悪いことばかりでもないようだが、作戦が読まれて相手の研究にはまる危険性を考えると現実にそういう人はほとんどいない。だが加藤先生は全然恐れておられないようだ。 — 羽生善治『羽生善治 好機の視点』小学館文庫 加藤は奨励会入り以降、南口繁一九段門下であったが、南口が1995年に死去した後の1998年に将棋連盟に申し出て剱持松二八段門下となった。現在では公式に加藤の師匠は剱持となっている。 加藤はこの理由について「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」と述べている。一方の剱持は、加藤と以前から懇意にしており、また剱持の師匠である荒巻三之九段(1993年に死去)と家族ぐるみの付き合いであった。なお、剱持の方が加藤より6歳年上ではあるが、四段昇段(プロ入り)は加藤の方が2年早く、棋士としては、弟子(加藤)が師匠(剱持)より先輩となっている。 この一件に関して河口俊彦は、(かつての将棋界の師弟関係は内弟子が一般的であったことを踏まえて)、日本がまだ貧しかった昭和20、30年代の将棋界では、師匠が内弟子の衣食住の面倒を見るのは大変なことであり、内弟子が稼いだ稽古料を師匠が召し上げるのが当たり前であったが、このことに不満をもった棋士も多かったのは事実と述べている。しかし、同時に河口は南口が内弟子の加藤をあまりにも大事にするので、逆に南口の家族が不平を言っていたという挿話を伝え、加藤が南口に恨みを持つような経緯があったとは考えにくい、と評する。実際、南口の人柄に関しては特にネガティブな逸話はなく、むしろ逆に弟子の森信雄が村山聖を弟子にしようとして当時の関西棋界の実力者であった灘蓮照九段と対立した時に病身を押して仲裁したという彼の人柄を示すエピソードがある。 他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照 30局以上指した棋士との勝敗を以下に示す。大山、中原、米長の3人は加藤の最大のライバルでもあった。 ※中原との対局数は、タイトル戦での持将棋1局を含む。 ほかゲスト出演多数
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年〈昭和15年〉1月1日 - )は、日本の将棋棋士。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ワタナベエンターテインメント所属。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "実力制6人目の名人。剱持松二九段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。2017年6月20日に現役を引退した。福岡県嘉麻市出身、同市の名誉市民。仙台白百合女子大学客員教授(2017年6月23日 - )。勲等は旭日小綬章。文化功労者。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "戦前生まれの名人経験者としては最後の存命者である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「神武以来()の天才」 ・「1分将棋の神様」の異名を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "最高齢現役(2017年6月20日引退)、最高齢勝利、最高齢対局、現役勤続年数、通算対局数、通算敗戦数は歴代1位であり、1950年代・1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代の各年代で順位戦最高峰A級に在籍したことがある唯一の棋士である。14歳7か月で当時の史上最年少棋士(62年後の2016年に藤井聡太が更新)・史上初の中学生棋士となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "順位戦デビュー(C級2組)からA級まで4年連続でのストレート昇級を果たし、最年少A級昇級記録(18歳3か月)を保持している。後に藤井聡太が更新した将棋界の最年少記録の多くは、加藤がかつて有していた記録である。しかし藤井も、加藤の「18歳3か月でA級昇級」の最年少記録については、プロデビューの時点で更新不可能であった。加藤は2016年10月にプロデビュー直後の藤井と対談したが、加藤がそのことを話すと、藤井はその場で指を折って年数を数えてから頷いたとのこと。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "19世紀・20世紀・21世紀の3つの世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した、史上唯一の棋士でもある。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、加藤の引退時点において、加藤自らを除く、全ての実力制名人と対局経験がある。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖を相手に、それぞれ100回以上対局している(百番指し)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)で生まれた。カトリック信者であり、1986年にローマ教皇庁から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章している。紫綬褒章(2000年春)。嘉麻市名誉市民(2016年)。旭日小綬章(2018年春)。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "京都府立木津高等学校卒業、早稲田大学第二文学部中退。「一二三」という名前の由来は「一月一日(紀元二千六百年)に生まれた三男」。青年棋士時代、他の棋士からの愛称は「一二三」の「一」にちなむ「ピンさん」であり、加藤はこの愛称を気に入っていた。中年時代のあだなは「ベア(熊)」。2017年現在、幅広い層から「ひふみん」の愛称で親しまれている。また自身の洗礼名にちなんだ「パウロ先生」という愛称もある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "中学3年生で棋士になり、学校を頻繁に休まざるを得なかった加藤に、授業のノートを届けてくれた中学校の同級生の女子を妻に迎えた。結婚したのは、1960年1月15日、同い年である二人の成人式の当日のことであった。仲人は、加藤と厚い信頼関係にあった升田幸三が務めた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "加藤は最後の対局では、最初に妻に礼を言いたく感想戦もなく場を後にして帰宅した。引退に際しての記者会見(2017年6月30日)では「同時に、やはり長年にわたって私とともに魂を燃やし、ともに歩んできてくれた妻に対して、深い感謝の気持ちを改めてここに表明する次第ですね、はい。」と語り、妻への謝意を表した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "将棋界でも有数のクラシック音楽通として知られる。また、サッカーファンとしても知られており、特にスペインのサッカーチームであるレアル・マドリードを20年近く応援している。2022 FIFAワールドカップでは開催国(カタール)との時差により、日本時間で深夜・早朝の試合が多いにもかかわらず、日本代表戦を含む多くの試合をリアルタイムで観戦している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "加藤は将棋界においてかなりの健啖家として知られており、また、対局時の食事やおやつのエピソードが多い。現役最晩年の70代になっても変わらず大食漢であった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このような食生活のため肥満体型であり、2016年現在でも体重が100kgを超えているという。そのため、「エアロバイクに耐荷重オーバーで乗れない」といった問題があり、ダイエットの必要性を意識しているが、なかなか実行に移せないと語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "加藤は1970年12月25日に下井草カトリック教会で洗礼を受けた。洗礼名はパウロ。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "翌1971年10月にバチカンでおこなわれたマキシミリアノ・コルベの列福式に参列しており、さらに1982年10月10日にはコルベの列聖式にも参列し、彼の出身地・ポーランドも訪れた。1986年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与される。後に湾岸戦争が起こると「(自分は騎士なので)有事の際には馬に乗って駆けつけなければならない」と将棋観戦記者である東公平に冗談を述べており、騎士と棋士に引っ掛ける冗談も多い。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "麹町の聖イグナチオ教会では、同教会で挙式するカップルを対象とした「結婚講座」の講師を夫人と共に務めている。2018年に35年目を迎えた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、自身の異名の1つである「1分将棋の神様」について、キリスト教徒として「神様」という言葉は重要なものだとし、この呼ばれ方を嫌っている。代わりに「達人」もしくは「名手」と呼んでほしいと語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "肩書、タイトルはいずれも当時。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)で生まれた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "加藤と将棋の出会いは、幼稚園の頃に近所の子どもが指しているのを見て覚えたことだという。しかし、この時はすぐに周りの子どもたちに常勝するようになり、飽きて将棋から離れてしまった。その後、小学4年生の時に、新聞に載っていた将棋の観戦記と詰将棋に感銘を受け、再び将棋を指し始めた。加藤は特別な将棋の勉強や修行をしたことはなかったと述べ、それでもこの頃の棋力はアマ初段くらいだったという。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1951年9月、南口繁一門下として3級で関西奨励会に入った。この時の入会試験官を務めた奨励会員は有吉道夫であり、加藤は勝利した。この入会の経緯について田丸昇によれば、小学6年生の夏休みに京都の親類を父と共に訪ねた加藤が京都の将棋大会に参加し、審判長を務めていた南口の指導対局を受け、2枚落ちで2連勝し、加藤の棋才に感嘆した南口から棋士を目指すよう勧められたからだという。そして南口の内弟子となり、南口の自宅がある京都府相楽郡木津町(現・木津川市)にて高校を卒業するまで過ごした。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "奨励会時代の加藤は、当時の棋界のトップ棋士の一人であった升田幸三に誘われ、関西本部にてよく将棋を指した。加藤によれば升田との出会いはまだ奨励会に入る前、連盟の関西本部で板谷四郎に飛香落ちで指導対局を受けていた折に、偶然通りかかった升田に棋才を見いだされてからだという。この時、小一時間ほども加藤と板谷の対局を見つづけた升田は最後に「この子、凡ならず」と漏らしたと加藤は述べている。この升田との対局は平手かつ升田が自分の研究手をぶつけるほどで、トップ棋士が奨励会員を相手にするには異例の態度であったが、加藤の方も簡単には負けなかったという。後年の加藤は「升田九段は私が小学生の時に出会ってから終生、私に目をかけてくれた。有益な助言も数知れない。」と回顧している。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "加藤が四段に昇段する半年ほど前に関西奨励会に6級で入会した内藤國雄は2018年に当時のことを振り返り、今から思えば、この時にすでに加藤がA級八段に近い棋力があったような気がしたと述べている。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1954年8月1日付で四段に昇段し、当時の史上最年少棋士(14歳7か月)・史上初の中学生棋士となった。加藤の最年少棋士記録は、2016年に14歳2か月で四段に昇段した藤井聡太が更新するまで、62年にわたり維持された。なお、加藤によれば自身がプロ入りした時の反響はさほどではなかったという。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "8月1日付であったが、順位戦については同年度6月から始まっていた第9期順位戦に途中よりC級2組で参加した(同期四段の佐藤庄平と市川伸も同様)。この年のC級2組はかなり変則的であり、途中より東組(東京)と西組(大阪)で組分けされ、加藤は7名の西組に属して12回戦を戦った(よってリーグ内の同一人物と2回ずつ戦った)。11月2日の畝美与吉六段戦で最年少勝利を挙げるなど、11勝1敗の好成績でC級1組昇級を決め、1955年4月1日付で15歳3か月による最年少五段昇段を果たした。続けてC級1組を10勝3敗、B級2組を9勝2敗、B級1組を10勝2敗でいずれも1期抜けし、1958年4月1日付で18歳3か月でのA級八段となる偉業を成し遂げた。「神武以来(じんむこのかた)の天才」と呼ばれ、朝日新聞の「天声人語」でも取り上げられるなど、大きな反響があった。当時の昇段規定は順位戦のみだったこともあり、これは順位戦の各昇級と各昇段のいずれも当時の最年少記録を次々と塗り替えていく結果も意味していた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "順位戦以外のタイトル棋戦や、一般棋戦での活躍も顕著であり、1955年11月22日には当時始まった新人棋戦である第1回六、五、四段戦で優勝し、15歳10か月で最年少棋戦優勝記録を樹立した。また、1956年度には16歳で王将戦リーグ入りし、1957年1月24日には高松宮賞争奪選手権戦で優勝して、新人棋戦を除く公式棋戦の最年少優勝記録17歳0か月を樹立した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうした最年少記録は、先述した62年後の2016年に四段となった藤井聡太が登場するまで脅かされることすらなく、四段昇段(14歳2か月)、初勝利(14歳5か月)、一般棋戦優勝(15歳6か月)、全棋士参加棋戦優勝(15歳6か月)と藤井に更新されてしまったものもあるが、王将戦リーグ入りや、参加時期のズレによる順位戦の各記録は破られていない(ただし、当時とは昇段規定が異なるため六段、七段、八段昇段は藤井に更新されている)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "A級初年度となった第13期順位戦は4勝5敗の負け越しで8位という成績であったが、2年目の第14期(1960年度)は6勝2敗で名人挑戦権を得た。20歳3か月の挑戦は、他棋戦のタイトル初挑戦も含め、当時の最年少記録であり、2020年現在においても名人挑戦は最年少記録を維持している。名人挑戦権を獲得する少し前の1960年2月1日には、朝日新聞朝刊の新聞漫画『サザエさん』で、活躍する若者の代表として、力士の大鵬幸喜(加藤より1学年下)と共に「しょうぎの加藤八段」として言及された。しかし、第19期名人戦七番勝負は1勝4敗で大山康晴名人に敗れた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "新進気鋭の天才として若くしてトップ棋士となったものの、タイトル獲得には時間がかかった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1960年代は、上記の名人戦を皮切りにタイトル戦に7回登場したが、相手はいずれも大山であった。当時は大山の全盛期であり、毎年全部ないしはほとんどのタイトルを大山が占めていた。しかし、6度目のタイトル挑戦となった1968年度の第7期十段戦において、大山十段(名人を含む四冠)をフルセットの接戦の末に破り、プロ15年目、29歳で、ついに初のタイトル獲得を果たした。7回目はその防衛戦(第8期十段戦)であり、大山の挑戦を受ける形となったが2回の千日手を含む2勝4敗で失冠した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1970年代から1982年にかけては、一転して中原誠との対決の時代となる(将棋界が「大山時代」から「中原時代」に移行したことも意味する)。 この期間、タイトル戦に14回登場したがそのうち中原との対決は9回にも上った。最初の対決は1973年度の名人戦であり、前年に13年に渡って君臨していた大山から名人位を獲得した中原に挑む形であった(よって中原の初名人防衛戦でもあった)。しかしストレート負けを喫し、以降、中原には十段戦において第15期(1976年度)、第16期(1977年)と連続で挑んだが、いずれも退けられた。中原との対戦成績は、最初の22局(第15期十段戦第1局まで)においては1勝21敗と惨憺たるものとなっていた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一方、棋王戦においては1976年度に大内延介から2度目のタイトルを獲得し、翌1977年度に中原の挑戦を受けるが今度は逆にストレートで防衛を果たした。これは当時五冠で、棋王を獲得すれば全六冠達成が掛かっていた中原を阻む快挙でもあった(結果、これが中原の複冠の最高記録となる)。続く1978年度では第28期王将戦でも中原からタイトルを獲得し、2冠を達成した。しかし、防衛は両方果たせず、棋王は米長に、王将は大山に奪取され(これは大山の最年長タイトル奪取記録でもある)、2冠は僅かな期間であった。その後は、1980年度の第19期十段戦で中原より十段を奪還し、翌年度の第20期十段戦では米長の挑戦を受けたが防衛を果たす。圧倒的に負け越していた中原に対しても、この期間においては勝ちこしている。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この期間(1960年度-1981年度)はタイトル戦は防衛を含んで19期に及んだが、もっぱら上記の通り大山と中原に阻まれる形で獲得タイトルは6期に留まった。一方で一般棋戦での活躍はめざましく、特にNHK杯将棋トーナメントでは6度の優勝を果たした(1960年・1966年・1971年・1973年・1976年・1981年)。また、1973年には当時の連盟会長であった加藤治郎の提案により、九段昇格規定が見直され、新制度(点数制)の規定に基づき、運用が開始された11月3日付で中原誠・二上達也・丸田祐三と共に九段に昇格した(これ以前で九段であったのは名人3期以上の経験者である塚田正夫・大山康晴・升田幸三の3名のみ)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1982年度の第40期順位戦A級において8勝1敗の成績で3度目の名人挑戦権を得た。相手は第27期(1973年度)での初対決以来、一度も名人位を失冠することがなかった9連覇中の中原であった。この勝負は、4勝3敗・1持将棋・2千日手という実質十番勝負の熱戦となり、初挑戦から22年、42歳で念願の名人位を獲得した。また、十段と合わせ2度目の2冠制覇でもあった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同年度の第21期十段戦は挑戦者となった中原に敗れ、これが中原との最後のタイトル戦となった。トータルでは中原とは9回のタイトル戦の中で4回獲得(防衛含む)しており、結果としては全盛期の中原に対して大善戦した形となった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "翌年度の名人戦(第41期)の相手は、かつての加藤と同じく20歳で名人挑戦者となった谷川浩司であった(挑戦の最年少記録としては加藤の方が数ヶ月早く、番勝負開始の数日前に谷川は21歳になった)。立場を変えて、かつての大山のように挑戦者の最年少記録を阻もうとする形となったが、勝負は2勝4敗で敗れ、谷川は最年少名人記録(21歳)を達成した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後は、1984年度の第25期王位戦で当時の若手実力者であった高橋道雄から生涯8つ目となるタイトルを奪取するが、翌年に高橋に奪還された。以降はタイトル戦に登場することはなく、通算24期登場、うち獲得合計8期となった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一般棋戦においては全盛期ほどではなかったものの、1990年の早指し将棋選手権においては50歳にして3度目の優勝を、1993年度のNHK杯では54歳で7度目の優勝を果たした(これは当時、大山の優勝8回に次ぐ記録)。なお、この優勝により、10歳代から50歳代まで各10年ごと、また同時に1950年代から1990年代の各年代で一般棋戦優勝を達成したことになった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、1989年8月21日には大山に次いで史上2人目の通算1,000勝(特別将棋栄誉賞)を達成した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "上記の経歴の通り、加藤は順位戦に第9期(1955年度)から参加し、4年連続でストレート昇級して第13期(1959年度)から18歳という史上最年少でA級に在籍した。これ以来、途中何度かB1に落ちながらも第60期(2002年度)に62歳2か月で陥落するまでA級通算36期(名人在位を含む)の記録を達成した。これは通算数、最年長記録共に、現役A級のまま死去した大山の通算44期、69歳4か月に次ぐ記録である。途中陥落があったために、連続としての最高は19期であり、これは一度も陥落することが無かった中原(29期)や米長(26期)、また谷川(32期)には及ばなかったが、生涯4回のA級復帰の内、第16期(1961年度)、第21期(1966年度)、第23期(1968年度)はB1から1期での返り咲きであり、第51期(1992年度)の復帰は一般に棋士のピークが過ぎたと言われる53歳での達成であった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方で、名人挑戦は生涯に3度だけであり、最初はA級在籍2年目の第14期(1960年度)にして果たす(対大山名人)が獲得に至らず、その後は13年ぶりの第27期(1973年度)にて挑戦するが中原名人に阻まれた。そして第40期(1982年度)、42歳で3度目の挑戦権を得て、再び中原名人に挑み、獲得した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "後述のように62歳でのA級陥落以降は第63期(2005年度)B級2組、第68期(2010年度)C級1組、第73期(2015年度)C級2組と段々と降級し続けていったが、フリークラス宣言や引退はしなかった。途中では全敗する期もあったが(第71期、第74期)、最終期となった第75期は1勝9敗であり、順位戦での最後の対局(敗局)は上村亘、最後の勝利局は同期第3局の八代弥であった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "順位戦においては上記の通り、第51期(1992年度)に53歳でA級に復帰した後も、これを維持し、2000年にはA級在籍のまま還暦(60歳)を迎えた。間もなく花村元司の記録を抑えて、大山の記録に次ぐ、A級年長記録を達成した。翌2001年には史上3人目の通算1,200勝を達成した(1,000勝が2人目で、今回が3人目なのは途中で中原に抜かれたためである)。棋士会においては、自身が九段昇段後の1,000勝を達成したことを示し、(タイトル称号の「十段」ではなく)段位としての「十段」の新設を提案した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また、1988年度に十段戦を発展解消する形で始まった竜王戦においては第1期から第4期(1992年度)まで1組に在籍した。その後、1組に復帰することはなかったが、第10期(1997年度)では昇級者決定戦で3組から2組への昇級を決め、その後、2期維持した。しかし、決勝トーナメントへの出場は1度も果たせなかった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第60期順位戦(2002年度)にて62歳2ヶ月でB級1組への降級が決まる。B級1組は2期在籍したが第62期(2004年度)にさらにB級2組へ降級した。これまでの名人経験者は、B級1組以上の在籍を維持したままの引退・現役死去・フリークラス宣言の事例のみであったが、加藤はこのまま順位戦に留まり、規定により引退するまで指し続けることを宣言した。実際、加藤は後述のようにC級2組で降級点3つを取り、第75期(2017年度)にて規定により引退するまで順位戦を指し続けた。このため、名人経験者によるB級2組、C級1組、C級2組参加及び、C2陥落に伴う規定による引退は加藤が史上初であった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2007年8月22日、朝日杯将棋オープン戦予選で、戸辺誠四段との対局において、史上初の通算1,000敗を記録する(1,261勝1,000敗)。一見、不名誉な記録にも見えるが、1敗すればそこで終わってしまうトーナメント戦が多い将棋の公式戦において、敗数が多いということは、加藤のキャリアの長さもさることながら、タイトル戦の番勝負や挑戦者決定リーグ戦に数多く登場したことを意味する(例えばプロ棋士として制度上のキャリア最短の記録を持つ熊坂学の通算敗数は156敗であり、ただ負けが多いだけでは1000敗は達成できない)。なお、本人はテレビでこの話題に触れられた際、「150局くらいは逆転負けでした」と述べている。また、同日時点での通算敗数の史上2位は有吉道夫九段の955敗(1,061勝)であり、その後、有吉も通算1,000敗を記録した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "一方では勝ち星も着実に集め、2011年11月1日、史上3人目の1,300勝を達成した。2012年7月26日には通算勝数歴代2位の中原誠に並ぶ1,308勝を達成し、翌年2月15日の第63期王将戦1次予選・対藤森哲也四段戦での勝利によって公式戦通算成績が1,309勝となり、歴代単独2位となった。一方、3月12日の第71期順位戦C級1組10回戦において阿部健治郎に敗北し、通算1,100敗を記録した(1,309勝1,100敗)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "順位戦においてはC級1組に在籍した第69期(2011年度)、第70期(2012年度)では降級点回避のみならず、70歳を過ぎて5勝5敗で指し分けるといった活躍を見せたが、翌71期(2013年度)は順位戦で初めて全敗した。翌72期(2014年度)も全敗は免れたものの、1勝9敗という成績でC級2組への降級が決まった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "他の公式戦では、2010年の第81期棋聖戦にて70歳で挑戦者決定トーナメントに進出する。結果として、これが公式戦本戦クラス進出の最後となった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2014年4月、74歳3ヶ月の加藤は1954年の順位戦登場以来、59期・60年ぶりにC級2組を迎えた。同組では規定によって降級点が3つになると引退が決定となるが、言い換えればこのまま現役を続ける限り、3期連続で降級点をとっても最低でも77歳3か月で引退することになり、丸田祐三が持つ現役最年長記録77歳0か月を更新する可能性が出てきた(なお、同時期、同じ条件には加藤より1か月ほど生まれが早い内藤國雄もいたが2015年度に自ら引退した)。ここからは各種の最年長記録や年齢差対決、また、その長いキャリアによって生じた珍記録がメディアに注目されるようになっていく。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2015年3月11日の第41期棋王戦予選3回戦で増田康宏(当時17歳4か月)と対局し勝利する。75歳の加藤との年齢差58歳は、年長棋士側から見た史上最多年齢差勝利となった。しかし、この後の岡崎洋六段戦から連敗を喫し、第74期順位戦全敗や2016年度全敗(0勝20敗)を含む公式戦23連敗となった。A級経験者の年度全敗は、2013年の田丸昇九段(当時はフリークラス在籍で0勝10敗)以来であった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2016年12月24日の第30期竜王戦6組の初戦では、14歳2か月でプロ棋士(四段)となった藤井聡太のデビュー戦の対局相手となり、藤井は加藤が持っていた史上最年少棋士記録(14歳7か月)を62年ぶりに更新、また、当時76歳8か月の加藤との対局は公式戦で最も離れた年齢差(62歳6か月)の対局となった(結果は110手で藤井の勝ち)。また、藤井は初の21世紀生まれプロ棋士(2002年生まれ)であったため、19世紀生まれ(村上真一と野村慶虎の2名)、20世紀生まれ、21世紀生まれの3つの世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した記録を達成した。2014年の時点で19世紀生まれの棋士との対局経験がある現役棋士は加藤のみであったため、この記録は今後も加藤が唯一のものとなる。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2017年1月3日に丸田祐三が持っていた最年長現役棋士記録(77歳+1日)を、1月12日に同じく丸田が持っていた最年長対局記録(76歳11か月)を、さらに1月20日には最年長勝利記録(同)を、それぞれ77歳0か月で更新した。一方で順位戦(第75期)はすでに降級点が2つ付いており、今期に降級点が付けば引退が決まっていた。3回戦で八代弥に勝利したものの、他の対局で敗戦が続き、8回戦終了時点で1勝7敗の成績(1回戦は抜け番)であった。この時点で、加藤が降級点を回避できる条件は、残りの2局を加藤が連勝し、同時点で2勝しかしていない棋士のうち7人が全敗をすることだった。1月19日、当該7人の1人である竹内雄悟が佐藤慎一に勝利したことで、降級点回避条件を満たせなくなり、フリークラス規定による加藤の引退が確定した(残り棋戦の全対局を完了した時点で引退となる)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "引退が決定した翌日の1月20日の第88期棋聖戦二次予選・対飯島栄治戦(この時点の飯島は、順位戦B級1組・竜王戦2組の強豪棋士)では、結果としては現役最後となる勝ち星を挙げ、大きな注目を集めた。これによって先述の通り丸田が持っていた最年長勝利記録を更新した。この対局について飯島はTwitterで「今日の加藤一二三九段戦は完敗でした。」と述べ、形勢不明の場面で出た加藤の妙手について記した。また、この勝利によって棋聖戦次戦は佐藤天彦名人と当たることになり(2月8日)、現役の名人と引退直前の棋士が対局する極めて稀な事態が起こった。この対局は自分自身を除く、木村義雄以来の実力制全名人経験者との対戦ともなった(なお、名人就位前の佐藤とは既に対局経験があり初対局だったわけではない。一方で加藤引退後に名人となった豊島将之との対局経験はない)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "現役最後の対局は2017年6月20日の第30期竜王戦6組昇級者決定戦での対高野智史戦となり、これに敗れ、加藤はこの日をもって現役引退となった。通算成績は1,324勝1,180敗(対局数2,505)。現役最年長記録77歳5か月を樹立。加藤は、事前に連盟を通じて各報道機関に「この日は記者会見はしない。後日に行う」と通知していた。実際の対局では投了する少し前にタクシーを呼んでおき、また観戦記者に感想戦はしない旨を伝え、投了すると集まっていた報道陣には無言のまま直ちに帰宅した。後に自著において加藤は長年にわたり苦楽を共にした妻に直接、引退のことを告げるのを最優先したかったと述べている。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その後、加藤は自身のTwitterで将棋界を支えるスポンサー、将棋ファンに直接に語りかけた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "10歳のとき新聞の観戦記に触れ将棋の本質を悟ったわたくしが、天職である将棋に、最善の環境の中、生涯を懸け全身全霊を傾け打ち込むことができましたのは、御支援賜りましたスポンサー、将棋ファンすべての皆様おひとりおひとりのおかげに他なりません。幸せな棋士人生をありがとうございました。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "なお、加藤はまだ気力・体力ともに衰えておらず、公式戦対局への情熱も失っていなかったと言い、将棋界の制度による引退は仕方がなかった、もしそうした制度がなければずっと戦い続けていただろう、と述べている。また、名人位に就いたこともある自分が、その35年後にC級2組にまで下がり、規定で引退することになるまで現役を続けたのは、「77歳でC級2組に在籍していても、名人以外のタイトルは獲得できる」ことに大きな可能性を感じていた、棋士の世界では最後までチャンスがあるのだ、と述べている。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "6月30日に、東京・将棋会館で引退に際しての記者会見を行った。記者会見に参加した報道機関は、40社・100名に及んだ。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "62年10か月の間の通算対局数は2,505局に及ぶが、休場、不戦敗は一度もなかった。また、1954年8月1日に四段となってから、2017年6月20日に引退するまでの現役勤続年数(62年10か月)は歴代1位である。これは最年少プロ入りかつ最年長引退によって生じたために圧倒的な記録であり、例えば他に70歳を超えて現役であった棋士に内藤國雄(1958年四段 - 2015年引退)や有吉道夫(1955年四段 - 2010年引退)がいるが、60年にも届かない。また、加藤以前の最年長記録者であった丸田は兵役によるブランクで1946年に27歳で四段入りした経歴のため、ちょうど50年(1946年4月1日-1996年3月31日)だった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2017年6月23日に仙台白百合女子大学客員教授に就任。加藤の次女が同大学の教員という縁があった。客員教授としての初仕事は、同年10月29日、同大学の学園祭での「私の学生時代」をテーマとするトークショーであった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2017年7月1日にワタナベエンターテインメントとマネジメント契約を結んだ。引退する5年ほど前からバラエティ番組に出演していたが、引退後はメディア出演が増えている。地上波テレビへの出演に加え、インターネットの配信やイベントへの出演も多い。Twitterで頻繁に情報を発信している。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2017年11月2日に胆石性急性胆嚢炎と診断され、同日に手術を受けた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "半世紀にわたる棋士人生を通して居飛車党を貫き、数々の定跡の発展に貢献してきた。また、棒銀を代表として良いと思った戦型はひたすら採用し続ける傾向にあり、勝率が高い流行りの戦法があっても自身の棋理を重視し、採用しないことが多かった。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "特に棒銀を好み、加藤棒銀と呼ばれるほどその採用率は高かった。相手の四間飛車への対抗策として穴熊(居飛車穴熊)が一般的に採用されていた時期でも、変わらず棒銀で挑み続けていた。また、角換わりの将棋においても、棒銀を採用する傾向にあった(一般的には腰掛け銀を採用する棋士が多い)。また、棒銀以外には矢倉▲3七銀戦法や、中飛車に対する袖飛車からの急戦は「加藤流」と呼ばれ、多くの棋士が採用している。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "対振り飛車戦においては特に大山康晴との戦いの経験を生かして作り上げた居飛車舟囲い急戦の各種の定跡において、加藤の創案が多い。対三間飛車破りの急戦も、加藤の創案した仕掛けが多い。基本的に振り飛車には急戦で立ち向かうが、1980年に居飛車穴熊を主に対大山戦で数局ほど採用したことがある。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ひねり飛車や横歩取り3三桂のような空中戦も得意としており、後者は一時期後手番でも採用したことがある。さらにその後は、後手番では矢倉中飛車を多用した。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "棒銀に見られるように駒の中では「銀将」が好きだと述べ、理由として鋭角的でどんどん前に出るから、うまくいけば良くなるからだという。また、その様を会社で例えれば改革で業績を拡大するイメージがあるとして「銀は営業部長」と評している。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "常に最善手を探すタイプのため、長考を厭わなかった。この長考のために終盤は持ち時間が無くなり、秒読みに追い込まれることが多かったが、そこからがまた強く「1分将棋の神様」と呼ばれ、早指し棋戦の名手でもあった。しかし本人はクリスチャンなので「1分将棋の”達人”」と呼ばれたいと語っている。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "長考の有名なエピソードの1つが1968年の第7期十段戦第4局(大山康晴に挑戦)におけるもので、二日目の初手において、前日の大山の封じ手に対して、1時間55分の長考をした。大山の封じ手は自明であり、実際に加藤の予想通りのものであったが、1日目夜の中断時間中に5時間検討し、その上でさらに2時間近くの大長考をしたものであった。この手は最善手であり、最終的に加藤が勝利した(また、この番勝負で初タイトルを獲得した)。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "早指し棋戦においては、NHK杯戦で羽生善治、大山康晴に次いで歴代3位の優勝7回を誇る。他の早指し棋戦(早指し選手権戦、日本シリーズ、早指し王位決定戦)でも多くの優勝を重ねた。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "長考やそれに伴う秒読みを恐れない姿勢は60歳を超えても変わらず、河口俊彦は下記のように評した。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "一方で中原誠は「加藤さんが『1分将棋の神様』『秒読みに強い』とは言っても、随分、手を間違えている。むしろ、1分将棋・秒読みに強いと感じさせるのは羽生世代だ。」と述べており、加藤自身も時間配分の失敗により敗局したものは100局を下らないと述べている。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "大山全盛期時代の棋界の第一人者の1人で、100局近く加藤と公式戦を指し、棋聖戦五番勝負での対局もある二上達也は下記のように加藤を評した。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "一般に不利になりかねない特定の戦法に固執したことについて羽生善治は下記のように加藤を評した。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "(対戦相手の視点からは)作戦が立てやすいことは立てやすいが、100%同じ戦法で来るとなると不気味でもある。一つの戦法を突き詰めていくのも一つの生き方だし、一局一局が確実に次への知識になる。悪いことばかりでもないようだが、作戦が読まれて相手の研究にはまる危険性を考えると現実にそういう人はほとんどいない。だが加藤先生は全然恐れておられないようだ。 — 羽生善治『羽生善治 好機の視点』小学館文庫", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "加藤は奨励会入り以降、南口繁一九段門下であったが、南口が1995年に死去した後の1998年に将棋連盟に申し出て剱持松二八段門下となった。現在では公式に加藤の師匠は剱持となっている。", "title": "師弟関係・逆破門" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "加藤はこの理由について「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」と述べている。一方の剱持は、加藤と以前から懇意にしており、また剱持の師匠である荒巻三之九段(1993年に死去)と家族ぐるみの付き合いであった。なお、剱持の方が加藤より6歳年上ではあるが、四段昇段(プロ入り)は加藤の方が2年早く、棋士としては、弟子(加藤)が師匠(剱持)より先輩となっている。", "title": "師弟関係・逆破門" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "この一件に関して河口俊彦は、(かつての将棋界の師弟関係は内弟子が一般的であったことを踏まえて)、日本がまだ貧しかった昭和20、30年代の将棋界では、師匠が内弟子の衣食住の面倒を見るのは大変なことであり、内弟子が稼いだ稽古料を師匠が召し上げるのが当たり前であったが、このことに不満をもった棋士も多かったのは事実と述べている。しかし、同時に河口は南口が内弟子の加藤をあまりにも大事にするので、逆に南口の家族が不平を言っていたという挿話を伝え、加藤が南口に恨みを持つような経緯があったとは考えにくい、と評する。実際、南口の人柄に関しては特にネガティブな逸話はなく、むしろ逆に弟子の森信雄が村山聖を弟子にしようとして当時の関西棋界の実力者であった灘蓮照九段と対立した時に病身を押して仲裁したという彼の人柄を示すエピソードがある。", "title": "師弟関係・逆破門" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "30局以上指した棋士との勝敗を以下に示す。大山、中原、米長の3人は加藤の最大のライバルでもあった。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "※中原との対局数は、タイトル戦での持将棋1局を含む。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ほかゲスト出演多数", "title": "出演" } ]
加藤 一二三は、日本の将棋棋士。 ワタナベエンターテインメント所属。 実力制6人目の名人。剱持松二九段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。2017年6月20日に現役を引退した。福岡県嘉麻市出身、同市の名誉市民。仙台白百合女子大学客員教授。勲等は旭日小綬章。文化功労者。 戦前生まれの名人経験者としては最後の存命者である。 「神武以来の天才」 ・「1分将棋の神様」の異名を持つ。
{{TVWATCH}} {{Infobox 将棋棋士 |image = [[File:Hifumi Katō (cropped).jpg|250px]] |caption = [[文部科学省]]より公表された肖像 |名前 = 加藤一二三 |生年月日 = {{生年月日と年齢|1940|1|1}} |没年月日 = |プロ年度 = {{年月日|year=1954|month=8|day=1}}({{年数|1940|1|1|1954|8|1}}歳) |引退年度 = {{年月日|year=2017|month=6|day=20}}({{年数|1940|1|1|2017|6|20}}歳) |棋士番号 = 64 |出身地 = [[福岡県]][[嘉麻郡]]稲築村<br />(後の[[稲築町]]。現・[[嘉麻市]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/64.html|title=棋士データベース 九段 加藤一二三|publisher=[[日本将棋連盟]]|accessdate=2017-10-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171030212341/https://www.shogi.or.jp/player/pro/64.html|archivedate=2017-10-30}}</ref> |所属 = 関東 |師匠 = [[剱持松二]]九段 |段位 = 九段 |タイトル合計 = 8期 |優勝回数 = 23回 |通算成績 = 1324勝1180敗<ref group="注釈">タイトル戦の持将棋1</ref>(.529) |竜王戦クラス = 1組(4期) |順位戦クラス = A級(36期<ref group="注釈">名人1期を含む</ref>) |作成日時 = 2018年3月3日 }} '''加藤 一二三'''(かとう ひふみ、[[1940年]]〈[[昭和]]15年〉[[1月1日]] - )は、日本の[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。 [[ワタナベエンターテインメント]]所属。 実力制6人目の[[名人 (将棋)|名人]]。[[剱持松二]]九段門下(当初は[[南口繁一]]九段門下)。[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は64。[[2017年]][[6月20日]]に現役を引退した。[[福岡県]][[嘉麻市]]出身、同市の名誉市民。[[仙台白百合女子大学]][[客員教授]](2017年[[6月23日]] - )。[[勲等]]は[[旭日小綬章]]。[[文化功労者]]。 [[戦前]]生まれの[[名人 (将棋)|名人]]経験者としては最後の存命者である。 '''「{{読み仮名|神武以来|じんむこのかた}}の天才」'''{{Refnest|group="注釈"|name="神武以来"|「神武以来(じんむこのかた<ref name="神武以来-広辞苑">[[広辞苑]] 第5版、『じんむ-このかた【神武以来】』</ref><ref name="じんむこのかた-日本国語大辞典">[[日本国語大辞典]]([[ジャパンナレッジ]]版、2019年1月21日閲覧)『じんむ このかた』</ref>、じんむいらい<ref name="じんむいらい-日本国語大辞典">[[日本国語大辞典]]([[ジャパンナレッジ]]版、2019年1月21日閲覧)『じんむ=以来(いらい)[=以往(いおう)]』</ref>)」とは、「極めて古い由来を持つこと」、転じて「いまだかつて先例が存在しないこと」を意味する<ref name="神武以来-広辞苑"/>。}}<ref name="神武以来の天才の軌跡">{{Cite journal ja-jp|author=加藤一二三|year=|title=インタビュー 芸術としての将棋 - "神武以来の天才"の軌跡|journal= [[ユリイカ]]|serial=2017年7月号|publisher=[[青土社]]|naid=|pages=46-63}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bookbang.jp/article/543749|title=ひふみんが、勝負、人生、そして家族について語る!【刊行記念インタビュー】|accessdate=2019-01-27|author=加藤一二三|website=Book Bang -ブックバン(運営:[[新潮社]])|publisher=[[実業之日本社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190127054103/https://www.bookbang.jp/article/543749|archivedate=2019-1-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/junior-1/|title=中学生棋士の系譜(1) 神武以来の天才 加藤一二三|accessdate=2019-01-22|date=2018-12-19|website=[[マイナビニュース]]|publisher=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190122141907/https://news.mynavi.jp/article/junior-1/|archivedate=2019-1-22}}</ref><ref>「ヒューリック杯棋聖戦五番勝負 あす開幕」『[[産経新聞]]』(東京本社)2020年6月7日付朝刊、12版、10面、特集。</ref> ・'''「1分将棋の神様」'''<ref name=":31">「interview 信念を貫き通した棋士人生60年」『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、p.36-49</ref>の異名を持つ。 ==来歴== [[ファイル:加藤一二三HifumiKatō2.jpg|thumb|200px|[[2018年]][[12月27日]]、[[大井競馬場]]での『ひふみんと高見叡王の東京大賞典大予想』<ref>[https://live.nicovideo.jp/watch/lv317237385 【盤外企画】将棋棋士御一行様 自腹で大井競馬全レース爆買いツアー3 ~公開生放送~] - 2019年8月14日閲覧(動画視聴は有料会員のみ)</ref>の収録にて]] 最高齢現役(2017年6月20日引退)、最高齢勝利、最高齢対局、現役勤続年数、通算対局数、通算敗戦数は歴代1位であり、[[1950年代]]・[[1960年代]]・[[1970年代]]・[[1980年代]]・[[1990年代]]・[[2000年代]]の各年代で[[順位戦]]最高峰A級に在籍したことがある唯一の棋士である<ref group="注釈">他には大山康晴が[[1940年代]]から1990年代までA級在籍。6つの[[十年紀]]でのA級在籍はこの二人のみ。</ref>。14歳7か月で当時の史上最年少棋士(62年後の2016年に[[藤井聡太]]が更新)・史上初の[[棋士 (将棋)#中学生棋士|中学生棋士]]となった。 順位戦デビュー(C級2組)からA級まで4年連続でのストレート昇級を果たし{{Refnest|group="注釈"|name="注釈:順位戦デビュー(C級2組)からA級へ4年連続昇級したのは加藤と中原のみ"|2018年現在、[[順位戦]]デビュー(C級2組)からA級まで4年連続でストレート昇級したのは、加藤と[[中原誠]]の2例のみ<ref name="順位戦デビューからA級まで連続昇級" />。}}、最年少A級昇級記録(18歳3か月)を保持している<ref name=":41">{{Cite news|title=藤井四段:歴史塗り替えた 10代対決、圧巻の終盤|date=2017-6-26|url=https://mainichi.jp/articles/20170627/k00/00m/040/047000c|accessdate=2018-09-10|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180910180758/https://mainichi.jp/articles/20170627/k00/00m/040/047000c|archivedate=2018-9-10|work=[[毎日新聞]]}}</ref><ref name=":51">{{Cite web|和書|title=名人経験者でストレート昇級は加藤一二三・九段のみ|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201903030000805.html|website=|accessdate=2020-02-15|language=ja|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2019-3-4|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200215023604/https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201903030000805.html|archivedate=2020-2-15}}</ref>。後に[[藤井聡太]]が更新した将棋界の最年少記録の多くは{{Efn|出典では、加藤は「藤井さんが数々の記録を達成するごとに、藤井さんの記録はかつて加藤さんが'''みんな'''作ってた記録だって、僕の再評価が起こった」と述べている<ref name=":50" />。}}、加藤がかつて有していた記録である<ref name=":50">{{Cite web|和書|title=ひふみん「藤井さんの記録は加藤さんが作ってた記録だって、僕の再評価が起こった」|url=https://hochi.news/articles/20190801-OHT1T50110.html|website=|date=2019-08-01|accessdate=2019-12-05|language=ja|publisher=[[スポーツ報知]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191205102815/https://hochi.news/articles/20190801-OHT1T50110.html|archivedate=2019-12-5}}</ref>。しかし藤井も、加藤の「18歳3か月でA級昇級」の最年少記録については、プロデビューの時点で更新不可能であった<ref>{{Cite web|和書|title=誕生日を迎えたばかりの藤井聡太七段(17)は史上最年少で八段、九段となれるか|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b9c9ab46efe969d2d4c4b291722962bcb7d54b07|website=Yahoo!ニュース 個人|accessdate=2019-12-05|language=ja|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|author=松本博文|authorlink=松本博文|date=2019-7-19|archiveurl=https://megalodon.jp/2019-1205-1847-31/https://news.yahoo.co.jp:443/byline/matsumotohirofumi/20190719-00134860/|archivedate=2019-12-5}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[藤井聡太]]は[[2018年]]2月1日、初めて参加したC級2組[[順位戦]]でC級1組への昇級を決め、C級2組を1期で抜けた<ref>{{Cite web|和書|title=初の中学生五段に昇段した藤井聡太 今後期待される「新記録」は?|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ffdf409ef77a41ccbfc67a3596bed9640c8952c0|website=Yahoo!ニュース 個人|accessdate=2019-12-05|language=ja|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|author=松本博文|authorlink=松本博文|archiveurl=https://megalodon.jp/2019-1205-1838-37/https://news.yahoo.co.jp:443/byline/matsumotohirofumi/20180202-00081160/|archivedate=2019-12-5|date=2018-2-2}}</ref>。それより前の[[2017年]]6月26日の時点で、藤井の最短でのA級昇級時の年齢は、18歳8か月であった<ref name=":41" />。}}。加藤は2016年10月にプロデビュー直後の藤井と対談したが<ref name="現役最後の対局">{{Harvnb|加藤|2018|p=|pp=231‐238|loc=第6章 生涯現役-現役最後の対局}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|name="加藤と藤井の2016年の対談"|2016年10月1日に[[藤井聡太]]がプロデビューした直後、加藤は[[読売新聞]]の企画で藤井と対談し、2016年10月17日付の読売新聞朝刊に掲載された<ref name="現役最後の対局"/>。さらに『[[将棋世界]]』([[日本将棋連盟]])2017年3月号に「完全版」として新聞紙面に掲載できなかった分も含めて再度掲載された<ref name="kt123"/>。}}、加藤がそのことを話すと<ref name="神武以来の天才の軌跡" />、藤井はその場で指を折って年数を数えてから頷いたとのこと<ref name="神武以来の天才の軌跡" />。 [[19世紀]]・[[20世紀]]・[[21世紀]]の3つの[[世紀]]に生まれた棋士と公式戦で対局した、史上唯一の棋士でもある<ref group="注釈">根拠は[[#史上唯一の根拠|「現役最晩年」セクション内の記述]]を参照。</ref>。 また、加藤の引退時点において、加藤自らを除く、全ての実力制名人と対局経験がある<ref>{{Cite book|和書 |title=大人がもう一度はじめる将棋入門 脳が活性化する! |date=2013年04月 |publisher=産經新聞出版 |pages=176-177}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|加藤が引退した2017年6月20日までの、[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]] - [[佐藤天彦]]の12名。[[名人 (将棋)#実力制歴代名人]]を参照。うち、木村義雄は加藤が四段になる前の1952年に引退したが、1953年12月に奨励会三段時代の加藤と角落ちでの特別対局([[京都新聞]]主催)<ref name=":6" />、1958年にA級八段になった加藤と平手での特別対局([[静岡新聞]]主催)<ref>{{Citation|和書 |title=将棋名人血風録|year=2012|last=加藤|first=一二三|authorlink=加藤一二三|pages=74|edition=|publisher=角川書店(角川oneテーマ21)}}</ref>を行っている<ref name="abema20170309">{{Cite web|和書|url=https://times.abema.tv/articles/-/2106373|title=“ひふみん”加藤一二三九段 佐藤天彦名人と対決で実力制名人全員と対局|publisher=Abema TIMES|date=2017-03-09|accessdate=2017-07-02}}</ref>。}}<ref name="実力制名人との対局経験" group="注釈">加藤の引退後に[[豊島将之]]・渡辺明・藤井聡太が新たに名人のタイトル獲得経験者となったが、加藤と豊島は公式戦の対局機会がなかった。加藤引退後の2019年に豊島が名人を獲得したことで「全ての実力制名人と対局した経験のある棋士」はいなくなった。</ref>。 [[大山康晴]]十五世名人、[[中原誠]]十六世名人、[[米長邦雄]]永世[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]を相手に、それぞれ100回以上対局している([[百番指し]])。 == 人物 == 1940年1月1日、[[福岡県]][[嘉穂郡]][[稲築町|稲築村]](現・嘉麻市)で生まれた。[[カトリック教会|カトリック]]信者であり、1986年に[[ローマ教皇庁]]から[[聖シルベストロ教皇騎士団勲章]]を受章している<ref name=":22">{{Cite news|title=加藤一二三|棋士データベース|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/64.html|accessdate=2018-04-29|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180429025718/https://www.shogi.or.jp/player/pro/64.html|archivedate=2018-4-29}}</ref>。[[紫綬褒章]](2000年春<ref name=":22" />)<ref name=":23">{{Cite web|和書|url=http://www.joqr.co.jp/kiwami/2017/02/post-4585.html|title=将棋棋士・加藤一二三さん 2017年2月9日(木) 極シアター|accessdate=2017-06-16|date=2017-02-09|work=[[くにまるジャパン 極]]|publisher=[[文化放送]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180429030023/http://www.joqr.co.jp/kiwami/2017/02/post-4585.html|archivedate=2018-4-29}}</ref>。嘉麻市名誉市民(2016年)<ref name=":8" /><ref name=":9">{{Cite web|和書|url=http://www.city.kama.lg.jp/file/temp/7005687.pdf|title=[[嘉麻市]]長 赤間幸弘 平成28年 新年挨拶。平成28年3月27日に行う嘉麻市合併10周年記念式典において、棋士の加藤一二三九段を含む4名を、「名誉市民として表彰のためお招きします」とある。|accessdate=2017-07-02|date=|publisher=[[嘉麻市]]公式サイト|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702105117/http://www.city.kama.lg.jp/file/temp/7005687.pdf|archivedate=2017-07-02}}</ref>。[[旭日章|旭日小綬章]](2018年春<ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-29|url=https://www.asahi.com/articles/ASL4W66F9L4WUCVL01S.html |title=引退したけど夢で必死に対局 叙勲受章の加藤一二三さん |publisher=朝日新聞 |accessdate=2022-08-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180429035605/https://www.asahi.com/articles/ASL4W66F9L4WUCVL01S.html|archivedate=2018-04-29}}</ref>)<ref>{{Cite news|title=加藤一二三九段が旭日小綬章を受章|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2018-4-29|url=https://www.shogi.or.jp/news/2018/04/post_1683.html|accessdate=2018-04-29|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180429024137/https://www.shogi.or.jp/news/2018/04/post_1683.html|archivedate=2018-4-29}}</ref>。 [[京都府立木津高等学校]]卒業<ref name=":6">{{Cite web|和書|url=http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20170621000022|title=加藤九段のエネルギー、他の棋士を圧倒 京都の元弟弟子|accessdate=2017-06-21|date=2017-06-21|publisher=[[京都新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170621030359/http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20170621000022|archivedate=2017-06-21}}</ref><ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/culture/gallery/20150304katouhifumilegend/02katouakyu.html|title=題名なし。1958年2月27日に、加藤一二三 七段(18歳、京都府立木津高等学校3年)がA級への昇級を決め、同時に八段への昇段も決めたこと、18歳で八段に昇るのは最年少記録であること等を記載。|accessdate=2017-01-23|date=2017-01-20|publisher=[[朝日新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170515000616/http://www.asahi.com/culture/gallery/20150304katouhifumilegend/02katouakyu.html|archivedate=2017-05-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/07/12/kiji/20170712s00001002003000c.html|title=加藤一二三九段母校・木津「ひふみん」パワー 背番号「一二三」で3年ぶり夏1勝|accessdate=2017-07-13|date=2017-07-11|publisher=[[スポーツニッポン]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170713072325/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/07/12/kiji/20170712s00001002003000c.html|archivedate=2017-07-13}}</ref>、[[早稲田大学第二文学部]]中退<ref name=":8">{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/hifumikato|title=加藤一二三 ツィッター|accessdate=2017-07-02|date=|publisher=加藤一二三|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170109203402/https://twitter.com/hifumikato|archivedate=2017年1月9日|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-shogi1/|title=早稲田 盤上の勝負師 加藤一二三 × 中村太地 前編 1180敗、ひふみんはなぜスゴいのか 早稲田ウィークリー|accessdate=2017-08-15|date=|publisher=[[早稲田大学]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170815133736/https://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-shogi1/|archivedate=2017-08-15}}</ref>。「一二三」という名前の由来は「'''一'''月'''一'''日([[紀元二千六百年記念行事|紀元'''二'''千六百年]])に生まれた'''三'''男」<ref>{{Cite web|和書|url=https://smart-flash.jp/entame/27190|title=将棋の「ひふみん」こと「加藤一二三」知られざる名前の由来|accessdate=2017-12-08|date=|publisher=[[光文社]]Smart FLASH|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171208103106/https://smart-flash.jp/entame/27190|archivedate=2017-12-08}}</ref>。青年棋士時代、他の棋士からの愛称は「一二三」の「一」にちなむ「'''ピンさん'''」であり、加藤はこの愛称を気に入っていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankei.com/life/news/170701/lif1707010038-n1.html|title=棋聖戦第3局(6)】加藤一二三九段「かつてはピンさんと呼ばれていた」|accessdate=2017-07-02|date=2017-07-01|publisher=[[産経新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170701172328/http://www.sankei.com/life/news/170701/lif1707010038-n1.html|archivedate=2017-07-01}}</ref>。中年時代のあだなは「ベア(熊)」<ref>[[倉島竹二郎]]『昭和将棋風雲録』(講談社)P.325</ref>。2017年現在、幅広い層から「'''ひふみん'''」の愛称で親しまれている<ref name=":7" />{{Efn|2019年現在、[[柔道]]の[[阿部一二三]]もひふみんと呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=ひふみん「攻める勇気」東京五輪出場選手へ「加藤流勝負3原則」|url=https://hochi.news/articles/20190723-OHT1T50259.html|website=|date=2019-07-24|accessdate=2019-09-16|language=ja|publisher=[[スポーツ報知]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190916054310/https://hochi.news/articles/20190723-OHT1T50259.html|archivedate=2019-9-16}}</ref>。}}。また自身の[[洗礼名]]にちなんだ「'''パウロ先生'''」という愛称もある<ref>[https://ch.nicovideo.jp/hifumi/blomaga/201401 ニャンとも言えない加藤一二三伝説 Vol.45] - 加藤一二三チャンネル</ref>。 === 私生活 === 中学3年生で棋士になり、学校を頻繁に休まざるを得なかった加藤に、授業のノートを届けてくれた中学校の同級生の女子を妻に迎えた<ref name=":18">{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/society/news/2017/07/01/kiji/20170701s00041000064000c.html|title=加藤九段、妻は中学の同級生「ともに歩んでくれて深い感謝」加藤九段引退会見|accessdate=2017-07-02|date=2017-07-01|publisher=[[スポーツニッポン]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170701085733/http://www.sponichi.co.jp/society/news/2017/07/01/kiji/20170701s00041000064000c.html|archivedate=2017-07-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/guest/bn/20170811.html |title=徹子の部屋 バックナンバー 2017年8月11日 生きる伝説の棋士「ひふみん」家族の物語 |access-date=2022-10-25 |publisher=[[テレビ朝日]] |archive-url=https://megalodon.jp/2022-1025-1239-51/https://www.tv-asahi.co.jp:443/tetsuko/guest/bn/20170811.html |archive-date=2022-10-25}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|name="kato-wife"|加藤が同級生と結婚したことを書いた「{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/mitahachi/status/879234506531545088|title=ツイート|accessdate=2017-12-03|date=2017-06-26|publisher=みた八 @mitahachi|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171203095248/https://twitter.com/mitahachi/status/879234506531545088|archivedate=2017年12月3日}}」に対して、加藤自身がツィッターで言及した<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/hifumikato/status/879866377162674176|title=ツイート|accessdate=2017-12-03|date=2017-06-26|publisher=加藤一二三@hifumikato|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171203093843/https://twitter.com/hifumikato/status/879866377162674176|archivedate=2017年12月3日}}</ref>。}}。結婚したのは、[[1960年]]1月15日、同い年である二人の成人式の当日のことであった<ref>{{Harvnb|加藤治郎|1987|p=|pp=164-165|loc=ストップ・ザ・大山 加藤一二三}}</ref>。仲人は、加藤と厚い信頼関係にあった[[升田幸三]]が務めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/column/2019/01/122214u-18_267_167.html|title=加藤一二三九段から見た升田幸三という棋士【加藤一二三の語る升田幸三の世界 前編】|将棋コラム|accessdate=2019-01-17|author=古川徹雄|date=2019-1-17|website=|publisher=[[日本将棋連盟]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190117130958/https://www.shogi.or.jp/column/2019/01/122214u-18_267_167.html|archivedate=2019-1-17}}</ref>。 加藤は最後の対局では、最初に妻に礼を言いたく[[感想戦]]もなく場を後にして帰宅した。引退に際しての記者会見(2017年6月30日)では「同時に、やはり長年にわたって私とともに魂を燃やし、ともに歩んできてくれた妻に対して、深い感謝の気持ちを改めてここに表明する次第ですね、はい。」と語り、妻への謝意を表した<ref name="将棋世界2017年9月号_62_65">「インタビュー 感謝のことば 加藤一二三九段、平成29年6月30日、【於】東京・将棋会館」『将棋世界』2017年9月号、pp.62-65</ref>。 将棋界でも有数の[[クラシック音楽]]通として知られる<ref>{{Cite web|和書|title=ひふみんがクラシック音楽にハマったワケ {{!}} クラシック音楽最前線|url=https://toyokeizai.net/articles/-/193285|website=東洋経済オンライン|date=2017-10-20|accessdate=2020-02-15|language=ja|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200215022541/https://toyokeizai.net/articles/-/193285|archivedate=2020-2-15}}</ref>。また、[[サッカー]]ファンとしても知られており、特に[[スペイン]]のサッカーチームである[[レアル・マドリード]]を20年近く応援している<ref>{{Cite web|和書|title=ひふみん、レアル・マドリード愛を語る「生のベッカムはですね、ひときわ光を放っておりました」 |url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2021/05/22/113670/ |website=週プレNEWS |date=2021-05-22 |access-date=2022-12-15}}</ref>。[[2022 FIFAワールドカップ]]では開催国([[カタール]])との時差により、[[日本標準時|日本時間]]で深夜・早朝の試合が多いにもかかわらず、[[サッカー日本代表|日本代表]]戦を含む多くの試合をリアルタイムで観戦している<ref>{{Cite web|和書|title=ひふみんもサッカー“リアタイ”で応援! モロッコVSポルトガルも視聴「モロッコ代表さん、おめでとう」 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/12/11/kiji/20221211s00041000673000c.html |website=スポーツニッポン |access-date=2022-12-15 |date=2022-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=加藤一二三氏 準決勝で敗退したクロアチアの健闘をたたえる「モドリッチ選手ありがとう」 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/248160 |website=東京スポーツ |date=2022-12-14 |access-date=2022-12-15}}</ref>。 === 健啖家 === 加藤は将棋界においてかなりの健啖家として知られており、また、対局時の食事やおやつのエピソードが多い。現役最晩年の70代になっても変わらず大食漢であった。 * 対局中に食事で迷うことを避けるため、昼食と夕食は同じメニューとしていた<ref name=":37" />。 * 東京・[[将棋会館]]での対局では、必ず[[鰻重]]を頼むことで知られていた<ref name=":37" />。 ** 天ぷら定食や鍋焼きうどんも好物だが、天ぷら定食は注文しても届かないことが重なり、鍋焼きうどんは冷めるまで待たないと食べられないので、「確実に届き、すぐに食べられる」鰻重に落ち着いたと述べている<ref name=":37" />。 ** 鰻重が定番になる前は、昼食・夕食もラーメンが定番の時代があった<ref name=":30" />。ラーメン一杯だけで他に何も追加せず、それで夜戦に突入して腹が減ることもなく、快調に指して良く勝っていたため、「ラーメン時代」は20代後半からかなり長く続いたという<ref name=":30" />。 ** 2013年頃、一時鰻重を注文しなくなった時期がある。医者から脂っこいものを控えるように言われたと言い、当時は「ざるそばと冷やしトマト」がお気に入りだった<ref>{{Cite news|title=加藤一二三 @hifumikato によるツィート|date=2013-7-4|url=https://twitter.com/hifumikato/status/352755309619580930|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512161610/https://twitter.com/hifumikato/status/352755309619580930|archivedate=2018-5-12|work=[[Twitter]]}}</ref><ref>[https://www.nicovideo.jp/watch/sm22081493 ひふみん昼の新定跡] - ニコニコ動画</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://photozou.jp/photo/show/3008244/193362715|title=今日はこれから収録へ。その...|accessdate=2018-05-12|author=加藤一二三 hifumikato|date=2013-12-5|website=|publisher=[[フォト蔵]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512162301/http://photozou.jp/photo/show/3008244/193362715|archivedate=2018-5-12}}</ref>。また[[勝又清和]]によれば「昼はコンビニかスーパーでサンドイッチや果物を買う」ことが多かった<ref>{{Cite news|title=勝又清和 @katsumata によるツィート|date=2012-11-6|url=https://twitter.com/katsumata/status/265705333429788674|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512161930/https://twitter.com/katsumata/status/265705333429788674|archivedate=2018-5-12|work=[[Twitter]]}}</ref>。2014年の秋頃から、再び鰻重を注文するようになった。 ** 2016年のコメントで、関西将棋会館での対局については鰻のメニューがないため、鍋焼きうどんとおにぎりを6つを頼むのをずっと続けていると述べている<ref name="kt123">{{Cite journal ja-jp|author=吉田祐也|year=|title=「最年長・最年少対談 完全版 九段 加藤一二三 X 四段 [[藤井聡太]] 天才は天才を知る」-大食漢 VS 腹八分目|journal=[[将棋世界]]|serial=2017年3月号|publisher=[[日本将棋連盟]]|pages=65-66}}</ref>。 * 1981年の米長との十段戦において、互いに張り合って山盛りのミカンを注文し、2時間以上に渡って互いに食べ続けた。 * 2015年2月12日の対局([[第73期順位戦]]C級2組)では夕食にカキフライ定食とグリルチキン定食の2つを注文し、対局相手の[[三枚堂達也]]を驚かせた<ref name="kt123" /><ref>{{Cite web|和書|title=ツィート|url=https://twitter.com/sanmaido714/status/566095999270023172|website=|date=2015-02-12|accessdate=2019-03-08|language=ja|last=|publisher=[[Twitter]]|author=[[三枚堂達也]]|quote=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512175108/https:/twitter.com/sanmaido714/status/566095999270023172|archivedate=2018-5-12}}</ref>。この件について加藤はカキフライ定食は軽いのでグリルチキン定食を埋め合わせに頼んだ、ライスを少し残した他は完食した、と述べている<ref name="kt123" />。 * 対局中のおやつとしてチョコレートやカマンベールチーズを好み、対局時に持参してよく食べていた<ref name=":30" />。 このような食生活のため肥満体型であり、2016年現在でも体重が100kgを超えているという<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/hifumikato/status/738002350447566848|title=加藤一二三 @hifumikato によるツィート|accessdate=2018-05-22|date=2016-6-1|website=|publisher=[[Twitter]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180522125700/https://twitter.com/hifumikato/status/738002350447566848|archivedate=2018-5-22}}</ref>。そのため、「エアロバイクに耐荷重オーバーで乗れない」といった問題があり、ダイエットの必要性を意識しているが、なかなか実行に移せないと語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/hifumikato/status/738014548255375361|title=加藤一二三 @hifumikato によるツィート|accessdate=2018-05-22|date=2016-6-1|website=|publisher=[[Twitter]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180522125640/https://twitter.com/hifumikato/status/738014548255375361|archivedate=2018-5-22}}</ref>。 === キリスト教徒として === 加藤は1970年12月25日に下井草[[カトリック]]教会で[[洗礼]]を受けた<ref>{{Cite news|title=名人獲得|date=2015-10-30|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/entertainment_special/201510/0008524527.shtml|accessdate=2017-06-21|publisher=[[神戸新聞]]|publication-date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180419064238/https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/entertainment_special/201510/0008524527.shtml|archivedate=2018-4-19|work=加藤一二三のひふみん伝説}}</ref>。洗礼名はパウロ。 翌1971年10月に[[バチカン]]でおこなわれた[[マキシミリアノ・コルベ]]の[[列福]]式に参列しており<ref name="47news20141216">{{Cite news | url = http://www.47news.jp/feature/hifumin/2014/12/post_20141215162134.html | title = コルベ神父のこと | work = 加藤一二三のひふみん伝説60年 | publisher = [[47NEWS]] | date = 2014-12-16 | accessdate = 2015-02-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150226153103/http://www.47news.jp/feature/hifumin/2014/12/post_20141215162134.html|archivedate=2015-05-26}}</ref>、さらに1982年10月10日にはコルベの[[列聖]]式にも参列し、彼の出身地・ポーランドも訪れた<ref name="47news20141216"/>。1986年には[[ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]から[[聖シルベストロ教皇騎士団勲章]]を授与される。後に[[湾岸戦争]]が起こると「(自分は騎士なので)有事の際には馬に乗って駆けつけなければならない」と将棋観戦記者である[[東公平]]に冗談を述べており<ref>{{Cite book ja-jp | author = 東公平 | title = 熱闘!100番勝負 将棋・珍プレー好プレー | year = 1996 | publisher = 朝日ソノラマ | pages = 40}}</ref>、騎士と棋士に引っ掛ける冗談も多い。 麹町の[[聖イグナチオ教会]]では、同教会で挙式するカップルを対象とした「結婚講座」の講師を夫人と共に務めている<ref>『こんなツレでゴメンナサイ。』(望月昭著、[[文藝春秋]]、p165)</ref><ref name=":13">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL2R56PYL2RUTIL03C.html|title=ひふみん、結婚講座の講師35年 「妻に感謝」いつも|accessdate=2018-3-1|date=2018-3-1|publisher=[[朝日新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180301050335/https://www.asahi.com/articles/ASL2R56PYL2RUTIL03C.html|archivedate=2018-3-1}}</ref>。2018年に35年目を迎えた<ref name=":13" />。 また、自身の異名の1つである「1分将棋の神様」について、キリスト教徒として「神様」という言葉は重要なものだとし、この呼ばれ方を嫌っている。代わりに「達人」もしくは「名手」と呼んでほしいと語っている<ref>『将棋世界』2000年10月号「わが激闘の譜」</ref>。 == 棋歴 == 肩書、タイトルはいずれも当時。 === プロ入り前 === 1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)で生まれた。 加藤と将棋の出会いは、幼稚園の頃に近所の子どもが指しているのを見て覚えたことだという。しかし、この時はすぐに周りの子どもたちに常勝するようになり、飽きて将棋から離れてしまった。その後、小学4年生の時に、新聞に載っていた将棋の観戦記と詰将棋に感銘を受け、再び将棋を指し始めた。加藤は特別な将棋の勉強や修行をしたことはなかったと述べ、それでもこの頃の棋力はアマ初段くらいだったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/junior-1/|title=神武以来の天才 加藤一二三 |accessdate=2020-08-10|date=2018-12-19|publisher=マイナビニュース}}</ref>。 1951年9月、[[南口繁一]]門下として3級で関西奨励会に入った<ref name=":35">{{Harvnb|田丸|2017|p=|pp=30-34|loc=第1章 14歳の最年少棋士の誕生-「神武以来の天才」と呼ばれた加藤一二三九段}}</ref>。この時の入会試験官を務めた奨励会員は[[有吉道夫]]であり、加藤は勝利した<ref>{{Harvnb|加藤|2014|p=|pp=41-43|loc=第一章 通算千敗からいかに学ぶか-義理人情に厚い闘将}}</ref>。この入会の経緯について[[田丸昇]]によれば、小学6年生の夏休みに京都の親類を父と共に訪ねた加藤が京都の将棋大会に参加し、審判長を務めていた南口の指導対局を受け、2枚落ちで2連勝し、加藤の棋才に感嘆した南口から棋士を目指すよう勧められたからだという<ref name=":35" />。そして南口の内弟子となり、南口の自宅がある京都府[[相楽郡]][[木津町]](現・木津川市)にて高校を卒業するまで過ごした<ref name=":6" />。 奨励会時代の加藤は、当時の棋界のトップ棋士の一人であった[[升田幸三]]に誘われ、関西本部にてよく将棋を指した<ref name=":27" /><ref group="注釈">2018年現在、升田と加藤が行ったような、棋士や奨励会員による「一対一の研究会」は「VS(ブイエス)」と呼ばれる。</ref>。加藤によれば升田との出会いはまだ奨励会に入る前、連盟の関西本部で[[板谷四郎]]に飛香落ちで指導対局を受けていた折に、偶然通りかかった升田に棋才を見いだされてからだという<ref name=":27">{{Harvnb|加藤|2018|p=|pp=20-26|loc=第1章-この子、凡ならず}}</ref>。この時、小一時間ほども加藤と板谷の対局を見つづけた升田は最後に「この子、凡ならず」と漏らしたと加藤は述べている<ref name=":27" />。この升田との対局は平手かつ升田が自分の研究手をぶつけるほどで、トップ棋士が奨励会員を相手にするには異例の態度であったが、加藤の方も簡単には負けなかったという<ref name=":27" />。後年の加藤は「升田九段は私が小学生の時に出会ってから終生、私に目をかけてくれた。有益な助言も数知れない。」と回顧している<ref name=":34">{{Harvnb|加藤|2018|p=|pp=20-26|loc=第1章-千尋の谷}}</ref>。 加藤が四段に昇段する半年ほど前に関西奨励会に6級で入会した[[内藤國雄]]は2018年に当時のことを振り返り、今から思えば、この時にすでに加藤がA級八段に近い棋力があったような気がしたと述べている<ref name=":28">{{Cite journal ja-jp|author=[[内藤國雄]]|year=|title=特別エッセイ 十四歳の貴重な思い出(特集 「おめでとう! 藤井聡太四段 ありがとう! 加藤一二三九段」)|journal= [[将棋世界]]|serial=2017年8月号|publisher=[[日本将棋連盟]]|pages=66-67}}</ref>。 === 神武以来の天才 === [[ファイル:Hifumi Kato 1954 Scan10045-1.jpg|thumb|200px|四段昇段時の加藤(『[[近代将棋]]』通巻55号、近代将棋社、[[1954年]]、口絵ページ)]] 1954年8月1日付で四段に昇段し、当時の史上最年少棋士(14歳7か月)・史上初の中学生棋士となった<ref name=":14">{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp/news/2016/09/post_1449.html|title=新四段誕生のお知らせ *藤井聡太(史上最年少四段)・大橋貴洸|accessdate=2017-01-14|date=2016-09-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170312074947/https://www.shogi.or.jp/news/2016/09/post_1449.html|archivedate=2017-03-12}}</ref>。加藤の最年少棋士記録は、2016年に14歳2か月で四段に昇段した[[藤井聡太]]が更新するまで、62年にわたり維持された<ref name=":14" />。なお、加藤によれば自身がプロ入りした時の反響はさほどではなかったという<ref name=":0">『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、p.38</ref>。 8月1日付であったが、[[順位戦]]については同年度6月から始まっていた[[第9期順位戦]]に途中よりC級2組で参加した(同期四段の[[佐藤庄平]]と市川伸も同様)。この年のC級2組はかなり変則的であり、途中より東組(東京)と西組(大阪)で組分けされ、加藤は7名の西組に属して12回戦を戦った(よってリーグ内の同一人物と2回ずつ戦った)。11月2日の[[畝美与吉]]六段戦で最年少勝利を挙げるなど、11勝1敗の好成績でC級1組昇級を決め、1955年4月1日付で15歳3か月による最年少五段昇段を果たした<ref name=":15">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20180202/spn/00m/200/001000c|title=藤井聡太さん、史上初「中学生五段」9連勝で順位戦C級1組昇級(スポニチ)|accessdate=2018-2-2|date=2018-2-2|publisher=[[毎日新聞]]([[スポーツニッポン]]記事)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180202044303/https://mainichi.jp/articles/20180202/spn/00m/200/001000c|archivedate=2018-2-2}}</ref>。続けてC級1組を10勝3敗、B級2組を9勝2敗、B級1組を10勝2敗でいずれも1期抜けし、1958年4月1日付で18歳3か月でのA級八段となる偉業を成し遂げた<ref name="順位戦デビューからA級まで連続昇級">{{Cite journal ja-jp|author=[[中原誠]]|year=|title=我が棋士人生 第7回 米長永世棋聖の巻「タイトル戦初対決」|journal=[[将棋世界]]|serial=2019年1月号|publisher=[[日本将棋連盟]]|pages=114-119}}</ref><ref name=":41" /><ref name=":22" />{{refn|group="注釈"|2020年現在は昇級が確定した時点で昇段が決まるが、当時は期始めの4月1日に一括昇段であった。なお、昇級が確定したのは1958年2月27日で、京都府立木津高等学校3年在学中(18歳1か月)のことであった<ref name=":3" />。}}。「'''神武以来(じんむこのかた)の天才'''」と呼ばれ<ref name="神武以来の天才の軌跡"/><ref group="注釈" name="神武以来" />、[[朝日新聞]]の「[[天声人語]]」でも取り上げられるなど<ref name=":10">{{Cite web|和書|url=http://digital.asahi.com/articles/DA3S13166807.html?_requesturl=articles%2FDA3S13166807.html&rm=150|title=(サザエさんをさがして)加藤一二三 ヒー・フー・ミーの快進撃|publisher=[[朝日新聞]]|accessdate=2017-10-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171008171623/http://www.asahi.com/articles/DA3S13166807.html|archivedate=2017-10-08}}</ref>、大きな反響があった<ref name=":0" />。当時の昇段規定は順位戦のみだったこともあり、これは順位戦の各昇級と各昇段のいずれも当時の最年少記録を次々と塗り替えていく結果も意味していた<ref name=":41" /><ref name=":51" /><ref name=":1">{{Cite news|title=藤井七段、最年少八段へ「また戦える」2期連続で竜王戦決勝トーナメント|date=2018-06-06|url=https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180606-OHT1T50000.html|accessdate=2018-09-10|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180910094359/https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180606-OHT1T50000.html|archivedate=2018-9-10|work=[[スポーツ報知]]}}</ref>。 順位戦以外のタイトル棋戦や、一般棋戦での活躍も顕著であり、1955年11月22日には当時始まった新人棋戦である第1回[[名棋戦|六、五、四段戦]]で優勝し、15歳10か月で最年少棋戦優勝記録を樹立した<ref name=":16">{{Cite journal ja-jp|author=渡辺壮大|year=|title=第11回朝日杯将棋オープン戦[準決勝・決勝]藤井聡太 新伝説の始まり|journal=将棋世界|serial=2018年4月号|publisher=[[日本将棋連盟]]|naid=|pages=28-36}}</ref>。また、1956年度には16歳で[[王将戦]]リーグ入りし<ref name=":47">{{Cite web|和書|title=7月18日、王将戦リーグ入りを目指して佐藤康光九段(49)と藤井聡太七段(16)が対戦|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b48b00a3a224e935c4e7212cb7ca795ef0c780d8|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2019-08-01|language=ja|publisher=[[ヤフー (企業)]]|author=松本博文(将棋記者)|archiveurl=https://megalodon.jp/2019-0802-0712-12/https://news.yahoo.co.jp:443/byline/matsumotohirofumi/20190717-00134602/|archivedate=20198-1}}</ref><ref name=":48">{{Cite web|和書|title=ツィート|url=https://twitter.com/mtmtlife/status/1151380507646500864|website=[[Twitter]]|date=2019-07-16|accessdate=2019-08-01|language=ja|last=|publisher=|author=松本博文(将棋記者)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190801215525/https://twitter.com/mtmtlife/status/1151380507646500864|archivedate=2019-8-1}}</ref>、1957年1月24日には[[東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦|高松宮賞争奪選手権戦]]で優勝して、新人棋戦を除く公式棋戦の最年少優勝記録17歳0か月を樹立した<ref>{{Cite journal ja-jp|author=|year=|title=現役棋士データブック2016下(た - わ行)「羽生善治」|journal=将棋世界|serial=2016年2月号付録|publisher=[[日本将棋連盟]]|naid=|pages=28-31}}</ref>。 こうした最年少記録は、先述した62年後の2016年に四段となった藤井聡太が登場するまで脅かされることすらなく、四段昇段(14歳2か月)、初勝利(14歳5か月)、一般棋戦優勝(15歳6か月)<ref name=":16" /><ref name="nikkei20180217">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27056420X10C18A2000000/|title=藤井五段が棋戦最年少優勝、朝日杯 中学生初の六段に|accessdate=2018-2-18|date=2018-2-17|publisher=[[日本経済新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180217163214/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27056420X10C18A2000000/|archivedate=2018-2-18}}</ref>、全棋士参加棋戦優勝(15歳6か月)と藤井に更新されてしまったものもあるが、王将戦リーグ入りや<ref name=":47" /><ref name=":48" />、参加時期のズレ{{refn|group="注釈"|上記の通り、加藤はプロ入りしたその年の順位戦に参加できたが、藤井は10月プロ入りで翌期からの順位戦参加であったため、C級2組の1期抜けは共に同じでも、年齢記録には差が出てしまう}}による順位戦の各記録は破られていない<ref name=":15" />(ただし、当時とは昇段規定が異なるため六段、七段、八段昇段は藤井に更新されている)。 A級初年度となった[[第13期順位戦]]は4勝5敗の負け越しで8位という成績であったが、2年目の[[第14期順位戦|第14期]](1960年度)は6勝2敗で名人挑戦権を得た。20歳3か月の挑戦は、他棋戦のタイトル初挑戦も含め、当時の最年少記録であり、2020年現在においても名人挑戦は最年少記録を維持している<ref>{{Cite web|和書|title=天才・藤井聡太七段(17) B級2組昇級決定! 史上最年少20歳名人誕生の可能性もキープ|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/be8e0027572e541235462fb5a8d4f7786670b122|website=Yahoo!ニュース 個人|accessdate=2020-02-06|language=ja|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|author=[[松本博文]]|authorlink=|date=2020-2-4|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0206-1401-15/https://news.yahoo.co.jp:443/byline/matsumotohirofumi/20200204-00161745/|archivedate=2020-2-6}}</ref>。名人挑戦権を獲得する少し前の1960年2月1日には、朝日新聞朝刊の新聞漫画『[[サザエさん]]』で、活躍する若者の代表として、[[力士]]の[[大鵬幸喜]](加藤より1学年下)と共に「しょうぎの加藤八段」として言及された<ref name=":10" />。しかし、第19期名人戦七番勝負は1勝4敗で[[大山康晴]]名人に敗れた。 === タイトル戦での大山・中原との対決 === 新進気鋭の天才として若くしてトップ棋士となったものの、タイトル獲得には時間がかかった。 1960年代は、上記の名人戦を皮切りにタイトル戦に7回登場したが、相手はいずれも大山であった。当時は大山の全盛期であり、毎年全部ないしはほとんどのタイトルを大山が占めていた。しかし、6度目のタイトル挑戦となった1968年度の[[第7期十段戦 (将棋)|第7期十段戦]]において、大山十段(名人を含む四冠)をフルセットの接戦の末に破り、プロ15年目、29歳で、ついに初のタイトル獲得を果たした。7回目はその防衛戦([[第8期十段戦 (将棋)|第8期十段戦]])であり、大山の挑戦を受ける形となったが2回の千日手を含む2勝4敗で失冠した。 1970年代から1982年にかけては、一転して[[中原誠]]との対決の時代となる(将棋界が「大山時代」から「中原時代」に移行したことも意味する)。 この期間、タイトル戦に14回登場したがそのうち中原との対決は9回にも上った。最初の対決は1973年度の名人戦であり、前年に13年に渡って君臨していた大山から名人位を獲得した中原に挑む形であった(よって中原の初名人防衛戦でもあった)。しかしストレート負けを喫し、以降、中原には十段戦において第15期(1976年度)、第16期(1977年)と連続で挑んだが、いずれも退けられた。中原との対戦成績は、最初の22局([[第15期十段戦 (将棋)|第15期十段戦]]第1局まで)においては1勝21敗と惨憺たるものとなっていた。 一方、棋王戦においては1976年度に[[大内延介]]から2度目のタイトルを獲得し、翌1977年度に中原の挑戦を受けるが今度は逆にストレートで防衛を果たした。これは当時五冠で、棋王を獲得すれば全六冠達成が掛かっていた中原を阻む快挙でもあった(結果、これが中原の複冠の最高記録となる)。続く1978年度では[[第28期王将戦]]でも中原からタイトルを獲得し、2冠を達成した。しかし、防衛は両方果たせず、棋王は米長に、王将は大山に奪取され(これは大山の最年長タイトル奪取記録でもある)、2冠は僅かな期間であった。その後は、1980年度の[[第19期十段戦 (将棋)|第19期十段戦]]で中原より十段を奪還し、翌年度の[[第20期十段戦 (将棋)|第20期十段戦]]では米長の挑戦を受けたが防衛を果たす。圧倒的に負け越していた中原に対しても、この期間においては勝ちこしている。 この期間(1960年度-1981年度)はタイトル戦は防衛を含んで19期に及んだが、もっぱら上記の通り大山と中原に阻まれる形で獲得タイトルは6期に留まった。一方で一般棋戦での活躍はめざましく、特に[[NHK杯将棋トーナメント]]では6度の優勝を果たした(1960年・1966年・1971年・1973年・1976年・1981年)。また、1973年には当時の連盟会長であった[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]の提案により、九段昇格規定が見直され、新制度(点数制)の規定に基づき、運用が開始された11月3日付で中原誠・[[二上達也]]・[[丸田祐三]]と共に九段に昇格した(これ以前で九段であったのは名人3期以上の経験者である[[塚田正夫]]・[[大山康晴]]・[[升田幸三]]の3名のみ)。 === 名人獲得とその後のタイトル戦 === 1982年度の[[第40期順位戦]]A級において8勝1敗の成績で3度目の名人挑戦権を得た。相手は[[第27期順位戦|第27期]](1973年度)での初対決以来、一度も名人位を失冠することがなかった9連覇中の中原であった。この勝負は、4勝3敗・1持将棋・2千日手という実質十番勝負の熱戦となり、初挑戦から22年、42歳で念願の名人位を獲得した。また、十段と合わせ2度目の2冠制覇でもあった。 同年度の[[第21期十段戦 (将棋)|第21期十段戦]]は挑戦者となった中原に敗れ、これが中原との最後のタイトル戦となった。トータルでは中原とは9回のタイトル戦の中で4回獲得(防衛含む)しており、結果としては全盛期の中原に対して大善戦した形となった。 翌年度の名人戦(第41期)の相手は、かつての加藤と同じく20歳で名人挑戦者となった[[谷川浩司]]であった(挑戦の最年少記録としては加藤の方が数ヶ月早く、番勝負開始の数日前に谷川は21歳になった)。立場を変えて、かつての大山のように挑戦者の最年少記録を阻もうとする形となったが、勝負は2勝4敗で敗れ、谷川は最年少名人記録(21歳)を達成した。 その後は、1984年度の[[第25期王位戦]]で当時の若手実力者であった[[高橋道雄]]から生涯8つ目となるタイトルを奪取するが、翌年に高橋に奪還された。以降はタイトル戦に登場することはなく、通算24期登場、うち獲得合計8期となった。 一般棋戦においては全盛期ほどではなかったものの、1990年の[[早指し将棋選手権]]においては50歳にして3度目の優勝を、1993年度のNHK杯では54歳で7度目の優勝を果たした(これは当時、大山の優勝8回に次ぐ記録)。なお、この優勝により、10歳代から50歳代まで各10年ごと、また同時に1950年代から1990年代の各年代で一般棋戦優勝を達成したことになった。 また、1989年8月21日には大山に次いで史上2人目の通算1,000勝([[特別将棋栄誉賞]])を達成した。 === 順位戦での活躍 === 上記の経歴の通り、加藤は順位戦に第9期(1955年度)から参加し、4年連続でストレート昇級して第13期(1959年度)から18歳という史上最年少でA級に在籍した。これ以来、途中何度かB1に落ちながらも[[第60期順位戦|第60期]](2002年度)に62歳2か月で陥落するまでA級通算36期(名人在位を含む)の記録を達成した。これは通算数、最年長記録共に、現役A級のまま死去した大山の通算44期、69歳4か月に次ぐ記録である。途中陥落があったために、連続としての最高は19期であり、これは一度も陥落することが無かった中原(29期)や米長(26期)、また谷川(32期)には及ばなかったが、生涯4回のA級復帰の内、[[第16期順位戦|第16期]](1961年度)、[[第21期順位戦|第21期]](1966年度)、[[第23期順位戦|第23期]](1968年度)はB1から1期での返り咲きであり、[[第51期順位戦|第51期]](1992年度)の復帰は一般に棋士のピークが過ぎたと言われる53歳での達成であった。 一方で、名人挑戦は生涯に3度だけであり、最初はA級在籍2年目の第14期(1960年度)にして果たす(対大山名人)が獲得に至らず、その後は13年ぶりの第27期(1973年度)にて挑戦するが中原名人に阻まれた。そして[[第40期順位戦|第40期]](1982年度)、42歳で3度目の挑戦権を得て、再び中原名人に挑み、獲得した。 後述のように62歳でのA級陥落以降は[[第63期順位戦|第63期]](2005年度)B級2組、[[第68期順位戦|第68期]](2010年度)C級1組、[[第73期順位戦|第73期]](2015年度)C級2組と段々と降級し続けていったが、フリークラス宣言や引退はしなかった。途中では全敗する期もあったが([[第71期順位戦|第71期]]、[[第74期順位戦|第74期]])、最終期となった[[第75期順位戦|第75期]]は1勝9敗であり、順位戦での最後の対局(敗局)は[[上村亘]]、最後の勝利局は同期第3局の[[八代弥]]であった。 === 60歳A級とキャリア終盤の戦い === 順位戦においては上記の通り、第51期(1992年度)に53歳でA級に復帰した後も、これを維持し、2000年にはA級在籍のまま還暦(60歳)を迎えた。間もなく[[花村元司]]の記録を抑えて、大山の記録に次ぐ、A級年長記録を達成した。翌2001年には史上3人目の通算1,200勝を達成した(1,000勝が2人目で、今回が3人目なのは途中で中原に抜かれたためである)。棋士会においては、自身が九段昇段後の1,000勝を達成したことを示し、(タイトル称号の「十段」ではなく)段位としての「十段」の新設を提案した。 また、1988年度に十段戦を発展解消する形で始まった[[竜王戦]]においては[[第1期竜王戦|第1期]]から[[第4期竜王戦|第4期]](1992年度)まで1組に在籍した。その後、1組に復帰することはなかったが、[[第10期竜王戦|第10期]](1997年度)では昇級者決定戦で3組から2組への昇級を決め、その後、2期維持した。しかし、決勝トーナメントへの出場は1度も果たせなかった。 第60期順位戦(2002年度)にて62歳2ヶ月でB級1組への降級が決まる。B級1組は2期在籍したが第62期(2004年度)にさらにB級2組へ降級した。これまでの名人経験者は、B級1組以上の在籍を維持したままの引退・現役死去・フリークラス宣言の事例のみであったが、加藤はこのまま順位戦に留まり、規定により引退するまで指し続けることを宣言した。実際、加藤は後述のようにC級2組で降級点3つを取り、第75期(2017年度)にて規定により引退するまで順位戦を指し続けた。このため、名人経験者によるB級2組、C級1組、C級2組参加及び、C2陥落に伴う規定による引退は加藤が史上初であった。 2007年8月22日、[[朝日杯将棋オープン戦]]予選で、[[戸辺誠]]四段との対局において、史上初の通算1,000敗を記録する(1,261勝1,000敗)<ref>{{Cite news|title=加藤一二三九段 公式戦通算1000敗を記録|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2007-8-22|url=https://www.shogi.or.jp/news/2007/08/_1000.html|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512155717/https://www.shogi.or.jp/news/2007/08/_1000.html|archivedate=2018-5-12}}</ref>。一見、不名誉な記録にも見えるが、1敗すればそこで終わってしまうトーナメント戦が多い将棋の公式戦において、敗数が多いということは、加藤のキャリアの長さもさることながら、タイトル戦の番勝負や挑戦者決定リーグ戦に数多く登場したことを意味する(例えばプロ棋士として制度上のキャリア最短の記録を持つ[[熊坂学]]の通算敗数は156敗であり、ただ負けが多いだけでは1000敗は達成できない)。なお、本人はテレビでこの話題に触れられた際、「150局くらいは逆転負けでした」と述べている。また、同日時点での通算敗数の史上2位は有吉道夫九段の955敗(1,061勝)であり、その後、有吉も通算1,000敗を記録した。 一方では勝ち星も着実に集め、2011年11月1日、史上3人目の1,300勝を達成した<ref>{{Cite news|title=加藤一二三九段、1300勝を達成!|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2011-11-2|url=https://www.shogi.or.jp/news/2011/11/1300.html|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512160151/https://www.shogi.or.jp/news/2011/11/1300.html|archivedate=2018-5-12}}</ref>。2012年7月26日には通算勝数歴代2位の中原誠に並ぶ1,308勝を達成し<ref>{{Cite news|title=加藤九段、通算勝数歴代2位に並ぶ1308勝を達成!|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2012-7-26|url=https://www.shogi.or.jp/news/2012/07/1308.html|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512160410/https://www.shogi.or.jp/news/2012/07/1308.html|archivedate=2018-5-12}}</ref>、翌年2月15日の[[第63期王将戦]]1次予選・対[[藤森哲也]]四段戦での勝利によって公式戦通算成績が1,309勝となり、歴代単独2位となった<ref>{{Cite news|title=加藤九段、通算勝数歴代単独2位の1309勝を達成!|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2013-2-15|url=https://www.shogi.or.jp/news/2013/02/1309.html|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512172348/https://www.shogi.or.jp/news/2013/02/1309.html|archivedate=2018-5-12}}</ref>。一方、3月12日の[[第71期順位戦]]C級1組10回戦において[[阿部健治郎]]に敗北し、通算1,100敗を記録した(1,309勝1,100敗)<ref>{{Cite news|title=加藤一二三九段、史上初の通算1100敗に|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2013-3-13|url=https://www.shogi.or.jp/news/2013/03/1100_1.html|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512161204/https://www.shogi.or.jp/news/2013/03/1100_1.html|archivedate=2018-5-12}}</ref>。 順位戦においてはC級1組に在籍した第69期(2011年度)、第70期(2012年度)では降級点回避のみならず、70歳を過ぎて5勝5敗で指し分けるといった活躍を見せたが、翌71期(2013年度)は順位戦で初めて全敗した。翌72期(2014年度)も全敗は免れたものの、1勝9敗という成績でC級2組への降級が決まった。 他の公式戦では、2010年の[[第81期棋聖戦]]にて70歳で挑戦者決定トーナメントに進出する。結果として、これが公式戦本戦クラス進出の最後となった。 === 現役最晩年 === 2014年4月、74歳3ヶ月の加藤は1954年の順位戦登場以来、59期・60年ぶりにC級2組を迎えた。同組では規定によって降級点が3つになると引退が決定となるが、言い換えればこのまま現役を続ける限り、3期連続で降級点をとっても最低でも77歳3か月で引退することになり、[[丸田祐三]]が持つ現役最年長記録77歳0か月を更新する可能性が出てきた(なお、同時期、同じ条件には加藤より1か月ほど生まれが早い[[内藤國雄]]もいたが2015年度に自ら引退した)。ここからは各種の最年長記録や年齢差対決、また、その長いキャリアによって生じた珍記録がメディアに注目されるようになっていく。 2015年3月11日の[[第41期棋王戦]]予選3回戦で増田康宏(当時17歳4か月)と対局し勝利する。75歳の加藤との年齢差58歳は、年長棋士側から見た史上最多年齢差勝利となった。しかし、この後の岡崎洋六段戦から連敗を喫し、第74期順位戦全敗や2016年度全敗(0勝20敗)を含む公式戦23連敗となった。A級経験者の年度全敗は、2013年の[[田丸昇]]九段(当時はフリークラス在籍で0勝10敗)以来であった。 2016年12月24日の[[第30期竜王戦]]6組の初戦では、14歳2か月でプロ棋士(四段)となった[[藤井聡太]]のデビュー戦の対局相手となり、藤井は加藤が持っていた史上最年少棋士記録(14歳7か月)を62年ぶりに更新<ref name="い">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/article/igo-shogi/news/CK2016122502000184.html|title=藤井四段 白星デビュー 14歳プロ棋士76歳加藤九段破る|accessdate=2017-06-21|date=2016-12-25|publisher=[[中日新聞]]|archiveurl=https://megalodon.jp/2017-0621-2116-46/www.chunichi.co.jp/article/igo-shogi/news/CK2016122502000184.html|archivedate=2017-06-21}}</ref>、また、当時76歳8か月の加藤との対局は公式戦で最も離れた年齢差(62歳6か月)の対局となった(結果は110手で藤井の勝ち)<ref name="い" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/column/2016/12/fujikato01.html|title=14歳vs76歳!藤井聡太四段のデビュー戦対局相手は、現役最高齢の加藤九段。これまでの年の差対局の結果は?(ライター:佐藤友康)|accessdate=2017-06-21|date=2016-12-22|publisher=日本将棋連盟|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170621105429/https://www.shogi.or.jp/column/2016/12/fujikato01.html|archivedate=2017-06-21}}</ref>。{{Anchors|史上唯一の根拠}}また、藤井は初の21世紀生まれプロ棋士(2002年生まれ)であったため、19世紀生まれ([[村上真一]]と[[野村慶虎]]の2名<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/column/2016/12/14_vs_76.html|title=14歳、藤井聡四段 vs 76歳、加藤九段がいよいよ対局。それぞれの意気込みを聞いてみた(本人コメントあり)(ライター:相崎修司)|accessdate=2017-06-21|date=2016-12-23|publisher=日本将棋連盟|archiveurl=https://megalodon.jp/2017-0621-1915-12/https://www.shogi.or.jp:443/column/2016/12/14_vs_76.html|archivedate=2017-06-21}}</ref>)、20世紀生まれ、21世紀生まれの3つの世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した記録を達成した<ref name="い" /><ref>{{Cite journal ja-jp|author=鈴木宏彦|year=|title=第30期竜王戦ランキング戦6組 加藤一二三九段vs藤井聡太四段 天才の系譜を継ぐ者|journal= 将棋世界|serial=2017年3月号|publisher=日本将棋連盟|naid=|pages=54-62}}</ref><ref name="sanspo20161224">{{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/etc/news/20161224/amk16122405000001-n1.html|title=加藤一二三九段、孫と戦うような新旧天才対決を前に、大熱戦を予告|accessdate=2017-04-26|date=2016-12-24|publisher=[[サンケイスポーツ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170427095951/http://www.sanspo.com/etc/news/20161224/amk16122405000001-n1.html|archivedate=2017-04-27}}</ref>。2014年の時点で19世紀生まれの棋士との対局経験がある現役棋士は加藤のみであったため<ref>{{Harvnb|加藤|2014|p=|pp=35-38|loc=第1章 通算千敗からいかに学ぶか-大スターから受けた薫陶}}</ref>、この記録は今後も加藤が唯一のものとなる。 2017年1月3日に丸田祐三が持っていた最年長現役棋士記録(77歳+1日)を<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2017/01/77.html|title=加藤九段、77歳で最高齢対局記録へ!|accessdate=2017-08-12|date=2017-01-12|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170805230441/https://www.shogi.or.jp/news/2017/01/77.html|archivedate=2017-08-05}}</ref>、1月12日に同じく丸田が持っていた最年長対局記録(76歳11か月)を<ref name=":2" />、さらに1月20日には最年長勝利記録(同)を<ref name=":12" /><ref name="最年長勝利記録">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2017/01/post_1502.html|title=加藤九段、最高齢勝利!|accessdate=2017-08-12|date=2017-01-20|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170805190234/https://www.shogi.or.jp/news/2017/01/post_1502.html|archivedate=2017-08-05}}</ref>、それぞれ77歳0か月で更新した。一方で順位戦(第75期)はすでに降級点が2つ付いており、今期に降級点が付けば引退が決まっていた。3回戦で八代弥に勝利したものの、他の対局で敗戦が続き、8回戦終了時点で1勝7敗の成績(1回戦は抜け番)であった。この時点で、加藤が降級点を回避できる条件は、残りの2局を加藤が連勝し、同時点で2勝しかしていない棋士のうち7人が全敗をすることだった。1月19日、当該7人の1人である竹内雄悟が佐藤慎一に勝利したことで、降級点回避条件を満たせなくなり、[[引退#棋士|フリークラス規定]]による加藤の引退が確定した(残り棋戦の全対局を完了した時点で引退となる)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGR09H3G_Z00C17A8000000/|title=将棋 加藤九段、引退へ…C級2組から陥落 最年長77歳|accessdate=2017-08-12|date=2017-01-19|publisher=[[毎日新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170131195903/http://mainichi.jp/articles/20170120/k00/00m/040/124000c|archivedate=2017-01-31}}</ref>。 引退が決定した翌日の1月20日の[[第88期棋聖戦 (将棋)|第88期棋聖戦]]二次予選・対[[飯島栄治]]戦(この時点の飯島は、順位戦B級1組・竜王戦2組の強豪棋士)では、結果としては現役最後となる勝ち星を挙げ、大きな注目を集めた<ref name=":12">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASK1N5Q7VK1NUCVL02C.html|title=加藤一二三九段が史上最年長勝利「残る対局を頑張る」|accessdate=2017-12-21|date=2017-01-20|publisher=[[朝日新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171221082713/https://www.asahi.com/articles/ASK1N5Q7VK1NUCVL02C.html|archivedate=2017-12-21}}</ref><ref>[[藤田麻衣子 (女流棋士)|藤田麻衣子]]「第89期棋聖戦-2次予選特選局-第5局 先▲九段 鈴木大介 △七段 飯島栄治-第5譜」 『産経新聞』(東京本社)2017年12月17日付朝刊、12版、8面、囲碁・将棋欄。</ref>。これによって先述の通り丸田が持っていた最年長勝利記録を更新した<ref name="最年長勝利記録" />。この対局について飯島はTwitterで「今日の加藤一二三九段戦は完敗でした。」と述べ、形勢不明の場面で出た加藤の妙手について記した<ref>{{Cite web|和書|title=ツィート|url=https://twitter.com/eijijima/status/822447015648841732|website=|date=2017-01-20|accessdate=2019-03-04|language=ja|last=|publisher=[[Twitter]]|author=[[飯島栄治]]|archiveurl=https://megalodon.jp/2019-0304-2142-19/https://twitter.com:443/eijijima/status/822447015648841732|archivedate=2019-3-4}}</ref>。また、この勝利によって棋聖戦次戦は[[佐藤天彦]]名人と当たることになり(2月8日)、現役の名人と引退直前の棋士が対局する極めて稀な事態が起こった<ref name="asahi20170208">{{cite news | url=http://www.asahi.com/articles/ASK285GZLK28UCLV00N.html | title=77歳の加藤九段、29歳佐藤名人に敗北 新旧名人対決 | date=2017-02-08|publisher=[[朝日新聞社]]|accessdate=2017-07-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170208171440/http://www.asahi.com/articles/ASK285GZLK28UCLV00N.html|archivedate=2017-02-08}}</ref>。この対局は自分自身を除く、[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]以来の実力制全名人経験者との対戦ともなった(なお、名人就位前の佐藤とは既に対局経験があり初対局だったわけではない<ref name="asahi20170208" />。一方で加藤引退後に名人となった[[豊島将之]]との対局経験はない)。 現役最後の対局は2017年6月20日の[[第30期竜王戦]]6組昇級者決定戦での対[[高野智史]]戦となり、これに敗れ、加藤はこの日をもって現役引退となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170620/k10011024221000.html|title=加藤一二三 九段敗れて現役引退|accessdate=2017-08-12|date=2017-06-20|publisher=[[日本放送協会]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170620121011/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170620/k10011024221000.html|archivedate=2017-06-20|deadlinkdate=2017-08-12}}</ref>。通算成績は1,324勝1,180敗(対局数2,505)。現役最年長記録77歳5か月を樹立。加藤は、事前に連盟を通じて各報道機関に「この日は記者会見はしない。後日に行う」と通知していた<ref name=":25">{{Harvnb|加藤|2017|p=|pp=20-24|loc=第1章-現役63年目の最終対局}}</ref>。実際の対局では投了する少し前にタクシーを呼んでおき、また観戦記者に感想戦はしない旨を伝え、投了すると集まっていた報道陣には無言のまま直ちに帰宅した<ref>{{Cite news|title=将棋・加藤九段が引退 最高齢77歳、敗れて無言|date=2017-6-21|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO17911600Q7A620C1CR8000/|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512170224/https://www.nikkei.com/article/DGXLZO17911600Q7A620C1CR8000/|archivedate=2018-5-12|work=[[日本経済新聞]]}}</ref>。後に自著において加藤は長年にわたり苦楽を共にした妻に直接、引退のことを告げるのを最優先したかったと述べている<ref name=":25" />。 その後、加藤は自身の[[Twitter]]で将棋界を支えるスポンサー、将棋ファンに直接に語りかけた。 {{quotation| 10歳のとき新聞の観戦記に触れ将棋の本質を悟ったわたくしが、天職である将棋に、最善の環境の中、生涯を懸け全身全霊を傾け打ち込むことができましたのは、御支援賜りましたスポンサー、将棋ファンすべての皆様おひとりおひとりのおかげに他なりません。幸せな棋士人生をありがとうございました。 |加藤一二三|<ref name=":25" /><ref>{{Cite news|title=加藤一二三 @hifumikato のツィート|date=2017-6-20|authorlink=|url=https://twitter.com/hifumikato/status/877148513728995333|accessdate=2018-07-12|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180712095747/https:/twitter.com/hifumikato/status/877148513728995333|archivedate=2018-7-12|work=[[Twitter]]}}</ref> }} なお、加藤はまだ気力・体力ともに衰えておらず、公式戦対局への情熱も失っていなかったと言い、将棋界の制度による引退は仕方がなかった、もしそうした制度がなければずっと戦い続けていただろう、と述べている<ref>{{Harvnb|加藤|2017|p=|pp=24-28|loc=第1章-引退は年齢のせいではない}}</ref>。また、名人位に就いたこともある自分が、その35年後にC級2組にまで下がり、規定で引退することになるまで現役を続けたのは、「77歳でC級2組に在籍していても、名人以外のタイトルは獲得できる」ことに大きな可能性を感じていた、棋士の世界では最後までチャンスがあるのだ、と述べている<ref>{{Harvnb|加藤|2017|p=|pp=29-32|loc=第1章-名人位獲得から35年後の引退}}</ref>。 6月30日に、東京・将棋会館で引退に際しての記者会見を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match_news/2017/06/50100.html|title=加藤一二三九段、引退会見「50年100年色褪せない名局を指せたことが誇り」|accessdate=2017-07-02|date=2017-06-30|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170701152206/https://www.shogi.or.jp/match_news/2017/06/50100.html|archivedate=2017-07-01}}</ref>。記者会見に参加した報道機関は、40社・100名に及んだ<ref name=":7">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1848101.html|title=加藤一二三・九段が引退会見「神様のお恵みだった」|accessdate=2017-07-02|date=2017-06-30|publisher=[[日刊スポーツ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170630081124/https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1848101.html|archivedate=2017-06-30}}</ref>。 62年10か月の間の通算対局数は2,505局に及ぶが<ref name=":44" />、休場、不戦敗は一度もなかった<ref name=":44">{{Harvnb|加藤|2017|p=|pp=32-34|loc=第1章-名人位獲得、対局数歴代1位を始めとした記録ずくめの棋士人生}}</ref><ref name=":45">{{Cite web|和書|title=ツィート|url=https://twitter.com/hifumikato/status/1141590620164648960|website=[[Twitter]]|date=2019-06-19|accessdate=2019-06-20|language=ja|first=|last=|publisher=|author=加藤一二三|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190620080341/https:/twitter.com/hifumikato/status/1141590620164648960|archivedate=2019-6-20}}</ref><ref name=":45" />。また、1954年8月1日に四段となってから、2017年6月20日に引退するまでの現役勤続年数(62年10か月)は歴代1位である<ref name=":26">{{Harvnb|加藤|2017|p=27|pp=|loc=第1章-「挑戦し続ける!」加藤一二三の主な記録}}</ref>。これは最年少プロ入りかつ最年長引退によって生じたために圧倒的な記録であり、例えば他に70歳を超えて現役であった棋士に内藤國雄(1958年四段 - 2015年引退)や有吉道夫(1955年四段 - 2010年引退)がいるが、60年にも届かない。また、加藤以前の最年長記録者であった丸田は兵役によるブランクで1946年に27歳で四段入りした経歴のため、ちょうど50年(1946年4月1日-1996年3月31日)だった。 === 現役引退後 === [[File:Kato Hifumi.jpg|thumb|right|小学生と対局する加藤一二三 九段(2018年10月)]] 2017年6月23日に[[仙台白百合女子大学]]客員教授に就任<ref> {{Cite web|和書|url=http://sendai-shirayuri.ac.jp/news/20170630_163324.html|title=加藤一二三氏、本学客員教授に就任|accessdate=2017-06-30|date=2017-06-30|publisher=[[仙台白百合女子大学]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170630085728/http://sendai-shirayuri.ac.jp/news/20170630_163324.html|archivedate=2017-06-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2017/06/30/0010329110.shtml|title=加藤一二三九段 女子大の客員教授に「大変感激」現役引退会見で報告|accessdate=2017-06-30|date=2017-06-30|publisher=[[デイリースポーツ]]|archiveurl=https://megalodon.jp/2017-0630-1807-30/https://www.daily.co.jp:443/gossip/2017/06/30/0010329110.shtml|archivedate=2017-06-30}}</ref><ref name=":11" />。加藤の次女が同大学の教員という縁があった<ref name=":11">{{Cite web|和書|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201707/20170701_13010.html|title=<加藤一二三>仙台白百合女子大の客員教授に|accessdate=2017-10-09|publisher=[[河北新報]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171008173643/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201707/20170701_13010.html|archivedate=2017-10-08}}</ref>。客員教授としての初仕事は、同年10月29日、同大学の学園祭での「私の学生時代」をテーマとするトークショーであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201710300000041.html|title=加藤一二三が女子大デビュー、学園祭でトークショー|accessdate=2017-11-03|date=2017-10-30|publisher=[[日刊スポーツ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171102194931/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201710300000041.html|archivedate=2017-11-02}}</ref>。 2017年7月1日に[[ワタナベエンターテインメント]]とマネジメント契約を結んだ<ref> {{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/geino/news/20170704/geo17070405050004-n1.html|title=ひふみん、ワタナベエンタ入り!同郷の「瀬戸康史さんとのご縁も」|accessdate=2017-07-04|date=|publisher=[[サンケイスポーツ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170704013929/http://www.sanspo.com/geino/news/20170704/geo17070405050004-n1.html|archivedate=2017-07-04}}</ref>。引退する5年ほど前からバラエティ番組に出演していたが<ref name=":24">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201712030000514.html|title=加藤一二三、今年の漢字は飛車の「飛」飛躍の1年|accessdate=2018-2-13|date=2017-12-3|publisher=[[日刊スポーツ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180212220915/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201712030000514.html|archivedate=2018-2-13}}</ref>、引退後はメディア出演が増えている<ref name=":23" /><ref name=":24" /><ref>{{Cite news|title=引退したけど夢で必死に対局 叙勲受章の加藤一二三さん|date=2018-4-29|url=https://www.asahi.com/articles/ASL4W66F9L4WUCVL01S.html|accessdate=2018-04-29|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180429035605/https://www.asahi.com/articles/ASL4W66F9L4WUCVL01S.html|archivedate=2018-4-29|work=[[朝日新聞]]}}</ref>。[[NTSC|地上波テレビ]]への出演に加え、[[インターネット]]の配信やイベントへの出演も多い<ref name=":46">{{Cite web|和書|title=現役最後の対局で新たな伝説を残した加藤一二三九段――あれから2年、変わらない将棋愛|朝日新聞記者の将棋の日々|村瀬信也(朝日新聞 将棋担当記者)|url=https://www.gentosha.jp/article/13286/|website=幻冬舎plus|accessdate=2019-07-05|language=ja|publisher=[[幻冬舎]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190705182139/https://www.gentosha.jp/article/13286/|archivedate=2019-7-5|author=村瀬信也(朝日新聞 将棋担当記者)}}</ref>。[[Twitter]]で頻繁に情報を発信している<ref name=":46" />。 2017年11月2日に[[胆嚢炎|胆石性急性胆嚢炎]]と診断され、同日に手術を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20171102-OHT1T50189.html|title=加藤一二三九段、「急性胆嚢炎」で手術「一週間ほど術後の休養を取らせていただきます」|date=2017-11-02|publisher=[[スポーツ報知]]|accessdate=2017-11-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171102193944/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20171102-OHT1T50189.html|archivedate=2017-11-02}}</ref>。 == 棋風 == 半世紀にわたる棋士人生を通して[[将棋の戦法一覧#対抗型居飛車の戦法一覧|居飛車]]党を貫き、数々の定跡の発展に貢献してきた。また、[[棒銀]]を代表として良いと思った戦型はひたすら採用し続ける傾向にあり、勝率が高い流行りの戦法があっても自身の棋理を重視し、採用しないことが多かった。 === 戦法 === 特に[[棒銀]]を好み、加藤棒銀と呼ばれるほどその採用率は高かった。相手の[[四間飛車]]への対抗策として[[穴熊]]([[居飛車穴熊]])が一般的に採用されていた時期でも、変わらず棒銀で挑み続けていた。また、[[角換わり]]の将棋においても、棒銀を採用する傾向にあった(一般的には[[腰掛け銀]]を採用する棋士が多い)。また、棒銀以外には[[矢倉3七銀#加藤流|矢倉▲3七銀戦法]]や、[[中飛車]]に対する[[袖飛車]]からの急戦は「加藤流」と呼ばれ、多くの棋士が採用している。 対[[振り飛車]]戦においては特に[[大山康晴]]との戦いの経験を生かして作り上げた[[居飛車舟囲い急戦]]の各種の定跡において、加藤の創案が多い。対[[三間飛車破り]]の急戦も、加藤の創案した仕掛けが多い。基本的に振り飛車には[[急戦]]で立ち向かうが、1980年に居飛車穴熊を主に対大山戦で数局ほど採用したことがある。 [[ひねり飛車]]や[[横歩取り3三桂]]のような空中戦も得意としており、後者は一時期後手番でも採用したことがある。さらにその後は、後手番では[[矢倉中飛車]]を多用した。 棒銀に見られるように駒の中では「[[銀将]]」が好きだと述べ、理由として鋭角的でどんどん前に出るから、うまくいけば良くなるからだという。また、その様を会社で例えれば改革で業績を拡大するイメージがあるとして「銀は営業部長」と評している<ref name="densetsu">(将棋ニュースプラス「ザ・加藤一二三伝説」本人談より)</ref>。 === 長考派・1分将棋の神様 === 常に最善手を探すタイプのため、長考を厭わなかった。この長考のために終盤は持ち時間が無くなり、秒読みに追い込まれることが多かったが、そこからがまた強く「1分将棋の神様」と呼ばれ、[[早指し]]棋戦の名手でもあった<ref name=":31" />。しかし本人はクリスチャンなので「1分将棋の”達人”」と呼ばれたいと語っている。 長考の有名なエピソードの1つが1968年の[[第7期十段戦 (将棋)|第7期十段戦]]第4局([[大山康晴]]に挑戦)におけるもので、二日目の初手において、前日の大山の[[封じ手]]に対して、1時間55分の長考をした。大山の封じ手は自明であり、実際に加藤の予想通りのものであったが、1日目夜の中断時間中に5時間検討し、その上でさらに2時間近くの大長考をしたものであった。この手は最善手であり、最終的に加藤が勝利した(また、この番勝負で初タイトルを獲得した)<ref name=":33">{{Harvnb|加藤|2018|p=|pp=118-125|loc=第1章 初タイトル-大山康晴名人と升田幸三九段}}</ref>。 早指し棋戦においては、[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]で[[羽生善治]]、[[大山康晴]]に次いで歴代3位の優勝7回を誇る。他の早指し棋戦([[早指し将棋選手権|早指し選手権戦]]、[[JT将棋日本シリーズ|日本シリーズ]]、[[早指し王位決定戦]])でも多くの優勝を重ねた。 長考やそれに伴う秒読みを恐れない姿勢は60歳を超えても変わらず、[[河口俊彦]]は下記のように評した。 {{quotation|何事にも例外はあるもので、年老いても秒読みになるのを恐れず、秒を読まれて誤ることの少ない人がいる。 <br />加藤一二三で、この人こそ、天才の中の天才である。パッと浮んだ手が常に最善手で、だから三十秒、四十秒、五十秒……とせき立てられても慌てない。すでに指す手を決めてあるから。 |河口俊彦|<ref name=":36">{{Harvnb|河口|2003|p=|pp=14-17|loc=序章-人間的な威圧感}}</ref> }} 一方で[[中原誠]]は「加藤さんが『1分将棋の神様』『秒読みに強い』とは言っても、随分、手を間違えている。むしろ、1分将棋・秒読みに強いと感じさせるのは[[羽生世代]]だ。」と述べており<ref>[[別冊宝島]]380「将棋王手飛車読本」</ref>、加藤自身も時間配分の失敗により敗局したものは100局を下らないと述べている。 === 評価 === 大山全盛期時代の棋界の第一人者の1人で、100局近く加藤と公式戦を指し、棋聖戦五番勝負での対局もある[[二上達也]]は下記のように加藤を評した。 {{Quotation|百人を超す棋士と対局したが、天才と言い切れる棋士は加藤一二三九段ただひとりである。読みが広く深く、かつ正確であった。<br />対局後の感想戦では、こちらの手順まで、あらゆる変化をしっかり読み切っている。加藤さんの読み筋から抜け出せないものがあった。私は後年、十八歳の羽生善治五段と対局したが、十八歳の加藤さんは羽生に勝りこそすれ、けっして劣りはしない。|二上達也『棋士』(2004年)|<ref name=":52">{{Cite web|和書|title=「天才と言い切れる棋士はただ一人」羽生善治九段の師匠・二上達也九段が絶賛した大天才はやっぱりあの人(松本博文) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ef881aa5728f3525c041b99439a20d358be8a67f|website=|accessdate=2020-05-20|language=ja|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|author=松本博文|authorlink=松本博文|date=2020-5-20|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0520-1322-04/https://news.yahoo.co.jp:443/byline/matsumotohirofumi/20200520-00179329/|archivedate=2020-5-20}}</ref> }} 一般に不利になりかねない特定の戦法に固執したことについて[[羽生善治]]は下記のように加藤を評した。 {{Quotation| (対戦相手の視点からは)作戦が立てやすいことは立てやすいが、100%同じ戦法で来るとなると不気味でもある。一つの戦法を突き詰めていくのも一つの生き方だし、一局一局が確実に次への知識になる。悪いことばかりでもないようだが、作戦が読まれて相手の研究にはまる危険性を考えると現実にそういう人はほとんどいない。だが加藤先生は全然恐れておられないようだ。 |羽生善治『羽生善治 好機の視点』小学館文庫 }} == 師弟関係・逆破門 == 加藤は奨励会入り以降、[[南口繁一]]九段門下であったが、南口が1995年に死去した後の1998年に将棋連盟に申し出て[[剱持松二]]八段門下となった<ref name=":40">{{Harvnb|河口|2003|p=|pp=98-110|loc=三章 大山将棋の強さ-強すぎて、面白くない}}</ref>。現在では公式に加藤の師匠は剱持となっている。 加藤はこの理由について「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」と述べている<ref>『将棋世界』1998年11月号</ref>。一方の剱持は、加藤と以前から懇意にしており、また剱持の師匠である[[荒巻三之]]九段(1993年に死去)と家族ぐるみの付き合いであった。なお、剱持の方が加藤より6歳年上ではあるが、四段昇段(プロ入り)は加藤の方が2年早く、棋士としては、弟子(加藤)が師匠(剱持)より先輩となっている<ref name=":40" />。 この一件に関して[[河口俊彦]]は、(かつての将棋界の師弟関係は内弟子が一般的であったことを踏まえて)、日本がまだ貧しかった昭和20、30年代の将棋界では、師匠が内弟子の衣食住の面倒を見るのは大変なことであり、内弟子が稼いだ稽古料を師匠が召し上げるのが当たり前であったが、このことに不満をもった棋士も多かったのは事実と述べている<ref name=":40" />。しかし、同時に河口は南口が内弟子の加藤をあまりにも大事にするので、逆に南口の家族が不平を言っていたという挿話を伝え、加藤が南口に恨みを持つような経緯があったとは考えにくい、と評する<ref name=":40" />。実際、南口の人柄に関しては特にネガティブな逸話はなく、むしろ逆に弟子の[[森信雄]]が[[村山聖]]を弟子にしようとして当時の関西棋界の実力者であった[[灘蓮照]]九段と対立した時に病身を押して仲裁したという彼の人柄を示すエピソードがある。 == エピソード == === 対局での流儀 === *対局中、勝負所で駒を持つ手に力が入り、駒音がひときわ高くなることで知られる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/igo-shogi/news/CK2016122502000184.html|title=藤井四段 白星デビュー 14歳プロ棋士76歳加藤九段破る|accessdate=2017-04-22|date=2016-12-25|publisher=[[東京新聞]]|archiveurl=https://megalodon.jp/2017-0422-2120-41/www.tokyo-np.co.jp/article/igo-shogi/news/CK2016122502000184.html|archivedate=2017-04-22}}</ref><ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/entertainment_special/201601/0008704495.shtml|title=加藤一二三のひふみん伝説 - 伝説の将棋盤と滝|accessdate=2016-01-08|date=2016-12-25|publisher=[[神戸新聞]]|archiveurl=https://megalodon.jp/2017-0422-2121-08/https://www.kobe-np.co.jp:443/rentoku/entertainment_special/201601/0008704495.shtml|archivedate=2017-04-22}}</ref>。しかし、駒を割ったことは一度もない<ref name=":5">『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、p.70-71「ひふみんクイズ答え」</ref>。 **ただし、対局中に盤が自然に割れたことがあった<ref name=":4" /><ref name=":5" />。[[愛知県]][[蒲郡市]]の「銀波荘」で行われた1967年の[[第16期王将戦]]第3局([[大山康晴]]王将に加藤が挑戦。加藤はそれまで王将戦で大山に6連敗していた)での出来事<ref name=":4" /><ref name=":5" />。対局が2日目に入り、加藤が考慮していると、突如として加藤の右側の香車が跳ね上がった<ref name=":4" /><ref name=":5" />。驚いた加藤が盤面に目をやると、盤に亀裂が入っていた<ref name=":4" /><ref name=":5" />。直ちに将棋盤を交換して対局が続行され、加藤は快勝した<ref name=":4" /><ref name=":5" />。[[中原誠]]も同様に対局中に盤が割れる経験をしており(挑戦者に[[米長邦雄]]を迎えた第35期名人戦の第4局(1976年5月13・14日)、中原の棋士人生で唯一のできごとであった<ref>{{Cite journal ja-jp|author=[[中原誠]]|year=|title=我が棋士人生 - 第8回 米長永世棋聖の巻「永世名人の資格を得る」|journal=[[将棋世界]]|serial=2019年3月号|publisher=[[日本将棋連盟]]|pages=136-141}}</ref>。 *加藤には[[漆]][[アレルギー]]がある<ref name=":42">{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/hifumikato/status/1070203380138573824|title=「加藤一二三九段専用の駒」についてのツィート|accessdate=2018-12-11|author=加藤一二三|last=|first=|date=2018-12-04|website=|publisher=[[Twitter]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181211125741/https:/twitter.com/hifumikato/status/1070203380138573824|archivedate=2018-12-11}}</ref>。そのため、加藤が大棋士となってからは、連盟東京本部<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/about/summary.html|title=事業概要|将棋連盟について|accessdate=2018-12-11|website=|publisher=[[日本将棋連盟]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181211131523/https://www.shogi.or.jp/about/summary.html|archivedate=2018-12-11}}</ref>では「加藤専用の駒」を用意し、加藤が2017年に引退するまで、少なくとも35年以上にわたって使われていた<ref name=":42" />。 *対局に臨む際は、[[ネクタイ]]を長く結ぶ(立ち上がると、ネクタイの先端がベルトより20㎝ほど下になる程度<ref name=":37" />)<ref name="47news20150225" />。 偶然ネクタイを長く結んで対局に向かった際、普段以上に澄んだ心持ちで集中して臨むことができ、快勝したため、以降、ネクタイを長く結ぶのが対局時の流儀になった<ref name="47news20150225">{{Cite news|title=バラエティー番組にレギュラー出演ー加藤一二三のひふみん伝説60年|date=2015-02-25|url=http://www.47news.jp/feature/hifumin/2015/02/post_20150220172414.html|accessdate=2015-02-26|publisher=[[47NEWS]]|publication-date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150226153248/https://www.47news.jp/feature/hifumin/2015/02/post_20150220172414.html|archivedate=2015-2-26|work=}}</ref>。 *1978年度の[[第28期王将戦]]で[[中原誠]]王将に挑戦した際に、3勝1敗で迎えた第5局で、思わしい指し手が見つからず長考に沈んでいた<ref name=":29">{{Harvnb|加藤|2018|p=|pp=70-76|loc=第2章 頂点への道-ひふみんアイ}}</ref>。その間に中原が席を外した時、ふと思いついた加藤は、中原が座っていた場所から盤面を見て、絶妙手を発見して勝利し、通算成績を4勝1敗として、4度目の挑戦で王将位を初めて奪取した<ref name=":29" />。加藤は、反対側から盤面を見なければ、その手は発見できなかったと述べている<ref name=":29" />。それ以来、時には対局相手の側から盤面を見るようになった<ref name=":37">『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、pp.102-105、「ひふみん7不思議」</ref><ref group="注釈">[[石田和雄]]や[[藤井聡太]]なども、対局相手の側から盤面を見ることがあり、対局相手が席を外している時であれば、対局マナー上も問題ない。</ref>。後に、[[ニコニコ生放送]]([[ドワンゴ]])では、加藤のこの習慣にちなみ、中継中に天井カメラから映す盤面を上下反対に表示することを「ひふみんアイ」と名付け<ref group="注釈">将棋界では、盤面を示す際には先手を下、後手を上に表示するのが原則である。ある局面を説明する都合などで、上下を反対に表示する際は、「便宜上、先後を逆にしている」旨を明示する。</ref>、棋戦の生中継で使用している<ref>{{Cite web|和書|url=http://live.shogi.or.jp/kiou/kifu/39/kiou201403160101.html|title=2014年3月16日 第39期棋王戦五番勝負第3局 渡辺明棋王 対 三浦弘行九段 43手目コメント|accessdate=2018-05-12|website=|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512181700/http://live.shogi.or.jp/kiou/kifu/39/kiou201403160101.html|archivedate=2018-5-12}}</ref>。ドワンゴは、自社が主催する第3期[[叡王戦]]・決勝七番勝負の生中継(2018年4月 - 6月)では、スタジオ解説に使う大盤に回転軸を設け、物理的に上下反転できる構造とした<ref>{{Cite news|title=棋譜の余白:ライトなファン層も取り込み=山村英樹|date=2018-4-23|url=https://mainichi.jp/articles/20180423/dde/018/070/025000c|accessdate=2018-05-12|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180512180720/https://mainichi.jp/articles/20180423/dde/018/070/025000c|archivedate=2018-5-12|work=[[毎日新聞]]}}</ref>。 *タイトル戦の番勝負では、対局を行う旅館やホテルで、前日に両対局者と立会人が「検分」を行う<ref>{{Cite news|title=タイトル戦で使われる「将棋用語8選」あなたはいくつわかりますか?|将棋コラム(ライター: 佐藤友康)|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2017-2-18|url=https://www.shogi.or.jp/column/2017/02/8.html|accessdate=2018-05-13|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180513115139/https://www.shogi.or.jp/column/2017/02/8.html|archivedate=2018-5-13}}</ref>。加藤は、検分の際に対局する部屋のそばに人工の滝があるのに気づき、対局中にその音が精神集中の妨げにならないよう、その場で依頼して滝を止めて貰ったことが数回ある<ref name=":30">{{Harvnb|加藤|2018|p=|pp=203-211|loc=第5章 「ひふみん」-加藤一二三伝説の真実}}</ref>。また、加藤はタイトル戦で宿泊する部屋にも気を配っており、国道沿い、あるいは川沿いの部屋に案内され、より静かな部屋に替えてもらったことが三回あり、三回とも勝利した<ref name=":30" />。真夜中に騒音で目が覚めてしまってからでは、仮に部屋を替えて貰えたとしても既に手遅れであり、寝不足の状態で対局することになる<ref name=":30" />。対局中に人工の滝の音で集中を乱されてしまってからでも同様に既に手遅れである<ref name=":30" />。対局室の環境・宿泊室の環境に気を配り、必要なら事前に手を打って後顧の憂いを絶つべし、というのが加藤の考えであった<ref name=":30" />。 *1993年度の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]]決勝戦で[[佐藤康光]]竜王を下して7回目の優勝を飾った際、対局後の打ち上げの席で、日本将棋連盟会長であり、決勝戦の解説者でもあった[[二上達也]]が、加藤の対局中の空咳について苦言を呈した<ref name=":32">{{Harvnb|加藤|2018|p=|pp=118-125|loc=第3章 若い人には負けない-NHK杯7度目の優勝}}</ref>。すると、NHKの担当者が即座に「画面の動きが少ない将棋番組において、加藤先生のように様々なパフォーマンスを見せ、視聴者を飽きさせない先生は貴重です」という旨を答えて弁護してくれた<ref name=":32" />。また当時はA級棋士であった加藤は、NHK杯で予選を免除され、毎期出場していた。終局後の感想戦で沈黙を作らないように、加藤は積極的に話すよう心がけていた<ref name=":32" />。NHKに「加藤九段は喋りすぎ。若手棋士が委縮する」という旨の投書があったが、NHKの担当者は意に介さず、加藤を支持してくれた<ref name=":32" />。 === トラブル === *第13期[[銀河戦]]での[[阿部隆]]との対局(2005年5月26日放映)で「[[待った#囲碁・将棋等の場合|待った]]」の反則をした<ref name=":39">{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp/osirase/news/2005-06-2.html|title=加藤一二三九段 第14期銀河戦出場停止に|accessdate=2018-12-33|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090606060232/http://www.shogi.or.jp/osirase/news/2005-06-2.html|archivedate=2009-7-6|deadlinkdate=2018-6-30}}</ref>。なお本局は加藤の勝ちとなっていた<ref name=":39" />。後日、[[日本将棋連盟]]は、理事会審議の結果として「(1)当該対局での加藤の勝ちはそのままとし、加藤は第13期銀河戦での次の対局を行う」「(2)加藤には、罰金、および第14期銀河戦出場停止の、2つの処分を科す」ことを発表した<ref name=":39" />。 {{see|銀河戦#備考}} *[[神谷広志]]には、対局の際に苦言を呈されたことが3回あった<ref name=":38" /><ref>「『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、pp.102-105、「ひふみん7不思議」」では、下記の3つの神谷とのトラブルについても、神谷の名前を伏せてより詳しく解説している。</ref>。 **将棋会館の暖房は音がして気が散るため、加藤は電気ストーブを好んでいた<ref name=":38" />。神谷との対局の際、神谷も寒くないようにとストーブを相手に向けて配置したところ、嫌がらせと誤解されてしまい「顔が熱くなるからやめてください」と言われた<ref name=":38">{{Cite web|和書|url=http://www.newyorker.co.jp/magazine/interview/traditional_style/272/|title=Vol.08 加藤一二三|accessdate=2018-6-30|date=2013-04-10|website=ニューヨーカーマガジン|publisher=[[ダイドーリミテッド|株式会社ニューヨーカー(2018年に合併により株式会社ダイドーフォワードとなった)]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630023001/http://www.newyorker.co.jp/magazine/interview/traditional_style/272/|archivedate=2018-6-30}}</ref>。 **対局の前に、記録係が将棋盤を置くなど対局のしつらえをするが、神谷との対局の際、加藤は盤の位置が気に入らずに盤を動かそうとした<ref name=":38" />。すると神谷がそれに異を唱えた。加藤と神谷は「くじ引きで勝った方の意見に従う」とし、神谷がくじ引きで勝ち、将棋盤を動かさずにそのまま対局することになった<ref name=":38" />。 **神谷との対局の際、加藤が盤上の駒の位置を指先で直すと、神谷が「私の駒に触らないで下さい」と抗議した<ref name=":38" />。加藤は、将棋の駒は取ったり取られたりするものなので「自分の駒、相手の駒」という概念はないだろうと考えたという<ref name=":38" />。 === その他 === *19歳であった[[1959年]]9月から<ref name=":17">{{Cite web|和書|title=プレミアムボックス|加藤一二三のひふみん伝説|詰将棋と私Vol.1|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/entertainment_special/201608/0009355522.shtml|website=|accessdate=2019-06-03|language=Japanese|publisher=[[神戸新聞]]|date=2016-8-5|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190603135942/https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/entertainment_special/201608/0009355522.shtml|archivedate=2019-6-3}}</ref>、[[家の光協会]]の機関誌である月刊「家の光」で[[詰将棋]]を連載しており<ref name=":17" />、[[2017年]]の現役引退後も継続している<ref name=":43">{{Cite web|和書|title=ツィート|url=https://twitter.com/hifumikato/status/1135523265898635264|website=[[Twitter]]|date=2019-06-03|accessdate=2019-06-03|language=ja|last=|publisher=|author=加藤一二三|authorlink=加藤一二三|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190603140038/https:/twitter.com/hifumikato/status/1135523265898635264|archivedate=2019-6-3}}</ref>。[[2019年]]9月に連載開始から60周年を迎え<ref name=":43" /><ref name=":49">{{Cite web|和書|title=ツイート|url=https://twitter.com/hifumikato/status/1172552807498403840|website=|date=2019-09-13|accessdate=2019-11-29|language=ja|last=|publisher=[[Twitter]]|author=加藤一二三|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191129130529/https:/twitter.com/hifumikato/status/1172552807498403840|archivedate=2019-11-29}}</ref>、60年間の問題を精選した詰将棋集『直感精読 加藤一二三の詰将棋』([[マイナビ出版]])<ref>{{Cite web|和書|title=直感精読 加藤一二三の詰将棋【棋譜データ付き】|url=https://book.mynavi.jp/shogi-news_books_detail/id=109374|website=将棋情報局|accessdate=2019-11-29|language=ja|publisher=[[マイナビ出版]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191129130459/https://book.mynavi.jp/shogi/products/detail/id=109374|archivedate=2019-11-29}}</ref>が刊行された<ref name=":49" />。 * 2017年5月26日、[[日本放送協会|NHK]]「[[あさイチ]]」に生出演し、約40年前の1980年 - 81年に放映された[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[ニルスのふしぎな旅]]』への感動を熱く語り、クライマックスとなるシーンを口頭で精密に描写した<ref name=":21">{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2017/05/26/0010225708.shtml|title=加藤九段「ニルスのふしぎな旅」愛を語る「50回は見た」|accessdate=2018-3-25|publisher=[[デイリースポーツ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170526195913/https://www.daily.co.jp/gossip/2017/05/26/0010225708.shtml|archivedate=2017-5-26}}</ref>。加藤はこの作品を50回は視聴したという<ref name=":21" />。司会の[[有働由美子]]アナウンサーは「鮮明に覚えてらっしゃる」と加藤の記憶力に驚嘆した<ref name=":21" />。 == 昇段履歴 == *[[1951年]]{{0}}9月{{0|00日}}(11歳) 3級(関西[[奨励会]]入会)<ref name=":35" /> *[[1952年]]{{0}}4月{{0|00日}}(12歳) 初段 *[[1954年]]{{0}}8月{{0}}1日(14歳) 四段(プロ入り、史上初の中学生棋士) *[[1955年]]{{0}}4月{{0}}1日(15歳) 五段([[順位戦]]C級1組昇級、通算12勝2敗) *[[1956年]]{{0}}4月{{0}}1日(16歳) 六段(順位戦B級2組昇級、通算42勝11敗) *[[1957年]]{{0}}4月{{0}}1日(17歳) 七段(順位戦B級1組昇級、通算66勝22敗) *[[1958年]]{{0}}4月{{0}}1日(18歳) 八段(順位戦A級昇級、通算99勝34敗) *[[1973年]]11月{{0}}3日(33歳) 九段(九段昇格規定 30点、通算503勝319敗) *[[2017年]]{{0}}6月20日(77歳) 引退(順位戦C級2組からの降級、フリークラス規定) == 主な成績 == ;通算成績 :対局数 2,505局(歴代1位) :{{0|_}}勝数 1,324勝(歴代4位)<ref group="注釈">引退時は大山康晴と羽生善治に次いで歴代3位であった。加藤の引退後に谷川浩司が1,325勝で加藤の記録を追い抜いている。</ref> :{{0|_}}敗数 1,180敗(歴代1位) :[[持将棋]] {{0|0,00}}1(タイトル戦での持将棋)<ref name=":7" />。 === タイトル === 他の棋士との比較は、[[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|タイトル獲得記録]]、[[将棋のタイトル在位者一覧]]を参照 {| border="1" class="wikitable" style="text-align:center;" |- style="background-color: #ccf;" |'''タイトル''' |獲得年度 |登場 |'''獲得期数''' |連覇 |備考 |- |'''[[竜王戦|竜王]]''' |- |<!--登場年度メモ-->0 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | |- |'''[[名人戦 (将棋)|名人]]''' |style="text-align:left;"|1982 |<!--登場年度メモ 60,73,82,83-->4 |<!--獲得-->'''1期''' |<!--連覇-->1 | |- |'''[[王位戦 (将棋)|王位]]''' |style="text-align:left;"|1984 |<!--登場年度メモ 63,84,85-->3 |<!--獲得-->'''1期''' |<!--連覇-->1 | |- |'''[[王座戦 (将棋)|王座]]''' |- |<!--登場年度メモ-->0 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- |style="text-align:left;"|(非タイトル戦時代の優勝1回) |- |'''[[棋王戦 (将棋)|棋王]]''' |style="text-align:left;"|1976-1977 |<!--登場年度メモ 76-78 -->3 |<!--獲得-->'''2期''' |<!--連覇-->2 | |- |'''[[叡王戦|叡王]]''' |- |<!--登場年度メモ-->- |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- |style="text-align:left;"|(加藤現役時は非タイトル戦) |- |'''[[王将戦|王将]]''' |style="text-align:left;"|1978 |<!--登場年度メモ 61,66,67,78,79 -->5 |<!--獲得-->'''1期''' |<!--連覇-->1 | |- |'''[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]''' |- |<!--登場年度メモ 79前,81後 -->2 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | |- style="background-color: #ccf;" |'''旧タイトル''' |獲得年度 |登場 |'''獲得期数''' |連覇 |備考 |- |'''[[十段戦 (将棋)|九段]]''' |- |<!--登場年度メモ-->0 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | |- |'''[[十段戦 (将棋)|十段]]''' |style="text-align:left;"|1968,1980-1981 |<!--登場年度メモ 68,69,76,77,80-82-->7 |<!--獲得-->'''3期''' |<!--連覇-->2 | |- |colspan="6"|登場回数合計24、 獲得合計'''8期'''([[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|歴代10位タイ]]) |- |} {| |{{将棋タイトル獲得記録}} |} === 一般棋戦優勝 === * [[王座戦 (将棋)|王座戦]](非タイトル戦時代) 1回(1962年度) * [[NHK杯将棋トーナメント]] 7回(1960、1966、1971、1973、1976、1981、1993年度) * [[早指し将棋選手権]] 3回(1977後、1981、1990年度) * [[JT将棋日本シリーズ]] 2回(1983、1987年度) * [[天王戦]] 1回(1985年度) * [[名将戦]] 1回(1982年度) * [[東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦|高松宮賞争奪選手権戦]] 3回(1956、1964年度、1966年度高松宮賞受賞) * [[日本一杯争奪戦]] 2回(1958、1960年度) * [[名棋戦|六、五、四段戦]] 1回(1955年度) * [[早指し王位決定戦]] 1回(1959年度) * その他優勝 1回 :優勝合計23回 === 将棋大賞 === *第4回(1976年度) 最多勝利賞・連勝賞・技能賞 *第5回(1977年度) 殊勲賞 *第6回(1978年度) 殊勲賞 *第8回(1980年度) 殊勲賞 *第9回(1981年度) 最優秀棋士賞・連勝賞 *第12回(1984年度) 最多勝利賞・最多対局賞 *第29回(2001年度) 東京将棋記者会賞 *第44回(2016年度) 特別賞・升田幸三賞特別賞「棒銀をはじめとする数々の新工夫」 === 記録 === *最高齢現役(77歳5か月) *最高齢勝利(77歳0か月、[[2017年]]1月20日 対・[[飯島栄治]]戦) *最高齢対局(77歳5か月、2017年6月20日 対・[[高野智史]]戦) *年長者側の最多年齢差勝利(58歳5か月、[[2015年]]3月11日 対・[[増田康宏]](17歳4か月)戦) *最多年齢差対局(62歳6か月、[[2016年]]12月24日 対・[[藤井聡太]](14歳5か月)戦) *最長現役勤続年数(62年10か月) *最多対局数(2,505局) *最多敗戦数(1,180敗) *最年少五段(15歳3か月) *最年少A級(18歳3か月)<ref name=":41" /><ref name=":51" /> *最年少名人挑戦(20歳3か月) *最年少[[王将戦]]リーグ入り(16歳) *順位戦デビューからA級まで、4期連続で最短昇級(加藤の他には[[中原誠]]のみ)<ref name="順位戦デビューからA級まで連続昇級" /><ref>{{Cite web|和書|title=名人経験者でストレート昇級は加藤一二三・九段のみ - 社会 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201903030000805.html|website=|accessdate=2019-03-04|language=ja|publisher=[[日刊スポーツ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190304123307/https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201903030000805.html|date=2019-3-4|archivedate=2019-3-4}}</ref> *A級順位戦最多勝利(149勝) *A級順位戦最多対局(313局) *順位戦最多出場<ref>『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、pp.121-125、加藤一二三 全記録分析</ref>(62期) *19世紀生まれ・20世紀生まれ・21世紀生まれの棋士と公式戦で対局(史上唯一)<ref group="注釈">囲碁では、[[杉内雅男]]が同様の経験を持つ。</ref><!--詳細と出典は「現役最晩年」節に記載。--> *62歳A級([[大山康晴]]に次ぐ史上2位) *名人・A級通算在位36期(大山康晴に次ぐ史上2位)<ref name=":26" /> ;珍記録 *最年少A級陥落(21歳) *最多A級昇級・B級1組降級(5回) *最年少A級返り咲き(22歳。A級昇級年少記録全体で見ても、自身の18歳、藤井聡太と[[谷川浩司]]の19歳に次ぎ4位) === タイトル戦全成績 === {| border="1" class="wikitable" style="font-size:89%" |- align="center" style="background-color: #ccf;" |年度||タイトル | colspan="2" |勝敗||相手||備考 |- |1960||[[名人戦 (将棋)|名人]]||敗||○●●●千●||[[大山康晴]]|| |- |1961||[[王将戦|王将]]||敗||●●●||大山康晴||指し込み |- |1963||[[王位戦 (将棋)|王位]]||敗||○●○●●●||大山康晴|| |- |1966||王将||敗||●●○●●||大山康晴|| |- |1967||王将||敗||●●○●○●||大山康晴|| |- style="background-color:#ffcccc" |1968||[[十段戦 (将棋)|十段]]||勝||●●○○●○○||大山康晴||奪取 |- |1969||十段||敗||●●○○千●千●||大山康晴||失冠 |- |1973||名人||敗||●●●●||[[中原誠]]|| |- |1976||十段||敗||●○千●●○○●||中原誠|| |- style="background-color:#ffcccc" |1976||[[棋王戦 (将棋)|棋王]]||勝||○○○||[[大内延介]]||奪取 |- |1977||十段||敗||○●○●●○●||中原誠|| |- style="background-color:#ffcccc" |1977||棋王||勝||○○○||中原誠||防衛、中原の六冠独占を阻止 |- style="background-color:#ffcccc" |1978||王将||勝||●○○○○||中原誠||奪取、束の間の二冠王 |- |1978||棋王||敗||●●○○●||[[米長邦雄]]||失冠 |- |1979||[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]・前||敗||●○●●||中原誠|| |- |1979||王将||敗||●●○●○●||大山康晴||失冠 |- style="background-color:#ffcccc" |1980||十段||勝||○●○○○||中原誠||奪取 |- style="background-color:#ffcccc" |1981||十段||勝||●○●○○○||米長邦雄||防衛 |- |1981||棋聖・後||敗||●●●||[[二上達也]]|| |- style="background-color:#ffcccc" |1982||名人||勝||持●○●○千○●千○||中原誠||奪取、「十番勝負」、二冠王 |- |1982||十段||敗||●○●○●●||中原誠||失冠 |- |1983||名人||敗||●●●○○●||[[谷川浩司]]||失冠 |- style="background-color:#ffcccc" |1984||王位||勝||○●●○●○○||[[高橋道雄]]||奪取 |- |1985||王位||敗||●●●●||高橋道雄||失冠 |} === 在籍クラス === {{main2|竜王戦と順位戦のクラス|将棋棋士の在籍クラス}} {{将棋棋士年別在籍クラスA}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1954|JJ=9|j=C2|#=16}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1955|JJ=10|j=C1|#=13}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1956|JJ=11|j=B2|#=13}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1957|JJ=12|j=B1|#=12}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1958|JJ=13|j=A|#=10}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1959|JJ=14|j=A|#=08|CJ=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1960|JJ=15|j=A|#=01}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1961|JJ=16|j=B1|#=01}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1962|JJ=17|j=A|#=09}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1963|JJ=18|j=A|#=04}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1964|JJ=19|j=A|#=03}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1965|JJ=20|j=A|#=08}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1966|JJ=21|j=B1|#=01}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1967|JJ=22|j=A|#=09}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1968|JJ=23|j=B1|#=02}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1969|JJ=24|j=A|#=09}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1970|JJ=25|j=A|#=04}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1971|JJ=26|j=A|#=03}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1972|JJ=27|j=A|#=08|CJ=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1973|JJ=28|j=A|#=01}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1974|JJ=29|j=A|#=08}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1975|JJ=30|j=A|#=08}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=|j=#|#=(第30期の次は第36期/第31-35期は回次省略)}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=36|j=A|#=07}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1978|JJ=37|j=A|#=06}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1979|JJ=38|j=A|#=05}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1980|JJ=39|j=A|#=03}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1981|JJ=40|j=A|#=05|CJ=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1982|JJ=41|j=名人|#=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1983|JJ=42|j=A|#=01}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1984|JJ=43|j=A|#=02}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1985|JJ=44|j=A|#=07}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1986|JJ=45|j=A|#=03|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1987|JJ=46|j=A|#=07|RR=1|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1988|JJ=47|j=A|#=03|RR=2|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1989|JJ=48|j=B1|#=01|RR=3|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1990|JJ=49|j=B1|#=07|RR=4|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1991|JJ=50|j=B1|#=05|RR=5|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1992|JJ=51|j=B1|#=09|RR=6|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1993|JJ=52|j=A|#=10|RR=7|r=3}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1994|JJ=53|j=A|#=07|RR=8|r=3}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1995|JJ=54|j=A|#=06|RR=9|r=3}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1996|JJ=55|j=A|#=07|RR=10|r=3}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1997|JJ=56|j=A|#=07|RR=11|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1998|JJ=57|j=A|#=08|RR=12|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1999|JJ=58|j=A|#=07|RR=13|r=3}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2000|JJ=59|j=A|#=06|RR=14|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2001|JJ=60|j=A|#=08|RR=15|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2002|JJ=61|j=B1|#=02|RR=16|r=5}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2003|JJ=62|j=B1|#=10|RR=17|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2004|JJ=63|j=B2|#=02|RR=18|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2005|JJ=64|j=B2|#=16|RR=19|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2006|JJ=65|j=B2|#=18|RR=20|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2007|JJ=66|j=B2|#=06|RR=21|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2008|JJ=67|j=B2|#=22|RR=22|r=5}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2009|JJ=68|j=C1|#=02|RR=23|r=5}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2010|JJ=69|j=C1|#=25|RR=24|r=6}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2011|JJ=70|j=C1|#=16|RR=25|r=6}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2012|JJ=71|j=C1|#=15|RR=26|r=6}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2013|JJ=72|j=C1|#=33|RR=27|r=6}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2014|JJ=73|j=C2|#=04|RR=28|r=6}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2015|JJ=74|j=C2|#=39|RR=29|r=6}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2016|JJ=75|j=C2|#=45|RR=30|r=6}} {{将棋棋士年別在籍クラスZ|note=}} === 主な対戦相手との勝敗 === 30局以上指した棋士との勝敗を以下に示す。大山、中原、米長の3人は加藤の最大のライバルでもあった。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: 89%;" |- style="background-color: #ccf;" |対戦相手||対局||勝||敗||タイトル戦 |- |[[升田幸三]]||39||22||17|| |- |[[大山康晴]]||124||46||78||獲得1 敗退7 |- |[[加藤博二]]||38||29||9|| |- |[[丸田祐三]]||50||28||22|| |- |[[灘蓮照]]||30||18||12|| |- |[[二上達也]]||94||45||49||獲得0 敗退1 |- |[[山田道美]]||43||24||19|| |- |[[有吉道夫]]||56||31||25|| |- |[[内藤國雄]]||59||32||27|| |- |[[米長邦雄]]||104||41||63||獲得1 敗退1 |- |[[大内延介]]||42||27||15||獲得1 敗退0 |- |[[中原誠]]||109||41||67||獲得4 敗退5 |- |[[桐山清澄]]||49||26||23|| |- |[[勝浦修]]||37||21||16|| |- |[[森雞二]]||46||30||16|| |- |[[青野照市]]||32||21||11|| |- |[[谷川浩司]]||46||16||30||獲得0 敗退1 |- |[[高橋道雄]]||32||13||19||獲得1 敗退1 |- |colspan="5"|以下、参考(30局未満) |- |[[塚田正夫]]||28||21||7|| |- |[[羽生善治]]||20||6||14|| |- |[[佐藤康光]]||12||3||9|| |- |[[森内俊之]]||17||5||12|| |- |[[丸山忠久]]||13||3||10|| |- |[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]||1||1||0|| |- |[[佐藤天彦]]||2||0||2|| |- |[[藤井聡太]]||1||0||1|| |} ※中原との対局数は、タイトル戦での持将棋1局を含む。 == 賞と栄典 == *[[1977年]] - [[将棋栄誉賞]](通算六百勝達成) *[[1978年]] - 現役勤続25年 *[[1982年]] - [[将棋栄誉敢闘賞]](通算八百勝達成) *[[1986年]] - [[聖シルベストロ教皇騎士団勲章]] *[[1989年]]- [[特別将棋栄誉賞]](通算千勝達成) *[[1993年]] - 現役勤続40年 *[[2000年]]春 - [[紫綬褒章]] *[[2001年]] - 通算千二百勝達成 *[[2003年]] - 現役勤続50年 *[[2012年]] - 第71回西日本文化賞<ref>{{Cite news|title=加藤一二三九段が第71回『西日本文化賞』を受賞|将棋ニュース|日本将棋連盟|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2012-11-2|url=https://www.shogi.or.jp/news/2012/11/post_638.html|accessdate=2018-06-30|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630075002/https://www.shogi.or.jp/news/2012/11/post_638.html|archivedate=2018-6-30}}</ref> *[[2014年]] - 現役勤続60年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2014/11/40_10.html|title=第40回「将棋の日」表彰・感謝の式典の模様|date=2014-11-18|publisher=[[日本将棋連盟]]|accessdate=2017-08-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170811185254/https://www.shogi.or.jp/news/2014/11/40_10.html|archivedate=2017-08-11}}</ref> *[[2016年]] - 嘉麻市名誉市民 *[[2017年]] - [[新語・流行語大賞|ユーキャン新語・流行語大賞]]トップテン「ひふみん」<ref>{{Cite web|和書|url=http://singo.jiyu.co.jp|title=新語・流行語大賞 第34回 2017年|accessdate=2018-06-30|website=|publisher=[[自由国民社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630082644/http://singo.jiyu.co.jp|archivedate=2018-6-30}}</ref>、 平成29年度[[ゆうもあ大賞]] <ref>{{Cite news|title=ひふみん 11月上旬手術も「生涯で今が一番元気ですよね、きっと」|date=2017-12-6|last=|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/12/06/kiji/20171206s00041000224000c.html|accessdate=2018-06-30|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630083007/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/12/06/kiji/20171206s00041000224000c.html|archivedate=2018-6-30|work=[[スポーツニッポン]]}}</ref>、[[日本パブリック・リレーションズ協会|日本PR大賞]] パーソン・オブ・ザ・イヤー<ref>{{Cite web|和書|url=http://prsj.or.jp/2017/12/26/2017%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BD%90%EF%BD%92%E5%A4%A7%E8%B3%9E%E3%81%8C%E6%B1%BA%E5%AE%9A-2.html|title=2017年度日本PR大賞が決定|accessdate=2018-06-30|website=|publisher=[[日本パブリック・リレーションズ協会]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630083320/http://prsj.or.jp/2017/12/26/2017年度日本pr大賞が決定-2.html|archivedate=2018-6-30}}</ref> *[[2018年]]春 - [[旭日章|旭日小綬章]] *[[2022年]] - [[文化功労者]]<ref>{{Cite web|和書|title=「ひふみん」が文化功労者に 将棋界2人目の朗報「家族中で大喜び」 今も藤井王位を研究、闘志なお健在 :東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/210066 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2022-10-25 |language=ja}}</ref> == 著作 == === 単著 === * {{Cite book |和書 |title=加藤詰将棋200題 |date=1966 |publisher=[[金園社]] }} * {{Cite book |和書 |title=振飛車破り |date=1968-09 |publisher=[[大泉書店]] |series=初段をめざす将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=矢倉の闘い |date=1968-09 |publisher=大泉書店 |series=初段をめざす将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=棒銀の闘い |date=1968-10 |publisher=大泉書店 |series=初段をめざす将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=矢倉囲いの新戦法 |date=1969-01 |publisher=金園社 |series=将棋初級講座 }} * {{Cite book |和書 |title=力戦振飛車 |date=1970-02 |publisher=大泉書店 |series=初段をめざす将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=中終盤の闘い |date=1971-06 |publisher=大泉書店 |series=初段をめざす将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=将棋の初歩入門 |date=1972 |publisher=大泉書店 |series=初段をめざす将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=振飛車破り 続 |date=1973-05 |publisher=大泉書店 |series=初段をめざす将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |editor=田村孝雄編 |title=加藤一二三実戦集 わが熱闘、珠玉の40局 |date=1975 |publisher=大泉書店 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三格言集 |date=1975-08 |publisher=[[日本将棋連盟]] |series=日将ブックス }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三将棋実力養成次の一手 |volume=第1集 振り飛車破り編 |date=1975-11 |publisher=[[西東社]] }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三将棋実力養成次の一手 |volume=第2集 振り飛車矢倉編 |date=1976-01 |publisher=西東社 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三将棋実力養成次の一手 |volume=第3集 平手・駒落ち編 |date=1976-04 |publisher=西東社 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三将棋実力養成次の一手 |volume=第4集 定跡編 |date=1976-06 |publisher=西東社 }} * {{Cite book |和書 |title=逆転の将棋 秘密の受け・攻め・読み・捌き |date=1976-12 |publisher=[[青春出版社]] |series=プレイブックス }} * {{Cite book |和書 |title=将棋実力養成詰め将棋100選 |date=1976 |publisher=西東社 |series=将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=寄せと詰めの秘訣 詰将棋・次の一手付き |date=1976 |publisher=コルベ出版 }} * {{Cite book |和書 |title=将棋の基本 わかりやすい 入門から初段まで |date=1976 |publisher=[[ナツメ社]] |series=ナツメ・ブックス }} * {{Cite book |和書 |title=将棋勝ち方戦法 |date=1977-05 |publisher=西東社 |series=将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=加藤の詰将棋傑作選 |date=1977-07 |publisher=[[日本文芸社]] }} * {{Cite book |和書 |title=加藤(九段)の詰将棋 |date=1977-11 |publisher=[[高橋書店]] }} * {{Cite book |和書 |title=ジュニア版将棋入門 |date=1978-07 |publisher=ナツメ社 |series=ナツメ・ブックス }} * {{Cite book |和書 |title=棒銀の戦法 |date=1978-07 |publisher=[[主婦の友社]] |series=Ace books 将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=楽しい将棋入門 |date=1978-08 |publisher=主婦の友社 |series=Ace books 将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=初心者の詰将棋 |date=1978-11 |publisher=日本文芸社 |series=オール二色図解・詰将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=やさしい将棋入門 |date=1978-12 |publisher=西東社 |series=将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=坂田三吉・神田辰之助 |date=1979-01 |publisher=[[筑摩書房]] |series=日本将棋大系 14 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三実戦集 |date=1979-01 |publisher=[[永岡書店]] |series=将棋入門シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=実戦に役立つ将棋実力テスト |date=1979-02 |publisher=ナツメ社 |series=ナツメ・ブックス }} * {{Cite book |和書 |title=いちばん早く強くなる将棋 |date=1979-04 |publisher=[[廣済堂出版]] |series=Kosaido books }} * {{Cite book |和書 |title=将棋・あなたの実力は? 次の一手――あなたはどう指すか |date=1979-05 |publisher=ナツメ社 |series=ポケット・ブックス }} * {{Cite book |和書 |title=将棋・入門から実戦まで どう戦えば勝てるか |date=1979-05 |publisher=ナツメ社 |series=ポケット・ブックス }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三実戦名局集 対矢倉戦の勝局譜 |date=1980-02 |publisher=永岡書店 |series=将棋入門シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=プロの矢倉3七銀 |date=1980-06 |publisher=大泉書店 |series=加藤のプロ将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=プロの矢倉3七桂 |date=1980-08 |publisher=大泉書店 |series=加藤のプロ将棋シリーズ }} * {{Cite book |和書 |title=現代振飛車破り |date=1980-10 |publisher=[[新星出版社]] |series=必勝将棋シリーズ |isbn=9784405065437 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三名局集 |date=1981-01 |publisher=筑摩書房 |series=現代将棋名局集 5 |isbn=9784480693051 }} * {{Cite book |和書 |title=中学・高校生の将棋問題集 10級~3級 |date=1981-02 |publisher=[[成美堂出版]] |isbn=9784415046242 }} * {{Cite book |和書 |title=プロの中飛車破り |date=1981-03 |publisher=大泉書店 |series=加藤のプロ将棋シリーズ |isbn=9784278081336 }} * {{Cite book |和書 |title=プロの四間飛車破り |date=1981-07 |publisher=大泉書店 |series=加藤のプロ将棋シリーズ |isbn=9784278081343 }} * {{Cite book |和書 |title=次の一手最強の手筋 勝つ手は常に一つだ |date=1981-11 |publisher=[[創元社]] |series=初段に挑戦する将棋シリーズ |isbn=9784422750552 }} * {{Cite book |和書 |title=中学・高校生の将棋 入門編 |date=1982-02 |publisher=成美堂出版 |isbn=9784415046235 }} * {{Cite book |和書 |title=プロの三間飛車破り |date=1982-02 |publisher=大泉書店 |series=加藤のプロ将棋シリーズ |isbn=9784278081350 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三の将棋の指し方 身につけたい基本の手筋と戦法 |date=1983-07 |publisher=ナツメ社 |series=ナツメ・ブックス |isbn=9784816303081 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三の将棋の手ほどき |date=1983-07 |publisher=文研出版 |series=文研リビングガイド |isbn=9784580901742 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三の将棋の勝ち方 必勝・矢倉戦法のすべて |date=1983-10 |publisher=ナツメ社 |series=ナツメ・ブックス |isbn=9784816303241 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三のつめ将棋全百科 初級編 |date=1984-06 |publisher=[[小学館]] |series=コロタン文庫 |isbn=9784092810945 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三の将棋の戦い方 基本戦法と必ず勝つ手筋・寄せ |date=1984-07 |publisher=ナツメ社 |series=ナツメ・ブックス |isbn=9784816303890 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤の勝つ次の一手 あなたの実力何段?何級? |date=1984-11 |publisher=日本将棋連盟 |isbn=9784819701143 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤流矢倉+中飛車破り |date=1985-12 |publisher=筑摩書房 |series=一手決断・将棋戦法 2 |isbn=9784480670021 }} * {{Cite book |和書 |title=将棋入門 どう戦えば勝てるか |date=1989-12 |publisher=ナツメ社 |series=ジュニア版 ナツメ・ブックス |isbn=9784816301629 }} * {{Cite book |和書 |title=楽しむ詰将棋 |date=1992-12 |publisher=[[光文社]] |series=光文社文庫 光文社将棋シリーズ 1 |isbn=9784334716325 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤流 振り飛車撃破 |date=2003-09 |publisher=[[毎日コミュニケーションズ]] |series=プロの将棋シリーズ 6 |isbn=9784839912369 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤流 最新棒銀の極意 |date=2003-11 |publisher=毎日コミュニケーションズ |series=プロの将棋シリーズ 7 |isbn=9784839912857 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤流 最強三間飛車撃破 |date=2004-06 |publisher=毎日コミュニケーションズ |series=プロの将棋シリーズ 1 |isbn=9784839915407 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤の振り飛車破り決定版 |date=2005-03 |publisher=日本将棋連盟 |series=パワーアップシリーズ |isbn=9784819703802 }} * {{Cite book |和書 |title=一二三の玉手箱 |date=2007-01 |publisher=毎日コミュニケーションズ |isbn=9784839922771 }} ** {{Cite book |和書 |title=一二三の玉手箱 自分らしく生きる |date=2019-09 |publisher=光文社 |series=光文社知恵の森文庫 tか11-1 |isbn=9784334787561 }} * {{Cite book |和書 |title=老いと勝負と信仰と |date=2011-04 |publisher=[[ワニブックス]] |series=ワニブックスPLUS新書 052 |isbn=9784847060359 }} * {{Cite book |和書 |title=将棋名人血風録 奇人・変人・超人 |date=2012-05 |publisher=[[角川書店]] |series=角川oneテーマ21 C-222 |isbn=9784041102411 }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治論 「天才」とは何か |date=2013-04 |publisher=角川書店 |series=角川oneテーマ21 C-243 |isbn=9784041104552 }} * {{Cite book |和書 |title=脳が活性化する!大人がもう一度はじめる将棋入門 |date=2013-04 |publisher=[[産経新聞出版]]・[[日本工業新聞社]] |isbn=9784819112093 }} ** {{Cite book |和書 |title=ひふみんの将棋入門 |edition=新装版 |date=2017-09 |publisher=産経新聞出版 |isbn=9784819113243 }} * {{Cite book |和書 |title=負けて強くなる 通算1100敗から学んだ直感精読の心得 |date=2014-04 |publisher=[[宝島社]] |series=宝島社新書 445 |isbn=9784800224149 }} * {{Cite book |和書 |title=無敵棒銀 加藤流熱血道場 |date=2015-06 |publisher=木本書店 |isbn=9784904808153 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三の5手詰め |date=2015-11 |publisher=創元社 |series=将棋パワーアップシリーズ |isbn=9784422751153 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三名局集 |date=2015-11 |publisher=日本将棋連盟・マイナビ出版 |isbn=9784839945275 }} * {{Cite book |和書 |title=求道心 誰も語れない将棋天才列伝 |date=2016-03 |publisher=[[SBクリエイティブ]] |series=SB新書 335 |isbn=9784797384123 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三の3手詰め 詰将棋202題 |date=2016-04 |publisher=創元社 |series=将棋パワーアップシリーズ |isbn=9784422751528 }} * {{Cite book |和書 |title=天才棋士 加藤一二三 挑み続ける人生 |date=2017-11 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=9784534055385 }} * {{Cite book |和書 |title=鬼才伝説 私の将棋風雲録 |date=2018-02 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=9784120050541 }} * {{Cite book |和書 |title=ひふみんのワクワク子ども詰め将棋 1手詰め+3手詰め |date=2018-09 |publisher=[[実務教育出版]] |isbn=9784788914803 }} * {{Cite book |和書 |title=幸福の一手 いつもよろこびはすぐそばに |date=2018-10 |publisher=[[毎日新聞出版]] |isbn=9784620325507 }} * {{Cite book |和書 |title=ひふみの言葉 |date=2019-01 |publisher=パルコエンタテインメント事業部 |isbn=9784865062908 }} * {{Cite book |和書 |title=感情の整理術123 62年現役を貫けた秘訣 |date=2019-10 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=9784569841441 }} * {{Cite book |和書 |title=加藤一二三の詰将棋 直感精読 |date=2019-10 |publisher=マイナビ出版 |series=マイナビ将棋文庫 |isbn=9784839971045 }} * {{Cite book |和書 |title=集中力up! ひふみんのスタート将棋book|date=2023-12|publisher=宝島社|isbn=9784299043283 }} === 監修 === * {{Cite book |和書 |others=加藤一二三監修 |title=将棋入門 |date=1982-10 |publisher=西東社 |series=入門シリーズ 3 }} * {{Cite book |和書 |others=[[内藤國雄]]・加藤一二三・[[谷川浩司]]・[[羽生善治]]・[[森内俊之]]・[[佐藤康光]]・[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]監修 |title=NHK杯伝説の名勝負 次の一手 |date=2013-10 |publisher=[[NHK出版]] |series=NHK将棋シリーズ |isbn=9784140162187 }} * {{Cite book |和書 |author=津江章二 |others=加藤一二三監修 |title=ビジュアルでわかる ひふみんの将棋の一二三 |date=2018-04 |publisher=神宮館 |isbn=9784860764609 }} === 共著 === * {{Cite book |和書 |author=渡辺明 |coauthors=[[郷田真隆]]、森内俊之、加藤一二三、[[三浦弘行]]、[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]、[[豊島将之]]、[[中村太地 (棋士)|中村太地]]、[[永瀬拓矢]] |title=勝てる将棋の考え方 新イメージと読みの将棋観 |date=2016-09 |publisher=日本将棋連盟・マイナビ出版 |isbn=9784839961107 }} === 寄稿等 === * {{Cite journal |和書 |title=将棋部のこと |date=1969-03 |publisher=早稲田大学校友会 |journal=早稲田学報 |volume=23 |issue=2 |pages=24-25 }} * {{Cite book |和書 |editor=日本エッセイスト・クラブ編 |title=美女という災難 ――'08年度版ベスト・エッセイ集―― |date=2008-08 |chapter=一〇〇〇回目の敗戦 |pages=119-121 |publisher=文藝春秋 |isbn=9784163705507 }} * {{Cite book |和書 |title=つるの将棋七番勝負 |date=2013-10 |chapter=第三番 加藤一二三九段 |pages=53-71 |publisher=幻冬舎エデュケーション |isbn=9784344977563 }} * {{Cite book |和書 |editor=後藤元気編 |title=将棋自戦記コレクション |date=2014-08 |chapter=大長考の妙手 |pages=53-66 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま文庫 こ46-2 |isbn=9784480431943 }} * {{Cite journal |和書 |title=特集 加藤一二三――棋士という人生 |date=2017-06 |publisher=青土社 |journal=ユリイカ 詩と批評 |volume=49 |issue=11 |pages=45-204 |isbn=9784791703319 }} ** {{Cite journal |和書 |title=インタビュー 芸術としての将棋――“神武以来の天才”の軌跡 |date= |publisher= |journal=ユリイカ 詩と批評 |volume=49 |issue=11 |pages=46-63 }} ** {{Cite journal |和書 |title=将棋講座 第四〇期名人戦を語る――あるいは藤井聡太の研究 |date= |publisher= |journal=ユリイカ 詩と批評 |volume=49 |issue=11 |pages=157-166 }} == 出演 == === テレビ番組 === * [[連想ゲーム]](1974年9月21日 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - ゲスト  * [[ゲーム ホントにホント?]](1975年9月3日 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - ゲスト * [[音楽の広場]](1982年10月22日 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - ゲスト * [[くらべてみれば]](1993年11月11日 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - ゲスト * [[N響アワー]](2000年3月12日 、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) - ゲスト * [[こころの時代]]-宗教・人生- 「勝負師の道を歩んで」(2001年7月22日 、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]])  ※聞き手は[[吉川精一]] * [[将棋講座 (NHK)|将棋講座]] 加藤一二三の大勝負この一手(2005年4月 - 9月、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) * 頭脳がフル回転!大逆転将棋2007 (2007年1月3日 、[[NHK衛星第2放送|NHK BS2]]) * 新春お好み将棋対局 「ドリームマッチ2012 東西巨匠ライバル対決」 (2012年1月2日 、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) * [[アウト×デラックス]](2012年 - 2022年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) ※準レギュラー(不定期出演) * [[クローズアップ現代+]] 「最年少 vs 最年長~“天才”少年棋士 鮮烈デビュー~」(2017年1月16日 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) * ノーナレ 「諦めない男 棋士 加藤一二三」(2017年3月27日 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) * [[あさイチ]](2017年5月26日 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - プレミアムトーク * [[スッキリ (テレビ番組)|スッキリ!!]](2017年6月21日・6月27日・7月3日・7月25日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 引退後初のテレビ出演。MCの[[加藤浩次]]、[[近藤春菜]]から花束が贈呈される。 *[[ETV特集]] 加藤一二三という男ありけり(2017年7月1日 、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]) * [[スポーツ酒場 語り亭]] 「“天才”の育て方」 (2017年7月2日 、[[NHK衛星第1放送|NHK BS1]]) * [[Mr.サンデー]] (2017年7月2日 、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) * 第49回[[思い出のメロディー]] (2017年8月5日 、[[日本放送協会|NHK]]) * [[徹子の部屋]] (2017年8月11日 、[[テレビ朝日]]) - ゲスト * [[探検バクモン]] 「激闘!将棋会館」(2017年9月20日 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) *[[第68回NHK紅白歌合戦]](2017年12月31日、[[日本放送協会|NHK]]) - 審査員<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASKDN5KNYKDNUCVL012.html|title=紅白のゲスト審査員発表 ひふみんや吉岡里帆さんら8人|date=2017-12-20|publisher=[[朝日新聞]]|accessdate=2017-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171220103258/https://www.asahi.com/articles/ASKDN5KNYKDNUCVL012.html|archivedate=2017-12-20}}</ref> ほかゲスト出演多数 === テレビドラマ === * [[盤上のアルファ]] 第2話(2019年2月10日、[[NHK BSプレミアム]]) - 加藤一二三(本人)役<ref>{{Cite web|和書|title=登場人物(キャスト)|url=https://www.nhk.or.jp/pd/banjou/html_banjou_cast.html|website=盤上のアルファ~約束の将棋~|accessdate=2020-12-03|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190127144528/https://www.nhk.or.jp/pd/banjou/html_banjou_cast.html|archivedate=2019-01-27}}</ref> * [[警視庁・捜査一課長]] 正月SP(2020年1月3日、[[テレビ朝日]]) - ご隠居の一二三さん 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/news/detail/218408/|title=ひふみんが「警視庁・捜査一課長 正月スペシャル」に出演 豪快な駒音を響かせて熱演|website=ザテレビジョン|publisher=KADOKAWA|date=2020-01-03|accessdate=2022-05-28}}</ref> * [[歯無しのグルメ〜噛まずにとろける美味い店〜]](2022年5月28日、[[TBSテレビ|TBS]]) - 美食家 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2235830/full/|title=加藤一二三、空気階段・鈴木もぐらの“歯無しドラマ”に登場「率直に驚いた」|website=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2022-05-24|accessdate=2022-05-28}}</ref> === テレビアニメ === *[[レイトン ミステリー探偵社 〜カトリーのナゾトキファイル〜]](2018年4月30日、[[フジテレビ]]) - 第4話に出演:コンピューター役<ref>{{Cite web|和書|title=ひふみん、念願の声優初挑戦で“巨大コンピューター役”「まさか実現するとは」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2109381/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2019-04-03|publisher=[[オリコン]]|archiveurl=https://www.oricon.co.jp/news/2109381/full/|archivedate=https://web.archive.org/web/20190403170032/https://www.oricon.co.jp/news/2109381/full/}}</ref> *[[ゴー!ゴー!キッチン戦隊クックルン]](2018年10月15日~10月18日<ref>{{Cite web|和書|url=https://woman.excite.co.jp/article/child/rid_Sukucomu_241200/|title=「ゴー!ゴー!キッチン戦隊クックルン」に、あの“ひふみん”がアニメで登場!|accessdate=2018-10-27|date=2018-10-08|website=ウーマンエキサイト|publisher=[[エキサイト]]|archiveurl=https://megalodon.jp/2018-1028-0012-50/https://woman.excite.co.jp:443/article/child/rid_Sukucomu_241200/|archivedate=2018-10-27}}</ref>、[[NHK Eテレ]])加藤一二三(本人)役 *[[バーチャルさんはみている]](2019年1月24日、[[TOKYO MX]]) - 特別出演:客 役 === ウェブテレビ === * NonStop ひふみん(2017年5月19日・6月2日、[[AmebaFRESH!|FRESH! by CyberAgent]]) - 進行は[[山口恵梨子]] *叡王戦記念特番 東西対抗 詰将棋カラオケ(2019年3月30日、ニコニコ生放送)<ref>{{Cite web|和書|title=【叡王戦記念特番】東西対抗 詰将棋カラオケ|url=https://live.nicovideo.jp/watch/lv318974577|website=ニコニコ生放送|accessdate=2020-03-21|publisher=|date=2019年3月30日}}</ref> - 東チーム === ラジオ番組 === * ひふみんと錦織健の対局クラシック(2019年8月8日・2020年1月1日・2020年8月15日・2021年1月1日・2022年1月1日、[[NHK-FM放送|NHK-FM]]・[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第1]]) - テノール歌手の[[錦織健]]と共演 === ウェブラジオ === * [[ニコラジ]](2017年3月30日・7月6日、[[ニコニコ生放送]]) === CM === * [[佐鳴予備校]](2016年9月 - ) * [[白泉社]]『3月のライオン』(2017年9月 - ) * [[日本郵便]]「年賀状印刷」 (2017年10月 - )- [[相葉雅紀]]と共演 *[[NTTドコモ]] **「会長」篇(2017年11月‐)- [[堤真一]]、[[高畑充希]]と共演 **「先が読めていた会長」篇(2018年1月 -) - 堤真一と共演 **「らくらくスマホデビュー」篇(2018年5月 -) - 高畑充希と共演 *[[3月のライオン]](2017年)- 将棋を題材とした[[漫画]]とそのメディア展開 * [[エクスコムグローバル]]「イモトのWiFi」(2019年9月 - ) - [[イモトアヤコ]]、[[五木ひろし]]、[[アンミカ]]と共演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.imotonowifi.jp/news/20190905_02/?agent=PGD|title=新CM発表会にイモトアヤコさん、五木ひろしさん、加藤一二三さん、アンミカさんが登場!|publisher=イモトのWiFi|date=2019-09-05|accessdate=2019-09-07}}</ref> === ゲームソフト === * 朝日新聞連載 加藤一二三九段将棋 心技流(1995年、[[レイアップ|バリエ]]) ※[[スーパーファミコン]]用ソフト * 加藤一二三九段 将棋倶楽部(1997年、[[ヘクト (ゲーム会社)|ヘクト]]) ※スーパーファミコン用ソフト * 加藤一二三九段の将棋教室(1999年、[[カルチャーブレーン]]) ※[[ゲームボーイ]]用ソフト *激指デラックス 名人戦道場(2013年07月19日、[[マイナビ]])※パソコン用ソフト * [[加藤一二三 九段監修 ひふみんの将棋道場#ひふみんRUN すすめ!棒銀一直線|ひふみんRUN すすめ!棒銀一直線]](2018年、ポケット) ※[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]・[[iOS]]対応アプリ、将棋ゲームではなく[[アクションゲーム]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1801/23/news134.html|title=加藤一二三九段が監修、Switchで“初心者向け将棋ソフト”発売|date=2018-01-23|publisher=[[ITmedia]]|accessdate=2018-01-26|}}</ref> * [[加藤一二三 九段監修 ひふみんの将棋道場]](2018年12月20日、ポケット) ※[[Nintendo Switch]]用ソフト == 作品 == === 配信楽曲 === * ひふみんアイ(2017年9月22日、FUJI TELEVISION) - 大天才ひふみん名義<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170921-OHT1T50229.html|title=古坂大魔王、ひふみんに楽曲提供!その名も「ひふみんアイ」で紅白狙う|publisher=スポーツ報知|accessdate=2017年9月26日|date=2017年9月21日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170922133025/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170921-OHT1T50229.html|archivedate=2017-09-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/owarai/news/248701|title=古坂大魔王「アウト×デラックスSP」で加藤一二三に楽曲提供、4回作り直した|publisher=お笑いナタリー|accessdate=2017年9月26日|date=2017年9月14日}}</ref> == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation|和書 |title=聖の青春|year=2002|last=大崎|first=善生|authorlink=大崎善生|publisher=[[講談社]](講談社文庫)|isbn=}} * {{Citation |和書|last=加藤治郎 |first=(監修) |authorlink=加藤治郎 (棋士) |year=1987 |title=[写真で見る]将棋昭和史 |edition= |publisher=[[マイナビ出版|毎日コミュニケーションズ]]|isbn=}} * {{Citation|和書 |title=負けて強くなる|year=2014|last=加藤|first=一二三|authorlink=加藤一二三|publisher=[[宝島社]](宝島社新書)|isbn=}} * {{Citation|和書|title=天才棋士 加藤一二三 挑み続ける人生|year=2017|last=加藤|first=一二三|authorlink=加藤一二三|edition=|publisher=[[日本実業出版社]]|isbn=}} * {{Citation|和書|title=鬼才伝説 私の将棋風雲録|year=2018|last=加藤|first=一二三|authorlink=加藤一二三|edition=|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=}} * {{Citation |和書 |last=河口 |first=俊彦 |authorlink=河口俊彦 |year=2003 |title=大山康晴の晩節 |volume= |publisher=[[飛鳥新社]]|isbn=}} * {{Citation |和書 |last=田丸 |first=昇 |authorlink=田丸昇 |year=2017 |title=伝説の序章 天才棋士 藤井聡太 |volume= |publisher=[[清流出版]]|isbn=}} == 関連項目 == *[[将棋棋士一覧]] *[[棋戦 (将棋)]] *[[将棋のタイトル在位者一覧]] *[[棋風]] *[[名人 (将棋)]] == 外部リンク == * [https://www.shogi.or.jp/player/pro/64.html 加藤一二三|棋士データベース|日本将棋連盟] * [https://www.watanabepro.co.jp/mypage/60000022/ 加藤一二三|ワタナベエンターテインメント] * {{Ameba ブログ|hifumikato|加藤一二三オフィシャルブログ}} * {{Twitter|hifumikato}} * [https://ch.nicovideo.jp/hifumi ニャンとも言えない一二三伝説] - ニコニコ公式ブロマガ * [https://web.archive.org/web/20200606144508/https://www.newyorker.co.jp/magazine/interview/traditional_style/272/ 加藤一二三インタビュー] - ニューヨーカーマガジン * [https://web.archive.org/web/20161107135643/http://www.47news.jp/feature/hifumin/ 加藤一二三のひふみん伝説60年] - [[47News]] * {{NHK人物録|D0009071643_00000}} {{Navboxes |title=タイトル(5冠)8期 |titlestyle=background-color:#FCF16E |list1= </span> {{名人戦 (将棋)|1期}} {{十段戦 (将棋)|3期}} {{王将戦|1期}} {{棋王戦|2期}} {{王位戦|1期}} }} {{Navboxes |title=一般棋戦優勝 23回 |titlestyle=background-color:#88CCEE |list1= {{王座戦 (一般公式棋戦)|優勝 1回}} {{NHK杯テレビ将棋トーナメント|優勝 7回}} {{早指し将棋選手権|優勝 3回}} {{将棋日本シリーズ|優勝 2回}} {{天王戦|優勝 1回}} {{名将戦|優勝 1回}} {{東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦|優勝 2回 高松宮賞 1回}} {{最強者決定戦|1|優勝 2回}} {{名棋戦|1|2|優勝 1回}} {{早指し王位決定戦|優勝 1回}} |belowstyle=background-color:#88CCEE |below ='''その他優勝 1回''' }} {{Navboxes |title=将棋大賞 |list1= </span> {{将棋大賞最優秀棋士賞|1回}} {{将棋大賞特別賞|1回}} {{将棋大賞殊勲賞|3回}} {{将棋大賞技能賞|1回}} {{将棋大賞最多対局賞|1回}} {{将棋大賞最多勝利賞|2回}} {{将棋大賞連勝賞|2回}} {{将棋大賞東京記者会賞|1回}} {{升田幸三賞|特別賞 1回}} }} {{ワタナベエンターテインメント}} {{NHK紅白歌合戦審査員}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かとう ひふみ}} [[Category:名人 (将棋)]] [[Category:将棋棋士]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:旭日小綬章受章者]] [[Category:NHK紅白歌合戦審査員]] [[Category:文化功労者]] [[Category:日本のカトリック教会の信者]] [[Category:福岡県出身の人物]] [[Category:1940年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:渡辺プロ系列所属者]]
2003-07-21T04:22:43Z
2023-12-30T18:15:37Z
false
false
false
[ "Template:Refn", "Template:Cite book", "Template:NHK紅白歌合戦審査員", "Template:Infobox 将棋棋士", "Template:See", "Template:0", "Template:将棋棋士年別在籍クラスA", "Template:Citation", "Template:Navboxes", "Template:Main2", "Template:Cite journal", "Template:Cite book ja-jp", "Template:ワタナベエンターテインメント", "Template:Quotation", "Template:将棋棋士年別在籍クラス", "Template:将棋棋士年別在籍クラスZ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:NHK人物録", "Template:Normdaten", "Template:TVWATCH", "Template:読み仮名", "Template:Refnest", "Template:Cite journal ja-jp", "Template:Ameba ブログ", "Template:Twitter", "Template:Efn", "Template:Anchors", "Template:将棋タイトル獲得記録", "Template:Harvnb", "Template:Cite news" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E4%B8%80%E4%BA%8C%E4%B8%89
11,952
政治的リーダーシップ
一般的なリーダーシップとは、ある組織において指導的な地位にある人物の行動の傾向や人格の特性により生じる現象として理解されている。同時にそれは組織の構成員を統制・指導し、協働させることによって、組織の目標を達成することを容易にする機能がある。このようなリーダーシップの基本的な特徴は政治的リーダーシップ(せいじてきリーダーシップ)においても共通しているが、政治的リーダーシップの分析では組織全般ではなく政府組織や政治的指導者に着目する。 一般的なリーダーシップとは、ある組織において指導的な地位にある人物の行動の傾向や人格の特性により生じる現象として理解されている。同時にそれは組織の構成員を統制・指導し、協働させることによって、組織の目標を達成することを容易にする機能がある。このようなリーダーシップの基本的な特徴は政治的リーダーシップにおいても共通しているが、政治的リーダーシップの分析では組織全般ではなく政府組織や政治的指導者に着目する。 政治的リーダーシップを理解するための一つの方法に政治的指導者の特性を分類する方法がある。例えばバーンズは消極的な立場に立って部下の自発性を引き出す「自由放任型リーダーシップ(Lassez-faire Leadership)」、主導的な立場に立って相互に協調しようとする「交流型リーダーシップ(Transactional Leadership)」、そして前面に出ることなく部下を動機付けようとする「変形型リーダーシップ(Transformational Leadership)」という三種類の区分を提案している。 このような政治的リーダーシップの多様性を説明するために、環境要因に着目する分析や人格的要素に着目する分析がある。エルジーも政治的リーダーシップを研究するアプローチには個人的要素から調べるアプローチと、環境的要素から調べるアプローチがあると考えている。彼はさらに環境的要因には公然な制度要因と、非公然な社会要因の二つがあると見分けており、権力資源の分布から分析を加えることができると論じている。 個人的要因を調べる場合には、指導者の目標である野心と意思決定の方法であるスタイルを調査することが考えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "一般的なリーダーシップとは、ある組織において指導的な地位にある人物の行動の傾向や人格の特性により生じる現象として理解されている。同時にそれは組織の構成員を統制・指導し、協働させることによって、組織の目標を達成することを容易にする機能がある。このようなリーダーシップの基本的な特徴は政治的リーダーシップ(せいじてきリーダーシップ)においても共通しているが、政治的リーダーシップの分析では組織全般ではなく政府組織や政治的指導者に着目する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的なリーダーシップとは、ある組織において指導的な地位にある人物の行動の傾向や人格の特性により生じる現象として理解されている。同時にそれは組織の構成員を統制・指導し、協働させることによって、組織の目標を達成することを容易にする機能がある。このようなリーダーシップの基本的な特徴は政治的リーダーシップにおいても共通しているが、政治的リーダーシップの分析では組織全般ではなく政府組織や政治的指導者に着目する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "政治的リーダーシップを理解するための一つの方法に政治的指導者の特性を分類する方法がある。例えばバーンズは消極的な立場に立って部下の自発性を引き出す「自由放任型リーダーシップ(Lassez-faire Leadership)」、主導的な立場に立って相互に協調しようとする「交流型リーダーシップ(Transactional Leadership)」、そして前面に出ることなく部下を動機付けようとする「変形型リーダーシップ(Transformational Leadership)」という三種類の区分を提案している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "このような政治的リーダーシップの多様性を説明するために、環境要因に着目する分析や人格的要素に着目する分析がある。エルジーも政治的リーダーシップを研究するアプローチには個人的要素から調べるアプローチと、環境的要素から調べるアプローチがあると考えている。彼はさらに環境的要因には公然な制度要因と、非公然な社会要因の二つがあると見分けており、権力資源の分布から分析を加えることができると論じている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "個人的要因を調べる場合には、指導者の目標である野心と意思決定の方法であるスタイルを調査することが考えられている。", "title": "概要" } ]
一般的なリーダーシップとは、ある組織において指導的な地位にある人物の行動の傾向や人格の特性により生じる現象として理解されている。同時にそれは組織の構成員を統制・指導し、協働させることによって、組織の目標を達成することを容易にする機能がある。このようなリーダーシップの基本的な特徴は政治的リーダーシップ(せいじてきリーダーシップ)においても共通しているが、政治的リーダーシップの分析では組織全般ではなく政府組織や政治的指導者に着目する。
{{脚注の不足|date=2022年7月}} 一般的なリーダーシップとは、ある組織において指導的な地位にある人物の行動の傾向や人格の特性により生じる現象として理解されている。同時にそれは組織の構成員を統制・指導し、協働させることによって、組織の目標を達成することを容易にする機能がある。このようなリーダーシップの基本的な特徴は'''政治的リーダーシップ'''(せいじてきリーダーシップ)においても共通しているが、政治的リーダーシップの分析では組織全般ではなく政府組織や政治的指導者に着目する。 == 概要 == 一般的なリーダーシップとは、ある組織において指導的な地位にある人物の行動の傾向や人格の特性により生じる現象として理解されている。同時にそれは組織の構成員を統制・指導し、協働させることによって、組織の目標を達成することを容易にする機能がある。このようなリーダーシップの基本的な特徴は政治的リーダーシップにおいても共通しているが、政治的リーダーシップの分析では組織全般ではなく政府組織や政治的指導者に着目する。 政治的リーダーシップを理解するための一つの方法に政治的指導者の特性を分類する方法がある。例えばバーンズは消極的な立場に立って部下の自発性を引き出す「自由放任型リーダーシップ(Lassez-faire Leadership)」、主導的な立場に立って相互に協調しようとする「交流型リーダーシップ(Transactional Leadership)」、そして前面に出ることなく部下を動機付けようとする「変形型リーダーシップ(Transformational Leadership)」という三種類の区分を提案している。 このような政治的リーダーシップの多様性を説明するために、環境要因に着目する分析や人格的要素に着目する分析がある。エルジーも政治的リーダーシップを研究するアプローチには個人的要素から調べるアプローチと、環境的要素から調べるアプローチがあると考えている。彼はさらに環境的要因には公然な制度要因と、非公然な社会要因の二つがあると見分けており、権力資源の分布から分析を加えることができると論じている。 個人的要因を調べる場合には、指導者の目標である野心と意思決定の方法であるスタイルを調査することが考えられている。 == 関連項目 == * [[政治学]]、[[政治過程論]] * [[リーダーシップ]] * [[国家の内部における国家]] == 参考文献 == * 信田智人『総理大臣の権力と指導力』東洋経済新報社、1994年 * 三隅二不二『改訂版 リーダーシップ行動の科学』有斐閣、1984年 * Blondel, J. 1987. Political Leadership, Towards a General Analysis. London: Beverly Hills. * Burns, B. 1978. Leadership. New York: Harper & Row. * Elgie, R. 1995. Political Leadership in Liberal Democracies. Basingstoke: Palgrave. * Gardner, H. 1996. Leading Minds. London: Harper Collins. * Stogdill, R. M. 1974. Handbook of Leadership: A Survey of Theory and Research. New York: Free Press. {{Poli-stub}} {{DEFAULTSORT:せいしてきりいたあしつふ}} [[Category:リーダーシップ]] [[Category:政治学の理論]]
null
2022-07-28T20:45:56Z
false
false
false
[ "Template:脚注の不足", "Template:Poli-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%9A%84%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97
11,953
空集合
空集合(くうしゅうごう、英: empty set)は、要素を一切持たない集合のことである。公理的集合論において、空集合は公理として存在を仮定される場合と、他の公理から存在が導かれる場合がある。 空集合を表す記号として、∅ 、 ∅ {\displaystyle \emptyset } または {} がある。記号 ∅ はノルウェー語などで用いられるアルファベット Ø(スラッシュ付きオー)に由来している。形の似ているギリシャ文字のφ, Φ(ファイ)、キリル文字のФ, ф(エフ)および ⌀(直径記号、まる)、その他似た文字とは全く関係がない。 集合とは、素朴には一定の決まりに従っている数学的な対象の集まりのことであるが、集合論の議論をする上で「何も含まない集まり」「何も集めていない集まり」を集合の一つと考えた方が自然である。この何も含まない集合 {} が空集合である。「......の集合」という文章において、「......」を該当するもののない条件(4で割り切れる奇数、10より大きい負の数など)とすれば、この集合は空集合になる。集合を袋にたとえる場合に、空集合は空の袋に相当する。 いかなる元も持たない集合を空集合といい、 ∅ , ∅ , { } {\displaystyle \varnothing ,\;\emptyset ,\;\{\}} などと書く。このうち初めの2つは、ブルバキが数学原論の最初の巻『結果の要約』(fascicule de résultats, 1939年、日本語版:集合論 要約) で Ø を用いたのが始まりである。 アンドレ・ヴェイユはブルバキを引退した後、1991年に出版した『修業時代の思い出』(Souvenirs d'apprentisage) において、ブルバキ内部でノルウェー語を知っていたのは自分だけで、そのアルファベット Ø を空集合の記号として提案したことを回想している。ギリシャ文字の Φ で代用することもあり「ファイ」と読まれることもあるがΦとは無関係である。 記号 ∅ は、UnicodeではU+2205、JIS X 0213では1-2-39のコードが定められていて、ラテン文字の Ø や直径を表す記号 ⌀ とは区別されている。HTMLにおける実体参照では &empty; と記述する。ASCII や ISO 8859 ではこの記号は定義されていない。 ∅ や ∅ {\displaystyle \emptyset } という文字の活字やフォントが無い場合もあるので、組版の都合上、見た目が似ているギリシャ文字のΦで代用する習慣もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "空集合(くうしゅうごう、英: empty set)は、要素を一切持たない集合のことである。公理的集合論において、空集合は公理として存在を仮定される場合と、他の公理から存在が導かれる場合がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "空集合を表す記号として、∅ 、 ∅ {\\displaystyle \\emptyset } または {} がある。記号 ∅ はノルウェー語などで用いられるアルファベット Ø(スラッシュ付きオー)に由来している。形の似ているギリシャ文字のφ, Φ(ファイ)、キリル文字のФ, ф(エフ)および ⌀(直径記号、まる)、その他似た文字とは全く関係がない。", "title": "記号" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "集合とは、素朴には一定の決まりに従っている数学的な対象の集まりのことであるが、集合論の議論をする上で「何も含まない集まり」「何も集めていない集まり」を集合の一つと考えた方が自然である。この何も含まない集合 {} が空集合である。「......の集合」という文章において、「......」を該当するもののない条件(4で割り切れる奇数、10より大きい負の数など)とすれば、この集合は空集合になる。集合を袋にたとえる場合に、空集合は空の袋に相当する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "いかなる元も持たない集合を空集合といい、 ∅ , ∅ , { } {\\displaystyle \\varnothing ,\\;\\emptyset ,\\;\\{\\}} などと書く。このうち初めの2つは、ブルバキが数学原論の最初の巻『結果の要約』(fascicule de résultats, 1939年、日本語版:集合論 要約) で Ø を用いたのが始まりである。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アンドレ・ヴェイユはブルバキを引退した後、1991年に出版した『修業時代の思い出』(Souvenirs d'apprentisage) において、ブルバキ内部でノルウェー語を知っていたのは自分だけで、そのアルファベット Ø を空集合の記号として提案したことを回想している。ギリシャ文字の Φ で代用することもあり「ファイ」と読まれることもあるがΦとは無関係である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "記号 ∅ は、UnicodeではU+2205、JIS X 0213では1-2-39のコードが定められていて、ラテン文字の Ø や直径を表す記号 ⌀ とは区別されている。HTMLにおける実体参照では &empty; と記述する。ASCII や ISO 8859 ではこの記号は定義されていない。", "title": "空集合の文字コード" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "∅ や ∅ {\\displaystyle \\emptyset } という文字の活字やフォントが無い場合もあるので、組版の都合上、見た目が似ているギリシャ文字のΦで代用する習慣もある。", "title": "空集合の文字コード" } ]
空集合は、要素を一切持たない集合のことである。公理的集合論において、空集合は公理として存在を仮定される場合と、他の公理から存在が導かれる場合がある。
{{出典の明記|date=2016年3月}} '''空集合'''(くうしゅうごう、{{lang-en-short|empty set}})は、要素を一切持たない集合のことである。[[公理的集合論]]において、空集合は[[空集合の公理|公理]]として存在を仮定される場合と、他の公理から存在が導かれる場合がある。 ==記号== 空集合を表す記号として、&empty; 、 <math>\emptyset</math> または {} がある。記号 &empty; は[[ノルウェー語]]などで用いられるアルファベット [[&Oslash;]]([[スラッシュ (記号)|スラッシュ]]付き[[O|オー]])に由来している。形の似ている[[ギリシャ文字]]のφ, Φ(ファイ)、[[キリル文字]]のФ, ф(エフ)および ⌀([[直径]]記号、まる)、その他似た文字とは全く関係がない。 == 概要 == [[集合]]とは、[[素朴集合論|素朴]]には一定の決まりに従っている[[数学]]的な対象の集まりのことであるが、[[集合論]]の議論をする上で「何も含まない集まり」「何も集めていない集まり」を集合の一つと考えた方が自然である。この何も含まない集合 {} が空集合である。「……の集合」という文章において、「……」を該当するもののない条件(4で割り切れる奇数、10より大きい負の数など)とすれば、この集合は空集合になる。集合を袋にたとえる場合に、空集合は空の袋に相当する。 ==定義== いかなる元も持たない集合を'''空集合'''といい、<math>\varnothing,\;\emptyset,\;\{\}</math> などと書く。このうち初めの2つは、[[ニコラ・ブルバキ|ブルバキ]]が[[数学原論]]の最初の巻『結果の要約』(''fascicule de résultats'', [[1939年]]、日本語版:集合論 要約) で [[&Oslash;]] を用いたのが始まりである<ref>[http://jeff560.tripod.com/set.html Earliest Uses of Symbols of Set Theory and Logic] の2014-02-07版(2015-12-23閲覧)</ref>。 [[アンドレ・ヴェイユ]]はブルバキを引退した後、[[1991年]]に出版した『修業時代の思い出』(''Souvenirs d'apprentisage'') において、ブルバキ内部でノルウェー語を知っていたのは自分だけで、そのアルファベット [[&Oslash;]] を空集合の記号として提案したことを回想している{{sfn|ヴェイユ|2004|loc=第5章 ストラスブールとブルバキ}}<!-- シュプリンガー・フェアラーク版だと p. 34-->。[[ギリシャ文字]]の [[Φ]] で代用することもあり「ファイ」と読まれることもあるがΦとは無関係である。 == 性質 == * 全ての集合は空集合を[[部分集合]]として含む:任意の集合 ''A'' に対し、&empty; ⊆ ''A'' である。何故なら、任意の集合 ''A'' に対し、命題「<math>\forall x : x \in \varnothing \implies x \in A</math>」は常に真だからである([[空虚な真]]参照)。特に <math>A=\varnothing</math> とすれば、<math>\varnothing \subseteq \varnothing</math> が成り立つことも分かる。 * どんなものであれ、空集合に元として含まれることはない。 ::<math>\forall x, x \notin \varnothing.</math> * 空集合の部分集合は空集合自身のみである。 ::<math>({\forall}A)[A \subseteq \varnothing \implies A=\varnothing].</math> * 空集合の[[濃度 (数学)|元の数]]は0である。 ::|&empty;| = 0. * どんな集合 ''A'' についても、''A'' と空集合 &empty; の[[合併 (集合論)|和集合]]は ''A'' に等しく、''A'' と &empty; の[[共通部分 (数学)|共通部分]]や[[集合の直積|直積]]は &empty; に等しい: ::''A'' ∪ &empty; = ''A'', ''A'' ∩ &empty; = &empty;, ''A'' &times; &empty; = &empty; = &empty; &times; ''A''. * 空集合を[[定義域]]とする[[写像]]は、[[終域]]を定めるごとに唯1つ定まり、且つ[[単射]]である。特に、終域も空集合である場合 <math> \varnothing \to \varnothing </math> は[[全単射]]となる([[空写像]]の項を参照)。 * [[集合族]] {{math|{{mset|''X''{{sub|''&lambda;''}}}}{{sub|''&lambda;'' &isin; &Lambda;}}}} の添字集合 {{math|&Lambda;}} が空集合 {{math|&empty;}} であるとき和集合は <math> \textstyle \bigcup_{\lambda \in \Lambda} X_\lambda = \varnothing </math> である{{sfn|Bourbaki|2004|p={{google books quote|id=7eclBQAAQBAJ|page=91|91}}}}。また集合族 {{math|{{mset|''X''{{sub|''&lambda;''}}}}{{sub|''&lambda;'' &isin; &Lambda;}}}} がある集合 {{mvar|E}} の部分集合からなり、その添字集合 {{math|&Lambda;}} が空集合 {{math|&empty;}} であるとき共通部分は <math> \textstyle \bigcap_{\lambda \in \Lambda} X_\lambda = E </math> である{{sfn|Bourbaki|2004|p={{google books quote|id=7eclBQAAQBAJ|page=92|92}}}}。 == 空集合の文字コード == 記号 ∅ は、[[Unicode]]ではU+2205、[[JIS X 0213]]では1-2-39のコードが定められていて、[[ラテン文字]]の [[Ø]] や[[直径]]を表す記号 [[⌀]] とは区別されている。[[HyperText Markup Language|HTML]]における[[実体参照]]では &amp;empty; と記述する。[[ASCII]] や [[ISO/IEC 8859|ISO 8859]] ではこの記号は定義されていない。 ∅ や <math>\emptyset</math> という文字の[[活字]]やフォントが無い場合もあるので、組版の都合上、見た目が似ている[[ギリシャ文字]]の[[Φ]]で代用する習慣もある。 {| class="wikitable" style="text-align: center" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|8709|2205|1-2-39|空集合|empty}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|first=アンドレ|last=ヴェイユ|others=[[稲葉延子]]訳|origyear=1991|year=2004|month=5|title=アンドレ・ヴェイユ自伝 ある数学者の修業時代|series=シュプリンガー数学クラブ13|volume=下|edition=増補新版|publisher=[[丸善出版]]|isbn=978-4-621-06393-4|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621063934.html|ref=harv}} *{{Cite book |last1 = Bourbaki |first1 = N |authorlink1 = ニコラ・ブルバキ |year = 2004 |title = Theory of Sets |series = [[数学原論|Elements of Mathematics]] |url = {{google books|7eclBQAAQBAJ|plainurl=yes}} |publisher = Springer |isbn = 978-3-540-22525-6 |mr = 2102219 |zbl = 1061.03001 |ref = harv }} == 関連項目 == * [[空関数]] * [[形而上学的ニヒリズム]] * [[単集合]] {{集合論}} {{DEFAULTSORT:くうしゆうこう}} [[Category:集合論]] [[Category:初等数学]] [[Category:無]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-07-21T04:53:46Z
2023-12-04T09:29:04Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:Math", "Template:CharCode", "Template:集合論", "Template:Cite book", "Template:出典の明記", "Template:Sfn", "Template:Mvar", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E9%9B%86%E5%90%88
11,954
木村義雄 (棋士)
木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、将棋棋士。十四世名人。棋士番号は2。東京府東京市本所区本所表町(現:東京都墨田区)出身。 最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。 江戸っ子である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から囲碁と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は弁護士か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし生家の職業上糊として使うことから白米を常食としていた義雄は、囲碁の師匠の家である日出された麦飯を二口と食べられなかった。そのことを紹介者から忠告されたところ、父はその場では息子の無礼を侘びつつも、いくら貧乏したって米の飯を食うのがなぜ悪いと立腹して、後で義雄に対しては明日から碁をやめろと命じた。 浅草の将棋会所で指していたところを吉原から朝帰り中(本因坊秀哉も同行していた)の関根金次郎に見込まれ、1916年(大正5年)にその門下になる。1917年(大正6年)には関根の紹介で大和郡山柳沢家当主の柳沢保恵伯爵邸に書生として住み込み、慶應普通科に入学。この頃に坂田三吉(阪田三吉)や小野五平の指導を受ける機会に恵まれたという。同年のうちに初段格として朝日新聞の新聞棋戦に参加。 1918年(大正7年)に、柳沢邸の書生を辞して実家に戻り、外務省の給仕などを務め、夜学(錦城中学)に通いつつ将棋に励んだ。 1918年(大正7年)には二段に、1919年(大正8年)には三段となる。同門の兄弟子の金易二郎と花田長太郎を目標としていたという。 1920年(大正9年)には四段にまで昇る。同年、國民新聞主催で実施された三派花形棋士の三巴戦に関根派を代表して出場。土居市太郎派の金子金五郎、大崎熊雄派の飯塚勘一郎と戦って優勝を果たす。 1921年(大正10年)には五段に昇る。同年に死去した小野五平十二世名人の跡を受けて師の関根が名人に推挙され、十三世名人となる。 1924年(大正13年)、六段に昇る。報知新聞に嘱託として入社し、1942年まで観戦記を執筆する。同年には三派が合同を果たし、東京将棋連盟(後の日本将棋連盟の前身)が発足する。この年に坂田が関西で名人を僭称した。 1925年(大正14年)、七段に昇る。9月には新昇段規定により八段の資格を得たが、これを辞退した。この年に、花田と初のラジオ対局を行う。 1926年(大正15年)の3月、再び昇段点を獲得して八段に昇る。 22歳での八段は前例のない快挙であったが、木村はそれでは満足せず、他の先輩格の八段全員を半香の手合いに指し込む快挙をなしとげたという。その後まもなく指し込み制度は廃止となった。後に木村はこのことに対して非常に憤ったことを自著において述懐している。 1928年(昭和3年)、『将棋大観』を出版する。 1931年(昭和6年)、文藝春秋社主催の土居市太郎との五番勝負に四勝一敗とする。1933年(昭和8年)、読売新聞社主催の金子金五郎との十番勝負が、四連勝で終了する。 1935年(昭和10年)、関根が引退を表明し実力制名人戦が始まる。神田辰之助の八段昇段をめぐる将棋界の分裂劇もあったが(神田事件)、八段の中でも実力抜群であった木村は次第に頭角を現していく。 1937年(昭和12年)、将棋大成会成立後も関西で孤塁を守っていた坂田との対戦を周囲の反対を押し切って実現させ、2月5日から11日にかけて京都南禅寺で対戦して勝利する。同年の12月6日には、名人リーグ戦で千日手指しなおしの末に花田を破り、名人リーグ戦では同じ「13勝2敗」の成績ながら一般棋戦の差で第1期名人戦の勝者となる。1938年(昭和13年)2月11日に、将棋大成会道場にて、名人就位式を実施する。なお、名人就位時、江戸時代の名人が詰将棋集を将軍に献上したことに倣い、記念の詰将棋を発表している。同1938年から、将棋大成会の会長となる。 1940年(昭和15年)の第2期名人戦は、かつて「土居時代」を築いた実力者である土居を4勝1敗で下し、1942年(昭和17年)の第3期名人戦では関西の期待を一身に担う神田を4連勝で下した。 1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)の第4期名人戦は挑戦予備手合で当時の八段陣を下し名人位を維持した。1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の第5期名人戦には挑戦資格者が現れず、そのまま名人防衛となった。 この頃から関西の升田幸三、大山康晴が台頭する。1945年11月、木村は将棋大成会会長として、棋士総会に「段位撤廃」「順位戦創設」を提言する。段位撤廃はのちに撤回されたが、順位戦は翌1946年から開始する。 1947年(昭和22年)の第6期名人戦で塚田正夫が木村から名人位を奪取した。若い塚田には対局以外の仕事を木村同様にこなすのは困難であったため、木村には前名人の称号が与えられ、これまで通り棋界第一人者の立場で社会活動することが認められた。しかし金銭面での待遇は大幅に下がったため、生活に苦慮したともいう。同1947年、将棋大成会から日本将棋連盟と改名された連盟の会長となり、1948年までつとめる。 1948年の第7期名人戦のA級リーグ戦では不振だったものの、1949年第8期名人戦A級リーグ戦で優勝して挑戦者となり、3勝2敗(この期のみ五番勝負)で塚田を破り、名人に復位する勝負強さを見せた。その後、第9期(1950年)、第10期(1951年)名人戦ではそれぞれ大山、升田を退けた。 1951年(昭和26年)の暮れから行われた第1期王将戦では、升田と対戦して一勝四敗となり指し込みに追い込まれ、升田に香を引かれる事態になる。この時、香落ち戦の第6局を升田が対局拒否をする陣屋事件が起こった。升田の処遇をめぐって将棋界は紛糾したが、最終的には木村が裁定を下しその混乱を収拾した。この対局は、「升田の不戦敗」となり、香車を落とされる対局は実現しなかった。 しかし、もはや盤上ではすっかり精彩を欠くようになっていた木村は1952年(昭和27年)の第11期名人戦で7月15日に1勝4敗で大山に敗れ、名人を失冠する。この時勝った大山は、敗れた木村に深々と頭を下げたという。 「よき後継者を得た」との言葉を残し、敗戦から約一か月後の同年8月14日に、上野の寛永寺で開かれた物故棋士追善将棋大会の席上で引退を表明した。日本将棋連盟は、木村を十四世名人に推挙した。 引退時、この後も棋戦によっては参加すると語っており、同1952年度は引退後も大山と「日経年代対抗棋戦」「名人A級選抜勝継戦」で対戦しており、また塚田と「木村・新九段三番勝負」を戦った(九段戦の「名人九段五番勝負」の代替棋戦、木村二連敗)。その後も「記念対局」「模範対局」などを行っている。墓所は鎌倉霊園。 将棋界の第一人者として最強を誇り、当時の上位棋士を全て指し込むなど、戦前・戦中の将棋界に名を轟かせ、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられたという。信条は「勝ち将棋を勝て」。一般人にも、相撲で不敗を誇った双葉山と並んでよく知られていた。将棋大成会の組織・運営にも辣腕を振るい、段級位の廃止や順位戦の導入を提案するなど将棋界の近代化に尽くした。将棋の連盟の度重なる分裂にも心を痛め、分裂の原因となっていた、師弟関係・親子関係を排斥するために、新進棋士奨励会を設立した。 戦後、若手棋士たちは木村を倒すために持ち時間の短い将棋に有利な急戦腰掛け銀定跡の研究を行ったという。しかし木村は、名人失冠後に腰掛け銀の研究に打ち込み、先手必勝の角換わり腰掛け銀定跡(木村定跡)を完成させたという。 坂口安吾は、第8期名人戦第5局の観戦記「勝負師」において、「彼(木村)は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた。」と述べ、また「青春論」では「彼(木村)は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である」と讃えている。 報知新聞嘱託として長く観戦記を執筆し、名文家として知られた。 引退後は神奈川県茅ヶ崎市にて隠棲生活を送り、1960年(昭和35年)に将棋棋士として初となる紫綬褒章を受章。1978年(昭和53年)には勲三等旭日中綬章を受章した。 1977年頃に日本将棋連盟が大阪市に関西将棋会館を建設するべく資金を集めるための資材として木村と大山康晴(十五世名人)、中原誠(当時の現役名人、後の十六世名人)の3人による署名入りの記念免状を発行した。その際には茅ヶ崎の木村邸で木村・大山・中原のスリーショット写真が撮影されている。 加藤一二三の著書によると洗礼を受けたクリスチャンであったとのことである。実際は、死去の前日に、夫人の願いをいれて病床で洗礼を受けた。1986年、満年齢81歳の「盤寿」での死去であり、死去日は将棋連盟が決めた「将棋の日」である11月17日だった。12月13日の将棋連盟葬は、キリスト教式で行われた。 江戸っ子としての粋にこだわる一面もあり、修行時代に木村の鞄持ちをしていたこともある芹沢博文によれば「昼食に鰻重が届くと、蓋を取って茶を注ぎ、しばらくすると上に乗った鰻を捨て、香の物をおかずに茶漬けを食べる」ことがしばしばあったという。「鰻をポイと捨てるところが通の食べ方である」と芹沢はその食べ方を絶賛している。 プロ棋士となった弟子は多く、北楯修哉、金高清吉、清野静男、板谷四郎、花村元司、木村嘉孝がいる。また、花村と板谷も多くの弟子を輩出し、系譜上には深浦康市(王位)、高見泰地(叡王)、藤井聡太(竜王・名人・王位・叡王・王座・棋王・王将・棋聖)らタイトル獲得者や、平成期以降も多くのプロ棋士が誕生している。三男の木村義徳もプロ棋士となったが、加藤治郎門下となり、系統は異なる(木村は関根金次郎、加藤は小菅剣之助の系譜)。 特に花村とは仲がよく、晩年まで共に仲良く競輪場へ通っていた。1985年に花村が先に亡くなると「(花村は)とてもよい弟子だがたった一つ悪いことをした。師匠より早く死んだことだ」と悲しんだという。 弟の木村文俊は駒師。妹の若子は女優松井須磨子の養女となり、のち俳人・川上梨屋の妻。妻・鶴子は実業家鶴森信太郎の娘。日本鋳銅取締役の鶴森亀蔵は義兄にあたる。先述の通り、三男・義徳も棋士となり順位戦A級八段まで昇級昇段(引退後に贈九段)。 木村には名勝負と呼ばれているいくつかの対局がある。それを以下に記す(段位、タイトルはその時点のもの)。 木村は将棋が強いばかりではなく、将棋普及にも尽くした。これまでの定跡書が素人には良く分からないとされていたのを改善し、名著『将棋大観』を著し、駒落ち定跡を定めている。現在でも『将棋大観』掲載の定跡は、「大観定跡」といわれ駒落ち将棋の基本となっている。また、平手戦でも数々の定跡を発見・確立した。 竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラスを参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、将棋棋士。十四世名人。棋士番号は2。東京府東京市本所区本所表町(現:東京都墨田区)出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "江戸っ子である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から囲碁と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は弁護士か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし生家の職業上糊として使うことから白米を常食としていた義雄は、囲碁の師匠の家である日出された麦飯を二口と食べられなかった。そのことを紹介者から忠告されたところ、父はその場では息子の無礼を侘びつつも、いくら貧乏したって米の飯を食うのがなぜ悪いと立腹して、後で義雄に対しては明日から碁をやめろと命じた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "浅草の将棋会所で指していたところを吉原から朝帰り中(本因坊秀哉も同行していた)の関根金次郎に見込まれ、1916年(大正5年)にその門下になる。1917年(大正6年)には関根の紹介で大和郡山柳沢家当主の柳沢保恵伯爵邸に書生として住み込み、慶應普通科に入学。この頃に坂田三吉(阪田三吉)や小野五平の指導を受ける機会に恵まれたという。同年のうちに初段格として朝日新聞の新聞棋戦に参加。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)に、柳沢邸の書生を辞して実家に戻り、外務省の給仕などを務め、夜学(錦城中学)に通いつつ将棋に励んだ。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)には二段に、1919年(大正8年)には三段となる。同門の兄弟子の金易二郎と花田長太郎を目標としていたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1920年(大正9年)には四段にまで昇る。同年、國民新聞主催で実施された三派花形棋士の三巴戦に関根派を代表して出場。土居市太郎派の金子金五郎、大崎熊雄派の飯塚勘一郎と戦って優勝を果たす。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1921年(大正10年)には五段に昇る。同年に死去した小野五平十二世名人の跡を受けて師の関根が名人に推挙され、十三世名人となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)、六段に昇る。報知新聞に嘱託として入社し、1942年まで観戦記を執筆する。同年には三派が合同を果たし、東京将棋連盟(後の日本将棋連盟の前身)が発足する。この年に坂田が関西で名人を僭称した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1925年(大正14年)、七段に昇る。9月には新昇段規定により八段の資格を得たが、これを辞退した。この年に、花田と初のラジオ対局を行う。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1926年(大正15年)の3月、再び昇段点を獲得して八段に昇る。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "22歳での八段は前例のない快挙であったが、木村はそれでは満足せず、他の先輩格の八段全員を半香の手合いに指し込む快挙をなしとげたという。その後まもなく指し込み制度は廃止となった。後に木村はこのことに対して非常に憤ったことを自著において述懐している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1928年(昭和3年)、『将棋大観』を出版する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)、文藝春秋社主催の土居市太郎との五番勝負に四勝一敗とする。1933年(昭和8年)、読売新聞社主催の金子金五郎との十番勝負が、四連勝で終了する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)、関根が引退を表明し実力制名人戦が始まる。神田辰之助の八段昇段をめぐる将棋界の分裂劇もあったが(神田事件)、八段の中でも実力抜群であった木村は次第に頭角を現していく。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)、将棋大成会成立後も関西で孤塁を守っていた坂田との対戦を周囲の反対を押し切って実現させ、2月5日から11日にかけて京都南禅寺で対戦して勝利する。同年の12月6日には、名人リーグ戦で千日手指しなおしの末に花田を破り、名人リーグ戦では同じ「13勝2敗」の成績ながら一般棋戦の差で第1期名人戦の勝者となる。1938年(昭和13年)2月11日に、将棋大成会道場にて、名人就位式を実施する。なお、名人就位時、江戸時代の名人が詰将棋集を将軍に献上したことに倣い、記念の詰将棋を発表している。同1938年から、将棋大成会の会長となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1940年(昭和15年)の第2期名人戦は、かつて「土居時代」を築いた実力者である土居を4勝1敗で下し、1942年(昭和17年)の第3期名人戦では関西の期待を一身に担う神田を4連勝で下した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)の第4期名人戦は挑戦予備手合で当時の八段陣を下し名人位を維持した。1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の第5期名人戦には挑戦資格者が現れず、そのまま名人防衛となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この頃から関西の升田幸三、大山康晴が台頭する。1945年11月、木村は将棋大成会会長として、棋士総会に「段位撤廃」「順位戦創設」を提言する。段位撤廃はのちに撤回されたが、順位戦は翌1946年から開始する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)の第6期名人戦で塚田正夫が木村から名人位を奪取した。若い塚田には対局以外の仕事を木村同様にこなすのは困難であったため、木村には前名人の称号が与えられ、これまで通り棋界第一人者の立場で社会活動することが認められた。しかし金銭面での待遇は大幅に下がったため、生活に苦慮したともいう。同1947年、将棋大成会から日本将棋連盟と改名された連盟の会長となり、1948年までつとめる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1948年の第7期名人戦のA級リーグ戦では不振だったものの、1949年第8期名人戦A級リーグ戦で優勝して挑戦者となり、3勝2敗(この期のみ五番勝負)で塚田を破り、名人に復位する勝負強さを見せた。その後、第9期(1950年)、第10期(1951年)名人戦ではそれぞれ大山、升田を退けた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)の暮れから行われた第1期王将戦では、升田と対戦して一勝四敗となり指し込みに追い込まれ、升田に香を引かれる事態になる。この時、香落ち戦の第6局を升田が対局拒否をする陣屋事件が起こった。升田の処遇をめぐって将棋界は紛糾したが、最終的には木村が裁定を下しその混乱を収拾した。この対局は、「升田の不戦敗」となり、香車を落とされる対局は実現しなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "しかし、もはや盤上ではすっかり精彩を欠くようになっていた木村は1952年(昭和27年)の第11期名人戦で7月15日に1勝4敗で大山に敗れ、名人を失冠する。この時勝った大山は、敗れた木村に深々と頭を下げたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「よき後継者を得た」との言葉を残し、敗戦から約一か月後の同年8月14日に、上野の寛永寺で開かれた物故棋士追善将棋大会の席上で引退を表明した。日本将棋連盟は、木村を十四世名人に推挙した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "引退時、この後も棋戦によっては参加すると語っており、同1952年度は引退後も大山と「日経年代対抗棋戦」「名人A級選抜勝継戦」で対戦しており、また塚田と「木村・新九段三番勝負」を戦った(九段戦の「名人九段五番勝負」の代替棋戦、木村二連敗)。その後も「記念対局」「模範対局」などを行っている。墓所は鎌倉霊園。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "将棋界の第一人者として最強を誇り、当時の上位棋士を全て指し込むなど、戦前・戦中の将棋界に名を轟かせ、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられたという。信条は「勝ち将棋を勝て」。一般人にも、相撲で不敗を誇った双葉山と並んでよく知られていた。将棋大成会の組織・運営にも辣腕を振るい、段級位の廃止や順位戦の導入を提案するなど将棋界の近代化に尽くした。将棋の連盟の度重なる分裂にも心を痛め、分裂の原因となっていた、師弟関係・親子関係を排斥するために、新進棋士奨励会を設立した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "戦後、若手棋士たちは木村を倒すために持ち時間の短い将棋に有利な急戦腰掛け銀定跡の研究を行ったという。しかし木村は、名人失冠後に腰掛け銀の研究に打ち込み、先手必勝の角換わり腰掛け銀定跡(木村定跡)を完成させたという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "坂口安吾は、第8期名人戦第5局の観戦記「勝負師」において、「彼(木村)は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた。」と述べ、また「青春論」では「彼(木村)は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である」と讃えている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "報知新聞嘱託として長く観戦記を執筆し、名文家として知られた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "引退後は神奈川県茅ヶ崎市にて隠棲生活を送り、1960年(昭和35年)に将棋棋士として初となる紫綬褒章を受章。1978年(昭和53年)には勲三等旭日中綬章を受章した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1977年頃に日本将棋連盟が大阪市に関西将棋会館を建設するべく資金を集めるための資材として木村と大山康晴(十五世名人)、中原誠(当時の現役名人、後の十六世名人)の3人による署名入りの記念免状を発行した。その際には茅ヶ崎の木村邸で木村・大山・中原のスリーショット写真が撮影されている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "加藤一二三の著書によると洗礼を受けたクリスチャンであったとのことである。実際は、死去の前日に、夫人の願いをいれて病床で洗礼を受けた。1986年、満年齢81歳の「盤寿」での死去であり、死去日は将棋連盟が決めた「将棋の日」である11月17日だった。12月13日の将棋連盟葬は、キリスト教式で行われた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "江戸っ子としての粋にこだわる一面もあり、修行時代に木村の鞄持ちをしていたこともある芹沢博文によれば「昼食に鰻重が届くと、蓋を取って茶を注ぎ、しばらくすると上に乗った鰻を捨て、香の物をおかずに茶漬けを食べる」ことがしばしばあったという。「鰻をポイと捨てるところが通の食べ方である」と芹沢はその食べ方を絶賛している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "プロ棋士となった弟子は多く、北楯修哉、金高清吉、清野静男、板谷四郎、花村元司、木村嘉孝がいる。また、花村と板谷も多くの弟子を輩出し、系譜上には深浦康市(王位)、高見泰地(叡王)、藤井聡太(竜王・名人・王位・叡王・王座・棋王・王将・棋聖)らタイトル獲得者や、平成期以降も多くのプロ棋士が誕生している。三男の木村義徳もプロ棋士となったが、加藤治郎門下となり、系統は異なる(木村は関根金次郎、加藤は小菅剣之助の系譜)。", "title": "門下・縁戚" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "特に花村とは仲がよく、晩年まで共に仲良く競輪場へ通っていた。1985年に花村が先に亡くなると「(花村は)とてもよい弟子だがたった一つ悪いことをした。師匠より早く死んだことだ」と悲しんだという。", "title": "門下・縁戚" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "弟の木村文俊は駒師。妹の若子は女優松井須磨子の養女となり、のち俳人・川上梨屋の妻。妻・鶴子は実業家鶴森信太郎の娘。日本鋳銅取締役の鶴森亀蔵は義兄にあたる。先述の通り、三男・義徳も棋士となり順位戦A級八段まで昇級昇段(引退後に贈九段)。", "title": "門下・縁戚" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "木村には名勝負と呼ばれているいくつかの対局がある。それを以下に記す(段位、タイトルはその時点のもの)。", "title": "名勝負の数々" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "木村は将棋が強いばかりではなく、将棋普及にも尽くした。これまでの定跡書が素人には良く分からないとされていたのを改善し、名著『将棋大観』を著し、駒落ち定跡を定めている。現在でも『将棋大観』掲載の定跡は、「大観定跡」といわれ駒落ち将棋の基本となっている。また、平手戦でも数々の定跡を発見・確立した。", "title": "定跡研究に尽くす" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラスを参照。", "title": "成績" } ]
木村 義雄は、将棋棋士。十四世名人。棋士番号は2。東京府東京市本所区本所表町出身。 最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。
{{Infobox 将棋棋士 |image = [[File:Yoshio Kimura Shogi 1951 Scan10012-2.JPG|250px]] |caption = 第10期名人戦に勝利後<br />(1951年5月29日) |名前 = 木村義雄 |棋士番号 = 2 |生年月日 = [[1905年]][[2月21日]] |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1905|2|21|1986|11|17}} |プロ年度 = {{年月日|year=1920|month=8|day=19}}({{年数|1905|2|21|1920|8|19}}歳){{efn2|四段昇段年。}}<ref>(a) 「[{{NDLDC|1126124/170}} 第五十一局 朝日新聞掲載 大正九年八月十九日 関根先生宅に於て (角香交 六段 村越爲吉 香落番 三段 木村義雄)]」, 『木村義雄全集 修業篇 第2巻』, 博文館, 1943年. (b)「木村氏昇段」, 朝日新聞, 1920年(大正9年)8月23日 東京 朝刊 7頁 5段. </ref> |引退年度 = {{年月日|year=1952|month=8|day=24}}({{年数|1905|2|21|1952|8|24}}歳) |出身地 = [[東京府]][[東京市]][[本所区]]本所表町(現:[[東京都]][[墨田区]]) |所属 = 東京将棋倶楽部<br />→東京将棋連盟<br />→[[日本将棋連盟]](東京)<br />→将棋大成会(関東)<br />→日本将棋連盟(関東) |師匠 = [[関根金次郎]][[名人 (将棋)|十三世名人]] |弟子 = [[北楯修哉]]、[[金高清吉]]、[[清野静男]]、[[板谷四郎]]、[[花村元司]]、[[木村嘉孝 (棋士)|木村嘉孝]] |肩書 = 十四世名人 |永世 = 十四世名人 |段位 = |タイトル合計 = 8期 |優勝回数 = 2回 |通算成績 = |順位戦クラス = A級(10期{{efn2|名人8期を含む}}) |作成日時 = 2018年2月27日 }} '''木村 義雄'''(きむら よしお、[[1905年]]([[明治]]38年)[[2月21日]]{{refnest|group="注"|将棋ライターの[[松本博文]]によると、木村存命当時を知る複数の将棋関係者から、1905年生まれというのは実際の生年ではなく、実際はもう少し年上である可能性があるとの指摘がなされている<ref>{{Cite web|和書|author=松本博文|date=2020-02-27|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20200227-00164838|title=木村義雄14世名人は現役中、歳をいくらかサバ読みしてた?「早熟の天才」の年齢に関するミステリー|accessdate=2021-03-09}}</ref>}} - [[1986年]]([[昭和]]61年)[[11月17日]])は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。'''[[名人 (将棋)|十四世名人]]'''。[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は2。[[東京府]][[東京市]][[本所区]]本所表町(現:[[東京都]][[墨田区]])出身。 最初の実力制による[[名人戦 (将棋)|名人]]、かつ最初の永世名人である。 {{Main|名人 (将棋)#実力制による名人}} == 経歴 == {{出典の明記|section=1|date=2007年9月|ソートキー=人1986年没}} [[江戸っ子]]である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から[[囲碁]]と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は[[弁護士]]か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし生家の職業上糊として使うことから白米を常食としていた義雄は、囲碁の師匠の家である日出された麦飯を二口と食べられなかった。そのことを紹介者から忠告されたところ、父はその場では息子の無礼を侘びつつも、いくら貧乏したって米の飯を食うのがなぜ悪いと立腹して、後で義雄に対しては明日から碁をやめろと命じた。 浅草の将棋会所で指していたところを吉原から朝帰り中([[本因坊秀哉]]も同行していた)の[[関根金次郎]]に見込まれ<ref>『本因坊と私』(日本の名随筆:囲碁Ⅱ:作品社)P.27</ref>、[[1916年]](大正5年)にその門下になる。[[1917年]](大正6年)には関根の紹介で[[大和郡山市|大和郡山]]柳沢家当主の[[柳沢保恵]][[伯爵]]邸に書生として住み込み、[[慶應義塾普通部|慶應普通科]]に入学。この頃に[[坂田三吉]](阪田三吉)や[[小野五平]]の指導を受ける機会に恵まれたという。同年のうちに初段格として[[朝日新聞]]の新聞棋戦に参加。 [[1918年]](大正7年)に<ref>『将棋一代 ある勝負師の生涯』(文春文庫)P.129</ref>、柳沢邸の書生を辞して実家に戻り、[[外務省]]の給仕などを務め、夜学([[錦城学園高等学校|錦城中学]])に通いつつ将棋に励んだ。 [[1918年]](大正7年)には二段に、[[1919年]](大正8年)には三段となる。同門の兄弟子の[[金易二郎]]と[[花田長太郎]]を目標としていたという。 [[1920年]](大正9年)には四段にまで昇る。同年、[[國民新聞]]主催で実施された三派花形棋士の三巴戦に関根派を代表して出場。[[土居市太郎]]派の[[金子金五郎]]、[[大崎熊雄]]派の[[飯塚勘一郎]]と戦って優勝を果たす。 [[1921年]](大正10年)には五段に昇る。同年に死去した小野五平十二世名人の跡を受けて師の関根が名人に推挙され、十三世名人となる。 [[1924年]](大正13年)、六段に昇る。[[報知新聞]]に[[嘱託]]として入社し、1942年まで<ref>『将棋一代』(日本図書センター)巻末年譜</ref>観戦記を執筆する。同年には三派が合同を果たし、東京将棋連盟(後の[[日本将棋連盟]]の前身)が発足する。この年に坂田が関西で名人を僭称した。 [[1925年]](大正14年)、七段に昇る。9月には新昇段規定により八段の資格を得たが、これを辞退した。この年に、花田と初のラジオ対局を行う。 [[1926年]](大正15年)の3月、再び昇段点を獲得して八段に昇る。 22歳での八段は前例のない快挙であったが、木村はそれでは満足せず、他の先輩格の八段全員を半香の手合いに指し込む快挙をなしとげたという。その後まもなく指し込み制度は廃止となった。後に木村はこのことに対して非常に憤ったことを自著において述懐している。 [[1928年]](昭和3年)、『将棋大観』を出版する<ref>誠文堂。『大日本百科全書』の一巻として</ref>。 [[1931年]](昭和6年)、[[文藝春秋社]]主催の[[土居市太郎]]との五番勝負に四勝一敗とする<REF>週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.114</REF>。[[1933年]](昭和8年)、[[読売新聞社]]主催の[[金子金五郎]]との十番勝負が、四連勝で終了する<REF>週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.114-115</REF>。 [[1935年]](昭和10年)、関根が引退を表明し実力制名人戦が始まる。[[神田辰之助]]の八段昇段をめぐる将棋界の分裂劇もあったが([[神田事件 (将棋)|神田事件]])、八段の中でも実力抜群であった木村は次第に頭角を現していく。 [[1937年]](昭和12年)、将棋大成会成立後も関西で孤塁を守っていた坂田との対戦を周囲の反対を押し切って実現させ、2月5日から11日にかけて京都[[南禅寺]]で対戦して勝利する。同年の12月6日には、名人リーグ戦で千日手指しなおしの末に花田を破り、名人リーグ戦では同じ「13勝2敗」の成績ながら一般棋戦の差で第1期[[名人戦 (将棋)|名人戦]]の勝者となる<ref>週刊将棋編『名局紀行』毎日コミュニケーションズ P.101-102</ref>。[[1938年]](昭和13年)2月11日に、将棋大成会道場にて、名人就位式を実施する。なお、名人就位時、江戸時代の名人が[[詰将棋]]集を将軍に献上したことに倣い、記念の詰将棋を発表している<ref>『ある勝負師の生涯 将棋一代』(文春文庫)P,213-214</ref>。同1938年から、将棋大成会の会長となる。 [[1940年]](昭和15年)の第2期名人戦は、かつて「土居時代」を築いた実力者である土居を4勝1敗で下し、[[1942年]](昭和17年)の第3期名人戦では関西の期待を一身に担う神田を4連勝で下した。 [[1943年]](昭和18年)から[[1944年]](昭和19年)の第4期名人戦は挑戦予備手合で当時の八段陣を下し名人位を維持した。[[1944年]](昭和19年)から[[1945年]](昭和20年)の第5期名人戦には挑戦資格者が現れず、そのまま名人防衛となった。 この頃から関西の[[升田幸三]]、[[大山康晴]]が台頭する。1945年11月、木村は将棋大成会会長として、棋士総会に「段位撤廃」「順位戦創設」を提言する<ref>週刊将棋編「名局紀行」毎日コミュニケーションズ P.123</ref>。段位撤廃はのちに撤回されたが、順位戦は翌1946年から開始する。 [[1947年]](昭和22年)の第6期名人戦で[[塚田正夫]]が木村から名人位を奪取した。若い塚田には対局以外の仕事を木村同様にこなすのは困難であったため、木村には前名人の称号が与えられ、これまで通り棋界第一人者の立場で社会活動することが認められた。しかし金銭面での待遇は大幅に下がったため、生活に苦慮したともいう。同1947年、将棋大成会から[[日本将棋連盟]]と改名された連盟の会長となり、1948年までつとめる。 [[1948年]]の第7期名人戦のA級リーグ戦では不振だったものの、[[1949年]]第8期名人戦A級リーグ戦で優勝して挑戦者となり、3勝2敗(この期のみ五番勝負)で塚田を破り、名人に復位する勝負強さを見せた。その後、第9期([[1950年]])、第10期([[1951年]])名人戦ではそれぞれ大山、升田を退けた。 1951年(昭和26年)の暮れから行われた第1期[[王将戦]]では、升田と対戦して一勝四敗となり指し込みに追い込まれ、升田に香を引かれる事態になる。この時、香落ち戦の第6局を升田が対局拒否をする[[陣屋事件]]が起こった。升田の処遇をめぐって将棋界は紛糾したが、最終的には木村が裁定を下しその混乱を収拾した。この対局は、「升田の不戦敗」となり、香車を落とされる対局は実現しなかった。 しかし、もはや盤上ではすっかり精彩を欠くようになっていた木村は[[1952年]](昭和27年)の第11期名人戦で7月15日<REF>東公平『升田幸三物語』(角川文庫)</REF>に1勝4敗で大山に敗れ、名人を失冠する。この時勝った大山は、敗れた木村に深々と頭を下げたという。 「よき後継者を得た」との言葉を残し、敗戦から約一か月後の同年8月14日に、上野の寛永寺で開かれた物故棋士追善将棋大会の席上で引退を表明した{{refnest|group="注"|2020年3月現在において、順位戦A級在籍時に現役を引退した棋士は、木村の他は[[高島一岐代]]と[[升田幸三]]の3人である。ただし、高島と升田はいずれも病気休場したままの引退であった。他には[[山田道美]]、大山康晴、[[村山聖]]の3人がA級在籍時に病気により死去している。}}。日本将棋連盟は、木村を十四世名人に推挙した。 引退時、この後も棋戦によっては参加すると語っており、同1952年度は引退後も大山と「日経年代対抗棋戦」「名人A級選抜勝継戦」で対戦しており、また塚田と「木村・新九段三番勝負」を戦った(九段戦の「名人九段五番勝負」の代替棋戦、木村二連敗)。その後も「記念対局」「模範対局」などを行っている。墓所は鎌倉霊園。 == 人物 == [[File:Kimura-Yoshio-1.jpg|thumb|180px|1954年]] 将棋界の第一人者として最強を誇り、当時の上位棋士を全て指し込むなど、戦前・戦中の将棋界に名を轟かせ、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられたという。信条は「勝ち将棋を勝て」。一般人にも、相撲で不敗を誇った[[双葉山]]と並んでよく知られていた。将棋大成会の組織・運営にも辣腕を振るい、段級位の廃止や[[順位戦]]の導入を提案するなど将棋界の近代化に尽くした。将棋の連盟の度重なる分裂にも心を痛め、分裂の原因となっていた、師弟関係・親子関係を排斥するために、[[新進棋士奨励会]]を設立した。 戦後、若手棋士たちは木村を倒すために持ち時間の短い将棋に有利な急戦[[腰掛け銀]]定跡の研究を行ったという。しかし木村は、名人失冠後に腰掛け銀の研究に打ち込み、先手必勝の角換わり腰掛け銀定跡([[木村定跡]])を完成させたという。 [[坂口安吾]]は、第8期[[名人戦 (将棋)|名人戦]]第5局の観戦記「勝負師」において、「彼(木村)は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた。」と述べ、また「青春論」では「彼(木村)は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である」と讃えている。 [[報知新聞]]嘱託として長く観戦記を執筆し、名文家として知られた。 引退後は[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]にて隠棲生活を送り、1960年(昭和35年)に将棋棋士として初となる[[紫綬褒章]]を受章。1978年(昭和53年)には勲三等旭日中綬章を受章した<ref name="Web photo">{{Cite web|和書|author= 弦巻勝|date= 2015-03-05|url= https://www.shogi.or.jp/photo_gallery/006.html|title= 参名人を撮る|website= 弦巻勝のWeb将棋写真館|publisher= 日本将棋連盟|accessdate=2020-05-16}}</ref>。 1977年頃に日本将棋連盟が[[大阪市]]に[[関西将棋会館]]を建設するべく資金を集めるための資材として木村と大山康晴(十五世名人)、[[中原誠]](当時の現役名人、後の十六世名人)の3人による署名入りの記念免状を発行した。その際には茅ヶ崎の木村邸で木村・大山・中原のスリーショット写真が撮影されている<ref name="Web photo"/>。 [[加藤一二三]]の著書によると洗礼を受けた[[クリスチャン]]であったとのことである。実際は、死去の前日に、夫人の願いをいれて病床で洗礼を受けた<ref>『ある勝負師の生涯 将棋一代』(文春文庫)巻末の[[天狗太郎]]による注釈より。元ソースは「毎日新聞」1986年12月1日号</ref>。1986年、満年齢81歳の「[[盤寿]]」{{refnest|group="注"|正確な「盤寿」は数え年の81歳。}}での死去であり、死去日は将棋連盟が決めた「将棋の日」である11月17日だった{{refnest|group="注"|「将棋の日」の由来は、江戸時代の御城将棋・御城碁の日である。}}。12月13日の将棋連盟葬は、キリスト教式で行われた<ref>『週刊将棋』2016年1月20日号・田丸昇のクイズ</ref>。 江戸っ子としての粋にこだわる一面もあり、修行時代に木村の鞄持ちをしていたこともある[[芹沢博文]]によれば「昼食に[[鰻重]]が届くと、蓋を取って茶を注ぎ、しばらくすると上に乗った鰻を捨て、香の物をおかずに茶漬けを食べる」ことがしばしばあったという。「鰻をポイと捨てるところが通の食べ方である」と芹沢はその食べ方を絶賛している<ref>『[[将棋世界]]』2014年1月号・河口俊彦「評伝 木村義雄」</ref>。 == 門下・縁戚 == プロ棋士となった弟子は多く、[[北楯修哉]]、[[金高清吉]]、[[清野静男]]、[[板谷四郎]]、[[花村元司]]、[[木村嘉孝 (棋士)|木村嘉孝]]がいる<ref>[https://www.shogi.or.jp/player/diagram.html 日本将棋連盟「棋士系統図」]</ref>。また、花村と板谷も多くの弟子を輩出し、系譜上には[[深浦康市]](王位)、[[高見泰地]](叡王)、[[藤井聡太]](竜王・名人・王位・叡王・王座・棋王・王将・棋聖)らタイトル獲得者や、平成期以降も多くのプロ棋士が誕生している。三男の[[木村義徳]]もプロ棋士となったが、[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]門下となり、系統は異なる(木村は[[関根金次郎]]、加藤は[[小菅剣之助]]の系譜)。 特に花村とは仲がよく、晩年まで共に仲良く競輪場へ通っていた。1985年に花村が先に亡くなると「(花村は)とてもよい弟子だがたった一つ悪いことをした。師匠より早く死んだことだ」と悲しんだという。 弟の[[木村文俊]]は駒師。妹の若子は女優[[松井須磨子]]の養女となり、のち俳人・川上梨屋の妻。妻・鶴子は実業家[[鶴森信太郎]]の娘。[[日本鋳銅]]取締役の鶴森亀蔵は義兄にあたる。先述の通り、三男・義徳も棋士となり順位戦A級八段まで昇級昇段(引退後に贈九段)。 == 名勝負の数々 == 木村には名勝負と呼ばれているいくつかの対局がある。それを以下に記す(段位、タイトルはその時点のもの)。 ; [[南禅寺の決戦]] : 対[[坂田三吉]]関西名人、1937年(昭和12年)2月5日 - 11日。 : 関西名人を称していた坂田を破り、東西に分裂していた将棋界を統一した一戦として、当時のマスコミに宣伝された一戦である。近代将棋の第一人者の木村と、関西将棋の第一人者坂田の決戦ということもあり、大評判となった。坂田の初手が端歩突きであったことも有名である。[[織田作之助]]に至っては新聞で報じられた端歩突きを見て「初めて感動というものを知った」と言わしめたほどであった(「聴雨」)。しかし、対局そのものは将棋から遠ざかっていた対戦相手坂田の実力が衰えており、木村が終始優勢で、木村は非常に楽観的に指すことが出来、三日目終了後、報知新聞の記事を書いて酒を飲むほどリラックスしていた。逆に坂田は火鉢をかき回すなどあせりの色が濃く、付き添いの娘(坂田玉枝)をしきりに見ていたという。 : 坂田の将棋に詳しい[[福崎文吾]]によれば、坂田の将棋の中でももっとも不出来な対局であるといい、坂田に代表される力将棋の時代が終わり、木村に代表される理論に基づいた近代将棋の時代が来たことを告げる対局であったといえる。 ; 定山渓の決戦 : 対[[土居市太郎]]八段、1940年(昭和15年)6月25 - 27日(第2期[[名人戦 (将棋)|名人戦]]第3局)。 : 2回に及ぶ[[千日手]]指し直しの末に行われた一局。土居の唯一の勝局になったが、木村は土居を「天才」と賞賛した。 ; 済寧館の決戦 : 対[[塚田正夫]]名人、1949年(昭和24年)5月24、25日(第8期[[名人戦 (将棋)|名人戦]]第5局) : [[皇居]]内[[済寧館]]で行われた。木村が二年前に塚田に奪われた名人位を奪還した一番。「[[文藝春秋 (雑誌)|別冊文藝春秋]]」誌(昭和24年第12号)に掲載された[[坂口安吾]]の観戦記「勝負師」に詳しい。 == 定跡研究に尽くす == 木村は将棋が強いばかりではなく、将棋普及にも尽くした。これまでの[[定跡]]書が素人には良く分からないとされていたのを改善し、名著『将棋大観』を著し、駒落ち定跡を定めている。現在でも『将棋大観』掲載の定跡は、「大観定跡」といわれ駒落ち将棋の基本となっている。また、平手戦でも数々の定跡を発見・確立した。 * [[角換わり腰掛け銀]]における[[木村定跡]]の確立 * 不利とされていた[[横歩取り2三歩]]で先手有利となる形を定跡化<ref>山川次彦『将棋二百年名局の旅』(三一書房)P.129</ref> * 香落ち上手で愛用した[[美濃囲い|木村美濃]]の考案 * [[相掛かり]]で[[雁木囲い]]を愛用し、「木村不敗の陣」と呼ばれた<REF>週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.95</REF>。 == 昇段履歴 == * [[1916年]]([[大正]]5年) 入門 * [[1920年]]([[大正]]9年)[[1月1日]] 四段 * [[1921年]]([[大正]]10年) 五段 * [[1924年]]([[大正]]13年) 六段 * [[1925年]]([[大正]]14年) 七段 * [[1926年]]([[大正]]15年)3月 八段 * [[1952年]]([[昭和]]27年)[[8月24日]] 引退、十四世名人を襲位 * [[1986年]]([[昭和]]61年)[[11月17日]] 逝去(享年81) - 命日の11月17日は奇しくも[[将棋の日]] == 成績 == === 獲得タイトル === * [[名人戦 (将棋)|名人]] 8期(第1期(1938年)-第5期、第8期-第10期)- [[名人戦 (将棋)|永世名人]](十四世名人) :(タイトル戦登場は第1期を含めると第2-3期、第6期、第8-11期の計8回 / 第1期、4期、5期は番勝負を実施せず)。 *: [[順位戦]]A級以上 10期{{refnest|group="注"|順位戦には第2-3期の通算2期のみの参加で、順位戦での負け越しがないまま引退した唯一のケースである(第2期で7勝7敗、第3期で7勝2敗)。}} {| |{{将棋タイトル獲得記録}} |} === 一般棋戦優勝 === * [[王将戦]] 1回(第1回-1950年度 = タイトル戦となる前年) * [[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]] 1回(第1回-1951年度) * [[十段戦 (将棋)|全日本選手権戦]] 1回(第1回-1948年度) === 在籍クラス === 竜王戦と順位戦のクラスは、[[将棋棋士の在籍クラス]]を参照。 {{将棋棋士年別在籍クラスA}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1937|j=#|#=【 [[第1期名人戦_(将棋)|第1期名人]] 】{{small|(第1期 番勝負の実施無し)}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1938|j=#|#=【 [[第1期名人戦_(将棋)|第1期名人]] 】{{small|(第1期 番勝負の実施無し)}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1939|j=#|#={{align|left|【 [[第2期名人戦_(将棋)|第2期名人]] 】}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1940|j=#|#={{align|left|【 [[第2期名人戦_(将棋)|第2期名人]] 】}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1941|j=#|#={{align|left|【 [[第3期名人戦_(将棋)|第3期名人]] 】}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1942|j=#|#={{align|left|【 [[第3期名人戦_(将棋)|第3期名人]] 】}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1943|j=#|#=【 [[第4期名人戦_(将棋)|第4期名人]] 】{{small|(第4期 番勝負の実施無し)}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1944|j=#|#=【 [[第4期名人戦_(将棋)|第4期名人]] 】{{small|(第4期 番勝負の実施無し)}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1945|j=#|#=【 [[第5期名人戦_(将棋)|第5期名人]] 】{{small|(第5期 番勝負の実施無し)}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1946|j=#|#=【 [[第5期名人戦_(将棋)|第5期名人]] 】{{small|(第5期 番勝負の実施無し)}}}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=0|j=#|#=順位戦開始前↑(第5期名人まで)}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=0|j=#|#=順位戦開始後↓(第5期名人在位)}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1947|JJ=1|j=名人|#=|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1948|JJ=2|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1949|JJ=3|j=A|#=06|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1950|JJ=4|j=名人|#=|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1951|JJ=5|j=名人|#=|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1952|JJ=6|j=名人|#=|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=0|JJ=|j=#|#=[[第6期順位戦|第11期名人戦(第6期順位戦)]]を以って引退|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラスZ}} == 栄典・表彰 == * [[紫綬褒章]] 1960年11月<ref name="Web photo"/> * [[将棋大賞]] 第1回(1973年度)特別賞 * [[勲三等]][[旭日中綬章]] 1978年11月<ref name="Web photo"/> ==主な著書== * 將棋大觀 木村義雄 著 誠文堂 1928 (大日本百科全集) ** 将棋大観 上下 木村義雄 著 誠文堂新光社 1947-1949 ** 将棋大観 木村義雄 著 日本将棋連盟 1976 ** 将棋大観 : 駒落ち定跡全集 木村義雄 著 日本将棋連盟 1987 * 予の将棋決戦録 木村義雄 著 大森書房 1929 * 私の三十五年 木村義雄 著 新潮社 1939 * 私の将棋 木村義雄 著 誠文堂新光社 1949 * 勝負の世界 木村義雄 著 六興出版社 1951  ** 『勝負の世界 : 将棋随想』恒文社 * 将棋一代 木村義雄 著 世界社 1952 - 自伝   ** 『木村義雄 : 将棋一代』講談社 - 戦後の時代についての大幅な加筆あり。 ** 「ある勝負師の生涯 : 将棋一代」文春文庫 - 世界者版を原本。さらに、大幅な章の削除あり。 ** 『木村義雄 : 将棋一代』日本図書センター(人間の記録) - 講談社本の再刊 ==放送== *[[名勝負の解説]]・木村義雄編([[囲碁将棋チャンネル]]) #朝日新聞主催 番外企画対局, 木村義雄初段格 vs [[小泉兼吉]]初段 対局日:1917年1月17日 #国民新聞社主催 鼎立三派三巴戦 木村義雄四段 vs [[金子金五郎]]四段 対局日:1920年9月. 10月31日 #朝日新聞主催 番外企画対局 木村義雄五段 vs [[高浜禎]]五段 対局日:1922年4月 #史上初のラジオ放送対局 木村義雄七段 vs [[花田長太郎]]八段 対局日:1925年9月. 11月14日 #東京日日新聞主催 名家敗退棋戦 木村義雄八段 vs [[土居市太郎]]八段 対局日:1928年12月 #第2回 日本選手権争奪戦 木村義雄八段 vs [[金易二郎]]八段 対局日:1930年9月. 11月28日 #七八段三角棋戦優勝者対名人戦 木村義雄八段 vs [[関根金次郎]]名人 対局日:1935年6月 #読売新聞主催 坂田木村大棋戦<ref>{{cite journal |title=新聞将棋の始まりから発展へ |author=山口恭徳 |journal=将棋と文学研究会 |url=https://hdl.handle.net/10110/00019196 |page=75 |date=2019-01 |accessdate=2021-03-30}}</ref>([[南禅寺の決戦]]) 木村義雄八段 vs [[坂田三吉]] 対局日:1937年2月5日 #東京日日新聞主催 名人決定大棋戦 木村義雄八段 vs [[花田長太郎]]八段 対局日:1937年12月 #? #? #第4期名人戦第2回名人挑戦予備手合 木村義雄名人 vs 大野源一八段 #? #? #? #? #? #第1期 王将戦 挑戦手合七番勝負 木村義雄名人 vs 升田幸三八段 対局日:1952年2月 #? #年代別対抗棋戦(40代 対 20代) 木村義雄14世名人 vs 大山康晴名人 対局日:1952年9月 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 木村義雄『勝負の世界 将棋随想』(恒文社、1995年(六興出版社から1951年に出版された同名の書の復刊)) * [[大山康晴]]『日本将棋大系 第15巻 木村義雄』(筑摩書房、1980年) ** 山本亨介「人とその時代十五(木村義雄)」(同書243頁所収) == 関連項目 == * [[将棋棋士一覧]] * [[棋戦 (将棋)]] * [[将棋のタイトル在位者一覧]] == 外部リンク == * [https://www.shogi.or.jp/player/pro/2.html 木村義雄|棋士データベース|日本将棋連盟] {{将棋永世名人|十四世}} {{日本将棋連盟会長|1947}} {{名人戦 (将棋)|8期(永世)}} {{Navboxes |title=一般棋戦優勝 2回 |titlestyle=background-color:#88CCEE |list1= {{全日本選手権戦|優勝 1回}} {{NHK杯テレビ将棋トーナメント|優勝 1回}} }} {{Navboxes |title=将棋大賞 |list1= </span> {{将棋大賞特別賞|1回}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きむら よしお}} [[Category:将棋棋士]] [[Category:名人 (将棋)|永014]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:勲三等旭日中綬章受章者]] [[Category:報知新聞社の人物]] [[Category:日本のキリスト教徒]] [[Category:墨田区の歴史]] [[Category:茅ヶ崎市の歴史]] [[Category:私の履歴書の登場人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1905年生]] [[Category:1986年没]]
2003-07-21T04:56:02Z
2023-11-24T02:44:03Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 将棋棋士", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:名人戦 (将棋)", "Template:Normdaten", "Template:将棋永世名人", "Template:Refnest", "Template:将棋タイトル獲得記録", "Template:将棋棋士年別在籍クラスA", "Template:将棋棋士年別在籍クラスZ", "Template:Cite web", "Template:将棋棋士年別在籍クラス", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Main", "Template:出典の明記", "Template:日本将棋連盟会長", "Template:Navboxes" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%BE%A9%E9%9B%84_(%E6%A3%8B%E5%A3%AB)
11,955
官僚制
本記事では官僚制(かんりょうせい、英: bureaucracy)について解説する。 広辞苑では、官僚制 bureaucracyは「専門化・階統化された職務体系、明確な権限の委任、文書による事務処理、規則による職務の配分といった諸原則を特色とする組織・管理の体系」と説明されている。 スーパー・ニッポニカの解説では、今日において「官僚制」という用語・概念は次の3つの意味合いを含んでいる、とされている。 官僚制についての本格的な研究は、ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバーに始まる。ヴェーバーは、近代社会における特徴的な合理的支配システムとしての近代官僚制に着目し、その特質を詳細に分析した。上に記した官僚制の基本的な特徴もヴェーバーの定義に基づいている。 近代官僚制は、前近代に見られる家父長制的な支配に基づく家産型官僚制 とは異なり、組織を構成する人間の関係は、制定された規則を順守する非人格的(非人間的ではない)な結びつきによって成り立っているとされる。つまり、血縁によるつながりや感情的な結びつきなどではなく、合理的な規則に基づいて体系的に配分された役割にしたがって人間の関係が形成されているということである。なお近代官僚制は、以下のような特質を備えていることがヴェーバーによって指摘されている。 ヴェーバーは、近代官僚制のもつ合理的機能を指摘し、官僚制は優れた機械のような技術的卓越性があると主張した。ただし、官僚制支配の浸透によって個人の自由が抑圧される可能性や、官僚組織の巨大化によって統制が困難になっていくといった、近代官僚制のマイナス面については予見している。 ヴェーバーの近代官僚制に関する最も重要な組織論的な問題提起は,組織の「形式合理性」と「実質合理性」との矛盾過程の認識である.「形式合理性」は,制定された一般的規則が個々のケースに適用され,すべての意思決定と行動が制定された規則に従うこと,「実質合理性」は,個別ケースで,制定された規則の枠を超え,特定の価値や倫理,組織目的を意識的に実現する度合いであり,定められた規則を超え,あるいは超法規的に意思決定者の主体的な洞察と責任が要請される.そのような意思決定は結果に対する責任が問われる(村上, 2018:62-63).たとえば,国籍国の外にいる「難民」をUNHCRは救援できるが,法の形式合理性を貫徹させれば,国境を越えていない「国内避難民」を救援できない.なぜなら国際法上,国境を越えなければ「難民」ではなく,UNHCRの管轄外だからである.しかし国内避難民であっても,実質合理的な視点から,救援が要請される. 近代的な大規模組織では,ルーティン的な業務の一般的ケースでは,すべての意思決定が制定された規則に従う形式合理的な処理が採用される.一般的な問題状況では,その問題への処方箋が,すでに規則に定められており,規則を順守し,個々のケースに適用すれば,試行錯誤する必要なく問題を処理できる.しかし規則の制定過程で想定されていない,新たな特殊な問題状況で,イノベーションが要請されるケースでの規則の順守は,むしろ問題を解決せず,組織目標の達成を妨げる.このような特殊ケースでは,規則の枠を超え,ケース・バイ・ケースでの個別ケースに適合する実質合理的な意思決定が要請される.ヴェーバーの「官僚制」の概念は,「合法的な支配の純粋型」(Weber, 1976:128)であり,合理性の矛盾過程の問題は『法社会学』で議論されている(Weber, 1976:469).この問題提起は,R.ベンディックスによって,次のように指摘されている.ヴェーバーにとって「近代」は調停不能な形式と実質の合理性との二律背反のうえに成立する(Bendix, 1977:485; 村上, 2018:67).官僚制組織のマイナス面の指摘も,プラス面の指摘も,官僚制の問題の本質を捉えているとは言えない.官僚制の問題は,近代の合法的支配の合理性の二つのサブカテゴリーの矛盾関係の認識にある.制定された規則(法)は順守されねばならない.しかし規則(法)を順守するだけでは,何も問題は解決しない.イノベーションが要請されるなら,組織の事業運営での規則の順守は無力である(村上, 2018:88).
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "本記事では官僚制(かんりょうせい、英: bureaucracy)について解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "広辞苑では、官僚制 bureaucracyは「専門化・階統化された職務体系、明確な権限の委任、文書による事務処理、規則による職務の配分といった諸原則を特色とする組織・管理の体系」と説明されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スーパー・ニッポニカの解説では、今日において「官僚制」という用語・概念は次の3つの意味合いを含んでいる、とされている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "官僚制についての本格的な研究は、ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバーに始まる。ヴェーバーは、近代社会における特徴的な合理的支配システムとしての近代官僚制に着目し、その特質を詳細に分析した。上に記した官僚制の基本的な特徴もヴェーバーの定義に基づいている。", "title": "官僚制の研究" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "近代官僚制は、前近代に見られる家父長制的な支配に基づく家産型官僚制 とは異なり、組織を構成する人間の関係は、制定された規則を順守する非人格的(非人間的ではない)な結びつきによって成り立っているとされる。つまり、血縁によるつながりや感情的な結びつきなどではなく、合理的な規則に基づいて体系的に配分された役割にしたがって人間の関係が形成されているということである。なお近代官僚制は、以下のような特質を備えていることがヴェーバーによって指摘されている。", "title": "官僚制の研究" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ヴェーバーは、近代官僚制のもつ合理的機能を指摘し、官僚制は優れた機械のような技術的卓越性があると主張した。ただし、官僚制支配の浸透によって個人の自由が抑圧される可能性や、官僚組織の巨大化によって統制が困難になっていくといった、近代官僚制のマイナス面については予見している。", "title": "官僚制の研究" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "", "title": "官僚制の研究" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ヴェーバーの近代官僚制に関する最も重要な組織論的な問題提起は,組織の「形式合理性」と「実質合理性」との矛盾過程の認識である.「形式合理性」は,制定された一般的規則が個々のケースに適用され,すべての意思決定と行動が制定された規則に従うこと,「実質合理性」は,個別ケースで,制定された規則の枠を超え,特定の価値や倫理,組織目的を意識的に実現する度合いであり,定められた規則を超え,あるいは超法規的に意思決定者の主体的な洞察と責任が要請される.そのような意思決定は結果に対する責任が問われる(村上, 2018:62-63).たとえば,国籍国の外にいる「難民」をUNHCRは救援できるが,法の形式合理性を貫徹させれば,国境を越えていない「国内避難民」を救援できない.なぜなら国際法上,国境を越えなければ「難民」ではなく,UNHCRの管轄外だからである.しかし国内避難民であっても,実質合理的な視点から,救援が要請される.", "title": "官僚制の研究" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近代的な大規模組織では,ルーティン的な業務の一般的ケースでは,すべての意思決定が制定された規則に従う形式合理的な処理が採用される.一般的な問題状況では,その問題への処方箋が,すでに規則に定められており,規則を順守し,個々のケースに適用すれば,試行錯誤する必要なく問題を処理できる.しかし規則の制定過程で想定されていない,新たな特殊な問題状況で,イノベーションが要請されるケースでの規則の順守は,むしろ問題を解決せず,組織目標の達成を妨げる.このような特殊ケースでは,規則の枠を超え,ケース・バイ・ケースでの個別ケースに適合する実質合理的な意思決定が要請される.ヴェーバーの「官僚制」の概念は,「合法的な支配の純粋型」(Weber, 1976:128)であり,合理性の矛盾過程の問題は『法社会学』で議論されている(Weber, 1976:469).この問題提起は,R.ベンディックスによって,次のように指摘されている.ヴェーバーにとって「近代」は調停不能な形式と実質の合理性との二律背反のうえに成立する(Bendix, 1977:485; 村上, 2018:67).官僚制組織のマイナス面の指摘も,プラス面の指摘も,官僚制の問題の本質を捉えているとは言えない.官僚制の問題は,近代の合法的支配の合理性の二つのサブカテゴリーの矛盾関係の認識にある.制定された規則(法)は順守されねばならない.しかし規則(法)を順守するだけでは,何も問題は解決しない.イノベーションが要請されるなら,組織の事業運営での規則の順守は無力である(村上, 2018:88).", "title": "官僚制の研究" } ]
本記事では官僚制について解説する。
{{政治}} 本記事では'''官僚制'''(かんりょうせい、{{lang-en-short|bureaucracy}})について解説する。 == 概説 == [[広辞苑]]では、官僚制 bureaucracyは「専門化・階統化された職務体系、明確な権限の委任、文書による事務処理、規則による職務の配分といった諸原則を特色とする組織・管理の体系」と説明されている<ref name="koujien">広辞苑「官僚制」</ref>。 [[日本大百科全書|スーパー・ニッポニカ]]の解説では、今日において「官僚制」という用語・概念は次の3つの意味合いを含んでいる、とされている<ref>スーパーニッポニカ「官僚制」[[田口富久治]] 執筆</ref>。 *1.行政[[官僚]]による政治の支配 *2.[[分業]]と協業の原理によって合理的に組み立てられた組織形態である階統制 *3.上記2つに付随しがちな意識や行動=官僚主義 →[[#マートンによって明らかにされた官僚制の逆機能(官僚主義)|マートンによる指摘]] == 官僚制の研究 == 官僚制についての本格的な研究は、[[ドイツ]]の社会学者、[[マックス・ヴェーバー]]に始まる。ヴェーバーは、[[近代|近代社会]]における特徴的な合理的支配システムとしての近代官僚制に着目し、その特質を詳細に分析した。上に記した官僚制の基本的な特徴もヴェーバーの定義に基づいている。 === ヴェーバーによって指摘された合理的組織としての官僚制の特徴 === 近代官僚制は、前近代に見られる[[家父長制]]的な支配に基づく[[家産官僚制|家産型官僚制]]<ref group="注">中世の家臣団やローマ帝国の家長が私的に抱える官僚などが典型的な例。</ref> とは異なり、組織を構成する人間の関係は、制定された規則を順守する非人格的(非人間的ではない)な結びつきによって成り立っているとされる。つまり、[[血縁]]によるつながりや感情的な結びつきなどではなく、合理的な規則に基づいて体系的に配分された役割にしたがって[[人間関係|人間の関係]]が形成されているということである。なお近代官僚制は、以下のような特質を備えていることがヴェーバーによって指摘されている。 * 権限の原則 * 階層の原則 * 専門性の原則 * [[文書主義]] ヴェーバーは、近代官僚制のもつ合理的機能を指摘し、官僚制は優れた機械のような技術的卓越性があると主張した。ただし、官僚制支配の浸透によって個人の[[自由]]が[[抑圧]]される可能性や、官僚組織の巨大化によって統制が困難になっていくといった、近代官僚制のマイナス面については予見している。 <ref group="注">以上のウェーバーによる指摘に関する補足情報。ヴェーバーは、『経済と社会』 (Wirtschaft und Gesellschaft) の中で「官僚制的装置が、これまた、個々のケースに適合した処理を阻むような一定の障碍を生み出す可能性があるし、また事実生み出している…」 (Weber, 1976: 570) と指摘し、そのような官僚制の問題を「新秩序ドイツの議会と政府」(ウェーバー、 2005:319-383)の論文において検討している。そこでは、官僚制に関して以下のような3つの問題が提起されている。  a. 官僚制化に対する個人主義的な活動の自由の確保  b. 専門知識をもつ職員の権力の増大、それに対する制限と有効な統制  c. 官僚制の限界(ウェーバー, 2005:330-331) 上記「a」は組織に対する個人の人格的な自由の問題であり、組織論では常に問題となる。「b」は「官僚支配」と官僚の[[恣意性|恣意的]]な利害[[動機]]の問題である。「官僚支配」は「[[テクノクラシー]]」と同義である。マートンの「逆機能」でいえば「セクショナリズム」に該当し、ニスカネン (Niskanen, W.A.) の官僚制理論は、この問題に適用される。そして上記「c」をヴェーバーは最も重要と考えた。この問題は、今日の視点からすれば、「組織のイノベーション」の問題に該当する。ヴェーバーが指摘するように「官僚制組織」はイノベーションにおいて全く無力という限界がある。それを R.K.マートンのように「逆機能」と指摘することも可能だが、問題の本質を見失うかも知れない。“NASA”は最もイノベーティブな組織の一つだが、“NASA”のような巨大組織が「官僚制」の管理システムに接合されていなければ、一日たりとも事業運営の継続ができなくなることも事実である。またファースト・フード・チェーンの「[[マクドナルド]]」の[[マニュアル]]による管理は官僚制的であり、その成功の理由の一つは徹底した官僚制的管理の活用である(村上, 2014:41)。マクドナルドは「イノベーション・プロセス自体を官僚制的に、工業的に、中央集権的に変え、その成果を慎重に組織全体に還元している(フィスマン & サリバン, 2013:136)。</ref>  ヴェーバーの近代官僚制に関する最も重要な組織論的な問題提起は,組織の「形式合理性」と「実質合理性」との矛盾過程の認識である.「形式合理性」は,制定された一般的規則が個々のケースに適用され,すべての意思決定と行動が制定された規則に従うこと,「実質合理性」は,個別ケースで,制定された規則の枠を超え,特定の価値や倫理,組織目的を意識的に実現する度合いであり,定められた規則を超え,あるいは超法規的に意思決定者の主体的な洞察と責任が要請される.そのような意思決定は結果に対する責任が問われる(村上, 2018:62-63).たとえば,国籍国の外にいる「難民」をUNHCRは救援できるが,法の形式合理性を貫徹させれば,国境を越えていない「国内避難民」を救援できない.なぜなら国際法上,国境を越えなければ「難民」ではなく,UNHCRの管轄外だからである.しかし国内避難民であっても,実質合理的な視点から,救援が要請される.  近代的な大規模組織では,ルーティン的な業務の一般的ケースでは,すべての意思決定が制定された規則に従う形式合理的な処理が採用される.一般的な問題状況では,その問題への処方箋が,すでに規則に定められており,規則を順守し,個々のケースに適用すれば,試行錯誤する必要なく問題を処理できる.しかし規則の制定過程で想定されていない,新たな特殊な問題状況で,イノベーションが要請されるケースでの規則の順守は,むしろ問題を解決せず,組織目標の達成を妨げる.このような特殊ケースでは,規則の枠を超え,ケース・バイ・ケースでの個別ケースに適合する実質合理的な意思決定が要請される.ヴェーバーの「官僚制」の概念は,「合法的な支配の純粋型」(Weber, 1976:128)であり,合理性の矛盾過程の問題は『法社会学』で議論されている(Weber, 1976:469).この問題提起は,R.ベンディックスによって,次のように指摘されている.ヴェーバーにとって「近代」は調停不能な形式と実質の合理性との二律背反のうえに成立する(Bendix, 1977:485; 村上, 2018:67).官僚制組織のマイナス面の指摘も,プラス面の指摘も,官僚制の問題の本質を捉えているとは言えない.官僚制の問題は,近代の合法的支配の合理性の二つのサブカテゴリーの矛盾関係の認識にある.制定された規則(法)は順守されねばならない.しかし規則(法)を順守するだけでは,何も問題は解決しない.イノベーションが要請されるなら,組織の事業運営での規則の順守は無力である(村上, 2018:88). === 用語 === ; 代表的官僚制 : 行政官僚制の職員構成に、社会の構成を反映させる制度。社会を構成する人たちの属性と官僚・公務員の属性を近いものとすることで、公共サービスがより民主的で公正さを保つものになるという考え方で、人種、性別、社会階級、宗教、教育レベル、地域等の属性に注目する<ref>{{Cite web|和書|title=実証研究紹介11:官僚制度と政治(3)代表的官僚制の考え、公務員の属性と政策効果、組織パフォーマンスの関係|Kohei Suzuki|note |url=https://note.com/koheisuzuki2020/n/n829b663b6826 |website=note(ノート) |access-date=2023-05-07 |language=ja}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[マックス・ヴェーバー]]『支配の社会学I』[[世良晃志郎]]訳、創文社、1960年。 * マックス・ヴェーバー『支配の社会学II』世良晃志郎訳、創文社、1962年。 * ウェーバー,M.,阿部行蔵他訳,2005,「新秩序ドイツの議会と政府――官僚制度と政党組織の政治的批判」,『ウェーバー政治・社会論集(世界の大思想23)』,河出書房新社,pp.&nbsp;319–383(Parlament und Regierung im neugeordneten Deutschland ― Zur politischen Kritik des Beamtentums und Parteiwesen, 1918, Gesammelte Politische Schriften). * [[ロバート・キング・マートン]]『社会理論と社会構造』[[森東吾]]他訳、みすず書房、1961年。 * [[シリル・ノースコート・パーキンソン]]『パーキンソンの法則』[[森永晴彦]]訳、至誠堂〈至誠堂選書〉、1996年。 * レイ・フィスマン & ティム・サリバン、土方奈美訳、『意外と会社は合理的』、日本経済新聞社、2013年。 * [[辻清明 (政治学者)|辻清明]]『日本官僚制の研究』新版、東京大学出版会、1969年。 * [[村松岐夫]]『戦後日本の官僚制』東洋経済新報社、1981年。 * [[西尾勝]]『行政学』新版、有斐閣、2001年。 * 村上綱実 『非営利と営利の組織理論:非営利組織と日本型経営システムの信頼形成の組織論的解明(第二版)』 絢文社、2014年。 *村上綱実 『非営利と営利の組織理論:非営利組織と日本型経営システムの信頼形成の組織論的解明(第三版)』 絢文社、2018年。 * Alberbach, J. D., Putnam, R. D., Rockman, B. A. 1981. Bureaucrats and politicians in western democracies. Cambridge, Mass.: Harvard Univ. Press. * Almond, G. A., Verba, S. 1963. The civic culture. Princeton: Princeton Univ. Press. *Bendix, R., 1977, ''Max Weber An Intellectual Portrait'', Berkeley: University of California Press (ベンディックス,R.,1988,折原浩訳.『マックス・ヴェーバー』,中央公論社). * Bennis, W. G. 1973. ''Beyond bureaucracy''. New York: McGraw-Hill. * Crozier, M. 1964. ''The bureaucratic phenomenon''. Chicago: Univ. of Chicago Press. * Heady, F. 1959. Bureaucratic theory and comparative administration. in Administrative Science Quarterly 3: 509-25. * Heper, M. ed. 1987. The state and public bureaucracies: A comparative perspective. New York: Greenwood Press. * Jacoby, H. 1973. The bureaucratization of the world. Berkeley: Univ. of California Press. * Merton, R.K., 1952, ''Reader in bureaucracy,'' New York: Free Press. *Merton, R.K., 1968, ''Social theory and social structure,'' New York: Free Press. * Morstein Marx, F. 1957. The administrative state: An introduction to bureaucracy. Chicago: Univ. of Chicago Press. * Nachmias, D., Rosenbloom, D. H. 1978. Bureaucratic culture. London: Croom Helm. * Niskanen, W. A., 1971, ''Bureaucracy and Representative Government'', New York: Aldine Atherton. * Peters, B. G. 1984. The politics of bureaucracy. 2nd edn. New York: Longman. * Peters, B. G. 1988. comparing public bureaucracy. Tuscaloosa: Univ. of Alabama Press. * Rowat, D. C. ed. 1988. Public administration in developed democracies. New York: Marcel Dekker. * Weber, M., 1976, ''Wirtschaft und Gesellschaft'', 5.Aufl., besorgt von Johannes Winckelman, Tübingen: J.C.B. Mohr. == 関連項目 == *[[官僚]] *[[家産官僚制]] *[[依法官僚制]] *[[律令制]] *[[村社会]] *[[党官僚]] *[[官主主義]] *[[大企業病]] *[[官製談合]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かんりようせい}} [[Category:官僚制|*]] [[Category:政治システム]]
2003-07-21T04:58:44Z
2023-11-18T21:14:29Z
false
false
false
[ "Template:政治", "Template:Lang-en-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Kotobank", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%83%9A%E5%88%B6
11,956
個人メドレー
個人メドレー(こじんメドレー、individual medley)は、競泳の種目の一つで、一人でバタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形の順で同じ距離ずつ泳ぐ競技。 日本では水泳選手を中心に「個メ」「こんめ」「IM」などという略称が用いられている。 100m、200m、400m個人メドレーはそれぞれ4種目を4分の1ずつ泳ぐ。オリンピックに個人メドレーが登場したのは400mが1964年東京五輪から、200mが1968年メキシコ五輪(1976年モントリオール五輪・1980年モスクワ五輪は実施せず)からであった。なお100mは短水路大会でしか行われない。 各地のスイミングスクールでは、4泳法全てをマスターした者の総合的な泳力チェックとして100m個人メドレー(あるいは200m個人メドレー)の完泳もしくはタイム計測を課すことが多く、主にジュニアスイマーにとっての1つの指標となっている一方で、4泳法全てを洗練させる負担の大きさや、泳ぐ距離が長くなること(長水路だと短くても200m)から、競泳でも特に過酷な種目である(特に400m)。そのため競技者人口は比較的少なく、大会の規模によってはタイム決勝になることもある。 審判長の笛の合図の後、スタート台に乗り、静止。出発合図員の「Take your marks...」で構えたあとは、号砲まで静止しなければならない。号砲後飛び込む。「Take your marks...」の合図から号砲までにスタートの動作を起こした場合、失格となる。 定められた順序(バタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形)でそれぞれの泳法の規則に従って泳ぐ。ただし自由形はバタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ以外の泳法で泳がなければならないと決められている。ほとんどの選手はクロールで泳ぐが、それ以外でも(前記3種目以外なら)違反とはならない。種目が変わらないターン時はその種目の折り返しのルールに、種目が変わるターン時は各種目のゴールタッチのルールに従う。つまり、背泳ぎから平泳ぎに移るターンの時には壁にタッチするまでは仰向けの姿勢をくずしてはならない。 各選手で4種目の得手不得手の程度が異なるため、最初に飛び出した選手が最後までリードを保てるかどうかが見どころであり、スイマー同士の駆け引きもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "個人メドレー(こじんメドレー、individual medley)は、競泳の種目の一つで、一人でバタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形の順で同じ距離ずつ泳ぐ競技。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本では水泳選手を中心に「個メ」「こんめ」「IM」などという略称が用いられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "100m、200m、400m個人メドレーはそれぞれ4種目を4分の1ずつ泳ぐ。オリンピックに個人メドレーが登場したのは400mが1964年東京五輪から、200mが1968年メキシコ五輪(1976年モントリオール五輪・1980年モスクワ五輪は実施せず)からであった。なお100mは短水路大会でしか行われない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "各地のスイミングスクールでは、4泳法全てをマスターした者の総合的な泳力チェックとして100m個人メドレー(あるいは200m個人メドレー)の完泳もしくはタイム計測を課すことが多く、主にジュニアスイマーにとっての1つの指標となっている一方で、4泳法全てを洗練させる負担の大きさや、泳ぐ距離が長くなること(長水路だと短くても200m)から、競泳でも特に過酷な種目である(特に400m)。そのため競技者人口は比較的少なく、大会の規模によってはタイム決勝になることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "審判長の笛の合図の後、スタート台に乗り、静止。出発合図員の「Take your marks...」で構えたあとは、号砲まで静止しなければならない。号砲後飛び込む。「Take your marks...」の合図から号砲までにスタートの動作を起こした場合、失格となる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "定められた順序(バタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形)でそれぞれの泳法の規則に従って泳ぐ。ただし自由形はバタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ以外の泳法で泳がなければならないと決められている。ほとんどの選手はクロールで泳ぐが、それ以外でも(前記3種目以外なら)違反とはならない。種目が変わらないターン時はその種目の折り返しのルールに、種目が変わるターン時は各種目のゴールタッチのルールに従う。つまり、背泳ぎから平泳ぎに移るターンの時には壁にタッチするまでは仰向けの姿勢をくずしてはならない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "各選手で4種目の得手不得手の程度が異なるため、最初に飛び出した選手が最後までリードを保てるかどうかが見どころであり、スイマー同士の駆け引きもある。", "title": "ルール" } ]
個人メドレーは、競泳の種目の一つで、一人でバタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形の順で同じ距離ずつ泳ぐ競技。 日本では水泳選手を中心に「個メ」「こんめ」「IM」などという略称が用いられている。
'''個人メドレー'''(こじんメドレー、individual medley)は、[[競泳]]の種目の一つで、一人で[[バタフライ]]→[[背泳ぎ]]→[[平泳ぎ]]→[[自由形]]の順で同じ距離ずつ泳ぐ競技。 日本では水泳選手を中心に「個メ」「こんめ」「IM」などという略称が用いられている。 ==概要== 100m、200m、400m個人メドレーはそれぞれ4種目を4分の1ずつ泳ぐ。[[夏季オリンピック|オリンピック]]に個人メドレーが登場したのは400mが1964年[[1964年東京オリンピック|東京五輪]]から、200mが1968年[[メキシコオリンピック|メキシコ五輪]](1976年[[モントリオールオリンピック|モントリオール五輪]]・1980年[[モスクワオリンピック|モスクワ五輪]]は実施せず)からであった。なお100mは[[短水路]]大会でしか行われない。 各地のスイミングスクールでは、4泳法全てをマスターした者の総合的な泳力チェックとして100m個人メドレー(あるいは200m個人メドレー)の完泳もしくはタイム計測を課すことが多く、主にジュニアスイマーにとっての1つの指標となっている<ref>実際に[[全国JOCジュニアオリンピックカップ水泳競技大会|JO杯]]ではすべての年齢区分において存在する。</ref>一方で、4泳法全てを洗練させる負担の大きさや、泳ぐ距離が長くなること(長水路だと短くても200m)から、競泳でも特に過酷な種目である(特に400m)。そのため競技者人口は比較的少なく、大会の規模によっては[[タイム決勝]]になることもある。 == ルール == === スタート === 審判長の笛の合図の後、スタート台に乗り、静止。出発合図員の「'''''Take your marks...'''''<ref> 2017年3月まで日本では、「よーい」だった</ref>」で構えたあとは、号砲まで静止しなければならない。号砲後飛び込む。「''Take your marks...''」の合図から号砲までにスタートの動作を起こした場合、失格となる。 === スタート後 === 定められた順序([[バタフライ]]→[[背泳ぎ]]→[[平泳ぎ]]→[[自由形]])でそれぞれの泳法の規則に従って泳ぐ。ただし自由形はバタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ以外の泳法で泳がなければならないと決められている。ほとんどの選手は[[クロール (泳法)|クロール]]で泳ぐが、それ以外でも(前記3種目以外なら)違反とはならない。種目が変わらないターン時はその種目の折り返しのルールに、種目が変わるターン時は各種目の'''ゴールタッチ'''のルールに従う。つまり、'''背泳ぎから平泳ぎに移るターンの時には壁にタッチするまでは仰向けの姿勢をくずしてはならない。''' 各選手で4種目の得手不得手の程度が異なるため、最初に飛び出した選手が最後までリードを保てるかどうかが見どころであり、スイマー同士の駆け引きもある。 == 歴代日本人金メダリスト == === 男子 === * [[萩野公介]] 400m([[2016年リオデジャネイロオリンピックの競泳競技|2016年リオデジャネイロ]]) === 女子 === * [[大橋悠依]] 200m,400m([[2020年東京オリンピックの競泳競技|2020年東京]]) == 主な個人メドレーの選手 == === 男子 === ; {{USA}} * [[マイケル・フェルプス]] - 400m(長水路)の元世界記録保持者 * [[ライアン・ロクテ]] - 200m(長水路および短水路)と400m(短水路)の世界記録保持者 ; {{FRA}} * [[レオン・マルシャン]] - 400m(長水路)の世界記録保持者 ; {{HUN}} * [[ラースロー・シェー]] ; {{JPN}} * [[三木二郎]] * [[高桑健]] * [[萩野公介]] - 100mと200mと400m(100mは短水路のみ、200mは長水路および短水路、400mは長水路のみ)のアジア記録保持者 * [[瀬戸大也]] - 400m(短水路)の世界記録保持者 === 女子 === ; {{USA}} * [[ケイティ・ホフ]] ; {{HUN}} * [[ホッスー・カティンカ]] - 100mと200mと400m(100mは短水路のみ、200mと400mは長水路および短水路)の世界記録保持者 ; {{UKR}} * [[ヤナ・クロチコワ]] ; {{AUS}} * [[ステファニー・ライス]] ; {{JPN}} * [[田島寧子]] * [[萩原智子]] * [[大橋悠依]] - 400m(短水路)のアジア記録保持者、200mと400m(いずれも長水路)の日本記録保持者 * [[池江璃花子]] - 100m(短水路)のアジア記録保持者、200m(短水路)の日本記録保持者 == 関連項目 == * [[スポーツ]] * [[メドレーリレー]] * [[競泳の世界記録一覧]] * [[競泳の日本記録一覧]] ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== * [http://210.172.1.100/index.html 財団法人日本水泳連盟] * [http://www.fina.org/ 国際水泳連盟(英語)] {{水泳競技}} [[Category:水泳|こしんめとれ]] [[en:Medley swimming#Individual medley]]
null
2023-07-24T12:02:27Z
false
false
false
[ "Template:HUN", "Template:JPN", "Template:UKR", "Template:AUS", "Template:Reflist", "Template:水泳競技", "Template:USA", "Template:FRA" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E3%83%A1%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC
11,957
フリーリレー
フリーリレー (freestyle relay) は、競泳の種目の一つである。日本水泳連盟競泳競技規則においても、競技の名称をフリーリレーとしている。かつては、競技規則ではリレーという名称で競技が行われていたが、現在ではフリーリレーとなっている。以前からメドレーリレーと混同しないフリーリレーという言い方が一般的であった。 公式の競技規則では4×50m、4×100m、4×200mがある。 公式・公認競技会においては、定められた距離を4人で引き継ぎ、事前に提出したオーダーの通りに泳がねばならない。先行逃げ切り型のオーダーにするか、後半追い上げ型のオーダーにするかチームの個性が出る。特に混合フリーリレーでは一般的に記録の劣る女子選手を何番目にするかで大きく展開が変わる。 公認競技会以外では(水泳協会などが主催する競技会でも水泳の普及を目的にするなど非公式種目として)、1チーム8人で泳ぐ、1泳が25m・2泳が50m・3泳が75m・4泳が100m泳ぐなどのリレーが実施されることもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フリーリレー (freestyle relay) は、競泳の種目の一つである。日本水泳連盟競泳競技規則においても、競技の名称をフリーリレーとしている。かつては、競技規則ではリレーという名称で競技が行われていたが、現在ではフリーリレーとなっている。以前からメドレーリレーと混同しないフリーリレーという言い方が一般的であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "公式の競技規則では4×50m、4×100m、4×200mがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "公式・公認競技会においては、定められた距離を4人で引き継ぎ、事前に提出したオーダーの通りに泳がねばならない。先行逃げ切り型のオーダーにするか、後半追い上げ型のオーダーにするかチームの個性が出る。特に混合フリーリレーでは一般的に記録の劣る女子選手を何番目にするかで大きく展開が変わる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "公認競技会以外では(水泳協会などが主催する競技会でも水泳の普及を目的にするなど非公式種目として)、1チーム8人で泳ぐ、1泳が25m・2泳が50m・3泳が75m・4泳が100m泳ぐなどのリレーが実施されることもある。", "title": "ルール" } ]
フリーリレー は、競泳の種目の一つである。日本水泳連盟競泳競技規則においても、競技の名称をフリーリレーとしている。かつては、競技規則ではリレーという名称で競技が行われていたが、現在ではフリーリレーとなっている。以前からメドレーリレーと混同しないフリーリレーという言い方が一般的であった。 公式の競技規則では4×50m、4×100m、4×200mがある。
{{単一の出典|date=2022-3}} '''フリーリレー''' (freestyle relay) は、[[競泳]]の種目の一つである。日本水泳連盟競泳競技規則<ref>[https://www.swim.or.jp/about/rule.php 規則] 財団法人日本水泳連盟</ref>においても、競技の名称をフリーリレーとしている。かつては、競技規則では'''リレー'''という名称で競技が行われていたが、現在ではフリーリレーとなっている。以前から[[メドレーリレー]]と混同しない'''フリーリレー'''という言い方が一般的であった。 公式の競技規則では'''4×50m'''、'''4×100m'''、'''4×200m'''がある。 == ルール == 公式・公認競技会においては、定められた距離を4人で引き継ぎ、事前に提出したオーダーの通りに泳がねばならない。先行逃げ切り型のオーダーにするか、後半追い上げ型のオーダーにするかチームの個性が出る。特に混合フリーリレーでは一般的に記録の劣る女子選手を何番目にするかで大きく展開が変わる。 公認競技会以外では(水泳協会などが主催する競技会でも水泳の普及を目的にするなど非公式種目として)、1チーム8人で泳ぐ、1泳が25m・2泳が50m・3泳が75m・4泳が100m泳ぐなどのリレーが実施されることもある。 ; スタート・引き継ぎ : 第1泳者は、審判長による笛の合図の後、スタート台に上がる。出発合図員による「'' ''' Take your marks...''' ''」の号令でスタート台の前方に少なくとも一方の足の指をかけ、スタートの姿勢を取る。スタートの姿勢を取ったあとは、出発合図まで静止しなければならない(規則は静止しなければならないとはしていないが、全競技者が静止した状態になったら出発合図員がスタートの合図をすることとしている)。出発合図の前にスタートの動作を起こした場合、失格となる。 : 第2泳者からは、前の泳者が壁にタッチした後に次の泳者の足がスタート台から離れればよい(タッチ板とスタート台先端のセンサーで判定される)ため、スタート台上で静止する必要はなく反動をつける動作などを行っても構わない。 ; 泳法 : 泳ぎ方はいかなるものであっても構わない。ただし、自分のレーンを逸脱したり、他の競技者の妨害をしたり、コースロープを掴んだり引っ張ったり、[[プール]]の底を歩いたり蹴ったりした場合は失格である。 ; 記録 : 第1泳者による途中時間は正式時間とし、その記録は公認される。これは第1泳者以外の者によるチームの失格があっても認められる。ただし、混合フリーリレーの第1泳者の記録は公認されない。 == 関連項目 == * [[スポーツ]] * [[競泳の世界記録一覧]] * [[競泳の日本記録一覧]] == 脚注 == <references/> == 外部リンク == * [https://www.swim.or.jp/ 財団法人日本水泳連盟] * [http://www.fina.org/ 国際水泳連盟(英語)] {{水泳競技}} {{スポーツ一覧}} {{チームスポーツ}} {{DEFAULTSORT:ふりいりれえ}} [[Category:水泳]]
null
2023-05-11T16:05:07Z
false
false
false
[ "Template:単一の出典", "Template:水泳競技", "Template:スポーツ一覧", "Template:チームスポーツ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%83%BC
11,960
メドレーリレー
メドレーリレー(medley relay)は、広義には、各走者・各泳者の距離または走法・泳法が等しくない混合リレーの総称。 水泳競技では、競泳の種目の一つで、4人が同じ距離ずつ背泳ぎ→平泳ぎ→バタフライ→自由形の順でリレーしながら泳ぐ競技をいう。本項では水泳競技のメドレーリレーについて述べる。 定められた距離を、第1泳者背泳ぎ、第2泳者平泳ぎ、第3泳者バタフライ、第4泳者自由形の順で泳ぐ。また、事前に提出したオーダーの通りに泳がねばならない。この場合の自由形は背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ以外の泳法でなければならない。 第1泳者のスタートは背泳ぎ競技のスタート方法と同じである。 審判長の笛の合図の後、背泳ぎの泳者が各コースに入水。専用のグリップに手をかけ、プールの壁に足をかける。背泳ぎのスタートと同じく、出発合図員の「 Take your marks... 」で、体を壁にひきつけ構えた後は、出発合図まで静止しなければならない。出発合図の前にスタートの動作を起こした場合、失格となる。 第2泳者からは、前の泳者が壁にタッチした後に次の泳者の足がスタート台から離れればよいため、スタート台上で静止する必要はなく反動をつける動作などを行っても構わない。 それぞれの泳法の規則に従って泳ぐ。ただし自由形は背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ以外の泳法でなければならない。 男子・女子のメドレーリレーでは、第1泳者(背泳ぎ)による途中時間は正式時間としてその記録は公認される。これは第1泳者以外の者によるチームの失格があっても認められる。他方、混合メドレーリレーでは公認されない。 男子2名、女子2名の計4名による競技。泳ぐ種目の順序は通常と同じ第1泳者背泳ぎ、第2泳者平泳ぎ、第3泳者バタフライ、第4泳者自由形の順。どの種目に男女を割り振るかチームの戦略が問われる。 オリンピックでも、2020年東京大会から混合400mメドレーリレーが新種目として採用される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "メドレーリレー(medley relay)は、広義には、各走者・各泳者の距離または走法・泳法が等しくない混合リレーの総称。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "水泳競技では、競泳の種目の一つで、4人が同じ距離ずつ背泳ぎ→平泳ぎ→バタフライ→自由形の順でリレーしながら泳ぐ競技をいう。本項では水泳競技のメドレーリレーについて述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "定められた距離を、第1泳者背泳ぎ、第2泳者平泳ぎ、第3泳者バタフライ、第4泳者自由形の順で泳ぐ。また、事前に提出したオーダーの通りに泳がねばならない。この場合の自由形は背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ以外の泳法でなければならない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "第1泳者のスタートは背泳ぎ競技のスタート方法と同じである。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "審判長の笛の合図の後、背泳ぎの泳者が各コースに入水。専用のグリップに手をかけ、プールの壁に足をかける。背泳ぎのスタートと同じく、出発合図員の「 Take your marks... 」で、体を壁にひきつけ構えた後は、出発合図まで静止しなければならない。出発合図の前にスタートの動作を起こした場合、失格となる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第2泳者からは、前の泳者が壁にタッチした後に次の泳者の足がスタート台から離れればよいため、スタート台上で静止する必要はなく反動をつける動作などを行っても構わない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "それぞれの泳法の規則に従って泳ぐ。ただし自由形は背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ以外の泳法でなければならない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "男子・女子のメドレーリレーでは、第1泳者(背泳ぎ)による途中時間は正式時間としてその記録は公認される。これは第1泳者以外の者によるチームの失格があっても認められる。他方、混合メドレーリレーでは公認されない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "男子2名、女子2名の計4名による競技。泳ぐ種目の順序は通常と同じ第1泳者背泳ぎ、第2泳者平泳ぎ、第3泳者バタフライ、第4泳者自由形の順。どの種目に男女を割り振るかチームの戦略が問われる。", "title": "混合メドレーリレー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "オリンピックでも、2020年東京大会から混合400mメドレーリレーが新種目として採用される。", "title": "混合メドレーリレー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "", "title": "混合メドレーリレー" } ]
メドレーリレーは、広義には、各走者・各泳者の距離または走法・泳法が等しくない混合リレーの総称。 水泳競技では、競泳の種目の一つで、4人が同じ距離ずつ背泳ぎ→平泳ぎ→バタフライ→自由形の順でリレーしながら泳ぐ競技をいう。本項では水泳競技のメドレーリレーについて述べる。
{{Otheruses|競泳種目のメドレーリレー|陸上のメドレーリレーの一種|スウェーデンリレー}} '''メドレーリレー'''(medley relay)は、広義には、各走者・各泳者の距離または走法・泳法が等しくない混合リレーの総称<ref>『新聞語辞典 1963年版』 朝日新聞社、613頁。</ref>。 水泳競技では、[[競泳]]の種目の一つで、4人が同じ距離ずつ[[背泳ぎ]]→[[平泳ぎ]]→[[バタフライ]]→[[自由形]]の順でリレーしながら泳ぐ競技をいう。本項では水泳競技のメドレーリレーについて述べる。 == ルール == 定められた距離を、第1泳者[[背泳ぎ]]、第2泳者[[平泳ぎ]]、第3泳者[[バタフライ]]、第4泳者[[自由形]]の順で泳ぐ。また、事前に提出したオーダーの通りに泳がねばならない。この場合の[[自由形]]は[[背泳ぎ]]、[[平泳ぎ]]、[[バタフライ]]以外の泳法でなければならない。 === スタート・引き継ぎ === 第1泳者のスタートは背泳ぎ競技のスタート方法と同じである。 審判長の笛の合図の後、背泳ぎの泳者が各コースに入水。専用のグリップに手をかけ、プールの壁に足をかける。背泳ぎのスタートと同じく、出発合図員の「'' '''Take your marks...''' ''」で、体を壁にひきつけ構えた後は、出発合図まで静止しなければならない。出発合図の前にスタートの動作を起こした場合、失格となる。 第2泳者からは、前の泳者が壁にタッチした後に次の泳者の足がスタート台から離れればよいため、スタート台上で静止する必要はなく反動をつける動作などを行っても構わない。 === 泳法 === それぞれの泳法の規則に従って泳ぐ。ただし[[自由形]]は[[背泳ぎ]]、[[平泳ぎ]]、[[バタフライ]]以外の泳法でなければならない。 === 記録 === 男子・女子のメドレーリレーでは、第1泳者(背泳ぎ)による途中時間は正式時間としてその記録は公認される。これは第1泳者以外の者によるチームの失格があっても認められる。他方、混合メドレーリレーでは公認されない。 == 混合メドレーリレー == 男子2名、女子2名の計4名による競技。泳ぐ種目の順序は通常と同じ第1泳者[[背泳ぎ]]、第2泳者[[平泳ぎ]]、第3泳者[[バタフライ]]、第4泳者[[自由形]]の順。どの種目に男女を割り振るかチームの戦略が問われる。 [[近代オリンピック|オリンピック]]でも、[[2020年東京オリンピック|2020年東京大会]]から混合400mメドレーリレーが新種目として採用される。 <!--==記録== {{分割提案|競泳の日本記録一覧|競泳の日本ジュニア記録一覧|talkpage=ノート:競泳|section=1|date=2008年7月}} ===男子=== ====世界記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|400m||align=right|3分30秒68||アメリカ||[[アーロン・ピアソル]]/[[ブレンダン・ハンセン]]/<BR>[[イアン・クロッカー]]/[[ジェイソン・レザク]]||2004年8月21日||アテネ |} ====日本記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|200m||align=right|1分40秒01||日本選抜||[[森田智己]]/[[北島康介]]/<BR>[[山本貴司]]/[[細川大輔]]||2006年8月27日||東京辰巳国際水泳場 |- |align=right|400m||align=right|3分33秒35||日本||[[森田智己]]/[[北島康介]]/<BR>[[高安亮]]/[[佐藤久佳]]||2007年8月24日||千葉県国際総合水泳場 |} ====高校記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|200m||align=right|1分43秒24||イトマン選抜||[[入江陵介]]/[[坂田大貴]]/<BR>[[塩浦慎理]]/[[伊藤健太]]||2007年11月23日||東大阪アリーナ屋内プール |- |align=right|400m||align=right|3分42秒98||神奈川県||[[伊与部嵩]]/[[立石諒]]/<BR>[[小坂悠真]]/[[葛原俊輔]]||2007年10月2日||秋田県立総合プール |} ====中学記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|200m||align=right|1分45秒92||日本||[[入江陵介]]/[[山田猛士]]/<BR>[[前田浩史]]/[[小林一輝]]||2005年3月4日||クライストチャーチ |- |align=right|400m||align=right|3分51秒65||日本||[[大山佳祐]]/[[加納雅也]]/<BR>[[小堀勇気]]/[[山崎貴大]]||2008年2月16日||シドニー |} ====学童記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|200m||align=right|1分55秒06||イトマン選抜||[[遠藤大介]]/[[宮川孝裕]]/<BR>[[山浦光博]]/[[斎藤渉]]||1994年1月2日||メルボルンSC |- |align=right|400m||align=right|4分13秒78||イトマン選抜||[[遠藤大介]]/[[宮川孝裕]]/<BR>[[山浦光博]]/[[斎藤渉]]||1994年1月4日||メルボルンSC |} ===女子=== ====世界記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|400m||align=right|3分55秒74||オーストラリア||[[エミリー・シーボーン]]/[[リーゼル・ジョーンズ]]/<BR>[[ジェシカ・シッパー]]/[[リスベス・レントン]]||2007年3月31日||メルボルン |} ====日本記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|200m||align=right|1分55秒70||イトマン選抜||[[竹村幸]]/[[福田愛美]]/<BR>[[山口美咲]]/[[金子栞]]||2007年11月24日||東大阪アリーナ屋内プール |- |align=right|400m||align=right|4分01秒94||日本||[[中村礼子]]/[[田村菜々香]]/<BR>[[加藤ゆか]]/[[三田真希]]||2007年8月24日||千葉県国際総合水泳場 |} ====高校記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|200m||align=right|1分55秒70||イトマン選抜||[[竹村幸]]/[[福田愛美]]/<BR>[[山口美咲]]/[[金子栞]]||2007年11月24日||東大阪アリーナ屋内プール |- |align=right|400m||align=right|4分07秒83||日本||[[中村真衣]]/[[磯田順子]]/<BR>[[青山綾里]]/[[源純夏]]||1997年8月13日||福岡市立西市民 |} ====中学記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|200m||align=right|1分56秒05||イトマン選抜||[[池田千容]]/[[林由記]]/<BR>[[青山綾里]]/[[中山朋美]]||1996年11月24日||近畿大 |- |align=right|400m||align=right|4分13秒60||日本||[[田中紘]]/[[中村沙耶香]]/<BR>[[奥村綾香]]/[[中村望美]]||2003年1月22日||シドニーAC |} ====学童記録==== {| class="wikitable" |- !距離!!記録!!チーム!!メンバー!!日付!!場所 |- |align=right|200m||align=right|2分00秒95||イトマン選抜||[[吉村優]]/[[中村沙耶香]]/<BR>[[矢野友理江]]/[[中村望美]]||2000年1月2日||メルボルンSC |- |align=right|400m||align=right|4分23秒67||イトマン選抜||[[武藤紫]]/[[菊池葵]]/<BR>[[矢野友理江]]/[[中村望美]]||2001年1月5日||メルボルンSC |}--> == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[スポーツ]] * [[個人メドレー]] * [[競泳の世界記録一覧]] * [[競泳の日本記録一覧]] ==外部リンク== * [http://210.172.1.100/index.html 財団法人日本水泳連盟] * [http://www.fina.org/ 国際水泳連盟(英語)] {{水泳競技}} {{スポーツ一覧}} {{チームスポーツ}} [[Category:水泳|めどれえりれえ]] [[de:Schwimmsport#Schwimmstile]] [[en:Medley swimming#Medley relay]] [[pt:Nado medley]]
null
2023-05-11T16:08:07Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses", "Template:水泳競技", "Template:スポーツ一覧", "Template:チームスポーツ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%83%BC
11,962
法律の留保
法律の留保(ほうりつのりゅうほ)は、法律による行政(独: Vorbehalt des Gesetzes)と法律の留保型人権保障(独: Gesetzesvorbehalt)の2つの意味がある。 行政は法律に従わなければならないという原理を法律による行政の原理といい権力分立主義の当然の帰結となるものである。ドイツの法学者であるオットー・マイヤーはそれを「法律による支配」として捉え、法律の法規創造力、法律の優位、法律の留保に分けた。 法律の留保としてオットー・マイヤーが提示した考え方は、行政が私人の自由と財産を侵害する行為については法律の根拠を必要とするというものである。 人権には不可侵性が認められるが、少なくとも人権相互の調整という観点から一定の規制は免れ難いため、かかる人権の限界をどのような方法・形式で認定するかが問題となるが、近代立憲主義ではそれは「法律」によるべきとされている。その意味で「法律の留保」(Vorbehalt des Gesetzes:VdG)と呼ばれることがある。法律による行政の原理は行政上の法の一般原則として現代にまで引き継がれている。 ただ、この原理はもともとは自由と財産に対する行政の侵害を防ぐというものであったため、法律の内容自体に対する防波堤は用意されていなかった(この点で形式的法治主義と英米法由来の「法の支配」との差異が説かれることもある)。 19世紀の西欧諸国の憲法や明治憲法では、議会制定法への信頼を前提に、議会の制定法によらなければ憲法所定の権利を制限することはできないという形での権利保障がとられた。議会に最終判断権を委ねるもので、憲法は「法律の範囲内において」権利を保障するという形式が一般的にとられていた。この意味で「法律の留保」(Gesetzesvorbehalt:GV)という語が用いられることもある。 しかし、「法律」による人権侵害の可能性という問題に対し、この方法では議会のあり方によっては人権保障は実のないものとなる。権利保障が法律の範囲内で認められるものにすぎない場合には立法権によりほとんど自由に制限しうるものになるからである。 第二次世界大戦後に制定された日本国憲法やドイツ連邦共和国基本法では、立法部といえども侵害できない部分をも含む形での保障を採用している。この場合でも私的権利の行使や私的活動が絶対的で無制約というわけではなく、立法による制約の対象となりうるが、ただそれが一定の限度を超える場合には違憲という判断を受けることとなる。 法律による行政における法律の留保の範囲は、それによって議会の授権を必要としない行政権の活動範囲を画することとなるため議論がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "法律の留保(ほうりつのりゅうほ)は、法律による行政(独: Vorbehalt des Gesetzes)と法律の留保型人権保障(独: Gesetzesvorbehalt)の2つの意味がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "行政は法律に従わなければならないという原理を法律による行政の原理といい権力分立主義の当然の帰結となるものである。ドイツの法学者であるオットー・マイヤーはそれを「法律による支配」として捉え、法律の法規創造力、法律の優位、法律の留保に分けた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "法律の留保としてオットー・マイヤーが提示した考え方は、行政が私人の自由と財産を侵害する行為については法律の根拠を必要とするというものである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "人権には不可侵性が認められるが、少なくとも人権相互の調整という観点から一定の規制は免れ難いため、かかる人権の限界をどのような方法・形式で認定するかが問題となるが、近代立憲主義ではそれは「法律」によるべきとされている。その意味で「法律の留保」(Vorbehalt des Gesetzes:VdG)と呼ばれることがある。法律による行政の原理は行政上の法の一般原則として現代にまで引き継がれている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ただ、この原理はもともとは自由と財産に対する行政の侵害を防ぐというものであったため、法律の内容自体に対する防波堤は用意されていなかった(この点で形式的法治主義と英米法由来の「法の支配」との差異が説かれることもある)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "19世紀の西欧諸国の憲法や明治憲法では、議会制定法への信頼を前提に、議会の制定法によらなければ憲法所定の権利を制限することはできないという形での権利保障がとられた。議会に最終判断権を委ねるもので、憲法は「法律の範囲内において」権利を保障するという形式が一般的にとられていた。この意味で「法律の留保」(Gesetzesvorbehalt:GV)という語が用いられることもある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかし、「法律」による人権侵害の可能性という問題に対し、この方法では議会のあり方によっては人権保障は実のないものとなる。権利保障が法律の範囲内で認められるものにすぎない場合には立法権によりほとんど自由に制限しうるものになるからである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後に制定された日本国憲法やドイツ連邦共和国基本法では、立法部といえども侵害できない部分をも含む形での保障を採用している。この場合でも私的権利の行使や私的活動が絶対的で無制約というわけではなく、立法による制約の対象となりうるが、ただそれが一定の限度を超える場合には違憲という判断を受けることとなる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "法律による行政における法律の留保の範囲は、それによって議会の授権を必要としない行政権の活動範囲を画することとなるため議論がある。", "title": "法律による行政における法律の留保の範囲" } ]
法律の留保(ほうりつのりゅうほ)は、法律による行政と法律の留保型人権保障の2つの意味がある。
'''法律の留保'''(ほうりつのりゅうほ)は、[[法律]]による[[行政]]({{Lang-de-short|[[w:de:Vorbehalt des Gesetzes | Vorbehalt des Gesetzes]]}})と法律の留保型[[人権]]保障({{Lang-de-short|[[w:de:Gesetzesvorbehalt | Gesetzesvorbehalt]]}})の2つの意味がある。 == 概説 == === 行政学上の法律の留保(法律による行政) === 行政は法律に従わなければならないという原理を法律による行政の原理といい[[権力分立|権力分立主義]]の当然の帰結となるものである<ref name="shionoI61">{{harvnb|塩野|2005|p=61 }}</ref>。[[ドイツ]]の法学者である[[オットー・マイヤー]]はそれを「法律による支配」として捉え、法律の法規創造力、法律の優位、法律の留保に分けた<ref name="shionoI61"/>。 法律の留保としてオットー・マイヤーが提示した考え方は、行政が私人の自由と財産を侵害する行為については法律の根拠を必要とするというものである<ref name="shionoI63">{{harvnb|塩野|2005|p=63 }}</ref>。 人権には不可侵性が認められるが、少なくとも人権相互の調整という観点から一定の規制は免れ難いため、かかる人権の限界をどのような方法・形式で認定するかが問題となるが、近代立憲主義ではそれは「法律」によるべきとされている<ref name="chz181">{{harvnb|樋口 et al.|1994|p= 181}}</ref>。その意味で「法律の留保」(Vorbehalt des Gesetzes:'''VdG''')と呼ばれることがある<ref name="chz181"/>。法律による行政の原理は行政上の法の一般原則として現代にまで引き継がれている<ref name="shionoI56">{{harvnb|塩野|2005|p=56 }}</ref>。 === 憲法学上の法律の留保(法律の留保型人権保障) === ただ、この原理はもともとは自由と財産に対する行政の侵害を防ぐというものであったため、法律の内容自体に対する防波堤は用意されていなかった<ref name="shionoI62">{{harvnb|塩野|2005|p=62 }}</ref>(この点で形式的法治主義と英米法由来の「[[法の支配]]」との差異が説かれることもある)。 19世紀の西欧諸国の憲法や明治憲法では、議会制定法への信頼を前提に、議会の制定法によらなければ憲法所定の権利を制限することはできないという形での権利保障がとられた<ref name="yus82">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 82 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。議会に最終判断権を委ねるもので、憲法は「法律の範囲内において」権利を保障するという形式が一般的にとられていた<ref name="chz181-182">{{harvnb|樋口 et al.|1994|p= 181-182}}</ref>。この意味で「法律の留保」(Gesetzesvorbehalt:'''GV''')という語が用いられることもある<ref name="chz181-182" />。 しかし、「法律」による人権侵害の可能性という問題に対し、この方法では議会のあり方によっては人権保障は実のないものとなる<ref name="chz182">{{harvnb|樋口 et al.|1994|p= 182}}</ref>。権利保障が法律の範囲内で認められるものにすぎない場合には立法権によりほとんど自由に制限しうるものになるからである<ref name="kokusai9-10">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |pages= 9-10 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。 [[第二次世界大戦]]後に制定された[[日本国憲法]]や[[ドイツ連邦共和国基本法]]では、立法部といえども侵害できない部分をも含む形での保障を採用している<ref name="yus82" />。この場合でも私的権利の行使や私的活動が絶対的で無制約というわけではなく、立法による制約の対象となりうるが、ただそれが一定の限度を超える場合には違憲という判断を受けることとなる<ref name="yus83">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 83 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 == 法律による行政における法律の留保の範囲 == 法律による行政における法律の留保の範囲は、それによって議会の授権を必要としない行政権の活動範囲を画することとなるため議論がある<ref name="shionoI66">{{harvnb|塩野|2005|p=66 }}</ref>。 * 権力留保説(有力説) *: 権力的行為形式で行われる行政活動には、法律の根拠が必要であるとする見解。侵害的行政活動であるか、受益的行政活動であるかを問わず法律の根拠を要求する。 *: 権力留保説に対しては法律の根拠と権力の所在の認定という2つの問題を混淆しているという指摘がある<ref name="shionoI68">{{harvnb|塩野|2005|p=68 }}</ref>。 * 侵害留保説(判例・実務) *: 個人の権利または自由の侵害にわたる場合に法律の根拠が必要であるとする見解。補助金の交付などの授益的行政活動については、法律の根拠は不要であるとする。 *: 侵害留保説に対しては行政の民主的コントロールという点で問題であり、国民の現実あるいは将来の生活が行政府によって規定されてしまうことになるという指摘がある<ref name="shionoI67">{{harvnb|塩野|2005|p=67 }}</ref>。 * 本質留保説 *: 侵害留保説を中核としながら、国土開発計画のような基本的人権にかかわりのある重要な行政活動については、その基本的内容について、法律の授権を必要とする見解。 * 全部留保説 *: 行政活動の全部において法律の授権を必要とする見解。 *: 全部留保説に対しては根拠規範がない限り変化する行政需要に適応できなくなり、またはそれを回避するために包括的な授権立法をせざるをえなくなるといった問題が指摘されている<ref name="shionoI67"/>。 == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |ref= {{harvid|樋口 et al.|1994}}|author-link=樋口陽一|author2-link=佐藤幸治 (憲法学者)|author3-link=中村睦男|author4-link=浦部法穂||isbn= 4-417-00936-8 }} * {{Cite book|和書 |author=塩野宏 |author-link=塩野谷祐一 |year=2005 |title=行政法総論 |series=行政法 1 |publisher=有斐閣 |edition=第4版第4刷(補訂) |ISBN=4641129584 |id={{全国書誌番号|20758404}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007683603-00 |ref= {{harvid|塩野|2005}}}} == 関連項目 == *[[行政法]] *[[留保]] *[[大日本帝国憲法]] == 外部リンク == * {{Citation|last=渡邊|first=亙|year=2008|和書|title=ふたつの「法律の留保」について|url=https://doi.org/10.20691/houseiken.15.0_31/|journal=憲法論叢|volume=15|pages=31–52|doi=10.20691/houseiken.15.0_31}} * {{Kotobank}} * {{kotobank|法律による行政}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほうりつのりゆうほ}} [[Category:憲法]] [[category:行政立法]] [[category:人権法]] [[Category:法律]]
null
2023-07-04T08:24:37Z
false
false
false
[ "Template:Lang-de-short", "Template:Reflist", "Template:Harvnb", "Template:Cite book", "Template:Citation", "Template:Kotobank", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%BE%8B%E3%81%AE%E7%95%99%E4%BF%9D
11,964
禁止
禁止(きんし)とは、ある行為を行ってはいけないこと、またはその状態をいう。 禁止の態様としては、宗教・道徳などを通じてその価値観に反する行為を禁止することや、支配者・権力者がその目的を果たすために被支配者・権力に服する者に自身の意向・命令に反する行為を禁止することなどがある。明示的である場合も、黙示的である場合もある。現在では、禁止とは法令違反のことをいうことが多い(駐車禁止)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "禁止(きんし)とは、ある行為を行ってはいけないこと、またはその状態をいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "禁止の態様としては、宗教・道徳などを通じてその価値観に反する行為を禁止することや、支配者・権力者がその目的を果たすために被支配者・権力に服する者に自身の意向・命令に反する行為を禁止することなどがある。明示的である場合も、黙示的である場合もある。現在では、禁止とは法令違反のことをいうことが多い(駐車禁止)。", "title": "概要" } ]
禁止(きんし)とは、ある行為を行ってはいけないこと、またはその状態をいう。
{{Otheruses||クルアーンのスーラ|禁止 (クルアーン)}} {{出典の明記|date=2023年6月}} '''禁止'''(きんし)とは、ある行為を行ってはいけないこと、またはその状態をいう。 ==概要== 禁止の態様としては、宗教・道徳などを通じてその価値観に反する行為を禁止することや、支配者・権力者がその目的を果たすために被支配者・権力に服する者に自身の意向・命令に反する行為を禁止することなどがある。明示的である場合も、黙示的である場合もある。現在では、禁止とは[[法令]]違反のことをいうことが多い([[駐車禁止]])。 *「法規範による禁止」 *:禁止によって特定の行為にでないこと(不作為)が法規範によって強制されている(義務付けられている)場合には、人は法規範を通じて不作為を命じられることになる。その状態を「不作為義務を負う」と形容することがある。 *「行政行為としての禁止」 {{main2|行政行為の分類の一つとしての禁止については、[[行政行為]]を}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} *[[義務]] *[[タブー]] *[[厳禁]] *[[発禁]] *[[自主規制]] *[[放送禁止用語]] *[[錯誤 (刑法)#法律の錯誤(違法性の錯誤)|違法性の錯誤]](禁止の錯誤) *{{prefix}} *{{intitle}} {{law-stub}} {{デフォルトソート:きんし}} [[Category:法]]
null
2023-06-12T12:31:00Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Main2", "Template:Wiktionary", "Template:Prefix", "Template:Intitle", "Template:Law-stub", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%AD%A2
11,966
認可
認可(にんか)とは、行政法学においては行政行為のうち私人の契約、合同行為を補充して法律行為の効力要件とするものをいう(補充行為)。 法令が行政庁による是認によって当事者相互の法律行為を有効としているとき、行政法学上はこれを認可制と呼ぶ。そしてその行政庁が法律上の効力を完成させる行為を認可と称する。 認可を受けないでした法律行為は無効となり、近代法における私的自治ないし契約自由の原則の例外となっている。また、認可を受けてした行為であっても、私法上無効な行為は無効であり、取消しうべき行為は取消可能である。 認可の申請があった場合、行政は、当事者が必要とする要件を満たしていると認めれば認可を行う。(行政法上の)特許とは異なり、行政が意図的に認可を行わないことが認められていない。 講学上は「認可」に分類されるものでも、下記に示すとおり法律上の文言としては「許可」などの文言が混用されている。 設立に認可主義を取り、主務大臣の認可が必要な法人。 事前協議(じぜんきょうぎ)とは、ある許認可をともなう事業を行うに当たり、当該政庁が許認可の判断を行う前に事業の計画を事前に審議審査し、必要に応じて是正を求め、許認可に適合するよう協議すること。開発行為の許可(都市計画法)や廃棄物処理施設の設置許可(廃棄物処理法)などにおいて導入されているケースが多く、その手続きは地方自治体の条例や要綱で定められている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "認可(にんか)とは、行政法学においては行政行為のうち私人の契約、合同行為を補充して法律行為の効力要件とするものをいう(補充行為)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "法令が行政庁による是認によって当事者相互の法律行為を有効としているとき、行政法学上はこれを認可制と呼ぶ。そしてその行政庁が法律上の効力を完成させる行為を認可と称する。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "認可を受けないでした法律行為は無効となり、近代法における私的自治ないし契約自由の原則の例外となっている。また、認可を受けてした行為であっても、私法上無効な行為は無効であり、取消しうべき行為は取消可能である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "認可の申請があった場合、行政は、当事者が必要とする要件を満たしていると認めれば認可を行う。(行政法上の)特許とは異なり、行政が意図的に認可を行わないことが認められていない。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "講学上は「認可」に分類されるものでも、下記に示すとおり法律上の文言としては「許可」などの文言が混用されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "設立に認可主義を取り、主務大臣の認可が必要な法人。", "title": "認可法人" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "事前協議(じぜんきょうぎ)とは、ある許認可をともなう事業を行うに当たり、当該政庁が許認可の判断を行う前に事業の計画を事前に審議審査し、必要に応じて是正を求め、許認可に適合するよう協議すること。開発行為の許可(都市計画法)や廃棄物処理施設の設置許可(廃棄物処理法)などにおいて導入されているケースが多く、その手続きは地方自治体の条例や要綱で定められている。", "title": "事前協議" } ]
認可(にんか)とは、行政法学においては行政行為のうち私人の契約、合同行為を補充して法律行為の効力要件とするものをいう(補充行為)。
{{otheruses|法律上の概念|セキュリティ|認可 (セキュリティ)}} [[画像:Verwaltungsakt.png|thumb|伝統的通説による分類]] '''認可'''(にんか)とは、[[行政法]]学においては[[行政行為]]のうち[[私人]]の[[契約]]、[[合同]]行為を補充して[[法律行為]]の[[法律要件|効力要件]]とするものをいう(補充行為<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=第7回:行政処分の概念 |url=http://www.jura.niigata-u.ac.jp/~ishizaki/ls2013/13verw.html |website=www.jura.niigata-u.ac.jp |access-date=2022-04-17 |publisher=新潟大学法科大学院 |author=石崎誠也 |authorlink=石崎誠也 |work=2013年度行政法レジュメ}}</ref>)<ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=認可 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2022-04-17}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=資料1 「認可」「認定」「認証」の用法について |url=https://www8.cao.go.jp/shoushi/shinseido/meeting/kodomoen/k_2/index.html |website=www8.cao.go.jp |access-date=2022-04-17 |publisher=内閣府 |work=認定こども園制度の在り方に関する検討会(第2回) |date=2008-11-07}}</ref>。 == 概説 == 法令が行政庁による是認によって当事者相互の法律行為を有効としているとき、行政法学上はこれを認可制と呼ぶ。そしてその行政庁が法律上の効力を完成させる行為を認可と称する<ref name=":2" /><ref name=":3" />。 認可を受けないでした法律行為は無効となり、[[近代法]]における[[私的自治の原則|私的自治]]ないし[[契約の自由|契約自由]]の原則の例外となっている{{efn|ただし、当然には処罰の対象とはならない<ref name=":1" />。}}<ref name=":0" /><ref name=":3">{{Cite Kotobank |word=認可 |encyclopedia=世界大百科事典 |accessdate=2022-04-17}}</ref>。また、認可を受けてした行為であっても、私法上無効な行為は無効であり、取消しうべき行為は取消可能である<ref name=":3" />。 認可の[[申請]]があった場合、[[行政]]は、当事者が必要とする要件を満たしていると認めれば認可を行う。(行政法上の)[[特許 (行政法)|特許]]とは異なり、行政が意図的に認可を行わないことが認められていない。 講学上は「認可」に分類されるものでも、下記に示すとおり法律上の文言としては「許可」などの文言が混用されている<ref name=":0" />。 == 認可の例 == * [[農地]]または採草[[放牧]]地の[[所有権]]移転の許可([[農地法]]3条) * [[川|河川]]占用権の[[譲渡]]の承認 * [[一般ガス事業者]]への供給[[約款]]の認可([[ガス事業法]]17条) * [[運賃]]の認可([[道路運送法]]6条) * [[建設業]]許可 * [[日本郵政|日本郵政株式会社]]の[[総務大臣]]による役員認可(日本郵政株式会社法第9条) * [[医薬品]]及び[[医薬部外品]]の製造販売承認([[医薬品医療機器等法]]第14条) == 認可法人 == 設立に[[認可主義]]を取り、主務大臣の認可が必要な[[法人]]。 * [[社会福祉法人]]([[社会福祉法]]) * [[学校法人]]([[私立学校法]]) == 事前協議 == 事前協議(じぜんきょうぎ)とは、ある許認可をともなう事業を行うに当たり、当該政庁が許認可の判断を行う前に事業の計画を事前に審議審査し、必要に応じて是正を求め、許認可に適合するよう協議すること。開発行為の許可(都市計画法)や廃棄物処理施設の設置許可(廃棄物処理法)などにおいて導入されているケースが多く、その手続きは地方自治体の条例や要綱で定められている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[許可]] * [[特許 (行政法)]] * [[認証]] * [[届出]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{law-stub}} {{DEFAULTSORT:にんか}} [[Category:行政規制法]] [[Category:規制]]
2003-07-21T06:08:58Z
2023-12-02T13:29:54Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite Kotobank", "Template:Law-stub", "Template:Otheruses", "Template:Efn", "Template:Notelist", "Template:Kotobank" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E5%8F%AF
11,967
固定小数点数
固定小数点数(こていしょうすうてんすう、英: fixed-point number)は、小数点が置かれる桁を固定して表された数のことで、コンピュータ上で小数を表現する方法として使用される形式のひとつである。ある桁数のうちのある場所に小数点が固定されているもの(固定小数点)として扱う方式であるため、表現される仮数部に対して小数点の位置が移動する浮動小数点数の対義語として用いられる。すなわち、「固定-小数点数」ではなく「固定小数点-数」である。 演算自体は整数型と同じ方法、同じハードウェアで行われ、小数点位置は設計者の意図によって決定される。10進法で言えば、たとえば整数123は下から1桁分を小数点以下と決めれば12.3を表し、下から2桁分を小数点以下と決めれば1.23を表すことになる。コンピュータ上での演算で広く使用される2進法では、2進整数1111011(10進法表記: 123)は下から1桁分を小数点以下と決めれば111101.1(10進法表記: 61.5)、下から2桁分を小数点以下と決めれば11110.11(10進法表記: 30.75)となる。以下の文章では、特に断りがない限り2進固定小数点数について述べる。 浮動小数点数に比べて表現できる値の範囲ははるかに狭いが、情報落ちが起こらない(そもそも情報落ちが起きるような差のある値は表現できない)ことや高速に演算できることが利点に挙げられる。コンピュータグラフィックスで用いられる座標や画素値はある程度値域が限られるため、固定小数点数でも表現することができ浮動小数点数にくらべ高速に計算できるようになる。また、コンパイラなどにおいて、変数を定数で除算するような場合、普通に除算するよりも、除数の逆数を固定小数点の要領で表現したものを乗じてシフトして答えを求めた方が高速であることがあるため、そのような最適化をおこなうことがある。 なお、信号処理を実行するためのデバイスであるデジタルシグナルプロセッサでは、処理対象である信号の振幅の値の範囲が固定小数点的であるので、コストの高い浮動小数点演算のハードウェア (FPU) を搭載せず、固定小数点数が主に用いられる。現代のパソコンにおいては、演算を行うCPUにFPUが付属するものが主流であるため、小数の計算は一般に浮動小数点数を用いるものがほとんどだが、対象とするデータの特性や特に高速化が必要なコーデックなどでは固定小数点を用いることもある。 また、10進法での小数は2進法の小数として表現すると必ずしも有限小数とはならず、誤差を生じる。そのため、貨幣に関する計算のような、小数点以下で必要な桁数は決まっているが、2進法との変換を回避したい場合に、小数点以下の桁数をビット単位ではなく10進法の桁数で決めた固定小数点数も処理に用いられる。当然のことだが、10進計算が万能で無誤差というわけではない。例えば、3の倍数でない値を3で割る場合、10進計算では解が無限小数になるため、誤差は避けられない。 固定小数点数は、小数部分のビット数をQ表記(Qフォーマット)で表す。例えば、小数部分のビット数が12ビットである場合には、Q12表記もしくはQ12フォーマットと呼ばれる。 例えば、1.5をQ1表記で表現すると2進数表記では11である。この表記ではビット0とビット1の間に小数点がある。 固定小数点演算における四則演算においては、加算や減算はそのまま整数同士の加減算として計算できる。しかし、乗算や除算では演算結果の小数点位置が掛けた数の小数点の位置だけずれることになるため、元の小数点位置に戻す場合には乗算では右側(LSB側)へ、除算では左側(MSB側)へシフト演算を行う必要がある。 ここでは例えば、1.5と0.5の加算を考えてみる。1.5、0.5はQ1表記では各々2進数表記で11、01である。これらQ1表記の数(11と01)をそのまま足してみると100となるが、100を元の実数に直すと2.0であるので通常の加算のまま計算できている。次に乗算を考え単純にQ1表記の数(11と01)を掛けてみる。結果は11であるがこれをQ1表記であるとみなして実数に直すと1.5となる。1.5と0.5の乗算結果の正解は0.75であるのでこの解釈は間違いである。乗算では、小数点部分のビット数が、乗算対象となる2つの固定小数点数の小数点部分のビット数の和になる。Q1表記同士であれば、計算後の小数部のビット数は1ビット足す1ビットで2ビットとなる。そのため乗算結果の11はQ2表記として解釈する必要がある。またQ1表記に直す場合には、1ビット右にシフトする必要がある。 また、浮動小数点数にくらべ表現可能な範囲が狭く算術オーバーフローや算術アンダーフローが発生しやすいことに注意したほうがよい。 固定小数点方式で有効桁数が十分にとれるのは、(符号ビットを除く)最上位桁が1の範囲内だけである。この時の相対誤差は桁数がn桁の時1/2である。表現しようとする数が0に近づき上位桁が0で埋まる(ないし2の補数表現の負の数であれば1で埋まる)と、有効桁数はそれだけ減るので、その場合に必要な精度を満たしているか注意が必要である。 ある実数を x とし、これを固定小数点数で表した整数を n とする。最下位ビットを実数 L、オフセットを実数 O と定めると、実数 x は固定小数点数で次の数 n となる。ここで、round は四捨五入関数である。 n = round ( x − O L ) {\displaystyle n=\operatorname {round} \left({\frac {x-O}{L}}\right)} 固定小数点数 n から実数 x は次のように求まる。 x = L n + O {\displaystyle x=Ln+O}
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "固定小数点数(こていしょうすうてんすう、英: fixed-point number)は、小数点が置かれる桁を固定して表された数のことで、コンピュータ上で小数を表現する方法として使用される形式のひとつである。ある桁数のうちのある場所に小数点が固定されているもの(固定小数点)として扱う方式であるため、表現される仮数部に対して小数点の位置が移動する浮動小数点数の対義語として用いられる。すなわち、「固定-小数点数」ではなく「固定小数点-数」である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "演算自体は整数型と同じ方法、同じハードウェアで行われ、小数点位置は設計者の意図によって決定される。10進法で言えば、たとえば整数123は下から1桁分を小数点以下と決めれば12.3を表し、下から2桁分を小数点以下と決めれば1.23を表すことになる。コンピュータ上での演算で広く使用される2進法では、2進整数1111011(10進法表記: 123)は下から1桁分を小数点以下と決めれば111101.1(10進法表記: 61.5)、下から2桁分を小数点以下と決めれば11110.11(10進法表記: 30.75)となる。以下の文章では、特に断りがない限り2進固定小数点数について述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "浮動小数点数に比べて表現できる値の範囲ははるかに狭いが、情報落ちが起こらない(そもそも情報落ちが起きるような差のある値は表現できない)ことや高速に演算できることが利点に挙げられる。コンピュータグラフィックスで用いられる座標や画素値はある程度値域が限られるため、固定小数点数でも表現することができ浮動小数点数にくらべ高速に計算できるようになる。また、コンパイラなどにおいて、変数を定数で除算するような場合、普通に除算するよりも、除数の逆数を固定小数点の要領で表現したものを乗じてシフトして答えを求めた方が高速であることがあるため、そのような最適化をおこなうことがある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、信号処理を実行するためのデバイスであるデジタルシグナルプロセッサでは、処理対象である信号の振幅の値の範囲が固定小数点的であるので、コストの高い浮動小数点演算のハードウェア (FPU) を搭載せず、固定小数点数が主に用いられる。現代のパソコンにおいては、演算を行うCPUにFPUが付属するものが主流であるため、小数の計算は一般に浮動小数点数を用いるものがほとんどだが、対象とするデータの特性や特に高速化が必要なコーデックなどでは固定小数点を用いることもある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、10進法での小数は2進法の小数として表現すると必ずしも有限小数とはならず、誤差を生じる。そのため、貨幣に関する計算のような、小数点以下で必要な桁数は決まっているが、2進法との変換を回避したい場合に、小数点以下の桁数をビット単位ではなく10進法の桁数で決めた固定小数点数も処理に用いられる。当然のことだが、10進計算が万能で無誤差というわけではない。例えば、3の倍数でない値を3で割る場合、10進計算では解が無限小数になるため、誤差は避けられない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "固定小数点数は、小数部分のビット数をQ表記(Qフォーマット)で表す。例えば、小数部分のビット数が12ビットである場合には、Q12表記もしくはQ12フォーマットと呼ばれる。", "title": "Q表記(Qフォーマット)" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "例えば、1.5をQ1表記で表現すると2進数表記では11である。この表記ではビット0とビット1の間に小数点がある。", "title": "Q表記(Qフォーマット)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "固定小数点演算における四則演算においては、加算や減算はそのまま整数同士の加減算として計算できる。しかし、乗算や除算では演算結果の小数点位置が掛けた数の小数点の位置だけずれることになるため、元の小数点位置に戻す場合には乗算では右側(LSB側)へ、除算では左側(MSB側)へシフト演算を行う必要がある。", "title": "固定小数点演算" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ここでは例えば、1.5と0.5の加算を考えてみる。1.5、0.5はQ1表記では各々2進数表記で11、01である。これらQ1表記の数(11と01)をそのまま足してみると100となるが、100を元の実数に直すと2.0であるので通常の加算のまま計算できている。次に乗算を考え単純にQ1表記の数(11と01)を掛けてみる。結果は11であるがこれをQ1表記であるとみなして実数に直すと1.5となる。1.5と0.5の乗算結果の正解は0.75であるのでこの解釈は間違いである。乗算では、小数点部分のビット数が、乗算対象となる2つの固定小数点数の小数点部分のビット数の和になる。Q1表記同士であれば、計算後の小数部のビット数は1ビット足す1ビットで2ビットとなる。そのため乗算結果の11はQ2表記として解釈する必要がある。またQ1表記に直す場合には、1ビット右にシフトする必要がある。", "title": "固定小数点演算" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、浮動小数点数にくらべ表現可能な範囲が狭く算術オーバーフローや算術アンダーフローが発生しやすいことに注意したほうがよい。", "title": "固定小数点演算" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "固定小数点方式で有効桁数が十分にとれるのは、(符号ビットを除く)最上位桁が1の範囲内だけである。この時の相対誤差は桁数がn桁の時1/2である。表現しようとする数が0に近づき上位桁が0で埋まる(ないし2の補数表現の負の数であれば1で埋まる)と、有効桁数はそれだけ減るので、その場合に必要な精度を満たしているか注意が必要である。", "title": "固定小数点数の精度" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ある実数を x とし、これを固定小数点数で表した整数を n とする。最下位ビットを実数 L、オフセットを実数 O と定めると、実数 x は固定小数点数で次の数 n となる。ここで、round は四捨五入関数である。", "title": "実数値と固定小数点数値の換算" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "n = round ( x − O L ) {\\displaystyle n=\\operatorname {round} \\left({\\frac {x-O}{L}}\\right)}", "title": "実数値と固定小数点数値の換算" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "固定小数点数 n から実数 x は次のように求まる。", "title": "実数値と固定小数点数値の換算" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "x = L n + O {\\displaystyle x=Ln+O}", "title": "実数値と固定小数点数値の換算" } ]
固定小数点数は、小数点が置かれる桁を固定して表された数のことで、コンピュータ上で小数を表現する方法として使用される形式のひとつである。ある桁数のうちのある場所に小数点が固定されているもの(固定小数点)として扱う方式であるため、表現される仮数部に対して小数点の位置が移動する浮動小数点数の対義語として用いられる。すなわち、「固定-小数点数」ではなく「固定小数点-数」である。 演算自体は整数型と同じ方法、同じハードウェアで行われ、小数点位置は設計者の意図によって決定される。10進法で言えば、たとえば整数123は下から1桁分を小数点以下と決めれば12.3を表し、下から2桁分を小数点以下と決めれば1.23を表すことになる。コンピュータ上での演算で広く使用される2進法では、2進整数1111011は下から1桁分を小数点以下と決めれば111101.1、下から2桁分を小数点以下と決めれば11110.11となる。以下の文章では、特に断りがない限り2進固定小数点数について述べる。
'''固定小数点数'''(こていしょうすうてんすう、{{lang-en-short|fixed-point number}})は、小数点が置かれる桁を固定して表された[[数]]のことで、[[コンピュータの数値表現#小数の表現|コンピュータ上で小数を表現する方法]]として使用される形式のひとつである。ある桁数のうちのある場所に[[小数点]]が固定されているもの(固定小数点)として扱う方式であるため、表現される仮数部に対して小数点の位置が移動する[[浮動小数点数]]の対義語として用いられる。すなわち、「固定-小数点数」ではなく「固定小数点-数」である。 演算自体は整数型と同じ方法、同じハードウェアで行われ、小数点位置は設計者の意図によって決定される。[[十進法|10進法]]で言えば、たとえば整数123は下から1桁分を小数点以下と決めれば12.3を表し、下から2桁分を小数点以下と決めれば1.23を表すことになる。コンピュータ上での演算で広く使用される[[二進法|2進法]]では、2進整数1111011(10進法表記: 123)は下から1桁分を小数点以下と決めれば111101.1(10進法表記: 61.5)、下から2桁分を小数点以下と決めれば11110.11(10進法表記: 30.75)となる。以下の文章では、特に断りがない限り2進固定小数点数について述べる。 == 特徴 == 浮動小数点数に比べて表現できる値の範囲ははるかに狭いが、情報落ちが起こらない(そもそも情報落ちが起きるような差のある値は表現できない)ことや高速に演算できることが利点に挙げられる。コンピュータグラフィックスで用いられる座標や画素値はある程度値域が限られるため、固定小数点数でも表現することができ浮動小数点数にくらべ高速に計算できるようになる。また、[[コンパイラ]]などにおいて、変数を定数で除算するような場合、普通に除算するよりも、除数の逆数を固定小数点の要領で表現したものを乗じてシフトして答えを求めた方が高速であることがあるため、そのような最適化をおこなうことがある<ref>{{Cite book |和書 |author=ヘンリー・S.ウォーレン、ジュニア |title=ハッカーのたのしみ―本物のプログラマはいかにして問題を解くか |year=2004 |translator=滝沢徹、玉井浩、鈴木貢、赤池英夫、葛毅、藤波順久 |publisher=エスアイビー・アクセス |isbn=4-434-04668-3 |chapter=第10章 整数定数による除算 }}</ref>。 なお、信号処理を実行するためのデバイスである[[デジタルシグナルプロセッサ]]では、処理対象である信号の振幅の値の範囲が固定小数点的であるので、コストの高い浮動小数点演算のハードウェア ([[FPU]]) を搭載せず、固定小数点数が主に用いられる。現代のパソコンにおいては、演算を行う[[CPU]]にFPUが付属するものが主流であるため、小数の計算は一般に浮動小数点数を用いるものがほとんどだが、対象とするデータの特性や特に高速化が必要な[[コーデック]]などでは固定小数点を用いることもある。 また、10進法での小数は2進法の小数として表現すると必ずしも有限小数とはならず、誤差を生じる。そのため、貨幣に関する計算のような、小数点以下で必要な桁数は決まっているが、2進法との変換を回避したい場合に、小数点以下の桁数をビット単位ではなく10進法の桁数で決めた固定小数点数も処理に用いられる<ref>[http://www.postgresql.jp/document/9.2/html/datatype-money.html 通貨型] [[PostgreSQL]] 9.2.4文書(2014年2月3日閲覧)。</ref>。当然のことだが、10進計算が万能で無誤差というわけではない。例えば、3の倍数でない値を3で割る場合、10進計算では解が[[小数#無限小数|無限小数]]になるため、誤差は避けられない。 == Q表記(Qフォーマット) == 固定小数点数は、小数部分のビット数をQ表記(Qフォーマット)で表す。例えば、小数部分のビット数が12ビットである場合には、Q12表記もしくはQ12フォーマットと呼ばれる。 例えば、1.5をQ1表記で表現すると2進数表記では11である。この表記ではビット0とビット1の間に小数点がある。 注:(1*2^0)+(1*2^-1)=1.5 == 固定小数点演算 == 固定小数点演算における[[四則演算]]においては、加算や減算はそのまま整数同士の加減算として計算できる。しかし、乗算や除算では演算結果の小数点位置が掛けた数の小数点の位置だけずれることになるため、元の小数点位置に戻す場合には乗算では右側(LSB側)へ、除算では左側(MSB側)へシフト演算を行う必要がある。 ここでは例えば、1.5と0.5の加算を考えてみる。1.5、0.5はQ1表記では各々2進数表記で11、01である。これらQ1表記の数(11と01)をそのまま足してみると100となるが、100を元の実数に直すと2.0であるので通常の加算のまま計算できている。次に乗算を考え単純にQ1表記の数(11と01)を掛けてみる。結果は11であるがこれをQ1表記であるとみなして実数に直すと1.5となる。1.5と0.5の乗算結果の正解は0.75であるのでこの解釈は間違いである。乗算では、小数点部分のビット数が、乗算対象となる2つの固定小数点数の小数点部分のビット数の和になる。Q1表記同士であれば、計算後の小数部のビット数は1ビット足す1ビットで2ビットとなる。そのため乗算結果の11はQ2表記として解釈する必要がある。またQ1表記に直す場合には、1ビット右にシフトする必要がある。 また、浮動小数点数にくらべ表現可能な範囲が狭く[[算術オーバーフロー]]や[[算術アンダーフロー]]が発生しやすいことに注意したほうがよい。 == 固定小数点数の精度 == 固定小数点方式で有効桁数が十分にとれるのは、(符号ビットを除く)最上位桁が1の範囲内だけである。この時の相対誤差は桁数がn桁の時1/2<sup>n</sup>である。表現しようとする数が0に近づき上位桁が0で埋まる(ないし2の補数表現の負の数であれば1で埋まる)と、有効桁数はそれだけ減るので、その場合に必要な精度を満たしているか注意が必要である。 == 実数値と固定小数点数値の換算 == ある実数を x とし、これを固定小数点数で表した整数を n とする。[[最下位ビット]]を実数 L、[[オフセット]]を実数 O と定めると、実数 x は固定小数点数で次の数 n となる。ここで、round は[[端数処理|四捨五入関数]]である。 {{Indent|<math>n=\operatorname{round}\left(\frac{x-O}{L}\right)</math>}} 固定小数点数 n から実数 x は次のように求まる。 {{Indent|<math>x=Ln+O</math>}} == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[コンピュータの数値表現]] * [[浮動小数点数]] * [[二進化十進表現]] (BCD) * [[誤差]]、[[端数処理]] {{データ型}} {{DEFAULTSORT:こていしようすうてんすう}} [[Category:コンピュータの算術]] [[Category:データ型]] [[Category:数の表現]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-07-21T06:27:55Z
2023-12-27T17:42:53Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:Indent", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:データ型" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BA%E5%AE%9A%E5%B0%8F%E6%95%B0%E7%82%B9%E6%95%B0
11,970
地域主義
地域主義(ちいきしゅぎ)とは、地域住民の自発的努力によって、政治や文化において各地方の独自性や自立性を高めようとする考え方をいう。 政治の面では、中央から地方への税源移譲や地方議会の権限強化、地域政党の結成・政界進出など、地方自治の強化へと結びつく。文化の面では地域の言語(方言)の保護や伝統文化の保存などが積極的におこなわれる。 国威発揚・対外拡張といった国家主義を支えるナショナリズムに対し、伝統保存・地方自治を尊重する地域主義を支える立場としては愛郷主義(localism)が一般的である。 経済の面では、地域の内発的発展を重視し、全世界的に展開する中央資本・多国籍企業に対して、地域を地盤とする地場資本の調和や保護を要求する。国家的・国際的経済開発計画を受けての地域開発においての地方の利害や独自性を強調する。 日本においては、「地域主義」の主張は1970年代に盛り上がりを見せた。「地域主義」を言葉として提唱したのは、玉野井芳郎で 『地域分権の思想』(1977年)において「一定地域の住人が、その地域の風土的個性を背景に、その地域の共同体に対して一体感を持ち、地域の行政的、経済的自立性と文化的独立性とを追求すること」と定義した。背景には、戦後の日本で進められてきた重化学工業中心の高度経済成路線、それにともなう首都圏・京阪神・名古屋圏への人口集中が、1973年の石油危機によって急停止させられたことがある。日本経済は安定成長へ転換し、三大都市圏へ の人口流入も収まったため、各地でそれぞれの地域を見直そうとする動きがみられた。玉野に続いて杉岡碩夫・清成忠男・増田四郎・樺山紘一・三輪公忠らも地域主義に関する書籍を出版した。1974年には地域主義研究会が、1976年には地域主義研究集談会が発足された。地域主義が盛んに提唱された背景には、高度経済成長の弊害(農村の崩壊、公害、地域の独自性の喪失など)に対する反発や、それまで「万能の処方箋」として「神通力」を持っていた社会主義への幻滅などもあるとされる。1970年代の地域主義の提唱以降は専ら理論研究が中心であったが、近年では玉野井が晩年に展開した産直論や共同店研究を再評価して1990年代に国内で急成長した農産物の直接販売をその実践モデルとする実証研究がある。 地域主義への批判者としては、思想家の松本健一、農本主義研究者の綱沢満昭、農村社会学の蓮見音彦が挙げられる。彼らは地域主義が「日本の現実から、その現実の否定として生みだされた理論」ではなく(松本)「外国仕込みの理論」(綱沢)であることや、高度経済成長の歪みを引き起こした「巨大資本・官僚・政治家」を免罪してしまうこと(蓮見)に問題があるとみなしていた。戸田徹は、地域主義を両義的なものであった捉え、地域振興によって資本主義体制を支えた面とエコロジー重視の面があり、その両方に確信を与えるイデオローグの役割を果たしていたとみている。 戸田の指摘通り、地域主義は2つの潮流に分かれていった。一つは清成忠男ら地域経済や地場産業の振興を説くグループで、「情念的」ではなかったため(玉城哲)、地方都市を中心に受け入れられ、行政の政策にも取り入れられた。もう一つは、中村尚司ら地域の自立とエコロジズト的実践を重視するグループで、発展途上国における「もう一つの発展」を探究する内発的発展論と結びついた。 地域主義は政治分野における地方分権につながり、発想としての地域資源の見直し・活用、経済的豊かさに対する生活・文化の豊かさ重視、全国画一から地域の個性発揮などを含んでいる。1970年代前半は、政治・地方自治の世界では「地方の時代」が唱えられた時期であった。ただ、その後、市場化、地球規模化の流れのなか、「ふるさと創生」など一時の揺り戻しはあったが、日本における地域主義は格別の進展をみせなかった。 ただし、2000年代から、既成政党に反発した首長や地方議員らが、相次いで地域政党を擁立し地域分権を有権者に呼びかける「地域政党ブーム」なるものが発生しており、その情勢も変化する可能性が指摘されている。ただし、日本における地域政党には、特に大阪維新の会に特徴的だが、むしろグローバリズムや国家主義を強調し、「地域から日本を変える」という標語を唱えて国政政党化を指向するという現象がしばしば認められる。日本における道州制論議については、かつては地域の復権をめぐる地域主義の文脈で取り上げられたこともあったが、その後はむしろ新自由主義・グローバル資本主義に接続する流れが強調され、むしろ本来的な地域主義とは対立する要素が強まっている。大阪府と大阪市が提案する大阪都構想、新潟県と新潟市が提案する新潟州構想などである。 市民運動・消費者運動が地域政党の結成に結びついた事例もある。代表的な例は生活クラブ生活協同組合から起こった代理人運動である。主に都市部を中心に今も地方議員を多数擁している。他、市民オンブズマン運動から地方議員を輩出した例もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "地域主義(ちいきしゅぎ)とは、地域住民の自発的努力によって、政治や文化において各地方の独自性や自立性を高めようとする考え方をいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "政治の面では、中央から地方への税源移譲や地方議会の権限強化、地域政党の結成・政界進出など、地方自治の強化へと結びつく。文化の面では地域の言語(方言)の保護や伝統文化の保存などが積極的におこなわれる。", "title": "国家内の地域主義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国威発揚・対外拡張といった国家主義を支えるナショナリズムに対し、伝統保存・地方自治を尊重する地域主義を支える立場としては愛郷主義(localism)が一般的である。", "title": "国家内の地域主義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "経済の面では、地域の内発的発展を重視し、全世界的に展開する中央資本・多国籍企業に対して、地域を地盤とする地場資本の調和や保護を要求する。国家的・国際的経済開発計画を受けての地域開発においての地方の利害や独自性を強調する。", "title": "国家内の地域主義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本においては、「地域主義」の主張は1970年代に盛り上がりを見せた。「地域主義」を言葉として提唱したのは、玉野井芳郎で 『地域分権の思想』(1977年)において「一定地域の住人が、その地域の風土的個性を背景に、その地域の共同体に対して一体感を持ち、地域の行政的、経済的自立性と文化的独立性とを追求すること」と定義した。背景には、戦後の日本で進められてきた重化学工業中心の高度経済成路線、それにともなう首都圏・京阪神・名古屋圏への人口集中が、1973年の石油危機によって急停止させられたことがある。日本経済は安定成長へ転換し、三大都市圏へ の人口流入も収まったため、各地でそれぞれの地域を見直そうとする動きがみられた。玉野に続いて杉岡碩夫・清成忠男・増田四郎・樺山紘一・三輪公忠らも地域主義に関する書籍を出版した。1974年には地域主義研究会が、1976年には地域主義研究集談会が発足された。地域主義が盛んに提唱された背景には、高度経済成長の弊害(農村の崩壊、公害、地域の独自性の喪失など)に対する反発や、それまで「万能の処方箋」として「神通力」を持っていた社会主義への幻滅などもあるとされる。1970年代の地域主義の提唱以降は専ら理論研究が中心であったが、近年では玉野井が晩年に展開した産直論や共同店研究を再評価して1990年代に国内で急成長した農産物の直接販売をその実践モデルとする実証研究がある。", "title": "国家内の地域主義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "地域主義への批判者としては、思想家の松本健一、農本主義研究者の綱沢満昭、農村社会学の蓮見音彦が挙げられる。彼らは地域主義が「日本の現実から、その現実の否定として生みだされた理論」ではなく(松本)「外国仕込みの理論」(綱沢)であることや、高度経済成長の歪みを引き起こした「巨大資本・官僚・政治家」を免罪してしまうこと(蓮見)に問題があるとみなしていた。戸田徹は、地域主義を両義的なものであった捉え、地域振興によって資本主義体制を支えた面とエコロジー重視の面があり、その両方に確信を与えるイデオローグの役割を果たしていたとみている。", "title": "国家内の地域主義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "戸田の指摘通り、地域主義は2つの潮流に分かれていった。一つは清成忠男ら地域経済や地場産業の振興を説くグループで、「情念的」ではなかったため(玉城哲)、地方都市を中心に受け入れられ、行政の政策にも取り入れられた。もう一つは、中村尚司ら地域の自立とエコロジズト的実践を重視するグループで、発展途上国における「もう一つの発展」を探究する内発的発展論と結びついた。", "title": "国家内の地域主義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "地域主義は政治分野における地方分権につながり、発想としての地域資源の見直し・活用、経済的豊かさに対する生活・文化の豊かさ重視、全国画一から地域の個性発揮などを含んでいる。1970年代前半は、政治・地方自治の世界では「地方の時代」が唱えられた時期であった。ただ、その後、市場化、地球規模化の流れのなか、「ふるさと創生」など一時の揺り戻しはあったが、日本における地域主義は格別の進展をみせなかった。", "title": "国家内の地域主義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ただし、2000年代から、既成政党に反発した首長や地方議員らが、相次いで地域政党を擁立し地域分権を有権者に呼びかける「地域政党ブーム」なるものが発生しており、その情勢も変化する可能性が指摘されている。ただし、日本における地域政党には、特に大阪維新の会に特徴的だが、むしろグローバリズムや国家主義を強調し、「地域から日本を変える」という標語を唱えて国政政党化を指向するという現象がしばしば認められる。日本における道州制論議については、かつては地域の復権をめぐる地域主義の文脈で取り上げられたこともあったが、その後はむしろ新自由主義・グローバル資本主義に接続する流れが強調され、むしろ本来的な地域主義とは対立する要素が強まっている。大阪府と大阪市が提案する大阪都構想、新潟県と新潟市が提案する新潟州構想などである。", "title": "国家内の地域主義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "市民運動・消費者運動が地域政党の結成に結びついた事例もある。代表的な例は生活クラブ生活協同組合から起こった代理人運動である。主に都市部を中心に今も地方議員を多数擁している。他、市民オンブズマン運動から地方議員を輩出した例もある。", "title": "国家内の地域主義" } ]
地域主義(ちいきしゅぎ)とは、地域住民の自発的努力によって、政治や文化において各地方の独自性や自立性を高めようとする考え方をいう。
{{出典の明記|date=2012年10月}} '''地域主義'''(ちいきしゅぎ)とは、地域住民の自発的努力によって、[[政治]]や[[文化]]において各地方の独自性や自立性を高めようとする考え方をいう{{refnest|name="ニッポニカ"|高木鉦作、[https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29-1561615#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「地域主義(日本)」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。 == 国家内の地域主義 == 政治の面では、中央から地方への税源移譲や[[地方議会]]の権限強化、[[地域政党]]の結成・政界進出など、[[地方自治]]の強化へと結びつく。文化の面では地域の言語([[方言]])の保護や[[伝統]]文化の保存などが積極的におこなわれる。 国威発揚・[[覇権主義|対外拡張]]といった国家主義を支える[[ナショナリズム]]に対し、伝統保存・地方自治を尊重する地域主義を支える立場としては愛郷主義(localism){{refnest|name="デジタル大辞泉"|[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-662953#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 「ローカリズム」 - デジタル大辞泉]、小学館。}}が一般的である。 [[経済]]の面では、地域の内発的発展を重視し、全世界的に展開する中央資本・[[多国籍企業]]に対して、地域を地盤とする地場資本の調和や保護を要求する。国家的・国際的経済開発計画を受けての地域開発においての地方の利害や独自性を強調する。 === 日本における地域主義 === 日本においては、「地域主義」の主張は1970年代に盛り上がりを見せた。「地域主義」を言葉として提唱したのは、[[玉野井芳郎]]で 『地域分権の思想』(1977年)において「一定地域の[[住人]]が、その地域の風土的個性を背景に、その[[地域コミュニティ|地域の共同体]]に対して一体感を持ち、地域の行政的、経済的自立性と文化的独立性とを追求すること」と定義した。背景には、[[戦後]]の日本で進められてきた[[重化学工業]]中心の[[高度経済成]]路線、それにともなう[[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[京阪神]]・[[中京圏|名古屋圏]]への人口集中が、[[1973年]]の[[石油危機]]によって急停止させられたことがある。[[日本経済]]は安定成長へ転換し、[[三大都市圏]]へ の人口流入も収まったため、各地でそれぞれの地域を見直そうとする動きがみられた。玉野に続いて[[杉岡碩夫]]・[[清成忠男]]・[[増田四郎]]・[[樺山紘一]]・[[三輪公忠]]らも地域主義に関する書籍を出版した。1974年には地域主義研究会が、[[1976年]]には地域主義研究集談会が発足された。地域主義が盛んに提唱された背景には、高度経済成長の弊害(農村の崩壊、[[公害]]、地域の独自性の喪失など)に対する反発や、それまで「万能の処方箋」として「神通力」を持っていた[[社会主義]]への幻滅などもあるとされる<ref name="ichikawa2001">[[市川虎彦]], 「[http://id.nii.ac.jp/1249/00000858/ まちづくり論の陥穽 : 地域自立の論理から自治体間競争の論理へ]」『松山大学論集』 13巻 1号 p.157-175, 2001年, {{issn|09163298}}</ref>。1970年代の地域主義の提唱以降は専ら理論研究が中心であったが、近年では玉野井が晩年に展開した産直論や共同店研究を再評価して1990年代に国内で急成長した農産物の直接販売をその実践モデルとする実証研究がある<ref>{{Cite book |title=Chiiki shugi no jissen : nōsanbutsu no chokusetsu hanbai no yukue |url=https://www.worldcat.org/oclc/1325633758 |date=2022.4 |location=Kyōto |isbn=978-4-7795-1647-4 |oclc=1325633758 |first=Yoshiaki |last=Kōchi |first2=良彰 |last2=河内}}</ref>。 地域主義への批判者としては、思想家の[[松本健一]]、[[農本主義]]研究者の[[綱沢満昭]]、[[農村社会学]]の[[蓮見音彦]]が挙げられる。彼らは地域主義が「日本の現実から、その現実の否定として生みだされた理論」ではなく(松本)「外国仕込みの理論」(綱沢)であることや、高度経済成長の歪みを引き起こした「巨大資本・官僚・政治家」を免罪してしまうこと(蓮見)に問題があるとみなしていた。[[戸田徹]]は、地域主義を両義的なものであった捉え、地域振興によって資本主義体制を支えた面とエコロジー重視の面があり、その両方に確信を与えるイデオローグの役割を果たしていたとみている<ref name=ichikawa2001/>。 戸田の指摘通り、地域主義は2つの潮流に分かれていった。一つは清成忠男ら地域経済や地場産業の振興を説くグループで、「情念的」ではなかったため([[玉城哲]])、[[地方都市]]を中心に受け入れられ、行政の政策にも取り入れられた。もう一つは、[[中村尚司]]ら地域の自立とエコロジズト的実践を重視するグループで、[[発展途上国]]における「もう一つの発展」を探究する[[内発的発展]]論と結びついた<ref name=ichikawa2001/>。 地域主義は政治分野における[[地方分権]]につながり、発想としての[[地域資源]]の見直し・活用、経済的豊かさに対する生活・文化の豊かさ重視、全国画一から地域の個性発揮などを含んでいる。1970年代前半は、政治・地方自治の世界では「[[地方の時代]]」が唱えられた時期であった。ただ、その後、市場化、地球規模化の流れのなか、「[[ふるさと創生]]」など一時の揺り戻しはあったが、日本における地域主義は格別の進展をみせなかった。 ただし、2000年代から、既成政党に反発した首長や地方議員らが、相次いで[[地域政党]]を擁立し地域分権を有権者に呼びかける「地域政党ブーム」なるものが発生しており、その情勢も変化する可能性が指摘されている。ただし、日本における地域政党には、特に[[大阪維新の会]]に特徴的だが、むしろ[[グローバリズム]]や国家主義を強調し、「地域から日本を変える」という標語を唱えて国政政党化を指向するという現象がしばしば認められる。日本における[[道州制]]論議については、かつては地域の復権をめぐる地域主義の文脈で取り上げられたこともあったが、その後はむしろ[[新自由主義]]・[[グローバル資本主義]]に接続する流れが強調され、むしろ本来的な地域主義とは対立する要素が強まっている。[[大阪府]]と[[大阪市]]が提案する[[大阪都構想]]、[[新潟県]]と[[新潟市]]が提案する[[新潟州構想]]などである。 [[市民運動]]・[[消費者]]運動が地域政党の結成に結びついた事例もある。代表的な例は[[生活クラブ生活協同組合]]から起こった[[代理人運動]]である。主に都市部を中心に今も地方議員を多数擁している。他、[[市民オンブズマン]]運動から地方議員を輩出した例もある。 == 国際間の地域主義 == {{See|リージョナリズム}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * {{仮リンク|地域主義 (建築)|sk|Regionalizmus (architektúra)}} - 1960年代以降から始まった建築における地域主義で、地域の[[アイデンティティ]]や[[文化]]を維持するための取り組みでもある * [[独立主張のある地域一覧]] * [[事実上独立した地域一覧]] * [[自治・独立運動旗の一覧]] * [[都道府県独立国家論]] {{政治思想}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちいきしゆき}} [[Category:リージョナリズム|*]] [[Category:地域]] [[Category:反グローバリゼーション]] [[Category:政治地理学]] [[Category:ローカリズム|*]]
2003-07-21T06:57:14Z
2023-08-28T09:11:36Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Issn", "Template:仮リンク", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Refnest", "Template:See", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:政治思想" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9
11,971
SI基本単位
SI基本単位(エスアイきほんたんい、フランス語: fr:unités de base du Système international、英語: base units of the SI 又はSI base units)とは、国際単位系(SI)において、基本単位として位置付けられている7つのSI単位である。これらは国際量体系(ISQ)において基本量として位置付けられている7つの物理量に対する単位である。 SI基本単位は、SIの前身であるメートル法において、物理量に対して複数ある単位・度量衡を統一する(すなわち、一つの物理量を表現する単位は一つとする)ことを目的として選ばれた。SI基本単位は7つ存在し、時間と長さ、質量、電流、温度、物質量、光度の各物理量について、それぞれ秒とメートル、キログラム、アンペア、ケルビン、モル、カンデラが定められている。 7つのSI基本単位はSIの主骨格を成している。また、全ての物理量は、物理法則を通じて、基本量の組み合わせにより表現することができる。2019年の改訂施行によりSI基本単位は7つの定義値(固定された曖昧さのない物理定数および物質固有の特性値)をもとに定義されるようになった。現在もSI基本単位の重要性に変わりはないが、この結果として、全ての一貫性のあるSI単位が7つの定義値をもとに直接に定義・構築できるようになったため、SI基本単位とそれ以外のSI単位(SI組立単位)との間に原理上の区別はない。 7つのSI基本単位を以下の表に記載する。これらの単位は、7個の定義定数(defining constants)をもとに定義されている。これら7つの定数は数値が固定された一切の曖昧さをもたない値であり、それぞれ物理定数や物質に固有の物性値を指すものである。この値を固定値と見做すことで、7つのSI基本単位はそれぞれ規定されている。 表の通り、基本単位の定義の記載順序は、2019年の再定義を経て「時間、長さ、質量、電流、温度、物質量、光度」の順となっている。参考までに、その前の定義の際は「長さ、質量、時間...(以下同じ)」の順序であった。 上記のすべてのSI基本単位は、2018年11月16日の第26回国際度量衡総会の決議・採択の結果、新しい定義に置き換えられ、2019年5月20日より新定義は施行、運用されている。この定義の変更では特に、キログラムとアンペア、ケルビン、モルには大きな修正が加えられた。 第26回国際度量衡総会の決議に基づき、日本の計量単位令におけるSI基本単位の定義が改正された。この改正では、必要最小限の簡潔な定義となっている。なお、秒、メートル、カンデラの定義文は改正されていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "SI基本単位(エスアイきほんたんい、フランス語: fr:unités de base du Système international、英語: base units of the SI 又はSI base units)とは、国際単位系(SI)において、基本単位として位置付けられている7つのSI単位である。これらは国際量体系(ISQ)において基本量として位置付けられている7つの物理量に対する単位である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "SI基本単位は、SIの前身であるメートル法において、物理量に対して複数ある単位・度量衡を統一する(すなわち、一つの物理量を表現する単位は一つとする)ことを目的として選ばれた。SI基本単位は7つ存在し、時間と長さ、質量、電流、温度、物質量、光度の各物理量について、それぞれ秒とメートル、キログラム、アンペア、ケルビン、モル、カンデラが定められている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "7つのSI基本単位はSIの主骨格を成している。また、全ての物理量は、物理法則を通じて、基本量の組み合わせにより表現することができる。2019年の改訂施行によりSI基本単位は7つの定義値(固定された曖昧さのない物理定数および物質固有の特性値)をもとに定義されるようになった。現在もSI基本単位の重要性に変わりはないが、この結果として、全ての一貫性のあるSI単位が7つの定義値をもとに直接に定義・構築できるようになったため、SI基本単位とそれ以外のSI単位(SI組立単位)との間に原理上の区別はない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "7つのSI基本単位を以下の表に記載する。これらの単位は、7個の定義定数(defining constants)をもとに定義されている。これら7つの定数は数値が固定された一切の曖昧さをもたない値であり、それぞれ物理定数や物質に固有の物性値を指すものである。この値を固定値と見做すことで、7つのSI基本単位はそれぞれ規定されている。", "title": "一覧" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "表の通り、基本単位の定義の記載順序は、2019年の再定義を経て「時間、長さ、質量、電流、温度、物質量、光度」の順となっている。参考までに、その前の定義の際は「長さ、質量、時間...(以下同じ)」の順序であった。", "title": "一覧" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上記のすべてのSI基本単位は、2018年11月16日の第26回国際度量衡総会の決議・採択の結果、新しい定義に置き換えられ、2019年5月20日より新定義は施行、運用されている。この定義の変更では特に、キログラムとアンペア、ケルビン、モルには大きな修正が加えられた。", "title": "2019年の再定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "第26回国際度量衡総会の決議に基づき、日本の計量単位令におけるSI基本単位の定義が改正された。この改正では、必要最小限の簡潔な定義となっている。なお、秒、メートル、カンデラの定義文は改正されていない。", "title": "計量法の定義の変更" } ]
SI基本単位とは、国際単位系(SI)において、基本単位として位置付けられている7つのSI単位である。これらは国際量体系(ISQ)において基本量として位置付けられている7つの物理量に対する単位である。
{{数量の比較}} '''SI基本単位'''(エスアイきほんたんい、{{Lang-fr|[[:fr:unités de base du Système international]]}}、{{Lang-en|base units of the SI}} 又は[[:en:SI base unit|SI base units]])とは、[[国際単位系]](SI)において、[[基本単位]]として位置付けられている7つの[[SI単位]]である。これらは[[国際量体系]](ISQ)において[[基本量]]として位置付けられている7つの[[物理量]]に対する単位である。 == 概要 == {{Seealso|国際単位系}} [[ファイル:Unit relations in the new SI.svg|サムネイル|SI基本単位およびその定義の関係]] SI基本単位は、SIの前身である[[メートル法]]において、[[物理量]]に対して複数ある[[単位]]・[[度量衡]]を統一することを目的として選ばれた。すなわち、一つの物理量を表現する単位は一つとすること<ref group="注釈">少なくとも国際的・公的には、たとえば空間上の[[長さ]]を示すにあたっては[[メートル]]のみを用い、他の体系による単位([[ヤード]]や[[尺]]、[[海里]]など)は用いない、という意味である。</ref>を目的とする。SI基本単位は7つ存在し、[[時間]]と[[長さ]]、[[質量]]、[[電流]]、[[熱力学温度|温度]]、[[物質量]]、[[光度 (光学)|光度]]の各物理量について、それぞれ[[秒]]と[[メートル]]、[[キログラム]]、[[アンペア]]、[[ケルビン]]、[[モル]]、[[カンデラ]]が定められている。 7つのSI基本単位はSIの主骨格を成している。また、全ての物理量は、[[物理法則]]を通じて、基本量の組み合わせにより表現することができる<ref group="注釈">この単位間の関係は、[[次元解析]]をすることで、容易に見出すこともできる。</ref><ref group="注釈">[[SI単位#一貫性のあるSI単位|一貫性のあるSI単位]]は、SI基本単位の組み合わせのみによって表現することが可能である。</ref>。[[SI基本単位の再定義 (2019年)|2019年の改訂施行]]によりSI基本単位は7つの定義値(固定された曖昧さのない物理定数および物質固有の特性値)をもとに定義されるようになった。現在もSI基本単位の重要性に変わりはないが、この結果として、全ての[[SI単位#一貫性のあるSI単位|一貫性のあるSI単位]]が7つの定義値をもとに直接に定義・構築できるようになったため、SI基本単位とそれ以外のSI単位([[SI組立単位]])との間に原理上の区別はない<ref>{{Cite web |url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/ |title=SI文書第9版(2019)日本語版及び関連資料 「国際単位系(SI)基本単位の定義改定と計量標準」 |access-date=2023-10-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230816151048/https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/ |archive-date=2023-08-16 |page=98 |publisher=国立研究開発法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター}}</ref>。 == 一覧 == 7つのSI基本単位を以下の表に記載する<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=15 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.98、[[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月</ref><ref group="注釈">SI基本単位の定義において、SI基本単位ではない単位が含まれるものもあるが、いずれも別のSI基本単位に由来するものであり、[[循環定義]]ではない。</ref>。これらの単位は、7個の定義定数({{lang|en|defining constants}})<ref>{{Cite book|和書 |title=国際単位系(SI)第9 版(2019)日本語版 |date=2020-03 |year=2020 |publisher=国立研究開発法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター}}</ref>をもとに定義されている。これら7つの定数は数値が固定された一切の曖昧さをもたない値であり、それぞれ[[物理定数]]や物質に固有の[[物性量|物性値]]を指すものである。この値を固定値と見做すことで、7つのSI基本単位はそれぞれ規定されている。 {| class="wikitable" ! style="white-space:nowrap;" | 物理量 !! colspan="2" | 単位 !! 現在の定義<ref>{{Cite web2|language=en|url=https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9-concise-EN.pdf|work=A concise summary of the International System of Units, SI|title=Table 1: The seven base units of the SI|page=2|access-date=21 June 2021}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=国際単位系(SI)第9 版(2019)日本語版 |date=2020-03 |publisher=国立研究開発法人[[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター}}</ref>!! かつての定義(例) |- | [[時間]] || style="text-align:center" | [[秒]]|| style="text-align:center" |s | 秒(記号はs)は、時間のSI単位であり、[[セシウム]]周波数Δ''ν''<sub>Cs</sub>、すなわち、[[セシウムの同位体|セシウム133]] 原子の摂動を受けない[[基底状態]]の[[超微細構造]]遷移[[周波数]]を単位Hz(s<sup>−1</sup> に等しい)で表したときに、その数値を{{val|9192631770}}と定めることによって定義される。 | [[平均太陽日]]の1/{{val|86400}} |- | [[長さ]] || style="text-align:center" | [[メートル]]|| style="text-align:center" |m | メートル(記号はm)は長さのSI単位であり、[[真空]]中の[[光]]の[[光速|速さ''c'']]を単位m s<sup>−1</sup> で表したときに、その数値を{{val|299792458}}と定めることによって定義される。ここで、秒はセシウム周波数Δ''ν''<sub>Cs</sub>によって定義される。 | 地球の[[パリ]]を通る[[北極点]]から[[赤道]]までの長さの1000万分の1 |- | [[質量]] || style="text-align:center; white-space:nowrap;" | [[キログラム]]|| style="text-align:center" |kg | キログラム(記号はkg)は質量のSI単位であり、プランク定数''h''を単位J s(kg m<sup>2</sup> s<sup>−1</sup> に等しい)で表したときに、その数値を{{val|6.62607015e-34}}と定めることによって定義される。ここで、メートルおよび秒は''c'' およびΔνCs に関連して定義される。 | 最大密度温度での1 [[リットル|L]]の[[水]]の質量 |- | [[電流]] || style="text-align:center" | [[アンペア]]|| style="text-align:center" |A | アンペア(記号はA)は、電流のSI単位であり、[[電気素量]]''e''を単位C(A s に等しい)で表したときに、その数値を{{val|1.602176634e-19}} と定めることによって定義される。ここで、秒はΔ''ν''<sub>Cs</sub>によって定義される。 | 真空中に1[[メートル]]の間隔で同じ大きさの電流が流れているとき、両者の間に働く力が1メートルにつき{{val|2|e=-7}}[[ニュートン (単位)|ニュートン]]であるときの電流 |- | [[熱力学温度]] || style="text-align:center" | [[ケルビン]]|| style="text-align:center" |K | ケルビン(記号はK)は、熱力学温度のSI単位であり、[[ボルツマン定数]]''k''を単位J K<sup>−1</sup>(kg m<sup>2</sup> s<sup>−2</sup> K<sup>−1</sup> に等しい)で表したときに、その数値を{{val|1.380649e-23}}と定めることによって定義される。ここで、キログラム、メートルおよび秒は''h''、''c'' およびΔ''ν''<sub>Cs</sub>に関連して定義される。 | 水の[[標準大気圧]]下での[[融点]]と[[沸点]]の温度差の100分の1 |- | [[物質量]] || style="text-align:center" | [[モル]]|| style="text-align:center" |mol | |モル(記号はmol)は、物質量のSI 単位であり、1モルには、厳密に{{val|6.02214076|e=23}}の要素粒子が含まれる。この数は、[[アボガドロ定数]]''N''<sub>A</sub>を単位mol<sup>−1</sup> で表したときの数値であり、アボガドロ数と呼ばれる。系の物質量(記号は''n'')は、特定された要素[[粒子]]の[[数]]の尺度である。要素粒子は、[[原子]]、[[分子]]、[[イオン]]、[[電子]]、その他の粒子、あるいは、[[複合粒子|粒子の集合体]]のいずれであってもよい。 | 1 g/molの原子量または分子量 |- | [[光度 (光学)|光度]] || style="text-align:center" | [[カンデラ]]|| style="text-align:center" |cd | カンデラ(記号はcd)は、所定の方向における光度のSI単位であり、周波数{{val|540e12|u=Hz}}の[[単色光|単色放射]]の[[視感効果度]]''K''<sub>cd</sub> を単位lm W<sup>−1</sup>(cd [[ステラジアン|sr]] W<sup>−1</sup>あるいはcd sr kg<sup>−1</sup> m<sup>−2</sup> s<sup>3</sup>に等しい)で表したときに、その数値を683と定めることによって定義される。ここで、キログラム、メートルおよび秒は''h''、''c'' およびΔ''ν''<sub>Cs</sub>に関連して定義される。 | [[燭]](ろうそく1本の光度) |} 表の通り、基本単位の定義の記載順序は、2019年の再定義を経て「時間、長さ、質量、電流、温度、物質量、光度」の順となっている<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=3 表1 SIの七つの基本単位] 国際単位系(SI)第9版(2019)要約 日本語版、計量標準総合センター、産総研、経済産業省</ref>。参考までに、その前の定義の際は「長さ、質量、時間…(以下同じ)」の順序であった<ref>{{Cite book|和書 |title=Le Système international d’unités (SI) |year=2006 |publisher=[[国際度量衡局]] |edition=8}}</ref>。 == 2019年の再定義 == {{main|[[SI基本単位の再定義 (2019年)]]}} 上記のすべてのSI基本単位は、2018年11月16日の第26回[[国際度量衡総会]]の決議・採択の結果、新しい定義に置き換えられ、2019年5月20日より新定義は施行、運用されている。この定義の変更では特に、キログラムとアンペア、ケルビン、モルには大きな修正が加えられた<ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9-concise-EN.pdf A concise summary of the International System of Units, SI] Table 1 The seven base units of the SI</ref>。 == 計量法の定義の変更 == 第26回[[国際度量衡総会]]の決議に基づき、日本の計量単位令におけるSI基本単位の定義が改正された。この改正では、必要最小限の簡潔な定義となっている<ref>[https://www.meti.go.jp/press/2019/05/20190514002/20190514002-4.pdf 計量単位令の一部を改正する政令案新旧対照条文] 経産省 産業技術環境局 計量行政室、2019年5月14日</ref>。なお、秒、メートル、カンデラの定義文は改正されていない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * (準拠すべき基本文献){{Cite|和書|author=BIPM|authorlink=BIPM|date=2020-03|translator=産業技術総合研究所 計量標準総合センター|title=国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf |type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター|id= |isbn= |quote= }} 【正誤表】 2022年7月15日 更新{{Cite|和書|date=2022-07-15|title=国際単位系(SI)第9版(2019)正誤表|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/20220714_seigohyo.pdf|type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター}} * 臼田 孝、”新しい1キログラムの測り方 - 科学が進めば単位が変わる”、ブルーバックスB-2056、講談社、2018年4月20日第1刷、ISBN 978-4-06-502056-2 * 安田 正美、”単位は進化する - 究極の精度をめざして”、DOJIN選書 078、化学同人、2018年8月20日第1版第1刷、ISBN 978-4-7598-1678-5 {{SI units navbox}} {{デフォルトソート:えすあいきほんたんい}} [[Category:SI基本単位|*]] [[Category:国際単位系]] [[Category:次元解析]] [[eo:Internacia sistemo de unuoj#Bazaj unuoj]]
2003-07-21T07:01:23Z
2023-10-14T20:41:11Z
false
false
false
[ "Template:数量の比較", "Template:Lang-fr", "Template:Lang-en", "Template:Seealso", "Template:Lang", "Template:Val", "Template:Main", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Cite web2", "Template:Cite", "Template:SI units navbox" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/SI%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E5%8D%98%E4%BD%8D
11,972
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ・なむあみだぶつ)とは、名号のひとつで「六字名号」のこと。阿弥陀仏への帰依を表明する定型句である。 すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。 『一遍聖絵』には「なもあみたふ」と表記されているので、鎌倉時代には「なもあみだぶ」と発音していたようである。西本願寺に伝わる親鸞の直筆には「南无阿彌陀佛」とあり、「无」は「無」と同義だがmoの発音がある。また、現在の天台宗では、古儀に則り「なもあびたふ」と称えることが多い(「なむあみだぶつ」と唱える場合もある)。浄土真宗本願寺派では「なもあみだぶつ」、真宗大谷派では「なむあみだぶつ」と発音する。 称名念仏として称える際には、「なんまんだぶつ」「なんまんだぶ」「なんまんだー」「なんまいだー」とも発音する。 阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。 善導は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字、合わせて六字に関する釈義(六字釈)で明らかにしている。善導の書を見た浄土宗の開祖法然は、南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏に極楽浄土へ導かれる」と説いたが、法然の弟子であった親鸞は、これから「南無阿弥陀仏」は衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきであるという、師法然の解釈に付け加えた。親鸞は「阿弥陀仏」を本尊とし、名号は六字のほかに九字(南無不可思議光如来)、十字(帰命尽十方無碍光如来)の名号を書いている。南無阿弥陀仏は声に出して、耳で戴くほとけ様でもある。 上記、善導の六字釈によって示される解釈。願とは、「南無」と阿弥陀仏に帰命する衆生の願い。行とは、衆生を救うための阿弥陀仏の修行。この双方が「南無阿弥陀仏」と仕上がっているので、菩薩が行わなくてはならない「発願」と「菩薩行」の2つが、名号に完備しているという説。 浄土宗(鎮西義)では、衆生が極楽浄土への往生を願い「南無阿弥陀仏」と称えることで、阿弥陀仏が救って下さると解釈する。そのため、教徒が称える「同称十念」と呼ばれる、念仏のパターンがある(十念は、念仏十回の意)。 「同称十念」 浄土宗西山派、浄土真宗で説く、他力の教義を表す要語。機とは衆生の信心(=南無)。法とはその衆生を救う阿弥陀仏の本願力(=阿弥陀仏)。衆生の機と阿弥陀仏の法が一体不離となって「南無阿弥陀仏」となっているとする解釈。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ・なむあみだぶつ)とは、名号のひとつで「六字名号」のこと。阿弥陀仏への帰依を表明する定型句である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『一遍聖絵』には「なもあみたふ」と表記されているので、鎌倉時代には「なもあみだぶ」と発音していたようである。西本願寺に伝わる親鸞の直筆には「南无阿彌陀佛」とあり、「无」は「無」と同義だがmoの発音がある。また、現在の天台宗では、古儀に則り「なもあびたふ」と称えることが多い(「なむあみだぶつ」と唱える場合もある)。浄土真宗本願寺派では「なもあみだぶつ」、真宗大谷派では「なむあみだぶつ」と発音する。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "称名念仏として称える際には、「なんまんだぶつ」「なんまんだぶ」「なんまんだー」「なんまいだー」とも発音する。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。", "title": "日本の浄土教における教学理解" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "善導は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字、合わせて六字に関する釈義(六字釈)で明らかにしている。善導の書を見た浄土宗の開祖法然は、南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏に極楽浄土へ導かれる」と説いたが、法然の弟子であった親鸞は、これから「南無阿弥陀仏」は衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきであるという、師法然の解釈に付け加えた。親鸞は「阿弥陀仏」を本尊とし、名号は六字のほかに九字(南無不可思議光如来)、十字(帰命尽十方無碍光如来)の名号を書いている。南無阿弥陀仏は声に出して、耳で戴くほとけ様でもある。", "title": "日本の浄土教における教学理解" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "上記、善導の六字釈によって示される解釈。願とは、「南無」と阿弥陀仏に帰命する衆生の願い。行とは、衆生を救うための阿弥陀仏の修行。この双方が「南無阿弥陀仏」と仕上がっているので、菩薩が行わなくてはならない「発願」と「菩薩行」の2つが、名号に完備しているという説。", "title": "日本の浄土教における教学理解" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "浄土宗(鎮西義)では、衆生が極楽浄土への往生を願い「南無阿弥陀仏」と称えることで、阿弥陀仏が救って下さると解釈する。そのため、教徒が称える「同称十念」と呼ばれる、念仏のパターンがある(十念は、念仏十回の意)。", "title": "日本の浄土教における教学理解" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「同称十念」", "title": "日本の浄土教における教学理解" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "浄土宗西山派、浄土真宗で説く、他力の教義を表す要語。機とは衆生の信心(=南無)。法とはその衆生を救う阿弥陀仏の本願力(=阿弥陀仏)。衆生の機と阿弥陀仏の法が一体不離となって「南無阿弥陀仏」となっているとする解釈。", "title": "日本の浄土教における教学理解" } ]
南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ・なむあみだぶつ)とは、名号のひとつで「六字名号」のこと。阿弥陀仏への帰依を表明する定型句である。 「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。 「阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ」と「アミターユス」に共通するアミタ(無量、amita-)のみを音写したもの。 すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。
{{混同|[[南無阿部陀仏|南無阿'''部'''陀仏]]}} [[File:Kuya Portrait.JPG|thumb|right|300px|[[空也]]]] '''南無阿弥陀仏'''(なもあみだぶつ・なむあみだぶつ){{Efn|他の表記として、'''南無阿弥陀佛'''、'''南無阿彌陀佛'''、'''南无阿弥陀佛'''などがある}}とは、[[名号]]のひとつで「[[六字名号]]」のこと。[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]への[[帰依]]を表明する定型句である。 *「[[南無]]」はナモー({{IAST|namo}})の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス({{IAST|namas}})の[[連声]]による変化形。「礼拝」から転じて[[帰依]]({{IAST|śaraṇagamana}})を表明する意味に用いられ、「わたくしは[[帰依]]します」と解釈される<ref>{{Cite web|和書|title=神社との違いは?今さら聞けないお寺の参拝のしかたと注意点|@DIME アットダイム|url=https://dime.jp/genre/827130/|website=@DIME アットダイム|accessdate=2020-07-12|language=ja|first=Shogakukan|last=Inc}}</ref>。 *「[[阿弥陀如来|阿弥陀]]」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, {{IAST|amitābha}})」と「アミターユス(無量の寿命, {{IAST|amitāyus}})」に共通するアミタ(無量{{Efn|「はかることのできない」という意味。}}、{{IAST|amita-}})のみを音写したもの。 すなわち「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。 == 発音 == 『[[一遍聖絵]]』には「なもあみたふ」と表記されているので、[[鎌倉時代]]には「なもあみだぶ」と[[発音]]していたようである。[[西本願寺]]に伝わる[[親鸞]]の直筆には「南无阿彌陀佛」とあり、「{{Linktext|无}}」は「{{Linktext|無}}」と同義だがmoの発音がある<ref>氏平明 [http://id.nii.ac.jp/1117/00001293/ 「南無阿弥陀仏」の発音について] 雲雀野(豊橋技術科学大学紀要), vol.36, pp.1-12(2014年)</ref>。また、現在の天台宗では、古儀に則り「なもあびたふ」と称えることが多い(「なむあみだぶつ」と唱える場合もある)。浄土真宗本願寺派では「なもあみだぶつ」、真宗大谷派では「なむあみだぶつ」と発音する。 [[称名念仏]]として称える際には、「なんまんだぶつ」「なんまんだぶ」「なんまんだー」「なんまいだー」とも発音する。 == 日本の浄土教における教学理解 == 阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を[[浄土]]に[[往生]]せしめると[[本願]]に誓い、[[衆生]]の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号('''南無阿弥陀仏''')に収めて衆生に[[回向]]している。 [[善導]]は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字、合わせて六字に関する釈義(六字釈)で明らかにしている。善導の書を見た[[浄土宗]]の開祖[[法然]]は、南無阿弥陀仏と称え、[[阿弥陀仏]]に「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏に[[極楽]]浄土へ導かれる」と説いたが、[[法然]]の弟子であった[[親鸞]]は、これから「南無阿弥陀仏」は衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきであるという、師[[法然]]の解釈に付け加えた。親鸞は「阿弥陀仏」を本尊とし、名号は六字のほかに九字(南無不可思議光如来)、十字(帰命尽十方無碍光如来)の名号を書いている。南無阿弥陀仏は声に出して、耳で戴くほとけ様でもある。 === 願行具足 === 上記、善導の六字釈によって示される解釈。'''願'''とは、「南無」と阿弥陀仏に帰命する衆生の願い。'''行'''とは、衆生を救うための阿弥陀仏の修行。この双方が「南無阿弥陀仏」と仕上がっているので、菩薩が行わなくてはならない「発願」と「菩薩行」の2つが、名号に完備しているという説。 === 願往生 === [[浄土宗]](鎮西義)では、衆生が[[極楽浄土]]への往生を願い「南無阿弥陀仏」と称えることで、阿弥陀仏が救って下さると解釈する。そのため、教徒が称える「同称十念」と呼ばれる、念仏のパターンがある(十念は、念仏十回の意)。 「同称十念」 # 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 # (反復) # 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 === 機法一体 === [[浄土宗西山派]]、[[浄土真宗]]で説く、[[他力本願|他力]]の教義を表す要語。'''機'''とは衆生の信心(=南無)。'''法'''とはその衆生を救う阿弥陀仏の本願力(=阿弥陀仏)。衆生の'''機'''と阿弥陀仏の'''法'''が一体不離となって「南無阿弥陀仏」となっているとする解釈。<ref>[[中西随功]] (監修)『證空辞典』、2011年8月、[[東京堂出版]]、pp.44-45</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[無量寿経]] * [[念仏]] * [[遊行]] * [[妙好人]] * [[題目]] * [[南無妙法蓮華経]] {{浄土教2}} {{Buddhism2}} {{Buddhism-stub}} {{デフォルトソート:なむあみたふつ}} [[Category:浄土教]] [[Category:空也]] [[en:Nianfo#Nianfo_in_Various_forms]]
2003-07-21T07:11:56Z
2023-11-15T11:07:33Z
false
false
false
[ "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Buddhism2", "Template:混同", "Template:IAST", "Template:Linktext", "Template:浄土教2", "Template:Buddhism-stub", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%84%A1%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F
11,974
王位戦 (将棋)
王位戦(おういせん)は、新聞3社連合(北海道新聞社、中日新聞社、神戸新聞社、徳島新聞社、西日本新聞社)及び日本将棋連盟が主催する将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。七番勝負の勝者は王位のタイトル称号を得る。 1954年に産経新聞社主催の一般棋戦「産経杯」が準タイトル戦「早指し王位戦」(早指し王位決定戦)に発展的に解消されて始まった。1960年には、ブロック紙3社連合(北海道新聞社、中日新聞社、西日本新聞社)が主催に加わり、正式にタイトル戦に格上げとなった。それまで、ブロック紙3社連合は、名人・A級棋士を対象にした名人A級勝抜戦とB級棋士を対象にしたB級選抜トーナメント戦という2つの一般棋戦を主催していたが、これらは全て王位戦に統合された。 1962年、産経新聞社は新たに「棋聖戦」を創設することになり、王位戦の主催から離脱した。その後、1967年に東京新聞社が中日新聞社に営業譲渡されたのに伴って、東京新聞社主催の東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦も統合され、東京新聞にも王位戦が掲載されることになった。さらに、1973年には神戸新聞社が、1984年には徳島新聞社が主催に加わり、現在は北海道新聞・中日新聞(東京新聞を含む)・神戸新聞・徳島新聞・西日本新聞の5紙主催となっている。 2021年、緑茶飲料「お〜いお茶」を製造販売している伊藤園が特別協賛を発表。これにより、第62期と63期では棋戦表記が「お〜いお茶杯王位戦」となった。第64期以降は協賛企業と商品名を冠した「伊藤園お〜いお茶杯王位戦」となっている。 予選・挑戦者決定リーグ・挑戦者決定戦によって挑戦者を決定する。王位と挑戦者は王位戦七番勝負を戦う。 持ち時間は、予選・挑戦者決定リーグ・挑戦者決定戦が各4時間。七番勝負は持ち時間8時間の2日制で、1日目の終わりには封じ手を行う。 他の棋戦では、タイトルホルダーやA級棋士は下位予選が免除される場合が多いが、王位戦ではこのような上位棋士シードが一切無く、前年度からのシード4名(および王位在位者)以外のすべての棋士が、予選2回戦までには登場する。そのため、予選段階での番狂わせが他棋戦より起こり易いという特徴がある。 2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定リーグ入りを果たした場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった。 紅白それぞれのリーグの優勝者同士で1局だけ指し、その勝者が挑戦者となる。 次期王位戦の組と順位は、挑戦者決定戦の敗者は白組1位、挑戦者決定戦敗者と同じ組の2位は紅組2位、挑戦者決定戦勝者と同じ組の2位は白組2位となる。 王位と挑戦者決定戦の勝者が七番勝負を行う。七番勝負は全国各地(おもに主催各紙の掲載エリア)の旅館や料亭などで行われる。 敗者は次期王位戦紅組1位となる。 永世称号である永世王位は、王位を通算10期もしくは連続5期以上保持した棋士に与えられる。2021年9月現在、永世王位は大山康晴と中原誠、永世王位の資格を持つ棋士は羽生善治である。この3名はいずれも連続5期により永世王位の資格を得た。なお、中原は60歳になった年度から現役のまま永世王位の称号を用いるようになった。 第64期終了時点 主催者側の意向で、テレビ中継は現時点で行われておらず、2017年になってからインターネット配信が行われている。2016年までは、将棋のタイトル戦の中では唯一対局場の映像のインターネット配信が行われていなかった。代わりに1分ごとに両対局者の様子を自動撮影したスチル写真の自動配信が他棋戦に先んじて行われていた。また、大盤解説会の中継が行われたことはある。 2017年からはAbemaTVが七番勝負を生中継している。2018年・2019年はニコニコ生放送でも生中継が行われた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "王位戦(おういせん)は、新聞3社連合(北海道新聞社、中日新聞社、神戸新聞社、徳島新聞社、西日本新聞社)及び日本将棋連盟が主催する将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。七番勝負の勝者は王位のタイトル称号を得る。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1954年に産経新聞社主催の一般棋戦「産経杯」が準タイトル戦「早指し王位戦」(早指し王位決定戦)に発展的に解消されて始まった。1960年には、ブロック紙3社連合(北海道新聞社、中日新聞社、西日本新聞社)が主催に加わり、正式にタイトル戦に格上げとなった。それまで、ブロック紙3社連合は、名人・A級棋士を対象にした名人A級勝抜戦とB級棋士を対象にしたB級選抜トーナメント戦という2つの一般棋戦を主催していたが、これらは全て王位戦に統合された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1962年、産経新聞社は新たに「棋聖戦」を創設することになり、王位戦の主催から離脱した。その後、1967年に東京新聞社が中日新聞社に営業譲渡されたのに伴って、東京新聞社主催の東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦も統合され、東京新聞にも王位戦が掲載されることになった。さらに、1973年には神戸新聞社が、1984年には徳島新聞社が主催に加わり、現在は北海道新聞・中日新聞(東京新聞を含む)・神戸新聞・徳島新聞・西日本新聞の5紙主催となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2021年、緑茶飲料「お〜いお茶」を製造販売している伊藤園が特別協賛を発表。これにより、第62期と63期では棋戦表記が「お〜いお茶杯王位戦」となった。第64期以降は協賛企業と商品名を冠した「伊藤園お〜いお茶杯王位戦」となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "予選・挑戦者決定リーグ・挑戦者決定戦によって挑戦者を決定する。王位と挑戦者は王位戦七番勝負を戦う。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "持ち時間は、予選・挑戦者決定リーグ・挑戦者決定戦が各4時間。七番勝負は持ち時間8時間の2日制で、1日目の終わりには封じ手を行う。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "他の棋戦では、タイトルホルダーやA級棋士は下位予選が免除される場合が多いが、王位戦ではこのような上位棋士シードが一切無く、前年度からのシード4名(および王位在位者)以外のすべての棋士が、予選2回戦までには登場する。そのため、予選段階での番狂わせが他棋戦より起こり易いという特徴がある。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定リーグ入りを果たした場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "紅白それぞれのリーグの優勝者同士で1局だけ指し、その勝者が挑戦者となる。 次期王位戦の組と順位は、挑戦者決定戦の敗者は白組1位、挑戦者決定戦敗者と同じ組の2位は紅組2位、挑戦者決定戦勝者と同じ組の2位は白組2位となる。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "王位と挑戦者決定戦の勝者が七番勝負を行う。七番勝負は全国各地(おもに主催各紙の掲載エリア)の旅館や料亭などで行われる。 敗者は次期王位戦紅組1位となる。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "永世称号である永世王位は、王位を通算10期もしくは連続5期以上保持した棋士に与えられる。2021年9月現在、永世王位は大山康晴と中原誠、永世王位の資格を持つ棋士は羽生善治である。この3名はいずれも連続5期により永世王位の資格を得た。なお、中原は60歳になった年度から現役のまま永世王位の称号を用いるようになった。", "title": "永世王位" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第64期終了時点", "title": "記録" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "主催者側の意向で、テレビ中継は現時点で行われておらず、2017年になってからインターネット配信が行われている。2016年までは、将棋のタイトル戦の中では唯一対局場の映像のインターネット配信が行われていなかった。代わりに1分ごとに両対局者の様子を自動撮影したスチル写真の自動配信が他棋戦に先んじて行われていた。また、大盤解説会の中継が行われたことはある。", "title": "インターネット配信" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2017年からはAbemaTVが七番勝負を生中継している。2018年・2019年はニコニコ生放送でも生中継が行われた。", "title": "インターネット配信" } ]
王位戦(おういせん)は、新聞3社連合(北海道新聞社、中日新聞社、神戸新聞社、徳島新聞社、西日本新聞社)及び日本将棋連盟が主催する将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。七番勝負の勝者は王位のタイトル称号を得る。 1954年に産経新聞社主催の一般棋戦「産経杯」が準タイトル戦「早指し王位戦」(早指し王位決定戦)に発展的に解消されて始まった。1960年には、ブロック紙3社連合(北海道新聞社、中日新聞社、西日本新聞社)が主催に加わり、正式にタイトル戦に格上げとなった。それまで、ブロック紙3社連合は、名人・A級棋士を対象にした名人A級勝抜戦とB級棋士を対象にしたB級選抜トーナメント戦という2つの一般棋戦を主催していたが、これらは全て王位戦に統合された。 1962年、産経新聞社は新たに「棋聖戦」を創設することになり、王位戦の主催から離脱した。その後、1967年に東京新聞社が中日新聞社に営業譲渡されたのに伴って、東京新聞社主催の東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦も統合され、東京新聞にも王位戦が掲載されることになった。さらに、1973年には神戸新聞社が、1984年には徳島新聞社が主催に加わり、現在は北海道新聞・中日新聞(東京新聞を含む)・神戸新聞・徳島新聞・西日本新聞の5紙主催となっている。 2021年、緑茶飲料「お〜いお茶」を製造販売している伊藤園が特別協賛を発表。これにより、第62期と63期では棋戦表記が「お〜いお茶杯王位戦」となった。第64期以降は協賛企業と商品名を冠した「伊藤園お〜いお茶杯王位戦」となっている。
{{Infobox 棋戦 |イベント名称=王位戦 |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |分類 = タイトル戦 |正式名称 = 伊藤園お〜いお茶杯王位戦 |旧名称 = [[早指し王位決定戦|早指し王位戦]](前身) |開催時期 = 予選:7月 - 翌年1月<br />本戦:1月 - 6月<br />タイトル戦:7月 - 9月 |初回開催 = 1960年度(第1期) |持ち時間 = 予選・本戦:4時間<br />タイトル戦:8時間(2日制) |番勝負 = 七番勝負 |優勝賞金 = |主催 = [[新聞三社連合]]、[[日本将棋連盟]] |協賛 = [[伊藤園]](特別協賛) |URL = [https://www.shogi.or.jp/match/oui/ 王位戦:日本将棋連盟] |種類 = 王位 |前期優勝 = [[藤井聡太]]([[第64期王位戦|第64期]]) |永世資格 = [[大山康晴]](永世王位)<br />[[中原誠]](永世王位)<br />[[羽生善治]](永世王位資格) |最多優勝 = 羽生善治(18期) |最長連覇 = 大山康晴(12連覇) |備考 = }} [[File:Jeu-shogi-56-oi-sen.jpg|thumb]] '''王位戦'''(おういせん)は、新聞3社連合([[北海道新聞社]]、[[中日新聞社]]、[[神戸新聞社]]、[[徳島新聞|徳島新聞社]]、[[西日本新聞社]])<ref group="注">後述の通りかつては「[[ブロック紙3社連合]]」主催。2021年現在は(5社ではあるが)「新聞3社連合」と呼称している。[http://live.shogi.or.jp/oui/sansha.html 王位戦中継サイト「新聞三社連合とは?」]など参照。</ref>及び[[日本将棋連盟]]<ref group="注">2021年現在、王位戦中継サイトのトップでは主催は新聞3社連合と将棋連盟が併記されており、日本将棋連盟のサイトでも「日本将棋連盟主催棋戦一覧」のページに王位戦を載せている。</ref>が主催する[[将棋]]の[[棋戦 (将棋)|棋戦]]で、[[棋戦 (将棋)#タイトル戦|タイトル戦]]のひとつ。[[番勝負|七番勝負]]の勝者は'''王位'''のタイトル称号を得る。 [[1954年]]に[[産経新聞社]]主催の一般棋戦「'''産経杯'''」が準タイトル戦「'''早指し王位戦'''」([[早指し王位決定戦]])に発展的に解消されて始まった<ref name=":0" />。[[1960年]]には、ブロック紙3社連合(北海道新聞社、中日新聞社、西日本新聞社)が主催に加わり、正式にタイトル戦に格上げとなった。それまで、ブロック紙3社連合は、名人・A級棋士を対象にした'''[[名人A級勝抜戦]]'''とB級棋士を対象にした'''[[三社杯B級選抜トーナメント|B級選抜トーナメント戦]]'''という2つの一般棋戦を主催していたが、これらは全て王位戦に統合された。 [[1962年]]、産経新聞社は新たに「[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]」を創設することになり、王位戦の主催から離脱<ref name=":0">『将棋八大棋戦秘話』(河出書房新社)P.104</ref>した。その後、[[1967年]]に東京新聞社が中日新聞社に営業譲渡されたのに伴って、東京新聞社主催の[[東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦]]も統合され、東京新聞にも王位戦が掲載されることになった。さらに、[[1973年]]には神戸新聞社が、[[1984年]]には徳島新聞社が主催に加わり、現在は北海道新聞・中日新聞(東京新聞を含む)・神戸新聞・徳島新聞・西日本新聞の5紙主催となっている。 [[2021年]]、緑茶飲料「[[お〜いお茶]]」を製造販売している[[伊藤園]]が特別協賛を発表。これにより、第62期と63期では棋戦表記が「'''お〜いお茶杯王位戦'''」となった<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/02/02/kiji/20210201s000413F2735000c.html どうなる藤井2冠の「初手・お茶」、王位戦を伊藤園が特別協賛も…スポンサーはサントリー] - スポニチアネックス 2021年2月2日(2021年2月2日閲覧)</ref>。第64期以降は協賛企業と商品名を冠した「'''伊藤園お〜いお茶杯王位戦'''」となっている<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2022/07/_64_2.html 王位戦の冠名 第64期から「伊藤園お~いお茶杯」に変更] - 日本将棋連盟(2022年7月29日)</ref>。 ==方式== 予選・挑戦者決定リーグ・挑戦者決定戦によって挑戦者を決定する。王位と挑戦者は王位戦七番勝負を戦う。 [[持ち時間]]は、予選・挑戦者決定リーグ・挑戦者決定戦が各4時間。七番勝負は持ち時間8時間の2日制で、1日目の終わりには[[封じ手]]を行う。 ===予選=== *王位在位者および前期リーグ残留者(シード)4名を除く全[[棋士 (将棋)|棋士]]、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]2名([[女流王位戦|女流王位]]在位者・女流王位戦挑戦者)が参加するトーナメント戦である。 *トーナメント表は8つの組に分かれ、それぞれの組を勝ち抜いた計8名が挑戦者決定リーグに進出する。 *前期挑戦者決定リーグ参加者の8名(リーグ陥落者{{=}}成績3-6位)は第1シード扱い、前期予選決勝敗退者の8名は第2シード扱いとなり、予選では別の組に1名ずつ振り分けられる。第1シード者と第2シード者はトーナメントの両端に配置され、予選決勝までは当たらない。 他の棋戦では、タイトルホルダーやA級棋士は下位予選が免除される場合が多いが、王位戦ではこのような上位棋士シードが一切無く<ref group="注">厳密に言えば、1回戦から指すのが、フリークラス、新四段などの下位の棋士や女流棋士だということはある。</ref>、前年度からのシード4名(および王位在位者)以外のすべての棋士が、予選2回戦までには登場する。そのため、予選段階での番狂わせが他棋戦より起こり易いという特徴がある。 2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定リーグ入りを果たした場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった<ref>{{Cite web|和書|title=女流棋士・奨励会員・アマチュアにおける 棋戦優秀者への対応について|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/02/post_1989.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2021-02-07|language=ja}}</ref>。 ===挑戦者決定リーグ=== *シード4名(前期七番勝負の敗者、挑戦者決定リーグの成績が2位以上の者)と、当期予選を勝ち抜いた8名(計12名)が、紅白2つのリーグ(各6名)に分かれ、総当たり戦を行う。 *#前期七番勝負の敗者は紅組、前期挑戦者決定戦の敗者は白組に入る。 *#前期2位でシード権を得たリーグ残留者について、前期挑戦者決定戦敗者の組にいた者は紅組、前期挑戦者決定戦勝者の組にいた者は白組に入る。 *紅組・白組それぞれのリーグ1位が挑戦者決定戦に進む。挑戦者決定リーグの1位と2位はリーグ残留として次期のシード権を得る。成績が3~6位の者は次期、予選からの出場となる。 *リーグ各組内で、トップの成績が複数名となった場合、以下の規定によって上位2名を決定する(第56期より)。 *#4勝1敗で並んだ場合、該当者数に関わらずプレーオフを行う。3名の場合は、前期成績(前期リーグ勝星>前期予選勝星)でシード者を決め、1回戦は残留決定戦を兼ねる。 *#3勝2敗で並んだ場合、該当する直接対決の成績>前期成績(前期リーグ勝星>前期予選勝星)で優勝者・残留者を決定する。それでも差のつかなかった場合<ref group="注">2位以下が成績で並んでも、決定戦は行われない。{{Cite web|和書|title=お~いお茶杯王位戦中継Blog : 紅組の結果 |url=https://kifulog.shogi.or.jp/oui/2022/05/post-fdd3.html |website=kifulog.shogi.or.jp |accessdate=2022-05-03 |language=ja}}</ref>には決定戦を行う。 ;在籍期限を満了したフリークラス編入棋士の特例参加 :挑戦者決定リーグを残留した者が、[[順位戦#フリークラス|フリークラス規定]]の在籍期限を満了したフリークラス編入棋士である場合<ref group="注">順位戦C級2組からの降級・棋士編入試験の合格・奨励会三段リーグで次点(リーグ3位)2回獲得によりフリークラスに編入した棋士が対象となる。60歳以上で順位戦C級2組から降級した棋士を含む。ただし「フリークラス宣言」による転出者については含まれない。</ref>、その在籍期限満了者は他棋戦については出場資格がなくなるが、王位戦については次年度の棋戦に参加が可能となり、引退とはならない(2010年7月9日以降)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2010/07/post_307.html |title=フリークラス棋士の引退について|将棋ニュース|日本将棋連盟 |date=2010-07-14 |access-date=2010-07-14}}</ref><ref group="注">他棋戦においても同様の規定があるが、2022年時点での適用例は竜王戦のみとなっている。</ref>。 ===挑戦者決定戦=== 紅白それぞれのリーグの優勝者同士で1局だけ指し、その勝者が挑戦者となる。 次期王位戦の組と順位は、挑戦者決定戦の敗者は白組1位、挑戦者決定戦敗者と同じ組の2位は紅組2位、挑戦者決定戦勝者と同じ組の2位は白組2位となる。 ===王位戦七番勝負=== 王位と挑戦者決定戦の勝者が七番勝負を行う。七番勝負は全国各地(おもに主催各紙の掲載エリア)の旅館や料亭などで行われる。 敗者は次期王位戦紅組1位となる。 ===方式の遍歴=== {| class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;line-height:110%" ! rowspan="3" |期 ! rowspan="2" |王位戦<br />七番勝負<br />(2日制) ! colspan="7" |王位戦リーグ ! colspan="2" |予選トーナメント |- ! rowspan="2" |持ち<br />時間 ! style="line-height:110%"|挑戦者<br />決定戦 ! colspan="5" |挑戦者決定リーグ ! rowspan="2" |通過<br/ >人数 ! rowspan="2" |出場条件 |- !持ち時間 !方式 !出場人数 !組順位 !シード条件 !組優勝決定方法 !残留者決定方法 |- !1 | rowspan="4" |'''10時間''' | rowspan="3" |'''7時間''' | - | rowspan="2" |'''10名'''<br />・'''A'''組5名<br/ >・'''B'''組5名 | rowspan="6" |定めず | - | rowspan="6" |成績首位全員の<br />'''トーナメント'''で決定<br /><ref name="kettei">奇数の際のシード者に、前年の成績は考慮されない</ref> | rowspan="6" |残留ライン上全員の<br />'''トーナメント'''で決定<br /><ref name="kettei" /> |'''10名''' |'''棋士全員''' |- !2 | rowspan="10" |'''紅白の<br />優勝者<br />で決勝''' |'''3名'''<br />・前期七番勝負敗者<br />・前期リーグ2位 |'''7名''' | rowspan="7" |'''棋士全員'''<br /><small>(シード者以外)</small> |- !3 | rowspan="3" |'''10名'''<br />・'''紅'''組5名<br/ >・'''白'''組5名 | rowspan="9" |'''4名'''<br />・前期七番勝負敗者<br />・前期リーグ2位以上 | rowspan="3" |'''6名''' |- !4~8 | rowspan="4" |'''6時間''' |- !9~17 | rowspan="3" |'''9時間''' |- !18~26 | rowspan="6" |'''12名'''<br />・'''紅'''組6名<br/ >・'''白'''組6名 | rowspan="6" |'''8名''' |- !27~29 | rowspan="2" |'''1位''':残留者2名<br />'''2位''':予選突破者4名 | rowspan="4" |成績首位全員の<br />'''トーナメント'''で決定<br /><small>(詳細は後述)</small> | rowspan="4" |勝利数が並んだ場合<br />'''順位が上の者が残留'''<br /><ref>順位も同じ場合は残留決定戦</ref> |- !30~36 | rowspan="4" |'''8時間''' | rowspan="2" |'''5時間''' |- !37~44 | rowspan="2" |'''紅1位''':七番勝負敗者<br />'''白1位''':挑戦者決定戦敗者<br />'''2位''':前期リーグ2位<br />3位:予選突破者4名 | rowspan="3" |・'''棋士全員'''<br /><small>(シード者以外)</small><br /><br />・'''女流2名'''<br /><small>(女流王位戦七番勝負出場者)</small><ref group="注">第54期と第55期では、[[奨励会|奨励会員]]であり(男性)棋戦への参加資格がなかった[[里見香奈]](第23期、第24期女流王位)に代わって、挑戦者決定戦の敗者([[清水市代]]、[[中井広恵]])がそれぞれ出場した。</ref> |- !45~55 | rowspan="2" |'''4時間''' |- !56~ |定めないが<br />前期成績上位者が優先 | colspan="2" |・'''4勝1敗'''で並んだ場合、'''プレーオフ'''<ref>3名の場合は、前期成績でシード者を決め1回戦は残留決定戦を兼ねる</ref><br />・'''3勝2敗'''で並んだ場合、<br />{{0}}'''直接対決の成績>前期成績'''<ref>優勝者・残留者を決定。それでも差のつかなかった場合には決定戦を行う</ref> |} *第55期までは以下の規定によって順位が定められていた。 **シード4名は、各リーグ表の1位、2位とする。紅組リーグ表の1位は前期七番勝負の敗者とし、白組リーグ表1位は前期挑戦者決定戦の敗者とする<ref group="注">シードと予選通過者に順位差がついたのは第27期より。挑戦者決定戦進出者ともう1人の残留者に順位差がついたのは第37期より。</ref>。 **リーグ表順位が違う者同士であるか否かを問わず、また、何名が並んだかにかかわらず、トップの成績で並んだ者全員によるプレーオフを行う<ref group="注">3人以上の場合のプレーオフは、トーナメント形式となる。たとえば、3勝2敗が5名、0勝5敗が1名の場合、5人によるトーナメント戦になる。</ref>。 **リーグからの陥落については、同じ勝敗数であってもリーグ表で上位の者が優先的に残留する。リーグ表3位同士が陥落のボーダーラインに並んだ場合は、残留決定戦が行われる。 **例外として、リーグ表3位の者が1位・2位の者と勝敗数トップで並び、かつプレーオフで勝ち残って挑戦者決定戦に進んだ場合は、リーグ表の順位に関わらず残留となり、(七番勝負で敗れた場合)次期リーグ表で1位と扱われる<ref group="注">[https://www.shogi.or.jp/match/oui/46/hon.html 第46期リーグ]の結果および[https://www.shogi.or.jp/match/oui/47/hon.html 第47期リーグ]の編成を参照。第46期の挑戦者決定リーグ紅組においては、リーグ表1位・2位および3位の2名が3勝2敗で並んでおり、4人でのプレーオフが組まれた。このときプレーオフで勝ち残った[[先崎学]](リーグ表3位)は次期リーグ残留・次期リーグ表1位となった。ただしもう一人の残留者は、プレーオフ1回戦で勝って2回戦で負けた[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]ではなく、今期リーグ表1位の[[谷川浩司]](次期はリーグ表2位)となった。</ref>。 *組優勝決定の為のプレーオフでは、順位(=前期成績)の取り扱いが、期によって異なっていた **第28期紅組では、1位(前期番勝負敗者)米長・1位(前期リーグ2位)東・2位森・西川が並び、森・西川の勝者が東と対戦し、その勝者が米長と対戦し組優勝を決定した。(1位同士に差がある、[[パラマストーナメント]]) **第33期白組では、1位(前期リーグ2位)郷田・2位中原・加藤一・富岡が並び、四者が同列として組優勝を決定した(序列2位の3名は残留決定戦を兼ねた)。(四者同列の、普通のトーナメント) **第36期白組では、1位(前期挑決敗者)高橋・1位(前期リーグ2位)中原・2位谷川が並び、高橋・谷川の勝者が中原と対戦した。(1位同士ではあるが、前年の成績が下の者が有利なシード) **第46期紅組では、1位谷川・2位屋敷・3位先崎・渡辺が並び、第33期白組と同じく四者が同列として組優勝を決定した(尚1回戦は、1位谷川vs3位先崎、2位屋敷vs3位渡辺)。尚、残留決定戦も兼ねており、3位の先崎と渡辺はプレーオフ優勝が残留条件となっていた。先崎が紅組優勝となったため、2位屋敷・もう一人の3位渡辺がリーグ陥落した。 ==永世王位== [[棋戦 (将棋)#永世称号|永世称号]]である'''永世王位'''は、王位を'''通算10期'''もしくは'''連続5期'''以上保持した棋士に与えられる。2021年9月現在、永世王位は[[大山康晴]]と[[中原誠]]、永世王位の資格を持つ棋士は[[羽生善治]]である。この3名はいずれも連続5期により永世王位の資格を得た。なお、中原は60歳になった年度から現役のまま永世王位の称号を用いるようになった。 == 歴代七番勝負・挑戦者決定リーグ == {| border="1" class="wikitable" style="font-size:80%;" | ;番勝負勝敗(王位側から見た勝敗) :○:勝ち / ●:負け / 千:[[千日手]] / 持:[[持将棋]] ;王位戦七番勝負 :{| | style="background-color:#ffcccc; border:1px solid #aaaaaa;"|'''太字''' |:王位獲得者(七番勝負 勝者) | style="background-color:#ff6699; border:1px solid #aaaaaa;" |'''太字'''{{sup|永}} | :永世資格獲得者(七番勝負 勝者) |} ;挑戦者決定リーグ(各組成績上位1-2位は次期シード) :{| | {{colorbox|#cfc|{{sup|◎}} }}:王位挑戦者('''太字は全勝挑戦者''') | {{colorbox|#ffc|{{sup|○}} }}:組1位(挑決敗者/リーグ残留) | {{sup|△}}:組2位(リーグ残留) |} |} {|class="wikitable" style="white-space: nowrap;text-align:center;font-size:80%;" !rowspan="2"|期!!rowspan="2"|年度!!colspan="3"|王位戦七番勝負!!colspan="12"|挑戦者決定リーグ |- !A組優勝!!勝敗!!B組優勝!! colspan="6" |A組 ! colspan="6" |B組 |- ![[第1期王位戦|1]] |[[1960年度の将棋界|1960]] |style="background-color: #ffcccc"|'''[[大山康晴]]''' |{{table2|class=none|cols=3|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|千<br/>○|○●○--}} |[[塚田正夫]] |style="background-color: #cfc"|[[大山康晴|大山]]{{sup|◎}} |[[丸田祐三|丸田]] |[[二上達也|二上]]{{sup|△}} |[[坂口允彦|坂口]] |[[関根茂]] | |style="background-color: #cfc;"|[[塚田正夫|塚田正]]{{sup|◎}} |[[大野源一|大野源]]{{sup|△}} |[[松浦卓造|松浦卓]] |[[熊谷達人|熊谷]] |[[本間爽悦|本間爽]] | |- ! rowspan="2" |期!! rowspan="2" |年度!! rowspan="2" |王位!! rowspan="2" |勝敗!! rowspan="2" |挑戦者!! colspan="6" |A組!! colspan="6" |B組 |- ! colspan="1"|{{small|前期残留}}!! colspan="5" |予選通過者!! colspan="2" |前期残留!! colspan="4" |予選通過者 |- ![[第2期王位戦|2]] |[[1961年度の将棋界|1961]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|○○●○○--}} |[[丸田祐三]] |塚田正 |style="background-color: #cfc"|丸田{{sup|◎}} |[[高島一岐代|高島一]] |[[富沢幹雄|富沢]] |[[大村和久|大村]]{{sup|△}} | |style="background-color: #ffc"|二上{{sup|○}} |大野源{{sup|△}} |[[高柳敏夫|高柳]] |[[山田道美|山田]] |[[伊達康夫|伊達]] | |- ! rowspan="2" |期 ! rowspan="2" |年度 ! rowspan="2" |王位 ! rowspan="2" |勝敗 ! rowspan="2" |挑戦者 ! colspan="6" |{{colorbox|#FCC|{{0}}紅組{{0}} }} ! colspan="6" |{{colorbox|#FFF|{{0}}白組{{0}} }} |- ! colspan="2" |前期残留 ! colspan="4" |予選通過者 ! colspan="2" |前期残留 ! colspan="4" |予選通過者 |- ![[第3期王位戦|3]] |[[1962年度の将棋界|1962]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|○○○○---}} |[[花村元司]] |丸田 |大野源 |[[灘蓮照|灘]]{{sup|△}} |style="background-color: #cfc"|[[花村元司|花村]]{{sup|◎}} |[[内藤國雄|内藤]] | |二上 |大村 |style="background-color: #ffc"|[[升田幸三|升田]]{{sup|○}} |[[加藤一二三|加藤一]]{{sup|△}} |[[下平幸男|下平]] | |- ![[第4期王位戦|4]] |[[1963年度の将棋界|1963]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|●○●○○○-}} |[[加藤一二三]] |花村{{sup|△}} |style="background-color:#cfc"|加藤一{{sup|◎}} |[[加藤博二|加藤博]] |下平 |[[板谷進]] | |升田 |灘 |二上{{sup|△}} |style="background-color: #ffc"|[[佐藤大五郎|佐藤大]]{{sup|○}} |[[神田鎮雄|神田鎮]] | |- ![[第5期王位戦|5]] |[[1964年度の将棋界|1964]] |style="background-color: #ff6699;"|'''大山康晴'''{{sup|永}} |{{center|○○●●○○-}} |[[二上達也]] |加藤一{{sup|△}} |style="background-color: #cfc"|二上{{sup|◎}} |丸田 |[[廣津久雄|広津]] |板谷進 | |佐藤大 |花村 |style="background-color: #ffc"|升田{{sup|○}} |[[佐瀬勇次|佐瀬]]{{sup|△}} |[[角田三男|角田]] | |- ![[第6期王位戦|6]] |[[1965年度の将棋界|1965]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|○○○○---}} |style="white-space: nowrap;"|[[佐藤大五郎]] |二上 |佐瀬{{sup|△}} |[[北村昌男|北村昌]] |style="background-color: #cfc;"|佐藤大{{sup|◎}} |板谷進 | |升田 |加藤一{{sup|△}} |山田 |style="background-color: #ffc"|内藤{{sup|○}} |[[佐藤庄平|佐藤庄]] | |- ![[第7期王位戦|7]] |[[1966年度の将棋界|1966]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|○○○●○--}} |[[有吉道夫]] |佐藤大 |加藤一 |加藤博{{sup|△}} |style="background-color: #cfc"|[[有吉道夫|有吉]]{{sup|◎}} |[[西村一義|西村]] | |内藤 |佐瀬 |style="background-color: #ffc"|山田{{sup|○}} |関根茂{{sup|△}} |本間爽 | |- ![[第8期王位戦|8]] |[[1967年度の将棋界|1967]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|●○○○○--}} |[[大内延介]] |有吉{{sup|△}} |関根茂 |内藤 |熊谷 |style="background-color: #cfc"|[[大内延介|大内]]{{sup|◎}} | |style="background-color: #ffc"|山田{{sup|○}} |加藤博 |花村{{sup|△}} |佐藤大 |広津 | |- ![[第9期王位戦|9]] |[[1968年度の将棋界|1968]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|○○●○●○-}} |有吉道夫 |大内 |style="background-color: #ffc"|花村{{sup|○}} |二上{{sup|△}} |佐藤大 |[[中原誠|中原]] | |山田{{sup|△}} |style="background-color: #cfc"|有吉{{sup|◎}} |大野源 |升田 |本間爽 | |- ![[第10期王位戦|10]] |[[1969年度の将棋界|1969]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{table2|class=none|cols=3|style=border-spacing:0;line-height:90%|○●|千<br/>○|●○○-}} |[[西村一義]] |有吉{{sup|△}} |二上 |本間爽 |大内 |style="background-color: #cfc"|西村{{sup|◎}} | |花村 |山田{{sup|△}} |style="background-color: #ffc"|内藤{{sup|○}} |板谷進 |[[長谷部久雄|長谷久]] | |- ![[第11期王位戦|11]] |[[1970年度の将棋界|1970]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|○○○●○--}} |[[米長邦雄]] |西村{{sup|△}} |style="line-height:100%"|山田<br><ref group="注">山田道美はリーグ戦最中の1970年6月18日に急逝した。(不戦局2)</ref> |大野源 |style="background-color: #ffc"|中原{{sup|○}} |[[関屋喜代作|関屋]] | |内藤 |有吉 |[[松田茂役|松田茂]]{{sup|△}} |二上 |style="background-color: #cfc"|[[米長邦雄|米長]]{{sup|◎}} | |- ![[第12期王位戦|12]] |[[1971年度の将棋界|1971]] |style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |{{center|○●○○●●○}} |[[中原誠]] |style="background-color: #ffc"|米長{{sup|○}} |西村{{sup|△}} |有吉 |大内 |[[田中魁秀|田中正]] | |style="background-color: #cfc"|中原{{sup|◎}} |松田茂 |加藤一 |関根茂{{sup|△}} |板谷進 | |- ![[第13期王位戦|13]] |[[1972年度の将棋界|1972]] |大山康晴 |{{center|●○●●●--}} |style="background-color: #ffcccc"|'''[[内藤國雄]]''' |style="background-color: #ffc"|中原{{sup|○}} |西村 |有吉{{sup|△}} |佐藤大 |[[池田修一|池田]] | |米長{{sup|△}} |関根茂 |[[小堀清一|小堀]] |style="background-color: #cfc"|内藤◎ |板谷進 | |- ![[第14期王位戦|14]] |[[1973年度の将棋界|1973]] |内藤國雄 |{{center|●●●●---}} |style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠''' |大山{{sup|△}} |style="background-color: #ffc"|有吉{{sup|○}} |花村 |西村 |[[坪内利幸|坪内]] | |style="background-color: #cfc"|中原{{sup|◎}} |米長 |関根茂 |田中正{{sup|△}} |[[石田和雄|石田和]] | |- ![[第15期王位戦|15]] |[[1974年度の将棋界|1974]] |style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠''' |{{center|○●○●○○-}} |米長邦雄 |内藤 |大山{{sup|△}} |style="background-color: #cfc"|米長{{sup|◎}} |板谷進 |富沢 | |style="background-color: #ffc"|有吉{{sup|○}} |田中正 |熊谷{{sup|△}} |[[北村昌男|北村昌]] |関根茂 | |- ![[第16期王位戦|16]] |[[1975年度の将棋界|1975]] |style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠''' |{{center|○●○●○○-}} |内藤國雄 |style="background-color: #ffc"|米長{{sup|○}} |熊谷 |[[勝浦修|勝浦]]{{sup|△}} |[[森雞二|森雞]] |[[小阪昇|小阪]] | |有吉{{sup|△}} |大山 |style="background-color: #cfc"|内藤{{sup|◎}} |広津 |西村 | |- ![[第17期王位戦|17]] |[[1976年度の将棋界|1976]] |style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠''' |{{center|●○○○●○-}} |[[勝浦修]] |内藤 |style="background-color: #cfc"|勝浦{{sup|◎}} |花村 |西村{{sup|△}} |[[沼春雄|沼]] | |米長 |style="background-color: #ffc"|有吉{{sup|○}} |加藤一{{sup|△}} |大野源 |[[森安秀光|森安秀]] | |- ![[第18期王位戦|18]] |[[1977年度の将棋界|1977]] |style="background-color: #ff6699"|'''中原誠'''{{sup|永}} |{{center|●○○○●○-}} |米長邦雄 |勝浦 |加藤一{{sup|△}} |大山 |二上 |style="background-color: #cfc"|米長{{sup|◎}} |田中正 |有吉 |西村 |花村 |森雞{{sup|△}} |style="background-color: #ffc"|[[小林健二 (将棋棋士)|小林健]]{{sup|○}} |[[酒井順吉|酒井]] |- ![[第19期王位戦|19]] |[[1978年度の将棋界|1978]] |style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠''' |{{center|○●○○○--}} |大山康晴 |米長 |style="background-color: #ffc"|森雞{{sup|○}} |大内{{sup|△}} |[[高島弘光|高島弘]] |[[宮坂幸雄|宮坂]] |[[若松政和|若松]] |小林健 |加藤一{{sup|△}} |style="background-color: #cfc"|大山{{sup|◎}} |花村 |森安秀 |[[青野照市|青野]] |- ![[第20期王位戦|20]] |[[1979年度の将棋界|1979]] |中原誠 |{{table2|class=none|cols=2|style=border-spacing:0;line-height:90%|○●●○●○|千<br/>●}} |style="background-color: #ffcccc"|'''米長邦雄''' |大山{{sup|△}} |大内 |style="background-color: #cfc"|米長{{sup|◎}} |二上 |[[木村義徳|木村徳]] |[[土佐浩司|土佐]] |森雞 |style="background-color: #ffc"|加藤一{{sup|○}} |有吉{{sup|△}} |勝浦 |[[森信雄|森信]] |[[田中寅彦|田中寅]] |- ![[第21期王位戦|21]] |[[1980年度の将棋界|1980]] |米長邦雄 |{{center|●●●●---}} |style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠''' |style="background-color: #cfc"|中原{{sup|◎}} |有吉 |勝浦 |長谷久 |[[谷川浩司|谷川]]{{sup|△}} |[[松浦隆一|松浦隆]] |加藤一{{sup|△}} |style="background-color: #ffc"|大山{{sup|○}} |二上 |北村昌 |小林健 |[[伊藤果]] |- ![[第22期王位戦|22]] |[[1981年度の将棋界|1981]] |style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠''' |{{center|○●○○●●○}} |大山康晴 |米長 |加藤一{{sup|△}} |style="background-color: #ffc"|二上{{sup|○}} |森安秀 |土佐 |[[脇謙二|脇]] |style="background-color: #cfc"|大山{{sup|◎}} |谷川 |佐藤大 |石田和{{sup|△}} |[[武者野勝巳|武者野]] |[[中村修 (棋士)|中村修]] |- ![[第23期王位戦|23]] |[[1982年度の将棋界|1982]] |中原誠 |{{center|●○○●●●-}} |style="background-color: #ffcccc"|'''内藤國雄''' |大山 |加藤一{{sup|△}} |北村昌 |勝浦 |style="background-color: #ffc"|谷川{{sup|○}} |池田 |二上 |石田和 |style="background-color: #cfc"|内藤{{sup|◎}} |森雞 |森安秀{{sup|△}} |西村 |- ![[第24期王位戦|24]] |[[1983年度の将棋界|1983]] |内藤國雄 |{{center|●○●●○●-}} |style="background-color: #ffcccc"|'''[[高橋道雄]]''' |中原{{sup|△}} |加藤一 |二上 |関根茂 |style="background-color: #ffc"|[[桐山清澄|桐山]]{{sup|○}} |脇 |谷川 |森安秀 |大山 |青野{{sup|△}} |田中寅 |style="background-color: #cfc"|[[高橋道雄|高橋]]{{sup|◎}} |- ![[第25期王位戦|25]] |[[1984年度の将棋界|1984]] |高橋道雄 |{{center|●○○●○●●}} |style="background-color: #ffcccc"|'''加藤一二三''' |内藤{{sup|△}} |style="background-color: #ffc"|中原{{sup|○}} |大山 |森雞 |森安秀 |[[山口千嶺|山口千]] |桐山 |青野 |谷川{{sup|△}} |米長 |style="background-color: #cfc"|加藤一{{sup|◎}} |[[淡路仁茂|淡路]] |- ![[第26期王位戦|26]] |[[1985年度の将棋界|1985]] |style="white-space: nowrap;"|加藤一二三 |{{center|●●●●---}} |style="background-color: #ffcccc"|'''高橋道雄''' |style="background-color: #cfc"|高橋{{sup|◎}} |内藤 |田中寅{{sup|△}} |小林健 |[[福崎文吾|福崎]] |[[小野敦生|小野敦]] |中原{{sup|△}} |style="background-color: #ffc"|谷川{{sup|○}} |石田和 |青野 |[[島朗|島]] |[[森下卓|森下]] |- ! rowspan="2" |期 ! rowspan="2" |年度 ! rowspan="2" |王位 ! rowspan="2" |勝敗 ! rowspan="2" |挑戦者 ! colspan="6" |{{colorbox|#FCC|{{0}}紅組{{0}} }} ! colspan="6" |{{colorbox|#FFF|{{0}}白組{{0}} }} |- !colspan="2"|順位1位 !colspan="4"|順位2位 (予選通過者) !colspan="2"|順位1位 !colspan="4"|順位2位 (予選通過者) |- ![[第27期王位戦|27]] |[[1986年度の将棋界|1986]] |style="background-color: #ffcccc"|'''高橋道雄''' |{{center|○○○○---}} |米長邦雄 |加藤一 |style="background-color: #ffc"|中原{{sup|○}} |二上 |大内 |勝浦 |[[東和男|東]]{{sup|△}} |谷川 |田中寅 |style="background-color: #cfc"|米長{{sup|◎}} |森安秀{{sup|△}} |[[佐藤義則 (棋士)|佐藤義]] |[[田丸昇|田丸]] |- ![[第28期王位戦|28]] |[[1987年度の将棋界|1987]] |高橋道雄 |{{center|●●○●●--}} |style="background-color: #ffcccc"|'''[[谷川浩司]]''' |style="background-color: #ffc"|米長{{sup|○}} |東{{sup|△}} |大山 |森雞 |土佐 |[[西川慶二|西川慶]] |中原 |森安秀 |style="background-color: #cfc"|谷川{{sup|◎}} |[[真部一男|真部]]{{sup|△}} |島 |小野敦 |- ![[第29期王位戦|29]] |[[1988年度の将棋界|1988]] |谷川浩司 |{{center|●○○●●○● |style="background-color: #ffcccc"|'''[[森雞二]]''' |高橋 |東 |style="background-color: #cfc"|森雞{{sup|◎}} |伊藤果 |[[所司和晴|所司]] |[[佐藤康光|佐藤康]]{{sup|△}} |米長{{sup|△}} |真部 |森安秀 |福崎 |style="background-color: #ffc"|森下{{sup|○}} |[[櫛田陽一|櫛田]] |- ![[第30期王位戦|30]] |[[1989年度の将棋界|1989]] |森雞二 |{{center|●○●●●--}} |style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司''' |style="background-color: #cfc"|谷川{{sup|◎}} |米長 |中原{{sup|△}} |勝浦 |田中寅 |[[達正光|達]] |style="background-color: #ffc"|森下{{sup|○}} |佐藤康{{sup|△}} |[[南芳一|南]] |大山 |二上 |森安秀 |- ![[第31期王位戦|31]] |[[1990年度の将棋界|1990]] |style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司''' |{{center|●○○●○●○ |[[佐藤康光]] |森雞 |style="background-color: #cfc"|佐藤康{{sup|◎}} |加藤一{{sup|△}} |淡路 |島 |[[中田功]] |森下 |中原{{sup|△}} |高橋 |青野 |style="background-color: #ffc"|福崎{{sup|○}} |[[阿部隆]] |- ![[第32期王位戦|32]] |[[1991年度の将棋界|1991]] |style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司''' |{{center|●●○○○○-}} |[[中田宏樹]] |佐藤康{{sup|△}} |中原 |有吉 |style="background-color: #ffc"|小林健{{sup|○}} |[[大島映二|大島]] |[[丸山忠久|丸山]] |福崎 |加藤一 |米長 |style="background-color: #cfc"|[[中田宏樹|中田宏]]{{sup|◎}} |[[安西勝一|安西]] |[[郷田真隆|郷田]]{{sup|△}} |- ![[第33期王位戦|33]] |[[1992年度の将棋界|1992]] |谷川浩司 |{{center|●●●○○●-}} |style="background-color: #ffcccc"|'''[[郷田真隆]]''' |中田宏 |style="background-color: #ffc"|佐藤康{{sup|○}} |米長 |田中寅 |森下{{sup|△}} |[[村山聖]] |小林健 |style="background-color: #cfc"|郷田{{sup|◎}} |中原{{sup|△}} |加藤一 |[[富岡英作|富岡]] |[[杉本昌隆|杉本昌]] |- ![[第34期王位戦|34]] |[[1993年度の将棋界|1993]] |郷田真隆 |{{center|●●●●---}} |style="background-color: #ffcccc"|'''[[羽生善治]]''' |谷川 |森下 |style="background-color: #cfc"|[[羽生善治|羽生]]{{sup|◎}} |加藤一 |[[小野修一|小野修]] |[[神崎健二|神崎]]{{sup|△}} |佐藤康 |中原{{sup|△}} |内藤 |style="background-color: #ffc"|高橋{{sup|○}} |[[浦野真彦|浦野]] |[[森内俊之|森内]] |- ![[第35期王位戦|35]] |[[1994年度の将棋界|1994]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○○●●●○○}} |郷田真隆 |style="background-color: #cfc"|郷田{{sup|◎}} |中原{{sup|△}} |谷川 |福崎 |[[先崎学|先崎]] |[[深浦康市|深浦]] |style="background-color: #ffc"|高橋{{sup|○}} |神崎 |佐藤康{{sup|△}} |島 |森下 |[[飯塚祐紀|飯塚祐]] |- ![[第36期王位戦|36]] |[[1995年度の将棋界|1995]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|●●○○○○-}} |郷田真隆 |style="background-color: #cfc"|郷田{{sup|◎}} |佐藤康{{sup|△}} |米長 |森内 |脇 |[[佐藤秀司|佐藤秀]] |高橋{{sup|△}} |中原 |style="background-color: #ffc"|谷川{{sup|○}} |森雞 |神崎 |[[小倉久史|小倉]] |- ! rowspan="2" |期 ! rowspan="2" |年度 ! rowspan="2" |王位 ! rowspan="2" |勝敗 ! rowspan="2" |挑戦者 ! colspan="6" |{{colorbox|#FCC|{{0}}紅組{{0}} }} ! colspan="6" |{{colorbox|#FFF|{{0}}白組{{0}} }} |- ! 順位1位 !! 順位2位 !! colspan="4"| 順位3位 (予選通過者) ! 順位1位 !! 順位2位 !! colspan="4"| 順位3位 (予選通過者) |- ![[第37期王位戦|37]] |[[1996年度の将棋界|1996]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○○●○○--}} |[[深浦康市]] |郷田{{sup|△}} |高橋 |島 |村山聖 |神崎 |style="background-color: #cfc"|深浦{{sup|◎}} |谷川 |佐藤康{{sup|△}} |森下 |阿部隆 |style="background-color: #ffc"|丸山{{sup|○}} |[[行方尚史|行方]] |- ![[第38期王位戦|38]] |[[1997年度の将棋界|1997]] |style="background-color: #ff6699"|'''羽生善治'''{{sup|永}} |{{center|○●○○○--}} |佐藤康光 |深浦 |style="background-color: #cfc"|佐藤康{{sup|◎}} |中村修 |阿部隆{{sup|△}} |[[藤井猛]] |[[岡崎洋 (棋士)|岡崎洋]] |丸山 |style="background-color: #ffc"|郷田{{sup|○}} |森下{{sup|△}} |佐藤義 |小野修 |[[畠山成幸|畠山成]] |- ![[第39期王位戦|39]] |[[1998年度の将棋界|1998]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○○●○●○-}} |佐藤康光 |style="background-color: #cfc"|佐藤康{{sup|◎}} |森下 |高橋{{sup|△}} |島 |北島 |[[矢倉規広|矢倉]] |style="background-color: #ffc"|郷田{{sup|○}} |阿部隆{{sup|△}} |[[屋敷伸之|屋敷]] |村山聖<br/><ref group="注">村山聖はリーグ戦を病気入院により途中休場。1998年8月8日に逝去した。(不戦敗2)</ref> |[[日浦市郎|日浦]] |[[木村一基|木村一]] |- ![[第40期王位戦|40]] |[[1999年度の将棋界|1999]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○○○○---}} |谷川浩司 |佐藤康 |阿部隆 |style="background-color: #cfc"|谷川{{sup|◎}} |島 |杉本昌 |行方{{sup|△}} |郷田{{sup|△}} |高橋 |藤井猛 |style="background-color: #ffc"|屋敷{{sup|○}} |矢倉 |北島 |- ![[第41期王位戦|41]] |[[2000年度の将棋界|2000]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○●○●○●○}} |谷川浩司 |style="background-color: #cfc"|谷川{{sup|◎}} |郷田{{sup|△}} |丸山 |南 |[[中川大輔 (棋士)|中川]] |[[中田功]] |style="background-color: #ffc"|屋敷{{sup|○}} |行方 |森下{{sup|△}} |[[井上慶太|井上]] |深浦 |[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大]] |- ![[第42期王位戦|42]] |[[2001年度の将棋界|2001]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○○○○---}} |[[屋敷伸之]] |谷川{{sup|△}} |森下 |style="background-color: #ffc"|森内{{sup|○}} |中村修 |[[長沼洋|長沼]] |[[山崎隆之|山崎]] |style="background-color: #cfc"|屋敷{{sup|◎}} |郷田 |佐藤康 |畠山成 |深浦{{sup|△}} |[[金沢孝史|金沢]] |- ![[第43期王位戦|43]] |[[2002年度の将棋界|2002]] |羽生善治 |{{table2|class=none|cols=3|style=border-spacing:0;line-height:90%|●●●○|千<br/>●|--}} |style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司''' |屋敷{{sup|△}} |style="background-color: #cfc"|谷川{{sup|◎}} |丸山 |中村修 |木村一 |[[松尾歩|松尾]] |森内{{sup|△}} |深浦 |style="background-color: #ffc"|佐藤康{{sup|○}} |淡路 |南 |金沢 |- ![[第44期王位戦|44]] |[[2003年度の将棋界|2003]] |style="background-color: #ffcccc"|'''谷川浩司''' |{{center|○○○●○--}} |羽生善治 |style="background-color: #cfc"|羽生{{sup|◎}} |森内{{sup|△}} |小倉 |[[平藤眞吾|平藤]] |[[真田圭一|真田]] |[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]] |佐藤康 |style="background-color: #ffc"|屋敷{{sup|○}} |淡路 |中川{{sup|△}} |[[石川陽生|石川陽]] |[[大平武洋|大平]] |- ![[第45期王位戦|45]] |[[2004年度の将棋界|2004]] |谷川浩司 |{{center|○●●●●--}} |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |style="background-color: #cfc"|羽生{{sup|◎}} |中川{{sup|△}} |深浦 |中原 |中田功 |岡崎洋 |屋敷{{sup|△}} |森内 |丸山 |先崎 |[[畠山鎮]] |style="background-color: #ffc"|山崎{{sup|○}} |- ![[第46期王位戦|46]] |[[2005年度の将棋界|2005]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|●●○○●○○ |佐藤康光 |谷川{{sup|△}} |屋敷 |渡辺明 |style="background-color: #ffc"|先崎{{sup|○}} |[[北浜健介|北浜]] |[[阿久津主税|阿久津]] |山崎 |中川 |style="background-color: #cfc"|佐藤康{{sup|◎}} |深浦{{sup|△}} |富岡 |畠山鎮 |- ![[第47期王位戦|47]] |[[2006年度の将棋界|2006]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○○●●○○-}} |佐藤康光 |style="background-color: #cfc"|佐藤康{{sup|◎}} |谷川 |渡辺明{{sup|△}} |中川 |[[佐藤紳哉|佐藤紳]] |阿久津 |先崎 |深浦{{sup|△}} |森内 |style="background-color: #ffc"|島{{sup|○}} |[[藤原直哉 (棋士)|藤原]] |[[小林裕士|小林裕]] |- ![[第48期王位戦|48]] |[[2007年度の将棋界|2007]] |羽生善治 |{{center|●●○●○○●}} |style="background-color: #ffcccc"|'''深浦康市''' |佐藤康 |style="background-color: #cfc"|深浦{{sup|◎}} |丸山{{sup|△}} |鈴木大 |[[千葉幸生|千葉]] |阿久津 |島 |style="background-color: #ffc"|渡辺明{{sup|○}} |森内 |山崎{{sup|△}} |[[神谷広志|神谷]] |[[橋本崇載|橋本崇]] |- ![[第49期王位戦|49]] |[[2008年度の将棋界|2008]] |style="background-color: #ffcccc"|'''深浦康市''' |{{center|●○○○●●○}} |羽生善治 |style="background-color: #cfc"|羽生{{sup|◎}} |山崎 |井上 |木村一 |松尾 |阿久津{{sup|△}} |渡辺明 |丸山{{sup|△}} |島 |[[久保利明|久保]] |[[中座真|中座]] |style="background-color: #ffc"|橋本崇{{sup|○}} |- ![[第50期王位戦|50]] |[[2009年度の将棋界|2009]] |style="background-color: #ffcccc"|'''深浦康市''' |{{table2|class=none|cols=2|style=border-spacing:0;line-height:90%|千<br/>●|●●○○○○}} |[[木村一基]] |羽生{{sup|△}} |丸山 |渡辺明 |郷田 |style="background-color: #cfc;"|木村一{{sup|◎}} |先崎 |style="background-color: #ffc"|橋本崇{{sup|○}} |阿久津 |佐藤康{{sup|△}} |[[三浦弘行|三浦]] |久保 |井上 |- ![[第51期王位戦|51]] |[[2010年度の将棋界|2010]] |深浦康市 |{{table2|class=none|cols=4|style=border-spacing:0;line-height:90%|●○●○|千<br/>●|千<br/>●|-}} |style="background-color: #ffcccc"|'''[[広瀬章人]]''' |木村一 |佐藤康{{sup|△}} |渡辺明 |松尾 |style="background-color: #cfc"|[[広瀬章人|広瀬]]{{sup|◎}} |[[大石直嗣|大石]] |橋本崇 |style="background-color: #ffc"|羽生{{sup|○}} |丸山 |三浦 |[[戸辺誠|戸辺]]{{sup|△}} |[[高崎一生|高崎]] |- ![[第52期王位戦|52]] |[[2011年度の将棋界|2011]] |広瀬章人 |{{center|○○●●○●● |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |深浦 |戸辺{{sup|△}} |谷川 |style="background-color: #ffc"|藤井猛{{sup|○}} |[[豊島将之|豊島]] |[[遠山雄亮|遠山]] |style="background-color: #cfc"|羽生{{sup|◎}} |佐藤康 |三浦 |[[窪田義行|窪田]] |[[村山慈明|村山慈]]{{sup|△}} |[[渡辺正和 (棋士)|吉田正]] |- ![[第53期王位戦|53]] |[[2012年度の将棋界|2012]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{table2|class=none|cols=2|style=border-spacing:0;line-height:90%|千<br/>○|●○○○--}} |[[藤井猛]] |広瀬{{sup|△}} |戸辺 |style="background-color: #ffc"|渡辺明{{sup|○}} |中村修 |豊島 |[[船江恒平|船江]] |style="background-color: #cfc"|藤井猛{{sup|◎}} |村山慈 |高橋 |丸山{{sup|△}} |日浦 |[[牧野光則|牧野]] |- ![[第54期王位戦|54]] |[[2013年度の将棋界|2013]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○○●○○--}} |[[行方尚史]] |藤井猛{{sup|△}} |広瀬 |style="background-color: #cfc"|行方{{sup|◎}} |松尾 |[[宮田敦史|宮田敦]] |大石 |渡辺明 |丸山 |style="background-color: #ffc"|佐藤康{{sup|○}} |村山慈 |[[佐々木慎|佐々慎]] |[[澤田真吾|澤田]]{{sup|△}} |- ![[第55期王位戦|55]] |[[2014年度の将棋界|2014]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{font|size=90%|●○持○○●○-}} |木村一基 |行方 |澤田 |森内 |広瀬{{sup|△}} |豊島 |style="background-color: #ffc"|[[千田翔太|千田]]{{sup|○}} |佐藤康{{sup|△}} |藤井猛 |渡辺明 |style="background-color: #cfc"|木村一{{sup|◎}} |森下 |[[及川拓馬|及川]] |- ! rowspan="2" |期 ! rowspan="2" |年度 ! rowspan="2" |王位 ! rowspan="2" |勝敗 ! rowspan="2" |挑戦者 ! colspan="6" |{{colorbox|#FCC|{{0}}紅組{{0}} }} {{small|{{align|right|(数字はリーグ勝数)}}{{align|left|(左側が上位者){{0|__}}}}}} ! colspan="6" |{{colorbox|#FFF|{{0}}白組{{0}} }} {{small|{{align|right|(数字はリーグ勝数)}}{{align|left|(左側が上位者){{0|__}}}}}} |- ! colspan="2" |前期残留 !! colspan="4" |予選通過者 ! colspan="2" |前期残留 !! colspan="4" |予選通過者 |- ![[第56期王位戦|56]] |[[2015年度の将棋界|2015]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|○○●○○--}} |広瀬章人 |木村一{{align|right|{{sup|3}}}} |style="background-color: #cfc"|広瀬{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|3}}}} |山崎{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |[[田村康介|田村]]{{align|right|{{sup|1}}}} |[[佐々木勇気|佐々勇]]{{align|right|{{sup|2}}}} |[[阿部光瑠|阿部光]]{{align|right|{{sup|3}}}} |千田{{align|right|{{sup|2}}}} |佐藤康{{sup|△}}{{align|right|{{sup|4}}}} |松尾{{align|right|{{sup|3}}}} |[[伊奈祐介|伊奈]]{{align|right|{{sup|4}}}} |[[横山泰明|横山泰]]{{align|right|{{sup|0}}}} |style="background-color: #ffc"|[[菅井竜也|菅井]]{{sup|○}}{{align|right|{{sup|2}}}} |- ![[第57期王位戦|57]] |[[2016年度の将棋界|2016]] |style="background-color: #ffcccc"|'''羽生善治''' |{{center|●○○●●○○ |木村一基 |広瀬{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |佐藤康{{align|right|{{sup|3}}}} |行方{{align|right|{{sup|3}}}} |style="background-color: #ffc"|豊島{{sup|○}}{{align|right|{{sup|4}}}} |佐藤紳{{align|right|{{sup|0}}}} |[[八代弥|八代]]{{align|right|{{sup|2}}}} |菅井{{sup|△}}{{align|right|{{sup|4}}}} |山崎{{align|right|{{sup|2}}}} |style="background-color: #cfc"|'''木村一{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|5}}}}''' |[[瀬川晶司|瀬川]]{{align|right|{{sup|0}}}} |脇{{align|right|{{sup|2}}}} |森内{{align|right|{{sup|2}}}} |- ![[第58期王位戦|58]] |[[2017年度の将棋界|2017]] |羽生善治 |{{center|●●○●●--}} |style="background-color: #ffcccc"|'''[[菅井竜也]]''' |木村一{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |広瀬{{align|right|{{sup|2}}}} |山崎{{align|right|{{sup|2}}}} |阿部隆{{align|right|{{sup|1}}}} |style="background-color: #ffc"|澤田{{sup|○}}{{align|right|{{sup|5}}}} |阿久津{{align|right|{{sup|2}}}} |豊島{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |style="background-color: #cfc"|菅井{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|4}}}} |[[佐藤天彦|佐藤天]]{{align|right|{{sup|3}}}} |渡辺明{{align|right|{{sup|1}}}} |佐々勇{{align|right|{{sup|3}}}} |丸山{{align|right|{{sup|1}}}} |- ![[第59期王位戦|59]] |[[2018年度の将棋界|2018]] |菅井竜也 |{{center|○●○●○●● |style="background-color: #ffcccc"|'''[[豊島将之]]''' |style="background-color: #ffc"|羽生{{sup|○}}{{align|right|{{sup|4}}}} |木村一{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |谷川{{align|right|{{sup|2}}}} |松尾{{align|right|{{sup|2}}}} |[[近藤誠也|近藤誠]]{{align|right|{{sup|1}}}} |村山慈{{align|right|{{sup|3}}}} |澤田{{sup|△}}{{align|right|{{sup|4}}}} |style="background-color: #cfc"|豊島{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|4}}}} |阿久津{{align|right|{{sup|3}}}} |[[野月浩貴|野月]]{{align|right|{{sup|0}}}} |千田{{align|right|{{sup|3}}}} |[[佐々木大地 (棋士)|佐々大]]{{align|right|{{sup|1}}}} |- ![[第60期王位戦|60]] |[[2019年度の将棋界|2019]] |豊島将之 |{{center|○○●●○●● |style="background-color: #ffcccc"|'''木村一基''' |菅井{{sup|△}}{{align|right|{{sup|4}}}} |style="background-color: #cfc"|木村一{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|4}}}} |阿久津{{align|right|{{sup|2}}}} |佐々大{{align|right|{{sup|3}}}} |[[稲葉陽|稲葉]]{{align|right|{{sup|1}}}} |[[長谷部浩平|長谷浩]]{{align|right|{{sup|1}}}} |style="background-color: #ffc"|羽生{{sup|○}}{{align|right|{{sup|4}}}} |澤田{{align|right|{{sup|1}}}} |千田{{align|right|{{sup|2}}}} |谷川{{align|right|{{sup|1}}}} |[[中村太地 (棋士)|中村太]]{{align|right|{{sup|3}}}} |[[永瀬拓矢|永瀬]]{{sup|△}}{{align|right|{{sup|4}}}} |- ![[第61期王位戦|61]] |[[2020年度の将棋界|2020]] |木村一基 |{{center|●●●●---}} |style="background-color: #ffcccc"|'''[[藤井聡太]]''' |豊島{{sup|△}}{{align|right|{{sup|4}}}} |style="background-color: #ffc"|永瀬{{sup|○}}{{align|right|{{sup|5}}}} |佐々大{{align|right|{{sup|3}}}} |鈴木大{{align|right|{{sup|2}}}} |佐藤秀{{align|right|{{sup|0}}}} |[[本田奎|本田]]{{align|right|{{sup|1}}}} |羽生{{sup|△}}{{align|right|{{sup|4}}}} |菅井{{align|right|{{sup|3}}}} |稲葉{{align|right|{{sup|1}}}} |[[上村亘|上村]]{{align|right|{{sup|2}}}} |[[阿部健治郎|阿部健]]{{align|right|{{sup|0}}}} |style="background-color: #cfc"|'''藤井聡{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|5}}}}''' |- ![[第62期王位戦|62]] |[[2021年度の将棋界|2021]] |style="background-color: #ffcccc"|'''藤井聡太''' |{{center|●○○○○--}} |豊島将之 |木村一{{align|right|{{sup|3}}}} |style="background-color: #cfc"|豊島{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|4}}}} |[[斎藤慎太郎|斎藤慎]]{{align|right|{{sup|3}}}} |佐藤天{{align|right|{{sup|2}}}} |澤田{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |[[片上大輔|片上]]{{align|right|{{sup|0}}}} |永瀬{{align|right|{{sup|3}}}} |style="background-color: #ffc"|羽生{{sup|○}}{{align|right|{{sup|4}}}} |佐々大{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |長谷浩{{align|right|{{sup|0}}}} |[[池永天志|池永]]{{align|right|{{sup|2}}}} |近藤誠{{align|right|{{sup|3}}}} |- ![[第63期王位戦|63]] |[[2022年度の将棋界|2022]] |style="background-color: #ffcccc"|'''藤井聡太''' |{{center|●○○○○--}} |豊島将之 |style="background-color: #cfc"|豊島{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|4}}}} |佐々大{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |近藤誠{{align|right|{{sup|3}}}} |[[西尾明|西尾]]{{align|right|{{sup|0}}}} |[[黒沢怜生|黒沢]]{{align|right|{{sup|2}}}} |[[伊藤匠]]{{align|right|{{sup|3}}}} |羽生{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |澤田{{align|right|{{sup|3}}}} |style="background-color: #ffc"|池永{{sup|○}}{{align|right|{{sup|4}}}} |[[糸谷哲郎|糸谷]]{{align|right|{{sup|2}}}} |千葉{{align|right|{{sup|1}}}} |久保{{align|right|{{sup|2}}}} |- ![[第64期王位戦|64]] |[[2023年度の将棋界|2023]] |style="background-color: #ffcccc"|'''藤井聡太''' |{{table2|class=none|cols=7|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|○|○|●|○|-|-}} |[[佐々木大地 (棋士)|佐々木大地]] |豊島{{sup|△}}{{align|right|{{sup|3}}}} |style="background-color: #ffc"|羽生{{sup|○}}{{align|right|{{sup|4}}}} |永瀬{{align|right|{{sup|2}}}} |[[石井健太郎 (棋士)|石井]]{{align|right|{{sup|2}}}} |[[服部慎一郎|服部]]{{align|right|{{sup|2}}}} |[[徳田拳士|徳田]]{{align|right|{{sup|2}}}} |池永{{align|right|{{sup|2}}}} |style="background-color: #cfc"|'''佐々大{{sup|◎}}{{align|right|{{sup|5}}}}''' |渡辺明{{sup|△}}{{align|right|{{sup|4}}}} |[[増田康宏|増田康]]{{align|right|{{sup|2}}}} |[[冨田誠也|冨田]]{{align|right|{{sup|1}}}} |[[岡部怜央|岡部]]{{align|right|{{sup|1}}}} |- <!-- フライング。王位リーグはまだ始まっていないので更新はリーグ出場者全員が決まってから一括して更新してください [[WP:CONSEC]] ![[第65期王位戦|65]] |[[2024年度の将棋界|2024]] |藤井聡太 |{{table2|class=none|cols=7|style=border-spacing:0;line-height:90%|-|-|-|-|-|-|-}} |{{0|}} |佐々木大 |豊島 | | | | |羽生 |渡辺 | | | | |--> |} ==記録== 第64期終了時点 {| class="wikitable" |+ ! !獲得 !番勝負出場 !挑戦 !リーグ参加 |- |最多 |[[羽生善治]] 18期 |羽生善治 23期 |[[米長邦雄]]<br>[[谷川浩司]]<br>[[佐藤康光]]<br>羽生善治 5期 |羽生善治 30期 |- |連続 |[[大山康晴]] 12連覇 |羽生善治 16連続 |[[郷田真隆]]<br>佐藤康光<br>谷川浩司<br>羽生善治<br>[[豊島将之]] 2連続 |羽生善治 30連続 |- |最年少 | 第61期 [[藤井聡太]]<br>{{age in years and days|2002|07|19|2020|08|20|age=yes|to=none}} |colspan="2"| 第61期 藤井聡太<br>{{age in years and days|2002|07|19|2020|06|30|age=yes|to=none}}<ref group="注">番勝負1局目1日目時点。挑戦者決定戦時点では{{age in years and days|2002|07|19|2020|06|23|age=yes|to=none}}。</ref> | 第61期 藤井聡太<br>{{age in years and days|2002|07|19|2020|02|18|age=yes|to=none}}<ref group="注">リーグ1回戦時点。予選決勝時点では{{age in years and days|2002|07|19|2019|12|27|age=yes|to=none}}。</ref><!-- 年少記録2位は谷川浩司 17歳333日(予選決勝時17歳263日、第21期) --> |- |最年長 |第12期 大山康晴<br>{{age in years and days|1923|03|13|1971|10|08|age=yes|to=none}}<ref group="注">在位は{{age in years and days|1923|03|13|1972|09|22|age=yes|to=none}}まで。</ref> |colspan="2"| 第22期 大山康晴<br>{{age in years and days|1923|03|13|1981|07|22|age=yes|to=none}}<ref group="注">番勝負1局目1日目時点。挑戦者決定戦時点では{{age in years and days|1923|03|13|1981|06|30|age=yes|to=none}}。最終局2日目時点では{{age in years and days|1923|03|13|1981|10|02|age=yes|to=none}}</ref> |第30期 大山康晴<br>{{age in years and days|1923|03|13|1989|02|21|age=yes|to=none}}<ref group="注">リーグ1回戦時点。予選決勝時点では{{age in years and days|1923|03|13|1989|01|13|age=yes|to=none}}。リーグ最終局時点では{{age in years and days|1923|03|13|1989|06|06|age=yes|to=none}}</ref> |} {| border="1" class="wikitable" style="font-size:89%" | *記載は番勝負出場・組優勝または挑戦者決定リーグ参加5期以上に限る。 *'''太字'''は永世位獲得者または最多記録。「*」は現在王位。 |} {| class="sortable wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:center" ! colspan="11" |王位戦七番勝負・挑戦者決定リーグ記録 |- !rowspan="2"|氏名!!colspan="2"|王位在位!!colspan="2"|七番勝負出場 ! colspan="2" |リーグ参加<br><small>(王位在位を含む)</small> !参加 !挑戦!!組優勝 !残留 |- !通算!!連続!!通算!!連続!!通算!!連続 !通算 !通算!!通算!!通算 |- |'''[[羽生善治]]'''||'''18'''||9||'''23'''||'''16'''||'''31'''||'''31''' |13 | '''5'''||'''10'''||13 |- |'''[[大山康晴]]'''||12||'''12'''||15||13||26||16 |14 | 3||4||7 |- |'''[[中原誠]]'''||8||6||11||10||27||18 |19 | 3||7||14 |- |[[谷川浩司]]||6||3||11||6||28||17 |22 | '''5'''||8||12 |- |[[藤井聡太]]*||4||4||4||4||4||4 |1 | 1||1||1 |- |[[深浦康市]]||3||3||5||4||14||8 |11 | 2||2||5 |- |[[高橋道雄]]||3||2||5||5||14||6 |11 | 2||4||6 |- |[[内藤國雄]]||2||1||5||2||16||5 |14 | 3||5||6 |- |[[米長邦雄]]||1||1||6||2||20||12 |19 | '''5'''||8||10 |- |[[木村一基]]||1||1||5||2||13||8 |12 | 4||4||6 |- |[[郷田真隆]]||1||1||4||4||12||11 |11 | 3||5||9 |- |[[豊島将之]]||1||1||4||2||10||7 |10 |3||5||7 |- |[[加藤一二三]]||1||1||3||2||21||11 |20 | 2||3||13 |- |[[広瀬章人]]||1||1||3||2||8||8 |7 | 2||2||5 |- |[[菅井竜也]]||1||1||2||2||6||6 |5 | 1||2||4 |- |[[森雞二]]||1||1||2||2||11||4 |10 | 1||2||3 |- |[[佐藤康光]]||0||0||5||2||25||12 |'''25''' | '''5'''||8||'''18''' |- |[[有吉道夫]]||0||0||2||1||15||12 |15 | 2||5||10 |- |[[二上達也]]||0||0||1||1||17||6 |17 | 1||3||6 |- |[[藤井猛]]||0||0||1||1||6||4 |6 | 1||2||3 |- |[[花村元司]]||0||0||1||1||10||3 |10 | 1||2||4 |- |[[佐藤大五郎]]||0||0||1||1||8||6 |8 | 1||2||2 |- |[[西村一義]]||0||0||1||1||10||5 |10 | 1||1||4 |- |[[勝浦修]]||0||0||1||1||8||3 |8 | 1||1||2 |- |[[大内延介]]||0||0||1||1||7||3 |7 | 1||1||2 |- |[[行方尚史]]||0||0||1||1||6||2 |6 | 1||1||2 |- |[[丸田祐三]]||0||0||1||1||4||3 |4 | 1||1||1 |- |[[中田宏樹]]||0||0||1||1||2||2 |2 | 1||1||1 |- |[[塚田正夫]]||0||0||1||1||2||2 |2 | 1||1||1 |- |[[屋敷伸之]]||0||0||1||1||8||8 |8 | 1||4||6 |- |[[佐々木大地 (棋士)|佐々木大地]]||0||0||1||1||6||6 |6 |1||1||3 |- |[[森下卓]]||0||0||0||0||13||3 |13 | 0||2||5 |- |[[山田道美]]||0||0||0||0||7||6 |7 | 0||2||4 |- |[[橋本崇載]]||0||0||0||0||4||4 |4 | 0||2||2 |- |[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]||0||0||0||0||11||6 |12 | 0||2||4 |- |[[小林健二 (将棋棋士)|小林健二]]||0||0||0||0||6||2 |6 | 0||2||2 |- |[[升田幸三]]||0||0||0||0||5||4 |5 | 0||2||2 |- |[[丸山忠久]]||0||0||0||0||13||4 |13 | 0||1||4 |- |[[澤田真吾]]||0||0||0||0||7||3 |7 | 0||1||4 |- |[[森内俊之]]||0||0||0||0||10||4 |10 | 0||1||3 |- |[[山崎隆之]]||0||0||0||0||8||3 |8 | 0||1||3 |- |[[永瀬拓矢]]||0||0||0||0||3||3 |4 | 0||1||2 |- |[[島朗]]||0||0||0||0||10||3 |10 | 0||1||1 |- |[[先崎学]]||0||0||0||0||5||3 |5 | 0||1||1 |- |[[福崎文吾]]||0||0||0||0||5||2 |5 | 0||1||1 |- |[[千田翔太]]||0||0||0||0||4||2 |4 | 0||1||1 |- |[[池永天志]]||0||0||0||0||2||2 |2 | 0||1||1 |- |[[桐山清澄]]||0||0||0||0||2||2 |2 | 0||1||1 |- |[[阿部隆]]||0||0||0||0||6||4 |6 | 0||0||2 |- |[[大野源一]]||0||0||0||0||6||3 |6 | 0||0||2 |- |[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]]||0||0||0||0||5||4 |5 | 0||0||2 |- |[[森安秀光]]||0||0||0||0||10||4 |10 | 0||0||2 |- |[[関根茂]]||0||0||0||0||8||4 |8 | 0||0||2 |- |[[阿久津主税]]||0||0||0||0||8||5 |8 | 0||0||1 |- |[[田中寅彦]]||0||0||0||0||6||2 |6 | 0||0||1 |- |[[青野照市]]||0||0||0||0||5||3 |5 | 0||0||1 |- |[[板谷進]]||0||0||0||0||7||3 |7 | 0||0||0 |- |[[松尾歩]]||0||0||0||0||6||2 |6 | 0||0||0 |- |[[中村修 (棋士)|中村修]]||0||0||0||0||5||2 |5 | 0||0||0 |} {| class="sortable wikitable" style="text-align:center; font-size:90%" |+女流推薦出場 !氏名!!通算!!連続!!期!!最高成績 |- |[[清水市代]]||21||18||37-54,56-58||予選1勝(予選2回戦進出 第40,41,43,46期) |- |[[甲斐智美]]||6||6||52-57||予選2勝(予選ベスト8進出 第55期) |- |[[里見香奈]]||6||6||60-65||予選2勝(予選ベスト8進出 第63期) |- |[[石橋幸緒]]||6||4||38,44,48-51||予選0勝 |- |[[中井広恵]]||4||1||43,45,47,55||予選1勝(予選2回戦進出 第43期) |- |[[渡部愛]]||2||2||60-61||予選1勝(予選2回戦進出 第60期) |- |[[矢内理絵子]]||2||1||37,46||予選2勝(予選ベスト8進出 第46期) |- |[[伊藤沙恵]]||2||1||59,65||予選0勝 |- |[[岩根忍]]||1||1||58||予選0勝 |- |[[本田小百合]]||1||1||59||予選0勝 |- |[[加藤桃子]]||1||1||62||予選0勝 |- |[[山根ことみ]]||1||1||63||予選0勝 |- |[[西山朋佳]]||1||1||64||予選0勝 |} ==エピソード== * 第7期は[[大山康晴]]と[[有吉道夫]]による将棋[[タイトル戦]]初の師弟対局となり、師の大山が勝利した。以後の二人のタイトル戦は[[第9期王位戦]]、[[第23期順位戦|第28期名人戦]]、[[第21期王将戦]]と続いたが、いずれも師の大山が勝利した。大山・有吉以外で師弟タイトル戦は実現していない<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/36372?page=2|title=将棋界の「師弟戦」はなぜ尊いのか、そのドラマを振り返る|publisher=文春オンライン|date=2020-2-29|accessdate=2021-12-07}}</ref>。 * 第3期と第7期では、それぞれ前期(第2期と第6期)におけるリーグ残留以上の成績を収めた4名(=七番勝負敗退者・挑決敗退者・各組2位)が、全員リーグから陥落した。第7期以降、同様の事態は2023年現在まで起こっていない。 * 第14期では前期七番勝負で敗れた[[大山康晴]]が第1期以来となる王位リーグに参加したが、同じ紅組に弟子の[[有吉道夫]]と有吉の弟子の[[坪内利幸]]が参加しており、師匠・弟子・孫弟子の三代が同一のリーグに参加する珍しい事態が発生した。 * 第33期にて[[郷田真隆]]が最年少(当時)で王位を獲得。郷田の'''順位戦C級2組在籍・四段でタイトル獲得は、いずれも史上初'''となった。なお、その後に四段の棋士はタイトル挑戦で五段(竜王挑戦は七段)、タイトル獲得で七段(竜王獲得は八段)に昇段規定が改定されており、四段のタイトル保持者は郷田が史上唯一となった。 * 第34期にて[[羽生善治]]が王位リーグに初参戦すると挑戦者決定戦を突破し、郷田真隆を相手に4連勝でタイトルを奪取した。以降、羽生は2023年現在まで、王位リーグから一度も陥落していない(最低でも王位リーグで2位による残留をしている)。 * 第60期にて[[木村一基]]が王位を獲得。46歳3か月での初タイトル獲得は、[[有吉道夫]]九段が持っていた記録(37歳6か月、1973年の[[第21期棋聖戦 (将棋)|第21期棋聖戦]]にて)を8歳以上更新する'''初タイトル獲得の最年長記録'''となった。また木村にとって、7度目のタイトル挑戦であったが初タイトル獲得では史上最多の挑戦数である<ref group="注">女流棋士では[[伊藤沙恵]]が9度目のタイトル戦挑戦で初タイトルの女流名人となった。{{Cite news | title =46歳悲願の初タイトル、木村一基九段が刻んだ新たな歴史。王位戦第7局観戦記 | agency = [[日本将棋連盟]] | date = 2019-9-28 | url = https://www.shogi.or.jp/column/2019/09/60oui-7_kansen.html|accessdate=2022-3-14}}</ref>。 * 第61期にて[[藤井聡太]]が王位戦史上最年少で挑戦権を獲得。3週間ほど前に[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]([[第91期棋聖戦 (将棋)|第91期]])にて史上最年少でタイトル挑戦して以来2つ目のタイトル挑戦で、初挑戦中に同時進行のタイトル戦に臨む例は、第33期の郷田真隆が同じ棋聖([[第60期棋聖戦 (将棋)|第60期]])・王位で谷川浩司に挑戦して以来となった。王位在位者の木村一基とは29歳0か月差で、29歳0か月差のタイトル戦は[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]で[[南芳一]]に大山康晴が挑戦した際の40歳2か月差、[[王将戦]]で藤井聡太に羽生善治が挑戦した際の31歳9か月差に次ぐ史上3番目(当時、史上2番目)の年齢差となった<ref group="注">南-大山戦と藤井-羽生戦は挑戦者が年上のため、木村-藤井戦は挑戦者が年下の最大年齢差である。</ref>。なお、藤井は棋聖戦で史上最年少のタイトルを獲得、王位戦でも最年少でタイトルを獲得した。18歳1か月の'''タイトル二冠'''と'''八段昇段'''は、いずれも'''最年少記録'''を更新した。さらに藤井は史上初の'''予選から全勝'''(14連勝)で王位を奪取した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/107457|title=藤井王位が誕生 最年少二冠に|accessdate=2020-08-20}}</ref>。また、木村の提案により、第2・3・4局の[[封じ手]]は通常より1通多い3通作られ、封じ手各1通を[[インターネットオークション]]に出品し、経費を除いた収益を[[令和2年7月豪雨|この年の7月に九州を襲った豪雨]]の被災地に送ることになった。落札額は、藤井がプロ棋士として初めて封じた第2局が550万1,000円、木村が封じた第3局が200万1,000円、藤井が王位獲得を決めた第4局が1,500万円だった<ref>{{Cite news | title = 藤井二冠記入、第4局1500万円 王位戦封じ手、入札締め切り | agency = [[中日新聞]] | date = 2020-9-21 | url = https://www.chunichi.co.jp/article/124345}}</ref>。 * 第62期第2局の立会人は[[広瀬章人]](34歳)、副立会人は[[高見泰地]](27歳)で両立会人の年齢を足した61歳は[[棋戦]]の立会人として史上最年少となった<ref group="注">従来の立会人最年少記録は、62歳(第24期王位戦第4局の62歳(立会人は中原誠(36歳)、副立会人は田中寅彦(26歳))と第6期竜王戦第2局の62歳(立会人は谷川浩司(31歳)、副立会人は中村修(31歳)))であった。[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/5f74067c4593436e066f31d21ff49d67fe42bb0a 先手・豊島将之挑戦者(31)角換わりを選択 後手・藤井聡太王位(18)早繰り銀で先攻 王位戦第2局](2021年7月13日)</ref>。 * 第62期第4局では当初[[佐賀県]][[嬉野市]]の[[和多屋別荘]]([[西日本新聞]]主管)で開催する予定だったが、直前の[[令和3年8月の大雨|記録的大雨]]による被害を受け<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/725417 |title=<佐賀2021大雨>嬉野の和多屋別荘、大浴場浸水 別浴場で営業継続 |access-date=2022-04-21 |publisher=佐賀新聞LiVE |date=2021-08-17}}</ref><ref name=":1" /><ref name=":2" />、急遽[[関西将棋会館]]で開催されることとなった<ref name=":1">{{Cite news | title = お~いお茶杯第62期王位戦七番勝負第4局対局場変更のお知らせ | agency = [[日本将棋連盟]] | date = 2021-8-16 | url = https://www.shogi.or.jp/news/2021/08/624.html}}</ref>。嬉野市の対局は翌第63期七番勝負の第4局として日程が組まれることになった<ref name=":2">{{Cite news | title = 王位戦第4局は8月、佐賀県嬉野市で 昨年予定も豪雨で変更 | agency = [[西日本新聞]] | date = 2022-2-22 | url = https://www.nishinippon.co.jp/item/n/880585/}}</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=9RgYno6i7YA 「藤井新王将祝賀会」ダイジェスト(佐賀県上峰町「吉野ヶ里温泉ホテル卑弥呼の湯」)]スポニチチャンネル2022年3月3日配信</ref>。 * 第63期第4局は、挑戦者の豊島将之の体調不良([[新型コロナウイルス感染症]]の陽性判定)により中止とし、予定していた第5-7局を各々第4-6局として実施されることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/08/63_9.html?mi=rlt_match |title=お~いお茶杯第63期王位戦七番勝負第4局延期のお知らせ |access-date=2022-08-13 |publisher=日本将棋連盟 |date=2022-08-13}}</ref>。第63期第4局として予定していた嬉野市の和多屋別荘での対局は、第62期に続き2年連続中止となり、翌第64期七番勝負の第4局として日程が組まれ<ref>{{Cite news | title = 王位戦8月嬉野開催 過去2年は直前に見送り | agency = [[西日本新聞]] | date = 2023-2-21 | url = https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1057162/}}</ref><ref>[https://twitter.com/dmura1582/status/1627899048090025984 村上 大祐(佐賀県嬉野市長)]2023年2月21日</ref>、第64期第4局は無事対局が行なわれ、嬉野市での王位戦タイトル番勝負の対局が3年越しで実施された。 ==インターネット配信== 主催者側の意向で、テレビ中継は現時点で行われておらず、2017年になってからインターネット配信が行われている。2016年までは、将棋のタイトル戦の中では唯一対局場の映像のインターネット配信が行われていなかった。代わりに1分ごとに両対局者の様子を自動撮影したスチル写真の自動配信が他棋戦に先んじて行われていた。また、大盤解説会の中継が行われたことはある<ref>[http://bmbb.jp/2014/07/ustream_shogi/ 将棋配信はニコ生だけ?王位戦のUSTREAM中継から可能性を考えてみる] - BMBB.JP・2014年7月9日</ref>。 '''2017年'''からは[[AbemaTV]]が七番勝負を生中継している。2018年・2019年は[[ニコニコ生放送]]でも生中継が行われた。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> ==関連項目== *[[日本将棋連盟]] *[[女流王位戦]] - 同主催者による[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]の棋戦。王位戦同様6人×2組のリーグ戦によって挑戦者を決定する。女流王位・女流王位挑戦者は王位戦予選への出場資格を得る([[#方式|上述]])ほか、毎年年末には女流王位と王位によるお好み対局が行われる。 *[[天元戦]] - 同主催者による[[囲碁]]の[[棋戦 (囲碁)|棋戦]]。 ==外部リンク== *[https://www.shogi.or.jp/match/oui/index.html 王位戦:日本将棋連盟] *[https://www.chunichi.co.jp/wadai/culture/igo_shogi 中日新聞 囲碁・将棋] *[https://www.hokkaido-np.co.jp/ 北海道新聞] *[https://www.nishinippon.co.jp/ 西日本新聞] *[https://www.kobe-np.co.jp/ 神戸新聞] *[https://www.topics.or.jp/ 徳島新聞] *{{Abemaビデオ|id=268-11|name=王位戦}} {{棋戦 (将棋)}} {{王位戦}} {{各期の王位戦}} {{DEFAULTSORT:おういせん}} [[Category:王位戦|*]] [[Category:将棋の棋戦]] [[Category:将棋のタイトル]] [[Category:北海道新聞社]] [[Category:中日新聞社]] [[Category:東京新聞]] [[Category:西日本新聞社]] [[Category:神戸新聞社]] [[Category:徳島新聞社]]
2003-07-21T07:23:58Z
2023-12-29T05:27:27Z
false
false
false
[ "Template:0", "Template:Center", "Template:Font", "Template:Align", "Template:王位戦", "Template:棋戦 (将棋)", "Template:Infobox 棋戦", "Template:Colorbox", "Template:Table2", "Template:Small", "Template:Cite web", "Template:Sup", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Age in years and days", "Template:Notelist2", "Template:Cite news", "Template:Abemaビデオ", "Template:各期の王位戦" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E6%88%A6_(%E5%B0%86%E6%A3%8B)
11,976
称名
称名(しょうみょう)とは、仏・菩薩の名を称えること。特に、阿弥陀仏の名号である南無阿弥陀仏を称えること。時には、諸仏が阿弥陀仏の名を称揚し讃歎することをさす(諸仏称名は阿弥陀仏の四十八願中の第十七願)。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を称えること。これは浄土に生れるための正定業である。 称名は広義には、南無阿弥陀仏のほか、南無釈迦牟尼仏、南無観世音菩薩、南無大師遍照金剛などもさす。なお、神仏の名を称えることによって苦難を逃れ救済を得られるという信仰は、道教の経典の中にも多く見られる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "称名(しょうみょう)とは、仏・菩薩の名を称えること。特に、阿弥陀仏の名号である南無阿弥陀仏を称えること。時には、諸仏が阿弥陀仏の名を称揚し讃歎することをさす(諸仏称名は阿弥陀仏の四十八願中の第十七願)。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を称えること。これは浄土に生れるための正定業である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "称名は広義には、南無阿弥陀仏のほか、南無釈迦牟尼仏、南無観世音菩薩、南無大師遍照金剛などもさす。なお、神仏の名を称えることによって苦難を逃れ救済を得られるという信仰は、道教の経典の中にも多く見られる。", "title": null } ]
称名(しょうみょう)とは、仏・菩薩の名を称えること。特に、阿弥陀仏の名号である南無阿弥陀仏を称えること。時には、諸仏が阿弥陀仏の名を称揚し讃歎することをさす(諸仏称名は阿弥陀仏の四十八願中の第十七願)。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を称えること。これは浄土に生れるための正定業である。 善導は、阿弥陀仏の本願(第十八願)に「乃至十念若不生者不取正覚」とあるのを、「我が名字を称すること下十声に至るまでもし生れずは正覚を取らじ」と読み、称名往生を誓ったものと解釈し、称名は本願に誓われた行であるから、正定業であるとした。 大原声明の完成者でもある良忍は、「一人の念仏が万人の念仏と交わる」という融通念仏(大念仏)を説いた。 法然は、如来が称名一行を選び取られたのは、余行は難劣であるのに対して称名は最勝にして至易なる行だからであるといわれている。他力の称名は称えた功を顧みず、願力による名号にすべての因をみるから、まさしく正定の業因である。 親鸞は、「信心が浄土に生まれる正しい因であり、称名はその阿弥陀仏の恩に報いるため」(信心正因。称名報恩)のものとする。 称名は広義には、南無阿弥陀仏のほか、南無釈迦牟尼仏、南無観世音菩薩、南無大師遍照金剛などもさす。なお、神仏の名を称えることによって苦難を逃れ救済を得られるという信仰は、道教の経典の中にも多く見られる。
{{出典の明記|date=2018年3月21日 (水) 08:15 (UTC)}} '''称名'''(しょうみょう)とは、[[仏]]・[[菩薩]]の名を称えること。特に、[[阿弥陀仏]]の名号である[[南無阿弥陀仏]]を称えること。時には、諸仏が阿弥陀仏の名を称揚し讃歎することをさす(諸仏称名は阿弥陀仏の[[四十八願]]中の[[四十八願#第十七願|第十七願]])。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を称えること。これは浄土に生れるための正定業である。 *[[善導]]は、阿弥陀仏の[[本願]]([[四十八願#第十八願|第十八願]])に「乃至十念若不生者不取正覚」とあるのを、「我が名字を称すること下十声に至るまでもし生れずは正覚を取らじ」と読み、称名往生を誓ったものと解釈し、称名は本願に誓われた行であるから、正定業であるとした。 *大原[[声明]]の完成者でもある[[良忍]]は、「一人の念仏が万人の念仏と交わる」という[[融通念仏]](大念仏)を説いた。 *[[法然]]は、如来が称名一行を選び取られたのは、余行は難劣であるのに対して称名は最勝にして至易なる行だからであるといわれている。他力の称名は称えた功を顧みず、願力による名号にすべての因をみるから、まさしく正定の業因である。 *[[親鸞]]は、「信心が浄土に生まれる正しい因であり、称名はその阿弥陀仏の恩に報いるため」(信心正因。称名報恩)のものとする。 称名は広義には、南無阿弥陀仏のほか、南無釈迦牟尼仏、南無観世音菩薩、南無大師遍照金剛などもさす。なお、神仏の名を称えることによって苦難を逃れ救済を得られるという信仰は、[[道教]]の経典の中にも多く見られる。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[題目]] {{Buddhism-stub}} {{浄土教2}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しようみよう}} [[Category:仏教用語]] [[Category:浄土教]] [[Category:日本の仏教史]]
null
2018-03-21T08:15:35Z
false
false
false
[ "Template:浄土教2", "Template:Buddhism2", "Template:出典の明記", "Template:Reflist", "Template:Buddhism-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%B0%E5%90%8D
11,977
1723年
1723年(1723 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1723年(1723 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1723年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1723}} {{year-definition|1723}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2383年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[景宗 (朝鮮王)|景宗]]3年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4056年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[保泰]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2265年 - 2266年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1135年 - 1136年 * [[ユダヤ暦]] : 5483年 - 5484年 * [[ユリウス暦]] : 1722年12月21日 - 1723年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1723}} == できごと == * イギリスの[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]内閣、茶とコーヒーの輸入品に対して[[消費税]]導入{{要出典|date=2021-03}} *柿本人麻呂生誕1000年ということで正一位を授けられ全国に通達が出された。 == 誕生 == {{see also|Category:1723年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月23日]] - [[ウィリアム・チェンバーズ (建築家)|ウィリアム・チェンバーズ]]、[[建築家]](+ [[1796年]]) * [[6月3日]] - [[アダム・スミス]]、[[哲学者]]、[[経済学者]](+ [[1790年]]) * [[6月6日]]([[享保]]8年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[池大雅]]、[[文人画|文人画家]]・[[書家]](+ [[1776年]]) * [[7月16日]] - [[ジョシュア・レノルズ]]、[[画家]](+ [[1792年]]) * [[9月1日]](享保8年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[三浦梅園]]、[[思想家]]・自然哲学者(+ [[1789年]]) == 死去 == {{see also|Category:1723年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月26日]] - [[トマス・ダーフィー]]、[[劇作家]]・[[詩人]](* [[1653年]]) * [[8月26日]] - [[アントニ・ファン・レーウェンフック]]、アマチュア[[生物学]]者(* [[1632年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1723}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1723ねん}} [[Category:1723年|*]]
null
2022-07-24T14:52:45Z
false
false
false
[ "Template:年代ナビ", "Template:十年紀と各年", "Template:要出典", "Template:See also", "Template:Commonscat", "Template:Year-definition", "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1723%E5%B9%B4
11,981
詐害行為取消権
詐害行為取消権 (さがいこういとりけしけん) とは、債権者が債務者の行為を一定の要件の下に取り消すことができる権利。民法424条以下において規定されている。 現行民法では詐害行為取消権という名称で規定されている。かつては債権者取消権とも呼ばれていた。また、母法のフランス語の直訳で廃罷訴権と呼ばれたこともある。 通説・判例の立場によると債務者が債権者を害することを認識しつつ自己の財産を売買するなどして積極的に減少させた場合に、債権者が裁判上その行為を取り消して財産を返還させ、責任財産(抵当権や先取特権を有しない一般の債権者が債権を回収する際に引き当てとなる債務者の財産のこと)を保全するための制度とされている。 ローマ法のパウリアナ訴権に由来し、破産法上の否認権と同源であるが、現在、その機能はかなり異なった内容を有するに至っており、否認権が破産手続きにおいて、一般債権者のために比較的広範な要件において機能するのに対し、取消権は、破産外で(破産手続きにおいては否認権が優先される)、厳格な要件の下で行使され、実務的には民法425条の規定にかかわらず、行使をした債権者のために機能する。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)により424条1項を原則的な規律とし、破産法の規定に倣った類型ごとの特則が設けられた。 債務者の責任財産が減少すれば、債権者が債権を回収できる可能性が低くなる。そして、債務者が債務者自身の責任財産を不当に減少させる行為(詐害行為)をした場合、この行為は債権者の債権回収の機会を減少させ、結果債権者を害すると言える。この場合に、債権者は、債務者の詐害行為を取り消し、詐害行為によって責任財産から失われた財産を債務者の責任財産へ戻す事ができる。 例えば、債務超過状態にある債務者Aと、Aに対する債権を有している債権者Xがいるとする。Aは先祖伝来の土地以外にめぼしい財産がなく、Xへの債務が弁済できなくなると分かっていながらも先祖伝来のこの土地を守るため、親戚のYに贈与してしまった。これによってAの財産は減少してしまい、このままではXは自分の債権を回収できなくなってしまう。そこでXはYへの贈与行為を詐害行為取消権によって取消し、土地をAに返還させ、あらためてこの土地を差し押さえて競売にかけ、その競売代金から債権を回収することができる。 これが詐害行為取消権制度が予定している場面である。 このとき、Aの贈与行為を詐害行為といい、Aから土地を贈与されたYのことを受益者という。もしもYからさらにZへ土地が譲渡されていた場合、このZのことを転得者という。 債権者は、債務者が債権者を害することを知ってした行為の取消しを裁判所に請求することができる(424条1項本文)。 債務者が債権者を害する行為(詐害行為)をしたこと、具体的には債務者が無資力(いわゆる債務超過の状態)になることを言う。無資力状態は詐害行為のときだけでなく、取消権行使(事実審の口頭弁論終結時)のときにも無資力状態であることが必要である。債務者の資力が回復した場合は取消権を行使できない。債権者を保護する制度であって、債務者に制裁を加える制度ではないからである。 2017年の改正前の旧424条1項は「法律行為の取消し」としていたが、詐害行為には弁済など厳密には法律行為に含まれないものも含まれるため「行為の取消し」に変更された。 債務者が債権者を害することを知ってした行為で(424条1項本文)、その行為によって利益を受けた者(受益者)もその行為の時において債権者を害することを知っていたことを要する(424条1項ただし書)。 詐害の意思の具体的な内容は一定ではない。詐害行為の性質を考慮して事案ごとに異なる。例えば、債務超過に陥っているにもかかわらず自己所有の不動産について新たに特定の債権者のために根抵当権を設定する行為は債権者を害する度合いが高いため、債務超過であることを認識していれば「詐害の意思」があったとされる(最判昭32.11.1)。一方、債務超過の債務者がある特定の債権者にだけ弁済した場合には、その債権者と債務者の間に通謀があるなど強い害意がなければ「詐害の意思」があったとはされない(最判昭33.9.26)。 財産権を目的としない行為については、詐害行為取消権は適用されない(424条2項)。 被保全債権は原則として金銭債権でなくてはならない。しかし特定物債権であっても、その目的物を債務者が処分することにより無資力となった場合には取消権を行使できる。特定物債権も究極において損害賠償債権に変じうるのであるから、債務者の一般財産により担保されなければならないことは通常の金銭債権と同様である。 被保全債権は詐害行為の前の原因に基づいて生じたものでなければならない(424条3項)。 債権者は、その債権が強制執行により実現することのできないものであるときは、詐害行為取消請求をすることができない(424条4項)。424条4項は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された。 債務者が、その有する財産を処分する行為をした場合において、受益者から相当の対価を取得しているときは、債権者は、次に掲げる要件のいずれにも該当する場合に限り、その行為について、詐害行為取消請求をすることができる(424条の2)。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で、相当の対価を得てした財産の処分行為について破産法161条の否認権の行使ができないにもかかわらず詐害行為取消権は行使することができてしまう不整合(2004年の破産法改正によって生じていた逆転現象)を解消するため、破産法の規律に倣って同様の要件が定められた。 債務者がした既存の債務についての担保の供与又は債務の消滅に関する行為について、債権者は、次に掲げる要件のいずれにも該当する場合に限り、詐害行為取消請求をすることができる(424条の3第1項)。 424条の3第1項は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、過去の判例法理を明文化し、相当の対価を得てした財産の処分行為について破産法162条の否認権の行使ができないにもかかわらず詐害行為取消権は行使することができてしまう不整合(2004年の破産法改正によって生じていた逆転現象)を解消するため、破産法162条1項1号等と同様の要件が定められた。 また、債務者が支払不能になる前であっても、債務者がした既存の債務についての担保の供与又は債務の消滅に関する行為が、債務者の義務に属せず、又はその時期が債務者の義務に属しないものである場合において、次に掲げる要件のいずれにも該当するときは、債権者は、同項の規定にかかわらず、その行為について、詐害行為取消請求をすることができる(424条の3第2 項)。 424条の3第2項も2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、破産法162条1項2号と同様の趣旨でこれに判例が要件としていた通謀・詐害の意図を付け加えたものである。 債務者がした債務の消滅に関する行為であって、受益者の受けた給付の価額がその行為によって消滅した債務の額より過大であるものについて、424条に規定する要件に該当するときは、債権者は、424条の3第1項の規定にかかわらず、その消滅した債務の額に相当する部分以外の部分については、詐害行為取消請求をすることができる(424条の4第1項)。 424条の4は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、過大な代物弁済等については424条の3第1項の要件を満たさなくても、その過大な部分が424条の要件(詐害行為取消権一般の要件)を満たしていれば詐害行為取消権を行使できるとするもので、破産法160条2項と同様の趣旨である。 債権者は、受益者に対して詐害行為取消請求をすることができる場合において、受益者に移転した財産を転得した者があるときは、次の各号に掲げる区分に応じ、それぞれ当該各号に定める場合に限り、その転得者に対しても、詐害行為取消請求をすることができる(424条の5)。 2017年改正前の民法の判例(最判昭和49年12月12日集民113号523頁)ではいったん善意者が財産を取得した場合でも転得者が悪意であれば詐害行為取消権の行使を認めていたのに対し、破産法170条1項はいったん善意者が財産を取得すると以降の転得者に対して否認権を行使できないとしている。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は、転得者に対して詐害行為取消請求をする場合、転得者(転得者が複数いるときは、すべての転得者)が転得した時に債務者の行為が債権者を害することを知っていたことが必要とし、破産法と同様にいったん善意者を経由した場合には詐害行為取消請求を認めないとした。ただし、転得者の悪意の対象は、自己の前者の悪意ではなく債務者の行為の詐害性であるとし、破産法で採用されていた「二重の悪意」の要件はとられず破産法も民法に合わせて法改正された。 詐害行為取消権は裁判上でのみ行使でき(424条1項本文)、受益者または転得者を被告として取消訴訟を提起することになる。債務者を被告として訴えることはできず、訴えを起こしても当事者適格がないとして却下されるが、債務者を受益者や転得者の側の補助参加として訴訟に関与させることはできる。 受益者に対する詐害行為取消請求の場合、債務者がした行為の取消しとともに、その行為によって受益者に移転した財産の返還を請求することができる。受益者がその財産の返還をすることが困難であるときは、債権者は、その価額の償還を請求することができる(424条の6第1項)。 債権者は、転得者に対する詐害行為取消請求の場合、債務者がした行為の取消しとともに、転得者が転得した財産の返還を請求することができる。転得者がその財産の返還をすることが困難であるときは、債権者は、その価額の償還を請求することができる(424条の6第2項)。 424条の6は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設された規定で、詐害行為取消訴訟は詐害行為を取り消す形成訴訟の側面と、逸出財産の返還を求める給付訴訟の側面とを併せ持つとする判例法理を明文化するものである。 債権者は、詐害行為取消請求に係る訴えを提起したときは、遅滞なく、債務者に対し、訴訟告知をしなければならない(424条の7)。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で詐害行為取消訴訟の判決の効力を債務者に及ぼすことになったことから、債務者に反論の機会を与える手続保障のため債務者への訴訟告知が必要と改正された。 債権者は、詐害行為取消請求をする場合において、債務者がした行為の目的が可分であるときは、自己の債権の額の限度においてのみ、その行為の取消しを請求することができる(424条の8第1項)。 判例は取消権行使の範囲は、不可分債権でない限り、債権者の債権額に限られるとしていた(大判大9.12.24)。債権者の損害を救済するためのものだから、その救済に必要な範囲で取消を認めれば、必要かつ十分だからである。424条の8は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設された規定で判例法理を明文化するものである。 財産の返還の請求が金銭の支払又は動産の引渡しを求めるものであるときは、受益者に対してその支払又は引渡しを、転得者に対してその引渡しを、自己に対してすることを求めることができる。この場合において、受益者又は転得者は、債権者に対してその支払又は引渡しをしたときは、債務者に対してその支払又は引渡しをすることを要しない(424条の9第1項)。 2017年の改正前の旧425条は取消権行使の効果は「すべての債権者の利益のためにその効力を生ずる。」とされていた。詐害行為取消権によって債務者の行為が取消されると、受益者、または転得者から債務者に金銭などが戻されることになる。ところがいったんは債務者の手元に戻ってもすぐに債務を弁済するために使われてしまうのだから、債務者としては返還されても受け取る意味がなく、受領を拒否する場合がある。そのため、金銭債権の場合は詐害行為取消権を行使した債権者に直接引渡すことが認められていた(大判大10.6.18)。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は取消債権者は受益者または転得者に逸出財産の直接の引渡しを請求することができることを条文化した(424条の9)。 このとき債権者は受益者(または転得者)から受け取った金銭を債務者に返還する債務を負っているが、この債務と自己の有する債権を相殺することによって事実上の優先弁済を受けることができる。債権者が引渡しを受けた金銭等の返還債務と被保全債権を相殺することについては議論があるが、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では明文化は行われず解釈に委ねられている。 詐害行為取消請求を認容する確定判決は、債務者及びその全ての債権者に対してもその効力を有する(425条)。 判決の効力は、原告となった者(原告となった債権者)と被告となった者(受益者または転得者)、さらに425条により債務者及びその全ての債権者に対してもその効力を生じる。 2017年の改正前の425条の解釈では、判決の効力は債権者と受益者との間でのみ生じる相対的効力とされていた(大判明治44年3月24日民録17輯117頁)。しかし、相対的効力の主眼は、詐害行為取消権の効力を責任財産の保全に必要な範囲にとどめるためで、債務者に効力を及ぼすことを否定する点にはないため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で債務者に対してもその効力を有するとされた。 債務者がした財産の処分に関する行為(債務の消滅に関する行為を除く。)が取り消されたときは、受益者は、債務者に対し、その財産を取得するためにした反対給付の返還を請求することができる。債務者がその反対給付の返還をすることが困難であるときは、受益者は、その価額の償還を請求することができる(425条の2)。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で詐害行為取消訴訟の判決の効力は債務者に対してもその効力を有するとされたことから、債務者の受けた反対給付に関して受益者の返還請求を認めるため追加された。 債務者がした債務の消滅に関する行為が取り消された場合(424条の4の規定により取り消された場合を除く。)において、受益者が債務者から受けた給付を返還し、又はその価額を償還したときは、受益者の債務者に対する債権は、これによって原状に復する(425条の3)。 破産法169条と同趣旨であり、判例も債務の消滅に関する行為が取り消された場合には受益者の債権は復活するとしていたことから、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で追加された。 転得者に対する詐害行為取消訴訟の効力は他の転得者や受益者には及ばないため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では詐害行為取消訴訟の効力が及ぶこととなった債務者に対して転得者は一定の限度で権利を行使できるとされた。 債務者がした行為が転得者に対する詐害行為取消請求によって取り消されたときは、その転得者は、次の各号に掲げる区分に応じ、それぞれ当該各号に定める権利を行使することができる。ただし、その転得者がその前者から財産を取得するためにした反対給付又はその前者から財産を取得することによって消滅した債権の価額を限度とする(425条の4)。 詐害行為取消請求に係る訴えは、債務者が債権者を害することを知って行為をしたことを債権者が知った時から2年を経過したときは、提起することができない(426条前段)。 行為の時から10年を経過したときも、提起することができなくなる(426条後段)。2017年の改正前の426条は「行為の時から20年」とされていたが、長すぎるとして2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で10年に短縮された。なお、破産法176条の行使期間も民法に合わせて10年に法改正された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "詐害行為取消権 (さがいこういとりけしけん) とは、債権者が債務者の行為を一定の要件の下に取り消すことができる権利。民法424条以下において規定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現行民法では詐害行為取消権という名称で規定されている。かつては債権者取消権とも呼ばれていた。また、母法のフランス語の直訳で廃罷訴権と呼ばれたこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "通説・判例の立場によると債務者が債権者を害することを認識しつつ自己の財産を売買するなどして積極的に減少させた場合に、債権者が裁判上その行為を取り消して財産を返還させ、責任財産(抵当権や先取特権を有しない一般の債権者が債権を回収する際に引き当てとなる債務者の財産のこと)を保全するための制度とされている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ローマ法のパウリアナ訴権に由来し、破産法上の否認権と同源であるが、現在、その機能はかなり異なった内容を有するに至っており、否認権が破産手続きにおいて、一般債権者のために比較的広範な要件において機能するのに対し、取消権は、破産外で(破産手続きにおいては否認権が優先される)、厳格な要件の下で行使され、実務的には民法425条の規定にかかわらず、行使をした債権者のために機能する。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)により424条1項を原則的な規律とし、破産法の規定に倣った類型ごとの特則が設けられた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "債務者の責任財産が減少すれば、債権者が債権を回収できる可能性が低くなる。そして、債務者が債務者自身の責任財産を不当に減少させる行為(詐害行為)をした場合、この行為は債権者の債権回収の機会を減少させ、結果債権者を害すると言える。この場合に、債権者は、債務者の詐害行為を取り消し、詐害行為によって責任財産から失われた財産を債務者の責任財産へ戻す事ができる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "例えば、債務超過状態にある債務者Aと、Aに対する債権を有している債権者Xがいるとする。Aは先祖伝来の土地以外にめぼしい財産がなく、Xへの債務が弁済できなくなると分かっていながらも先祖伝来のこの土地を守るため、親戚のYに贈与してしまった。これによってAの財産は減少してしまい、このままではXは自分の債権を回収できなくなってしまう。そこでXはYへの贈与行為を詐害行為取消権によって取消し、土地をAに返還させ、あらためてこの土地を差し押さえて競売にかけ、その競売代金から債権を回収することができる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "これが詐害行為取消権制度が予定している場面である。 このとき、Aの贈与行為を詐害行為といい、Aから土地を贈与されたYのことを受益者という。もしもYからさらにZへ土地が譲渡されていた場合、このZのことを転得者という。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "債権者は、債務者が債権者を害することを知ってした行為の取消しを裁判所に請求することができる(424条1項本文)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "債務者が債権者を害する行為(詐害行為)をしたこと、具体的には債務者が無資力(いわゆる債務超過の状態)になることを言う。無資力状態は詐害行為のときだけでなく、取消権行使(事実審の口頭弁論終結時)のときにも無資力状態であることが必要である。債務者の資力が回復した場合は取消権を行使できない。債権者を保護する制度であって、債務者に制裁を加える制度ではないからである。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2017年の改正前の旧424条1項は「法律行為の取消し」としていたが、詐害行為には弁済など厳密には法律行為に含まれないものも含まれるため「行為の取消し」に変更された。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "債務者が債権者を害することを知ってした行為で(424条1項本文)、その行為によって利益を受けた者(受益者)もその行為の時において債権者を害することを知っていたことを要する(424条1項ただし書)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "詐害の意思の具体的な内容は一定ではない。詐害行為の性質を考慮して事案ごとに異なる。例えば、債務超過に陥っているにもかかわらず自己所有の不動産について新たに特定の債権者のために根抵当権を設定する行為は債権者を害する度合いが高いため、債務超過であることを認識していれば「詐害の意思」があったとされる(最判昭32.11.1)。一方、債務超過の債務者がある特定の債権者にだけ弁済した場合には、その債権者と債務者の間に通謀があるなど強い害意がなければ「詐害の意思」があったとはされない(最判昭33.9.26)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "財産権を目的としない行為については、詐害行為取消権は適用されない(424条2項)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "被保全債権は原則として金銭債権でなくてはならない。しかし特定物債権であっても、その目的物を債務者が処分することにより無資力となった場合には取消権を行使できる。特定物債権も究極において損害賠償債権に変じうるのであるから、債務者の一般財産により担保されなければならないことは通常の金銭債権と同様である。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "被保全債権は詐害行為の前の原因に基づいて生じたものでなければならない(424条3項)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "債権者は、その債権が強制執行により実現することのできないものであるときは、詐害行為取消請求をすることができない(424条4項)。424条4項は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "債務者が、その有する財産を処分する行為をした場合において、受益者から相当の対価を取得しているときは、債権者は、次に掲げる要件のいずれにも該当する場合に限り、その行為について、詐害行為取消請求をすることができる(424条の2)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で、相当の対価を得てした財産の処分行為について破産法161条の否認権の行使ができないにもかかわらず詐害行為取消権は行使することができてしまう不整合(2004年の破産法改正によって生じていた逆転現象)を解消するため、破産法の規律に倣って同様の要件が定められた。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "債務者がした既存の債務についての担保の供与又は債務の消滅に関する行為について、債権者は、次に掲げる要件のいずれにも該当する場合に限り、詐害行為取消請求をすることができる(424条の3第1項)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "424条の3第1項は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、過去の判例法理を明文化し、相当の対価を得てした財産の処分行為について破産法162条の否認権の行使ができないにもかかわらず詐害行為取消権は行使することができてしまう不整合(2004年の破産法改正によって生じていた逆転現象)を解消するため、破産法162条1項1号等と同様の要件が定められた。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、債務者が支払不能になる前であっても、債務者がした既存の債務についての担保の供与又は債務の消滅に関する行為が、債務者の義務に属せず、又はその時期が債務者の義務に属しないものである場合において、次に掲げる要件のいずれにも該当するときは、債権者は、同項の規定にかかわらず、その行為について、詐害行為取消請求をすることができる(424条の3第2 項)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "424条の3第2項も2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、破産法162条1項2号と同様の趣旨でこれに判例が要件としていた通謀・詐害の意図を付け加えたものである。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "債務者がした債務の消滅に関する行為であって、受益者の受けた給付の価額がその行為によって消滅した債務の額より過大であるものについて、424条に規定する要件に該当するときは、債権者は、424条の3第1項の規定にかかわらず、その消滅した債務の額に相当する部分以外の部分については、詐害行為取消請求をすることができる(424条の4第1項)。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "424条の4は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、過大な代物弁済等については424条の3第1項の要件を満たさなくても、その過大な部分が424条の要件(詐害行為取消権一般の要件)を満たしていれば詐害行為取消権を行使できるとするもので、破産法160条2項と同様の趣旨である。", "title": "受益者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "債権者は、受益者に対して詐害行為取消請求をすることができる場合において、受益者に移転した財産を転得した者があるときは、次の各号に掲げる区分に応じ、それぞれ当該各号に定める場合に限り、その転得者に対しても、詐害行為取消請求をすることができる(424条の5)。", "title": "転得者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2017年改正前の民法の判例(最判昭和49年12月12日集民113号523頁)ではいったん善意者が財産を取得した場合でも転得者が悪意であれば詐害行為取消権の行使を認めていたのに対し、破産法170条1項はいったん善意者が財産を取得すると以降の転得者に対して否認権を行使できないとしている。", "title": "転得者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は、転得者に対して詐害行為取消請求をする場合、転得者(転得者が複数いるときは、すべての転得者)が転得した時に債務者の行為が債権者を害することを知っていたことが必要とし、破産法と同様にいったん善意者を経由した場合には詐害行為取消請求を認めないとした。ただし、転得者の悪意の対象は、自己の前者の悪意ではなく債務者の行為の詐害性であるとし、破産法で採用されていた「二重の悪意」の要件はとられず破産法も民法に合わせて法改正された。", "title": "転得者に対する詐害行為取消権の要件" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "詐害行為取消権は裁判上でのみ行使でき(424条1項本文)、受益者または転得者を被告として取消訴訟を提起することになる。債務者を被告として訴えることはできず、訴えを起こしても当事者適格がないとして却下されるが、債務者を受益者や転得者の側の補助参加として訴訟に関与させることはできる。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "受益者に対する詐害行為取消請求の場合、債務者がした行為の取消しとともに、その行為によって受益者に移転した財産の返還を請求することができる。受益者がその財産の返還をすることが困難であるときは、債権者は、その価額の償還を請求することができる(424条の6第1項)。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "債権者は、転得者に対する詐害行為取消請求の場合、債務者がした行為の取消しとともに、転得者が転得した財産の返還を請求することができる。転得者がその財産の返還をすることが困難であるときは、債権者は、その価額の償還を請求することができる(424条の6第2項)。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "424条の6は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設された規定で、詐害行為取消訴訟は詐害行為を取り消す形成訴訟の側面と、逸出財産の返還を求める給付訴訟の側面とを併せ持つとする判例法理を明文化するものである。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "債権者は、詐害行為取消請求に係る訴えを提起したときは、遅滞なく、債務者に対し、訴訟告知をしなければならない(424条の7)。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で詐害行為取消訴訟の判決の効力を債務者に及ぼすことになったことから、債務者に反論の機会を与える手続保障のため債務者への訴訟告知が必要と改正された。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "債権者は、詐害行為取消請求をする場合において、債務者がした行為の目的が可分であるときは、自己の債権の額の限度においてのみ、その行為の取消しを請求することができる(424条の8第1項)。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "判例は取消権行使の範囲は、不可分債権でない限り、債権者の債権額に限られるとしていた(大判大9.12.24)。債権者の損害を救済するためのものだから、その救済に必要な範囲で取消を認めれば、必要かつ十分だからである。424条の8は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設された規定で判例法理を明文化するものである。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "財産の返還の請求が金銭の支払又は動産の引渡しを求めるものであるときは、受益者に対してその支払又は引渡しを、転得者に対してその引渡しを、自己に対してすることを求めることができる。この場合において、受益者又は転得者は、債権者に対してその支払又は引渡しをしたときは、債務者に対してその支払又は引渡しをすることを要しない(424条の9第1項)。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2017年の改正前の旧425条は取消権行使の効果は「すべての債権者の利益のためにその効力を生ずる。」とされていた。詐害行為取消権によって債務者の行為が取消されると、受益者、または転得者から債務者に金銭などが戻されることになる。ところがいったんは債務者の手元に戻ってもすぐに債務を弁済するために使われてしまうのだから、債務者としては返還されても受け取る意味がなく、受領を拒否する場合がある。そのため、金銭債権の場合は詐害行為取消権を行使した債権者に直接引渡すことが認められていた(大判大10.6.18)。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は取消債権者は受益者または転得者に逸出財産の直接の引渡しを請求することができることを条文化した(424条の9)。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "このとき債権者は受益者(または転得者)から受け取った金銭を債務者に返還する債務を負っているが、この債務と自己の有する債権を相殺することによって事実上の優先弁済を受けることができる。債権者が引渡しを受けた金銭等の返還債務と被保全債権を相殺することについては議論があるが、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では明文化は行われず解釈に委ねられている。", "title": "詐害行為取消権の行使" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "詐害行為取消請求を認容する確定判決は、債務者及びその全ての債権者に対してもその効力を有する(425条)。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "判決の効力は、原告となった者(原告となった債権者)と被告となった者(受益者または転得者)、さらに425条により債務者及びその全ての債権者に対してもその効力を生じる。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2017年の改正前の425条の解釈では、判決の効力は債権者と受益者との間でのみ生じる相対的効力とされていた(大判明治44年3月24日民録17輯117頁)。しかし、相対的効力の主眼は、詐害行為取消権の効力を責任財産の保全に必要な範囲にとどめるためで、債務者に効力を及ぼすことを否定する点にはないため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で債務者に対してもその効力を有するとされた。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "債務者がした財産の処分に関する行為(債務の消滅に関する行為を除く。)が取り消されたときは、受益者は、債務者に対し、その財産を取得するためにした反対給付の返還を請求することができる。債務者がその反対給付の返還をすることが困難であるときは、受益者は、その価額の償還を請求することができる(425条の2)。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で詐害行為取消訴訟の判決の効力は債務者に対してもその効力を有するとされたことから、債務者の受けた反対給付に関して受益者の返還請求を認めるため追加された。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "債務者がした債務の消滅に関する行為が取り消された場合(424条の4の規定により取り消された場合を除く。)において、受益者が債務者から受けた給付を返還し、又はその価額を償還したときは、受益者の債務者に対する債権は、これによって原状に復する(425条の3)。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "破産法169条と同趣旨であり、判例も債務の消滅に関する行為が取り消された場合には受益者の債権は復活するとしていたことから、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で追加された。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "転得者に対する詐害行為取消訴訟の効力は他の転得者や受益者には及ばないため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では詐害行為取消訴訟の効力が及ぶこととなった債務者に対して転得者は一定の限度で権利を行使できるとされた。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "債務者がした行為が転得者に対する詐害行為取消請求によって取り消されたときは、その転得者は、次の各号に掲げる区分に応じ、それぞれ当該各号に定める権利を行使することができる。ただし、その転得者がその前者から財産を取得するためにした反対給付又はその前者から財産を取得することによって消滅した債権の価額を限度とする(425条の4)。", "title": "詐害行為取消権の行使の効果" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "詐害行為取消請求に係る訴えは、債務者が債権者を害することを知って行為をしたことを債権者が知った時から2年を経過したときは、提起することができない(426条前段)。", "title": "詐害行為取消権の期間制限" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "行為の時から10年を経過したときも、提起することができなくなる(426条後段)。2017年の改正前の426条は「行為の時から20年」とされていたが、長すぎるとして2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で10年に短縮された。なお、破産法176条の行使期間も民法に合わせて10年に法改正された。", "title": "詐害行為取消権の期間制限" } ]
詐害行為取消権 (さがいこういとりけしけん) とは、債権者が債務者の行為を一定の要件の下に取り消すことができる権利。民法424条以下において規定されている。 現行民法では詐害行為取消権という名称で規定されている。かつては債権者取消権とも呼ばれていた。また、母法のフランス語の直訳で廃罷訴権と呼ばれたこともある。 民法の規定は、以下で条数のみ記載する。
{{Otheruseslist|日本の民法上の詐害行為取消権|詐害行為の取消しや破産法上の否認権のもとになったローマ法に由来する訴権(Action Pauliana)|廃罷訴権|英米法の詐害的譲渡(Fraudulent Conveyance)|詐害的譲渡}} {{Law}} '''詐害行為取消権''' (さがいこういとりけしけん) とは、[[債権者]]が債務者の行為を一定の要件の下に取り消すことができる権利。[[b:民法第424条|民法424条]]以下において規定されている。 現行民法では詐害行為取消権という名称で規定されている。かつては債権者取消権とも呼ばれていた。また、母法の[[フランス語]]の直訳で'''廃罷訴権'''と呼ばれたこともある<ref>林良平、石田喜久夫、高木多喜男 『現代法律学全集 8 債権総論 改訂版』青林書院新社、1982年、164頁</ref>。 *[[民法 (日本)|民法]]の規定は、以下で条数のみ記載する。 == 概説 == === 意義 === 通説・[[判例]]の立場によると[[債務者]]が債権者を害することを認識しつつ自己の財産を売買するなどして積極的に減少させた場合に、債権者が裁判上その行為を取り消して[[財産]]を返還させ、責任財産([[抵当権]]や[[先取特権]]を有しない一般の債権者が債権を回収する際に引き当てとなる債務者の財産のこと)を保全するための制度とされている。 [[ローマ法]]の[[廃罷訴権|パウリアナ訴権]]に由来し、[[破産法]]上の否認権と同源であるが、現在、その機能はかなり異なった内容を有するに至っており、否認権が破産手続きにおいて、一般債権者のために比較的広範な要件において機能するのに対し、取消権は、破産外で(破産手続きにおいては否認権が優先される)、厳格な要件の下で行使され、実務的には[[b:民法第425条|民法425条]]の規定にかかわらず、行使をした債権者のために機能する。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)により424条1項を原則的な規律とし、破産法の規定に倣った類型ごとの特則が設けられた<ref name="LM">{{Cite web|和書|url=http://www.lmlo.jp/wp/wp-content/uploads/2018/01/1230c71cd33cdc15565e2704bbce98f0.pdf|title=改正債権法の要点解説(6) |format=PDF |publisher=LM法律事務所 |accessdate=2020-03-23}}</ref>。 === 適用場面 === 債務者の責任財産が減少すれば、債権者が債権を回収できる可能性が低くなる。そして、債務者が債務者自身の責任財産を不当に減少させる行為(詐害行為)をした場合、この行為は債権者の債権回収の機会を減少させ、結果債権者を害すると言える。この場合に、債権者は、債務者の詐害行為を取り消し、詐害行為によって責任財産から失われた財産を債務者の責任財産へ戻す事ができる。 例えば、債務超過状態にある債務者Aと、Aに対する[[債権]]を有している債権者Xがいるとする。Aは先祖伝来の土地以外にめぼしい財産がなく、Xへの[[債務]]が弁済できなくなると分かっていながらも先祖伝来のこの土地を守るため、親戚のYに[[贈与]]してしまった。これによってAの財産は減少してしまい、このままではXは自分の債権を回収できなくなってしまう。そこでXはYへの贈与行為を詐害行為取消権によって取消し、土地をAに返還させ、あらためてこの土地を差し押さえて[[競売]]にかけ、その競売代金から債権を回収することができる。 これが詐害行為取消権制度が予定している場面である。 このとき、Aの贈与行為を詐害行為といい、Aから土地を贈与されたYのことを受益者という。もしもYからさらにZへ土地が譲渡されていた場合、このZのことを転得者という。 == 受益者に対する詐害行為取消権の要件 == === 一般的要件 === ==== 詐害行為 ==== 債権者は、債務者が債権者を害することを知ってした行為の[[取消し]]を[[裁判所]]に請求することができる(424条1項本文)。 債務者が債権者を害する行為('''詐害行為''')をしたこと、具体的には債務者が'''無資力'''(いわゆる[[債務超過]]の状態)になることを言う。無資力状態は詐害行為のときだけでなく、取消権行使(事実審の口頭弁論終結時)のときにも無資力状態であることが必要である。債務者の資力が回復した場合は取消権を行使できない。債権者を保護する制度であって、債務者に制裁を加える制度ではないからである。 2017年の改正前の旧424条1項は「[[法律行為]]の取消し」としていたが、詐害行為には[[弁済]]など厳密には法律行為に含まれないものも含まれるため「行為の取消し」に変更された<ref name="leasing">{{Cite web|和書|url=https://www.leasing.or.jp/studies/docs/10_01.pdf|title=民法(債権関係)改正がリース契約等に及ぼす影響|format=PDF |publisher=公益社団法人リース事業協会|accessdate=2020-03-23}}</ref>。 ; 詐害行為取消権の対象となる例 * [[不動産]]を時価相当額で売却する行為は原則として詐害行為になる(大判明44.10.3)。金銭に変わり散逸し易くなるため。 * 不動産の二重譲渡における第一の買主は、'''原則として第二の売買契約を詐害行為として取り消すことはできない'''。しかし、債務者が第二の[[売買]]契約によって無資力となった場合には、損害賠償請求権を保全するために、詐害行為として取り消すことができる(最判昭36.7.19)。 * [[遺産分割|遺産分割協議]](最判平11.6.11) ; 詐害行為取消権の対象とならない例 * [[債権譲渡]]通知を債権譲渡行為と切り離して詐害行為取消権の対象とすることはできない(最判平10.6.12)。[[対抗要件]]具備行為は、それ自体としては取消の対象にはならない。 * [[相続|相続放棄]](最判昭49.9.20) * [[離婚]]に伴う財産分与は、[[b:民法第768条|768条3項]]の規定の趣旨に反して'''不相応に過大'''であり、財産分与に仮託してなされた財産処分であると認めるに足りるような特段の事情がない限り、詐害行為として取消の対象とはならない(最判昭58.12.19)。 ==== 詐害意思 ==== 債務者が債権者を害することを知ってした行為で(424条1項本文)、その行為によって利益を受けた者(受益者)もその行為の時において債権者を害することを知っていたことを要する(424条1項ただし書)。 詐害の意思の具体的な内容は一定ではない。詐害行為の性質を考慮して事案ごとに異なる。例えば、債務超過に陥っているにもかかわらず自己所有の不動産について新たに特定の債権者のために[[根抵当権]]を設定する行為は債権者を害する度合いが高いため、債務超過であることを認識していれば「詐害の意思」があったとされる(最判昭32.11.1)。一方、債務超過の債務者がある特定の債権者にだけ弁済した場合には、その債権者と債務者の間に通謀があるなど強い害意がなければ「詐害の意思」があったとはされない(最判昭33.9.26)。 ==== 財産権を目的とする行為 ==== [[財産権]]を目的としない行為については、詐害行為取消権は適用されない(424条2項)。 ==== 被保全債権 ==== 被保全債権は原則として'''金銭債権'''でなくてはならない。しかし'''特定物債権'''であっても、その目的物を債務者が処分することにより無資力となった場合には取消権を行使できる。特定物債権も究極において[[損害賠償]]債権に変じうるのであるから、債務者の一般財産により担保されなければならないことは通常の金銭債権と同様である。 被保全債権は詐害行為の前の原因に基づいて生じたものでなければならない(424条3項)。 * 2017年改正前の民法の判例でも被保全債権は詐害行為が行われる前に成立していなければならないとされていた。それはこの制度の目的は責任財産の保全にあるため、債権が成立した時点における責任財産を保全すればそれで十分だからである(債務者の行為によってその財産が目減りしていても、それを前提に債務者に対する債権を取得したのだから、不都合はない)。 * 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)ではこの判例法理をさらに進め、被保全債権の発生は詐害行為より後であっても、債権発生の原因が詐害行為より前であれば行使することができるとした<ref name="leasing" />。 * なお、詐害行為よりも前に成立している債権であれば、詐害行為よりも後に当該債権を譲り受けた債権者であっても取消権を行使できる。 債権者は、その債権が[[強制執行]]により実現することのできないものであるときは、詐害行為取消請求をすることができない(424条4項)。424条4項は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された<ref name="leasing" />。 === 相当の対価を得てした財産の処分行為の特則 === 債務者が、その有する財産を処分する行為をした場合において、受益者から相当の対価を取得しているときは、債権者は、次に掲げる要件のいずれにも該当する場合に限り、その行為について、詐害行為取消請求をすることができる(424条の2)。 # その行為が、不動産の金銭への換価その他の当該処分による財産の種類の変更により、債務者において隠匿、無償の供与その他の債権者を害することとなる処分(以下この条において「隠匿等の処分」という。)をするおそれを現に生じさせるものであること。 # 債務者が、その行為の当時、対価として取得した金銭その他の財産について、隠匿等の処分をする意思を有していたこと。 # 受益者が、その行為の当時、債務者が隠匿等の処分をする意思を有していたことを知っていたこと。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で、相当の対価を得てした財産の処分行為について破産法161条の否認権の行使ができないにもかかわらず詐害行為取消権は行使することができてしまう不整合(2004年の破産法改正によって生じていた逆転現象)を解消するため、破産法の規律に倣って同様の要件が定められた<ref name="LM" /><ref name="leasing" /><ref name="toben">{{Cite web|和書|url=https://www.toben.or.jp/message/libra/pdf/2018_04/p02-27.pdf|title=すっきり早わかり 債権法改正のポイントと学び方|format=PDF |publisher=東京弁護士会|accessdate=2020-04-01}}</ref>。 === 特定の債権者に対する担保供与等の特則 === 債務者がした既存の債務についての担保の供与又は債務の消滅に関する行為について、債権者は、次に掲げる要件のいずれにも該当する場合に限り、詐害行為取消請求をすることができる(424条の3第1項)。 # その行為が、債務者が支払不能(債務者が、支払能力を欠くために、その債務のうち弁済期にあるものにつき、一般的かつ継続的に弁済することができない状態をいう。次項第一号において同じ。)の時に行われたものであること。 # その行為が、債務者と受益者とが通謀して他の債権者を害する意図をもって行われたものであること。 424条の3第1項は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、過去の判例法理を明文化し、相当の対価を得てした財産の処分行為について破産法162条の否認権の行使ができないにもかかわらず詐害行為取消権は行使することができてしまう不整合(2004年の破産法改正によって生じていた逆転現象)を解消するため、破産法162条1項1号等と同様の要件が定められた<ref name="LM" /><ref name="leasing" /><ref name="toben" />。 また、債務者が支払不能になる前であっても、債務者がした既存の債務についての担保の供与又は債務の消滅に関する行為が、債務者の義務に属せず、又はその時期が債務者の義務に属しないものである場合において、次に掲げる要件のいずれにも該当するときは、債権者は、同項の規定にかかわらず、その行為について、詐害行為取消請求をすることができる(424条の3第2 項)。 # その行為が、債務者が支払不能になる前30日以内に行われたものであること。 # その行為が、債務者と受益者とが通謀して他の債権者を害する意図をもって行われたものであること。 424条の3第2項も2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、破産法162条1項2号と同様の趣旨でこれに判例が要件としていた通謀・詐害の意図を付け加えたものである<ref name="LM" /><ref name="leasing" />。 === 過大な代物弁済等の特則 === 債務者がした債務の消滅に関する行為であって、受益者の受けた給付の価額がその行為によって消滅した債務の額より過大であるものについて、424条に規定する要件に該当するときは、債権者は、424条の3第1項の規定にかかわらず、その消滅した債務の額に相当する部分以外の部分については、詐害行為取消請求をすることができる(424条の4第1項)。 424条の4は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設され、過大な代物弁済等については424条の3第1項の要件を満たさなくても、その過大な部分が424条の要件(詐害行為取消権一般の要件)を満たしていれば詐害行為取消権を行使できるとするもので、破産法160条2項と同様の趣旨である<ref name="LM" /><ref name="leasing" />。 == 転得者に対する詐害行為取消権の要件 == 債権者は、受益者に対して詐害行為取消請求をすることができる場合において、受益者に移転した財産を転得した者があるときは、次の各号に掲げる区分に応じ、それぞれ当該各号に定める場合に限り、その転得者に対しても、詐害行為取消請求をすることができる(424条の5)。 # その転得者が受益者から転得した者である場合 #: '''その転得者'''が、転得の当時、債務者がした行為が債権者を害することを知っていたとき。 # その転得者が他の転得者から転得した者である場合 #: '''その転得者及びその前に転得した全ての転得者'''が、それぞれの転得の当時、債務者がした行為が債権者を害することを知っていたとき。 2017年改正前の民法の判例(最判昭和49年12月12日集民113号523頁)ではいったん善意者が財産を取得した場合でも転得者が悪意であれば詐害行為取消権の行使を認めていたのに対し、破産法170条1項はいったん善意者が財産を取得すると以降の転得者に対して否認権を行使できないとしている<ref name="leasing" /><ref name="toben" />。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は、転得者に対して詐害行為取消請求をする場合、転得者(転得者が複数いるときは、すべての転得者)が転得した時に債務者の行為が債権者を害することを知っていたことが必要とし、破産法と同様にいったん善意者を経由した場合には詐害行為取消請求を認めないとした<ref name="LM" /><ref name="leasing" /><ref name="toben" />。ただし、転得者の悪意の対象は、自己の前者の悪意ではなく債務者の行為の詐害性であるとし、破産法で採用されていた「二重の悪意」の要件はとられず破産法も民法に合わせて法改正された<ref name="toben" />。 == 詐害行為取消権の行使 == === 詐害行為取消訴訟 === 詐害行為取消権は'''裁判上でのみ行使'''でき([[b:民法第424条|424条]]1項本文)、受益者または転得者を被告として取消訴訟を提起することになる。債務者を被告として訴えることはできず、訴えを起こしても当事者適格がないとして却下されるが、債務者を受益者や転得者の側の補助参加として訴訟に関与させることはできる。 === 財産の返還又は価額の償還の請求 === 受益者に対する詐害行為取消請求の場合、債務者がした行為の取消しとともに、その行為によって受益者に移転した財産の返還を請求することができる。受益者がその財産の返還をすることが困難であるときは、債権者は、その価額の償還を請求することができる(424条の6第1項)。 債権者は、転得者に対する詐害行為取消請求の場合、債務者がした行為の取消しとともに、転得者が転得した財産の返還を請求することができる。転得者がその財産の返還をすることが困難であるときは、債権者は、その価額の償還を請求することができる(424条の6第2項)。 424条の6は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設された規定で、詐害行為取消訴訟は詐害行為を取り消す形成訴訟の側面と、逸出財産の返還を求める給付訴訟の側面とを併せ持つとする判例法理を明文化するものである<ref name="leasing" />。 === 訴訟告知 === 債権者は、詐害行為取消請求に係る訴えを提起したときは、遅滞なく、債務者に対し、訴訟告知をしなければならない(424条の7)。2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で詐害行為取消訴訟の判決の効力を債務者に及ぼすことになったことから、債務者に反論の機会を与える手続保障のため債務者への訴訟告知が必要と改正された<ref name="LM" /><ref name="leasing" />。 === 詐害行為の取消しの範囲 === 債権者は、詐害行為取消請求をする場合において、債務者がした行為の目的が可分であるときは、自己の債権の額の限度においてのみ、その行為の取消しを請求することができる(424条の8第1項)。 判例は取消権行使の範囲は、不可分債権でない限り、債権者の債権額に限られるとしていた(大判大9.12.24)。債権者の損害を救済するためのものだから、その救済に必要な範囲で取消を認めれば、必要かつ十分だからである。424条の8は2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で新設された規定で判例法理を明文化するものである<ref name="leasing" />。 === 債権者への支払又は引渡し === 財産の返還の請求が金銭の支払又は動産の引渡しを求めるものであるときは、受益者に対してその支払又は引渡しを、転得者に対してその引渡しを、自己に対してすることを求めることができる。この場合において、受益者又は転得者は、債権者に対してその支払又は引渡しをしたときは、債務者に対してその支払又は引渡しをすることを要しない(424条の9第1項)。 2017年の改正前の旧425条は取消権行使の効果は「すべての債権者の利益のためにその効力を生ずる。」とされていた。詐害行為取消権によって債務者の行為が取消されると、受益者、または転得者から債務者に金銭などが戻されることになる。ところがいったんは債務者の手元に戻ってもすぐに債務を弁済するために使われてしまうのだから、債務者としては返還されても受け取る意味がなく、受領を拒否する場合がある。そのため、金銭債権の場合は詐害行為取消権を行使した債権者に直接引渡すことが認められていた(大判大10.6.18)。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)は取消債権者は受益者または転得者に逸出財産の直接の引渡しを請求することができることを条文化した(424条の9)<ref name="LM" />。 このとき債権者は受益者(または転得者)から受け取った金銭を債務者に返還する債務を負っているが、この債務と自己の有する債権を[[相殺]]することによって事実上の優先弁済を受けることができる。債権者が引渡しを受けた金銭等の返還債務と被保全債権を相殺することについては議論があるが、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では明文化は行われず解釈に委ねられている<ref name="leasing" />。 == 詐害行為取消権の行使の効果 == === 認容判決の効力が及ぶ者の範囲 === 詐害行為取消請求を認容する確定判決は、債務者及びその全ての債権者に対してもその効力を有する(425条)。 判決の効力は、原告となった者(原告となった債権者)と被告となった者(受益者または転得者)、さらに425条により債務者及びその全ての債権者に対してもその効力を生じる。 2017年の改正前の425条の解釈では、判決の効力は債権者と受益者との間でのみ生じる相対的効力とされていた(大判明治44年3月24日民録17輯117頁)<ref name="LM" /><ref name="toben" />。しかし、相対的効力の主眼は、詐害行為取消権の効力を責任財産の保全に必要な範囲にとどめるためで、債務者に効力を及ぼすことを否定する点にはないため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で債務者に対してもその効力を有するとされた<ref name="LM" />。 === 債務者の受けた反対給付に関する受益者の権利 === 債務者がした財産の処分に関する行為(債務の消滅に関する行為を除く。)が取り消されたときは、受益者は、債務者に対し、その財産を取得するためにした反対給付の返還を請求することができる。債務者がその反対給付の返還をすることが困難であるときは、受益者は、その価額の償還を請求することができる(425条の2)。 2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で詐害行為取消訴訟の判決の効力は債務者に対してもその効力を有するとされたことから、債務者の受けた反対給付に関して受益者の返還請求を認めるため追加された<ref name="leasing" />。 === 受益者の債権の回復 === 債務者がした債務の消滅に関する行為が取り消された場合(424条の4の規定により取り消された場合を除く。)において、受益者が債務者から受けた給付を返還し、又はその価額を償還したときは、受益者の債務者に対する債権は、これによって原状に復する(425条の3)。 破産法169条と同趣旨であり、判例も債務の消滅に関する行為が取り消された場合には受益者の債権は復活するとしていたことから、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で追加された<ref name="leasing" />。 === 詐害行為取消請求を受けた転得者の権利 === 転得者に対する詐害行為取消訴訟の効力は他の転得者や受益者には及ばないため、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)では詐害行為取消訴訟の効力が及ぶこととなった債務者に対して転得者は一定の限度で権利を行使できるとされた<ref name="leasing" />。 債務者がした行為が転得者に対する詐害行為取消請求によって取り消されたときは、その転得者は、次の各号に掲げる区分に応じ、それぞれ当該各号に定める権利を行使することができる。ただし、その転得者がその前者から財産を取得するためにした反対給付又はその前者から財産を取得することによって消滅した債権の価額を限度とする(425条の4)。 # 425条の2に規定する行為が取り消された場合 #: その行為が受益者に対する詐害行為取消請求によって取り消されたとすれば同条の規定により生ずべき受益者の債務者に対する反対給付の返還請求権又はその価額の償還請求権 # 425条の3に規定する行為が取り消された場合(424条の4の規定により取り消された場合を除く。) #: その行為が受益者に対する詐害行為取消請求によって取り消されたとすれば前条の規定により回復すべき受益者の債務者に対する債権 == 詐害行為取消権の期間制限 == 詐害行為取消請求に係る訴えは、債務者が債権者を害することを知って行為をしたことを債権者が知った時から2年を経過したときは、提起することができない(426条前段)。 * 2017年の改正前の426条は「債権者が取消しの原因を知った時」とされていたが、判例では債務者が債権者を害することを知って法律行為をしたことを債権者が知った時と解されており、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で明文化された<ref name="leasing" />。 * 2017年の改正前の426条は「時効によって」としていたが、2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で訴訟提起ができなくなるものと改められた<ref name="LM" />。 行為の時から10年を経過したときも、提起することができなくなる(426条後段)。2017年の改正前の426条は「行為の時から20年」とされていたが、長すぎるとして2017年改正の民法(2020年4月1日法律施行)で10年に短縮された<ref name="LM" /><ref name="leasing" />。なお、破産法176条の行使期間も民法に合わせて10年に法改正された<ref name="toben" />。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[債権者代位権]] *([[倒産法]]における)否認権 * [[詐害的譲渡]] - 英米法の概念(偏頗行為を含まず区別がある) [[Category:日本の債権法|さかいこういとりけしけん]]
2003-07-21T08:24:08Z
2023-12-02T13:19:24Z
false
false
false
[ "Template:Otheruseslist", "Template:Law", "Template:Reflist", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%90%E5%AE%B3%E8%A1%8C%E7%82%BA%E5%8F%96%E6%B6%88%E6%A8%A9
11,983
ACID (コンピュータ科学)
ACIDとは、信頼性のあるトランザクションシステムの持つべき性質として1970年代後半にジム・グレイが定義した概念で、これ以上分解してはならないという意味の不可分性(英: atomicity)、一貫性(英: consistency)、独立性(英: isolation)、および永続性(英語版)(英: durability)は、トランザクション処理の信頼性を保証するために求められる性質であるとする考え方である。 この語はその4つの性質を表す英語の単語の頭文字をとって作られた頭字語であり、1983年にアンドレアス・ロイターとテオ・ヘルダーによって提唱された。 データベースにおいては、データに対する一つの論理的操作の事をトランザクションと呼ぶ。ACIDの各性質を銀行での口座間送金を例にして示す。 トランザクションに含まれるタスクが全て実行されるか、あるいは全く実行されないことを保証する性質をいう。アトミック性、原子性とも呼ばれる。 口座Aから口座Bに対し1万円送金する場合を考えたとき、送金操作は次の2操作によって行われる。 不可分性が保証されるとは、上の操作1、2が全て行われるか、あるいは全く行われないことを指す。どちらか片方だけが実行された場合、銀行全体の預金残高に矛盾が発生してしまう。 日本語では一貫性あるいは整合性とも呼ばれる。トランザクション開始と終了時にあらかじめ与えられた整合性を満たすことを保証する性質を指す。すなわち、データベースのルール、つまり整合性条件を満たさない状態を起こすようなトランザクションは実行が中断される。 預金残高を例にすると、その値は一般的に0あるいは正の値を取る条件を満たす必要がある。よって、口座Aから送金を行うとき、その前後でAの口座残高が負になるような額は送金できないようにする。このようなルールを保証するのが一貫性の役割である。 トランザクション中に行われる操作の過程が他の操作から隠蔽されることを指し、日本語では分離性、独立性または隔離性ともいう。より形式的には、独立性とはトランザクション履歴が直列化されていることと言える。この性質と性能はトレードオフの関係にあるため、一般的にはこの性質の一部を緩和して実装される場合が多い。 預金残高の例では、残高100万円の口座Aから残高200万円の口座Bに1万円送金する場合の操作が の順序で行われたとする。取りうる内部状態は、 の3つになるが、外部からは送金前と送金後のいずれかの状態しか観測できない。 永続性あるいは持続性と呼ばれる。トランザクション操作の完了通知をユーザが受けた時点で、その操作は永続的となり、結果が失われないことを指す。これはシステム障害に耐えるということであり、DBMSは整合性制約をチェック済みでありトランザクションを中止してはいけないということである。多くのデータベース実装では、トランザクション操作を永続性記憶装置上にログとして記録し、システムに異常が発生したらそのログを用いて異常発生前の状態まで復旧することで永続性を実現している。 トランザクションによる状態の変更は、例えばデータ自体に加えそれに付随するインデックスの更新のように、複数の変更によって構成される場合が多く複雑である。また、厳密にACIDを実装しようとすると、広範囲なロックを取得したり、多くのデータを複製するなどといった、性能面での劣化が大きくなりすぎることがある。ACIDを厳密に実装することは難しい。 また、ACIDを実現する手続き自体がシステム要因にて失敗してしまう場合もあり、その失敗要因を回避した後に復旧できるような対処を取る必要がある。例えば、UNIXのファイル実装に関して、ジャーナルファイルシステムによるファイルの一貫性の保護や、データのフルバックアップなどの対処など、多くの改善と処理の工夫が取り入れられている。 ACIDはデータベースが全ての処理を一度に処理できることを要求している。実際にはこの処理の手筈を整えるのは難しい。しかし、これを行うのにログ先行書き込み(英: write ahead logging)とシャドウページングという2つの一般的なテクニックが存在する。どちらの場合でも、読み書きする情報全てに対してロックを取得しておかなくてはならない。ログ先行書き込みの場合、データベースへの実際の書き込みが行われる前にすべてのredo リドゥとundo()の情報がログに書き込まれることで、アトミック性が保証される。シャドウページングの場合、更新はデータベースのコピーに対して行われ、トランザクションがコミットされたときに新しいデータベースがアクティブ化される。このコピーは全体をコピーするのではなく、変更のない部分は古いバージョンのデータベースへの参照という形で行われる。 複数のトランザクションを並行実行するときは、独立性の実現に注意するべきである。実際には、完全な独立性の実現はコストが高いため、実現するトランザクション分離レベルを設定し、実装することとなる。また、分離レベルの実装はデッドロックやライブロック等に注意して行うべきである。例えばツーフェーズロッキング等が一般的に利用される。 トランザクションに関わる参加者が複数の場合、例えばツーフェーズコミット(2PC)が一般的に利用される。ツーフェーズコミットでは各参加者がトランザクションのコミットに同意するか否かについて一致することを保証する。 ACIDとは対照的に、結果整合性 (BASE) という整合性モデルも考案されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ACIDとは、信頼性のあるトランザクションシステムの持つべき性質として1970年代後半にジム・グレイが定義した概念で、これ以上分解してはならないという意味の不可分性(英: atomicity)、一貫性(英: consistency)、独立性(英: isolation)、および永続性(英語版)(英: durability)は、トランザクション処理の信頼性を保証するために求められる性質であるとする考え方である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この語はその4つの性質を表す英語の単語の頭文字をとって作られた頭字語であり、1983年にアンドレアス・ロイターとテオ・ヘルダーによって提唱された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "データベースにおいては、データに対する一つの論理的操作の事をトランザクションと呼ぶ。ACIDの各性質を銀行での口座間送金を例にして示す。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "トランザクションに含まれるタスクが全て実行されるか、あるいは全く実行されないことを保証する性質をいう。アトミック性、原子性とも呼ばれる。 口座Aから口座Bに対し1万円送金する場合を考えたとき、送金操作は次の2操作によって行われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "不可分性が保証されるとは、上の操作1、2が全て行われるか、あるいは全く行われないことを指す。どちらか片方だけが実行された場合、銀行全体の預金残高に矛盾が発生してしまう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本語では一貫性あるいは整合性とも呼ばれる。トランザクション開始と終了時にあらかじめ与えられた整合性を満たすことを保証する性質を指す。すなわち、データベースのルール、つまり整合性条件を満たさない状態を起こすようなトランザクションは実行が中断される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "預金残高を例にすると、その値は一般的に0あるいは正の値を取る条件を満たす必要がある。よって、口座Aから送金を行うとき、その前後でAの口座残高が負になるような額は送金できないようにする。このようなルールを保証するのが一貫性の役割である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "トランザクション中に行われる操作の過程が他の操作から隠蔽されることを指し、日本語では分離性、独立性または隔離性ともいう。より形式的には、独立性とはトランザクション履歴が直列化されていることと言える。この性質と性能はトレードオフの関係にあるため、一般的にはこの性質の一部を緩和して実装される場合が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "預金残高の例では、残高100万円の口座Aから残高200万円の口座Bに1万円送金する場合の操作が", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "の順序で行われたとする。取りうる内部状態は、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "の3つになるが、外部からは送金前と送金後のいずれかの状態しか観測できない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "永続性あるいは持続性と呼ばれる。トランザクション操作の完了通知をユーザが受けた時点で、その操作は永続的となり、結果が失われないことを指す。これはシステム障害に耐えるということであり、DBMSは整合性制約をチェック済みでありトランザクションを中止してはいけないということである。多くのデータベース実装では、トランザクション操作を永続性記憶装置上にログとして記録し、システムに異常が発生したらそのログを用いて異常発生前の状態まで復旧することで永続性を実現している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "トランザクションによる状態の変更は、例えばデータ自体に加えそれに付随するインデックスの更新のように、複数の変更によって構成される場合が多く複雑である。また、厳密にACIDを実装しようとすると、広範囲なロックを取得したり、多くのデータを複製するなどといった、性能面での劣化が大きくなりすぎることがある。ACIDを厳密に実装することは難しい。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、ACIDを実現する手続き自体がシステム要因にて失敗してしまう場合もあり、その失敗要因を回避した後に復旧できるような対処を取る必要がある。例えば、UNIXのファイル実装に関して、ジャーナルファイルシステムによるファイルの一貫性の保護や、データのフルバックアップなどの対処など、多くの改善と処理の工夫が取り入れられている。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ACIDはデータベースが全ての処理を一度に処理できることを要求している。実際にはこの処理の手筈を整えるのは難しい。しかし、これを行うのにログ先行書き込み(英: write ahead logging)とシャドウページングという2つの一般的なテクニックが存在する。どちらの場合でも、読み書きする情報全てに対してロックを取得しておかなくてはならない。ログ先行書き込みの場合、データベースへの実際の書き込みが行われる前にすべてのredo リドゥとundo()の情報がログに書き込まれることで、アトミック性が保証される。シャドウページングの場合、更新はデータベースのコピーに対して行われ、トランザクションがコミットされたときに新しいデータベースがアクティブ化される。このコピーは全体をコピーするのではなく、変更のない部分は古いバージョンのデータベースへの参照という形で行われる。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "複数のトランザクションを並行実行するときは、独立性の実現に注意するべきである。実際には、完全な独立性の実現はコストが高いため、実現するトランザクション分離レベルを設定し、実装することとなる。また、分離レベルの実装はデッドロックやライブロック等に注意して行うべきである。例えばツーフェーズロッキング等が一般的に利用される。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "トランザクションに関わる参加者が複数の場合、例えばツーフェーズコミット(2PC)が一般的に利用される。ツーフェーズコミットでは各参加者がトランザクションのコミットに同意するか否かについて一致することを保証する。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ACIDとは対照的に、結果整合性 (BASE) という整合性モデルも考案されている。", "title": "その他のモデル" } ]
ACIDとは、信頼性のあるトランザクションシステムの持つべき性質として1970年代後半にジム・グレイが定義した概念で、これ以上分解してはならないという意味の不可分性、一貫性、独立性、および永続性は、トランザクション処理の信頼性を保証するために求められる性質であるとする考え方である。 この語はその4つの性質を表す英語の単語の頭文字をとって作られた頭字語であり、1983年にアンドレアス・ロイターとテオ・ヘルダーによって提唱された。
'''ACID'''とは、信頼性のあるトランザクションシステムの持つべき性質として1970年代後半に[[ジム・グレイ]]が定義した概念で、これ以上分解してはならないという意味の[[不可分性 (データベース)|不可分性]]({{lang-en-short|atomicity}})、[[一貫性 (データベース)|一貫性]]({{lang-en-short|consistency}})、[[独立性 (データベース)|独立性]]({{lang-en-short|isolation}})、および{{Ill2|耐久性 (データベース)|en|Durability (database systems)|label=永続性}}({{lang-en-short|durability}})は、[[トランザクション処理]]の信頼性を保証するために求められる性質であるとする考え方である<ref>[[国際標準化機構|ISO]]/[[国際電気標準会議|IEC]] 10026-1:1992 Section 4</ref>。 この語はその4つの性質を表す英語の単語の[[頭文字]]をとって作られた[[頭字語]]であり、1983年にアンドレアス・ロイター<ref>Andreas Reuter</ref>とテオ・ヘルダー<ref>Theo Härder</ref>によって提唱された。 == 概要 == データベースにおいては、データに対する一つの論理的操作の事を[[トランザクション]]と呼ぶ。ACIDの各性質を銀行での口座間送金を例にして示す。 ===不可分性(Atomicity)=== トランザクションに含まれるタスクが全て実行されるか、あるいは全く実行されないことを保証する性質をいう。アトミック性、原子性とも呼ばれる。 口座Aから口座Bに対し1万円送金する場合を考えたとき、送金操作は次の2操作によって行われる。 #口座Aの残高から1万円を引く #口座Bの残高に1万円を加える 不可分性が保証されるとは、上の操作1、2が全て行われるか、あるいは全く行われないことを指す。どちらか片方だけが実行された場合、銀行全体の預金残高に矛盾が発生してしまう。 ===一貫性(Consistency)=== 日本語では一貫性あるいは整合性とも呼ばれる。トランザクション開始と終了時にあらかじめ与えられた整合性を満たすことを保証する性質を指す。すなわち、データベースのルール、つまり整合性条件を満たさない状態を起こすようなトランザクションは実行が中断される。 預金残高を例にすると、その値は一般的に0あるいは正の値を取る条件を満たす必要がある。よって、口座Aから送金を行うとき、その前後でAの口座残高が負になるような額は送金できないようにする。このようなルールを保証するのが一貫性の役割である。 ===独立性(Isolation)=== トランザクション中に行われる操作の過程が他の操作から隠蔽されることを指し、日本語では分離性、独立性または隔離性ともいう。より形式的には、独立性とはトランザクション履歴が[[トランザクション分離レベル|直列化]]されていることと言える。この性質と性能は[[トレードオフ]]の関係にあるため、一般的にはこの性質の一部を緩和して実装される場合が多い。 預金残高の例では、残高100万円の口座Aから残高200万円の口座Bに1万円送金する場合の操作が #口座Aの残高から1万円を引く #口座Bの残高に1万円を加える の順序で行われたとする。取りうる内部状態は、 {|class=wikitable align=center !時点!!口座A!!口座B |- |送金前|||100万円||200万円 |- |実行中|||99万円 ||200万円 |- |送金後|||99万円 ||201万円 |} の3つになるが、外部からは'''送金前'''と'''送金後'''のいずれかの状態しか観測できない。 ===永続性(Durability)=== 永続性あるいは持続性と呼ばれる。トランザクション操作の完了通知をユーザが受けた時点で、その操作は永続的となり、結果が失われないことを指す。これはシステム障害に耐えるということであり、[[データベース管理システム|DBMS]]は[[参照整合性|整合性制約]]をチェック済みでありトランザクションを中止してはいけないということである。多くのデータベース実装では、トランザクション操作を[[永続性#記憶装置|永続性記憶装置]]上にログとして記録し、システムに異常が発生したらそのログを用いて異常発生前の状態まで復旧することで永続性を実現している。 == 実装 == トランザクションによる状態の変更は、例えばデータ自体に加えそれに付随する''[[索引#データベースの索引|インデックス]]''の更新のように、複数の変更によって構成される場合が多く複雑である。また、厳密にACIDを実装しようとすると、広範囲なロックを取得したり、多くのデータを複製するなどといった、性能面での劣化が大きくなりすぎることがある。ACIDを厳密に実装することは難しい。 また、ACIDを実現する手続き自体がシステム要因にて失敗してしまう場合もあり、その失敗要因を回避した後に復旧できるような対処を取る必要がある。例えば、UNIXのファイル実装に関して、[[ジャーナルファイルシステム]]によるファイルの一貫性の保護や、データのフルバックアップなどの対処など、多くの改善と処理の工夫が取り入れられている。 ACIDはデータベースが全ての処理を一度に処理できることを要求している。実際にはこの処理の手筈を整えるのは難しい。しかし、これを行うのに[[ログ先行書き込み]]({{lang-en-short|write ahead logging}})と[[シャドウページング]]という2つの一般的なテクニックが存在する。どちらの場合でも、読み書きする情報全てに対して[[ロック (情報工学)|ロック]]を取得しておかなくてはならない。ログ先行書き込みの場合、データベースへの実際の書き込みが行われる前にすべての{{lang|ルビ|{{lang|en|redo}}|リドゥ}}と{{読み仮名|{{lang|en|undo}}|アンドゥ}}の情報がログに書き込まれることで、[[アトミック性]]が保証される。シャドウページングの場合、更新はデータベースのコピーに対して行われ、トランザクションがコミットされたときに新しいデータベースがアクティブ化される。このコピーは全体をコピーするのではなく、変更のない部分は古いバージョンのデータベースへの参照という形で行われる。 複数のトランザクションを並行実行するときは、独立性の実現に注意するべきである。実際には、完全な独立性の実現はコストが高いため、実現する[[トランザクション分離レベル]]を設定し、実装することとなる。また、分離レベルの実装はデッドロックやライブロック等に注意して行うべきである。例えば[[ツーフェーズロッキング]]等が一般的に利用される。 トランザクションに関わる参加者が複数の場合、例えば[[ツーフェーズコミット]](2PC)が一般的に利用される。ツーフェーズコミットでは各参加者がトランザクションのコミットに同意するか否かについて一致することを保証する。 ===トランザクションを考慮したファイルシステム=== *[[Virtual Storage Access Method|VSAM]] *[[トランザクションNTFS]] *[[Apache Commons Transaction]]<ref group="※">[http://commons.apache.org/transaction/]</ref> ==その他のモデル== ACIDとは対照的に、[[結果整合性]] (BASE<ref>{{lang-en-short|basically available, soft state}}</ref>) という[[並列コンピューティング#一貫性モデル|整合性モデル]]も考案されている。 ==注釈== {{Reflist|group="※"}} ==出典== <references /> ==関連項目== *[[データベース]] {{Database}} [[Category:データベース]] [[Category:トランザクション処理]]
null
2023-07-20T23:59:19Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:Ill2", "Template:Lang", "Template:読み仮名", "Template:Reflist", "Template:Database" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/ACID_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%A7%91%E5%AD%A6)
11,985
資本
資本(しほん、英: Capital)とは、事業活動などの元手のことである。また、主流派経済学における生産三要素のひとつ、マルクス経済学においては自己増殖する価値の運動体のこと、あるいは会計学や法学における用語である。 一般的な用法、基本的な用法としては、事業活動を行うための元手となる金のことである。 また派生用法として、比喩的に仕事や生活を維持していくための収入、あるいはその元となるもののこと。 使用例としては「商売をはじめるため、商売の資本を集める」「サラリーマンは体が資本だ」など。 主流派経済学における資本は、土地や労働と並ぶ生産要素のひとつである。 過去の生産活動が生み出した生産手段のストックであり、工場や機械などの固定資本、および原材料・仕掛品・出荷前製品などの流動資本からなる。 資本の蓄積によって、生産活動の拡大を図ることができる。 資本は多くの場合、以下の3つに分けられる。 マルクス経済学では、資本を剰余価値を生むことにより自己増殖する価値の運動体と定義している。資本主義において資本が主体として再生産を繰り返すことで社会を維持、成長させる。 マルクス経済学において資本は大きく分けて、産業資本と商業資本などの現実資本(機能資本)、利子生み資本と分類される。 産業資本は以下のような資本に姿態変換(変態)し、生産過程で剰余価値を生み出し、増殖をしていく資本である。製造業などがこれに当たる。 この3種の資本は、まず貨幣資本にて工場や労働力といった生産資本を購入し、その手に入れた生産資本で商品を生産し、その商品を売却して貨幣を得るというように、貨幣資本から生産資本、生産資本から商品資本、そして商品資本から貨幣資本といった形で循環していく。このことを指して資本の循環と呼び、元の資本から循環が終わり再び元の資本形態に戻るまでのサイクルを資本の回転と呼ぶ。この循環は継続するプロセスであり、この過程で初期の投資が回収され、資本は増殖していく。 また生産過程において、価値が変わるか、変らないかによって二種類に規定される。 商業資本とは商品を生産過程で生み出すのではなく、産業資本が生産した商品資本の流通を媒介すること自体を商品とすることにより、利潤を得る資本である。小売などがこれに当たる。 貿易商人が空間的な価値体系の差異から剰余価値を生む資本形態(マルクス、宇野弘蔵、柄谷行人は産業資本の前駆体として、これに注目した)。たとえば、温暖地域ではバナナは取れやすくありふれているので安価だが寒冷地域では貴重である。温暖地で安く買い寒冷地で高く売れば、不等価交換によらず商人は儲けられる。 利子生み資本とは、資金そのものを資本家に貸し付けることにより、利子を介して利潤を得る形態の資本である。利子生み資本の例としては金融機関や投資ファンドなどが挙げられる。 利子生み資本は何ら商品(物財・サービス)を生産しない形態の資本であり、その存在は産業資本に依存したものである。 会計学上の資本は、以下のいくつか意味、もしくは略称があり、それぞれ全く違う意味となる。 株式会社の営業のために、株主が出資した基金の全部または重要部分を示す金額のことである。資本の金額は、登記又は貸借対照表により公示される。 近代資本主義(独: der Moderne Kapitalismus、英語: modern capitalism)より前の諸経済において、資本となる前の元手を前期的資本(vorsintflutliche Kpapital)という。直訳すると「ノアの大洪水以前の資本」という意味であり、元手としての資本はかくも大昔から存在していたという意味である。近代産業資本(近代資本主義の資本)の対義語として前期的資本と呼ぶ。前期的とは言っても、これが発展すれば自動的に近代資本主義になるわけではなく、近代資本主義へ発展するためには後述する特殊な条件が必要である。前期的資本は、商品流通と貨幣流通さえあれば存立しうる。前期的資本の存在しない経済は貨幣の存在しない経済(物々交換経済、あるいは完全自給自足で物々交換すら行われない経済)である。 前期的資本主義の経済では、市場関係が未成熟ですべてが多分に非合理性と偶然性を含んでいる。市場が非合理性を持つからこそ投機的イデオロギー(商略・欺瞞・暴力)によって巨利を得ることのできる経済であるともいえる。そこには近代資本主義に見られる勤労・勤勉・誠実・正直・信用・目的合理的経営・成長を伴う投資といった原則は全くない。 イギリス古典派(the classical school、アダム・スミス、デヴィッド・リカードなど)やカール・マルクスは、技術進歩・資本蓄積・商業発達の3条件が満たされれば自動的に近代資本主義へ発展するという。しかしマックス・ウェーバーは世界の歴史をくまなく調査して、技術進歩・資本蓄積・商業発達が高度に達成され巨富を築いた貨幣経済においても、ついに近代資本主義が発生を見なかった例を大量に発見し、近代資本主義へ発展するためにはさらなる4つの条件(資本主義の精神、der Geist des Kapitalismus,the spirit of capitalism)が必要であると発表した。 マックス・ウェーバーは、宗教とはエトスであると定義した上で(この定義では、例えば個人の悪徳は公共の美徳であり自由競争市場がベストであるという古典派の学説やマルクスの学説なども一種の宗教とみる)、このような精神改革を促したものこそ、隣人愛を説く一神教、すなわちキリスト教(特に宗教儀式を廃して合理化をすすめたプロテスタント)であるという。日本においては山本七平が、日本人の労働モラルの高さを支えた宗教として仏教の宗派である禅宗の「労働即仏行」を指摘している。 小室直樹は、古事記や日本書紀に登場する天照大御神などの皇祖神がすでに自ら養蚕を行うなど労働を尊んでおり、日本人の労働モラルの高さは日本神話の影響であり、労働が原罪に対するペナルティーである欧米の一神教諸国とは事情が異なると分析している。さらに、近代資本主義という経済はどの国家でもなりたければなれるものではないとした上で、日本の近代資本主義発生の過程について、浅見絅斎の靖献遺言や山崎闇斎の崎門の学や山鹿素行の中朝事実に見られる勤王思想が一神教的教義を醸成し、幕末の下級武士たちに自己を捨てて目標へ邁進する禁欲的行動精神をもたらし、吉田松陰や橋本左内などの勤王の志士がうまれて明治維新が発生し、その後は彼ら自身が資本家となり四民平等のリーダーとなることで日本の資本主義と民主主義が発進したのだと分析している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "資本(しほん、英: Capital)とは、事業活動などの元手のことである。また、主流派経済学における生産三要素のひとつ、マルクス経済学においては自己増殖する価値の運動体のこと、あるいは会計学や法学における用語である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的な用法、基本的な用法としては、事業活動を行うための元手となる金のことである。", "title": "原義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また派生用法として、比喩的に仕事や生活を維持していくための収入、あるいはその元となるもののこと。", "title": "原義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "使用例としては「商売をはじめるため、商売の資本を集める」「サラリーマンは体が資本だ」など。", "title": "原義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "主流派経済学における資本は、土地や労働と並ぶ生産要素のひとつである。", "title": "主流派経済学における資本" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "過去の生産活動が生み出した生産手段のストックであり、工場や機械などの固定資本、および原材料・仕掛品・出荷前製品などの流動資本からなる。", "title": "主流派経済学における資本" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "資本の蓄積によって、生産活動の拡大を図ることができる。", "title": "主流派経済学における資本" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "資本は多くの場合、以下の3つに分けられる。", "title": "主流派経済学における資本" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "マルクス経済学では、資本を剰余価値を生むことにより自己増殖する価値の運動体と定義している。資本主義において資本が主体として再生産を繰り返すことで社会を維持、成長させる。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "マルクス経済学において資本は大きく分けて、産業資本と商業資本などの現実資本(機能資本)、利子生み資本と分類される。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "産業資本は以下のような資本に姿態変換(変態)し、生産過程で剰余価値を生み出し、増殖をしていく資本である。製造業などがこれに当たる。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この3種の資本は、まず貨幣資本にて工場や労働力といった生産資本を購入し、その手に入れた生産資本で商品を生産し、その商品を売却して貨幣を得るというように、貨幣資本から生産資本、生産資本から商品資本、そして商品資本から貨幣資本といった形で循環していく。このことを指して資本の循環と呼び、元の資本から循環が終わり再び元の資本形態に戻るまでのサイクルを資本の回転と呼ぶ。この循環は継続するプロセスであり、この過程で初期の投資が回収され、資本は増殖していく。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また生産過程において、価値が変わるか、変らないかによって二種類に規定される。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "商業資本とは商品を生産過程で生み出すのではなく、産業資本が生産した商品資本の流通を媒介すること自体を商品とすることにより、利潤を得る資本である。小売などがこれに当たる。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "貿易商人が空間的な価値体系の差異から剰余価値を生む資本形態(マルクス、宇野弘蔵、柄谷行人は産業資本の前駆体として、これに注目した)。たとえば、温暖地域ではバナナは取れやすくありふれているので安価だが寒冷地域では貴重である。温暖地で安く買い寒冷地で高く売れば、不等価交換によらず商人は儲けられる。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "利子生み資本とは、資金そのものを資本家に貸し付けることにより、利子を介して利潤を得る形態の資本である。利子生み資本の例としては金融機関や投資ファンドなどが挙げられる。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "利子生み資本は何ら商品(物財・サービス)を生産しない形態の資本であり、その存在は産業資本に依存したものである。", "title": "マルクス経済学における資本" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "会計学上の資本は、以下のいくつか意味、もしくは略称があり、それぞれ全く違う意味となる。", "title": "会計学における資本" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "株式会社の営業のために、株主が出資した基金の全部または重要部分を示す金額のことである。資本の金額は、登記又は貸借対照表により公示される。", "title": "法学における資本" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "近代資本主義(独: der Moderne Kapitalismus、英語: modern capitalism)より前の諸経済において、資本となる前の元手を前期的資本(vorsintflutliche Kpapital)という。直訳すると「ノアの大洪水以前の資本」という意味であり、元手としての資本はかくも大昔から存在していたという意味である。近代産業資本(近代資本主義の資本)の対義語として前期的資本と呼ぶ。前期的とは言っても、これが発展すれば自動的に近代資本主義になるわけではなく、近代資本主義へ発展するためには後述する特殊な条件が必要である。前期的資本は、商品流通と貨幣流通さえあれば存立しうる。前期的資本の存在しない経済は貨幣の存在しない経済(物々交換経済、あるいは完全自給自足で物々交換すら行われない経済)である。", "title": "前期的資本" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "前期的資本主義の経済では、市場関係が未成熟ですべてが多分に非合理性と偶然性を含んでいる。市場が非合理性を持つからこそ投機的イデオロギー(商略・欺瞞・暴力)によって巨利を得ることのできる経済であるともいえる。そこには近代資本主義に見られる勤労・勤勉・誠実・正直・信用・目的合理的経営・成長を伴う投資といった原則は全くない。", "title": "前期的資本" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イギリス古典派(the classical school、アダム・スミス、デヴィッド・リカードなど)やカール・マルクスは、技術進歩・資本蓄積・商業発達の3条件が満たされれば自動的に近代資本主義へ発展するという。しかしマックス・ウェーバーは世界の歴史をくまなく調査して、技術進歩・資本蓄積・商業発達が高度に達成され巨富を築いた貨幣経済においても、ついに近代資本主義が発生を見なかった例を大量に発見し、近代資本主義へ発展するためにはさらなる4つの条件(資本主義の精神、der Geist des Kapitalismus,the spirit of capitalism)が必要であると発表した。", "title": "前期的資本" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "マックス・ウェーバーは、宗教とはエトスであると定義した上で(この定義では、例えば個人の悪徳は公共の美徳であり自由競争市場がベストであるという古典派の学説やマルクスの学説なども一種の宗教とみる)、このような精神改革を促したものこそ、隣人愛を説く一神教、すなわちキリスト教(特に宗教儀式を廃して合理化をすすめたプロテスタント)であるという。日本においては山本七平が、日本人の労働モラルの高さを支えた宗教として仏教の宗派である禅宗の「労働即仏行」を指摘している。", "title": "前期的資本" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "小室直樹は、古事記や日本書紀に登場する天照大御神などの皇祖神がすでに自ら養蚕を行うなど労働を尊んでおり、日本人の労働モラルの高さは日本神話の影響であり、労働が原罪に対するペナルティーである欧米の一神教諸国とは事情が異なると分析している。さらに、近代資本主義という経済はどの国家でもなりたければなれるものではないとした上で、日本の近代資本主義発生の過程について、浅見絅斎の靖献遺言や山崎闇斎の崎門の学や山鹿素行の中朝事実に見られる勤王思想が一神教的教義を醸成し、幕末の下級武士たちに自己を捨てて目標へ邁進する禁欲的行動精神をもたらし、吉田松陰や橋本左内などの勤王の志士がうまれて明治維新が発生し、その後は彼ら自身が資本家となり四民平等のリーダーとなることで日本の資本主義と民主主義が発進したのだと分析している。", "title": "前期的資本" } ]
資本とは、事業活動などの元手のことである。また、主流派経済学における生産三要素のひとつ、マルクス経済学においては自己増殖する価値の運動体のこと、あるいは会計学や法学における用語である。
'''資本'''(しほん、{{Lang-en-short|Capital}})とは、'''事業活動'''などの'''元手'''のことである。また、'''[[主流派経済学]]'''における[[生産要素|生産三要素]]のひとつ、'''[[マルクス経済学]]'''においては自己増殖する[[価値]]の運動体のこと、あるいは'''[[会計学]]'''や'''[[法学]]'''における用語である。 ==原義== 一般的な用法、基本的な用法としては、事業活動を行うための'''元手となる金'''のことである<ref name="daijirin">松村明編『大辞林』三省堂</ref>。 また派生用法として、比喩的に仕事や生活を維持していくための収入、あるいはその元となるもののこと<ref name="daijirin"/>。 使用例としては「商売をはじめるため、商売の資本を集める」「サラリーマンは体が資本だ」など<ref name="daijirin"/>。 == 主流派経済学における資本 == {{See also|経営の三要素}} 主流派経済学における資本は、[[土地]]や[[労働]]と並ぶ'''[[生産要素]]'''のひとつである<ref name="daijirin"/>。 過去の生産活動が生み出した生産手段のストックであり、工場や機械などの[[固定資本]]、および原材料・仕掛品・出荷前製品などの[[流動資本]]からなる<ref name="daijirin"/>。 資本の蓄積によって、生産活動の拡大を図ることができる。 資本は多くの場合、以下の3つに分けられる。 ;金融資本 :[[株式]]や[[債券]]など ;物的資本 :建物や設備など ;人的資本([[ヒューマン・キャピタル]]) : 労働者の教育程度や健康状態など == マルクス経済学における資本 == {{See also|再生産表式}} [[マルクス経済学]]では、資本を[[剰余価値]]を生むことにより自己増殖する[[価値]]の運動体と定義している<ref name="daijirin"/>。[[資本主義]]において資本が主体として再生産を繰り返すことで社会を維持、成長させる。 マルクス経済学において資本は大きく分けて、産業資本と商業資本などの現実資本(機能資本)、利子生み資本と分類される。 ===現実資本(機能資本)=== ==== 産業資本 ==== {{See also|資本の循環}} 産業資本は以下のような資本に姿態変換(変態)し、生産過程で[[剰余価値]]を生み出し、増殖をしていく資本である。[[製造業]]などがこれに当たる。 ;貨幣資本 :[[貨幣]]の形態を持った資本である。 ;生産資本 :生産手段(工場施設など)かもしくは労働力などの形態を持った資本である。この資本において生産手段と労働力の結合によって生産過程が生み出され、[[剰余価値]]が発生する。 ;商品資本 :生産過程を経て生み出された[[商品]]の形態を持った資本である。 この3種の資本は、まず貨幣資本にて[[工場]]や労働力といった生産資本を購入し、その手に入れた生産資本で商品を生産し、その商品を売却して貨幣を得るというように、貨幣資本から生産資本、生産資本から商品資本、そして商品資本から貨幣資本といった形で循環していく。このことを指して[[資本の循環]]と呼び、元の資本から循環が終わり再び元の資本形態に戻るまでのサイクルを[[資本の回転]]と呼ぶ。この循環は継続するプロセスであり、この過程で初期の[[投資]]が回収され、資本は増殖していく。 また生産過程において、価値が変わるか、変らないかによって二種類に規定される。 ;[[可変資本]] :労働力を購入するための資本である。 :労働力は生産過程において、[[剰余価値]]を生み出すために、価値は可変であるとする。 ;[[不変資本]] :工場、原材料費、機械などの生産手段を購入するための資本である。 :これらのものの生産に投じられた労働は、生産過程に入るその時点ではすでに、終了しておりしたがって、「[[死んだ労働]]」であるので、新たな価値を生み出さない。したがって価値は不変とされる。 ==== 商業資本 ==== 商業資本とは[[商品]]を生産過程で生み出すのではなく、産業資本が生産した商品資本の流通を媒介すること自体を商品とすることにより、[[利潤]]を得る資本である。[[小売]]などがこれに当たる。 ====商人資本==== [[貿易]]商人が空間的な[[価値体系]]の[[差異]]から[[剰余価値]]を生む資本形態(マルクス、[[宇野弘蔵]]、[[柄谷行人]]は産業資本の前駆体として、これに注目した<ref>『「世界史の構造」を読む』 (インスクリプト刊) 「協同組合と宇野経済学」</ref>)。たとえば、温暖地域では[[バナナ]]は取れやすくありふれているので安価だが寒冷地域では貴重である。温暖地で安く買い寒冷地で高く売れば、不等価交換によらず商人は儲けられる。 === 利子生み資本 === 利子生み資本とは、資金そのものを資本家に貸し付けることにより、利子を介して利潤を得る形態の資本である。利子生み資本の例としては[[金融機関]]や[[投資ファンド]]などが挙げられる。 利子生み資本は何ら商品(物財・サービス)を生産しない形態の資本であり、その存在は産業資本に依存したものである。 ==会計学における資本== 会計学上の資本は、以下のいくつか意味、もしくは略称があり、それぞれ全く違う意味となる。 *総[[資産]] *[[純資産]] *株主資本から利益剰余金を差し引いたもの *[[資本金]] ==法学における資本== {{main|資本金}} 株式会社の営業のために、株主が出資した基金の全部または重要部分を示す金額のことである。資本の金額は、登記又は貸借対照表により公示される<ref name="daijirin"/>。 == 前期的資本 == {{参照方法|date=2014年5月|}} 近代資本主義({{lang-de-short|der Moderne Kapitalismus}}、{{lang-en|modern capitalism}})より前の諸経済において、資本となる前の元手を前期的資本({{lang|de|vorsintflutliche Kpapital}})という。直訳すると「ノアの大洪水以前の資本」という意味であり、元手としての資本はかくも大昔から存在していたという意味である。近代産業資本(近代資本主義の資本)の対義語として前期的資本と呼ぶ。前期的とは言っても、これが発展すれば自動的に近代資本主義になるわけではなく、近代資本主義へ発展するためには後述する特殊な条件が必要である。前期的資本は、商品流通と貨幣流通さえあれば存立しうる。前期的資本の存在しない経済は貨幣の存在しない経済(物々交換経済、あるいは完全自給自足で物々交換すら行われない経済)である。 前期的資本主義の経済では、市場関係が未成熟ですべてが多分に非合理性と偶然性を含んでいる。市場が非合理性を持つからこそ投機的[[イデオロギー]](商略・欺瞞・暴力)によって巨利を得ることのできる経済であるともいえる。そこには近代資本主義に見られる勤労・勤勉・誠実・正直・信用・目的合理的経営・成長を伴う投資といった原則は全くない。 イギリス古典派(the classical school、[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード]]など)や[[カール・マルクス]]は、技術進歩・資本蓄積・商業発達の3条件が満たされれば自動的に近代資本主義へ発展するという。しかし[[マックス・ウェーバー]]は世界の歴史をくまなく調査して、技術進歩・資本蓄積・商業発達が高度に達成され巨富を築いた貨幣経済においても、ついに近代資本主義が発生を見なかった例を大量に発見し、近代資本主義へ発展するためにはさらなる4つの条件(資本主義の精神、der Geist des Kapitalismus,the spirit of capitalism)が必要であると発表した。 #「利潤の追求を正常なこととする精神」。前期的資本においては利益を奪い取る投機が横行し、利潤の追求は投資家自身によってすら倫理的に悪であると考えられていた。投資家は最下層の民衆を相手に商業や金貸しを行う事が多かったため、[[賤民資本主義]](paria Kapitalismus)と呼ばれたほどであった。近代資本主義のように成長を伴う投資が成功するためには、勤労・正直・信用といった美徳によって人々の支持を得ている必要がある。つまり利潤が発生したということは、これら美徳を実践した証拠であり、倫理的に善なのだというイデオロギーへの改革が、近代資本主義へ発展するために必要な精神である。 #「目的合理性」。宗教儀式や[[伝統]]主義(単にいままでそうしてきたというだけでその行動を是とする)を廃して、[[複式簿記]]・資本主義市場法則・近代法律学・数学・理論物理学といった近代科学的発想で行動する。すべては合理的な労働から得られるのであり、思いがけない幸せを神に祈るようなことは行ってはならない。雑多な宗教儀式や呪術は言うに及ばず、社会のしきたりに反すれば人に批判されるから妥協するとか、自分の見込んだ客にしか商品を売らないといった伝統主義的行動を捨てて、勤勉・質素・正直・慎重・周到といった自己の正義・徳性に従って行動する精神。 #「労働を尊ぶ精神」。労働それ自身が救済であり、労働によって人間の価値が決まるとする精神である。金儲けを第一の目的とせず、食料や衣類など隣人が欲している物を「正当な価格で」売ることは、隣人愛の精神に合致している。利益のためではなく隣人のために禁欲的に働く。その結果として利益が出てくるならば善いことである。つまり正しい経済行為によって得られる利益は正しいとする精神である。この精神は、利益を悪として禁止するほどの抑圧・緊張のある社会にしかうまれない。 #「時間は貨幣であり、貨幣は信用であり、信用は態度である」。一日に10シリング稼げる人が、半日なにもしないで5シリングしか稼がなかったとすれば、彼は5シリングを無駄にしている。高い信用があれば低利で融資を受けられ、より高利の経営によって利益を生じやすい。勤務時間中に遊技場に居る態度を債権者に見られれば、信用を失うであろう。納期や利子といった流通を促す発想であり、滞貨を発生させない精神でもある。 マックス・ウェーバーは、宗教とはエトスであると定義した上で(この定義では、例えば個人の悪徳は公共の美徳であり自由競争市場がベストであるという古典派の学説やマルクスの学説なども一種の宗教とみる)、このような精神改革を促したものこそ、隣人愛を説く一神教、すなわちキリスト教(特に宗教儀式を廃して合理化をすすめたプロテスタント)であるという。日本においては[[山本七平]]が、日本人の労働モラルの高さを支えた宗教として仏教の宗派である禅宗の「労働即仏行」を指摘している。 [[小室直樹]]は、[[古事記]]や[[日本書紀]]に登場する[[天照大御神]]などの皇祖神がすでに自ら養蚕を行うなど労働を尊んでおり、日本人の労働モラルの高さは[[日本神話]]の影響であり、労働が原罪に対するペナルティーである欧米の[[一神教]]諸国とは事情が異なると分析している。さらに、近代資本主義という経済はどの国家でもなりたければなれるものではないとした上で、日本の近代資本主義発生の過程について、[[浅見絅斎]]の靖献遺言や[[山崎闇斎]]の崎門の学や[[山鹿素行]]の中朝事実に見られる勤王思想が一神教的教義を醸成し、幕末の下級武士たちに自己を捨てて目標へ邁進する禁欲的行動精神をもたらし、[[吉田松陰]]や[[橋本左内]]などの勤王の志士がうまれて[[明治維新]]が発生し、その後は彼ら自身が資本家となり[[四民平等]]のリーダーとなることで日本の資本主義と民主主義が発進したのだと分析している。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * 小室直樹著『論理の方法(社会科学のためのモデル)』東洋経済新報社, 2003年5月8日 ==関連項目== {{Wiktionary}} {{Div col|cols=2}} *[[経済学]] *[[マルクス経済学]] *[[経済]] *[[生産]] *[[再生産]] *[[資本主義]] *[[資本蓄積]] *[[資本の循環]] *[[資本金]] *[[商法]] *[[複式簿記]] *[[資本コスト]] *[[資本家]] *[[金本位制]] *[[社会資本]] *[[運転資金]] *{{仮リンク|回転基金|en|Revolving fund}} {{Div col end}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しほん}} [[Category:資本|*]] [[Category:マルクス経済学]] [[Category:会計]] [[Category:資源]] [[Category:日本の株式会社法]]
null
2023-04-28T08:21:22Z
false
false
false
[ "Template:Lang-de-short", "Template:Wiktionary", "Template:Normdaten", "Template:See also", "Template:Main", "Template:参照方法", "Template:Kotobank", "Template:Lang-en", "Template:Reflist", "Template:Div col end", "Template:Lang", "Template:仮リンク", "Template:Lang-en-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Div col" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%9C%AC
11,988
浄土
浄土()とは、大乗仏教において、一切の煩悩やけがれを離れ、五濁や地獄・餓鬼・畜生の三悪趣が無く、仏や菩薩が住む清浄な国土のこと。清浄仏土、仏国、仏刹()、浄刹()、浄国、浄界などとも言われる。煩悩に汚染されている衆生が住む穢土()と対比される語である。浄土を焦点とする様々な宗派は、浄土教と分類されている。 阿弥陀如来の西方極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃浄土などの種々の浄土があるとされる。浄土の語は大乗仏教における宗教的理想郷を指す言葉としても広く用いられたが、平安後期以降に浄土教が広まるにつれて、浄土は主として阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すようになった。 極楽浄土の観念は、リグ・ヴェーダに始まるヴェーダ文献にその起源を求めることも可能であるとする説がある。 「浄土」は、漢訳の無量寿経の「清浄国土」を2字に縮めた語である。サンスクリットには浄土を意味する術語は無いとされるが、漢訳仏典の訳語の用例からみて、仏国土を意味する梵: buddha‐kṣetraの訳語とされている。 精神的物質的に何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清浄で清涼な世界である。このような清浄の世界は正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。 『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。 そこで、真実の浄土は仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土は成仏を目標とする菩薩の世界である。 このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名だが、この外に阿閦仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。 浄土は何のためにあるのかといえば、仏自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して化益をほどこし、さとりを開かせるためである。雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、浄土とは仏の自利・利他の二利満足の場である。 これらの浄土は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、往生浄土という考えがみられる。ことに阿弥陀仏の西方極楽浄土は、往生浄土を立場とする浄土教を形成する。 別世界に浄土の建立を説くのではなく、この世界をそのまま浄土に変現するという考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする『維摩経』の趣旨によれば、この世界にありながらこの世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、『法華経』に、この娑婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ずと説くものである(娑婆即寂光)。この考え方に立つのが、釈迦の霊山(りょうぜん)浄土、毘盧舎那仏の蓮華蔵世界である。 『岩波 仏教辞典』によれば、浄土には来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種類があるとされる。 来世浄土は、死後に赴く浄土として来世に立てられた浄土である。「この世に仏はいないが、死後の来世に他の世界へ行けば仏に会える」という来世他土思想に由来している。阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿閦仏の東方妙喜世界などが有名である。 浄仏国土(じょうぶっこくど)とは、現実世界の浄土化を意味する語であり、現実の中で仏道実践に励む菩薩の菩薩行として立てられたものである。維摩経の仏国品などに説かれる。 常寂光土(じょうじゃっこうど)とは、一切の限定を超えた絶対浄土。仏の悟りである真理そのものが具現している世界。天台宗で説く四土のうちの最高のものであり、智顗が『維摩経文疏』1で説いた。 来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種の浄土説は、ときには矛盾・対立することもあった。例えば、来世浄土は最も機根の低い者のための方便説であるとされて、来世浄土に基づく浄土念仏が批判され、真実説は絶対浄土としての常寂光土であるとされることがあった。また、本覚思想などの現実肯定の立場からは常寂光土が歓迎されたが、智顗のように来世浄土を低く評価した者であっても、実際の死に際しては浄土への往生を願うことがあった。 下記のような浄土がある。 穢土とは、汚れた国土という意味であり、煩悩で汚れた凡夫が住む現実のこの世界のこと。娑婆、穢国ともいう。浄土と対比していわれる。 ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "浄土()とは、大乗仏教において、一切の煩悩やけがれを離れ、五濁や地獄・餓鬼・畜生の三悪趣が無く、仏や菩薩が住む清浄な国土のこと。清浄仏土、仏国、仏刹()、浄刹()、浄国、浄界などとも言われる。煩悩に汚染されている衆生が住む穢土()と対比される語である。浄土を焦点とする様々な宗派は、浄土教と分類されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "阿弥陀如来の西方極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃浄土などの種々の浄土があるとされる。浄土の語は大乗仏教における宗教的理想郷を指す言葉としても広く用いられたが、平安後期以降に浄土教が広まるにつれて、浄土は主として阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "極楽浄土の観念は、リグ・ヴェーダに始まるヴェーダ文献にその起源を求めることも可能であるとする説がある。", "title": "起源と名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「浄土」は、漢訳の無量寿経の「清浄国土」を2字に縮めた語である。サンスクリットには浄土を意味する術語は無いとされるが、漢訳仏典の訳語の用例からみて、仏国土を意味する梵: buddha‐kṣetraの訳語とされている。", "title": "起源と名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "精神的物質的に何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清浄で清涼な世界である。このような清浄の世界は正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "そこで、真実の浄土は仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土は成仏を目標とする菩薩の世界である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名だが、この外に阿閦仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "浄土は何のためにあるのかといえば、仏自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して化益をほどこし、さとりを開かせるためである。雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、浄土とは仏の自利・利他の二利満足の場である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これらの浄土は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、往生浄土という考えがみられる。ことに阿弥陀仏の西方極楽浄土は、往生浄土を立場とする浄土教を形成する。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "別世界に浄土の建立を説くのではなく、この世界をそのまま浄土に変現するという考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする『維摩経』の趣旨によれば、この世界にありながらこの世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、『法華経』に、この娑婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ずと説くものである(娑婆即寂光)。この考え方に立つのが、釈迦の霊山(りょうぜん)浄土、毘盧舎那仏の蓮華蔵世界である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『岩波 仏教辞典』によれば、浄土には来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種類があるとされる。", "title": "浄土の種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "来世浄土は、死後に赴く浄土として来世に立てられた浄土である。「この世に仏はいないが、死後の来世に他の世界へ行けば仏に会える」という来世他土思想に由来している。阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿閦仏の東方妙喜世界などが有名である。", "title": "浄土の種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "浄仏国土(じょうぶっこくど)とは、現実世界の浄土化を意味する語であり、現実の中で仏道実践に励む菩薩の菩薩行として立てられたものである。維摩経の仏国品などに説かれる。", "title": "浄土の種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "常寂光土(じょうじゃっこうど)とは、一切の限定を超えた絶対浄土。仏の悟りである真理そのものが具現している世界。天台宗で説く四土のうちの最高のものであり、智顗が『維摩経文疏』1で説いた。", "title": "浄土の種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種の浄土説は、ときには矛盾・対立することもあった。例えば、来世浄土は最も機根の低い者のための方便説であるとされて、来世浄土に基づく浄土念仏が批判され、真実説は絶対浄土としての常寂光土であるとされることがあった。また、本覚思想などの現実肯定の立場からは常寂光土が歓迎されたが、智顗のように来世浄土を低く評価した者であっても、実際の死に際しては浄土への往生を願うことがあった。", "title": "浄土の種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "下記のような浄土がある。", "title": "浄土の例" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "穢土とは、汚れた国土という意味であり、煩悩で汚れた凡夫が住む現実のこの世界のこと。娑婆、穢国ともいう。浄土と対比していわれる。", "title": "穢土" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。", "title": "穢土" } ]
浄土とは、大乗仏教において、一切の煩悩やけがれを離れ、五濁や地獄・餓鬼・畜生の三悪趣が無く、仏や菩薩が住む清浄な国土のこと。清浄仏土、仏国、仏刹、浄刹、浄国、浄界などとも言われる。煩悩に汚染されている衆生が住む穢土と対比される語である。浄土を焦点とする様々な宗派は、浄土教と分類されている。 阿弥陀如来の西方極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃浄土などの種々の浄土があるとされる。浄土の語は大乗仏教における宗教的理想郷を指す言葉としても広く用いられたが、平安後期以降に浄土教が広まるにつれて、浄土は主として阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すようになった。
{{Redirect|穢土|大便を意味する穢土|糞}} [[ファイル:Pure_Land_Mandala_(Kyushu_National_Museum).jpg|サムネイル]] {{大乗仏教}} {{読み仮名|'''浄土'''|じょうど}}とは、[[大乗仏教]]において、一切の[[煩悩]]やけがれを離れ、[[五濁]]や[[地獄 (仏教)|地獄]]・[[餓鬼]]・[[畜生]]の[[三悪趣]]が無く、[[仏陀|仏]]や[[菩薩]]が住む清浄な国土のこと<ref name="コトバンク浄土" /><ref name="ib534" />。'''清浄仏土'''、'''仏国'''、{{読み仮名|'''仏刹'''|ぶっせつ}}<ref name="ib534" />、{{読み仮名|'''浄刹'''|じょうせつ}}、'''浄国'''、'''浄界'''などとも言われる{{要出典|date=2017年10月4日 (水) 05:17 (UTC)|title=}}。煩悩に汚染されている[[衆生]]が住む{{読み仮名|[[穢土]]|えど}}と対比される語である<ref name="コトバンク浄土" /><ref name="ib534" />。浄土を焦点とする様々な宗派は、[[浄土教]]と分類されている。 [[阿弥陀如来]]の西方[[極楽|極楽浄土]]、[[薬師如来]]の東方[[浄瑠璃世界|浄瑠璃浄土]]などの種々の浄土があるとされる<ref name="コトバンク浄土" /><ref name="ib534">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |authorlink= |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波 仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |volume= |page=534-535 |isbn=}}</ref>。浄土の語は[[大乗仏教]]における[[宗教]]的理想郷を指す言葉としても広く用いられたが、[[平安時代|平安]]後期以降に[[浄土教]]が広まるにつれて、浄土は主として阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すようになった<ref name="コトバンク浄土">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%B5%84%E5%9C%9F-79573 |title=浄土(じょうど)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-04}}</ref>。 == 起源と名称 == === 起源 === {{節スタブ}} 極楽浄土の観念は、[[リグ・ヴェーダ]]に始まる[[ヴェーダ]]文献にその起源を求めることも可能であるとする説がある<ref name="コトバンク浄土" />。 === 名称 === 「浄土」は、[[漢訳]]の[[無量寿経]]の「清浄国土」を2字に縮めた語である<ref name="ib534" />。[[サンスクリット]]には浄土を意味する術語は無いとされるが、漢訳[[仏典]]の訳語の用例からみて、[[仏国土]]を意味する{{lang-sa-short|buddha‐kṣetra}}の訳語とされている<ref name="コトバンク浄土" />。 == 概説 == {{出典の明記|date=2017年10月5日 (木) 07:51 (UTC)|section=1}} 精神的物質的に何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清浄で清涼な世界である。このような清浄の世界は正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。 『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。 そこで、真実の浄土は仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土は成仏を目標とする菩薩の世界である。 このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の西方[[極楽]]浄土は有名だが、この外に[[阿閦如来|阿&#x95A6;仏]]の東方妙喜世界、[[薬師如来|薬師仏]]の東方浄瑠璃世界、[[釈迦如来|釈迦牟尼仏]]の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。 浄土は何のためにあるのかといえば、仏自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して化益をほどこし、さとりを開かせるためである。雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、浄土とは仏の[[自利]]・[[利他]]の[[二利満足]]の場である。 これらの浄土は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、[[往生浄土]]という考えがみられる。ことに阿弥陀仏の西方極楽浄土は、往生浄土を立場とする[[浄土教]]を形成する。 別世界に浄土の建立を説くのではなく、この世界をそのまま浄土に変現するという考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする『[[維摩経]]』の趣旨によれば、この世界にありながらこの世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、『[[法華経]]』に、この娑婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ずと説くものである(娑婆即寂光)。この考え方に立つのが、[[釈迦]]の霊山(りょうぜん)浄土、[[毘盧舎那仏]]の蓮華蔵世界である。 == 浄土の種類 == 『岩波 仏教辞典』によれば、浄土には'''来世浄土'''、'''浄仏国土'''、'''常寂光土'''の3種類があるとされる<ref name="ib534" />。 === 来世浄土 === 来世浄土は、死後に赴く浄土として[[来世]]に立てられた浄土である<ref name="ib534" />。「この世に仏はいないが、死後の来世に他の世界へ行けば仏に会える」という来世他土思想に由来している<ref name="ib534" />。阿弥陀仏の西方極楽浄土、[[阿閦如来|阿閦仏]]の[[東方妙喜世界]]などが有名である<ref name="ib534" />。 === 浄仏国土 === 浄仏国土(じょうぶっこくど)とは、現実世界の浄土化を意味する語であり、現実の中で仏道実践に励む[[菩薩]]の[[菩薩行]]として立てられたものである<ref name="ib534" />。[[維摩経]]の仏国品などに説かれる<ref name="ib534" />。 === 常寂光土 === 常寂光土(じょうじゃっこうど)とは、一切の限定を超えた絶対浄土<ref name="ib534" />。仏の[[悟り]]である真理そのものが具現している世界<ref name="コトバンク常寂光土">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E5%AF%82%E5%85%89%E5%9C%9F-79300|title=常寂光土(じょうじゃくこうど)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-04}}</ref>。[[天台宗]]で説く四土のうちの最高のものであり<ref name="コトバンク浄土" />、智顗が『[[智顗|維摩経文疏]]』1で説いた<ref name="ib534" />。 === 三浄土説の対立 === 来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種の浄土説は、ときには矛盾・対立することもあった<ref name="ib534" />。例えば、来世浄土は最も機根の低い者のための方便説であるとされて、来世浄土に基づく浄土[[念仏]]が批判され、真実説は絶対浄土としての常寂光土であるとされることがあった<ref name="ib534" />。また、[[本覚]]思想などの現実肯定の立場からは常寂光土が歓迎されたが、[[智顗]]のように来世浄土を低く評価した者であっても、実際の[[死]]に際しては浄土への[[往生]]を願うことがあった<ref name="ib534" />。 == 浄土の例 == 下記のような浄土がある<ref name="コトバンク浄土" /><ref name="ib534" />。 * [[阿弥陀如来]]の[[極楽|西方極楽浄土]] * [[阿閦如来]]の東方妙喜世界 * [[薬師如来]]の東方浄瑠璃浄土 * [[毘盧遮那仏]]の蓮華蔵世界 * [[大日如来]]の密厳浄土 * [[釈迦如来]]の[[霊鷲山|霊山浄土]] * [[弥勒菩薩]]の[[兜率天]] * [[観音菩薩|観世音菩薩]]の[[補陀落|補陀落浄土]] == 穢土 == '''[[wikt:穢土|穢土]]'''とは、汚れた[[国土]]という意味であり、[[煩悩]]で汚れた[[衆生|凡夫]]が住む現実のこの世界のこと<ref name="コトバンク浄土" /><ref name="コトバンク穢土">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%A9%A2%E5%9C%9F-36888|title=穢土(エド)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-05}}</ref>。'''娑婆'''、'''穢国'''ともいう<ref name="コトバンク穢土" />。'''浄土'''と対比していわれる<ref name="コトバンク浄土" />。 === 仏典における扱い === {{一次資料|date=2017年10月4日 (水) 05:17 (UTC)|section=1|title=出典は「関連文献」節に列挙されている3点の資料なのかもしれませんが、脚注が無いので、正確な情報源が不明です。}} *『[[維摩経]]』仏国品では、「丘陵、坑坎、荊棘、沙礫、土石、諸山ありて、穢悪充満せり」といい、砂漠地帯や開拓されていない荒野などを穢国といっている。 *『[[無量寿経優婆提舎願生偈註|往生論註]]』巻上では、「三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し」といい、虚偽の世界、流転の世界、[[尺取虫]]が丸くなって丸いものを廻るように流転し、[[蚕]]の繭の如く自らを縛りつけ苦しむ世界が穢土だという。 ここでは[[人間]]が自縄自縛して、[[虚妄]]なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる[[煩悩]]の世界をいう。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連文献 == {{参照方法|date=2020年3月23日 (月) 04:03 (UTC)|section=1}} *[[瓜生津隆真]]『[[十住毘婆沙論]]・浄土論』(傍訳浄土思想系譜全書 1)四季社、ISBN 4-88405-267-6。 *[[鈴木大拙]]『浄土系思想論』 [[法藏館]]、ISBN 483187115X。 *[[松本文三郎]]『弥勒浄土論・極楽浄土論』 [[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、ISBN 4-582-80747-X。 == 関連項目 == * [[浄土教]] * [[極楽]] * [[念仏]] * [[仏国土]] * [[天国]] {{浄土教2}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようと}} [[Category:浄土|*]] [[Category:浄土教|*+]] [[Category:浄土思想]] [[Category:浄土宗]] [[Category:浄土真宗の用語]]
2003-07-21T12:30:22Z
2023-11-27T01:43:35Z
false
false
false
[ "Template:大乗仏教", "Template:Cite book", "Template:Lang-sa-short", "Template:Notelist", "Template:参照方法", "Template:Buddhism2", "Template:浄土教2", "Template:Normdaten", "Template:読み仮名", "Template:節スタブ", "Template:出典の明記", "Template:Reflist", "Template:Redirect", "Template:要出典", "Template:一次資料", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F
11,990
完全数
完全数(かんぜんすう、英: perfect number)とは、自分自身が自分自身を除く正の約数の和に等しくなる自然数のことである。完全数の最初の4個は 6 (= 1 + 2 + 3)、28 (= 1 + 2 + 4 + 7 + 14)、496 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 31 + 62 + 124 + 248) 、 8128 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 32 + 64 + 127 + 254 + 508 + 1016 + 2032 + 4064)である。 「完全数」は「万物は数なり」と考えたピタゴラスが名付けた数の一つであることに由来するが、彼がなぜ「完全」と考えたのかについては何も書き残されていないようである。中世の『聖書』の研究者は、「6 は『神が世界を創造した(天地創造)6日間』、28 は『月の公転周期』で、これら2つの数は地上と天界における神の完全性を象徴している」と考えたとされる。古代ギリシアの数学者は他にもあと2つの完全数 (496, 8128) を知っていた。以来、完全数はどれだけあるのかの探求が2500年以上のちの現在まで続けられている。 完全数の定義は、正の約数の総和が自分自身の2倍に等しいことと同値である。すなわち、N が完全数であるとは、約数関数 σ に対して σ(N) = 2N が成り立つことであると表現できる。また、正の約数の逆数和が 2 であると表現することもできる。 完全数に関する最初の成果は紀元前3世紀ごろのユークリッドである。彼は『原論』(第9巻、命題36)で、「2 − 1 が素数ならば、2(2 − 1) は完全数である」ということを証明した。2 − 1 で表される数をメルセンヌ数といい、それが素数である場合をメルセンヌ素数という。 古代から、6、28、496、8128の4つの数が完全数であることは知られており、ゲラサのニコマコスの『算術入門』には4つの完全数に関する記述が存在する。 ユークリッドの公式は偶数の完全数しか生成しないが、逆に偶数の完全数が全て 2(2 − 1) の形で書けるかどうかは18世紀までは未解決であった。レオンハルト・オイラーは偶数の完全数がこの形に限ることを証明した。 メルセンヌ素数の探索は、エドゥアール・リュカとデリック・ヘンリー・レーマー(英語版)によってメルセンヌ数が素数であるかどうかの効率的な判定法が考案され、1950年代からコンピュータが使われるようになる。現在では分散コンピューティング GIMPS による探求が行われていて、2022年2月現在で判明している最大のメルセンヌ素数は2486万2048桁の数である。 2021年8月現在発見されている完全数はメルセンヌ素数と同じく51個である。紀元前より考察されている対象であるにもかかわらず、「偶数の完全数は無数に存在するか?」「奇数の完全数は存在するか?」という問題は未解決である。 完全数は、小さい順に である。 各完全数の正の約数の総和は 隣り合う完全数の差は 完全数の総和の列は である。 6 と 28 がなぜ「完全」であるかは中世の学者の議論の対象になり、6 は神が創造した1週間(日曜日は神が天地創造を終えて休んだ安息日で、キリスト教ではこれを除外する)、28 は「月の公転周期」とされた。聖アウグスティヌス(? - 604年)はこれとは一線を画し、「6 はそれ自体完全な数である。神が万物を6日間で創造したから 6 が完全なのでなく、むしろ逆が真である」としている。 偶数の完全数 2(2 − 1) = (Mp+1)Mp/2 は Mp 番目の三角数でもある。 偶数の完全数は、Mp = 2 − 1 が素数のときの 2Mp に限る(ユークリッド、オイラー)。 2Mp が完全数であることの証明: Mp = 2 − 1 は奇数になるから、2 と Mp は互いに素になる。 よって、σ(n) を約数関数とすると、約数関数は乗法的なので、N = 2Mp の約数の総和 σ(N) は、 このとき、 Mp は素数なので、 したがって、 すなわち、N の約数の総和が 2N に等しくなるので、N は完全数である。Q.E.D. 偶数の完全数は 2Mp の形に限ることの証明: N を偶数の完全数とする。N を 2 で割り切る最大回数を n とすると、N = 2K(n は自然数、K は奇数)とおける。2 と K は互いに素であるので、σ(n) を約数関数とすると、約数関数は乗法的なので、N の正の約数の総和 σ(N) は以下のようになる。 N は完全数であるため、 σ(N) = 2N = 2K なので が導かれる。2 − 1 は奇数なので 2 で割り切れず、式が成立するためには、σ(K) は 2 で割り切れなければならない。 σ(K) = 2a とおき、上の式に代入して両辺を 2 で割れば となる。 もし a ≠ 1 なら、1、 a、 (2 − 1)a は K の相異なる約数のため、 となり矛盾する。ゆえに、a = 1 でなければならない。したがって、N が偶数の完全数であるためには、 でなければならない。σ(K) = K + 1 より、K は K と 1 以外に約数がない素数でなければならない。 ゆえに、N が偶数の完全数であるのは、 N = 2(2 − 1)(ただし 2 − 1 は素数)の形のときに限られる。Q.E.D. 偶数の完全数を N = 2(2 − 1)(2 −1 は素数)とする。 偶数の完全数は無数に存在するか、つまり Mp = 2 − 1 が素数となる素数 p は無数に存在するかどうかは未解決である。 奇数の完全数が存在するか否かは未解決であるが、約数関数は乗法的 (英: multiplicative) であることから、二平方数の和であることが古くから知られていた。もし奇数の完全数 N が存在すれば、N は以下の各条件を満たさなければならないことが知られている。 約数の和を考えることで特徴付けられる数の種類には他にも次のようなものがある。完全数と併せて、これらの名称には古代ギリシアの数秘学の影響が見られる。 完全数でない自然数を不完全数 (imperfect number) という。 小川洋子の小説『博士の愛した数式』(2003年)では登場人物の「博士」が阪神タイガースの江夏豊投手のファンであったことの理由として江夏の背番号が28であったことを挙げ、その際に完全数の説明がなされている。 日本プロ野球で初めて完全試合が達成されたのは月・日とも完全数の1950年6月28日だった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "完全数(かんぜんすう、英: perfect number)とは、自分自身が自分自身を除く正の約数の和に等しくなる自然数のことである。完全数の最初の4個は 6 (= 1 + 2 + 3)、28 (= 1 + 2 + 4 + 7 + 14)、496 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 31 + 62 + 124 + 248) 、", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "8128 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 32 + 64 + 127 + 254 + 508 + 1016 + 2032 + 4064)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「完全数」は「万物は数なり」と考えたピタゴラスが名付けた数の一つであることに由来するが、彼がなぜ「完全」と考えたのかについては何も書き残されていないようである。中世の『聖書』の研究者は、「6 は『神が世界を創造した(天地創造)6日間』、28 は『月の公転周期』で、これら2つの数は地上と天界における神の完全性を象徴している」と考えたとされる。古代ギリシアの数学者は他にもあと2つの完全数 (496, 8128) を知っていた。以来、完全数はどれだけあるのかの探求が2500年以上のちの現在まで続けられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "完全数の定義は、正の約数の総和が自分自身の2倍に等しいことと同値である。すなわち、N が完全数であるとは、約数関数 σ に対して σ(N) = 2N が成り立つことであると表現できる。また、正の約数の逆数和が 2 であると表現することもできる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "完全数に関する最初の成果は紀元前3世紀ごろのユークリッドである。彼は『原論』(第9巻、命題36)で、「2 − 1 が素数ならば、2(2 − 1) は完全数である」ということを証明した。2 − 1 で表される数をメルセンヌ数といい、それが素数である場合をメルセンヌ素数という。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古代から、6、28、496、8128の4つの数が完全数であることは知られており、ゲラサのニコマコスの『算術入門』には4つの完全数に関する記述が存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ユークリッドの公式は偶数の完全数しか生成しないが、逆に偶数の完全数が全て 2(2 − 1) の形で書けるかどうかは18世紀までは未解決であった。レオンハルト・オイラーは偶数の完全数がこの形に限ることを証明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "メルセンヌ素数の探索は、エドゥアール・リュカとデリック・ヘンリー・レーマー(英語版)によってメルセンヌ数が素数であるかどうかの効率的な判定法が考案され、1950年代からコンピュータが使われるようになる。現在では分散コンピューティング GIMPS による探求が行われていて、2022年2月現在で判明している最大のメルセンヌ素数は2486万2048桁の数である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2021年8月現在発見されている完全数はメルセンヌ素数と同じく51個である。紀元前より考察されている対象であるにもかかわらず、「偶数の完全数は無数に存在するか?」「奇数の完全数は存在するか?」という問題は未解決である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "完全数は、小さい順に", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "各完全数の正の約数の総和は", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "隣り合う完全数の差は", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "完全数の総和の列は", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "6 と 28 がなぜ「完全」であるかは中世の学者の議論の対象になり、6 は神が創造した1週間(日曜日は神が天地創造を終えて休んだ安息日で、キリスト教ではこれを除外する)、28 は「月の公転周期」とされた。聖アウグスティヌス(? - 604年)はこれとは一線を画し、「6 はそれ自体完全な数である。神が万物を6日間で創造したから 6 が完全なのでなく、むしろ逆が真である」としている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "偶数の完全数 2(2 − 1) = (Mp+1)Mp/2 は Mp 番目の三角数でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "偶数の完全数は、Mp = 2 − 1 が素数のときの 2Mp に限る(ユークリッド、オイラー)。", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2Mp が完全数であることの証明:", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Mp = 2 − 1 は奇数になるから、2 と Mp は互いに素になる。", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "よって、σ(n) を約数関数とすると、約数関数は乗法的なので、N = 2Mp の約数の総和 σ(N) は、", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このとき、", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "Mp は素数なので、", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "したがって、", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "すなわち、N の約数の総和が 2N に等しくなるので、N は完全数である。Q.E.D.", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "偶数の完全数は 2Mp の形に限ることの証明:", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "N を偶数の完全数とする。N を 2 で割り切る最大回数を n とすると、N = 2K(n は自然数、K は奇数)とおける。2 と K は互いに素であるので、σ(n) を約数関数とすると、約数関数は乗法的なので、N の正の約数の総和 σ(N) は以下のようになる。", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "N は完全数であるため、 σ(N) = 2N = 2K なので", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "が導かれる。2 − 1 は奇数なので 2 で割り切れず、式が成立するためには、σ(K) は 2 で割り切れなければならない。 σ(K) = 2a とおき、上の式に代入して両辺を 2 で割れば", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "もし a ≠ 1 なら、1、 a、 (2 − 1)a は K の相異なる約数のため、", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "となり矛盾する。ゆえに、a = 1 でなければならない。したがって、N が偶数の完全数であるためには、", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "でなければならない。σ(K) = K + 1 より、K は K と 1 以外に約数がない素数でなければならない。", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ゆえに、N が偶数の完全数であるのは、 N = 2(2 − 1)(ただし 2 − 1 は素数)の形のときに限られる。Q.E.D.", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "偶数の完全数を N = 2(2 − 1)(2 −1 は素数)とする。", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "偶数の完全数は無数に存在するか、つまり Mp = 2 − 1 が素数となる素数 p は無数に存在するかどうかは未解決である。", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "奇数の完全数が存在するか否かは未解決であるが、約数関数は乗法的 (英: multiplicative) であることから、二平方数の和であることが古くから知られていた。もし奇数の完全数 N が存在すれば、N は以下の各条件を満たさなければならないことが知られている。", "title": "完全数の分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "約数の和を考えることで特徴付けられる数の種類には他にも次のようなものがある。完全数と併せて、これらの名称には古代ギリシアの数秘学の影響が見られる。", "title": "完全数でない自然数" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "完全数でない自然数を不完全数 (imperfect number) という。", "title": "完全数でない自然数" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "小川洋子の小説『博士の愛した数式』(2003年)では登場人物の「博士」が阪神タイガースの江夏豊投手のファンであったことの理由として江夏の背番号が28であったことを挙げ、その際に完全数の説明がなされている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本プロ野球で初めて完全試合が達成されたのは月・日とも完全数の1950年6月28日だった。", "title": "エピソード" } ]
完全数とは、自分自身が自分自身を除く正の約数の和に等しくなる自然数のことである。完全数の最初の4個は 6、28、496 、 8128である。 「完全数」は「万物は数なり」と考えたピタゴラスが名付けた数の一つであることに由来するが、彼がなぜ「完全」と考えたのかについては何も書き残されていないようである。中世の『聖書』の研究者は、「6 は『神が世界を創造した(天地創造)6日間』、28 は『月の公転周期』で、これら2つの数は地上と天界における神の完全性を象徴している」と考えたとされる。古代ギリシアの数学者は他にもあと2つの完全数 を知っていた。以来、完全数はどれだけあるのかの探求が2500年以上のちの現在まで続けられている。 完全数の定義は、正の約数の総和が自分自身の2倍に等しいことと同値である。すなわち、N が完全数であるとは、約数関数 σ に対して σ(N) = 2N が成り立つことであると表現できる。また、正の約数の逆数和が 2 であると表現することもできる。
{{Unsolved|数学上|完全数は無限にあるか。また、奇数の完全数は存在するか。}} '''完全数'''(かんぜんすう、{{Lang-en-short|perfect number}})とは、自分自身が自分自身を除く正の[[約数]]の和に等しくなる[[自然数]]のことである。完全数の最初の4個は {{math|[[6]]}} ({{math|{{=}} 1 + 2 + 3}})、{{math|[[28]]}} ({{math|{{=}} 1 + 2 + 4 + 7 + 14}})、{{math|[[496]]}} ({{math|{{=}} 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 31 + 62 + 124 + 248}}) 、 {{math|[[8128]]}} ({{math|{{=}} 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 32 + 64 + 127 + 254 + 508 + 1016 + 2032 + 4064}})である。 「完全数」は「万物は数なり」と考えた[[ピタゴラス]]が名付けた数の一つであることに由来する<ref name="retsuden">「高数・数学者列伝」[[吉永良正]]『高校への数学』vol.20、1995年8月号</ref>が、彼がなぜ「完全」と考えたのかについては何も書き残されていないようである<ref name="retsuden" />。[[中世]]の『[[聖書]]』の研究者は、「{{math|6}} は『神が世界を創造した([[天地創造]])6日間』、{{math|28}} は『[[月]]の[[公転周期]]』で、これら2つの数は地上と天界における神の完全性を象徴している」<ref name="retsuden" />と考えたとされる<ref>[[淡中忠郎]]「メルセンヌ数物語」『数学セミナー』、1973年9月号。[[#数学セミナー編集部1982|数学セミナー編集部(1982)]]、65-67頁に再録されている。</ref>。[[古代ギリシア]]の数学者は他にもあと2つの完全数 ({{math|496, 8128}}) を知っていた<ref name="retsuden" />。以来、完全数はどれだけあるのかの探求が2500年以上のちの現在まで続けられている。 完全数の定義は、正の約数の総和が自分自身の2倍に等しいことと同値である。すなわち、{{mvar|N}} が完全数であるとは、[[約数関数]] {{math|σ}} に対して {{math|σ(''N'') {{=}} 2''N''}} が成り立つことであると表現できる。また、正の約数の逆数和が {{math|2}} であると表現することもできる。 == 歴史 == 完全数に関する最初の成果は[[紀元前3世紀]]ごろの[[エウクレイデス|ユークリッド]]である。彼は『[[ユークリッド原論|原論]]』(第9巻、命題36)で、「{{math|2{{sup|''n''}} &minus; 1}} が[[素数]]ならば、{{math|2{{sup|''n''&minus;1}}(2{{sup|''n''}} &minus; 1)}} は完全数である」ということを証明した{{refnest|group=注釈|『[[ユークリッド原論]]』第9巻、命題36は以下の通り。 {{Quotation|もし単位から始まり順次に1対2の比をなす任意個の数が定められ,それらの総和が素数になるようにされ,そして全体が最後の数にかけられてある数を作るならば,その積は完全数であろう。|[[エウクレイデス]]|『[[#共立版原論|ユークリッド原論]]』第9巻、命題36}}すなわち :{{math|1 + 2 + 2<sup>2</sup> + 2<sup>3</sup> + ... + 2<sup>''n''-1</sup> {{=}} ''M<sub>n</sub>''}} が素数ならば {{math|''M<sub>n</sub>'' × 2<sup>''n''-1</sup> }} は完全数である。}}。{{math|2{{sup|''n''}} &minus; 1}} で表される数を[[メルセンヌ数]]といい、それが素数である場合を'''[[メルセンヌ数#メルセンヌ素数|メルセンヌ素数]]'''という。 古代から、6、28、496、8128の4つの数が完全数であることは知られており、[[ニコマコス|ゲラサのニコマコス]]の『[[算術入門]]』には4つの完全数に関する記述が存在する<ref>{{Cite book|洋書|title=Introduction to Arithmetic|year=1926|publisher=The Macmillan Company|pages=207&ndash;212|ref={{Harvid|Nicomachus|1926}}|author=Nicomachus of Gerasa|url=https://archive.org/details/NicomachusIntroToArithmetic|others=Martin Luther D'Oge (trans)}}</ref>。 ユークリッドの公式は偶数の完全数しか生成しないが、逆に偶数の完全数が全て {{math|2{{sup|''n''&minus;1}}(2{{sup|''n''}} &minus; 1)}} の形で書けるかどうかは[[18世紀]]までは未解決であった。[[レオンハルト・オイラー]]は偶数の完全数がこの形に限ることを証明した<ref name="Hardy and Wright.p317" /><ref name="Wada1981">{{Harvnb|和田|1981|pp=59-61}}</ref>{{Refnest|{{Harvtxt|Euler|1849}}は. 1747年2月23日にベルリン・アカデミーにより査読され、オイラーの死後の1849年に出版された。特に 88頁の§8を参照<ref>{{Harvtxt|Dickson|2005|p=19}}</ref>。|name=Euler1849|group=注釈}}。 メルセンヌ素数の探索は、[[エドゥアール・リュカ]]と{{仮リンク|デリック・ヘンリー・レーマー|en|Derrick Henry Lehmer}}によってメルセンヌ数が素数であるかどうかの効率的な判定法が考案され、[[1950年代]]から[[コンピュータ]]が使われるようになる。現在では[[分散コンピューティング]] [[GIMPS]] による探求が行われていて、2022年2月現在で判明している最大のメルセンヌ素数は2486万2048桁の数である<ref>{{Cite press release|title=GIMPS Discovers Largest Known Prime Number: 2<sup>82,589,933</sup>-1|publisher=[[GIMPS]]|date=2018-12-21|url=https://www.mersenne.org/primes/?press=M82589933|language=en|accessdate=2022-02-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220205002944/https://www.mersenne.org/primes/?press=M82589933|archivedate=2022-02-05}}</ref>。 2021年8月現在発見されている完全数は[[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]]と同じく51個である。紀元前より考察されている対象であるにもかかわらず、「[[偶数]]の完全数は無数に存在するか?」「[[奇数]]の完全数は存在するか?」という問題は未解決である。 == 概要 == 完全数は、小さい順に :{{math|[[6]], [[28]], [[496]], [[8128]], [[33550336]], 8589869056, …}}({{OEIS|A000396}}) である。 各完全数の正の約数の総和は :{{math|[[12]], [[56]], [[992]], 16256, 67100672, 17179738112, …}}({{OEIS|A139256}}) 隣り合う完全数の差は :{{math|[[22]], [[468]], 7632, 33542208, 8556318720, …}}({{OEIS|A139228}}) 完全数の総和の列は :{{math|[[6]], [[34]], [[530]], [[8658]], [[33558994]], …}}({{OEIS|A092336}}) である。 {{math|6}} と {{math|28}} がなぜ「完全」であるかは[[中世]]の学者の議論の対象になり、{{math|6}} は神が創造した1週間(日曜日は神が[[天地創造]]を終えて休んだ安息日で、[[キリスト教]]ではこれを除外する)、{{math|28}} は「[[月]]の[[公転周期]]」とされた<ref name = "retsuden"/>。[[カンタベリーのアウグスティヌス|聖アウグスティヌス]](? - [[604年]])はこれとは一線を画し、「{{math|6}} はそれ自体完全な数である。神が万物を6日間で創造したから {{math|6}} が完全なのでなく、むしろ逆が真である」としている<ref name = "retsuden"/>。 偶数の完全数 {{math|2{{sup|''p''&minus;1}}(2{{sup|''p''}} &minus; 1) {{=}} {{sfrac|(''M''{{sub|''p''}}+1)''M''{{sub|p}}|2}}}} は {{math|''M''{{sub|''p''}}}} 番目の[[三角数]]でもある。 == 完全数の分類 == === 偶数の完全数 === 偶数の完全数は、{{math|''M{{sub|p}}'' {{=}} 2{{sup|''p''}} &minus; 1}} が[[素数]]のときの {{math|2{{sup|''p''&minus;1}}''M{{sub|p}}''}} に限る(ユークリッド、オイラー)。 ==== ユークリッドの証明 ==== {{math|2{{sup|''p''&minus;1}}''M{{sub|p}}''}} が完全数であることの証明:<ref>{{Harvnb|ハーディ|ライト|2001|p=316}}</ref> {{math proof|title = ユークリッドの証明|1= {{math|''M{{sub|p}}'' {{=}} 2{{sup|''p''}} &minus; 1}} は奇数になるから、{{math|2{{sup|''p''&minus;1}}}} と {{math|''M{{sub|p}}''}} は[[互いに素 (整数論)|互いに素]]になる。 よって、{{math|σ(''n'')}} を[[約数関数]]とすると、約数関数は[[乗法的関数|乗法的]]なので、{{math|''N'' {{=}} 2{{sup|''p''&minus;1}}''M{{sub|p}}''}} の[[約数]]の[[総和]] {{math|σ(''N'')}} は、 :<math>\sigma(N) = \sigma(2^{p-1})\sigma(M_p).</math> このとき、 :<math>\sigma(2^{p-1}) = \sum_{k=0}^{p-1} 2^k = 2^p - 1 = M_p.</math> {{math|''M{{sub|p}}''}} は素数なので、 :<math>\sigma(M_p) = M_p + 1 = 2^p.</math> したがって、 :<math>\sigma(N) = M_p 2^p = 2N.</math> すなわち、{{mvar|N}} の約数の総和が {{math|2''N''}} に等しくなるので、{{mvar|N}} は完全数である。[[Q.E.D.]] |drop=yes}} ==== オイラーの証明 ==== 偶数の完全数は {{math|2{{sup|''p''&minus;1}}''M{{sub|p}}''}} の形に限ることの証明<ref name="Hardy and Wright.p317">{{Harvnb|ハーディ|ライト|2001|p=317}}</ref><ref name="Wada1981" /><ref group="注釈" name="Euler1849" />: {{math proof|title = オイラーの証明|1= {{mvar|N}} を偶数の完全数とする。{{mvar|N}} を {{math|2}} で割り切る最大回数を {{mvar|n}} とすると、{{math|''N'' {{=}} 2{{sup|''n''}}''K''}}({{mvar|n}} は自然数、{{mvar|K}} は奇数)とおける。{{math|2{{sup|''n''}}}} と {{mvar|K}} は[[互いに素 (整数論)|互いに素]]であるので、{{math|σ(''n'')}} を[[約数関数]]とすると、約数関数は[[乗法的関数|乗法的]]なので、{{mvar|N}} の正の約数の総和 {{math|σ(''N'')}} は以下のようになる。 :<math>\begin{align} \sigma \left( N\right) &=\sigma \left( 2^n \right) \ \sigma \left( K\right) = \left(\sum_{k=0}^n 2^k\right) \sigma(K) \\ &=\left( 2^{n+1} -1 \right) \ \sigma \left( K \right) \end{align}</math> {{mvar|N}} は完全数であるため、 {{math|σ(''N'') {{=}} 2''N'' {{=}} 2{{sup|''n''+1}}''K''}} なので :<math>\left( 2^{n+1} -1\right) \sigma \left( K\right) =2^{n+1}K</math> が導かれる。{{math|2{{sup|''n''+1}} &minus; 1}} は奇数なので {{math|2}} で割り切れず、式が成立するためには、{{math|σ(''K'')}} は {{math|2{{sup|''n''+1}}}} で割り切れなければならない。 {{math|σ(''K'') {{=}} 2{{sup|''n''+1}}''a''}} とおき、上の式に代入して両辺を {{math|2{{sup|''n''+1}}}} で割れば :<math>\left( 2^{n+1} -1\right) a=K</math> となる。 もし {{math|''a'' ≠ 1}} なら、{{math|1}}、 {{math|''a''}}、 {{math|(2{{sup|''n''+1}} &minus; 1)''a''}} は {{mvar|K}} の相異なる約数のため、 :<math>\sigma \left( K\right) \geqq 1+a+\left( 2^{n+1} -1\right) a=2^{n+1} a+1=\sigma \left( K\right) +1</math> となり矛盾する。ゆえに、{{math|''a'' {{=}} 1}} でなければならない。したがって、{{mvar|N}} が偶数の完全数であるためには、 :<math>K=2^{n+1} -1</math> かつ <math>\sigma \left( K\right) =2^{n+1} =K+1</math> でなければならない。{{math|σ(''K'') {{=}} ''K'' + 1}} より、{{mvar|K}} は {{mvar|K}} と {{math|1}} 以外に約数がない素数でなければならない。 ゆえに、{{mvar|N}} が偶数の完全数であるのは、 {{math|''N'' {{=}} 2{{sup|''n''}}(2{{sup|''n''+1}} &minus; 1)}}(ただし {{math|2{{sup|''n''+1}} &minus; 1}} は素数)の形のときに限られる。[[Q.E.D.]] |drop=yes}} ==== 偶数の完全数の性質 ==== 偶数の完全数を {{math|''N'' {{=}} {{math|2{{sup|''p''&minus;1}}(2{{sup|''p''}} &minus; 1)}}}}({{math|2{{sup|''p''}} &minus;1}} は素数)とする。 *{{mvar|N}} の正の約数の個数は {{math|''d''(''N'') {{=}} 2''p''}} である({{mvar|d}} は約数の個数を表す[[約数関数]])。 *{{mvar|N}} の正の約数の[[調和平均]]は {{mvar|p}}、ゆえに {{mvar|N}} は[[調和数]]である。 *{{math|6}} 以外の偶数の完全数は、{{math|1}} から連続する正の奇数の[[立方和]]で表せる。式で表すと :<math>N=\sum_{k=1}^{2^{\frac{p-1}{2}}} (2k-1)^3 \quad (p\geqq 3)</math> :例: :{{math|28 {{=}} 1{{sup|3}} + 3{{sup|3}}, 496 {{=}} 1{{sup|3}} + 3{{sup|3}} + 5{{sup|3}} + 7{{sup|3}}, 8128 {{=}} 1{{sup|3}} + 3{{sup|3}} + 5{{sup|3}} + 7{{sup|3}} + 9{{sup|3}} + 11{{sup|3}} + 13{{sup|3}} + 15{{sup|3}}}} :{{math|1}} から連続する正の奇数の立方和で表せる数の列は :{{math|[[1]], '''[[28]]''', [[153]], '''[[496]]''', [[1225]], 2556, 4753, '''[[8128]]''', …}}({{OEIS|A002593}}) *{{math|2{{sup|''n''&minus;1}}(2{{sup|''n''}} &minus; 1)}}({{mvar|n}} は自然数)の列は :{{math|[[1]], '''[[6]]''', '''[[28]]''', [[120]], '''[[496]]''', [[2016]], '''[[8128]]''', 32640, …}}({{OEIS|A006516}}) :''この数列で完全数にならない数の数列は {{OEIS|A144858}} を参照'' *{{math|''n'' × σ(''n'')}} は {{math|''n'' {{=}} 2{{sup|''p''&minus;1}}}} のとき偶数の完全数になる。ただし {{math|σ}} は[[約数関数]]である。この数列は :{{math|[[1]], '''[[6]]''', [[12]], '''[[28]]''', [[30]], [[72]], [[56]], [[120]], [[117]], [[180]], [[132]], [[336]], [[182]], [[336]], [[360]], '''[[496]]''', [[306]], [[702]], [[380]], [[840]], …}}({{OEIS|A064987}}) *偶数の完全数は、{{math|1}} から連続する正の整数の和で表せる。式で表すと :<math>N=\sum_{k=1}^{2^{p}-1} k \quad (p\geqq 2)</math> :例:{{math|6 {{=}} 1 + 2 + 3 , 28 {{=}} 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 , 496 {{=}} 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 + 8 + ... + 28 + 29 + 30 + 31}} :言い換えると、{{mvar|N}} は {{math|2{{sup|''p''}} &minus; 1}} 番目の[[三角数]]である。偶数の三角数の列は :{{math2|'''[[6]]''', [[10]], '''[[28]]''', [[36]], [[66]], [[78]], [[120]], [[136]], [[190]], [[210]], [[276]], [[300]], [[378]], [[406]], '''[[496]]''', [[528]], [[630]], [[666]], [[780]], [[820]], [[946]], 990, …}}({{OEIS|A014494}}) *偶数の完全数は全て奇数番目の三角数でもあるので、知られている完全数は全て[[六角数]]でもある。六角数の列は :{{math|[[1]], '''[[6]]''', [[15]], '''[[28]]''', [[45]], [[66]], [[91]], [[120]], [[153]], [[190]], [[231]], [[276]], [[325]], [[378]], [[435]], '''[[496]]''', [[561]], …}}({{OEIS|A000384}}) *{{mvar|n}} 番目の六角数は {{math|''n''(2''n'' &minus; 1)}} なので、偶数の六角数は {{math|2''n''(4''n'' &minus; 1)}} で表される。偶数の六角数の列は :{{math|'''[[6]]''', '''[[28]]''', [[66]], [[120]], [[190]], [[276]], [[378]], '''[[496]]''', [[630]], [[780]], [[946]], …}}({{OEIS|A014635}}) *{{math|6}} 以外の完全数は[[中心つき九角数]]に含まれる。この数の列は :{{math|[[1]], [[10]], '''[[28]]''', [[55]], [[91]], [[136]], [[190]], [[253]], [[325]], [[406]], '''[[496]]''', [[595]], [[703]], [[820]], [[946]], …}}({{OEIS|A060544}}) *{{mvar|N}} を[[十進法]]表示したとき、一の位は {{math|6}} または {{math|8}} である。 ==== 偶数の完全数の未解決問題 ==== 偶数の完全数は無数に存在するか、つまり {{math|''M{{sub|p}}'' {{=}} 2{{sup|''p''}} &minus; 1}} が素数となる素数 {{mvar|p}} は無数に存在するかどうかは未解決である。 === 奇数の完全数 === 奇数の完全数が存在するか否かは未解決であるが、[[約数関数]]は[[数論的関数#乗法的関数|乗法的]] ({{Lang-en-short|multiplicative}}) であることから、二平方数の和であることが古くから知られていた。もし奇数の完全数 {{mvar|N}} が存在すれば、{{mvar|N}} は以下の各条件を満たさなければならないことが知られている。 *{{mvar|N}} の[[素因数分解]]は {{math|''q''{{sup|α}}''p''{{sub|1}}{{sup|2''e''{{sub|1}}}} … ''p{{sub|k}}''{{sup|2''e{{sub|k}}''}}}} の形である。ここで {{math|''q'', ''p''{{sub|1}} < ''p''{{sub|2}} < … < ''p{{sub|k}}''}} は相異なる素数で {{math|''q'' ≡ α ≡ 1 (mod 4)}} を満たす{{refnest|group="注釈"|オイラーが証明した<ref>{{Harvtxt|Dickson|2005|p=98}}</ref>。}}。 **{{math|''N'' < 2{{sup|4{{sup|''k''+1}}}}}} である<ref name="Nielsen2003">{{cite journal | last=Nielsen | first=Pace P. | title=An upper bound for odd perfect numbers | journal=Integers | year=2003 | volume=3 | pages=A14 | url=http://math.colgate.edu/~integers/vol3.html }}</ref>。 **{{math|''p''{{sub|1}} < {{sfrac|2|3}}''k'' + 2}} である<ref name="Grün1952">{{cite journal | last=Grün | first=Otto | title=Über ungerade vollkommene Zahlen | journal=Mathematische Zeitschrift | year=1952 | volume=55 | issue=3 | pages=353--354 | doi=10.1007/BF01181133 }}</ref>。また {{math|2 ≤ ''i'' ≤ 6}} のとき {{math|''p{{sub|i}}'' < 2{{sup|2{{sup|''i''&minus;1}}}}(''k'' &minus; ''i'' + 1)}} である<ref>M. Kishore, "On odd perfect, quasiperfect, and odd almost perfect numbers", Math. Comp. 36 (1981), 583-586.</ref>。 **{{math|''e''{{sub|1}} ≡ ''e''{{sub|2}} ≡ … ≡ ''e{{sub|k}}'' ≡ 1 (mod 3)}} ではない<ref>W. L. McDaniel, "The non-existence of odd perfect numbers of a certain form", Arch. Math. (Basel) 21 (1970), 52-53.</ref>。 **{{math|''e''{{sub|1}} ≡ ''e''{{sub|2}} ≡ … ≡ ''e{{sub|k}}'' ≡ 2 (mod 5)}} ではない<ref name="FletcherNielsenOchem2012">{{cite journal | last1=Fletcher | first1=S. Adam | last2=Nielsen | first2=Pace P. | last3=Ochem | first3=Pascal | title=Sieve methods for odd perfect numbers | journal=Mathematics of Computation | volume=81 | issue=279 | year=2012 | pages=1753--1776 | doi=10.1090/S0025-5718-2011-02576-7 | url=http://www.lirmm.fr/~ochem/opn/OPNS_Adam_Pace.pdf | mr=2904601 | issn=0025-5718 }}</ref>. **{{math|''e''{{sub|1}} {{=}} ''e''{{sub|2}} {{=}} … {{=}} ''e{{sub|k}}'' {{=}} β}} とすると、{{math|β}} は {{math|1, 2, 3, 5, 6, 8, 11, 12, 14, 17, 18, 24, 62}} ではない<ref>W. L. McDaniel and P. Hagis Jr., "Some results concerning the non-existence of odd perfect numbers of the form ''p''{{sup|''a''}}''M''{{sup|2β}}", Fibonacci Quart. 13 (1975), 25-28.</ref><ref>G. L. Cohen, R. J. Williams, "Extensions of some results concerning odd perfect numbers", Fibonacci Quart. 23 (1985), 70-76.</ref>。さらに{{math|''k'' ≤ 2β{{sup|2}} + 8β + 2}} である<ref name="Yamada2019">{{cite journal | last1=Yamada | first1=Tomohiro | title=A new upper bound for odd perfect numbers of a special form | journal=Colloquium Mathematicum | volume=156 | year=2019 | issue=1 | pages=15--21 | doi=10.4064/cm7339-3-2018 | issn=1730-6302 }}</ref>。 **{{math|''N'' ≡ 1 (mod 12)}} または {{math|''N'' ≡ {{sfrac|1|2}} ・ 3{{sup|2''e''{{sub|1}}}}(3{{sup|2''e''{{sub|1}}+1}} &minus; 1) (mod 2 ・ 3{{sup|2''e''{{sub|1}}}}(3{{sup|2''e''{{sub|1}}+1}} &minus; 1))}} である<ref>J. Touchard, "On prime numbers and perfect numbers", Scripta Math. 19 (1953), 53-59.</ref><ref>M. Satyanarayana, "Odd perfect numbers", Math. Student 27 (1959), 17-18.</ref><ref>J. A. Holdener, "A theorem of Touchard on the form of odd perfect numbers". Amer. Math. Monthly, 109 (2002), 661-663.</ref><ref> T. Roberts, "On the Form of an Odd Perfect Number", Australian Mathematical Gazette, 35:4 (2008), 244</ref>。 *{{math|''N'' > 10{{sup|1500}}}} である<ref name="OchemRao2012">{{cite journal | last1=Ochem | first1=Pascal | last2=Rao | first2=Michaël | title=Odd perfect numbers are greater than 10<sup>1500</sup> | journal=Mathematics of Computation | year=2012 | volume=81 | issue=279 | pages=1869--1877 | doi=10.1090/S0025-5718-2012-02563-4 | url=http://www.lirmm.fr/~ochem/opn/opn.pdf | mr=2904606 | zbl=1263.11005 | issn=0025-5718 }}</ref>。 ** これは1991年に示された<ref>R. P. Brent, Graeme L. Cohen, H. J. J. te Riele, "Improved techniques for lower bounds for odd perfect numbers", Math. Comp. 57 (1991), 857-868</ref>を約20年ぶりに改良したものである。 *{{mvar|N}} は少なくとも10個の相異なる素因数を持つ<ref name="Nielsen2015">{{cite journal | last=Nielsen | first=Pace P. | title=Odd perfect numbers, Diophantine equations, and upper bounds|journal=Mathematics of Computation | year=2015 | volume=84 | issue=295 | pages=2549--2567 | url=https://math.byu.edu/~pace/BestBound_web.pdf | doi=10.1090/S0025-5718-2015-02941-X | mr=3356038 | issn=0025-5718 }}</ref>。 **これは2015年に発表されたものであるが、「9個以上」を示した2006年の結果<ref name="Nielsen2007">{{cite journal | last=Nielsen | first=Pace P. | title=Odd perfect numbers have at least nine distinct prime factors | journal=Mathematics of Computation | year=2007 | volume=76 | issue=260 | pages=2109--2126 | url=https://math.byu.edu/~pace/NotEight_web.pdf | doi=10.1090/S0025-5718-07-01990-4 | arxiv=math/0602485 | mr=2336286 | issn=0025-5718 }}</ref>を改良したものである。「7個」の場合は1972年までに[[カール・ポメランス]]によって示され、「8個」の場合は1980年ごろに Chein<ref>J. E. Z. Chein, "An odd perfect number has at least 8 prime factors", Doctoral Thesis, Pennsylvania State University, 1979.</ref>と Hagis<ref>P. Hagis Jr., "Outline of a proof that every odd perfect number has at least eight prime factors", Math. Comp. 35 (1980) 1027-1032.</ref>によってほぼ同時に示されており、その後多くの数学者の努力<ref>G. L. Cohen, R. M. Sorli, "On the number of distinct prime factors of an odd perfect number", J. Discrete Algorithms 1 (2003), 21-35.</ref>にもかかわらず、26年もの間「9個」の場合は示されなかった。 *{{mvar|N}} が {{math|3}} で割り切れない場合は、少なくとも12個の素因数を持つ<ref name="Nielsen2007" />。{{math|3}} でも {{math|5}} でも割り切れない場合は15個以上の、{{math|3}} でも {{math|5}} でも {{math|7}} でも割り切れない場合は27個以上の相異なる素因数を持つ<ref>K. K. Norton, "Remarks on the number of factors of an odd perfect number", Acta Arith., 6 (1960/1961), 365-374.</ref>。 *{{mvar|N}} は重複も数えて少なくとも101個の素因数を持つ<ref name="OchemRao2012"/><ref>75個以上であることを示した、以前の結果は K. G. Hare, "New techniques for bounds on the total number of prime factors of an odd perfect number", Math. Comp. 76. (2007), 2241-2248. [http://www.math.uwaterloo.ca/~kghare/Preprints/PDF/P20_OPN.pdf preprint]</ref>。 *{{mvar|N}} は {{math|10{{sup|8}}}} より大きい素因数を持つ<ref>T. Goto and Y. Ohno, "Odd perfect numbers have a prime factor exceeding 10{{sup|8}}", Math. Comp. 77 (2008), 1859-1868. "[http://www.ma.noda.tus.ac.jp/u/tg/html/perfect-j.html 奇数の完全数の最大素因子について]" - preprint を入手可能。</ref>。 **これは2006年に発表されたものであるが、より古い下界としては2003年の {{math|10{{sup|7}}}}<ref>P. M. Jenkins, "Odd perfect numbers have a prime factor exceeding 10{{sup|7}}", Math. Comp. 72 (2003), 1549-1554.</ref>や、1998年の {{math|10{{sup|6}}}}<ref>P. Hagis, Jr. and G. L. Cohen, "Every odd perfect number has a prime factor which exceeds 10{{sup|6}}", Math. Comp. 67 (1998), 1323-1330.</ref>などがある。 *{{mvar|N}} の2番目に大きな素因数は {{math|10{{sup|4}}}} より大きい<ref>D. E. Iannucci, "The second largest prime divisor of an odd perfect number exceeds ten thousand", Math. Comp. 68 (1999), 1749-1760.</ref>。 *{{mvar|N}} の3番目に大きな素因数は {{math|100}} より大きい<ref>D. E. Iannucci, "The third largest prime divisor of an odd perfect number exceeds one hundred", Math. Comp. 69 (2000), 867-879.</ref>。 *{{mvar|N}} は {{math|10{{sup|62}}}} より大きい素数冪因数を持つ<ref name="OchemRao2012"/>。 === その他の性質 === *完全数は、正の約数の個数が偶数、正の約数の逆数和が {{math|2}} なので、[[調和数]]である。この数の列は :{{math|[[1]], '''[[6]]''', '''[[28]]''', [[140]], [[270]], '''[[496]]''', [[672]], 1638, 2970, 6200, '''[[8128]]''', 8190, …}}({{OEIS|A001599}}) == 完全数でない自然数 == === 完全数の拡張 === 約数の和を考えることで特徴付けられる数の種類には他にも次のようなものがある。完全数と併せて、これらの名称には古代ギリシアの[[数秘術|数秘学]]の影響が見られる。 ; [[倍積完全数]] (multiperfect number)<ref>{{MathWorld|title=Multiperfect Number|urlname=MultiperfectNumber}}</ref> :正の約数の和が自分自身の倍数である自然数を'''倍積完全数'''という。特に、それが{{mvar|k}}倍に等しいものを'''{{mvar|k}}倍完全数'''という。完全数とは{{math|2}}倍完全数のことである。 :{{math|[[1]], '''[[6]]''', '''[[28]]''', [[120]], '''[[496]]''', [[672]], '''[[8128]]''', 30240, …}}({{OEIS|A007691}}) ; [[ハイパー完全数]] (hyperperfect number) :{{mvar|n}} が {{mvar|k}} -ハイパー完全数であるとは、 :{{math|''n'' {{=}} 1 + ''k''(σ(''n'') &minus; ''n'' &minus; 1)}}(ただし{{mvar|k}} は自然数)({{math|σ}} は[[約数関数]]) :を満たすことと定義される。完全数は {{math|1}}-ハイパー完全数である。 :{{mvar|k}} -ハイパー完全数の列は :{{math|'''[[6]]''', [[21]], '''[[28]]''', [[301]], [[325]], '''[[496]]''', [[697]], [[1333]], 1909, 2041, 2133, 3901, '''[[8128]]''', …}}({{OEIS|A034897}}) ; [[超完全数]] (superperfect number) :{{mvar|n}} が {{math|(''m'', ''k'')}}-完全数であるとは、 :{{math|σ{{sup|''m''}}(''n'') {{=}} ''kn''}}(ただし {{mvar|k}} は自然数)({{math|σ}} は約数関数) :を満たすときと定義される。完全数は {{math|(1, 2)}}-完全数、倍積完全数は {{math|(1, ''k'')}}-完全数、超完全数は {{math|(2, 2)}}-完全数である。 === 不完全数 === 完全数でない自然数を'''不完全数''' (imperfect number) という。 ; [[不足数]] (deficient number)<ref>{{MathWorld|title=Deficient Number|urlname=DeficientNumber}}</ref> :自分自身以外の正の約数の和より大きい自然数 ; [[過剰数]] (abundant number)<ref>{{MathWorld|title=Abundant Number|urlname=AbundantNumber}}</ref> :自分自身以外の正の約数の和より小さい自然数 ; [[友愛数]] (amicable pair)<ref>{{MathWorld|title=Amicable Pair|urlname=AmicablePair}}</ref> :自分自身以外の正の約数の和が互いに他方に等しい2つの自然数の組。 ; [[社交数]] (sociable numbers)<ref>{{MathWorld|title=Sociable Numbers|urlname=SociableNumbers}}</ref> :友愛数と同様の関係が成立する3個以上の自然数の組。 ; {{仮リンク|準完全数|en|Quasiperfect number|preserve=1}} (quasiperfect number)<ref>{{MathWorld|title=Quasiperfect Number|urlname=QuasiperfectNumber}}</ref> :{{mvar|n}} が'''準完全数'''であるとは、正の約数の和が {{math|2''n'' + 1}} に等しいことと定義される。過剰数の一種。そのような数はいまだに見つかっていないが、存在するならばそれは奇数の平方数で {{math|10{{sup|35}}}} より大きく、少なくとも7つの約数を持つということが示されている。 ; {{仮リンク|概完全数|en|Almost perfect number|preserve=1}} (almost perfect number)<ref>{{MathWorld|title=Almost Perfect Number|urlname=AlmostPerfectNumber}}</ref> :{{mvar|n}} が'''概完全数'''であるとは、正の約数の和が {{math|2''n'' &minus; 1}} に等しいことと定義される。不足数の一種。{{math|2{{sup|''k''}} ({{=}} 1, 2, 4, 8, 16, …)}} の形の自然数はこの条件を満たしているが、この形の自然数以外の概完全数が存在するのかどうかは知られていない。 ; 乗法的完全数 (multiplicative perfect number)<ref>{{MathWorld|title=Multiplicative Perfect Number|urlname=MultiplicativePerfectNumber}}</ref> :正の約数の積が自分自身の自乗(2乗)に等しい数を'''乗法的完全数'''という。乗法的完全数の列は、 :{{math|[[1]], [[6]], [[8]], [[10]], [[14]], [[15]], [[21]], [[22]], …}}({{OEIS|A007422}}) == エピソード == [[小川洋子]]の小説『[[博士の愛した数式]]』(2003年)では登場人物の「博士」が[[阪神タイガース]]の[[江夏豊]]投手のファンであったことの理由として江夏の背番号が28であったことを挙げ、その際に完全数の説明がなされている。 [[日本プロ野球]]で初めて[[完全試合]]が達成されたのは月・日とも完全数の1950年'''6'''月'''28'''日だった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |editor = 数学セミナー編集部 |date = 1982-09-30 |title = 数の世界 |series = 数学セミナー増刊 数学セミナー・リーディングス |publisher = 日本評論社 |location = 東京 |ref = 数学セミナー編集部1982 }} *{{Cite book|和書|last1=ハーディ|first1=G.H.|authorlink1=ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|last2=ライト|first2=E.M.|translator=[[示野信一]]・[[矢神毅]]|date=2001-07|title=数論入門 I|publisher=丸善出版|series=シュプリンガー数学クラシックス8 |isbn=978-4-621-06226-5 |ref={{Harvid|ハーディ|ライト|2001}}}} *{{Cite book|和書 |editor1=ハイベア|editor1-link=ヨハン・ルードウィッヒ・ハイベア|editor2=メンゲ|editor2-link=ハインリッヒ・メンゲ |others = [[中村幸四郎]]・[[寺阪英孝]]・[[伊東俊太郎]]・[[池田美恵]]訳・解説 |title = ユークリッド原論 |publisher = [[共立出版]] |ref = 共立版原論 }} **(ハードカバー)1971年7月。ISBN 4-320-01072-8 **(縮刷版)1996年6月。ISBN 4-320-01513-4 **(追補版)2011年5月。ISBN 978-4-320-01965-2 *{{Cite book|和書 |editor = ハイベア・メンゲ |others = [[斎藤憲]] 訳・解説 |date = 2015-08-31 |title = 原論VII-X |series = エウクレイデス全集 |volume = 第2巻 |publisher = [[東京大学出版会]] |pages = 43f, VII 定義23, IV 命題36 |isbn = 978-4-13-065302-2 |ref = {{Harvid|ハイベア|メンゲ|斎藤|2015}} }} *{{Cite book |和書 |author=和田秀男|authorlink=和田秀男 |date=1981-07-10 |title=数の世界 整数論への道 |publisher=岩波書店 |series=岩波科学ライブラリー |isbn=978-4-00-005500-0 |ref={{Harvid|和田|1981}} }} *{{Citation |las t= Dickson |first = Leonard Eugene |author-link = レオナード・E・ディクソン |year = 2005 |title = History of the theory of numbers |volume = Vol. I: Divisibility and primality |publisher = Dover Publications |location = New York |edition = paperback |isbn = 0-486-44232-2 |url = {{Google books|FYWn8XWrAI0C|History of the theory of numbers |page = 3 |plainurl = yes}} }} *{{citation|first=Leonhard|last=Euler|authorlink=レオンハルト・オイラー|chapter=De numeris amicibilibus|trans-chapter=On amicable numbers|language=la|contribution-url=http://eulerarchive.maa.org/pages/E798.html|title=Commentationes arithmeticae|volume=2|year=1849|pages=627–636}} *{{Citation |last = Guy |first = Richard K. |author = |author-link = |year = 2004 |title = Unsolved Problems in Number Theory |publisher = Springer-Verlag |location = New York |edition = 3rd |isbn = 0-387-20860-7 |ref = Guy2004 }} ({{Google books|QJ4XUdLgEYnqlAWbu4H4Dg|online book}}) **{{Cite book|和書 |author= リチャード・ガイ|authorlink=リチャード・ガイ |others = [[一松信]]ほか 訳 |date = 1983-01 |title = 数論における未解決問題集 |publisher = Springer-Verlag Tokyo |isbn = 4-87573-101-9 |ref = {{Harvid|ガイ|一松|1983}} }} - 原タイトル:''Unsolved problems in number theory.'' **{{Cite book|和書 |author = リチャード・K・ガイ |others = [[金光滋]] 訳 |date = 2010-11-05 |title = 数論〈未解決問題〉の事典 |publisher = 朝倉書店 |isbn = 978-4-254-11129-3 |ref = {{Harvid|ガイ|金光|2010}} }} - 原タイトル:''Unsolved problems in number theory. 3rd ed.'' *{{Citation |last1 = Sándor |first1 = J. |last2 = Crstici |first2 = B. |year = 2004 |title = Handbook of number theory |publisher = Kluwer Academic Publishers |location = Dordrecht, Netherlands |volume = II |isbn=1-4020-2546-7 |ref = Sándor&Crstici2004 }} ({{Google books|L6AXUZmkNYfskgWAkoCoBg|online book}}) * 高木貞治:「初等整数論講義」第2版、(1971)。 == 関連項目 ==<!--項目の50音順--> {{Div col}} *[[拡大友愛数]] *[[婚約数]](準友愛数) *[[三角数]] *[[社交数]] *[[メルセンヌ数]] *[[友愛数]] * [[友愛的三対]] - 友愛数を社交数とは別の方向に拡張したもの。 *[[アリコット数列]]{{Div col end}} == 外部リンク == *{{Kotobank|完全数|2=[[足立恒雄]]}} *{{高校数学の美しい物語|883|完全数の一覧と性質}} *{{MathWorld|title=Perfect Number|urlname=PerfectNumber}} *{{MathWorld|title=Odd Perfect Number|urlname=OddPerfectNumber|last=Greathouse |first=Charles |last2=Weisstein |first2=Eric W.}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんせんすう}} [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数論]] [[Category:整数の類]]
2003-07-21T12:42:58Z
2023-10-09T06:07:54Z
false
false
false
[ "Template:Kotobank", "Template:Unsolved", "Template:Lang-en-short", "Template:Math", "Template:Mvar", "Template:OEIS", "Template:Citation", "Template:Div col end", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Sup", "Template:MathWorld", "Template:Google books", "Template:Math proof", "Template:Math2", "Template:Cite book", "Template:Cite press release", "Template:Div col", "Template:Refnest", "Template:仮リンク", "Template:Harvnb", "Template:高校数学の美しい物語", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%95%B0
11,994
需要と供給
需要(じゅよう、英: demand)と供給(きょうきゅう、英: supply)すなわち、需要および供給の定義から説明すると、 需要とは、個人や企業などの経済主体が、市場において交換・販売を目的として提供されている財やサービスを購入しようとする(消費)行為であり、供給とは経済主体が市場で交換・販売を目的とし自己の所有物を提供する(生産)行為である。「需要と供給」は合わせて短縮して需給(じゅきゅう)とも呼ばれる。 とくに貨幣などの購買力に裏づけされた需要を「有効需要」という。貨幣経済では、(有効)需要量は、提供される財・サービスの価格、購入しようとする経済主体の欲の度合いや所得の程度によって決定されてくる。一般には(あくまで一般論としてはであるが)価格が上昇すると需要は減少する傾向がある。分かりやすく説明すると、価格が上昇すると経済主体の購入側の「購買意欲」が下がり、買おうとする行動が減る傾向がある。また、限定品や高級品などの少数品などに対して独占欲が刺激され、他の商品に対して異常な価格が付いたり、転売ヤーなど転売(独占)目的によるさらなる価格加熱により、さらなる購買意欲が減少で需要が減るということである。 一般的な交換経済の場合は(あくまで一般的な交換経済の場合に限定した話であるが)、取引相手側が代価として提供するものが高い効用をもつときには、供給する側の供給しようとする意思は強くなり、結果として供給量は多くなる。分かりやすく説明すると、買い手側が高い値段で買うと分かっていると、売り手側(商品やサービスを提供する側)は、より多くの財貨を得られる(だろう)という期待が膨らみ、より多くの財貨が得られるならば、より多くの苦労をすることも「それだけの財貨が得られるならば、その苦労も、もっと我慢でき、さらに苦労すれば、それ相応に得られるものがある(規模拡大的思考)」や「他者が効率的に財貨を得ているなら、自分達も真似して儲けよう(新規参入的思考)」などとと考える傾向があり、結果として供給への意思が強くなり、結果として供給者側の供給のための活動量が増え、実際に供給量が増える傾向がある、ということである。 競争市場では、市場価格は絶対的なものではなく、市場価格や取引数量は需要量の大きさと供給量の大きさの相対的関係に応じて変動し、そして決まる。 以下で示す需要・供給分析は、ある財(物品)・サービスの市場に注目した分析となるため、部分均衡分析と呼ばれる。(すべての市場を同時に分析するものを一般均衡と呼び、対照的に扱われる。) 需要曲線と供給曲線ともに、需要量(消費量)、供給量(生産量)の数量(横軸側、Q:Quantity)は各需要者、各供給者しか把握できない数量のため、供給側(メーカーの「メーカー希望小売価格」やお店の「店頭価格」の価格(縦軸側、P:Price)と、需要側(消費者)の購入予算などの価格側(縦軸)から各数量(横軸)の増減(変動)を見ていく。 また、一般の人は収入(給与)より支出の機会(買い物)が多く需要側の考え方になりやすいため、供給曲線の”供給数量が増えると価格が上昇する”事に対し、供給量や供給者の増加は価格競争の薄利多売や量産効果などによって低価格化する思いに対して逆行している違和感を感じるが、供給者の立場である就活やバイト探しの時を想定すれば、時給(供給価格)の高い企業に求人希望者(供給数量)が増加すると考えれば把握しやすい。 需給曲線を一般的なグラフの見方や考え方でとらえると、数量(x軸)に対して価格(y軸)が決まる y ( x ) = a x + b {\displaystyle y(x)=ax+b} と思ってしまうが、現代社会においては、先に決めた価格(y軸)の商品値段や時給によって需要数量や求人者数(生産数量)の数量(x軸)が予測や推定ができる x ( y ) = a y + b {\displaystyle x(y)=ay+b} の場合が大半なのである。つまり、需給曲線をそのままに縦軸と横軸を入れ替えると、クラフと経験則の整合性が取れやすい。 需要側の考え方は、出費する側の立場になるので、低価格品(食料品や安価な商品(百均)など)の’グラフの下側’に対し、消費者は多くの人が欲しがるため、総数量は多くなり’曲線の端は右側’となる。また、高価格品(家や宝石、自動車など)の’グラフの上側’に対し、消費者は購入の機会が無かったり(購入資金不足)や、購入に対して慎重的になり購買意欲が膠着し、総数量が少なくなり’曲線の端は左側’となる。 供給側の考え方は、労働やバイト等の労力を支払い、収入を得る側の立場になるので、高価格品(給与が高い)の労働には多く人が欲しがり総数量が多くなり’曲線の端は右側’となり、低価格品(バイトやパート※労働価格が低い代わりに労働時間が正社員より短いなどの利点がある)の労働は、全労働者に対して少数の育児世代や学生などの労働時間に対して制限のある労働者とし、総数量が少なくなり’曲線の端は左側’となる。 需要曲線と供給曲線を用いた分析では、アルフレッド・マーシャル以来の伝統により価格を縦軸に取る。 価格(P)と数量(Q)の関係は曲線によって図示される。 数量の変化率と価格の変化率の比は、弾力性といわれる。この弾力性が大きいほど、価格の変化に対する数量の変化は大きくなる。 なお、2本の需要曲線が交わっているような場合、その交点では、より傾きの緩やかな曲線のほうが、価格弾力性は大きい。 また、同じ価格に対応する数量が変化したとき、曲線そのものが移動する。より多くの数量が対応するように変化した場合、曲線は右方に移動する。 需要(じゅよう)とは、財に対する購買力の裏づけのある欲。消費者側の「買いたい」という意欲。価格と需要量の関係を図示したのが需要曲線で、一般に右下がりの曲線である。これは価格が上がるほど需要量が減少することによる。これに対し、同じ価格に対応する需要量が増大して需要曲線そのものが右方に移動する(シフト)ことは、需要(需要量 ではない)の増大といわれる。「人々が物の価格が下がれば、その物の需要を増やす」という命題のことを需要法則という。なお、国内における需要を内需(ないじゅ)、その国以外からの需要を外需(がいじゅ)と呼ぶことがある。 供給(きょうきゅう)とは、財(物品)やサービスを提供しようとする経済活動。生産者側の「売りたい」という意欲。価格と供給量の関係を図示したのが供給曲線で、一般に右上がりの曲線である。これは価格が上がるほど供給量が増大することによる。これに対し、同じ価格に対応する供給量が増大して供給曲線そのものが右方に移動することは、供給(供給量ではない)の増大といわれる。 需要曲線と供給曲線の交点で決まる状態を競争均衡と呼ぶ。このとき需要量と供給量は一致し、一義的に価格が定まる。この時の価格を均衡価格(または市場価格)、取引量(数量)を均衡取引量と呼ぶ。 需要曲線と供給曲線の交点で決まる価格が「安定的」であるということは、価格や数量が偶発的に均衡点を逸脱しても市場メカニズムの力学により均衡点に自動的に引き戻されるということである。このような均衡を「安定的均衡」という。 逆に「不安定」であるという場合は、均衡点を逸脱したとき、価格と数量が均衡点から離れていってしまうメカニズムが働くことであり、このような均衡を「不安定的均衡」という。 政府などが上限価格や下限価格を設定することを「価格統制 price control」という。たとえば家賃統制などで上限価格が設定されている場合、価格の上昇による供給量の増加と需要量の減少を通じた超過需要の解消が妨げられる。その結果、売り手による買い手に対する割り当てが発生することになる。これに対し最低賃金などで下限価格が設定されている場合には、価格の下落による供給量の減少と需要量の増加を通じた超過供給の解消が妨げられる。その結果、売れ残りが発生することになる。 また、最低賃金を設定することは(雇用されている人の給与の下限を保障し、被雇用者(労働者)の生活の質の改善に貢献するものであるが、一方で)、もしも労働市場で労働が供給過剰になったときは雇用者側は賃金を下げることができないので、失業(雇われない人)を生む原因ともなる。 経済学者のスティーヴン・ランズバーグは「原油価格が法律によって管理されれば、末端のガソリン価格は下がるどころか上がる。小売価格が間接的に管理されれば、精製業者が供給するガソリンの量(供給)は減るため、消費者が買うガソリン価格は上がるのは当然である」と指摘している。 需給の調整にあたって価格が変化しないことを価格の硬直性price rigidityという。たとえば実際の価格が均衡価格を上回っているものとする。このときに価格の硬直性があり、価格が下落しない場合、超過供給の解消は、需要曲線そのものの右方シフトによることになる。 経済学者のクヌート・ヴィクセルは、名目価格(一般物価)の変動が、相対価格の変動とは根本的に異質な現象であることを発見した。 ミクロ経済学におけるP(価格)とマクロ経済学におけるP(物価)は、根本的に別の概念である。前者は個々の財の相対価格を表すものであるのに対し、後者は個々の財の価格を全体として平均した集計量としての物価水準を表すものである。 需要と供給は価格の関数としてグラフ表現される。需要曲線と供給曲線は、アルフレッド・マーシャルの『経済学原理』(1890年)で有名になったが、それ以前にも先駆者がいる。 需要曲線は、オーギュスタン・クールノーが『富の理論の数学的原理に関する研究』(1838)で最初に描いた(クールノー競争も参照)。 カール・ハインリヒ・ラウ(ドイツ語版)の『経済学の諸原理』(1841(1826-37))も独自の関数を描いた。 ジュール・デュピュイ の「公共事業の効用の測定について」(1844)も独自の関数を描いた。 ハンス・カール・エミル・フォン・マンゴルト(ドイツ語版)の『国民経済学概説』(1863)でも独自の関数が描かれた。 供給曲線は、フリーミング・ジェンキンが1870年に描いた。 需要曲線と供給曲線は、アルフレッド・マーシャルの『経済学原理』(1890年)で有名になり、価格を縦軸で表す習慣は今でも一般的である。 供給または需要が価格以外の他の変数の関数である場合、曲線間のシフトを構成する他の変数の変化を伴う曲線、または高次元空間の曲面によって表される。 近代以前の日本史において「供給」という言葉は、漢語では「くごう/ぐきゅう」、和訓では「たてまつりもの」と呼ばれていた。 「供給」という言葉は元々は隋・唐の律令用語で、律令とともに日本にもたらされた。現代経済学においては、特定の物資を不特定多数に提供することを「供給」と呼ぶが、この場合には「食料及びそれに準じる物」を特定の相手に提供することを指して「供給」と称した。すなわち、公的な目的をもった使者やそれに準じる使者・客人(荘園領主が現地に派遣する使者など)に対して通過する地域において食料を提供し、付随して使者が必要とする物資など(休憩・宿泊する宿駅や交代の馬匹など)も合わせて供給した。また、こうした使者や客人が目的地に到着(落付)した際に現地の人たちが3夜連続で飲食や贈物などをもって接待して無事な到着を祝う三日厨という行事も行われたが、その際に提供された飲食や贈物及び接待そのものを「供給」と呼んだ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "需要(じゅよう、英: demand)と供給(きょうきゅう、英: supply)すなわち、需要および供給の定義から説明すると、 需要とは、個人や企業などの経済主体が、市場において交換・販売を目的として提供されている財やサービスを購入しようとする(消費)行為であり、供給とは経済主体が市場で交換・販売を目的とし自己の所有物を提供する(生産)行為である。「需要と供給」は合わせて短縮して需給(じゅきゅう)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "とくに貨幣などの購買力に裏づけされた需要を「有効需要」という。貨幣経済では、(有効)需要量は、提供される財・サービスの価格、購入しようとする経済主体の欲の度合いや所得の程度によって決定されてくる。一般には(あくまで一般論としてはであるが)価格が上昇すると需要は減少する傾向がある。分かりやすく説明すると、価格が上昇すると経済主体の購入側の「購買意欲」が下がり、買おうとする行動が減る傾向がある。また、限定品や高級品などの少数品などに対して独占欲が刺激され、他の商品に対して異常な価格が付いたり、転売ヤーなど転売(独占)目的によるさらなる価格加熱により、さらなる購買意欲が減少で需要が減るということである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一般的な交換経済の場合は(あくまで一般的な交換経済の場合に限定した話であるが)、取引相手側が代価として提供するものが高い効用をもつときには、供給する側の供給しようとする意思は強くなり、結果として供給量は多くなる。分かりやすく説明すると、買い手側が高い値段で買うと分かっていると、売り手側(商品やサービスを提供する側)は、より多くの財貨を得られる(だろう)という期待が膨らみ、より多くの財貨が得られるならば、より多くの苦労をすることも「それだけの財貨が得られるならば、その苦労も、もっと我慢でき、さらに苦労すれば、それ相応に得られるものがある(規模拡大的思考)」や「他者が効率的に財貨を得ているなら、自分達も真似して儲けよう(新規参入的思考)」などとと考える傾向があり、結果として供給への意思が強くなり、結果として供給者側の供給のための活動量が増え、実際に供給量が増える傾向がある、ということである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "競争市場では、市場価格は絶対的なものではなく、市場価格や取引数量は需要量の大きさと供給量の大きさの相対的関係に応じて変動し、そして決まる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以下で示す需要・供給分析は、ある財(物品)・サービスの市場に注目した分析となるため、部分均衡分析と呼ばれる。(すべての市場を同時に分析するものを一般均衡と呼び、対照的に扱われる。)", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "需要曲線と供給曲線ともに、需要量(消費量)、供給量(生産量)の数量(横軸側、Q:Quantity)は各需要者、各供給者しか把握できない数量のため、供給側(メーカーの「メーカー希望小売価格」やお店の「店頭価格」の価格(縦軸側、P:Price)と、需要側(消費者)の購入予算などの価格側(縦軸)から各数量(横軸)の増減(変動)を見ていく。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、一般の人は収入(給与)より支出の機会(買い物)が多く需要側の考え方になりやすいため、供給曲線の”供給数量が増えると価格が上昇する”事に対し、供給量や供給者の増加は価格競争の薄利多売や量産効果などによって低価格化する思いに対して逆行している違和感を感じるが、供給者の立場である就活やバイト探しの時を想定すれば、時給(供給価格)の高い企業に求人希望者(供給数量)が増加すると考えれば把握しやすい。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "需給曲線を一般的なグラフの見方や考え方でとらえると、数量(x軸)に対して価格(y軸)が決まる y ( x ) = a x + b {\\displaystyle y(x)=ax+b} と思ってしまうが、現代社会においては、先に決めた価格(y軸)の商品値段や時給によって需要数量や求人者数(生産数量)の数量(x軸)が予測や推定ができる x ( y ) = a y + b {\\displaystyle x(y)=ay+b} の場合が大半なのである。つまり、需給曲線をそのままに縦軸と横軸を入れ替えると、クラフと経験則の整合性が取れやすい。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "需要側の考え方は、出費する側の立場になるので、低価格品(食料品や安価な商品(百均)など)の’グラフの下側’に対し、消費者は多くの人が欲しがるため、総数量は多くなり’曲線の端は右側’となる。また、高価格品(家や宝石、自動車など)の’グラフの上側’に対し、消費者は購入の機会が無かったり(購入資金不足)や、購入に対して慎重的になり購買意欲が膠着し、総数量が少なくなり’曲線の端は左側’となる。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "供給側の考え方は、労働やバイト等の労力を支払い、収入を得る側の立場になるので、高価格品(給与が高い)の労働には多く人が欲しがり総数量が多くなり’曲線の端は右側’となり、低価格品(バイトやパート※労働価格が低い代わりに労働時間が正社員より短いなどの利点がある)の労働は、全労働者に対して少数の育児世代や学生などの労働時間に対して制限のある労働者とし、総数量が少なくなり’曲線の端は左側’となる。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "需要曲線と供給曲線を用いた分析では、アルフレッド・マーシャル以来の伝統により価格を縦軸に取る。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "価格(P)と数量(Q)の関係は曲線によって図示される。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "数量の変化率と価格の変化率の比は、弾力性といわれる。この弾力性が大きいほど、価格の変化に対する数量の変化は大きくなる。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、2本の需要曲線が交わっているような場合、その交点では、より傾きの緩やかな曲線のほうが、価格弾力性は大きい。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、同じ価格に対応する数量が変化したとき、曲線そのものが移動する。より多くの数量が対応するように変化した場合、曲線は右方に移動する。", "title": "需要・供給分析" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "需要(じゅよう)とは、財に対する購買力の裏づけのある欲。消費者側の「買いたい」という意欲。価格と需要量の関係を図示したのが需要曲線で、一般に右下がりの曲線である。これは価格が上がるほど需要量が減少することによる。これに対し、同じ価格に対応する需要量が増大して需要曲線そのものが右方に移動する(シフト)ことは、需要(需要量 ではない)の増大といわれる。「人々が物の価格が下がれば、その物の需要を増やす」という命題のことを需要法則という。なお、国内における需要を内需(ないじゅ)、その国以外からの需要を外需(がいじゅ)と呼ぶことがある。", "title": "国内外需要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "供給(きょうきゅう)とは、財(物品)やサービスを提供しようとする経済活動。生産者側の「売りたい」という意欲。価格と供給量の関係を図示したのが供給曲線で、一般に右上がりの曲線である。これは価格が上がるほど供給量が増大することによる。これに対し、同じ価格に対応する供給量が増大して供給曲線そのものが右方に移動することは、供給(供給量ではない)の増大といわれる。", "title": "国内外需要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "需要曲線と供給曲線の交点で決まる状態を競争均衡と呼ぶ。このとき需要量と供給量は一致し、一義的に価格が定まる。この時の価格を均衡価格(または市場価格)、取引量(数量)を均衡取引量と呼ぶ。", "title": "均衡" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "需要曲線と供給曲線の交点で決まる価格が「安定的」であるということは、価格や数量が偶発的に均衡点を逸脱しても市場メカニズムの力学により均衡点に自動的に引き戻されるということである。このような均衡を「安定的均衡」という。", "title": "均衡" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "逆に「不安定」であるという場合は、均衡点を逸脱したとき、価格と数量が均衡点から離れていってしまうメカニズムが働くことであり、このような均衡を「不安定的均衡」という。", "title": "均衡" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "政府などが上限価格や下限価格を設定することを「価格統制 price control」という。たとえば家賃統制などで上限価格が設定されている場合、価格の上昇による供給量の増加と需要量の減少を通じた超過需要の解消が妨げられる。その結果、売り手による買い手に対する割り当てが発生することになる。これに対し最低賃金などで下限価格が設定されている場合には、価格の下落による供給量の減少と需要量の増加を通じた超過供給の解消が妨げられる。その結果、売れ残りが発生することになる。", "title": "価格" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、最低賃金を設定することは(雇用されている人の給与の下限を保障し、被雇用者(労働者)の生活の質の改善に貢献するものであるが、一方で)、もしも労働市場で労働が供給過剰になったときは雇用者側は賃金を下げることができないので、失業(雇われない人)を生む原因ともなる。", "title": "価格" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "経済学者のスティーヴン・ランズバーグは「原油価格が法律によって管理されれば、末端のガソリン価格は下がるどころか上がる。小売価格が間接的に管理されれば、精製業者が供給するガソリンの量(供給)は減るため、消費者が買うガソリン価格は上がるのは当然である」と指摘している。", "title": "価格" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "需給の調整にあたって価格が変化しないことを価格の硬直性price rigidityという。たとえば実際の価格が均衡価格を上回っているものとする。このときに価格の硬直性があり、価格が下落しない場合、超過供給の解消は、需要曲線そのものの右方シフトによることになる。", "title": "価格" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "経済学者のクヌート・ヴィクセルは、名目価格(一般物価)の変動が、相対価格の変動とは根本的に異質な現象であることを発見した。", "title": "価格" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ミクロ経済学におけるP(価格)とマクロ経済学におけるP(物価)は、根本的に別の概念である。前者は個々の財の相対価格を表すものであるのに対し、後者は個々の財の価格を全体として平均した集計量としての物価水準を表すものである。", "title": "価格" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "需要と供給は価格の関数としてグラフ表現される。需要曲線と供給曲線は、アルフレッド・マーシャルの『経済学原理』(1890年)で有名になったが、それ以前にも先駆者がいる。", "title": "需要・供給曲線の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "需要曲線は、オーギュスタン・クールノーが『富の理論の数学的原理に関する研究』(1838)で最初に描いた(クールノー競争も参照)。", "title": "需要・供給曲線の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "カール・ハインリヒ・ラウ(ドイツ語版)の『経済学の諸原理』(1841(1826-37))も独自の関数を描いた。", "title": "需要・供給曲線の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ジュール・デュピュイ の「公共事業の効用の測定について」(1844)も独自の関数を描いた。", "title": "需要・供給曲線の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ハンス・カール・エミル・フォン・マンゴルト(ドイツ語版)の『国民経済学概説』(1863)でも独自の関数が描かれた。", "title": "需要・供給曲線の歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "供給曲線は、フリーミング・ジェンキンが1870年に描いた。", "title": "需要・供給曲線の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "需要曲線と供給曲線は、アルフレッド・マーシャルの『経済学原理』(1890年)で有名になり、価格を縦軸で表す習慣は今でも一般的である。", "title": "需要・供給曲線の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "供給または需要が価格以外の他の変数の関数である場合、曲線間のシフトを構成する他の変数の変化を伴う曲線、または高次元空間の曲面によって表される。", "title": "需要・供給曲線の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "近代以前の日本史において「供給」という言葉は、漢語では「くごう/ぐきゅう」、和訓では「たてまつりもの」と呼ばれていた。", "title": "日本史用語としての「供給」" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「供給」という言葉は元々は隋・唐の律令用語で、律令とともに日本にもたらされた。現代経済学においては、特定の物資を不特定多数に提供することを「供給」と呼ぶが、この場合には「食料及びそれに準じる物」を特定の相手に提供することを指して「供給」と称した。すなわち、公的な目的をもった使者やそれに準じる使者・客人(荘園領主が現地に派遣する使者など)に対して通過する地域において食料を提供し、付随して使者が必要とする物資など(休憩・宿泊する宿駅や交代の馬匹など)も合わせて供給した。また、こうした使者や客人が目的地に到着(落付)した際に現地の人たちが3夜連続で飲食や贈物などをもって接待して無事な到着を祝う三日厨という行事も行われたが、その際に提供された飲食や贈物及び接待そのものを「供給」と呼んだ。", "title": "日本史用語としての「供給」" } ]
需要と供給すなわち、需要および供給の定義から説明すると、 需要とは、個人や企業などの経済主体が、市場において交換・販売を目的として提供されている財やサービスを購入しようとする(消費)行為であり、供給とは経済主体が市場で交換・販売を目的とし自己の所有物を提供する(生産)行為である。「需要と供給」は合わせて短縮して需給(じゅきゅう)とも呼ばれる。
{{出典の明記| date = 2021年6月}} {{資本主義}} '''需要'''(じゅよう、{{lang-en-short|demand}})と'''供給'''(きょうきゅう、{{lang-en-short|supply}})すなわち、需要および供給の[[定義]]から説明すると、 '''需要'''とは、個人や企業などの[[経済主体]]が、[[市場]]において[[交換 (法学)|交換]]・[[販売]]を目的として提供されている[[財]]や[[サービス]]を購入しようとする(消費)行為であり<ref name="nipponica_juyou">小学館『[[日本大百科全書]]』「需要」</ref>、'''供給'''とは経済主体が市場で交換・販売を目的とし自己の所有物を提供する(生産)行為である<ref name="nipponica_kyoukyu">小学館『[[日本大百科全書]]』「供給」</ref>。「需要と供給」は合わせて短縮して'''需給'''(じゅきゅう)とも呼ばれる。 == 概説 == ;需要 とくに貨幣などの購買力に裏づけされた需要を「[[有効需要]]」という<ref name="nipponica_juyou" />。貨幣経済では、(有効)需要量は、提供される財・サービスの価格、購入しようとする経済主体の[[欲]]の度合いや所得の程度によって決定されてくる<ref name="nipponica_juyou" />。一般には(あくまで一般論としてはであるが)価格が上昇すると需要は減少する傾向がある<ref name="nipponica_juyou" />。分かりやすく説明すると、[[価格]]が上昇すると経済主体の購入側の「購買意欲」が下がり、買おうとする行動が減る傾向がある。また、限定品や高級品などの少数品などに対して独占欲が刺激され、他の商品に対して異常な価格が付いたり、転売ヤーなど転売(独占)目的によるさらなる価格加熱により、さらなる購買意欲が減少で需要が減るということである。 ;供給 一般的な交換経済の場合は(あくまで一般的な交換経済の場合に限定した話であるが)、取引相手側が代価として提供するものが高い効用をもつときには、供給する側の供給しようとする意思は強くなり、結果として供給量は多くなる<ref name="nipponica_kyoukyu" />。分かりやすく説明すると、買い手側が高い値段で買うと分かっていると、売り手側(商品やサービスを提供する側)は、より多くの財貨を得られる(だろう)という期待が膨らみ、より多くの財貨が得られるならば、より多くの苦労をすることも「それだけの財貨が得られるならば、その苦労も、もっと我慢でき、さらに苦労すれば、それ相応に得られるものがある(規模拡大的思考)」や「他者が効率的に財貨を得ているなら、自分達も真似して儲けよう(新規参入的思考)」などとと考える傾向があり、結果として供給への意思が強くなり、結果として供給者側の供給のための活動量が増え、実際に供給量が増える傾向がある、ということである。 [[競争市場]]では、市場価格は絶対的なものではなく、[[市場価格]]や取引数量は需要量の大きさと供給量の大きさの相対的関係に応じて変動し、そして決まる。 以下で示す'''需要・供給分析'''は、ある財(物品)・サービスの市場に注目した分析となるため、'''[[部分均衡分析]]'''と呼ばれる。(すべての市場を同時に分析するものを[[一般均衡]]と呼び、対照的に扱われる。) == 需要・供給分析 == [[画像:Supply_Demand.png|frame|需要曲線と供給曲線。<br>競争市場においては[[財]]の市場価格が需要と供給によって決定される<ref name="Ds">{{コトバンク|需要・供給の法則}}</ref>。財に対する価格は、需要量が増加すれば減少し需要曲線は右下がりとなり<ref name="Ds" />、供給量の増加は高価格帯(グラフ右側)が増加し供給曲線は右上がりとなる<ref name="Ds" />。需要量と供給量とが均等となる価格を均衡価格、取引数量を均衡需給量という<ref name="Ds" />。|代替文=]] === グラフの見方 === 需要曲線と供給曲線ともに、需要量(消費量)、供給量(生産量)の数量(横軸側、Q:Quantity)は各需要者、各供給者しか把握できない数量のため、供給側(メーカーの「メーカー希望小売価格」やお店の「店頭価格」の価格(縦軸側、P:Priⅽe)と、需要側(消費者)の購入予算などの価格側(縦軸)から各数量(横軸)の増減(変動)を見ていく。 また、一般の人は収入(給与)より支出の機会(買い物)が多く需要側の考え方になりやすいため、供給曲線の”供給数量が増えると価格が上昇する”事に対し、供給量や供給者の増加は価格競争の薄利多売や量産効果などによって低価格化する思いに対して逆行している違和感を感じるが、供給者の立場である就活やバイト探しの時を想定すれば、時給(供給価格)の高い企業に求人希望者(供給数量)が増加すると考えれば把握しやすい。 需給曲線を一般的なグラフの見方や考え方でとらえると、数量(x軸)に対して価格(y軸)が決まる<math>y(x) = ax+b</math>と思ってしまうが、現代社会においては、先に決めた価格(y軸)の商品値段や時給によって需要数量や求人者数(生産数量)の数量(x軸)が予測や推定ができる<math>x(y)=ay+b</math>の場合が大半なのである。つまり、需給曲線をそのままに縦軸と横軸を入れ替えると、クラフと経験則の整合性が取れやすい。 ==== 需要曲線 ==== 需要側の考え方は、出費する側の立場になるので、低価格品(食料品や安価な商品(百均)など)の’グラフの下側’に対し、消費者は多くの人が欲しがるため、総数量は多くなり’曲線の端は右側’となる。また、高価格品(家や宝石、自動車など)の’グラフの上側’に対し、消費者は購入の機会が無かったり(購入資金不足)や、購入に対して慎重的になり購買意欲が膠着し、総数量が少なくなり’曲線の端は左側’となる。 ==== 供給曲線 ==== 供給側の考え方は、労働やバイト等の労力を支払い、収入を得る側の立場になるので、高価格品(給与が高い)の労働には多く人が欲しがり総数量が多くなり’曲線の端は右側’となり、低価格品(バイトやパート※労働価格が低い代わりに労働時間が正社員より短いなどの利点がある)の労働は、全労働者に対して少数の育児世代や学生などの労働時間に対して制限のある労働者とし、総数量が少なくなり’曲線の端は左側’となる。 {| class="wikitable" |+需給曲線の向き ! colspan="2" rowspan="2" | ! colspan="2" |数量 |- !供給 !需要 |- | rowspan="2" |価格 |高 |多(右) |少(左) |- |低 |少(左) |多(右) |- | colspan="2" |各曲線の向き |↗ |↘ |} === 需要・供給分析 === '''需要曲線'''と'''供給曲線'''を用いた分析では、[[アルフレッド・マーシャル]]以来の伝統により価格を縦軸に取る。 価格(P)と数量(Q)の関係は'''曲線'''によって図示される。 数量の変化率と価格の変化率の比は、[[弾力性]]といわれる。この弾力性が大きいほど、価格の変化に対する数量の変化は大きくなる。 なお、2本の需要曲線が交わっているような場合、その交点では、より'''傾き'''の緩やかな曲線のほうが、価格弾力性は大きい。 また、同じ価格に対応する数量が変化したとき、曲線そのものが'''移動'''する。より多くの数量が対応するように変化した場合、曲線は右方に移動する。 ==国内外需要== ===需要=== '''需要'''(じゅよう)とは、[[財]]に対する購買力の裏づけのある欲。消費者側の「買いたい」という意欲。価格と需要量の関係を図示したのが'''需要曲線'''で、一般に右下がりの曲線である。これは価格が上がるほど需要量が減少することによる。これに対し、同じ価格に対応する需要量が増大して需要曲線そのものが右方に移動する(シフト)ことは、需要(需要量 ではない)の増大といわれる。「人々が物の価格が下がれば、その物の需要を増やす」という命題のことを'''需要法則'''という<ref>岩田規久男 『経済学的思考のすすめ』 筑摩書房、2011年、73頁。</ref>。なお、国内における需要を'''内需'''(ないじゅ)、その国以外からの需要を'''外需'''(がいじゅ)と呼ぶことがある。 ===供給=== '''供給'''(きょうきゅう)とは、[[財]](物品)や[[サービス]]を提供しようとする経済活動。生産者側の「売りたい」という意欲。価格と供給量の関係を図示したのが'''供給曲線'''で、一般に右上がりの曲線である。これは価格が上がるほど供給量が増大することによる。これに対し、同じ価格に対応する供給量が増大して供給曲線そのものが右方に移動することは、供給(供給量ではない)の増大といわれる。 ==均衡== ===均衡=== 需要曲線と供給曲線の交点で決まる状態を'''競争均衡'''と呼ぶ。このとき需要量と供給量は一致し、一義的に価格が定まる。この時の価格を'''均衡価格'''(または'''市場価格''')、取引量(数量)を'''均衡取引量'''と呼ぶ。 ===均衡の安定性=== 需要曲線と供給曲線の交点で決まる価格が「安定的」であるということは、価格や数量が偶発的に均衡点を逸脱しても市場メカニズムの力学により均衡点に自動的に引き戻されるということである。このような均衡を「安定的均衡」という。 逆に「不安定」であるという場合は、均衡点を逸脱したとき、価格と数量が均衡点から離れていってしまうメカニズムが働くことであり、このような均衡を「不安定的均衡」という。 *'''ワルラス安定''' - 供給量が需要量を超過した場合には価格の'''下落'''、需要量が供給量を超過した場合には価格の'''上昇'''によって、需要量と供給量の差が解消されるような関係になっていること。 *'''マーシャル安定''' - 供給価格が需要価格を超過した場合には数量の'''減少'''、需要価格が供給価格を超過した場合には数量の'''増加'''によって、需要価格と供給価格の差が訂正されるような関係になっていること。 ==価格== ===価格統制=== {{main|物価統制令}} 政府などが上限価格や下限価格を設定することを「価格統制 price control」という。たとえば家賃統制などで上限価格が設定されている場合、価格の上昇による供給量の増加と需要量の減少を通じた超過需要の解消が妨げられる。その結果、売り手による買い手に対する割り当てが発生することになる。これに対し最低賃金などで下限価格が設定されている場合には、価格の下落による供給量の減少と需要量の増加を通じた超過供給の解消が妨げられる。その結果、売れ残りが発生することになる。 また、[[最低賃金]]を設定することは(雇用されている人の給与の下限を保障し、被雇用者(労働者)の[[生活の質]]の改善に貢献するものであるが、一方で)、もしも労働市場で労働が供給過剰になったときは雇用者側は賃金を下げることができないので、[[失業]](雇われない人)を生む原因ともなる。 [[経済学者]]の[[スティーヴン・ランズバーグ]]は「原油価格が法律によって管理されれば、末端のガソリン価格は下がるどころか上がる。小売価格が間接的に管理されれば、精製業者が供給するガソリンの量(供給)は減るため、消費者が買うガソリン価格は上がるのは当然である」と指摘している<ref>スティーヴン・ランズバーグ 『ランチタイムの経済学-日常生活の謎をやさしく解き明かす』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2004年、196-197頁。</ref>。 ===価格の硬直性=== 需給の調整にあたって価格が変化しないことを価格の硬直性price rigidityという。たとえば実際の価格が均衡価格を上回っているものとする。<!--実際の取引量は均衡取引量より過少となる。-->このときに価格の硬直性があり、価格が下落しない場合、超過供給の解消は、需要曲線そのものの右方シフトによることになる<!--実際の取引量が増大して均衡は回復する-->。 === 物価と価格について === {{see also|価格#相対価格と一般物価}} 経済学者の[[クヌート・ヴィクセル]]は、名目価格('''一般物価''')の変動が、'''相対価格'''の変動とは根本的に異質な現象であることを発見した<ref>日本経済新聞社編 『経済学の巨人 危機と闘う-達人が読み解く先人の知恵』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2012年、35頁。</ref>。 [[ミクロ経済学]]におけるP([[価格]])と[[マクロ経済学]]におけるP([[物価]])は、根本的に別の概念である。前者は個々の財の相対価格を表すものであるのに対し、後者は個々の財の価格を全体として平均した集計量としての物価水準を表すものである。<!--以下、価格の項目に移動--> ==曲線のシフト要因==<!--スティグリッツ入門経済学---> ===需要曲線=== *[[所得]]の変化 *[[代替財]](その財の価格の上昇が他方の財の需要量を増大させる財)の価格の変化 *[[補完財]](その財の価格の上昇が他方の財の需要量を減少させる財)の価格の変化 *年齢構成などの人口構成の変化 *嗜好の変化 *情報(商品に対する消費者の知識)の変化 *信用の入手可能性の変化 *将来の予想の変化 *技術革新などによる技術の変化(産業の機械化による、鉄、石油の需要増大など) ===供給曲線=== *財を生産するために必要となる投入物の価格変化 *技術革新などによる技術の変化 *天候や疫病などの自然環境の変化 *信用の入手可能性の変化 *将来の予想の変化 == 需要・供給曲線の歴史 == {{multiple image | width1 = 200 | width2 = 360 | width3 = 200 | align = right | footer = | image1 = Cournotdemand.gif | caption1 = [[アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー|クールノー]] (1838) | image2 = Jenkincurves.gif | caption2 = [[フリーミング・ジェンキン|ジェンキン]](1870) | image3 = Marshalldemand.gif | caption3 =[[アルフレッド・マーシャル|マーシャル]](1890) }} 需要と供給は[[価格]]の[[関数 (数学)|関数]]として[[グラフ (関数)|グラフ]]表現される。需要曲線と供給曲線は、[[アルフレッド・マーシャル]]の『経済学原理』(1890年)で有名になったが、それ以前にも先駆者がいる<ref name=Humphrey/>。 需要曲線は、[[アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー|オーギュスタン・クールノー]]が『富の理論の数学的原理に関する研究』(1838)で最初に描いた([[クールノー競争]]も参照)<ref name=Humphrey>{{Cite journal | issue = Mar/Apr | pages = 3–23 | last = Humphrey | first = Thomas M. | title = Marshallian Cross Diagrams and their Uses before Alfred Marshall | journal = Economic Review | date = 1992 | url = https://www.richmondfed.org/-/media/richmondfedorg/publications/research/economic_review/1992/pdf/er780201.pdf | access-date = 2022-10-29}}</ref>。 {{仮リンク|カール・ハインリヒ・ラウ|de|Karl Heinrich Rau}}の『経済学の諸原理』(1841(1826-37))も独自の関数を描いた<ref>Karl Heinrich Rau,Grundsätze der Volkswirthschaftslehre , 1841b., Heidelberg.</ref><ref>池田浩太郎「K.H.ラウの『財政学の諸原理』初版--「初期ドイツ財政学」のStandardwerkの出現」2003,成城大学経済研究159号、p97~131</ref><ref name=Humphrey/>。 [[ジュール・デュピュイ]] の「公共事業の効用の測定について」(1844)も独自の関数を描いた<ref>Dupuit, Arsène Jules Étienne Juvénal (1844): De la mesure de l’utilité des travaux publics, Annales des ponts et chaussées, Second series, 8.:On the measurement of the utility of public works. Trans. by R.H. Barback in Readings in Welfare Economics,ed. K.J. Arrow and T. Scitovsky. Homewood,IL: Richard D. Irwin, 1969, 255-83.</ref><ref name=Humphrey/>。 {{仮リンク|ハンス・カール・エミル・フォン・マンゴルト|de|Hans von Mangoldt (Ökonom)}}{{Refnest|group="注"|[[フォン・マンゴルト関数]]で知られるドイツの数学者{{仮リンク|ハンス・カール・フリードリヒ・フォン・マンゴルト|en|Hans_Carl_Friedrich_von_Mangoldt}}の息子である。}}の『国民経済学概説』(1863)でも独自の関数が描かれた<ref>Grundriss der Volkswirthschaftslehre. Ein Leitfaden für Vorlesungen an Hochschulen und für das Privatstudium. Faksimile der 1863 in Stuttgart erschienenen Erstausgabe. Komm. von Peter D. Groenewegen, Karl Heinrich Kaufhold und Jochen Schumann. Wirtschaft und Finanzen, 1995, ISBN 978-3-87881-096-4. 英語訳 The exchange ratio of goods. E,Henderson訳</ref><ref name=Humphrey/>。 供給曲線は、[[フリーミング・ジェンキン]]が1870年に描いた<ref>1870. " [https://books.google.com/books?id=NC5BAAAAIAAJ&printsec=frontcover&source=gbs_v2_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false The Graphical Representation of the Laws of Supply and Demand, and their Application to Labour]",in Alexander Grant, ed., ''Recess Studies'', ch. VI, pp.&nbsp;151–85. </ref><ref name=Humphrey/>。 需要曲線と供給曲線は、[[アルフレッド・マーシャル]]の『経済学原理』(1890年)で有名になり、[[価格]]を縦軸で表す習慣は今でも一般的である<ref name=Humphrey/>。 供給または需要が価格以外の他の変数の関数である場合、曲線間のシフトを構成する他の変数の変化を伴う曲線、または高次元空間の[[曲面]]によって表される。 == 日本史用語としての「供給」 == 近代以前の[[日本史]]において「供給」という言葉は、[[漢語]]では「くごう/ぐきゅう」、[[和訓]]では「たてまつりもの」<ref>『[[類聚名義抄]]』</ref>と呼ばれていた。 「供給」という言葉は元々は[[隋]]・[[唐]]の[[律令]]用語で、律令とともに日本にもたらされた。現代経済学においては、特定の物資を不特定多数に提供することを「供給」と呼ぶが、この場合には「食料及びそれに準じる物」を特定の相手に提供することを指して「供給」と称した。すなわち、公的な目的をもった使者やそれに準じる使者・客人([[荘園領主]]が現地に派遣する使者など)に対して通過する地域において食料を提供し、付随して使者が必要とする物資など(休憩・宿泊する[[宿駅]]や交代の馬匹など)も合わせて供給した。また、こうした使者や客人が目的地に到着(落付)した際に現地の人たちが3夜連続で飲食や贈物などをもって接待して無事な到着を祝う[[三日厨]]という行事も行われたが、その際に提供された飲食や贈物及び接待そのものを「供給」と呼んだ<ref>早川庄八「供給」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5)P967</ref>{{Refnest|group="注"|なお、中世の荘園・公領においては、供給に必要な食料や人夫は[[雑公事]]及び[[夫役]]として現地の[[在地領主]]及び[[名主]][[百姓]]の負担とされていた<ref>網野善彦「公事」(『歴史学事典 1 <small>交換と消費</small>』(弘文堂、1994年) ISBN 978-4-335-21031-0)P218</ref>}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[ミクロ経済学]] *[[派生需要]]、[[有効需要]]、[[潜在需要]] *[[産出量ギャップ]] *[[一物一価の法則]] *[[需要喚起]] *[[IS-LM分析]] *{{ill2|品不足|en|Shortage}}(物不足) - 凶作や戦争などによって供給量が低下したときに起きる。{{ill2|ソビエト連邦の品不足|en|Товарный дефицит в СССР}} == 外部リンク == * [https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005310357_00000 需要と供給] - [[NHK for School]] * [http://www.columbia.edu/dlc/wp/econ/vickrey.html William Vickrey: 15 fatal fallacies of financial fundamentalism-A Disquisition on Demand Side Economics]{{en icon}} * {{Kotobank|需要・供給の法則}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆようときようきゆう}} [[Category:ミクロ経済学]] [[Category:経済現象]] [[Category:消費者理論]] [[Category:経済学の法則]] [[Category:経済学の曲線]] {{ミクロ経済学}} {{経済学}} [[hr:Ponuda]] [[nl:Vraag (economie)]]
2003-07-21T13:52:19Z
2023-09-17T09:06:49Z
false
false
false
[ "Template:Main", "Template:See also", "Template:Normdaten", "Template:資本主義", "Template:Refnest", "Template:Ill2", "Template:En icon", "Template:Lang-en-short", "Template:仮リンク", "Template:コトバンク", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Kotobank", "Template:ミクロ経済学", "Template:経済学", "Template:出典の明記", "Template:Multiple image", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%80%E8%A6%81%E3%81%A8%E4%BE%9B%E7%B5%A6
11,995
現代音楽
現代音楽(げんだいおんがく)は、西洋クラシック音楽の流れであり20世紀後半から現在に至る音楽を指す。ドイツ語では「Neue Musik」、英語では「20th century classical music」などと表記されるようにその定義も非常に曖昧・抽象的であり、他の時代の西洋音楽史の区分のように、様式によって区分されたものではない。現代音楽は調性をはじめとする従来の音楽様式を否定・更新した先鋭的な音楽を指すことが多い。最も顕著な特徴は無調への傾倒と不協和音の多用である。 現代音楽という用語はその技法が考えられた年代のことを示し、楽曲が公開(リリース)された時期を示す物では無い。主に近代音楽以前の技法により作曲されたポップ・ミュージックやジャズ、ロックなど現代における音楽全般の区分については、現代の音楽の項を参照のこと(隣接他分野の音楽については後述)。また地域別の動向も参照のこと。 20世紀以降のクラシック音楽は、時代的に見て大まかに近代音楽と現代音楽に分けられる。近代音楽と現代音楽の境界をどこに設けるか、統一的な見解はない。場合によっては近代音楽と現代音楽の区分を設けず20世紀初頭からのクラシック音楽の流れを現代音楽ととらえる考え方もある。しかし一般的には第二次世界大戦をもって近代音楽との境界とし、戦後を現代音楽として取り扱うことが多い。ただし、戦前でも新ウィーン楽派、バルトーク、ヴァレーズ、アイヴズなど一部の先鋭的な作曲家や潮流は現代音楽に含む意見もある。さらに、新ウィーン楽派の無調以降を現代音楽とするがヒンデミットやオネゲルらの後発音楽は近代とみなす、または逆にブーレーズは、ドビュッシ-の『牧神の午後への前奏曲』をもって現代音楽は始まったとしている。また、第二次世界大戦後に傑作を書いた作曲家でも、リヒャルト・シュトラウス(『四つの最後の歌』の作曲が1948年)のように、全く現代音楽とみなされることのない場合もある。 本項では、特に記述すべき事項のみ戦前も扱うが基本的には戦後からの記述とし、19世紀末あるいは20世紀初頭から1945年までの事項については近代音楽の項に譲ることとする。 本項で取り扱う第二次世界大戦後の音楽は、一般に1960年代末ごろまでが「前衛の時代」とされる。 この時代は、戦前においては最も前衛的な語法とされていた十二音音楽が多くの作曲家によって取り上げられるようになり、またその十二音音楽の理論をさらに発展させたトータル・セリエリズム(セリ・アンテグラル)、電子的な発音技術を取り入れた電子音楽や録音技術によるミュジーク・コンクレート、サイコロやくじなどランダムな現象を取り入れ、あらかじめ決定された意思としての音楽を否定した偶然性の音楽、音域の密集したたくさんの音を塊のように同時に鳴らすトーン・クラスター、わずかな音形を執拗に繰り返しながら徐々にその形を変えるミニマル・ミュージック、楽譜でも図形譜や言語による楽譜など、それまでの音楽史の諸様式の範疇を大きく塗り替えるさまざまな音楽が登場した。 また、「楽譜そのものを芸術としてみる」概念もダダの時代に開発された。エルヴィン・シュルホフの『五つのピトレスケ』の第三曲は、全く意味をなさない顔文字と休符だけで全曲が構成された最初の音楽作品である。同時期にアルフォンス・アレーの『耳の不自由なある偉人の葬儀のために作曲された葬送行進曲』という空白の小節のみで書かれた作品もある。ジョン・ケージはこれらの作品を知らなかったにもかかわらず、後年独力で無音の『4分33秒』を書き上げることになった。ディーター・シュネーベルの『モノ』は本を見て音楽を感じる本・楽譜であって演奏するものではない。最近では『妖精のエアと死のワルツ』のように、前衛の時代の図形譜のパロディがインターネット上で話題になることもあった。 1970年代(一説には1968年)以降のいわゆる「前衛の停滞期」以降は、調性感および音楽が喚起させる感情の復権を目指した新ロマン主義や新しい単純性など、過去の音楽への回帰をめざすマニエリスムと呼ばれる風潮が強まった。 しかしさらにそれへの反動として西ヨーロッパを中心に、聴き手により複雑な事象の認識を要求させる新しい複雑性やポスト構造主義、音波を科学的に分析して音楽に応用するスペクトル楽派など、実験音楽と呼ばれる前衛的な作曲傾向も見られる。 このように様式は様々であるが、それまでのクラシック音楽の常識であった調性(協和音)的な音響や規則的なリズムなど、一般に認知されている音楽言語から大きく逸脱したものが多い(ただしマニエリスムの音楽はその逸脱からの帰還を目指している)。 現在では、芸術や人文科学の進歩としての活動、文化教育的な活動として、周辺芸術や人文科学関係(哲学など)にかかわる芸術家、学者、また愛好家たちを中心に、新たな音楽を求める活動を支持する層は存在する。演奏家や演奏団体も、ハンス・ロスバウトやパウル・ザッハーのように自分たちの演奏表現として新たな音楽の発信にかかわりたいという考えから進んで現代音楽を取り上げる奏者もいる。また各国政府の文化関係官庁や、芸術を支援する財団、あるいは公共放送局などからの保護と育成も受ける作曲家もいる。 作曲家たちもまた、それらの知性の積み重ねと進歩に対して自らの新しいメッセージを付加すべく新たな音楽を開拓し発信していくことで、それらの文化的あるいは経済的な支援や聴衆の期待に応えている。作曲を通しての知性への問題提起という行為によってそれが果たされると考えている者が多い。 また歴史的に見ればそうであるように、現代音楽も同時代の他の芸術の分野とも無縁ではなく、並行しながら動いていることも多い。近代音楽が印象派絵画に触発されたように、ジョン・ケージはロバート・ラウシェンバーグをはじめネオダダ、フルクサスの芸術家など多くの現代美術家に影響を与えた。フルクサスに所属した芸術家は音楽家や美術家、詩人など多数のジャンルにまたがり、たとえばビデオ・アートのナムジュン・パイクも当初は現代音楽家であった。ミニマル・ミュージックやミニマル・アートなど、ミニマリズムも音楽と美術で同時期に起こっている。1970年代以降のサウンド・アートやメディアアートなどでも、両者の共同作業が行われることもある。 今日、クラシック音楽の流れとしては見なされない他分野の音楽(例えばポップ、ジャズ、ロックなど、主に商業音楽と位置づけられている音楽分野)は、クラシック音楽とは分けて考える認識が一般的である(この定義・問題についての詳細は現代の音楽の項で扱うこととする)。 これら他分野の音楽への現代音楽の影響としては、1960年代後半頃以降、フリー・ジャズ(オーネット・コールマンなど)や前衛ロック(フランク・ザッパなど)、あるいはプログレッシブ・ロック、ノイズミュージックなどのジャンルに影響を与えた。 また先に述べた「マニエリスムの音楽」の一部には、こうした他分野の商業音楽の語法を取り入れた音楽もある。 ドイツ語では、まじめな音楽(Ernste Musik, E-Musik)と娯楽音楽(Unterhaltungsmusik, U-Musik)という分類があり、このうちE-Musikがクラシック音楽および現代音楽を指す(他民族の音楽においても伝統にのっとった厳粛なものや宮廷音楽などの場合はE-Musikに相当すると考える)。現代においては、主に商業の流通に直接のっとった音楽商業音楽をU-Musikと呼び習わしている。他の国での考え方もほぼこれと同類であると見てよい。日本語では大雑把にいってクラシック音楽が前者(E-Musik)、ポピュラー音楽が後者(U-Musik)に当たる。 ただしこの(ドイツ語を借りれば)E-MusikとU-Musikのいわゆる中間に位置する音楽というものも多数存在する。これらはU-Musikの範疇としては進歩的・先鋭的な立場にあるが、E-Musikの範疇では(一般的な価値観では)扱われない音楽を指す。これらの音楽はアヴァン・ポップ(avant pops)とも呼ばれている。パブロ・メルクは一時期E-MusikとU-Musikの混血児のような作風に没頭しており、アンリ・プッスールの作品に『E-Musik?それともU-Musik?』という題名の作品がある。セミ・クラシックと呼ばれる音楽もこれに該当する。この領域の音楽が、最も著作権問題にうるさい音楽になっている。 映画音楽に代表される劇伴については、そのほとんどが前項の娯楽音楽に含まれるという認識が一般的だが、現代音楽の作曲家が映画音楽を手がける例もあり、そのうちのいくつかは(その映画作品そのものの芸術的・先鋭的な姿勢に呼応して)先鋭的な音楽をつける場合がある。こうした音楽は現代音楽と認識される場合があり、その範囲は現在では映画だけにはとどまらず、ドラマやアニメ、ゲームにも及ぶともされる。こうした例は現代音楽に限らず、トーキー映画が登場した20世紀初頭の近代音楽においても見られる(あるいはサイレント映画の伴奏も含む)。 また、現代音楽の既存の作品が映画のBGMとして流用される場合もある(例: 映画『2001年宇宙の旅』 - 監督: スタンリー・キューブリック、二次使用された音楽: ジェルジ・リゲティ『ルクス・エテルナ』および『アトモスフェール』)。 現代音楽やそれに近い先鋭的な音楽が当てはめられる映画は、往々にしてホラー映画ほか恐怖を題材とした映画が多く、またホラー映画製作中に最適なBGMや作曲家を求めて現代音楽にたどり着く例もある。『エクソシスト』を監督したウィリアム・フリードキンは、当初予定されていたラロ・シフリンのメロドラマ的な映画音楽を起用せず、プログレッシヴ・ロックと現代音楽の境に位置するマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』を起用して観客に強い印象を与えた。 現代音楽の作曲家が映画音楽の仕事を手がける場合は、その理由に収入もあるが、演奏会用純音楽ではなかなか実験できない新しいアイデアを、映画音楽において試みる場とすることがある。オーケストレーションの実践であったり、あるいはそれまで作曲家にとって使ったことのない楽器や音響技術を試みる場合もある。 日本での例では伊福部昭、早坂文雄などの先例に続き、武満徹、池辺晋一郎などが映画音楽に多くかかわっている。武満の例では、琵琶や尺八を最初に用いたのは映画音楽の中であり、その後に代表作『ノヴェンバー・ステップス』など純音楽でも邦楽器を進んで用いるようになった(詳細は武満徹の項を参照)。また映画音楽に限らず、演劇の舞台音楽やテレビ番組(特にドラマやドキュメンタリー番組など)の音楽などを手がける場合もある。珍しい例ではないが、ベルント・アロイス・ツィンマーマンは一時期、収入がそのような音楽の仕事のみになったことがある。 近年のマニエリスムの音楽の作曲家は、映画音楽そのものを純音楽として演奏会で上演する場合も多い。 具体例 映画音楽が折衷主義的な立ち位置を得た最大の要因は、亡命したエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトがハリウッドで後期ロマン派の様式による音楽を書き続けたことが非常に大きい。よって彼がこのような仕事をもし引き受けていなかったら、映画音楽はマニエリスムの音楽の巣窟にはならなかったという可能性は大いに考えられる。またカリフォルニアで教鞭をとったアルノルト・シェーンベルクのレッスンを受けた者の多くが、ハリウッドで映画音楽の製作に関わっているのではないかという説があるのは興味深い。原則的に未聴感ではなく既聴感に訴えかける産業がこのような経緯で成立している。無論映画には「映像」という、人が生きる上で必要不可欠とされる視覚効果で多くの表現が可能であるから、映画音楽には商業化を重視しなくても気軽にクラシック音楽や大衆音楽の要素を部分的に使えて、自由な発想と既存の組み合わせによるマニエリスムの音楽として成立しやすい。その要素が映画作品においては作為的な映画音楽がどこかで聴いたことがあるというような既聴感に通じる感覚にも関わっている。 ミュジーク・コンクレートにおけるサンプリング手法はその後、電子的なサンプラーにより、一般的なポップミュージックにも応用されるようになった。これは具体音の録音を音楽の一部として認識するという意味において特筆すべき事項である。音を録音してさらにそれを電子的な技術により変調させたものを使うという発想が一般に定着したのは、ミュジーク・コンクレートの功績が大きい。 ただしクラシック音楽の歴史において具体音を効果として盛り込む試みはすでに多く見られる。例えばレオポルト・モーツァルトの『おもちゃの交響曲』での鳥笛など音の出るおもちゃ、ヨーゼフ・シュトラウスの『鍛冶屋のポルカ』での鉄のレールをハンマーで叩く音、マーラーの交響曲で使われる木づちや鎖など特殊な打楽器などである。セミクラシックと呼ばれるルロイ・アンダーソンの『タイプライター』では、題名どおりそのものを打楽器として用いている。 音楽劇の中で劇中の小道具を音楽に取り込む用法としてはワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で、主役の靴職人ハンス・ザックスが宿敵ベックメッサーの歌の練習を邪魔して靴を叩く音を挿入したり、サティの舞台音楽『パラード』で大騒ぎの挙句ピストルやサイレンの音を挿入したりするなどの例が挙げられる(サイレンの音は、後にエドガー・ヴァレーズが『イオニザシオン』などで純音楽的効果として用いている)。これらは録音技術以前において具体音を音楽として取り込んでいる例である。 また具体音を楽音で模した例となると無数にある。シャルル=ヴァランタン・アルカン、アルチュール・オネゲル、ルーズ・ランゴーが鉄道の音を模倣しているが、アルカンのころには既存の音楽の枠に具体音を押し込めていたのが、ランゴーのころには忠実な具体音の模写そのものが音楽になっている。直接的な音響効果を求めるだけでなく、その音響を聴き手が認識することによってその音から別の事象が連想されるという意味合いがある。 これら具体音の導入は、商業音楽などの分野にも影響を与えた。日本における前衛的音響はテレビ番組の効果音からJ-POPのバックトラックやアニメのサウンドトラックまで幅広く浸透している。簡単に受け入れられた例として『ゴジラ』の鳴き声を挙げておく。伊福部昭の発案によるこの音は、コントラバスの特殊奏法を最大限に増幅して得られた。本来微小な音響を最大限に増幅する手法は小杉武久や池田亮司の作品においてしばしば現れるものである。 この試みについては古くは20世紀初頭でのアイヴスの異なる音楽同士の組み合わせや、ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』におけるジャズの語法の導入、さらにさかのぼれば18世紀にベートーヴェンが当時の流行歌を主旋律に取り込んで変奏曲に用いたピアノ三重奏曲『街の歌』などにも見られる。これらは単に語法を取り込んだという事実だけでなく、その語法を取り込むことによって聴き手に既聴感を想起させ喜ばせるという意味合いも生まれる。 主に近年のマニエリスムの音楽の作曲家の間では、こうした手法は広く行われている。現代音楽の古典としての地位を占める作曲家ルチアーノ・ベリオの一部の作品では、例えばテープ音楽『迷宮』において、フリー・ジャズ的な語法およびポップ音楽のバックコーラス的なスキャット唱法などがかいま見えるが、これは後のマニエリスムの音楽の潮流の到来を予感させるとも言える。 その最大の立役者はドイツのケルンのシュトックハウゼンの先輩にあたるベルント・アロイス・ツィンマーマンであろう。彼のクラシック音楽のほとんどまたは常に登場するジャズの語法と引用の頻度の多さでのコラージュ手法は、他の作曲家の追従を許さない反面、プロコフィエフやヤナーチェク、カール・オルフの繰り返しの技法のように常にその一定の作法に頼ってしまうという危険性も併せ持っている。引用音楽の王者とも言われる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現代音楽(げんだいおんがく)は、西洋クラシック音楽の流れであり20世紀後半から現在に至る音楽を指す。ドイツ語では「Neue Musik」、英語では「20th century classical music」などと表記されるようにその定義も非常に曖昧・抽象的であり、他の時代の西洋音楽史の区分のように、様式によって区分されたものではない。現代音楽は調性をはじめとする従来の音楽様式を否定・更新した先鋭的な音楽を指すことが多い。最も顕著な特徴は無調への傾倒と不協和音の多用である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現代音楽という用語はその技法が考えられた年代のことを示し、楽曲が公開(リリース)された時期を示す物では無い。主に近代音楽以前の技法により作曲されたポップ・ミュージックやジャズ、ロックなど現代における音楽全般の区分については、現代の音楽の項を参照のこと(隣接他分野の音楽については後述)。また地域別の動向も参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "20世紀以降のクラシック音楽は、時代的に見て大まかに近代音楽と現代音楽に分けられる。近代音楽と現代音楽の境界をどこに設けるか、統一的な見解はない。場合によっては近代音楽と現代音楽の区分を設けず20世紀初頭からのクラシック音楽の流れを現代音楽ととらえる考え方もある。しかし一般的には第二次世界大戦をもって近代音楽との境界とし、戦後を現代音楽として取り扱うことが多い。ただし、戦前でも新ウィーン楽派、バルトーク、ヴァレーズ、アイヴズなど一部の先鋭的な作曲家や潮流は現代音楽に含む意見もある。さらに、新ウィーン楽派の無調以降を現代音楽とするがヒンデミットやオネゲルらの後発音楽は近代とみなす、または逆にブーレーズは、ドビュッシ-の『牧神の午後への前奏曲』をもって現代音楽は始まったとしている。また、第二次世界大戦後に傑作を書いた作曲家でも、リヒャルト・シュトラウス(『四つの最後の歌』の作曲が1948年)のように、全く現代音楽とみなされることのない場合もある。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本項では、特に記述すべき事項のみ戦前も扱うが基本的には戦後からの記述とし、19世紀末あるいは20世紀初頭から1945年までの事項については近代音楽の項に譲ることとする。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本項で取り扱う第二次世界大戦後の音楽は、一般に1960年代末ごろまでが「前衛の時代」とされる。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この時代は、戦前においては最も前衛的な語法とされていた十二音音楽が多くの作曲家によって取り上げられるようになり、またその十二音音楽の理論をさらに発展させたトータル・セリエリズム(セリ・アンテグラル)、電子的な発音技術を取り入れた電子音楽や録音技術によるミュジーク・コンクレート、サイコロやくじなどランダムな現象を取り入れ、あらかじめ決定された意思としての音楽を否定した偶然性の音楽、音域の密集したたくさんの音を塊のように同時に鳴らすトーン・クラスター、わずかな音形を執拗に繰り返しながら徐々にその形を変えるミニマル・ミュージック、楽譜でも図形譜や言語による楽譜など、それまでの音楽史の諸様式の範疇を大きく塗り替えるさまざまな音楽が登場した。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、「楽譜そのものを芸術としてみる」概念もダダの時代に開発された。エルヴィン・シュルホフの『五つのピトレスケ』の第三曲は、全く意味をなさない顔文字と休符だけで全曲が構成された最初の音楽作品である。同時期にアルフォンス・アレーの『耳の不自由なある偉人の葬儀のために作曲された葬送行進曲』という空白の小節のみで書かれた作品もある。ジョン・ケージはこれらの作品を知らなかったにもかかわらず、後年独力で無音の『4分33秒』を書き上げることになった。ディーター・シュネーベルの『モノ』は本を見て音楽を感じる本・楽譜であって演奏するものではない。最近では『妖精のエアと死のワルツ』のように、前衛の時代の図形譜のパロディがインターネット上で話題になることもあった。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1970年代(一説には1968年)以降のいわゆる「前衛の停滞期」以降は、調性感および音楽が喚起させる感情の復権を目指した新ロマン主義や新しい単純性など、過去の音楽への回帰をめざすマニエリスムと呼ばれる風潮が強まった。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかしさらにそれへの反動として西ヨーロッパを中心に、聴き手により複雑な事象の認識を要求させる新しい複雑性やポスト構造主義、音波を科学的に分析して音楽に応用するスペクトル楽派など、実験音楽と呼ばれる前衛的な作曲傾向も見られる。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "このように様式は様々であるが、それまでのクラシック音楽の常識であった調性(協和音)的な音響や規則的なリズムなど、一般に認知されている音楽言語から大きく逸脱したものが多い(ただしマニエリスムの音楽はその逸脱からの帰還を目指している)。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現在では、芸術や人文科学の進歩としての活動、文化教育的な活動として、周辺芸術や人文科学関係(哲学など)にかかわる芸術家、学者、また愛好家たちを中心に、新たな音楽を求める活動を支持する層は存在する。演奏家や演奏団体も、ハンス・ロスバウトやパウル・ザッハーのように自分たちの演奏表現として新たな音楽の発信にかかわりたいという考えから進んで現代音楽を取り上げる奏者もいる。また各国政府の文化関係官庁や、芸術を支援する財団、あるいは公共放送局などからの保護と育成も受ける作曲家もいる。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "作曲家たちもまた、それらの知性の積み重ねと進歩に対して自らの新しいメッセージを付加すべく新たな音楽を開拓し発信していくことで、それらの文化的あるいは経済的な支援や聴衆の期待に応えている。作曲を通しての知性への問題提起という行為によってそれが果たされると考えている者が多い。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また歴史的に見ればそうであるように、現代音楽も同時代の他の芸術の分野とも無縁ではなく、並行しながら動いていることも多い。近代音楽が印象派絵画に触発されたように、ジョン・ケージはロバート・ラウシェンバーグをはじめネオダダ、フルクサスの芸術家など多くの現代美術家に影響を与えた。フルクサスに所属した芸術家は音楽家や美術家、詩人など多数のジャンルにまたがり、たとえばビデオ・アートのナムジュン・パイクも当初は現代音楽家であった。ミニマル・ミュージックやミニマル・アートなど、ミニマリズムも音楽と美術で同時期に起こっている。1970年代以降のサウンド・アートやメディアアートなどでも、両者の共同作業が行われることもある。", "title": "総論" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "今日、クラシック音楽の流れとしては見なされない他分野の音楽(例えばポップ、ジャズ、ロックなど、主に商業音楽と位置づけられている音楽分野)は、クラシック音楽とは分けて考える認識が一般的である(この定義・問題についての詳細は現代の音楽の項で扱うこととする)。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これら他分野の音楽への現代音楽の影響としては、1960年代後半頃以降、フリー・ジャズ(オーネット・コールマンなど)や前衛ロック(フランク・ザッパなど)、あるいはプログレッシブ・ロック、ノイズミュージックなどのジャンルに影響を与えた。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また先に述べた「マニエリスムの音楽」の一部には、こうした他分野の商業音楽の語法を取り入れた音楽もある。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ドイツ語では、まじめな音楽(Ernste Musik, E-Musik)と娯楽音楽(Unterhaltungsmusik, U-Musik)という分類があり、このうちE-Musikがクラシック音楽および現代音楽を指す(他民族の音楽においても伝統にのっとった厳粛なものや宮廷音楽などの場合はE-Musikに相当すると考える)。現代においては、主に商業の流通に直接のっとった音楽商業音楽をU-Musikと呼び習わしている。他の国での考え方もほぼこれと同類であると見てよい。日本語では大雑把にいってクラシック音楽が前者(E-Musik)、ポピュラー音楽が後者(U-Musik)に当たる。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただしこの(ドイツ語を借りれば)E-MusikとU-Musikのいわゆる中間に位置する音楽というものも多数存在する。これらはU-Musikの範疇としては進歩的・先鋭的な立場にあるが、E-Musikの範疇では(一般的な価値観では)扱われない音楽を指す。これらの音楽はアヴァン・ポップ(avant pops)とも呼ばれている。パブロ・メルクは一時期E-MusikとU-Musikの混血児のような作風に没頭しており、アンリ・プッスールの作品に『E-Musik?それともU-Musik?』という題名の作品がある。セミ・クラシックと呼ばれる音楽もこれに該当する。この領域の音楽が、最も著作権問題にうるさい音楽になっている。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "映画音楽に代表される劇伴については、そのほとんどが前項の娯楽音楽に含まれるという認識が一般的だが、現代音楽の作曲家が映画音楽を手がける例もあり、そのうちのいくつかは(その映画作品そのものの芸術的・先鋭的な姿勢に呼応して)先鋭的な音楽をつける場合がある。こうした音楽は現代音楽と認識される場合があり、その範囲は現在では映画だけにはとどまらず、ドラマやアニメ、ゲームにも及ぶともされる。こうした例は現代音楽に限らず、トーキー映画が登場した20世紀初頭の近代音楽においても見られる(あるいはサイレント映画の伴奏も含む)。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、現代音楽の既存の作品が映画のBGMとして流用される場合もある(例: 映画『2001年宇宙の旅』 - 監督: スタンリー・キューブリック、二次使用された音楽: ジェルジ・リゲティ『ルクス・エテルナ』および『アトモスフェール』)。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現代音楽やそれに近い先鋭的な音楽が当てはめられる映画は、往々にしてホラー映画ほか恐怖を題材とした映画が多く、またホラー映画製作中に最適なBGMや作曲家を求めて現代音楽にたどり着く例もある。『エクソシスト』を監督したウィリアム・フリードキンは、当初予定されていたラロ・シフリンのメロドラマ的な映画音楽を起用せず、プログレッシヴ・ロックと現代音楽の境に位置するマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』を起用して観客に強い印象を与えた。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "現代音楽の作曲家が映画音楽の仕事を手がける場合は、その理由に収入もあるが、演奏会用純音楽ではなかなか実験できない新しいアイデアを、映画音楽において試みる場とすることがある。オーケストレーションの実践であったり、あるいはそれまで作曲家にとって使ったことのない楽器や音響技術を試みる場合もある。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本での例では伊福部昭、早坂文雄などの先例に続き、武満徹、池辺晋一郎などが映画音楽に多くかかわっている。武満の例では、琵琶や尺八を最初に用いたのは映画音楽の中であり、その後に代表作『ノヴェンバー・ステップス』など純音楽でも邦楽器を進んで用いるようになった(詳細は武満徹の項を参照)。また映画音楽に限らず、演劇の舞台音楽やテレビ番組(特にドラマやドキュメンタリー番組など)の音楽などを手がける場合もある。珍しい例ではないが、ベルント・アロイス・ツィンマーマンは一時期、収入がそのような音楽の仕事のみになったことがある。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "近年のマニエリスムの音楽の作曲家は、映画音楽そのものを純音楽として演奏会で上演する場合も多い。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "具体例", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "映画音楽が折衷主義的な立ち位置を得た最大の要因は、亡命したエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトがハリウッドで後期ロマン派の様式による音楽を書き続けたことが非常に大きい。よって彼がこのような仕事をもし引き受けていなかったら、映画音楽はマニエリスムの音楽の巣窟にはならなかったという可能性は大いに考えられる。またカリフォルニアで教鞭をとったアルノルト・シェーンベルクのレッスンを受けた者の多くが、ハリウッドで映画音楽の製作に関わっているのではないかという説があるのは興味深い。原則的に未聴感ではなく既聴感に訴えかける産業がこのような経緯で成立している。無論映画には「映像」という、人が生きる上で必要不可欠とされる視覚効果で多くの表現が可能であるから、映画音楽には商業化を重視しなくても気軽にクラシック音楽や大衆音楽の要素を部分的に使えて、自由な発想と既存の組み合わせによるマニエリスムの音楽として成立しやすい。その要素が映画作品においては作為的な映画音楽がどこかで聴いたことがあるというような既聴感に通じる感覚にも関わっている。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ミュジーク・コンクレートにおけるサンプリング手法はその後、電子的なサンプラーにより、一般的なポップミュージックにも応用されるようになった。これは具体音の録音を音楽の一部として認識するという意味において特筆すべき事項である。音を録音してさらにそれを電子的な技術により変調させたものを使うという発想が一般に定着したのは、ミュジーク・コンクレートの功績が大きい。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただしクラシック音楽の歴史において具体音を効果として盛り込む試みはすでに多く見られる。例えばレオポルト・モーツァルトの『おもちゃの交響曲』での鳥笛など音の出るおもちゃ、ヨーゼフ・シュトラウスの『鍛冶屋のポルカ』での鉄のレールをハンマーで叩く音、マーラーの交響曲で使われる木づちや鎖など特殊な打楽器などである。セミクラシックと呼ばれるルロイ・アンダーソンの『タイプライター』では、題名どおりそのものを打楽器として用いている。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "音楽劇の中で劇中の小道具を音楽に取り込む用法としてはワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で、主役の靴職人ハンス・ザックスが宿敵ベックメッサーの歌の練習を邪魔して靴を叩く音を挿入したり、サティの舞台音楽『パラード』で大騒ぎの挙句ピストルやサイレンの音を挿入したりするなどの例が挙げられる(サイレンの音は、後にエドガー・ヴァレーズが『イオニザシオン』などで純音楽的効果として用いている)。これらは録音技術以前において具体音を音楽として取り込んでいる例である。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また具体音を楽音で模した例となると無数にある。シャルル=ヴァランタン・アルカン、アルチュール・オネゲル、ルーズ・ランゴーが鉄道の音を模倣しているが、アルカンのころには既存の音楽の枠に具体音を押し込めていたのが、ランゴーのころには忠実な具体音の模写そのものが音楽になっている。直接的な音響効果を求めるだけでなく、その音響を聴き手が認識することによってその音から別の事象が連想されるという意味合いがある。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "これら具体音の導入は、商業音楽などの分野にも影響を与えた。日本における前衛的音響はテレビ番組の効果音からJ-POPのバックトラックやアニメのサウンドトラックまで幅広く浸透している。簡単に受け入れられた例として『ゴジラ』の鳴き声を挙げておく。伊福部昭の発案によるこの音は、コントラバスの特殊奏法を最大限に増幅して得られた。本来微小な音響を最大限に増幅する手法は小杉武久や池田亮司の作品においてしばしば現れるものである。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この試みについては古くは20世紀初頭でのアイヴスの異なる音楽同士の組み合わせや、ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』におけるジャズの語法の導入、さらにさかのぼれば18世紀にベートーヴェンが当時の流行歌を主旋律に取り込んで変奏曲に用いたピアノ三重奏曲『街の歌』などにも見られる。これらは単に語法を取り込んだという事実だけでなく、その語法を取り込むことによって聴き手に既聴感を想起させ喜ばせるという意味合いも生まれる。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "主に近年のマニエリスムの音楽の作曲家の間では、こうした手法は広く行われている。現代音楽の古典としての地位を占める作曲家ルチアーノ・ベリオの一部の作品では、例えばテープ音楽『迷宮』において、フリー・ジャズ的な語法およびポップ音楽のバックコーラス的なスキャット唱法などがかいま見えるが、これは後のマニエリスムの音楽の潮流の到来を予感させるとも言える。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その最大の立役者はドイツのケルンのシュトックハウゼンの先輩にあたるベルント・アロイス・ツィンマーマンであろう。彼のクラシック音楽のほとんどまたは常に登場するジャズの語法と引用の頻度の多さでのコラージュ手法は、他の作曲家の追従を許さない反面、プロコフィエフやヤナーチェク、カール・オルフの繰り返しの技法のように常にその一定の作法に頼ってしまうという危険性も併せ持っている。引用音楽の王者とも言われる。", "title": "他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響" } ]
現代音楽(げんだいおんがく)は、西洋クラシック音楽の流れであり20世紀後半から現在に至る音楽を指す。ドイツ語では「Neue Musik」、英語では「20th century classical music」などと表記されるようにその定義も非常に曖昧・抽象的であり、他の時代の西洋音楽史の区分のように、様式によって区分されたものではない。現代音楽は調性をはじめとする従来の音楽様式を否定・更新した先鋭的な音楽を指すことが多い。最も顕著な特徴は無調への傾倒と不協和音の多用である。 現代音楽という用語はその技法が考えられた年代のことを示し、楽曲が公開(リリース)された時期を示す物では無い。主に近代音楽以前の技法により作曲されたポップ・ミュージックやジャズ、ロックなど現代における音楽全般の区分については、現代の音楽の項を参照のこと(隣接他分野の音楽については後述)。また地域別の動向も参照のこと。
{{半保護}} {{複数の問題 | 参照方法 = 2011年8月7日 (日) 15:53 (UTC) | 独自研究 = 2011年8月7日 (日) 15:53 (UTC) | 言葉を濁さない = 2011年8月7日 (日) 15:53 (UTC) }} {{Portal クラシック音楽}} '''現代音楽'''(げんだいおんがく)は、西洋[[クラシック音楽]]の流れであり[[20世紀]]後半から現在に至る[[音楽]]を指す。ドイツ語では「Neue Musik」、英語では「20th century classical music」などと表記されるようにその定義も非常に曖昧・抽象的であり、他の時代の[[西洋音楽]]史の区分のように、様式によって区分されたものではない。現代音楽は[[調性]]をはじめとする従来の音楽様式を否定・更新した先鋭的な音楽を指すことが多い。最も顕著な特徴は[[無調]]への傾倒と[[不協和音]]の多用である。 現代音楽という用語はその技法が考えられた年代のことを示し、楽曲が公開(リリース)された時期を示す物では無い。主に近代音楽以前の技法により作曲された[[ポップ・ミュージック]]や[[ジャズ]]、[[ロック (音楽)|ロック]]など現代における音楽全般の区分については、[[現代の音楽]]の項を参照のこと(隣接他分野の音楽については後述)。また[[現代音楽/地域別の動向|地域別の動向]]も参照のこと。 == 総論 == [[20世紀]]以降のクラシック音楽は、時代的に見て大まかに[[近代音楽]]と現代音楽に分けられる。近代音楽と現代音楽の境界をどこに設けるか、統一的な見解はない。場合によっては近代音楽と現代音楽の区分を設けず20世紀初頭からのクラシック音楽の流れを現代音楽ととらえる考え方もある。しかし一般的には[[第二次世界大戦]]をもって近代音楽との境界とし、戦後を現代音楽として取り扱うことが多い。ただし、戦前でも[[新ウィーン楽派]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[エドガー・ヴァレーズ|ヴァレーズ]]、[[チャールズ・アイヴズ|アイヴズ]]など一部の先鋭的な作曲家や潮流は現代音楽に含む意見もある。さらに、[[新ウィーン楽派]]の[[無調]]以降を現代音楽とするが[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]や[[アルテュール・オネゲル|オネゲル]]らの後発音楽は近代とみなす、または逆に[[ピエール・ブーレーズ|ブーレーズ]]は、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシ-]]の『[[牧神の午後への前奏曲]]』をもって現代音楽は始まったとしている。また、第二次世界大戦後に傑作を書いた作曲家でも、[[リヒャルト・シュトラウス]](『[[4つの最後の歌 (リヒャルト・シュトラウス)|四つの最後の歌]]』の作曲が[[1948年]])のように、全く現代音楽とみなされることのない場合もある。 本項では、特に記述すべき事項のみ戦前も扱うが基本的には戦後からの記述とし、[[19世紀]]末あるいは[[20世紀]]初頭から[[1945年]]までの事項については[[近代音楽]]の項に譲ることとする。 本項で取り扱う[[第二次世界大戦]]後の音楽は、一般に[[1960年代]]末ごろまでが「前衛の時代」とされる。 この時代は、戦前においては最も前衛的な語法とされていた[[十二音音楽]]が多くの作曲家によって取り上げられるようになり、またその十二音音楽の理論をさらに発展させた[[トータル・セリエリズム]](セリ・アンテグラル)、電子的な発音技術を取り入れた[[電子音楽]]や録音技術による[[ミュジーク・コンクレート]]、[[サイコロ]]や[[くじ]]などランダムな現象を取り入れ、あらかじめ決定された意思としての音楽を否定した[[偶然性の音楽]]、音域の密集したたくさんの音を塊のように同時に鳴らす[[トーン・クラスター]]、わずかな音形を執拗に繰り返しながら徐々にその形を変える[[ミニマル・ミュージック]]、楽譜でも[[図形譜]]や言語による楽譜など、それまでの音楽史の諸様式の範疇を大きく塗り替えるさまざまな音楽が登場した。 また、「楽譜そのものを芸術としてみる」概念も[[ダダイスム|ダダ]]の時代に開発された。[[エルヴィン・シュルホフ]]の『五つのピトレスケ』の第三曲は、全く意味をなさない[[顔文字]]と[[休符]]だけで全曲が構成された最初の音楽作品である。同時期に[[アルフォンス・アレー]]の『耳の不自由なある偉人の葬儀のために作曲された葬送行進曲』という空白の小節のみで書かれた作品もある。[[ジョン・ケージ]]はこれらの作品を知らなかったにもかかわらず、後年独力で無音の『[[4分33秒]]』を書き上げることになった。[[ディーター・シュネーベル]]の『モノ』は本を見て音楽を感じる本・楽譜であって演奏するものではない。最近では『[[妖精のエアと死のワルツ]]』のように、前衛の時代の[[図形譜]]のパロディが[[インターネット]]上で話題になることもあった。 [[1970年代]](一説には[[1968年]])以降のいわゆる「前衛の停滞期」以降は、調性感および音楽が喚起させる感情の復権を目指した[[新ロマン主義]]や[[新しい単純性]]など、過去の音楽への回帰をめざす[[マニエリスム]]と呼ばれる風潮が強まった。 しかしさらにそれへの反動として西ヨーロッパを中心に、聴き手により複雑な事象の認識を要求させる[[新しい複雑性]]や[[ポスト構造主義]]、音波を科学的に分析して音楽に応用する[[スペクトル楽派]]など、[[実験音楽]]と呼ばれる前衛的な作曲傾向も見られる。 このように様式は様々であるが、それまでのクラシック音楽の常識であった[[調性]](協和音)的な音響や規則的なリズムなど、一般に認知されている音楽言語から大きく逸脱したものが多い(ただし[[マニエリスム]]の音楽はその逸脱からの帰還を目指している)。 現在では、芸術や人文科学の進歩としての活動、文化教育的な活動として、周辺芸術や人文科学関係(哲学など)にかかわる芸術家、学者、また愛好家たちを中心に、新たな音楽を求める活動を支持する層は存在する。演奏家や演奏団体も、[[ハンス・ロスバウト]]や[[パウル・ザッハー]]のように自分たちの演奏表現として新たな音楽の発信にかかわりたいという考えから進んで現代音楽を取り上げる奏者もいる。また各国政府の文化関係官庁や、芸術を支援する財団、あるいは公共放送局などからの保護と育成も受ける作曲家<ref>[[ヴィトルト・ルトスワフスキ]]、[[小船幸次郎]]</ref>もいる。 作曲家たちもまた、それらの知性の積み重ねと進歩に対して自らの新しいメッセージを付加すべく新たな音楽を開拓し発信していくことで、それらの文化的あるいは経済的な支援や聴衆の期待に応えている。作曲を通しての知性への問題提起という行為によってそれが果たされると考えている者<ref>[[オリヴィエ・メシアン]]</ref>が多い。 また歴史的に見ればそうであるように、現代音楽も同時代の他の芸術の分野とも無縁ではなく、並行しながら動いていることも多い。近代音楽が[[印象派]][[絵画]]に触発されたように、[[ジョン・ケージ]]は[[ロバート・ラウシェンバーグ]]をはじめ[[ネオダダ]]、[[フルクサス]]の芸術家など多くの現代美術家に影響を与えた。フルクサスに所属した芸術家は音楽家や美術家、詩人など多数のジャンルにまたがり、たとえば[[ビデオ・アート]]の[[ナムジュン・パイク]]も当初は現代音楽家であった。[[ミニマル・ミュージック]]や[[ミニマル・アート]]など、[[ミニマリズム]]も音楽と美術で同時期に起こっている。1970年代以降の[[サウンド・アート]]や[[メディアアート]]などでも、両者の共同作業が行われることもある。 == 他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響 == 今日、クラシック音楽の流れとしては見なされない他分野の音楽(例えばポップ、ジャズ、ロックなど、主に商業音楽と位置づけられている音楽分野)は、クラシック音楽とは分けて考える認識が一般的である(この定義・問題についての詳細は[[現代の音楽]]の項で扱うこととする)。 これら他分野の音楽への現代音楽の影響としては、[[1960年代]]後半頃以降、[[フリー・ジャズ]](オーネット・コールマンなど)や[[前衛ロック]](フランク・ザッパなど)、あるいは[[プログレッシブ・ロック]]、[[ノイズミュージック]]などのジャンルに影響を与えた。 また先に述べた「マニエリスムの音楽」の一部には、こうした他分野の商業音楽の語法を取り入れた音楽もある。 === 商業音楽との境界 === {{出典の明記|section=1|date=2007年3月}} ドイツ語では、[[まじめな音楽]](Ernste Musik, E-Musik)と[[娯楽音楽]](Unterhaltungsmusik, U-Musik)という分類があり、このうちE-Musikがクラシック音楽および現代音楽を指す(他民族の音楽においても伝統にのっとった厳粛なものや宮廷音楽などの場合はE-Musikに相当すると考える)。現代においては、主に商業の流通に直接のっとった音楽[[商業音楽]]をU-Musikと呼び習わしている。他の国での考え方もほぼこれと同類であると見てよい。日本語では大雑把にいって[[クラシック音楽]]が前者(E-Musik)、[[ポピュラー音楽]]が後者(U-Musik)に当たる。 ただしこの(ドイツ語を借りれば)E-MusikとU-Musikのいわゆる中間に位置する音楽というものも多数存在する。これらはU-Musikの範疇としては進歩的・先鋭的な立場にあるが、E-Musikの範疇では(一般的な価値観では)扱われない音楽を指す。これらの音楽はアヴァン・ポップ(avant pops)とも呼ばれている。パブロ・メルクは一時期E-MusikとU-Musikの混血児のような作風に没頭しており、[[アンリ・プッスール]]の作品に『E-Musik?それともU-Musik?』という題名の作品がある。[[セミ・クラシック]]と呼ばれる音楽もこれに該当する。この領域の音楽が、最も著作権問題にうるさい音楽になっている。 === 映画音楽 === [[映画音楽]]に代表される[[劇伴]]については、そのほとんどが前項の娯楽音楽に含まれるという認識が一般的だが、現代音楽の作曲家が映画音楽を手がける例もあり、そのうちのいくつかは(その映画作品そのものの芸術的・先鋭的な姿勢に呼応して)先鋭的な音楽をつける場合がある。こうした音楽は現代音楽と認識される場合があり、その範囲は現在では映画だけにはとどまらず、ドラマや[[アニメ音楽|アニメ]]、[[ゲームミュージック|ゲーム]]にも及ぶともされる。こうした例は現代音楽に限らず、[[トーキー|トーキー映画]]が登場した[[20世紀]]初頭の[[近代音楽]]においても見られる(あるいは[[サイレント映画]]の伴奏も含む)。 *近代での具体例 ** 映画『[[アレクサンドル・ネフスキー (映画)|アレクサンドル・ネフスキー]]』 - 監督: [[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]、音楽: [[セルゲイ・プロコフィエフ]](後に同名のカンタータにまとめた) ** 映画『[[美女と野獣_(1946年の映画)|美女と野獣]]』 - 監督: [[ジャン・コクトー]]、音楽: [[ジョルジュ・オーリック]] * 現代での具体例 ** 映画『[[怪談 (1964年映画)|怪談]]』 - 監督: [[小林正樹]]、音楽: [[武満徹]] また、現代音楽の既存の作品が映画のBGMとして流用される場合もある(例: 映画『[[2001年宇宙の旅]]』 - 監督: [[スタンリー・キューブリック]]、二次使用された音楽: [[リゲティ・ジェルジュ|ジェルジ・リゲティ]]『[[ルクス・エテルナ (リゲティ)|ルクス・エテルナ]]』および『[[アトモスフェール]]』)。 現代音楽やそれに近い先鋭的な音楽が当てはめられる映画は、往々にして[[ホラー映画]]ほか恐怖を題材とした映画が多く、またホラー映画製作中に最適なBGMや作曲家を求めて現代音楽にたどり着く例もある。『[[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]』を監督した[[ウィリアム・フリードキン]]は、当初予定されていた[[ラロ・シフリン]]のメロドラマ的な映画音楽を起用せず、[[プログレッシヴ・ロック]]と現代音楽の境に位置する[[マイク・オールドフィールド]]の『チューブラー・ベルズ』を起用して観客に強い印象を与えた。 現代音楽の作曲家が映画音楽の仕事を手がける場合は、その理由に収入もあるが、演奏会用純音楽ではなかなか実験できない新しいアイデアを、映画音楽において試みる場とすることがある。オーケストレーションの実践であったり、あるいはそれまで作曲家にとって使ったことのない楽器や音響技術を試みる場合もある。 日本での例では[[伊福部昭]]、[[早坂文雄]]などの先例に続き、[[武満徹]]、[[池辺晋一郎]]などが映画音楽に多くかかわっている。武満の例では、琵琶や尺八を最初に用いたのは映画音楽の中であり、その後に代表作『[[ノヴェンバー・ステップス]]』など純音楽でも邦楽器を進んで用いるようになった(詳細は[[武満徹]]の項を参照)。また映画音楽に限らず、演劇の舞台音楽やテレビ番組(特にドラマやドキュメンタリー番組など)の音楽などを手がける場合もある。珍しい例ではないが、[[ベルント・アロイス・ツィンマーマン]]は一時期、収入がそのような音楽の仕事のみになったことがある。 近年の[[マニエリスムの音楽]]の作曲家は、映画音楽そのものを純音楽として演奏会で上演する場合も多い。 具体例 * 映画『[[ピアノ・レッスン]]』 - 監督: [[ジェーン・カンピオン]]、音楽: [[マイケル・ナイマン]](素材を「ピアノ協奏曲」として発表) * 映画『[[クンドゥン]]』 - 監督: [[マーティン・スコセッシ]]、音楽: [[フィリップ・グラス]] * 映画『[[戦場のメリークリスマス]]』 - 監督: [[大島渚]]、音楽: [[坂本龍一]] * 映画『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』以降の[[宮崎駿]]監督のアニメ映画 - 音楽: [[久石譲]](彼はこの仕事の成功により、現在では映画音楽の作曲家としての名声のほうが高い) * 映画『[[レッド・バイオリン]]』 - 監督: [[フランソワ・ジラール]]、[[ジョン・コリリアーノ]](この曲を素材として『ヴァイオリン協奏曲』と『ヴァイオリン独奏のためのカプリス』を作曲している) 映画音楽が折衷主義的な立ち位置を得た最大の要因は、亡命した[[エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト]]がハリウッドで後期ロマン派の様式による音楽を書き続けたことが非常に大きい。よって彼がこのような仕事をもし引き受けていなかったら、映画音楽はマニエリスムの音楽の巣窟にはならなかったという可能性は大いに考えられる。またカリフォルニアで教鞭をとった[[アルノルト・シェーンベルク]]のレッスンを受けた者の多くが、ハリウッドで映画音楽の製作に関わっているのではないかという説があるのは興味深い。原則的に未聴感ではなく既聴感に訴えかける産業がこのような経緯で成立している。無論映画には「映像」という、人が生きる上で必要不可欠とされる視覚効果で多くの表現が可能であるから、映画音楽には商業化を重視しなくても気軽にクラシック音楽や大衆音楽の要素を部分的に使えて、自由な発想と既存の組み合わせによるマニエリスムの音楽として成立しやすい。その要素が映画作品においては作為的な映画音楽がどこかで聴いたことがあるというような既聴感に通じる感覚にも関わっている。 === 具体音の導入 === [[ミュジーク・コンクレート]]におけるサンプリング手法はその後、電子的な[[サンプラー]]により、一般的なポップミュージックにも応用されるようになった。これは具体音の録音を音楽の一部として認識するという意味において特筆すべき事項である。音を録音してさらにそれを電子的な技術により変調させたものを使うという発想が一般に定着したのは、ミュジーク・コンクレートの功績が大きい。 ただしクラシック音楽の歴史において具体音を効果として盛り込む試みはすでに多く見られる。例えば[[レオポルト・モーツァルト]]の『[[おもちゃの交響曲]]』での鳥笛など音の出るおもちゃ、[[ヨーゼフ・シュトラウス]]の『[[鍛冶屋のポルカ]]』での鉄のレールをハンマーで叩く音、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の交響曲で使われる木づちや鎖など特殊な打楽器などである。セミクラシックと呼ばれる[[ルロイ・アンダーソン]]の『タイプライター』では、題名どおりそのものを打楽器として用いている。 [[音楽劇]]の中で劇中の小道具を音楽に取り込む用法としては[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の楽劇『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』で、主役の靴職人ハンス・ザックスが宿敵ベックメッサーの歌の練習を邪魔して靴を叩く音を挿入したり、サティの舞台音楽『[[パラード (バレエ)|パラード]]』で大騒ぎの挙句ピストルやサイレンの音を挿入したりするなどの例が挙げられる(サイレンの音は、後に[[エドガー・ヴァレーズ]]が『イオニザシオン』などで純音楽的効果として用いている)。これらは録音技術以前において具体音を音楽として取り込んでいる例である。 また具体音を楽音で模した例となると無数にある。[[シャルル=ヴァランタン・アルカン]]、[[アルチュール・オネゲル]]、[[ルーズ・ランゴー]]が鉄道の音を模倣しているが、アルカンのころには既存の音楽の枠に具体音を押し込めていたのが、ランゴーのころには忠実な具体音の模写そのものが音楽になっている。直接的な音響効果を求めるだけでなく、その音響を聴き手が認識することによってその音から別の事象が連想されるという意味合いがある。 これら具体音の導入は、商業音楽などの分野にも影響を与えた。日本における前衛的音響はテレビ番組の効果音から[[J-POP]]のバックトラックや[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の[[サウンドトラック]]まで幅広く浸透している。簡単に受け入れられた例として『[[ゴジラ_%28架空の怪獣%29|ゴジラ]]』の鳴き声を挙げておく。[[伊福部昭]]の発案によるこの音は、[[コントラバス]]の[[特殊奏法]]を最大限に増幅して得られた。本来微小な音響を最大限に増幅する手法は[[小杉武久]]や[[池田亮司]]の作品においてしばしば現れるものである。 === 現代音楽における他分野の音楽の引用 === この試みについては古くは[[20世紀]]初頭での[[チャールズ・アイヴズ|アイヴス]]の異なる音楽同士の組み合わせや、[[ジョージ・ガーシュウィン|ガーシュウィン]]の『[[ラプソディー・イン・ブルー]]』におけるジャズの語法の導入、さらにさかのぼれば[[18世紀]]に[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]が当時の流行歌を主旋律に取り込んで変奏曲に用いたピアノ三重奏曲『街の歌』などにも見られる。これらは単に語法を取り込んだという事実だけでなく、その語法を取り込むことによって聴き手に既聴感を想起させ喜ばせるという意味合いも生まれる。 主に近年の[[マニエリスムの音楽]]の作曲家の間では、こうした手法は広く行われている。現代音楽の古典としての地位を占める作曲家[[ルチアーノ・ベリオ]]の一部の作品では、例えばテープ音楽『迷宮』において、[[フリー・ジャズ]]的な語法およびポップ音楽のバックコーラス的な[[スキャット]]唱法などがかいま見えるが、これは後のマニエリスムの音楽の潮流の到来を予感させるとも言える。 その最大の立役者はドイツのケルンの[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]の先輩にあたる[[ベルント・アロイス・ツィンマーマン]]であろう。彼のクラシック音楽のほとんどまたは常に登場する[[ジャズ]]の語法と引用の頻度の多さでの[[コラージュ手法]]は、他の作曲家の追従を許さない反面、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]や[[レオシュ・ヤナーチェク|ヤナーチェク]]、[[カール・オルフ]]の繰り返しの技法のように常にその一定の作法に頼ってしまうという危険性も併せ持っている。引用音楽の王者とも言われる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈・出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * ポール・グリフィス『現代音楽 1945年以後の前衛』石田一志・佐藤みどり訳、[[音楽之友社]]、1987-12-20出版。ISBN 4276113520 * [[船山隆]]『現代音楽』(全2巻)[[小沢書店]]、1983年4月。 * [[松平頼暁]]『現代音楽のパサージュ(20.5世紀の音楽増補版)』[[青土社]]、1995年。ASIN 4791753585 == 関連項目 == {{Div col}} * [[現代音楽/地域別の動向]] * [[近代音楽]] * [[現代の音楽]] * [[現代の音楽 (NHK)]] * [[近現代音楽の作曲家一覧]] <!-- *[[20世紀のクラシック音楽作曲家一覧]] --> * [[日本のクラシック音楽の作曲家一覧]] * [[アバンギャルド|前衛]] * [[現代邦楽]] * [[現代雅楽]] * [[電子音楽]] * [[実験音楽]] * [[即興演奏]] * [[即興]] * [[フランク・ザッパ]] * [[キャプテン・ビーフハート]] * [[ルー・リード]] * [[オーネット・コールマン]] * [[レジデンツ]] {{Div col end}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{作曲}} {{音楽}} {{クラシック音楽-フッター}} {{近代音楽と現代音楽}} {{実験音楽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんたいおんかく}} [[Category:現代音楽|*]] [[Category:クラシック音楽史]] [[Category:モダニズム]]
2003-07-21T13:57:49Z
2023-08-17T08:36:25Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Kotobank", "Template:クラシック音楽-フッター", "Template:実験音楽", "Template:Portal クラシック音楽", "Template:音楽", "Template:半保護", "Template:作曲", "Template:近代音楽と現代音楽", "Template:Normdaten", "Template:Div col", "Template:出典の明記", "Template:Reflist", "Template:Div col end", "Template:複数の問題" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E9%9F%B3%E6%A5%BD
11,996
マイケル・ジョンソン
マイケル・ジョンソン(Michael Duane Johnson, 1967年9月13日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州ダラス出身の元陸上競技選手。身長185cm、体重78kg。5人兄弟の末っ子であった。1996年にジェームスサリバン賞を受賞している。 1600mRの世界記録保持者。200mで21連勝、400mで56連勝を成し遂げる。背筋を伸ばした独特のピッチ走法に特徴がある。世界陸上で8個、オリンピックで4個の金メダルを獲得した。 1991年の世界陸上が、ジョンソンが初めて臨む世界の主要大会となった。200mの2次予選では、最後を流しながらも大会新記録(当時)(20秒05)をマークすると、決勝では向い風3.4m/sの中、20秒01と再び大会記録を更新して優勝。2位のフランク・フレデリクスに0.3秒以上の大差をつける圧勝であった。 1992年、全米五輪トライアル200mで優勝し、アメリカ代表入りしたが、1992年バルセロナオリンピックでは食中毒のため準決勝で敗退。しかし、1600mRでは3走を務め、2分55秒74の世界新記録(当時)で金メダルを獲得した。 1993年の世界陸上では400mと1600mRで2冠を達成。なお、アンカーを務めたリレーでは42秒91のラップタイムを記録している。 1995年世界陸上イェーテボリ大会では、200mで19秒79の大会新記録(当時)、400mでも43秒39の大会新記録、そして1600mR(4走)でも2分56秒45で優勝し、三冠の偉業を成し遂げた。なお、200mの大会記録は2007年世界陸上大阪大会でタイソン・ゲイが出した19秒76という記録により破られた。 1996年、全米五輪トライアル200mで、それまでの世界記録(19秒72)を17年振りに更新する19秒66をマーク。400mでも優勝し、アメリカ代表となる。1996年アトランタオリンピックでは、初戦となる400メートル走で43秒49の五輪新で優勝。続いて200mでは自身の持つ世界記録を大幅に更新する19秒32の世界新記録で優勝。このときのタイムは、前半100mが10秒12、後半100mが9秒20という驚異的なものであり、彼自身『コーナーの出口で勝利を確信した。生涯最高のスピードで走っているとわかったよ』と語った。このレースで右ひざを痛めたため、このオリンピックではリレーを走っていない。このジョンソンの出した男子200mの記録は「向う100年は破られない」と言われていたが、それから12年の時を経た北京オリンピックにおいて、自身の眼前でウサイン・ボルトが出した19秒30という記録により終止符を打たれた。 1997年、「世界最速決定戦」として当時の100m9秒84の世界記録保持者ドノバン・ベイリーとの「150メートル走」対決がカナダで行われた。しかし、ジョンソンが脚の故障を理由に途中棄権、ベイリーが勝利した。 同年、足の故障を抱えたまま、3連覇を目指して世界陸上の400mに出場。2次予選では1着を狙わず最後の直線を流してフィニッシュしたところ、4着以内の予定が5着となり、タイムで辛くも準決勝進出という場面もあったが、最後は優勝、貫禄を見せた。因みに優勝タイムの44秒12は、彼のオリンピックと世界陸上タイトルの中では唯一の44秒台となっている。 1999年の世界陸上では400mで大会4連覇を達成するとともに、決勝で43秒18の世界新記録を樹立した。なおこの記録は2016年に開催されたリオデジャネイロオリンピックにてウェイド・バンニーキルクが43秒03の世界新記録を出したことで破られた。また、4×400mリレーでも優勝し、9つ目の金メダルを獲得。これにより、カール・ルイスが保持していた世界陸上金メダル獲得最多数「8」を破っていた。 2000年シドニーオリンピックで、男子400mではオリンピック史上初の連覇を達成。アンカーを務めたリレーでも優勝した。ただし、4×400mリレーに関してはメンバーのアントニオ・ペティグルーにドーピング使用が判明したため2008年8月に失格となり、1999年世界陸上とシドニーオリンピックの金メダルが剥奪されている。 2000年6月24日、ユージーンで行われたプレフォンテーンクラシックの400mで大会記録の43秒92を記録した。(この記録は同じくアメリカのマイケル・ノーマンによって2022年に破られた。) 2001年9月15日、横浜で開催されたスーパー陸上2001において、スウェーデンリレーのアンカーとして走り、1分47秒93で優勝(DREAM TEAM(F・フレデリクス→T・トランメル→S・クロフォード→M・ジョンソン))。競技人生に終止符を打った。 また、ベン・ジョンソンとの比較で彼は『クリーン・ジョンソン』とも呼ばれた。 上述の通り、200mと400mで数々の記録とタイトルを独占したジョンソンだが、この2種目を専門とする陸上競技者は非常に珍しく、そういった意味においてもジョンソンは驚異的かつ稀有な選手であると言える(100mと200mを掛け持ちする選手は多い。その一方で400mは、陸上競技短距離走の中でもっとも過酷であり体力の消耗が激しいため、400mの選手はそれのみを専門にするのが常である)。また、ジョンソンはその驚異的なスピードが故に、普段の練習では競える練習相手がおらず、電光表示掲示板(速度調節が可能な物)を使って練習をしていたというエピソードが残っている。 2018年9月に脳卒中を発症した。当初、左半身がマヒするという症状に襲われたが、同年11月にはほぼ通常の状態に回復した。 (*1) オリンピックにおいて、200mと400mの二冠は男子では史上初であった。なお、女子ではバレリー・ブリスコ・フックス(アメリカ)とマリー・ジョゼ・ペレク(フランス)の2人が、それぞれ1984年、1996年に達成している。 (*2) 男子では400mで史上初の連覇となった。女子ではペレクが1992年、1996年に連覇している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マイケル・ジョンソン(Michael Duane Johnson, 1967年9月13日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州ダラス出身の元陸上競技選手。身長185cm、体重78kg。5人兄弟の末っ子であった。1996年にジェームスサリバン賞を受賞している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1600mRの世界記録保持者。200mで21連勝、400mで56連勝を成し遂げる。背筋を伸ばした独特のピッチ走法に特徴がある。世界陸上で8個、オリンピックで4個の金メダルを獲得した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1991年の世界陸上が、ジョンソンが初めて臨む世界の主要大会となった。200mの2次予選では、最後を流しながらも大会新記録(当時)(20秒05)をマークすると、決勝では向い風3.4m/sの中、20秒01と再び大会記録を更新して優勝。2位のフランク・フレデリクスに0.3秒以上の大差をつける圧勝であった。 1992年、全米五輪トライアル200mで優勝し、アメリカ代表入りしたが、1992年バルセロナオリンピックでは食中毒のため準決勝で敗退。しかし、1600mRでは3走を務め、2分55秒74の世界新記録(当時)で金メダルを獲得した。 1993年の世界陸上では400mと1600mRで2冠を達成。なお、アンカーを務めたリレーでは42秒91のラップタイムを記録している。 1995年世界陸上イェーテボリ大会では、200mで19秒79の大会新記録(当時)、400mでも43秒39の大会新記録、そして1600mR(4走)でも2分56秒45で優勝し、三冠の偉業を成し遂げた。なお、200mの大会記録は2007年世界陸上大阪大会でタイソン・ゲイが出した19秒76という記録により破られた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1996年、全米五輪トライアル200mで、それまでの世界記録(19秒72)を17年振りに更新する19秒66をマーク。400mでも優勝し、アメリカ代表となる。1996年アトランタオリンピックでは、初戦となる400メートル走で43秒49の五輪新で優勝。続いて200mでは自身の持つ世界記録を大幅に更新する19秒32の世界新記録で優勝。このときのタイムは、前半100mが10秒12、後半100mが9秒20という驚異的なものであり、彼自身『コーナーの出口で勝利を確信した。生涯最高のスピードで走っているとわかったよ』と語った。このレースで右ひざを痛めたため、このオリンピックではリレーを走っていない。このジョンソンの出した男子200mの記録は「向う100年は破られない」と言われていたが、それから12年の時を経た北京オリンピックにおいて、自身の眼前でウサイン・ボルトが出した19秒30という記録により終止符を打たれた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1997年、「世界最速決定戦」として当時の100m9秒84の世界記録保持者ドノバン・ベイリーとの「150メートル走」対決がカナダで行われた。しかし、ジョンソンが脚の故障を理由に途中棄権、ベイリーが勝利した。 同年、足の故障を抱えたまま、3連覇を目指して世界陸上の400mに出場。2次予選では1着を狙わず最後の直線を流してフィニッシュしたところ、4着以内の予定が5着となり、タイムで辛くも準決勝進出という場面もあったが、最後は優勝、貫禄を見せた。因みに優勝タイムの44秒12は、彼のオリンピックと世界陸上タイトルの中では唯一の44秒台となっている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1999年の世界陸上では400mで大会4連覇を達成するとともに、決勝で43秒18の世界新記録を樹立した。なおこの記録は2016年に開催されたリオデジャネイロオリンピックにてウェイド・バンニーキルクが43秒03の世界新記録を出したことで破られた。また、4×400mリレーでも優勝し、9つ目の金メダルを獲得。これにより、カール・ルイスが保持していた世界陸上金メダル獲得最多数「8」を破っていた。 2000年シドニーオリンピックで、男子400mではオリンピック史上初の連覇を達成。アンカーを務めたリレーでも優勝した。ただし、4×400mリレーに関してはメンバーのアントニオ・ペティグルーにドーピング使用が判明したため2008年8月に失格となり、1999年世界陸上とシドニーオリンピックの金メダルが剥奪されている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2000年6月24日、ユージーンで行われたプレフォンテーンクラシックの400mで大会記録の43秒92を記録した。(この記録は同じくアメリカのマイケル・ノーマンによって2022年に破られた。)", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2001年9月15日、横浜で開催されたスーパー陸上2001において、スウェーデンリレーのアンカーとして走り、1分47秒93で優勝(DREAM TEAM(F・フレデリクス→T・トランメル→S・クロフォード→M・ジョンソン))。競技人生に終止符を打った。 また、ベン・ジョンソンとの比較で彼は『クリーン・ジョンソン』とも呼ばれた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "上述の通り、200mと400mで数々の記録とタイトルを独占したジョンソンだが、この2種目を専門とする陸上競技者は非常に珍しく、そういった意味においてもジョンソンは驚異的かつ稀有な選手であると言える(100mと200mを掛け持ちする選手は多い。その一方で400mは、陸上競技短距離走の中でもっとも過酷であり体力の消耗が激しいため、400mの選手はそれのみを専門にするのが常である)。また、ジョンソンはその驚異的なスピードが故に、普段の練習では競える練習相手がおらず、電光表示掲示板(速度調節が可能な物)を使って練習をしていたというエピソードが残っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2018年9月に脳卒中を発症した。当初、左半身がマヒするという症状に襲われたが、同年11月にはほぼ通常の状態に回復した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(*1) オリンピックにおいて、200mと400mの二冠は男子では史上初であった。なお、女子ではバレリー・ブリスコ・フックス(アメリカ)とマリー・ジョゼ・ペレク(フランス)の2人が、それぞれ1984年、1996年に達成している。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "(*2) 男子では400mで史上初の連覇となった。女子ではペレクが1992年、1996年に連覇している。", "title": "主な成績" } ]
マイケル・ジョンソンは、アメリカ合衆国テキサス州ダラス出身の元陸上競技選手。身長185cm、体重78kg。5人兄弟の末っ子であった。1996年にジェームスサリバン賞を受賞している。 1600mRの世界記録保持者。200mで21連勝、400mで56連勝を成し遂げる。背筋を伸ばした独特のピッチ走法に特徴がある。世界陸上で8個、オリンピックで4個の金メダルを獲得した。
{{other people}} {{Infobox 陸上選手 | 氏名 = マイケル・ジョンソン | 画像 = Johnson, Michael D.jpg | 画像サイズ = 207px | 画像説明 = マイケル・ジョンソン(2016年) | フルネーム = <!--マイケル・デュアン・ジョンソン--> | 愛称 = MJ | 国籍 = {{USA}} | 種目 = [[短距離走]] | 所属 = | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1967|9|13}} | 生誕地 = [[テキサス州]][[ダラス]] | 居住地 = [[カリフォルニア州]][[サンラフェル (カリフォルニア州)|サンラファエル]] | 没年月日 = | 死没地 = | 身長 = 185cm | 体重 = 78kg | 自己ベスト = 100m:10秒09(1994年)<br/>200m:19秒32(1996年)<br />400m:43秒18(1999年)[[File:Sport records icon AR.svg|20px|sub|北米記録]] | show-medals = yes | medaltemplates = {{MedalSport|[[陸上競技]]}} {{MedalCompetition|[[オリンピックの陸上競技|オリンピック]]}} {{MedalGold|[[1992年バルセロナオリンピックの陸上競技|1992 バルセロナ]]|4×400mリレー}} {{MedalGold|[[1996年アトランタオリンピックの陸上競技|1996 アトランタ]]|200m}} {{MedalGold|1996 アトランタ|400m}} {{MedalGold|[[2000年シドニーオリンピックの陸上競技|2000 シドニー]]|400m}} {{MedalDisqualified|2000 シドニー|4×400mリレー}} {{MedalCompetition|[[世界陸上競技選手権大会]]}} {{MedalGold|[[1991年世界陸上競技選手権大会|1991 東京]]|200m}} {{MedalGold|[[1993年世界陸上競技選手権大会|1993 シュトゥットガルト]]|400m}} {{MedalGold|[[1993年世界陸上競技選手権大会|1993 シュトゥットガルト]]|4×400mリレー}} {{MedalGold|[[1995年世界陸上競技選手権大会|1995 イェーテボリ]]|200m}} {{MedalGold|[[1995年世界陸上競技選手権大会|1995 イェーテボリ]]|400m}} {{MedalGold|[[1995年世界陸上競技選手権大会|1995 イェーテボリ]]|4×400mリレー}} {{MedalGold|[[1997年世界陸上競技選手権大会|1997 アテネ]]|400m}} {{MedalGold|[[1999年世界陸上競技選手権大会|1999 セビリア]]|400m}} {{MedalDisqualified|[[1999年世界陸上競技選手権大会|1999 セビリア]]|4×400mリレー}} }} {{commonscat|Michael Johnson (athlete)}} '''マイケル・<!--デュアン・-->ジョンソン'''('''Michael Duane Johnson''', [[1967年]][[9月13日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]][[ダラス]]出身の元[[陸上競技]]選手。身長185cm、体重78kg。5人兄弟の末っ子であった。[[1996年]]に[[ジェームスサリバン賞]]を受賞している。 [[1600メートルリレー走|1600mR]]の世界記録保持者。[[200メートル競走|200m]]で21連勝、[[400メートル競走|400m]]で56連勝を成し遂げる。背筋を伸ばした独特の[[ピッチ走法]]に特徴がある。[[世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]で8個、[[夏季オリンピック|オリンピック]]で4個の金メダルを獲得した。 == 経歴 == 1991年の[[1991年世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]が、ジョンソンが初めて臨む世界の主要大会となった。200mの2次予選では、最後を流しながらも大会新記録(当時)(20秒05)をマークすると、決勝では向い風3.4m/sの中、20秒01と再び大会記録を更新して優勝。2位の[[フランク・フレデリクス]]に0.3秒以上の大差をつける圧勝であった。 1992年、全米五輪トライアル200mで優勝し、アメリカ代表入りしたが、[[1992年バルセロナオリンピック]]では[[食中毒]]のため準決勝で敗退。しかし、1600mRでは3走を務め、2分55秒74の世界新記録(当時)で金メダルを獲得した。 1993年の[[1993年世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]では400mと1600mRで2冠を達成。なお、アンカーを務めたリレーでは42秒91のラップタイムを記録している。 1995年[[1995年世界陸上競技選手権大会|世界陸上イェーテボリ大会]]では、200mで19秒79の大会新記録(当時)、400mでも43秒39の大会新記録、そして1600mR(4走)でも2分56秒45で優勝し、三冠の偉業を成し遂げた。なお、200mの大会記録は2007年[[2007年世界陸上競技選手権大会|世界陸上大阪大会]]で[[タイソン・ゲイ]]が出した19秒76という記録により破られた。 1996年、全米五輪トライアル200mで、それまでの[[世界記録]](19秒72)を17年振りに更新する19秒66をマーク。400mでも優勝し、アメリカ代表となる。[[1996年アトランタオリンピック]]では、初戦となる400メートル走で43秒49の五輪新で優勝。続いて200mでは自身の持つ世界記録を大幅に更新する19秒32の世界新記録で優勝。このときのタイムは、前半100mが10秒12、後半100mが9秒20という驚異的なものであり、彼自身『コーナーの出口で勝利を確信した。生涯最高のスピードで走っているとわかったよ』と語った。このレースで右ひざを痛めたため、このオリンピックではリレーを走っていない。このジョンソンの出した男子200mの記録は'''「向う100年は破られない」'''と言われていたが、それから12年の時を経た[[2008年北京オリンピックの陸上競技|北京オリンピック]]において、自身の眼前で[[ウサイン・ボルト]]が出した19秒30という記録により終止符を打たれた。 1997年、「世界最速決定戦」として当時の[[100メートル競走|100m]]9秒84の世界記録保持者[[ドノバン・ベイリー]]との「[[150メートル走]]」対決がカナダで行われた。しかし、ジョンソンが脚の故障を理由に途中棄権、ベイリーが勝利した。 同年、足の故障を抱えたまま、3連覇を目指して[[1997年世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]の400mに出場。2次予選では1着を狙わず最後の直線を流してフィニッシュしたところ、4着以内の予定が5着となり、タイムで辛くも準決勝進出という場面もあったが、最後は優勝、貫禄を見せた。因みに優勝タイムの44秒12は、彼のオリンピックと世界陸上タイトルの中では唯一の44秒台となっている。 [[Image:Michael Johnson Sydney2000.jpg|thumb|シドニーオリンピックにおけるジョンソン]] 1999年の[[1999年世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]では400mで大会4連覇を達成するとともに、決勝で43秒18の世界新記録を樹立した。なおこの記録は2016年に開催された[[リオデジャネイロオリンピック]]にて[[ウェイド・バンニーキルク]]が43秒03の世界新記録を出したことで破られた。また、4×400mリレーでも優勝し、9つ目の金メダルを獲得。これにより、[[カール・ルイス]]が保持していた世界陸上金メダル獲得最多数「8」を破っていた。 [[2000年シドニーオリンピック]]で、男子400mではオリンピック史上初の連覇を達成。アンカーを務めたリレーでも優勝した。ただし、4×400mリレーに関してはメンバーの[[アントニオ・ペティグルー]]にドーピング使用が判明したため2008年8月に失格となり、1999年世界陸上とシドニーオリンピックの金メダルが剥奪されている。 2000年6月24日、[[ユージーン]]で行われた[[プレフォンテーンクラシック]]の400mで大会記録の43秒92を記録した。(この記録は同じくアメリカの[[マイケル・ノーマン (陸上選手)|マイケル・ノーマン]]によって2022年に破られた。) [[2001年]]9月15日、[[横浜国際総合競技場|横浜]]で開催された[[スーパー陸上]]2001において、[[スウェーデンリレー]]のアンカーとして走り、1分47秒93で優勝(DREAM TEAM([[フランク・フレデリクス|F・フレデリクス]]→[[テレンス・トランメル|T・トランメル]]→[[ショーン・クロフォード|S・クロフォード]]→M・ジョンソン))。競技人生に終止符を打った。 また、[[ベン・ジョンソン (陸上選手)|ベン・ジョンソン]]との比較で彼は『'''クリーン・ジョンソン'''』とも呼ばれた。 上述の通り、200mと400mで数々の記録とタイトルを独占したジョンソンだが、この2種目を専門とする陸上競技者は非常に珍しく、そういった意味においてもジョンソンは驚異的かつ稀有な選手であると言える(100mと200mを掛け持ちする選手は多い。その一方で400mは、陸上競技短距離走の中でもっとも過酷であり体力の消耗が激しいため、400mの選手はそれのみを専門にするのが常である)。また、ジョンソンはその驚異的なスピードが故に、普段の練習では競える練習相手がおらず、電光表示掲示板(速度調節が可能な物)を使って練習をしていたというエピソードが残っている。 [[2018年]]9月に[[脳卒中]]を発症した。当初、左半身がマヒするという症状に襲われたが、同年11月にはほぼ通常の状態に回復した。<ref name="BBC Sport">{{cite web |last1=Johnson |first1=Michael |title=Johnson "really lucky" after suffering a stroke |url=https://www.bbc.co.uk/sport/av/athletics/46264091 |website=BBC Sport |publisher=BBC |accessdate=27 November 2018}}</ref> == パーソナルベスト == {| class="wikitable" !種目!!記録!!風速!!場所!!日付!!備考 |- ||100m||10秒09||<center>+2.0&nbsp;m/s</center>||[[ノックスビル (テネシー州)|ノックスビル]]([[アメリカ合衆国]])||1994年6月16日|| |- ||200m||19秒32||<center>+0.4&nbsp;m/s</center>||[[アトランタ]]([[アメリカ合衆国]])||1996年8月1日||世界歴代4位 |- ||300m||30秒85||<center>―</center>||[[プレトリア]]([[南アフリカ共和国]])||2000年3月24日||世界歴代2位(高地記録) |- ||400m||43秒18||<center>―</center>||[[セビリア]]([[スペイン]])||1999年8月26日||世界歴代2位、北米記録 |- ||400m||44秒63||(室内)||[[アトランタ]]([[アメリカ合衆国]])||1995年3月4日||世界歴代3位 |- |} ==主な成績== {| border=1 cellspacing=0 cellpadding=4 style="border-collapse: collapse; font-size: 90%;" |- bgcolor="cccccc" !年 !大会 !場所 !種目 !結果 !記録 !備考 |- |1990 |[[グッドウィルゲームズ]] |[[シアトル]]([[アメリカ合衆国]]) | rowspan="5" |200m |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |20秒54 | |- |rowspan="2"|1991 |[[1991年世界陸上競技選手権大会|世界陸上競技選手権大会]] |[[東京]]([[日本]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |20秒01 |大会新 |- |[[IAAFグランプリファイナル]] |[[バルセロナ]]([[スペイン]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |19秒88 | |- |rowspan="3"|1992 |[[全米陸上競技選手権大会|全米選手権]] |[[ニューオーリンズ]]([[アメリカ合衆国]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |19秒79 | |- |rowspan="2"|[[1992年バルセロナオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |rowspan="2"|[[バルセロナ]]([[スペイン]]) |align="center" | 6位(sf) |20秒78 | |- |1600mR |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |2分55秒74 |世界新 |- |rowspan="3"|1993 |rowspan="2"|[[1993年世界陸上競技選手権大会|世界陸上競技選手権大会]] |rowspan="2"|[[シュトゥットガルト]]([[ドイツ]]) |400m |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |43秒65 |大会新 |- |1600mR |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |2分54秒29 |世界新 |- |[[IAAFグランプリファイナル]] |[[ロンドン]]([[イギリス]]) | rowspan="3" |200m |bgcolor="cc9966" align="center" | 3位 |20秒41 | |- |1994 |[[グッドウィルゲームズ]] |[[サンクトペテルブルク]]([[ロシア]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |20秒10 |大会新 |- |rowspan="4"|1995 |rowspan="3"|[[1995年世界陸上競技選手権大会|世界陸上競技選手権大会]] |rowspan="3"|[[ヨーテボリ|イェーテボリ]]([[スウェーデン]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |19秒79 |大会新 |- |400m |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |43秒39 |大会新 |- |1600mR |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |2分57秒32 | |- |[[IAAFグランプリファイナル]] |[[モンテカルロ]]([[モナコ]]) | rowspan="2" |200m |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |19秒93 | |- |rowspan="4"|1996 |rowspan="2"|[[全米陸上競技選手権大会 |全米選手権]] |rowspan="2"|[[アトランタ]]([[アメリカ合衆国]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |19秒66 |世界新 |- |400m |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |43秒44 | |- |rowspan="2"|[[1996年アトランタオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |rowspan="2"|[[アトランタ]]([[アメリカ合衆国]]) |200m |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |19秒32 |世界新、(*1) |- | rowspan="4" |400m |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |43秒49 |五輪新 |- |1997 |[[1997年世界陸上競技選手権大会|世界陸上競技選手権大会]] |[[アテネ]]([[ギリシャ]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |44秒12 | |- |1998 |[[グッドウィルゲームズ]] |[[ニューヨーク]]([[アメリカ合衆国]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |43秒76 |大会新 |- |rowspan="2"|1999 |rowspan="2"|[[1999年世界陸上競技選手権大会|世界陸上競技選手権大会]] |rowspan="2"|[[セビリア]]([[スペイン]]) |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |43秒18 |世界新、4連覇 |- |1600mR |{{DSQ}} | | |- |rowspan="2"|2000 |rowspan="2"|[[2000年シドニーオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |rowspan="2"|[[シドニー]]([[オーストラリア]]) |400m |bgcolor="gold" align="center" | 1位 |43秒84 |(*2) |- |1600mR |{{DSQ}} | | |} (*1) [[近代オリンピック|オリンピック]]において、200mと400mの二冠は男子では史上初であった。なお、女子では[[バレリー・ブリスコ・フックス]](アメリカ)と[[マリー・ジョゼ・ペレク]](フランス)の2人が、それぞれ[[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年]]、[[1996年アトランタオリンピック|1996年]]に達成している。 (*2) 男子では400mで史上初の連覇となった。女子ではペレクが[[1992年バルセロナオリンピック|1992年]]、[[1996年アトランタオリンピック|1996年]]に連覇している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== * {{Sports links}} {{S-start}} {{succession box|title=[[男子200メートル競走世界記録の推移|男子200m世界記録保持者]]|before={{flagicon|ITA}} [[ピエトロ・メンネア]]|after={{flagicon|JAM}} [[ウサイン・ボルト]]|years=1996/6/23~2008/8/20}} {{succession box|title=男子400m世界記録保持者|before={{flagicon|USA}} [[ブッチ・レイノルズ]]|after={{flagicon|RSA}} [[ウェイド・バンニーキルク]]|years=1999/8/26~2016/08/14}} {{succession box|title=男子200mシーズンベスト記録保持者|before={{flagicon|BRA}} [[ロブソン・ダ・シルバ]]|after={{flagicon|USA}} [[マイク・マーシュ]]|years=1990~1991}} {{succession box|title=男子200mシーズンベスト記録保持者|before={{flagicon|GBR}} [[ジョン・レジス]]|after={{flagicon|TRI}} [[アト・ボルドン]]|years=1995~1996}} {{succession box|title=男子200mシーズンベスト記録保持者|before={{flagicon|NGR}} [[フランシス・オビクウェル]]|after={{flagicon|USA}} [[ジョシュア・ジョンソン]]|years=2000}} {{S-end}} {{陸上競技オリンピック金メダリスト男子200m}} {{陸上競技オリンピック金メダリスト男子400m}} {{陸上競技オリンピック金メダリスト男子4×400mリレー}} {{世界陸上競技選手権大会金メダリスト男子200m}} {{世界陸上競技選手権大会金メダリスト男子400m}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しよんそん まいける}} [[Category:アフリカ系アメリカ人の陸上競技選手]] [[Category:アメリカ合衆国の男子短距離走の選手]] [[Category:オリンピック陸上競技アメリカ合衆国代表選手]] [[Category:アメリカ合衆国のオリンピック金メダリスト]] [[Category:陸上競技のオリンピック金メダリスト]] [[Category:オリンピックメダルを剥奪された選手]] [[Category:世界陸上選手権アメリカ合衆国代表選手]] [[Category:世界陸上選手権メダリスト]] [[Category:グッドウィルゲームズメダリスト]] [[Category:陸上競技の世界記録保持者]] [[Category:ダラス出身の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:陸上殿堂]]
2003-07-21T14:24:01Z
2023-12-03T06:41:43Z
false
false
false
[ "Template:S-start", "Template:Succession box", "Template:陸上競技オリンピック金メダリスト男子400m", "Template:世界陸上競技選手権大会金メダリスト男子200m", "Template:Normdaten", "Template:Infobox 陸上選手", "Template:Commonscat", "Template:DSQ", "Template:陸上競技オリンピック金メダリスト男子200m", "Template:Cite web", "Template:Sports links", "Template:S-end", "Template:Otheruses", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:陸上競技オリンピック金メダリスト男子4×400mリレー", "Template:世界陸上競技選手権大会金メダリスト男子400m" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3
11,997
CardWirth
CardWirth(カードワース、略称「CW」)は「groupAsk」が開発したWindows上で動作するフリーウェアのコンピュータRPGである。 2000年頃にブームを迎え、一大コミュニティを形成しメディアから頻繁に取り上げられていた時期もあったが、その後はブームも去りおよそ10年ほど比較的小規模な状態で落ち着いていた。2013年頃から再び盛り上がりを見せはじめ、登場から20年以上が経過した2022年現在もユーザーによるシナリオの作成・公開などが活発に行われている。 なお開発者のgroupAskはCardWirthの開発や運営から既に退いており、その役割はユーザーサイドに委ねられている。 CardWirth(カードワース、略称「CW」)は、「groupAsk」(「開発者と公式サイト」の項にて後述)によって開発され、1998年8月にインターネット上で公開された。公式サイトに記述された紹介文によると「CardWirthはTRPG(テーブルトークRPG)の自由度と、カードゲームの遊び易さを融合した、新しい形態のRPG」とされている。自由に移動できるフィールドを持たない、画面内に配置されたカードをクリック(選択)することでゲームを進行させていく、キャラクターの能力値のほとんどが隠蔽されている、戦闘システムがカードバトルになっているなどの独特のゲームシステムが特徴である。そのプレイ感覚はコンピュータゲームに当てはめて例えた場合、どちらかといえばRPGよりもアドベンチャーゲーム (AVG) やサウンドノベルに近い。 多くのRPGと異なり基本的に固定されたストーリーを持たず、「シナリオ」と呼ばれる外部データをユーザーが追加してプレイする形式が採られている。シナリオについては、CardWirthがTRPGを意識しているだけあって、特定のシナリオをプレイすることによって以降連鎖的にプレイ可能となるキャンペーンシナリオ形式にも対応している。 CardWirth本体はシナリオを読み込み、動作させるためのエンジンとなっている。 またこのエンジンとは別にシナリオ作成用エディタも公開されており、ユーザーの手によってシナリオを制作することが可能。 現在ではユーザーが作成したシナリオやCardWirthでの利用に適した各種のリソース(画像、楽曲)が多数公開されている。 一般に人気フリーソフトゲームのコミュニティ形成は「作者」:「ユーザー」の関係が一対多であることが多いが、CardWirthは先述の通りユーザーが創作側に回ることも珍しくなく、多対多のコミュニティが形成された。 groupAskは当初から同人ゲームの制作のみを目的としていたわけではなく、また制作したソフトウェアを同人誌即売会で頒布していない事からも、狭義における同人サークルとはスタンスの異なる同人集団である。 かつてgroupAskの公式サイトに「groupAskはネットワークという仮想世界に存在するソフトウェア開発グループであり主にWindowsのソフトウェアの制作を行っている」という主旨の一文を掲載していたことからも、その事がうかがい知れる。 もっとも、結果として同人ゲームであるCardWirth以外のソフトウェアを開発するまでには至らなかった。 groupAskのメンバーは斉藤・倉貫・赤塚の3名。groupAskの「Ask」とは、groupAskのメンバーでありCardWirthを開発したメンバーでもあるこの3名の頭文字から名付けられた。この3名は当時大学の研究室で一緒に作業をしており、斉藤が年長で、倉貫と赤塚が一年後輩にあたる。 開発時にはプログラムの大半を倉貫が、音楽を赤塚が担当し、グラフィックとシナリオの数多くを斉藤が手がけている。 CardWirthがインターネット上で公開されるようになってからは主に倉貫が公式サイトの運営作業に当たる。その役割はサイト情報の更新に加え、ユーザー間の交流を目的に設置された各種コンテンツの管理、そしてユーザーが制作したシナリオを投稿できる「Adventurer's GUILD」(通称「ギルド」)と称されるサイトの運営であった。 もっとも、現在は3名とも社会人として多忙な日々を送っているため、こうしたCardWirthの開発・公式サイトの運営作業からは退く。 現在はgroupAskから正式に委託を受けた"CardWirthを愛する有志によって結成された団体"である「カードワース愛護協会」によって運営される公式ファンサイト、「groupAsk official fansite」がその機能を引き継いでいる。。 開発当初、CardWirthはProject_RPG3という開発名で呼ばれていた。 斉藤が開発し始めたゲームプログラムの3つ目の意味で、Windowsプラットフォームで開発されたのはこれが最初のもの。 本人の談によると、当初は10分くらいで終了するブリキの玩具のようなものが想定されており、インターネット上で公開するつもりもなかったという。 後に倉貫・赤塚の両名が開発に加わり、このプログラムが本格的なゲームとしての具体性を帯びることになった事から、CardWirthは世に登場した。 CardWirthという名称、とりわけWirthという単語については、groupAskによる公式見解が存在しておらず名称の由来は不明である。 "数日間悩んだ末、どこからか出た言葉"という赤塚の発言などもあるが、groupAsk名義で正式に定義されたことは無い。 ユーザーの間でも過去に幾度かの考察がなされ、古くはWirthとは伝説や伝承を意味する言葉であり「札伝説」という意味であるというものが、後にはWirthは英語の古語で「自分で商売を営んでいる人」、転じて「宿屋の主人」を意味するというものが定説となった。 CardWirthのプログラムには先述の通り、本体となるシナリオ動作エンジン(CardWirth本体)とシナリオ作成用エディタ (CardWirthEditor等) が存在する。 (配布はエンジン単体・あるいは両者をパッケージングした形態で行われているので必ずしもエディタがシステムに含まれるわけではない) これにデフォルトの各種リソース、データ、そしてユーザーが各自で追加したシナリオ群によって構成される。 配布されているバージョンやパッケージング形態によっては後述する「エフェクトブースター」などが含まれていることもある。 CardWirthは設計された時期や開発コンセプトの関係上、DirectX等の複雑な描画・音響エフェクトは使用されておらず、基本的にそれほど高いスペックは要求されない(Windows 95以上が動くパソコンであれば問題はない)。 そのこともあり、Windows XP以降の環境に十分に対応できていない状況が一時期続いていた。 最新のバージョンではこの点は解消されているが、半面、描画・音響共に機能が向上していることもあって快適に動作させるためにはそれなりのスペックが必要となっている。(動作環境はCPUは1GHz以上、メモリは32ビットOSで1GB以上・64ビットOSでは2GB以上に改められている) CardWirthEditorで制作したシナリオを動作させる、CardWirthの本体部分(エンジン)。 このプログラム単体でゲームを起動することが可能。 純正またはその派生エンジンは公開されて以来いくつかのバージョンが存在するが、大きく分けて以下の三つの系列が存在する。 これらのうち、現在は最新版にあたるVer.1.50が主流となっている。 この3つのエンジン間には動作や処理、仕様といったものに若干の差異があり、シナリオのつくりや作成年次によっては動作に完全な互換性がないこともある。(中にはシナリオの進行に支障をきたすこともある) CardWirthNextは、CardWirthエンジンVer.1.50を開発したLynaが手がける、派生エンジンの一つ。 元はCardWirthエンジンVer.1.60として公開される予定であったが、完成直前にLynaが所属していたgroupAsk official fansiteから脱退したことで非公式エンジン扱いとなった。(そのため現在もこのエンジンのタイトルは「CardWirth Ver.1.60」となっている) このCardWirthNextという名称は、当初はソースコードを刷新したCardWirthエンジンのことを指しており、一時期はその嚆矢となるCardWirthエンジンVer.1.50もこれに含まれていたが、現在では公式エンジンとの区別を明確にする意味合いもあって、その定義で用いられることはほとんどない。 CardWirthエンジンVer.1.50をベースにしているため基本となる部分はそれほど変わらないが、CardWirthエンジンにはない独自の機能が多数実装されている。 またCardWirthエンジンに対し上位互換であるため、CardWirthエンジンのデータをそのまま利用できる。 ただし、Nextエンジン及び後述するWirthBuilderから生成されるデータは独自形式となるため、一度変換してしまうとそれらは他のCardwirthエンジンとの互換性は一切なくなり、また各種のツール類を利用することも同様にできなくなる。2015年で開発停止となった。 CWIは、クローンエンジン開発プロジェクトの一つ。 CardWirthユーザーの一人であるThomasによって開発され、C#によって記述された独自の互換エンジンを持つ。 現在は開発停止しているが、ソースコードが公開されているため、派生プロジェクトやこのエンジンを利用したツールなどが発表されている。 同時にシナリオデータの仕様についても独自の解析結果を公表しており、後述のCardWirthPyでもその成果が利用されている。 CardWirthPyは、クローンエンジン開発プロジェクトの一つ。 2020年4月時点で唯一開発が継続されているエンジンである。 プログラム言語「Python」によって一から開発された独自の互換エンジンを用いており、「フリー・オープンソースの維持」「CardWirthとの99%の互換性を目指す」を標榜している。 オープンソースであるため、プロジェクトへの参加やコードの変更は誰でも認められている。 「CardWirthとの99%の互換性を目指す」のCardWirthとは、Ver.1.20からVer.1.50までのCardWirthエンジンおよび後述のバリアント仕様に改修されたエンジンを指しており、これらと双方向での互換性を持っている。 一方で独自の拡張機能を多数備えており、シナリオのデータ形式をXMLによって記述されるCardWirthPy独自の形式のものにすることで、そうした機能を利用することもできる。 前述の通りCardWirthNextのデータ形式を利用することはできないため、CardWirthNextとの互換性までは考慮されていないが、CardWirthPyの拡張機能にはCardWirthNextの独自機能と同等の機能を持ったものも一部存在する。 CardWirthエンジンで動作させるためのシナリオを制作するエディタツール。 groupAskが配布している「CardWirthEditor」と、CardWirth Ver.1.28の仕様に合わせて軽微な改造を施してgroupAsk official fansiteがかつて配布していた「CardWirthEditor2」が存在するが、基本的に同一のものである。 多くのエディタがスクリプトでの記述を必要とするのに対し、CardWirthEditorはインタフェースとして完全なGUIを備えており、全くの初心者であっても容易に扱えるのが特徴。 その一方で、コンテントと呼ばれるアイコン化された一連の処理の並びが一般的なプログラミング言語のソースコードとそれほど変わらないため、昨今用いられるプログラミング言語(PerlやJavaなど)による開発に慣れているユーザーも直感的に扱えるという、非常に優れた開発ツールとしての一面も持つ。 ただし、あくまでもCardWirth用に作られたシナリオエディタに過ぎないので、高度なプログラミングにまで対応しているわけではない。 もっとも、多少複雑な処理を組み込むにしてもシナリオを制作する上で困ることはほとんどない。 少なくともサウンドノベルのような形式のシナリオを作るのであれば、基本的なコンテントをいくつか覚えるだけですぐにでも思い通りの物を制作することが出来る。 なおCardWirthEditorを長時間起動しているとメモリの使用量が増加していくという問題点(おそらくメモリリーク)が確認されている。 CardWirthEditorの後継として開発されたシナリオ制作エディタで、CardWirthエンジンVer.1.29以降に追加された機能をシナリオに盛り込むためにはこちらのツールを使う必要がある。 ユーザインタフェースはCardWirthEditorを踏襲しており、旧来からのユーザーでも違和感なく操作できるようになっている。 CardWirth Ver.1.50 フルパックではCardWirthEditorを完全に廃してこちらだけが同梱されるようになった。 また、前述のCardWirthNextに同梱されているシナリオ制作エディタも、(CardWirthNext専用版となってはいるが)このWirthBuilderである。 CardWirthエンジンVer.1.50用のものと見た目や使用感はほぼ同じであるが、前述の通りこのエディタを介して出力されたシナリオのデータは新規・既存を問わずこれまでと異なる専用の形式で保存されるため、他のエディタ(プロジェクト)では利用できなくなる。 元は前述のCardWirthPy専用のシナリオ制作エディタとして、CardWirthPy本体とは別のプロジェクトにより開発されたシナリオ制作エディタであったが、後にCardWirthエンジン用のシナリオも取り扱う機能が実装された。 これにより、CWXEditorを使用することでどちらの形式のシナリオも作成することが可能となっている。 CardWirthエンジン用の形式でシナリオを作成した場合、CardWirthEditorおよびCardWirthエンジンVer.1.50用のWirthBuilderで作られたシナリオデータと完全な互換性があり、相互で利用可能となっている。 CardWirthPy専用のシナリオ形式でシナリオを作成した場合、CWXEditor以外で編集することはできない。 また、前述の通りCardWirthNext用のWirthBuilderで作られたシナリオは独自形式で保存されるためCWXEditorで編集することは出来ず、CardWirthNextの機能を使ったシナリオをCWXEditorによって制作することも出来ない。 非常に強力な各種シナリオ制作支援機能が搭載されているが、多機能すぎることやユーザインタフェースがCardWirthEditorと全く異なる事などから、旧来からのユーザーも含めて扱いにはそれなりの習熟が必要となる。 CardWirth本体に付属する(あるいはしていた)プログラム。 Ver.1.15にまで存在していた、CardWirthのプレイ時の各種データに対して修正や編集を行うためのユーティリティソフト。 Ver.1.20からはエンジンにその機能の大半が譲られる形となり廃止されている。 しかしこのプログラムには引退したプレイヤーキャラクターの具体的な数値データを見ることが出来るという、現在のエンジンにはない大きな特徴があった。 groupAsk official fansiteによって一から開発されたもの。 これは単体のソフトウェアの名称ではなく、CardWirth Ver.1.20でJPEGファイルを読み込むために作られたDLLファイルを拡張し、画像エフェクト処理の再生機能を追加したものを利用した技術と、その関連ソフトウェアの総称である。 この技術を利用することでCardWirthに様々な画像エフェクト機能を追加できるようになるが、CardWirth単体とは異なり使用時の再生パフォーマンスはハードウェアの性能に大きく依存する。 関連ソフトウェア群の使い勝手がCardWirthEditorほど良くなく、またヘルプ群が不足していた(リファレンスですら説明が不十分である)点からあまり普及せず、一部のヘビーユーザーが使用するにとどまった。 元々は開発者が試作ツールとして開発を進めていたものであり、一般に公開する予定がなかったという。 CardWirthVer.1.50では上記のDLLが使われていないことから、現在エフェクトブースターは同バージョンのパッケージ内に同梱されていない。 替わりにエンジンそのものに同様の機能が備えられており、既存のエフェクトの再生が可能。また一部機能に関してはWirthBuilder上からその設定が可能となっている。 エフェクトブースター関連のプログラムとしてかつて公開されていた開発ツール。 エフェクトブースターの機能は独自仕様のスクリプト言語によってパラメータをいくつか記述するだけで使用できたが、完全にGUI化されたCardWirthEditorに慣れ親しんでいたユーザーからすれば扱い難いという問題があった。 これを解消すべく後日このツールが公開されたが、エフェクトブースターの全機能が扱えない、また使い勝手の点でも洗練されているとは言えず、結局完成度が低いままに終わってしまった。 シナリオは、実際にはWindowsの1フォルダとしてパッケージングされたファイル群によって形成される。 その主な内容はシナリオのソースファイル、シナリオのデータファイル、そしてリソースファイル(BMP・JPEG・PNG・MIDI・WAV・MP3・その他)となっている。 オリジナルのCardWirth本体には「交易都市リューン」「ゴブリンの洞窟」の2本があらかじめ収録されている(ただし、収録されている付属シナリオは後述するバリアントの種類によって違いがある)。 当初は、多くのファンタジー作品に見られるような中世ヨーロッパをモチーフとした“剣と魔法の世界”がゲームの舞台として設定されていた。 もっとも、CardWirthはユーザーがシナリオを自由に制作できる上、開発者のgroupAskもユーザーに対してシナリオの制作に関して特に制約を課すことがなかったので、ゲームの舞台となる世界観は必ずしも固定されたものではなかった。 そのためシナリオによっては前述の世界観と大きくかけ離れた世界が舞台となる事もあり、銃器や活版印刷が当たり前のように普及している場合もあれば、それどころか科学技術によって宇宙に進出するようなことさえある。 後に"CardWirthをまったく違う世界観で楽しもう"というコンセプトから「バリアント」と呼ばれる、CardWirthのシステムにパッチを当てた派生バージョンが誕生し、現代社会を舞台としたCardWirthなどが登場するようになった(なお、CardWirthにおけるバリアントとはこのように世界観そのものの変革を含めた意味となるため、CardWirthエンジン内のリソースファイルを変更しただけの改変プログラムはバリアントには該当しない)。 ただし、バリアントは現状あまり普及しているとはいえない。 これまでのところバリアント用エンジンはCardWirth Ver.1.28の実行ファイルを改変して作られているため、CardWirthNextでバリアント用に改造する手法は確立されていない。CardWirthPyではユーザーの手元にバリアント用エンジンがあれば、そちらのリソースを取り込むよう指定することで動作する。 groupAskがCardWirthの世界観として用意したもので、バリアントではなくオリジナルの世界観。 中世ヨーロッパの都市に似た「リューン」という名の街を中心に、子守から人探し・護衛・モンスター討伐・果ては世界の命運を掛けるような大冒険まで、さまざまな仕事の依頼を引き受ける冒険者達の活劇を描く。 プレイヤーは「冒険者の宿」に集まった、そんな冒険者達を駆ることで、それらの仕事を次々と引き受けていくことになる。 本来の意味での公式設定というものは一切存在しないが、CardWirth(ファンタジーI型)においてはgroupAskが制作したシナリオに登場するわずかな設定を「公式設定」と定義することがある。 そういった「公式設定」のほとんどがぼかされているのが特徴で、たとえば教会や神聖魔法が存在するのに神の定義が全く存在しなかったり、また舞台であるリューンにしても国家であるとは明言はされていない(ただし、王国騎士団の存在から王国であるらしきことなどは窺える)。 リューンとその周辺のいくつかの文化・宗教・地理などの設定と、過去に超古代文明世界と古代王国期が存在していたという歴史などが、わずかに垣間見える程度である。 この事から、各シナリオ作者は自作のシナリオにおいてそれらを自由に設定できると同時に、それらが公式設定たり得ることもない。 なお、「公式設定」はおろかユーザーズシナリオを含め全体を見ても、エルフやドワーフといった有名どころの亜人があまり登場しないという王道的なファンタジー世界としては特異な傾向が見られる。 バリアントシステム第一弾として提唱元であるgroupAsk official fansiteがリリースした作品。 現代から近未来にかけての日本(?)を舞台としており、プレイヤーキャラクターも冒険者から探偵事務所に所属する探偵という立場に変わっている。 魔法の代わりとして超能力のようなものが一応存在している世界となっている。 この設定を世界観として公式にサポートしていることから、世界観が中途半端で解りにくいという批判もわずかながらに存在した。 CardWirthユーザーの一人、「じぇんつ」が制作したバリアントシステム。 現代日本(?)の巨大学園が舞台となっており、その近辺で巻き起こる日常・非日常な毎日をクラスメイトや先輩後輩、教師達と一緒になって送ることになる。 世界観の変更に合わせて全体的なゲームシステムおよびゲームバランスの見直しが行われており、単純な世界観のすげ替えだけにとどまらず、既存のシステムと世界観を上手く融合させて新たな解釈を生み出した、バリアント企画の好例となった。 CardWirthの閉塞コミュニティ(「ユーザーとコミュニティ」の項にて後述)の一つで開発が進められてきたバリアントシステム。 架空の東方国家「日の本」が舞台となっており、プレイヤーキャラクターは長屋を拠点とする「仕事人」(この世界における冒険者)という設定。 江戸という響きから時代劇的な世界観を想定しがちだが、実際はファンタジーI型同様に細部はそれほど決められておらず、やはり各作者の裁量によって世界観をある程度変化させることが可能。 実際、このバリアントシステムに同梱されているシナリオ「狸の住まう穴」の内容は正統派時代劇とは無縁の妖怪退治となっている。 このことから江戸というよりは和風ファンタジー全般を扱っているとみた方が早い。 同じ様に多様性を取り入れた現代バリアント・探偵に比べ、単純にこれまでファンタジーI型で行ってきたことを和風なものに置き換えさえすればよいという利点があり、創作は行いやすい。 上記以外にも人獣・悪鬼・蜥蜴・妖樹・悪魔など複数種族の妖魔が共棲する森での日々を描く妖魔バリアント、城で永い眠りから目覚めた黒曜・紅玉・黄金・白銀の4血族の吸血鬼達の冒険を描く吸血鬼バリアントなどバリアントシステムの作例がこれまでにいくつか存在するが、閉塞されたコミュニティ(「ユーザーとコミュニティ」の項にて後述)内で確認されている程度でこれまでのところ広く認識されているものはない。 ここではオリジナルの世界観であるファンタジーI型を基準にするが、流れそのものは基本的に他のバリアントシステムでもほぼ同様である。 ゲームを初めてプレイする際にはまず冒険者達の所属する、冒険者の宿を作成することから始まる。 以後、プレイヤーはこの宿で冒険者の登録やパーティ編成などを行うことが出来る。 手始めに、まずはこの宿に所属する冒険者の登録作業(プレイヤーキャラクターの作成)を行うこととなる。 冒険者については名前や外見、性別や年代に加え能力の傾向と特徴を自由に設定可能。 一度の冒険(シナリオ)に投入できる1パーティ(チーム)の人数は最大で6人までだが、宿自体に登録できる冒険者の数に上限はない。 また、ある冒険者パーティでの冒険の最中でも「中断」することで他のメンバーを別の冒険に向かわせてプレイすることが可能。 シナリオの内容は必ずしも冒険(仕事)ばかりとは限らない。 中には街や店で冒険者達が冒険の役に立つ武器や道具類である「アイテムカード」や、特技や魔法といった技術である「スキルカード」を購入するためのものも存在する。 購入したカードを冒険者達に持たせることによって、それらの「カード」を冒険中に活用することが可能になる。 一人が所持出来るカードの枚数はその冒険者の実力(いわゆるレベル)に応じて増加する。 CardWirthには一般的なコンピュータRPGによく見られる職業(クラス)という概念はないので、ゲーム中の有利不利さえ気にしなければ冒険者の能力値の傾向と異なるカード、例えば豪傑タイプのキャラクターであっても魔法を所持することが可能。なお、CardWirthでは一般的な武器や防具といったものは各自あらかじめ装備しているものとみなされているため、それらを用意する必要はない。 全てのシナリオで共通しているわけではないが、基本的に冒険者は冒険者の宿で「仕事」の依頼を宿の主人あるいは依頼主から直接話を聞いた上で請け負い、出発するところからシナリオはスタートすることになる。 依頼の内容は千差万別であり、駆け出しでもこなせる簡単な仕事から非常に危険で困難なものまで幅広く存在する。(大まかな難易度は「対象レベル」として予め表示される) プレイヤー(プレイヤーキャラクター)が自由に行動を起こせるようになると、画面上にカードが表示される。 プレイヤーがマウスポインタでカードをクリックすると基本的に何らかの反応があり、それによりゲームが進行する。 多くの場合はメッセージが表示され最終的にいくつかの選択肢が出てくるのだが、時には冒険者の所持する「カード」を使って能動的に行動を取り、その後の展開を有利に進めたい場面も出てくるはずである。 (たとえば敵の見張りを魔法の力で無力化したい、明らかに怪しい場所を調査技能を使って徹底的に調べてみたい、など) このような場合は画面上に表示されているカードに対して冒険者が手持ちの「カード」を使用することで狙い通りの動作を実行できる事がある。(シナリオ側がプレイヤーのそういった行動に対応していなければならない)。 これは本作品の特徴のひとつで、「TRPGらしい」と言わしめる重要な要素となっている。 時には冒険者達と敵対する存在との間で戦闘が発生することもある。 戦闘自体は一般的なターン制だが、よく見られるコマンドを入力する方式ではなくカードバトル方式となっている。それぞれの冒険者が手札として配布されたカードの中から適当と思われる一枚を選び、使用することで戦闘を進めていく。 (なお冒険者達のカードは毎ターン自動的に選択されているが、プレイヤーが自由に選択することも出来る) 手札には「攻撃」や「防御」といった基本的な行動が取れるカードの他に、プレイヤーが事前に用意しておいた「アイテムカード」や「スキルカード」も加わることになる。 常に手札として用意されるアイテムカードを別にすると、手札として回ってこない行動を取ることは当然出来ない。 また冒険者達のレベルが低いうちは手札の枚数も少なく、特殊なアイテムカードを所持していないとスキルカードもなかなか回ってこないなどカードバトルならではの特徴があり、それらを考慮した駆け引きが楽しめる。 なお冒険者は基本的に「意識不明」になっても死亡する事はなく、比較的容易に戦列に復帰することが出来るが、全員が戦闘不能となった時点で敗北となり、ほとんどの場合はそれでゲームオーバーとなる。(イベントが発生し、そのままシナリオが継続されることもある) 無事に依頼を果たせたかどうかは別にして、宿に生還することが出来ればシナリオは終了する。 多くの場合この時点で仕事に対する評定が行われ、成功報酬が支払われることになる。 冒険者達の名声は経歴として残り、それが成長につながったり(一定以上の名声を得ることで、レベルが上がる)、またこの経歴が後の冒険につながることもある。(キャンペーンシナリオの前提条件となる) その他に、冒険の最中で一時的に仲間が加わることがあるが、そういった人物を新たな冒険者として宿に迎え入れることが出来るのもCardWirthの特徴の一つとなっている。(こちらについてもシナリオ側の対応次第)。 CardWirthはシリーズ化されていない単一の同人ゲームとしては非常に息が長いため、登場してから今日に至るまでの歴史を把握している者は今では非常に少なくなっている。 以下はCardWirth全体を取り巻く大まかな流れをまとめたものであるが、個々の出来事をより詳細に記録した文献としてファンサイトの一つである「拾穂文庫 “CardWirth史年表 総目次” (2019年3月27日). 2022年1月29日閲覧。 」に「CardWirth史年表」というコンテンツが存在する。 CardWirthが公開されて間もないこの頃は当然ユーザー数も少なく、それに比例してシナリオやリソースもほとんど存在しなかった。 裏を返せば、この当時からCardWirthの持つ魅力に気付き、盛り上げていくことに尽力してきたユーザーが多く存在した時期と言える。 「ないものは作るしかない」、この発想からかこの頃のユーザーは一人のプレイヤーであると同時に自身が優秀なクリエイターでもあった。 「Adventurer's GUILD」への投稿数がまだそれほど多くなかったこの頃は、groupAskによって投稿シナリオ一つ一つに対しコメントが付けられていた。 また、極めて短期間ではあるがシナリオへの人気投票システムが稼動したこともあった。 しかし人気投票についてはフリーソフトのゲームに評価で優劣をつけるということに対し疑念を抱くシナリオ作者も多く、騒動の元となった。 その後、投票対象となるシナリオを登録制へと改められるなどの改良も行われたが、最終的には評価することの意義そのものが問われることになり、このシステムは廃止された。 この議論以降、「Adventurer's GUILD」でのシナリオの取り扱いは「シナリオの登録」のみとなり、評価に関する一切は無くなる。 メディアでCardWirthが取り上げられる機会が多くなったこの頃、当時のインターネット事情とも相まってユーザーの総数が一気に増加し、それに伴いユーザーが作成したシナリオの登録数も急速に増加した。 「Adventurer's GUILD」には大量のシナリオが登録されるようになり、実力派と呼ばれるようになるシナリオ作者達も多く現れた。 その一方で、「Adventurer's GUILD」に投稿されるシナリオの完成度には大きな開きができ、まさに玉石混交といった様となり混迷を極めた。 また、あまりの投稿数の増加にgroupAskによる手作業での登録作業では追いつかなくなり、一時は「Adventurer's GUILD」が機能しなくなるなどの弊害も見られた。 (その後、公式サイトの移転と同時に「Adventurer's GUILD」をはじめとするユーザー情報の登録作業はすべて半自動化された) この頃はCardWirthを取り扱うユーザーズサイトも次々に開設され、オフ会などの動きも含めユーザー間による交流が最も多く見られた時期でもあった。 シナリオの投稿数が増えたことはユーザーにとっては歓迎すべき事態であると同時に、氾濫するシナリオを持て余し、自己にとってより良質のシナリオだけを求めるユーザー層(悪く言えばDOMユーザー)も増やす結果となっていった。 その流れを象徴するかのように、それまで何度かに渡って物議を醸してきた「シナリオ作者としてのユーザーの視点」と「プレイヤーとしてのユーザーの視点」のずれ、すなわちシナリオの評価についての是非が再び持ち上がる。 評価を是とするこの時の動きはそれまで以上に大きなものとなった為、シナリオ作者を中心とした多くのユーザー層からの不満や不信、反発といったものを招き、CardWirthコミュニティを二分するほどの勢いで意見の衝突を引き起こした。 当時コミュニティの中核をなしていたユーザーの多くがこれらの騒動に大なり小なり関わってきたことから、議論が平行線のまま収束する頃にはそういったユーザーも様々な理由で次第にコミュニティから遠のいていった。 急騰した人気が一段落したこともあり、ここからそれまでの賑わいが急速に収縮していくこととなる。 ユーザー数の減少はそのままCardWirthコミュニティ全体に響き、その後しばらくは低調が続くこととなる。中でも初期の頃から活躍し、それまでコミュニティの牽引役となっていたユーザーの多くが一線を退いたこと、そして開発元であるgroupAskにこの頃大きな動きが見られなかった事などが大きかった。 もっとも、これはユーザー層が大きく入れ替わる、いわば転換期としての側面もあった。特にこの当時コミュニティにデビューしたユーザーには実力派のクリエイターが多くそろっていたことから、低迷が続くもののCardWirthの人気は持続することとなった。 また、公式サイトを離れた旧来からのユーザーの一部は、他方で個々のユーザーズサイトに分散して小規模なコミュニティを形成していく。 こういった新たなコミュニティは以降も地道に活動を続け、こちらもCardWirthコミュニティ全体を支えた。 2003年、ここにきてそれまで長らく動きがなく、公式サイトの運営も滞りがちとなっていたgroupAskにようやく動きが見られる。 一部ユーザーからの提言を受け、これまでgroupAskのみで行ってきた公式サイトの運営を有志のユーザーに任せることを決断。これにより同年6月、「Adventurer's GUILD」などのサポートが公式サイトから“公式ファンサイト”の「groupAsk official fansite」へ委譲された。 これ以降、ファン有志のコミュニティが共同でCardWirth全体を支えていくことになる。その後groupAsk official fansiteから最新バージョンのCardWirthが登場したこともあり、コミュニティ全体の動きが活発化した。 また新規ユーザーも引き続き増え続け(ただし、同じくらいには古くからのユーザーが減少してもいた)、良質のシナリオやリソースが安定して提供されていくようになる。 この時期になると、エンジンのバージョンが固定された状況が長く続いたこともあって、CardWirthを取り巻く状況はほぼ横ばいとなり大きな変動は見られなくなった。 ユーザーの動きとしては中心となるべき開かれたコミュニティの場が存在していなかったこともあり、多くのユーザーは個人単位で細々とした活動を行うか、自身が身を置く閉塞的コミュニティから出ずに活動するようになっていた。こうした動きからユーザーの入れ替わりが最も緩やかな時期だったと見る事ができる。 また、システム面での変遷が無かったことからユーザー単位での技術的成熟が図られた時期でもある。 この頃にクローンプロジェクトの一つであるCardWirthPyの開発が開始されている。 2012年、LynaによってCardWirthエンジンVer.1.28の機能拡張およびバグ修正ツールである「CardWirth Extender」が開発された。 これは長らく困難とされてきたCardWirthエンジン本体のリバースエンジニアリング(逆コンパイラによるソースコードの解析)の結果、実現されたものである。 このツールは同年3月にはgroupAsk official fansiteへ持ち込まれ、CardWirthエンジンへと組み込まれた。 この数日後には、多くのCardWirthユーザーにとって念願だった新バージョンであるVer.1.29として登場し、これをさらに改良したVer.1.30が同年10月にリリースされた。 2013年4月には、ソースコードを刷新して開発されたクローンエンジンであるVer.1.50が後継バージョンとして発表された。 その後、いわゆる私家版エンジンとしてCardWirthNextとCardWirthPyが相次いで公開されることとなる。 こうしたCardWirthエンジンの新バージョンを巡る動きに伴い、コミュニティの動きも再び活発化。 「Adventurer's GUILD」にも、引き続き新作シナリオが投稿されている。 かつてCardWirthのユーザーは公式サイトを中心に一大コミュニティを形成していたが、ある時期を境にこの図式は徐々に崩壊していくこととなった。 その後は大手掲示板の創作系スレッドやいくつかのユーザーズサイトやmixiといったSNSサイトなどに分散する形で小規模なコミュニティが形成されていき、そうしたコミュニティに合流できていないユーザー同士の繋がりは一時期かなり希薄になり、それがコミュニティ全体の弱体化につながっている部分もあった。 今日ではTwitterによって既存ユーザー・新規ユーザーの区別なくつながりが生まれていくという新たなコミュニティのスタイルが形成されつつある。 CardWirth用のシナリオエディタは非常に扱いやすいため、操作方法の習熟にそれほどの時間を要しない。そのため、シナリオ(ストーリー)のアイデアさえ持っていれば、誰にでも簡単にシナリオを作ることができる。 そうしたこともあって、CardWirthコミュニティには非常に多くのシナリオ作者が存在し、また彼らの創作したシナリオの数は実に1000を超えるとされる。(現在は入手できなくなっているものも多く存在し、また最新の資料も存在しないため正確な数は不明) CardWirthで使用する画像は、主に画面(シナリオの場面)の背景となる写真やCGといったJPEG画像、そして本作品において最も重要な要素となる「カード」の絵柄として使用される74*94ピクセルのBMPあるいはPNG画像とがある。 背景画像については一般的なリソースがそのまま流用可能であるが、カード画像として使用する画像はサイズが特殊な大きさのため、基本的に専用の素材が必要となる。もっともカード画像についてはgroupAskをはじめ、古くから大勢のユーザーが多数提供してきたために不足はない。 カード画像は当初BMP形式しか使えず、また初期の頃はインターネットを取り巻く通信環境が脆弱だったこともあって、容量の関係から16色形式のドット絵が主流で、多くのドッター(ドット絵の作者)達がその技術を発揮した。 その後ネットワークもブロードバンド化が進み、容量を気にする必要もなくなってきたことから、フルカラーのイラストを256色形式に減色したリソースを提供する作者が増えた。 今ではエンジンの機能向上によりPNG形式にも対応し、容量を抑えながらフルカラーや半透明といったカード画像も使用可能になった。 一方背景画像を提供する作者も少なくなく、そういった中でクォータービュー形式の画像を張り合わせて背景を作り出す「Qubes」という独自の規格も考案されたりした。(Qubesについては普及こそしなかったが、groupAskがCardWirthEditorでこの規格をサポートしている) CardWirthで使用する音は、BGMと効果音とに分かれる。 当初のシステムではBGMではMIDIが、効果音ではWAVが用いられていたが、エンジンの機能向上とともにサウンドフォントの組込が可能となったり、利用可能なデータ形式としてMP3が加わるなど環境は大きく様変わりした。 効果音の制作は技術を要することもあってCardWirthコミュニティからはあまり提供されていないが、BGMに使われるMIDIについてはかつてそれなりの数の作者が存在していた。 CardWirthコミュニティを中心に活動していたMIDIファイルの作者に共通して見られた傾向として、オリジナリティの高い楽曲を数多く提供していたという特色があった。 当時はMIDIの作者によるコミュニティが形成されるほどの盛り上がりも見せたが、DTMの中心がMIDIからMP3に移行するという世間の流れもあり、現在はそうした活動はほとんど見られなくなってきている。 ここでいうプレイヤーとは、シナリオやリソースなどの創作活動そのものを行ってはいないもののCardWirthに関与することで得た自らの見識を何らかの形式で他者に提供する、あるいは何らかのコミュニティ活動に参画し、他のユーザーに影響力を与えている存在のことを指す。 冒頭で触れたようにCardWirthは作者とユーザーが多対多で存在するコミュニティのため、こうした存在が創作活動を行っている層の下支えとなることも多い。 CardWirthのユーザーであれば誰でも参加でき、また利用することが可能なユーザー同士の集まり、あるいはその場所。 参加資格に特に制限のない企画サイトなどもこれに含まれる。 シナリオ作者のために設けられた「CardWirth ScenarioWriter's Community」(通称「しなさくコム」)、CardWirthに関するイラストを楽しもうという目的で設けられた「Card Illustrations Board」(通称「イラボ」)など、かつてその多くは何らかの目的別に設けられていた。 一般的なコミュニティに対し、一部の関係者だけが集い、それにより形成されるコミュニティ。 もっとも、これらのコミュニティであっても何らかの対外的な措置(例えばパスワードがなければ閲覧できないなどの制限)が設けられていることはほとんどなく、結果として閉塞的になっているだけのことが多い。こうした集まりはどこにでも存在し、またその規模・趣旨・目的といったものが千差万別であり、さらにはその性質上統計などもなく、はっきりとしたことは言えない。 たとえ実際は門戸の開かれたコミュニティであったとしても、何も知らないユーザーがこれらのコミュニティに新たに加わることは容易ではない。 ただし関係者しか集まらないということもあってか、一部の集まりではCardWirthコミュニティ全体の現状からでは想像できないほどの勢いを持っている。 代表的なものとしてはmixiのCardWirth関連のコミュニティ、あるいは2ちゃんねるの一部のスレッドなど。 ただ、公式側の開発の停滞などから閉塞的なコミュニティで開発された技術が、(コミュニティの存在を伏せた形で)一般的なコミュニティに紹介されるなどの動きも出ている。 Twitterでは特にコミュニティの存在・形成を意識することなく、ユーザーがCardWirthに関わる発言を行う、あるいは周囲の発言を拾う事によって自然とつながりが生まれていく。 こうしたことから、近年はTwitterからCardWirthコミュニティあるいはCardWirthそのものに触れるユーザーが増えてきている。 Twitterでは情報の即応性や拡散力はきわめて高いものの、半面まとまった情報が得にくく簡単に埋没してしまうという特徴があるため、ユーザー同士のつながりは容易に形成できるようなったが継続的な情報共有はこれまで以上に困難なものとなってしまっている。 CardWirthがここまで有名になったのは、1999年から2000年頃にかけてフリーウェアを掲載する書籍やウェブサイトなどで大なり小なり紹介されたことに起因する。 ここでは、現在に至るまでの間に特に目立った動きについて取り上げる。 株式会社アスキー(現エンターブレイン)の出版していた雑誌「テックウィン」において、過去に何度か数ページに渡っての特集が組まれたことがある。 また同誌ではそれ以外の号においてもほぼ毎回のようにCardWirth本体またはシナリオを掲載しており、この雑誌からCardWirthを知ったというユーザーも少なくなかった。 CardWirthはフリーウェアのゲームとしては珍しく、2000年5月に公式ガイドブックがムック形式で発売されている(「I/O別冊 カードワース公式ガイドブック」ISBN 978-4-87593-832-3)。発行元は工学社。 ゲーム本体およびエディタ、CardWirthの世界観(今で言うところの「ファンタジーI型」について)の紹介はもちろん、groupAskの制作したシナリオ「教会の妖姫」を元にして描かれたオリジナル小説を掲載し、シナリオ作成講座の解説も行っている。 本書にはいくつかのシナリオも収録されているが、これは当初「Adventurer's GUILD」に公開されていたほぼすべてのシナリオを網羅する目玉企画となる予定であったとされている。 しかし実際には各シナリオ作者への収録許諾に関する手回しに不手際があったため、誌面で紹介されているシナリオですらいくつか収録できていない。 またこの不手際に関しては、工学社側の事務手続きが収録作品に対してシナリオ作者への許諾のみに終わり、シナリオで使用しているリソースの作者に対する問い合わせが不十分だったこと、さらにこの件における編集者からの回答に多くのユーザーが納得できなかったこともあって、一連の工学社側の対応を反面教師とする向きが後のCardWirthコミュニティでの著作権に関する意識向上のきっかけとなった。 なお、このガイドブックは工学社にもすでに在庫がなく、また流通している可能性もほぼ皆無であることから現在は入手が困難である。 2002年11月まで株式会社アスキーが運営していたエンターテインメントコンテンツの配信サイト「enban.net(エンバンネット)」において、有償(月額500円)コンテンツである「週刊ゲームズ」を通じて、CardWirthのシナリオが毎週配信されていた。 「週刊ゲームズ」は曜日毎に7種類のゲームを提供するという内容で、金曜日には「カードワースの森」というコンテンツが用意された。 現在、このサービスは終了しただけでなく、サイト自体も閉鎖しており、これらのコンテンツもそれとともに事実上入手できなくなっている。 groupAskでは「ユーザーは作成したシナリオを有料で配布しても構わない」としているが、実際に有料で配布されたシナリオはここでの他に類を見ない。これは過去にカードワースのシナリオをシェアウェアにすることについての是非が議論された際、反対意見が圧倒的多数を占めたことにもよる。 オンラインソフトウェアのダウンロードなどを手がけている株式会社ベクターのサイトでは、「RPG」のジャンル(「ダウンロード」>「Windows」>「ゲーム」>「RPG」)の一つとして「マルチシナリオRPG CardWirth」という項目が設けられている。 シナリオ作者が自作のCardWirthのシナリオを「Adventurer's GUILD」に登録するためには、自身が完成したファイルをインターネット上のどこかにアップロードする必要があったが、CardWirthが急速に普及した頃はまだそのような場が十分にはなく、またそもそも具体的にはどの様にすれば良いのか解らないというユーザーも多かった。そこでもっとも手軽な方法として、ベクターのサイトに「フリーウェア」として登録するという手法が確立された。そのため、ベクターには別項目を用意しなければならないほど数多くのCardWirthシナリオが登録されている。 インターネット上で参加者を募り、創作物を収録した作品集「CardWirthParty」を制作した。主にCardWirthのシナリオを題材としたイラストが収録されているが、アレンジ楽曲やオリジナルのシナリオが含まれることもある。8タイトルが制作され、1作目のみ有償で販売されたが、以降の作品は無料で頒布されている。また現在では全てのタイトルが先述のベクターよりダウンロードすることができる。 2008年12月のコミックマーケット75を最後に「同人イベントへの参加」の無期停止(実質終了)、また2010年10月には無期限の活動停止を公式サイトで発表した。しかし2012年8月のコミックマーケット82には参加しており、活動再開の可能性もある。 2013年に同人サークルEGOTEXによってCardWirthPartyと同様に有志メンバーによって制作された「CardWirth Carnival! 01」が頒布された。続き同02~05までが2018年までに頒布されている。01、03についてはベクターでその一部コンテンツをダウンロードすることができる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "CardWirth(カードワース、略称「CW」)は「groupAsk」が開発したWindows上で動作するフリーウェアのコンピュータRPGである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2000年頃にブームを迎え、一大コミュニティを形成しメディアから頻繁に取り上げられていた時期もあったが、その後はブームも去りおよそ10年ほど比較的小規模な状態で落ち着いていた。2013年頃から再び盛り上がりを見せはじめ、登場から20年以上が経過した2022年現在もユーザーによるシナリオの作成・公開などが活発に行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお開発者のgroupAskはCardWirthの開発や運営から既に退いており、その役割はユーザーサイドに委ねられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "CardWirth(カードワース、略称「CW」)は、「groupAsk」(「開発者と公式サイト」の項にて後述)によって開発され、1998年8月にインターネット上で公開された。公式サイトに記述された紹介文によると「CardWirthはTRPG(テーブルトークRPG)の自由度と、カードゲームの遊び易さを融合した、新しい形態のRPG」とされている。自由に移動できるフィールドを持たない、画面内に配置されたカードをクリック(選択)することでゲームを進行させていく、キャラクターの能力値のほとんどが隠蔽されている、戦闘システムがカードバトルになっているなどの独特のゲームシステムが特徴である。そのプレイ感覚はコンピュータゲームに当てはめて例えた場合、どちらかといえばRPGよりもアドベンチャーゲーム (AVG) やサウンドノベルに近い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "多くのRPGと異なり基本的に固定されたストーリーを持たず、「シナリオ」と呼ばれる外部データをユーザーが追加してプレイする形式が採られている。シナリオについては、CardWirthがTRPGを意識しているだけあって、特定のシナリオをプレイすることによって以降連鎖的にプレイ可能となるキャンペーンシナリオ形式にも対応している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "CardWirth本体はシナリオを読み込み、動作させるためのエンジンとなっている。 またこのエンジンとは別にシナリオ作成用エディタも公開されており、ユーザーの手によってシナリオを制作することが可能。 現在ではユーザーが作成したシナリオやCardWirthでの利用に適した各種のリソース(画像、楽曲)が多数公開されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一般に人気フリーソフトゲームのコミュニティ形成は「作者」:「ユーザー」の関係が一対多であることが多いが、CardWirthは先述の通りユーザーが創作側に回ることも珍しくなく、多対多のコミュニティが形成された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "groupAskは当初から同人ゲームの制作のみを目的としていたわけではなく、また制作したソフトウェアを同人誌即売会で頒布していない事からも、狭義における同人サークルとはスタンスの異なる同人集団である。 かつてgroupAskの公式サイトに「groupAskはネットワークという仮想世界に存在するソフトウェア開発グループであり主にWindowsのソフトウェアの制作を行っている」という主旨の一文を掲載していたことからも、その事がうかがい知れる。 もっとも、結果として同人ゲームであるCardWirth以外のソフトウェアを開発するまでには至らなかった。", "title": "開発者と公式サイト" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "groupAskのメンバーは斉藤・倉貫・赤塚の3名。groupAskの「Ask」とは、groupAskのメンバーでありCardWirthを開発したメンバーでもあるこの3名の頭文字から名付けられた。この3名は当時大学の研究室で一緒に作業をしており、斉藤が年長で、倉貫と赤塚が一年後輩にあたる。 開発時にはプログラムの大半を倉貫が、音楽を赤塚が担当し、グラフィックとシナリオの数多くを斉藤が手がけている。", "title": "開発者と公式サイト" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "CardWirthがインターネット上で公開されるようになってからは主に倉貫が公式サイトの運営作業に当たる。その役割はサイト情報の更新に加え、ユーザー間の交流を目的に設置された各種コンテンツの管理、そしてユーザーが制作したシナリオを投稿できる「Adventurer's GUILD」(通称「ギルド」)と称されるサイトの運営であった。", "title": "開発者と公式サイト" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "もっとも、現在は3名とも社会人として多忙な日々を送っているため、こうしたCardWirthの開発・公式サイトの運営作業からは退く。 現在はgroupAskから正式に委託を受けた\"CardWirthを愛する有志によって結成された団体\"である「カードワース愛護協会」によって運営される公式ファンサイト、「groupAsk official fansite」がその機能を引き継いでいる。。", "title": "開発者と公式サイト" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "開発当初、CardWirthはProject_RPG3という開発名で呼ばれていた。 斉藤が開発し始めたゲームプログラムの3つ目の意味で、Windowsプラットフォームで開発されたのはこれが最初のもの。 本人の談によると、当初は10分くらいで終了するブリキの玩具のようなものが想定されており、インターネット上で公開するつもりもなかったという。", "title": "開発者と公式サイト" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "後に倉貫・赤塚の両名が開発に加わり、このプログラムが本格的なゲームとしての具体性を帯びることになった事から、CardWirthは世に登場した。", "title": "開発者と公式サイト" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "CardWirthという名称、とりわけWirthという単語については、groupAskによる公式見解が存在しておらず名称の由来は不明である。 \"数日間悩んだ末、どこからか出た言葉\"という赤塚の発言などもあるが、groupAsk名義で正式に定義されたことは無い。", "title": "開発者と公式サイト" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ユーザーの間でも過去に幾度かの考察がなされ、古くはWirthとは伝説や伝承を意味する言葉であり「札伝説」という意味であるというものが、後にはWirthは英語の古語で「自分で商売を営んでいる人」、転じて「宿屋の主人」を意味するというものが定説となった。", "title": "開発者と公式サイト" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "CardWirthのプログラムには先述の通り、本体となるシナリオ動作エンジン(CardWirth本体)とシナリオ作成用エディタ (CardWirthEditor等) が存在する。 (配布はエンジン単体・あるいは両者をパッケージングした形態で行われているので必ずしもエディタがシステムに含まれるわけではない) これにデフォルトの各種リソース、データ、そしてユーザーが各自で追加したシナリオ群によって構成される。 配布されているバージョンやパッケージング形態によっては後述する「エフェクトブースター」などが含まれていることもある。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "CardWirthは設計された時期や開発コンセプトの関係上、DirectX等の複雑な描画・音響エフェクトは使用されておらず、基本的にそれほど高いスペックは要求されない(Windows 95以上が動くパソコンであれば問題はない)。 そのこともあり、Windows XP以降の環境に十分に対応できていない状況が一時期続いていた。 最新のバージョンではこの点は解消されているが、半面、描画・音響共に機能が向上していることもあって快適に動作させるためにはそれなりのスペックが必要となっている。(動作環境はCPUは1GHz以上、メモリは32ビットOSで1GB以上・64ビットOSでは2GB以上に改められている)", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "CardWirthEditorで制作したシナリオを動作させる、CardWirthの本体部分(エンジン)。 このプログラム単体でゲームを起動することが可能。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "純正またはその派生エンジンは公開されて以来いくつかのバージョンが存在するが、大きく分けて以下の三つの系列が存在する。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これらのうち、現在は最新版にあたるVer.1.50が主流となっている。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この3つのエンジン間には動作や処理、仕様といったものに若干の差異があり、シナリオのつくりや作成年次によっては動作に完全な互換性がないこともある。(中にはシナリオの進行に支障をきたすこともある)", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "CardWirthNextは、CardWirthエンジンVer.1.50を開発したLynaが手がける、派生エンジンの一つ。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "元はCardWirthエンジンVer.1.60として公開される予定であったが、完成直前にLynaが所属していたgroupAsk official fansiteから脱退したことで非公式エンジン扱いとなった。(そのため現在もこのエンジンのタイトルは「CardWirth Ver.1.60」となっている) このCardWirthNextという名称は、当初はソースコードを刷新したCardWirthエンジンのことを指しており、一時期はその嚆矢となるCardWirthエンジンVer.1.50もこれに含まれていたが、現在では公式エンジンとの区別を明確にする意味合いもあって、その定義で用いられることはほとんどない。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "CardWirthエンジンVer.1.50をベースにしているため基本となる部分はそれほど変わらないが、CardWirthエンジンにはない独自の機能が多数実装されている。 またCardWirthエンジンに対し上位互換であるため、CardWirthエンジンのデータをそのまま利用できる。 ただし、Nextエンジン及び後述するWirthBuilderから生成されるデータは独自形式となるため、一度変換してしまうとそれらは他のCardwirthエンジンとの互換性は一切なくなり、また各種のツール類を利用することも同様にできなくなる。2015年で開発停止となった。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "CWIは、クローンエンジン開発プロジェクトの一つ。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "CardWirthユーザーの一人であるThomasによって開発され、C#によって記述された独自の互換エンジンを持つ。 現在は開発停止しているが、ソースコードが公開されているため、派生プロジェクトやこのエンジンを利用したツールなどが発表されている。 同時にシナリオデータの仕様についても独自の解析結果を公表しており、後述のCardWirthPyでもその成果が利用されている。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "CardWirthPyは、クローンエンジン開発プロジェクトの一つ。 2020年4月時点で唯一開発が継続されているエンジンである。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "プログラム言語「Python」によって一から開発された独自の互換エンジンを用いており、「フリー・オープンソースの維持」「CardWirthとの99%の互換性を目指す」を標榜している。 オープンソースであるため、プロジェクトへの参加やコードの変更は誰でも認められている。 「CardWirthとの99%の互換性を目指す」のCardWirthとは、Ver.1.20からVer.1.50までのCardWirthエンジンおよび後述のバリアント仕様に改修されたエンジンを指しており、これらと双方向での互換性を持っている。 一方で独自の拡張機能を多数備えており、シナリオのデータ形式をXMLによって記述されるCardWirthPy独自の形式のものにすることで、そうした機能を利用することもできる。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "前述の通りCardWirthNextのデータ形式を利用することはできないため、CardWirthNextとの互換性までは考慮されていないが、CardWirthPyの拡張機能にはCardWirthNextの独自機能と同等の機能を持ったものも一部存在する。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "CardWirthエンジンで動作させるためのシナリオを制作するエディタツール。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "groupAskが配布している「CardWirthEditor」と、CardWirth Ver.1.28の仕様に合わせて軽微な改造を施してgroupAsk official fansiteがかつて配布していた「CardWirthEditor2」が存在するが、基本的に同一のものである。 多くのエディタがスクリプトでの記述を必要とするのに対し、CardWirthEditorはインタフェースとして完全なGUIを備えており、全くの初心者であっても容易に扱えるのが特徴。 その一方で、コンテントと呼ばれるアイコン化された一連の処理の並びが一般的なプログラミング言語のソースコードとそれほど変わらないため、昨今用いられるプログラミング言語(PerlやJavaなど)による開発に慣れているユーザーも直感的に扱えるという、非常に優れた開発ツールとしての一面も持つ。 ただし、あくまでもCardWirth用に作られたシナリオエディタに過ぎないので、高度なプログラミングにまで対応しているわけではない。 もっとも、多少複雑な処理を組み込むにしてもシナリオを制作する上で困ることはほとんどない。 少なくともサウンドノベルのような形式のシナリオを作るのであれば、基本的なコンテントをいくつか覚えるだけですぐにでも思い通りの物を制作することが出来る。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なおCardWirthEditorを長時間起動しているとメモリの使用量が増加していくという問題点(おそらくメモリリーク)が確認されている。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "CardWirthEditorの後継として開発されたシナリオ制作エディタで、CardWirthエンジンVer.1.29以降に追加された機能をシナリオに盛り込むためにはこちらのツールを使う必要がある。 ユーザインタフェースはCardWirthEditorを踏襲しており、旧来からのユーザーでも違和感なく操作できるようになっている。 CardWirth Ver.1.50 フルパックではCardWirthEditorを完全に廃してこちらだけが同梱されるようになった。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、前述のCardWirthNextに同梱されているシナリオ制作エディタも、(CardWirthNext専用版となってはいるが)このWirthBuilderである。 CardWirthエンジンVer.1.50用のものと見た目や使用感はほぼ同じであるが、前述の通りこのエディタを介して出力されたシナリオのデータは新規・既存を問わずこれまでと異なる専用の形式で保存されるため、他のエディタ(プロジェクト)では利用できなくなる。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "元は前述のCardWirthPy専用のシナリオ制作エディタとして、CardWirthPy本体とは別のプロジェクトにより開発されたシナリオ制作エディタであったが、後にCardWirthエンジン用のシナリオも取り扱う機能が実装された。 これにより、CWXEditorを使用することでどちらの形式のシナリオも作成することが可能となっている。 CardWirthエンジン用の形式でシナリオを作成した場合、CardWirthEditorおよびCardWirthエンジンVer.1.50用のWirthBuilderで作られたシナリオデータと完全な互換性があり、相互で利用可能となっている。 CardWirthPy専用のシナリオ形式でシナリオを作成した場合、CWXEditor以外で編集することはできない。 また、前述の通りCardWirthNext用のWirthBuilderで作られたシナリオは独自形式で保存されるためCWXEditorで編集することは出来ず、CardWirthNextの機能を使ったシナリオをCWXEditorによって制作することも出来ない。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "非常に強力な各種シナリオ制作支援機能が搭載されているが、多機能すぎることやユーザインタフェースがCardWirthEditorと全く異なる事などから、旧来からのユーザーも含めて扱いにはそれなりの習熟が必要となる。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "CardWirth本体に付属する(あるいはしていた)プログラム。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Ver.1.15にまで存在していた、CardWirthのプレイ時の各種データに対して修正や編集を行うためのユーティリティソフト。 Ver.1.20からはエンジンにその機能の大半が譲られる形となり廃止されている。 しかしこのプログラムには引退したプレイヤーキャラクターの具体的な数値データを見ることが出来るという、現在のエンジンにはない大きな特徴があった。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "groupAsk official fansiteによって一から開発されたもの。 これは単体のソフトウェアの名称ではなく、CardWirth Ver.1.20でJPEGファイルを読み込むために作られたDLLファイルを拡張し、画像エフェクト処理の再生機能を追加したものを利用した技術と、その関連ソフトウェアの総称である。 この技術を利用することでCardWirthに様々な画像エフェクト機能を追加できるようになるが、CardWirth単体とは異なり使用時の再生パフォーマンスはハードウェアの性能に大きく依存する。 関連ソフトウェア群の使い勝手がCardWirthEditorほど良くなく、またヘルプ群が不足していた(リファレンスですら説明が不十分である)点からあまり普及せず、一部のヘビーユーザーが使用するにとどまった。 元々は開発者が試作ツールとして開発を進めていたものであり、一般に公開する予定がなかったという。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "CardWirthVer.1.50では上記のDLLが使われていないことから、現在エフェクトブースターは同バージョンのパッケージ内に同梱されていない。 替わりにエンジンそのものに同様の機能が備えられており、既存のエフェクトの再生が可能。また一部機能に関してはWirthBuilder上からその設定が可能となっている。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "エフェクトブースター関連のプログラムとしてかつて公開されていた開発ツール。 エフェクトブースターの機能は独自仕様のスクリプト言語によってパラメータをいくつか記述するだけで使用できたが、完全にGUI化されたCardWirthEditorに慣れ親しんでいたユーザーからすれば扱い難いという問題があった。 これを解消すべく後日このツールが公開されたが、エフェクトブースターの全機能が扱えない、また使い勝手の点でも洗練されているとは言えず、結局完成度が低いままに終わってしまった。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "シナリオは、実際にはWindowsの1フォルダとしてパッケージングされたファイル群によって形成される。 その主な内容はシナリオのソースファイル、シナリオのデータファイル、そしてリソースファイル(BMP・JPEG・PNG・MIDI・WAV・MP3・その他)となっている。 オリジナルのCardWirth本体には「交易都市リューン」「ゴブリンの洞窟」の2本があらかじめ収録されている(ただし、収録されている付属シナリオは後述するバリアントの種類によって違いがある)。", "title": "システム構成" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "当初は、多くのファンタジー作品に見られるような中世ヨーロッパをモチーフとした“剣と魔法の世界”がゲームの舞台として設定されていた。 もっとも、CardWirthはユーザーがシナリオを自由に制作できる上、開発者のgroupAskもユーザーに対してシナリオの制作に関して特に制約を課すことがなかったので、ゲームの舞台となる世界観は必ずしも固定されたものではなかった。 そのためシナリオによっては前述の世界観と大きくかけ離れた世界が舞台となる事もあり、銃器や活版印刷が当たり前のように普及している場合もあれば、それどころか科学技術によって宇宙に進出するようなことさえある。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "後に\"CardWirthをまったく違う世界観で楽しもう\"というコンセプトから「バリアント」と呼ばれる、CardWirthのシステムにパッチを当てた派生バージョンが誕生し、現代社会を舞台としたCardWirthなどが登場するようになった(なお、CardWirthにおけるバリアントとはこのように世界観そのものの変革を含めた意味となるため、CardWirthエンジン内のリソースファイルを変更しただけの改変プログラムはバリアントには該当しない)。 ただし、バリアントは現状あまり普及しているとはいえない。 これまでのところバリアント用エンジンはCardWirth Ver.1.28の実行ファイルを改変して作られているため、CardWirthNextでバリアント用に改造する手法は確立されていない。CardWirthPyではユーザーの手元にバリアント用エンジンがあれば、そちらのリソースを取り込むよう指定することで動作する。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "groupAskがCardWirthの世界観として用意したもので、バリアントではなくオリジナルの世界観。 中世ヨーロッパの都市に似た「リューン」という名の街を中心に、子守から人探し・護衛・モンスター討伐・果ては世界の命運を掛けるような大冒険まで、さまざまな仕事の依頼を引き受ける冒険者達の活劇を描く。 プレイヤーは「冒険者の宿」に集まった、そんな冒険者達を駆ることで、それらの仕事を次々と引き受けていくことになる。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "本来の意味での公式設定というものは一切存在しないが、CardWirth(ファンタジーI型)においてはgroupAskが制作したシナリオに登場するわずかな設定を「公式設定」と定義することがある。 そういった「公式設定」のほとんどがぼかされているのが特徴で、たとえば教会や神聖魔法が存在するのに神の定義が全く存在しなかったり、また舞台であるリューンにしても国家であるとは明言はされていない(ただし、王国騎士団の存在から王国であるらしきことなどは窺える)。 リューンとその周辺のいくつかの文化・宗教・地理などの設定と、過去に超古代文明世界と古代王国期が存在していたという歴史などが、わずかに垣間見える程度である。 この事から、各シナリオ作者は自作のシナリオにおいてそれらを自由に設定できると同時に、それらが公式設定たり得ることもない。 なお、「公式設定」はおろかユーザーズシナリオを含め全体を見ても、エルフやドワーフといった有名どころの亜人があまり登場しないという王道的なファンタジー世界としては特異な傾向が見られる。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "バリアントシステム第一弾として提唱元であるgroupAsk official fansiteがリリースした作品。 現代から近未来にかけての日本(?)を舞台としており、プレイヤーキャラクターも冒険者から探偵事務所に所属する探偵という立場に変わっている。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "魔法の代わりとして超能力のようなものが一応存在している世界となっている。 この設定を世界観として公式にサポートしていることから、世界観が中途半端で解りにくいという批判もわずかながらに存在した。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "CardWirthユーザーの一人、「じぇんつ」が制作したバリアントシステム。 現代日本(?)の巨大学園が舞台となっており、その近辺で巻き起こる日常・非日常な毎日をクラスメイトや先輩後輩、教師達と一緒になって送ることになる。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "世界観の変更に合わせて全体的なゲームシステムおよびゲームバランスの見直しが行われており、単純な世界観のすげ替えだけにとどまらず、既存のシステムと世界観を上手く融合させて新たな解釈を生み出した、バリアント企画の好例となった。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "CardWirthの閉塞コミュニティ(「ユーザーとコミュニティ」の項にて後述)の一つで開発が進められてきたバリアントシステム。 架空の東方国家「日の本」が舞台となっており、プレイヤーキャラクターは長屋を拠点とする「仕事人」(この世界における冒険者)という設定。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "江戸という響きから時代劇的な世界観を想定しがちだが、実際はファンタジーI型同様に細部はそれほど決められておらず、やはり各作者の裁量によって世界観をある程度変化させることが可能。 実際、このバリアントシステムに同梱されているシナリオ「狸の住まう穴」の内容は正統派時代劇とは無縁の妖怪退治となっている。 このことから江戸というよりは和風ファンタジー全般を扱っているとみた方が早い。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "同じ様に多様性を取り入れた現代バリアント・探偵に比べ、単純にこれまでファンタジーI型で行ってきたことを和風なものに置き換えさえすればよいという利点があり、創作は行いやすい。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "上記以外にも人獣・悪鬼・蜥蜴・妖樹・悪魔など複数種族の妖魔が共棲する森での日々を描く妖魔バリアント、城で永い眠りから目覚めた黒曜・紅玉・黄金・白銀の4血族の吸血鬼達の冒険を描く吸血鬼バリアントなどバリアントシステムの作例がこれまでにいくつか存在するが、閉塞されたコミュニティ(「ユーザーとコミュニティ」の項にて後述)内で確認されている程度でこれまでのところ広く認識されているものはない。", "title": "世界観" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ここではオリジナルの世界観であるファンタジーI型を基準にするが、流れそのものは基本的に他のバリアントシステムでもほぼ同様である。", "title": "ゲームの主な流れ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ゲームを初めてプレイする際にはまず冒険者達の所属する、冒険者の宿を作成することから始まる。 以後、プレイヤーはこの宿で冒険者の登録やパーティ編成などを行うことが出来る。 手始めに、まずはこの宿に所属する冒険者の登録作業(プレイヤーキャラクターの作成)を行うこととなる。 冒険者については名前や外見、性別や年代に加え能力の傾向と特徴を自由に設定可能。 一度の冒険(シナリオ)に投入できる1パーティ(チーム)の人数は最大で6人までだが、宿自体に登録できる冒険者の数に上限はない。 また、ある冒険者パーティでの冒険の最中でも「中断」することで他のメンバーを別の冒険に向かわせてプレイすることが可能。", "title": "ゲームの主な流れ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "シナリオの内容は必ずしも冒険(仕事)ばかりとは限らない。 中には街や店で冒険者達が冒険の役に立つ武器や道具類である「アイテムカード」や、特技や魔法といった技術である「スキルカード」を購入するためのものも存在する。 購入したカードを冒険者達に持たせることによって、それらの「カード」を冒険中に活用することが可能になる。 一人が所持出来るカードの枚数はその冒険者の実力(いわゆるレベル)に応じて増加する。 CardWirthには一般的なコンピュータRPGによく見られる職業(クラス)という概念はないので、ゲーム中の有利不利さえ気にしなければ冒険者の能力値の傾向と異なるカード、例えば豪傑タイプのキャラクターであっても魔法を所持することが可能。なお、CardWirthでは一般的な武器や防具といったものは各自あらかじめ装備しているものとみなされているため、それらを用意する必要はない。", "title": "ゲームの主な流れ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "全てのシナリオで共通しているわけではないが、基本的に冒険者は冒険者の宿で「仕事」の依頼を宿の主人あるいは依頼主から直接話を聞いた上で請け負い、出発するところからシナリオはスタートすることになる。 依頼の内容は千差万別であり、駆け出しでもこなせる簡単な仕事から非常に危険で困難なものまで幅広く存在する。(大まかな難易度は「対象レベル」として予め表示される)", "title": "ゲームの主な流れ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "プレイヤー(プレイヤーキャラクター)が自由に行動を起こせるようになると、画面上にカードが表示される。 プレイヤーがマウスポインタでカードをクリックすると基本的に何らかの反応があり、それによりゲームが進行する。 多くの場合はメッセージが表示され最終的にいくつかの選択肢が出てくるのだが、時には冒険者の所持する「カード」を使って能動的に行動を取り、その後の展開を有利に進めたい場面も出てくるはずである。 (たとえば敵の見張りを魔法の力で無力化したい、明らかに怪しい場所を調査技能を使って徹底的に調べてみたい、など) このような場合は画面上に表示されているカードに対して冒険者が手持ちの「カード」を使用することで狙い通りの動作を実行できる事がある。(シナリオ側がプレイヤーのそういった行動に対応していなければならない)。 これは本作品の特徴のひとつで、「TRPGらしい」と言わしめる重要な要素となっている。", "title": "ゲームの主な流れ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "時には冒険者達と敵対する存在との間で戦闘が発生することもある。 戦闘自体は一般的なターン制だが、よく見られるコマンドを入力する方式ではなくカードバトル方式となっている。それぞれの冒険者が手札として配布されたカードの中から適当と思われる一枚を選び、使用することで戦闘を進めていく。 (なお冒険者達のカードは毎ターン自動的に選択されているが、プレイヤーが自由に選択することも出来る) 手札には「攻撃」や「防御」といった基本的な行動が取れるカードの他に、プレイヤーが事前に用意しておいた「アイテムカード」や「スキルカード」も加わることになる。 常に手札として用意されるアイテムカードを別にすると、手札として回ってこない行動を取ることは当然出来ない。 また冒険者達のレベルが低いうちは手札の枚数も少なく、特殊なアイテムカードを所持していないとスキルカードもなかなか回ってこないなどカードバトルならではの特徴があり、それらを考慮した駆け引きが楽しめる。 なお冒険者は基本的に「意識不明」になっても死亡する事はなく、比較的容易に戦列に復帰することが出来るが、全員が戦闘不能となった時点で敗北となり、ほとんどの場合はそれでゲームオーバーとなる。(イベントが発生し、そのままシナリオが継続されることもある)", "title": "ゲームの主な流れ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "無事に依頼を果たせたかどうかは別にして、宿に生還することが出来ればシナリオは終了する。 多くの場合この時点で仕事に対する評定が行われ、成功報酬が支払われることになる。 冒険者達の名声は経歴として残り、それが成長につながったり(一定以上の名声を得ることで、レベルが上がる)、またこの経歴が後の冒険につながることもある。(キャンペーンシナリオの前提条件となる)", "title": "ゲームの主な流れ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "その他に、冒険の最中で一時的に仲間が加わることがあるが、そういった人物を新たな冒険者として宿に迎え入れることが出来るのもCardWirthの特徴の一つとなっている。(こちらについてもシナリオ側の対応次第)。", "title": "ゲームの主な流れ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "CardWirthはシリーズ化されていない単一の同人ゲームとしては非常に息が長いため、登場してから今日に至るまでの歴史を把握している者は今では非常に少なくなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "以下はCardWirth全体を取り巻く大まかな流れをまとめたものであるが、個々の出来事をより詳細に記録した文献としてファンサイトの一つである「拾穂文庫 “CardWirth史年表 総目次” (2019年3月27日). 2022年1月29日閲覧。 」に「CardWirth史年表」というコンテンツが存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "CardWirthが公開されて間もないこの頃は当然ユーザー数も少なく、それに比例してシナリオやリソースもほとんど存在しなかった。 裏を返せば、この当時からCardWirthの持つ魅力に気付き、盛り上げていくことに尽力してきたユーザーが多く存在した時期と言える。 「ないものは作るしかない」、この発想からかこの頃のユーザーは一人のプレイヤーであると同時に自身が優秀なクリエイターでもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "「Adventurer's GUILD」への投稿数がまだそれほど多くなかったこの頃は、groupAskによって投稿シナリオ一つ一つに対しコメントが付けられていた。 また、極めて短期間ではあるがシナリオへの人気投票システムが稼動したこともあった。 しかし人気投票についてはフリーソフトのゲームに評価で優劣をつけるということに対し疑念を抱くシナリオ作者も多く、騒動の元となった。 その後、投票対象となるシナリオを登録制へと改められるなどの改良も行われたが、最終的には評価することの意義そのものが問われることになり、このシステムは廃止された。 この議論以降、「Adventurer's GUILD」でのシナリオの取り扱いは「シナリオの登録」のみとなり、評価に関する一切は無くなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "メディアでCardWirthが取り上げられる機会が多くなったこの頃、当時のインターネット事情とも相まってユーザーの総数が一気に増加し、それに伴いユーザーが作成したシナリオの登録数も急速に増加した。 「Adventurer's GUILD」には大量のシナリオが登録されるようになり、実力派と呼ばれるようになるシナリオ作者達も多く現れた。 その一方で、「Adventurer's GUILD」に投稿されるシナリオの完成度には大きな開きができ、まさに玉石混交といった様となり混迷を極めた。 また、あまりの投稿数の増加にgroupAskによる手作業での登録作業では追いつかなくなり、一時は「Adventurer's GUILD」が機能しなくなるなどの弊害も見られた。 (その後、公式サイトの移転と同時に「Adventurer's GUILD」をはじめとするユーザー情報の登録作業はすべて半自動化された)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "この頃はCardWirthを取り扱うユーザーズサイトも次々に開設され、オフ会などの動きも含めユーザー間による交流が最も多く見られた時期でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "シナリオの投稿数が増えたことはユーザーにとっては歓迎すべき事態であると同時に、氾濫するシナリオを持て余し、自己にとってより良質のシナリオだけを求めるユーザー層(悪く言えばDOMユーザー)も増やす結果となっていった。 その流れを象徴するかのように、それまで何度かに渡って物議を醸してきた「シナリオ作者としてのユーザーの視点」と「プレイヤーとしてのユーザーの視点」のずれ、すなわちシナリオの評価についての是非が再び持ち上がる。 評価を是とするこの時の動きはそれまで以上に大きなものとなった為、シナリオ作者を中心とした多くのユーザー層からの不満や不信、反発といったものを招き、CardWirthコミュニティを二分するほどの勢いで意見の衝突を引き起こした。 当時コミュニティの中核をなしていたユーザーの多くがこれらの騒動に大なり小なり関わってきたことから、議論が平行線のまま収束する頃にはそういったユーザーも様々な理由で次第にコミュニティから遠のいていった。 急騰した人気が一段落したこともあり、ここからそれまでの賑わいが急速に収縮していくこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ユーザー数の減少はそのままCardWirthコミュニティ全体に響き、その後しばらくは低調が続くこととなる。中でも初期の頃から活躍し、それまでコミュニティの牽引役となっていたユーザーの多くが一線を退いたこと、そして開発元であるgroupAskにこの頃大きな動きが見られなかった事などが大きかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "もっとも、これはユーザー層が大きく入れ替わる、いわば転換期としての側面もあった。特にこの当時コミュニティにデビューしたユーザーには実力派のクリエイターが多くそろっていたことから、低迷が続くもののCardWirthの人気は持続することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また、公式サイトを離れた旧来からのユーザーの一部は、他方で個々のユーザーズサイトに分散して小規模なコミュニティを形成していく。 こういった新たなコミュニティは以降も地道に活動を続け、こちらもCardWirthコミュニティ全体を支えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2003年、ここにきてそれまで長らく動きがなく、公式サイトの運営も滞りがちとなっていたgroupAskにようやく動きが見られる。 一部ユーザーからの提言を受け、これまでgroupAskのみで行ってきた公式サイトの運営を有志のユーザーに任せることを決断。これにより同年6月、「Adventurer's GUILD」などのサポートが公式サイトから“公式ファンサイト”の「groupAsk official fansite」へ委譲された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "これ以降、ファン有志のコミュニティが共同でCardWirth全体を支えていくことになる。その後groupAsk official fansiteから最新バージョンのCardWirthが登場したこともあり、コミュニティ全体の動きが活発化した。 また新規ユーザーも引き続き増え続け(ただし、同じくらいには古くからのユーザーが減少してもいた)、良質のシナリオやリソースが安定して提供されていくようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "この時期になると、エンジンのバージョンが固定された状況が長く続いたこともあって、CardWirthを取り巻く状況はほぼ横ばいとなり大きな変動は見られなくなった。 ユーザーの動きとしては中心となるべき開かれたコミュニティの場が存在していなかったこともあり、多くのユーザーは個人単位で細々とした活動を行うか、自身が身を置く閉塞的コミュニティから出ずに活動するようになっていた。こうした動きからユーザーの入れ替わりが最も緩やかな時期だったと見る事ができる。 また、システム面での変遷が無かったことからユーザー単位での技術的成熟が図られた時期でもある。 この頃にクローンプロジェクトの一つであるCardWirthPyの開発が開始されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2012年、LynaによってCardWirthエンジンVer.1.28の機能拡張およびバグ修正ツールである「CardWirth Extender」が開発された。 これは長らく困難とされてきたCardWirthエンジン本体のリバースエンジニアリング(逆コンパイラによるソースコードの解析)の結果、実現されたものである。 このツールは同年3月にはgroupAsk official fansiteへ持ち込まれ、CardWirthエンジンへと組み込まれた。 この数日後には、多くのCardWirthユーザーにとって念願だった新バージョンであるVer.1.29として登場し、これをさらに改良したVer.1.30が同年10月にリリースされた。 2013年4月には、ソースコードを刷新して開発されたクローンエンジンであるVer.1.50が後継バージョンとして発表された。 その後、いわゆる私家版エンジンとしてCardWirthNextとCardWirthPyが相次いで公開されることとなる。 こうしたCardWirthエンジンの新バージョンを巡る動きに伴い、コミュニティの動きも再び活発化。 「Adventurer's GUILD」にも、引き続き新作シナリオが投稿されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "かつてCardWirthのユーザーは公式サイトを中心に一大コミュニティを形成していたが、ある時期を境にこの図式は徐々に崩壊していくこととなった。 その後は大手掲示板の創作系スレッドやいくつかのユーザーズサイトやmixiといったSNSサイトなどに分散する形で小規模なコミュニティが形成されていき、そうしたコミュニティに合流できていないユーザー同士の繋がりは一時期かなり希薄になり、それがコミュニティ全体の弱体化につながっている部分もあった。 今日ではTwitterによって既存ユーザー・新規ユーザーの区別なくつながりが生まれていくという新たなコミュニティのスタイルが形成されつつある。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "CardWirth用のシナリオエディタは非常に扱いやすいため、操作方法の習熟にそれほどの時間を要しない。そのため、シナリオ(ストーリー)のアイデアさえ持っていれば、誰にでも簡単にシナリオを作ることができる。 そうしたこともあって、CardWirthコミュニティには非常に多くのシナリオ作者が存在し、また彼らの創作したシナリオの数は実に1000を超えるとされる。(現在は入手できなくなっているものも多く存在し、また最新の資料も存在しないため正確な数は不明)", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "CardWirthで使用する画像は、主に画面(シナリオの場面)の背景となる写真やCGといったJPEG画像、そして本作品において最も重要な要素となる「カード」の絵柄として使用される74*94ピクセルのBMPあるいはPNG画像とがある。 背景画像については一般的なリソースがそのまま流用可能であるが、カード画像として使用する画像はサイズが特殊な大きさのため、基本的に専用の素材が必要となる。もっともカード画像についてはgroupAskをはじめ、古くから大勢のユーザーが多数提供してきたために不足はない。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "カード画像は当初BMP形式しか使えず、また初期の頃はインターネットを取り巻く通信環境が脆弱だったこともあって、容量の関係から16色形式のドット絵が主流で、多くのドッター(ドット絵の作者)達がその技術を発揮した。 その後ネットワークもブロードバンド化が進み、容量を気にする必要もなくなってきたことから、フルカラーのイラストを256色形式に減色したリソースを提供する作者が増えた。 今ではエンジンの機能向上によりPNG形式にも対応し、容量を抑えながらフルカラーや半透明といったカード画像も使用可能になった。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "一方背景画像を提供する作者も少なくなく、そういった中でクォータービュー形式の画像を張り合わせて背景を作り出す「Qubes」という独自の規格も考案されたりした。(Qubesについては普及こそしなかったが、groupAskがCardWirthEditorでこの規格をサポートしている)", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "CardWirthで使用する音は、BGMと効果音とに分かれる。 当初のシステムではBGMではMIDIが、効果音ではWAVが用いられていたが、エンジンの機能向上とともにサウンドフォントの組込が可能となったり、利用可能なデータ形式としてMP3が加わるなど環境は大きく様変わりした。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "効果音の制作は技術を要することもあってCardWirthコミュニティからはあまり提供されていないが、BGMに使われるMIDIについてはかつてそれなりの数の作者が存在していた。 CardWirthコミュニティを中心に活動していたMIDIファイルの作者に共通して見られた傾向として、オリジナリティの高い楽曲を数多く提供していたという特色があった。 当時はMIDIの作者によるコミュニティが形成されるほどの盛り上がりも見せたが、DTMの中心がMIDIからMP3に移行するという世間の流れもあり、現在はそうした活動はほとんど見られなくなってきている。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ここでいうプレイヤーとは、シナリオやリソースなどの創作活動そのものを行ってはいないもののCardWirthに関与することで得た自らの見識を何らかの形式で他者に提供する、あるいは何らかのコミュニティ活動に参画し、他のユーザーに影響力を与えている存在のことを指す。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "冒頭で触れたようにCardWirthは作者とユーザーが多対多で存在するコミュニティのため、こうした存在が創作活動を行っている層の下支えとなることも多い。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "CardWirthのユーザーであれば誰でも参加でき、また利用することが可能なユーザー同士の集まり、あるいはその場所。 参加資格に特に制限のない企画サイトなどもこれに含まれる。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "シナリオ作者のために設けられた「CardWirth ScenarioWriter's Community」(通称「しなさくコム」)、CardWirthに関するイラストを楽しもうという目的で設けられた「Card Illustrations Board」(通称「イラボ」)など、かつてその多くは何らかの目的別に設けられていた。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "一般的なコミュニティに対し、一部の関係者だけが集い、それにより形成されるコミュニティ。 もっとも、これらのコミュニティであっても何らかの対外的な措置(例えばパスワードがなければ閲覧できないなどの制限)が設けられていることはほとんどなく、結果として閉塞的になっているだけのことが多い。こうした集まりはどこにでも存在し、またその規模・趣旨・目的といったものが千差万別であり、さらにはその性質上統計などもなく、はっきりとしたことは言えない。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "たとえ実際は門戸の開かれたコミュニティであったとしても、何も知らないユーザーがこれらのコミュニティに新たに加わることは容易ではない。 ただし関係者しか集まらないということもあってか、一部の集まりではCardWirthコミュニティ全体の現状からでは想像できないほどの勢いを持っている。 代表的なものとしてはmixiのCardWirth関連のコミュニティ、あるいは2ちゃんねるの一部のスレッドなど。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ただ、公式側の開発の停滞などから閉塞的なコミュニティで開発された技術が、(コミュニティの存在を伏せた形で)一般的なコミュニティに紹介されるなどの動きも出ている。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "Twitterでは特にコミュニティの存在・形成を意識することなく、ユーザーがCardWirthに関わる発言を行う、あるいは周囲の発言を拾う事によって自然とつながりが生まれていく。 こうしたことから、近年はTwitterからCardWirthコミュニティあるいはCardWirthそのものに触れるユーザーが増えてきている。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "Twitterでは情報の即応性や拡散力はきわめて高いものの、半面まとまった情報が得にくく簡単に埋没してしまうという特徴があるため、ユーザー同士のつながりは容易に形成できるようなったが継続的な情報共有はこれまで以上に困難なものとなってしまっている。", "title": "ユーザーとコミュニティ" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "CardWirthがここまで有名になったのは、1999年から2000年頃にかけてフリーウェアを掲載する書籍やウェブサイトなどで大なり小なり紹介されたことに起因する。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ここでは、現在に至るまでの間に特に目立った動きについて取り上げる。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "株式会社アスキー(現エンターブレイン)の出版していた雑誌「テックウィン」において、過去に何度か数ページに渡っての特集が組まれたことがある。 また同誌ではそれ以外の号においてもほぼ毎回のようにCardWirth本体またはシナリオを掲載しており、この雑誌からCardWirthを知ったというユーザーも少なくなかった。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "CardWirthはフリーウェアのゲームとしては珍しく、2000年5月に公式ガイドブックがムック形式で発売されている(「I/O別冊 カードワース公式ガイドブック」ISBN 978-4-87593-832-3)。発行元は工学社。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ゲーム本体およびエディタ、CardWirthの世界観(今で言うところの「ファンタジーI型」について)の紹介はもちろん、groupAskの制作したシナリオ「教会の妖姫」を元にして描かれたオリジナル小説を掲載し、シナリオ作成講座の解説も行っている。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "本書にはいくつかのシナリオも収録されているが、これは当初「Adventurer's GUILD」に公開されていたほぼすべてのシナリオを網羅する目玉企画となる予定であったとされている。 しかし実際には各シナリオ作者への収録許諾に関する手回しに不手際があったため、誌面で紹介されているシナリオですらいくつか収録できていない。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "またこの不手際に関しては、工学社側の事務手続きが収録作品に対してシナリオ作者への許諾のみに終わり、シナリオで使用しているリソースの作者に対する問い合わせが不十分だったこと、さらにこの件における編集者からの回答に多くのユーザーが納得できなかったこともあって、一連の工学社側の対応を反面教師とする向きが後のCardWirthコミュニティでの著作権に関する意識向上のきっかけとなった。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "なお、このガイドブックは工学社にもすでに在庫がなく、また流通している可能性もほぼ皆無であることから現在は入手が困難である。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2002年11月まで株式会社アスキーが運営していたエンターテインメントコンテンツの配信サイト「enban.net(エンバンネット)」において、有償(月額500円)コンテンツである「週刊ゲームズ」を通じて、CardWirthのシナリオが毎週配信されていた。 「週刊ゲームズ」は曜日毎に7種類のゲームを提供するという内容で、金曜日には「カードワースの森」というコンテンツが用意された。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "現在、このサービスは終了しただけでなく、サイト自体も閉鎖しており、これらのコンテンツもそれとともに事実上入手できなくなっている。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "groupAskでは「ユーザーは作成したシナリオを有料で配布しても構わない」としているが、実際に有料で配布されたシナリオはここでの他に類を見ない。これは過去にカードワースのシナリオをシェアウェアにすることについての是非が議論された際、反対意見が圧倒的多数を占めたことにもよる。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "オンラインソフトウェアのダウンロードなどを手がけている株式会社ベクターのサイトでは、「RPG」のジャンル(「ダウンロード」>「Windows」>「ゲーム」>「RPG」)の一つとして「マルチシナリオRPG CardWirth」という項目が設けられている。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "シナリオ作者が自作のCardWirthのシナリオを「Adventurer's GUILD」に登録するためには、自身が完成したファイルをインターネット上のどこかにアップロードする必要があったが、CardWirthが急速に普及した頃はまだそのような場が十分にはなく、またそもそも具体的にはどの様にすれば良いのか解らないというユーザーも多かった。そこでもっとも手軽な方法として、ベクターのサイトに「フリーウェア」として登録するという手法が確立された。そのため、ベクターには別項目を用意しなければならないほど数多くのCardWirthシナリオが登録されている。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "インターネット上で参加者を募り、創作物を収録した作品集「CardWirthParty」を制作した。主にCardWirthのシナリオを題材としたイラストが収録されているが、アレンジ楽曲やオリジナルのシナリオが含まれることもある。8タイトルが制作され、1作目のみ有償で販売されたが、以降の作品は無料で頒布されている。また現在では全てのタイトルが先述のベクターよりダウンロードすることができる。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2008年12月のコミックマーケット75を最後に「同人イベントへの参加」の無期停止(実質終了)、また2010年10月には無期限の活動停止を公式サイトで発表した。しかし2012年8月のコミックマーケット82には参加しており、活動再開の可能性もある。", "title": "メディアの動き" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "2013年に同人サークルEGOTEXによってCardWirthPartyと同様に有志メンバーによって制作された「CardWirth Carnival! 01」が頒布された。続き同02~05までが2018年までに頒布されている。01、03についてはベクターでその一部コンテンツをダウンロードすることができる。", "title": "メディアの動き" } ]
CardWirth(カードワース、略称「CW」)は「groupAsk」が開発したWindows上で動作するフリーウェアのコンピュータRPGである。 2000年頃にブームを迎え、一大コミュニティを形成しメディアから頻繁に取り上げられていた時期もあったが、その後はブームも去りおよそ10年ほど比較的小規模な状態で落ち着いていた。2013年頃から再び盛り上がりを見せはじめ、登場から20年以上が経過した2022年現在もユーザーによるシナリオの作成・公開などが活発に行われている。 なお開発者のgroupAskはCardWirthの開発や運営から既に退いており、その役割はユーザーサイドに委ねられている。
{{一次資料|date=2019-04-02}} {{コンピュータゲーム |Title=CardWirth |Genre=[[ロールプレイングゲーム]] |Plat=PC ([[Microsoft Windows|Windows]]) |Dev=groupAsk |Pub=Version.1.20:同上<br />Version.1.50:カードワース愛護協会 |Ver=1.20:groupAskによる最終版<br />1.50:カードワース愛護協会による最新版 |Play=1人 |Media=[[ダウンロードゲーム|ダウンロード]] |Date=[[1998年]][[8月18日]] |Device=[[マウス (コンピュータ)|マウス]]または[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]] |Spec=[[Microsoft Windows 95]] / [[Microsoft Windows NT|NT 4.0]] 以降<br />[[Pentium]]120 Mhz以上<br />[[記憶装置|メモリ]]32[[メガバイト|MB]]以上推奨<br />[[画面解像度|800x600 ピクセル]] 65536色以上 表示可能な[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]推奨 |etc=[[DirectX]]不要 }} '''CardWirth'''(カードワース、略称「CW」)は「groupAsk」が開発した[[Microsoft Windows|Windows]]上で動作する[[フリーウェア]]の[[コンピュータRPG]]である。 [[2000年]]頃にブームを迎え、一大コミュニティを形成し[[メディア (媒体)|メディア]]から頻繁に取り上げられていた時期もあったが、その後はブームも去りおよそ10年ほど比較的小規模な状態で落ち着いていた。2013年頃から再び盛り上がりを見せはじめ、登場から20年以上が経過した[[2022年]]現在もユーザーによるシナリオの作成・公開などが活発に行われている。 なお開発者のgroupAskはCardWirthの開発や運営から既に退いており、その役割はユーザーサイドに委ねられている。 == 概要 == CardWirth(カードワース、略称「CW」)は、「groupAsk」(「[[#開発者と公式サイト|開発者と公式サイト]]」の項にて後述)によって開発され、[[1998年]]8月にインターネット上で公開された。公式サイトに記述された紹介文によると「CardWirthはTRPG([[テーブルトークRPG]])の自由度と、[[カードゲーム]]の遊び易さを融合した、新しい形態のRPG」とされている。自由に移動できるフィールドを持たない、画面内に配置されたカードをクリック(選択)することでゲームを進行させていく、[[キャラクター]]の能力値のほとんどが隠蔽されている、戦闘システムがカードバトルになっているなどの独特のゲームシステムが特徴である。そのプレイ感覚は[[コンピュータゲーム]]に当てはめて例えた場合、どちらかといえばRPGよりも[[アドベンチャーゲーム]] (AVG) や[[サウンドノベル]]に近い。 多くのRPGと異なり基本的に固定されたストーリーを持たず、「シナリオ」と呼ばれる外部データをユーザーが追加してプレイする形式が採られている。シナリオについては、CardWirthが[[テーブルトークRPG|TRPG]]を意識しているだけあって、特定のシナリオをプレイすることによって以降連鎖的にプレイ可能となる[[キャンペーン (TRPG)|キャンペーンシナリオ]]形式にも対応している。 CardWirth本体はシナリオを読み込み、動作させるためのエンジンとなっている。 またこのエンジンとは別にシナリオ作成用[[エディタ]]も公開されており、ユーザーの手によってシナリオを制作することが可能。 現在ではユーザーが作成したシナリオやCardWirthでの利用に適した各種の[[リソース]](画像、楽曲)が多数公開されている。 一般に人気[[フリーゲーム|フリーソフトゲーム]]のコミュニティ形成は「作者」:「ユーザー」の関係が一対多であることが多いが、CardWirthは先述の通りユーザーが創作側に回ることも珍しくなく、多対多のコミュニティが形成された。 == 開発者と公式サイト == groupAskは当初から[[同人ゲーム]]の制作のみを目的としていたわけではなく、また制作した[[ソフトウェア]]を[[同人誌即売会]]で頒布していない事からも、狭義における[[同人サークル]]とはスタンスの異なる同人集団である。 かつてgroupAskの公式[[ウェブサイト|サイト]]に「groupAskは[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]という[[仮想世界]]に存在する[[ソフトウェア]][[開発]][[集団|グループ]]であり主に[[Microsoft Windows|Windows]]の[[ソフトウェア]]の制作を行っている」という主旨の一文を掲載していたことからも、その事がうかがい知れる。 もっとも、結果として[[同人ゲーム]]であるCardWirth以外の[[ソフトウェア]]を[[開発]]するまでには至らなかった。 groupAskのメンバーは斉藤・倉貫・赤塚の3名。groupAskの「Ask」とは、groupAskのメンバーでありCardWirthを開発したメンバーでもあるこの3名の頭文字から名付けられた。この3名は当時[[大学]]の研究室で一緒に作業をしており、斉藤が年長で、倉貫と赤塚が一年後輩にあたる。 開発時には[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の大半を倉貫が、音楽を赤塚が担当し、[[グラフィック]]とシナリオの数多くを斉藤が手がけている。 CardWirthが[[インターネット]]上で公開されるようになってからは主に倉貫が公式[[ウェブサイト|サイト]]の運営作業に当たる。その役割はサイト情報の更新に加え、ユーザー間の交流を目的に設置された各種[[コンテンツ]]の管理、そしてユーザーが制作したシナリオを投稿できる「Adventurer's GUILD」(通称「ギルド」)と称されるサイトの運営であった。 もっとも、現在は3名とも社会人として多忙な日々を送っているため、こうしたCardWirthの開発・公式[[ウェブサイト|サイト]]の運営作業からは退く。 現在はgroupAskから正式に[[委託]]を受けた"CardWirthを愛する有志によって結成された団体"である「カードワース愛護協会」によって運営される公式[[ファンサイト]]、「groupAsk official fansite」がその機能を引き継いでいる。<ref name="名前なし-1">(参考資料:[[ファンサイト]]「CardWirth Anthology」の[[コンテンツ]]「CWエッセイ」第8回・第43回・第44回)</ref>。 === 開発よもやま === ==== 開発経緯 ==== 開発当初、CardWirthはProject_RPG3という開発名で呼ばれていた。 斉藤が開発し始めたゲーム[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の3つ目の意味で、[[Microsoft Windows|Windows]][[オペレーティングシステム|プラットフォーム]]で開発されたのはこれが最初のもの。 本人の談によると、当初は10分くらいで終了するブリキの玩具のようなものが想定されており、[[インターネット]]上で公開するつもりもなかったという。 後に倉貫・赤塚の両名が開発に加わり、この[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]が本格的なゲームとしての具体性を帯びることになった事から、CardWirthは世に登場した<ref name="名前なし-1"/>。 ==== タイトルの由来 ==== CardWirthという名称、とりわけWirthという単語については、groupAskによる公式見解が存在しておらず名称の由来は不明である。 "数日間悩んだ末、どこからか出た言葉"という赤塚の発言<ref>(出典:CWエッセイ第8回「~カードワースの夜明け~」)</ref>などもあるが、groupAsk名義で正式に定義されたことは無い。 ユーザーの間でも過去に幾度かの考察がなされ、古くはWirthとは伝説や伝承を意味する言葉であり「札伝説」という意味である<ref>(出展:「CardWirth Users'Network」[[1999年]]7月24日7時48分のアムリタの発言)</ref>というものが、後にはWirthは英語の古語で「自分で商売を営んでいる人」、転じて「宿屋の主人」を意味する<ref>(出典:「CardWirthUsers'Network」[[2001年]]3月9日7時17分のmishikaの発言)</ref>というものが定説となった。 == システム構成 == CardWirthの[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]には先述の通り、本体となるシナリオ動作エンジン(CardWirth本体)とシナリオ作成用[[エディタ]] (CardWirthEditor等) が存在する。 (配布は[[エンジン]]単体・あるいは両者をパッケージングした形態で行われているので必ずしも[[エディタ]]がシステムに含まれるわけではない) これに[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]]の各種リソース、データ、そしてユーザーが各自で追加したシナリオ群によって構成される。 配布されているバージョンやパッケージング形態によっては後述する「エフェクトブースター」などが含まれていることもある。 === 動作環境 === CardWirthは設計された時期や開発[[概念|コンセプト]]の関係上、[[DirectX]]等の複雑な描画・音響エフェクトは使用されておらず、基本的にそれほど高いスペックは要求されない([[Microsoft Windows 95|Windows 95]]以上が動くパソコンであれば問題はない)。 そのこともあり、[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]以降の環境に十分に対応できていない状況が一時期続いていた。 最新のバージョンではこの点は解消されているが、半面、描画・音響共に機能が向上していることもあって快適に動作させるためにはそれなりのスペックが必要となっている。(動作環境はCPUは1GHz以上、[[記憶装置|メモリ]]は32ビット[[オペレーティングシステム|OS]]で1[[ギガバイト|GB]]以上・64ビット[[オペレーティングシステム|OS]]では2[[ギガバイト|GB]]以上に改められている) === エンジン === CardWirthEditorで制作したシナリオを動作させる、CardWirthの本体部分(エンジン)。 この[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]単体でゲームを起動することが可能。 ==== CardWirth ==== 純正またはその派生エンジンは公開されて以来いくつかのバージョンが存在するが、大きく分けて以下の三つの系列が存在する。 *groupAskが現在も配布しているVer.1.20と、それ以前のバージョン *groupAsk official fansiteが未完成の状態の新エンジンをgroupAskから譲り受け、公開可能な状態にまで引き上げたVer.1.28と、その改良エンジンであるVer.1.30までのもの *groupAskが制作したこれまでのソースコードを破棄し、新たに作り直したエンジンを採用したVer.1.50 これらのうち、現在は最新版にあたるVer.1.50が主流となっている。 この3つのエンジン間には動作や処理、仕様といったものに若干の差異があり、シナリオのつくりや作成年次によっては動作に完全な互換性がないこともある。(中にはシナリオの進行に支障をきたすこともある) ==== CardWirthNext ==== CardWirthNextは、CardWirthエンジンVer.1.50を開発したLynaが手がける、派生エンジンの一つ。 元はCardWirthエンジンVer.1.60として公開される予定であったが、完成直前にLynaが所属していたgroupAsk official fansiteから脱退したことで非公式エンジン扱いとなった。(そのため現在もこのエンジンのタイトルは「CardWirth Ver.1.60」となっている) このCardWirthNextという名称は、当初はソースコードを刷新したCardWirthエンジンのことを指しており、一時期はその嚆矢となるCardWirthエンジンVer.1.50もこれに含まれていたが、現在では公式エンジンとの区別を明確にする意味合いもあって、その定義で用いられることはほとんどない。 CardWirthエンジンVer.1.50をベースにしているため基本となる部分はそれほど変わらないが、CardWirthエンジンにはない独自の機能が多数実装されている。 またCardWirthエンジンに対し上位互換であるため、CardWirthエンジンのデータをそのまま利用できる。 ただし、Nextエンジン及び後述するWirthBuilderから生成されるデータは独自形式となるため、一度変換してしまうとそれらは他のCardwirthエンジンとの互換性は一切なくなり、また各種のツール類を利用することも同様にできなくなる。2015年で開発停止となった。 ==== CWI ==== CWIは、クローンエンジン開発プロジェクトの一つ。 CardWirthユーザーの一人であるThomasによって開発され、[[C_Sharp|C#]]によって記述された独自の互換エンジンを持つ。 現在は開発停止しているが、ソースコードが公開されているため、派生プロジェクトやこのエンジンを利用したツールなどが発表されている。 同時にシナリオデータの仕様についても独自の解析結果を公表しており、後述のCardWirthPyでもその成果が利用されている。 ==== CardWirthPy ==== CardWirthPyは、クローンエンジン開発プロジェクトの一つ。 2020年4月時点で唯一開発が継続されているエンジンである。 [[Python|プログラム言語「Python」]]によって一から開発された独自の互換エンジンを用いており、「[[FLOSS|フリー・オープンソースの維持]]」「CardWirthとの99%の互換性を目指す」を標榜している。 [[オープンソースソフトウェア|オープンソース]]であるため、プロジェクトへの参加やコードの変更は誰でも認められている。 「CardWirthとの99%の互換性を目指す」のCardWirthとは、Ver.1.20からVer.1.50までのCardWirthエンジンおよび後述のバリアント仕様に改修されたエンジンを指しており、これらと双方向での互換性を持っている。 一方で独自の拡張機能を多数備えており、シナリオのデータ形式を[[Extensible Markup Language|XML]]によって記述されるCardWirthPy独自の形式のものにすることで、そうした機能を利用することもできる。 前述の通りCardWirthNextのデータ形式を利用することはできないため、CardWirthNextとの互換性までは考慮されていないが、CardWirthPyの拡張機能にはCardWirthNextの独自機能と同等の機能を持ったものも一部存在する。 === エディタ === CardWirthエンジンで動作させるためのシナリオを制作する[[エディタ]]ツール。 ==== CardWirthEditor ==== groupAskが配布している「CardWirthEditor」と、CardWirth Ver.1.28の仕様に合わせて軽微な改造を施してgroupAsk official fansiteがかつて配布していた「CardWirthEditor2」が存在するが、基本的に同一のものである。 多くのエディタが[[スクリプト言語|スクリプト]]での記述を必要とするのに対し、CardWirthEditorは[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]として完全な[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を備えており、全くの初心者であっても容易に扱えるのが特徴。 その一方で、コンテントと呼ばれる[[アイコン]]化された一連の処理の並びが一般的な[[プログラミング言語]]の[[ソースコード]]とそれほど変わらないため、昨今用いられるプログラミング言語([[Perl]]や[[Java]]など)による開発に慣れているユーザーも直感的に扱えるという、非常に優れた開発ツールとしての一面も持つ。 ただし、あくまでもCardWirth用に作られたシナリオ[[エディタ]]に過ぎないので、高度な[[プログラミング (コンピュータ)|プログラミング]]にまで対応しているわけではない。 もっとも、多少複雑な処理を組み込むにしてもシナリオを制作する上で困ることはほとんどない。 少なくとも[[サウンドノベル]]のような形式のシナリオを作るのであれば、基本的なコンテントをいくつか覚えるだけですぐにでも思い通りの物を制作することが出来る。 なおCardWirthEditorを長時間起動していると[[主記憶装置|メモリ]]の使用量が増加していくという問題点(おそらく[[メモリリーク]])が確認されている。 ==== WirthBuilder ==== CardWirthEditorの後継として開発されたシナリオ制作[[エディタ]]で、CardWirthエンジンVer.1.29以降に追加された機能をシナリオに盛り込むためにはこちらのツールを使う必要がある。 ユーザインタフェースはCardWirthEditorを踏襲しており、旧来からのユーザーでも違和感なく操作できるようになっている。 CardWirth Ver.1.50 フルパックではCardWirthEditorを完全に廃してこちらだけが同梱されるようになった。 また、前述のCardWirthNextに同梱されているシナリオ制作[[エディタ]]も、(CardWirthNext専用版となってはいるが)このWirthBuilderである。 CardWirthエンジンVer.1.50用のものと見た目や使用感はほぼ同じであるが、前述の通りこの[[エディタ]]を介して出力されたシナリオのデータは新規・既存を問わずこれまでと異なる専用の形式で保存されるため、他のエディタ(プロジェクト)では利用できなくなる。 ==== CWXEditor ==== 元は前述のCardWirthPy専用のシナリオ制作[[エディタ]]として、CardWirthPy本体とは別のプロジェクトにより開発されたシナリオ制作[[エディタ]]であったが、後にCardWirthエンジン用のシナリオも取り扱う機能が実装された。 これにより、CWXEditorを使用することでどちらの形式のシナリオも作成することが可能となっている。 CardWirthエンジン用の形式でシナリオを作成した場合、CardWirthEditorおよびCardWirthエンジンVer.1.50用のWirthBuilderで作られたシナリオデータと完全な互換性があり、相互で利用可能となっている。 CardWirthPy専用のシナリオ形式でシナリオを作成した場合、CWXEditor以外で編集することはできない。 また、前述の通りCardWirthNext用のWirthBuilderで作られたシナリオは独自形式で保存されるためCWXEditorで編集することは出来ず、CardWirthNextの機能を使ったシナリオをCWXEditorによって制作することも出来ない。 非常に強力な各種シナリオ制作支援機能が搭載されているが、多機能すぎることやユーザインタフェースがCardWirthEditorと全く異なる事などから、旧来からのユーザーも含めて扱いにはそれなりの習熟が必要となる。 === 同梱ツール === CardWirth本体に付属する(あるいはしていた)[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]。 ==== CardWirthUtility ==== Ver.1.15にまで存在していた、CardWirthのプレイ時の各種データに対して修正や編集を行うためのユーティリティソフト。 Ver.1.20からはエンジンにその機能の大半が譲られる形となり廃止されている。 しかしこのプログラムには引退した[[プレイヤーキャラクター]]の具体的な数値データを見ることが出来るという、現在のエンジンにはない大きな特徴があった。 ==== エフェクトブースター ==== groupAsk official fansiteによって一から開発されたもの。 これは単体のソフトウェアの名称ではなく、CardWirth Ver.1.20で[[JPEG]]ファイルを読み込むために作られた[[ダイナミックリンクライブラリ|DLL]]ファイルを拡張し、画像エフェクト処理の再生機能を追加したものを利用した技術と、その関連[[ソフトウェア]]の総称である。 この技術を利用することでCardWirthに様々な画像エフェクト機能を追加できるようになるが、CardWirth単体とは異なり使用時の再生[[パフォーマンス]]は[[ハードウェア]]の[[性能]]に大きく依存する。 関連[[ソフトウェア]]群の使い勝手がCardWirthEditorほど良くなく、またヘルプ群が不足していた(リファレンスですら説明が不十分である)点からあまり普及せず、一部の[[ヘビーユーザー]]が使用するにとどまった。 元々は開発者が試作ツールとして開発を進めていたものであり、一般に公開する予定がなかったという。 CardWirthVer.1.50では上記の[[ダイナミックリンクライブラリ|DLL]]が使われていないことから、現在エフェクトブースターは同バージョンのパッケージ内に同梱されていない。 替わりにエンジンそのものに同様の機能が備えられており、既存のエフェクトの再生が可能。また一部機能に関してはWirthBuilder上からその設定が可能となっている。 ==== JPYメーカー ==== エフェクトブースター関連の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]としてかつて公開されていた開発ツール。 エフェクトブースターの機能は独自仕様の[[スクリプト言語]]によってパラメータをいくつか記述するだけで使用できたが、完全に[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]化されたCardWirthEditorに慣れ親しんでいたユーザーからすれば扱い難いという問題があった。 これを解消すべく後日このツールが公開されたが、エフェクトブースターの全機能が扱えない、また使い勝手の点でも洗練されているとは言えず、結局完成度が低いままに終わってしまった。 === シナリオ === シナリオは、実際には[[Microsoft Windows|Windows]]の1[[フォルダ]]としてパッケージングされたファイル群によって形成される。 その主な内容はシナリオのソースファイル、シナリオのデータファイル、そしてリソースファイル([[Windows bitmap|BMP]]・[[JPEG]]・[[Portable Network Graphics|PNG]]・[[MIDI]]・[[WAV]]・[[MP3]]・その他)となっている。 オリジナルのCardWirth本体には「交易都市リューン」「[[ゴブリン]]の洞窟」の2本があらかじめ収録されている(ただし、収録されている付属シナリオは後述する[[バリアント]]の種類によって違いがある)。 == 世界観 == 当初は、多くの[[ファンタジー]]作品に見られるような[[中世]][[ヨーロッパ]]を[[話題|モチーフ]]とした“[[剣]]と[[魔法]]の世界”がゲームの舞台として設定されていた。 もっとも、CardWirthはユーザーがシナリオを自由に制作できる上、開発者のgroupAskもユーザーに対してシナリオの制作に関して特に制約を課すことがなかったので、ゲームの舞台となる世界観は必ずしも固定されたものではなかった。 そのためシナリオによっては前述の世界観と大きくかけ離れた世界が舞台となる事もあり、[[銃器]]や[[活版印刷]]が当たり前のように普及している場合もあれば、それどころか[[科学技術]]によって[[宇宙]]に進出するようなことさえある。 後に"CardWirthをまったく違う世界観で楽しもう"というコンセプトから「[[バリアント]]」と呼ばれる、CardWirthのシステムに[[パッチ]]を当てた[[派生]]バージョンが誕生し、[[現代社会]]を舞台としたCardWirthなどが登場するようになった(なお、CardWirthにおけるバリアントとはこのように世界観そのものの変革を含めた意味となるため、CardWirthエンジン内のリソースファイルを変更しただけの改変プログラムはバリアントには該当しない)。 ただし、バリアントは現状あまり普及しているとはいえない。 これまでのところバリアント用エンジンはCardWirth Ver.1.28の実行ファイルを改変して作られているため、CardWirthNextでバリアント用に改造する手法は確立されていない。CardWirthPyではユーザーの手元にバリアント用エンジンがあれば、そちらのリソースを取り込むよう指定することで動作する。 === ファンタジーI型 === groupAskがCardWirthの世界観として用意したもので、[[バリアント]]ではなくオリジナルの世界観。 [[中世]][[ヨーロッパ]]の[[都市]]に似た「リューン」という名の街を中心に、子守から人探し・護衛・モンスター討伐・果ては世界の命運を掛けるような大[[冒険]]まで、さまざまな仕事の依頼を引き受ける[[冒険者]]達の活劇を描く。 プレイヤーは「[[冒険者]]の宿」に集まった、そんな[[冒険者]]達を駆ることで、それらの仕事を次々と引き受けていくことになる。 本来の意味での公式設定というものは一切存在しないが、CardWirth(ファンタジーI型)においてはgroupAskが制作したシナリオに登場するわずかな設定を「公式設定」と定義することがある。 そういった「公式設定」のほとんどがぼかされているのが特徴で、たとえば[[教会]]や神聖[[魔法]]が存在するのに[[神]]の定義が全く存在しなかったり、また舞台であるリューンにしても[[国家]]であるとは明言はされていない(ただし、[[王国]][[騎士団]]の存在から[[王国]]であるらしきことなどは窺える)。 リューンとその周辺のいくつかの[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[宗教]]・地理などの設定と、過去に[[超古代文明]]世界と[[古代]][[王国]]期が存在していたという歴史などが、わずかに垣間見える程度である。 この事から、各シナリオ作者は自作のシナリオにおいてそれらを自由に設定できると同時に、それらが公式設定たり得ることもない。 なお、「公式設定」はおろかユーザーズシナリオを含め全体を見ても、[[エルフ]]や[[ドワーフ]]といった有名どころの[[亜人]]があまり登場しないという[[王道]]的な[[ファンタジー]]世界としては特異な傾向が見られる。 === 現代バリアント・探偵 === [[バリアント]]システム第一弾として提唱元であるgroupAsk official fansiteがリリースした作品。 現代から近未来にかけての日本(?)を舞台としており、[[プレイヤーキャラクター]]も[[冒険者]]から[[探偵]]事務所に所属する[[探偵]]という立場に変わっている。 [[魔法]]の代わりとして[[超能力]]のようなものが一応存在している世界となっている。 この設定を世界観として公式にサポートしていることから、世界観が中途半端で解りにくいという批判もわずかながらに存在した。 === 現代バリアント・学園 === CardWirthユーザーの一人、「じぇんつ」が制作した[[バリアント]]システム。 現代日本(?)の巨大学園が舞台となっており、その近辺で巻き起こる日常・非日常な毎日をクラスメイトや先輩後輩、教師達と一緒になって送ることになる。 世界観の変更に合わせて全体的なゲームシステムおよびゲームバランスの見直しが行われており、単純な世界観のすげ替えだけにとどまらず、既存のシステムと世界観を上手く融合させて新たな解釈を生み出した、[[バリアント]]企画の好例となった。 === 大江戸バリアント === CardWirthの閉塞コミュニティ([[#ユーザーとコミュニティ|「ユーザーとコミュニティ」]]の項にて後述)の一つで開発が進められてきた[[バリアント]]システム。 架空の東方国家「日の本」が舞台となっており、[[プレイヤーキャラクター]]は[[長屋]]を拠点とする「仕事人」(この世界における[[冒険者]])という設定。 [[江戸]]という響きから[[時代劇]]的な世界観を想定しがちだが、実際はファンタジーI型同様に細部はそれほど決められておらず、やはり各作者の裁量によって世界観をある程度変化させることが可能。 実際、このバリアントシステムに同梱されているシナリオ「狸の住まう穴」の内容は正統派[[時代劇]]とは無縁の[[妖怪]]退治となっている。 このことから[[江戸]]というよりは[[和風]]ファンタジー全般を扱っているとみた方が早い。 同じ様に多様性を取り入れた現代バリアント・探偵に比べ、単純にこれまでファンタジーI型で行ってきたことを[[和風]]なものに置き換えさえすればよいという利点があり、創作は行いやすい。 === その他のバリアント === 上記以外にも人獣・悪鬼・蜥蜴・妖樹・悪魔など複数種族の妖魔が共棲する[[森林|森]]での日々を描く妖魔バリアント、[[城]]で永い眠りから目覚めた黒曜・紅玉・黄金・白銀の4血族の吸血鬼達の冒険を描く吸血鬼バリアントなど[[バリアント]]システムの作例がこれまでにいくつか存在するが、閉塞されたコミュニティ([[#ユーザーとコミュニティ|「ユーザーとコミュニティ」]]の項にて後述)内で確認されている程度でこれまでのところ広く認識されているものはない。 == ゲームの主な流れ == ここではオリジナルの世界観であるファンタジーI型を基準にするが、流れそのものは基本的に他の[[バリアント]]システムでもほぼ同様である。 === 冒険の準備 === ゲームを初めてプレイする際にはまず[[冒険者]]達の所属する、[[冒険者]]の宿を作成することから始まる。 以後、[[プレイヤー (ゲーム)|プレイヤー]]はこの宿で冒険者の登録やパーティ編成などを行うことが出来る。 手始めに、まずはこの宿に所属する[[冒険者]]の登録作業([[プレイヤーキャラクター]]の作成)を行うこととなる。 [[冒険者]]については名前や外見、性別や年代に加え能力の傾向と特徴を自由に設定可能。 一度の冒険(シナリオ)に投入できる1[[プレイヤーキャラクター|パーティ]](チーム)の人数は最大で6人までだが、宿自体に登録できる[[冒険者]]の数に上限はない。 また、ある[[冒険者]]パーティでの[[冒険]]の最中でも「中断」することで他のメンバーを別の[[冒険]]に向かわせてプレイすることが可能。 === 装備を整える === シナリオの内容は必ずしも[[冒険]](仕事)ばかりとは限らない。 中には街や店で[[冒険者]]達が[[冒険]]の役に立つ[[武器]]や[[道具]]類である「アイテムカード」や、特技や[[魔法]]といった技術である「スキルカード」を購入するためのものも存在する。 購入したカードを[[冒険者]]達に持たせることによって、それらの「カード」を[[冒険]]中に活用することが可能になる。 一人が所持出来るカードの枚数はその冒険者の実力(いわゆる[[レベル (ロールプレイングゲーム)|レベル]])に応じて増加する。 CardWirthには一般的な[[コンピュータRPG]]によく見られる[[キャラクタークラス|職業(クラス)]]という概念はないので、[[ゲーム]]中の有利不利さえ気にしなければ[[冒険者]]の能力値の傾向と異なるカード、例えば豪傑タイプの[[キャラクター]]であっても[[魔法]]を所持することが可能。なお、CardWirthでは一般的な[[武器]]や[[防具]]といったものは各自あらかじめ装備しているものとみなされているため、それらを用意する必要はない。 === 依頼を受ける === 全てのシナリオで共通しているわけではないが、基本的に[[冒険者]]は[[冒険]]者の宿で「仕事」の依頼を宿の主人あるいは依頼主から直接話を聞いた上で請け負い、出発するところからシナリオはスタートすることになる。 依頼の内容は千差万別であり、駆け出しでもこなせる簡単な仕事から非常に危険で困難なものまで幅広く存在する。(大まかな難易度は「対象レベル」として予め表示される) === 探索 === プレイヤー([[プレイヤーキャラクター]])が自由に行動を起こせるようになると、画面上にカードが表示される。 プレイヤーが[[マウスポインタ]]でカードを[[ポイント・アンド・クリック|クリック]]すると基本的に何らかの反応があり、それによりゲームが進行する。 多くの場合はメッセージが表示され最終的にいくつかの選択肢が出てくるのだが、時には冒険者の所持する「カード」を使って能動的に行動を取り、その後の展開を有利に進めたい場面も出てくるはずである。 (たとえば敵の見張りを[[魔法]]の力で無力化したい、明らかに怪しい場所を調査技能を使って徹底的に調べてみたい、など) このような場合は画面上に表示されているカードに対して[[冒険者]]が手持ちの「カード」を使用することで狙い通りの動作を実行できる事がある。(シナリオ側がプレイヤーのそういった行動に対応していなければならない)。 これは本作品の特徴のひとつで、「[[テーブルトークRPG|TRPG]]らしい」と言わしめる重要な要素となっている。 === 戦闘 === 時には[[冒険者]]達と敵対する存在との間で[[戦闘 (コンピュータゲーム)|戦闘]]が発生することもある。 戦闘自体は一般的な[[ターン (ゲーム)|ターン]]制だが、よく見られる[[メニュー (コンピュータ)|コマンド]]を入力する方式ではなくカードバトル方式となっている。それぞれの[[冒険者]]が手札として配布されたカードの中から適当と思われる一枚を選び、使用することで[[戦闘]]を進めていく。 (なお[[冒険者]]達のカードは毎[[ターン (ゲーム)|ターン]]自動的に選択されているが、プレイヤーが自由に選択することも出来る) 手札には「攻撃」や「防御」といった基本的な行動が取れるカードの他に、プレイヤーが事前に用意しておいた「アイテムカード」や「スキルカード」も加わることになる。 常に手札として用意されるアイテムカードを別にすると、手札として回ってこない行動を取ることは当然出来ない。 また[[冒険者]]達の[[レベル (ロールプレイングゲーム)|レベル]]が低いうちは手札の枚数も少なく、特殊なアイテムカードを所持していないとスキルカードもなかなか回ってこないなどカードバトルならではの特徴があり、それらを考慮した駆け引きが楽しめる。 なお[[冒険者]]は基本的に「意識不明」になっても死亡する事はなく、比較的容易に戦列に復帰することが出来るが、全員が戦闘不能となった時点で敗北となり、ほとんどの場合はそれで[[ゲームオーバー]]となる。(イベントが発生し、そのままシナリオが継続されることもある) === 任務完了~帰還 === 無事に依頼を果たせたかどうかは別にして、宿に生還することが出来ればシナリオは終了する。 多くの場合この時点で仕事に対する評定が行われ、成功報酬が支払われることになる。 [[冒険者]]達の名声は経歴として残り、それが成長につながったり(一定以上の名声を得ることで、[[レベル (ロールプレイングゲーム)|レベル]]が上がる)、またこの経歴が後の冒険につながることもある。([[キャンペーン (TRPG)|キャンペーンシナリオ]]の前提条件となる) その他に、[[冒険]]の最中で一時的に仲間が加わることがあるが、そういった人物を新たな[[冒険者]]として宿に迎え入れることが出来るのもCardWirthの特徴の一つとなっている。(こちらについてもシナリオ側の対応次第)。 == 歴史 == CardWirthは[[シリーズ (作品)|シリーズ]]化されていない単一の[[同人ゲーム]]としては非常に息が長いため、登場してから今日に至るまでの[[歴史]]を把握している者は今では非常に少なくなっている。 以下はCardWirth全体を取り巻く大まかな流れをまとめたものであるが、個々の出来事をより詳細に記録した文献として[[ファンサイト]]の一つである「拾穂文庫 {{Cite web|和書|url=https://chikuan.yokochou.com/history/_index_history.htm |title=CardWirth史年表 総目次 |date=March 27, 2019 |id=CWhistory |accessdate=2022年1月29日}} <ref>2013年までの文献に留められていることに留意</ref>」に「CardWirth史年表」というコンテンツが存在する。 === 黎明期(1998年頃) === CardWirthが公開されて間もないこの頃は当然ユーザー数も少なく、それに比例してシナリオやリソースもほとんど存在しなかった。 裏を返せば、この当時からCardWirthの持つ魅力に気付き、盛り上げていくことに尽力してきたユーザーが多く存在した時期と言える。 「ないものは作るしかない」、この発想からかこの頃のユーザーは一人のプレイヤーであると同時に自身が優秀な[[ゲームクリエイター|クリエイター]]でもあった。 「Adventurer's GUILD」への投稿数がまだそれほど多くなかったこの頃は、groupAskによって投稿シナリオ一つ一つに対し[[コメント]]が付けられていた。 また、極めて短期間ではあるがシナリオへの人気投票システムが稼動したこともあった。 しかし人気投票については[[フリーソフト]]の[[ゲーム]]に評価で優劣をつけるということに対し疑念を抱くシナリオ作者も多く、騒動の元となった。 その後、投票対象となるシナリオを登録制へと改められるなどの改良も行われたが、最終的には評価することの意義そのものが問われることになり、このシステムは廃止された。 この議論以降、「Adventurer's GUILD」でのシナリオの取り扱いは「シナリオの登録」のみとなり、評価に関する一切は無くなる。 === 最盛期(1999年~2000年頃) === [[メディア (媒体)|メディア]]でCardWirthが取り上げられる機会が多くなったこの頃、当時の[[インターネット]]事情とも相まってユーザーの総数が一気に増加し、それに伴いユーザーが作成したシナリオの登録数も急速に増加した。 「Adventurer's GUILD」には大量のシナリオが登録されるようになり、実力派と呼ばれるようになるシナリオ作者達も多く現れた。 その一方で、「Adventurer's GUILD」に投稿されるシナリオの完成度には大きな開きができ、まさに玉石混交といった様となり混迷を極めた。 また、あまりの投稿数の増加にgroupAskによる手作業での登録作業では追いつかなくなり、一時は「Adventurer's GUILD」が機能しなくなるなどの弊害も見られた。 (その後、公式サイトの移転と同時に「Adventurer's GUILD」をはじめとするユーザー情報の登録作業はすべて半自動化された) この頃はCardWirthを取り扱う[[ファンサイト|ユーザーズサイト]]も次々に開設され、[[オフラインミーティング|オフ会]]などの動きも含めユーザー間による交流が最も多く見られた時期でもあった。 === 減少期(2000年~2001年頃) === シナリオの投稿数が増えたことはユーザーにとっては歓迎すべき事態であると同時に、氾濫するシナリオを持て余し、自己にとってより良質のシナリオだけを求めるユーザー層(悪く言えば[[ダウンロードオンリーメンバー|DOMユーザー]])も増やす結果となっていった。 その流れを象徴するかのように、それまで何度かに渡って物議を醸してきた「シナリオ作者としてのユーザーの視点」と「プレイヤーとしてのユーザーの視点」のずれ、すなわちシナリオの評価についての是非が再び持ち上がる。 評価を是とするこの時の動きはそれまで以上に大きなものとなった為、シナリオ作者を中心とした多くのユーザー層からの不満や不信、反発といったものを招き、CardWirthコミュニティを二分するほどの勢いで意見の衝突を引き起こした。 当時コミュニティの中核をなしていたユーザーの多くがこれらの騒動に大なり小なり関わってきたことから、議論が平行線のまま収束する頃にはそういったユーザーも様々な理由で次第にコミュニティから遠のいていった。 急騰した人気が一段落したこともあり、ここからそれまでの賑わいが急速に収縮していくこととなる。 === 低迷期(2001年~2003年頃) === ユーザー数の減少はそのままCardWirthコミュニティ全体に響き、その後しばらくは低調が続くこととなる。中でも初期の頃から活躍し、それまでコミュニティの牽引役となっていたユーザーの多くが一線を退いたこと、そして開発元であるgroupAskにこの頃大きな動きが見られなかった事などが大きかった。 もっとも、これはユーザー層が大きく入れ替わる、いわば転換期としての側面もあった。特にこの当時コミュニティにデビューしたユーザーには実力派の[[クリエイター]]が多くそろっていたことから、低迷が続くもののCardWirthの人気は持続することとなった。 また、公式[[ウェブサイト|サイト]]を離れた旧来からのユーザーの一部は、他方で個々の[[ファンサイト|ユーザーズサイト]]に分散して小規模なコミュニティを形成していく。 こういった新たなコミュニティは以降も地道に活動を続け、こちらもCardWirthコミュニティ全体を支えた。 === 上昇期(2003年~2005年頃) === [[2003年]]、ここにきてそれまで長らく動きがなく、公式[[ウェブサイト|サイト]]の運営も滞りがちとなっていたgroupAskにようやく動きが見られる。 一部ユーザーからの提言を受け、これまでgroupAskのみで行ってきた公式サイトの運営を有志のユーザーに任せることを決断。これにより同年6月、「Adventurer's GUILD」などのサポートが公式サイトから“公式ファンサイト”の「groupAsk official fansite」へ委譲された。 これ以降、ファン有志のコミュニティが共同でCardWirth全体を支えていくことになる。その後groupAsk official fansiteから最新バージョンのCardWirthが登場したこともあり、コミュニティ全体の動きが活発化した。 また新規ユーザーも引き続き増え続け(ただし、同じくらいには古くからのユーザーが減少してもいた)、良質のシナリオやリソースが安定して提供されていくようになる。 === 安定期(2005年頃~2011年頃) === この時期になると、エンジンのバージョンが固定された状況が長く続いたこともあって、CardWirthを取り巻く状況はほぼ横ばいとなり大きな変動は見られなくなった。 ユーザーの動きとしては中心となるべき開かれたコミュニティの場が存在していなかったこともあり、多くのユーザーは個人単位で細々とした活動を行うか、自身が身を置く閉塞的コミュニティから出ずに活動するようになっていた。こうした動きからユーザーの入れ替わりが最も緩やかな時期だったと見る事ができる。 また、システム面での変遷が無かったことからユーザー単位での技術的成熟が図られた時期でもある。 この頃にクローンプロジェクトの一つであるCardWirthPyの開発が開始されている。 === 再開期(2011年頃~現在) === [[2012年]]、LynaによってCardWirthエンジンVer.1.28の機能拡張およびバグ修正ツールである「CardWirth Extender」が開発された。 これは長らく困難とされてきたCardWirthエンジン本体の[[リバースエンジニアリング]]([[逆コンパイラ]]によるソースコードの解析)の結果、実現されたものである。 このツールは同年3月にはgroupAsk official fansiteへ持ち込まれ、CardWirthエンジンへと組み込まれた。 この数日後には、多くのCardWirthユーザーにとって念願だった新バージョンであるVer.1.29として登場し、これをさらに改良したVer.1.30が同年10月にリリースされた。 [[2013年]]4月には、ソースコードを刷新して開発されたクローンエンジンであるVer.1.50が後継バージョンとして発表された。 その後、いわゆる私家版エンジンとしてCardWirthNextとCardWirthPyが相次いで公開されることとなる。 こうしたCardWirthエンジンの新バージョンを巡る動きに伴い、コミュニティの動きも再び活発化。 「Adventurer's GUILD」にも、引き続き新作シナリオが投稿されている。 == ユーザーとコミュニティ == かつてCardWirthのユーザーは公式[[ウェブサイト|サイト]]を中心に一大コミュニティを形成していたが、ある時期を境にこの図式は徐々に崩壊していくこととなった。 その後は大手掲示板の創作系[[スレッドフロート型掲示板|スレッド]]やいくつかの[[ファンサイト|ユーザーズサイト]]や[[mixi]]といった[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNSサイト]]などに分散する形で小規模なコミュニティが形成されていき、そうしたコミュニティに合流できていないユーザー同士の繋がりは一時期かなり希薄になり、それがコミュニティ全体の弱体化につながっている部分もあった。 今日では[[Twitter]]によって既存ユーザー・新規ユーザーの区別なくつながりが生まれていくという新たなコミュニティのスタイルが形成されつつある。 === ユーザー === ==== シナリオ作者 ==== CardWirth用のシナリオ[[エディタ]]は非常に扱いやすいため、操作方法の習熟にそれほどの時間を要しない。そのため、シナリオ([[ストーリー]])のアイデアさえ持っていれば、誰にでも簡単にシナリオを作ることができる。 そうしたこともあって、CardWirthコミュニティには非常に多くのシナリオ作者が存在し、また彼らの創作したシナリオの数は実に1000を超えるとされる。(現在は入手できなくなっているものも多く存在し、また最新の資料も存在しないため正確な数は不明) ==== リソース作者(画像) ==== CardWirthで使用する画像は、主に画面(シナリオの場面)の背景となる[[写真]]や[[コンピュータグラフィックス|CG]]といった[[JPEG]]画像、そして本作品において最も重要な要素となる「カード」の絵柄として使用される74*94[[ピクセル]]の[[Windows bitmap|BMP]]あるいは[[Portable Network Graphics|PNG]]画像とがある。 背景画像については一般的なリソースがそのまま流用可能であるが、カード画像として使用する画像はサイズが特殊な大きさのため、基本的に専用の素材が必要となる。もっともカード画像についてはgroupAskをはじめ、古くから大勢のユーザーが多数提供してきたために不足はない。 カード画像は当初[[Windows bitmap|BMP]]形式しか使えず、また初期の頃は[[インターネット]]を取り巻く通信環境が脆弱だったこともあって、容量の関係から16色形式の[[ドット絵]]が主流で、多くのドッター([[ドット絵]]の作者)達がその技術を発揮した。 その後[[ブロードバンドインターネット接続|ネットワークもブロードバンド化が進み]]、容量を気にする必要もなくなってきたことから、[[フルカラー]]の[[イラストレーション|イラスト]]を256色形式に減色したリソースを提供する作者が増えた。 今ではエンジンの機能向上により[[Portable Network Graphics|PNG]]形式にも対応し、容量を抑えながら[[フルカラー]]や[[アルファチャンネル|半透明]]といったカード画像も使用可能になった。 一方背景画像を提供する作者も少なくなく、そういった中で[[ビュー|クォータービュー]]形式の画像を張り合わせて背景を作り出す「Qubes」という独自の規格も考案されたりした。(Qubesについては普及こそしなかったが、groupAskがCardWirthEditorでこの規格をサポートしている) ==== リソース作者(音響) ==== CardWirthで使用する音は、[[背景音楽|BGM]]と[[効果音]]とに分かれる。 当初のシステムでは[[背景音楽|BGM]]では[[MIDI]]が、[[効果音]]では[[WAV]]が用いられていたが、エンジンの機能向上とともに[[SoundFont|サウンドフォント]]の組込が可能となったり、利用可能なデータ形式として[[MP3]]が加わるなど環境は大きく様変わりした。 [[効果音]]の制作は技術を要することもあってCardWirthコミュニティからはあまり提供されていないが、[[背景音楽|BGM]]に使われる[[MIDI]]についてはかつてそれなりの数の作者が存在していた。 CardWirthコミュニティを中心に活動していた[[MIDI]]ファイルの作者に共通して見られた傾向として、オリジナリティの高い楽曲を数多く提供していたという特色があった。 当時は[[MIDI]]の作者によるコミュニティが形成されるほどの盛り上がりも見せたが、[[デスクトップミュージック|DTM]]の中心が[[MIDI]]から[[MP3]]に移行するという世間の流れもあり、現在はそうした活動はほとんど見られなくなってきている。 ==== プレイヤー ==== ここでいうプレイヤーとは、シナリオやリソースなどの創作活動そのものを行ってはいないもののCardWirthに関与することで得た自らの見識を何らかの形式で他者に提供する、あるいは何らかのコミュニティ活動に参画し、他のユーザーに影響力を与えている存在のことを指す。 冒頭で触れたようにCardWirthは作者とユーザーが多対多で存在するコミュニティのため、こうした存在が創作活動を行っている層の下支えとなることも多い。 === コミュニティ === ==== 一般的なコミュニティ ==== CardWirthのユーザーであれば誰でも参加でき、また利用することが可能なユーザー同士の集まり、あるいはその場所。 参加資格に特に制限のない企画サイトなどもこれに含まれる。 シナリオ作者のために設けられた「CardWirth ScenarioWriter's Community」(通称「しなさくコム」)、CardWirthに関するイラストを楽しもうという目的で設けられた「Card Illustrations Board」(通称「イラボ」)など、かつてその多くは何らかの目的別に設けられていた。 ==== 閉塞的なコミュニティ ==== 一般的なコミュニティに対し、一部の関係者だけが集い、それにより形成されるコミュニティ。 もっとも、これらのコミュニティであっても何らかの対外的な措置(例えば[[パスワード]]がなければ[[閲覧]]できないなどの制限)が設けられていることはほとんどなく、結果として閉塞的になっているだけのことが多い。こうした集まりはどこにでも存在し、またその規模・趣旨・目的といったものが千差万別であり、さらにはその性質上[[統計]]などもなく、はっきりとしたことは言えない。 たとえ実際は門戸の開かれたコミュニティであったとしても、何も知らないユーザーがこれらのコミュニティに新たに加わることは容易ではない。 ただし関係者しか集まらないということもあってか、一部の集まりではCardWirthコミュニティ全体の現状からでは想像できないほどの勢いを持っている。 代表的なものとしては[[mixi]]のCardWirth関連のコミュニティ、あるいは[[2ちゃんねる]]の一部のスレッドなど。 ただ、公式側の開発の停滞などから閉塞的なコミュニティで開発された技術が、(コミュニティの存在を伏せた形で)一般的なコミュニティに紹介されるなどの動きも出ている。 ==== Twitter ==== [[Twitter]]では特にコミュニティの存在・形成を意識することなく、ユーザーがCardWirthに関わる発言を行う、あるいは周囲の発言を拾う事によって自然とつながりが生まれていく。 こうしたことから、近年は[[Twitter]]からCardWirthコミュニティあるいはCardWirthそのものに触れるユーザーが増えてきている。 [[Twitter]]では情報の即応性や拡散力はきわめて高いものの、半面まとまった情報が得にくく簡単に埋没してしまうという特徴があるため、ユーザー同士のつながりは容易に形成できるようなったが継続的な情報共有はこれまで以上に困難なものとなってしまっている。 == メディアの動き == CardWirthがここまで有名になったのは、[[1999年]]から[[2000年]]頃にかけて[[フリーウェア]]を掲載する[[本|書籍]]や[[ウェブサイト]]などで大なり小なり紹介されたことに起因する。 ここでは、現在に至るまでの間に特に目立った動きについて取り上げる。 === テックウィン(書籍) === [[アスキー (企業)|株式会社アスキー]](現[[エンターブレイン]])の出版していた雑誌「[[テックウィン]]」において、過去に何度か数ページに渡っての特集が組まれたことがある。 また同誌ではそれ以外の号においてもほぼ毎回のようにCardWirth本体またはシナリオを掲載しており、この雑誌からCardWirthを知ったというユーザーも少なくなかった。 *[[テックウィン]] [[2001年]] 3月号 **特集4 カード型RPG[カードワース]スペシャルパック(6ページ) *[[テックウィン]] [[2002年]] 7月号 **特集4 カードRPG[カードワース]シナリオ大全(6ページ) <!--*また、上記2刊の間に4ページの特集が組まれた号が存在する。 --> === 公式ガイドブック(書籍) === CardWirthは[[フリーウェア]]のゲームとしては珍しく、[[2000年]]5月に公式ガイドブックが[[ムック (出版)|ムック]]形式で発売されている(「I/O別冊 カードワース公式ガイドブック」ISBN 978-4-87593-832-3)。発行元は[[工学社]]。 ゲーム本体および[[エディタ]]、CardWirthの世界観(今で言うところの「[[#ファンタジーI型|ファンタジーI型]]」について)の紹介はもちろん、groupAskの制作したシナリオ「教会の妖姫」を元にして描かれたオリジナル[[小説]]を掲載し、シナリオ作成講座の解説も行っている。 本書にはいくつかのシナリオも収録されているが、これは当初「Adventurer's GUILD」に公開されていたほぼすべてのシナリオを網羅する目玉企画となる予定であったとされている。 しかし実際には各シナリオ作者への収録許諾に関する手回しに不手際があった<!--(当時の関係者の証言によると、回答期限の設定が半月にも満たなかったという)//(聞いたことはありますが、この部分については[[検証可能性]]が低いため、確実なソースが出るまで記述の公開は保留された方が良いと思います)-->ため、誌面で紹介されているシナリオですらいくつか収録できていない<ref>(210本中131本・・・出展:「CardWirthUsers'Network」[[2000年]]4月26日18時57分のTELぅぇぃの発言)</ref>。 またこの不手際に関しては、[[工学社]]側の事務手続きが収録作品に対してシナリオ作者への許諾のみに終わり、シナリオで使用しているリソースの作者に対する問い合わせが不十分だったこと、さらにこの件における[[編集者]]からの回答に多くのユーザーが納得できなかったこともあって、一連の[[工学社]]側の対応を反面教師とする向きが後のCardWirthコミュニティでの[[著作権]]に関する意識向上のきっかけとなった<ref>(参考資料:「CardWirthUsers'Network」[[2000年]]5月12日 19時25分「6132」番)</ref>。 なお、このガイドブックは[[工学社]]にもすでに[[在庫]]がなく、また[[流通]]している可能性もほぼ皆無<!--絶版//たびたび「絶版」と用いられますが、元々ムックですから基本的には初期流通分しか存在しません-->であることから現在は入手が困難である。 === enban.net(ウェブサイト) === [[2002年]]11月まで株式会社アスキーが運営していた[[エンターテインメント]][[コンテンツ]]の配信サイト「enban.net(エンバンネット)」において、有償(月額500円)[[コンテンツ]]である「週刊ゲームズ」を通じて、CardWirthのシナリオが毎週配信されていた。 「週刊ゲームズ」は曜日毎に7種類のゲームを提供するという内容で、[[金曜日]]には「カードワースの森」という[[コンテンツ]]が用意された。 現在、この[[サービス]]は終了しただけでなく、[[ウェブサイト|サイト]]自体も閉鎖しており、これらの[[コンテンツ]]もそれとともに事実上入手できなくなっている。 groupAskでは「ユーザーは作成したシナリオを有料で配布しても構わない」としているが、実際に有料で配布されたシナリオはここでの他に類を見ない。これは過去にカードワースのシナリオを[[シェアウェア]]にすることについての是非が[[議論]]された際、反対意見が圧倒的多数を占めたことにもよる<ref>(参考資料:「CardWirth Users'Network」[[2000年]]9月2日 1時12分「7854」番)</ref>。 === ベクター(ウェブサイト) === [[オンラインソフトウェア]]の[[ダウンロード]]などを手がけている[[ベクター (企業)|株式会社ベクター]]の[[ウェブサイト|サイト]]では、「[[ロールプレイングゲーム|RPG]]」の[[ジャンル]](「[[ダウンロード]]」>「[[Microsoft Windows|Windows]]」>「[[ゲーム]]」>「[[ロールプレイングゲーム|RPG]]」)の一つとして「[[マルチ]]シナリオRPG CardWirth」という項目が設けられている。 シナリオ作者が自作のCardWirthのシナリオを「Adventurer's GUILD」に登録するためには、自身が完成したファイルを[[インターネット]]上のどこかに[[アップロード]]する必要があったが、CardWirthが急速に普及した頃はまだそのような場が十分にはなく、またそもそも具体的にはどの様にすれば良いのか解らないというユーザーも多かった。そこでもっとも手軽な方法として、[[ベクター (企業)|ベクター]]の[[ウェブサイト|サイト]]に「[[フリーウェア]]」として登録するという手法が確立された。そのため、[[ベクター (企業)|ベクター]]には別項目を用意しなければならないほど数多くのCardWirthシナリオが登録されている。 === CardWirthParty(同人サークル) === [[インターネット]]上で参加者を募り、創作物を収録した作品集「CardWirthParty」を制作した。主にCardWirthのシナリオを題材とした[[イラストレーション|イラスト]]が収録されているが、[[編曲|アレンジ楽曲]]やオリジナルのシナリオが含まれることもある。8タイトルが制作され、1作目のみ有償で販売されたが、以降の作品は無料で頒布されている。また現在では全てのタイトルが先述のベクターより[[ダウンロード]]することができる。 2008年12月の[[コミックマーケット|コミックマーケット75]]を最後に「同人イベントへの参加」の無期停止(実質終了)、また2010年10月には無期限の活動停止を公式サイトで発表した。しかし2012年8月の[[コミックマーケット|コミックマーケット82]]には参加しており、活動再開の可能性もある。 === CardWirth Carnival(同人サークル) === 2013年に[[同人サークル]]EGOTEXによってCardWirthPartyと同様に有志メンバーによって制作された「CardWirth Carnival! 01」が頒布された。続き同02~05までが2018年までに頒布されている。01、03についてはベクターでその一部コンテンツを[[ダウンロード]]することができる。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.ask.sakura.ne.jp/ GROUP ASK WEBSITE] * [http://cardwirth.net/ groupAsk official fansite] * [http://twc.xrea.jp/cardwirth/ CardWirth Reconstructed](CardWirthNextの開発サイト) * [https://bitbucket.org/k4nagatsuki/cardwirthpy-reboot CardWirthPy Reboot](CardWirthPyの開発サイト) * [http://www.vector.co.jp/vpack/filearea/win/game/rpg/cardw/ Vector(ベクター)](CardWirthの頁) * [http://www27.atwiki.jp/cw-port/ cw-port](CardWirth関連情報のポータルサイト) {{ゲームエンジン}} {{Software-stub}} {{DEFAULTSORT:かあとわあす}} [[Category:ゲームエンジン]] [[Category:コンピュータゲーム制作ソフト]] [[Category:ソフトウェア開発キット]] [[Category:コンピュータRPG]] [[Category:フリーゲーム]] [[Category:同人ソフト]]
2003-07-21T15:14:31Z
2023-10-01T16:20:22Z
false
false
false
[ "Template:コンピュータゲーム", "Template:Cite web", "Template:Reflist", "Template:ゲームエンジン", "Template:Software-stub", "Template:一次資料" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/CardWirth
11,998
極楽
極楽(ごくらく、梵: sukhāvatī、スカーヴァティー、蔵: bde ba can、デワチェン)とは、阿弥陀仏の浄土であり、「スカーヴァティー」とは「幸福のある(ところ)」の意味。須呵摩提、蘇珂嚩帝などと音写され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。『大阿弥陀経』では須摩提、『平等覚経』では須摩提、須阿提と音写されるが、これらはサンスクリット形ではなく俗語形とされる。「極楽浄土」とも言われる。 極楽を詳説するのは「浄土三部経」。中でも極楽の模様は『仏説阿弥陀経』に詳しく説かれているので、この経に依り概要を説明する。 いまをさること十劫の昔、阿弥陀仏は成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に浄土を構えられた。そして、現在でも、この極楽で人々のために説法している。 この極楽という仏土は広々としていて、辺際のない世界であり、地下や地上や虚空の荘厳は微をきわめ、妙をきわめている。この浄土にある華池や宝楼、宝閣などの建物もまた浄土の宝樹も、みな金銀珠玉をちりばめ、七宝乃至は百千万の宝をもって厳飾されている。しかも、それらは実に清浄であり、光明赫灼と輝いている。衣服や飯食は人々の意のままに得ることができ、寒からず暑からず、気候は調和し、本当に住み心地のよいところである。また、聞こえてくる音声は、常に妙法を説くがごとく、水鳥樹林も仏の妙説と共に法音をのべる。したがって、この浄土には一切の苦はなく、ただ楽のみがある。 ただし、酒や性欲などの欲望的・肉体的な「楽」ではなく、常に説法を聞いて諸仏を供養でき、自らも解脱して人々を救済できるという精神的な「楽」に満ちているということである。 この世界では仏の無量寿、無量光と同じく、一切の人々もまた無量寿、無量光であり、智慧と慈悲とにきわまりがない。常に法楽をうけ、諸仏を供養し、出でては苦の衆生を救済し、化益することができるのである。しかも、この国土は法性の理に応ずる無為涅槃界であり、一切の衆生を導き救うために仏によって構えられた世界であると説かれている。 阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた四十八願の一つである三十五願「女人往生願」により、女性が極楽浄土に生まれかわると男性となるとされている。ただし天女(アプサラス)はいる。『法華経』サンスクリット本の観世音菩薩普門品によると、極楽浄土では性交が行われない代わりに、蓮華の胎に子供が宿って誕生するという。 この極楽を、報身仏の国として報土とみるか、応化身の国土として化土とみるかに異論がある。 これを大きくまとめれば、浄土教系の人々は、極楽は報土であるとし、しかもこの報土へ凡夫も往生することができるとする。これに反して聖道門の人々は、この浄土を報土とみる人々は凡夫の往生を認めないし、凡夫も往生できるとする人々は、これを報土と認めないで応化土と説くのである。 たとえば、慧遠の『大乗義章』では浄土を、事の浄土・相の浄土・真の浄土とわけ、『法華経』の安楽世界、『観無量寿経』の弥陀の浄土は劣なる事の浄土として、応土であるとする。また、天台宗では弥陀の浄土は凡聖同居土として劣応身の土とみている。さらに基の『法苑義林章』では極楽を他受用報土としている。 浄土門の人々は道綽の安楽集 の報土説を根本としている。それは『大乗同性経』の「浄土中成仏悉是報身」という文によっている。 この報土にどうして凡夫の往生が許されるかについては、善導は、凡夫の往生が許されるのは、凡夫も仏願に乗托するからで、仏願に乗托して凡夫の往生が認められるという。 浄土は報土。凡夫の往生は仏願に乗托するから許されるというのが、浄土教の理由である。 この浄土について、古来、「唯心の弥陀、己心の浄土」、「己心の弥陀、唯心の浄土」と説く。すなわち、極楽といい、それが西方十万億の仏土を過ぎて彼方にあるというが、衆生引接のためで、実は己心こそ浄土であり、阿弥陀仏とはいってもただ心に外ならないというのである。 この主張は主に華厳宗や禅宗でいわれる。よりどころは『華厳経』の「心と仏と及び衆生との、是らの三は無差別なり」である。これら無差別のうえに種々の差別の事相があらわれるのは、『維摩経』に「心の浄きにしたがって仏土もまた浄し」とあり、心清浄ならば仏土も清浄 、心が汚染なれば、国土も汚染 となるのである。さらに、唯識家の人々のごとく、仏身も仏土もすべて、別に外にあるのではなく、自心所変である から、己心を離れて別にあるわけではない。 ところが、浄土門の人々は事相の浄土を立て、心外に仏を見るという立場に立つ。勿論、このように浄土門の人々は極楽を事相の浄土を立てるといっても、それ自身は無相法性の理に即するとする。このような浄土門の立場に、聖道門と異なる宗教性をみるのである。 親鸞は『唯信砂文意』に「極楽無為涅槃界」を下記のように釈している。 つまり極楽とは、苦しみのまじらない身心共に楽な世界ということであり、悟りを開く境涯である。 『阿弥陀経』には「其の国の衆生、衆苦有ること無く、但だ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」という。このように語られているところから、日本人は、思いが適えられる結構な世界と考えてきた。平安時代の貴族たちは、さまざまな工夫を凝らして、死後に「極楽」に生まれることを願ってきた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "極楽(ごくらく、梵: sukhāvatī、スカーヴァティー、蔵: bde ba can、デワチェン)とは、阿弥陀仏の浄土であり、「スカーヴァティー」とは「幸福のある(ところ)」の意味。須呵摩提、蘇珂嚩帝などと音写され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。『大阿弥陀経』では須摩提、『平等覚経』では須摩提、須阿提と音写されるが、これらはサンスクリット形ではなく俗語形とされる。「極楽浄土」とも言われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "極楽を詳説するのは「浄土三部経」。中でも極楽の模様は『仏説阿弥陀経』に詳しく説かれているので、この経に依り概要を説明する。", "title": "極楽の様相" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "いまをさること十劫の昔、阿弥陀仏は成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に浄土を構えられた。そして、現在でも、この極楽で人々のために説法している。", "title": "極楽の様相" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この極楽という仏土は広々としていて、辺際のない世界であり、地下や地上や虚空の荘厳は微をきわめ、妙をきわめている。この浄土にある華池や宝楼、宝閣などの建物もまた浄土の宝樹も、みな金銀珠玉をちりばめ、七宝乃至は百千万の宝をもって厳飾されている。しかも、それらは実に清浄であり、光明赫灼と輝いている。衣服や飯食は人々の意のままに得ることができ、寒からず暑からず、気候は調和し、本当に住み心地のよいところである。また、聞こえてくる音声は、常に妙法を説くがごとく、水鳥樹林も仏の妙説と共に法音をのべる。したがって、この浄土には一切の苦はなく、ただ楽のみがある。", "title": "極楽の様相" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ただし、酒や性欲などの欲望的・肉体的な「楽」ではなく、常に説法を聞いて諸仏を供養でき、自らも解脱して人々を救済できるという精神的な「楽」に満ちているということである。", "title": "極楽の様相" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この世界では仏の無量寿、無量光と同じく、一切の人々もまた無量寿、無量光であり、智慧と慈悲とにきわまりがない。常に法楽をうけ、諸仏を供養し、出でては苦の衆生を救済し、化益することができるのである。しかも、この国土は法性の理に応ずる無為涅槃界であり、一切の衆生を導き救うために仏によって構えられた世界であると説かれている。", "title": "極楽の住人" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた四十八願の一つである三十五願「女人往生願」により、女性が極楽浄土に生まれかわると男性となるとされている。ただし天女(アプサラス)はいる。『法華経』サンスクリット本の観世音菩薩普門品によると、極楽浄土では性交が行われない代わりに、蓮華の胎に子供が宿って誕生するという。", "title": "極楽の住人" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この極楽を、報身仏の国として報土とみるか、応化身の国土として化土とみるかに異論がある。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これを大きくまとめれば、浄土教系の人々は、極楽は報土であるとし、しかもこの報土へ凡夫も往生することができるとする。これに反して聖道門の人々は、この浄土を報土とみる人々は凡夫の往生を認めないし、凡夫も往生できるとする人々は、これを報土と認めないで応化土と説くのである。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "たとえば、慧遠の『大乗義章』では浄土を、事の浄土・相の浄土・真の浄土とわけ、『法華経』の安楽世界、『観無量寿経』の弥陀の浄土は劣なる事の浄土として、応土であるとする。また、天台宗では弥陀の浄土は凡聖同居土として劣応身の土とみている。さらに基の『法苑義林章』では極楽を他受用報土としている。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "浄土門の人々は道綽の安楽集 の報土説を根本としている。それは『大乗同性経』の「浄土中成仏悉是報身」という文によっている。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この報土にどうして凡夫の往生が許されるかについては、善導は、凡夫の往生が許されるのは、凡夫も仏願に乗托するからで、仏願に乗托して凡夫の往生が認められるという。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "浄土は報土。凡夫の往生は仏願に乗托するから許されるというのが、浄土教の理由である。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この浄土について、古来、「唯心の弥陀、己心の浄土」、「己心の弥陀、唯心の浄土」と説く。すなわち、極楽といい、それが西方十万億の仏土を過ぎて彼方にあるというが、衆生引接のためで、実は己心こそ浄土であり、阿弥陀仏とはいってもただ心に外ならないというのである。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この主張は主に華厳宗や禅宗でいわれる。よりどころは『華厳経』の「心と仏と及び衆生との、是らの三は無差別なり」である。これら無差別のうえに種々の差別の事相があらわれるのは、『維摩経』に「心の浄きにしたがって仏土もまた浄し」とあり、心清浄ならば仏土も清浄 、心が汚染なれば、国土も汚染 となるのである。さらに、唯識家の人々のごとく、仏身も仏土もすべて、別に外にあるのではなく、自心所変である から、己心を離れて別にあるわけではない。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ところが、浄土門の人々は事相の浄土を立て、心外に仏を見るという立場に立つ。勿論、このように浄土門の人々は極楽を事相の浄土を立てるといっても、それ自身は無相法性の理に即するとする。このような浄土門の立場に、聖道門と異なる宗教性をみるのである。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "親鸞は『唯信砂文意』に「極楽無為涅槃界」を下記のように釈している。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "つまり極楽とは、苦しみのまじらない身心共に楽な世界ということであり、悟りを開く境涯である。", "title": "解釈の違い" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『阿弥陀経』には「其の国の衆生、衆苦有ること無く、但だ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」という。このように語られているところから、日本人は、思いが適えられる結構な世界と考えてきた。平安時代の貴族たちは、さまざまな工夫を凝らして、死後に「極楽」に生まれることを願ってきた。", "title": "日本文化における極楽" } ]
極楽とは、阿弥陀仏の浄土であり、「スカーヴァティー」とは「幸福のある(ところ)」の意味。須呵摩提、蘇珂嚩帝などと音写され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。『大阿弥陀経』では須摩提、『平等覚経』では須摩提、須阿提と音写されるが、これらはサンスクリット形ではなく俗語形とされる。「極楽浄土」とも言われる。
{{Otheruses|[[仏教]]の世界観|その他}} {{Redirect|安養|寺院|安養寺|大韓民国の都市|安養市}} '''極楽'''(ごくらく、{{lang-sa-short|sukhāvatī}}、'''スカーヴァティー'''、[[チベット語|蔵]]: {{unicode|bde ba can}}、'''デワチェン'''{{efn|訛化して「デチェン」(bde chen、大楽)とも呼ばれる。}})とは、[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の[[浄土]]であり{{refnest|name="ニッポニカ_極楽"}}、「スカーヴァティー」とは「[[楽_(仏教)|幸福]]のある(ところ)」の意味{{refnest|name="ニッポニカ_極楽"|石上善應[https://kotobank.jp/word/%E6%A5%B5%E6%A5%BD-64327#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「極楽」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。須呵摩提、蘇珂嚩帝などと音写され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。『[[無量寿経#仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経|大阿弥陀経]]』では須摩提{{refnest|name="新纂浄土_極楽"}}、『[[無量寿経#仏説無量清浄平等覚経|平等覚経]]』では須摩提{{refnest|name="新纂浄土_極楽"}}、須阿提{{refnest|name="新纂浄土_極楽"}}と音写されるが、これらは[[サンスクリット]]形ではなく俗語形とされる{{refnest|name="新纂浄土_極楽"|小澤憲珠[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%A5%B5%E6%A5%BD 「極楽」 - 新纂浄土宗大辞典]}}。「'''極楽浄土'''」とも言われる。 ==極楽の様相== [[File:Anonymous-Baoen Sutra Paradise.png|thumb|240px|right|極楽を描いた場面。『報恩経変相図』(唐代)]] 極楽を詳説するのは「[[浄土三部経]]」。中でも極楽の模様は『仏説[[阿弥陀経]]』に詳しく説かれているので、この経に依り概要を説明する。 いまをさること十[[劫]]の昔、[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]は成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に[[浄土]]を構えられた。そして、現在でも、この極楽で人々のために説法している。 この極楽という仏土は広々としていて、辺際のない世界であり、地下や地上や[[虚空]]の荘厳は微をきわめ、妙をきわめている。この浄土にある華池や宝楼、宝閣などの建物もまた浄土の宝樹も、みな金銀珠玉をちりばめ、七宝乃至は百千万の宝をもって厳飾されている。しかも、それらは実に清浄であり、光明赫灼と輝いている。衣服や飯食は人々の意のままに得ることができ、寒からず暑からず、気候は調和し、本当に住み心地のよいところである。また、聞こえてくる音声は、常に妙法を説くがごとく、水鳥樹林も仏の妙説と共に法音をのべる。したがって、この浄土には一切の苦はなく、ただ[[楽 (仏教)|楽]]のみがある。 ただし、酒や性欲などの欲望的・肉体的な「楽」ではなく、常に説法を聞いて諸仏を供養でき、自らも解脱して人々を救済できるという精神的な「楽」に満ちているということである。 ==極楽の住人== この世界では仏の[[無量寿]]、[[無量光]]と同じく、一切の人々もまた無量寿、無量光であり、智慧と慈悲とにきわまりがない。常に法楽をうけ、諸仏を供養し、出でては苦の衆生を救済し、化益することができるのである。しかも、この国土は法性の理に応ずる無為涅槃界であり、一切の衆生を導き救うために仏によって構えられた世界であると説かれている。 阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた[[四十八願]]の一つである三十五願「女人往生願」により、女性が極楽浄土に生まれかわると男性となるとされている。ただし[[天女]]([[アプサラス]])はいる。『[[法華経]]』サンスクリット本の観世音菩薩普門品によると、極楽浄土では性交が行われない代わりに、蓮華の胎に子供が宿って誕生するという。 ==解釈の違い== [[File:Anonymous-Paradise of Bhaishajyaguru.jpg|thumb|240px|left|極楽を描いた場面。『薬師浄土変相図』(唐代)]] この極楽を、[[報身]]仏の国として[[報土]]とみるか、応化身の国土として化土とみるかに異論がある。 これを大きくまとめれば、[[浄土教]]系の人々は、極楽は報土であるとし、しかもこの報土へ凡夫も[[往生]]することができるとする。これに反して[[聖道門]]の人々は、この浄土を報土とみる人々は凡夫の往生を認めないし、凡夫も往生できるとする人々は、これを報土と認めないで応化土と説くのである。 たとえば、[[慧遠 (隋)|慧遠]]の『[[大乗義章]]』では浄土を、事の浄土・相の浄土・真の浄土とわけ、『[[法華経]]』の安楽世界、『観無量寿経』の弥陀の浄土は劣なる事の浄土として、応土であるとする。また、[[天台宗]]では弥陀の浄土は凡聖同居土として劣応身の土とみている。さらに[[基 (僧)|基]]の『法苑義林章』では極楽を他受用報土としている。 [[浄土教|浄土門]]の人々は[[道綽]]の''[[安楽集]]'' の報土説を根本としている。それは『大乗同性経』の「浄土中成仏悉是報身」という文によっている。 この報土にどうして凡夫の往生が許されるかについては、[[善導]]は、凡夫の往生が許されるのは、凡夫も仏願に乗托するからで、仏願に乗托して凡夫の往生が認められるという。 浄土は報土。凡夫の往生は仏願に乗托するから許されるというのが、浄土教の理由である。 この浄土について、古来、「唯心の弥陀、己心の浄土」、「己心の弥陀、唯心の浄土」と説く。すなわち、極楽といい、それが西方十万億の仏土を過ぎて彼方にあるというが、衆生引接のためで、実は''己心こそ浄土''であり、阿弥陀仏とはいってもただ心に外ならないというのである。 この主張は主に華厳宗や禅宗でいわれる。よりどころは『[[華厳経]]』の「心と仏と及び衆生との、是らの三は無差別なり」である。これら無差別のうえに種々の差別の事相があらわれるのは、『[[維摩経]]』に「心の浄きにしたがって仏土もまた浄し」とあり、''心清浄ならば仏土も清浄'' 、''心が汚染なれば、国土も汚染'' となるのである。さらに、唯識家の人々のごとく、''仏身も仏土もすべて、別に外にあるのではなく、自心所変である'' から、己心を離れて別にあるわけではない。 ところが、浄土門の人々は''事相の浄土''を立て、心外に仏を見るという立場に立つ。勿論、このように浄土門の人々は極楽を事相の浄土を立てるといっても、それ自身は無相法性の理に即するとする。このような浄土門の立場に、聖道門と異なる[[宗教]]性をみるのである。 === 親鸞の解釈 === [[親鸞]]は『唯信砂文意』に「極楽無為涅槃界」を下記のように釈している。 {{Cquote|「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、[[曇鸞]]和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』([[無量寿経優婆提舎願生偈|浄土論]])には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。}} つまり極楽とは、苦しみのまじらない身心共に楽な世界ということであり、悟りを開く境涯である。 == 日本文化における極楽 == 『[[阿弥陀経]]』には「其の国の衆生、衆苦有ること無く、但だ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」という。このように語られているところから、日本人は、思いが適えられる結構な世界と考えてきた。[[平安時代]]の貴族たちは、さまざまな工夫を凝らして、死後に「極楽」に生まれることを願ってきた。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000rhd.html|title=極楽 {{!}} 生活の中の仏教用語 {{!}} 読むページ {{!}} 大谷大学|accessdate=2019-01-12|website=www.otani.ac.jp|publisher=大谷大学}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[往生]] * [[浄土]] * [[彼岸]] * [[念仏]] * [[天_(仏教)]] * [[浄土宗]] * [[浄土真宗]] * [[時宗]] * {{Prefix}} {{浄土教2}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくらく}} [[Category:浄土教|*-]] [[Category:浄土三部経]] [[Category:阿弥陀如来]] [[Category:浄土宗]] [[Category:浄土真宗の用語]] [[Category:浄土]]
2003-07-21T16:24:21Z
2023-11-25T22:14:54Z
false
false
false
[ "Template:Redirect", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:浄土教2", "Template:Otheruses", "Template:Cquote", "Template:Prefix", "Template:Buddhism2", "Template:Normdaten", "Template:Lang-sa-short", "Template:Unicode", "Template:Refnest", "Template:Notelist", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%A5%BD
12,002
TEL
TEL
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "TEL", "title": null } ]
TEL
{{wiktionarypar|tel}} '''TEL''' ==一覧== * [[東京エレクトロン]]({{Lang|en|Tokyo Electron Limited}}) * {{Lang|en|The [[European Library]]}} * [[テトラエチル鉛]]({{Lang|en|Tetraethyllead}}) * [[輸送起立発射機]]({{Lang|en|transporter erector launcher}}) * [[電話]]({{Lang|en|telephone}}) ** [[℡]] * [[テルグ語]]の[[ISO 639-3]]言語コード * {{仮リンク|三言語空間|es|Tres Espacios Lingüísticos|fr|Trois Espaces linguistiques|pt|Três Espaços Linguísticos|en|Three Linguistic Spaces}}<sub>({{lang-es-short|Tres Espacios Lingüísticos}} / {{lang-fr-short|Trois Espaces linguistiques}} / {{lang-pt-short|Três Espaços Linguísticos}})</sub> * ''TEL''遺伝子 → [[ETV6]] == 関連項目 == * [[テル (曖昧さ回避)]] * [[:en:Tell (disambiguation)]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}}
null
2022-08-21T04:48:08Z
true
false
false
[ "Template:仮リンク", "Template:Prefix", "Template:Lang", "Template:Lang-es-short", "Template:Lang-fr-short", "Template:Lang-pt-short", "Template:Intitle", "Template:Aimai", "Template:Wiktionarypar" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/TEL
12,003
SM (性風俗)
SM(エスエム)は、サディズム(加虐嗜好)およびマゾヒズム(被虐嗜好)的な性的嗜好に基づいて行われる倒錯的プレイ全般、ないし同プレイを含む文化様式(サブカルチャー)群の総称である。加虐被虐性愛(かぎゃくひぎゃくせいあい)とも言う。 「SM」は、加虐嗜好の「サディズム」(sadism) と被虐嗜好の「マゾヒズム」 (masochism) を組み合わせたサドマゾキズム (sadomasochism) の略語。加虐嗜好者のことを「サディスト」(sadist) あるいは単に「S」、被虐嗜好者のことを「マゾヒスト」(masochist) あるいは単に「M」という。なお、「SM」という言葉が一般に定着する前は、「アブチック」「悦虐」「責」「耽奇」などと表現されていた。 「サディズム」は、この嗜虐性行為にのめり込んで何度も暴行容疑で投獄されながら、獄中で自身の体験やファンタジーを描写した数々の長編小説を書きつづけ、最期には狂人扱いされてしまった大革命時代(18世紀末から19世紀初頭)のフランス貴族マルキ・ド・サド(サド侯爵)の名に由来する。『悪徳の栄え』や『ソドム百二十日』などは、19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、SMを表舞台に引き出すことにつながった。 「マゾヒズム」の方は、精神的肉体的な苦痛に快楽を感じ、情婦との間に自らが彼女の奴隷となりその願望と命令のすべて実現することを誓った契約書まで交わして、やはりそうした自らの体験をもとにした『毛皮を着たヴィーナス』などの小説を発表した19世紀中頃のオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホの名に由来する。 精神医学面での「性的サディズム」などでは、性的興奮を得るために一方的に何かを虐待するという性格異常を発揮し、一方の「性的マゾヒズム」では辱めを受けたり自らの肉体を損傷する(自傷行為)ことで性的興奮を得るとされる。ただこれらは、性的倒錯(パラフィリア)と呼ばれる精神障害である。 ボンデージなどといったファッションスタイルも見られる。日本では「緊縛」と呼ばれる縄で縛り付ける行為も見られ、この緊縛にも「緊縛師」と呼ばれる専門家が存在する。「ソフトSM」と呼ばれる行為では「手を(軽く)縛る」や「目隠しをする」といったプレイも見られる。 なお性的サディズムの傾向はドメスティックバイオレンス(DV:配偶者からの暴力)という状況も発生させうるが、いわゆる性風俗におけるSMでは双方同意のうえで「叩いたり、叩かれたり」といった行為が行われ、また深刻な負傷を発生させないよう抑制された暴力または工夫された擬似的暴力であるといった相違がある。その一方で、「ハードSM」と呼ばれるものでは「鞭打ち」や「ロウソク責め」、性器ピアスを取り付けるなどのプレイの分野もある。 SMは原則としては性的ロールプレイのうち、支配者と被支配者に役割を分けて行われる性行為に分類され、ロールプレイのスタイルにより本項で扱われるS&MのほかにB&D(拘束と支配 Bondage & Dominance、又は訓練 Discipline)や、D&S(支配と服従 Dominance & Submission)などに細別されるが、どのプレイスタイルにおいても本項におけるSの立場の人間はトップ、Mの立場の人間はボトムとして総称される。 SMは主人の役割を演じる者(トップ)と奴隷の役割を演じる者(ボトム)に分かれて、互いの積極的な合意のもとに行う性行為である。 あくまでもSMはトップとボトムの間に信頼関係を前提としているロールプレイである。ボトムはプレイ中にトップの気分を高揚させる目的で「痛い」「やめて」などの悲鳴を発することが多い。しかしプレイ中、ボトムに心身の異常が発生した場合には中断の意思をトップに伝える必要がある。生命に関わる事故を未然に防ぐ為、セーフワードと呼ばれる合言葉をプレイ前に設定しておくことが推奨されている。 また、セーフワードは稀にトップがボトムに対して用いるケースもある。責めに対するボトムの異常な反応に対してどう対処してよいかわからない場合や、プレイが長時間に及び責める体力や気力が尽きた場合などにトップ側からプレイを中断する目的でも使用される。 セーフワードは欧米圏では「Yellow」と「Red」の二つの単語が用いられることが多く、前者は「少しきついので責めを弱くしてほしいが、プレイは続行してもよい」、後者は「異常事態なので直ちに中断してほしい」という意味で解釈される。また、世界的な共通事項として「セーフワード」という単語を叫ぶことは、それ自体がセーフワードとしての効力を有するとされる。セーフワードはトップとボトムの合意事項でどのような単語を定めてもよいため、プレイ中の誤認を防ぐ目的で、その時のプレイ内容とは何ら関係のない単語を設定することも行われる。 プレイ内容により、猿轡を用いるなどしてボトム側が言語能力を制限されている場合には、首を横に何度も振る、タップアウトする、SOSなどの規則的な叫びを何度も発するなどの方法が用いられる場合があり、拘束具や緊縛プレイなどで身体的なジェスチャーが困難な場合には、予めボトムの手にハンカチなどを握らせておき、ボトムの手からハンカチが落ちた場合には何らかの異常事態が発生したと判断する方法もある。どのような方法を用いる場合でも、トップがボトムのセーフワードを認知した場合には、直ちに全てのプレイを中断すること、ボトムがトップのセーフワードを認知した場合にはプレイの中断を果断なく受け入れることが、SMにおける最低限のルールであり、これを承知しないパートナーとはプレイを行うことは望ましくないとされている。 セーフワードはSMにおける最後の安全装置の役割を果たす為、それを設定することによりプレイがつまらなくなるかもしれないという懸念がある一方で、パートナー同士の互いの限界を見極める鍵となる要素にもなる為、パートナー同士がより高度なプレイに発展する為には、ボトムがセーフワードを使うまで容赦なく責めを強化してもよいと解釈しうる場合もある。また、パートナー同士が極めて高い信頼関係と深い経験を有する場合には、敢えてセーフワードを設定せずプレイに及ぶエッジプレイと呼ばれるスタイルを敢行する場合もある。 SMプレイは基本的に、行為ないし結果について同意がある限りは、「被害者の同意」として、違法性阻却事由ないし構成要件該当性阻却事由となり、罪には問われない。しかし、相手を殺してしまった場合においては嘱託殺人罪に問われる可能性がある また、SM行為そのものは相手から要求されたものであっても、相手を殺しかねないと認識した上で過度な行為に及び、最終的に相手を死なせた場合は殺人罪が適用される可能性がある。 オーストリアで、売春の男性客に依頼された「SM行為」をした結果、男性が死亡した事件が2015年に発生しており、依頼に応じた女性に有罪判決が下った。この女性には執行猶予付きの禁錮2年が言い渡されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "SM(エスエム)は、サディズム(加虐嗜好)およびマゾヒズム(被虐嗜好)的な性的嗜好に基づいて行われる倒錯的プレイ全般、ないし同プレイを含む文化様式(サブカルチャー)群の総称である。加虐被虐性愛(かぎゃくひぎゃくせいあい)とも言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「SM」は、加虐嗜好の「サディズム」(sadism) と被虐嗜好の「マゾヒズム」 (masochism) を組み合わせたサドマゾキズム (sadomasochism) の略語。加虐嗜好者のことを「サディスト」(sadist) あるいは単に「S」、被虐嗜好者のことを「マゾヒスト」(masochist) あるいは単に「M」という。なお、「SM」という言葉が一般に定着する前は、「アブチック」「悦虐」「責」「耽奇」などと表現されていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「サディズム」は、この嗜虐性行為にのめり込んで何度も暴行容疑で投獄されながら、獄中で自身の体験やファンタジーを描写した数々の長編小説を書きつづけ、最期には狂人扱いされてしまった大革命時代(18世紀末から19世紀初頭)のフランス貴族マルキ・ド・サド(サド侯爵)の名に由来する。『悪徳の栄え』や『ソドム百二十日』などは、19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、SMを表舞台に引き出すことにつながった。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「マゾヒズム」の方は、精神的肉体的な苦痛に快楽を感じ、情婦との間に自らが彼女の奴隷となりその願望と命令のすべて実現することを誓った契約書まで交わして、やはりそうした自らの体験をもとにした『毛皮を着たヴィーナス』などの小説を発表した19世紀中頃のオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホの名に由来する。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "精神医学面での「性的サディズム」などでは、性的興奮を得るために一方的に何かを虐待するという性格異常を発揮し、一方の「性的マゾヒズム」では辱めを受けたり自らの肉体を損傷する(自傷行為)ことで性的興奮を得るとされる。ただこれらは、性的倒錯(パラフィリア)と呼ばれる精神障害である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ボンデージなどといったファッションスタイルも見られる。日本では「緊縛」と呼ばれる縄で縛り付ける行為も見られ、この緊縛にも「緊縛師」と呼ばれる専門家が存在する。「ソフトSM」と呼ばれる行為では「手を(軽く)縛る」や「目隠しをする」といったプレイも見られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお性的サディズムの傾向はドメスティックバイオレンス(DV:配偶者からの暴力)という状況も発生させうるが、いわゆる性風俗におけるSMでは双方同意のうえで「叩いたり、叩かれたり」といった行為が行われ、また深刻な負傷を発生させないよう抑制された暴力または工夫された擬似的暴力であるといった相違がある。その一方で、「ハードSM」と呼ばれるものでは「鞭打ち」や「ロウソク責め」、性器ピアスを取り付けるなどのプレイの分野もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "SMは原則としては性的ロールプレイのうち、支配者と被支配者に役割を分けて行われる性行為に分類され、ロールプレイのスタイルにより本項で扱われるS&MのほかにB&D(拘束と支配 Bondage & Dominance、又は訓練 Discipline)や、D&S(支配と服従 Dominance & Submission)などに細別されるが、どのプレイスタイルにおいても本項におけるSの立場の人間はトップ、Mの立場の人間はボトムとして総称される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "SMは主人の役割を演じる者(トップ)と奴隷の役割を演じる者(ボトム)に分かれて、互いの積極的な合意のもとに行う性行為である。", "title": "行為" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "あくまでもSMはトップとボトムの間に信頼関係を前提としているロールプレイである。ボトムはプレイ中にトップの気分を高揚させる目的で「痛い」「やめて」などの悲鳴を発することが多い。しかしプレイ中、ボトムに心身の異常が発生した場合には中断の意思をトップに伝える必要がある。生命に関わる事故を未然に防ぐ為、セーフワードと呼ばれる合言葉をプレイ前に設定しておくことが推奨されている。", "title": "行為" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、セーフワードは稀にトップがボトムに対して用いるケースもある。責めに対するボトムの異常な反応に対してどう対処してよいかわからない場合や、プレイが長時間に及び責める体力や気力が尽きた場合などにトップ側からプレイを中断する目的でも使用される。", "title": "行為" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "セーフワードは欧米圏では「Yellow」と「Red」の二つの単語が用いられることが多く、前者は「少しきついので責めを弱くしてほしいが、プレイは続行してもよい」、後者は「異常事態なので直ちに中断してほしい」という意味で解釈される。また、世界的な共通事項として「セーフワード」という単語を叫ぶことは、それ自体がセーフワードとしての効力を有するとされる。セーフワードはトップとボトムの合意事項でどのような単語を定めてもよいため、プレイ中の誤認を防ぐ目的で、その時のプレイ内容とは何ら関係のない単語を設定することも行われる。", "title": "行為" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "プレイ内容により、猿轡を用いるなどしてボトム側が言語能力を制限されている場合には、首を横に何度も振る、タップアウトする、SOSなどの規則的な叫びを何度も発するなどの方法が用いられる場合があり、拘束具や緊縛プレイなどで身体的なジェスチャーが困難な場合には、予めボトムの手にハンカチなどを握らせておき、ボトムの手からハンカチが落ちた場合には何らかの異常事態が発生したと判断する方法もある。どのような方法を用いる場合でも、トップがボトムのセーフワードを認知した場合には、直ちに全てのプレイを中断すること、ボトムがトップのセーフワードを認知した場合にはプレイの中断を果断なく受け入れることが、SMにおける最低限のルールであり、これを承知しないパートナーとはプレイを行うことは望ましくないとされている。", "title": "行為" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "セーフワードはSMにおける最後の安全装置の役割を果たす為、それを設定することによりプレイがつまらなくなるかもしれないという懸念がある一方で、パートナー同士の互いの限界を見極める鍵となる要素にもなる為、パートナー同士がより高度なプレイに発展する為には、ボトムがセーフワードを使うまで容赦なく責めを強化してもよいと解釈しうる場合もある。また、パートナー同士が極めて高い信頼関係と深い経験を有する場合には、敢えてセーフワードを設定せずプレイに及ぶエッジプレイと呼ばれるスタイルを敢行する場合もある。", "title": "行為" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "SMプレイは基本的に、行為ないし結果について同意がある限りは、「被害者の同意」として、違法性阻却事由ないし構成要件該当性阻却事由となり、罪には問われない。しかし、相手を殺してしまった場合においては嘱託殺人罪に問われる可能性がある", "title": "SMの問題点" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、SM行為そのものは相手から要求されたものであっても、相手を殺しかねないと認識した上で過度な行為に及び、最終的に相手を死なせた場合は殺人罪が適用される可能性がある。", "title": "SMの問題点" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "オーストリアで、売春の男性客に依頼された「SM行為」をした結果、男性が死亡した事件が2015年に発生しており、依頼に応じた女性に有罪判決が下った。この女性には執行猶予付きの禁錮2年が言い渡されている。", "title": "SMの問題点" } ]
SM(エスエム)は、サディズム(加虐嗜好)およびマゾヒズム(被虐嗜好)的な性的嗜好に基づいて行われる倒錯的プレイ全般、ないし同プレイを含む文化様式(サブカルチャー)群の総称である。加虐被虐性愛(かぎゃくひぎゃくせいあい)とも言う。 「SM」は、加虐嗜好の「サディズム」(sadism) と被虐嗜好の「マゾヒズム」 (masochism) を組み合わせたサドマゾキズム (sadomasochism) の略語。加虐嗜好者のことを「サディスト」(sadist) あるいは単に「S」、被虐嗜好者のことを「マゾヒスト」(masochist) あるいは単に「M」という。なお、「SM」という言葉が一般に定着する前は、「アブチック」「悦虐」「責」「耽奇」などと表現されていた。
{{Redirect|サドマゾ|R指定のシングル|サドマゾ (R指定の曲)}} {{性的}} {{暴力的}} {{複数の問題 | 独自研究 = 2021年3月 | 参照方法 = 2022年1月 }} '''SM'''(エスエム)は、[[サディズム]](加虐嗜好)および[[マゾヒズム]](被虐嗜好)的な[[性的嗜好]]に基づいて行われる倒錯的プレイ全般、ないし同プレイを含む文化様式([[サブカルチャー]])群の総称である。'''加虐被虐性愛'''(かぎゃくひぎゃくせいあい)とも言う。 「SM」は、加虐嗜好の「サディズム」({{lang|en|sadism}}) と被虐嗜好の「マゾヒズム」 ({{lang|en|masochism}}) を組み合わせた'''サドマゾキズム''' ({{lang|en|'''s'''ado'''m'''asochism}}) の略語。加虐嗜好者のことを「サディスト」({{lang|en|sadist}}) あるいは単に「S」、被虐嗜好者のことを「マゾヒスト」({{lang|en|masochist}}) あるいは単に「M」という。なお、「SM」という言葉が一般に定着する前は、「'''アブチック'''」「'''悦虐'''」「'''責'''」「'''耽奇'''」などと表現されていた<ref>{{Cite web|和書|title=SMという言葉が定着するまでのワード—アブチック・悦虐・責・耽奇-[ビバノン循環湯 271] (松沢呉一) -3,080文字- |url=https://www.targma.jp/vivanonlife/2017/06/post30567/ |website=松沢呉一のビバノン・ライフ |date=2017-06-04 |accessdate=2022-04-11 |language=ja}}</ref>。 [[ファイル:Flogging demo folsom 2004.jpg|right|thumb|250px|SMプレイ]] [[画像:S&M Dungeon 4 by David Shankbone.jpg|thumb|240px|[[フェムドム]]]] [[Image:Model in vertical hogtie.jpg|right|thumb|200px|[[緊縛]]]] [[File:Michael Zichy - Liebe.jpg|thumb|250px|[[顔面騎乗]]]] [[File:ChastityBelt penis tube 2.jpeg|thumb|[[射精管理]]に使用される男性用[[貞操帯]]の内側]] == 語源 == 「サディズム」は、この嗜虐性行為にのめり込んで何度も暴行容疑で投獄されながら、獄中で自身の体験やファンタジーを描写した数々の長編小説を書きつづけ、最期には狂人扱いされてしまった[[フランス革命|大革命]]時代(18世紀末から19世紀初頭)の[[フランス]]貴族[[マルキ・ド・サド]](サド侯爵)の名に由来する。『[[ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え|悪徳の栄え]]』や『[[ソドム百二十日]]』などは、19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、SMを表舞台に引き出すことにつながった。 「マゾヒズム」の方は、精神的肉体的な苦痛に快楽を感じ、情婦との間に自らが彼女の奴隷となりその願望と命令のすべて実現することを誓った契約書まで交わして、やはりそうした自らの体験をもとにした『毛皮を着たヴィーナス』などの小説を発表した19世紀中頃のオーストリアの作家[[ザッヘル・マゾッホ]]の名に由来する。 == 概要 == {{出典の明記|date=2022年1月|section=1}} [[精神医学]]面での「性的サディズム」などでは、[[性的興奮]]を得るために一方的に何かを[[虐待]]するという性格異常を発揮し、一方の「性的マゾヒズム」では辱めを受けたり自らの肉体を損傷する([[自傷行為]])ことで性的興奮を得るとされる。ただこれらは、[[性的倒錯]](パラフィリア)と呼ばれる[[精神障害]]である。 [[ボンデージ]]などといった[[ファッション]]スタイルも見られる。日本では「[[緊縛]]」と呼ばれる縄で縛り付ける行為も見られ、この緊縛にも「[[緊縛師]]」と呼ばれる専門家が存在する。「[[ソフトSM]]」と呼ばれる行為では「手を(軽く)縛る」や「目隠しをする」といったプレイも見られる。 なお性的サディズムの傾向は[[ドメスティックバイオレンス]](DV:配偶者からの[[暴力]])という状況も発生させうるが、いわゆる性風俗におけるSMでは双方同意のうえで「叩いたり、叩かれたり」といった行為が行われ、また深刻な負傷を発生させないよう抑制された暴力または工夫された擬似的暴力であるといった相違がある。その一方で、「ハードSM」と呼ばれるものでは「[[鞭打ち]]」や「[[ろうそくプレイ|ロウソク責め]]」、[[性器ピアス]]を取り付けるなどのプレイの分野もある。 SMは原則としては[[性的ロールプレイ]]のうち、支配者と被支配者に役割を分けて行われる性行為に分類され、ロールプレイのスタイルにより本項で扱われるS&Mのほかに'''[[ボンデージ|B&D]]'''(拘束と支配 '''B'''ondage & '''D'''ominance、又は訓練 '''D'''iscipline)や、'''D&S'''(支配と服従 '''D'''ominance & '''S'''ubmission)などに細別されるが、どのプレイスタイルにおいても本項におけるSの立場の人間は'''トップ'''、Mの立場の人間は'''ボトム'''として総称される<ref>[http://www.st.rim.or.jp/~tku/asbfaq/a.html 1. B&D、 S&M、 D&S、 「トップ(S)」、 「ボトム(M)」とはどういう意味なのでしょうか? - alt.sex.bondage FAQ リスト]</ref>。 == 行為 == SMは主人の役割を演じる者(トップ)と奴隷の役割を演じる者(ボトム)に分かれて、'''互いの[[性的同意|積極的な合意]]のもとに'''行う性行為である。 === セーフワード === [[File:Male slave with chastity cage.jpg|thumb|永久貞操のための金属製の陰茎ケージを持つ奴隷]] あくまでもSMはトップとボトムの間に信頼関係を前提としているロールプレイである。ボトムはプレイ中にトップの気分を高揚させる目的で「痛い」「やめて」などの悲鳴を発することが多い。しかしプレイ中、ボトムに心身の異常が発生した場合には中断の意思をトップに伝える必要がある。生命に関わる事故を未然に防ぐ為、'''セーフワード'''と呼ばれる合言葉をプレイ前に設定しておくことが推奨されている<ref name="safe">[http://www.st.rim.or.jp/~tku/asbfaq/c.html セーフワードとは? - alt.sex.bondage FAQ リスト]</ref>。 また、セーフワードは稀にトップがボトムに対して用いるケースもある。責めに対するボトムの異常な反応に対してどう対処してよいかわからない場合や、プレイが長時間に及び責める体力や気力が尽きた場合などにトップ側からプレイを中断する目的でも使用される<ref name="safe"/>。 セーフワードは欧米圏では「Yellow」と「Red」の二つの単語が用いられることが多く、前者は「少しきついので責めを弱くしてほしいが、プレイは続行してもよい」、後者は「異常事態なので直ちに中断してほしい」という意味で解釈される。また、世界的な共通事項として「セーフワード」という単語を叫ぶことは、それ自体がセーフワードとしての効力を有するとされる。セーフワードはトップとボトムの合意事項でどのような単語を定めてもよいため、プレイ中の誤認を防ぐ目的で、その時のプレイ内容とは何ら関係のない単語を設定することも行われる<ref name="safe"/>。 プレイ内容により、[[猿轡]]を用いるなどしてボトム側が言語能力を制限されている場合には、首を横に何度も振る、[[タップアウト]]する、[[SOS]]などの規則的な叫びを何度も発するなどの方法が用いられる場合があり、拘束具や緊縛プレイなどで身体的な[[ジェスチャー]]が困難な場合には、予めボトムの手に[[ハンカチ]]などを握らせておき、ボトムの手からハンカチが落ちた場合には何らかの異常事態が発生したと判断する方法もある。どのような方法を用いる場合でも、トップがボトムの'''セーフワードを認知した場合には、直ちに全てのプレイを中断すること'''、ボトムがトップのセーフワードを認知した場合にはプレイの中断を果断なく受け入れることが、SMにおける最低限のルールであり、これを承知しないパートナーとはプレイを行うことは望ましくないとされている<ref name="safe"/>。 セーフワードはSMにおける最後の安全装置の役割を果たす為、それを設定することによりプレイがつまらなくなるかもしれないという懸念がある一方で、パートナー同士の互いの限界を見極める鍵となる要素にもなる為、パートナー同士がより高度なプレイに発展する為には、ボトムがセーフワードを使うまで容赦なく責めを強化してもよいと解釈しうる場合もある。また、パートナー同士が極めて高い信頼関係と深い経験を有する場合には、敢えてセーフワードを設定せずプレイに及ぶエッジプレイと呼ばれるスタイルを敢行する場合もある<ref name="safe"/>。 == SMの問題点 == SMプレイは基本的に、行為ないし結果について同意がある限りは、「[[被害者の承諾|被害者の同意]]」として、違法性阻却事由ないし構成要件該当性阻却事由となり、罪には問われない。しかし、相手を殺してしまった場合においては[[自殺関与・同意殺人罪|嘱託殺人]]罪に問われる可能性がある<ref>{{Cite book|和書|title=基本刑法Ⅰー総論[第3版]|date=2019年5月25日|year=2019|publisher=日本評論社|pages=pp.159-160}}</ref> また、SM行為そのものは相手から要求されたものであっても、相手を殺しかねないと認識した上で過度な行為に及び、最終的に相手を死なせた場合は[[殺人罪]]が適用される可能性がある。 [[オーストリア]]で、売春の男性客に依頼された「SM行為」をした結果、男性が死亡した事件が2015年に発生しており、依頼に応じた女性に有罪判決が下った。この女性には[[執行猶予]]付きの[[禁錮]]2年が言い渡されている<ref>[https://www.bengo4.com/internet/n_5156/依頼された「SM行為」の結果、男性客が死亡… 頼まれてやったのに犯罪になるの? (弁護士ドットコム 2016年09月29日)]{{リンク切れ|date=2019年4月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == ;性風俗産業としての業態 {{colbegin|2}} *[[SMクラブ]]、[[SMバー]] *[[SM嬢]]、[[緊縛師]] {{colend}} ;SM文化用語 {{colbegin|2}} *[[BDSM]]、[[CMNF]]、[[CFNM]] *[[ミストレス]]、[[フェムドム]]、[[ウィッピング]] {{colend}} ;プレイとしての内容 {{colbegin|2}} *[[奴隷市場 (性風俗)]] *[[金蹴りプレイ]]、[[放置プレイ]]、[[羞恥プレイ]] *[[木馬責め]]、[[逆さ吊り]]、[[ろうそくプレイ]] *[[浣腸]] *[[調教]]、[[緊縛]]、[[性的ロールプレイ]] *[[ヒューマン・アニマル・ロールプレイ]] *[[パイズリ]]、[[足コキ]]、[[顔面騎乗]] *[[デフェクチオ]] {{colend}} == 外部リンク == * [https://smpedia.com SMpedia] ‐ SM文化のデータペース {{性}} {{Porn-stub}} {{Sex-stub}} {{Psych-stub}} {{Socsci-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:えすえむ}} [[Category:BDSM]] [[Category:ポルノグラフィ]] [[Category:性風俗産業]] [[Category:略語]] [[Category:萌え属性]] [[Category:人間関係]]
2003-07-21T16:47:46Z
2023-09-30T04:13:52Z
false
true
true
[ "Template:Lang", "Template:Colend", "Template:Colbegin", "Template:Normdaten", "Template:Redirect", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:リンク切れ", "Template:性", "Template:Porn-stub", "Template:Sex-stub", "Template:Psych-stub", "Template:性的", "Template:暴力的", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:複数の問題", "Template:出典の明記", "Template:Socsci-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/SM_(%E6%80%A7%E9%A2%A8%E4%BF%97)
12,004
PS2
スラッシュは正式には省略されないものとされている。PS/2とは、
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スラッシュは正式には省略されないものとされている。PS/2とは、", "title": "PS/2" } ]
null
== PS2 == * [[PlayStation 2]] - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]の[[ゲーム機]]。 * [[ファンタシースターII 還らざる時の終わりに|ファンタシースターII]] - [[セガ]]の[[メガドライブ]]用ゲームソフト。 == PS/2 == [[スラッシュ記号|スラッシュ]]は正式には省略されないものとされている。PS/2とは、 ** [[パーソナルコンピュータ]](PC)である[[IBM PS/2]]のこと。 ** 上記IBM PS/2が採用し普及始めた[[PS/2コネクタ]]の略称。 == PSII == * [[光化学系II]] (photosystem II) {{aimai}}
2003-07-21T16:51:23Z
2023-08-02T22:13:17Z
true
false
false
[ "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/PS2
12,017
三蔵
三蔵(さんぞう、巴: Tipiṭaka, ティピタカ、梵: Tripiṭaka, トリピタカ)は、仏教における経蔵・律蔵・論蔵の3つのことであり、仏教の典籍を総称したもの。 三蔵は、以下の3種から成る。 結集によって仏典がまとめられた初期仏教・部派仏教の時代から、仏典はこの形でまとめられ、継承されてきており、上座部仏教の『パーリ仏典』では、現在でもその原型を留めている。 他方、後世の数多くの大乗仏教経典の作成と混淆、段階的な仏典の伝播・翻訳を経るなど、三蔵が原型を留めた形で伝わらなかった中国仏教(北伝仏教)・チベット仏教圏では、仏典は「大蔵経(一切経)」という形で再編されることになり、これが仏典の総称として用いられている。 (ただし、雑多な『漢訳大蔵経』とは異なり、『チベット大蔵経』は、「律蔵」「経蔵」を「カンギュル」、「論蔵」を「テンギュル」と呼び、三蔵を意識した形で編纂されている。) 三蔵の語は、「三蔵に精通した人」という意味で用いられることもあり、玄奘三蔵はその例である。 中国では北周時代に僧官の1つとして「三蔵」が設置された。これはそれ以前の北朝の沙門統や南朝の僧正に相当する。また、「夏州三蔵」のように地方にも置かれていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三蔵(さんぞう、巴: Tipiṭaka, ティピタカ、梵: Tripiṭaka, トリピタカ)は、仏教における経蔵・律蔵・論蔵の3つのことであり、仏教の典籍を総称したもの。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "三蔵は、以下の3種から成る。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "結集によって仏典がまとめられた初期仏教・部派仏教の時代から、仏典はこの形でまとめられ、継承されてきており、上座部仏教の『パーリ仏典』では、現在でもその原型を留めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "他方、後世の数多くの大乗仏教経典の作成と混淆、段階的な仏典の伝播・翻訳を経るなど、三蔵が原型を留めた形で伝わらなかった中国仏教(北伝仏教)・チベット仏教圏では、仏典は「大蔵経(一切経)」という形で再編されることになり、これが仏典の総称として用いられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "(ただし、雑多な『漢訳大蔵経』とは異なり、『チベット大蔵経』は、「律蔵」「経蔵」を「カンギュル」、「論蔵」を「テンギュル」と呼び、三蔵を意識した形で編纂されている。)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "三蔵の語は、「三蔵に精通した人」という意味で用いられることもあり、玄奘三蔵はその例である。", "title": "他の用法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "中国では北周時代に僧官の1つとして「三蔵」が設置された。これはそれ以前の北朝の沙門統や南朝の僧正に相当する。また、「夏州三蔵」のように地方にも置かれていた。", "title": "他の用法" } ]
三蔵は、仏教における経蔵・律蔵・論蔵の3つのことであり、仏教の典籍を総称したもの。
{{混同|三蔵法師|玄奘三蔵}} {{出典の明記|date=2015年7月}} {{Infobox Buddhist term |image = [[File:Tipitaka2.jpg|200px]] |caption = [[パーリ仏典]]三蔵 |title=三蔵 |pi=Tipiṭaka |my={{my|ပိဋကတ် သုံးပုံ}} <br> {{IPA-my|pḭdəɡaʔ θóʊɴbòʊɴ|}} |si=[[:si:ත්‍රිපිටකය|ත්‍රිපිටකය]] |sa=त्रिपिटक<br/>Tripiṭaka |ne=त्रिपिटक |zh=三藏 |zh-Latn=Sānzàng |ja=三蔵 (さんぞう) |ja-Latn=sanzō |km=ព្រះត្រៃបិដក<br>(Preah trai bekdok) |ko=삼장 (三臧) |ko-Latn=samjang |th=พระไตรปิฎก |vi=Tam tạng |en=Three Baskets |bn=ত্রিপিটক |it=Tre canestri }} '''三蔵'''(さんぞう、{{lang-pi-short|Tipiṭaka}}, '''[[ティピタカ]]'''、{{lang-sa-short|Tripiṭaka}}, '''トリピタカ''')は、[[仏教]]における[[経蔵]]・[[律蔵]]・[[論蔵]]の3つのことであり、仏教の典籍を総称したもの<ref name="ib392">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=392-393 }}</ref>{{efn|原語の{{要出典範囲| Ti, Tri は「3」|date=2017年11月2日 (木) 08:11 (UTC)|title=}}、piṭaka は「籠」を意味し<ref name="ib392" />、3つの籠という意味である{{要出典|date=2017年11月2日 (木) 08:11 (UTC)|title=}}。}}。 == 構成 == 三蔵は、以下の3種から成る。 * [[律蔵]]([[パーリ語|巴]]・[[サンスクリット|梵]]: Vinayapiṭaka 〈ヴィナヤピタカ〉) - [[僧伽]](僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの。 * [[経蔵]]({{lang-pi-short|Suttapiṭaka 〈スッタピタカ〉}}、{{lang-sa-short|Sūtrapiṭaka 〈スートラピタカ〉}}) - [[釈迦]]の説いたとされる教え(法、ダルマ)をまとめたもの。 * [[論蔵]]({{lang-pi-short|Abhidhammapiṭaka 〈アビダンマピタカ〉}}、{{lang-sa-short|Abhidharmapiṭaka 〈アビダルマピタカ〉}}) - 上記の注釈、解釈などを集めたもの。 == 歴史 == [[結集]]によって仏典がまとめられた[[初期仏教]]・[[部派仏教]]の時代から、仏典はこの形でまとめられ、継承されてきており、[[上座部仏教]]の『[[パーリ仏典]]』では、現在でもその原型を留めている。 他方、後世の数多くの[[大乗仏教]]経典の作成と混淆、段階的な仏典の伝播・翻訳を経るなど、三蔵が原型を留めた形で伝わらなかった[[中国仏教]]([[大乗仏教|北伝仏教]])・[[チベット仏教]]圏では、仏典は「[[大蔵経]](一切経)」という形で再編されることになり、これが仏典の総称として用いられている。 (ただし、雑多な『[[大正新脩大蔵経|漢訳大蔵経]]』とは異なり、『[[チベット大蔵経]]』は、「律蔵」「経蔵」を「カンギュル」、「論蔵」を「テンギュル」と呼び、三蔵を意識した形で編纂されている。) == 他の用法 == 三蔵の語は、「三蔵に精通した人」という意味で用いられることもあり、[[玄奘]]三蔵はその例である<ref name="ib392" />。 === 僧官 === 中国では[[北周]]時代に[[僧官]]の1つとして「三蔵」が設置された。これはそれ以前の[[北朝 (中国)|北朝]]の[[沙門統]]や[[南朝 (中国)|南朝]]の[[僧正]]に相当する。また、「夏州三蔵」のように地方にも置かれていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 外部リンク == * [https://suttacentral.net/ Sutta Central] Early Buddhist texts, translations, and parallels (Multiple Languages) *[http://www.tipitaka.net/ Tipitaka Network] *[http://www.nibbana.com/tipitaka/tipilist.htm List of Pali Canon Suttas translated into English] (ongoing) *[http://www.tipitaka.org/ The Pali Tipitaka Project] (texts in 7 Asian languages) *[http://what-buddha-said.net/library/Pali/SLTP.htm The Sri Lanka Tripitaka Project Pali Canons] has a [http://www.bodhgayanews.net/pali.htm searchable database of the Pali texts] *[http://www.buddhist-canon.com/PALI/VIET/index.html The Vietnamese Nikaaya] (continuing, text in Vitenamese) *[http://search.nibbanam.com/ Search in English translations of the Tipitaka] *[http://www.newguide.org/index.html New Guide to the Tipitaka] has summaries of the entire Tipitaka in [[English language|English]] {{仏教典籍}} {{buddhism2}} {{DEFAULTSORT:さんそう}} [[Category:仏典]] [[Category:大蔵経]] [[Category:僧]] [[Category:仏教の名数3|そう]]
null
2023-05-14T06:14:13Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Buddhism2", "Template:Infobox Buddhist term", "Template:Lang-pi-short", "Template:Lang-sa-short", "Template:Notelist", "Template:仏教典籍", "Template:混同", "Template:出典の明記", "Template:Efn" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%94%B5
12,018
二上達也
二上 達也(ふたかみ たつや、1932年(昭和7年)1月2日 - 2016年(平成28年)11月1日)は、将棋棋士。渡辺東一名誉九段門下で棋士番号は57。タイトル獲得通算5期。1990年引退。 1989年から2002年にかけて日本将棋連盟会長を務めた。加藤治郎・原田泰夫の後任として将棋ペンクラブ名誉会長でもあった。 弟子に羽生善治がいる。 1932年、北海道函館市の網元の家で8人兄弟の末子として生まれた。1939年に母が亡くなり、京都帝大を卒業した兄は太平洋戦争で北千島に出征した後にシベリア抑留を受けた。比較的裕福な家庭だったが、戦後の農地改革で土地を失い、インフレにより貯蓄の価値が失われ、父は1946年に病気で亡くなった。その頃に函館中学(後の北海道函館中部高等学校)へ通っていた二上は友人との将棋に時間を費やすようになり、やがてアマチュア六段の白土誠太郎の将棋会所で指導を受けるようになった。 1949年、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、優勝した島田永信と共に北海道代表として東京で開かれたアマ名人戦に参加して二上は2回戦敗退、島田は優勝した。中央棋界との交流がある白土は日本将棋連盟会長を務めていた渡辺東一に二上を弟子とすることを提案した。シベリアから復員して函館中学の英語教師をしていた親代わりの兄は反対したが、軍で兄と面識のあった島田の説得もあり1950年に渡辺の内弟子となり上京した。 1950年4月、奨励会に二段で入会し、8か月後の同1950年11月に18歳で四段昇段しプロ入り。奨励会入会から四段昇段までの所要期間8か月は、四段昇段した棋士の中で「奨励会在籍最短記録」。 順位戦には1951年度の初参加から3年連続昇級して、一気にB級1組に上がる。さらに1年の間を置いて1956年にA級八段となる。入門から八段昇段までの所要期間6年間という最短記録は、その後も破られていない(2022年3月現在) 。 その後は23期連続でA級に留まり、名人へは3回挑戦した。1958年には準タイトル扱いの王座戦の決勝に進んだが、塚田正夫に敗れた。 初のタイトル挑戦は第10期(1959年度)九段戦であり、大山康晴三冠王(名人・九段・王将を独占)と戦ったが3勝4敗で敗れた。その直後の第9期王将戦でも大山に挑戦したが、2勝4敗で敗退した。第10期(1960年度)王将戦、第12期(1961年度)九段戦、第21期(1962年)名人戦では、四冠王の大山(新設の王位も含めて独占)と対決するが、いずれも敗退。 第12期(1962年度)王将戦では、今度は五冠王となっていた大山(新設の棋聖も含めて独占)を4勝2敗で破り、初のタイトルとなる王将を獲得。タイトル戦の数が3つの時代の1959年から続いていた大山の全冠独占を初めて崩した。 翌年度、王将を大山に奪還されて五冠復帰を許した。大山は1963年から1966年の間にタイトル19連続獲得を達成して五冠王を維持し、その間に二上はタイトル戦で大山に6回挑戦したがいずれも敗れた。第8期(1966年度前期)棋聖戦で大山を3勝1敗で破り、再び大山のタイトル独占を崩す。半年後に棋聖位を奪還され、再び大山が五冠を独占した。 大山とは、通算で45勝116敗、タイトル戦では20回対戦し奪取2・防衛0・敗退18であるが、大山の五冠独占を2度崩した。 1958年にA級入りした加藤一二三をはじめ、芹沢博文・山田道美・内藤國雄など年下の棋士が徐々に台頭した。1967年には山田が棋聖を獲得し、1968年には当時20歳の中原誠が当時の最年少記録で棋聖を獲得した。二上は1970年代に棋聖戦で4回、王座戦で1回、王将戦で1回タイトルに挑戦したが、いずれも敗れた。 1980年度後期の第37期棋聖戦で米長邦雄を破り、14年半ぶりにタイトル獲得。その後も1981年度の前期・後期で棋聖位を無敗で防衛し3連覇。1982年前期に森雞二に奪われ、通算5期が条件である永世棋聖にはなれなかった。なお、1981年度後期の棋聖位防衛による50歳のタイトル保持は、59歳で王将、54歳で棋聖のタイトルを保持していた大山康晴に次ぐ歴代2位の高齢記録である。 順位戦では1978年に6勝4敗で4名が並び、名人挑戦者を決めるプレーオフに出場し、二上は米長に敗れた。1979年には3勝6敗でB級1組へ降級したが翌1980年にはA級へ復帰した。1982年の2度目の降級後も2期後にA級へ復帰した。1986年に3度目に降級した後の1988年頃から引退を考え始め、1989年に公式戦であるオールスター勝ち抜き戦で弟子の羽生善治と対局して負けた際に最終的に引退を決意した(これが羽生との公式戦唯一の師弟対決である)。1990年3月31日に引退。 1967年から1973年の間、連盟の理事の一人となって出版などを担当した。勝負に集中するため1973年に辞任したが、将棋会館の建設問題が発生した。理事会が不透明な形で計画を進めたことに対して多数の棋士が反発し、二上は若手の代表として意見をまとめた。結果として1974年に当時の理事会が全て辞職し、塚田が会長、副会長に大山と中原、二上が専務理事となった。大山が建設担当となり東西に新しい将棋会館が建設された。 二上は理事として渉外を担当していたが、朝日新聞と契約していた名人戦の1976年度の交渉が難航し、合意に至らず順位戦・名人戦は中止された。代わりに名人戦の設立時にスポンサーだった毎日新聞が契約候補となり、棋士総会で毎日との契約が決定した。契約問題の責任をとって塚田理事会は総辞職し、新たに大山が会長に就任する際に二上は慰留を受けたが断って辞職した。 1989年、12年続いた大山会長に対する不満が若手・中堅の棋士の間で高まり、中原からの要請を受けて大山が最高顧問、二上が日本将棋連盟会長となった。2002年まで14年間(歴代最長)に渡って会長を務めた。その間に女流王位戦、大山名人杯倉敷藤花戦の創設や竜王戦などのタイトル戦における女流枠の設定による女流棋士戦の活性化と、国際将棋フォーラムの開催による日本以外の国への普及活動を行った。 2016年11月1日、肺炎により死去。84歳没。 棋風は居飛車の攻め将棋。相掛かりガッチャン銀戦法は二上定跡として有名である。守りが薄い状態で攻め込むため、展開の早い勝負になりやすく、終盤の力で勝負した。木村14世名人は二上のスピードの早い将棋を評価した。塚田は、自身の師匠である花田長太郎と塚田を足して2で割った棋風と語った。大山によれば振り飛車を嫌っていたとされるが、自身では対大山で経験を積んだため振り飛車の相手が苦にならなくなったという。 上の世代の棋士は対局中につぶやいたり、歌を歌う等、相手を惑わせることを日常的に行ったが、二上は盤上での勝負にこだわり盤外戦を行わなかった。二上だけでなく戦後の棋士達はそうした行為をしない傾向があった。 二上は詰将棋作家でもあり、処女作品集「将棋魔法陣」等を出版している。アマチュア時代の1948年に将棋世界に掲載されたことを初めとして、50年以上の間に約1万題を作成した。スポーツ新聞では15年以上の間、定期的に出題を行った。将棋ペンクラブ名誉会長。 若い頃はスピード昇級したため上の世代との対決が多かったが、2年年上の熊谷達人は順位戦で競い、気が合った。同じ時期に奨励会を過ごした山田道美もA級まで昇ったが、1970年に病死した。後輩の北村昌男・芹沢博文は一緒に酒を飲む機会が多かった。詰将棋作家同士の縁から、内藤國雄とも親しくなった。 在任期間が歴代最長となった連盟会長としての実績はもちろん、棋士として最も脂がのっていた30代半ばから連盟理事を務めるなど、棋界の中でもその見識の高さと人柄は一目置かれていた。米長邦雄は「意見の対立があったときは両者の言い分を皆まで聞く必要はない。二上達也が正しいと思ったほうが、正しいのである」と二上の見識の高さを評したうえで、「もっとも、二上さんと喧嘩や口論をする人などありはしない。二上さんが怒れば、必ず相手が悪いに決まっている」と、その人柄にも敬意を払っていた。 若いときには「函館の天才」と呼ばれた。また、その容姿から、「北海の美剣士」とも呼ばれた。「ガミさん」というニックネームで呼ばれた。 カラオケが好きなことから、芹沢に「マイク二上」という呼び名をつけられたこともある。 (2018年12月21日現在) 約10人の弟子を取ったが、その中から棋士となったのは上記の2名だけである。 856勝 752敗 勝率0.532 タイトル戦登場回数26、獲得合計5(詳細は「タイトル戦全成績一覧表」を参照)。 優勝合計5回
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "二上 達也(ふたかみ たつや、1932年(昭和7年)1月2日 - 2016年(平成28年)11月1日)は、将棋棋士。渡辺東一名誉九段門下で棋士番号は57。タイトル獲得通算5期。1990年引退。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1989年から2002年にかけて日本将棋連盟会長を務めた。加藤治郎・原田泰夫の後任として将棋ペンクラブ名誉会長でもあった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "弟子に羽生善治がいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1932年、北海道函館市の網元の家で8人兄弟の末子として生まれた。1939年に母が亡くなり、京都帝大を卒業した兄は太平洋戦争で北千島に出征した後にシベリア抑留を受けた。比較的裕福な家庭だったが、戦後の農地改革で土地を失い、インフレにより貯蓄の価値が失われ、父は1946年に病気で亡くなった。その頃に函館中学(後の北海道函館中部高等学校)へ通っていた二上は友人との将棋に時間を費やすようになり、やがてアマチュア六段の白土誠太郎の将棋会所で指導を受けるようになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1949年、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、優勝した島田永信と共に北海道代表として東京で開かれたアマ名人戦に参加して二上は2回戦敗退、島田は優勝した。中央棋界との交流がある白土は日本将棋連盟会長を務めていた渡辺東一に二上を弟子とすることを提案した。シベリアから復員して函館中学の英語教師をしていた親代わりの兄は反対したが、軍で兄と面識のあった島田の説得もあり1950年に渡辺の内弟子となり上京した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1950年4月、奨励会に二段で入会し、8か月後の同1950年11月に18歳で四段昇段しプロ入り。奨励会入会から四段昇段までの所要期間8か月は、四段昇段した棋士の中で「奨励会在籍最短記録」。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "順位戦には1951年度の初参加から3年連続昇級して、一気にB級1組に上がる。さらに1年の間を置いて1956年にA級八段となる。入門から八段昇段までの所要期間6年間という最短記録は、その後も破られていない(2022年3月現在) 。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その後は23期連続でA級に留まり、名人へは3回挑戦した。1958年には準タイトル扱いの王座戦の決勝に進んだが、塚田正夫に敗れた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "初のタイトル挑戦は第10期(1959年度)九段戦であり、大山康晴三冠王(名人・九段・王将を独占)と戦ったが3勝4敗で敗れた。その直後の第9期王将戦でも大山に挑戦したが、2勝4敗で敗退した。第10期(1960年度)王将戦、第12期(1961年度)九段戦、第21期(1962年)名人戦では、四冠王の大山(新設の王位も含めて独占)と対決するが、いずれも敗退。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "第12期(1962年度)王将戦では、今度は五冠王となっていた大山(新設の棋聖も含めて独占)を4勝2敗で破り、初のタイトルとなる王将を獲得。タイトル戦の数が3つの時代の1959年から続いていた大山の全冠独占を初めて崩した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "翌年度、王将を大山に奪還されて五冠復帰を許した。大山は1963年から1966年の間にタイトル19連続獲得を達成して五冠王を維持し、その間に二上はタイトル戦で大山に6回挑戦したがいずれも敗れた。第8期(1966年度前期)棋聖戦で大山を3勝1敗で破り、再び大山のタイトル独占を崩す。半年後に棋聖位を奪還され、再び大山が五冠を独占した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大山とは、通算で45勝116敗、タイトル戦では20回対戦し奪取2・防衛0・敗退18であるが、大山の五冠独占を2度崩した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1958年にA級入りした加藤一二三をはじめ、芹沢博文・山田道美・内藤國雄など年下の棋士が徐々に台頭した。1967年には山田が棋聖を獲得し、1968年には当時20歳の中原誠が当時の最年少記録で棋聖を獲得した。二上は1970年代に棋聖戦で4回、王座戦で1回、王将戦で1回タイトルに挑戦したが、いずれも敗れた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1980年度後期の第37期棋聖戦で米長邦雄を破り、14年半ぶりにタイトル獲得。その後も1981年度の前期・後期で棋聖位を無敗で防衛し3連覇。1982年前期に森雞二に奪われ、通算5期が条件である永世棋聖にはなれなかった。なお、1981年度後期の棋聖位防衛による50歳のタイトル保持は、59歳で王将、54歳で棋聖のタイトルを保持していた大山康晴に次ぐ歴代2位の高齢記録である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "順位戦では1978年に6勝4敗で4名が並び、名人挑戦者を決めるプレーオフに出場し、二上は米長に敗れた。1979年には3勝6敗でB級1組へ降級したが翌1980年にはA級へ復帰した。1982年の2度目の降級後も2期後にA級へ復帰した。1986年に3度目に降級した後の1988年頃から引退を考え始め、1989年に公式戦であるオールスター勝ち抜き戦で弟子の羽生善治と対局して負けた際に最終的に引退を決意した(これが羽生との公式戦唯一の師弟対決である)。1990年3月31日に引退。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1967年から1973年の間、連盟の理事の一人となって出版などを担当した。勝負に集中するため1973年に辞任したが、将棋会館の建設問題が発生した。理事会が不透明な形で計画を進めたことに対して多数の棋士が反発し、二上は若手の代表として意見をまとめた。結果として1974年に当時の理事会が全て辞職し、塚田が会長、副会長に大山と中原、二上が専務理事となった。大山が建設担当となり東西に新しい将棋会館が建設された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "二上は理事として渉外を担当していたが、朝日新聞と契約していた名人戦の1976年度の交渉が難航し、合意に至らず順位戦・名人戦は中止された。代わりに名人戦の設立時にスポンサーだった毎日新聞が契約候補となり、棋士総会で毎日との契約が決定した。契約問題の責任をとって塚田理事会は総辞職し、新たに大山が会長に就任する際に二上は慰留を受けたが断って辞職した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1989年、12年続いた大山会長に対する不満が若手・中堅の棋士の間で高まり、中原からの要請を受けて大山が最高顧問、二上が日本将棋連盟会長となった。2002年まで14年間(歴代最長)に渡って会長を務めた。その間に女流王位戦、大山名人杯倉敷藤花戦の創設や竜王戦などのタイトル戦における女流枠の設定による女流棋士戦の活性化と、国際将棋フォーラムの開催による日本以外の国への普及活動を行った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2016年11月1日、肺炎により死去。84歳没。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "棋風は居飛車の攻め将棋。相掛かりガッチャン銀戦法は二上定跡として有名である。守りが薄い状態で攻め込むため、展開の早い勝負になりやすく、終盤の力で勝負した。木村14世名人は二上のスピードの早い将棋を評価した。塚田は、自身の師匠である花田長太郎と塚田を足して2で割った棋風と語った。大山によれば振り飛車を嫌っていたとされるが、自身では対大山で経験を積んだため振り飛車の相手が苦にならなくなったという。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "上の世代の棋士は対局中につぶやいたり、歌を歌う等、相手を惑わせることを日常的に行ったが、二上は盤上での勝負にこだわり盤外戦を行わなかった。二上だけでなく戦後の棋士達はそうした行為をしない傾向があった。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "二上は詰将棋作家でもあり、処女作品集「将棋魔法陣」等を出版している。アマチュア時代の1948年に将棋世界に掲載されたことを初めとして、50年以上の間に約1万題を作成した。スポーツ新聞では15年以上の間、定期的に出題を行った。将棋ペンクラブ名誉会長。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "若い頃はスピード昇級したため上の世代との対決が多かったが、2年年上の熊谷達人は順位戦で競い、気が合った。同じ時期に奨励会を過ごした山田道美もA級まで昇ったが、1970年に病死した。後輩の北村昌男・芹沢博文は一緒に酒を飲む機会が多かった。詰将棋作家同士の縁から、内藤國雄とも親しくなった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "在任期間が歴代最長となった連盟会長としての実績はもちろん、棋士として最も脂がのっていた30代半ばから連盟理事を務めるなど、棋界の中でもその見識の高さと人柄は一目置かれていた。米長邦雄は「意見の対立があったときは両者の言い分を皆まで聞く必要はない。二上達也が正しいと思ったほうが、正しいのである」と二上の見識の高さを評したうえで、「もっとも、二上さんと喧嘩や口論をする人などありはしない。二上さんが怒れば、必ず相手が悪いに決まっている」と、その人柄にも敬意を払っていた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "若いときには「函館の天才」と呼ばれた。また、その容姿から、「北海の美剣士」とも呼ばれた。「ガミさん」というニックネームで呼ばれた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "カラオケが好きなことから、芹沢に「マイク二上」という呼び名をつけられたこともある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "(2018年12月21日現在)", "title": "弟子" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "約10人の弟子を取ったが、その中から棋士となったのは上記の2名だけである。", "title": "弟子" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "856勝 752敗 勝率0.532", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "タイトル戦登場回数26、獲得合計5(詳細は「タイトル戦全成績一覧表」を参照)。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "優勝合計5回", "title": "主な成績" } ]
二上 達也は、将棋棋士。渡辺東一名誉九段門下で棋士番号は57。タイトル獲得通算5期。1990年引退。 1989年から2002年にかけて日本将棋連盟会長を務めた。加藤治郎・原田泰夫の後任として将棋ペンクラブ名誉会長でもあった。 弟子に羽生善治がいる。
{{Infobox 将棋棋士 |image = |caption = |名前 = 二上達也 |棋士番号 = 57 |生年月日 = {{生年月日と年齢|1932|1|2|no}} |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1932|1|2|2016|11|1}} |プロ年度 = {{年月日|year=1950|month=4|day=1}}({{年数|1932|1|2|1950|4|1}}歳) |引退年度 = {{年月日|year=1990|month=3|day=31}}({{年数|1932|1|2|1990|3|31}}歳)<br/><ref group="注" name="intai" /> |出身地 = [[北海道]][[函館市]] |所属 = 関東 |師匠 = [[渡辺東一]]名誉九段 |弟子 = [[瀬戸博晴]]、[[羽生善治]] |段位 = 九段 |タイトル合計 = 5期 |優勝回数 = 5回 |通算成績 = 856勝752敗(.532) |竜王戦クラス = 1組(3期) |順位戦クラス = A級(27期) }} '''二上 達也'''(ふたかみ たつや、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[1月2日]] - [[2016年]]([[平成]]28年)[[11月1日]]<ref name="sponichi20161104" /><ref name="Shogirenmei">{{Cite web|和書|title= 訃報 二上達也九段|将棋ニュース|日本将棋連盟 |publisher= [[日本将棋連盟]]|date= 2016-11-4|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/11/post_1461.html|accessdate= 2017-8-23}}</ref>)は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。[[渡辺東一]]名誉九段門下で[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は57。タイトル獲得通算5期。1990年引退<ref name="nenkan2008">{{Cite book|和書|editor=[[青野照市]]編|year=2008|title=将棋年鑑 平成21年版|publisher=[[日本将棋連盟]]|page=521|id=ISBN 978-4-8399-3261-9}}</ref>。 [[1989年]]から[[2002年]]にかけて[[日本将棋連盟]]会長を務めた<ref name="shogi_or_history">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/about/history.html |title=創立・沿革|将棋連盟について|日本将棋連盟 |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2017-08-23}}</ref>。[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]・[[原田泰夫]]の後任として将棋ペンクラブ名誉会長でもあった。 弟子に[[羽生善治]]がいる<ref group="注">小学校1年から6年まで二上の最初の弟子である中嶋克安[[指導棋士]]六段(家庭の事情で引退)が主催する「八王子将棋クラブ」で指導を受け、[[小学生将棋名人戦]]で優勝したあと[[新進棋士奨励会|奨励会]]入りし二上門下となった。</ref>。 == 経歴 == === 生い立ち === [[1932年]]、[[北海道]][[函館市]]の網元の家で8人兄弟の末子として生まれた<ref>二上(2004) 15頁</ref>。1939年に母が亡くなり、京都帝大を卒業した兄は[[太平洋戦争]]で北千島に出征した後に[[シベリア抑留]]を受けた<ref>二上(2004) 22頁、二上(2008) 40、45-48頁</ref>。比較的裕福な家庭だったが、[[戦後]]の[[農地改革]]で土地を失い、インフレにより貯蓄の価値が失われ、父は1946年に病気で亡くなった<ref>二上(2008) 47-48頁</ref>。その頃に函館中学(後の[[北海道函館中部高等学校]])へ通っていた二上は友人との将棋に時間を費やすようになり、やがてアマチュア六段の白土誠太郎<ref group="注">1960年に七段。{{Cite web|和書|url=http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/shirato_sei.htm|title=はこだて人物誌 白土誠太郎|accessdate=2012-08-14|date=2008-03-31|author=函館市中央図書館|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110527055445/http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/shirato_sei.htm|archivedate=2011年5月27日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>の将棋会所で指導を受けるようになった<ref>二上(2004) 40頁、50-53頁</ref>。 1949年、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、優勝した島田永信と共に北海道代表として東京で開かれたアマ名人戦に参加して二上は2回戦敗退、島田は優勝した<ref>二上(2004) 34-35頁</ref>。中央棋界との交流がある白土は日本将棋連盟会長を務めていた[[渡辺東一]]に二上を弟子とすることを提案した<ref group="注">二上より年下で同じ函館出身の[[北村昌男]]は既に白土の紹介で渡辺の弟子となっていた。二上(2004) 34-35頁</ref>。シベリアから復員して函館中学の英語教師をしていた親代わりの兄は反対したが、軍で兄と面識のあった島田の説得もあり1950年に渡辺の内弟子となり上京した<ref>二上(2008) 62-64頁</ref>。 === プロ入り === 1950年4月、[[新進棋士奨励会|奨励会]]に二段で入会<ref>二上(2004) 43頁</ref>し、8か月後の同1950年11月に18歳で四段昇段しプロ入り<ref>二上(2004) 50頁</ref>。奨励会入会から四段昇段までの所要期間8か月は、四段昇段した棋士の中で「奨励会在籍最短記録」<ref>2023年12月17日放送「[[将棋フォーカス]]」([[NHK Eテレ]])による。</ref>。 [[順位戦]]には1951年度の初参加から3年連続昇級して、一気にB級1組に上がる。さらに1年の間を置いて1956年にA級八段となる。入門から八段昇段までの所要期間6年間という最短記録は、その後も破られていない(2022年3月現在) <ref>二上(2004) 71頁</ref>。 その後は23期連続でA級に留まり<ref group="注" name="juni_hosei" /><ref name="nenkan2008" />、名人へは3回挑戦した。1958年には準タイトル扱いの王座戦の決勝に進んだが、[[塚田正夫]]に敗れた<ref>二上(2004) 95頁</ref>。 === 大山とのタイトル争い === 初のタイトル挑戦は第10期(1959年度)[[十段戦 (将棋)|九段戦]]であり、[[大山康晴]]三冠王(名人・九段・王将を独占)と戦ったが3勝4敗で敗れた<ref name="kudan_index">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/finished/10_9.html |title=九段戦(全日本選手権戦)・十段戦|終了・休止棋戦|日本将棋連盟 |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2017-08-23}}</ref>。その直後の第9期[[王将戦]]でも大山に挑戦したが、2勝4敗で敗退した<ref name="oushou_index">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/oushou/ |title=王将戦|棋戦|日本将棋連盟 |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2017-08-23}}</ref>。第10期(1960年度)王将戦、第12期(1961年度)九段戦、第21期(1962年)[[名人戦 (将棋)|名人戦]]では、四冠王の大山(新設の[[王位戦 (将棋)|王位]]も含めて独占)と対決するが、いずれも敗退<ref name="oushou_index" /><ref name="kudan_index" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/junni/|title=名人戦・順位戦|棋戦|日本将棋連盟 |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2017-08-23}}</ref>。 第12期(1962年度)王将戦では、今度は五冠王となっていた大山(新設の[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]も含めて独占)を4勝2敗で破り、初のタイトルとなる王将を獲得<ref name="oushou_index" /><ref>二上(2004)112-113頁</ref>。タイトル戦の数が3つの時代の1959年から続いていた大山の全冠独占を初めて崩した。 翌年度、王将を大山に奪還されて五冠復帰を許した。大山は1963年から1966年の間にタイトル19連続獲得を達成して五冠王を維持し、その間に二上はタイトル戦で大山に6回挑戦したがいずれも敗れた。第8期(1966年度前期)[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]で大山を3勝1敗で破り、再び大山のタイトル独占を崩す。半年後に棋聖位を奪還され、再び大山が五冠を独占した。 大山とは、通算で45勝116敗、タイトル戦では20回対戦し奪取2・防衛0・敗退18<ref>二上(2004) 116頁</ref>であるが、大山の五冠独占を2度崩した。 === 2度目の棋聖獲得と引退 === 1958年にA級入りした[[加藤一二三]]をはじめ、[[芹沢博文]]・[[山田道美]]・[[内藤國雄]]など年下の棋士が徐々に台頭した。1967年には山田が棋聖を獲得し<ref name="kisei_index">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/kisei/|title=棋聖戦|棋戦|日本将棋連盟 |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2017-08-23}}</ref>、1968年には当時20歳の[[中原誠]]が当時の最年少記録で棋聖を獲得した<ref>二上(2004) 152頁</ref>。二上は1970年代に棋聖戦で4回<ref name="kisei_index" />、王座戦で1回<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/ouza/|title=王座戦|棋戦|日本将棋連盟 |publisher=[[日本将棋連盟]]|accessdate=2017-08-23}}</ref>、王将戦で1回<ref name="oushou_index" />タイトルに挑戦したが、いずれも敗れた。 1980年度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、14年半ぶりにタイトル獲得。その後も1981年度の前期・後期で棋聖位を無敗で防衛し3連覇。1982年前期に[[森雞二]]に奪われ、通算5期が条件である永世棋聖にはなれなかった<ref name="kisei_index" />。なお、1981年度後期の棋聖位防衛による50歳のタイトル保持は、59歳で王将、54歳で棋聖のタイトルを保持していた大山康晴に次ぐ歴代2位の高齢記録である<ref group="注">50代の棋士のタイトル保持は、49歳11か月で名人のタイトルを獲得した米長邦雄を含めても、3人しかいない</ref>。 順位戦では1978年に6勝4敗で4名が並び、名人挑戦者を決めるプレーオフに出場し、二上は米長に敗れた。1979年には3勝6敗でB級1組へ降級したが翌1980年にはA級へ復帰した。1982年の2度目の降級後も2期後にA級へ復帰した。1986年に3度目に降級した後の1988年頃から引退を考え始め<ref name="kishi_174">二上(2004) 174-178頁</ref>、1989年に公式戦である[[オールスター勝ち抜き戦]]で弟子の[[羽生善治]]と対局して負けた際に最終的に引退を決意した(これが羽生との公式戦唯一の師弟対決である)<ref name="kishi_174" />。1990年3月31日に引退<ref group="注" name="intai">日本将棋連盟の棋士データベースでは、二上の引退日が「3月1日」となっているが、3月1日以降も公式戦4局の対局が行われている。</ref>。 === 将棋連盟の役職 === 1967年から1973年の間、連盟の理事の一人となって出版などを担当した。勝負に集中するため1973年に辞任したが、将棋会館の建設問題が発生した<ref>二上(2004) 145-149頁</ref>。理事会が不透明な形で計画を進めたことに対して多数の棋士が反発し、二上は若手の代表として意見をまとめた。結果として1974年に当時の理事会が全て辞職し、塚田が会長、副会長に大山と中原、二上が専務理事となった。大山が建設担当となり東西に新しい将棋会館が建設された<ref>二上(2004) 150-154頁</ref>。 二上は理事として渉外を担当していたが、朝日新聞と契約していた名人戦の1976年度の交渉が難航し、合意に至らず順位戦・名人戦は中止された。代わりに名人戦の設立時にスポンサーだった毎日新聞が契約候補となり、棋士総会で毎日との契約が決定した。契約問題の責任をとって塚田理事会は総辞職し、新たに大山が会長に就任する際に二上は慰留を受けたが断って辞職した<ref>二上(2004) 155-160頁</ref>。 1989年、12年続いた大山会長に対する不満が若手・中堅の棋士の間で高まり、中原からの要請を受けて大山が最高顧問、二上が[[日本将棋連盟]]会長となった<ref name="kishi_174" />。[[2002年]]まで14年間(歴代最長)に渡って会長を務めた<ref name="shogi_or_history" />。その間に[[女流王位戦]]、[[大山名人杯倉敷藤花戦]]の創設や[[竜王戦]]などのタイトル戦における女流枠の設定による女流棋士戦の活性化と、[[国際将棋フォーラム]]の開催による日本以外の国への普及活動を行った<ref>二上(2004) 189-193頁</ref>。 2016年11月1日、肺炎により死去<ref name="sponichi20161104">{{Cite news|title=将棋の二上達也九段が死去 元将棋連盟会長 弟子に羽生善治ら|newspaper=スポニチアネックス|date=2016年11月4日14時20分|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/11/04/kiji/K20161104013660420.html|accessdate=2016-11-04}}</ref><ref name="Shogirenmei" />。{{没年齢|1932|1|2|2016|11|1}}。 == 棋風 == [[棋風]]は[[居飛車]]の攻め将棋。[[相掛かり]][[ガッチャン銀]]戦法は二上定跡として有名である<ref>「将棋の公式」[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]著より</ref>。守りが薄い状態で攻め込むため、展開の早い勝負になりやすく、終盤の力で勝負した<ref name="kishi_71">二上(2004) 71-76頁</ref>。木村14世名人は二上のスピードの早い将棋を評価した<ref name="kishi_71" />。塚田は、自身の師匠である[[花田長太郎]]と塚田を足して2で割った棋風と語った<ref>二上(2004) 94-96頁</ref>。大山によれば振り飛車を嫌っていたとされる<ref>{{Cite book|和書|author=大山康晴|year=1988|title=昭和将棋史|publisher=[[岩波書店]]|id=ISBN 4-00-430007-X}} 177-178頁</ref>が、自身では対大山で経験を積んだため振り飛車の相手が苦にならなくなったという<ref>二上(2004) 166-167頁</ref>。 上の世代の棋士は対局中につぶやいたり、歌を歌う等、相手を惑わせることを日常的に行ったが、二上は盤上での勝負にこだわり[[盤外戦]]を行わなかった<ref name="kishi_127">二上(2004) 85-86頁、127-135頁</ref>。二上だけでなく戦後の棋士達はそうした行為をしない傾向があった<ref name="kishi_127" />。 == 人物 == 二上は詰将棋作家でもあり、処女作品集「将棋魔法陣」等を出版している<ref name="sekai2000">「[[将棋世界]]」2000年1月号付録</ref><ref group="注">「将棋魔法陣」は1953年に約200部を発行した。</ref>。アマチュア時代の1948年に[[将棋世界]]に掲載されたことを初めとして<ref>二上(2004) 182-183頁</ref>、50年以上の間に約1万題を作成した<ref>二上(2008) 218-220頁</ref>。スポーツ新聞では15年以上の間、定期的に出題を行った<ref>{{Cite book|和書|author=二上達也|year=1994|title=詰め物そぞろある記|publisher=[[マイナビ|毎日コミュニケーションズ]]|id=ISBN 4-89563-602-X|page=7}}</ref>。[[将棋ペンクラブ]]名誉会長<ref name="nenkan2008" />。 若い頃はスピード昇級したため上の世代との対決が多かったが、2年年上の[[熊谷達人]]は順位戦で競い、気が合った<ref>二上(2004) 68-69頁</ref>。同じ時期に奨励会を過ごした[[山田道美]]もA級まで昇ったが、1970年に病死した<ref>二上(2004) 141-142頁</ref>。後輩の[[北村昌男]]・[[芹沢博文]]は一緒に酒を飲む機会が多かった<ref>二上(2004) 102-103頁</ref>。詰将棋作家同士の縁から、[[内藤國雄]]とも親しくなった<ref>二上(2004) 185-187頁</ref>。 在任期間が歴代最長となった連盟会長としての実績はもちろん、棋士として最も脂がのっていた30代半ばから連盟理事を務めるなど、棋界の中でもその見識の高さと人柄は一目置かれていた。[[米長邦雄]]は「意見の対立があったときは両者の言い分を皆まで聞く必要はない。二上達也が正しいと思ったほうが、正しいのである」と二上の見識の高さを評したうえで、「もっとも、二上さんと喧嘩や口論をする人などありはしない。二上さんが怒れば、必ず相手が悪いに決まっている」と、その人柄にも敬意を払っていた<ref>{{Cite book|和書|title=米長邦雄勝局集|date=1984-09-10|year=1984|publisher=講談社|isbn=9784061833364|edition=電子書籍版(2020年刊行)|page=64}}</ref>。 === ニックネーム === 若いときには「函館の天才」と呼ばれた<ref name="sekai2000"/>。また、その容姿から、「北海の美剣士」とも呼ばれた。「ガミさん」というニックネームで呼ばれた<ref name="sekai2000"/><ref>二上(2004) 151頁</ref>。 [[カラオケ]]が好きなことから、芹沢に「マイク二上」という呼び名をつけられたこともある<ref>{{Cite book|和書|author=二上達也|year=1994|title=詰め物そぞろある記|publisher=[[マイナビ|毎日コミュニケーションズ]]|id=ISBN 4-89563-602-X|page=41}}</ref>。 == 弟子 == ===棋士=== {| class="wikitable" |- ! 名前 !! 四段昇段日!!段位、主な活躍 |- | [[瀬戸博晴]] || 1979年10月18日 |七段 |- | [[羽生善治]] || 1985年12月18日 |九段、竜王7期、名人9期、他タイトル通算99期、一般棋戦優勝46回 |} (2023年11月25日現在) 約10人の弟子を取ったが、その中から棋士となったのは上記の2名だけである<ref>二上(2004) 169-173頁</ref>。 == 昇段履歴 == *1950年{{0}}4月{{0|00日}} : 二段 = [[新進棋士奨励会|奨励会]]入会 *1950年11月{{0|00日}} : 四段 = プロ入り *1952年{{0}}4月{{0}}1日 : 五段([[順位戦]]C級1組昇級) *1953年{{0}}4月{{0}}1日 : 六段(順位戦B級2組昇級) *1954年{{0}}4月{{0}}1日 : 七段(順位戦B級1組昇級) *1956年{{0}}4月{{0}}1日 : 八段(順位戦A級昇級) *1973年11月{{0}}3日 : 九段(九段昇格規定30点) *1990年{{0}}3月{{0|00日}} : 引退 == 主な成績 == === 通算成績 === 856勝 752敗 勝率0.532 === タイトル === タイトル戦登場回数26、獲得合計5(詳細は「タイトル戦全成績一覧表」を参照)。 *[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]] 4期(1966年度前期=第8期、1980年度後期=第37期 - 1981年度後期=39期) *[[王将戦|王将]] 1期(1962年度=第12期) {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed " style="!float:right" border="1" |+ style="text-align:left"|タイトル戦全成績一覧表 |- align="center" style="background-color: #ccf;" |年度||タイトル||勝敗||相手||備考 |- style="font-size:89%" |1959||[[十段戦 (将棋)|九段]]||○○●●●○●||[[大山康晴]]||<!--- 11/14-1/8 ---> |- style="font-size:89%" |1959||[[王将戦|王将]]||●○●千●○●||大山康晴||<!--- 1/15-3/29 ---> |- style="font-size:89%" |1960||王将||○○●●●●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1961||九段||○○●●●●||大山康晴||<!--- 11/8-12/29 ---> |- style="font-size:89%" |1962||[[名人戦 (将棋)|名人]]||●●●●||大山康晴||<!--- 4/12-5/24 ---> |- style="font-size:89%" |style="background-color:#ffcccc"|1962||style="background-color:#ffcccc"|王将||style="background-color:#ffcccc"|●○○○●○||style="background-color:#ffcccc"|大山康晴||style="background-color:#ffcccc"|奪取(大山の五冠独占を崩す) |- style="font-size:89%" |1963||[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]・前||●●●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1963||王将||●●●||大山康晴||防衛失敗(大山が再び五冠独占) |- style="font-size:89%" |1964||名人||○●●○●●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1964||[[王位戦 (将棋)|王位]]||●●○○●●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1965||[[十段戦 (将棋)|十段]]||●○●●○○●||大山康晴||<!--- 10/29-1-6 ---> |- style="font-size:89%" |1965||棋聖・後||●○○●●||大山康晴||<!--- 12/21-2/14 ---> |- style="font-size:89%" |style="background-color:#ffcccc"|1966||style="background-color:#ffcccc"|棋聖・前||style="background-color:#ffcccc"|○●○○||style="background-color:#ffcccc"|大山康晴||style="background-color:#ffcccc"|奪取(再び大山の五冠独占を崩す) |- style="font-size:89%" |1966||十段||○●●●●||大山康晴||<!--- 10/29-12/13 ---> |- style="font-size:89%" |1966||棋聖・後||●●●||大山康晴||防衛失敗(大山が3度五冠独占)<!--- 12/18-1/10 ---> |- style="font-size:89%" |1967||名人||●●●○●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1967||十段||●○持●●●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1969||王将||●○●●●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1971||棋聖・後||●○●●||[[中原誠]]|| |- style="font-size:89%" |1975||棋聖・前||●○●●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1975||棋聖・後||●●●||大山康晴|| |- style="font-size:89%" |1978||棋聖・後||●○●●||中原誠|| |- style="font-size:89%" |style="background-color:#ffcccc"|1980||style="background-color:#ffcccc"|棋聖・後||style="background-color:#ffcccc"|●○○○||style="background-color:#ffcccc"|[[米長邦雄]]||style="background-color:#ffcccc"|奪取 |- style="font-size:89%" |style="background-color:#ffcccc"|1981||style="background-color:#ffcccc"|棋聖・前||style="background-color:#ffcccc"|○○○||style="background-color:#ffcccc"|中原誠||style="background-color:#ffcccc"|防衛 |- style="font-size:89%" |style="background-color:#ffcccc"|1981||style="background-color:#ffcccc"|棋聖・後||style="background-color:#ffcccc"|○○○||style="background-color:#ffcccc"|[[加藤一二三]]||style="background-color:#ffcccc"|防衛(連続3期、通算4期) |- style="font-size:89%" |1982||棋聖・前||●●●||[[森雞二]]||防衛失敗(永世棋聖獲得を逸する) |} === 一般棋戦優勝 === 優勝合計5回 *[[最強者決定戦]] 1回(1961年度 = 第1回) *[[東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦|高松宮賞争奪選手権戦]] 1回(1962年度 = 第7回) *[[日本将棋連盟杯争奪戦]] 1回(1976年度 = 第9回) *ほか2回 === 在籍クラス === * [[順位戦]]A級 通算27期([[第11期順位戦|第11期]]=1956年度 - 第30/36期 - [[第38期順位戦|第38期]]=1979年度<ref group="注" name="juni_hosei">第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあり、第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31から35期の順位戦は存在しない。つまり、第11期から第38期までは連続23期のA級在籍である。</ref>, 第40-41期, 第44-45期) * [[順位戦]]A級 連続23期(第11期=1956年度 - 第30/36期 - 第38期=1979年度<ref group="注" name="juni_hosei">第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあり、第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31から35期の順位戦は存在しない。つまり、第11期から第38期までは連続23期のA級在籍である。</ref>) * [[竜王戦]]1組 通算3期(第1期=1988年 - 第3期) {{将棋棋士年別在籍クラスA}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1951|JJ=6|j=C2|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1952|JJ=7|j=C1|#=13|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1953|JJ=8|j=B2|#=10|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1954|JJ=9|j=B1|#=13|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1955|JJ=10|j=B1|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1956|JJ=11|j=A|#=09|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1957|JJ=12|j=A|#=07|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1958|JJ=13|j=A|#=05|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1959|JJ=14|j=A|#=05|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1960|JJ=15|j=A|#=08|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1961|JJ=16|j=A|#=03|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1962|JJ=17|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1963|JJ=18|j=A|#=02|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1964|JJ=19|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1965|JJ=20|j=A|#=06|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1966|JJ=21|j=A|#=04|CJ=1|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1967|JJ=22|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1968|JJ=23|j=A|#=03|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1969|JJ=24|j=A|#=06|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1970|JJ=25|j=A|#=06|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1971|JJ=26|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1972|JJ=27|j=A|#=04|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1973|JJ=28|j=A|#=04|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1974|JJ=29|j=A|#=03|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1975|JJ=30|j=A|#=06|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=|j=#|#=(第30期の翌期は第36期/第31-35期は回次省略)}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=36|j=A|#=04|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1978|JJ=37|j=A|#=05|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1979|JJ=38|j=A|#=04|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1980|JJ=39|j=B1|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1981|JJ=40|j=A|#=10|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1982|JJ=41|j=A|#=08|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1983|JJ=42|j=B1|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1984|JJ=43|j=B1|#=09|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1985|JJ=44|j=A|#=10|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1986|JJ=45|j=A|#=08|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1987|JJ=46|j=B1|#=01|RR=1|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1988|JJ=47|j=B1|#=09|RR=2|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1989|JJ=48|j=B1|#=11|RR=3|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラスZ|note=}} {{main2|[[竜王戦]]と[[順位戦]]のクラス|将棋棋士の在籍クラス}} === 将棋大賞 === *第8回(1980年度) 最優秀棋士賞 *第17回(1989年度) 特別賞 *第31回(2003年度) 東京将棋記者会賞 === 記録 === *二段から八段昇段までの所要年数6年は最速記録 *入門から八段昇段までの所要年数6年は最速記録 *A級在位27期は名人位獲得歴が無い棋士に限定すると最多記録 *名人戦七番勝負出場3回は名人位獲得歴が無い棋士に限定すると最多記録 *タイトル無冠期間14年0か月(1966年度後期・第9期棋聖失冠〜1980年度後期・第37期棋聖奪取)は最長記録 *同一タイトル復位29期ぶり(棋聖、1966年度後期・第9期で失冠、1980年度後期・第37期で奪取)は最長記録 == 栄典 == *1992年4月29日 [[紫綬褒章]](将棋棋士で名人未経験者では唯一の受章) *2001年 函館市栄誉賞 *2002年 [[勲等|勲四等]][[旭日章#等級|旭日小綬章]]<ref>「秋の叙勲 染織作家・平良敏子さんと日本将棋連盟会長・二上達也さんに聞く」『読売新聞』2002年11月3日朝刊</ref> == 主な著書 == * {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2002|title=二上詰将棋選集|publisher=[[日本将棋連盟]]|id=ISBN 4-8197-0257-2}} * {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2004|title=棋士|publisher=[[晶文社]]|id=ISBN 4-7949-6619-9}} * {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2006|title=棋を楽しみて老いるを知らず|publisher=[[東京新聞出版局]]|id=ISBN 4-8083-0851-7}} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2004|title=棋士|publisher=晶文社|id=ISBN 4-7949-6619-9}} * {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2006|title=棋を楽しみて老いるを知らず|publisher=東京新聞出版局|id=ISBN 4-8083-0851-7}} == 関連項目 == *[[将棋棋士一覧]] *[[将棋のタイトル在位者一覧]] == 外部リンク == *[https://www.shogi.or.jp/player/pro/57.html 二上達也|棋士データベース|日本将棋連盟] {{日本将棋連盟会長|1989-2002}} {{Navboxes |title=タイトル(2冠)5期 |titlestyle=background-color:#FCF16E |list1= </span> {{棋聖戦 (将棋)|4期}} {{王将戦|1期}} }} {{Navboxes |title=一般棋戦優勝 3回 |titlestyle=background-color:#88CCEE |list1= {{天王戦|1|優勝 1回}} {{最強者決定戦|優勝 1回}} {{東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦|優勝 1回}} }} {{Navboxes |title=将棋大賞 |list1= </span> {{将棋大賞最優秀棋士賞|1回}} {{将棋大賞特別賞|1回}} {{将棋大賞東京記者会賞|1回}} }} {{authority control}} {{デフォルトソート:ふたかみ たつや}} [[Category:将棋棋士]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:勲四等旭日小綬章受章者]] [[Category:私の履歴書の登場人物]] [[Category:北海道函館中部高等学校出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1932年生]] [[Category:2016年没]]
2003-07-21T23:51:41Z
2023-12-23T12:40:51Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 将棋棋士", "Template:0", "Template:将棋棋士年別在籍クラス", "Template:Main2", "Template:Cite book", "Template:Reflist", "Template:将棋棋士年別在籍クラスZ", "Template:Cite news", "Template:Authority control", "Template:将棋棋士年別在籍クラスA", "Template:Cite web", "Template:Navboxes", "Template:没年齢", "Template:日本将棋連盟会長" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E9%81%94%E4%B9%9F
12,023
三田線
三田線(みたせん、さんだせん)は日本の鉄道路線・バス路線。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三田線(みたせん、さんだせん)は日本の鉄道路線・バス路線。", "title": null } ]
三田線(みたせん、さんだせん)は日本の鉄道路線・バス路線。
'''三田線'''(みたせん、さんだせん)は日本の鉄道路線・バス路線。 == 東京都内(みたせん)== * [[都営地下鉄三田線]] - [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の鉄道路線。 * [[都電三田線]] - [[東京都電車]]の鉄道路線(廃線)。 == 兵庫県三田市周辺(さんだせん) == * [[神戸電鉄三田線]] - [[神戸電鉄]]の鉄道路線。 * 三田線 - [[阪急バス]](旧[[神鉄バス]])のバス路線。[[阪急バス山口営業所#三田線]]を参照。 == 関連項目 == * [[三田 (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:みたせん}}
null
2022-11-17T10:06:43Z
true
false
false
[ "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E7%B7%9A
12,024
新宿線
新宿線(しんじゅくせん)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新宿線(しんじゅくせん)", "title": null } ]
新宿線(しんじゅくせん) 鉄道路線 西武鉄道の路線。 西武新宿線 - 西武新宿駅と本川越駅を結ぶ鉄道路線。 かつて新宿駅前 - 荻窪駅前間で運行していた軌道線。後身の「都電杉並線」を参照。 都営地下鉄新宿線 - 新宿駅と本八幡駅を結ぶ都営地下鉄の路線。 道路 - 以下はいずれも首都高速道路の路線。 首都高速4号新宿線 首都高速道路中央環状新宿線
'''新宿線'''(しんじゅくせん) * 鉄道路線 ** [[西武新宿線]] - [[西武新宿駅]]と[[本川越駅]]を結ぶ鉄道路線。 ** [[都営地下鉄新宿線]] - [[新宿駅]]と[[本八幡駅]]を結ぶ[[都営地下鉄]]の路線。 * 道路 - 以下はいずれも[[首都高速道路]]の路線。 ** [[首都高速4号新宿線]] ** [[首都高速中央環状線#大橋JCT - 熊野町JCT(中央環状新宿線)|首都高速道路中央環状新宿線]] {{aimai}} {{デフォルトソート:しんしゆくせん}} [[Category:同名の交通]]
2003-07-22T00:08:03Z
2023-12-10T07:06:08Z
true
false
false
[ "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E7%B7%9A
12,026
塚田正夫
塚田 正夫(つかだ まさお、1914年(大正3年)8月2日 - 1977年(昭和52年)12月30日)は、将棋棋士。名誉十段。実力制第二代名人。日本将棋連盟会長(1974年 - 1976年)。勲四等旭日小綬章(追贈、1978年)。紫綬褒章(1975年秋)。花田長太郎九段門下。棋士番号は11。東京府東京市(現:東京都文京区)出身。 1927年、花田長太郎に入門。1928年9月の奨励会創設に二段として参加。1932年に四段昇段。 東京棋界の新鋭となり、塚田、坂口允彦、建部和歌夫は「昭和の三銃士」と呼ばれた。 1939年の皇軍慰問団では、将棋団長となった。上海、南京を訪問。団長は安永一、塚田正夫。囲碁は田岡敬一、梶為和、藤沢秀行、竹内澄夫。将棋は加藤治郎、加藤恵三、永沢勝雄、松田茂行。囲碁将棋各5人の編成。 1947年、戦前から無敵を誇っていた木村義雄名人を破って名人位を獲得。実力名人制となって以降、2人目の名人となる。翌1948年の名人戦は大山康晴の挑戦を退けて防衛した。また同1948年、朝日新聞社主催「塚田正夫名人・升田幸三八段 五番勝負」が行われたが、こちらも3勝2敗で勝利する。 だが1949年の名人戦で木村に敗れて失冠。この名人戦の最終第五局(この年だけ五番勝負だった)は「済寧館の決戦」といわれた名勝負となったが、塚田の潔い投了が話題となった。 1953年1月、九段位を取得した直後に、前1952年に引退していた木村と、読売新聞社主催の「木村・新九段三番勝負」(前年までの名人九段五番勝負の代替棋戦)を行い、二連勝した。 一方、九段戦(のちの十段戦、現在の竜王戦)では1952年の初獲得後に、3連覇(その後4連覇まで記録を伸ばす)した功績により初の「永世九段」となる。なお、1958年に段位としての九段昇段規定が新設され、大山康晴と升田幸三が九段に昇段したが、塚田は、九段戦防衛により保持していた「タイトルとしての九段」を1956年に失冠してからは、永世称号に基づき「段位としての九段」を称していた。 1960年の第1期王位戦、1962年の第1期棋聖戦でタイトル戦登場を果たすが、いずれも大山康晴に敗れた。名人失冠後の順位戦A級では、4度の挑戦者決定プレーオフで敗退する等、再度の名人挑戦・復位は果たせず、第26期(1971年度)には2勝6敗でクラス10位(最下位)となり、実力制名人経験者として史上初のB級1組降級となった。翌第27期(1972年度)B級1組では7勝4敗でクラス2位の成績を挙げてA級に復帰し、60歳まで在籍した。 1974年に将棋会館建替え問題のために加藤治郎会長を始め全理事が退任、その後任として将棋連盟会長に就任。在任中には名人戦問題で揺れる将棋界の舵取りに尽力した。 1977年12月13日、昇降級リーグ戦1組(順位戦B級1組)で花村元司に敗れたのが公式戦最期の対局となる。塚田は病気入院していたものの、花村がリーグ5勝1敗の好成績だったこともあり、一時退院して対局にはげんだという。同年12月30日、現役のまま死去。63歳没。病床で無意識に発した最後の言葉は「扇子を持ってこい、財布を出せ」だったという。 葬儀・告別式は1978年1月16日、将棋会館で日本将棋連盟葬として行われた。 没後、将棋界でただ一人の「名誉十段」を追贈される。さらに、1989年には実力制第二代名人を追贈される(升田幸三に贈るために「実力制第○代名人」の称号がこの年制定されたため)。 文京区の善仁寺には、塚田の十三回忌に将棋駒の形をした墓碑が建てられ、塚田作九手詰めの詰将棋作品が刻まれている。 詰将棋作家としても有名であり、プロ棋士による詰将棋作品集の草分け的存在でもあった。塚田の名を冠した「塚田賞」という賞があり、毎年優れた詰将棋作品を『近代将棋』誌上で表彰していた(『近代将棋』は2008年に休刊)。 無口な人物で、酒を愛し、後輩の棋士が話しかけたところ「やあ君も一杯どうだい」とワンカップをすすめられたなどの逸話が残る。升田幸三は大の親友であった。 河口俊彦は、塚田の人柄を下記のように評している。 将棋界では、先輩が後輩におごり、おごられた後輩は自分が「先輩」になったら後輩におごる、という文化がある。しかし、塚田は棋士と飲む時は、相手が20かそこらの新四段であっても必ず割り勘を通した。これは、塚田がケチであったから、という訳ではなく、「後輩棋士であっても盤上で戦う相手。おごるのは間違い」という塚田の考えから来るものであった。その証拠に、塚田は相手が棋士でなければ、気前よくおごっていたとのこと。 以下、タイトル称号 竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラスを参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "塚田 正夫(つかだ まさお、1914年(大正3年)8月2日 - 1977年(昭和52年)12月30日)は、将棋棋士。名誉十段。実力制第二代名人。日本将棋連盟会長(1974年 - 1976年)。勲四等旭日小綬章(追贈、1978年)。紫綬褒章(1975年秋)。花田長太郎九段門下。棋士番号は11。東京府東京市(現:東京都文京区)出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1927年、花田長太郎に入門。1928年9月の奨励会創設に二段として参加。1932年に四段昇段。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京棋界の新鋭となり、塚田、坂口允彦、建部和歌夫は「昭和の三銃士」と呼ばれた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1939年の皇軍慰問団では、将棋団長となった。上海、南京を訪問。団長は安永一、塚田正夫。囲碁は田岡敬一、梶為和、藤沢秀行、竹内澄夫。将棋は加藤治郎、加藤恵三、永沢勝雄、松田茂行。囲碁将棋各5人の編成。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1947年、戦前から無敵を誇っていた木村義雄名人を破って名人位を獲得。実力名人制となって以降、2人目の名人となる。翌1948年の名人戦は大山康晴の挑戦を退けて防衛した。また同1948年、朝日新聞社主催「塚田正夫名人・升田幸三八段 五番勝負」が行われたが、こちらも3勝2敗で勝利する。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "だが1949年の名人戦で木村に敗れて失冠。この名人戦の最終第五局(この年だけ五番勝負だった)は「済寧館の決戦」といわれた名勝負となったが、塚田の潔い投了が話題となった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1953年1月、九段位を取得した直後に、前1952年に引退していた木村と、読売新聞社主催の「木村・新九段三番勝負」(前年までの名人九段五番勝負の代替棋戦)を行い、二連勝した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一方、九段戦(のちの十段戦、現在の竜王戦)では1952年の初獲得後に、3連覇(その後4連覇まで記録を伸ばす)した功績により初の「永世九段」となる。なお、1958年に段位としての九段昇段規定が新設され、大山康晴と升田幸三が九段に昇段したが、塚田は、九段戦防衛により保持していた「タイトルとしての九段」を1956年に失冠してからは、永世称号に基づき「段位としての九段」を称していた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1960年の第1期王位戦、1962年の第1期棋聖戦でタイトル戦登場を果たすが、いずれも大山康晴に敗れた。名人失冠後の順位戦A級では、4度の挑戦者決定プレーオフで敗退する等、再度の名人挑戦・復位は果たせず、第26期(1971年度)には2勝6敗でクラス10位(最下位)となり、実力制名人経験者として史上初のB級1組降級となった。翌第27期(1972年度)B級1組では7勝4敗でクラス2位の成績を挙げてA級に復帰し、60歳まで在籍した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1974年に将棋会館建替え問題のために加藤治郎会長を始め全理事が退任、その後任として将棋連盟会長に就任。在任中には名人戦問題で揺れる将棋界の舵取りに尽力した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1977年12月13日、昇降級リーグ戦1組(順位戦B級1組)で花村元司に敗れたのが公式戦最期の対局となる。塚田は病気入院していたものの、花村がリーグ5勝1敗の好成績だったこともあり、一時退院して対局にはげんだという。同年12月30日、現役のまま死去。63歳没。病床で無意識に発した最後の言葉は「扇子を持ってこい、財布を出せ」だったという。 葬儀・告別式は1978年1月16日、将棋会館で日本将棋連盟葬として行われた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "没後、将棋界でただ一人の「名誉十段」を追贈される。さらに、1989年には実力制第二代名人を追贈される(升田幸三に贈るために「実力制第○代名人」の称号がこの年制定されたため)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "文京区の善仁寺には、塚田の十三回忌に将棋駒の形をした墓碑が建てられ、塚田作九手詰めの詰将棋作品が刻まれている。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "詰将棋作家としても有名であり、プロ棋士による詰将棋作品集の草分け的存在でもあった。塚田の名を冠した「塚田賞」という賞があり、毎年優れた詰将棋作品を『近代将棋』誌上で表彰していた(『近代将棋』は2008年に休刊)。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "無口な人物で、酒を愛し、後輩の棋士が話しかけたところ「やあ君も一杯どうだい」とワンカップをすすめられたなどの逸話が残る。升田幸三は大の親友であった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "河口俊彦は、塚田の人柄を下記のように評している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "将棋界では、先輩が後輩におごり、おごられた後輩は自分が「先輩」になったら後輩におごる、という文化がある。しかし、塚田は棋士と飲む時は、相手が20かそこらの新四段であっても必ず割り勘を通した。これは、塚田がケチであったから、という訳ではなく、「後輩棋士であっても盤上で戦う相手。おごるのは間違い」という塚田の考えから来るものであった。その証拠に、塚田は相手が棋士でなければ、気前よくおごっていたとのこと。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "以下、タイトル称号", "title": "昇段履歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラスを参照。", "title": "成績" } ]
塚田 正夫は、将棋棋士。名誉十段。実力制第二代名人。日本将棋連盟会長。勲四等旭日小綬章(追贈、1978年)。紫綬褒章(1975年秋)。花田長太郎九段門下。棋士番号は11。東京府東京市出身。
{{Infobox 将棋棋士 |image = [[File:Tsukada Masao.JPG|200px]] |caption = 1952年 |名前 = 塚田正夫 |棋士番号 = 11 |生年月日 = {{生年月日と年齢|1914|8|2|no}} |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1914|8|2|1977|12|30}} |プロ年度 = {{年月日|year=1932|month=1|day=1}}({{年数|1914|8|2|1932|1|1}}歳) |出身地 = [[東京府]][[東京市]](現:[[東京都]][[文京区]]<ref group="注" name="bunkyo">東京都は1943年設置。文京区は1947年に[[小石川区]]と[[本郷区]]が合併して成立。</ref>) |所属 = [[日本将棋連盟]](東京)<br />→[[神田事件_(将棋)|日本将棋革新協会]]<br />→将棋大成会(関東)<br />→日本将棋連盟(関東) |師匠 = [[花田長太郎]]九段 |弟子 = [[宮坂幸雄]] |肩書 = 名誉十段 |永世 = 永世九段 |段位 = 九段{{efn2|通常の昇段規定により昇段したのは八段までだが、タイトルの九段失冠後にも段位として「九段」を称していた。本記事の本文及び[[将棋の段級#九段と十段]]参照。}} |タイトル合計 = 6期 |優勝回数 = 4回 |順位戦クラス = A級(28期{{Efn2|名人2期を含む。}}) |作成日時 = 2018年2月27日 }} '''塚田 正夫'''(つかだ まさお、[[1914年]]([[大正]]3年)[[8月2日]]<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=塚田正夫|棋士データベース|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/11.html|website=|accessdate=2019-06-03|language=ja|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190603051230/https://www.shogi.or.jp/player/pro/11.html|archivedate=2019-6-3}}</ref> - [[1977年]]([[昭和]]52年)[[12月30日]]<ref name=":3" />)は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。'''名誉十段'''<ref name=":3" />。実力制第二代名人<ref name=":3" />。[[日本将棋連盟]]会長(1974年 - 1976年)<ref>{{Cite web|和書|title=創立・沿革|将棋連盟について|url=https://www.shogi.or.jp/about/history.html|website=|accessdate=2018-6-12|language=ja|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180612155458/https://www.shogi.or.jp/about/history.html|archivedate=2018-6-12}}</ref>。[[勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]](追贈、1978年)。[[紫綬褒章]](1975年秋)。[[花田長太郎]]九段門下<ref name=":3" />。[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は11<ref name=":3" />。[[東京府]][[東京市]](現:[[東京都]][[文京区]]<ref group="注" name="bunkyo" /><ref name=":3" />)出身。 ==棋歴== 1927年、[[花田長太郎]]に入門。1928年9月の[[奨励会]]創設に二段として参加。1932年に四段昇段。 東京棋界の新鋭となり、塚田、[[坂口允彦]]、[[建部和歌夫]]は「昭和の三銃士」と呼ばれた。 1939年の皇軍慰問団では、将棋団長となった。[[上海市|上海]]、[[南京市|南京]]を訪問。団長は[[安永一]]、塚田正夫。囲碁は[[田岡敬一]]、[[梶為和]]、[[藤沢秀行]]、[[竹内澄夫]]<ref name=":2">{{Harvnb|加藤|1985|p=110|pp=|loc=}}</ref>。将棋は[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]、[[加藤恵三]]、[[永沢勝雄]]、[[松田茂行]]<ref name=":2" />。囲碁将棋各5人の編成。 {{main|棋道報国会}} 1947年、戦前から無敵を誇っていた[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]][[名人 (将棋)|名人]]を破って名人位を獲得。実力名人制となって以降、2人目の名人となる。翌1948年の名人戦は[[大山康晴]]の挑戦を退けて防衛した。また同1948年、朝日新聞社主催「塚田正夫名人・[[升田幸三]]八段 五番勝負」が行われたが、こちらも3勝2敗で勝利する。 だが[[1949年]]の名人戦で木村に敗れて失冠。この[[名人戦 (将棋)|名人戦]]の最終第五局(この年だけ五番勝負だった)は「[[済寧館]]の決戦」といわれた名勝負となったが、塚田の潔い[[投了]]が話題となった<ref name=":0" />。 1953年1月、[[十段戦 (将棋)|九段位]]を取得した直後に、前1952年に引退していた木村と、読売新聞社主催の「木村・新九段三番勝負」(前年までの名人九段五番勝負の代替棋戦)を行い、二連勝した。 一方、九段戦(のちの[[十段戦 (将棋)|十段戦]]、現在の[[竜王戦]])では1952年の初獲得後に、3連覇(その後4連覇まで記録を伸ばす)した功績により初の「永世九段」となる。なお、1958年に段位としての九段昇段規定が新設され、大山康晴と[[升田幸三]]が九段に昇段したが、塚田は、九段戦防衛により保持していた「タイトルとしての九段」を1956年に失冠してからは、永世称号に基づき「段位としての九段」を称していた。 {{See also|[[将棋の段級#九段と十段]]}} 1960年の第1期王位戦、1962年の第1期棋聖戦でタイトル戦登場を果たすが、いずれも大山康晴に敗れた。名人失冠後の[[順位戦]]A級では、4度の挑戦者決定プレーオフで敗退する等、再度の名人挑戦・復位は果たせず、第26期(1971年度)には2勝6敗でクラス10位(最下位)となり、実力制名人経験者として史上初のB級1組降級となった。翌第27期(1972年度)B級1組では7勝4敗でクラス2位の成績を挙げてA級に復帰し、60歳まで在籍した。 [[1974年]]に将棋会館建替え問題のために[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]会長を始め全理事が退任、その後任として将棋連盟会長に就任。在任中には[[名人戦 (将棋)|名人戦]]問題で揺れる[[将棋界]]の舵取りに尽力した。 1977年12月13日、昇降級リーグ戦1組(順位戦B級1組)で[[花村元司]]に敗れたのが公式戦最期の対局となる。塚田は病気入院していたものの、花村がリーグ5勝1敗の好成績だったこともあり、一時退院して対局にはげんだという<ref name="tamaru">[http://tamarunoboru.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/40-a9a2.html 過去40年間に現役のまま亡くなった棋士の「絶局」について] - [[田丸昇]]「将棋棋士 田丸昇のと金横歩き」(2010年12月10日)</ref><ref group="注">この後、花村はリーグ8勝3敗の成績を挙げ、60歳で挑戦者決定リーグ(A級)復帰を決めている。</ref>。同年12月30日、現役のまま死去。{{没年齢|1914|8|2|1977|12|30}}。病床で無意識に発した最後の言葉は「扇子を持ってこい、財布を出せ」だったという<ref name="tamaru" />。 葬儀・告別式は1978年1月16日、[[将棋会館]]で日本将棋連盟葬として行われた<ref>訃報欄 故塚田正夫氏の告別式『朝日新聞』1978年(昭和53年」1月8日朝刊、13版、23面</ref>。 没後、将棋界でただ一人の「名誉十段」を追贈される。さらに、[[1989年]]には実力制第二代名人を追贈される([[升田幸三]]に贈るために「実力制第○代名人」の称号がこの年制定されたため)。 文京区の[[善仁寺 (文京区小石川)|善仁寺]]には、塚田の十三回忌に将棋駒の形をした墓碑が建てられ、塚田作九手詰めの詰将棋作品が刻まれている。 == 人物 == [[詰将棋]]作家としても有名であり、プロ棋士による詰将棋作品集の草分け的存在でもあった。塚田の名を冠した「塚田賞」という賞があり、毎年優れた詰将棋作品を『[[近代将棋]]』誌上で表彰していた(『近代将棋』は2008年に休刊)。 無口な人物で、[[酒]]を愛し、後輩の棋士が話しかけたところ「やあ君も一杯どうだい」と[[ワンカップ]]をすすめられたなどの逸話が残る。[[升田幸三]]は大の親友であった。 [[河口俊彦]]は、塚田の人柄を下記のように評している<ref name=":0">{{Harvnb|河口|1996|pp=103-108|loc=金の感覚}}</ref>。{{quotation|[[新人類]]棋士は純粋培養型だが、考えてみると、塚田はそのはしりだった。将棋一筋、俗事に関りを持たず、人付き合いは気のおもむくまま。野球と映画を見るくらいが楽しみで、あとは奥さんと酒だった。|河口俊彦|<ref name=":0" />}} 将棋界では、先輩が後輩におごり、おごられた後輩は自分が「先輩」になったら後輩におごる、という文化がある<ref name=":1">{{Harvnb|石田|2018|p=|pp=129-131|loc=2章 棋士として-先輩と後輩}}</ref>。しかし、塚田は棋士と飲む時は、相手が20かそこらの新四段であっても必ず割り勘を通した<ref name=":0" />。これは、塚田がケチであったから、という訳ではなく、「後輩棋士であっても盤上で戦う相手。おごるのは間違い」という塚田の考えから来るものであった<ref name=":1" />。その証拠に、塚田は相手が棋士でなければ、気前よくおごっていたとのこと<ref name=":1" />。 == 昇段履歴 == *1927年 入門 *1932年 四段 *1933年 五段 *1935年 六段 *1938年 七段 *1940年 八段 以下、タイトル称号 *1954年11月27日 永世九段(九段のタイトル3期) *1978年1月16日 名誉十段(追贈) *1989年 実力制第二代名人(追贈) ==成績== ===獲得タイトル=== *[[名人戦 (将棋)|名人]] 2期(第6期 - 第7期) *:[[順位戦]]A級以上 28期 *[[十段戦 (将棋)|九段]] 4期(第3期 - 第6期) - 永世九段 :獲得合計6期 ;タイトル戦全成績 :{| border="1" class="wikitable" style="font-size:89%" |- align="center" style="background-color: #ccf;" |年度||タイトル||勝敗||相手||備考 |- style="background-color:#ffcccc" |1947||[[名人戦 (将棋)|名人]]||●●持○○○○||[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]||奪取 |- style="background-color:#ffcccc" |1948||名人||●○○●千○○||[[大山康晴]]||防衛 |- |1949||名人||○●○●●||木村義雄||防衛失敗 |- style="background-color:#ffcccc" |1952||[[十段戦 (将棋)|九段]]||○●○千●○||大山康晴||奪取 |- style="background-color:#ffcccc" |1953||九段||○○○||[[花村元司]]||防衛 |- style="background-color:#ffcccc" |1954||九段||○○○||[[松田茂役]]||3連覇、永世九段 |- style="background-color:#ffcccc" |1955||九段||●●○○○||花村元司||4連覇 |- |1956||九段||○●●●●||[[升田幸三]]||獲得失敗<ref group="注">この年の九段戦は新体制へ移行し、新たにトーナメントを勝ち抜かなければならなかった。番勝負出場を決め、結果的に防衛戦の形とはなったが、実質的には防衛戦ではなかった。そして番勝負で破れた為、防衛失敗ではなく獲得失敗と表記する。</ref> |- |1960||[[王位戦 (将棋)|王位]]||●千●●○●||大山康晴||(第1期王位戦) |- |1962||[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]・後||●○●●||大山康晴||(第1期棋聖戦) |} ===一般棋戦優勝=== *[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]] 1回(1953年度 = 第3回) *[[王座戦 (将棋)|王座戦]] 1回(1958年度 = 第6回) *[[十段戦 (将棋)|全日本選手権戦名人九段戦]] 2回(1952年度 = 第5回、1954年度) :優勝合計4回 === 在籍クラス === 竜王戦と順位戦のクラスは、[[将棋棋士の在籍クラス]]を参照。 {{将棋棋士年別在籍クラスA}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1947|JJ=1|j=#|#=八段戦(A級)1位|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1948|JJ=2|j=名人|#=|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1949|JJ=3|j=名人|#=06|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1950|JJ=4|j=A|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1951|JJ=5|j=A|#=04|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1952|JJ=6|j=A|#=06|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1953|JJ=7|j=A|#=03|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1954|JJ=8|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1955|JJ=9|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1956|JJ=10|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1957|JJ=11|j=A|#=08|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1958|JJ=12|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1959|JJ=13|j=A|#=06|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1960|JJ=14|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1961|JJ=15|j=A|#=02|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1962|JJ=16|j=A|#=07|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1963|JJ=17|j=A|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1964|JJ=18|j=A|#=07|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1965|JJ=19|j=A|#=05|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1966|JJ=20|j=A|#=07|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1967|JJ=21|j=A|#=06|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1968|JJ=22|j=A|#=07|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1969|JJ=23|j=A|#=11|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1970|JJ=24|j=A|#=07|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1971|JJ=25|j=A|#=10|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1972|JJ=26|j=A|#=09|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1973|JJ=27|j=B1|#=01|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1974|JJ=28|j=A|#=10|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1975|JJ=29|j=A|#=07|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1975|JJ=30|j=B1|#=03|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=|j=#|#=(第30期の翌期は第36期/第31-35期は回次省略)}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1976|JJ=36|j=B1|#=08|RR=|r=|##=}} {{将棋棋士年別在籍クラスZ}} ==栄典== *[[1975年]](秋) [[紫綬褒章]]<ref name=":3" /> *[[1978年]] [[勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]<ref name=":3" />(追贈) ==放送== *[[名勝負の解説]]([[囲碁将棋チャンネル]]) #不明 #塚田・升田五番勝負 第4局 ~駅馬車定跡誕生の一局~ 塚田正夫名人 vs 升田幸三八段 対局日:1948/9/22 #不明 #塚田・升田五番勝負 第5局 塚田正夫名人 vs 升田幸三八段 対局日:1948年10月7日 #不明 #第10期 十段戦 3次予選T3回戦 塚田正夫九段 vs 米長邦雄七段 対局日:1971/2/15 #第8期 全日本選手権戦 準決勝第1局 塚田正夫九段 vs 加藤一二三七段 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist}} ==参考文献 == *{{Citation|和書|title=棋士という生き方|year=2018|last=石田|first=和雄|authorlink=石田和雄|edition=|publisher=[[イースト・プレス]](イースト新書)|isbn=}} *{{Citation|和書|title=昭和のコマおと|year=1985|last=加藤|first=治郎|authorlink=加藤治郎 (棋士)|edition=|publisher=[[旺文社]](旺文社文庫)|isbn=}} *{{Citation|和書|title=人生の棋譜 この一局|year=1996|last=河口|first=俊彦|authorlink=河口俊彦|edition=|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-377202-6}} == 関連項目 == *[[将棋棋士一覧]] *[[棋戦 (将棋)]] *[[将棋のタイトル在位者一覧]] == 外部リンク == * [https://www.shogi.or.jp/player/pro/11.html 塚田正夫|棋士データベース|日本将棋連盟] {{日本将棋連盟会長|1974-76}} {{Navboxes |title=タイトル(2冠)6期 |titlestyle=background-color:#FCF16E |list1= </span> {{名人戦 (将棋)|2期}} {{九段戦|4期(永世)}} }} {{Navboxes |title=一般棋戦優勝 4回 |titlestyle=background-color:#88CCEE |list1= {{全日本選手権戦|優勝 2回}} {{王座戦 (一般公式棋戦)|優勝 1回}} {{NHK杯テレビ将棋トーナメント|優勝 1回}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:つかた まさお}} [[Category:名人 (将棋)]] [[Category:将棋棋士]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:勲四等旭日小綬章受章者]] [[Category:1914年生]] [[Category:1977年没]] [[Category:東京都区部出身の人物]]
2003-07-22T00:21:33Z
2023-11-17T01:58:48Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 将棋棋士", "Template:将棋棋士年別在籍クラスA", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Navboxes", "Template:没年齢", "Template:Harvnb", "Template:日本将棋連盟会長", "Template:Quotation", "Template:将棋棋士年別在籍クラス", "Template:Main", "Template:See also", "Template:将棋棋士年別在籍クラスZ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Citation", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%A4%AB
12,031
行政国家
行政国家(ぎょうせいこっか)とは、政府が社会の秩序維持にとどまらず、一定の理念の実現を目指して国民の生活、経済活動の在り方に積極的に介入しようとする国家をいう。立法国家、消極国家、夜警国家と対比される。 社会主義への対抗もある中で、伝統的な自由主義に立脚する小さな政府、夜警国家が批判され、国家が社会保障制度を設け、公共事業や各種の経済政策を行って広く国民の活動に介入するようになると、国家の果たす役割は大きく増加し、また複雑で専門的なものとなっていった。これに対して、国会議員などの政治家や、主としてそれから選ばれる大臣は、福祉や経済についての専門的な知識・経験を持たない(あるいは少ない)場合も多く、どのような問題があり、どうすればよいかを自ら判断することが困難なものとなる。 そこで、各分野においてその専門的な知識・経験を持つ官僚に頼らざるを得なくなり、本来行政権下で事務を担当するはずの官僚が、法案の作成や政策決定などの立法に関することまで強い影響力を持つようになる。そうすると行政は、本来国民による選挙を背景に強い正統性を持つ立法よりも優越した立場になり、国民の意見が反映され難くなる。 また、社会保障や経済政策のために各種の規制が行われるようになると、行政は国民の活動に広く介入するようになり、行政組織は肥大化し、社会の中で行政が大きな割合を占めるようになる。このような行政の優越する国家を行政国家と呼び、またこのようになる現象を行政国家現象と呼ぶ。 国家に複雑・多様な役割が求められる現代では、相応の規模の行政組織と専門的な知識・経験に基づいた判断は不可欠であり、程度の差こそあれ、どの国家においても行政国家現象が見られると言われる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "行政国家(ぎょうせいこっか)とは、政府が社会の秩序維持にとどまらず、一定の理念の実現を目指して国民の生活、経済活動の在り方に積極的に介入しようとする国家をいう。立法国家、消極国家、夜警国家と対比される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "社会主義への対抗もある中で、伝統的な自由主義に立脚する小さな政府、夜警国家が批判され、国家が社会保障制度を設け、公共事業や各種の経済政策を行って広く国民の活動に介入するようになると、国家の果たす役割は大きく増加し、また複雑で専門的なものとなっていった。これに対して、国会議員などの政治家や、主としてそれから選ばれる大臣は、福祉や経済についての専門的な知識・経験を持たない(あるいは少ない)場合も多く、どのような問題があり、どうすればよいかを自ら判断することが困難なものとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "そこで、各分野においてその専門的な知識・経験を持つ官僚に頼らざるを得なくなり、本来行政権下で事務を担当するはずの官僚が、法案の作成や政策決定などの立法に関することまで強い影響力を持つようになる。そうすると行政は、本来国民による選挙を背景に強い正統性を持つ立法よりも優越した立場になり、国民の意見が反映され難くなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、社会保障や経済政策のために各種の規制が行われるようになると、行政は国民の活動に広く介入するようになり、行政組織は肥大化し、社会の中で行政が大きな割合を占めるようになる。このような行政の優越する国家を行政国家と呼び、またこのようになる現象を行政国家現象と呼ぶ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国家に複雑・多様な役割が求められる現代では、相応の規模の行政組織と専門的な知識・経験に基づいた判断は不可欠であり、程度の差こそあれ、どの国家においても行政国家現象が見られると言われる。", "title": "概要" } ]
行政国家(ぎょうせいこっか)とは、政府が社会の秩序維持にとどまらず、一定の理念の実現を目指して国民の生活、経済活動の在り方に積極的に介入しようとする国家をいう。立法国家、消極国家、夜警国家と対比される。
'''行政国家'''(ぎょうせいこっか)とは、[[政府]]が[[社会]]の秩序維持にとどまらず、一定の理念の実現を目指して[[国民]]の生活、経済活動の在り方に積極的に介入しようとする[[国家]]をいう。[[立法国家]]、消極国家、[[夜警国家]]と対比される。 ==概要== [[社会主義]]への対抗もある中で、伝統的な[[自由主義]]に立脚する[[小さな政府]]、夜警国家が批判され、国家が[[社会保障]]制度を設け、[[公共事業]]や各種の[[経済政策]]を行って広く国民の活動に介入するようになると、国家の果たす役割は大きく増加し、また複雑で専門的なものとなっていった。これに対して、[[国会議員]]などの[[政治家]]や、主としてそれから選ばれる[[大臣]]は、[[社会福祉|福祉]]や[[経済]]についての専門的な知識・経験を持たない(あるいは少ない)場合も多く、どのような問題があり、どうすればよいかを自ら判断することが困難なものとなる。 そこで、各分野においてその専門的な知識・経験を持つ[[官僚]]に頼らざるを得なくなり、本来行政権下で事務を担当するはずの官僚が、[[法案]]の作成や政策決定などの[[立法]]に関することまで強い影響力を持つようになる。そうすると行政は、本来国民による選挙を背景に強い正統性を持つ立法よりも優越した立場になり、国民の意見が反映され難くなる。 また、社会保障や経済政策のために各種の規制が行われるようになると、行政は国民の活動に広く介入するようになり、行政組織は肥大化し、社会の中で行政が大きな割合を占めるようになる。このような行政の優越する国家を行政国家と呼び、またこのようになる現象を行政国家現象と呼ぶ。 国家に複雑・多様な役割が求められる現代では、相応の規模の行政組織と専門的な知識・経験に基づいた判断は不可欠であり、程度の差こそあれ、どの国家においても行政国家現象が見られると言われる。 ==問題点== *[[行政|行政権]]が、[[立法|立法権]]や[[司法|司法権]]より優越した立場になり[[権力分立]]の立場からは、健全な状況にないとされる。 *法律が、行政を熟知する[[官僚]]により作成され、その法律の細目の決定も官僚が行う[[委任立法]]が主となる。 *国の行政権が、[[許可]]権・[[認可]]権を有し、国民や地方自治体を支配するようになる。 *行政の活動が活発化し、国民の生活向上に介入するようになるため、国民は利益の享受者として受動性を高め、その結果国民は政治的無関心に陥りやすい。 == 関連項目 == *[[積極国家]] *[[福祉国家]] *[[大きな政府]] *[[委任立法]] {{Poli-stub}} {{DEFAULTSORT:きようせいこつか}} [[Category:行政]] [[Category:政治システム]]
null
2020-10-11T01:42:45Z
false
false
false
[ "Template:Poli-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%9B%BD%E5%AE%B6
12,032
ビルト・イン・スタビライザー
ビルト・イン・スタビライザーとは、財政自体に備わっている、景気を自動的に安定させるプロセス(装置)のこと。 補整的公共投資政策などの投資的財政政策に比べ、タイム・ラグがない。所得税における累進課税を強化するほどその効果は大きい。 また、歳出を一定額に固定する、あるいは増加率を固定するなどによっても安定化機能は果たせる。「景気の自動調節弁」とも言う。 一般に、ある国民経済においては となる。 仮に民間投資が減少したとすると、財政収支と経常収支がそのままの場合、総貯蓄が減少することになる。(3)(4)より総貯蓄の減少は、消費性向を通して総消費の減少を意味し、民間投資の減少と併せて国民所得の減少(不況)を起こす。 しかし、国民所得の減少は通常、税収の減少にもつながるため、財政収支も悪化する。すると総貯蓄の減少は、財政収支がそのままの場合に比べて、軽微で済み、国民所得の減少も緩やかになる。また、輸入も国民所得に比例する傾向があるため、経常収支を通すことで貿易にもスタビライザー効果が見られる。 民間投資が15の場合は、国民所得に応じた税制の国も国民所得と無関係な税制である国も違いはないが、民間投資が5の場合は同額の総投資減少に対して、国民所得に比例した税制を持つ国のほうが景気の落ち込み方は緩やかになる。これは、歳出を固定しているだけでも、税収減により財政赤字になり、財政政策を自動的に発動していることになるためである。バブル崩壊後の日本においても、急速な税収減少が景気の落ち込みを限定的なものにした。一方、財政均衡を守ろうとするとスタビライザー効果は失われ景気の落ち込みは激しくなる。 インフレーションが進行する中では、歳出を固定したり増加額を一定率にしたりすることでインフレーションを押さえ込むというスタビライザー効果が期待される。 これは、不景気時の逆で、インフレーションが財政収支改善をもたらし自動的に緊縮財政効果をもたらすからである。 ただ、インフレ率よりも低い歳出増加率を余儀なくされるため、財政上投入可能な資源が減少する(実質歳出の低下)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ビルト・イン・スタビライザーとは、財政自体に備わっている、景気を自動的に安定させるプロセス(装置)のこと。 補整的公共投資政策などの投資的財政政策に比べ、タイム・ラグがない。所得税における累進課税を強化するほどその効果は大きい。 また、歳出を一定額に固定する、あるいは増加率を固定するなどによっても安定化機能は果たせる。「景気の自動調節弁」とも言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般に、ある国民経済においては", "title": "ビルト・イン・スタビライザーのプロセス" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "となる。 仮に民間投資が減少したとすると、財政収支と経常収支がそのままの場合、総貯蓄が減少することになる。(3)(4)より総貯蓄の減少は、消費性向を通して総消費の減少を意味し、民間投資の減少と併せて国民所得の減少(不況)を起こす。", "title": "ビルト・イン・スタビライザーのプロセス" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし、国民所得の減少は通常、税収の減少にもつながるため、財政収支も悪化する。すると総貯蓄の減少は、財政収支がそのままの場合に比べて、軽微で済み、国民所得の減少も緩やかになる。また、輸入も国民所得に比例する傾向があるため、経常収支を通すことで貿易にもスタビライザー効果が見られる。", "title": "ビルト・イン・スタビライザーのプロセス" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "民間投資が15の場合は、国民所得に応じた税制の国も国民所得と無関係な税制である国も違いはないが、民間投資が5の場合は同額の総投資減少に対して、国民所得に比例した税制を持つ国のほうが景気の落ち込み方は緩やかになる。これは、歳出を固定しているだけでも、税収減により財政赤字になり、財政政策を自動的に発動していることになるためである。バブル崩壊後の日本においても、急速な税収減少が景気の落ち込みを限定的なものにした。一方、財政均衡を守ろうとするとスタビライザー効果は失われ景気の落ち込みは激しくなる。", "title": "ビルト・イン・スタビライザーのプロセス" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "インフレーションが進行する中では、歳出を固定したり増加額を一定率にしたりすることでインフレーションを押さえ込むというスタビライザー効果が期待される。 これは、不景気時の逆で、インフレーションが財政収支改善をもたらし自動的に緊縮財政効果をもたらすからである。 ただ、インフレ率よりも低い歳出増加率を余儀なくされるため、財政上投入可能な資源が減少する(実質歳出の低下)。", "title": "ビルト・イン・スタビライザーとインフレ" } ]
ビルト・イン・スタビライザーとは、財政自体に備わっている、景気を自動的に安定させるプロセス(装置)のこと。 補整的公共投資政策などの投資的財政政策に比べ、タイム・ラグがない。所得税における累進課税を強化するほどその効果は大きい。 また、歳出を一定額に固定する、あるいは増加率を固定するなどによっても安定化機能は果たせる。「景気の自動調節弁」とも言う。
{{出典の明記|date=2012年4月}} '''ビルト・イン・スタビライザー'''とは、[[財政]]自体に備わっている、[[景気]]を自動的に安定させるプロセス(装置)のこと。 補整的公共投資政策などの投資的財政政策に比べ、タイム・ラグがない。[[所得税]]における[[累進課税]]を強化するほどその効果は大きい。 また、歳出を一定額に固定する、あるいは増加率を固定するなどによっても安定化機能は果たせる。「景気の自動調節弁」とも言う。 == ビルト・イン・スタビライザーのプロセス == ===恒等式からの分析=== 一般に、ある国民経済においては : 国民所得=総消費+財政支出+民間投資+(輸出-輸入)...(1) : 総消費+総税払+総貯蓄=総消費+財政支出+民間投資+(輸出-輸入)...(2) : (総消費-総消費)+(総税払-財政支出)+(総貯蓄-民間投資)=(輸出-輸入)...(3) : 財政収支+民間純貯蓄=経常収支...(4) となる。 仮に民間投資が減少したとすると、財政収支と経常収支がそのままの場合、総貯蓄が減少することになる。(3)(4)より総貯蓄の減少は、消費性向を通して総消費の減少を意味し、民間投資の減少と併せて国民所得の減少(不況)を起こす。 しかし、国民所得の減少は通常、税収の減少にもつながるため、財政収支も悪化する。すると総貯蓄の減少は、財政収支がそのままの場合に比べて、軽微で済み、国民所得の減少も緩やかになる。また、輸入も国民所得に比例する傾向があるため、経常収支を通すことで貿易にもスタビライザー効果が見られる。 ===数式モデルからの分析=== 民間投資が15の場合は、国民所得に応じた税制の国も国民所得と無関係な税制である国も違いはないが、民間投資が5の場合は同額の総投資減少に対して、国民所得に比例した税制を持つ国のほうが景気の落ち込み方は緩やかになる。これは、歳出を固定しているだけでも、税収減により財政赤字になり、財政政策を自動的に発動していることになるためである。[[バブル崩壊]]後の日本においても、急速な税収減少が景気の落ち込みを限定的なものにした。一方、財政均衡を守ろうとするとスタビライザー効果は失われ景気の落ち込みは激しくなる。 {|class=wikitable style="font-size:small" !税制!!モデル!!民間投資が15の場合の解!!民間投資が5の場合の解 |- |国民所得に応じた税制 | *国民所得:<math>Y=C+I+G</math> *総消費:<math>C=c(Y-T)</math> *総投資:<math>I=15</math> *財政投資:<math>G=25</math> *税収:<math>T=tY</math> *消費性向:<math>c=0.8</math> *税率:<math>t=0.25</math> | *<math>Y=2.5(15+25)=100</math> *<math>C=60</math> *<math>T-G=0</math> ※財政収支 | *<math>Y=2.5(5+25)=75</math> *<math>C=45</math> *<math>T-G= -6.75</math> ※財政収支 |- |国民所得と無関係な税制 | *国民所得:<math>Y=C+I+G</math> *総消費:<math>C=c(Y-T)</math> *総投資:<math>I=15</math> *財政投資:<math>G=25</math> *税収:<math>T=25</math> *消費性向:<math>c=0.8</math> | *<math>Y=5(15+25-20)=100</math> *<math>C=60</math> *<math>T-G=0</math> ※財政収支 | *<math>Y=5(5+25-20)=50</math> *<math>C=30</math> *<math>T-G=0</math> ※財政収支 |} == ビルト・イン・スタビライザーとインフレ== インフレーションが進行する中では、歳出を固定したり増加額を一定率にしたりすることで[[インフレーション]]を押さえ込むというスタビライザー効果が期待される。 これは、不景気時の逆で、インフレーションが財政収支改善をもたらし自動的に緊縮財政効果をもたらすからである。 ただ、インフレ率よりも低い歳出増加率を余儀なくされるため、財政上投入可能な資源が減少する(実質歳出の低下)。 == ビルト・イン・スタビライザーの例 == ;[[累進課税]]制度 :個人の所得に課税される[[所得税]]は、所得金額が増加すると税率が高くなる。このため、景気拡大によって賃金が上昇すると所得税額が大きく増加し、可処分所得の増加を抑制して消費の拡大(=さらなる景気の過熱)を抑える効果がある。政府の税収は景気拡大に伴って大きく増加するが、歳出を一定にしていれば財政収支の黒字幅拡大(赤字の縮小)が起こり、総需要を抑制するように働く。 ;[[失業]]に対する救済制度 :[[雇用保険]]によって失業者には一定期間、給付金が支給される。失業者は所得がなくなれば消費水準を大きく低下させるしかなく、経済全体にとってはこれが消費の減少となってさらに景気悪化を招く効果がある。雇用保険によって失業者にある程度の収入を提供することで、消費水準の低下は小幅なものとなり、景気変動を小さくすることができる。雇用保険は政府が実施しているが、好況期など失業者が少ない時期には、雇用保険による[[失業給付]]が少なく保険料収入は多いので雇用保険の黒字が拡大(赤字は縮小)する。一方、不況期などに失業者が増加すれば、失業等給付が増加し、保険料収入が減少するので、黒字が縮小(赤字拡大)する。この場合においては、失業等給付のための基金が緩衝材の役割を果たしている。 ==関連項目== *[[社会政策]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひるといんすたひらいさあ}} [[Category:経済現象]] [[Category:経済政策]] [[Category:経済学の効果]]
null
2023-02-11T02:23:58Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC
12,037
公開市場操作
公開市場操作(こうかいしじょうそうさ、英: open market operation)とは、金融市場で、中央銀行が国債・社債・手形・上場投資信託・REITなどの有価証券を売買することによって、マネタリーベースの量を操作しマネーサプライや金利を調整する金融政策の一手段。単にオペレーションあるいは略してオペとも呼ばれる。 公開市場操作は目標を決めてから行うため、その影響が予測しやすい。公開市場操作が効果を上げるためには債券市場が発達していることが必要である。 中央銀行が銀行から国債などを買うことを言う。代金が中央銀行から銀行に支払われ、通貨量が増える。景気の低迷で金融市場への資金供給量が少なくなった時や、海外の金融状態が不安定であると言った理由で国内銀行が海外金融機関への資金供給を渋る事で資金供給量が少なくなった時に行われる。供給量が増えることで金利を下げる効果がある。供給量が多くなる事で金融機関は資金調達ができ、金融機関は調達した資金を企業や個人に供給する為、金融緩和に似た効果がある。 日本銀行では以下の種類の資金供給オペレーションを行っている。 購入代金は取引を仲介している銀行の日銀当座預金に振り込まれる。民間金融機関は日本銀行の要求を必ずしも受け入れる必要は無く、判断は民間金融機関がする。 中央銀行が銀行に国債などを売ることを言う。代金が銀行から中央銀行に支払われ、通貨量が減る。 日本銀行では以下の種類の資金吸収オペレーションを行っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "公開市場操作(こうかいしじょうそうさ、英: open market operation)とは、金融市場で、中央銀行が国債・社債・手形・上場投資信託・REITなどの有価証券を売買することによって、マネタリーベースの量を操作しマネーサプライや金利を調整する金融政策の一手段。単にオペレーションあるいは略してオペとも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "公開市場操作は目標を決めてから行うため、その影響が予測しやすい。公開市場操作が効果を上げるためには債券市場が発達していることが必要である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中央銀行が銀行から国債などを買うことを言う。代金が中央銀行から銀行に支払われ、通貨量が増える。景気の低迷で金融市場への資金供給量が少なくなった時や、海外の金融状態が不安定であると言った理由で国内銀行が海外金融機関への資金供給を渋る事で資金供給量が少なくなった時に行われる。供給量が増えることで金利を下げる効果がある。供給量が多くなる事で金融機関は資金調達ができ、金融機関は調達した資金を企業や個人に供給する為、金融緩和に似た効果がある。", "title": "手法" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本銀行では以下の種類の資金供給オペレーションを行っている。", "title": "手法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "購入代金は取引を仲介している銀行の日銀当座預金に振り込まれる。民間金融機関は日本銀行の要求を必ずしも受け入れる必要は無く、判断は民間金融機関がする。", "title": "手法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "中央銀行が銀行に国債などを売ることを言う。代金が銀行から中央銀行に支払われ、通貨量が減る。", "title": "手法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本銀行では以下の種類の資金吸収オペレーションを行っている。", "title": "手法" } ]
公開市場操作とは、金融市場で、中央銀行が国債・社債・手形・上場投資信託・REITなどの有価証券を売買することによって、マネタリーベースの量を操作しマネーサプライや金利を調整する金融政策の一手段。単にオペレーションあるいは略してオペとも呼ばれる。 公開市場操作は目標を決めてから行うため、その影響が予測しやすい。公開市場操作が効果を上げるためには債券市場が発達していることが必要である。
{{出典の明記|date=2017年7月}} {{財政}} '''公開市場操作'''(こうかいしじょうそうさ、{{lang-en-short|open market operation}})とは、[[金融市場]]で、[[中央銀行]]が[[国債]]・[[社債]]・[[手形]]・[[上場投資信託]]・[[REIT]]などの[[有価証券]]を売買することによって、[[マネタリーベース]]の量を操作し[[マネーサプライ]]や[[金利]]を調整する[[金融政策]]の一手段<ref name="boj-b34">[https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/seisaku/b34.htm/ オペレーション(公開市場操作)にはどのような種類がありますか? : 日本銀行 Bank of Japan]</ref>。単に'''オペレーション'''あるいは略して'''オペ'''とも呼ばれる。 公開市場操作は目標を決めてから行うため、その影響が予測しやすい。公開市場操作が効果を上げるためには[[債券]][[市場]]が発達していることが必要である。 == 手法 == === 資金供給オペレーション(買いオペレーション) === [[中央銀行]]が[[銀行]]から国債などを買うことを言う。代金が中央銀行から銀行に支払われ、通貨量が増える。景気の低迷で金融市場への資金供給量が少なくなった時や、海外の金融状態が不安定であると言った理由で国内銀行が海外金融機関への資金供給を渋る事で資金供給量が少なくなった時に行われる。供給量が増えることで金利を下げる効果がある。供給量が多くなる事で金融機関は資金調達ができ、金融機関は調達した資金を企業や個人に供給する為、金融緩和に似た効果がある。 [[日本銀行]]では以下の種類の資金供給オペレーションを行っている<ref name="boj-b34"/>。 * 共通担保資金供給オペ - 金融資産を担保として資金供給 * [[国債]]買入 * [[国庫短期証券]]買入 * [[コマーシャルペーパー]]・[[社債]]買入 * [[上場投資信託|ETF]]・[[J-REIT]]買入 * 国債買現先オペ * CP等買現先オペ 購入代金は取引を仲介している銀行の日銀当座預金に振り込まれる。民間金融機関は日本銀行の要求を必ずしも受け入れる必要は無く、判断は民間金融機関がする。 ===資金吸収オペレーション(売りオペレーション)=== 中央銀行が銀行に国債などを売ることを言う。代金が銀行から中央銀行に支払われ、通貨量が減る。 日本銀行では以下の種類の資金吸収オペレーションを行っている<ref name="boj-b34"/>。 * 手形売出オペ * 国債売現先オペ * 国庫短期証券売却オペ ==関連項目== *[[市場介入]] *[[外国為替平衡操作]](為替介入) *[[金融政策]] *[[ミシシッピ計画]] *[[ジョン・シャーマン (政治家)#上院議員への復帰|シャーマン銀購入法]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== *{{Wayback |url=http://www.fsa.go.jp/fukukyouzai/kiso/03_03.html |title=(2)公開市場操作 わたしたちの生活と金融の働き - 金融庁 |date=20170308133434}} {{中央銀行}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:こうかいししようそうさ}} [[Category:金融政策]] [[Category:経済政策]]
null
2020-12-23T10:17:22Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Wayback", "Template:中央銀行", "Template:Authority control", "Template:出典の明記", "Template:財政" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E9%96%8B%E5%B8%82%E5%A0%B4%E6%93%8D%E4%BD%9C
12,040
天原ふおん
天原 ふおん(あまはら ふおん、女性、4月15日 - )は日本の少女漫画家。東京都出身。1992年、真久良 ずん名義で「わたしのDear」で白泉社アテナ新人大賞佳作を受賞。『別冊花とゆめ』(白泉社)1993年11月号掲載の「クマつきの彼女」でデビュー。1994年、白泉社アテナ新人大賞デビュー優秀者賞を受賞。1995年より、天原ふおんに改名した。 花とゆめコミックス
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "天原 ふおん(あまはら ふおん、女性、4月15日 - )は日本の少女漫画家。東京都出身。1992年、真久良 ずん名義で「わたしのDear」で白泉社アテナ新人大賞佳作を受賞。『別冊花とゆめ』(白泉社)1993年11月号掲載の「クマつきの彼女」でデビュー。1994年、白泉社アテナ新人大賞デビュー優秀者賞を受賞。1995年より、天原ふおんに改名した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "花とゆめコミックス", "title": "作品リスト" } ]
天原 ふおんは日本の少女漫画家。東京都出身。1992年、真久良 ずん名義で「わたしのDear」で白泉社アテナ新人大賞佳作を受賞。『別冊花とゆめ』(白泉社)1993年11月号掲載の「クマつきの彼女」でデビュー。1994年、白泉社アテナ新人大賞デビュー優秀者賞を受賞。1995年より、天原ふおんに改名した。
'''天原 ふおん'''(あまはら ふおん、女性、[[4月15日]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://amahara.halfmoon.jp/pro1.htm|title=天原ふおんHP |accessdate=2016-04-09}}</ref> - )は[[日本]]の少女[[漫画家]]。[[東京都]]出身。[[1992年]]、'''真久良 ずん'''名義で「わたしのDear」で[[白泉社アテナ新人大賞]]佳作を受賞。『[[別冊花とゆめ]]』([[白泉社]])[[1993年]]11月号掲載の「クマつきの彼女」でデビュー。[[1994年]]、白泉社アテナ新人大賞デビュー優秀者賞を受賞。[[1995年]]より、天原ふおんに改名した。 == 作品リスト == === 単行本 === [[花とゆめコミックス]] * わたしの猫は王子様(全3巻、1996年 - 1997年刊) ** 第1巻併録:こどもの祭り日 ** 第3巻併録:クマつきの彼女 * ミストルティンの魔法(全2巻、1997年刊) ** 第1巻併録:わたしはドラゴンのペット * ゆめくいダンジョン(全1巻、1998年刊) * [[カタリアツメベ探訪談]](全2巻、1998年 - 2000年刊) * キミはボクらの太陽だ -天原ふおん短編集- (短編集、2000年刊) ** 収録作品:キミはボクらの太陽だ / キミはボクらの太陽だ2 / 月黄泉童子 / ハッピーラッキーマイスター! * 献血ラッシュ(全3巻、2002年 - 2003年刊) * はちみつペアグラス(全1巻、2004年刊) * 天使のドッペルゲンガー(全1巻、2004年刊) * ラブラブしっぽ図鑑(全1巻、2004年刊) ** 併録:ひとり半暮らし * みらい渾天儀(全1巻、2005年刊) * ないしょのラッキードール(全1巻、2006年刊) === 単行本未収録作品 === ==== 真久良ずん名義 ==== * わたしのDear(花とゆめプラネット増刊 1993年5/1号) * フリーハンドで地図を描こう(別冊花とゆめ 1994年3月号) * はばたくことり(別冊花とゆめ 1994年7月号) * 天使の名前(別冊花とゆめ 1994年12月号) ==== 天原ふおん名義 ==== * 冬の日記帳([[花とゆめ]] 1999年3号) * 夏に生まれたもうひとり([[ザ花とゆめ]] 1999年10/1号) * まぼろしの海(ザ花とゆめ 2000年10/1号) * 姉弟記念日(ザ花とゆめ 2001年2/1号) * デンドリック*クォーツ(別冊花とゆめ 2005年5月号、別冊花とゆめ 2005年7月号) * ミミネコ!!(別冊花とゆめ 2006年5月号) * きみはオサカナ(別冊花とゆめ 2006年7月号) * びょーきな私(シルキースペシャル 2006年9月号) * ラブラブしっぽ日和(別冊花とゆめ 2006年9月号 - 2009年2月号) * ふかふかミックス(別冊花とゆめ 2009年5月号 - 2010年1月号) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://amahara.halfmoon.jp/ 天花堂] - 天原ふおんHP * [http://puwarapowara.jugem.jp/ ぷわらぽわら] - 天原ふおんブログ {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あまはら ふおん}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:存命人物]]
2003-07-22T03:25:06Z
2023-11-18T04:58:57Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:Normdaten", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E3%81%B5%E3%81%8A%E3%82%93
12,046
丸山忠久
丸山 忠久(まるやま ただひさ、1970年9月5日 - )は、将棋棋士、九段。実力制11人目の名人。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は194。千葉県木更津市出身。いわゆる「羽生世代」の一人。 1983年に奨励会の入会試験に挑戦するが不合格。同年に新たに発足した研修会に入会する。1984年、第9回中学生名人戦で優勝するが、研修会ではB1級で足踏みしてしまい奨励会への編入はならず、奨励会入会試験を再び受験するがまたも不合格。翌年に研修会A級に昇級したことで奨励会6級への編入を果たした。 1986年、志学館高等学校(現:志学館高等部)に入学。高校3年の11月に三段への昇段を決め、次期三段リーグへの初参加を決める。1989年の春、同校を卒業。早稲田大学社会科学部に一芸推薦の制度で入学する。大学生活と同時に、三段リーグでの初の戦いが始まることとなった。 2度目の三段リーグ(1989年度後期)で14勝4敗の成績で1位となり、大学2年になるのと同時に1990年4月1日付けで四段昇段(プロ入り)。 多忙の中、高校も大学も留年無しで卒業している。 プロデビュー後は初年度である1990 - 1991年度から活躍。第4期竜王戦では6組ランキング戦を優勝し、本戦でも5組優勝者の畠山鎮に勝利。第32期王位戦では4連勝でリーグ入りするも、紅組で大島映二に勝利したのみで1勝4敗で陥落。第41回NHK杯戦では予選を突破して本戦準決勝まで勝ち進み、第40期王座戦でも本戦入りを果たした。そして第50期順位戦C級2組では9勝1敗の成績を収め、C級1組への昇級となった。 1992 - 1993年度の第14回オールスター勝ち抜き戦で6連勝。5勝以上は優勝扱いであり、これが棋戦初優勝。同棋戦とは相性が良く、第15回、20回、21回でも5連勝以上を達成している(第15回では11連勝)。第5期竜王戦では昇級者決定戦を勝ち上がり、4組へ昇級。第52期順位戦C級1組では9勝1敗の成績を収めるも、昇級争いのライバルかつ順位が丸山の一つ上である有森浩三に1敗していた事が大きく響き、順位一枚の差で昇級を逃した(丸山は11位、有森は10位)。 1994年、順位戦C級1組在籍時の6月23日から10月7日にかけて、公式戦24連勝を記録、2017年に藤井聡太に抜かれるまでは歴代2位の記録で且つ平成以降としては最長記録だった。その連勝記録の中には当時の名人・五冠王の羽生善治とA級棋士5名(加藤一二三、谷川浩司、高橋道雄、南芳一、米長邦雄)を負かしている。また、当期は第52期順位戦C級1組にて再び9勝1敗の成績を収め、2位でB級2組へ昇級となった。他には第13回早指し新鋭戦にて決勝に進出するも、畠山成幸に敗れて準優勝に終わった(本棋戦では次の第14回でも決勝で敗退し、準優勝となっている)。 1994、1995年の新人王戦で2連覇。決勝の相手はそれぞれ郷田真隆、深浦康市。第8期竜王戦では4組ランキング戦を準優勝して3組へ昇級。第45期王将戦では初の王将リーグ入りを果たすも、中原誠相手に1勝したのみで陥落。しかし、この1勝によって中原は挑戦者決定プレーオフへの進出を逃すことになった。 1996年度は第55期順位戦B級2組にて9勝1敗の成績を収め、B級1組への昇級を決めた。第9期竜王戦では3組ランキング戦を優勝し、2組へ昇級。第37期王位戦では3回目の王位リーグを果たすと、紅組を4勝1敗の成績で終えて初の組優勝を決めたが、挑戦者決定戦にて深浦康市に敗れた。第46期王将戦では王将リーグに復帰すると、4勝2敗で初残留に成功した。 1997年度は第56期順位戦で史上初のB級1組12戦全勝(A級初昇級)。その第2戦は、病苦に耐える村山聖(丸山とともにA級昇級した後に死去)との深夜に及ぶ173手の激闘として知られる。第23期棋王戦では準決勝まで勝ち進むがそこから2連敗して、挑戦とはならなかった。 1998年度、A級初参戦となった第57期順位戦では6勝2敗の好成績を収めるも、プレーオフ出場にあと1勝が足りない結果となった。第11期竜王戦では2組ランキング戦を優勝し、遂に1組へ昇級した。第48期王将戦では4勝2敗の成績を収めるも、やはりプレーオフまで1勝が足りない結果になった。第17回全日本プロトーナメントでは、1999年4月に行われた決勝五番勝負で森内俊之を3-0で下し、全棋士参加棋戦での初優勝を達成した。 1999年度、第12期竜王戦では本戦を突破して挑戦者決定戦に進出するも、鈴木大介を相手に1-2で敗退。第47期王座戦で羽生善治王座への挑戦権を得、タイトル戦初登場となったが五番勝負は1-3で敗退した。同じく1999年、JT将棋日本シリーズで優勝(この棋戦では2001年も優勝)。そして第58期順位戦ではA級リーグを8勝1敗という圧倒的な成績で優勝し、名人への挑戦が決まった。 第58期(2000年度)名人戦で佐藤康光を4-3で破り、初タイトルの名人位に就く(2000年6月28日、同日付で規定により九段昇段。五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したのは谷川浩司に続き史上2人目。)。当時、丸山は、先手ならば角換わり戦法、後手ならば横歩取り△8五飛車戦法で、無敵とも言える強さを誇っていた。ところが佐藤は全局で、敢えて、その丸山の得意戦法に誘導した。よって、戦形が2種類しか現れず、名人が挑戦者の得意戦法を試すという珍しいシリーズになった。その他、第50期王将戦では王将リーグを3勝3敗で終えるも5位で陥落し、第46期から続いてた同棋戦のリーグ残留が途絶えた。 第59期(2001年度)名人戦で谷川浩司の挑戦を4-3で退け、初防衛。第49期王座戦では再び挑戦者決定戦まで勝ち進むが、久保利明を相手に敗戦。 2000、2001年度の早指し将棋選手権戦は名人の肩書きを持っての出場であったが、2連覇。決勝の相手は、それぞれ羽生善治、屋敷伸之。 第60期(2002年度)名人戦で、0-4で森内俊之に敗れ失冠するが、同年度の第28期棋王戦で羽生善治に挑戦し、3-2で奪取。羽生の棋王連覇を12で止めたことが評価され、将棋大賞の殊勲賞を受賞。その他、第73期棋聖戦でも決勝トーナメントを勝ち進むが、挑戦者決定戦にて佐藤康光を相手に敗退。 2003年、第74期棋聖戦で佐藤康光に挑戦するが、0-3で奪取ならず。第29期棋王戦では谷川浩司を相手に1-3で失冠し、再び無冠となった。 2004年度、第54期王将戦にて王将リーグに復帰。3勝3敗で終えたが、二次予選から勝ち上がっていた郷田真隆、阿久津主税も同じ成績だったため、3人での残留決定戦が行われた。結果、丸山は郷田と阿久津に連勝し、第49期以来の王将リーグ残留を果たした。 2005年度、NHK杯戦で優勝。渡辺明と戦った決勝戦は序中盤から目まぐるしい展開となり、解説の米長邦雄と聞き手の千葉涼子の話も弾んだ。 2006年度、第19期竜王戦で1組ランキング戦を優勝し、本戦も突破して挑戦者決定戦に進出するが、佐藤康光を相手に2連敗で敗退した。第56期王将戦では王将リーグを4勝2敗で終えてプレーオフに初進出したが、再び佐藤康光を相手に敗退となった。 2007年度は第48期王位戦にて王位リーグ入りをすると、紅組にて3勝2敗の成績で残留した。また、第1回朝日杯将棋オープン戦と第1回大和証券杯の2棋戦で決勝に進出するが、それぞれ行方尚史と郷田真隆を相手に敗退して準優勝に終わった。 2007年5月11日、通算600勝(290敗)を達成(将棋栄誉賞)。 2008年度は第21期竜王戦にて1組ランキング戦を2回目の優勝。第58期王将戦では、王将リーグにて3勝3敗だったがリーグ陥落。第49期王位戦では白組を再び3勝2敗の成績で残留(次期にてリーグ陥落)。しかし、年度全体の成績としては19勝21敗で、初めての負け越しに終わった。 2009年度は早指し棋戦で活躍し、NHK杯と銀河戦でそれぞれベスト4入りを果たした。 2010年度は第23期竜王戦にて1組ランキング戦を3回目の優勝。NHK杯では再びベスト4に入り、銀河戦では決勝に進出した(佐藤康光に敗れ準優勝)。 2011年3月2日、第69期A級順位戦最終局(「将棋界の一番長い日」)で渡辺明竜王に勝ち、渡辺の名人初挑戦を阻むとともに、自身は通算700勝(363敗、勝率0.6585)を達成。第24期竜王戦では1組ランキング戦にて4回目の優勝を果たすと、挑戦者決定三番勝負で久保利明二冠を2-1で下し初の挑戦権を獲得。竜王戦1組優勝者の挑戦は初めてであった。しかし、タイトル戦においては1勝4敗で奪取ならず。 2012年3月2日、第70期A級順位戦最終局で久保利明に勝つも2勝7敗となり、連続14期在籍したA級からB級1組へと降格となる。9月11日、第25期竜王戦挑戦者決定三番勝負で山崎隆之七段を2-1で下し2年連続の挑戦権を獲得するも、1勝4敗で奪取ならず。 2014年11月18日、通算800勝(433敗)を達成(将棋栄誉敢闘賞)。 2016年度、第29期竜王戦の1組ランキング戦にて5回目の優勝を果たすが、挑戦者決定戦において三浦弘行九段に敗れる。しかし、三浦が出場停止となり、繰り上げで竜王戦七番勝負に出場。渡辺明竜王との七番勝負は最終局までもつれ込む。第7局で丸山は果敢に攻めるも惜敗し、竜王獲得は成らなかった。 2017年、当年度よりタイトル戦に昇格した第3期叡王戦では九段戦予選で島朗九段・郷田真隆九段に勝ち本戦進出、本戦でも藤井猛九段・小林裕士七段に勝ち準決勝に進出、ここで高見泰地五段に勝てば初代叡王の座を賭けた七番勝負に出場できる所だったが敗北し、ベスト4に留まった。 順位戦では、第76期B級1組の降級枠は最下位の1名のみであったが、最終局を前に最下位(B級2組降級)が確定した。名人在位経験者がB級2組に降級するのは、加藤一二三以来史上2人目。 2020年1月22日、第78期B級2組順位戦9回戦において中川大輔八段に勝利。8連勝でB級1組への復帰を果たした。(最終成績は9勝1敗) 2021年2月4日、第79期順位戦12回戦で深浦康市九段に敗れ、4勝8敗で一期でのB級2組降級となった。名人在位経験者がB級2組に2度降級するのは史上初。 2022年3月1日、第80期順位戦10回戦で昇級を争っていた鈴木大介九段が中村太地七段に敗れたため、再び一期でB級1組への復帰を果たした(最終成績は8勝2敗)。 2023年1月12日、第79期順位戦11回戦で屋敷伸之九段に敗れ、再び一期でのB級2組降級となった(最終成績は4勝8敗)。名人在位経験者がB級2組に3度降級するのは史上初。 同2023年12月8日、通算1000勝(600敗)を達成(特別将棋栄誉賞)。第9期叡王戦段位別予選・九段戦決勝(対深浦康市戦)での勝利によるもので、2017年達成の佐藤康光以来、史上10人目の通算1000勝達成となる。 同2023年12月23日、第31期銀河戦決勝が囲碁将棋プラスで配信され、藤井聡太銀河(八冠)に勝利し銀河戦初優勝。銀河戦優勝の最年長記録(53歳1か月=対局日基準)を更新。29年ぶりとなる50歳代の棋士による全棋士参加一般棋戦優勝を達成した(第43回NHK杯<1993年度>優勝の加藤一二三<当時54歳>以来)。 居飛車党。序中盤でリードして逃げ切る戦い方、接近戦を得意とする。優勢になってからも勝ちを急がず、相手の手を殺す方針を貫く手堅い棋風は、「激辛流」あるいは「友達を無くす戦い方」と言われる。 角換わりや横歩取りを得意としている。1997年度のNHK杯における兄弟子・米長邦雄との対局では、後手番の米長が丸山の角換わりを避け、角換わりのような出だしでありながら角道を止めて角交換を拒否し、丸山に飛車先の歩交換を許す、現代のプロ棋士の目からすれば奇異な作戦を採用した。米長は局後の感想戦で「(丸山に)角換わりを指させたら、谷川・羽生でもかなわないだろうから(角換わりの将棋にしなかった)」と語っている。第24期(2011年度)および第25期(2012年度)竜王戦七番勝負では、先手ならば角換わり、後手ならば一手損角換わりで全局を戦った。 ゴキゲン中飛車戦法に対して早々と角交換する指し方は「丸山ワクチン」と呼ばれる。これは丸山千里が開発した薬剤の名前に因んでいる。 最近、丸山の後手番で、一手損角換わりの途中、3手目に先手から角道を止められた場合は振り飛車を採用することが多くなった。 昇段規定は、将棋の段級 を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "丸山 忠久(まるやま ただひさ、1970年9月5日 - )は、将棋棋士、九段。実力制11人目の名人。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は194。千葉県木更津市出身。いわゆる「羽生世代」の一人。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1983年に奨励会の入会試験に挑戦するが不合格。同年に新たに発足した研修会に入会する。1984年、第9回中学生名人戦で優勝するが、研修会ではB1級で足踏みしてしまい奨励会への編入はならず、奨励会入会試験を再び受験するがまたも不合格。翌年に研修会A級に昇級したことで奨励会6級への編入を果たした。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1986年、志学館高等学校(現:志学館高等部)に入学。高校3年の11月に三段への昇段を決め、次期三段リーグへの初参加を決める。1989年の春、同校を卒業。早稲田大学社会科学部に一芸推薦の制度で入学する。大学生活と同時に、三段リーグでの初の戦いが始まることとなった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2度目の三段リーグ(1989年度後期)で14勝4敗の成績で1位となり、大学2年になるのと同時に1990年4月1日付けで四段昇段(プロ入り)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "多忙の中、高校も大学も留年無しで卒業している。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "プロデビュー後は初年度である1990 - 1991年度から活躍。第4期竜王戦では6組ランキング戦を優勝し、本戦でも5組優勝者の畠山鎮に勝利。第32期王位戦では4連勝でリーグ入りするも、紅組で大島映二に勝利したのみで1勝4敗で陥落。第41回NHK杯戦では予選を突破して本戦準決勝まで勝ち進み、第40期王座戦でも本戦入りを果たした。そして第50期順位戦C級2組では9勝1敗の成績を収め、C級1組への昇級となった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1992 - 1993年度の第14回オールスター勝ち抜き戦で6連勝。5勝以上は優勝扱いであり、これが棋戦初優勝。同棋戦とは相性が良く、第15回、20回、21回でも5連勝以上を達成している(第15回では11連勝)。第5期竜王戦では昇級者決定戦を勝ち上がり、4組へ昇級。第52期順位戦C級1組では9勝1敗の成績を収めるも、昇級争いのライバルかつ順位が丸山の一つ上である有森浩三に1敗していた事が大きく響き、順位一枚の差で昇級を逃した(丸山は11位、有森は10位)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1994年、順位戦C級1組在籍時の6月23日から10月7日にかけて、公式戦24連勝を記録、2017年に藤井聡太に抜かれるまでは歴代2位の記録で且つ平成以降としては最長記録だった。その連勝記録の中には当時の名人・五冠王の羽生善治とA級棋士5名(加藤一二三、谷川浩司、高橋道雄、南芳一、米長邦雄)を負かしている。また、当期は第52期順位戦C級1組にて再び9勝1敗の成績を収め、2位でB級2組へ昇級となった。他には第13回早指し新鋭戦にて決勝に進出するも、畠山成幸に敗れて準優勝に終わった(本棋戦では次の第14回でも決勝で敗退し、準優勝となっている)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1994、1995年の新人王戦で2連覇。決勝の相手はそれぞれ郷田真隆、深浦康市。第8期竜王戦では4組ランキング戦を準優勝して3組へ昇級。第45期王将戦では初の王将リーグ入りを果たすも、中原誠相手に1勝したのみで陥落。しかし、この1勝によって中原は挑戦者決定プレーオフへの進出を逃すことになった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1996年度は第55期順位戦B級2組にて9勝1敗の成績を収め、B級1組への昇級を決めた。第9期竜王戦では3組ランキング戦を優勝し、2組へ昇級。第37期王位戦では3回目の王位リーグを果たすと、紅組を4勝1敗の成績で終えて初の組優勝を決めたが、挑戦者決定戦にて深浦康市に敗れた。第46期王将戦では王将リーグに復帰すると、4勝2敗で初残留に成功した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1997年度は第56期順位戦で史上初のB級1組12戦全勝(A級初昇級)。その第2戦は、病苦に耐える村山聖(丸山とともにA級昇級した後に死去)との深夜に及ぶ173手の激闘として知られる。第23期棋王戦では準決勝まで勝ち進むがそこから2連敗して、挑戦とはならなかった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1998年度、A級初参戦となった第57期順位戦では6勝2敗の好成績を収めるも、プレーオフ出場にあと1勝が足りない結果となった。第11期竜王戦では2組ランキング戦を優勝し、遂に1組へ昇級した。第48期王将戦では4勝2敗の成績を収めるも、やはりプレーオフまで1勝が足りない結果になった。第17回全日本プロトーナメントでは、1999年4月に行われた決勝五番勝負で森内俊之を3-0で下し、全棋士参加棋戦での初優勝を達成した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1999年度、第12期竜王戦では本戦を突破して挑戦者決定戦に進出するも、鈴木大介を相手に1-2で敗退。第47期王座戦で羽生善治王座への挑戦権を得、タイトル戦初登場となったが五番勝負は1-3で敗退した。同じく1999年、JT将棋日本シリーズで優勝(この棋戦では2001年も優勝)。そして第58期順位戦ではA級リーグを8勝1敗という圧倒的な成績で優勝し、名人への挑戦が決まった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第58期(2000年度)名人戦で佐藤康光を4-3で破り、初タイトルの名人位に就く(2000年6月28日、同日付で規定により九段昇段。五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したのは谷川浩司に続き史上2人目。)。当時、丸山は、先手ならば角換わり戦法、後手ならば横歩取り△8五飛車戦法で、無敵とも言える強さを誇っていた。ところが佐藤は全局で、敢えて、その丸山の得意戦法に誘導した。よって、戦形が2種類しか現れず、名人が挑戦者の得意戦法を試すという珍しいシリーズになった。その他、第50期王将戦では王将リーグを3勝3敗で終えるも5位で陥落し、第46期から続いてた同棋戦のリーグ残留が途絶えた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第59期(2001年度)名人戦で谷川浩司の挑戦を4-3で退け、初防衛。第49期王座戦では再び挑戦者決定戦まで勝ち進むが、久保利明を相手に敗戦。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2000、2001年度の早指し将棋選手権戦は名人の肩書きを持っての出場であったが、2連覇。決勝の相手は、それぞれ羽生善治、屋敷伸之。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第60期(2002年度)名人戦で、0-4で森内俊之に敗れ失冠するが、同年度の第28期棋王戦で羽生善治に挑戦し、3-2で奪取。羽生の棋王連覇を12で止めたことが評価され、将棋大賞の殊勲賞を受賞。その他、第73期棋聖戦でも決勝トーナメントを勝ち進むが、挑戦者決定戦にて佐藤康光を相手に敗退。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2003年、第74期棋聖戦で佐藤康光に挑戦するが、0-3で奪取ならず。第29期棋王戦では谷川浩司を相手に1-3で失冠し、再び無冠となった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2004年度、第54期王将戦にて王将リーグに復帰。3勝3敗で終えたが、二次予選から勝ち上がっていた郷田真隆、阿久津主税も同じ成績だったため、3人での残留決定戦が行われた。結果、丸山は郷田と阿久津に連勝し、第49期以来の王将リーグ残留を果たした。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2005年度、NHK杯戦で優勝。渡辺明と戦った決勝戦は序中盤から目まぐるしい展開となり、解説の米長邦雄と聞き手の千葉涼子の話も弾んだ。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2006年度、第19期竜王戦で1組ランキング戦を優勝し、本戦も突破して挑戦者決定戦に進出するが、佐藤康光を相手に2連敗で敗退した。第56期王将戦では王将リーグを4勝2敗で終えてプレーオフに初進出したが、再び佐藤康光を相手に敗退となった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2007年度は第48期王位戦にて王位リーグ入りをすると、紅組にて3勝2敗の成績で残留した。また、第1回朝日杯将棋オープン戦と第1回大和証券杯の2棋戦で決勝に進出するが、それぞれ行方尚史と郷田真隆を相手に敗退して準優勝に終わった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2007年5月11日、通算600勝(290敗)を達成(将棋栄誉賞)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2008年度は第21期竜王戦にて1組ランキング戦を2回目の優勝。第58期王将戦では、王将リーグにて3勝3敗だったがリーグ陥落。第49期王位戦では白組を再び3勝2敗の成績で残留(次期にてリーグ陥落)。しかし、年度全体の成績としては19勝21敗で、初めての負け越しに終わった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2009年度は早指し棋戦で活躍し、NHK杯と銀河戦でそれぞれベスト4入りを果たした。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2010年度は第23期竜王戦にて1組ランキング戦を3回目の優勝。NHK杯では再びベスト4に入り、銀河戦では決勝に進出した(佐藤康光に敗れ準優勝)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2011年3月2日、第69期A級順位戦最終局(「将棋界の一番長い日」)で渡辺明竜王に勝ち、渡辺の名人初挑戦を阻むとともに、自身は通算700勝(363敗、勝率0.6585)を達成。第24期竜王戦では1組ランキング戦にて4回目の優勝を果たすと、挑戦者決定三番勝負で久保利明二冠を2-1で下し初の挑戦権を獲得。竜王戦1組優勝者の挑戦は初めてであった。しかし、タイトル戦においては1勝4敗で奪取ならず。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2012年3月2日、第70期A級順位戦最終局で久保利明に勝つも2勝7敗となり、連続14期在籍したA級からB級1組へと降格となる。9月11日、第25期竜王戦挑戦者決定三番勝負で山崎隆之七段を2-1で下し2年連続の挑戦権を獲得するも、1勝4敗で奪取ならず。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2014年11月18日、通算800勝(433敗)を達成(将棋栄誉敢闘賞)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2016年度、第29期竜王戦の1組ランキング戦にて5回目の優勝を果たすが、挑戦者決定戦において三浦弘行九段に敗れる。しかし、三浦が出場停止となり、繰り上げで竜王戦七番勝負に出場。渡辺明竜王との七番勝負は最終局までもつれ込む。第7局で丸山は果敢に攻めるも惜敗し、竜王獲得は成らなかった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2017年、当年度よりタイトル戦に昇格した第3期叡王戦では九段戦予選で島朗九段・郷田真隆九段に勝ち本戦進出、本戦でも藤井猛九段・小林裕士七段に勝ち準決勝に進出、ここで高見泰地五段に勝てば初代叡王の座を賭けた七番勝負に出場できる所だったが敗北し、ベスト4に留まった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "順位戦では、第76期B級1組の降級枠は最下位の1名のみであったが、最終局を前に最下位(B級2組降級)が確定した。名人在位経験者がB級2組に降級するのは、加藤一二三以来史上2人目。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2020年1月22日、第78期B級2組順位戦9回戦において中川大輔八段に勝利。8連勝でB級1組への復帰を果たした。(最終成績は9勝1敗)", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2021年2月4日、第79期順位戦12回戦で深浦康市九段に敗れ、4勝8敗で一期でのB級2組降級となった。名人在位経験者がB級2組に2度降級するのは史上初。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2022年3月1日、第80期順位戦10回戦で昇級を争っていた鈴木大介九段が中村太地七段に敗れたため、再び一期でB級1組への復帰を果たした(最終成績は8勝2敗)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2023年1月12日、第79期順位戦11回戦で屋敷伸之九段に敗れ、再び一期でのB級2組降級となった(最終成績は4勝8敗)。名人在位経験者がB級2組に3度降級するのは史上初。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "同2023年12月8日、通算1000勝(600敗)を達成(特別将棋栄誉賞)。第9期叡王戦段位別予選・九段戦決勝(対深浦康市戦)での勝利によるもので、2017年達成の佐藤康光以来、史上10人目の通算1000勝達成となる。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "同2023年12月23日、第31期銀河戦決勝が囲碁将棋プラスで配信され、藤井聡太銀河(八冠)に勝利し銀河戦初優勝。銀河戦優勝の最年長記録(53歳1か月=対局日基準)を更新。29年ぶりとなる50歳代の棋士による全棋士参加一般棋戦優勝を達成した(第43回NHK杯<1993年度>優勝の加藤一二三<当時54歳>以来)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "居飛車党。序中盤でリードして逃げ切る戦い方、接近戦を得意とする。優勢になってからも勝ちを急がず、相手の手を殺す方針を貫く手堅い棋風は、「激辛流」あるいは「友達を無くす戦い方」と言われる。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "角換わりや横歩取りを得意としている。1997年度のNHK杯における兄弟子・米長邦雄との対局では、後手番の米長が丸山の角換わりを避け、角換わりのような出だしでありながら角道を止めて角交換を拒否し、丸山に飛車先の歩交換を許す、現代のプロ棋士の目からすれば奇異な作戦を採用した。米長は局後の感想戦で「(丸山に)角換わりを指させたら、谷川・羽生でもかなわないだろうから(角換わりの将棋にしなかった)」と語っている。第24期(2011年度)および第25期(2012年度)竜王戦七番勝負では、先手ならば角換わり、後手ならば一手損角換わりで全局を戦った。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ゴキゲン中飛車戦法に対して早々と角交換する指し方は「丸山ワクチン」と呼ばれる。これは丸山千里が開発した薬剤の名前に因んでいる。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "最近、丸山の後手番で、一手損角換わりの途中、3手目に先手から角道を止められた場合は振り飛車を採用することが多くなった。", "title": "棋風" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "昇段規定は、将棋の段級 を参照。", "title": "昇段履歴" } ]
丸山 忠久は、将棋棋士、九段。実力制11人目の名人。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は194。千葉県木更津市出身。いわゆる「羽生世代」の一人。
{{Infobox 将棋棋士 |image = |caption = |名前 =丸山忠久 |棋士番号 =194 |生年月日 ={{生年月日と年齢|1970|9|5}} |没年月日 = |プロ年度 ={{年月日|year=1990|month=4|day=1}}({{年数|1970|9|5|1990|4|1}}歳) |出身地 =[[千葉県]][[木更津市]] |所属 = 関東 |師匠 =[[佐瀬勇次]]名誉九段 |タイトル = |永世 = |段位 =九段 |通算成績 = |タイトル合計 = 3期 |優勝回数 =13回 |作成日時=2023年12月23日 }} '''丸山 忠久'''(まるやま ただひさ、[[1970年]][[9月5日]] - )は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、九段。実力制11人目の[[名人 (将棋)|名人]]。[[佐瀬勇次]]名誉九段門下。[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は194。[[千葉県]][[木更津市]]出身。いわゆる「[[羽生世代]]」の一人。 == 棋歴 == === プロ入りと学業 === 1983年に[[新進棋士奨励会|奨励会]]の入会試験に挑戦するが不合格<ref group="注">[[藤井猛]]、[[三浦弘行]]も一度奨励会試験に落ちた経験を持つが、丸山と同様、その後A級棋士・タイトルホルダーにまでなっている。</ref>。同年に新たに発足した[[新進棋士奨励会#研修会|研修会]]に入会する。1984年、第9回中学生名人戦で優勝するが、研修会ではB1級で足踏みしてしまい奨励会への編入はならず、奨励会入会試験を再び受験するがまたも不合格<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2013/11/10/%e4%b8%b8%e5%b1%b1%e5%bf%a0%e4%b9%85%e4%b9%9d%e6%ae%b5%e3%81%ae%e7%a0%94%e4%bf%ae%e4%bc%9a%e6%99%82%e4%bb%a3/ 丸山忠久九段の研修会時代] - 将棋ペンクラブログ・2013年11月10日</ref>。翌年に研修会A級に昇級したことで奨励会6級への編入を果たした。 1986年、志学館高等学校(現:[[志学館中等部・高等部 (千葉県)|志学館高等部]])に入学。高校3年の11月に三段への昇段を決め、次期三段リーグへの初参加を決める。1989年の春、同校を卒業。[[早稲田大学社会科学部]]に一芸推薦の制度で入学する。大学生活と同時に、三段リーグでの初の戦いが始まることとなった。 2度目の三段リーグ(1989年度後期)で14勝4敗の成績で1位となり、大学2年になるのと同時に[[1990年]][[4月1日]]付けで四段昇段(プロ入り)。 多忙の中、高校も大学も留年無しで卒業している。 === プロ入り後 === プロデビュー後は初年度である1990 - 1991年度から活躍。[[第4期竜王戦]]では6組ランキング戦を優勝し、本戦でも5組優勝者の[[畠山鎮]]に勝利。[[第32期王位戦]]では4連勝でリーグ入りするも、紅組で[[大島映二]]に勝利したのみで1勝4敗で陥落。[[第41回NHK杯テレビ将棋トーナメント|第41回NHK杯戦]]では予選を突破して本戦準決勝まで勝ち進み、[[第40期王座戦 (将棋)|第40期王座戦]]でも本戦入りを果たした。そして[[第50期順位戦]]C級2組では9勝1敗の成績を収め、C級1組への昇級となった。 1992 - 1993年度の第14回[[オールスター勝ち抜き戦]]で6連勝。5勝以上は優勝扱いであり、これが棋戦初優勝。同棋戦とは相性が良く、第15回、20回、21回でも5連勝以上を達成している(第15回では11連勝)。[[第5期竜王戦]]では昇級者決定戦を勝ち上がり、4組へ昇級。[[第52期順位戦]]C級1組では9勝1敗の成績を収めるも、昇級争いのライバルかつ順位が丸山の一つ上である[[有森浩三]]に1敗していた事が大きく響き、順位一枚の差で昇級を逃した(丸山は11位、有森は10位)。 1994年、[[順位戦]]C級1組在籍時の6月23日から10月7日にかけて、公式戦24連勝を記録、2017年に[[藤井聡太]]に抜かれるまでは歴代2位の記録で且つ平成以降としては最長記録だった。その連勝記録の中には当時の名人・五冠王の[[羽生善治]]とA級棋士5名([[加藤一二三]]、[[谷川浩司]]、[[高橋道雄]]、[[南芳一]]、[[米長邦雄]])を負かしている。また、当期は[[第52期順位戦]]C級1組にて再び9勝1敗の成績を収め、2位でB級2組へ昇級となった。他には第13回[[早指し将棋選手権|早指し新鋭戦]]にて決勝に進出するも、[[畠山成幸]]に敗れて準優勝に終わった(本棋戦では次の第14回でも決勝で敗退し、準優勝となっている)。 1994、1995年の[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]で2連覇。決勝の相手はそれぞれ[[郷田真隆]]、[[深浦康市]]。[[第8期竜王戦]]では4組ランキング戦を準優勝して3組へ昇級。[[第45期王将戦]]では初の王将リーグ入りを果たすも、[[中原誠]]相手に1勝したのみで陥落。しかし、この1勝によって中原は挑戦者決定プレーオフへの進出を逃すことになった。 1996年度は[[第55期順位戦]]B級2組にて9勝1敗の成績を収め、B級1組への昇級を決めた。[[第9期竜王戦]]では3組ランキング戦を優勝し、2組へ昇級。[[第37期王位戦]]では3回目の王位リーグを果たすと、紅組を4勝1敗の成績で終えて初の組優勝を決めたが、挑戦者決定戦にて深浦康市に敗れた。[[第46期王将戦]]では王将リーグに復帰すると、4勝2敗で初残留に成功した。 1997年度は[[第56期順位戦]]で'''史上初のB級1組12戦全勝'''('''A級初昇級''')。その第2戦は、病苦に耐える[[村山聖]](丸山とともにA級昇級した後に死去)との深夜に及ぶ173手の激闘として知られる。[[第23期棋王戦]]では準決勝まで勝ち進むがそこから2連敗して、挑戦とはならなかった。 1998年度、A級初参戦となった[[第57期順位戦]]では6勝2敗の好成績を収めるも、プレーオフ出場にあと1勝が足りない結果となった。[[第11期竜王戦]]では2組ランキング戦を優勝し、遂に1組へ昇級した。[[第48期王将戦]]では4勝2敗の成績を収めるも、やはりプレーオフまで1勝が足りない結果になった。第17回[[朝日オープン将棋選手権|全日本プロトーナメント]]では、1999年4月に行われた決勝[[番勝負|五番勝負]]で[[森内俊之]]を3-0で下し、'''全棋士参加棋戦での初優勝'''を達成した。 1999年度、[[第12期竜王戦]]では本戦を突破して挑戦者決定戦に進出するも、[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]を相手に1-2で敗退。[[第47期王座戦 (将棋)|第47期王座戦]]で羽生善治王座への挑戦権を得、'''タイトル戦初登場'''となったが五番勝負は1-3で敗退した。同じく1999年、[[JT将棋日本シリーズ]]で優勝(この棋戦では2001年も優勝)。そして[[第58期順位戦]]ではA級リーグを8勝1敗という圧倒的な成績で優勝し、名人への挑戦が決まった。 第58期(2000年度)[[名人戦 (将棋)|名人戦]]で[[佐藤康光]]を4-3で破り、'''初タイトル'''の'''名人'''位に就く([[2000年]][[6月28日]]、同日付で[[将棋の段級#棋士|規定]]により九段昇段。五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したのは谷川浩司に続き史上2人目。)。当時、丸山は、先手ならば[[角換わり]]戦法、後手ならば[[横歩取り8五飛|横歩取り△8五飛車]]戦法で、無敵とも言える強さを誇っていた。ところが佐藤は全局で、敢えて、その丸山の得意戦法に誘導した。よって、戦形が2種類しか現れず、名人が挑戦者の得意戦法を試すという珍しいシリーズになった。その他、[[第50期王将戦]]では王将リーグを3勝3敗で終えるも5位で陥落し、第46期から続いてた同棋戦のリーグ残留が途絶えた。 第59期(2001年度)名人戦で谷川浩司の挑戦を4-3で退け、初防衛。[[第49期王座戦 (将棋)|第49期王座戦]]では再び挑戦者決定戦まで勝ち進むが、[[久保利明]]を相手に敗戦。 2000、2001年度の[[早指し将棋選手権]]戦は名人の肩書きを持っての出場であったが、2連覇。決勝の相手は、それぞれ羽生善治、[[屋敷伸之]]。 第60期(2002年度)名人戦で、0-4で森内俊之に敗れ失冠するが、同年度の第28期[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]で羽生善治に挑戦し、3-2で奪取。羽生の棋王連覇を12で止めたことが評価され、[[将棋大賞]]の殊勲賞を受賞。その他、[[第73期棋聖戦 (将棋)|第73期棋聖戦]]でも決勝トーナメントを勝ち進むが、挑戦者決定戦にて佐藤康光を相手に敗退。 2003年、[[第74期棋聖戦 (将棋)|第74期棋聖戦]]で佐藤康光に挑戦するが、0-3で奪取ならず。[[第29期棋王戦]]では谷川浩司を相手に1-3で失冠し、再び無冠となった。 2004年度、[[第54期王将戦]]にて王将リーグに復帰。3勝3敗で終えたが、二次予選から勝ち上がっていた郷田真隆、阿久津主税も同じ成績だったため、3人での残留決定戦が行われた。結果、丸山は郷田と阿久津に連勝し、第49期以来の王将リーグ残留を果たした。 2005年度、[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]で優勝。[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]と戦った決勝戦は序中盤から目まぐるしい展開となり、解説の米長邦雄と聞き手の[[千葉涼子]]の話も弾んだ。 2006年度、[[第19期竜王戦]]で1組ランキング戦を優勝し、本戦も突破して挑戦者決定戦に進出するが、佐藤康光を相手に2連敗で敗退した。[[第56期王将戦]]では王将リーグを4勝2敗で終えてプレーオフに初進出したが、再び佐藤康光を相手に敗退となった。 2007年度は[[第48期王位戦]]にて王位リーグ入りをすると、紅組にて3勝2敗の成績で残留した。また、第1回[[朝日杯将棋オープン戦]]と第1回[[大和証券杯ネット将棋・最強戦|大和証券杯]]の2棋戦で決勝に進出するが、それぞれ行方尚史と郷田真隆を相手に敗退して準優勝に終わった。 [[2007年]][[5月11日]]、通算600勝(290敗)を達成([[将棋栄誉賞]])。 2008年度は[[第21期竜王戦]]にて1組ランキング戦を2回目の優勝。[[第58期王将戦]]では、王将リーグにて3勝3敗だったがリーグ陥落。[[第49期王位戦]]では白組を再び3勝2敗の成績で残留([[第49期王位戦|次期]]にてリーグ陥落)。しかし、年度全体の成績としては19勝21敗で、初めての負け越しに終わった。 2009年度は早指し棋戦で活躍し、NHK杯と銀河戦でそれぞれベスト4入りを果たした。 2010年度は[[第23期竜王戦]]にて1組ランキング戦を3回目の優勝。NHK杯では再びベスト4に入り、銀河戦では決勝に進出した(佐藤康光に敗れ準優勝)。 [[2011年]][[3月2日]]、第69期A級順位戦最終局(「[[将棋界#「将棋界の一番長い日」|将棋界の一番長い日]]」)で渡辺明竜王に勝ち、渡辺の名人初挑戦を阻むとともに、自身は通算700勝(363敗、勝率0.6585)を達成。[[第24期竜王戦]]では1組ランキング戦にて4回目の優勝を果たすと、挑戦者決定三番勝負で[[久保利明]]二冠を2-1で下し初の挑戦権を獲得。竜王戦1組優勝者の挑戦は初めてであった。しかし、タイトル戦においては1勝4敗で奪取ならず。 [[2012年]][[3月2日]]、第70期A級順位戦最終局で久保利明に勝つも2勝7敗となり、連続14期在籍したA級からB級1組へと降格となる。9月11日、第25期竜王戦挑戦者決定三番勝負で[[山崎隆之]]七段を2-1で下し2年連続の挑戦権を獲得するも、1勝4敗で奪取ならず。 2014年11月18日、通算800勝(433敗)を達成([[将棋栄誉敢闘賞]])。 2016年度、[[第29期竜王戦]]の1組ランキング戦にて5回目の優勝を果たすが、挑戦者決定戦において[[三浦弘行]]九段に敗れる。しかし、三浦が出場停止となり、繰り上げで竜王戦七番勝負に出場。[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]竜王との七番勝負は最終局までもつれ込む。第7局で丸山は果敢に攻めるも惜敗し、竜王獲得は成らなかった。 2017年、当年度よりタイトル戦に昇格した第3期[[叡王戦]]では九段戦予選で[[島朗]]九段・[[郷田真隆]]九段に勝ち本戦進出、本戦でも[[藤井猛]]九段・[[小林裕士]]七段に勝ち準決勝に進出、ここで[[高見泰地]]五段に勝てば初代叡王の座を賭けた七番勝負に出場できる所だったが敗北し、ベスト4に留まった。 順位戦では、第76期B級1組の降級枠は最下位の1名のみであったが、最終局を前に最下位(B級2組降級)が確定した。名人在位経験者がB級2組に降級するのは、[[加藤一二三]]以来史上2人目。 2020年1月22日、第78期B級2組順位戦9回戦において[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]]八段に勝利。8連勝でB級1組への復帰を果たした。(最終成績は9勝1敗) 2021年2月4日、第79期順位戦12回戦で深浦康市九段に敗れ、4勝8敗で一期でのB級2組降級となった。名人在位経験者がB級2組に2度降級するのは史上初。 2022年3月1日、第80期順位戦10回戦で昇級を争っていた[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]九段が[[中村太地 (棋士)|中村太地]]七段に敗れたため、再び一期でB級1組への復帰を果たした(最終成績は8勝2敗)。 2023年1月12日、第79期順位戦11回戦で屋敷伸之九段に敗れ、再び一期でのB級2組降級となった(最終成績は4勝8敗)。'''名人在位経験者がB級2組に3度降級するのは史上初。''' 同2023年12月8日、通算1000勝(600敗)を達成([[特別将棋栄誉賞]])。[[第9期叡王戦]]段位別予選・九段戦決勝(対[[深浦康市]]戦)での勝利によるもので、2017年達成の[[佐藤康光]]以来、史上10人目の通算1000勝達成となる<ref>{{リスト|{{Cite web |title=将棋の丸山忠久九段が通算千勝 史上10人目「長い道のりを歩んだ」:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASRD8664NRD8UCVL03C.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-12-08 |access-date=2023-12-08 |language=ja}}|{{Cite web|url=https://hochi.news/articles/20231208-OHT1T51149.html?page=1|title=丸山忠久九段が通算1000勝達成 史上10人目|date=2023-12-08|accessdate=2023-12-08|publisher=スポーツ報知}} }}</ref>。 同2023年12月23日、[[第31期銀河戦]]決勝が[[囲碁・将棋チャンネル|囲碁将棋プラス]]で配信され、[[藤井聡太]]銀河(八冠)に勝利し銀河戦初優勝<ref>{{cite news|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASRDR3VM6RDPUCVL02B.html |title=藤井聡太八冠、八冠達成後「初黒星」 丸山忠久九段が銀河戦優勝:朝日新聞デジタル |newspaper=asahi.com([[朝日新聞]]) |author=村瀬信也 |date=2023-12-23 |access-date=2023-12-23}}</ref>。[[銀河戦]]優勝の最年長記録{{small|(53歳1か月=対局日基準<!-- {{age in years and months|1970|10|10|2023|11|01|age=yes|to=none}} -->)}}を更新<ref>従来の記録は[[藤井猛]]の45歳10か月{{small|(第24期、対局日基準)}}。</ref>。29年ぶりとなる50歳代の棋士による全棋士参加一般棋戦優勝を達成した([[NHK杯テレビ将棋トーナメント|第43回NHK杯]]<[[1993年度の将棋界|1993年度]]>優勝の[[加藤一二三]]<当時54歳>以来)。 == 棋風 == {{出典の明記|section="1"|date=2011年3月}} [[居飛車]]党。序中盤でリードして逃げ切る戦い方、接近戦を得意とする。優勢になってからも勝ちを急がず、相手の手を殺す方針を貫く手堅い[[棋風]]は、「'''激辛流'''」あるいは「友達を無くす戦い方」<ref name=penclublog>[https://shogipenclublog.com/blog/2011/03/07/%e7%be%8e%e5%ad%a6%e3%81%ab%e6%ae%89%e3%81%98%e3%81%9f%e6%a3%8b%e5%a3%ab%ef%bc%88%e5%89%8d%e7%b7%a8%ef%bc%89/ 美学に殉じた棋士(前編)] - 将棋ペンクラブログ・2011年3月7日</ref>と言われる。 [[角換わり]]や[[横歩取り]]を得意としている。1997年度の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]]における兄弟子・[[米長邦雄]]との対局では、後手番の米長が丸山の角換わりを避け、角換わりのような出だしでありながら角道を止めて角交換を拒否し、丸山に飛車先の歩交換を許す、現代のプロ棋士の目からすれば奇異な作戦を採用した。米長は局後の感想戦で「(丸山に)角換わりを指させたら、谷川・羽生でもかなわないだろうから(角換わりの将棋にしなかった)」と語っている。第24期(2011年度)および第25期(2012年度)竜王戦七番勝負では、先手ならば角換わり、後手ならば[[一手損角換わり]]で全局を戦った。 [[ゴキゲン中飛車]]戦法に対して早々と角交換する指し方は「[[ゴキゲン中飛車#丸山ワクチン|丸山ワクチン]]」と呼ばれる。これは[[丸山千里]]が開発した薬剤の名前に因んでいる。 最近{{いつ|date=2020年7月}}、丸山の後手番で、一手損角換わりの途中、3手目に先手から角道を止められた場合は振り飛車を採用することが多くなった。 == 人物・エピソード == {{出典の明記|section="1"|date=2011年3月}} *将棋は「激辛流」でも、普段から愛想が良く、会話のときに笑みを浮かべることから「ニコニコ流」と称される。兄弟子の[[米長邦雄]]は、「丸ちゃん」と呼んでいた。一方で、口数が少なく、対局時も殆ど駒音を立てずに指すため「'''音無し流'''」とも呼ばれる。 *妻は、2001年度[[ミス日本]]フォトジェニックの村川浩子<ref group="注">ミス日本フォトジェニック受賞の後、「川村利里」名で[[グラビアアイドル]]としての活動歴もあり([https://web.archive.org/web/20031206191801/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2003_10/g2003102010.html zakzak 2003年10月20日])。</ref>。入籍は2005年3月10日、挙式は同年4月2日<ref>[https://web.archive.org/web/20050404102209/http://www.shogi.or.jp/osirase/news/2005-04.html 丸山忠久九段、結婚(日本将棋連盟)]</ref>。 *名人失冠後に[[長野県]][[軽井沢町]]に在住し、対局のたびに[[新幹線]]で上京する生活をしていたこともあったが、 現在は都内に転居している。 === 対局関連のエピソード === * 1991年、第32期[[王位戦 (将棋)|王位戦]]挑戦者決定リーグ紅組で、[[大島映二]]と対戦した際は、相矢倉の序盤から後手の丸山が玉側から端攻めし、66手目に香車を成り込んだ。手薄になった端からの逆襲を受けるうちに成香が玉に近付いていき、126手目に成香冠を完成させた。 *2002年、挑戦者・森内俊之を迎えた名人戦の第3局では、126手目に安全勝ちを目指して金で成香を取った手(△7二同金)が大悪手。次の127手目、森内が指した手は、飛車を犠牲にして王手をしながら歩を1枚入手する▲7一竜(10手後までの11手詰め)。丸山は、この一手を見て投了。丸山勝勢の局面であり、攻めの手を指せば明快な勝ちだった。このシリーズは、4連敗のストレートで森内に名人位を奪われることになる。 *降級の可能性もあった2010年度A級順位戦最終局での対渡辺戦では、極度の暑がりということもあってか対局中に[[冷却ジェルシート]](NHK曰く、熱冷ましのシート)を頭頂部に貼るという一見奇妙な行動に出た<ref name=penclublog />。翌期のA級順位戦第2局での対羽生戦でも冷却シートを使用したが、これは後頭部に2枚、額にも1枚貼るというものであった。 *同じタイトル経験者(初代[[竜王戦|竜王]])かつA級在位経験者の[[島朗]]には公式戦初対局から[[2017年]][[8月28日]]の第3期叡王戦 九段予選での対局に至るまで20勝0敗と完封している。トップ棋士同士でこれだけの大差が生じるのは非常に珍しい。 *2016年7月下旬・以降、[[三浦弘行]]に対して将棋ソフトを使用した不正疑惑([[将棋ソフト不正使用疑惑]])が発生し、疑惑が掛けられた4局の内2局が対戦者は丸山だったが、その疑惑を否定<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/investigative_report_1.pdf 調査報告書] P13</ref>し「連盟の対応には賛同しかねる」と発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/10/29_13.html|title=「第29期竜王戦七番勝負挑戦者の変更について【丸山忠久九段のコメント】」|date=2016-10-29|accessdate=2016-10-29}}</ref>。この事は騒動の終息に至るまで一貫していた。一致率が根拠とされた点については「コンピューターに支配されるなんてまっぴらごめんだ」と発言した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/topics/20161021-OHT1T50112.html|title=丸山九段「コンピューターに支配される世界なんてまっぴらごめん」|publisher=スポーツ報知|date=2016-10-21|accessdate=2016-10-2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161021134748/http://www.hochi.co.jp/topics/20161021-OHT1T50112.html|archivedate=2016-10-211}}</ref>。 *[[藤井聡太]]が[[2023年]][[10月11日]]に八冠独占を達成した後の[[11月1日]]、[[銀河戦]]決勝戦で丸山が藤井に勝ち、'''「藤井八冠」に初めて勝った棋士'''となった。 ;食に関するエピソード *2001年の谷川浩司との名人戦では、夕食休憩時に[[ステーキ]]を注文し谷川を驚かせた(2日目の夕食時ともなると、ほとんどの対局者は緊張からあまり食事を取らないことが多い)<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2014/11/17/maruyama-3/ 戦慄の早朝三羽烏] - 将棋ペンクラブログ・2014年11月17日</ref>。 *2011年の渡辺明との竜王戦では、第4局2日目の朝食に[[ふぐちり]]を注文し関係者を驚かせた<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2011/12/03/%E7%AB%9C%E7%8E%8B%E6%88%A6%E3%80%81%E7%8E%8B%E5%B0%86%E6%88%A6%E3%80%81%E6%A3%8B%E7%8E%8B%E6%88%A6/ 竜王戦、王将戦、棋王戦] - 将棋ペンクラブログ・2011年12月3日</ref>。 *東京・[[将棋会館]]での対局の際は、近隣の飲食店([[みろく庵]])から出前を取る際に「唐揚げ定食に唐揚げ3個追加」を頼むことが多く、関係者の間ではこの組み合わせが通称「丸山定食」と呼ばれている<ref>[https://www.shogi.or.jp/column/2016/10/7.html みろく庵では○○トッピングがブーム!?将棋会館近くのおすすめグルメスポット7選【後編】] - 日本将棋連盟・2016年10月27日</ref>。しかし本人は2014年を最後に「丸山定食」の注文をやめ、以前も注文していたヒレカツ定食に回帰した。唐揚げをやめた理由は「唐揚げはお肉たっぷりのときと皮と骨が多いときでムラが出る<ref group="注">「みろく庵」の唐揚げ定食は骨付き肉を使用している。</ref>」ためで、ヒレカツだとそのムラが少ないからだという<ref>[https://originalnews.nico/139966 なぜ丸山忠久は唐揚げではなくヒレカツを頼むのか?【叡王戦24棋士 白鳥士郎 特別インタビュー vol.03】] - ニコニコニュースORIGINAL・2018年10月13日</ref>。 *2016年の竜王戦挑戦者決定三番勝負(相手は[[三浦弘行]])では、第1局の昼食に「[[冷やし中華]]と天ざるそば」<ref>[https://kifulog.shogi.or.jp/ryuou/2016/08/post-e7a1.html 対局者の昼食] - 竜王戦中継plus・2016年8月15日</ref>、第2局では「冷やし中華のチャーシュー3枚増し×2」<ref>[https://kifulog.shogi.or.jp/ryuou/2016/08/post-bc24-1.html 昼食休憩] - 竜王戦中継plus・2016年8月26日</ref>を注文し、相変わらずの健啖家ぶりを見せた。 *[[カロリーメイト]]を愛飲している。対局の際に缶タイプ数本を用意していたり、固形タイプを持ち込むこともある<ref>第29期竜王戦第2局・棋譜解説「丸山はカロリーメイトの缶を開けた。終盤戦に向けて栄養を補給する」など</ref>。その因果で、後述のカロリーメイト(ゼリータイプ)のCMに出演した。 == 昇段履歴 == 昇段規定は、''[[将棋の段級#棋士|将棋の段級]]'' を参照。 *1985年1月 6級 = [[新進棋士奨励会|奨励会]]入会(通常の入会ではなく[[新進棋士奨励会#研修会|研修会]]から) *1986年 初段 *1990年4月1日 四段(第6回三段リーグ1位) = プロ入り *1992年4月1日 五段([[順位戦]]C級1組昇級) *1995年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級) *1997年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級) *1998年4月1日 八段(順位戦A級昇級) *2000年6月28日 九段(名人位獲得) == 主な成績 == === 獲得タイトル === *'''[[名人_(将棋)|名人]]:2期'''(2000年度=第58期 - 2001年度) *'''[[棋王]]:1期'''(2002年度=第28期) :'''タイトル獲得 合計 3期''' ;タイトル戦 登場回数 :*竜王:3回(2011年度{{=}}第24期 - 2012、2016年度{{=}}第29期<ref group="注" name="タイトル登場回数"/>) :*名人:3回(2000年度{{=}}第58期 - 2002年度) :*王座:1回(1999年度{{=}}第47期) :*棋王:2回(2002年度{{=}}第28期 - 2003年度) :*棋聖:1回(2003年度{{=}}第74期) ::登場回数 合計10回<ref group="注" name="タイトル登場回数">繰り上げで挑戦者になった第29期竜王戦を含む。</ref> === 一般棋戦優勝 === *[[朝日オープン将棋選手権|全日本プロトーナメント]] : 1回(1998年度=第17回 ※決勝五番勝負は1999年4月) *[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]] : 1回(2005年度=第55回) *[[銀河戦]] : 1回(2023年度=第31期) *[[早指し将棋選手権]] : 2回(2000年度=第34回 - 2001年度) *[[将棋日本シリーズ|日本シリーズ]] : 2回(1999年度=第20回、2001年度) *[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]] : 2回(1994年度=第25回 - 1995年度) *[[オールスター勝ち抜き戦|勝ち抜き戦]] (5連勝以上) : 4回 ::*第14回(6連勝・1992-1993年度) ::*第15回(11連勝・1994年度) ::*第20回(8連勝・1999年度) ::*第21回(6連勝・2001-2002年度) :'''優勝回数 合計13回''' === 将棋大賞 === *第22回(1994年度) 連勝賞・新人賞 *第23回(1995年度) 最多勝利賞・連勝賞 *第27回(1999年度) 最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞・技能賞 *第28回(2000年度) 殊勲賞 *第30回(2002年度) 殊勲賞 *第39回(2011年度) 名局賞(第24期竜王戦七番勝負第4局、対渡辺明竜王) *第46回(2018年度) 升田幸三賞特別賞(一手損角換わりをはじめとした角換わりの研究) === その他 === * 2000年11月{{0|00日}} - [[木更津市]]名誉市民章受章<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kisarazu.lg.jp/13,0,31,214.html |title=名誉市民・市民栄誉賞 - 千葉県木更津市公式ホームページ|publisher=千葉県木更津市 |archiveurl=https://archive.vn/jQl6 |archivedate=2012-07-30 |accessdate=2021-03-10}}</ref> * 2007年{{0}}5月11日 - 通算600勝達成 {{=}} [[将棋栄誉賞]] (600勝290敗、勝率0.674)<ref>{{cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2007/05/post_144.html |title=丸山忠久九段、600勝(将棋栄誉賞)達成!|将棋ニュース|日本将棋連盟 |date=2007-05-12 |access-date=2023-12-08}}</ref> * 2014年11月17日 - 勤続25年 (第40回「将棋の日」表彰)<ref>{{cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2014/11/40_10.html |title=第40回「将棋の日」表彰・感謝の式典の模様|将棋ニュース|日本将棋連盟 |date=2014-11-18 |access-date=2014-11-18}}</ref> * 2014年11月18日 - 通算800勝達成 {{=}} [[将棋栄誉敢闘賞]] (800勝433敗、勝率0.649)<ref>{{cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2014/11/800_1.html |title=丸山忠久九段、800勝(将棋栄誉敢闘賞)達成|将棋ニュース|日本将棋連盟 |date=2014-11-19 |access-date=2014-11-19}}</ref> * 2023年12月{{0}}8日 - 通算1000勝達成 {{=}} [[特別将棋栄誉賞]] (1000勝600敗、勝率0.625)<ref>{{Cite web|url=https://hochi.news/articles/20231208-OHT1T51149.html?page=1|title=丸山忠久九段が通算1000勝達成 史上10人目|date=2023-12-08|accessdate=2023-12-08|publisher=スポーツ報知}}</ref> ===記録(歴代1位のもの)=== *竜王戦ランキング戦1組優勝回数 (5回) *竜王戦ランキング戦優勝回数 (8回{{=}}1組5回、2組・3組・6組各1回) *B級1組順位戦12戦全勝(1997年度、史上初)<ref group="注">2018年度に渡辺明が丸山に次いで史上2人目となるB級1組12戦全勝を記録している。</ref> *銀河戦最年長優勝(2023年度、第31期) === 在籍クラス === {{main2|竜王戦と順位戦のクラス|将棋棋士の在籍クラス}} {{将棋棋士年別在籍クラスA}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1990|JJ=49|j=C2|#=52|WLJ=6-4 |RR=4|r=6|w=1|WLR=6-1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1991|JJ=50|j=C2|#=25|WLJ=9-1 |RR=5|r=5|WLR=4-1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1992|JJ=51|j=C1|#=22|WLJ=6-4 |RR=6|r=4|WLR=5-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1993|JJ=52|j=C1|#=11|WLJ=9-1 |RR=7|r=4|WLR=1-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1994|JJ=53|j=C1|#=02|WLJ=9-1 |RR=8|r=4|WLR=4-1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1995|JJ=54|j=B2|#=19|WLJ=7-3 |RR=9|r=3|w=1|WLR=4-1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1996|JJ=55|j=B2|#=05|WLJ=9-1 |RR=10|r=2|WLR=2-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1997|JJ=56|j=B1|#=12|WLJ=12-0 |RR=11|r=2|w=1|WLR=5-1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1998|JJ=57|j=A|#=09|WLJ=6-2 |RR=12|r=1|WLR=7-3}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1999|JJ=58|j=A|#=03|CJ=1|WLJ=8-1 |RR=13|r=1|WLR=1-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2000|JJ=59|j=名人|#=|WLJ={{0}} |RR=14|r=1|WLR=1-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2001|JJ=60|j=名人|#=|WLJ={{0}} |RR=15|r=1|WLR=1-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2002|JJ=61|j=A|#=01|WLJ=4-5 |RR=16|r=1|WLR=1-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2003|JJ=62|j=A|#=05|WLJ=5-4 |RR=17|r=1|WLR=3-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2004|JJ=63|j=A|#=04|WLJ=4-5 |RR=18|r=1|WLR=2-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2005|JJ=64|j=A|#=06|WLJ=4-5 |RR=19|r=1|w=1|WLR=5-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2006|JJ=65|j=A|#=05|WLJ=4-5 |RR=20|r=1|WLR=2-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2007|JJ=66|j=A|#=05|WLJ=6-3 |RR=21|r=1|w=1|WLR=4-1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2008|JJ=67|j=A|#=04|WLJ=5-4 |RR=22|r=1|WLR=2-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2009|JJ=68|j=A|#=04|WLJ=5-4 |RR=23|r=1|w=1|WLR=4-1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2010|JJ=69|j=A|#=04|WLJ=4-5 |RR=24|r=1|CR=1|w=1|WLR=7-1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2011|JJ=70|j=A|#=06|WLJ=2-7 |RR=25|r=1|CR=1|WLR=7-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2012|JJ=71|j=B1|#=01|WLJ=6-6 |RR=26|r=1|WLR=2-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2013|JJ=72|j=B1|#=05|WLJ=8-4 |RR=27|r=1|WLR=1-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2014|JJ=73|j=B1|#=05|WLJ=4-8 |RR=28|r=1|WLR=1-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2015|JJ=74|j=B1|#=11|WLJ=7-5 |RR=29|r=1|w=1|CR=1|WLR=6-2<br/><ref group="注" name="タイトル登場回数"/>}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2016|JJ=75|j=B1|#=07|WLJ=4-8 |RR=30|r=1|WLR=3-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2017|JJ=76|j=B1|#=09|WLJ=2-8 |RR=31|r=1|WLR=2-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2018|JJ=77|j=B2|#=01|WLJ=6-4 |RR=32|r=1|WLR=0-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2019|JJ=78|j=B2|#=09|WLJ=9-1 |RR=33|r=2|WLR=7-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2020|JJ=79|j=B1|#=12|WLJ=4-8 |RR=34|r=1|WLR=1-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2021|JJ=80|j=B2|#=02|WLJ=8-2 |RR=35|r=1|WLR=3-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2022|JJ=81|j=B1|#=13|WLJ=4-8 |RR=36|r=1|WLR=3-2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2023|JJ=82|j=B2|#=02|WLJ= |RR=37|r=1|WLR=}} {{将棋棋士年別在籍クラスZ|note=}} === 年度別成績 === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:85%; text-align:center;" |+ style="text-align:left; font-weight:normal; font-size:10.5pt;"|'''公式棋戦成績''' |- ! 年度!! 対局数|| 勝数|| 負数|| 勝率|| {{small|(出典)}} |- !1990 | 50|| 36|| 14|| 0.720{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160818194105/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1990kishi.html ]}} |- ! 年度!! 対局数|| 勝数|| 負数|| 勝率|| {{small|(出典)}} |- !1991 | 60|| 45|| 15|| 0.750{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160828154007/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1991kishi.html ]}} |- !1992 | 52|| 35|| 17|| 0.673{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160828154130/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1992kishi.html ]}} |- !1993 | 45|| 30|| 15|| 0.667{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160828155214/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1993kishi.html ]}} |- !1994 | 64|| 51|| 13|| 0.797{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160828160521/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1994kishi.html ]}} |- !1995 | 64|| 46|| 18|| 0.719{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815022904/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1995kishi.html ]}} |- !1996 | 58|| 41|| 17|| 0.707{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815024714/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1996kishi.html ]}} |- !1997 | 46|| 31|| 15|| 0.674{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815024326/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1997kishi.html ]}} |- !1998 | 44|| 31|| 13|| 0.705{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815023141/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1998kishi.html ]}} |- !1999 | 68|| 50|| 18|| 0.735{{0}}|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815024331/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/1999kishi.html ]}} |- !2000 | 46|| 26|| 20|| 0.5652|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815025235/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/2000kishi.html ]}} |- style="font-weight:bold; line-height:100%;" !{{small|1991-2000}}<br/> (小計) | 547|| 386|| 161|| || |- style="font-weight:bold" ! (塁計) | 597|| 422|| 175|| || |-|- ! 年度!! 対局数|| 勝数|| 負数|| 勝率 || {{small|(出典)}} |- !2001 | 45|| 32|| 13|| 0.7111|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815023241/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/2001kishi.html ]}} |- !2002 | 61|| 36|| 25|| 0.5901|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815025007/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/2002kishi.html ]}} |- !2003 | 48|| 26|| 22|| 0.5416|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815023246/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/2003kishi.html ]}} |- !2004 | 41|| 22|| 19|| 0.5365|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815024430/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/2004kishi.html ]}} |- !2005 | 45|| 30|| 15|| 0.6666|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815022736/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/2005kishi.html ]}} |- !2006 | 48|| 30|| 18|| 0.6250|| {{small|[https://web.archive.org/web/20160815022959/http://www.shogi.or.jp/kisen/record/archives/2006kishi.html ]}} |- !2007 | 48|| 28|| 20|| 0.5833|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2007_result.html ]}} |- !2008 | 40|| 19|| 21|| 0.4750|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2008_result.html ]}} |- !2009 | 45|| 26|| 19|| 0.5777|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2009_result.html ]}} |- !2010 | 47|| 31|| 16|| 0.6595|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2010_result.html ]}} |- style="font-weight:bold; line-height:100%;" !{{small|2001-2010}}<br/> (小計) | 468|| 280|| 188|| || |- style="font-weight:bold" ! (塁計) | 1065|| 702|| 363|| || |- ! 年度!! 対局数|| 勝数|| 負数|| 勝率 || {{small|(出典)}} |- !2011 | 45|| 22|| 23|| 0.4888|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2011_result.html ]}} |- !2012 | 51|| 28|| 23|| 0.5490|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2012_result.html ]}} |- !2013 | 45|| 30|| 15|| 0.6666|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2013_result.html ]}} |- !2014 | 40|| 21|| 19|| 0.5250|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2014_result.html ]}} |- !2015 | 40|| 23|| 17|| 0.5750|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2015_result.html ]}} |- !2016 | 51|| 26|| 25|| 0.5098|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2016_result.html ]}} |- !2017 | 40|| 18|| 22|| 0.4500|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2017_result.html ]}} |- !2018 | 41|| 23|| 18|| 0.5609|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2018_result.html ]}} |- !2019 | 40|| 28|| 12|| 0.7000|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2019_result.html ]}} |- !2020 | 40|| 20|| 20|| 0.5000|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2020_result.html ]}} |- style="font-weight:bold; line-height:100%;" !{{small|2011-2020}}<br/> (小計) | 433|| 239|| 194|| || |- style="font-weight:bold" ! (塁計) | 1498|| 941|| 557|| || |- ! 年度!! 対局数|| 勝数|| 負数|| 勝率 || {{small|(出典)}} |- !2021 | 41|| 28|| 13|| 0.6829|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2021_result.html ]}} |- !2022 | 32|| 11|| 21|| 0.3437|| {{small|[https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2022_result.html ]}} |- style="font-weight:bold; line-height:100%;" !{{small|2021-2022}}<br/> (小計) | 73|| 39|| 34|| || |- style="font-weight:bold" !通算 ! 1571|| 980|| 591|| 0.6238|| {{small|[https://web.archive.org/web/20230401022233/https://www.shogi.or.jp/game/record/all.html ]}} |- !colspan="6"|2022年度まで<!-- 年間成績が確定する年度末に原則更新 --> |} ==著書== *ライバルを倒す一手(1998年10月、[[日本将棋連盟]]、ISBN 4-8197-0345-5) ==出演== *[[カロリーメイト|カロリーメイトゼリー]]テレビCM([[大塚製薬]]、2018年3月 - ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[羽生世代]] *[[将棋棋士一覧]] *[[棋戦 (将棋)]] *[[将棋のタイトル在位者一覧]] *[[棋風]] *[[名人 (将棋)]] ==外部リンク== *[https://www.shogi.or.jp/player/pro/194.html 日本将棋連盟 棋士の紹介] * {{Twitter|abT_hirose|チーム広瀬}}(第4回ABEMAトーナメント) * {{Twitter|abT5_toyoshima|チーム豊島}}(第5回ABEMAトーナメント) {{日本将棋連盟所属棋士}} {{将棋竜王戦}} {{将棋順位戦}} {{Navboxes |title=タイトル(2冠)3期 |titlestyle=background-color:#FCF16E |list1= </span> {{名人戦 (将棋)|2期}} {{棋王戦|1期}} }} {{Navboxes |title=一般棋戦優勝 13回 |titlestyle=background-color:#88CCEE |list1= {{NHK杯テレビ将棋トーナメント|優勝 1回}} {{将棋日本シリーズ|優勝 2回}} {{銀河戦|優勝 1回}} {{朝日オープン将棋選手権|1|優勝 1回}} {{早指し将棋選手権|優勝 2回}} {{オールスター勝ち抜き戦|5連勝以上 4回}} {{新人王戦|優勝 2回}} }} {{Navboxes |title=将棋大賞 |list1= </span> {{将棋大賞新人賞|1回}} {{将棋大賞殊勲賞|2回}} {{将棋大賞技能賞|1回}} {{将棋大賞最多対局賞|1回}} {{将棋大賞最多勝利賞|2回}} {{将棋大賞連勝賞|3回}} {{将棋大賞名局賞|1回}} {{升田幸三賞|特別賞 1回}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まるやま たたひさ}} [[Category:名人 (将棋)]] [[Category:将棋棋士]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:1970年生]] [[Category:存命人物]]
2003-07-22T04:42:19Z
2023-12-25T12:43:09Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 将棋棋士", "Template:いつ", "Template:将棋棋士年別在籍クラスZ", "Template:Cite news", "Template:Cite web", "Template:将棋順位戦", "Template:Navboxes", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Main2", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Twitter", "Template:将棋竜王戦", "Template:Small", "Template:将棋棋士年別在籍クラスA", "Template:Reflist", "Template:日本将棋連盟所属棋士", "Template:0", "Template:将棋棋士年別在籍クラス", "Template:リスト" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E4%B9%85
12,047
森内俊之
森内 俊之(もりうち としゆき、1970年10月10日 - )は、将棋棋士、十八世名人資格保持者。棋士番号は183。勝浦修九段門下。神奈川県横浜市青葉区出身。 いわゆる「羽生世代」の一人で、デビュー直後から棋戦優勝を果たすなど活躍していたが、初タイトルは31歳での名人獲得と遅かった。その後は竜王・名人を含む三冠を保持するなどタイトル戦でも活躍し、2007年には羽生善治よりも早く永世名人(十八世名人)の資格を得た。2017年には順位戦でのB級1組への降級を受けて、46歳の若さで順位戦(名人戦)への参加資格を失うフリークラスへの転出を宣言した。地元の青葉区での指導やYouTubeチャンネルの開設など、将棋の普及活動にも注力している。 日本将棋連盟棋士会副会長(2009年4月 - 2011年3月)、日本将棋連盟専務理事(2017年5月 - 2019年6月)を歴任した。 将棋を始めたきっかけは、森内が小学校3年生の頃、学校の休み時間にクラスメート内で流行していた、いい加減な将棋遊びに参加したという、ありふれたものだった。だが、このゲームに魅力を感じた彼は父親に手ほどきを受け、正式な将棋を指すようになる。 家で将棋に熱中している森内の姿を見ていた彼の祖母は、あるとき、雑誌『将棋世界』を孫に渡した。『将棋世界』との出会いをきっかけに、森内は将棋の新しい世界を知り、将棋にのめりこんでいく。毎週土曜日に将棋会館で行われる将棋教室に通うなどし、本格的に将棋を学び始める。それから1年ほど経つと、各地のデパートで開催される将棋大会にも参加するようになった。 同学年の羽生善治と出会ったのはこの頃だった。最初の対戦はある将棋大会の予選で森内が勝ち、次の対戦は同大会の決勝トーナメントで羽生が勝った。 ある将棋大会で森内の初手▲5八飛に対し、羽生の△5二飛という出だしの将棋があった。 5年生の頃、奨励会試験を受験するか迷った末、「自分はまだ力不足」だと判断し、翌年に受験することを決意。 同時に、「棋士になる」という目標が明確になり、勉強にも熱が入るようになった。 1982年、第7回小学生将棋名人戦で3位。このときの優勝者は羽生。同年12月、関東奨励会入り。同期合格者17名のうち、小学生は森内、羽生、郷田真隆の3名のみであった。この年度は受験者が多く、高い競争率であった。一次試験で郷田真隆と対局し勝ち、二次試験で当時唯一の女性奨励会員だった林葉直子女流王将と香落ちで対局し勝利している。 後に「島研」とも呼ばれた島朗六段主宰の研究会は、森内が二段くらいの頃に島に誘われ、森内が佐藤康光も紹介し始まった。島によれば、彼らには奨励会を抜けるための研究は必要なかったという。 1987年5月13日にプロ入り(四段に昇段)。三段リーグ制度が復活する前に四段になった最後の棋士である。また、第22期新人王戦(1987年度)で、奨励会三段の時に出場し、途中で四段に昇段してそのまま優勝した。森内は、新人王戦最年少優勝記録(17歳0か月)を、2018年に藤井聡太が更新(16歳2か月)するまで保持していた。なお、森内は新人王戦で通算3回優勝している。 また、第10回「若駒戦」(奨励会有段者による非公式棋戦)でも同様に、途中で四段になって優勝している。 プロ入り早々頭角を現し、1988年6月11日と89年5月27日に行われた、第7回・8回の早指し新鋭戦で2連覇。決勝戦の対戦相手は両年とも羽生善治五段であった。さらには、全棋士参加の大型棋戦である全日本プロトーナメント(第7回、1988年度)において、谷川浩司名人と決勝三番勝負を戦い、2勝1敗で谷川名人を破り、優勝した(1989年3月13日)。18歳5か月での優勝は、新人棋戦を除く公式戦に於ける史上4番目の年少記録である。1988年度の将棋大賞で新人賞を受賞。 プロ入り後も向上心は旺盛で、特に前述した島研では、森内と佐藤が四段に昇段した後、羽生も加わり、4人体制での練習対局と感想戦を中心にした研究が行われ、刺激し合いながらの精進が続いた。 順位戦での勝率は高く、C級2組を3期、C級1組を1期、B級2組を2期、B級1組を1期で抜け、合計わずか7期で最高クラスのA級まで上りつめた。そして初参加のA級順位戦で7勝2敗の成績を納め、第54期名人戦七番勝負の挑戦権を獲得。森内にとって、初のタイトル戦挑戦である。相手は、当時七冠王だった羽生善治名人。25歳同士の対戦であった。タイトル戦初対局となった1996年4月11日・12日の第1局は、二つの意味で話題となった。一つは、相矢倉の将棋で、「壁銀」になるのをいとわず、3三にあった銀を△2二銀(40手目)と引く作戦に出たこと。もう一つは、1日目夕方の封じ手の定刻の間際、立会人の五十嵐豊一九段が「時間になりましたので」と言いかけたところで「指すつもりなんですけど」と言って△9四歩(44手目)を指し、羽生を封じ手の手番にさせたことである。森内はこの対局に敗れ、そこから3連敗。第4局でタイトル戦初勝利をあげたものの第5局で敗れ、1勝4敗で敗退となった。森内は、第2局の敗戦を「こんな負け方がありうるとは...」、続く第3局の敗戦も「不思議な負け方」と、当時を振り返る。結果的に敗れはしたが、棋士冥利に尽きる名人戦だったという。それと同時に、羽生との差を痛感した名人戦でもあった。 1996年度、NHK杯戦において、決勝で屋敷伸之七段を破って初優勝。同棋戦では、5年後の2001年度にも、佐藤康光王将を破り優勝した。 1999年度の第12期竜王戦では1組優勝。1999年度、第25期棋王戦の挑戦権を獲得。棋王は、それまで9連覇を果たしていた羽生であった。第25期棋王戦五番勝負の結果は、1勝3敗での敗退。敗れはしたものの、名人戦の頃と違い、手応えを感じたという。 全日本プロトーナメント(第19回、2000年度)において、谷川浩司九段との決勝五番勝負(2001年)を3勝2敗で制して2度目の優勝。同棋戦の最後の優勝者となる。 第60期順位戦A級で、森内は8勝1敗の好成績を納め、丸山忠久名人への挑戦権を得ると、第60期名人戦七番勝負において丸山名人を4連勝で破り、31歳にして念願の初タイトルとなる名人位を獲得した(2002年5月17日)。また、名人位に就いたことにより、将棋連盟規定により九段に昇段した。なお、ここから第73期(2015年)まで羽生と名人位を分け合うことになる(森内8期・羽生6期)。第54期(1996年)を含めると対羽生の名人戦は9回あり森内が5回制している。 2003年度は、第61期名人戦七番勝負において、4連敗で名人位を羽生挑戦者に奪取されるも、第16期竜王戦七番勝負では逆に4連勝で羽生竜王から竜王位を奪取。これは羽生にとって初のタイトル戦ストレート負けとなった。第53期王将戦七番勝負においても、羽生王将を4勝2敗1千日手で降し、王将位を奪取。さらにはA級順位戦史上初の9戦全勝 を果たし、羽生名人への挑戦権を獲得。2003年度将棋大賞で最優秀棋士賞を初受賞。 そして、2004年度の第62期名人戦七番勝負において、羽生名人に4勝2敗で勝ち、名人位を奪取。この時点で史上7人目 の三冠王(竜王・名人・王将)となり、最多冠保持者となった。また、2004年(1月-12月)の獲得賞金・対局料は1億円を突破した。 王座戦では、当時12連覇中だった羽生王座への挑戦権を獲得するも、1勝3敗で奪取には至らず。また、同年度、三冠のうち竜王位を3勝4敗で渡辺明七段に、王将位を4連敗で羽生二冠にそれぞれ奪われ、保持するタイトルは名人の一冠のみとなる。 第63期名人戦七番勝負(2005年度)に挑戦者として名乗りを挙げたのは、A級順位戦を8勝1敗で制した羽生。第1局で逆転負けし、対羽生戦8連敗を喫する。しかし、第2局では終盤で羽生が残り16分のうち12分を費やして打った△4五歩(右図参照)をとがめる絶妙の一手▲4八金 で逆転勝ちを収める。結果、この七番勝負では4勝3敗で名人位を防衛した。これで羽生の永世名人資格獲得(通算5期)を2年連続で阻止したことになる(2年後、羽生より一歩先に永世名人の資格を獲得)。 2006年(2005年度)、羽生から棋王を奪取して二冠(名人・棋王)となる。 2006年の第64期名人戦では、十七世名人の資格を持つ谷川浩司の挑戦を4勝2敗で退ける。この七番勝負で森内自身が最も印象的に残った局面は、第1局の86手目と90手目に、自陣の8二、7二に2枚の銀を打ち並べるという珍しい受け方で、我慢したところであったという。 2007年6月29日、第65期名人戦で郷田真隆の挑戦を受け、4勝3敗で防衛。通算5期獲得となり永世名人(十八世名人)の資格を得た。 2008年3月25日、第21期竜王戦5位決定戦1回戦で中原誠十六世名人に敗れ、2組へ降級。タイトルホルダーの2組降級は、1991年9月20日の羽生棋王(当時)以来、2人目。 2008年6月17日、山形県天童市の「天童ホテル」で行われた第66期名人戦第6局で羽生に敗れ、無冠の九段に後退。 以降、名人戦以外のタイトル戦からもしばらく遠ざかっていたが、2009年度の第22期竜王戦で深浦康市との挑戦者決定三番勝負を2勝1敗で制し、渡辺竜王へ挑戦。5年前とは立場を換えての対決となったが、4連敗のストレート負けとなった。 第69期(2010年度)A級順位戦で優勝し、羽生名人への挑戦権を獲得。同時に、順位戦デビューの第47期から続く順位戦勝ち越し連続記録(名人在位を含む)を23期に伸ばした。永世名人同士の対決となった第69期名人戦七番勝負第2局(2011年4月20日 - 21日)で挙げた勝利は、史上15人目の通算800勝(433敗)となった(将棋栄誉敢闘賞)。その後名人戦は3連勝後に3連敗を喫して最終戦までもつれ込み、2011年6月22日に山梨県甲府市・「常磐ホテル」にて行われた最終第7局を123手で制し、遂に名人位を奪還。永世名人同士の七番勝負は過去にもあるが、自身より後の永世名人から名人位を奪取したのは森内が初。2011年度は、名人位を奪取したものの他棋戦の成績が振るわず、年度勝率は3割台に落ち込んだ。 2012年度の第70期名人戦七番勝負では、A級順位戦を全勝した羽生二冠の挑戦を受けた。シリーズ前に森内の苦戦を予想する声があったが、4勝2敗で名人位を防衛。 2013年度の第71期名人戦七番勝負では、前年に引き続き羽生三冠の挑戦を受けた。羽生との名人戦は3年連続で8度目となったが、4勝1敗で名人位を防衛。この年の名人戦は、星の差だけでなく将棋の内容においても、「一方的」であった。さらに、竜王戦においては、決勝三番勝負で郷田九段に勝ち、挑戦権を獲得。第26期竜王戦七番勝負では、かつて森内から竜王位を奪取して以来、9連覇中だった渡辺明竜王を4勝1敗で破り、竜王位を奪還。渡辺竜王の10連覇を阻止した。(対戦前、森内は、この竜王戦は非常に厳しい戦いになることを予想し、渡辺竜王になんとか2勝することを現実的な目標として考えていた)。竜王位・名人位の2大タイトルを手中に収め、これらの活躍により、2013年度将棋大賞で2度目の最優秀棋士賞を受賞した。 2014年度の第72期名人戦七番勝負では、今回で3年連続となる羽生三冠の挑戦を受ける。羽生との名人戦はこれで4年連続9回目。結果は4連敗で、名人位を失冠。その直後に始まった第85期棋聖戦五番勝負で羽生棋聖に挑戦するも、再び3連敗のストレート負けを喫し、奪取はならなかった。 第27期竜王戦七番勝負では、糸谷哲郎七段の挑戦を受けるが、1勝4敗で敗れ、竜王位の防衛に失敗。第64回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは、1回戦はシード、2回戦から、木村一基八段、羽生善治名人、菅井竜也五段、深浦康市九段、決勝戦で行方尚史八段に勝ち、同棋戦において自身3度目の優勝を果たした。 2016年度の第75期順位戦A級(降級1名)では、2017年2月25日の9回戦の結果、3勝6敗で佐藤康光と同成績ながら頭ハネで最下位となり、22期連続で在籍したA級(名人在位も含む)からB級1組への降級が決まった。永世名人資格保持者のB級1組への降級は中原誠、谷川浩司に続いて3人目であった。 森内は、2016年度が終了する直前、2017年3月31日にフリークラス転出を宣言し、日本将棋連盟を通じてコメントを発表した(連盟への届け出は3月24日であった)。B級1組からのフリークラス宣言は米長邦雄・中原誠に次いで3人目。このうち、A級からの降級直後にフリークラス宣言をしたのは、米長に続いて2人目であった。「以前からA級から降級したらフリークラスに行くことを検討していた。」とのちに明かしている。 フリークラス転出の時点で満46歳であった森内は、翌期の順位戦B級1組所属が決まっていたため、満65歳となる2035年度までの19年間フリークラスに在籍できるが、実際に森内が2035年度まで現役を続けた場合、宣言者のフリークラス在籍年数最長記録となる。 2017年8月6日、将棋日本シリーズ1回戦で久保利明に勝ち、史上12人目の通算900勝を達成した。 (2023年4月1日現在) 昇段規定は、将棋の段級 を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。 他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照 竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。 ほか多数 QuizKnockの動画『【東大VS天才棋士】東大生4人vs天才棋士・森内九段!どちらが勝つ!?【検証】』(2019年9月27日公開) など 昇段およびタイトルの獲得、失冠による肩書きの遍歴を記す。(色付きは継続中の記録)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "森内 俊之(もりうち としゆき、1970年10月10日 - )は、将棋棋士、十八世名人資格保持者。棋士番号は183。勝浦修九段門下。神奈川県横浜市青葉区出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "いわゆる「羽生世代」の一人で、デビュー直後から棋戦優勝を果たすなど活躍していたが、初タイトルは31歳での名人獲得と遅かった。その後は竜王・名人を含む三冠を保持するなどタイトル戦でも活躍し、2007年には羽生善治よりも早く永世名人(十八世名人)の資格を得た。2017年には順位戦でのB級1組への降級を受けて、46歳の若さで順位戦(名人戦)への参加資格を失うフリークラスへの転出を宣言した。地元の青葉区での指導やYouTubeチャンネルの開設など、将棋の普及活動にも注力している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本将棋連盟棋士会副会長(2009年4月 - 2011年3月)、日本将棋連盟専務理事(2017年5月 - 2019年6月)を歴任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "将棋を始めたきっかけは、森内が小学校3年生の頃、学校の休み時間にクラスメート内で流行していた、いい加減な将棋遊びに参加したという、ありふれたものだった。だが、このゲームに魅力を感じた彼は父親に手ほどきを受け、正式な将棋を指すようになる。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "家で将棋に熱中している森内の姿を見ていた彼の祖母は、あるとき、雑誌『将棋世界』を孫に渡した。『将棋世界』との出会いをきっかけに、森内は将棋の新しい世界を知り、将棋にのめりこんでいく。毎週土曜日に将棋会館で行われる将棋教室に通うなどし、本格的に将棋を学び始める。それから1年ほど経つと、各地のデパートで開催される将棋大会にも参加するようになった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "同学年の羽生善治と出会ったのはこの頃だった。最初の対戦はある将棋大会の予選で森内が勝ち、次の対戦は同大会の決勝トーナメントで羽生が勝った。 ある将棋大会で森内の初手▲5八飛に対し、羽生の△5二飛という出だしの将棋があった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "5年生の頃、奨励会試験を受験するか迷った末、「自分はまだ力不足」だと判断し、翌年に受験することを決意。 同時に、「棋士になる」という目標が明確になり、勉強にも熱が入るようになった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1982年、第7回小学生将棋名人戦で3位。このときの優勝者は羽生。同年12月、関東奨励会入り。同期合格者17名のうち、小学生は森内、羽生、郷田真隆の3名のみであった。この年度は受験者が多く、高い競争率であった。一次試験で郷田真隆と対局し勝ち、二次試験で当時唯一の女性奨励会員だった林葉直子女流王将と香落ちで対局し勝利している。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "後に「島研」とも呼ばれた島朗六段主宰の研究会は、森内が二段くらいの頃に島に誘われ、森内が佐藤康光も紹介し始まった。島によれば、彼らには奨励会を抜けるための研究は必要なかったという。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1987年5月13日にプロ入り(四段に昇段)。三段リーグ制度が復活する前に四段になった最後の棋士である。また、第22期新人王戦(1987年度)で、奨励会三段の時に出場し、途中で四段に昇段してそのまま優勝した。森内は、新人王戦最年少優勝記録(17歳0か月)を、2018年に藤井聡太が更新(16歳2か月)するまで保持していた。なお、森内は新人王戦で通算3回優勝している。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、第10回「若駒戦」(奨励会有段者による非公式棋戦)でも同様に、途中で四段になって優勝している。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "プロ入り早々頭角を現し、1988年6月11日と89年5月27日に行われた、第7回・8回の早指し新鋭戦で2連覇。決勝戦の対戦相手は両年とも羽生善治五段であった。さらには、全棋士参加の大型棋戦である全日本プロトーナメント(第7回、1988年度)において、谷川浩司名人と決勝三番勝負を戦い、2勝1敗で谷川名人を破り、優勝した(1989年3月13日)。18歳5か月での優勝は、新人棋戦を除く公式戦に於ける史上4番目の年少記録である。1988年度の将棋大賞で新人賞を受賞。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "プロ入り後も向上心は旺盛で、特に前述した島研では、森内と佐藤が四段に昇段した後、羽生も加わり、4人体制での練習対局と感想戦を中心にした研究が行われ、刺激し合いながらの精進が続いた。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "順位戦での勝率は高く、C級2組を3期、C級1組を1期、B級2組を2期、B級1組を1期で抜け、合計わずか7期で最高クラスのA級まで上りつめた。そして初参加のA級順位戦で7勝2敗の成績を納め、第54期名人戦七番勝負の挑戦権を獲得。森内にとって、初のタイトル戦挑戦である。相手は、当時七冠王だった羽生善治名人。25歳同士の対戦であった。タイトル戦初対局となった1996年4月11日・12日の第1局は、二つの意味で話題となった。一つは、相矢倉の将棋で、「壁銀」になるのをいとわず、3三にあった銀を△2二銀(40手目)と引く作戦に出たこと。もう一つは、1日目夕方の封じ手の定刻の間際、立会人の五十嵐豊一九段が「時間になりましたので」と言いかけたところで「指すつもりなんですけど」と言って△9四歩(44手目)を指し、羽生を封じ手の手番にさせたことである。森内はこの対局に敗れ、そこから3連敗。第4局でタイトル戦初勝利をあげたものの第5局で敗れ、1勝4敗で敗退となった。森内は、第2局の敗戦を「こんな負け方がありうるとは...」、続く第3局の敗戦も「不思議な負け方」と、当時を振り返る。結果的に敗れはしたが、棋士冥利に尽きる名人戦だったという。それと同時に、羽生との差を痛感した名人戦でもあった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1996年度、NHK杯戦において、決勝で屋敷伸之七段を破って初優勝。同棋戦では、5年後の2001年度にも、佐藤康光王将を破り優勝した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1999年度の第12期竜王戦では1組優勝。1999年度、第25期棋王戦の挑戦権を獲得。棋王は、それまで9連覇を果たしていた羽生であった。第25期棋王戦五番勝負の結果は、1勝3敗での敗退。敗れはしたものの、名人戦の頃と違い、手応えを感じたという。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "全日本プロトーナメント(第19回、2000年度)において、谷川浩司九段との決勝五番勝負(2001年)を3勝2敗で制して2度目の優勝。同棋戦の最後の優勝者となる。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第60期順位戦A級で、森内は8勝1敗の好成績を納め、丸山忠久名人への挑戦権を得ると、第60期名人戦七番勝負において丸山名人を4連勝で破り、31歳にして念願の初タイトルとなる名人位を獲得した(2002年5月17日)。また、名人位に就いたことにより、将棋連盟規定により九段に昇段した。なお、ここから第73期(2015年)まで羽生と名人位を分け合うことになる(森内8期・羽生6期)。第54期(1996年)を含めると対羽生の名人戦は9回あり森内が5回制している。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2003年度は、第61期名人戦七番勝負において、4連敗で名人位を羽生挑戦者に奪取されるも、第16期竜王戦七番勝負では逆に4連勝で羽生竜王から竜王位を奪取。これは羽生にとって初のタイトル戦ストレート負けとなった。第53期王将戦七番勝負においても、羽生王将を4勝2敗1千日手で降し、王将位を奪取。さらにはA級順位戦史上初の9戦全勝 を果たし、羽生名人への挑戦権を獲得。2003年度将棋大賞で最優秀棋士賞を初受賞。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "そして、2004年度の第62期名人戦七番勝負において、羽生名人に4勝2敗で勝ち、名人位を奪取。この時点で史上7人目 の三冠王(竜王・名人・王将)となり、最多冠保持者となった。また、2004年(1月-12月)の獲得賞金・対局料は1億円を突破した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "王座戦では、当時12連覇中だった羽生王座への挑戦権を獲得するも、1勝3敗で奪取には至らず。また、同年度、三冠のうち竜王位を3勝4敗で渡辺明七段に、王将位を4連敗で羽生二冠にそれぞれ奪われ、保持するタイトルは名人の一冠のみとなる。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第63期名人戦七番勝負(2005年度)に挑戦者として名乗りを挙げたのは、A級順位戦を8勝1敗で制した羽生。第1局で逆転負けし、対羽生戦8連敗を喫する。しかし、第2局では終盤で羽生が残り16分のうち12分を費やして打った△4五歩(右図参照)をとがめる絶妙の一手▲4八金 で逆転勝ちを収める。結果、この七番勝負では4勝3敗で名人位を防衛した。これで羽生の永世名人資格獲得(通算5期)を2年連続で阻止したことになる(2年後、羽生より一歩先に永世名人の資格を獲得)。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2006年(2005年度)、羽生から棋王を奪取して二冠(名人・棋王)となる。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2006年の第64期名人戦では、十七世名人の資格を持つ谷川浩司の挑戦を4勝2敗で退ける。この七番勝負で森内自身が最も印象的に残った局面は、第1局の86手目と90手目に、自陣の8二、7二に2枚の銀を打ち並べるという珍しい受け方で、我慢したところであったという。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2007年6月29日、第65期名人戦で郷田真隆の挑戦を受け、4勝3敗で防衛。通算5期獲得となり永世名人(十八世名人)の資格を得た。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2008年3月25日、第21期竜王戦5位決定戦1回戦で中原誠十六世名人に敗れ、2組へ降級。タイトルホルダーの2組降級は、1991年9月20日の羽生棋王(当時)以来、2人目。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2008年6月17日、山形県天童市の「天童ホテル」で行われた第66期名人戦第6局で羽生に敗れ、無冠の九段に後退。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "以降、名人戦以外のタイトル戦からもしばらく遠ざかっていたが、2009年度の第22期竜王戦で深浦康市との挑戦者決定三番勝負を2勝1敗で制し、渡辺竜王へ挑戦。5年前とは立場を換えての対決となったが、4連敗のストレート負けとなった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "第69期(2010年度)A級順位戦で優勝し、羽生名人への挑戦権を獲得。同時に、順位戦デビューの第47期から続く順位戦勝ち越し連続記録(名人在位を含む)を23期に伸ばした。永世名人同士の対決となった第69期名人戦七番勝負第2局(2011年4月20日 - 21日)で挙げた勝利は、史上15人目の通算800勝(433敗)となった(将棋栄誉敢闘賞)。その後名人戦は3連勝後に3連敗を喫して最終戦までもつれ込み、2011年6月22日に山梨県甲府市・「常磐ホテル」にて行われた最終第7局を123手で制し、遂に名人位を奪還。永世名人同士の七番勝負は過去にもあるが、自身より後の永世名人から名人位を奪取したのは森内が初。2011年度は、名人位を奪取したものの他棋戦の成績が振るわず、年度勝率は3割台に落ち込んだ。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2012年度の第70期名人戦七番勝負では、A級順位戦を全勝した羽生二冠の挑戦を受けた。シリーズ前に森内の苦戦を予想する声があったが、4勝2敗で名人位を防衛。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2013年度の第71期名人戦七番勝負では、前年に引き続き羽生三冠の挑戦を受けた。羽生との名人戦は3年連続で8度目となったが、4勝1敗で名人位を防衛。この年の名人戦は、星の差だけでなく将棋の内容においても、「一方的」であった。さらに、竜王戦においては、決勝三番勝負で郷田九段に勝ち、挑戦権を獲得。第26期竜王戦七番勝負では、かつて森内から竜王位を奪取して以来、9連覇中だった渡辺明竜王を4勝1敗で破り、竜王位を奪還。渡辺竜王の10連覇を阻止した。(対戦前、森内は、この竜王戦は非常に厳しい戦いになることを予想し、渡辺竜王になんとか2勝することを現実的な目標として考えていた)。竜王位・名人位の2大タイトルを手中に収め、これらの活躍により、2013年度将棋大賞で2度目の最優秀棋士賞を受賞した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2014年度の第72期名人戦七番勝負では、今回で3年連続となる羽生三冠の挑戦を受ける。羽生との名人戦はこれで4年連続9回目。結果は4連敗で、名人位を失冠。その直後に始まった第85期棋聖戦五番勝負で羽生棋聖に挑戦するも、再び3連敗のストレート負けを喫し、奪取はならなかった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "第27期竜王戦七番勝負では、糸谷哲郎七段の挑戦を受けるが、1勝4敗で敗れ、竜王位の防衛に失敗。第64回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは、1回戦はシード、2回戦から、木村一基八段、羽生善治名人、菅井竜也五段、深浦康市九段、決勝戦で行方尚史八段に勝ち、同棋戦において自身3度目の優勝を果たした。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2016年度の第75期順位戦A級(降級1名)では、2017年2月25日の9回戦の結果、3勝6敗で佐藤康光と同成績ながら頭ハネで最下位となり、22期連続で在籍したA級(名人在位も含む)からB級1組への降級が決まった。永世名人資格保持者のB級1組への降級は中原誠、谷川浩司に続いて3人目であった。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "森内は、2016年度が終了する直前、2017年3月31日にフリークラス転出を宣言し、日本将棋連盟を通じてコメントを発表した(連盟への届け出は3月24日であった)。B級1組からのフリークラス宣言は米長邦雄・中原誠に次いで3人目。このうち、A級からの降級直後にフリークラス宣言をしたのは、米長に続いて2人目であった。「以前からA級から降級したらフリークラスに行くことを検討していた。」とのちに明かしている。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "フリークラス転出の時点で満46歳であった森内は、翌期の順位戦B級1組所属が決まっていたため、満65歳となる2035年度までの19年間フリークラスに在籍できるが、実際に森内が2035年度まで現役を続けた場合、宣言者のフリークラス在籍年数最長記録となる。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2017年8月6日、将棋日本シリーズ1回戦で久保利明に勝ち、史上12人目の通算900勝を達成した。", "title": "棋歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "(2023年4月1日現在)", "title": "弟子" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "昇段規定は、将棋の段級 を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。", "title": "昇段履歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ほか多数", "title": "出演" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "QuizKnockの動画『【東大VS天才棋士】東大生4人vs天才棋士・森内九段!どちらが勝つ!?【検証】』(2019年9月27日公開) など", "title": "出演" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "昇段およびタイトルの獲得、失冠による肩書きの遍歴を記す。(色付きは継続中の記録)", "title": "肩書き" } ]
森内 俊之は、将棋棋士、十八世名人資格保持者。棋士番号は183。勝浦修九段門下。神奈川県横浜市青葉区出身。 いわゆる「羽生世代」の一人で、デビュー直後から棋戦優勝を果たすなど活躍していたが、初タイトルは31歳での名人獲得と遅かった。その後は竜王・名人を含む三冠を保持するなどタイトル戦でも活躍し、2007年には羽生善治よりも早く永世名人(十八世名人)の資格を得た。2017年には順位戦でのB級1組への降級を受けて、46歳の若さで順位戦(名人戦)への参加資格を失うフリークラスへの転出を宣言した。地元の青葉区での指導やYouTubeチャンネルの開設など、将棋の普及活動にも注力している。 日本将棋連盟棋士会副会長、日本将棋連盟専務理事を歴任した。
{{Infobox 将棋棋士 |image =[[File:SHOGI Proffesional Toshiyuki Moriuchi.jpg|240px]] |caption = [[2018年]]7月28日 |名前 =森内 俊之 |棋士番号 =183 |生年月日 ={{生年月日と年齢|1970|10|10}} |没年月日 = |プロ年度 =1987年5月13日({{年数|1970|10|10|1987|5|13}}歳) |出身地 =[[神奈川県]][[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]] |所属 = 関東 |師匠 =[[勝浦修]]九段 |弟子= [[竹俣紅]](退会)、[[野原未蘭]] |タイトル = |永世 = '''十八世名人'''(襲位は原則引退後) |順位戦クラス =フリークラス |段位 =九段 |通算成績 = |タイトル合計 = 12期 |優勝回数 =13回 |作成日時=2017年4月1日 }} {{Infobox YouTube personality | name = 森内俊之の森内チャンネル | channel_display_name =森内俊之の森内チャンネル | channel_direct_url = channel/UCAwDrM75UAddwluabae4A6g | years_active = [[2020年]][[6月]] - | genre = {{ublist|将棋|ゲーム}} | subscribers = 7.7万人 | views = 982万回 | silver_button = | silver_year = | gold_button = | gold_year = | stats_update = {{dts|2022-12-7}} }} '''森内 俊之'''(もりうち としゆき、[[1970年]][[10月10日]] - )は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、'''[[名人 (将棋)|十八世名人]]'''資格保持者。[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は183。[[勝浦修]]九段門下。[[神奈川県]][[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]]出身。 いわゆる「[[羽生世代]]」の一人で、デビュー直後から棋戦優勝を果たすなど活躍していたが、初タイトルは31歳での名人獲得と遅かった<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=第35期 竜王戦-森内俊之(もりうち としゆき)九段・棋聖プロフィル |url=https://www.yomiuri.co.jp/igoshougi/ryuoh/moriuchi/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-06-27 |access-date=2023-08-27 |language=ja}}</ref>。その後は竜王・名人を含む三冠を保持するなどタイトル戦でも活躍し、2007年には[[羽生善治]]よりも早く永世名人(十八世名人)の資格を得た<ref>{{Cite web|和書|title=森内俊之に関する最新ニュース・速報記事:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/topics/word/%E6%A3%AE%E5%86%85%E4%BF%8A%E4%B9%8B.html |website=朝日新聞デジタル |access-date=2023-08-27 |language=ja |first= |last= |publisher=朝日新聞}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「より良い将棋界の発展へ」 青葉区出身の森内俊之九段 {{!}} 緑区 |url=https://www.townnews.co.jp/0102/2018/02/01/417540.html |website=タウンニュース |date=2018-02-01 |access-date=2023-08-27 |language=ja}}</ref>。2017年には[[順位戦]]でのB級1組への降級を受けて、46歳の若さで順位戦(名人戦)への参加資格を失うフリークラスへの転出を宣言した<ref>{{Cite web|和書|title=【将棋】森内俊之九段が順位戦フリークラスへ転出「思い出深い経験をさせていただきました」(1/2ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20170331-OFHC45CIABPWBANDSNIZIFIE5Y/ |website=産経ニュース |date=2017-09-04 |access-date=2023-08-27 |language=ja |first= |last= |publisher=産経新聞}}</ref>。地元の青葉区での指導やYouTubeチャンネルの開設など、将棋の普及活動にも注力している<ref name=":2" /><ref name=":1" />。 [[日本将棋連盟]]棋士会副会長([[2009年]]4月 - [[2011年]]3月)、日本将棋連盟専務理事(2017年5月<ref>{{Cite web|和書|title=日本将棋連盟新役員のお知らせ|url=https://www.shogi.or.jp/news/2017/05/post_1544.html|website=|accessdate=2019-11-23|language=ja|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191123170007/https://www.shogi.or.jp/news/2017/05/post_1544.html|archivedate=2019-11-23}}</ref> - 2019年6月<ref>{{Cite web|和書|title=森内俊之九段、1期で退任…将棋連盟理事選に出馬せず|url=https://hochi.news/articles/20190405-OHT1T50164.html|website=|date=2019-04-05|accessdate=2019-11-23|language=ja|publisher=[[スポーツ報知]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191123170215/https://hochi.news/articles/20190405-OHT1T50164.html|archivedate=2019-11-23}}</ref>)を歴任した。 == 棋歴 == === プロ入りまで === 将棋を始めたきっかけは、森内が小学校3年生の頃、学校の休み時間にクラスメート内で流行していた、いい加減な将棋遊びに参加したという、ありふれたものだった。だが、このゲームに魅力を感じた彼は父親に手ほどきを受け、正式な将棋を指すようになる。 家で将棋に熱中している森内の姿を見ていた彼の祖母は、あるとき、雑誌『将棋世界』を孫に渡した。『将棋世界』との出会いをきっかけに、森内は将棋の新しい世界を知り、将棋にのめりこんでいく。毎週土曜日に将棋会館で行われる将棋教室に通うなどし、本格的に将棋を学び始める。それから1年ほど経つと、各地のデパートで開催される将棋大会にも参加するようになった。 同学年の[[羽生善治]]と出会ったのはこの頃だった。最初の対戦はある将棋大会の予選で森内が勝ち、次の対戦は同大会の決勝トーナメントで羽生が勝った。 ある将棋大会で森内の初手▲5八飛に対し、羽生の△5二飛という出だしの将棋があった<ref>「将棋マガジン」(日本将棋連盟)1996年6月号『佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック』</ref>。 5年生の頃、[[新進棋士奨励会|奨励会]]試験を受験するか迷った末、「自分はまだ力不足」だと判断し、翌年に受験することを決意。 同時に、「棋士になる」という目標が明確になり、勉強にも熱が入るようになった。 1982年、第7回[[小学生将棋名人戦]]で3位。このときの優勝者は羽生。同年12月、関東奨励会入り。同期合格者17名のうち、小学生は森内、羽生、[[郷田真隆]]の3名のみであった。この年度は受験者が多く、高い競争率であった。一次試験で郷田真隆と対局し勝ち、二次試験で当時唯一の女性奨励会員だった[[林葉直子]]女流王将と[[香落ち]]で対局し勝利している。 後に「島研」とも呼ばれた[[島朗]]六段主宰の研究会は、森内が二段くらいの頃に島に誘われ、森内が[[佐藤康光]]も紹介し始まった。島によれば、彼らには奨励会を抜けるための研究は必要なかったという。 [[1987年]][[5月13日]]にプロ入り(四段に昇段)。三段リーグ制度が復活する前に四段になった最後の棋士である。また、第22期[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]](1987年度)で、奨励会三段の時に出場し、途中で四段に昇段してそのまま優勝した。森内は、新人王戦最年少優勝記録(17歳0か月)を、2018年に[[藤井聡太]]が更新(16歳2か月)するまで保持していた<ref>{{Cite news|title=将棋:藤井七段、最年少新人王に 31年ぶり更新|date=2018-10-17|url=https://mainichi.jp/articles/20181017/k00/00e/040/323000c|accessdate=2018-10-17|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181017065125/https://mainichi.jp/articles/20181017/k00/00e/040/323000c|archivedate=2018-10-17|work=[[毎日新聞]]}}</ref>。なお、森内は新人王戦で通算3回優勝している。 また、第10回「[[若駒戦]]」(奨励会有段者による非公式棋戦)でも同様に、途中で四段になって優勝している。 === タイトル獲得 === プロ入り早々頭角を現し、1988年6月11日と89年5月27日に行われた、第7回・8回の[[早指し新鋭戦]]で2連覇。決勝戦の対戦相手は両年とも羽生善治五段であった。さらには、全棋士参加の大型棋戦である[[朝日オープン将棋選手権|全日本プロトーナメント]](第7回、[[1988年]]度)において、[[谷川浩司]]名人と決勝三番勝負を戦い、2勝1敗で谷川名人を破り、優勝した(1989年3月13日)。18歳5か月での優勝は、新人棋戦を除く公式戦に於ける史上4番目の年少記録である{{efn|1位は[[藤井聡太]]の15歳6か月([[朝日杯将棋オープン]])、2位は[[加藤一二三]]の17歳0か月([[東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦|高松宮賞争奪選手権戦]])、3位は[[羽生善治]]の17歳2か月([[天王戦]])。}}。1988年度の[[将棋大賞]]で新人賞を受賞。 プロ入り後も向上心は旺盛で、特に前述した島研では、森内と佐藤が四段に昇段した後、羽生も加わり、4人体制での練習対局と感想戦を中心にした研究が行われ、刺激し合いながらの精進が続いた。 [[順位戦]]での勝率は高く、C級2組を3期、C級1組を1期、B級2組を2期、B級1組を1期で抜け、合計わずか7期で最高クラスのA級まで上りつめた。そして初参加のA級順位戦で7勝2敗の成績を納め、[[第54期順位戦|第54期名人戦]]七番勝負の挑戦権を獲得。森内にとって、初のタイトル戦挑戦である。相手は、当時七冠王だった羽生善治名人。25歳同士の対戦であった。タイトル戦初対局となった1996年4月11日・12日の第1局は、二つの意味で話題となった。一つは、[[矢倉囲い|相矢倉]]の将棋で、「壁銀」になるのをいとわず、3三にあった銀を△2二銀(40手目)と引く作戦に出たこと。もう一つは、1日目夕方の封じ手の定刻の間際、立会人の[[五十嵐豊一]]九段が「時間になりましたので」と言いかけたところで「指すつもりなんですけど」と言って△9四歩(44手目)を指し、羽生を封じ手の手番にさせたことである<ref>「[[将棋マガジン]]」(日本将棋連盟)1996年6月号</ref>。森内はこの対局に敗れ、そこから3連敗。第4局でタイトル戦初勝利をあげたものの第5局で敗れ、1勝4敗で敗退となった。森内は、第2局の敗戦を「こんな負け方がありうるとは…」、続く第3局の敗戦も「不思議な負け方」と、当時を振り返る。結果的に敗れはしたが、棋士冥利に尽きる名人戦だったという。それと同時に、羽生との差を痛感した名人戦でもあった。 1996年度、[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]において、決勝で[[屋敷伸之]]七段を破って初優勝。同棋戦では、5年後の2001年度にも、佐藤康光王将を破り優勝した。 1999年度の[[第12期竜王戦]]では1組優勝。1999年度、[[第25期棋王戦]]の挑戦権を獲得。棋王は、それまで9連覇を果たしていた羽生であった。[[第25期棋王戦]]五番勝負の結果は、1勝3敗での敗退。敗れはしたものの、名人戦の頃と違い、手応えを感じたという。 [[朝日オープン将棋選手権|全日本プロトーナメント]](第19回、[[2000年]]度)において、[[谷川浩司]]九段との決勝五番勝負(2001年)を3勝2敗で制して2度目の優勝。同棋戦の最後の優勝者となる{{efn|全日本プロ将棋トーナメントは、翌年から[[朝日オープン将棋選手権]]に移行した。}}。 [[第60期順位戦]]A級で、森内は8勝1敗の好成績を納め、[[丸山忠久]]名人への挑戦権を得ると、[[第60期順位戦|第60期名人戦]]七番勝負において丸山名人を4連勝で破り、31歳にして念願の初タイトルとなる'''名人位'''を獲得した(2002年5月17日)。また、名人位に就いたことにより、将棋連盟規定により九段に昇段した。なお、ここから[[第73期順位戦|第73期]](2015年)まで羽生と名人位を分け合うことになる(森内8期・羽生6期)。第54期(1996年)を含めると対羽生の名人戦は9回あり森内が5回制している{{efn|第62・63・69・70・71期は森内の勝利、第54・61・66・72期は敗退。}}。 === 永世名人へ === {{Shogi diagram|tright |第63期名人戦第2局<br/>第86手△4五歩まで<br/>(この次の一手が▲4八金)<br/>△羽生善治四冠 持駒:歩三 |lg|ng| |gg| | | | | | |sg|akg| |gg| | | | | | |pg|pg| | |ds| |pg |pg|pg| | |pg| |bs|pg| | | | | | |pgl| | | | | |ps| | | | | | | |ps| |ps|psg| |ps| |ps | |ks|gs| | | |gs| | |ls|ns|ss|hg| |dg|ss|ns|ls |▲森内俊之名人 持駒:桂香歩二}} [[2003年]]度は、[[第61期順位戦|第61期名人戦]]七番勝負において、4連敗で名人位を羽生挑戦者に奪取されるも、[[第16期竜王戦]]七番勝負では逆に4連勝で羽生竜王から[[竜王戦|竜王位]]を奪取。これは羽生にとって初のタイトル戦ストレート負けとなった。[[第53期王将戦]]七番勝負においても、羽生王将を4勝2敗1千日手で降し、王将位を奪取。さらには[[順位戦|A級順位戦]]史上初の9戦全勝{{efn|ただし、休場者がいた第26期A級順位戦(1971年度)で、[[中原誠]]が8戦全勝を達成している。}} を果たし、羽生名人への挑戦権を獲得。2003年度[[将棋大賞]]で'''最優秀棋士賞'''を初受賞。 そして、[[2004年]]度の[[第62期順位戦|第62期名人戦]]七番勝負において、羽生名人に4勝2敗で勝ち、名人位を奪取。この時点で史上7人目{{efn|過去には、[[升田幸三]]、[[大山康晴]]、[[中原誠]]、[[米長邦雄]]、[[谷川浩司]]、[[羽生善治]]。}} の'''三冠王'''(竜王・名人・王将)となり、'''最多冠保持者'''となった。また、2004年(1月-12月)の[[将棋界#獲得賞金と対局料|獲得賞金・対局料]]は1億円を突破した。 王座戦では、当時12連覇中だった羽生王座への挑戦権を獲得するも、1勝3敗で奪取には至らず。また、同年度、三冠のうち竜王位を3勝4敗で[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]七段に、王将位を4連敗で羽生二冠にそれぞれ奪われ、保持するタイトルは名人の一冠のみとなる。 [[第63期順位戦|第63期名人戦]]七番勝負(2005年度)に挑戦者として名乗りを挙げたのは、A級順位戦を8勝1敗で制した羽生。第1局で逆転負けし、対羽生戦8連敗を喫する。しかし、第2局では終盤で羽生が残り16分のうち12分を費やして打った△4五歩(右図参照)をとがめる絶妙の一手▲4八金{{efn|成銀で取らせて相手の攻めを一手遅らせる意味の手。この▲4八金は「絶妙の一手」と言われ、また、後に[[勝又清和]]によれば「タイトル戦の三大妙手」とも評されているが、森内自身は「相手のミスで生じた手なので」と振り返っている。しかし、控え室の検討陣で△4五歩が敗着と想像できた者はいなかったという。}}<ref>毎日新聞社『第63期将棋名人戦』、日本将棋連盟『[[将棋世界]]』2009年1月号 p.58「勝又教授のこれならわかる!最新戦法講義」。</ref> で逆転勝ちを収める。結果、この七番勝負では4勝3敗で名人位を防衛した。これで羽生の永世名人資格獲得(通算5期)を2年連続で阻止したことになる(2年後、羽生より一歩先に永世名人の資格を獲得)。 [[2006年]](2005年度)、羽生から[[棋王戦 (将棋)|棋王]]を奪取して二冠(名人・棋王)となる{{efn|棋王は翌年[[佐藤康光]]に奪われる。}}。 2006年の[[第64期順位戦|第64期名人戦]]では、十七世名人の資格を持つ[[谷川浩司]]の挑戦を4勝2敗で退ける。この七番勝負で森内自身が最も印象的に残った局面は、第1局の86手目と90手目に、自陣の8二、7二に2枚の銀を打ち並べるという珍しい受け方で、我慢したところであったという<ref>「[[将棋世界]]」2006年8月号</ref>。 [[2007年]][[6月29日]]、[[第65期順位戦|第65期名人戦]]で[[郷田真隆]]の挑戦を受け、4勝3敗で防衛。通算5期獲得となり[[名人 (将棋)#永世名人|'''永世名人''']]('''十八世名人''')の資格を得た{{efn|永世名人の襲位は、原則として引退後。}}<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2007/06/post_136.html 森内俊之名人、十八世名人の資格を獲得|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。 === 永世名人獲得後 === [[2008年]][[3月25日]]、[[第21期竜王戦]]5位決定戦1回戦で[[中原誠]]十六世名人に敗れ、2組へ降級。タイトルホルダーの2組降級は、[[1991年]][[9月20日]]の羽生棋王(当時)以来、2人目。 2008年[[6月17日]]、[[山形県]][[天童市]]の「天童ホテル」で行われた[[第66期順位戦|第66期名人戦]]第6局で羽生に敗れ、無冠の九段に後退{{efn|失冠後は1年間'''前名人'''の称号を名乗る権利があるが放棄。4年前に名人失冠した時も名乗っていない。ちなみに過去には、谷川浩司が「前竜王・前名人」の肩書きを放棄して九段を名乗った例があり、その後も佐藤康光や丸山忠久は「前名人」を名乗らなかった。}}{{efn|一方の羽生は、森内に1年遅れで永世名人(十九世名人)の資格を得た。永世名人が2年連続で誕生したのは史上初。}}。 以降、名人戦以外のタイトル戦からもしばらく遠ざかっていたが、2009年度の[[第22期竜王戦]]で[[深浦康市]]との挑戦者決定三番勝負を2勝1敗で制し、渡辺竜王へ挑戦。5年前とは立場を換えての対決となったが、4連敗のストレート負けとなった。 第69期(2010年度)A級順位戦で優勝し、羽生名人への挑戦権を獲得。同時に、順位戦デビューの第47期から続く順位戦勝ち越し連続記録(名人在位を含む)を23期に伸ばした。永世名人同士の対決となった[[第69期順位戦|第69期名人戦]]七番勝負第2局([[2011年]]4月20日 - [[4月21日|21日]])で挙げた勝利は、史上15人目の通算800勝(433敗)となった([[将棋栄誉敢闘賞]])<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/04/800.html 森内俊之九段、800勝(将棋栄誉敢闘賞)を達成|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。その後名人戦は3連勝後に3連敗を喫して最終戦までもつれ込み、[[2011年]][[6月22日]]に[[山梨県]][[甲府市]]・「[[常磐ホテル]]」にて行われた最終第7局を123手で制し、遂に名人位を奪還。永世名人同士の七番勝負は過去にもあるが、自身より後の永世名人から名人位を奪取したのは森内が初。2011年度は、名人位を奪取したものの他棋戦の成績が振るわず、年度勝率は3割台に落ち込んだ。 2012年度の[[第70期順位戦|第70期名人戦]]七番勝負では、A級順位戦を全勝した羽生二冠の挑戦を受けた。シリーズ前に森内の苦戦を予想する声があったが<ref>「第70期名人戦七番勝負第6局-堂々の防衛劇」 『将棋世界』 2012年8月号、6-17頁。</ref>、4勝2敗で名人位を防衛。 2013年度の[[第71期順位戦|第71期名人戦]]七番勝負では、前年に引き続き羽生三冠の挑戦を受けた。羽生との名人戦は3年連続で8度目となったが、4勝1敗で名人位を防衛。この年の名人戦は、星の差だけでなく将棋の内容においても、「一方的」であった<ref>『将棋世界』2014年8月号、9頁</ref>。さらに、竜王戦においては、決勝三番勝負で郷田九段に勝ち、挑戦権を獲得。[[第26期竜王戦]]七番勝負では、かつて森内から竜王位を奪取して以来、9連覇中だった渡辺明竜王を4勝1敗で破り、竜王位を奪還。渡辺竜王の10連覇を阻止した。(対戦前、森内は、この竜王戦は非常に厳しい戦いになることを予想し、渡辺竜王になんとか2勝することを現実的な目標として考えていた)<ref>『覆す力』、25頁</ref>。竜王位・名人位の2大タイトルを手中に収め、これらの活躍により、2013年度将棋大賞で2度目の'''最優秀棋士賞'''を受賞した<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2014/04/41_3.html 第41回将棋大賞が決まる!|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。 2014年度の[[第72期順位戦|第72期名人戦]]七番勝負では、今回で3年連続となる羽生三冠の挑戦を受ける。羽生との名人戦はこれで4年連続9回目。結果は4連敗で、名人位を失冠。その直後に始まった[[第85期棋聖戦]]五番勝負で羽生棋聖に挑戦するも、再び3連敗のストレート負けを喫し、奪取はならなかった。 [[第27期竜王戦]]七番勝負では、[[糸谷哲郎]]七段の挑戦を受けるが、1勝4敗で敗れ、竜王位の防衛に失敗。第64回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは、1回戦はシード、2回戦から、木村一基八段、羽生善治名人、菅井竜也五段、深浦康市九段、決勝戦で行方尚史八段に勝ち、同棋戦において自身3度目の優勝を果たした。 === A級からの降級、フリークラス宣言 === 2016年度の[[第75期順位戦]]A級(降級1名)では、2017年2月25日の9回戦の結果、3勝6敗で佐藤康光と同成績ながら頭ハネで最下位となり、22期連続で在籍したA級(名人在位も含む)からB級1組への降級が決まった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankei.com/life/news/170226/lif1702260022-n1.html|title=稲葉陽が名人初挑戦 森内俊之はA級から初陥落|accessdate=2017-04-05|date=2017-02-26|publisher=[[産経新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170404180851/http://www.sankei.com/life/news/170226/lif1702260022-n1.html|archivedate=2017-04-04}}</ref>。永世名人資格保持者のB級1組への降級は[[中原誠]]、[[谷川浩司]]に続いて3人目であった。 森内は、2016年度が終了する直前、2017年3月31日に[[順位戦#フリークラス宣言(転出)|フリークラス転出を宣言]]し、日本将棋連盟を通じてコメントを発表した(連盟への届け出は3月24日であった)<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2017/03/2017.html 2017年度からのフリークラス転出者|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref>。B級1組からのフリークラス宣言は[[米長邦雄]]・中原誠に次いで3人目。このうち、A級からの降級直後にフリークラス宣言をしたのは、米長に続いて2人目であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/topics/20170401-OHT1T50032.html|title=将棋の森内九段がフリークラス転出|accessdate=2017-04-05|date=2017-04-01|publisher=[[スポーツ報知]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170331183735/http://www.hochi.co.jp/topics/20170401-OHT1T50032.html|archivedate=2017-03-31}}</ref>。「以前からA級から降級したらフリークラスに行くことを検討していた。」とのちに明かしている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【秋の褒章】将棋棋士の森内俊之九段 羽生善治棋聖より早く永世名人 「棋士として一番の勲章を手に入れることができた」|url=https://www.sankei.com/article/20171102-5BK4AGFCKZN2PHWVVP6AUAQORY/|website=産経ニュース|date=2017-11-02|accessdate=2021-01-07|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。 フリークラス転出の時点で満46歳であった森内は、翌期の順位戦B級1組所属が決まっていたため、満65歳となる2035年度までの19年間フリークラスに在籍できるが、実際に森内が2035年度まで現役を続けた場合、宣言者のフリークラス在籍年数最長記録となる<ref>現行の制度上、宣言者がフリークラスに在籍できる最長年数は23年(満42歳以下で翌期順位戦でB級1組所属が決まっている場合)</ref>。 2017年8月6日、[[将棋日本シリーズ]]1回戦で[[久保利明]]に勝ち、史上12人目の通算900勝を達成した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20170811/ddm/007/040/174000c|title=こまおと 森内俊之九段が6日のJTプロ公式戦で久保利明王将に勝ち|publisher=[[毎日新聞]]|date=2017-08-11|accessdate=2017-08-18}}</ref>。 == 棋風 == * 居飛車、特に矢倉を多用する居飛車党である。 * 一般的には「受けが強い」というイメージから、「'''鉄板流'''」、「鋼鉄の受け」と呼ばれるが、本人は鉄板流などと言う呼ばれ方をあまり好ましく思っていない<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/447701/ 将棋界のステルス戦闘機と呼ぶべき名人~森内俊之~ [将棋]All About]</ref>。森内の弟弟子の[[野月浩貴]]と[[広瀬章人]]によると、森内将棋には少なくとも「安全勝ち」というイメージは無く、「勝ち方のうまさ」と「攻守のギアチェンジ」に最も特徴があるという<ref>「将棋世界スペシャル」vol.3 森内俊之</ref>。 * 羽生善治は、森内の序盤作戦について「大胆にして入念な準備がある」と述べた<ref>「羽生VS森内 百番指し」まえがき</ref>。 * 「柔」の羽生将棋に対して「剛」の森内将棋とよく表現される。 * 後手番[[矢倉囲い|矢倉]]では『森内流』と呼ばれる駒組みがあり、現代矢倉の主要変化の1つである。 * 好きな駒は[[飛車]]。攻めのみならず、守りでの使い方にも特徴がある。第64回NHK杯テレビ将棋トーナメント決勝戦で[[藤井猛]]が解説した際、「二枚飛車で受けられたことがある。」と話していた。[[勝又清和]]によれば、「自陣飛車の似合う棋士は?」という質問をしたところ、多くの棋士から名前が挙がったと言う<ref>「将棋世界」2009年11月号</ref>。 == 人物・エピソード == === 基本データ === * 母方の祖父にプロ棋士である[[京須行男]](八段、元日本将棋連盟理事・奨励会幹事)を持つ将棋界の[[サラブレッド]]である。(なお、京須は森内が生まれる前に他界<ref>{{Cite web|和書|title=将棋棋士 森内俊之(2)|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO54398860V10C20A1BE0P00/|website=日本経済新聞|date=2020-01-15|accessdate=2021-01-07|language=ja}}</ref>。)このため、「'''鉄板流'''」の他に「'''優駿流'''」と言われることもある。 * [[サレジオ学院中学校・高等学校]]卒業(同校在学中にプロ棋士となった)<ref>{{Cite web|和書|title=青春スクロール母校群像記 {{!}} サレジオ学院中学校・高等学校|url=https://www.salesio-gakuin.ed.jp/blog/words/tani/8267.html|accessdate=2021-01-07}}</ref>。 * 初の名人位に就いた翌月(2002年6月)に、東京都内の私立大学の教員(国文学)を務める女性との[[婚約]]を発表し、同年10月に結婚した。 * 2019年、当時中学2年生だった息子の[[森内貴之]]が[[世界バックギャモン選手権]]ジュニアの部で優勝<ref>{{Cite web|和書|title=バックギャモンやろうぜ!クイズ王がジュニア世界王者に教わってきた|url=https://quizknock.com/backgammon|website=quizknock.com|accessdate=2021-01-07}}</ref>。後述するように父・俊之も[[バックギャモン]]の強豪であり、父子で2021年11月27日にバックギャモン対決をしたこともある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=TAkjWQXSkLg 【森内貴之VS森内俊之 九段 バックギャモン親子対決】]</ref>。 * [[座右の銘]]は、「今を生きる」「[[一期一会]]」「一日一生」。 * 愛称は「ウティ」であると[[スポーツ報知]]の記事に記述されているが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/topics/20171101-OHT1T50236.html|title=将棋の森内俊之九段に紫綬褒章「葛藤」「考えた末に」控えめに喜び|accessdate=2017-11-2|date=2017-11-2|publisher=[[スポーツ報知]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180330145507/http://www.hochi.co.jp/topics/20171101-OHT1T50236.html|archivedate=2018-3-30}}</ref>、インターネット上の将棋ファンが使っている愛称であり、将棋界の仲間や関係者が使うことはない。なお、インターネット上では「ウディ」「ウッディ」も利用されている。 === 合理主義者 === * 名人戦、王将戦など、1局2日制の対局であっても、定跡や研究手順であれば時間を使わず、1日目から手をどんどん進めることが多い。かつては、1日目に駒がぶつからないことが普通であったが、森内がタイトル戦で活躍し始めた頃から、(森内が登場しないタイトル戦でも)2日制の1日目に本格的な戦い、時には終盤の入り口まで進行することが多くなっている。 * かつては、番勝負の第1局に[[千日手]]指し直しが1回あると、第1局の先手と第2局の先手が同じ棋士になるという不合理があった{{efn|ただし指し直し局では後手となるが、若干不利である後手を本来より持ち時間が少ない局で消費できる。}}。森内の提案をきっかけに、第1局の振り駒によって最終局の1局前までの先後が決定される一局完結方式に変更された(''[[振り駒]]'' を参照)。 === 公式対局に関するエピソード === * 事前に対局相手と先後が決まっている順位戦では無類の強さを誇っており、第73期(2014年度)にA級順位戦を4勝5敗で負け越すまで名人在位を除く全ての年度で勝ち越していた。1990年度(当時C級2組)の途中から1992年度(当時B級2組)にかけては順位戦26連勝を記録した。順位戦通算勝率は2007年度までの時点では8割を超えていた(114勝28敗、0.803)。 ** 順位戦と同様の制度(事前に対局相手と先後が決まっている)である[[王位戦 (将棋)|王位戦]]・[[王将戦]]の挑戦者決定リーグでは負け越し経験が数度ずつあり、第60期王将リーグ(2010年度)では1勝5敗、第61期王将リーグ(2011年度)では0勝6敗と苦戦している。 * 二日制のタイトル戦で力を発揮する傾向があり、タイトル12期(詳細は[[森内俊之#主な成績|後述]])のうち11期が二日制の番勝負を制したものである。さらに一つのタイトル(名人)で過半数(8期)獲得している(タイトルを7期以上獲得した他の棋士では、タイトルがほぼ名人のみだった時期に活躍した[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]{{efn|すべて名人で8期獲得}}のみである)。 * 体力に自信が無く、[[千日手]]の後の体力勝負は苦手とのことである<ref>{{Cite book ja-jp | author = [[原田泰夫]] (監修)、荒木一郎 (プロデュース) | editor = '''森内俊之'''ら | year = 2004 | title = 日本将棋用語事典 | publisher = 東京堂出版 | isbn = 4-490-10660-2 | pages = pp.96-98 下段コラム・本人インタビュー}}</ref>。 * 四段時代の1990年1月、竜王戦で[[吉田利勝]]七段(当時)にポカで敗北し、横浜市の自宅までの30キロを、5時間をかけて、スーツ・革靴で走り切ったエピソードがある<ref>{{Citation|和書 |title=将棋世界Special Vol.3 森内俊之|year=2013|last=日本将棋連盟|first=|authorlink=日本将棋連盟|pages=44|edition=|publisher=日本将棋連盟}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://shogipenclublog.com/blog/2012/10/15/%E6%A3%AE%E5%86%85%E4%BF%8A%E4%B9%8B%E5%9B%9B%E6%AE%B5%EF%BC%88%E5%BD%93%E6%99%82%EF%BC%89%E3%80%8C%E3%81%B2%E3%81%A9%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%99%E3%80%82%E6%AD%BB%E3%81%AB%E3%81%BE%E3%81%97/|title=森内俊之四段(当時)「ひどかったす。死にました。もう投げます」|accessdate=2017-06-20|date=2012-10-15|publisher=将棋ペンクラブログ([[河口俊彦]]「対局日誌」[[将棋マガジン]]1990年3月号を引用)|archiveurl=https://megalodon.jp/2017-0620-1621-04/https://shogipenclublog.com:443/blog/2012/10/15/%E6%A3%AE%E5%86%85%E4%BF%8A%E4%B9%8B%E5%9B%9B%E6%AE%B5%EF%BC%88%E5%BD%93%E6%99%82%EF%BC%89%E3%80%8C%E3%81%B2%E3%81%A9%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%99%E3%80%82%E6%AD%BB%E3%81%AB%E3%81%BE%E3%81%97/|archivedate=2017-06-20}}</ref>。 * 郷田真隆と戦った第65期名人戦の第1局1日目(2007年4月10日)の午後、森内の手番(24手目)のときに郷田が扇子を開け閉じして音を鳴らしたため森内が苦情を訴えた。立会人の[[中村修 (棋士)|中村修]]らが対応に追われ約30分間対局が中断するという珍事となった。この一局は郷田の逆転勝利となっている。この他にも1996年の第54期名人戦七番勝負第1局(対羽生善治)では、1日目の封じ手を巡ってトラブルを起こすなど(詳細は[[封じ手#その他]]を参照)、タイトル戦でやや神経質な動きを見せる事が多い。 === 趣味など === [[Image:Toshiyuki Moriuchi.jpg|275px|right|thumb|チェスに興じる森内]] * 趣味は[[クイズ]]、[[チェス]]、[[麻雀]]、[[奇術|マジック]]、[[スポーツ観戦]]。[[健康法]]は[[散歩]]。ストレス解消法は[[ジョギング]]<ref>平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)</ref>。20代の頃はフル[[マラソン]]を走ることもあった<ref>[https://web.archive.org/web/20091212185339/http://www.spopre.com/shogi/070905/01.html Spopre.com - 将棋は頭脳スポーツだ 棋士列伝第一回 十八世名人森内俊之]</ref>。 * 特にクイズはかなりの実力で、[[パネルクイズ アタック25]]の[[1995年]][[4月23日]](第1011回)放送では予選会を勝ち抜いた一般出場者として出演した。A級に昇級した初年度でのことでもあり、司会者の[[児玉清]]は番組冒頭で「今週は見たことのある方が出場されています」と紹介した。後、同番組の1500回記念大会(「知性派タレントクイズ頂上決戦」、[[2005年]][[3月20日]])では[[丸山和也]]、[[高田万由子]]、[[やくみつる]]を破って優勝し、[[フランス]]縦断旅行を獲得したが<ref>『パネルクイズアタック25公式ファンブック―読めば25倍面白くなる』(アタック25番組40周年特別委員会編、[[講談社]])第4章『番組トリビアにアタック!』より</ref><ref>[[スポーツニッポン]]大阪 2005年3月4日記事『ABC系「アタック25」1500回記念タレント大会を収録』</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0101/2012/03/08/137588.html|title=青葉区版『3月10日(土)に「もえぎ野センター」で講演会イベントを行う青葉区出身の将棋名人 森内 俊之さん』|publisher=[[タウンニュース社]]|date=2015-01-30|accessdate=2015-01-29}}</ref>、名人戦の対局と日程が重なり旅行には行けなかった<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2015/06/25/moriuchi-12/ 森内俊之名人(当時)の「パネルクイズ アタック25」クイズ頂上決戦!] - 将棋ペンクラブログ・2015年6月25日</ref>。この他にも『[[FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦!]]』『[[アメリカ横断ウルトラクイズ]]』の予選にも参加したことがある<ref>[[将棋マガジン]] 1993年3月号『鈴木輝彦七段の棋士本音インタビュー「枕の将棋学’93 ゲスト 森内俊之六段」』および将棋世界 2003年8月号より</ref>。クイズの強豪が名を連ねる[[ホノルルクラブ]]の会員としても知られている。 * [[バックギャモン]]の実力者でもあり、本格的に勉強を始めてから半年後の2014年8月に行われた第39回[[世界バックギャモン選手権]]では4位に入賞した<ref>[https://twitter.com/jbl_backgammon/status/497713375208419330 日本バックギャモン協会によるツイート] - 2014年8月8日</ref>。2019年度にはバックギャモン王位の座についた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.backgammon.gr.jp/?page_id=454|title=王位戦 日本バックギャモン協会|accessdate=2020-07-08}}</ref>。2021年11月26日には、[[幻冬舎]]から、森内俊之推薦、[[日本バックギャモン協会]]監修の『バックギャモン』が発売された<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000086.000007567.htm 将棋棋士・森内俊之 九段推薦、日本バックギャモン協会監修!世界中で3億人以上が遊ぶ2人対戦ボードゲーム『バックギャモン』11/26(金)発売!]</ref>。2022年5月5日、バックギャモン日本選手権で初優勝を果たし、日本代表に内定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/moriuchi_ch/status/1522462135082975232 |title=5月3〜5日に行われたバックギャモン日本選手権で、優勝することができました |access-date=2022/05/10 |publisher=森内俊之の森内チャンネル@moriuchi_ch}}</ref>。 * [[ポーカー]](特に[[テキサス・ホールデム]])も嗜み、2016年12月には『[[夕刊フジ]]杯ポーカー王位決定戦』の著名人予選に出場した<ref>[https://web.archive.org/web/20170202001808/https://pokercrown.jp/news/other/66/ 12月12日(月)各界著名人によるスペシャルDAY1開催!] - 夕刊フジ杯ポーカー王位決定戦</ref>。 * 好角家。2012年秋場所七日目の打ち出し後に[[横綱]][[白鵬翔|白鵬]]と対面し、白鵬から「[[相撲]]を見にいらしたことはありますか」と訊ねられ、「([[北の湖敏満|北の湖]])理事長が現役の頃から見に来てます」と答えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2012/09/15/kiji/K20120915004122900.html|title=将棋の森内名人に感じ入る白鵬「精神的に通じるものがある」|publisher=[[スポーツニッポン]]|date=2012-09-15|accessdate=2015-01-29}}</ref>。 * 好物は[[カレーライス]]。特に2010年代に入り、タイトル戦で昼食にカレーが用意されている場合はだいたいカレーを注文している<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2013/10/17/%e7%ab%9c%e7%8e%8b%e6%88%a6%e4%b8%83%e7%95%aa%e5%8b%9d%e8%b2%a0%e3%81%ae%e6%98%bc%e9%a3%9f%e3%82%92%e5%b1%95%e6%9c%9b%e3%81%99%e3%82%8b/ 竜王戦七番勝負の昼食を展望する] - 将棋ペンクラブログ・2013年10月17日</ref>。2013年の竜王戦では5局とも2日目の昼食にカレー系の食事を注文した(特に5局中3局で[[カツカレー]]を選んでいる)<ref>[https://web.archive.org/web/20131203034040/http://news.ameba.jp/20131129-600/ 森内名人、必勝の「カツカレー定跡」で竜王奪還なるか なぜかカレーに注目が集まった竜王戦第5局、結果は……] - アメーバニュース・2013年11月29日</ref>。カレーを選ぶ理由を、本人は「カレーが好き」「カレーはどこで食べても美味しい」「緊張感の高まる2日目にメニューのことであれこれ悩みたくない」と自著やインタビューで述べている<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2014/04/07/%e6%a3%ae%e5%86%85%e4%bf%8a%e4%b9%8b%e7%ab%9c%e7%8e%8b%e5%90%8d%e4%ba%ba%e3%81%ae%e6%9c%80%e8%bf%91%e3%81%ae%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%88%e3%83%ab%e6%88%a6%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%98%bc%e9%a3%9f%e5%82%be/ 森内俊之竜王名人の最近のタイトル戦での昼食傾向を分析する] - 将棋ペンクラブログ・2014年4月7日</ref><ref name=mitsubishi>[https://web.archive.org/web/20161102041308/http://www.mitsubishielectric.co.jp/home/ih_cooking/5th_special/interview.html 三菱電機 IHクッキングヒーター:「びっくリングIH」の5周年特設サイト 森内九段インタビュー]</ref>。2013年9月にはファンイベントとして「名人を囲んでのカレーと自然食の夕べ」が開催された<ref>[https://www.shogi.or.jp/event/2013/08/post_815.html ~森内俊之名人 名人の英知に学ぶ~] - 日本将棋連盟・2013年8月30日</ref>。また[[2016年]]には[[三菱電機]]のIHクッキングヒーターの特設サイトに登場し、そこでもカレー好きがフィーチャーされている<ref name=mitsubishi />。 * [[パインアメ]]も好物。2011年4月、浜松市であった名人戦第2局では対局中にパインアメを食べていた<ref> [https://web.archive.org/web/20120607052338/http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201206060043.html 【パインアメ】60年の愛 甘酸っぱいんや] - 朝日新聞デジタル・2012年6月7日</ref>。 * 一方で苦手な食べ物は[[梅干し]]で「これだけは食べられない」という<ref>[https://www.1101.com/curryproject/school/moriuchi/2017-08-02.html カレーと将棋と熱いトークの夕べ。] - カレーの学校</ref>。 * 2020年6月13日にYouTubeチャンネルを開設<ref>[https://www.youtube.com/channel/UCAwDrM75UAddwluabae4A6g/about 森内俊之の森内チャンネル]</ref>。アシスタント兼進行役は[[鈴木環那]]。 === その他 === * 自身の師匠である勝浦と、羽生善治の師匠である[[二上達也]]は、いずれも[[渡辺東一]]名誉九段門下である。すなわち森内と羽生は「いとこ弟子」の関係にある。 * 2018年現在、出身地である[[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]]で<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aobashogiclub.net/greetings.html|title=代表ごあいさつ|accessdate=2018-7-11|publisher=青葉将棋クラブ(代表:森内俊之)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180711074616/http://www.aobashogiclub.net/greetings.html|archivedate=2018-7-11}}</ref>「青葉将棋クラブ」を主宰するなど、子供向けの普及活動にも力を入れている<ref>{{Cite news|title=「より良い将棋界の発展へ」 青葉区出身の森内俊之九段|date=2018-01-18|url=https://www.townnews.co.jp/0101/2018/01/18/415485.html|accessdate=2018-07-11|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180711074123/https://www.townnews.co.jp/0101/2018/01/18/415485.html|archivedate=2018-7-11|work=[[タウンニュース社]]}}</ref>。 * [[小学館]]発行のジュニアプログレッシブ英和辞典(第2版 - 2002年12月発行。ISBN 4095107065)の''"master"''の項目に''"Mr.Moriuchi is a master of Japanese chess."''(森内先生は将棋の名人です)という用例が記載されている。 == 弟子 == ===女流棋士となった弟子=== {| class="wikitable" |- ! 名前 !! 女流2級昇級日!!段位、主な活躍 |- | [[竹俣紅]] || 2012年10月1日 |女流初段(2019年に連盟退会) |- | [[野原未蘭]] || 2020年9月1日 |女流初段 |- |} (2023年4月1日現在) *竹俣は女流引退・連盟退会後に[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]]に転身している。 == 昇段履歴 == 昇段規定は、''[[将棋の段級]]'' を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。 * [[1982年]] 6級 [[新進棋士奨励会|奨励会]]入会 * [[1985年]] 初段 * [[1987年]]{{0}}[[5月13日]] 四段 プロ入り(奨励会三段昇段後、12勝4敗を2回) * [[1990年]]{{0}}[[6月2日|6月{{0}}2日]] 五段(勝数規定) * [[1992年]]{{0}}[[4月1日|4月{{0}}1日]] 六段([[順位戦]]B級2組昇級) * [[1994年]]{{0}}4月{{0}}1日 七段(順位戦B級1組昇級) * [[1995年]]{{0}}4月{{0}}1日 八段(順位戦A級昇級) * [[2002年]]{{0}}[[5月17日]] 九段(名人位獲得) == 主な成績 == === タイトル・永世称号 === 他の棋士との比較は、[[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|タイトル獲得記録]]、[[将棋のタイトル在位者一覧]]を参照 <!-- <span style="background-color: #ffcccc;">色付き</span>は現在在位。--> {| border="1" class="wikitable" style="text-align:center;" |- style="background-color: #ccf;" |'''タイトル''' |獲得年度 |登場 |'''獲得期数''' |連覇 |永世称号(備考) |- |'''[[竜王戦|竜王]]''' |style="text-align:left;"|2003,2013 |<!--登場年度メモ 03,04,09,13,14-->5 |<!--獲得-->'''2期''' |<!--連覇-->1 | |- |'''[[名人戦 (将棋)|名人]]''' |style="text-align:left;"|2002,2004-2007,<br/>2011-2013 |<!--登場年度メモ 96,02-08,11-14-->12 |<!--獲得-->'''8期''' |<!--連覇-->4<br/>(歴代4位) |style="text-align:left;"|[[名人 (将棋)|十八世名人]]資格<br/>襲位は原則引退後 |- |'''[[王位戦 (将棋)|王位]]''' |- |<!--登場年度メモ-->0 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | |- |'''[[王座戦 (将棋)|王座]]''' |- |<!--登場年度メモ 04 -->1 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | |- |'''[[棋王戦 (将棋)|棋王]]''' |style="text-align:left;"|2005 |<!--登場年度メモ 99,05,06-->3 |<!--獲得-->'''1期''' |<!--連覇-->1 | |- |'''[[叡王戦|叡王]]''' |- |<!--登場年度メモ -->0 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | |- |'''[[王将戦|王将]]''' |style="text-align:left;"|2003 |<!--登場年度メモ 03,04 -->2 |<!--獲得-->'''1期''' |<!--連覇-->1 | |- |'''[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]''' |- |<!--登場年度メモ 04,14 -->2 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | |- |colspan="6"|登場回数合計25、獲得合計'''12期'''([[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|歴代8位]])<br/>(番勝負終了前は除く。最新は、2014年度の棋聖戦敗退) |- |} {| |{{将棋タイトル獲得記録}} |} === 一般棋戦優勝 === * [[朝日オープン将棋選手権|全日本プロトーナメント]] 2回 = 1988、2000年度 * [[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]] 3回 = 1996、2001、2014年度 * [[早指し将棋選手権]] 1回 = 1991年度 * [[早指し新鋭戦]] 2回 = 1988-1989年度 * [[JT将棋日本シリーズ|日本シリーズ]] 1回 = 2000年度 * [[新人王戦 (将棋)|新人王戦]] 3回 = 1987、1991、1993年度 * [[オールスター勝ち抜き戦]] 5勝以上 1回 = 6連勝(1990-1991年度) : 優勝合計 13回 ; 非公式戦優勝 * [[銀河戦]](非公式戦時代) 2回 = 1993、1996年度 * [[若駒戦]] 1回 = 1987年度 * [[富士通杯達人戦]] 1回 = 2014年度 : 優勝合計 4回 === 在籍クラス === 竜王戦と順位戦のクラスは、''[[将棋棋士の在籍クラス]]'' を参照。 {{将棋棋士年別在籍クラスA}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1987|JJ=46|j=#|#=昇段前|RR=1|r=6}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1988|JJ=47|j=C2|#=49|RR=2|r=5}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1989|JJ=48|j=C2|#=09|RR=3|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1990|JJ=49|j=C2|#=04|RR=4|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1991|JJ=50|j=C1|#=21|RR=5|r=4}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1992|JJ=51|j=B2|#=20|RR=6|r=4|w=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1993|JJ=52|j=B2|#=03|RR=7|r=3}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1994|JJ=53|j=B1|#=12|RR=8|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1995|JJ=54|j=A|#=09|CJ=1|RR=9|r=2|w=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1996|JJ=55|j=A|#=01|RR=10|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1997|JJ=56|j=A|#=02|RR=11|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1998|JJ=57|j=A|#=03|RR=12|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1999|JJ=58|j=A|#=02|RR=13|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2000|JJ=59|j=A|#=02|RR=14|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2001|JJ=60|j=A|#=04|CJ=1|RR=15|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2002|JJ=61|j=名人|#=|RR=16|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2003|JJ=62|j=A|#=01|CJ=1|RR=17|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2004|JJ=63|j=名人|#=|RR=18|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2005|JJ=64|j=名人|#=|RR=19|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2006|JJ=65|j=名人|#=|RR=20|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2007|JJ=66|j=名人|#=|RR=21|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2008|JJ=67|j=A|#=01|RR=22|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2009|JJ=68|j=A|#=03|RR=23|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2010|JJ=69|j=A|#=03|CJ=1|RR=24|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2011|JJ=70|j=名人|#=|RR=25|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2012|JJ=71|j=名人|#=|RR=26|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2013|JJ=72|j=名人|#=|RR=27|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2014|JJ=73|j=A|#=01|RR=28|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2015|JJ=74|j=A|#=07|RR=29|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2016|JJ=75|j=A |#=06|RR=30|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2017|JJ=76|j=F宣|RR=31|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2018|JJ=77|j=F宣|RR=32|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2019|JJ=78|j=F宣|RR=33|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2020|JJ=79|j=F宣|RR=34|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2021|JJ=80|j=F宣|RR=35|r=2}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2022|JJ=81|j=F宣|RR=36|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2023|JJ=82|j=F宣|RR=37|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラスZ|note=}} === 将棋大賞 === * 第16回(1988年度) 新人賞 * 第19回(1991年度) 勝率第一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・殊勲賞 * 第21回(1993年度) 技能賞 * 第24回(1996年度) 技能賞 * 第29回(2001年度) 敢闘賞 * 第30回(2002年度) 技能賞 * 第31回(2003年度) '''最優秀棋士賞'''・最多勝利賞・最多対局賞 * 第33回(2005年度) 優秀棋士賞 * 第38回(2010年度) 名局賞特別賞(第69期A級順位戦7回戦・対[[藤井猛]]九段戦)<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/03/38_2.html 第38回将棋大賞が決まる!|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref> * 第41回(2013年度) '''最優秀棋士賞''' === その他表彰 === * 2004年 [[将棋栄誉賞]](通算六百勝達成) * 2007年 第56回[[横浜文化賞]]<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2007/09/post_125.html 森内俊之名人が「横浜文化賞」を受賞|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref> * 2007年 第56回神奈川文化賞<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2007/10/post_121.html 森内俊之名人が「神奈川文化賞」を受賞|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref> * 2011年[[将棋栄誉敢闘賞]](通算八百勝達成) * 2013年 第15回神奈川イメージアップ大賞<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2013/01/post_684.html 森内名人、「神奈川イメージアップ大賞」受賞|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref> * 2017年 [[紫綬褒章]]<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=森内俊之九段に紫綬褒章|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2017/11/post_1609.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2021-01-07|language=ja}}</ref> === 記録(歴代1位のもの) === * A級[[順位戦]]9戦全勝(2003年度) = 1971年度の[[中原誠]](8戦全勝)以来 * 順位戦26連勝(1990年 - 1993年) == 作品 == === 単著 === * 『森内俊之の戦いの絶対感覚』([[河出書房新社]]<最強将棋塾>、2000年2月、ISBN 4-309-72185-0) * 『矢倉3七銀分析〈上〉』([[毎日コミュニケーションズ]]、1999年4月、ISBN 4-8399-0077-9) * 『実戦の詰将棋-初段120題 実力判定初段のカベを破る最強の寄せ』(成美堂出版、2001年1月、ISBN 4-415-01583-2) * 『初段の〈実戦〉詰将棋150題 強くなる!』(成美堂出版、2005年11月、ISBN 4-415-03089-0) * 『矢倉の急所-4六銀・3七桂型』([[浅川書房]]<最強将棋21>、2008年12月、ISBN 4-86137-022-1) * 『矢倉の急所 2』([[浅川書房]]<最強将棋21>、2009年6月、ISBN 4-86137-024-8) * 『覆す力』 ([[小学館新書]] 、2014年2月、ISBN 4098251957) === 編著・監修など === * 森内俊之監修 [[小田切秀人]]ほか著 「森内優駿流棋本ブックスシリーズ」全10巻([[主婦と生活社]]、1997年4月ほか、ISBN 4-391-12066-6 ほか) * 島朗編著 佐藤康光・羽生善治・森内俊之講師『読みの技法』([[河出書房新社]]<最強将棋塾>、1999年3月、ISBN 4-309-72181-8) * 原田泰夫監修 森内俊之ほか編 『日本将棋用語事典』([[東京堂出版]]、2004年12月、ISBN 4-490-10660-2) === 漫画監修 === * マサルの一手!(2006年、作画:村川和宏、小学館『小学五年生』連載) * [[風の棋士ショウ]]([[2008年]]‐[[2009年]]、作画:武村勇治、小学館『コロコロコミック』連載) * [[うちゅうの王]](2016年、作画:佐々木健、小学館『コロコロコミック』連載) === 関連書 === * 毎日新聞社編著 『第54期将棋名人戦』(毎日新聞社、1996年7月、ISBN 4-620-50474-2) * 毎日新聞社編著 『第60期将棋名人戦-名人丸山忠久・挑戦者森内俊之』(毎日新聞社、2002年7月、ISBN 4-620-50480-7) * 毎日新聞社編著 『第61期将棋名人戦』(毎日新聞社、2003年7月、ISBN 4-620-50481-5) * 読売新聞社編著 『竜王決定七番勝負 激闘譜 第16期』(読売新聞社、2004年2月、ISBN 4-643-04003-3) * 毎日新聞社編著 『第62期将棋名人戦』(毎日新聞社、2004年8月、ISBN 4-620-50482-3) * 読売新聞社編著 『第十七期竜王決定七番勝負 激闘譜-森内俊之vs.渡辺明』(読売新聞社、2005年2月、ISBN 4-643-05008-X) * 毎日新聞社編著 『第63期将棋名人戦』(毎日新聞社、2005年8月、ISBN 4620504831) * 毎日新聞社編著 『第64期将棋名人戦七番勝負-名人森内俊之・挑戦者谷川浩司』(毎日新聞社、2006年8月、ISBN 4-620-50484-X) * 毎日新聞社編著 『第65期将棋名人戦七番勝負-森内俊之VS.郷田真隆』(毎日新聞社、2007年8月、ISBN 4-620-50485-8) * 毎日新聞社編著 『愛蔵版 第66期 将棋名人戦 七番勝負』(毎日新聞社、2008年9月、ISBN 4-620-50486-6) * 椎名龍一 『名人を夢みて-森内俊之小伝』(日本放送出版協会、 2008年10月、ISBN 4-14-081306-7)(自戦記部分を担当) * 森内俊之・羽生善治 共著 『羽生VS森内 百番指し』(日本将棋連盟、2011年1月、ISBN 978-4-8399-3761-4) === ゲームソフト === * 激指デラックス 名人戦道場(2013年07月19日、[[マイナビ]]、パソコン用ソフト)出演、監修 == 出演 == === テレビ番組 === * NHK『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』 ライバルスペシャル [https://www.nhk.or.jp/professional/2008/0715/index.html 「最強の二人、宿命の対決 名人戦 森内俊之 VS 羽生善治」](2008年7月15日放送) * BSフジ『その男、名人につき』(2014年8月31日放送)<ref>[https://web.archive.org/web/20140903062458/http://www.bsfuji.tv/top/pub/syougimeijinsen.html 番組情報『その男、名人につき 2014年 森内俊之の名人戦全記録』]</ref> * [[NHK BS1|NHKBS1]]『[[奇跡のレッスン]]「将棋 森内俊之 “負け”を糧に逆転の一手を!」』(2021年2月16日放送)<ref>{{Cite web|和書|title=2/15「奇跡のレッスン」に森内俊之九段が出演します|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/02/215.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2021-02-15|language=ja}}</ref> ほか多数 === その他媒体 === [[QuizKnock]]の動画{{Efn|動画投稿サイト「[[YouTube]]」に投稿された}}『【東大VS天才棋士】東大生4人vs天才棋士・森内九段!どちらが勝つ!?【検証】』(2019年9月27日公開<ref>{{Citation|title=【東大VS天才棋士】東大生4人vs天才棋士・森内九段!どっちが勝つ!?【検証】|url=https://www.youtube.com/watch?v=GStg7wCr0xQ|accessdate=2020-03-06|language=ja-JP}}</ref>) など {{:森内俊之の戦績}} == 肩書き == 昇段およびタイトルの獲得、失冠による肩書きの遍歴を記す。({{bgcolor|#FCC|色付き}}は継続中の記録) {| class="wikitable" |- !日付!!肩書き!!保持タイトル!!日数!!備考 |- |1987年{{0}}5月13日||四段|| ||1116日||プロ入り |- |1990年{{0}}6月{{0}}2日||五段|| ||{{0}}669日||勝数規定 |- |1992年{{0}}4月{{0}}1日||六段|| ||{{0}}730日||[[第50期順位戦]]B級2組昇級による昇段 |- |1994年{{0}}4月{{0}}1日||七段|| ||{{0}}365日||[[第52期順位戦]]B級1組昇級による昇段 |- |1995年{{0}}4月{{0}}1日||八段|| ||2603日|| [[第53期順位戦]]A級昇級による昇段 |- |2002年{{0}}5月17日||名人||名人||{{0}}368日||名人獲得 [[第60期順位戦|第60期名人戦]] |- |2003年{{0}}5月20日||九段|| ||{{0}}191日||名人失冠 [[第61期順位戦|第61期名人戦]] |- |2003年11月27日||rowspan="2"|竜王||竜王||rowspan="2"|{{0}}197日||竜王獲得 [[第16期竜王戦]] |- |2004年{{0}}3月16日||竜王・王将||王将獲得 [[第53期王将戦]] |- |2004年{{0}}6月11日||竜王・名人||竜王・名人・王将||{{0}}200日||名人獲得 [[第62期順位戦|第62期名人戦]] |- |2004年12月28日||rowspan="4"|名人||名人・王将||rowspan="4"|1268日||竜王失冠 [[第17期竜王戦]] |- |2005年{{0}}2月10日||名人||王将失冠 [[第54期王将戦]] |- |2006年{{0}}3月11日||名人・棋王||棋王獲得 [[第31期棋王戦]] |- |2007年{{0}}3月28日||名人||棋王失冠 [[第32期棋王戦]] |- |2008年{{0}}6月17日||九段|| ||1100日||名人失冠 [[第66期順位戦|第66期名人戦]] |- |2011年{{0}}6月22日||名人||名人||{{0}}891日||名人獲得 [[第69期順位戦|第69期名人戦]] |- |2013年11月29日||竜王・名人||竜王・名人||{{0}}173日||竜王獲得 [[第26期竜王戦]] |- |2014年{{0}}5月21日||竜王||竜王||{{0}}197日||名人失冠 [[第72期順位戦|第72期名人戦]] |- |2014年12月{{0}}4日||九段|| ||{{align|right|{{bgcolor|#FCC|<!--翌日起算(初日不算入の原則)-->{{age in days|2014|12|4}}日}}}}||竜王失冠 [[第27期竜王戦]] |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[羽生世代]] * [[名人 (将棋)]] * [[将棋棋士一覧]] * [[棋戦 (将棋)]] * [[将棋のタイトル在位者一覧]] * [[棋風]] == 外部リンク == * [https://www.shogi.or.jp/player/pro/183.html 森内俊之|棋士データベース|日本将棋連盟] * {{FIDE|7000405}} * [http://www.moriuchitoshiyuki.net/ 森内俊之応援ページ] * [http://www.aobashogiclub.net/ 青葉将棋クラブ] * {{YouTube|channel = UCAwDrM75UAddwluabae4A6g|森内俊之の森内チャンネル}} * {{Twitter|moriuchi_ch|森内俊之の森内チャンネル}} * {{Twitter|abT_yasumitsu|チーム康光}} * {{Twitter|jabT_yamane_k|チーム山根(監督)}} {{日本将棋連盟所属棋士}} {{将棋竜王戦}} {{将棋順位戦}} {{将棋永世名人|十八世}} {{Navboxes |title=タイトル(4冠)12期 |titlestyle=background-color:#FCF16E |list1= {{名人戦 (将棋)|8期(永世資格)}} {{竜王戦|2期}} {{王将戦|1期}} {{棋王戦|1期}} }} {{Navboxes |title=一般棋戦優勝 13回 |titlestyle=background-color:#88CCEE |list1= {{NHK杯テレビ将棋トーナメント|優勝 3回}} {{将棋日本シリーズ|優勝 1回}} {{朝日オープン将棋選手権|1|優勝 2回}} {{オールスター勝ち抜き戦|5連勝以上 1回}} {{早指し将棋選手権|優勝 1回/[[早指し将棋選手権|早指し新鋭戦]] 優勝 2回}} {{新人王戦|優勝 3回}} }} {{Navboxes |title=将棋大賞 |list1= {{将棋大賞最優秀棋士賞|2回}} {{将棋大賞新人賞|1回}} {{将棋大賞殊勲賞|1回}} {{将棋大賞技能賞|3回}} {{将棋大賞旧敢闘賞|1回}} {{将棋大賞最多対局賞|2回}} {{将棋大賞最多勝利賞|2回}} {{将棋大賞勝率一位賞|1回}} {{将棋大賞名局賞特別賞|1回}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もりうち としゆき}} [[Category:名人 (将棋)|永018]] [[Category:クイズ解答者]] [[Category:将棋棋士]] [[Category:1970年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:横浜市出身の人物]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:日本のチェス選手]] [[Category:竜王]] [[Category:日本の男性YouTuber]] [[Category:将棋のYouTuber]] [[Category:バックギャモン]]
2003-07-22T04:46:41Z
2023-11-25T18:03:56Z
false
false
false
[ "Template:0", "Template:将棋棋士年別在籍クラスZ", "Template:Efn", "Template:Align", "Template:Citation", "Template:YouTube", "Template:Infobox YouTube personality", "Template:Cite book ja-jp", "Template:Normdaten", "Template:Notelist", "Template:Cite news", "Template:日本将棋連盟所属棋士", "Template:将棋永世名人", "Template:Shogi diagram", "Template:将棋タイトル獲得記録", "Template:Bgcolor", "Template:Reflist", "Template:Infobox 将棋棋士", "Template:将棋棋士年別在籍クラスA", "Template:将棋竜王戦", "Template:Cite web", "Template:FIDE", "Template:将棋順位戦", "Template:Navboxes", "Template:将棋棋士年別在籍クラス", "森内俊之の戦績", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Twitter" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%86%85%E4%BF%8A%E4%B9%8B
12,048
ショムニ
『ショムニ』は、安田弘之による漫画、およびそれを原作としたテレビドラマ、映画。 『モーニング』(講談社)において公募最優秀作として読みきり掲載された後、長期連載された。単行本全7巻、文庫本全3巻。 とある大手の商事会社にある、落ちこぼれ社員が集められた庶務二課(略称ショムニ)に勤めるOLたちの人間模様を描いたコメディ。 2013年現在、版権は講談社からメディアファクトリーに移っている。 モーニングKC 1998年より江角マキコ主演でフジテレビにてドラマ化された。ドラマ版はストーリー展開や登場人物の役名・キャラクター設定などに大幅な変更が加えられている。また、一話完結形式である。 劇場映画版は1998年11月28日に全国松竹系で公開。テレビドラマ版と関連のない映画オリジナル版であり、内容はむしろ漫画に近く、劇中での時間経過は2日間である。松竹の単独製作であり、テレビドラマ版を制作したフジテレビは関与していない。 主役の坪井千夏役は、当初はテレビドラマ版と同様に江角マキコを予定していたが、映画版の製作決定自体が急だったためスケジュール上の折い合いがつかず、高島礼子が主演となった。 内容は原作に忠実だったものの、ヒットしたテレビドラマ版の要素が無かったため、一般には受けが悪く、この年公開された日本映画の人気投票では、下から数えた方が早い程の低人気で終わり、映画雑誌『キネマ旬報』の1999年1月上旬号では同じフジテレビのドラマの映画化でありながら、大ヒットした東宝系の『踊る大捜査線 THE MOVIE』に対して、なぜ本作がヒットしなかったかを比較する記事が掲載されたほどであった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ショムニ』は、安田弘之による漫画、およびそれを原作としたテレビドラマ、映画。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『モーニング』(講談社)において公募最優秀作として読みきり掲載された後、長期連載された。単行本全7巻、文庫本全3巻。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "とある大手の商事会社にある、落ちこぼれ社員が集められた庶務二課(略称ショムニ)に勤めるOLたちの人間模様を描いたコメディ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2013年現在、版権は講談社からメディアファクトリーに移っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "モーニングKC", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1998年より江角マキコ主演でフジテレビにてドラマ化された。ドラマ版はストーリー展開や登場人物の役名・キャラクター設定などに大幅な変更が加えられている。また、一話完結形式である。", "title": "テレビドラマ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "劇場映画版は1998年11月28日に全国松竹系で公開。テレビドラマ版と関連のない映画オリジナル版であり、内容はむしろ漫画に近く、劇中での時間経過は2日間である。松竹の単独製作であり、テレビドラマ版を制作したフジテレビは関与していない。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "主役の坪井千夏役は、当初はテレビドラマ版と同様に江角マキコを予定していたが、映画版の製作決定自体が急だったためスケジュール上の折い合いがつかず、高島礼子が主演となった。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "内容は原作に忠実だったものの、ヒットしたテレビドラマ版の要素が無かったため、一般には受けが悪く、この年公開された日本映画の人気投票では、下から数えた方が早い程の低人気で終わり、映画雑誌『キネマ旬報』の1999年1月上旬号では同じフジテレビのドラマの映画化でありながら、大ヒットした東宝系の『踊る大捜査線 THE MOVIE』に対して、なぜ本作がヒットしなかったかを比較する記事が掲載されたほどであった。", "title": "映画" } ]
『ショムニ』は、安田弘之による漫画、およびそれを原作としたテレビドラマ、映画。 『モーニング』(講談社)において公募最優秀作として読みきり掲載された後、長期連載された。単行本全7巻、文庫本全3巻。
{{出典の明記|date=2018年4月}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = ショムニ | 画像 = | サイズ = | 説明 = | ジャンル = [[コメディ]] }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = | 作者 = [[安田弘之]] | 出版社 = [[講談社]] | 他出版社 = | 掲載誌 = [[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]] | レーベル = | 発行日 = | 発売日 = | 開始号 = [[1995年]]25号 | 終了号 = [[1997年]]26号 | 開始日 = | 終了日 = | 発表期間 = | 巻数 = 全7巻 | 話数 = | その他 = }} {{Infobox animanga/Movie | タイトル = | 原作 = 安田弘之 | 総監督 = | 監督 = [[渡邊孝好]] | 脚本 = [[一色伸幸]] | 音楽 = [[ファンキー末吉]] | 制作 = | 製作 = [[松竹]] | 配給 = 松竹 | 封切日 = [[1998年]][[11月28日]] | 上映時間 = 93分 | その他 = }} {{Infobox animanga/Other | タイトル = その他派生作品 | コンテンツ = * [[ショムニ (テレビドラマ)|テレビドラマ]] }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:映画|映画]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:映画|映画]] }} 『'''ショムニ'''』は、[[安田弘之]]による[[漫画]]、およびそれを原作とした[[テレビドラマ]]、[[映画]]。 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』([[講談社]])において公募最優秀作として読みきり掲載された後、長期連載された。単行本全7巻、文庫本全3巻。 == 概要 == とある大手の[[商社|商事会社]]にある、落ちこぼれ社員が集められた'''[[庶務]]二課'''(略称'''ショムニ''')に勤める[[OL]]たちの人間模様を描いたコメディ。 [[2013年]]現在、版権は講談社から[[メディアファクトリー]]に移っている<ref>テレビドラマ『ショムニ2013』公式サイトより。</ref>。 ==登場人物== ;塚原佐和子(つかはら さわこ) :本来の主役。温和だが地味で人付き合いができないという事で(ドラマ版では上司との不倫問題で)ショムニへ左遷され、坪井千夏に鍛えられる。踊りの才能があるらしい。 :ドラマ版と映画版では主人公から脇役に変更され、その代わりにショムニのボスである坪井千夏が主人公に変更されている。 ;坪井千夏(つぼい ちなつ) :ショムニのボス。口が悪くて女王気質で色々な男友達(下僕)がいる。両親からは勘当されている。昔は今からは想像出来ない位の大人しい少女だった。ドラマ版と映画版では自身が主人公に変更されている。 ;日向知世(ひむかい ちよ) :ショムニのメンバー。フルネームを一発で読める人は少ない。仕事は出来るが一言多い性格で、上司との衝突でショムニに廻された。人事部の陰謀でショムニを出る。ドラマ版では名前が日向リエに変更されており、占い師の副業を持っているという設定が追加される。それに一言多いキャラから無口で無表情なキャラに変更されている。 ;宮下佳奈(みやした かな) :ショムニのメンバー。愛称は「カナさん」(年上の坪井千夏ですらそう呼んでいる)。1年で2回離婚している魔性の女。美人なので人気があり、会社の上司とも付き合っている。血を見ると逆上する。占いや宝石鑑定もできる。 ;徳永佳代子(とくなが かよこ) :ショムニのメンバー。関西弁でおしゃべりでウソつき。彼氏持ち。ドラマ版では名前が徳永あずさに変更され、ショムニの最年長であって誰が何をするか決める役を毎回務めており、それにおしゃべりではあるが言葉も関西弁ではなくなっている。 ;丸橋由美子(まるはし ゆみこ) :人事部の陰謀で日向知世の代わりにショムニにやってくる。メルヘングッズで机の周りをコーディネートしている(日々変化させている)。後に特務課の穴熊と付き合うことになる。ドラマ版では名前が丸橋梅に変更され、頭脳明晰なOLで、坪井千夏と幼なじみという設定になっている。 ;井上洸二(いのうえ こうじ) :ショムニの課長ではあるが、気が弱くて仕事が出来ないため部下であるはずの坪井千夏らにいつもいじめられている。映画版では名前が井上洸一に変更されている。ドラマ版では千夏らにいじめられていると言う描写は一切無いが、気が弱くて仕事が出来ないのは同じであり、ショムニの自分のデスクの上で猫を飼っている描写が追加され、さらには何の意味も無しに毎日朝8時に出勤しては夜8時に退勤すると言う描写も追加されている。 ;右京友弘(うきょう ともひろ) :[[東京大学]]卒の若手エリート。塚原がひそかに思いを寄せる。それなりに仕事が出来る様だが、自意識はそれ以上に過剰で、そのプライドが傷付くのを恐れるため、失敗を避けようとする。資産家の母親や満帆商事社長、それに千夏まで、彼のそうした性格を直そうとする。 == 書誌情報 == モーニングKC # - [[1996年]][[8月1日]]発売 # - 1996年[[11月1日]]発売 # - 1997年[[2月1日]]発売 # - 1997年[[5月1日]]発売 # - 1997年[[6月1日]]発売 # - 1997年[[7月1日]]発売 # - 1997年[[9月1日]]発売 == テレビドラマ == {{Main|ショムニ (テレビドラマ)}} [[1998年]]より[[江角マキコ]]主演で[[フジテレビジョン|フジテレビ]]にてドラマ化された。ドラマ版はストーリー展開や登場人物の役名・キャラクター設定などに大幅な変更が加えられている。また、一話完結形式である。 == 映画 == 劇場映画版は[[1998年]][[11月28日]]に全国[[松竹]]系で公開。テレビドラマ版と関連のない映画オリジナル版であり、内容はむしろ漫画に近く、劇中での時間経過は2日間である。松竹の単独製作であり、テレビドラマ版を制作した[[フジテレビジョン|フジテレビ]]は関与していない。 主役の坪井千夏役は、当初はテレビドラマ版と同様に[[江角マキコ]]を予定していたが、映画版の製作決定自体が急だったためスケジュール上の折い合いがつかず、[[高島礼子]]が主演となった。 内容は原作に忠実だったものの、ヒットしたテレビドラマ版の要素が無かったため、一般には受けが悪く、この年公開された日本映画の人気投票では、下から数えた方が早い程の低人気で終わり、映画雑誌『[[キネマ旬報]]』の[[1999年]]1月上旬号では同じフジテレビのドラマの映画化でありながら、大ヒットした[[東宝]]系の『[[踊る大捜査線 THE MOVIE]]』に対して、なぜ本作がヒットしなかったかを比較する記事が掲載されたほどであった。 === キャスト === * 坪井千夏 - [[高島礼子]] * 塚原佐和子 - [[遠藤久美子]] * 宮下カナ - [[河合美智子]] * 丸橋由美子 - [[小林麻子]] * 徳永佳代子 - [[濱田マリ]] * 井上洸一庶務二課長 - [[小松政夫]] * 津田勝一社長 - [[佐藤允]] * 右京友弘 - [[袴田吉彦]] * アカペラ・グループ - [[ザ・キングトーンズ]] * 総務部長 - [[上田耕一]] * 経理課長 - [[渡辺いっけい]] * カッチャン - [[マイケル富岡]] * 政夫さん - [[阿部サダヲ]] * 都電の運転士 - [[田窪一世]] * オカちゃん - [[黒沼弘己]] * ナカちゃん - [[木下ほうか]] * ゆみこ - [[菅野美寿紀]] * ホテルのマネージャー - [[桜金造]] * 徘徊人 - [[日野陽仁]] * TAFの作業員 - [[徳井優]] * リンダ - [[矢木沢まり]] * ツバキちゃん - [[鈴木一功]] * レポーター - [[吉満涼太]] * AV監督 - [[小須田康人]] * AVのおかまのメイク - [[田中要次]] * AV音声 - [[山中聡]] * 穴崎始 - [[松重豊]] * [[蒲生純一]]、[[小柳友貴美]]、[[橘雪子]] ほか === スタッフ === * 監督 - [[渡邊孝好]] * 脚本 - [[一色伸幸]] * 音楽 - [[ファンキー末吉]] * EDテーマ - 夜総会BAND「TENJIKUへ行こう〜Trust yourself〜」 * 撮影 - [[渡部眞]] * 編集 - [[冨田功]] * 助監督 - 原正弘、[[武正晴]]、[[谷口正晃]]、橋本光二郎 * オープニングタイトル - イクイティエンタテインメント、西村了 * 合成 - [[マリンポスト]]([[大屋哲男]]、田中貴志) * カースタント - アクティブ21(海藤幸広、橋本充吾) * プロデューサー - 深澤宏、榎望、椿宜和、渡井敏久 * 製作者 - 野村芳樹 * 製作協力 - [[松竹大船撮影所|株式会社大船撮影所]] == 関連商品 == * ビデオ・DVD「ショムニ」([[1999年]]){{要説明|date=2018年4月}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Allcinema title|153738|ショムニ}} * {{Kinejun title|31178|ショムニ}} * [https://web.archive.org/web/19991002200033/http://www.asahi-net.or.jp/~bf2c-ocai/ 絶対服従ショムニ帝国] {{ショムニ}} {{江角マキコ}} {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:しよむに}} [[Category:ショムニ|*]] [[Category:漫画作品 し|よむに]] [[Category:モーニングの漫画作品]] [[Category:企業を舞台とした漫画作品]] [[Category:1998年の映画]] [[Category:日本のコメディ映画]] [[Category:松竹製作の映画作品]] [[Category:渡邊孝好の監督映画]] [[Category:一色伸幸]] [[Category:漫画を原作とする映画作品]] [[Category:企業を舞台とした映画作品]] [[Category:OLを題材とした作品]]
null
2023-05-13T13:00:55Z
false
false
false
[ "Template:Infobox animanga/Movie", "Template:要説明", "Template:ショムニ", "Template:Kinejun title", "Template:出典の明記", "Template:Infobox animanga/Header", "Template:Infobox animanga/Other", "Template:Main", "Template:Allcinema title", "Template:Infobox animanga/Manga", "Template:脚注ヘルプ", "Template:江角マキコ", "Template:Manga-stub", "Template:Infobox animanga/Footer", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%A0%E3%83%8B
12,050
第四次中東戦争
第四次中東戦争(だいよじちゅうとうせんそう)は、1973年10月にイスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国(以下、アラブ諸国を総称する際に「アラブ」という名称を用いる)との間で勃発した戦争である。中東戦争の一つに数えられ、ヨム・キプール戦争、十月戦争などとも呼ばれる(後述)。 1973年10月6日、イスラエルにおけるユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」(贖罪の日、ヘブライ語: יום כיפור、英語: Yom Kippur)に当たったこの日、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河、ゴラン高原正面に展開するイスラエル国防軍(以下イスラエル軍)に対して攻撃を開始した。 「ヨム・キプール」の日に攻撃を受けた上、第三次中東戦争以来アラブ側の戦争能力を軽視していたイスラエルはアラブ側から奇襲を受け、かなりの苦戦を強いられたが、(イスラエル軍の主力である)予備役部隊が展開を完了すると、アメリカの支援等もあって戦局は次第にイスラエル優位に傾いていき、10月24日、国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵入していた。 純軍事的にみればイスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが、戦争初期にとはいえ第一次、第二次、第三次中東戦争でイスラエルに対し負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実は「イスラエル不敗の神話」(イスラエルはアラブ側に対して決して負けない)を崩壊させ、逆にイスラエルに対して対等な立場に着くことができたエジプトは1979年、エジプト・イスラエル平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された(同年ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合を宣言した)。 この戦争は、冷戦期における地域紛争の中でも新しい兵器が大規模投入され、特にミサイル兵器(9M14「マリュートカ」(AT-3「サガー」)対戦車ミサイル、双方が史上初めて対艦ミサイルを使用したラタキア沖海戦など)はめざましく、第三世代主力戦車の開発など各国の兵器開発に少なからぬ影響を与えた。 また、戦争中行われたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の親イスラエル国に対する石油禁輸措置とそれに伴う石油輸出国機構(OPEC)の石油価格引き上げは第1次オイルショック(第1次石油危機)を引き起こし、日本をはじめとする諸外国に多大な経済混乱をもたらした。 「ヨム・キプール」の日に戦争が勃発したことに由来。 ヘブライ語: "מלחמת יום הכיפורים"(ミルヘメット・ヨム・ハ=キプリム)または"מלחמת יום כיפור"(ミルヘメット・ヨム・キプール) 英語: "Yom Kippur War"(ヨム・キプール・ウォー) 10月に戦争が勃発したことに由来。 アラビア語: "حرب أكتوبر"(ハルブ・オクトーバル)または"حرب تشرين"(ハルブ・ティシュリーン) 英語: "October War"(オクトーバー・ウォー) 単に「ラマダン戦争」とも。イスラム暦の断食月(ラマダーン)10日に戦争が勃発したことに由来。 アラビア語: "حرب العاشر من رمضان"(ハルブ・アーシル・ミン・ラマダーン) 英語: "Tenth of Ramadan War"(テンス・オブ・ラマダン・ウォー) 単に「1973年の戦争」という表記も見られる。 英語: "1973 Arab-Israeli Conflict"(ナインティーセヴンティースリー・アラブ・イスラエリ・コンフリクト) 「第4次中東戦争」という表記も存在。「消耗戦争」を「第四次中東戦争」とし、本戦争を「第五次中東戦争」とする文献もある。 日本語: だいよじ(よんじ)ちゅうとうせんそう、だいごじちゅうとうせんそう 以下、戦争名はすべて「第四次中東戦争」で統一する。 1967年6月5日、イスラエル空軍はエジプト、ヨルダン、シリア、イラクの各空軍基地を攻撃、第三次中東戦争が勃発した。以前からチラン海峡の封鎖や部隊の展開により、「イスラエルの破壊」を声高に唱えていたアラブ側(エジプト・ヨルダン、シリアなど)にとってこの「先の先」を狙ったイスラエル軍の攻撃はまさに「奇襲」であり、開戦一日でアラブ側の航空戦力は壊滅、続く地上戦でもイスラエル軍の前にアラブ軍は敗走を重ね、イスラエルは6日間でエジプトからガザ地区とシナイ半島全域を、ヨルダンからヨルダン川西岸を、そしてシリアからゴラン高原を奪取して戦争は終結した。エジプトはスエズ運河閉鎖により年間2億ドルの通関料収入を喪失し、ヨルダンは人口の45パーセントと東エルサレムの観光収入を失った。イスラエルはこれら地域を占領したことで、エジプト正面では200km以上の縦深を得ることができ、イスラエル領内にエジプト軍の砲爆撃が及ぶ恐れがほぼなくなった。 一方で、イスラエル国内では第三次中東戦争の結果を受け、アラブ諸国との和平交渉がすぐにでも始まるような期待感が広がり、終結後の1967年6月19日、イスラエルのレヴィ・エシュコル内閣は講和と非武装化を条件に、シナイ半島(シャルム・エル・シェイクを除く)とゴラン高原の占領地返還を全員一致で閣議決定し、ヨルダン川西岸地区についてはヨルダンのフセイン国王と交渉に入る動きがあった。しかし、誇り高きアラブの名誉を傷つけられたアラブ諸国はイスラエルとの和平交渉を受け入れることは到底できず、エジプトとシリアは戦争終結後ほどなくしてソビエト連邦の援助の下、軍の再建に着手したほか、8月29日から9月1日にスーダンのハルツームで開催されたアラブ首脳会議において、「イスラエルと交渉せず」、「イスラエルと講和せず」、「イスラエルを承認せず」のいわゆる「3つのノー」を決議した。 11月22日に開催された国際連合安全保障理事会においては、イスラエル軍の占領地からの撤退や中東諸国すべての主権を認めることなどを求めた安保理決議242を全会一致で可決したが、アラブ側はイスラエルが占領地から撤退しても戦争前の状態に戻るだけで第三次中東戦争敗北の事実は消えず、得られるものが何もないため決議の履行は困難だった。また、第三次中東戦争以降イスラエル軍とアラブ軍の戦力差はイスラエル優位で隔絶しており、アラブ側にとってこれまでの中東戦争で見られたように「イスラエルの破壊」を狙って全面戦争を仕掛けるよりも、限定的なものではあるとはいえ、領土奪還と同時にイスラエル軍に打撃を与えることで「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、アラブ優位の状態でイスラエルを交渉のテーブルにつかせる方が現実的であった。 エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領は、イスラエルと第三次中東戦争の停戦を結んだ翌6月9日、敗北の責任を取り辞任の演説を行い、後任にザカリア・ムヒエディン(英語版)副大統領を指名した。しかし、エジプト唯一の政党であるアラブ社会主義連合(英語版)が扇動した退任反対の大規模デモを受け、ナーセルは辞任を撤回し、6月11日にはアブドルハキーム・アーメル国防相のほか、陸海空軍司令官と多数の上級将校を敗北の責任から追放した。 アラブ諸国の敗北は、援助国であるソビエト連邦にも衝撃を与え、1967年6月21日にニコライ・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長がマトヴェイ・ザハロフ元帥を帯同してカイロを訪問、エジプト軍再建の協議を行った。同年7月末にはソビエト連邦から軍用機110機、戦車200~250輌等の兵器がエジプトに到着し、10月になると軍用機数が第三次中東戦争前の水準に回復し、戦車も700輌まで増強された。エジプトはソビエト連邦に大量の軍事顧問団の派遣も求め、数千人規模の軍事顧問団がエジプト入りし、エジプト軍の再編成と訓練にあたった。なお、ソビエト連邦は これらの対価として、アレクサンドリアやポートサイドなど港湾4箇所、カイロ西空軍基地など飛行場7箇所の使用権を得た。 1967年10月21日、北アフリカ北東沿岸において哨戒中のイスラエル海軍所属駆逐艦エイラートがエジプト海軍のオーサ型ミサイル艇からの対艦ミサイル攻撃で撃沈された(エイラート事件)。 この事件は単に史上初めて対艦ミサイルが使用された攻撃 であったのみならず、第三次中東戦争以降下がり気味であったアラブ側の士気高揚に役立った。エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル(以下ナセル)大統領は、小規模で効果的な攻撃を仕掛けることでアラブ側の士気を高め、逆にイスラエルに「戦争でも平和でもない」状態を強制することでイスラエルの疲弊と士気低下を狙ったのである。そして69年3月、ナセルは「消耗戦争」を称してイスラエルへの攻撃を本格化させ、スエズ運河では砲撃戦が行われた。これに対しイスラエルはエジプト本土への空爆、小部隊の襲撃をもって徹底的に応戦した。消耗戦争は断続的に約1年間続いたが、1970年8月6日、アメリカの仲介によって停戦した。 また同年9月28日、ヨルダン内戦(後述)の仲介工作を行った直後にナセルが急死し、ナセルの後継者には1952年のエジプト革命時にナセルの同志でもあったアンワル・アッ=サーダート(以下サダト)副大統領が昇任することになった。だが、当時知名度がナセルより遥かに低かったサダトは世間から「つなぎ」の大統領だとみなされていた。 シリア方面では、1969年2月28日の政変でハーフィズ・アル=アサド国防相が実権を握ったあと、1970年11月のクーデターで全権を握った。これに前後してアサドは当時ヨルダン政府とパレスチナ解放機構(以下PLO)との間で戦闘が行われていた(ヨルダン内戦)ヨルダンに介入し、陸軍をヨルダンに侵入させ、PLO支援を図った。このままではヨルダンとシリアの戦争に発展してしまうことは明らかであった。そこで、アメリカは空母部隊を地中海のイスラエル沖に派遣し、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。イスラエルは地上部隊をゴラン高原に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。当初はこのヨルダンの混乱に乗じてイスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが、その計画は見送られた。 結局、ナセルがヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOは受け入れを表明したレバノンへ本部を移転させることとなり、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した。 エジプト大統領に就任したサダトはナセルの外交路線を転換、親ソ連から親米路線を目指し、アメリカの仲介によってイスラエルとの交渉を進めようとしたが、当時のアメリカ国務長官ヘンリー・キッシンジャーの言葉を借りれば「勝者の分け前を要求してはならない」 すなわちアラブ側が「負けっぱなし」のままでは交渉仲介に乗り出すことはできない、というのがアメリカの対応であった。このためサダトは領土奪還だけではなく、親米路線転換のきっかけとしても対イスラエル戦争を位置づけるようになった。1972年に入るとエジプトの戦争計画の具体化が進められ、イスラエルに「弱いアラブ軍」や「ソ連との不和」 をイメージさせる情報を流す裏で、軍の改革や兵士の能力向上、ソ連からの供与兵器(AT-3対戦車ミサイルやSA-6自走対空ミサイルなど)を有効活用した戦術の研究が進められた。同様に、シリア軍も地上部隊や対空戦力の増強を進めた。 1973年夏には、来たるべき対イスラエル戦争の作戦名が「バドル作戦」(アラビア語: عملية بدر;Operation Badr) と定められ、開戦日にイスラエルの安息日かつ「一切の労働」 が禁じられる、ユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」に当たり、その他の理由からも最適な1973年10月6日が選定された。 エジプトはシリアと連携して作戦計画の作成を活発化させ、同時に石油輸出国機構(OPEC)やアラブ石油輸出国機構(OAPEC)への戦争協力を要請した。 イスラエルは諜報機関であるイスラエル参謀本部諜報局(以下アマン)やイスラエル諜報特務庁(以下モサド)を通してアラブ側の戦争準備の動きをほぼ完全に捕捉していたが、第三次中東戦争での圧倒的勝利によってイスラエルには、(アラブ側の工作の結果もあって)「アラブ側の戦争能力を非常に低く見積もる」風潮があったため、ほとんど注意を払うことがなかった。 ここにアマンの局長エリ・ゼイラ少将が作成した当時のイスラエルの状況認識を表した「コンセプト」(The Concept)という理論がある。 すなわち、 1975年より前にアラブ側が戦争準備を行ったとしても、それらは全て「本格的な戦争準備ではなく」、もし仮にアラブ側が戦争を行おうとも、「諜報機関が開戦48時間前にその情報をキャッチして動員が可能で、開戦2日目には反撃して第三次中東戦争以上の圧倒的勝利を収められる」とされた。その他にも第三次中東戦争の経験から、「遮蔽物のほとんどないシナイ半島の砂漠では対戦車砲や歩兵を戦車に見つからないよう隠すことは非常に困難であり、イスラエル軍戦車部隊は歩兵・砲兵の随伴がなくとも単独で突破戦力としての任務を遂行できる」(いわゆる「オールタンク・ドクトリン」)や、「地上部隊が少兵力でも、イスラエル空軍が『空飛ぶ砲兵』として地上軍を常時援護できる」といった理論が語られた。 しかし、前述のようにアラブ側は「弱いアラブ軍」を演出する裏で軍の改革を推し進め、そのようなイスラエル軍の戦術への対処も行っていたのである。 1971年からアラブ側はイスラエルへの挑発を強め、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにイスラエルは年1回のペースで計3回の動員令を発令した。だが3回とも戦争に発展することはなく、特に1973年5月の動員は6,200万イスラエルポンド(45億円) という経済損失から国民の不満が高まったため、イスラエル軍はこれ以上むやみに動員令を発令することはできなくなっていた。 また1972年5月30日の日本赤軍によるロッド空港乱射事件や9月5日のミュンヘンオリンピック事件などユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発し、イスラエルは事件への対応や報復作戦に忙殺されることとなった。 1968年にイスラエル軍参謀総長ハイム・バーレブ(英語版)中将は、エジプト軍のスエズ運河東岸への攻撃に対処するため、アブラハム・アダン少将を長とする東岸防衛計画委員会にシナイ半島の防衛構想を参謀本部へ検討案として上程するよう命じた。委員会からの答申案は、東岸沿いに監視警戒と敵軍を拘束する拠点を11km間隔で15個配置し、拠点後方に機動予備部隊を配置して渡河進攻するエジプト軍に対処することを骨子とした内容だった。しかし、参謀本部の訓練部長アリエル・シャロン少将と計画室長イスラエル・タル少将は、この答申案に反対し、代わって機甲偵察部隊で東岸沿いを巡察警戒する方法を主張した。1969年にバーレブ参謀総長は委員会答申案を支持し、防衛線の構築が開始された。いわゆるバーレブラインと呼ばれる防衛線は同年3月15日に完成した。 バーレブ・ラインは、スエズ運河東岸沿い約160kmにわたって構築され、33個の拠点と3線の築堤、4本のコンクリート舗装道路と3本の新道、指揮通信施設が設置された。 1973年9月13日、シリアの湾岸都市ラタキアに面するラタキア沖上においてイスラエル空軍とシリア空軍が空戦、イスラエル1機、シリア13機の航空機を喪失。これに呼応する形でゴラン高原ではシリア軍の部隊が本格的な展開を始めた。同時にスエズ運河正面では「タヒール(解放)23」(Tahir 23) 軍事演習と称してエジプト軍の大規模な展開が公然と進められた。当初イスラエルは、ゴラン高原では空中戦の影響があり、またスエズ運河正面では「あくまで軍事演習」であると信じたため、アラブ側の動向にほとんど対応策を取らなかった。 9月29日、チェコスロバキア・オーストリア国境において2人のパレスチナ人テロリストがソ連出身のユダヤ人を乗せてウィーンに向かっていた列車を乗っ取り、ユダヤ人5人とオーストリア人税関職員1人を人質に取る事件があった。当時のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーがシェーナウのユダヤ人移民中継キャンプの閉鎖を提案、人質は解放された。イスラエルはオーストリアの対応に反発し、政府もゴルダ・メイア首相が直々にオーストリアまで向かうなど の対応に追われた。この事件はテログループがシリア軍の支配下組織とつながりがあったことから、アラブ側の欺瞞工作であったとする説もあるが、真相は不明である。いずれにせよイスラエルの世論は主にこの事件に注目し、国境付近でのアラブ軍の展開は見過ごされがちとなった。 10月5日、依然アマンは「戦争の可能性は低い」としていたものの、参謀総長のダビッド・エラザール中将は、イスラエル軍に「Cレベル」 の警戒を発令、同時に第一線部隊の増強が図られた。しかしながら戦争に発展する確信がなく、5月の失敗(前述)からも動員令は発令されず、第一線部隊だけでアラブ軍を相手にするには不安があった。 10月6日午前4時、「ヨム・キプール」の日の朝、これまでのアラブ側の動きを「本格的な戦争の準備ではない」としてあらゆる戦争の可能性を一蹴し続けてきたアマン局長のゼイラ少将はこれまでの主張を覆して「今日の夕方18時にも戦争が勃発する」との警告を出した 。この報告を受けて、エラザールは国防相のモシェ・ダヤンに空軍の先制攻撃 の許可を求めたが、アメリカをはじめとする諸外国から第三次中東戦争同様イスラエルは好戦的な国家であると見なされないために、これは却下された。また20万名の総動員も同様の理由から却下された。結局午前10時に15万人の動員令が発令され、第一線部隊も戦闘準備を行った。だがゼイラの予測より早い14時、エジプト・シリア両軍のイスラエルへの攻撃が開始された。 イスラエルは第三次中東戦争でアラブ側がそうであったように、(皮肉にもそのアラブ側から)「奇襲」を受けることとなった。 以下、本稿では「ゴラン高原」とはゴラン高原周辺の戦区を、「シナイ半島」とはスエズ運河・シナイ半島周辺の戦区を指すものとする。 第四次中東戦争の開戦時において、エジプト軍はスエズ運河渡河作戦を計画した。その作戦名が、バドル作戦(バドルさくせん、アラビア語: عمليةبدر)またはバドル計画(バドルけいかく、アラビア語: خطة بدر)である。1973年10月6日、スエズ運河西岸に展開したエジプト軍第2軍(英語版)、第3軍(英語版)が10地点で渡河を行い、東岸のイスラエル軍防衛線(バーレブ・ライン)を突破、10月8日までに縦深10から13kmの橋頭堡を確保した。また、本作戦と並行してシリア軍によるゴラン高原進攻(ヘブライ語版)が行われた。 イスラエル軍は予期していなかったエジプト・シリア軍の奇襲攻撃により、緒戦で敗北を喫し、各地で苦戦を強いられることとなった。 1973年10月6日13:50から14:43にかけてエジプト軍は、スエズ運河東岸のバーレブ・ラインに対して攻撃準備射撃を行い、135個砲兵大隊約2,000門の砲迫から約3,000tの砲弾が拠点、機甲部隊集結地、砲兵陣地、指揮所等の目標に降り注ぎ、土塁の前方斜面に埋設された地雷等の人工障害物は多連装ロケット砲の掃射で破壊された。また、戦車砲等の直接照準火器約2,000門も攻撃に加わり、各種工作物を砲撃した。14:20からは3か所の陣地に展開したスカッド地対地ミサイル10基とFROG地対地ロケット20基が、ウムハシバ(Umm Hashiba)のSIGINT施設、タサ(Tasa)、ビルギフガファ(Bir Gifgafa)の師団指揮所を攻撃した。 14:00には240機のエジプト空軍機がスエズ運河を越え、シナイ半島の航空基地3か所、補助航空基地3か所、ホーク地対空ミサイル陣地10か所、砲兵陣地2か所、指揮所3か所、レーダーサイト2か所、SIGINT施設2か所、段列地域3か所、拠点ブダペストを空爆した。 14:05、エジプト軍本隊の渡河に先立ち、対戦車火器を携行したレンジャー部隊がゴムボートで渡河し、ロープや竹梯子で堤防をよじ登り、東岸1kmまで進出して阻止陣地を構築、イスラエル軍機甲部隊の反撃に備えた。14:20に第一波の5個歩兵師団8,000名が1,000艘のゴムボートに分乗して渡河を開始。この第一波には工兵のほか、誘導要員、砲兵隊の前進観測班も含まれていた。第二波には歩兵部隊と消火用ポンプを装備した工兵隊80組が含まれ、15分間隔で15波に分かれて渡河した。 ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃の後、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。 対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団(第36機甲師団)、戦車数にしてシリア軍1,220輌対イスラエル軍177輌 である。 ゴラン高原北側へのシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の第7機甲旅団は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車や車輌を次々と撃破したのちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭の共和国親衛旅団の増援を得つつ、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260と他車輌500 を失う。 これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の第188機甲旅団(戦車定数72輌)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上でシリア軍戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65km だが、うち40kmを第188機甲旅団が担当した)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌 にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した 第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。 6日夜、これらのシリア軍とイスラエル本土の間にイスラエル軍の部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍は、動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごとに逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。こうした部隊を率いた戦車兵の一人、ツビ(ツビカ)・グリンゴールド(英語版)中尉が指揮した小隊規模の戦車隊「ツビカ隊」は夜間にゴラン高原を南北に走るTAPライン上に展開、ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団の指揮所があったナファク基地(ヘブライ語版)に向かおうとする第5歩兵師団の戦車を一晩中延滞させることに成功した。 だが7日正午にはシリア軍第1戦車師団のT-55戦車がナファク基地に突入、第36機甲師団長ラファエル・エイタン少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが、「ツビカ隊」をはじめ各戦車隊がこれを撃退。 この頃になると、イスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団(第210(英語版)、 第146予備役機甲師団(ヘブライ語版))がゴラン高原展開を完了。8日からこれら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍は、10日までにシリア軍をゴラン高原から追い出した。 これに前後して10月6日、シリア軍第82空挺大隊がヘルモン山頂のイスラエル軍監視哨を占領。イスラエルにとって「国家の目」であるヘルモン山をシリア軍に砲兵観測所として利用されるのを恐れたイスラエル軍は8日、ゴラニ歩兵旅団による奪回作戦を試みたが、失敗した。 シナイ半島方面ではエジプト軍の5個歩兵師団がスエズ運河を渡河、橋頭保を築くと同時に運河沿いに作られたイスラエル軍の拠点群、通称「バーレブ・ライン」に対して攻撃をかけた。 イスラエル軍はすぐさま第252機甲師団(3個旅団基幹、以下第252師団)と空軍機が反撃を行ったものの、第252師団の3個機甲旅団はすべてエジプト軍の構築した対戦車兵器による防衛網によって次々と壊滅させられた。空軍機も同様に、低空用・高空用対空火器を巧妙に組み合わせたエジプト軍の「ミサイルの傘」の前にほとんど有効な航空攻撃を行えなかった。 ゴラン高原同様7日から8日にかけてイスラエル軍予備役部隊の第162予備役機甲師団(以下第162師団)と第143予備役機甲師団(以下第143師団)が到着、8日にはこれら2個師団による反撃が行われたが、第162師団は6日同様エジプト軍の対戦車兵器によって大損害をこうむり、第143師団は戦場を迷走したためほとんど戦闘に参加できず、イスラエル軍の反撃は再び失敗した。 一方、エジプト軍は「スエズ運河東岸に橋頭保を築いて停戦を待ち、シナイ半島は戦後交渉によって奪還する」という作戦の第一段階が完了したため、むやみな攻撃をかけずに橋頭保の強化につとめ、戦況は膠着状態となった。 イスラエル軍はゴラン高原、シナイ半島で二正面作戦を強要され、一時はゴラン高原、シナイ半島の放棄、そして「第三神殿の滅亡」 も考えられた。 このためイスラエルでは核兵器の使用が真剣に検討され、実際にディモナ核施設では航空機用核弾頭13発が用意された。しかし、戦況がやや好転したため、使用の機会は免れることとなった。 10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始。シリア軍や新たに参戦したイラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらも、イスラエル軍はシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが、それ以上の進撃は中止された。アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、ダマスカスを陥落させるとソ連軍が参戦するとの警告がアメリカよりもたらされたからとされている。 8日以降戦況は膠着し、大規模戦闘はなかったものの、シリアから自国の苦戦を救うためシナイ半島での攻勢がエジプトに要請された。このためエジプト軍は全面攻勢を開始、10月14日、イスラエル軍との間に大規模な戦車戦が発生した。「ミサイルの傘」を出たエジプト軍は待ち伏せするイスラエル地上軍だけでなく空軍からも苛烈な反撃を受け、エジプト軍が約200輌の戦車を喪失、攻撃は失敗した。この戦闘の勝利によってイスラエル軍はシナイ半島でも戦闘の主導権を取り戻し、スエズ運河の逆渡河作戦を進めることとなった。 15日、イスラエル軍の逆渡河作戦「ガゼル作戦」(Operation Gazelle)が開始された 。イスラエル軍は渡河点近郊の農業試験場、通称「中国農場」などでエジプト軍の強固な抵抗にあったものの、16日未明には空挺旅団と戦車旅団が逆渡河に成功、17日には第162師団主力が渡河、対空ミサイル基地を掃討しながら「アフリカへの進撃」を開始した。 イスラエル・アラブ両陣営は激戦により、戦車・航空機・弾薬を急激に消耗、それぞれの陣営の兵器のおもなクライアントであったアメリカとソ連にとって「自国製兵器で編成された軍隊」が敗北することは中東プレゼンスの弱体化にもつながるのみならず、中東域外における兵器の販売にも悪影響を与える一大事となるため、ソ連は9日からエジプトとシリアの両国に、アメリカは14日からイスラエルに対し大規模な軍需物資輸送作戦を開始。最終的にアメリカが作戦機800機、戦車600輌を含む約2.2 - 2.8万トン、ソ連が作戦機200機、戦車1,000輌を含む約1.5 - 6.4万トン の軍需物資を供給。これら物資が損害を完全に埋め合わせることはなかったものの、イスラエルとアラブの両陣営にとって「超大国が支援している」ということの心理的・政治的効果は大きかった。 エジプトおよびシリア以外のアラブ諸国も戦争に協力し、イラクとヨルダンはそれぞれ各個独立旅団、2個機甲師団をゴラン高原に派遣し、またモロッコとサウジアラビア、スーダンの部隊がゴラン高原に、シナイ半島ではアルジェリアとリビア、モロッコ、PLO、クウェート、チュニジア の部隊が戦闘に参加。パキスタンの軍 やレバノンの対空レーダー部隊がシリアに派兵され、さらにソ連の後援を受けるキューバも戦車やヘリコプターなどの隊をシリアに送り、北朝鮮のパイロットはエジプトの空軍基地の防空任務に就いていた。 戦況がイスラエル優位に傾きつつあった10月16日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はイスラエル支援国(アメリカとオランダ)に対する石油輸出禁止、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定した。また、同時期、オイルメジャー代表と原油価格交渉を行っていたOPECのペルシャ湾岸産油国(非アラブ国でペルシャのイランを含む)は原油公示価格大幅引き上げを決定。長期にわたる先進諸国の高度成長による石油需給の引き締まりを背景に徐々に上昇していた原油価格は、これを契機に一機に高騰した。その後、OPECは加盟国の原油価格(公式販売価格)を総会で決定する方式を定着させ、国家間カルテルに転じた。高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が停止した後も、高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック)。 それまで欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみれば、自国の資源を自国で管理したいという資源ナショナリズムの高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、原油価格と原油生産の管理権はメジャーからOPECへ移った。すでに、1960年代後半から欧米で顕在化していたスタグフレーションは、石油危機によって、先進国全体に一挙に拡大、深化することとなった。 ダマスカス平原周辺では戦闘は小競り合い程度にとどまっていたが、21日夜、停戦決議を前にしてイスラエル軍によるヘルモン山の奪回作戦が再び行われた。シリア側山頂は容易に占領できたものの、イスラエル側山頂ではシリア空挺部隊の反撃が苛烈でイスラエル軍は多数の死傷者を出した。しかし22日の午前11時には山頂の観測所周辺が奪回された。23日、ダマスカス平原においてシリア軍とイラク軍、ヨルダン軍による攻勢が予定されていたものの、シリアが停戦決議(後述)を受諾したために攻勢は中止され、戦闘は終結することとなった。 第162師団に続きスエズ運河を渡河した第143、第252師団の計3個師団は、運河東岸のエジプト第2軍・第3軍を包囲しようとイスマイリア・スエズ市に向けて進撃した。第143師団はイスマイリア郊外で進軍を停止、第162師団は運河西岸を確保、第252師団はカイロ―スエズ街道を封鎖し、エジプト第3軍を包囲、停戦交渉の「人質」とした。第三次中東戦争同様エジプトが再び決定的敗北を喫することを危惧したアメリカ・ソ連をはじめとする国連安全保障理事会(以下安保理)は停戦工作を推し進め、10月22日、停戦を求めた国連安保理決議第338号が決議され、同日18時52分より発効した。しかしイスラエル軍は作戦行動を続け、24日には162師団がスエズ市攻略を強行したが、守備部隊の抵抗にあって失敗した。25日には国連安保理決議340にしたがって第二次国際連合緊急軍が編成され、停戦監視の任につくようになった。 戦況がイスラエル優位に傾き始め、アラブ側の敗北が現実味を帯びてきた上、停戦決議後も作戦行動を続けるイスラエルに対し、ソ連は実戦部隊の展開準備を進め、実際に空輸作戦(前出)に従事していた輸送機を空挺部隊の兵員輸送用に改装するため空輸作戦は停止され、黒海艦隊も増強された。これに対しアメリカは10月25日、デフコンをデフコン4からデフコン3(防衛準備態勢)に引き上げ、第6艦隊への空母部隊の増援、第82空挺師団の出動準備、核搭載B-52爆撃機のグアムから本国基地への移動をもって対応した。一時は「第三次世界大戦」の勃発も騒がれたが、イスラエル軍の作戦行動中止と同時に事態は沈静化した。 エジプトやシリアをはじめとするアラブ諸国は、またもやイスラエルに軍事的敗北を喫したものの、緒戦での勝利によってサダトの思惑通り、イスラエルと対等な条件で交渉に乗り出すことができるようになった。特に戦争前の1972年7月に約2万人ともされたソ連の軍事顧問団を追放して対ソ関係を悪化させていたエジプトにとってはアメリカと関係修復するきっかけにもなった。 エジプトは1974年2月にアメリカとの国交を正常化させて軍事的経済的援助を受け、1976年3月にはソ連との友好協力条約を破棄し、翌4月にサダト大統領は中ソ対立を起こしていた中華人民共和国にムバラク副大統領を派遣して毛沢東と会見させてソ連製武器のスペアとなる中国製武器を購入した。さらに同年9月には同じく親米のサウジアラビアやモロッコなどとともに結成した反ソ同盟サファリ・クラブ(英語版)の本部をカイロに置き、第一次シャバ紛争(英語版)やオガデン戦争においてザイールとソマリアを支援してアフリカでソ連を牽制し、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を批判してモスクワオリンピックをボイコットして反政府武装勢力のムジャーヒディーンへの支援も表明した。 そしてエジプトとイスラエル間では1978年にキャンプ・デービッド合意が、続いて1979年3月26日にエジプト・イスラエル平和条約が締結され、エジプトがイスラエルを国家承認することと、イスラエルがシナイ半島から撤退することが定められた。この条約によって中東戦争は事実上終結することとなった。 両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。ただし、パレスチナ問題の解決については進展はなかった。またエジプトが「抜け駆け」したことに周辺アラブ諸国は猛反発し、1978年にイラクのバグダードで行われた首脳会議でアラブ連盟より参加資格停止にされ、1990年までエジプトは復帰できなかった。1978年アラブ連盟首脳会議(英語版)を主催してエジプトの追放に成功したイラクはエジプトに代わるアラブの盟主になることも目論み、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。サダト大統領自身も1981年10月6日の本戦争記念パレード最中に、エジプト軍内の反対派によって暗殺(英語版)された。 シリアとイスラエル間では平和条約の締結こそなかったが、アメリカのキッシンジャー国務長官の「シャトル外交」と称された仲介工作によって、停戦協定が結ばれ、またゴラン高原のイスラエルとシリア間の国境には緩衝地帯が設けられ、国際連合兵力引き離し監視軍が停戦監視に当たるようになった。 初めてアラブの侵攻を受け、緒戦で敗北を喫したイスラエル社会は激しく揺さぶられた。奇襲を予想しなかった国防の準備不足は国防大臣モーシェ・ダヤンの責任となり、世論はダヤンの辞職を要求し、最高裁長官は紛争中にダヤンの職務調査を指示した。委員会は首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。翌1974年にダヤンはゴルダ・メイア首相に辞表を提出し、ゴルダ・メイア自身も辞任しイツハク・ラビンに首相の座を譲った。 合計約19,000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡した。エジプトとシリア空軍はその対空防御により114機のイスラエル機を撃墜したが、その3倍以上の自軍の航空機442機を失った。その中には、数十機におよぶ自軍の対空ミサイルの誤射で撃墜されたものを含む。 なお、戦闘機パイロットとして出撃したサダト大統領の弟も緒戦で戦死している。この戦争で国民的英雄となった当時空軍司令官で、後のエジプト大統領ホスニー・ムバーラクがサダトから副大統領に抜擢された。 本戦争は冷戦期の戦争において、双方の陣営がほぼ同レベルかつ比較的最新鋭の兵器を投入した数少ない戦争であった。とくにAT-3"サガー"(ソ連名9M14"マリュートカ")対戦車ミサイルやSA-6"ゲインフル"(ソ連名2K12"クープ")自走対空ミサイルの活躍が有名である。エジプト軍はこれらの兵器を他の対戦車火器や対空兵器と組み合わせることで濃密な防衛網を構築し、緒戦で反撃に向かったイスラエルの戦車部隊や航空機に多大な損害を与えた。 一方、戦車業界にとっては現代版クレシーの戦いとも称された。対戦車ミサイルで戦車が次々と撃破されたことは衝撃的であり、一時は「戦車不要論」も唱えられた。本戦争以降開発された第3世代主力戦車は対戦車火器の火力にも十分耐えうる複合装甲を導入したが、装甲の弱い上部を狙ってトップアタックを行うミサイルも登場するなどイタチごっこが続いている。 また、戦車部隊と歩兵部隊の協同作戦の重要さも再確認され、各国で戦車部隊の行軍に追随できる歩兵戦闘車や装甲兵員輸送車の開発、配備が推し進められた。 戦争中に行われたアラブ石油輸出国機構の親イスラエル国に対する石油禁輸措置と、それに伴う石油輸出国機構(OPEC)の石油価格引き上げは、第1次オイルショック(第1次石油危機)を引き起こし、石油禁輸措置の直接の対象となったアメリカやオランダのみならず、日本をはじめとする先進工業国における石油価格の高騰を招いた。 日本はイスラエルとアラブ諸国のどちらにも与しない中立的な外交を取っていたが、アメリカと同盟を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高いため、三木武夫副総理を中東諸国に派遣して支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法や石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。 しかし相次いだ便乗値上げなどによりインフレーションが加速された上に、整備新幹線の着工延期などの公共工事への投資抑制や民間企業の投資抑制も行われ、高度経済成長が終焉することになった。また「トイレットペーパー騒動」や「洗剤騒動」などが全国で巻き起こった。 この他にも「中国農場の戦い(Battle of Chinese farm)」などのタイトルでボードゲームが多数発表されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "第四次中東戦争(だいよじちゅうとうせんそう)は、1973年10月にイスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国(以下、アラブ諸国を総称する際に「アラブ」という名称を用いる)との間で勃発した戦争である。中東戦争の一つに数えられ、ヨム・キプール戦争、十月戦争などとも呼ばれる(後述)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1973年10月6日、イスラエルにおけるユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」(贖罪の日、ヘブライ語: יום כיפור、英語: Yom Kippur)に当たったこの日、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河、ゴラン高原正面に展開するイスラエル国防軍(以下イスラエル軍)に対して攻撃を開始した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「ヨム・キプール」の日に攻撃を受けた上、第三次中東戦争以来アラブ側の戦争能力を軽視していたイスラエルはアラブ側から奇襲を受け、かなりの苦戦を強いられたが、(イスラエル軍の主力である)予備役部隊が展開を完了すると、アメリカの支援等もあって戦局は次第にイスラエル優位に傾いていき、10月24日、国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵入していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "純軍事的にみればイスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが、戦争初期にとはいえ第一次、第二次、第三次中東戦争でイスラエルに対し負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実は「イスラエル不敗の神話」(イスラエルはアラブ側に対して決して負けない)を崩壊させ、逆にイスラエルに対して対等な立場に着くことができたエジプトは1979年、エジプト・イスラエル平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された(同年ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合を宣言した)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この戦争は、冷戦期における地域紛争の中でも新しい兵器が大規模投入され、特にミサイル兵器(9M14「マリュートカ」(AT-3「サガー」)対戦車ミサイル、双方が史上初めて対艦ミサイルを使用したラタキア沖海戦など)はめざましく、第三世代主力戦車の開発など各国の兵器開発に少なからぬ影響を与えた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、戦争中行われたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の親イスラエル国に対する石油禁輸措置とそれに伴う石油輸出国機構(OPEC)の石油価格引き上げは第1次オイルショック(第1次石油危機)を引き起こし、日本をはじめとする諸外国に多大な経済混乱をもたらした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「ヨム・キプール」の日に戦争が勃発したことに由来。 ヘブライ語: \"מלחמת יום הכיפורים\"(ミルヘメット・ヨム・ハ=キプリム)または\"מלחמת יום כיפור\"(ミルヘメット・ヨム・キプール) 英語: \"Yom Kippur War\"(ヨム・キプール・ウォー)", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "10月に戦争が勃発したことに由来。 アラビア語: \"حرب أكتوبر\"(ハルブ・オクトーバル)または\"حرب تشرين\"(ハルブ・ティシュリーン) 英語: \"October War\"(オクトーバー・ウォー)", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "単に「ラマダン戦争」とも。イスラム暦の断食月(ラマダーン)10日に戦争が勃発したことに由来。 アラビア語: \"حرب العاشر من رمضان\"(ハルブ・アーシル・ミン・ラマダーン) 英語: \"Tenth of Ramadan War\"(テンス・オブ・ラマダン・ウォー)", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "単に「1973年の戦争」という表記も見られる。 英語: \"1973 Arab-Israeli Conflict\"(ナインティーセヴンティースリー・アラブ・イスラエリ・コンフリクト)", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「第4次中東戦争」という表記も存在。「消耗戦争」を「第四次中東戦争」とし、本戦争を「第五次中東戦争」とする文献もある。 日本語: だいよじ(よんじ)ちゅうとうせんそう、だいごじちゅうとうせんそう", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下、戦争名はすべて「第四次中東戦争」で統一する。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1967年6月5日、イスラエル空軍はエジプト、ヨルダン、シリア、イラクの各空軍基地を攻撃、第三次中東戦争が勃発した。以前からチラン海峡の封鎖や部隊の展開により、「イスラエルの破壊」を声高に唱えていたアラブ側(エジプト・ヨルダン、シリアなど)にとってこの「先の先」を狙ったイスラエル軍の攻撃はまさに「奇襲」であり、開戦一日でアラブ側の航空戦力は壊滅、続く地上戦でもイスラエル軍の前にアラブ軍は敗走を重ね、イスラエルは6日間でエジプトからガザ地区とシナイ半島全域を、ヨルダンからヨルダン川西岸を、そしてシリアからゴラン高原を奪取して戦争は終結した。エジプトはスエズ運河閉鎖により年間2億ドルの通関料収入を喪失し、ヨルダンは人口の45パーセントと東エルサレムの観光収入を失った。イスラエルはこれら地域を占領したことで、エジプト正面では200km以上の縦深を得ることができ、イスラエル領内にエジプト軍の砲爆撃が及ぶ恐れがほぼなくなった。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方で、イスラエル国内では第三次中東戦争の結果を受け、アラブ諸国との和平交渉がすぐにでも始まるような期待感が広がり、終結後の1967年6月19日、イスラエルのレヴィ・エシュコル内閣は講和と非武装化を条件に、シナイ半島(シャルム・エル・シェイクを除く)とゴラン高原の占領地返還を全員一致で閣議決定し、ヨルダン川西岸地区についてはヨルダンのフセイン国王と交渉に入る動きがあった。しかし、誇り高きアラブの名誉を傷つけられたアラブ諸国はイスラエルとの和平交渉を受け入れることは到底できず、エジプトとシリアは戦争終結後ほどなくしてソビエト連邦の援助の下、軍の再建に着手したほか、8月29日から9月1日にスーダンのハルツームで開催されたアラブ首脳会議において、「イスラエルと交渉せず」、「イスラエルと講和せず」、「イスラエルを承認せず」のいわゆる「3つのノー」を決議した。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "11月22日に開催された国際連合安全保障理事会においては、イスラエル軍の占領地からの撤退や中東諸国すべての主権を認めることなどを求めた安保理決議242を全会一致で可決したが、アラブ側はイスラエルが占領地から撤退しても戦争前の状態に戻るだけで第三次中東戦争敗北の事実は消えず、得られるものが何もないため決議の履行は困難だった。また、第三次中東戦争以降イスラエル軍とアラブ軍の戦力差はイスラエル優位で隔絶しており、アラブ側にとってこれまでの中東戦争で見られたように「イスラエルの破壊」を狙って全面戦争を仕掛けるよりも、限定的なものではあるとはいえ、領土奪還と同時にイスラエル軍に打撃を与えることで「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、アラブ優位の状態でイスラエルを交渉のテーブルにつかせる方が現実的であった。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領は、イスラエルと第三次中東戦争の停戦を結んだ翌6月9日、敗北の責任を取り辞任の演説を行い、後任にザカリア・ムヒエディン(英語版)副大統領を指名した。しかし、エジプト唯一の政党であるアラブ社会主義連合(英語版)が扇動した退任反対の大規模デモを受け、ナーセルは辞任を撤回し、6月11日にはアブドルハキーム・アーメル国防相のほか、陸海空軍司令官と多数の上級将校を敗北の責任から追放した。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アラブ諸国の敗北は、援助国であるソビエト連邦にも衝撃を与え、1967年6月21日にニコライ・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長がマトヴェイ・ザハロフ元帥を帯同してカイロを訪問、エジプト軍再建の協議を行った。同年7月末にはソビエト連邦から軍用機110機、戦車200~250輌等の兵器がエジプトに到着し、10月になると軍用機数が第三次中東戦争前の水準に回復し、戦車も700輌まで増強された。エジプトはソビエト連邦に大量の軍事顧問団の派遣も求め、数千人規模の軍事顧問団がエジプト入りし、エジプト軍の再編成と訓練にあたった。なお、ソビエト連邦は これらの対価として、アレクサンドリアやポートサイドなど港湾4箇所、カイロ西空軍基地など飛行場7箇所の使用権を得た。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1967年10月21日、北アフリカ北東沿岸において哨戒中のイスラエル海軍所属駆逐艦エイラートがエジプト海軍のオーサ型ミサイル艇からの対艦ミサイル攻撃で撃沈された(エイラート事件)。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この事件は単に史上初めて対艦ミサイルが使用された攻撃 であったのみならず、第三次中東戦争以降下がり気味であったアラブ側の士気高揚に役立った。エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル(以下ナセル)大統領は、小規模で効果的な攻撃を仕掛けることでアラブ側の士気を高め、逆にイスラエルに「戦争でも平和でもない」状態を強制することでイスラエルの疲弊と士気低下を狙ったのである。そして69年3月、ナセルは「消耗戦争」を称してイスラエルへの攻撃を本格化させ、スエズ運河では砲撃戦が行われた。これに対しイスラエルはエジプト本土への空爆、小部隊の襲撃をもって徹底的に応戦した。消耗戦争は断続的に約1年間続いたが、1970年8月6日、アメリカの仲介によって停戦した。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また同年9月28日、ヨルダン内戦(後述)の仲介工作を行った直後にナセルが急死し、ナセルの後継者には1952年のエジプト革命時にナセルの同志でもあったアンワル・アッ=サーダート(以下サダト)副大統領が昇任することになった。だが、当時知名度がナセルより遥かに低かったサダトは世間から「つなぎ」の大統領だとみなされていた。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "シリア方面では、1969年2月28日の政変でハーフィズ・アル=アサド国防相が実権を握ったあと、1970年11月のクーデターで全権を握った。これに前後してアサドは当時ヨルダン政府とパレスチナ解放機構(以下PLO)との間で戦闘が行われていた(ヨルダン内戦)ヨルダンに介入し、陸軍をヨルダンに侵入させ、PLO支援を図った。このままではヨルダンとシリアの戦争に発展してしまうことは明らかであった。そこで、アメリカは空母部隊を地中海のイスラエル沖に派遣し、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。イスラエルは地上部隊をゴラン高原に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。当初はこのヨルダンの混乱に乗じてイスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが、その計画は見送られた。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "結局、ナセルがヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOは受け入れを表明したレバノンへ本部を移転させることとなり、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "エジプト大統領に就任したサダトはナセルの外交路線を転換、親ソ連から親米路線を目指し、アメリカの仲介によってイスラエルとの交渉を進めようとしたが、当時のアメリカ国務長官ヘンリー・キッシンジャーの言葉を借りれば「勝者の分け前を要求してはならない」 すなわちアラブ側が「負けっぱなし」のままでは交渉仲介に乗り出すことはできない、というのがアメリカの対応であった。このためサダトは領土奪還だけではなく、親米路線転換のきっかけとしても対イスラエル戦争を位置づけるようになった。1972年に入るとエジプトの戦争計画の具体化が進められ、イスラエルに「弱いアラブ軍」や「ソ連との不和」 をイメージさせる情報を流す裏で、軍の改革や兵士の能力向上、ソ連からの供与兵器(AT-3対戦車ミサイルやSA-6自走対空ミサイルなど)を有効活用した戦術の研究が進められた。同様に、シリア軍も地上部隊や対空戦力の増強を進めた。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1973年夏には、来たるべき対イスラエル戦争の作戦名が「バドル作戦」(アラビア語: عملية بدر;Operation Badr) と定められ、開戦日にイスラエルの安息日かつ「一切の労働」 が禁じられる、ユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」に当たり、その他の理由からも最適な1973年10月6日が選定された。 エジプトはシリアと連携して作戦計画の作成を活発化させ、同時に石油輸出国機構(OPEC)やアラブ石油輸出国機構(OAPEC)への戦争協力を要請した。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "イスラエルは諜報機関であるイスラエル参謀本部諜報局(以下アマン)やイスラエル諜報特務庁(以下モサド)を通してアラブ側の戦争準備の動きをほぼ完全に捕捉していたが、第三次中東戦争での圧倒的勝利によってイスラエルには、(アラブ側の工作の結果もあって)「アラブ側の戦争能力を非常に低く見積もる」風潮があったため、ほとんど注意を払うことがなかった。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ここにアマンの局長エリ・ゼイラ少将が作成した当時のイスラエルの状況認識を表した「コンセプト」(The Concept)という理論がある。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "すなわち、", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1975年より前にアラブ側が戦争準備を行ったとしても、それらは全て「本格的な戦争準備ではなく」、もし仮にアラブ側が戦争を行おうとも、「諜報機関が開戦48時間前にその情報をキャッチして動員が可能で、開戦2日目には反撃して第三次中東戦争以上の圧倒的勝利を収められる」とされた。その他にも第三次中東戦争の経験から、「遮蔽物のほとんどないシナイ半島の砂漠では対戦車砲や歩兵を戦車に見つからないよう隠すことは非常に困難であり、イスラエル軍戦車部隊は歩兵・砲兵の随伴がなくとも単独で突破戦力としての任務を遂行できる」(いわゆる「オールタンク・ドクトリン」)や、「地上部隊が少兵力でも、イスラエル空軍が『空飛ぶ砲兵』として地上軍を常時援護できる」といった理論が語られた。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、前述のようにアラブ側は「弱いアラブ軍」を演出する裏で軍の改革を推し進め、そのようなイスラエル軍の戦術への対処も行っていたのである。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1971年からアラブ側はイスラエルへの挑発を強め、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにイスラエルは年1回のペースで計3回の動員令を発令した。だが3回とも戦争に発展することはなく、特に1973年5月の動員は6,200万イスラエルポンド(45億円) という経済損失から国民の不満が高まったため、イスラエル軍はこれ以上むやみに動員令を発令することはできなくなっていた。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また1972年5月30日の日本赤軍によるロッド空港乱射事件や9月5日のミュンヘンオリンピック事件などユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発し、イスラエルは事件への対応や報復作戦に忙殺されることとなった。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1968年にイスラエル軍参謀総長ハイム・バーレブ(英語版)中将は、エジプト軍のスエズ運河東岸への攻撃に対処するため、アブラハム・アダン少将を長とする東岸防衛計画委員会にシナイ半島の防衛構想を参謀本部へ検討案として上程するよう命じた。委員会からの答申案は、東岸沿いに監視警戒と敵軍を拘束する拠点を11km間隔で15個配置し、拠点後方に機動予備部隊を配置して渡河進攻するエジプト軍に対処することを骨子とした内容だった。しかし、参謀本部の訓練部長アリエル・シャロン少将と計画室長イスラエル・タル少将は、この答申案に反対し、代わって機甲偵察部隊で東岸沿いを巡察警戒する方法を主張した。1969年にバーレブ参謀総長は委員会答申案を支持し、防衛線の構築が開始された。いわゆるバーレブラインと呼ばれる防衛線は同年3月15日に完成した。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "バーレブ・ラインは、スエズ運河東岸沿い約160kmにわたって構築され、33個の拠点と3線の築堤、4本のコンクリート舗装道路と3本の新道、指揮通信施設が設置された。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1973年9月13日、シリアの湾岸都市ラタキアに面するラタキア沖上においてイスラエル空軍とシリア空軍が空戦、イスラエル1機、シリア13機の航空機を喪失。これに呼応する形でゴラン高原ではシリア軍の部隊が本格的な展開を始めた。同時にスエズ運河正面では「タヒール(解放)23」(Tahir 23) 軍事演習と称してエジプト軍の大規模な展開が公然と進められた。当初イスラエルは、ゴラン高原では空中戦の影響があり、またスエズ運河正面では「あくまで軍事演習」であると信じたため、アラブ側の動向にほとんど対応策を取らなかった。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "9月29日、チェコスロバキア・オーストリア国境において2人のパレスチナ人テロリストがソ連出身のユダヤ人を乗せてウィーンに向かっていた列車を乗っ取り、ユダヤ人5人とオーストリア人税関職員1人を人質に取る事件があった。当時のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーがシェーナウのユダヤ人移民中継キャンプの閉鎖を提案、人質は解放された。イスラエルはオーストリアの対応に反発し、政府もゴルダ・メイア首相が直々にオーストリアまで向かうなど の対応に追われた。この事件はテログループがシリア軍の支配下組織とつながりがあったことから、アラブ側の欺瞞工作であったとする説もあるが、真相は不明である。いずれにせよイスラエルの世論は主にこの事件に注目し、国境付近でのアラブ軍の展開は見過ごされがちとなった。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "10月5日、依然アマンは「戦争の可能性は低い」としていたものの、参謀総長のダビッド・エラザール中将は、イスラエル軍に「Cレベル」 の警戒を発令、同時に第一線部隊の増強が図られた。しかしながら戦争に発展する確信がなく、5月の失敗(前述)からも動員令は発令されず、第一線部隊だけでアラブ軍を相手にするには不安があった。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "10月6日午前4時、「ヨム・キプール」の日の朝、これまでのアラブ側の動きを「本格的な戦争の準備ではない」としてあらゆる戦争の可能性を一蹴し続けてきたアマン局長のゼイラ少将はこれまでの主張を覆して「今日の夕方18時にも戦争が勃発する」との警告を出した 。この報告を受けて、エラザールは国防相のモシェ・ダヤンに空軍の先制攻撃 の許可を求めたが、アメリカをはじめとする諸外国から第三次中東戦争同様イスラエルは好戦的な国家であると見なされないために、これは却下された。また20万名の総動員も同様の理由から却下された。結局午前10時に15万人の動員令が発令され、第一線部隊も戦闘準備を行った。だがゼイラの予測より早い14時、エジプト・シリア両軍のイスラエルへの攻撃が開始された。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "イスラエルは第三次中東戦争でアラブ側がそうであったように、(皮肉にもそのアラブ側から)「奇襲」を受けることとなった。", "title": "戦争の背景" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "以下、本稿では「ゴラン高原」とはゴラン高原周辺の戦区を、「シナイ半島」とはスエズ運河・シナイ半島周辺の戦区を指すものとする。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "第四次中東戦争の開戦時において、エジプト軍はスエズ運河渡河作戦を計画した。その作戦名が、バドル作戦(バドルさくせん、アラビア語: عمليةبدر)またはバドル計画(バドルけいかく、アラビア語: خطة بدر)である。1973年10月6日、スエズ運河西岸に展開したエジプト軍第2軍(英語版)、第3軍(英語版)が10地点で渡河を行い、東岸のイスラエル軍防衛線(バーレブ・ライン)を突破、10月8日までに縦深10から13kmの橋頭堡を確保した。また、本作戦と並行してシリア軍によるゴラン高原進攻(ヘブライ語版)が行われた。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "イスラエル軍は予期していなかったエジプト・シリア軍の奇襲攻撃により、緒戦で敗北を喫し、各地で苦戦を強いられることとなった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1973年10月6日13:50から14:43にかけてエジプト軍は、スエズ運河東岸のバーレブ・ラインに対して攻撃準備射撃を行い、135個砲兵大隊約2,000門の砲迫から約3,000tの砲弾が拠点、機甲部隊集結地、砲兵陣地、指揮所等の目標に降り注ぎ、土塁の前方斜面に埋設された地雷等の人工障害物は多連装ロケット砲の掃射で破壊された。また、戦車砲等の直接照準火器約2,000門も攻撃に加わり、各種工作物を砲撃した。14:20からは3か所の陣地に展開したスカッド地対地ミサイル10基とFROG地対地ロケット20基が、ウムハシバ(Umm Hashiba)のSIGINT施設、タサ(Tasa)、ビルギフガファ(Bir Gifgafa)の師団指揮所を攻撃した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "14:00には240機のエジプト空軍機がスエズ運河を越え、シナイ半島の航空基地3か所、補助航空基地3か所、ホーク地対空ミサイル陣地10か所、砲兵陣地2か所、指揮所3か所、レーダーサイト2か所、SIGINT施設2か所、段列地域3か所、拠点ブダペストを空爆した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "14:05、エジプト軍本隊の渡河に先立ち、対戦車火器を携行したレンジャー部隊がゴムボートで渡河し、ロープや竹梯子で堤防をよじ登り、東岸1kmまで進出して阻止陣地を構築、イスラエル軍機甲部隊の反撃に備えた。14:20に第一波の5個歩兵師団8,000名が1,000艘のゴムボートに分乗して渡河を開始。この第一波には工兵のほか、誘導要員、砲兵隊の前進観測班も含まれていた。第二波には歩兵部隊と消火用ポンプを装備した工兵隊80組が含まれ、15分間隔で15波に分かれて渡河した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃の後、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。 対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団(第36機甲師団)、戦車数にしてシリア軍1,220輌対イスラエル軍177輌 である。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ゴラン高原北側へのシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の第7機甲旅団は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車や車輌を次々と撃破したのちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭の共和国親衛旅団の増援を得つつ、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260と他車輌500 を失う。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の第188機甲旅団(戦車定数72輌)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上でシリア軍戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65km だが、うち40kmを第188機甲旅団が担当した)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌 にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した 第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "6日夜、これらのシリア軍とイスラエル本土の間にイスラエル軍の部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍は、動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごとに逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。こうした部隊を率いた戦車兵の一人、ツビ(ツビカ)・グリンゴールド(英語版)中尉が指揮した小隊規模の戦車隊「ツビカ隊」は夜間にゴラン高原を南北に走るTAPライン上に展開、ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団の指揮所があったナファク基地(ヘブライ語版)に向かおうとする第5歩兵師団の戦車を一晩中延滞させることに成功した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "だが7日正午にはシリア軍第1戦車師団のT-55戦車がナファク基地に突入、第36機甲師団長ラファエル・エイタン少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが、「ツビカ隊」をはじめ各戦車隊がこれを撃退。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この頃になると、イスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団(第210(英語版)、 第146予備役機甲師団(ヘブライ語版))がゴラン高原展開を完了。8日からこれら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍は、10日までにシリア軍をゴラン高原から追い出した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "これに前後して10月6日、シリア軍第82空挺大隊がヘルモン山頂のイスラエル軍監視哨を占領。イスラエルにとって「国家の目」であるヘルモン山をシリア軍に砲兵観測所として利用されるのを恐れたイスラエル軍は8日、ゴラニ歩兵旅団による奪回作戦を試みたが、失敗した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "シナイ半島方面ではエジプト軍の5個歩兵師団がスエズ運河を渡河、橋頭保を築くと同時に運河沿いに作られたイスラエル軍の拠点群、通称「バーレブ・ライン」に対して攻撃をかけた。 イスラエル軍はすぐさま第252機甲師団(3個旅団基幹、以下第252師団)と空軍機が反撃を行ったものの、第252師団の3個機甲旅団はすべてエジプト軍の構築した対戦車兵器による防衛網によって次々と壊滅させられた。空軍機も同様に、低空用・高空用対空火器を巧妙に組み合わせたエジプト軍の「ミサイルの傘」の前にほとんど有効な航空攻撃を行えなかった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ゴラン高原同様7日から8日にかけてイスラエル軍予備役部隊の第162予備役機甲師団(以下第162師団)と第143予備役機甲師団(以下第143師団)が到着、8日にはこれら2個師団による反撃が行われたが、第162師団は6日同様エジプト軍の対戦車兵器によって大損害をこうむり、第143師団は戦場を迷走したためほとんど戦闘に参加できず、イスラエル軍の反撃は再び失敗した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一方、エジプト軍は「スエズ運河東岸に橋頭保を築いて停戦を待ち、シナイ半島は戦後交渉によって奪還する」という作戦の第一段階が完了したため、むやみな攻撃をかけずに橋頭保の強化につとめ、戦況は膠着状態となった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "イスラエル軍はゴラン高原、シナイ半島で二正面作戦を強要され、一時はゴラン高原、シナイ半島の放棄、そして「第三神殿の滅亡」 も考えられた。 このためイスラエルでは核兵器の使用が真剣に検討され、実際にディモナ核施設では航空機用核弾頭13発が用意された。しかし、戦況がやや好転したため、使用の機会は免れることとなった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始。シリア軍や新たに参戦したイラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらも、イスラエル軍はシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが、それ以上の進撃は中止された。アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、ダマスカスを陥落させるとソ連軍が参戦するとの警告がアメリカよりもたらされたからとされている。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "8日以降戦況は膠着し、大規模戦闘はなかったものの、シリアから自国の苦戦を救うためシナイ半島での攻勢がエジプトに要請された。このためエジプト軍は全面攻勢を開始、10月14日、イスラエル軍との間に大規模な戦車戦が発生した。「ミサイルの傘」を出たエジプト軍は待ち伏せするイスラエル地上軍だけでなく空軍からも苛烈な反撃を受け、エジプト軍が約200輌の戦車を喪失、攻撃は失敗した。この戦闘の勝利によってイスラエル軍はシナイ半島でも戦闘の主導権を取り戻し、スエズ運河の逆渡河作戦を進めることとなった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "15日、イスラエル軍の逆渡河作戦「ガゼル作戦」(Operation Gazelle)が開始された 。イスラエル軍は渡河点近郊の農業試験場、通称「中国農場」などでエジプト軍の強固な抵抗にあったものの、16日未明には空挺旅団と戦車旅団が逆渡河に成功、17日には第162師団主力が渡河、対空ミサイル基地を掃討しながら「アフリカへの進撃」を開始した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "イスラエル・アラブ両陣営は激戦により、戦車・航空機・弾薬を急激に消耗、それぞれの陣営の兵器のおもなクライアントであったアメリカとソ連にとって「自国製兵器で編成された軍隊」が敗北することは中東プレゼンスの弱体化にもつながるのみならず、中東域外における兵器の販売にも悪影響を与える一大事となるため、ソ連は9日からエジプトとシリアの両国に、アメリカは14日からイスラエルに対し大規模な軍需物資輸送作戦を開始。最終的にアメリカが作戦機800機、戦車600輌を含む約2.2 - 2.8万トン、ソ連が作戦機200機、戦車1,000輌を含む約1.5 - 6.4万トン の軍需物資を供給。これら物資が損害を完全に埋め合わせることはなかったものの、イスラエルとアラブの両陣営にとって「超大国が支援している」ということの心理的・政治的効果は大きかった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "エジプトおよびシリア以外のアラブ諸国も戦争に協力し、イラクとヨルダンはそれぞれ各個独立旅団、2個機甲師団をゴラン高原に派遣し、またモロッコとサウジアラビア、スーダンの部隊がゴラン高原に、シナイ半島ではアルジェリアとリビア、モロッコ、PLO、クウェート、チュニジア の部隊が戦闘に参加。パキスタンの軍 やレバノンの対空レーダー部隊がシリアに派兵され、さらにソ連の後援を受けるキューバも戦車やヘリコプターなどの隊をシリアに送り、北朝鮮のパイロットはエジプトの空軍基地の防空任務に就いていた。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "戦況がイスラエル優位に傾きつつあった10月16日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はイスラエル支援国(アメリカとオランダ)に対する石油輸出禁止、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定した。また、同時期、オイルメジャー代表と原油価格交渉を行っていたOPECのペルシャ湾岸産油国(非アラブ国でペルシャのイランを含む)は原油公示価格大幅引き上げを決定。長期にわたる先進諸国の高度成長による石油需給の引き締まりを背景に徐々に上昇していた原油価格は、これを契機に一機に高騰した。その後、OPECは加盟国の原油価格(公式販売価格)を総会で決定する方式を定着させ、国家間カルテルに転じた。高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が停止した後も、高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック)。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "それまで欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみれば、自国の資源を自国で管理したいという資源ナショナリズムの高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、原油価格と原油生産の管理権はメジャーからOPECへ移った。すでに、1960年代後半から欧米で顕在化していたスタグフレーションは、石油危機によって、先進国全体に一挙に拡大、深化することとなった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ダマスカス平原周辺では戦闘は小競り合い程度にとどまっていたが、21日夜、停戦決議を前にしてイスラエル軍によるヘルモン山の奪回作戦が再び行われた。シリア側山頂は容易に占領できたものの、イスラエル側山頂ではシリア空挺部隊の反撃が苛烈でイスラエル軍は多数の死傷者を出した。しかし22日の午前11時には山頂の観測所周辺が奪回された。23日、ダマスカス平原においてシリア軍とイラク軍、ヨルダン軍による攻勢が予定されていたものの、シリアが停戦決議(後述)を受諾したために攻勢は中止され、戦闘は終結することとなった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "第162師団に続きスエズ運河を渡河した第143、第252師団の計3個師団は、運河東岸のエジプト第2軍・第3軍を包囲しようとイスマイリア・スエズ市に向けて進撃した。第143師団はイスマイリア郊外で進軍を停止、第162師団は運河西岸を確保、第252師団はカイロ―スエズ街道を封鎖し、エジプト第3軍を包囲、停戦交渉の「人質」とした。第三次中東戦争同様エジプトが再び決定的敗北を喫することを危惧したアメリカ・ソ連をはじめとする国連安全保障理事会(以下安保理)は停戦工作を推し進め、10月22日、停戦を求めた国連安保理決議第338号が決議され、同日18時52分より発効した。しかしイスラエル軍は作戦行動を続け、24日には162師団がスエズ市攻略を強行したが、守備部隊の抵抗にあって失敗した。25日には国連安保理決議340にしたがって第二次国際連合緊急軍が編成され、停戦監視の任につくようになった。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "戦況がイスラエル優位に傾き始め、アラブ側の敗北が現実味を帯びてきた上、停戦決議後も作戦行動を続けるイスラエルに対し、ソ連は実戦部隊の展開準備を進め、実際に空輸作戦(前出)に従事していた輸送機を空挺部隊の兵員輸送用に改装するため空輸作戦は停止され、黒海艦隊も増強された。これに対しアメリカは10月25日、デフコンをデフコン4からデフコン3(防衛準備態勢)に引き上げ、第6艦隊への空母部隊の増援、第82空挺師団の出動準備、核搭載B-52爆撃機のグアムから本国基地への移動をもって対応した。一時は「第三次世界大戦」の勃発も騒がれたが、イスラエル軍の作戦行動中止と同時に事態は沈静化した。", "title": "戦争の推移" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "エジプトやシリアをはじめとするアラブ諸国は、またもやイスラエルに軍事的敗北を喫したものの、緒戦での勝利によってサダトの思惑通り、イスラエルと対等な条件で交渉に乗り出すことができるようになった。特に戦争前の1972年7月に約2万人ともされたソ連の軍事顧問団を追放して対ソ関係を悪化させていたエジプトにとってはアメリカと関係修復するきっかけにもなった。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "エジプトは1974年2月にアメリカとの国交を正常化させて軍事的経済的援助を受け、1976年3月にはソ連との友好協力条約を破棄し、翌4月にサダト大統領は中ソ対立を起こしていた中華人民共和国にムバラク副大統領を派遣して毛沢東と会見させてソ連製武器のスペアとなる中国製武器を購入した。さらに同年9月には同じく親米のサウジアラビアやモロッコなどとともに結成した反ソ同盟サファリ・クラブ(英語版)の本部をカイロに置き、第一次シャバ紛争(英語版)やオガデン戦争においてザイールとソマリアを支援してアフリカでソ連を牽制し、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を批判してモスクワオリンピックをボイコットして反政府武装勢力のムジャーヒディーンへの支援も表明した。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "そしてエジプトとイスラエル間では1978年にキャンプ・デービッド合意が、続いて1979年3月26日にエジプト・イスラエル平和条約が締結され、エジプトがイスラエルを国家承認することと、イスラエルがシナイ半島から撤退することが定められた。この条約によって中東戦争は事実上終結することとなった。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。ただし、パレスチナ問題の解決については進展はなかった。またエジプトが「抜け駆け」したことに周辺アラブ諸国は猛反発し、1978年にイラクのバグダードで行われた首脳会議でアラブ連盟より参加資格停止にされ、1990年までエジプトは復帰できなかった。1978年アラブ連盟首脳会議(英語版)を主催してエジプトの追放に成功したイラクはエジプトに代わるアラブの盟主になることも目論み、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。サダト大統領自身も1981年10月6日の本戦争記念パレード最中に、エジプト軍内の反対派によって暗殺(英語版)された。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "シリアとイスラエル間では平和条約の締結こそなかったが、アメリカのキッシンジャー国務長官の「シャトル外交」と称された仲介工作によって、停戦協定が結ばれ、またゴラン高原のイスラエルとシリア間の国境には緩衝地帯が設けられ、国際連合兵力引き離し監視軍が停戦監視に当たるようになった。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "初めてアラブの侵攻を受け、緒戦で敗北を喫したイスラエル社会は激しく揺さぶられた。奇襲を予想しなかった国防の準備不足は国防大臣モーシェ・ダヤンの責任となり、世論はダヤンの辞職を要求し、最高裁長官は紛争中にダヤンの職務調査を指示した。委員会は首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。翌1974年にダヤンはゴルダ・メイア首相に辞表を提出し、ゴルダ・メイア自身も辞任しイツハク・ラビンに首相の座を譲った。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "合計約19,000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡した。エジプトとシリア空軍はその対空防御により114機のイスラエル機を撃墜したが、その3倍以上の自軍の航空機442機を失った。その中には、数十機におよぶ自軍の対空ミサイルの誤射で撃墜されたものを含む。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、戦闘機パイロットとして出撃したサダト大統領の弟も緒戦で戦死している。この戦争で国民的英雄となった当時空軍司令官で、後のエジプト大統領ホスニー・ムバーラクがサダトから副大統領に抜擢された。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "本戦争は冷戦期の戦争において、双方の陣営がほぼ同レベルかつ比較的最新鋭の兵器を投入した数少ない戦争であった。とくにAT-3\"サガー\"(ソ連名9M14\"マリュートカ\")対戦車ミサイルやSA-6\"ゲインフル\"(ソ連名2K12\"クープ\")自走対空ミサイルの活躍が有名である。エジプト軍はこれらの兵器を他の対戦車火器や対空兵器と組み合わせることで濃密な防衛網を構築し、緒戦で反撃に向かったイスラエルの戦車部隊や航空機に多大な損害を与えた。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "一方、戦車業界にとっては現代版クレシーの戦いとも称された。対戦車ミサイルで戦車が次々と撃破されたことは衝撃的であり、一時は「戦車不要論」も唱えられた。本戦争以降開発された第3世代主力戦車は対戦車火器の火力にも十分耐えうる複合装甲を導入したが、装甲の弱い上部を狙ってトップアタックを行うミサイルも登場するなどイタチごっこが続いている。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "また、戦車部隊と歩兵部隊の協同作戦の重要さも再確認され、各国で戦車部隊の行軍に追随できる歩兵戦闘車や装甲兵員輸送車の開発、配備が推し進められた。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "戦争中に行われたアラブ石油輸出国機構の親イスラエル国に対する石油禁輸措置と、それに伴う石油輸出国機構(OPEC)の石油価格引き上げは、第1次オイルショック(第1次石油危機)を引き起こし、石油禁輸措置の直接の対象となったアメリカやオランダのみならず、日本をはじめとする先進工業国における石油価格の高騰を招いた。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "日本はイスラエルとアラブ諸国のどちらにも与しない中立的な外交を取っていたが、アメリカと同盟を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高いため、三木武夫副総理を中東諸国に派遣して支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法や石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "しかし相次いだ便乗値上げなどによりインフレーションが加速された上に、整備新幹線の着工延期などの公共工事への投資抑制や民間企業の投資抑制も行われ、高度経済成長が終焉することになった。また「トイレットペーパー騒動」や「洗剤騒動」などが全国で巻き起こった。", "title": "戦争の影響" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "この他にも「中国農場の戦い(Battle of Chinese farm)」などのタイトルでボードゲームが多数発表されている。", "title": "第四次中東戦争およびそれに関連する事項を題材とした作品" } ]
第四次中東戦争(だいよじちゅうとうせんそう)は、1973年10月にイスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国(以下、アラブ諸国を総称する際に「アラブ」という名称を用いる)との間で勃発した戦争である。中東戦争の一つに数えられ、ヨム・キプール戦争、十月戦争などとも呼ばれる(後述)。
{{otheruses|1973年の中東戦争|「第四次中東戦争」と呼ばれることのある1969 - 1970年の戦争|消耗戦争}} {{Pathnav|中東戦争|frame=1}} {{脚注の不足|date=2018年10月}} {{Battlebox | battle_name = 第四次中東戦争 | campaign = 第四次中東戦争 | colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[File:Bridge Crossing.jpg|300px]] | caption = 開戦直後、スエズ運河に[[軍橋]]を設置し渡河するエジプト軍。 | conflict = [[中東戦争]]<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E6%9C%88%E6%88%A6%E4%BA%89-76801 |title=十月戦争 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-03-18}}</ref> | date = [[1973年]][[10月6日]] - 同年[[10月23日]]{{R|"kotobank"}} | place = [[スエズ運河]]や[[シナイ半島]]、[[ゴラン高原]]など{{R|"kotobank"}}。 | result = [[停戦]]。シリア方面の戦線ではイスラエル軍が勝利し、[[第三次中東戦争]]以来の[[占領]]地を更に拡大。一方エジプト方面の戦線ではエジプト軍がイスラエルに{{仮リンク|イスラエルのシナイ半島占領|label=占領|en|Israeli occupation of the Sinai Peninsula}}されていたシナイ半島の一部を奪還。また当時アラブ側に立脚した[[石油輸出国機構]]が石油価格を引き上げた事で[[オイルショック]]が発生した{{R|"kotobank"}}。 | combatant1 = {{ISR}} | combatant2 = {{EGY1972}}<br/>{{SYR1972}}<br/>{{IRQ1968}}<br/>{{JOR}} | commander1 = {{Flagicon|ISR}} [[ゴルダ・メイア]] | commander2 = {{Flagicon|EGY1972}} [[アンワル・アッ=サーダート]]<br/>{{Flagicon|SYR1972}} [[ハーフィズ・アル=アサド]] | strength1 = {{plainlist| * 375,000<ref name="Rabinovich, p54" />–415,000人 * 戦車:1,700輌 <ref>Insight Team of the London ''Sunday Times'', pp. 372–373.</ref> * 装甲車:3,000輌 * 火砲:945 <ref name=100mm>The number reflects artillery units of caliber 100&nbsp;mm and up</ref> * 航空機:440機 }} | strength2 = '''エジプト''':{{plainlist| * 650,000<ref name="Rabinovich, p54" />–800,000人{{sfnp|Herzog|1975|p=239}} * 戦車:1,700輌 <ref name="Shazly p.244" /> * 装甲車:2,400輌 * 火砲:1,120 <ref name=100mm/> * 航空機:400 * 戦闘ヘリ:140 <ref>Shazly, p. 272.</ref> * 艦艇:104 * 地対空ミサイル:150 <ref name="Haber & Schiff, p 30 31">Haber & Schiff, pp. 30–31.</ref>}} '''シリア''':{{plainlist| * 150,000人<ref name="Rabinovich, p54" /> * 戦車:1,200輌 <br />装甲車:800–900輌 * 火砲:600 <ref name=100mm/><ref name=knapp />}} '''その他派遣軍''':{{plainlist| * 120,000人 <ref name="Rabinovich, p54" /> * 戦車:500–670輌 <ref name="Rabinovich, 314" /><ref>{{cite book |last=Bar-On |first=Mordechai |title=A Never Ending Conflict |publisher=Greenwood Publishing |year=2004 |page=170}}</ref> * 装甲車:700輌 <ref name="Rabinovich, 314" />}} '''サウジアラビア:'''{{plainlist| 23,000人 <ref name=sauditw>{{cite book|author=Neil Partrick|title=Saudi Arabian Foreign Policy: Conflict and Cooperation|url=https://books.google.com/books?id=LeiKDwAAQBAJ|year=2016|publisher=Bloomsbury Publishing|isbn=978-0-85772-793-0|page=183}}</ref><ref name=Rabinovich464-465/><ref name="okaz2019">{{cite web|title=بطولات السعوديين حاضرة.. في الحروب العربية|url=https://www.okaz.com.sa/local/na/1756574|archive-url=https://web.archive.org/web/20210216061810/https://www.okaz.com.sa/local/na/1756574|archive-date=16 February 2021|work=Okaz|date=17 November 2019|access-date=13 August 2021}}</ref><ref name="cmu1978" />}} '''モロッコ''':{{plainlist| * 5,500人 <ref name=afrique>{{cite web |last1=Touchard |first1=Laurent |title=Guerre du Kippour : quand le Maroc et l'Algérie se battaient côte à côte |date=7 November 2013 |url=https://www.jeuneafrique.com/167404/politique/guerre-du-kippour-quand-le-maroc-et-l-alg-rie-se-battaient-c-te-c-te/ |publisher=[[Jeune Afrique]] |access-date=4 December 2022}}</ref><ref name=temps>{{cite news|title=Le jour où Hassan II a bombardé Israël |url=http://letempsmag.com/Articles/14/Le+jour+o%C3%B9+Hassan+II++a+bombard%C3%A9+Isra%C3%ABl/568 |access-date=25 December 2013 |newspaper=Le Temps |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20131014191251/http://letempsmag.com/Articles/14/Le%2Bjour%2Bo%C3%B9%2BHassan%2BII%2B%2Ba%2Bbombard%C3%A9%2BIsra%C3%ABl/568 |archive-date=14 October 2013}}</ref> * 戦車:30輌 (シリアからの提供) <ref name=afrique/><ref name=temps/> * 航空機:52機 <ref name=temps/>}} '''キューバ''':{{plainlist| * 500<ref name="auto3">{{Cite magazine|url=https://www.theatlantic.com/magazine/archive/1988/08/cuba-havanas-military-machine/305932/|title=Cuba: Havana's Military Machine|first=John Hoyt|last=Williams|date=1 August 1988|magazine=[[The Atlantic]]|access-date=19 September 2022}}</ref>–1,000人<ref>{{cite book |title=The Cuban Intervention in Angola, 1965–1991 |date=2004 |page=47 |publisher=Routledge |isbn=978-1-134-26933-4 |url=https://books.google.com/books?id=gcR_AgAAQBAJ}}</ref> }} '''合計:'''{{plainlist| * 914,000–1,067,500人 * 戦車:3,430–3,600輌 * 装甲車:3,900–4,000輌 * 火砲:1,720 * 航空機:452 * 戦闘ヘリ:140 * 艦艇:104 * 地対空ミサイル:150 }} | casualties1 = {{plainlist| * 死者:2,521<ref name="autogenerated6" />–2,800人<ref name="Garwych, p. 243" /><ref>Journal "الأهرام","Al Ahram". 14 October 1974</ref> * 負傷者:7,250<ref>{{cite book |last=Rabinovich |title=The Yom Kippur War |page=497}}</ref>–8,800人<ref name="Garwych, p. 243" /> * 捕虜:293人 * 被撃破戦車:400輌 , 鹵獲ないし損傷:663輌 <ref name="Rabinovich, 496" /> * 被撃破ないし鹵獲装甲車:407輌 * 被撃破航空機:102–387機 <ref name="White House Military Briefing" /><ref>"القوة الثالثة، تاريخ القوات الجوية المصرية." ''Third Power: History of Egyptian Air Force'' Ali Mohammed Labib. pp. 187</ref>}} | casualties2 = {{plainlist| '''エジプト:''' 死者:5,000<ref name="Garwych, p. 243" />–15,000人<ref name="autogenerated87" /> * 捕虜:8,372 <ref name="autogenerated2004" />}} '''シリア:'''{{plainlist| * 死者:3,000<ref name="Garwych, p. 243" />–3,500人<ref name="autogenerated87" /> * 捕虜392人 <ref name="autogenerated2004" />}} '''モロッコ:'''{{plainlist| * 捕虜:6人 <ref name="autogenerated2004" />}} '''イラク:'''{{plainlist| * 死者:278人 * 負傷者:898人 <ref name="Dunstan, p. 200">Dunstan, p. 200.</ref> * 捕虜:13 <ref name="autogenerated2004" />}} '''キューバ:'''{{plainlist| * 死者:180人 * 負傷者:250人 <ref name="Ra'anan">Ra’anan, G. D. (1981). ''The Evolution of the Soviet Use of Surrogates in Military Relations with the Third World, with Particular Emphasis on Cuban Participation in Africa''. Santa Monica: Rand Corporation. p. 37</ref>}} '''ヨルダン:'''{{plainlist| * 死者:23人 * 負傷者:77人 <ref name="Dunstan, p. 200"/>}} ---- '''合計の損害:'''{{plainlist| * 死者:8,000<ref name="Garwych, p. 243" />–18,500人<ref name="autogenerated87" /> * 負傷者:18,000<ref name="Garwych, p. 243" />–35,000人<ref>Rabinovich p. 497</ref> * 捕虜:8,783人 * 被撃破戦車:2,250<ref name="Rabinovich, 496-7" />–2,300輌<ref name="Garwych p 244" /> * 被撃破航空機:341<ref name="Garwych, p. 243" />–514機<ref name="Herzog, 260" /> * 艦艇:19 {{sfnp|Herzog|1975|p=269}}}} | notes = | campaignbox = {{Campaignbox Yom Kippur War}} }} '''第四次中東戦争'''(だいよじちゅうとうせんそう)は、[[1973年]]10月に[[イスラエル]]と[[エジプト]]・[[シリア]]をはじめとする[[アラブ諸国]](以下、アラブ諸国を総称する際に「アラブ」という名称を用いる)との間で勃発した[[戦争]]である。[[中東戦争]]の一つに数えられ、ヨム・キプール戦争、十月戦争などとも呼ばれる([[#名称|後述]])。 == 概要 == [[1973年]][[10月6日]]、[[イスラエル]]における[[ユダヤ暦]]で最も神聖な日「'''[[ヨム・キプル|ヨム・キプール]]'''」(贖罪の日、{{lang-he|יום כיפור}}、{{lang-en|Yom Kippur}})に当たったこの日、6年前の[[第三次中東戦争]]でイスラエルに占領された領土の奪回を目的として[[エジプト]]・[[シリア]]両軍がそれぞれ[[スエズ運河]]、[[ゴラン高原]]正面に展開する[[イスラエル国防軍]](以下イスラエル軍)に対して攻撃を開始した。 「ヨム・キプール」の日に攻撃を受けた上{{refnest|group="注"|もっとも、開戦時にイスラエル軍の[[予備役]]兵は自宅にいるか[[シナゴーグ]]で祈祷をしていたため、[[動員]]作業はむしろスムーズに進んだ<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 213.</ref>。}}、第三次中東戦争以来アラブ側の戦争能力を軽視していたイスラエルはアラブ側から奇襲を受け、かなりの苦戦を強いられたが、(イスラエル軍の主力である)予備役部隊が展開を完了すると、アメリカの支援等もあって戦局は次第にイスラエル優位に傾いていき、[[10月24日]]、国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵入していた。 純軍事的にみればイスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが、戦争初期にとはいえ[[第一次中東戦争|第一次]]、[[第二次中東戦争|第二次]]、第三次中東戦争でイスラエルに対し負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実は「イスラエル不敗の神話」(イスラエルはアラブ側に対して決して負けない)を崩壊させ、逆にイスラエルに対して対等な立場に着くことができたエジプトは[[1979年]]、[[エジプト・イスラエル平和条約]]を締結し、[[1982年]]にシナイ半島はエジプトに返還された(同年ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合を宣言した)。 この戦争は、[[冷戦]]期における地域紛争の中でも新しい兵器が大規模投入され、特に[[ミサイル]]兵器([[9M14 (ミサイル)|9M14「マリュートカ」(AT-3「サガー」)対戦車ミサイル]]、双方が史上初めて[[対艦ミサイル]]を使用した[[ラタキア沖海戦]]など)はめざましく、[[戦車#第3世代主力戦車|第三世代主力戦車]]の開発など各国の兵器開発に少なからぬ影響を与えた。 また、戦争中行われた[[アラブ石油輸出国機構]](OAPEC)の親イスラエル国に対する石油禁輸措置とそれに伴う[[石油輸出国機構]](OPEC)の石油価格引き上げは[[オイルショック#第1次|第1次オイルショック]](第1次石油危機)を引き起こし、[[日本]]をはじめとする諸外国に多大な経済混乱をもたらした。 == 名称 == ;イスラエル・欧米での名称(1) - 「ヨム・キプール戦争」: 「ヨム・キプール」の日に戦争が勃発したことに由来。<br /> {{lang-he|"מלחמת יום הכיפורים"}}<small>(''ミルヘメット・ヨム・ハ=キプリム'')</small>または{{lang|he|"מלחמת יום כיפור"}}<small>(''ミルヘメット・ヨム・キプール'')</small><br /> {{lang-en|"Yom Kippur War"}}<small>(''ヨム・キプール・ウォー'')</small> ;アラブ側・欧米の名称(2) - 「十月戦争」: 10月に戦争が勃発したことに由来。<br /> {{lang-ar|"حرب أكتوبر"}}<small>(''ハルブ・オクトーバル'')</small>または{{lang|ar|"حرب تشرين"}}<small>(''ハルブ・ティシュリーン'')</small><br /> {{lang-en|"October War"}}<small>(''オクトーバー・ウォー'')</small> ;または「ラマダン月10日戦争」 単に「'''ラマダン戦争'''」とも。[[ヒジュラ暦|イスラム暦の]][[ラマダーン|断食月(ラマダーン)]]10日に戦争が勃発したことに由来。<br /> {{lang-ar|"حرب العاشر من رمضان"}}<small>(''ハルブ・アーシル・ミン・ラマダーン'')</small><br /> {{lang-en|"Tenth of Ramadan War"}}<small>(''テンス・オブ・ラマダン・ウォー'')</small> ;欧米の名称(3) - 「1973年アラブ・イスラエル紛争」: 単に「'''1973年の戦争'''」という表記も見られる。<br /> {{lang-en|"1973 Arab-Israeli Conflict"}}<small>(''ナインティーセヴンティースリー・アラブ・イスラエリ・コンフリクト'')</small> ;日本の名称 - 「第四次中東戦争」: 「'''第4次中東戦争'''」という表記も存在。「[[消耗戦争]]」を「第四次中東戦争」とし、本戦争を「'''第五次中東戦争'''」とする文献もある<ref>滝川「ユダヤを知る辞典」。</ref>。<br /> {{lang-ja|だいよじ(よんじ)ちゅうとうせんそう}}、{{lang|ja|だいごじちゅうとうせんそう}} ''以下、戦争名はすべて「第四次中東戦争」で統一する。'' == 戦争の背景 == === 第三次中東戦争(1967年) === {{main|第三次中東戦争}} [[File:Six Day War Territories 2.png|thumb|250px|イスラエルは第三次中東戦争の勝利により、上図の薄橙色の部分を占領した。アラブ側はこの戦争の復讐を誓い、第四次中東戦争の要因の一つとなった。]] [[1967年]][[6月5日]]、[[イスラエル空軍]]は[[エジプト]]、[[ヨルダン]]、[[シリア]]、[[イラク]]の各空軍基地を攻撃、[[第三次中東戦争]]が勃発した。以前から[[チラン海峡]]{{refnest|group="注"|[[シナイ半島]]の南端に位置し、ここを封鎖されるとイスラエルは[[紅海]]方面への進出が困難になる。そのためイスラエルはここの封鎖を戦争行為とみなしていた。<ref>ヘルツォーグ、『図解中東戦争』、p147。</ref>}}の封鎖や部隊の展開により、「イスラエルの破壊」を声高に唱えていたアラブ側(エジプト・ヨルダン、シリアなど)にとってこの「先の先」を狙ったイスラエル軍の攻撃はまさに「[[奇襲]]」であり、開戦一日でアラブ側の航空戦力は壊滅、続く地上戦でもイスラエル軍の前にアラブ軍は敗走を重ね、イスラエルは6日間でエジプトから[[ガザ地区]]と[[シナイ半島]]全域を、ヨルダンから[[ヨルダン川西岸]]を、そしてシリアから[[ゴラン高原]]を奪取して戦争は終結した。エジプトは[[スエズ運河]]閉鎖により年間2億ドルの通関料収入を喪失し、ヨルダンは人口の45パーセントと東エルサレムの観光収入を失った<ref>[[#Muramatsu 1972|村松・1972年]] 253頁</ref>。イスラエルはこれら地域を占領したことで、エジプト正面では200km以上の縦深を得ることができ、イスラエル領内にエジプト軍の砲爆撃が及ぶ恐れがほぼなくなった<ref>[[#Takai 1983|高井・1983年]] 20頁</ref>。 一方で、イスラエル国内では第三次中東戦争の結果を受け、アラブ諸国との和平交渉がすぐにでも始まるような期待感が広がり<ref>[[#Chaim 1985|Chaim・1985年]] 191頁</ref>、終結後の1967年6月19日、イスラエルの[[レヴィ・エシュコル]]内閣は講和と非武装化を条件に、シナイ半島([[シャルム・エル・シェイク]]を除く)とゴラン高原の占領地返還を全員一致で閣議決定し、ヨルダン川西岸地区についてはヨルダンの[[フセイン1世|フセイン国王]]と交渉に入る動きがあった。しかし、誇り高きアラブの名誉を傷つけられたアラブ諸国はイスラエルとの和平交渉を受け入れることは到底できず、エジプトとシリアは戦争終結後ほどなくして[[ソビエト連邦]]の援助の下、軍の再建に着手したほか、8月29日から9月1日に[[スーダン]]の[[ハルツーム]]で開催されたアラブ首脳会議において、「'''イスラエルと交渉せず'''」、「'''イスラエルと講和せず'''」、「'''イスラエルを承認せず'''」のいわゆる「'''3つのノー'''」を決議した<ref>[[#Chaim 1985|Chaim・1985年]] 190頁</ref>。 11月22日に開催された[[国際連合安全保障理事会]]においては、イスラエル軍の占領地からの撤退や中東諸国すべての主権を認めることなどを求めた[[国際連合安全保障理事会決議242|安保理決議242]]を全会一致で可決したが、アラブ側はイスラエルが占領地から撤退しても戦争前の状態に戻るだけで第三次中東戦争敗北の事実は消えず、得られるものが何もないため決議の履行は困難だった。また、第三次中東戦争以降イスラエル軍とアラブ軍の戦力差はイスラエル優位で隔絶しており、アラブ側にとってこれまでの中東戦争で見られたように「イスラエルの破壊」を狙って全面戦争を仕掛けるよりも、限定的なものではあるとはいえ、領土奪還と同時にイスラエル軍に打撃を与えることで「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、アラブ優位の状態でイスラエルを交渉のテーブルにつかせる方が現実的であった。 === 消耗戦争・ヨルダン内戦(1968年 - 1970年) === ==== 消耗戦争 ==== {{main|消耗戦争}} [[File:Gamsi Canal Front .jpg|thumb|前線を視察するエジプト軍{{仮リンク|モハメド・アブドゥル・ガニ・エリ=ガマシィ|label=ガマシィ|en|Mohamed Abdel Ghani el-Gamasy}}作戦部長]] エジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]大統領は、イスラエルと第三次中東戦争の[[停戦]]を結んだ翌6月9日、敗北の責任を取り辞任の演説を行い、後任に{{仮リンク|ザカリア・ムヒエディン|en|Zakaria Mohieddin}}副大統領を指名した。しかし、エジプト唯一の政党である{{仮リンク|アラブ社会主義連合|en|Arab Socialist Union (Egypt)}}が扇動した退任反対の大規模デモを受け、ナーセルは辞任を撤回し、6月11日には[[アブドルハキーム・アーメル]]国防相のほか、陸海空軍司令官と多数の上級将校を敗北の責任から追放した<ref>[[#Muramatsu 1972|村松・1972年]] 234頁-235頁</ref>。 アラブ諸国の敗北は、援助国であるソビエト連邦にも衝撃を与え、1967年6月21日に[[ニコライ・ポドゴルヌイ]][[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]が[[マトヴェイ・ザハロフ]][[ソ連邦元帥|元帥]]を帯同して[[カイロ]]を訪問、エジプト軍再建の協議を行った<ref>[[#Tagami 1982|田上・1982年]] 190頁</ref><ref>[[#Mohamed 1975|Mohamed・1975年]] 50頁-51頁</ref>。同年7月末にはソビエト連邦から軍用機110機、戦車200~250輌等の兵器がエジプトに到着し、10月になると軍用機数が第三次中東戦争前の水準に回復し、戦車も700輌まで増強された。エジプトはソビエト連邦に大量の軍事顧問団の派遣も求め、数千人規模の軍事顧問団がエジプト入りし、エジプト軍の再編成と訓練にあたった。なお、ソビエト連邦は これらの対価として、[[アレクサンドリア]]や[[ポートサイド]]など港湾4箇所、[[カイロ西空軍基地]]など飛行場7箇所の使用権を得た<ref>[[#Kashima 2003|鹿島・2003年]] 170頁-171頁</ref>。 1967年10月21日、北アフリカ北東沿岸において哨戒中のイスラエル海軍所属[[駆逐艦]][[エイラート (駆逐艦)|エイラート]]がエジプト海軍の[[オーサ型ミサイル艇]]からの[[P-15 (ミサイル)|対艦ミサイル]]攻撃で撃沈された('''[[エイラート (駆逐艦)#エイラート事件|エイラート事件]]''')。 この事件は単に史上初めて対艦ミサイルが使用された攻撃<ref group="注">前述のように、史上初めて'''双方が'''対艦ミサイルを使用した海戦はラタキア沖海戦である。</ref> であったのみならず、第三次中東戦争以降下がり気味であったアラブ側の士気高揚に役立った。エジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]](以下ナセル)大統領は、小規模で効果的な攻撃を仕掛けることでアラブ側の士気を高め、逆にイスラエルに「'''戦争でも平和でもない'''」状態を強制することでイスラエルの疲弊と士気低下を狙ったのである。そして69年3月、ナセルは「'''[[消耗戦争]]'''」を称してイスラエルへの攻撃を本格化させ、スエズ運河では砲撃戦が行われた。これに対しイスラエルはエジプト本土への空爆、小部隊の襲撃をもって徹底的に応戦した。消耗戦争は断続的に約1年間続いたが、[[1970年]][[8月6日]]、アメリカの仲介によって停戦した。 また同年[[9月28日]]、ヨルダン内戦(後述)の仲介工作を行った直後に[[ガマール・アブドゥル=ナーセル#政権末期と死|ナセルが急死]]し、ナセルの後継者には[[エジプト革命_(1952年)|1952年のエジプト革命]]時にナセルの同志でもあった[[アンワル・アッ=サーダート]](以下サダト)副大統領が昇任することになった。だが、当時知名度がナセルより遥かに低かったサダトは世間から「つなぎ」の大統領だとみなされていた。 ==== ヨルダン内戦 ==== {{main|ヨルダン内戦}} シリア方面では、1969年2月28日の政変で[[ハーフィズ・アル=アサド]]国防相が実権を握ったあと、1970年11月の[[矯正運動 (シリア)|クーデター]]で全権を握った。これに前後してアサドは当時ヨルダン政府と[[パレスチナ解放機構]](以下PLO)との間で戦闘が行われていた('''[[ヨルダン内戦]]''')ヨルダンに介入し、陸軍をヨルダンに侵入させ、PLO支援を図った。このままではヨルダンとシリアの戦争に発展してしまうことは明らかであった。そこで、アメリカは空母部隊を[[地中海]]のイスラエル沖に派遣し、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。イスラエルは地上部隊をゴラン高原に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。当初はこのヨルダンの混乱に乗じてイスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが、その計画は見送られた。 結局、ナセルがヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOは受け入れを表明した[[レバノン]]へ本部を移転させることとなり、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した<ref group="注">これに不満を示した一部メンバーが結成したのが[[黒い九月]]である。</ref>。 === アラブの戦争準備・イスラエルの油断(1971年 - 1973年9月) === ==== アラブの戦争準備 ==== エジプト大統領に就任したサダトはナセルの外交路線を転換、親ソ連から親米路線を目指し<ref group="注">ただしソ連の対エジプト兵器供給は続いている。</ref>、アメリカの仲介によってイスラエルとの交渉を進めようとしたが、当時のアメリカ国務長官[[ヘンリー・キッシンジャー]]の言葉を借りれば「'''勝者の分け前を要求してはならない'''」<ref>ラビノビッチ、『ヨムキプール戦争全史』、p21。</ref> すなわちアラブ側が「負けっぱなし」のままでは交渉仲介に乗り出すことはできない、というのがアメリカの対応であった。このためサダトは領土奪還だけではなく、親米路線転換のきっかけとしても対イスラエル戦争を位置づけるようになった。1972年に入るとエジプトの戦争計画の具体化が進められ、イスラエルに「弱いアラブ軍」や「ソ連との不和」<ref group="注">1972年7月のソ連軍事顧問団の追放など。実際にはアメリカの中東情勢への介入を求めるものであったといわれる(アメリカは[[ベトナム戦争]]の対応で忙しかったため介入せず)。</ref> をイメージさせる情報を流す裏で、軍の改革や兵士の能力向上、ソ連からの供与兵器([[AT-3]]対戦車ミサイルや[[SA-6]]自走対空ミサイルなど)を有効活用した戦術の研究が進められた。同様に、シリア軍も地上部隊や対空戦力の増強を進めた。 1973年夏には、来たるべき対イスラエル戦争の作戦名が「'''[[バドル作戦 (第四次中東戦争)|バドル作戦]]'''」({{lang-ar|عملية بدر}};Operation Badr)<ref group="注">作戦名は[[624年]]に[[ムハンマド]]が初めてメッカ軍に勝利を収めた[[バドルの戦い]]に由来する。</ref> と定められ、開戦日にイスラエルの[[安息日#ユダヤ教|安息日]]かつ「一切の労働」<ref group="注">ラジオによる動員の発令なども「労働」に含まれる。</ref> が禁じられる、[[ユダヤ暦]]で最も神聖な日「[[ヨム・キプール]]」に当たり、その他の理由からも最適な'''1973年10月6日'''が選定された。<ref>高井、『第四次中東戦争』、p45。</ref> エジプトはシリアと連携して作戦計画の作成を活発化させ、同時に[[石油輸出国機構]](OPEC)や[[アラブ石油輸出国機構]](OAPEC)への戦争協力を要請した。 ==== イスラエルの油断 ==== イスラエルは諜報機関である[[イスラエル参謀本部諜報局]](以下アマン)や[[イスラエル諜報特務庁]](以下モサド)を通してアラブ側の戦争準備の動きをほぼ完全に捕捉していたが、第三次中東戦争での圧倒的勝利によってイスラエルには、(アラブ側の工作の結果もあって)「アラブ側の戦争能力を非常に低く見積もる」風潮があったため、ほとんど注意を払うことがなかった。 ここにアマンの局長[[:en:Eli Zeira|エリ・ゼイラ]]少将が作成した当時のイスラエルの状況認識を表した「'''コンセプト'''」(The Concept)という理論がある。<!-- これのヘブライ語呼称は何? --> すなわち、 # シリアがイスラエルに対して戦争を仕掛けるにはエジプトとの同時攻撃が不可欠である。 # エジプトが攻撃を決意するには第三次中東戦争の二の舞を避けるために空軍力の再建と、([[Tu-16]]や[[スカッド]]など)『攻撃的兵器』の装備が必要である。 # エジプトが空軍再建や『攻撃的兵器』の調達を実現するのはソ連が貸与を渋っているため、[[1975年]]までかかる。 # したがってアラブ側は少なくとも1975年まで戦争を仕掛けてこない(その時にはイスラエルの軍事力はさらに向上している)。 1975年より前にアラブ側が戦争準備を行ったとしても、それらは全て「本格的な戦争準備ではなく」、もし仮にアラブ側が戦争を行おうとも、「諜報機関が開戦48時間前にその情報をキャッチして動員が可能で、開戦2日目には反撃して第三次中東戦争以上の圧倒的勝利を収められる」とされた。その他にも第三次中東戦争の経験から、「遮蔽物のほとんどないシナイ半島の[[砂漠]]では[[対戦車砲]]や[[歩兵]]を戦車に見つからないよう隠すことは非常に困難であり、イスラエル軍戦車部隊は[[諸兵科連合|歩兵・砲兵の随伴]]がなくとも単独で突破戦力としての任務を遂行できる」(いわゆる「オールタンク・ドクトリン」)や、「地上部隊が少兵力でも、イスラエル空軍が『[[近接航空支援|空飛ぶ砲兵]]』として地上軍を常時援護できる」といった理論が語られた。 しかし、前述のようにアラブ側は「弱いアラブ軍」を演出する裏で軍の改革を推し進め、そのようなイスラエル軍の戦術への対処も行っていたのである。 [[1971年]]からアラブ側はイスラエルへの挑発を強め<ref group="注">サダトは1971年に「今年は決断の年である」、1973年には「軍事解決のみが残された道」と演説した。</ref>、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにイスラエルは年1回のペースで計3回の[[動員|動員令]]を発令した。だが3回とも戦争に発展することはなく、特に1973年5月の動員は6,200万[[新シェケル|イスラエルポンド]](45億円)<ref>ドロジ、『イスラエル生か死か(1)』、p5-7。</ref> という[[動員#動員の影響|経済損失]]から国民の不満が高まったため、イスラエル軍はこれ以上むやみに動員令を発令することはできなくなっていた。 また[[1972年]]5月30日の[[日本赤軍]]による[[テルアビブ空港乱射事件|ロッド空港乱射事件]]や9月5日の[[ミュンヘンオリンピック事件]]などユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発し、イスラエルは事件への対応や[[ミュンヘンオリンピック事件#イスラエルによる報復作戦|報復作戦]]に忙殺されることとなった。 === イスラエル軍の防衛計画 === ==== バーレブ・ライン ==== {{Main|バーレブ・ライン}} [[File:Bar Lev line fort.jpg|thumb|[[バーレブ・ライン]]の拠点。]] 1968年にイスラエル軍参謀総長{{仮リンク|ハイム・バーレブ|en|Haim Bar-Lev}}中将は、エジプト軍のスエズ運河東岸への攻撃に対処するため、[[アブラハム・アダン]]少将を長とする東岸防衛計画委員会にシナイ半島の防衛構想を参謀本部へ検討案として上程するよう命じた。委員会からの答申案は、東岸沿いに監視警戒と敵軍を拘束する拠点を11km間隔で15個配置し、拠点後方に機動予備部隊を配置して渡河進攻するエジプト軍に対処することを骨子とした内容だった<ref>[[#Takai 1983|高井・1983年]] 26頁</ref><ref>[[#Chaim 1985|Chaim 1985年]] 197頁-199頁</ref>。しかし、参謀本部の訓練部長[[アリエル・シャロン]]少将と計画室長[[イスラエル・タル]]少将は、この答申案に反対し、代わって機甲偵察部隊で東岸沿いを巡察警戒する方法を主張した。1969年にバーレブ参謀総長は委員会答申案を支持し、防衛線の構築が開始された。いわゆるバーレブラインと呼ばれる防衛線は同年3月15日に完成した<ref>[[#Chaim 1985|Chaim 1985年]] 199頁</ref>。 バーレブ・ラインは、スエズ運河東岸沿い約160kmにわたって構築され、33個の拠点と3線の築堤、4本のコンクリート舗装道路と3本の新道、指揮通信施設が設置された<ref>[[#Tagami 1982|田上 1982年]] 193頁-194頁</ref>。 === 開戦前夜(1973年9月13日 - 10月6日) === [[1973年]]9月13日、シリアの湾岸都市[[ラタキア]]に面するラタキア沖上において[[9月13日の航空戦 (1973年)|イスラエル空軍とシリア空軍が空戦]]、イスラエル1機、シリア13機の航空機を喪失。これに呼応する形でゴラン高原ではシリア軍の部隊が本格的な展開を始めた<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 203.</ref>。同時にスエズ運河正面では「'''タヒール(解放)23'''」(Tahir 23) 軍事演習と称してエジプト軍の大規模な展開が公然と進められた。当初イスラエルは、ゴラン高原では空中戦の影響があり、またスエズ運河正面では「あくまで軍事演習」であると信じたため、アラブ側の動向にほとんど対応策を取らなかった。 9月29日、[[チェコスロバキア]]・[[オーストリア]]国境において2人のパレスチナ人テロリストがソ連出身のユダヤ人を乗せて[[ウィーン]]に向かっていた列車を乗っ取り、ユダヤ人5人とオーストリア人税関職員1人を人質に取る事件があった。当時のオーストリア首相[[ブルーノ・クライスキー]]が[[シェーナウ]]のユダヤ人移民中継キャンプの閉鎖を提案、人質は解放された。イスラエルはオーストリアの対応に反発し、政府も[[ゴルダ・メイア]]首相が直々にオーストリアまで向かうなど<ref group="注">成果はなく、メイアは「コップ一杯の水も出してくれなかった」と漏らしている。</ref> の対応に追われた。この事件はテログループがシリア軍の支配下組織とつながりがあったことから、アラブ側の欺瞞工作であったとする説もあるが、真相は不明である。いずれにせよイスラエルの世論は主にこの事件に注目し、国境付近でのアラブ軍の展開は見過ごされがちとなった。 10月5日、依然アマンは「戦争の可能性は低い」としていたものの、参謀総長の[[ダビッド・エラザール]]中将は、イスラエル軍に「'''Cレベル'''」<ref group="注">平時における最大の警戒レベルで、これが発令されたのは第三次中東戦争以来。</ref> の警戒を発令、同時に第一線部隊の増強が図られた。しかしながら戦争に発展する確信がなく、5月の失敗(前述)からも動員令は発令されず、第一線部隊だけでアラブ軍を相手にするには不安があった<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 212.</ref><ref>ラビノビッチ、『ヨムキプール戦争全史』、p76-77。</ref>。 10月6日午前4時、「ヨム・キプール」の日の朝、これまでのアラブ側の動きを「本格的な戦争の準備ではない」としてあらゆる戦争の可能性を一蹴し続けてきたアマン局長のゼイラ少将はこれまでの主張を覆して「今日の夕方18時にも戦争が勃発する」との警告を出した<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p212。</ref> 。この報告を受けて、エラザールは国防相の[[モシェ・ダヤン]]に空軍の先制攻撃<ref group="注">空軍の対空ミサイル基地掃討作戦は先制攻撃を前提として作られていた。</ref> の許可を求めたが、アメリカをはじめとする諸外国から第三次中東戦争同様イスラエルは好戦的な国家であると見なされないために、これは却下された。また20万名の総動員も同様の理由から却下された。結局午前10時に15万人の動員令が発令され<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、pp. 212-213.</ref>、第一線部隊も戦闘準備を行った。だがゼイラの予測より早い14時{{refnest|group="注"|アラブ側でも作戦開始時刻は厳重に秘匿され、エジプト軍では師団長クラスでさえ作戦開始時刻を知らされたのは6日当日であった。<ref>高井、『第四次中東戦争』、p63。</ref><ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 210.</ref>}}、エジプト・シリア両軍のイスラエルへの攻撃が開始された。 イスラエルは第三次中東戦争でアラブ側がそうであったように、(皮肉にもそのアラブ側から)「'''奇襲'''」を受けることとなった。 == 戦争の推移 == ''以下、本稿では「ゴラン高原」とはゴラン高原周辺の戦区を、「シナイ半島」とはスエズ運河・シナイ半島周辺の戦区を指すものとする。'' === 開戦 === 第四次中東戦争の開戦時において、[[エジプト軍]]は[[スエズ運河]]渡河作戦を計画した。その作戦名が、'''バドル作戦'''(バドルさくせん、{{lang-ar|عمليةبدر}})または'''バドル計画'''(バドルけいかく、{{lang-ar|خطة بدر}})である。1973年10月6日、スエズ運河西岸に展開したエジプト軍{{仮リンク|第2野戦軍 (エジプト陸軍)|label=第2軍|en|Second Army (Egypt)}}、{{仮リンク|第3野戦軍 (エジプト陸軍)|label=第3軍|en|Third Army (Egypt)}}が10地点で渡河を行い、東岸のイスラエル軍防衛線([[バーレブ・ライン]])を突破、10月8日までに縦深10から13kmの橋頭堡を確保した。また、本作戦と並行して[[シリア軍]]による{{仮リンク|ゴラン高原の戦い (第四次中東戦争)|label=ゴラン高原進攻|he|קרבות הבלימה והתקפת הנגד הישראלית ברמת הגולן}}が行われた。 イスラエル軍は予期していなかったエジプト・シリア軍の奇襲攻撃により、緒戦で敗北を喫し、各地で苦戦を強いられることとなった。 [[File:Egyptian Army Leaders in 6th Oct 1973 War.jpg|thumb|戦況図を見つめるエジプト軍首脳。<br>(中央)[[アンワル・サダト|サダト]]大統領、(右)ガマシィ作戦部長、(左){{仮リンク|アフマド・イスマイル=アリ|label=イスマイル|en|Ahmad Ismail Ali}}国防相。]] ==== 10月6日 ==== [[File:1973 sinai war 6-13 en.jpg|thumb|1973年10月6日のエジプト軍による攻勢とイスラエル軍の反撃。<br>赤:エジプト軍、青:イスラエル軍]] 1973年10月6日13:50から14:43にかけてエジプト軍は、スエズ運河東岸のバーレブ・ラインに対して攻撃準備射撃を行い、135個砲兵大隊約2,000門の砲迫から約3,000tの砲弾が拠点、機甲部隊集結地、砲兵陣地、指揮所等の目標に降り注ぎ、[[土塁]]の前方斜面に埋設された[[地雷]]等の人工障害物は[[多連装ロケット砲]]の掃射で破壊された。また、戦車砲等の直接照準火器約2,000門も攻撃に加わり、各種工作物を砲撃した。14:20からは3か所の陣地に展開した[[スカッド]]地対地ミサイル10基と[[FROG (ロケット兵器)|FROG]]地対地ロケット20基が、ウムハシバ(Umm Hashiba)のSIGINT施設、タサ(Tasa)、ビルギフガファ(Bir Gifgafa)の師団指揮所を攻撃した<ref>[[#Takai 1983|高井・1983年]] 67頁-68頁</ref>。 14:00には240機のエジプト空軍機がスエズ運河を越え、シナイ半島の航空基地3か所、補助航空基地3か所、[[ホーク (ミサイル)|ホーク]]地対空ミサイル陣地10か所、砲兵陣地2か所、指揮所3か所、[[レーダーサイト]]2か所、SIGINT施設2か所、[[段列|段列地域]]3か所、拠点ブダペストを空爆した<ref>[[#Takai 1983|高井・1983年]] 68頁-73頁</ref><ref>[[#Chaim 1985|Chaim・1985年]] 232頁</ref>。 ==== スエズ運河渡河 ==== [[File:Egyptian water cannons.jpg|thumb|築堤に消火用ポンプで放水して開口するエジプト軍工兵。]] 14:05、エジプト軍本隊の渡河に先立ち、[[対戦車兵器|対戦車火器]]を携行したレンジャー部隊がゴムボートで渡河し、ロープや竹梯子で堤防をよじ登り、東岸1kmまで進出して阻止陣地を構築、イスラエル軍機甲部隊の反撃に備えた<ref>[[#Tagami 1982|田上・1982年]] 257頁</ref>。14:20に第一波の5個歩兵師団8,000名が1,000艘のゴムボートに分乗して渡河を開始。この第一波には[[工兵]]のほか、誘導要員、砲兵隊の前進観測班も含まれていた<ref>[[#Takai 1983|高井・1983年]] 79-92頁</ref>。第二波には歩兵部隊と消火用ポンプを装備した工兵隊80組が含まれ、15分間隔で15波に分かれて渡河した。 ==== ポートサイド方面 ==== {{Main|{{仮リンク|拠点ブダペストの戦い|en|Battles of Fort Budapest}}|{{仮リンク|拠点ラザニの戦い|en|Battle of Fort Lahtzanit}}}} === アラブの二正面作戦(1973年10月6日 - 10月10日) === ==== ゴラン高原方面 ==== [[File:Syrian Tank Blocked From Attacking an IDF Post - Flickr - Israel Defense Forces.jpg|250px|thumb|ナファク基地手前で(停戦ライン上の「拠点116」とする文献も存在する)撃破されたシリア軍のT-55戦車。]] {{Main|{{仮リンク|ゴラン高原の戦い (第四次中東戦争)|he|קרבות הבלימה והתקפת הנגד הישראלית ברמת הגולן|label=ゴラン高原の戦い}}|[[ナファク基地攻防戦]]|[[涙の谷]]|{{仮リンク|第一次ヘルモン山攻防戦|en|First Battle of Mount Hermon}}}} ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃の後、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。<ref name="高井47">高井「ゴランの激戦」P47。</ref> 対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団([[第36機甲師団 (イスラエル国防軍)|第36機甲師団]])、戦車数にしてシリア軍1,220輌{{Refnest|group="注"|各歩兵師団の戦車定数は240輌であり、戦車師団は250輌である。<ref>高井「ゴランの激戦」P41 - 42</ref>}}対イスラエル軍177輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P30.</ref> である。 ゴラン高原北側へのシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の[[第7機甲旅団 (イスラエル国防軍)|第7機甲旅団]]は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車や車輌を次々と撃破したのちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭の[[共和国防衛隊 (シリア)|共和国親衛旅団]]の増援を得つつ、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した<ref name="Dunstan59">Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P59.</ref> が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260と他車輌500<ref name="Dunstan59" /> を失う。 これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の[[第188機甲旅団 (イスラエル国防軍)|第188機甲旅団]](戦車定数72輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P11.</ref>)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上でシリア軍戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65km<ref name="高井47" /> だが、うち40kmを第188機甲旅団が担当した<ref>高井「ゴランの激戦」P56。</ref>)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P43.</ref> にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した<ref>葛原「機甲戦の理論と歴史」P150。</ref> 第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。 6日夜、これらのシリア軍とイスラエル本土の間にイスラエル軍の部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍は、動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごとに逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。こうした部隊を率いた戦車兵の一人、{{仮リンク|ツビ・グリンゴールド|en|Zvika Greengold|label=ツビ(ツビカ)・グリンゴールド}}中尉が指揮した小隊規模の戦車隊「ツビカ隊」は夜間にゴラン高原を南北に走る[[トランス・アラビアンパイプライン|TAPライン]]上に展開、ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団の指揮所があった{{仮リンク|キャンプ・ヤーコブ|he|מחנה יצחק|label=ナファク基地}}に向かおうとする第5歩兵師団の戦車を一晩中延滞させることに成功した。 だが7日正午にはシリア軍第1戦車師団のT-55戦車がナファク基地に突入、第36機甲師団長[[ラファエル・エイタン]]少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが、「ツビカ隊」をはじめ各戦車隊がこれを撃退。 この頃になると、イスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団({{仮リンク|第210地域師団 (イスラエル国防軍)|en|366th Division (IDF)|label=第210}}、 {{仮リンク|第319予備役機甲師団 (イスラエル国防軍)|he|עוצבת המפץ|label=第146予備役機甲師団}})がゴラン高原展開を完了。8日からこれら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍は、10日までにシリア軍をゴラン高原から追い出した。 これに前後して10月6日、シリア軍第82空挺大隊がヘルモン山頂のイスラエル軍監視哨を占領。イスラエルにとって「国家の目」であるヘルモン山をシリア軍に砲兵観測所として利用されるのを恐れたイスラエル軍は8日、[[ゴラニ旅団 (イスラエル国防軍)|ゴラニ歩兵旅団]]による奪回作戦を試みたが、失敗した。 ==== シナイ半島方面 ==== [[ファイル:1973 sinai war maps.jpg|thumb|250px|シナイ半島方面(南部戦線)の戦況。<br>左:1973年10月6日 - 13日、右:同14 - 15日<br>赤:エジプト軍、青:イスラエル軍]] {{main|バドル作戦 (第四次中東戦争)}} シナイ半島方面ではエジプト軍の5個歩兵師団がスエズ運河を渡河、橋頭保を築くと同時に運河沿いに作られたイスラエル軍の拠点群、通称「[[バーレブ・ライン]]」に対して攻撃をかけた。 イスラエル軍はすぐさま第252機甲師団(3個旅団基幹、以下第252師団)と空軍機が反撃を行ったものの、第252師団の3個機甲旅団はすべてエジプト軍の構築した対戦車兵器による防衛網によって次々と壊滅させられた。空軍機も同様に、低空用・高空用対空火器を巧妙に組み合わせたエジプト軍の「ミサイルの傘」の前にほとんど有効な航空攻撃を行えなかった。 ゴラン高原同様7日から8日にかけてイスラエル軍予備役部隊の第162予備役機甲師団(以下第162師団)と第143予備役機甲師団(以下第143師団)が到着、8日にはこれら2個師団による反撃が行われたが、第162師団は6日同様エジプト軍の対戦車兵器によって大損害をこうむり、第143師団は戦場を迷走したためほとんど戦闘に参加できず、イスラエル軍の反撃は再び失敗した。 一方、エジプト軍は「スエズ運河東岸に橋頭保を築いて停戦を待ち、シナイ半島は戦後交渉によって奪還する」という作戦の第一段階が完了したため、むやみな攻撃をかけずに橋頭保の強化につとめ、戦況は膠着状態となった。 ==== その他 ==== イスラエル軍はゴラン高原、シナイ半島で二正面作戦を強要され、一時はゴラン高原、シナイ半島の放棄、そして「'''第三神殿の滅亡'''」<ref group="注">「第三神殿」とは[[ソロモン|ソロモン王]]、[[ヘロデ大王]]の建てた神殿に次ぐ神殿、すなわち現代のイスラエルを意味する[[隠語]]である。</ref> も考えられた。 このためイスラエルでは'''[[イスラエルの大量破壊兵器|核兵器の使用]]'''が真剣に検討され、実際に[[ディモナ]]核施設では航空機用核弾頭13発が用意された。しかし、戦況がやや好転したため、使用の機会は免れることとなった<ref>高井、『ゴランの激戦』、p64</ref>。 === イスラエルの反撃(1973年10月11日 - 10月17日) === ==== ゴラン高原方面 ==== 10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始。シリア軍や新たに参戦したイラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらも、イスラエル軍はシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが、それ以上の進撃は中止された。アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、'''ダマスカスを陥落させるとソ連軍が参戦する'''との警告がアメリカよりもたらされたからとされている{{要出典|date=2019年3月}}。 ==== シナイ半島方面 ==== [[File:Battle at Chinese Farm - Flickr - The Central Intelligence Agency.jpg|thumb|250px|「中国農場」近郊で遺棄されたイスラエル軍の[[マガフ]]戦車と[[M113]]兵員輸送車。]] {{main|10月14日の戦車戦|中国農場の戦い|アビレイ・レブ作戦}} 8日以降戦況は膠着し、大規模戦闘はなかったものの、シリアから自国の苦戦を救うためシナイ半島での攻勢がエジプトに要請された。このためエジプト軍は全面攻勢を開始、10月14日、[[10月14日の戦車戦|イスラエル軍との間に大規模な戦車戦が発生した]]。「ミサイルの傘」を出たエジプト軍は待ち伏せするイスラエル地上軍だけでなく空軍からも苛烈な反撃を受け、エジプト軍が約200輌の戦車を喪失、攻撃は失敗した。この戦闘の勝利によってイスラエル軍はシナイ半島でも戦闘の主導権を取り戻し、スエズ運河の逆渡河作戦を進めることとなった。 15日、イスラエル軍の逆渡河作戦「'''[[アビレイ・レブ作戦|ガゼル作戦]]'''」(Operation Gazelle)が開始された<ref group="注">「'''ストロングハート作戦'''」(Operation Strong Heart)とする資料もある。</ref> 。イスラエル軍は渡河点近郊の農業試験場、通称「'''[[中国農場の戦い|中国農場]]'''」などでエジプト軍の強固な抵抗にあったものの、16日未明には空挺旅団と戦車旅団が逆渡河に成功、17日には第162師団主力が渡河、対空ミサイル基地を掃討しながら「アフリカへの進撃」を開始した。 ==== その他 ==== [[File:Nickel Grass M60 C-5.jpg|right|thumb|250px|[[C-5]]輸送機から卸下されるM60戦車。]] {{see also|[[ニッケル・グラス作戦]]}} イスラエル・アラブ両陣営は激戦により、戦車・航空機・弾薬を急激に消耗、それぞれの陣営の兵器のおもなクライアントであったアメリカとソ連にとって「自国製兵器で編成された軍隊」が敗北することは中東プレゼンスの弱体化にもつながるのみならず、中東域外における兵器の販売にも悪影響を与える一大事となるため、ソ連は9日からエジプトとシリアの両国に、アメリカは14日からイスラエルに対し大規模な軍需物資輸送作戦を開始。最終的にアメリカが作戦機800機、戦車600輌を含む約2.2 - 2.8万トン、ソ連が作戦機200機、戦車1,000輌を含む約1.5 - 6.4万トン<ref>松村、『新・戦争学』、p161。</ref><ref>ラビノビッチ、滝川『ヨムキプール戦争全史』、p496。</ref> の軍需物資を供給。これら物資が損害を完全に埋め合わせることはなかったものの、イスラエルとアラブの両陣営にとって「超大国が支援している」ということの心理的・政治的効果は大きかった。 エジプトおよびシリア以外のアラブ諸国も戦争に協力し、[[イラク]]と[[ヨルダン]]はそれぞれ各個独立旅団、2個機甲師団をゴラン高原に派遣し、また[[モロッコ]]と[[サウジアラビア]]、[[スーダン]]の部隊がゴラン高原に、シナイ半島では[[アルジェリア]]と[[リビア]]、[[モロッコ]]、PLO、[[クウェート]]、[[チュニジア]]<ref>Hussain, Hamid (November 2002) "Opinion: The Fourth round — A Critical Review of 1973 Arab-Israeli War A Critical Review of 1973 Arab-Israeli War" Defence Journal.</ref><ref>O'Ballance, Edgar (November 1996). No Victor, No Vanquished: the Yom Kippur War. Presidio Press. ISBN 978-0-89141-615-9. p. 122.</ref> の部隊が戦闘に参加。パキスタンの軍<ref>Bidanda M. Chengappa (1 January 2004). Pakistan: Islamisation Army And Foreign Policy. APH Publishing. p. 42. ISBN 978-81-7648-548-7.</ref><ref>Simon Dunstan (20 April 2003). The Yom Kippur War 1973 (2): The Sinai. Osprey Publishing. p. 39. ISBN 978-1-84176-221-0.</ref><ref>P. R. Kumaraswamy (11 January 2013). Revisiting the Yom Kippur War. Routledge. p. 75. ISBN 978-1-136-32895-4.</ref> やレバノンの対空レーダー部隊がシリアに派兵され<ref>[http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/History/73_War.html " The Yom Kippur War"]. Jewishvirtuallibrary.org. October 6, 1973.</ref>、さらにソ連の後援を受ける[[キューバ]]も戦車やヘリコプターなどの隊をシリアに送り<ref>Perez, Cuba, Between Reform and Revolution, pp. 377–379. Gott, Cuba, A New History, p. 280</ref><ref>Bourne, Peter G. (1986). Fidel: A Biography of Fidel Castro. New York: Dodd, Mead & Company</ref>、[[北朝鮮]]のパイロットはエジプトの空軍基地の防空任務に就いていた<ref>ラビノビッチ、滝川『ヨムキプール戦争全史』、p471。</ref>。 戦況がイスラエル優位に傾きつつあった[[10月16日]]、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はイスラエル支援国(アメリカと[[オランダ]])に対する石油輸出禁止、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定した。また、同時期、[[国際石油資本|オイルメジャー]]代表と[[原油価格]]交渉を行っていた[[石油輸出国機構|OPEC]]のペルシャ湾岸産油国(非アラブ国でペルシャのイランを含む)は原油公示価格大幅引き上げを決定。長期にわたる先進諸国の高度成長による石油需給の引き締まりを背景に徐々に上昇していた[[原油価格]]は、これを契機に一機に高騰した。その後、OPECは加盟国の原油価格(公式販売価格)を総会で決定する方式を定着させ、国家間カルテルに転じた。高騰した[[原油価格]]は、石油禁輸や供給削減という政策が停止した後も、高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった([[オイルショック]])。 それまで欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみれば、自国の資源を自国で管理したいという'''[[資源ナショナリズム]]'''の高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、原油価格と原油生産の管理権はメジャーからOPECへ移った。すでに、1960年代後半から欧米で顕在化していた[[スタグフレーション]]は、石油危機によって、先進国全体に一挙に拡大、深化することとなった。 === 停戦(1973年10月18日 - 10月25日) === ==== ゴラン高原方面 ==== ダマスカス平原周辺では戦闘は小競り合い程度にとどまっていたが、21日夜、停戦決議を前にしてイスラエル軍によるヘルモン山の奪回作戦が再び行われた。シリア側山頂は容易に占領できたものの、イスラエル側山頂ではシリア空挺部隊の反撃が苛烈でイスラエル軍は多数の死傷者を出した。しかし22日の午前11時には山頂の観測所周辺が奪回された。23日、ダマスカス平原においてシリア軍とイラク軍、ヨルダン軍による攻勢が予定されていたものの、シリアが停戦決議(後述)を受諾したために攻勢は中止され、戦闘は終結することとなった。 ==== シナイ半島方面 ==== {{main|スエズ市の戦い (第四次中東戦争)}} 第162師団に続きスエズ運河を渡河した第143、第252師団の計3個師団は、運河東岸のエジプト第2軍・第3軍を包囲しようと[[イスマイリア]]・[[スエズ]]市に向けて進撃した。第143師団はイスマイリア郊外で進軍を停止、第162師団は運河西岸を確保、第252師団はカイロ―スエズ街道を封鎖し、エジプト第3軍を包囲、停戦交渉の「人質」とした。第三次中東戦争同様エジプトが再び決定的敗北を喫することを危惧したアメリカ・ソ連をはじめとする国連安全保障理事会(以下安保理)は停戦工作を推し進め、10月22日、停戦を求めた'''[[国際連合安全保障理事会決議338|国連安保理決議第338号]]'''が決議され、同日18時52分より発効した。しかしイスラエル軍は作戦行動を続け、24日には162師団がスエズ市攻略を強行したが、守備部隊の抵抗にあって失敗した。25日には国連安保理決議340にしたがって[[第二次国際連合緊急軍]]が編成され、停戦監視の任につくようになった。 ==== 停戦交渉と米ソの対立 ==== 戦況がイスラエル優位に傾き始め、アラブ側の敗北が現実味を帯びてきた上、停戦決議後も作戦行動を続けるイスラエルに対し、ソ連は実戦部隊の展開準備を進め、実際に空輸作戦(前出)に従事していた輸送機を空挺部隊の兵員輸送用に改装するため空輸作戦は停止され、[[黒海艦隊]]も増強された。これに対しアメリカは10月25日、[[デフコン]]をデフコン4からデフコン3(防衛準備態勢)に引き上げ、第6艦隊への空母部隊の増援、[[第82空挺師団]]の出動準備、核搭載[[B-52]]爆撃機のグアムから本国基地への移動をもって対応した。一時は「'''第三次世界大戦'''」の勃発も騒がれたが、イスラエル軍の作戦行動中止と同時に事態は沈静化した。 == 戦争の影響 ==<!--作りかけの未編集です--> === 政治的影響 === [[File:Anwar Sadat cropped.jpg|thumb|right|220px|エジプトの[[アンワル・サダト]]大統領]] エジプトやシリアをはじめとするアラブ諸国は、またもやイスラエルに軍事的敗北を喫したものの、緒戦での勝利によってサダトの思惑通り、イスラエルと対等な条件で交渉に乗り出すことができるようになった。特に戦争前の1972年7月に約2万人ともされたソ連の軍事顧問団を追放して対ソ関係を悪化させていたエジプトにとってはアメリカと関係修復するきっかけにもなった<ref>{{Cite news |url=https://www.eg.emb-japan.go.jp/j/egypt_info/basic/rekishi.htm|title=エジプト基礎情報~歴史 |work=駐エジプト日本国大使館 |accessdate=2019-07-15}}</ref>。<!-- enに1975年9月4日締結された「シナイ暫定合意(https://en.wikipedia.org/wiki/Sinai_Interim_Agreement)」がある。 --> エジプトは1974年2月にアメリカとの国交を正常化させて軍事的経済的援助を受け<ref>Craig A. Daigle, "The Russians are going: Sadat, Nixon and the Soviet presence in Egypt." Middle East 8.1 (2004): 1.</ref><ref>Moshe Gat (2012). In Search of a Peace Settlement: Egypt and Israel Between the Wars, 1967-1973. Palgrave Macmillan. pp. 256–58.</ref>、1976年3月にはソ連との友好協力条約を破棄し、翌4月にサダト大統領は[[中ソ対立]]を起こしていた[[中華人民共和国]]にムバラク副大統領を派遣して[[毛沢東]]と会見させてソ連製武器のスペアとなる中国製武器を購入した<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/1976/04/22/archives/egypt-and-china-sign-arms-pact-hail-closer-ties-cairo-is-said-to.html|title=EGYPT AND CHINA SIGN ARMS PACT, HAIL CLOSER TIES|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=1976-04-22|accessdate=2019-07-15}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.360doc.com/content/15/0908/10/7536781_497643422.shtml|title=长城拥抱苏伊士:中埃军事合作的那些事儿 |work=360doc个人图书馆 |date=2015-09-08 |accessdate=2019-07-15}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1979/06/06/china-will-sell-arms-to-egypt-sadat-announces/3c70f99a-2fa6-4dea-a92e-b8fbd8d0a97c/|title=China Will Sell Arms to Egypt, Sadat Announces |work=[[ワシントン・ポスト]] |date=1979-06-06 |accessdate=2019-07-15}}</ref>。さらに同年9月には同じく親米のサウジアラビアやモロッコなどとともに結成した反ソ同盟{{仮リンク|サファリ・クラブ|en|Safari Club}}の本部をカイロに置き<ref>Heikal, Iran: The Untold Story (1982), p. 114.</ref><ref>Cooley, John. Unholy Wars: Afghanistan, America and International Terrorism. London: Pluto Press, 1999; 3rd edition, 2002. ISBN 9780745319179 p.17</ref>、{{仮リンク|第一次シャバ紛争|en|Shaba I}}や[[オガデン戦争]]において[[ザイール]]と[[ソマリア]]を支援して[[アフリカ]]でソ連を牽制し<ref>Bronson, Thicker than Oil (2006), p. 134. </ref>、1979年の[[ソ連のアフガニスタン侵攻]]を批判して[[モスクワオリンピック]]をボイコットして反政府武装勢力の[[ムジャーヒディーン]]への支援も表明した<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1981/09/23/world/sadat-says-us-buys-soviet-arms-in-egypt-for-afghan-rebels.html|title=SADAT SAYS U.S. BUYS SOVIET ARMS IN EGYPT FOR AFGHAN REBELS |work=[[ニューヨーク・タイムズ]] |date=1981-09-23 |accessdate=2019-07-12}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/02/14/egypt-says-it-trains-afghan-rebels/a09f455a-fca0-48c0-b7fe-12e8c9bcede6/|title=Egypt Says It Trains Afghan Rebels |work=[[ワシントン・ポスト]] |date=1980-02-14 |accessdate=2019-07-12}}</ref>。 そしてエジプトとイスラエル間では1978年に[[キャンプ・デービッド合意]]が、続いて1979年3月26日に'''[[エジプト・イスラエル平和条約]]'''が締結され、エジプトがイスラエルを国家承認することと<ref group="注">2015年現在でもイスラエルを「国家」と承認している周辺国はエジプトと、ヨルダン(1994年)のみ。</ref>、イスラエルがシナイ半島から撤退することが定められた。この条約によって中東戦争は事実上終結することとなった。 両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。ただし、[[パレスチナ問題]]の解決については進展はなかった。またエジプトが「抜け駆け」したことに周辺アラブ諸国は猛反発し、1978年にイラクの[[バグダード]]で行われた首脳会議で[[アラブ連盟]]より参加資格停止にされ<ref> Tucker, Spencer C.; Roberts, Priscilla (12 May 2008). The Encyclopedia of the Arab-Israeli Conflict: A Political, Social, and Military History [4 volumes]: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. ISBN 9781851098422.</ref>、1990年までエジプトは復帰できなかった。{{仮リンク|1978年アラブ連盟首脳会議|en|1978 Arab League summit}}を主催してエジプトの追放に成功したイラクはエジプトに代わるアラブの盟主になることも目論み<ref>Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 (Winter 1979-80)</ref>、後に[[イラン・イラク戦争]]を引き起こす原因の1つになったともされる。サダト大統領自身も1981年10月6日の本戦争記念パレード最中に、エジプト軍内の反対派によって{{仮リンク|アンワル・アッ=サーダート暗殺事件|label=暗殺|en|Assassination of Anwar Sadat}}された。 シリアとイスラエル間では平和条約の締結こそなかったが、アメリカのキッシンジャー国務長官の「'''[[シャトル外交]]'''」と称された仲介工作によって、停戦協定が結ばれ、またゴラン高原のイスラエルとシリア間の国境には緩衝地帯が設けられ、[[国際連合兵力引き離し監視軍]]が停戦監視に当たるようになった。 === 社会的影響 === [[ファイル:Golda Meir 03265u.jpg|thumb|right|220px|イスラエルの[[ゴルダ・メイア]]首相]] [[File:Ci-Club12.jpg|thumb|right|220px|第143師団を指揮、名声を博した[[アリエル・シャロン]]少将]] 初めてアラブの侵攻を受け、緒戦で敗北を喫したイスラエル社会は激しく揺さぶられた。奇襲を予想しなかった国防の準備不足は国防大臣[[モーシェ・ダヤン]]の責任となり、世論はダヤンの辞職を要求し、最高裁長官は紛争中にダヤンの職務調査を指示した。委員会は首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。翌[[1974年]]にダヤンは[[ゴルダ・メイア]]首相に辞表を提出し、ゴルダ・メイア自身も辞任し[[イツハク・ラビン]]に首相の座を譲った。 合計約19,000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡した。エジプトとシリア空軍はその対空防御により114機のイスラエル機を撃墜したが、その3倍以上の自軍の航空機442機を失った。その中には、数十機におよぶ自軍の対空ミサイルの誤射で撃墜されたものを含む。 なお、戦闘機パイロットとして出撃したサダト大統領の弟も緒戦で戦死している。この戦争で国民的英雄となった当時空軍司令官で、後のエジプト大統領[[ホスニー・ムバーラク]]がサダトから副大統領に抜擢された。 === 軍事的影響 === [[File:Maljutka-AT-3-Sagger-batey-haosef.jpg|thumb|220px|[[9M14 (ミサイル)|9M14"マリュートカ"]]]] [[File:Tiran-5-latrun-1.jpg|thumb|220px|イスラエル軍は第三次中東戦争で捕獲したT-54/55戦車を改装し、写真のようなTiran-4/5戦車として投入した]] 本戦争は冷戦期の戦争において、双方の陣営がほぼ同レベルかつ比較的最新鋭の兵器を投入した数少ない戦争であった。とくに[[9M14 (ミサイル)|AT-3"サガー"]](ソ連名9M14"マリュートカ")対戦車ミサイルや[[2K12|SA-6"ゲインフル"]](ソ連名2K12"クープ")自走対空ミサイルの活躍が有名である。エジプト軍はこれらの兵器を他の対戦車火器や対空兵器と組み合わせることで濃密な防衛網を構築し、緒戦で反撃に向かったイスラエルの戦車部隊や航空機に多大な損害を与えた。 一方、戦車業界にとっては現代版[[クレシーの戦い]]とも称された。対戦車ミサイルで戦車が次々と撃破されたことは衝撃的であり、一時は「戦車不要論」も唱えられた。本戦争以降開発された第3世代主力戦車は対戦車火器の火力にも十分耐えうる複合装甲を導入したが、装甲の弱い上部を狙ってトップアタックを行うミサイルも登場するなどイタチごっこが続いている。 また、戦車部隊と歩兵部隊の協同作戦の重要さも再確認され、各国で戦車部隊の行軍に追随できる[[歩兵戦闘車]]や[[装甲兵員輸送車]]の開発、配備が推し進められた<ref group="注">[[BMP-1]]歩兵戦闘車は本戦争で初めて実戦投入された。</ref>。 === 日本への影響 === 戦争中に行われたアラブ石油輸出国機構の親イスラエル国に対する石油禁輸措置と、それに伴う石油輸出国機構(OPEC)の石油価格引き上げは、第1次オイルショック(第1次石油危機)を引き起こし、石油禁輸措置の直接の対象となったアメリカやオランダのみならず、日本をはじめとする先進工業国における石油価格の高騰を招いた。 日本はイスラエルとアラブ諸国のどちらにも与しない中立的な外交を取っていたが、アメリカと[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|同盟]]を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高いため、[[三木武夫]][[副総理]]を中東諸国に派遣して支援国家リストから外すように交渉する一方で、[[国民生活安定緊急措置法]]や[[石油需給適正化法]]を制定して事態の深刻化に対応した。 しかし相次いだ便乗値上げなどにより[[インフレーション]]が加速された上に、[[整備新幹線]]の着工延期などの公共工事への投資抑制や民間企業の投資抑制も行われ、[[高度経済成長]]が終焉することになった。また「[[トイレットペーパー騒動]]」や「洗剤騒動」などが全国で巻き起こった。 == 第四次中東戦争およびそれに関連する事項を題材とした作品 == ;映画 * 『[[キプールの記憶]]』(DVD邦題『キプール 勝者なき戦場』)([[2000年]]イスラエル) * 『[[ミュンヘン (映画)|ミュンヘン]]』([[2005年]]アメリカ) * 『[[ファラオの処刑]]』([[2008年]]イラン、日本未公開) <!-- 第四次中東戦争に限定すると『キプールの記憶』しかありません! --> ;ボードゲーム * The Gamers,''Yom Kippur''(1995)(国際通信社発行「コマンドマガジン日本語版」第65号付録ゲーム「ヨム・キプール:第四次中東戦争」で[[リメイク]]。) * The Gamers,''Height of Courage''(2013) この他にも「中国農場の戦い(Battle of Chinese farm)」などのタイトルでボードゲームが多数発表されている。 ;コンピュータシミュレーションゲーム * [[スーパー大戦略]]([[メガドライブ]]) - 複数収録されているマップの中に「Yom Kippur War」という名前のシナイ半島戦線を再現したマップがあり、プレイヤーは「イスラエル」か「エジプト」を選択してゲームを進める。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="autogenerated6">Schiff, ''A History of the Israeli Army'', p. 328.</ref> <ref name="Rabinovich, p54">{{cite book |last=Rabinovich |title=The Yom Kippur War |page=54}}</ref> <ref name="Shazly p.244">Shazly, p. 244.</ref> <ref name=knapp>{{cite book|title=Combined Arms in battle since 1939 |chapter=4: Antiarmor Operations on the Golan Heights |chapter-url=http://www.cgsc.edu/carl/resources/csi/Spiller/Spiller.asp#4AO |author=Major George E. Knapp |publisher=U.S. Army Command and General Staff College |year=1992 |access-date=1 June 2009 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20100507120017/http://www.cgsc.edu/carl/resources/csi/Spiller/Spiller.asp |archive-date=7 May 2010}}</ref> <ref name="Rabinovich, 314">Rabinovich, p. 314.</ref> <ref name=Rabinovich464-465>Rabinovich, pp. 464–465.</ref> <ref name="cmu1978">{{cite web|title=Saudi Arabian Military Activity Against Israel|url=http://digitalcollections.library.cmu.edu/awweb/awarchive?type=file&item=475577|work=CMU|date=May 1978|access-date=19 November 2021|archive-date=20 November 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20211120001418/http://digitalcollections.library.cmu.edu/awweb/awarchive?type=file&item=475577|url-status=dead}}</ref> <ref name="Garwych, p. 243">Garwych, p. 243.</ref> <ref name="Rabinovich, 496">Rabinovich, p. 496</ref> <ref name="White House Military Briefing">{{cite web|url=http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB98/octwar-56.pdf |title=White House Military Briefing |access-date=22 October 2011}}</ref> <ref name="autogenerated87">Herzog, ''Encyclopaedia Judaica'', Keter Publishing House, 1974, p. 87.</ref> <ref name="autogenerated2004">{{cite web|url=http://www.mfa.gov.il/MFA/MFAArchive/2000_2009/2004/1/Background%20on%20Israeli%20POWs%20and%20MIAs |title=Ministry of Foreign Affairs |publisher=Mfa.gov.il |access-date=22 October 2011}}</ref> <ref name="Rabinovich, 496-7">Rabinovich, pp. 496–497.</ref> <ref name="Garwych p 244">Garwych p. 244</ref> <ref name="Herzog, 260">Herzog, p. 260.</ref> }} === 参考文献 === * 井上孝司『現代ミリタリー・インテリジェンス入門-軍事情報の集め方・読み方・使い方』[[潮書房光人社]]、2014年3月、230頁。 * 岩城人志編著『WAR MACHINE REPORT』36号「イスラエル-アラブ戦争」、アルゴノート社、2014年、64-105頁。 * 岩城人志編著『WAR MACHINE REPORT』13号「第四次中東戦争」、アルゴノート社、2010年。 * イカロス出版編「ワールド・バトルフィールド・サテライト―1973年秋」『MC☆あくしず』2014年11月号、[[イカロス出版]]、2014年11月1日、83-91頁。 * 学研編「〈図説〉中東戦争全史 (Rekishi gunzo series―Modern warfare)」学研、2002年。<! * 葛原和三『機甲戦の理論と歴史』第4刷、芙蓉書房出版、2013年1月31日、127-151頁。 * 田上四郎『中東戦争全史』[[原書房]]、1981年。 * 高井三郎『第四次中東戦争―シナイ正面の戦い』原書房、1981年7月。 * 高井三郎『ゴランの激戦―第四次中東戦争』原書房、1982年。 * [[滝川義人]]『ユダヤを知る事典』東京堂出版、1994年。 * 田村尚也・野上武志『萌えよ!戦車学校(1)』第12版、イカロス出版、2013年2月15日、191-192頁。 * 松村劭『新・戦争学』文藝春秋〈文春新書〉、2000年8月、ISBN 978-4166601172。 * [[アブラハム・アダン|A・アダン]]『砂漠の戦車戦―第四次中東戦争(上)』新装版、滝川義人・神谷 寿浩訳、原書房、1991年2月。 * A・アダン『砂漠の戦車戦―第四次中東戦争(下)』滝川義人・神谷 寿浩訳、原書房、1984年10月。 * A・ラビノビッチ『ヨムキプール戦争全史』滝川義人訳、並木書房、2008年。 * [[ハイム・ヘルツォーグ|H・ヘルツォーグ]]『図解 中東戦争―イスラエル建国からレバノン進攻まで』滝川義人訳、原書房、1990年。 * M・ギルバード『イスラエル全史(下)』千本健一郎訳、朝日新聞出版、2009年1月20日、ISBN 978-4-02-250495-1、133-204頁。 * M・B・オレン『第三次中東戦争全史』滝川義人訳、原書房、2012年。 * M・ヘイカル『アラブの戦い―第四次中東戦争の内幕』時事通信社外信部訳、時事通信社、1975年。 * S・カッツ『世界の戦車イラストレイテッド(26)-メルカバ主力戦車MKsⅠ/Ⅱ/Ⅲ』初版、山野治夫訳、大日本絵画、2004年4月10日、7-15頁。 * U・ダン『スエズを渡れ―イスラエル電撃作戦』早良哲夫訳、サイマル出版会、1977年。 * Simon Dunstan,Howard Gerrard,''The Yom Kippur War 1973(1):The Golan Heights'',Campain 118,Oxford:Osprey Publishing,2008. * Simon Dunstan,kevin Lyles,''The Yom Kippur War 1973(2):The Sinai'',Campain 126,Oxford:Osprey Publishing,2003/4/20. == 関連項目 == * [[第四次中東戦争における戦闘序列]] - 本戦争での[[イスラエル]]・[[エジプト]]・[[シリア]]・その他の軍の指導者、[[軍隊の編制|部隊編制]]を記載。 * [[山城丸]] - 日本郵船の貨物船。[[ラタキア沖海戦]]に巻き込まれ被災。 * [[10月6日市]] - 本戦争の「勝利」を記念して建設されたエジプトの都市。 * [[ギオラ・エプスタイン]] - [[イスラエル空軍]][[第101飛行隊 (イスラエル空軍)|第101飛行隊]]所属の[[エース・パイロット|エースパイロット]]。第三次中東戦争、消耗戦争、第四次中東戦争を通じ、計17機を撃墜した。 == 外部リンク == {{Commons|Yom Kippur War}} * [http://www.jajz-ed.org.il/100/maps/egypt.html エジプト地図] * [http://www.jajz-ed.org.il/100/maps/syria.html シリア地図] * [http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB98/index.htm The October War and U.S. Policy] - Provided by the ''National Security Archive''. * [http://www.globalpolitician.com/articles.asp?ID=132 Legal Status of West Bank, Gaza and East Jerusalem] {{normdaten}} {{デフォルトソート:ちゆうとうせんそう4}} [[Category:イスラエル・アラブ戦争]] [[Category:第四次中東戦争|*]] [[Category:1973年の戦闘]] [[Category:エジプトの歴史]] [[Category:1973年のアラブ共和国連邦]] [[Category:1973年のイスラエル]] [[Category:ゴルダ・メイア]] [[Category:イスラエル・タル]] [[Category:アンワル・アッ=サーダート]] [[Category:ホスニー・ムバーラク]] [[Category:ハーフィズ・アル=アサド]]
2003-07-22T07:56:33Z
2023-11-30T10:23:04Z
false
false
false
[ "Template:脚注の不足", "Template:Lang-he", "Template:Notelist2", "Template:Commons", "Template:Normdaten", "Template:Pathnav", "Template:See also", "Template:Battlebox", "Template:Refnest", "Template:Lang-ar", "Template:Lang-ja", "Template:Main", "Template:要出典", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Otheruses", "Template:Lang", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Lang-en" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E6%AC%A1%E4%B8%AD%E6%9D%B1%E6%88%A6%E4%BA%89
12,052
西武狭山線
狭山線(さやません)は、西所沢駅から西武球場前駅までを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。全線が埼玉県の所沢市内を走行する。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。 この路線は、現在の西武鉄道の前身である武蔵野鉄道によって1929年に開業した。戦時中に不要不急線として休止となったが、戦後の1951年に復活した。 1978年には終点の狭山湖駅(現:西武球場前駅)付近に存在した「西武園球場」がプロ野球・西武ライオンズの本拠地となる「西武ライオンズ球場」(現:ベルーナドーム)として新設に近い形でリニューアルされることとなり、同球場へのアクセス路線として大改良が実施された。 朝5時台から夜23時台の運行である。 2019年3月16日改正時点のダイヤでは、西武球場前発の上りの場合、平日は早朝が20分間隔、7時から9時台は10分間隔、以後は15分間隔で運転されており、すべてが線内運転の各駅停車(各停)である。土休日は始発から9時台が20分間隔、以後は15分間隔で運転されており、12時以降から15時台に毎時1本が池袋線池袋行きの準急、16時から22時台まで毎時2本が池袋線池袋行きの準急または普通となり、23時台に保谷行きが1本ある。下りも運転間隔は上りとほぼ同じであるが、平日は池袋8時58分発西武球場前9時56分着と池袋15時42分発西武球場前16時39分の2本のみが池袋線との直通となっている。土休日は、9時台以降21時台まで池袋からの直通が準急または普通で運行されている。なお所沢始発の直通も1本運転されている。所要時間は線内6分(各駅停車)である。日中の線内運転の各駅停車と、西所沢駅での池袋線接続は、急行の運転間隔が等間隔でないこともあり、急行にすぐに接続するのは4本中1本(西所沢39分着が45分発の急行に接続)である。 線内運転列車には新2000系の4両編成が使用され、場合によっては2両編成を2本連結した編成が入ることもある。かつては新101系の運用のみであったが、2010年度に新101系の243編成(4両編成)と275編成(2両編成)が廃車されたことで池袋線所属の101系が減少し、新2000系4両編成や2両編成を2本連結した列車も線内運転の運用に入るようになり、2012年12月をもってワンマン車以外の新101系・301系が運用を終了したことにより狭山線からは撤退した。2021年2月よりワンマン車の263編成が小手指車両基地に転属された後に運行を開始した。約8年振りの新101系による営業運転復活となる。 2010年3月6日のダイヤ改正から池袋線直通の準急・快速(土休日のみ)が日中に定期ダイヤで設定されたが、2012年6月30日のダイヤ改正で平日の下り1本、土休日の準急折り返しの一部と16・17時台以外は池袋駅発着の各駅停車や線内運転列車へ変更された。2018年3月10日のダイヤ改正で、土休日14・15時台の西武球場前駅発池袋駅着の各駅停車のうち1本(計2本)が準急に格上げされた。 2018年3月9日までは平日にも池袋線池袋駅発着の各駅停車が設定されていたが、2018年3月10日のダイヤ改正よりそれらの多くが線内運転となり、2019年3月16日改正時点で平日の池袋線池袋駅発着の各駅停車は下り2本のみとなった。 ベルーナドームでのプロ野球の試合や各種イベント開催時の運転は以下のように行われる。この場合、通常の池袋線直通列車に加え、池袋線・新宿線直通臨時列車が設定される。これは阪神電気鉄道の施策を参考にしたと言われている 。 2009年7月2日に西武ドームで行われた西武対ロッテ戦では試合時間が5時間42分に及んだため、試合終了前にその日の最終列車の発車時刻を過ぎた。そこで西武鉄道側は急遽西所沢行きの臨時列車3本を運行したものの、池袋方面への接続がなかったこともありすべての観客が帰ることはできず、翌朝の始発列車まで現地付近で夜を明かしたファンもいた。 池袋駅発着で各駅停車をはじめ準急(平日ナイター、下りのみ)・快速のほか、1998年3月26日からは東京メトロ有楽町線新木場駅発着、2013年3月16日からみなとみらい線元町・中華街駅発着で東急東横線・東京メトロ副都心線を経由して運転されている。試合終了後も池袋行きのほか有楽町線・副都心線直通列車が数本運転される。また、野球開催時には臨時特急「ドーム」が1往復運転されるほか、コンサートなどのイベント開催時にも臨時列車や団体専用列車が設定される場合がある。 池袋発の直通列車は大半が各駅停車の保谷行き、準急や快速は所沢行き、新木場発の直通列車は所沢行きをそれぞれ西武球場前行きとして延長運転する形で運行されている。また、平日ナイターの快速飯能行きは西武球場前行きに変更し、所沢発で飯能行きの区間列車に接続する。また、2013年3月16日改正で新たに東横線・副都心線から元町・中華街発の快速急行小手指行きが設定された。こちらは行先を西武球場前行きに変更した上で西武線内を快速として運転し、ひばりヶ丘駅で同駅始発の臨時快速急行小手指行きに接続している。そのため所定のひばりヶ丘駅で東横線・副都心線からの快速急行を待ち合わせる新木場発各停小手指行きは、清瀬駅でひばりヶ丘発臨時快速急行小手指行きに抜かれる形態がとられている。該当する列車には、西武時刻表第25号で記述されている。2013年3月16日のダイヤ改正では、土休日の夕方に所沢発が2本設定されている。なお、2019年3月16日実施のダイヤ改正で、土休日ダイヤの運行形態が見直され、夕方・夜間にも西武球場前駅発着が増加されたほか、ダイヤの見直しに伴い新木場発各停小手指行きと快速急行小手指行き(臨時運転時は快速西武球場前行き)の接続駅がひばりヶ丘駅から石神井公園駅に変更された。2020年3月14日改正で接続駅は再びひばりヶ丘駅に戻されているが、待避駅の変更について時刻表に記述は無い。 運転される際には、短時間に集中する乗客の便を図るため、多くが10両編成(一部は8両編成)の列車を使用する。有楽町線・副都心線からの列車は東京メトロ・東急・横浜高速鉄道の車両で運転されることもあり、車内自動放送などもそれに対応している(東京メトロ線内での西武球場前行駅構内放送も対応)。中には東京メトロまたは東急の運行番号を用いて6000系が充当されることもある。 2001年12月15日のダイヤ改正まで快速(1980年頃には平日ナイター時の上り準急や臨時上り各停の一部も)は下山口駅を通過していた(現在は快速が停車している練馬駅も通過していた)。 2001年12月15日のダイヤ改正以前は多数の臨時列車運転パターンを用意しておき、試合終了時刻(及び試合中止決定時刻)に合わせてパターンを指定して臨時列車を運転するというパターン輸送を行っていたが、以降は予め野球開催時のみ運転の臨時列車を設定し、それで対処していた。2010年3月6日のダイヤ改正により、試合終了時刻に合わせて臨時電車を運転する方式が8年3か月ぶりに復活することになり、池袋行きについては、臨時列車として初の急行が運転された。 現在では臨時列車には「試合終了時刻に関係なく運転される列車」と「試合終了時刻に合わせて運転される列車」の2種類があり、時刻表の野球開催日時刻にもその記述がある。前者はメトロ線直通と新宿線直通の全列車と、特急「ドーム」、保谷行きの各停1本、土休日(デーゲーム・ナイター共に)の池袋行き各停2本である。後者には池袋行きの急行と快速があり、さらに平日ナイター時には西所沢行を清瀬行きと保谷行きに延長する各停がある。 保谷行きの各停は、2012年のダイヤ改正まで保谷駅の配線上、ひばりヶ丘行きとして運転されていた。 土休日デーゲーム開催時中は、池袋線直通列車の一部を本川越発着に使用する新宿線所属車両の間合い運用で運行している。 2022年3月現在は本川越駅 - 西武球場前駅間の1往復で、各駅停車として運転される。かつては西武新宿駅方面からも臨時列車を走らせていたが、2022年3月のダイヤ改正より、所沢駅付近の道路工事に伴い同駅連絡線の使用を停止しているため、運行が休止されている。 2018年3月9日まで土休日のナイター開催に運転される西武新宿駅行きは準急であったが、2018年3月10日のダイヤ改正から急行に格上げされた。 かつては西武新宿発の準急田無行きの延長運転や快速急行(停車駅は西武新宿駅 - 田無駅間の急行停車駅と小平駅・東村山駅・所沢駅・西所沢駅・西武球場前駅)、上石神井行きの各停の運転を行っていた。1980年3月17日改正号である『西武時刻表』第2号に掲載されている時刻表によれば、上石神井行きの各停を含め新宿線直通列車は全て下山口駅を通過していた。 2007年3月5日以前は西武新宿駅発着が2往復設定されていたが、翌6日のダイヤ改正以降は1往復が前記の本川越駅発着の列車に変更されている。2010年3月6日のダイヤ改正以降は、試合終了時の新宿線への直通列車はパターン輸送の対象から外されている。 池袋線車内自動放送における当路線への乗り換え案内は、2008年6月13日まで「下山口・西武球場前、山口線、西武遊園地方面においでのお客様はお乗り換えください」であったが、翌14日の東京メトロ副都心線開業によるダイヤ改正から「狭山線はお乗り換えください」と路線名で案内されるようになった。 使用される車両は以下の通り。他社車両は野球開催時など特定の日以外は走らない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "狭山線(さやません)は、西所沢駅から西武球場前駅までを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。全線が埼玉県の所沢市内を走行する。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この路線は、現在の西武鉄道の前身である武蔵野鉄道によって1929年に開業した。戦時中に不要不急線として休止となったが、戦後の1951年に復活した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1978年には終点の狭山湖駅(現:西武球場前駅)付近に存在した「西武園球場」がプロ野球・西武ライオンズの本拠地となる「西武ライオンズ球場」(現:ベルーナドーム)として新設に近い形でリニューアルされることとなり、同球場へのアクセス路線として大改良が実施された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "朝5時台から夜23時台の運行である。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2019年3月16日改正時点のダイヤでは、西武球場前発の上りの場合、平日は早朝が20分間隔、7時から9時台は10分間隔、以後は15分間隔で運転されており、すべてが線内運転の各駅停車(各停)である。土休日は始発から9時台が20分間隔、以後は15分間隔で運転されており、12時以降から15時台に毎時1本が池袋線池袋行きの準急、16時から22時台まで毎時2本が池袋線池袋行きの準急または普通となり、23時台に保谷行きが1本ある。下りも運転間隔は上りとほぼ同じであるが、平日は池袋8時58分発西武球場前9時56分着と池袋15時42分発西武球場前16時39分の2本のみが池袋線との直通となっている。土休日は、9時台以降21時台まで池袋からの直通が準急または普通で運行されている。なお所沢始発の直通も1本運転されている。所要時間は線内6分(各駅停車)である。日中の線内運転の各駅停車と、西所沢駅での池袋線接続は、急行の運転間隔が等間隔でないこともあり、急行にすぐに接続するのは4本中1本(西所沢39分着が45分発の急行に接続)である。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "線内運転列車には新2000系の4両編成が使用され、場合によっては2両編成を2本連結した編成が入ることもある。かつては新101系の運用のみであったが、2010年度に新101系の243編成(4両編成)と275編成(2両編成)が廃車されたことで池袋線所属の101系が減少し、新2000系4両編成や2両編成を2本連結した列車も線内運転の運用に入るようになり、2012年12月をもってワンマン車以外の新101系・301系が運用を終了したことにより狭山線からは撤退した。2021年2月よりワンマン車の263編成が小手指車両基地に転属された後に運行を開始した。約8年振りの新101系による営業運転復活となる。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2010年3月6日のダイヤ改正から池袋線直通の準急・快速(土休日のみ)が日中に定期ダイヤで設定されたが、2012年6月30日のダイヤ改正で平日の下り1本、土休日の準急折り返しの一部と16・17時台以外は池袋駅発着の各駅停車や線内運転列車へ変更された。2018年3月10日のダイヤ改正で、土休日14・15時台の西武球場前駅発池袋駅着の各駅停車のうち1本(計2本)が準急に格上げされた。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2018年3月9日までは平日にも池袋線池袋駅発着の各駅停車が設定されていたが、2018年3月10日のダイヤ改正よりそれらの多くが線内運転となり、2019年3月16日改正時点で平日の池袋線池袋駅発着の各駅停車は下り2本のみとなった。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ベルーナドームでのプロ野球の試合や各種イベント開催時の運転は以下のように行われる。この場合、通常の池袋線直通列車に加え、池袋線・新宿線直通臨時列車が設定される。これは阪神電気鉄道の施策を参考にしたと言われている 。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2009年7月2日に西武ドームで行われた西武対ロッテ戦では試合時間が5時間42分に及んだため、試合終了前にその日の最終列車の発車時刻を過ぎた。そこで西武鉄道側は急遽西所沢行きの臨時列車3本を運行したものの、池袋方面への接続がなかったこともありすべての観客が帰ることはできず、翌朝の始発列車まで現地付近で夜を明かしたファンもいた。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "池袋駅発着で各駅停車をはじめ準急(平日ナイター、下りのみ)・快速のほか、1998年3月26日からは東京メトロ有楽町線新木場駅発着、2013年3月16日からみなとみらい線元町・中華街駅発着で東急東横線・東京メトロ副都心線を経由して運転されている。試合終了後も池袋行きのほか有楽町線・副都心線直通列車が数本運転される。また、野球開催時には臨時特急「ドーム」が1往復運転されるほか、コンサートなどのイベント開催時にも臨時列車や団体専用列車が設定される場合がある。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "池袋発の直通列車は大半が各駅停車の保谷行き、準急や快速は所沢行き、新木場発の直通列車は所沢行きをそれぞれ西武球場前行きとして延長運転する形で運行されている。また、平日ナイターの快速飯能行きは西武球場前行きに変更し、所沢発で飯能行きの区間列車に接続する。また、2013年3月16日改正で新たに東横線・副都心線から元町・中華街発の快速急行小手指行きが設定された。こちらは行先を西武球場前行きに変更した上で西武線内を快速として運転し、ひばりヶ丘駅で同駅始発の臨時快速急行小手指行きに接続している。そのため所定のひばりヶ丘駅で東横線・副都心線からの快速急行を待ち合わせる新木場発各停小手指行きは、清瀬駅でひばりヶ丘発臨時快速急行小手指行きに抜かれる形態がとられている。該当する列車には、西武時刻表第25号で記述されている。2013年3月16日のダイヤ改正では、土休日の夕方に所沢発が2本設定されている。なお、2019年3月16日実施のダイヤ改正で、土休日ダイヤの運行形態が見直され、夕方・夜間にも西武球場前駅発着が増加されたほか、ダイヤの見直しに伴い新木場発各停小手指行きと快速急行小手指行き(臨時運転時は快速西武球場前行き)の接続駅がひばりヶ丘駅から石神井公園駅に変更された。2020年3月14日改正で接続駅は再びひばりヶ丘駅に戻されているが、待避駅の変更について時刻表に記述は無い。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "運転される際には、短時間に集中する乗客の便を図るため、多くが10両編成(一部は8両編成)の列車を使用する。有楽町線・副都心線からの列車は東京メトロ・東急・横浜高速鉄道の車両で運転されることもあり、車内自動放送などもそれに対応している(東京メトロ線内での西武球場前行駅構内放送も対応)。中には東京メトロまたは東急の運行番号を用いて6000系が充当されることもある。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2001年12月15日のダイヤ改正まで快速(1980年頃には平日ナイター時の上り準急や臨時上り各停の一部も)は下山口駅を通過していた(現在は快速が停車している練馬駅も通過していた)。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2001年12月15日のダイヤ改正以前は多数の臨時列車運転パターンを用意しておき、試合終了時刻(及び試合中止決定時刻)に合わせてパターンを指定して臨時列車を運転するというパターン輸送を行っていたが、以降は予め野球開催時のみ運転の臨時列車を設定し、それで対処していた。2010年3月6日のダイヤ改正により、試合終了時刻に合わせて臨時電車を運転する方式が8年3か月ぶりに復活することになり、池袋行きについては、臨時列車として初の急行が運転された。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現在では臨時列車には「試合終了時刻に関係なく運転される列車」と「試合終了時刻に合わせて運転される列車」の2種類があり、時刻表の野球開催日時刻にもその記述がある。前者はメトロ線直通と新宿線直通の全列車と、特急「ドーム」、保谷行きの各停1本、土休日(デーゲーム・ナイター共に)の池袋行き各停2本である。後者には池袋行きの急行と快速があり、さらに平日ナイター時には西所沢行を清瀬行きと保谷行きに延長する各停がある。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "保谷行きの各停は、2012年のダイヤ改正まで保谷駅の配線上、ひばりヶ丘行きとして運転されていた。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "土休日デーゲーム開催時中は、池袋線直通列車の一部を本川越発着に使用する新宿線所属車両の間合い運用で運行している。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2022年3月現在は本川越駅 - 西武球場前駅間の1往復で、各駅停車として運転される。かつては西武新宿駅方面からも臨時列車を走らせていたが、2022年3月のダイヤ改正より、所沢駅付近の道路工事に伴い同駅連絡線の使用を停止しているため、運行が休止されている。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2018年3月9日まで土休日のナイター開催に運転される西武新宿駅行きは準急であったが、2018年3月10日のダイヤ改正から急行に格上げされた。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "かつては西武新宿発の準急田無行きの延長運転や快速急行(停車駅は西武新宿駅 - 田無駅間の急行停車駅と小平駅・東村山駅・所沢駅・西所沢駅・西武球場前駅)、上石神井行きの各停の運転を行っていた。1980年3月17日改正号である『西武時刻表』第2号に掲載されている時刻表によれば、上石神井行きの各停を含め新宿線直通列車は全て下山口駅を通過していた。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2007年3月5日以前は西武新宿駅発着が2往復設定されていたが、翌6日のダイヤ改正以降は1往復が前記の本川越駅発着の列車に変更されている。2010年3月6日のダイヤ改正以降は、試合終了時の新宿線への直通列車はパターン輸送の対象から外されている。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "池袋線車内自動放送における当路線への乗り換え案内は、2008年6月13日まで「下山口・西武球場前、山口線、西武遊園地方面においでのお客様はお乗り換えください」であったが、翌14日の東京メトロ副都心線開業によるダイヤ改正から「狭山線はお乗り換えください」と路線名で案内されるようになった。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "使用される車両は以下の通り。他社車両は野球開催時など特定の日以外は走らない。", "title": "使用車両" } ]
狭山線(さやません)は、西所沢駅から西武球場前駅までを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。全線が埼玉県の所沢市内を走行する。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 狭山線 |路線色=#ef810f |ロゴ=File:Seibu ikebukuro logo.svg |ロゴサイズ=50px |画像=Seibu-Sayama-line Series2000.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=狭山線を走行する[[西武2000系電車|新2000系]]<br>(2021年10月 [[西所沢駅]] - [[下山口駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[埼玉県]][[所沢市]] |起点=[[西所沢駅]] |終点=[[西武球場前駅]] |駅数=3駅 |路線記号=SI |開業={{start date and age|1929|5|1}} |休止= |廃止= |所有者=[[西武鉄道]] |運営者=西武鉄道 |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=4.2 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[単線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="datebook">[[#datebook|寺田裕一『データブック 日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年) p.59]]</ref> |最小曲線半径 = 160 [[メートル|m]]<ref name="datebook"/> |最大勾配 = 34.0 [[パーミル|‰]]<ref name="datebook"/> |閉塞方式= |保安装置= |路線図= |路線図名= |路線図表示= }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ef810f}} {{BS-table}} * 西所沢駅以遠の直通区間は省略 {{BS2|ABZq+l|BHFq|0.0|SI18 [[西所沢駅]]|←[[西武池袋線|池袋線]]→|}} {{BS2|BHF||1.8|SI40 [[下山口駅]]|}} {{BS2|eBHF|||''[[上山口駅 (埼玉県)|上山口駅]]''|-1954}} {{BS2|STR|uSTR+l|||[[西武山口線|山口線]]→|}} {{BS2|KBHFe|O1=HUBaq|uKBHFe|O2=HUBeq|4.2|SI41 [[西武球場前駅]]|}} |} |} '''狭山線'''(さやません)は、[[埼玉県]][[所沢市]]の[[西所沢駅]]から同市の[[西武球場前駅]]までを結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。全線にわたって所沢市内を走行する。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SI'''。 == 路線データ == * 路線距離([[営業キロ]]):4.2 km * [[軌間]]:[[3フィート6インチ軌間|1,067 mm]] * [[鉄道駅|駅]]数:3駅(起終点駅含む) * [[複線]]区間:なし([[単線]]) * [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 V[[架空電車線方式]]) * [[鉄道の最高速度|最高速度]]:95 km/h<ref name="datebook"/> == 歴史 == この路線は、現在の西武鉄道の前身である'''武蔵野鉄道'''によって1929年に開業した。[[戦中|戦時中]]に[[不要不急線]]として休止となったが、[[戦後]]の1951年に復活した。 1978年には終点の狭山湖駅(現:西武球場前駅)付近に存在した「西武園球場」が[[日本プロ野球|プロ野球]]・[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の本拠地となる「西武ライオンズ球場」(現:[[西武ドーム|ベルーナドーム]])として新設に近い形でリニューアルされることとなり、同球場へのアクセス路線として大改良が実施された。 * [[1929年]]([[昭和]]4年)[[5月1日]] - '''武蔵野鉄道山口線'''西所沢 - 村山公園(注1)間(4.8km)開業(直流1200V) * [[1933年]](昭和8年)[[3月1日]] - 上山口駅(かみやまぐち)を山口貯水池駅に、村山公園駅を村山貯水池際駅に改称 * [[1941年]](昭和16年)[[4月1日]] - 山口貯水池駅を上山口駅に、村山貯水池際駅を村山駅に改称 * [[1944年]](昭和19年)[[2月28日]] - 西所沢 - 村山間休止 * [[1951年]](昭和26年)[[10月7日]] - 西所沢 - 狭山湖間再開、'''狭山線'''に改称。狭山湖駅移設(-0.3km)。[[気動車]]で運転再開(注2)。 * [[1952年]](昭和27年)[[3月21日]] - 再電化(直流1500V) * [[1954年]](昭和29年)[[10月10日]] - 休止中の下山口駅(しもやまぐち)と上山口駅を廃止 * [[1976年]](昭和51年)[[6月4日]] - 下山口駅再開業 * [[1978年]](昭和53年)[[11月30日]] - 狭山湖駅移設 (-0.3km) * [[1979年]](昭和54年)[[3月25日]] - 狭山湖駅を西武球場前駅に改称 * [[2010年]]([[平成]]22年)[[3月6日]] - 池袋線に直通する定期列車設定。日中の運転間隔が20分から15分と高頻度化。 * [[2022年]]([[令和]]4年)[[3月12日]] - 日中の運転間隔が15分から20分に戻る。 :(注1)村山公園駅は、村山貯水池際→村山→狭山湖→西武球場前と改称している(詳細は[[西武球場前駅]]も参照のこと)。 :(注2)再開時に西所沢 - 村山公園間にあった下山口駅と上山口駅は復活しなかったが、1976年6月に下山口駅が復活した。上山口駅は1954年10月に休止されたまま廃止となっている。 == 運転 == [[ファイル:Seibu2000kei 2461+2463.JPG|thumb|200px|線内折り返し運用につく2461編成+2463編成(2010年11月、西所沢駅)。]] 朝5時台から夜23時台の運行である<ref name="seibu-timetable-si41">{{PDFlink|[https://seibu.ekitan.com/pdf/20190316/241-2-1.pdf 駅の時刻表 西武球場前駅 西所沢方面]}} - 西武鉄道(2019年3月16日改正)</ref><ref name="seibu-timetable-si18">{{PDFlink|[https://seibu.ekitan.com/pdf/20190316/241-0-1.pdf 駅の時刻表 西所沢駅 西武球場前方面]}} - 西武鉄道(2019年3月16日改正)</ref>。 2019年3月16日改正時点のダイヤでは、西武球場前発の上りの場合、平日は早朝が20分間隔、7時から9時台は10分間隔、以後は15分間隔で運転されており、すべてが線内運転の各駅停車(各停)である。土休日は始発から9時台が20分間隔、以後は15分間隔で運転されており、12時以降から15時台に毎時1本が池袋線池袋行きの準急、16時から22時台まで毎時2本が池袋線池袋行きの準急または普通となり、23時台に保谷行きが1本ある。下りも運転間隔は上りとほぼ同じであるが、平日は池袋8時58分発西武球場前9時56分着と池袋15時42分発西武球場前16時39分の2本のみが池袋線との直通となっている。土休日は、9時台以降21時台まで池袋からの直通が準急または普通で運行されている。なお所沢始発の直通も1本運転されている。所要時間は線内6分(各駅停車)である。日中の線内運転の各駅停車と、西所沢駅での池袋線接続は、急行の運転間隔が等間隔でないこともあり、急行にすぐに接続するのは4本中1本(西所沢39分着が45分発の急行に接続)である<ref name="seibu-timetable-si41" />。 線内運転列車には[[西武2000系電車#新2000系|新2000系]]の4両編成が使用され、場合によっては2両編成を2本連結した編成が入ることもある。かつては[[西武101系電車#新101系・301系|新101系]]の運用のみであったが、2010年度に新101系の243編成(4両編成)と275編成(2両編成)が廃車されたことで池袋線所属の101系が減少し、新2000系4両編成<ref>2501編成と2503編成が新宿線から転属している。新2000系の4両編成で池袋線所属はこの2編成だけである。</ref><ref name=railf20101108>[http://railf.jp/news/2010/11/08/105600.html 西武狭山線で新2000系2連×2が運用に] 2010年11月8日掲載 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』railf.jp、[[交友社]]</ref>や2両編成を2本連結した列車<ref name=railf20101108 />も線内運転の運用に入るようになり、2012年12月をもってワンマン車以外の新101系・301系が運用を終了したことにより狭山線からは撤退した。2021年2月よりワンマン車の263編成が小手指車両基地に転属された後に運行を開始した。約8年振りの新101系による営業運転復活となる。 2010年3月6日のダイヤ改正から池袋線直通の準急・快速(土休日のみ)<ref>土休日に冬季を除いて運転されていた快速も通年運転に変更の上この直通列車に組み込まれた。この快速は2012年6月30日のダイヤ改正で上り列車が準急に格下げされた後、2013年3月16日のダイヤ改正では下り列車も準急に格下げされている。</ref>が日中に定期ダイヤで設定されたが、[[2012年]][[6月30日]]のダイヤ改正で平日の下り1本、土休日の準急折り返しの一部と16・17時台以外は池袋駅発着の各駅停車や線内運転列車へ変更された。2018年3月10日のダイヤ改正で、土休日14・15時台の西武球場前駅発池袋駅着の各駅停車のうち1本(計2本)が準急に格上げされた<ref name="seibu20180125">{{Cite press release|和書|title=2018 年 3 月 10 日(土)ダイヤ改正を実施します |publisher=西武鉄道 |date=2018-01-25 |url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/2018daiyakaisei.pdf |format=PDF |accessdate=2018-03-22}} </ref>。 2018年3月9日までは平日にも池袋線池袋駅発着の各駅停車が設定されていたが、2018年3月10日のダイヤ改正よりそれらの多くが線内運転となり、2019年3月16日改正時点で平日の池袋線池袋駅発着の各駅停車は下り2本のみとなった<ref name="seibu-timetable-si18" />。 === イベント開催時の運転 === ベルーナドームでのプロ野球の試合や各種イベント開催時の運転は以下のように行われる<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/file/kawaraban_201907.pdf 広報誌『西武鉄道かわら版』2019年7月号]}}に「野球ダイヤ」の特集が組まれ、試合終了前後の動きなどを説明している。</ref>。この場合、通常の池袋線直通列車に加え、池袋線・[[西武新宿線|新宿線]]直通臨時列車が設定される。これは[[阪神電気鉄道]]の施策を参考にしたと言われている<ref>{{Cite book|和書|year=1992|publisher=[[山と溪谷社]]|title=日本の私鉄109|page=141|isbn=}}</ref> 。 [[2009年]]7月2日に西武ドームで行われた西武対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦では試合時間が5時間42分<ref>現行の規定(延長12回制)では[[2013年]][[9月4日]]に[[東京ドーム]]で行なわれた[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]対[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]の6時間1分に抜かれるまで、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]最長試合を約4年間破られなかった。</ref><ref>[http://bis.npb.or.jp/2009/games/s2009070200926.html 2009年7月2日 【公式戦】 試合結果 (埼玉西武vs千葉ロッテ)] - 日本野球機構</ref>に及んだため、試合終了前にその日の最終列車の発車時刻を過ぎた。そこで西武鉄道側は急遽西所沢行きの[[臨時列車]]3本を運行したものの、池袋方面への接続がなかったこともありすべての観客が帰ることはできず、翌朝の[[始発列車]]まで現地付近で夜を明かしたファンもいた。 ==== 池袋線・東京メトロ線・東急線・みなとみらい線方面直通列車 ==== [[池袋駅]]発着で各駅停車をはじめ準急(平日ナイター、下りのみ)・快速のほか、[[1998年]][[3月26日]]からは[[東京メトロ有楽町線]][[新木場駅]]発着、[[2013年]][[3月16日]]から[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]発着で[[東急東横線]]・[[東京メトロ副都心線]]を経由して運転されている<ref>2008年6月14日から2013年3月15日までは副都心線[[渋谷駅]]発着もあった。</ref>。試合終了後も池袋行きのほか有楽町線・副都心線直通列車が数本運転される。また、野球開催時には臨時特急「[[ちちぶ (列車)|ドーム]]」が1往復運転されるほか、コンサートなどのイベント開催時にも臨時列車や団体専用列車が設定される場合がある。 池袋発の直通列車は大半が各駅停車の[[保谷駅|保谷]]行き、準急や快速は[[所沢駅|所沢]]行き、新木場発の直通列車は所沢行きをそれぞれ西武球場前行きとして延長運転する形で運行されている<ref>かつては清瀬行きを延長運転する形でも行われていたが、2010年3月6日のダイヤ改正で飯能行きを西武球場前行きに変更するようになったため現在は行われていない。</ref>。また、平日ナイターの快速飯能行きは西武球場前行きに変更し、所沢発で飯能行きの区間列車に接続する。また、2013年3月16日改正で新たに東横線・副都心線から元町・中華街発の快速急行小手指行きが設定された。こちらは行先を西武球場前行きに変更した上で西武線内を快速として運転し、ひばりヶ丘駅で同駅始発の臨時快速急行小手指行きに接続している。そのため所定のひばりヶ丘駅で東横線・副都心線からの快速急行を待ち合わせる新木場発各停小手指行きは、清瀬駅でひばりヶ丘発臨時快速急行小手指行きに抜かれる形態がとられている。該当する列車には、西武時刻表第25号で記述されている。2013年3月16日のダイヤ改正では、土休日の夕方に所沢発が2本設定されている。なお、2019年3月16日実施のダイヤ改正で、土休日ダイヤの運行形態が見直され、夕方・夜間にも西武球場前駅発着が増加されたほか、ダイヤの見直しに伴い新木場発各停小手指行きと快速急行小手指行き(臨時運転時は快速西武球場前行き)の接続駅がひばりヶ丘駅から石神井公園駅に変更された。2020年3月14日改正で接続駅は再びひばりヶ丘駅に戻されているが、待避駅の変更について時刻表に記述は無い。 運転される際には、短時間に集中する乗客の便を図るため、多くが10両編成(一部は8両編成)の列車を使用する。有楽町線・副都心線からの列車は東京メトロ・東急・横浜高速鉄道の車両<ref>8両編成については、土曜・休日デーゲーム開催時の清瀬発(17時37分発)を西武球場前発(17時18分発)に延長することで対処している。</ref>で運転されることもあり、車内自動放送などもそれに対応している(東京メトロ線内での西武球場前行駅構内放送も対応)。中には東京メトロまたは東急の運行番号を用いて[[西武6000系電車|6000系]]が充当されることもある。 [[2001年]][[12月15日]]のダイヤ改正まで快速(1980年頃には平日ナイター時の上り準急や臨時上り各停の一部も)は下山口駅を通過していた(現在は快速が停車している練馬駅も通過していた)。 2001年12月15日のダイヤ改正以前は多数の臨時列車運転パターンを用意しておき、試合終了時刻(及び試合中止決定時刻)に合わせてパターンを指定して臨時列車を運転するというパターン輸送を行っていた<ref>これは[[阪神甲子園球場]]のある[[阪神本線]]に倣ったものである。西武グループの球団取得後に、観客輸送のノウハウを[[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]から学んでいる。</ref>が、以降は予め野球開催時のみ運転の臨時列車を設定し、それで対処していた<ref>「輸送と運転 近年の動向」鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」2002年4月臨時増刊号「特集:西武鉄道」41頁</ref>。2010年3月6日のダイヤ改正により、試合終了時刻に合わせて臨時電車を運転する方式が8年3か月ぶりに復活することになり、池袋行きについては、臨時列車として初の急行が運転された。 現在では臨時列車には「試合終了時刻に関係なく運転される列車」と「試合終了時刻に合わせて運転される列車」の2種類があり、時刻表の野球開催日時刻にもその記述がある。前者はメトロ線直通と新宿線直通の全列車と、特急「ドーム」、保谷行きの各停1本、土休日(デーゲーム・ナイター共に)の池袋行き各停2本である。後者には池袋行きの急行と快速があり、さらに平日ナイター時には西所沢行を清瀬行きと保谷行きに延長する各停がある。 保谷行きの各停は、2012年のダイヤ改正まで保谷駅の配線上、ひばりヶ丘行きとして運転されていた。 土休日デーゲーム開催時中は、池袋線直通列車の一部を本川越発着に使用する新宿線所属車両の間合い運用で運行している。 ==== 新宿線直通列車 ==== 2022年3月現在は[[本川越駅]] - 西武球場前駅間の1往復で、各駅停車として運転される。かつては[[西武新宿駅]]方面からも臨時列車を走らせていたが、2022年3月のダイヤ改正より、所沢駅付近の道路工事に伴い同駅連絡線の使用を停止しているため、運行が休止されている。 2018年3月9日まで土休日のナイター開催に運転される西武新宿駅行きは準急であったが、2018年3月10日のダイヤ改正から急行に格上げされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/2018daiyakaisei.pdf|title=2018 年 3 月 10 日(土)ダイヤ改正を実施します|accessdate=2018-04-09|format=PDF|publisher=西武鉄道|page=9}}</ref>。 かつては西武新宿発の準急田無行きの延長運転や快速急行(停車駅は西武新宿駅 - 田無駅間の急行停車駅と小平駅・東村山駅・所沢駅・西所沢駅・西武球場前駅)、上石神井行きの各停の運転を行っていた。1980年3月17日改正号である『西武時刻表』第2号に掲載されている時刻表によれば、上石神井行きの各停を含め新宿線直通列車は全て下山口駅を通過していた。 2007年3月5日以前は西武新宿駅発着が2往復設定されていたが、翌6日のダイヤ改正以降は1往復が前記の本川越駅発着の列車に変更されている。2010年3月6日のダイヤ改正以降は、試合終了時の新宿線への直通列車はパターン輸送の対象から外されている。 == 旅客案内 == 池袋線車内自動放送における当路線への乗り換え案内は、[[2008年]][[6月13日]]まで「'''下山口・西武球場前'''、山口線、西武遊園地方面においでのお客様はお乗り換えください」であったが、翌[[6月14日|14日]]の[[東京メトロ副都心線]]開業による[[ダイヤ改正]]から「'''狭山線'''はお乗り換えください」と路線名で案内されるようになった。 == 使用車両 == === 現在の車両 === 使用される車両は以下の通り。他社車両は野球開催時など特定の日以外は走らない。 * 自社車両 ** [[西武101系電車#新101系・301系|新101系]] - ワンマン運転対応車のみ。線内折り返し運用で主に使用される。 ** [[西武2000系電車|2000系]] ** [[西武4000系電車|4000系]] - [[団体専用列車|団体列車]]のみ。 ** [[西武6000系電車|6000系]] ** [[西武10000系電車|10000系]] - 臨時特急「ドーム」、団体列車のみ。 ** [[西武001系電車|001系]] - 臨時特急「ドーム」、団体列車のみ。 ** [[西武20000系電車|20000系]] ** [[西武30000系電車|30000系]] ** [[西武40000系電車|40000系]] * 他社車両 ** [[東京メトロ10000系電車|東京メトロ10000系]] - 原則10両編成のみ ** [[東京メトロ17000系電車|東京メトロ17000系]] - 原則10両編成のみ、8両編成は代走時のみ ** [[東急5000系電車 (2代)#5050系4000番台|東急5050系]] - 原則8両編成のみ、10両編成は代走時のみ ** [[横浜高速鉄道Y500系電車|横浜高速鉄道Y500系]] === 過去の車両 === * 自社車両 - 501系以前の17m車は省略。 ** [[西武501系電車|501系]] ** [[西武451系電車|451系]] ** [[西武551系電車|551系・571系]] ** [[西武601系電車|601系]] ** [[西武701系電車|701系・801系]] ** [[西武411系電車|411系]] ** [[西武101系電車|旧101系]] ** [[西武101系電車#新101系・301系|301系]] ** [[西武3000系電車|3000系]] ** [[西武5000系電車|5000系]] - 臨時特急のみ。                  ** [[西武9000系電車|9000系]] * 他社車両 ** [[営団07系電車|東京メトロ07系]] - [[小竹向原駅]]に[[ホームドア]]が設置されたため、有楽町線での運用、池袋線・狭山線への直通運転がいずれもできなくなり、現在は全編成が[[東京メトロ東西線|東西線]]へ転属されている。 ** [[営団7000系電車|東京メトロ7000系]] - 10両編成は新木場発と元町・中華街発(土休日デーゲーム時のみ)に、8両編成は西武球場前発元町・中華街行きとその送り込み運用である西所沢始発西武球場前行きに充当されていたが、2022年4月をもって定期運用が終了し、狭山線での運用も終了している。 == 駅一覧 == * 全駅[[埼玉県]][[所沢市]]内に所在。 * 特急はプロ野球開催日や各種イベント開催時のみの運転(詳細は[[#運転|上記]]参照)。準急・快速・急行は各駅に停車。 * 西所沢駅までの営業キロは、池袋から27.2km、小竹向原から23.8km、所沢から2.4km。 * 線路(狭山線内は全線単線) … ◇・∨・∧:[[列車交換]]可能 * [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref>。 ; 凡例 : ●:停車、|:通過 <!-- 各種別の色は他の西武線の記事と合わせています。 --> {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅番号 !style="width:7.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|累計キロ !style="background:#fcc; width:1em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|特急}} !style="border-bottom:solid 3px #ef810f;"|接続路線 !style="border-bottom:solid 3px #ef810f; width:1em;"|{{縦書き|線路}} |- !SI18 |[[西所沢駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="background:#fcc; text-align:center;"|| |[[西武鉄道]]:[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|15px|SI]] [[西武池袋線|池袋線]](一部の列車は[[池袋駅|池袋]]方面直通運転) |∨ |- !SI40 |[[下山口駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|1.8 |style="background:#fcc; text-align:center;"|| |&nbsp; |◇ |- !SI41 |[[西武球場前駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|4.2 |style="background:#fcc; text-align:center;"|● |西武鉄道:[[ファイル:SeibuYamaguchi.svg|15px|SY]] [[西武山口線|山口線]] (SY03) |∧ |} * かつては[[快速急行]]も運行されていたが、[[1998年]][[3月26日]]のダイヤ改正で廃止されている。 === 廃駅 === * [[上山口駅 (埼玉県)|上山口駅]](かみやまぐち)(下山口 - 西武球場前間 [[1929年]][[5月1日]]開業・[[1944年]][[2月28日]]休止・[[1954年]][[10月10日]]廃止) == 当路線が登場する映像作品 == * [[ぶらり途中下車の旅]]([[山田五郎]]) - 2010年7月17日新宿線の回で登場<ref>[https://www.ntv.co.jp/burari/contents/20100717.html ぶらり途中下車の旅] - 日本テレビ</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の地域別鉄道路線一覧]] * [[関東地方の鉄道路線]] {{西武鉄道の路線}} {{Rail-stub}} {{DEFAULTSORT:せいふさやません}} [[Category:関東地方の鉄道路線|さやません]] [[Category:西武鉄道の鉄道路線|さやま]] [[Category:武蔵野鉄道|路]] [[Category:埼玉県の交通]]
2003-07-22T08:20:33Z
2023-12-25T08:50:54Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:UKrail-header2", "Template:BS-table", "Template:縦書き", "Template:西武鉄道の路線", "Template:Rail-stub", "Template:BS2", "Template:PDFlink", "Template:Cite press release" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E7%B7%9A
12,053
西武多摩湖線
多摩湖線(たまこせん)は、東京都国分寺市の国分寺駅から東村山市の多摩湖駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はST。 定期列車の列車種別は現在各駅停車のみである。2013年3月16日のダイヤ改正より、ワンマン運転の線内折り返し列車が主体となっている。基本的には国分寺駅 - 多摩湖駅間の全線通し運転で、国分寺駅 - 萩山駅および萩山駅 - 多摩湖駅間の区間運転列車も設定されている。昼間時間帯は、全線通しの列車が毎時3本と、国分寺駅 - 萩山駅が毎時3本、それぞれ交互に運転されるのが基本パターンになっている。そのため、昼間時間帯は国分寺駅 - 萩山駅間が10分おき、萩山駅 - 多摩湖駅間が20分おきのダイヤとなっている。 かつては後述のように、萩山駅 - 多摩湖駅間において拝島線・新宿線への直通列車が多数運転されていたが、2022年現在は小平発着・西武新宿発着合わせて平日1往復、土休日4往復(不定期運行)に限られる。拝島線直通列車は、平日は定期運行で早朝に小平駅発多摩湖駅行き、多摩湖駅発西武新宿駅行きの各駅停車がそれぞれ1本運転され、土休日はすべて不定期運行で朝に多摩湖発小平行きの各駅停車、西武新宿発多摩湖行きの急行、夕方に多摩湖発西武新宿行きの急行と小平発多摩湖行きの各駅停車がそれぞれ2本ずつ運転されるのみとなっている。 沿線地域の生活路線である一方、終点の多摩湖駅で接続する山口線と合わせて、西武新宿線の東京都内方面やJR中央線方面から、西武園ゆうえんち来園客および西武ドームへのイベント観客輸送を担っている一面もあり、野球やコンサート開催時を中心に、前述の国分寺駅 - 萩山駅間の区間運転列車の多摩湖駅までの延長運転や、不定期列車として西武新宿駅 - 多摩湖駅間の急行(土休日のみ)と小平駅 - 多摩湖駅間の各駅停車が運行され、多客輸送に対応している。 2022年3月のダイヤ改正までは昼間時間帯は、全線通しの列車が毎時3本と、国分寺駅 - 萩山駅が毎時2本運行され、国分寺駅 - 萩山駅間は10分-20分間隔と不規則であったが、国分寺駅 - 萩山駅間の列車増発により解消された。 2013年3月15日までは、国分寺駅 - 萩山駅間の折り返し運転と、西武遊園地駅から萩山駅を経由し拝島線の小平駅まで直通(一部は新宿線に乗り入れて西武新宿駅まで)運転される系統に二分されていたほか、平日朝に国分寺駅 - 一橋学園駅間の区間列車が運転されていた。 また、拝島線・新宿線と直通する急行も定期運転されていた。平日の急行は萩山駅で編成の分割・併結を行っていたが年々縮小され、2013年3月16日のダイヤ改正で消滅した。さらにこの改正と同時に平日朝の西武新宿駅行きの急行に設定されていた1号車の女性専用車両も消滅した。2016年3月26日のダイヤ改正で土曜休日の西武新宿駅 - 西武遊園地間の急行が不定期化されたことで、拝島線・新宿線へ直通する定期運転の急行は消滅した。 1996年のダイヤ改正までは野球もしくはイベント開催時に限り国分寺駅 - 西武遊園地駅間を直通運転する「準急」が設定されており、萩山駅 - 西武遊園地駅間を通過運転していた。本来ならば「急行」または「快速急行」とすべきであるが、すでに急行と快速が萩山駅 - 西武遊園地駅間各駅停車として設定され、快速急行は国分寺駅 - 萩山駅での急行運転用に予約しており、苦肉の策として同区間で設定のなかった準急を割り当てた。 また、1998年のダイヤ改正までは不定期で萩山駅 - 西武遊園地駅間の区間運転列車として「快速急行」が設定されていた。途中停車駅はなかったが、のちに八坂駅・武蔵大和駅にも停車していた。主に西武ライオンズ球場(当時)で野球もしくはイベントが開催される時の西武新宿駅からの直通列車で、臨時として小平駅 - 西武遊園地駅間でも運転されていた。また当時の多摩湖線のホーム有効長の関係で4両編成で運転されていた時期もあった。 国分寺 - 萩山間は、かつて311系や351系といった17m車3両編成が中心に使われており、西武鉄道で最後まで吊り掛け駆動の旧型車両(いわゆる赤電)を使用していた線区であった。これは、多摩湖線国分寺駅のホーム有効長が60m程度しかなく、20m車4両編成の入線が不可能だったためである。このため、1990年6月に多摩湖線ホームを現在の本町四丁目商店街の道路を連絡通路で跨いだ萩山寄りの西武バス折返場(国分寺駅北入口バス停)そばに移設し、営業キロを0.1km短縮、踏切1か所が除去された。これをもって351系は引退し、西武線内の冷房化率100%を達成した。その後は新宿線系統に配属されていた401系や701系・801系などに一旦は置き換えられたが、同車の廃車進捗により1996年には101系に統一された。 そして1998年11月から国分寺 - 萩山間でワンマン運転が開始されることになり、これに合わせ新101系ワンマン車が3本投入された。その後2005年から2006年にかけて新101系ワンマン車に更新工事が実施され、その際は多摩川線向けにワンマン改造された旧101系 (225F) が運用に就いていた。新101系ワンマン車は2008年からさらに投入されて6本体制となり、2013年3月のダイヤ改正からは全線でワンマン運転が行われている。 2021年2月の国分寺駅へのホームドア設置のため、2020年から2021年にかけて9000系5本を4両・ワンマン化改造の上で投入し、新101系ワンマン車6本を置き換えた。なおそのうち4本は狭山線へ移されている。2020年2月に新101系に廃車が発生、2020年10月に9000系が運用開始となるが、その間ワンマン車は5本体制となり、多摩川線への甲種輸送時には車両不足が発生するため、新2000系での代走が見られた。この際は駅の時刻表に4ドア車が運転される旨の掲示が出され、時刻が明記されていたのが特筆される。その後も2021年2月の新101系撤退までの間は3ドア・4ドアの車両が混在する状況となるため、駅の時刻表に注意書きが掲示されていた。また新101系撤退時点では9000系が出揃っておらず、4月までの間は再び新2000系での代走が見られた。現在は4ドア車のみになっている。 前述の通りワンマン運転開始後にも運用の都合で新2000系などのワンマン非対応車が入線することがあり、その際は車掌が乗務しドア閉めなどは車掌が行っている。 ワンマン運用 拝島線・新宿線直通運用 萩山 - 多摩湖間では8両編成の直通列車が設定されているため、西武新宿線使用車両も乗り入れる。 元々は堤康次郎の箱根土地が所有する小平の分譲地の輸送手段として国分寺-小平間の鉄道免許を取得したことがはじまりで、続いて1927年に完成した村山貯水池へ延伸する免許を取得し、子会社の多摩湖鉄道により開業した路線である。後に箱根土地系列となった武蔵野鉄道(現・西武鉄道の前身)と1940年に合併した。複雑な路線の伸縮、駅の改廃・改称を繰り返している。また、戦後かなりの間、1500Vの他線区とは異なり、架線電圧は600Vのまま残されていた。 多摩湖線のキロポストは、国分寺駅→萩山駅で一区切りになり、萩山駅→多摩湖駅については、拝島線小平駅からの通算となる。このため、拝島線も萩山駅で一旦途切れることになる(萩山駅 - 小川駅間は小川駅から萩山駅に向かってキロポストが打たれる)。なお、国分寺駅には0kmポストがなく、0.1kmから始まっているが、これは同駅の改良により駅の位置が変更されたためである。 「歴史」の節で記した通り、開業時と比べて改変が著しい路線である。特に萩山駅以南は廃駅が多い。一番駅数が多くなったのは1939年1月から1953年1月15日の間で、当時4.4kmだった南側の区間に8つもの駅がひしめき合っていた。当時の駅は以下の通り。括弧内は駅間距離/当時の国分寺駅起点の営業距離 (km)。 1953年から翌年にかけて東国分寺・桜堤・厚生村の各駅が休止のまま廃駅となったことで一気に5駅まで減り、さらに1966年の一橋大学駅・小平学園駅統合による一橋学園駅設置と本町信号場設置で現在のように4駅と1信号場という形になった。このためこの区間で開業当時からの駅は国分寺駅・青梅街道駅・萩山駅のみで、このうち国分寺駅と萩山駅は移転しているため、厳密に開業当時のままなのは青梅街道駅のみである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "多摩湖線(たまこせん)は、東京都国分寺市の国分寺駅から東村山市の多摩湖駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はST。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "定期列車の列車種別は現在各駅停車のみである。2013年3月16日のダイヤ改正より、ワンマン運転の線内折り返し列車が主体となっている。基本的には国分寺駅 - 多摩湖駅間の全線通し運転で、国分寺駅 - 萩山駅および萩山駅 - 多摩湖駅間の区間運転列車も設定されている。昼間時間帯は、全線通しの列車が毎時3本と、国分寺駅 - 萩山駅が毎時3本、それぞれ交互に運転されるのが基本パターンになっている。そのため、昼間時間帯は国分寺駅 - 萩山駅間が10分おき、萩山駅 - 多摩湖駅間が20分おきのダイヤとなっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "かつては後述のように、萩山駅 - 多摩湖駅間において拝島線・新宿線への直通列車が多数運転されていたが、2022年現在は小平発着・西武新宿発着合わせて平日1往復、土休日4往復(不定期運行)に限られる。拝島線直通列車は、平日は定期運行で早朝に小平駅発多摩湖駅行き、多摩湖駅発西武新宿駅行きの各駅停車がそれぞれ1本運転され、土休日はすべて不定期運行で朝に多摩湖発小平行きの各駅停車、西武新宿発多摩湖行きの急行、夕方に多摩湖発西武新宿行きの急行と小平発多摩湖行きの各駅停車がそれぞれ2本ずつ運転されるのみとなっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "沿線地域の生活路線である一方、終点の多摩湖駅で接続する山口線と合わせて、西武新宿線の東京都内方面やJR中央線方面から、西武園ゆうえんち来園客および西武ドームへのイベント観客輸送を担っている一面もあり、野球やコンサート開催時を中心に、前述の国分寺駅 - 萩山駅間の区間運転列車の多摩湖駅までの延長運転や、不定期列車として西武新宿駅 - 多摩湖駅間の急行(土休日のみ)と小平駅 - 多摩湖駅間の各駅停車が運行され、多客輸送に対応している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2022年3月のダイヤ改正までは昼間時間帯は、全線通しの列車が毎時3本と、国分寺駅 - 萩山駅が毎時2本運行され、国分寺駅 - 萩山駅間は10分-20分間隔と不規則であったが、国分寺駅 - 萩山駅間の列車増発により解消された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2013年3月15日までは、国分寺駅 - 萩山駅間の折り返し運転と、西武遊園地駅から萩山駅を経由し拝島線の小平駅まで直通(一部は新宿線に乗り入れて西武新宿駅まで)運転される系統に二分されていたほか、平日朝に国分寺駅 - 一橋学園駅間の区間列車が運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、拝島線・新宿線と直通する急行も定期運転されていた。平日の急行は萩山駅で編成の分割・併結を行っていたが年々縮小され、2013年3月16日のダイヤ改正で消滅した。さらにこの改正と同時に平日朝の西武新宿駅行きの急行に設定されていた1号車の女性専用車両も消滅した。2016年3月26日のダイヤ改正で土曜休日の西武新宿駅 - 西武遊園地間の急行が不定期化されたことで、拝島線・新宿線へ直通する定期運転の急行は消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1996年のダイヤ改正までは野球もしくはイベント開催時に限り国分寺駅 - 西武遊園地駅間を直通運転する「準急」が設定されており、萩山駅 - 西武遊園地駅間を通過運転していた。本来ならば「急行」または「快速急行」とすべきであるが、すでに急行と快速が萩山駅 - 西武遊園地駅間各駅停車として設定され、快速急行は国分寺駅 - 萩山駅での急行運転用に予約しており、苦肉の策として同区間で設定のなかった準急を割り当てた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、1998年のダイヤ改正までは不定期で萩山駅 - 西武遊園地駅間の区間運転列車として「快速急行」が設定されていた。途中停車駅はなかったが、のちに八坂駅・武蔵大和駅にも停車していた。主に西武ライオンズ球場(当時)で野球もしくはイベントが開催される時の西武新宿駅からの直通列車で、臨時として小平駅 - 西武遊園地駅間でも運転されていた。また当時の多摩湖線のホーム有効長の関係で4両編成で運転されていた時期もあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "国分寺 - 萩山間は、かつて311系や351系といった17m車3両編成が中心に使われており、西武鉄道で最後まで吊り掛け駆動の旧型車両(いわゆる赤電)を使用していた線区であった。これは、多摩湖線国分寺駅のホーム有効長が60m程度しかなく、20m車4両編成の入線が不可能だったためである。このため、1990年6月に多摩湖線ホームを現在の本町四丁目商店街の道路を連絡通路で跨いだ萩山寄りの西武バス折返場(国分寺駅北入口バス停)そばに移設し、営業キロを0.1km短縮、踏切1か所が除去された。これをもって351系は引退し、西武線内の冷房化率100%を達成した。その後は新宿線系統に配属されていた401系や701系・801系などに一旦は置き換えられたが、同車の廃車進捗により1996年には101系に統一された。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "そして1998年11月から国分寺 - 萩山間でワンマン運転が開始されることになり、これに合わせ新101系ワンマン車が3本投入された。その後2005年から2006年にかけて新101系ワンマン車に更新工事が実施され、その際は多摩川線向けにワンマン改造された旧101系 (225F) が運用に就いていた。新101系ワンマン車は2008年からさらに投入されて6本体制となり、2013年3月のダイヤ改正からは全線でワンマン運転が行われている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2021年2月の国分寺駅へのホームドア設置のため、2020年から2021年にかけて9000系5本を4両・ワンマン化改造の上で投入し、新101系ワンマン車6本を置き換えた。なおそのうち4本は狭山線へ移されている。2020年2月に新101系に廃車が発生、2020年10月に9000系が運用開始となるが、その間ワンマン車は5本体制となり、多摩川線への甲種輸送時には車両不足が発生するため、新2000系での代走が見られた。この際は駅の時刻表に4ドア車が運転される旨の掲示が出され、時刻が明記されていたのが特筆される。その後も2021年2月の新101系撤退までの間は3ドア・4ドアの車両が混在する状況となるため、駅の時刻表に注意書きが掲示されていた。また新101系撤退時点では9000系が出揃っておらず、4月までの間は再び新2000系での代走が見られた。現在は4ドア車のみになっている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "前述の通りワンマン運転開始後にも運用の都合で新2000系などのワンマン非対応車が入線することがあり、その際は車掌が乗務しドア閉めなどは車掌が行っている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ワンマン運用", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "拝島線・新宿線直通運用", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "萩山 - 多摩湖間では8両編成の直通列車が設定されているため、西武新宿線使用車両も乗り入れる。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "元々は堤康次郎の箱根土地が所有する小平の分譲地の輸送手段として国分寺-小平間の鉄道免許を取得したことがはじまりで、続いて1927年に完成した村山貯水池へ延伸する免許を取得し、子会社の多摩湖鉄道により開業した路線である。後に箱根土地系列となった武蔵野鉄道(現・西武鉄道の前身)と1940年に合併した。複雑な路線の伸縮、駅の改廃・改称を繰り返している。また、戦後かなりの間、1500Vの他線区とは異なり、架線電圧は600Vのまま残されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "多摩湖線のキロポストは、国分寺駅→萩山駅で一区切りになり、萩山駅→多摩湖駅については、拝島線小平駅からの通算となる。このため、拝島線も萩山駅で一旦途切れることになる(萩山駅 - 小川駅間は小川駅から萩山駅に向かってキロポストが打たれる)。なお、国分寺駅には0kmポストがなく、0.1kmから始まっているが、これは同駅の改良により駅の位置が変更されたためである。", "title": "キロポストについて" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「歴史」の節で記した通り、開業時と比べて改変が著しい路線である。特に萩山駅以南は廃駅が多い。一番駅数が多くなったのは1939年1月から1953年1月15日の間で、当時4.4kmだった南側の区間に8つもの駅がひしめき合っていた。当時の駅は以下の通り。括弧内は駅間距離/当時の国分寺駅起点の営業距離 (km)。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1953年から翌年にかけて東国分寺・桜堤・厚生村の各駅が休止のまま廃駅となったことで一気に5駅まで減り、さらに1966年の一橋大学駅・小平学園駅統合による一橋学園駅設置と本町信号場設置で現在のように4駅と1信号場という形になった。このためこの区間で開業当時からの駅は国分寺駅・青梅街道駅・萩山駅のみで、このうち国分寺駅と萩山駅は移転しているため、厳密に開業当時のままなのは青梅街道駅のみである。", "title": "駅一覧" } ]
多摩湖線(たまこせん)は、東京都国分寺市の国分寺駅から東村山市の多摩湖駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はST。
{{混同|西武多摩川線}} {{出典の明記|date=2018年4月}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 多摩湖線 |路線色=#fdbc00 |ロゴ=File:SeibuTamako.svg |ロゴサイズ=50px |画像=Seibu Series9000-9103.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=西武多摩湖線を走行する9000系<br>(2023年7月 [[武蔵大和駅]] - [[八坂駅 (東京都)|八坂駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]][[国分寺市]]、[[小平市]]、[[東村山市]] |起点=[[国分寺駅]] |終点=[[多摩湖駅]] |駅数=7駅 |輸送実績= |1日利用者数= |路線記号=ST |開業={{start date and age|1928|4|6}} |全通={{start date and age|1936|12|30}} |休止= |廃止= |所有者=[[西武鉄道]] |運営者=西武鉄道 |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=9.2 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[単線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最高速度=100 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="datebook">[[#datebook|寺田裕一『データブック 日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年) p.59]]</ref> |最小曲線半径 = 160 [[メートル|m]]<ref name="datebook"/> |最大勾配 = 22.5 [[パーミル|‰]]<ref name="datebook"/> |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置= |路線図= |路線図名= |路線図表示=<!--collapsed--> }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header|停車場・施設・接続路線|#fdbc00}} {{BS-table}} *{{Small2|キロ程は1990年移設後の現在の国分寺駅を起点としている}} *{{Small2|小平駅(本小平駅) - 萩山駅間は1962年に上水線(現拝島線)に編入}} ---- {{BS3|exSTR+l|exBHFq|O2=HUBa|exSTRq|||[[下河原線]]→|}} {{BS3|eABZqr+r|BHFq|O2=HUB|STRq|||←[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[中央線快速|中央線]]→|}} {{BS3|exSTRl|KBHFxaq|O2=HUB|STRq|||[[西武国分寺線|国分寺線]]→|}} {{BS3|exKBHFa|O1=HUBaq||O2=HUBtr||-0.1|''[[国分寺駅]](旧)''|-1990}} {{BS3|exSTR|KBHFa|O2=HUBe||0.0|ST01 [[国分寺駅]]|1990-|}} {{BS3|exKRWl|eKRWg+r||}} {{BS3||eBHF||0.8|''[[東国分寺駅]]''|-1954}} {{BS3||DST||1.2|[[本町信号場]]||}} <!-- 本記事のノート および ノート:本町信号場 を参照。2013年時点では手続き上、廃止されてはいない模様。廃止とする場合は出典を付けてください。 --> {{BS3||eBHF||1.8|''[[桜堤駅]] (II)''|1933-1953}} {{BS3||hKRZWae||||[[玉川上水]]|}} {{BS3||eBHF||2.0|''[[桜堤駅]] (I)''|-1933}} {{BS3||eBHF||2.2|''[[一橋大学駅]]''|-1966}} {{BS3||BHF||2.4|ST02 [[一橋学園駅]]||}} {{BS3||eBHF||2.6|''[[小平学園駅]]''|-1966}} {{BS3||eBHF||2.8|''[[厚生村駅]]''|-1953}} {{BS3||STR|tSTR+l|||JR東:[[武蔵野線]]→}} {{BS3||BHF|tHST|3.4|ST03 [[青梅街道駅]]|JR東:[[新小平駅]]}} {{BS3|STR+r|STR|tSTRl|||←[[西武新宿線|新宿線]]/JR東:武蔵野線→}} {{BS3|STR|eBHF2|STRc3|{{BSkm|4.3|0.0}}|''[[萩山駅]](旧)''|-1958}} {{BS3|BHF|STRc1|STR+4|||[[小平駅]]|}} {{BS3|ABZgl|eBHFq|ABZgxr+r|{{BSkm||1.0}}|''[[小平駅|本小平駅]]''|-1949}} {{BS3|STR||BHF|4.6|ST04 [[萩山駅]]|1958-|}} {{BS3|STRr||ABZgl|||←新宿線/[[西武拝島線|拝島線]]→|}} {{BS3|||KRZt|||←JR東:武蔵野線→}} {{BS3|||BHF|5.6|ST05 [[八坂駅 (東京都)|八坂駅]]||}} {{BS3|||KRZo|||←国分寺線→|}} {{BS3|||DST|7.0|[[回田信号場]]||}} {{BS3|||eBHF|7.9|''[[武蔵大和駅|村山貯水池駅]] (仮)''|-1936}} {{BS3|||BHF|8.1|ST06 [[武蔵大和駅]]||}} {{BS3|||eBHF|8.8|''[[多摩湖駅]] (初代)''|-1961}} {{BS3|||hKRZWae|||[[北川 (東京都)|北川]]|}} {{BS3|xABZq+r|exKHSTeq|STR|||[[西武村山線|村山線]] [[村山貯水池駅]] -1951}} {{BS3|KHSTe||STR|||[[西武西武園線|西武園線]] [[西武園駅]] 1950-}} {{BS3||uKXBHFa-L|O2=HUBaq|KXBHFe-R|O3=HUBeq|9.2|ST07 [[多摩湖駅]]}} {{BS3||uSTR+GRZq||||↑東京都/↓埼玉県}} {{BS3||uSTR|exKBHFa|||[[遊園地前駅 (埼玉県)|遊園地前駅]]-1985}} {{BS3||uSTR|exSTR|||↓[[西武山口線|山口線]]}} |} |} '''多摩湖線'''(たまこせん)は、[[東京都]][[国分寺市]]の[[国分寺駅]]から[[東村山市]]の[[多摩湖駅]]を結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''ST'''。 == 路線データ == *路線距離([[営業キロ]]):9.2km *[[軌間]]:1067mm *駅数:7駅(起終点駅含む) *複線区間:なし(全線[[単線]]) *電化区間:全線(直流1,500V[[架空電車線方式]]) *[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 *最高速度:100 km/h<ref name="datebook"/> == 運行形態 == 定期列車の列車種別は現在[[各駅停車]]のみである。[[2013年]][[3月16日]]のダイヤ改正より、[[ワンマン運転]]の線内折り返し列車が主体となっている<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/01/22/20130122diagram.pdf 2013年3月16日(土) ダイヤ改正を実施します]}} - 西武鉄道、2013年1月22日閲覧。</ref>。基本的には国分寺駅 - 多摩湖駅間の全線通し運転で、国分寺駅 - 萩山駅および萩山駅 - 多摩湖駅間の区間運転列車も設定されている。昼間時間帯は、全線通しの列車が毎時3本と、国分寺駅 - 萩山駅が毎時3本、それぞれ交互に運転されるのが基本パターンになっている。そのため、昼間時間帯は国分寺駅 - 萩山駅間が10分おき、萩山駅 - 多摩湖駅間が20分おきのダイヤとなっている。 かつては後述のように、萩山駅 - 多摩湖駅間において[[西武拝島線|拝島線]]・[[西武新宿線|新宿線]]への直通列車が多数運転されていたが、2022年現在は小平発着・西武新宿発着合わせて平日1往復、土休日4往復(不定期運行)に限られる。拝島線直通列車は、平日は定期運行で早朝に[[小平駅]]発多摩湖駅行き、多摩湖駅発[[西武新宿駅]]行きの各駅停車がそれぞれ1本運転され、土休日はすべて不定期運行で朝に多摩湖発小平行きの各駅停車、西武新宿発多摩湖行きの急行、夕方に多摩湖発西武新宿行きの急行と小平発多摩湖行きの各駅停車がそれぞれ2本ずつ運転されるのみとなっている。 沿線地域の生活路線である一方、終点の多摩湖駅で接続する[[西武山口線|山口線]]と合わせて、西武新宿線の東京都内方面や[[中央線快速|JR中央線]]方面から、[[西武園ゆうえんち]]来園客および[[西武ドーム]]へのイベント観客輸送を担っている一面もあり、野球やコンサート開催時を中心に、前述の国分寺駅 - 萩山駅間の区間運転列車の多摩湖駅までの延長運転や、不定期列車として西武新宿駅 - 多摩湖駅間の急行(土休日のみ)と小平駅 - 多摩湖駅間の各駅停車が運行され、多客輸送に対応している。 === 過去の運行形態と行楽期の臨時列車 === 2022年3月のダイヤ改正までは昼間時間帯は、全線通しの列車が毎時3本と、国分寺駅 - 萩山駅が毎時2本運行され、国分寺駅 - 萩山駅間は10分-20分間隔と不規則であったが、国分寺駅 - 萩山駅間の列車増発により解消された。 [[2013年]]3月15日までは、国分寺駅 - 萩山駅間の折り返し運転と、西武遊園地駅から萩山駅を経由し拝島線の小平駅まで直通(一部は新宿線に乗り入れて西武新宿駅まで)運転される系統に二分されていたほか、平日朝に国分寺駅 - 一橋学園駅間の区間列車が運転されていた。 また、拝島線・新宿線と直通する急行も定期運転されていた。平日の急行は萩山駅で編成の分割・併結を行っていたが年々縮小され、2013年3月16日のダイヤ改正で消滅した。さらにこの改正と同時に平日朝の西武新宿駅行きの急行に設定されていた1号車の[[女性専用車両]]も消滅した。2016年3月26日のダイヤ改正で土曜休日の西武新宿駅 - 西武遊園地間の急行が不定期化<ref>{{PDFlink|[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2015/20160209daiyakaisei.pdf 2016年3月26日(土) ダイヤ改正を実施します]}} - 西武鉄道、2018年5月14日閲覧。</ref><!-- さらに2018年3月10日のダイヤ改正で西武遊園地駅発西武新宿駅行き急行が廃止され - 2016年改正の西武鉄道時刻表第26号上ですでに上り急行も不定期化が確認できます -->されたことで、拝島線・新宿線へ直通する定期運転の急行は消滅した。 1996年のダイヤ改正までは野球もしくはイベント開催時に限り国分寺駅 - 西武遊園地駅間を直通運転する「[[準急列車|準急]]」が設定されており、萩山駅 - 西武遊園地駅間を通過運転していた。本来ならば「急行」または「快速急行」とすべきであるが、すでに急行と快速が萩山駅 - 西武遊園地駅間各駅停車として設定され、快速急行は国分寺駅 - 萩山駅での急行運転用に予約しており、苦肉の策として同区間で設定のなかった準急を割り当てた。 また、1998年のダイヤ改正までは不定期で萩山駅 - 西武遊園地駅間の区間運転列車として「快速急行」が設定されていた。途中停車駅はなかったが、のちに八坂駅・武蔵大和駅にも停車していた。主に[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]](当時)で野球もしくはイベントが開催される時の西武新宿駅からの直通列車で、臨時として小平駅 - 西武遊園地駅間でも運転されていた。また当時の多摩湖線のホーム有効長の関係で4両編成で運転されていた時期もあった。 == 使用車両 == 国分寺 - 萩山間は、かつて[[西武311系電車|311系]]や[[西武351系電車|351系]]といった17m車3両編成が中心に使われており、西武鉄道で最後まで[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]]の旧型車両(いわゆる[[赤電 (西武)|赤電]])を使用していた線区であった。これは、多摩湖線国分寺駅のホーム有効長が60m程度しかなく、20m車4両編成の入線が不可能だったためである<ref group="注">ホーム先端すぐの場所に踏切がありそのままでは延伸が困難であった。</ref>。このため、1990年6月に多摩湖線ホームを現在の本町四丁目商店街の道路を連絡通路で跨いだ萩山寄りの西武バス折返場(国分寺駅北入口バス停{{Refnest|group="注"|1990年代半ばまでは「国分寺車庫」と称した。<ref>『西武時刻表』第12号(平成6年12月7日改正号)p.418 1994年、西武鉄道発行</ref>}})そばに移設し、営業キロを0.1km短縮、踏切1か所が除去された。これをもって351系は引退し、西武線内の冷房化率100%を達成した。その後は新宿線系統に配属されていた401系や701系・801系などに一旦は置き換えられたが、同車の廃車進捗により[[1996年]]には101系に統一された。 そして[[1998年]]11月から国分寺 - 萩山間でワンマン運転が開始<ref>[[#tp201312|『鉄道ピクトリアル』2013年12月臨時増刊号]] 210頁</ref>されることになり、これに合わせ新101系ワンマン車が3本投入された<ref group="注">同車は萩山 - 西武遊園地間にも車掌乗務の上で入線している。</ref>。その後2005年から2006年にかけて新101系ワンマン車に更新工事が実施され、その際は[[西武多摩川線|多摩川線]]向けにワンマン改造された旧101系 (225F) が運用に就いていた。新101系ワンマン車は2008年からさらに投入されて6本体制となり<ref group="注">多摩川線との共通予備車を含む。</ref>、2013年3月のダイヤ改正からは全線でワンマン運転が行われている。 2021年2月の国分寺駅への[[ホームドア]]設置のため、2020年から2021年にかけて9000系5本を4両・ワンマン化改造の上で投入し、新101系ワンマン車6本を置き換えた<!--<ref group="注">予備車が少ないのは甲種輸送による離脱がないためと思われる。</ref>-->。なおそのうち4本は狭山線へ移されている。2020年2月に新101系に廃車が発生、2020年10月に9000系が運用開始となるが、その間ワンマン車は5本体制となり、多摩川線への[[車両輸送|甲種輸送]]時には車両不足が発生するため<ref group="注">多摩湖線は4運用で、多摩川線への甲種輸送時には新101系が2本離脱する。</ref>、新2000系での代走が見られた。この際は駅の時刻表に4ドア車が運転される旨の掲示が出され、時刻が明記されていたのが特筆される。その後も2021年2月の新101系撤退までの間は3ドア・4ドアの車両が混在する状況となるため、駅の時刻表に注意書きが掲示されていた。また新101系撤退時点では9000系が出揃っておらず、4月までの間は再び新2000系での代走が見られた<ref group="注">なおこの際、新101系撤退から9103F運用開始までの約1か月と新2000系代走終了から9104F運用開始までの約2か月、ワンマン車は予備なしで運用を回していた。</ref>。現在は4ドア車のみになっている。 前述の通りワンマン運転開始後にも運用の都合で新2000系などのワンマン非対応車が入線することがあり、その際は車掌が乗務しドア閉めなどは車掌が行っている。 === 現在の車両 === '''ワンマン運用''' *[[西武9000系電車#ワンマン化改造|9000系ワンマン車]] - 直通列車以外は全てこの車両で運転される。最大4本が同時に運行される。 *[[西武2000系電車#新2000系|新2000系]]4両編成 - 車両不足時の代走に使用される。その場合は車掌乗務での運行となる。 '''拝島線・新宿線直通運用''' 萩山 - 多摩湖間では8両編成の直通列車が設定されているため、西武新宿線使用車両も乗り入れる。 *[[西武2000系電車|2000系・新2000系]] *[[西武20000系電車|20000系]] *[[西武30000系電車|30000系]] <gallery widths="220"> Seibu Series9000-9102.jpg|9000系<br>(2023年7月30日 武蔵大和駅 - 八坂駅間) Seibu20000 TamakoLine.jpg|20000系<br>(2020年8月10日 八坂駅 - 武蔵大和駅間) 西武30000系38102F編成(西武多摩湖線).jpg|30000系<br>(2020年8月1日 八坂駅 - 武蔵大和駅間) Seibu2000 TamakoLine.JPG|新2000系<br>(2010年12月10日 一橋学園駅) </gallery> === 過去の車両 === {{Main2|当路線前身の多摩湖鉄道の車両|多摩湖鉄道の鉄道車両}} *[[西武401系電車 (初代)|401系(初代)]]( - 1973年) *[[西武451系電車|451系]]( - 1984年) *[[西武551系電車|551系・571系]]( - 1988年) *[[西武351系電車|351系]]( - 1990年) *[[西武411系電車|401系(2代)]]( - 1996年) *[[西武701系電車|701系・801系]](1990年 - 1996年) *[[西武101系電車|旧101系]]( - 2008年) *[[西武101系電車#新101系・301系|新101系]]( - 2021年)- 国分寺駅ホームドア設置に伴い、2021年2月22日をもって運行終了。 <gallery widths="220px"> Seibu tamako line 2020 2.jpg|新101系<br>(2020年8月7日 国分寺駅 - 一橋学園駅間) Seibu 351 sayonara.jpg|351系のさよなら運転<br>(1990年 国分寺駅旧ホームから撮影。左奥に見えるのは現在のホーム) </gallery> === その他 === * [[西武10000系電車|10000系]]- [[ミステリートレイン]]としての入線実績がある<ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/718179.html 西武鉄道、生ビール2時間飲み放題の「ヱビスビール特急」を運行] - トラベルWatch、2015年8月27日</ref>。 * [[52席の至福]] - 特別運行時に萩山 - 多摩湖間へ入線することがある。 == 歴史 == {{基礎情報 会社 | 社名 = 多摩湖鉄道 | ロゴ = Tamako Railway Logomark.svg | ロゴサイズ = 150px | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 国籍 = {{JPN}} | 本社所在地 = [[東京府]][[北多摩郡]][[谷保村]]青柳894<ref name="NDLDC1186026"/> | 設立 = [[1928年]](昭和3年)1月15日<ref name="NDLDC1186026"/> | 業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] | 事業内容 = 旅客鉄道事業、バス事業、娯楽機関経営<ref name="NDLDC1186026"/> | 代表者 = 常務 [[中島陟]]<ref name="NDLDC1186026"/> | 資本金 = 1,000,000円<ref name="NDLDC1186026"/> | 特記事項 = 上記データは1937年(昭和12年)4月1日現在<ref name="NDLDC1186026">[{{NDLDC|1186026/33}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)。 }} 元々は[[堤康次郎]]の[[箱根土地]]が所有する小平の分譲地{{Refnest|group="注"|箱根土地は小平村への明治大学移転を計り1925年国分寺大学都市と銘打って小平村の宅地分譲を開始した。これに伴い国分寺駅前-小平村小川間でバス運行を開始した<ref>[[#noda|「多摩湖鉄道の12年間」]]80-81頁</ref>。}}の輸送手段として国分寺-小平間の鉄道免許を取得したことがはじまりで、続いて[[1927年]]に完成した[[村山貯水池]]へ延伸する免許を取得し、子会社の'''多摩湖鉄道'''により開業した路線である。後に箱根土地系列となった'''武蔵野鉄道'''(現・西武鉄道の前身)と[[1940年]]に合併した。複雑な路線の伸縮、駅の改廃・改称を繰り返している。また、戦後かなりの間、1500Vの他線区とは異なり、架線電圧は600Vのまま残されていた。 === 年表 === * [[1925年]]([[大正]]14年)[[10月10日]]:[[箱根土地]]に対し鉄道免許状下付(北多摩郡国分寺村-同郡東村山村)<ref>[{{NDLDC|2956091/9}} 「鉄道免許状下付」『官報』1925年10月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[11月16日]]:鉄道免許状下付(北多摩郡東村山村大字野口字萩山-同郡同村大字宅部村山貯水池下)<ref>[{{NDLDC|2956729/9}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年11月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[1月15日]]:多摩湖鉄道株式会社設立(本社北多摩郡[[谷保村]]、取締役は箱根土地の[[中島陟]])<ref>[{{NDLDC|1077361/179}} 『日本全国諸会社役員録. 第36回(昭和3年)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="kido10">[{{NDLDC|1190630/33}} 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[3月5日]]:鉄道敷設権を多摩湖鉄道に譲渡(許可)<ref>[{{NDLDC|2956817/5}} 「鉄道敷設権譲渡」『官報』1928年3月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[4月6日]]:'''多摩湖線'''国分寺駅 - 萩山駅間 (4.4km 国分寺、桜堤、小平学園、青梅街道、萩山) 開業<ref>[{{NDLDC|2956847/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年4月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[11月2日]]:'''小平線'''萩山駅 - 本小平駅間 (1.0km) 開業<ref>[{{NDLDC|2957026/5}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年11月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。本小平駅は多摩湖鉄道の駅で当初は小平駅と称し<ref>[http://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/017/017156.html 市史編さんこぼれ話No.10 多摩湖線 本小平駅のなりたち/東京都小平市]</ref>、西武鉄道(旧)の小平駅近くに設置された。 * [[1929年]](昭和4年)[[7月1日]]:鉄道免許状下付(北多摩郡東村山村-入間郡山口村間)<ref>[{{NDLDC|2957220/6}} 「鉄道免許状下付」『官報』1929年7月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1930年]](昭和5年) ** [[1月23日]]:萩山駅 - 村山貯水池(仮)駅間 (3.6km) 開業<ref>[{{NDLDC|2957393/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年2月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。村山貯水池(仮)駅は現在の武蔵大和駅で、現在の場所より八坂駅寄りにあった。 ** [[5月7日]]:国分寺駅 - 村山貯水池(仮)駅電化(直流600V)。 * [[1932年]](昭和7年)[[8月15日]]:萩山駅 - 本小平駅間電化<ref name="kido10"/>(直流600V)。 * [[1933年]](昭和8年) ** [[4月6日]]:東国分寺駅開業。 ** [[9月11日]]:商大予科前駅開業。桜堤駅移転。 * [[1934年]](昭和9年)[[4月12日]]:国分寺 - 萩山間蒸気動力廃止<ref name="kido10"/>。 * [[1936年]](昭和11年)[[12月30日]]:村山貯水池(仮)駅 - 村山貯水池駅間 (0.9km) 開業<ref>[{{NDLDC|1073718/8}} 『鉄道統計資料. 昭和11年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。村山貯水池(仮)駅は武蔵大和駅に改称のうえ現在位置に移設。 * [[1939年]](昭和14年)1月:厚生村駅開業。 * [[1940年]](昭和15年)[[3月12日]]:武蔵野鉄道に合併。 * [[1942年]](昭和17年)[[10月1日]]:八坂駅開業。 * [[1945年]](昭和20年)[[2月3日]]:東国分寺駅、桜堤駅、厚生村駅休止。 * [[1949年]](昭和24年) ** 5月:商大予科前駅を一橋大学駅に改称。 ** [[11月15日]]:本小平駅を小平駅に統合。 * [[1951年]](昭和26年)[[9月1日]]:狭山公園前駅を多摩湖駅に改称。 * [[1953年]](昭和28年)[[1月15日]]:休止中の桜堤駅、厚生村駅廃止。 * [[1954年]](昭和29年)[[10月10日]]:休止中の東国分寺駅廃止。 * [[1955年]](昭和30年)[[3月18日]]:小平駅 - 萩山駅間が1500Vに昇圧。 * [[1958年]](昭和33年)[[9月16日]]:萩山駅 - 多摩湖駅間が1500Vに昇圧。萩山駅の配線変更、多摩湖駅方に0.3km移設および新宿線から多摩湖までの直通運転を開始。 * [[1961年]](昭和36年) ** [[9月20日]]:多摩湖駅移転 (+0.4km)。 ** [[9月21日]]:国分寺駅 - 萩山駅間が1500Vに昇圧(全線昇圧完了)。 * [[1962年]](昭和37年)[[9月1日]]:小平駅 - 萩山駅間を上水線(現・拝島線)に編入。 * [[1963年]](昭和38年)[[4月5日]]:回田信号場開設。 * [[1966年]](昭和41年)[[7月1日]]:一橋大学駅を小平学園駅と併合し一橋学園駅に改称。本町信号場開設。 * [[1979年]](昭和54年)[[3月25日]]:多摩湖駅を西武遊園地駅に改称。 * [[1985年]](昭和60年):[[ダイヤ改正]]で野球・イベント開催時のみ、国分寺 - 西武遊園地間に準急を新設。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[6月24日]]:国分寺駅改良により営業キロ短縮 (-0.1km) 。国分寺駅 - 萩山駅間車両大型(20m車)化。 * [[1996年]](平成8年)[[3月28日]]:ダイヤ改正で野球・イベント開催時の準急廃止。再び、全区間普通(各駅停車)に統一。 * [[1998年]](平成10年) ** [[8月21日]]:国分寺駅 - 萩山駅間でワンマン運転開始<ref name="交通980810">{{Cite news |title=多摩湖線がワンマンに |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-08-10 |page=3 }}</ref>。ただし、朝ラッシュ時間帯は保安要員が添乗{{R|交通980810}}。 ** [[11月20日]]:朝ラッシュ時の保安要員添乗をやめ、完全ワンマン化{{R|交通980810}}。 * [[2012年]](平成24年)[[6月30日]]:ダイヤ改正で朝ラッシュ時の分割とともに平日の下り急行が廃止(上り併結は継続)。 * [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:ダイヤ改正で朝ラッシュ時の併結とともに平日の急行が廃止。全線ワンマン運転が開始され、一部を除いて小平駅 - 西武遊園地駅間の運行形態を国分寺駅 - 萩山駅間の運転形態と統合。国分寺駅 - 一橋学園駅間の区間運転が廃止され、国分寺駅 - 西武遊園地駅間のワンマン運転が基本となる。 * [[2016年]](平成28年) ** [[3月22日]]:ダイヤ改正で土曜休日ダイヤでの急行が不定期化され、定期運行の急行が消滅。 ** [[8月22日]]:[[平成28年台風第9号|台風第9号]]による影響で武蔵大和駅 - 西武遊園地駅間で法面崩壊が発生。当該地点に停車していた西武遊園地駅発国分寺行の電車(4両編成)が土砂に押し上げられ脱線した。乗務員を含む7名に怪我はなかった。この日から萩山駅 - 西武遊園地駅間が運休<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/musashiyamato/topics/__icsFiles/afieldfile/2016/08/26/20160822taifuu9.pdf 【お詫び】台風9号の影響について ]}} - 西武鉄道、2016年9月4日閲覧。</ref>。[[東村山駅]] - 武蔵大和駅間に臨時バスによる代行輸送および[[西武西武園線|西武園線]]終電車の延長運転が行われた<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/musashiyamato/topics/__icsFiles/afieldfile/2016/08/26/20160823information_1.pdf 多摩湖線の運転再開見込みと運休区間のご案内について ]}} - 西武鉄道、2016年9月4日閲覧。</ref>。 **[[9月6日]]:萩山駅 - 西武遊園地駅間の運転再開<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/smile/musashiyamato/topics/1216087_3683.html 2016/09/06 9月6日(火) 運転を再開しました ]}} - 西武鉄道、2016年9月6日閲覧。</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[10月1日]]:9000系ワンマン車の営業運転が開始<ref>交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2021年1月号(通巻717号)大手私鉄 通勤車両のリニューアル</ref>。 *[[2021年]](令和3年) **[[2月7日]]:この日をもって新101系は多摩湖線から一時撤退。 **[[2月22日]]:18日から行われた「ありがとう101系多摩湖線ラストランウィーク」終了をもって多摩湖線での新101系の運行を終了<ref name="trafficnews20210216">{{cite news|url=https://trafficnews.jp/post/104633|title=「ありがとう101系 多摩湖線ラストラン Week」開催 4ドア車に統一へ 西武|newspaper=乗りものニュース|publisher=メディア・ヴァーグ|date=2021-02-16|accessdate=2021-03-12}}</ref>。 **[[3月13日]]:西武遊園地駅を多摩湖駅に改称<ref name="press20210126">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210126_daiyakaisei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210126060308/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210126_daiyakaisei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年3月13日(土)ダイヤ改正と駅名変更を実施します。夜間作業のさらなる安全性向上と効率化を目的に、終電車の繰り上げを実施「西武園ゆうえんち」のリニューアルオープンに先駆け、駅名変更を実施|publisher=西武鉄道|date=2021-01-26|accessdate=2021-01-26|archivedate=2021-01-26}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20200226seibuenyuuench_stationname.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226102638/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20200226seibuenyuuench_stationname.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西武園ゆうえんち周辺の駅名を変更します|publisher=西武鉄道|date=2020-02-26|accessdate=2020-02-26|archivedate=2020-02-26}}</ref>。 == キロポストについて == 多摩湖線の[[距離標|キロポスト]]は、国分寺駅→萩山駅で一区切りになり、萩山駅→多摩湖駅については、拝島線[[小平駅]]からの通算となる。このため、拝島線も萩山駅で一旦途切れることになる(萩山駅 - 小川駅間は小川駅から萩山駅に向かってキロポストが打たれる)。なお、国分寺駅には0kmポストがなく、0.1kmから始まっているが、これは同駅の改良により駅の位置が変更されたためである<ref name="RP716-pp128">小松丘「西武鉄道 沿線観察」 - 『[[鉄道ピクトリアル]]』No.716 2002年4月臨時増刊号 特集・西武鉄道 P.128-130 2002年4月10日発行 [[電気車研究会]]</ref>。 == 駅一覧 == * 全駅[[東京都]]内に所在。 ; 凡例 : ●:停車、|:通過 : 各駅停車はすべての駅に停車(表では省略) : 線路(全線単線) … ◇:[[列車交換]]可、|:列車交換不可 : [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された。<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref> <!-- 各種別の色は[[西武新宿線]]などと合わせています。変更される場合、西武新宿線なども合わせて修正してください。 文字が見やすいように実際に使われているものより薄めの色を選ぶことをお奨めします。--> {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #fdbc00; width:4em;"|駅番号 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #fdbc00; width:7em;"|駅名 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #fdbc00; width:2.5em;"|駅間キロ !colspan="2" |累計キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #fdbc00; background:#fd9; width:1em;"|{{縦書き|急行}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #fdbc00;"|接続路線 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #fdbc00; width:1em;"|{{縦書き|線路}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #fdbc00;"|所在地 |- !style="border-bottom:solid 3px #fdbc00; width:3.5em; line-height:1.2em;"|国分寺<br /><small>から</small> !style="border-bottom:solid 3px #fdbc00; width:3.5em; line-height:1em;"|[[西武新宿駅|西武<br />新宿]]<br /><small>から</small> |- !ST01 |[[国分寺駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"|- |rowspan="4" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom; font-size:85%"|{{縦書き|拝島線経由 新宿線直通|height=11em}} |[[西武鉄道]]:[[ファイル:SeibuKokubunji.svg|15px|SK]] [[西武国分寺線|国分寺線]] (SK01)<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[中央線快速|中央線]] (JC 16) |style="text-align:center;"|| |style="white-space:nowrap;"|[[国分寺市]] |- !&nbsp; |[[本町信号場]] <!-- 本記事のノート および ノート:本町信号場 を参照。2013年時点では手続き上、廃止されてはいない模様。廃止とする場合は出典を付けてください。 --> |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(1.2) |style="text-align:center;"|- |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="3"|[[小平市]] |- !ST02 |[[一橋学園駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:center;"|- |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !ST03 |[[青梅街道駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:center;"|- |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !ST04 |[[萩山駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|4.6 |style="text-align:right;"|23.7 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |西武鉄道:[[ファイル:SeibuShinjuku.svg|15px|SS]] [[西武拝島線|拝島線]] (SS30)<br />('''[[ファイル:SeibuShinjuku.svg|15px|SS]] 拝島線経由[[西武新宿線|新宿線]][[西武新宿駅]]まで直通運転''') |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="5"|[[東村山市]] |- !ST05 |[[八坂駅 (東京都)|八坂駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|5.6 |style="text-align:right;"|24.7 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !&nbsp; |[[回田信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|(7.0) |style="text-align:right;"|(26.1) |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !ST06 |[[武蔵大和駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|8.1 |style="text-align:right;"|27.2 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !ST07 |[[多摩湖駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|9.2 |style="text-align:right;"|28.3 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |西武鉄道:[[ファイル:SeibuYamaguchi.svg|15px|SY]] [[西武山口線|山口線]] (SY01) |style="text-align:center;"|◇ |} === 廃駅・廃止信号所 === 「[[#歴史|歴史]]」の節で記した通り、開業時と比べて改変が著しい路線である。特に[[萩山駅]]以南は[[廃駅]]が多い。一番駅数が多くなったのは[[1939年]]1月から[[1953年]]1月15日の間で、当時4.4kmだった南側の区間に8つもの駅がひしめき合っていた。当時の駅は以下の通り。括弧内は駅間距離/当時の国分寺駅起点の営業距離 (km)。 *[[国分寺駅]] (0.0/0.0) : 現存(1990年に萩山方に0.1km移設) *[[東国分寺駅]] (0.9/0.9) : 三小通りの南 *[[桜堤駅]] (1.0/1.9) : 当初玉川上水桜橋の北、移転後は南 *[[一橋大学駅]] (0.4/2.3) : [[一橋学園駅]]南口から数十m南方 *[[小平学園駅]] (0.4/2.7) : 一橋学園駅北口前すぐ *[[厚生村駅]] (0.2/2.9) : 場所の詳細不明(小平福祉会館付近?) *[[青梅街道駅]] (0.6/3.5) : 現存 *[[萩山駅]] (0.9/4.4) : 現存(1958年に多摩湖(西武遊園地)方に0.3km移設) 1953年から翌年にかけて東国分寺・桜堤・厚生村の各駅が休止のまま廃駅となったことで一気に5駅まで減り、さらに[[1966年]]の一橋大学駅・小平学園駅統合による一橋学園駅設置と[[本町信号場]]設置で現在のように4駅と1信号場という形になった。このためこの区間で開業当時からの駅は国分寺駅・青梅街道駅・萩山駅のみで、このうち国分寺駅と萩山駅は移転しているため、厳密に開業当時のままなのは青梅街道駅のみである。 == その他 == [[File:Kokubunji-202104.jpg|thumb|250px|国分寺駅付近にある多摩湖線沿線の西武バス専用レーン(2021年4月10日)]] {{出典の明記|date=2018年4月|section=1}} *国分寺駅から500m程は市道と[[西武バス]]専用道路に挟まれた格好になっており、線路とはガードレールで区切られているものの[[併用軌道]]のような雰囲気となっている。これは多摩湖線複線化用地として確保されていたものを専用道路に転用したためである<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/104977|title=人も車も「立入禁止」 東京の駅前に「西武バス専用」の細道なぜできた 電車とピタリ並走|website=乗りものニュース|publisher=メディア・ヴァーグ|date=2021-03-02|accessdate=2021-04-05}}</ref>。その先も並行して道路が延び、複線化用地も所々で散見されるが、具体的に行う様子はない。 *国分寺 - 萩山間の[[踏切]]には列車方向を示す矢印ランプが設置されていない。これは基本的に[[列車交換]]が[[一橋学園駅]]のみで行われるため、一方から電車が来たら次は反対側から来ると認識できるためである。 *[[1928年]][[11月2日]]に開業した萩山 - 本小平間 (0.99km) は、当時日本で最も始点と終点間の距離が短い路線だった。終点・本小平駅は小平駅の西側の道路をはさんだあたりにあった。 *八坂駅から多摩湖駅方向へ約200mの地点で国分寺線と立体交差するが、駅は設けられていない。 *萩山駅から多摩湖駅方向へ約200m地点の地下をJR武蔵野線が通過している。 *朝ラッシュ時の利用客は多いものの営業利益は少なく、[[営業係数]]は250を超えている。これは[[西武多摩川線|多摩川線]]もよく似た状況である。 *上記の赤字を理由に、2012年には西武ホールディングスの筆頭株主となっていたアメリカ合衆国の投資法人である[[サーベラス・キャピタル・マネジメント]]社から同線を含む5路線の廃止が要求されたが、西武側は拒絶し、地元自治体からも反発が起きた。結局、サーベラスの要求は実現せず、同社は2017年までに西武株を全て売却した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=野田正穂|chapter=多摩湖鉄道の12年間|title=東村山市史研究|publisher=東村山市教育委員会|year=1998|issue=第7号|ref=noda}} *{{Cite journal|和書|title=【特集】西武鉄道|journal=鉄道ピクトリアル|publisher=電気車研究会・鉄道図書刊行会|issue=2013年12月臨時増刊号|ref=tp201312}} == 関連項目 == {{Commonscat|Seibu Tamako Line}} *[[日本の鉄道路線一覧]] *[[武蔵野夫人]] - 大岡昇平の恋愛小説。主人公らが村山貯水池に向かう際に多摩湖線に乗る。<!--逆に[[武蔵野夫人]]側から あらすじや関連項目節でここへリンクするべきだが。--> {{西武鉄道の路線}} [[Category:関東地方の鉄道路線|たまこせん]] [[Category:西武鉄道の鉄道路線|たまこ]] [[Category:武蔵野鉄道|路]] [[Category:多摩湖鉄道|路]] [[Category:東京都の交通|せいふたまこせん]]
2003-07-22T08:20:42Z
2023-12-02T08:19:51Z
false
false
false
[ "Template:Cite press release", "Template:Cite web", "Template:混同", "Template:UKrail-header", "Template:BS3", "Template:PDFlink", "Template:Cite book", "Template:出典の明記", "Template:Refnest", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Commonscat", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:BS-table", "Template:基礎情報 会社", "Template:縦書き", "Template:Small2", "Template:Main2", "Template:R", "Template:西武鉄道の路線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E5%A4%9A%E6%91%A9%E6%B9%96%E7%B7%9A
12,054
西武山口線
山口線(やまぐちせん)は、東京都東村山市の多摩湖駅と埼玉県所沢市の西武球場前駅間を結ぶ西武鉄道の案内軌条式鉄道(AGT)路線である。愛称「レオライナー」。駅ナンバリングで使われる路線記号はSY。 本項では前身であるおとぎ線についても記載する。 案内軌条式鉄道化後のもの。 駅付近を除き、大半の区間で村山下貯水池(多摩湖)の北岸に沿って走る。ただし、貯水池周辺は水源かん養保安林が形成されているため、列車内から湖面が見える箇所は少ない。 建設は、施設・電気・軌道・車両すべてを住友商事と西武建設の共同企業体(JV)に総額約38億円で一括発注した。1 kmあたりの建設費用は約11億円である。 元々は1950年(昭和25年)に開業した多摩湖ホテル前駅とユネスコ村駅を結ぶ単線「おとぎ線」を走る、「おとぎ電車」という名称の遊戯施設で軌間762 mmの「軽便鉄道」だった。 1952年(昭和27年)に「おとぎ線」を地方鉄道法に基づく地方鉄道に転換し「山口線」と改称したが、「おとぎ電車」の名はその後も用いられた。運賃は西武鉄道の他の一般鉄道路線とは別建てで大人片道200円、子供片道100円で営業時間は9時30分から17時30分まで。当初は蓄電池機関車(バッテリーロコ)だけだったが、1972年(昭和47年)に日本の鉄道100年を記念して蒸気機関車の運行を開始し、平日は蓄電池機関車、冬季以外の休日は蒸気機関車が走るようになった。蒸気機関車の交代にあわせて交代前年の1976年(昭和51年)にいったん運行を休止し、トンネルの切り通し化や架道橋の架け替えなどの改修を行って路盤強化を図った結果、蒸気機関車の重連運転も行われるようになった。 施設・車両の老朽化、ならびに多摩湖線から西武ライオンズ球場(現:西武ドーム)へのアクセス改善を図るため、1984年(昭和59年)5月に「おとぎ電車」の運行を終了して大掛かりな改修工事を行い、一部区間の線形改良や起終点駅の変更を実施。これにより翌年案内軌条式鉄道(AGT)として開業し、西武の他路線と同一の運賃体系に統合された。なお、手続き上は従来のおとぎ電車の路線を一旦廃線扱いとした上で、新たに案内軌条式鉄道の免許を取得している。 VVVF制御の実用化を念頭に置いた直流750 V電化の採用、キャブシグナルとATOによる自動(無人)運転ではなく通常の信号機を建植し、ATSを使用するワンマン運転の実施などイニシャル・ランニングコストの抑制に配慮した合理的なシステム構築が実現している。 日本の案内軌条式鉄道(AGT)路線で純民間企業経営のものは、2019年時点では山万ユーカリが丘線と西武山口線の2例のみである。 全列車が多摩湖駅 - 西武球場前駅間での運転である。通常ダイヤでは昼間は20分間隔、朝・夜間は30分間隔であるが、西武ドームでの野球・イベント開催時には臨時列車が運行され10分間隔となり、この時は東中峯信号場での列車交換が行われる。初電時刻は西武球場前発で6時50分台・多摩湖発は7時10分台、終電時刻は22時台で、西武鉄道の他の路線に比べ運行時間帯が短い。野球ナイター開催時の場合も終電延長はないため、この時間以降は狭山線などを利用することになる。なお、かつての朝・夜間や大晦日 - 元旦の終夜運転(2008年 - 2009年シーズン以降中止)時は40分間隔であった。すべての列車が多摩湖駅で多摩湖線の列車に、西武球場前駅で狭山線の列車と接続を考慮したダイヤとなっている。 野球開催時は下り列車において、東中峯信号場付近で西武球場前駅到着の案内放送後に、野球開催のお知らせと埼玉西武ライオンズの応援歌『吠えろライオンズ』のインストゥルメンタルが流れることがある。 1976年まで 上記の1号、2号は借り物であり、老朽化してきたことから代替機を求めることになった。阿里山森林鉄路の蒸気機関車も候補にあがり、現地調査もしたが車体が大きくトンネルや橋梁の改修に多額の費用がかかるため断念し、下記の台糖公司の機関車に変更した。 1977年以降、1984年5月の休止まで 1形・2形・5形のいずれもドイツのコッペル製。 遊園地前駅 - (中峯信号所) - (山口信号所) - ユネスコ村駅
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "山口線(やまぐちせん)は、東京都東村山市の多摩湖駅と埼玉県所沢市の西武球場前駅間を結ぶ西武鉄道の案内軌条式鉄道(AGT)路線である。愛称「レオライナー」。駅ナンバリングで使われる路線記号はSY。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では前身であるおとぎ線についても記載する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "案内軌条式鉄道化後のもの。", "title": "路線データ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "駅付近を除き、大半の区間で村山下貯水池(多摩湖)の北岸に沿って走る。ただし、貯水池周辺は水源かん養保安林が形成されているため、列車内から湖面が見える箇所は少ない。", "title": "路線データ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "建設は、施設・電気・軌道・車両すべてを住友商事と西武建設の共同企業体(JV)に総額約38億円で一括発注した。1 kmあたりの建設費用は約11億円である。", "title": "路線データ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "元々は1950年(昭和25年)に開業した多摩湖ホテル前駅とユネスコ村駅を結ぶ単線「おとぎ線」を走る、「おとぎ電車」という名称の遊戯施設で軌間762 mmの「軽便鉄道」だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1952年(昭和27年)に「おとぎ線」を地方鉄道法に基づく地方鉄道に転換し「山口線」と改称したが、「おとぎ電車」の名はその後も用いられた。運賃は西武鉄道の他の一般鉄道路線とは別建てで大人片道200円、子供片道100円で営業時間は9時30分から17時30分まで。当初は蓄電池機関車(バッテリーロコ)だけだったが、1972年(昭和47年)に日本の鉄道100年を記念して蒸気機関車の運行を開始し、平日は蓄電池機関車、冬季以外の休日は蒸気機関車が走るようになった。蒸気機関車の交代にあわせて交代前年の1976年(昭和51年)にいったん運行を休止し、トンネルの切り通し化や架道橋の架け替えなどの改修を行って路盤強化を図った結果、蒸気機関車の重連運転も行われるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "施設・車両の老朽化、ならびに多摩湖線から西武ライオンズ球場(現:西武ドーム)へのアクセス改善を図るため、1984年(昭和59年)5月に「おとぎ電車」の運行を終了して大掛かりな改修工事を行い、一部区間の線形改良や起終点駅の変更を実施。これにより翌年案内軌条式鉄道(AGT)として開業し、西武の他路線と同一の運賃体系に統合された。なお、手続き上は従来のおとぎ電車の路線を一旦廃線扱いとした上で、新たに案内軌条式鉄道の免許を取得している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "VVVF制御の実用化を念頭に置いた直流750 V電化の採用、キャブシグナルとATOによる自動(無人)運転ではなく通常の信号機を建植し、ATSを使用するワンマン運転の実施などイニシャル・ランニングコストの抑制に配慮した合理的なシステム構築が実現している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本の案内軌条式鉄道(AGT)路線で純民間企業経営のものは、2019年時点では山万ユーカリが丘線と西武山口線の2例のみである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "全列車が多摩湖駅 - 西武球場前駅間での運転である。通常ダイヤでは昼間は20分間隔、朝・夜間は30分間隔であるが、西武ドームでの野球・イベント開催時には臨時列車が運行され10分間隔となり、この時は東中峯信号場での列車交換が行われる。初電時刻は西武球場前発で6時50分台・多摩湖発は7時10分台、終電時刻は22時台で、西武鉄道の他の路線に比べ運行時間帯が短い。野球ナイター開催時の場合も終電延長はないため、この時間以降は狭山線などを利用することになる。なお、かつての朝・夜間や大晦日 - 元旦の終夜運転(2008年 - 2009年シーズン以降中止)時は40分間隔であった。すべての列車が多摩湖駅で多摩湖線の列車に、西武球場前駅で狭山線の列車と接続を考慮したダイヤとなっている。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "野球開催時は下り列車において、東中峯信号場付近で西武球場前駅到着の案内放送後に、野球開催のお知らせと埼玉西武ライオンズの応援歌『吠えろライオンズ』のインストゥルメンタルが流れることがある。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1976年まで", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "上記の1号、2号は借り物であり、老朽化してきたことから代替機を求めることになった。阿里山森林鉄路の蒸気機関車も候補にあがり、現地調査もしたが車体が大きくトンネルや橋梁の改修に多額の費用がかかるため断念し、下記の台糖公司の機関車に変更した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1977年以降、1984年5月の休止まで", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1形・2形・5形のいずれもドイツのコッペル製。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "遊園地前駅 - (中峯信号所) - (山口信号所) - ユネスコ村駅", "title": "駅一覧" } ]
山口線(やまぐちせん)は、東京都東村山市の多摩湖駅と埼玉県所沢市の西武球場前駅間を結ぶ西武鉄道の案内軌条式鉄道(AGT)路線である。愛称「レオライナー」。駅ナンバリングで使われる路線記号はSY。 本項では前身であるおとぎ線についても記載する。
{{Redirect|レオライナー|この路線で使用される車両|西武8500系電車|[[ドイツ]]の路面電車車両|レオライナー (路面電車車両)}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 山口線 |路線色=#f33 |ロゴ=File:SeibuYamaguchi.svg |ロゴサイズ=50px |画像=Seibu-Yamaguchi-line_Series8500-8501.jpg |画像サイズ=250px |画像説明=山口線を走行する[[西武8500系電車|8500系]]<br />(2021年10月 [[西武球場前駅]] - [[西武園ゆうえんち駅]]間) |通称=レオライナー |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]][[東村山市]]、[[埼玉県]][[所沢市]] |種類=[[案内軌条式鉄道]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]]) |起点=[[多摩湖駅]] |終点=[[西武球場前駅]] |駅数=3駅 |輸送実績= |1日利用者数= |路線記号=SY |開業={{start date and age|1950|8|1}}(おとぎ電車) |廃止={{start date and age|1984|5|14}}(おとぎ電車){{R|交通84}} |再開={{start date and age|1985|4|25}}(案内軌条式鉄道として)<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=28 }}</ref>{{R|交通85}} |所有者=[[西武鉄道]] |運営者=西武鉄道 |車両基地=[[山口車両基地]](西武球場前駅隣接) |使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離=2.8 [[キロメートル|km]] |軌間=762 [[ミリメートル|mm]](おとぎ電車時代) |線路数=[[単線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]750 [[ボルト (単位)|V]] [[第三軌条方式]] |最大勾配=50 [[パーミル|‰]]<ref name="JREA1985-7">日本鉄道技術協会『JREA』1985年7月号「西武鉄道山口線新交通システム」pp.20 - 23。</ref> |最小曲線半径=60 m<ref name="JREA1985-7"/> |閉塞方式= |保安装置= |最高速度=50 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="zukai">『徹底カラー図解 西武鉄道のしくみ』 - マイナビ出版編集部</ref> |路線図= |路線図名= |路線図表示=<!--collapsed--> }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#f33}} {{BS-table}} {{BS4||KBHFe|O2=HUBa|||||[[西武多摩湖線|多摩湖線]]↑|}} {{BS4||uKBHFa|O2=HUBe|||0.0|SY01 [[多摩湖駅]]|}} {{BS4||uSTR+GRZq|||||↑東京都/↓埼玉県|}} {{BS4||uSTR||exKBHFa|(0.0)|''[[遊園地前駅 (埼玉県)|遊園地前駅]]''|-1985}} {{BS4||uSTR||exSTR|O4=POINTERg@fq|||軽便鉄道時代|}} {{BS4||uBHF||exSTR|0.3|SY02 [[西武園ゆうえんち駅]]|}} {{BS4||uDST||exSTR||[[東中峯信号場]]|}} {{BS4||uSTR||exDST||''[[中峯信号所]]''|-1985|}} {{BS4||uSTR||exDST||''[[山口信号所]]''|-1985|}} {{BS4|STR+r|uABZg+l|uKDSTeq|exSTR|||←[[西武狭山線|狭山線]]/[[山口車両基地]]|}} {{BS4|KBHFe|O1=HUBaq|uKBHFe|O2=HUBeq||exSTR|2.8|SY03 [[西武球場前駅]]|}} {{BS4||||exKBHFe|(3.7)|''[[ユネスコ村駅]]''|-1985|}} |} |} '''山口線'''(やまぐちせん)は、[[東京都]][[東村山市]]の[[多摩湖駅]]と[[埼玉県]][[所沢市]]の[[西武球場前駅]]間を結ぶ[[西武鉄道]]の[[案内軌条式鉄道]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])路線である。愛称「'''レオライナー'''」。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SY'''。 本項では前身である'''おとぎ線'''についても記載する。 == 路線データ == [[案内軌条式鉄道]]化後のもの。 *路線距離([[営業キロ]]):2.8 km *方式:側方案内軌条式、空気入りゴムタイヤ(補助輪入り) *駅数:3駅(起終点駅含む)、1[[信号場]] *複線区間:なし(全線[[単線]]) *電気方式:[[直流]]750 V *最高速度:50 km/h<ref name="zukai" /> *構築物:車両基地1か所、トンネル5か所(交差道路部4か所・その他1か所、総延長は約350 m<ref name="JREA1985-7"/>)、橋梁7か所(総延長は約395 m<ref name="JREA1985-7"/>)、変電所1か所 *信号保安設備:地上信号式、第1種電気継電連動装置([[自動進路制御装置|ARC]]付)、点制御による多情報変周式車上パターン式[[自動列車停止装置|ATS]] *通信設備:列車無線装置、ホーム監視テレビを3駅に設置 駅付近を除き、大半の区間で[[村山貯水池|村山下貯水池]](多摩湖)の北岸に沿って走る。ただし、貯水池周辺は[[水源かん養保安林]]が形成されているため、列車内から湖面が見える箇所は少ない。 建設は、施設・電気・軌道・車両すべてを[[住友商事]]と[[西武建設]]の[[共同企業体]](JV)に総額約38億円で一括発注した<ref name="JREA1985-7"/>。1&nbsp;kmあたりの建設費用は約11億円である<ref name="JREA1985-7"/>。 == 歴史 == 元々は[[1950年]](昭和25年)に開業した[[遊園地前駅 (埼玉県)|多摩湖ホテル前駅]]と[[ユネスコ村駅]]を結ぶ単線「おとぎ線」を走る、「'''おとぎ電車'''」という名称の遊戯施設で[[軌間]][[2フィート6インチ軌間|762&nbsp;mm]]の「[[軽便鉄道]]」だった。 [[1952年]](昭和27年)に「おとぎ線」を[[地方鉄道法]]に基づく地方鉄道に転換し{{refnest|group=注釈|[[西武多摩湖線|多摩湖鉄道]]が1929年に取得していた延長線の免許を利用<ref>[{{NDLDC|2957220/6}} 「鉄道免許上下付」『官報』1929年7月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)山田俊明『東京の鉄道遺産 下』けやき出版、2010年、53頁</ref>。}}「山口線」と改称したが、「おとぎ電車」の名はその後も用いられた。運賃は西武鉄道の他の一般鉄道路線とは別建てで大人片道200円、子供片道100円で営業時間は9時30分から17時30分まで。当初は[[電気機関車#蓄電池機関車|蓄電池機関車]](バッテリーロコ)だけだったが、[[1972年]](昭和47年)に日本の鉄道100年を記念して[[蒸気機関車]]の運行を開始し、平日は蓄電池機関車、冬季以外の休日は蒸気機関車が走るようになった。蒸気機関車の交代にあわせて交代前年の[[1976年]](昭和51年)にいったん運行を休止し、トンネルの切り通し化や架道橋の架け替えなどの改修を行って路盤強化を図った結果、蒸気機関車の重連運転も行われるようになった。 施設・車両の老朽化、ならびに[[西武多摩湖線|多摩湖線]]から西武ライオンズ球場(現:[[西武ドーム]])へのアクセス改善を図るため、[[1984年]](昭和59年)5月に「おとぎ電車」の運行を終了して大掛かりな改修工事を行い{{R|交通84}}、一部区間の線形改良や起終点駅の変更を実施。これにより翌年[[案内軌条式鉄道]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])として開業し{{R|交通85}}、西武の他路線と同一の運賃体系に統合された。なお、手続き上は従来のおとぎ電車の路線を一旦廃線扱いとした上で、新たに案内軌条式鉄道の免許を取得している。 [[可変電圧可変周波数制御|VVVF制御]]の実用化を念頭に置いた直流750&nbsp;V電化の採用、[[車内信号|キャブシグナル]]と[[自動列車運転装置|ATO]]による自動(無人)運転ではなく通常の信号機を建植し、ATSを使用する[[ワンマン運転]]の実施などイニシャル・ランニングコストの抑制に配慮した合理的なシステム構築が実現している。 日本の案内軌条式鉄道(AGT)路線で純民間企業経営のものは、2019年時点では[[山万ユーカリが丘線]]と西武山口線の2例のみである。 === 年表 === * [[1950年]]([[昭和]]25年)[[8月1日]] - 遊戯施設として「おとぎ線」多摩湖ホテル前 - 上堰堤間が開通。 * [[1951年]](昭和26年)[[9月16日]] - 上堰堤 - ユネスコ村間を開通し、上堰堤駅を山口信号所に格下げ。 * [[1952年]](昭和27年)[[7月15日]] - 多摩湖ホテル前 - ユネスコ村間 (3.7&nbsp;km) を地方鉄道に転換。「山口線」に改称。 * [[1963年]](昭和38年)[[7月1日]] - 多摩湖ホテル前駅を西武遊園地駅に改称。 * [[1972年]](昭和47年)[[6月2日]] - 日本の鉄道100周年を機に蒸気機関車の運転を開始。 * [[1976年]](昭和51年)[[12月17日]] - 改修工事のため運休。 * [[1977年]](昭和52年)[[3月19日]] - 運行再開。 * [[1979年]](昭和54年)[[3月25日]] - 西武遊園地駅を遊園地前駅に改称。 * [[1984年]](昭和59年) ** [[4月16日]] - [[運輸省]](当時)より山口線の新交通システムへの改良を認可<ref name="JREA1985-7"/>。翌[[4月17日]]より建設工事着工<ref name="JREA1985-7"/>。ただし、本格的な建設工事は下記の営業休止後<ref name="JREA1985-7"/>。 ** [[5月14日]] - 案内軌条式への改良及び新運行区間整備のため営業休止<ref name="交通84">{{Cite news |title=西武山口線の営業休止を軽微承認 運輸審議会 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1984-04-25 |page= 1}}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[4月25日]] - 案内軌条式鉄道として西武遊園地 - 西武球場前間 (2.8&nbsp;km) 開業<ref name="sone30"/><ref name="交通85">{{Cite news |title=西武山口線25日開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1985-04-11 |page= 2}}</ref>。同時に遊園地前 - ユネスコ村間廃止。 * [[2021年]]([[令和]]3年) ** [[3月13日]] - 西武遊園地駅を多摩湖駅に、遊園地西駅を西武園ゆうえんち駅にそれぞれ改称<ref name="press20210126">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210126_daiyakaisei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210126060308/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210126_daiyakaisei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年3月13日(土)ダイヤ改正と駅名変更を実施します。夜間作業のさらなる安全性向上と効率化を目的に、終電車の繰り上げを実施「西武園ゆうえんち」のリニューアルオープンに先駆け、駅名変更を実施|publisher=西武鉄道|date=2021-01-26|accessdate=2021-01-26|archivedate=2021-01-26}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20200226seibuenyuuench_stationname.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226102638/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20200226seibuenyuuench_stationname.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西武園ゆうえんち周辺の駅名を変更します|publisher=西武鉄道|date=2020-02-26|accessdate=2020-02-26|archivedate=2020-02-26}}</ref><ref name="mainichi20200305">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200305/k00/00m/040/209000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200314182252/https://mainichi.jp/articles/20200305/k00/00m/040/209000c|language=日本語|title=西武遊園地駅、40年ぶり「多摩湖駅」に 駅そばの西武園中央口閉鎖で|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2020-03-05|accessdate=2021-01-27|archivedate=2020-03-14}}</ref>。 ** [[4月1日]] - [[太陽光発電|太陽光発電所]]「西武武山ソーラーパワーステーション」([[神奈川県]][[横須賀市]])で発電した環境価値付電力による、実質[[二酸化炭素|CO<sub>2</sub>]]排出ゼロでの運行を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210331_yamaguchi_solar.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406022525/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210331_yamaguchi_solar.pdf|format=PDF|language=日本語|title=100%自社の太陽光発電でレオライナーを運行します!|publisher=西武鉄道|date=2021-03-31|accessdate=2021-04-06|archivedate=2021-04-06}}</ref>。 == 運転 == 全列車が多摩湖駅 - 西武球場前駅間での運転である。通常ダイヤでは昼間は20分間隔、朝・夜間は30分間隔であるが、西武ドームでの野球・イベント開催時には臨時列車が運行され10分間隔となり、この時は[[東中峯信号場]]での[[列車交換]]が行われる。初電時刻は西武球場前発で6時50分台・多摩湖発は7時10分台、終電時刻は22時台で、西武鉄道の他の路線に比べ運行時間帯が短い。野球ナイター開催時の場合も終電延長はないため、この時間以降は[[西武狭山線|狭山線]]などを利用することになる。なお、かつての朝・夜間や[[大晦日]] - [[元日|元旦]]の[[終夜運転]](2008年 - 2009年シーズン以降中止)時は40分間隔であった。すべての列車が多摩湖駅で多摩湖線の列車に、西武球場前駅で狭山線の列車と接続を考慮したダイヤとなっている。 野球開催時は下り列車において、東中峯信号場付近で西武球場前駅到着の案内放送後に、野球開催のお知らせと[[埼玉西武ライオンズ]]の[[応援歌]]『吠えろライオンズ』の[[インストゥルメンタル]]が流れることがある。 [[ファイル:Higashinakamine signal-sta-01.jpg|thumb|none|200px|東中峯信号場]] == 車両 == === 案内軌条式鉄道化後 === *[[西武8500系電車|8500系]] - 8501 - 8504・8511 - 8514・8521 - 8524 *:当初計画され、既に外部にも公表されていた7000系を発注直前で中止し、新たに設計し直して製造した車両である。 *:VVVFインバータは製造当初の[[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]]方式から[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]方式に換装されている。 === 軽便鉄道時代 === ==== 蓄電池機関車 ==== *'''[[西武B1形蓄電池機関車|B1形]]''' - 1 *:1950年のおとぎ列車開業時に保谷電車区(後の保谷車両管理所、現在は廃止)で製造された。5形蒸気機関車の入線に伴い1977年廃車。 *'''[[西武B11形蓄電池機関車|B11形]]''' - 11 - 15 *:11は1952年中島自動車製、12 - 15は[[西武所沢車両工場]]製。出力は11kW×2機。制動機:手用(ハンドブレーキ)のみ。 *:13・15は21形客車22・25・26・27と共に路線廃止後に[[大井川鐵道|大井川鉄道]]へ譲渡されたが、営業運転に使用されることはなく<ref group="注釈">そもそも大井川鉄道に1968年廃止の[[千頭森林鉄道]]を別とすれば762&nbsp;mm軌間の区間はない。</ref>[[千頭駅]]構内で10年間前後も放置された後、[[静岡県]][[浜松市]]にある宗教団体「[[ハレルヤコミュニティーチャーチ]]」に客車と共に譲渡された<ref>[https://www.rail-travel.net/archives/8480 遠州浜松の謎の線路…さらにその上には軽便鉄道車輛!?] 鉄道旅のガイド 2023年1月18日閲覧</ref>。 ==== 蒸気機関車 ==== '''1976年まで''' *'''1形''' - 2 *:SL運転開始に合わせて、[[頸城鉄道線|頸城鉄道]][[大丸組1形蒸気機関車|2号機]]を借り入れたもの。[[新潟県]]から来たことから「[[上杉謙信|謙信]]号」の愛称がつけられていた。 *'''2形''' - 1 *:1形2号機より少し遅れて[[井笠鉄道]][[井原笠岡軽便鉄道1形蒸気機関車|1号機]]を借り入れたもの。先に入線した2号機とのペアという理由で「[[武田信玄|信玄]]号」の愛称がつけられた(井笠鉄道は[[岡山県]]の路線であり、車両には特に武田信玄との縁はない)。 上記の1号、2号は借り物であり、老朽化してきたことから代替機を求めることになった。[[阿里山森林鉄路の蒸気機関車]]も候補にあがり、現地調査もしたが車体が大きくトンネルや橋梁の改修に多額の費用がかかるため断念し、下記の台糖公司の機関車に変更した<ref>益井茂夫「村山山口貯水池をめぐる鉄道」『多摩のあゆみ』No87、1997年、66-70頁</ref>。 '''1977年以降、1984年5月の休止まで''' [[ファイル:西武5形蒸気機関車(2代目)-527 No1.jpg|thumb|right|250px|西武園ゆうえんちに展示されていたころの西武5形蒸気機関車・527号機]] *'''[[西武5形蒸気機関車|5形]]''' - 527・532 *:[[台湾]]の[[台湾糖業公司|台糖公司]]が保有していたものを譲り受けたもの。1形・2形に比べ車体が大きいため、運行開始前の1976年12月から翌年3月までトンネル撤去など施設側の改良をおこなった。 *:532は西武山口線のSL運転休止後、元[[ユネスコ村駅]]跡地で保存されていたが、[[北海道]]の[[丸瀬布町]](現:[[遠軽町]])にある「[[丸瀬布森林公園いこいの森]]」に移動した。 *:527は西武遊園地内でレストランとして使用されていたが、レストラン廃止により2011年6月に[[台湾]]の[[高雄市|高雄]]にある財団法人陳中和慈善基金会が所有する博物館に移設された。 1形・2形・5形のいずれも[[ドイツ]]の[[オーレンシュタイン・ウント・コッペル|コッペル]]製。 ==== 客車 ==== *'''1形''' - 1 - 19 *:おとぎ列車開業に合わせて製造された幌屋根の開放型客車。蓄電池機関車牽引。1963年に1・2(初代)が密閉型客車に改造され、翌1964年の21形21・22への改番と同時に18・19が1・2(2代)に改番された。また1972年に3・5(初代)が21形25・26に改造され、同時に16・17が3・5(2代)に改番された。1973年に31形入線に伴い10 - 15が、1977年に5形蒸気機関車入線に伴い1・2(2代)・4・6・8が廃車され、軽便鉄道廃止まで残ったのは3・5(2代)・7・9の4両のみ。山口線休止後1両が埼玉県新座市在住の個人に譲渡され、2016年4月現在、塗装や幌屋根を補修し、[[静態保存]]されている。2022年3月、所有する個人の親族が代表を務める株式会社ブランシカが同車を飲食スペースに改装するため、[[クラウドファンディング]]を始めた<ref>[https://tetsudo-ch.com/12201073.html 1984年廃止の「おとぎ電車」を座れる飲食スペースに CFで埼玉県新座市の活性化目指す]</ref>。 *'''21形''' - 21 - 26 *:蓄電池機関車牽引の密閉型客車。一部に1形からの改造車を含む。21・22は前記の通り1963年に1形1・2 (初代)を雨天・冬期対策として密閉型に改造したもの。23・24は1964年に新造されたもの。25・26はSL運転対策として1972年に1形3・5 (初代)から改造されたものだが、31形の増備によりSL列車からは外されている。山口線休止後、一部がB11形と共に大井川鉄道へ譲渡された後、浜松市のハレルヤコミュニティチャーチに譲渡され、1両は埼玉県新座市の個人に1形1両と共に譲渡されたが、後に解体された。 *'''31形''' - 31 - 38 *:SL運転開始に合わせて井笠鉄道から譲り受けたオープンデッキの木造客車で、当然蒸気機関車牽引であった。31 - 34はモニター(ダブルルーフ)屋根で、元はホハ2・5・6・10。35 - 38は丸屋根で、35・36は元は両備鉄道(後のJR西日本[[福塩線]]の一部)→神高鉄道(後の[[井笠鉄道神辺線]])ナ19・20を継承したホハ18・19、37・38は元ホハ13・14で、いずれも井笠鉄道時代は車端部に扉が付けられていたが、西武鉄道入線時にオープンデッキに改造された。 *:山口線休止後、31-34はユネスコ村駅跡地に展示されたが、後に[[西武園ゆうえんち]]内に移設され、レストランポッポの食堂車として使用された。2011年6月には西武園ゆうえんちの再開発に伴い、[[羅須地人鉄道協会]][[成田ゆめ牧場]]に31・33の2両が、けいてつ協会 風だより・風の高原鉄道に32・34の2両が譲渡された。 *:35-38は山口線休止後、31-34と共にユネスコ村駅跡地に展示されたが、1990年(平成2年)11月以降の[[ユネスコ村]]再開発に伴い1993年(平成5年)10月に[[丸瀬布森林公園いこいの森]]へ譲渡。その後38は車体が解体され、台枠と台車が静態保存。35は西武鉄道時代の塗装のままで静態保存。36・37は井笠鉄道時代の塗色に復元され、[[武利意森林鉄道18号形蒸気機関車|雨宮21号蒸気機関車]]に牽引され動態保存されている。 == 駅一覧 == === 案内軌条式鉄道化後 === * 線路(全線単線) … ◇:[[列車交換]]可、|:列車交換不可、∧:終点(列車交換可能) * [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された。<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref> {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #f33;"|駅番号 !style="width:10em; border-bottom:solid 3px #f33;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f33;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f33;"|累計キロ !style="border-bottom:solid 3px #f33;"|接続路線 !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f33;"|{{縦書き|線路}} !style="border-bottom:solid 3px #f33;"|所在地 |- !SY01 |[[多摩湖駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |[[西武鉄道]]:[[ファイル:SeibuTamako.svg|15px|ST]] [[西武多摩湖線|多摩湖線]] (ST07) |style="text-align:center;"|| |style="white-space:nowrap;"|[[東京都]]<br />[[東村山市]] |- !SY02 |[[西武園ゆうえんち駅]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|0.3 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="3"|[[埼玉県]]<br />[[所沢市]] |- !&nbsp; |[[東中峯信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|(1.0) |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !SY03 |[[西武球場前駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|2.8 |西武鉄道:[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|15px|SI]] [[西武狭山線|狭山線]] (SI41) |style="text-align:center;"|∧ |} === 軽便鉄道時代 === [[遊園地前駅 (埼玉県)|遊園地前駅]] - ([[中峯信号所]]) - ([[山口信号所]]) - [[ユネスコ村駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[日本鉄道技術協会]]『JREA』1985年7月号「西武鉄道山口線新交通システム」(大嶋四郎 西武鉄道株式会社建設部土木第二課長)  == 関連項目 == {{Commonscat|Seibu Yamaguchi Line}} *[[自動案内軌条式旅客輸送システム]] (AGT) *[[新交通システム]] *[[西武園ゆうえんち]] *[[ユネスコ村]] *[[遊園地前駅 (埼玉県)]] - [[ユネスコ村駅]] *[[東急こどもの国線]]([[こどもの国 (横浜市)|こどもの国]]) - 元々遊園地運営団体が保有していた *[[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == * [https://www.seiburailway.jp/railway/ 西武鉄道 電車・駅のご案内] {{西武鉄道の路線}} {{日本の新交通システム}} {{DEFAULTSORT:せいふやまくちせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|や]] [[Category:西武鉄道の鉄道路線|やまくち]] [[Category:日本の軽便鉄道]] [[Category:日本の新交通システム]] [[Category:案内軌条式鉄道路線|や]] [[Category:東村山市の交通]] [[Category:所沢市の交通]] [[Category:狭山丘陵]] [[category:埼玉県の交通]] [[category:東京都の交通]]
2003-07-22T08:33:20Z
2023-09-26T15:45:42Z
false
false
false
[ "Template:Cite press release", "Template:Redirect", "Template:BS4", "Template:Refnest", "Template:R", "Template:縦書き", "Template:Cite news", "Template:PDFlink", "Template:日本の新交通システム", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:UKrail-header2", "Template:BS-table", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Commonscat", "Template:西武鉄道の路線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%B7%9A
12,055
中村光一
中村 光一(なかむら こういち、1964年8月15日 - )は、日本のゲームクリエイター、実業家。株式会社スパイク・チュンソフト取締役会長。香川県出身。タレントの松本明子は従妹にあたる。 丸亀高校時代は数学同好会に所属していた。同会で『ギャラクシーウォーズ』をBASIC言語でタンディ社TRS-80に移植するなどしていた。 『I/O』誌で、芸夢狂人がNECのPC-8001に移植した『ギャラクシアン』等を遊ぶために新聞配達で貯めた金でPC-8001を購入し、以後はそのPC-8001でプログラム開発と投稿を行うようになる。『I/O』誌に機械語入力ツールを投稿し、1981年2月号に掲載されたのが投稿デビューで、これにより原稿料2万円を得る。 この経験から、今度は高校1年の春休みにアーケードゲーム『スペースパニック』の移植作『ALIEN PartII』が1981年5月号に掲載され、同作はカセットテープでも販売されたことで20万円の印税収入となった。続けて1982年1月号には『スクランブル』(権利関係から後に『アタッカー』に改題)も同様にカセットで販売されて印税100万円。さらに『リバーパトロール』の移植作『リバーレスキュー』は『I/O』別冊『マイコンゲームの本4』に掲載され、高校時代にこれら『I/O』誌への投稿で、計200万円以上を稼いだ。『I/O』誌での活躍によって、当時のマイコン少年の間では知られた存在であった。 これらで得た投稿料、印税でPC-8801を購入、プロのゲームクリエイターになることを決意し、1982年の高校3年の時にエニックス主催の第1回ホビープログラムコンテストに向けて、初のオリジナルとなるゲーム『ドアドア』を製作して応募したところ、準優勝にあたる優秀プログラム賞に入選し、50万円の賞金を獲得した。 1983年、上京して電気通信大学短期大学部電子工学科に入学する。入選作『ドアドア』をパソコンの各機種に移植し、この印税収入で大学生にして1,000万円を超える年収を得ていた。その後、エニックスでの第2作となるパソコンゲーム『ニュートロン』をリリースし、大学2年の春休み中の1984年4月9日に友人らが株主となって、社員5人のチュンソフトを設立。調布市の賃貸マンションの1室で営業活動を開始した。チュンソフトの第1作は1985年のPC-6001版『ドアドアmkII』。続けて、エニックスのファミリーコンピュータ(以下、ファミコン)参入に伴って、ファミコン版『ドアドア』でチュンソフトも家庭用ゲーム機のゲーム開発に参入した。パソコン版が8万本だったのに対して、ファミコン版は20万本のセールスを記録し、以後は家庭用ゲーム機に注力する。続けて、同じくエニックスのプログラムコンテストの入賞者であった堀井雄二の『ポートピア連続殺人事件』のファミコン版の移植作業を行う。 この時期に中村と堀井が『ウィザードリィ』『ウルティマ』といったコンピュータRPGに熱中したことから、ファミコンの本格的なRPG『ドラゴンクエスト』の開発を担当することになった。ドラゴンクエストシリーズは『ドラゴンクエストV』までの開発に携わるが、その後エニックス作品から離れる。 『弟切草』で自社ブランドデビュー。その後、『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』『かまいたちの夜』『風来のシレン』『街 〜運命の交差点〜』と立て続けに新ジャンルを開拓する。特に『かまいたちの夜』はオリジナル版以外も含めると125万本の売り上げを飛ばし、優良メーカーの代名詞として活躍を見せる。自身は会社経営のため、プログラマーからは退いている。2012年4月1日付でチュンソフトは同じドワンゴ傘下のスパイクを吸収合併してスパイク・チュンソフトとなり、中村は社長職を退いて会長に就任した。 一時自社製品を真似た商品に悩まされたが『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』のヒットで復活の兆しを見せ、セガと家庭用ゲーム事業で業務提携を結んだ。2008年にはWiiソフト『428 〜封鎖された渋谷で〜』のプロデューサーを務める。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中村 光一(なかむら こういち、1964年8月15日 - )は、日本のゲームクリエイター、実業家。株式会社スパイク・チュンソフト取締役会長。香川県出身。タレントの松本明子は従妹にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "丸亀高校時代は数学同好会に所属していた。同会で『ギャラクシーウォーズ』をBASIC言語でタンディ社TRS-80に移植するなどしていた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『I/O』誌で、芸夢狂人がNECのPC-8001に移植した『ギャラクシアン』等を遊ぶために新聞配達で貯めた金でPC-8001を購入し、以後はそのPC-8001でプログラム開発と投稿を行うようになる。『I/O』誌に機械語入力ツールを投稿し、1981年2月号に掲載されたのが投稿デビューで、これにより原稿料2万円を得る。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この経験から、今度は高校1年の春休みにアーケードゲーム『スペースパニック』の移植作『ALIEN PartII』が1981年5月号に掲載され、同作はカセットテープでも販売されたことで20万円の印税収入となった。続けて1982年1月号には『スクランブル』(権利関係から後に『アタッカー』に改題)も同様にカセットで販売されて印税100万円。さらに『リバーパトロール』の移植作『リバーレスキュー』は『I/O』別冊『マイコンゲームの本4』に掲載され、高校時代にこれら『I/O』誌への投稿で、計200万円以上を稼いだ。『I/O』誌での活躍によって、当時のマイコン少年の間では知られた存在であった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "これらで得た投稿料、印税でPC-8801を購入、プロのゲームクリエイターになることを決意し、1982年の高校3年の時にエニックス主催の第1回ホビープログラムコンテストに向けて、初のオリジナルとなるゲーム『ドアドア』を製作して応募したところ、準優勝にあたる優秀プログラム賞に入選し、50万円の賞金を獲得した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1983年、上京して電気通信大学短期大学部電子工学科に入学する。入選作『ドアドア』をパソコンの各機種に移植し、この印税収入で大学生にして1,000万円を超える年収を得ていた。その後、エニックスでの第2作となるパソコンゲーム『ニュートロン』をリリースし、大学2年の春休み中の1984年4月9日に友人らが株主となって、社員5人のチュンソフトを設立。調布市の賃貸マンションの1室で営業活動を開始した。チュンソフトの第1作は1985年のPC-6001版『ドアドアmkII』。続けて、エニックスのファミリーコンピュータ(以下、ファミコン)参入に伴って、ファミコン版『ドアドア』でチュンソフトも家庭用ゲーム機のゲーム開発に参入した。パソコン版が8万本だったのに対して、ファミコン版は20万本のセールスを記録し、以後は家庭用ゲーム機に注力する。続けて、同じくエニックスのプログラムコンテストの入賞者であった堀井雄二の『ポートピア連続殺人事件』のファミコン版の移植作業を行う。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この時期に中村と堀井が『ウィザードリィ』『ウルティマ』といったコンピュータRPGに熱中したことから、ファミコンの本格的なRPG『ドラゴンクエスト』の開発を担当することになった。ドラゴンクエストシリーズは『ドラゴンクエストV』までの開発に携わるが、その後エニックス作品から離れる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『弟切草』で自社ブランドデビュー。その後、『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』『かまいたちの夜』『風来のシレン』『街 〜運命の交差点〜』と立て続けに新ジャンルを開拓する。特に『かまいたちの夜』はオリジナル版以外も含めると125万本の売り上げを飛ばし、優良メーカーの代名詞として活躍を見せる。自身は会社経営のため、プログラマーからは退いている。2012年4月1日付でチュンソフトは同じドワンゴ傘下のスパイクを吸収合併してスパイク・チュンソフトとなり、中村は社長職を退いて会長に就任した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一時自社製品を真似た商品に悩まされたが『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』のヒットで復活の兆しを見せ、セガと家庭用ゲーム事業で業務提携を結んだ。2008年にはWiiソフト『428 〜封鎖された渋谷で〜』のプロデューサーを務める。", "title": "人物" } ]
中村 光一は、日本のゲームクリエイター、実業家。株式会社スパイク・チュンソフト取締役会長。香川県出身。タレントの松本明子は従妹にあたる。
{{混同|中村耕一}} {{Infobox 人物 |氏名=中村 光一 |ふりがな=なかむら こういち |画像=<!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ= |画像説明= |出生名= |生年月日={{生年月日と年齢|1964|08|15}} |生誕地={{JPN}}・[[香川県]] |没年月日=<!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |死没地= |国籍={{JPN}} |別名= |職業=[[ゲームクリエイター]]<br />[[実業家]] |活動期間=[[1983年]] - |著名な実績= |代表作=『[[ドアドア]]』<br />『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』<br />『[[弟切草 (ゲーム)|弟切草]]』<br />『[[トルネコの大冒険 不思議のダンジョン]]』<br />『[[かまいたちの夜]]』<br />『[[風来のシレン]]』<br />『[[街 〜運命の交差点〜]]』<br />『[[428 〜封鎖された渋谷で〜]]』 }} '''中村 光一'''(なかむら こういち、[[1964年]][[8月15日]] - )は、[[日本]]の[[ゲームクリエイター]]、[[実業家]]。株式会社[[スパイク・チュンソフト]]取締役会長。[[香川県]]出身。タレントの[[松本明子]]は従妹にあたる<ref>[https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-11128062299.html 高橋名人Official Blog『16連射のつぶやき』2012/1/6「昨日の番組は」]</ref>。 == 人物 == === アマチュア時代 === [[香川県立丸亀高等学校|丸亀高校]]時代は数学同好会に所属していた。同会で『[[ギャラクシーウォーズ]]』を[[BASIC]]言語で[[ラジオシャック|タンディ]]社[[TRS-80]]に移植するなどしていた。 『[[I/O (雑誌)|I/O]]』誌で、[[芸夢狂人]]が[[日本電気|NEC]]の[[PC-8000シリーズ|PC-8001]]に移植した『[[ギャラクシアン]]』等を遊ぶために[[新聞配達]]で貯めた金でPC-8001を購入し、以後はそのPC-8001でプログラム開発と投稿を行うようになる。『I/O』誌に[[機械語]]入力ツールを投稿し、1981年2月号に掲載されたのが投稿デビューで、これにより原稿料2万円を得る。 この経験から、今度は高校1年の春休みに[[アーケードゲーム]]『[[平安京エイリアン|スペースパニック]]』の移植作『ALIEN PartII』が1981年5月号に掲載され、同作は[[カセットテープ]]でも販売されたことで20万円の印税収入となった。続けて1982年1月号には『[[スクランブル_(ゲーム)|スクランブル]]』(権利関係から後に『アタッカー』に改題)も同様にカセットで販売されて印税100万円。さらに『[[リバーパトロール]]』の移植作『リバーレスキュー』は『I/O』別冊『マイコンゲームの本4』に掲載され、高校時代にこれら『I/O』誌への投稿で、計200万円以上を稼いだ<ref>『永久保存版 みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・6001』アスキー、2005年、pp.62-65。中村光一インタビュー</ref>。『I/O』誌での活躍によって、当時のマイコン少年の間では知られた存在であった<ref>志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.1 プロデューサー/ディレクター編(1)』毎日コミュニケーションズ、2000年、p.138。堀井雄二インタビュー。</ref>。 これらで得た投稿料、印税で[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]を購入、プロのゲームクリエイターになることを決意し、[[1982年]]の高校3年の時に[[エニックス]]主催の第1回ホビープログラムコンテストに向けて、初のオリジナルとなるゲーム『[[ドアドア]]』を製作して応募したところ、準優勝にあたる優秀プログラム賞に入選し、50万円の賞金を獲得した<ref>『みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・6001』p.65</ref>。 === エニックス時代 === [[1983年]]、上京して[[電気通信大学短期大学部]][[電子工学科]]に入学する。入選作『ドアドア』をパソコンの各機種に移植し、この印税収入で大学生にして1,000万円を超える年収を得ていた<ref>『みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・6001』p.66</ref>。その後、エニックスでの第2作となるパソコンゲーム『[[ニュートロン]]』をリリースし、大学2年の春休み中の1984年4月9日に友人らが株主となって、社員5人の[[チュンソフト]]を設立。[[調布市]]の[[賃貸マンション]]の1室で営業活動を開始した。チュンソフトの第1作は1985年の[[PC-6001]]版『ドアドアmkII』。続けて、エニックスの[[ファミリーコンピュータ]](以下、ファミコン)参入に伴って、ファミコン版『ドアドア』でチュンソフトも家庭用[[ゲーム機]]のゲーム開発に参入した<ref>[[多摩豊]]『テレビゲームの神々 RPGを創った男たちの理想と夢』[[コーエー|光栄]]、1994年、pp.102-104.</ref>。パソコン版が8万本だったのに対して、ファミコン版は20万本のセールスを記録し、以後は家庭用ゲーム機に注力する。続けて、同じくエニックスのプログラムコンテストの入賞者であった[[堀井雄二]]の『[[ポートピア連続殺人事件]]』のファミコン版の移植作業を行う。 この時期に中村と堀井が『[[ウィザードリィ]]』『[[ウルティマ]]』といった[[コンピュータRPG]]に熱中したことから、ファミコンの本格的なRPG『[[ドラゴンクエスト]]』の開発を担当することになった<ref>滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』[[青春出版社]]、2000年、pp.166-168.</ref><ref>志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.2 プロデューサー/ディレクター編(2)』毎日コミュニケーションズ、2000年、p.16。中村光一インタビュー。</ref>。[[ドラゴンクエストシリーズ]]は『[[ドラゴンクエストV 天空の花嫁|ドラゴンクエストV]]』までの開発に携わるが、その後エニックス作品から離れる。 === エニックス後 === 『[[弟切草 (ゲーム)|弟切草]]』で自社ブランドデビュー。その後、『[[トルネコの大冒険 不思議のダンジョン]]』『[[かまいたちの夜]]』『[[風来のシレン]]』『[[街 〜運命の交差点〜]]』と立て続けに新ジャンルを開拓する。特に『[[かまいたちの夜]]』はオリジナル版以外も含めると125万本の売り上げを飛ばし、優良メーカーの代名詞として活躍を見せる。自身は会社経営のため、プログラマーからは退いている<ref>志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.2』p.24.</ref>。[[2012年]][[4月1日]]付でチュンソフトは同じ[[ドワンゴ]]傘下の[[スパイク (ゲーム会社)|スパイク]]を吸収合併してスパイク・チュンソフトとなり、中村は社長職を退いて会長に就任した。 {{要出典|一時自社製品を真似た商品に悩まされたが|date=2022年12月}}『[[3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!]]』のヒットで復活の兆しを見せ、セガと家庭用ゲーム事業で業務提携を結んだ。2008年には[[Wii]]ソフト『[[428 〜封鎖された渋谷で〜]]』のプロデューサーを務める。 == 作品 == * [[ドアドア]] ** ドアドアmkII * [[ニュートロン]] * [[ドラゴンクエスト]]:ディレクション、プログラム ** [[ドラゴンクエストII 悪霊の神々]]:ディレクション、メインプログラム ** [[ドラゴンクエストIII そして伝説へ…]]:ディレクション ** [[ドラゴンクエストIV 導かれし者たち]]:ディレクション ** [[ドラゴンクエストV 天空の花嫁]]:スーパーバイザー * [[ファミコンジャンプII 最強の7人]]:ディレクション * [[テトリス2+ボンブリス]]:ディレクション * [[弟切草 (ゲーム)|弟切草]]:ディレクション・プロデュース * [[トルネコの大冒険 不思議のダンジョン]]:プロデュース ** [[トルネコの大冒険2 不思議のダンジョン]]:製作総指揮 ** [[トルネコの大冒険3 不思議のダンジョン]]:製作総指揮 * [[かまいたちの夜]]:プロデュース ** [[かまいたちの夜2 監獄島のわらべ唄]]:製作総指揮 ** [[かまいたちの夜×3 三日月島事件の真相]]:プロデュース * [[風来のシレン]]:プロデュース ** [[不思議のダンジョン 風来のシレンGB 月影村の怪物]]:プロデュース ** [[不思議のダンジョン 風来のシレン2 鬼襲来!シレン城!]]:製作総指揮 ** [[不思議のダンジョン 風来のシレンGB2 砂漠の魔城]]:製作総指揮 ** [[不思議のダンジョン 風来のシレン外伝 女剣士アスカ見参!]]:監修 ** [[シレン・モンスターズ ネットサル]]:プロデュース * [[チョコボの不思議なダンジョン]]:監修 ** [[チョコボの不思議なダンジョン2]]:監修 * [[街 〜運命の交差点〜]]:プロデュース * [[3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!]]:プロデュース * [[ホームランド]]:プロデュース * [[忌火起草]]:エグゼクティブプロデュース * [[428 〜封鎖された渋谷で〜]]:プロデュース * [[トリックロジック|TRICK×LOGIC]]:エグゼクティブプロデュース *[[テクテクテクテク]] :プロデュース<ref>{{Cite web|和書|title=“歩くドラクエ”だった『テクテクテクテク』が『ポケモンGO』と共存する“一生歩けるRPG”になるまで──『不思議のダンジョン』生みの親・中村光一×麻野一哉が贈る“リアルな冒険”の開発秘話|url=http://news.denfaminicogamer.jp/interview/181229|website=電ファミニコゲーマー|accessdate=2019-02-18|publisher=}}</ref> == 関連項目 == * [[征服王]] - [[すぎやまこういち]]とタッグでゲームに参加。ダイスの目の確率の表を見ながら攻略し勝利を得ている。 * [[モノポリー]] - 中村の趣味<ref name="dokibagu">『[[ジャングル少年ジャン番外編ドッキンばぐばぐアニマル]]』1巻。</ref>。 * [[竜雷太]] - チュンソフト社長時代に社長室にサインが掲げられていた<ref name="dokibagu"/>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.spike-chunsoft.co.jp/ スパイク・チュンソフト] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なかむら こういち}} [[Category:日本のコンピュータゲームデザイナー]] [[Category:日本のコンピュータゲームディレクター]] [[Category:日本のコンピュータゲームプロデューサー]] [[Category:日本のゲームプログラマー]] [[Category:スパイク・チュンソフトの人物]] [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:電気通信大学出身の人物]] [[Category:香川県立丸亀高等学校出身の人物]] [[Category:香川県出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
2003-07-22T08:46:26Z
2023-11-11T20:55:49Z
false
false
false
[ "Template:混同", "Template:Infobox 人物", "Template:要出典", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%89%E4%B8%80
12,059
川越駅
川越駅(かわごええき)は、埼玉県川越市脇田町および脇田本町にある、東武鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 東武鉄道の東上本線(東上線)と、JR東日本の川越線が乗り入れている。東武鉄道の駅にはTJ 21の駅番号が付与されている。なお、川越線は早朝の下りの一部列車を除いて当駅で系統が分割されており、当駅以東へ向かう列車は大宮駅から埼京線に直通し、当駅以西へ向かう列車は高麗川駅から八高線八王子方面に直通する。 東上線が川越に到達した時点では駅がなく、やや遅れて開業した。開業時は「川越西町駅」と称し、川越の市街地からはずれた位置にあった。当時の東上線における川越市の玄関駅は、隣の川越町駅(現在の川越市駅)であった。川越線の開業に伴う駅名改称と、市街地の南下により市を代表する駅となった。 駅舎は1989年3月に完成した橋上駅舎で、改札口は東武鉄道、JR東日本それぞれに有しており、両社の乗り換えを行う利用客はいったん改札を出る必要がある。橋上駅舎完成前まではJR東日本(旧国鉄)の駅業務も東武鉄道が受託しており、両社間の中間改札は設置されていなかった。 商業施設として、東武鉄道(東口)側には「エキア (EQUIA) 川越」(駅構内商業施設)が、JR東日本(西口)側には「ルミネ川越店」(駅ビル)がそれぞれ改札外にある。「エキア川越」は、2007年9月20日に従来の「ファイン (Fine) 川越」に代わり、リニューアル開業した。 東武鉄道・JR東日本ともに改札内にユニバーサルデザインとしての多機能トイレが設置されている(東武:オストメイト対応多目的シート付き、JR東日本:オストメイト対応ベビーシート付き)。全ホームにエレベーターとエスカレーターを設置している。また、コインロッカーも設置している。 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 2008年5月18日より、改札口にウォークインカウンター(カウンター形式の有人通路)が設置された。同年12月頃から2009年3月頃にかけてホームのイメージアップ工事を行うとともにLED式発車標が設置され、出口案内板をピクトグラム化したものに変更した。 東武川越駅管区として、和光市駅 - 霞ヶ関駅間の各駅を統括管理する。 島式ホーム2面3線を有する地上駅。番線の表示は東武東上線からの通しとなっている。 当駅は、川越線における運用上の拠点駅となっており、早朝の一部列車を除き、大宮駅方面(埼京線方面)、高麗川駅方面(八高線方面)のいずれの両方向からも川越線を乗り通すには当駅で乗り換えが必要である。 上下線主本線の間に中線が入る形で、平日朝ラッシュ時以外は主に中線に高麗川方面への列車が発着する。中線は両側にホーム(4・5番線)を有しており、大宮方面への列車が3・6番線いずれのホームに入線しても階段の上り・下りなしに対面乗り換えができるようになっている。 大宮営業統括センター所属の直営駅であり、管理駅として南古谷駅および西川越駅から武蔵高萩駅までの各駅を管理している。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2018年度の両社を合計した乗降人員は約20万人である。埼玉県の駅では大宮駅、和光市駅、南越谷駅・新越谷駅、北朝霞駅・朝霞台駅に次いで乗降人員が多い。 近年の1日平均乗降人員の推移は下表のとおりである(JRを除く)。 近年の1日の乗車人員の推移は下表のとおりである。 当駅は、川越市の代表駅である。 東口は表口にあたり、当駅周辺から本川越駅周辺にかけて商業施設が集中し、賑わいを見せている。東口直結のペデストリアンデッキは、アトレマルヒロ2階通路を抜けてクレアモール入口まで続いている。また、ペデストリアンデッキは東上線・川越線の線路を跨いで西口側へも伸びている。クレアモールは川越新富町商店街振興組合と川越サンロード商店街振興組合の統一名称であり、川越駅から北に約1kmの繁華街が続く関東有数規模の商店街である。 西口はかつて川越少年刑務所が駅前にあるなど裏口然としていたが、その後刑務所が現在地に移転し企業のオフィスビル・学習塾・予備校が立地するようになった。現在、広域再開発計画を推進中である(後述)。 2007年4月1日より、駅周辺は川越市路上喫煙防止条例による路上喫煙禁止地区とされた。 「小江戸」と呼ばれる江戸の面影を残した旧市街地(いわゆる「蔵造りの町並み」)は、当駅から北へ1km以上離れた場所に位置している。 西武鉄道新宿線の本川越駅との連絡は、通り抜け通路が整備される以前は徒歩の場合、クレアモールを一直線(徒歩15分程度)でまっすぐ抜けるか、バスなどが通る「アカシア通り」「中央通り」を回るルートとなっていた。現在は本川越駅には川越市駅側に通り抜けられる通路が整備されたことから、クレアモールを経由しなくとも短時間で乗り換えが可能となっている。尚、川越駅及び本川越駅間に路線バスが運行しており、東口・西口いずれも便があるが、前者の方が運行本数は多い。運賃は100円で統一されている。 「川越市中心部の3駅を一体化する統合案」が川越市建築設計協会などから出されているが、実現の目処は立っていない。 東口駅前広場は、川越の街並みをメタファーとして使い、地域色を強く出したものとなっている。蔵まちの空間、形態をフェンス等に表現し、特産の織物のストライプを引用した舗装のデザインと、屋敷林に使われた巨木(ケヤキ)の再利用をしている。設計は実施設計が復建エンジニヤリング、設計協力に戸田芳樹風景計画。施工が鹿島建設、岩堀建設工業、川木建設で規模は地表部6,005m2嵩上部1,917m2。1989年6月から1990年12月にかけて整備された。 ※川越市旧市街(川越市役所・大手町方面)へはバス利用が便利。 西口に埼玉県・川越市・民間が共同で建設する「西部地域振興ふれあい拠点」に合せて、西口駅前広場も大きく再開発された。以前の駅前噴水広場と地下道は廃され、バス・タクシーなど公共交通と一般車両の乗降場所を区分した形状となり、駅舎2階から70mのペデストリアンデッキを建設し広場を横断する形に変更された。この工事は2014年3月26日に竣工し供用開始された。 路線バスのバス停は、東武バスはすべて東口側に、他社は主に西口側にある。東口乗り場はペデストリアンデッキ・階段・エレベーターで駅出口と直結している。 停留所は西口にある。 以下の便はすべて西口7番バス停より発着。 上記のほか、近鉄バスが京都・大阪行き「ウィングライナー」を2015年12月11日まで運行していた。 川越市近辺の私立高等学校、大学へのスクールバスが複数運行されている。主に西口の西武バス停留所および周辺道路から発着する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "川越駅(かわごええき)は、埼玉県川越市脇田町および脇田本町にある、東武鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東武鉄道の東上本線(東上線)と、JR東日本の川越線が乗り入れている。東武鉄道の駅にはTJ 21の駅番号が付与されている。なお、川越線は早朝の下りの一部列車を除いて当駅で系統が分割されており、当駅以東へ向かう列車は大宮駅から埼京線に直通し、当駅以西へ向かう列車は高麗川駅から八高線八王子方面に直通する。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東上線が川越に到達した時点では駅がなく、やや遅れて開業した。開業時は「川越西町駅」と称し、川越の市街地からはずれた位置にあった。当時の東上線における川越市の玄関駅は、隣の川越町駅(現在の川越市駅)であった。川越線の開業に伴う駅名改称と、市街地の南下により市を代表する駅となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "駅舎は1989年3月に完成した橋上駅舎で、改札口は東武鉄道、JR東日本それぞれに有しており、両社の乗り換えを行う利用客はいったん改札を出る必要がある。橋上駅舎完成前まではJR東日本(旧国鉄)の駅業務も東武鉄道が受託しており、両社間の中間改札は設置されていなかった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "商業施設として、東武鉄道(東口)側には「エキア (EQUIA) 川越」(駅構内商業施設)が、JR東日本(西口)側には「ルミネ川越店」(駅ビル)がそれぞれ改札外にある。「エキア川越」は、2007年9月20日に従来の「ファイン (Fine) 川越」に代わり、リニューアル開業した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "東武鉄道・JR東日本ともに改札内にユニバーサルデザインとしての多機能トイレが設置されている(東武:オストメイト対応多目的シート付き、JR東日本:オストメイト対応ベビーシート付き)。全ホームにエレベーターとエスカレーターを設置している。また、コインロッカーも設置している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "相対式ホーム2面2線を有する地上駅。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2008年5月18日より、改札口にウォークインカウンター(カウンター形式の有人通路)が設置された。同年12月頃から2009年3月頃にかけてホームのイメージアップ工事を行うとともにLED式発車標が設置され、出口案内板をピクトグラム化したものに変更した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東武川越駅管区として、和光市駅 - 霞ヶ関駅間の各駅を統括管理する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面3線を有する地上駅。番線の表示は東武東上線からの通しとなっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "当駅は、川越線における運用上の拠点駅となっており、早朝の一部列車を除き、大宮駅方面(埼京線方面)、高麗川駅方面(八高線方面)のいずれの両方向からも川越線を乗り通すには当駅で乗り換えが必要である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "上下線主本線の間に中線が入る形で、平日朝ラッシュ時以外は主に中線に高麗川方面への列車が発着する。中線は両側にホーム(4・5番線)を有しており、大宮方面への列車が3・6番線いずれのホームに入線しても階段の上り・下りなしに対面乗り換えができるようになっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "大宮営業統括センター所属の直営駅であり、管理駅として南古谷駅および西川越駅から武蔵高萩駅までの各駅を管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2018年度の両社を合計した乗降人員は約20万人である。埼玉県の駅では大宮駅、和光市駅、南越谷駅・新越谷駅、北朝霞駅・朝霞台駅に次いで乗降人員が多い。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員の推移は下表のとおりである(JRを除く)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "近年の1日の乗車人員の推移は下表のとおりである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "当駅は、川越市の代表駅である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "東口は表口にあたり、当駅周辺から本川越駅周辺にかけて商業施設が集中し、賑わいを見せている。東口直結のペデストリアンデッキは、アトレマルヒロ2階通路を抜けてクレアモール入口まで続いている。また、ペデストリアンデッキは東上線・川越線の線路を跨いで西口側へも伸びている。クレアモールは川越新富町商店街振興組合と川越サンロード商店街振興組合の統一名称であり、川越駅から北に約1kmの繁華街が続く関東有数規模の商店街である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "西口はかつて川越少年刑務所が駅前にあるなど裏口然としていたが、その後刑務所が現在地に移転し企業のオフィスビル・学習塾・予備校が立地するようになった。現在、広域再開発計画を推進中である(後述)。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2007年4月1日より、駅周辺は川越市路上喫煙防止条例による路上喫煙禁止地区とされた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「小江戸」と呼ばれる江戸の面影を残した旧市街地(いわゆる「蔵造りの町並み」)は、当駅から北へ1km以上離れた場所に位置している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "西武鉄道新宿線の本川越駅との連絡は、通り抜け通路が整備される以前は徒歩の場合、クレアモールを一直線(徒歩15分程度)でまっすぐ抜けるか、バスなどが通る「アカシア通り」「中央通り」を回るルートとなっていた。現在は本川越駅には川越市駅側に通り抜けられる通路が整備されたことから、クレアモールを経由しなくとも短時間で乗り換えが可能となっている。尚、川越駅及び本川越駅間に路線バスが運行しており、東口・西口いずれも便があるが、前者の方が運行本数は多い。運賃は100円で統一されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「川越市中心部の3駅を一体化する統合案」が川越市建築設計協会などから出されているが、実現の目処は立っていない。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "東口駅前広場は、川越の街並みをメタファーとして使い、地域色を強く出したものとなっている。蔵まちの空間、形態をフェンス等に表現し、特産の織物のストライプを引用した舗装のデザインと、屋敷林に使われた巨木(ケヤキ)の再利用をしている。設計は実施設計が復建エンジニヤリング、設計協力に戸田芳樹風景計画。施工が鹿島建設、岩堀建設工業、川木建設で規模は地表部6,005m2嵩上部1,917m2。1989年6月から1990年12月にかけて整備された。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "※川越市旧市街(川越市役所・大手町方面)へはバス利用が便利。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "西口に埼玉県・川越市・民間が共同で建設する「西部地域振興ふれあい拠点」に合せて、西口駅前広場も大きく再開発された。以前の駅前噴水広場と地下道は廃され、バス・タクシーなど公共交通と一般車両の乗降場所を区分した形状となり、駅舎2階から70mのペデストリアンデッキを建設し広場を横断する形に変更された。この工事は2014年3月26日に竣工し供用開始された。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "路線バスのバス停は、東武バスはすべて東口側に、他社は主に西口側にある。東口乗り場はペデストリアンデッキ・階段・エレベーターで駅出口と直結している。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "停留所は西口にある。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "以下の便はすべて西口7番バス停より発着。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "上記のほか、近鉄バスが京都・大阪行き「ウィングライナー」を2015年12月11日まで運行していた。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "川越市近辺の私立高等学校、大学へのスクールバスが複数運行されている。主に西口の西武バス停留所および周辺道路から発着する。", "title": "バス路線" } ]
川越駅(かわごええき)は、埼玉県川越市脇田町および脇田本町にある、東武鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
{{otheruseslist|東日本旅客鉄道・東武鉄道の'''川越駅'''|かつて同名を称した西武鉄道の駅|本川越駅|島根県に存在した駅|石見川越駅|三重県に存在した駅|川越駅 (三重県)}} {{混同|川越市駅}} {{駅情報 |駅名 = 川越駅 |画像 = Kawagoe-STA West.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2021年7月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|54|25.6|N|139|28|59|E}}}} |よみがな = かわごえ |ローマ字 = Kawagoe |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東武鉄道]]([[#東武鉄道|駅詳細]]) * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])}} |所在地 = [[埼玉県]][[川越市]] |電報略号 = ハエ(両社とも) |座標 = {{coord|35|54|25.6|N|139|28|59|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |備考 = }} {{Vertical_images_list |幅= 240px |枠幅= 240px | 1=Kawagoe-STA_Entrance-East.jpg | 2=東口(2021年8月) | 3=Kawagoe-STA West-Entrance.jpg | 4=西口(2021年7月) }} '''川越駅'''(かわごええき)は、[[埼玉県]][[川越市]][[脇田町 (川越市)|脇田町]]および[[脇田本町]]にある、[[東武鉄道]]・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 [[ファイル:川越駅駅名標.jpg|サムネイル|代替文=JR東日本川越駅 駅名標|JR東日本川越駅 駅名標]] == 乗り入れ路線 == 東武鉄道の[[東武東上本線|東上本線]](東上線)と、JR東日本の[[川越線]]が乗り入れている。東武鉄道の駅には'''TJ 21'''の[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。なお、川越線は早朝の下りの一部列車を除いて当駅で系統が分割されており、当駅以東へ向かう列車は[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]から[[埼京線]]に直通し、当駅以西へ向かう列車は[[高麗川駅]]から[[八高線]]八王子方面に直通する。 == 歴史 == [[File:JRE Saikyo Kawagoe Station 1974.jpg|thumb|川越駅付近空中写真(1974年)。平屋の駅舎で東武鉄道と国鉄(現・JR東日本)は改札を共用していた。<br />{{国土航空写真}}]] 東上線が川越に到達した時点では駅がなく、やや遅れて開業した。開業時は「川越西町駅」と称し、川越の市街地からはずれた位置にあった。当時の東上線における川越市の玄関駅は、隣の川越町駅(現在の[[川越市駅]])であった。川越線の開業に伴う駅名改称と、市街地の南下により市を代表する駅となった。 === 年表 === * [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月1日]]:[[東武東上本線|東上鉄道]]の[[新河岸駅|新河岸]] - 川越町間に'''川越西町駅'''(かわごえにしまちえき)として開業。 * [[1920年]](大正9年)[[7月27日]]:東上鉄道が東武鉄道に合併し、東武鉄道東上本線の駅となる。 * [[1940年]]([[昭和]]15年)[[7月22日]]:[[鉄道省|国鉄]](のちの[[日本国有鉄道]])川越線'''川越駅'''が開業<ref name="zeneki46">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =46号 甲府駅・奥多摩駅・勝沼ぶどう郷駅ほか79駅 |date =2013-07-07 |page =25 }}</ref>。駅業務は東武鉄道に委託{{R|交通890201}}。同時に東武鉄道は'''川越駅'''に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364373/86}} 地方鉄道・軌道異動表]」『電気協会雑誌』第229号、日本電気協会、1941年1月、附録3頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1976年]](昭和51年)[[6月1日]]:国鉄川越駅の貨物営業廃止<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=445}}</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:国鉄川越駅の[[チッキ|荷物]]扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1985年]](昭和60年)[[9月30日]]:国鉄川越線が[[鉄道の電化|電化]]され、埼京線との直通運転を開始。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、川越線は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[2月1日]]:橋上駅舎の供用開始。東武鉄道とJR東日本の改札が分離<ref name="交通890201">{{Cite news |title=駅業務を直営化 川越駅・48年ぶり |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1989-02-01 |page=1 }}</ref>。JR東日本の駅も自社管轄に変更{{R|交通890201}}。 * [[1991年]](平成3年)4月1日:JR東日本で[[自動改札機]]の使用を開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-29|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[2月19日]]:JR東日本側の大幅な駅舎改修が行われ、窓口移動のほか、階段がもう一組大宮側に増設され、川越線ホーム上にはルミネ川越店が開店。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:東武鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-30|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 ** [[9月20日]]:東武鉄道側の駅ナカ商業施設「ファイン川越」が「エキア川越」としてリニューアルオープン。 * [[2008年]](平成20年)[[3月18日]]:東武東上線ホームで[[発車メロディ]]を導入。 * [[2014年]](平成26年)[[3月26日]]:西口駅前広場の改修工事が完了。[[ペデストリアンデッキ]]が使用を開始。 * [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:東武東上線ホームにて[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/d4d747113b5b4c107c462d88e81b0ce9/180125_2.pdf?date=20180125125102|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180205184934/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/d4d747113b5b4c107c462d88e81b0ce9/180125_2.pdf?date=20180125125102|format=PDF|language=日本語|title=3月17日(土)より、東上線 川越駅にてホームドアの使用を開始します!|publisher=東武鉄道|date=2018-01-25|accessdate=2020-04-29|archivedate=2018-02-05}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:東武東上線のダイヤ改正に伴い、新設された「川越特急」の停車駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f_190129_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200617052932/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f_190129_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月16日(土)東武東上線でダイヤ改正を実施! 〜土休日下り快速急行の運転区間を延長し全列車小川町行きに! 土休日池袋発川越市行き下り最終列車の繰下げ等を実施します!〜|publisher=東武鉄道|date=2019-01-29|accessdate=2020-06-17|archivedate=2020-06-17}}</ref>。東武東上線ホームで発車メロディを変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/cae45961fe6331149f55da205ce966d8/190215_1_2.pdf?date=20190218101756|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501192133/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/cae45961fe6331149f55da205ce966d8/190215_1_2.pdf?date=20190218101756|format=PDF|language=日本語|title=3月16日(土)、東武東上線 ダイヤ改正にあわせ、川越駅・川越市駅の発車メロディが、菅野 祐悟氏の作品に変わります! 〜「川越特急」の車内チャイムも同氏が作曲します〜|publisher=東武鉄道|date=2019-02-15|accessdate=2020-05-01|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[7月11日]]:JR東日本の改札口内に観光案内コーナーを設置<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200703_o01.pdf|title=JR川越駅に観光案内コーナーがオープンします|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社/川越市|date=2020-07-03|accessdate=2020-07-03|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200703072608/https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200703_o01.pdf|archivedate=2020-07-03}}</ref>。 ** [[7月]]頃:JR東日本の駅がリニューアル。改札口の外観およびみどりの窓口の改良、自動券売機の移設が行われる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20191114_o01.pdf|title=川越駅が新しく生まれ変わります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2019-11-14|accessdate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114082732/https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20191114_o01.pdf|archivedate=2019-11-14}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[2月14日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="StationCd_525">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=525|title=駅の情報(川越駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2022-01-12|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220112210050/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=525|archivedate=2022-01-12}}</ref>。[[みどりの窓口]]が臨時窓口化<ref name="StationCd_525" />。 == 駅構造 == 駅舎は[[1989年]]3月に完成した[[橋上駅|橋上駅舎]]で、[[改札|改札口]]は東武鉄道、JR東日本それぞれに有しており、両社の乗り換えを行う利用客はいったん改札を出る必要がある。橋上駅舎完成前まではJR東日本(旧国鉄)の駅業務も東武鉄道が受託しており{{R|交通890201}}、両社間の中間改札は設置されていなかった。 商業施設として、東武鉄道(東口)側には「エキア (EQUIA) 川越」(駅構内商業施設)が、JR東日本(西口)側には「[[ルミネ]]川越店」([[駅ビル]])がそれぞれ改札外にある。「エキア川越」は、[[2007年]][[9月20日]]に従来の「ファイン (Fine) 川越」に代わり、リニューアル開業した。 東武鉄道・JR東日本ともに改札内に[[ユニバーサルデザイン]]としての多機能[[便所|トイレ]]が設置されている(東武:[[オストメイト]]対応多目的シート付き、JR東日本:オストメイト対応ベビーシート付き)。全ホームに[[エレベーター]]と[[エスカレーター]]を設置している。また、[[ロッカー#コインロッカー|コインロッカー]]も設置している。 === 東武鉄道 === {{駅情報 |社色 = #0f6cc3 |文字色 = |駅名 = 東武 川越駅{{Refnest|group="*"|[[1940年]]に川越西町駅から改称。}} |画像 = Tobu-Kawagoe-STA Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2021年7月) |よみがな = かわごえ |ローマ字 = Kawagoe |所属事業者 = [[東武鉄道]] |所在地 = <span style="white-space:nowrap;">[[埼玉県]][[川越市]]脇田町24-9</span> |駅番号 = {{駅番号r|TJ|21|#004098|1}} |所属路線 = {{Color|#004098|■}}[[東武東上本線|東上本線]] |前の駅 = TJ 20 [[新河岸駅|新河岸]] |駅間A = 2.2 |駅間B = 0.9 |次の駅 = [[川越市駅|川越市]] TJ 22 |キロ程 = 30.5 |起点駅 = [[池袋駅|池袋]] |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月1日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = 110,102 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]]<ref name="RP949_44-45" /> |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。 [[2008年]][[5月18日]]より、改札口にウォークインカウンター(カウンター形式の有人通路)が設置された。同年12月頃から2009年3月頃にかけてホームのイメージアップ工事を行うとともに[[発光ダイオード|LED]]式[[発車標]]が設置され、出口案内板を[[ピクトグラム]]化したものに変更した。 東武川越駅管区として、[[和光市駅]] - [[霞ヶ関駅 (埼玉県)|霞ヶ関駅]]間の各駅を統括管理する<ref name="RP949_44-45">{{Cite journal|和書|author=東武鉄道営業部・運輸部・鉄道乗務員養成所|title=駅・乗務管区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2018-08-10|volume=68|issue=第8号(通巻949号)|pages=44 - 45頁|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" ! nowrap="nowrap" |番線!!路線!! nowrap="nowrap" |方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/7315/ |title=川越駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 | rowspan="2" | [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上線 | style="text-align:center" | 上り | [[池袋駅|池袋]]方面 |- !2 | style="text-align:center" | 下り | [[小川町駅 (埼玉県)|小川町]]方面 |} * 東上線では通常、駅のホーム番号は下り方から番線表示を付番するが、当駅は川越線のホームとの関係上、上り方が1番線となっている。 * 下り2番線ホームには[[エア・コンディショナー|冷暖房]]完備のガラス張りの[[待合室]]がある。 * 平日朝時間帯に運転される上り「[[TJライナー]]」に、森林公園駅 - 当駅までの停車駅から乗車する際は470円が必要となる。 * 旧駅舎時代は下りホームが現在よりも新河岸寄りに位置していた。よって当時は2本のホームの位置が揃っていなかった<ref>昭和~平成 東武東上線沿線アルバム(アルファベータブックス、2022年6月5日第1刷)p.128 - 129</ref>。 * かつては2面3線の配線で、2番線の反対側に旧3番線が存在していた<ref>[[鉄道ピクトリアル]] 2023年10月号 p.36</ref>が、橋上駅舎化以前に廃止された。その後、川越線のホームと線路が増設されるまで、3番線は欠番となっていた。 ==== 改札内の商業施設 ==== ; 改札階 * ACCESS(売店) ; 1番線ホーム * [[ファミリーマート]] 川越駅ホーム店 * UNDERGROUND RAMEN 川越駅店 * [[キュービーネット|QBハウス]] 東武川越駅店 * ACCESS(売店) ; 2番線ホーム * 文殊([[立ち食いそば・うどん店]]) 川越ホーム店 <gallery> Tobu-Kawagoe-STA Home1.jpg|1番線ホーム(2021年7月) Tobu-Kawagoe-STA Home2.jpg|2番線ホーム(2021年7月) Kawagoe Station Tobu concourse 20160223.JPG|リニューアル前の改札口(2016年2月) </gallery> === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 川越駅 |画像 = JRE-Kawagoe-STA Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2021年7月) |よみがな = かわごえ |ローマ字 = Kawagoe |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[埼玉県]][[川越市]]脇田本町39-19 |所属路線 = {{Color|#00ac9a|■}}{{Color|#a8a39d|■}}[[川越線]] |キロ程 = 16.1&nbsp;km([[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]起点)<br />[[大崎駅|大崎]]から53.0&nbsp;km<br />[[八王子駅|八王子]]から45.6 |起点駅 = |前の駅 = {{Refnest|group="**"|name="separation"|当駅で運転系統分離{{R|zeneki46}}。}}[[南古谷駅|南古谷]] |駅間A = 3.7 |駅間B = 2.6 |次の駅 = [[西川越駅|西川越]]<ref group="**" name="separation" /> |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面3線{{R|zeneki46}} |開業年月日 = <span style="white-space:nowrap;">[[1940年]]([[昭和]]15年)[[7月22日]]</span> |廃止年月日 = |乗車人員 = 33,846 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有(臨時窓口)<ref name="StationCd_525" /> * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd_525" />}} |備考全幅 = {{Reflist|group="**"}} }} [[島式ホーム]]2面3線を有する地上駅。番線の表示は東武東上線からの通しとなっている。 当駅は、川越線における運用上の拠点駅<ref group="注釈">埼京線直通用の10両編成は、[[西川越駅|西川越]]以西の各駅のホーム有効長の関係から当駅までの運転となる。非電化時代は大宮 - 東飯能間を直通運転していた。電化後も民営化直後までは[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] - [[高麗川駅|高麗川]]間を直通運転する列車があったが、後に埼京線直通の快速に振り替える形で消滅した。</ref>となっており、早朝の一部列車<ref group="注釈">[[南古谷駅|南古谷]]始発(川越車両センターからの出区列車)の高麗川方面行が3本設定されている。</ref>を除き、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]方面(埼京線方面)、[[高麗川駅]]方面(八高線方面)のいずれの両方向からも川越線を乗り通すには当駅で乗り換えが必要である{{R|zeneki46}}。 上下線主本線の間に中線が入る形で、平日朝[[ラッシュ時]]以外は主に中線に高麗川方面への列車が発着する。中線は両側にホーム(4・5番線)を有しており、大宮方面への列車が3・6番線いずれのホームに入線しても階段の上り・下りなしに対面乗り換えができるようになっている。 大宮営業統括センター所属の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として[[南古谷駅]]および[[西川越駅]]から[[武蔵高萩駅]]までの各駅を管理している。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先 |- ! rowspan="3" | 3 - 6 | rowspan="2" | {{Color|#00ac9a|■}}川越・埼京線 | style="text-align:center"|南行 | rowspan="2" | [[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[新宿駅|新宿]]・[[大崎駅|大崎]]方面<ref name="timetable/list0525">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0525.html|title=時刻表 川越駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-31}}</ref> |- | style="text-align:center"|上り |- | {{Color|#a8a39d|■}}川越・八高線 | style="text-align:center"|下り | [[高麗川駅|高麗川]]方面<ref name="timetable/list0525" /> |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/525.html JR東日本:駅構内図]) * 本項では高麗川方面のラインカラーを{{Color|#a8a39d|■}}灰色で表すが、実際の案内は両方向とも{{Color|#00ac9a|■}}グリーンのみ用いられている。 * 朝ラッシュ時は、主に大宮方面が4・5番線を、高麗川方面が3・6番線を交互に使用する。これは、大宮方面行において乗降分離による整列乗車を実施しているためである<ref group="注釈">列車により4番・5番のいずれかが乗車ホームとなる。</ref>。 * 日中時間帯は、5・6番線は使用されず、大宮方面が3番線を、高麗川方面が4番線を使用する。なお、2010年3月のダイヤ改正までは大宮方面が3・6番線を、高麗川方面が4・5番線を交互に使用していた。 * 夕ラッシュ時以降は、主に大宮方面が3・6番線を、高麗川方面が4・5番線を交互に使用する。 * 高麗川方面の電車は終日ボタン操作による乗降ドアの半自動扱いを実施しているが、発車時刻の約1分前になると半自動扱いが解除され、すべての乗降ドアが開く。 * 改札周辺には、[[みどりの窓口]](臨時窓口)、[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]<ref name="StationCd_525" />、[[ビューアルッテ|VIEW ALTTE]]、[[キヨスク|KIOSK]]などがある。 * かつては、貨物駅でもあった時期から東武東上本線と接続する側線が2線存在した。当時は東武の車両(旧型車から8000系非冷房車まで)を出搬入する際に当駅を使用しており、連絡線では貨物列車以外でも稀に団体列車の行き来もあった。貨物列車における輸送品目は石油・セメント・日用品・食糧品・砂利運搬の他に東武向けの社用品輸送も存在した。川越から東武は下板橋・寄居へと運転され、国鉄では高麗川・八王子・寄居・高崎への石油・セメント輸送、大宮方面では東北本線経由で隅田川への多種品目の輸送があった。その後、渡り線が撤去され、その位置に川越線のホームが増設されたため、現在では川越線と東武東上線は線路は繋がっていない。 * 電化以前は現在の5・6番線である島式1面2線のみを有しており、当時は4・5番線が割り振られていた。 <gallery> JRE-Kawagoe-STA Home3-4.jpg|3・4番線ホーム(2021年7月) JRE-Kawagoe-STA Home5-6.jpg|5・6番線ホーム(2021年8月) JR Kawagoe-Line Kawagoe Station Gates.jpg|リニューアル前の改札口(2019年11月) </gallery> ==== 改札内の商業施設 ==== ; 改札階 * [[NewDays]] * いろり庵きらく * TOKYO豚骨BASE MADE by 一風堂<ref>https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000412.000082978.html</ref> * [[埼玉種畜牧場|サイボク]] JR川越駅店<ref group="報道" name="press/20200924_o03">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200924_o03.pdf|title=「サイボク」がJR川越駅に初出店します! 観光拠点として生まれ変わった川越駅に、埼玉を代表する「サイボク」の新業態店舗が開業|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社/JR東日本リテールネット|date=2020-09-24|accessdate=2020-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200924144541/https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200924_o03.pdf|archivedate=2020-09-24}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-995/20200924_saiboku_kawagoe.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200925061254/https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-995/20200924_saiboku_kawagoe.pdf|format=PDF|language=日本語|title=【エキナカ】初出店! 株式会社埼玉種畜牧場の新業態「サイボク」がJR川越駅に誕生! -食べ歩きにピッタリなデリカテッセンなど幅広く展開-|publisher=JR東日本リテールネット|date=2020-09-24|accessdate=2020-09-25|archivedate=2020-09-25}}</ref> ; 閉鎖された店舗 * [[BECK'S COFFEE SHOP]] * GIFT GARDEN == 利用状況 == 2018年度の両社を合計した乗降人員は約20万人である。埼玉県の駅では[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]、[[和光市駅]]、[[南越谷駅]]・[[新越谷駅]]、[[北朝霞駅]]・[[朝霞台駅]]に次いで乗降人員が多い。 * '''東武鉄道''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''110,102人'''である<ref group="利用客数">[https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)] - 東武鉄道</ref>。 *: 東上線の駅では池袋駅、和光市駅、朝霞台駅に次ぐ第4位である。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''33,846人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: JR東日本管内において[[単線]]区間中にある駅としては最大の乗車人員数を有する。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表のとおりである(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> |- !rowspan=2|年度 !colspan=2|東武鉄道 |- !1日平均<br>乗降人員 !増加率 |- |1978年(昭和53年) | 68,828 || |- |1990年(平成{{0}}2年) | 110,284 || |- |1991年(平成{{0}}3年) | 120,772 || 9.5% |- |1992年(平成{{0}}4年) | 123,400 || 2.2% |- |1993年(平成{{0}}5年) | 122,720 || &minus;0.6% |- |1994年(平成{{0}}6年) | 124,022 || 1.1% |- |1995年(平成{{0}}7年) | 125,407 || 1.1% |- |1996年(平成{{0}}8年) | 123,789 || &minus;1.3% |- |1997年(平成{{0}}9年) | 120,685 || &minus;2.5% |- |1998年(平成10年) | 117,541 || &minus;2.6% |- |1999年(平成11年) | 116,078 || &minus;1.2% |- |2000年(平成12年) | 115,288 || &minus;0.7% |- |2001年(平成13年) | 115,628 || 0.3% |- |2002年(平成14年) | 115,015 || &minus;0.5% |- |2003年(平成15年) | 116,164 || 1.0% |- |2004年(平成16年) | 116,922 || 0.7% |- |2005年(平成17年) | 116,615 || &minus;0.3% |- |2006年(平成18年) | 117,270 || 0.6% |- |2007年(平成19年) | 120,505 || 2.8% |- |2008年(平成20年) | 122,438 || 1.6% |- |2009年(平成21年) | 121,773 || &minus;0.5% |- |2010年(平成22年) | 121,558 || &minus;0.2% |- |2011年(平成23年) | 121,051 || &minus;0.4% |- |2012年(平成24年) | 123,242 || 1.8% |- |2013年(平成25年) | 127,243 || 3.2% |- |2014年(平成26年) | 125,687 || &minus;1.2% |- |2015年(平成27年) | 128,021 || 0.6% |- |2016年(平成28年) | 126,600 || &minus;1.1% |- |2017年(平成29年) | 126,451 || &minus;0.1% |- |2018年(平成30年) | 126,508 || 0.0% |- |2019年(令和元年) | 124,534 || &minus;1.6% |- |2020年(令和{{0}}2年) | 87,676 || &minus;29.6% |- |2021年(令和{{0}}3年) |99,262 |13.2% |- |2022年(令和{{0}}4年) |110,102 |10.9% |} === 年度別1日平均乗車人員 === 近年の1日の'''乗車'''人員の推移は下表のとおりである。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |- |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref><ref group="統計">[http://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/shisei/toukeidata/toukeikawagoe/index.html 統計かわごえ] - 川越市</ref> !年度 !東武鉄道 !JR東日本 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) | 54,722 || 25,819 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 149・152頁</ref>--> |- |1991年(平成{{0}}3年) | 61,690 || 34,123 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 149・152頁</ref>--> |- |1992年(平成{{0}}4年) | 63,046 || 34,317 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 159・162頁</ref>--> |- |1993年(平成{{0}}5年) | 62,528 || 35,605 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成6年) - 163・167頁</ref>--> |- |1994年(平成{{0}}6年) | 63,250 || 36,655 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成7年) - 163・167頁</ref>--> |- |1995年(平成{{0}}7年) | 63,681 || 36,929 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成8年) - 169・173頁</ref>--> |- |1996年(平成{{0}}8年) | 63,078 || 37,562 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成9年) - 169・173頁</ref>--> |- |1997年(平成{{0}}9年) | 61,383 || 36,779 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成10年) - 174・179頁</ref>--> |- |1998年(平成10年) | 59,642 || 35,804 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成11年) - 182・187頁</ref>--> |- |1999年(平成11年) | 58,809 || 35,473 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |58,306 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>35,181 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |58,272 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>35,278 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |57,951 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>35,177 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |58,625 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>35,273 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |59,009 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>35,719 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |58,903 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>36,149 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |59,265 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>36,997 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |60,641 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>37,811 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |61,487 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>37,939 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |61,068 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>37,098 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |60,909 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>36,780 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |60,739 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>36,344 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |61,860 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>36,936 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |63,847 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>37,754 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |63,048 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>37,327 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |64,190 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>38,343 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |63,401 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>38,387 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |63,301 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>38,491 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |63,327 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>38,532 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |62,327 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>38,112 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |43,807 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>26,981 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>30,932 | |- |2022年(令和{{0}}4年) | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>33,846 | |} == 駅構内(改札外) == * エキア川越(駅構内商業施設) - 出店店舗の詳細は東武鉄道公式サイト「[http://railway.tobu.co.jp/guide/station/info/7315.html 川越駅 店舗のご案内]」を参照。 * ルミネ 川越店(駅ビル) - 出店店舗の詳細はルミネ公式サイト「[http://www.lumine.ne.jp/kawagoe/map/index.php フロアガイド]」を参照。 == 駅周辺 == 当駅は、川越市の代表駅である。 東口は表口にあたり、当駅周辺から[[本川越駅]]周辺にかけて商業施設が集中し、賑わいを見せている。東口直結の[[ペデストリアンデッキ]]は、[[アトレマルヒロ]]2階通路を抜けて[[クレアモール]]入口まで続いている。また、ペデストリアンデッキは東上線・川越線の線路を跨いで西口側へも伸びている。クレアモールは川越新富町商店街振興組合と川越サンロード商店街振興組合の統一名称であり、川越駅から北に約1[[キロメートル|km]]の[[繁華街]]が続く関東有数規模の商店街である。 西口はかつて[[川越少年刑務所]]が駅前にあるなど裏口然としていたが、その後刑務所が現在地に移転し企業の[[オフィスビル]]・[[学習塾]]・[[予備校]]が立地するようになった。現在、広域[[都市再開発|再開発]]計画を推進中である([[#西口広場再開発|後述]])。 2007年[[4月1日]]より、駅周辺は[[路上喫煙禁止条例|川越市路上喫煙防止条例による路上喫煙禁止地区]]とされた<ref>[http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1176981042958/index.html 路上喫煙禁止地区の指定について] - 川越市役所</ref>。 「'''[[小江戸#日本各地の小江戸|小江戸]]'''」と呼ばれる江戸の面影を残した旧市街地(いわゆる「蔵造りの町並み」)は、当駅から北へ1km以上離れた場所に位置している。 [[西武鉄道]][[西武新宿線|新宿線]]の本川越駅との連絡は、通り抜け通路が整備される以前は徒歩の場合、クレアモールを一直線(徒歩15分程度)でまっすぐ抜けるか、バスなどが通る「アカシア通り」「中央通り」を回るルートとなっていた。現在は本川越駅には川越市駅側に通り抜けられる通路が整備されたことから、クレアモールを経由しなくとも短時間で乗り換えが可能となっている。尚、川越駅及び本川越駅間に[[路線バス]]が運行しており、東口・西口いずれも便があるが、前者の方が運行本数は多い。[[運賃]]は100円で統一されている。 「川越市中心部の3駅を一体化する統合案」が川越市建築設計協会などから出されているが<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/travel/rail/news/TKY201201100454.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120110211512/http://www.asahi.com/travel/rail/news/TKY201201100454.html|title=JR・東武・西武の川越3駅に一体化案 埼玉|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2012-01-11|accessdate=2020-10-14|archivedate=2012-01-10}}</ref>、実現の目処は立っていない。 東口駅前広場は、川越の街並みをメタファーとして使い、地域色を強く出したものとなっている。蔵まちの空間、形態をフェンス等に表現し、特産の織物のストライプを引用した舗装のデザインと、屋敷林に使われた巨木(ケヤキ)の再利用をしている。設計は実施設計が復建エンジニヤリング、設計協力に戸田芳樹風景計画。施工が鹿島建設、岩堀建設工業、川木建設で規模は地表部6,005㎡嵩上部1,917㎡。1989年6月から1990年12月にかけて整備された。 === 東口 === <!-- 以下、チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店、携帯電話屋、学習塾などは記載しない --> {{columns-list|2| * 本川越駅 - 西武新宿線 * [[川越警察署]]川越駅前交番 * 川越脇田郵便局 * [[アトレマルヒロ]] ** [[三井住友銀行]]川越支店 ** [[みずほ銀行]]川越駅前支店 * [[クレアモール]](商店街) * [[東武ストア|川越マイン]] * [[丸広百貨店川越店|丸広百貨店 川越本店]] * [[埼玉県立川越工業高等学校]] * [[埼玉県立川越総合高等学校]] * [[わせがく高等学校]] 川越キャンパス * [[トライ式高等学院]] 川越キャンパス * [[KTCおおぞら高等学院]] 川越キャンパス * [[鹿島学園高等学校]] 川越キャンパス * [[埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線]] |}} ※川越市旧市街([[川越市役所]]・大手町方面)へはバス利用が便利。 === 西口 === {{columns-list|2| * [[ヤオコー]]サポートセンター * U_PLACE ** [[東武ホテルグループ|川越東武ホテル]] ** [[埼玉りそな銀行]]川越支店・川越南支店 ** [[川越市役所]]南連絡所 * [[ウェスタ川越]] ** ウニクス(ヤオコー 川越西口店) ** 川越駅西口郵便局 ** 埼玉県川越地方庁舎 * [[武蔵野銀行]]川越南支店 * [[足利銀行]]川越支店 * [[群馬銀行]]川越支店 * [[埼玉縣信用金庫]]川越支店 * [[中央労働金庫]]川越支店 * [[むさし証券]] 川越支店 * [[埼玉医科大学]] かわごえクリニック * [[川越市立川越高等学校]] * [[国道16号]]・[[国道254号]] * ヤオコー川越新宿(あらじゅく)店 * 川越新宿郵便局 |}} ==== 西口広場再開発 ==== 西口に埼玉県・川越市・民間が共同で建設する「西部地域振興ふれあい拠点」に合せて、西口[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]も大きく再開発された。以前の駅前噴水広場と[[地下道]]は廃され、バス・タクシーなど公共交通と一般車両の乗降場所を区分した形状となり、駅舎2階から70[[メートル|m]]のペデストリアンデッキを建設し広場を横断する形に変更された<ref group="新聞">[http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20120122/CK2012012202000049.html デッキでバリアフリー化 川越駅西口駅前広場改修 市が概要] - [[東京新聞]] 2012年1月22日</ref>。この工事は[[2014年]]3月26日に竣工し供用開始された<ref>[http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1326680942276/ 川越駅西口駅前広場リニューアル(川越市)]</ref><ref>[http://www.yasko.net/2014/04/post_1806.html 川越駅西口駅前広場改修事業完成記念式典]</ref><ref>[https://kawagoe.hatenablog.com/entry/20140315/p1 川越駅西口駅前広場リニューアル]</ref><ref>[http://www.kawagoehatsukari-h.spec.ed.jp/index.php?key=johzwxdmk-130 川越駅西口駅前広場供用開始]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=p0kRDD7RzRg ニュース小江戸 川越駅西口前新広場]</ref>。 <gallery> Kawagoe-STA atre.jpg|アトレまるひろ Kawagoe-CreaMall.jpg|クレアモール </gallery> == バス路線 == === 路線バス === <!-- 乗車カード対応の可否は記載しない --> <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[路線バス]]の[[バス停留所|バス停]]は、東武バスはすべて東口側に、他社は主に西口側にある。東口乗り場はペデストリアンデッキ・階段・エレベーターで駅出口と直結している。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|東口 |- !1 |rowspan="7" style="text-align:center;"|[[東武バス#東武バスウエスト|東武バスウエスト]] |[[東武バスウエスト川越営業事務所#川越駅 - 神明町車庫線|'''川越01''']]:[[東武バスウエスト川越営業事務所|神明町車庫]] |&nbsp; |- !2 |[[東武バスウエスト川越営業事務所#川越駅 - 城西高校 - 八幡団地 - 東松山駅線|'''川越02''']]:[[東松山駅]]・八幡団地 |八幡団地行きは深夜バスの運行あり |- !3 |[[東武バスウエスト川越営業事務所#川越駅 - 小江戸名所めぐり線|'''名01''']]:小江戸名所めぐり(喜多院先回り) [[東武バスウエスト川越営業事務所|'''名03''']]:小江戸名所めぐり(喜多院先回り)札の辻止まり |&nbsp; |- !4 |{{Unbulleted list|[[東武バスウエスト川越営業事務所#川越駅 - 城西高校 - 小見野 - 鴻巣駅 - 鴻巣免許センター線|'''川越03''']]:[[埼玉県警運転免許センター|鴻巣免許センター]]・[[鴻巣駅]]西口・新荒子|'''川越05''':神明町車庫}} |「川越03」の鴻巣免許センター行きは平日のみ運行 |- !5 |[[東武バスウエスト川越営業事務所#川越駅 - 宮元町 - 山ヶ谷戸 - 桶川駅西口線|'''川越04''']]:[[桶川駅]]西口・山ケ谷戸 |&nbsp; |- !6 |{{Unbulleted list|[[東武バスウエスト川越営業事務所|'''川越09''']]:[[パイオニア]]|[[東武バスウエスト坂戸営業所#川越駅 - 東坂戸団地 - 若葉駅線|'''若02''']]:[[若葉駅]]|}} |「川越09」は平日朝夕夜のみ |- !7 |{{Unbulleted list|[[東武バスウエスト川越営業事務所#川越駅 - 埼玉医大 - 川越運動公園線|'''川越06''']]:[[上尾駅]]西口・橘神社前・[[川越運動公園]]・[[埼玉医科大学総合医療センター|埼玉医大]]|[[東武バスウエスト川越営業事務所#川越駅 - 宮下町循環線|'''川越08''']]:宮下町循環}} |&nbsp;「川越08」は土日祝日朝1本のみ運行 |- !8 |style="text-align:center;"|[[西武バス]] |[[西武バス川越営業所#本川越駅 - 川越グリーンパーク方面|'''本52''']]:川越グリーンパーク / 本川越駅 |&nbsp; |- !colspan="4"|西口 |- !2 |style="text-align:center;"|[[イーグルバス]] |小江戸巡回バス |&nbsp; |- !3 |rowspan="6" style="text-align:center;"|西武バス |{{Unbulleted list|[[西武バス所沢営業所#新所沢駅東口 - 西武バス所沢営業所 - 川越駅西口 - 本川越駅方面|'''新所02''']]:[[新所沢駅]]東口|'''本55''':所沢営業所|[[西武バス川越営業所#本川越駅 - かすみ野方面|'''川越35'''・'''川越36''']]:かすみ野|'''川越35-1'''・'''川越36-1''':[[尚美学園大学]]}} |&nbsp; |- !4 |{{Unbulleted list|[[西武バス川越営業所#川越駅西口 - 南大塚駅南口 - 新狭山駅南口方面|'''川越61''']]:[[南大塚駅]]南口|'''川越62''':[[新狭山駅]]南口|[[西武バス川越営業所#川越駅西口 - 本川越駅 - 川越水上公園方面|'''川越100''']]:川越水上公園}} |「川越100」は夏期のみ運行 |- !5 |{{Unbulleted list|[[西武バス川越営業所#本川越駅 - 今福中台 - 川越営業所方面|'''本53''']]:今福中台|'''本54'''・'''深夜''':川越営業所}} |&nbsp; |- !6 |[[西武バス川越営業所#川越駅 - 三井アウトレットパーク方面|'''川越50''']]:三井アウトレットパーク入間 |直通・不定期運行 |- !7 |'''高速''':羽田空港、新潟、富士急ハイランド方面 |&nbsp; |- !8 |'''新所02'''・'''本53'''・'''本54'''・'''本55'''・'''川越35'''・'''川越35-1''':本川越駅 |&nbsp; |} === コミュニティバス === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !運行事業者!!系統・行先 |- !colspan="2"|西口 |- |style="text-align:center;"|[[川越シャトル]] |{{Unbulleted list|[[川越シャトル#20系統|'''20''']]:[[霞ヶ関駅 (埼玉県)|霞ヶ関駅]]北口|[[川越シャトル#21系統|'''21''']]・[[川越シャトル#22系統|'''22''']]:南大塚駅北口}} |- !colspan="2"|東口 |- |style="text-align:center;"|川越シャトル |{{Unbulleted list|[[川越シャトル#30系統|'''30''']]:総合福祉センター / 南文化会館|[[川越シャトル#31系統|'''31''']]:総合福祉センター / [[上福岡駅]]西口|[[川越シャトル#32系統|'''32''']]:総合福祉センター / 新河岸駅西口|[[川越シャトル#34系統|'''34''']]:川越総合高校循環 /新河岸駅東口}} |} === 空港連絡バス === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 停留所は西口にある。 * [[川越観光自動車]]<ref group="注釈">[[川越観光自動車森林公園営業所|森林公園営業所]]が担当。</ref>・[[千葉交通]]・東武バスウエスト<ref group="注釈">川越営業事務所が担当。</ref> ** [[坂戸・川越 - 成田空港線]] * 西武バス(所沢営業所)・イーグルバス・[[東京空港交通]] ** [[東京国際空港|羽田空港]] === 高速バス === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 以下の便はすべて西口7番バス停より発着。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !運行事業者!!(愛称・)行先!!備考 |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東武バスウエスト|[[京成トランジットバス]]}} |[[東京ディズニーリゾート]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[日本中央バス]] |[[富山駅]]前・[[金沢駅バスターミナル|金沢駅東口]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[西武観光バス]]|[[フジエクスプレス]]}} |[[富士急ハイランド]]・[[河口湖駅]]・[[富士山駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[関越交通]]|川越観光自動車}} |'''尾瀬号''':武尊口・鎌田・土出温泉・尾瀬戸倉・大清水 |rowspan="3"|季節運行 |- |style="text-align:center;"|関越交通 |{{Unbulleted list|'''上州ゆけむりライナー みなかみ温泉号''':[[上毛高原駅]]・[[水上駅]]・水上高原ホテル200|'''上州ゆけむりライナー 伊香保・四万温泉号''':[[伊香保温泉]]・[[四万温泉]]}} |- |style="text-align:center;"|[[松本電鉄バス|アルピコ交通東京]] |[[新島々駅|新島々]]・[[大正池 (松本市)|大正池]]・[[上高地]] |- |style="text-align:center;"|広栄交通バス |{{Unbulleted list|'''ブルーライナー''':梅田・神戸|[[ふかや花園プレミアム・アウトレット]]}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[ジャムジャムエクスプレス]] |'''JAMJAMライナー''':梅田・なんば・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[平成エンタープライズ]] |'''VIPライナー''':[[名古屋駅]]・[[金山駅 (愛知県)|金山駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[神奈川中央交通|神奈川中央交通西]] |'''圏央ライナー 川越湘南線''':[[本厚木駅]]北口・[[辻堂駅]]北口・[[藤沢駅]]北口 |&nbsp; |} 上記のほか、[[近鉄バス]]が京都・大阪行き「[[近鉄バス八尾営業所#熊谷特急線|ウィングライナー]]」を2015年12月11日まで運行していた。 === スクールバス === 川越市近辺の私立高等学校、大学への[[スクールバス]]が複数運行されている。主に西口の西武バス停留所および周辺道路から発着する。 {{columns-list|2| * [[西武学園文理中学校・高等学校]] * [[城西川越中学校・城西大学付属川越高等学校]] * [[星野学園中学校・星野高等学校]] * [[秋草学園高等学校]] * [[狭山ヶ丘高等学校・付属中学校]] * [[東野高等学校]] * [[尚美学園大学]] * [[西武文理大学]] * [[武蔵野学院大学]] * [[駿河台大学]] * [[日本薬科大学]] * [[秋草学園短期大学]] |}} <gallery> Kawagoe-STA East Bus-stop.jpg|東口バス停全景 </gallery> == 隣の駅 == ; 東武鉄道 : [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上本線<!-- 種別色は公式サイトに準拠(「普通」は方向幕に合わせて色を反転している)--> :: {{Color|#990066|■}}川越特急・{{Color|#006699|■}}快速急行(快速急行は当駅から小川町方面は各駅に停車) ::: [[朝霞台駅]] (TJ 13) - '''川越駅 (TJ 21)''' - [[川越市駅]] (TJ 22) :: {{Color|#ff6600|■}}TJライナー(上り列車) ::: [[ふじみ野駅]] (TJ 18) ← '''川越駅 (TJ 21)''' ← [[坂戸駅]] (TJ 26) :: {{Color|#ff6600|■}}TJライナー(下り列車)・{{Color|#ff3333|■}}急行(急行は当駅から小川町方面は各駅に停車) ::: ふじみ野駅 (TJ 18) - '''川越駅 (TJ 21)''' - 川越市駅 (TJ 22) :: {{Color|#009966|■}}準急・{{Color|black|□}}普通 ::: [[新河岸駅]] (TJ 20) - '''川越駅 (TJ 21)''' - 川越市駅 (TJ 22) ; 東日本旅客鉄道(JR東日本)<!-- 川越線の種別色はE233系の色に準拠 - --> : {{Color|#00ac9a|■}}川越線(大宮方面) :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車 ::: [[南古谷駅]] - '''川越駅''' : {{Color|#a8a39d|■}}川越線(高麗川方面) ::: '''川越駅''' - [[西川越駅]] ::*一部の高麗川方面行き列車は、南古谷駅を始発とする。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・私鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; JR・私鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="埼玉県統計"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=525|name=川越}} * {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=7315}} {{東武東上線}} {{埼京線|mode=1}} {{川越線・八高線}} {{デフォルトソート:かわこええき}} [[Category:川越駅|*]] [[Category:川越市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 か|わこえ]] [[Category:東武鉄道の鉄道駅]] [[Category:東上鉄道]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1915年開業の鉄道駅]] [[Category:川越線]]
2003-07-22T09:21:27Z
2023-12-30T11:24:44Z
false
false
false
[ "Template:Columns-list", "Template:Unbulleted list", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:Cite press release", "Template:外部リンク/JR東日本駅", "Template:混同", "Template:国土航空写真", "Template:Color", "Template:0", "Template:Cite journal", "Template:外部リンク/東武鉄道駅", "Template:川越線・八高線", "Template:Otheruseslist", "Template:Vertical images list", "Template:R", "Template:Cite news", "Template:Commonscat", "Template:東武東上線", "Template:駅情報", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:埼京線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E9%A7%85
12,060
稲毛駅
稲毛駅(いなげえき)は、千葉県千葉市稲毛区稲毛東三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。 運転系統としては、快速線を走行する横須賀・総武快速線、および緩行線を走行する中央・総武緩行線の2系統が停車する。 千葉市都市計画マスタープランによる重要地域拠点(副都心機能)を有する稲毛区の中心駅である。横須賀・総武快速線(総武線快速)、中央・総武緩行線(総武線各駅停車)の2路線が乗り入れている。近傍には京成電鉄の京成稲毛駅が位置している。 明治初期には文人墨客に愛された別荘地・保養地として、また昭和初期には軍郷として古くから栄えた街である。京成電鉄の京成稲毛駅方面に向かうと商店街が広がり、稲毛浅間神社の門前町が広がる。 駅周辺には千葉ステーションビルの駅ビルであるペリエ稲毛(Perie)や総合スーパーのイオン稲毛店のほか、居酒屋、レストランなどの飲食店、アミューズメント施設などが点在している。また、プラウドタワー稲毛、アイプレイス稲毛、ウェリス稲毛などの大規模マンションが多く、千葉市内でも人口密度が高い住宅街となっている。 明治時代頃には国道14号付近に海岸線があり、海水浴や潮干狩りの客で賑わうリゾート地であった。1888年(明治21年)、県内初の海水浴場が開かれ、同年、医学士の濱野昇により「稲毛海気療養所」(後の海気館)が設立、多くの文人墨客が小説執筆や静養のため訪れていた。また、神谷傳兵衛や愛新覚羅溥傑ゆかりの地でもあり、国登録有形文化財の神谷傳兵衛の別荘「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」や溥傑夫妻が新婚生活を送った和風別荘建築「千葉市ゆかりの家・いなげ」が保存されている。 当駅に乗り入れている路線は線路名称上の総武本線であり、運行系統としては快速線を走る横須賀・総武快速線(総武線快速)、および緩行線を走る中央・総武緩行線(総武線各駅停車)の2系統が停車する。 この他に京成稲毛駅から徒歩で約8分の場所に位置している。 なお、千葉市は過去に千葉都市モノレールを穴川駅から延伸させ、稲毛海岸駅に至る路線を計画しており、その際に中間駅として、当駅に乗り入れる計画が構想されていた。しかし、費用対効果が低いとして、2019年9月にこの計画は中止となった。 島式ホーム2面4線を有する高架駅である。Suica対応自動改札機、指定席券売機、話せる指定席券売機が設置されている。また、千葉営業統括センター所属の直営駅(管理駅)として新検見川駅を管理している。 同線は千葉駅 - 幕張車両センター間の回送線も兼ねており、房総地区のみで運用される209系2000番台・2100番台の回送列車が当駅を頻繁に通過する。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は43,078人である。JR東日本管内の駅では菊名駅に次いで第98位であるが、総武快速線の駅では新日本橋駅、馬喰町駅に次いで3番目に少ない。 1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。 千葉市の条例により、駅周辺の多くが路上喫煙禁止区域になっている。 駅ナカ商業施設として「ペリエ稲毛」があり、専用の改札口が併設されている。 専用の改札口側にコムスクエア1、コムスクエア2(生活利便館)、中央改札口側の駅コンコース向かいにフードスクエア(食品館)が隣接している。 穴川十字路・スポーツセンター方面(京成バス、ちばシティバス)や、スカイタウン・平和交通本社・にれの木台方面(平和交通)へのバスが発着している。また、千葉内陸バスと東京空港交通の共同運行便である羽田空港 - 稲毛駅・四街道地区の空港リムジンバスと京成バスと千葉内陸バスが運行する成田空港 - 稲毛駅・千葉みなと駅の空港リムジンバス(千葉成田線)も発着する。 美浜区各方面へのバス(千葉海浜交通、あすか交通、ちばシティバス)が発着している。 ※当駅から津田沼駅の距離は、総武快速線の中で最も長い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "稲毛駅(いなげえき)は、千葉県千葉市稲毛区稲毛東三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。 運転系統としては、快速線を走行する横須賀・総武快速線、および緩行線を走行する中央・総武緩行線の2系統が停車する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "千葉市都市計画マスタープランによる重要地域拠点(副都心機能)を有する稲毛区の中心駅である。横須賀・総武快速線(総武線快速)、中央・総武緩行線(総武線各駅停車)の2路線が乗り入れている。近傍には京成電鉄の京成稲毛駅が位置している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "明治初期には文人墨客に愛された別荘地・保養地として、また昭和初期には軍郷として古くから栄えた街である。京成電鉄の京成稲毛駅方面に向かうと商店街が広がり、稲毛浅間神社の門前町が広がる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "駅周辺には千葉ステーションビルの駅ビルであるペリエ稲毛(Perie)や総合スーパーのイオン稲毛店のほか、居酒屋、レストランなどの飲食店、アミューズメント施設などが点在している。また、プラウドタワー稲毛、アイプレイス稲毛、ウェリス稲毛などの大規模マンションが多く、千葉市内でも人口密度が高い住宅街となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治時代頃には国道14号付近に海岸線があり、海水浴や潮干狩りの客で賑わうリゾート地であった。1888年(明治21年)、県内初の海水浴場が開かれ、同年、医学士の濱野昇により「稲毛海気療養所」(後の海気館)が設立、多くの文人墨客が小説執筆や静養のため訪れていた。また、神谷傳兵衛や愛新覚羅溥傑ゆかりの地でもあり、国登録有形文化財の神谷傳兵衛の別荘「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」や溥傑夫妻が新婚生活を送った和風別荘建築「千葉市ゆかりの家・いなげ」が保存されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当駅に乗り入れている路線は線路名称上の総武本線であり、運行系統としては快速線を走る横須賀・総武快速線(総武線快速)、および緩行線を走る中央・総武緩行線(総武線各駅停車)の2系統が停車する。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この他に京成稲毛駅から徒歩で約8分の場所に位置している。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、千葉市は過去に千葉都市モノレールを穴川駅から延伸させ、稲毛海岸駅に至る路線を計画しており、その際に中間駅として、当駅に乗り入れる計画が構想されていた。しかし、費用対効果が低いとして、2019年9月にこの計画は中止となった。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線を有する高架駅である。Suica対応自動改札機、指定席券売機、話せる指定席券売機が設置されている。また、千葉営業統括センター所属の直営駅(管理駅)として新検見川駅を管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "同線は千葉駅 - 幕張車両センター間の回送線も兼ねており、房総地区のみで運用される209系2000番台・2100番台の回送列車が当駅を頻繁に通過する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は43,078人である。JR東日本管内の駅では菊名駅に次いで第98位であるが、総武快速線の駅では新日本橋駅、馬喰町駅に次いで3番目に少ない。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1日平均乗車人員の推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "千葉市の条例により、駅周辺の多くが路上喫煙禁止区域になっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "駅ナカ商業施設として「ペリエ稲毛」があり、専用の改札口が併設されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "専用の改札口側にコムスクエア1、コムスクエア2(生活利便館)、中央改札口側の駅コンコース向かいにフードスクエア(食品館)が隣接している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "穴川十字路・スポーツセンター方面(京成バス、ちばシティバス)や、スカイタウン・平和交通本社・にれの木台方面(平和交通)へのバスが発着している。また、千葉内陸バスと東京空港交通の共同運行便である羽田空港 - 稲毛駅・四街道地区の空港リムジンバスと京成バスと千葉内陸バスが運行する成田空港 - 稲毛駅・千葉みなと駅の空港リムジンバス(千葉成田線)も発着する。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "美浜区各方面へのバス(千葉海浜交通、あすか交通、ちばシティバス)が発着している。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "※当駅から津田沼駅の距離は、総武快速線の中で最も長い。", "title": "隣の駅" } ]
稲毛駅(いなげえき)は、千葉県千葉市稲毛区稲毛東三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。 運転系統としては、快速線を走行する横須賀・総武快速線、および緩行線を走行する中央・総武緩行線の2系統が停車する。
{{Otheruses|東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅|京成電鉄の駅|京成稲毛駅}} {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 稲毛駅 |画像 = JR Sobu-Main-Line Inage Station West Exit.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 西口(2019年12月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|38|14|N|140|5|33|E}}}} |よみがな = いなげ |ローマ字 = Inage |電報略号 = ナケ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[千葉市]][[稲毛区]]稲毛東三丁目19-11 | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 38 | 緯度秒 = 14 | 経度度 = 140 |経度分 = 5 | 経度秒 = 33 |座標右上表示= yes |開業年月日 = [[1899年]]([[明治]]32年)[[9月13日]]<ref name="sobu-line-120-2014-2">{{Cite book|和書|author=三好好三|title=総武線 120年の軌跡|others=|publisher=[[JTBパブリッシング]]|date=2014-03-01|isbn=9784533096310|pages=82-83}}</ref> |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面4線 |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />43,078 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数= 2 |所属路線1 = {{color|#0067c0|■}}[[横須賀・総武快速線|総武線(快速)]]<ref group="※" name="線路名称">線路名称上は[[総武本線]]。</ref> |前の駅1 = JO 26 [[津田沼駅|津田沼]] |駅間A1 = 9.2 |駅間B1 = 3.3 |次の駅1 = [[千葉駅|千葉]] JO 28 |駅番号1 = {{駅番号r|JO|27|#0067c0|1}} |キロ程1 = 35.9 |起点駅1 = [[東京駅|東京]] |所属路線2 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<ref group="※" name="線路名称"/> |前の駅2 = JB 36 [[新検見川駅|新検見川]] |駅間A2 = 2.7 |駅間B2 = 1.9 |駅番号2 = {{駅番号r|JB|37|#ffd400|1}} |次の駅2 = [[西千葉駅|西千葉]] JB 38 |キロ程2 = 35.9&nbsp;km(東京起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から3.3 |起点駅2 = |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<br/>[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="map/tokyo" /><ref name="StationCd=146_221023" /> |備考全幅 = {{Reflist|group="※"}} |乗換 = }} [[ファイル:JR Sobu-Main-Line Inage Station East Exit.jpg|thumb|東口(2019年12月)]] '''稲毛駅'''(いなげえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[稲毛区]]稲毛東三丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。 運転系統としては、[[急行線|快速線]]を走行する[[横須賀・総武快速線]]、および[[急行線|緩行線]]を走行する[[中央・総武緩行線]]の2系統が停車する。 == 概要 == [[ファイル:Proud Tower Inage 20140419.jpg|thumb|東口側(奥は[[プラウドタワー稲毛]])]] 千葉市[[都市計画マスタープラン]]による重要地域拠点([[副都心]]機能)を有する[[稲毛区]]の中心駅である。[[横須賀・総武快速線]](総武線快速)、[[中央・総武緩行線]](総武線各駅停車)の2路線が乗り入れている。近傍には[[京成電鉄]]の[[京成稲毛駅]]が位置している<ref group="注釈" name="renraku">連絡定期券は発売していない。</ref>。 [[明治初年|明治初期]]には[[文人]]墨客に愛された[[別荘地]]・[[保養地]]として、また[[昭和初期]]には軍郷として古くから栄えた街である<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.city.chiba.jp/inage/chiikishinko/villa.html|title=文人に愛された別荘地「稲毛」|accessdate=2019-01-16|last=千葉市|website=千葉市|language=ja}}</ref>。[[京成電鉄]]の[[京成稲毛駅]]方面に向かうと[[商店街]]が広がり、[[稲毛浅間神社]]の[[門前町]]が広がる。 駅周辺には[[千葉ステーションビル]]の[[駅ビル]]であるペリエ稲毛(Perie)や[[総合スーパー]]の[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]稲毛店のほか、[[居酒屋]]、[[レストラン]]などの[[飲食店]]、[[アミューズメント施設]]などが点在している。また、[[プラウドタワー稲毛]]、アイプレイス稲毛、[[ウェリス稲毛]]などの大規模マンションが多く、千葉市内でも人口密度が高い[[住宅街]]となっている。 [[明治時代]]頃には[[国道14号]]付近に[[海岸#海岸線|海岸線]]があり、[[海水浴]]や[[潮干狩り]]の客で賑わう[[リゾート]]地であった。[[1888年]](明治21年)、県内初の[[海水浴場]]が開かれ、同年、医学士の[[濱野昇]]により「稲毛海気療養所」(後の[[海気館]])が設立、多くの文人墨客が[[小説]]執筆や静養のため訪れていた<ref name=":0" />。また、[[神谷傳兵衛]]や[[愛新覚羅溥傑]]ゆかりの地でもあり、国[[登録有形文化財]]の神谷傳兵衛の別荘「[[旧神谷伝兵衛稲毛別荘]]<ref>{{Cite web|和書|title=千葉市民ギャラリー・いなげ(旧神谷伝兵衛稲毛別荘)|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/q111-001.html|website=千葉県|accessdate=2019-03-30|language=ja|last=千葉県}}</ref>」や溥傑夫妻が新婚生活を送った和風別荘建築「千葉市ゆかりの家・いなげ<ref>{{Cite web|和書|title=千葉市ゆかりの家・いなげ|url=http://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/yukarinoieinage.html|website=千葉市|accessdate=2019-03-30|language=ja|last=千葉市}}</ref>」が保存されている。 == 乗り入れ路線 == 当駅に乗り入れている路線は線路名称上の[[総武本線]]<ref group="注釈">詳細は路線記事および「[[鉄道路線の名称]]」参照</ref>であり、[[運行系統]]としては[[急行線|快速線]]を走る[[横須賀・総武快速線]](総武線快速)、および[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線]](総武線各駅停車)の2系統が停車する。 * [[ファイル:JR_JO_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JO]] 横須賀・総武快速線(総武線快速):快速線を走行する総武本線の近距離電車。 - 駅番号「'''JO 27」''' * [[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JB]] 中央・総武緩行線(総武線各駅停車):緩行線を走行する総武本線の近距離電車。 - 駅番号「'''JB 37」''' この他に[[京成稲毛駅]]から徒歩で約8分の場所に位置している<ref group="注釈" name="renraku" />。 なお、千葉市は過去に[[千葉都市モノレール]]を[[穴川駅 (千葉県)|穴川駅]]から延伸させ、[[稲毛海岸駅]]に至る路線を計画しており、その際に中間駅として、当駅に乗り入れる計画が構想されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/a11vision-all.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210711010012/https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/a11vision-all.pdf|title=千葉市総合交通ビジョン 交通政策の基本指針|pages=40 - 41|date=2007-11|archivedate=2021-07-11|accessdate=2021-07-11|publisher=千葉市|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。しかし、費用対効果が低いとして、2019年9月にこの計画は中止となった<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/r01_monorail_drawing_verification_results.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210309125606/https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/r01_monorail_drawing_verification_results.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千葉都市モノレール延伸計画について|publisher=千葉市都市局都市部交通政策課|date=2019-09-04|accessdate=2021-07-11|archivedate=2021-03-09}}</ref>。{{Main|千葉都市モノレール稲毛駅・稲毛海岸駅への延伸構想}} == 歴史 == * [[1899年]]([[明治]]32年)[[9月13日]]:[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]幕張 - 千葉間に開業<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。旅客・貨物の取り扱いを開始。 * [[1907年]](明治40年)[[9月1日]]:[[鉄道国有法]]により買収され、[[帝国鉄道庁]]の駅となる<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。 * [[1960年]]([[昭和]]35年)[[10月1日]]:稲毛駅東口開設<ref name="sobu-line-120-2014-2" />促進会の働き掛けにより東口完成。 * [[1978年]](昭和53年)[[3月31日]]:貨物扱いを廃止<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。 * [[1981年]](昭和56年) ** [[5月29日]]:高架下に駅ナカ商業施設「めり~な稲毛」が開業<ref>{{Cite news |title=「めりーな」稲毛が29日にオープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1981-05-09 |page=1 }}</ref>。 ** [[10月1日]]:[[総武快速線]]の停車駅となる<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[チッキ|荷物]]扱いを廃止<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=606}}</ref>。 * [[1986年]](昭和61年)[[3月20日]]:国鉄が[[みどりの窓口]]を開設<ref>{{Cite news |title=総武線4駅に「みどりの窓口」新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-03-20 |page=1 }}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|page=19|date=2010-01-17}}</ref>。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[6月19日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[9月3日]]:「めり~な稲毛」が全面改装されて「ペリエ稲毛」に店名変更される<ref>{{Cite news|title=稲毛駅ビル一新 「生活便利館」に|newspaper=[[繊研新聞]]|date=2003-09-03|publisher=繊研新聞社|page=3}}</ref><ref>{{Cite news|title=新生「ペリエ」人気 稲毛駅ビル リニューアル|newspaper=[[千葉日報]]|date=2003-09-04|publisher=千葉日報社|page=4(朝刊)}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)3月:[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]を設置。 * [[2013年]](平成25年)[[11月22日]]:駅ナカ商業施設「ペリエ稲毛」の食品館(フードスクエア)がリニューアル<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1446545947089708000.pdf|title=JR稲毛駅「ペリエ稲毛フードスクエア」 2013年11月22日(金) 10時リニューアルオープン ~多種多様な品質にこだわった45店舗~|format=PDF|publisher=千葉ステーションビル|date=2013-10-25|accessdate=2020-06-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607044624/https://www.perie.co.jp/files/upload/1446545947089708000.pdf|archivedate=2020-06-07}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[4月25日]]:駅ナカ商業施設「ペリエ稲毛」のコムスクエアがリニューアル<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1446546027049194600.pdf|title=JR稲毛駅「ペリエ稲毛コムスクエア」待望のリニューアルに伴い「ペリエ稲毛」リニューアルグランドオープン!! 4月25日(金) 10時 ~毎日の生活を向上させる癒しと発見のサードプレイス~|format=PDF|publisher=千葉ステーションビル|date=2014-04-04|accessdate=2020-06-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607044637/https://www.perie.co.jp/files/upload/1446546027049194600.pdf|archivedate=2020-06-07}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[3月31日]]:この日をもって[[びゅうプラザ]]が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%92%e9%a7%85%e5%a4%96%e6%b3%a8%e5%8c%96%e3%81%a8%ef%bc%95%e9%a7%85%e3%81%ae%e7%aa%93%e5%8f%a3%e9%96%89%e9%8e%96%e7%ad%89%e6%8f%90%e6%a1%88/|title=千葉支社 2駅外注化と5駅の窓口閉鎖等提案|accessdate=2020-05-03|publisher=[[国鉄千葉動力車労働組合]]|archiveurl=https://archive.fo/O5DMb|archivedate=2019-07-28}}</ref>。 * [[2022年]]([[令和]]4年) ** [[8月31日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]が営業を終了<ref name="StationCd=146_220801">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=146|title=駅の情報(稲毛駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220801083945/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=146|archivedate=2022-08-01}}</ref><ref name="kokurou/20220427">{{Cite web|和書|url=https://kokurou-chiba.com/wp-content/uploads/2022/04/8912a9dbe6c50b69b12b2cf4b8d42264.pdf|title=現業機関における柔軟な働き方の実現について 窓口閉鎖・営業統括センター化提案!!|format=PDF|publisher=国鉄労働組合千葉地方本部|date=2022-04-27|accessdate=2022-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220427125849/https://kokurou-chiba.com/wp-content/uploads/2022/04/8912a9dbe6c50b69b12b2cf4b8d42264.pdf|archivedate=2022-04-27}}</ref>。 ** 9月1日:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="map/tokyo">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/map/pdf/tokyo.pdf|title=JR東日本路線図(東京近郊エリア拡大図)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220822095418/https://www.jreast.co.jp/map/pdf/tokyo.pdf|archivedate=2022-08-22}}</ref><ref name="kokurou/20220427" />。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]である<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。[[Suica]]対応[[自動改札機]]、[[指定席券売機]]、[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]<ref name="map/tokyo" /><ref name="StationCd=146_221023">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=146|title=駅の情報(稲毛駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221023110919/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=146|archivedate=2022-10-23}}</ref>が設置されている。また、[[千葉駅|千葉]]営業統括センター所属の直営駅([[管理駅]])として[[新検見川駅]]を管理している。 同線は千葉駅 - [[幕張車両センター]]間の回送線も兼ねており、房総地区のみで運用される[[JR東日本209系電車#2000番台・2100番台|209系2000番台・2100番台]]の回送列車が当駅を頻繁に通過する。 === のりば === <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車) |style="text-align:center"|西行 |[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|東行 |[[千葉駅|千葉]]方面 |- !3 |rowspan=2 |[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速) |style="text-align:center"|上り |[[津田沼駅|津田沼]]・[[東京駅|東京]]方面 |- !4 |style="text-align:center"|下り |千葉方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/146.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> JR Sobu-Main-Line Inage Station Central Gates.jpg|中央改札(2019年12月) JR Sobu-Main-Line Inage Station Perie Inage Gates.jpg|ペリエ稲毛改札(2019年12月) JR Sobu-Main-Line Inage Station Concourse.jpg|コンコース(2019年12月) JR Sobu-Main-Line Inage Station Platform 1・2.jpg|1・2番線(各駅停車)ホーム(2019年12月) JR Sobu-Main-Line Inage Station Platform 3・4.jpg|3・4番線(快速)ホーム(2019年12月) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''43,078人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。JR東日本管内の駅では[[菊名駅]]に次いで第98位であるが、総武快速線の駅では新日本橋駅、馬喰町駅に次いで3番目に少ない。 1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 === 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) === 年度<ref group="備考" name="people">1900年・1901年・1905年・1906年については1月 - 12月の暦年</ref>全体の'''乗車'''人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均'''乗車'''人員を求めている。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度<ref group="備考" name="people" />!!1日平均<br />乗車人員!!出典 |- |1900年(明治33年) |68 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806516 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |77 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806517 明治34年]</ref> |- |1905年(明治38年) |77 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806524 明治38年]</ref> |- |1906年(明治39年) |83 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806526 明治39年]</ref> |- |1907年(明治40年) |54 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806528 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |119 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806529 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |120 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806530 明治42年]</ref> |- |1910年(明治43年) |107 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806531 明治43年]</ref> |- |1911年(明治44年) |129 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972760 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |143 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152331 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |149 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152349 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |136 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152377 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |154 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972765 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |184 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972772 大正5年]</ref> |- |1917年(大正{{0}}6年) |231 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972779 大正6年]</ref> |- |1918年(大正{{0}}7年) |263 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972784 大正7年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |291 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972789 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |355 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972796 大正9年]</ref> |- |1921年(大正10年) |289 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972803 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |235 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972807 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |234 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972811 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |250 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972818 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |213 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/988687 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |279 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710242 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |322 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710307 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |329 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710312 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |351 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710317 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |291 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710267 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |254 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710285 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |195 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710297 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |182 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710302 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |198 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452386 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |229 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452376 昭和10年]</ref> |- |1936年(昭和11年) |271 |<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452396 昭和11年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Statistic" /> |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1953年(昭和28年) |7,239 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s29-2/index.html#13 昭和29年]</ref> |- |1954年(昭和29年) |7,163 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s30/index.html#13 昭和30年]</ref> |- |1955年(昭和30年) |7,322 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s31/#13 昭和31年]</ref> |- |1956年(昭和31年) |8,215 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s32/index.html#13 昭和32年]</ref> |- |1957年(昭和32年) |9,647 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s33/index.html#13 昭和33年]</ref> |- |1958年(昭和33年) |10,070 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s34/index.html#13 昭和34年]</ref> |- |1959年(昭和34年) |11,053 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s35/index.html#13 昭和35年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |12,018 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s36/index.html#13 昭和36年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |12,723 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s37/index.html#13 昭和37年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |13,797 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s38/index.html#13 昭和38年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |15,284 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s39/index.html#13 昭和39年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |17,101 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s40/index.html#13 昭和40年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |18,434 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s41/index.html#13 昭和41年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |20,131 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s42/index.html#13 昭和42年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |21,650 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s43/index.html#13 昭和43年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |23,793 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s44/index.html#13 昭和44年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |25,012 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s45/index.html#13 昭和45年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |25,268 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s46/index.html#13 昭和46年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |26,391 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s47/index.html#13 昭和47年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |27,818 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s48/index.html#13 昭和48年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |28,894 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s49/index.html#13 昭和49年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |31,403 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s50/index.html#13 昭和50年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |31,529 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s51/index.html#13 昭和51年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |33,419 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s52/index.html#13 昭和52年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |33,760 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s53/index.html#13 昭和53年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |34,573 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s54/index.html#13 昭和54年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |39,804 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s55/index.html#13 昭和55年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |42,228 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56/index.html#13 昭和56年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |45,213 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57/index.html#13 昭和57年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |48,958 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58/index.html#13 昭和58年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |52,957 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59/index.html#13 昭和59年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |56,730 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60/index.html#13 昭和60年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |57,415 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 昭和61年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |54,790 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 昭和62年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |54,819 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 昭和63年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |56,236 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 平成元年]</ref> |- |1989年(平成元年) |56,986 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 平成2年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |56,742 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03.html#11 平成3年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |57,272 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04.html#11 平成4年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |57,016 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05.html#11 平成5年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |57,384 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06.html#11 平成6年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |56,399 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07.html#11 平成7年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |55,653 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08.html#11 平成8年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |54,782 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09.html#11 平成9年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |53,053 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10.html#11 平成10年]</ref> |- |1998年(平成10年) |52,206 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11 平成11年]</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>51,943 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 平成12年]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>51,487 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 平成13年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Statistic">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>50,940 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>50,297 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>50,172 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>49,613 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>49,323 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 平成18年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>49,770 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 平成19年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>50,096 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 平成20年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>51,076 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>50,694 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 平成22年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>50,276 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 平成23年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>49,472 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>49,465 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 平成25年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>50,138 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 平成26年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>49,489 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 平成27年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>50,535 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 平成28年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>50,514 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 平成29年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>50,575 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 平成30年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>50,678 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>49,966 |<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>37,899 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>39,761 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>43,078 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == 千葉市の条例により、駅周辺の多くが路上喫煙禁止区域になっている。 === 駅舎内の施設(駅ナカ・駅ビル) === [[駅ナカ]]商業施設として「ペリエ稲毛」があり<ref group="注釈">かつての名称は「めりーな」だった</ref>、専用の[[改札|改札口]]が併設されている。 専用の改札口側にコムスクエア1、コムスクエア2(生活利便館)、中央改札口側の駅[[コンコース]]向かいにフードスクエア(食品館)が隣接している<ref>{{Cite web|和書|title=フロアガイド|ペリエ稲毛|url=https://www.perie.co.jp/inage/floorguide/|website=「ペリエ稲毛」公式サイト|accessdate=2019-03-27|language=ja}}</ref>。 * ペリエ稲毛 ** コムスクエア1(生活利便館) *** [[青山フラワーマーケット]]・[[マツモトキヨシ]]・[[くまざわ書店]]・[[メガネスーパー]]・[[ユニクロ]]・[[靴下屋]] ** コムスクエア2(生活利便館) *** [[QBハウス]]・[[東京靴流通センター]] ** フードスクエア(食品館) ***ニューデイズ [[キヨスク]]<ref>{{Cite web|和書|title=駅の情報(稲毛駅):JR東日本|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=146|website=www.jreast.co.jp|accessdate=2019-03-27}}</ref> * [[VIEW ALTTE]] * [[指定席券売機]] * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]<ref name="StationCd=146_221023" /> === 東口 === [[ファイル:JR Inage Sta east exit 20140419-2.jpg|thumb|東口駅前広場]] * [[イオン (店舗ブランド)|イオン]] 稲毛店<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> * [[みずほ銀行]] 稲毛支店 * [[京葉銀行]] 稲毛支店 * 稲毛区役所<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> * 稲毛[[図書館]] * [[千葉市立小中台小学校]] * [[千葉市立千葉高等学校]] * [[千葉県立京葉工業高等学校]] * [[千葉県立千葉女子高等学校]] * [[敬愛学園高等学校]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> * [[敬愛大学]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> * [[放射線医学総合研究所]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> === 西口 === * [[千葉銀行]] 稲毛支店 * [[千葉西警察署]] 稲毛駅前交番 * [[稲毛浅間神社]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> - 毎年[[7月14日]]の前夜祭と、翌[[7月15日|15日]]の例大祭は賑わう。 * [[京成稲毛駅]] == バス路線 == === 東口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 穴川十字路・スポーツセンター方面([[京成バス]]、[[ちばシティバス]])や、スカイタウン・平和交通本社・にれの木台方面([[平和交通 (千葉県)|平和交通]])へのバスが発着している。また、[[千葉内陸バス]]と[[東京空港交通]]の共同運行便である[[東京国際空港|羽田空港]] - 稲毛駅・四街道地区の空港リムジンバスと京成バスと千葉内陸バスが運行する[[成田国際空港|成田空港]] - 稲毛駅・千葉みなと駅の空港リムジンバス(千葉成田線)も発着する。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="5" style="text-align:center;"|京成バス |[[京成バス長沼営業所#あやめ台団地線|'''稲01''']]:[[京成バス長沼営業所|草野車庫]]<br />'''稲02''':こてはし団地<br />'''稲06''':いきいきプラザ |平日1本のみ |- !2 |[[京成バス長沼営業所#長沼原線|'''稲31''']]:山王町 / 長沼原町<br />'''稲32''':[[職業能力開発促進センター|千葉センター(ポリテクセンター千葉)]]<br />'''稲33''':ザ・クイーンズガーデン稲毛<br />[[京成バス長沼営業所#宮野木線|'''稲41''']]:さつきが丘団地 |「稲31」の長沼原町行は平日深夜のみ<br />「稲32」は平日3本のみ |- !3 |[[京成バス長沼営業所#京成団地線、宮野木小学校線|'''稲11''']]:京成団地<br />'''稲13''':草野車庫 |&nbsp; |- !4 |'''稲12'''・[[京成バス長沼営業所#ファミールハイツ線|'''稲22''']]:草野車庫<br />'''稲21''':ファミールハイツ折返場 |&nbsp; |- !rowspan="4"|5 |'''稲34急行''':ザ・クイーンズガーデン稲毛 |平日朝のみ |- |style="text-align:center;"|ちばシティバス |[[ちばシティバス#千草台団地線|'''稲西01''']]:西千葉駅<br />'''稲103''':[[天台駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|千葉内陸バス<br />東京空港交通 |[[千葉内陸バス#現行路線(高速路線)|'''高速バス''']]:羽田空港 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|京成バス<br />千葉内陸バス |'''高速バス''':成田空港 |&nbsp; |- !6 |rowspan="3" style="text-align:center;"|平和交通 |にれの木台中央 |&nbsp; |- !7 |平和交通本社 |&nbsp; |- !8 |イオン稲毛店<br />[[海浜幕張駅]] |イオン稲毛店行は平日のみ |} === 西口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[美浜区]]各方面へのバス([[千葉海浜交通]]、[[あすか交通]]、ちばシティバス)が発着している。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|千葉海浜交通 |アクアリンクちば<br />[[千葉県立磯辺高等学校|磯辺高校]]<br />[[稲毛海岸駅]]<br />海浜公園入口<br />海浜病院 |磯辺高校行は平日朝のみ<br />海浜病院行は平日1本のみ |- !2 |[[稲毛海浜公園|海浜公園]]プール<br />高浜車庫 |&nbsp; |- !3 |稲毛海岸駅 |&nbsp; |- !rowspan="2"|4 |style="text-align:center;"|あすか交通 |稲毛駅(幸町団地循環)<br />幸町16街区 |幸町団地循環は平日朝のみ急行便も運行 |- |style="text-align:center;"|ちばシティバス |[[ちばシティバス#幸町団地線、幸町循環線|'''稲61''']]:[[千葉駅]]西口<br />'''稲62''':ガーデンタウン<br />'''稲65''':幸町中央<br />'''稲66''':稲毛駅(幸町団地循環) |「稲62」は平日のみ<br />「稲63」は平日朝のみ<br />「稲64」は平日夜のみ |- !rowspan="3"|5 |style="text-align:center;"|千葉海浜交通 |稲毛海岸駅<br />海浜幕張駅<br />[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]] |稲毛海岸駅行は平日2本のみ<br />海浜幕張駅行のうち、千葉西警察署経由便は1日1本のみ、検見川浜駅経由便は平日のみ |- |style="text-align:center;"|ちばシティバス |'''稲53'''・'''稲57''':稲毛海岸駅<br />'''稲55'''・'''稲59''':ルネグランマークス<br />[[ちばシティバス#美浜リゾート線|'''稲71''']]:新港車庫 |「稲55」は夜のみ<br />「稲59」は1日1本のみ |- |style="text-align:center;"|千葉海浜交通<br />ちばシティバス |[[ちばシティバス#美浜リゾート線|'''稲81''']]<ref group="注釈" name=":1">ちばシティバス運行便のみ表示。</ref>:アクアリンクちば<br />[[ちばシティバス#自動車団地線|'''稲91''']]<ref group="注釈" name=":1" />:幕張豊砂駅(イオンモール幕張新都心)<br />海浜幕張駅 |「稲81」は平日朝のみ |} == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) :[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速) ::[[津田沼駅]] (JO 26) - '''稲毛駅 (JO 27)''' - ([[黒砂信号場]]) - [[千葉駅]] (JO 28) :[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車) ::[[新検見川駅]] (JB 36) - '''稲毛駅 (JB 37)''' - [[西千葉駅]] (JB 38) ※当駅から津田沼駅の距離は、総武快速線の中で最も長い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|3}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 千葉県統計年鑑 {{Reflist|group="千葉県統計"|17em}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=146|name=稲毛}} {{中央・総武緩行線}}{{横須賀線・総武快速線}} {{デフォルトソート:いなけ}} [[Category:千葉市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 い|なけ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1899年開業の鉄道駅]] [[Category:横須賀・総武快速線]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:総武鉄道の鉄道駅]] [[Category:稲毛区の交通|いなけえき]] [[Category:稲毛区の建築物]] [[Category:千葉県の駅ビル]]
2003-07-22T09:39:21Z
2023-11-29T23:17:51Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses", "Template:外部リンク/JR東日本駅", "Template:中央・総武緩行線", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite press release", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:駅情報", "Template:0", "Template:Cite news", "Template:Commonscat", "Template:横須賀線・総武快速線", "Template:Main", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E6%AF%9B%E9%A7%85
12,062
東京方言
東京方言または東京弁、東京語は、東京で話される日本語の方言。定義は諸説あるが、主なものは次の通り。 本記事では上記「1」について記述する。 東京方言(とうきょうほうげん)とは、江戸・東京で用いられてきた日本語の方言である。山の手言葉と江戸言葉(下町言葉)が含まれる。 明治時代に中流階層の山の手言葉を基盤に日本の標準語(太平洋戦争後は共通語と呼ばれる)が整備されたため、共通語と東京方言は同一視される傾向があるが、下町を中心に標準的と見なされない東京特有の発音や表現も少なくない。アクセントに関しても、標準アクセントの基準となる山の手と、下町あるいは多摩とで異なる場合がある。 東京方言の前身である江戸方言は、徳川家康入城後の江戸の発展に伴って成立した方言である。土着の西関東方言を基盤としているが「江戸は諸国の入り込み」の諺どおり、日本各地から人々が集まったことから、様々な方言の影響を受けている。とりわけ文法面では、当時の中央語であった上方方言(主に京都方言)や徳川氏ゆかりの三河方言など西日本方言の要素が多く混合した。また世界有数の人口を誇る巨大都市であったことから、町人や武家など階層別に様々な言葉遣いの違いが生まれた。こうした経緯から、東京方言は周辺の関東方言から孤立した言語島となっている。 江戸方言は、上方から取り入れた敬語の体系を発達させるなど洗練を深め、江戸時代後期には京都方言に代わる中央語としての地位を固めていった。明治維新以降、日本の首都が京都から東京に遷ったことで東京方言は首都の言葉として位置づけられ、文芸活動を担う口語文体(言文一致も参照)の基盤となり、近代国家を支える標準語として整備されていった。一方で、近世都市「江戸」から近代都市「東京」に変貌するなかで、階層ごとの言葉遣いの違いが衰退し、また京都や薩長土肥を始めとする他地方からの大量の人口流入によって、東京方言自体が大きく変質させられることとなった。 東京方言に特徴的な音声現象には次のようなものがある。 次の特徴は、東京方言のなかでも江戸言葉に強く現れる。 山の手・江戸言葉ともに東京式アクセントの体系であるが、一部の語彙ではアクセントの異なるものがある。以下はその主な例である。 左が山の手、右が江戸言葉のもの また、戦前においては足立区・江戸川区・葛飾区で埼玉・千葉両県と接する外縁部に埼玉東部特殊アクセントが分布していた。 山の手と下町の曖昧化、関東大震災や東京大空襲による旧来住民の減少、地方出身者の大量流入(特に戦後高度経済成長期)などにより、東京における言語事情はかなり変質してきている。江戸言葉はもちろん、明治時代の標準語成立に大きな影響を与えた山の手言葉も消滅寸前となっている。現在の東京では、学校教育による共通語の普及により、共通語を基盤に関東各地の方言が混合した首都圏方言が主流になっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東京方言または東京弁、東京語は、東京で話される日本語の方言。定義は諸説あるが、主なものは次の通り。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本記事では上記「1」について記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京方言(とうきょうほうげん)とは、江戸・東京で用いられてきた日本語の方言である。山の手言葉と江戸言葉(下町言葉)が含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "明治時代に中流階層の山の手言葉を基盤に日本の標準語(太平洋戦争後は共通語と呼ばれる)が整備されたため、共通語と東京方言は同一視される傾向があるが、下町を中心に標準的と見なされない東京特有の発音や表現も少なくない。アクセントに関しても、標準アクセントの基準となる山の手と、下町あるいは多摩とで異なる場合がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "東京方言の前身である江戸方言は、徳川家康入城後の江戸の発展に伴って成立した方言である。土着の西関東方言を基盤としているが「江戸は諸国の入り込み」の諺どおり、日本各地から人々が集まったことから、様々な方言の影響を受けている。とりわけ文法面では、当時の中央語であった上方方言(主に京都方言)や徳川氏ゆかりの三河方言など西日本方言の要素が多く混合した。また世界有数の人口を誇る巨大都市であったことから、町人や武家など階層別に様々な言葉遣いの違いが生まれた。こうした経緯から、東京方言は周辺の関東方言から孤立した言語島となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "江戸方言は、上方から取り入れた敬語の体系を発達させるなど洗練を深め、江戸時代後期には京都方言に代わる中央語としての地位を固めていった。明治維新以降、日本の首都が京都から東京に遷ったことで東京方言は首都の言葉として位置づけられ、文芸活動を担う口語文体(言文一致も参照)の基盤となり、近代国家を支える標準語として整備されていった。一方で、近世都市「江戸」から近代都市「東京」に変貌するなかで、階層ごとの言葉遣いの違いが衰退し、また京都や薩長土肥を始めとする他地方からの大量の人口流入によって、東京方言自体が大きく変質させられることとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "東京方言に特徴的な音声現象には次のようなものがある。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "次の特徴は、東京方言のなかでも江戸言葉に強く現れる。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "山の手・江戸言葉ともに東京式アクセントの体系であるが、一部の語彙ではアクセントの異なるものがある。以下はその主な例である。", "title": "アクセント" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "左が山の手、右が江戸言葉のもの", "title": "アクセント" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、戦前においては足立区・江戸川区・葛飾区で埼玉・千葉両県と接する外縁部に埼玉東部特殊アクセントが分布していた。", "title": "アクセント" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "山の手と下町の曖昧化、関東大震災や東京大空襲による旧来住民の減少、地方出身者の大量流入(特に戦後高度経済成長期)などにより、東京における言語事情はかなり変質してきている。江戸言葉はもちろん、明治時代の標準語成立に大きな影響を与えた山の手言葉も消滅寸前となっている。現在の東京では、学校教育による共通語の普及により、共通語を基盤に関東各地の方言が混合した首都圏方言が主流になっている。", "title": "現状" } ]
東京方言または東京弁、東京語は、東京で話される日本語の方言。定義は諸説あるが、主なものは次の通り。 古くからの「東京」の範囲(「東京市街の変遷」も参照)に存在する方言の総称。 「東京都」に存在する方言の総称。1に加えて、多摩弁、八丈方言、小笠原方言、北部伊豆諸島方言など。 横浜市や千葉市などを含めた、東京を中心とする都市圏の方言の総称。首都圏方言 本記事では上記「1」について記述する。 東京方言(とうきょうほうげん)とは、江戸・東京で用いられてきた日本語の方言である。山の手言葉と江戸言葉(下町言葉)が含まれる。 明治時代に中流階層の山の手言葉を基盤に日本の標準語(太平洋戦争後は共通語と呼ばれる)が整備されたため、共通語と東京方言は同一視される傾向があるが、下町を中心に標準的と見なされない東京特有の発音や表現も少なくない。アクセントに関しても、標準アクセントの基準となる山の手と、下町あるいは多摩とで異なる場合がある。
'''東京方言'''または'''東京弁'''、'''東京語'''は、[[東京]]で話される[[日本語の方言]]。定義は諸説あるが、主なものは次の通り。 # 古くからの「[[東京]]」の範囲(「[[東京市街の変遷]]」も参照)に存在する方言の総称。 # 「[[東京都]]」に存在する方言の総称<ref name="long2002">ダニエル・ロング「[http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/tmu_j/pdf/21/21-3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0,%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB.pdf 方言認知地図を通して地元方言のアイデンティティを探る]」、『日本語研究』21号、[[東京都立大学 (1949-2011)|TMU]]日本語・日本語教育研究会、2002年。</ref>。1に加えて、[[多摩弁]]、[[八丈方言]]、[[小笠原方言]]、[[北部伊豆諸島方言]]など。 # 横浜市や千葉市などを含めた、東京を中心とする都市圏の方言の総称<ref name="long2002"/>。[[首都圏方言]] 本記事では上記「1」について記述する。 ---- [[ファイル:Karte Tokia MKL1888.png|thumb|right|200px|明治中期の東京市街の範囲]] '''東京方言'''(とうきょうほうげん)とは、[[江戸]]・[[東京]]で用いられてきた[[日本語の方言]]である。[[山の手言葉]]と[[江戸言葉]](下町言葉)が含まれる<ref>リイド社『べらんめぇ大江戸講座』[[緒方鏡]]著、[[武光誠]]監修</ref>。 明治時代に中流階層の山の手言葉を基盤に日本の[[標準語]](太平洋戦争後は[[共通語]]と呼ばれる)が整備されたため、共通語と東京方言は同一視される傾向があるが、下町を中心に標準的と見なされない東京特有の発音や表現も少なくない。アクセントに関しても、標準アクセントの基準となる山の手と、下町あるいは多摩とで異なる場合がある。 == 概要 == 東京方言の前身である江戸方言は、[[徳川家康]]入城後の江戸の発展に伴って成立した方言である。土着の[[西関東方言]]を基盤としているが「江戸は諸国の入り込み」の諺どおり、日本各地から人々が集まったことから、様々な方言の影響を受けている。とりわけ文法面では、当時の中央語であった[[近畿方言|上方方言]](主に[[京言葉|京都方言]])や[[徳川氏]]ゆかりの[[三河弁|三河方言]]など[[西日本方言]]の要素が多く混合した。また世界有数の人口を誇る巨大都市であったことから、町人や武家など階層別に様々な言葉遣いの違いが生まれた。こうした経緯から、東京方言は周辺の関東方言から孤立した[[言語島]]となっている。 江戸方言は、上方から取り入れた敬語の体系を発達させるなど洗練を深め、江戸時代後期には京都方言に代わる中央語としての地位を固めていった。[[明治維新]]以降、日本の首都が京都から東京に遷ったことで東京方言は首都の言葉として位置づけられ、文芸活動を担う口語文体([[言文一致]]も参照)の基盤となり、近代国家を支える標準語として整備されていった。一方で、近世都市「江戸」から近代都市「東京」に変貌するなかで、階層ごとの言葉遣いの違いが衰退し、また京都や[[薩長土肥]]を始めとする他地方からの大量の人口流入によって、東京方言自体が大きく変質させられることとなった。 == 発音 == 東京方言に特徴的な音声現象には次のようなものがある。 * 母音よりも子音が強く発音され、無声子音にはさまれた、または無声子音に続く狭母音({{ipa|u}}, {{ipa|i}})が無声化する傾向がある。とりわけ語尾の[[母音弱化]]が顕著である。この特徴は共通語や首都圏方言にも継承されている。(例)ネクタイです {{ipa|nekutai desu}} は通常、{{IPA|nektai des}} のように聞こえる。 * 伝統的な東京方言では語中・語末のガ行音は[[鼻濁音]]で発音される。共通語にも継承されていたが、衰退しつつある。 次の特徴は、東京方言のなかでも江戸言葉に強く現れる。 * {{ipa|ai}} (アイ)と {{ipa|oi}} (オイ)が 「エー」になる。(例)甘い→あめえ、あるまい→あるめえ、遅い→おせえ、行きたい→行きてえ、知らない→知らねえ * 強調の接頭語や複合語を中心に、促音が多用される。(例)おっぱじめる、ぶっぱなす、川っぷち、落っこちる、乗っける * 「じゅ」が「じ」、「しゅ」が「し」に転訛する。(例)準備→じんび、[[美術]]→びじつ、[[新宿]]→しんじく、趣向←→嗜好 * 「ひ」と「し」の発音が混同される。特に「ひ」から「し」になる傾向が強く、その逆はしばしば過剰矯正の結果である。 :(例)[[潮干狩り]]→ひおしがり、人→しと、[[必然]]→しつぜん、[[広島県|広島]]→しろしま、必要←→執拗、羊←→執事、熾烈←→卑劣 == アクセント == 山の手・江戸言葉ともに[[東京式アクセント]]の体系であるが、一部の語彙ではアクセントの異なるものがある。以下はその主な例である。 左が山の手、右が江戸言葉のもの * 坂<ref name=A>[[玉川大学出版部]]『金田一春彦著作集 第9巻』「移りつく東京アクセント」</ref>(さ'''{{下げ核|か}}''' 尾高型)←→('''{{下げ核|さ}}'''か 頭高型) * 次<ref name=A/>(つ'''{{下げ核|ぎ}}''' 尾高型)←→('''{{下げ核|つ}}'''ぎ 頭高型) * 鮨<ref name=A/>(す'''{{下げ核|し}}''' 尾高型)←→('''{{下げ核|す}}'''し 頭高型) * 露<ref name=A/>(つ'''{{下げ核|ゆ}}''' 尾高型)←→('''{{下げ核|つ}}'''ゆ 頭高型) * 砂<ref name=A/>(す'''{{高線|な}}''' 平板型)←→(す'''{{下げ核|な}}''' 尾高型) * 皺<ref name=A/>(し'''{{高線|わ}}''' 平板型)←→(し'''{{下げ核|わ}}''' 尾高型) * 卵<ref name=A/>(た'''{{下げ核|ま}}'''ご 中高型)←→(た'''{{高線|まご}}''' 平板型) * 刀<ref name=A/>(か'''{{高線|た}}{{下げ核|な}}''' 尾高型)←→(か'''{{下げ核|た}}'''な 中高型) * 頭<ref name=A/>(あ'''{{高線|た}}{{下げ核|ま}}''' 尾高型)←→(あ'''{{下げ核|た}}'''ま 中高型) * 鋏<ref name=A/>(は'''{{高線|さ}}{{下げ核|み}}''' 尾高型)←→(は'''{{下げ核|さ}}'''み 中高型) * 心<ref name=A/>(こ'''{{高線|こ}}{{下げ核|ろ}}''' 尾高型)←→(こ'''{{下げ核|こ}}'''ろ 中高型) * 国<ref name=B>玉川大学出版部『金田一春彦著作集 第9巻』「東京語アクセントの再検討」</ref>(く'''{{下げ核|に}}''' 尾高型)←→(く'''{{高線|に}}''' 平板型) * 虹<ref name=B/>(に'''{{下げ核|じ}}''' 尾高型)←→(に'''{{高線|じ}}''' 平板型) * 坂東<ref>国立国語研究所『東京方言および各地方言の調査』</ref>('''{{下げ核|ば}}'''んどう 頭高型)←→(ば'''{{高線|んどう}}''' 平板型) * 朝日<ref>江端義夫著「最新ひと目でわかる全国方言一覧辞典」</ref>('''{{下げ核|あ}}'''さひ 頭高型)←→(あ'''{{下げ核|さ}}'''ひ 中高型) * 兄貴{{要出典|date=2012年11月}}('''{{下げ核|あ}}'''にき 頭高型)←→(あ'''{{下げ核|に}}'''き 中高型) * 何時も{{要出典|date=2012年11月}}('''{{下げ核|い}}'''つも 頭高型)←→(い'''{{下げ核|つ}}'''も 中高型) * 話{{要出典|date=2012年11月}} (は'''{{高線|なし}}''' 平板型)←→(は'''{{下げ核|な}}'''し 中高型) また、戦前においては[[足立区]]・[[江戸川区]]・[[葛飾区]]で埼玉・千葉両県と接する外縁部に[[埼玉弁#アクセント|埼玉東部特殊アクセント]]が分布していた<ref>玉川大学出版部『金田一春彦著作集 第9巻』「埼玉県下に分布する特殊アクセントの考察」</ref>。 == 表現 == * 伝統的な[[関東方言]]、[[東北方言]]では意思・同意・推量の語尾は「べ(え)」であり、「行くべ」や「これだべ」「これだんべ」「これだっぺ」などと言うが、東京方言では「行こう」や「これだろ(う)」と言う。「う・よう」の使用が広まる以前は江戸でも「べ(え)」を多用し、当時上方の人間から「関東べい」と呼ばれていた。 * 方向を示す格助詞は関西方言などと共通する「へ」であり、東北方言に多い「さ」とは異なる。 * ラ行五段活用の否定形が「〜んない」になる、例 「知らない」→「知んない」など * 「怖い」「ふすま」「うろこ」「じゅうやく(ドクダミ)」「つゆ(梅雨)」「塩辛い」「つらら」「けむり」「しあさって」など、語彙の面でも関西方言から輸入されたとみられるものが複数ある<ref>飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編『講座方言学1 ―方言概説―』[[国書刊行会]]、1998年、166頁。</ref>。 * 謙譲語「おる」、丁寧な否定形「ません」、「ごきげんよう」や「お寒うございます」のような形容詞ウ音便など、敬語表現は京都方言の影響が強く残っている。 * 尊敬の助動詞「れる、られる」の使用頻度が、東京都区部では他地域にくらべて低い<ref>{{Cite 敬語指針2007}}51頁。</ref>。 * 否定の助動詞は「ない」または「ねえ」が一般的であるが、近世には西日本的な「ぬ」または「ん」も多用され、その名残りとして格言や慣用句では現在も「ぬ」または「ん」が使われる。 * 「してしまう」が「しちまう」「しちゃう」になる。どちらも明治になって東京近郊の方言から取り入れられたとされる。 * 間投助詞として「ね」「さ」「よ」を多用する。(例)あのさ、こんなこと言っちゃあなんだけどさ。 * 明治以降、「わ」「こと」「てよ」など独自の[[女性語]]が発達した(てよだわ言葉)。 * 近年、東京周辺の方言が[[若者言葉]]として東京で広まることが増えている。例えば甲州街道・東海道経由で中部地方(静岡・山梨・三河方面)から伝わり、長年多摩でも使われてきた「〜じゃん・じゃんか(〜じゃないか)」、北関東方面から伝わった「ちがかった(違った)」「〜よか(用言に接続して:〜するしか、体言に接続して:〜よりも)」、東北方面から伝わった「〜みたく(〜みたいに)」「〜した時ある(〜したことある)」など。 == 現状 == 山の手と下町の曖昧化、[[関東大震災]]や[[東京大空襲]]による旧来住民の減少、地方出身者の大量流入(特に戦後[[高度経済成長]]期)などにより、東京における言語事情はかなり変質してきている。江戸言葉はもちろん、明治時代の標準語成立に大きな影響を与えた山の手言葉も消滅寸前となっている。現在の東京では、[[学校教育]]による共通語の普及により、共通語を基盤に関東各地の方言が混合した[[首都圏方言]]が主流になっている。 ==出典== {{Reflist}} == 参考文献 == * 飛田良文 (1992)『東京語成立史の研究』([[東京堂出版]]) * 飯豊毅一・[[日野資純]]・[[佐藤亮一 (言語学者)|佐藤亮一]]編『講座方言学1 ―方言概説―』[[国書刊行会]]、1998年 {{日本語の方言}} {{DEFAULTSORT:とうきようほうけん}} [[Category:東京都の文化]] [[Category:関東方言]]
null
2023-07-21T06:45:57Z
false
false
false
[ "Template:下げ核", "Template:高線", "Template:要出典", "Template:Reflist", "Template:Cite 敬語指針2007", "Template:日本語の方言", "Template:Ipa", "Template:IPA" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E8%A8%80
12,064
クープマンズの定理
クープマンズの定理(クープマンズのていり、英: Koopmans' theorem)はチャリング・クープマンスによって1934年に発表された分子の第一イオン化エネルギーと電子親和力を見積もる定理である。クープマンズの定理は、閉殻ハートリー=フォック法(HF)において分子系の第一イオン化エネルギーは最高被占分子軌道(HOMO)の軌道エネルギーの負数と等しい、と言明する 。 クープマンズの定理は、イオンの軌道が中性分子の軌道と同一であると仮定するならば(固定軌道近似、frozen orbital approximation)、制限ハートリー=フォック法の文脈において正確である。このやり方で計算されたイオン化エネルギーは実験と定性的に一致する。小分子の第一イオン化エネルギーは誤差が2電子ボルト未満であることが多い。したがって、クープマンズの定理の信頼性は根底にあるハートリー=フォック波動関数の精度と密接に関係している。誤差の2つの主な原因は軌道緩和(系の電子数が変化した時のフォック演算子とハートリー=フォック軌道における変化を指す)と電子相関(全多体波動関数をハートリー=フォック波動関数、すなわち対応する自己無撞着的なフォック演算子の固有関数である軌道から成る単一のスレイター行列式で表すことの信頼性)である。実験値と高精度ab initio計算の経験的比較は、全てではないにせよ多くの場合において緩和効果によるエネルギー補正が電子相関による補正をほとんど打ち消していることを示唆している。 電子数の変化による軌道緩和を考慮した手法としてはΔSCF法(中性分子とカチオンのエネルギー差を取る)が挙げられる。ただし、HF計算に基づくΔSCF法では軌道緩和の無視による誤差と電子相関の無視による誤差が打ち消し合わなくなり電子相関の無視による誤差だけが残るため、クープマンズの定理の方が実験値に近くなることもある。 同様の定理は密度汎関数理論(DFT)に存在し、正確な第一垂直イオン化エネルギーおよび電子親和力をコーン=シャム軌道のHOMOおよびLUMOと関連付けている。しかし、導出と正確な言明はどちらもクープマンズの定理のものと異なる。DFT(コーン=シャム)軌道エネルギーから計算されるイオン化エネルギーはクープマンズの定理のものより大抵良くなく、使われる交換-相関近似に依存して誤差は2電子ボルトよりもかなり大きい。典型的な近似を使うと。LUMOエネルギーは電子親和力とほとんど相関を示さない。 クープマンズの定理は元々は制限(閉殻)ハートリー=フォック波動関数からのイオン化エネルギーの計算について述べていたものの、この用語はそれ以後、系の電子数の変化によるエネルギー変化を計算するために軌道エネルギーを用いるやり方としてより一般化された意味を帯びるようになった。 クープマンズの定理は、あらゆる被占分子軌道から電子を取り除いて陽イオンが形成されることに当てはまる。異なる被占分子軌道からの電子の除去は異なる電子状態のイオンをもたらす。これらの状態のうち最低のものが基底状態であり、これは、常にではないが、HOMOからの電子の除去によって生じることが多い。その他の状態は励起電子状態である。 例えば、H2O分子の電子配置は (1a1) (2a1) (1b2) (3a1) (1b1) である(記号a1、b2、およびb1は分子対称性に基づく軌道の分類)。クープマンズの定理から、1b1 HOMOのエネルギーは基底状態 (1a1) (2a1) (1b2) (3a1) (1b1) にあるH2O イオンを形成するイオン化エネルギーに対応する。2番目の高いMO 3a1のエネルギーは励起状態 (1a1) (2a1) (1b2) (3a1) (1b1) にあるイオンを指す。この場合、イオンの電子状態の順序は軌道エネルギーの順序に対応する。励起状態イオン化エネルギーは光電子分光法によって測定することができる。 H2Oでは、これらの軌道の(符号を変えた)近ハートリー=フォック軌道エネルギーは1a1 559.5、2a1 36.7、1b2 19.5、3a1 15.9、1b1 13.8 eVである。対応するイオン化エネルギーは539.7、32.2、18.5、14.7、12.6 eVである。上で説明したように、これらのずれは軌道緩和の効果や分子および様々なイオン化状態間の電子相関エネルギーの差によるものである。 N2では対照的に、軌道エネルギーの順序はイオン化エネルギーの順序と同一ではない。大きな基底関数系を用いた近ハートリー=フォック計算は、1πu 結合性軌道がHOMOであることを示す。しかしながら、最低イオン化エネルギーは3σg結合性軌道からの電子の除去に対応する。この場合、ずれの原因は主に2つの軌道間の相関エネルギーの差に帰せられる。 時折、クープマンズの定理は対応する系の最低空分子軌道(LUMO)のエネルギーとして電子親和力の計算も可能にする、と主張されることがある。しかしながら、クープマンズの原論文は、HOMOに対応するものの他はフォック演算子の固有値の重要性に関して何も主張していない。にもかかわらず、電子親和力を計算するためにクープマンズの元の言明を一般化するのは容易である。 このクープマンズの定理の言明を使った電子親和力の計算は、仮想(空)軌道が根拠の確かな物理的解釈を持たないこと、そしてそれらの軌道エネルギーは計算に使用される基底関数系の選択に非常に敏感であることを理由として批判されてきた。基底関数系がより完全になる程、興味のある分子上には実際にはない「分子」軌道がますます現われ、電子親和力を見積るためにこれらの軌道を使用しないことに注意されなければならない。 実験と高精度計算の比較は、このやり方で予測された電子親和力が一般的にかなり良くないことを示している。これは、電子親和力を見積る場合に軌道緩和による誤差と電子相関による誤差が同じ側に出て、HOMOの場合のように互いに打ち消さないためであり、実験値と推定値の符号すら合わないことも多い。 クープマンズの定理は開殻系にも適用可能である。以前は、これは不対電子を取り除く場合にのみ当てはまると考えられていたが、一般にROHFに対するクープマンズの定理の信頼性は証明されている(ただし正確な軌道エネルギーが使われているならば)。上向きスピン(α)および下向きスピン(β)軌道エネルギーは必ずしも同じでなくてもよい(拘束条件付き非制限HF法; constrained UHF, CUHF)。 コーン=シャム(KS)密度汎関数理論(KS-DFT)は、ハートリー=フォック理論のものと非常に似た考え方でDFT版のクープマンズの定理(DFT-クープマンズの定理と呼ばれることがある)を認める。この定理は、 N {\displaystyle N} 電子の系の第一(垂直)イオン化エネルギー I {\displaystyle I} を対応するKS HOMOエネルギー ε H {\displaystyle \epsilon _{H}} の負数と同一視する。より一般的には、この関係は、KS系が非整数個の電子 N − δ N {\displaystyle N-\delta N} ( N {\displaystyle N} は整数; δ N → 0 {\displaystyle \delta N\to 0} )を持つゼロ度アンサンブルについて記述している時でさえも成り立つ。 N + δ N {\displaystyle N+\delta N} 個の電子を考える時、無限小の余剰電荷はN電子系のKS LUMOに入るが、正確なKSポテンシャルは「微分不連続性(derivative discontinuity)」と呼ばれる定数によって急に変化する。垂直電子親和力はLUMOエネルギーと微分不連続性の和の負数と厳密に等しい、と主張することができる。 ハートリー=フォック理論におけるクープマンズの定理の(軌道緩和の無視による)近似的立場とは異なり、厳密なKSマッピングにおいてこの定理は厳密であり、軌道緩和の効果を含んでいる。この厳密な関係の大雑把な証明は3段階からなる。はじめに、全ての有限な系について、 I {\displaystyle I} は密度の | r | → ∞ {\displaystyle |\mathbf {r} |\to \infty } 漸近形を決定する( n ( r ) → exp ( − 2 2 m e ħ I | r | ) {\textstyle n(\mathbf {r} )\to \exp \left(-2{\sqrt {{\frac {2m_{\rm {e}}}{\hbar }}I}}|\mathbf {r} |\right)} のように減衰する)。次に、(物理的な相互作用のある系はKS系と同じ密度を持つため)当然の帰結として、どちらも同じイオン化エネルギーを持つ。最後に、KSポテンシャルは無限遠においてゼロであるため、KS系のイオン化エネルギーは、定義により、そのHOMOエネルギーの負数であり、したがって最終的に ε H = − I {\displaystyle \epsilon _{H}=-I} となる。 これらはDFTの形式化において厳密な言明であるのに対して、近似交換-相関ポテンシャルの使用により計算されるエネルギーは近似的となり、しばしば軌道エネルギーは対応するイオン化エネルギーと全く異なる(数eVの差さえ生じる)。 調整手順によってDFT近似にクープマンズの定理を「課す」ことができ、それによって実際の応用においてその関連予測の多くが改善される。近似DFTにおいて、エネルギー曲率の概念を使ってクープマンズの定理からのずれを高精度に見積ることができる 。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "クープマンズの定理(クープマンズのていり、英: Koopmans' theorem)はチャリング・クープマンスによって1934年に発表された分子の第一イオン化エネルギーと電子親和力を見積もる定理である。クープマンズの定理は、閉殻ハートリー=フォック法(HF)において分子系の第一イオン化エネルギーは最高被占分子軌道(HOMO)の軌道エネルギーの負数と等しい、と言明する 。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "クープマンズの定理は、イオンの軌道が中性分子の軌道と同一であると仮定するならば(固定軌道近似、frozen orbital approximation)、制限ハートリー=フォック法の文脈において正確である。このやり方で計算されたイオン化エネルギーは実験と定性的に一致する。小分子の第一イオン化エネルギーは誤差が2電子ボルト未満であることが多い。したがって、クープマンズの定理の信頼性は根底にあるハートリー=フォック波動関数の精度と密接に関係している。誤差の2つの主な原因は軌道緩和(系の電子数が変化した時のフォック演算子とハートリー=フォック軌道における変化を指す)と電子相関(全多体波動関数をハートリー=フォック波動関数、すなわち対応する自己無撞着的なフォック演算子の固有関数である軌道から成る単一のスレイター行列式で表すことの信頼性)である。実験値と高精度ab initio計算の経験的比較は、全てではないにせよ多くの場合において緩和効果によるエネルギー補正が電子相関による補正をほとんど打ち消していることを示唆している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "電子数の変化による軌道緩和を考慮した手法としてはΔSCF法(中性分子とカチオンのエネルギー差を取る)が挙げられる。ただし、HF計算に基づくΔSCF法では軌道緩和の無視による誤差と電子相関の無視による誤差が打ち消し合わなくなり電子相関の無視による誤差だけが残るため、クープマンズの定理の方が実験値に近くなることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "同様の定理は密度汎関数理論(DFT)に存在し、正確な第一垂直イオン化エネルギーおよび電子親和力をコーン=シャム軌道のHOMOおよびLUMOと関連付けている。しかし、導出と正確な言明はどちらもクープマンズの定理のものと異なる。DFT(コーン=シャム)軌道エネルギーから計算されるイオン化エネルギーはクープマンズの定理のものより大抵良くなく、使われる交換-相関近似に依存して誤差は2電子ボルトよりもかなり大きい。典型的な近似を使うと。LUMOエネルギーは電子親和力とほとんど相関を示さない。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "クープマンズの定理は元々は制限(閉殻)ハートリー=フォック波動関数からのイオン化エネルギーの計算について述べていたものの、この用語はそれ以後、系の電子数の変化によるエネルギー変化を計算するために軌道エネルギーを用いるやり方としてより一般化された意味を帯びるようになった。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "クープマンズの定理は、あらゆる被占分子軌道から電子を取り除いて陽イオンが形成されることに当てはまる。異なる被占分子軌道からの電子の除去は異なる電子状態のイオンをもたらす。これらの状態のうち最低のものが基底状態であり、これは、常にではないが、HOMOからの電子の除去によって生じることが多い。その他の状態は励起電子状態である。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "例えば、H2O分子の電子配置は (1a1) (2a1) (1b2) (3a1) (1b1) である(記号a1、b2、およびb1は分子対称性に基づく軌道の分類)。クープマンズの定理から、1b1 HOMOのエネルギーは基底状態 (1a1) (2a1) (1b2) (3a1) (1b1) にあるH2O イオンを形成するイオン化エネルギーに対応する。2番目の高いMO 3a1のエネルギーは励起状態 (1a1) (2a1) (1b2) (3a1) (1b1) にあるイオンを指す。この場合、イオンの電子状態の順序は軌道エネルギーの順序に対応する。励起状態イオン化エネルギーは光電子分光法によって測定することができる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "H2Oでは、これらの軌道の(符号を変えた)近ハートリー=フォック軌道エネルギーは1a1 559.5、2a1 36.7、1b2 19.5、3a1 15.9、1b1 13.8 eVである。対応するイオン化エネルギーは539.7、32.2、18.5、14.7、12.6 eVである。上で説明したように、これらのずれは軌道緩和の効果や分子および様々なイオン化状態間の電子相関エネルギーの差によるものである。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "N2では対照的に、軌道エネルギーの順序はイオン化エネルギーの順序と同一ではない。大きな基底関数系を用いた近ハートリー=フォック計算は、1πu 結合性軌道がHOMOであることを示す。しかしながら、最低イオン化エネルギーは3σg結合性軌道からの電子の除去に対応する。この場合、ずれの原因は主に2つの軌道間の相関エネルギーの差に帰せられる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "時折、クープマンズの定理は対応する系の最低空分子軌道(LUMO)のエネルギーとして電子親和力の計算も可能にする、と主張されることがある。しかしながら、クープマンズの原論文は、HOMOに対応するものの他はフォック演算子の固有値の重要性に関して何も主張していない。にもかかわらず、電子親和力を計算するためにクープマンズの元の言明を一般化するのは容易である。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "このクープマンズの定理の言明を使った電子親和力の計算は、仮想(空)軌道が根拠の確かな物理的解釈を持たないこと、そしてそれらの軌道エネルギーは計算に使用される基底関数系の選択に非常に敏感であることを理由として批判されてきた。基底関数系がより完全になる程、興味のある分子上には実際にはない「分子」軌道がますます現われ、電子親和力を見積るためにこれらの軌道を使用しないことに注意されなければならない。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "実験と高精度計算の比較は、このやり方で予測された電子親和力が一般的にかなり良くないことを示している。これは、電子親和力を見積る場合に軌道緩和による誤差と電子相関による誤差が同じ側に出て、HOMOの場合のように互いに打ち消さないためであり、実験値と推定値の符号すら合わないことも多い。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "クープマンズの定理は開殻系にも適用可能である。以前は、これは不対電子を取り除く場合にのみ当てはまると考えられていたが、一般にROHFに対するクープマンズの定理の信頼性は証明されている(ただし正確な軌道エネルギーが使われているならば)。上向きスピン(α)および下向きスピン(β)軌道エネルギーは必ずしも同じでなくてもよい(拘束条件付き非制限HF法; constrained UHF, CUHF)。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "コーン=シャム(KS)密度汎関数理論(KS-DFT)は、ハートリー=フォック理論のものと非常に似た考え方でDFT版のクープマンズの定理(DFT-クープマンズの定理と呼ばれることがある)を認める。この定理は、 N {\\displaystyle N} 電子の系の第一(垂直)イオン化エネルギー I {\\displaystyle I} を対応するKS HOMOエネルギー ε H {\\displaystyle \\epsilon _{H}} の負数と同一視する。より一般的には、この関係は、KS系が非整数個の電子 N − δ N {\\displaystyle N-\\delta N} ( N {\\displaystyle N} は整数; δ N → 0 {\\displaystyle \\delta N\\to 0} )を持つゼロ度アンサンブルについて記述している時でさえも成り立つ。 N + δ N {\\displaystyle N+\\delta N} 個の電子を考える時、無限小の余剰電荷はN電子系のKS LUMOに入るが、正確なKSポテンシャルは「微分不連続性(derivative discontinuity)」と呼ばれる定数によって急に変化する。垂直電子親和力はLUMOエネルギーと微分不連続性の和の負数と厳密に等しい、と主張することができる。", "title": "密度汎関数理論において相当する定理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ハートリー=フォック理論におけるクープマンズの定理の(軌道緩和の無視による)近似的立場とは異なり、厳密なKSマッピングにおいてこの定理は厳密であり、軌道緩和の効果を含んでいる。この厳密な関係の大雑把な証明は3段階からなる。はじめに、全ての有限な系について、 I {\\displaystyle I} は密度の | r | → ∞ {\\displaystyle |\\mathbf {r} |\\to \\infty } 漸近形を決定する( n ( r ) → exp ( − 2 2 m e ħ I | r | ) {\\textstyle n(\\mathbf {r} )\\to \\exp \\left(-2{\\sqrt {{\\frac {2m_{\\rm {e}}}{\\hbar }}I}}|\\mathbf {r} |\\right)} のように減衰する)。次に、(物理的な相互作用のある系はKS系と同じ密度を持つため)当然の帰結として、どちらも同じイオン化エネルギーを持つ。最後に、KSポテンシャルは無限遠においてゼロであるため、KS系のイオン化エネルギーは、定義により、そのHOMOエネルギーの負数であり、したがって最終的に ε H = − I {\\displaystyle \\epsilon _{H}=-I} となる。", "title": "密度汎関数理論において相当する定理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これらはDFTの形式化において厳密な言明であるのに対して、近似交換-相関ポテンシャルの使用により計算されるエネルギーは近似的となり、しばしば軌道エネルギーは対応するイオン化エネルギーと全く異なる(数eVの差さえ生じる)。", "title": "密度汎関数理論において相当する定理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "調整手順によってDFT近似にクープマンズの定理を「課す」ことができ、それによって実際の応用においてその関連予測の多くが改善される。近似DFTにおいて、エネルギー曲率の概念を使ってクープマンズの定理からのずれを高精度に見積ることができる 。", "title": "密度汎関数理論において相当する定理" } ]
クープマンズの定理はチャリング・クープマンスによって1934年に発表された分子の第一イオン化エネルギーと電子親和力を見積もる定理である。クープマンズの定理は、閉殻ハートリー=フォック法(HF)において分子系の第一イオン化エネルギーは最高被占分子軌道(HOMO)の軌道エネルギーの負数と等しい、と言明する。 クープマンズの定理は、イオンの軌道が中性分子の軌道と同一であると仮定するならば、制限ハートリー=フォック法の文脈において正確である。このやり方で計算されたイオン化エネルギーは実験と定性的に一致する。小分子の第一イオン化エネルギーは誤差が2電子ボルト未満であることが多い。したがって、クープマンズの定理の信頼性は根底にあるハートリー=フォック波動関数の精度と密接に関係している。誤差の2つの主な原因は軌道緩和(系の電子数が変化した時のフォック演算子とハートリー=フォック軌道における変化を指す)と電子相関(全多体波動関数をハートリー=フォック波動関数、すなわち対応する自己無撞着的なフォック演算子の固有関数である軌道から成る単一のスレイター行列式で表すことの信頼性)である。実験値と高精度ab initio計算の経験的比較は、全てではないにせよ多くの場合において緩和効果によるエネルギー補正が電子相関による補正をほとんど打ち消していることを示唆している。 電子数の変化による軌道緩和を考慮した手法としてはΔSCF法(中性分子とカチオンのエネルギー差を取る)が挙げられる。ただし、HF計算に基づくΔSCF法では軌道緩和の無視による誤差と電子相関の無視による誤差が打ち消し合わなくなり電子相関の無視による誤差だけが残るため、クープマンズの定理の方が実験値に近くなることもある。 同様の定理は密度汎関数理論(DFT)に存在し、正確な第一垂直イオン化エネルギーおよび電子親和力をコーン=シャム軌道のHOMOおよびLUMOと関連付けている。しかし、導出と正確な言明はどちらもクープマンズの定理のものと異なる。DFT(コーン=シャム)軌道エネルギーから計算されるイオン化エネルギーはクープマンズの定理のものより大抵良くなく、使われる交換-相関近似に依存して誤差は2電子ボルトよりもかなり大きい。典型的な近似を使うと。LUMOエネルギーは電子親和力とほとんど相関を示さない。
'''クープマンズの定理'''(クープマンズのていり、{{lang-en-short|Koopmans' theorem}})は[[チャリング・クープマンス]]によって1934年に発表された<ref>{{cite journal | last = Koopmans | first = Tjalling | title = Über die Zuordnung von Wellenfunktionen und Eigenwerten zu den einzelnen Elektronen eines Atoms | journal = Physica | year = 1934 | volume = 1 | issue = 1–6 | pages = 104–113 | doi = 10.1016/S0031-8914(34)90011-2 | bibcode=1934Phy.....1..104K}}</ref>分子の[[イオン化エネルギー|第一イオン化エネルギー]]と[[電子親和力]]を見積もる定理である。クープマンズの定理は、[[閉殻]][[ハートリー=フォック方程式|ハートリー=フォック法]](HF)において分子系の第一[[イオン化エネルギー]]は[[最高被占分子軌道]](HOMO)の軌道エネルギーの負数と等しい、と言明する<ref name="Jensen">{{Cite book|author=Frank Jensen|title=Introduction to Computational Chemistry|date=|year=2007|publisher=Jonh Wiley & Sons Ltd|ISBN=978-0-470-01187-4}}</ref>{{rp|92-93}} <ref name="Szabo">{{Cite book|和書|author=A.ザボ, N.S.オストランド|title=新しい量子化学 上 電子構造の理論入門|date=|year=1991|publisher=東京大学出版会|ISBN=978-4-13-062111-3|translator=大野公男, 阪井健男, 望月祐志}}</ref>{{rp|133-139}}。 クープマンズの定理は、イオンの軌道が中性分子の軌道と同一であると仮定するならば(固定軌道近似、frozen orbital approximation)、制限ハートリー=フォック法の文脈において正確である。このやり方で計算されたイオン化エネルギーは実験と定性的に一致する。小分子の第一イオン化エネルギーは誤差が2[[電子ボルト]]未満であることが多い<ref name="politzer">{{cite journal|last1=Politzer|first1=Peter|first2=Fakher |last2=Abu-Awwad|year=1998|title=A comparative analysis of Hartree–Fock and Kohn–Sham orbital energies|journal=Theoretical Chemistry Accounts: Theory, Computation, and Modeling (Theoretica Chimica Acta)|volume=99|issue=2|pages=83–87|doi=10.1007/s002140050307|s2cid=96583645}}</ref><ref name="hamel">{{cite journal|last1=Hamel|first1=Sebastien|first2=Patrick|last2= Duffy|first3=Mark E. |last3=Casida |first4= Dennis R. |last4=Salahub|year=2002|title=Kohn–Sham orbitals and orbital energies: fictitious constructs but good approximations all the same |journal=Journal of Electron Spectroscopy and Related Phenomena|volume=123|issue=2–3|pages=345–363|doi=10.1016/S0368-2048(02)00032-4}}</ref><ref>{{Cite book|first1=A. |last1=Szabo |first2= N. S.|last2= Ostlund|title=Modern Quantum Chemistry|chapter=Chapter 3|isbn=978-0-02-949710-4|year=1982 }}</ref>。したがって、クープマンズの定理の信頼性は根底にあるハートリー=フォック波動関数の精度と密接に関係している{{Citation needed|reason=Correlating the wave function with the HOMO seems to need more explanation than simply therefore|date=April 2009}}。誤差の2つの主な原因は軌道緩和(系の電子数が変化した時の[[フォック演算子]]とハートリー=フォック軌道における変化を指す)と[[電子相関]](全多体波動関数をハートリー=フォック波動関数、すなわち対応する自己無撞着的なフォック演算子の固有関数である軌道から成る単一の[[スレイター行列式]]で表すことの信頼性)である。実験値と高精度[[ab initio]]計算の経験的比較は、全てではないにせよ多くの場合において緩和効果によるエネルギー補正が電子相関による補正をほとんど打ち消していることを示唆している<ref name=Michl>{{cite book|last1=Michl|first1=Josef|last2=Bonačić-Koutecký|first2=Vlasta|title=Electronic Aspects of Organic Photochemistry|publisher= Wiley|year= 1990|page=35|isbn=978-0-471-89626-5}}</ref><ref name=Hehre>{{cite book|last1=Hehre|first1=Warren J.|last2=Radom|first2=Leo|last3=Schleyer|first3=Paul v.R.|last4=Pople|first4=John A.|title=Ab initio molecular orbital theory|publisher= Wiley|year= 1986|page=24|isbn=978-0-471-81241-8}}</ref>。 電子数の変化による軌道緩和を考慮した手法としてはΔSCF法(中性分子とカチオンのエネルギー差を取る)が挙げられる<ref name="PhysChem">{{Cite book|和書|author=小谷正博, 幸田清一郎, 染田清彦|editor=近藤保|title=大学院講義物理化学|date=|year=1997|publisher=東京化学同人|ISBN=4-8079-0462-0}}</ref>{{rp|88-89}}。ただし、HF計算に基づくΔSCF法では軌道緩和の無視による誤差と電子相関の無視による誤差が打ち消し合わなくなり電子相関の無視による誤差だけが残るため、クープマンズの定理の方が実験値に近くなることもある<ref>{{cite journal|title=計算化学のすすめ 第7回 スペクトルの計算|author=リントゥルオト正美|url=https://labchem-wako.fujifilm.com/jp/journal/docs/info09.pdf|journal=Wako Infomatic World |issue=No.9|year=2008|pages=2–3}}</ref>。 同様の定理は[[密度汎関数理論]](DFT)に存在し、正確な第一[[イオン化エネルギー|垂直イオン化エネルギー]]および電子親和力をコーン=シャム軌道の[[HOMO/LUMO|HOMOおよびLUMO]]と関連付けている。しかし、導出と正確な言明はどちらもクープマンズの定理のものと異なる。DFT(コーン=シャム)軌道エネルギーから計算されるイオン化エネルギーはクープマンズの定理のものより大抵良くなく、使われる交換-相関近似に依存して誤差は2電子ボルトよりもかなり大きい<ref name="politzer" /><ref name="hamel" />。典型的な近似を使うと。LUMOエネルギーは電子親和力とほとんど相関を示さない<ref>{{cite journal|last1=Zhang|first1=Gang|first2=Charles B. |last2=Musgrave|year=2007|title=Comparison of DFT Methods for Molecular Orbital Eigenvalue Calculations|journal=The Journal of Physical Chemistry A|volume=111|issue=8|pages=1554–1561|doi=10.1021/jp061633o|pmid=17279730|bibcode=2007JPCA..111.1554Z|s2cid=1516019|url=https://semanticscholar.org/paper/3676962a99dcde3cce49994e7421ce3abeacbe5d}}</ref>。 == 一般化 == クープマンズの定理は元々は制限(閉殻)ハートリー=フォック波動関数からのイオン化エネルギーの計算について述べていたものの、この用語はそれ以後、系の電子数の変化によるエネルギー変化を計算するために軌道エネルギーを用いるやり方としてより一般化された意味を帯びるようになった。 === 基底状態および励起状態イオン === クープマンズの定理は、あらゆる被占分子軌道から電子を取り除いて陽イオンが形成されることに当てはまる。異なる被占分子軌道からの電子の除去は異なる電子状態のイオンをもたらす。これらの状態のうち最低のものが基底状態であり、これは、常にではないが、HOMOからの電子の除去によって生じることが多い。その他の状態は励起電子状態である。 例えば、H<sub>2</sub>O分子の電子配置は (1a<sub>1</sub>)<sup>2</sup> (2a<sub>1</sub>)<sup>2</sup> (1b<sub>2</sub>)<sup>2</sup> (3a<sub>1</sub>)<sup>2</sup> (1b<sub>1</sub>)<sup>2</sup> である<ref name=Levine>{{cite book|last=Levine|first= I. N.|title=Quantum Chemistry|edition=4th |publisher= Prentice-Hall|year= 1991|page=475|isbn=978-0-7923-1421-9}}</ref>(記号a<sub>1</sub>、b<sub>2</sub>、およびb<sub>1</sub>は[[分子対称性]]に基づく軌道の分類)。クープマンズの定理から、1b<sub>1</sub> HOMOのエネルギーは基底状態 (1a<sub>1</sub>)<sup>2</sup> (2a<sub>1</sub>)<sup>2</sup> (1b<sub>2</sub>)<sup>2</sup> (3a<sub>1</sub>)<sup>2</sup> (1b<sub>1</sub>)<sup>1</sup> にあるH<sub>2</sub>O<sup>+</sup> イオンを形成するイオン化エネルギーに対応する。2番目の高いMO 3a<sub>1</sub>のエネルギーは励起状態 (1a<sub>1</sub>)<sup>2</sup> (2a<sub>1</sub>)<sup>2</sup> (1b<sub>2</sub>)<sup>2</sup> (3a<sub>1</sub>)<sup>1</sup> (1b<sub>1</sub>)<sup>2</sup> にあるイオンを指す。この場合、イオンの電子状態の順序は軌道エネルギーの順序に対応する。励起状態イオン化エネルギーは[[紫外光電子分光法|光電子分光法]]によって測定することができる。 H<sub>2</sub>Oでは、これらの軌道の(符号を変えた)近ハートリー=フォック軌道エネルギーは1a<sub>1</sub> 559.5、2a<sub>1</sub> 36.7、1b<sub>2</sub> 19.5、3a<sub>1</sub> 15.9、1b<sub>1</sub> 13.8 [[電子ボルト|eV]]である。対応するイオン化エネルギーは539.7、32.2、18.5、14.7、12.6 eVである<ref name=Levine />。上で説明したように、これらのずれは軌道緩和の効果や分子および様々なイオン化状態間の電子相関エネルギーの差によるものである。 N<sub>2</sub>では対照的に、軌道エネルギーの順序はイオン化エネルギーの順序と同一ではない。大きな[[基底関数系 (化学)|基底関数系]]を用いた近ハートリー=フォック計算は、1π<sub>u</sub> 結合性軌道がHOMOであることを示す。しかしながら、最低イオン化エネルギーは3σ<sub>g</sub>結合性軌道からの電子の除去に対応する。この場合、ずれの原因は主に2つの軌道間の相関エネルギーの差に帰せられる<ref>{{Cite journal|doi=10.1021/ed072p501|title=Non-Koopmans' Molecules|journal=Journal of Chemical Education|volume=72|issue=6|page=501|year=1995|last1=Duke|first1=Brian J.|last2=O'Leary|first2=Brian|bibcode = 1995JChEd..72..501D }}</ref>。 === 電子親和力 === 時折、クープマンズの定理は対応する系の最低空分子軌道(LUMO)のエネルギーとして[[電子親和力]]の計算も可能にする、と主張されることがある<ref>{{Cite book|first1=A. |last1=Szabo |first2= N. S.|last2= Ostlund|title=Modern Quantum Chemistry|page=127|isbn=978-0-02-949710-4|year=1982 }}</ref>。しかしながら、クープマンズの原論文は、[[HOMO]]に対応するものの他は[[フォック演算子]]の固有値の重要性に関して何も主張していない。にもかかわらず、[[電子親和力]]を計算するためにクープマンズの元の言明を一般化するのは容易である。 このクープマンズの定理の言明を使った電子親和力の計算は、仮想(空)軌道が根拠の確かな物理的解釈を持たないこと、そしてそれらの軌道エネルギーは計算に使用される基底関数系の選択に非常に敏感であることを理由として批判されてきた<ref>{{cite book | last1 = Jensen | first1= Frank | title= Introduction to Computational Chemistry | url = https://archive.org/details/introductiontoco00jens_672 | url-access = limited | year = 1990 | publisher = Wiley | pages = [https://archive.org/details/introductiontoco00jens_672/page/n39 64]–65 | isbn = 978-0-471-98425-2}}</ref>。基底関数系がより完全になる程、興味のある分子上には実際にはない「分子」軌道がますます現われ、電子親和力を見積るためにこれらの軌道を使用しないことに注意されなければならない。 実験と高精度計算の比較は、このやり方で予測された電子親和力が一般的にかなり良くないことを示している。これは、電子親和力を見積る場合に軌道緩和による誤差と電子相関による誤差が同じ側に出て、HOMOの場合のように互いに打ち消さないためであり、実験値と推定値の符号すら合わないことも多い。 === 開殻系 === クープマンズの定理は開殻系にも適用可能である。以前は、これは不対電子を取り除く場合にのみ当てはまると考えられていたが<ref>{{cite book | last1 = Fulde | first1 = Peter | title = Electron correlations in molecules and solids | url = https://archive.org/details/electroncorrelat00fuld | url-access = limited | year = 1995 | publisher = Springer | pages = [https://archive.org/details/electroncorrelat00fuld/page/n38 25]–26 | isbn = 978-3-540-59364-5}}</ref>、一般に[[制限開殻ハートリー=フォック法|ROHF]]に対するクープマンズの定理の信頼性は証明されている(ただし正確な軌道エネルギーが使われているならば)<ref>{{cite journal | doi = 10.1063/1.2393223 | title = Koopmans' theorem in the ROHF method: Canonical form for the Hartree-Fock Hamiltonian | year = 2006 | last1 = Plakhutin | first1 = B. N. | last2 = Gorelik | first2 = E. V. | last3 = Breslavskaya | first3 = N. N. | journal = The Journal of Chemical Physics | volume = 125 | page = 204110 | pmid = 17144693 | issue = 20 | bibcode=2006JChPh.125t4110P}}</ref><ref>{{cite journal | doi = 10.1063/1.3418615 | title = Koopmans's theorem in the restricted open-shell Hartree–Fock method. II. The second canonical set for orbitals and orbital energies | year = 2010 | last1 = Davidson | first1 = Ernest R. |author-link=Ernest R. Davidson | last2 = Plakhutin | first2 = Boris N. | journal = The Journal of Chemical Physics | volume = 132 | issue = 18 | page = 184110 | bibcode=2010JChPh.132r4110D| url = https://zenodo.org/record/898702 }}</ref><ref>{{cite journal | doi = 10.1021/jp9002593 | title = Koopmans' Theorem in the Restricted Open-Shell Hartree−Fock Method. 1. A Variational Approach† | year = 2009 | last1 = Plakhutin | first1 = Boris N. | last2 = Davidson | first2 = Ernest R. | journal = The Journal of Physical Chemistry A | volume = 113 | pages = 12386–12395 | pmid = 19459641 | issue = 45 | bibcode=2009JPCA..11312386P}}</ref><ref>{{cite journal | last1 = Glaesemann | first1 = Kurt R. | last2 = Schmidt | first2 = Michael W. | title = On the Ordering of Orbital Energies in High-Spin ROHF† | journal = The Journal of Physical Chemistry A | volume = 114 | issue =33 | pages = 8772–8777 | year = 2010 | pmid = 20443582 | doi = 10.1021/jp101758y| bibcode = 2010JPCA..114.8772G }}</ref>。上向きスピン(α)および下向きスピン(β)軌道エネルギーは必ずしも同じでなくてもよい(拘束条件付き非制限HF法; constrained UHF, CUHF)<ref>{{cite journal|last1=Tsuchimochi|first1=Takashi|last2=Scuseria|first2=Gustavo E.|title=Communication: ROHF theory made simple|journal=The Journal of Chemical Physics|volume=133|issue=14|page=141102|year=2010|pmid=20949979|doi=10.1063/1.3503173|bibcode = 2010JChPh.133n1102T |arxiv = 1008.1607|s2cid=31648260}}</ref>。 == 密度汎関数理論において相当する定理 == {{See also|ヤナックの定理}} コーン=シャム(KS)[[密度汎関数理論]](KS-DFT)は、ハートリー=フォック理論のものと非常に似た考え方でDFT版のクープマンズの定理('''DFT-クープマンズの定理'''と呼ばれることがある)を認める。この定理は、<math> N</math>電子の系の第一(垂直)イオン化エネルギー<math> I </math>を対応するKS HOMOエネルギー<math>\epsilon_H </math> の負数と同一視する。より一般的には、この関係は、KS系が非整数個の電子<math> N - \delta N</math>(<math>N</math>は整数; <math>\delta N \to 0</math>)を持つゼロ度アンサンブルについて記述している時でさえも成り立つ。<math>N + \delta N</math>個の電子を考える時、無限小の余剰電荷は''N''電子系のKS LUMOに入るが、正確なKSポテンシャルは「微分不連続性(derivative discontinuity)」と呼ばれる定数によって急に変化する<ref name="perdew82">{{cite journal |last1=Perdew |first1=John P. |authorlink=ジョン・パデュー (物理学者)|first2=Robert G. |last2=Parr|first3=Mel |last3=Levy|first4=Jose L.|last4= Balduz, Jr. |year=1982 |title=Density-Functional Theory for Fractional Particle Number: Derivative Discontinuities of the Energy |journal=Physical Review Letters |volume=49 |issue=23 |pages=1691–1694 |doi=10.1103/PhysRevLett.49.1691 |bibcode=1982PhRvL..49.1691P}}</ref>。垂直電子親和力はLUMOエネルギーと微分不連続性の和の負数と厳密に等しい、と主張することができる<ref name="perdew82" /><ref>{{cite journal |last1=Perdew |first1=John P. |first2=Mel|last2= Levy |year=1997 |title=Comment on "Significance of the highest occupied Kohn–Sham eigenvalue" |journal=Physical Review B |volume=56 |issue=24 |pages=16021–16028 |doi=10.1103/PhysRevB.56.16021|bibcode = 1997PhRvB..5616021P }}</ref><ref>{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.56.12042|title=Significance of the highest occupied Kohn-Sham eigenvalue|journal=Physical Review B|volume=56|issue=19|page=12042|year=1997|last1=Kleinman|first1=Leonard|bibcode=1997PhRvB..5612042K}}</ref><ref>{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.56.16029|title=Reply to "Comment on 'Significance of the highest occupied Kohn-Sham eigenvalue' "|journal=Physical Review B|volume=56|issue=24|page=16029|year=1997|last1=Kleinman|first1=Leonard|bibcode=1997PhRvB..5616029K}}</ref>。 ハートリー=フォック理論におけるクープマンズの定理の(軌道緩和の無視による)近似的立場とは異なり、厳密なKSマッピングにおいてこの定理は厳密であり、軌道緩和の効果を含んでいる。この厳密な関係の大雑把な証明は3段階からなる。はじめに、全ての有限な系について、<math>I</math>は密度の<math>|\mathbf{r}| \to \infty</math>漸近形を決定する(<math display="inline"> n(\mathbf{r}) \to \exp \left (-2\sqrt{\frac{2 m_{\rm e}}{\hbar} I}|\mathbf{r}| \right ) </math>のように減衰する)<ref name="perdew82" /><ref name="almblad85">{{cite journal |last1=Almbladh|first1=C. -O.|first2=U. |last2=von Barth |year=1985 |title=Exact results for the charge and spin densities, exchange-correlation potentials, and density-functional eigenvalues |journal=Physical Review B |volume=31 |issue=6 |pages=3231–3244|doi=10.1103/PhysRevB.31.3231|pmid=9936207|bibcode = 1985PhRvB..31.3231A }}</ref>。次に、(物理的な相互作用のある系はKS系と同じ密度を持つため)当然の帰結として、どちらも同じイオン化エネルギーを持つ。最後に、KSポテンシャルは無限遠においてゼロであるため、KS系のイオン化エネルギーは、定義により、そのHOMOエネルギーの負数であり、したがって最終的に<math>\epsilon_H = -I </math>となる<ref>{{Cite journal|doi=10.1016/S0009-2614(98)00316-9|title=Relationship of Kohn–Sham eigenvalues to excitation energies|journal=Chemical Physics Letters|volume=288|issue=2–4|pages=391|year=1998|last1=Savin|first1=A|last2=Umrigar|first2=C.J|last3=Gonze|first3=Xavier|bibcode=1998CPL...288..391S}}</ref><ref>{{Cite journal|doi=10.1103/PhysRevA.30.2745|title=Exact differential equation for the density and ionization energy of a many-particle system|journal=Physical Review A|volume=30|issue=5|pages=2745|year=1984|last1=Levy|first1=Mel|last2=Perdew|first2=John P|last3=Sahni|first3=Viraht|bibcode=1984PhRvA..30.2745L}}</ref>。 これらはDFTの形式化において厳密な言明であるのに対して、近似交換-相関ポテンシャルの使用により計算されるエネルギーは近似的となり、しばしば軌道エネルギーは対応するイオン化エネルギーと全く異なる(数eVの差さえ生じる)<ref name="spring">{{cite journal | title = Koopmans' springs to life | journal = The Journal of Chemical Physics | volume = 131 | issue = 23 | year = 2009 | pages = 231101–4 | doi = 10.1063/1.3269030 | first1 = U. |last1 = Salzner | first2 = R. |last2 = Baer | pmid = 20025305 |bibcode = 2009JChPh.131w1101S | hdl = 11693/11792 | url = http://repository.bilkent.edu.tr/bitstream/11693/11792/1/10.1063-1.3269030.pdf }}</ref>。 調整手順によってDFT近似にクープマンズの定理を「課す」ことができ、それによって実際の応用においてその関連予測の多くが改善される<ref name="spring" /><ref>{{cite journal | title="Tuned" Range-separated hybrids in density functional theory | journal = Annual Review of Physical Chemistry | volume = 61 | year = 2010 | pages = 85–109 | doi = 10.1146/annurev.physchem.012809.103321 | first1 = R. |last1 = Baer | first2 = E. |last2 = Livshits | first3 = U. |last3 = Salzner | pmid = 20055678 | hdl = 11693/22326 | hdl-access = free }}{{cite journal | title = Fundamental gaps of finite systems from the eigenvalues of a generalized Kohn-Sham method | journal = Physical Review Letters | volume = 105 | year = 2010 | page = 266802 | doi = 10.1103/PhysRevLett.105.266802 | first1 = T. |last1 = Stein | first2 = H. |last2 = Eisenberg | first3 = L. |last3 = Kronik | first4 = R. |last4 = Baer | issue = 26 | pmid = 21231698 |arxiv = 1006.5420 |bibcode = 2010PhRvL.105z6802S | s2cid = 42592180 }} {{cite journal |last1=Kornik |first1=L. |first2=T. |last2=Stein|first3=S. |last3=Refaely-Abramson|first4=R.|last4= Baer |year=2012 |title=Excitation Gaps of Finite-Sized Systems from Optimally Tuned Range-Separated Hybrid Functionals |journal=Journal of Chemical Theory and Computation |volume=8 |issue=5 |pages=1515–31 |doi=10.1021/ct2009363|pmid=26593646 |doi-access=free }}</ref>。近似DFTにおいて、エネルギー曲率の概念を使ってクープマンズの定理からのずれを高精度に見積ることができる<ref>{{Cite journal|doi=10.1021/jz3015937 |pmid=26291104|arxiv=1208.1496|title=Curvature and frontier orbital energies in density functional theory|year=2012|journal=The Journal of Physical Chemistry Letters |volume=3|issue=24|pages=3740–4|last1=Stein|first1=Tamar|last2=Autschbach|first2=Jochen|last3=Govind|first3=Niranjan|last4=Kronik|first4=Leeor|last5=Baer|first5=Roi|s2cid=22495102}}</ref><ref>{{Cite journal|doi=10.1016/S0009-2614(98)01075-6|title=Excitation energies in density functional theory: Comparison of several methods for the H<sub>2</sub>O, N<sub>2</sub>, CO and C<sub>2</sub>H<sub>4</sub> molecules|journal=Chemical Physics Letters|volume=296|issue=5–6|pages=489|year=1998|last1=Andrejkovics|first1=I|last2=Nagy|first2=Á|bibcode=1998CPL...296..489A}}</ref> <ref>{{Cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.18.7165|title=Proof that <math display="inline">\frac{\partial E}{\partial n_i} = \varepsilon</math> in density-functional theory|journal=Physical Review B|volume=18|issue=12|pages=7165–7168|year=1978|last1=Janak|first1=J. F|bibcode=1978PhRvB..18.7165J}}</ref><ref>{{Cite journal|doi=10.1103/PhysRevLett.51.1884|title=Physical Content of the Exact Kohn-Sham Orbital Energies: Band Gaps and Derivative Discontinuities|journal=Physical Review Letters|volume=51|issue=20|pages=1884|year=1983|last1=Perdew|first1=John P|last2=Levy|first2=Mel|bibcode=1983PhRvL..51.1884P}}</ref><ref name="Jensen" />{{rp|157}}。 == 出典 == {{reflist|30em}} == 関連項目 == * [[光電子分光法]] * [[ヤナックの定理]] {{DEFAULTSORT:くうふまんすのていり}} [[Category:固体物理学]] [[Category:電子軌道]] [[Category:計算化学]] [[Category:量子化学]] [[Category:理論化学]] [[Category:近似法]] [[Category:物理学の定理]] [[Category:化学のエポニム]] [[Category:物理学のエポニム]]
null
2023-07-10T21:36:07Z
false
false
false
[ "Template:Citation needed", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:Lang-en-short", "Template:Rp" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86
12,065
ヤナックの定理
ヤナックの定理(ヤナックのていり、英: Janak's theorem)は密度汎関数理論において成り立つ定理で、ハートリー–フォック近似におけるクープマンズの定理に相当する概念である。軌道を電子が占有する場合、非整数による占有が可能とし、その占有数をfi(iは軌道の指標)で表すと、系の全エネルギー(Etot)に対し以下の式が成り立つ。 ここで、εiはコーン・シャム軌道iにおける軌道エネルギーである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヤナックの定理(ヤナックのていり、英: Janak's theorem)は密度汎関数理論において成り立つ定理で、ハートリー–フォック近似におけるクープマンズの定理に相当する概念である。軌道を電子が占有する場合、非整数による占有が可能とし、その占有数をfi(iは軌道の指標)で表すと、系の全エネルギー(Etot)に対し以下の式が成り立つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ここで、εiはコーン・シャム軌道iにおける軌道エネルギーである。", "title": null } ]
ヤナックの定理(ヤナックのていり、英: Janak's theorem)は密度汎関数理論において成り立つ定理で、ハートリー–フォック近似におけるクープマンズの定理に相当する概念である。軌道を電子が占有する場合、非整数による占有が可能とし、その占有数をfi(iは軌道の指標)で表すと、系の全エネルギー(Etot)に対し以下の式が成り立つ。 ここで、εiはコーン・シャム軌道iにおける軌道エネルギーである。
'''ヤナックの定理'''(ヤナックのていり、{{lang-en-short|Janak's theorem}})は[[密度汎関数理論]]において成り立つ定理で、[[ハートリー=フォック近似|ハートリー–フォック近似]]における[[クープマンズの定理]]に相当する概念である。軌道を[[電子]]が占有する場合、非整数による占有が可能とし、その占有数を''f<sub>i</sub>''(''i''は軌道の指標)で表すと、系の全エネルギー(''E''<sub>tot</sub>)に対し以下の式が成り立つ。 <ref name="Jensen">{{Cite book|author=Frank Jensen|title=Introduction to Computational Chemistry|date=|year=2007|publisher=Jonh Wiley & Sons Ltd|ISBN=978-0-470-01187-4}}</ref>{{rp|257}} <ref name="ManyBody">{{Cite book|和書|author=高田康民|title=多体問題特論―第一原理からの多電子問題 (朝倉物理学大系)|date=|year=2009|publisher=朝倉書店|ISBN=4-2541-3685-4}}</ref>{{rp|60-66}} :<math> \frac{\partial E_\text{tot}}{\partial{f_i}} = \epsilon_i </math> ここで、''ε<sub>i</sub>''は[[コーン–シャム方程式|コーン・シャム軌道]]''i''における軌道エネルギーである。 == 出典 == <references /> == 関連項目 == *[[第一原理バンド計算]] *[[密度汎関数理論]] *[[コーン–シャム方程式]] *[[クープマンズの定理]] {{DEFAULTSORT:やなつくのていり}} [[Category:バンド計算]] [[Category:近似法]] [[Category:物理学の定理]] [[Category:物理学のエポニム]] [[Category:計算化学]] [[Category:量子化学]] [[Category:密度汎関数理論]]
null
2023-07-10T21:36:59Z
false
false
false
[ "Template:Cite book", "Template:Lang-en-short", "Template:Rp" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86
12,066
ハリセン
ハリセン(張り扇)は、日本の漫才・コントなどで用いられる小道具のひとつ。 昭和期にお笑いグループ・チャンバラトリオのメンバー・南方英二が考案した。 「張り倒すための扇子」を略して「張り扇」と称するとされるが、形状や役割は古典萬歳における張扇(はりおうぎ/はりせん)に由来している(後述)。 古典的な萬歳からしゃべくり漫才の成立にいたる前後、太夫(ツッコミと同様の役割)が、扇子(中啓など)の親骨を抜いたもので時折、才蔵(ボケと同様の役割)の頭をたたいて笑いを引き起こすという演出が多く用いられた。刊行年不明の速記本『滑稽高級萬歳大会』に収録されている若松家正右衛門・正之助の口演速記には、正之助が滑稽な地口を言うたびに、正右衛門が扇で正之助の頭を叩く場面が記録されている。砂川捨丸・中村春代の中村春代は扇子の骨を抜いた張扇に近い形状のものを手に持ち、砂川捨丸の頭をはたいて落ちをつけていた。 明治期から大正期にかけて、ツッコミがボケの頭を殴り飛ばすことで大きな笑いを生み出すための試行錯誤が様々にされた。漫才作家・龝村正治の証言によれば、浅田屋朝日・吉田菊丸の朝日は、中身をくり抜いた桐の拍子木で菊丸をどついていたほか、横山エンタツは若手時代に2代目菅原家千代丸と組んでいた頃、長さ2間(約3.6メートル)・直径3寸(約9センチメートル)の巨大な青竹で千代丸をどついていたという。このほか、一斗缶、ゴム長靴をツッコミに用いたコンビがいたとされる。これらの道具のほとんどは大きな音の割に痛みや怪我をもたらさない工夫がされたものだったが、長靴だけは例外的に激しい痛みをともなうものであったという。 大きな音、安全性、これまでの漫才スタイルの維持、といった課題の並立を独自の工夫で図ったのが桂梅三・花廼家すみれで、すみれの持つ張扇に癇癪玉を仕込み、梅三の頭をはたいた際に大きな音が出るようにした。 チャンバラトリオがコントで用いて「大阪名物ハリセンチョップ」と称したことによって広く知られるにいたったハリセンは、厚手の紙製で、蛇腹状に折られた一方はガムテープ等で巻いた握りになっており、反対側は扇子状に開かれている。握りの部分を持ち、扇子状の部分で扇子を畳む方向で他人の頭や顔などを叩く。ハリセンの(見かけ上の)威力の大きさを表現する目的で、非常に巨大に作ることもある。 「良い音が鳴り、なおかつ痛くない」ものがよいハリセンとされる。チャンバラトリオの弟子で、ハリセンの製造法を伝承された青野敏行は、紙の折り方を誤ると、皮膚が切れて怪我をするとしている。 前述のチャンバラトリオなどによりテレビのお笑い番組で著名になったことから、大阪または関西のお笑い文化や、行為としての「ツッコミ」を象徴するものとして、グッズやフィクション作品内のモチーフ・キャラクター名などにしばしば取り入れられる。 2022年4月15日、放送倫理・番組向上機構の青少年委員会は「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」は他人の心身の痛みを嘲笑する演出であり、視聴する青少年の発達に影響を与える可能性があるとする見解を公表。これ以降、テレビ番組でハリセンの使用が自粛されることとなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ハリセン(張り扇)は、日本の漫才・コントなどで用いられる小道具のひとつ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "昭和期にお笑いグループ・チャンバラトリオのメンバー・南方英二が考案した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「張り倒すための扇子」を略して「張り扇」と称するとされるが、形状や役割は古典萬歳における張扇(はりおうぎ/はりせん)に由来している(後述)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "古典的な萬歳からしゃべくり漫才の成立にいたる前後、太夫(ツッコミと同様の役割)が、扇子(中啓など)の親骨を抜いたもので時折、才蔵(ボケと同様の役割)の頭をたたいて笑いを引き起こすという演出が多く用いられた。刊行年不明の速記本『滑稽高級萬歳大会』に収録されている若松家正右衛門・正之助の口演速記には、正之助が滑稽な地口を言うたびに、正右衛門が扇で正之助の頭を叩く場面が記録されている。砂川捨丸・中村春代の中村春代は扇子の骨を抜いた張扇に近い形状のものを手に持ち、砂川捨丸の頭をはたいて落ちをつけていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治期から大正期にかけて、ツッコミがボケの頭を殴り飛ばすことで大きな笑いを生み出すための試行錯誤が様々にされた。漫才作家・龝村正治の証言によれば、浅田屋朝日・吉田菊丸の朝日は、中身をくり抜いた桐の拍子木で菊丸をどついていたほか、横山エンタツは若手時代に2代目菅原家千代丸と組んでいた頃、長さ2間(約3.6メートル)・直径3寸(約9センチメートル)の巨大な青竹で千代丸をどついていたという。このほか、一斗缶、ゴム長靴をツッコミに用いたコンビがいたとされる。これらの道具のほとんどは大きな音の割に痛みや怪我をもたらさない工夫がされたものだったが、長靴だけは例外的に激しい痛みをともなうものであったという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大きな音、安全性、これまでの漫才スタイルの維持、といった課題の並立を独自の工夫で図ったのが桂梅三・花廼家すみれで、すみれの持つ張扇に癇癪玉を仕込み、梅三の頭をはたいた際に大きな音が出るようにした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "チャンバラトリオがコントで用いて「大阪名物ハリセンチョップ」と称したことによって広く知られるにいたったハリセンは、厚手の紙製で、蛇腹状に折られた一方はガムテープ等で巻いた握りになっており、反対側は扇子状に開かれている。握りの部分を持ち、扇子状の部分で扇子を畳む方向で他人の頭や顔などを叩く。ハリセンの(見かけ上の)威力の大きさを表現する目的で、非常に巨大に作ることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「良い音が鳴り、なおかつ痛くない」ものがよいハリセンとされる。チャンバラトリオの弟子で、ハリセンの製造法を伝承された青野敏行は、紙の折り方を誤ると、皮膚が切れて怪我をするとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "前述のチャンバラトリオなどによりテレビのお笑い番組で著名になったことから、大阪または関西のお笑い文化や、行為としての「ツッコミ」を象徴するものとして、グッズやフィクション作品内のモチーフ・キャラクター名などにしばしば取り入れられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2022年4月15日、放送倫理・番組向上機構の青少年委員会は「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」は他人の心身の痛みを嘲笑する演出であり、視聴する青少年の発達に影響を与える可能性があるとする見解を公表。これ以降、テレビ番組でハリセンの使用が自粛されることとなった。", "title": "概要" } ]
ハリセン(張り扇)は、日本の漫才・コントなどで用いられる小道具のひとつ。 昭和期にお笑いグループ・チャンバラトリオのメンバー・南方英二が考案した。 「張り倒すための扇子」を略して「張り扇」と称するとされるが、形状や役割は古典萬歳における張扇(はりおうぎ/はりせん)に由来している(後述)。
{{Otheruseslist|[[お笑い]]の小道具としての'''ハリセン'''|[[能楽]]・[[講談]]・[[落語]]で用いられる'''張り扇'''|張扇|[[吉本興業]]所属の[[お笑いコンビ]]|ハリセンボン (お笑いコンビ)}} [[File:Harisen.jpg|thumb|ハリセンで頭部を叩かれた瞬間]] '''ハリセン'''(張り扇)は、日本の[[漫才]]・[[コント]]などで用いられる小道具のひとつ。 昭和期に[[お笑い]]グループ・[[チャンバラトリオ]]のメンバー・[[チャンバラトリオ#元メンバー|南方英二]]が考案した<ref name="ngk">[https://blogs.yahoo.co.jp/ngk_staff/11290796.html 伝統のハリセン] [[なんばグランド花月]]スタッフブログ、2011年2月19日</ref>。 「'''張り'''倒すための'''扇'''子」を略して「張り扇」と称する<ref>TBS系列『[[情報7days ニュースキャスター]]』2015年5月16日放送分</ref>とされるが、形状や役割は古典[[萬歳]]における[[張扇]](はりおうぎ/はりせん)に由来している(後述)。 == 概要 == === 先史 === 古典的な[[萬歳]]から[[しゃべくり漫才]]の成立にいたる前後、太夫([[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]と同様の役割)が、扇子([[中啓]]など)の親骨を抜いたもので時折、才蔵([[漫才#ボケとツッコミ|ボケ]]と同様の役割)の頭をたたいて笑いを引き起こすという演出が多く用いられた。刊行年不明の速記本『滑稽高級萬歳大会』に収録されている[[若松家正右衛門]]・[[若松家正之助|正之助]]の口演速記には、正之助が滑稽な[[地口]]を言うたびに、正右衛門が扇で正之助の頭を叩く場面が記録されている<ref name="kojima">[[小島貞二]]『漫才世相史 改訂新版』([[毎日新聞社]]、1978年)pp.66-79「張り扇万才の教科書」</ref>。[[砂川捨丸・中村春代]]の中村春代は扇子の骨を抜いた[[張扇]]に近い形状のものを手に持ち、砂川捨丸の頭をはたいて[[落ち]]をつけていた。 明治期から大正期にかけて、ツッコミがボケの頭を殴り飛ばすことで大きな笑いを生み出すための試行錯誤が様々にされた。漫才作家・[[穐村正治|龝村正治]]の証言によれば、[[浅田屋朝日]]・[[吉田菊丸]]の朝日は、中身をくり抜いた桐の[[拍子木]]で菊丸をどついていたほか、[[横山エンタツ]]は若手時代に[[菅原家千代丸#2代目|2代目菅原家千代丸]]と組んでいた頃、長さ2[[間]](約3.6[[メートル]])・直径3[[寸]](約9[[センチメートル]])の巨大な[[竹|青竹]]で千代丸をどついていたという<ref name="kojima"/><ref name="maeda">[[前田勇 (国語学者)|前田勇]]『上方まんざい八百年史』(杉本書店、1975年)pp.162-164</ref>。このほか、[[一斗缶]]、ゴム[[長靴]]をツッコミに用いたコンビがいたとされる<ref name="maeda"/>。これらの道具のほとんどは大きな音の割に痛みや怪我をもたらさない工夫がされたものだったが、長靴だけは例外的に激しい痛みをともなうものであったという<ref name="maeda"/>。 大きな音、安全性、これまでの漫才スタイルの維持、といった課題の並立を独自の工夫で図ったのが[[桂梅三・花廼家すみれ]]で、すみれの持つ張扇に[[癇癪玉]]を仕込み、梅三の頭をはたいた際に大きな音が出るようにした<ref name="maeda"/>。 === 紙製ハリセン === チャンバラトリオが[[コント]]で用いて「[[大阪]]名物ハリセンチョップ」と称したことによって広く知られるにいたったハリセンは、厚手の[[紙]]製で、蛇腹状に折られた一方は[[ガムテープ]]等で巻いた握りになっており、反対側は[[扇子]]状に開かれている<ref name="ngk"/>。握りの部分を持ち、扇子状の部分で扇子を畳む方向で他人の頭や顔などを叩く。ハリセンの(見かけ上の)威力の大きさを表現する目的で、非常に巨大に作ることもある。 <!-- 叩いたときに大きな音を発し、叩かれた人が大げさに反応することもあるため非常に痛そうに見えるが、実際のハリセンの威力は材料となる紙の硬さや重さに比例するため、全力で振らなければ実際はそれほど痛くはない。 -->「良い音が鳴り、なおかつ痛くない<ref name="ngk"/>」ものがよいハリセンとされる。チャンバラトリオの弟子で、ハリセンの製造法を伝承された[[青野敏行]]は、紙の折り方を誤ると、皮膚が切れて怪我をする<ref name="ngk"/><ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2015/11/22/0008586718.shtml 山根さん弟子・青野 ハリセンの思い出] [[デイリースポーツ]]、2015年11月22日</ref>としている。 前述のチャンバラトリオなどによりテレビのお笑い番組で著名になったことから、大阪または[[近畿地方|関西]]のお笑い文化や、行為としての「ツッコミ」を象徴するものとして、グッズやフィクション作品内のモチーフ・[[キャラクター]]名などにしばしば取り入れられる。 === 使用の自粛 === [[2022年]][[4月15日]]、[[放送倫理・番組向上機構]]の青少年委員会は「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」は他人の心身の痛みを嘲笑する演出であり、視聴する青少年の発達に影響を与える可能性があるとする見解を公表。これ以降、テレビ番組でハリセンの使用が自粛されることとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2022/09251101/?all=1 |title=錦鯉は大ショック…… 放送作家の放ったツイートで業界に衝撃が走ったワケ |publisher=デイリー新潮 |date=2022-09-25|accessdate=2022-10-11}}</ref>。 == ハリセンを用いたグループ・放送番組等 == ;チャンバラトリオ :ツッコミの代わりに、ボケ役をハリセンで叩いて笑いをとった。 ;[[モーレツ!!しごき教室]] :[[MBSテレビ]]のお笑い番組。一発芸などを若手芸人に即興で披露させ、おもしろくなければ司会者が「ハリセンチョップ」をお見舞いした。 ;[[THE STAMP SHOW!!]] :[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[バラエティ番組]]『[[めちゃ²イケてるッ!]]』内のコーナー。[[サイコロ]]を使ったゲームをし、負けた者をハリセンで殴打する。 ;ハリセン大喜利 :[[テレビ東京]]の番組『爆笑!おもしろ寄席』内の同コーナーで、[[鈴々舎馬風]]が回答者をハリセンで叩く「ハリセン大魔王」に扮した。 ;アコのゴッド姉ちゃん :[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の番組『[[金曜10時!うわさのチャンネル!!]]』内の同コーナーで、[[和田アキ子]]がハリセンで出演者をど突き倒した。 ;ハリセン娘小川リエ :歌手[[小川リエ]]が「あっぱれハリセン娘」を歌いながら、お客さんをポンッポンッとたたいていく。 :このハリセンは「招福ハリセン」と呼ばれ、叩かれた人は御利益が有るとか願いが叶うと言われ、〝幸福ハリセン〟として、みんな喜んで叩かれている。小川リエはチャンバラトリオの弟子。 == ハリセンが登場するフィクション作品 == ;[[のだめカンタービレ]] :登場人物の江藤耕造(桃ヶ丘音楽大学[[ピアノ]]科教授。[[大阪府]]出身)のあだ名は「ハリセン」。 ;[[魔法先生ネギま!]] :登場人物の神楽坂明日菜が武器として使用する。身の丈以上の長さの大剣になることもある。 ;[[ハヤテのごとく!]] :登場人物の[[愛沢咲夜]](関西出身)が携帯用のハリセンを持っており、状況に応じてツッコミをくり出す。 ;[[ファンタシースターオンライン]] :レアな近接武器として「ハリセン」(セイバー属性)及び「ハリセン」のソード版「芸の道」が登場する。攻撃の度にパンッという音がする。 ;[[フルメタル・パニック!]] :[[千鳥かなめ]]が[[相良宗介]]に対するツッコミによく使用している。また、当作品が参戦するゲーム『[[スーパーロボット大戦W]]』では「かなめのハリセン」というスキルパーツが登場する。 ;[[ドラゴンクエストIII そして伝説へ…]] :[[スーパーファミコン|SFC]]版・[[ゲームボーイカラー|GBC]]版には武器として「はがねのはりせん」が登場する。 ;[[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]] :打撃武器として登場している。一部のコアプレイヤーからは最強の武器とも言われている。 ;[[ラストブロンクス]] :登場人物のKUROSAWAの武器(木刀)が、隠しコマンド入力によりハリセンに変化する。 ;[[ふしぎ遊戯]] :[[翼宿]]の武器として登場する。名を[[鉄扇]]。本人曰く[[扇子|扇]]らしいが形はハリセンである。炎が出てくる。 ;[[テイルズ オブ シンフォニア]] :登場人物のロイドの武器として登場する。 ;[[ボボボーボ・ボーボボ]] :暴力描写を軽減させるため、テレビアニメ版のみ、敵味方問わずツッコミ用の道具として登場する。 ;[[サルゲッチュ|サルゲッチュ ピポサル戦記]] :オープニングで王様が王子を起こすのに使用。主人公の武器としても登場。また、敵キャラに『ハリセン像』というキャラクターが登場。 ;[[龍が如く]]シリーズ :『[[龍が如く2|2]]』と『[[龍が如く OF THE END|OF THE END]]』に登場。『2』では大阪の呼び込みと顔馴染みになることで戦闘開始時に「呼び込みハリセン」で援護してくれる。『OF THE END』では特定のサブストーリーにて武器として使用される。 ;[[恋愛ラボ]] :主人公の武器として登場する。 ;[[妖怪ウォッチ]] :主人公の武器として登場する。 ;[[スナックワールド]] :登場人物のマヨネが、ツッコミをするときに使う。また、ゲームではハリセンソードというハリセンに持ち手が付いたジャラが登場する。 ;[[がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス]] :登場人物のエビス丸の武器として登場する。強化アイテム取得により2段階までパワーアップし、最終的に金色のハリセン(かんしゃくハリセン)となる。 == グッズ == ; 大阪エヴェッサ・ハリセン : [[大阪エヴェッサ]]の公式応援グッズ。 ; ガンバハリセン : [[ガンバ大阪]]の公式応援グッズ。 ; [[明和電機]] : 製品(作品)の一つに収納型・[[数取器|カウンター]]付きハリセン「ハリセンボンブ」を発表。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 出典 == * [http://blogs.dion.ne.jp/posizen/archives/1736906.html#more ポジぜん:チャンバラトリオさんのハリセンの作り方] - [[ぜんじろう]]の[[ブログ]]「ポジティブぜんじろう」内、[[2005年]][[8月24日]]の記事{{リンク切れ|date=2018-11}} == 関連項目 == * [[中啓]] - ハリセンに形状が似ている道具。 * [[スラップスティック・コメディ#名前の由来]] - アメリカ合衆国などの笑劇で用いられた、観客の笑いを誘うために相手を叩いて大きな音を出す道具「スラップスティック」の説明。 {{DEFAULTSORT:はりせん}} [[Category:紙製品]] [[Category:演芸]] [[Category:日本の大衆文化]] [[Category:扇]]
2003-07-22T12:26:36Z
2023-10-23T06:04:46Z
false
false
false
[ "Template:リンク切れ", "Template:Otheruseslist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%BB%E3%83%B3
12,067
オック語
オック語(オックご、occitan またはlenga d'òc)は、ロマンス語の一つで、フランスの南部、正確にはロワール川以南のうち、現在のローヌ=アルプ地域圏一帯とバスク語圏やカタルーニャ語圏を除いた地域で使われる諸言語の総称である。フランス以外にもイタリアのピエモンテ州の一部で話されている。スペインのカタルーニャ州アラン谷でもオック語の一つであるガスコーニュ語の方言アラン語を話し、2010年にカタルーニャ州の公用語に加えられた。 政治的な理由からフランス語の方言(オイル語)の派生語に分類されてきたが、スペイン語、イタリア語、フランス語同様、俗ラテン語から派生したロマンス語の一つである。ガロ・ロマンス系のフランス語(オイル語)よりむしろイベロ・ロマンス系のカタルーニャ語に近い。 オック語を第一言語とする話者は、78万9,000人と推計される。 名称の由来は、現代標準フランス語のoui(「はい」の意)に当たる言葉が oc であったからとされ、中世イタリアの詩人ダンテも著書で言及している(一方、標準フランス語とされているロワール川以北では oïl であったことからオイル語と呼ばれる)。そもそも北フランスと南フランスは地理的に近いながらも大きく異なる歴史を経て今日に至っており、それが言語的対立の遠因となっている。 北フランスは中世初期に東方から侵攻して来たフランク族に支配され、その王国(フランク王国)が進めた中央集権化政策の下、ゲルマン語派に属するフランク族の言葉と俗ラテン語が混ざり合い形成されたオイル語が盛んに広められた。フランク王国が消滅し後裔のフランス王国が北フランスを支配する時代になっても、この傾向は続いた。一方、南フランスは様々な理由からフランク王国の完全な支配下には入らず、幾つかの貴族領に分かれて独自性を保ったので、その言葉もロマンス諸語としての特徴を色濃く残した言語として発展し、オック語となった。中世時代の南フランスではオック語の文学作品や詩が盛んに記され、これは今日のオック語研究の要となっている。 フランスの北と南が本質的に統一されたのは、宗教的対立をきっかけにして起きたアルビジョワ十字軍(1209年–1229年)によってであり、この戦いに敗れた南仏諸侯は北仏諸侯に服従した。フランス王国はオック語を歪んだ存在として否定し、公的な価値を剥奪した(ヴィレール=コトレの勅令)。オック語は公式の言葉ではなくなったが、民衆の話言葉として密かに生き残った。その後、フランス革命が勃発するとオック語を公用語とする自治区の形成が試みられたが、急進左派(ジャコバン派)の反発で頓挫してしまう。革命が潰えてもオック語復権の機運は消えなかったが、高まる運動が分離主義につながるのを危惧したフランス政府は、1881年の法律で学校におけるオック語教育を禁止した。しかし20世紀の初め、プロヴァンス語(オック語の一方言)の文学者フレデリック・ミストラルがノーベル文学賞を受賞し、オック語話者を大いに勇気づけた。 フランスは近代国家による中央集権化の一環として言語の人為的操作を最も強硬に、また早い段階で進めてきた国家であり、方言禁止政策や標準語という名の人工言語の制定などは他の国家にとってのモデルケースとなった。しかし、こうした行為はかつてのローマ化と同じ緩やかな民族浄化政策と呼びうるものであり、特に冷戦終結後の欧州では欧州共同体が地方言語の保護を加盟各国に促すなど、見直しが進められつつある。それでも欧州共同体の中核を成すフランス政府は、依然として地方言語を方言として弾圧し、1999年にはシラク大統領が言語保護の条約署名を拒否している。2008年6月21日にはフランス上院が地方言語の保護を求める条例を否決、南部で大きなデモ活動が行われた。 マスメディアの浸透もあってオック語は窮地に立たされており、オック語話者の高齢化も指摘され、この言葉を若い世代にどうやって継承するかが重要なテーマとなりつつある。 オック語自体も当然ながら地域によって違いがあり、大きく分けて北オック語(オック語版)、南オック語(フランス語版、イタリア語版)、ガスコーニュ語の3つに分けられる。これらを単一の言語の方言とみなすか、それぞれを異なる言語とみなすかは意見が分かれている。 オクシタニアとはオック語話者が居住する地域の総称で、フランス南部(ロワール川以南)、イタリアのピエモンテ州の一部、スペインのカタルーニャ州アラン谷などを含み、人口は1400万に達する。近代以降、数多くの例があるとおり、言語の違いは異なった帰属意識を生む可能性をもっている。それはオック語を用いる人々の間でも変わらず、多くの人々はオック語の第2公用語化やより強力な自治権を希望し、少数ながら独立を画策する者もいるとされる。 フランス南部地域を指す呼称ラングドック (Langue d'oc) は、かつて「オック語が話された地域」を意味する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オック語(オックご、occitan またはlenga d'òc)は、ロマンス語の一つで、フランスの南部、正確にはロワール川以南のうち、現在のローヌ=アルプ地域圏一帯とバスク語圏やカタルーニャ語圏を除いた地域で使われる諸言語の総称である。フランス以外にもイタリアのピエモンテ州の一部で話されている。スペインのカタルーニャ州アラン谷でもオック語の一つであるガスコーニュ語の方言アラン語を話し、2010年にカタルーニャ州の公用語に加えられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "政治的な理由からフランス語の方言(オイル語)の派生語に分類されてきたが、スペイン語、イタリア語、フランス語同様、俗ラテン語から派生したロマンス語の一つである。ガロ・ロマンス系のフランス語(オイル語)よりむしろイベロ・ロマンス系のカタルーニャ語に近い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "オック語を第一言語とする話者は、78万9,000人と推計される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "名称の由来は、現代標準フランス語のoui(「はい」の意)に当たる言葉が oc であったからとされ、中世イタリアの詩人ダンテも著書で言及している(一方、標準フランス語とされているロワール川以北では oïl であったことからオイル語と呼ばれる)。そもそも北フランスと南フランスは地理的に近いながらも大きく異なる歴史を経て今日に至っており、それが言語的対立の遠因となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "北フランスは中世初期に東方から侵攻して来たフランク族に支配され、その王国(フランク王国)が進めた中央集権化政策の下、ゲルマン語派に属するフランク族の言葉と俗ラテン語が混ざり合い形成されたオイル語が盛んに広められた。フランク王国が消滅し後裔のフランス王国が北フランスを支配する時代になっても、この傾向は続いた。一方、南フランスは様々な理由からフランク王国の完全な支配下には入らず、幾つかの貴族領に分かれて独自性を保ったので、その言葉もロマンス諸語としての特徴を色濃く残した言語として発展し、オック語となった。中世時代の南フランスではオック語の文学作品や詩が盛んに記され、これは今日のオック語研究の要となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "フランスの北と南が本質的に統一されたのは、宗教的対立をきっかけにして起きたアルビジョワ十字軍(1209年–1229年)によってであり、この戦いに敗れた南仏諸侯は北仏諸侯に服従した。フランス王国はオック語を歪んだ存在として否定し、公的な価値を剥奪した(ヴィレール=コトレの勅令)。オック語は公式の言葉ではなくなったが、民衆の話言葉として密かに生き残った。その後、フランス革命が勃発するとオック語を公用語とする自治区の形成が試みられたが、急進左派(ジャコバン派)の反発で頓挫してしまう。革命が潰えてもオック語復権の機運は消えなかったが、高まる運動が分離主義につながるのを危惧したフランス政府は、1881年の法律で学校におけるオック語教育を禁止した。しかし20世紀の初め、プロヴァンス語(オック語の一方言)の文学者フレデリック・ミストラルがノーベル文学賞を受賞し、オック語話者を大いに勇気づけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "フランスは近代国家による中央集権化の一環として言語の人為的操作を最も強硬に、また早い段階で進めてきた国家であり、方言禁止政策や標準語という名の人工言語の制定などは他の国家にとってのモデルケースとなった。しかし、こうした行為はかつてのローマ化と同じ緩やかな民族浄化政策と呼びうるものであり、特に冷戦終結後の欧州では欧州共同体が地方言語の保護を加盟各国に促すなど、見直しが進められつつある。それでも欧州共同体の中核を成すフランス政府は、依然として地方言語を方言として弾圧し、1999年にはシラク大統領が言語保護の条約署名を拒否している。2008年6月21日にはフランス上院が地方言語の保護を求める条例を否決、南部で大きなデモ活動が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "マスメディアの浸透もあってオック語は窮地に立たされており、オック語話者の高齢化も指摘され、この言葉を若い世代にどうやって継承するかが重要なテーマとなりつつある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "オック語自体も当然ながら地域によって違いがあり、大きく分けて北オック語(オック語版)、南オック語(フランス語版、イタリア語版)、ガスコーニュ語の3つに分けられる。これらを単一の言語の方言とみなすか、それぞれを異なる言語とみなすかは意見が分かれている。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "オクシタニアとはオック語話者が居住する地域の総称で、フランス南部(ロワール川以南)、イタリアのピエモンテ州の一部、スペインのカタルーニャ州アラン谷などを含み、人口は1400万に達する。近代以降、数多くの例があるとおり、言語の違いは異なった帰属意識を生む可能性をもっている。それはオック語を用いる人々の間でも変わらず、多くの人々はオック語の第2公用語化やより強力な自治権を希望し、少数ながら独立を画策する者もいるとされる。", "title": "オクシタニア" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "フランス南部地域を指す呼称ラングドック (Langue d'oc) は、かつて「オック語が話された地域」を意味する。", "title": "オクシタニア" } ]
オック語は、ロマンス語の一つで、フランスの南部、正確にはロワール川以南のうち、現在のローヌ=アルプ地域圏一帯とバスク語圏やカタルーニャ語圏を除いた地域で使われる諸言語の総称である。フランス以外にもイタリアのピエモンテ州の一部で話されている。スペインのカタルーニャ州アラン谷でもオック語の一つであるガスコーニュ語の方言アラン語を話し、2010年にカタルーニャ州の公用語に加えられた。 政治的な理由からフランス語の方言(オイル語)の派生語に分類されてきたが、スペイン語、イタリア語、フランス語同様、俗ラテン語から派生したロマンス語の一つである。ガロ・ロマンス系のフランス語(オイル語)よりむしろイベロ・ロマンス系のカタルーニャ語に近い。 オック語を第一言語とする話者は、78万9,000人と推計される。
{{出典の明記|date=2014年7月}} {{Infobox Language |name=オック語 |nativename=lenga d'òc |states={{FRA}}<br />{{ESP}}<br />{{ITA}}<br />{{MCO}} |region=[[ヨーロッパ]]<ref name="martel"/><ref name= ethnologue/> |speakers=78万9,000人<ref name=bernissan/>{{efn|ヨーロッパ全域とフランス国内の話者人口の統計値には異説もある<ref name="martel"/><ref name= ethnologue/>。}} |familycolor=インド・ヨーロッパ語族 |fam1=[[インド・ヨーロッパ語族]] |fam2=[[イタリック語派]] |fam3=[[ロマンス諸語|ロマンス語]] |fam4= |fam5= |fam6= |fam7= |script=[[ラテン文字]] |nation={{Flagicon|Cataluña}} [[カタルーニャ州]]<ref name=ABC2010/> |agency=[[:d:Q2639365|Conselh de la Lenga Occitana]] |iso1=oc |iso2=oci |iso3=oci |map=[[ファイル:Occitanie.png|thumb|center|300px|オック語の話される地域]] }} '''オック語'''(オックご、{{lang|oc|occitan}} または{{lang|oc|lenga d'òc}})は、[[ロマンス諸語|ロマンス語]]の一つで、[[フランス]]の南部、正確には[[ロワール川]]以南のうち、現在の[[ローヌ=アルプ地域圏]]一帯と[[バスク語]]圏や[[カタルーニャ語]]圏を除いた地域で使われる諸[[言語]]の総称である。フランス以外にも[[イタリア]]の[[ピエモンテ州]]の一部で話されている。[[スペイン]]の[[カタルーニャ州]][[アラン谷]]でもオック語の一つである[[ガスコーニュ語]]の方言[[アラン語]]を話し、2010年にカタルーニャ州の[[公用語]]に加えられた{{efn|アラン谷地域ではもともと公用語の一つ。2006年のカタルーニャ州自治憲章の改訂によって、州の公用語に加わる<ref name=ABC2010>{{Cite web|和書|url=http://www.abc.es/agencias/noticia.asp?noticia=525849|title=El aranés se convierte en la tercera lengua oficial de Cataluña (アラン語、カタルーニャ州の第3公用語に制定)|publisher= ABC| language= es|date=2010-09-22|accessdate=2013-05-06}}</ref>。}}。 政治的な理由から[[フランス語]]の方言([[オイル語]])の派生語に分類されてきたが、[[スペイン語]]、[[イタリア語]]、[[フランス語]]同様、[[俗ラテン語]]から派生した[[ロマンス諸語|ロマンス語]]の一つである。ガロ・ロマンス系のフランス語(オイル語)よりむしろイベロ・ロマンス系の[[カタルーニャ語]]に近い。 オック語を第一言語とする話者は、78万9,000人と推計される<ref name=bernissan>{{cite journal|first= Fabrice |last= Bernissan |year= 2012|title= Combien l'occitan compte de locuteurs en 2012&nbsp;? (2012年のオック語話者数とは?)|language= fr| journal= Revue de Linguistique Romane| volume= 76 |number= 12/2011-07/2012 | pages= 467-512}}</ref><ref name="martel">{{cite journal|last=Martel|first=Philippe|date=2007年12月|title=Qui parle occitan&nbsp;? (オック語話者とは?)|url= http://www.dglf.culture.gouv.fr/Langues_et_cite/langues_cite10.pdf|journal=Langues et cité |number=10|page=|language=fr|format=pdf| quote= …&nbsp;De fait, le nombre des locuteurs de l’occitan a pu être estimé par l’INED dans un premier temps à 526&nbsp;000 personnes, puis à 789&nbsp;000,&nbsp;… (オック語話者人口78万9,000人という数値に対し、フランス国勢調査局によると52万6,000人と推計される。)}}</ref>。 == 歴史 == [[Image:Occitan and French language signs in Toulouse.jpg|thumb|left|200px|オック語と[[フランス語]]が併記された[[道路標識]]([[トゥールーズ]]、2007年)。]] 名称の由来は、現代標準フランス語のoui(「はい」の意)に当たる言葉が ''oc'' であったからとされ、中世イタリアの詩人[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]も著書で言及している(一方、標準フランス語とされている[[ロワール川]]以北では ''oïl'' であったことから[[オイル語]]と呼ばれる)。そもそも北フランスと[[南フランス]]は地理的に近いながらも大きく異なる歴史を経て今日に至っており、それが言語的対立の遠因となっている。 北フランスは中世初期に東方から侵攻して来た[[フランク人|フランク族]]に支配され、その王国(フランク王国)が進めた中央集権化政策の下、[[ゲルマン語派]]に属するフランク族の言葉と俗ラテン語が混ざり合い形成された[[オイル語]]が盛んに広められた。フランク王国が消滅し後裔のフランス王国が北フランスを支配する時代になっても、この傾向は続いた。一方、南フランスは様々な理由からフランク王国の完全な支配下には入らず、幾つかの貴族領に分かれて独自性を保ったので、その言葉も[[ロマンス諸語]]としての特徴を色濃く残した言語として発展し、'''オック語'''となった。中世時代の南フランスではオック語の文学作品や詩が盛んに記され、これは今日のオック語研究の要となっている。 フランスの北と南が本質的に統一されたのは、宗教的対立をきっかけにして起きた[[アルビジョア十字軍|アルビジョワ十字軍]](1209年&ndash;1229年)によってであり、この戦いに敗れた南仏諸侯は北仏諸侯に服従した。フランス王国はオック語を歪んだ存在として否定し、公的な価値を剥奪した([[ヴィレール=コトレの勅令]])。オック語は公式の言葉ではなくなったが、民衆の話言葉として密かに生き残った。その後、[[フランス革命]]が勃発するとオック語を[[公用語]]とする[[自治区]]の形成が試みられたが、急進左派([[ジャコバン派]])の反発で頓挫してしまう。革命が潰えてもオック語復権の機運は消えなかったが、高まる運動が分離主義につながるのを危惧したフランス政府は、1881年の法律で学校におけるオック語教育を禁止した。しかし[[20世紀]]の初め、[[プロヴァンス語]](オック語の一方言)の文学者[[フレデリック・ミストラル]]が[[ノーベル文学賞]]を受賞し、オック語話者を大いに勇気づけた。 フランスは近代国家による中央集権化の一環として言語の人為的操作を最も強硬に、また早い段階で進めてきた国家であり、方言禁止政策や標準語という名の人工言語の制定などは他の国家にとってのモデルケースとなった。しかし、こうした行為はかつてのローマ化と同じ緩やかな民族浄化政策と呼びうるものであり、特に冷戦終結後の欧州では[[欧州共同体]]が地方言語の保護を加盟各国に促すなど、見直しが進められつつある。それでも欧州共同体の中核を成すフランス政府は、依然として地方言語を方言として弾圧し、1999年には[[ジャック・シラク|シラク大統領]]が言語保護の条約署名を拒否している。2008年6月21日にはフランス上院が地方言語の保護を求める条例を否決、南部で大きなデモ活動が行われた。 マスメディアの浸透もあってオック語は窮地に立たされており、オック語話者の高齢化も指摘され、この言葉を若い世代にどうやって継承するかが重要なテーマとなりつつある{{efn|オック語全体に地域語の分断が高度に進んだ傾向により地域語の互換性が限定されたこと、また話者の利用状況として、学校で教えても学童と両親の間でオック語で日常会話は成立しておらず (2012年)、2013年に危機言語6bに認定された<ref name= ethnologue>{{cite journal | title= Occitan(オック語)|url= https://www.ethnologue.com/language/OCI|website=Ethnologue: Languages of the World (Twenty-second edition) |accessdate=2019-06-22|language=en |last= Eberhard |first=David M| editor1=Gary F. Simons |ediror2= Charles D. Fennig| location= Dallas, Texas |publisher= SIL International |edition= 22| year= 2019}}</ref>。<blockquote> * 話者人口:11万人(フランス国内、Bernissan 2012)。話者総人口:21万8,310人。 * 地域:Auvergne-Rhône-Alpes region: Ardeche, Cantal, Drome, Haute-Loire, Isere, Loire, and Puy-de-Dome departments; Nouvelle-Aquitaine region: Charentes, Correze, and Haute-Vienne departments; Occitania region: all except Pyrenees-Orientales department; Provence-Alpes-Côte d’Azur region. * 行政区分:アンドラ公国、フランス; ポルトガル、スペイン。 * 言語状況:6b (危機)。承認 (2013, No. 595)、教育。 * 分類:Indo-European, Italic, Romance, Italo-Western, Western, Gallo-Iberian, Ibero-Romance, Oc * 地域語:地域語の分断が高度に進み、互換性が限定される。Auvergnat (Auverne, Auvernhas, Auvernhe), Gascon, Languedocien (Langadoc, Languedoc, Lengadoucian), Limousin (Lemosin), Provençal (Alpine Provençal, Mistralien, Prouvençau, Provençau), Vivaro-alpine, Niçard (Niçois)。 * 言語利用状況:子どもは学校教育で習得しても両親とオック語で会話できない (2012年)。家庭内、(地方部の) 地域社会。若干の青年層、全成人、ごく少数の学童。肯定的な受容。フランス語併用 [fra]。 * 言語開発識字率 L2: 99%。文学作品。新聞。定期刊行物。文法。キリスト教聖書:2013年刊<ref name= ethnologue/>。</blockquote>}}。 == 方言 == [[Image:Dialectes de l'occitan selon Pierre Bec.jpg|thumb|right|300px|オック語の方言 ({{lang|oc|Pèire Bèc}}作成)]] オック語自体も当然ながら地域によって違いがあり、大きく{{仮リンク|北オック語|oc|Nòrd-occitan}}、{{仮リンク|南オック語|fr|Occitan méridional|it|Occitano meridionale}}、[[ガスコーニュ語]]の3つの[[方言|方言群]]に分けられる。 *北オック語 **[[リムーザン語]] **[[オーヴェルニュ語]] **[[ビバロ・アルピーネ語]] *南オック語 **[[プロヴァンス語]] ***[[ニサール語]](プロヴァンス語の方言) **[[ラングドック語]] *[[ガスコーニュ語]] **[[アラン語]] == オクシタニア == {{main|オクシタニア}} [[Image:Flag of Occitania (with star).svg|right|thumb|200px|オクシタニア旗]] '''オクシタニア'''とはオック語話者が居住する地域の総称で、[[フランス]]南部([[ロワール川]]以南)、[[イタリア]]の[[ピエモンテ州]]の一部、[[スペイン]]の[[カタルーニャ州]][[アラン谷]]などを含み、人口は1400万に達する。近代以降、数多くの例があるとおり、言語の違いは異なった帰属意識を生む可能性をもっている。それはオック語を用いる人々の間でも変わらず、多くの人々はオック語の第2公用語化やより強力な自治権を希望し、少数ながら独立を画策する者もいるとされる。 フランス南部地域を指す呼称[[ラングドック]] (Langue d'oc) は、かつて「オック語が話された地域」を意味する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary|オック語}} *[[ラングドック=ルシヨン地域圏]] *[[オクシタニア]] *[[モナコ語]] *[[古典式つづり (オック語)]] *[[エスコロダウポ式つづり]] == 外部リンク == {{Wikipedia|oc}} *[http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=OCI Ethnologue report for Occitan] 言語学的な分析 {{Languageicon|En}} *[http://www.orbilat.com/Modern_Romance/Gallo-Romance/Occitan/index.html Overview and grammar of Occitan] 特徴と文法{{Languageicon|en}} *[http://www.websters-online-dictionary.org/definition/Occitan-english/ Occitan - English Dictionary] オック語英語辞典 *[http://amourdelire.free.fr/diccionari/ DICCIONARI GENERAL OCCITAN DE CANTALAUSA] {{リンク切れ|date=2019年6月}}オック語辞典 {{フランス語}} {{ロマンス諸語}} {{Normdaten}} {{language-stub}} {{DEFAULTSORT:おつくこ}} [[Category:オック語|*]] [[Category:フランスの言語]] [[Category:スペインの言語]] [[Category:イタリアの言語]] [[Category:モナコの言語]] [[Category:ロマンス諸語]] [[Category:地方言語]] [[Category:ラングドック]]
2003-07-22T13:26:03Z
2023-11-09T04:25:24Z
false
false
false
[ "Template:Efn", "Template:Wiktionary", "Template:Languageicon", "Template:リンク切れ", "Template:Normdaten", "Template:Language-stub", "Template:Infobox Language", "Template:脚注ヘルプ", "Template:仮リンク", "Template:フランス語", "Template:Notelist", "Template:Lang", "Template:Main", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Wikipedia", "Template:ロマンス諸語", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E8%AA%9E
12,068
成仏
成仏(じょうぶつ、buddhahood; サンスクリット語: buddhatva; パーリ語: buddhatta or buddhabhāva)とは、「目覚めたもの」という状態・階位を意味する仏陀となったという仏教用語。成仏への捉え方は宗派によって異なる。 大乗仏教における最終目標である菩薩への道においては、Samyaksambuddhahoodとされ、すべての衆生にドゥッカ(苦)停止への道を教え利益を与えるものである。対比的に、上座部仏教の最終目標は当人が阿羅漢になることである。 仏教の開祖釈迦は、仏陀すなわち「覚(さと)れる者」となった。このことを指して、悟りをさまたげる煩悩を断って輪廻の苦から解き放たれる意味で解脱といい、仏陀(覚れる者)に成るという意味で成仏という。 釈迦の弟子たちは、釈迦と同様の解脱を得るため釈迦より指導を受け、あるいは釈迦の死後はその教えに随い、釈迦の説いた教義を学び、教団の戒律を守り、三昧や禅定とよばれる瞑想を行なう、いわゆる戒・定・慧(三学)の修行に努めた。その結果として釈迦と同様に輪廻から解脱できる境地(=涅槃)に達した人物を阿羅漢と呼ぶ。これも広い意味では成仏であるが、教祖である釈迦に対する尊崇の念から阿羅漢に成ることを成仏するとは通常言わず、あくまで仏陀は無師独悟した偉大なる釈迦ただ一人であるとする。つまり、オリジナルな悟りに達したのは釈迦のみで、阿羅漢に達した弟子はそのコピーにすぎないと考えるのである。 スリランカ・ミャンマー・タイなどに伝わる南方の上座部仏教では、涅槃(般涅槃)を求め、阿羅漢として解脱することを最終目標とする。しかし、釈迦の教えは仏教徒にとっては普遍的な宇宙の真理でもあるとされる。 初期大乗仏教が成立すると、現世で直接に阿羅漢果を得ることが難しい在家信者であっても、輪廻を繰り返す中でいつかは釈迦と同様にオリジナルなさとりに到達できる(=成仏できる)のではないかと考えられ始めた。 成仏をめざして修行する者を菩薩とよぶが、釈迦が前世に菩薩であった時のようにたゆまぬ利他行に努めることで、自分もはるかに遠い未来に必ず成仏できる。そう信じて菩薩の修行である六波羅蜜を日々行じていくのが、初期の大乗仏教の教えであった。 さらに後期大乗仏教になると、それらの修行の階程をふむことすら歴劫修行と考えられるようになり、一切衆生は本来成仏していると考える思想(如来蔵・本覚)や、信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただちに涅槃に到達できるとする密教の即身成仏などの思想も生まれた。 日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。 こうした表現は、日本古来の死生観が仏教に入り込みできあがった、仏教者が死を迎えてのちに仏のいのちに帰ると考えられた信仰を背景として、この国土である娑婆世界から阿弥陀如来が在す西方国土の極楽浄土へ転生する浄土信仰とも相まって生まれたものである。日本の仏教が、本来の仏教から変化・変形している事は、知られている。 太平洋戦争当時のアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、彼女の日本文化についての著作「菊と刀」の中で、「~彼ら(日本人)は、死後に生前の行いに従って、極楽と地獄に行き先が分けられる、という(本来の)仏教のアイデア(因果応報)を拒絶したのだ。どんな人間でも、死んだらブッダに成る、というのだ。~他の仏教の国で、そんな事を言う所はない。~」と述べている。 また、民事訴訟法学者である高橋宏志は、法律家は人の役に立つ仕事をしていればよく、感謝されるのであれば成仏できるという趣旨の短文を雑誌に寄稿した。このことから、法律家の間では、司法制度改革に伴い若い弁護士が経済的に困窮したり廃業したりする現象を成仏と表現することが広まっている。つまり、安楽な世界に行くことではなく、ある意味逆の状態を指す言葉として使用されており、「会社員か公務員になった方がいいよ」という者まで現れている実情にある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "成仏(じょうぶつ、buddhahood; サンスクリット語: buddhatva; パーリ語: buddhatta or buddhabhāva)とは、「目覚めたもの」という状態・階位を意味する仏陀となったという仏教用語。成仏への捉え方は宗派によって異なる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大乗仏教における最終目標である菩薩への道においては、Samyaksambuddhahoodとされ、すべての衆生にドゥッカ(苦)停止への道を教え利益を与えるものである。対比的に、上座部仏教の最終目標は当人が阿羅漢になることである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "仏教の開祖釈迦は、仏陀すなわち「覚(さと)れる者」となった。このことを指して、悟りをさまたげる煩悩を断って輪廻の苦から解き放たれる意味で解脱といい、仏陀(覚れる者)に成るという意味で成仏という。", "title": "初期仏教" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "釈迦の弟子たちは、釈迦と同様の解脱を得るため釈迦より指導を受け、あるいは釈迦の死後はその教えに随い、釈迦の説いた教義を学び、教団の戒律を守り、三昧や禅定とよばれる瞑想を行なう、いわゆる戒・定・慧(三学)の修行に努めた。その結果として釈迦と同様に輪廻から解脱できる境地(=涅槃)に達した人物を阿羅漢と呼ぶ。これも広い意味では成仏であるが、教祖である釈迦に対する尊崇の念から阿羅漢に成ることを成仏するとは通常言わず、あくまで仏陀は無師独悟した偉大なる釈迦ただ一人であるとする。つまり、オリジナルな悟りに達したのは釈迦のみで、阿羅漢に達した弟子はそのコピーにすぎないと考えるのである。", "title": "初期仏教" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "スリランカ・ミャンマー・タイなどに伝わる南方の上座部仏教では、涅槃(般涅槃)を求め、阿羅漢として解脱することを最終目標とする。しかし、釈迦の教えは仏教徒にとっては普遍的な宇宙の真理でもあるとされる。", "title": "上座部仏教" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "初期大乗仏教が成立すると、現世で直接に阿羅漢果を得ることが難しい在家信者であっても、輪廻を繰り返す中でいつかは釈迦と同様にオリジナルなさとりに到達できる(=成仏できる)のではないかと考えられ始めた。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "成仏をめざして修行する者を菩薩とよぶが、釈迦が前世に菩薩であった時のようにたゆまぬ利他行に努めることで、自分もはるかに遠い未来に必ず成仏できる。そう信じて菩薩の修行である六波羅蜜を日々行じていくのが、初期の大乗仏教の教えであった。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "さらに後期大乗仏教になると、それらの修行の階程をふむことすら歴劫修行と考えられるようになり、一切衆生は本来成仏していると考える思想(如来蔵・本覚)や、信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただちに涅槃に到達できるとする密教の即身成仏などの思想も生まれた。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。", "title": "日本文化のなかでの「成仏」" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "こうした表現は、日本古来の死生観が仏教に入り込みできあがった、仏教者が死を迎えてのちに仏のいのちに帰ると考えられた信仰を背景として、この国土である娑婆世界から阿弥陀如来が在す西方国土の極楽浄土へ転生する浄土信仰とも相まって生まれたものである。日本の仏教が、本来の仏教から変化・変形している事は、知られている。", "title": "日本文化のなかでの「成仏」" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "太平洋戦争当時のアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、彼女の日本文化についての著作「菊と刀」の中で、「~彼ら(日本人)は、死後に生前の行いに従って、極楽と地獄に行き先が分けられる、という(本来の)仏教のアイデア(因果応報)を拒絶したのだ。どんな人間でも、死んだらブッダに成る、というのだ。~他の仏教の国で、そんな事を言う所はない。~」と述べている。", "title": "日本文化のなかでの「成仏」" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、民事訴訟法学者である高橋宏志は、法律家は人の役に立つ仕事をしていればよく、感謝されるのであれば成仏できるという趣旨の短文を雑誌に寄稿した。このことから、法律家の間では、司法制度改革に伴い若い弁護士が経済的に困窮したり廃業したりする現象を成仏と表現することが広まっている。つまり、安楽な世界に行くことではなく、ある意味逆の状態を指す言葉として使用されており、「会社員か公務員になった方がいいよ」という者まで現れている実情にある。", "title": "日本文化のなかでの「成仏」" } ]
成仏とは、「目覚めたもの」という状態・階位を意味する仏陀となったという仏教用語。成仏への捉え方は宗派によって異なる。 大乗仏教における最終目標である菩薩への道においては、Samyaksambuddhahoodとされ、すべての衆生にドゥッカ(苦)停止への道を教え利益を与えるものである。対比的に、上座部仏教の最終目標は当人が阿羅漢になることである。
{{出典の明記|date=2017年10月11日 (水) 04:33 (UTC)}} {{ Infobox Buddhist term | title = 成仏 | en = Buddhahood | pi = buddhatta , buddhabhāva | sa = buddhatva | my = | my-Latn = | zh = 成佛 | zh-Latn = | ja = 成仏 | ja-Latn = }} '''成仏'''(じょうぶつ、buddhahood; {{lang-sa|buddhatva}}; {{lang-pi|buddhatta}} or {{lang|pi|buddhabhāva|italic=no}})とは、「目覚めたもの」という状態・階位を意味する[[仏陀]]となったという[[仏教用語]]<ref>buddhatva, बुद्धत्व. [http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=buddhatva&trans=%E7%BF%BB%E8%A8%B3&direction=AU Spoken Sanskrit Dictionary]. (accessed: January 10, 2016)</ref>。成仏への捉え方は宗派によって異なる。 [[大乗仏教]]における最終目標である[[菩薩]]への道においては、Samyaksambuddhahoodとされ、すべての衆生に[[苦 (仏教)|ドゥッカ]](苦)停止への道を教え利益を与えるものである<ref name=gethin1998p224>{{cite book|last1=Gethin|first1=Rupert|title=The foundations of Buddhism|date=1998|publisher=Oxford University Press|location=Oxford [England]|isbn=0-19-289223-1|pages=224–234|edition=1. publ. paperback|url=https://archive.org/details/foundationsofbud00rupe}}</ref>。対比的に、[[上座部仏教]]の最終目標は当人が[[阿羅漢]]になることである<ref name=gethin1998p224/>。 == 初期仏教 == [[仏教]]の開祖[[釈迦]]は、[[仏陀]]すなわち「覚(さと)れる者」となった。このことを指して、[[悟り]]をさまたげる[[煩悩]]を断って[[輪廻]]の苦から解き放たれる意味で[[解脱]]といい、仏陀(覚れる者)に成るという意味で成仏という。 釈迦の[[弟子]]たちは、釈迦と同様の解脱を得るため釈迦より指導を受け、あるいは釈迦の死後はその教えに随い、釈迦の説いた教義を学び、教団の戒律を守り、[[三昧]]や[[禅定]]とよばれる瞑想を行なう、いわゆる戒・定・慧([[三学]])の修行に努めた。その結果として釈迦と同様に輪廻から解脱できる境地(=涅槃)に達した人物を[[阿羅漢]]と呼ぶ。これも広い意味では成仏であるが、教祖である釈迦に対する尊崇の念から阿羅漢に成ることを成仏するとは通常言わず、あくまで仏陀は無師独悟した偉大なる釈迦ただ一人であるとする。つまり、オリジナルな悟りに達したのは釈迦のみで、阿羅漢に達した弟子はそのコピーにすぎないと考えるのである。 == 上座部仏教 == スリランカ・ミャンマー・タイなどに伝わる南方の[[上座部仏教]]では、[[涅槃]](般涅槃)を求め、阿羅漢として解脱することを最終目標とする。しかし、釈迦の教えは仏教徒にとっては普遍的な宇宙の真理でもあるとされる。 <!-- なお、インドにおいてブッダ(目覚めた人)という言葉は普遍的なものとして知られ、ジャイナ教の[[マハーヴィーラ]]もブッダと呼ばれた形跡があることから、この当時にはブッダ信仰がすでに存在したと考えられている。 これが時代を経ると、釈迦の過去にも同様の真理に到達した[[過去七仏|過去仏]]が存在したと考えられるようになり、また信仰されるようになった。のちに過去仏信仰は未来へと波及し、釈迦入滅の56億7000万年後には[[未来仏]]である[[弥勒]]如来が出現すると信じられるようにもなる。 --> == 大乗仏教 == 初期[[大乗仏教]]が成立すると、現世で直接に阿羅漢果を得ることが難しい在家信者であっても、輪廻を繰り返す中でいつかは釈迦と同様にオリジナルなさとりに到達できる(=成仏できる)のではないかと考えられ始めた。 成仏をめざして修行する者を[[菩薩]]とよぶが、釈迦が前世に菩薩であった時のようにたゆまぬ利他行に努めることで、自分もはるかに遠い未来<ref group="注釈">だいたい三大[[阿僧祇]](10<sup>56*3</sup>)[[劫]]も先といわれる</ref>に必ず成仏できる。そう信じて菩薩の修行である[[六波羅蜜]]を日々行じていくのが、初期の大乗仏教の教えであった。 さらに後期大乗仏教になると、それらの修行の階程をふむことすら[[歴劫修行]]と考えられるようになり、一切衆生は本来成仏していると考える思想([[如来蔵]]・[[本覚]])や、[[信]]によって[[本尊]]に[[加持]]することで煩悩に結縛された状態から、ただちに涅槃に到達できるとする[[密教]]の[[即身成仏]]などの思想も生まれた。 == 日本文化のなかでの「成仏」 == 日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に[[極楽]]あるいは[[天国]]といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の[[霊魂]]が現世をさまよっていることを指していることがある。 こうした表現は、日本古来の[[死生観]]が仏教に入り込みできあがった、仏教者が死を迎えてのちに仏のいのちに帰ると考えられた[[信仰]]を背景として、この国土である[[娑婆世界]]から[[阿弥陀如来]]が在す西方国土の[[極楽浄土]]へ転生する浄土信仰とも相まって生まれたものである。日本の仏教が、本来の仏教から変化・変形している事は、知られている<ref>Alan Macfarlane,[[アラン・マクファーレン]],Japan Through the Looking Glass,2007,Profile Books,page198,199</ref>。 太平洋戦争当時のアメリカの文化人類学者[[ルース・ベネディクト]]は、彼女の日本文化についての著作「菊と刀」の中で、「~彼ら(日本人)は、死後に生前の行いに従って、極楽と地獄に行き先が分けられる、という(本来の)仏教のアイデア([[因果応報]])を拒絶したのだ。どんな人間でも、死んだらブッダに成る、というのだ。~他の仏教の国で、そんな事を言う所はない。~」と述べている<ref>Ruth Benedict,The Chrysanthemum and the Sword,1946 first published, Mariner Books,2005,page238</ref>。 また、[[民事訴訟法]][[学者]]である[[高橋宏志]]は、法律家は人の役に立つ仕事をしていればよく、感謝されるのであれば成仏できるという趣旨の短文を雑誌<ref>「法学教室」2006年4月号</ref>に寄稿した。このことから、[[法律家]]の間では、司法制度改革に伴い若い弁護士が経済的に困窮したり廃業したりする現象を成仏と表現することが広まっている。つまり、安楽な世界に行くことではなく、ある意味逆の状態を指す言葉として使用されており、「会社員か公務員になった方がいいよ」という者まで現れている実情にある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[如来]] * [[菩薩]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しようふつ}} [[Category:仏教用語]] [[Category:死生観]] [[Category:死に関する慣習]]
2003-07-22T13:58:40Z
2023-08-26T15:10:56Z
false
false
false
[ "Template:Notelist", "Template:Cite book", "Template:Lang-pi", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Buddhism2", "Template:出典の明記", "Template:Infobox Buddhist term", "Template:Lang-sa" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F
12,070
寸(すん)は、尺貫法における長さの単位であり、日本では約 30.303 mmである。尺の10分の1と定義される。寸の10分の1が分(ぶ)である。平安時代には「す」と書かれることもある。古代の文献では訓で「き」と呼ぶこともある。 日本では明治時代に1尺=10/33 mと定められたので、1寸は正確に1/33 m、すなわち約30.303 mmである。台湾もその定義を従う。これは曲尺による寸であり、他に鯨尺に基づく寸などもある。鯨尺での1寸は正確に25/660 mであり、約37.879 mmである。 中国の市制では、1尺=1/3 mと定めたので、1寸は約33.333 mmとなる。なお、中国ではかつて国際単位系のデシメートル(dm)を「公寸」、ヤード・ポンド法のインチを「英寸」と呼んでいたが、現在はデシメートルは「分米」という。 漢字の「寸」は右手の形に指一本を書き加えた象形文字で、当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。これは、手首に親指を当てて脈拍を計る様子を形取ったものであり、そこから親指の幅を指す現在の寸の意味になったという。また、『説文解字』には「人の手へだつること一寸、動脈これを寸口といふ」という記述があり、ここから、手の平の下端から1寸の位置で脈を計るため、「寸」の文字がこの長さを表すようになったとする説もある。 一方、古代中国では音階の基本音(黄鐘(おうしき))を出す音の笛に、粒が均一な秬黍(くろきび)90粒を並べ、その1粒分の長さを分(ぶ)と定め、その10倍を寸としたともいわれている。 日本では、成人男性の身長はおおむね5尺台(約150 cm – 180 cm)であったので、身長を言う時には「5尺」を省略してその下の寸だけを言った。例えば「身長4寸」と言われれば、それが5尺4寸の意味であるということは、尺貫法が広く使われていた時代にはほぼ常識であった。また、勾配(角度)を表すときに、水平方向1尺に対する垂直方向の長さを寸を単位として表していた。 古代には馬の体高についても同様に尺を略した言い方が使われることがあった。日本在来馬を参照。 現在では一部業界を除き、メートル法が普及したため、一般には単位として使用されることは少なくなった。しかし、今でも「寸法」という言葉もあるように「長さ」の意味でも用い、さらに「寸劇」「寸志」「寸評」「寸断」「一寸(ちょっと)」「寸暇」など、短いこと、わずかなことの意味として用いるなど、言葉としては様々な形で残っている。 漢方医学の鍼の長さに寸がよく使われる。なお、経穴の位置を示すのに、伝統的に中指の第一関節から第二関節までの(紋の間の)の長さを1寸とすることがあった。丹田の位置を示す「へそ下三寸」など。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "寸(すん)は、尺貫法における長さの単位であり、日本では約 30.303 mmである。尺の10分の1と定義される。寸の10分の1が分(ぶ)である。平安時代には「す」と書かれることもある。古代の文献では訓で「き」と呼ぶこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本では明治時代に1尺=10/33 mと定められたので、1寸は正確に1/33 m、すなわち約30.303 mmである。台湾もその定義を従う。これは曲尺による寸であり、他に鯨尺に基づく寸などもある。鯨尺での1寸は正確に25/660 mであり、約37.879 mmである。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中国の市制では、1尺=1/3 mと定めたので、1寸は約33.333 mmとなる。なお、中国ではかつて国際単位系のデシメートル(dm)を「公寸」、ヤード・ポンド法のインチを「英寸」と呼んでいたが、現在はデシメートルは「分米」という。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "漢字の「寸」は右手の形に指一本を書き加えた象形文字で、当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。これは、手首に親指を当てて脈拍を計る様子を形取ったものであり、そこから親指の幅を指す現在の寸の意味になったという。また、『説文解字』には「人の手へだつること一寸、動脈これを寸口といふ」という記述があり、ここから、手の平の下端から1寸の位置で脈を計るため、「寸」の文字がこの長さを表すようになったとする説もある。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一方、古代中国では音階の基本音(黄鐘(おうしき))を出す音の笛に、粒が均一な秬黍(くろきび)90粒を並べ、その1粒分の長さを分(ぶ)と定め、その10倍を寸としたともいわれている。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本では、成人男性の身長はおおむね5尺台(約150 cm – 180 cm)であったので、身長を言う時には「5尺」を省略してその下の寸だけを言った。例えば「身長4寸」と言われれば、それが5尺4寸の意味であるということは、尺貫法が広く使われていた時代にはほぼ常識であった。また、勾配(角度)を表すときに、水平方向1尺に対する垂直方向の長さを寸を単位として表していた。", "title": "用法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古代には馬の体高についても同様に尺を略した言い方が使われることがあった。日本在来馬を参照。", "title": "用法" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在では一部業界を除き、メートル法が普及したため、一般には単位として使用されることは少なくなった。しかし、今でも「寸法」という言葉もあるように「長さ」の意味でも用い、さらに「寸劇」「寸志」「寸評」「寸断」「一寸(ちょっと)」「寸暇」など、短いこと、わずかなことの意味として用いるなど、言葉としては様々な形で残っている。", "title": "用法" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "漢方医学の鍼の長さに寸がよく使われる。なお、経穴の位置を示すのに、伝統的に中指の第一関節から第二関節までの(紋の間の)の長さを1寸とすることがあった。丹田の位置を示す「へそ下三寸」など。", "title": "用法" } ]
寸(すん)は、尺貫法における長さの単位であり、日本では約 30.303 mmである。尺の10分の1と定義される。寸の10分の1が分(ぶ)である。平安時代には「す」と書かれることもある。古代の文献では訓で「き」と呼ぶこともある。
{{単位 |名称 = 寸 |読み = すん |画像 = |記号 = |度量衡 = [[尺貫法]] |単位系 = |種類 = |物理量 = [[長さ]] |SI = 約 30.303 mm(日本・台湾)<br />約 33.333 mm(中華人民共和国)<br />約 37.148 mm(香港) |組立 = |定義 = 正確に(1/33)メートル = (1/10)尺 |由来 = [[親指]]の厚みまたは、[[掌]]の下端から脈を計る位置までの距離 |語源 = }} '''寸'''(すん)は、[[尺貫法]]における[[長さ]]の[[単位]]であり、日本では約 30.303 [[ミリメートル|mm]]である。[[尺]]の10分の1と定義される。寸の10分の1が[[分 (数)|分]](ぶ)である。平安時代には「す」と書かれることもある。古代の文献では訓で「き」と呼ぶこともある。 ==定義== 日本では明治時代に1尺={{sfrac|10|33}} [[メートル|m]]と定められたので、1寸は正確に{{sfrac|33}} m、すなわち約30.303 mmである。[[台湾]]もその定義を従う。これは[[曲尺]]による寸であり、他に[[鯨尺]]に基づく寸などもある。鯨尺での1寸は正確に{{sfrac|25|660}} mであり、約37.879 mmである。 中国の[[市制 (単位系)|市制]]では、1尺={{sfrac|3}} mと定めたので、1寸は約33.333 mmとなる。なお、中国ではかつて[[国際単位系]]のデシメートル(dm)を「公寸」、[[ヤード・ポンド法]]の[[インチ]]を「英寸」と呼んでいたが、現在は[[デシメートル]]は「分米」という。 ==起源== 漢字の「寸」は右手の形に指一本を書き加えた象形文字で、当初の寸は[[親指]]の幅を指す[[身体尺]]であったと考えられている<ref>[https://www.kanken.or.jp/kanken/trivia/category05/170506.html 昔からある単位を理解しよう] 公益財団法人 日本漢字能力検定協会、2020年2月8日閲覧。</ref><ref>たとえば、日本書紀巻第廿四には長さ4寸余りの[[常世神]]という虫が登場する。この虫はアゲハチョウの幼虫と考えられており、寸法は親指の幅4つ分としてつじつまが合う。</ref>。これは、手首に親指を当てて脈拍を計る様子を形取ったものであり、そこから親指の幅を指す現在の寸の意味になったという。また、『[[説文解字]]』には「人の手へだつること一寸、動脈これを寸口といふ」という記述があり、ここから、手の平の下端から1寸の位置で脈を計るため、「寸」の文字がこの長さを表すようになったとする説もある。 一方、古代中国では音階の基本音(黄鐘(おうしき))を出す音の笛に、粒が均一な秬黍(くろきび)90粒を並べ、その1粒分の長さを分(ぶ)と定め、その10倍を寸としたともいわれている<ref>[http://www2.pref.iwate.jp/~hp2088/park/kikaku/44th_doryokou.html 第44回・企画展「度量衡と交易」 ~長さ・容積・重さをはかる~] 岩手県立農業博物館、2020年2月8日閲覧。</ref>。 ==用法== [[日本]]では、成人男性の身長はおおむね5尺台(約150 cm – 180 cm)であったので、身長を言う時には「5尺」を省略してその下の寸だけを言った。例えば「身長4寸」と言われれば、それが5尺4寸の意味であるということは、尺貫法が広く使われていた時代にはほぼ常識であった。また、[[縦断勾配|勾配]]([[角度]])を表すときに、水平方向1尺に対する垂直方向の長さを寸を単位として表していた。 古代には馬の体高についても同様に尺を略した言い方が使われることがあった。[[日本在来馬]]を参照。 現在では一部業界を除き、[[メートル法]]が普及したため、一般には単位として使用されることは少なくなった。しかし、今でも「寸法」という言葉もあるように「長さ」の意味でも用い、さらに「寸劇」「寸志」「[[:wikt:寸評|寸評]]」「寸断」「[[:wikt:一寸|一寸(ちょっと)]]」「[[:wikt:寸暇|寸暇]]」など、短いこと、わずかなことの意味として用いるなど、言葉としては様々な形で残っている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/166.html |title=最近気になる放送用語 「寸断」? |publisher=[[NHK放送文化研究所]] |accessdate=2019-07-01}}</ref>。 [[漢方医学]]の[[鍼]]の長さに寸がよく使われる。なお、[[経穴]]の位置を示すのに、伝統的に中指の第一関節から第二関節までの(紋の間の)の長さを1寸とすることがあった。[[丹田]]の位置を示す「へそ下三寸」など。 == 単位の相関 == {{長さの単位 (短)}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== * [https://www.tan-i-kansan.com/category/%E5%AF%B8%E3%81%AE%E9%95%B7%E3%81%95%EF%BD%9C%E5%8D%98%E4%BD%8D%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8/ 寸(長さ)単位換算表] == 関連項目 == {{wiktionary|寸}} * [[長さの比較]] * [[単位の換算一覧]] * [[同身寸法]] * [[寸部]] - [[漢字]]の[[部首]]。 {{尺貫法の単位}} {{history-stub}} {{DEFAULTSORT:すん}} [[Category:尺貫法]] [[Category:長さの単位]] [[Category:身体尺]]
2003-07-22T14:19:57Z
2023-11-19T06:18:22Z
false
false
false
[ "Template:Wiktionary", "Template:単位", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Sfrac", "Template:長さの単位 (短)", "Template:尺貫法の単位", "Template:History-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%B8
12,074
日米修好通商条約
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、英: Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。安政五カ国条約の2つ。 江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。 アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。日米修好通商条約は後に調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。 アメリカ側の領事裁判権に関しては、外国人が日本で法を犯すことがあった場合には、日本の法律で罰せずに、外国の法律で罰することは、家康以来の祖法で定められていたので、進んでこれを認め、また日本側の領事裁判権に関しては、当時日本は海外渡航を禁じていたので、これを明記せずに曖昧にされた。一般的に、アメリカよりも日本の方がはるかに刑罰が重かったからである。ただし、ロシアとの条約では、領事裁判権の双務性が明確に規定されたが、これは国境が確定しておらず、樺太の事情を考慮したためであろう。また、関税率に関しても、日本は自主的に輸入税を20%(一般の財20%、酒類35%、日本に居住する外国人の生活必需品5%)、輸出税を5%と決定しており、一般の財に対して20%という関税率は、アヘン戦争によって強制された清国の5%、インドの2.5%よりもはるかに高く、保護関税政策を採用していたアメリカの40%には及ばないものの、当時の列強諸国が互いに貿易する際に課していたのと同等の水準であった。しかも条約の付属文書である貿易章程の末尾に、「神奈川開港の5年後に日本側が望めば、輸入税ならびに輸出税は改訂しなければならない」という税率改訂の規定があるので、協定関税制といっても、日本側の自主的判断で税率改訂を提起すれば、アメリカは必ず同意しなければならず、逆にアメリカ側に関税率の改訂を提起する権利はなく、関税自主権がないとは言えない。もっとも、アメリカは国内手続きだけで税率を改訂できるので対等ではない。さらに、日本が輸出税にこだわったため、双務的最恵国待遇条項の削除を日本は受け入れた。その後幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五か国条約)が、日米条約では、関税率は日本側の希望のみで改訂可能であったが、日英条約では英国政府の希望でも税率を改訂可能なように変更されてしまった。さらに、日米修好通商条約の税率が他国にも適用されるはずであったが、日英条約では、イギリス側のごり押しにより、イギリスの主力輸出品目である綿製品と羊毛製品の税率が5%にされてしまった。こうして不平等条約への端緒が開かれた。 その後、尊攘派のテロ活動、薩摩の生麦事件、一橋慶喜の奉勅攘夷政策、長州の下関戦争などによって、列強の介入を招き、幕府は長州藩外国船砲撃事件の賠償金300万ドルの支払いや尊攘派の兵庫開港反対によって、関税引き下げ交渉を余儀なくされ、せっかく勝ち取った従価税方式で20%の関税を放棄させられ、慶応2年(1866年)5月13日、輸入税も輸出税もすべて一律に従量税方式で5%(インフレ期は実質税率約3%)という改税約書(江戸協約)の調印を強いられた。日米修好通商条約の貿易章程にあった、日本側が望めば関税率を改訂しなければならないという条件も削られてしまった。この結果、関税自主権を喪失し、低関税率で固定されるという敗戦国に課せられる屈辱的な不平等条約となった。 ただし、日米修好通商条約第2条に「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定され、日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合アメリカが仲介することを宣言し、他の四カ国との条約にこの文言はなかった。しかし、文久2年(1862年)ハリスが離日した後は、南北戦争(1861年-1865年)の影響もあり、アメリカ政府が対日外交を欧州諸国との協調路線に転換したこともあって、これらの条文が履行されることはなかった。また、第13条に「1872年7月4日には条約を改正できる」と設けられた。しかし、後年の新明治日本政府は、その時点で組織が整っていなかったため交渉開始の延期を申し入れ、1876年から各国と条約改正交渉を開始したが、難航し、1894年7月16日の日英通商航海条約の締結により領事裁判権の撤廃が実現。関税自主権を回復したのは1911年2月21日調印の新日米通商航海条約まで要した。 条約書原本は、1997年(平成9年)に、歴史資料として重要文化財に指定された。 日米和親条約により初代日本総領事に赴任したタウンゼント・ハリスが通商条約の締結を計画。しかし、日本側は消極的態度に終始した。ハリスは安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城に登城し、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡した。ハリスの主張によりアメリカとの通商はやむを得ないという雰囲気が醸成され、下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を全権として、安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を開始させた。交渉は15回に及び、清直と忠震は国内情勢の困難さから「いま江戸を開市しても商売にならない」旨を説いたが、ハリスはこれを信じず通商開始を優先させた。交渉内容に関して双方の合意が得られると、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を得た上での条約締結を企図し、自ら忠震を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京して尽力したが、攘夷論の少壮公家が抵抗した。孝明天皇自身「和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば神国日本を汚すことにはならない」と考えていたが、「対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらす」と考え勅許を拒否した。 ハリスは清と戦争中(1856年 - 1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本が友好的なアメリカと通商条約を結ぶ他無いと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。 正睦は事態打開のため松平春嶽の大老就任を画策したが、就任したのは井伊直弼であった。直弼は、条約調印当日の6月19日(1858年7月29日)の閣議でも「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、最後まで勅許を優先させることを主張した。しかし開国・積極交易派の巨頭であった老中の松平忠固は「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張。幕閣の大勢は忠固に傾き、直弼は孤立した。直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の井上清直が「已むを得ない際は調印しても良いか」と質問、直弼は「その際は致し方も無いが、なるたけ尽力せよ(已むを得ざれば、是非に及ばず)」と答え、列強から侵略戦争を仕掛けられる最悪の事態に至るよりは、勅許をまたずに調印することも可とした。 その閣議の後、清直・忠震の両名が神奈川沖・小柴(八景島周辺)のUSS ポーハタン号に赴き、艦上で条約調印に踏み切った。アメリカ側の全権はハリスであった。この際、停泊中の艦隊各艦から、定期外号砲を何度も撃ち鳴らして井上たちを脅かした上、ハリスから、天津条約調印のために清国に展開中の英仏艦隊が、近日中に日本にむけて出航準備中であるから、すぐにでも米国と条約を結ばなければ日本は英仏両国に占領されるであろう、とブラフをかけられたという。実際には、英仏両国艦の清国出発は1ヶ月後を予定しており、再度朝意を伺うのに十分な期間があったことになる。事実、ハリスは未だ在香港中の英仏両国国使に手紙を出して、両国使の訪日に先立って米国が日本との条約に漕ぎつけたことを自慢している。 条約調印の4日後、正睦と忠固は老中を罷免された。正睦はこれまで朝意の賛同を得ることのできなかった失策により、忠固は条約締結にあたり朝意を全く意に介さなかったことが責に問われた。清直、忠震も、違勅の責めを負い、しばらくして左遷されている。 この後、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1860年)に正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛の名目で木村喜毅を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。しかし条約締結は日本に大きな政争を引き起こし、勅許の無いまま締結したことと同時期に問題となっていた将軍継嗣問題などが絡まり、直弼は派閥抗争鎮定のため反対派の幕臣や志士、朝廷の公家衆を大量に処罰(安政の大獄)、正睦や忠固、清直・忠震など条約関係者を排除した。結果、政局は不穏となり使節団のアメリカ訪問中に桜田門外の変が発生、直弼は暗殺され幕府の威信は低下した。 朝廷は直弼暗殺後も一向にこれらの条約を認めず、尊王攘夷運動においては条約の廃棄が要求された(破約攘夷論)。幕府も国内情勢の困難さから、開市・開港の延期(ロンドン覚書)や、再鎖港を求める外交交渉(横浜鎖港談判使節団)に尽力せざるを得なかった。しかし、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が兵庫沖に侵入して条約勅許を強硬に要求するに至り(兵庫開港要求事件を参照)、慶応元年9月16日(1865年11月4日)にこれを勅許した。この時、朝廷は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、第15代将軍・徳川慶喜の圧力のもと慶応3年5月にはこれも勅許され、日本の開国体制への本格的な移行が確定した。 大政奉還後の明治元年1月15日(1868年2月8日)、朝廷(新政府)は列国公使に対して王政復古に伴って従来の条約は「大君(=将軍)」を「天皇」と読み替えた上で引続き有効である旨を通告し、日米修好通商条約を含めた旧幕府の締結した条約がそのまま継続されることとなった。 アメリカ国内での締結手続経緯は、以下のとおり。 ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で日蘭追加条約を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府はアメリカとの交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は自由貿易であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した。日米修好通商条約の内容は以下の通りである。 第1条 第2条 第3条 第4条 第5条 第6条 第7条 第8条 第9条 第10条 第11条 第12条 第13条 第14条 自由貿易は第3条で定められているが、ハリスにとっては最重要の項目であった。草案では専売制度や倹約令の撤廃も求めていた(何れも内政干渉に近いとされたためか、条約には含まれなかった)。幕府は急激な貿易の拡大は国内の混乱を招くとして、日蘭追加条約に準じた内容を希望したが、ハリスはこれを拒否し、最終的には幕府も自由貿易を認めた。幕府側からの希望で、軍需品は幕府にのみ販売すること、日本からの米・麦の輸出は行わないこと、銅は余剰がある場合に幕府の支払いとしてのみ輸出できることが加えられた。第4条では阿片の禁輸が定められているが、これはハリスの方から申し入れたものである。 草案では、候補地として、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港となっていた。これに対し、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。ハリスは品川は遠浅で貿易港に適しないことを理解し、横浜開港に同意した。しかし、江戸・大坂の大都市を開港することを強く要求したため、商取引のための滞在のみを許すということで同意された。大坂の外港として兵庫が開かれることとなった。平戸は小さすぎ、また長崎近郊に炭鉱が発見されていたため、九州の開港場は長崎のみとなった。日本海側はとりあえず新潟が選ばれた。ただし、幕府は新潟、兵庫、江戸、大坂は後に開くことを主張し、認められた。 なお、幕府側の開港予定地は横浜であったが、交渉の過程で神奈川・横浜となり、条約には神奈川のみが記載された。実際に開港したのは横浜のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく神戸が開港している。 草案では、アメリカ人は日本人と雑居できることとなっていた。しかし幕府側は外国人の居留を一箇所にまとめることを主張し、ハリスは「出島のようにならないこと」を条件に居留地の設定を了承した。草案では1年以上日本に滞在したアメリカ人は、領事の許可があれば商取引のために日本国内を自由に旅行できるとなっていたが、幕府はこれを拒否した。第7条で「遊歩規定」が設けられ、一般人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることが禁じられた。 第8条の宗教に関する規定は、ハリスの草案のまま決定された。 第6条の領事裁判権に関しては下田協約ですでに幕府が認めており、これもあっさりと合意した。 関税率は本文ではなく附則である貿易章程で決められている。当時日本側に関税自主権という概念がなかったため、関税率の設定だけが問題となった。幕府側は輸出税・輸入税を12.5%とすることを提案し、ハリスは輸出税は無し、輸入税は20%(一部商品は例外として、0%、10%、35%)を提案した。最終的に、輸出税を5%とし、一部輸入税を10%から5%とすることで合意した。ただし、ハリスは輸出税を認める代わりに草案にあった双務的な最恵国待遇を撤回した。 第5条で、両国貨幣の金銀等価交換が認められている。当時の日本の銀貨である一分銀は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣であった。このため、日本の金銀比価は金1に対し銀4.65であり諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。幕府は下田協約の交渉過程で金貨基準の貨幣の交換を主張したが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準(洋銀)の交換を主張して押し切っていた。ただし、草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていた。しかしながら、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い、交渉の過程で外国通貨の国内流通を提案した。ハリスもこれには同意したものの、日本商人が外国通貨に慣れるまでの1年間は日本通貨との交換を認めるように要求した。幕府はこれに合意し、かつ日本通貨の輸出を認めた。結果として金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。幕府は貿易専用通貨である安政二朱銀の発行により金の流出を回避する予定であったが、条約違反と非難され安政二朱銀の通用は僅か22日間で停止されている。この問題は万延小判が発行され、国内の金銀比価が国際水準となるまで約1年間続いた。 日米和親条約で定められたアメリカに対する片務的最恵国待遇は、第12条によってそのまま継続された。上述のようにハリスは双務的な最恵国待遇を提案したものの、輸出税を認める代わりに撤回している。また鎖国政策をできるだけ維持し一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えがなかった幕府側から断ったとする説もある。 この条約により、日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。とくに慶応2年5月(1866年6月)の改税約書以降は、輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要とした。 本条約の不平等的な性格は日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の保護育成の大きな障害となった。裏返せば、自由貿易により外国の物品を安く購入することが可能となり、明治の近代化に寄与したとも考えられる。明治維新後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内法制の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んだ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、英: Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。安政五カ国条約の2つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。日米修好通商条約は後に調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アメリカ側の領事裁判権に関しては、外国人が日本で法を犯すことがあった場合には、日本の法律で罰せずに、外国の法律で罰することは、家康以来の祖法で定められていたので、進んでこれを認め、また日本側の領事裁判権に関しては、当時日本は海外渡航を禁じていたので、これを明記せずに曖昧にされた。一般的に、アメリカよりも日本の方がはるかに刑罰が重かったからである。ただし、ロシアとの条約では、領事裁判権の双務性が明確に規定されたが、これは国境が確定しておらず、樺太の事情を考慮したためであろう。また、関税率に関しても、日本は自主的に輸入税を20%(一般の財20%、酒類35%、日本に居住する外国人の生活必需品5%)、輸出税を5%と決定しており、一般の財に対して20%という関税率は、アヘン戦争によって強制された清国の5%、インドの2.5%よりもはるかに高く、保護関税政策を採用していたアメリカの40%には及ばないものの、当時の列強諸国が互いに貿易する際に課していたのと同等の水準であった。しかも条約の付属文書である貿易章程の末尾に、「神奈川開港の5年後に日本側が望めば、輸入税ならびに輸出税は改訂しなければならない」という税率改訂の規定があるので、協定関税制といっても、日本側の自主的判断で税率改訂を提起すれば、アメリカは必ず同意しなければならず、逆にアメリカ側に関税率の改訂を提起する権利はなく、関税自主権がないとは言えない。もっとも、アメリカは国内手続きだけで税率を改訂できるので対等ではない。さらに、日本が輸出税にこだわったため、双務的最恵国待遇条項の削除を日本は受け入れた。その後幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五か国条約)が、日米条約では、関税率は日本側の希望のみで改訂可能であったが、日英条約では英国政府の希望でも税率を改訂可能なように変更されてしまった。さらに、日米修好通商条約の税率が他国にも適用されるはずであったが、日英条約では、イギリス側のごり押しにより、イギリスの主力輸出品目である綿製品と羊毛製品の税率が5%にされてしまった。こうして不平等条約への端緒が開かれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後、尊攘派のテロ活動、薩摩の生麦事件、一橋慶喜の奉勅攘夷政策、長州の下関戦争などによって、列強の介入を招き、幕府は長州藩外国船砲撃事件の賠償金300万ドルの支払いや尊攘派の兵庫開港反対によって、関税引き下げ交渉を余儀なくされ、せっかく勝ち取った従価税方式で20%の関税を放棄させられ、慶応2年(1866年)5月13日、輸入税も輸出税もすべて一律に従量税方式で5%(インフレ期は実質税率約3%)という改税約書(江戸協約)の調印を強いられた。日米修好通商条約の貿易章程にあった、日本側が望めば関税率を改訂しなければならないという条件も削られてしまった。この結果、関税自主権を喪失し、低関税率で固定されるという敗戦国に課せられる屈辱的な不平等条約となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ただし、日米修好通商条約第2条に「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定され、日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合アメリカが仲介することを宣言し、他の四カ国との条約にこの文言はなかった。しかし、文久2年(1862年)ハリスが離日した後は、南北戦争(1861年-1865年)の影響もあり、アメリカ政府が対日外交を欧州諸国との協調路線に転換したこともあって、これらの条文が履行されることはなかった。また、第13条に「1872年7月4日には条約を改正できる」と設けられた。しかし、後年の新明治日本政府は、その時点で組織が整っていなかったため交渉開始の延期を申し入れ、1876年から各国と条約改正交渉を開始したが、難航し、1894年7月16日の日英通商航海条約の締結により領事裁判権の撤廃が実現。関税自主権を回復したのは1911年2月21日調印の新日米通商航海条約まで要した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "条約書原本は、1997年(平成9年)に、歴史資料として重要文化財に指定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日米和親条約により初代日本総領事に赴任したタウンゼント・ハリスが通商条約の締結を計画。しかし、日本側は消極的態度に終始した。ハリスは安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城に登城し、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡した。ハリスの主張によりアメリカとの通商はやむを得ないという雰囲気が醸成され、下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を全権として、安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を開始させた。交渉は15回に及び、清直と忠震は国内情勢の困難さから「いま江戸を開市しても商売にならない」旨を説いたが、ハリスはこれを信じず通商開始を優先させた。交渉内容に関して双方の合意が得られると、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を得た上での条約締結を企図し、自ら忠震を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京して尽力したが、攘夷論の少壮公家が抵抗した。孝明天皇自身「和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば神国日本を汚すことにはならない」と考えていたが、「対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらす」と考え勅許を拒否した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ハリスは清と戦争中(1856年 - 1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本が友好的なアメリカと通商条約を結ぶ他無いと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "正睦は事態打開のため松平春嶽の大老就任を画策したが、就任したのは井伊直弼であった。直弼は、条約調印当日の6月19日(1858年7月29日)の閣議でも「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、最後まで勅許を優先させることを主張した。しかし開国・積極交易派の巨頭であった老中の松平忠固は「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張。幕閣の大勢は忠固に傾き、直弼は孤立した。直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の井上清直が「已むを得ない際は調印しても良いか」と質問、直弼は「その際は致し方も無いが、なるたけ尽力せよ(已むを得ざれば、是非に及ばず)」と答え、列強から侵略戦争を仕掛けられる最悪の事態に至るよりは、勅許をまたずに調印することも可とした。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その閣議の後、清直・忠震の両名が神奈川沖・小柴(八景島周辺)のUSS ポーハタン号に赴き、艦上で条約調印に踏み切った。アメリカ側の全権はハリスであった。この際、停泊中の艦隊各艦から、定期外号砲を何度も撃ち鳴らして井上たちを脅かした上、ハリスから、天津条約調印のために清国に展開中の英仏艦隊が、近日中に日本にむけて出航準備中であるから、すぐにでも米国と条約を結ばなければ日本は英仏両国に占領されるであろう、とブラフをかけられたという。実際には、英仏両国艦の清国出発は1ヶ月後を予定しており、再度朝意を伺うのに十分な期間があったことになる。事実、ハリスは未だ在香港中の英仏両国国使に手紙を出して、両国使の訪日に先立って米国が日本との条約に漕ぎつけたことを自慢している。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "条約調印の4日後、正睦と忠固は老中を罷免された。正睦はこれまで朝意の賛同を得ることのできなかった失策により、忠固は条約締結にあたり朝意を全く意に介さなかったことが責に問われた。清直、忠震も、違勅の責めを負い、しばらくして左遷されている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この後、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1860年)に正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛の名目で木村喜毅を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。しかし条約締結は日本に大きな政争を引き起こし、勅許の無いまま締結したことと同時期に問題となっていた将軍継嗣問題などが絡まり、直弼は派閥抗争鎮定のため反対派の幕臣や志士、朝廷の公家衆を大量に処罰(安政の大獄)、正睦や忠固、清直・忠震など条約関係者を排除した。結果、政局は不穏となり使節団のアメリカ訪問中に桜田門外の変が発生、直弼は暗殺され幕府の威信は低下した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "朝廷は直弼暗殺後も一向にこれらの条約を認めず、尊王攘夷運動においては条約の廃棄が要求された(破約攘夷論)。幕府も国内情勢の困難さから、開市・開港の延期(ロンドン覚書)や、再鎖港を求める外交交渉(横浜鎖港談判使節団)に尽力せざるを得なかった。しかし、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が兵庫沖に侵入して条約勅許を強硬に要求するに至り(兵庫開港要求事件を参照)、慶応元年9月16日(1865年11月4日)にこれを勅許した。この時、朝廷は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、第15代将軍・徳川慶喜の圧力のもと慶応3年5月にはこれも勅許され、日本の開国体制への本格的な移行が確定した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "大政奉還後の明治元年1月15日(1868年2月8日)、朝廷(新政府)は列国公使に対して王政復古に伴って従来の条約は「大君(=将軍)」を「天皇」と読み替えた上で引続き有効である旨を通告し、日米修好通商条約を含めた旧幕府の締結した条約がそのまま継続されることとなった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アメリカ国内での締結手続経緯は、以下のとおり。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で日蘭追加条約を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府はアメリカとの交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は自由貿易であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した。日米修好通商条約の内容は以下の通りである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第1条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第2条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第3条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第4条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第5条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第6条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "第7条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第8条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "第9条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第10条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "第11条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "第12条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第13条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "第14条", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "自由貿易は第3条で定められているが、ハリスにとっては最重要の項目であった。草案では専売制度や倹約令の撤廃も求めていた(何れも内政干渉に近いとされたためか、条約には含まれなかった)。幕府は急激な貿易の拡大は国内の混乱を招くとして、日蘭追加条約に準じた内容を希望したが、ハリスはこれを拒否し、最終的には幕府も自由貿易を認めた。幕府側からの希望で、軍需品は幕府にのみ販売すること、日本からの米・麦の輸出は行わないこと、銅は余剰がある場合に幕府の支払いとしてのみ輸出できることが加えられた。第4条では阿片の禁輸が定められているが、これはハリスの方から申し入れたものである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "草案では、候補地として、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港となっていた。これに対し、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。ハリスは品川は遠浅で貿易港に適しないことを理解し、横浜開港に同意した。しかし、江戸・大坂の大都市を開港することを強く要求したため、商取引のための滞在のみを許すということで同意された。大坂の外港として兵庫が開かれることとなった。平戸は小さすぎ、また長崎近郊に炭鉱が発見されていたため、九州の開港場は長崎のみとなった。日本海側はとりあえず新潟が選ばれた。ただし、幕府は新潟、兵庫、江戸、大坂は後に開くことを主張し、認められた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、幕府側の開港予定地は横浜であったが、交渉の過程で神奈川・横浜となり、条約には神奈川のみが記載された。実際に開港したのは横浜のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく神戸が開港している。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "草案では、アメリカ人は日本人と雑居できることとなっていた。しかし幕府側は外国人の居留を一箇所にまとめることを主張し、ハリスは「出島のようにならないこと」を条件に居留地の設定を了承した。草案では1年以上日本に滞在したアメリカ人は、領事の許可があれば商取引のために日本国内を自由に旅行できるとなっていたが、幕府はこれを拒否した。第7条で「遊歩規定」が設けられ、一般人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることが禁じられた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "第8条の宗教に関する規定は、ハリスの草案のまま決定された。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "第6条の領事裁判権に関しては下田協約ですでに幕府が認めており、これもあっさりと合意した。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "関税率は本文ではなく附則である貿易章程で決められている。当時日本側に関税自主権という概念がなかったため、関税率の設定だけが問題となった。幕府側は輸出税・輸入税を12.5%とすることを提案し、ハリスは輸出税は無し、輸入税は20%(一部商品は例外として、0%、10%、35%)を提案した。最終的に、輸出税を5%とし、一部輸入税を10%から5%とすることで合意した。ただし、ハリスは輸出税を認める代わりに草案にあった双務的な最恵国待遇を撤回した。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "第5条で、両国貨幣の金銀等価交換が認められている。当時の日本の銀貨である一分銀は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣であった。このため、日本の金銀比価は金1に対し銀4.65であり諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。幕府は下田協約の交渉過程で金貨基準の貨幣の交換を主張したが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準(洋銀)の交換を主張して押し切っていた。ただし、草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていた。しかしながら、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い、交渉の過程で外国通貨の国内流通を提案した。ハリスもこれには同意したものの、日本商人が外国通貨に慣れるまでの1年間は日本通貨との交換を認めるように要求した。幕府はこれに合意し、かつ日本通貨の輸出を認めた。結果として金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。幕府は貿易専用通貨である安政二朱銀の発行により金の流出を回避する予定であったが、条約違反と非難され安政二朱銀の通用は僅か22日間で停止されている。この問題は万延小判が発行され、国内の金銀比価が国際水準となるまで約1年間続いた。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日米和親条約で定められたアメリカに対する片務的最恵国待遇は、第12条によってそのまま継続された。上述のようにハリスは双務的な最恵国待遇を提案したものの、輸出税を認める代わりに撤回している。また鎖国政策をできるだけ維持し一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えがなかった幕府側から断ったとする説もある。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この条約により、日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。とくに慶応2年5月(1866年6月)の改税約書以降は、輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要とした。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "本条約の不平等的な性格は日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の保護育成の大きな障害となった。裏返せば、自由貿易により外国の物品を安く購入することが可能となり、明治の近代化に寄与したとも考えられる。明治維新後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内法制の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んだ。", "title": "影響" } ]
日米修好通商条約は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。安政五カ国条約の2つ。 江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日とも通称される。
{{条約 |題名 =日米修好通商条約<br>日本国米利堅合衆国修好通商条約 |画像 =Treaty of Amity and Commerce between Japan and the United States 29 July 1858.jpg |画像サイズ=360px |画像キャプション =日米修好通商条約([[外務省外交史料館]]蔵) |通称 =日米修好通商条約<br>ハリス条約(''{{lang|en|Harris Treaty}}'') |起草 = |署名 =[[1858年]][[7月29日]]<ref name="§14">条約14条</ref><br>([[安政]]5年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) |署名場所=日本・[[江戸]] |締約国={{JPN}}<br/>{{USA1851}} |効力発生 =[[1859年]][[7月4日]]<ref name="§14"/><br>(安政6年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) |現況 =失効 |失効 =1899年7月17日([[日米通商航海条約#「陸奥条約」|日米通商航海条約]]発効<ref>{{NDLDC|1445233/26}}</ref>) |寄託者 = |番号 = |言語 =日本語、英語、オランダ語(齟齬ある場合はオランダ語を正文とする)<ref name="§14"/> |内容 =#公使の江戸駐在 #領事の開港地駐在 #横浜・長崎・新潟・兵庫・函館の開港([[条約港]]の開設) #江戸・大坂(大阪)の開市 #自由貿易、協定関税制、領事裁判権、外国人居留地の設定等に関する規定 |関連 =[[日米和親条約]]、[[安政五カ国条約]] |ウィキソース =日本國米利堅合衆國修好通商條約 |リンク =[{{NDLDC|787948/285}} 法令全書] - 国立国会図書館 }} '''日米修好通商条約'''(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、{{lang-en-short|Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan}})は、[[安政]]5年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1858年]][[7月29日]])に[[日本]]と[[アメリカ合衆国]]の間で結ばれた通商[[条約]]<ref name="loc">{{Cite web | last = | first = | author = | authorlink = | url = https://www.loc.gov/law/help/us-treaties/bevans/b-jp-ust000009-0362.pdf | title = United States Treaties and International Agreements: 1776-1949 Volume9 pp.362-372 | date = 1972-03 | website = | publisher = [[アメリカ議会図書館]] | format = PDF | doi = | accessdate = 2020-05-06}}</ref>。[[安政五カ国条約]]の2つ。 [[江戸幕府]]が調印した条約で、[[批准書]]には「'''源家茂'''」として当時の14代[[征夷大将軍]][[徳川家茂]]の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1860年]][[5月22日]])にワシントンで互いの国の批准書が交換された<ref>[http://www.tokugawa.ne.jp/pdf/201808ginnin.pdf  『銀印「経文緯武」の報道について』平成30年8月、公益財団法人德川記念財団]</ref><ref name="loc"/>。アメリカ全権[[タウンゼント・ハリス]]の名を冠して、'''ハリス条約'''(''{{lang|en|Harris Treaty}}'')とも[[通称]]される。 ==概要== アメリカ側に[[領事裁判権]]を認め、日本に[[関税自主権]]が無く、日本だけがアメリカに[[最恵国待遇]]を約束するなど、日本側に不利な[[不平等条約]]であるというのが定説となっている。日米修好通商条約は後に調印させられた[[改税約書]]で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。 アメリカ側の領事裁判権に関しては、外国人が日本で法を犯すことがあった場合には、日本の法律で罰せずに、外国の法律で罰することは、[[徳川家康|家康]]以来の[[祖法]]で定められていたので、進んでこれを認め、また日本側の領事裁判権に関しては、当時日本は海外渡航を禁じていたので、これを明記せずに曖昧にされた。一般的に、アメリカよりも日本の方がはるかに刑罰が重かったからである<ref>坂田精一『ハリス』日本歴史学会1996年、pp.234-245</ref>。ただし、ロシアとの条約では、領事裁判権の双務性が明確に規定されたが、これは国境が確定しておらず、[[樺太]]の事情を考慮したためであろう<ref>鵜飼政志『明治維新の国際舞台』有志舎2014年、pp.62-63</ref>。また、関税率に関しても、日本は自主的に輸入税を20%(一般の財20%、酒類35%、日本に居住する外国人の生活必需品5%)、輸出税を5%と決定しており、一般の財に対して20%という関税率は、[[アヘン戦争]]によって強制された[[清国]]の5%、[[インド]]の2.5%よりもはるかに高く、[[保護貿易|保護関税政策]]を採用していたアメリカの40%には及ばないものの、当時の列強諸国が互いに貿易する際に課していたのと同等の水準であった。しかも条約の付属文書である貿易章程の末尾に、「神奈川開港の5年後に日本側が望めば、輸入税ならびに輸出税は改訂しなければならない」という税率改訂の規定があるので、協定関税制といっても、日本側の自主的判断で税率改訂を提起すれば、アメリカは必ず同意しなければならず、逆にアメリカ側に関税率の改訂を提起する権利はなく、関税自主権がないとは言えない。もっとも、アメリカは国内手続きだけで税率を改訂できるので対等ではない。さらに、日本が輸出税にこだわったため、双務的最恵国待遇条項の削除を日本は受け入れた<ref>関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社2020年、pp.149-165</ref>。その後幕府は同様の条約を[[イギリス]]・[[フランス]]・[[オランダ]]・[[ロシア]]とも結んだ([[安政五カ国条約|安政五か国条約]])が、日米条約では、関税率は日本側の希望のみで改訂可能であったが、日英条約では英国政府の希望でも税率を改訂可能なように変更されてしまった。さらに、日米修好通商条約の税率が他国にも適用されるはずであったが、日英条約では、イギリス側のごり押しにより、イギリスの主力輸出品目である[[綿]]製品と[[羊毛]]製品の税率が5%にされてしまった。こうして不平等条約への端緒が開かれた<ref>関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社2020年、pp.169-175</ref>。 その後、[[尊攘派]]の[[テロ]]活動、[[薩摩]]の[[生麦事件]]、[[一橋慶喜]]の[[攘夷実行の勅命|奉勅攘夷]]政策、[[長州]]の[[下関戦争]]などによって、[[列強]]の介入を招き、幕府は[[下関戦争|長州藩外国船砲撃事件]]の[[賠償金]]300万ドルの支払いや尊攘派の兵庫開港反対によって、関税引き下げ交渉を余儀なくされ、せっかく勝ち取った[[従価税]]方式で20%の関税を放棄させられ、[[慶応]]2年(1866年)5月13日、輸入税も輸出税もすべて一律に[[従量税]]方式で5%(インフレ期は実質税率約3%)という[[改税約書]](江戸協約)の調印を強いられた。日米修好通商条約の貿易章程にあった、日本側が望めば関税率を改訂しなければならないという条件も削られてしまった。この結果、関税自主権を喪失し、低関税率で固定されるという敗戦国に課せられる屈辱的な不平等条約となった<ref>関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社2020年、pp.227-239</ref>。 ただし、日米修好通商条約第2条に「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定され、日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合アメリカが仲介することを宣言し、他の四カ国との条約にこの文言はなかった<ref name="w2011" />。しかし、[[文久]]2年(1862年)ハリスが離日した後は、[[南北戦争]](1861年-1865年)の影響もあり、アメリカ政府が対日外交を欧州諸国との協調路線に転換したこともあって、これらの条文が履行されることはなかった<ref>鵜飼政志『明治維新の国際舞台』有志舎2014年、p.60</ref>。また、第13条に「1872年7月4日には条約を改正できる」と設けられた。しかし、後年の新明治日本政府は、その時点で組織が整っていなかったため交渉開始の延期を申し入れ、[[1876年]]から各国と[[条約改正]]交渉を開始したが、難航し、[[1894年]][[7月16日]]の[[日英通商航海条約]]の締結により領事裁判権の撤廃が実現。関税自主権を回復したのは[[1911年]][[2月21日]]調印の[[日米通商航海条約|新日米通商航海条約]]<ref group="注釈">[[1940年]](昭和15年)[[1月26日]]に失効した。</ref>まで要した。 条約書原本は、[[1997年]](平成9年)に、歴史資料として[[重要文化財]]に指定された<ref>1997年6月30日文部省告示第131号「文化財を重要文化財に指定する件」</ref>。 ==経緯== [[ファイル:Townsend Harris.jpg|180px|right|thumb|[[タウンゼント・ハリス]]]] [[ファイル:Ii Naosuke.jpg|180px|right|thumb|井伊直弼]] [[日米和親条約]]により初代日本総領事に赴任した[[タウンゼント・ハリス]]が通商条約の締結を計画。しかし、日本側は消極的態度に終始した。ハリスは安政4年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]](1857年[[12月7日]])に江戸城に登城し、当時の13代将軍[[徳川家定]]に謁見して国書を手渡した。ハリスの主張によりアメリカとの通商はやむを得ないという雰囲気が醸成され、[[遠国奉行#下田奉行・浦賀奉行|下田奉行]][[井上清直]]と[[目付]][[岩瀬忠震]]を全権として、安政4年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]](1858年[[1月25日]])から条約の交渉を開始させた。交渉は15回に及び、清直と忠震は国内情勢の困難さから「いま江戸を開市しても商売にならない」旨を説いたが、ハリスはこれを信じず通商開始を優先させた。交渉内容に関して双方の合意が得られると、[[老中]][[堀田正睦]]は[[孝明天皇]]の勅許を得た上での条約締結を企図し、自ら忠震を伴って安政5年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]](1858年[[3月19日]])に入京して尽力したが、[[攘夷論]]の少壮公家が抵抗した。孝明天皇自身「和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば神国日本を汚すことにはならない」と考えていたが、「対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらす」と考え勅許を拒否した。 ハリスは[[清]]と戦争中([[1856年]] - [[1860年]])の[[イギリス]]や[[フランス]]が日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本が友好的なアメリカと通商条約を結ぶ他無いと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。 正睦は事態打開のため[[松平春嶽]]の[[大老]]就任を画策したが、就任したのは[[井伊直弼]]であった。直弼は、条約調印当日の[[6月19日 (旧暦)|6月19日]](1858年[[7月29日]])の閣議でも「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、最後まで勅許を優先させることを主張した。しかし開国・積極交易派の巨頭であった老中の[[松平忠固]]は「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張。幕閣の大勢は忠固に傾き、直弼は孤立した<ref>[[#中根|中根『昨夢紀事 4』p.192-193]]</ref>。直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の[[井上清直]]が「已むを得ない際は調印しても良いか」と質問、直弼は「その際は致し方も無いが、なるたけ尽力せよ(已むを得ざれば、是非に及ばず)<ref>[[#徳富蘇峰|徳富蘇峰『近世日本国民史 井伊直弼』p.253]]</ref>」と答え、列強から侵略戦争を仕掛けられる最悪の事態に至るよりは、勅許をまたずに調印することも可とした<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.339]]</ref>。 [[ファイル:Kurofune 3.jpg|300px|left|thumb|米国海軍の外輪フリゲート艦・USS ポーハタン号]] その閣議の後、清直・忠震の両名が神奈川沖・小柴([[八景島]]周辺)の[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|USS ポーハタン号]]に赴き、艦上で条約調印に踏み切った。アメリカ側の全権はハリスであった。この際、停泊中の艦隊各艦から、定期外号砲を何度も撃ち鳴らして井上たちを脅かした上、ハリスから、天津条約調印のために清国に展開中の英仏艦隊が、近日中に日本にむけて出航準備中であるから、すぐにでも米国と条約を結ばなければ日本は英仏両国に占領されるであろう、とブラフをかけられたという。実際には、英仏両国艦の清国出発は1ヶ月後を予定しており、再度朝意を伺うのに十分な期間があったことになる。事実、ハリスは未だ在香港中の英仏両国国使に手紙を出して、両国使の訪日に先立って米国が日本との条約に漕ぎつけたことを自慢している。<ref>[[#徳富蘇峰|徳富蘇峰『近世日本国民史 井伊直弼』p.252-253]]</ref> 条約調印の4日後、正睦と忠固は老中を罷免された。正睦はこれまで朝意の賛同を得ることのできなかった失策により、忠固は条約締結にあたり朝意を全く意に介さなかったことが責に問われた。清直、忠震も、違勅の責めを負い、しばらくして左遷されている。 [[ファイル:JapaneseWhiteHouseReceptionBuchanan1860.jpg|260px|thumb|幕府使節団を迎える[[ジェームズ・ブキャナン]]大統領]] この後、日米修好通商条約の批准書を交換するために、[[万延]]元年([[1860年]])に正使[[新見正興]]、副使[[村垣範正]]、監察[[小栗忠順]]を代表とする[[万延元年遣米使節]]がポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛の名目で[[木村芥舟|木村喜毅]]を副使として[[咸臨丸]]も派遣された。咸臨丸には[[勝海舟]]が艦長格として乗船し、木村の従者として[[福澤諭吉]]も渡米した。しかし条約締結は日本に大きな政争を引き起こし、勅許の無いまま締結したことと同時期に問題となっていた[[将軍継嗣問題]]などが絡まり、直弼は派閥抗争鎮定のため反対派の幕臣や志士、朝廷の公家衆を大量に処罰([[安政の大獄]])、正睦や忠固、清直・忠震など条約関係者を排除した。結果、政局は不穏となり使節団のアメリカ訪問中に[[桜田門外の変]]が発生、直弼は暗殺され幕府の威信は低下した。 [[朝廷 (日本)|朝廷]]は直弼暗殺後も一向にこれらの条約を認めず、[[尊王攘夷運動]]においては条約の廃棄<!--や、日本が優位な形での再締結が広く(この幕末期に後に明確となる不平等性が認識されていたかは不明。記載するなら具体例が必要)-->が要求された(破約攘夷論)。幕府も国内情勢の困難さから、開市・開港の延期([[ロンドン覚書]])や、再鎖港を求める外交交渉([[横浜鎖港談判使節団]])に尽力せざるを得なかった。しかし、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が兵庫沖に侵入して条約勅許を強硬に要求するに至り([[兵庫開港要求事件]]を参照)、[[慶応]]元年9月16日([[1865年]]11月4日)にこれを勅許した。この時、朝廷は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、第15代将軍・[[徳川慶喜]]の圧力のもと慶応3年5月にはこれも勅許され、日本の開国体制への本格的な移行が確定した。 [[大政奉還]]後の明治元年1月15日([[1868年]]2月8日)、朝廷(新政府)は列国公使に対して[[王政復古 (日本)|王政復古]]に伴って従来の条約は「大君(=将軍)」を「天皇」と読み替えた上で引続き有効である旨を通告し、日米修好通商条約を含めた旧幕府の締結した条約がそのまま継続されることとなった。 === アメリカ国内 === アメリカ国内での締結手続経緯は、以下のとおり<ref name="loc"/>。 * 1858年7月29日 - ハリスが署名 * 1858年[[12月15日]] - [[アメリカ合衆国上院]]({{仮リンク|アメリカ合衆国第34議会|en|34th United States Congress}})が[[批准]]に助言と同意 * 1860年[[4月12日]] - [[ジェームズ・ブキャナン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が批准を裁可 * 1860年5月22日 - ワシントンで批准書を交換 * 1860年[[5月23日]] - 大統領が条約締結権行使を宣言 ==内容== ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で[[日蘭追加条約]]を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府はアメリカとの交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は[[自由貿易]]であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.259]]</ref>。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.260]]</ref>。日米修好通商条約の内容は以下の通りである<ref>[http://www.geocities.jp/sybrma/177nichibeisyukoutsusyou.html 日米修好通商条約](小さな資料室)</ref>。 '''第1条''' * 今後日本とアメリカは友好関係を維持する。 * 日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由にアメリカ国内を旅行できる。 * 合衆国大統領は、江戸に公使を派遣し、各貿易港に領事を任命する。公使・総領事が公務のために日本国内を旅行するための免許を与える。 '''第2条''' * 日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。 * 日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。 [[File:Nishiki-e - View of Niigata Port.jpg|thumb|250px|錦絵『新潟湊之真景』安政6年([[1859年]])井上文昌筆([[新潟県立図書館]]蔵)]] '''第3条''' * 下田・箱館に加え、次の場所を開港・開市する。<ref group="注釈">下田・箱館は[[日米和親条約]]の際にすでに開港場に指定されていた。</ref> ** [[神奈川宿#神奈川湊|神奈川]]:[[1859年]][[7月4日]](安政6年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) ** [[長崎港|長崎]]:1859年7月4日(安政6年6月5日) ** [[新潟港|新潟]]:[[1860年]][[1月1日]](安政6年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) ** [[大輪田泊|兵庫]]:[[1863年]]1月1日(文久2年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) * もし新潟の開港が難しい場合は近くの別の一港を開く。 * 神奈川開港の6か月後に下田は閉鎖する。 * これら開港地に、アメリカ人は居留を許され、土地を借り、建物・倉庫を購入・建築可能である。ただし、要害となるような建築物は許されない。このため、新築・改装の際には日本の役人がこれを検分できる。 * アメリカ人が居留できる場所(外国人居留地)に関しては、領事と同地の役人がその決定を主なう。両者にて決定が困難な場合は、日本政府と公使の討議によって解決する。居留地の周囲に囲い等を作ることなく、出入りを自由とする。 ** [[江戸]]:[[1862年]]1月1日([[文久]]元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]])開市 ** [[大阪#近世の大阪の移り変わり|大坂]]:1863年1月1日(文久2年11月12日)開市 * 江戸と大坂の二か所には商取引のための滞在(逗留)は可能であるが、居留は認められない。 * 両国の商人は自由に取引ができる。役人が介入することはない。 * 日本人はアメリカ製品を自由に売買し、かつ所持できる。 * 軍需品は日本政府以外に売ってはならない。ただし、日本国内において他の外国に軍需品を売ることは可能である。 * 米・麦は船舶乗組員の食用としては販売するが、積荷として輸出することは許されない。 * 日本産の銅は、余剰がある場合にのみ、日本政府入札品の支払代金として輸出可能である。 * 在留アメリカ人は、日本人を雇用することができる。 '''第4条''' * 輸出入品は、全て日本の税関(運上所)を通すこと。 * 荷主の申請に虚偽の疑いがある場合は、税関が適当な額を提示してその荷の買取を申し出ることができる。荷主はその値段で売るか、あるいは提示金額に該当する関税を支払う。 * アメリカ海軍の装備品を神奈川・長崎・箱館の倉庫に保管する場合は、荷揚げ時点で税金を支払う必要はない。ただし、それらを売る場合には所定の関税を支払う。 * [[アヘン]]の輸入は禁止する。もしアメリカ商船が三斤以上を持ってきた場合は、超過分は没収する。 * 一旦関税を支払った輸入品に関しては、日本国内の他の場所に移送した場合に追加の税金をかけてはならない。 * アメリカ人が輸入する荷物には、この条約で定められた以外の関税がかけられることはない。 '''第5条''' * 外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。 * 取引は日本通貨、外国通貨どちらでも行うことができる。 * 日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(したがって[[両替]]を認める) * 日本貨幣は銅銭を除き輸出することができる。外国の通貨も輸出可能である。 '''第6条''' * 日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。 * 判決に不満がある場合、アメリカ領事館は日本人の上告を、日本の役所はアメリカ人の上告を受け付ける。 * 両国の役人は商取引に介入しない。 '''第7条''' * 開港地において、アメリカ人は以下の範囲で外出できる。 ** 神奈川:東は六郷川(多摩川)まで、その他は10里。 ** 箱館:おおむね十里四方。 ** 兵庫:京都から10里以内に入ってはならない。他の方向へは10里。かつ兵庫に来航する船舶の乗組員は、猪名川から湾までの川筋を越えてはならない。 ** 長崎:周辺の天領。 ** 新潟:後日決定。 * ただし、罪を犯したものは居留地から1里以上離れてはならない。 '''第8条''' * アメリカ人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。 * アメリカ人は日本の神社・仏閣等を毀損してはならない。 * 宗教論争はおこなってはならない。 * 長崎での[[踏み絵]]は廃止する。 '''第9条''' * 居留地を脱走したり、裁判から逃げたりしたアメリカ人に対し、アメリカ領事は日本の役人にその逮捕・勾留を依頼することができる。また領事が逮捕した罪人を、日本の獄舎での勾留を求めることができる。 * アメリカ領事は、居留・来航したアメリカ人に対し、日本の法律を遵守させるように努める。 * 日本の獄舎にアメリカ人を勾留した場合は、その費用は領事館が支払う。 '''第10条''' * 日本政府は、軍艦、蒸気船、商船、捕鯨船、漁船、大砲、兵器の類を購入し、または作製を依頼するため、アメリカ人を自由に雇用できる。学者、法律家、職人、船員の雇用も自由である。 * 日本政府がアメリカへ注文した物品は、速やかに日本に送付する。 * アメリカの友好国と日本の間に戦争が起こった場合は、軍用品は輸出せずまた軍事顧問の雇用も認めない。 '''第11条''' * 附則である貿易章程も、本条約同様に両国民が遵守しなければならない。 '''第12条''' * 日米和親条約および下田協約の内容で、この条約の内容と異なる部分に関しては、この条約によって置き換えられる。 '''第13条''' * 条約内容は1872年7月4日に必要に応じて見直す。その場合には1年前に通達を行う。 '''第14条''' * 本条約は1859年7月4日より有効である。 * 条約批准のために日本使節団がワシントンを訪問するが、何らかの理由で批准が遅れた場合でも、条約は指定日から有効となる。 * 条約文は、日本語、英語、オランダ語にて作成し、その内容は同一であるが、オランダ語を原文とみなす。 * 本条約を1858年7月29日に江戸にて調印する。 <!-- *[[条約港]]の設定。以下の5港の開港。 **[[神奈川宿#神奈川湊|神奈川]]([[1859年]][[7月4日]](安政6年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]])) **[[長崎港|長崎]](1859年7月4日(安政6年6月5日)) **[[函館港|函館]]([[1854年]][[3月31日]]([[嘉永]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]])<ref group="注釈">下田・箱館は[[日米和親条約]]の際にすでに開港場に指定されていた。</ref>) **[[新潟港|新潟]]([[1860年]][[1月1日]](安政6年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])) **兵庫([[1863年]]1月1日(文久2年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]])) *下田の閉港([[1860年]][[1月4日]](安政6年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]])) *アメリカに対し[[領事裁判権]]を認める。 *[[江戸]]([[1862年]]1月1日([[文久]]元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]))・[[大坂]](1863年1月1日(文久2年11月12日))の開市。 *自由貿易。 *[[関税]]はあらかじめ両国で協議する([[協定税率]]。[[関税自主権]]がない状態)。 *内外貨幣の同種同量による通用。 *アメリカに対する片務的[[最恵国待遇]] *[[外国人遊歩規定]]の設定。 --> === 自由貿易 === 自由貿易は第3条で定められているが、ハリスにとっては最重要の項目であった。草案では専売制度や倹約令の撤廃も求めていた(何れも内政干渉に近いとされたためか、条約には含まれなかった)。幕府は急激な貿易の拡大は国内の混乱を招くとして、日蘭追加条約に準じた内容を希望したが、ハリスはこれを拒否し、最終的には幕府も自由貿易を認めた。幕府側からの希望で、軍需品は幕府にのみ販売すること、日本からの米・麦の輸出は行わないこと、銅は余剰がある場合に幕府の支払いとしてのみ輸出できることが加えられた。第4条では阿片の禁輸が定められているが、これはハリスの方から申し入れたものである<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.261-265]]</ref>。 === 開港場 === 草案では、候補地として、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港となっていた。これに対し、幕府全権の[[岩瀬忠震]]は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。ハリスは品川は遠浅で貿易港に適しないことを理解し、横浜開港に同意した。しかし、江戸・大坂の大都市を開港することを強く要求したため、商取引のための滞在のみを許すということで同意された。大坂の外港として兵庫が開かれることとなった。平戸は小さすぎ、また長崎近郊に炭鉱が発見されていたため、九州の開港場は長崎のみとなった。日本海側はとりあえず新潟が選ばれた。ただし、幕府は新潟、兵庫、江戸、大坂は後に開くことを主張し、認められた<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.265-268]]</ref>。 なお、幕府側の開港予定地は横浜であったが、交渉の過程で神奈川・横浜となり、条約には神奈川のみが記載された<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.268-270]]</ref>。実際に開港したのは[[横浜港|横浜]]<ref group="注釈">条約の規定よりも早い1859年[[7月1日]](安政6年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]])に開港された。</ref>のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく[[神戸港|神戸]]が開港している。 === 居留地 === 草案では、アメリカ人は日本人と雑居できることとなっていた。しかし幕府側は外国人の居留を一箇所にまとめることを主張し、ハリスは「出島のようにならないこと」を条件に居留地の設定を了承した。草案では1年以上日本に滞在したアメリカ人は、領事の許可があれば商取引のために日本国内を自由に旅行できるとなっていたが、幕府はこれを拒否した<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.271-275]]</ref>。第7条で「[[外国人遊歩規定|遊歩規定]]」が設けられ、一般人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることが禁じられた<ref>[https://web.archive.org/web/20090202133500/http://www.bunzo.jp/archives/category/080treaty.html 公文書で探究「条約改正」-『ぶん蔵』.]([[国立公文書館]])アーカイブ</ref>。 === 宗教 === 第8条の宗教に関する規定は、ハリスの草案のまま決定された<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.275]]</ref>。 === 領事裁判権 === 第6条の領事裁判権に関しては下田協約ですでに幕府が認めており、これもあっさりと合意した<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.230、P.276]]</ref>。 === 関税率 === 関税率は本文ではなく附則である貿易章程で決められている。当時日本側に関税自主権という概念がなかったため、関税率の設定だけが問題となった。幕府側は輸出税・輸入税を12.5%とすることを提案し、ハリスは輸出税は無し、輸入税は20%(一部商品は例外として、0%、10%、35%)を提案した。最終的に、輸出税を5%とし、一部輸入税を10%から5%とすることで合意した。ただし、ハリスは輸出税を認める代わりに草案にあった双務的な最恵国待遇を撤回した<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.275-280]]</ref>。 === 金銀等価交換 === 第5条で、両国貨幣の金銀等価交換が認められている。当時の日本の銀貨である[[一分銀]]は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣であった。このため、日本の[[金銀比価]]は[[金]]1に対し[[銀]]4.65であり諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。幕府は下田協約の交渉過程で金貨基準の貨幣の交換を主張したが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準([[洋銀]])の交換を主張して押し切っていた。ただし、草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていた。しかしながら、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い、交渉の過程で外国通貨の国内流通を提案した。ハリスもこれには同意したものの、日本商人が外国通貨に慣れるまでの1年間は日本通貨との交換を認めるように要求した。幕府はこれに合意し、かつ日本通貨の輸出を認めた<ref>[[#石井|石井『日本開国史』p.280-282]]</ref>。結果として金の流出や[[インフレーション]]による経済の混乱を引き起こすこととなった([[幕末の通貨問題]])。幕府は貿易専用通貨である安政[[二朱銀]]の発行により金の流出を回避する予定であったが、条約違反と非難され安政二朱銀の通用は僅か22日間で停止されている。この問題は[[万延小判]]が発行され、国内の金銀比価が国際水準となるまで約1年間続いた。 === 片務的最恵国待遇 === [[日米和親条約]]で定められたアメリカに対する片務的[[最恵国待遇]]は、第12条によってそのまま継続された。上述のようにハリスは双務的な最恵国待遇を提案したものの、輸出税を認める代わりに撤回している。また[[鎖国]]政策をできるだけ維持し一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えがなかった幕府側から断ったとする説もある<ref>[[#川島|川島・外務省『条約改正経過概要』(1950)p.35]]</ref>。 ==影響== [[ファイル:Foreign Settlement in Kobe.JPG|300px|right|thumb|明治初年の[[神戸外国人居留地]]]] この条約により、日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して[[主権]]がおよばず、[[外国人居留地]]制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。とくに慶応2年5月([[1866年]]6月)の[[改税約書]]以降は、輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の[[法律]]の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり<ref name="irie_018">[[#入江|入江(1966)pp.17-18]]</ref>、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要とした<ref name="fujimura">[[#藤村|藤村(1989)pp.82-83]]</ref>。 本条約の不平等的な性格は日本の[[主権]]を侵害し、[[経済]]的にも国内産業の保護育成の大きな障害となった。裏返せば、自由貿易により外国の物品を安く購入することが可能となり、明治の近代化に寄与したとも考えられる。[[明治維新]]後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内[[法制]]の整備、[[秩序]]の安定化、[[軍備]]の強化等に取り組んだ<ref>[[#伊藤|伊藤(2001)p.129]]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="w2011">[[#渡辺|渡辺(2011)]]</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=渡辺惣樹|authorlink=渡辺惣樹|year=2011|month=10|title=日米衝突の根源 1858 - 1908|publisher=[[草思社]]|isbn=9784794218629|ref=渡辺}} * {{Cite book|和書|author1=川島信太郎|authorlink1=川島信太郎|author2=外務省|authorlink2=外務省|year=1950|month=4|title=条約改正関係日本外交文書別冊・条約改正経過概要|publisher=[[巌南堂書店]](2006年再刊)|isbn=4762602523|ref=川島}} * {{Cite book|和書|author=入江昭|authorlink=入江昭|year=1966|month=9|title=日本の外交|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|series=[[中公新書]]|isbn=4-12-100113-3|ref=入江}} * {{Cite book|和書|author=藤村道生|authorlink=藤村道生|editor=野上毅|year=1989|month=4|chapter=条約改正-国家主権の回復|title=朝日百科日本の歴史10 近代Ⅰ|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-380007-4|ref=藤村}} * {{Cite book|和書|author=伊藤隆|authorlink=伊藤隆 (歴史学者)|year=2001|month=1|title=日本の近代16 日本の内と外|publisher=中央公論社|isbn=4-12-490116-X|ref=伊藤}} * {{Cite book|和書|author=石井孝|authorlink=石井孝|year=2010|month=4|title=日本開国史|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=9784642063616|ref=石井}}(原著1972年) * {{Cite book|和書|editor=中根雪江(日本史籍協会)|editor-link=中根雪江|year=1922|month=5|title=昨夢紀事 4|publisher=[[東京大学出版会]] |isbn=9784130977203|ref=中根}}(原著1922年) * {{Cite book|和書|author=徳富蘇峰|authorlink=徳富蘇峰|year=1983|month=10|title=近世日本国民史 井伊直弼|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn= 978-4-06-158615-4|ref=徳富蘇峰}}(原著1932年) ==関連項目== {{columns-list|3| *[[両都両港開市開港延期問題]] *[[戊午の密勅]] *[[四港]] *[[有田・クレーギー協定]] *[[EAST MEETS WEST]] }} == 外部リンク == *[https://sybrma.sakura.ne.jp/177nichibeisyukoutsusyou.html 日米修好通商条約全文(付・貿易章程) ] * {{Kotobank}} {{日本の条約}} {{DEFAULTSORT:にちへいしゆうこうつうしようしようやく}} [[Category:日米二国間条約]] [[Category:日本の条約改正|*にちへい]] [[Category:不平等条約]] [[Category:幕末の日米関係]] [[Category:1858年の条約]] [[Category:通商航海条約]] [[Category:1858年の日本]] [[Category:1858年のアメリカ合衆国]] [[Category:ジェームズ・ブキャナン]]
2003-07-22T16:02:41Z
2023-11-14T12:40:16Z
false
false
false
[ "Template:Lang", "Template:仮リンク", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Kotobank", "Template:Lang-en-short", "Template:日本の条約", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Columns-list", "Template:条約" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
12,077
SCC
SCC(SOUND CREATIVE CHIP)はコナミ(後のコナミデジタルエンタテインメント)が開発した波形メモリ音源兼メモリーバンク制御チップ。 1986年2月頃、同社MSXサウンドプログラム担当の青木豊がファミリーコンピュータ ディスクシステムに音源が内蔵されていることをヒントにMSX用拡張音源の要望を出したことがきっかけで、当時のMSX用ゲームのサウンド担当だった上原和彦らがアーケードゲーム部門の音楽スタッフと音源の仕様を決め、メガロム制御用メモリバンクコントローラ兼用の拡張音源LSIとして開発された。 家庭用ゲームソフトへの搭載は、1987年のMSX用ゲームソフトグラディウス2より採用された。1990年代以降はアーケードゲーム用基板にFM音源や、PCM音源等と併せて搭載された。 以下の作品にはSCC-I搭載のSCC音源カートリッジが単独で付属しており、64KiBのDRAMを搭載している。 SCCのメモリバンク制御の機能としては、1バンクの大きさは8KiB固定で、バンクレジスターは6ビット長の物が4つ用意されているため、それらの制御によって512KiBの空間を管理することを可能にしている。ROMゲームカートリッジとしてはその空間にROMが接続され、前述の拡張音源とともに利用されている。 単体での発売はされていないが、MSX版スナッチャーならびにSDスナッチャーでは、該当ソフトウェアでのディスクキャッシュを目的としてSCCに接続された64KiBのRAMを搭載しており、128KiB分のメモリを搭載可能なほぼ同等の回路で構成されている。但し、チップに対して接続されているRAMが、スナッチャーのカートリッジではアドレスの前半、SDスナッチャーでは後半に実装されており、相互に交換して使うことは出来ない。スナッチャーや、SDスナッチャーはこれらのキャッシュを前提に設計されているため、ハードウェアドングルとしての役割も担っている。 後に発売された「コナミゲームコレクション」では一部のゲームにSCC音源用BGMが収録されており、これは「スナッチャー」付属カートリッジに対応して演奏されたが、SDスナッチャーのカートリッジは前述の実装アドレスの都合から認識しない。二つのSCCカートリッジは基板自体は同じであるため、SDスナッチャーの方でも空きパターンにメモリを実装することで、上記のゲームにおいて認識させることが可能になる。 多くのMSX用の拡張ハードウェアと異なり、このカートリッジには制御用のBIOSなどのソフトウェアは搭載されていない。SCC自体の持つメモリ管理機能によって、コナミ8Kバンク方式のROMイメージを搭載されたRAM上に転送することで、ソフトウェアを実行することも可能である。 日本のユーザー間の一部ではこれらの仕組みを利用し、SCCを搭載したROMカートリッジを使用し、SRAMとキャパシタによるバッテリーバックアップ可能なメモリカートリッジとして、似非SCC DISKと呼ばれる同人ハードウェアの作例が頒布され、作成されたりしていた。 コナミが当時SCCを用いて作曲した際の傾向として『金属的なブラス系の音をメロディーに用いる』ことが多かった。音抜けが良く印象に残りやすいことから多用されたことが見受けられる。 当時、PSG単体による楽曲ではデチューン(2つのチャンネルで僅かにずれた音程を発音しコーラス効果を得る)が主に用いられていた。SCCとPSGによる楽曲においてもグラディウス2などでデチューンが用いられているが、音程だけでなく音色をずらす(各チャンネルにおいて異なる波形で同旋律を発声させる)など多彩な表現が行われていた アーケード版グラディウスの音源構成(PSG 6ch, K005289(波形メモリ音源) 2ch)に近いため、本体側のPSGとSCCを併用することでその音をMSX上で再現することも理論上は可能であるが、MSX版グラディウスの発売時にはまだSCCが存在しておらず内蔵音源であるPSGのみの対応となった。後に『コナミゲームコレクション Vol.3』にネメシスの名称でリメイクされスナッチャーのSCCカートリッジに対応したが、その際には独自の新規アレンジによるBGMデータが収録されている。 ソフトウェアの添付品という側面から、市販されたハードウェアとしては珍しく、カートリッジに制御BIOSなどを持っておらず、マニュアルに資料が掲載されるなどしているわけでもなかったため、当初はユーザーからの利用は困難な状況にあった。 ユーザーに制御方法が知られるようになったのは、マイコンBASICマガジンが1989年7月号から、MSXでスナッチャー付属のSCC音源カートリッジを制御するという解析記事を連載したためである。連載では、完全ではないものの大部分の内容を解説と、それを補完するツールなどの掲載が行われている。 その後、1990年にMSXマガジンで発表された音楽ソフトMuSICA(ソフトベンダーTAKERU販売の「MSXディスク通信'90年10月号」に収録)には、MSX版スナッチャー及びSDスナッチャーに付属するSCC音源カートリッジを制御、演奏させる機能があった。のちに同誌で、SCCを制御するためのコナミ提供の公式仕様が掲載され、草の根BBSなどで発表されたMGSDRVなど、フリーソフトでも対応する動きが広がった。 SCC音源カートリッジは単体としては流通しておらず、後にスナッチャー・SDスナッチャー共に中古市場でプレミア扱いされたことにより正規に販売されたものを入手するのは困難となり、実際の流通量は少なかった。しかし、コナミのSCC搭載のMSX用ゲームはユーザーに広く普及していたため、ゲームカートリッジをゲームが起動しないように改造して用いる方法や、MSX起動後に後からカートリッジを差す方法が考案された。そのため、かなり多くのユーザーがSCC音源を自由に利用可能になっていた。ただ、MSXが電源オン状態でもカートリッジの抜き差しは物理的には可能だが、本体やカートリッジはその動作を想定して作られていないため、後者の方法は抜き差し時の電流や信号によって精密回路を破損する恐れがあった。 後差し方法については、誤動作を抑えるために、Shiftキーを押しながらカートリッジを差し込む方法や、PAUSEボタンでシステムを強制停止させている間に差し、PAUSEを解除する方法が知られている。PAUSEボタンを用いる方法の方が安全性は高いといわれているが、PAUSEボタン搭載機種はFS-A1シリーズ以降の松下製MSX数機種と同時期以降のソニー製数機種のみであり、turboRではPAUSEのハードウェア的な実装が変更されているので、回路のタイミングが停止しない。また、いずれにしても電源オン状態でスロットに無理やり挿入していることには変わりはなく、故障の原因となる可能性が高かった。 なお、現在はMSXエミュレータやSCC互換音源を搭載した1チップMSXなど、SCC相当の音源を利用できる環境は多く存在する。 SCC対応の演奏ソフトが普及した当時は、既にFM-PACやMSX2+の登場によってFM音源(YM2413(OPLL))もまた普及しており、標準的なMSXの環境ではPSG3音+FM音源9音+SCC5音で最大17音が出せ、音を重ね合わせることで深みのある音楽を奏でることが出来た。FM音源搭載MSXとコナミのSCC搭載ゲームの組み合わせで、同時期に流通していたPC9801やX68000等に比べ非常に安価かつ手軽にDTM環境を構築する事が可能であった。 近年のチップチューンブームにより初期のビデオゲーム音源が見直されて来ているが、SCCも当時を代表する音源の1つとして人気がある。波形メモリ音源としてコナミのゲーム音のみならず、ナムコの業務用ゲーム音やPCエンジンの音を再現することも可能である。 しかしファミコンに比べ音源の認知度、発音環境、音源を制御し作曲できる人口の少なさにより、SCCを扱うミュージシャン・楽曲ともに数が少ない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "SCC(SOUND CREATIVE CHIP)はコナミ(後のコナミデジタルエンタテインメント)が開発した波形メモリ音源兼メモリーバンク制御チップ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1986年2月頃、同社MSXサウンドプログラム担当の青木豊がファミリーコンピュータ ディスクシステムに音源が内蔵されていることをヒントにMSX用拡張音源の要望を出したことがきっかけで、当時のMSX用ゲームのサウンド担当だった上原和彦らがアーケードゲーム部門の音楽スタッフと音源の仕様を決め、メガロム制御用メモリバンクコントローラ兼用の拡張音源LSIとして開発された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "家庭用ゲームソフトへの搭載は、1987年のMSX用ゲームソフトグラディウス2より採用された。1990年代以降はアーケードゲーム用基板にFM音源や、PCM音源等と併せて搭載された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以下の作品にはSCC-I搭載のSCC音源カートリッジが単独で付属しており、64KiBのDRAMを搭載している。", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "SCCのメモリバンク制御の機能としては、1バンクの大きさは8KiB固定で、バンクレジスターは6ビット長の物が4つ用意されているため、それらの制御によって512KiBの空間を管理することを可能にしている。ROMゲームカートリッジとしてはその空間にROMが接続され、前述の拡張音源とともに利用されている。", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "単体での発売はされていないが、MSX版スナッチャーならびにSDスナッチャーでは、該当ソフトウェアでのディスクキャッシュを目的としてSCCに接続された64KiBのRAMを搭載しており、128KiB分のメモリを搭載可能なほぼ同等の回路で構成されている。但し、チップに対して接続されているRAMが、スナッチャーのカートリッジではアドレスの前半、SDスナッチャーでは後半に実装されており、相互に交換して使うことは出来ない。スナッチャーや、SDスナッチャーはこれらのキャッシュを前提に設計されているため、ハードウェアドングルとしての役割も担っている。", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "後に発売された「コナミゲームコレクション」では一部のゲームにSCC音源用BGMが収録されており、これは「スナッチャー」付属カートリッジに対応して演奏されたが、SDスナッチャーのカートリッジは前述の実装アドレスの都合から認識しない。二つのSCCカートリッジは基板自体は同じであるため、SDスナッチャーの方でも空きパターンにメモリを実装することで、上記のゲームにおいて認識させることが可能になる。", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "多くのMSX用の拡張ハードウェアと異なり、このカートリッジには制御用のBIOSなどのソフトウェアは搭載されていない。SCC自体の持つメモリ管理機能によって、コナミ8Kバンク方式のROMイメージを搭載されたRAM上に転送することで、ソフトウェアを実行することも可能である。", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本のユーザー間の一部ではこれらの仕組みを利用し、SCCを搭載したROMカートリッジを使用し、SRAMとキャパシタによるバッテリーバックアップ可能なメモリカートリッジとして、似非SCC DISKと呼ばれる同人ハードウェアの作例が頒布され、作成されたりしていた。", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "コナミが当時SCCを用いて作曲した際の傾向として『金属的なブラス系の音をメロディーに用いる』ことが多かった。音抜けが良く印象に残りやすいことから多用されたことが見受けられる。", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "当時、PSG単体による楽曲ではデチューン(2つのチャンネルで僅かにずれた音程を発音しコーラス効果を得る)が主に用いられていた。SCCとPSGによる楽曲においてもグラディウス2などでデチューンが用いられているが、音程だけでなく音色をずらす(各チャンネルにおいて異なる波形で同旋律を発声させる)など多彩な表現が行われていた", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アーケード版グラディウスの音源構成(PSG 6ch, K005289(波形メモリ音源) 2ch)に近いため、本体側のPSGとSCCを併用することでその音をMSX上で再現することも理論上は可能であるが、MSX版グラディウスの発売時にはまだSCCが存在しておらず内蔵音源であるPSGのみの対応となった。後に『コナミゲームコレクション Vol.3』にネメシスの名称でリメイクされスナッチャーのSCCカートリッジに対応したが、その際には独自の新規アレンジによるBGMデータが収録されている。", "title": "SCCを使用した主なゲーム(50音順)" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ソフトウェアの添付品という側面から、市販されたハードウェアとしては珍しく、カートリッジに制御BIOSなどを持っておらず、マニュアルに資料が掲載されるなどしているわけでもなかったため、当初はユーザーからの利用は困難な状況にあった。", "title": "DTM音源としてのSCC" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ユーザーに制御方法が知られるようになったのは、マイコンBASICマガジンが1989年7月号から、MSXでスナッチャー付属のSCC音源カートリッジを制御するという解析記事を連載したためである。連載では、完全ではないものの大部分の内容を解説と、それを補完するツールなどの掲載が行われている。", "title": "DTM音源としてのSCC" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、1990年にMSXマガジンで発表された音楽ソフトMuSICA(ソフトベンダーTAKERU販売の「MSXディスク通信'90年10月号」に収録)には、MSX版スナッチャー及びSDスナッチャーに付属するSCC音源カートリッジを制御、演奏させる機能があった。のちに同誌で、SCCを制御するためのコナミ提供の公式仕様が掲載され、草の根BBSなどで発表されたMGSDRVなど、フリーソフトでも対応する動きが広がった。", "title": "DTM音源としてのSCC" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "SCC音源カートリッジは単体としては流通しておらず、後にスナッチャー・SDスナッチャー共に中古市場でプレミア扱いされたことにより正規に販売されたものを入手するのは困難となり、実際の流通量は少なかった。しかし、コナミのSCC搭載のMSX用ゲームはユーザーに広く普及していたため、ゲームカートリッジをゲームが起動しないように改造して用いる方法や、MSX起動後に後からカートリッジを差す方法が考案された。そのため、かなり多くのユーザーがSCC音源を自由に利用可能になっていた。ただ、MSXが電源オン状態でもカートリッジの抜き差しは物理的には可能だが、本体やカートリッジはその動作を想定して作られていないため、後者の方法は抜き差し時の電流や信号によって精密回路を破損する恐れがあった。", "title": "DTM音源としてのSCC" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "後差し方法については、誤動作を抑えるために、Shiftキーを押しながらカートリッジを差し込む方法や、PAUSEボタンでシステムを強制停止させている間に差し、PAUSEを解除する方法が知られている。PAUSEボタンを用いる方法の方が安全性は高いといわれているが、PAUSEボタン搭載機種はFS-A1シリーズ以降の松下製MSX数機種と同時期以降のソニー製数機種のみであり、turboRではPAUSEのハードウェア的な実装が変更されているので、回路のタイミングが停止しない。また、いずれにしても電源オン状態でスロットに無理やり挿入していることには変わりはなく、故障の原因となる可能性が高かった。", "title": "DTM音源としてのSCC" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、現在はMSXエミュレータやSCC互換音源を搭載した1チップMSXなど、SCC相当の音源を利用できる環境は多く存在する。", "title": "DTM音源としてのSCC" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "SCC対応の演奏ソフトが普及した当時は、既にFM-PACやMSX2+の登場によってFM音源(YM2413(OPLL))もまた普及しており、標準的なMSXの環境ではPSG3音+FM音源9音+SCC5音で最大17音が出せ、音を重ね合わせることで深みのある音楽を奏でることが出来た。FM音源搭載MSXとコナミのSCC搭載ゲームの組み合わせで、同時期に流通していたPC9801やX68000等に比べ非常に安価かつ手軽にDTM環境を構築する事が可能であった。", "title": "DTM音源としてのSCC" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "近年のチップチューンブームにより初期のビデオゲーム音源が見直されて来ているが、SCCも当時を代表する音源の1つとして人気がある。波形メモリ音源としてコナミのゲーム音のみならず、ナムコの業務用ゲーム音やPCエンジンの音を再現することも可能である。", "title": "DTM音源としてのSCC" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかしファミコンに比べ音源の認知度、発音環境、音源を制御し作曲できる人口の少なさにより、SCCを扱うミュージシャン・楽曲ともに数が少ない。", "title": "DTM音源としてのSCC" } ]
SCC(SOUND CREATIVE CHIP)はコナミ(後のコナミデジタルエンタテインメント)が開発した波形メモリ音源兼メモリーバンク制御チップ。
{{Otheruses|[[コンピュータ]]の[[ハードウェア]]の名称}} {{出典の明記|date=2010年3月}} '''SCC'''(SOUND CREATIVE CHIP<ref>MSXマガジン 1990年9月号 P.67掲載写真 コナミ提供のSCCの技術資料。表紙に「MSX」の表記がある。</ref>)はコナミ(後の[[コナミデジタルエンタテインメント]])が開発した[[波形メモリ音源]]兼メモリーバンク制御チップ。 {{試聴 |filename = Sccdemo_hman00.ogg |title = SCCの演奏例 }} [[ファイル:Scc01.jpg|thumb|MSX版グラディウス2搭載SCC(2212P003)外観]] [[ファイル:Scc02.jpg|thumb|MSX2版スナッチャー用音源カートリッジ搭載SCC-I(2312P001)外観]] [[画像:VRC VI 03.jpg|thumb|ファミコン版 悪魔城伝説のカートリッジ。SCC-I(5P72-J802)と記載がある。]] ==概要== 1986年2月頃、同社[[MSX]]サウンドプログラム担当の[[青木豊]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}が[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]に音源が内蔵されていることをヒントにMSX用拡張音源の要望を出したことがきっかけで、当時のMSX用ゲームのサウンド担当だった[[上原和彦]]らがアーケードゲーム部門の音楽スタッフと音源の仕様を決め<REF>「音楽のこころ コナミのSCCにせまる!!」MSXマガジン 1990年9月号 P.66</REF>、メガロム制御用メモリバンクコントローラ兼用の拡張音源LSIとして開発された。 家庭用ゲームソフトへの搭載は、1987年のMSX用ゲームソフト[[グラディウス2]]より採用された。1990年代以降はアーケードゲーム用基板に[[FM音源]]や、[[PCM音源]]等と併せて搭載された。 ==特徴== *同時発声数並びにチャンネル数は5音。 *周波数(12ビット)、振幅(ボリューム)(4ビット)のパラメータはMSX本体側の内蔵音源である[[Programmable Sound Generator|PSG]](AY-3-8910)と互換性がある。特に高音域における音程周波数の誤差は大きいものの、音程データを共用できるとして設定された<REF>「音楽のこころ コナミのSCCにせまる!!」MSXマガジン 1990年9月号 P.66 上原和彦、青木豊 談</REF>。 *ROMゲームに実装されているSCC(2212P003)では、chDとchEは共通の波形という制限がある。 *スナッチャーおよびSDスナッチャーに搭載されたSCC-I(052539、2312P001、SCC+の名称が俗称として使われることがある。)は若干の仕様変更が行われており、互換モードの他に、チャンネル毎に任意の波形を生成できる独自のモードを持っている。 *波形メモリは32バイトと短めのため、「スペイシー(宇宙的)」と表現される独特な音色となる。 *音域が低域になるほど「ブーン」というハムノイズが一緒に発音される。これは矩形波を細かくした音構造になっていることによる。 *[[ADSR|エンベロープ]](音量の自動減衰)などは搭載されていない。 *SCCを搭載したMSX用カートリッジにおいては、SCCからの出力音声はカートリッジスロットの音声入力を介して、本体側のミキサを通し出力される。リリースされたゲームではPSGも併用しており最大8音使用していた。ただ、MSXは規格が各社共通だったものの、実際の製品仕様にはバラつきがあったため、SCCの音声が出力されない機種やSCCとPSGの音量バランスが大きく異なる機種も存在し、各ゲームのマニュアルで顕著な機種名を挙げると共に「プレイ自体には支障がない」旨を記載して注意を促した。 *メガロムのバンク切り替え制御は8KB単位で4バンクのマッピングが可能。 ==SCCを使用した主なゲーム(50音順)== *[[悪魔城ドラキュラ (アーケードゲーム)|悪魔城ドラキュラ (アーケード版)]] (欧米:[[:en:Haunted Castle|Haunted Castle]]) *[[F1スピリット]](MSX) *[[王家の谷 エルギーザの封印]](MSX1) *[[王家の谷 エルギーザの封印]](MSX2) *[[クォース]](MSX2) *[[グラディウス2]](MSX) *[[激突ペナントレース]](MSX2) *[[激突ペナントレース|激突ペナントレース2]](MSX2) *[[ゴーファーの野望 エピソードII]](MSX) *[[沙羅曼蛇 (MSX)|沙羅曼蛇(MSX)]] *[[シティボンバー]](アーケード) *[[スペースマンボウ]](MSX2) *つりっ子ペン太(アーケード キッズメダル機) *[[にゃんにゃんパニック]](アーケード) *[[パロディウス#パロディウス 〜タコは地球を救う〜|パロディウス]](MSX) *[[魂斗羅]](MSX2) *[[ヘクシオン]](アーケード) *[[メタルギア2 ソリッドスネーク]](MSX2) 以下の作品にはSCC-I搭載のSCC音源カートリッジが単独で付属しており、64KiBの[[DRAM]]を搭載している。 *[[スナッチャー]](MSX2、SCC-I使用) *[[スナッチャー|SDスナッチャー]](MSX2、SCC-I使用) ===メモリバンク制御チップとしてのSCC=== SCCのメモリバンク制御の機能としては、1バンクの大きさは8KiB固定で、バンクレジスターは6ビット長の物が4つ用意されているため、それらの制御によって512KiBの空間を管理することを可能にしている。ROMゲームカートリッジとしてはその空間にROMが接続され、前述の拡張音源とともに利用されている。 単体での発売はされていないが、MSX版スナッチャーならびにSDスナッチャーでは、該当ソフトウェアでのディスク[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]を目的としてSCCに接続された64KiBのRAMを搭載しており、128KiB分のメモリを搭載可能なほぼ同等の回路で構成されている。但し、チップに対して接続されているRAMが、スナッチャーのカートリッジではアドレスの前半、SDスナッチャーでは後半に実装されており、相互に交換して使うことは出来ない。スナッチャーや、SDスナッチャーはこれらのキャッシュを前提に設計されているため、ハードウェア[[ドングル]]としての役割も担っている。 後に発売された「コナミゲームコレクション」では一部のゲームにSCC音源用BGMが収録されており、これは「スナッチャー」付属カートリッジに対応して演奏されたが、SDスナッチャーのカートリッジは前述の実装アドレスの都合から認識しない。二つのSCCカートリッジは基板自体は同じであるため、SDスナッチャーの方でも空きパターンにメモリを実装することで、上記のゲームにおいて認識させることが可能になる。 多くのMSX用の拡張ハードウェアと異なり、このカートリッジには制御用のBIOSなどのソフトウェアは搭載されていない。SCC自体の持つメモリ管理機能によって、コナミ8Kバンク方式のROMイメージを搭載されたRAM上に転送することで、ソフトウェアを実行することも可能である。 日本のユーザー間の一部ではこれらの仕組みを利用し、SCCを搭載したROMカートリッジを使用し、[[SRAM]]と[[コンデンサ|キャパシタ]]によるバッテリーバックアップ可能なメモリカートリッジとして、似非SCC DISKと呼ばれる同人ハードウェアの作例が頒布され、作成されたりしていた。 ===コナミのSCCによる作曲傾向=== コナミが当時SCCを用いて作曲した際の傾向として『金属的な[[金管楽器|ブラス]]系の音をメロディーに用いる』ことが多かった。音抜けが良く印象に残りやすいことから多用されたことが見受けられる。 当時、PSG単体による楽曲ではデチューン(2つのチャンネルで僅かにずれた音程を発音しコーラス効果を得る)が主に用いられていた。SCCとPSGによる楽曲においてもグラディウス2などでデチューンが用いられているが、音程だけでなく音色をずらす(各チャンネルにおいて異なる波形で同旋律を発声させる)など多彩な表現が行われていた アーケード版グラディウスの音源構成(PSG 6ch, K005289(波形メモリ音源) 2ch)に近いため、本体側のPSGとSCCを併用することでその音をMSX上で再現することも理論上は可能であるが、MSX版グラディウスの発売時にはまだSCCが存在しておらず内蔵音源であるPSGのみの対応となった。後に『コナミゲームコレクション Vol.3』にネメシスの名称でリメイクされスナッチャーのSCCカートリッジに対応したが、その際には独自の新規アレンジによるBGMデータが収録されている。 ==DTM音源としてのSCC== ソフトウェアの添付品という側面から、市販されたハードウェアとしては珍しく、カートリッジに制御BIOSなどを持っておらず、マニュアルに資料が掲載されるなどしているわけでもなかったため、当初はユーザーからの利用は困難な状況にあった。 ユーザーに制御方法が知られるようになったのは、[[マイコンBASICマガジン]]が1989年7月号から、MSXでスナッチャー付属のSCC音源カートリッジを制御するという解析記事を連載したためである。連載では、完全ではないものの大部分の内容を解説と、それを補完するツールなどの掲載が行われている。 その後、1990年に[[MSXマガジン]]で発表された音楽ソフト[[MuSICA (ソフトウェア)|MuSICA]]([[ソフトベンダーTAKERU]]販売の「MSXディスク通信'90年10月号」に収録)には、MSX版スナッチャー及びSDスナッチャーに付属するSCC音源カートリッジを制御、演奏させる機能があった。のちに同誌で、SCCを制御するためのコナミ提供の公式仕様が掲載され、草の根BBSなどで発表されたMGSDRVなど、フリーソフトでも対応する動きが広がった。 SCC音源カートリッジは単体としては流通しておらず、後にスナッチャー・SDスナッチャー共に中古市場でプレミア扱いされたことにより正規に販売されたものを入手するのは困難となり、実際の流通量は少なかった。しかし、コナミのSCC搭載のMSX用ゲームはユーザーに広く普及していたため、ゲームカートリッジをゲームが起動しないように改造して用いる方法や、MSX起動後に後からカートリッジを差す方法が考案された。そのため、かなり多くのユーザーがSCC音源を自由に利用可能になっていた。ただ、MSXが電源オン状態でもカートリッジの抜き差しは物理的には可能だが、本体やカートリッジはその動作を想定して作られていないため、後者の方法は抜き差し時の電流や信号によって精密回路を破損する恐れがあった。 後差し方法については、誤動作を抑えるために、Shiftキーを押しながらカートリッジを差し込む方法や、PAUSEボタンでシステムを強制停止させている間に差し、PAUSEを解除する方法が知られている。PAUSEボタンを用いる方法の方が安全性は高いといわれているが、PAUSEボタン搭載機種はFS-A1シリーズ以降の松下製MSX数機種と同時期以降のソニー製数機種のみであり、[[MSXturboR|turboR]]ではPAUSEのハードウェア的な実装が変更されているので、回路のタイミングが停止しない。また、いずれにしても電源オン状態でスロットに無理やり挿入していることには変わりはなく、故障の原因となる可能性が高かった。 なお、現在はMSX[[エミュレータ]]やSCC互換音源を搭載した[[1チップMSX]]など、SCC相当の音源を利用できる環境は多く存在する。 SCC対応の演奏ソフトが普及した当時は、既に[[FM-PAC]]や[[MSX2+]]の登場によってFM音源([[YM2413]](OPLL))もまた普及しており、標準的なMSXの環境ではPSG3音+FM音源9音+SCC5音で最大17音が出せ、音を重ね合わせることで深みのある音楽を奏でることが出来た。FM音源搭載MSXとコナミのSCC搭載ゲームの組み合わせで、同時期に流通していた[[PC9801]]や[[X68000]]等に比べ非常に安価かつ手軽にDTM環境を構築する事が可能であった。 ===チップチューンにおけるSCC=== 近年の[[チップチューン]]ブームにより初期のビデオゲーム音源が見直されて来ているが、SCCも当時を代表する音源の1つとして人気がある。波形メモリ音源としてコナミのゲーム音のみならず、ナムコの業務用ゲーム音やPCエンジンの音を再現することも可能である。 しかしファミコンに比べ音源の認知度、発音環境、音源を制御し作曲できる人口の少なさにより、SCCを扱うミュージシャン・楽曲ともに数が少ない。 ==参考== *[[波形メモリ音源]] *[[バブルシステム]] *[[チップチューン]] *[[ゲームミュージック]] *[[上原和彦]] SCC開発者の一人。現コナミデジタルエンタテインメント執行役員[[シニア・バイス・プレジデント|シニアヴァイスプレジデント]] ==脚注== <references/> {{DEFAULTSORT:えすしいしい}} {{コナミグループ}} [[Category:ハードウェア]] [[Category:コンピュータゲームの技術]] [[Category:コンピュータミュージック]] [[Category:コナミデジタルエンタテインメント]] [[Category:MSX]] [[Category:音源チップ]] [[Category:メモリ管理]] {{Computer-stub}}
2003-07-23T00:24:59Z
2023-09-07T09:06:06Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:試聴", "Template:要曖昧さ回避", "Template:コナミグループ", "Template:Computer-stub", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/SCC
12,080
三線軌条
三線軌条(さんせんきじょう)とは、鉄道において軌間の異なる車両を運転するために、通常1対2本の軌条(レール)で敷設される線路について、片側のレールを共通として残り2本のレールをそれぞれの軌間に応じて敷設したもののこと。三線軌条は三線軌道、三線軌ともいう。 線路中心を合わせるために、軌条を共通とせずに4本敷設する四線軌条(しせんきじょう)とする場合もある。四線軌条は、軌間の差が小さすぎるため3本のレールの併設が困難なケースや、3種の軌間に対応するケース(Triple gauge=3階建て軌道)にも用いられる。 英語ではDual gauge(デュアルゲージ)と呼び、日本語でもデュアルゲージと称することもある。 鉄道はモノレールや新交通システムを除いて2本のレールを組み合わせており、この2本の幅(軌間)が異なる車両が相互に乗り入れることはできない。軌間が異なる車両が相互に乗り入れる場合、台車を鉄道ごとに履き替える方法(ヨーロッパ・中国 - ロシア間の鉄道など)や、可変軌間式の台車を持つ車両を用いる方法(スペイン - フランス間の鉄道など)など、車両側で対応する方法もある。これらの問題を線路側で対応するのが三線軌道(あるいは四線軌道)である。 各軌間の線路中心がずれ、建築限界もそれにあわせて変わるため、ホーム・架線・信号機・ATS/ATC位置補正地上子等の保安装置の地上子の設置位置に注意が必要な点、分岐器(ポイント)の構造が複雑になる点、降雪地帯などでは並列する軌条の間に雪が詰まる、レールの摩耗が不均衡になる、レールの取得や保守のコストが上がるなどの問題がある。 オーストラリアは州ごとに主要軌間が異なっており、標準軌の州際軌条と、各州のローカルゲージの3線軌条が多く見られる。 パースなどの西オーストラリア州では、標準軌と狭軌、同じくクイーンズランド州も標準軌と狭軌、ビクトリア州では、標準軌と広軌、の3線軌条がおおく見られる。 日本での三線軌条および四線軌条は、1912年7月1日に、博多電気軌道(のちの西鉄福岡市内線、1435mm)が貨物輸送を目的として、一部の区間に1067mmの軌道を併設して貨物列車の運行を開始した事例があり、この営業運行は次に述べる京都市内の例よりも早かった。京都市内の京都市電と京都電気鉄道の共用区間では、同年4月19日に京都市が内務省から三線軌条敷設の許可を受け、同年12月25日に三線軌条の最初の区間が営業を開始した。 翌1913年には東海道本線の膳所駅(当時は馬場駅) - 大津駅(後の浜大津駅)間で、東海道本線(貨物線)に大津電車軌道(現在の京阪電気鉄道石山坂本線)が乗り入れるため三線軌条となった。軌道ではない鉄道が関係するものはこれが最初である。 純粋な鉄道のみのものとしては1917年に横浜線の原町田駅 - 橋本駅間で、標準軌化の実地試験として使用されたのが始まりである(日本の改軌論争も参照)。 鉄道車両工場の構内で三線軌条となっているケースもある。例えば、JR東海浜松工場には狭軌・標準軌共用の三線軌条が多い。なお、ここでは営業線上以外のものは割愛する。 また営業運行ではないが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)4月に京成電鉄本線の京成上野駅 - 日暮里駅間の地下線が国(運輸省)に接収され、国鉄日暮里駅構内の側線につながる三線軌条を敷設した上で、空襲から守るために国電車両や寝台車を疎開させた事がある。ただし戦時中の京成上野地下線の状況については様々な文献による記述がある。詳しくは京成上野駅を参照。 なお、後の1959年(昭和34年)に京成電鉄と新京成電鉄が1,372 mm(馬車軌間)から1,435 mm(標準軌)に改軌した工事期間中、駅や車両基地の構内に四線軌条に似たものが敷設されていたが、この2種類の軌間は差が小さすぎるために通常の三線あるいは四線軌条は物理的に成立困難である。外側のレールは標準軌で、内側のレールは馬車軌間より狭く、馬車軌間の車両が入線した際の脱線防止用ガードレールとして作用していた。この他、同社の津田沼第二工場とその出入庫ルートには、1,372 mm軌間と1,435 mm軌間の軌道中心を大きくずらした四線軌条(4本のレールに左端から1 - 4番の番号を付けると、1番と3番の間が1,372 mm軌間、2番と4番の間が1,435 mm軌間、というような敷設法)が存在した。 国鉄時代の東静岡駅(現在の静岡貨物駅で旅客駅の東静岡駅とは別の駅)にも存在した。保線機材やレールを積み込む施設に採用され、国鉄分割民営化後も暫く存置されていた。 スイスでは主に貨物列車の直通を目的に三線軌条もしくは四線軌条化がなされている。なお、輸送量の少ない区間ではロールボックもしくはロールワーゲンを使用して貨車を直通している。 この区間の両側は三線軌条となっている。 州際では標準軌で統一されているために標準軌以外の軌間を採用している州都までの鉄路で三線軌条区間が存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三線軌条(さんせんきじょう)とは、鉄道において軌間の異なる車両を運転するために、通常1対2本の軌条(レール)で敷設される線路について、片側のレールを共通として残り2本のレールをそれぞれの軌間に応じて敷設したもののこと。三線軌条は三線軌道、三線軌ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "線路中心を合わせるために、軌条を共通とせずに4本敷設する四線軌条(しせんきじょう)とする場合もある。四線軌条は、軌間の差が小さすぎるため3本のレールの併設が困難なケースや、3種の軌間に対応するケース(Triple gauge=3階建て軌道)にも用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "英語ではDual gauge(デュアルゲージ)と呼び、日本語でもデュアルゲージと称することもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "鉄道はモノレールや新交通システムを除いて2本のレールを組み合わせており、この2本の幅(軌間)が異なる車両が相互に乗り入れることはできない。軌間が異なる車両が相互に乗り入れる場合、台車を鉄道ごとに履き替える方法(ヨーロッパ・中国 - ロシア間の鉄道など)や、可変軌間式の台車を持つ車両を用いる方法(スペイン - フランス間の鉄道など)など、車両側で対応する方法もある。これらの問題を線路側で対応するのが三線軌道(あるいは四線軌道)である。", "title": "目的" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "各軌間の線路中心がずれ、建築限界もそれにあわせて変わるため、ホーム・架線・信号機・ATS/ATC位置補正地上子等の保安装置の地上子の設置位置に注意が必要な点、分岐器(ポイント)の構造が複雑になる点、降雪地帯などでは並列する軌条の間に雪が詰まる、レールの摩耗が不均衡になる、レールの取得や保守のコストが上がるなどの問題がある。", "title": "目的" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "オーストラリアは州ごとに主要軌間が異なっており、標準軌の州際軌条と、各州のローカルゲージの3線軌条が多く見られる。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "パースなどの西オーストラリア州では、標準軌と狭軌、同じくクイーンズランド州も標準軌と狭軌、ビクトリア州では、標準軌と広軌、の3線軌条がおおく見られる。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本での三線軌条および四線軌条は、1912年7月1日に、博多電気軌道(のちの西鉄福岡市内線、1435mm)が貨物輸送を目的として、一部の区間に1067mmの軌道を併設して貨物列車の運行を開始した事例があり、この営業運行は次に述べる京都市内の例よりも早かった。京都市内の京都市電と京都電気鉄道の共用区間では、同年4月19日に京都市が内務省から三線軌条敷設の許可を受け、同年12月25日に三線軌条の最初の区間が営業を開始した。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "翌1913年には東海道本線の膳所駅(当時は馬場駅) - 大津駅(後の浜大津駅)間で、東海道本線(貨物線)に大津電車軌道(現在の京阪電気鉄道石山坂本線)が乗り入れるため三線軌条となった。軌道ではない鉄道が関係するものはこれが最初である。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "純粋な鉄道のみのものとしては1917年に横浜線の原町田駅 - 橋本駅間で、標準軌化の実地試験として使用されたのが始まりである(日本の改軌論争も参照)。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "鉄道車両工場の構内で三線軌条となっているケースもある。例えば、JR東海浜松工場には狭軌・標準軌共用の三線軌条が多い。なお、ここでは営業線上以外のものは割愛する。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また営業運行ではないが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)4月に京成電鉄本線の京成上野駅 - 日暮里駅間の地下線が国(運輸省)に接収され、国鉄日暮里駅構内の側線につながる三線軌条を敷設した上で、空襲から守るために国電車両や寝台車を疎開させた事がある。ただし戦時中の京成上野地下線の状況については様々な文献による記述がある。詳しくは京成上野駅を参照。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、後の1959年(昭和34年)に京成電鉄と新京成電鉄が1,372 mm(馬車軌間)から1,435 mm(標準軌)に改軌した工事期間中、駅や車両基地の構内に四線軌条に似たものが敷設されていたが、この2種類の軌間は差が小さすぎるために通常の三線あるいは四線軌条は物理的に成立困難である。外側のレールは標準軌で、内側のレールは馬車軌間より狭く、馬車軌間の車両が入線した際の脱線防止用ガードレールとして作用していた。この他、同社の津田沼第二工場とその出入庫ルートには、1,372 mm軌間と1,435 mm軌間の軌道中心を大きくずらした四線軌条(4本のレールに左端から1 - 4番の番号を付けると、1番と3番の間が1,372 mm軌間、2番と4番の間が1,435 mm軌間、というような敷設法)が存在した。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "国鉄時代の東静岡駅(現在の静岡貨物駅で旅客駅の東静岡駅とは別の駅)にも存在した。保線機材やレールを積み込む施設に採用され、国鉄分割民営化後も暫く存置されていた。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スイスでは主に貨物列車の直通を目的に三線軌条もしくは四線軌条化がなされている。なお、輸送量の少ない区間ではロールボックもしくはロールワーゲンを使用して貨車を直通している。", "title": "三線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この区間の両側は三線軌条となっている。", "title": "四線軌条の事例" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "州際では標準軌で統一されているために標準軌以外の軌間を採用している州都までの鉄路で三線軌条区間が存在する。", "title": "四線軌条の事例" } ]
三線軌条(さんせんきじょう)とは、鉄道において軌間の異なる車両を運転するために、通常1対2本の軌条(レール)で敷設される線路について、片側のレールを共通として残り2本のレールをそれぞれの軌間に応じて敷設したもののこと。三線軌条は三線軌道、三線軌ともいう。 線路中心を合わせるために、軌条を共通とせずに4本敷設する四線軌条(しせんきじょう)とする場合もある。四線軌条は、軌間の差が小さすぎるため3本のレールの併設が困難なケースや、3種の軌間に対応するケースにも用いられる。 英語ではDual gauge(デュアルゲージ)と呼び、日本語でもデュアルゲージと称することもある。
{{Otheruseslist|軌間の異なる鉄道車両の運転のために軌条を3本敷設したもの|集電のために3本目の軌条を敷設したもの|第三軌条方式|複線の線路にもう1本の線路を加えたもの(軌条は6本)|複々線#三線}} {{軌間}} [[ファイル:Hakone-Itabashi-Dualgauge.jpg|thumb|200px|right|三線軌条の分岐器([[箱根登山鉄道]] [[箱根板橋駅]]、どちらも三線で分岐、[[2006年]]廃止)]] '''三線軌条'''(さんせんきじょう)とは、[[鉄道]]において[[軌間]]の異なる車両を運転するために、通常1対2本の[[軌条]](レール)で敷設される[[線路 (鉄道)|線路]]について、片側のレールを共通として残り2本のレールをそれぞれの軌間に応じて敷設したもののこと。三線軌条は'''三線軌道'''<ref name="RA2014-4-1">{{Cite web|和書|date=2014-04-25 |url=https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2014-4-1.pdf |title=鉄道事故調査報告書 東日本旅客鉄道株式会社 奥羽線 神宮寺駅〜刈和野駅間 列車脱線事故 |format=PDF |author=運輸安全委員会 |authorlink=運輸安全委員会 |accessdate=2015-05-16 }}p. 9(報告書p. 3) 脚注4。</ref>、'''三線軌'''<ref name="haisen">井上孝司『配線略図で広がる鉄の世界 路線を読み解く&作る本』秀和システム、2009年、194頁</ref>ともいう。 線路中心を合わせるために、軌条を共通とせずに4本敷設する'''四線軌条'''(しせんきじょう)とする場合もある。四線軌条は、軌間の差が小さすぎるため3本のレールの併設が困難なケースや、3種の軌間に対応するケース(Triple gauge='''3階建て軌道''')にも用いられる。 英語ではDual gauge(デュアルゲージ)と呼び、日本語でもデュアルゲージと称することもある<ref name="haisen" />。 == 目的 == 鉄道は[[モノレール]]や[[新交通システム]]を除いて2本のレールを組み合わせており、この2本の幅([[軌間]])が異なる車両が相互に乗り入れることはできない<ref name="haisen" />。軌間が異なる車両が相互に乗り入れる場合、台車を鉄道ごとに履き替える方法(ヨーロッパ・中国 - ロシア間の鉄道など)や、可変軌間式の台車を持つ車両を用いる方法(スペイン - フランス間の鉄道など)など、車両側で対応する方法もある<ref name="haisen" />。これらの問題を線路側で対応するのが三線軌道(あるいは四線軌道)である<ref name="haisen" />。 各軌間の線路中心がずれ、[[建築限界]]もそれにあわせて変わるため、[[プラットホーム|ホーム]]<ref>例:箱根板橋駅は登山線車と小田急車で別ホームだった。</ref>・架線<ref>北海道新幹線・海峡線([[青函トンネル]]区間)はそれぞれの中心から92mm偏倚している。</ref>・信号機・[[自動列車停止装置|ATS]]/[[自動列車制御装置|ATC]]位置補正地上子等の保安装置の地上子の設置位置に注意が必要な点、[[分岐器]](ポイント)の構造が複雑になる点、降雪地帯などでは並列する軌条の間に雪が詰まる<ref>青函トンネル区間は分岐器付近にスノーシェッドを設置している。</ref>、レールの摩耗が不均衡になる、[[レール]]の取得や保守のコストが上がるなどの問題がある。 == 三線軌条の事例 == === オーストラリア === {{節スタブ}} オーストラリアは州ごとに主要軌間が異なっており、標準軌の州際軌条と、各州のローカルゲージの3線軌条が多く見られる。 パースなどの西オーストラリア州では、標準軌と狭軌、同じくクイーンズランド州も標準軌と狭軌、ビクトリア州では、標準軌と広軌、の3線軌条がおおく見られる。 === 日本 === {{出典の明記|section=1|date=2012年8月|ソートキー=鉄}} 日本での三線軌条および四線軌条は、[[1912年]][[7月1日]]に、[[博多電気軌道]](のちの[[西鉄福岡市内線]]、1435mm)が貨物輸送を目的として、一部の区間に1067mmの軌道を併設して貨物列車の運行を開始した事例があり<ref>西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会(編)『西日本鉄道百年史』[[西日本鉄道]]、2008年、pp.18 - 20</ref>、この営業運行は次に述べる京都市内の例よりも早かった。[[京都市]]内の[[京都市電]]と[[京都電気鉄道]]の共用区間では、同年[[4月19日]]に京都市が内務省から三線軌条敷設の許可を受け、同年[[12月25日]]に三線軌条の最初の区間が営業を開始した。 翌[[1913年]]には[[東海道本線]]の[[膳所駅]](当時は馬場駅) - 大津駅(後の[[びわ湖浜大津駅|浜大津駅]])間で、東海道本線(貨物線)に大津電車軌道(現在の[[京阪電気鉄道]][[京阪石山坂本線|石山坂本線]])が乗り入れるため三線軌条となった。[[軌道法|軌道]]ではない鉄道が関係するものはこれが最初である。 純粋な鉄道のみのものとしては[[1917年]]に[[横浜線]]の[[町田駅|原町田駅]] - [[橋本駅 (神奈川県) |橋本駅]]間で、[[標準軌]]化の実地試験として使用されたのが始まりである([[日本の改軌論争]]も参照)。 鉄道車両工場の構内で三線軌条となっているケースもある。例えば、[[JR東海浜松工場]]には狭軌・標準軌共用の三線軌条が多い。なお、ここでは営業線上以外のものは割愛する。 <gallery> ファイル:Riding-past-crossing-3rail.jpg|三線軌条の乗越分岐器(箱根登山鉄道 風祭駅、どちらも三線で分岐、2006年廃止) ファイル:DualgaugeHakonetozanJP14.jpg|三線軌条の分岐器([[小田急電鉄]]・[[箱根登山鉄道]] [[小田原駅]]、片方だけ三線で分岐、2006年廃止) ファイル:Mutsuura_Point.jpg|三線軌条の移線器([[京急逗子線|逗子線]][[六浦駅]]) </gallery> ==== 現存するもの ==== {{右| [[ファイル:Jr_kaikyoline_triplegagerail.jpg|200px|thumb|none|海峡線の[[湯の里知内信号場]]付近に敷設された三線軌条]] }} * [[北海道旅客鉄道]] [[北海道新幹線]]・[[海峡線]]:[[新中小国信号場]] - [[木古内駅]] ※[[2016年]](平成28年)3月26日共用開始。 ** 北海道新幹線車両(定期[[旅客列車]]) = [[標準軌]] ** 在来線車両([[貨物列車]]・臨時旅客列車)= [[狭軌]](1,067 mm軌間・三六軌間) *** この区間の中間駅である[[奥津軽いまべつ駅]]では本線・ホーム側待避線は標準軌、駅外側の待避線は狭軌のみ。[[湯の里知内信号場]]では本線は標準軌・狭軌の三線軌条、待避線は狭軌のみ。 *** この区間は[[架線]]電圧が25,000 Vのため、新幹線車両の他は、[[複電圧車|複電圧対応車両]]([[JR貨物EH800形電気機関車|EH800形]]と[[TRAIN SUITE 四季島]])だけが自走可能で、従来の在来線(20,000 V)用[[電車]]・[[電気機関車]]の自走は不可能<ref>[[デッドセクション|異電圧セクション]]の関係上、新中小国信号場在来線([[津軽線]])と木古内駅在来線([[道南いさりび鉄道]] [[道南いさりび鉄道線]])構内も在来線用の電車・電気機関車の自走は不可能。</ref>。在来線[[定期列車|定期]][[旅客列車]]は2016年3月21日の運行をもって全廃された<ref>{{Cite news|title=【三線軌条】貨物と共用、初採用|newspaper=[[北海道新聞|どうしんウェブ]]|date=2014-06-25|author=|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/bullet_train_encyclopedia/2-0016428.html|accessdate=2015-10-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319062355/http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/bullet_train_encyclopedia/2-0016428.html|archivedate=2015年3月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 [[ファイル:三線軌条.jpg|thumb|150px|right|奥羽本線,秋田新幹線の三線軌条([[2011年]][[8月10日]]、[[刈和野駅]])]] * [[東日本旅客鉄道]] [[奥羽本線]]・[[秋田新幹線]]:[[神宮寺駅]] - [[峰吉川駅]](複線の一方が狭軌と併用)<ref> {{Cite web|和書 |date=2014-04-25 |url=https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2014-4-1.pdf |title=鉄道事故調査報告書 東日本旅客鉄道株式会社 奥羽線 神宮寺駅〜刈和野駅間 列車脱線事故 |format=PDF |author=運輸安全委員会 |authorlink=運輸安全委員会 |accessdate=2015-05-16 }}p. 12(報告書p. 6) 図2。</ref><ref> {{Cite news |title = 【三線軌条・2】共用レール、管理に神経 |newspaper = どうしんウェブ |date = 2014-07-15 |author = |url = http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/bullet_train_encyclopedia/2-0016429.html |accessdate = 2015-10-15 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20150319062355/http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/bullet_train_encyclopedia/2-0016428.html |archivedate = 2015年3月19日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref> ** 新幹線直通車両 = 標準軌 ** 在来線車両 = 狭軌(1067mm軌間・三六軌間) *** 架線電圧は20000Vの共有で[[自動列車停止装置|ATS]]は標準軌がATS-P・狭軌はATS-S<small>N</small>を併設<ref>[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2018/all.pdf サステナビリティレポート2018] 34頁 - JR東日本、2018年9月</ref>。<!--狭軌は標準軌と重なっているため出典から直接読み取れないが、仮に在来線がPsだとすると「Ps設置駅」のマークが意味をなさない--> * [[箱根登山鉄道]] [[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]]:[[入生田駅]] - [[箱根湯本駅]]:入生田車庫出入庫車両(かつては[[小田原駅]] - [[箱根湯本駅]]の営業用だった。) ** 箱根登山鉄道の車両 = 標準軌 ** [[小田急電鉄|小田急]]の車両 = 狭軌(1067mm軌間・三六軌間) *** この区間は架線電圧が1500Vなので箱根登山鉄道線車両が[[複電圧車]]でATSは小田急仕様(OM-ATS)で両社共通になっている。 * [[京浜急行電鉄]] [[京急逗子線|逗子線]]:[[金沢八景駅]] - [[神武寺駅]]:[[総合車両製作所]]横浜事業所入出場車両(複線の一方が狭軌と併用) ** 京急線の車両 = 標準軌 ** その他の車両 = 狭軌(1067mm軌間・三六軌間)、使用中は[[線路閉鎖]]して列車の運行を止める必要がある<ref>京急線内のC-ATSが使用できない、六浦駅は駅前後の特殊分岐器の関係上車両限界が対向する線路にはみ出してしまう、牽引機が機械扱いなどの理由による。</ref> {{Clear}} <!-- ==== 予定されているもの ==== --> ==== かつて存在したもの ==== {{右| [[ファイル:OU_LINE_a_vestige_of_sanjo-kidou.jpg|thumb|150px|奥羽本線(山形線)の[[山形駅]]-[[蔵王駅]]間に敷設されていた三線軌条の跡。現在は地上の固定子のみが残る]] }} <!--年代の古いものから順に記載--> * [[京都市電]]:四条西洞院 - 四条堀川など ** [[京都市]]敷設路線=標準軌 ** [[京都電気鉄道]]敷設路線(N電)= 狭軌(1,067 mm軌間・三六軌間) ** 最も多いときには上記の他に烏丸通・丸太町通・七条通に合計4箇所存在したが、徐々に標準軌に統合され、戦後まで残ったのは上記四条通の区間のみ。[[1961年]](昭和36年)[[8月1日]]、狭軌路線廃止。残った標準軌線([[京都市電四条線|四条線]])も[[1972年]]廃止された。 * [[西鉄福岡市内線]]:三角駅 - 博多築港駅 ** 吉塚線・循環線 = 標準軌 ** 築港線 = 狭軌(1,067 mm軌間・三六軌間) ** 築港線が吉塚線・循環線と重複する区間が該当。貨物輸送をおこなう築港線のために三線軌条となっていた。[[1944年]](昭和19年)[[12月3日]]に吉塚線の三角駅 - 吉塚駅前駅間が廃止となり、1,435 mmのレールを撤去。残った区間も1961年(昭和36年)[[2月11日]]に築港線の運行を休止、[[1963年]](昭和38年)[[9月1日]]に築港線全線が廃止され、吉塚線・循環線は1,435 mmのみとなった。 * [[京阪石山坂本線]]・[[東海道本線]]・[[江若鉄道]]:[[膳所駅]] - [[びわ湖浜大津駅|浜大津駅]](片側線のみ) ** 京阪電気鉄道車両 = 標準軌 ** その他の車両 = 狭軌(1,067 mm軌間・三六軌間) ** 上記3社の共用(重複)区間。[[日本国有鉄道|国鉄]]は貨物のみの運行だった(戦後、米軍の輸送を行った時期あり)。江若鉄道は[[1947年]](昭和22年)から[[1965年]](昭和40年)まで旅客列車を運行した。[[1969年]](昭和44年)[[11月1日]]狭軌車両の運行廃止。廃止後も[[1976年]](昭和51年)まで三本目の線路は残されていた。 * [[博多電気軌道|九州水力電気]](のちの[[西鉄福岡市内線]]):今川橋駅 - 姪ノ浜駅 ** 電車車両 = 標準軌 ** 貨物列車 = 狭軌(914 mm軌間) ** 914 mm軌間の上記区間を[[1922年]]([[大正]]11年)[[7月26日]]に1,435 mmに改軌・[[鉄道の電化|電化]]した際に、姪ノ浜駅以西の区間( - 加布里駅)との間で[[貨車]]を[[直通運転|直通]]させるために三線としたもの。[[1928年]](昭和3年)[[6月1日]]に姪ノ浜以西が廃止となり、914 mmの線路は撤去された。 * [[大阪電気軌道]](現・[[近畿日本鉄道]])[[近鉄吉野線|吉野線]]:(旧)橿原神宮前駅 - 久米寺駅 ** 久米寺駅は現・[[橿原神宮前駅]]付近。 ** 大阪電気軌道畝傍線(現・[[近鉄橿原線]])車両 = 標準軌 ** 大阪電気軌道吉野線車両 = 狭軌(1,067 mm軌間・三六軌間) ** もともと狭軌だった吉野線に、上本町方面からの車両を大阪鉄道(現・[[近鉄南大阪線]])との[[乗換駅|接続駅]]だった久米寺まで乗り入れるためのもの。[[1930年]](昭和5年)に三線軌条となったが、[[1939年]]に畝傍線・吉野線の線路を移設して新たに大阪鉄道との結節点に現在の橿原神宮前駅を設置し、畝傍線が直接乗り入れる形に変更したため姿を消した。 *[[大井川鐵道]]・[[千頭森林鉄道]] :[[千頭駅]] - [[沢間駅]] **大井川鐵道 =1067mm軌間・三六軌間 **千頭森林鉄道 =762mm軌間・二六軌間 **日本の旅客供用した三線軌条では唯一の三六軌間と二六軌間。1936年に大井川鐵道側が改軌したために生じた。[[1968年]]に二六軌間の千頭森林鉄道が廃止されて消滅。 * [[阪神電気鉄道]] [[阪神武庫川線|武庫川線]]:[[武庫大橋駅]] - [[洲先駅]] ** 阪神電気鉄道車両 = 標準軌 ** 国鉄車両 =(1,067 mm軌間・三六軌間) ** [[太平洋戦争]]中に[[洲先駅|洲先]]にあった[[川西航空機]]の工場への[[軍需産業|軍需]]輸送として、国鉄[[西宮駅 (JR西日本)|西ノ宮駅]]から引かれた[[貨物線]]につながる形で貨物列車が乗り入れた。[[終戦|戦争終結]]とともに軍需輸送は終了したが、戦後は[[連合国軍最高司令官総司令部|駐留軍]]関連の貨物列車として[[1953年]](昭和28年)ごろまで貨物列車の運行があった模様。洲先駅の終端部(使用停止区間)には、[[1983年]](昭和58年)に[[武庫川団地前駅]]への延伸工事が始まるまで3本目の線路が残されていた。 * [[川崎市電]]・京浜急行電鉄[[京急大師線|大師線]]:日本鋼管前駅 - [[塩浜駅 (神奈川県)|塩浜駅]] - [[小島新田駅]] - [[川崎大師駅]] ** 川崎市・京浜急行線車両 = 標準軌 ** その他の車両=狭軌(1,067 mm軌間・三六軌間) ** 国鉄[[浜川崎駅]]からの川崎の[[工業地帯]]への貨物列車を運行するために、[[1946年]](昭和21年)9月に浜川崎駅から[[JFEエンジニアリング|日本鋼管]]の[[専用鉄道|専用線]]を経由して[[東京急行電鉄]](当時)大師線の[[桜本駅]] - 入江崎駅間から大師線の下り線へ入り、ここから小島新田駅までの間を三線軌条として貨物列車を運転したのが始まりであり、その後三線軌条区間は川崎大師駅まで延長された。[[1948年]](昭和23年)8月からは、日本鋼管構内の専用線に代えて浜川崎駅から川崎市電の日本鋼管前 - 浜町三丁目間から市電上り線に入り、桜本駅から大師線に入るルートに変更になった。 ** 川崎市電区間である日本鋼管前駅 - 塩浜駅間は、その後、改良工事が行われて[[複線]]区間が上下線とも三線軌条となり、[[1954年]](昭和29年)4月からは終日貨物列車の運行が開始され、浜川崎駅から各専用線への貨物列車が運転されるようになった。 ** 国鉄の塩浜[[操車場 (鉄道)|操車場]](現・[[川崎貨物駅]])建設のため、[[1964年]](昭和39年)に京急の小島新田駅 - 塩浜駅と川崎市電の池上新田駅 - 塩浜駅が休止され、日本鋼管前駅 - 池上新田駅間は上り線を[[東海道本線]]貨物支線の一部に転用して[[単線]]化され、これらの区間の三線軌条は廃止された。 ** 以後は大師線の三線軌条区間は分岐駅を川崎貨物駅に変更して、京急([[味の素]])のみに三線軌条が残存した。[[1997年]]([[平成]]9年)の貨物列車の運行廃止まで大師線の[[終電]] - [[始発列車|初電]]の[[深夜]]に川崎貨物駅 - 小島新田駅 - [[味の素]]工場へ貨物列車が運行されていた。貨物廃止後は標準軌化。 * [[箱根登山鉄道]] [[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]]:[[小田原駅]] - [[入生田駅]] ** 箱根登山鉄道線車両=標準軌 ** [[小田急電鉄|小田急]]線車両 = 狭軌(1,067 mm軌間・三六軌間) ** かつて小田原駅から箱根湯本駅間は[[1950年]](昭和25年)[[8月1日]]に小田急線の電車が乗り入れを開始した後も箱根登山鉄道車両は頻繁に走っていた。[[2000年]](平成12年)[[12月2日]]に朝と夕方以降のみの運転に縮小され、[[2006年]](平成18年)[[3月18日]]この区間の運転は廃止された。 * [[名古屋市電下之一色線]]:下之一色駅 - 中郷駅 ** [[名古屋市電]]車両 = 狭軌(1,067 mm軌間・三六軌間) ** [[名古屋市営地下鉄]]車両 = 標準軌 ** [[名古屋市営地下鉄東山線]]の開業に先立ち、車両([[名古屋市交通局100形電車|100形]])の[[試運転|テスト]]を行うために[[1956年]](昭和31年)に一時的に実施されたもの。地下鉄車両用の[[第三軌条方式|第三軌条]]も敷設されており、これは日本の三線軌条区間の中で唯一のものである。試験終了後に地下鉄用の施設は撤去された。 * [[熊本市交通局]](熊本市電)[[熊本市電坪井線|坪井線]]・[[熊本電気鉄道]](熊本電鉄)[[熊本電気鉄道上熊本倉庫線|上熊本倉庫線]]:[[上熊本駅]]前(坪井線)電停 - [[本妙寺通停留場|本妙寺通電停]](上り線のみ) ** 元々は(現)[[熊本電気鉄道菊池線|熊本電鉄菊池線]]上熊本駅から[[熊本電気鉄道藤崎線|熊本電鉄藤崎線]]の起点駅・[[藤崎宮前駅]]を結んでいた'''熊本電鉄熊本市内線'''(狭軌、1,067 mm軌間・三六軌間)だったが1959年6月に同線を熊本市交通局(熊本市電)に譲渡、同年10月に熊本市電坪井線を[[熊本市電幹線]]と直通乗り入れするため標準軌に改軌。同日熊本電鉄は自社線や国鉄[[鹿児島本線]]等の貨物輸送で上熊本駅から本妙寺通電停方面の「熊本倉庫」へ上り線約230メートル区間を熊本電鉄上熊本倉庫線(狭軌)として開設。1966年7月、熊本電鉄上熊本倉庫線廃止まで運用していた<ref>[http://tram.2-d.jp/kt/database/topics/3sen/tc_3sen.htm 坪井線の3線軌道] - 参考資料</ref>。 * 東日本旅客鉄道 [[山形線]]・[[山形新幹線]]:[[蔵王駅]] - [[山形駅]](下り線のみ) ** 新幹線直通を含む旅客車両 = 標準軌 ** 在来線貨物車両 = 狭軌(1,067 mm軌間・三六軌間) ** 山形新幹線開業時から下り線を三線軌条化し[[貨物輸送]]を行っていた。[[1998年]](平成10年)[[9月29日]]で貨物列車の発着は終了し、狭軌は数年のうちに撤去されて標準軌のみとなった。 また[[営業]]運行ではないが、[[太平洋戦争]]中の[[1945年]](昭和20年)4月に[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[京成上野駅]] - [[日暮里駅]]間の地下線が国([[運輸省]])に接収され、国鉄日暮里駅構内の[[側線]]につながる三線軌条を敷設した上で、[[空襲]]から守るために[[国電]]車両や[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を[[疎開]]させた事がある<ref>[[種村直樹]]『地下鉄物語』日本交通公社、[[1977年]]、P75。</ref>。ただし[[戦中|戦時中]]の京成上野地下線の状況については様々な文献による記述がある。詳しくは[[京成上野駅]]を参照。 なお、後の[[1959年]](昭和34年)に京成電鉄と[[新京成電鉄]]が1,372 mm(馬車軌間)から1,435 mm(標準軌)に改軌した工事期間中、[[鉄道駅|駅]]や[[車両基地]]の構内に四線軌条に似たものが敷設されていたが、この2種類の軌間は差が小さすぎるために通常の三線あるいは四線軌条は物理的に成立困難である。外側のレールは標準軌で、内側のレールは馬車軌間より狭く、馬車軌間の車両が入線した際の[[脱線防止ガード|脱線防止用ガードレール]]として作用していた。この他、同社の津田沼第二工場とその出入庫ルートには、1,372 mm軌間と1,435 mm軌間の軌道中心を大きくずらした四線軌条(4本のレールに左端から1 - 4番の番号を付けると、1番と3番の間が1,372 mm軌間、2番と4番の間が1,435 mm軌間、というような敷設法)が存在した<ref>石本祐吉「京成改軌の際に使用された4線軌道について」『鉄道ピクトリアル』635号、38-39頁、[[1997年]](平成9年)</ref>。 <!-- 参考までに英語版Wikipediaの記事[[w:Dual gauge#Configuration for Africa]]では、同様に軌間の差が小さく、複条化が困難とされる1,000 mm軌間と1,067 mm軌間を実現するためにそれぞれの軌道中心をずらして敷設することができると想定した四線軌条の模式図が見られる。 --> 国鉄時代の東静岡駅(現在の[[静岡貨物駅]]で[[旅客駅]]の[[東静岡駅]]とは別の駅)にも存在した。[[保線]]機材や[[軌条|レール]]を積み込む施設に採用され、[[国鉄分割民営化]]後も暫く存置されていた。 === スイス === スイスでは主に貨物列車の直通を目的に三線軌条もしくは四線軌条化がなされている。なお、輸送量の少ない区間では[[ロールボック]]もしくは[[ロールワーゲン]]を使用して貨車を直通している。 *[[レーティッシュ鉄道]]:クール - ドマ/エムス **レーティッシュ鉄道の列車=狭軌(1000mm軌間、複線) **スイス国鉄直通の貨物列車=標準軌(1435mm軌間、複線のうち片側のみ) **スイス国鉄の[[スイス国鉄Re420形電気機関車|Re420形]]などの電気機関車が牽引する貨物列車が沿線のセメント工場などへ乗り入れる。レーティッシュ鉄道は電化方式交流11kV 16.7Hzであるが交流15kV 16.7Hz用のスイス国鉄機がそのまま乗り入れる。 **なお、レーティッシュ鉄道ではスイス国鉄との並行区間にあるラントクアルト駅およびウンターヴァッツ駅構内およびそこからの工場引込み線が三線軌条化されている。 *[[ツェントラル鉄道]]:[[ルツェルン]]駅構内 - クリーンス・マッテンホーフ駅付近、レスリマット信号場 - ホルヴ **ツェントラル鉄道鉄道の列車=狭軌(1000mm軌間、複線および単線) **スイス国鉄直通の貨物列車=標準軌(1435mm軌間、複線区間はそのうち片側のみ) **クリーンス・マッテンホーフ駅付近 - レスリマット信号場間は四線軌条化されている。 **古くはクリーンス・マッテンホーフ付近から1435mm軌間のクリエンス-ルツェルン鉄道に接続していたが、ルツェルン付近のツェントラル鉄道の地下化により同鉄道が廃止となり、ルツェルンまでツェントラル鉄道が三線軌条化されている。沿線の工場への1435mm用貨車の直通に使用される。 *ベルン-ゾロトゥルン地域交通:ツォリコフェン - ヴォルブラウフェン(1970年廃止)、ヴォルブラウフェン - ボリゲン、ボリゲン - ダイスヴィル(2000年廃止)、ニーダービップ - オーバービップ **ベルン-ゾロトゥルン地域交通の列車=狭軌(1000mm軌間) **スイス国鉄直通の貨物列車=標準軌(1435mm軌間) **沿線の工場等への標準軌用貨車による貨物列車を1000mm軌間用のベルン-ゾロトゥルン地域交通の貨物電車もしくはディーゼル機関車が牽引している。これらの機体は1435mm軌間の中心に合わせた位置に標準軌貨車用のねじ式連結器を装備している。 *BDWM交通:(廃止)ヴォーレン - ブレンガルテン・ウエスト **BDWM交通の列車=狭軌(1000mm軌間) **スイス国鉄直通の貨物列車=標準軌(1435mm軌間) **ヴォーレン - ブレンガルテン・ウエスト間はもともと1435mm軌間のスイス国鉄の路線だったが、ブレンガルテン・ウエスト - ディーティコン間を1000mm軌間で開業したBDWM交通の前身であるブレンガルテン・ディーティコン鉄道にリースされて1000mm軌間との三線軌条化され、旅客列車はブレンガルテン - ディーティコン間を直通している。貨物列車はBDWM交通が標準軌用の電車もしくはディーゼル機関車を保有して牽引していた。 **貨物列車は2007年に廃止となり、標準軌の軌道は2011年より順次撤去されている。 <gallery> ファイル:Stuttgart dt8.jpg|地下鉄部に入ろうとする三線軌条を走行するUバーン([[ドイツ]]・[[シュトゥットガルト]]) ファイル:RBS-Tmf166.jpg|スイス、ベルン-ゾロトゥルン地域交通の1000mm軌間用ディーゼル機関車、標準軌の軌道中心にあわせた連結器を装備する。 </gallery> == 四線軌条の事例 == {{節スタブ}} === 日本 === *[[十勝鉄道]] 帯広部線:新帯広駅 - 工場前駅 **国鉄直通用貨車 =1067mm軌間・三六軌間 **十勝鉄道内列車 =762mm軌間・二六軌間 **日本の営業路線では唯一の'''四線軌条'''。元は国鉄[[帯広駅]]から製糖工場(工場前駅に隣接)までの三六軌間の専用線で、[[1924年]]の地方鉄道化にあたり工場以南に建設されていた二六軌道が旅客営業を担うこととなったため、これを帯広に乗り入れさせるために併設された。それぞれ使用していたレール規格の違いから、高さが異なるために四線式になった。[[1959年]][[11月15日]]に二六軌間の路線が廃止されて消滅。 === 北朝鮮 === *[[咸北線]]:[[ハサン駅]] - [[羅津駅]]。ただし、ハサン駅 - [[豆満江駅]]間に位置する朝鮮・ロシア友情橋上の一部は[[標準軌]]の二線が敷設されておらず<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-27 |url=https://www.bbc.com/japanese/56206357 |title=ロシア外交官と家族、手押しトロッコで北朝鮮を出る |publisher=BBC |accessdate=2021-02-27}}</ref>、[[5フィート軌間|ロシア軌間]]のみが運用されている([[朝鮮・ロシア友情橋]]参照)。 === スイス === *[[ツェントラル鉄道]]:クリーンス・マッテンホーフ駅付近 - レスリマット信号場 **ツェントラル鉄道鉄道の列車=狭軌(1000mm軌間、複線) **スイス国鉄直通の貨物列車=標準軌(1435mm軌間、複線のうち片側のみ) この区間の両側は三線軌条となっている。 <gallery> ファイル:Kriens Uebergangsweiche 20121203S133d.jpg|スイス、ツェントラル鉄道の三線軌条と四線軌条の接続箇所 </gallery> === オーストラリア === 州際では標準軌で統一されているために標準軌以外の軌間を採用している州都までの鉄路で三線軌条区間が存在する。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Dual-gauge rail tracks}} *[[単複線]](ガントレット) - 同じ軌間の線路を重ねて敷設するもの。 *[[軌間可変車軸]] *[[80cm列車砲]] - 列車砲本体がレール4本(四線軌条、正確には線路中心間距離が厳密に管理された複線)を必要とし、現地組み立て時には列車砲自身の走行する4本のレールに加え輸送用の貨車の走る通常の軌道、これらの6本のレールをはさんで1本ずつ敷設される組み立て用クレーンの走行するレールの計8本のレールを必要とした。 == 外部リンク == *[http://jj1grk.c.ooco.jp/kamakama/kamakama.htm 蒲蒲線、羽田空港乗り入れの方法] - 国鉄時代に考案された4線軌条を実現する方法の紹介 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さんせんきしよう}} [[Category:軌間]]
2003-07-23T04:55:54Z
2023-11-11T08:10:36Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Reflist", "Template:Normdaten", "Template:Commonscat", "Template:Otheruseslist", "Template:軌間", "Template:節スタブ", "Template:右", "Template:Clear", "Template:Cite web", "Template:Cite news" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B7%9A%E8%BB%8C%E6%9D%A1
12,081
フルート
フルートは、木管楽器の一種で、リードを使わないエアリード(無簧)式の横笛である。吹奏楽やオーケストラなどで使われている。 今日一般にフルートというと、銀色または金色の金属製の筒に複雑なキー装置を備えた横笛、つまりコンサート・フルートを指すが、古くは広く笛一般を指していた。ルネサンス音楽からバロック音楽の時代にあっては、単にフルートというと、現在一般にリコーダーと呼ばれる縦笛を指し、現在のフルートの直接の前身楽器である横笛は、「トラヴェルソ(横向きの)」という修飾語を付けて「フラウト・トラヴェルソ」と呼ばれていた。17世紀後半のフランス宮廷で、ジャック=マルタン・オトテールとその一族が改良した横笛フルートが高い人気を博し、その後ドイツやイタリアにも広まったため、表現力に劣る縦笛は次第に廃れてしまい、フルートといえば横笛を指すようになったのである。かつてはもっぱら木で作られていたにもかかわらず、現在は金属製が主流となっているが、フルートは唇の振動を用いないエアリード式の楽器なので、金属でできていても木管楽器に分類される。 現代のフルート(モダン・フルート)は、バス・フルートなどの同属楽器と区別する場合、グランド・フルートまたはコンサート・フルートとも呼ばれ、通常C管である。19世紀半ばに、ドイツ人フルート奏者で楽器製作者でもあったテオバルト・ベームにより音響学の理論に基づいて大幅に改良され、正確な半音階と大きな音量、精密な貴金属の管体、優美な外観を持つに至った。このドイツ生まれのフルートは、最初にフランスでその優秀性が認められ、ついには旧式のフルートを世界から駆逐してしまった。今日単にフルートと言った場合は、例外なく「ベーム式フルート」のことである。 フルートはキーを右側にして構え、下顎と左手の人さし指の付け根、右手の親指で支える(三点支持)。両肩を結ぶ線と平行に持つのではなく、右手を左手より下方、前方に伸ばす。奏者は正面ではなくやや左を向き、右に首をかしげて唇を歌口に当てる。 発音にリードを用いないため、ほかの管楽器よりもタンギングの柔軟性は高い。運動性能も管楽器の中では最も高く、かなり急速な楽句を奏することも可能である。音量は小さい方であるが、高音域は倍音が少なく明瞭で澄んだ音なので、オーケストラの中にあっても埋もれることなく聞こえてくる。フルートの音色は鳥の鳴き声を想起させることから、楽曲中で鳥の模倣としても用いられる。有名でわかりやすい例として、サン=サーンスの組曲『動物の謝肉祭』の「大きな鳥籠」、プロコフィエフの交響的物語『ピーターと狼』などが挙げられる。 主にクラシック音楽の分野で用いられるが、ジャズやロックなど、他の音楽ジャンルで使用されることもある。しかし、ジャズ専門のフルート奏者は少なく、サクソフォーンなどのプレイヤーが持ち替えるか、クラシックとジャズの両方で活動するというケースが多い。 フルートを広義にとらえて、「リードを用いず、管などの空洞に向かって息を吹き付けて発音する楽器」とするならば、最も古いものとしては、およそ4万年前のネアンデルタール人のものと推定されるアナグマ類の足の骨で作られた「笛」がスロヴェニアの洞窟で発見されている。また、ほぼ同じ頃現生人類によって作られたと推定される、ハゲワシの骨でできた5つの指穴のある笛が、ドイツの洞窟で発見されている。それほど古いものでなくとも数千年前の骨で作られた笛は各地から出土しており、博物館などに収められている。しかし、世界各地で用いられていた原始的な笛は、ギリシャ神話の牧神パンが吹いたとされるパンフルートのような葦などで作られた縦笛か、オカリナのような形状の石笛(いわぶえ)や土笛がほとんどであった。 それでは、現在我々が使用しているフルートにつながる横向きに構える方式の笛が、いつどこで最初に用いられたのかというと、これも確かなことはわかっていないが、一説には紀元前9世紀あるいはそれ以前の中央アジアに発祥したといわれており、これがシルクロードを経て中国やインドに伝わり、さらに日本やヨーロッパにも伝えられていったと考えられている。奈良・正倉院の宝物の中に蛇紋岩製の横笛があり、東大寺大仏殿の正面に立つ国宝の八角灯籠には横笛を吹く音声菩薩(おんじょうぼさつ)の像があることなどから、奈良時代までに日本にも伝わっていたことは明らかである。 西洋では、現在リコーダーと呼ばれている縦笛が古くから知られており、当初はこちらが「フルート」と呼ばれていた。12-13世紀ごろに東洋から6孔の横笛が入り、縦笛の技術を応用して作られたものが主ににドイツ地方で使われ、「ドイツの笛」と呼ばれていた(ドイツでの呼び名は「スイスの笛」)。13世紀になるとフランスに、「フラウスト・トラヴェルセーヌ(フランス語: flauste traversaine;「横向きのフルート」の意)」といった名称が散見されるようになる。ルネサンス期に入っても、ヨーロッパでは横笛はあまり一般的な楽器ではなく、軍楽隊や旅芸人などが演奏するだけのものであった。16世紀に入る頃から、市民の間で行われるコンソートと呼ばれる合奏の中で、横笛も次第に使われ、教科音楽でも用いられるようになった。左図はオーストリアのローラウ城ハラッハ伯爵家所蔵の『喜びを与えん』と題する絵画で、横笛とリュート、歌唱によるブロークン・コンソートの様子が描かれている。この絵の横笛はテナーであるが、マルティン・アグリコラの「Musica instrumentalis deudsch」(1529)にあるように、他にもソプラノ、アルト、バスといった種類があり(ただし16世紀半ばにはアルトはテナーに吸収されている)、これらを持ち替えながら演奏を行い、ホール・コンソートも行われていた。現在では、このような横笛を「ルネサンス・フルート」と呼んでおり、古楽器として今も復元楽器が製作されている。 少数がイタリアのヴェローナなどに残っているオリジナルの物は、木製の管で、内面は単純な円筒形ではなく、複雑な波型になっており、外面は歌口側がやや太い円錐形である。基本的に一体成型されて分割できないものが多いが、大型のバス・フルートなどには2分割構造のものもある。テナーの横笛の最低音はD4で、D-dur(ニ長調)の音階が出せるように作られており、いわゆるD管である。トーンホールが6つ開いているだけのシンプルな構造なので、キーを必ず右側にして構えるモダン・フルートとは異なり、左側に構えることもできる。軽快によく鳴るが、音域によって音量や音色がかなり変化する。アグリコラの著作に記された運指法では半音は指孔半開で出せると記されているが、通常の演奏で半音を出すのはかなり難しい(内部が円筒形の復元楽器ではなく、オリジナルの物は内径の形状によっては半音が比較的出しやすいものもある)。 17世紀初頭から始まったバロック時代、ルネサンス・フルートはピッチの調節ができない上、半音を出すのが苦手で、低音と高音の音色の違いが大きいといった欠点があったため、この時代に隆盛し始めた宮廷音楽では用いられなかった。17世紀は横笛にとって雌伏の時代であり、新たな工夫が加えられた横笛が改めて人気を博するのは、ジャック・オトテールとその一族がフランスでフルートを改良して広めた1680年代以降のことである。 この時代も、単に「フルート」といえば縦笛(リコーダー)のことであり、現在のフルートの原型となった横笛はイタリア語で「フラウト・トラヴェルソ、フランス語で「フリュートトラヴェルシエール flute traversiere」、ドイツ語で「クヴェアフレーテ Querflote」すべて(横向きのフルート」の意)と呼ばれていた。省略して単に「トラヴェルソ」とも呼ばれ、現代では「バロック・フルート」と呼ぶこともある。ソプラノからバスまでを使い分けたルネサンス・フルートと異なり、バロック・フルートの多くは、テナーのD管であり、次のような点がルネサンス・フルートと異なっている。 こうした改良によって高い表現力を身に着けた横笛は、オトテールとその一族が仕えるルイ14世の王宮で人気を得て、次第に縦笛に取って代わる存在となっていった。フランス音楽の受け入れに積極的だったドイツの宮廷ではフランスのフルート奏者を好んで雇用するようになり、そこからドイツ人のフルート奏者も育っていった。その代表例がザクセン選帝侯の宮廷に仕えたフランス人フルート奏者のピエール=ガブリエル・ビュファルダンと、ビュファルダンの勧めでフルートと奏者となったヨハン・ヨアヒム・クヴァンツである。 当時のフルートは最低音はD4、最高音はE6までというものが一般的であるが、B6までの運指が知られており、A6あたりまでは出しやすい楽器もある。D管であるが、楽譜は実音で記譜され、移調楽器ではない。多様な音色を持ち、繊細で豊かな表現が可能であることから、バロック・フルートは今日なお復元楽器が多数製作されている。 しかし、キーが設けられた半音は出しやすくなったものの、それ以外の半音は相変わらずクロスフィンガリングによって出す弱々しく不安定な音なので、長調について考えると、五度圏の図でD-dur(ニ長調)と隣り合うG-dur(ト長調)とA-dur(イ長調)は比較的大きな音量で演奏できるが、ニ長調から遠い調の曲をバロック・フルートで演奏するのは容易なことではない。 18世紀半ばから19世紀前半にあたる古典派の時代になると、より多くの調に対応できるよう、不安定な半音を改善するために新たなトーンホールを設けて、これを開閉するキーメカニズムを付け加えたり、高音域が出しやすいよう管内径を細くするといった改変が行われた。キーメカニズムを用いて、D管のままではあるが最低音がC4まで出せるフルートも作られるようになった。これらの楽器もフラウト・トラヴェルソに含まれるが、バロック時代の「バロック・フルート」と区別して、「クラシカル・フルート」「ロマンチック・フルート」と呼ぶこともある。この時代になると、表現力に劣る縦笛(リコーダー)は廃れてしまい、フルートといえば横笛を指すようになった。 キーが追加されるに従って、クロスフィンガリングを用いずに出せる半音が増えていき、音は明るさや軽やかさを増したが、対称性が崩れたため、左側に構えることはできなくなった。管体は相変わらず円錐形で木製のものが多く、最高音はA6あたりであるが、中にはC7付近まで出るものもある。最低音がD4の6キー・フルート(右図)や、最低音がC4の8キー・フルートなどには全ての半音を出すキーが備わっているが、Esより下のキーを除いて全て「常時閉」であり、「必要なときだけ開ける」方式であった。 クロスフィンガリングが不要になったのは大きな進歩に違いないが、これらは当時の楽器製作者たちが、それぞれの考えに基づいて改良していったため、操作法が統一されていない上、運指も複雑となって運動性能が良いとは言い難く、必ずしも十分な効果が得られたわけではない。このような多キーのフルート(多鍵式フルート)は主に産業革命期のイギリスで開発されたのであるが、イギリス以外の国ではバランスの悪い不細工な楽器とみなす傾向が強く、1795年に創設されたパリ音楽院では、初代フルート教授となったフランソワ・ドゥヴィエンヌ(1759年 - 1803年)が亡くなるまで、1鍵式フルート以外の使用が認められなかった。 こうしたフルート乱開発の時代に終止符を打ったのがテオバルト・ベームである。 1820年ごろから活躍していたイギリス人フルート奏者 C. ニコルソン(Charles Nicholson 1795年 - 1837年)は、その手の大きさと卓越した技術によって通常よりも大きなトーンホールの楽器を演奏していた。ドイツ人フルート奏者で製作者でもあったテオバルト・ベームは、1831年にロンドンでニコルソンの演奏を聴いてその音量の大きさに衝撃を受け、自身の楽器の本格的な改良に着手した。 1832年に発表されたモデルは以下のようなものである。 このモデルはいわゆるGisオープン式であったが、通気を損なうことなく運指が容易になるGisクローズ式に改変されたタイプがフランスで用いられるようになった。管体はまだ木製で円錐形のままであったことから、今日では「円錐(コニカル)ベーム式フルート」などと呼ばれている。 ベームはその後も、50歳を過ぎてから大学で音響学を学ぶなど研究を続け、1847年に次のようなモデルを発表した。 このモデルもGisオープン式ではあったが、現在のフルートとほとんど変わらず、極めて完成度の高いものであった。これ以降今日までに加えられた大きな改変は、イタリアのジュリオ・ブリチャルディ(Giulio Briccialdi 1818年 - 1881年)により、フラット(♭)系の調を演奏するのに便利な、いわゆるブリチャルディ・キーが付け加えられたことと、より運指が容易なGisクローズ式が主流となったこと程度である。 今日の最も一般的な C足部管付きベーム式フルートにはトーンホールが16個あり、キーは数え方によるが、指が直接触れるものだけを数えると15個である。これらが右手親指を除く9本の指で操作できるようになっている。後述のように、キーメカニズムの関係でベーム式フルートにも鳴りにくい音はあるが、ほとんどの音は良い音程で確実に鳴る。 ベーム式フルートは、最初にフランスでその優秀性が認められ、次いでイギリスでも使われるようになったが、発祥の地であるドイツでは20世紀に入るまで受け入れられなかった。旧来のフルートとは運指が異なることに加えて、この頃のドイツ音楽界に大きな影響力を持っていたワーグナーがベーム式フルートの音色を嫌ったことも、ドイツでの普及を妨げた大きな要因といわれている。 ベームが1847年に発表したフルートは、現在のカバードキー型のフルートとほとんど変わらないものの、Gisオープン式であって、外観も少々武骨な印象である。しかし、フランスの楽器製作者であるヴァンサン・イポリト・ゴッドフロワやルイ・ロットらの手によって、前記の円錐ベーム式フルートとは異なる新しい構造のリングキーを採用した、いわゆるフレンチスタイルのフルートが生み出されると共に、より運指が容易なGisクローズ式に変更され、意匠面も細部にわたって改良が施された。こうしてモダン・フルートは、今日見るような洗練された優美な姿となったのである。 1860年にパリ音楽院教授となったルイ・ドリュによって学院の公式楽器に認定されると、アンリー・アルテ(アルテスとも)、ポール・タファネル、フィリップ・ゴーベール、マルセル・モイーズらフルート科教授によってその奏法の発展と確立がなされ、ドビュッシー、フォーレをはじめとする作曲家たちが多くの楽曲を書いた。それまでは装飾的・限定的に使われていたビブラートも積極的に採り入れた演奏様式を確立してフランス楽派と呼ばれ、フランスは一躍フルート先進国となったのである。アルテの著した教則本は、今なお最も有名なモダン・フルートの入門書である。 一方、ドイツやオーストリアでは、金属製フルートの大径トーンホールから出る倍音を豊かに含む音色を好ましく思わないながらも、ベーム式メカニズムの長所は認めざるを得ず、20世紀に入る頃には管体は木製だがメカニズムはベーム式という折衷型の楽器が用いられるようになると共に、金属製のフルートも徐々にではあるが使われるようになった。しかし、ドイツの H.F.メイヤーによって開発された、トーンホールの径を大きくして音量を増すなどの改良が加えられた多鍵式・円錐管・旧式運指のメイヤー式フルートも、多くのメーカーによって模倣され、フランスを除くヨーロッパやアメリカでは、1930年代まで使われていた。 ベーム式フルートも、改良の余地がないほど完璧なものではないので、その後もフルートの改良はさまざまな形で試みられ、中には商品化に至ったものもあるが、ベームの基本設計を凌駕するほどのものは今日に至るも現れていない。ベーム式フルートはその地位を確固たるものとし、フレンチスタイルの登場以降は構造面に特段の変化はないが、奏法の面で大きな発展が見られる。 第二次世界大戦前から知られる特殊奏法としては、巻き舌によるフラッターツンゲやハーモニクス奏法がある。戦後はレコードの普及や放送技術の発展とともに、ランパルがソリストとして活躍し、フルートの魅力を世界中に示すこととなった。またモイーズが、教育者としてカリスマ的といえるほどの影響力を長い間保ち続けたこともあって、世界中でフランス風の演奏スタイルが大きく広まっており、ビブラートを常にかけるのが一般的であるが、クラシック音楽においては今なおビブラートを乱用しない演奏スタイルも好まれる。前述の通り、ドビュッシーはフルートにおけるレパートリー拡張の第一人者であるが、中でも独奏曲『シランクス』はフルート独奏のための曲として歴史上重要な位置を占めている。エドガー・ヴァレーズは『密度21.5』において、キー・パーカッションと呼ばれるアタックの音の変化を求めた特殊奏法を開発し、また超高音域を執拗に求めて、演奏における音域の拡張に成功した。 現代音楽では、まずフルート奏者のブルーノ・バルトロッチが重音奏法を体系化した教本を出版し、またピエール=イヴ・アルトーやロベルト・ファブリッツィアーニなどその他多くのフルート奏者、またサルヴァトーレ・シャリーノらの作曲家によって息音を含む奏法、ホイッスルトーン、タングラム、リップ・ピッツィカートなど新しい奏法も次々と開発された。ルチアーノ・ベリオの『セクエンツァI』などの優れた曲は現在も「古典」として多くの奏者によってコンサートや教育現場で取り上げられ、聴衆にも親しまれている。 フルートの発音原理に関しては、大きく分けて二つの説が存在する。一つ目の説は、唇から出る空気の束(エアビーム)を楽器の吹き込み口の縁(エッジ)に当てることでカルマン渦が発生し、これがエッジトーン(強風のときに電線が鳴るのと同じ現象)を生じて振動源になるというもの。二つ目の説は、エアビームの吹き込みによって管の内圧が上昇し、これによってエアビームが押し返されると空気が抜けて内圧が低下し、再びエアビームが引き込まれるという反復現象が発生して、これが振動源になるとするものである。いずれにせよ、発生した振動に対し、管の内部にある空気の柱(気柱)が共振(共鳴)して音が出る。トーンホールを開閉すると、気柱の有効長が変わるので共振周波数が変化し、音高を変えることができる。 コンサート・フルートの基本的な音域はC4(中央ハ)から3オクターヴ上のC7までであるが、H足部管を用いれば最低音がB3となる。最低音からC#5までは基音であるが、D5以上の音は倍音を用いて発生させる。チューニングする(他の楽器とピッチを合わせる)際には、オーケストラではA5を、吹奏楽ではB♭5を用いる。音域は便宜上下記のように分けることが多いが、これは絶対的なものではなく、例えばC6を中音域とするか高音域とするかは時と場合によるし、稀には中音域と高音域をまとめて(中・高音域と呼ぶべきところを省略して)高音域と呼ぶこともある。 標準的な運指を用いた場合の倍音モードの概略は下記の通りである。例えばC7はC4の第8倍音であるが、息の圧力で第8倍音を出すことは難しいので、左手はCとGis、右手はF以下のトーンホールを開けてやる(Esは閉じた方が良い)ことにより、C5の第4倍音かつG#4の第5倍音かつF4の第6倍音として発生させている。第3倍音、第5倍音、第6倍音によって出す音は、多少なりと平均律からのずれが生ずることなどもあって、高音域の音程はあまり良くない。 モダン・フルートは、すべての木管楽器の中で最も論理的に設計されているが、さまざまな制約から妥協せざるを得ない部分もあるので、特に高音域には上記のように問題が多い。これらを完全に解消することは、設計上どのような工夫を以ってしても不可能であり、最後はアンブシュアの微妙な調節や特殊運指の使用など、奏者の技術に委ねられている。 一般的なコンサート・フルートは、管体が頭部管・胴部管・足部管の3分割構造になっており、保存・携帯時は分解し、演奏時に組立てる。頭部管を胴部管に挿入する深さを変化させることにより全体の音高が変わるため、他の楽器とピッチを合わせる(チューニングする)ことができる。同じベーム式フルートでもフランスを起源とする流派と、ドイツ・オーストリアの伝統とでキー配列、キー構造に違いがあり、フランス流ではキー配置が「インライン」、キーは「リングキー」、足部管は「H足部管」、ドイツ・オーストリア流ではキー配置が「オフセット」、キーは「カヴァードキー」、足部管は「C足部管」と分かれている。日本ではプロの演奏家や音大生は前者のフランス流を、アマチュア奏者は後者を用いる傾向にある。 歌口の部分で内径17mm、胴部管と接続する部分で内径19mmの略円錐形である。歌口に近い方の端がヘッドスクリューで塞がれている。管内の歌口に近い位置に反響板(反射板)があり、ヘッドスクリューと連結されている。反響板の位置は歌口の中央から17mmが適切であり、ここからずれているとピッチに支障がある。 歌口は楕円形ないし小判形(角の丸い矩形)であるが、メーカーによって異なり、断面も微妙な形状に成形されている。この部分はフルートの音色・音量・発音性などに大きく影響するので、形状の異なる複数の頭部管を製作しているメーカーもあり、頭部管だけを専門に作るメーカーもある。 内径19mmの円筒形で、頭部管に近い位置に比較的小さなトーンホールが3つと、より大きなトーンホールが10個、管体上面および側面にある。トーンホールが指で押さえられないほど大きく、またその数が指よりも多いため、一部が互いに連結されたキーシステムによってトーンホールを開閉する。キーの裏側には後述のタンポ(パッド)が組み込まれており、トーンホールを閉じた際の気密性を確保している。 ベーム式のフルートのキーの配列は大別して「インライン」と「オフセット」の二種類がある。 両者の中間となるハーフオフセットの楽器もある。オフセットの方がキーを押さえやすいが、インラインはポスト(メカニズムの先端部分)が広い分多少開放的な音色になる。大きな違いではないので、楽器の購入の際にどのタイプを選ぶかは奏者の好みや手の大きさにより、初心者向けか上級者向けかといった区別はなく、構造上大きな優劣の差はない。 カバードキーで最も一般的に使われているタンポは、フェルトにフィッシュスキンを巻いたものである。これは金属のフルートをテオバルト・ベームが開発した時代から変わっていない。その他、ゴム、シリコーン、コルク等を用いているものもある。 フルートは、タンポとトーンホールの間に「髪の毛1本の隙間があっても音が鳴らない」と言われており、調整には高い技術が必要である。 足部管は胴部管と同じ内径の円筒形で、3つまたは4つのトーンホールを持つ。 Gisトーンホールを1つだけ持つものがGisオープン式、Gisトーンホールを2つ持つものがGisクローズ式で、ベームが製作した楽器はGisオープン式であったが、今日ではGisクローズ式が主流である。 Gisオープン式の場合、Gisトーンホールが1つですみ、後述のEメカニズムを設ける必要も無いのでコスト面で有利である上、小指を押すとG、放すとG#が出る(音程が上がる)ので、運指としても自然である。つまり、一見Gisオープン式の方が、いわゆる「理にかなった」構造のように思える。ところが実際に演奏すると、Gisオープン式ではほとんどの音で左手小指を薬指と同じに動かさねばならず、Gisクローズ式より小指が忙しくなって運指が難しい。この点がGisクローズ式が広く世界に普及した大きな理由である。 今日主流となっているGisクローズ式のフルートでは、第3オクターヴのホ音(E6)が出しにくく、ピッチが高い場合が多い。E6はE4の第4倍音であると同時にA4の第3倍音なので、右手はEから下のトーンホールを開け、左手はAトーンホールだけ開けてやればよいのだが、Gisクローズ式フルートではキーメカニズムの関係上、Aトーンホールを開けると、常時開のGisトーンホールもいっしょに開いてしまうからである。これを解消するために考案されたのがEメカニズム (Split E mechanism) で、Eメカと略称されることも多い。キーシステムを追加することにより、E6の運指で常時開のGisトーンホールが閉じるようになっており、これによってE6の出しやすさとピッチは改善されるが、一部のトリル運指などが使えなくなるため、標準装備とするメーカーがある一方、オプション扱いとしているメーカーもある。 Gisオープン/クローズいずれのフルートでも、第3オクターヴの嬰ヘ音(F#6)が出しにくい。F#6はF#4の第4倍音で、かつB4の第3倍音であるから、右手はFisから下のトーンホールを開け、左手はHトーンホールのみ開けたいわけだが、キーメカニズムの都合上、Hトーンホールを開けるには、Aisトーンホールも開けざるをえないからである。これを解消するために考案されたのがFisメカニズムであるが、構造の複雑さや耐久性の低さ等の理由から商品化しているメーカーは少ないので、練習によって克服するしかないのが実状である。 B-C#のトリルでは、左手親指と人差し指を同時に動かさねばならない。これを容易にするために考案されたのがCisトリルキーで、Aisレバーの上流に設置され、右手人差し指だけでB-C#のトリルが可能になる。 Cisトリルキーを用いると、B-C#のトリルだけでなく、第3オクターヴのG-A (G6-A6) のトリルも容易になり、弱奏におけるG#6の発音も容易になる。また、通常のCisトーンホールは極端に小さいため、発音の困難、ピッチの不安定、音色の問題を伴うが、Cisトリルキーを用いると、これらの欠点を補うこともできる。 しかし、楽器が重くなる、外観を損なう、取り付け費用が高価であるなどのデメリットもあるため、Cisトリルキーを標準装備するメーカーはほとんどない。 第3オクターヴのG-A (G6-A6) のトリルを容易にするためのキーである。かつてドイツにおいてよく使われたメカニズムであるが、現在では同じ機能をCisトリルキーで実現できる上、前述のように用途も広いためCisトリルキーに取って代わられつつある。 金属製の楽器では、トーンホールが管体から立ち上がってキー(タンポ)と密着しているが、この立ち上がり部分をどのようにして製作するかによる分類で、今日市販されているフルートは、ほとんどドローントーンホールである。 フルートは他の管楽器に比べ、使用する材質のバリエーションが幅広い。当然高価な貴金属製や稀少な素材になるほど値段も高くなる。 ベームを始めとした楽器製作者とメーカー、演奏者の主観でも材質によって音色が異なるとしているが、音質に関する限り、管体の材質によって人間に聴き取れるほどの差異が生ずることはなく、ボール紙で作っても音は変わらないとされている。なお、以下に述べるのは管体やキーなどの材質であり、キーメカニズムの芯金やねじ、ばねなどには下記と異なる素材も使用される。フェルトやコルクなども部分的に使われている。 フルートは近代音楽や現代音楽において特に特殊奏法が数多く開発された楽器であるが、これらは作曲者や奏者によりさまざまな呼称、技法、記譜法があって、未だ発展途上にある。楽器や奏者により、あるいはそのときの調子によって、狙った通りの効果が得られないこともある。 上記の特殊奏法を組み合わせ、新たな音響を作り出すこともできる(例:フラッター+発声奏法、重音奏法+スラップ・タンギング)。 歴史上初のフルート教則本と呼べるのは1707年に出版されたジャック・オトテールの『フルート、リコーダー、オーボエの原理 ([PrincipesPrincipes de la flute traversiere, de la Flute a Bec, et du Haut-bois,)」である。この本は大部分が横笛のフルート (flute traversiere) のための記述で占められており、ヨーロッパで高い人気を得て、海賊版も多数発行された。1752年に出版されたヨハン・ヨアヒム・クヴァンツの『フルート奏法試論 (Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen)は同時代のフルート以外の楽器にの関する総括的な著作としても評価が高い。オトテール・クヴァンツ両者ともに優れたフルート奏者・作曲家でありながらフルート制作にも熟達していたという点が共通している。 モダン・フルートの教則本は数多く出版されているが、最も有名なのはパリ音楽院のフルート科教授だったHenry Altès(アンリー・アルテ/アンリー・アルテス)によるものである。 フルート属には次表のようなものがある。これらのうち、コンサート・フルートとフラウト・トラヴェルソは実音楽器であるが、その他の派生楽器は、慣例的に記譜上の音域および運指がコンサート・フルートとおおむね合致するよう移調楽器として扱い、ト音記号を用いて記譜される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フルートは、木管楽器の一種で、リードを使わないエアリード(無簧)式の横笛である。吹奏楽やオーケストラなどで使われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "今日一般にフルートというと、銀色または金色の金属製の筒に複雑なキー装置を備えた横笛、つまりコンサート・フルートを指すが、古くは広く笛一般を指していた。ルネサンス音楽からバロック音楽の時代にあっては、単にフルートというと、現在一般にリコーダーと呼ばれる縦笛を指し、現在のフルートの直接の前身楽器である横笛は、「トラヴェルソ(横向きの)」という修飾語を付けて「フラウト・トラヴェルソ」と呼ばれていた。17世紀後半のフランス宮廷で、ジャック=マルタン・オトテールとその一族が改良した横笛フルートが高い人気を博し、その後ドイツやイタリアにも広まったため、表現力に劣る縦笛は次第に廃れてしまい、フルートといえば横笛を指すようになったのである。かつてはもっぱら木で作られていたにもかかわらず、現在は金属製が主流となっているが、フルートは唇の振動を用いないエアリード式の楽器なので、金属でできていても木管楽器に分類される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現代のフルート(モダン・フルート)は、バス・フルートなどの同属楽器と区別する場合、グランド・フルートまたはコンサート・フルートとも呼ばれ、通常C管である。19世紀半ばに、ドイツ人フルート奏者で楽器製作者でもあったテオバルト・ベームにより音響学の理論に基づいて大幅に改良され、正確な半音階と大きな音量、精密な貴金属の管体、優美な外観を持つに至った。このドイツ生まれのフルートは、最初にフランスでその優秀性が認められ、ついには旧式のフルートを世界から駆逐してしまった。今日単にフルートと言った場合は、例外なく「ベーム式フルート」のことである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "フルートはキーを右側にして構え、下顎と左手の人さし指の付け根、右手の親指で支える(三点支持)。両肩を結ぶ線と平行に持つのではなく、右手を左手より下方、前方に伸ばす。奏者は正面ではなくやや左を向き、右に首をかしげて唇を歌口に当てる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "発音にリードを用いないため、ほかの管楽器よりもタンギングの柔軟性は高い。運動性能も管楽器の中では最も高く、かなり急速な楽句を奏することも可能である。音量は小さい方であるが、高音域は倍音が少なく明瞭で澄んだ音なので、オーケストラの中にあっても埋もれることなく聞こえてくる。フルートの音色は鳥の鳴き声を想起させることから、楽曲中で鳥の模倣としても用いられる。有名でわかりやすい例として、サン=サーンスの組曲『動物の謝肉祭』の「大きな鳥籠」、プロコフィエフの交響的物語『ピーターと狼』などが挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "主にクラシック音楽の分野で用いられるが、ジャズやロックなど、他の音楽ジャンルで使用されることもある。しかし、ジャズ専門のフルート奏者は少なく、サクソフォーンなどのプレイヤーが持ち替えるか、クラシックとジャズの両方で活動するというケースが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "フルートを広義にとらえて、「リードを用いず、管などの空洞に向かって息を吹き付けて発音する楽器」とするならば、最も古いものとしては、およそ4万年前のネアンデルタール人のものと推定されるアナグマ類の足の骨で作られた「笛」がスロヴェニアの洞窟で発見されている。また、ほぼ同じ頃現生人類によって作られたと推定される、ハゲワシの骨でできた5つの指穴のある笛が、ドイツの洞窟で発見されている。それほど古いものでなくとも数千年前の骨で作られた笛は各地から出土しており、博物館などに収められている。しかし、世界各地で用いられていた原始的な笛は、ギリシャ神話の牧神パンが吹いたとされるパンフルートのような葦などで作られた縦笛か、オカリナのような形状の石笛(いわぶえ)や土笛がほとんどであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "それでは、現在我々が使用しているフルートにつながる横向きに構える方式の笛が、いつどこで最初に用いられたのかというと、これも確かなことはわかっていないが、一説には紀元前9世紀あるいはそれ以前の中央アジアに発祥したといわれており、これがシルクロードを経て中国やインドに伝わり、さらに日本やヨーロッパにも伝えられていったと考えられている。奈良・正倉院の宝物の中に蛇紋岩製の横笛があり、東大寺大仏殿の正面に立つ国宝の八角灯籠には横笛を吹く音声菩薩(おんじょうぼさつ)の像があることなどから、奈良時代までに日本にも伝わっていたことは明らかである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "西洋では、現在リコーダーと呼ばれている縦笛が古くから知られており、当初はこちらが「フルート」と呼ばれていた。12-13世紀ごろに東洋から6孔の横笛が入り、縦笛の技術を応用して作られたものが主ににドイツ地方で使われ、「ドイツの笛」と呼ばれていた(ドイツでの呼び名は「スイスの笛」)。13世紀になるとフランスに、「フラウスト・トラヴェルセーヌ(フランス語: flauste traversaine;「横向きのフルート」の意)」といった名称が散見されるようになる。ルネサンス期に入っても、ヨーロッパでは横笛はあまり一般的な楽器ではなく、軍楽隊や旅芸人などが演奏するだけのものであった。16世紀に入る頃から、市民の間で行われるコンソートと呼ばれる合奏の中で、横笛も次第に使われ、教科音楽でも用いられるようになった。左図はオーストリアのローラウ城ハラッハ伯爵家所蔵の『喜びを与えん』と題する絵画で、横笛とリュート、歌唱によるブロークン・コンソートの様子が描かれている。この絵の横笛はテナーであるが、マルティン・アグリコラの「Musica instrumentalis deudsch」(1529)にあるように、他にもソプラノ、アルト、バスといった種類があり(ただし16世紀半ばにはアルトはテナーに吸収されている)、これらを持ち替えながら演奏を行い、ホール・コンソートも行われていた。現在では、このような横笛を「ルネサンス・フルート」と呼んでおり、古楽器として今も復元楽器が製作されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "少数がイタリアのヴェローナなどに残っているオリジナルの物は、木製の管で、内面は単純な円筒形ではなく、複雑な波型になっており、外面は歌口側がやや太い円錐形である。基本的に一体成型されて分割できないものが多いが、大型のバス・フルートなどには2分割構造のものもある。テナーの横笛の最低音はD4で、D-dur(ニ長調)の音階が出せるように作られており、いわゆるD管である。トーンホールが6つ開いているだけのシンプルな構造なので、キーを必ず右側にして構えるモダン・フルートとは異なり、左側に構えることもできる。軽快によく鳴るが、音域によって音量や音色がかなり変化する。アグリコラの著作に記された運指法では半音は指孔半開で出せると記されているが、通常の演奏で半音を出すのはかなり難しい(内部が円筒形の復元楽器ではなく、オリジナルの物は内径の形状によっては半音が比較的出しやすいものもある)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "17世紀初頭から始まったバロック時代、ルネサンス・フルートはピッチの調節ができない上、半音を出すのが苦手で、低音と高音の音色の違いが大きいといった欠点があったため、この時代に隆盛し始めた宮廷音楽では用いられなかった。17世紀は横笛にとって雌伏の時代であり、新たな工夫が加えられた横笛が改めて人気を博するのは、ジャック・オトテールとその一族がフランスでフルートを改良して広めた1680年代以降のことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この時代も、単に「フルート」といえば縦笛(リコーダー)のことであり、現在のフルートの原型となった横笛はイタリア語で「フラウト・トラヴェルソ、フランス語で「フリュートトラヴェルシエール flute traversiere」、ドイツ語で「クヴェアフレーテ Querflote」すべて(横向きのフルート」の意)と呼ばれていた。省略して単に「トラヴェルソ」とも呼ばれ、現代では「バロック・フルート」と呼ぶこともある。ソプラノからバスまでを使い分けたルネサンス・フルートと異なり、バロック・フルートの多くは、テナーのD管であり、次のような点がルネサンス・フルートと異なっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "こうした改良によって高い表現力を身に着けた横笛は、オトテールとその一族が仕えるルイ14世の王宮で人気を得て、次第に縦笛に取って代わる存在となっていった。フランス音楽の受け入れに積極的だったドイツの宮廷ではフランスのフルート奏者を好んで雇用するようになり、そこからドイツ人のフルート奏者も育っていった。その代表例がザクセン選帝侯の宮廷に仕えたフランス人フルート奏者のピエール=ガブリエル・ビュファルダンと、ビュファルダンの勧めでフルートと奏者となったヨハン・ヨアヒム・クヴァンツである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "当時のフルートは最低音はD4、最高音はE6までというものが一般的であるが、B6までの運指が知られており、A6あたりまでは出しやすい楽器もある。D管であるが、楽譜は実音で記譜され、移調楽器ではない。多様な音色を持ち、繊細で豊かな表現が可能であることから、バロック・フルートは今日なお復元楽器が多数製作されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "しかし、キーが設けられた半音は出しやすくなったものの、それ以外の半音は相変わらずクロスフィンガリングによって出す弱々しく不安定な音なので、長調について考えると、五度圏の図でD-dur(ニ長調)と隣り合うG-dur(ト長調)とA-dur(イ長調)は比較的大きな音量で演奏できるが、ニ長調から遠い調の曲をバロック・フルートで演奏するのは容易なことではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "18世紀半ばから19世紀前半にあたる古典派の時代になると、より多くの調に対応できるよう、不安定な半音を改善するために新たなトーンホールを設けて、これを開閉するキーメカニズムを付け加えたり、高音域が出しやすいよう管内径を細くするといった改変が行われた。キーメカニズムを用いて、D管のままではあるが最低音がC4まで出せるフルートも作られるようになった。これらの楽器もフラウト・トラヴェルソに含まれるが、バロック時代の「バロック・フルート」と区別して、「クラシカル・フルート」「ロマンチック・フルート」と呼ぶこともある。この時代になると、表現力に劣る縦笛(リコーダー)は廃れてしまい、フルートといえば横笛を指すようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "キーが追加されるに従って、クロスフィンガリングを用いずに出せる半音が増えていき、音は明るさや軽やかさを増したが、対称性が崩れたため、左側に構えることはできなくなった。管体は相変わらず円錐形で木製のものが多く、最高音はA6あたりであるが、中にはC7付近まで出るものもある。最低音がD4の6キー・フルート(右図)や、最低音がC4の8キー・フルートなどには全ての半音を出すキーが備わっているが、Esより下のキーを除いて全て「常時閉」であり、「必要なときだけ開ける」方式であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "クロスフィンガリングが不要になったのは大きな進歩に違いないが、これらは当時の楽器製作者たちが、それぞれの考えに基づいて改良していったため、操作法が統一されていない上、運指も複雑となって運動性能が良いとは言い難く、必ずしも十分な効果が得られたわけではない。このような多キーのフルート(多鍵式フルート)は主に産業革命期のイギリスで開発されたのであるが、イギリス以外の国ではバランスの悪い不細工な楽器とみなす傾向が強く、1795年に創設されたパリ音楽院では、初代フルート教授となったフランソワ・ドゥヴィエンヌ(1759年 - 1803年)が亡くなるまで、1鍵式フルート以外の使用が認められなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "こうしたフルート乱開発の時代に終止符を打ったのがテオバルト・ベームである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1820年ごろから活躍していたイギリス人フルート奏者 C. ニコルソン(Charles Nicholson 1795年 - 1837年)は、その手の大きさと卓越した技術によって通常よりも大きなトーンホールの楽器を演奏していた。ドイツ人フルート奏者で製作者でもあったテオバルト・ベームは、1831年にロンドンでニコルソンの演奏を聴いてその音量の大きさに衝撃を受け、自身の楽器の本格的な改良に着手した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1832年に発表されたモデルは以下のようなものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このモデルはいわゆるGisオープン式であったが、通気を損なうことなく運指が容易になるGisクローズ式に改変されたタイプがフランスで用いられるようになった。管体はまだ木製で円錐形のままであったことから、今日では「円錐(コニカル)ベーム式フルート」などと呼ばれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ベームはその後も、50歳を過ぎてから大学で音響学を学ぶなど研究を続け、1847年に次のようなモデルを発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このモデルもGisオープン式ではあったが、現在のフルートとほとんど変わらず、極めて完成度の高いものであった。これ以降今日までに加えられた大きな改変は、イタリアのジュリオ・ブリチャルディ(Giulio Briccialdi 1818年 - 1881年)により、フラット(♭)系の調を演奏するのに便利な、いわゆるブリチャルディ・キーが付け加えられたことと、より運指が容易なGisクローズ式が主流となったこと程度である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "今日の最も一般的な C足部管付きベーム式フルートにはトーンホールが16個あり、キーは数え方によるが、指が直接触れるものだけを数えると15個である。これらが右手親指を除く9本の指で操作できるようになっている。後述のように、キーメカニズムの関係でベーム式フルートにも鳴りにくい音はあるが、ほとんどの音は良い音程で確実に鳴る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ベーム式フルートは、最初にフランスでその優秀性が認められ、次いでイギリスでも使われるようになったが、発祥の地であるドイツでは20世紀に入るまで受け入れられなかった。旧来のフルートとは運指が異なることに加えて、この頃のドイツ音楽界に大きな影響力を持っていたワーグナーがベーム式フルートの音色を嫌ったことも、ドイツでの普及を妨げた大きな要因といわれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ベームが1847年に発表したフルートは、現在のカバードキー型のフルートとほとんど変わらないものの、Gisオープン式であって、外観も少々武骨な印象である。しかし、フランスの楽器製作者であるヴァンサン・イポリト・ゴッドフロワやルイ・ロットらの手によって、前記の円錐ベーム式フルートとは異なる新しい構造のリングキーを採用した、いわゆるフレンチスタイルのフルートが生み出されると共に、より運指が容易なGisクローズ式に変更され、意匠面も細部にわたって改良が施された。こうしてモダン・フルートは、今日見るような洗練された優美な姿となったのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1860年にパリ音楽院教授となったルイ・ドリュによって学院の公式楽器に認定されると、アンリー・アルテ(アルテスとも)、ポール・タファネル、フィリップ・ゴーベール、マルセル・モイーズらフルート科教授によってその奏法の発展と確立がなされ、ドビュッシー、フォーレをはじめとする作曲家たちが多くの楽曲を書いた。それまでは装飾的・限定的に使われていたビブラートも積極的に採り入れた演奏様式を確立してフランス楽派と呼ばれ、フランスは一躍フルート先進国となったのである。アルテの著した教則本は、今なお最も有名なモダン・フルートの入門書である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方、ドイツやオーストリアでは、金属製フルートの大径トーンホールから出る倍音を豊かに含む音色を好ましく思わないながらも、ベーム式メカニズムの長所は認めざるを得ず、20世紀に入る頃には管体は木製だがメカニズムはベーム式という折衷型の楽器が用いられるようになると共に、金属製のフルートも徐々にではあるが使われるようになった。しかし、ドイツの H.F.メイヤーによって開発された、トーンホールの径を大きくして音量を増すなどの改良が加えられた多鍵式・円錐管・旧式運指のメイヤー式フルートも、多くのメーカーによって模倣され、フランスを除くヨーロッパやアメリカでは、1930年代まで使われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ベーム式フルートも、改良の余地がないほど完璧なものではないので、その後もフルートの改良はさまざまな形で試みられ、中には商品化に至ったものもあるが、ベームの基本設計を凌駕するほどのものは今日に至るも現れていない。ベーム式フルートはその地位を確固たるものとし、フレンチスタイルの登場以降は構造面に特段の変化はないが、奏法の面で大きな発展が見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前から知られる特殊奏法としては、巻き舌によるフラッターツンゲやハーモニクス奏法がある。戦後はレコードの普及や放送技術の発展とともに、ランパルがソリストとして活躍し、フルートの魅力を世界中に示すこととなった。またモイーズが、教育者としてカリスマ的といえるほどの影響力を長い間保ち続けたこともあって、世界中でフランス風の演奏スタイルが大きく広まっており、ビブラートを常にかけるのが一般的であるが、クラシック音楽においては今なおビブラートを乱用しない演奏スタイルも好まれる。前述の通り、ドビュッシーはフルートにおけるレパートリー拡張の第一人者であるが、中でも独奏曲『シランクス』はフルート独奏のための曲として歴史上重要な位置を占めている。エドガー・ヴァレーズは『密度21.5』において、キー・パーカッションと呼ばれるアタックの音の変化を求めた特殊奏法を開発し、また超高音域を執拗に求めて、演奏における音域の拡張に成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "現代音楽では、まずフルート奏者のブルーノ・バルトロッチが重音奏法を体系化した教本を出版し、またピエール=イヴ・アルトーやロベルト・ファブリッツィアーニなどその他多くのフルート奏者、またサルヴァトーレ・シャリーノらの作曲家によって息音を含む奏法、ホイッスルトーン、タングラム、リップ・ピッツィカートなど新しい奏法も次々と開発された。ルチアーノ・ベリオの『セクエンツァI』などの優れた曲は現在も「古典」として多くの奏者によってコンサートや教育現場で取り上げられ、聴衆にも親しまれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "フルートの発音原理に関しては、大きく分けて二つの説が存在する。一つ目の説は、唇から出る空気の束(エアビーム)を楽器の吹き込み口の縁(エッジ)に当てることでカルマン渦が発生し、これがエッジトーン(強風のときに電線が鳴るのと同じ現象)を生じて振動源になるというもの。二つ目の説は、エアビームの吹き込みによって管の内圧が上昇し、これによってエアビームが押し返されると空気が抜けて内圧が低下し、再びエアビームが引き込まれるという反復現象が発生して、これが振動源になるとするものである。いずれにせよ、発生した振動に対し、管の内部にある空気の柱(気柱)が共振(共鳴)して音が出る。トーンホールを開閉すると、気柱の有効長が変わるので共振周波数が変化し、音高を変えることができる。", "title": "発音原理と音域" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "コンサート・フルートの基本的な音域はC4(中央ハ)から3オクターヴ上のC7までであるが、H足部管を用いれば最低音がB3となる。最低音からC#5までは基音であるが、D5以上の音は倍音を用いて発生させる。チューニングする(他の楽器とピッチを合わせる)際には、オーケストラではA5を、吹奏楽ではB♭5を用いる。音域は便宜上下記のように分けることが多いが、これは絶対的なものではなく、例えばC6を中音域とするか高音域とするかは時と場合によるし、稀には中音域と高音域をまとめて(中・高音域と呼ぶべきところを省略して)高音域と呼ぶこともある。", "title": "発音原理と音域" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "標準的な運指を用いた場合の倍音モードの概略は下記の通りである。例えばC7はC4の第8倍音であるが、息の圧力で第8倍音を出すことは難しいので、左手はCとGis、右手はF以下のトーンホールを開けてやる(Esは閉じた方が良い)ことにより、C5の第4倍音かつG#4の第5倍音かつF4の第6倍音として発生させている。第3倍音、第5倍音、第6倍音によって出す音は、多少なりと平均律からのずれが生ずることなどもあって、高音域の音程はあまり良くない。", "title": "発音原理と音域" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "モダン・フルートは、すべての木管楽器の中で最も論理的に設計されているが、さまざまな制約から妥協せざるを得ない部分もあるので、特に高音域には上記のように問題が多い。これらを完全に解消することは、設計上どのような工夫を以ってしても不可能であり、最後はアンブシュアの微妙な調節や特殊運指の使用など、奏者の技術に委ねられている。", "title": "発音原理と音域" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一般的なコンサート・フルートは、管体が頭部管・胴部管・足部管の3分割構造になっており、保存・携帯時は分解し、演奏時に組立てる。頭部管を胴部管に挿入する深さを変化させることにより全体の音高が変わるため、他の楽器とピッチを合わせる(チューニングする)ことができる。同じベーム式フルートでもフランスを起源とする流派と、ドイツ・オーストリアの伝統とでキー配列、キー構造に違いがあり、フランス流ではキー配置が「インライン」、キーは「リングキー」、足部管は「H足部管」、ドイツ・オーストリア流ではキー配置が「オフセット」、キーは「カヴァードキー」、足部管は「C足部管」と分かれている。日本ではプロの演奏家や音大生は前者のフランス流を、アマチュア奏者は後者を用いる傾向にある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "歌口の部分で内径17mm、胴部管と接続する部分で内径19mmの略円錐形である。歌口に近い方の端がヘッドスクリューで塞がれている。管内の歌口に近い位置に反響板(反射板)があり、ヘッドスクリューと連結されている。反響板の位置は歌口の中央から17mmが適切であり、ここからずれているとピッチに支障がある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "歌口は楕円形ないし小判形(角の丸い矩形)であるが、メーカーによって異なり、断面も微妙な形状に成形されている。この部分はフルートの音色・音量・発音性などに大きく影響するので、形状の異なる複数の頭部管を製作しているメーカーもあり、頭部管だけを専門に作るメーカーもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "内径19mmの円筒形で、頭部管に近い位置に比較的小さなトーンホールが3つと、より大きなトーンホールが10個、管体上面および側面にある。トーンホールが指で押さえられないほど大きく、またその数が指よりも多いため、一部が互いに連結されたキーシステムによってトーンホールを開閉する。キーの裏側には後述のタンポ(パッド)が組み込まれており、トーンホールを閉じた際の気密性を確保している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ベーム式のフルートのキーの配列は大別して「インライン」と「オフセット」の二種類がある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "両者の中間となるハーフオフセットの楽器もある。オフセットの方がキーを押さえやすいが、インラインはポスト(メカニズムの先端部分)が広い分多少開放的な音色になる。大きな違いではないので、楽器の購入の際にどのタイプを選ぶかは奏者の好みや手の大きさにより、初心者向けか上級者向けかといった区別はなく、構造上大きな優劣の差はない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "カバードキーで最も一般的に使われているタンポは、フェルトにフィッシュスキンを巻いたものである。これは金属のフルートをテオバルト・ベームが開発した時代から変わっていない。その他、ゴム、シリコーン、コルク等を用いているものもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "フルートは、タンポとトーンホールの間に「髪の毛1本の隙間があっても音が鳴らない」と言われており、調整には高い技術が必要である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "足部管は胴部管と同じ内径の円筒形で、3つまたは4つのトーンホールを持つ。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "Gisトーンホールを1つだけ持つものがGisオープン式、Gisトーンホールを2つ持つものがGisクローズ式で、ベームが製作した楽器はGisオープン式であったが、今日ではGisクローズ式が主流である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "Gisオープン式の場合、Gisトーンホールが1つですみ、後述のEメカニズムを設ける必要も無いのでコスト面で有利である上、小指を押すとG、放すとG#が出る(音程が上がる)ので、運指としても自然である。つまり、一見Gisオープン式の方が、いわゆる「理にかなった」構造のように思える。ところが実際に演奏すると、Gisオープン式ではほとんどの音で左手小指を薬指と同じに動かさねばならず、Gisクローズ式より小指が忙しくなって運指が難しい。この点がGisクローズ式が広く世界に普及した大きな理由である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "今日主流となっているGisクローズ式のフルートでは、第3オクターヴのホ音(E6)が出しにくく、ピッチが高い場合が多い。E6はE4の第4倍音であると同時にA4の第3倍音なので、右手はEから下のトーンホールを開け、左手はAトーンホールだけ開けてやればよいのだが、Gisクローズ式フルートではキーメカニズムの関係上、Aトーンホールを開けると、常時開のGisトーンホールもいっしょに開いてしまうからである。これを解消するために考案されたのがEメカニズム (Split E mechanism) で、Eメカと略称されることも多い。キーシステムを追加することにより、E6の運指で常時開のGisトーンホールが閉じるようになっており、これによってE6の出しやすさとピッチは改善されるが、一部のトリル運指などが使えなくなるため、標準装備とするメーカーがある一方、オプション扱いとしているメーカーもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "Gisオープン/クローズいずれのフルートでも、第3オクターヴの嬰ヘ音(F#6)が出しにくい。F#6はF#4の第4倍音で、かつB4の第3倍音であるから、右手はFisから下のトーンホールを開け、左手はHトーンホールのみ開けたいわけだが、キーメカニズムの都合上、Hトーンホールを開けるには、Aisトーンホールも開けざるをえないからである。これを解消するために考案されたのがFisメカニズムであるが、構造の複雑さや耐久性の低さ等の理由から商品化しているメーカーは少ないので、練習によって克服するしかないのが実状である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "B-C#のトリルでは、左手親指と人差し指を同時に動かさねばならない。これを容易にするために考案されたのがCisトリルキーで、Aisレバーの上流に設置され、右手人差し指だけでB-C#のトリルが可能になる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "Cisトリルキーを用いると、B-C#のトリルだけでなく、第3オクターヴのG-A (G6-A6) のトリルも容易になり、弱奏におけるG#6の発音も容易になる。また、通常のCisトーンホールは極端に小さいため、発音の困難、ピッチの不安定、音色の問題を伴うが、Cisトリルキーを用いると、これらの欠点を補うこともできる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "しかし、楽器が重くなる、外観を損なう、取り付け費用が高価であるなどのデメリットもあるため、Cisトリルキーを標準装備するメーカーはほとんどない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "第3オクターヴのG-A (G6-A6) のトリルを容易にするためのキーである。かつてドイツにおいてよく使われたメカニズムであるが、現在では同じ機能をCisトリルキーで実現できる上、前述のように用途も広いためCisトリルキーに取って代わられつつある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "金属製の楽器では、トーンホールが管体から立ち上がってキー(タンポ)と密着しているが、この立ち上がり部分をどのようにして製作するかによる分類で、今日市販されているフルートは、ほとんどドローントーンホールである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "フルートは他の管楽器に比べ、使用する材質のバリエーションが幅広い。当然高価な貴金属製や稀少な素材になるほど値段も高くなる。", "title": "材質" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ベームを始めとした楽器製作者とメーカー、演奏者の主観でも材質によって音色が異なるとしているが、音質に関する限り、管体の材質によって人間に聴き取れるほどの差異が生ずることはなく、ボール紙で作っても音は変わらないとされている。なお、以下に述べるのは管体やキーなどの材質であり、キーメカニズムの芯金やねじ、ばねなどには下記と異なる素材も使用される。フェルトやコルクなども部分的に使われている。", "title": "材質" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "フルートは近代音楽や現代音楽において特に特殊奏法が数多く開発された楽器であるが、これらは作曲者や奏者によりさまざまな呼称、技法、記譜法があって、未だ発展途上にある。楽器や奏者により、あるいはそのときの調子によって、狙った通りの効果が得られないこともある。", "title": "特殊奏法 (現代奏法)" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "上記の特殊奏法を組み合わせ、新たな音響を作り出すこともできる(例:フラッター+発声奏法、重音奏法+スラップ・タンギング)。", "title": "特殊奏法 (現代奏法)" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "歴史上初のフルート教則本と呼べるのは1707年に出版されたジャック・オトテールの『フルート、リコーダー、オーボエの原理 ([PrincipesPrincipes de la flute traversiere, de la Flute a Bec, et du Haut-bois,)」である。この本は大部分が横笛のフルート (flute traversiere) のための記述で占められており、ヨーロッパで高い人気を得て、海賊版も多数発行された。1752年に出版されたヨハン・ヨアヒム・クヴァンツの『フルート奏法試論 (Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen)は同時代のフルート以外の楽器にの関する総括的な著作としても評価が高い。オトテール・クヴァンツ両者ともに優れたフルート奏者・作曲家でありながらフルート制作にも熟達していたという点が共通している。", "title": "教則本" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "", "title": "教則本" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "モダン・フルートの教則本は数多く出版されているが、最も有名なのはパリ音楽院のフルート科教授だったHenry Altès(アンリー・アルテ/アンリー・アルテス)によるものである。", "title": "教則本" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "フルート属には次表のようなものがある。これらのうち、コンサート・フルートとフラウト・トラヴェルソは実音楽器であるが、その他の派生楽器は、慣例的に記譜上の音域および運指がコンサート・フルートとおおむね合致するよう移調楽器として扱い、ト音記号を用いて記譜される。", "title": "同属楽器" } ]
フルートは、木管楽器の一種で、リードを使わないエアリード(無簧)式の横笛である。吹奏楽やオーケストラなどで使われている。
{{Otheruses|楽器|その他}} {{Infobox 楽器 |楽器名 = フルート |その他の名称 = |英語名 = flute |ドイツ語名 = Flöte, Querflöte |フランス語名 = flûte, flûte traversière |イタリア語名 = flauto, flauto traverso |中国語名 = 长笛(簡体字) 長笛(繁体字) |画像 = 画像:Western concert flute (Yamaha).jpg |画像サイズ = 260px |画像の説明 = |分類 = *[[木管楽器]] - 無簧開管楽器 - フルート属 *[[楽器分類学#気鳴楽器|気鳴楽器]] - 刃型付吹奏楽器<br> - 無隙溝型フルート - 開管単式横吹きフルート |音域 = [[画像:Range flute.png|center|180px]]<br>コンサート・フルートの音域 |関連楽器 = * [[#同属楽器|フルート属]] ** [[ピッコロ]] ** [[アルト・フルート]] ** [[バス・フルート]] |演奏者 = * [[クラシック音楽の演奏家一覧#フルート奏者]] * [[フルート奏者の一覧]] |製作者 = |関連項目 = * [[フルートで演奏される曲目]] * [[フルート協奏曲]] * [[フルートソナタ]] * [[フルートオーケストラ]] }} '''フルート'''は、[[木管楽器]]の一種で、[[リード (楽器)|リード]]を使わない[[リード (楽器)#エアリード|エアリード]](無簧)式の[[横笛]]である<ref name="Daijiten">下中直也(編) 『音楽大事典』 全6巻、平凡社、1981年</ref><ref name="Onkyougaku">安藤由典 『新版 楽器の音響学』 音楽之友社、1996年、{{ISBN2|4-276-12311-9}}</ref>。 == 概要 == [[File:Ian Anderson Munich 2014 1.JPG|thumb|300px|演奏時の持ち方]] 今日一般にフルートというと、銀色または金色の[[金属]]製の筒に複雑なキー装置を備えた[[横笛]]、つまりコンサート・フルートを指すが、古くは広く[[笛]]一般を指していた。[[ルネサンス音楽]]から[[バロック音楽]]の時代にあっては、単にフルートというと、現在一般に[[リコーダー]]と呼ばれる[[縦笛]]を指し、現在のフルートの直接の前身楽器である横笛は、「トラヴェルソ(横向きの)」という修飾語を付けて「[[フラウト・トラヴェルソ]]」と呼ばれていた<ref>[https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/flute/ YAMAHA楽器解体全書]</ref>。17世紀後半のフランス宮廷で、[[ジャック・オトテール|ジャック=マルタン・オトテール]]とその一族が改良した横笛フルートが高い人気を博し、その後ドイツやイタリアにも広まったため、表現力に劣る縦笛は次第に廃れてしまい、フルートといえば横笛を指すようになったのである。かつてはもっぱら木で作られていたにもかかわらず、現在は金属製が主流となっているが、フルートは唇の振動を用いないエアリード式の楽器なので、金属でできていても木管楽器に分類される<ref name="Daijiten"/>。 現代のフルート(モダン・フルート)は、バス・フルートなどの[[フルート#同属楽器|同属楽器]]と区別する場合、グランド・フルートまたはコンサート・フルートとも呼ばれ、通常[[移調楽器|C管]]である。[[19世紀]]半ばに、[[ドイツ]]人フルート奏者で楽器製作者でもあった[[テオバルト・ベーム]]により[[音響学]]の理論に基づいて大幅に改良され<ref name="Boehm">Theobald Boehm, The Flute and Flute-Playing, Dover Publications, ISBN 978-0-486-21259-3</ref>、正確な[[半音階]]と大きな[[音の強さ|音量]]、精密な[[貴金属]]の管体、優美な外観を持つに至った。このドイツ生まれのフルートは、最初に[[フランス]]でその優秀性が認められ<ref name="Shouzou">[http://www2.odn.ne.jp/~cco69970/index.html/liliko.html 前田りり子] 『フルートの肖像(その歴史的変遷)』 東京書籍、2006年、ISBN 4-487-80138-9</ref>、ついには旧式のフルートを世界から駆逐してしまった。今日単にフルートと言った場合は、例外なく「ベーム式フルート」のことである。 フルートはキーを右側にして構え、下顎と左手の人さし指の付け根、右手の親指で支える(三点支持)。両肩を結ぶ線と平行に持つのではなく、右手を左手より下方、前方に伸ばす。奏者は正面ではなくやや左を向き、右に首をかしげて唇を[[歌口]]に当てる。 発音にリードを用いないため、ほかの[[管楽器]]よりもタンギングの柔軟性は高い。運動性能も管楽器の中では最も高く、かなり急速な楽句を奏することも可能である。音量は小さい方であるが、高音域は[[倍音]]が少なく明瞭で澄んだ音なので、[[オーケストラ]]の中にあっても埋もれることなく聞こえてくる。フルートの[[音色]]は[[鳥類|鳥]]の鳴き声を想起させることから、楽曲中で鳥の模倣としても用いられる。有名でわかりやすい例として、[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の組曲『[[動物の謝肉祭]]』の「大きな鳥籠」、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]の交響的物語『[[ピーターと狼]]』などが挙げられる。 主に[[クラシック音楽]]の分野で用いられるが、[[ジャズ]]や[[ロック (音楽)|ロック]]など、他の音楽[[ジャンル]]で使用されることもある。しかし、ジャズ専門のフルート奏者は少なく、[[サクソフォーン]]などのプレイヤーが持ち替えるか、クラシックとジャズの両方で活動するというケースが多い。 * 以下において、[[音名・階名表記|音名]]は[[音名・階名表記#各国の音名表記|アメリカ・イギリス式表記]](C、F#、B♭等)、[[オクターヴ]]は[[音名・階名表記#オクターヴ表記|国際式表記]]([[中央ハ]]がC4)とし、[[音孔|トーンホール]]の名称は、そのトーンホールを開けたときに出る[[基音]]の[[音名・階名表記#各国の音名表記|ドイツ式表記]](C、Es、Gis等)で表す。 [[ファイル:Parmenon Ovatio.jpg|thumb|900px|center|ベーム式フルート([[#インラインとオフセット|インライン]]・[[#カバードキーとリングキー|リングキィ]]、[[#C足部管とB足部管|C足部管]]付き、[[#Eメカニズム|Eメカニズム]]付き)]] == 歴史 == === 古代〜ルネサンス時代 === [[File:NaraTodaijiBronzeLantern0202.jpg|thumb|180px|'''[[東大寺]]の八角灯籠'''<br>横笛を吹く菩薩像が見える。他の面には[[尺八]]、[[笙]]、[[銅鈸子]]を奏する菩薩像がある。([[8世紀]])]] フルートを広義にとらえて、「[[リード (楽器)|リード]]を用いず、管などの空洞に向かって息を吹き付けて発音する楽器」とするならば、最も古いものとしては、およそ4万年前の[[ネアンデルタール人]]のものと推定される[[アナグマ属|アナグマ]]類の足の骨で作られた「[[笛]]」が[[スロベニア|スロヴェニア]]の洞窟で発見されている。また、ほぼ同じ頃[[人類の進化#ホモ・サピエンス|現生人類]]によって作られたと推定される、[[ハゲワシ]]の骨でできた5つの指穴のある笛が、ドイツの洞窟で発見されている。それほど古いものでなくとも数千年前の骨で作られた笛は各地から出土しており、博物館などに収められている。しかし、世界各地で用いられていた原始的な笛は、[[ギリシャ神話]]の[[パーン (ギリシア神話)|牧神パン]]が吹いたとされる[[パンパイプ|パンフルート]]のような[[ヨシ|葦]]などで作られた縦笛か、[[オカリナ]]のような形状の石笛(いわぶえ)や土笛がほとんどであった。 それでは、現在我々が使用しているフルートにつながる横向きに構える方式の笛が、いつどこで最初に用いられたのかというと、これも確かなことはわかっていないが、一説には[[紀元前9世紀]]あるいはそれ以前の[[中央アジア]]に発祥したといわれており、これが[[シルクロード]]を経て[[中国]]や[[インド]]に伝わり、さらに日本や[[ヨーロッパ]]にも伝えられていったと考えられている<ref name="Shouzou"/>。[[奈良]]・[[正倉院]]の宝物の中に[[蛇紋岩]]製の横笛があり<ref>{{Cite web|和書 | author = 宮内庁 | url = http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000010080 | title = 正倉院宝物:彫石横笛(ちょうせきのおうてき) | accessdate = 2019年4月12日 }}</ref>、[[東大寺大仏殿]]の正面に立つ[[国宝]]の八角[[灯籠]]には横笛を吹く音声[[菩薩]](おんじょうぼさつ)の像がある<ref name="Nara">[[青木和夫]] 『日本の歴史(3) 奈良の都』 [[中公文庫]]、2004年、ISBN 4-12-204401-4 (初版:1973年)</ref>ことなどから、[[奈良時代]]までに日本にも伝わっていたことは明らかである。 {{left|<gallery widths="180px" heights="250px" perrow="2"> File:Flet2.jpg|<center>'''『喜びを与えん』'''<br>作者不詳([[1520年]]頃)</center> </gallery>}} [[西洋]]では、現在リコーダーと呼ばれている縦笛が古くから知られており、当初はこちらが「フルート」と呼ばれていた。12-13世紀ごろに東洋から6孔の横笛が入り、縦笛の技術を応用して作られたものが主ににドイツ地方で使われ、「ドイツの笛」と呼ばれていた(ドイツでの呼び名は「スイスの笛」)<ref>『図解 世界楽器大事典【第六版】』p174</ref>。[[13世紀]]になるとフランスに、「フラウスト・トラヴェルセーヌ({{lang-fr|flauste traversaine}};「横向きのフルート」の意)」といった名称が散見されるようになる<ref>クルト・ザックス(著)、柿木吾郎(訳) 『楽器の歴史[下]』 全音楽譜出版社、1966年</ref>。ルネサンス期に入っても、ヨーロッパでは横笛はあまり一般的な楽器ではなく、[[軍楽隊]]や旅芸人などが演奏するだけのものであった。[[16世紀]]に入る頃から、市民の間で行われる[[コンソート]]と呼ばれる[[合奏]]の中で、横笛も次第に使われ、教科音楽でも用いられるようになった。左図は[[オーストリア]]のローラウ城ハラッハ[[伯爵]]家所蔵の『喜びを与えん』と題する[[絵画]]で<ref name="Shouzou"/><ref name="Rekisi">奥田恵二 『フルートの歴史』 音楽之友社、1978年</ref>、横笛と[[リュート]]、[[歌|歌唱]]による[[ブロークン・コンソート]]の様子が描かれている。この絵の横笛は[[テノール|テナー]]であるが、[[:en:Martin Agricola|マルティン・アグリコラ]]の「Musica instrumentalis deudsch」(1529)<ref>https://imslp.org/wiki/Musica_instrumentalis_deudsch_(Agricola%2C_Martin)</ref>にあるように、他にも[[ソプラノ]]、[[アルト]]、[[バス (声域)|バス]]といった種類があり(ただし16世紀半ばにはアルトはテナーに吸収されている)、これらを持ち替えながら演奏を行い、[[コンソート|ホール・コンソート]]も行われていた。現在では、このような横笛を「ルネサンス・フルート」と呼んでおり<ref name="Shouzou"/>、古楽器として今も復元楽器が製作されている。 [[ファイル:Renaissance Flute.jpg|thumb|300px|ルネサンス・フルート(テナー、復元楽器)]] 少数が[[イタリア]]の[[ヴェローナ]]などに残っているオリジナルの物は、木製の管で、内面は単純な[[円柱 (数学)|円筒]]形ではなく、複雑な波型になっており、外面は歌口側がやや太い[[円錐]]形である。基本的に一体成型されて分割できないものが多いが、大型のバス・フルートなどには2分割構造のものもある。テナーの横笛の最低音はD4で、D-dur([[ニ長調]])の音階が出せるように作られており、いわゆるD管である。トーンホールが6つ開いているだけのシンプルな構造なので、キーを必ず右側にして構えるモダン・フルートとは異なり、左側に構えることもできる。軽快によく鳴るが、[[音域]]によって音量や音色がかなり変化する<ref name="Shouzou"/>。アグリコラの著作に記された運指法では半音は指孔半開で出せると記されているが、通常の演奏で半音を出すのはかなり難しい(内部が円筒形の復元楽器ではなく、オリジナルの物は内径の形状によっては半音が比較的出しやすいものもある<ref>『楽器博士佐伯茂樹がガイドするオーケストラ楽器の仕組みとルーツ』p3-5</ref>)。 === バロック時代 === [[17世紀]]初頭から始まったバロック時代、ルネサンス・フルートは[[音高|ピッチ]]の調節ができない上、[[半音]]を出すのが苦手で、低音と高音の音色の違いが大きいといった欠点があったため、この時代に隆盛し始めた宮廷音楽では用いられなかった。17世紀は横笛にとって雌伏の時代であり、新たな工夫が加えられた横笛が改めて人気を博するのは、ジャック・オトテールとその一族が[[フランス王国|フランス]]でフルートを改良して広めた[[1680年代]]以降のことである<ref name="Shouzou"/>。 この時代も、単に「フルート」といえば縦笛(リコーダー)のことであり、現在のフルートの原型となった横笛はイタリア語で「[[フラウト・トラヴェルソ]]、フランス語で「フリュートトラヴェルシエール flute traversiere」、ドイツ語で「クヴェアフレーテ Querflote」すべて(横向きのフルート」の意)と呼ばれていた<ref name="Shouzou"/><ref name="Rekisi"/>。省略して単に「トラヴェルソ」とも呼ばれ、現代では「バロック・フルート」と呼ぶこともある。ソプラノからバスまでを使い分けたルネサンス・フルートと異なり、バロック・フルートの多くは、テナーのD管であり、次のような点がルネサンス・フルートと異なっている<ref name="Shouzou"/><ref>https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/flute/structure/</ref>。 [[ファイル:Traverso 003.jpg|thumb|300px|バロック・フルート(4分割型、復元楽器)<br>上方はピッチの異なる替え管]] * 管体が3分割、のちに4分割されており、結合部を抜き挿ししたり管を交換することによって、ピッチの調節が可能になった。 * トーンホールは7つに増え、上流側の6つはルネサンス・フルートと同様に指で直接ふさぐ。最下流の1つは指が届かないので、右手小指で押すと穴が開くシーソー形のキーが付いており<ref group="注">バロック・フルートも左側に構えることができ、その場合は左手小指でキーを操作する。</ref>、この形態から「1キー・フルート(1鍵式フルート)」とも呼ばれている<ref name="OneKey">Janice Dockendorff Boland, Method for the One-Keyed Flute, University of California Press, ISBN 978-0-520-21447-7</ref>。このキーのおかげで、ルネサンス・フルートには最も出しにくかった半音D#(E♭)が容易に出せるようになった<ref group="注">常時閉のこのキーは、形状が少し変わったものの現代のフルートにも「Esキー」として生き残っており、楽器を安定に支える上でも役立っている。</ref>。 * 管の内面はルネサンス・フルートのような円筒形ではなく、頭部管から足部管に向かって次第に細くなる円錐形になっている。これによって、ルネサンス・フルートの明るく開放定期なものから、ややこもった暗い感じに音色が変化したものの、低音から高音まで音色の統一感が向上した。[[アムステルダム]]の木管楽器製作家リチャード・ハッカ([[1645年]] - [[1705年]])の作った3分割フルートが、現存する最古のバロック・フルートであるとされるが、この仕組みがいつ頃誰によって最初に考え出されたのかは定かではない<ref name="Shouzou"/>。 こうした改良によって高い表現力を身に着けた横笛は、オトテールとその一族が仕える[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の王宮で人気を得て、次第に縦笛に取って代わる存在となっていった。フランス音楽の受け入れに積極的だったドイツの宮廷ではフランスのフルート奏者を好んで雇用するようになり、そこからドイツ人のフルート奏者も育っていった。その代表例が[[ザクセン選帝侯]]の宮廷に仕えたフランス人フルート奏者の[[ピエール=ガブリエル・ビュファルダン]]と、ビュファルダンの勧めでフルートと奏者となった[[ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ]]である<ref name="Shouzou"/>。 当時のフルートは最低音はD4、最高音はE6までというものが一般的であるが、B6までの[[運指]]が知られており<ref name="OneKey"/>、A6あたりまでは出しやすい楽器もある。D管であるが、楽譜は実音で記譜され、[[移調楽器]]ではない。多様な音色を持ち、繊細で豊かな表現が可能であることから、バロック・フルートは今日なお復元楽器が多数製作されている。 [[Image:Godoken.png|thumb|240px|五度圏]] しかし、キーが設けられた半音は出しやすくなったものの、それ以外の半音は相変わらず[[クロスフィンガリング]]によって出す弱々しく不安定な音なので、長調について考えると、[[五度圏]]の図でD-dur(ニ長調)と隣り合うG-dur([[ト長調]])とA-dur([[イ長調]])は比較的大きな音量で演奏できるが、ニ長調から遠い調の曲をバロック・フルートで演奏するのは容易なことではない<ref name="Shouzou"/>。 === 古典派〜ロマン派初期 === [[18世紀]]半ばから[[19世紀]]前半にあたる古典派の時代になると、より多くの調に対応できるよう、不安定な半音を改善するために新たなトーンホールを設けて、これを開閉するキーメカニズムを付け加えたり、高音域が出しやすいよう管内径を細くするといった改変が行われた。キーメカニズムを用いて、D管のままではあるが最低音がC4まで出せるフルートも作られるようになった<ref name="Shouzou"/>。これらの楽器もフラウト・トラヴェルソに含まれるが、バロック時代の「バロック・フルート」と区別して、「クラシカル・フルート」「ロマンチック・フルート」と呼ぶこともある。この時代になると、表現力に劣る縦笛(リコーダー)は廃れてしまい、フルートといえば横笛を指すようになった。 [[ファイル:6key-flute.jpg|thumb|300px|クラシカル・フルート (6キー、最低音 D4)]] キーが追加されるに従って、クロスフィンガリングを用いずに出せる半音が増えていき、音は明るさや軽やかさを増したが、対称性が崩れたため、左側に構えることはできなくなった。管体は相変わらず円錐形で木製のものが多く、最高音はA6あたりであるが、中にはC7付近まで出るものもある。最低音がD4の6キー・フルート(右図)や、最低音がC4の8キー・フルートなどには全ての半音を出すキーが備わっているが、Esより下のキーを除いて全て「常時閉」であり、「必要なときだけ開ける」方式であった。 クロスフィンガリングが不要になったのは大きな進歩に違いないが、これらは当時の楽器製作者たちが、それぞれの考えに基づいて改良していったため、操作法が統一されていない上、運指も複雑となって運動性能が良いとは言い難く、必ずしも十分な効果が得られたわけではない。このような多キーのフルート(多鍵式フルート)は主に[[産業革命]]期の[[イギリス]]で開発されたのであるが、イギリス以外の国ではバランスの悪い不細工な楽器とみなす傾向が強く、[[1795年]]に創設された[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]では、初代フルート教授となった[[フランソワ・ドゥヴィエンヌ]]([[1759年]] - [[1803年]])が亡くなるまで、1鍵式フルート以外の使用が認められなかった<ref name="Shouzou"/>。 こうしたフルート乱開発の時代に終止符を打ったのがテオバルト・ベームである。 === ベーム式フルートの登場 === [[1820年]]ごろから活躍していたイギリス人フルート奏者 C. ニコルソン([[w:Charles Nicholson (flautist)|Charles Nicholson]] [[1795年]] - [[1837年]])は、その手の大きさと卓越した技術によって通常よりも大きなトーンホールの楽器を演奏していた。ドイツ人フルート奏者で製作者でもあったテオバルト・ベームは、[[1831年]]に[[ロンドン]]でニコルソンの演奏を聴いてその音量の大きさに衝撃を受け、自身の楽器の本格的な改良に着手した<ref name="Boehm"/><ref name="Shouzou"/>。 [[1832年]]に発表されたモデルは以下のようなものである。 * 半音を出すトーンホールも含めて径を大きくし、大きな音を出すことを可能にした。 * 運指が変更されることになるのを厭わず、リングキーと精緻なリンク機構を採用して、1本の指で複数のトーンホールを同時に操作できるようにし、その上で管体構造をC管に作り変えた。このいわゆる[[ベーム式]]メカニズムによって運動性能が向上すると共に、長大なレバーのないすっきりした外観となった。(ただし、リングキー自体は[[1808年]]にフレデリック・ノランが開発したものであり、キーメカニズムのポストの構造は[[1806年]]のクロード・ローランの発明を応用したものである<ref name="Shouzou"/><ref name="Rekisi"/>。) * 新しいキーメカニズムの開発に当たり、Esキーとトリルキーを除く全てのキーを「常時開」とし、「必要なときだけ閉じる」方式を採用した。これにより、演奏時に開いているトーンホールが増えて通気が改善され、音色が均質になると共に、さらに音量を増す効果が得られた<ref group="注">例えばA4の音を出すとき、クラシカル・フルートに設けられたGisトーンホールのキーは閉じているが、ベーム式メカニズムのフルートでは開いている。</ref>。 [[ファイル:Conical Boehm flute.jpg|thumb|300px|円錐ベーム式フルート(Gisクローズ式)]] このモデルはいわゆる[[フルート#Gisオープン式とGisクローズ式|Gisオープン式]]であったが、通気を損なうことなく運指が容易になる[[フルート#Gisオープン式とGisクローズ式|Gisクローズ式]]に改変されたタイプがフランスで用いられるようになった。管体はまだ木製で円錐形のままであったことから、今日では「円錐(コニカル)ベーム式フルート」などと呼ばれている。 ベームはその後も、50歳を過ぎてから大学で音響学を学ぶなど研究を続け、[[1847年]]に次のようなモデルを発表した。 * 円錐形だった胴部管を円筒形にし、音響学に基づいてトーンホールの位置を決め直した。同時に、高音域のピッチ改善のため、円筒形だった頭部管を略円錐形にした。これにより、円筒管だったルネサンス・フルートの持つ明るい音色を取り戻すことができた。 * 管体を木製から金属(銀)製に変更した。これにより、トーンホールをさらに大きくすることができ、割れないよう油を塗布する必要もなくなった。 * 1832年のモデルで採用したリングキーは廃止して、トーンホールを全てキーで開閉する方式(いわゆる[[#カバードキーとリングキー|カバードキー]])とした。これにより、女性など指が細い奏者でも大径のトーンホールを容易かつ確実にふさぐことができるようになり、運動性能がさらに向上した。 このモデルもGisオープン式ではあったが、現在のフルートとほとんど変わらず、極めて完成度の高いものであった。これ以降今日までに加えられた大きな改変は、イタリアのジュリオ・ブリチャルディ([[w:Giulio Briccialdi|Giulio Briccialdi]] [[1818年]] - [[1881年]])により、フラット(♭)系の調を演奏するのに便利な、いわゆるブリチャルディ・キーが付け加えられたことと、より運指が容易なGisクローズ式が主流となったこと程度である。 [[ファイル:Flute.jpg|thumb|300px|今日の一般的なベーム式フルート]] 今日の最も一般的な C足部管付きベーム式フルートにはトーンホールが16個あり、キーは数え方によるが、指が直接触れるものだけを数えると15個である。これらが右手親指を除く9本の指で操作できるようになっている。後述のように、キーメカニズムの関係でベーム式フルートにも鳴りにくい音はあるが、ほとんどの音は良い音程で確実に鳴る。 ベーム式フルートは、最初にフランスでその優秀性が認められ、次いでイギリスでも使われるようになったが、発祥の地であるドイツでは[[20世紀]]に入るまで受け入れられなかった。旧来のフルートとは運指が異なることに加えて、この頃のドイツ音楽界に大きな影響力を持っていた[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]がベーム式フルートの音色を嫌ったことも、ドイツでの普及を妨げた大きな要因といわれている<ref name="Shouzou"/><ref name="Rekisi"/>。 === ロマン派中期以降 === ベームが1847年に発表したフルートは、現在のカバードキー型のフルートとほとんど変わらないものの、Gisオープン式であって、外観も少々武骨な印象である。しかし、フランスの楽器製作者であるヴァンサン・イポリト・ゴッドフロワやルイ・ロットらの手によって、前記の円錐ベーム式フルートとは異なる新しい構造の[[#カバードキーとリングキー|リングキー]]を採用した、いわゆる[[フルート#カバードキーとリングキー|フレンチスタイル]]のフルートが生み出されると共に、より運指が容易なGisクローズ式に変更され、意匠面も細部にわたって改良が施された。こうしてモダン・フルートは、今日見るような洗練された優美な姿となったのである。 [[1860年]]にパリ音楽院教授となったルイ・ドリュによって学院の公式楽器に認定<ref name="Shouzou"/>されると、アンリー・アルテ(アルテスとも)、[[ポール・タファネル]]、[[フィリップ・ゴーベール]]、[[マルセル・モイーズ]]らフルート科教授によってその奏法の発展と確立がなされ、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]をはじめとする作曲家たちが多くの楽曲を書いた。それまでは装飾的・限定的に使われていた[[ビブラート]]も積極的に採り入れた演奏様式を確立して[[近代音楽#木管楽器の音楽とオルガン音楽の発展|フランス楽派]]と呼ばれ、フランスは一躍フルート先進国となったのである。アルテの著した[[#教則本|教則本]]は、今なお最も有名なモダン・フルートの入門書である。 [[ファイル:Meyer Flute.jpg|thumb|300px|メイヤー式フルート(10キー、円錐管)]] 一方、ドイツやオーストリアでは、金属製フルートの大径トーンホールから出る倍音を豊かに含む音色を好ましく思わないながらも、ベーム式メカニズムの長所は認めざるを得ず、20世紀に入る頃には管体は木製だがメカニズムはベーム式という折衷型の楽器が用いられるようになると共に、金属製のフルートも徐々にではあるが使われるようになった。しかし、ドイツの H.F.メイヤーによって開発された、トーンホールの径を大きくして音量を増すなどの改良が加えられた多鍵式・円錐管・旧式運指のメイヤー式フルートも、多くのメーカーによって模倣され、フランスを除くヨーロッパやアメリカでは、1930年代まで使われていた<ref name="Shouzou"/>。 === 近現代 === ベーム式フルートも、改良の余地がないほど完璧なものではないので、その後もフルートの改良はさまざまな形で試みられ、中には商品化に至ったものもあるが<ref name="Rekisi"/>、ベームの基本設計を凌駕するほどのものは今日に至るも現れていない。ベーム式フルートはその地位を確固たるものとし、フレンチスタイルの登場以降は構造面に特段の変化はないが、奏法の面で大きな発展が見られる。 [[第二次世界大戦]]前から知られる[[フルート#特殊奏法 (現代奏法)|特殊奏法]]としては、巻き舌による[[フラッタータンギング|フラッターツンゲ]]や[[ハーモニクス]]奏法がある。戦後は[[レコード]]の普及や放送技術の発展とともに、[[ジャン=ピエール・ランパル|ランパル]]がソリストとして活躍し、フルートの魅力を世界中に示すこととなった。またモイーズが、教育者として[[カリスマ]]的といえるほどの影響力を長い間保ち続けたこともあって、世界中でフランス風の演奏スタイルが大きく広まっており、ビブラートを常にかけるのが一般的であるが、クラシック音楽においては今なおビブラートを乱用しない演奏スタイルも好まれる。前述の通り、ドビュッシーはフルートにおけるレパートリー拡張の第一人者であるが、中でも独奏曲『[[シランクス]]』はフルート独奏のための曲として歴史上重要な位置を占めている。[[エドガー・ヴァレーズ]]は『[[密度21.5]]』において、[[フルート#特殊奏法 (現代奏法)|キー・パーカッション]]と呼ばれるアタックの音の変化を求めた特殊奏法を開発し、また超高音域を執拗に求めて、演奏における音域の拡張に成功した。 [[現代音楽]]では、まずフルート奏者のブルーノ・バルトロッチが[[重音奏法]]を体系化した教本を出版し、またピエール=イヴ・アルトーやロベルト・ファブリッツィアーニなどその他多くのフルート奏者、また[[サルヴァトーレ・シャリーノ]]らの作曲家によって息音を含む奏法、ホイッスルトーン、タングラム、リップ・ピッツィカートなど新しい奏法も次々と開発された。[[ルチアーノ・ベリオ]]の『[[セクエンツァ (ベリオ)|セクエンツァI]]』などの優れた曲は現在も「古典」として多くの奏者によってコンサートや教育現場で取り上げられ、聴衆にも親しまれている。 == 発音原理と音域 == フルートの発音原理に関しては、大きく分けて二つの説が存在する<ref name="Onkyougaku"/><ref name="Physics">N.H.Fletcher、T.D.Rossing(著)、岸 憲史 他(訳) 『楽器の物理学』 シュプリンガー・ジャパン、2002年、ISBN 978-4-431-70939-8;2012年に丸善出版より再刊 ISBN 978-4621063149</ref><ref name="Ongakukougaku">H.F.オルソン(著)、平岡正徳(訳) 『音楽工学』 誠文堂新光社、1969年</ref>。一つ目の説は、唇から出る空気の束(エアビーム)を楽器の吹き込み口の縁(エッジ)に当てることで[[カルマン渦]]が発生し、これがエッジトーン(強風のときに電線が鳴るのと同じ現象)を生じて振動源になるというもの。二つ目の説は、エアビームの吹き込みによって管の内圧が上昇し、これによってエアビームが押し返されると空気が抜けて内圧が低下し、再びエアビームが引き込まれるという反復現象が発生して、これが振動源になるとするものである。いずれにせよ、発生した振動に対し、管の内部にある空気の柱(気柱)が[[共振]]([[音響共鳴|共鳴]])して音が出る。トーンホールを開閉すると、気柱の有効長が変わるので共振周波数が変化し、[[音高]]を変えることができる。 コンサート・フルートの基本的な音域はC4(中央ハ)から3オクターヴ上のC7までであるが、[[フルート#C足部管とH足部管|H足部管]]を用いれば最低音がB3となる。最低音からC#5までは基音であるが、D5以上の音は倍音を用いて発生させる。チューニングする(他の楽器とピッチを合わせる)際には、オーケストラではA5を、吹奏楽ではB♭5を用いる。音域は便宜上下記のように分けることが多いが、これは絶対的なものではなく、例えばC6を中音域とするか高音域とするかは時と場合によるし、稀には中音域と高音域をまとめて(中・高音域と呼ぶべきところを省略して)高音域と呼ぶこともある。 * 最低音からB4までの音域は、低音域あるいは第1オクターヴなどと呼ばれる。音量は小さく、特に最低音に近いいくつかの音は明瞭な発音が難しいが、幅広く柔らかい音色を特徴とする。 * C5からB5までの音域は、中音域あるいは第2オクターヴなどと呼ばれる。C#5の音はトーンホールが小さいため響きがあまり良くなく、E5からF#5は音が割れやすいなど難しいところもあるが、表情豊かな音色を持ち、音量の制御も比較的容易である。 * C6からC7の音域は、高音域あるいは第3オクターヴなどと呼ばれる。後述のようにキーメカニズムの関係でE6やF#6などの音が出しにくい上、ほとんどの音はピッチが高目であり、用いる倍音モードが音によって変わるため音色を揃えるのが難しく、運指も不規則で覚えにくいが、明るく輝かしい音色で、音量も比較的大きい。 * C7より上の音域は、第4オクターヴなどと呼ばれ、F7までの運指が比較的広く知られているが、高い音ほど発音が難しい。この音域が開発されたのは20世紀に入ってからであり、現代音楽で使用されることがあるが、楽器によって発音の難易度やピッチのばらつきが大きく、運指法も一定していない。 標準的な運指を用いた場合の倍音モードの概略は下記の通りである。例えばC7はC4の第8倍音であるが、息の圧力で第8倍音を出すことは難しいので、左手はCとGis、右手はF以下のトーンホールを開けてやる(Esは閉じた方が良い<ref name="Altes">アンリー・アルテス(編)、植村泰一(訳・解説) 『アルテス・フルート奏法 第一巻』 シンフォニア、1978年、ISBN 978-4-88395-580-0、126頁</ref>)ことにより、C5の第4倍音かつG#4の第5倍音かつF4の第6倍音として発生させている。第3倍音、第5倍音、第6倍音によって出す音は、多少なりと[[倍音#各倍音と倍音列|平均律からのずれ]]が生ずることなどもあって、高音域の音程はあまり良くない。 C4 - C#5:基音(H足部管の場合はB3も含む) D5 - C#6:第2倍音 D6 :第2倍音、第3倍音 D#6 - B6:第3倍音、第4倍音、第5倍音(音により異なる) C7 :第4倍音、第5倍音、第6倍音 モダン・フルートは、すべての木管楽器の中で最も論理的に設計されている<ref name="Physics"/>が、さまざまな制約から妥協せざるを得ない部分もあるので、特に高音域には上記のように問題が多い。これらを完全に解消することは、設計上どのような工夫を以ってしても不可能であり、最後は[[アンブシュア]]の微妙な調節や特殊運指の使用など、奏者の技術に委ねられている<ref name="Wye">トレヴァー・ワイ(著)、笹井純(訳) 『トレヴァー・ワイ フルート教本1 第1巻-音』 音楽之友社、2011年、ISBN 978-4-276-60614-2、22頁</ref>。 == 構造 == 一般的なコンサート・フルートは、管体が頭部管・胴部管・足部管の3分割構造になっており、保存・携帯時は分解し、演奏時に組立てる。頭部管を胴部管に挿入する深さを変化させることにより全体の音高が変わるため、他の楽器とピッチを合わせる(チューニングする)ことができる。同じベーム式フルートでもフランスを起源とする流派と、ドイツ・オーストリアの伝統とでキー配列、キー構造に違いがあり、フランス流ではキー配置が「インライン」、キーは「リングキー」、足部管は「H足部管」、ドイツ・オーストリア流ではキー配置が「オフセット」、キーは「カヴァードキー」、足部管は「C足部管」と分かれている。日本ではプロの演奏家や音大生は前者のフランス流を、アマチュア奏者は後者を用いる傾向にある<ref>『木管楽器演奏の新理論』p20-22</ref>。 === 頭部管 === [[歌口]]の部分で内径17mm、胴部管と接続する部分で内径19mmの略円錐形である。歌口に近い方の端がヘッドスクリューで塞がれている。管内の歌口に近い位置に反響板(反射板)があり、ヘッドスクリューと連結されている。反響板の位置は歌口の中央から17mmが適切であり、ここからずれているとピッチに支障がある。 歌口は楕円形ないし小判形(角の丸い矩形)であるが、メーカーによって異なり、断面も微妙な形状に成形されている。この部分はフルートの音色・音量・発音性などに大きく影響する<ref name="Onkyougaku"/>ので、形状の異なる複数の頭部管を製作しているメーカーもあり、頭部管だけを専門に作るメーカーもある。 === 胴部管 === 内径19mmの円筒形で、頭部管に近い位置に比較的小さなトーンホールが3つと、より大きなトーンホールが10個、管体上面および側面にある。トーンホールが指で押さえられないほど大きく、またその数が指よりも多いため、一部が互いに連結されたキーシステムによってトーンホールを開閉する。キーの裏側には後述のタンポ(パッド)が組み込まれており、トーンホールを閉じた際の気密性を確保している。 === インラインとオフセット === ベーム式のフルートのキーの配列は大別して「インライン」と「オフセット」の二種類がある。 * インラインは、胴部管上側面のキーが全て一直線に並んでいるタイプである。 * オフセットは、左手の薬指キーが外側(左腕に近い方)に少しずれていて、薬指が届き易いよう配慮したタイプであり、ベームが製作した楽器はすべてオフセットであった。 両者の中間となるハーフオフセットの楽器もある。オフセットの方がキーを押さえやすいが、インラインはポスト(メカニズムの先端部分<ref>https://www.tkwo.jp/qa/flute/fl217.html</ref>)が広い分多少開放的な音色になる。大きな違いではないので、楽器の購入の際にどのタイプを選ぶかは奏者の好みや手の大きさにより、初心者向けか上級者向けかといった区別はなく、構造上大きな優劣の差はない。 === カバードキーとリングキー === * カバードキー<ref group="注">クローズドキーとも。ベームが1847年に発表したモデルがこのタイプだったので、ジャーマンモデル、ジャーマンスタイルともいう。</ref>は、キーに取り付けられたタンポでトーンホール全体をふさぐ方式のフルートである。 * リングキー<ref group="注">オープンキー、オープンホールシステムとも。ベームのフルートを元にフランスで開発されたので、フレンチモデル、フレンチスタイルともいう。</ref>のフルートは、指が置かれる5つのキー(左手の中指、薬指、右手の人差指、中指、薬指)の中心に穴があいており、指でその穴をふさいで演奏する。押さえていないトーンホールは開放されているため、カバードキーより音色が軽く明るい。技術的には、穴をふさぐ程度を変化させることによって、[[ポルタメント]]、[[微分音]]などの技法が楽に演奏できるようになるほか、ピッチ調節などのための替え指もカバードキーより多く利用でき、重音のための特殊な運指の幅も大きく広がるが、穴を正確にふさがなければならないため運動性能が若干劣り、初心者や、手が小さい、あるいは指が細い奏者には演奏が難しいこともある。 === タンポ(パッド) === カバードキーで最も一般的に使われているタンポは、[[フェルト]]にフィッシュスキン<ref group="注" name="fish">旧くは魚の浮き袋から作られていたのでこのように呼ばれるが、今日では豚の内臓などから作られている。</ref>を巻いたものである。これは金属のフルートをテオバルト・ベームが開発した時代から変わっていない。その他、[[ゴム]]、[[シリコーン]]、[[コルク]]等を用いているものもある。 フルートは、タンポとトーンホールの間に「髪の毛1本の隙間があっても音が鳴らない」と言われており、調整には高い技術が必要である。 === C足部管とH足部管 === 足部管は胴部管と同じ内径の円筒形で、3つまたは4つのトーンホールを持つ。 * トーンホールが3つのものはC足部管で、最低音はC4である。 * トーンホールが4つのものがH足部管で、最低音はB3である。英語式にB(ビー)足部管(B foot joint)と呼ぶこともあるが、日本ではドイツ音名により H(ハー)足部管(H-Fuß)と呼ぶのが一般的である。[[マーラー]]や[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]ほかの交響曲を演奏するにはH足部管が必須である。また、最低音が低くなる分倍音が安定して出しやすいメリットもある。ただしH足部管は長い分重量があり、通気が多少なりと阻害されて音色がわずかながら暗めになるとされている。これを補うため、通気の良いリングキーを併用する楽器が多い。 === Gisオープン式とGisクローズ式 === Gisトーンホールを1つだけ持つものがGisオープン式、Gisトーンホールを2つ持つものがGisクローズ式で、ベームが製作した楽器はGisオープン式であったが、今日ではGisクローズ式が主流である。 * Gisオープン式では、左手薬指を押すとAトーンホールが閉じ、左手小指を押すとGisトーンホールが閉じる。つまり、AトーンホールのキーとGisトーンホールのキーは独立している。 * Gisクローズ式では、2つのGisトーンホールのうち一方は常時開、他方は常時閉となっており、常時開のGisトーンホールのキーとAトーンホールのキーは連結されている。左手薬指を押すとAトーンホールと常時開のGisトーンホールが連動して閉じ、左手小指を押すと常時閉のGisトーンホールが開く<ref group="注">従って、2つのGisトーンホールを両方閉じた状態で、Aトーンホールだけを開けることはできない。これが後述のEメカニズムの必要性につながっている。</ref>。<br>実際にG#の音を出すのは常時閉のGisトーンホールであり、常時開のGisトーンホールは他の音を出すときの通気の役目を果たしている。 Gisオープン式の場合、Gisトーンホールが1つですみ、後述のEメカニズムを設ける必要も無いのでコスト面で有利である上、小指を押すとG、放すとG#が出る(音程が上がる)ので、運指としても自然である。つまり、一見Gisオープン式の方が、いわゆる「理にかなった」構造のように思える。ところが実際に演奏すると、Gisオープン式ではほとんどの音で左手小指を薬指と同じに動かさねばならず、Gisクローズ式より小指が忙しくなって運指が難しい。この点がGisクローズ式が広く世界に普及した大きな理由である。 === Eメカニズム === 今日主流となっているGisクローズ式のフルートでは、第3オクターヴのホ音(E6)が出しにくく、ピッチが高い場合が多い。E6はE4の第4倍音であると同時にA4の第3倍音なので、右手はEから下のトーンホールを開け、左手はAトーンホールだけ開けてやればよいのだが、Gisクローズ式フルートではキーメカニズムの関係上、Aトーンホールを開けると、常時開のGisトーンホールもいっしょに開いてしまうからである。これを解消するために考案されたのがEメカニズム (Split E mechanism) で、Eメカと略称されることも多い。キーシステムを追加することにより、E6の運指で常時開のGisトーンホールが閉じるようになっており、これによってE6の出しやすさとピッチは改善されるが、一部のトリル運指などが使えなくなるため、標準装備とするメーカーがある一方、オプション扱いとしているメーカーもある。 === Fisメカニズム === Gisオープン/クローズいずれのフルートでも、第3オクターヴの嬰ヘ音(F#6)が出しにくい。F#6はF#4の第4倍音で、かつB4の第3倍音であるから、右手はFisから下のトーンホールを開け、左手はHトーンホールのみ開けたいわけだが、キーメカニズムの都合上、Hトーンホールを開けるには、Aisトーンホールも開けざるをえないからである。これを解消するために考案されたのがFisメカニズムであるが、構造の複雑さや耐久性の低さ等の理由から商品化しているメーカーは少ないので、練習によって克服するしかないのが実状である。 === Cisトリルキー === B-C#のトリルでは、左手親指と人差し指を同時に動かさねばならない。これを容易にするために考案されたのがCisトリルキーで、Aisレバーの上流に設置され、右手人差し指だけでB-C#のトリルが可能になる。 Cisトリルキーを用いると、B-C#のトリルだけでなく、第3オクターヴのG-A (G6-A6) のトリルも容易になり、弱奏におけるG#6の発音も容易になる。また、通常のCisトーンホールは極端に小さいため、発音の困難、ピッチの不安定、音色の問題を伴うが、Cisトリルキーを用いると、これらの欠点を補うこともできる。 しかし、楽器が重くなる、外観を損なう、取り付け費用が高価であるなどのデメリットもあるため、Cisトリルキーを標準装備するメーカーはほとんどない。 === G-Aトリルキー === 第3オクターヴのG-A (G6-A6) のトリルを容易にするためのキーである。かつてドイツにおいてよく使われたメカニズムであるが、現在では同じ機能をCisトリルキーで実現できる上、前述のように用途も広いためCisトリルキーに取って代わられつつある。 === ソルダードトーンホールとドローントーンホール === 金属製の楽器では、トーンホールが管体から立ち上がってキー(タンポ)と密着しているが、この立ち上がり部分をどのようにして製作するかによる分類で、今日市販されているフルートは、ほとんどドローントーンホールである。 * ソルダードトーンホールは、管体となるパイプに別の部品をはんだ付けすることによりトーンホールを作成する。 * ドローントーンホールは、パイプそのものを引き上げ加工してトーンホールを形成する。 == 材質 == フルートは他の管楽器に比べ、使用する材質のバリエーションが幅広い。当然高価な[[貴金属]]製や稀少な素材になるほど値段も高くなる。 ベームを始めとした楽器製作者とメーカー、演奏者の主観でも材質によって音色が異なるとしているが<ref>[https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/flute/selection/ フルートの選び方:材質から選ぶ - 楽器解体全書] - [[ヤマハ]]による解説。</ref><ref>[https://www.muramatsuflute.com/flute/material.html 材質による音色と響き] - [[村松フルート製作所]]による解説。</ref>、音質に関する限り、管体の材質によって人間に聴き取れるほどの差異が生ずることはなく、[[ボール紙]]で作っても音は変わらないとされている<ref name="Physics"/><ref>[https://ccrma.stanford.edu/marl/Coltman/documents/Coltman-1.06.pdf John W. Coltman 「Effect of Material on Flute Tone Quality」 1970年7月27日]:1970年に物理学者のジョン・W・コルトマン (John W. Coltman) が行った実験。銀、銅、木で作ったキーの無いフルートを用意し、被験者から見えないようにして音だけを聴かせたところ、プロ演奏家も学生も演奏されている楽器の材質を識別する事が出来なかった。</ref>。なお、以下に述べるのは管体やキーなどの材質であり、キーメカニズムの芯金や[[ねじ]]、[[ばね]]などには下記と異なる素材も使用される。[[フェルト]]や[[コルク]]なども部分的に使われている。 ; [[洋白|洋銀(洋白)]] : フルートの材質として最も多く用いられているのは洋銀である。古いものでは「マイユショール({{lang-fr|maillechort}})」と表記されていることもある。洋銀製といっても、実際は部品により[[洋白]]と[[白銅]]が使い分けられており、劣化の抑制と外観の向上を目的として、銀[[メッキ]]が施されているものが多い。比較的安価で加工しやすく奏した際の反応も良いが、人の汗や摩耗による劣化が早いため、一般的には何十年と愛用するには不向きであるとされている。 : しかし、フルート界の巨匠[[マルセル・モイーズ|モイーズ]]が終生愛用していたフルートは洋銀製であった。素材の品質が良く、十分な手入れがなされれば、洋銀製でも何ら問題なく長期間の使用に耐えられる。 : ただし、洋白や白銅は[[合金]]成分として[[ニッケル]]を含むため、銀メッキされていても稀に[[金属アレルギー]]を引き起こすことがあるので、特にアレルギー体質の人は、唇に直に触れる頭部管だけでも銀製の楽器を選択するなどの配慮が望ましい。 ; [[銀]] : ベーム式フルートの材質として、テオバルト・ベーム自身が最も適していると結論づけたのが銀である。「薄く軽い銀の引き抜き管が、内部の空気柱と共に振動する能力に優れており、木の管より楽に輝かしく大きな音で鳴る」と著書<ref name="Boehm"/>の中で述べているが、科学的根拠が示されているわけではない。 : 銀はいわゆる貴金属の中では最も軽く、加工が容易で、経年による劣化が少なく、木材と違って割れることもない。[[イオウ]]などと反応しやすい金属なので、長年使用すると表面に黒色の皮膜を生ずるが、性能への悪影響はなく、軽く[[研磨]]するだけで除去できる。 ; [[金]] : フルートには、5金(5K;5[[カラット]])から24金まで幅広い純度の金が用いられている。金以外の成分の含有率によって色や比重が変化し、吹奏感も変わるが、総じて反応が良く、倍音が多いといった利点があるとされ、「金(のフルート)は遠達性が良い」「遠鳴りする」などと表現されることもある。 : しかし、上記の通り管体の材質によって音が変わることはない<ref name="Physics"/>のであって、利点としては、安定した金属なので長年使用しても美しい外観を損なう事がないということに尽きる。純金に近いものほど高価になる上に、重くなるので演奏には体力が必要になる。銀製のフルートにメッキとして使用されることも多い。 ; [[白金|白金(プラチナ)]] : 白金は[[密度]]が高いため非常に重く、これで作られたフルートは激しい吹き込みにも耐えられるとされ、金と並んで「フォルテ側の余裕が大きい」などといわれることがある。 : しかし、これにも何ら科学的な根拠など存在せず、人間の吹き込む息やフルートの音圧程度なら、密度が低く軽い[[アルミニウム合金]]で十分耐えられる。白金は頭部管と本体パイプにのみ用いられ、キー等の細かいパーツの成形は技術的に難しい。極めて高価な上、24金製以上に重いので、演奏には強靭な体力が要求される。銀製フルートに白金メッキを施したモデルもある。 ; [[木]] : ベーム式のキーメカニズムを持ち、管体のみ木製のフルートは現在も作られており、管体には[[グラナディラ]]、[[黒檀]]などが用いられている。音量や音程、運動性などは普通の総金属製モダン・フルートと変わらないが、倍音が少なく、トラヴェルソを想起させる柔らかい音質が特徴といわれる。 : しかし、タンギングを含むトラヴェルソ特有の演奏テクニックが再現できるわけでもなく、あくまでも「木製のモダン・フルート」に過ぎない。良質の木材でも割れる可能性が完全には排除できないので、メンテナンスには木製トラヴェルソと同様の注意を要する。 ; その他 : 「入門用」などと称して売られている安価なフルートには、[[黄銅|黄銅(真鍮)]]で作られているものもある。ニッケルメッキや銀メッキが施されていて、外観は銀色であるが、ニッケルや黄銅は金属アレルギーのリスクが高いので、注意が必要である。 : 金と銀の合板(クラッド材)や、[[ステンレス]]、[[タングステン]]、[[チタン]]、アルミニウム合金等、さまざまな材質によるフルートが試作・商品化されているが、いずれも特段のメリットはなく、一般に普及するには至っていない。 : [[プラスチック]]製は軽量で安価なため入門用として作られている。また金属と違って多少の衝撃が加わっても管体が凹むことがなく、水に濡れても錆びない、金属アレルギーのリスクが無いといった利点がある。上記の通り管体の材質によって音が変わることはないが<ref name="Physics"/>、歴史が浅いため加工精度や耐久性共に未知数である。 == 特殊奏法 (現代奏法) == フルートは[[近代音楽]]や[[現代音楽]]において特に[[特殊奏法]]が数多く開発された楽器であるが、これらは作曲者や奏者によりさまざまな呼称、技法、記譜法があって、未だ発展途上にある。楽器や奏者により、あるいはそのときの調子によって、狙った通りの効果が得られないこともある。 ; エオリアン・トーン(英:aeolian tone) : ブレス・トーンともいう。発音と同時に息が歌口や歯の間から漏れる噪音を発する奏法。通常の奏法からライザー部にあてる空気の柱を極端にぼかすことにより生じる。楽音は存在するが空気の流れる音の占める割合のほうが大きい。この割合が作曲者によって細かくパーセント記号で指示されている物もある。 ; キー・パーカッション(英:key percussion) : キー・クリック、キー・クラップとも。キーを強めに叩くことにより、打楽器的効果を狙った奏法。[[エドガー・ヴァレーズ]]の『密度21.5』で初めて用いられたが、この曲に登場する奏法は、厳密にはスタッカートの通常奏法とキー・パーカッションとの併用である。 ; 口笛(英:whistle) : 歌口内に[[口笛]]を吹くことによって通常の口笛よりもフルートの管に共鳴させた音を作り出す。その際発生する音は運指の自然倍音列上の音である。口笛を吹きながらフルートの通常音を鳴らすことは不可能であるが、口笛の音+エオリアン・トーンであれば可能である。 ; ジェット・ホイッスル(英:jet whistle) : 歌口を唇で完全に覆い、息を激しく吐き出すことにより発生した息音を使用する奏法。唇、フルートの角度を瞬時に変化させることで息音内に含まれる楽音を自然倍音列に従い上昇、下降させることができる。発生する音は運指によっても変化する。 ; [[重音奏法]](英:multiphonic) : 特殊な運指によりふたつ以上の音を同時に出す奏法。運指により、調性的な和音に近いものから、割れたような荒々しい音も出すことができる。R・ディックのフライング・エチュードではこの重音奏法が全体にわたり使用されている。小泉浩、P・E・アルトー、A・ニコレの著書などに重音の運指が示されている。 ; [[循環呼吸]](英:circular breathing) : 口腔内の空気を吐き出して演奏しながら、鼻から息を吸うことによって、息継ぎによる中断なしに発音し続ける奏法。フルートは他の管楽器に比べて空気の消費が多い楽器であり、循環呼吸をマスターすることにより音楽的な質をより高めることができるとされる。A・ニコレ、P・ガロワ、R・ディック、W・オッフェルマンズ等の著書に「循環呼吸」について解説されている。 ; スラップ・タンギング(ピッツィカート)(英:slap tonging、伊:pizzicato) : リップ・ピッツィカート、クアジ・ピッツィカートとも。弦楽器の[[ピッツィカート]]に似た音響を発する奏法。通常のタンギングの圧力を高める方法の他、いくつかの方法がある。グランド・フルートではC4(H足部管つきでB3) - D#5までは通常の運指で、さらにオクターヴキーを開ける、その他の操作をすることによりD#6まで発音可能。 ; ダブルタンギング(英:double tonguing) : 古くからある特殊奏法。タンギングにおいてTとKの子音を用い、速い舌突きの必要とされるパッセージをTKTKTKと奏する。全ての管楽器で可能なテクニックであるが、難易度はフルートがもっとも低く、ロマン派の技巧的な変奏曲や近代の作品を演奏するのに必要不可欠である。 : トリプルタンギング(英:triple tonguing)は、ダブルタンギングから派生したもので、3つ単位の音符をTKTTKTなどのように区分けする。 ; ダブルトリル(英:double trill) : 通常は2音間を行き来するトリルを2本の指で行うことにより往復の速度が倍になったもの。左手は楽器を保持する必要がある為、右手で行われることが多い。運指によりアグレッシブな効果から不思議な音響まで出すことができる。リングキーかカバードキーかで可能なダブルトリルの種類は異なる。フルート音楽においてのダブルトリルの使用例は[[サルヴァトーレ・シャリーノ]]の『感謝の歌 Canzona di ringraziamento 』に多用され、後述のタングラムの項に挙げる『魔法はどのように生み出されるか Come vengono prodotti gli incantessimi? 』と連続して演奏される。『感謝の歌』では二つのトリルキーを交互に連打することにより不思議な音響空間を生み出している。 ; タングラム(英:tongue ram) : 唇全体で歌口を覆い、舌をライザー部に当てることにより、打撃音を生み出す。空気を吸いながら行う事も可能。これによりフルートは閉管構造として共鳴するため、運指よりも長7度低い音が出る。グランド・フルートでは運指上でC4(H足部管つきでB3) - D#5まで可能、実音ではC#3 (C3) - F4までの音が出る。[[サルヴァトーレ・シャリーノ]]は『魔法はどのように生み出されるか Come vengono prodotti gli incantessimi? 』でこの奏法を積極的に用いており、太鼓の連打音のような音響を生み出している。 ; ドッペルトレモロ(独:Doppeltremolo) : 通常のトレモロに息の圧力を加減してオクターヴの上下を加えたもの。作品内ではポルタメントや発声奏法も併用されている。 ; [[ハーモニクス]](英:harmonics、倍音奏法) : フラジオレット(英:flageolet)とも。低音域の運指のまま高い倍音を出す奏法。第2倍音(1オクターブ上)、第3倍音(1オクターブと完全5度上)、第4倍音(2オクターブ上)、第5倍音(2オクターブと長3度上)、第6倍音(2オクターブと完全5度上)などが出せる。まれに第7倍音(2オクターブと短7度上、平均律より6分音つまり約33セント下)も指定される。曲によって力強い音を出したり、弦楽器やハープのハーモニクスのような虚ろな音響効果を要求したりとさまざまである。[[フランツ・ドップラー]]が[[ハンガリー田園幻想曲]]の第1楽章の終わりに用いている他、ハーモニクスの和音が[[ストラヴィンスキー]]の[[春の祭典]]にも登場する。倍音成分の度合いを変化させることで重音を出すことも可能。 ; [[バズィング]](英:buzzing) : トランペット・アンブシュール(trumpet embouchure;英仏混合語)とも。歌口に対し唇を閉じた状態で押し付け金管楽器のバズィングと同じやり方で唇を振動させ音を鳴らす奏法。舌を両唇に挟むことで[[金管楽器]]でいう[[ペダルトーン]]に似た効果も出せる。息の圧力や指を変えることで色々な音域が出せるが、フルートのマウスピースや管はバズィングには向いていないためスケールは安定しにくい。非常に高い圧力が必要なため唇の負担が大きいので、長時間のバズィング奏法は注意が必要である。 ; 発声奏法(英:playing with voice) : 通常演奏と同時に声を出すことにより差音がハウリングを伴い発生する奏法。フルートの一音程の通常音と同時に奏した場合に、高声と低声では発生する差音に違いが生じるため男女でこの奏法の内容は大きく異なる。フルートと違う音程を同時に歌うことにより和音が、リズムをずらすことにより二重奏が可能である。 : [[グロウル]](英:growl)は発声奏法の一つで、フルートの旋律と同じ動きで歌う奏法。ややグロテスクな音質になり、[[サックス]]や[[ギター]]にも負けない音圧、音量に変化できるため[[ジャズ]]の[[即興演奏|アドリブ]]などで好んで使われる。 ; ビートボクシング・フルート(英:beatboxing flute) : フルートウィズボイスパーカッションとも。フルートの特殊奏法とは厳密には異なるが、2007年ごろ[[YouTube]]上で、アメリカのフルーティスト、G・パティロによる[[ヒューマンビートボックス]]([[ボイスパーカッション]])をしながらフルートを演奏する動画が話題となった。フルートを構え[[バスドラム]]、[[スネアドラム]]、[[ハイハット]]のような音と同時に[[メロディ]]や[[即興演奏|アドリブ]]を演奏するというものである。 ; ビスビリャンド・トリル(伊:bisbiliando trillo) : カラートリルとも。運指から離れた下のほうのキーを開閉することにより、同音上で微妙に異なる音色によるトリルが可能。運指によっては替え指が微分音下方になることもある。[[武満徹]]が[[1980年代]]以降の作品で多用したのはビスビリャンドに似た四分の一音下を含むホロートーントリルであり、特に『[[海へ (武満徹)|海へ]](Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ)』において効果的に聞くことができる。[[トリスタン・ミュライユ]]はトリルではなく非常にゆっくりとした長い音符の交替による音色の変化を好んで用いる。 ; [[フラッタータンギング|フラッターツンゲ]](独:Flatterzunge、巻き舌) : フラッター、フラッター・タンギング(英:flutter tonguing)とも。巻き舌やうがいをするように喉を震わせることにより、トレモロ的効果を生み出す奏法。舌だと荒めに、喉ではマイルドになる。オーケストラでは[[リヒャルト・シュトラウス]]が用いたのが最初とされている。[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の交響曲第8番の第4楽章の冒頭、[[ジャック・イベール|イベール]]のフルート協奏曲の第3楽章カデンツァなどに使用例が見られる。遺伝的な理由によって舌でのフラッタータンギングを苦手とする奏者もいることに注意が必要である。その場合は喉で代替される。 : マウスピースを唇で覆いながらフラッターをすることにより管内に響く音を造り出すという奏法も存在する。運指よりも長7度下の音が鳴り、タングラムに似た効果が巻き舌で持続する。 ; ホイッスル・トーン(英:whistle tone) : ウィスパー・トーンとも。息を送る具合を調節することにより、高音域において倍音音列に基づく非常に虚ろな音を出す奏法。フルートの特殊奏法の中でもとりわけ音量の小さいものに分類され、大きなホールの後部座席まで十分に届くほどの音量はない。 : 歌口を唇で完全に塞ぎ口内の内径を変化させることによりホイッスルトーンと似た音を奏することもできる。 ; ホロートーン(英:hollow tone) : バンブートーン(英:bamboo tone)とも。特殊な運指によって通常の奏法では出せないくぐもった音を出す奏法。ホロートーンは武満徹のフルートソロに必ずといって良いほど登場する。木管の民俗楽器に似せるため、あえてスケールや音程、音質が不安定になる運指とする。運指表はオランダの奏者W・オッフェルマンズの物がある。 ; むら息(英:breath noise、尺八奏法) : 上記のエオリアン・トーンをより激しくし、アクセントを加えた奏法。曲によっては日本の[[尺八]]を想起させる。尺八奏法というとこのむら息と同時に激しいビブラートも組み合わせる。 上記の特殊奏法を組み合わせ、新たな音響を作り出すこともできる(例:フラッター+発声奏法、重音奏法+スラップ・タンギング)。 == 教則本 == 歴史上初のフルート教則本と呼べるのは[[1707年]]に出版されたジャック・オトテールの『フルート、リコーダー、オーボエの原理 ([PrincipesPrincipes de la flute traversiere, de la Flute a Bec, et du Haut-bois,)<ref>{{Cite web|和書|title=File:Principes de la flute traversiere 1728.jpg - IMSLP/ペトルッチ楽譜ライブラリー: パブリックドメインの無料楽譜|url=https://imslp.org/wiki/File:Principes_de_la_flute_traversiere_1728.jpg|website=imslp.org|accessdate=2021-10-27}}</ref>」である。この本は大部分が横笛のフルート (flute traversiere) のための記述で占められており、ヨーロッパで高い人気を得て、海賊版も多数発行された。[[1752年]]に出版された[[ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ]]の『フルート奏法試論 (Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen)<ref>{{Cite web|和書|title=Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen (Quantz, Johann Joachim) - IMSLP/ペトルッチ楽譜ライブラリー: パブリックドメインの無料楽譜|url=https://imslp.org/wiki/Versuch_einer_Anweisung_die_Fl%C3%B6te_traversiere_zu_spielen_(Quantz,_Johann_Joachim)|website=imslp.org|accessdate=2021-10-27}}</ref>は同時代のフルート以外の楽器にの関する総括的な著作としても評価が高い。オトテール・クヴァンツ両者ともに優れたフルート奏者・作曲家でありながらフルート制作にも熟達していたという点が共通している<ref>{{Cite journal|last=石井|first=明|date=2002|title=バロック・フルートにおける右小指の運指 : オトテールとクヴァンツによる教則本を中心に|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips|journal=慶應義塾大学日吉紀要. 人文科学|issue=17|pages=133–156|language=ja}}</ref>。 モダン・フルートの教則本は数多く出版されているが、最も有名なのはパリ音楽院のフルート科教授だった'''Henry Altès'''(アンリー・アルテ/アンリー・アルテス)によるものである。 * 『ALTÈS FLUTE METHOD フルート教則本(第1巻〜第3巻)』 比田井洵編著、[http://www.jfc-pub.co.jp/index.htm Japan Flute Club] * 『アルテス・フルート奏法 第一巻』 植村泰一訳・解説、シンフォニア ISBN 978-4-88395-580-0 * 『アルテス・フルート奏法 第二巻』 植村泰一訳・解説、シンフォニア ISBN 978-4-88395-499-5 * 『H. アルテス フルート教本 I』  堀井恵監修、トリム出版 ISBN 4-925199-10-2 * 『H. アルテス フルート教本 II-1』 堀井恵監修、トリム出版 ISBN 4-925199-11-0 * 『H. アルテス フルート教本 II-2』 堀井恵監修、トリム出版 ISBN 4-925199-12-9 * 『アルテス フルート教本 <初級>』 山下兼司 編著、ドレミ楽譜出版社 ISBN 978-4285106503 == 同属楽器 == フルート属には次表のようなものがある。これらのうち、コンサート・フルートとフラウト・トラヴェルソは実音楽器であるが、その他の[[派生楽器]]は、慣例的に記譜上の音域および運指がコンサート・フルートとおおむね合致するよう移調楽器として扱い、[[音部記号|ト音記号]]を用いて記譜される。 {| class="wikitable" style="font-size:90%" |- ! style="width:12em" | 和名 ! style="width:8em" | 記音に対する<br>実音 ! 備考 |- | style="background-color: #ffdead" | [[ピッコロ]] | 1オクターヴ上 | style="vertical-align: top" | 足部管を欠いているため、最低音は古来のフルートと同様にニ音(D5)である。稀にDes管もある。 |- | style="background-color: #ffdead" | G管 トレブルフルート<ref>{{citation|url=https://bandestration.com/2015/09/14/g-treble-flute/|title=G Treble Flute|publisher=Bandestration|author=Bret Newton|date=2015-09-14}}</ref> | 完全5度上 | |- | style="background-color: #ffdead" | F管 ソプラノフルート<ref>{{citation|和書|url=https://www.kotatoandfukushima.com/soprano-flute|title=Soprano Flute|publisher=古田土フルート工房}}</ref> | 完全4度上 | style="vertical-align: top" | 古楽器フラウト・トラヴェルソやリコーダー、和楽器[[篠笛]]に似た音で、特殊な効果を狙う場合に使用される。 |- | style="background-color: #ffdead" | Es管 ソプラノフルート<ref>{{citation|url=https://bandestration.com/tag/soprano-flute/|title=E-flat Soprano Flute|publisher=Bandestration|author=Bret Newton|date=2015-09-14}}</ref><br>(3度管フルート) | 短3度上 | |- | style="background-color: #ffdead" | [[フラウト・トラヴェルソ]] | 同度 | style="vertical-align: top" | 足部管を欠いているため、最低音は古来のフルート通りD4である。 |- | style="background-color: #ffdead" | フルート<br>(コンサート・フルート)<br>(グランド・フルート) | 同度 | style="vertical-align: top" | H足部管を使用すると、最低音がC4からB3へと拡張される。 |- | style="background-color: #ffdead" | フルート・ダモーレ | 長2度・短3度下 | style="vertical-align: top" | ごく稀に長3度下のAs管もある。 |- | style="background-color: #ffdead" | [[アルトフルート]] | 完全4度下 | style="vertical-align: top" | 頭部管がU字型になった曲管もある。近代以降の管弦楽曲や、ジャズで使われる機会が比較的多い。フルートオーケストラでは、しばしば対旋律を受け持ち、管弦楽の[[ヴィオラ]]のような役目を果たす。 |- | style="background-color: #ffdead" | [[バスフルート]] | 1オクターヴ下 | style="vertical-align: top" | 頭部管がU字状に曲げられている。戦後の現代音楽では比較的よく使われた。独奏曲や[[室内楽曲]]に多い。 |- | style="background-color: #ffdead" | コントラアルトフルート<ref>{{citation|url=http://www.kingmaflutes.com/mySite/contralto.html|title=Contr’alto Flute|publisher=Eva Kingsma}}</ref><ref>{{citation|url=http://www.hogenhuis-flutes.com/contralto|title=contr’alto|publisher=Hogenhuis flutes}}</ref> | 1オクターヴ<br>+完全4度下 | |- | style="background-color: #ffdead" | F管 バスフルート<ref name="kotato">{{citation|和書|url=https://www.kotatoandfukushima.com/bass-flute-in-f-contra-bass-flute-in-c|title=Bass Flute in F / Contra Bass Flute in C|publisher=古田土フルート工房}}</ref> | 1オクターヴ<br>+完全5度下 | |- | style="background-color: #ffdead" | コントラバスフルート<ref name="kotato"/> | 2オクターヴ下 | style="vertical-align: top" | 数字の「4」のような形をしており、キーは縦の部分に、リッププレートは横の部分に付いており、大きさは人の身長ほどもある。別名オクトバスフルート。 |- | style="background-color: #ffdead" | G管 サブコントラバスフルート<ref>{{citation|url=http://www.kingmaflutes.com/mySite/subcontra.html|title=Subcontrabass flute|publisher=Eva Kingma}}</ref> | 2オクターヴ<br>+完全4度下 | |- | style="background-color: #ffdead" | F管 サブコントラバスフルート<ref>{{citation|和書|url=https://www.kotatoandfukushima.com/subcontrabass-flute-in-f|title=Subcontrabass flute in F|publisher=古田土フルート工房}}</ref> | 2オクターヴ<br>+完全5度下 | |- | style="background-color: #ffdead" | C管 サブコントラバスフルート<br>(ダブルコントラバスフルート) | 3オクターヴ下 | style="vertical-align: top" | 古田土フルート工房により1993年に作成された<ref>{{citation|和書|url=https://www.kotatoandfukushima.com/about-us|title=古田土フルート工房 沿革}}</ref>。ほかにホーヘンホイス社の製品(PVC使用)がある<ref>{{citation|url=http://www.hogenhuis-flutes.com/subcontrabassflute|title=Subcontrabass flute|publisher=Hogenhuis flutes}}</ref>。 |- | style="background-color: #ffdead" | ハイパーバスフルート | 4オクターヴ下 | style="vertical-align: top" | フランチェスコ・ロメイによって2001年に作成された。管長12.3m、最低音16.35 Hzである。6つの音とその倍音のみが出せる<ref>{{cite book|author=Susan J. Maclagan|year=2001|title=A Dictionary for the Modern Flutist|publisher=The Scarecrow Press|isbn=0810867281|page=92}}</ref>。その後ホーヘンホイスも作成している<ref>{{citation|url=http://www.lowflutes.com/news/the_deepest_voiceexplorations_into_the_hyperbass/|title=The Deepest Flute Voice: The Hyperbass Flute|author=Peter Sheridan|publisher=Low Flutes}}</ref>。 |} == 主なメーカー == ; 日本 :* アイハラ / [http://members3.jcom.home.ne.jp/aiharaflute/ Aihara] :* アキヤマ / AKIYAMA FLUTE / [http://www.akiyamaflutes.co.jp/ アキヤマフルート] :* アザレア・フルート / AZALEA FLUTE(2020年にイワオフルートより変更<ref>{{Cite web|和書|title=クロサワ楽器店管楽器ブランドサイト 製品カタログ {{!}} Import Wind.com PRODUCT CATALOG |url=https://www.importwind.com/catalog/azalea.html |website=www.importwind.com |access-date=2022-10-29}}</ref> / [http://www.iwaoflute.com/ イワオ楽器製作所])<ref group="注">WEBサイトは2022年10月末現在、イワオフルートのまま更新されていない。</ref> :* アルタス / [http://www.altusflutes.com/ Altus FLUTE] :* [[河合楽器製作所|カワイ]] / Kawai Flutes / [http://www.kawai.co.jp/ 株式会社河合楽器製作所] :* コタケ / KOTAKE FLUTE / 小竹管楽器製作所 :* コタト&フクシマ / Kotato&Fukushima Flute / [http://kotatoflute.web.fc2.com/ 古田土フルート工房] :* サクライ / SAKURAI FLUTE / [http://www.sakuraiflute.com/ 桜井フルート製作所] :* サンキョウ / SANKYO FLUTE / [http://www.sankyoflute.com/j/index.html 三響フルート製作所] :* タムラ / Tamura (頭部管のみ) :* トヨダ/Toyoda (頭部管のみ)/[https://www.toyoda-flute.com/ 豊田フルート] :* ナツキ / [http://homepage2.nifty.com/natsuki-f/ ナツキフルート] :* ノマタ / Nomata / [http://homepage3.nifty.com/nomata-flute/ Nomata Flute SA] :* [[パール楽器製造|パール]] / Pearl Flute / [http://www.pearlgakki.com/ パール楽器製造株式会社] :* FMCフルートマスターズ / [http://www.flute-masters.com/ FMC Flute Masters] :* ヘルナルス / Hernals / オガワ楽器製作所 :* マテキ / MATEKI FLUTE(2019年末に廃業)<ref>{{Cite web|和書|title=マテキフルート廃業のお知らせ|url=http://sawako-flute.com/blog/964/|website=- Flutist - Sawako|date=2020-01-12|accessdate=2020-11-19|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=マテキフルートの歩み 2|url=http://sawako-flute.com/flute/1008/|website=- Flutist - Sawako|date=2020-02-02|accessdate=2020-11-19|language=ja}}</ref> :* ミヤザワ / The Miyazawa Flute / [http://www.miyazawa-flute.co.jp/ ミヤザワフルート製造株式会社] :* [[村松フルート製作所|ムラマツ]] / The Muramatsu Flute /[http://www.muramatsuflute.com/ 株式会社村松フルート製作所] :* ヤナギサワ / YANAGISAWA / [http://music.geocities.jp/atelieryanagisawa/ アトリエ ヤナギサワ] :* ヤマダ / YAMADA / [https://yamada-fp.com/ 山田フルート・ピッコロ工房] :* [[ヤマハ]] / YAMAHA /[http://jp.yamaha.com/ ヤマハ株式会社] ; アメリカ :* アームストロング / Armstrong :* アートレイ/Artraytray :* アルメーダ / Almeida :* アリスタ / Arista :* ウイリアムス / Williams :* エマーソン / Emerson :* エマニュエル / Emanuel :* オルフェウス / Orpheus Musical Instruments :* ゲマインハート / [http://www.gemeinhardt.com Gemeinhardt] :* ゴードン / Gordon (頭部管のみ) :* シェリダン / D.Sheridan (ドイツ、現在はアメリカ) :* ジョン・ラン / JOHN LUNN FLUTES :* ストロビンガー / Straubinger Flutes (キー・パッドのメーカーとしても有名) :* A.セルマー / A.Selmer :* ソナーレ / Sonare (アメリカ・台湾) :* トム・グリーン / Tom green :* トム・レイシー / Tom Lacy :* ナガハラ / NAGAHARA Flutes :* [[パウエル]] / VERNE Q.POWELL FLUTES :* バーカート / Burkart-Phelan Inc. :* ブランネン・ブラザース / Brannen Brothers - Flutemakers Inc. :* ヘインズ / THE HAYNES FLUTE / Wm.S.HAYNES Co. :* ランデール / Jonathon A.Landell / Landell Flute :* ロパティン / Lopatin ; イギリス :* ステファン・ウェッセル / Stephen Wessel :* ロバート・ビギオ / Robert bigio ; オーストリア :* トマジ / W.Tomasi ; オランダ :* エヴァ・キングマ / Eva Kingma :* エロイ / Eloy ; フィンランド :* マティット / Matit ; フランス :* パルメノン / [http://www.parmenon.fr/ Parmenon] :* ビュッフェ・クランポン / Buffet&Crampon :* フォリジ / S.FAULISI :*ローゼン/[https://www.roosen.fr Roosen] ; ドイツ :* カワイ・メーニッヒ :* A.R.ハンミッヒ / August Richard Hammig :* H.ハンミッヒ / Helmuth Hammig :* J.ハンミッヒ / Johannes Hammig :* Ph.ハンミッヒ / Philipp Hammig :* シェリダン / D.Sheridan (現在はアメリカ) :* フォークト / Horst Voigt :* ブラウン / Braun :* マンケ / Mancke (頭部管のみ) :* メナート / F.Mehnert :* ラファン / J.R.Lafin (頭部管のみ) :* ロバーツ / Roberts ; 台湾 :* アルパイン / Alpine :* オリエント / ORIENT :* グロリア / Gloria :* ゴウ・ブラザース / Guo Brothers :* A.D.ジェフリー :* ジュピター / [http://jupitermusic.com/international/ Jupiter Flute] :* スプレンダー :* ソング/ Song(頭部管のみ)/[https://m.songflute.com/ song] :* ソナーレ / Sonare (アメリカ・台湾) :* ディメディチ / Dimedici :* マックストーン / Maxtone (台湾) :* マルカート / The Marcato Flute ; 中国 :* ケルントナー / Kaerntner :* サバレイ / SAVALEY :* スタッフォード・ウィンド / Stafford Wind :* セレクション / Selection :* J.マイケル / J.Michael ; 歴史的メーカー(ベーム式のメーカーを記載) :* イギリス :** トーマス・プラウゼ / Thomas Prowse :** ルーダル・カルテ/ Rudall Carte :* フランス :** クエノン(ケノン) / Couesnon.S.A :** クランポン / Crampon :** ゴッドフロワ / Godfroy :** ベルショー / Bercioux :** ボンヴィル(ボンヌヴィル) / Bonneville :** リーヴ / Rive :** ルイ・ロット(ルイ・ロー) / Louis Lot :** ルブレ/ Leblet :* ドイツ :** リッタースハウゼン / Rittershausen == 補遺 == ; アルト・フルート使用曲 :* [[モーリス・ラヴェル]]:[[バレエ音楽]]『[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]]』 :* [[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]:[[バレエ音楽]]『[[春の祭典]]』 :* [[グスターヴ・ホルスト]]:組曲『[[惑星 (組曲)|惑星]]』より「土星」「海王星」(スコアにはバス・フルートと記載されているがアルト・フルートを指している) :* [[ピエール・ブーレーズ]]:『[[ル・マルトー・サン・メートル|ル・マルトー・サン・メートル(主なき槌)]]』 :* [[武満徹]]:[[室内楽曲]]『[[海へ (武満徹)|海へ]]』1 - 3 :* [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]:[[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番]] :* [[伊福部昭]]:[[映画音楽]]『[[フランケンシュタイン対地底怪獣]]』のフランケンシュタインのテーマ(作曲者談によれば、バス・フルート<ref group="注">当時日本に1本しか無かったというのが本当なら、バス・フルートの可能性が高い。</ref>) :* [[尹伊桑]]:『サロモ』 :* ピエール=イヴ・アルトー:『チトラ』- 録音を伴うアルト・フルート独奏のための :* [[湯浅譲二]]:舞働Ⅱ ; バス・フルート使用曲 :* [[ルイジ・ノーノ]]:『澄んだ息 - 断片』 :* [[ミカエル・レヴィナス]]:『アルシスとテシス』 :* [[松平頼暁]]:『ガゼローニのための韻』 :* [[湯浅譲二]]:『タームズ・オブ・テンポラル・ディテーリング』 :* [[平義久]]:『マヤ』 ; フルート・ダモーレ使用曲 :* [[ヨハン・メルヒオール・モルター]]:フルート・ダモーレ協奏曲変ロ長調 MWV 6.14 (ms 307) ; [[アイリッシュ・フルート]] : [[アイルランド]]の[[民族音楽]](いわゆる[[ケルト音楽]])で用いられるフルート。といっても[[民族楽器]]といえるほど歴史あるものではなく、ベーム式フルートが普及する以前に用いられていたフルートの生き残りである。木製でD管、6孔でキーなしかシンプルなキーのものが多く、あまり多くの半音を奏でるのは困難であるが、クラシカル・フルートのような多キーのものも作られている。 ; キングマシステム : 微分音を用いた音楽を演奏することに特化した特殊なシステム。オランダの楽器製作者であるE・キングマによって開発され、キーの上に更に小型のキーをとりつけた「キー・オン・キーシステム」の採用と、リングキーのリング部分の内径を見直すことにより、通常のフルートと演奏方法をまったく変えることなく正確な微分音程を容易に演奏することを可能としている。 ; ビービーフルート : 正式名称は「Bee-modeフルート」。フルートの管体に開けた横穴に薄い特殊フィルムを貼って共振させ独特の音を出す楽器。中国の民族楽器の横笛の構造にインスピレーションを得たもので、通常のフルートの音質よりも倍音を多く含んだ特異な音色になる。 ; MIDIフルート : キーシステムに[[MIDI]]機構を取り付けた楽器。発音原理は通常のフルートと同じであり特に電子的な発音機構によるものではないが、MIDIの出力機構を備えており、奏者の演奏情報をリアルタイムに別のMIDI機器やコンピュータに伝えることができる。同一の指使いで複数のオクターヴの可能性のある音や演奏上の強弱(ヴェロシティ)の検知のためのセンサーも備わっている。 ; 尺ルート : 太平尺八工房が開発した尺八型の頭部管。通常のフルートの胴体に付け替える。尺八特有のむら息などの奏法をフルートの運指法を使い演奏できる。昭和初期に考案された[[オークラウロ]]と同様の発想に基づくものである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2021年10月|section=1}} * 『図解 世界楽器大事典【第六版】』黒沢隆朝:編 (雄山閣、2019年)ISBN 9784639026563 * 下中直也(編) 『音楽大事典』 全6巻、([[平凡社]]、1981年) *『Ontomo mook 楽器博士佐伯茂樹がガイドするオーケストラ楽器の仕組みとルーツ』[[佐伯茂樹]]:著「音楽の友」編([[音楽之友社]] 2018.3) *『木管楽器演奏の新理論 : 奏法の歴史に学び、表現力を上げる』佐伯茂樹:著、演奏法指導: [[有田正広]]([[ヤマハミュージックメディア]] 2011.10) * [[ジョン・W・コルトマン]][https://ccrma.stanford.edu/marl/Coltman/documents/Coltman-1.06.pdf 「Effect of Material on Flute Tone Quality」] == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/flute/ フルート](YAMAHA楽器解体全書) * [https://japan-flutists.org 一般社団法人 日本フルート協会] {{オーケストラの楽器}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふるうと}} [[Category:横笛]] [[Category:フルート|*]]
2003-07-23T05:15:22Z
2023-11-21T22:13:06Z
false
false
false
[ "Template:Notelist2", "Template:Citation", "Template:参照方法", "Template:Normdaten", "Template:Infobox 楽器", "Template:Cite web", "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:オーケストラの楽器", "Template:Reflist", "Template:Left", "Template:脚注ヘルプ", "Template:ISBN2", "Template:Lang-fr" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88
12,082
分岐器
分岐器(ぶんきき、ぶんぎき、英: railroad switch, turnout)とは、鉄道の線路において線路を分岐させ、列車又は車両の進路を選択する機構。アメリカ英語での正式名称は、ターンアウトスイッチ。アメリカでは、分岐器のうち、進路を転換する部分のことをポイント(point)という。 分岐器は一般的に1線の線路を2線(またはそれ以上)に分岐させるものであり、下記の4つの部位から成る。1線側を前端、2線側を後端と称する。 専門的には、たとえば「弾性分岐器」といえば弾性ポイントを使用した分岐器全体を指し、「弾性ポイント」といえば上記4部位のうちの「ポイント部」だけを指す。 分岐器は通常、図に示したような構造になっている。黒線はストックレール(基本レール)、茶色の線はトングレール(先端軌条)、赤線はリードレール、紫の線はウィングレール、青線はガードレール(護輪軌条:ごりんきじょう)、オレンジ色の線は主レール、緑線は全体でクロッシング(米語:フログ)と呼ばれ、クロッシングを構成するもっとも先端の頭部が尖ったレールをノーズレール(鼻端レール)と呼ぶ。進路変更をするときは、トングレールを分岐側と反対側のストックレールに移動する。なお、弾性分岐器では、トングレールとリードレールとウィングレールが一体化されている。 分岐器は、通常はある一定の方向(本線)に列車を進入させるようになっている。これを定位という。また、通常とは異なる方向(副本線)に列車が進入するようになっていることを反位という。また列車が分岐器の分岐する方向に向かうことを対向といい、列車が分岐器の合流する方向に向かうことを背向という。 ノーズ付近に見られるすき間は車輪のフランジがスムーズに通過できるように設けられたもので、フランジウェイと呼ぶ。磨耗防止 とこのすき間による他線への誤進入を防ぐため高速通過する車両は減速を強いられる。このため、高速運転の多い線区には下記のノーズ可動式分岐器が多く用いられる。 上記のフランジウェイによる問題点を解決するため、ノーズまたはウィングレールを可動式にしてウィングレール(ノーズ)に密着させる事でフランジウェイを塞いで、高速通過を確実にしているものであり、主に新幹線などの高速鉄道で多用されている。その場合、ノーズ(ウィングレール)はトングレールと連動するようになっている。 右に可動式ノーズ(ノーズ可動クロッシング)の概略図を示す。このうち水色のレールが緑色のレールを軸にして動くことによって、フランジウェイを塞いでいる(図では直進の場合のフログの状態)。異線進入のリスクが小さくなることからクロッシング部のガードレールが省略されることがある。従来、可動式ノーズは、新幹線たけではなく在来線や私鉄線においても北越急行ほくほく線や京成成田スカイアクセスなどのように高速通過の多い分岐器を中心に設置されていたが、騒音低減の目的で高速通過を行わない一般的な分岐器においてもノーズ可動式分岐器を採用する事例が増えている。新幹線などの高速鉄道において、高速で通過する箇所では、さらにトングレールとリードレールを一体化してたわませる構造としているが、基本レールとトングレールとの間が密着(接着とも言う)せず隙間があると、高速走行に支障を与えるため、その2本のレールが密着しているかどうかを監視する接着照査器 を基本レールの外側に2台ずつ設置しており、分岐器の開通方向を表示する開通方向表示器をクロッシング部手前(対向方向)のレールの間に設置しており、開通側には黒地に緑色縦線2本の表示が現れて、非開通側には白地に赤色の×印が現れるようになっている。 分岐器において基準線から分岐線が分かれる角度については、角度を直接規定する方式と、両線の開きとそれに要する長さの比率に基づいて規定する方式の2種類に大別される。世界的に広く採用されているのは後者の方式で、日本ではこの比率を示す数値について「番数」と称している。分岐器の番数の定義や呼称・表記方法は、国によって次の通り差異がある。 分岐器の番数は、基準線から分岐線が分かれる角度の大小を示すもので、片開き、両開きなどといった分岐器の形状とは無関係に、分岐器に用いられているクロッシング(フログ)の番数を分岐器全体の番数として呼称する。クロッシング番数は中心線法を採用し、クロッシング部で接する両軌条の軌間線が成す二等辺三角形の高さ(略図 b {\displaystyle b} )と底辺(略図 a {\displaystyle a} )の比をもって示す。 分岐器類の名称の前に、分岐器で用いているクロッシングの番数を付加し、「8番片開き分岐器」「10番シザーズクロッシング」のように呼称する。クロッシング番数に応じて、クロッシング後方における両方の軌間線 の接線がなす角度「クロッシング角」が定められている。曲線分岐器の場合は両方の軌間線の交角(クロッシング交点において引いた2本の接線がなす角度)をもってクロッシング角とする。 なお、曲線ダイヤモンドクロッシングでは、両方の軌道中心線が交差する角度をクロッシング角と読み換え、それに相応するクロッシング番数を呼称する。シザーズクロッシングでは、使用する分岐器に用いられているクロッシングの番数を呼称する。 かつて「轍叉番号(てっさばんごう)」とも呼ばれた。JIS E 1301で、クロッシング番数およびその角度は次のように規定されている。 ドイツにおいて、クロッシング番数 (Herzstückverhältnis) は分子を1とした単位分数を比を用いて示す(8番=1:8)。番数はヨーロッパ標準の直角法を用いている。ドイツ連邦鉄道 (DB) および現在のドイツ鉄道 (DBAG) では、番数を含め次の形式で分岐器類を分類呼称している。 例:EW 60-500-1:12 L Fz H 現在のドイツ鉄道で主に使われている分岐器の例である(分岐器呼称のxxはレール種類に応じた任意の数字が入る)。 またICEが運行するマンハイム-シュトゥットガルト高速線およびハノーファー-ヴュルツブルク高速線用に開発された高速分岐器 (Schnellfahrweichen) には次のようなものがある。分岐器呼称末尾の「-fb」は弾性可動ノーズ付きを示す。複心曲線使用の分岐器は分岐線側を異なる半径の曲線を組み合わせたものにしており、EW 60-7000/6000-1:42の場合、トングレール部は半径7000m、分岐器中央部より後方は半径6000mとなっている。 ドイツ鉄道が開発し1998年に使用を開始したクロソイド分岐器 (Klothoidenweichen) には次のようなものがある。分岐線側の曲線を緩和曲線の一種であるクロソイド曲線として衝動及びレール損耗の低減を図ったもので、EW 60-10000/4000-1:39の場合、トングレール先端を半径10000mとし、分岐器中央部にかけて半径4000mまで曲率が逓増したのち、分岐器後方にかけて再び半径10000mまで曲率が逓減する。この特徴のため、クロッシング部の番数だけでは従来の分岐器と規模を単純に比較できない。 このうち、分岐線側でも220km/hでの通過を可能とした40.15番クロソイド分岐器EW 60-16000/6100-1:40,15-fbはベルリン-ハレ線ビターフェルト駅構内においてハレ方面とライプツィヒ方面の分岐用に2基使用されており、番数は42番高速分岐器EW 60-7000/6000-1:42-fbより小さいものの、分岐器1基の長さは169.2mに達し、ドイツ国内最大の分岐器である。 1918年にオーストリア帝国鉄道 (kkStB) とハンガリー国家鉄道 (MÁV) を承継したチェコスロバキア時代のチェコスロバキア国鉄 (ČSD) では、1970年代まで、角の長さと開きの比率による番数ではなく、分岐角を直接定める「段階式分岐器」(チェコ語:Soustava stupňových výhybek, スロバキア語:Sústava stupňových výhybiek)を採用していた。概要は次の通りである。 チェコスロバキア国鉄は1970年代、新規格のS49レールおよびR65レールの採用にあたって交差角または分岐角の番数を用いた「比率式分岐器」(チェコ語:Soustava poměrových výhybek, スロバキア語:Sústava pomerových výhybiek)を導入して新設計の分岐器を設定した。現在もチェコ(鉄道施設管理公団)、スロバキア(スロバキア国鉄)両国では、比率式分岐器とそれ以前の段階式分岐器が混在している。 比率式分岐器における番数はヨーロッパ標準の直角法を用いている。単純分岐器の場合、分岐半径300m(許容通過速度50km/h)または分岐半径190m(同40km/h)の1:9(9番)分岐器を標準に、1:12(12番)分岐器、1:14(14番)分岐器を設定。また高速分岐器として許容通過速度100km/hの1:18,5(18.5番)分岐器を設けた。また駅構内用として1:7,5(7.5番)分岐器、側線用として1:6(6番)および1:6,5(6.5番)分岐器を設定した。 現行の比率式分岐器の規格は次の通りである。分岐線曲線半径と許容通過速度については、通過時の横方向加速度が0.65 m/s2を超えないよう定められている。 トングレール(分岐器の分岐部分のレール)の後端部継ぎ目部分に遊間(隙間)を設け、ポイント転換の際にトングレール後端部が滑り移動しながら動作するポイントのこと。大正14年型分岐器や側線用分岐器などに使用される。 トングレール(分岐器の分岐部分のレール)の後端部継ぎ目部分に遊間(隙間)を設け、ポイント転換の際にトングレール後端部を中心にして回転するように動作するポイントのこと。50Nレール使用の本線用分岐器など、全国的に最も多く使用されてきたが、トングレール後端部継ぎ目部分での衝撃・損傷が大きいので、主要幹線では次項の弾性ポイントに更換されつつある。 トングレールとリードレールを一体化してトングレールの後端部継ぎ目をなくしたポイントのこと。トングレール後端部レール底面に切り欠きが設けてあり、トングレール全体をたわませて転換する。弾性ポイントを使用した分岐器のことを弾性分岐器と称する。分岐器通過時の振動や騒音が押さえられ、通過速度を向上できる特徴がある(直線側はポイントに由来する速度制限が事実上ない)。 新幹線や高速列車の多い路線で多く使用されるが、一般的に他の分岐器より高価となる。在来線では、JR四国予讃線の本山駅に最初に設置され、160 km/hで通過した実績がある。 安全側線に設置される分岐器。乗越トングレールと乗越クロッシングの両方またはどちらか一方が用いられている。信号冒進時に車両を本線から脱線させるため、信号と連動している転轍機で転換する。脱線させる側が定位となっており、脱線後に分岐側から戻る事は考えられていない。 在来線での分岐器の分岐側は、分岐側の曲線半径であるリード半径、分岐器の強度、乗り心地、分岐器の保守などを総合して、安全比率を一般曲線より小さい5.5として、速度制限が決められる。 在来線での分岐器の直線側は、分岐器のクロッシングの強度、トングレールの開口、クロッシング部分のガイドレールおよびウイングレール(翼レール)の背面横圧の限度、保守量の増加などの理由により速度制限があり、高速列車においては直線で最高速度で走行しても分岐器が存在する通過駅では減速を余儀なくされ、「ノコギリ運転」と呼ばれる加速や減速を繰り返していた。これについては改善対策が行われており、枕木の強化、分岐器のレールに使用されるヒールボルトの強化、分岐器の下部に設置されている床板の強化、車輪およびレールの保守限度の見直しにより、従来の制限速度である100 km/hから120 km/hに上げられており、通過駅での減速を無くして表定速度の向上が図られている。 凍結や積雪により分岐器が転換不能になる事態が起きる。人による除雪や融雪剤・防氷剤の散布、圧縮空気で吹き飛ばしも行われるが、様々な方式のポイント融雪器が考案された。 豪雪地帯や山間部の信号場ではポイントの周囲の軌道ごとスノーシェルターで覆う場合がある。 分岐器を操作する装置を転轍器(てんてつき)と呼ぶ。 電気指令によって本体内部にある制御リレーと回路制御器が作動し、その後モーターないし空気シリンダーが動作してそれを動力源として切り替える転轍器で、1箇所で集中制御する際に用いられており、進路の状態を表すには信号機が用いられる。構造としてはレールを切り替える転換部と、分岐器を列車が通過している間に転轍器が転換しないように鎖錠する転換鎖錠部とで構成されており、前者はモーターからフリクションクラッチ と減速歯車を介して転換ローラーに繋がり、そこから動作桿とスイッチアジャスターロッドとスイッチアジャスタを介してダイバー(転てつ棒)でトングレールに接続されており、後者は転換部からロックピースと鎖錠桿を介して 接続桿に繋がり、それがトングレールの先端にあるフロントロッドに接続されている。また、手動で転換できるように転轍器本体に手回しハンドル穴があり、手動で完全に転換してその後に鎖錠状態になった時に、手回し完了表示窓に矢印の表示が出るようになっている。また電気転轍器の種類としてはNS形とG形の他、本線以外の側線用にYS形がある。素早い切り替えが要求される操車場等では圧縮空気を用いる電空転轍器が、それ以外の場所ではモーター式電気転轍器が使用されている。 積雪や凍結によってトングレールの固着やトングレールによる氷雪塊の挟み込みを防ぐため、冬季はポイント部に下や側面から火を当てる融雪器(融雪カンテラ)、電熱器を使い凍結や着氷を防ぐことが積雪のほとんど無い地域において行われる。また積雪地では代わりに温水・熱風を用いた融雪装置を設置する。北海道や東北地方のほとんどの駅・信号場では転轍器部分にカバーをかぶせたり、防雪シェルターで覆ったりしている。北海道新幹線においては融かした雪がほどなくして再度凍ることから空気ジェットによりトングレールに挟まった氷雪を吹き飛ばし、氷雪塊の挟み込みを防いでいる。 現場で手動で切り替える転轍器であり、その動作方法によって3種類がある。主要な手動転轍器には転轍器標識が設置される。進路の状態を表すのに標識またはランプを用いるものもある。 以下のものは厳密には1線の線路をそれ以上に分岐させず、分岐器ではないが、分岐器の一種として扱われることが多い。 世界的に規格がまちまちであるため複数の方式が使用されている。 日本におけるAGTは、1983年に当時の建設省・運輸省の指導による統一規格「標準型新交通システム」が策定され、案内方式は「側方案内方式」が標準となっている。 このシステムでは水平可動案内板方式による分岐が使用されている。車両側には、各車両下部にある台車から案内バーが左右両側に伸びており、その先の上部にはガイドウェイの案内軌条を走行して転動方向を規制させる案内輪、下部には分岐で進行方向を変えるために使用する分岐案内輪が取付けられている。案内輪は、走行軌道(ガイドウェイ)に沿って両側に設置された、HまたはI形鋼による案内軌条に車両の両側にある案内輪が走行することで、走行中の車両の転動方向を規制して案内する装置であるが、車両が分岐場所を通過する際には案内軌条の一側を離さなくてはならない。地上側の分岐場所には、2つの可動案内板と固定案内板がガイドウェイの両側の案内軌条の下に設置されており、可動案内板が電気転轍器で可動することによって分岐器の役割を果たす。車両は可動案内板に車両側の左右どちらかの分岐案内輪が入り込み、その後、固定案内板を通過することによって車両の進行方向が選択できる。すなわち両側拘束の案内軌条を離れ、一時的に片側のみを拘束することによって分岐するのである。 川崎重工業と開発した独自の規格(S.S.TRAM、札幌方式とも)であり、南北線と東西・東豊線で規格が異なるが、いずれも中央案内軌条方式を採用している。 このため、向きの違う案内軌条2本を浮沈させて進路を決定する「上下式」を中心に、基地内などでは、トラバーサー上に複数の進路の軌条を設定し、トラバーサーを動かして進路を決定する「トラバーサ式」を採用している。 モノレールやHSSTも鉄道に分類され、その線路には分岐がある。 跨座式の場合は、上記までの2本のレールやガイドウェイを使うものに比べると、モノレールの軌道は1本で車両重量全体を支えるために幅が広く重量が大きく、また、その構造上、鉄軌道のそれのように轍を乗せ換える方式ではなく、軌道を繋ぎ変える方式となる。主な方式としては関節式と関節可撓(かとう)式 がある。前者は、1つの分岐器を使用して軌道を転轍させる支点よりそのまま曲げる方式で、乗り心地は悪くなってしまう。そのため、本線では使用されず、乗り心地を追及する必要のない、車両基地内や、側線への分岐点で使用される。後者はいくつかの短い桁を組み合わせ軌道を転轍する方式で、それぞれの桁は関節で接続されているため、車体の振動が関節式と比較して極力少なくすることができる。また、構造上分岐の形式は通常単純な複数方向への分岐かシングルクロスが多いが、東京モノレール羽田空港第2ターミナル駅のように、ダブルクロッシングを設ける例もある。 常電導リニアの一つである、HSSTでは軌道の設置方式にダブルビーム型とシングルビーム型があるが、現在実用化されているシングルビーム型では、構造上モジュール(台車に相当)が軌道を抱え込む方式となっているため、跨座式モノレールと同様の関節式・もしくは関節可撓式の分岐器が採用されている。 懸垂式の場合は、鉄軌道のトングレールとリードレールに相当するT形断面の可動レール が転轍させる支点を中心に可動して軌道を転轍する方式を採用している。 軌道を曲げるのではなく、定位と反位の軌道を置き換えることで繋ぎ変える方式である。 アメリカ・ニューアーク空港のエアトレインでは反転する軌道台の上下にそれぞれ定位と反位の軌道を設け、回転させることで軌道を切り替える分岐器を採用している。 アメリカのウォルト・ディズニー・ワールド・モノレール・システムでは、扇形の軌道台に定位と反位の軌道を設け、旋回させることで軌道を切り替える分岐器を採用している。扇形の分岐器はALWEG社が1952年に建設したケルン実験線、日本ロッキード・モノレールが1962年に建設した岐阜試験線、1966年開業の姫路市交通局モノレール線の手柄山駅などにも存在した。 案内車輪を誘導するレールを用いる方式の場合、分岐器が必要となる。仏:トランスロール社のトランスロールにおいては、それぞれ分岐器中央部後端よりに支点を持つ2本1組の案内軌条がずれて進路を構成する方式や、跨座式モノレールのようにポイント先端部に支点を持つ一本のレールを繋ぎかえる方式が用いられている。また、クロッシング部ではターンテーブル状の線路を用いて進路を構成する必要がある。 ボンバルディア・トランスポーテ―ションのTVR方式においても同様な分岐器が用いられているが進路でない軌道が一部カバーに隠れる構造となっており、支持方式の構造上クロッシングにターンテーブルは用いられない。 ケーブルカーでは、丁度中間地点で行き違いをすることになるため、その前後に二又を設け、進行方向によって互いに別の側に入るように配線する。左右の車輪の片側は両フランジ車輪、もう片側はフランジなしの厚みのある車輪という特殊な構造を使用することで、分岐器に可動部をなくしたものがよく使われる。 超電導リニア(JRマグレブ)の山梨実験線では、各種方式の試験の結果、モノレールの関節可撓式に類似した「トラバーサ方式」を採用している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "分岐器(ぶんきき、ぶんぎき、英: railroad switch, turnout)とは、鉄道の線路において線路を分岐させ、列車又は車両の進路を選択する機構。アメリカ英語での正式名称は、ターンアウトスイッチ。アメリカでは、分岐器のうち、進路を転換する部分のことをポイント(point)という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "分岐器は一般的に1線の線路を2線(またはそれ以上)に分岐させるものであり、下記の4つの部位から成る。1線側を前端、2線側を後端と称する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "専門的には、たとえば「弾性分岐器」といえば弾性ポイントを使用した分岐器全体を指し、「弾性ポイント」といえば上記4部位のうちの「ポイント部」だけを指す。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "分岐器は通常、図に示したような構造になっている。黒線はストックレール(基本レール)、茶色の線はトングレール(先端軌条)、赤線はリードレール、紫の線はウィングレール、青線はガードレール(護輪軌条:ごりんきじょう)、オレンジ色の線は主レール、緑線は全体でクロッシング(米語:フログ)と呼ばれ、クロッシングを構成するもっとも先端の頭部が尖ったレールをノーズレール(鼻端レール)と呼ぶ。進路変更をするときは、トングレールを分岐側と反対側のストックレールに移動する。なお、弾性分岐器では、トングレールとリードレールとウィングレールが一体化されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "分岐器は、通常はある一定の方向(本線)に列車を進入させるようになっている。これを定位という。また、通常とは異なる方向(副本線)に列車が進入するようになっていることを反位という。また列車が分岐器の分岐する方向に向かうことを対向といい、列車が分岐器の合流する方向に向かうことを背向という。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ノーズ付近に見られるすき間は車輪のフランジがスムーズに通過できるように設けられたもので、フランジウェイと呼ぶ。磨耗防止 とこのすき間による他線への誤進入を防ぐため高速通過する車両は減速を強いられる。このため、高速運転の多い線区には下記のノーズ可動式分岐器が多く用いられる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "上記のフランジウェイによる問題点を解決するため、ノーズまたはウィングレールを可動式にしてウィングレール(ノーズ)に密着させる事でフランジウェイを塞いで、高速通過を確実にしているものであり、主に新幹線などの高速鉄道で多用されている。その場合、ノーズ(ウィングレール)はトングレールと連動するようになっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "右に可動式ノーズ(ノーズ可動クロッシング)の概略図を示す。このうち水色のレールが緑色のレールを軸にして動くことによって、フランジウェイを塞いでいる(図では直進の場合のフログの状態)。異線進入のリスクが小さくなることからクロッシング部のガードレールが省略されることがある。従来、可動式ノーズは、新幹線たけではなく在来線や私鉄線においても北越急行ほくほく線や京成成田スカイアクセスなどのように高速通過の多い分岐器を中心に設置されていたが、騒音低減の目的で高速通過を行わない一般的な分岐器においてもノーズ可動式分岐器を採用する事例が増えている。新幹線などの高速鉄道において、高速で通過する箇所では、さらにトングレールとリードレールを一体化してたわませる構造としているが、基本レールとトングレールとの間が密着(接着とも言う)せず隙間があると、高速走行に支障を与えるため、その2本のレールが密着しているかどうかを監視する接着照査器 を基本レールの外側に2台ずつ設置しており、分岐器の開通方向を表示する開通方向表示器をクロッシング部手前(対向方向)のレールの間に設置しており、開通側には黒地に緑色縦線2本の表示が現れて、非開通側には白地に赤色の×印が現れるようになっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "分岐器において基準線から分岐線が分かれる角度については、角度を直接規定する方式と、両線の開きとそれに要する長さの比率に基づいて規定する方式の2種類に大別される。世界的に広く採用されているのは後者の方式で、日本ではこの比率を示す数値について「番数」と称している。分岐器の番数の定義や呼称・表記方法は、国によって次の通り差異がある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "分岐器の番数は、基準線から分岐線が分かれる角度の大小を示すもので、片開き、両開きなどといった分岐器の形状とは無関係に、分岐器に用いられているクロッシング(フログ)の番数を分岐器全体の番数として呼称する。クロッシング番数は中心線法を採用し、クロッシング部で接する両軌条の軌間線が成す二等辺三角形の高さ(略図 b {\\displaystyle b} )と底辺(略図 a {\\displaystyle a} )の比をもって示す。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "分岐器類の名称の前に、分岐器で用いているクロッシングの番数を付加し、「8番片開き分岐器」「10番シザーズクロッシング」のように呼称する。クロッシング番数に応じて、クロッシング後方における両方の軌間線 の接線がなす角度「クロッシング角」が定められている。曲線分岐器の場合は両方の軌間線の交角(クロッシング交点において引いた2本の接線がなす角度)をもってクロッシング角とする。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、曲線ダイヤモンドクロッシングでは、両方の軌道中心線が交差する角度をクロッシング角と読み換え、それに相応するクロッシング番数を呼称する。シザーズクロッシングでは、使用する分岐器に用いられているクロッシングの番数を呼称する。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "かつて「轍叉番号(てっさばんごう)」とも呼ばれた。JIS E 1301で、クロッシング番数およびその角度は次のように規定されている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ドイツにおいて、クロッシング番数 (Herzstückverhältnis) は分子を1とした単位分数を比を用いて示す(8番=1:8)。番数はヨーロッパ標準の直角法を用いている。ドイツ連邦鉄道 (DB) および現在のドイツ鉄道 (DBAG) では、番数を含め次の形式で分岐器類を分類呼称している。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "例:EW 60-500-1:12 L Fz H", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現在のドイツ鉄道で主に使われている分岐器の例である(分岐器呼称のxxはレール種類に応じた任意の数字が入る)。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "またICEが運行するマンハイム-シュトゥットガルト高速線およびハノーファー-ヴュルツブルク高速線用に開発された高速分岐器 (Schnellfahrweichen) には次のようなものがある。分岐器呼称末尾の「-fb」は弾性可動ノーズ付きを示す。複心曲線使用の分岐器は分岐線側を異なる半径の曲線を組み合わせたものにしており、EW 60-7000/6000-1:42の場合、トングレール部は半径7000m、分岐器中央部より後方は半径6000mとなっている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ドイツ鉄道が開発し1998年に使用を開始したクロソイド分岐器 (Klothoidenweichen) には次のようなものがある。分岐線側の曲線を緩和曲線の一種であるクロソイド曲線として衝動及びレール損耗の低減を図ったもので、EW 60-10000/4000-1:39の場合、トングレール先端を半径10000mとし、分岐器中央部にかけて半径4000mまで曲率が逓増したのち、分岐器後方にかけて再び半径10000mまで曲率が逓減する。この特徴のため、クロッシング部の番数だけでは従来の分岐器と規模を単純に比較できない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このうち、分岐線側でも220km/hでの通過を可能とした40.15番クロソイド分岐器EW 60-16000/6100-1:40,15-fbはベルリン-ハレ線ビターフェルト駅構内においてハレ方面とライプツィヒ方面の分岐用に2基使用されており、番数は42番高速分岐器EW 60-7000/6000-1:42-fbより小さいものの、分岐器1基の長さは169.2mに達し、ドイツ国内最大の分岐器である。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1918年にオーストリア帝国鉄道 (kkStB) とハンガリー国家鉄道 (MÁV) を承継したチェコスロバキア時代のチェコスロバキア国鉄 (ČSD) では、1970年代まで、角の長さと開きの比率による番数ではなく、分岐角を直接定める「段階式分岐器」(チェコ語:Soustava stupňových výhybek, スロバキア語:Sústava stupňových výhybiek)を採用していた。概要は次の通りである。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "チェコスロバキア国鉄は1970年代、新規格のS49レールおよびR65レールの採用にあたって交差角または分岐角の番数を用いた「比率式分岐器」(チェコ語:Soustava poměrových výhybek, スロバキア語:Sústava pomerových výhybiek)を導入して新設計の分岐器を設定した。現在もチェコ(鉄道施設管理公団)、スロバキア(スロバキア国鉄)両国では、比率式分岐器とそれ以前の段階式分岐器が混在している。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "比率式分岐器における番数はヨーロッパ標準の直角法を用いている。単純分岐器の場合、分岐半径300m(許容通過速度50km/h)または分岐半径190m(同40km/h)の1:9(9番)分岐器を標準に、1:12(12番)分岐器、1:14(14番)分岐器を設定。また高速分岐器として許容通過速度100km/hの1:18,5(18.5番)分岐器を設けた。また駅構内用として1:7,5(7.5番)分岐器、側線用として1:6(6番)および1:6,5(6.5番)分岐器を設定した。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現行の比率式分岐器の規格は次の通りである。分岐線曲線半径と許容通過速度については、通過時の横方向加速度が0.65 m/s2を超えないよう定められている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "トングレール(分岐器の分岐部分のレール)の後端部継ぎ目部分に遊間(隙間)を設け、ポイント転換の際にトングレール後端部が滑り移動しながら動作するポイントのこと。大正14年型分岐器や側線用分岐器などに使用される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "トングレール(分岐器の分岐部分のレール)の後端部継ぎ目部分に遊間(隙間)を設け、ポイント転換の際にトングレール後端部を中心にして回転するように動作するポイントのこと。50Nレール使用の本線用分岐器など、全国的に最も多く使用されてきたが、トングレール後端部継ぎ目部分での衝撃・損傷が大きいので、主要幹線では次項の弾性ポイントに更換されつつある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "トングレールとリードレールを一体化してトングレールの後端部継ぎ目をなくしたポイントのこと。トングレール後端部レール底面に切り欠きが設けてあり、トングレール全体をたわませて転換する。弾性ポイントを使用した分岐器のことを弾性分岐器と称する。分岐器通過時の振動や騒音が押さえられ、通過速度を向上できる特徴がある(直線側はポイントに由来する速度制限が事実上ない)。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "新幹線や高速列車の多い路線で多く使用されるが、一般的に他の分岐器より高価となる。在来線では、JR四国予讃線の本山駅に最初に設置され、160 km/hで通過した実績がある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "安全側線に設置される分岐器。乗越トングレールと乗越クロッシングの両方またはどちらか一方が用いられている。信号冒進時に車両を本線から脱線させるため、信号と連動している転轍機で転換する。脱線させる側が定位となっており、脱線後に分岐側から戻る事は考えられていない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "在来線での分岐器の分岐側は、分岐側の曲線半径であるリード半径、分岐器の強度、乗り心地、分岐器の保守などを総合して、安全比率を一般曲線より小さい5.5として、速度制限が決められる。", "title": "分岐器での速度制限" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "在来線での分岐器の直線側は、分岐器のクロッシングの強度、トングレールの開口、クロッシング部分のガイドレールおよびウイングレール(翼レール)の背面横圧の限度、保守量の増加などの理由により速度制限があり、高速列車においては直線で最高速度で走行しても分岐器が存在する通過駅では減速を余儀なくされ、「ノコギリ運転」と呼ばれる加速や減速を繰り返していた。これについては改善対策が行われており、枕木の強化、分岐器のレールに使用されるヒールボルトの強化、分岐器の下部に設置されている床板の強化、車輪およびレールの保守限度の見直しにより、従来の制限速度である100 km/hから120 km/hに上げられており、通過駅での減速を無くして表定速度の向上が図られている。", "title": "分岐器での速度制限" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "凍結や積雪により分岐器が転換不能になる事態が起きる。人による除雪や融雪剤・防氷剤の散布、圧縮空気で吹き飛ばしも行われるが、様々な方式のポイント融雪器が考案された。", "title": "ポイント融雪器" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "豪雪地帯や山間部の信号場ではポイントの周囲の軌道ごとスノーシェルターで覆う場合がある。", "title": "ポイント融雪器" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "分岐器を操作する装置を転轍器(てんてつき)と呼ぶ。", "title": "転轍器" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "電気指令によって本体内部にある制御リレーと回路制御器が作動し、その後モーターないし空気シリンダーが動作してそれを動力源として切り替える転轍器で、1箇所で集中制御する際に用いられており、進路の状態を表すには信号機が用いられる。構造としてはレールを切り替える転換部と、分岐器を列車が通過している間に転轍器が転換しないように鎖錠する転換鎖錠部とで構成されており、前者はモーターからフリクションクラッチ と減速歯車を介して転換ローラーに繋がり、そこから動作桿とスイッチアジャスターロッドとスイッチアジャスタを介してダイバー(転てつ棒)でトングレールに接続されており、後者は転換部からロックピースと鎖錠桿を介して 接続桿に繋がり、それがトングレールの先端にあるフロントロッドに接続されている。また、手動で転換できるように転轍器本体に手回しハンドル穴があり、手動で完全に転換してその後に鎖錠状態になった時に、手回し完了表示窓に矢印の表示が出るようになっている。また電気転轍器の種類としてはNS形とG形の他、本線以外の側線用にYS形がある。素早い切り替えが要求される操車場等では圧縮空気を用いる電空転轍器が、それ以外の場所ではモーター式電気転轍器が使用されている。", "title": "転轍器" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "積雪や凍結によってトングレールの固着やトングレールによる氷雪塊の挟み込みを防ぐため、冬季はポイント部に下や側面から火を当てる融雪器(融雪カンテラ)、電熱器を使い凍結や着氷を防ぐことが積雪のほとんど無い地域において行われる。また積雪地では代わりに温水・熱風を用いた融雪装置を設置する。北海道や東北地方のほとんどの駅・信号場では転轍器部分にカバーをかぶせたり、防雪シェルターで覆ったりしている。北海道新幹線においては融かした雪がほどなくして再度凍ることから空気ジェットによりトングレールに挟まった氷雪を吹き飛ばし、氷雪塊の挟み込みを防いでいる。", "title": "転轍器" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "現場で手動で切り替える転轍器であり、その動作方法によって3種類がある。主要な手動転轍器には転轍器標識が設置される。進路の状態を表すのに標識またはランプを用いるものもある。", "title": "転轍器" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "以下のものは厳密には1線の線路をそれ以上に分岐させず、分岐器ではないが、分岐器の一種として扱われることが多い。", "title": "分岐器の一種とされるもの" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "世界的に規格がまちまちであるため複数の方式が使用されている。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本におけるAGTは、1983年に当時の建設省・運輸省の指導による統一規格「標準型新交通システム」が策定され、案内方式は「側方案内方式」が標準となっている。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このシステムでは水平可動案内板方式による分岐が使用されている。車両側には、各車両下部にある台車から案内バーが左右両側に伸びており、その先の上部にはガイドウェイの案内軌条を走行して転動方向を規制させる案内輪、下部には分岐で進行方向を変えるために使用する分岐案内輪が取付けられている。案内輪は、走行軌道(ガイドウェイ)に沿って両側に設置された、HまたはI形鋼による案内軌条に車両の両側にある案内輪が走行することで、走行中の車両の転動方向を規制して案内する装置であるが、車両が分岐場所を通過する際には案内軌条の一側を離さなくてはならない。地上側の分岐場所には、2つの可動案内板と固定案内板がガイドウェイの両側の案内軌条の下に設置されており、可動案内板が電気転轍器で可動することによって分岐器の役割を果たす。車両は可動案内板に車両側の左右どちらかの分岐案内輪が入り込み、その後、固定案内板を通過することによって車両の進行方向が選択できる。すなわち両側拘束の案内軌条を離れ、一時的に片側のみを拘束することによって分岐するのである。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "川崎重工業と開発した独自の規格(S.S.TRAM、札幌方式とも)であり、南北線と東西・東豊線で規格が異なるが、いずれも中央案内軌条方式を採用している。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "このため、向きの違う案内軌条2本を浮沈させて進路を決定する「上下式」を中心に、基地内などでは、トラバーサー上に複数の進路の軌条を設定し、トラバーサーを動かして進路を決定する「トラバーサ式」を採用している。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "モノレールやHSSTも鉄道に分類され、その線路には分岐がある。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "跨座式の場合は、上記までの2本のレールやガイドウェイを使うものに比べると、モノレールの軌道は1本で車両重量全体を支えるために幅が広く重量が大きく、また、その構造上、鉄軌道のそれのように轍を乗せ換える方式ではなく、軌道を繋ぎ変える方式となる。主な方式としては関節式と関節可撓(かとう)式 がある。前者は、1つの分岐器を使用して軌道を転轍させる支点よりそのまま曲げる方式で、乗り心地は悪くなってしまう。そのため、本線では使用されず、乗り心地を追及する必要のない、車両基地内や、側線への分岐点で使用される。後者はいくつかの短い桁を組み合わせ軌道を転轍する方式で、それぞれの桁は関節で接続されているため、車体の振動が関節式と比較して極力少なくすることができる。また、構造上分岐の形式は通常単純な複数方向への分岐かシングルクロスが多いが、東京モノレール羽田空港第2ターミナル駅のように、ダブルクロッシングを設ける例もある。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "常電導リニアの一つである、HSSTでは軌道の設置方式にダブルビーム型とシングルビーム型があるが、現在実用化されているシングルビーム型では、構造上モジュール(台車に相当)が軌道を抱え込む方式となっているため、跨座式モノレールと同様の関節式・もしくは関節可撓式の分岐器が採用されている。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "懸垂式の場合は、鉄軌道のトングレールとリードレールに相当するT形断面の可動レール が転轍させる支点を中心に可動して軌道を転轍する方式を採用している。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "軌道を曲げるのではなく、定位と反位の軌道を置き換えることで繋ぎ変える方式である。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アメリカ・ニューアーク空港のエアトレインでは反転する軌道台の上下にそれぞれ定位と反位の軌道を設け、回転させることで軌道を切り替える分岐器を採用している。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アメリカのウォルト・ディズニー・ワールド・モノレール・システムでは、扇形の軌道台に定位と反位の軌道を設け、旋回させることで軌道を切り替える分岐器を採用している。扇形の分岐器はALWEG社が1952年に建設したケルン実験線、日本ロッキード・モノレールが1962年に建設した岐阜試験線、1966年開業の姫路市交通局モノレール線の手柄山駅などにも存在した。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "案内車輪を誘導するレールを用いる方式の場合、分岐器が必要となる。仏:トランスロール社のトランスロールにおいては、それぞれ分岐器中央部後端よりに支点を持つ2本1組の案内軌条がずれて進路を構成する方式や、跨座式モノレールのようにポイント先端部に支点を持つ一本のレールを繋ぎかえる方式が用いられている。また、クロッシング部ではターンテーブル状の線路を用いて進路を構成する必要がある。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ボンバルディア・トランスポーテ―ションのTVR方式においても同様な分岐器が用いられているが進路でない軌道が一部カバーに隠れる構造となっており、支持方式の構造上クロッシングにターンテーブルは用いられない。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ケーブルカーでは、丁度中間地点で行き違いをすることになるため、その前後に二又を設け、進行方向によって互いに別の側に入るように配線する。左右の車輪の片側は両フランジ車輪、もう片側はフランジなしの厚みのある車輪という特殊な構造を使用することで、分岐器に可動部をなくしたものがよく使われる。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "超電導リニア(JRマグレブ)の山梨実験線では、各種方式の試験の結果、モノレールの関節可撓式に類似した「トラバーサ方式」を採用している。", "title": "非鉄軌道の分岐装置" } ]
分岐器とは、鉄道の線路において線路を分岐させ、列車又は車両の進路を選択する機構。アメリカ英語での正式名称は、ターンアウトスイッチ。アメリカでは、分岐器のうち、進路を転換する部分のことをポイント(point)という。
{{otheruses|鉄道の分岐器|電波工学における分岐器|分配器|力学系における分岐|分岐 (力学系)}} [[ファイル:Double swing turnout, Kai-Iwama.jpg|thumb|240px|分岐器の例<br />([[身延線]][[甲斐岩間駅]])]] '''分岐器'''(ぶんきき<ref>日本国語大辞典(小学館)</ref>、ぶんぎき<ref>日本大百科全書(小学館)</ref>、{{lang-en-short|railroad switch, turnout}})とは、[[線路 (鉄道)|鉄道の線路]]において線路を分岐させ、列車又は[[鉄道車両|車両]]の進路を選択する機構。アメリカ英語での正式名称は、'''ターンアウトスイッチ'''。アメリカでは、分岐器のうち、進路を転換する部分のことを'''ポイント'''(point)という<ref>『信号システムの進歩と発展 = 近年20年の展開と将来展望 =』日本鉄道電気技術協会、2009年、p.53 - p.45。ISBN 978-4-931273-98-6。</ref>。 == 構造 == [[ファイル:Turnout_components.jpg|thumb|300px|片開き分岐器の概略図]] 分岐器は一般的に1線の線路を2線(またはそれ以上)に分岐させるものであり、下記の4つの部位から成る。1線側を前端、2線側を後端と称する。 ; ポイント部 : 概略図中 (1) 。トングレール(列車を分岐させる先の尖ったレールのこと)およびトングレールが密着する基本レール部分を指す。ポイント部には、ポイント後端を支点に先の尖ったレールを動かす先端ポイントとポイント前端を支点に先が尖ってない普通のレールを動かす鈍端ポイントがある。また、トングレールの線形は直線進路用は直線、分岐進路用は円曲線が普通となっている。 ; リード部 : 概略図中 (2) 。トングレールとクロッシング部を結ぶ部分を指す。一般的に、分岐線側はリード部が曲線となる。この曲線半径を'''リード半径'''と呼び、リード半径の大小が分岐器の列車通過制限速度を決定する大きな要因となる。 ; クロッシング部 : 概略図中 (3) 。分岐器でレールが交差している部分を指す。内方分岐と外方分岐以外のクロッシング部は、通常は直線になっているが、曲線半径を大きくするためにクロッシング部を曲線にした曲線クロッシングもある。クロッシング部には、固定クロッシングと可動クロッシングがあり、前者の方は、ノーズ部分を普通のレールを削成して組合わせ、車輪のフランジが通る隙間を設けたものであり<ref>この部分は、ウイングレール(翼レール)、鼻端長レール、鼻端短レールを組合せており、間隔材と填材が取付けられているほか、ストックレールにはガードレールが取付けられている。</ref>、後者の方はノーズ部分を車輪の進行方向に可動できるようにしたものである。 ; ガード部 : クロッシング部の相手方のレール部分に列車が異線進入するのを防ぐために設けてあるガードレール部を指す。 専門的には、たとえば「弾性分岐器」といえば弾性ポイントを使用した分岐器全体を指し、「弾性ポイント」といえば上記4部位のうちの「ポイント部」だけを指す。 [[ファイル:Rail crossing.png|thumb|300px|分岐器の固定クロッシングの構造のモデル図。<br /> A ストックレール(基本レール)<br /> B ガードレール<br /> C ウイングレール<br />D 間隔材<br />E クロッシング交点<br />F 鼻端長レール<br />G 鼻端短レール<br />H クロッシング前端<br />I クロッシング後端<br />J リードレール<br />K フランジウェイ<br />L 填材]] 分岐器は通常、図に示したような構造になっている。黒線は'''ストックレール'''(基本レール)、茶色の線は'''トングレール'''(先端軌条)、赤線は'''リードレール'''、紫の線は'''ウィングレール'''、青線は'''ガードレール'''(護輪軌条:ごりんきじょう)、オレンジ色の線は'''主レール'''、緑線は全体で'''クロッシング'''(米語:フログ)と呼ばれ<ref name="JISE1311">{{Cite jis|E|1311|2002|name=鉄道-分岐器類用語}}。</ref>、クロッシングを構成するもっとも先端の頭部が尖ったレールを'''ノーズレール'''(鼻端レール)と呼ぶ<ref name="JISE1311" />。進路変更をするときは、トングレールを分岐側と反対側のストックレールに移動する。なお、弾性分岐器では、トングレールとリードレールとウィングレールが一体化されている。 分岐器は、通常はある一定の方向(本線)に列車を進入させるようになっている。これを'''定位'''という。また、通常とは異なる方向(副本線)に列車が進入するようになっていることを'''反位'''という。また列車が分岐器の分岐する方向に向かうことを'''対向'''といい、列車が分岐器の合流する方向に向かうことを'''背向'''という。 ノーズ付近に見られるすき間は車輪の[[フランジ]]がスムーズに通過できるように設けられたもので、'''フランジウェイ'''と呼ぶ。磨耗防止<ref>この部分は、車輪のフランジが通過するため、磨耗し易く、そのため、普通クロッシングの約10倍の耐久性を持つ、一体式で[[鋳造]]により製造された高マンガン鋼クロッシングが採用されている所があり、高速走行に対応している場合がある。</ref> とこのすき間による他線への誤進入を防ぐため高速通過する車両は減速を強いられる。このため、高速運転の多い線区には下記のノーズ可動式分岐器が多く用いられる。 === ノーズ可動式分岐器{{Anchors|ノーズ可動式分岐器|ノーズ可動クロッシング}} === 上記のフランジウェイによる問題点を解決するため、ノーズまたはウィングレールを可動式にしてウィングレール(ノーズ)に密着させる事でフランジウェイを塞いで、高速通過を確実にしているものであり、主に[[新幹線]]などの高速鉄道で多用されている<ref>日本での採用例:北越急行ほくほく線の全線、[[京浜急行電鉄]]([[生麦駅]])、[[近畿日本鉄道]]([[上鳥羽口駅]]非常渡り線)、[[東京急行電鉄]]([[東急田園都市線|田園都市線]][[あざみ野駅]]および[[東急東横線|東横線]]・[[東急目黒線|目黒線]][[武蔵小杉駅]]非常渡り線、[[東急大井町線|大井町線]][[上野毛駅]]、同線[[溝の口駅]]渡り線)、[[京王電鉄]]([[京王線]][[飛田給駅]])、[[小田急電鉄]]([[小田急小田原線|小田原線]][[秦野駅]])、京成電鉄(成田スカイアクセス[[成田湯川駅]])。かつては特急列車が多数運転されていた[[東北本線]]の一部の駅にも採用されていたが、[[東北新幹線]]開通に伴う東北本線特急列車の削減によって全て通常の分岐器に交換された。</ref>。その場合、ノーズ(ウィングレール)はトングレールと連動するようになっている。 <gallery widths="150" style="font-size:90%"> ファイル:Bunnki NO1.JPG|ノーズ可動クロッシング分岐器の本線通過の状態(定位)。手前のレールの間にある開通方向表示器は非開通を表示している。 ファイル:可動ノーズ式分岐器(成田湯川駅ホームから撮影).jpg|ノーズ可動クロッシング分岐器の本線に合流の状態(反位)。手前のレールの間にある開通方向表示器は開通を表示している。 </gallery> [[ファイル:Movablenose.jpg|thumb|300px|可動式ノーズの概略図]] 右に可動式ノーズ(ノーズ可動クロッシング)の概略図を示す。このうち水色のレールが緑色のレールを軸にして動くことによって、フランジウェイを塞いでいる(図では直進の場合のフログの状態)<ref>そのため転轍器をポイント部とクロッシング部に2つ設置する。</ref>。異線進入のリスクが小さくなることからクロッシング部のガードレールが省略されることがある。従来、可動式ノーズは、新幹線たけではなく[[在来線]]や私鉄線においても[[北越急行]][[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]や[[京成電鉄|京成]][[京成成田空港線|成田スカイアクセス]]などのように高速通過の多い分岐器を中心に設置されていたが、騒音低減の目的で高速通過を行わない一般的な分岐器においてもノーズ可動式分岐器を採用する事例が増えている<ref>通常式分岐器はフランジウェイの隙間を車輪が通過すると大きな騒音が発生するが、可動式ノーズ分岐器はフランジウェイによる隙間が存在しないので大幅な騒音低減が可能。例えば東京急行電鉄あざみ野駅は優等列車も停車する駅であり上下線ともに減速が強いられるが、それにもかかわらず分岐器周辺が住宅密集地のためノーズ可動クロッシングが騒音低減目的で用いられている。</ref>。新幹線などの高速鉄道において、高速で通過する箇所では、さらにトングレールとリードレールを一体化してたわませる構造としているが、基本レールとトングレールとの間が密着(接着とも言う)せず隙間があると、高速走行に支障を与えるため、その2本のレールが密着しているかどうかを監視する接着照査器<ref>機械式とME(マイクロエレクトロニクス)式の2つがあり、接着状態情報(接着・非接着)で分岐器の定位と反位を検知して連動装置に出力するとともに、基本レールとトングレールとの間の隙間が許容値を超えている場合は、分岐器を転換不能として検知するようになっている。</ref> を基本レールの外側に2台ずつ設置しており、分岐器の開通方向を表示する開通方向表示器をクロッシング部手前(対向方向)のレールの間に設置しており、開通側には黒地に緑色縦線2本の表示が現れて、非開通側には白地に赤色の×印が現れるようになっている。 == 種類 == === 形状による分類 === ; 片開き分岐 : 直線軌道から分岐線だけを曲線で分岐させる形状のもの。基本線は直線であり、分岐線は曲線となる。基本線から分岐線が右側に分岐するものを「右片開き分岐器」、左側に分岐するものを「左片開き分岐器」と呼ぶ。 ; 両開き分岐 : 直線軌道から分岐線を左右同一の角度で開いて分岐させる形状のもの。Y字分岐と呼ぶこともある。 ; 振分分岐<span style="font-weight:normal">(ふりわけぶんき)</span> : 直線軌道から分岐線を左右が等しくない角度で開いて分岐させる形状のもの。振り分け率は9:1、4:1、7:3、3:1、2:1、3:2のものが一般化されている。 {{Double image aside|right|Eisenbahnweiche Bogenweiche.jpeg|180|Curve-Crossing-Outer.jpg|200|内方分岐|外方分岐(画像左方の本線が基本線、[[小田急電鉄]][[新松田駅]])}} ; 内方分岐 : 曲線区間で基本線、分岐線ともに同方向の曲線で構成されているもの。右カーブの場合は「右内方分岐」、左カーブの場合は「左内方分岐」と呼ぶ。 ; 外方分岐 : 曲線区間で基本線と分岐線を逆方向に分岐させる形状のもの。根元も曲線の両開きや振分分岐と考えることができる。基本線が左カーブの場合は「右外方分岐」、右カーブの場合は「左外方分岐」と呼ぶ。基本線側に[[カント (路線)|カント]]が設定されている場合、分岐側では逆カントとなるので、分岐側の速度制限が厳しくなる。 ; 片渡り線・渡り線<span style="font-weight:normal">(クロスオーバー、シングルクロス)</span> : [[複線]]区間など複数の線路が並行する箇所において、隣接する線路にたすき掛けされた形状のもの。大抵は片開き分岐で構成されるが、内外方分岐や振分分岐、各種スリップ・スイッチで構成されることもよくあり、複分岐で構成されることもある。複線区間では上下線の行き来に、また複線区間から単線が分岐する箇所などで多用される。 [[ファイル:Leeds-crossrails-03.jpg|thumb|180px|シザースクロッシング (イギリス、[[リーズ]]駅)]] ; 両渡り線<span style="font-weight:normal">(ダブルクロッシング、シザーズクロッシング、scissors crossing、SC)</span> : 両方向への片渡り線を同一箇所に重ねて配置したもの。やはりさまざまな形状の分岐器で構成される。軌道中心間隔が狭いと[[フランジ]]ウェイが増えるので、直線側でも揺れが大きくなることがある。従来は、[[ダイヤモンドクロッシング]]部の速度制限によって(角度の緩い分岐ではフランジウェイが過大になり、適切なフランジウェイを設定すると分岐角が急になる)、新幹線のように分岐側でも高い進入速度が求められる本線上には設置できず、代わりに片渡を2組ずつ設置していた。しかし、[[中央線快速|中央線]][[東京駅]]などで見られる弾性可動式ダイヤモンドクロッシングをもつシザーズクロッシングが開発されたので、[[東北新幹線]][[八戸駅]]のように通過列車が設定されている、あるいは予定されている新幹線の本線上にも設けられるようになった。日本での名称は、事業者等ごとに揺れがみられるが、[[2002年]]改正の JIS E 1311「鉄道-分岐器類用語」においては「シーサースクロッシング」と規定している。この他、[[鉄道模型]]の製品名ではダブルクロスと称することもある。 : ヨーロッパなど[[単線並列#双単線|双単線]]が一般的な地域では費用削減や高速対応のために片渡り線の連続を使用することが多く、両渡り線は駅構内など用地が限られている場合に留められる。 ; 片渡り付交差<span style="font-weight:normal">(シングル・スリップ・スイッチ、Single slip switch、SSS)</span> : ダイヤモンドクロッシングに渡り線を1本付加することで、交差する線路のうち一方向への分岐が可能なもの。もう一方は交差しかできない。片開き分岐との組合せで両渡り線のように用いることもある。直線側にも制限があるので、高速列車が通過する駅に設置されることはまれである。 ; 両渡り付交差<span style="font-weight:normal">(ダブル・スリップ・スイッチ、Double slip switch、DSS)</span> : シングル・スリップ・スイッチにさらに渡り線を1本付加し、交差する線路の双方向へ分岐できるようにしたもの。両渡り線と同等の機能を持つが、2つ以上の進路を同時に構成することはできない。また、シングルスリップと同様直線側にも制限がかかる。[[ターミナル駅]]や[[操車場 (鉄道)|操車場]]で用いるほか、敷地の制約から用いられる。 ; アウトサイド・スリップ・スイッチ <span style="font-weight:normal">(Outside slip switch)</span> : ダブルスリップスイッチと同様の分岐であるが、リードレールを2つとも中央のダイヤモンド部の中央に置くことで、比較的高速での通過を可能としている。ダブルスリップの一種として扱われる場合もある。但し、ダブルスリップと比べ敷地を取り、その上両渡り線のように2列車を同時進入させることもできないためごくまれに使われるのみである。 <gallery widths="180px" heights="180px"> ファイル:Rozjazd krzyz pojed.svg|シングルスリップ ファイル:Sanyo-5000 Kintetsu-9020 Hanshin-8000 hanshin-amagasaki.JPG|シングルスリップ(阪神尼崎駅) ファイル:Rozjazd krzyz podw.svg|ダブルスリップ ファイル:Double slip at Munich central.jpg|ダブルスリップ([[ミュンヘン中央駅]]) ファイル:Bahnanlage Kirchhain 2013 (Alter Fritz) 17.JPG|アウトサイドスリップ(ドイツ) ファイル:Doppelkreuzungsweichen im Rbf München Nord.JPG|ダブルスリップとアウトサイドスリップの併用(ドイツ) </gallery> : : [[ファイル:Threee way crossing Jiyugaoka.jpg|thumb|200 px|東急大井町線自由が丘にあった三枝分岐器]] ; 三枝分岐 : 左右2つの片開き分岐を重ねて3方向に分岐できるようにしたもの。 : [[ファイル:Hankyu Shonai station Interlaced turnout.jpg|thumb|150 px|複分岐([[庄内駅 (大阪府)|庄内駅]])]] ; 複分岐 : 左右2つの片開きまたは振分分岐を重ねて3方向に分岐できるようにしたもの。三枝分岐は枝が左右対称に分かれるが、複分岐では分岐点が前後にずれている。 === 番数 === 分岐器において基準線から分岐線が分かれる角度については、角度を直接規定する方式と、両線の開きとそれに要する長さの比率に基づいて規定する方式の2種類に大別される。世界的に広く採用されているのは後者の方式で、日本ではこの比率を示す数値について「番数」と称している。分岐器の番数の定義や呼称・表記方法は、国によって次の通り差異がある。 ====中心線法==== *'''中心線法'''({{lang-en|Centre line method}}<ref name="oxford" />)は、クロッシング(フログ)部において交差する軌間線の接線の角度(交差角)または軌道中心線の交点における接線の角度(分岐角)を、角の中心線の長さと両接線の開きの比率をもって示し、「No.15」(=15番)のように番号(番数)として呼称する。交差番数または分岐番数Nと、交差角または分岐角θとの関係は次の式で表される。 ** <math>N = {1\over 2}\cot{\theta\over 2}</math> * イギリス<ref name="oxford">Satish Chandra, M.M. Agarwal (2007) [https://arpwe.com/wp-content/uploads/2018/01/Ebook-Railway-Engineering-.pdf ''RAILWAY ENGINEERING''] Oxford University Press India. pp.263-265</ref>・北米・日本などで採用。 ====直角法==== *'''直角法'''または'''コール法'''({{lang-en|Right angle method / Cole's method}}<ref name="oxford" />)は、クロッシング(フログ)部において交差する軌間線の接線の角度(交差角)または軌道中心線の交点における接線の角度(分岐角)を、一方の接線を底辺とし残る一方の接線を斜辺とする直角三角形の底辺と高さの比率([[正接]])をもって示す。ヨーロッパでは分岐線の曲線半径を合わせて「190-1:9」(=半径190m、9番)のように[[単位分数]]の[[比]]の形で表記する。ロシアおよびCIS諸国では「1/11」(=11番)のように[[単位分数]]として表記する。インドでは「1 in 9」(9番)のように表記する。交差番数または分岐番数Nと、交差角または分岐角θとの関係は次の式で表される。 ** <math>N = {\cot\theta}</math> *ヨーロッパ・ロシア・CIS諸国・インド<ref name="oxford" />などで採用。 ====二等辺三角形法==== *交差角または分岐角が成す二等辺三角形の等辺と底辺の長さの比で番数を示す'''二等辺三角形法'''({{lang-en|Isosceles triangle method}}<ref name="oxford" />)は路面電車などの軌道分岐器で用いられることが多い<ref name="india">Dr.Rajat Rastogi [http://textofvideo.nptel.ac.in/105107123/lec20.pdf ''Transportation Engineering - II, Lecture - 20, Crossing and Design of Turnout''] Department of Civil Engineering, Indian Institute of Technology. pp.9-11</ref>。交差番数または分岐番数Nと、交差角または分岐角θとの関係は次の式で表される。 ** <math>N = {1\over 2}\csc{\theta\over 2}</math> ==== 日本 ==== 分岐器の番数は、基準線から分岐線が分かれる角度の大小を示すもので、片開き、両開きなどといった分岐器の形状とは無関係に、'''分岐器に用いられているクロッシング'''(フログ)'''の番数'''を分岐器全体の番数として呼称する<ref name="JISE1301">{{Cite jis|E|1301|1966|name=鉄道用分岐器類の番数}}</ref><ref name="JNR-JITEN1958">[https://transport.or.jp/tetsudoujiten/HTML/1958_%E9%89%84%E9%81%93%E8%BE%9E%E5%85%B8_%E4%B8%8B%E5%B7%BB_P1578.html 「分岐器の番数」] 『[[鉄道辞典]]・下巻』 p.1578、[[日本国有鉄道]]、1958年3月。</ref>。クロッシング番数は中心線法を採用し、クロッシング部で接する両軌条の軌間線が成す二等辺三角形の高さ(略図<math>b</math>)と底辺(略図<math>a</math>)の比をもって示す<ref name="JNR-JITEN1958" /><ref>「轍叉番号」、『鉄道用語辞典』、大阪鉄道局、1935年</ref><ref>分岐器の番数に関し日本の模型趣味者の間や模型の参考書で古くから流布している直角法については日本では採用されていない。また同様に流布している「分岐器の片開き・両開きの形状によって直角法と中心線法を使い分ける」手法は元から世界に存在せず、共に日本の実物で用いられている定義とはまったく無関係である。</ref>。 [[ファイル:Turnout number.jpg|300px]] 分岐器類の名称の前に、分岐器で用いているクロッシングの番数を付加し、「8番片開き分岐器」「10番シザーズクロッシング」のように呼称する<ref name="JISE1301" />。クロッシング番数に応じて、クロッシング後方における両方の軌間線<ref>軌間を表示する場合のレール面から14mm下がった位置の線(日本産業規格 JIS E 1311:2002「鉄道―分岐器類用語」)。</ref> の接線がなす角度「クロッシング角」が定められている。曲線分岐器の場合は両方の軌間線の交角<ref name="JISE1301" />(クロッシング交点において引いた2本の接線がなす角度<ref name="JNR-JITEN1958" />)をもってクロッシング角とする。 なお、曲線ダイヤモンドクロッシングでは、両方の軌道中心線が交差する角度をクロッシング角と読み換え、それに相応するクロッシング番数を呼称する<ref name="JISE1301" />。シザーズクロッシングでは、使用する分岐器に用いられているクロッシングの番数を呼称する<ref name="JISE1301" />。 ===== クロッシング番数 ===== かつて「轍叉番号(てっさばんごう)」とも呼ばれた。JIS E 1301で、クロッシング番数およびその角度は次のように規定されている<ref name="JISE1301" />。 {| class="wikitable" ! | クロッシング番数 ! | クロッシング角 ! | 備考<ref name="JNR-JITEN1958" /> |- | '''4番''' | 14°18' | 8番クロッシング角の2倍 |- | '''5番''' | 11°26' | 10番クロッシング角の2倍 |- | '''6番''' | 9°32' | 12番クロッシング角の2倍 |- | '''7番''' | 8°10' | 14番クロッシング角の2倍 |- | '''8番''' | 7°09' | rowspan="5" | 計算式により算出 |- | '''9番''' | 6°22' |- | '''10番''' | 5°43' |- | '''12番''' | 4°46' |- | '''14番''' | 4°05' |- | '''16番''' | 3°34.5' | 8番クロッシング角の1/2 |- | '''20番''' | 2°51.5' | 10番クロッシング角の1/2 |} * '''8番'''、'''9番'''、'''10番'''、'''12番'''、'''14番'''のクロッシング角は、クロッシング番数とクロッシング角に関する上記の計算式<math>N = {1\over 2}\cot{\theta\over 2}</math>により、分未満を四捨五入して定めたものである<ref name="JNR-JITEN1958" />。 * 他のクロッシング番数のクロッシング角は、次のようにして機械的に定めたものであり<ref name="JNR-JITEN1958" />、計算式によって算出する角度とは誤差がある<ref>基本のクロッシング番数以外は倍数を用いるこの方式により、配線の設計施工が容易となる利点がある。例えば、基準線を平行とし分岐線を左右対称に相対する形で置かれた2基の10番片開き分岐器の分岐線の交点では、規格により正確に「10番の2倍の角度」に規定されている5番クロッシング(フログ)を用いる5番ダイヤモンドクロッシングを設置すれば良いことが分かる。</ref>。 ** '''4番'''、'''5番'''、'''6番'''、'''7番'''のクロッシング角は、それぞれ8番、10番、12番、14番のクロッシング角の2倍とする。 ** '''16番'''、'''20番'''のクロッシング角は、それぞれ8番、10番のクロッシング角の1/2とする。 ==== ドイツ ==== ドイツにおいて、クロッシング番数 (Herzstückverhältnis) は分子を1とした[[単位分数]]を[[比]]を用いて示す(8番=1:8)。番数はヨーロッパ標準の直角法を用いている。ドイツ連邦鉄道 (DB) および現在のドイツ鉄道 (DBAG) では、番数を含め次の形式で分岐器類を分類呼称している。 例:'''EW 60-500-1:12 L Fz H''' {| class="wikitable" |- ! 略号 ! 意味 ! 略号の例 |- ! EW | 分岐器の形式 | 単純分岐 (EW)、外方分岐 (ABW)、内方分岐 (IBW)、複分岐 (DW)、片複分岐 (EinsDW) |- ! 60 | レール種類 | UIC60レール (60)、S49レールb(49 - ドイツ国有鉄道、ドイツ連邦鉄道、ドイツ国営鉄道)、S54レール(54 - ドイツ連邦鉄道)、R65レール(65 - ドイツ国営鉄道) |- ! 500 | 曲線半径 | 分岐線の曲線半径。単位m。 |- ! 1:12 | 番数 | 単位分数で表記する。例では12番。 |- ! L | 分岐方向 | 左 (L)、右 (R) |- ! Fz | ポイント部構造 | 弾性トングレール (Fz)、弾性ポイントブレード (Fsch)、ピボット式トングレール (Gz) |- ! H | 枕木材質 | 木製 (H)、木製のうち広葉樹材 (Hh)、鋼製 (St)、コンクリート (B) |- |} 現在のドイツ鉄道で主に使われている分岐器の例である(分岐器呼称のxxはレール種類に応じた任意の数字が入る)。 {| class="wikitable" style="vertical-align:top;" |-" ! 単純分岐器 ! ノーズ ! 許容通過速度 |- | EW xx-190-1:7,5/6,6(分岐半径190m、7.5番/6.5番) | 可動 | style="text-align:right;" | 40{{nnbsp}}km/h |- | EW xx-190-1:7,5(分岐半径190m、7.5番) | 可動 | style="text-align:right;" | 40{{nnbsp}}km/h |- | EW xx-190-1:9(分岐半径190m、9番) | 固定 | style="text-align:right;" | 40{{nnbsp}}km/h |- | EW xx-300-1:9(分岐半径300m、9番) | 可動 | style="text-align:right;" | 50{{nnbsp}}km/h |- | EW xx-500-1:12(分岐半径500m、12番) | 可動 | style="text-align:right;" | 60{{nnbsp}}km/h |- | EW xx-500-1:14(分岐半径500m、14番) | 固定 | style="text-align:right;" | 60{{nnbsp}}km/h |- | EW xx-760-1:14(分岐半径760m、14番) | 可動 | style="text-align:right;" | 80{{nnbsp}}km/h |- | EW xx-1200-1:18,5(分岐半径1200m、18.5番) | 可動 | style="text-align:right;" | 100{{nnbsp}}km/h |- | EW xx-2500-1:26,5(分岐半径2500m、26.5番) | 可動 | style="text-align:right;" | 130{{nnbsp}}km/h |- ! colspan="3"| 曲線分岐器(一例) |- | ABW xx-215-1:4,8(分岐半径215m、4.8番) | 可動 | style="text-align:right;" | 40{{nnbsp}}km/h |- |} また[[ICE]]が運行する[[マンハイム-シュトゥットガルト高速線]]および[[ハノーファー-ヴュルツブルク高速線]]用に開発された高速分岐器 (Schnellfahrweichen) には次のようなものがある。分岐器呼称末尾の「-fb」は弾性可動ノーズ付きを示す。複心曲線使用の分岐器は分岐線側を異なる半径の曲線を組み合わせたものにしており、EW 60-7000/6000-1:42の場合、トングレール部は半径7000m、分岐器中央部より後方は半径6000mとなっている。 {| class="wikitable" style="vertical-align:top; text-align:center;" |- ! 分岐器呼称 ! 許容通過速度<br /><small>基準線側 / 分岐線側</small> |- | style="text-align:left;" | EW 60-1200-1:18,5-fb(分岐半径1200m、18.5番) | 280{{nnbsp}}km/h / 100{{nnbsp}}km/h |- | style="text-align:left;" | EW 60-2500-1:26,5-fb(分岐半径2500m、26.5番) | 280{{nnbsp}}km/h / 130{{nnbsp}}km/h |- ! colspan="2"| 複心曲線使用分岐器 |- | style="text-align:left;" | EW 60-6000/3700-1:32,5-fb(分岐半径6000m+3700m、32.5番) | 280{{nnbsp}}km/h / 160{{nnbsp}}km/h |- | style="text-align:left;" | EW 60-7000/6000-1:42-fb(分岐半径7000m+6000m、42番) | 280{{nnbsp}}km/h / 200{{nnbsp}}km/h |- |} ドイツ鉄道が開発し[[1998年]]に使用を開始したクロソイド分岐器 (Klothoidenweichen) には次のようなものがある。分岐線側の曲線を[[緩和曲線]]の一種である[[クロソイド曲線]]として衝動及びレール損耗の低減を図ったもので、EW 60-10000/4000-1:39の場合、トングレール先端を半径10000mとし、分岐器中央部にかけて半径4000mまで曲率が逓増したのち、分岐器後方にかけて再び半径10000mまで曲率が逓減する。この特徴のため、クロッシング部の番数だけでは従来の分岐器と規模を単純に比較できない。 このうち、分岐線側でも220km/hでの通過を可能とした40.15番クロソイド分岐器EW 60-16000/6100-1:40,15-fbは[[ベルリン-ハレ線]][[ビターフェルト]]駅構内において[[ハレ]]方面と[[ライプツィヒ]]方面の分岐用に2基使用されており、番数は42番高速分岐器EW 60-7000/6000-1:42-fbより小さいものの、分岐器1基の長さは169.2mに達し、ドイツ国内最大の分岐器である。 {| class="wikitable" style="vertical-align:top; text-align:center;" |- ! 分岐器呼称 ! 許容通過速度<br /><small>基準線側 / 分岐線側</small> |- | style="text-align:left;" | EW 60-3000/1500-1:18,5(分岐半径3000m-1500m-3000m、18.5番) | 330{{nnbsp}}km/h / 100{{nnbsp}}km/h |- | style="text-align:left;" | EW 60-4800/2450-1:24,26(分岐半径4800m-2450m-4800m、24.26番) | 330{{nnbsp}}km/h / 130{{nnbsp}}km/h |- | style="text-align:left;" | EW 60-10000/4000-1:39(分岐半径10000m-4000m-10000m、39番) | 330{{nnbsp}}km/h / 160{{nnbsp}}km/h |- | style="text-align:left;" | EW 60-16000/6100-1:40,15(分岐半径16000m-6100m-16000m、40.15番) | 330{{nnbsp}}km/h / 220{{nnbsp}}km/h |- |} <gallery widths="200%"> DB class 103 at Saalbach junction.jpg|200km/hで42番高速分岐器EW{{nnbsp}}60-7000/6000-1:42-fbを通過する[[西ドイツ国鉄103型電気機関車|DB103形]]牽引列車([[マンハイム-シュトゥットガルト高速線]]ザールバッハ信号場、1988年供用開始) Weiche Rohrbach.jpg|42番高速分岐器EW{{nnbsp}}60-7000/6000-1:42-fb([[ハノーファー-ヴュルツブルク高速線]]ローバッハ信号場、1994年供用開始) EW6000 3700UB2855b.jpg|32.5番高速分岐器EW{{nnbsp}}60-6000/3700-1:32,5-fb(マンハイム-シュトゥットガルト高速線ウプシュタット=ヴァイアー停留場付近、1988年供用開始) Saale-Elster-Talbrücke-017.jpg|32.5番高速分岐器EW{{nnbsp}}60-6000/3700-1:32,5-fb([[エアフルト-ライプツィヒ/ハレ高速線]]ザーレ・エルスター高架橋、2015年供用開始) EW 60-16000-6100 Antriebe.jpg|ドイツ国内最大の40.15番クロソイド分岐器EW{{nnbsp}}60-16000/6100-1:40,15-fb([[ベルリン-ハレ線]][[ビターフェルト]]駅、1998年供用開始) </gallery> ==== チェコ、スロバキア ==== [[ファイル:Praha hlavní nádraží-od Vinohradské.jpg|thumb|230px|画面中央手前で分岐しダイヤモンドクロッシングおよびダブルスリップスイッチを経て左上奥の短いホームに至る配線は、段階式分岐器時代は直線だったが、比率式分岐器に置換えた際、わずかなクロッシング角の違いから直線にすることができず、途中に曲線が入った(チェコ・[[プラハ中央駅]])]] [[1918年]]にオーストリア帝国鉄道 (kkStB) とハンガリー国家鉄道 (MÁV) を承継した[[チェコスロバキア]]時代の[[チェコスロバキア国鉄]] (ČSD) では、[[1970年代]]まで、角の長さと開きの比率による番数ではなく、'''分岐角を直接定める「段階式分岐器」'''(チェコ語:Soustava stupňových výhybek, スロバキア語:Sústava stupňových výhybiek)を採用していた。概要は次の通りである<ref>Otto Plášek [http://lences.cz/domains/lences.cz/skola/subory/-%20-%20P%C5%99edm%C4%9Bty%20dle%20semestru%20-%20-/9-semester/-%20CN01%20-%20Zeleznicni%20konstrukce%20I/prednasky/6_Znaceni_a_soustavy_vyhybek.pdf ''Soustava stupňových výhybek, Značení a soustavy a výhybek a výhybkových konstrukcí''] pp.21-23</ref>。 * 単純分岐器(片開き分岐器)は、標準の分岐角を6°または7°とし、分岐線半径は150mから200m。許容通過速度は30km/hから40km/h。 * 複分岐器は6° (4°+2°) または7° (5°+2°) とし、駅構内などにおいて6°単純分岐器または7°単純分岐器によって本線から分岐して平行する多数の側線を構成する配線の場合、本線より分岐した次の分岐器に4°+2°複分岐器または5°+2°複分岐器を1基置き、本線と10°または12°の角度を保ちつつ側線を分岐する形態が一般的に用いられた。次の図は7°単純分岐器および5°+2°複分岐器を使用した側線群配線の模式図である。 [[ファイル:Turnout of step system.jpg|500px|]] * 両開き分岐器は10° (5°+5°) を標準とし、分岐線曲線半径は230m。 * 高速分岐器は分岐角6°未満、分岐線通過許容速度を40km/h以上としたもので、5°(曲線半径500m、通過許容速度60km/h)、4°(曲線半径800m、通過許容速度80km/h)、3°6'(曲線半径1200m、通過許容速度100km/h)の3種が設定された。 チェコスロバキア国鉄は[[1970年代]]、新規格のS49レールおよびR65レールの採用にあたって'''交差角または分岐角の番数を用いた「比率式分岐器」'''(チェコ語:Soustava poměrových výhybek, スロバキア語:Sústava pomerových výhybiek)を導入して新設計の分岐器を設定した。現在もチェコ([[鉄道施設管理公団 (チェコ)|鉄道施設管理公団]])、スロバキア([[スロバキア国鉄]])両国では、比率式分岐器とそれ以前の段階式分岐器が混在している。 比率式分岐器における番数はヨーロッパ標準の直角法を用いている。単純分岐器の場合、分岐半径300m(許容通過速度50km/h)または分岐半径190m(同40km/h)の1:9(9番)分岐器を標準に、1:12(12番)分岐器、1:14(14番)分岐器を設定。また高速分岐器として許容通過速度100km/hの1:18,5(18.5番)分岐器を設けた。また駅構内用として1:7,5(7.5番)分岐器、側線用として1:6(6番)および1:6,5(6.5番)分岐器を設定した。 現行の比率式分岐器の規格は次の通りである。分岐線曲線半径と許容通過速度については、通過時の横方向加速度が0.65&nbsp;m/s²を超えないよう定められている。 {|- class="wikitable" !番数 !曲線半径 !許容通過速度 |- | 1:6(6番) | 150 m | 30&nbsp;km/h |- | 1:7,5(7.5番) | 150 m | 30&nbsp;km/h |- | 1:7,5(7.5番) | 190 m | 40&nbsp;km/h |- | 1:9(9番) | 190 m | 40&nbsp;km/h |- | 1:9(9番) | 300 m | 50&nbsp;km/h |- | 1:11(11番) | 300 m | 50&nbsp;km/h |- | 1:12(12番) | 500 m | 60&nbsp;km/h |- | 1:14(14番) | 760 m | 80&nbsp;km/h |- | 1:18,5(18.5番) | 1200 m | 100&nbsp;km/h |- | 1:26,5(26.5番) | 2500 m | 120&nbsp;km/h |- |} ==== 番数に関するトピックス ==== * [[中華人民共和国|中国]]の[[京滬高速鉄道]]の[[徐州東駅]]北京側には42番分岐器がある<ref>[http://j.people.com.cn/94476/7199936.html 京滬高速鉄道、全線貫通 来年10月に開通へ]</ref>。 * [[高崎駅]]付近での[[上越新幹線]](下り線)と[[北陸新幹線]]の分岐や、[[成田湯川駅]]([[京成成田空港線|京成成田スカイアクセス線]])の成田空港方の分岐に使用されている38番分岐器は、分岐側の通過速度が日本最速の160 km/hである(前者は新幹線の本線同士の分岐、後者は160 km/h運転区間における単線と複線の分岐)。 * [[北海道旅客鉄道|JR北海道]]では[[石勝線]]高速化の際に楓駅(現・[[楓信号場]])に日本で初めて20番弾性両開き曲線クロッシング分岐器を設置し、両開き分岐器最高の通過速度120 km/hを実現した。 * [[2フィート6インチ軌間|特殊狭軌線(軌間762 mm)]]である[[三岐鉄道北勢線]]では[[東員駅]]等で新たに12番片開き分岐器を導入したものの、軌間の制約もあって分岐線側通過制限速度は25 km/hにとどまっている(参考:JR在来線等の12番分岐器の分岐側制限速度は45 km/h)。 * ヨーロッパの高速鉄道などの動力集中式の列車では、動力分散式に比べて加速・減速の度合いが小さい。したがって分岐器を高速で通過するため、番数の大きい分岐器が使用される。[[TGV]]の番数65番の高速分岐器はノーズ可動式で、[[LGV]]上の高速渡り線に使われ、直進側300 km/h、分岐側220 km/hで通過可能だが、転轍器の構造が複雑で高価な上、メンテナンスの費用が高額である。 === 構造上の種類 === ==== 滑節ポイント ==== トングレール(分岐器の分岐部分のレール)の後端部継ぎ目部分に遊間(隙間)を設け、ポイント転換の際にトングレール後端部が滑り移動しながら動作するポイントのこと。大正14年型分岐器や側線用分岐器などに使用される。 ==== 関節ポイント ==== トングレール(分岐器の分岐部分のレール)の後端部継ぎ目部分に遊間(隙間)を設け、ポイント転換の際にトングレール後端部を中心にして回転するように動作するポイントのこと。50Nレール使用の本線用分岐器など、全国的に最も多く使用されてきたが、トングレール後端部継ぎ目部分での衝撃・損傷が大きいので、主要幹線では次項の弾性ポイントに更換されつつある。 ==== 弾性ポイント(弾性分岐器) ==== [[ファイル:16番両開き弾性分岐器.jpg|thumb|200px|16番両開き弾性分岐器]] トングレールとリードレールを一体化してトングレールの後端部継ぎ目をなくしたポイントのこと。トングレール後端部レール底面に切り欠きが設けてあり、トングレール全体をたわませて転換する。弾性ポイントを使用した分岐器のことを弾性分岐器と称する。分岐器通過時の振動や騒音が押さえられ、通過速度を向上できる特徴がある(直線側はポイントに由来する速度制限が事実上ない<ref>新幹線のような高速で運転される場合にはクロッシング部による制限が生じるはずであるが、新幹線では本線分岐は全てノーズ可動型であり、在来線では線区最高速度に拘束されるので実用上は制限がないことと変わらない</ref>)。 [[新幹線]]や高速列車の多い路線で多く使用されるが、一般的に他の分岐器より高価となる。在来線では、[[四国旅客鉄道|JR四国]][[予讃線]]の[[本山駅 (香川県)|本山駅]]に最初に設置され、160&nbsp;km/hで通過した実績がある。 ==== 乗越分岐器 ==== 安全側線に設置される分岐器。乗越トングレールと乗越クロッシングの両方またはどちらか一方が用いられている。信号冒進時に車両を本線から脱線させるため、信号と連動している転轍機で転換する。脱線させる側が定位となっており、脱線後に分岐側から戻る事は考えられていない。 ; 横取装置 : 保守用車が保守基地線への出入りのために使用する簡易分岐器。取扱いにあたっては基本的に線路閉鎖手続きが必要で、分岐側からの通過が可能であることが乗越分岐器との大きな違いである。本線線路には普通レールが用いられており、欠線部も存在しない。JRの在来線では手動の可動式横取装置が多く設置されており、取り扱いの際は横取器という部品を本線線路に被せることで分岐側の進路を構成する。大手私鉄では、油圧装置で横取レールを横滑りさせるタイプのものが使用されている。新幹線では保守基地線へつながる線路が横移動し本線線路を覆う。本線線路を直交し、保守用車が90度転車することで本線線路に載線するタイプもある。 : 列車や営業車両は分岐側に入ることは想定されておらず、使用後は完全に取り外す必要がある。取り外しを忘れた状態で営業列車が走行し、脱線事故を起こした事例もある<ref>[https://sagamier.com/3928/ 横取り装置とは? 横浜市営地下鉄「脱線事故」の原因と概要(2019年)] - 鉄道模型&鉄道情報 sagamier.com(相模原鉄道模型クラブ)、2019年6月9日</ref><ref>[https://www.mlit.go.jp/jtsb/bunseki-kankoubutu/jtsbnewsletter/jtsbnewsletter_No7/No7_pdf/jtsbnl-07_0204.pdf 「分岐器の役割をする横取装置の一部を格納しないまま列車を運行し、本線を走行する列車が保守基地線に進入して脱線した事例」『運輸安全委員会ニュースレター』第7号]</ref>。 <gallery widths="180px" heights="180px"> ファイル:DerailPoint JRH-Chokubetsu.jpg|[[安全側線]]に使用されている乗越分岐器 ファイル:Hokusei Line Catch points.jpg|特殊狭軌線(軌間762 mm)用の乗越分岐器(乗越クロッシングのみを用いたもの) ファイル:Riding-past-crossing-3rail.jpg|三線軌条(軌間1,067&nbsp;mm・1,435&nbsp;mm)の乗越分岐器 </gallery> {{-}} == 分岐器での速度制限 == {{出典の明記|section=1|date=2016年2月23日 (火) 14:16 (UTC)}} 在来線での分岐器の分岐側は、分岐側の曲線半径であるリード半径、分岐器の強度、乗り心地、分岐器の保守などを総合して、安全比率を一般曲線より小さい5.5として、速度制限が決められる。 在来線での分岐器の直線側は、分岐器のクロッシングの強度、トングレールの開口、クロッシング部分のガイドレールおよびウイングレール(翼レール)の背面横圧の限度、保守量の増加などの理由により速度制限があり、高速列車においては直線で最高速度で走行しても分岐器が存在する通過駅では減速を余儀なくされ、「ノコギリ運転」と呼ばれる加速や減速を繰り返していた。これについては改善対策が行われており、枕木の強化、分岐器のレールに使用されるヒールボルトの強化、分岐器の下部に設置されている床板の強化、車輪およびレールの保守限度の見直しにより、従来の制限速度である100 km/hから120 km/hに上げられており、通過駅での減速を無くして表定速度の向上が図られている。 == ポイント融雪器 == 凍結や積雪により[[ポイント不転換|分岐器が転換不能]]になる事態が起きる<ref>{{Cite web |url=http://www.g-mark.org/award/describe/42621 |title=鉄道 分岐器用融雪器 [鉄道 分岐器用 電気融雪器] |access-date=2023-01-26 |website=Good Design Award}}</ref><ref name=JRTTy>{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/technology/lighting-distribution.html |title=電力 |access-date=2023-01-26 |publisher=鉄道・運輸機構 |language=ja}}</ref>。人による除雪や融雪剤・防氷剤の散布<ref>{{Cite web |url=https://spinoff.nasa.gov/Spinoff2012/t_1.html |title=Anti-Icing Formulas Prevent Train Delays | NASA Spinoff |access-date=2023-02-24 |website=spinoff.nasa.gov}}</ref>、圧縮空気で吹き飛ばしも行われるが、様々な方式のポイント融雪器が考案された<ref name=JREy>{{Cite web|和書|url=https://patents.google.com/patent/JPH07102501A/ja |title=鉄道ポイント融雪装置 |website=Google Patents |access-date=2023-01-26}}</ref><ref>[https://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20160115-8.pdf 雪に立ち向かう] - JR東日本</ref>。 ;融雪カンテラ :ポイントの下に灯油ストーブのような火が灯る器具を設置するタイプ。大きな工事を必要とせず、あまり降雪しない場所で使用されている<ref>{{Cite tweet |number=816217526942265344 |user=hankyu_ex|title=2017年1月3日のツイート|access-date=2023年1月26日}}</ref><ref>{{Cite tweet |number=816220735605645312 |title=2017年1月3日のツイート|user=hankyu_ex|access-date=2023年1月26日}}</ref>。 :稀に、火災と間違われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://withnews.jp/article/f0170112001qq000000000000000W00o10101qq000014548A |title=線路が燃えてる? いえ「融雪カンテラ」です 阪急電鉄の投稿に反響 |access-date=2023-01-26 |last=真平 |first=若松 |website=withnews.jp |language=ja}}</ref>。 ;散水融雪装置 :温水を散布することで融雪する装置<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rma.or.jp/paper/backnumber/1612.html |title=2016年協会誌「R&m」12月号 |access-date=2023-01-26 |publisher=一般社団法人 日本鉄道車両機械技術協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://wr19.osaka-sandai.ac.jp/ce/rt/ByRail/?p=4315 |title=散水装置 | 鉄道で国づくり |access-date=2023-01-26 |publisher=大阪産業大学地域・交通計画研究室 |language=ja}}</ref>。 ;温水マット式融雪装置 :温水が循環するマットを下に設置する方式<ref name=JREy/>。 ;電気融雪器 :電気融雪器には、直接加熱方式電気融雪器と温風式電気融雪器が存在する<ref name=JRTTy/>。レールを直接ヒーターで温めるか、電気ヒーターで温めた温風を吹きかける方式である<ref name=JRTTy/>。 :JR東海では、2014年時点で電気融雪器143駅、熱風式融雪器13駅に設置している<ref>[https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000024916.pdf 雪対策について] - JR東海</ref>。 豪雪地帯や山間部の信号場ではポイントの周囲の軌道ごと[[スノーシェルター]]で覆う場合がある。 <gallery> ファイル:Suita signal station, switch 723 i.jpg|融雪カンテラを使用している様子 ファイル:Rail Switch Heater.jpg|電気式温風ポイント融雪器 ファイル:Railroad switch Warm air injection port Matsudai 20150215.jpg|温風式融雪器の作動している様子 ファイル:Asouzu stn.jpg|スノーシェルターで覆われたポイント </gallery> == 転轍器 == 分岐器を操作する装置を'''転轍器'''(てんてつき)と呼ぶ。 === 電気転轍器 === [[ファイル:Railroad switch.JPG |thumb|350px|電気転轍器と装置類。<br />Aトングレール、Bスイッチアジャスター、Cフロントロッド、D接続桿、E鎖錠桿のカバー、Fスイッチアジャスターロッド、G動作桿のカバー、Hモーター、I手回しハンドル穴(蓋をされて施錠している状態)、J手回し完了表示窓、K床板、Lダイバー(転てつ棒)、踏切から撮影。]] 電気指令によって本体内部にある制御リレーと回路制御器が作動し、その後モーターないし空気シリンダーが動作してそれを動力源として切り替える転轍器で、1箇所で集中制御する際に用いられており、進路の状態を表すには[[鉄道信号機|信号機]]が用いられる。構造としてはレールを切り替える転換部と、分岐器を列車が通過している間に転轍器が転換しないように鎖錠する転換鎖錠部とで構成されており、前者はモーターからフリクションクラッチ<ref>転換途中で石などが挟り一定以上の力がかかると摺動してモーターに無理な力が働かないようにする機構、その他にも転換力の調整や転換終了時の衝撃力を吸収している。</ref> と減速歯車を介して転換ローラーに繋がり、そこから動作桿とスイッチアジャスターロッドとスイッチアジャスタを介してダイバー(転てつ棒)でトングレールに接続されており、後者は転換部からロックピースと鎖錠桿を介して<ref>鎖錠桿にロックピースを押し込み又は引き抜く事により動作桿と鎖錠桿の鎖錠又は解錠を行う。</ref> 接続桿に繋がり、それがトングレールの先端にあるフロントロッドに接続されている。また、手動で転換できるように転轍器本体に手回しハンドル穴があり<ref>穴入口にハンドルを入れて動かすと電気転轍器のモーター回路が遮断されて、ハンドルで転換中でもモーターが作動しないようになっている。</ref>、手動で完全に転換してその後に鎖錠状態になった時に、手回し完了表示窓に矢印の表示が出るようになっている。また電気転轍器の種類としてはNS形とG形の他、本線以外の側線用にYS形がある。素早い切り替えが要求される[[操車場]]等では圧縮空気を用いる電空転轍器が、それ以外の場所ではモーター式電気転轍器が使用されている。 積雪や凍結によってトングレールの固着やトングレールによる氷雪塊の挟み込みを防ぐため<ref>ノーズ可動式分岐器においてはノーズ可動部も</ref>、冬季はポイント部に下や側面から火を当てる融雪器(融雪カンテラ)<ref>[[ランプ (照明器具)|カンテラ]]と呼ばれる。[[合図灯]]とは別物</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「火事ではありません」鉄道の“縁の下の力持ち”装置が話題…正体を江ノ島電鉄に聞いた |url=https://www.fnn.jp/articles/-/315805 |website=FNNプライムオンライン |accessdate=2022-02-18}}</ref>、電熱器を使い凍結や着氷を防ぐことが積雪のほとんど無い地域において行われる。また積雪地では代わりに温水・熱風を用いた[[融雪]]装置を設置する<ref name=JWE-20160115-8>{{Cite web|和書|format=pdf|url=https://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20160115-8.pdf|title=雪に立ち向かう―安全・安定輸送を確保するために―|publisher=JR東日本秋田支社|accessdate=2017-04-12}}</ref>。[[北海道]]や[[東北地方]]のほとんどの駅・信号場では転轍器部分にカバーをかぶせたり、防雪シェルターで覆ったりしている。北海道新幹線においては融かした雪がほどなくして再度凍ることから空気ジェットによりトングレールに挟まった氷雪を吹き飛ばし、氷雪塊の挟み込みを防いでいる<ref name=JWE-20160115-8 />。 === 手動転轍器 === [[ファイル:Manual switch(Okuizumi Stn.).jpg|thumb|350px|発条転轍器を手動で切り替える掛員([[大井川鐵道]][[井川線]] [[奥泉駅]])]] [[ファイル:Satomi station 20160430 113836.jpg|thumb|200px|[[小湊鉄道線]][[里見駅]]構内のスプリングポイント。手動転轍器に「S」のマークがあるため、スプリングポイントであることがわかる。]] 現場で手動で切り替える転轍器であり、その動作方法によって3種類がある。主要な手動転轍器には転轍器標識が設置される。進路の状態を表すのに標識またはランプを用いるものもある。 ; 普通転轍器 : 常に人の手によって進路を変える転轍器。転轍器標識は、定位で青の円盤、反位で黄色の矢羽根形である。転轍器が列車通過時の振動で勝手に切り替わることがないようトングレールを固定するロック機構がある(ロック方式は数種類がある)。原則として駅員の管理下で取り扱われるために、機械的または電気的な[[連動装置#鎖錠・解錠|鎖錠装置]]を持つ。[[信号扱所]]からてこで連動操作されることが原則であるが、入れ替え用途など線路脇のてこで操作できるものもある。留置線や保線用側線など、鎖錠の必要がなく通過車両が比較的軽量かつ低速である場合、転轍器のハンドル自体の重量またはばねの力によりトングレールを押さえつける簡易式のものもある(通称「ダルマ」または「ダルマポイト」)。 :: [[日中線]][[熱塩駅]]の[[機回し線]]には、スタフ([[閉塞 (鉄道)#常用閉塞方式|スタフ閉塞]]のスタフであり外見上はタブレットの玉)をセットしないと動かせない転轍器があった。これは当該区間が盲腸線であり[[閉塞 (鉄道)#常用閉塞方式|スタフ閉塞]]という非自動閉塞区間であり、また[[熱塩駅]]自体も絶対信号機を持たない停留所でありながら分岐を持ち機回しを行う例外的な[[鉄道駅|駅]]であったためである。本来分岐器を持つ停車場には場内出発信号機の設備が必要である。この処置により、列車運転時には分岐器は常に固定された状態になり、列車が進入可能で、かつ、分岐器が操作可能(固定されていない)と言う危険な状態を避けることが出来る。つまり、分岐器を操作できるときは閉塞に進入可能な列車は当該駅に停車している(=列車がスタフを持ち込んでいる)か、もしくは閉塞に列車が進入できない(スタフを代替手段で陸送した)のどちらかであり、スタフを取り出せたならば分岐器は固定されている。 ; 発条転轍器<span style="font-weight:normal">(スプリングポイント)</span> : 進路が原則的に定位に固定され、列車は定位方向だけに通行可能である。ただし、反位側からの列車は車輪によってトングレールを押し広げて(割出しとも言う)通過でき、通過後は内蔵された[[ばね|スプリング]]と[[ショックアブソーバー|油緩衝器]]<ref>通過中に列車をスムーズに通過させるためと、通過後の復帰を暫く遅らせる役割がある。</ref> によって自動的に定位へ戻る。このためポイント操作が不要である。必要に応じて普通転轍器と同様に手動で反位に固定することもできる。転轍器標識は、定位で青の円盤にSの文字、反位で黄色の矢羽根形である。またトングレールがどちらかのストックレールに密着しているかを検知して転轍器の開通方向を知る転轍器回路制御器又は[[連動装置|鎖錠]]する為の電磁転轍鎖錠器を設置しており、前者はトングレールに接続したロッドを検知する方法とストックレールに穴を開けた後、突起を付けたセンサーを取付けてトングレールの可動によりそれを作動させる方式があり、後者は鎖錠の場合には内部のソレノイド電磁石に電源が入り励磁して転轍器を定位方向に固定させ、鎖錠を解除する場合には内部のソレノイド電磁石の電源を切り転轍器の定位方向の固定を解除することによりトングレールを押し広げることが可能となる。両者とも進路を設定の際に必要な装置であり、進路構成後に出発・場内信号機を現示させて列車を進行させる。 : 反位側からの進入には厳しい速度制限が加わるため、路面電車の折返し点や優等列車運行のない単線区間の[[交換駅]]など、進行方向が一定かつ通過速度も遅い箇所で使われている。しかし速度制限や、通過する車輪とトングレールの摩耗などの問題から減少傾向にあり、設備改良などで発条転轍器から電気転轍器に交換したケースもある。 ; 脱線転轍器 : 定位で脱線するようになっている転轍器。交換駅・待避駅等で[[安全側線]]が設けられない場合に設けられるが、低速でなければ車両転覆の危険があるので、主に保留貨車の本線暴走突入防止に使われていた。定位のときの標識は赤の四角、反位のときは黄色の矢羽根形である。 <gallery> ファイル:KanagawaRinkai_04p5947.jpg|転轍器標識(普通) ファイル:Derailment-switch.jpg|転轍器標識(脱線) ファイル:Spring railroad switch.JPG|転轍器標識(スプリングポイント) ファイル:Onda-Point-Machine.jpg|普通転轍器(ダルマ) ファイル:Sapporo Tram Spring Point 001.JPG|路面電車の軌道に使用されている発条転轍器<br />これ以外に付帯設備は一切なく、トングレールも片側だけ。 ファイル:Nishi-Suzurandai Station Derailment-switch.jpg|脱線転轍器 </gallery> == 分岐器の一種とされるもの == 以下のものは厳密には1線の線路をそれ以上に分岐させず、分岐器ではないが、分岐器の一種として扱われることが多い。 ; 交差([[ダイヤモンドクロッシング|ダイヤモンド・クロッシング]]、DC) : 線路どうしの平面交差を行う際に用いられる。線路の枝分かれはない。分岐器と交差をあわせて分岐器類という。 ; [[単複線]]・搾線(ガントレットトラック) : 敷地面積の狭い場所において、2本の線路を重ねるようにして敷設したもの。現在日本では使われていないが、過去には[[名鉄瀬戸線]]堀川 - 土居下間で見られた。 ; 移線器 : [[三線軌条]]の軌道において、内側の軌道のみを反向曲線にすることで、外側の軌道と共有する線路を前後で切り換えるもの。 <gallery widths="200"> Diamond crossing rail.JPG| [[札幌市電]]で使われていたダイヤモンドクロッシング Splot Lodz Warszawska.jpg|[[ポーランド]]、[[ウッチ]]市電のガントレット Mutsuura_Point.jpg|[[六浦駅]]の移線器 </gallery> == 非鉄軌道の分岐装置 == === 案内軌条式鉄道 === 世界的に規格がまちまちであるため複数の方式が使用されている<ref>1981年に開業した[[神戸新交通ポートアイランド線]]では、ガイドウェイの案内軌道が、下部から浮き上がりまたは沈み込む浮沈式を採用している。</ref>。 ==== 自動案内軌条式旅客運送システム(AGT) ==== {{See also|自動案内軌条式旅客輸送システム#システム#案内・分岐方式}} 日本における[[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]]は、1983年に当時の建設省・運輸省の指導による統一規格「標準型新交通システム」が策定され、案内方式は「側方案内方式」が標準となっている。 このシステムでは水平可動案内板方式による分岐が使用されている。車両側には、各車両下部にある台車から案内バーが左右両側に伸びており、その先の上部にはガイドウェイの案内軌条を走行して転動方向を規制させる案内輪、下部には分岐で進行方向を変えるために使用する分岐案内輪が取付けられている。案内輪は、走行軌道(ガイドウェイ)に沿って両側に設置された、HまたはI形鋼による案内軌条に車両の両側にある案内輪が走行することで、走行中の車両の転動方向を規制して案内する装置であるが、車両が分岐場所を通過する際には案内軌条の一側を離さなくてはならない。地上側の分岐場所には、2つの可動案内板と固定案内板がガイドウェイの両側の案内軌条の下に設置されており、可動案内板が電気転轍器で可動することによって分岐器の役割を果たす。車両は可動案内板に車両側の左右どちらかの分岐案内輪が入り込み、その後、固定案内板を通過することによって車両の進行方向が選択できる。すなわち両側拘束の案内軌条を離れ、一時的に片側のみを拘束することによって分岐するのである。 <gallery perrow="3" widths="300" style="font-size:90%"> ファイル:Yokohama New Transit 2000 guide wheel.JPG|側方案内方式の車両側の案内バーの先端に取付けられている案内または分岐装置。1集電装置、2案内輪、3分岐案内輪 ファイル:Automated Guideway Transit No1.JPG|側方案内方式の車両側の案内または分岐装置を車両前方から見た写真。A案内輪、B分岐案内輪、C集電装置 ファイル:Yokohama New Transit Guideway.JPG|側方案内方式の地上側の分岐器。A案内軌条、B可動案内板、C固定案内板、D電車線(直流750Vのため、プラスとマイナスの2本) ファイル:Yokohama New Transit Guideway others.JPG|側方案内方式の地上側の分岐器が転換した状態。可動案内板が電気転轍器によって可動したのが分かる。 </gallery> ==== 札幌市営地下鉄(札幌方式) ==== [[ファイル:Sapporo subway shelter.jpg|サムネイル|「札幌方式」における上下式分岐器([[札幌市営地下鉄南北線|南北線]][[自衛隊前駅]])。写真は直進状態。]] 川崎重工業と開発した独自の規格(S.S.TRAM、札幌方式とも)であり、[[札幌市営地下鉄南北線|南北線]]と[[札幌市営地下鉄東西線|東西]]・[[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]で規格が異なるが、いずれも中央案内軌条方式を採用している。 このため、向きの違う案内軌条2本を浮沈させて進路を決定する「上下式」を中心に、基地内などでは、[[トラバーサー]]上に複数の進路の軌条を設定し、トラバーサーを動かして進路を決定する「トラバーサ式」を採用している<ref>{{Cite web|和書|url=https://pucchi.net/hokkaido/closeup/subway-point.php|title=札幌市営地下鉄の車両はどのように進路変更するの?転てつ器の謎に迫る(動画あり)|accessdate=2017-10-15|author=石簾マサ|date=2017-06-31|publisher=北海道ファンマガジン}}</ref>。{{-}} === モノレール・HSST === [[モノレール]]や[[HSST]]も鉄道に分類され、その[[線路 (鉄道)|線路]]には分岐がある。 跨座式の場合は、上記までの2本のレールやガイドウェイを使うものに比べると、モノレールの軌道は1本で車両重量全体を支えるために幅が広く重量が大きく、また、その構造上、鉄軌道のそれのように轍を乗せ換える方式ではなく、軌道を繋ぎ変える方式となる。主な方式としては'''関節式'''と'''関節可撓(かとう)式'''<ref name=":1">[http://www.osaka-monorail.co.jp/fan/bunki.html 「分岐器の紹介」]、大阪モノレール(2016.07.10最終閲覧)</ref> がある。前者は、1つの分岐器を使用して軌道を転轍させる支点よりそのまま曲げる方式で、乗り心地は悪くなってしまう。そのため、本線では使用されず、乗り心地を追及する必要のない、車両基地内や、側線への分岐点で使用される<ref name=":1" /><ref name=":0">[http://www.monorails.org/tMspages/switch.html The Switch Myth] The Monorail Society (米国の任意団体) によるモノレールの分岐に関する解説 (英語)</ref>。後者はいくつかの短い桁を組み合わせ軌道を転轍する方式で、それぞれの桁は関節で接続されているため、車体の振動が関節式と比較して極力少なくすることができる<ref name=":1" />。また、構造上分岐の形式は通常単純な複数方向への分岐かシングルクロスが多いが、[[東京モノレール]][[羽田空港第2ターミナル駅]]のように、ダブルクロッシングを設ける例もある。 常電導リニアの一つである、HSSTでは[[HSST|軌道の設置方式]]にダブルビーム型とシングルビーム型があるが、現在実用化されているシングルビーム型では、構造上モジュール(台車に相当)が軌道を抱え込む方式となっているため、跨座式モノレールと同様の関節式・もしくは関節可撓式の分岐器が採用されている。 懸垂式の場合は、鉄軌道のトングレールとリードレールに相当するT形断面の可動レール<ref>先端部とリード部で構成されており、この2つは連結軸を介して繋がっている。</ref> が転轍させる支点を中心に可動して軌道を転轍する方式を採用している。 <gallery perrow="5" widths="180px" style="font-size:100%" styles="font-size:100%"> ファイル:Tama toshi monorail switch conversion after.JPG|跨座式モノレールのシングルクロッシング分岐器、可動前の下り線と上り線が平行の状態。 ファイル:Tama toshi monorail switch conversion.JPG|跨座式モノレールのシングルクロッシング分岐器、可動中の状態。 ファイル:Tama toshi monorail switch.JPG|跨座式モノレールのシングルクロッシング分岐器、可動後に上り線と下り線が接続されている状態。 ファイル:Syounan monorail railroad switch the first.JPG|懸垂式モノレールの分岐器、下りの方向に路線が開通している状態。 ファイル:Syounan monorail railroad switch the second.JPG|懸垂式モノレールの分岐器、可動レールが可動して転換中の状態。 ファイル:Syounan monorail railroad switch the third.JPG|懸垂式モノレールの分岐器、転換後、上りの方向に路線が開通している状態。 ファイル:Scissors crossing monorail solid.gif|跨座式モノレールのダブルクロッシング分岐器の動作状態を表すアニメーション。 ファイル:Osaka Monorail Crossroads.JPG|モノレールの分岐の例(大阪モノレール万博記念公園駅)。関節可撓式を採用している。 ファイル:View from Linimo entering the Banpaku Kinen Koen station, direction to Fujigaoka.jpg|HSSTの分岐器(愛知高速交通 東部丘陵線 万博会場駅(現:愛・地球博記念公園駅)) </gallery> ==== ビームリプレイスメント(軌道置換) ==== 軌道を曲げるのではなく、定位と反位の軌道を置き換えることで繋ぎ変える方式である。 アメリカ・[[ニューアーク・リバティー国際空港|ニューアーク空港]]の[[エアトレイン・ニューアーク|エアトレイン]]では反転する軌道台の上下にそれぞれ定位と反位の軌道を設け、回転させることで軌道を切り替える分岐器を採用している<ref name=":0" />。 アメリカの[[ウォルト・ディズニー・ワールド・モノレール・システム]]では、扇形の軌道台に定位と反位の軌道を設け、旋回させることで軌道を切り替える分岐器を採用している。扇形の分岐器は[[ALWEG]]社が1952年に建設したケルン実験線、[[日本ロッキード・モノレール]]が1962年に建設した岐阜試験線、1966年開業の[[姫路市交通局モノレール線]]の手柄山駅などにも存在した。 <gallery perrow="5" widths="180px" style="font-size:100%" styles="font-size:100%"> ファイル:WDWMonorailSpur.jpg|ウォルト・ディズニー・ワールド・モノレール・システムの置換式分岐器。 ファイル:ロッキード式モノレールの分岐器略図.gif|ロッキード式モノレールの置換式分岐器 </gallery> === ゴムタイヤトラム === 案内車輪を誘導するレールを用いる方式の場合、分岐器が必要となる。仏:トランスロール社の[[ゴムタイヤトラム#トランスロール|トランスロール]]においては、それぞれ分岐器中央部後端よりに支点を持つ2本1組の案内軌条がずれて進路を構成する方式や、跨座式モノレールのようにポイント先端部に支点を持つ一本のレールを繋ぎかえる方式が用いられている。また、クロッシング部ではターンテーブル状の線路を用いて進路を構成する必要がある。 [[ボンバルディア・トランスポーテーション|ボンバルディア・トランスポーテ―ション]]の[[ゴムタイヤトラム#TVR|TVR]]方式においても同様な分岐器が用いられているが進路でない軌道が一部カバーに隠れる構造となっており、支持方式の構造上クロッシングにターンテーブルは用いられない。 <gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:100%"> ファイル:Translohr points.jpg|トランスロールの分岐器 ファイル:Scambio Translohr Deposito Favaro 071120.jpg|トランスロールの分岐器(跨座式タイプ) ファイル:Incrocio Translohr Padova Stazione FS 061004.jpg|トランスロールのクロッシング部 ファイル:Caen tram point.JPG|TVRの分岐器 </gallery> === ケーブルカー === [[ケーブルカー]]では、丁度中間地点で行き違いをすることになるため、その前後に二又を設け、進行方向によって互いに別の側に入るように配線する。左右の車輪の片側は両フランジ車輪、もう片側はフランジなしの厚みのある車輪という特殊な構造を使用することで、分岐器に可動部をなくしたものがよく使われる。 <gallery perrow="3" widths="300" style="font-size:90%"> ファイル:Rakutenchi cable-car 2.jpg|行き違い地点の線路<br />(別府ラクテンチケーブル線) </gallery> === 超電導リニア === {{main|超電導リニア#分岐装置}} [[超電導リニア]](JRマグレブ)の[[リニア実験線#山梨実験線|山梨実験線]]では、各種方式の試験の結果、モノレールの関節可撓式に類似した「トラバーサ方式」を採用している<ref>{{Cite journal|和書|author=冷泉彰彦|year=|date=2018-04-01|title=実用化技術はすでに確立 超電導リニア 乗車体験でシミュレーション|journal=鉄道ジャーナル|volume=52|issue=第4号(通巻618号)|page=|pages=pp.78-90|publisher=鉄道ジャーナル社|ref=RJ618|issn=0288-2337}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|title=鉄道電気読本 |edition=改訂 |publisher=日本鉄道電気技術協会 |isbn=978-4-931273-65-8 }} * {{Citation|和書|title=新幹線信号設備 |edition=改訂2 |publisher=日本鉄道電気技術協会 |isbn=978-4-931273-91-7 }} * {{Citation|和書|author=久保田博 |author-link=久保田博 |title=鉄道工学ハンドブック |publisher=[[グランプリ出版]] |year=1995 |isbn=4-87687-163-9 }} == 関連項目 == * [[連動装置]] * [[信号保安]] * [[鉄道信号機]] == 外部リンク == {{commonscat|Railway points}} * [http://hosenwiki.com/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E5%88%86%E5%B2%90%E5%99%A8 カテゴリ:分岐器] - 保線ウィキ(2017年2月14日閲覧) * [http://www.lares.dti.ne.jp/%7Eoshima/rail/ おーしま自由研究所] - 各種レールの構造の解説・種類・写真など。 * [http://oomatipalk2.blog91.fc2.com/ レイルエンヂニアリング] - 特殊分岐器の写真など。 {{Railway track layouts}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふんきき}} [[Category:機構 (工学)]] [[Category:鉄道線路]]
2003-07-23T05:18:15Z
2023-11-14T04:39:18Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite jis", "Template:Cite journal", "Template:Citation", "Template:Commonscat", "Template:Anchors", "Template:Double image aside", "Template:Main", "Template:Railway track layouts", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Normdaten", "Template:Otheruses", "Template:-", "Template:出典の明記", "Template:Lang-en-short", "Template:Lang-en", "Template:Cite web", "Template:Nnbsp", "Template:See also", "Template:Cite tweet" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%B2%90%E5%99%A8
12,083
管楽器
管楽器(かんがっき)は、旧来の楽器分類法における分類のひとつであり、吹奏楽器(すいそうがっき)ともいう。今日の楽器分類学においては気鳴楽器と呼ばれる。 一般的には「呼気など空気の流れによって発音する楽器のうち、少なくとも一方の端が閉じられていない管の中の空気の振動を利用して音を出す楽器の総称」などと説明されているが、これは明らかな誤りである。 「管」という文字は、単に楽器の共振系の形状を表しているに過ぎないし、後述のように管状ではない管楽器や、共振系を持たない管楽器も存在するから、正しくは「少なくとも1ヶ所の開口部を有する空洞に向かって吹き付けられた気体の流れによって生ずる振動を利用して音を出す楽器の総称」と定義すべきものである。 そもそも「管楽器」に対応する印欧語は、例えば英語では「Wind instrument(風の楽器、息の楽器)」、ドイツ語では「Blasinstrument(吹く楽器)」、フランス語でも「Instrument à vent(風の楽器)」であるから、「管」状である必要など全くないのである。完全な誤訳であり、これが「オカリナは管楽器ではない」というような奇妙な誤解を生むもとにもなっている。文献によっては「管楽器」と呼ぶことを避け、ドイツ語に則って「吹奏楽器」と表記しており、こちらの方が明らかに適訳である。オルガンは本項の管楽器に分類されるが、演奏者の息ではなく機械で吹奏される。 管楽器はさらに木管楽器と金管楽器に分けられている。この両者は、古くは楽器の材質による区分であったが、現在では発音原理によって区別され、唇の振動によって音を出すものを金管楽器、それ以外の管楽器を木管楽器としている。このため今日のフルートはほとんどが金属で作られているにもかかわらず木管楽器に分類されるなど、名と体の不一致が生じている。 吹き込まれた空気によって楽器または人体の一部、あるいは空気そのものが振動して振動源となる。 これらのうち、リップリードの管楽器を金管楽器と呼び、それ以外を木管楽器と呼ぶ。楽器の材質とは関係がない。 上記のようにして発生した振動に対して、楽器の空洞内部の空気が共振して音が発生する。空洞は管状とは限らない。ハーモニカのように、共振系を持たないものもある。 閉管とは管の一方が閉じられている管のことで、開管とは両方が閉じられていない管のことである。閉管構造の筒(共鳴体)は共鳴構造が管長の倍になり、同じ長さを持つ開管の筒よりもおよそ1オクターヴ低い音が出る。この時その共鳴体は奇数倍音のみが鳴っている。適当なパイプの一方の端を唇に当てて吹く音と、その一方の端を掌で叩いて塞ぐ音を聞き比べるとわかる。 ただし、管が円錐形になっていて、広い方の口が閉じられていない管は、円筒の開管と同様に偶数倍音も鳴るので開管楽器に分類される。現代の西洋音楽の管楽器ではクラリネット属だけが閉管楽器である(クラリネットの管は、先端だけは広がっているが、他の部分はほとんど太さが一定で、ほぼ円筒形になっている)。オルガンにも閉管構造を持つ音栓(ストップ)があり、これは特有の音色を得るためだけでなく、管の長さを短くすることが出来るので、設置場所の節約にもなる。またフルートの特殊奏法であるタングラム (tongue ram, tongue stop) は、本来開管構造である楽器の一方を唇や舌で塞いだ状態で閉管として響かせることにより、短音やトレモロではあるが通常より長7度低い音を得ることが出来る(正確に1オクターヴ下でないのは、楽器の共鳴体の形状に起因するズレである)。 発音体の振動に対して管の中の空気が共振して音波が発生する。 このとき発生する音波は、 が波長と等しくなる条件で共鳴しようとする。音波の周波数と波長は反比例の関係がある。また、音波の周波数と波長をかけ算したものは音波の伝播速度(音速)にほかならない。 とすると、 となる。 一般に、高音楽器は管が短く、低音楽器は管が長いと言える。また、管の長さが同じであれば、閉管は開管の1/2の周波数の音、すなわち1オクターヴ低い音を得ることができる。 オカリナは管状でなく、不定形の空洞内部の空気が共振して音が発生する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "管楽器(かんがっき)は、旧来の楽器分類法における分類のひとつであり、吹奏楽器(すいそうがっき)ともいう。今日の楽器分類学においては気鳴楽器と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的には「呼気など空気の流れによって発音する楽器のうち、少なくとも一方の端が閉じられていない管の中の空気の振動を利用して音を出す楽器の総称」などと説明されているが、これは明らかな誤りである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「管」という文字は、単に楽器の共振系の形状を表しているに過ぎないし、後述のように管状ではない管楽器や、共振系を持たない管楽器も存在するから、正しくは「少なくとも1ヶ所の開口部を有する空洞に向かって吹き付けられた気体の流れによって生ずる振動を利用して音を出す楽器の総称」と定義すべきものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "そもそも「管楽器」に対応する印欧語は、例えば英語では「Wind instrument(風の楽器、息の楽器)」、ドイツ語では「Blasinstrument(吹く楽器)」、フランス語でも「Instrument à vent(風の楽器)」であるから、「管」状である必要など全くないのである。完全な誤訳であり、これが「オカリナは管楽器ではない」というような奇妙な誤解を生むもとにもなっている。文献によっては「管楽器」と呼ぶことを避け、ドイツ語に則って「吹奏楽器」と表記しており、こちらの方が明らかに適訳である。オルガンは本項の管楽器に分類されるが、演奏者の息ではなく機械で吹奏される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "管楽器はさらに木管楽器と金管楽器に分けられている。この両者は、古くは楽器の材質による区分であったが、現在では発音原理によって区別され、唇の振動によって音を出すものを金管楽器、それ以外の管楽器を木管楽器としている。このため今日のフルートはほとんどが金属で作られているにもかかわらず木管楽器に分類されるなど、名と体の不一致が生じている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "吹き込まれた空気によって楽器または人体の一部、あるいは空気そのものが振動して振動源となる。", "title": "振動源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これらのうち、リップリードの管楽器を金管楽器と呼び、それ以外を木管楽器と呼ぶ。楽器の材質とは関係がない。", "title": "振動源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "上記のようにして発生した振動に対して、楽器の空洞内部の空気が共振して音が発生する。空洞は管状とは限らない。ハーモニカのように、共振系を持たないものもある。", "title": "共振系" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "閉管とは管の一方が閉じられている管のことで、開管とは両方が閉じられていない管のことである。閉管構造の筒(共鳴体)は共鳴構造が管長の倍になり、同じ長さを持つ開管の筒よりもおよそ1オクターヴ低い音が出る。この時その共鳴体は奇数倍音のみが鳴っている。適当なパイプの一方の端を唇に当てて吹く音と、その一方の端を掌で叩いて塞ぐ音を聞き比べるとわかる。", "title": "共振系" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ただし、管が円錐形になっていて、広い方の口が閉じられていない管は、円筒の開管と同様に偶数倍音も鳴るので開管楽器に分類される。現代の西洋音楽の管楽器ではクラリネット属だけが閉管楽器である(クラリネットの管は、先端だけは広がっているが、他の部分はほとんど太さが一定で、ほぼ円筒形になっている)。オルガンにも閉管構造を持つ音栓(ストップ)があり、これは特有の音色を得るためだけでなく、管の長さを短くすることが出来るので、設置場所の節約にもなる。またフルートの特殊奏法であるタングラム (tongue ram, tongue stop) は、本来開管構造である楽器の一方を唇や舌で塞いだ状態で閉管として響かせることにより、短音やトレモロではあるが通常より長7度低い音を得ることが出来る(正確に1オクターヴ下でないのは、楽器の共鳴体の形状に起因するズレである)。", "title": "共振系" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "発音体の振動に対して管の中の空気が共振して音波が発生する。 このとき発生する音波は、", "title": "共振系" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "が波長と等しくなる条件で共鳴しようとする。音波の周波数と波長は反比例の関係がある。また、音波の周波数と波長をかけ算したものは音波の伝播速度(音速)にほかならない。", "title": "共振系" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "とすると、", "title": "共振系" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "共振系" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一般に、高音楽器は管が短く、低音楽器は管が長いと言える。また、管の長さが同じであれば、閉管は開管の1/2の周波数の音、すなわち1オクターヴ低い音を得ることができる。", "title": "共振系" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "オカリナは管状でなく、不定形の空洞内部の空気が共振して音が発生する。", "title": "共振系" } ]
管楽器(かんがっき)は、旧来の楽器分類法における分類のひとつであり、吹奏楽器(すいそうがっき)ともいう。今日の楽器分類学においては気鳴楽器と呼ばれる。
{{出典の明記|date=2023年5月}} '''管楽器'''(かんがっき)は、旧来の[[楽器分類法]]における[[分類]]のひとつであり、'''吹奏楽器'''(すいそうがっき)ともいう。今日の[[楽器分類学]]においては[[気鳴楽器]]と呼ばれる。 == 概要 == 一般的には「呼気など[[空気]]の流れによって発音する[[楽器]]のうち、少なくとも一方の端が閉じられていない[[パイプ|管]]の中の空気の[[振動]]を利用して[[音]]を出す楽器の総称」などと説明されているが、これは明らかな誤りである。 「管」という文字は、単に楽器の[[共振]]系の形状を表しているに過ぎないし、後述のように管状ではない管楽器や、共振系を持たない管楽器も存在するから、正しくは「少なくとも1ヶ所の開口部を有する空洞に向かって吹き付けられた[[気体]]の流れによって生ずる振動を利用して音を出す楽器の総称」と定義すべきものである。 そもそも「管楽器」に対応する印欧語は、例えば英語では「[[:en:Wind instrument|Wind instrument]](風の楽器、息の楽器)」、ドイツ語では「[[:de:Blasinstrument|Blasinstrument]](吹く楽器)」、フランス語でも「[[:fr:Instrument à vent|Instrument à vent]](風の楽器)」であるから、「管」状である必要など全くないのである。完全な誤訳<ref group="注釈">古来日本や中国には、「詩歌管絃」「管絃の響き」といったように管楽器という概念が存在したために、これがそのまま訳語として用いられたのであるが、「Wind instrument」の訳語として「管楽器」という言葉を充てるのは、「[[笛]]」=「管状」という先入観に基づく間違いである。</ref>であり、これが「[[オカリナ]]は管楽器ではない」というような奇妙な誤解を生むもとにもなっている。文献によっては「管楽器」と呼ぶことを避け、ドイツ語に則って「吹奏楽器」と表記しており<ref name="Ongakukougaku">H.F.オルソン(著), 平岡正徳(訳)『音楽工学』誠文堂新光社, 1969年</ref>、こちらの方が明らかに適訳である。[[オルガン]]は本項の管楽器に分類されるが、演奏者の息ではなく機械で吹奏される。 管楽器はさらに[[木管楽器]]と[[金管楽器]]に分けられている。この両者は、古くは楽器の材質による区分であったが、現在では発音原理によって区別され、[[唇]]の振動によって音を出すものを金管楽器、それ以外の管楽器を木管楽器としている。このため今日の[[フルート]]はほとんどが金属で作られているにもかかわらず木管楽器に分類されるなど、名と体の不一致が生じている。 == 振動源 == 吹き込まれた空気によって楽器または人体の一部、あるいは空気そのものが振動して振動源となる。 ;シングルリード(単簧) :一枚の薄い板([[リード (楽器)|リード]])に空気を吹き込むと、楽器の一部に当たっては戻りして振動する。[[クラリネット]]属、[[サクソフォーン]]属。 ;ダブルリード(複簧) :二枚のリードを合わせて間に空気を吹き込むと、リードが互いに当たっては戻りして振動する。[[オーボエ]]属、[[ファゴット]]属、[[篳篥]](ひちりき)。 ;フリーリード(自由簧) :自由に振動する薄い板に空気を吹き込んで振動させる。[[ハーモニカ]]、[[オルガン#リード・オルガン族|リードオルガン]]、[[笙]](しょう)。これらは管を使わないため、「管楽器」という日本語にはなじまないが、「吹奏楽器」と呼ぶなら何の問題もない。なお笙には竹管があるが、音程は簧で決まり、竹管の長さは関係ない。 ;エアリード(無簧) :吹き込まれた空気自体がリードとなって振動する。つまり目に見えるリードはない。空気の束(エアビーム)を楽器の角(エッジ)に当てると、空気の流れに乱れが生じて、これが振動源となる。[[フルート]]属、[[リコーダー]]、[[尺八]]、[[篠笛]]。 ;リップリード(唇簧) :唇を軽く合わせて間から息を吹き出すと、唇が振動する。ここに楽器の歌口を当てる。[[トランペット]]、[[ホルン]]、[[ホラガイ|ほら貝]]。 これらのうち、リップリードの管楽器を[[金管楽器]]と呼び、それ以外を[[木管楽器]]と呼ぶ。楽器の材質とは関係がない。 == 共振系 == 上記のようにして発生した振動に対して、楽器の空洞内部の空気が[[共振]]して音が発生する。空洞は管状とは限らない。ハーモニカのように、共振系を持たないものもある。 ===開管と閉管=== 閉管とは管の一方が閉じられている管のことで、開管とは両方が閉じられていない管のことである。閉管構造の筒(共鳴体)は共鳴構造が管長の倍になり、同じ長さを持つ開管の筒よりもおよそ1[[オクターヴ]]低い音が出る。この時その共鳴体は奇数倍音のみが鳴っている。適当なパイプの一方の端を唇に当てて吹く音と、その一方の端を掌で叩いて塞ぐ音を聞き比べるとわかる。 ただし、管が[[円錐]]形になっていて、広い方の口が閉じられていない管は、円筒の開管と同様に偶数倍音も鳴るので開管楽器に分類される。現代の[[西洋音楽]]の管楽器では[[クラリネット]]属だけが閉管楽器である(クラリネットの管は、先端だけは広がっているが、他の部分はほとんど太さが一定で、ほぼ円筒形になっている)。[[オルガン]]にも閉管構造を持つ音栓([[ストップ (オルガン)|ストップ]])があり、これは特有の音色を得るためだけでなく、管の長さを短くすることが出来るので、設置場所の節約にもなる。また[[フルート]]の特殊奏法であるタングラム (tongue ram, tongue stop) は、本来開管構造である楽器の一方を唇や舌で塞いだ状態で閉管として響かせることにより、短音やトレモロではあるが通常より長7度低い音を得ることが出来る(正確に1オクターヴ下でないのは、楽器の共鳴体の形状に起因するズレである)。 ; 音波の波長と周波数 発音体の振動に対して管の中の[[空気]]が共振して[[音波]]が発生する。 このとき発生する音波は、 :開管の場合、管の長さの4倍の偶数分の1(=管の長さの2倍の整数分の1) :閉管の場合、管の長さの4倍の奇数分の1 が[[波長]]と等しくなる条件で[[音響共鳴|共鳴]]しようとする。音波の[[周波数]]と波長は反比例の関係がある。また、音波の周波数と波長をかけ算したものは音波の伝播速度([[音速]])にほかならない。 :&lambda; = 波長(m) :f = 周波数([[ヘルツ (単位)|Hz]]) :''v'' = 音波の伝播速度(m/s) :''l'' = 管長(m) とすると、 :開管の場合:  <math>\lambda\! = {2l \over n}</math> , <math>\mathbf{f} = {nv \over 2l}</math>   (''n'' = 1以上の整数) :閉管の場合:  <math>\lambda\! = {4l \over o}</math> , <math>\mathbf{f} = {ov \over 4l}</math>   (''o'' = 1以上の奇数) となる。 一般に、高音楽器は管が短く、低音楽器は管が長いと言える。また、管の長さが同じであれば、閉管は開管の1/2の周波数の音、すなわち1オクターヴ低い音を得ることができる。 === 不定形の空洞 === [[オカリナ]]は管状でなく、不定形の空洞内部の空気が共振して音が発生する。 {{see|ヘルムホルツ共鳴器}} == 管楽器の特徴 == #管楽器の音は「管」の音ではなく管の中の空気柱の振動による音が主要部分を占めるので、管の材質や厚さは音の高さにほとんど影響を与えないばかりでなく、[[音色]]にも基本的には大きな影響は与えない。 #金管楽器は一端が徐々に広がっている(朝顔、ベル)が、これは管内部の空気柱の振動が効率よく周囲の空間に放射されるように音響インピーダンスの[[インピーダンス整合]]の意味がある。木管楽器ではこのしくみが全く無いか、あるいはあってもベルの広がり方が小さいので、一般に[[金管楽器]]の方が[[木管楽器]]よりも大きな音が出る。 #奏者の人体も楽音の音色に大きく影響している。一例を挙げれば、口腔内や咽頭部の内部空間の広げ方、響かせ方の違いが音色に大きく影響する。この点で人体も楽器の一部を構成しているといえる。 # 管は曲げることができる。曲げても音色に大きな影響はない。管を曲げる際には金属管の損傷を防ぐため、まずまっすぐな状態の管に[[水]]を充填し、それを凍らせた状態で曲げる。元々は熔かした[[鉛]]を用いていたが、冷凍技術が確立されてからは水が用いられるようになった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references/> {{音楽}} {{オーケストラの楽器}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんかつき}} [[Category:管楽器|*]] {{Musical-instrument-stub}}
2003-07-23T05:29:08Z
2023-10-16T12:39:33Z
false
false
false
[ "Template:See", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:音楽", "Template:オーケストラの楽器", "Template:Normdaten", "Template:Musical-instrument-stub", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E6%A5%BD%E5%99%A8
12,085
西武有楽町線
西武有楽町線(せいぶゆうらくちょうせん)は、東京都練馬区内の練馬駅 - 小竹向原駅間を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。路線名に「西武」を含む。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。主に、東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線と副都心線への直通列車が運行される。 旧都市交通審議会(現在の交通政策審議会)の答申第10号にある8号線(有楽町線)の一部であり、西武鉄道池袋線と東京メトロ有楽町線・副都心線を連絡している。 路線名に「有楽町」とついているが、これは都市交通審議会答申の8号線(有楽町線)の一部であることに由来するものであり、愛称や通称ではない。そのため、当路線だけで有楽町を経由しているわけではない。西武秩父線と同様に「西武」を含めた「西武有楽町線」が正式な路線名であるが、これは東京地下鉄の「有楽町線」と区別するためである。各駅の路線図などでも「西武」が省略されることはなく、「西武有楽町線」と表記されている。 練馬駅構内を除く全区間が地下にあり、踏切が存在しない。地下鉄乗り入れのために車内信号閉塞式 (ATC) を西武鉄道で唯一採用している。さらに、西武鉄道で唯一の全区間複線の路線でもある。起点は練馬駅であるが、列車運行上は小竹向原駅から練馬駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。 1970年5月22日に運輸審議会で認められると、同年5月25日に地方鉄道事業免許を取得し、1980年3月から建設工事を開始。当初の計画では、西武有楽町線練馬駅 - 小竹向原間の開業と営団地下鉄(当時)有楽町線営団成増(現・地下鉄成増) - 池袋間を同時に開業させ、西武池袋線と相互直通運転を開始する予定であった。 池袋線の高架建設に合わせてトンネルを建設、環七通りの地下に沿って路線を伸ばすことで、用地交渉にかける時間や用地費を抑えるという目論見であったが、練馬付近での工事が遅れたため、小竹向原から当初設置計画のなかった新桜台までの区間を先行して開業させることになった。 1983年10月1日に開業した当初の営業区間が小竹向原 - 新桜台間であり、他の西武鉄道の路線と接続していなかったことから、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)有楽町線の延伸区間のように扱われ、西武単独の駅でありながら、開業当初の新桜台駅構内のデザインや案内サインは営団仕様のもので統一した。 また、このときには西武鉄道が保有する車両を運行せずに、帝都高速度交通営団に保守費用などを支払い、営団7000系電車10両編成1本を借り受けて運行をしていた。この時点では保安装置も営団ATCを使用し、列車無線も誘導無線を使用した。乗務員に関しては営団職員の乗り入れは行わず、自社乗務員を配備し小竹向原駅で交代したほか、新桜台駅の業務も西武鉄道が直接行った。 1983年の部分開業から1998年の池袋線直通までは、日中1時間4本のサイクルダイヤであった。最初の新桜台 - 小竹向原間の建設費用は247億円で、1 km あたり167億円と高額になった。 現在は本路線を経由して飯能駅 - 新木場駅間(東京メトロ有楽町線)ならびに飯能駅 - 元町・中華街駅間(副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線)で相互直通運転を行っており、もっぱら池袋線と東京メトロ線をつなぐ連絡線的な役割となっている。 線内のみ運転の列車は設定されておらず、全列車が池袋線石神井公園以西を始発・終着としている。また小竹向原駅が起終点となる列車は上下の初電・終電各1往復と平日ダイヤの朝下り小手指行き1本のみで、それ以外の列車は東京メトロ線と直通運転を実施している。 列車種別はS-TRAIN・快速急行(Fライナーを含む)・快速・準急・各駅停車があり、以下の区間に設定されているが、本路線内はS-TRAINと快速急行を除いた全列車が各駅に停車する。S-TRAINは、平日ダイヤに下り列車が練馬駅に停車するのみで、それ以外は練馬駅での保安装置切り替え(ATC⇔ATS)、小竹向原駅での保安装置切り替えと乗務員交代に伴う運転停車(客扱い無し)のみとなる。 朝の最小運転間隔は2分、日中は1時間あたり8本程度運転でこのうち2本(おおむね30分おき)が快速急行、1本が準急である。 快速急行・快速・準急の全列車と一部の東京メトロ副都心線直通の各駅停車については小竹向原駅で種別変更を行う。 西武ドームでの野球開催時に限り、新木場・渋谷方面からの西武球場前行が運行される。池袋線との直通運転を開始した1998年シーズンから東京メトロ有楽町線直通、2008年6月14日から副都心線直通が設定され、新木場・渋谷発の西武球場前行が運転されるようになった。2013年3月16日以降は、元町・中華街発の西武球場前行きが設定され、横浜方面からの西武ドームアクセスが改善した。 以下の記述は2013年3月16日改正のダイヤに基づく。 使用車両は後節を参照。このうち自社の6000系で運転される場合は先頭車の前面にヘッドマークが装着されていることもある(40000系では不明)。このヘッドマークは埼玉西武ライオンズの球団ロゴマークのヘッドマークの使用が多いが、場合によっては埼玉西武ライオンズのチーム応援キャンペーンや埼玉西武ライオンズの人気選手の応援企画の特製ヘッドマークを掲出して運転されることもある。さらに、プロ野球オープン戦やパ・リーグ公式戦開幕・オールスターゲーム・プレーオフ・日本シリーズといった試合の開催時には、開催記念の特製ヘッドマークを掲出して運転されることもある。 1998年の運行開始当初は夏休みやゴールデンウィークなどの限られた期間中の野球開催日に新木場発の清瀬行を延長する形で下り2本だけの運転であったが、2001年頃のダイヤ改正から西武線の野球開催時の増発ダイヤに組み込まれ、西武ドームでの公式戦全試合やオープン戦などの野球開催時に上下数本が運行されるようになった。 なお、車両運用上の都合や折り返し時間の関係等により、本来のダイヤ上では東京メトロの車両で運転される列車を西武の車両(6000系および40000系)に車種変更して運行することがある。例として事前に小手指駅(車種変更を行う折り返し駅)で東京メトロの車両から西武の車両(6000系および40000系)に車両交換を行い、本来の東京メトロの車両は小手指の車庫に入る(車種変更を行う折り返し駅によっては小手指または武蔵丘の車庫まで回送される)。車両交換後の西武の車両は所定の新木場行(または元町・中華街行)として運行、折り返し西武球場前行(延長運転による行先変更。この例では本来の所沢行からの変更)となり、同駅到着後に西所沢経由で小手指(または武蔵丘の車庫)へ回送し、入れ替わりに本来の新木場行(または元町・中華街行)用に事前に車両交換した東京メトロの車両を所沢駅(本来の車両運用での折り返し駅)まで回送し、本来の運用に戻して運行する。 1999年シーズンのオールスターゲーム開催時には、当時西武ライオンズに所属していた松坂大輔(1本目)と松井稼頭央(2本目)の特製ヘッドマークが掲出された新木場発の西武球場前行が西武線内急行として2本運転された(地下鉄線内は各停、西武線内は新桜台、練馬、石神井公園、以後池袋線急行停車駅と同一)。 2018年9月20日・21日には、千葉マリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ対埼玉西武ライオンズの試合に合わせ、所沢発西武有楽町線・東京メトロ有楽町線経由のS-TRAIN104号・106号豊洲行が、マリンスタジアム最寄駅の海浜幕張駅まで直通するJR京葉線との連絡駅の新木場駅まで延長運転された。 同様に西武ドームでのコンサートや主要イベントの開催時にも新木場発や元町・中華街発の西武球場前行が運転されることがある。 線内に折り返し設備がないこともあり、本路線以外にも池袋線・東京メトロ有楽町線・副都心線・東武東上線・東急東横線・みなとみらい線で事故・各種トラブルなどによるダイヤ乱れが発生し、池袋線と東京メトロ線の直通運転が中止された場合、本路線は全線運休となる。 本路線が乗り入れ用連絡線であるとはいえ、運行回復のために一路線がまるごと運休することは日本の鉄道路線ではまれである。この場合は本路線唯一の途中駅である新桜台駅には長時間列車が来ないことになり、同駅の利用者は池袋線江古田駅(約0.6km)・桜台駅(約0.7km)あるいは小竹向原駅(約1.1km)・東京メトロ線氷川台駅(約0.9km)を利用することになる。 当線の保安装置の関係上、地下鉄乗り入れ対応車 (ATC) 以外の車両の運転ができない。 東京地下鉄(東京メトロ) 東急電鉄・横浜高速鉄道 東京地下鉄(東京メトロ) 平日ダイヤにおいて、始発から9時30分まで小竹向原駅に発着する全ての有楽町線・副都心線直通列車の最後部車両1号車が女性専用車となる。練馬方面行ならびに土休日ダイヤでは実施されない。女性客以外にも、小学6年生までの児童とその保護者、及び身体障害者とその付き添いの者についても女性専用車への乗車が認められている。ダイヤ乱れなどの不測の事態が発生すると、女性専用車の実施を中止することがある。実施区間は次の通り。 2013年(平成25年)3月15日までは、7時20分から9時20分まで小竹向原駅に発着する列車が女性専用車となっていたが、その翌日から副都心線が東急東横線・みなとみらい線との相互直通運転開始に伴い、相互直通運転実施事業者間での実施内容統一を図るため同年3月18日から現在の形になった。なお、「S-TRAIN」については女性専用車が設定されない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "西武有楽町線(せいぶゆうらくちょうせん)は、東京都練馬区内の練馬駅 - 小竹向原駅間を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。路線名に「西武」を含む。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。主に、東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線と副都心線への直通列車が運行される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "旧都市交通審議会(現在の交通政策審議会)の答申第10号にある8号線(有楽町線)の一部であり、西武鉄道池袋線と東京メトロ有楽町線・副都心線を連絡している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "路線名に「有楽町」とついているが、これは都市交通審議会答申の8号線(有楽町線)の一部であることに由来するものであり、愛称や通称ではない。そのため、当路線だけで有楽町を経由しているわけではない。西武秩父線と同様に「西武」を含めた「西武有楽町線」が正式な路線名であるが、これは東京地下鉄の「有楽町線」と区別するためである。各駅の路線図などでも「西武」が省略されることはなく、「西武有楽町線」と表記されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "練馬駅構内を除く全区間が地下にあり、踏切が存在しない。地下鉄乗り入れのために車内信号閉塞式 (ATC) を西武鉄道で唯一採用している。さらに、西武鉄道で唯一の全区間複線の路線でもある。起点は練馬駅であるが、列車運行上は小竹向原駅から練馬駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1970年5月22日に運輸審議会で認められると、同年5月25日に地方鉄道事業免許を取得し、1980年3月から建設工事を開始。当初の計画では、西武有楽町線練馬駅 - 小竹向原間の開業と営団地下鉄(当時)有楽町線営団成増(現・地下鉄成増) - 池袋間を同時に開業させ、西武池袋線と相互直通運転を開始する予定であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "池袋線の高架建設に合わせてトンネルを建設、環七通りの地下に沿って路線を伸ばすことで、用地交渉にかける時間や用地費を抑えるという目論見であったが、練馬付近での工事が遅れたため、小竹向原から当初設置計画のなかった新桜台までの区間を先行して開業させることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1983年10月1日に開業した当初の営業区間が小竹向原 - 新桜台間であり、他の西武鉄道の路線と接続していなかったことから、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)有楽町線の延伸区間のように扱われ、西武単独の駅でありながら、開業当初の新桜台駅構内のデザインや案内サインは営団仕様のもので統一した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、このときには西武鉄道が保有する車両を運行せずに、帝都高速度交通営団に保守費用などを支払い、営団7000系電車10両編成1本を借り受けて運行をしていた。この時点では保安装置も営団ATCを使用し、列車無線も誘導無線を使用した。乗務員に関しては営団職員の乗り入れは行わず、自社乗務員を配備し小竹向原駅で交代したほか、新桜台駅の業務も西武鉄道が直接行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1983年の部分開業から1998年の池袋線直通までは、日中1時間4本のサイクルダイヤであった。最初の新桜台 - 小竹向原間の建設費用は247億円で、1 km あたり167億円と高額になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在は本路線を経由して飯能駅 - 新木場駅間(東京メトロ有楽町線)ならびに飯能駅 - 元町・中華街駅間(副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線)で相互直通運転を行っており、もっぱら池袋線と東京メトロ線をつなぐ連絡線的な役割となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "線内のみ運転の列車は設定されておらず、全列車が池袋線石神井公園以西を始発・終着としている。また小竹向原駅が起終点となる列車は上下の初電・終電各1往復と平日ダイヤの朝下り小手指行き1本のみで、それ以外の列車は東京メトロ線と直通運転を実施している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "列車種別はS-TRAIN・快速急行(Fライナーを含む)・快速・準急・各駅停車があり、以下の区間に設定されているが、本路線内はS-TRAINと快速急行を除いた全列車が各駅に停車する。S-TRAINは、平日ダイヤに下り列車が練馬駅に停車するのみで、それ以外は練馬駅での保安装置切り替え(ATC⇔ATS)、小竹向原駅での保安装置切り替えと乗務員交代に伴う運転停車(客扱い無し)のみとなる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "朝の最小運転間隔は2分、日中は1時間あたり8本程度運転でこのうち2本(おおむね30分おき)が快速急行、1本が準急である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "快速急行・快速・準急の全列車と一部の東京メトロ副都心線直通の各駅停車については小竹向原駅で種別変更を行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "西武ドームでの野球開催時に限り、新木場・渋谷方面からの西武球場前行が運行される。池袋線との直通運転を開始した1998年シーズンから東京メトロ有楽町線直通、2008年6月14日から副都心線直通が設定され、新木場・渋谷発の西武球場前行が運転されるようになった。2013年3月16日以降は、元町・中華街発の西武球場前行きが設定され、横浜方面からの西武ドームアクセスが改善した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以下の記述は2013年3月16日改正のダイヤに基づく。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "使用車両は後節を参照。このうち自社の6000系で運転される場合は先頭車の前面にヘッドマークが装着されていることもある(40000系では不明)。このヘッドマークは埼玉西武ライオンズの球団ロゴマークのヘッドマークの使用が多いが、場合によっては埼玉西武ライオンズのチーム応援キャンペーンや埼玉西武ライオンズの人気選手の応援企画の特製ヘッドマークを掲出して運転されることもある。さらに、プロ野球オープン戦やパ・リーグ公式戦開幕・オールスターゲーム・プレーオフ・日本シリーズといった試合の開催時には、開催記念の特製ヘッドマークを掲出して運転されることもある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1998年の運行開始当初は夏休みやゴールデンウィークなどの限られた期間中の野球開催日に新木場発の清瀬行を延長する形で下り2本だけの運転であったが、2001年頃のダイヤ改正から西武線の野球開催時の増発ダイヤに組み込まれ、西武ドームでの公式戦全試合やオープン戦などの野球開催時に上下数本が運行されるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なお、車両運用上の都合や折り返し時間の関係等により、本来のダイヤ上では東京メトロの車両で運転される列車を西武の車両(6000系および40000系)に車種変更して運行することがある。例として事前に小手指駅(車種変更を行う折り返し駅)で東京メトロの車両から西武の車両(6000系および40000系)に車両交換を行い、本来の東京メトロの車両は小手指の車庫に入る(車種変更を行う折り返し駅によっては小手指または武蔵丘の車庫まで回送される)。車両交換後の西武の車両は所定の新木場行(または元町・中華街行)として運行、折り返し西武球場前行(延長運転による行先変更。この例では本来の所沢行からの変更)となり、同駅到着後に西所沢経由で小手指(または武蔵丘の車庫)へ回送し、入れ替わりに本来の新木場行(または元町・中華街行)用に事前に車両交換した東京メトロの車両を所沢駅(本来の車両運用での折り返し駅)まで回送し、本来の運用に戻して運行する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1999年シーズンのオールスターゲーム開催時には、当時西武ライオンズに所属していた松坂大輔(1本目)と松井稼頭央(2本目)の特製ヘッドマークが掲出された新木場発の西武球場前行が西武線内急行として2本運転された(地下鉄線内は各停、西武線内は新桜台、練馬、石神井公園、以後池袋線急行停車駅と同一)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2018年9月20日・21日には、千葉マリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ対埼玉西武ライオンズの試合に合わせ、所沢発西武有楽町線・東京メトロ有楽町線経由のS-TRAIN104号・106号豊洲行が、マリンスタジアム最寄駅の海浜幕張駅まで直通するJR京葉線との連絡駅の新木場駅まで延長運転された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同様に西武ドームでのコンサートや主要イベントの開催時にも新木場発や元町・中華街発の西武球場前行が運転されることがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "線内に折り返し設備がないこともあり、本路線以外にも池袋線・東京メトロ有楽町線・副都心線・東武東上線・東急東横線・みなとみらい線で事故・各種トラブルなどによるダイヤ乱れが発生し、池袋線と東京メトロ線の直通運転が中止された場合、本路線は全線運休となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "本路線が乗り入れ用連絡線であるとはいえ、運行回復のために一路線がまるごと運休することは日本の鉄道路線ではまれである。この場合は本路線唯一の途中駅である新桜台駅には長時間列車が来ないことになり、同駅の利用者は池袋線江古田駅(約0.6km)・桜台駅(約0.7km)あるいは小竹向原駅(約1.1km)・東京メトロ線氷川台駅(約0.9km)を利用することになる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当線の保安装置の関係上、地下鉄乗り入れ対応車 (ATC) 以外の車両の運転ができない。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "東京地下鉄(東京メトロ)", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東急電鉄・横浜高速鉄道", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "東京地下鉄(東京メトロ)", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "平日ダイヤにおいて、始発から9時30分まで小竹向原駅に発着する全ての有楽町線・副都心線直通列車の最後部車両1号車が女性専用車となる。練馬方面行ならびに土休日ダイヤでは実施されない。女性客以外にも、小学6年生までの児童とその保護者、及び身体障害者とその付き添いの者についても女性専用車への乗車が認められている。ダイヤ乱れなどの不測の事態が発生すると、女性専用車の実施を中止することがある。実施区間は次の通り。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2013年(平成25年)3月15日までは、7時20分から9時20分まで小竹向原駅に発着する列車が女性専用車となっていたが、その翌日から副都心線が東急東横線・みなとみらい線との相互直通運転開始に伴い、相互直通運転実施事業者間での実施内容統一を図るため同年3月18日から現在の形になった。なお、「S-TRAIN」については女性専用車が設定されない。", "title": "女性専用車" } ]
西武有楽町線(せいぶゆうらくちょうせん)は、東京都練馬区内の練馬駅 - 小竹向原駅間を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。路線名に「西武」を含む。駅ナンバリングで使われる路線記号はSI。主に、東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線と副都心線への直通列車が運行される。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 西武有楽町線 |路線色=#ef810f |ロゴ=File:Seibu ikebukuro logo.svg |ロゴサイズ=50px |画像=Seibu-Yurakucho-line Series6000-6016.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=[[新桜台駅]]に到着する[[西武6000系電車|6000系]]<br />(2022年10月) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]][[練馬区]] |起点=[[練馬駅]]<ref name="youran" /> |終点=[[小竹向原駅]] |駅数=3駅 |輸送実績= |1日利用者数= |路線記号=SI |開業={{start date and age|1983|10|1}} |全通={{start date and age|1994|12|7}} |休止= |廃止= |所有者=[[西武鉄道]] |運営者=西武鉄道 |車両基地=[[小手指車両基地]]・[[武蔵丘車両基地]]<br />[[和光検車区]](東京メトロ車)<br />[[元住吉検車区]](東急・横浜高速鉄道車) |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=2.6 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式=車内信号閉塞式 |保安装置=[[自動列車制御装置#ATC-4型|CS-ATC(ATC-4型)]] |最高速度=90 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="datebook">[[#datebook|寺田裕一『データブック 日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年) p.59]]</ref> |最小曲線半径 = 250 [[メートル|m]]<ref name="datebook"/> |最大勾配 = 35.0 [[パーミル|‰]]<ref name="datebook"/> |路線図= |路線図名= |路線図表示= }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ef810f}} {{BS-table}} {{BS3|||tKHSTa|||[[元町・中華街駅]]}} {{BS3|||tLSTR|||[[横浜高速鉄道]]:[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]}} {{BS3|||tHSTe@f|||[[横浜駅]]}} {{BS3|||LSTR|||[[東京急行電鉄|東急]]:[[東急東横線|東横線]]}} {{BS3|KHSTa||tSTRa|||[[新木場駅]]}} {{BS3|tSTRa||tHST|||[[渋谷駅]]}} {{BS3|tLSTR||tLSTR|O3=POINTERg@fq|||東京地下鉄:副都心線}} {{BS3|tSTRl|O1=POINTERf@gq|tABZ+lr|tSTRr|||東京地下鉄:有楽町線}} {{BS3||tBHF||0.0|SI37 [[小竹向原駅]]}} {{BS3||tABZgr||||←[[東京地下鉄]]:[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]}} {{BS3||tBHF||1.2|SI38 [[新桜台駅]]}} {{BS3||htSTRe||}} {{BS3||hABZg+l||||池袋線→}} {{BS3||hSTR|tSTR+l|||[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]→}} {{BS3||hBHF|O2=HUBaq|tBHF|O3=HUBeq|2.6|SI06 [[練馬駅]]}} {{BS3|tSTRq|hKRZt|tSTRr|||←都営大江戸線}} {{BS3||hABZgr||||←[[西武豊島線|豊島線]]}} {{BS3||LSTR||||[[西武池袋線|池袋線]]}} {{BS3||KHSTe||||[[飯能駅]]}} |} |} '''西武有楽町線'''(せいぶゆうらくちょうせん)は、[[東京都]][[練馬区]]内の[[練馬駅]] - [[小竹向原駅]]間を結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。路線名に「西武」を含む。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SI'''。主に、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]と[[東京メトロ副都心線|副都心線]]への直通列車が運行される。 == 概要 == [[File:Shinsakuradai-Sta-3.JPG|thumb|250px|西武唯一の地下路線(新桜台駅)]] [[File:Shin-sakuradai Platform.JPG|thumb|250px|壁の黄色は地下鉄有楽町線のラインカラーに合わせていた開業当時の名残(新桜台駅)]] 旧[[都市交通審議会]](現在の[[交通政策審議会]])の[[都市交通審議会答申第10号|答申第10号]]にある8号線(有楽町線)の一部であり、西武鉄道[[西武池袋線|池袋線]]と東京メトロ[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]を連絡している。 路線名に「[[有楽町]]」とついているが、これは都市交通審議会答申の8号線(有楽町線)の一部であることに由来するものであり、愛称や通称ではない。そのため、当路線だけで有楽町を経由しているわけではない。[[西武秩父線]]と同様に「西武」を含めた「'''西武有楽町線'''」が正式な路線名であるが、これは東京地下鉄の「有楽町線」と区別するためである。各駅の路線図などでも「西武」が省略されることはなく、「西武有楽町線」と表記されている。 [[練馬駅]]構内を除く全区間が地下にあり、[[踏切]]が存在しない。地下鉄乗り入れのために車内信号閉塞式 ([[自動列車制御装置|ATC]]) を西武鉄道で唯一採用している。さらに、西武鉄道で唯一の全区間複線の路線でもある。起点は練馬駅であるが<ref name="youran" />、列車運行上は小竹向原駅から練馬駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。 === 路線データ === *路線距離([[営業キロ]]):2.6 km *[[軌間]]:1067 mm *駅数:3駅(起終点駅含む) *[[複線]]区間:全線 *電化区間:全線(直流1500 V [[架空電車線方式]]) *[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号閉塞式 *最高速度:90 km/h<ref name="datebook"/> *建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]) *2020年度の混雑率:76%(新桜台駅→小竹向原駅 7:32-8:32)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref> == 歴史 == [[1970年]][[5月22日]]に運輸審議会で認められると、同年[[5月25日]]に[[地方鉄道法|地方鉄道]]事業免許を取得し、[[1980年]]3月から建設工事を開始<ref name="Drive1983-12">[[日本鉄道運転協会]]『運転協会誌』1983年12月号「西武有楽町線新桜台 - 小竹向原間開業」pp.2 - 3 。</ref>。当初の計画では、西武有楽町線練馬駅 - [[小竹向原駅|小竹向原]]間の開業と営団地下鉄(当時)有楽町線営団成増(現・[[地下鉄成増駅|地下鉄成増]]) - 池袋間を同時に開業させ<ref name="Drive1983-12"/>、西武池袋線と相互直通運転を開始する予定であった<ref name="Drive1983-12"/>。 池袋線の高架建設に合わせてトンネルを建設、[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]の地下に沿って路線を伸ばすことで、用地交渉にかける時間や用地費を抑えるという目論見であったが<ref>都心へ直通『朝日新聞』昭和45年5月23日朝刊、12版、23面</ref>、[[練馬駅|練馬]]付近での工事が遅れたため、[[小竹向原駅|小竹向原]]から当初設置計画のなかった[[新桜台駅|新桜台]]までの区間を先行して開業させることになった<ref name="TRTA">帝都高速度交通営団「東京地下鉄道有楽町線建設史」参照。</ref><ref name="Drive1983-12"/>。 [[1983年]][[10月1日]]に開業した当初の営業区間が小竹向原 - 新桜台間であり、他の西武鉄道の路線と接続していなかったことから、[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]])有楽町線の延伸区間のように扱われ、西武単独の駅でありながら、開業当初の新桜台駅構内のデザインや案内サインは営団仕様のもので統一した。 また、このときには西武鉄道が保有する車両を運行せずに、帝都高速度交通営団に保守費用などを支払い、[[営団7000系電車]]10両編成1本を借り受けて運行をしていた<ref name="Drive1983-12"/><ref name="Yurakucho-Const958">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.327。</ref>。この時点では保安装置も[[自動列車制御装置|営団ATC]]を使用し、[[列車無線]]も[[誘導無線]]を使用した<ref name="Yurakucho-Const958"/>。[[乗務員]]に関しては営団職員の乗り入れは行わず、自社乗務員を配備し小竹向原駅で交代したほか<ref name="Yurakucho-Const958"/>、新桜台駅の業務も西武鉄道が直接行った。 1983年の部分開業から[[1998年]]の池袋線直通までは、日中1時間4本のサイクルダイヤであった。最初の新桜台 - 小竹向原間の建設費用は247億円で、1 km あたり167億円と高額になった<ref name="Drive1983-12"/>。 === 年表 === * [[1968年]]([[昭和]]43年)[[9月5日]] - 営団地下鉄と西武鉄道との間で列車の相互直通運転に関する[[覚書]]が交わされる。 ** この時点では[[1973年]](昭和48年)の相互直通運転開始を予定し、有楽町線は向原(仮称) - 明石町(現・[[新富町駅]])間・西武線は向原(仮称) - [[清瀬駅]]間で直通運転することを計画した<ref name="Yurakucho-Const381">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.381 - 382。</ref>。 * [[1970年]](昭和45年)[[5月25日]] - 練馬 - 向原(仮称)間の地方鉄道敷設免許取得。 * [[1980年]](昭和55年)3月 - 建設工事に着手<ref name="Drive1983-12"/>。 * [[1983年]](昭和58年)[[10月1日]] - 新桜台 - 小竹向原間(1.2km)開業。小竹向原駅より帝都高速度交通営団(営団地下鉄)有楽町線との[[直通運転]]を開始する<ref name="Yurakucho-Const958"/>。 ** この時点では、当路線は西武鉄道の他路線と接続しておらず、営団車両のみで運行<ref name="Yurakucho-Const958"/>。 * [[1994年]]([[平成]]6年)[[12月7日]] - [[練馬駅|練馬]] - 新桜台間(1.4km)、暫定的に下り線のみの単線で開業(練馬駅付近の高架化工事が遅れたため)。同日営業開始の営団有楽町線新線との直通運転実施。 ** この時点では練馬駅折り返しとされ、池袋線との直通は行われなかった。ただし線路自体は池袋線と接続されたため、自社車両([[西武6000系電車|6000系]])の使用を開始。 * [[1998年]](平成10年)[[3月26日]] - 練馬駅高架化工事の完成に伴い、練馬 - 新桜台間を複線化(全線複線化)、[[西武池袋線|池袋線]]との直通運転を開始。 * [[2004年]](平成16年)[[4月1日]] - 営団改組により、直通運転先が東京地下鉄(東京メトロ)となる。 * [[2005年]](平成17年)[[10月31日]] - 乗り入れ先である池袋線及び東京メトロ有楽町線と合わせ、平日朝ラッシュ時間帯に女性専用車を導入。 * [[2008年]](平成20年)[[6月14日]] - [[東京メトロ副都心線]]との相互直通運転を開始。 * [[2011年]](平成23年)[[10月4日]] - 8時54分ごろ、小竹向原駅でコンクリート落下による信号ケーブル切断が発生し、17時過ぎまで運休。 * [[2013年]](平成25年)[[3月16日]] - 東京メトロ副都心線を介して[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]との相互直通運転開始。路線図で使用するラインカラーを紫色から池袋線と同じ柿色に変更(一部広告等では池袋線と区別するために紫色が使われる場合がある)。「快速急行」を新設(西武有楽町線内は各駅に停車)。 * 2013年(平成25年)[[3月18日]] - 平日における女性専用車の実施時間帯を拡大。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]] - 快速急行([[Fライナー]]含む)の停車駅から新桜台駅が除外される。 == 運行形態 == 現在は本路線を経由して[[飯能駅]] - [[新木場駅]]間([[東京メトロ有楽町線]])ならびに飯能駅 - [[元町・中華街駅]]間([[東京メトロ副都心線|副都心線]]・[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]])で相互直通運転を行っており、もっぱら池袋線と東京メトロ線をつなぐ[[連絡線]]的な役割となっている。 線内のみ運転の列車は設定されておらず、全列車が池袋線[[石神井公園駅|石神井公園]]以西を始発・終着としている。また小竹向原駅が起終点となる列車は上下の初電・終電各1往復と平日ダイヤの朝下り小手指行き1本のみで、それ以外の列車は東京メトロ線と直通運転を実施している。 列車種別は[[S-TRAIN]]・[[快速急行]]([[Fライナー]]を含む)・[[快速列車|快速]]・[[準急列車|準急]]・[[各駅停車]]があり、以下の区間に設定されているが、本路線内はS-TRAINと快速急行を除いた全列車が各駅に停車する。S-TRAINは、平日ダイヤに下り列車が練馬駅に停車するのみで、それ以外は練馬駅での保安装置切り替え([[自動列車制御装置|ATC]]⇔[[自動列車停止装置|ATS]])、小竹向原駅での保安装置切り替えと乗務員交代に伴う[[運転停車]](客扱い無し)のみとなる。 朝の最小運転間隔は2分、日中は1時間あたり8本程度運転でこのうち2本(おおむね30分おき)が快速急行、1本が準急である。 * '''S-TRAIN''' ** 平日:[[小手指駅]](終着のみ)・[[所沢駅]](始発のみ) - [[豊洲駅]]間 ** 土曜/休日:[[西武秩父駅]]・飯能駅・所沢駅(終着のみ) - 元町・中華街駅間 * '''快速急行'''(日中運転) ** 小手指駅 - 元町・中華街駅間 *: 一部飯能駅・所沢駅発着、新木場駅始発がある。 * '''快速'''(朝夕運転) ** 飯能駅・小手指駅 - 元町・中華街駅間 ** 飯能駅・小手指駅 - 新木場駅間 *: 一部所沢駅(臨時のみ[[西武球場前駅]])終着がある。 * '''準急'''(終日運転) ** 飯能駅・小手指駅 - 元町・中華街駅間(朝夕のみ) ** 石神井公園駅 - 元町・中華街駅間(日中のみ) ** 飯能駅(終着・朝夕のみ)・小手指駅 - 新木場駅間 *: 一部所沢駅発着、[[保谷駅]]・[[清瀬駅]]終着がある。 * '''各駅停車'''(終日運転) ** 石神井公園駅 - 元町・中華街駅間 ** 小手指駅・清瀬駅・保谷駅 - 新木場駅間 *: このほか飯能駅・所沢駅・[[小竹向原駅]]・[[武蔵小杉駅]]・[[元住吉駅]]・菊名駅・[[横浜駅]](臨時のみ西武球場前駅)発着がある。 快速急行・快速・準急の全列車と一部の東京メトロ副都心線直通の各駅停車については小竹向原駅で種別変更を行う。 {| class="wikitable" |+2023年3月18日改正ダイヤの日中の運行パターン |- ! 種別\駅名 !池袋線方面<br />直通先 ! style="width:1em;"|{{縦書き|練馬|height=6em}} ! … ! style="width:1em;"|{{縦書き|小竹向原|height=6em}} !有楽町線・副都心線方面<br />直通先 ! 備考 |- style="text-align:center;" | style="background:#c9f;"|([[Fライナー]])<br>快速急行 | style="text-align:right;"|小手指… | colspan="3" style="background:#c9f;"| 2本 | style="text-align:left;"|…元町・中華街 | <small>副都心線内</small> (Fライナー)急行<br /><small>東横線・みなとみらい線内</small> (Fライナー)特急 |- style="text-align:center;" | style="background:#afa;"|準急 | style="text-align:right;"|石神井公園← | colspan="3" style="background:#afa;"| 下り<small>のみ</small>1本 | style="text-align:left;"|←元町・中華街 | <small>副都心線・東横線・みなとみらい線内</small> 各停 |- style="text-align:center;" | rowspan="3" style="background:#ddd;"|各停 | style="text-align:right;"|石神井公園… | colspan="3" style="background:#ddd;"| 下り1本<br />上り2本 | style="text-align:left;"|…元町・中華街 | <small>副都心線・東横線・みなとみらい線内</small> 各停 |- style="text-align:center;" | style="text-align:right;"|保谷… | colspan="3" style="background:#ddd;"| 2本 | style="text-align:left;"|…新木場 | <small>有楽町線内</small> 各停 |- style="text-align:center;" | style="text-align:right;"|小手指… | colspan="3" style="background:#ddd;"| 2本 | style="text-align:left;"|…新木場 | <small>有楽町線内</small> 各停 |} === 西武ドームへの観客輸送 === [[西武ドーム]]での野球開催時に限り、新木場・渋谷方面からの[[西武球場前駅|西武球場前]]行が運行される。池袋線との直通運転を開始した[[1998年]]シーズンから東京メトロ有楽町線直通、[[2008年]][[6月14日]]から副都心線直通が設定され、新木場・渋谷発の西武球場前行が運転されるようになった。2013年3月16日以降は、元町・中華街発の西武球場前行きが設定され、横浜方面からの西武ドームアクセスが改善した。 以下の記述は2013年3月16日改正のダイヤに基づく。 * 行き(西武球場前行き)の列車 *: 新木場発(平日ナイトゲーム開催日のみ)は所沢行きの各停を延長する形で1本、元町・中華街発は快速所沢行き(平日)の延長、快速急行小手指行き(土曜・休日)の運転変更により、いずれも西武線内は快速としてデーゲーム開催日は2本、ナイトゲーム開催日は1本運転される<ref>なお快速急行から快速に変更の際は、新桜台駅にも停車する。(快速急行が新桜台駅通過となったため)</ref>。土曜・休日デーゲーム開催日の元町・中華街発2本のうち、1本目は東京地下鉄の車両、2本目は東京急行電鉄(東急)の車両の10両編成で運転される。ナイトゲーム開催日は新木場発、元町・中華街発ともに自社車両の10両編成となる。 * 帰り(西武球場前発)の列車 *: 新木場行き(平日ナイトゲーム開催日のみ)は保谷始発の各停を延長する形で1本、元町・中華街行き(平日ナイトゲーム、土曜・休日デーゲーム開催日のみ)は平日は保谷始発の各停、土曜・休日は清瀬始発の各停を延長する形でそれぞれ1本設定されている。新木場行きは東京地下鉄の車両の10両編成、元町・中華街行きは東急または横浜高速鉄道の車両の8両編成である。 使用車両は[[#使用車両|後節]]を参照。このうち自社の6000系で運転される場合は先頭車の前面に[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]が装着されていることもある(40000系では不明)。このヘッドマークは[[埼玉西武ライオンズ]]の球団[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]のヘッドマークの使用が多いが、場合によっては埼玉西武ライオンズのチーム応援キャンペーンや埼玉西武ライオンズの人気選手の応援企画の特製ヘッドマークを掲出して運転されることもある。さらに、プロ野球[[オープン戦]]や[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]公式戦開幕・[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]・[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]・[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]といった試合の開催時には、開催記念の特製ヘッドマークを掲出して運転されることもある。 1998年の運行開始当初は[[夏休み]]や[[ゴールデンウィーク]]などの限られた期間中の野球開催日に新木場発の清瀬行を延長する形で下り2本だけの運転であったが、2001年頃のダイヤ改正から西武線の野球開催時の増発ダイヤに組み込まれ、西武ドームでの公式戦全試合やオープン戦などの野球開催時に上下数本が運行されるようになった。 なお、車両運用上の都合や折り返し時間の関係等により、本来のダイヤ上では東京メトロの車両で運転される列車を西武の車両(6000系および40000系)に車種変更して運行することがある。例として事前に小手指駅(車種変更を行う折り返し駅)で東京メトロの車両から西武の車両(6000系および40000系)に車両交換を行い、本来の東京メトロの車両は小手指の車庫に入る(車種変更を行う折り返し駅によっては小手指または武蔵丘の車庫まで回送される)。車両交換後の西武の車両は所定の新木場行(または元町・中華街行)として運行、折り返し西武球場前行(延長運転による行先変更。この例では本来の所沢行からの変更)となり、同駅到着後に西所沢経由で小手指(または武蔵丘の車庫)へ回送し、入れ替わりに本来の新木場行(または元町・中華街行)用に事前に車両交換した東京メトロの車両を所沢駅(本来の車両運用での折り返し駅)まで回送し、本来の運用に戻して運行する。 [[1999年]]シーズンのオールスターゲーム開催時には、当時西武ライオンズに所属していた[[松坂大輔]](1本目)と[[松井稼頭央]](2本目)の特製ヘッドマークが掲出された新木場発の西武球場前行が西武線内急行として2本運転された(地下鉄線内は各停、西武線内は新桜台、練馬、石神井公園、以後池袋線急行停車駅と同一)。 [[2018年]][[9月20日]]・[[9月21日|21日]]には、[[千葉マリンスタジアム]]での[[千葉ロッテマリーンズ]]対埼玉西武ライオンズの試合に合わせ、所沢発西武有楽町線・東京メトロ有楽町線経由のS-TRAIN104号・106号豊洲行が、マリンスタジアム最寄駅の[[海浜幕張駅]]まで直通する[[京葉線|JR京葉線]]との連絡駅の新木場駅まで延長運転された<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/180918_S-trainentyou.pdf|date = 2018-9-18|title = 埼玉西武ライオンズ 目指せ優勝!!S-TRAINを新木場まで延長運転します! |format = PDF|accessdate = 2019-10-26}}</ref>。 同様に西武ドームでのコンサートや主要イベントの開催時にも新木場発や元町・中華街発の西武球場前行が運転されることがある。 === 輸送障害時の全線運休措置 === 線内に折り返し設備がないこともあり、本路線以外にも池袋線・東京メトロ有楽町線・副都心線・[[東武東上本線|東武東上線]]・東急東横線・みなとみらい線で事故・各種トラブルなどによるダイヤ乱れが発生し、池袋線と東京メトロ線の直通運転が中止された場合、本路線は全線[[運休]]となる<ref>なおこの場合、練馬駅で接続する[[西武豊島線|豊島線]]も運休となる場合がある。当線からの池袋線各駅停車が運休となり、[[中村橋駅]]・[[富士見台駅]]・[[練馬高野台駅]]に停車する列車本数が減少するため、臨時に西武線池袋駅 - 豊島園駅間の各駅停車が[[石神井公園駅]]または[[保谷駅]]発着に立て替えられる措置が取られるためである。</ref>。 本路線が乗り入れ用連絡線であるとはいえ、運行回復のために一路線がまるごと運休することは日本の鉄道路線ではまれである。この場合は本路線唯一の途中駅である新桜台駅には長時間列車が来ないことになり、同駅の利用者は池袋線[[江古田駅]](約0.6km)・[[桜台駅 (東京都)|桜台駅]](約0.7km)あるいは[[小竹向原駅]](約1.1km)・東京メトロ線[[氷川台駅]](約0.9km)を利用することになる。 == 使用車両 == 当線の保安装置の関係上、地下鉄乗り入れ対応車 (ATC) 以外の車両の運転ができない。 === 自社車両 === ==== 現用車両 ==== *[[西武40000系電車|40000系]] - すべて10両編成。東京メトロ有楽町線(新木場方面)・副都心線(渋谷方面)いずれの直通列車にも使用。ただし、デュアルシート車(0番台)はS-TRAIN全列車と平日のS-TRAINの間合い運用となる有楽町線直通列車のみで運行される。 *[[西武6000系電車|6000系]] - すべて10両編成。東京メトロ有楽町線(新木場方面)・副都心線(渋谷方面)いずれの直通列車にも使用。 <gallery widths="160" heights="120"> File:Seibu40000wiki.jpg|40000系 File:Seibu-Ikebukuro-Line Series6000-6014.jpg|6000系 </gallery> === 乗り入れ車両 === ==== 現用車両 ==== '''東京地下鉄(東京メトロ)''' *[[東京メトロ17000系電車|17000系]] ** 10両は有楽町線・副都心線、8両は副都心線直通に使用。 *[[東京メトロ10000系電車|10000系]] ** 同上。但しこちらは8両編成も定期運用あり。 '''東急電鉄'''・'''横浜高速鉄道''' *[[東急5000系電車 (2代)|5000系]]・[[東急5000系電車 (2代)#5050系|5050系]]・[[横浜高速鉄道Y500系電車|Y500系]]・[[東急5000系電車 (2代)#5050系4000番台|5050系4000番台]] ** 5000系・5050系・Y500系は8両編成、5050系4000番台は10両編成<ref>2012年9月10日から2013年3月15日まで、先行運用で西武鉄道に貸し出された5050系4000番台が有楽町線直通列車にも使用されていた。</ref>。 <gallery widths="160" heights="120"> File:Tokyo-metro Series17000-17103.jpg|東京地下鉄17000系 File:Tokyo-metro Series10000-10119.jpg|東京地下鉄10000系 File:Tokyu5000series 5122f.jpg|東急5000系 File:Tokyu-Series5050-4000-4003.jpg|東急5050系4000番台 File:Yokohama-Minatomirai-Y500.jpg|横浜高速鉄道Y500系 </gallery> ==== 過去の車両 ==== '''東京地下鉄(東京メトロ)''' *[[営団07系電車|07系]] ** 副都心線開業とそれに伴うホームドア設置に非対応のため撤退。現在は[[東京メトロ東西線]]用である。 *[[営団7000系電車|7000系]] ** 10両は有楽町線・副都心線、8両は副都心線直通に使用。 <gallery widths="160" heights="120"> File:Series 07 of Tokyo Metro.jpg|東京地下鉄07系 File:Tokyo-metro-Series7000-7101.jpg|東京地下鉄7000系 </gallery> == 女性専用車 == 平日ダイヤにおいて、始発から9時30分まで[[小竹向原駅]]に発着する全ての有楽町線・副都心線直通列車の最後部車両1号車が[[女性専用車両|女性専用車]]となる。練馬方面行ならびに土休日ダイヤでは実施されない。女性客以外にも、小学6年生までの児童とその保護者、及び身体障害者とその付き添いの者についても女性専用車への乗車が認められている。ダイヤ乱れなどの不測の事態が発生すると、女性専用車の実施を中止することがある。実施区間は次の通り。 * 有楽町線直通列車:池袋線[[飯能駅]]から[[新木場駅]]まで * 副都心線直通列車:池袋線飯能駅→副都心線(全区間)→[[東急東横線]](全区間)→[[横浜高速鉄道みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]まで [[2013年]](平成25年)[[3月15日]]までは、7時20分から9時20分まで小竹向原駅に発着する列車が女性専用車となっていたが、その翌日から副都心線が東急東横線・みなとみらい線との相互直通運転開始に伴い、相互直通運転実施事業者間での実施内容統一を図るため同年[[3月18日]]から現在の形になった。なお、「S-TRAIN」については女性専用車が設定されない。 == 駅一覧 == * 小竹向原駅側から記述。正式な起点は練馬駅<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.100</ref>。 * 全駅[[東京都]][[練馬区]]内に所在。 * 停車駅 … ●: 停車、|: 通過、◇<!--東急東横線・副都心線・有楽町線と使用記号を合わせています-->:[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]、☆:平日下りのみ停車・降車のみ扱いそれ以外は運転停車 * 有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」は本路線を経由するが、平日夕方の下りを除き、練馬駅<ref>平日夕方の小手指行のみ、練馬駅で客扱いを行う。</ref>・小竹向原駅は運転停車のみ<ref>練馬駅は保安装置の切り替え([[自動列車停止装置|ATS]] ⇔ [[自動列車制御装置|ATC]])のため、小竹向原駅は乗務員交代のため。</ref>で、新桜台駅は通過するため、本路線内での乗降はできない。S-TRAINと快速急行以外の種別(準急・快速・急行〈臨時〉・各駅停車)は全て全駅に停車する。 * [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された。<ref>{{Cite press release|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf |title=西武線全駅で駅ナンバリングを導入します |publisher=西武鉄道|access-date=2012-4-25|date =2012-02-23|format=PDF|language =ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20120227104543/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf|archive-date=2012-2-27|deadlinkdate=2023-9-10}}</ref> * 小竹向原駅は西武鉄道で唯一の他社管理委託駅で東京メトロ(前身の帝都高速度交通営団含む)による管理駅である。<ref>なお、[[西武多摩川線|多摩川線]]の[[武蔵境駅]]は[[中央線快速|JR中央線]]とホームを共用していた2004年まで[[東日本旅客鉄道|JR東日本]](前身の[[日本国有鉄道]]含む)による管理駅であった。</ref> {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅番号 !style="width:6em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|累計キロ !style="background:#c9f; width:1em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|快速急行|height=5em}} !style="background:#fff; width:1em; border-bottom:solid 3px #ef810f;"|{{縦書き|S-TRAIN|height=8em}} !style="border-bottom:solid 3px #ef810f;"|接続路線 |- !SI37 |[[小竹向原駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fff;"|◇ |[[東京地下鉄]]:[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] (Y-06)('''[[新木場駅]]まで直通運転''')<br />・[[File:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|F]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]] (F-06)('''[[渋谷駅]]・ [[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線]][[横浜駅]]経由 [[ファイル:Number_prefix_Minatomirai.svg|18px|MM]] [[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]まで直通運転''') |- !SI38 |[[新桜台駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|1.2 |style="background:#c9f;"|| |style="background:#fff;"|| |&nbsp; |- !SI06 |[[練馬駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|2.6 |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fff;"|☆ |[[西武鉄道]]:[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] [[西武池袋線|池袋線]]('''[[飯能駅]]〈土休日のS-TRAINのみ [[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] [[西武秩父線]] [[西武秩父駅]]〉まで直通運転''')・[[ファイル:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] [[西武豊島線|豊島線]]<br />[[都営地下鉄]]:[[File:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-35) |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Seibu Yūrakuchō Line}} *[[日本の鉄道路線一覧]] == 参考文献 == * [[日本鉄道運転協会]]『運転協会誌』1983年12月号「西武有楽町線新桜台 - 小竹向原間開業」pp.2 - 3 (山田定次郎 西武鉄道(株)運輸計画部運転計画課) * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_yurakucho.html/|date=1996-07-31|title=東京地下鉄道有楽町線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Yurakucho-Const}} {{西武鉄道の路線}} {{DEFAULTSORT:せいふゆうらくちようせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|せいふゆうらくちよう]] [[Category:西武鉄道の鉄道路線|せいふゆうらくちよう]] [[Category:東京都の交通]]
2003-07-23T05:51:00Z
2023-12-27T15:08:08Z
false
false
false
[ "Template:UKrail-header2", "Template:BS-table", "Template:縦書き", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:西武鉄道の路線", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:BS3", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite press release", "Template:Cite book" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%9C%89%E6%A5%BD%E7%94%BA%E7%B7%9A
12,087
エレクトリックピアノ
エレクトリックピアノ(電気ピアノ)とは、ピアノと同様な鍵盤と、機械的な各種の発音機構を持ち、発音体の振動を集音機構(pick up)で電気信号に変換し、アンプとスピーカーから音を再生する鍵盤楽器である。普通のピアノと違い、アンプの駆動に電気を必要とする。略称は「エレピ」。発音は多種多様である。 鍵を押すと機械式ハンマーが金属弦、金属リード、またはワイヤー歯を叩き、それらを振動させる。この振動が磁気ピックアップによって電気信号へと変換され、電気信号は次演奏者と聴衆が聴き取るために十分大きな音量を作るために楽器アンプおよびラウドスピーカーへとつなげられる。シンセサイザーとは異なり、エレクトリックピアノは電子楽器(エレクトロニック楽器)ではない。それよりむしろ電気機械である。一部の初期エレクトリックピアノは昔ながらのピアノと同様に、音を生み出すための様々な長さのワイヤーを使用した。より小型のエレクトリックピアノは音を生み出すために短い鋼鉄の薄片を使用した。最初期のエレクトリックピアノは1920年代に発明された。1929年製造の「ネオ-ベヒシュタイン」エレクトリック・グランドピアノは最古のエレクトリックピアノの一つである。おそらく最古の弦を持たないモデルはロイド・ロアー(英語版)のヴィヴィ-トーン(英語版)クラヴィアであった。その他の特筆すべきエレクトリックピアノ製造業者にはボールドウィン・ピアノ・カンパニーとウーリッツァー社がある。 1929年、ドイツのピアノメーカーのベヒシュタインは世界恐慌で苦境に陥り、総合電機メーカー・シーメンスとノーベル賞科学者ヴァルター・ネルンストの助けを借りて、ポピュラー音楽向けの電気グランド・ピアノ「ネオ・ベヒシュタイン」を開発した。この楽器は別名「ジーメンス・ベヒシュテイン」とも呼ばれ、響板のアコースティックな音響増幅効果を電気的増幅に置き換えた最初の試みだった。なお熱化学で知られるネルンストが畑違いの楽器開発に関わった経緯は不明だが、ネルンストの共同研究者として、電子楽器研究で有名だった ハインリッヒ・ヘルツ研究所発振器研究グループからOskar Vierlingの名が挙がっている。Vierlingは他のピアノメーカー・アウグスト・フェルスターのための楽器開発も行っており、その成果は1937年Vierling-Förster pianoとして発売された。 第二次世界大戦後に、アメリカのハロルド・ローズが戦傷軍人が音楽演奏で生計を立てることができるように、廃棄された軍装品を利用して製作したのを始めとする。これが「ローズ・ピアノ (Rhodes Piano)」の原型となった。当初は需要を開拓できたとは言い難いが、やがてロックンロールなどの大音量で演奏される音楽が発展し、ピアノではドラムキットや管楽器、エレクトリックギターに音量では太刀打ちできなくなり、ハモンドオルガンやエレクトリックピアノの需要が生まれてくる。ピアノとは似て非なる新しい音色を面白がって使うミュージシャンも出現し、エレクトリックピアノはハロルド・ローズの権利を買い取ったフェンダーや、オルガンメーカーのウーリッツァーを始めとする様々なメーカーにより開発され、発展していくことになった。 日本では、家屋が狭い、床構造の強度が足りない、団地住まいで階段を運び上げられないなど、庶民の家庭では子女の教育にピアノを購入しようと思っても、住宅環境の制約から不可能なために、オルガンで代用されたりしたが、打鍵の感覚などがピアノとは全く異なる。家庭用の軽量な構造を持ったピアノということで、日本コロムビアは商標「エレピアン」を開発した。 日本のヤマハは、グランドピアノと同等の張弦構造を持つ、通称エレクトリック・グランドピアノ、CP-70、CP-80を開発した。既にソウル・ファンクミュージックなどで使用されていた、クラビネットにも似たアタックの独特の歪みが特徴で、アコースティック・グランドピアノよりも輝きのある音で、フュージョンやポピュラー全般に使用された。 1980年代に入るとPCM音源やFM音源の開発・実用化により、シンセサイザーの表現力が一挙に発展する。ヤマハが開発したFM音源方式シンセサイザーDX7に内蔵されたエレクトリックピアノ音色は、バラードなどによく使用され、独特のクリアな音色が重宝されている。大きく重い機械式エレクトリックピアノは、この波に呑み込まれて1980年代を以て新製品はほとんど開発されなくなってしまった。ローズ・ピアノもブランドをローランドへ売却。同社はデジタルピアノにローズのブランド名を付けた。サンプリング・テクノロジーや物理モデル音源の発展により、デジタルのエレクトリックピアノ音色は非常にリアルになったが、それでも機械式エレクトリックピアノを求める動きは大きい。2006年になり、ローズのブランド名で久々の機械式エレクトリックピアノ「ローズMk7」が発表になった。 前述のとおり、エレクトリックピアノの条件としては、弦や音叉などの機械的な発信器を演奏者が機械的操作により振動させ目的の周波数を取り出すことにある。上記の混同される楽器にそのような原理は無い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エレクトリックピアノ(電気ピアノ)とは、ピアノと同様な鍵盤と、機械的な各種の発音機構を持ち、発音体の振動を集音機構(pick up)で電気信号に変換し、アンプとスピーカーから音を再生する鍵盤楽器である。普通のピアノと違い、アンプの駆動に電気を必要とする。略称は「エレピ」。発音は多種多様である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "鍵を押すと機械式ハンマーが金属弦、金属リード、またはワイヤー歯を叩き、それらを振動させる。この振動が磁気ピックアップによって電気信号へと変換され、電気信号は次演奏者と聴衆が聴き取るために十分大きな音量を作るために楽器アンプおよびラウドスピーカーへとつなげられる。シンセサイザーとは異なり、エレクトリックピアノは電子楽器(エレクトロニック楽器)ではない。それよりむしろ電気機械である。一部の初期エレクトリックピアノは昔ながらのピアノと同様に、音を生み出すための様々な長さのワイヤーを使用した。より小型のエレクトリックピアノは音を生み出すために短い鋼鉄の薄片を使用した。最初期のエレクトリックピアノは1920年代に発明された。1929年製造の「ネオ-ベヒシュタイン」エレクトリック・グランドピアノは最古のエレクトリックピアノの一つである。おそらく最古の弦を持たないモデルはロイド・ロアー(英語版)のヴィヴィ-トーン(英語版)クラヴィアであった。その他の特筆すべきエレクトリックピアノ製造業者にはボールドウィン・ピアノ・カンパニーとウーリッツァー社がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1929年、ドイツのピアノメーカーのベヒシュタインは世界恐慌で苦境に陥り、総合電機メーカー・シーメンスとノーベル賞科学者ヴァルター・ネルンストの助けを借りて、ポピュラー音楽向けの電気グランド・ピアノ「ネオ・ベヒシュタイン」を開発した。この楽器は別名「ジーメンス・ベヒシュテイン」とも呼ばれ、響板のアコースティックな音響増幅効果を電気的増幅に置き換えた最初の試みだった。なお熱化学で知られるネルンストが畑違いの楽器開発に関わった経緯は不明だが、ネルンストの共同研究者として、電子楽器研究で有名だった ハインリッヒ・ヘルツ研究所発振器研究グループからOskar Vierlingの名が挙がっている。Vierlingは他のピアノメーカー・アウグスト・フェルスターのための楽器開発も行っており、その成果は1937年Vierling-Förster pianoとして発売された。", "title": "概歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後に、アメリカのハロルド・ローズが戦傷軍人が音楽演奏で生計を立てることができるように、廃棄された軍装品を利用して製作したのを始めとする。これが「ローズ・ピアノ (Rhodes Piano)」の原型となった。当初は需要を開拓できたとは言い難いが、やがてロックンロールなどの大音量で演奏される音楽が発展し、ピアノではドラムキットや管楽器、エレクトリックギターに音量では太刀打ちできなくなり、ハモンドオルガンやエレクトリックピアノの需要が生まれてくる。ピアノとは似て非なる新しい音色を面白がって使うミュージシャンも出現し、エレクトリックピアノはハロルド・ローズの権利を買い取ったフェンダーや、オルガンメーカーのウーリッツァーを始めとする様々なメーカーにより開発され、発展していくことになった。", "title": "概歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本では、家屋が狭い、床構造の強度が足りない、団地住まいで階段を運び上げられないなど、庶民の家庭では子女の教育にピアノを購入しようと思っても、住宅環境の制約から不可能なために、オルガンで代用されたりしたが、打鍵の感覚などがピアノとは全く異なる。家庭用の軽量な構造を持ったピアノということで、日本コロムビアは商標「エレピアン」を開発した。", "title": "概歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本のヤマハは、グランドピアノと同等の張弦構造を持つ、通称エレクトリック・グランドピアノ、CP-70、CP-80を開発した。既にソウル・ファンクミュージックなどで使用されていた、クラビネットにも似たアタックの独特の歪みが特徴で、アコースティック・グランドピアノよりも輝きのある音で、フュージョンやポピュラー全般に使用された。", "title": "概歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1980年代に入るとPCM音源やFM音源の開発・実用化により、シンセサイザーの表現力が一挙に発展する。ヤマハが開発したFM音源方式シンセサイザーDX7に内蔵されたエレクトリックピアノ音色は、バラードなどによく使用され、独特のクリアな音色が重宝されている。大きく重い機械式エレクトリックピアノは、この波に呑み込まれて1980年代を以て新製品はほとんど開発されなくなってしまった。ローズ・ピアノもブランドをローランドへ売却。同社はデジタルピアノにローズのブランド名を付けた。サンプリング・テクノロジーや物理モデル音源の発展により、デジタルのエレクトリックピアノ音色は非常にリアルになったが、それでも機械式エレクトリックピアノを求める動きは大きい。2006年になり、ローズのブランド名で久々の機械式エレクトリックピアノ「ローズMk7」が発表になった。", "title": "概歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前述のとおり、エレクトリックピアノの条件としては、弦や音叉などの機械的な発信器を演奏者が機械的操作により振動させ目的の周波数を取り出すことにある。上記の混同される楽器にそのような原理は無い。", "title": "混同されやすい楽器について" } ]
エレクトリックピアノ(電気ピアノ)とは、ピアノと同様な鍵盤と、機械的な各種の発音機構を持ち、発音体の振動を集音機構(pick up)で電気信号に変換し、アンプとスピーカーから音を再生する鍵盤楽器である。普通のピアノと違い、アンプの駆動に電気を必要とする。略称は「エレピ」。発音は多種多様である。 鍵を押すと機械式ハンマーが金属弦、金属リード、またはワイヤー歯を叩き、それらを振動させる。この振動が磁気ピックアップによって電気信号へと変換され、電気信号は次演奏者と聴衆が聴き取るために十分大きな音量を作るために楽器アンプおよびラウドスピーカーへとつなげられる。シンセサイザーとは異なり、エレクトリックピアノは電子楽器(エレクトロニック楽器)ではない。それよりむしろ電気機械である。一部の初期エレクトリックピアノは昔ながらのピアノと同様に、音を生み出すための様々な長さのワイヤーを使用した。より小型のエレクトリックピアノは音を生み出すために短い鋼鉄の薄片を使用した。最初期のエレクトリックピアノは1920年代に発明された。1929年製造の「ネオ-ベヒシュタイン」エレクトリック・グランドピアノは最古のエレクトリックピアノの一つである。おそらく最古の弦を持たないモデルはロイド・ロアーのヴィヴィ-トーンクラヴィアであった。その他の特筆すべきエレクトリックピアノ製造業者にはボールドウィン・ピアノ・カンパニーとウーリッツァー社がある。
{{Pathnav|ピアノ|frame=1}} {{distinguish|エレクトロニックピアノ}} {{出典の明記|date=2015年8月11日 (火) 09:11 (UTC)}} '''エレクトリックピアノ'''(電気ピアノ)とは、[[ピアノ]]と同様な鍵盤と、機械的な各種の発音機構を持ち、発音体の振動を[[ピックアップ (楽器)|集音機構(pick up)]]で電気信号に変換し、[[増幅器|アンプ]]と[[スピーカー]]から音を再生する[[鍵盤楽器]]である。普通のピアノと違い、アンプの駆動に電気を必要とする。略称は「エレピ」。発音は多種多様である。 鍵を押すと機械式ハンマーが金属弦、金属リード、またはワイヤー歯を叩き、それらを振動させる。この振動が[[ピックアップ (楽器)|磁気ピックアップ]]によって電気信号へと変換され、電気信号は次演奏者と聴衆が聴き取るために十分大きな音量を作るために[[アンプ (楽器用)|楽器アンプ]]および[[スピーカー|ラウドスピーカー]]へとつなげられる。[[シンセサイザー]]とは異なり、エレクトリックピアノは[[電子楽器]](エレクトロニック楽器)ではない。それよりむしろ電気機械である。一部の初期エレクトリックピアノは昔ながらのピアノと同様に、音を生み出すための様々な長さのワイヤーを使用した。より小型のエレクトリックピアノは音を生み出すために短い鋼鉄の薄片を使用した。最初期のエレクトリックピアノは1920年代に発明された。1929年製造の「ネオ-[[ベヒシュタイン]]」[[エレクトリック・グランドピアノ]]は最古のエレクトリックピアノの一つである。おそらく最古の弦を持たないモデルは{{仮リンク|ロイド・ロアー|en|Lloyd Loar}}の{{仮リンク|ヴィヴィ-トーン|en|Vivi-Tone}}クラヴィアであった。その他の特筆すべきエレクトリックピアノ製造業者には[[ボールドウィン・ピアノ・カンパニー]]と[[ウーリッツァー]]社がある。 == 概歴 == {|class="wikitable" style="clear:right;float:right;border:0;margin:0 0 0px 20px;" |- |style="line-height:14px;padding-left:5px;"|[[ファイル:NeoBechstein Flügel.jpg|110px]]<br/><small>Neo-Bechstein (1929)</small> |style="border:0; "| |style="line-height:14px;padding-left:5px;width:130px;"|[[ファイル:Vierlang-Forster electric piano (1937).jpg|130px]]<br/><small>Vierling-Förster piano (1937)</small> |} 1929年、ドイツのピアノメーカーの[[ベヒシュタイン]]は世界恐慌で苦境に陥り、総合電機メーカー・[[シーメンス]]とノーベル賞科学者[[ヴァルター・ネルンスト]]の助けを借りて、ポピュラー音楽向けの電気[[グランド・ピアノ]]「ネオ・ベヒシュタイン」を開発した。この楽器は別名「ジーメンス・ベヒシュテイン」とも呼ばれ、[[響板]]のアコースティックな音響増幅効果を電気的増幅に置き換えた最初の試みだった。なお熱化学で知られるネルンストが畑違いの楽器開発に関わった経緯は不明だが、ネルンストの共同研究者として、電子楽器研究で有名だった ハインリッヒ・ヘルツ研究所発振器研究グループからOskar Vierlingの名が挙がっている。Vierlingは他のピアノメーカー・[[アウグスト・フェルスター]]のための楽器開発も行っており、その成果は1937年Vierling-Förster pianoとして発売された。 [[ファイル:Prepiano.png|thumb|upright|Rhodes Pre-Piano (1946)]] 第二次世界大戦後に、アメリカのハロルド・ローズが[[傷痍軍人|戦傷軍人]]が音楽演奏で生計を立てることができるように、廃棄された軍装品を利用して製作したのを始めとする。これが「'''[[ローズ・ピアノ]]''' (Rhodes Piano)」の原型となった。当初は需要を開拓できたとは言い難いが、やがて[[ロックンロール]]などの大音量で演奏される音楽が発展し、ピアノではドラムキットや管楽器、[[エレクトリックギター]]に音量では太刀打ちできなくなり、[[ハモンドオルガン]]やエレクトリックピアノの需要が生まれてくる。ピアノとは似て非なる新しい音色を面白がって使うミュージシャンも出現し、エレクトリックピアノはハロルド・ローズの権利を買い取った[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]や、[[オルガン]]メーカーの[[ウーリッツァー]]を始めとする様々なメーカーにより開発され、発展していくことになった。 日本では、家屋が狭い、床構造の強度が足りない、団地住まいで階段を運び上げられないなど、庶民の家庭では子女の教育にピアノを購入しようと思っても、住宅環境の制約から不可能なために、[[オルガン]]で代用されたりしたが、打鍵の感覚などがピアノとは全く異なる。家庭用の軽量な構造を持ったピアノということで、日本コロムビアは商標「エレピアン」を開発した。 日本の[[ヤマハ]]は、グランドピアノと同等の張弦構造を持つ、通称エレクトリック・グランドピアノ、[[ヤマハ・CPシリーズ|CP-70、CP-80]]を開発した。既に[[ソウルミュージック|ソウル]]・[[ファンク]]ミュージックなどで使用されていた、[[クラビネット]]にも似たアタックの独特の歪みが特徴で、アコースティック・グランドピアノよりも輝きのある音で、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]や[[ポピュラー音楽|ポピュラー]]全般に使用された。 1980年代に入ると[[PCM音源]]や[[FM音源]]の開発・実用化により、シンセサイザーの表現力が一挙に発展する。ヤマハが開発した[[FM音源]]方式シンセサイザーDX7に内蔵されたエレクトリックピアノ音色は、バラードなどによく使用され、独特のクリアな音色が重宝されている。大きく重い機械式エレクトリックピアノは、この波に呑み込まれて1980年代を以て新製品はほとんど開発されなくなってしまった。ローズ・ピアノもブランドを[[ローランド]]へ売却。同社はデジタルピアノにローズのブランド名を付けた。サンプリング・テクノロジーや[[物理モデル音源]]の発展により、デジタルのエレクトリックピアノ音色は非常にリアルになったが、それでも機械式エレクトリックピアノを求める動きは大きい。2006年になり、ローズのブランド名で久々の機械式エレクトリックピアノ「ローズMk7」が発表になった。 == 混同されやすい楽器について == *[[エレクトロニックピアノ]] - アナログの発信器により音が合成されるピアノ。 *[[デジタルピアノ]] - デジタル回路の発信器や半導体メモリーに録音された音を出力するピアノ。 *[[シンセサイザー]] - 音の合成がより自由にできる鍵盤楽器。内部設定でピアノの音も入っている場合があるが、鍵盤の入力の強さ検出は必須ではない。 *[[電子ピアノ]] - 電子的な発信器や半導体メモリーに記録された音を出力するピアノ全般。 *[[オンド・マルトノ]] - 開発者[[モーリス・マルトノ]]が[[1931年]]に来日した際、新聞に「電波ピヤノ」という紹介記事が書かれた。動作原理はシンセサイザーと類似しているが、ピアノの音を出力する機能は無い。鍵盤部には音の強さを検出する機構は無く、左側の引き出しに収納された「トゥッシュ」と呼ばれるボタンで行う。 前述のとおり、エレクトリックピアノの条件としては、弦や音叉などの機械的な発信器を演奏者が機械的操作により振動させ目的の周波数を取り出すことにある。上記の混同される楽器にそのような原理は無い。 == 発音方式 == ; 打弦式 :通常の[[ピアノ]]と同様な、弦をハンマーで叩くメカニズムを用いる方式。弦の振動をピエゾ素子または電磁ピックアップで電気信号に変換し、アンプで増幅して音を鳴らす。響板は多くの場合省略される。1929年ネオ・[[:en:C. Bechstein Pianofortefabrik|ベヒシュタイン]]で初めて実現され、次いでVierling-Förster pianoに採用された。 :代表的機種: [[ヤマハ・CPシリーズ|ヤマハ・CP-80]]、[[クラビネット|ホーナー・クラビネット]]、[[河合楽器製作所|カワイ]]、[[ボールドウィン・ピアノ・カンパニー|Baldwin]]、[[:en:Helpinstill|Helpinstill]] ; 金属片を叩く方式 :代表的機種: [[ウーリッツァー・エレクトリックピアノ|ウーリッツァー]]、コロムビア・エレピアン、ホーナー・エレクトラピアノ ; 音叉を叩く方式 :代表的機種: [[ローズ・ピアノ|Rhodes]] ; 金属片を弾く方式 :代表機種: ホーナー・チェンバレット(ゴム製プレクトラムで弾く))、ピアネット(鍵盤に吸い上げられた金属片が弾性で離れて振動) ; 發弦式 :古典鍵盤楽器[[チェンバロ]]と同様な、弦をピックではじく方式。 :代表機種: ボールドウィン・エレクトリック・ハープシコード [[Image:Fender Rhodes.jpg|thumb|upright|フェンダー・ローズ]] [[Image:Wurlitzer 200a.png|thumb|upright|ウーリッツァーピアノ Wurlitzer 200A]] == 代表的なエレクトリックピアノ == ===[[ローズ・ピアノ]] (フェンダーローズ・ピアノ)=== : トーンジェネレータと呼ばれる片持ち梁状の金属片をハンマーで叩き、その振動で近傍のバーという一種の[[音叉]]のような共鳴体が共振することで、鋭い打撃音と長く伸びる減衰音から鳴る独特の音色を発音する。生の音は正弦波に近い特徴ある、澄んだ、なおかつアタックの強い音を発生するが、ピアノに内蔵のトーンコントロールの調整や、アンプを[[オーバードライブ]]気味に歪ませた時の低音のうなるような力強い音は独特な印象を与える。1970年代以降独特の音が認知され、エレクトリックピアノを代表する楽器となる。 ===[[ウーリッツァーピアノ]]=== : リード(振動板)を叩く構造。ローズと比べてピアノに近いアクションを持ち、スピーカーを内蔵しているが、ローズより軽量。1960年代後半から1970年代中盤にかけて広く使われた。[[カーペンターズ]]、[[スモール・フェイセス]]、[[スーパートランプ]]、[[ダニー・ハサウェイ]]などで有名なほか、[[クイーン (バンド)|クイーン]]の「[[マイ・ベスト・フレンド]]」でも演奏されている。 [[ファイル:RMI368X2.jpg|thumb|upright|<span style="font-size:90%;">RMI <!-- 368X -->エレクトラピアノ</span>]] ===[[RMIエレクトラピアノ]]=== : 電子発振式のため、正確には初期の[[エレクトロニックピアノ]]の範疇に入る。1960年代後半から1970年代前半にかけて、同様の目的でロックやジャズで幅広く用いられた楽器。[[クルーマー|CRUMAR]]など、様々な電子オルガンメーカーが同様の楽器を生産した。 ===ホーナー・エレクトラピアノ=== : [[アップライトピアノ]]のようなボディに、ウーリッツァーに似たアクションとローズに似たリードを装備する。[[レッド・ツェッペリン]]の[[ジョン・ポール・ジョーンズ (ミュージシャン)|ジョン・ポール・ジョーンズ]]が愛用した。非常に稀少なもの。大音量のロックバンドで演奏するには些か繊細に過ぎる音色であったため、ジョーンズはツアーにはローズ・ピアノを持ち出した。 ===ホーナー・ピアネット=== : 調律された金属片を、鍵盤に取り付けられたゴム製の吸盤で吸い上げ、金属片が反発力で離れて振動し、発音する。多少の強弱を付けて演奏することが可能。[[ビートルズ]]や[[ゾンビーズ]]、[[ジェネシス (バンド)|ジェネシス]]など、1960年代後半から1970年代前半には広く使われた。1970年代末には[[クラビネット]]に組み込まれた。 [[ファイル:Clavinet d6.jpg|thumb|upright|<span style="font-size:90%;">ホーナー・クラビネット <!-- D6 --></span>]] ===ホーナー・[[クラビネット]]=== : ホーナー・チェンバレット(金属片を鍵盤に取り付けられたゴム製のプレクトラムで弾いて発音)が少数生産に終わった後、開発された楽器。ピアノの祖先である[[クラヴィコード]]の機構を簡略化し、[[ピックアップ (楽器)|マグネティックピックアップ]]を取り付けたもの。タンジェントが弦を突き上げるクラヴィコードと異なり、鍵盤裏に取り付けられた突起が弦を金属製フレームに叩き付けて発音する。ギター的なプレイに向いており、ソウル、ファンク、ロックで幅広く使われた。 ===[[日本コロムビア|コロムビア]]・エレピアン=== : リード(振動板)を、通常のフェルトハンマーで叩く構造。元祖フェンダーローズにも似た音色を発する。 : アンプ部にはイヤフォン出力があり、演奏音のリスナーを演奏者自身に限定できるという、今日の[[電子ピアノ#サイレントピアノ|ヤマハ・サイレントピアノ]]のさきがけのような機能も備えていた。 : この点を評価したものかどうかは不明であるが、当時の雑誌広告によれば、[[ルドルフ・ゼルキン]]が1964年に来日した際、エレピアンに触れて「グッド・アイデア!」と連発したという<small>[https://web.archive.org/web/20160304215454/http://blogs.yahoo.co.jp/thatseurobeat/36624028.html 昭和之雜誌廣告・ナツカシモノ]</small>。 : また、アンプ部には外部音声入力も備えられており、アンプ内蔵スピーカーとして使うことができたほか、演奏音と外部音声をミキシングすることもできた。 : 後には「電子ピアノ」に移行した。現在同社は電子楽器製造からは撤退している。 [[ファイル:Yamaha CP-70M ready to play.jpg|thumb|upright|ヤマハ CP-70M]] ===[[ヤマハ・CPシリーズ|ヤマハCP-70、CP-80]]=== : 実際に張弦構造を持ち、ハンマーで打弦した振動をピエゾ(圧電式)ピックアップで検出する。CP-70、80は2つに分解することが可能で、運搬・マイキングが容易かつリアルな音の得られるグランドピアノとして開発されたが、その音色は今までにない独特なものとなり、人気を得ることとなった。ローズは[[ヤマハ]][[ヤマハ・DXシリーズ|DX7]]などに駆逐されたが、この楽器の音はシンセでは再現しにくいものだったため、1980年代後半までよく使われた。 == シンセサイザーの有名なエレクトリックピアノ音色 == [[ファイル:YAMAHA_DX7.jpg|thumb|upright|ヤマハ DX7]] ; ヤマハ[[ヤマハ・DXシリーズ|DX7]] : [[FM音源]]を搭載した[[デジタルシンセサイザー]]。エレクトリックピアノのプリセット音色が秀逸であることで知られ、ポップスをはじめとして幅広いジャンルで使用された。独特の透明感ときらびやかな響きを持つ音色はこの機種の大きなセールスポイントとなり、しばしば[[1980年代]]を象徴するサウンドとも評される。現在でも根強い人気があり、後発のシンセサイザーやサンプラーなどにDX7のエレクトリックピアノを再現したものが収録されている例も多い。 : なおDX7には工場出荷時点の基本データだけでもエレクトリックピアノのプリセットが多数収録されているが、一般的に「DX7のエレピ」と呼ばれるのはプリセット11番の音色を指すことが多い。 [[ファイル:Korg M1.jpg|thumb|upright|コルグ M1]] ; [[コルグ・Mシリーズ|コルグM1]] : [[PCM音源]]を搭載したシンセサイザー。アタックに重みがある独特の音色で、はっきりとした力強い音像が特徴である。[[コルグ・TRINITY|TRINITY]]やX5Dなどの後発のシンセサイザーにも波形が移植されており、ほぼ同等のサウンドで演奏することが可能。 ; ローランド [[ローランド・JDシリーズ|JD-800]] : [[PCM音源]]を搭載したシンセサイザー。強いアタックと金属を叩いたような硬質感を持った特徴的な音がする。同社の[[ローランド・RDシリーズ|RDシリーズ]]に代表されるステージピアノに比べ、激しい曲調の中でも埋もれにくい明朗なサウンドを生かして[[ハウス_(音楽)|ハウス・ミュージック]]などの[[電子音楽]]で多用される傾向にある。 : 特にプリセット53番の音色が広く知られており、[[小室哲哉]]が[[1990年代]]中頃、楽曲に好んで使用していたことでも有名となった。例として[[TRF]]の「Boy Meets Girl」のイントロでJD-800のエレクトリックピアノの音を聞くことができる。後のローランドのシンセサイザー[[ローランド・Fantomシリーズ|Fantomシリーズ]]だけでなく、[[ヤマハ]]の[[ヤマハ・EOSシリーズ|EOS B2000]]など他社のシンセサイザーにもサンプリングされたものが収録されている。 {{節スタブ}} ==関連項目== *[[電子ピアノ]] *[[電子オルガン]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えれくとりつくひあの}} [[Category:鍵盤楽器]] [[Category:ピアノ]] [[Category:電気楽器]]
2003-07-23T08:39:48Z
2023-09-25T23:18:34Z
false
false
false
[ "Template:Pathnav", "Template:Distinguish", "Template:出典の明記", "Template:仮リンク", "Template:節スタブ", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E
12,089
アヌビス
アヌビス(Anubis, エジプト語ラテン文字転写:inpu, 古代ギリシア語: Ἄνουβις (Ánūbis)、アヌービス)は、エジプト神話に登場する冥界の神で、リコポリスの守護神。「聖地の主人」(nb-ta-djsr)、「自らの山に居る者」(tpi-dju=f)、「ミイラを布で包む者」(imiut)などの異名を持つ。 エジプトの中でも比較的に古い時期から崇拝されていたミイラづくりの神であり、アフリカンゴールデンウルフの頭部を持つ半獣もしくはオオカミそのものの姿で描かれた。これは古代エジプトにおいて、墓場の周囲を徘徊する犬またはオオカミの様子を見て、死者を守ってくれているのだと考えられたからである。また、そもそもアヌビスはセトのモデルとなった動物と同じく、オオカミや犬と似てはいるが現在は絶滅してしまった別のイヌ科の動物や想像上の動物がモデルであるとする説もある。その身体はミイラ製造時に防腐処理のために遺体にタールを塗りこみ黒くなるのに関連して真っ黒だった。 アヌビスは、セトの妻にして妹であるネフティス(この女神も死者やミイラとの関連が深い)が兄のオシリスとの不倫によって身篭もった子で、セトが敵視していたオシリスの子であるから誕生後はすぐにネフティスによって葦の茂みに隠された。 オシリスがセトに殺された時はオシリスの遺体に防腐処理を施してミイラにしたとされ、そのためアヌビスはミイラ作りの監督官とされ、実際にミイラを作ったり死者を冥界へと導く祝詞をあげたりする際にアヌビスの仮面を被って作業が行われた(このミイラ製造に携わる仮面をかぶった職人ないし神官はストゥムと呼ばれた)。ひいては医学の神ともされている。また死んだ人間の魂(バー)を速やかに冥界へと運ぶために足がとても速いとされる。 またオシリスが冥界アアルの王となる以前の冥界を支配、管理しておりオシリスが冥界の王となった後も彼を補佐してラーの天秤を用いて死者の罪を量る役目を担い、その様子は『死者の書』や墓の壁面などに描かれている。 エジプトがプトレマイオス朝にギリシアに併合されてからは、エジプト神話とギリシア美術との融合がおこった。これはインドやアフガニスタンでガンダーラ美術が発生したのと同様である。バチカン美術館にはヘレニズム化されたアヌビス像があり、ギリシア神話の智慧の神ヘルメスと融合して、ヘルマニビスともいわれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アヌビス(Anubis, エジプト語ラテン文字転写:inpu, 古代ギリシア語: Ἄνουβις (Ánūbis)、アヌービス)は、エジプト神話に登場する冥界の神で、リコポリスの守護神。「聖地の主人」(nb-ta-djsr)、「自らの山に居る者」(tpi-dju=f)、「ミイラを布で包む者」(imiut)などの異名を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "エジプトの中でも比較的に古い時期から崇拝されていたミイラづくりの神であり、アフリカンゴールデンウルフの頭部を持つ半獣もしくはオオカミそのものの姿で描かれた。これは古代エジプトにおいて、墓場の周囲を徘徊する犬またはオオカミの様子を見て、死者を守ってくれているのだと考えられたからである。また、そもそもアヌビスはセトのモデルとなった動物と同じく、オオカミや犬と似てはいるが現在は絶滅してしまった別のイヌ科の動物や想像上の動物がモデルであるとする説もある。その身体はミイラ製造時に防腐処理のために遺体にタールを塗りこみ黒くなるのに関連して真っ黒だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アヌビスは、セトの妻にして妹であるネフティス(この女神も死者やミイラとの関連が深い)が兄のオシリスとの不倫によって身篭もった子で、セトが敵視していたオシリスの子であるから誕生後はすぐにネフティスによって葦の茂みに隠された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "オシリスがセトに殺された時はオシリスの遺体に防腐処理を施してミイラにしたとされ、そのためアヌビスはミイラ作りの監督官とされ、実際にミイラを作ったり死者を冥界へと導く祝詞をあげたりする際にアヌビスの仮面を被って作業が行われた(このミイラ製造に携わる仮面をかぶった職人ないし神官はストゥムと呼ばれた)。ひいては医学の神ともされている。また死んだ人間の魂(バー)を速やかに冥界へと運ぶために足がとても速いとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "またオシリスが冥界アアルの王となる以前の冥界を支配、管理しておりオシリスが冥界の王となった後も彼を補佐してラーの天秤を用いて死者の罪を量る役目を担い、その様子は『死者の書』や墓の壁面などに描かれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "エジプトがプトレマイオス朝にギリシアに併合されてからは、エジプト神話とギリシア美術との融合がおこった。これはインドやアフガニスタンでガンダーラ美術が発生したのと同様である。バチカン美術館にはヘレニズム化されたアヌビス像があり、ギリシア神話の智慧の神ヘルメスと融合して、ヘルマニビスともいわれる。", "title": "その他" } ]
アヌビスは、エジプト神話に登場する冥界の神で、リコポリスの守護神。「聖地の主人」(nb-ta-djsr)、「自らの山に居る者」(tpi-dju=f)、「ミイラを布で包む者」(imiut)などの異名を持つ。
{{otheruseslist|エジプト神話に登場する冥界の神|ゲーム作品およびその登場兵器|ZONE OF THE ENDERS|小惑星|アヌビス (小惑星)}} {{Infobox deity |type = Egyptian |name = アヌビス<br/>Anubis |image = Anubis standing.svg |image_seize = 150px |alt = |caption = |deity_of = {{small|冥界の神、死神、ミイラ作りの神}} |hiro = <hiero>i-n:p-w-C6</hiero><br />または<br /><hiero>i-n:p-w-E16</hiero> |cult_center = [[アシュート|リコポリス]]、{{仮リンク|シノポリス|en|Cynopolis}} |symbol = ミイラの包帯、[[ジャッカル]] |consort = [[アンプト]] |parents = [[セト]]、[[ネフティス]]、[[オシリス]] |siblings = [[ウプウアウト]] |offspring = {{仮リンク|ケベチェト|en|Kebechet}} }} {{Egyptian mythology}} '''アヌビス'''('''Anubis''', [[エジプト語]]ラテン文字転写:inpu, {{lang-grc|Ἄνουβις}} (Ánūbis)、アヌービス)は、[[エジプト神話]]に登場する[[冥界]]の[[神]]で、[[アシュート|リコポリス]]の[[守護神]]。「聖地の主人」(nb-ta-djsr)、「自らの山に居る者」(tpi-dju=f)、「ミイラを布で包む者」(imiut)などの異名を持つ。 == 概要 == エジプトの中でも比較的に古い時期から崇拝されていたミイラづくりの神であり、[[アフリカンゴールデンウルフ]]の頭部を持つ半獣もしくはオオカミそのものの姿で描かれた。{{efn|従来は[[キンイロジャッカル]]がアヌビスのモデルとなる動物だと考えられていたが、キンイロジャッカルのうちアフリカに生息するものはジャッカルよりもオオカミに近い種であると判明し、2015年にアフリカキンイロオオカミ([[アフリカンゴールデンウルフ]])へと再分類された。}}<br />これは古代エジプトにおいて、墓場の周囲を徘徊する犬またはオオカミの様子を見て、死者を守ってくれているのだと考えられたからである。また、そもそもアヌビスはセトのモデルとなった動物と同じく、オオカミや犬と似てはいるが現在は絶滅してしまった別の[[イヌ科]]の動物や想像上の動物がモデルであるとする説もある。その身体は[[ミイラ]]製造時に防腐処理のために遺体に[[タール]]を塗りこみ黒くなるのに関連して真っ黒だった。 === エジプト神話 === アヌビスは、[[セト]]の妻にして妹である[[ネフティス]](この女神も死者やミイラとの関連が深い)が兄の[[オシリス]]との不倫によって身篭もった子で、セトが敵視していたオシリスの子であるから誕生後はすぐにネフティスによって葦の茂みに隠された。 オシリスがセトに殺された時はオシリスの遺体に防腐処理を施してミイラにしたとされ、そのためアヌビスはミイラ作りの監督官とされ、実際にミイラを作ったり死者を冥界へと導く[[祝詞]]をあげたりする際にアヌビスの[[仮面]]を被って作業が行われた(このミイラ製造に携わる仮面をかぶった職人ないし[[神官]]は'''ストゥム'''と呼ばれた)。ひいては医学の神ともされている。また死んだ人間の[[魂]](バー)を速やかに冥界へと運ぶために足がとても速いとされる。 またオシリスが冥界[[アアル]]の王となる以前の冥界を支配、管理しておりオシリスが冥界の王となった後も彼を補佐して[[ラー]]の[[天秤]]を用いて死者の罪を量る役目を担い、その様子は『[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]』や墓の壁面などに描かれている。 == その他 == エジプトが[[プトレマイオス朝]]にギリシアに併合されてからは、エジプト神話とギリシア美術との融合がおこった。これはインドやアフガニスタンでガンダーラ美術が発生したのと同様である。[[バチカン美術館]]にはヘレニズム化されたアヌビス像があり、ギリシア神話の智慧の神ヘルメスと融合して、ヘルマニビスともいわれる。 == ギャラリー == <gallery heights="160px"> Image:Opening of the mouth ceremony.jpg|{{small|『死者の書』に描かれたアヌビス{{efn|大英博物館所蔵『[[フネフェル|フネフェルのパピルス]]』第一章葬送の場面 墓の前で「開口の儀」を受けている死者のミイラを後ろから抱いて立たせているアヌビス。}}。}} Image:Anubis attending the mummy of Sennedjem.jpg|{{small|死者のミイラを作っているアヌビス像{{efn|ルクソール西岸 センネジェムの墓に描かれた壁画。}}。}} Image:Tutankhamun jackal.jpg|{{small|[[カイロ博物館]]のアヌビス像}} Image:VaticanMuseums Egyptian God Statue.jpg|{{small|アヌビス像([[バチカン美術館]])}} </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{No footnotes|date=2018年2月|section=1}} * [[矢島文夫]] 文 遠藤紀勝 写真 『カラー版 死者の書―古代エジプトの遺産パピルス』社会思想社、1986年、ISBN 978-4-390-60285-3 == 関連項目 == {{commons|Anubis}} * [[アヌビスヒヒ]] (Papio anubis) (犬のような頭部を持つ[[ヒヒ]]) * [[アヌビスゾウカブト]] (Megasoma anubis) * [[月面のアヌビス]] (ゲームソフト。パッケージ裏にアヌビスの解説が記載されている) {{エジプト神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あぬひす}} [[Category:エジプト神話の神]] [[Category:死神]] [[Category:文化英雄]]
2003-07-23T10:41:00Z
2023-07-27T12:14:12Z
false
false
false
[ "Template:Otheruseslist", "Template:Small", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Commons", "Template:Normdaten", "Template:Infobox deity", "Template:Egyptian mythology", "Template:Lang-grc", "Template:Efn", "Template:Notelist", "Template:No footnotes", "Template:エジプト神話" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%83%93%E3%82%B9
12,090
岩石学
岩石学(がんせきがく、英語: petrology)とは、岩石全般を研究対象とする学問のことである。 岩石学は記載岩石学(petrography)と岩石成因論(英語版)(petrogenesis)などに分けられる。記載岩石学は、岩石の組織(英語版)や構成鉱物などの記載や、岩石名の命名、岩石の分類を行う。一方、岩石成因論では、岩石の成因などの研究を行っていく。 岩石学の研究では、当初は肉眼など、その後は偏光顕微鏡を用いた記載岩石学的な研究が行われていた。その後19世紀後半になると、成因的な研究がはじめられていった。 現代では電子線マイクロアナライザなどを利用した化学的な分析も行われているが、薄片観察なども重要な研究方法の1つとして評価されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "岩石学(がんせきがく、英語: petrology)とは、岩石全般を研究対象とする学問のことである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "岩石学は記載岩石学(petrography)と岩石成因論(英語版)(petrogenesis)などに分けられる。記載岩石学は、岩石の組織(英語版)や構成鉱物などの記載や、岩石名の命名、岩石の分類を行う。一方、岩石成因論では、岩石の成因などの研究を行っていく。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "岩石学の研究では、当初は肉眼など、その後は偏光顕微鏡を用いた記載岩石学的な研究が行われていた。その後19世紀後半になると、成因的な研究がはじめられていった。", "title": "研究史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現代では電子線マイクロアナライザなどを利用した化学的な分析も行われているが、薄片観察なども重要な研究方法の1つとして評価されている。", "title": "研究史" } ]
岩石学とは、岩石全般を研究対象とする学問のことである。
'''岩石学'''(がんせきがく、{{lang-en|petrology|link=no}})とは、[[岩石]]全般を研究対象とする学問のことである{{Sfn|周藤・小山内|2002|p=2}}。 == 分類 == 岩石学は'''[[記載岩石学]]'''({{en|petrography}})と'''{{仮リンク|岩石成因論|en|Petrogenesis}}'''({{en|petrogenesis}})などに分けられる{{Sfn|鈴木|2005|p=3}}。記載岩石学は、[[岩石]]の{{仮リンク|組織 (岩石学)|en|Texture (geology)|label=組織}}や構成鉱物などの記載や、岩石名の命名、岩石の分類を行う{{Sfn|周藤・小山内|2002|p=2}}。一方、岩石成因論では、岩石の成因などの研究を行っていく{{Sfn|鈴木|2005|p=3}}。 == 研究史 == 岩石学の研究では、当初は肉眼など、その後は[[偏光顕微鏡]]を用いた記載岩石学的な研究が行われていた{{Sfn|端山|1996|p=282}}。その後19世紀後半になると、成因的な研究がはじめられていった{{Sfn|端山|1996|p=282}}。 現代では[[電子線マイクロアナライザ]]などを利用した化学的な分析も行われているが、薄片観察なども重要な研究方法の1つとして評価されている{{Sfn|周藤・小山内|2002|p=2}}。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=鈴木淑夫|year=2005|title=岩石学辞典|publisher=[[朝倉書店]]|isbn=4-254-16246-4|ref={{SfnRef|鈴木|2005}}}} * {{Cite book|和書|author=周藤賢治|author2=小山内康人|year=2002|title=記載岩石学 : 岩石学のための情報収集マニュアル|series=岩石学概論|publisher=共立出版|isbn=4-320-04639-0|ref={{SfnRef|周藤・小山内|2002}}}} * {{Cite book|和書|author=端山好和|year=1996|chapter=岩石学|page=282|editor=[[地学団体研究会]]新版地学事典編集委員会 編|title=地学事典|edition=新版|publisher=平凡社|isbn=4-582-11506-3|ref={{SfnRef|端山|1996}}}} == 関連項目 == {{Commonscat|Petrology}} * [[岩石]]、[[岩石の一覧]] * [[鉱物学]] * [[鉱床学]] * [[地質学]] * [[地球化学]] == 外部リンク == * [http://gsjpd.geosociety.jp/GansekiBukai/Rock.html 日本地質学会 岩石部会] * [http://jams.la.coocan.jp/ 日本鉱物科学会] - 2007年に日本岩石鉱物鉱床学会と日本鉱物学会が統合。 {{earth-sci-stub}} {{地球科学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんせきかく}} [[Category:岩石学|*]] [[Category:地球科学の分野]] [[Category:地質学]]
null
2021-04-11T09:11:19Z
false
false
false
[ "Template:Sfn", "Template:仮リンク", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:Lang-en", "Template:En", "Template:Reflist", "Template:Earth-sci-stub", "Template:地球科学", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%9F%B3%E5%AD%A6
12,091
トーナメント方式
トーナメント(英: tournament)は、試合・競技で、敗者を除いていき、勝者どうしが戦い抜いて優勝を決める試合方式、勝ち残り式、勝ち抜き戦。すべての参加チームが、少なくとも1回は他のすべての相手と対戦するリーグ戦 (総当たり戦)に比べて、試合数が少なくてすむ。 ただ一人の勝者を選ぶ・順位を決める・興行として面白いものにする等の目的の違いや、期間・場所等の制限に応じて、さまざまな方式が考案されている。なお、日本語において単に「トーナメント」・「トーナメント方式」と言えば「勝ち残り式トーナメント」を指すことが多い。 英語における「トーナメント (tournament)」は日本語の「大会」や「選手権」などに近い意味を持ち、それ自体は大会方式に関係なく使われる語である。例えばFIFAワールドカップで「final tournament」と言えば、予選を勝ち抜いた出場国による本大会を指し、決勝トーナメントは「Knockout stage」と呼称される。 「トーナメント」の語の由来となったのは中世の騎士が行った「馬上槍試合」である。実際の戦争の代わりに行われ、名誉のみならず、金品、時には領土まで賭けたため死者が出ることもあった。 一方、日本語で単に「トーナメント」と言った場合は勝ち残り式トーナメント(特にシングルイリミネーショントーナメント)のことを指すことが多く、「決勝トーナメント」という日本語独自の用語も生まれている。 ただし、ゴルフやテニスなどでは英語の「tournament」の意味に近い「大会」という意味で使われており、競技によっても扱いが異なる。日本サッカー協会(JFA)では2015年より「決勝トーナメント」という呼称を廃止している。 勝ち残り式トーナメント(ノックアウトトーナメント、英: knockout tournament, knockout system)は、1対1の戦いによる勝ち抜き戦である。多くの変種が存在するが、基本形は以下に記載する「シングルイリミネーショントーナメント」である。 シングルイリミネーション方式(英: single-elimination tournament)は、勝負に負けた選手(チーム)はその時点で脱落し、勝者同士で対戦を繰り返しながら勝者を決定する方式。日本語で単に「トーナメント」と言えばこの方式を指すことが多い。なお陸上競技の短距離走・競泳など、一度の予選に複数人が参加し上位が上のステージに進出する形式もこれに類する。 対戦表の下の段から順に第n回戦と呼ぶ。最後の3回戦は第n回戦ではなくて準々決勝(クォーター・ファイナル、quarterfinal)→準決勝(セミ・ファイナル、semifinal)→決勝戦(ファイナル、final)と呼ぶ(ただし準々決勝という名称を使用せず準決勝の前まで第n回戦と呼ぶこともある)。また、準決勝の敗者同士の試合が行われる場合がある。これを3位決定戦 (third-place play off) と呼ぶ。 なお、陸上競技のトラック種目、競泳、スキークロスのようなレース形態のスポーツ競技の場合、準決勝2ゲーム(1組と2組)を行い、各組の上位半数の者が決勝へと進み、下位半数の者が下位の順位決定戦に回ることになる。この場合に、上位者の参加する通常の決勝戦を「A決勝」または「ビッグ・ファイナル (big final)」、下位者の参加する順位決定戦(上の例では5~8位決定戦)を「B決勝」または「スモール・ファイナル (small final)」と呼ぶ。 特殊な方式としてHBCカップジャンプ競技会では2004年から2020年まで16人をペアで競わせて8人、続いて4人に絞込み、決勝戦はその4人全員で一度に競技を行い優勝者を決めていた。 対戦表は、勝ち抜いたときの試合数が同数となるようにバランスをとって構成する。ただし、参加者数が2とならない場合、対戦表が完全二分木構造とならず、一回戦に参加しない選手(チーム)が出てくる。その場合は、 などの処理をする。 n人(チーム)でシングルイリミネーショントーナメントを行うと、総試合数は (n-1) 試合になる(引き分け再試合・3位決定戦などは除く)。これは試合数が敗者数と一致し、1敗もしない選手(チーム)が1人(チーム)だけ残って優勝者となるからである。例えば、20人(チーム)なら、どんな構成の対戦表でも全試合数は常に19試合となる(引き分け再試合・3位決定戦などが無い場合)。 メジャーリーグベースボールのポストシーズン等、番勝負と併用したトーナメント方式も存在する。UEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントや夏の全国高校野球選手権と全国高等学校ラグビーフットボール大会の準々決勝以降等、一回戦毎にその都度抽選で対戦相手を決めるトーナメント方式も存在する。この場合、くじ運が左右される。 大会によっては、近隣地区同士の選手(チーム)や、対立や国際紛争など関係が悪い地区同士の選手(チーム)は可能な限り対戦を避けるように振り分けられる場合がある。また、代表選手(チーム)の決定が大幅に遅れた地域や、出場が決まっている選手(チーム)の地元が大災害に見舞われた場合、その選手(チーム)は初戦を最後もしくはそれに近い順に振り分ける場合もある。 最大の特徴は、一度負ければそこで敗退というギャンブル性の高さである。実力を正確に評価することよりも、一発勝負の面白さを優先した方式だと言える。 即決性が高く、最後に決勝戦(直接対決)で優勝者が決まるため、各種競技(スポーツ、アトラクション、ゲームなど)における、決勝ラウンド・本選などで使用されることが多い。また、比較的容易に運営でき、観戦者にとって状況把握が容易であるため、アトラクションやバラエティ番組企画での競技や選抜などにも用いられやすい。 ダブルイリミネーション方式(英: double-elimination tournament)は、一度負けたらそこで敗退となるシングルイリミネーション方式と違い、2敗した時点で敗退となる方式。 通常のシングルイリミネーショントーナメントを行い決勝進出者を決め(勝者サイド)、それと同時に1敗した者同士の間でもシングルイリミネーショントーナメントを行い決勝進出者を決める(敗者サイド)。この2者で決勝戦を行い優勝者を決定する。完全ダブルイリミネーションの場合、決勝戦で敗者サイドを勝ち上がった者が勝った場合、決勝の再戦(リセットと呼ばれる)を行う。将棋の棋王戦が「挑戦者決定戦で勝者側は1勝でよいが敗者側は2勝必要」という方式を採用している。 予選等で勝者サイド・敗者サイド共に次ラウンドに進める場合、決勝戦で敗者サイドを勝ち上がった者が勝った場合でもそのまま優勝者とみなされる場合や、決勝戦は行わずに勝者サイドを勝ち上がった者を1位、敗者サイドを勝ち上がった者を2位とする場合もある。 組合せによる有利不利を軽減することができるが、試合数が倍になる。また、同じ対戦カードが複数回起こりやすい(工夫次第で発生しにくくはできるが絶対に発生しないようにはできない)、決勝戦に進出するチームのどちらかは必ず1敗していることになる。 また、シングルイリミネーション方式のトーナメントより複雑で試合数が増える。これは敗者復活戦は、敗者復活1回戦(1回戦敗者同士)、敗者復活2回戦(復活1回戦勝者vs2回戦敗者)、敗者復活3回戦(復活2回戦勝者同士)、4回戦(復活3回戦勝者vs3回戦敗者)......のように、3回戦以降は勝者側の2倍ずつ試合をしていかなければならなくなるためである。 まずある組合せの対戦を行い、次にその勝者と新たなプレイヤー、次にまた、と行っていき、最終的な勝者が優勝となる方式。極端に山の偏った勝ち残り式トーナメントである。一般には強いプレイヤーほど後に登場する組合せが用いられる。 この方法を、同一条件で選出されたチームやプレーヤーに課すと、公平な組合せ方法とは言えなくなる。しかし、前年やレギュラーシーズン、予選の順位が上のプレーヤーやチーム、あるいは大きな実力差がある強豪リーグの代表チームに、なんらかの優先権を与えるためにあえて不公平にすることを目的に用いられる。 最終的な勝利者だけでなく勝ち星総数が多いものにもなんらかの権利を与えたり、敗者復活戦を導入した複雑な方法も存在する。 例えば、4人(組)で行う場合は 序盤戦はパラマストーナメントで行い、終盤戦はシードなしの勝ち残り式トーナメントを行う方式。すべてのシード選手が登場し、ベスト8やベスト16が出揃うと通常の勝ち残り式トーナメントとなる。 準決勝(予選トーナメント)までは通常の勝ち残り式トーナメントで行い、決勝戦は予選トーナメントを勝ち抜いた者とシード選手で行う方式。 パラマストーナメント(ステップラダー)にダブル イリミネーション方式を組み合わせており、敗者復活でも優勝できる可能性を持つ変則的な方式である。 ラウンド ロビン トーナメントなどによる予選を行い、1位から4位の順位を決定し、以下の手順を汲んで行われる。 予選で2位以内に入れば、その時点で3位以内が確定し、初戦で勝てば2位以内が確定する。たとえ本戦の初戦で負けてもまだ優勝の可能性が残る。逆に予選3位以下が優勝するためには、1度も負けずに3連勝する必要がある。予選2位以内に入ることで非常に有利な条件を得ることができるシステムである。 ソフトボールで用いられている。Vリーグの2005-2006年シーズンのファイナルラウンド、都市対抗野球大会と社会人野球日本選手権大会の四国地区代表決定戦で2006年より、この方式が採用された。オーストラリアサッカーAリーグのファイナルシリーズでも採用されている。 カーリングの日本選手権でも、ページシステムによる決勝トーナメントが行われている(なお、2017年までは(2)の敗者と(3)の敗者の間であらためて3位決定戦を行うという、変則的な方式で行われていた)。以前は世界選手権でもページシステムが採用されていたが、2018年からは、上位6チームによるノックアウト方式の決勝トーナメントに変更されている。オリンピックでは、従前より上位4チームによるノックアウト方式の決勝トーナメントで行われている。 都市対抗野球大会の東海地区と近畿地区予選はダブルイリミネーション方式とページシステムを組み合わせた方式を採用している。 トーナメントで、強豪選手(チーム)同士が序盤で対戦しないように選手(チーム)を実力順にばら撒くように配置することをシードと呼ぶ。シード (seed) = 種まき が語源である。対戦表が完全二分木構造でない場合、多くの場合はシード対象者の初戦を対戦表上の二回戦目以上からの参加とするが、これはシード対象者への付加特権として無条件に与えているものに過ぎないもので、「対戦表上で対戦数が少ない=シード」ではない。特別出場枠や一部の選手の予選を免除するケースがあり、これも広義には前述の対戦数を減らす特権の一種であり、実質的にはシードの一種となっているが、本選で語源本来の意味での「対戦表上でのばら撒き配置」の対象になるかどうかはその大会の運営に拠る。対戦表上で機械的にシードを設定するアルゴリズムとして次のような方法が知られている。 例えば6人の参加者をこれに従って配置すると、{1 − (5 − 4)} − {(3 − 6) − 2} という組合せが得られる。8人だと {(1 − 8) − (5 − 4)} − {(3 − 6) − (7 − 2)} となる。 なお、2回戦以降の対戦カードも順次シード順で決めていくという方式もある(NFLのプレーオフなど)。 もっとも、シード順は成績順に並ぶとは限らず、成績の低い選手(チーム)に高いシード順を割り当てることもある。特に地区制度を採用している場合、地区制覇をした選手(チーム)は成績にかかわらずそうでない選手(チーム)よりも高いシード順になる事がある。 日本語で言う「リーグ戦」「総当たり戦」は、英語では「group tournament(グループ トーナメント)」となる。特に、完全総当たりで、同一カードの対戦が2回(いわゆる「ホーム アンド アウェイ方式」)または1回の場合は「round-robin tournament(ラウンド ロビン トーナメント)」と呼ばれる。また「リーグ戦」「総当たり戦」ではないスイス式トーナメントもグループ トーナメントの一種である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トーナメント(英: tournament)は、試合・競技で、敗者を除いていき、勝者どうしが戦い抜いて優勝を決める試合方式、勝ち残り式、勝ち抜き戦。すべての参加チームが、少なくとも1回は他のすべての相手と対戦するリーグ戦 (総当たり戦)に比べて、試合数が少なくてすむ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ただ一人の勝者を選ぶ・順位を決める・興行として面白いものにする等の目的の違いや、期間・場所等の制限に応じて、さまざまな方式が考案されている。なお、日本語において単に「トーナメント」・「トーナメント方式」と言えば「勝ち残り式トーナメント」を指すことが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "英語における「トーナメント (tournament)」は日本語の「大会」や「選手権」などに近い意味を持ち、それ自体は大会方式に関係なく使われる語である。例えばFIFAワールドカップで「final tournament」と言えば、予選を勝ち抜いた出場国による本大会を指し、決勝トーナメントは「Knockout stage」と呼称される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「トーナメント」の語の由来となったのは中世の騎士が行った「馬上槍試合」である。実際の戦争の代わりに行われ、名誉のみならず、金品、時には領土まで賭けたため死者が出ることもあった。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一方、日本語で単に「トーナメント」と言った場合は勝ち残り式トーナメント(特にシングルイリミネーショントーナメント)のことを指すことが多く、「決勝トーナメント」という日本語独自の用語も生まれている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ただし、ゴルフやテニスなどでは英語の「tournament」の意味に近い「大会」という意味で使われており、競技によっても扱いが異なる。日本サッカー協会(JFA)では2015年より「決勝トーナメント」という呼称を廃止している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "勝ち残り式トーナメント(ノックアウトトーナメント、英: knockout tournament, knockout system)は、1対1の戦いによる勝ち抜き戦である。多くの変種が存在するが、基本形は以下に記載する「シングルイリミネーショントーナメント」である。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "シングルイリミネーション方式(英: single-elimination tournament)は、勝負に負けた選手(チーム)はその時点で脱落し、勝者同士で対戦を繰り返しながら勝者を決定する方式。日本語で単に「トーナメント」と言えばこの方式を指すことが多い。なお陸上競技の短距離走・競泳など、一度の予選に複数人が参加し上位が上のステージに進出する形式もこれに類する。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "対戦表の下の段から順に第n回戦と呼ぶ。最後の3回戦は第n回戦ではなくて準々決勝(クォーター・ファイナル、quarterfinal)→準決勝(セミ・ファイナル、semifinal)→決勝戦(ファイナル、final)と呼ぶ(ただし準々決勝という名称を使用せず準決勝の前まで第n回戦と呼ぶこともある)。また、準決勝の敗者同士の試合が行われる場合がある。これを3位決定戦 (third-place play off) と呼ぶ。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、陸上競技のトラック種目、競泳、スキークロスのようなレース形態のスポーツ競技の場合、準決勝2ゲーム(1組と2組)を行い、各組の上位半数の者が決勝へと進み、下位半数の者が下位の順位決定戦に回ることになる。この場合に、上位者の参加する通常の決勝戦を「A決勝」または「ビッグ・ファイナル (big final)」、下位者の参加する順位決定戦(上の例では5~8位決定戦)を「B決勝」または「スモール・ファイナル (small final)」と呼ぶ。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "特殊な方式としてHBCカップジャンプ競技会では2004年から2020年まで16人をペアで競わせて8人、続いて4人に絞込み、決勝戦はその4人全員で一度に競技を行い優勝者を決めていた。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "対戦表は、勝ち抜いたときの試合数が同数となるようにバランスをとって構成する。ただし、参加者数が2とならない場合、対戦表が完全二分木構造とならず、一回戦に参加しない選手(チーム)が出てくる。その場合は、", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "などの処理をする。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "n人(チーム)でシングルイリミネーショントーナメントを行うと、総試合数は (n-1) 試合になる(引き分け再試合・3位決定戦などは除く)。これは試合数が敗者数と一致し、1敗もしない選手(チーム)が1人(チーム)だけ残って優勝者となるからである。例えば、20人(チーム)なら、どんな構成の対戦表でも全試合数は常に19試合となる(引き分け再試合・3位決定戦などが無い場合)。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "メジャーリーグベースボールのポストシーズン等、番勝負と併用したトーナメント方式も存在する。UEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントや夏の全国高校野球選手権と全国高等学校ラグビーフットボール大会の準々決勝以降等、一回戦毎にその都度抽選で対戦相手を決めるトーナメント方式も存在する。この場合、くじ運が左右される。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大会によっては、近隣地区同士の選手(チーム)や、対立や国際紛争など関係が悪い地区同士の選手(チーム)は可能な限り対戦を避けるように振り分けられる場合がある。また、代表選手(チーム)の決定が大幅に遅れた地域や、出場が決まっている選手(チーム)の地元が大災害に見舞われた場合、その選手(チーム)は初戦を最後もしくはそれに近い順に振り分ける場合もある。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "最大の特徴は、一度負ければそこで敗退というギャンブル性の高さである。実力を正確に評価することよりも、一発勝負の面白さを優先した方式だと言える。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "即決性が高く、最後に決勝戦(直接対決)で優勝者が決まるため、各種競技(スポーツ、アトラクション、ゲームなど)における、決勝ラウンド・本選などで使用されることが多い。また、比較的容易に運営でき、観戦者にとって状況把握が容易であるため、アトラクションやバラエティ番組企画での競技や選抜などにも用いられやすい。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ダブルイリミネーション方式(英: double-elimination tournament)は、一度負けたらそこで敗退となるシングルイリミネーション方式と違い、2敗した時点で敗退となる方式。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "通常のシングルイリミネーショントーナメントを行い決勝進出者を決め(勝者サイド)、それと同時に1敗した者同士の間でもシングルイリミネーショントーナメントを行い決勝進出者を決める(敗者サイド)。この2者で決勝戦を行い優勝者を決定する。完全ダブルイリミネーションの場合、決勝戦で敗者サイドを勝ち上がった者が勝った場合、決勝の再戦(リセットと呼ばれる)を行う。将棋の棋王戦が「挑戦者決定戦で勝者側は1勝でよいが敗者側は2勝必要」という方式を採用している。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "予選等で勝者サイド・敗者サイド共に次ラウンドに進める場合、決勝戦で敗者サイドを勝ち上がった者が勝った場合でもそのまま優勝者とみなされる場合や、決勝戦は行わずに勝者サイドを勝ち上がった者を1位、敗者サイドを勝ち上がった者を2位とする場合もある。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "組合せによる有利不利を軽減することができるが、試合数が倍になる。また、同じ対戦カードが複数回起こりやすい(工夫次第で発生しにくくはできるが絶対に発生しないようにはできない)、決勝戦に進出するチームのどちらかは必ず1敗していることになる。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、シングルイリミネーション方式のトーナメントより複雑で試合数が増える。これは敗者復活戦は、敗者復活1回戦(1回戦敗者同士)、敗者復活2回戦(復活1回戦勝者vs2回戦敗者)、敗者復活3回戦(復活2回戦勝者同士)、4回戦(復活3回戦勝者vs3回戦敗者)......のように、3回戦以降は勝者側の2倍ずつ試合をしていかなければならなくなるためである。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "まずある組合せの対戦を行い、次にその勝者と新たなプレイヤー、次にまた、と行っていき、最終的な勝者が優勝となる方式。極端に山の偏った勝ち残り式トーナメントである。一般には強いプレイヤーほど後に登場する組合せが用いられる。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この方法を、同一条件で選出されたチームやプレーヤーに課すと、公平な組合せ方法とは言えなくなる。しかし、前年やレギュラーシーズン、予選の順位が上のプレーヤーやチーム、あるいは大きな実力差がある強豪リーグの代表チームに、なんらかの優先権を与えるためにあえて不公平にすることを目的に用いられる。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "最終的な勝利者だけでなく勝ち星総数が多いものにもなんらかの権利を与えたり、敗者復活戦を導入した複雑な方法も存在する。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "例えば、4人(組)で行う場合は", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "序盤戦はパラマストーナメントで行い、終盤戦はシードなしの勝ち残り式トーナメントを行う方式。すべてのシード選手が登場し、ベスト8やベスト16が出揃うと通常の勝ち残り式トーナメントとなる。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "準決勝(予選トーナメント)までは通常の勝ち残り式トーナメントで行い、決勝戦は予選トーナメントを勝ち抜いた者とシード選手で行う方式。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "パラマストーナメント(ステップラダー)にダブル イリミネーション方式を組み合わせており、敗者復活でも優勝できる可能性を持つ変則的な方式である。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ラウンド ロビン トーナメントなどによる予選を行い、1位から4位の順位を決定し、以下の手順を汲んで行われる。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "予選で2位以内に入れば、その時点で3位以内が確定し、初戦で勝てば2位以内が確定する。たとえ本戦の初戦で負けてもまだ優勝の可能性が残る。逆に予選3位以下が優勝するためには、1度も負けずに3連勝する必要がある。予選2位以内に入ることで非常に有利な条件を得ることができるシステムである。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ソフトボールで用いられている。Vリーグの2005-2006年シーズンのファイナルラウンド、都市対抗野球大会と社会人野球日本選手権大会の四国地区代表決定戦で2006年より、この方式が採用された。オーストラリアサッカーAリーグのファイナルシリーズでも採用されている。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "カーリングの日本選手権でも、ページシステムによる決勝トーナメントが行われている(なお、2017年までは(2)の敗者と(3)の敗者の間であらためて3位決定戦を行うという、変則的な方式で行われていた)。以前は世界選手権でもページシステムが採用されていたが、2018年からは、上位6チームによるノックアウト方式の決勝トーナメントに変更されている。オリンピックでは、従前より上位4チームによるノックアウト方式の決勝トーナメントで行われている。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "都市対抗野球大会の東海地区と近畿地区予選はダブルイリミネーション方式とページシステムを組み合わせた方式を採用している。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "トーナメントで、強豪選手(チーム)同士が序盤で対戦しないように選手(チーム)を実力順にばら撒くように配置することをシードと呼ぶ。シード (seed) = 種まき が語源である。対戦表が完全二分木構造でない場合、多くの場合はシード対象者の初戦を対戦表上の二回戦目以上からの参加とするが、これはシード対象者への付加特権として無条件に与えているものに過ぎないもので、「対戦表上で対戦数が少ない=シード」ではない。特別出場枠や一部の選手の予選を免除するケースがあり、これも広義には前述の対戦数を減らす特権の一種であり、実質的にはシードの一種となっているが、本選で語源本来の意味での「対戦表上でのばら撒き配置」の対象になるかどうかはその大会の運営に拠る。対戦表上で機械的にシードを設定するアルゴリズムとして次のような方法が知られている。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "例えば6人の参加者をこれに従って配置すると、{1 − (5 − 4)} − {(3 − 6) − 2} という組合せが得られる。8人だと {(1 − 8) − (5 − 4)} − {(3 − 6) − (7 − 2)} となる。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、2回戦以降の対戦カードも順次シード順で決めていくという方式もある(NFLのプレーオフなど)。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "もっとも、シード順は成績順に並ぶとは限らず、成績の低い選手(チーム)に高いシード順を割り当てることもある。特に地区制度を採用している場合、地区制覇をした選手(チーム)は成績にかかわらずそうでない選手(チーム)よりも高いシード順になる事がある。", "title": "勝ち残り式トーナメント" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本語で言う「リーグ戦」「総当たり戦」は、英語では「group tournament(グループ トーナメント)」となる。特に、完全総当たりで、同一カードの対戦が2回(いわゆる「ホーム アンド アウェイ方式」)または1回の場合は「round-robin tournament(ラウンド ロビン トーナメント)」と呼ばれる。また「リーグ戦」「総当たり戦」ではないスイス式トーナメントもグループ トーナメントの一種である。", "title": "グループトーナメント" } ]
トーナメントは、試合・競技で、敗者を除いていき、勝者どうしが戦い抜いて優勝を決める試合方式、勝ち残り式、勝ち抜き戦。すべての参加チームが、少なくとも1回は他のすべての相手と対戦するリーグ戦 (総当たり戦)に比べて、試合数が少なくてすむ。 ただ一人の勝者を選ぶ・順位を決める・興行として面白いものにする等の目的の違いや、期間・場所等の制限に応じて、さまざまな方式が考案されている。なお、日本語において単に「トーナメント」・「トーナメント方式」と言えば「勝ち残り式トーナメント」を指すことが多い。
{{出典の明記|date=2013年7月}} '''トーナメント'''([[英語|英]]: tournament)は、試合・競技で、敗者を除いていき、勝者どうしが戦い抜いて優勝を決める試合方式、'''勝ち残り式'''、'''勝ち抜き戦'''<ref>コトバンク、デジタル大辞泉、平凡社百科事典マイペディア</ref>。すべての参加チームが、少なくとも1回は他のすべての相手と対戦する'''[[リーグ戦|リーグ戦 (総当たり戦)]]'''に比べて、試合数が少なくてすむ<ref>コトバンク、精選版 日本国語大辞典</ref>。 ただ一人の勝者を選ぶ・順位を決める・興行として面白いものにする等の目的の違いや、期間・場所等の制限に応じて、さまざまな方式が考案されている。なお、[[日本語]]において単に「トーナメント」・「トーナメント方式」と言えば「[[#勝ち残り式トーナメント|勝ち残り式トーナメント]]」を指すことが多い。 == 定義 == === 英語の「トーナメント」 === 英語における「トーナメント (tournament)」は日本語の「[[大会]]」や「[[選手権]]」などに近い意味を持ち、それ自体は大会方式に関係なく使われる語である。例えば[[FIFAワールドカップ]]で「final tournament」と言えば、予選を勝ち抜いた出場国による本大会を指し、決勝トーナメントは「Knockout stage」と呼称される。 「トーナメント」の語の由来となったのは中世の騎士が行った「[[馬上槍試合]]」である。実際の戦争の代わりに行われ、名誉のみならず、金品、時には領土まで賭けたため死者が出ることもあった。 === 日本語での用法 === 一方、日本語で単に「トーナメント」と言った場合は[[#勝ち残り式トーナメント|勝ち残り式トーナメント]](特に[[#シングルイリミネーション方式|シングルイリミネーショントーナメント]])のことを指すことが多く、「決勝トーナメント」という日本語独自の用語も生まれている。 ただし、[[ゴルフ]]や[[テニス]]などでは英語の「tournament」の意味に近い「大会」という意味で使われており、競技によっても扱いが異なる。[[日本サッカー協会]](JFA)では{{要出典範囲|date=2022年2月|[[2015年]]より}}「決勝トーナメント」という呼称を廃止している。<ref>[https://www.jfa.jp/documents/faq/terminology.html サッカー用語集(ターミノロジー)|JFA|日本サッカー協会]([[日本サッカー協会]])</ref> == トーナメントの種類 == * [[#勝ち残り式トーナメント|勝ち残り式トーナメント]](ノックアウトトーナメント、勝ち抜き戦。日本語で単に「トーナメント」と言う場合、多くはこれを指す) ** [[#シングルイリミネーション方式|シングル イリミネーション トーナメント]] ** [[#ダブルイリミネーション方式|ダブル イリミネーション トーナメント]] ** [[#パラマストーナメント(ステップラダー)|パラマス トーナメント]] = ステップ ラダー *** [[#ページシステム方式|ページ システム方式]] * [[#グループトーナメント|グループ トーナメント]] ** 総当たり戦 = “[[リーグ戦]]” *** ラウンド ロビン トーナメント **** シングル ラウンド ロビン トーナメント **** ダブル ラウンド ロビン トーナメント ***** [[ホーム・アンド・アウェー|ホーム アンド アウェイ方式]] ** [[スイス式トーナメント]] *** [[マクマホン式トーナメント]] ** その他(変則的総当たり戦など) == 勝ち残り式トーナメント == '''勝ち残り式トーナメント'''('''ノックアウトトーナメント'''、[[英語|英]]: knockout tournament, knockout system)は、1対1の戦いによる勝ち抜き戦である。多くの変種が存在するが、基本形は以下に記載する「シングルイリミネーショントーナメント」である。 === ''シングルイリミネーション方式'' === [[File:SixteenPlayerSingleEliminationTournamentBracket.svg|thumb|16人による勝ち残りトーナメントの図]] '''シングルイリミネーション方式'''(英: single-elimination tournament)は、勝負に負けた選手(チーム)はその時点で脱落し、勝者同士で対戦を繰り返しながら勝者を決定する方式。日本語で単に「トーナメント」と言えばこの方式を指すことが多い。なお[[陸上競技]]の短距離走・[[競泳]]など、一度の予選に複数人が参加し上位が上のステージに進出する形式もこれに類する。 対戦表の下の段から順に第n回戦と呼ぶ。最後の3回戦は第n回戦ではなくて[[準々決勝]]([[1/4|クォーター]]・ファイナル、quarterfinal)→[[準決勝]](セミ・ファイナル、semifinal)→[[決勝戦]](ファイナル、final)と呼ぶ(ただし準々決勝という名称を使用せず準決勝の前まで第n回戦と呼ぶこともある)。また、準決勝の敗者同士の試合が行われる場合がある。これを[[3位決定戦]] (third-place play off) と呼ぶ。 なお、[[陸上競技]]のトラック種目、[[競泳]]、[[スキークロス]]のようなレース形態のスポーツ競技の場合、準決勝2ゲーム(1組と2組)を行い、各組の上位半数の者が決勝へと進み、下位半数の者が下位の順位決定戦に回ることになる<ref>例えば1レースに4人ずつ参加する形態の場合、8人が準々決勝から準決勝へと進むことになり、まず、1組4人ずつで準決勝2レースを行い、その結果に従って準決勝各組の1着と2着の者は決勝へ、準決勝各組の3着と4着の者は5~8位決定戦に回ることになる</ref>。この場合に、上位者の参加する通常の決勝戦を「A決勝」または「ビッグ・ファイナル (big final)」、下位者の参加する順位決定戦(上の例では5~8位決定戦)を「B決勝」または「スモール・ファイナル (small final)」と呼ぶ。 特殊な方式として[[HBCカップジャンプ競技会]]では2004年から2020年まで16人をペアで競わせて8人、続いて4人に絞込み、決勝戦はその4人全員で一度に競技を行い優勝者を決めていた。 対戦表は、勝ち抜いたときの試合数が同数となるようにバランスをとって構成する。ただし、参加者数が2<sup>n</sup>とならない場合、対戦表が完全[[二分木]]構造とならず、一回戦に参加しない選手(チーム)が出てくる。その場合は、 * 一回戦に参加しない選手(チーム)を[[ランダム]]に選ぶ * 一回戦に参加しない選手(チーム)を[[レイティング]]や他の大会での成績をもとに選ぶ * 途中から[[敗者復活戦]]の勝者を参加させる などの処理をする。 n人(チーム)でシングルイリミネーショントーナメントを行うと、総試合数は (n-1) 試合になる([[引き分け]]再試合・[[3位決定戦]]などは除く)。これは試合数が敗者数と一致し、1敗もしない選手(チーム)が1人(チーム)だけ残って優勝者となるからである。例えば、20人(チーム)なら、どんな構成の対戦表でも全試合数は常に19試合となる(引き分け再試合・3位決定戦などが無い場合)。 [[メジャーリーグベースボールのポストシーズン]]等、[[番勝負]]と併用したトーナメント方式も存在する。[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の決勝トーナメントや夏の全国高校野球選手権と[[全国高等学校ラグビーフットボール大会]]の準々決勝以降等、一回戦毎にその都度抽選で対戦相手を決めるトーナメント方式も存在する。この場合、[[くじ]]運が左右される。 大会によっては、近隣地区同士の選手(チーム)や、対立や国際紛争など関係が悪い地区同士の選手(チーム)は可能な限り対戦を避けるように振り分けられる場合がある。また、代表選手(チーム)の決定が大幅に遅れた地域や、出場が決まっている選手(チーム)の地元が大災害に見舞われた場合、その選手(チーム)は初戦を最後もしくはそれに近い順に振り分ける場合もある。 ==== 特徴 ==== 最大の特徴は、一度負ければそこで敗退という[[ギャンブル]]性の高さである。実力を正確に評価することよりも、一発勝負の面白さを優先した方式だと言える。 ;利点 * 全ての試合が緊張感のあるものとなる([[消化試合]]が絶対に発生しない)。 * 総試合数を最も少なく抑えることができる。 * 大会最後の1戦(決勝戦)で優勝者が決まるので、興行的に盛り上がる。 * 複数の試合場での並行実施が可能で、試合日程の短縮を図れる(例として、2会場に分けても準決勝まで行える)。 ;欠点 * 選手/チームごとの試合数に極端なばらつきが生じる(半数もしくはそれ以上が1試合のみの参加となる)。 * 1回戦で優勝者に負けた者と、決勝戦で負けた者などのような、直接に対決していない同士の実力の度合いを量るには適さない。 * 試合場が1箇所しかない場合は、出場者から見て、試合の間隔が不均一である。大会序盤(1回戦と2回戦の間など)は試合間隔が長く、勝ち進んで決勝戦に近づくと連戦で過密日程になる。特に、試合時間が長く、体力の消耗が激しい競技で問題となりやすい(このような弊害は、[[全国高等学校野球選手権大会]]などで実際に発生している)。 * 陸上トラック競技の場合、トーナメント決勝以外において「新記録」を出しても決勝で3位以内に入賞できなければ「記録保持者」にはなれるが、メダル(表彰)を得ることが出来ない。 * 優勝者と準優勝者以外の順位を決定しにくい。準決勝で負けた2者はその順位を決定する「[[3位決定戦]]」が行われることもあるが、例えば1回戦で負けた者間ではそれぞれの順位を付けるのは難しくなる。その意味で、(例えば)ベスト16やベスト8等の言い方になる。 ==== 適用例 ==== 即決性が高く、最後に決勝戦(直接対決)で優勝者が決まるため、各種競技(スポーツ、アトラクション、ゲームなど)における、決勝ラウンド・本選などで使用されることが多い。また、比較的容易に運営でき、観戦者にとって状況把握が容易であるため、アトラクションやバラエティ番組企画での競技や選抜などにも用いられやすい。 <!--要覧・一覧ではないので個々の大会名などは基本的に原則不要(極特殊なケースを除き必要性が低い、あるいは無い)。あくまで例としていくつか(1つか2つ)の掲示、あるいは概説としての記述でイメージが伝われば十分。じゃんけんなど競技の内容の解説は本項とは関係ないので記載しない。--> * 各種スポーツ競技([[サッカー]]、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]、[[野球]]、[[ハンドボール]]など)における[[世界選手権大会]][[決勝戦|決勝ラウンド]]や世界大会の本選、[[日本選手権大会]] * [[芸能]]活動ならびに関連の各種[[宣伝|プロモーション]]、[[バラエティ番組]]内での競技や選抜など === ダブルイリミネーション方式 === [[画像:Double eliminate Sample02.png|thumb|8人参加のダブルイリミネーション式トーナメントの例]] '''ダブルイリミネーション方式'''(英: double-elimination tournament)は、一度負けたらそこで敗退となるシングルイリミネーション方式と違い、2敗した時点で敗退となる方式。 ==== 方式 ==== 通常のシングルイリミネーショントーナメントを行い決勝進出者を決め(勝者サイド)、それと同時に1敗した者同士の間でもシングルイリミネーショントーナメントを行い決勝進出者を決める(敗者サイド)。この2者で決勝戦を行い優勝者を決定する。完全ダブルイリミネーションの場合、決勝戦で敗者サイドを勝ち上がった者が勝った場合、決勝の再戦([[リセット]]と呼ばれる)を行う。将棋の[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]が「挑戦者決定戦で勝者側は1勝でよいが敗者側は2勝必要」という方式を採用している。 予選等で勝者サイド・敗者サイド共に次ラウンドに進める場合、決勝戦で敗者サイドを勝ち上がった者が勝った場合でもそのまま優勝者とみなされる場合や、決勝戦は行わずに勝者サイドを勝ち上がった者を1位、敗者サイドを勝ち上がった者を2位とする場合もある。 * 例図では優勝は「G」、準優勝は「E」、3位は「A」、4位は「H」となる。もし決勝試合(8)で勝者サイドの「G」が敗者サイドの「E」に負けたときは双方とも1敗ということになり、再試合を行うと規定する場合がある。たとえば前記の将棋の棋王戦は当初決勝戦の勝者が挑戦となっていたが、「勝者側の決勝戦進出者に敗者復活が認められないのは不当」との声が上がり「挑戦者決定戦で勝者側は1勝でよいが敗者側は2勝必要」という方式に変更された。 ==== 利点と欠点 ==== 組合せによる有利不利を軽減することができるが、試合数が倍になる。また、同じ対戦カードが複数回起こりやすい(工夫次第で発生しにくくはできる<ref>上記の例では2回戦で負けたCとEを裏街道では逆の山に入れることによって裏街道の2回戦でいきなり同一対戦カードが発生することはなくなっている。</ref>が絶対に発生しないようにはできない<ref>無敗どうしで対戦した両者が決勝まで進出した場合。例えば、第1期[[清麗戦]]では、予選4回戦で対局が組まれた[[甲斐智美]]と[[里見香奈]]の両者が予選・本戦を勝ち抜き、[[番勝負|五番勝負]]で再戦することとなった。</ref>)、決勝戦に進出するチームのどちらかは必ず1敗していることになる。 また、シングルイリミネーション方式のトーナメントより複雑で試合数が増える。これは敗者復活戦は、敗者復活1回戦(1回戦敗者同士)、敗者復活2回戦(復活1回戦勝者vs2回戦敗者)、敗者復活3回戦(復活2回戦勝者同士)、4回戦(復活3回戦勝者vs3回戦敗者)……のように、3回戦以降は勝者側の2倍ずつ試合をしていかなければならなくなるためである。 ==== 適用例 ==== * [[ボウリング]]競技<ref>例: [http://www.jpba.or.jp/information/tournament/tournament2007/JapanOpen/JapanOpen.html 第31回ABSジャパンオープンボウリング選手権] ただしダブルイルミネーションと表示し誤っている</ref>や[[ビーチバレー]]、[[対戦型格闘ゲーム]]の大会で用いられている。なお、日本のプロボウリング競技においてはダブルイ'''ル'''ミネーションとも表現される。これは日本のボウリング界が電飾の意味の「[[イルミネーション]] (''illumination'')」と混同したことによる。 * [[将棋]]では[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]](前述。ベスト4進出者で実施)や[[清麗戦]]の予選がダブルイリミネーション方式を採用。また[[竜王戦]]ランキング戦の昇級者決定戦も事実上のダブルイリミネーション方式といえる(本戦出場者決定戦で一度敗れた棋士が昇級者決定戦に回り、ここで無敗で勝ち残ると昇級)。なお、かつては[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]](ベスト16進出者で実施し、2敗せずに勝ち残った8名が挑戦者決定トーナメントに進出)でも採用されていた。 * [[2009 ワールド・ベースボール・クラシック]]の1次・2次ラウンドでも採用されたが、日本と韓国が決勝までに5回対戦するなど、同じ対戦カードが複数回起きるという欠点も露呈した(この教訓から、[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック]]では2次ラウンドのみの採用となった)。決勝の再戦を行わない場合、同じ相手との対戦は最大で2回までとなる<ref>勝者サイドで1回・敗者サイドで1回。または、勝者サイドで1回・決勝戦で1回(再戦を行う場合は決勝戦で最大2回、合計3回)。</ref>が、このケースでは1次・2次ラウンドそれぞれ独立のトーナメント表が組まれたためにそれぞれ2回ずつの対戦が生じてしまった。 * 解説例のような参加全チームに同様な権利(2敗するまで残れる)が与えられてはいないが、[[全日本大学野球選手権大会]]第25回大会([[1976年]])で勝者側トーナメントのベスト4進出チームにのみ対象の変則ダブルイリミネーション方式が採用された。結果は、敗者サイド進出チーム(勝者サイドでの準々決勝敗退チーム)が優勝を決めた(対戦としては1度目)が、大会終了後に不評の意見が多く出て、同方式の採用はこの年限りで消滅した。これと同じように[[全国高等学校野球選手権大会|全国中等学校優勝野球大会]]の第2・3回大会でもこれとほぼ同じ形の敗者復活式トーナメントがあったが、敗者復活チームが優勝したことによる異論から廃止された経緯もある([[第3回全国中等学校優勝野球大会]]参照)。 * [[柔道]]では決勝進出者は勝ち残り式で決められるが、決勝以外で敗退した選手のうち準決勝進出者に敗退した選手のみでステップラダー方式で敗者復活戦を行い、最後に準決勝敗退者と決定戦を行い3位を決定するという変則的なダブルイリミネーション方式をとっている。 *[[都市対抗野球大会]]の地区予選ではかつてこのダブルイリミネーション方式で1回戦からすべての敗者が敗者復活トーナメントへの参加する方式を行っていた地区があったが、現在では敗者復活戦への参加が認められるのは東海地区予選を除き上位4~12チームのラウンドのみとなっている。 ** 東海地区予選では2次予選に進出した16チームすべてに敗者復活のチャンスがあるが、準決勝・決勝敗者による敗者復活トーナメント(第2代表決定戦)と1回戦・準々決勝敗者による敗者復活トーナメント(第3代表決定戦)が分離されている。 === パラマストーナメント(ステップラダー) === [[画像:Ladder_Playoff_Sample02.png|thumb|パラマス式トーナメントの例]] まずある組合せの対戦を行い、次にその勝者と新たなプレイヤー、次にまた、と行っていき、最終的な勝者が優勝となる方式。極端に山の偏った勝ち残り式トーナメントである。一般には強いプレイヤーほど後に登場する組合せが用いられる。 この方法を、同一条件で選出されたチームやプレーヤーに課すと、公平な組合せ方法とは言えなくなる。しかし、前年やレギュラーシーズン、予選の順位が上のプレーヤーやチーム、あるいは大きな実力差がある強豪リーグの代表チームに、なんらかの優先権を与えるためにあえて不公平にすることを目的に用いられる。 最終的な勝利者だけでなく勝ち星総数が多いものにもなんらかの権利を与えたり、敗者復活戦を導入した複雑な方法も存在する。 例えば、4人(組)で行う場合は # 1位選手は自動的に決勝戦、2位選手は準決勝(3位決定戦)に進出 # まず3位と4位の選手で準々決勝(4位決定戦)を行う # 2.の勝者と2位選手が準決勝を行う # 更に3.の勝者と1位選手で優勝をかけて決勝戦を行う ==== 適用例 ==== * [[日本プロ野球]]の[[クライマックスシリーズ]](2004-2006年までの[[パシフィック・リーグ]]の[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ(上位3強決勝トーナメント)]]も同様)、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]の[[日本ラグビーフットボール選手権大会|日本選手権]]、[[バスケットボール|日本プロバスケットボール]][[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]の[[Bjリーグプレイオフ|プレーオフ]](ファーストラウンド・カンファレンスセミファイナル)、[[バレーボール]]の[[Vプレミアリーグ]]([[1996年]]度-[[1998年]]度と、[[2014年]]度)で適用されている。[[将棋]]でも[[名人戦 (将棋)|名人戦]]の挑戦者決定プレーオフ(A級[[順位戦]]で3人以上の同率首位者が出た場合)に導入されており、[[第76期順位戦#A級プレーオフ|第76期順位戦のA級プレーオフ]]では6人によるプレーオフが行なわれた。 * [[社会人野球]]や[[大学野球]]の地区代表決定戦(本大会への出場チーム決定戦・予選など)において、第二代表以下を決定する際の敗者復活戦に用いられている。 * 囲碁の[[棋聖 (囲碁)|棋聖戦]]挑戦者決定トーナメント(2016年第40期以降)や、[[ボウリング]]競技、[[韓国野球委員会|韓国プロ野球]]・[[韓国バスケットボールリーグ|韓国プロバスケットボール]]の決勝ラウンドなどで用いられている。かつてはイングランドラグビー・[[プレミアシップ (ラグビー)|プレミアシップ]]でも採用されていた。 * かつてクイズ番組で類似のシステムが採用されることがあった([[ベルトクイズQ&Q]]など)。 * [[2014年ソチオリンピックのカーリング競技|ソチオリンピックカーリング競技]]最終予選では、この逆の方式を総当たり戦の上位3チームについて行い、本大会出場2チームを決定した(まず1位と2位で決勝戦を行い、そこで勝ったチームが五輪出場。決勝戦の敗者が3位チームとの2位決定戦を行い、そこで勝ったチームがもう一枠を獲得する)。 ==== 通常の勝ち残り式トーナメントと組み合わせた方式 ==== ;その1 序盤戦はパラマストーナメントで行い、終盤戦はシードなしの勝ち残り式トーナメントを行う方式。すべてのシード選手が登場し、ベスト8やベスト16が出揃うと通常の勝ち残り式トーナメントとなる。 ;適用例 * サッカーの[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では5ラウンドから成る予選を行い、国別ランキングが上位のチームがより上位のラウンドから登場するシードとなる。予選を勝ち抜いた6チームと本大会にシードされた26チームの32チームでグループリーグを行い、勝ち抜いた16チームで勝ち残り式トーナメントの決勝トーナメントを行う。 * [[囲碁]]の[[竜星戦]]のブロック戦で用いられており、優勝者及び最多連勝者が決勝トーナメントに進出する。 * [[将棋]]では、[[銀河戦]]のブロック戦(囲碁の竜星戦と同じ仕組み)で用いられている。また、[[竜王戦]]本戦の1組優勝側の山もステップラダー方式となっている。 * [[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では1~4回戦までこのステップラダー方式で行い、ベスト16ラウンド以降は通常の勝ち残り式トーナメントで行っていたことがある(J1リーグ所属のチームは4回戦から、J2リーグ所属のチームは3回戦からの登場。アマチュアチームは1~2回戦から登場)。しかし現在ではJリーグクラブの増加によりJ1のチームも2回戦から登場している。 ;その2 準決勝(予選トーナメント)までは通常の勝ち残り式トーナメントで行い、決勝戦は予選トーナメントを勝ち抜いた者とシード選手で行う方式。 ;適用例 * [[囲碁]]や[[将棋]]、[[チェス]]などのボードゲームで採用される[[挑戦手合制]]はこれに近い。 * 2003年の[[全国高等学校サッカー選手権大会]]の長崎大会で、国見高校が決勝戦から登場するスーパーシードとなった(長崎大会と同時期にU-17日本代表に国見高校の選手が招集されていたため)。また近年では青森大会で青森山田高校が準決勝から登場することがある<ref>[http://mona-news.com/archives/6341897.html 高校サッカーの県大会のトーナメント表、なんだこれwww]</ref>{{出典無効|date=2022-10-31}}。 * [[ボクシング|プロボクシング]]の[[選手権#タイトルマッチ・システム|タイトルマッチ]]もこの方式の一種と言える。 === ページシステム方式 === [[#パラマストーナメント(ステップラダー)|パラマストーナメント(ステップラダー)]]にダブル イリミネーション方式を組み合わせており、敗者復活でも優勝できる可能性を持つ変則的な方式である。 [[画像:Page playoff Sample02b.png|thumb|ページシステムトーナメントの例]] ラウンド ロビン トーナメントなどによる予選を行い、1位から4位の順位を決定し、以下の手順を汲んで行われる。 # 準決勝1(プレイオフ1): 予選の1位Aと2位のBが対戦し、勝者は決勝戦へ進出、敗者は準決勝3へ回る。 # 準決勝2(プレイオフ2): 予選の3位Cと4位のDが対戦し、勝者は準決勝3へ進出、敗者は4位が確定する。 # 準決勝3(3位決定戦): 1.の敗者と2.の勝者が対戦し、勝者は決勝戦へ進出、敗者は3位が確定する。 # 決勝: 1.の勝者と3.の勝者が優勝をかけて対戦する。 予選で2位以内に入れば、その時点で3位以内が確定し、初戦で勝てば2位以内が確定する。たとえ本戦の初戦で負けてもまだ優勝の可能性が残る。逆に予選3位以下が優勝するためには、1度も負けずに3連勝する必要がある。予選2位以内に入ることで非常に有利な条件を得ることができるシステムである。 ==== 適用例 ==== [[ソフトボール]]で用いられている。[[プレミアリーグ (バレーボール)|Vリーグ]]の2005-2006年シーズンのファイナルラウンド、[[都市対抗野球大会]]と[[社会人野球日本選手権大会]]の四国地区代表決定戦で2006年より、この方式が採用された。[[オーストラリア]]サッカー[[Aリーグ]]のファイナルシリーズでも採用されている。 [[カーリング]]の[[日本カーリング選手権大会|日本選手権]]でも、ページシステムによる決勝トーナメントが行われている(なお、2017年までは(2)の敗者と(3)の敗者の間であらためて3位決定戦を行うという、変則的な方式で行われていた)。以前は世界選手権でもページシステムが採用されていたが、2018年からは、上位6チームによるノックアウト方式の決勝トーナメントに変更されている。[[オリンピックのカーリング競技|オリンピック]]では、従前より上位4チームによるノックアウト方式の決勝トーナメントで行われている。 [[都市対抗野球大会]]の東海地区と近畿地区予選はダブルイリミネーション方式とページシステムを組み合わせた方式を採用している。 === シード === トーナメントで、強豪選手(チーム)同士が序盤で対戦しないように選手(チーム)を実力順にばら撒くように配置することを'''シード'''と呼ぶ。シード (seed) = 種まき が語源である。対戦表が完全二分木構造でない場合、多くの場合はシード対象者の初戦を対戦表上の二回戦目以上からの参加とするが、これはシード対象者への付加特権として無条件に与えているものに過ぎないもので、「対戦表上で対戦数が少ない=シード」ではない<ref>例えば参加10チームのトーナメント大会の場合、通常は不完全な二分木構造のトーナメント表となり、一般的には1回戦からは4チーム、他の6チームは2回戦からとなる。しかしながら、2回戦からの6チームが必ずしもすべてシードとは限らず、シード対象が存在していない場合もあれば、シード対象が1回戦からとなる設定・運営方法もあり得る。このように、シード対象はあくまでその大会の運営側の設定基準に拠るものである。</ref>。特別出場枠や一部の選手の予選を免除するケースがあり、これも広義には前述の対戦数を減らす特権の一種であり、実質的にはシードの一種となっているが、本選で語源本来の意味での「対戦表上でのばら撒き配置」の対象になるかどうかはその大会の運営に拠る<ref>一例として[[NHK杯テレビ将棋トーナメント]]は前年の準決勝進出者4名を必ず準決勝まで当たらないようにトーナメント表の四隅に配置することを行っている</ref>。対戦表上で機械的にシードを設定する[[アルゴリズム]]として次のような方法が知られている。 # 最初に過去の成績などから仮の順位を決め、対戦表の片方の端に1位の参加者を、もう片方の端に2位の参加者を配置する。 # 3位以下を順に、対戦表の頂上から以下のルールに従ってたどることによって配置する。 #* 先に配置されている参加者の数が少ない山を選ぶ。 #* 同数の場合は、山の最下位の順位が低いほうを選ぶ。 例えば6人の参加者をこれに従って配置すると、{1 − (5 − 4)} − {(3 − 6) − 2} という組合せが得られる。8人だと {(1 − 8) − (5 − 4)} − {(3 − 6) − (7 − 2)} となる。 なお、2回戦以降の対戦カードも順次シード順で決めていくという方式もある([[NFL]]の[[プレーオフ]]など)。 もっとも、シード順は成績順に並ぶとは限らず、成績の低い選手(チーム)に高いシード順を割り当てることもある。特に地区制度を採用している場合、地区制覇をした選手(チーム)は成績にかかわらずそうでない選手(チーム)よりも高いシード順になる事がある。 ==== 適用例 ==== * [[NHK杯テレビ囲碁トーナメント]]、[[NHK杯テレビ将棋トーナメント]] - 一定の成績がある棋士を予選シードとし、その中でも上位成績の棋士をさらに本線2回戦シードとしている。 == グループトーナメント == {{main|リーグ戦|ラウンドロビン|スイス式トーナメント}} 日本語で言う「リーグ戦」「総当たり戦」は、英語では「group tournament(グループ トーナメント)」となる。特に、完全総当たりで、同一カードの対戦が2回(いわゆる「ホーム アンド アウェイ方式」)または1回の場合は「round-robin tournament(ラウンド ロビン トーナメント)」と呼ばれる。また「リーグ戦」「総当たり戦」ではないスイス式トーナメントもグループ トーナメントの一種である。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[リーグ戦]] * [[カップ戦]] {{sports-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:とおなめんとほうしき}} [[Category:トーナメント|*]]
2003-07-23T11:59:52Z
2023-12-18T01:35:50Z
false
false
false
[ "Template:Main", "Template:Reflist", "Template:Sports-stub", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:要出典範囲", "Template:出典無効" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E6%96%B9%E5%BC%8F
12,093
リレー走
リレー走(リレーそう)とは、陸上競技のうちリレーしながら走る競技の総称。継走(けいそう)とも称する。ただし、通常、駅伝は含めない。 個人競技と言われる陸上競技の中では数少ない団体種目。 第1走者から第4走者までの4人でバトンを渡しつないで走り、そのタイムを競う。バトンは通常、約30cmほどの縦長の円筒形で、継ぎ目のない木材、金属その他の硬い材質が使われる。短距離走の得意な選手が参加することが多い。 第2走者以降は予め加速してからバトンを受け取るため、単純に4人の記録を合計した数値よりも速い記録が出ることが多い。スウェーデンリレーを除いて各走者は全体の距離を等分して担当し、バトンパスは定められた30mまたは20mの区間(テイクオーバーゾーン)内で行う必要があるため、各走者の距離の配分を自由に変えることはできない。 バトンワークの技術の優劣が最終的なタイムに大きく影響するため、各個人の走力は劣ってもバトンパスの技術の高いチームのほうが、各走者個人の走力で優るチームよりも良い記録を出すことが十分に可能であり、その点がリレー競技の醍醐味でもある。 バトンを受け渡す際に落としてしまった場合、バトンパスが完了していない状態のバトンは渡し手(前走者)が拾わなくてはならない。バトンパスが完了し、受け手(後走者)が唯一の保持者となった後にバトンを落としたら、受け手が拾わなくてはならない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "リレー走(リレーそう)とは、陸上競技のうちリレーしながら走る競技の総称。継走(けいそう)とも称する。ただし、通常、駅伝は含めない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "個人競技と言われる陸上競技の中では数少ない団体種目。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第1走者から第4走者までの4人でバトンを渡しつないで走り、そのタイムを競う。バトンは通常、約30cmほどの縦長の円筒形で、継ぎ目のない木材、金属その他の硬い材質が使われる。短距離走の得意な選手が参加することが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "第2走者以降は予め加速してからバトンを受け取るため、単純に4人の記録を合計した数値よりも速い記録が出ることが多い。スウェーデンリレーを除いて各走者は全体の距離を等分して担当し、バトンパスは定められた30mまたは20mの区間(テイクオーバーゾーン)内で行う必要があるため、各走者の距離の配分を自由に変えることはできない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "バトンワークの技術の優劣が最終的なタイムに大きく影響するため、各個人の走力は劣ってもバトンパスの技術の高いチームのほうが、各走者個人の走力で優るチームよりも良い記録を出すことが十分に可能であり、その点がリレー競技の醍醐味でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "バトンを受け渡す際に落としてしまった場合、バトンパスが完了していない状態のバトンは渡し手(前走者)が拾わなくてはならない。バトンパスが完了し、受け手(後走者)が唯一の保持者となった後にバトンを落としたら、受け手が拾わなくてはならない。", "title": "概要" } ]
リレー走(リレーそう)とは、陸上競技のうちリレーしながら走る競技の総称。継走(けいそう)とも称する。ただし、通常、駅伝は含めない。
[[File:US Navy 050429-N-7975R-002 The Army-Navy rivalry takes to the track in the 4X100 relay.jpg|thumb|240px|400mリレー走<br />バトンパスを行う選手]] '''リレー走'''(リレーそう)とは、[[陸上競技]]のうち[[駅伝制|リレー]]しながら走る競技の総称。'''継走'''(けいそう)とも称する。ただし、通常、[[駅伝競走|駅伝]]は含めない。 == 概要 == {{clear}} 個人競技と言われる陸上競技の中では数少ない団体種目。 第1走者から第4走者までの4人で[[バトン]]を渡しつないで走り、そのタイムを競う。バトンは通常、約30cmほどの縦長の円筒形で、継ぎ目のない[[木材]]、[[金属]]その他の硬い材質が使われる。短距離走の得意な選手が参加することが多い。 第2走者以降は予め加速してからバトンを受け取るため、単純に4人の記録を合計した数値よりも速い記録が出ることが多い。[[スウェーデンリレー]]を除いて各走者は全体の距離を等分して担当し、バトンパスは定められた30mまたは20mの区間(テイクオーバーゾーン)内で行う必要があるため、各走者の距離の配分を自由に変えることはできない。 バトンワークの技術の優劣が最終的なタイムに大きく影響するため、各個人の走力は劣ってもバトンパスの技術の高いチームのほうが、各走者個人の走力で優るチームよりも良い記録を出すことが十分に可能であり、その点がリレー競技の醍醐味でもある。 バトンを受け渡す際に落としてしまった場合、バトンパスが完了していない状態のバトンは渡し手(前走者)が拾わなくてはならない。バトンパスが完了し、受け手(後走者)が唯一の保持者となった後にバトンを落としたら、受け手が拾わなくてはならない<ref>2020年度改正。[https://www.jaaf.or.jp/pdf/about/rule/2021/p157_218.pdf 日本陸上競技連盟競技規則]24.7注釈。2019年度までは、バトンを受け取る側の走者に触れた後であれば、渡す側、受け取る側いずれかの走者が拾ってレースを続行することができた。</ref>。 == リレー走の種類 == ; [[400メートルリレー走]] : 男子・女子・混合がある。4人の走者でトラック1週を継走する種目で、オリンピックを初めとする主要大会以外にも、運動会などの種目としても実施されることが多い。 : 他のリレー種目に比べ1人当たりが走る距離も100mと短い為、標準的な種目といえる。 : 陸上競技関係者の間では、400mを継走する事から「4継(ヨンケイ)」と省略され呼ばれることが多い。 ; [[800メートルリレー走]] : 1人トラック半周(200m)を走りバトンを繋ぐリレー種目。第3走者から[[オープンレーン]]になる特徴がある。 : 2002年までは、400メートルリレー走とともに中学男子の公式種目として実施されていたが、2003年からは400メートルリレー走に一本化され実施されなくなった。 : 国内では各地方の競技会などで実施される程度にまで実施される機会が少なくなったが、国際的には[[IAAF世界リレー大会]]などで実施種目になっている。 : 陸上競技関係者の間では、800mを継走する事から「8継(ハチケイ、ハッケイ)」と省略され呼ばれることが多い。 ; [[1600メートルリレー走]] : 1人トラック1周(400m)を走りバトンを繋ぐリレー種目。第2走者からオープンレーンになる。 : 走る合計距離が1600m(=約1マイル)であることから、陸上競技関係者の間では「マイル(マイルリレー)」と呼ばれることが多い。 : 陸上競技の大会では主に最終種目として実施される事が多い。(中学の場合は400メートルリレー走) : [[男女混合1600メートルリレー走|男女混合]]は[[2015年世界ユース陸上競技選手権大会|2015年世界ユース選手権]]から行われており、2021年現在男女混合種目としては唯一世界記録および日本記録が公認される。 ; [[3200メートルリレー走]] : 1人トラック2周(800m)を走りバトンを繋ぐリレー種目。 : 1600メートルリレー走までは第1走者が[[スターティングブロック]]を利用してスタートするのに対し、3200メートルリレー走からは[[スタンディングスタート]]になる。 : オープンレーンも第1走者からになる。 : 国内では実施される事が少ない種目で、国際的にもオリンピックや世界選手権などの主要大会では実施されていないが、IAAF世界リレー大会の実施種目になっている。 ; [[6000メートルリレー走]] : 1人トラック3周と300m(1500m)を走りバトンを繋ぐリレー種目。 : 主に大学や地方の陸上競技協会が主催する記録会などで実施される種目で、オリンピックや国内の主要大会では大会日程などの問題もあることからか、ほとんど実施されていない。 : IAAF世界リレー大会では第1回のみで実施されていたが、第2回大会以降は実施されていない。 ; [[スウェーデンリレー]] : 他のリレー種目と異なり、走者全員が走る距離が違うリレー種目。 : 第1走者から順に100mごと距離が長くなり、最終的に第4走者は400mを走る。 : 種目名の由来は、スウェーデンで当種目が盛んに実施されていたことに由来するが、大会によってこの種目の呼称がまちまちで、「スウェーディッシュリレー」や「1000メートルリレー走」、「メドレーリレー」などと呼ばれることもある。 ; [[ディスタンスメドレーリレー]] : 第1走者から順に1200m→400m→800m→1600mの順に継走する、リレー種目の中でも異色の種目。 : 中長距離選手向けのスウェーデンリレーなどと呼ばれる事もある。 : 国内では実施された事例は少ない。IAAF世界リレー大会の第2回大会で6000メートルリレー走に代わり新種目として採用されたが、第3回以降は実施されていない。 ; [[スプリントメドレーリレー]] : 基本的には800mか1600mを4人で継走するが、4人の走者のうち、2人が短い距離を走り、残り2人が異なる長い距離を走るという種目。 : 800mの場合は100mが2人、残り2人は200mと400mそれぞれを継走し、1600mの場合は200mが2人、残り2人は400mと800mをそれぞれ継走する。 : その異色さ故に、他のリレー種目よりも実施される事が極めて少ないが、運動会などで数名だけ距離を長く走るリレーに関しては、このスプリントメドレーリレーに含まれる。 : また、1000mのバリエーションもあるが、1000mに関してはスウェーデンリレーと別枠で扱われる事が多い。 ;[[2×2×400mリレー]] :混合。男女1人ずつの2人のチームで競う競技で、2人の選手が400mを2回走る。男女どちらから走っても良いが交互に2回ずつ走る事とする<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=0yKm2aPmIUY 世界リレー 珍種目 男女混合2×2×400mリレー 日本銅メダル(2019 横浜)]</ref>。スタートはスタンディングスタートで行い、第1走者1周目の途中からオープンレーンとなる。[[2019年IAAF世界リレー大会|IAAF世界リレー2019横浜大会]]から行われている<ref>[https://iaafworldrelays.com/yokohama2019/ja/attention-turns-to-yokohama-travel-2/ 世界リレーに新しい2種目が加わる]</ref>。 ;[[シャトルハードルリレー]] :男子・女子・混合がある。男女2人ずつ計4人が男女交互に直線の110mハードルを走る。バトンは使用しない。第一走者は女子からとなる。第二走者の男子は女子のゴール地点で反対向きでスタートブロックについて用意しており女子がゴールラインを超えた時点でスタートできる<ref>[https://spread-sports.jp/archives/26398 「こんなリレー初めて観た!!」男女混合シャトルハードルリレーに面白い!の声続出]</ref><ref>[https://www.jaaf.or.jp/news/article/12498/?category=5 【世界リレー】正式種目の男女混合シャトルハードルリレー、世界初レースを関東学連春季オープンで実施!出場選手コメント]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=c2Q48I39y2Y シャトルハードル決勝日本55.59 2位 世界リレー2019]</ref>。混合はIAAF世界リレー2019横浜大会から行われている。 == その他 == *[[学校]]の[[体育]]の授業でも登場し、[[体育祭]]や[[運動会]]には欠かせない種目の一つである。これらは主に学校のグラウンドを利用して行うことからスタートからオープンレーン、[[コーナートップ]]制で行われることが多い。内容も選抜チーム対抗だったり、走順によって距離や学年、性別などの指定があったりすることもある。 *[[体育]]の授業などでは、「前走者は左手で渡し、次走者は右手で受ける」というバトンパスの指導が主流であり、体育の教科書にも明示されている。しかし、①次走者はトラックの内側を向いて構えることから、前走者がコーナーを走ってくる様子を直前まで見ることができる②前走者はバトンを渡した後、トラックの外側のレーンにはみ出すことを防ぐことができる③インコースが空いたことに気づきやすい等の理由から、「前走者は右手で渡し,次走者は左手で受けるようにする」方法も取り入れられており、[https://www.mext.go.jp/sports/b_menu/sports/mcatetop04/list/jsa_00003.htm スポーツ庁「小学校体育(運動領域)指導の手引」]でも紹介されている。「右手渡し左手受け」の有効性については、『体育科教育』([[大修館書店]])2012年10月号において、[[仙台市]]の教員太田健二によって提唱された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{スポーツ一覧}} {{チームスポーツ}} {{陸上競技}} {{デフォルトソート:りれえそう}} [[Category:陸上競技種目]] [[Category:運動会の競技]]
null
2023-07-22T13:55:59Z
false
false
false
[ "Template:Clear", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:スポーツ一覧", "Template:チームスポーツ", "Template:陸上競技" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%83%BC%E8%B5%B0
12,094
400メートルリレー走
400メートルリレー走(よんひゃくメートルリレーそう、英語: 4x100 metres relay)は、陸上競技のリレー走の一種である。第一走者から第四走者までの4人で100mずつバトンを渡しつないで走り、そのタイムを競う。 4人で合計400メートルを継走することから、日本では4継・四継(よんけい)とも呼ばれ、他に4×100m、400mRなどの略表記がある。 個人競技が大勢を占める陸上競技の中では数少ない団体競技の一つ。 第1走者から第4走者までの4人で100mずつバトンを渡しつないで走り、そのタイムを競うものである。第二走者以降はリレーゾーンで加速するため、単純に100mの記録を4倍した数値や選手4人のタイムを合計した数値よりも速い記録が出る。走る速さだけでなくバトンパスの技術も非常に重要で、失敗するとタイムロスになったり最悪失格になったりしてしまう。特に400mリレーでは各走者の走る距離が短い分、バトンワークの優劣が最終的なタイムに大きく影響する。バトンの受け渡しは1600メートルリレーなどとは違い、バトンを受け取る第二走者以降はコース上にマーキングをするなどしてバトンを渡す走者がその位置を通過した際にスタートして速度が乗った状態のまま後方を振り向く事無くバトンの受け渡しを行う。バトンを受け渡す際に落としてしまった場合、レースを続行することはできるが、基本的に挽回は絶望的なレースとなる。バトンを受け取る走者が拾って走るのは失格扱いとなる。 バトンパスの方式は大きく2つに分類され、前後の走者が腕を水平に振り上げ、バトンを受け取る走者が上向きに広げた掌にバトンを置くように渡すオーバーハンドパスが全世界的に主流の方式である。比較的容易に習得でき、バトンパスで双方の走者がバトンの両端を持って渡せるために走者の間隔を大きく取り距離を稼ぐ事ができる。反面バトンを受け取る走者が肩や肘の関節を真後ろに捻じ曲げる無理な体勢を取るため受け渡しの際に速度が落ち、バトンを落とす危険性もやや高い。 バトンを受け取る走者の腰ほどの高さで下向きに開いた掌にバトンを下から差し入れるアンダーハンドパスを採用しているチームもある。伝統的な手法であるが難易度が高く、形だけを完成させるにも熟練を要するため徐々に使われなくなっていった。また低い位置でバトンを受け渡す体勢の関係上、オーバーハンドパスよりも前後の走者が接近する必要があり、距離的な面でも不利である。しかし、バトンを受け取る走者が走るフォームのまま後方に手を伸ばす、というこの方式には走る動作として無理が少なく減速が最小限で済むという大きなメリットがあるため、熟練した選手同士で行えばタイム短縮の可能性もあり近年では再評価されている。他国より個人の体格や走力が劣る日本やフランスなどはアンダーハンドパスを磨き上げ、本競技では国際大会でしばしば上位入賞を果たしている。 第一走者はスタートダッシュに長けている選手、第二走者は直線の速い選手、第三走者はコーナリングのうまい選手、第四走者(アンカー)には走力の高い選手(エース)が入ることが多い。アンカーにはフィニッシュ前での競り合いに負けない勝負強さも必要である。そのために同じ直線走路である第二走者にエースを起用し無用なプレッシャーを減らし走力を存分に発揮させる作戦のチームもあり、第二走者の重要性が高まっている。その他にスタートが得意なエースを第一走者に起用して逃げ切る、コーナーが得意のエースを第三走者に投入して後半一気にリードを広げ勝負に出るなどチーム戦略は様々である。 通常100mや200mのトップ選手が参加することが多いが、障害走ながらほぼ同じ距離を走る男子110メートルハードルの選手や、女子では同じ距離を走る100メートルハードルの選手が起用されることも多い。加えて跳躍競技(主に走幅跳と三段跳)の選手でも短距離走を得意とする場合はリレーメンバーに選ばれ、大きく貢献することもある(日本では南部忠平、世界ではロレンゾ・ライトやウィリー・ホワイト、ハイデ・ローゼンダールなどが該当する)。 また持久力があり、200m同様にコーナリング技術の強さを生かせる400mや400mハードルを本業とする選手がリレーメンバーに選ばれることもある。但しこれは多くの大会の場合、彼らの本職である1600メートルリレー走の決勝と本種目の予選が同一日(最終日の前日)に重なっており、たとえ2、3時間の間隔が開いていてもかけもちが難しい(スタッフも無理をさせたくないのが本音と思われる)という日程面の影響もある。そのため、補欠メンバーとして起用されることが多い。 またこの種目は陸上競技大会の最後に行われることが多く、レース展開も目まぐるしく変化するため、100メートル競走や1600メートルリレーなどと並ぶ大会の花形競技として親しまれている。 アメリカとジャマイカの実力が突出しており、これに続く第2グループが7ヶ国ほどある。 2016年リオデジャネイロで出した37秒60のアジア記録樹立により国別歴代ランキングではジャマイカ、アメリカに次ぐ3位(当時)に急浮上した。2019年ドーハで37秒43を記録しアジア記録をさらに更新、国別歴代ランキングではジャマイカ、アメリカ、イギリスに次ぐ4位に位置した。オリンピックではアテネで4位入賞、北京ではアメリカ等の強豪国がバトンパスのミスや引き継ぎ違反で決勝に進めなかったことやジャマイカが競技後にドーピング検査で失格になったこともあって銀メダルを、ロンドンでは4位だったがリオデジャネイロでもアメリカより先着 し銀メダルを獲得した。世界陸上でも、2017年に同国初の銅メダルを獲得、2019年に2大会連続となる銅メダルを獲得した。しかし金メダル獲得へ最大のチャンスと見込まれていた地元東京五輪での決勝でまさかのバトンミス失格を喫した。 リオデジャネイロ五輪、ロンドン世界陸上、ジャカルタアジア大会、ドーハ世界陸上の4年間で出場した選手は山縣亮太(9秒95)(出場当時は10.00)、飯塚翔太(10秒08)、桐生祥秀(9秒98)、ケンブリッジ飛鳥(10秒03)(出場当時は10秒08)、多田修平(10秒01)(出場当時は10.07)、藤光謙司(10秒22)、小池祐貴(9秒98)、白石黄良々(10秒19)、サニブラウン・アブデル・ハキーム(9秒97)の9人が出場しており、近年はより豊富な選手層を誇っている。 (2017年に桐生祥秀が100m9秒台を出しているが、五輪や世界陸上でメダルを獲得した当時は)100m10秒を切る選手がいない中での好成績に世界のトップアスリートも関心を持ち、リオデジャネイロで銀メダルを獲得した際、オリンピック3大会連続2冠(100m、200m)・2大会連続3冠(100m、200m、400mリレー)のウサイン・ボルトは「日本はチームワークがいい。この数年彼らを見てきたが、彼らはいつもバトンの扱いが素晴らしい」と評価し、同大会100m銀メダリストのジャスティン・ガトリンも「バトンパスに集中して練習している。一年中一緒にレースするからチームワークもよくなるんだろう」と述べるなど、チームワークのよさとバトンの受け渡しのよさを絶賛している。 世界記録保持者のウサイン・ボルトがメンバーに入っていた時期は圧倒的強さを誇っており、ロンドンオリンピックで世界記録を塗り替えている。アメリカと比較してもバトンミスが少なく、世界陸上でも2007年大阪大会以降はメダルを獲得しており、さらに2009年ベルリン大会以降は金メダルを取り続けている。しかし、2017年ロンドン大会ではアンカーのウサイン・ボルトが足を痛めたため途中棄権、絶対的エースのボルトが引退した後の2019年ドーハ大会では決勝進出を逃している。北京オリンピックでは世界記録による1着に入ったが、2017年1月にネスタ・カーターのドーピング違反により失格の裁定が下り、金メダルをはく奪された。但しロンドンオリンピックにて北京オリンピックの記録を上回っていることから世界記録保持者であることは変わらない。 世界トップレベルに位置するアメリカであるが、男子に関して21世紀に開催されたオリンピックではアテネの銀メダルが最高であり、北京ではバトン落下による途中棄権、ロンドンでは2着であったが3走のタイソン・ゲイが薬物規定違反を犯したことでメダルはく奪、リオデジャネイロでは日本に先着され、その後1走から2走へバトンパスを行なったのがテイクオーバーゾーン外であったことから失格に、そして東京では予選敗退を喫し4大会連続でメダルを逃している。世界陸上でも2007年大阪大会、2019年ドーハ大会では金メダル(37.10のアメリカ新記録)、2013年モスクワ大会、2017年ロンドン大会、2022年ユージーン大会では銀メダルを獲得しているが、その他の大会では失格になることが多い。 アジアでは日本と競争相手にあるのが中国である。アジア出身選手初の100m9秒台を記録した蘇炳添(9秒83)や200mアジア記録保持者の謝震業(19秒88)、張培萌(10秒00)などを擁し、2014年アジア競技大会にて日本が保持していたアジア記録を更新し、アジア初の37秒台に突入して金メダルを獲得。2015年の北京大会ではジャマイカに次ぐ銀メダルを獲得している。翌年迎えたリオデジャネイロオリンピックでも予選1組目でアメリカに次ぐ2着に入っており、アジア記録を一時的に更新していた(その後2組目で1位になった日本に更新されている)。決勝でも4位に入り、日本と並ぶ世界の強豪国に位置付けられている。ジャカルタアジア大会では謝震業や張培萌、呉智強などのエース級の選手を欠き、日本とインドネシアに敗れ銅メダルを獲得した。 イギリスは2004年のアテネオリンピックで金メダルを獲得、地元開催となった2017年世界陸上競技選手権大会ではヨーロッパ新記録となる37秒47で金メダルを獲得、2019年世界陸上競技選手権大会ではヨーロッパ記録をさらに更新する37秒36で銀メダルを獲得、国別歴代ランキングでは3位に位置している。圧倒的な選手層の厚さやバトンワークで誰がどの区間に入っても安定した記録や順位をマークする実力を持つ。アダム・ジェミリやザーネル・ヒューズ、ネサニエル・ミッチェルブレークなどの個人で活躍する選手やリチャード・キルティ、ハリー・エイキンス・アリエーティなど主にリレーのサブで活躍する選手が十分に揃っている。 トリニダード・トバゴも強豪であり、北京とロンドンで2着に入り、北京ではジャマイカの失格により金メダル、ロンドンでは銀メダルを獲得している。リオデジャネイロでも決勝に進出たが、レーン侵害による失格となり3大会連続のメダルを逃している。 かつて北京五輪やリオデジャネイロ五輪で入賞するなどの功績は持っていたが、2019年の世界リレーで優勝を果たし、ドーハ世界陸上では37秒台に突入するなど急成長を遂げた。 2019年の世界リレーで好記録を残し、ドーハ世界陸上の予選ではアフリカ記録を更新する37秒65を記録し、現在国別歴代ランキングで日本に次ぐ5位に位置している。エースのアカニ・シンビネを擁する。2021年の同大会では優勝を果たした。 2021年の東京五輪で、100mで優勝したマルセル・ジェイコブスを擁し優勝。同大会で旋風を巻き起こしたイタリア短距離界に今後注目が集まるか。 世界陸上では95年ヨーテボリ大会、97年アテネ大会、22年ユージーン大会で金メダルを獲得している古豪。 女子ではアメリカ、ジャマイカ、ロシアが強豪国となっている。 1932年ロサンゼルスオリンピックで5位に入賞するも、全体的にはオリンピックの出場枠が得られる上位16位に入れるかどうかのレベルで、一時は代表チーム自体の派遣がない時期が続いた。近年では2009年、2011年に日本記録を更新し、2012年ロンドンオリンピックで1964年東京オリンピック以来48年(12大会)ぶりに出場した。 ロンドンで金メダル、リオデジャネイロでは予選で一度は失格になったが抗議の結果ブラジルからの妨害が認められ、アメリカだけの再レースで予選総合8位だった中国の記録を上回り決勝へ進出。2大会連続の金メダルを獲得している。 日本が同種目に初参加したのは1928年アムステルダムオリンピックからで、続くロサンゼルス、ベルリンと戦前において3大会連続で参加した。中でも1932年ロサンゼルスオリンピックでは決勝進出を果たし、アジア勢初の5位入賞を果たした。戦後の1956年メルボルンオリンピックで20年ぶりに競技に復帰したが、その後は苦戦が続き、1968年メキシコシティーオリンピック終了後は暫く代表チームの派遣されなかった。ちなみにメキシコシティーオリンピックの日本代表は、短距離走の選手は飯島秀雄のみで、残り3名(阿部直紀、小倉新司、山田宏臣)が走幅跳の選手で構成されるという珍しいチーム編成であった。 1988年ソウルオリンピックから競技に復帰する。青木半治の「どんなに弱くても、リレーはオリンピックに連れて行くべきだ。リレーが基本なのだから」との考えから、20年間に渡って派遣されていなかった日本代表を派遣させた。続く1992年バルセロナオリンピックでは戦後60年ぶりの決勝進出を果たし、戦後初の6位入賞を果たす。以後個々の走力のハンデを緻密なバトンパスで補う日本のリレーはオリンピックや世界選手権で入賞を重ね、今日の日本代表の活躍につながった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "400メートルリレー走(よんひゃくメートルリレーそう、英語: 4x100 metres relay)は、陸上競技のリレー走の一種である。第一走者から第四走者までの4人で100mずつバトンを渡しつないで走り、そのタイムを競う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "4人で合計400メートルを継走することから、日本では4継・四継(よんけい)とも呼ばれ、他に4×100m、400mRなどの略表記がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "個人競技が大勢を占める陸上競技の中では数少ない団体競技の一つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "第1走者から第4走者までの4人で100mずつバトンを渡しつないで走り、そのタイムを競うものである。第二走者以降はリレーゾーンで加速するため、単純に100mの記録を4倍した数値や選手4人のタイムを合計した数値よりも速い記録が出る。走る速さだけでなくバトンパスの技術も非常に重要で、失敗するとタイムロスになったり最悪失格になったりしてしまう。特に400mリレーでは各走者の走る距離が短い分、バトンワークの優劣が最終的なタイムに大きく影響する。バトンの受け渡しは1600メートルリレーなどとは違い、バトンを受け取る第二走者以降はコース上にマーキングをするなどしてバトンを渡す走者がその位置を通過した際にスタートして速度が乗った状態のまま後方を振り向く事無くバトンの受け渡しを行う。バトンを受け渡す際に落としてしまった場合、レースを続行することはできるが、基本的に挽回は絶望的なレースとなる。バトンを受け取る走者が拾って走るのは失格扱いとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "バトンパスの方式は大きく2つに分類され、前後の走者が腕を水平に振り上げ、バトンを受け取る走者が上向きに広げた掌にバトンを置くように渡すオーバーハンドパスが全世界的に主流の方式である。比較的容易に習得でき、バトンパスで双方の走者がバトンの両端を持って渡せるために走者の間隔を大きく取り距離を稼ぐ事ができる。反面バトンを受け取る走者が肩や肘の関節を真後ろに捻じ曲げる無理な体勢を取るため受け渡しの際に速度が落ち、バトンを落とす危険性もやや高い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "バトンを受け取る走者の腰ほどの高さで下向きに開いた掌にバトンを下から差し入れるアンダーハンドパスを採用しているチームもある。伝統的な手法であるが難易度が高く、形だけを完成させるにも熟練を要するため徐々に使われなくなっていった。また低い位置でバトンを受け渡す体勢の関係上、オーバーハンドパスよりも前後の走者が接近する必要があり、距離的な面でも不利である。しかし、バトンを受け取る走者が走るフォームのまま後方に手を伸ばす、というこの方式には走る動作として無理が少なく減速が最小限で済むという大きなメリットがあるため、熟練した選手同士で行えばタイム短縮の可能性もあり近年では再評価されている。他国より個人の体格や走力が劣る日本やフランスなどはアンダーハンドパスを磨き上げ、本競技では国際大会でしばしば上位入賞を果たしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "第一走者はスタートダッシュに長けている選手、第二走者は直線の速い選手、第三走者はコーナリングのうまい選手、第四走者(アンカー)には走力の高い選手(エース)が入ることが多い。アンカーにはフィニッシュ前での競り合いに負けない勝負強さも必要である。そのために同じ直線走路である第二走者にエースを起用し無用なプレッシャーを減らし走力を存分に発揮させる作戦のチームもあり、第二走者の重要性が高まっている。その他にスタートが得意なエースを第一走者に起用して逃げ切る、コーナーが得意のエースを第三走者に投入して後半一気にリードを広げ勝負に出るなどチーム戦略は様々である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "通常100mや200mのトップ選手が参加することが多いが、障害走ながらほぼ同じ距離を走る男子110メートルハードルの選手や、女子では同じ距離を走る100メートルハードルの選手が起用されることも多い。加えて跳躍競技(主に走幅跳と三段跳)の選手でも短距離走を得意とする場合はリレーメンバーに選ばれ、大きく貢献することもある(日本では南部忠平、世界ではロレンゾ・ライトやウィリー・ホワイト、ハイデ・ローゼンダールなどが該当する)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また持久力があり、200m同様にコーナリング技術の強さを生かせる400mや400mハードルを本業とする選手がリレーメンバーに選ばれることもある。但しこれは多くの大会の場合、彼らの本職である1600メートルリレー走の決勝と本種目の予選が同一日(最終日の前日)に重なっており、たとえ2、3時間の間隔が開いていてもかけもちが難しい(スタッフも無理をさせたくないのが本音と思われる)という日程面の影響もある。そのため、補欠メンバーとして起用されることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "またこの種目は陸上競技大会の最後に行われることが多く、レース展開も目まぐるしく変化するため、100メートル競走や1600メートルリレーなどと並ぶ大会の花形競技として親しまれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アメリカとジャマイカの実力が突出しており、これに続く第2グループが7ヶ国ほどある。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2016年リオデジャネイロで出した37秒60のアジア記録樹立により国別歴代ランキングではジャマイカ、アメリカに次ぐ3位(当時)に急浮上した。2019年ドーハで37秒43を記録しアジア記録をさらに更新、国別歴代ランキングではジャマイカ、アメリカ、イギリスに次ぐ4位に位置した。オリンピックではアテネで4位入賞、北京ではアメリカ等の強豪国がバトンパスのミスや引き継ぎ違反で決勝に進めなかったことやジャマイカが競技後にドーピング検査で失格になったこともあって銀メダルを、ロンドンでは4位だったがリオデジャネイロでもアメリカより先着 し銀メダルを獲得した。世界陸上でも、2017年に同国初の銅メダルを獲得、2019年に2大会連続となる銅メダルを獲得した。しかし金メダル獲得へ最大のチャンスと見込まれていた地元東京五輪での決勝でまさかのバトンミス失格を喫した。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "リオデジャネイロ五輪、ロンドン世界陸上、ジャカルタアジア大会、ドーハ世界陸上の4年間で出場した選手は山縣亮太(9秒95)(出場当時は10.00)、飯塚翔太(10秒08)、桐生祥秀(9秒98)、ケンブリッジ飛鳥(10秒03)(出場当時は10秒08)、多田修平(10秒01)(出場当時は10.07)、藤光謙司(10秒22)、小池祐貴(9秒98)、白石黄良々(10秒19)、サニブラウン・アブデル・ハキーム(9秒97)の9人が出場しており、近年はより豊富な選手層を誇っている。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "(2017年に桐生祥秀が100m9秒台を出しているが、五輪や世界陸上でメダルを獲得した当時は)100m10秒を切る選手がいない中での好成績に世界のトップアスリートも関心を持ち、リオデジャネイロで銀メダルを獲得した際、オリンピック3大会連続2冠(100m、200m)・2大会連続3冠(100m、200m、400mリレー)のウサイン・ボルトは「日本はチームワークがいい。この数年彼らを見てきたが、彼らはいつもバトンの扱いが素晴らしい」と評価し、同大会100m銀メダリストのジャスティン・ガトリンも「バトンパスに集中して練習している。一年中一緒にレースするからチームワークもよくなるんだろう」と述べるなど、チームワークのよさとバトンの受け渡しのよさを絶賛している。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "世界記録保持者のウサイン・ボルトがメンバーに入っていた時期は圧倒的強さを誇っており、ロンドンオリンピックで世界記録を塗り替えている。アメリカと比較してもバトンミスが少なく、世界陸上でも2007年大阪大会以降はメダルを獲得しており、さらに2009年ベルリン大会以降は金メダルを取り続けている。しかし、2017年ロンドン大会ではアンカーのウサイン・ボルトが足を痛めたため途中棄権、絶対的エースのボルトが引退した後の2019年ドーハ大会では決勝進出を逃している。北京オリンピックでは世界記録による1着に入ったが、2017年1月にネスタ・カーターのドーピング違反により失格の裁定が下り、金メダルをはく奪された。但しロンドンオリンピックにて北京オリンピックの記録を上回っていることから世界記録保持者であることは変わらない。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "世界トップレベルに位置するアメリカであるが、男子に関して21世紀に開催されたオリンピックではアテネの銀メダルが最高であり、北京ではバトン落下による途中棄権、ロンドンでは2着であったが3走のタイソン・ゲイが薬物規定違反を犯したことでメダルはく奪、リオデジャネイロでは日本に先着され、その後1走から2走へバトンパスを行なったのがテイクオーバーゾーン外であったことから失格に、そして東京では予選敗退を喫し4大会連続でメダルを逃している。世界陸上でも2007年大阪大会、2019年ドーハ大会では金メダル(37.10のアメリカ新記録)、2013年モスクワ大会、2017年ロンドン大会、2022年ユージーン大会では銀メダルを獲得しているが、その他の大会では失格になることが多い。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アジアでは日本と競争相手にあるのが中国である。アジア出身選手初の100m9秒台を記録した蘇炳添(9秒83)や200mアジア記録保持者の謝震業(19秒88)、張培萌(10秒00)などを擁し、2014年アジア競技大会にて日本が保持していたアジア記録を更新し、アジア初の37秒台に突入して金メダルを獲得。2015年の北京大会ではジャマイカに次ぐ銀メダルを獲得している。翌年迎えたリオデジャネイロオリンピックでも予選1組目でアメリカに次ぐ2着に入っており、アジア記録を一時的に更新していた(その後2組目で1位になった日本に更新されている)。決勝でも4位に入り、日本と並ぶ世界の強豪国に位置付けられている。ジャカルタアジア大会では謝震業や張培萌、呉智強などのエース級の選手を欠き、日本とインドネシアに敗れ銅メダルを獲得した。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "イギリスは2004年のアテネオリンピックで金メダルを獲得、地元開催となった2017年世界陸上競技選手権大会ではヨーロッパ新記録となる37秒47で金メダルを獲得、2019年世界陸上競技選手権大会ではヨーロッパ記録をさらに更新する37秒36で銀メダルを獲得、国別歴代ランキングでは3位に位置している。圧倒的な選手層の厚さやバトンワークで誰がどの区間に入っても安定した記録や順位をマークする実力を持つ。アダム・ジェミリやザーネル・ヒューズ、ネサニエル・ミッチェルブレークなどの個人で活躍する選手やリチャード・キルティ、ハリー・エイキンス・アリエーティなど主にリレーのサブで活躍する選手が十分に揃っている。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "トリニダード・トバゴも強豪であり、北京とロンドンで2着に入り、北京ではジャマイカの失格により金メダル、ロンドンでは銀メダルを獲得している。リオデジャネイロでも決勝に進出たが、レーン侵害による失格となり3大会連続のメダルを逃している。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "かつて北京五輪やリオデジャネイロ五輪で入賞するなどの功績は持っていたが、2019年の世界リレーで優勝を果たし、ドーハ世界陸上では37秒台に突入するなど急成長を遂げた。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2019年の世界リレーで好記録を残し、ドーハ世界陸上の予選ではアフリカ記録を更新する37秒65を記録し、現在国別歴代ランキングで日本に次ぐ5位に位置している。エースのアカニ・シンビネを擁する。2021年の同大会では優勝を果たした。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2021年の東京五輪で、100mで優勝したマルセル・ジェイコブスを擁し優勝。同大会で旋風を巻き起こしたイタリア短距離界に今後注目が集まるか。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "世界陸上では95年ヨーテボリ大会、97年アテネ大会、22年ユージーン大会で金メダルを獲得している古豪。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "女子ではアメリカ、ジャマイカ、ロシアが強豪国となっている。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1932年ロサンゼルスオリンピックで5位に入賞するも、全体的にはオリンピックの出場枠が得られる上位16位に入れるかどうかのレベルで、一時は代表チーム自体の派遣がない時期が続いた。近年では2009年、2011年に日本記録を更新し、2012年ロンドンオリンピックで1964年東京オリンピック以来48年(12大会)ぶりに出場した。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ロンドンで金メダル、リオデジャネイロでは予選で一度は失格になったが抗議の結果ブラジルからの妨害が認められ、アメリカだけの再レースで予選総合8位だった中国の記録を上回り決勝へ進出。2大会連続の金メダルを獲得している。", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "", "title": "各国のレベル" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "", "title": "世界記録" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "", "title": "世界記録" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本が同種目に初参加したのは1928年アムステルダムオリンピックからで、続くロサンゼルス、ベルリンと戦前において3大会連続で参加した。中でも1932年ロサンゼルスオリンピックでは決勝進出を果たし、アジア勢初の5位入賞を果たした。戦後の1956年メルボルンオリンピックで20年ぶりに競技に復帰したが、その後は苦戦が続き、1968年メキシコシティーオリンピック終了後は暫く代表チームの派遣されなかった。ちなみにメキシコシティーオリンピックの日本代表は、短距離走の選手は飯島秀雄のみで、残り3名(阿部直紀、小倉新司、山田宏臣)が走幅跳の選手で構成されるという珍しいチーム編成であった。", "title": "五輪・世界選手権における日本チームの入賞歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1988年ソウルオリンピックから競技に復帰する。青木半治の「どんなに弱くても、リレーはオリンピックに連れて行くべきだ。リレーが基本なのだから」との考えから、20年間に渡って派遣されていなかった日本代表を派遣させた。続く1992年バルセロナオリンピックでは戦後60年ぶりの決勝進出を果たし、戦後初の6位入賞を果たす。以後個々の走力のハンデを緻密なバトンパスで補う日本のリレーはオリンピックや世界選手権で入賞を重ね、今日の日本代表の活躍につながった。", "title": "五輪・世界選手権における日本チームの入賞歴" } ]
400メートルリレー走は、陸上競技のリレー走の一種である。第一走者から第四走者までの4人で100mずつバトンを渡しつないで走り、そのタイムを競う。 4人で合計400メートルを継走することから、日本では4継・四継(よんけい)とも呼ばれ、他に4×100m、400mRなどの略表記がある。
[[File:US Navy 050429-N-7975R-002 The Army-Navy rivalry takes to the track in the 4X100 relay.jpg|thumb|240px|400mリレー走<br />バトンパスを行う選手]] '''400メートルリレー走'''(よんひゃくメートルリレーそう、{{lang-en|4x100 metres relay}})は、[[陸上競技]]の[[リレー走]]の一種である。第一走者から第四走者までの4人で100mずつ[[バトン]]を渡しつないで走り、そのタイムを競う。 4人で合計400メートルを継走することから、日本では'''4継・四継'''(よんけい)とも呼ばれ、他に'''4×100m'''、'''400mR'''などの略表記がある。 == 概要 == 個人競技が大勢を占める陸上競技の中では数少ない団体競技の一つ。 第1走者から第4走者までの4人で100mずつバトンを渡しつないで走り、そのタイムを競うものである。第二走者以降はリレーゾーンで加速するため、単純に100mの記録を4倍した数値や選手4人のタイムを合計した数値よりも速い記録が出る。走る速さだけでなくバトンパスの技術も非常に重要で、失敗するとタイムロスになったり最悪失格になったりしてしまう。特に400mリレーでは各走者の走る距離が短い分、バトンワークの優劣が最終的なタイムに大きく影響する。バトンの受け渡しは[[1600メートルリレー走|1600メートルリレー]]などとは違い、バトンを受け取る第二走者以降はコース上にマーキングをするなどしてバトンを渡す走者がその位置を通過した際にスタートして速度が乗った状態のまま後方を振り向く事無くバトンの受け渡しを行う。バトンを受け渡す際に落としてしまった場合、レースを続行することはできるが、基本的に挽回は絶望的なレースとなる。バトンを受け取る走者が拾って走るのは失格扱いとなる。 バトンパスの方式は大きく2つに分類され、前後の走者が腕を水平に振り上げ、バトンを受け取る走者が上向きに広げた掌にバトンを置くように渡す'''オーバーハンドパス'''が全世界的に主流の方式である。比較的容易に習得でき、バトンパスで双方の走者がバトンの両端を持って渡せるために走者の間隔を大きく取り距離を稼ぐ事ができる。反面バトンを受け取る走者が[[肩]]や[[肘]]の[[関節]]を真後ろに捻じ曲げる無理な体勢を取るため受け渡しの際に速度が落ち、バトンを落とす危険性もやや高い。 バトンを受け取る走者の腰ほどの高さで下向きに開いた掌にバトンを下から差し入れる'''アンダーハンドパス'''を採用しているチームもある。伝統的な手法であるが難易度が高く、形だけを完成させるにも熟練を要するため徐々に使われなくなっていった。また低い位置でバトンを受け渡す体勢の関係上、オーバーハンドパスよりも前後の走者が接近する必要があり、距離的な面でも不利である。しかし、バトンを受け取る走者が走るフォームのまま後方に手を伸ばす、というこの方式には走る動作として無理が少なく減速が最小限で済むという大きなメリットがあるため、熟練した選手同士で行えばタイム短縮の可能性もあり近年では再評価されている。他国より個人の体格や走力が劣る[[日本]]や[[フランス]]などはアンダーハンドパスを磨き上げ、本競技では国際大会でしばしば上位入賞を果たしている。 第一走者はスタートダッシュに長けている選手、第二走者は直線の速い選手、第三走者はコーナリングのうまい選手、第四走者(アンカー)には走力の高い選手(エース)が入ることが多い。アンカーにはフィニッシュ前での競り合いに負けない勝負強さも必要である。そのために同じ直線走路である第二走者にエースを起用し無用なプレッシャーを減らし走力を存分に発揮させる作戦のチームもあり、第二走者の重要性が高まっている。その他にスタートが得意なエースを第一走者に起用して逃げ切る、コーナーが得意のエースを第三走者に投入して後半一気にリードを広げ勝負に出るなどチーム戦略は様々である。 通常[[100メートル競走|100m]]や[[200メートル競走|200m]]のトップ選手が参加することが多いが、障害走ながらほぼ同じ距離を走る男子[[110メートルハードル]]の選手や、女子では同じ距離を走る[[100メートルハードル]]の選手が起用されることも多い。加えて跳躍競技(主に[[走幅跳]]と[[三段跳]])の選手でも短距離走を得意とする場合はリレーメンバーに選ばれ、大きく貢献することもある(日本では[[南部忠平]]、世界では[[ロレンゾ・ライト]]や[[ウィリー・ホワイト]]、[[ハイデ・ローゼンダール]]などが該当する)。 また持久力があり、200m同様にコーナリング技術の強さを生かせる[[400メートル競走|400m]]や[[400メートルハードル|400mハードル]]を本業とする選手がリレーメンバーに選ばれることもある。但しこれは多くの大会の場合、彼らの本職である[[1600メートルリレー走]]の決勝と本種目の予選が同一日(最終日の前日)に重なっており、たとえ2、3時間の間隔が開いていてもかけもちが難しい(スタッフも無理をさせたくないのが本音と思われる)という日程面の影響もある。そのため、補欠メンバーとして起用されることが多い。 またこの種目は陸上競技大会の最後に行われることが多く、レース展開も目まぐるしく変化するため、100メートル競走や[[1600メートルリレー走|1600メートルリレー]]などと並ぶ大会の花形競技として親しまれている。 == 各国のレベル == === 男子 === [[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ジャマイカ]]の実力が突出しており、これに続く第2グループが7ヶ国ほどある<ref name="A">{{PDFlink|[http://iaaf.org/mm/document/statistics/standards/04/49/21/20080729023920_httppostedfile_beijingrelayteams29july2008_4435.pdf Best Relay Performances]}}</ref>。 ==== 日本 ==== 2016年[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロ]]で出した37秒60のアジア記録樹立により国別歴代ランキングでは[[ジャマイカ]]、[[アメリカ]]に次ぐ3位(当時)に急浮上した。2019年[[ドーハ]]で37秒43を記録しアジア記録をさらに更新、国別歴代ランキングではジャマイカ、アメリカ、イギリスに次ぐ4位に位置した。オリンピックでは[[2004年アテネオリンピック|アテネ]]で4位入賞、[[2008年北京オリンピック|北京]]ではアメリカ等の強豪国がバトンパスのミスや引き継ぎ違反で決勝に進めなかったことやジャマイカが競技後にドーピング検査で失格になったこともあって[[銀メダル]]を、[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン]]では4位だったが[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロ]]でもアメリカより先着<ref>なお、アメリカは日本の直後の3番手でゴールしたがレース中の違反行為があり失格となった。</ref> し[[銀メダル]]を獲得した。[[世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]でも、2017年に同国初の銅メダルを獲得、2019年に2大会連続となる銅メダルを獲得した。しかし金メダル獲得へ最大のチャンスと見込まれていた地元東京五輪での決勝でまさかのバトンミス失格を喫した。 [[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロ五輪]]、[[2017年世界陸上競技選手権大会・男子4×100mリレー|ロンドン世界陸上]]、[[2018年アジア競技大会|ジャカルタアジア大会]]、[[2019年世界陸上競技選手権大会・男子4×100mリレー|ドーハ世界陸上]]の4年間で出場した選手は[[山縣亮太]](9秒95)(出場当時は10.00)、[[飯塚翔太]](10秒08)、[[桐生祥秀]](9秒98)、[[ケンブリッジ飛鳥]](10秒03)(出場当時は10秒08)、[[多田修平]](10秒01)(出場当時は10.07)、[[藤光謙司]](10秒22)、[[小池祐貴]](9秒98)、[[白石黄良々]](10秒19)、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]](9秒97)の9人が出場しており、近年はより豊富な選手層を誇っている。 (2017年に[[桐生祥秀]]が100m9秒台を出しているが、[[夏季オリンピック|五輪]]や[[世界陸上]]でメダルを獲得した当時は)100m10秒を切る選手がいない中での好成績に世界のトップアスリートも関心を持ち、[[2016年リオデジャネイロオリンピックの陸上競技・男子4×100mリレー|リオデジャネイロで銀メダルを獲得した際]]、オリンピック3大会連続2冠(100m、200m)・2大会連続3冠(100m、200m、400mリレー)の[[ウサイン・ボルト]]は「日本はチームワークがいい。この数年彼らを見てきたが、彼らはいつもバトンの扱いが素晴らしい」と評価し、同大会100m銀メダリストの[[ジャスティン・ガトリン]]も「バトンパスに集中して練習している。一年中一緒にレースするからチームワークもよくなるんだろう」と述べるなど、チームワークのよさとバトンの受け渡しのよさを絶賛している<ref>「<五輪陸上>素晴らしいバトンパス…ボルト、ガトリンが評価」(2016年8月20日、[[毎日新聞]])</ref>。 ==== ジャマイカ ==== 世界記録保持者のウサイン・ボルトがメンバーに入っていた時期は圧倒的強さを誇っており、ロンドンオリンピックで世界記録を塗り替えている。アメリカと比較してもバトンミスが少なく、世界陸上でも2007年大阪大会以降はメダルを獲得しており、さらに[[2009年世界陸上競技選手権大会|2009年ベルリン大会]]以降は金メダルを取り続けている。しかし、[[2017年世界陸上競技選手権大会・男子4×100mリレー|2017年ロンドン大会]]ではアンカーの[[ウサイン・ボルト]]が足を痛めたため途中棄権、絶対的エースのボルトが引退した後の[[2019年世界陸上競技選手権大会・男子4×100mリレー|2019年ドーハ大会]]では決勝進出を逃している。北京オリンピックでは世界記録による1着に入ったが、2017年1月に[[ネスタ・カーター]]のドーピング違反により失格の裁定が下り、金メダルをはく奪された<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600009 男子400リレーのジャマイカ失格=日本は銀に繰り上がり-北京五輪ドーピング再検](2016年1月26日、[[時事通信]])</ref>。但しロンドンオリンピックにて北京オリンピックの記録を上回っていることから世界記録保持者であることは変わらない。 ==== アメリカ ==== 世界トップレベルに位置するアメリカであるが、男子に関して21世紀に開催されたオリンピックではアテネの銀メダルが最高であり、北京ではバトン落下による途中棄権、ロンドンでは2着であったが3走の[[タイソン・ゲイ]]が薬物規定違反を犯したことでメダルはく奪、リオデジャネイロでは日本に先着され、その後1走から2走へバトンパスを行なったのがテイクオーバーゾーン外であったことから失格に、そして東京では予選敗退を喫し4大会連続でメダルを逃している。世界陸上でも[[2007年世界陸上競技選手権大会|2007年大阪大会]]、[[2019年世界陸上競技選手権大会|2019年ドーハ大会]]では金メダル(37.10のアメリカ新記録)、[[2013年世界陸上競技選手権大会|2013年モスクワ大会]]、[[2017年世界陸上競技選手権大会|2017年ロンドン大会]]、[[2022年世界陸上競技選手権大会|2022年ユージーン大会]]では銀メダルを獲得しているが、その他の大会では失格になることが多い。 ==== 中国 ==== [[アジア]]では日本と競争相手にあるのが[[中華人民共和国|中国]]である。アジア出身選手初の100m9秒台を記録した[[蘇炳添]](9秒83)や200mアジア記録保持者の[[謝震業]](19秒88)、[[張培萌]](10秒00)などを擁し、[[2014年アジア競技大会]]にて日本が保持していたアジア記録を更新し、アジア初の37秒台に突入して金メダルを獲得。[[2015年世界陸上競技選手権大会|2015年の北京大会]]ではジャマイカに次ぐ銀メダルを獲得している。翌年迎えたリオデジャネイロオリンピックでも予選1組目でアメリカに次ぐ2着に入っており、アジア記録を一時的に更新していた(その後2組目で1位になった日本に更新されている)。決勝でも4位に入り、日本と並ぶ世界の強豪国に位置付けられている。[[2018年アジア競技大会|ジャカルタアジア大会]]では[[謝震業]]や[[張培萌]]、[[呉智強]]などのエース級の選手を欠き、日本とインドネシアに敗れ銅メダルを獲得した。 ==== イギリス ==== [[イギリス]]は2004年のアテネオリンピックで金メダルを獲得、地元開催となった[[2017年世界陸上競技選手権大会]]ではヨーロッパ新記録となる37秒47で金メダルを獲得、[[2019年世界陸上競技選手権大会]]ではヨーロッパ記録をさらに更新する37秒36で銀メダルを獲得、国別歴代ランキングでは3位に位置している。圧倒的な選手層の厚さやバトンワークで誰がどの区間に入っても安定した記録や順位をマークする実力を持つ。[[アダム・ジェミリ]]や[[ザーネル・ヒューズ]]、[[ネサニエル・ミッチェルブレーク]]などの個人で活躍する選手や[[リチャード・キルティ]]、[[ハリー・エイキンス・アリエーティ]]など主にリレーのサブで活躍する選手が十分に揃っている。 ==== トリニダード・トバゴ ==== [[トリニダード・トバゴ]]も強豪であり、北京とロンドンで2着に入り、北京ではジャマイカの失格により金メダル、ロンドンでは銀メダルを獲得している。リオデジャネイロでも決勝に進出たが、レーン侵害による失格となり3大会連続のメダルを逃している。 ==== ブラジル ==== かつて北京五輪やリオデジャネイロ五輪で入賞するなどの功績は持っていたが、2019年の[[IAAF世界リレー大会|世界リレー]]で優勝を果たし、[[2019年世界陸上競技選手権大会・男子4×100mリレー|ドーハ世界陸上]]では37秒台に突入するなど急成長を遂げた。 ==== 南アフリカ ==== 2019年の世界リレーで好記録を残し、ドーハ世界陸上の予選ではアフリカ記録を更新する37秒65を記録し、現在国別歴代ランキングで日本に次ぐ5位に位置している。エースの[[アカニ・シンビネ]]を擁する。2021年の同大会では優勝を果たした。 ==== イタリア ==== 2021年の東京五輪で、100mで優勝した[[マルセル・ジェイコブス]]を擁し優勝。同大会で旋風を巻き起こしたイタリア短距離界に今後注目が集まるか。 ==== カナダ ==== 世界陸上では[[1995年世界陸上競技選手権大会|95年ヨーテボリ大会]]、[[1997年世界陸上競技選手権大会|97年アテネ大会]]、[[2022年世界陸上競技選手権大会|22年ユージーン大会]]で金メダルを獲得している古豪。 === 女子 === 女子ではアメリカ、ジャマイカ、[[ロシア]]が強豪国となっている。 ==== 日本 ==== [[1932年ロサンゼルスオリンピック]]で5位に入賞するも、全体的にはオリンピックの出場枠が得られる上位16位に入れるかどうかのレベルで、一時は代表チーム自体の派遣がない時期が続いた。近年では2009年、2011年に日本記録を更新し、[[2012年ロンドンオリンピック]]で[[1964年東京オリンピック]]以来48年(12大会)ぶりに出場した<ref>[http://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=1824 女子400リレー、48年ぶり五輪 日本、リレー3種目に出場] - [[日本オリンピック委員会]]公式サイト([[共同通信社]]配信記事) 2012年7月3日</ref>。 ==== アメリカ ==== ロンドンで金メダル、リオデジャネイロでは予選で一度は失格になったが抗議の結果[[ブラジル]]からの妨害が認められ、アメリカだけの再レースで予選総合8位だった中国の記録を上回り決勝へ進出<ref>米女子、400mリレー単独再レースで決勝へ(2016年8月19日、日刊スポーツ)</ref>。2大会連続の金メダルを獲得している。 == 男子 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !記録!!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- ! colspan="6" | 世界 |- |世界||36秒84||[[ネスタ・カーター]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ヨハン・ブレーク]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2012年]][[8月11日]]||[[ロンドン]] |- |ジュニア世界||38秒51||Mihlali Xhotyeni、Sinesipho Dambile、Letlhogonolo Moleyane、Benjamin Richardson||{{ZAF}}||[[2021年]][[8月23日]]||[[ナイロビ]] |- |ユース世界最高||39秒97||Michali Everett、Tyreke Wilson、Jevaughn Powell、Michael Stephens||{{JAM}}||[[2017年]][[4月16日]]||[[ウィレムスタット]] |- ! colspan="6" | エリア |- |アジア||37秒43||[[多田修平]]、[[白石黄良々]]、[[桐生祥秀]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||{{JPN}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |アフリカ||37秒65||[[タンド・ドゥロドゥロ]]、[[サイモン・マガクウェ]]、[[クラレンス・ムニャイ]]、[[アカニ・シンビネ]]||{{ZAF}}||[[2019年]][[10月4日]]||[[ドーハ]] |- |南米||37秒72||[[ロドリゴ・ドゥ・ナシメント]]、[[ヴィトール・ウーゴ・ドス・サントス]]、[[デリック・シルバ]]、[[パウロ・アンドレ・デ・オリヴェイラ]]||{{BRA}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |ヨーロッパ||37秒36||[[アダム・ジェミリ]]、[[ツァーネル・ヒューズ]]、[[リチャード・キルティ]]、[[ネサニエル・ミッチェル・ブレーク]]||{{GBR}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |北中米カリブ||36秒84||ネスタ・カーター、マイケル・フレイター、ヨハン・ブレーク、ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[2012年]][[8月11日]]||[[ロンドン]] |- |rowspan="2"|オセアニア||rowspan="2"|38秒17||ポール・ヘンダーソン、ティム・ジャクソン、スティーブ・ブリマコム、ダミアン・マーシュ||rowspan="2"|{{AUS}}||[[1995年]][[8月12日]]||[[ヨーテボリ]] |- |アンソニー・アロジー、イサック・ティアモ、アンドリュー・マッケイブ、ジョシュア・ロス||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- ! colspan="6" | 大会 |- |[[オリンピックの陸上競技|オリンピック]]||36秒84||ネスタ・カーター、マイケル・フレイター、ヨハン・ブレーク、ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[2012年]][[8月11日]]||[[ロンドン]] |- |[[世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]||37秒04||ネスタ・カーター、マイケル・フレイター、ヨハン・ブレーク、ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[2011年]][[9月4日]]||[[大邱広域市|大邱]] |- |[[IAAFワールドリレーズ|世界リレー]]||37秒38||[[ジャスティン・ガトリン]]、[[ライアン・ベイリー (陸上選手)|ライアン・ベイリー]]、[[タイソン・ゲイ]]、[[マイク・ロジャース]]||{{USA}}||[[2015年]][[5月2日]]||[[ナッソー]] |- |[[世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]]||38秒51||Mihlali Xhotyeni、Sinesipho Dambile、Letlhogonolo Moleyane、Benjamin Richardson||{{ZAF}}||[[2021年]][[8月23日]]||[[ナイロビ]] |- ! colspan="6" | 日本 |- |日本||37秒43||[[多田修平]]、[[白石黄良々]]、[[桐生祥秀]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||{{JPN}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |学生||38秒54||畠山純、[[川面聡大]]、河合元紀、[[飯塚翔太]]||[[中央大学]]||[[2010年]][[5月22日]]||[[東京都|東京]] |- |学生(混成)||38秒44||[[山縣亮太]]、[[飯塚翔太]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]、[[大瀬戸一馬]]、||{{JPN}}||[[2013年]][[10月9日]]||[[天津市|天津]] |- | rowspan="2" | ジュニア||rowspan="2" | 39秒01||[[大瀬戸一馬]]、[[橋元晃志]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]、金森和貴||{{JPN}}||[[2012年]][[7月13日]]||[[バルセロナ]] |- |竹田一平、[[山下潤]]、犬塚渉、[[大嶋健太]]||{{JPN}}||[[2016年]][[7月23日]]||[[ブィドゴシュチュ]] |- |高校(混成)||39秒16||[[大瀬戸一馬]]、橋元晃志、諏訪達郎、金森和貴||{{JPN}}||[[2012年]][[5月3日]]||[[袋井市|袋井]] |- |高校||39秒34|| 田村莉樹、南本陸斗、山本嶺心、大石凌功||[[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]]||[[2022年]][[11月3日]]||[[袋井市|袋井]] |- |中学||42秒25||斉藤涼馬、田村莉樹、内屋翔太、大石凌功||[[吉田町]]立吉田中学校||[[2019年]][[8月24日]]||[[大阪市|大阪]] |- |中学(混成)||41秒26||小池雄作、綱川隼人、[[梨本真輝]]、田子大輔||[[千葉県]]||[[2008年]][[8月7日]]||[[東京都|東京]] |} == 女子 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !記録!!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- ! colspan="6" | 世界 |- |世界||40秒82||[[ティアナ・マディソン]]、[[アリソン・フェリックス]]、[[ビアンカ・ナイト]]、[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- |ジュニア世界||42秒58||Serena COLE、Tina CLAYTON、Brianna LYSTON、Tia CLAYTON||{{JAM}}||[[2022年]][[4月17日]]||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]] |- |ユース世界最高||44秒05||Petra Koppetsch、[[マルリース・ゲール]]、Margit Sinzel、[[クリスティナ・ブレーマー]]||{{GDR}}||[[1975年]][[8月24日]]||[[アテネ]] |- ! colspan="6" | エリア |- |アジア||42秒23||肖琳、李亜麗、劉暁梅、[[李雪梅]]||{{CHN}}[[四川省]]||[[1997年]][[10月23日]]||[[上海市|上海]] |- |アフリカ||42秒10||オルワトビロバ・アムサン 、 フェイバー・オフィリ、 ローズマリー・チュクマ 、 ヌズベチ グレース・ヌウォコチャ||{{NGR}}||[[2022年]][[8月7日]]||[[バーミンガム]] |- |南米||42秒29||エヴェリン・ドス・サントス、アナ・クラウディア・シルバ、フランシエラ・クラスッキ、ロザンジェラ・サントス||{{BRA}}||[[2013年]][[8月18日]]||[[モスクワ]] |- |ヨーロッパ||41秒37||[[ジルケ・グラディッシュ=メラー]]、ザビーネ・リーガー、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1985年]][[10月6日]]||[[キャンベラ]] |- |北中米カリブ||40秒82||ティアナ・マディソン、[[アリソン・フェリックス]]、ビアンカ・ナイト、[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- |オセアニア||42秒99||レイチェル・マッセイ、スザンヌ・ブロードリック、ジョディ・ランバート、メリンダ・ゲインズフォード=テイラー||{{AUS}}||[[2000年]][[3月18日]]||[[ポロクワネ]] |- ! colspan="6" | 大会 |- |オリンピック||40秒82||ティアナ・マディソン、[[アリソン・フェリックス]]、ビアンカ・ナイト、[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- |世界選手権||41秒07||[[ベロニカ・キャンベル=ブラウン]]、ナターシャ・モリソン、[[エレーン・トンプソン]]、[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||[[2015年]][[8月29日]]||[[北京]] |- |世界リレー||41秒88||[[ティアナ・バートレッタ]]、アレクサンドリア・アンダーソン、ジェネバ・タモー、LaKeisha Lawson||{{USA}}||[[2014年]][[5月24日]]||[[ナッソー]] |- |世界ジュニア選手権||42秒94||Serena Cole、Tina Clayton、Kerrica Hill、Tia Clayton||{{JAM}}||[[2021年]][[8月23日]]||[[ナイロビ]] |- ! colspan="6" | 日本 |- |日本||43秒33||[[青木益未]]、[[君嶋愛梨沙]]、[[兒玉芽生]]、[[御家瀬緑]]||{{JPN}}||[[2022年]][[7月22日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]] |- |学生||44秒51||伊藤彩香、兒玉芽生、渡邉輝、城戸優来||[[福岡大学]]||[[2006年|2021年9月17日]]||[[横浜市|熊谷]] |- |学生(混成)||44秒56||竹内爽香、中村水月、壹岐いちこ、前山美優||{{JPN}}||[[2017年]][[8月28日]]||[[台北市|台北]] |- |ジュニア/高校||44秒48||斉田果歩、福田真衣、上村希実、[[エドバー・イヨバ]]||[[東京高等学校]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |中学||47秒04||岡稚奈、福井有香、稲荷未来、藤木志保||[[和歌山県立桐蔭中学校・高等学校|和歌山県立桐蔭中学校]]||[[2019年]][[8月24日]]||[[大阪市|大阪]] |- |中学(混成)||46秒34||森澤優佳、渡辺千奈津、佐藤葵唯、ハッサン・ナワール||[[千葉県]]||[[2018年]][[10月14日]]||[[神奈川県|神奈川]] |} == 世界記録 == === 世界記録の変遷 === *1977年以降の電気計時公認記録 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 男子<ref>{{Cite web|和書|url=http://iaaf-ebooks.s3.amazonaws.com/2015/Progression-of-IAAF-World-Records-2015/index.htm |title=Progression of IAAF World Records - 2015 edition(135-136ページ参照) |publisher=[[国際陸上競技連盟]] |date=2015 |accessdate=2016-01-11 }}</ref> !タイム!!名前!!所属!!日付!!場所!!大会 |- |38秒03||William Collins、スティーブ・リディック、Cliff Wiley、スティーヴ・ウィリアムズ||{{USA}}||[[1977年]][[9月3日]]||[[デュッセルドルフ]]||[[IAAFコンチネンタルカップ|ワールドカップ]] |- |37秒86||エミット・キング、[[ウィリー・ゴールト]]、[[カルヴィン・スミス]]、[[カール・ルイス]]||{{USA}}||[[1983年]][[8月10日]]||[[ヘルシンキ]]||[[1983年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] |- |37秒83||[[サム・グラディ]]、ロン・ブラウン、[[カルヴィン・スミス]]、[[カール・ルイス]]||{{USA}}||[[1984年]][[8月11日]]||[[ロサンゼルス]]||[[1984年ロサンゼルスオリンピック|オリンピック]] |- |37秒79||[[マクシ・モリニエール]]、[[ダニエル・サングーマ]]、[[ジャン=シャルル・トルアバル]]、[[ブルーノ・マリーローズ]]||{{FRA}}||[[1990年]][[9月1日]]||[[スプリト]]||[[ヨーロッパ陸上競技選手権大会|ヨーロッパ選手権]] |- |37秒79||[[マイク・マーシュ]]、[[リロイ・バレル]]、[[フロイド・ハード]]、[[カール・ルイス]]||サンタモニカトラッククラブ||[[1991年]][[8月3日]]||[[モナコ]]||[[ヘラクレス (陸上競技)|ヘラクレス]] |- |37秒67||[[マイク・マーシュ]]、[[リロイ・バレル]]、[[デニス・ミッチェル]]、[[カール・ルイス]]||{{USA}}||[[1991年]][[8月7日]]||[[チューリッヒ]]||[[ヴェルトクラッセチューリッヒ]] |- |37秒50||[[アンドレ・ケーソン]]、[[リロイ・バレル]]、[[デニス・ミッチェル]]、[[カール・ルイス]]||{{USA}}||[[1991年]][[9月1日]]||[[東京]]||[[1991年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] |- |37秒40||[[マイク・マーシュ]]、[[リロイ・バレル]]、[[デニス・ミッチェル]]、[[カール・ルイス]]||{{USA}}||[[1992年]][[8月8日]]||[[バルセロナ]]||[[1992年バルセロナオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |- |37秒40||[[ジョン・ドラモンド (陸上選手)|ジョン・ドラモンド]]、[[アンドレ・ケーソン]]、[[デニス・ミッチェル]]、[[リロイ・バレル]]||{{USA}}||[[1993年]][[8月21日]]||[[シュトゥットガルト]]||[[1993年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] |- |37秒10||[[ネスタ・カーター]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ウサイン・ボルト]]、[[アサファ・パウエル]]||{{JAM}}||[[2008年]][[8月22日]]||[[北京市|北京]]||[[2008年北京オリンピックの陸上競技|オリンピック]] |- |37秒04||[[ネスタ・カーター]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ヨハン・ブレーク]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2011年]][[9月4日]]||[[大邱広域市|大邱]]||[[2011年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] |- |36秒84||[[ネスタ・カーター]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ヨハン・ブレーク]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2012年]][[8月11日]]||[[ロンドン]]||[[2012年ロンドンオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 女子<ref>{{Cite web|和書|url=http://iaaf-ebooks.s3.amazonaws.com/2015/Progression-of-IAAF-World-Records-2015/index.htm |title=Progression of IAAF World Records - 2015 edition(297-298ページ参照) |publisher=[[国際陸上競技連盟]] |date=2015 |accessdate=2016-01-11 }}</ref> !タイム!!名前!!所属!!日付!!場所!!大会 |- |42秒27||[[ヨハンナ・シャラー|ヨハンナ・クリアー]]、Monika Hamann、Carla Bodendorf、[[マルリース・ゲール|マルリース・エルスナー]]||{{GDR}}||[[1978年]][[8月19日]]||[[ポツダム]]|| |- |42秒10||[[マリタ・コッホ]]、[[ロミー・シュナイダー]]、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1979年]][[6月10日]]||[[カール=マルクス=シュタット]]|| |- |42秒09||[[クリスティナ・ブレーマー]]、[[ロミー・シュナイダー]]、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1979年]][[8月4日]]||[[トリノ]]||ヨーロッパカップ |- |42秒09||[[ロミー・シュナイダー]]、[[ベーベル・エッカート]]、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1980年]][[7月9日]]||[[ベルリン]]|| |- |41秒85||Romy Müller、[[ベーベル・エッカート]]、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1980年]][[7月13日]]||[[ポツダム]]|| |- |41秒60||Romy Müller、[[ベーベル・エッカート]]、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1980年]][[8月1日]]||[[モスクワ]]||[[1980年モスクワオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |- |41秒53||[[ジルケ・グラディッシュ=メラー|ジルケ・グラディッシュ]]、[[マリタ・コッホ]]、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1983年]][[7月31日]]||[[モスクワ]]|| |- |41秒37||[[ジルケ・グラディッシュ=メラー|ジルケ・グラディッシュ]]、ザビーネ・リーガー、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1985年]][[10月6日]]||[[キャンベラ]]||[[IAAFコンチネンタルカップ|ワールドカップ]] |- |40秒82||[[ティアナ・マディソン]]、[[アリソン・フェリックス]]、[[ビアンカ・ナイト]]、[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]]||[[2012年ロンドンオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |- |} === 歴代パフォーマンス10傑 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||36秒84||[[ネスタ・カーター]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ヨハン・ブレーク]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2012年]][[8月11日]]||[[ロンドン]] |- |2||37秒04||[[ネスタ・カーター]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ヨハン・ブレーク]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2011年]][[9月4日]]||[[大邱広域市|大邱]] |- |3||37秒10||[[クリスチャン・コールマン]]、[[ジャスティン・ガトリン]]、[[マイク・ロジャース]]、[[ノア・ライルズ]]||{{USA}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |4||37秒27||[[アサファ・パウエル]]、[[ヨハン・ブレーク]]、[[ニッケル・アシュミード]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2016年]][[8月19日]]||[[リオデジャネイロ]] |- |5||37秒31||[[スティーブ・マリングス]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ウサイン・ボルト]]、[[アサファ・パウエル]]||{{JAM}}||[[2009年]][[8月22日]]||[[ベルリン]] |- |6||37秒36||[[ネスタ・カーター]]、[[ケマー・ベイリー=コール]]、[[ニッケル・アシュミード]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2013年]][[8月18日]]||[[モスクワ]] |- |6||37秒36||[[ネスタ・カーター]]、[[アサファ・パウエル]]、[[ニッケル・アシュミード]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2015年]][[8月29日]]||[[北京市|北京]] |- |6||37秒36||[[アダム・ジェミリ]]、[[ツァーネル・ヒューズ]]、[[リチャード・キルティ]]、[[ネサニエル・ミッチェル・ブレーク]]||{{GBR}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |9||37秒38||[[マイク・ロジャース]]、[[ジャスティン・ガトリン]]、[[タイソン・ゲイ]]、[[ライアン・ベイリー (陸上選手)|ライアン・ベイリー]]||{{USA}}||[[2015年]][[5月2日]]||[[ナッソー]] |- |10||37秒39||[[ネスタ・カーター]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ヨハン・ブレーク]]、[[ケマー・ベイリー=コール]]||{{JAM}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||40秒82||[[ティアナ・マディソン]]、[[アリソン・フェリックス]]、[[ビアンカ・ナイト]]、[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- |2||41秒01||[[ティアナ・バートレッタ]]、[[アリソン・フェリックス]]、[[イングリッシュ・ガードナー]]、[[トリ・ボウイ]]||{{USA}}||[[2016年]][[8月19日]]||[[リオデジャネイロ]] |- |3||41秒02||[[ブリアナ・ウィリアムズ]]、[[エレーン・トンプソン]]、[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]、[[シェリカ・ジャクソン]]||{{JAM}}||[[2021年]][[8月6日]]||[[東京都|東京]] |- |4||41秒07||[[ベロニカ・キャンベル=ブラウン]]、ナターシャ・モリソン、[[エレーン・トンプソン]]、[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||[[2015年]][[8月29日]]||[[北京市|北京]] |- |5||41秒14||[[メリッサ・ジェファーソン]]、[[アビー・ステイナー]]、[[ジェンナ・プランディーニ]]、[[トワニシャ・テリー]]||{{USA}}||[[2022年]][[7月24日]]||[[オレゴン]] |- |6 |41秒18. |[[ケンバ・ネルソン]]、[[エレーン・トンプソン]]、[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]、[[シェリカ・ジャクソン]] |{{JAM}} |[[2022年]][[7月24日]] |[[オレゴン]] |- |7||41秒29||Carrie Russell、[[ケロン・スチュワート]]、Schillonie Calvert、[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||[[2013年]][[8月18日]]||[[モスクワ]] |- |8||41秒36||クリスタニア・ウィリアムズ、[[エレーン・トンプソン]]、[[ベロニカ・キャンベル=ブラウン]]、[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||[[2016年]][[8月19日]]||[[リオデジャネイロ]] |- |9||41秒37||[[ジルケ・グラディッシュ=メラー]]、ザビーネ・リーガー、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1985年]][[10月6日]]||[[キャンベラ]] |- |10||41秒41||[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]、[[シェローン・シンプソン]]、[[ベロニカ・キャンベル=ブラウン]]、[[ケロン・スチュワート]]||{{JAM}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- |} === 国別歴代10傑 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||36秒84||[[ネスタ・カーター]]、[[マイケル・フレイター]]、[[ヨハン・ブレーク]]、[[ウサイン・ボルト]]||{{JAM}}||[[2012年]][[8月11日]]||[[ロンドン]] |- |2||37秒10||[[クリスチャン・コールマン]]、[[ジャスティン・ガトリン]]、[[マイク・ロジャース]]、[[ノア・ライルズ]]||{{USA}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |3||37秒36||[[アダム・ジェミリ]]、[[ツァーネル・ヒューズ]]、[[リチャード・キルティ]]、[[ネサニエル・ミッチェル・ブレーク]]||{{GBR}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |4||37秒43||[[多田修平]]、[[白石黄良々]]、[[桐生祥秀]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||{{JPN}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |5||37秒48||[[アーロン・ブラウン (陸上選手)|アーロン・ブラウン]]、[[アキーム・ブレイク]]、[[ブレンドン・ロドニー]]、[[アンドレ・ドグラス]]||{{CAN}}||[[2022年]][[7月23日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]] |- |6||37秒50||[[ロレンツォ・パタ]]、[[マルセル・ジェイコブス]]、[[エセオサフォスティネ・デサル]]、[[フィリッポ・トルトゥ]]||{{ITA}}||[[2021年]][[8月6日]]||[[東京都|東京]] |- |7||37秒62||[[ダレル・ブラウン]]、[[マルク・バーンズ]]、[[エマヌエル・カランダー]]、[[リチャード・トンプソン (陸上選手)|リチャード・トンプソン]]||{{TRI}}||[[2009年]][[8月22日]]||[[ベルリン]] |- |8||37秒65||[[タンド・ドゥロドゥロ]]、[[サイモン・マガクウェ]]、[[クラレンス・ムニャイ]]、[[アカニ・シンビネ]]||{{ZAF}}||[[2019年]][[10月4日]]||[[ドーハ]] |- |9||37秒72||[[ロドリゴ・ドゥ・ナシメント]]、[[ヴィトール・ウーゴ・ドス・サントス]]、[[デリック・シルバ]]、[[パウロ・アンドレ・デ・オリヴェイラ]]||{{BRA}}||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]] |- |10||37秒79||[[蘇炳添]]、許周政、呉智強、[[謝震業]]||{{CHN}}||[[2019年]][[10月4日]]||[[ドーハ]] |- |10||37秒79||[[マクシ・モリニエール]]、[[ダニエル・サングーマ]]、[[ジャン=シャルル・トルアバル]]、[[ブルーノ・マリーローズ]]||{{FRA}}||[[1990年]][[9月1日]]||[[スプリト]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||40秒82||[[ティアナ・マディソン]]、[[アリソン・フェリックス]]、[[ビアンカ・ナイト]]、[[カーメリタ・ジーター]]||{{USA}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- |2||41秒02||[[ブリアナ・ウィリアムズ]]、[[エレーン・トンプソン]]、[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]、[[シェリカ・ジャクソン]]||{{JAM}}||[[2021年]][[8月6日]]||[[東京都|東京]] |- |3||41秒37||[[ジルケ・グラディッシュ=メラー]]、ザビーネ・リーガー、[[イングリット・アウアースバルト]]、[[マルリース・ゲール]]||{{GDR}}||[[1985年]][[10月6日]]||[[キャンベラ]] |- |4||41秒49||Olga Bogoslovskaya、[[ガリーナ・マルチュギナ]]、Natalya Pomoshchnikova-Voronova、[[イリーナ・プリワロワ]]||{{RUS}}||[[1993年]][[8月22日]]||[[シュトゥットガルト]] |- |5||41秒55||アシャ・フィリップ、 イマニ・ランシコト 、ディナ・アッシャー=スミス、ダリル・ネイタ||{{GBR}}||[[2021年]][[8月5日]]||[[リオデジャネイロ]] |- |9 |41秒62 |リーザ・マイヤー 、 ジナ・ルケンケンパー  、 タチアナ・ピント、 レベッカ・ハーゼ |{{GER}} |[[2016年]][[6月26日]] |[[マンハイム]] |- |6||41秒78||パトリシア・ジラール、[[ミュリエル・ユルティス]]、Sylviane Félix、[[クリスティーン・アーロン]]||{{FRA}}||[[2003年]][[8月30日]]||[[パリ]] |- |7||41秒92||[[サバセダ・フィンズ]]、[[チャンドラ・スターラップ]]、[[ポーリン・デービス=トンプソン]]、[[デビー・ファーガソン=マッケンジー]]||{{BAH}}||[[1999年]][[8月29日]]||[[セビリア]] |- |8||42秒00||Antonina Nastoburko、Natalya Voronova、Marina Zhirova、Elvira Barbashina||{{URS}}||[[1985年]][[8月17日]]||[[モスクワ]] |- |10||42秒03||ケリー=アン・バプティステ、[[ミシェル=リー・アイ]]、Reyare Thomas、Semoy Hackett||{{TRI}}||[[2015年]][[8月29日]]||[[北京市|北京]] |- |} <!--国際陸上競技連盟のサイトからジュニアのリレーランキングがなくなったので一時消去 === ジュニア国別歴代5傑 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||38秒66||[[トレル・キモンズ]]、[[アビデミ・オモーレ]]、[[アイボリー・ウィリアムス]]、[[ラショーン・メリット]]||{{USA}}||[[2004年]][[7月18日]]||[[グロッセート]] |- |2||38秒97||Tyquendo Tracey、Odean Skeen、[[ジェボーン・ミンジー]]、Jazeel Murphy||{{JAM}}||[[2012年]][[7月14日]]||[[バルセロナ]] |- |rowspan="2"|3||rowspan="2"|39秒01||[[大瀬戸一馬]]、[[橋元晃志]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]、金森和貴||rowspan="2"|{{JPN}}||[[2012年]][[7月13日]]||[[バルセロナ]] |- |竹田一平、山下潤、犬塚渉、[[大嶋健太]]||[[2016年]][[7月23日]]||[[ブィドゴシュチュ]] |- |4||39秒05||タイロン・エドガー、Dwayne Grant、Timothy Benjamin、[[マーク・ルイス=フランシス]]||{{GBR}}||[[2000年]][[10月22日]]||[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]] |- |5||39秒13||Roger Gurski、Thomas Barthel、Niels Torben Giese、Manuel Eitel||{{GER}}||[[2016年]][[7月23日]]||[[ブィドゴシュチュ]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||43秒29||ビアンカ・ナイト、ジェネバ・タモー、Elizabeth Olear、Gabrielle Mayo||{{USA}}||[[2006年]][[8月8日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]] |- |2||43秒40||[[シェローン・シンプソン]]、[[ケロン・スチュワート]]、Anneisha McLaughlin、シモン・フェイシー||{{JAM}}||[[2002年]][[7月21日]]||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]] |- |3||43秒42||Alexandra Burghardt、Katharina Grompe、Tatjana Pinto Lofamakanda、Anna-Lena Freese||{{GER}}||[[2011年]][[7月24日]]||[[タリン]] |- |4||43秒44||Beatrice Utondu、Tina Iheagwam、[[メアリー・オンヤリ]]、[[ファリラット・オグンコヤ]]||{{NGR}}||[[1987年]][[8月9日]]||[[ナイロビ]] |- |5||43秒68||Natacha Vouaux、Lina Jacques-Sébastien、Aurélie Kamga、Nelly Banco||{{FRA}}||[[2004年]][[7月18日]]||[[グロッセート]] |- |} --> == 日本記録 == === 日本記録の変遷 === * 1975年以降の電気計時公認記録 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子<ref>{{Cite journal|和書|date = 1995-09-04発行|title = 日本記録の変遷|journal = [[日本陸上競技連盟]]八十年史|issue = |volume = |publisher = |pages = 48}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|date = 2013年4月号別冊付録|title = 記録集計号2012 PLUS+|journal = [[陸上競技マガジン]]|issue = 第7号|volume = 第63巻|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|pages = 99}}</ref> !タイム!!名前!!日付!!場所!!大会 |- |40秒22||新帯哲美、岩本一雄、清水進、[[神野正英]]||[[1975年]][[10月19日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||日中親善 |- |40秒18||原田康弘、原田彰、松浦成夫、[[豊田敏夫]]||[[1977年]][[11月30日]]||[[キャンベラ]]||記録会 |- |39秒54||原田康弘、原田彰、松浦成夫、[[豊田敏夫]]||[[1977年]][[12月3日]]||[[キャンベラ]]||太平洋沿岸5カ国大会 |- |39秒31||[[有川秀之]]、[[宮崎博史]]、小池弘文、[[不破弘樹]]||[[1986年]][[10月5日]]||[[ソウル特別市|ソウル]]||[[1986年アジア競技大会|アジア大会]]・決勝 |- |38秒90||[[青戸慎司]]、山内健次、栗原浩司、[[高野進]]||[[1988年]][[10月1日]]||[[ソウル特別市|ソウル]]||[[1988年ソウルオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・準決勝 |- |38秒81||[[青戸慎司]]、[[鈴木久嗣]]、[[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]、[[杉本龍勇]]||[[1992年]][[8月7日]]||[[バルセロナ]]||[[1992年バルセロナオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・準決勝 |- |38秒77||[[青戸慎司]]、[[鈴木久嗣]]、[[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]、[[杉本龍勇]]||[[1992年]][[8月8日]]||[[バルセロナ]]||[[1992年バルセロナオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・決勝 |- |38秒67||[[鈴木久嗣]]、[[伊東浩司]]、[[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]、[[伊藤喜剛]]||[[1995年]][[8月12日]]||[[イエテボリ]]||[[1995年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・準決勝 |- |38秒44||[[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]、[[伊東浩司]]、[[土江寛裕]]、[[朝原宣治]]||[[1997年]][[8月9日]]||[[アテネ]]||[[1997年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |38秒31||[[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]、[[伊東浩司]]、[[土江寛裕]]、[[朝原宣治]]||[[1997年]][[8月9日]]||[[アテネ]]||[[1997年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・準決勝 |- |38秒31||[[川畑伸吾]]、[[伊東浩司]]、[[末續慎吾]]、[[朝原宣治]]||[[2000年]][[9月29日]]||[[シドニー]]||[[2000年シドニーオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・準決勝 |- |38秒21||[[塚原直貴]]、[[末續慎吾]]、[[高平慎士]]、[[朝原宣治]]||[[2007年]][[8月31日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[2007年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |38秒03||[[塚原直貴]]、[[末續慎吾]]、[[高平慎士]]、[[朝原宣治]]||[[2007年]][[9月1日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[2007年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・決勝 |- |37秒68||[[山縣亮太]]、[[飯塚翔太]]、[[桐生祥秀]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]||[[2016年]][[8月18日]]||[[リオデジャネイロ]]||[[2016年リオデジャネイロオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・予選 |- |37秒60||[[山縣亮太]]、[[飯塚翔太]]、[[桐生祥秀]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]||[[2016年]][[8月19日]]||[[リオデジャネイロ]]||[[2016年リオデジャネイロオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・決勝 |- |37秒43||[[多田修平]]、[[白石黄良々]]、[[桐生祥秀]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]]||[[2019年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・決勝 |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子<ref>{{Cite journal|和書|date = 1995-09-04発行|title = 日本記録の変遷|journal = [[日本陸上競技連盟]]八十年史|issue = |volume = |publisher = |pages = 57}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|date = 2013年4月号別冊付録|title = 記録集計号2012 PLUS+|journal = [[陸上競技マガジン]]|issue = 第7号|volume = 第63巻|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|pages = 104}}</ref> !タイム!!名前!!日付!!場所!!大会 |- |46秒72||森田美知子、[[大迫夕起子]]、坪田ゆき子、松下さゆり||[[1975年]][[10月12日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||日中対抗 |- |46秒55||岡田和子、秋元恵美、田中輝代、[[小西恵美子]]||[[1977年]][[11月30日]]||[[キャンベラ]]||記録会 |- |46秒45||岡田和子、秋元恵美、田中輝代、[[小西恵美子]]||[[1977年]][[12月3日]]||[[キャンベラ]]||太平洋沿岸5カ国大会 |- |46秒38||[[阿萬亜里沙]]、秋元恵美、[[小西恵美子]]、貝原澄子||[[1978年]][[9月10日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||日中対抗 |- |46秒21||[[大迫夕起子]]、秋元恵美、[[小西恵美子]]、貝原澄子||[[1978年]][[9月25日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||8カ国対抗競技会 |- |45秒85||[[大迫夕起子]]、貝原澄子、[[小西恵美子]]、秋元恵美||[[1979年]][[6月2日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||[[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]・決勝 |- |45秒70||逢坂十美、[[大迫夕起子]]、[[小西恵美子]]、秋元恵美||[[1981年]][[6月6日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||[[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]・決勝 |- |45秒13||[[小西恵美子]]、秋元恵美、吉田淳子、[[磯崎公美]]||[[1982年]][[11月25日]]||[[ニューデリー]]||[[1982年アジア競技大会|アジア大会]]・決勝 |- |44秒85|| 正木典子、[[柿沼和恵]]、[[岩本敏恵|北田敏恵]]、野村綾子||[[1991年]][[8月31日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||[[1991年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |44秒81||[[伊藤佳奈恵]]、[[北田敏恵]]、[[柿沼和恵]]、[[金子朋未]]||[[1994年]][[9月15日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||[[スーパー陸上]] |- |44秒57||[[伊藤佳奈恵]]、[[北田敏恵]]、[[柿沼和恵]]、[[金子朋未]]||[[1994年]][[10月16日]]||[[広島市|広島]]([[広島広域公園陸上競技場|広島広域]])||[[1994年アジア競技大会|アジア大会]]・決勝 |- |44秒41||[[雉子波秀子]]、[[岩本敏恵]]、[[坂上香織 (陸上選手)|吉田香織]]、[[新井初佳]]||[[1997年]][[5月10日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[IAAFグランプリ大阪大会|国際グランプリ大阪]] |- |44秒12||[[岩本敏恵]]、[[新井初佳]]、[[坂上香織 (陸上選手)|坂上香織]]、[[金沢イボンヌ]]||[[1999年]][[5月8日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[IAAFグランプリ大阪大会|国際グランプリ大阪]] |- |44秒11||[[岩本敏恵]]、[[新井初佳]]、[[坂上香織 (陸上選手)|坂上香織]]、[[金沢イボンヌ]]||[[1999年]][[5月22日]]||[[尼崎市|尼崎]]([[尼崎市記念公園陸上競技場|尼崎]])||関西実業団選手権 |- |44秒10||[[石田智子]]、[[鈴木亜弓]]、[[坂上香織 (陸上選手)|坂上香織]]、[[新井初佳]]||[[2003年]][[7月26日]]||[[札幌市|札幌]]([[札幌市円山競技場|円山]])||[[南部忠平記念陸上競技大会|南部記念]] |- |43秒77||[[石田智子]]、[[鈴木亜弓]]、[[坂上香織 (陸上選手)|坂上香織]]、[[新井初佳]]||[[2004年]][[5月8日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[IAAFグランプリ大阪大会|国際グランプリ大阪]] |- |43秒67||[[石田智子]]、[[信岡沙希重]]、[[福島千里]]、[[高橋萌木子]]||[[2008年]][[5月24日]]||[[北京市|北京]]||[[2008年北京オリンピックの陸上競技|オリンピック]][[プレオリンピック|プレ大会]]・予選 |- |43秒58||[[北風沙織]]、[[福島千里]]、[[渡辺真弓]]、[[高橋萌木子]]||[[2009年]][[5月9日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[IAAFグランプリ大阪大会|国際グランプリ大阪]] |- |43秒39||[[北風沙織]]、[[高橋萌木子]]、[[福島千里]]、[[市川華菜]]||[[2011年]][[5月8日]]||[[川崎市|川崎]]([[等々力陸上競技場|等々力]])||[[ゴールデングランプリ川崎]] |- |43秒33||[[青木益未]]、[[君嶋愛梨沙]]、[[兒玉芽生]]、[[御家瀬緑]]||[[2022年]][[7月22日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2022年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |} === 日本歴代パフォーマンス10傑 === {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!日付!!場所!!大会 |- |1||37秒43||[[多田修平]]、[[白石黄良々]]、[[桐生祥秀]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[2019年]][[10月5日]]||[[ドーハ]]||[[2019年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・決勝 |- |2||37秒60||[[山縣亮太]]、[[飯塚翔太]]、[[桐生祥秀]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]||[[2016年]][[8月19日]]||[[リオデジャネイロ]]||[[2016年リオデジャネイロオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・決勝 |- |3||37秒68||[[山縣亮太]]、[[飯塚翔太]]、[[桐生祥秀]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]||[[2016年]][[8月18日]]||[[リオデジャネイロ]]||[[2016年リオデジャネイロオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・予選 |- |4||37秒71||[[坂井隆一郎]]、[[柳田大輝]]、[[小池祐貴]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[2023年]][[8月25日]]||[[ブダペスト]]||[[2023年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |5||37秒78||[[多田修平]]、[[小池祐貴]]、[[桐生祥秀]]、[[白石黄良々]]||[[2019年]][[7月21日]]||[[ロンドン]]||[[ロンドングランプリ]] |- |5||37秒78||[[小池祐貴]]、[[白石黄良々]]、[[桐生祥秀]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[2019年]][[10月4日]]||[[ドーハ]]||[[2019年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |7||37秒80||[[坂井隆一郎]]、[[栁田大輝]]、[[小池祐貴]]、[[上山紘輝]]||[[2023年]][[7月23日]]||[[ロンドン]]||[[ダイヤモンドリーグ]] |- |8||37秒83||[[坂井隆一郎]]、[[柳田大輝]]、[[小池祐貴]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||[[2023年]][[8月26日]]||[[ブダペスト]]||[[2023年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・決勝 |- |9||37秒85||[[山縣亮太]]、[[飯塚翔太]]、[[桐生祥秀]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]||[[2018年]][[5月20日]]||[[大阪市|大阪]]||[[ゴールデングランプリ陸上|ゴールデングランプリ大阪]] |- |10||38秒00||[[多田修平]]、[[山縣亮太]]、[[小池祐貴]]、[[桐生祥秀]]||[[2019年]][[5月19日]]||[[大阪市|大阪]]||[[ゴールデングランプリ陸上|ゴールデングランプリ大阪]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!日付!!場所!!大会 |- |1||43秒33||[[青木益未]]、[[君嶋愛梨沙]]、[[兒玉芽生]]、[[御家瀬緑]]||[[2022年]][[7月22日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2022年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |2||43秒39||[[北風沙織]]、[[高橋萌木子]]、[[福島千里]]、[[市川華菜]]||[[2011年]][[5月8日]]||[[川崎市|川崎]]||[[ゴールデングランプリ川崎]] |- |3||43秒44||[[青山華依]]、[[児玉芽生]]、[[斎藤愛美]]、[[鶴田玲美]]||[[2021年]][[8月5日]]||[[東京都|東京]]||[[2020年東京オリンピックの陸上競技|オリンピック]]・予選 |- |4||43秒58||[[北風沙織]]、[[福島千里]]、[[渡辺真弓]]、[[高橋萌木子]]||[[2009年]][[5月9日]]||[[大阪市|大阪]]||[[IAAFグランプリ大阪大会|国際グランプリ大阪]] |- |5||43秒61||[[渡辺真弓]]、[[土井杏南]]、[[福島千里]]、[[市川華菜]]||[[2015年]][[5月10日]]||[[川崎市|川崎]]||[[ゴールデングランプリ川崎]] |- |6||43秒65||[[北風沙織]]、[[高橋萌木子]]、[[福島千里]]、[[市川華菜]]||[[2011年]][[5月22日]]||[[嘉興市|嘉興]]||アジアグランプリ第1戦・予選 |- |7||43秒67||[[石田智子]]、[[信岡沙希重]]、[[福島千里]]、[[高橋萌木子]]||[[2008年]][[5月24日]]||[[北京市|北京]]||[[2008年北京オリンピックの陸上競技|オリンピック]][[プレオリンピック|プレ大会]]・予選 |- |8||43秒74||[[北風沙織]]、[[土井杏南]]、[[渡辺真弓]]、[[市川華菜]]||[[2014年]][[5月11日]]||[[東京都|東京]]||[[ゴールデングランプリ川崎|ゴールデングランプリ東京]] |- |9||43秒77||[[石田智子]]、[[鈴木亜弓]]、[[坂上香織 (陸上選手)|坂上香織]]、[[小島初佳]]||[[2004年]][[5月8日]]||[[大阪市|大阪]]||[[IAAFグランプリ大阪大会|国際グランプリ大阪]] |- |10||43秒79||[[土井杏南]]、[[高橋萌木子]]、[[福島千里]]、[[市川華菜]]||[[2012年]][[5月3日]]||[[袋井市|袋井]]||[[静岡国際陸上競技大会|静岡国際]] |- |} === 単独チーム歴代10傑 === *実業団・大学・高校などの単独チームが記録した、メンバー別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||38秒54||畠山純、[[川面聡大]]、河合元紀、[[飯塚翔太]]||[[中央大学]]||[[2010年]][[5月22日]]||[[東京都|東京]] |- |2||38秒57||[[宮崎久]]、[[末續慎吾]]、[[藤本俊之]]、奥迫政之||[[東海大学陸上競技部|東海大学]]||[[2001年]][[9月29日]]||[[東京都|東京]] |- |3||38秒72||塚口哲平、三田寺虎琉、鈴木大河、一瀬輝星||[[日本大学スポーツ科学部|日本大学]]||[[2022年]][[5月19日]]||[[東京都|東京]] |- |4||38秒75||女部田亮、[[谷口耕太郎]]、猶木雅文、[[飯塚翔太]]||[[中央大学]]||[[2013年]][[5月25日]]||[[横浜市|横浜]] |- |5||38秒77||女部田亮、猶木雅文、渡辺将志、[[飯塚翔太]]||[[中央大学]]||[[2013年]][[9月7日]]||[[東京都|東京]] |- |6||38秒79||西垣佳哉、[[大瀬戸一馬]]、矢野琢斗、[[長田拓也]]||[[法政大学]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |7||38秒81||北村拓也、[[九鬼巧]]、竹下裕希、[[橋元晃志]]||[[早稲田大学競走部|早稲田大学]]||[[2013年]][[5月25日]]||[[横浜市|横浜]] |- |8||38秒81||西垣佳哉、[[大瀬戸一馬]]、冨田智、[[長田拓也]]||[[法政大学]]||[[2014年]][[11月1日]]||[[横浜市|横浜]] |- |9 |38秒82 |高木恒、川西裕太、山口冬馬、上山紘輝 |[[近畿大学]] |[[2021年]][[11月3日]] |[[静岡県|静岡]] |- |10||38秒85||女部田亮、[[川面聡大]]、河合元紀、[[飯塚翔太]]||[[中央大学]]||[[2011年]][[9月10日]]||[[熊本市|熊本]] |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||44秒37||[[佐藤真有]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]||[[東邦銀行]]||[[2012年]][[10月27日]]||[[横浜市|横浜]] |- |2||44秒40||[[渡辺真弓]]、栗本佳世子、松田薫、[[丹野麻美]]||ナチュリル<ref>レースには福島選抜Aとして出場</ref>||[[2008年]][[8月30日]]||[[天童市|天童]] |- |3||44秒48||斉田果歩、福田真衣、上村希実、[[エドバー・イヨバ]]||[[東京高等学校]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |3||44秒48||[[紫村仁美]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]||[[東邦銀行]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |4 |44秒51 |伊藤彩香、兒玉芽生、渡邉輝、城戸優来 |[[福岡大学]] |[[2021年]][[9月17日]] |[[熊谷市|熊谷]] |- |5||44秒57||[[渡辺真弓]]、[[丹野麻美]]、松田薫、[[青木沙弥佳]]||ナチュリル||[[2009年]][[5月17日]]||[[天童市|天童]] |- |6||44秒59||湯淺佳那子、福田真衣、広沢真愛、山田美来||[[日本体育大学]]||[[2018年]][[9月7日]]||[[川崎市|川崎]] |- |7||44秒64||熊谷史子、[[北風沙織]]、野村有香、[[福島千里]]||[[北海道ハイテクAC]]||[[2011年]][[10月29日]]||[[横浜市|横浜]] |- |8||44秒80||[[佐藤真有]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]||[[福島大学陸上競技部|福島大学]]||[[2006年]][[10月28日]]||[[横浜市|横浜]] |- |9||44秒83||[[佐藤真有]]、[[渡辺真弓]]、栗本佳世子、[[丹野麻美]]||ナチュリル||[[2009年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |9||44秒83||[[藏重みう]]、岡根和奏、奥野由萌、井戸アビゲイル風果||[[甲南大学]]||[[2023年]][[5月25日]]||[[大阪市|大阪]] |- |} === チーム別単独チーム歴代10傑 === *実業団・大学・高校などの単独チームが記録した、チーム別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||38秒54||畠山純、[[川面聡大]]、河合元紀、[[飯塚翔太]]||[[中央大学]]||[[2010年]][[5月22日]]||[[東京都|東京]] |- |2||38秒57||[[宮崎久]]、[[末續慎吾]]、[[藤本俊之]]、奥迫政之||[[東海大学陸上競技部|東海大学]]||[[2001年]][[9月29日]]||[[東京都|東京]] |- |3||38秒72||塚口哲平、三田寺虎琉、鈴木大河、一瀬輝星||[[日本大学スポーツ科学部|日本大学]]||[[2022年]][[5月19日]]||[[東京都|東京]] |- |4||38秒79||西垣佳哉、[[大瀬戸一馬]]、矢野琢斗、[[長田拓也]]||[[法政大学]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |5||38秒81||北村拓也、[[九鬼巧]]、竹下裕希、[[橋元晃志]]||[[早稲田大学競走部|早稲田大学]]||[[2013年]][[5月25日]]||[[横浜市|横浜]] |- |6 |38秒82 |高木恒、川西裕太、山口冬馬、上山紘輝 |[[近畿大学]] |[[2021年]][[11月3日]] |[[静岡県|静岡]] |- |7||38秒91||宮内和哉、松井健斗、濱田澪、山田雄大||[[関西大学]]||[[2023年]][[5月25日]]||[[大阪市|大阪]] |- |8||38秒94||野川大地、[[小谷優介]]、堀江新太郎、土手啓史||[[住友電工]]||[[2014年]][[10月11日]]||[[山口市|山口]] |- |9||39秒01||品田直宏、[[斎藤仁志]]、[[石塚祐輔]]、[[安孫子充裕]]||[[筑波大学]]||[[2007年]][[5月18日]]||[[東京都|東京]] |- |10||39秒06||[[梨本真輝]]、[[九鬼巧]]、諏訪達郎、東魁輝||[[NTN]]||[[2017年]][[9月23日]]||[[大阪市|大阪]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||44秒37||[[佐藤真有]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]||[[東邦銀行]]||[[2012年]][[10月27日]]||[[横浜市|横浜]] |- |2||44秒40||[[渡辺真弓]]、栗本佳世子、松田薫、[[丹野麻美]]||ナチュリル||[[2008年]][[8月30日]]||[[天童市|天童]] |- |3||44秒48||斉田果歩、福田真衣、上村希実、[[エドバー・イヨバ]]||[[東京高等学校]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |4 |44秒51 |伊藤彩香、[[兒玉芽生]]、渡邉輝、城戸優来 |[[福岡大学]] |[[2021年]][[9月17日]] |[[熊谷市|熊谷]] |- |4||44秒59||湯淺佳那子、福田真衣、広沢真愛、山田美来||[[日本体育大学]]||[[2018年]][[9月7日]]||[[川崎市|川崎]] |- |5||44秒64||熊谷史子、[[北風沙織]]、野村有香、[[福島千里]]||[[北海道ハイテクAC]]||[[2011年]][[10月29日]]||[[横浜市|横浜]] |- |6||44秒80||[[佐藤真有]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]||[[福島大学陸上競技部|福島大学]]||[[2006年]][[10月28日]]||[[横浜市|横浜]] |- |7||44秒83||藏重みう、岡根和奏、奥野由萌、井戸アビゲイル風果||[[甲南大学体育会陸上競技部|甲南大学]]||[[2023年]][[5月25日]]||[[大阪市|大阪]] |- |8||44秒87||[[中野瞳]]、岡部奈緒、佐野布由実、[[世古和]]||[[筑波大学]]||[[2010年]][[5月22日]]||[[東京都|東京]] |- |9||45秒00||柴山沙也香、中村水月、[[青山聖佳]]、中島藍梨||[[大阪成蹊大学]]||[[2016年]][[10月29日]]||[[横浜市|横浜]] |- |10||45秒07||小川梨花、足立紗矢香、島田沙絵、[[藤森安奈]]||[[青山学院大学陸上競技部|青山学院大学]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |} === チーム別実業団歴代5傑 === *実業団のチームが記録した、チーム別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||38秒94||野川大地、[[小谷優介]]、堀江新太郎、土手啓史||[[住友電工]]||[[2014年]][[10月11日]]||[[山口市|山口]] |- |2||39秒06||[[梨本真輝]]、[[九鬼巧]]、諏訪達郎、東魁輝||[[NTN]]||[[2017年]][[9月23日]]||[[大阪市|大阪]] |- |rowspan="2"|3||rowspan="2"|39秒37||[[川面聡大]]、[[石塚祐輔]]、[[安孫子充裕]]、[[飯塚翔太]]||rowspan="2"|[[ミズノ]]||[[2014年]][[10月11日]]||[[山口市|山口]] |- |[[川面聡大]]、[[飯塚翔太]]、[[石塚祐輔]]、[[渡邉和也]]||[[2016年]][[9月24日]]||[[大阪市|大阪]] |- |4||39秒44||[[土江寛裕]]、[[伊藤辰哉]]、[[藤本俊之]]、今井康太||[[富士通陸上競技部|富士通]]||[[2002年]][[10月27日]]||[[横浜市|横浜]] |- |5||39秒45||立山崇裕、江崎学、渡辺雅弘、柴田剛||城山観光||[[1999年]][[10月16日]]||[[横浜市|横浜]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||44秒37||[[佐藤真有]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]||[[東邦銀行]]||[[2012年]][[10月27日]]||[[横浜市|横浜]] |- |2||44秒40||[[渡辺真弓]]、栗本佳世子、松田薫、[[丹野麻美]]||ナチュリル||[[2008年]][[8月30日]]||[[天童市|天童]] |- |3||44秒64||熊谷史子、[[北風沙織]]、野村有香、[[福島千里]]||[[北海道ハイテクAC]]||[[2011年]][[10月29日]]||[[横浜市|横浜]] |- |4||45秒71||瀬野恵美子、藤井由香、高島三幸、長島麻美||三英社||[[1999年]][[10月16日]]||[[横浜市|横浜]] |- |5||45秒80||高木志帆、三宅奈緒香、野口聖菜、工藤真希||[[住友電工]]||[[2014年]][[10月31日]]||[[横浜市|横浜]] |- |} === 学校別学生歴代5傑 === *大学のチームが記録した、学校別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||38秒54||畠山純、[[川面聡大]]、河合元紀、[[飯塚翔太]]||[[中央大学]]||[[2010年]][[5月22日]]||[[東京都|東京]] |- |2||38秒57||[[宮崎久]]、[[末續慎吾]]、[[藤本俊之]]、奥迫政之||[[東海大学陸上競技部|東海大学]]||[[2001年]][[9月29日]]||[[東京都|東京]] |- |3||38秒72||塚口哲平、三田寺虎琉、鈴木大河、一瀬輝星||[[日本大学スポーツ科学部|日本大学]]||[[2022年]][[5月19日]]||[[東京都|東京]] |- |4||38秒79||西垣佳哉、[[大瀬戸一馬]]、矢野琢斗、[[長田拓也]]||[[法政大学]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |5||38秒81||北村拓也、[[九鬼巧]]、竹下裕希、[[橋元晃志]]||[[早稲田大学競走部|早稲田大学]]||[[2013年]][[5月25日]]||[[横浜市|横浜]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1 |44秒51 |伊藤彩香、兒玉芽生、渡邉輝、城戸優来 |[[福岡大学]] |[[2021年|2021年9月17日]] |[[熊谷市|熊谷]] |- |2||44秒59||湯淺佳那子、福田真衣、広沢真愛、山田美来||[[日本体育大学]]||[[2018年]][[9月7日]]||[[川崎市|川崎]] |- |3||44秒80||[[佐藤真有]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]||[[福島大学陸上競技部|福島大学]]||[[2006年]][[10月28日]]||[[横浜市|横浜]] |- |4||44秒87||[[中野瞳]]、岡部奈緒、佐野布由実、[[世古和]]||[[筑波大学]]||[[2010年]][[5月22日]]||[[東京都|東京]] |- |5||44秒98||木村瑞穂、三宅真理奈、藤井彩和子、西尾香穂||[[甲南大学体育会陸上競技部|甲南大学]]||[[2017年]][[5月12日]]||[[大阪市|大阪]] |- |} === 学校別高校歴代5傑 === *高校のチームが記録した、学校別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||39秒34||田村莉樹、南本陸斗、山本嶺心、大石凌功||[[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]]||[[2022年]][[10月27日|11月3日]]||[[袋井市|袋井]] |- |2||39秒72||段林翔希、魚里勇介、三崎大樹、大西絢也||[[滝川第二高等学校]]||[[2012年]][[11月3日]]||[[袋井市|袋井]] |- |3 |39秒74 |中田敦、橘弘栄、清水徹、エケジュニア瑠音 |[[北海道栄高等学校]] |[[2022年]][[11月3日]] |[[袋井市|袋井]] |- |4||39秒77||水久保漱至、和藤一真、野村勇輝、木下裕貴||[[宮崎県立宮崎工業高等学校]]||[[2016年]][[11月5日]]||[[袋井市|袋井]] |- |5||39秒79||竹内大和、富田大智、神谷翔矢、河田航典||[[中京大学付属中京高等学校]]||[[2019年]][[7月24日]]||[[名古屋市|名古屋]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||44秒48||斉田果歩、福田真衣、上村希実、[[エドバー・イヨバ]]||[[東京高等学校]]||[[2015年]][[10月24日]]||[[横浜市|横浜]] |- |2||45秒23||初見笑里、阿部彩花、吉田実結、[[土井杏南]]||[[埼玉栄中学校・高等学校|埼玉栄高等学校]]||[[2013年]][[7月30日]]||[[大分市|大分]] |- |3||45秒29||前田紗希、倉橋美穂、須崎心優、藏重みう||[[中京大学付属中京高等学校]]||2021年11月3日||静岡 |- |4||45秒38||末石和莉、澤谷柚花、野口理帆、[[齋藤愛美]]||[[岡山県立倉敷中央高等学校]]||[[2016年]][[10月29日]]||[[横浜市|横浜]] |- |5||45秒43||小川ひかり、石川優、高島咲季、鶴澤亜里沙||[[相洋中学校・高等学校|相洋高等学校]]||[[2019年]][[10月26日]]||[[北九州市|北九州]] |- |} == 五輪・世界選手権における日本チームの入賞歴 == 日本が同種目に初参加したのは1928年アムステルダムオリンピックからで、続く[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス]]、[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリン]]と戦前において3大会連続で参加した。中でも1932年ロサンゼルスオリンピックでは決勝進出を果たし、アジア勢初の5位入賞を果たした。戦後の[[1956年メルボルンオリンピック]]で20年ぶりに競技に復帰したが、その後は苦戦が続き、[[1968年メキシコシティーオリンピック]]終了後は暫く代表チームの派遣されなかった。ちなみにメキシコシティーオリンピックの日本代表は、短距離走の選手は[[飯島秀雄]]のみで、残り3名([[阿部直紀]]、[[小倉新司]]、[[山田宏臣]])が走幅跳の選手で構成されるという珍しいチーム編成であった。 [[1988年ソウルオリンピック]]から競技に復帰する。青木半治の「どんなに弱くても、リレーはオリンピックに連れて行くべきだ。リレーが基本なのだから」との考えから、20年間に渡って派遣されていなかった日本代表を派遣させた。続く1992年バルセロナオリンピックでは戦後60年ぶりの決勝進出を果たし、戦後初の6位入賞を果たす。以後個々の走力のハンデを緻密なバトンパスで補う日本のリレーはオリンピックや世界選手権で入賞を重ね、今日の日本代表の活躍につながった。 === 五輪における日本男子チームの入賞歴 === {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small" !年!!大会!!開催国!!選手名!!成績!!記録 |- |1932||[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|第10回オリンピック競技大会(ロサンゼルス)]]||{{USA}}||[[吉岡隆徳]]、[[南部忠平]]、[[阿武巌夫]]、[[中島亥太郎]]||5位||41秒3 |- |1992||[[1992年バルセロナオリンピック|第25回オリンピック競技大会(バルセロナ)]]||{{ESP}}||[[青戸慎司]]、[[鈴木久嗣]]、[[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]、[[杉本龍勇]]||6位||38秒77 |- |2000||[[2000年シドニーオリンピック|第27回オリンピック競技大会(シドニー)]]||{{AUS}}||[[小島茂之 (陸上選手)|小島茂之]]、[[伊東浩司]]、[[末續慎吾]]、[[朝原宣治]]||6位||38秒66 |- |2004||[[2004年アテネオリンピック|第28回オリンピック競技大会(アテネ)]]||{{GRE}}||[[土江寛裕]]、[[末續慎吾]]、[[高平慎士]]、[[朝原宣治]]||4位||38秒49 |- |2008||[[2008年北京オリンピック|第29回オリンピック競技大会(北京)]]||{{CHN}}||[[塚原直貴]]、[[末續慎吾]]、[[高平慎士]]、[[朝原宣治]]||{{2位}}||38秒15 |- |2012||[[2012年ロンドンオリンピック|第30回オリンピック競技大会(ロンドン)]]||{{GBR}}||[[山縣亮太]]、[[江里口匡史]]、[[高平慎士]]、[[飯塚翔太]]||4位||38秒35 |- |2016||[[2016年リオデジャネイロオリンピック|第31回オリンピック競技大会(リオデジャネイロ)]]||{{BRA}}||[[山縣亮太]]、[[飯塚翔太]]、[[桐生祥秀]]、[[ケンブリッジ飛鳥]]||{{2位}}||37秒60 |} *戦前の[[1932年]][[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルス五輪]]で日本男子チームが5位入賞を果たす。戦後は[[1992年バルセロナオリンピック|1992年バルセロナ五輪]]において60年ぶりに決勝進出(6位入賞)すると、その後は決勝の常連チームとなる。 *北京五輪(2008年)とリオデジャネイロ五輪(2016年)で2度銀メダルを獲得し、五輪においての最高成績となっている。 === 世界選手権における日本男子チームの入賞歴 === {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small" !年!!大会!!開催国!!選手名!!成績!!記録 |- |1995||[[1995年世界陸上競技選手権大会|第5回世界陸上競技選手権大会(ヨーテボリ)]]||{{SWE}}||[[鈴木久嗣]]、[[伊東浩司]]、[[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]、[[伊藤喜剛]]||5位||39秒33 |- |2001||[[2001年世界陸上競技選手権大会|第8回世界陸上競技選手権大会(エドモントン)]]||{{CAN}}||[[松田亮]]、[[末続慎吾]]、[[藤本俊之]]、[[朝原宣治]]||4位||38秒96 |- |2003||[[2003年世界陸上競技選手権大会|第9回世界陸上競技選手権大会(パリ)]]||{{FRA}}||[[土江寛裕]]、[[宮崎久]]、[[松田亮]]、[[朝原宣治]]||6位||39秒95 |- |2005||[[2005年世界陸上競技選手権大会|第10回世界陸上競技選手権大会(ヘルシンキ)]]||{{FIN}}||[[末續慎吾]]、[[高平慎士]]、[[吉野達郎]]、[[朝原宣治]]||8位||38秒77 |- |2007||[[2007年世界陸上競技選手権大会|第11回世界陸上競技選手権大会(大阪)]]||{{JPN}}||[[塚原直貴]]、[[末續慎吾]]、[[高平慎士]]、[[朝原宣治]]||5位||38秒03 |- |2009||[[2009年世界陸上競技選手権大会|第12回世界陸上競技選手権大会(ベルリン)]]||{{GER}}||[[江里口匡史]]、[[塚原直貴]]、[[高平慎士]]、[[藤光謙司]]||4位||38秒30 |- |2013||[[2013年世界陸上競技選手権大会|第14回世界陸上競技選手権大会(モスクワ)]]||{{RUS}}||[[桐生祥秀]]、[[藤光謙司]]、[[高瀬慧]]、[[飯塚翔太]]||6位||38秒39 |- |2017||[[2017年世界陸上競技選手権大会|第16回世界陸上競技選手権大会(ロンドン)]]||{{GBR}}||[[多田修平]]、[[飯塚翔太]]、[[桐生祥秀]]、[[藤光謙司]]||{{3位}}||38秒04 |- |2019||[[2019年世界陸上競技選手権大会|第17回世界陸上競技選手権大会(ドーハ)]]||{{QAT}}||[[多田修平]]、[[白石黄良々]]、[[桐生祥秀]]、[[サニブラウン・アブデル・ハキーム]]||{{3位}}||37秒43 |} *[[1995年世界陸上競技選手権大会]]で日本男子チームが5位入賞を果たす。[[2017年世界陸上競技選手権大会]]において3位入賞を果たし、五輪に続いてメダルを獲得した。 === 五輪・世界選手権における日本女子チームの入賞歴 === {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small" !年!!大会!!開催国!!選手名!!成績!!記録 |- |1932||[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|第10回オリンピック競技大会(ロサンゼルス)]]||{{USA}}||[[村岡美枝 (陸上選手)|村岡美枝]]、[[中西みち]]、[[土倉麻]]、[[渡辺すみ子]]||5位||48秒9 |} *[[1932年]][[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]において日本女子チームが5位入賞を果たした。なお、この大会を最後にオリンピック・世界選手権を通じて日本女子チームは決勝から遠ざかっている。 == 関連書籍・DVD == * 『4×100mR 技術と戦い方のすべて [[大阪高等学校 (私立)|大阪高校]]4継・勝利への法則』(指導・解説:岡本博([[大阪高等学校 (私立)|大阪高等学校]]陸上競技部監督)、実技:[[大阪高等学校 (私立)|大阪高等学校]]陸上競技部、[[ジャパンライム]]、2007/8、[[DVD]]) * 『夏から夏へ』([[佐藤多佳子]](著)、[[集英社]]、2008/7、日本男子リレーチームを[[2007年世界陸上競技選手権大会|2007大阪世界陸上]]から2008[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]まで取材したノンフィクション、{{ISBN2|978-4087813906}}) * 『つなぐ力』([[石井信 (スポーツライター)|石井信]](著)、[[集英社]]、2009/7、個人記録10秒台で戦う日本男子リレーチームが[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]で世界3位に入ることができたのは何故か、世界と戦うための緻密なバトンパスのプロジェクトに迫る、{{ISBN2|978-4087814255}}) * 『チーム朝原の挑戦 バトンは夢をつなぐ』([[折山淑美]](著)、[[学習研究社]]、2009/7、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]4×100mリレーの快挙、銅メダル。日本代表として世界に挑んできた「チーム朝原」の熱い物語。{{ISBN2|978-4052031335}}) * 『夏から夏へ ([[集英社文庫]])』([[佐藤多佳子]](著)、[[集英社]]、2010/6、2008/7の版を文庫本化。[[2007年世界陸上競技選手権大会|2007大阪世界陸上]]、2008[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]、[[アンカー]]走者・[[朝原宣治]]との文庫オリジナル対談つき。{{ISBN2|978-4087465778}}) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[陸上競技の世界記録一覧]] * [[陸上競技のオリンピック記録一覧]] * [[世界陸上競技選手権大会#大会記録|世界陸上競技選手権大会 大会記録]] * [[陸上競技の日本記録一覧]] * [[日本陸上競技選手権リレー競技大会]] * [[オリンピックの陸上競技・男子メダリスト一覧]] * [[オリンピックの陸上競技・女子メダリスト一覧]] == 外部リンク == *[http://www.iaaf.org/records/by-discipline/relays/4x100-metres-relay/outdoor/men 4x100 METRES RELAY] - [[国際陸上競技連盟]] {{en icon}} *[http://www.jaaf.or.jp/record/japan.html 日本記録] - [[日本陸上競技連盟]] *[http://www.iuau.jp/recordroom/ur.html 日本学生記録] - [[日本学生陸上競技連合]] {{陸上競技}} {{デフォルトソート:400めえとるりれえそう}} [[Category:陸上競技種目]] {{Athletics-stub}}
2003-07-23T14:00:15Z
2023-11-10T22:59:50Z
false
false
false
[ "Template:SWE", "Template:Athletics-stub", "Template:JPN", "Template:TRI", "Template:ITA", "Template:BAH", "Template:3位", "Template:Cite journal", "Template:陸上競技", "Template:Lang-en", "Template:ZAF", "Template:RUS", "Template:ESP", "Template:ISBN2", "Template:PDFlink", "Template:BRA", "Template:AUS", "Template:GBR", "Template:FIN", "Template:GRE", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:GDR", "Template:FRA", "Template:2位", "Template:QAT", "Template:USA", "Template:CHN", "Template:GER", "Template:URS", "Template:En icon", "Template:NGR", "Template:CAN", "Template:JAM" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/400%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%83%BC%E8%B5%B0
12,095
1600メートルリレー走
1600メートルリレー走(1600メートルリレーそう、英語: 4x400 metres relay)は、4人で400mずつリレーしながら走り、その時間を競う陸上競技である。 1600メートルは約1マイルであることから、マイルリレーとも呼ばれる。また、4×400mRや1600mRと表記されることも多い。ほとんどの大会ではマラソンなどを除いて最終種目として行われることが多く、大いに盛り上がる種目である。 第1走者のみがセパレートレーンで走り、第2走者が第2コーナーを回ってからはオープンレーンとなる。この為、選手同士の接触や接触によるバトンの落下、また競り合いによる激しい肉弾戦も展開される。走力も重要だが、リレーゾーンではコーナートップ制を取っていて、2走から3走、3走からアンカーへのバトンパスは、走り終えた選手がバトンを受けて走り出す選手の進路を妨げてしまう(走り終えた直後であり、後ろは見えない)危険もあり、ここでのタイムロスもまた勝負の行方を左右するのでバトンパスも重要である。 基本的には400mを得意にする選手で構成されることが多いが、持久力があり、ラストスパートの強さを生かせる800メートル走の選手や、障害走ながら同じ距離を走る400メートルハードルの選手が起用されることも多い。またスピードを武器とする100m、200mを本業とする選手がオリンピックや世界陸上競技選手権大会の決勝で、メダル獲得や入賞への切り札として投入され、大きく貢献することもある(日本では伊東浩司、世界ではアリソン・フェリックスなどが該当する)。但しこれは多くの大会の場合、彼らの本職である4×100mRの決勝と本種目の予選が同一日(最終日の前日)に重なっており、たとえ2、3時間の間隔が開いていてもかけもちが難しい(スタッフも無理をさせたくないのが本音と思われる)という日程面の影響もある。 男子、女子に加え、男女混合がU18では2015年世界ユースから、U18以外では2017年IAAF世界リレー大会以降国際大会で行われている。 世界的に男子は、アメリカ合衆国が400メートルのベストタイム43 - 44秒台の選手を多数擁する絶対の選手層で、実力が突出しているが、2 - 8位ぐらいまでは実力的にほとんど差がない状態である。1990年代後半〜2000年代の初めには日本の実力は5位前後で、今後の強化次第では世界選手権やオリンピックでのメダル獲得は決して夢ではないと思われていた時期もあった。戦前の1932年ロサンゼルスオリンピックで5位入賞を果たして以来、長らく決勝に進めない状況が続いていたが、1996年アトランタオリンピックで戦後初の5位入賞を果たし、2003年世界陸上パリ大会では7位入賞、2004年アテネオリンピックではこの種目としては世界大会過去最高の4位(3位とは100分の9秒差)に入っている。反面決勝の常連である4×100mRに比べると選手の層が薄く、選手個人の故障などもあってベストな状態で挑めることが少なく、北京オリンピックではベストメンバーを組めず予選で敗退するなど、現在では決勝進出が目標となっている。世界陸上選手権は第1回からの連続出場を続けてきたが、2009年は参加標準記録を切ることができず、連続出場が途切れた。 女子はアメリカ、ジャマイカ、ロシアなどが実力上位と考えられ、日本は世界選手権やオリンピックの出場枠の上位16位が当面の目標であったが、2008年北京オリンピックで史上初めて出場枠を手に入れ、予選敗退ながらも日本記録に匹敵する走りを披露した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1600メートルリレー走(1600メートルリレーそう、英語: 4x400 metres relay)は、4人で400mずつリレーしながら走り、その時間を競う陸上競技である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1600メートルは約1マイルであることから、マイルリレーとも呼ばれる。また、4×400mRや1600mRと表記されることも多い。ほとんどの大会ではマラソンなどを除いて最終種目として行われることが多く、大いに盛り上がる種目である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第1走者のみがセパレートレーンで走り、第2走者が第2コーナーを回ってからはオープンレーンとなる。この為、選手同士の接触や接触によるバトンの落下、また競り合いによる激しい肉弾戦も展開される。走力も重要だが、リレーゾーンではコーナートップ制を取っていて、2走から3走、3走からアンカーへのバトンパスは、走り終えた選手がバトンを受けて走り出す選手の進路を妨げてしまう(走り終えた直後であり、後ろは見えない)危険もあり、ここでのタイムロスもまた勝負の行方を左右するのでバトンパスも重要である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "基本的には400mを得意にする選手で構成されることが多いが、持久力があり、ラストスパートの強さを生かせる800メートル走の選手や、障害走ながら同じ距離を走る400メートルハードルの選手が起用されることも多い。またスピードを武器とする100m、200mを本業とする選手がオリンピックや世界陸上競技選手権大会の決勝で、メダル獲得や入賞への切り札として投入され、大きく貢献することもある(日本では伊東浩司、世界ではアリソン・フェリックスなどが該当する)。但しこれは多くの大会の場合、彼らの本職である4×100mRの決勝と本種目の予選が同一日(最終日の前日)に重なっており、たとえ2、3時間の間隔が開いていてもかけもちが難しい(スタッフも無理をさせたくないのが本音と思われる)という日程面の影響もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "男子、女子に加え、男女混合がU18では2015年世界ユースから、U18以外では2017年IAAF世界リレー大会以降国際大会で行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "世界的に男子は、アメリカ合衆国が400メートルのベストタイム43 - 44秒台の選手を多数擁する絶対の選手層で、実力が突出しているが、2 - 8位ぐらいまでは実力的にほとんど差がない状態である。1990年代後半〜2000年代の初めには日本の実力は5位前後で、今後の強化次第では世界選手権やオリンピックでのメダル獲得は決して夢ではないと思われていた時期もあった。戦前の1932年ロサンゼルスオリンピックで5位入賞を果たして以来、長らく決勝に進めない状況が続いていたが、1996年アトランタオリンピックで戦後初の5位入賞を果たし、2003年世界陸上パリ大会では7位入賞、2004年アテネオリンピックではこの種目としては世界大会過去最高の4位(3位とは100分の9秒差)に入っている。反面決勝の常連である4×100mRに比べると選手の層が薄く、選手個人の故障などもあってベストな状態で挑めることが少なく、北京オリンピックではベストメンバーを組めず予選で敗退するなど、現在では決勝進出が目標となっている。世界陸上選手権は第1回からの連続出場を続けてきたが、2009年は参加標準記録を切ることができず、連続出場が途切れた。", "title": "現在の競技状況" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "女子はアメリカ、ジャマイカ、ロシアなどが実力上位と考えられ、日本は世界選手権やオリンピックの出場枠の上位16位が当面の目標であったが、2008年北京オリンピックで史上初めて出場枠を手に入れ、予選敗退ながらも日本記録に匹敵する走りを披露した。", "title": "現在の競技状況" } ]
1600メートルリレー走は、4人で400mずつリレーしながら走り、その時間を競う陸上競技である。
'''1600メートルリレー走'''(1600メートルリレーそう、{{lang-en|4x400 metres relay}})は、4人で400mずつ[[リレー走|リレー]]しながら走り、その時間を競う[[陸上競技]]である。 == 概要 == 1600メートルは約1[[マイル]]であることから、'''マイルリレー'''とも呼ばれる。また、'''4×400mR'''や'''1600mR'''と表記されることも多い。ほとんどの大会ではマラソンなどを除いて最終種目として行われることが多く、大いに盛り上がる種目である。 第1走者のみがセパレートレーンで走り、第2走者が第2コーナーを回ってからはオープンレーンとなる。この為、選手同士の接触や接触によるバトンの落下、また競り合いによる激しい肉弾戦も展開される。走力も重要だが、リレーゾーンでは[[コーナートップ]]制を取っていて、2走から3走、3走からアンカーへのバトンパスは、走り終えた選手がバトンを受けて走り出す選手の進路を妨げてしまう(走り終えた直後であり、後ろは見えない)危険もあり、ここでのタイムロスもまた勝負の行方を左右するのでバトンパスも重要である。 基本的には400mを得意にする選手で構成されることが多いが、持久力があり、ラストスパートの強さを生かせる[[800メートル競走|800メートル走]]の選手や、障害走ながら同じ距離を走る[[400メートルハードル]]の選手が起用されることも多い。またスピードを武器とする100m、200mを本業とする選手が[[近代オリンピック|オリンピック]]や[[世界陸上競技選手権大会]]の決勝で、メダル獲得や入賞への切り札として投入され、大きく貢献することもある(日本では[[伊東浩司]]、世界では[[アリソン・フェリックス]]などが該当する)。但しこれは多くの大会の場合、彼らの本職である[[400メートルリレー走|4×100mR]]の決勝と本種目の予選が同一日(最終日の前日)に重なっており、たとえ2、3時間の間隔が開いていてもかけもちが難しい(スタッフも無理をさせたくないのが本音と思われる)という日程面の影響もある。 男子、女子に加え、[[男女混合1600メートルリレー走|男女混合]]がU18では[[2015年世界ユース陸上競技選手権大会|2015年世界ユース]]から、U18以外では2017年[[IAAF世界リレー大会]]以降国際大会で行われている。 == 現在の競技状況 == 世界的に男子は、[[アメリカ合衆国]]が400メートルのベストタイム43 - 44秒台の選手を多数擁する絶対の選手層で、実力が突出しているが、2 - 8位ぐらいまでは実力的にほとんど差がない状態である。1990年代後半〜2000年代の初めには[[日本]]の実力は5位前後で、今後の強化次第では[[世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]や[[夏季オリンピック|オリンピック]]でのメダル獲得は決して夢ではないと思われていた時期もあった。戦前の[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]で5位入賞を果たして以来、長らく決勝に進めない状況が続いていたが、[[1996年アトランタオリンピック]]で戦後初の5位入賞を果たし、[[2003年]][[2003年世界陸上競技選手権大会|世界陸上パリ大会]]では7位入賞、[[2004年アテネオリンピック]]ではこの種目としては世界大会過去最高の4位(3位とは100分の9秒差)に入っている。反面決勝の常連である[[400メートルリレー走|4×100mR]]に比べると選手の層が薄く、選手個人の故障などもあってベストな状態で挑めることが少なく、[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]ではベストメンバーを組めず予選で敗退するなど、現在では決勝進出が目標となっている<ref>[[2000年シドニーオリンピック]]では、順当に準決勝まで進出したが、バトンを落とすというミスもあり準決勝最下位に終わった。</ref>。[[世界陸上選手権]]は第1回からの連続出場を続けてきたが、[[2009年]]は[[参加標準記録]]を切ることができず、連続出場が途切れた<ref>[[2009年]]は幾度か記録突破のチャンスがありながら、生かせなかった。まず可能性が高い[[IAAFグランプリ大阪大会]]で狙おうとしたが、[[国際陸上競技連盟]]がタイムテーブル上個人種目を優先すべきと難色を示した為、[[400メートルハードル]]を走って1時間弱しか経っていない[[成迫健児]]を使わざるを得なかった。次の機会を求めて5月下旬にかけてアジア各地のグランプリを転戦し、そこでの記録突破を目論んだが、ちょうど[[2009年新型インフルエンザ]]が蔓延していた時期と重なり、連戦による選手間の感染、被害拡大は避けねばならず、[[マカオ]]で行われたグランプリ1本に絞って調整したが、ここでも標準記録に届かなかった。[[日本陸連]]は最後のチャンスとして[[日本陸上競技選手権大会]]終了後に[[ベオグラード]]で開かれる[[ユニバーシアード]]を選び、既に世界陸上出場権を得ていた[[金丸祐三]]らを投入し、記録突破次第ではリレー要因としてこの種目のみ代表選手を追加派遣することにした。結果銅メダルは獲得したものの、バトンパスで前を塞がれるなどロスがあり記録を突破できず、この時点で世界陸上出場の可能性はなくなった。このように様々な要因が絡んだのも理由ではあるが、選手の層が薄い点を拭えなかったことが最も大きく影響している。</ref>。 女子はアメリカ、[[ジャマイカ]]、[[ロシア]]などが実力上位と考えられ、日本は世界選手権やオリンピックの出場枠の上位16位が当面の目標であったが、[[2008年北京オリンピック]]で史上初めて出場枠を手に入れ、予選敗退ながらも日本記録に匹敵する走りを披露した。 == 男子 == {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" !記録!!タイム!!氏名!!所属!!日付 |- |世界||2分54秒29||[[アンドリュー・バルモン]]、[[クインシー・ワッツ]]、[[ブッチ・レイノルズ]]、[[マイケル・ジョンソン]]||{{USA}}||[[1993年]]8月22日 |- |世界ジュニア||3分00秒33||Zachary Shinnick、Josephus Lyles、Brian Herron、Sean Hooper||{{USA}}||[[2017年]]7月23日 |- |日本||2分59秒51||[[佐藤風雅]]、[[川端魁人]]、[[ウォルシュ・ジュリアン]]、[[中島 佑気ジョセフ]]||{{JPN}}||[[2022年]]7月24日 |- |学生||3分03秒71||小林稔、向井裕紀弘、中川亘、[[山村貴彦]]||[[日本大学]]||[[2000年]]5月21日 |- |学生(混成)||3分03秒20||太田和憲、堀籠佳宏、[[山村貴彦]]、[[成迫健児]]||{{JPN}}||[[2005年]]8月20日 |- |日本ジュニア||3分04秒11||[[ウォルシュ・ジュリアン]]、油井快晴、[[北川貴理]]、[[加藤修也]]||{{JPN}}||[[2014年]]7月27日 |- |高校||3分07秒81||庄籠大翔、 渕上翔太、 小坂洸樹、 冨永湧平||[[東福岡高等学校]]||[[2022年]]10月2日 |- |中学||3分25秒5||尾崎宏文、井谷弘志、矢追孝、谷脇啓司||[[川西町 (奈良県)|川西町]][[三宅町]]組合立式下中学校||[[1987年]]6月28日 |- |中学(混成)||3分21秒88||山下永吉、小栗良太、田島凌、大石真功||静岡県中学選抜||[[2007年]]11月23日 |} == 女子 == {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" !記録!!タイム!!氏名!!所属!!日付 |- |世界||3分15秒17||[[タチアナ・レドフスカヤ]]、[[オルガ・ナザロワ]]、[[マリヤ・ピニギナ]]、[[オルガ・ブリズギナ]]||{{SSR}}||[[1988年]]10月1日 |- |世界ジュニア||3分27秒60||[[アレクサンドリア・アンダーソン]]、Ashlee Kidd、ステファニー・スミス、Natasha Hasting||{{USA}}||[[2004年]]7月18日 |- |日本||3分28秒91||[[青山聖佳]]、[[市川華菜]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]||{{JPN}}||[[2015年]]8月29日 |- |学生||3分34秒70||渡辺なつみ、[[丹野麻美]]、[[青木沙弥佳]]、金田一菜可||[[福島大学]]||[[2007年]]10月28日 |- |日本ジュニア||3分34秒83||天野恵子、笠島里美、山形依希子、[[柿沼和恵]]||{{JPN}}||[[1992年]]9月20日 |- |高校||3分37秒67||戸谷温海、川田朱夏、戸谷湧海、佐々木梓||[[東大阪大学敬愛高等学校]]||[[2016年]][[8月2日]] |- |高校(混成)||3分35秒03||青山聖佳、[[杉浦はる香]]、大木彩夏、[[神保祐希]]||日本選抜U19||[[2013年]]11月2日 |- |中学||3分54秒88||徳田由美子、松本恵、飯島直美、[[鈴木真紀]]||[[三芳町]]立藤久保中学校||[[1988年]]11月3日 |} == 世界記録 == === 世界記録の変遷 === *1977年以降の電気計時公認記録 {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" |+ 男子<ref>{{Cite web|和書|url=http://iaaf-ebooks.s3.amazonaws.com/2015/Progression-of-IAAF-World-Records-2015/index.htm |title=Progression of IAAF World Records - 2015 edition(144ページ参照) |publisher=[[国際陸上競技連盟]] |date=2015 |accessdate=2016-01-11 }}</ref> !タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所!!大会 |- |2分56秒16||[[ダニー・エベレット]]、[[スティーブ・ルイス]]、Kevin Robinzine、[[ブッチ・レイノルズ|ハリー・レイノルズ]]||{{USA}}||[[1988年]][[10月1日]]||[[ソウル特別市|ソウル]]||[[1988年ソウルオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |- |2分55秒74||[[アンドリュー・バルモン]]、[[クインシー・ワッツ]]、[[マイケル・ジョンソン]]、[[スティーブ・ルイス]]||{{USA}}||[[1992年]][[8月8日]]||[[バルセロナ]]||[[1992年バルセロナオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |- |2分54秒29||[[アンドリュー・バルモン]]、[[クインシー・ワッツ]]、[[ブッチ・レイノルズ]]、[[マイケル・ジョンソン]]||{{USA}}||[[1993年]][[8月22日]]||[[シュトゥットガルト]]||[[1993年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" |+ 女子<ref>{{Cite web|和書|url=http://iaaf-ebooks.s3.amazonaws.com/2015/Progression-of-IAAF-World-Records-2015/index.htm |title=Progression of IAAF World Records - 2015 edition(303ページ参照) |publisher=[[国際陸上競技連盟]] |date=2015 |accessdate=2016-01-11 }}</ref> !タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所!!大会 |- |3分19秒04||Kirsten Siemon、[[ザビーネ・ブッシュ]]、[[ダグマル・ノイバウアー|ダグマル・リュプサム]]、[[マリタ・コッホ]]||{{GDR}}||[[1982年]][[9月11日]]||[[アテネ]]||[[ヨーロッパ陸上競技選手権大会|ヨーロッパ選手権]] |- |3分15秒92||Gesine Walther、[[ザビーネ・ブッシュ]]、[[ダグマル・ノイバウアー]]、[[マリタ・コッホ]]||{{GDR}}||[[1984年]][[6月3日]]||[[エアフルト]]||東ドイツ選手権 |- |3分15秒17||[[タチアナ・レドフスカヤ]]、[[オルガ・ナザロワ]]、マリヤ・ピニギナ、[[オルガ・ブリズギナ]]||{{URS}}||[[1988年]][[10月1日]]||[[ソウル特別市|ソウル]]||[[1988年ソウルオリンピックの陸上競技|オリンピック]] |- |} === 歴代パフォーマンス10傑 === {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" |+ 男子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||2分54秒29||[[アンドリュー・バルモン]]、[[クインシー・ワッツ]]、[[ブッチ・レイノルズ]]、[[マイケル・ジョンソン]]||{{USA}}||[[1993年]][[8月22日]]||[[シュトゥットガルト]] |- |2||2分55秒39||[[ラショーン・メリット]]、[[アンジェロ・テイラー]]、[[デービッド・ネビル]]、[[ジェレミー・ウォリナー]]||{{USA}}||[[2008年]][[8月23日]]||[[北京市|北京]] |- |3||2分55秒56||[[ラショーン・メリット]]、[[アンジェロ・テイラー]]、[[ダロルド・ウィリアムソン]]、[[ジェレミー・ウォリナー]]||{{USA}}||[[2007年]][[9月2日]]||[[大阪市|大阪]] |- |4||2分55秒70||[[マイケル・チェリー]]、[[マイケル・ノーマン]]、[[ブライス・デッドモン]]、[[ライ・ベンジャミン]]||{{USA}}||[[2021年]][[8月7日]]||[[東京]] |- |5||2分55秒74||[[アンドリュー・バルモン]]、[[クインシー・ワッツ]]、[[マイケル・ジョンソン]]、[[スティーブ・ルイス]]||{{USA}}||[[1992年]][[8月8日]]||[[バルセロナ]] |- |6||2分55秒91||[[オーティス・ハリス]]、[[デリク・ブルー]]、[[ジェレミー・ウォリナー]]、[[ダロルド・ウィリアムソン]]||{{USA}}||[[2004年]][[8月28日]]||[[アテネ]] |- |7||2分55秒99||Lamont Smith、[[アルビン・ハリソン]]、Derek Mills、Anthuan Maybank||{{USA}}||[[1996年]][[8月3日]]||[[アトランタ]] |- |8||2分56秒16||[[ヴィンセント・マシューズ]]、[[ロン・フリーマン]]、[[ラリー・ジェームズ]]、[[リー・エバンス]]||{{USA}}||[[1968年]][[10月20日]]||[[メキシコシティ]] |- |8||2分56秒16||[[ダニー・エベレット]]、[[スティーブ・ルイス]]、Kevin Robinzine、[[ブッチ・レイノルズ|ハリー・レイノルズ]]||{{USA}}||[[1988年]][[10月1日]]||[[ソウル特別市|ソウル]] |- |10||2分56秒17||[[エリジャ・ゴッドウィン]]、[[マイケル・ノーマン (陸上選手)|マイケル・ノーマン]]、[[ブライス・デッドモン]]、[[チャンピオン・アリソン]]||{{USA}}||[[2022年]][[7月24日]]||[[ユージーン]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" |+ 女子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分15秒17||[[タチアナ・レドフスカヤ]]、[[オルガ・ナザロワ]]、マリヤ・ピニギナ、[[オルガ・ブリズギナ]]||{{URS}}||[[1988年]][[10月1日]]||[[ソウル特別市|ソウル]] |- |2||3分15秒51||[[ディニアン・ハワード]]、[[ダイアン・ディクソン]]、[[バレリー・ブリスコ=フックス]]、[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]||{{USA}}||[[1988年]][[10月1日]]||[[ソウル特別市|ソウル]] |- |3||3分15秒92||Gesine Walther、[[ザビーネ・ブッシュ]]、[[ダグマル・ノイバウアー]]、[[マリタ・コッホ]]||{{GDR}}||[[1984年]][[6月3日]]||[[エアフルト]] |- |4||3分16秒71||[[グウェン・トーレンス]]、[[マイセル・マローン]]、[[ナターシャ・カイザー=ブラウン]]、[[ジール・マイルス=クラーク]]||{{USA}}||[[1993年]][[8月22日]]||[[シュトゥットガルト]] |- |5||3分16秒85||[[シドニー・マクラフリン]]、[[アリソン・フェリックス]]、[[ダリラ・ムハンマド]]、[[アシング・ムー]]||{{USA}}||[[2021年]][[8月7日]]||[[東京]] |- | rowspan="2" |6|| rowspan="2" |3分16秒87||Kirsten Siemon-Emmelmann、[[ザビーネ・ブッシュ]]、[[ペトラ・ミュラー]]、[[マリタ・コッホ]]||{{GDR}}||[[1986年]][[8月31日]]||[[シュトゥットガルト]] |- |[[ディーディー・トロッター]]、[[アリソン・フェリックス]]、[[フランセナ・マッコロリー]]、[[サーニャ・リチャーズ=ロス]]||{{USA}}||[[2012年]][[8月11日]]||[[ロンドン]] |- |8 |3分17秒79 |[[タリサ・ディグス]]、[[アビー・ステイナー]]、[[ブリットン・ウィルソン]]、[[シドニー・マクラフリン]] |{{USA}} |[[2022年]][[7月24日]] |[[ユージーン]] |- |9||3分17秒83||[[デビー・ダン]]、[[アリソン・フェリックス]]、[[ラシンダ・ディーマス]]、[[サーニャ・リチャーズ=ロス]]||{{USA}}||[[2009年]][[8月23日]]||[[ベルリン]] |- |10||3分18秒09||[[サーニャ・リチャーズ=ロス]]、[[アリソン・フェリックス]]、Jessica Beard、[[フランセナ・マッコロリー]]||{{USA}}||[[2011年]][[9月3日]]||[[大邱広域市|大邱]] |- |} === 国別歴代10傑 === {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" |+ 男子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||2分54秒29||[[アンドリュー・バルモン]]、[[クインシー・ワッツ]]、[[ブッチ・レイノルズ]]、[[マイケル・ジョンソン]]||{{USA}}||[[1993年]][[8月22日]]||[[シュトゥットガルト]] |- |2||2分56秒60||[[イワン・トーマス]]、[[ジェイミー・ボールチ]]、[[マーク・リチャードソン]]、[[ロジャー・ブラック]]||{{GBR}}||[[1996年]][[8月3日]]||[[アトランタ]] |- |3||2分56秒72||[[クリス・ブラウン (陸上選手)|クリス・ブラウン]]、[[デメトリウス・ピンダー]]、[[マイケル・マシュー]]、[[ラモン・ミラー]]||{{BAH}}||[[2012年]][[8月10日]]||[[ロンドン]] |- |4||2分56秒75||[[マイケル・マクドナルド (陸上選手)|マイケル・マクドナルド]]、[[グレッグ・ホートン]]、[[ダニー・マクファーレン]]、Davian Clarke||{{JAM}}||[[1997年]][[8月10日]]||[[アテネ]] |- |5 |2分57秒18 |[[リーマルビン・ボネバシア]]、[[テレンス・アハルト|テレンスアハルト]]、[[トニー・ファンディーペン]]、[[ラムセイ・アンペ]] |{{NED}} |[[2021年]][[8月7日]] |[[東京]] |- |6 |2分57秒27 |[[アイザック・マクワラ]]、 [[バボロキ・テベ]]、[[ジバネ・ヌゴジ]]、 [[バヤポ・ヌドリ]] |{{BOT}} |[[2021年]][[8月7日]] |[[東京]] |- |7 |2分57秒88 |[[アレクサンデル・ドーム]]、 [[ヨナサン・サコール]]、 [[ダイラン・ボルレー]]、[[ケビン・バルレー]] |{{BEL}} |[[2021年]][[8月7日]] |[[東京]] |- |8||2分58秒00||Piotr Rysiukiewicz、Tomasz Czubak、Piotr Haczek、Robert Mackowiak||{{POL}}||[[1998年]][[7月22日]]||ユニオンデール |- |9||2分58秒06||マクシム・ドイルジン、ウラジスラフ・フロロフ、[[アントン・ココリン]]、[[デニス・アレクセーエフ]]||{{RUS}}||[[2008年]][[8月23日]]||[[北京市|北京]] |- |10||2分58秒20||[[レニー・クオ]]、[[ラロンデ・ゴードン]]、Deon Lendore、マシェル・セデニオ||{{TRI}}||[[2015年]][[8月30日]]||[[北京市|北京]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" |+ 女子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分15秒17||[[タチアナ・レドフスカヤ]]、[[オルガ・ナザロワ]]、マリヤ・ピニギナ、[[オルガ・ブリズギナ]]||{{URS}}||[[1988年]][[10月1日]]||[[ソウル特別市|ソウル]] |- |2||3分15秒51||[[ディニアン・ハワード]]、[[ダイアン・ディクソン]]、[[バレリー・ブリスコ=フックス]]、[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]||{{USA}}||[[1988年]][[10月1日]]||[[ソウル特別市|ソウル]] |- |3||3分15秒92||Gesine Walther、[[ザビーネ・ブッシュ]]、[[ダグマル・ノイバウアー]]、[[マリタ・コッホ]]||{{GDR}}<br /> / {{GER}}||[[1984年]][[6月3日]]||[[エアフルト]] |- |4||3分18秒38||Yelena Ruzina、Tatyana Alekseyeva、Margarita Khromova-Ponomaryova、[[イリーナ・プリワロワ]]||{{RUS}}||[[1993年]][[8月22日]]||[[シュトゥットガルト]] |- |5||3分18秒71||[[ローズマリー・ホワイト]]、Davita Prendergast、[[ノブレーン・ウィリアムズ=ミルズ]]、[[シェリカ・ウィリアムズ]]||{{JAM}}||[[2011年]][[9月3日]]|| [[大邱広域市|大邱]] |- |6||3分20秒04||[[クリスティーン・オールグー]]、Marilyn Okoro、Lee McConnell、ニコラ・サンダース||{{GBR}}||[[2007年]][[9月2日]]||[[大阪市|大阪]] |- |7||3分20秒32||Tatána Kocembová、Milena Matejkovicova-Strnadová、Zuzana Moravcikova、[[ヤルミラ・クラトフビロバ]]||{{TCH}}<br /> / {{CZE}}||[[1983年]][[8月14日]]||[[ヘルシンキ]] |- |8 |3分20秒53 |ナタリア・カチマレク、 イガ・バウムガルトビタン、 マウゴジャタ・ホラブコバリク、ユスティナ・シビエンティエルセティツ |{{POL}} |[[2021年]][[8月7日]] |[[東京]] |- |9 |3分20秒87 |Eveline Saalberg、リーケ・クラバー、リサンネ・デ・ウィッテ、フェムケ・ボル |{{NED}} |[[2022年]][[8月20日]] |[[ミュンヘン]] |- |10||3分21秒04||Olabisi Afolabi、Fatima Yusuf、Charity Opara、[[ファリラット・オグンコヤ]]||{{NGR}}||[[1996年]][[8月3日]]||[[アトランタ]] |- |} <!--国際陸上競技連盟公式サイトのジュニア記録欄からリレーが消えたので一旦消去 === ジュニア国別歴代5傑 === {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" |+ 男子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分01秒09||ブランドン・ジョンソン、[[ラショーン・メリット]]、Jason Craig、[[カーロン・クレメント]]||{{USA}}||[[2004年]][[7月18日]]||[[グロッセート]] |- |2||3分02秒81||Omphemetse Poo、Baboloki Thebe、Karabo Sibanda、Xholani Talane||{{BOT}}||[[2016年]][[7月24日]]||[[ブィドゴシュチュ]] |- |3||3分03秒80||David Grindley、エイドリアン・パトリック、Craig Winrow、[[マーク・リチャードソン]]||{{GBR}}||[[1990年]][[8月12日]]||[[プロヴディフ]] |- |4||3分04秒06||Sékou Clarke、[[ウサイン・ボルト]]、Jermaine Myers、[[ジャーメイン・ゴンザレス]]||{{JAM}}||[[2002年]][[7月21日]]||[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]] |- |5||3分04秒11||[[ウォルシュ・ジュリアン]]、油井快晴、[[北川貴理]]、[[加藤修也]]||{{JPN}}||[[2014年]][[7月27日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" |+ 女子 ! !!タイム!!名前!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分27秒60||アレクサンドリア・アンダーソン、Ashlee Kidd、ステファニー・スミス、Natasha Hasting||{{USA}}||[[2004年]][[7月18日]]||[[グロッセート]] |- |2||3分28秒39||Antje Axmann、Daniela Steinecke、Stefanie Fabert、Anke Wöhlk||{{GDR}}||[[1988年]][[7月31日]]||[[サドバリー (オンタリオ州)|サドバリー]] |- |3||3分29秒66||[[ケロン・スチュワート]]、Sheryl Morgan、[[メレーン・ウォーカー]]、[[パトリシア・ホール]]||{{JAM}}||[[2001年]][[4月28日]]||[[フィラデルフィア]] |- |4||3分30秒03||Victoriya Talko、Mariya Shapaeva Zhuravleva、Olga Soldatova、Ekaterina Kostetskaya||{{RUS}}||[[2004年]][[7月18日]]||[[グロッセート]] |- |5||3分30秒38||Sophie Scamps、Renée Poetschka、Kylie Hanigan、Susan Andrews||{{AUS}}||[[1990年]][[8月12日]]||[[プロヴディフ]] |- |} --> == 日本記録 == === 日本記録の変遷 === *1975年以降の電気計時記録 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子<ref>{{Cite journal|和書||date = 1995-09-04発行||title = 日本記録の変遷||journal = [[日本陸上競技連盟]]八十年史||pages = 49}}</ref><ref>{{Cite journal|和書||date = 2013年4月号別冊付録||title = 記録集計号2012 PLUS+||journal = [[陸上競技マガジン]]||issue = 第7号||volume = 第63巻||publisher = [[ベースボール・マガジン社]]||pages = 100}}</ref> !タイム!!氏名!!日付!!場所!!大会 |- |3分05秒28||[[麻場一徳]]、小池弘文、三芝功一、[[高野進]]||[[1983年]][[7月9日]]||[[エドモントン]]||[[1983年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]・決勝 |- |3分05秒09||鈴木弘光、鈴木岳生、[[山内健次]]、鈴木専哉||[[1985年]][[9月4日]]||[[神戸市|神戸]]||[[1985年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]・決勝 |- |3分02秒33||小中富公一、[[山内健次]]、川角博美、[[高野進]]||[[1986年]][[10月5日]]||[[ソウル特別市|ソウル]]||[[1986年アジア競技大会|アジア大会]]・決勝 |- |3分01秒26||小中富公一、[[高野進]]、[[渡辺高博]]、[[伊東浩司]]||[[1991年]][[8月31日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||[[1991年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |3分00秒76||[[苅部俊二]]、[[伊東浩司]]、[[小坂田淳]]、大森盛一||[[1996年]][[8月3日]]||[[アトランタ]]||[[1996年アトランタオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・決勝 |- |2分59秒51||[[佐藤風雅]]、[[川端魁人]]、[[ウォルシュ・ジュリアン]]、[[中島 佑気ジョセフ]]||[[2022年]][[7月24日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2022年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・決勝 |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子<ref>{{Cite journal|和書||date = 1995-09-04発行||title = 日本記録の変遷||journal = [[日本陸上競技連盟]]八十年史||pages = 58}}</ref><ref>{{Cite journal|和書||date = 2013年4月号別冊付録||title = 記録集計号2012 PLUS+||journal = [[陸上競技マガジン]]||issue = 第7号||volume = 第63巻||publisher = [[ベースボール・マガジン社]]||pages = 104}}</ref> !タイム!!氏名!!日付!!場所!!大会 |- |3分37秒44||越本ひとみ、吉田淳子、高畑いずみ、[[磯崎公美]]||[[1982年]][[12月2日]]||[[ニューデリー]]||[[1982年アジア競技大会|アジア大会]]・決勝 |- |3分35秒82||徳田由美子、北川政代、佐藤涼子、天野恵子||[[1991年]][[8月31日]]||[[東京都|東京]]([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]])||[[1991年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |3分34秒83||天野恵子、笠島里美、山形依希子、[[柿沼和恵]]||[[1992年]][[9月20日]]||[[ソウル特別市|ソウル]]||[[世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]]・決勝 |- |3分33秒06||[[杉森美保]]、[[柿沼和恵]]、[[信岡沙希重]]、[[吉田真希子 (陸上選手)|吉田真希子]]||[[2001年]][[5月26日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[2001年東アジア競技大会|東アジア大会]] |- |3分30秒53||[[木田真有]]、[[丹野麻美]]、[[久保倉里美]]、[[吉田真希子 (陸上選手)|吉田真希子]]||[[2007年]][[5月5日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[IAAFグランプリ大阪大会|国際グランプリ大阪]] |- |3分30秒17||[[青木沙弥佳]]、[[丹野麻美]]、[[久保倉里美]]、[[木田真有]]||[[2007年]][[9月1日]]||[[大阪市|大阪]]([[長居陸上競技場|長居]])||[[2007年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |3分28秒91||[[青山聖佳]]、[[市川華菜]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]||[[2015年]][[8月29日]]||[[北京市|北京]]||[[2015年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |} === 日本歴代パフォーマンス10傑 === {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!氏名!!日付!!場所!!大会 |- |1||2分59秒51||[[佐藤風雅]]、[[川端魁人]]、[[ウォルシュ・ジュリアン]]、[[中島 佑気ジョセフ]]||[[2022年]][[7月24日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2022年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・決勝 |- |2||3分00秒39||[[地主直央]]、[[佐藤風雅]]、[[佐藤拳太郎]]、[[中島 佑気ジョセフ]]||[[2023年]][[8月26日]]||[[ブダペスト]]||[[2023年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |rowspan=2|3||rowspan=2|3分00秒76||[[苅部俊二]]、[[伊東浩司]]、[[小坂田淳]]、大森盛一||[[1996年]][[8月3日]]||[[アトランタ]]||[[1996年アトランタオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・決勝 |- |[[伊東利来也]]、[[川端魁人]]、[[佐藤拳太郎]]、[[鈴木碧人]]||[[2021年]][[8月6日]]||[[東京都|東京]]||[[2020年東京オリンピックの陸上競技|オリンピック]]・予選 |- |5||3分00秒99||[[山口有希]]、[[小坂田淳]]、伊藤友広、[[佐藤光浩]]||[[2004年]][[8月28日]]||[[アテネ]]||[[2004年アテネオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・決勝 |- |6||3分01秒04||[[高瀬慧]]、[[金丸祐三]]、[[石塚祐輔]]、[[中野弘幸]]||[[2012年]][[5月16日]]||[[大邱広域市|大邱]]||大邱国際 |- |7||3分01秒26||小中富公一、[[高野進]]、[[渡辺高博]]、[[伊東浩司]]||[[1991年]][[8月31日]]||[[東京都|東京]]||[[1991年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |8||3分01秒35||簡優好、[[高野進]]、[[斎藤嘉彦]]、渡辺高博||[[1992年]][[8月7日]]||[[バルセロナ]]||[[1992年バルセロナオリンピックの陸上競技|オリンピック]]・予選 |- |9||3分01秒46||[[苅部俊二]]、[[斎藤嘉彦]]、[[山崎一彦]]、簡優好||[[1995年]][[8月12日]]||[[イェーテボリ]]||[[1995年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |10||3分01秒53||[[佐藤風雅]]、[[川端魁人]]、[[ウォルシュ・ジュリアン]]、[[中島 佑気ジョセフ]]||[[2022年]][[7月23日]]||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||[[2022年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!氏名!!日付!!場所!!大会 |- |1||3分28秒91||[[青山聖佳]]、[[市川華菜]]、[[千葉麻美]]、[[青木沙弥佳]]||[[2015年]][[8月29日]]||[[北京市|北京]]||[[2015年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |2||3分30秒17||[[青木沙弥佳]]、[[丹野麻美]]、[[久保倉里美]]、[[木田真有]]||[[2007年]][[9月1日]]||[[大阪市|大阪]]||[[2007年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]・予選 |- |3||3分30秒45||[[青山聖佳]]、[[松本奈菜子]]、[[小林茉由]]、[[岩田優奈]]||[[2021年]][[6月6日]]||[[新潟市|新潟]]||[[デンカアスレチックスチャレンジカップ 2021]] |- |4||3分30秒52||[[久保倉里美]]、[[丹野麻美]]、[[木田真有]]、[[青木沙弥佳]]||[[2008年]][[8月22日]]||[[北京市|北京]]||[[2008年北京オリンピックの陸上競技|オリンピック]]・予選 |- |5||3分30秒53||[[木田真有]]、[[丹野麻美]]、[[久保倉里美]]、[[吉田真希子 (陸上選手)|吉田真希子]]||[[2007年]][[5月5日]]||[[大阪市|大阪]]||[[IAAFグランプリ大阪大会|国際グランプリ大阪]] |- |6||3分30秒80||[[青山聖佳]]、松本奈菜子、[[市川華菜]]、[[千葉麻美]]||[[2014年]][[10月2日]]||[[仁川広域市|仁川]]||[[2014年アジア競技大会における陸上競技|アジア大会]]・決勝 |- |7||3分30秒81||[[久保山陽菜]]、[[青山聖佳]]、[[松本奈菜子]]、[[小林茉由]]||[[2021年]][[6月27日]]||[[大阪市|大阪]]||[[日本選手権]]・オープン種目 |- |8||3分30秒91||[[青山聖佳]]、[[石塚晴子]]、[[市川華菜]]、[[吉良愛美]]||[[2016年]][[7月10日]]||[[大阪市|大阪]]||大阪選手権 |- |9||3分31秒66||高島咲季、[[青山聖佳]]、松本奈菜子、岩田優奈||[[2019年]][[9月1日]]||[[富士吉田市|富士吉田]]||富士北麓ワールドトライアル |- |10||3分31秒72||[[青山聖佳]]、松本奈菜子、武石この実、岩田優奈||[[2019年]][[5月11日]]||[[神奈川県|神奈川]]||[[IAAF世界リレー大会|世界リレー]]・予選 |- |} === 単独チーム歴代10傑 === *実業団・大学・高校などの単独チームが記録した、メンバー別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分03秒59||菅野航平、林申雅、吉川崚、今泉堅貴||[[筑波大学]]||[[2023年]][[10月8日]]||[[東京都|東京]] |- |2||3分03秒71||小林稔、向井裕紀弘、中川亘、[[山村貴彦]]||[[日本大学]]||[[2000年]][[5月21日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |3||3分04秒32||鵜池優至、荘司晃佑、井上大地、山本竜大||[[日本大学]]||[[2020年]][[9月13日]]||[[新潟県|新潟]] |- |4||3分04秒34||小久保友裕、小竹理恩、[[山内大夢]]、伊東利来也||[[早稲田大学]]||[[2020年]][[9月13日]]||[[新潟県|新潟]] |- |5||3分04秒38||長谷川充、庄形和也、井上洋佑、[[成迫健児]]||[[筑波大学]]||[[2005年]][[7月3日]]||[[東京都|東京]] |- |6||3分04秒49||板橋慎治、山口隆史、[[為末大]]、邑木隆二||[[法政大学]]||[[2000年]][[5月21日]]||[[東京都|東京]] |- |7||3分04秒51||[[渡邉和也]]、[[飯塚翔太]]、[[松下祐樹]]、[[野澤啓佑]]||[[ミズノ]]||[[2016年]][[9月25日]]||[[大阪市|大阪]] |- |8||3分04秒53||太田和憲、山口光紀、赤松寿長、[[山口有希]]||[[東海大学陸上競技部|東海大学]]||[[2005年]][[7月3日]]||[[東京都|東京]] |- |9||3分04秒54||木下祐一、[[黒川和樹]]、富田大智、水口海||[[法政大学]]||[[2023年]][[10月8日]]||[[東京都|東京]] |- |10||3分04秒55||眞々田洸大、西裕大、新上健太、 竹内彰基||[[早稲田大学]]||[[2023年]][[10月8日]]||[[東京都|東京]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分34秒70||渡辺なつみ、[[丹野麻美]]、[[青木沙弥佳]]、金田一菜可||[[福島大学陸上競技部|福島大学]]||[[2007年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |2||3分35秒90||[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]、[[千葉麻美]]、[[佐藤真有]]||[[東邦銀行]]||[[2012年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |3||3分36秒00||青木りん、武石この実、[[新宮美歩]]、[[青木沙弥佳]]||[[東邦銀行]]||[[2017年]][[10月29日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |4||3分36秒38||小林茉由、広沢真愛、湯淺佳那子、北村夢||[[日本体育大学]]||[[2017年]][[10月29日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |5||3分36秒59||[[青木沙弥佳]]、[[吉田真希子 (陸上選手)|吉田真希子]]、[[千葉麻美]]、[[佐藤真有]]||[[東邦銀行]]||[[2012年]][[9月1日]]||[[福島市|福島]] |- |6||3分36秒67||上山美紗喜、名倉千晃、[[新宮美歩]]、[[三木汐莉]]||[[東大阪大学]]||[[2012年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |7||3分36秒73||[[丹野麻美]]、[[久保倉里美]]、坂水千恵、[[木田真有]]||[[福島大学陸上競技部|福島大学]]||[[2004年]][[10月10日]]||[[群馬県|群馬]] |- |8||3分36秒93||[[青木沙弥佳]]、栗本佳世子、松田薫、[[丹野麻美]]||[[福島大学陸上競技部|福島大学]]||[[2006年]][[10月29日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |9||3分37秒15||小山佳奈、関本萌香、津川瑠衣、村上夏美||[[早稲田大学]]||[[2020年]][[10月18日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |10||3分37秒21||吉岡里奈、工藤芽衣、山本亜美、児島柚月||[[立命館大学]]||[[2023年]][[5月27日]]||[[大阪府|大阪]] |- |} === チーム別単独チーム歴代10傑 === *実業団・大学・高校などの単独チームが記録した、チーム別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分03秒59||菅野航平、林申雅、吉川崚、今泉堅貴||[[筑波大学]]||[[2023年]][[10月8日]]||[[東京都|東京]] |- |2||3分03秒71||小林稔、向井裕紀弘、中川亘、[[山村貴彦]]||[[日本大学]]||[[2000年]][[5月21日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |3||3分04秒34||小久保友裕、小竹理恩、山内大夢、伊東利来也||[[早稲田大学]]||[[2020年]][[9月13日]]||[[新潟県|新潟]] |- |4||3分04秒49||板橋慎治、山口隆史、[[為末大]]、邑木隆二||[[法政大学]]||[[2000年]][[5月21日]]||[[東京都|東京]] |- |5||3分04秒51||[[渡邉和也]]、[[飯塚翔太]]、[[松下祐樹]]、[[野澤啓佑]]||[[ミズノ]]||[[2016年]][[9月25日]]||[[大阪市|大阪]] |- |6||3分04秒53||太田和憲、山口光紀、赤松寿長、[[山口有希]]||[[東海大学陸上競技部|東海大学]]||[[2005年]][[7月3日]]||[[東京都|東京]] |- |7||3分04秒58||壁谷智之、[[山縣亮太]]、茅田昂、小池祐貴||[[慶應義塾大学]]||[[2014年]][[9月7日]]||[[埼玉県|埼玉]] |- |8||3分04秒77||佐野恭太、[[千葉佳裕]]、橋本正樹、田中貴仁||[[順天堂大学]]||[[2001年]][[5月20日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |9||3分05秒02||加瀬宏二郎、[[飯塚翔太]]、木村淳、鬼塚 祐志||[[中央大学]]||[[2011年]][[10月30日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |10||3分05秒45||松宮功、坂本隆行、鬼頭浩史、櫻井権太||[[京都産業大学]]||[[1999年]][[5月16日]]||[[大阪市|大阪]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分34秒70||渡辺なつみ、[[丹野麻美]]、[[青木沙弥佳]]、金田一菜可||[[福島大学陸上競技部|福島大学]]||[[2007年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |2||3分35秒90||[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]、[[千葉麻美]]、[[佐藤真有]]||[[東邦銀行]]||[[2012年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |3||3分36秒38||小林茉由、広沢真愛、湯淺佳那子、北村夢||[[日本体育大学]]||[[2017年]][[10月29日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |4||3分36秒67||上山美紗喜、名倉千晃、[[新宮美歩]]、[[三木汐莉]]||[[東大阪大学]]||[[2012年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |5||3分37秒15||小山佳奈、関本萌香、津川瑠衣、村上夏美||[[早稲田大学]]||[[2020年]][[10月18日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |6||3分37秒21||吉岡里奈、工藤芽衣、山本亜美、児島柚月||[[立命館大学]]||[[2023年]][[5月27日]]||[[大阪府|大阪]] |- |7||3分37秒43||[[青木沙弥佳]]、[[佐藤真有]]、[[吉田真希子 (陸上選手)|吉田真希子]]、[[千葉麻美]]||ナチュリル||[[2010年]][[10月24日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |8||3分37秒67||戸谷温海、川田朱夏、戸谷湧海、佐々木梓||[[東大阪大学敬愛高等学校]]||[[2016年]][[8月2日]]||[[岡山市|岡山]] |- |9||3分37秒99||大竹佑奈、松本奈菜子、建部カオリ、[[杉浦はる香]]||[[浜松市立高等学校]]||[[2013年]][[8月3日]]||[[大分市|大分]] |- |10||3分38秒17||島岡未奈実、吉見美咲、中島藍梨、[[青山聖佳]]||[[大阪成蹊大学]]||[[2016年]][[5月15日]]||[[大阪市|大阪]] |- |} === チーム別実業団歴代5傑 === *実業団のチームが記録した、チーム別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分04秒51||[[渡邉和也]]、[[飯塚翔太]]、[[松下祐樹]]、[[野澤啓佑]]||[[ミズノ]]||[[2016年]][[9月25日]]||[[大阪市|大阪]] |- |2||3分05秒54||土手啓史、堀江新太郎、田村朋也、小西勇太||[[住友電工]]||[[2016年]][[9月25日]]||[[大阪市|大阪]] |- |3||3分06秒07||熊谷直人、[[苅部俊二]]、簡優好、林弘幸||[[富士通陸上競技部|富士通]]||[[1998年]][[6月14日]]||[[鳴門市|鳴門]] |- |4||3分07秒03||松宮功、渡邉孝光、谷田泰平、向井裕紀弘||[[西濃運輸]]||[[2003年]][[10月12日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |5||3分08秒55||泉谷建太、金子信、上野光弘、[[杉町マハウ]]||[[日本ウェルネススポーツ専門学校|日本ウェルネス]]||[[2009年]][[9月27日]]||[[岡山市|岡山]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分35秒90||[[青木沙弥佳]]、[[渡辺真弓]]、[[千葉麻美]]、[[佐藤真有]]||[[東邦銀行]]||[[2012年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |2||3分37秒43||[[青木沙弥佳]]、[[佐藤真有]]、[[吉田真希子 (陸上選手)|吉田真希子]]、[[千葉麻美]]||ナチュリル||[[2010年]][[10月24日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |3||3分40秒78||坪田可奈子、齋ともみ、阿部弥生、水上友紀||[[七十七銀行]]||[[2005年]][[10月9日]]||[[前橋市|前橋]] |- |} === 学校別学生歴代5傑 === *大学のチームが記録した、学校別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分03秒59||菅野航平、林申雅、吉川崚、今泉堅貴||[[筑波大学]]||[[2023年]][[10月8日]]||[[東京都|東京]] |- |2||3分03秒71||小林稔、向井裕紀弘、中川亘、[[山村貴彦]]||[[日本大学]]||[[2000年]][[5月21日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |3||3分04秒32||鵜池優至、荘司晃佑、井上大地、山本竜大||[[日本大学]]||[[2020年]][[9月13日]]||[[新潟県|新潟]] |- |4||3分04秒34||小久保友裕、小竹理恩、山内大夢、伊東利来也||[[早稲田大学]]||[[2020年]][[9月13日]]||[[新潟県|新潟]] |- |5||3分04秒38||長谷川充、庄形和也、井上洋佑、[[成迫健児]]||[[筑波大学]]||[[2005年]][[7月3日]]||[[東京都|東京]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分34秒70||渡辺なつみ、[[丹野麻美]]、[[青木沙弥佳]]、金田一菜可||[[福島大学陸上競技部|福島大学]]||[[2007年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |2||3分36秒38||小林茉由、広沢真愛、湯淺佳那子、北村夢||[[日本体育大学]]||[[2017年]][[10月29日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |3||3分36秒67||上山美紗喜、名倉千晃、[[新宮美歩]]、[[三木汐莉]]||[[東大阪大学]]||[[2012年]][[10月28日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |4||3分38秒17||島岡未奈実、吉見美咲、中島藍梨、[[青山聖佳]]||[[大阪成蹊大学]]||[[2016年]][[5月15日]]||[[大阪市|大阪]] |- |5||3分38秒55||小田垣亜樹、王子田萌、梅原紗月、木本彩葉||[[立命館大学]]||[[2015年]][[5月17日]]||[[大阪市|大阪]] |- |} === 学校別高校歴代上位 === *高校のチームが記録した、学校別の歴代最高タイムを記載 {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 男子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1 |3分07秒81 |庄籠大翔、 渕上翔太、 小坂洸樹、 冨永湧平 |[[東福岡高等学校]] |[[2022年]][[10月2日]] |[[東京]] |- |2||3分08秒32||[[笛木靖宏]]、山本真也、菅井純平、鈴木哲平||[[成田高等学校・付属中学校|成田高等学校]]||[[2003年]][[10月12日]]||[[前橋市|前橋]] |- |3||3分08秒57||野口航平、樋口優人、梅谷穗志亜、井本佳伸||[[洛南高等学校・附属中学校|洛南高等学校]]||[[2016年]][[8月2日]]||[[岡山市|岡山]] |- |4||3分08秒85||桂木大和、鈴木大河、高橋遼将、稲川慧亮||[[中京大学附属中京高等学校]]||[[2020年]][[10月18日]]||[[神奈川県|神奈川]] |- |5||3分08秒91||メルドラム・アラン、飯嶋駿、増子雄太、中机陽彦||[[相洋中学校・高等学校|相洋高等学校]]||[[2016年]][[8月2日]]||[[岡山市|岡山]] |- |} {| class="wikitable" style="font-size:85%" |+ 女子 ! !!タイム!!氏名!!所属!!日付!!場所 |- |1||3分37秒67||戸谷温海、川田朱夏、戸谷湧海、佐々木梓||[[東大阪大学敬愛高等学校]]||[[2016年]][[8月2日]]||[[岡山市|岡山]] |- |2||3分37秒99||大竹佑奈、松本奈菜子、建部カオリ、[[杉浦はる香]]||[[浜松市立高等学校]]||[[2013年]][[8月3日]]||[[大分市|大分]] |- |3 |3分39秒15 |篠原美咲、宮地利璃香、志水芹菜、佐藤葵唯 |[[船橋市立船橋高等学校]] |[[2022年]][[11月3日]] |[[袋井市|袋井]] |- |4 |3分39秒45 |谷口璃奈、好井万結、吉村心、中尾柚希 |[[園田学園中学校・高等学校|園田学園高等学校]] |[[2022年]][[11月3日]] |[[袋井市|袋井]] |- |5||3分39秒90||高島菜都美、石川優、金子ひとみ、高島咲季||[[相洋中学校・高等学校|相洋高等学校]]||[[2018年]][[10月28日]]||[[北九州市|北九州]] |- |} == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[陸上競技の世界記録一覧]] * [[陸上競技のオリンピック記録一覧]] * [[世界陸上競技選手権大会#大会記録|世界陸上競技選手権大会 大会記録]] * [[陸上競技の日本記録一覧]] * [[日本陸上競技選手権リレー競技大会]] * [[オリンピックの陸上競技・男子メダリスト一覧]] * [[オリンピックの陸上競技・女子メダリスト一覧]] {{陸上競技}} {{デフォルトソート:1600めえとるりれえそう}} [[Category:陸上競技種目]]
2003-07-23T14:08:38Z
2023-10-23T01:06:46Z
false
false
false
[ "Template:URS", "Template:JAM", "Template:NED", "Template:BEL", "Template:POL", "Template:Cite journal", "Template:JPN", "Template:SSR", "Template:BAH", "Template:TCH", "Template:NGR", "Template:Cite web", "Template:Lang-en", "Template:CZE", "Template:陸上競技", "Template:GER", "Template:Reflist", "Template:USA", "Template:GDR", "Template:GBR", "Template:BOT", "Template:RUS", "Template:TRI" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1600%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%83%BC%E8%B5%B0
12,096
幾何平均
幾何平均(きかへいきん、英: geometric mean)または相乗平均とは数学における広義の平均の一つである。多くの人が平均と聞いて思い浮かべる算術平均と似ているが、値の総和を n個で割るのでなく、値の総乗の n乗根を取る点が異なる。 相乗平均の対数は、値の対数の算術平均に等しくなる。 p一般化平均(p は実数)(一般化平均については平均#一般化平均 2を参照)で p → 0 のときの極限は相乗平均に等しくなる。 数の集合またはデータ a 1 , a 2 , ⋯ , a n {\displaystyle a_{1},a_{2},\cdots ,a_{n}} の幾何平均は次の式で定義される: 例えば、2, 8 の幾何平均は 2 × 8 = 4 {\displaystyle {\sqrt {2\times 8}}=4} となる。3数 4, 1, 1/32 の幾何平均は 4 × 1 × 1 32 3 = 1 2 {\displaystyle {\sqrt[{3}]{4\times 1\times {\frac {1}{32}}}}={\frac {1}{2}}} となる。 幾何平均は幾何学的に説明することもできる。2数 a, b の幾何平均は、縦横の長さが a, b の長方形と同じ面積の正方形の1辺の長さに等しい。同様に 3数 a, b, c の幾何平均は、それらで張られる直方体と同じ体積の立方体の1辺の長さに等しい。 幾何平均は正の数のみしか扱えない。互いにかけ合わせることが多い値や指数関数的性質のある値に使うことが多く、例えば人口の成長に関するデータや財政投資の利率などに使われる。 幾何平均は「ピタゴラス平均 (en)」と呼ばれる3つの古典的な平均の一つでもある(他は算術平均と調和平均)。異なる値を含む正の数からなる集合またはデータにおいて、調和平均、幾何平均、算術平均の順に小さくなる。 算術平均と幾何平均を混合した算術幾何平均というものがあり、常に算術平均と幾何平均の中間の値となる。2つの数列 (an), (hn) を、連立漸化式 で定義するとき、幾何平均は算術調和平均となり、an, hn はいずれも x, y の幾何平均に収束する。 これは2つの数列が同じ極限に収束するという事実(ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理)と幾何平均が常に同じという事実から容易に分かる。 対数の性質を使って式を変形させると、乗算を加算で表すことができ、べき乗を乗算で表せる。 これを log-average(対数平均、logarithmic mean と混同しないこと)とも呼ぶ。数の集合またはデータの値 a i {\displaystyle a_{i}} を対数に変換して算術平均を求め、指数関数を適用して元の数値の幾何平均を得る。これはすなわち、f(x) = log x とした一般化平均に他ならない。例えば、2, 8 の幾何平均は次のように計算できる。 ここで b は対数の底であり、どんな値でもよい(通常は 2, e, 10 のいずれかを使う)。 それぞれ異なる値の数値群に平均保存的拡散を施したとき、幾何平均は常に小さくなる。 何らかの量の平均成長率を求めるのに幾何平均を使う場合、初期値 a 0 {\displaystyle a_{0}} と最新の値 a n {\displaystyle a_{n}} が既知であれば、途中の値を使わずに最新の成長率の幾何平均を次の式で求められる。 ここで n {\displaystyle n} は初期値から最新状態までのステップ数である。 集合またはデータを a 0 , ⋯ , a n {\displaystyle a_{0},\cdots ,a_{n}} とし、 a k {\displaystyle a_{k}} と a k + 1 {\displaystyle a_{k+1}} の間の成長率を a k + 1 a k {\displaystyle {\frac {a_{k+1}}{a_{k}}}} とする。すると、成長率の幾何平均は次のようになる。 成長率を表す場合、指数関数的成長(成長率が一定の場合)でもそうでなくても、算術平均より幾何平均の方が適している。ビジネス分野においてはこれを年平均成長率 (CAGR) と呼ぶ。ある期間の成長率の幾何平均は、その期間で一定の割合で成長して同じ成長を達成する場合の成長率である。 あるオレンジの木からある年に100個のオレンジを収穫でき、その後180個、210個、300個と毎年推移したとすると、各年ごとの成長率は順に 80%、16.7%、42.9%となる。成長率の算術平均を求める(80% + 16.7% + 42.9% を3で割る)と、平均成長率は 46.5% となる。しかし、初年に100個のオレンジがとれ、その後毎年 46.5% ずつ成長したとすると、最終年では314個となり、300にはならない。つまり、成長率を単純に算術平均すると平均成長率を大きく見積もってしまう。 その代わりとして幾何平均を使うことができる。成長率 80% は1.80倍を意味する。そこで 1.80、1.167、1.429 の幾何平均をとると 1.80 × 1.167 × 1.429 3 = 1.443 {\displaystyle {\sqrt[{3}]{1.80\times 1.167\times 1.429}}=1.443} となり、平均成長率は 44.3% となる。初年を100として、その後毎年 44.3% ずつ成長したとすると、最終年には300となる。 社会的統計を計算する場合、幾何平均を使うことは少なかったが、国際連合の人間開発指数は2010年から幾何平均を使って求めるようになった。これは、その統計量の性質をよりよく反映するためとされている。 幾何平均は(比較されている)次元間の代用可能性のレベルを低くし、同時に出生時平均余命の1%の低下が人間開発指数に教育や収入の1%の低下と同じ影響を与えることを保証する。従って達成度の比較の基礎としてはこちらの方が単純平均よりも次元を横断した本質的差異をよく表しているといえる。 幾何平均は映画やビデオの妥協的画面アスペクト比の策定に使われてきた。2つのアスペクト比があるときそれらの幾何平均をとれば、両者を同程度に歪めるか切り取るかした妥協的アスペクト比を提供する。具体的には、面積が等しくアスペクト比が異なる領域を中心を揃えて辺が平行になるように重ねると、それらが重なった領域が両者の幾何平均のアスペクト比と等しくなる。また、両者を全部含む最小の長方形の領域も幾何平均と同じアスペクト比になる。 SMPTEは16:9というアスペクト比を選ぶにあたって、2.35:1(スコープ・サイズの映画)と4:3(従来のテレビ)の幾何平均をとって 2.35 × 4 3 = 1.7 7 ̄ {\displaystyle {\sqrt {2.35\times {\frac {4}{3}}}}=1.7{\overline {7}}} とし、16:9 = 1.777... を選択した。これは Kerns Powers が経験的に到達したもので、彼は主なアスペクト比にあわせて面積の等しい長方形を作って比較した。それらの中心を合わせて重ねると、全体を包含する長方形のアスペクト比が 1.77:1 となることを発見し、同時に全ての長方形が重なっている領域も同じく 1.77:1 というアスペクト比になることを発見した。Powers が発見した値はまさしく 4:3 (1.33:1) と 2.35:1 の幾何平均であり、16:9 (1.78:1) に非常に近い。Powers はその2つ以外のアスペクト比も考慮したが、幾何平均に関わっているのは最も極端な形状の2つのみである。 この幾何平均の技法を 16:9 と 4:3 に適用するとおおよそ 14:9 (1.555...) のアスペクト比が得られ、同様に妥協案的アスペクト比として使われている。この場合、14:9 は実は 16:9 と 4:3 の算術平均であり(4:3 = 12:9 であり、16 と 12 の算術平均は14)、正確な幾何平均は 16 9 × 4 3 ≈ 1.5396 ≈ 13.8 : 9 {\displaystyle {\sqrt {{\frac {16}{9}}\times {\frac {4}{3}}}}\approx 1.5396\approx 13.8:9} だが、算術平均も幾何平均も十分近い値でおおよそ等しいと見なせる。 信号処理におけるスペクトル平坦性はそのスペクトルの平坦さの度合いを表すもので、スペクトル密度の幾何平均と算術平均の比で定義されている。 直角三角形の斜辺を底辺としたときの高さは、直角な角から斜辺に描いた垂線で斜辺を分割したときのそれぞれの線分の幾何平均に等しい。 楕円において短半径は焦点から楕円の周上の点との距離の最大値と最小値の幾何平均である。一方、長半径は中心点といずれかの焦点との距離と中心点と準線との距離の幾何平均である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "幾何平均(きかへいきん、英: geometric mean)または相乗平均とは数学における広義の平均の一つである。多くの人が平均と聞いて思い浮かべる算術平均と似ているが、値の総和を n個で割るのでなく、値の総乗の n乗根を取る点が異なる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "相乗平均の対数は、値の対数の算術平均に等しくなる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "p一般化平均(p は実数)(一般化平均については平均#一般化平均 2を参照)で p → 0 のときの極限は相乗平均に等しくなる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "数の集合またはデータ a 1 , a 2 , ⋯ , a n {\\displaystyle a_{1},a_{2},\\cdots ,a_{n}} の幾何平均は次の式で定義される:", "title": "定義と例" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "例えば、2, 8 の幾何平均は 2 × 8 = 4 {\\displaystyle {\\sqrt {2\\times 8}}=4} となる。3数 4, 1, 1/32 の幾何平均は 4 × 1 × 1 32 3 = 1 2 {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{4\\times 1\\times {\\frac {1}{32}}}}={\\frac {1}{2}}} となる。", "title": "定義と例" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "幾何平均は幾何学的に説明することもできる。2数 a, b の幾何平均は、縦横の長さが a, b の長方形と同じ面積の正方形の1辺の長さに等しい。同様に 3数 a, b, c の幾何平均は、それらで張られる直方体と同じ体積の立方体の1辺の長さに等しい。", "title": "定義と例" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "幾何平均は正の数のみしか扱えない。互いにかけ合わせることが多い値や指数関数的性質のある値に使うことが多く、例えば人口の成長に関するデータや財政投資の利率などに使われる。", "title": "定義と例" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "幾何平均は「ピタゴラス平均 (en)」と呼ばれる3つの古典的な平均の一つでもある(他は算術平均と調和平均)。異なる値を含む正の数からなる集合またはデータにおいて、調和平均、幾何平均、算術平均の順に小さくなる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "算術平均と幾何平均を混合した算術幾何平均というものがあり、常に算術平均と幾何平均の中間の値となる。2つの数列 (an), (hn) を、連立漸化式", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "で定義するとき、幾何平均は算術調和平均となり、an, hn はいずれも x, y の幾何平均に収束する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これは2つの数列が同じ極限に収束するという事実(ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理)と幾何平均が常に同じという事実から容易に分かる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "対数の性質を使って式を変形させると、乗算を加算で表すことができ、べき乗を乗算で表せる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これを log-average(対数平均、logarithmic mean と混同しないこと)とも呼ぶ。数の集合またはデータの値 a i {\\displaystyle a_{i}} を対数に変換して算術平均を求め、指数関数を適用して元の数値の幾何平均を得る。これはすなわち、f(x) = log x とした一般化平均に他ならない。例えば、2, 8 の幾何平均は次のように計算できる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ここで b は対数の底であり、どんな値でもよい(通常は 2, e, 10 のいずれかを使う)。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "それぞれ異なる値の数値群に平均保存的拡散を施したとき、幾何平均は常に小さくなる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "何らかの量の平均成長率を求めるのに幾何平均を使う場合、初期値 a 0 {\\displaystyle a_{0}} と最新の値 a n {\\displaystyle a_{n}} が既知であれば、途中の値を使わずに最新の成長率の幾何平均を次の式で求められる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ここで n {\\displaystyle n} は初期値から最新状態までのステップ数である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "集合またはデータを a 0 , ⋯ , a n {\\displaystyle a_{0},\\cdots ,a_{n}} とし、 a k {\\displaystyle a_{k}} と a k + 1 {\\displaystyle a_{k+1}} の間の成長率を a k + 1 a k {\\displaystyle {\\frac {a_{k+1}}{a_{k}}}} とする。すると、成長率の幾何平均は次のようになる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "成長率を表す場合、指数関数的成長(成長率が一定の場合)でもそうでなくても、算術平均より幾何平均の方が適している。ビジネス分野においてはこれを年平均成長率 (CAGR) と呼ぶ。ある期間の成長率の幾何平均は、その期間で一定の割合で成長して同じ成長を達成する場合の成長率である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "あるオレンジの木からある年に100個のオレンジを収穫でき、その後180個、210個、300個と毎年推移したとすると、各年ごとの成長率は順に 80%、16.7%、42.9%となる。成長率の算術平均を求める(80% + 16.7% + 42.9% を3で割る)と、平均成長率は 46.5% となる。しかし、初年に100個のオレンジがとれ、その後毎年 46.5% ずつ成長したとすると、最終年では314個となり、300にはならない。つまり、成長率を単純に算術平均すると平均成長率を大きく見積もってしまう。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その代わりとして幾何平均を使うことができる。成長率 80% は1.80倍を意味する。そこで 1.80、1.167、1.429 の幾何平均をとると 1.80 × 1.167 × 1.429 3 = 1.443 {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{1.80\\times 1.167\\times 1.429}}=1.443} となり、平均成長率は 44.3% となる。初年を100として、その後毎年 44.3% ずつ成長したとすると、最終年には300となる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "社会的統計を計算する場合、幾何平均を使うことは少なかったが、国際連合の人間開発指数は2010年から幾何平均を使って求めるようになった。これは、その統計量の性質をよりよく反映するためとされている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "幾何平均は(比較されている)次元間の代用可能性のレベルを低くし、同時に出生時平均余命の1%の低下が人間開発指数に教育や収入の1%の低下と同じ影響を与えることを保証する。従って達成度の比較の基礎としてはこちらの方が単純平均よりも次元を横断した本質的差異をよく表しているといえる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "幾何平均は映画やビデオの妥協的画面アスペクト比の策定に使われてきた。2つのアスペクト比があるときそれらの幾何平均をとれば、両者を同程度に歪めるか切り取るかした妥協的アスペクト比を提供する。具体的には、面積が等しくアスペクト比が異なる領域を中心を揃えて辺が平行になるように重ねると、それらが重なった領域が両者の幾何平均のアスペクト比と等しくなる。また、両者を全部含む最小の長方形の領域も幾何平均と同じアスペクト比になる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "SMPTEは16:9というアスペクト比を選ぶにあたって、2.35:1(スコープ・サイズの映画)と4:3(従来のテレビ)の幾何平均をとって 2.35 × 4 3 = 1.7 7 ̄ {\\displaystyle {\\sqrt {2.35\\times {\\frac {4}{3}}}}=1.7{\\overline {7}}} とし、16:9 = 1.777... を選択した。これは Kerns Powers が経験的に到達したもので、彼は主なアスペクト比にあわせて面積の等しい長方形を作って比較した。それらの中心を合わせて重ねると、全体を包含する長方形のアスペクト比が 1.77:1 となることを発見し、同時に全ての長方形が重なっている領域も同じく 1.77:1 というアスペクト比になることを発見した。Powers が発見した値はまさしく 4:3 (1.33:1) と 2.35:1 の幾何平均であり、16:9 (1.78:1) に非常に近い。Powers はその2つ以外のアスペクト比も考慮したが、幾何平均に関わっているのは最も極端な形状の2つのみである。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "この幾何平均の技法を 16:9 と 4:3 に適用するとおおよそ 14:9 (1.555...) のアスペクト比が得られ、同様に妥協案的アスペクト比として使われている。この場合、14:9 は実は 16:9 と 4:3 の算術平均であり(4:3 = 12:9 であり、16 と 12 の算術平均は14)、正確な幾何平均は 16 9 × 4 3 ≈ 1.5396 ≈ 13.8 : 9 {\\displaystyle {\\sqrt {{\\frac {16}{9}}\\times {\\frac {4}{3}}}}\\approx 1.5396\\approx 13.8:9} だが、算術平均も幾何平均も十分近い値でおおよそ等しいと見なせる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "信号処理におけるスペクトル平坦性はそのスペクトルの平坦さの度合いを表すもので、スペクトル密度の幾何平均と算術平均の比で定義されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "直角三角形の斜辺を底辺としたときの高さは、直角な角から斜辺に描いた垂線で斜辺を分割したときのそれぞれの線分の幾何平均に等しい。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "楕円において短半径は焦点から楕円の周上の点との距離の最大値と最小値の幾何平均である。一方、長半径は中心点といずれかの焦点との距離と中心点と準線との距離の幾何平均である。", "title": "用途" } ]
幾何平均または相乗平均とは数学における広義の平均の一つである。多くの人が平均と聞いて思い浮かべる算術平均と似ているが、値の総和を n個で割るのでなく、値の総乗の n乗根を取る点が異なる。 相乗平均の対数は、値の対数の算術平均に等しくなる。 p一般化平均で p → 0 のときの極限は相乗平均に等しくなる。
'''幾何平均'''(きかへいきん、{{lang-en-short|geometric mean}})または'''相乗平均'''とは[[数学]]における広義の[[平均]]の一つである。多くの人が平均と聞いて思い浮かべる[[算術平均]]と似ているが、値の総和を {{mvar|n}}個で割るのでなく、値の[[総乗]]の {{mvar|n}}[[冪根|乗根]]を取る点が異なる。 相乗平均の[[対数]]は、値の対数の算術平均に等しくなる。 {{mvar|p}}一般化平均({{mvar|p}} は実数)(一般化平均については[[平均#一般化平均 2]]を参照)で {{math2|''p'' → 0}} のときの[[極限]]は相乗平均に等しくなる。 == 定義と例 == 数の[[集合]]または[[データ]] <math>a_1, a_2 , \cdots, a_n</math> の幾何平均は次の式で定義される: :<math>\left( \textstyle\prod\limits_{i=1}^n a_i \right)^{\frac{1}{n}} = \sqrt[n]{a_1 a_2 \dotsb a_n\vphantom{A}}</math> 例えば、{{math2|2, 8}} の幾何平均は <math>\sqrt{2 \times 8} = 4</math> となる。3数 {{math2|4, 1, {{sfrac|1|32}}}} の幾何平均は <math>\sqrt[3]{4 \times 1 \times \frac{1}{32}} = \frac{1}{2}</math> となる。 幾何平均は[[幾何学]]的に説明することもできる。2数 {{math2|''a'', ''b''}} の幾何平均は、縦横の長さが {{math2|''a'', ''b''}} の[[長方形]]と同じ面積の[[正方形]]の1辺の長さに等しい。同様に 3数 {{math2|''a'', ''b'', ''c''}} の幾何平均は、それらで張られる[[直方体]]と同じ体積の[[立方体]]の1辺の長さに等しい。 幾何平均は正の数のみしか扱えない<ref>積が負で {{mvar|n}} が偶数だとその冪根は[[虚数]]になるため。また、数値として0 が含まれていると積が常に0となり幾何平均も 0 になってしまう。</ref>。互いにかけ合わせることが多い値や指数関数的性質のある値に使うことが多く、例えば[[世界人口|人口]]の成長に関するデータや財政投資の利率などに使われる。 == 性質 == 幾何平均は「[[ピタゴラス平均]] ([[:en:Pythagorean means|en]])」と呼ばれる3つの古典的な平均の一つでもある(他は[[算術平均]]と[[調和平均]])。異なる値を含む正の数からなる集合またはデータにおいて、調和平均、幾何平均、算術平均の順に小さくなる。 算術平均と幾何平均を混合した[[算術幾何平均]]というものがあり、常に算術平均と幾何平均の中間の値となる。2つの[[数列]] {{math2|(''a{{sub|n}}''), (''h{{sub|n}}'')}} を、連立[[漸化式]] :<math>a_{n+1} = \frac{a_n + h_n}{2}, \quad a_0=x</math> :<math>h_{n+1} = \frac{2}{\frac{1}{a_n} + \frac{1}{h_n}}, \quad h_0=y</math> で定義するとき、幾何平均は'''算術調和平均'''となり、{{math2|''a{{sub|n}}'', ''h{{sub|n}}''}} はいずれも {{math2|''x'', ''y''}} の幾何平均に収束する。 これは2つの数列が同じ[[極限]]に収束するという事実([[ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理]])と幾何平均が常に同じという事実から容易に分かる。 :<math>\sqrt{a_ih_i} = \sqrt{\frac{a_i+h_i}{(a_i+h_i) / h_ia_i}} = \sqrt{\frac{a_i+h_i}{1 / a_i + 1 /h_i}} = \sqrt{a_{i+1}h_{i+1}}</math> === 対数の算術平均との関係 === [[対数]]の性質を使って式を変形させると、乗算を加算で表すことができ、べき乗を乗算で表せる。 :<math>\left( \textstyle\prod\limits_{i=1}^n a_i \right)^{\frac{1}{n}} = \exp \left[ \frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n \ln a_i \right]</math> これを log-average([[対数平均]]、logarithmic mean と混同しないこと)とも呼ぶ。数の集合またはデータの値 <math>a_i</math> を対数に変換して[[算術平均]]を求め、指数関数を適用して元の数値の幾何平均を得る。これはすなわち、{{math2|''f''(''x'') {{=}} log ''x''}} とした一般化平均に他ならない。例えば、{{math2|2, 8}} の幾何平均は次のように計算できる。 :<math>b^{\left(\log_b (2)+\log_b (8) \right)/2} = 4</math> ここで {{mvar|b}} は[[対数]]の底であり、どんな値でもよい(通常は 2, [[ネイピア数|{{mvar|e}}]], 10 のいずれかを使う)。 === 算術平均と平均保存的拡散との関係 === それぞれ異なる値の数値群に[[平均保存的拡散]]<ref>数値群の複数の要素を算術平均を変化させないように拡散させること</ref>を施したとき、幾何平均は常に小さくなる<ref>Mitchell, Douglas W., "More on spreads and non-arithmetic means," ''The Mathematical Gazette'' 88, March 2004, 142-144.</ref>。 === 一定間隔での計算 === 何らかの量の平均成長率を求めるのに幾何平均を使う場合、初期値 <math>a_0</math> と最新の値 <math>a_n</math> が既知であれば、途中の値を使わずに最新の成長率の幾何平均を次の式で求められる。 :<math>\left(\frac{a_n}{a_0}\right)^{\frac{1}{n}}</math> ここで <math>n</math> は初期値から最新状態までのステップ数である。 集合またはデータを <math>a_0, \cdots, a_n</math> とし、<math>a_k</math> と <math>a_{k+1}</math> の間の成長率を <math>\frac{a_{k+1}}{a_k}</math> とする。すると、成長率の幾何平均は次のようになる。 :<math>\left( \frac{a_1}{a_0} \frac{a_2}{a_1} \cdots \frac{a_n}{a_{n-1}} \right)^{\frac{1}{n}} = \left(\frac{a_n}{a_0}\right)^{\frac{1}{n}}</math> == 用途 == === 成長率 === 成長率を表す場合、[[指数関数的成長]](成長率が一定の場合)でもそうでなくても、[[算術平均]]より幾何平均の方が適している。ビジネス分野においてはこれを[[年平均成長率]] (CAGR) と呼ぶ。ある期間の成長率の幾何平均は、その期間で一定の割合で成長して同じ成長を達成する場合の成長率である。 あるオレンジの木からある年に100個のオレンジを収穫でき、その後180個、210個、300個と毎年推移したとすると、各年ごとの成長率は順に 80%、16.7%、42.9%となる。成長率の[[算術平均]]を求める(80% + 16.7% + 42.9% を3で割る)と、平均成長率は 46.5% となる。しかし、初年に100個のオレンジがとれ、その後毎年 46.5% ずつ成長したとすると、最終年では314個となり、300にはならない。つまり、成長率を単純に算術平均すると平均成長率を大きく見積もってしまう。 その代わりとして幾何平均を使うことができる。成長率 80% は1.80倍を意味する。そこで 1.80、1.167、1.429 の幾何平均をとると <math>\sqrt[3]{1.80 \times 1.167 \times 1.429} = 1.443</math> となり、平均成長率は 44.3% となる。初年を100として、その後毎年 44.3% ずつ成長したとすると、最終年には300となる。 === 社会科学での応用 === 社会的統計を計算する場合、幾何平均を使うことは少なかったが、[[国際連合]]の[[人間開発指数]]は2010年から幾何平均を使って求めるようになった。これは、その統計量の性質をよりよく反映するためとされている。 <blockquote> 幾何平均は(比較されている)次元間の代用可能性のレベルを低くし、同時に出生時平均余命の1%の低下が人間開発指数に教育や収入の1%の低下と同じ影響を与えることを保証する。従って達成度の比較の基礎としてはこちらの方が単純平均よりも次元を横断した本質的差異をよく表しているといえる<ref>[http://hdr.undp.org/en/statistics/faq/ FAQ - HUMAN DEVELOPMENT REPORT]</ref>。 </blockquote> === アスペクト比 === [[画像:Dr. Kerns Powers, SMPTE derivation of 16-9 aspect ratio.svg|300px|thumb|Kerns Powers が[[SMPTE]]の[[16:9]]規格を提案した際に示した同一面積の様々なアスペクト比<ref name="Cinemasource" />。{{Color|red|従来のテレビの 4:3/1.33 は赤}}、{{Color|#bb5500|1.66 はオレンジ}}、{{color|blue|'''16:9/1.7{{Overline|7}} は青'''}}、{{Color|#aaaa00|1.85 は黄色}}、{{Color|mauve|[[パナビジョン (会社)|{{Color|mauve|パナビジョン}}]]/2.2 は藤色}}、{{Color|purple|[[:en:CinemaScope|{{color|purple|CinemaScope}}]]/2.35 は紫}}]] 幾何平均は映画やビデオの妥協的[[画面アスペクト比]]の策定に使われてきた。2つの[[アスペクト比]]があるときそれらの幾何平均をとれば、両者を同程度に歪めるか切り取るかした妥協的アスペクト比を提供する。具体的には、面積が等しくアスペクト比が異なる領域を中心を揃えて辺が平行になるように重ねると、それらが重なった領域が両者の幾何平均のアスペクト比と等しくなる。また、両者を全部含む最小の長方形の領域も幾何平均と同じアスペクト比になる。 [[SMPTE]]は[[16:9]]というアスペクト比を選ぶにあたって、2.35:1(スコープ・サイズの映画)と4:3(従来のテレビ)の幾何平均をとって <math>\sqrt{2.35 \times \frac{4}{3}}=1.7\overline{7}</math> とし、16:9 = 1.77{{Overline|7}}... を選択した。これは Kerns Powers が経験的に到達したもので、彼は主なアスペクト比にあわせて面積の等しい長方形を作って比較した。それらの中心を合わせて重ねると、全体を包含する長方形のアスペクト比が 1.7{{Overline|7}}:1 となることを発見し、同時に全ての長方形が重なっている領域も同じく 1.7{{Overline|7}}:1 というアスペクト比になることを発見した<ref name="Cinemasource">{{Cite journal|url= http://www.cinemasource.com/articles/aspect_ratios.pdf#page=8 |title=TECHNICAL BULLETIN: Understanding Aspect Ratios |publisher=The CinemaSource Press |year=2001 |accessdate=2009-10-24}}</ref>。Powers が発見した値はまさしく 4:3 (1.33:1) と 2.35:1 の幾何平均であり、16:9 (1.78:1) に非常に近い。Powers はその2つ以外のアスペクト比も考慮したが、幾何平均に関わっているのは最も極端な形状の2つのみである。 この幾何平均の技法を 16:9 と 4:3 に適用するとおおよそ 14:9 (1.55{{Overline|5}}…) のアスペクト比が得られ、同様に妥協案的アスペクト比として使われている<ref>{{Cite patent |title=Method of showing 16:9 pictures on 4:3 displays |country=US |number=5956091 |gdate=1999-09-21}}</ref>。この場合、14:9 は実は 16:9 と 4:3 の[[算術平均]]であり(4:3 = 12:9 であり、16 と 12 の算術平均は14)、正確な幾何平均は <math>\sqrt{\frac{16}{9}\times\frac{4}{3}} \approx 1.5396 \approx 13.8:9</math> だが、算術平均も幾何平均も十分近い値でおおよそ等しいと見なせる。 === スペクトル平坦性 === [[信号処理]]における[[スペクトル平坦性]]はそのスペクトルの平坦さの度合いを表すもので、[[スペクトル密度]]の幾何平均と算術平均の比で定義されている。 === 幾何学 === [[画像:Teorema.png|thumb|f は d, e の幾何平均となっている]] [[直角三角形]]の[[斜辺]]を底辺としたときの高さは、直角な角から斜辺に描いた垂線で斜辺を分割したときのそれぞれの線分の幾何平均に等しい。 [[楕円]]において短半径は[[焦点 (幾何学)|焦点]]から楕円の周上の点との距離の最大値と最小値の幾何平均である。一方、[[軌道長半径|長半径]]は中心点といずれかの焦点との距離と中心点と[[円錐曲線|準線]]との距離の幾何平均である。 {{-}} == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[平均]] * [[算術平均]] * [[算術幾何平均]] * [[対数正規分布]] * [[二乗平均平方根]] * [[投資利益率]] == 外部リンク == * [http://www.sengpielaudio.com/calculator-geommean.htm Calculation of the geometric mean of two numbers in comparison to the arithmetic solution] * [http://www.cut-the-knot.org/Generalization/means.shtml Arithmetic and geometric means] * [http://www.math.toronto.edu/mathnet/questionCorner/geomean.html When to use the geometric mean] * [https://buzzardsbay.org/geomean.htm Practical solutions for calculating geometric mean with different kinds of data] * {{MathWorld |urlname=GeometricMean |title=Geometric Mean}} * [http://www.cut-the-knot.org/pythagoras/GeometricMean.shtml Geometric Meaning of the Geometric Mean] * [http://www.graftacs.com/geomean.php3 Geometric Mean Calculator for larger data sets] {{統計学}} {{DEFAULTSORT:きかへいきん}} [[Category:平均]] [[Category:数学に関する記事]]
null
2023-04-13T03:27:57Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:MathWorld", "Template:Lang-en-short", "Template:Mvar", "Template:Color", "Template:Overline", "Template:-", "Template:Reflist", "Template:統計学", "Template:Math2", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite patent" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%B9%B3%E5%9D%87
12,097
1748年
1748年(1748 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1748年(1748 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。", "title": null } ]
1748年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1748}} [[ファイル:Europe 1748-1766 en.png|サムネイル|[[オーストリア継承戦争]]終結後のヨーロッパ情勢]] {{year-definition|1748}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[延享]]5年、[[寛延]]元年7月12日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2408年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]13年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]24年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4081年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]9年 * [[仏滅紀元]] : 2290年 - 2291年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1160年 - 1162年 * [[ユダヤ暦]] : 5508年 - 5509年 * [[ユリウス暦]] : 1747年12月21日 - 1748年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1748}} == できごと == [[ファイル:William Hogarth - O the Roast Beef of Old England ('The Gate of Calais') - Google Art Project.jpg|サムネイル|『カレーの門』または『あぁ、古き良きイングランドのローストビーフよ』同年、[[カレー (フランス)|カレー]]を芸術家仲間と共に旅行していたホガース(場面左奥)は、フランス当局にスパイ容疑で拘束されている。 [[ウィリアム・ホガース]]筆 [[テート・ブリテン]]所蔵]] *[[イギリス]] **[[ウィリアム・ホガース]]が『{{仮リンク|カレーの門|en|The Gate of Calais}}』を完成。翌1749年3月には、チャールズ・モズレーの手による同作品の銅版画が発売された。 **[[ホレス・ウォルポール]]が、自身の[[別荘]]である[[ストロベリー・ヒル・ハウス]]の改築に着手。[[ゴシック・リヴァイヴァル建築]]のさきがけとなったこの建物は増築が繰り返され、[[1790年]]頃に最終的な完成をみた。 *[[スウェーデン]] - **スウェーデン王立科学アカデミーが{{仮リンク|エヴァ・エーケブラー|en|Eve Ekeblad}}を初の女性会員として迎える。 ** ロシアの脅威に対抗するため、ヘルシンキ近郊で[[スオメンリンナの要塞|スヴェアボリ]]要塞が着工。この要塞は[[1918年]]に「スオメンリンナの要塞」と改称され、[[1991年]]には[[世界遺産]]に登録された。 *[[スコットランド]] - [[アダム・スミス]]が[[エディンバラ]]で、初めて教壇に立つ<ref name=":0">{{Cite web|title=Adam Smith {{!}} Biography, Books, & Facts|url=https://www.britannica.com/biography/Adam-Smith|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2021-10-27|language=en}}</ref>{{sfn|坂本|2014|p=123}}{{sfn|根岸|1983|p=33}}([[スコットランド啓蒙]])。 *[[フランス]] - **[[サロン・ド・パリ]]が審査制度を導入。展示選考、および賞を設ける。 **[[シャルル・ド・モンテスキュー]]が『[[法の精神]]』を発表。 **[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]締結によって[[オーストリア継承戦争]]終結した後、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]は[[所得税]]を免除するという公約を撤回。この行動は[[高等法院 (フランス)|高等法院]]の抵抗にあい、ルイ15世は{{仮リンク|二十分の一税|en|Vingtième}}(ヴァンティエーム、{{Lang-fr-short|vingtiéme}})で妥協することとなった<ref>{{cite journal|date=December 1895|title=Income Taxation in France|url=http://www.austinlibrary.com:2138/stable/1817921|journal=Journal of Political Economy|volume=4|issue=1|pages=37–53|publisher=The University of Chicago Press|doi=10.1086/250324|author1=H. Parker Willis|quote=The war of the Austrian Succession for the third time threw the treasury back upon the hated fiscal resource in October of 1741, when the income tax was reintroduced accompanied by a royal promise to the effect that upon the close of the war this means of raising revenue should once for all be done away with.|s2cid=154527133}}</ref>。 *[[ファイル:Houghton GC7 Eu536 748i - Introductio in analysin infinitorum.jpg|サムネイル|『無限解析入門』の1ページ[[ハーバード大学]]{{仮リンク|ホートン図書館|en|Houghton Library}}所蔵]][[プロイセン王国]] - **[[レオンハルト・オイラー]]がベルリンで、[[解析学|純粋解析学]]について説いた『{{仮リンク|無限解析入門|en|Introductio in analysin infinitorum}}』を出版。 **[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]が[[サンスーシ宮殿|サンスーシ公園]]に[[廃墟#ロマン主義的廃墟趣味|ロマン主義的廃墟]]、{{仮リンク|廃墟の丘|en|Ruinenberg|de|Ruinenberg}}を建設。 * [[フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック]]が『{{仮リンク|ブレーメン論集|de|Bremer Beiträge|en|Bremer Beiträge}}』誌([[ライプツィヒ]])上で、彼にとって最初の3つの{{仮リンク|カント (文学)|en|canto}}である、[[ヘクサメトロス]]で綴られた[[叙事詩]]『{{仮リンク|救世主 (クロプシュトック)|de|Messias (Klopstock)|en|Der Messias (Klopstock)|label=救世主}}』を匿名で出版。 *[[ボヘミア王国]] - [[プロコプ・ディヴィシュ]]が、世界初の[[電子楽器|電子音器]]、{{仮リンク|デニスドール|en|Denis d'or}}を発明<ref>{{citation|url=http://120years.net/1748-denis-dor/|title=The Denis D’Or “Golden Dionysis”, Václav Prokop Diviš. Czech republic, 1748}}</ref>。 *[[ロシア帝国|ロシア]] - オーストリア継承戦争:[[ライン川戦役 (1748年)|ライン川戦役]]。{{仮リンク|ヴァシーリー・アニキーチチ・レプーニン|en|Vassili Anikititch Repnine}}率いるロシア軍3万が、フランスに対抗するためライン川まで到着。5月7日のマーストリヒト陥落によりレプーニンらが戦闘に参加することはなかったものの、ライン川にロシアの大軍が到達した事実はフランス側にアーヘンの和約に同意させる大きな動機となった。 *[[清]]([[乾隆]]13年) - [[台湾]][[新竹市]]に{{仮リンク|新竹都城隍廟|zh|新竹都城隍廟|en|Hsinchu Chenghuang Temple}}が建設される<ref name="李金生">{{Cite news|url=|title=小檔案─新竹都城隍 台灣「神主席」|author=李金生|language=zh-tw|newspaper=《中國時報》|date=2001-05-04|accessdate=}}</ref>。 *[[チベット]] - {{仮リンク|スムパ・ケンポ・イェシェー・ペルジョル|zh|松巴·益西班觉|de|Sumpa Yeshe Peljor}}が、[[歴史書]]『パクサム・ジュンサン』(蔵:Dpag bsam ljon bzang)を完成<ref>{{Cite journal|author=西岡祖秀|year=2005|title=ジャムヤン・シェーパのチベット仏教史年表|url=https://doi.org/10.4259/ibk.54.497|journal=印度學佛教學研究|volume=54|issue=1|pages=497-493|ISSN=0019-4344}}</ref>。 * [[ポンペイ]]が再発見される。 === 1月~3月 === * [[1月12日]] - [[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]が[[ラホール]]占領<ref>{{cite web|title=Ahmad Shah Abdali's invasions|url=http://www.sikh-history.com/sikhhist/events/abdali.html|access-date=2011-11-02|archive-url=https://web.archive.org/web/20111106225410/http://www.sikh-history.com/sikhhist/events/abdali.html|archive-date=November 6, 2011|url-status=dead}}</ref>。 *[[1月27日]] - [[アイルランド島|アイルランド]]、{{仮リンク|キンセール|en|Kinsale}}にある監獄と兵舎で出火、収容されていた捕虜54人が犠牲になる。無事であったおよそ500人の囚人は、別の監獄に移送された<ref name="Fires1748">"Fires, Great", in ''The Insurance Cyclopeadia: Being an Historical Treasury of Events and Circumstances Connected with the Origin and Progress of Insurance'', Cornelius Walford, ed. (C. and E. Layton, 1876) p51</ref>。 *[[1月31日]] - オーストリア継承戦争:[[1748年1月31日の海戦]]。[[ウェサン島]]沖で{{仮リンク|ロバート・ハーランド (初代准男爵)|en|Sir Robert Harland, 1st Baronet|label=ロバート・ハーランド}}指揮下の英海軍の戦列艦2隻がフランス海軍の戦列艦{{仮リンク|マグナニム (戦列艦)|en|HMS Magnanime (1748)|label=マグナニム}}を追撃・拿捕。 * [[2月7日]] - [[ヌエバ・エスパーニャ副王領]]よりさらに北方、現在の[[テキサス州]]中部でのカトリック伝道団体として、聖ガブリエル会が始動する。副王{{仮リンク|フアン・フランシスコ・デ・グエメス (初代レヴィジャヒヘド伯)|en|Juan Francisco de Güemes, 1st Count of Revillagigedo|label=フアン・フランシスコ・デ・グエメス}}の命令で、司教{{仮リンク|プエルトリコの司教一覧|en|Historical list of the Catholic bishops of Puerto Rico|label=フリアル・マリアノ・マルティ}}によって聖フランシスコ・ハビエル伝道所が今のテキサス州[[ミラム郡 (テキサス州)|ミラム郡]]にあたる、{{仮リンク|サンガブリエル川 (テキサス州)|en|San Gabriel River (Texas)|label=サンガブリエル川}}の畔に築かれる<ref>Elizabeth A. H. John, ''Storms Brewed in Other Men's Worlds: The Confrontation of Indians, Spanish, and French in the Southwest, 1540-1795'' (University of Oklahoma Press, 1996) pp282-283</ref><ref>{{Cite web|title=San Francisco Xavier Missions|url=https://www.texasbeyondhistory.net/plateaus/images/he9.html|website=www.texasbeyondhistory.net|accessdate=2021-12-17}}</ref>。現在のテキサス州サンガブリエル市近郊、[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]の北東に位置していたこの伝道所は、同年5月2日にアパッチ族の軍勢60人に襲撃を受けた。サン・ハビエルは数年ののちに放棄された。<!-- 翻訳要見直し --> *[[2月23日]] - スウェーデン王[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フレドリク1世]]が{{仮リンク|熾天使騎士団|en|Royal Order of the Seraphim}}を創設。 *[[ファイル:The Capture of Port Louis, Cuba, 8 March 1748 RMG BHC0372.jpg|サムネイル|『ポール=ルイの占領、キューバ、1748年3月8日』 18世紀中期から後期[[リチャード・ペイトン]]筆 {{仮リンク|グリニッジ王立博物館|en|Royal Museums Greenwich}}蔵]][[3月11日]] - マニプール({{仮リンク|シルヒンド・ファトガー|en|Sirhind Fategarh|label=シルヒンド}}より北東に{{convert|15|km|mi}} )での戦闘で、王子[[アフマド・シャー (ムガル皇帝)|アフマド・シャー・バハドゥール]]率いるムガル帝国の軍勢がアフマド・シャー・ドゥッラーニーのアフガン軍を退ける。 *[[3月18日]] - [[ジェンキンスの耳の戦争]]:[[1748年3月18日の海戦]]。[[サン・ヴィセンテ岬]]沖で、英海軍の戦列艦6隻がスペインの戦船9隻で護衛された商船隊を攻撃、うち商船隊5隻を拿捕。 *[[3月22日]] - ジェンキンスの耳の戦争:[[サン=ルイ=デュ=シュドの海戦]]。[[チャールズ・ノウルズ]]提督のイギリス艦隊が[[イスパニョーラ島]]、[[サン=ドマング|サン=ドマング]]のサン=ルイ港にある要塞を砲撃、破壊。 * [[3月25日]] - {{仮リンク|コーンヒル (ロンドン)|en|Cornhill, London|label=コーンヒル}}、{{仮リンク|エクスチェンジ・アレー|en|Exchange Alley}}で出火、[[シティ・オブ・ロンドン]]を2日に渡って焼く。[[サミュエル・ジョンソン]]は後年、「都市の火災は、そのすべての混乱と付随する苦痛とで、この世界が人の目に見せうる最も恐ろしい光景の一つである」と書き残した<ref name="Fires17482">"Fires, Great", in ''The Insurance Cyclopeadia: Being an Historical Treasury of Events and Circumstances Connected with the Origin and Progress of Insurance'', Cornelius Walford, ed. (C. and E. Layton, 1876) p51</ref>。1世紀以上のちに描かれた記録では「この火災は[[火災保険]]の発展を促した」としている。大火は100万[[ポンド (通貨)|ポンド]]以上の被害をもたらした。 === 4月~6月 === *[[4月9日]] - ジェンキンスの耳の戦争:[[サンティアーゴ・デ・クーバの海戦 (1748年)|サンティアーゴ・デ・クーバの海戦]]。ノウルズ提督の艦隊が[[キューバ]]南東部の[[サンティアーゴ・デ・クーバ]]を襲撃したが、現地のスペイン軍に撃退される。 *[[ファイル:Convoi militaire français en vue du siège de Maastricht en 1748.jpg|サムネイル|オーストリア継承戦争:マーストリヒト包囲戦車上に弾薬や船を載せたフランス軍の車両が町を攻囲した。]][[4月15日]] - [[オーストリア継承戦争]]:[[モーリス・ド・サックス]]がフランス軍を率いて[[マーストリヒト包囲戦 (1748年)|マーストリヒトを包囲]]。3週間ほどの包囲戦ののち、マーストリヒト要塞は5月7日に開城した。 * [[4月24日]] - オーストリア継承戦争終結のため、[[エクス・ラ・シャペル]](現アーヘン)で会議が開かれる<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Aix-la-Chapelle, Congresses of}}</ref>。同年10月18日、[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]が結ばれた。 * [[5月10日]] - [[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]がマーストリヒトの支配権をフランスに返還することに同意したとの報をうけて、サックス将軍に代わって包囲軍を指揮していた{{仮リンク|ウルリヒ・フォン・レーヴェンダール|en|Ulrich Frédéric Woldemar, Comte de Lowendal|label=レーヴェンダール伯}}は開かれた市門を軍隊とともに行進し、同要塞の降伏を受け入れた。 * [[6月1日]] - ** [[モスクワ]]で火事。482人が犠牲になり、5000軒以上の建物が焼失<ref name="Fires1748" />。 ** {{仮リンク|ホセ・デ・エスカンドン (初代シエラ・ゴルダ伯)|en|José de Escandón, 1st Count of Sierra Gorda|label=ホセ・デ・エスカンドン}}が、[[ヌエバ・エスパーニャ]]副王によって{{仮リンク|ヌエボ・サンタンデール|es|Nuevo Santander|en|Nuevo Santander}}の初代王室総督に任命される。新しく置かれたヌエボ・サンタンデールは、現代の[[メキシコ]]・[[タマウリパス州]]と、[[サンアントニオ]]と[[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ]]を含む[[アメリカ合衆国]]・テキサス州の{{仮リンク|グアダループ川 (テキサス州)|en|Guadalupe River (Texas)|label=グアダループ川}}以南の地域に当たった。 === 7月~9月 === * [[ファイル:Bombardement de Pondichery en 1748 par la flotte anglaise.jpg|サムネイル|ポンディシェリ包囲戦:イギリス海軍によるポンディシェリー砲撃]][[7月19日]] - [[第一次カーナティック戦争]]:[[フランス領インド|仏領インド軍]]から{{仮リンク|セント・デイビッド要塞|en|Fort St. David}}を防衛するため、[[イギリス海軍|英海軍]]提督[[エドワード・ボスコーエン]]麾下[[戦列艦]]28隻がインド南東部に到着。歴史家の{{仮リンク|フランシス・グロース|en|Francis Grose}}が後に記したところによると、ボスコーエンは「東インド史上前例のない」大規模な艦隊を率いていた。グロースはまた内訳について、「戦列艦9隻、[[フリゲート]]2隻、[[スループ#戦闘用のスループ|スループ]]1隻、[[テンダーボート|足船]]2隻」 とイギリス東インド会社の船14隻としている<ref>[[Charles Rathbone Low]], ''History of the Indian Navy: (1613-1863)'' (Richard Bentley and Son, 1877) p140</ref>。ボスコーエンの指揮下にある船員は全部で3,580人にのぼった。ボスコーエンはインドに到達すると、[[ポンディシェリ]]にあるフランス軍の要塞を落とし、インドからフランスを一掃することを目的とした攻勢を開始する。 *[[8月5日]](寛延元年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]) - [[桃園天皇]]即位。[[延享]]から[[寛延]]に改元{{Sfn|山本|2007|p=122}}。 *[[8月26日]] - ドイツ出身の[[伝道者]]、{{仮リンク|ヘンリー・ミューレンバーグ|en|Henry Muhlenberg}}が主催した[[フィラデルフィア]]での会議に、{{仮リンク|ルーテル派正統主義|en|Lutheran orthodoxy}}や[[敬虔主義]]の牧師たちが参加し、アメリカ大陸初の[[ルーテル教会]]組織が築かれる。両会派はこの会議において、公的礼拝を統制する共通の典礼を作ることで合意した<ref>Henry Eyster Jacobs, ''A History of the Evangelical Lutheran Church in the United States'' (The Christian Literature Co., 1893 p243</ref>。 *8月 - **第一次カーナティック戦争:ボスコーエン提督が、[[ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス]]と[[フランス東インド会社]]の軍勢が守備していた[[ポンディシェリー包囲戦 (1748年)|ポンディシェリーの包囲]]を始める。これは、第一次カーナティック戦争の大規模な戦闘としては最後のものとなった。同年10月27日、[[モンスーン]]によってイギリス軍は包囲を断念、作戦は失敗に終わった。 **[[キベリタテハ]]の英名"Camberwell beauty"が、発見された[[ロンドン]]、{{仮リンク|キャンバーウェル|en|Camberwell}}にちなんで命名<ref name="umich">{{cite web|last=Vanessa|first=Fonesca|title=Nymphalis antiopa|url=http://animaldiversity.ummz.umich.edu/accounts/Nymphalis_antiopa/|work=Animal Diversity Web|publisher=University of Michigan Museum of Zoology|access-date=4 October 2013}}</ref>。 *[[ファイル:Utagawa Kunisada II - Actors Ichimura Kakitsu IV as Okaru, Ichikawa Danzô VI as Ôboshi Yuranosuke, and Ichikawa Kodanji IV as both Ono Kudayû and Teraoka Heiemon.jpg|サムネイル|『仮名手本忠臣蔵』[[役者絵]] [[市川小團次 (4代目)|四代目市川小団次]]の[[大野知房|斧九太夫]]および[[寺坂信行|寺岡平右衛門]]、[[市川團蔵 (6代目)|六代目市川團蔵]]の[[大石良雄|大星由良之助]]、[[市村家橘 (4代目)|四代目市川家橘]]の[[お軽]] [[文久]]3年10月([[1863年]]) [[歌川国貞]]画 [[ボストン美術館]]蔵]][[9月6日]](寛延元年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]) - 三大名作のひとつ<ref>{{Kotobank|三大名作}}</ref>、[[文楽]]『[[仮名手本忠臣蔵]]』が[[竹本座|大坂竹本座]]初演<ref>{{Cite web|和書|title=文楽編・仮名手本忠臣蔵|文化デジタルライブラリー|url=https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc21/haikei/jidai2/ji2b.html|website=www2.ntj.jac.go.jp|accessdate=2021-12-20|publisher=[[日本芸術文化振興会]]}}</ref>。同年旧暦12月1日には大坂嵐座で[[歌舞伎]]が、翌寛延2年には江戸で人形浄瑠璃が初めて上演された。 *9月 - [[バイロイト辺境伯歌劇場]]が完成。こけら落としは、前年の1747年に、劇場の完成を待たずに行われていた。2010年に世界遺産に登録。 === 10月~12月 === * [[10月1日]] - [[シャー・ルフ (アフシャール朝)|シャー・ルフ]]が[[ホラーサーン]]で一度目の即位{{Sfn|小牧|1997|p=370}}。 *[[10月12日]] - {{仮リンク|ハバナの戦い (1748年)|en|Battle of Havana (1748)|label=ハバナの戦い}}[[ファイル:Allegorie frieden aachen 1748.jpg|サムネイル|『アーヘンの和約の[[アレゴリー]]』"Allégorie sur la paix" 1748年以降制作]] * [[11月21日]](寛延元年閏[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]) - 寺社奉行[[大岡忠相]]、奏者番に兼任。また、1万石の大名になる{{Sfn|山本|2007|p=122}}。 *11月22日 - [[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーヴァー選帝侯]][[ジョージ2世 (イギリス王)|ゲオルク2世アウグスト]]が領内(当時ハノーファーはドイツ北西部の[[ニーダーザクセン州]]のほぼ全域を統治していた)から[[モラヴィア兄弟団]]の信者を追放する法令を発布する<ref>Paul Peucker, ''A Time of Sifting: Mystical Marriage and the Crisis of Moravian Piety in the Eighteenth Century'' (Penn State Press, 2015)</ref>。 *11月 - [[債務者監獄]]に収監されていた[[ジョン・クレランド]]が『[[ファニー・ヒル]]』の第1部を出版<ref>Roger Lonsdale, "New attributions to John Cleland", ''[[The Review of English Studies]]'' 1979 XXX(119):268–290 {{doi|10.1093/res/XXX.119.268}}</ref>。 *[[12月4日]] - オーストリアとスペインがオーストリア継承戦争の調停案に署名(アーヘンの和約)。オーストリアは[[モデナ公国]]と[[ジェノヴァ共和国]]からの撤兵に合意する。 {{Clear}} == 誕生 == {{see also|Category:1748年生}}[[ファイル:David Self Portrait.jpg|サムネイル|ジャック=ルイ・ダヴィッド]]<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> *不詳 - [[山片蟠桃]]、日本の[[商人]]、[[学者]](+ [[1821年]]) *[[2月3日]] - [[サミュエル・オズグッド]]、第4代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1819年]]) * [[2月15日]] - [[ジェレミ・ベンサム]]、イギリスの[[法学者]](+ [[1832年]]) * [[2月29日]]([[延享]]5年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]])- [[菅茶山]]、日本の[[儒学者]]・[[漢詩人]](+ [[1827年]]) * [[3月5日]] - [[ヨナス・ドリュアンデル]]、スウェーデンの[[植物学者]] (+ [[1810年]]) * [[4月12日]] - [[アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー]]、フランスの植物学者(+ [[1836年]]) * [[5月7日]] - [[オランプ・ド・グージュ]]、[[劇作家]]・[[俳優#性別での分類|女優]]・[[女権論者]] (+ [[1793年]]) * [[8月30日]] - [[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]、フランスの[[画家]](+ [[1825年]]) * [[10月30日]] - [[マーサ・ジェファーソン]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](+ [[1782年]]) * [[11月11日]] - [[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]、[[スペイン]]王(+ 1819年) {{Clear}} == 死去 == [[ファイル:Asaf Jah I.jpg|サムネイル|カマルッディーン・ハーン(アザフ・シャー1世とも)の肖像]] {{see also|Category:1748年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[ヨハン・ベルヌーイ]]、数学者(* [[1667年]]) * [[1月19日]] - [[エルンスト・アウグスト1世 (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公)|エルンスト・アウグスト1世]]、[[ザクセン=ヴァイマル|ザクセン=ヴァイマル公]]および[[ザクセン=アイゼナハ|ザクセン=アイゼナハ公]](* [[1688年]]) *[[3月7日]] - [[ピエトロ・ジャンノーネ]]、[[歴史家]](* [[1676年]]) *[[3月23日]] - [[ヨハン・ゴットフリート・ヴァルター]]、[[バッハ家]]の[[作曲家]]、[[音楽理論家]](* [[1684年]]) *[[4月8日]] - [[孝賢純皇后]]、[[清]]6代皇帝、[[乾隆帝]]の皇后(* [[1712年]]) * [[4月26日]] - [[ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)|ムハンマド・シャー]]、[[ムガル帝国]]の第12代君主(* [[1702年]]) *[[6月1日]] - [[カマルッディーン・ハーン]]、ムガル帝国宰相、[[ニザーム王国]]の初代君主(* [[1671年]]) * [[8月27日]] - [[ジェームズ・トムソン (1700年生の詩人)|ジェームズ・トムソン]]、[[スコットランド]]の[[詩人]]、[[劇作家]]、『[[ルール・ブリタニア]]』作詞(* [[1700年]]) *[[12月22日]] - [[ヨーハン・ネポムク・カール]]、[[リヒテンシュタイン]]の公爵(* [[1724年]]) {{Clear}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal|author=[[小牧昌平]]|year=1997-09-30|date=1997|title=一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデル・シャー沒後のアフシャール朝|url=https://doi.org/10.14989/155132|journal=東洋史研究|volume=56|issue=2|pages=366-390|ref={{SfnRef|小牧|1997}}|DOI=10.14989/155132}} *{{Cite|和書|first=達哉|last=坂本|title=社会思想の歴史 マキャベリからロールズまで|year=2014|publisher=名古屋大学出版会|isbn=978-4-8158-0770-2}} *{{Cite|和書||first=卓生|last=堂目|author=堂目卓生|authorlink=堂目卓生|title=アダム・スミス-『道徳感情論』と『国富論』の世界|year=2008|series=中公新書|publisher=中央公論新社|isbn=978-4121019363}} * {{Citation|和書|first=隆|last=根岸|author-link=根岸隆|title=経済学の歴史|publisher=東洋経済新報社|series=スタンダード経済学シリーズ|issue=初版|year=1983|isbn=978-4492814529}} *{{Cite journal|author=吉田,弘夫|year=1965|title=ブルターニユにおける新税(十分の一税、二十分の一税)の創設と変容 : 《régie》と《abonnement》|url=https://hdl.handle.net/2115/33293|journal=北海道大學文學部紀要|volume=13|issue=2|pages=125-183|accessdate=2021-12-18}} *{{Cite book|和書|title=見る、読む、調べる 江戸時代年表|publisher=[[小学館]]|date=2007-10-10|editor=山本博文|editor-link=山本博文|isbn=978-4-09-626606-9|ref={{SfnRef|山本|2007}}}} == 関連項目 == {{Commonscat|1748}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1748ねん}} [[Category:1748年|*]]
2003-07-23T14:23:41Z
2023-09-20T12:24:11Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite EB1911", "Template:Cite book", "Template:年代ナビ", "Template:Clear", "Template:Lang-fr-short", "Template:Convert", "Template:Notelist", "Template:Commonscat", "Template:仮リンク", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Doi", "Template:他の紀年法", "Template:Sfn", "Template:Cite news", "Template:十年紀と各年", "Template:Cite", "Template:Year-definition", "Template:年間カレンダー", "Template:Cite journal", "Template:Citation", "Template:Kotobank" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1748%E5%B9%B4
12,099
十六進法
十六進法(じゅうろくしんほう、 英: hexadecimal)とは、十進数の16を底とし、底およびその冪を基準にして数を表す方法である。 十六進記数法とは、16を底とする位取り記数法、すなわち〇から十五までの数を表す十六種類の数字を用い、それらの数字の列によって数を表す記数法である。 十六進法における「数字」として、〇から九までを十進法と同じくアラビア数字(0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9)を用い、十から十五までの数字にAからFまでの六種類のラテン文字(A, B, C, D, E, F)を用いる方法が、特にコンピュータ関連の分野では、一般的である(かつては様々な表記が用いられた;#初期の表記法参照)。十進法と十六進法による数の表示をそれぞれ添え字 10 および 16 によって表せば、例えば 1010 = A16, 1110 = B16, ......, 1510 = F16, 1610 = 1016, 1710 = 1116, ......、となる。 一般の数は以下の形式で表される: ここで {ai} は整数部の位の値を表し、{bi} 小数部の位の値を表す。位の値は 0 から F までの整数である。整数部と小数部の区切りの点は小数点と呼ばれる。あるいはより形式的に、和の記号を用いて次のように表せる: また負の数は、数字列の先頭に負号(−)を付けて表す(例:−9510 = −5F16)。 コンピュータでは、データをビットやオクテットを単位として表すことが多い。それぞれ二進表記の1桁、8桁で表現できる。 使える数は、前者は0と1だけが許されるが、後者は0〜255までに広がる。 後者には、十六進表記がよく用いられ、二進表記の4桁が1桁で表現できるので、二進表記より短く表すことができる。1オクテットは、2桁の十六進表記で表現することができる。 十六進表記の1桁はニブルとも呼ばれる。 下記は具体例。左側はメモリアドレス。右側は十六進法(16進数)で表示された機械語やデータなど。この例ではアルファベットは小文字が使われている。ディスプレイに表示する時は、可読性を高めるために2文字や4文字ごとに空白をはさむことが一般的である。 十六進表記はよく使われるので、プログラム言語ではリテラルとして特別な表記が準備されていることが多い。一般に、大文字の A〜F と小文字の a〜f を区別しない。 (1000)16 の表記の例を挙げる。 読み方は十進表記の1000((いっ)せん)と区別するため、文字並びのまま読む(例えば、0x1000 は「ぜろ・エックス・いち・ぜろ・ぜろ・ぜろ」と読む)。慣用では「ヘキサの千」もしくは「千ヘキサ」と言った読み方も行われている。 上記の数字に付く h や x は英語で十六進法を意味する hexadecimal から取ったものである。十六進表記であることを明示している。 A - F の文字を用いて 9 以上の数字を表現する方法はコンピューター黎明期にはまだ一般的ではなかった。 二進表記から十六進表記に変換する方法を、以下に示す。 この方法は桁数に関わらず通用する。例えば、(100110010111010)2 は (0100, 1100, 1011, 1010)2 であるから、(4CBA)16 となる。 小数部分の変換方法は、次のとおり。 したがって、(111010.110101)2 = (3A.D4)16 である。この方法は桁数に関わらず通用する。 正の整数 m を十進法から十六進法に変換するのは次のようにする。 余りを求めた順の逆に並べると、それが十六進法に変換された結果になる。 例:36864を十六進法に変換する。 よって 3686410 = 900016 である。 割り切れない小数の循環部は下線で示す。「10」となる十六には因数に奇数が含まれていないため、1/3や1/5といった「1÷奇数」が全て割り切れない。小数を分数化しても、「m/奇数」となる小数が全く現れない。従って、偶数も、1/6{1÷(2×3)}や1/A{1÷(2×5)}といった「1÷奇数で割り切れる偶数」は割り切れない。六の倍数も十の倍数も逆数にすると全て割り切れないので、単位分数は無限小数が充ち溢れ、逆数が有限小数になる例は2の冪数だけになる。 一桁同士の計算: Hexadecimalはギリシャ語で6 (ἕξ, hex) を意味するhexa-と、ラテン語で10番目 (tenth) を意味する-decimalの複合語。ウェブスター新国際オンライン版第3版によるとhexadecimalは完全ラテン語由来のsexadecimalの代替語である(Bendixのドキュメントにも同様の記述がある)。Merriam-Webster's Collegiate Dictionaryにおけるhexadecimalの初出は1954年で、当初より現在に至るまで国際科学用語ISVに分類されている。ギリシャ語とラテン語を混ぜ合わせた造語法はISVでは一般的にみられる。六十進法を意味するsexagesimalはラテン語の接頭子を保っている。ドナルド・クヌースはラテン語で16進数を表すとするならばsenidenaryか、または恐らくsedenaryが正しいのではないかとしている(同じ作り方で考えればbinary (2進数)、ternary (3進数)、quaternary (4進数)となり、この流れでいえばdecimal (10進数)とoctal (8進数)も、それぞれdenaryとoctonaryが正しいことになる)。アルフレッド・B・テイラーは16進数を不便な数字だとして嫌っていたが、1800年代にsenidenaryとして16進数を研究していた。シュワルツマンによると、ラテン語から考えればsexadecimalが自然だが、コンピュータのハッカーたちは略語にsexを使うだろうと話した。語源的に完全ギリシャ語で考えればhexadecadic(ギリシア語: ἑξαδεκαδικός hexadekadikós)が正しいと考えられる(ただし現代のギリシャではdecahexadic(ギリシア語: δεκαεξαδικός dekaexadikos)が使われている)。 単位系の十六進法では、数は十進法を用いて表記し、16に至ると単位を繰り上げる方法を採る。 ヤード・ポンド法では、質量の単位に十六進法が用いられる。 尺貫法の質量の単位の一部にも十六進法が用いられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "十六進法(じゅうろくしんほう、 英: hexadecimal)とは、十進数の16を底とし、底およびその冪を基準にして数を表す方法である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "十六進記数法とは、16を底とする位取り記数法、すなわち〇から十五までの数を表す十六種類の数字を用い、それらの数字の列によって数を表す記数法である。", "title": "記数法" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "十六進法における「数字」として、〇から九までを十進法と同じくアラビア数字(0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9)を用い、十から十五までの数字にAからFまでの六種類のラテン文字(A, B, C, D, E, F)を用いる方法が、特にコンピュータ関連の分野では、一般的である(かつては様々な表記が用いられた;#初期の表記法参照)。十進法と十六進法による数の表示をそれぞれ添え字 10 および 16 によって表せば、例えば 1010 = A16, 1110 = B16, ......, 1510 = F16, 1610 = 1016, 1710 = 1116, ......、となる。", "title": "記数法" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一般の数は以下の形式で表される:", "title": "記数法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ここで {ai} は整数部の位の値を表し、{bi} 小数部の位の値を表す。位の値は 0 から F までの整数である。整数部と小数部の区切りの点は小数点と呼ばれる。あるいはより形式的に、和の記号を用いて次のように表せる:", "title": "記数法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また負の数は、数字列の先頭に負号(−)を付けて表す(例:−9510 = −5F16)。", "title": "記数法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "コンピュータでは、データをビットやオクテットを単位として表すことが多い。それぞれ二進表記の1桁、8桁で表現できる。 使える数は、前者は0と1だけが許されるが、後者は0〜255までに広がる。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "後者には、十六進表記がよく用いられ、二進表記の4桁が1桁で表現できるので、二進表記より短く表すことができる。1オクテットは、2桁の十六進表記で表現することができる。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "十六進表記の1桁はニブルとも呼ばれる。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "下記は具体例。左側はメモリアドレス。右側は十六進法(16進数)で表示された機械語やデータなど。この例ではアルファベットは小文字が使われている。ディスプレイに表示する時は、可読性を高めるために2文字や4文字ごとに空白をはさむことが一般的である。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "十六進表記はよく使われるので、プログラム言語ではリテラルとして特別な表記が準備されていることが多い。一般に、大文字の A〜F と小文字の a〜f を区別しない。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "(1000)16 の表記の例を挙げる。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "読み方は十進表記の1000((いっ)せん)と区別するため、文字並びのまま読む(例えば、0x1000 は「ぜろ・エックス・いち・ぜろ・ぜろ・ぜろ」と読む)。慣用では「ヘキサの千」もしくは「千ヘキサ」と言った読み方も行われている。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "上記の数字に付く h や x は英語で十六進法を意味する hexadecimal から取ったものである。十六進表記であることを明示している。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "A - F の文字を用いて 9 以上の数字を表現する方法はコンピューター黎明期にはまだ一般的ではなかった。", "title": "コンピュータでの十六進表記" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "二進表記から十六進表記に変換する方法を、以下に示す。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この方法は桁数に関わらず通用する。例えば、(100110010111010)2 は (0100, 1100, 1011, 1010)2 であるから、(4CBA)16 となる。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "小数部分の変換方法は、次のとおり。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "したがって、(111010.110101)2 = (3A.D4)16 である。この方法は桁数に関わらず通用する。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "正の整数 m を十進法から十六進法に変換するのは次のようにする。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "余りを求めた順の逆に並べると、それが十六進法に変換された結果になる。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "例:36864を十六進法に変換する。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "よって 3686410 = 900016 である。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "割り切れない小数の循環部は下線で示す。「10」となる十六には因数に奇数が含まれていないため、1/3や1/5といった「1÷奇数」が全て割り切れない。小数を分数化しても、「m/奇数」となる小数が全く現れない。従って、偶数も、1/6{1÷(2×3)}や1/A{1÷(2×5)}といった「1÷奇数で割り切れる偶数」は割り切れない。六の倍数も十の倍数も逆数にすると全て割り切れないので、単位分数は無限小数が充ち溢れ、逆数が有限小数になる例は2の冪数だけになる。", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一桁同士の計算:", "title": "底の変換" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Hexadecimalはギリシャ語で6 (ἕξ, hex) を意味するhexa-と、ラテン語で10番目 (tenth) を意味する-decimalの複合語。ウェブスター新国際オンライン版第3版によるとhexadecimalは完全ラテン語由来のsexadecimalの代替語である(Bendixのドキュメントにも同様の記述がある)。Merriam-Webster's Collegiate Dictionaryにおけるhexadecimalの初出は1954年で、当初より現在に至るまで国際科学用語ISVに分類されている。ギリシャ語とラテン語を混ぜ合わせた造語法はISVでは一般的にみられる。六十進法を意味するsexagesimalはラテン語の接頭子を保っている。ドナルド・クヌースはラテン語で16進数を表すとするならばsenidenaryか、または恐らくsedenaryが正しいのではないかとしている(同じ作り方で考えればbinary (2進数)、ternary (3進数)、quaternary (4進数)となり、この流れでいえばdecimal (10進数)とoctal (8進数)も、それぞれdenaryとoctonaryが正しいことになる)。アルフレッド・B・テイラーは16進数を不便な数字だとして嫌っていたが、1800年代にsenidenaryとして16進数を研究していた。シュワルツマンによると、ラテン語から考えればsexadecimalが自然だが、コンピュータのハッカーたちは略語にsexを使うだろうと話した。語源的に完全ギリシャ語で考えればhexadecadic(ギリシア語: ἑξαδεκαδικός hexadekadikós)が正しいと考えられる(ただし現代のギリシャではdecahexadic(ギリシア語: δεκαεξαδικός dekaexadikos)が使われている)。", "title": "英単語 Hexadecimal の語源" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "単位系の十六進法では、数は十進法を用いて表記し、16に至ると単位を繰り上げる方法を採る。", "title": "単位系" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ヤード・ポンド法では、質量の単位に十六進法が用いられる。", "title": "単位系" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "尺貫法の質量の単位の一部にも十六進法が用いられる。", "title": "単位系" } ]
十六進法とは、十進数の16を底とし、底およびその冪を基準にして数を表す方法である。
'''十六進法'''(じゅうろくしんほう、 {{lang-en-short|hexadecimal}})とは、[[十進法|十進数]]の[[16]]を[[位取り記数法|底]]とし、底およびその[[冪]]を基準にして数を表す方法である。 == 記数法 == 十六進記数法とは、[[16|十六]]を底とする[[位取り記数法]]である。 位取り記数法(N進位取り記数法)では、まず'''基数'''(base。[[集合]]の[[基数]](cardinal)とは異なる)となる[[自然数]] N に対して、 {{Indent|0、1、・・・、N-1}} の数値に対応する数字の記法を対応させるので、下表のようにする(A〜F を英[[小文字]]にする場合もある)。 {| class="wikitable" |+ 十六進数記法の対応 |- | 十進法 || 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 |- | 十六進法 || 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F |} 次に、これらを用いて {{Indent|<math>a_m a_{m-1} \cdots a_1 a_0 . b_1 b_2 \cdots b_k</math>}} という数字列で表現する。(ただし、<math>a_*</math>、<math>b_*</math> はそれぞれの 0 から F の数字であり、<math>a_m\neq 0</math> とする) この数字列が、 {{Indent|<math>a_m \times 16^m + a_{m-1} \times 16^{m-1} + \cdots + a_1 \times 16 + a_0 + \frac{b_1}{16} + \frac{b_2}{16^2} + \cdots + \frac{b_k}{16^k}</math>}} という数値であることを表すものである<ref>青木和彦・上野健爾他『岩波数学入門辞典』[[岩波書店]]、2005年、ISBN 4-00-080209-7、pp.46、125-126 において、底をN=16とした場合。</ref>。 上記の数字列の先頭にマイナス符号「'''-'''」を付けることで負数を表現できる。 ここで {{math|{{mset|''a''{{sub|''i''}}}}}} は整数部の位の値を表し、{{math|{{mset|''b''{{sub|''i''}}}}}} 小数部の位の値を表す。位の値は {{math|0}} から {{math|F}} までの整数である。整数部と小数部の区切りの点は[[小数点]]と呼ばれる。あるいはより形式的に、[[総和#定義|和の記号]]を用いて次のように表せる: : <math display="block"> \left( \sum_{i=0}^{m} a_i \cdot 16^{i} \right) + \left( \sum_{j=1}^{n} b_j \cdot 16^{-j} \right) \,. </math> == コンピュータでの十六進表記 == [[コンピュータ]]では、データを[[ビット]]や[[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]を単位として表すことが多い。それぞれ[[二進法|二進]]表記の1桁、8桁で表現できる。 使える数は、前者は0と1だけが許されるが、後者は0〜255までに広がる。 後者には、十六進表記がよく用いられ、二進表記の4桁が1桁で表現できるので、二進表記より短く表すことができる。1オクテットは、2桁の十六進表記<ref>(00)<sub>16</sub>〜(ff)<sub>16</sub></ref>で表現することができる。 十六進表記の1桁は[[ニブル]]とも呼ばれる。 下記は具体例。左側は[[メモリアドレス]]。右側は十六進法(16進数)で表示された[[機械語]]や[[データ]]など。この例ではアルファベットは小文字が使われている。[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]に表示する時は、可読性を高めるために2文字や4文字ごとに空白をはさむことが一般的である。 <div class="nowrap"><syntaxhighlight lang="hexdump"> 00000000 57 69 6b 69 70 65 64 69 61 2c 20 74 68 65 20 66 00000010 72 65 65 20 65 6e 63 79 63 6c 6f 70 65 64 69 61 00000020 20 74 68 61 74 20 61 6e 79 6f 6e 65 20 63 61 6e 00000030 20 65 64 69 74 0a </syntaxhighlight></div> === 表記方法 === 十六進表記はよく使われるので、[[プログラミング言語|プログラム言語]]では[[リテラル]]として特別な表記が準備されていることが多い。一般に、[[大文字]]の A〜F と[[小文字]]の a〜f を区別しない。 (1000)<sub>16</sub> の表記の例を挙げる。 {|class=wikitable !表記例!!言語・処理系!!備考 |- |<code>'''0x'''1000</code> | *{{lang|en|[[AWK]]}} *[[C言語|{{lang|en|C}}]] *{{lang|en|[[C Sharp|C#]]}} *{{lang|en|[[C++]]}} *{{lang|en|[[Java]]}} *{{lang|en|[[Perl]]}} *他 |整数リテラルを記述する場合。 |- |<code>'''\x'''1000</code> | *{{lang|en|AWK}} *{{lang|en|C}} *{{lang|en|C#}} *{{lang|en|C++}} *{{lang|en|Java}} *{{lang|en|Perl}} *他 |文字リテラルや文字列リテラル中で文字コードを記述する場合。 |- |<code>'''#x'''1000</code> | *{{lang|en|[[Scheme]]}} |整数値の外部表現。 |- |<code>'''&amp;#x'''1000;</code> | *{{lang|en|[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]}} *{{lang|en|[[HyperText Markup Language|HTML]]}} *{{lang|en|[[Extensible Markup Language|XML]]}} |文字実体参照として文字コードを記述する場合。 |- |<code>1000'''h'''</code> あるいは <code>1000'''H'''</code> | *[[アセンブリ言語]]([[インテル]]製) |整数イミディエートを記述する場合。この表記の場合、十六進表記が英字 (<code>A</code>〜<code>F</code>) で始まるときは、[[変数 (数学)|変数]]名などと区別するため、先頭に <code>0</code> を付けねばならないことがある。例: <code>0A000H</code> |- |<code>'''&amp;h'''1000</code> | *{{lang|en|[[BASIC]]}}([[マイクロソフト]]製) |整数リテラルを記述する場合。 |- |<code>'''$'''1000</code> | *{{lang|en|BASIC}}(マイクロソフト製以外) *{{lang|en|[[Pascal]]}} (一部の処理系) |整数リテラルを記述する場合。主に[[モトローラ]]系のアセンブリ言語・マイコン類の資料。 |} 読み方は十進表記の1000((いっ)せん)と区別するため、'''文字並びのまま'''読む(例えば、<code>0x1000</code> は「ぜろ・エックス・いち・ぜろ・ぜろ・ぜろ」と読む)。慣用では「ヘキサの千」もしくは「千ヘキサ」と言った読み方も行われている。 上記の数字に付く <code>h</code> や <code>x</code> は英語で十六進法を意味する {{lang|en|hexadecimal}} から取ったものである。十六進表記であることを明示している。 === 初期の表記法 === [[Image:Bruce Martin hexadecimal notation proposal.png|thumb|300px|right|計算機科学者 Bruce Alan Martinによって提唱された十六進数の国際表記法、新たな数字。(1968年10月。出典:Letters to the editor: On binary notation, Bruce Alan Martin, Associated Universities Inc., Communications of the ACM, Volume 11, Issue 10 (October 1968) Page: 658) <ref name="Martin_1968"/>]] ''A'' - ''F'' の文字を用いて 9 以上の数字を表現する方法はコンピューター黎明期にはまだ一般的ではなかった。 {| class="wikitable" !時期!!機種!!10!!11!!12!!13!!14!!15 |- |1950年代||Bendix-14など複数||<span style="text-decoration: overline">0</span>||<span style="text-decoration: overline">1</span>||<span style="text-decoration: overline">2</span>||<span style="text-decoration: overline">3</span>||<span style="text-decoration: overline">4</span>||<span style="text-decoration: overline">5</span> |- |1950||[[Standards Western Automatic Computer|SWAC]]<ref name="Savard_2018_CA"/>||u||v||w||x||y||z |- |1956||[[Bendix G-15]]<ref name="Bendix"/><ref name="Savard_2018_CA"/>||u||v||w||x||y||z |- |1952||[[ILLIAC I]]<ref name="Illiac-I"/><ref name="Savard_2018_CA"/>||K||S||N||J||F||L |- |1956||Librascope [[LGP-30]]<ref name="RP_1957_LGP-30"/><ref name="Savard_2018_CA"/>||F||G||J||K||Q||W |- |1957||[[ハネウェル|Honeywell]] {{仮リンク|Datamatic D-1000|en|DATAmatic 1000}}<ref name="Savard_2018_CA"/>||b||c||d||e||f||g |- |1967||[[エルビット・システムズ|Elbit]] 100<ref name="Savard_2018_CA"/>||B||C||D||E||F||G |- |1960||{{仮リンク|Monrobot XI|en|Monrobot XI}}<ref name="Savard_2018_CA"/>||S||T||U||V||W||X |- |1960||[[日本電気|NEC]] [[NEAC]] 1103<ref name="NEC_1960_NEAC-1103">{{cite book |title=NEC Parametron Digital Computer Type NEAC-1103 |publisher=[[Nippon Electric Company Ltd.]] |location=Tokyo, Japan |id=Cat. No. 3405-C |date=1960 |url=http://archive.computerhistory.org/resources/text/NEC/NEC.1103.1958102646285.pdf |accessdate=2017-05-31 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170531112850/http://archive.computerhistory.org/resources/text/NEC/NEC.1103.1958102646285.pdf |archivedate=2017-05-31}}</ref>||D||G||H||J||K||V |- |1964||Pacific Data Systems 1020<ref name="Savard_2018_CA"/>||L||C||A||S||M||D |- |1980||{{仮リンク|Б3-34|en|Elektronika B3-34}}(ソビエトの[[プログラム電卓]])||−||L||C||Г||E||" "<ref>スペース記号</ref> |} * 1968年に{{仮リンク|Boby Lapointe|en|Boby Lapointe}}が新たな表記{{仮リンク|Bibi-binary|en|Bibi-binary}}を定義した。この表記は普及しなかった。 * [[ブルックヘブン国立研究所]]のBruce Alan Martinは A〜F による表記に不快感を示し、ビット配列に基づいた全く新しい数字を考案して[[1968年]]に{{仮リンク|Communications of the ACM|en|Communications of the ACM|label=CACM}}へ提案したが、賛同者は少なかった<ref name="Martin_1968">{{cite journal | title=編集者への手紙: バイナリ表記について | first=Bruce Alan | last=Martin | publisher=[[Associated Universities Inc.]] | work=[[Communications of the ACM]] | volume=11 | issue=10 | date=October 1968 | page=658 | doi=10.1145/364096.364107}}</ref>。 * [[7セグメントディスプレイ]]では、B,Dを8,0と区別するためb,dと小文字で表示する方法が採られた。 == 底の変換 == === 二・八・十・十二進表記との対応 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! 十六進表記 !! 十二進表記 !! 十進表記 !! 八進表記 !! 二進表記 |- | ('''0''')<sub>16</sub> || (0)<sub>12</sub>|| (0)<sub>10</sub> || (0)<sub>8</sub> || (0)<sub>2</sub> |- | ('''1''')<sub>16</sub> || (1)<sub>12</sub>|| (1)<sub>10</sub> || (1)<sub>8</sub> || (1)<sub>2</sub> |- | ('''2''')<sub>16</sub> || (2)<sub>12</sub>|| (2)<sub>10</sub> || (2)<sub>8</sub> || (10)<sub>2</sub> |- | ('''3''')<sub>16</sub> || (3)<sub>12</sub>|| (3)<sub>10</sub> || (3)<sub>8</sub> ||(11)<sub>2</sub> |- | ('''4''')<sub>16</sub> || (4)<sub>12</sub>|| (4)<sub>10</sub> || (4)<sub>8</sub> || (100)<sub>2</sub> |- | ('''5''')<sub>16</sub> || (5)<sub>12</sub>|| (5)<sub>10</sub> || (5)<sub>8</sub> || (101)<sub>2</sub> |- | ('''6''')<sub>16</sub> || (6)<sub>12</sub>|| (6)<sub>10</sub> || (6)<sub>8</sub> || (110)<sub>2</sub> |- | ('''7''')<sub>16</sub> || (7)<sub>12</sub>|| (7)<sub>10</sub> || (7)<sub>8</sub> || (111)<sub>2</sub> |- | ('''8''')<sub>16</sub> || (8)<sub>12</sub>|| (8)<sub>10</sub> || (10)<sub>8</sub> || (1000)<sub>2</sub> |- | ('''9''')<sub>16</sub> || (9)<sub>12</sub>|| (9)<sub>10</sub> || (11)<sub>8</sub> || (1001)<sub>2</sub> |- | ('''A''')<sub>16</sub> || (A)<sub>12</sub>|| (10)<sub>10</sub> || (12)<sub>8</sub> || (1010)<sub>2</sub> |- | ('''B''')<sub>16</sub> || (B)<sub>12</sub>|| (11)<sub>10</sub> || (13)<sub>8</sub> || (1011)<sub>2</sub> |- | ('''C''')<sub>16</sub> || (10)<sub>12</sub>|| (12)<sub>10</sub> || (14)<sub>8</sub> || (1100)<sub>2</sub> |- | ('''D''')<sub>16</sub> || (11)<sub>12</sub>|| (13)<sub>10</sub> || (15)<sub>8</sub> || (1101)<sub>2</sub> |- | ('''E''')<sub>16</sub> || (12)<sub>12</sub>|| (14)<sub>10</sub> || (16)<sub>8</sub> || (1110)<sub>2</sub> |- | ('''F''')<sub>16</sub> || (13)<sub>12</sub>|| (15)<sub>10</sub> || (17)<sub>8</sub> || (1111)<sub>2</sub> |} === 二進表記から十六進表記への変換 === 二進表記から十六進表記に変換する方法を、以下に示す。 ==== 整数部分 ==== # 二進表記を'''右から'''順に4桁ずつ区切る。最後(最左部分)が4桁未満のときは、空いた部分(左側)には全て0があるとみなす。<!--整数部分の変換方法は、次のとおり。--> #* (111010)<sub>2</sub> → (11, 1010)<sub>2</sub> → (0011, 1010)<sub>2</sub> # 各部分を十六進表記に変換する。 #* (0011)<sub>2</sub> = (3)<sub>16</sub>, (1010)<sub>2</sub> = (A)<sub>16</sub> # 得られた十六進表記を並べて (3A)<sub>16</sub> が得られる。 この方法は桁数に関わらず通用する。例えば、(100110010111010)<sub>2</sub> は ('''0'''100, 1100, 1011, 1010)<sub>2</sub> であるから、(4CBA)<sub>16</sub> となる。 ==== 小数部分 ==== 小数部分の変換方法は、次のとおり。 # 二進表記を小数点を基準にして'''左から'''順に4桁ずつ区切る。最後(最右部分)が4桁未満のときは、空いた部分(右側)には全て0があるとみなす。 #* (0.110101)<sub>2</sub> → (0., 1101, 0100)<sub>2</sub> # 各部分を十六進表記に変換する。 #* (1101)<sub>2</sub> = (D)<sub>16</sub>, (0100)<sub>2</sub> = (4)<sub>16</sub> #得られた十六進表記を並べて (0.D4)<sub>16</sub> が得られる。 したがって、(111010.110101)<sub>2</sub> = (3A.D4)<sub>16</sub> である。この方法は桁数に関わらず通用する。 === 十進数から十六進数への変換 === ==== 正の整数 ==== 正の整数 m を十進法から十六進法に変換するのは次のようにする。 # m を x に代入する。 # x を 16 で割って、余りを求める。 # x/16 の商を x に代入する。 # 16. に戻る。x = 0 であれば終了。 余りを求めた順の逆に並べると、それが十六進法に変換された結果になる。 例:'''36864'''を十六進法に変換する。 16<span style="text-decoration:underline;">)36864</span>   36864=16<sup>0</sup>×36864<br /> 16<span style="text-decoration:underline;">) 2304</span>…'''0''' 36864=16<sup>1</sup>× 2304+16<sup>0</sup>×0<br /> 16<span style="text-decoration:underline;">) 144</span>…'''0''' 36864=16<sup>2</sup>× 144+16<sup>1</sup>×0+2<sup>0</sup>×0<br /> 9</span>…'''9''' 36864=16<sup>3</sup>× 9+16<sup>2</sup>×0+2<sup>1</sup>×0+2<sup>0</sup>×0<br /> よって 36864<sub>10</sub> = 9000<sub>16</sub> である。 ===[[倍数]]の法則=== *末尾が0、[[2]]、[[4]]、[[6]]、[[8]]、A、C、Eは[[偶数]]。 *末尾が0、4、8、Cは[[複偶数]](4の倍数)。 *末尾が0、8は8の倍数。 *末尾が0は[[16]]<sub>10</sub>の倍数。 *下2桁が00は[[256]]<sub>10</sub>の倍数。 *[[3]]の倍数は[[十進法]]と同じく[[数字和]]が3の倍数。 *[[5]]の倍数は[[六進法]]と同じく数字和が5の倍数。 *[[15]]<sub>10</sub>の倍数は数字和が15の倍数。 *[[48]]<sub>10</sub>の倍数は末尾0で数字和が3の倍数。 *[[80]]<sub>10</sub>の倍数は末尾0で数字和が5の倍数。 *[[240]]<sub>10</sub>の倍数は末尾0で数字和が15の倍数。 *[[768]]<sub>10</sub>の倍数は下2桁00で数字和が3の倍数。 *[[1280]]<sub>10</sub>の倍数は下2桁00で数字和が5の倍数。 *[[3840]]<sub>10</sub>の倍数は下2桁00で数字和が15の倍数。 ===小数と除算=== 割り切れない小数の循環部は<u>下線</u>で示す。「10」となる[[16|十六]]には[[因数]]に[[奇数]]が含まれていないため、[[1/3]]や[[1/5]]といった「'''1÷奇数'''」が全て割り切れない。小数を分数化しても、「'''m/奇数'''」となる小数が全く現れない。従って、[[偶数]]も、[[1/6]]{1÷(2×[[3]])}や[[1/10|1/A]]{1÷(2×[[5]])}といった「1÷奇数で割り切れる偶数」は割り切れない。[[6|六]]の倍数も[[10|十]]の倍数も[[逆数]]にすると全て割り切れないので、[[単位分数]]は[[無限小数]]が充ち溢れ、逆数が[[有限小数]]になる例は[[2の冪]]数だけになる。 {|class="wikitable" |+十六進[[小数]]の[[分数]]化 !十六進小数!!六進既約分数!!十進既約分数!!六進小数!!十進小数!!十二進小数!!二十進小数 |- |0.1||1/24||1/16||0.0213||0.0625||0.09||0.15 |- |0.2||1/12||1/8||0.043||0.125||0.16||0.2A |- |0.3||3/24||3/16||0.1043||0.1875||0.23||0.3F |- |0.4||1/4||1/4||0.13||0.25||0.3||0.5 |- |0.5||5/24||5/16||0.1513||0.3125||0.39||0.65 |- |0.6||3/12||3/8||0.213||0.375||0.46||0.7A |- |0.7||11/24||7/16||0.2343||0.4375||0.53||0.8F |- |0.8||1/2||1/2||0.3||0.5||0.6||0.A |- |0.9||13/24||9/16||0.3213||0.5625||0.69||0.B5 |- |0.A||5/12||5/8||0.343||0.625||0.76||0.CA |- |0.B||15/24||11/16||0.4043||0.6875||0.83||0.DF |- |0.C||3/4||3/4||0.43||0.75||0.9||0.F |- |0.D||21/24||13/16||0.4513||0.8125||0.99||0.G5 |- |0.E||11/12||7/8||0.513||0.875||0.A6||0.HA |- |0.F||23/24||15/16||0.5343||0.9375||0.B3||0.IF |} {|class="wikitable" |+[[小数]]への変換と除算([[3]]の冪数) !N進法!!Nの<br>[[素因数分解]]!![[1/3]]!![[1/9]]<br>(1÷3{{sup|2}})!!(1/[[27]]){{sub|10}}<br>(1÷3{{sup|3}})!!100÷3!!100÷9!!100÷3{{sup|3}} |- |十六進法||2{{sup|4}}||0.<u>5</u>555…||0.<u>1C7</u>…||0.<u>097B425ED</u>…<br>(1÷1B)||55.<u>5</u>555…||1C.<u>71C</u>…||9.<u>7B425ED09</u>…<br>(100÷1B) |- |[[六進法]]||2×3||0.2||0.04<br>(1÷13)||0.012<br>(1÷43)||221.2<br>(1104÷3)||44.24<br>(1104÷13)||13.252<br>(1104÷43) |- |[[十二進法]]||2{{sup|2}}×3||0.4||0.14||0.054<br>(1÷23)||71.4<br>(194÷3)||24.54<br>(194÷9)||9.594<br>(194÷23) |} {|class="wikitable" |+小数への変換と除算(5の冪数) !N進法!!Nの素因数分解!![[1/5]]!!(1/[[25]]){{sub|10}} (1÷5{{sup|2}})!!100÷5!!100÷5{{sup|2}} |- |十六進法||2{{sup|4}}||0.<u>3</u>333…||0.<u>0A3D7</u>…<br>(1÷19)||33.<u>3</u>333…||A.<u>3D70A</u>…<br>(100÷19) |- |[[十進法]]||2×5||0.2||0.04<br>(1÷25)||51.2<br>(256÷5)||10.24<br>(256÷25) |- |[[二十進法]]||2{{sup|2}}×5||0.4||0.0G<br>(1÷15)||2B.4<br>(CG÷5)||A.4G<br>(CG÷15) |} ; その他の計算例 * 被除数が'''B'''(十進法の[[11]]) ** 十六進法:B ÷ 3 = 3.<u>A</u>AAA… ** 十六進法:B ÷ 5 = 2.<u>3</u>333… ** 六進法:(15){{sub|6}} ÷ 3 = 3.4 ** 十二進法:B ÷ 3 = 3.8 ** 十進法:(11){{sub|10}} ÷ 5 = 2.2 ** 二十進法:B ÷ 5 = 2.4 * 被除数が'''8E'''(十進法の[[142]]) ** 十六進法:(8E){{sub|16}} ÷ 3 = 2F.<u>5</u>555… ** 十六進法:(8E){{sub|16}} ÷ 5 = 1C.<u>6</u>666… ** 六進法:(354){{sub|6}} ÷ 3 = 115.2 ** 十二進法:(BA){{sub|12}} ÷ 3 = 3B.4 ** 十進法:(142){{sub|10}} ÷ 5 = 28.4 ** 二十進法:(72){{sub|20}} ÷ 5 = 18.8 === 四則演算表 === 一桁同士の計算: {| style="font-family: monospace; font-size: smaller; text-align:right; margin: 1ex auto;" |- | {| class="wikitable" style="float: left; width: 45%; margin-left: 2em;" |+ <span style="font-size: large;">加法表</span> ! + || 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F |- ! 0 || 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F |- ! 1 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F || 10 |- ! 2 | 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F || 10 || 11 |- ! 3 | 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 |- ! 4 | 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 |- ! 5 | 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 |- ! 6 | 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 |- ! 7 | 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 |- ! 8 | 8 || 9 || A || B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 |- ! 9 | 9 || A || B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 |- ! A | A || B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 |- ! B | B || C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 1A |- ! C | C || D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 1A || 1B |- ! D | D || E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 1A || 1B || 1C |- ! E | E || F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 1A || 1B || 1C || 1D |- ! F | {{0}}F || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 1A || 1B || 1C || 1D || 1E |} {| class="wikitable" style="float: left; width: 45%; margin-left: 2em;" |+ <span style="font-size: large;">乗法表</span> ! × || 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F |- ! 0 | 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 |- ! 1 | 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || A || B || C || D || E || F |- ! 2 | 0 || 2 || 4 || 6 || 8 || A || C || E || 10 || 12 || 14 || 16 || 18 || 1A || 1C || 1E |- ! 3 | 0 || 3 || 6 || 9 || C || F || 12 || 15 || 18 || 1B || 1E || 21 || 24 || 27 || 2A || 2D |- ! 4 | 0 || 4 || 8 || C || 10 || 14 || 18 || 1C || 20 || 24 || 28 || 2C || 30 || 34 || 38 || 3C |- ! 5 | 0 || 5 || A || F || 14 || 19 || 1E || 23 || 28 || 2D || 32 || 37 || 3C || 41 || 46 || 4B |- ! 6 | 0 || 6 || C || 12 || 18 || 1E || 24 || 2A || 30 || 36 || 3C || 42 || 48 || 4E || 54 || 5A |- ! 7 | 0 || 7 || E || 15 || 1C || 23 || 2A || 31 || 38 || 3F || 46 || 4D || 54 || 5B || 62 || 69 |- ! 8 | 0 || 8 || 10 || 18 || 20 || 28 || 30 || 38 || 40 || 48 || 50 || 58 || 60 || 68 || 70 || 78 |- ! 9 | 0 || 9 || 12 || 1B || 24 || 2D || 36 || 3F || 48 || 51 || 5A || 63 || 6C || 75 || 7E || 87 |- ! A | 0 || A || 14 || 1E || 28 || 32 || 3C || 46 || 50 || 5A || 64 || 6E || 78 || 82 || 8C || 96 |- ! B | 0 || B || 16 || 21 || 2C || 37 || 42 || 4D || 58 || 63 || 6E || 79 || 84 || 8F || 9A || A5 |- ! C | 0 || C || 18 || 24 || 30 || 3C || 48 || 54 || 60 || 6C || 78 || 84 || 90 || 9C || A8 || B4 |- ! D | 0 || D || 1A || 27 || 34 || 41 || 4E || 5B || 68 || 75 || 82 || 8F || 9C || A9 || B6 || C3 |- ! E | 0 || E || 1C || 2A || 38 || 46 || 54 || 62 || 70 || 7E || 8C || 9A || A8 || B6 || C4 || D2 |- ! F | {{0}}0 || {{0}}F || 1E || 2D || 3C || 4B || 5A || 69 || 78 || 87 || 96 || A5 || B4 || C3 || D2 || E1 |} |} == 英単語 Hexadecimal の語源 == Hexadecimalは[[ギリシャ語]]で6 ({{lang|el|ἕξ}}, hex) を意味する''hexa-''と、[[ラテン語]]で10番目 (tenth) を意味する''-decimal''の複合語。ウェブスター新国際オンライン版第3版によると''hexadecimal''は完全ラテン語由来の''sexadecimal''の代替語である(Bendixのドキュメントにも同様の記述がある<ref name="Bendix"/>)。Merriam-Webster's Collegiate Dictionaryにおける''hexadecimal''の初出は1954年で、当初より現在に至るまで国際科学用語ISVに分類されている。ギリシャ語とラテン語を混ぜ合わせた造語法はISVでは一般的にみられる。[[六十進法]]を意味する''sexagesimal''はラテン語の接頭子を保っている。[[ドナルド・クヌース]]はラテン語で16進数を表すとするならば''senidenary''か、または恐らく''sedenary''が正しいのではないかとしている(同じ作り方で考えれば''binary (2進数)''、''ternary (3進数)''、''quaternary (4進数)''となり、この流れでいえばdecimal (10進数)とoctal (8進数)も、それぞれdenaryとoctonaryが正しいことになる)<ref>Knuth, Donald. (1969). ''[[The Art of Computer Programming]], Volume 2''. {{ISBN2|0-201-03802-1}}. (Chapter 17.)</ref>。アルフレッド・B・テイラーは16進数を不便な数字だとして嫌っていたが、1800年代に''senidenary''として16進数を研究していた<ref>Alfred B. Taylor, [https://archive.org/details/reportonweights00taylgoog Report on Weights and Measures], Pharmaceutical Association, 8th Annual Session, Boston, 15 September 1859. See pages and 33 and 41.</ref><ref>Alfred B. Taylor, "Octonary numeration and its application to a system of weights and measures", [https://books.google.com/books?id=KsAUAAAAYAAJ&pg=PA296 ''Proc Amer. Phil. Soc.'' Vol XXIV], Philadelphia, 1887; pages 296-366. See pages 317 and 322.</ref>。シュワルツマンによると、ラテン語から考えれば''sexadecimal''が自然だが、コンピュータのハッカーたちは略語にsexを使うだろうと話した<ref>Schwartzman, S. (1994). ''The Words of Mathematics: an etymological dictionary of mathematical terms used in English''. {{ISBN2|0-88385-511-9}}.</ref>。語源的に完全ギリシャ語で考えればhexadecadic({{lang-el|ἑξαδεκαδικός}} {{transl|el|hexadekadikós}})が正しいと考えられる(ただし現代のギリシャでは''decahexadic''({{lang-el|''δεκαεξαδικός''}} ''{{transl|el|dekaexadikos}}'')が使われている)。 == 単位系 == [[単位]]系の十六進法では、数は[[十進法]]を用いて表記し、16に至ると単位を繰り上げる方法を採る。 [[ヤード・ポンド法]]では、[[質量]]の単位に十六進法が用いられる。 * 1 [[ポンド (質量)|ポンド]] = 16 [[オンス]]。 * 1 [[オンス]] = 16 [[ドラム (単位)|ドラム]]。 [[尺貫法]]の質量の単位の一部にも十六進法が用いられる。 * 1 [[斤]] = 16 [[両]]。 == ギャラリー == {{Gallery|width = 200px |File:Hexadecimal-counting.jpg|人の指を使って十六進法で数える方法 |File:IBM Hexa.jpg|数十年前の古い、十六進法を用いて数値を入力する素朴な計算機(IBM製) }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|refs= <ref name="Savard_2018_CA">{{cite web |title=Computer Arithmetic |at=The Early Days of Hexadecimal |author-first=John J. G. |author-last=Savard |date=2018 |orig-year=2005 |work=quadibloc |url=http://www.quadibloc.com/comp/cp02.htm |access-date=2018-07-16 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20180716102439/http://www.quadibloc.com/comp/cp02.htm |archive-date=2018-07-16}}</ref> <ref name="Bendix">{{cite book |title=G15Dプログラマーズリファレンスマニュアル |chapter=2.1.3 Sexadecimal notation |publisher=[[Bendix Computer]], Division of [[Bendix Aviation Corporation]] |location=Los Angeles, CA, USA |page=4 |url=http://bitsavers.trailing-edge.com/pdf/bendix/g-15/G15D_Programmers_Ref_Man.pdf |accessdate=2017-06-01 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170601222212/http://bitsavers.trailing-edge.com/pdf/bendix/g-15/G15D_Programmers_Ref_Man.pdf |archivedate=2017-06-01 |quote=16個の数字 (0〜15) で4ビットのグループを表すことができるためこの基数を用いる。各組合せにシンボルを割り当てることでこの表記をsexadecimalと呼べるようになる(略称をsexと呼ぶことは憚れるため、通常はhexと略す)。sexadecimalのシンボルは10個の10進数に加え、G-15においては、文字 u v w x y z である。この記号は任意であり、別のコンピュータでは最後の6文字に異なるアルファベットを割り当ててもよい。}}</ref> <ref name="Illiac-I">{{cite web |title=ILLIAC Programming - A Guide to the Preparation of Problems For Solution by the University of Illinois Digital Computer |author-first1=S. |author-last1=Gill |author-first2=R. E. |author-last2=Neagher |author-first3=D. E. |author-last3=Muller |author-first4=J. P. |author-last4=Nash |author-first5=J. E. |author-last5=Robertson |author-first6=T. |author-last6=Shapin |author-first7=D. J. |author-last7=Whesler |editor-first=J. P. |editor-last=Nash |edition=Fourth printing. Revised and corrected |date=1956-09-01 |publisher=Digital Computer Laboratory, Graduate College, [[University of Illinois]] |location=Urbana, Illinois, USA |pages=3-2 |url=http://www.textfiles.com/bitsavers/pdf/illiac/ILLIAC/ILLIAC_programming_Sep56.pdf |website=bitsavers.org |access-date=2014-12-18 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20170531153804/http://www.textfiles.com/bitsavers/pdf/illiac/ILLIAC/ILLIAC_programming_Sep56.pdf |archive-date=2017-05-31}}</ref> <ref name="RP_1957_LGP-30">{{cite book |title=ROYAL PRECISION Electronic Computer LGP - 30 PROGRAMMING MANUAL |publisher=[[Royal McBee Corporation]] |location=Port Chester, New York |date=April 1957 |url=http://ed-thelen.org/comp-hist/lgp-30-man.html#R4.13 |accessdate=2017-05-31 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170531153004/http://ed-thelen.org/comp-hist/lgp-30-man.html |archivedate=2017-05-31}}(注:この奇妙な配列はLGP-30における6ビットキャラクターコードの順番から来ている。)</ref> }} == 関連項目 == * [[コンピュータの数値表現]] ** [[バイナリエディタ]] * [[十六進化時間]]([[:en:Hexadecimal time]]) * [[一進法]] * [[十二進法]] * [[六十進法]] * [[2の冪]] ** [[二進法]] ** [[四進法]] ** [[八進法]] ** [[三十二進法]] ** [[六十四進法]] {{デフォルトソート:しゆうろくしんほう}} [[Category:数の表現]] [[Category:コンピュータの算術]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:呼称問題]] [[Category:位取り記数法]]
2003-07-23T14:37:06Z
2023-11-28T14:18:00Z
false
false
false
[ "Template:Lang-el", "Template:Gallery", "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:Math", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Math2", "Template:Lang", "Template:Sup", "Template:Sub", "Template:Transl", "Template:Lang-en-short", "Template:仮リンク", "Template:0", "Template:ISBN2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E9%80%B2%E6%B3%95
12,100
電子ピアノ
デジタルピアノ(英: Digital piano)は、主として昔ながらのピアノの代替品としての役目を果たすために設計された電子鍵盤楽器の一種である。グランドピアノの音色と構造、特に鍵盤タッチを模倣し再現する事をひとつの目標として、電子技術やコンピュータ技術の進歩とともに進化してきた。一部のデジタルピアノはアップライトピアノまたはグランドピアノのように見えるようにも設計されている。鍵の数もピアノと同じ88鍵のものが普通である。デジタルピアノは合成されたピアノ音か実際のピアノのサンプル音源のいずれかを使用する。これらの音源は内部ラウドスピーカーを使って増幅される。音源については、初期の製品にはFM音源などを使用したものもあったが、現在ではPCM音源を用いているものが主流である。 エレクトリックピアノ(電気ピアノ)はハンマーで打った振動体の振動を磁気ピックアップで電気信号化してアンプで増幅する。エレクトロニックピアノ(電子ピアノ)とデジタルピアノは、前者がアナログ回路を用いてピアノ(および時にはチェンバロまたはオルガン)の音色を模倣するよう設計されているのに対して、後者は前述したようなデジタル音源を使用することで区別される。日本国内では「デジタルピアノ」の同義語として「電子ピアノ」という用語が使われることが多く、河合楽器製作所、カシオ計算機、およびコルグが「デジタルピアノ」、ローランドが「デジタルピアノ」と「電子ピアノ」の両方、ヤマハは「電子ピアノ」という用語を使用している(日本国外ではヤマハも「デジタルピアノ」を使用)。 デジタルピアノは本物のピアノの感覚と音色の水準に達しないかもしれないが、デジタルピアノにはアコースティックピアノと比べて優れた点がある。デジタルピアノはアコースティックピアノよりも価格がかなり低く、ほとんどのモデルはアコースティックピアノよりもかなり小型で軽い。また、デジタルピアノは設計時に調律がされており、製造時のズレはない(ズレた場合はその電子部品は破棄される。通常のピアノはズレていることを前提に製造され、後工程で修正される。)。また経年によるズレが無いため、運用時の調律は不要である。廉価な物では固定された基準周波数での平均律に調律が固定されており変更が出来ないが、高機能な物だと基準周波数の変更や平均律以外の音律に変更できる。また、調律を他の楽器(例えばパイプオルガン)の調律に合わせて修正することもできる。他の電子楽器と同様に、デジタルピアノは広い会場のために十分大きな音を生み出すためにキーボードアンプまたはPAシステムに接続することができる。一部のデジタルピアノはピアノ以外の音を模倣することもできる(最も一般的なのはパイプオルガン、エレクトリックピアノ、ハモンドオルガン、チェンバロ)。デジタルピアノは音楽学校や音楽スタジオで昔ながらの楽器の代わりにしばしば使われる。 本項での「ピアノ」は、生ピアノ(アコースティック・ピアノ)を指す。 デジタル楽器であり音程はきわめて正確である。一般的なデジタルピアノは、設計時に調律された、デジタル合成された実楽器の音源を発振元とすることで、温湿度や経年変化などの物理的な影響をほとんど受けず、利用者による調律の必要がない。この特徴は、ソフトウェアによる音の変化と相性が良く、多くの機種にトランスポーズやチューニング機能が組み込まれている。ただし、混合されうる概念として、音叉型水晶振動子などをオシレーターとしたアナログ回路を利用した楽器をデジタルピアノと説明する場合もあるが、音の特徴は類似するが、発振元(オシレーター)がアナログであるために、楽器の構造が本質的に異なる。 弦やそれを支えるフレームなどの大掛かりな機械的部品がないので、軽量・コンパクト。したがって概ね低価格になる。 内蔵アンプで簡単に音量を変えられる。また、通常ヘッドホン出力を持っており、夜間の練習や騒音問題による近所トラブル回避のこともデジタルピアノが選択される大きな理由となっている。 デジタルピアノには、演奏(キーを押すタイミングや速度など)をデータとして記録・再生出来るものも多く、手軽に自分の演奏を聴き直して客観視したり、連弾の練習をしたりする事が出来る。多くの場合、MIDIに対応している。 必須ではないが、多くの機種では、エレクトリック・ピアノを含む複数種類のピアノ音色や、ピアノ以外の楽器音、演奏を補助する為のリズム(自動伴奏)を内蔵し、練習を支援するためのメトロノーム、内蔵曲のレッスン機能などが搭載されている。収録されている楽器音が多い機種はシンセサイザーとして使う事が出来るが、キーボードがピアノタッチのため重たい。 発音源がスピーカーであり、大面積の響板と物理的な打撃を主な音源とするピアノとは音の広がりや豊かさに本質的な違いがある。 現在のデジタルピアノはPCM音源を用いているものが主流であるが、PCM音源の原理上、音量・音色の変化はなめらか(=アナログ的な変化)ではなく段階的に変化(=デジタル的に変化)する。 大規模集積回路(LSI)が使われているとその部品自体の修理が一般の工房では出来ないため部品自体の交換が必要になるため、部品の供給がなくなったら修理が出来ない。これに対してピアノは、部品自体を一般の工房で作ることができるため、部品が故障、磨耗、変質、破損しても、木材、金属、布などの素材から再生、修理が可能である。 デジタルピアノ(とピアノ)を製造しているメーカーでも、幼児の入門楽器にはデジタルピアノよりもピアノのほうがふさわしいとしていることがある。今の電子ピアノは「お金に余裕のない階層」のためのツールではなくなり、TVアニメの中にも出現している。 一般にエレクトリック・ピアノとは、ピアノと同様に弦や金属棒などをハンマーで叩き、その振動をピックアップで拾い、アンプで増幅して音を出すものをいう。代表的なものとしてローズ・ピアノやヤマハCP-80、ウーリッツァー・ピアノなどがある。 デジタルピアノでは、物理的に弦などを振動させることはなく、鍵盤は根本的にはスイッチの役割を果たし、電子回路が音を生成している。エレクトリック・ピアノは、ピアノとは違った独特の味わいを持った音色のものも多く、デジタルピアノの音色のひとつとしてエレクトリック・ピアノの音色がサンプリングされている場合もある。可搬性を重視した「ステージ・ピアノ」と呼ばれるデジタルピアノもあり、エレクトリック・ピアノ同様ポピュラー音楽のライブ演奏に用いられる。なお、一般に略語として「エレピ」を使用する場合、デジタルピアノ(エレクトロニック・ピアノ)ではなくエレクトリック・ピアノを指す。 電子楽器の代表であるシンセサイザーも、ピアノ型の鍵盤で演奏されることが多いため、デジタルピアノと似た面がある。特に音源方式については本質的に同じと言える。また、演奏を記録して複数の楽器音を同時に鳴らし、一台でアンサンブルを実現できる機能(シーケンサー内蔵型)が、デジタルピアノとシンセサイザーのどちらにもある。 しかし、一般的なシンセサイザーが、波形を変化させる自由な音色作りを目指しているのに対し、デジタルピアノはピアノの演奏・表現に近づくことを目標としており、鍵盤やペダル、ピアノ音色の再現性などの性能が充実している。前述の通り、電子ピアノの鍵盤はシンセサイザーより重たく、グランドピアノと同じアクション(機械要素)を採用したデジタルピアノもある。 通常、シンセサイザーに付属する鍵盤は、5オクターブ(61鍵)前後で、キーのタッチもピアノとは違って軽い。多くのデジタルピアノでは、ピアノと同じ7オクターブ1/4(88鍵)を備え、キーの重さや動きはピアノに近い。 ピアノ曲を演奏する上で重要となるペダル、特にダンパーペダルについては、鍵盤タイプのシンセサイザーであれば多くの機種が対応しているが、シンセサイザーの場合、ペダルはオプションの扱いであるのに対し、デジタルピアノでは標準で装備されている。 デジタルピアノには、ソフトペダルやソステヌートペダルを装備したものも多く、ペダルの踏み具合によってダンパーの効き具合を音色に反映させることの可能な(ハーフペダル対応)機種もある。 サイレント・ピアノが開発された主な原因は「騒音問題」にあった。ピアノ騒音殺人事件のころはまだ1970年代の首都圏の騒音問題であった。ところが、1980年代になると田舎や地方でもアップライト・ピアノの所持者が増え(グランド・ピアノの所持者はまだまだ少なかった)、両親が富裕層ではなくともピアノやエレクトーンを学ぶことが常態化していった。このため、ピアノや電子ピアノにサイレント機構を取り入れることが本格化したのが1990年代である。 サイレントピアノは、アップライトピアノやグランドピアノにデジタルピアノの音源を組み合わせたヤマハの製品で、1993年に発売された。現在は他社からも同様の製品が発売されている。 ピアノの打弦を物理的に止めて発音させず、代わりに鍵盤の動きを演奏情報としてセンサーで読み取り、電子的な音源部から発音する仕組みになっている。通常のピアノとして演奏することも、夜間などに大きな音を出さずに練習することも出来る。 通常、アップライト型では、3本のペダルのうち中央のペダルを踏むことで消音状態になる。そのため中央のペダルはソステヌートペダルや弱音ペダルとしては使えなくなる。グランド型では、消音用のレバーが別に用意されるため、ソステヌートペダルの機能も残る。 音源部にはグランドピアノなどの音が使用されている。消音状態でも鍵盤のタッチはほとんど変わらないとされている。 1988年、坂本龍一のコンサートツアー、メディア・バーン・ツアーにおいて、ヤマハの協力の下にMIDIピアノが制作、使用された。これは、同社のグランドピアノ「CFIII」に、タッチへの影響なく演奏情報をMIDIデータとして取り出す仕組みが加えられたものだが、これが後に市販製品であるサイレントピアノへと発展した。 ※()内は各社のデジタルピアノブランド名
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "デジタルピアノ(英: Digital piano)は、主として昔ながらのピアノの代替品としての役目を果たすために設計された電子鍵盤楽器の一種である。グランドピアノの音色と構造、特に鍵盤タッチを模倣し再現する事をひとつの目標として、電子技術やコンピュータ技術の進歩とともに進化してきた。一部のデジタルピアノはアップライトピアノまたはグランドピアノのように見えるようにも設計されている。鍵の数もピアノと同じ88鍵のものが普通である。デジタルピアノは合成されたピアノ音か実際のピアノのサンプル音源のいずれかを使用する。これらの音源は内部ラウドスピーカーを使って増幅される。音源については、初期の製品にはFM音源などを使用したものもあったが、現在ではPCM音源を用いているものが主流である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "エレクトリックピアノ(電気ピアノ)はハンマーで打った振動体の振動を磁気ピックアップで電気信号化してアンプで増幅する。エレクトロニックピアノ(電子ピアノ)とデジタルピアノは、前者がアナログ回路を用いてピアノ(および時にはチェンバロまたはオルガン)の音色を模倣するよう設計されているのに対して、後者は前述したようなデジタル音源を使用することで区別される。日本国内では「デジタルピアノ」の同義語として「電子ピアノ」という用語が使われることが多く、河合楽器製作所、カシオ計算機、およびコルグが「デジタルピアノ」、ローランドが「デジタルピアノ」と「電子ピアノ」の両方、ヤマハは「電子ピアノ」という用語を使用している(日本国外ではヤマハも「デジタルピアノ」を使用)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "デジタルピアノは本物のピアノの感覚と音色の水準に達しないかもしれないが、デジタルピアノにはアコースティックピアノと比べて優れた点がある。デジタルピアノはアコースティックピアノよりも価格がかなり低く、ほとんどのモデルはアコースティックピアノよりもかなり小型で軽い。また、デジタルピアノは設計時に調律がされており、製造時のズレはない(ズレた場合はその電子部品は破棄される。通常のピアノはズレていることを前提に製造され、後工程で修正される。)。また経年によるズレが無いため、運用時の調律は不要である。廉価な物では固定された基準周波数での平均律に調律が固定されており変更が出来ないが、高機能な物だと基準周波数の変更や平均律以外の音律に変更できる。また、調律を他の楽器(例えばパイプオルガン)の調律に合わせて修正することもできる。他の電子楽器と同様に、デジタルピアノは広い会場のために十分大きな音を生み出すためにキーボードアンプまたはPAシステムに接続することができる。一部のデジタルピアノはピアノ以外の音を模倣することもできる(最も一般的なのはパイプオルガン、エレクトリックピアノ、ハモンドオルガン、チェンバロ)。デジタルピアノは音楽学校や音楽スタジオで昔ながらの楽器の代わりにしばしば使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本項での「ピアノ」は、生ピアノ(アコースティック・ピアノ)を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "デジタル楽器であり音程はきわめて正確である。一般的なデジタルピアノは、設計時に調律された、デジタル合成された実楽器の音源を発振元とすることで、温湿度や経年変化などの物理的な影響をほとんど受けず、利用者による調律の必要がない。この特徴は、ソフトウェアによる音の変化と相性が良く、多くの機種にトランスポーズやチューニング機能が組み込まれている。ただし、混合されうる概念として、音叉型水晶振動子などをオシレーターとしたアナログ回路を利用した楽器をデジタルピアノと説明する場合もあるが、音の特徴は類似するが、発振元(オシレーター)がアナログであるために、楽器の構造が本質的に異なる。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "弦やそれを支えるフレームなどの大掛かりな機械的部品がないので、軽量・コンパクト。したがって概ね低価格になる。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "内蔵アンプで簡単に音量を変えられる。また、通常ヘッドホン出力を持っており、夜間の練習や騒音問題による近所トラブル回避のこともデジタルピアノが選択される大きな理由となっている。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "デジタルピアノには、演奏(キーを押すタイミングや速度など)をデータとして記録・再生出来るものも多く、手軽に自分の演奏を聴き直して客観視したり、連弾の練習をしたりする事が出来る。多くの場合、MIDIに対応している。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "必須ではないが、多くの機種では、エレクトリック・ピアノを含む複数種類のピアノ音色や、ピアノ以外の楽器音、演奏を補助する為のリズム(自動伴奏)を内蔵し、練習を支援するためのメトロノーム、内蔵曲のレッスン機能などが搭載されている。収録されている楽器音が多い機種はシンセサイザーとして使う事が出来るが、キーボードがピアノタッチのため重たい。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "発音源がスピーカーであり、大面積の響板と物理的な打撃を主な音源とするピアノとは音の広がりや豊かさに本質的な違いがある。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在のデジタルピアノはPCM音源を用いているものが主流であるが、PCM音源の原理上、音量・音色の変化はなめらか(=アナログ的な変化)ではなく段階的に変化(=デジタル的に変化)する。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大規模集積回路(LSI)が使われているとその部品自体の修理が一般の工房では出来ないため部品自体の交換が必要になるため、部品の供給がなくなったら修理が出来ない。これに対してピアノは、部品自体を一般の工房で作ることができるため、部品が故障、磨耗、変質、破損しても、木材、金属、布などの素材から再生、修理が可能である。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "デジタルピアノ(とピアノ)を製造しているメーカーでも、幼児の入門楽器にはデジタルピアノよりもピアノのほうがふさわしいとしていることがある。今の電子ピアノは「お金に余裕のない階層」のためのツールではなくなり、TVアニメの中にも出現している。", "title": "ピアノとの違い" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一般にエレクトリック・ピアノとは、ピアノと同様に弦や金属棒などをハンマーで叩き、その振動をピックアップで拾い、アンプで増幅して音を出すものをいう。代表的なものとしてローズ・ピアノやヤマハCP-80、ウーリッツァー・ピアノなどがある。", "title": "エレクトリック・ピアノ(電気ピアノ)との違い" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "デジタルピアノでは、物理的に弦などを振動させることはなく、鍵盤は根本的にはスイッチの役割を果たし、電子回路が音を生成している。エレクトリック・ピアノは、ピアノとは違った独特の味わいを持った音色のものも多く、デジタルピアノの音色のひとつとしてエレクトリック・ピアノの音色がサンプリングされている場合もある。可搬性を重視した「ステージ・ピアノ」と呼ばれるデジタルピアノもあり、エレクトリック・ピアノ同様ポピュラー音楽のライブ演奏に用いられる。なお、一般に略語として「エレピ」を使用する場合、デジタルピアノ(エレクトロニック・ピアノ)ではなくエレクトリック・ピアノを指す。", "title": "エレクトリック・ピアノ(電気ピアノ)との違い" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "電子楽器の代表であるシンセサイザーも、ピアノ型の鍵盤で演奏されることが多いため、デジタルピアノと似た面がある。特に音源方式については本質的に同じと言える。また、演奏を記録して複数の楽器音を同時に鳴らし、一台でアンサンブルを実現できる機能(シーケンサー内蔵型)が、デジタルピアノとシンセサイザーのどちらにもある。", "title": "シンセサイザーとの違い" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、一般的なシンセサイザーが、波形を変化させる自由な音色作りを目指しているのに対し、デジタルピアノはピアノの演奏・表現に近づくことを目標としており、鍵盤やペダル、ピアノ音色の再現性などの性能が充実している。前述の通り、電子ピアノの鍵盤はシンセサイザーより重たく、グランドピアノと同じアクション(機械要素)を採用したデジタルピアノもある。", "title": "シンセサイザーとの違い" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "通常、シンセサイザーに付属する鍵盤は、5オクターブ(61鍵)前後で、キーのタッチもピアノとは違って軽い。多くのデジタルピアノでは、ピアノと同じ7オクターブ1/4(88鍵)を備え、キーの重さや動きはピアノに近い。", "title": "シンセサイザーとの違い" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ピアノ曲を演奏する上で重要となるペダル、特にダンパーペダルについては、鍵盤タイプのシンセサイザーであれば多くの機種が対応しているが、シンセサイザーの場合、ペダルはオプションの扱いであるのに対し、デジタルピアノでは標準で装備されている。 デジタルピアノには、ソフトペダルやソステヌートペダルを装備したものも多く、ペダルの踏み具合によってダンパーの効き具合を音色に反映させることの可能な(ハーフペダル対応)機種もある。", "title": "シンセサイザーとの違い" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "サイレント・ピアノが開発された主な原因は「騒音問題」にあった。ピアノ騒音殺人事件のころはまだ1970年代の首都圏の騒音問題であった。ところが、1980年代になると田舎や地方でもアップライト・ピアノの所持者が増え(グランド・ピアノの所持者はまだまだ少なかった)、両親が富裕層ではなくともピアノやエレクトーンを学ぶことが常態化していった。このため、ピアノや電子ピアノにサイレント機構を取り入れることが本格化したのが1990年代である。", "title": "サイレントピアノ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "サイレントピアノは、アップライトピアノやグランドピアノにデジタルピアノの音源を組み合わせたヤマハの製品で、1993年に発売された。現在は他社からも同様の製品が発売されている。", "title": "サイレントピアノ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ピアノの打弦を物理的に止めて発音させず、代わりに鍵盤の動きを演奏情報としてセンサーで読み取り、電子的な音源部から発音する仕組みになっている。通常のピアノとして演奏することも、夜間などに大きな音を出さずに練習することも出来る。", "title": "サイレントピアノ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "通常、アップライト型では、3本のペダルのうち中央のペダルを踏むことで消音状態になる。そのため中央のペダルはソステヌートペダルや弱音ペダルとしては使えなくなる。グランド型では、消音用のレバーが別に用意されるため、ソステヌートペダルの機能も残る。", "title": "サイレントピアノ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "音源部にはグランドピアノなどの音が使用されている。消音状態でも鍵盤のタッチはほとんど変わらないとされている。", "title": "サイレントピアノ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1988年、坂本龍一のコンサートツアー、メディア・バーン・ツアーにおいて、ヤマハの協力の下にMIDIピアノが制作、使用された。これは、同社のグランドピアノ「CFIII」に、タッチへの影響なく演奏情報をMIDIデータとして取り出す仕組みが加えられたものだが、これが後に市販製品であるサイレントピアノへと発展した。", "title": "サイレントピアノ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "※()内は各社のデジタルピアノブランド名", "title": "代表的なメーカー" } ]
デジタルピアノは、主として昔ながらのピアノの代替品としての役目を果たすために設計された電子鍵盤楽器の一種である。グランドピアノの音色と構造、特に鍵盤タッチを模倣し再現する事をひとつの目標として、電子技術やコンピュータ技術の進歩とともに進化してきた。一部のデジタルピアノはアップライトピアノまたはグランドピアノのように見えるようにも設計されている。鍵の数もピアノと同じ88鍵のものが普通である。デジタルピアノは合成されたピアノ音か実際のピアノのサンプル音源のいずれかを使用する。これらの音源は内部ラウドスピーカーを使って増幅される。音源については、初期の製品にはFM音源などを使用したものもあったが、現在ではPCM音源を用いているものが主流である。 エレクトリックピアノ(電気ピアノ)はハンマーで打った振動体の振動を磁気ピックアップで電気信号化してアンプで増幅する。エレクトロニックピアノ(電子ピアノ)とデジタルピアノは、前者がアナログ回路を用いてピアノ(および時にはチェンバロまたはオルガン)の音色を模倣するよう設計されているのに対して、後者は前述したようなデジタル音源を使用することで区別される。日本国内では「デジタルピアノ」の同義語として「電子ピアノ」という用語が使われることが多く、河合楽器製作所、カシオ計算機、およびコルグが「デジタルピアノ」、ローランドが「デジタルピアノ」と「電子ピアノ」の両方、ヤマハは「電子ピアノ」という用語を使用している(日本国外ではヤマハも「デジタルピアノ」を使用)。 デジタルピアノは本物のピアノの感覚と音色の水準に達しないかもしれないが、デジタルピアノにはアコースティックピアノと比べて優れた点がある。デジタルピアノはアコースティックピアノよりも価格がかなり低く、ほとんどのモデルはアコースティックピアノよりもかなり小型で軽い。また、デジタルピアノは設計時に調律がされており、製造時のズレはない(ズレた場合はその電子部品は破棄される。通常のピアノはズレていることを前提に製造され、後工程で修正される。)。また経年によるズレが無いため、運用時の調律は不要である。廉価な物では固定された基準周波数での平均律に調律が固定されており変更が出来ないが、高機能な物だと基準周波数の変更や平均律以外の音律に変更できる。また、調律を他の楽器(例えばパイプオルガン)の調律に合わせて修正することもできる。他の電子楽器と同様に、デジタルピアノは広い会場のために十分大きな音を生み出すためにキーボードアンプまたはPAシステムに接続することができる。一部のデジタルピアノはピアノ以外の音を模倣することもできる(最も一般的なのはパイプオルガン、エレクトリックピアノ、ハモンドオルガン、チェンバロ)。デジタルピアノは音楽学校や音楽スタジオで昔ながらの楽器の代わりにしばしば使われる。 本項での「ピアノ」は、生ピアノ(アコースティック・ピアノ)を指す。
{{Pathnav|ピアノ|frame=1}} {{Distinguish|エレクトリックピアノ|エレクトロニックピアノ}} [[File:Digital-piano-423.jpg|thumb|典型的なデジタルピアノ]] '''デジタルピアノ'''({{lang-en-short|Digital piano}})は、主として昔ながらの[[ピアノ]]の代替品としての役目を果たすために設計された[[キーボード (楽器)|電子鍵盤楽器]]の一種である。[[グランドピアノ]]の音色と構造、特に鍵盤タッチを模倣し再現する事をひとつの目標として、電子技術やコンピュータ技術の進歩とともに進化してきた。一部のデジタルピアノは[[アップライトピアノ]]またはグランドピアノのように見えるようにも設計されている。鍵の数もピアノと同じ88鍵のものが普通である。デジタルピアノは合成されたピアノ音か実際のピアノのサンプル音源のいずれかを使用する。これらの音源は内部[[スピーカー|ラウドスピーカー]]を使って増幅される。音源については、初期の製品には[[FM音源]]などを使用したものもあったが、現在では[[PCM音源]]を用いているものが主流である。 '''[[エレクトリックピアノ]]'''(電気ピアノ)はハンマーで打った振動体の振動を磁気ピックアップで電気信号化してアンプで増幅する。'''[[エレクトロニックピアノ]]'''(電子ピアノ)と'''デジタルピアノ'''は、前者が[[アナログ回路]]を用いてピアノ(および時にはチェンバロまたはオルガン)の音色を模倣するよう設計されているのに対して、後者は前述したようなデジタル音源を使用することで区別される。日本国内では「デジタルピアノ」の同義語として「電子ピアノ」という用語が使われることが多く、[[河合楽器製作所]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kawai.jp/product/c/digitalpiano/|title=製品情報デジタルピアノ|author=河合楽器製作所|date=2018|accessdate=2018-06-12}}</ref>、[[カシオ計算機]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://casio.jp/emi/|title=電子楽器|author=CASIO|date=2018|accessdate=2018-06-12}}</ref>、および[[コルグ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.korg.com/jp/products/digitalpianos/|title=デジタル・ピアノ - ホーム・プロダクツ|author= KORG (Japan)|date=2018|accessdate=2018-06-12}}</ref>が「デジタルピアノ」、[[ローランド]]<ref>{{cite web|url=https://www.roland.com/jp/categories/pianos/|title= Pianos|author=Roland|date=2018|accessdate=2018-06-12}}</ref>が「デジタルピアノ」と「電子ピアノ」の両方、[[ヤマハ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.yamaha.com/products/musical_instruments/pianos/index.html|title=ピアノ・電子ピアノ|author=ヤマハ|date=2018|accessdate=2018-06-12}}</ref>は「電子ピアノ」という用語を使用している(日本国外ではヤマハも「デジタルピアノ」を使用)。 デジタルピアノは本物のピアノの感覚と音色の水準に達しないかもしれないが、デジタルピアノにはアコースティックピアノと比べて優れた点がある。デジタルピアノはアコースティックピアノよりも価格がかなり低く、ほとんどのモデルはアコースティックピアノよりもかなり小型で軽い。また、デジタルピアノは設計時に[[ピアノ調律|調律]]がされており、製造時のズレはない(ズレた場合はその電子部品は破棄される。通常のピアノはズレていることを前提に製造され、後工程で修正される。)。また経年によるズレが無いため、運用時の調律は不要である。廉価な物では固定された基準周波数での[[平均律]]に調律が固定されており変更が出来ないが、高機能な物だと基準周波数の変更や平均律以外の音律に変更できる。また、調律を他の楽器(例えば[[パイプオルガン]])の調律に合わせて修正することもできる。他の[[電子楽器]]と同様に、デジタルピアノは広い会場のために十分大きな音を生み出すためにキーボードアンプまたは[[Public Address|PAシステム]]に接続することができる。一部のデジタルピアノはピアノ以外の音を模倣することもできる(最も一般的なのは[[パイプオルガン]]、[[エレクトリックピアノ]]、[[ハモンドオルガン]]、[[チェンバロ]])。デジタルピアノは[[音楽学科|音楽学校]]や[[録音スタジオ|音楽スタジオ]]で昔ながらの楽器の代わりにしばしば使われる<ref>{{Cite book|url=https://books.google.de/books?vid=ISBN9780307279330&redir_esc=y|title=A Natural History of the Piano: The Instrument, the Music, the Musicians--from Mozart to Modern Jazz and Everything in Between|last=Stuart Isacoff|first=|publisher=Knopf Doubleday Publishing Group|year=2012|isbn=9780307279330|location=|pages=}}</ref>。 本項での「ピアノ」は、生ピアノ(アコースティック・ピアノ)を指す。 ==ピアノとの違い== ===特長=== デジタル楽器であり音程はきわめて正確である。一般的なデジタルピアノは、設計時に[[調律]]された、デジタル合成された実楽器の音源を発振元とすることで、温湿度や経年変化などの物理的な影響をほとんど受けず、利用者による調律の必要がない。この特徴は、ソフトウェアによる音の変化と相性が良く、多くの機種にトランスポーズやチューニング機能が組み込まれている。ただし、混合されうる概念として、音叉型[[水晶振動子]]などをオシレーターとしたアナログ回路を利用した楽器をデジタルピアノと説明する場合もあるが、音の特徴は類似するが、発振元(オシレーター)がアナログであるために、楽器の構造が本質的に異なる。 弦やそれを支えるフレームなどの大掛かりな機械的部品がないので、軽量・コンパクト。したがって概ね低価格になる。 内蔵アンプで簡単に音量を変えられる。また、通常ヘッドホン出力を持っており、夜間の練習や[[ピアノ騒音殺人事件|騒音問題]]による近所トラブル回避のこともデジタルピアノが選択される大きな理由となっている。 デジタルピアノには、演奏(キーを押すタイミングや速度など)をデータとして記録・再生出来るものも多く、手軽に自分の演奏を聴き直して客観視したり、連弾の練習をしたりする事が出来る。多くの場合、[[MIDI]]に対応している。 必須ではないが、多くの機種では、エレクトリック・ピアノを含む複数種類のピアノ音色や、ピアノ以外の楽器音、演奏を補助する為のリズム(自動伴奏)を内蔵し、練習を支援するための[[メトロノーム]]、内蔵曲のレッスン機能などが搭載されている。収録されている楽器音が多い機種は[[シンセサイザー]]として使う事が出来るが、キーボードがピアノタッチのため重たい。 ===弱点=== 発音源がスピーカーであり、大面積の[[響板]]と物理的な打撃を主な音源とするピアノとは音の広がりや豊かさに本質的な違いがある。 現在のデジタルピアノは[[PCM音源]]を用いているものが主流であるが、PCM音源の原理上、音量・音色の変化はなめらか(=アナログ的な変化)ではなく段階的に変化(=デジタル的に変化)する。 大規模[[集積回路]](LSI)が使われているとその部品自体の修理が一般の工房では出来ないため部品自体の交換が必要になるため、部品の供給がなくなったら修理が出来ない。これに対してピアノは、部品自体を一般の工房で作ることができるため、部品が故障、磨耗、変質、破損しても、木材、金属、布などの素材から再生、修理が可能である。 デジタルピアノ(とピアノ)を製造しているメーカーでも、幼児の入門楽器にはデジタルピアノよりもピアノのほうがふさわしいとしていることがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.yamaha.com/products/contents/pianos/choice/first/index.html|title=「初めてのピアノ選び」Q&A|author=YAMAHA|accessdate=2018-09-03}}</ref>。今の電子ピアノは「お金に余裕のない階層」のためのツールではなくなり、TVアニメの中<ref>{{Cite web |url = https://archive.md/AYJPY |title = Digimon Ghost Game: Ruli Tsukiyono|website = animefeet.blogspot.com|publisher = animefeet.blogspot.com|date = |accessdate = 2022-01-11}}</ref>にも出現している。 ==エレクトリック・ピアノ(電気ピアノ)との違い== 一般に[[エレクトリック・ピアノ]]とは、ピアノと同様に弦や金属棒などをハンマーで叩き、その振動をピックアップで拾い、アンプで増幅して音を出すものをいう。<!--[[アコースティック・ギター|アコースティックギター]]に対する[[エレクトリックギター|エレキギター]]の位置付けとなる楽器である。-->代表的なものとして[[ローズ・ピアノ]]やヤマハ[[ヤマハ・CPシリーズ|CP-80]]、ウーリッツァー・ピアノなどがある。 デジタルピアノでは、物理的に弦などを振動させることはなく、鍵盤は根本的にはスイッチの役割を果たし、電子回路が音を生成している。エレクトリック・ピアノは、ピアノとは違った独特の味わいを持った音色のものも多く、デジタルピアノの音色のひとつとしてエレクトリック・ピアノの音色がサンプリングされている場合もある。可搬性を重視した「ステージ・ピアノ」と呼ばれるデジタルピアノもあり、エレクトリック・ピアノ同様ポピュラー音楽のライブ演奏に用いられる。なお、一般に略語として「エレピ」を使用する場合、デジタルピアノ(エレクトロニック・ピアノ)ではなくエレクトリック・ピアノを指す。 ==シンセサイザーとの違い== 電子楽器の代表である[[シンセサイザー]]も、ピアノ型の鍵盤で演奏されることが多いため、デジタルピアノと似た面がある。特に音源方式については本質的に同じと言える。また、演奏を記録して複数の楽器音を同時に鳴らし、一台でアンサンブルを実現できる機能(シーケンサー内蔵型)が、デジタルピアノとシンセサイザーのどちらにもある。 しかし、一般的なシンセサイザーが、波形を変化させる自由な音色作りを目指しているのに対し、デジタルピアノはピアノの演奏・表現に近づくことを目標としており、鍵盤やペダル、ピアノ音色の再現性などの性能が充実している。前述の通り、電子ピアノの鍵盤はシンセサイザーより重たく、グランドピアノと同じアクション(機械要素)を採用したデジタルピアノもある。 通常、シンセサイザーに付属する鍵盤は、5オクターブ(61鍵)前後で、キーのタッチもピアノとは違って軽い。多くのデジタルピアノでは、ピアノと同じ7オクターブ1/4(88鍵)を備え、キーの重さや動きはピアノに近い。 [[ピアノ曲]]を演奏する上で重要となるペダル、特にダンパーペダルについては、鍵盤タイプのシンセサイザーであれば多くの機種が対応しているが、シンセサイザーの場合、ペダルはオプションの扱いであるのに対し、デジタルピアノでは標準で装備されている。 デジタルピアノには、ソフトペダルやソステヌートペダルを装備したものも多く、ペダルの踏み具合によってダンパーの効き具合を音色に反映させることの可能な(ハーフペダル対応)機種もある。 ==サイレントピアノ== サイレント・ピアノが開発された主な原因は「騒音問題」にあった。[[ピアノ騒音殺人事件]]のころはまだ1970年代の首都圏の騒音問題であった。ところが、1980年代になると田舎や地方でもアップライト・ピアノの所持者が増え(グランド・ピアノの所持者はまだまだ少なかった)、両親が富裕層ではなくともピアノやエレクトーンを学ぶことが常態化していった。このため、ピアノや電子ピアノにサイレント機構を取り入れることが本格化したのが1990年代である。 サイレントピアノは、[[アップライトピアノ]]やグランドピアノにデジタルピアノの音源を組み合わせた[[ヤマハ]]の製品で、1993年に発売された。現在は他社からも同様の製品が発売されている。 ピアノの打弦を物理的に止めて発音させず、代わりに鍵盤の動きを演奏情報としてセンサーで読み取り、電子的な音源部から発音する仕組みになっている。通常のピアノとして演奏することも、夜間などに大きな音を出さずに練習することも出来る。 通常、アップライト型では、3本のペダルのうち中央のペダルを踏むことで消音状態になる。そのため中央のペダルはソステヌートペダルや弱音ペダルとしては使えなくなる。グランド型では、消音用のレバーが別に用意されるため、ソステヌートペダルの機能も残る。 音源部にはグランドピアノなどの音が使用されている。消音状態でも鍵盤のタッチはほとんど変わらないとされている。 1988年、[[坂本龍一]]のコンサートツアー、[[メディア・バーン・ライヴ|メディア・バーン・ツアー]]において、ヤマハの協力の下にMIDIピアノが制作、使用された。これは、同社のグランドピアノ「CFIII」に、タッチへの影響なく演奏情報をMIDIデータとして取り出す仕組みが加えられたものだが、これが後に市販製品であるサイレントピアノへと発展した。 == 代表的なメーカー == ※()内は各社のデジタルピアノブランド名 * [[カシオ]]([[プリヴィア]]) * [[カーツウェル・ミュージック・システムズ|カーツウェル]] * [[河合楽器製作所|カワイ]] * [[クラビア (楽器メーカー)|クラビア]] * [[コルグ]] * [[ヤマハ]]([[クラビノーバ]]) * [[ローランド]](ローランド・ピアノ・デジタル) ==デジタルピアノの代表例== <!-- デジタルピアノのカタログを作るのではなく、歴史的に意味あるものを書き加えていただければと思います。また、主としてシンセサイザーとして使われていたもの(DX7など)は加えないでください。 * [[RMIエレクトラピアノ]](アナログ音源、1967年) --> * ローランド EP-10 (日本初の純電子発振式ピアノ、1973年) * ローランド EP-30 (世界初のタッチ・センス付き電子ピアノ、1974年) * ヤマハ GS1 (FM音源、1981年) * ヤマハ・クラビノーバ YP-30 (FM音源、1983年) * ヤマハ PF15 (FM音源、1983年) * ヤマハ CLP-50 (AWM音源、1986年) * ローランド RD-1000 (SA音源ステージピアノ、1986年) * カーツウェルK-250 (サンプリング音源) * コルグ SG-1D (サンプリング音源) * ヤマハ CLP-911 (AWMダイナミックステレオサンプリング、GH鍵盤、1996年) * ヤマハ CLP-170M (GH3鍵盤、2002年) * ヤマハDUPシリーズ、DGPシリーズ (生ピアノのアクション) ==関連文献== * Yamaha LM Instruments Combo Keyboards (日本楽器製造、1983年、カタログコード LKA312) * Kurzweil "Hear it like you hear it." (ハモンドスズキ、年代不明のカタログだが、1980年代半ばと思われる) * Yamaha Upright Piano (ヤマハ、1999年、カタログコード PAA909) * Yamaha Grand Piano (ヤマハ、1999年、カタログコード PGA909) * Yamaha DGP DUPヤマハ電子型ピアノ (ヤマハ、2007年、カタログコードPDP411) * Roland Foresta (2007年7月、NAM-5047 '07 JUL C-3 U-P) * Media Bahn Tour Programme (ヨロシタミュージック、1986年) ==関連項目== * [[エレクトロニックピアノ]] * [[エレクトリックピアノ]] * [[PCM音源]] *[[電子オルガン]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group=注釈}}--> === 出典 === {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てしたるひあの}} [[Category:電子楽器]] [[Category:鍵盤楽器]] [[Category:ピアノ]]
2003-07-23T14:54:46Z
2023-12-04T14:17:08Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Normdaten", "Template:Pathnav", "Template:Distinguish", "Template:Lang-en-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E
12,101
新宿西口駅
新宿西口駅(しんじゅくにしぐちえき)は、東京都新宿区西新宿一丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅である。駅番号はE 01。 大江戸線の駅では最も若い駅番号が付けられているが、当駅始発の列車は設定されていない(全電車が隣の都庁前駅 (E 28) 始発)。 開業時は「小田急百貨店前」の駅名併称があったが、その後駅名標の下の併称表示板は撤去され、施設案内も放送されなくなった。後に「損保ジャパン日本興亜本社前」の併称表示板が設置されたものの、2016年時点では再び撤去されている。 都庁前駅務管区都庁前駅務区の被管理駅。直営駅。島式ホーム1面2線の地下駅。地下4階にあり、JR新宿駅西口の北側寄りから「新宿大ガード西」交差点付近に位置する。 JR東日本・京王・小田急各線の新宿駅及び西武新宿駅と相互に乗り換えができる他、東京メトロ丸ノ内線新宿駅とも連絡している(出入口を一部共用)。 (出典:都営地下鉄:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は46,745人(乗車人員:24,207人、降車人員:22,538人)である。 開業以来の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表の通り。 D5出口付近に「新宿広小路」バス停があり、以下の路線が関東バスによって運行されている。 なお、上記以外にも新宿駅西口バス停から多くの路線が発着している。詳細は新宿駅のバス乗り場の項を参照。 かつては京王電鉄および小田急電鉄の新宿駅と当駅の連絡定期券の購入はできなかった。 ヨドバシカメラのCMソングで「新宿西口駅の前」と歌われているが、これは当駅のことではなく新宿駅の西側を指している(なお、CM曲の発表当時は当駅は未開業だった)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "新宿西口駅(しんじゅくにしぐちえき)は、東京都新宿区西新宿一丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅である。駅番号はE 01。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大江戸線の駅では最も若い駅番号が付けられているが、当駅始発の列車は設定されていない(全電車が隣の都庁前駅 (E 28) 始発)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "開業時は「小田急百貨店前」の駅名併称があったが、その後駅名標の下の併称表示板は撤去され、施設案内も放送されなくなった。後に「損保ジャパン日本興亜本社前」の併称表示板が設置されたものの、2016年時点では再び撤去されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "都庁前駅務管区都庁前駅務区の被管理駅。直営駅。島式ホーム1面2線の地下駅。地下4階にあり、JR新宿駅西口の北側寄りから「新宿大ガード西」交差点付近に位置する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "JR東日本・京王・小田急各線の新宿駅及び西武新宿駅と相互に乗り換えができる他、東京メトロ丸ノ内線新宿駅とも連絡している(出入口を一部共用)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "(出典:都営地下鉄:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は46,745人(乗車人員:24,207人、降車人員:22,538人)である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "開業以来の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "D5出口付近に「新宿広小路」バス停があり、以下の路線が関東バスによって運行されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、上記以外にも新宿駅西口バス停から多くの路線が発着している。詳細は新宿駅のバス乗り場の項を参照。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "かつては京王電鉄および小田急電鉄の新宿駅と当駅の連絡定期券の購入はできなかった。", "title": "その他の事項" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ヨドバシカメラのCMソングで「新宿西口駅の前」と歌われているが、これは当駅のことではなく新宿駅の西側を指している(なお、CM曲の発表当時は当駅は未開業だった)。", "title": "その他の事項" } ]
新宿西口駅(しんじゅくにしぐちえき)は、東京都新宿区西新宿一丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅である。駅番号はE 01。 大江戸線の駅では最も若い駅番号が付けられているが、当駅始発の列車は設定されていない。 開業時は「小田急百貨店前」の駅名併称があったが、その後駅名標の下の併称表示板は撤去され、施設案内も放送されなくなった。後に「損保ジャパン日本興亜本社前」の併称表示板が設置されたものの、2016年時点では再び撤去されている。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Redirect4|新宿西口|その他|新宿駅#西側|新宿駅西口地下広場}} {{混同|西新宿駅}} {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 新宿西口駅 |画像 = Shinjuku-Nishiguchi-Sta-D4.JPG |pxl = 300px |画像説明 = D4出入口(2010年5月) |よみがな = しんじゅくにしぐち |ローマ字 = Shinjuku-nishiguchi |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}} |前の駅 = E 28 [[都庁前駅|都庁前]] |駅間A = 0.8 |駅間B = 1.4 |次の駅 = [[東新宿駅|東新宿]] E 02 |副駅名 = |電報略号 = 口(駅名略称) |駅番号 = {{駅番号r|E|01|#ce045b|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所属路線 = {{color|#ce045b|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] |キロ程 = 0.8 |起点駅 = [[都庁前駅|都庁前]] |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[西新宿]]一丁目3-17 |緯度度 = 35 |緯度分 = 41 |緯度秒 = 35.9 |経度度 = 139 |経度分 = 41 |経度秒 = 56.9 |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[2000年]]([[平成]]12年)[[12月12日]]<ref name="交通20001213">{{Cite news |title=都営地下鉄大江戸線が全通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-12-13 |page=3 }}</ref> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />46,745 |統計年度 = 2022年 |乗換 = [[新宿駅]](接続路線はリンク先参照)<br />{{駅番号r|SS|01|#0099cc|2}} [[西武新宿駅]]([[西武新宿線]]) |備考 = }} {{maplink2|frame=yes|zoom=14|frame-width=250 |type=point|type2=point|type3=point|type4=point |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail-metro|marker4=rail |coord={{coord|35|41|46.5|N|139|42|0|E}}|marker-color=09c|title=西武新宿駅 |coord2={{coord|35|41|32|N|139|42|3|E}}|marker-color2=f62e36|title2=東京メトロ新宿駅 |coord3={{coord|35|41|35.9|N|139|41|56.9|E}}|marker-color3=ce045b|title3=都営地下鉄新宿西口駅 |coord4={{coord|35|41|27|N|139|42|1|E}}|marker-color4=9acd32|title4=JR新宿駅 |frame-latitude=35.693602|frame-longitude=139.700161|text=当駅(真ん中左)と西武新宿駅とJRおよび東京メトロ新宿駅の位置関係。駅名は右上の四角マークで地図を拡大し電車アイコンをクリックして表示される。}} '''新宿西口駅'''(しんじゅくにしぐちえき)は、[[東京都]][[新宿区]][[西新宿]]一丁目にある、[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''E 01'''。 大江戸線の駅では最も若い駅番号が付けられているが、当駅始発の列車は設定されていない(全電車が隣の都庁前駅 ('''E 28''') 始発)。 開業時は「[[小田急百貨店]]前」の駅名併称があったが、その後[[駅名標]]の下の併称表示板は撤去され、施設案内も放送されなくなった。後に「[[損保ジャパン本社ビル|損保ジャパン日本興亜本社]]前」の併称表示板が設置されたものの、2016年時点では再び撤去されている。 == 歴史 == * [[2000年]]([[平成]]12年)[[12月12日]]:開業<ref name="交通20001213"/>。これに先立ち、前日の[[12月11日]]に当駅にて開通式が挙行される<ref name="交通20001213"/>。建設時の仮駅名は「'''北新宿駅'''」だった。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)10月:[[ホームドア]]を導入。 * [[2016年]](平成28年)[[4月1日]]:上野御徒町駅務管理所新宿西口駅務区を廃止。傘下駅のうち、[[飯田橋駅]] - [[牛込神楽坂駅]]間は巣鴨駅務管区上野御徒町駅務区、[[牛込柳町駅]] - 新宿西口駅間は都庁前駅務管区都庁前駅務区に移管された。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月18日]]:定期券発売所が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2019/sub_p_201909028736_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210425072912/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2019/sub_p_201909028736_h_01.pdf|title=〈新宿西口〉〈新橋〉 定期券発売所 営業終了のお知らせ|archivedate=2021-04-25|accessdate=2021-04-25|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 == 駅構造 == 都庁前駅務管区都庁前駅務区の被管理駅。[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]。[[島式ホーム]]1面2線の[[地下駅]]。地下4階にあり、[[東日本旅客鉄道|JR]][[新宿駅]]西口の北側寄りから「新宿大ガード西」交差点付近に位置する。 JR東日本・[[京王線|京王]]・[[小田急小田原線|小田急]]各線の新宿駅及び西武新宿駅と相互に乗り換えができる他、[[東京メトロ丸ノ内線]]新宿駅とも連絡している(出入口を一部共用)。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/oedo/E01BD.html |title=新宿西口 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan=2|[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線 |[[都庁前駅|都庁前]]・{{small|(都庁前のりかえ)}}[[六本木駅|六本木]]・[[光が丘駅|光が丘]]方面 |- !2 |[[飯田橋駅|飯田橋]]・[[両国駅|両国]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shinjuku-nishiguchi.html 都営地下鉄:駅構内図]) <gallery> Toei Shinjuku-Nishiguchi-STA Gate.jpg|改札口(2022年5月) Toei Shinjuku-Nishiguchi-STA Home.jpg|ホーム(2022年5月) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''46,745人'''([[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]:24,207人、[[乗降人員#降車人員|降車人員]]:22,538人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 開業以来の1日平均'''乗降'''・'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365(or366)で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |2000年(平成12年) |29,436 |14,684 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |37,524 |19,136 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |43,487 |22,192 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |46,811 |24,193 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |48,573 |25,117 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |50,471 |26,233 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |51,714 |26,643 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |53,685 |27,800 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |53,889 |27,285 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |51,604 |26,798 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |52,035 |27,045 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |51,059 |26,487 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |53,072 |27,592 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |54,489 |28,411 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |56,005 |29,220 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |58,220 |30,466 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |58,663 |30,583 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |59,709 |31,136 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |62,082 |32,698 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |61,649 |32,199 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>41,640 |<ref group="都交" name="toei2020" />21,279 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>42,938 |<ref group="都交" name="toei2021" />22,104 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>46,745 |<ref group="都交" name="toei2022" />24,207 | |} == 駅周辺 == * [[青梅街道]]([[東京都道4号東京所沢線]]・[[東京都道5号新宿青梅線]]) * [[靖国通り]] * [[小滝橋通り]] * [[新宿大ガード]] * [[新宿西口商店街]] * [[西武新宿駅]]([[西武新宿線]]) * 新宿[[プリンスホテル]] * [[PePe]]西武新宿 * [[新宿駅]]([[東京メトロ丸ノ内線]]・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[京王電鉄]]・[[小田急電鉄]]) * 新宿西口ハルク ** [[小田急百貨店]] 新宿店 ** [[ビックカメラ]] 新宿西口店 * 新宿パレットビル(当駅と地下で直結) * [[新宿エルタワー]] === バス路線 === D5出口付近に「'''新宿広小路'''」バス停があり、以下の路線が[[関東バス]]によって運行されている。 * 宿01 新宿駅西口行 / [[都営バス小滝橋営業所|小滝橋]]行(平日朝のみ) * 宿01-1 新宿駅西口経由新宿西口行(平日朝1便のみ、新宿西口バス停は三菱UFJ銀行前の70番のりば) * 宿02 新宿駅西口行 / [[関東バス丸山営業所|丸山営業所]]行 * 宿05 新宿駅西口行 / 堀越学園・中野駅経由[[野方駅]]行 * 宿07 新宿駅西口行 / [[関東バス阿佐谷営業所|阿佐谷営業所]]行(中野駅非経由) * 宿08 新宿駅西口行 / 落合駅経由[[中野駅 (東京都)|中野駅]]行 なお、上記以外にも新宿駅西口バス停から多くの路線が発着している。詳細は[[新宿駅のバス乗り場]]の項を参照。 == その他の事項 == かつては[[京王電鉄]]および[[小田急電鉄]]の[[新宿駅]]と当駅の連絡[[定期乗車券|定期券]]の購入はできなかった。 [[ヨドバシカメラ]]のCMソングで「新宿西口駅の前」と歌われているが、これは当駅のことではなく新宿駅の西側を指している(なお、CM曲の発表当時は当駅は未開業だった)。 == 隣の駅 == ; 東京都交通局 : [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 大江戸線 :: [[都庁前駅]] (E 28) - '''新宿西口駅 (E 01)''' - [[東新宿駅]] (E 02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Shinjuku-Nishiguchi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shinjuku-nishiguchi.html 新宿西口駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] {{都営地下鉄大江戸線}} {{デフォルトソート:しんしゆくにしくち}} [[Category:新宿駅]] [[Category:新宿区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 し|んしゆくにしくち]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅]] [[Category:2000年開業の鉄道駅]] [[Category:新宿]]
2003-07-23T15:47:41Z
2023-11-22T21:19:28Z
false
false
false
[ "Template:Cite report", "Template:Small", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:駅情報", "Template:Maplink2", "Template:Cite press release", "Template:Commonscat", "Template:都営地下鉄大江戸線", "Template:混同", "Template:0", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Pp-vandalism", "Template:Redirect4" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E8%A5%BF%E5%8F%A3%E9%A7%85
12,102
浄土宗
浄土宗(じょうどしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつである。浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、法然を宗祖とする。鎌倉仏教のひとつ。 本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。浄土専念宗とも呼ばれる。 承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水の吉水草庵に住み、念仏の教えをひろめた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。 その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依(南無)しますの意味。 それを称名念仏といい、阿弥陀佛の選択によって選び取られた本願の行と解される。 浄土宗における念仏は「南無阿弥陀仏」を示すこの善導の文言から始まったと言っても過言ではない。 法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。 日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。 法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空、弁長、幸西、長西、隆寛、親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。 嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった。事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、安貞2年(1228年)に西山の粟生野で荼毘に付された。 その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった三鈷寺証空の西山義(西山派)、九州の草野氏の庇護を受けた善導寺弁長の鎮西義(鎮西派)、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた長楽寺隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた九品寺長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団は、後に浄土真宗としてまた別の流れを作っていくのでこの4流には含まれていない。 他にも比叡山黒谷別所(現・青龍寺)と白川本坊(現・金戒光明寺)の信空教団と白川門徒、嵯峨二尊院の湛空と嵯峨門徒、知恩院を再興した賀茂功徳院神宮堂(現・百万遍知恩寺)の源智と紫野門徒、一念義を唱える幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立していく。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。 一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし、関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。良忠は上洛すると源智の弟子である紫野門徒知恩寺代3世信慧と「赤築地の談」を行い、鎮西義と紫野門徒の統合を行った。 西山義は証空の死後にその弟子たちが、証安の西山義・証入の東山義・証慧の嵯峨義・浄音の西谷義(現・西山浄土宗と浄土宗西山禅林寺派)・遊観の本山義・立信の深草義(現・浄土宗西山深草派)・聖達の弟子一遍の時宗などに分かれた。 鎮西義は良忠の死後にその弟子たちが、鎌倉悟真寺良暁の白旗派(現・浄土宗)・鎌倉善導寺尊観の名越派・性心の藤田派(これらを関東三派という)・然空の弟子、清浄華院向阿証賢の一条派・道光の三条派・良空の木幡派(これらを京都三派という)、さらに蓮華寺一向俊聖の一向派などに分かれ、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になった。 その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西義の中でも藤田派の聖観・良栄、白旗派の聖冏・聖聡が現れて宗派を興隆して西山義及び鎮西義の他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとし、やがて白旗派が鎮西義を統一していくこととなる。第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底は松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。 また、戦国時代には縁誉称念による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して分派し、天文17年(1548年)には知恩院にある法然上人御廟の向かいに一心院を建立している。 応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である徳川家康が江戸幕府を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院28世の尊照と増上寺12世の存応は、家康の崇敬を受けた。そしてこの二人によって元和元年(1615年)7月に寺院諸法度の一環として出された「浄土宗法度」が制定され、幕府の命によって発布された。そこには知恩院が宮門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」(宗務所)が設置された。これにより白旗派が主導する浄土宗の鎮西義は幕府の手厚い保護を受けることになる。 また、このとき浄土宗の西山義に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されており、浄土宗とは違う対応がなされている。 江戸幕府が倒壊し明治時代に入ると、廃仏毀釈の混乱のなかから養鸕徹定・福田行誡らによって近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西義が統一され、現在の浄土宗の原型が成立する。 西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院)の勢力も存在する。 本尊 脇侍 祖師・高僧像 経典 論 総本山 大本山 本山 特別寺院 浄土宗西山禅林寺派総本山 西山浄土宗総本山 浄土宗西山深草派 総本山
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "浄土宗(じょうどしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつである。浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、法然を宗祖とする。鎌倉仏教のひとつ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。浄土専念宗とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水の吉水草庵に住み、念仏の教えをひろめた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依(南無)しますの意味。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "それを称名念仏といい、阿弥陀佛の選択によって選び取られた本願の行と解される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "浄土宗における念仏は「南無阿弥陀仏」を示すこの善導の文言から始まったと言っても過言ではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空、弁長、幸西、長西、隆寛、親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった。事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、安貞2年(1228年)に西山の粟生野で荼毘に付された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった三鈷寺証空の西山義(西山派)、九州の草野氏の庇護を受けた善導寺弁長の鎮西義(鎮西派)、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた長楽寺隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた九品寺長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団は、後に浄土真宗としてまた別の流れを作っていくのでこの4流には含まれていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "他にも比叡山黒谷別所(現・青龍寺)と白川本坊(現・金戒光明寺)の信空教団と白川門徒、嵯峨二尊院の湛空と嵯峨門徒、知恩院を再興した賀茂功徳院神宮堂(現・百万遍知恩寺)の源智と紫野門徒、一念義を唱える幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立していく。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし、関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。良忠は上洛すると源智の弟子である紫野門徒知恩寺代3世信慧と「赤築地の談」を行い、鎮西義と紫野門徒の統合を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "西山義は証空の死後にその弟子たちが、証安の西山義・証入の東山義・証慧の嵯峨義・浄音の西谷義(現・西山浄土宗と浄土宗西山禅林寺派)・遊観の本山義・立信の深草義(現・浄土宗西山深草派)・聖達の弟子一遍の時宗などに分かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "鎮西義は良忠の死後にその弟子たちが、鎌倉悟真寺良暁の白旗派(現・浄土宗)・鎌倉善導寺尊観の名越派・性心の藤田派(これらを関東三派という)・然空の弟子、清浄華院向阿証賢の一条派・道光の三条派・良空の木幡派(これらを京都三派という)、さらに蓮華寺一向俊聖の一向派などに分かれ、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西義の中でも藤田派の聖観・良栄、白旗派の聖冏・聖聡が現れて宗派を興隆して西山義及び鎮西義の他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとし、やがて白旗派が鎮西義を統一していくこととなる。第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底は松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、戦国時代には縁誉称念による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して分派し、天文17年(1548年)には知恩院にある法然上人御廟の向かいに一心院を建立している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である徳川家康が江戸幕府を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院28世の尊照と増上寺12世の存応は、家康の崇敬を受けた。そしてこの二人によって元和元年(1615年)7月に寺院諸法度の一環として出された「浄土宗法度」が制定され、幕府の命によって発布された。そこには知恩院が宮門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」(宗務所)が設置された。これにより白旗派が主導する浄土宗の鎮西義は幕府の手厚い保護を受けることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、このとき浄土宗の西山義に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されており、浄土宗とは違う対応がなされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "江戸幕府が倒壊し明治時代に入ると、廃仏毀釈の混乱のなかから養鸕徹定・福田行誡らによって近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西義が統一され、現在の浄土宗の原型が成立する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山誓願寺)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山一心院)の勢力も存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "本尊", "title": "浄土宗寺院特徴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "脇侍", "title": "浄土宗寺院特徴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "祖師・高僧像", "title": "浄土宗寺院特徴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "経典", "title": "主要経論" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "論", "title": "主要経論" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "総本山", "title": "主要寺院" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "大本山", "title": "主要寺院" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "本山", "title": "主要寺院" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "特別寺院", "title": "主要寺院" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "浄土宗西山禅林寺派総本山", "title": "主要寺院" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "西山浄土宗総本山", "title": "主要寺院" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "浄土宗西山深草派 総本山", "title": "主要寺院" } ]
伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。鎮西派と西山派に分かれる。 近現代の教団としての浄土宗。知恩院を総本山とする仏教教団。浄土宗白旗派を中心とする浄土宗系教団。 浄土宗(じょうどしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつである。浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、法然を宗祖とする。鎌倉仏教のひとつ。 本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。浄土専念宗とも呼ばれる。
{{Otheruseslist|'''[[日本]]の浄土宗'''|[[海外|日本以外]]の浄土宗|浄土教}} {{出典の明記|date= 2023年9月30日 (土) 07:07 (UTC)}} # 伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。[[#鎮西派|鎮西派]]と[[#西山派|西山派]]に分かれる。 # [[近現代]]の教団としての浄土宗。[[知恩院]]を総本山とする仏教教団。浄土宗[[白旗派]]を中心とする浄土宗系教団。 ---- {{大乗仏教}} [[File:月形杏葉(つきがた ぎょうよう).png|thumb|月形杏葉(つきがた ぎょうよう)]] '''浄土宗'''(じょうどしゅう)は、[[大乗仏教]]の宗派のひとつである。[[浄土教|浄土信仰]]に基づく[[日本の仏教|日本仏教]]の宗旨で、'''[[法然]]'''を宗祖とする。[[鎌倉仏教]]のひとつ。 [[本尊]]は[[阿弥陀如来]](舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。'''浄土専念宗'''とも呼ばれる。 __TOC__{{-}} == 概要 == [[承安 (日本)|承安]]5年([[1175年]])、法然は43歳の時に、[[善導]]撰述の『'''[[観無量寿経疏]]'''』(『観経疏』)によって[[専修念仏]]の道に進み、[[延暦寺|叡山]]を下りて東山吉水の[[安養寺 (京都市東山区)|吉水草庵]]に住み、念仏の教えをひろめた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97-79626 浄土宗とは] {{ja icon}} - [[コトバンク]]/[[世界大百科事典]]</ref>。 その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、 : 一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故 : (意訳)<small>一心に専ら弥陀の名を称え、いつでも何処でも時間の短い長いに関係なく、常にこれを念頭に置き継続する事が[[往生]]への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。</small> 「南無阿弥陀仏」は、'''[[阿弥陀仏]]に[[帰依|帰依(南無)]]しますの[[意味]]。''' それを称名念仏といい、阿弥陀佛の[[選択 (仏教)|選択]]によって選び取られた本願の行と解される。 '''浄土宗'''における[[念仏]]は「南無阿弥陀仏」を示すこの善導の文言から始まったと言っても過言ではない。 法然撰述の『'''[[選択本願念仏集]]'''』が、浄土宗の[[根本聖典]]となっており、教義の集大成となっている。 日常勤行で読まれる法然の「[[一枚起請文]]」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。 == 歴史 == [[ファイル:浄土宗宗務庁.JPG|thumb|300px|浄土宗宗務庁([[京都府]]){{ウィキ座標|35|0|22.3|N|135|46|47|E||地図|name=浄土宗宗務庁}}]] [[ファイル:Meisho Kaikan.JPG|thumb|300px|浄土宗宗務庁([[東京都]])]] === 草創期 === {{main2|法然在世時の歴史|法然#生涯}} 法然の没後、長老の[[信空 (浄土宗)|信空]]が後継となったものの、[[証空]]、[[弁長]]、[[幸西]]、[[長西]]、[[隆寛]]、[[親鸞]]ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。 [[嘉禄]]3年([[1227年]])、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった。事の発端には、[[法性寺 (京都市東山区)|法性寺]]の寺宝が盗まれた際に、念仏者が[[盗賊|盗賊団]]の一味として疑われたことがある。また、[[延暦寺]]の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『[[選択本願念仏集]]』は[[禁書]]扱いを受け、[[東山 (京都府)|東山]]大谷の法然墓堂も[[破壊]]された。なお、この際に幸西は[[壱岐国]]に、隆寛は[[陸奥国]]に[[配流]]されている。法然の遺骸は、[[太秦]][[広隆寺]]の来迎房円空に託され、[[安貞]]2年([[1228年]])に西山の粟生野で荼毘に付された。 {{see|嘉禄の法難}} その後、'''浄土四流'''(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった[[三鈷寺]][[証空]]の'''西山義'''(西山派)、[[九州]]の[[草野氏]]の庇護を受けた[[善導寺 (久留米市)|善導寺]][[弁長]]の'''鎮西義'''(鎮西派)、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた[[長楽寺 (京都市)|長楽寺]][[隆寛]]の'''長楽寺義'''、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた[[九品寺 (京都市)|九品寺]][[長西]]の'''九品寺義'''の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった[[親鸞]]の教団は、後に[[浄土真宗]]としてまた別の流れを作っていくのでこの4流には含まれていない。 他にも比叡山黒谷別所(現・[[青龍寺 (大津市坂本)|青龍寺]])と白川本坊(現・[[金戒光明寺]])の[[信空 (浄土宗)|信空]]教団と白川門徒、[[嵯峨 (京都市)|嵯峨]][[二尊院]]の[[湛空]]と嵯峨門徒、[[知恩院]]を再興した賀茂功徳院神宮堂(現・[[知恩寺|百万遍知恩寺]])の[[源智]]と紫野門徒、一念義を唱える[[幸西]]など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立していく。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。 一方、[[関東]]においても[[鎌倉幕府]]によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は[[北条氏]]一族の中にも受け入れられて[[鎌倉]][[弁ヶ谷]]に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖[[良忠]]も[[下総国]][[匝瑳南条荘]]を中心とし、[[関東地方|関東各地]]に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]は[[真言律宗]]になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、[[高徳院]](鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは[[江戸時代]]とも言われ、その初期については諸説がある)。良忠は[[上洛]]すると源智の弟子である紫野門徒知恩寺代3世[[信慧]]と「赤築地の談」を行い、鎮西義と紫野門徒の統合を行った。 === 分裂の時代 === 西山義は証空の死後にその弟子たちが、[[証安]]の西山義・[[証入]]の東山義・[[証慧]]の嵯峨義・[[浄音]]の西谷義(現・[[西山浄土宗]]と[[浄土宗西山禅林寺派]])・[[遊観]]の本山義・[[立信]]の深草義(現・[[浄土宗西山深草派]])・[[聖達]]の弟子[[一遍]]の[[時宗]]などに分かれた。 鎮西義は良忠の死後にその弟子たちが、鎌倉[[悟真寺]][[良暁]]の白旗派(現・浄土宗)・鎌倉[[安養院 (鎌倉市)|善導寺]][[尊観]]の名越派・[[性心]]の藤田派(これらを関東三派という)・[[然空]]の弟子、[[清浄華院]][[向阿]]証賢の一条派・[[道光 (浄土宗)|道光]]の三条派・[[良空]]の木幡派(これらを京都三派という)、さらに[[蓮華寺 (米原市)|蓮華寺]][[一向俊聖]]の[[一向宗|一向派]]などに分かれ、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になった。 その後[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]にかけて、鎮西義の中でも藤田派の[[聖観]]・[[良栄]]、白旗派の[[聖冏]]・[[聖聡]]が現れて宗派を興隆して西山義及び鎮西義の他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「'''[[五重相伝]]'''」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとし、やがて白旗派が鎮西義を統一していくこととなる。第8祖の聖聡は[[増上寺]]を創建し、その孫弟子にあたる[[愚底]]は[[松平親忠]]に乞われて[[大樹寺]]を創建した。 また、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[縁誉称念]]による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して分派し、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])には[[知恩院]]にある法然上人御廟の向かいに[[一心院]]を建立している。 [[応仁の乱]]後、白旗派の手によって再興された知恩院は[[天正]]3年([[1575年]])に[[正親町天皇]]より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への[[香衣]]付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である[[徳川家康]]が[[江戸幕府]]を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院28世の[[尊照]]と[[増上寺]]12世の[[慈昌|存応]]は、家康の崇敬を受けた。そしてこの二人によって[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])7月に[[寺院諸法度]]の一環として出された「[[浄土宗法度]]」が制定され、[[江戸幕府|幕府]]の命によって発布された。そこには知恩院が宮[[門跡寺院]]・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」(宗務所)が設置された。これにより白旗派が主導する浄土宗の鎮西義は幕府の手厚い保護を受けることになる。 また、このとき浄土宗の西山義に対しては別個に「[[浄土宗西山派法度]]」が出されており、浄土宗とは違う対応がなされている。 === 明治時代以後 === [[江戸幕府]]が倒壊し[[明治]][[時代]]に入ると、[[廃仏毀釈]]の混乱のなかから[[養鸕徹定]]・[[福田行誡]]らによって[[近代|近代化]]が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西義が統一され、現在の浄土宗の原型が成立する。 * [[1876年]]([[明治]]9年)9月25日 - '''浄土宗'''から西山義が分派し、'''浄土宗西山派'''を結成した。この時に浄土宗西山派は西谷流・[[光明寺 (長岡京市)|粟生光明寺]]が西本山、西谷流・[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]]が東本山、深草流・[[誓願寺]]が北本山、深草流・[[円福寺]]が南本山となり、四本山制となる。 * [[1919年]]([[大正]]8年)4月30日 - 浄土宗西山派が粟生光明寺を総本山とする浄土宗西山光明寺派(後の[[西山浄土宗]])、禅林寺を総本山とする[[浄土宗西山禅林寺派]]、誓願寺を総本山とする[[浄土宗西山深草派]]の三つに分裂する。この三つを総称して西山三派という。 * [[1941年]]([[昭和]]16年) - [[日中戦争]]中の[[戦時統制]]によって西山三派が再び合流して浄土宗西山派となる。 * [[1943年]](昭和18年) - 浄土宗に[[時宗]][[時宗十二派|十二派]]のうちの本山を[[蓮華寺 (米原市)|蓮華寺]]とする[[一向宗|一向派]]と本山を[[佛向寺]]とする天童派が合流する。 * [[1945年]](昭和20年)12月28日 - [[宗教法人]]令が施行。 * [[1946年]](昭和21年) ** 「宗教法人浄土宗」が宗教法人令に基づき設立。 ** 宗教法人浄土宗から、[[金戒光明寺]]を本山とする黒谷浄土宗が分派する。 * [[1947年]](昭和22年) ** 12月8日 - 宗教法人浄土宗から、知恩院を本山とする本派浄土宗(後に浄土宗本派に改称)が分派し、「宗教法人 本派浄土宗」が宗教法人令に基づき設立<ref name="rirc-jodoshu">{{Cite web|和書|url=http://www.rirc.or.jp/xoops/modules/xxxxx05/detail.php?id=183 | title=浄土宗 | publisher=公益財団法人国際宗教研究所 |website=教団データベース |date= | accessdate=2023-01-16 }} {{ja icon}}</ref>。 ** 浄土宗西山派が粟生光明寺を総本山とする'''[[西山浄土宗]]'''(浄土宗西山光明寺派が改称)、禅林寺を総本山とする'''[[浄土宗西山禅林寺派]]'''、誓願寺を総本山とする'''[[浄土宗西山深草派]]'''の三つに再び分裂する。 * [[1948年]](昭和23年) - 西山浄土宗から[[曼陀羅寺]]を本山とする浄土宗西山曼陀羅寺派が分派する([[1961年]]([[昭和]]36年)、西山浄土宗に合流)。 * [[1950年]](昭和25年) - 浄土宗から[[一心院]]を本山とする浄土宗捨世派が分派する。 * [[1951年]](昭和26年) ** 浄土宗西山深草派から[[真宗院]]を本山とする「深草浄土宗」が分派。 ** [[証空]]ゆかりの[[三鈷寺]]が[[天台宗]]から分派し、「西山宗」を結成。 ** 4月3日 - [[宗教法人法]]が施行。 * [[1952年]](昭和27年) ** 4月7日 - 「宗教法人浄土宗本派」(本派浄土宗を改めた)が宗教法人法に基づく規則の認証を受け、設立。 ** 7月25日 - 「宗教法人浄土宗」が宗教法人法に基づく規則の認証を受け、設立。 * [[1961年]](昭和36年)1月 - 法然上人750年忌を機に、浄土宗本派が浄土宗に合流する。 * [[1962年]](昭和37年)3月27日 - 宗教法人浄土宗と宗教法人浄土宗本派の合併が認証され、新しい「宗教法人浄土宗」が設立。 * [[1966年]](昭和41年) - 深草浄土宗は、元の浄土宗西山深草派に合流。 * [[1977年]](昭和52年) - 黒谷浄土宗が浄土宗に合流する。 * [[2011年]](平成23年)11月17日 - 念佛寺([[三重県]][[伊賀市]])住職の豊岡鐐尓が、「宗教法人浄土宗」の宗務総長に就任<ref>{{Cite web|和書|author= |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1703V_X11C11A1CR8000/| title=浄土宗宗務総長に豊岡氏| publisher=日本経済新聞 |date=2011-11-17 | accessdate=2023-01-16 }} {{ja icon}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)11月19日 - [[當麻寺]]奥院([[奈良県]][[葛城市]])[[住職]]の[[川中光教]]が、「[[宗教法人]] 浄土宗」の宗務総長に就任<ref name="mainichi20191121">{{Cite web|和書|author= |url=https://mainichi.jp/articles/20191121/ddl/k26/040/375000c | title=浄土宗、新宗務総長に川中氏 奈良・当麻寺奥院住職 /京都 | publisher=毎日新聞 |date=2019-11-21 | accessdate=2023-01-16 }} {{ja icon}}</ref>。 西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山[[光明寺_(長岡京市)|粟生光明寺]])・浄土宗西山禅林寺派(総本山[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]])・[[浄土宗西山深草派]](総本山[[誓願寺]])の3派が並立した状態が続いている。また、[[江戸時代]]の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山[[一心院]])の勢力も存在する。 == 宗教法人浄土宗 == * 認証:[[1962年]]([[昭和]]37年)3月27日<ref name="rirc-jodoshu"/> * 登記:1962年(昭和37年)4月7日<ref name="rirc-jodoshu"/> * 所在地:[[京都府]][[京都市]][[東山区]][[新橋通]]大和大路東入 3丁目林下町 400番地 8号<ref name="rirc-jodoshu"/> * 代表役員:[[川中光教]]<ref name="mainichi20191121"/> == 浄土宗寺院特徴 == 本尊 * '''阿弥陀如来''' 脇侍 * 左脇侍…[[観音菩薩]] * 右脇侍…[[勢至菩薩]] 祖師・高僧像 * 左…[[善導]]大師 * 右…[[法然]]上人 * 注)下記二名は鎮西派(浄土宗)。 ** 二祖…[[弁長]]上人 ** 三祖…[[良忠]]上人 * 注)下記一名は西山派(西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派)。 ** 二祖…[[証空]]上人 == 主要経論 == {{Wikisource|仏説無量寿経}} {{Wikisource|仏説観無量寿経}} {{Wikisource|仏説阿弥陀経}} {{Wikisource|無量寿経優婆提舎願生偈}} {{Wikisource|一枚起請文}} '''[[経典]]''' * 「[[浄土三部経]]」 ** 『[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]』(『大経』) ** 『[[観無量寿経|仏説観無量寿経]](『観経』) ** 『[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]』(『小経』) '''[[論 (仏教)|論]]''' * 『[[無量寿経優婆提舎願生偈]]』(『往生論』・『浄土論』) * 『'''観無量寿経疏'''』 * 『'''選択本願念仏集'''』 * 『[[一枚起請文]]』(いちまいきしょうもん) * 『[[一紙小消息]]』(いっしこしょうそく) == 浄土宗宗歌 == * 「'''月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ'''」 ** この宗歌は「月かげ」と称され、法然の真作とされる23首の[[和歌]]のうちでも最も有名なものである。[[鎌倉時代]]の[[勅撰和歌集]]てせある[[続千載和歌集]]にも採用されている。「'''月の光はどこにでも届いているけれども、それを眺める人だけが美しいと感じることができる'''」という歌に、「'''阿弥陀仏の救いは誰にでも向けられているけれども、それを信じる人だけがその慈悲に預かることができる'''」という[[意味]]を重ねている。[[法然上人二十五霊場]]、[[十八番]][[月輪寺]]の[[詠歌]]にもなっている。 == 主要寺院 == {{百科事典的でない|date= 2023年9月30日 (土) 07:07 (UTC)|section= 1|type= NOTLINK}} === 鎮西派 === 総本山 * [[知恩院]]…(正式名称)華頂山知恩教院大谷寺([[京都府]][[京都市]][[東山区]]) : http://www.chion-in.or.jp/ 大本山 * [[増上寺]]…(正式名称)三縁山広度院増上寺([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]) : http://www.zojoji.or.jp/ * [[金戒光明寺]]…(正式名称)紫雲山金戒光明寺(京都府京都市[[左京区]]) : http://www.kurodani.jp/ * [[知恩寺|百萬遍知恩寺]](京都府京都市左京区) : http://www.jodo.jp/290004/03/ * [[清浄華院]]…(京都府京都市[[上京区]]) : http://www.jozan.jp/ * [[善導寺 (久留米市)|善導寺]]…(正式名称)井上山光明院善導寺([[福岡県]][[久留米市]]) : http://www.zendoji.jp/ * [[光明寺 (鎌倉市)|光明寺]]…(正式名称)天照山蓮華院光明寺([[神奈川県]][[鎌倉市]]) : http://park16.wakwak.com/~komyo-ji/ * [[善光寺|善光寺大本願]]([[長野県]][[長野市]]) : http://www.daihongan.or.jp/ :* (本堂)定額山善光寺(長野県長野市) :: http://www.zenkoji.jp/ 本山 * [[蓮華寺 (米原市)|蓮華寺]]…(正式名称)八葉山蓮華寺([[滋賀県]][[米原市]]) : http://honzan-rengeji.com/ 特別寺院 * [[誕生寺 (岡山県久米南町)|誕生寺]]…(正式名称)栃社山誕生寺([[岡山県]][[久米郡]][[久米南町]]) : http://www.d3.dion.ne.jp/~tanjoji/ * [[得浄明院]]…(正式名称)本覚山得浄明院(京都府京都市東山区) : http://www.zenkojikai.com/kinki/ki-131.html * [[三時知恩寺]]…(京都府京都市上京区) : http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012470.html === 西山派 === [[浄土宗西山禅林寺派]]総本山 * [[禅林寺 (京都市)|永観堂 禅林寺]]…(正式名称)聖衆来迎山無量寿院禅林寺(京都府京都市左京区) : http://www.eikando.or.jp/ [[西山浄土宗]]総本山 * 粟生[[光明寺 (長岡京市)|光明寺]]…(正式名称)報国山念仏三昧院光明寺(京都府[[長岡京市]]) : http://www.komyo-ji.or.jp/ [[浄土宗西山深草派]] 総本山 * [[誓願寺]](京都府京都市[[中京区]]) : http://www.fukakusa.or.jp/ == 関係学校 == === 大学 === * [[大正大学]](東京) - 宗教大学(浄土宗大学から改称。)が設立母体の一つとなっている。 * [[埼玉工業大学]](埼玉) * [[淑徳大学]](千葉) * [[東海学園大学]](愛知) - [[学校法人東海学園|旧・浄土宗学愛知支校]]東海中学校・高等学校を母体とする。 * [[佛教大学]](京都) - 浄土宗が[[関東十八檀林]]の流れを汲んで、[[明治元年]]([[1868年]]) に[[知恩院]]山内に設けた、仏教講究の機関 ([[明治3年]]に勧学所となる) が前身である。 * [[京都文教大学]](京都) * [[京都文教短期大学]](京都) * [[京都華頂大学]](京都) * [[華頂短期大学]](京都) * [[京都西山短期大学]](京都) - [[西山浄土宗]] === 中学校・高等学校 === * [[酒田南高等学校]]([[山形県]]) * [[樹徳中学校・高等学校]]([[群馬県]]) * [[淑徳与野中学校・高等学校]]([[埼玉県]][[さいたま市]]) * [[正智深谷高等学校]]([[埼玉県]]) - 上記の埼玉工業大学の関連校。 * [[芝中学校・高等学校]]([[東京都]]) - 旧・浄土宗学東京支校。 * [[淑徳SC中等部・高等部]](東京都) * [[淑徳中学校・高等学校]](東京都) * [[淑徳巣鴨中学校・高等学校]](東京都) * [[相模原高等学校 (私立)|相模原高等学校]]([[相模原市]]) - [[光明修養会]]設立。 * [[東海中学校・高等学校]]([[愛知県]][[名古屋市]]) - 旧・浄土宗学愛知支校。 ** [[東海学園高等学校]](名古屋市) - 東海中学校・高等学校姉妹校。 * [[東山中学校・高等学校]]([[京都市]]) - 旧・浄土宗学京都支校。 * [[華頂女子高等学校]](京都市) * [[京都文教中学校・高等学校]](京都市) * [[京都西山高等学校]]([[京都府]]) - 西山浄土宗。 * [[上宮中学校・高等学校]]([[大阪市]]) - 旧・浄土宗学大阪支校。 ** [[上宮太子高等学校]]([[大阪府]]) - 上宮中学校・高等学校姉妹校。 * [[鎮西中学校・高等学校]]([[熊本市]]) - 旧・浄土宗学九州支校。 ** [[真和中学校・高等学校]](熊本市) - 鎮西中学校・高等学校姉妹校。([[鎮西学園]]内) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == <!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Buddhism portal}} * [[日本の仏教]] * [[浄土教]] * [[浄土真宗]] * [[融通念仏宗]] * [[光明会]] * [[お十夜]] * [[お会式]](浄土宗にもあり) * [[勤行 (浄土宗)]] * [[二河白道]] * [[倶会一処]] * [[西寺]] * [[徳川氏]] * [[法然上人二十五霊場]] * [[西山国師遺跡霊場]] == 外部リンク == * [http://www.jodo.or.jp/ 浄土宗 公式サイト] {{ja icon}} * [http://www.jsri.jp/ 浄土宗 総合研究所] {{ja icon}} {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようとしゆう}} [[Category:浄土宗|*]] [[Category:浄土教]] [[Category:仏教の宗派]] [[Category:伝統宗派]] [[Category:日本の仏教史|+しようとしゆう]]<!-- 伝統宗派としての歴史の記述。 --> [[Category:大正大学]] [[Category:佛教大学]] [[Category:12世紀の日本の設立]]
2003-07-23T16:05:46Z
2023-11-27T01:43:45Z
false
false
false
[ "Template:Otheruseslist", "Template:Cite web", "Template:大乗仏教", "Template:百科事典的でない", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Buddhism portal", "Template:Buddhism2", "Template:出典の明記", "Template:Buddhism-stub", "Template:-", "Template:ウィキ座標", "Template:Main2", "Template:See", "Template:Wikisource", "Template:Ja icon", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97
12,103
尊王攘夷
尊王攘夷(そんのうじょうい、尊皇攘夷)とは、君主を尊び外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。 国家存在の根拠としての尊王思想と、侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意。古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄(中華思想における異民族。ここでは南方の楚を指す)を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。斉の桓公は周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。周の天子を「王」のモデルとしていたことから、元々「尊王」と書いた。 日本でも鎌倉時代、室町時代は天皇を王と称する用例も珍しくなかったが、江戸時代における名分論の徹底により、幕末には「尊皇」に置き換えて用いることが多くなった。 なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、水戸藩の藩校弘道館の教育理念を示した徳川斉昭の弘道館記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した「尊王攘夷」の出典はここに求められる。弘道館記の実質的な起草者は、藤田東湖であり、東湖の『弘道館記述義』によって弘道館記の解説がなされている。幕末尊王攘夷論は、水戸学による影響が大きい。 幕末期においては、『日本外史』が一般に流布し、当時尊王論や大義名分論が普及する一助になった。 江戸幕府が、オランダや朝鮮を除いて鎖国政策を続け、その鎖国下で封建的な支配を続けていた約250年の間に、欧州・米国は各種の根本的な革命を成し遂げていた。 また、欧米は、大航海時代以降、世界各地に進出し、支配領域を拡大し、更に帝国主義の波に乗ってアフリカ・アジアに進出し、植民地化を行った。欧米列強は東アジア各国にとって脅威となっていた。 1840年(天保11年)、清国はイギリスと戦争(アヘン戦争)となり、香港島を奪われた(1997年(平成9年)返還)。 日本でも、北海道でゴローニン事件、九州でフェートン号事件といった摩擦が起こり始め、これらの事態に対応するために、外来者を打ち払って日本を欧米列強から防衛すべしという思想が広まることとなった。こういう侵略拒否・植民地化拒否を目的とする思想が攘夷論である。 また、国内では平田篤胤などによる国学の普及にともなって民族意識がとみに高まっていた時代でもあった。 1853年(嘉永6年)、米国の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが黒船で来航した際には、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。 このペリーの黒船来航による外圧にどう対応すべきであるかという問題を江戸幕府(老中・阿部正弘)が諸藩に諮問した事から日本各地で幕末の尊王攘夷運動が本格的に発生し始める。 1854年(嘉永7年)、それまでの異国船無二念打払令(1825年(文政8年))に取って代わり、下田と箱館を開港地とする日米和親条約などの和親条約が米英露と締結される。この和親条約により、日本は諸外国に薪水、食料、石炭、その他の便宜を与えることとなる。 その後、安政の大獄・公武合体運動・和宮降嫁・第一次長州征伐・長幕戦争に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を鎖国下に置いたまま、1858年(安政5年)の不平等条約(「安政五カ国条約」)による5港の屈服開港を京都朝廷と諸藩に承諾させようとし続けることになる。この5港は、下田 → 神奈川(横浜)、箱館、長崎、兵庫(神戸)、新潟であり、いずれも不平等条約による本格的な交易のための開港地であった。 このような幕府に対して、根本的な幕政改革を要求する薩摩藩や、諸藩連合による新たな全国統治を画策しつつ全面的な開国による攘夷を要求する長州藩が朝廷政治と幕政の両方に大きな影響力を持つ存在となっていった(和宮降稼に協力して京で警護を行ない幕政改革を要求した島津久光、幕政の主導権を握ろうとして四賢候会議を企画・周旋した小松帯刀(小松清廉)・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保一蔵(大久保利通)、1858年(安政5年)の時点で欧米への留学を希望していた吉田寅次郞(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)、1861年(文久元年)に建白によって航海遠略策を幕府に認めさせた長井雅楽、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた、久坂義助(久坂玄瑞)など)。 ところが、幕府側の度重なる弾圧によって尊王攘夷の志士たちの京都朝廷への影響力が小さくなっていた1865年(慶応元年)、それまで一貫して安政の不平等条約への勅許を拒否し続けていた孝明天皇が勅許を与え、「即今攘夷」が基本的に不可能となった。この時点で「攘夷」の意味は実質的に「破約攘夷」のみに変わった。即ち、不平等条約撤廃という意味だけになった(この「破約攘夷」のほうは、日露戦争勝利後の1911年(明治44年)、明治政府により達成される)。 長州藩の吉田寅次郞(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)・長井雅楽、越前藩の松平春嶽、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきであるとする「大開国・大攘夷」が唱えられた事は、「開国」と「攘夷」という二つの思想の結合をより一層強め、「公議政体論」、「倒幕」という一つの行動目的へと収斂させて行くこととなった。土佐藩の板垣退助が、中岡慎太郎や坂本龍馬らの斡旋や仲介もあり、幕末日本の薩摩と長州という二大地方勢力を中心として諸藩を糾合しつつ明治維新へと向かっていくこととなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "尊王攘夷(そんのうじょうい、尊皇攘夷)とは、君主を尊び外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国家存在の根拠としての尊王思想と、侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意。古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄(中華思想における異民族。ここでは南方の楚を指す)を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。斉の桓公は周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。周の天子を「王」のモデルとしていたことから、元々「尊王」と書いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本でも鎌倉時代、室町時代は天皇を王と称する用例も珍しくなかったが、江戸時代における名分論の徹底により、幕末には「尊皇」に置き換えて用いることが多くなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、水戸藩の藩校弘道館の教育理念を示した徳川斉昭の弘道館記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した「尊王攘夷」の出典はここに求められる。弘道館記の実質的な起草者は、藤田東湖であり、東湖の『弘道館記述義』によって弘道館記の解説がなされている。幕末尊王攘夷論は、水戸学による影響が大きい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "幕末期においては、『日本外史』が一般に流布し、当時尊王論や大義名分論が普及する一助になった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "江戸幕府が、オランダや朝鮮を除いて鎖国政策を続け、その鎖国下で封建的な支配を続けていた約250年の間に、欧州・米国は各種の根本的な革命を成し遂げていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、欧米は、大航海時代以降、世界各地に進出し、支配領域を拡大し、更に帝国主義の波に乗ってアフリカ・アジアに進出し、植民地化を行った。欧米列強は東アジア各国にとって脅威となっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1840年(天保11年)、清国はイギリスと戦争(アヘン戦争)となり、香港島を奪われた(1997年(平成9年)返還)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本でも、北海道でゴローニン事件、九州でフェートン号事件といった摩擦が起こり始め、これらの事態に対応するために、外来者を打ち払って日本を欧米列強から防衛すべしという思想が広まることとなった。こういう侵略拒否・植民地化拒否を目的とする思想が攘夷論である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、国内では平田篤胤などによる国学の普及にともなって民族意識がとみに高まっていた時代でもあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1853年(嘉永6年)、米国の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが黒船で来航した際には、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "このペリーの黒船来航による外圧にどう対応すべきであるかという問題を江戸幕府(老中・阿部正弘)が諸藩に諮問した事から日本各地で幕末の尊王攘夷運動が本格的に発生し始める。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1854年(嘉永7年)、それまでの異国船無二念打払令(1825年(文政8年))に取って代わり、下田と箱館を開港地とする日米和親条約などの和親条約が米英露と締結される。この和親条約により、日本は諸外国に薪水、食料、石炭、その他の便宜を与えることとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後、安政の大獄・公武合体運動・和宮降嫁・第一次長州征伐・長幕戦争に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を鎖国下に置いたまま、1858年(安政5年)の不平等条約(「安政五カ国条約」)による5港の屈服開港を京都朝廷と諸藩に承諾させようとし続けることになる。この5港は、下田 → 神奈川(横浜)、箱館、長崎、兵庫(神戸)、新潟であり、いずれも不平等条約による本格的な交易のための開港地であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このような幕府に対して、根本的な幕政改革を要求する薩摩藩や、諸藩連合による新たな全国統治を画策しつつ全面的な開国による攘夷を要求する長州藩が朝廷政治と幕政の両方に大きな影響力を持つ存在となっていった(和宮降稼に協力して京で警護を行ない幕政改革を要求した島津久光、幕政の主導権を握ろうとして四賢候会議を企画・周旋した小松帯刀(小松清廉)・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保一蔵(大久保利通)、1858年(安政5年)の時点で欧米への留学を希望していた吉田寅次郞(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)、1861年(文久元年)に建白によって航海遠略策を幕府に認めさせた長井雅楽、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた、久坂義助(久坂玄瑞)など)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ところが、幕府側の度重なる弾圧によって尊王攘夷の志士たちの京都朝廷への影響力が小さくなっていた1865年(慶応元年)、それまで一貫して安政の不平等条約への勅許を拒否し続けていた孝明天皇が勅許を与え、「即今攘夷」が基本的に不可能となった。この時点で「攘夷」の意味は実質的に「破約攘夷」のみに変わった。即ち、不平等条約撤廃という意味だけになった(この「破約攘夷」のほうは、日露戦争勝利後の1911年(明治44年)、明治政府により達成される)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "長州藩の吉田寅次郞(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)・長井雅楽、越前藩の松平春嶽、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきであるとする「大開国・大攘夷」が唱えられた事は、「開国」と「攘夷」という二つの思想の結合をより一層強め、「公議政体論」、「倒幕」という一つの行動目的へと収斂させて行くこととなった。土佐藩の板垣退助が、中岡慎太郎や坂本龍馬らの斡旋や仲介もあり、幕末日本の薩摩と長州という二大地方勢力を中心として諸藩を糾合しつつ明治維新へと向かっていくこととなった。", "title": "概要" } ]
尊王攘夷(そんのうじょうい、尊皇攘夷)とは、君主を尊び外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。
{{出典の明記|date= 2018年1月}} {{Otheruses|'''[[君主]]を尊び、[[敵|外敵]]を斥けようとする[[思想]]'''|1927年(昭和2年)の[[日本映画]]|建国史 尊王攘夷}} '''尊王攘夷'''(そんのうじょうい、'''尊皇攘夷''')とは、[[君主]]を尊び[[敵|外敵]]を斥けようとする思想である。[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[水戸学]]や[[国学]]に影響を受け、[[明治維新|維新期]]に昂揚した政治[[スローガン]]を指している<ref>尾形勇『歴史学事典』【第7巻 戦争と外交】p447</ref>。 == 概要 == [[国家]]存在の根拠としての尊王思想と、[[侵略|侵掠者]]に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意。[[古代]][[中国]]の[[春秋時代]]において、[[周]]王朝の[[天子]]を尊び、[[領土|領]]内へ侵入する[[夷狄]]([[中華思想]]における[[中国の異民族|異民族]]。ここでは南方の[[楚 (春秋)|楚]]を指す)を打ち払うという意味で、[[覇者]]が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。[[斉 (春秋)|斉]]の[[桓公 (斉)|桓公]]は周室への[[礼]]を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、[[宋学]]の[[儒学者]]たちであった。周の天子を「王」のモデルとしていたことから、元々「尊王」と書いた。 [[日本]]でも[[鎌倉時代]]、[[室町時代]]は[[天皇]]を[[王]]と称する用例も珍しくなかったが、江戸時代における[[大義名分|名分論]]の徹底により、{{要出典範囲|幕末には「'''尊皇'''」に置き換えて用いることが多くなった。|date=2023年4月}} なお幕末期における「尊王攘夷」という言葉の用例は、[[水戸藩]]の[[藩校]][[弘道館]]の教育理念を示した[[徳川斉昭]]の[[弘道館]]記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した「尊王攘夷」の[[出典]]はここに求められる<ref>[[尾藤正英]]「水戸学の特質」、『[[日本思想大系]]53 水戸学』、[[岩波書店]]、1973年(昭和48年)、558 - 559頁。</ref>。弘道館記の実質的な起草者は、[[藤田東湖]]であり、東湖の『[[弘道館記述義]]』によって弘道館記の解説がなされている。幕末尊王攘夷論は、[[水戸学]]による影響が大きい。 幕末期においては、『[[日本外史]]』が一般に流布し、当時尊王論や[[大義名分論]]が普及する一助になった。 === 尊王論 === {{Main|尊王論}} === 攘夷論 === {{Main|攘夷論}} [[江戸幕府]]が、[[オランダ]]や[[朝鮮]]を除いて[[鎖国]]政策を続け、その鎖国下で封建的な支配を続けていた約250年の間に、[[ヨーロッパ|欧州]]・[[アメリカ合衆国|米国]]は各種の根本的な革命を成し遂げていた。 * [[1638年]]、[[清教徒革命]](広義では[[1638年]]の主教戦争から[[1660年]]の王政復古まで) * [[1688年]]、[[権利の章典]]および[[名誉革命]]([[1688年]] - [[1689年]]) * [[1776年]]、[[アメリカ独立宣言]] * [[1789年]]、[[権利章典 (アメリカ)|権利章典]] * [[1789年]]、[[フランス革命]] * [[1793年]]、[[人間と市民の権利の宣言|フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)]] また、欧米は、[[大航海時代]]以降、世界各地に進出し、支配領域を拡大し、更に[[帝国主義]]の波に乗って[[アフリカ]]・[[アジア]]に進出し、[[植民地]]化を行った。欧米列強は[[東アジア]]各国にとって脅威となっていた。 [[1840年]]([[天保]]11年)、[[清国]]は[[イギリス]]と[[戦争]]([[アヘン戦争]])となり、[[香港|香港島]]を奪われた([[1997年]]([[平成]]9年)返還)。 日本でも、[[北海道]]で[[ゴローニン事件]]、[[九州]]で[[フェートン号事件]]といった摩擦が起こり始め、これらの事態に対応するために、外来者を打ち払って日本を欧米列強から防衛すべしという思想が広まることとなった。こういう侵略拒否・植民地化拒否を目的とする思想が攘夷論である。 また、国内では[[平田篤胤]]などによる国学の普及にともなって[[民族主義|民族意識]]がとみに高まっていた時代でもあった。 [[1853年]]([[嘉永]]6年)、米国の[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令長官[[マシュー・ペリー]]が[[黒船来航|黒船で来航]]した際には、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という[[狂歌]]が詠まれた<ref>[[上喜撰]]とは[[緑茶]]の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが([[カフェイン]]の作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(船を1杯、2杯とも数える)の異国からの[[蒸気船]](上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。</ref>。 このペリーの黒船来航による[[圧力|外圧]]にどう対応すべきであるかという問題を江戸幕府([[老中]]・[[阿部正弘]])が諸藩に諮問した事から日本各地で幕末の尊王攘夷運動が本格的に発生し始める。 [[1854年]](嘉永7年)、それまでの[[異国船打払令|異国船無二念打払令]]([[1825年]]([[文政]]8年))に取って代わり、[[下田港|下田]]と[[函館港|箱館]]を開港地とする[[日米和親条約]]などの和親条約が米英露と締結される。この和親条約により、日本は諸外国に薪水、食料、[[石炭]]、その他の便宜を与えることとなる。 その後、[[安政の大獄]]・[[公武合体運動]]・[[和宮親子内親王|和宮]][[降嫁]]・[[長州征討|第一次長州征伐]]・[[長州征討|長幕戦争]]に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を鎖国下に置いたまま、[[1858年]]([[安政]]5年)の[[不平等条約]](「[[安政五カ国条約]]」)による5港の屈服開港を[[朝廷 (日本)|京都朝廷]]と諸藩に承諾させようとし続けることになる。この5港は、下田 → [[横浜港|神奈川(横浜)]]、箱館、[[長崎港|長崎]]、[[神戸港|兵庫(神戸)]]、[[新潟港|新潟]]であり、いずれも不平等条約による本格的な交易のための開港地であった。 このような幕府に対して、根本的な幕政改革を要求する[[薩摩藩]]や、諸藩連合による新たな全国統治を画策しつつ全面的な[[開国]]による攘夷を要求する[[長州藩]]が朝廷政治と幕政の両方に大きな影響力を持つ存在となっていった(和宮降稼に協力して京で警護を行ない幕政改革を要求した[[島津久光]]、幕政の主導権を握ろうとして[[四賢候会議]]を企画・周旋した[[小松清廉|小松帯刀(小松清廉)]]・[[西郷隆盛|西郷吉之助(西郷隆盛)]]・[[大久保利通|大久保一蔵(大久保利通)]]、1858年(安政5年)の時点で欧米への留学を希望していた[[吉田松陰|吉田寅次郞(吉田松陰)]]・[[木戸孝允|桂小五郎(木戸孝允)]]、[[1861年]]([[文久]]元年)に建白によって[[航海遠略策]]を幕府に認めさせた[[長井雅楽]]、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた、[[久坂玄瑞|久坂義助(久坂玄瑞)]]など)。 ところが、幕府側の度重なる弾圧によって尊王攘夷の志士たちの京都朝廷への影響力が小さくなっていた[[1865年]]([[慶応]]元年)、それまで一貫して安政の[[不平等条約]]への[[勅令|勅許]]を拒否し続けていた[[孝明天皇]]が勅許を与え、「'''即今攘夷'''」が基本的に不可能となった。この時点で「攘夷」の意味は実質的に「'''破約攘夷'''」のみに変わった。即ち、不平等条約撤廃という意味だけになった(この「破約攘夷」のほうは、[[日露戦争]]勝利後の[[1911年]]([[明治]]44年)、明治政府により達成される)。 長州藩の吉田寅次郞(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)・長井雅楽、[[越前藩]]の[[松平春嶽]]、[[津和野藩]]の[[大国隆正]]らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に[[外国]]と開国してでも国内統一や[[富国強兵]]を優先すべきであるとする「'''大開国・大攘夷'''」が唱えられた事は、「開国」と「攘夷」という二つの思想の結合をより一層強め、「[[公議政体論]]」、「'''[[倒幕運動|倒幕]]'''」という一つの行動目的へと収斂させて行くこととなった。[[土佐藩]]の[[板垣退助]]が、[[中岡慎太郎]]や[[坂本龍馬]]らの斡旋や仲介もあり、幕末日本の薩摩と長州という二大地方勢力を中心として諸藩を糾合しつつ[[明治維新]]へと向かっていくこととなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[会沢正志斎]] - 尊王攘夷論について体系的にまとめた『新論』を著した。 * [[乙丑の獄]] * [[勤王]] * [[佐幕]] * [[三条教則]] * [[攘夷実行の勅命]] * [[宋 (王朝)]] - 尊王論は、特に北部を[[金 (王朝)|金]]に征服された[[南宋]]で[[朱子学]]の発展とともに盛んになったとされる。 * [[尊攘堂]] * [[排外主義]] * [[ナショナリズム]] * [[日本外史]] * [[幕末の四大人斬り]] == 外部リンク == * {{Kotobank|尊王攘夷|2=デジタル大辞泉}} {{Japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:そんのうしようい}} [[Category:君主主義]] [[Category:江戸時代の政治]] [[Category:幕末の思想]] [[Category:幕末の外交]] [[Category:徳川斉昭]]
2003-07-23T16:27:21Z
2023-11-14T11:48:35Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Otheruses", "Template:要出典範囲", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Kotobank", "Template:Japanese-history-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E6%94%98%E5%A4%B7
12,105
PPP
PPP
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "PPP", "title": null } ]
PPP
'''PPP''' __NOTOC__ == PPP == === 一般名詞 === * [[段階的プロジェクト計画]] ({{en|phased project planning}}) - [[プロジェクトマネジメント]]手法の一種。 * [[官民パートナーシップ]] ({{interlang|en|public–private partnership}})。小さな政府を志向し、「民間にできることは民間に委ねる」という方針により、民間事業者の資金やノウハウを活用して社会資本を整備し、公共サービスの充実を進めていく手法。具体的には、[[民間委託]]、[[指定管理者]]制度、[[PFI]]、[[民営化]]など。 * [[購買力平価説]] ({{en|purchasing power parity}}) * [[心理学]]・[[哲学]]・[[生理学]] ({{en|psychology, philosophy, and physiology}}) * [[汚染者負担原則]] ({{en|polluter pays principle}}) * 「表・裏・表・休」のリズムでの手拍子。[[PPPH]]参照。 * [[真珠様陰茎小丘疹]] ({{en|pearly penile papules}}) * [[ペントースリン酸経路]] ({{en|pentose phosphate pathway}}) * [[発泡スチロール#PPP|ポリプロピレンペーパー]] ({{en|polypropylene paper}}) - 発泡スチロールに似た素材。 * [[ページプリンタ処理装置]] ({{en|page printer processor}}) - 大型コンピュータで使用する周辺機器。 * [[ポリパラフェニレン]] ({{interlang|en|Poly(p-phenylene)|poly(''p''-phenylene)}} ) ** [[PPP分子軌道法]] *[[血漿成分採取]] ({{interlang|en|platelet poor plasma}}) - [[献血]]方法の一種。 * [[Point-to-Point Protocol]] - 二点間を接続して[[データ通信]]するための[[通信プロトコル]]。 * [[給与保護プログラム]] (Paycheck Protection Program) === 固有名詞 === ==== 政党 ==== * [[開発統一党]] ([[:en:United Development Party|{{lang|id|Partai Persatuan Pembangunan}}]]) - インドネシア * [[ガイアナ人民進歩党]] ({{interlang|en|People's Progressive Party (Guyana)|People's Progressive Party}}) * [[人民の力党]] ({{en|People Power Party}}, {{lang|th|Phak Palang Prachachon}}) - タイ * [[パキスタン人民党]] ({{en|Pakistan Peoples Party}}) * [[パレスチナ人民党]] ({{interlang|en|Palestinian People's Party}}) * [[ポーランド労働党]] ([[:en:Polish Labour Party|{{lang|pl|Polska Partia Pracy}}]]) * [[マレーシア人民進歩党]] ({{interlang|en|People's Progressive Party (Malaysia)|People's Progressive Party}}, {{lang|my|Parti Progresif Penduduk}}) ==== 団体等 ==== * [[Pretty Purity Panix]] - [[おみむらまゆこ|麻績村まゆ子]]、[[桑島法子]]、[[松澤由美]]による日本の3人組ユニット。 * [[Percussion Performance Players]] - [[元田優香]]、[[秋場一宏]]、[[山口古津絵]]、[[鈴木和徳]]、[[木村就生]]による日本の5人組[[打楽器]]演奏ユニット。 * [[ポーランド秘密国家]] ([[:en:Polish Underground State|{{lang|pl|Polskie Państwo Podziemne}}]]) - 第二次世界大戦期のポーランドの地下抵抗組織。 * [[フィリピン国家警察]] ([[:en:Philippine National Police|{{lang|tl|Pambansang Pulisya ng Pilipinas}}]]) * アニメ『[[パパのいうことを聞きなさい!]]』の[[製作委員会]]。 * PCゲーム[[SHUFFLE!]]に登場する「[[プリムラ親衛浪士隊]]」こと「プリムラぷりぷりちー」の略。 * [[PPP (けものフレンズ)|PPP]](読み、ペパプ) - テレビアニメ『[[けものフレンズ (アニメ)|けものフレンズ]]』シリーズに登場するジャパリパークのアイドルユニット。『PENGUINS Performance Project.』の略。 ==== 作品名 ==== * [[ParaParaParadise]] - コナミの音楽ゲーム。 * [[江頭2:50のピーピーピーするぞ!]] * [[Perfumeのパンパカパーティー]] ({{en|Perfume no Panpaka Party}}) ==== その他 ==== * [[ペイパーポスト]] ({{interlang|en|PayPerPost}}) - アメリカフロリダ州のブログサービス。書き込みごとにブロガーが金銭を得るシステムを採用している。金銭を支払う側の意向や意図が反映され、ブロガー自身の考えと乖離するとされる。 * [[プエブラ・パナマ計画]] ({{interlang|en|Puebla-Panama Plan}}, {{es|Plan Puebla Panamá}}) - 中米からコロンビアにかけての開発計画。 * [[ポストペットパーク]] ({{en|PostPet Park}}) == ppp == * [[強弱法#五線譜における強弱記号|ピアノ・ピアニッシモ(ピアニッシッシモ)]] - pp(ピアニッシモ)よりもさらに弱い演奏を指示する[[演奏記号]]。 {{aimai}}
null
2023-03-18T05:05:31Z
true
false
false
[ "Template:En", "Template:Interlang", "Template:Lang", "Template:Es", "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/PPP
12,106
BITTERSWEET SAMBA
「Bittersweet Samba」(ビタースウィート・サンバ)とは、トランペット奏者で音楽プロデューサーであるハーブ・アルパート(Herb Alpert)による「ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス」の1965年のアルバム『ホイップド・クリーム&アザー・ディライツ』に収録されている、ジャズのインストゥルメンタル曲である。曲の演奏時間は、実際には1分43秒。作曲 : ソル・レイク (Sol Lake)、演奏 : ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス (Herb Alpert & The Tijuana Brass)。 日本では、1967年にスタートしたニッポン放送系のラジオの深夜番組『オールナイトニッポン』シリーズのテーマ曲として使われているため、ラジオリスナーには大変馴染み深い曲である。 1973年、『オールナイトニッポン』はそれまでニッポン放送のアナウンサーらがDJを務めていたが、この頃よりパーソナリティをタレント・歌手・芸人らが担当するようになった。当時『ビバ・カメショー』制作を担当した亀渕昭信はオールナイトニッポンの転機を図るべく、スタジオ・ミュージシャンでモータウンのファンクギタリスト、デニス・コフィーに依頼して新アレンジのテーマ曲(演奏:デニス・コフィー&ザ・デトロイト・ギター・バンド(Dennis.Coffey & The Detroit Guitar Band))作成し番組に採用した。しかし、レーティング聴取率があまりよくなかったため、その後オリジナルの“ハーブ・アルパート版”に戻すようになった。最後に使用されたのは1974年末頃の土曜深夜『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』のみで、他曜日のオールナイトニッポンのテーマ曲は随時オリジナルに戻された。 通常、オープニングトークの後にすぐ1曲目が始まるため、最後まで聴けることは少ないが、『Adoのオールナイトニッポン』(月曜25:00-27:00)、『ナインティナインのオールナイトニッポン』(木曜25:00-27:00)、『オードリーのオールナイトニッポン』(土曜25:00-27:00)ではオープニングトークが長くなるため、最後まで聴ける。 以前は1部(『オールナイトニッポン』)のオープニングと2部(『オールナイトニッポン0(ZERO)』)のエンディングのみで使用されていたが、現在は1部(月曜-土曜25:00-27:00)、『オールナイトニッポンGOLD』(金曜22:00-24:00)、土曜2部(土曜27:00-28:50)のオープニング、月曜から金曜の2部(月曜-木曜27:00-28:30、金曜27:00-29:00)のエンディングで使用されている。なお、『オールナイトニッポン MUSIC10』(月曜-木曜22:00-23:50)では流れることはない。また、『オールナイトニッポンサタデースペシャル』(土曜23:30-25:00)枠で放送されていた『魂のラジオ』『大倉くんと高橋くん』でも流れなかった。 スペシャルウィークの放送分でちわきまゆみが当楽曲を強制停止させた。また、『ピストン西沢のオールナイトニッポンGOLD』ではパーソナリティのピストン西沢が「BGMとして邪魔」という理由で度々強制停止させている。 2010年秋から2011年春まで文化放送とのリレー形式で『セイ!ヤング』との合同番組である『セイ!ヤング・オールナイトニッポン Are you ready? Oh!』を放送していたが、ニッポン放送制作の回のオープニングでこの曲が、エンディングは『セイ!ヤング』テーマ曲の「夜明けが来る前に」が流れ、文化放送制作の回ではそれが逆となっていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "「Bittersweet Samba」(ビタースウィート・サンバ)とは、トランペット奏者で音楽プロデューサーであるハーブ・アルパート(Herb Alpert)による「ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス」の1965年のアルバム『ホイップド・クリーム&アザー・ディライツ』に収録されている、ジャズのインストゥルメンタル曲である。曲の演奏時間は、実際には1分43秒。作曲 : ソル・レイク (Sol Lake)、演奏 : ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス (Herb Alpert & The Tijuana Brass)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本では、1967年にスタートしたニッポン放送系のラジオの深夜番組『オールナイトニッポン』シリーズのテーマ曲として使われているため、ラジオリスナーには大変馴染み深い曲である。", "title": "オールナイトニッポンとの関係" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1973年、『オールナイトニッポン』はそれまでニッポン放送のアナウンサーらがDJを務めていたが、この頃よりパーソナリティをタレント・歌手・芸人らが担当するようになった。当時『ビバ・カメショー』制作を担当した亀渕昭信はオールナイトニッポンの転機を図るべく、スタジオ・ミュージシャンでモータウンのファンクギタリスト、デニス・コフィーに依頼して新アレンジのテーマ曲(演奏:デニス・コフィー&ザ・デトロイト・ギター・バンド(Dennis.Coffey & The Detroit Guitar Band))作成し番組に採用した。しかし、レーティング聴取率があまりよくなかったため、その後オリジナルの“ハーブ・アルパート版”に戻すようになった。最後に使用されたのは1974年末頃の土曜深夜『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』のみで、他曜日のオールナイトニッポンのテーマ曲は随時オリジナルに戻された。", "title": "オールナイトニッポンとの関係" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "通常、オープニングトークの後にすぐ1曲目が始まるため、最後まで聴けることは少ないが、『Adoのオールナイトニッポン』(月曜25:00-27:00)、『ナインティナインのオールナイトニッポン』(木曜25:00-27:00)、『オードリーのオールナイトニッポン』(土曜25:00-27:00)ではオープニングトークが長くなるため、最後まで聴ける。", "title": "オールナイトニッポンとの関係" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以前は1部(『オールナイトニッポン』)のオープニングと2部(『オールナイトニッポン0(ZERO)』)のエンディングのみで使用されていたが、現在は1部(月曜-土曜25:00-27:00)、『オールナイトニッポンGOLD』(金曜22:00-24:00)、土曜2部(土曜27:00-28:50)のオープニング、月曜から金曜の2部(月曜-木曜27:00-28:30、金曜27:00-29:00)のエンディングで使用されている。なお、『オールナイトニッポン MUSIC10』(月曜-木曜22:00-23:50)では流れることはない。また、『オールナイトニッポンサタデースペシャル』(土曜23:30-25:00)枠で放送されていた『魂のラジオ』『大倉くんと高橋くん』でも流れなかった。", "title": "オールナイトニッポンとの関係" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "スペシャルウィークの放送分でちわきまゆみが当楽曲を強制停止させた。また、『ピストン西沢のオールナイトニッポンGOLD』ではパーソナリティのピストン西沢が「BGMとして邪魔」という理由で度々強制停止させている。", "title": "オールナイトニッポンとの関係" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2010年秋から2011年春まで文化放送とのリレー形式で『セイ!ヤング』との合同番組である『セイ!ヤング・オールナイトニッポン Are you ready? Oh!』を放送していたが、ニッポン放送制作の回のオープニングでこの曲が、エンディングは『セイ!ヤング』テーマ曲の「夜明けが来る前に」が流れ、文化放送制作の回ではそれが逆となっていた。", "title": "オールナイトニッポンとの関係" } ]
「Bittersweet Samba」(ビタースウィート・サンバ)とは、トランペット奏者で音楽プロデューサーであるハーブ・アルパート(Herb Alpert)による「ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス」の1965年のアルバム『ホイップド・クリーム&アザー・ディライツ』に収録されている、ジャズのインストゥルメンタル曲である。曲の演奏時間は、実際には1分43秒。作曲 : ソル・レイク、演奏 : ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス。
{{出典の明記|date=2019年3月21日 (木) 12:51 (UTC)}} {{Infobox Song <!-- Wikipedia:ウィキプロジェクト 楽曲 をご覧ください --> | Name = Bittersweet Samba | Type = | Artist = Herb Alpert & The Tijuana Brass | alt Artist = | from Album = Whipped Cream & Other Delights | from Album2 = | Released = [[1965年]] | Format = [[レコード]] | track_no = | Recorded = | Genre = [[ジャズ]] | Length = 1分43秒 | Writer = | Composer = Sol Lake | Label = [[A&M Records]] | Producer = [[ハーブ・アルパート]] | Chart position = | Tracks = | prev = | prev_no = | next = | next_no = | Misc = }} {{External media |topic=全曲を試聴 |audio1='''[https://www.youtube.com/watch?v=jUQCKZZQcKA Bittersweet Samba]''' - Herb Alpert & The Tijuana Brassの演奏、[[:en:The Orchard (company)|The Orchard Enterprises]]提供のYouTubeアートトラック}} 「'''Bittersweet Samba'''」(ビタースウィート・サンバ)とは、[[トランペット]]奏者で音楽プロデューサーである[[ハーブ・アルパート]](Herb Alpert)による「ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス」の[[1965年]]のアルバム『''[[ホイップド・クリーム&アザー・ディライツ]]''』に収録されている、[[ジャズ]]<!--[[アメリアッチ]]?-->の[[器楽曲|インストゥルメンタル]]曲である。曲の演奏時間は、実際には1分43秒。作曲 : ソル・レイク (Sol Lake)、演奏 : ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス (Herb Alpert & The Tijuana Brass)<ref>日本では1969年8月1日にシングルカットされている([http://www.45cat.com/record/top1415 45cat - Herb Alpert And The Tijuana Brass - Bittersweet Samba / Lollipops And Roses - A&amp;M - Japan - TOP-1415])が、アメリカでは[[エドムンド・ロス]]盤が『[[毒蝮三太夫のミュージックプレゼント]]』のテーマ音楽になっている"Whipped Cream"とともに、ジュークボックス用6曲入りEPが制作されているのみである([http://www.45cat.com/record/sp410us 45cat - Herb Alpert's Tijuana Brass - Whipped Cream &amp; Other Delights - A&amp;M - USA])。</ref>。 == オールナイトニッポンとの関係 == {{出典の明記|section=1|date=2013年2月}} {{See also|オールナイトニッポン#テーマ曲}} 日本では、[[1967年]]にスタートした[[ニッポン放送]]系の[[ラジオ番組|ラジオ]]の[[深夜番組]]『[[オールナイトニッポン]]』シリーズのテーマ曲として使われているため、ラジオリスナーには大変馴染み深い曲である。 [[1973年]]、『オールナイトニッポン』はそれまでニッポン放送のアナウンサーらがDJを務めていたが、この頃よりパーソナリティをタレント・歌手・芸人らが担当するようになった。当時『[[亀渕昭信のオールナイトニッポン|ビバ・カメショー]]』制作を担当した[[亀渕昭信]]はオールナイトニッポンの転機を図るべく、[[スタジオ・ミュージシャン]]でモータウンのファンクギタリスト、[[デニス・コフィー]]に依頼して新アレンジのテーマ曲(演奏:デニス・コフィー&ザ・デトロイト・ギター・バンド(Dennis.Coffey & The Detroit Guitar Band))<ref>[http://hiptankrecords.com/?pid=67507344 ビタースウィート・サンバ]</ref>作成し番組に採用した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=392z772lP_g Dennis Coffey - Bittersweet Samba]</ref>。しかし、レーティング聴取率があまりよくなかったため、その後オリジナルの“ハーブ・アルパート版”に戻すようになった。最後に使用されたのは1974年末頃の土曜深夜『[[笑福亭鶴光のオールナイトニッポン]]』のみで、他曜日のオールナイトニッポンのテーマ曲は随時オリジナルに戻された。 通常、オープニングトークの後にすぐ1曲目が始まるため、最後まで聴けることは少ないが、『[[Adoのオールナイトニッポン]]』(月曜25:00-27:00)、『[[ナインティナインのオールナイトニッポン]]』(木曜25:00-27:00)、『[[オードリーのオールナイトニッポン]]』(土曜25:00-27:00)ではオープニングトークが長くなるため、最後まで聴ける<ref group="注">この内『ナインティナインのオールナイトニッポン』と『オードリーのオールナイトニッポン』はメインフレーズの部分を5回繰り返した4分15秒バージョン。</ref>。 以前は1部(『オールナイトニッポン』)のオープニングと2部(『[[オールナイトニッポン0(ZERO)]]』)のエンディングのみで使用されていた<ref group="注">『[[川村かおりのオールナイトニッポン]]』・『[[浅草キッドのオールナイトニッポン]]』・『[[電気グルーヴのオールナイトニッポン]]』のように、2部でもエンディングに流さず、オープニングに流していたパーソナリティもいた。</ref>が、現在は1部(月曜-土曜25:00-27:00)、『[[オールナイトニッポンGOLD]]』(金曜22:00-24:00)、土曜2部(土曜27:00-28:50<ref group="注">ニッポン放送での放送時間。</ref>)のオープニング、月曜から金曜の2部(月曜-木曜27:00-28:30、金曜27:00-29:00)のエンディングで使用されている。なお、『[[オールナイトニッポン MUSIC10]]』(月曜-木曜22:00-23:50)では流れることはない。また、『[[オールナイトニッポンサタデースペシャル]]』(土曜23:30-25:00)枠で放送されていた『[[福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル・魂のラジオ|魂のラジオ]]』『[[オールナイトニッポンサタデースペシャル 大倉くんと高橋くん|大倉くんと高橋くん]]』でも流れなかった。 スペシャルウィークの放送分で[[ちわきまゆみ]]が当楽曲を強制停止させた。また、『[[ピストン西沢のオールナイトニッポンGOLD]]』ではパーソナリティの[[ピストン西沢]]が「BGMとして邪魔」という理由で度々強制停止させている。 [[2010年]]秋から[[2011年]]春まで[[文化放送]]との[[リレー放送|リレー]]形式で『[[セイ!ヤング]]』との合同番組である『[[セイ!ヤング・オールナイトニッポン Are you ready? Oh!]]』を放送していたが、ニッポン放送制作の回のオープニングでこの曲が、エンディングは『セイ!ヤング』テーマ曲の「夜明けが来る前に」が流れ、文化放送制作の回ではそれが逆となっていた。 === 「オールナイトニッポン」ブランド内でのアレンジ === * 『[[糸居五郎のオールナイトニッポン]]』の最終回では、初めて当楽曲が生演奏された。 * 1982年から1年間放送された『ニャンコのオールナイトニッポン』では[[タンゴ・ヨーロッパ]]のメンバーがハミングで歌唱したものを使用。 * 『[[Gackt]]の[[@llnightnippon.com]]』(2002年4月 - 2003年3月)では、Gacktのムードに合わせたアレンジのミックスを使用。 * 『[[氣志團綾小路セロニアス翔のオールナイトニッポン]]』(2002年10月 - 2003年3月)では、一時期、氣志團の曲「[[One Night Carnival]]」と当楽曲の一部のパートを被せたバージョンをテーマ曲として使用。パーソナリティの[[綾小路翔]](氣志團)は、これを「'''BITTERSWEET CARNIVAL'''」と呼んでいた。 * 『[[NoGoD団長のオールナイトニッポン0(ZERO)]]』(2013年4月 - 2014年3月)では、エンディングで「'''BITTERSWEET SAMBA・Vロックバージョン'''」を使用。 * 『[[ラジオ・チャリティー・ミュージックソン]]』での『[[オールナイトニッポン ラジオ・チャリティー・ミュージックソン]]』では「'''BITTERSWEET SAMBA クリスマスバージョン'''」(「シャンシャンシャン・・・」という鈴の音が足され、曲調もアップテンポ。「ジングルベル」のワンフレーズも付加)を使用。この鈴の音を除いた単にアップテンポにしたヴァージョンも存在し、こちらは主に『オールナイトニッポン0(ZERO)〜エンタメナイト〜』(2021年5月 - 10月)やイベント告知などで放送されることもある。 * 『[[SixTONESのオールナイトニッポンサタデースペシャル]]』(2020年4月 - )では、[[DJ松永]]([[Creepy Nuts]])によるリミックスを使用<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/creepynuts/info/517385 |title=DJ松永 ニッポン放送「SixTONESのオールナイトニッポンサタデースペシャル」にて使用される”ビタースウィートサンバ”のREMIXを担当! |accessdate=2020-12-17 |date=2020-4-4 |website=Creepy Nuts |publisher=Sony Music}}</ref>。 * 『[[オールナイトニッポンX]]』(月曜-金曜24:00-24:53)では、[[Ayase]]([[YOASOBI]])によるリミックスを使用<ref>{{Cite news|title=YOASOBI、『オールナイトニッポンX』パーソナリティに。Ayaseによる「Bitter Sweet Samba」リミックスが番組共通OPテーマ|newspaper=BARKS|date=2021-03-16|author=|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000198418|accessdate=2021-03-16}}</ref><ref>{{Cite news|title=YOASOBI、『オールナイトニッポンX』火曜日パーソナリティ担当&OP曲をAyaseがアレンジ|newspaper=Billboard JAPAN|date=2021-03-16|author=|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/98036/2|accessdate=2021-03-16}}</ref><ref>{{Cite news|title=YOASOBI『ANNX(クロス)』火曜担当 「ビタースウィート・サンバ」アレンジも|newspaper=ORICON NEWS|date=2021-03-16|author=|url=https://www.oricon.co.jp/news/2187390/full/|accessdate=2021-03-16}}</ref>。 == その他の使用例 == {{出典の明記|section=1|date=2013年2月}} *オールナイトニッポンにおける局独自での使用 **[[CBCラジオ]]では、オールナイトニッポンを3時で飛び降りる時に、前述の1973年前後にオープニングで採用された「デニス・コフィー&ザ・デトロイト・ギター・バンド」演奏のバージョンが流されていた(2時58分30秒頃から、約1分20秒程)。1986年までは『ビバヤング、オールナイトニッポン。この番組は○○...』のように協賛スポンサーの読み上げも流されていたが、1987年頃は『ビバヤング、オールナイトニッポン。それでは今日はこの辺で。』のみのナレーションが入っていた。1988年頃から使用されなくなり、現在のように各CMが流れて3時を迎えている。 **[[東北放送|TBCラジオ]]では、オールナイトニッポンを3時で飛び降りるときオリジナルのエンディングのBGMとして流れる。 ** [[2008年]]1月 - 2月には、オールナイトニッポン40周年記念の告知の一環として、朝・夕方などに放送されるニッポン放送の交通情報のBGMにも使われていた。 *『オールナイトニッポン』以外での使用 **[[CBCラジオ]]『[[週刊第14帝國]]』のオープニング、 **[[TBSラジオ]]『[[JUNK|木曜JUNK]][[おぎやはぎのメガネびいき]]』(スペシャルウィークに行われるオールナイトニッポンのパロディ)で使用されていた。 **2007年[[8月19日]]に、[[エフエム東京|TOKYO FM]]『[[山下達郎のサンデー・ソングブック]]』でこの曲がフルコーラスでOAされた(ちなみに、山下の番組でこのような選曲がされることは珍しく、この回がたまたま、ポピュラーな曲を特集した「ベタな曲リクエスト」だったためである)。 **[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[ラジかるッ]]』の「5&5ランキング」において、前日の[[視聴率]]ランキングTOP5を発表する際にBGMとして使われている。 **[[関西テレビ放送|関西テレビ]]の[[テレビショッピング|通販番組]]『[[買物探偵社 シナモン]]』([[関西ローカル]])のオープニングテーマとして使われている。 **[[2011年]][[2月11日]]深夜(日付の上では[[2月12日]])には、[[NHKラジオ第1放送]]の『[[ラジオ深夜便]]』2時台「ロマンチックコンサート、競演・世界のアーティスト:渡辺貞夫&ハーブ・アルパート」の中で放送された。アンカーの[[中村宏 (アナウンサー)|中村宏]]が、「途中からラジオをつけた方、この放送はNHKのラジオ深夜便です。「BITTERSWEET SAMBA」は長く民放ラジオの[[オールナイトニッポン|某深夜番組]]のテーマソングに使われています」とコメントした。 *2012年7月22日、文化放送で制作、ネットされていた『[[ミュージックギフト〜音楽・地球号]]』の中で、この曲にリクエストがあった。「他局の象徴でもある曲であり、文化放送さんでは絶対に流してもらえないと思いますが、あえてリクエストします。」というリクエストカードが届いていたが、これに対して「文化放送は寛大だから」という理由でフルでこの曲が流れた<ref group="注">MCを務めている[[竹内靖夫]]アナも、現在は文化放送に携わりながらも実は学生時代はオールナイトニッポンをいつも聞いており、「夜が明けるまで聞いており、放送の内容はいつも翌日の学校の中で話題になったが、とにかく眠かった」と語っていた。</ref>。 **2015年10月24日、TBSラジオで放送された『[[サタデー大人天国!_宮川賢のパカパカ行進曲!!]]』は、[[聴取率|スペシャルウィーク]]のテーマとして『すっぱだかで大失敗!オールヌードニッポン!』と称して放送された。オープニングテーマとしてこの曲が流れた。TBSラジオで流れるこの曲は、ミキサー担当者が異なる為か、ヘッドホンで聞くと聞き慣れた曲とは違って聞こえるとの事<ref group="注">宮川によれば、この曲のおかげで深夜放送っぽくなるので、エッチな話がそんなに罪深さにならず、良心の呵責に苛まれることが無いと語っている。</ref>。 *CM **[[1995年]]9月には、演歌歌手の[[森進一]]が出演していた[[日産・ローレル]](7代目2次改良型・C34型系)のCM曲としても使われていた。同時期にリリースされていた[[8センチCD|8cmシングル]]には、オールナイトニッポンの歴代[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]表が添付されていた。 **[[2007年]]6月から、[[サントリー]]・[[金麦]]のCM曲に使われている。独自アレンジ *カバー **[[1998年]]に[[GTS (DJグループ)|GTS]]のアルバム『BRAND NEW WORLD』の1曲目でハウスのアレンジカバーされる。 **[[2002年]]に[[吉本興業]]のユニット「[[Re:Japan]]」により、オールナイトニッポン35周年記念企画で歌詞がついた歌謡曲「bittersweet samba〜ニッポンの夜明け前〜」として[[カバー]]された。同曲はシングル発売の週の『オールナイトニッポン』でオープニングテーマとして使われた<ref>[https://www.allnightnippon.com/mailmag/0203/10/01.html 【1】「bittersweet samba 〜ニッポンの夜明け前」いよいよ発売]、LF+R-MailnightNippon Vol.63(オールナイトニッポン.com)、2002年3月10日。</ref>ほか、『[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])のエンディングテーマにも起用された<ref>[https://web.archive.org/web/20020209205226/http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/feb/o20020203_20.htm Re:Japan第2弾シングル発売「bittersweet samba-」オールナイトニッポンテーマ]、[[スポーツ報知]]、2002年2月3日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。作詞は「オールナイトニッポン リスナーズ」の名のもとに、リスナーからの公募を中心とし、放送作家としてオールナイトニッポンも担当している[[藤井青銅]]が補作詞という形で携わった。吉本興業所属で当時オールナイトニッポンでパーソナリティを務めていた[[藤井隆]]、[[ロンドンブーツ1号2号]]はこのユニットに参加していたものの、木曜パーソナリティのナインティナインは参加していない。 **[[熱帯ジャズ楽団]]が[[2004年]]リリースしたアルバム『熱帯ジャズ楽団VIII -The Covers-』に、[[マンボ]]風のアレンジが施されたカバーバージョンが収録された。ただし、タイトルが「'''Bitter Sweet Bomba(ビタースウィート・ボンバ)'''」と改題されている。 *その他 **[[1970年代]]の人気テレビドラマ『[[時間ですよ]]』([[TBSテレビ|TBS]])の音楽を担当した作曲家、[[山下毅雄]]の晩年の述懐によると、同番組のテーマ曲は本曲をモチーフに更に明るい曲調にして作ったものという。 *[[2012年]]に放送されたアニメ『[[あっちこっち]]』第4話にて、この曲によく似た曲が校内放送のBGMとして使用されていた(ちなみに作曲者は[[横山克]]で、曲名は「放送室」。同アニメのサウンドトラックにも収録)。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[pop'n music]] - [[コナミデジタルエンタテインメント|KONAMI]]の音楽ゲーム。ジャンル名「ラジオ」として版権曲枠で収録されていたが現在は削除。 *[[茂木弘人]] - [[サッカー]] [[J1リーグ|J1]] [[ヴィッセル神戸]]の選手。[[チャント]]として本曲が使用されている。 {{Re:Japan}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひたあすいいとさんは}} [[Category:オールナイトニッポン|*ひたあすういいとさんは]] [[Category:ハーブ・アルパートの楽曲]] [[Category:ポピュラーソング]] [[Category:1965年の楽曲]] [[Category:ラジオ番組の主題歌]] [[Category:サントリーのビールのコマーシャルソング]] [[Category:日産自動車のコマーシャルソング]] [[Category:楽曲 ひ|たあすいいとさんは]]
2003-07-24T00:47:25Z
2023-09-23T15:14:51Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Notelist2", "Template:Re:Japan", "Template:Normdaten", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:Infobox Song", "Template:External media", "Template:See also", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/BITTERSWEET_SAMBA
12,108
軌条
軌条(きじょう)とは、鉄道の線路(軌道)を構成する要素の一つで、鉄道車両を直接支持し、車輪の転動のガイドとなる役割をもつ。一般的にはレールと呼ばれる場合が多い。素材は、一般的には、断面が逆Tの字型をした棒状の鋼製品が用いられる。鉄鋼分野では、条鋼の一種に分類されている。 軌条は、所定の間隔(軌間)で2本平行に並べ、道床の上に並べられた枕木の上に締結装置(犬釘など)を用いて固定する。枕木と軌条は垂直である。この様にして敷かれた線路上を走る鉄道を普通鉄道という。普通鉄道のほか、桁状の1本の案内路を使うモノレールや、特殊な案内路を用いる案内軌条式鉄道もあり、これらの軌道の材質は鋼に限られずコンクリートなども用いられる。 ここでは、普通鉄道に使われる、鋼製の断面が逆T字型をした鉄道レールを中心に記述する。 レールは、車両の重量を直接に支え車輪からの1点荷重を枕木と道床に分布させるほか、車両に安全で滑らかな走行面を与える役割を持つ。さらにレールは、車輪が脱線しないように車両を案内する役割を持っている。そのためレールは、車輪の軸重による垂直荷重のほか、蛇行動や曲線での横圧荷重や水平荷重、曲線走行時、車両の遠心力から車輪を介して伝わる外力に十分に耐えられるものでなければならない。また電気鉄道区間のレールは、動力車(機関車や電車)の電流の帰線路としての役割を持ち、さらに自動信号区間のレールは軌道回路が流れることで信号保安装置の一部の機能としての役割も持っている。 施行性が良好でかつ耐用年数が長いレールとしては4点(耐摩耗性、対接触疲労性、溶接性、耐食性)が特に重要な項目となってくる。 レールの断面の形状として望ましい条件としては次のことが挙げられる。 レールの断面形状には、橋型レール、双頭レール、牛頭レール、平底レール、溝付きレールなどの種類がある。橋型レールは、底部から頭部にかけて同じ幅で垂直に上がっているのが特徴であり、最近では使用されていない。双頭レールは、「I」形断面で上下の両頭部が同形であり、転頭して上下を変えれば再利用ができる。牛頭レールは、双頭レールを改良したものである。両者はイギリスなどで使用されていたのを、日本の鉄道開業時にイギリスから購入して採用されていた。平底レールは、底部の形状が安定しやすいように幅を広げた形状となっており、列車走行の荷重に対する曲げ強度も高く、磨耗にも強い、横圧に対しても安定性があり、レールの基本形状として国内外共に使用されている。溝付きレールは路面電車で使用されている。 日本の営業用鉄道では、長さ1 mあたりの重量が80kg,60 kg, 50 kg, 40 kg, 37 kg, 30 kgの規格が使われており、普通レールと呼ばれる。重量の大きいものほど、乗り心地に優れ線路の狂いが生じにくく、重量のある列車が通る路線、列車が高速で走行する路線、運行頻度の高い路線に適している。また、その後の改良設計により、従来より高さを高くして、断面二次モーメントを大きくしたN型レールが在来線用として使用されている。 ASCEは米国土木学会が定めた規格。PSはペンシルバニア鉄道規格 (Pennsylvania standard) の略。レールのポンド表示は長さ1ヤードあたりの重量ポンド。なお国際規格では、35 kg/m以上のレールを普通レールとしている(ISO 5003)。 異なる重量のレールの境界部には、中継レールや異形継目板を用いる。 分岐器用特殊レールには、以下の規格がある。 通常の鉄道用の普通レール以外に、工事用や鉱山用のトロッコなどで使う細いレールもあり、軽レールと呼称される。 普通レールに磨耗の進行を抑えるために、焼き入れと呼ばれる熱処理を施して、強度・硬さを増した熱処理レールと呼ばれるレールがある。これには、HH340レールとHH370レールがある。頭部全断面熱処理レールは、曲線部の外側レールなどに用いられる。端頭部熱処理レールは、レールに大きな負荷がかかるがロングレールが使用できず、継ぎ目を設けねばならないような箇所に用いるとされる。 レールは端部同士を繋いで用いる。この接続方法は左右のレールを対に接続する相対式継目方式と、左右のレールが対ではなく、それぞれをほぼ交互に接続する相互式継目方式の2種類がある。前者は、レールの下に設置された枕木の補強や信号回路の分断がやり易いが、継ぎ目の沈下が発生し易い。後者は、継ぎ目の沈下や走行中の列車の揺れは減るが、逆に列車のローリングが走行中に起こり易くなる。このため、21世紀における世界各国の鉄道では相互式継目を採用している事例は少なくなっている。 継ぎ目の観点から、レールの長さによる区分を以下に述べる。 レールの標準の長さは、日本の場合、1本25 mで、定尺レールと呼ぶ。線路では、これを、継ぎ目ではレール同士を突合せて突合せ継目とし継目板で繋いで連続させて用いている。レールの継ぎ目を繋ぐ継目板には、断面形状により短冊型・L型・I型が用いられており、I型はN型レールで使用されている。また、レールの継ぎ目の間では、適当な隙間を継目板の中間で設定している。これは、レールが気温や日射の変化に応じて伸縮するためであり、レール自身の温度は、気温の他に直射日光が当たる所では相当高くなり、その温度差は60 - 80 °Cとなる。そのため、定尺レールでは、40 °Cにおいて1 mm、0 °Cにおいて13 mm程度としている。車輪がレールの継ぎ目を通過する際に発生するガタンゴトンという音はジョイント音と呼ばれる。 継ぎ目構造の望ましい条件としては次のことが上げられる。 継目板とレールを締結しているボルト・ナットには、レールの温度による伸縮に対して支障が起きない条件が要求される緊締力で締結されており、ナットの緩みを防止するため、ナットと継目板の間にロックナットワッシャーを挿入している。また、レールは、電気車による電気運転において使用された動力電流を変電所に戻す帰線や、軌道回路により使用される電流を流すための電流回路としても利用されるため、継目板とレールとの間の接触面では錆などで電気抵抗が大きくなることを防ぐため、レールの継ぎ目の間にレールボンドや信号ボンドを繋いでおり、ハンダ合金によりレールに溶着されている。また軌道回路の境界などで絶縁が必要な場合には、継目板とレールの間に絶縁プレートを挟み、かつ、ボルトと継目板の間に絶縁チューブを挿入して軌道回路のための絶縁を確保している。これを絶縁継目という。 一方、定尺レール(工場出荷時の標準で25 m)を溶接して繋いだレールもある。このうち、全長200 m以上のレールをロングレールという。継ぎ目を減らすことで保守作業の省力化や、騒音・振動対策で乗り心地の向上が目指せる。2014年(平成26年)には新日鐵住金八幡製鉄所が長さ150 mのレールを出荷する体制を整えており、溶接する労力の低減やロングレール化した際の精度の向上を目指す動きも見られる。 ロングレールの中央部(不動区間)は枕木に固く締結し、枕木の周囲にバラストを十分に敷き詰めることで気温変化によるレール方向の伸縮は抑え込まれており、常にレール内部には応力(軸力)が発生している。しかし、端部(可動区間)は、温度変化により定尺レールよりも大きく伸縮するため、通常の突合せ継目ではなく、伸縮継目が用いられる。枕木への締結力や枕木の周囲に敷き詰められたバラストの量、レール温度の管理などが十分でないと、猛暑時にレールが座屈する事故や、極寒時にレールが破断する事故が発生することもある。これらは前述のロングレールの不動区間が温度変化によりレール方向に伸縮する軸力に耐えきれなくなった時に発生する。 ロングレール区間では、初期の頃は伸縮継手を軌道回路の区分前後に設置し、通常のレール間を絶縁継目でつないで軌道回路を絶縁分割するが、1970年に強力な接着剤をレールと継目板の間に接着して、レールの軸力と列車衝撃強度に耐えるとともに、電気絶縁性能を十分に持たせた接着絶縁レールを用いて軌道回路を絶縁分割する方式が採用されている。この方式には、最初の頃は湿式法が採用されていたが、1年未満で接着部が剥離する損傷が発生したため、1984年にエポキシ樹脂をプレート状に予備成型した固定接着剤をレールと継目板の間に圧着して加熱する乾式法が現在において採用されている。最近ではレールのボルト穴の空隙部に接着剤を充填して、レールと継目板の間の接着層内にテフロンシートを介在させることで、継目板からの接着剤の剥離と継目板の腐食を防止するともに、電気絶縁性能を更に上げた改良形の乾式法が採用されつつある。この方式では、レールのウィークポイントである絶縁継目が無くなりかつ、軌道回路ごとに絶縁付き伸縮継手を挿入する必要がなくなるのが採用するメリットである。 日本でのロングレールは東海道新幹線で本格的に採用され、その後、在来線や私鉄の幹線にも導入が進んでいる。 なお、溶接後の処理が甘いか、長期間の使用により、もともと継ぎ目だった部分からジョイント音が聞こえてくる。また、ロングレールの長さには限度があるため、継ぎ目を全くなくすことは出来ない。またロングレールは万能ではなく急カーブのあるところへの敷設はレールの偏摩耗の観点から適当ではなく、とくに半径300 m未満のカーブ区間ではレール自身の弾性で反発が強くなるため使用には適さない。このことから急カーブの区間は定尺レールが使用される。 軽レールの長さは数メートルのものが多い。 高温で熱した鋼塊(オレンジから黄くらいの色温度)を、ローラーを組み合わせて作られた圧延機に通して、圧延(熱延)する。圧延機は段階に合わせて数台あり、そこを複数回往復させる複雑な行程を経て製造される。不純物は両端にたまりやすいので、日本では長く作ってから両端を切断する方法がとられている。また、製造時では、レールに対して各種試験を行い、レールの品質の確保を行っている。 製造されたレールの腹部には断面形状・質量・製造法・製造者名・製造年月などが刻印される。 材料としては強度・耐磨耗性・耐食性などから高炭素鋼が用いられる。この材質は、刃物ほど硬くはないが、相当の靭性と耐接触疲労性があり、溶接が可能である条件を元に成分が決められている。 レールの損傷は製造時の材質欠陥などによる先天的なものと、敷設後の車両荷重などによる後天的なものに大別される。 レールは輪重を直径10 mm(ミリメートル)を楕円形状した接触面で支えており、1GPa(ギガパスカル)に及ぶ応力が発生してレール表面が変形する中で車輪が通過することで、レールに様々な損傷が発生する。こうした転がり接触によるレールの損傷には「レールシェリング」「きしみ割れ」「空転傷」「摩耗」が発生する。レールの劣化メカニズムを解明するために有限要素法が有用であり、スーパーコンピューターを用いた大規模な並列計算によってシミュレーションする技術の開発が進められている。 レールには寿命があり、レールを取替えることでレールの性能を維持させる。50 kgレールでの摩耗によるレールの取替えは、高さで約15 mm、断面積で約20 %を許容限度としている。普通は10年 - 25年を標準として取替えているが、急曲線かつ輸送密度の高い区間では1年足らずで取替える場合がある。また、通過トン数では、2 - 5億トン位がレール交換の目安とされている。 曲線で外軌のゲージコーナが車輪のフランジと接触することによる摩耗を「側摩耗」と称し、レール交換の主因となっている。また、レール表面が一定の間隔で摩耗または塑性変形して連続した凹凸が発生する摩耗を「波状摩耗」と称し、この摩耗は列車走行時に振動が発生し、騒音公害や保線上の問題が生じやすくなる。 電位差が大きい、排水が十分にできない場合は微弱電流による腐食(電食)が発生する(「塩害#構造物に関わる塩害」参照)。 海岸に近い路線では、レールの腐食が早く進行する。特にトンネルの出入口から200 m 付近までのレールは塩分の飛来が起こりやすいが、雨などで流されることが無いため腐食が進みやすいという調査結果がある。 前述のように、金属であるレールは猛暑により伸びて歪むことがあり、軌間が広がりすぎると列車脱線事故を起こすリスクがある。こうした障害が出る温度の目安は50°C前後とされ、鉄道事業者は徐行運転や運転見合わせで対応するが、間に合わず脱線事故が起きることもある。 平時からの対策として、レールの間のつなぎ目を少し開けるようにしており、一部ではつなぎ目が斜めに加工されたレールが使われているが、資金に余裕がない地方鉄道などでは導入が遅れている。 転がり接触疲労による損傷をシェリング(横裂、水平裂)と呼ぶ。コーナー部分にかかる疲労損傷をきしみ割れと呼ぶ。 車輪またはソリが発明されて、重量物の輸送に使われるようになると、地面が軟らかい場所では次第に深い轍(わだち)が刻み込まれて、それに沿って輸送されるようになった。轍は、雨が降って泥沼化した場合に輸送の障害となり、また轍と異なる方向へ向きを変える時にも大きな障害となるため、これに対処するために地面側での工夫を必要とした。路面全体に石を敷き詰めて舗装した場合は道路へと発展するが、車輪の間隔が一定のものに統一されている場合には、車輪の下に当たる部分にだけ板や石を敷き詰めるという対処も行われた。これは軌条(レール)の原始的なものと見ることができる。 原始的なレール(軌条)を使って動物や人に荷車をひかせる方法は紀元前から行われていたとされ、ドイツのフライブルクにあるフライブルク大聖堂のステンドグラス(1350年製作)にもその光景は残されている。16世紀のイギリスには無数の馬車軌道(ワゴンウェイ、Wagonway)があったとされている。 その後レールは鉱山地帯における輸送に広く用いられ、次第に改良が進められていった。当初は鉄が貴重品であったため樫の木が用いられていたが、磨耗が激しく保守担当者の悩みの種となっていた。1738年、イギリスのカンバーランドにおいて初めて鋳鉄を利用したレールが登場したが、これは木材の基盤の上に薄い帯状の鉄を貼り付けただけのもので、しかもカーブなど磨耗しやすい場所にだけ用いられていた。1750年代頃になると、カーブだけではなく全ての区間で鋳鉄の板を取り付けることが一般化した。しかし鋳鉄は曲げに弱く、脱線事故も多発し続けた。 1767年、同じイギリスのコールブルックデールの製鉄所技師リチャード・レイノルズは、生産量が増加して余剰気味になってきた鋳鉄の使い道として、トロッコに使う目的のレールの生産を開始し、この時にレールにフランジが取り付けられた。レールの両側につばが取り付けられて、車輪の脱落を防ぐ仕組みとなっていた。しかしレールと車輪がきしみあってうまく走れず、また雨水や落ち葉などが溝に溜まるという問題があった。 1776年、ベンジャミン・カーがこの欠点を解消するために片方のつばを取り除いた、L字形のレールを発明した。これにより車両の走行は格段に容易となった。 1789年、土木技師のウィリアム・ジェソップは、車輪側にフランジを取り付けて、レールの上面は平らにする方式を発明した。魚腹形と呼ばれる下側が膨れたレールを使用している。これにより大幅に脱線の確率が減少し、安定的に鉄道輸送を行うことが可能になった。このためジェソップは「鉄道軌道の父」と呼ばれている。 依然として鋳鉄によって製造されていたレールの折損が問題となっており、1803年にニクソンが錬鉄のレールを発明したが、技術面、コスト面の問題から使用されなかった。 それまでは鉱山における資材輸送用のトロッコに用いられていただけであったレールは、蒸気機関車が登場することによって近代的な交通機関の一翼を担うことになった。初期には、平らなレールの上を鉄製の車輪を持った機関車で牽引しようとすると車輪が空転すると考えられており、1812年にジョン・ブレンキンソップによってラックレールが考案されたが、実験の結果、よほどの急勾配でない限りラックは不要であることが判明した。 初めての実用的な蒸気機関車を利用した鉄道であるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、1830年に鋳鉄製のレールを使用して開業した。このため磨耗によりレールは頻繁に交換する必要があった。 1831年、アメリカのロバート・スティーブンスが平底の現在用いられているのと同じようなレールを発明した。これは犬釘を用いることで簡単に枕木に固定することができるという長所があり、世界中に普及して現在のレールの原形となった。 1837年、イギリスのジョセフ・ロック(英語版)が双頭レールを発明した。レールをチェアとくさびによって固定するもので、レールが上下が同じ形をしているためひっくり返すことでどちらも走行用に使用することができるというものであった。しかし、チェアと底部の接触箇所で摩耗が生じ、ひっくり返しても円滑な走行面が得られなかった。 1856年、イギリスのヘンリー・ベッセマーが転炉に空気を吹き込むことで鉄から炭素分を除去して鋼鉄を生産する方法を発明した。同年シーメンス兄弟が平炉を発明し、さらに1864年、フランスのピエール・マルタンが改良して工業化に成功し、シーメンス・マルタン法による鋼鉄の生産が可能となった。1877年、イギリスのシドニー・トーマスがベッセマー製鋼法を改良してリンを取り除くことができるようになった。これらの鋼鉄の生産に関する技術進歩を受けて、鋼鉄製のレールが一般に普及していった。 最初に鋼鉄製のレールが使用されたのは、イギリスのミッドランド鉄道のダービー地区で、ベッセマー製鋼法が発明されたすぐ翌年の1857年のことであった。それまで3ヶ月ごとに交換を必要としていた区間で、16年間交換なしに使用することができたとの記録がある。 現在のレールはスティーブンスの平底レールを鋼鉄を用いて作っているもので、材質や重量の増大などの点での進歩はあるが、基本的には19世紀に完成された技術で成り立っている。 日本初の営業用鉄道の開業は1872年(明治5年)のことであるが、最初に使われたのは、イギリス DARLINGTON IRON 社の1870年製の双頭レールである。双頭レールとは、レール底部の平らな部分がなく、上下とも走行用に使用可能なI字形の形状をしていた。 日本では1927年(昭和2年)頃まで、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国などから輸入したレールを使用していたが、国内生産品で賄えるようになったことから、レールの輸入は原則として終焉を迎えた。 ただし路面電車用の特殊形状のレール(みぞレール、護輪みぞレールなど)は、わずかではあるが後年まで輸入品が使用された。近年になって、保守の軽減性から溝レール類が再輸入され、富山ライトレール、土佐電気鉄道、熊本市交通局の路面電車などで使用されている。 1901年(明治34年)の官営八幡製鐵所の開所に伴い、日本国内でもレールの圧延が開始された。1901年の生産はわずか1,086トンとされている。1926年(大正15/昭和元年)頃までは生産が追い付かず輸入品と併用されたが、この頃より生産体制が整い、レールの国産化が完了した。八幡製鐵所では、富士製鐵との合併により新日本製鐵(新日鉄)となりさらに住友金属工業(住金)との合併により新日鐵住金となった現在でも、八幡地区でレールの生産が行なわれている。 1952年(昭和27年)からは、富士製鐵釜石製鐵所でもレールの生産が開始された。1970年(昭和45年)の八幡製鐵と富士製鐵の合併の際、日本国内のレール生産が合併後の新日本製鐵1社のみとなり、独占禁止法に抵触する可能性が高くなったため、この釜石の設備を日本鋼管福山製鉄所に売却、移設を行った。日本鋼管は2003年(平成15年)に川崎製鉄と合併し、JFEスチールと名前を変えたが、現在もレールの生産を行っている。 以後、現在に至るまで、レールのほとんどが国産品で賄われている。また、日本で製造されたレールは海外にも輸出され、高い評価を得ている。 使用後のレールは、駅のプラットホームの屋根や跨線橋などの骨組み、電化線路の架線柱、線路際の柵などの部材として再利用されることがある。現在は、建築基準法などの改正や、レール自体がよりレールとしての使用に特化した素材組成へと変化しているため、建築資材には使われなくなった。また、古いレールを再利用したホームの屋根なども、高架化や地下化、バリアフリー対応などに伴う駅の改築で、徐々に姿を消しつつあるが、もともとの古レールの再利用例が多いことから各所で見ることができる。 現状は、鉄道関連イベントなどで、1 cm程度に薄くスライスしてメッキ等を施したものが、文鎮などの記念品として販売されることがあるほかは、屑鉄として回収され、製鋼原料として再利用されている。屑鉄としては高品位であるため、廃線跡に残されたレールが盗難に遭う事件も発生している。 日本で使用するレール類は日本産業規格(JIS)により、規格が定められている。レールに関する規格と継目板に関する規格は以下の通り。 日本での普通レールの製造メーカー 日本での軽レールの製造メーカー ほか
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "軌条(きじょう)とは、鉄道の線路(軌道)を構成する要素の一つで、鉄道車両を直接支持し、車輪の転動のガイドとなる役割をもつ。一般的にはレールと呼ばれる場合が多い。素材は、一般的には、断面が逆Tの字型をした棒状の鋼製品が用いられる。鉄鋼分野では、条鋼の一種に分類されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "軌条は、所定の間隔(軌間)で2本平行に並べ、道床の上に並べられた枕木の上に締結装置(犬釘など)を用いて固定する。枕木と軌条は垂直である。この様にして敷かれた線路上を走る鉄道を普通鉄道という。普通鉄道のほか、桁状の1本の案内路を使うモノレールや、特殊な案内路を用いる案内軌条式鉄道もあり、これらの軌道の材質は鋼に限られずコンクリートなども用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ここでは、普通鉄道に使われる、鋼製の断面が逆T字型をした鉄道レールを中心に記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "レールは、車両の重量を直接に支え車輪からの1点荷重を枕木と道床に分布させるほか、車両に安全で滑らかな走行面を与える役割を持つ。さらにレールは、車輪が脱線しないように車両を案内する役割を持っている。そのためレールは、車輪の軸重による垂直荷重のほか、蛇行動や曲線での横圧荷重や水平荷重、曲線走行時、車両の遠心力から車輪を介して伝わる外力に十分に耐えられるものでなければならない。また電気鉄道区間のレールは、動力車(機関車や電車)の電流の帰線路としての役割を持ち、さらに自動信号区間のレールは軌道回路が流れることで信号保安装置の一部の機能としての役割も持っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "施行性が良好でかつ耐用年数が長いレールとしては4点(耐摩耗性、対接触疲労性、溶接性、耐食性)が特に重要な項目となってくる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "レールの断面の形状として望ましい条件としては次のことが挙げられる。", "title": "形状" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "レールの断面形状には、橋型レール、双頭レール、牛頭レール、平底レール、溝付きレールなどの種類がある。橋型レールは、底部から頭部にかけて同じ幅で垂直に上がっているのが特徴であり、最近では使用されていない。双頭レールは、「I」形断面で上下の両頭部が同形であり、転頭して上下を変えれば再利用ができる。牛頭レールは、双頭レールを改良したものである。両者はイギリスなどで使用されていたのを、日本の鉄道開業時にイギリスから購入して採用されていた。平底レールは、底部の形状が安定しやすいように幅を広げた形状となっており、列車走行の荷重に対する曲げ強度も高く、磨耗にも強い、横圧に対しても安定性があり、レールの基本形状として国内外共に使用されている。溝付きレールは路面電車で使用されている。", "title": "形状" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本の営業用鉄道では、長さ1 mあたりの重量が80kg,60 kg, 50 kg, 40 kg, 37 kg, 30 kgの規格が使われており、普通レールと呼ばれる。重量の大きいものほど、乗り心地に優れ線路の狂いが生じにくく、重量のある列車が通る路線、列車が高速で走行する路線、運行頻度の高い路線に適している。また、その後の改良設計により、従来より高さを高くして、断面二次モーメントを大きくしたN型レールが在来線用として使用されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ASCEは米国土木学会が定めた規格。PSはペンシルバニア鉄道規格 (Pennsylvania standard) の略。レールのポンド表示は長さ1ヤードあたりの重量ポンド。なお国際規格では、35 kg/m以上のレールを普通レールとしている(ISO 5003)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "異なる重量のレールの境界部には、中継レールや異形継目板を用いる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "分岐器用特殊レールには、以下の規格がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "通常の鉄道用の普通レール以外に、工事用や鉱山用のトロッコなどで使う細いレールもあり、軽レールと呼称される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "普通レールに磨耗の進行を抑えるために、焼き入れと呼ばれる熱処理を施して、強度・硬さを増した熱処理レールと呼ばれるレールがある。これには、HH340レールとHH370レールがある。頭部全断面熱処理レールは、曲線部の外側レールなどに用いられる。端頭部熱処理レールは、レールに大きな負荷がかかるがロングレールが使用できず、継ぎ目を設けねばならないような箇所に用いるとされる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "レールは端部同士を繋いで用いる。この接続方法は左右のレールを対に接続する相対式継目方式と、左右のレールが対ではなく、それぞれをほぼ交互に接続する相互式継目方式の2種類がある。前者は、レールの下に設置された枕木の補強や信号回路の分断がやり易いが、継ぎ目の沈下が発生し易い。後者は、継ぎ目の沈下や走行中の列車の揺れは減るが、逆に列車のローリングが走行中に起こり易くなる。このため、21世紀における世界各国の鉄道では相互式継目を採用している事例は少なくなっている。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "継ぎ目の観点から、レールの長さによる区分を以下に述べる。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "レールの標準の長さは、日本の場合、1本25 mで、定尺レールと呼ぶ。線路では、これを、継ぎ目ではレール同士を突合せて突合せ継目とし継目板で繋いで連続させて用いている。レールの継ぎ目を繋ぐ継目板には、断面形状により短冊型・L型・I型が用いられており、I型はN型レールで使用されている。また、レールの継ぎ目の間では、適当な隙間を継目板の中間で設定している。これは、レールが気温や日射の変化に応じて伸縮するためであり、レール自身の温度は、気温の他に直射日光が当たる所では相当高くなり、その温度差は60 - 80 °Cとなる。そのため、定尺レールでは、40 °Cにおいて1 mm、0 °Cにおいて13 mm程度としている。車輪がレールの継ぎ目を通過する際に発生するガタンゴトンという音はジョイント音と呼ばれる。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "継ぎ目構造の望ましい条件としては次のことが上げられる。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "継目板とレールを締結しているボルト・ナットには、レールの温度による伸縮に対して支障が起きない条件が要求される緊締力で締結されており、ナットの緩みを防止するため、ナットと継目板の間にロックナットワッシャーを挿入している。また、レールは、電気車による電気運転において使用された動力電流を変電所に戻す帰線や、軌道回路により使用される電流を流すための電流回路としても利用されるため、継目板とレールとの間の接触面では錆などで電気抵抗が大きくなることを防ぐため、レールの継ぎ目の間にレールボンドや信号ボンドを繋いでおり、ハンダ合金によりレールに溶着されている。また軌道回路の境界などで絶縁が必要な場合には、継目板とレールの間に絶縁プレートを挟み、かつ、ボルトと継目板の間に絶縁チューブを挿入して軌道回路のための絶縁を確保している。これを絶縁継目という。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一方、定尺レール(工場出荷時の標準で25 m)を溶接して繋いだレールもある。このうち、全長200 m以上のレールをロングレールという。継ぎ目を減らすことで保守作業の省力化や、騒音・振動対策で乗り心地の向上が目指せる。2014年(平成26年)には新日鐵住金八幡製鉄所が長さ150 mのレールを出荷する体制を整えており、溶接する労力の低減やロングレール化した際の精度の向上を目指す動きも見られる。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ロングレールの中央部(不動区間)は枕木に固く締結し、枕木の周囲にバラストを十分に敷き詰めることで気温変化によるレール方向の伸縮は抑え込まれており、常にレール内部には応力(軸力)が発生している。しかし、端部(可動区間)は、温度変化により定尺レールよりも大きく伸縮するため、通常の突合せ継目ではなく、伸縮継目が用いられる。枕木への締結力や枕木の周囲に敷き詰められたバラストの量、レール温度の管理などが十分でないと、猛暑時にレールが座屈する事故や、極寒時にレールが破断する事故が発生することもある。これらは前述のロングレールの不動区間が温度変化によりレール方向に伸縮する軸力に耐えきれなくなった時に発生する。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ロングレール区間では、初期の頃は伸縮継手を軌道回路の区分前後に設置し、通常のレール間を絶縁継目でつないで軌道回路を絶縁分割するが、1970年に強力な接着剤をレールと継目板の間に接着して、レールの軸力と列車衝撃強度に耐えるとともに、電気絶縁性能を十分に持たせた接着絶縁レールを用いて軌道回路を絶縁分割する方式が採用されている。この方式には、最初の頃は湿式法が採用されていたが、1年未満で接着部が剥離する損傷が発生したため、1984年にエポキシ樹脂をプレート状に予備成型した固定接着剤をレールと継目板の間に圧着して加熱する乾式法が現在において採用されている。最近ではレールのボルト穴の空隙部に接着剤を充填して、レールと継目板の間の接着層内にテフロンシートを介在させることで、継目板からの接着剤の剥離と継目板の腐食を防止するともに、電気絶縁性能を更に上げた改良形の乾式法が採用されつつある。この方式では、レールのウィークポイントである絶縁継目が無くなりかつ、軌道回路ごとに絶縁付き伸縮継手を挿入する必要がなくなるのが採用するメリットである。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本でのロングレールは東海道新幹線で本格的に採用され、その後、在来線や私鉄の幹線にも導入が進んでいる。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、溶接後の処理が甘いか、長期間の使用により、もともと継ぎ目だった部分からジョイント音が聞こえてくる。また、ロングレールの長さには限度があるため、継ぎ目を全くなくすことは出来ない。またロングレールは万能ではなく急カーブのあるところへの敷設はレールの偏摩耗の観点から適当ではなく、とくに半径300 m未満のカーブ区間ではレール自身の弾性で反発が強くなるため使用には適さない。このことから急カーブの区間は定尺レールが使用される。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "軽レールの長さは数メートルのものが多い。", "title": "継ぎ目" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "高温で熱した鋼塊(オレンジから黄くらいの色温度)を、ローラーを組み合わせて作られた圧延機に通して、圧延(熱延)する。圧延機は段階に合わせて数台あり、そこを複数回往復させる複雑な行程を経て製造される。不純物は両端にたまりやすいので、日本では長く作ってから両端を切断する方法がとられている。また、製造時では、レールに対して各種試験を行い、レールの品質の確保を行っている。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "製造されたレールの腹部には断面形状・質量・製造法・製造者名・製造年月などが刻印される。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "材料としては強度・耐磨耗性・耐食性などから高炭素鋼が用いられる。この材質は、刃物ほど硬くはないが、相当の靭性と耐接触疲労性があり、溶接が可能である条件を元に成分が決められている。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "レールの損傷は製造時の材質欠陥などによる先天的なものと、敷設後の車両荷重などによる後天的なものに大別される。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "レールは輪重を直径10 mm(ミリメートル)を楕円形状した接触面で支えており、1GPa(ギガパスカル)に及ぶ応力が発生してレール表面が変形する中で車輪が通過することで、レールに様々な損傷が発生する。こうした転がり接触によるレールの損傷には「レールシェリング」「きしみ割れ」「空転傷」「摩耗」が発生する。レールの劣化メカニズムを解明するために有限要素法が有用であり、スーパーコンピューターを用いた大規模な並列計算によってシミュレーションする技術の開発が進められている。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "レールには寿命があり、レールを取替えることでレールの性能を維持させる。50 kgレールでの摩耗によるレールの取替えは、高さで約15 mm、断面積で約20 %を許容限度としている。普通は10年 - 25年を標準として取替えているが、急曲線かつ輸送密度の高い区間では1年足らずで取替える場合がある。また、通過トン数では、2 - 5億トン位がレール交換の目安とされている。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "曲線で外軌のゲージコーナが車輪のフランジと接触することによる摩耗を「側摩耗」と称し、レール交換の主因となっている。また、レール表面が一定の間隔で摩耗または塑性変形して連続した凹凸が発生する摩耗を「波状摩耗」と称し、この摩耗は列車走行時に振動が発生し、騒音公害や保線上の問題が生じやすくなる。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "電位差が大きい、排水が十分にできない場合は微弱電流による腐食(電食)が発生する(「塩害#構造物に関わる塩害」参照)。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "海岸に近い路線では、レールの腐食が早く進行する。特にトンネルの出入口から200 m 付近までのレールは塩分の飛来が起こりやすいが、雨などで流されることが無いため腐食が進みやすいという調査結果がある。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "前述のように、金属であるレールは猛暑により伸びて歪むことがあり、軌間が広がりすぎると列車脱線事故を起こすリスクがある。こうした障害が出る温度の目安は50°C前後とされ、鉄道事業者は徐行運転や運転見合わせで対応するが、間に合わず脱線事故が起きることもある。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "平時からの対策として、レールの間のつなぎ目を少し開けるようにしており、一部ではつなぎ目が斜めに加工されたレールが使われているが、資金に余裕がない地方鉄道などでは導入が遅れている。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "転がり接触疲労による損傷をシェリング(横裂、水平裂)と呼ぶ。コーナー部分にかかる疲労損傷をきしみ割れと呼ぶ。", "title": "レールの障害、損傷と寿命、整備" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "車輪またはソリが発明されて、重量物の輸送に使われるようになると、地面が軟らかい場所では次第に深い轍(わだち)が刻み込まれて、それに沿って輸送されるようになった。轍は、雨が降って泥沼化した場合に輸送の障害となり、また轍と異なる方向へ向きを変える時にも大きな障害となるため、これに対処するために地面側での工夫を必要とした。路面全体に石を敷き詰めて舗装した場合は道路へと発展するが、車輪の間隔が一定のものに統一されている場合には、車輪の下に当たる部分にだけ板や石を敷き詰めるという対処も行われた。これは軌条(レール)の原始的なものと見ることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "原始的なレール(軌条)を使って動物や人に荷車をひかせる方法は紀元前から行われていたとされ、ドイツのフライブルクにあるフライブルク大聖堂のステンドグラス(1350年製作)にもその光景は残されている。16世紀のイギリスには無数の馬車軌道(ワゴンウェイ、Wagonway)があったとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その後レールは鉱山地帯における輸送に広く用いられ、次第に改良が進められていった。当初は鉄が貴重品であったため樫の木が用いられていたが、磨耗が激しく保守担当者の悩みの種となっていた。1738年、イギリスのカンバーランドにおいて初めて鋳鉄を利用したレールが登場したが、これは木材の基盤の上に薄い帯状の鉄を貼り付けただけのもので、しかもカーブなど磨耗しやすい場所にだけ用いられていた。1750年代頃になると、カーブだけではなく全ての区間で鋳鉄の板を取り付けることが一般化した。しかし鋳鉄は曲げに弱く、脱線事故も多発し続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1767年、同じイギリスのコールブルックデールの製鉄所技師リチャード・レイノルズは、生産量が増加して余剰気味になってきた鋳鉄の使い道として、トロッコに使う目的のレールの生産を開始し、この時にレールにフランジが取り付けられた。レールの両側につばが取り付けられて、車輪の脱落を防ぐ仕組みとなっていた。しかしレールと車輪がきしみあってうまく走れず、また雨水や落ち葉などが溝に溜まるという問題があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1776年、ベンジャミン・カーがこの欠点を解消するために片方のつばを取り除いた、L字形のレールを発明した。これにより車両の走行は格段に容易となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1789年、土木技師のウィリアム・ジェソップは、車輪側にフランジを取り付けて、レールの上面は平らにする方式を発明した。魚腹形と呼ばれる下側が膨れたレールを使用している。これにより大幅に脱線の確率が減少し、安定的に鉄道輸送を行うことが可能になった。このためジェソップは「鉄道軌道の父」と呼ばれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "依然として鋳鉄によって製造されていたレールの折損が問題となっており、1803年にニクソンが錬鉄のレールを発明したが、技術面、コスト面の問題から使用されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "それまでは鉱山における資材輸送用のトロッコに用いられていただけであったレールは、蒸気機関車が登場することによって近代的な交通機関の一翼を担うことになった。初期には、平らなレールの上を鉄製の車輪を持った機関車で牽引しようとすると車輪が空転すると考えられており、1812年にジョン・ブレンキンソップによってラックレールが考案されたが、実験の結果、よほどの急勾配でない限りラックは不要であることが判明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "初めての実用的な蒸気機関車を利用した鉄道であるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、1830年に鋳鉄製のレールを使用して開業した。このため磨耗によりレールは頻繁に交換する必要があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1831年、アメリカのロバート・スティーブンスが平底の現在用いられているのと同じようなレールを発明した。これは犬釘を用いることで簡単に枕木に固定することができるという長所があり、世界中に普及して現在のレールの原形となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1837年、イギリスのジョセフ・ロック(英語版)が双頭レールを発明した。レールをチェアとくさびによって固定するもので、レールが上下が同じ形をしているためひっくり返すことでどちらも走行用に使用することができるというものであった。しかし、チェアと底部の接触箇所で摩耗が生じ、ひっくり返しても円滑な走行面が得られなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1856年、イギリスのヘンリー・ベッセマーが転炉に空気を吹き込むことで鉄から炭素分を除去して鋼鉄を生産する方法を発明した。同年シーメンス兄弟が平炉を発明し、さらに1864年、フランスのピエール・マルタンが改良して工業化に成功し、シーメンス・マルタン法による鋼鉄の生産が可能となった。1877年、イギリスのシドニー・トーマスがベッセマー製鋼法を改良してリンを取り除くことができるようになった。これらの鋼鉄の生産に関する技術進歩を受けて、鋼鉄製のレールが一般に普及していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "最初に鋼鉄製のレールが使用されたのは、イギリスのミッドランド鉄道のダービー地区で、ベッセマー製鋼法が発明されたすぐ翌年の1857年のことであった。それまで3ヶ月ごとに交換を必要としていた区間で、16年間交換なしに使用することができたとの記録がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "現在のレールはスティーブンスの平底レールを鋼鉄を用いて作っているもので、材質や重量の増大などの点での進歩はあるが、基本的には19世紀に完成された技術で成り立っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "日本初の営業用鉄道の開業は1872年(明治5年)のことであるが、最初に使われたのは、イギリス DARLINGTON IRON 社の1870年製の双頭レールである。双頭レールとは、レール底部の平らな部分がなく、上下とも走行用に使用可能なI字形の形状をしていた。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "日本では1927年(昭和2年)頃まで、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国などから輸入したレールを使用していたが、国内生産品で賄えるようになったことから、レールの輸入は原則として終焉を迎えた。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ただし路面電車用の特殊形状のレール(みぞレール、護輪みぞレールなど)は、わずかではあるが後年まで輸入品が使用された。近年になって、保守の軽減性から溝レール類が再輸入され、富山ライトレール、土佐電気鉄道、熊本市交通局の路面電車などで使用されている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1901年(明治34年)の官営八幡製鐵所の開所に伴い、日本国内でもレールの圧延が開始された。1901年の生産はわずか1,086トンとされている。1926年(大正15/昭和元年)頃までは生産が追い付かず輸入品と併用されたが、この頃より生産体制が整い、レールの国産化が完了した。八幡製鐵所では、富士製鐵との合併により新日本製鐵(新日鉄)となりさらに住友金属工業(住金)との合併により新日鐵住金となった現在でも、八幡地区でレールの生産が行なわれている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1952年(昭和27年)からは、富士製鐵釜石製鐵所でもレールの生産が開始された。1970年(昭和45年)の八幡製鐵と富士製鐵の合併の際、日本国内のレール生産が合併後の新日本製鐵1社のみとなり、独占禁止法に抵触する可能性が高くなったため、この釜石の設備を日本鋼管福山製鉄所に売却、移設を行った。日本鋼管は2003年(平成15年)に川崎製鉄と合併し、JFEスチールと名前を変えたが、現在もレールの生産を行っている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "以後、現在に至るまで、レールのほとんどが国産品で賄われている。また、日本で製造されたレールは海外にも輸出され、高い評価を得ている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "使用後のレールは、駅のプラットホームの屋根や跨線橋などの骨組み、電化線路の架線柱、線路際の柵などの部材として再利用されることがある。現在は、建築基準法などの改正や、レール自体がよりレールとしての使用に特化した素材組成へと変化しているため、建築資材には使われなくなった。また、古いレールを再利用したホームの屋根なども、高架化や地下化、バリアフリー対応などに伴う駅の改築で、徐々に姿を消しつつあるが、もともとの古レールの再利用例が多いことから各所で見ることができる。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "現状は、鉄道関連イベントなどで、1 cm程度に薄くスライスしてメッキ等を施したものが、文鎮などの記念品として販売されることがあるほかは、屑鉄として回収され、製鋼原料として再利用されている。屑鉄としては高品位であるため、廃線跡に残されたレールが盗難に遭う事件も発生している。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本で使用するレール類は日本産業規格(JIS)により、規格が定められている。レールに関する規格と継目板に関する規格は以下の通り。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本での普通レールの製造メーカー", "title": "製造メーカー" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "日本での軽レールの製造メーカー", "title": "製造メーカー" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "製造メーカー" } ]
軌条(きじょう)とは、鉄道の線路(軌道)を構成する要素の一つで、鉄道車両を直接支持し、車輪の転動のガイドとなる役割をもつ。一般的にはレールと呼ばれる場合が多い。素材は、一般的には、断面が逆Tの字型をした棒状の鋼製品が用いられる。鉄鋼分野では、条鋼の一種に分類されている。 軌条は、所定の間隔(軌間)で2本平行に並べ、道床の上に並べられた枕木の上に締結装置(犬釘など)を用いて固定する。枕木と軌条は垂直である。この様にして敷かれた線路上を走る鉄道を普通鉄道という。普通鉄道のほか、桁状の1本の案内路を使うモノレールや、特殊な案内路を用いる案内軌条式鉄道もあり、これらの軌道の材質は鋼に限られずコンクリートなども用いられる。 ここでは、普通鉄道に使われる、鋼製の断面が逆T字型をした鉄道レールを中心に記述する。
{{Redirect|レール}} [[Image:08 tory railtrack ubt.jpeg|thumb|鉄道線路。枕木を挟んで、左右に見える棒状のものが軌条(レール)である。]] [[画像:Rail.JPG|thumb|レール(50Nレール)]] '''軌条'''(きじょう)とは、[[鉄道]]の[[線路 (鉄道)|線路]]([[軌道 (鉄道)|軌道]])を構成する要素の一つで、[[鉄道車両]]を直接支持し、[[車輪]]の転動のガイドとなる役割をもつ{{sfn|西亀ら|1980|p=121}}。一般的には'''レール'''と呼ばれる場合が多い<ref name=東京新聞20230829>「[https://www.tokyo-np.co.jp/article/273283 ゆがむレール 猛暑で相次ぐ/過去には脱線事故も発生]」『[[東京新聞]]』朝刊2023年8月29日20面(同日閲覧)</ref>。素材は、一般的には、断面が逆Tの字型をした棒状の[[鋼]]製品が用いられる。[[鉄鋼]]分野では、[[条鋼]]の一種に分類されている{{sfn|高橋|2006|p=519}}。 軌条は、所定の間隔([[軌間]])で2本平行に並べ、[[道床]]の上に並べられた'''[[枕木]]'''の上に'''締結装置'''('''[[犬釘]]'''など)を用いて固定する。枕木と軌条は垂直である。この様にして敷かれた線路上を走る鉄道を[[普通鉄道]]という。普通鉄道のほか、桁状の1本の案内路を使う[[モノレール]]や、特殊な案内路を用いる[[案内軌条式鉄道]]もあり、これらの軌道の材質は鋼に限られず[[コンクリート]]なども用いられる。 ここでは、普通鉄道に使われる、鋼製の断面が逆T字型をした'''鉄道レール'''を中心に記述する。 == 概要 == レールは、車両の重量を直接に支え車輪からの1点荷重を枕木と道床に分布させるほか、車両に安全で滑らかな走行面を与える役割を持つ。さらにレールは、車輪が[[列車脱線事故|脱線]]しないように車両を案内する役割を持っている{{sfn|天野ら|1984|p=16}}。そのためレールは、車輪の[[軸重]]による垂直[[荷重]]のほか、[[蛇行動]]や曲線での横圧荷重や水平荷重、曲線走行時、車両の[[遠心力]]から車輪を介して伝わる[[外力]]に十分に耐えられるものでなければならない{{sfn|天野ら|1984|p=16}}。また[[電気鉄道]]区間のレールは、[[動力車]]([[機関車]]や[[電車]])の[[電流]]の帰線路としての役割を持ち、さらに自動[[鉄道信号機|信号]]区間のレールは[[軌道回路]]が流れることで[[信号保安]]装置の一部の機能としての役割も持っている{{sfn|片岡|2007|p=24}}。 [[施行]]性が良好でかつ[[耐用年数]]が長いレールとしては4点(耐[[摩耗]]性、対接触疲労性、[[溶接]]性、[[腐食|耐食]]性)が特に重要な項目となってくる{{sfn|片岡|2007|p=25}}。 == 形状 == [[File:Rail shape section.png|thumb|350px|レールの断面形状による分類<br />1 橋型レール、2 双頭レール、3 牛頭レール<br />4 平底レール、5 溝付きレール]] レールの断面の形状として望ましい条件としては次のことが挙げられる。 * レール頭部の形状は車輪が脱線し難い * レールの磨耗前と磨耗後の形状の差が少ない * 垂直荷重に対しては高い方が望ましい * 上首・下首の半径の小さいものは傷が入りやすいので避ける * 底部の形状は設置が安定し易いように幅を広くする * 上下中間の幅は[[錆]]や腐食にも考慮する レールの断面形状には、橋型レール、双頭レール、牛頭レール、平底レール、溝付きレールなどの種類がある。橋型レールは、底部から頭部にかけて同じ幅で垂直に上がっているのが特徴であり、最近では使用されていない。双頭レールは、「I」形断面で上下の両頭部が同形であり、転頭して上下を変えれば再利用ができる。牛頭レールは、双頭レールを改良したものである。両者は[[イギリスの鉄道|イギリス]]などで使用されていたのを、[[日本の鉄道開業]]時にイギリスから購入して採用されていた。平底レールは、底部の形状が安定しやすいように幅を広げた形状となっており、列車走行の荷重に対する曲げ強度も高く、磨耗にも強い、横圧に対しても安定性があり、レールの基本形状として国内外共に使用されている。溝付きレールは[[路面電車]]で使用されている。{{-}} == 分類 == === 普通レール === 日本の営業用鉄道では、長さ1 mあたりの重量が80kg,60 kg, 50 kg, 40 kg, 37 kg, 30 kgの規格が使われており、'''普通レール'''と呼ばれる。重量の大きいものほど、乗り心地に優れ[[保線|線路の狂い]]が生じにくく、重量のある列車が通る路線、列車が高速で走行する路線、運行頻度の高い路線に適している。また、その後の改良設計により、従来より高さを高くして、[[断面二次モーメント]]を大きくした'''N型レール'''が[[在来線]]用として使用されている。 {| class="wikitable" <th rowspan="2">種類 <th colspan="3">断面寸法 (mm) <th rowspan="2">標準長さ<br/>(m) <th rowspan="2">摘要<br/> !高さ!!底部幅!!頭部幅 |- |60kgレール|| 174 || 145 || 65 || 25 or 50 ||現在の[[新幹線]]用、一部は在来線にも使用 |- |50Tレール|| 160 || 136 || 65 ||||初期の[[東海道新幹線]]用(若返り工事で交換)<br/> [[モノレール#ロッキード式|ロッキード式モノレール]]用<br/>1 mあたりの重量53 kg |- |50kgNレール|| 153 || 127 || 65 || 25 or 50 ||在来線用(主に[[幹線]]) |- |50kgレール|| 144.46 || 127.00 || 67.87 || 25 ||= 50kgPSレール = 100[[重量ポンド|ポンド]]PSレール |- |40kgNレール|| 140 || 122 || 64 || 25 ||在来線用(主に[[ローカル線]]) |- |37kgレール|| 122.24 || 122.24 || 60.33 || 25 ||= 37kgASCEレール = 75ポンドASCEレール |- |30kgレール|| 107.95 || 107.95 || 60.33 || 10<ref>{{Cite book|title=JIS E 1101:2001 普通レール及び分岐器類用特殊レール|date=2001/6/30|year=2001|publisher=日本規格協会}}</ref> or 20<ref>{{Cite web|和書|title=レール {{!}} 鉄道用語辞典 {{!}} 日本民営鉄道協会|url=https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/107.html|website=www.mintetsu.or.jp|accessdate=2020-01-10}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=鐵道工学 上巻|date=1937/10/18|year=1937|publisher=誠文堂|author=稲田 隆|url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/htm/061.htm|series=総合工学全集2・土木工学科、13巻の7|page=299}}</ref>||= 30kgASCEレール = 60ポンドASCEレール |} '''ASCE'''は[[ASCE|米国土木学会]]が定めた規格。'''PS'''は[[ペンシルバニア鉄道]]規格 (Pennsylvania standard) の略。レールの'''ポンド表示'''は長さ1[[ヤード]]あたりの[[重量ポンド]]。なお国際規格では、35 kg/m以上のレールを普通レールとしている(ISO 5003)。 異なる重量のレールの境界部には、'''中継レール'''や'''異形継目板'''を用いる。 === 分岐器用特殊レール === '''[[分岐器]]用特殊レール'''には、以下の規格がある。 * NE70Sレール * 80Sレール * 70Sレール * 50Sレール === 軽レール === 通常の鉄道用の普通レール以外に、工事用や鉱山用の[[トロッコ]]などで使う細いレールもあり、'''軽レール'''と呼称される。 {| class="wikitable" <th rowspan="2">種類 <th colspan="3">断面寸法 (mm) <th rowspan="2">標準<br/>長さ<br/>(m) <th rowspan="2">摘要<br/> !高さ!!底部幅!!頭部幅 |- |22kgレール|| 93.66 || 93.66 || 50.80 || 10 || 1 mあたりの重量22 kg(以下同)<br/>= 45ポンドASCEレール |- |15kgレール|| 79.37 || 79.37 || 42.86 || 10 || |- |12kgレール|| 69.85 || 69.85 || 38.10 || 10 || |- |10kgレール|| 66.67 || 66.67 || 34.13 || 5.5 || |- |9kgレール|| 63.50 || 63.50 || 32.10 || 5.5 || |- |6kgレール|| 50.80 || 50.80 || 25.40 || 5.5 || |} === 熱処理レール === 普通レールに磨耗の進行を抑えるために、焼き入れと呼ばれる[[熱処理]]を施して、[[強度]]・[[硬さ]]を増した'''熱処理レール'''と呼ばれるレールがある。これには、HH340レールとHH370レールがある。'''頭部全断面熱処理レール'''は、曲線部の外側レールなどに用いられる。'''端頭部熱処理レール'''は、レールに大きな負荷がかかるがロングレールが使用できず、継ぎ目を設けねばならないような箇所に用いるとされる。 == 継ぎ目 == {{右| [[画像:異形継目板.jpg|thumb|異形継目板(37kg-50Nレール)]] [[ファイル:50T-50N Transition Rail of Mashu-station.jpg|thumb|中継レール(50T-50Nレール)]] [[画像:ShinsyukuTsugite.jpg|thumb|伸縮継目]] [[画像:Thermit welding.jpg|thumb|ロングレールの溶接作業([[テルミット法]])]] [[画像:Zetuentugime, Ooyamazaki, Hankyuu, 20080803.jpg|thumb|斜め接着絶縁レールの継目部分]] }} レールは端部同士を繋いで用いる。この接続方法は左右のレールを対に接続する相対式継目方式と、左右のレールが対ではなく、それぞれをほぼ交互に接続する相互式継目方式の2種類がある。前者は、レールの下に設置された枕木の補強や信号回路の分断がやり易いが、継ぎ目の沈下が発生し易い。後者は、継ぎ目の沈下や走行中の列車の揺れは減るが、逆に列車の[[ローリング]]が走行中に起こり易くなる。このため、21世紀における世界各国の鉄道では相互式継目を採用している事例は少なくなっている。 継ぎ目の観点から、レールの長さによる区分を以下に述べる。 === 定尺レール === レールの標準の長さは、日本の場合、1本25 m<ref name=東京新聞20230829/>で、'''定尺レール'''と呼ぶ。線路では、これを、継ぎ目ではレール同士を突合せて'''突合せ継目'''とし'''継目板'''で繋いで連続させて用いている。レールの継ぎ目を繋ぐ継目板には、断面形状により短冊型・L型・I型が用いられており、I型はN型レールで使用されている。また、レールの継ぎ目の間では、適当な隙間を継目板の中間で設定している。これは、レールが[[気温]]や[[日射]]の変化に応じて[[熱膨張率|伸縮]]するためであり、レール自身の温度は、気温の他に直射日光が当たる所では相当高くなり、その温度差は60 - 80 ℃となる。そのため、定尺レールでは、40 ℃において1 mm、0 ℃において13 mm程度としている。車輪がレールの継ぎ目を通過する際に発生するガタンゴトンという音は'''ジョイント音'''と呼ばれる。 継ぎ目構造の望ましい条件としては次のことが上げられる。 * 垂直及び横の荷重に対してレールと同等の強度を有する * 温度変化での伸縮に対して、最高温度でレールが[[座屈]]せず、最低温度において継目[[ボルト (部品)|ボルト]]に過大な力がかからない * 取り付け取り外しが容易である 継目板とレールを締結しているボルト・[[ナット]]には、レールの温度による伸縮に対して支障が起きない条件が要求される緊締力で締結されており、ナットの緩みを防止するため、ナットと継目板の間に'''ロックナット[[座金|ワッシャー]]'''を挿入している。また、レールは、電気車による電気運転において使用された動力電流を[[変電所]]に戻す帰線や、[[軌道回路]]により使用される電流を流すための電流回路としても利用されるため、継目板とレールとの間の接触面では[[錆]]などで[[電気抵抗]]が大きくなることを防ぐため、レールの継ぎ目の間にレールボンドや信号ボンドを繋いでおり、[[はんだ|ハンダ合金]]によりレールに[[溶着]]されている。また軌道回路の境界などで[[絶縁 (電気)|絶縁]]が必要な場合には、継目板とレールの間に'''絶縁プレート'''を挟み、かつ、ボルトと継目板の間に'''絶縁チューブ'''を挿入して軌道回路のための絶縁を確保している。これを絶縁継目という。 === ロングレール === 一方、定尺レール(工場出荷時の標準で25 m)を[[溶接]]して繋いだレールもある。このうち、全長200 m以上のレールを'''ロングレール'''という。継ぎ目を減らすことで保守作業の省力化や、騒音・振動対策で乗り心地の向上が目指せる{{sfn|天野ら|1984|p=22}}。2014年(平成26年)には[[新日鐵住金]][[日本製鉄九州製鉄所八幡地区|八幡製鉄所]]が長さ150 mのレールを出荷する体制を整えており、溶接する労力の低減やロングレール化した際の[[精度]]の向上を目指す動きも見られる<ref>{{Cite press release|和書|title=世界最長となる鉄道用 150mレールの製造・出荷体制を整備|publisher=新日鐵住金|date=2014-04-16|url=http://www.nssmc.com/news/20140416_100.html}}</ref>。 ロングレールの中央部('''不動区間''')は枕木に固く締結し、枕木の周囲に[[バラスト軌道|バラスト]]を十分に敷き詰めることで気温変化によるレール方向の伸縮は抑え込まれており、常にレール内部には[[応力]]('''[[断面力#軸力|軸力]]''')が発生している{{sfn|西亀ら|1980|p=147}}。しかし、端部('''可動区間''')は、温度変化により定尺レールよりも大きく伸縮するため、通常の突合せ継目ではなく、'''伸縮継目'''が用いられる{{sfn|西亀ら|1980|p=147,149}}。枕木への締結力や枕木の周囲に敷き詰められたバラストの量、レール温度の管理などが十分でないと、[[猛暑]]時にレールが[[座屈]]する事故や、[[極寒]]時にレールが[[破断]]する事故が発生することもある。これらは前述のロングレールの不動区間が温度変化によりレール方向に伸縮する軸力に耐えきれなくなった時に発生する。 ロングレール区間では、初期の頃は伸縮継手を[[軌道回路]]の区分前後に設置し、通常のレール間を絶縁継目でつないで軌道回路を絶縁分割するが、1970年に強力な接着剤をレールと継目板の間に接着して、レールの軸力と列車衝撃強度に耐えるとともに、電気絶縁性能を十分に持たせた'''接着絶縁レール'''を用いて軌道回路を絶縁分割する方式が採用されている。この方式には、最初の頃は湿式法が採用されていたが、1年未満で接着部が剥離する損傷が発生したため、1984年に[[エポキシ樹脂]]をプレート状に予備成型した固定接着剤をレールと継目板の間に圧着して加熱する乾式法が現在において採用されている。最近ではレールのボルト穴の空隙部に接着剤を充填して、レールと継目板の間の接着層内にテフロンシートを介在させることで、継目板からの接着剤の剥離と継目板の腐食を防止するともに、電気絶縁性能を更に上げた改良形の乾式法が採用されつつある<ref>{{Cite journal|和書|format=pdf|url=https://bunken.rtri.or.jp/doc/fileDown.jsp?RairacID=0004005484 |title=接着絶縁レールの継目構造とその製造方法|journal=RRR|work=鉄道総研パテントシリーズ (136) |pages=38-39|year=2011|month=8|publisher=[[鉄道総合技術研究所]]|accessdate=2023-12-14}}</ref>。この方式では、レールのウィークポイントである絶縁継目が無くなりかつ、軌道回路ごとに絶縁付き伸縮継手を挿入する必要がなくなるのが採用するメリットである。 日本でのロングレールは[[東海道新幹線]]で本格的に採用され、その後、在来線や[[私鉄]]の[[幹線]]にも導入が進んでいる。 なお、溶接後の処理が甘いか、長期間の使用により、もともと継ぎ目だった部分からジョイント音が聞こえてくる。また、ロングレールの長さには限度があるため、継ぎ目を全くなくすことは出来ない。またロングレールは万能ではなく急カーブのあるところへの敷設はレールの偏摩耗の観点から適当ではなく、とくに半径300 m未満のカーブ区間ではレール自身の[[弾性]]で反発が強くなるため使用には適さない。このことから急カーブの区間は定尺レールが使用される。 === 区分 === {| class="wikitable" !種類!!摘要 |- |ロングレール||200m以上 |- |長尺レール||25m以上 200m未満 |- |定尺レール||25m(30kgレールは20m)<br/>(一部では、24mなどの寸詰まりなレールも存在する) |- |短尺レール||5m - 25m(調整用レールに使われているほか、<br/>ごく一部の地方の[[ローカル線]]の古い規格のレールがそれである) |} 軽レールの長さは数メートルのものが多い。 == 製造 == [[ファイル:Rail-kokuin.jpg|thumb|レールの刻印{{ill2|ロールマーク|de|Walzzeichen}} ]] === 製造方法 === 高温で熱した鋼塊(オレンジから黄くらいの[[色温度]])を、ローラーを組み合わせて作られた圧延機に通して、[[圧延]](熱延)する。圧延機は段階に合わせて数台あり、そこを複数回往復させる複雑な行程を経て製造される。不純物は両端にたまりやすいので、日本では長く作ってから両端を切断する方法がとられている。また、製造時では、レールに対して各種試験<ref group="注">引っ張り試験、荷重試験、破断面試験、曲げ試験、硬度試験、磨耗試験、腐食試験、顕微鏡試験を行う。</ref>を行い、レールの品質の確保を行っている。 製造されたレールの腹部には断面形状・質量・製造法・製造者名・製造年月などが刻印される{{Sfn|天野ら|1984|p=19}}<ref group="注">日本の普通レールは[[日本産業規格|JIS]] E 1101 により、レール腹面に鋼塊又は鋳片の頭部方向、レールの種類の記号、製鋼炉の記号、製造業者名又はその略号、製造年月又はその略号 について浮き出し表示を求めている。また逆の腹面には、鋼塊又は鋳片の順位番号、鋼塊注入順位記号、製鋼番号、作業組の記号、炭素含有量、マンガン含有量(60N、70S、80Sに限る)、鋼の種類(種類 AR は無表示)を刻印することを求めている。</ref>。 === 材質と性質 === 材料としては強度・耐磨耗性・耐食性などから[[高炭素鋼]]が用いられる{{sfn|片岡|2007|p=27}}。この材質は、刃物ほど硬くはないが、相当の[[靭性]]と耐接触疲労性があり、[[溶接]]が可能である条件を元に成分が決められている<ref group="注">成分は、C 0.60-0.75%、Si 0.10-0.30% Mn 0.7-1.1% P≦0.035% S≦0.040% 引っ張り強さ≧80Kgf/[[平方ミリメートル|mm<sup>2</sup>]] 伸び≧8%である。</ref>。 == レールの障害、損傷と寿命、整備 == [[File:Track Flange Oiler.JPG|thumb|レール塗油器。カーブ周辺に置かれ、潤滑油を散布して摩耗や騒音を抑える。]] {{main|保線|en:Maintenance of way|[[レール削正車]]}} レールの損傷は製造時の材質欠陥などによる先天的なものと、敷設後の車両荷重などによる後天的なものに大別される{{Sfn|天野ら|1984|p=19}}。 レールは輪重を直径10 mm([[ミリメートル]])を楕円形状した接触面で支えており、1GPa([[ギガ]][[パスカル (単位)|パスカル]])に及ぶ応力が発生してレール表面が変形する中で車輪が通過することで、レールに様々な損傷が発生する{{Sfn|名村ら|2007|p=6}}。こうした転がり接触によるレールの損傷には「レールシェリング」「きしみ割れ」「空転傷」「[[摩耗]]」が発生する{{Sfn|名村ら|2007|pp=6-7}}。レールの劣化メカニズムを解明するために[[有限要素法]]が有用であり、[[スーパーコンピューター]]を用いた大規模な[[並列計算]]によって[[シミュレーション]]する技術の開発が進められている{{Sfn|高屋|2015}}。 レールには[[寿命]]があり、レールを取替えることでレールの性能を維持させる。50 kgレールでの摩耗によるレールの取替えは、高さで約15 mm、断面積で約20 %を許容限度としている。普通は10年 - 25年を標準として取替えているが、急曲線かつ[[輸送密度]]の高い区間では1年足らずで取替える場合がある。また、通過トン数では、2 - 5億トン位がレール交換の目安とされている。 === 摩耗 === 曲線で外軌のゲージコーナが車輪の[[フランジ]]と接触することによる摩耗を「側摩耗」と称し、レール交換の主因となっている{{Sfn|名村ら|2007|p=7}}。また、レール表面が一定の間隔で摩耗または塑性変形して連続した凹凸が発生する摩耗を「波状摩耗」と称し{{Sfn|名村ら|2007|p=7}}、この摩耗は列車走行時に[[振動]]が発生し、[[騒音]]公害や保線上の問題が生じやすくなる{{Sfn|天野ら|1984|p=20}}。 === 腐食 === [[電位]]差が大きい、排水が十分にできない場合は微弱電流による[[腐食]](電食)が発生する{{Sfn|天野ら|1984|p=20}}(「[[塩害#構造物に関わる塩害]]」参照)。 [[海岸]]に近い路線では、レールの腐食が早く進行する{{Sfn|天野ら|1984|p=20}}。特に[[トンネル]]の出入口から200 m 付近までのレールは塩分の飛来が起こりやすいが、雨などで流されることが無いため腐食が進みやすいという調査結果がある{{sfn|小代ら|2012|p=986}}。 === 猛暑によるレールの膨張 === 前述のように、金属であるレールは猛暑により伸びて歪むことがあり、軌間が広がりすぎると[[列車脱線事故]]を起こすリスクがある<ref name=東京新聞20230829/>。こうした障害が出る温度の目安は50[[セルシウス度|℃]]前後とされ、鉄道事業者は[[徐行]]運転や運転見合わせで対応するが、間に合わず脱線事故が起きることもある<ref name=東京新聞20230829/>。 平時からの対策として、レールの間のつなぎ目を少し開けるようにしており、一部ではつなぎ目が斜めに加工されたレールが使われているが、資金に余裕がない地方鉄道などでは導入が遅れている<ref name=東京新聞20230829/>。 ===ギャラリー=== 転がり接触疲労による損傷をシェリング(横裂、水平裂)と呼ぶ。コーナー部分にかかる疲労損傷をきしみ割れと呼ぶ。 <gallery> Kurze Wellen.jpg| Ausbröckelung.jpg| 01 476 Bf Naundorf (b Oschatz), Schiene mit Längsriss.jpg| Ausbruch am Schienenkopf.jpg Gleisverwerfung ehem Bf Gütersloh Ost 04 08 2013.jpg Rail squat.png|レールスクワット<ref>{{Cite journal|和書|author=相川明 |author2=林雅江 |author3=坂井宏隆 |author4=Kaewunruen Sakdirat |date=2019 |title=車輪転動の不安定化とRail Squatsの発生メカニズムに関する転がり接触解析 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/japannctam/65/0/65_205/_article/-char/ja/ |journal=理論応用力学講演会 講演論文集 |volume=65 |page=205 |doi=10.11345/japannctam.65.0_205}}</ref> A Sherman Necktie, Ft. McAllister. GA. US.jpg|南北戦争で破壊されたレール。{{ill2|シャーマンズ・ネクタイ|en|Sherman's neckties}} Chpr rail.jpg|錆びた Fischbauchschien </gallery> == 歴史 == === 轍 === 車輪または[[ソリ]]が発明されて、重量物の輸送に使われるようになると、地面が軟らかい場所では次第に深い轍(わだち)が刻み込まれて、それに沿って輸送されるようになった。轍は、雨が降って泥沼化した場合に輸送の障害となり、また轍と異なる方向へ向きを変える時にも大きな障害となるため、これに対処するために地面側での工夫を必要とした。路面全体に石を敷き詰めて[[舗装]]した場合は[[道路]]へと発展するが、車輪の間隔が一定のものに統一されている場合には、車輪の下に当たる部分にだけ板や石を敷き詰めるという対処も行われた。これは軌条(レール)の原始的なものと見ることができる。 === 軌条の登場 === 原始的なレール(軌条)を使って動物や人に[[荷車]]をひかせる方法は紀元前から行われていたとされ、[[ドイツ]]の[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]にあるフライブルク大聖堂の[[ステンドグラス]]([[1350年]]製作)にもその光景は残されている。16世紀のイギリスには無数の[[馬車]]軌道(ワゴンウェイ、Wagonway)があったとされている<ref>クリスティアン・ウォルマー著、安原和見・須川綾子訳『世界鉄道史』([[河出書房新社]]、2012年)pp.28-29</ref>。 その後レールは鉱山地帯における輸送に広く用いられ、次第に改良が進められていった。当初は[[鉄]]が貴重品であったため[[カシ|樫]]の木が用いられていたが、磨耗が激しく保守担当者の悩みの種となっていた。[[1738年]]、イギリスの[[カンバーランド]]において初めて[[鋳鉄]]を利用したレールが登場したが、これは木材の基盤の上に薄い帯状の鉄を貼り付けただけのもので<ref group="注">日本においても[[茅沼炭鉱軌道]]、[[木道社]]、[[藤枝焼津間軌道]]で木道が使用された。</ref>、しかもカーブなど磨耗しやすい場所にだけ用いられていた。[[1750年代]]頃になると、カーブだけではなく全ての区間で鋳鉄の板を取り付けることが一般化した。しかし鋳鉄は曲げに弱く、脱線事故も多発し続けた。 [[1767年]]、同じイギリスのコールブルックデールの[[製鉄所]]技師[[リチャード・レイノルズ]]は、生産量が増加して余剰気味になってきた鋳鉄の使い道として、[[トロッコ]]に使う目的のレールの生産を開始し、この時にレールに[[フランジ]]が取り付けられた。レールの両側につばが取り付けられて、車輪の脱落を防ぐ仕組みとなっていた。しかしレールと車輪がきしみあってうまく走れず、また雨水や落ち葉などが溝に溜まるという問題があった。 1776年、[[ベンジャミン・カー]]がこの欠点を解消するために片方のつばを取り除いた、L字形のレールを発明した。これにより車両の走行は格段に容易となった。 === フランジ付きの車輪 === [[1789年]]、土木技師の[[ウィリアム・ジェソップ]]は、車輪側にフランジを取り付けて、レールの上面は平らにする方式を発明した。魚腹形と呼ばれる下側が膨れたレールを使用している。これにより大幅に脱線の確率が減少し、安定的に鉄道輸送を行うことが可能になった。このためジェソップは「鉄道軌道の父」と呼ばれている。 依然として鋳鉄によって製造されていたレールの折損が問題となっており、1803年にニクソンが[[錬鉄]]のレールを発明したが、技術面、コスト面の問題から使用されなかった。 === 蒸気機関車の登場 === それまでは鉱山における資材輸送用のトロッコに用いられていただけであったレールは、[[蒸気機関車]]が登場することによって近代的な[[公共交通機関|交通機関]]の一翼を担うことになった。初期には、平らなレールの上を鉄製の車輪を持った機関車で牽引しようとすると車輪が[[空転]]すると考えられており、1812年に[[ジョン・ブレンキンソップ]]によって[[ラック式鉄道|ラックレール]]が考案されたが、実験の結果、よほどの急勾配でない限りラックは不要であることが判明した。 初めての実用的な蒸気機関車を利用した鉄道である[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]は、1830年に鋳鉄製のレールを使用して開業した。このため磨耗によりレールは頻繁に交換する必要があった。 === 様々なレールの発明 === [[1831年]]、アメリカの[[ロバート・スティーブンス (技術者)|ロバート・スティーブンス]]が平底の現在用いられているのと同じようなレールを発明した。これは[[犬釘]]を用いることで簡単に枕木に固定することができるという長所があり、世界中に普及して現在のレールの原形となった。 1837年、イギリスの{{仮リンク|ジョセフ・ロック (土木技師)|label=ジョセフ・ロック|en|Joseph Locke}}が双頭レールを発明した{{sfn|片岡|2012|p=28}}。レールを[[チェア]]と[[くさび]]によって固定するもので、レールが上下が同じ形をしているためひっくり返すことでどちらも走行用に使用することができるというものであった{{sfn|片岡|2012|p=28}}。しかし、チェアと底部の接触箇所で摩耗が生じ、ひっくり返しても円滑な走行面が得られなかった{{sfn|片岡|2012|p=28}}。 === 鋼鉄製レール === 1856年、イギリスの[[ヘンリー・ベッセマー]]が[[転炉]]に空気を吹き込むことで鉄から[[炭素]]分を除去して[[鋼鉄]]を生産する方法を発明した。同年シーメンス兄弟が[[平炉]]を発明し、さらに1864年、[[フランス]]の[[ピエール・マルタン]]が改良して工業化に成功し、シーメンス・マルタン法による鋼鉄の生産が可能となった。[[1877年]]、イギリスの[[シドニー・トーマス]]が[[ベッセマー製鋼法]]を改良して[[リン]]を取り除くことができるようになった。これらの鋼鉄の生産に関する技術進歩を受けて、鋼鉄製のレールが一般に普及していった。 最初に鋼鉄製のレールが使用されたのは、イギリスの[[ミッドランド鉄道]]の[[ダービー (イギリス)|ダービー地区]]で、ベッセマー製鋼法が発明されたすぐ翌年の1857年のことであった。それまで3ヶ月ごとに交換を必要としていた区間で、16年間交換なしに使用することができたとの記録がある。 現在のレールはスティーブンスの平底レールを鋼鉄を用いて作っているもので、材質や重量の増大などの点での進歩はあるが、基本的には19世紀に完成された技術で成り立っている。 == 日本での歴史 == === 輸入 === [[File:Bullhead rail in Gochi Traffic Park.jpg|thumb|220px|right|双頭レール([[上越市]]五智交通公園)]] 日本初の[[日本の鉄道開業|営業用鉄道の開業]]は1872年([[明治]]5年)のことであるが、最初に使われたのは、イギリス DARLINGTON IRON 社の1870年製の'''双頭レール'''である。双頭レールとは、レール底部の平らな部分がなく、上下とも走行用に使用可能なI字形の形状をしていた。 日本では1927年(昭和2年)頃まで、イギリス、ドイツ、[[アメリカ合衆国]]などから[[輸入]]したレールを使用していたが、国内生産品で賄えるようになったことから、レールの輸入は原則として終焉を迎えた。 ただし路面電車用の特殊形状のレール('''みぞレール'''、'''[[脱線防止ガード|護輪]]みぞレール'''など)は、わずかではあるが後年まで輸入品が使用された。近年になって、保守の軽減性から溝レール類が再輸入され、[[富山ライトレール]]、[[土佐電気鉄道]]、[[熊本市交通局]]の[[路面電車]]などで使用されている。 === 国産化 === 1901年(明治34年)の[[官営八幡製鐵所]]の開所に伴い、日本国内でもレールの[[圧延]]が開始された{{sfn|佐伯ら|2013|p=19-20}}。1901年の生産はわずか1,086トンとされている{{sfn|佐伯ら|2013|p=20}}。[[1926年]]([[大正]]15/[[昭和]]元年)頃までは生産が追い付かず輸入品と併用されたが、この頃より生産体制が整い、レールの国産化が完了した。八幡製鐵所では、[[富士製鐵]]との合併により[[新日本製鐵]](新日鉄)となりさらに[[住友金属工業]](住金)との合併により[[新日鐵住金]]となった現在でも、八幡地区でレールの生産が行なわれている。 1952年(昭和27年)からは、富士製鐵[[新日本製鐵釜石製鐵所|釜石製鐵所]]でもレールの生産が開始された。1970年(昭和45年)の[[八幡製鐵]]と富士製鐵の[[合併 (企業)|合併]]の際、日本国内のレール生産が合併後の新日本製鐵1社のみとなり、[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律|独占禁止法]]に抵触する可能性が高くなったため、この釜石の設備を[[日本鋼管]][[JFEスチール西日本製鉄所|福山製鉄所]]に売却、移設を行った。日本鋼管は2003年([[平成]]15年)に[[川崎製鉄]]と合併し、[[JFEスチール]]と名前を変えたが、現在もレールの生産を行っている。 以後、現在に至るまで、レールのほとんどが国産品で賄われている。また、日本で製造されたレールは海外にも[[輸出]]され、高い評価を得ている。 === 再利用 === [[画像:SETTSU-TONDA STATION.2.JPG|220px|thumb|[[摂津富田駅]]の上屋根を支持する双頭レール]] 使用後のレールは、駅の[[プラットホーム]]の屋根や[[跨線橋]]などの骨組み、[[鉄道の電化|電化]]線路の架線柱、線路際の[[柵]]などの部材として再利用されることがある{{sfn|西野ら|1982|p=30}}。現在は、[[建築基準法]]などの改正や、レール自体がよりレールとしての使用に特化した素材組成へと変化しているため、[[建築材料|建築資材]]には使われなくなった。また、古いレールを再利用したホームの屋根なども、[[高架駅|高架化]]や[[地下駅|地下化]]、[[バリアフリー]]対応などに伴う駅の改築で、徐々に姿を消しつつあるが、もともとの古レールの再利用例が多いことから各所で見ることができる。 現状は、鉄道関連イベントなどで、1 cm程度に薄くスライスして[[めっき|メッキ]]等を施したものが、[[文鎮]]などの記念品として販売されることがあるほかは、[[屑鉄]]として回収され、製鋼原料として[[リサイクル|再利用]]されている。屑鉄としては高品位であるため、[[廃線]]跡に残されたレールが[[窃盗|盗難]]に遭う事件も発生している。 == 規格 == 日本で使用するレール類は[[日本産業規格]](JIS)により、規格が定められている。'''レール'''に関する規格と'''継目板'''に関する規格は以下の通り。 {| class="wikitable" !番号!!名称 |- |JIS E 1001||鉄道-線路用語 |- |JIS E 1101||普通レール及び分岐器用特殊レール |- |JIS E 1102||レール用継目板 |- |JIS E 1103||軽レール |- |JIS E 1104||軽レール用継目板 |- |JIS E 1105||路面電車用HTレール(廃止) |- |JIS E 1105||路面電車用HTレール継目板(廃止) |- |JIS E 1116||レール用異形継目板 |- |JIS E 1120||熱処理レール |- |JIS E 1122||中継レール |- |JIS E 1123||端部熱処理レール |- |JIS E 1124||スラッククエンチ式熱処理レール(JIS E 1120 に統合) |- |JIS E 1125||接着絶縁レール |- |JIS E 1126||伸縮継目 |} == 製造メーカー == 日本での普通レールの製造メーカー * [[日本製鉄]] * [[JFEスチール]](旧[[日本鋼管]]) 日本での軽レールの製造メーカー * [[合同製鐵]] * [[大同特殊鋼]] * [[大阪製鐵]] ほか == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{reflist|20em}} == 参考文献 == === 書籍 === * 西亀達夫・神谷牧夫『新鉄道工学』[[森北出版]]、1980年12月20日。 * 天野光三・前田泰敬・三輪利英『鉄道工学』[[丸善出版]]、1984年12月20日。 * 江崎昭『輸送の安全から見た鉄道史』[[グランプリ出版]]、1998年。 * [[久保田博]]『鉄道工学ハンドブック』グランプリ出版、1995年。 * 高橋政士『詳解鉄道用語辞典』[[山海堂 (出版社)|山海堂]]、2006年5月30日。 === 論文 === * {{Cite journal|和書|author=西野保行・小西純一・淵上龍雄|year=|date=1982|title=日本における鉄道用レールの変遷 -残存する現物の確認による追跡-|url=https://doi.org/10.11532/journalhs1981.2.30 |journal=日本土木史研究発表会論文集|volume=2|page=|pages=30-37|publisher=土木学会|format=PDF|ref={{sfnRef|西野ら|1982}}}} * {{Cite journal|和書|author=小瀬豊|year=1991|title=レールの寿命と腐食疲労|url=https://doi.org/10.11338/mls1989.3.90 |journal=マテリアルライフ|volume=3|issue=2|page=|pages=90-95|publisher=マテリアルライフ学会|format=PDF|ref={{sfnRef|小瀬|1991}}}} * {{Cite journal|和書|author=片岡宏夫|year=2007|title=鉄道レールの設計思想と材料要求特性|url=https://doi.org/10.2207/jjws.76.458 |journal=溶接学会誌|volume=76|issue=6|page=|pages=24-27|publisher=溶接学会|format=PDF|ref={{sfnRef|片岡|2007}}}} *{{Cite journal|和書|author=名村明・石田誠|month=11|year=2011|title=レール損傷の発生メカニズムを探る|url=https://bunken.rtri.or.jp/PDF/cdroms1/0004/2011/0004005490.pdf|journal=RRR|pages=6-9|format=PDF|ref={{sfnref|名村ら|2011}}}} * {{Cite journal|和書|author=片岡宏夫|year=2012|title=レールの断面形状と材質|url=http://bunken.rtri.or.jp/PDF/cdroms1/0004/2012/0004005599.pdf|journal=RRR|volume=69|issue=4|page=|pages=28-31|publisher=鉄道総合技術研究所|format=PDF|ref={{sfnRef|片岡|2012}}}} * {{Cite journal|和書|author=小代文彦・三井良裕|year=2012|title=塩害腐食レールの損傷管理について|url=http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/2012/67-06/67-06-0493.pdf|journal=土木学会第67回年次学術講演会|volume=|page=|pages=985-986|publisher=土木学会|format=PDF|ref={{sfnRef|小代ら|2012}}}} *{{Cite journal|和書|author=佐伯和彦・岩野克也|year=2013|title=鉄道用軌条の歩みと今後の展望|url=http://www.nssmc.com/tech/report/nssmc/pdf/395-05.pdf|journal=新日鉄住金技報|volume=|issue=395|page=|pages=19-25|format=PDF|ref={{sfnRef|佐伯ら|2013}}}} === 記事 === * {{cite news | title = 線路が燃えてる! …実はレール交換作業でした | publisher = [[読売新聞]] | date = 2010-10-23T13:03 | url = http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090128-945707/news/20101023-OYT1T00402.htm | accessdate = 2010-10-23}} *{{Cite news|title=鉄道レールの劣化メカニズムを解明しよう!スパコンで5年後に8輪解析 最近、ちょっと事故が多いな、と思っている方へ。鉄道総研は頑張ってます。|date=2015-04-14|newspaper=ニュースイッチ|author=高屋優理|url=https://newswitch.jp/p/243|accessdate=2020-03-08|publisher=日刊工業新聞社|ref={{sfnref|高屋|2015}}}} == 関連文献 == * {{Cite journal|和書|author=西尾一政・山口富子・桝本弘毅・岡崎睦|year=2007|title=国産レールの製造設備及び技術の革新過程 |url=https://sts.kahaku.go.jp/tokutei/pdfs/03_21.pdf |journal=特定領域研究「日本の技術革新-経験蓄積と知識基盤化-」第3回国際シンポジウム研究発表会論文集|ref={{sfnref|西尾ら|2007}}}} == 関連項目 == [[File:QC-CN 20090716-143522 DetailsRails Legende.png|thumb|線路のパーツについて(フランス語)。]] 軌条に関連する項目 * [[線路 (鉄道)|線路]] * [[軌道 (鉄道)|軌道]] * [[軌間]] * [[枕木]] * [[犬釘]] * [[分岐器]] === 軌条を含む用語 === * [[脱線防止ガード|護輪軌条]] * [[三線軌条]] * [[第三軌条方式]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Rails}} * [http://hosenwiki.com/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB カテゴリ:レール] - 保線ウィキ * [https://web.archive.org/web/20070205220608/http://homepage1.nifty.com/arashi 古レールのページ]([[インターネットアーカイブ]]) * {{Kotobank|レール}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きしよう}} [[Category:鉄道の軌道設備]]
2003-07-24T01:39:56Z
2023-12-14T06:39:22Z
false
false
false
[ "Template:Commons", "Template:Ill2", "Template:Notelist2", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:Cite press release", "Template:Kotobank", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Normdaten", "Template:Cite web", "Template:Redirect", "Template:Sfn", "Template:-", "Template:右", "Template:Main" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8C%E6%9D%A1
12,110
南海電気鉄道
南海電気鉄道株式会社(なんかいでんきてつどう、英: Nankai Electric Railway Co., Ltd.)は、大阪市の難波から関西国際空港や和歌山県北部の和歌山市、高野山までを結ぶ鉄道を経営する会社。総営業キロは154.8 km。日本の大手私鉄の一つであり、純民間資本としては現存する日本最古の私鉄である。南海グループの中核企業で、一般には「南海」または「南海電鉄」と略され、また「南海電車」の呼称もある。 本社は大阪市浪速区の今宮戎駅北西側に立地する南海なんば第1ビルに所在し、東京証券取引所プライム市場に上場している。阪堺電気軌道、泉北高速鉄道、南海バス、南海フェリーなどの交通事業者を傘下に置く。高野山への路線を運営していることから全国登山鉄道‰会に加盟している。 社名の「南海」は紀伊国が属する律令制の南海道に由来し、堺 - 和歌山間の出願時に名づけられ、のちに南海道に属する淡路・四国への航路との連絡も果たした。2020年に迎えた創業135周年を機に定めたブランドスローガンは「‘なんかいいね’があふれてる」(英: Bound for Good Times.)。 鉄道との相乗効果が大きい観光・小売・不動産開発といった方面に事業を多角化しているが、本社やターミナル駅の難波駅がある難波周辺(ミナミ地区)に重点を置く。グループ内に百貨店を持っていない唯一の関西大手私鉄であるが、難波駅の駅ビルである南海ビルディングに系列外の髙島屋大阪店がテナントとして入居している。 かつてはプロ野球球団(南海ホークス、後の福岡ダイエーホークス、福岡ソフトバンクホークス)を保有し、大阪スタヂアム(大阪球場)・中百舌鳥球場(いずれも後に解体)や遊園地(さやま遊園とみさき公園)も経営していたが、球団経営からは1988年、遊園地経営からは2020年に撤退した。 1884年に関西経済界の重鎮であった藤田伝三郎、松本重太郎、田中市兵衛、外山脩造らによって大阪と堺の間を結ぶ鉄道敷設が出願され、大阪堺間鉄道として会社設立が許可されたのが始まりである。同年に社名を阪堺鉄道と改め、翌1885年12月に難波駅 - 大和川駅(後に廃止)間を開業した。日本鉄道(半官半民)、東京馬車鉄道に次ぐ、日本で3番目の私鉄として、また純民間資本としては日本最初の私鉄として設立され、路線は1883年に廃止された釜石鉱山鉄道の資材を用いて敷設された。1898年に新設会社の南海鉄道が阪堺鉄道の事業を譲り受けた。 南海鉄道は以後も合併により営業地域や規模を広げたが、路線は長らく大阪湾沿岸部に集中していた。南海鉄道の『開通五十年』では日露戦争後の鉄道国有化の時(1906年)、「わが社が国有化されなかったのは当時沿岸部にしか路線がないので軍事的立場から除外されたから」としている。1909年には競合路線を有していた浪速電車軌道を、1915年には同じく阪堺電気軌道を合併した。1920年の原内閣時に再度国有化の話が浮上し、前述の阪堺線買収後の赤字気味で今買収されるのは最悪の状態と南海重役の佐々木勇太郎と垂井清右衛門が上京して帝国議会に抗議しに行くほどの事態になったが、彼らの活躍とは無関係に議会が解散してしまい、この話はなかったことにされたという。 そして1922年には根津嘉一郎から譲られる形で初めて内陸に伸びる大阪高野鉄道を、1940年には日中戦争激化に伴う交通統制(陸上交通事業調整法)で競合会社の阪和電気鉄道を、太平洋戦争開戦後の1942年には加太電気鉄道を合併した。 1944年に、元阪和電気鉄道の路線を戦時買収で運輸通信省に譲渡(阪和線となる)した後、前記の陸上交通事業調整法による戦時企業統合政策で関西急行鉄道(関急、1941年に大阪電気軌道(大軌)を母体に設立)と合併し、近畿日本鉄道となり、鉄道線は難波営業局、軌道線は天王寺営業局の管轄となった。しかしこの合併は、資本面も含めて殆ど接点のない、経緯や社風が全く異なる者同士のものであって、当初から体制に無理が生じていた。当時の関急側の代表者であり、関急成立の立役者である種田虎雄でさえ、「南海との合同だけは、政府から無理強いされたもので、自分が望んだものではなかった」と語っていた。一般利用客の間でも、旧南海鉄道の路線については近畿日本鉄道に併合されていた時期でも従来通り「南海」「南海電車」と呼んでいた。そういう理由もあって、終戦後に難波営業局員主導で分離運動が起こり、1947年に高野下駅 - 高野山駅間を運営していた高野山電気鉄道へ旧・南海鉄道の路線を譲渡する形で、南海電気鉄道が発足した(このため法人としての南海電気鉄道の設立日は高野山電気鉄道の設立日である1925年3月28日となっている)。1961年には、貴志川線(2006年に和歌山電鐵へ譲渡)や和歌山軌道線(1971年廃止)を経営していた和歌山電気軌道も統合している。 なお、浪速電車軌道と(初代)阪堺電気軌道の路線については、1980年に南海子会社の(2代)阪堺電気軌道へ譲渡された。 他の在阪の大手私鉄は2016年4月までに阪急阪神ホールディングス、近鉄グループホールディングス、京阪ホールディングスといった純粋持株会社に移行した。南海は2018年5月時点で在阪の大手私鉄では唯一、純粋持株会社制度を取っておらず、移行の予定もない。 初代社章は羽車マークと呼ばれ、前身の阪堺鉄道時代の意匠から車輪の向きを変えて継承したものである。車輪に羽根(翼)が生えたデザインはヨーロッパ諸国の国営鉄道の紋章によく見られるものだが、南海がヨーロッパから車両を輸入した際この紋章の「車輪に羽根が生えれば速い」との意匠を気に入り、車輪の向きのみ変えて採用したとされる。1947年6月1日、グレートリングから改称した南海ホークスの球団名も、この「羽根=鳥」にちなんだといわれる。現在でも難波駅の北側入口上には、羽車をかたどったモニュメントが飾られている。 また、南海の各駅に広告が掲示されている「羽車ソース」のマークも、南海の旧社章をモチーフとしたものである。 現行社章(作者・信貴徳三)は会社新発足25周年を記念して1972年(昭和47年)6月1日に制定されたものである。はぐるまと称するその意匠は先代社章の要素を踏襲しており、両翼は南海線・高野線の二大幹線を表すとともに明日への創造・飛躍を、先代よりも記号化された車輪は諸事業における無限の可能性と徹底的追求を象徴している。これらの意匠を囲む円は南海沿線を表現したもので、同時に制定された南海グループの統一社章では二重円となっている。 関西国際空港の開港を翌年に控えた1993年(平成5年)4月1日に、社章とは別にCI導入による「NANKAI」を表したコーポレートシンボルを制定した(作者・レイ吉村)。2色のコーポレートカラー(未来を切り開く英知を表す「ファインレッド」、豊かな生活や文化を育む活力を表す「ブライトオレンジ」)からなるコーポレートシンボルも翼の要素を引き継いでおり、総合生活企業として未来に向けて力強く羽ばたいていく姿勢を表現している。 阪堺電気軌道・和歌山バスなどのグループ会社もこのコーポレートシンボルを追随して導入している。 南海なんば第1ビルとして2012年12月竣工。設計は大林組、施工は同社と南海辰村建設。地上12階、高さ約55m、延床面積16,838平方メートル 。難波再開発地区の南端にあり、ビル低層部には大阪府立大学の生涯学習の拠点があり、ライブハウス・Zepp Nambaに中庭で接続する。内部は無柱なため、フレキシブルなオフィスが可能。またルーバーや小庇による熱負荷の低減、壁面緑化の採用など、環境にも配慮した建物となっている。2016年に第36回大阪都市景観建築賞奨励賞を受賞。 以下の各路線を有し、南海本線とその支線群(本線群扱いである空港線を除く)を南海線と総称している。南海線の各支線は「高師浜支線」というように「...支線」と称していたが、天王寺支線が廃止された1993年から空港線が開業した1994年頃より単に「...線」と呼ばれることが多くなった。なお、国土交通省監修の『鉄道要覧』には「...線」と記載されている。路線の総延長は154.8 km。南海本線・空港線および高野線が主要路線であり、その路線群ごとにシンボルマークが制定されている。 駅ナンバリングの路線記号はすべて (NK) 他の関西の大手私鉄の路線は、京都市・大阪市・神戸市の京阪神3都市のうち2都市以上を結んでいるのに対し、南海はこのうち大阪市にしか路線を持たない。 新大阪と難波を結んで関空アクセスの利便性を高める路線として1980年代からなにわ筋線の計画があった。長らく構想自体が停滞していたが、2017年3月、大阪府と大阪市、JR西日本、南海電気鉄道、阪急電鉄の5者が新たな事業計画で大筋合意したと報じられた。 同年5月には、JR難波駅 - (仮称)西本町駅 - (仮称)中之島駅 - (仮称)北梅田駅(現・大阪駅)間および、(南海)新今宮駅 - (仮称)南海新難波駅 - (仮称)西本町駅 - (仮称)中之島駅 - (仮称)北梅田駅(現・大阪駅)間を第三セクターが整備(建設)し、南海新難波駅、西本町駅、中之島駅および北梅田駅の4駅を新設すること、JR難波 - 北梅田間をJR西日本、新今宮 - 北梅田間を南海が営業主体となって営業(西本町 - 北梅田間はJR西日本・南海が共同営業)すること、2031年春の開業を目標としていることが5者から発表された。大半が地下線で、南海は新今宮駅から南海本線に乗り入れる。阪急も大阪駅 - 十三駅間を結ぶなにわ筋連絡線の新設を調査・検討するとしており、なにわ筋線と直通運転する協議を進める。 2019年7月には鉄道事業法に基づく鉄道事業許可、2020年8月には都市計画法に基づく鉄道路線としての事業認可をそれぞれ受け、2021年10月に本格着工しており、関西高速鉄道が事業主体となり整備が進められている。 なにわ筋線計画が具体化したことにより、悲願であった「梅田進出」が達成される。過去3度、梅田までの延伸を申請していたが、いずれも大阪市に却下されている。また競合するJR西日本が難色を示したことで断念していた。同時に阪神と同じく難波と梅田の両方に拠点駅を置く2社目の関西私鉄となる。 全線がJRの在来線と同じ軌間 1,067 mmの狭軌であり、関西の大手私鉄では唯一標準軌(軌間1,435 mm)の路線を有していない。なお、標準軌の路線を持つ近畿日本鉄道に統合されていた時期を除くと、過去には阪堺線・上町線(1980年に阪堺電気軌道へ譲渡)、平野線・大浜支線(廃止)の各軌道線が標準軌であった。 軌間がJR在来線と同一であることから、総合車両製作所横浜事業所(旧・東急車輛製造)で製造した新製車両をJR線を走行して搬送(甲種輸送)することや、空港線のりんくうタウン駅 - 関西空港駅間でJR西日本の関西空港線と、また建設中のなにわ筋線でJR西日本と同一の線路を共用する、といったことが容易に可能である。その一方、狭軌であるがゆえに、標準軌である大阪市営地下鉄堺筋線(現・Osaka Metro堺筋線)への相互乗り入れ計画が頓挫した(後述)。 南海電鉄における列車種別は以下の通りである。 上記以外の路線では普通車のみの設定である。-急行-は急行の停車駅の他に、春木駅に追加で停車している。南海本線では空港急行と-急行-および区間急行は行先が違うだけで難波駅 - 泉佐野駅間の停車駅は同じである。 方向幕・種別幕などの案内表示では、快速急行は「快急」、区間急行は「区急」、準急行は「準急」、普通車は「普通」、各駅停車は「各停」と略して表示される。また一部の案内では空港急行も「空急」と略される。 南海本線系統各線が「普通車」、高野線が「各駅停車」となっているのは、両線の列車が複々線の線路を並行して走る南海本線難波駅 - 天下茶屋駅間において、高野線の列車が走る東側2線の線路にしか今宮戎駅・萩ノ茶屋駅のホームがなく、西側2線を走る南海本線の列車はこの2駅を全て通過するためである。1970年以前は南海本線からの各駅停車(東線ローカル)や高野線からの普通車も存在した。 詳しくは各列車種別および路線の記事を参照。 車両先頭の方向幕・種別幕の表示のほか、列車識別灯(通過標識灯)でも大方判別できる。 列車種別の案内色は快速急行以外京阪と同じだが、区間急行と準急行の停車駅の方式が京阪とは逆転している。区間急行が南海の準急行の停車駅方式に準じ、準急が南海の区間急行の停車駅方式に準じている。英語表記も京阪の準急と南海の区間急行が「SUB EXPRESS」、京阪の区間急行と南海の準急行が「SEMI EXPRESS」というように逆転している。 電車の行先表示に方向幕が普及した高度経済成長以後も、車両先頭に掲出して列車種別や運行区間を示す方向板を、関西の大手私鉄では後世まで好んで使用し、駅の売店でもミニサボが発売されている程であった。これらは列車の種類によって丸い板と四角い板を使い分けていたが、南海は本線が丸板、支線が支線内折返列車も本線からの直通列車も角板で表示するのが基本であった。大阪軌道線は丸板と角板を使い分けていたが、貴志川線や泉北高速鉄道は支線という定義により角板である。普通車に使用していた方向板は、他の関西大手私鉄4社は角板だったが、南海のみは前述の理由により、丸板も使用していた。 新造時からの方向幕の設置は、特定の種別に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、1969年に登場した7100系と22000系で、高野線平坦区間用も翌年6100系が登場している。これは戦後に正面方向幕を採用した例としては、関西の大手私鉄で初である。比較的製造年度の若い車両も、同じ位置に同じ方向幕が比較的容易に後付けできたため(関西の大手私鉄では、阪急以外の4社がこのケースである)、設置が行われていった。 南海電鉄では優等列車として特急列車を運行しており、系統に応じて下記の愛称がある。 大人料金(小児は特記のない限り半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。 なお、乗り継ぎ料金制度はなく、座席指定特急同士を乗り継ぐ場合(例:天下茶屋駅、新今宮駅または難波駅で「りんかん」から「ラピート」に乗り継ぎ)は、各列車の料金がそれぞれ必要となる。 前述の通り、南海の特急は「サザン」の自由席車を除き、すべて全車座席指定なので、乗車には乗車券(PiTaPa/ICOCAそれらと相互利用できる交通系ICカードを含む)のほかに特急券(座席指定券)が必要になる。 「ラピート」「こうや」「りんかん」の特急券、「サザン」の座席指定券は以下の場所で購入可能。原則として1か月前の10時から発売している。 「天空」の座席指定券は上記各列車とは異なり、乗車希望日の10日前から前日まで「天空予約センター」で電話のみの予約受付となっている。 特急列車の号車番号は、関西空港・和歌山港・高野山・和泉中央方の先頭が1号車で統一されている。 座席番号は数字のみで付番されている。関西空港・和歌山港・高野山・和泉中央方面を向いて左側の窓側を1番として、窓側を奇数、通路側を偶数とする(2013年3月ダイヤ変更までの近鉄特急と同様のルールだが、近鉄とは異なり一部の座席を欠番として、車椅子スペースを設置している)。 南海線検車区 高野線検車区 工場 南海線列車区 高野線列車区 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2023年10月1日改定。 郊外型に近い路線体形で、京阪神間を走る大手私鉄と比べ利用客が少なめのため、中距離以上の運賃は近鉄などと同じように高めに設定されている。 かつて南海の路線であった貴志川線とそれ以外の鉄道線は運賃体系が別々で、乗車キロの通算制度がなかったため、貴志駅 - (南海貴志川線)→和歌山駅 - (JR紀勢線) - 和歌山市駅 - (南海線) - なんば、のように利用するとかなり高くなってしまうという問題があった(この区間の例では、和歌山電鐵移管直前の2006年3月時点で貴志川線(14.3 km)360円+JR紀勢線(3.3 km)180円+南海線(64.2 km)890円=1,430円。仮に運賃体系が同じで通算制度があれば当時の運賃額で南海(78.5 km)970円+JR紀勢線(3.3 km)180円=1,150円となる)。 また、相互直通運転している泉北高速鉄道線の各駅と南海の各駅(中百舌鳥駅除く)間を中百舌鳥駅を経由して利用する場合の普通運賃はそれぞれの普通運賃を合算したものから100円(大人)を割り引いた額である。泉北高速鉄道線の運賃体系は南海と別であるが、割引額が大きいことから、乗車キロを通算して南海の運賃体系に当てはめた場合とほぼ変わらない。ただし、通勤定期運賃は南海に比べ割高である。乗継割引額引き上げ前は、泉北高速線の通学定期運賃も割高であり、通学1か月は中百舌鳥 - 和泉中央間 (14.3 km) が泉北7,910円に対し、同じ距離に相当する南海(難波 - 白鷺間14.4 km)の通学1か月は5,290円と約1.5倍の開きがあったが(普通運賃は泉北が320円、南海が330円)、2015年3月1日に南海・泉北高速線間の乗継割引額の20円から100円への引き上げと、泉北高速線内の通学定期旅客運賃の値下げが行われ、中百舌鳥駅 - 和泉中央駅間の通学1か月は5,940円となった。 さらに分岐駅通過の特例として、南海本線と高野線との分岐駅である岸里玉出駅と、南海本線と加太線の分岐駅である紀ノ川駅には、いずれも優等列車が停車しないため(ただし後者は普通のほかに区間急行も停車する)、天下茶屋駅 - 岸里玉出駅間(天下茶屋駅#南海電気鉄道の項も参照)と紀ノ川駅 - 和歌山市駅間(南海加太線#運行形態の項も参照)ではそれぞれ、重複(折り返し)乗車が認められている。 2023年10月1日の運賃改定で、高野線の一部区間において特定運賃を設定した。 回数乗車券は、利用者数の減少およびICカードの利用の定着に伴い、2023年3月31日をもって身体障がい者・知的障がい者用を除き販売を終了した。 以下の各項目を参照。 過去に発売されていたもの。「→」で後継の乗車券を示す。 2021年4月より、16駅(当初)に専用改札機を設置し、Visaのタッチ決済またはQRコードによる入出場の実証実験を開始した。約1年8か月の実験ののち、2022年12月12日以降も同サービスを継続している。 入出場時にタッチ決済対応のクレジットカードを専用改札機にかざすことで乗車区間の運賃を決済するもので、2021年4月3日よりVisaで実証実験を開始した。駅の改札でのVisaのタッチ決済による利用区間の運賃支払いは日本国内初である。また公共交通機関全体でも早い段階での導入となる。その後、グループ会社の南海りんかんバス、南海フェリー、泉北高速鉄道での導入や、JCB、American Express、Diners Club、Discoverのタッチ決済の導入など、規模を拡大している。 事前に「南海デジタルきっぷ」を購入し、スマートフォン上に表示されたQRコードを専用改札機にかざすことで改札通過を可能とするもので、2021年4月15日より実証実験を開始した。その後、取り扱うきっぷの種類の増加など、規模を拡大している。 南海では元来、標準語ではなく大阪弁(泉州弁や河内弁)、もしくは和歌山弁のアクセントや発音による車内放送が行われていた。ところが関西国際空港の開港を控えた1990年代初頭から、これらの放送が空港連絡鉄道として相応しくないとの批判が増え始めたため、アナウンサーによるイントネーション講習会の開催や手本となるカセットテープの配布、社内の「案内放送用語例」の改訂などを行い、現在のスタイルの原型を作り上げた。 さらに2004年6月1日からは、「もてなしの気持ちを表現しながら、より簡潔・明瞭な情報をお伝えする」ため、車内案内放送が一部変更されている。また、これに伴い、車掌などアナウンスに関わる業務に携わる全従業員を対象に、発声等に関する全社的な研修が行われた。 近年ではインバウンド効果による外国人観光客の増加の影響で多言語による旅客案内も強く要求されるようになった。2014年の8300系を導入を皮切りに自動放送を導入。2017年以降全ての特急列車と南海本線・空港線のほとんどの列車に導入された。日本語と英語の2か国放送が基本ではあるが関西空港駅への旅客案内やマナー啓発放送は中国語・韓国語を加えた4か国語での案内が行われている。 南海電鉄の駅では、CIを導入した1993年より、非常に多種多様なピクトグラム(図記号)を用いた案内サイン看板を使用し始めるようになった。その見易さや分かり易さから、社団法人日本サインデザイン協会が主催するコンテストで表彰を受けるなど、高い評価を受けている。近年設置されている駅サインのうちの一部のピクトグラムは、財団法人交通エコロジー・モビリティ財団が制定した「一般案内用統一図記号ガイドライン」に準拠したものも使われ始めているが、一方で、独特の斬新なデザインを取り入れた矢印の記号などは現在でも使われている。これらの駅サインに関するマニュアルは、1989年に同社内で制定されたが、このマニュアルに沿った駅サインが設置されている駅は、2010年代前半までは同社の厳しい財政事情が影響し、主要駅を中心にまだ少数に留まっていたが、その後はプリンタで出力するという安価に更新できる方式で駅サイン(特に駅名標)を更新している。南海が2008年3月28日に発表した『2010年までの3か年事業計画(堅進126計画)』において、提供するサービスの品質向上の一環として「案内サイン及び放送等の多言語化の推進」に取り組むとしている。韓国語・中国語を併記した案内表示や交通エコロジー・モビリティ財団の標準案内記号の導入に関しては、バリアフリー等の改良工事が終わった駅から順次導入されている。また2013年度から難波駅を皮切りにLED照明への切り替えを随時進めている。 駅名標などにおける、固有名詞のローマ字表記については、多数の鉄道事業者で小文字混じりの表記方法(例:「Ōsaka」「Umeda」など)が採用されている中、2022年5月現在でもすべて大文字表記(例:「NAMBA」「WAKAYAMASHI」など)の、旧・国鉄などが採用していた鉄道掲示規程に準じた表記方法となっている。 最新の駅名標のデザインは1993年にCIを導入した際にリニューアルしたものがベースとなっている。このため、1994年に開業した空港線では最新タイプのみしか存在していない。 2012年4月1日に駅ナンバリングが全駅で導入されたが、大部分の駅では駅名標の改修は行われず既存のものにシールで貼り付ける形になっていた。しかし2013年以後は大半の駅で駅名標の交換が行われており、旧式の駅名標は数を減らしている。 2013年から一部の駅を除いて改札口に16:9サイズのディスプレイを設置、通常時はCMを流している。各線で運行支障があった場合はこのディスプレイで運行情報が表示(主要駅では路線図で)される。また南海各線の運行情報のみならず、徳島航路や金剛山ロープウェイ(オフシーズンは除く)の運行情報、また沿線の海水浴場の遊泳禁止情報(夏場のみ)も流している。 関西の大手私鉄では、京阪神の起点・終点となる駅は大阪難波駅、大阪上本町駅、大阪阿部野橋駅、大阪梅田駅、京都河原町駅、神戸三宮駅など、大阪、京都、神戸などの都市名が頭に付いている駅があり、それが正式な駅名となる前から都市名を付けて案内されていたが、南海のターミナル駅である難波駅は「大阪」を付けていない。単に「なんば」と案内している。なにわ筋線開業後は南海の起点・終点駅で「大阪」と付く駅に大阪駅が加わる。 また、他社の同名駅と区別するために「南海」を頭に付けた駅名も存在しない。ただし、過去には山手線(元阪和電気鉄道、現在の阪和線)の南海天王寺駅・南海鶴ケ丘駅・南海東和歌山駅の事例があった。また、なにわ筋線に設置される仮称・南海新難波駅が仮称通りの駅名に決定すれば、約90年ぶりに南海の冠名が復活することとなる。 地下駅がなく、地下鉄乗り入れ対応車両も保有していない。大手私鉄でこの両方が該当するのは、南海のほかには西日本鉄道のみである。 将来的には、計画中の地下線であるなにわ筋線(前述)が完成すれば、南海新難波駅(仮称)が自社管理の地下駅となる。なお、なにわ筋線に設置される予定の駅のうち西本町駅と中之島駅(いずれも仮称)については、JR西日本・南海のいずれの管理駅とするのか、あるいは関西空港駅と同様に2社での共同管理とするのかは未定であるが、大阪駅(地下ホーム)は、梅田貨物線との分岐駅となる関係上、JR西日本の管理駅となり、なにわ筋線に設置する予定の駅では最も早く2020年に駅名が決定している。車両面では50000系の置き換えおよびなにわ筋線末端区間の南海新難波駅(仮称) - 新今宮駅間にある44‰の急勾配にも対応できるズームカー並の登坂能力を持つ地下線対応・大阪駅 - 新大阪駅の乗り入れに対応する一般車両を計画している。 1963年の大阪市交通事業基本計画で策定された大阪市交通局高速電気軌道6号線(現在のOsaka Metro堺筋線)と相互乗り入れを行う計画があった。6号線には、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)も天神橋付近での相互乗り入れ希望し、それぞれの規格が異なっていたことから激論となった。 大阪市は御堂筋線などの既設路線で1,435 mm軌間(標準軌)・直流750 V 第三軌条方式を採用していたことから、6号線についても当初はトンネル断面を最小限に抑えられ、また自局他線との車両融通が容易なこの規格による路線建設を希望していた。そのため、それぞれ規格の異なる両社との相互乗り入れには消極的で、特に軌間・集電方式・電圧(当時は直流600 V。ただしこの当時既に1500 Vへの昇圧が決定していた)の規格が全く異なる南海との乗り入れに対しては、当初から消極的であった。 最終的には、日本万国博覧会の開催決定や千里丘陵の宅地開発を考慮し、当時の運輸省大阪陸運局長の裁定によって、堺筋線を軌間1,435 mm、直流1,500 V 架空電車線方式で建設し、阪急千里線などからと相互乗り入れとすることで決定。南海への乗り入れは実現しなかった。 1971年12月8日都市交通審議会第13号答申では、堺筋線の動物園前 - 天下茶屋間が緊急整備区間に挙げられた。この区間の計画時にも大阪市と南海の協議が続けられ、南海は大阪市から標準軌に改軌して相互直通運転を行うことと、天王寺支線の廃止を求められた。南海はいずれも困難として交渉が難航したが、両者の歩み寄りにより南海が天王寺支線を廃止し、大阪市が南海との相互直通運転を断念することで合意した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "南海電気鉄道株式会社(なんかいでんきてつどう、英: Nankai Electric Railway Co., Ltd.)は、大阪市の難波から関西国際空港や和歌山県北部の和歌山市、高野山までを結ぶ鉄道を経営する会社。総営業キロは154.8 km。日本の大手私鉄の一つであり、純民間資本としては現存する日本最古の私鉄である。南海グループの中核企業で、一般には「南海」または「南海電鉄」と略され、また「南海電車」の呼称もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本社は大阪市浪速区の今宮戎駅北西側に立地する南海なんば第1ビルに所在し、東京証券取引所プライム市場に上場している。阪堺電気軌道、泉北高速鉄道、南海バス、南海フェリーなどの交通事業者を傘下に置く。高野山への路線を運営していることから全国登山鉄道‰会に加盟している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "社名の「南海」は紀伊国が属する律令制の南海道に由来し、堺 - 和歌山間の出願時に名づけられ、のちに南海道に属する淡路・四国への航路との連絡も果たした。2020年に迎えた創業135周年を機に定めたブランドスローガンは「‘なんかいいね’があふれてる」(英: Bound for Good Times.)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "鉄道との相乗効果が大きい観光・小売・不動産開発といった方面に事業を多角化しているが、本社やターミナル駅の難波駅がある難波周辺(ミナミ地区)に重点を置く。グループ内に百貨店を持っていない唯一の関西大手私鉄であるが、難波駅の駅ビルである南海ビルディングに系列外の髙島屋大阪店がテナントとして入居している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "かつてはプロ野球球団(南海ホークス、後の福岡ダイエーホークス、福岡ソフトバンクホークス)を保有し、大阪スタヂアム(大阪球場)・中百舌鳥球場(いずれも後に解体)や遊園地(さやま遊園とみさき公園)も経営していたが、球団経営からは1988年、遊園地経営からは2020年に撤退した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1884年に関西経済界の重鎮であった藤田伝三郎、松本重太郎、田中市兵衛、外山脩造らによって大阪と堺の間を結ぶ鉄道敷設が出願され、大阪堺間鉄道として会社設立が許可されたのが始まりである。同年に社名を阪堺鉄道と改め、翌1885年12月に難波駅 - 大和川駅(後に廃止)間を開業した。日本鉄道(半官半民)、東京馬車鉄道に次ぐ、日本で3番目の私鉄として、また純民間資本としては日本最初の私鉄として設立され、路線は1883年に廃止された釜石鉱山鉄道の資材を用いて敷設された。1898年に新設会社の南海鉄道が阪堺鉄道の事業を譲り受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "南海鉄道は以後も合併により営業地域や規模を広げたが、路線は長らく大阪湾沿岸部に集中していた。南海鉄道の『開通五十年』では日露戦争後の鉄道国有化の時(1906年)、「わが社が国有化されなかったのは当時沿岸部にしか路線がないので軍事的立場から除外されたから」としている。1909年には競合路線を有していた浪速電車軌道を、1915年には同じく阪堺電気軌道を合併した。1920年の原内閣時に再度国有化の話が浮上し、前述の阪堺線買収後の赤字気味で今買収されるのは最悪の状態と南海重役の佐々木勇太郎と垂井清右衛門が上京して帝国議会に抗議しに行くほどの事態になったが、彼らの活躍とは無関係に議会が解散してしまい、この話はなかったことにされたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "そして1922年には根津嘉一郎から譲られる形で初めて内陸に伸びる大阪高野鉄道を、1940年には日中戦争激化に伴う交通統制(陸上交通事業調整法)で競合会社の阪和電気鉄道を、太平洋戦争開戦後の1942年には加太電気鉄道を合併した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1944年に、元阪和電気鉄道の路線を戦時買収で運輸通信省に譲渡(阪和線となる)した後、前記の陸上交通事業調整法による戦時企業統合政策で関西急行鉄道(関急、1941年に大阪電気軌道(大軌)を母体に設立)と合併し、近畿日本鉄道となり、鉄道線は難波営業局、軌道線は天王寺営業局の管轄となった。しかしこの合併は、資本面も含めて殆ど接点のない、経緯や社風が全く異なる者同士のものであって、当初から体制に無理が生じていた。当時の関急側の代表者であり、関急成立の立役者である種田虎雄でさえ、「南海との合同だけは、政府から無理強いされたもので、自分が望んだものではなかった」と語っていた。一般利用客の間でも、旧南海鉄道の路線については近畿日本鉄道に併合されていた時期でも従来通り「南海」「南海電車」と呼んでいた。そういう理由もあって、終戦後に難波営業局員主導で分離運動が起こり、1947年に高野下駅 - 高野山駅間を運営していた高野山電気鉄道へ旧・南海鉄道の路線を譲渡する形で、南海電気鉄道が発足した(このため法人としての南海電気鉄道の設立日は高野山電気鉄道の設立日である1925年3月28日となっている)。1961年には、貴志川線(2006年に和歌山電鐵へ譲渡)や和歌山軌道線(1971年廃止)を経営していた和歌山電気軌道も統合している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、浪速電車軌道と(初代)阪堺電気軌道の路線については、1980年に南海子会社の(2代)阪堺電気軌道へ譲渡された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "他の在阪の大手私鉄は2016年4月までに阪急阪神ホールディングス、近鉄グループホールディングス、京阪ホールディングスといった純粋持株会社に移行した。南海は2018年5月時点で在阪の大手私鉄では唯一、純粋持株会社制度を取っておらず、移行の予定もない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "初代社章は羽車マークと呼ばれ、前身の阪堺鉄道時代の意匠から車輪の向きを変えて継承したものである。車輪に羽根(翼)が生えたデザインはヨーロッパ諸国の国営鉄道の紋章によく見られるものだが、南海がヨーロッパから車両を輸入した際この紋章の「車輪に羽根が生えれば速い」との意匠を気に入り、車輪の向きのみ変えて採用したとされる。1947年6月1日、グレートリングから改称した南海ホークスの球団名も、この「羽根=鳥」にちなんだといわれる。現在でも難波駅の北側入口上には、羽車をかたどったモニュメントが飾られている。", "title": "社章・コーポレートシンボル" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、南海の各駅に広告が掲示されている「羽車ソース」のマークも、南海の旧社章をモチーフとしたものである。", "title": "社章・コーポレートシンボル" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "現行社章(作者・信貴徳三)は会社新発足25周年を記念して1972年(昭和47年)6月1日に制定されたものである。はぐるまと称するその意匠は先代社章の要素を踏襲しており、両翼は南海線・高野線の二大幹線を表すとともに明日への創造・飛躍を、先代よりも記号化された車輪は諸事業における無限の可能性と徹底的追求を象徴している。これらの意匠を囲む円は南海沿線を表現したもので、同時に制定された南海グループの統一社章では二重円となっている。", "title": "社章・コーポレートシンボル" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "関西国際空港の開港を翌年に控えた1993年(平成5年)4月1日に、社章とは別にCI導入による「NANKAI」を表したコーポレートシンボルを制定した(作者・レイ吉村)。2色のコーポレートカラー(未来を切り開く英知を表す「ファインレッド」、豊かな生活や文化を育む活力を表す「ブライトオレンジ」)からなるコーポレートシンボルも翼の要素を引き継いでおり、総合生活企業として未来に向けて力強く羽ばたいていく姿勢を表現している。", "title": "社章・コーポレートシンボル" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "阪堺電気軌道・和歌山バスなどのグループ会社もこのコーポレートシンボルを追随して導入している。", "title": "社章・コーポレートシンボル" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "南海なんば第1ビルとして2012年12月竣工。設計は大林組、施工は同社と南海辰村建設。地上12階、高さ約55m、延床面積16,838平方メートル 。難波再開発地区の南端にあり、ビル低層部には大阪府立大学の生涯学習の拠点があり、ライブハウス・Zepp Nambaに中庭で接続する。内部は無柱なため、フレキシブルなオフィスが可能。またルーバーや小庇による熱負荷の低減、壁面緑化の採用など、環境にも配慮した建物となっている。2016年に第36回大阪都市景観建築賞奨励賞を受賞。", "title": "本社事務所" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "以下の各路線を有し、南海本線とその支線群(本線群扱いである空港線を除く)を南海線と総称している。南海線の各支線は「高師浜支線」というように「...支線」と称していたが、天王寺支線が廃止された1993年から空港線が開業した1994年頃より単に「...線」と呼ばれることが多くなった。なお、国土交通省監修の『鉄道要覧』には「...線」と記載されている。路線の総延長は154.8 km。南海本線・空港線および高野線が主要路線であり、その路線群ごとにシンボルマークが制定されている。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "駅ナンバリングの路線記号はすべて (NK)", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "他の関西の大手私鉄の路線は、京都市・大阪市・神戸市の京阪神3都市のうち2都市以上を結んでいるのに対し、南海はこのうち大阪市にしか路線を持たない。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "新大阪と難波を結んで関空アクセスの利便性を高める路線として1980年代からなにわ筋線の計画があった。長らく構想自体が停滞していたが、2017年3月、大阪府と大阪市、JR西日本、南海電気鉄道、阪急電鉄の5者が新たな事業計画で大筋合意したと報じられた。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同年5月には、JR難波駅 - (仮称)西本町駅 - (仮称)中之島駅 - (仮称)北梅田駅(現・大阪駅)間および、(南海)新今宮駅 - (仮称)南海新難波駅 - (仮称)西本町駅 - (仮称)中之島駅 - (仮称)北梅田駅(現・大阪駅)間を第三セクターが整備(建設)し、南海新難波駅、西本町駅、中之島駅および北梅田駅の4駅を新設すること、JR難波 - 北梅田間をJR西日本、新今宮 - 北梅田間を南海が営業主体となって営業(西本町 - 北梅田間はJR西日本・南海が共同営業)すること、2031年春の開業を目標としていることが5者から発表された。大半が地下線で、南海は新今宮駅から南海本線に乗り入れる。阪急も大阪駅 - 十三駅間を結ぶなにわ筋連絡線の新設を調査・検討するとしており、なにわ筋線と直通運転する協議を進める。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2019年7月には鉄道事業法に基づく鉄道事業許可、2020年8月には都市計画法に基づく鉄道路線としての事業認可をそれぞれ受け、2021年10月に本格着工しており、関西高速鉄道が事業主体となり整備が進められている。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なにわ筋線計画が具体化したことにより、悲願であった「梅田進出」が達成される。過去3度、梅田までの延伸を申請していたが、いずれも大阪市に却下されている。また競合するJR西日本が難色を示したことで断念していた。同時に阪神と同じく難波と梅田の両方に拠点駅を置く2社目の関西私鉄となる。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "全線がJRの在来線と同じ軌間 1,067 mmの狭軌であり、関西の大手私鉄では唯一標準軌(軌間1,435 mm)の路線を有していない。なお、標準軌の路線を持つ近畿日本鉄道に統合されていた時期を除くと、過去には阪堺線・上町線(1980年に阪堺電気軌道へ譲渡)、平野線・大浜支線(廃止)の各軌道線が標準軌であった。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "軌間がJR在来線と同一であることから、総合車両製作所横浜事業所(旧・東急車輛製造)で製造した新製車両をJR線を走行して搬送(甲種輸送)することや、空港線のりんくうタウン駅 - 関西空港駅間でJR西日本の関西空港線と、また建設中のなにわ筋線でJR西日本と同一の線路を共用する、といったことが容易に可能である。その一方、狭軌であるがゆえに、標準軌である大阪市営地下鉄堺筋線(現・Osaka Metro堺筋線)への相互乗り入れ計画が頓挫した(後述)。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "南海電鉄における列車種別は以下の通りである。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "上記以外の路線では普通車のみの設定である。-急行-は急行の停車駅の他に、春木駅に追加で停車している。南海本線では空港急行と-急行-および区間急行は行先が違うだけで難波駅 - 泉佐野駅間の停車駅は同じである。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "方向幕・種別幕などの案内表示では、快速急行は「快急」、区間急行は「区急」、準急行は「準急」、普通車は「普通」、各駅停車は「各停」と略して表示される。また一部の案内では空港急行も「空急」と略される。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "南海本線系統各線が「普通車」、高野線が「各駅停車」となっているのは、両線の列車が複々線の線路を並行して走る南海本線難波駅 - 天下茶屋駅間において、高野線の列車が走る東側2線の線路にしか今宮戎駅・萩ノ茶屋駅のホームがなく、西側2線を走る南海本線の列車はこの2駅を全て通過するためである。1970年以前は南海本線からの各駅停車(東線ローカル)や高野線からの普通車も存在した。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "詳しくは各列車種別および路線の記事を参照。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "車両先頭の方向幕・種別幕の表示のほか、列車識別灯(通過標識灯)でも大方判別できる。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "列車種別の案内色は快速急行以外京阪と同じだが、区間急行と準急行の停車駅の方式が京阪とは逆転している。区間急行が南海の準急行の停車駅方式に準じ、準急が南海の区間急行の停車駅方式に準じている。英語表記も京阪の準急と南海の区間急行が「SUB EXPRESS」、京阪の区間急行と南海の準急行が「SEMI EXPRESS」というように逆転している。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "電車の行先表示に方向幕が普及した高度経済成長以後も、車両先頭に掲出して列車種別や運行区間を示す方向板を、関西の大手私鉄では後世まで好んで使用し、駅の売店でもミニサボが発売されている程であった。これらは列車の種類によって丸い板と四角い板を使い分けていたが、南海は本線が丸板、支線が支線内折返列車も本線からの直通列車も角板で表示するのが基本であった。大阪軌道線は丸板と角板を使い分けていたが、貴志川線や泉北高速鉄道は支線という定義により角板である。普通車に使用していた方向板は、他の関西大手私鉄4社は角板だったが、南海のみは前述の理由により、丸板も使用していた。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "新造時からの方向幕の設置は、特定の種別に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、1969年に登場した7100系と22000系で、高野線平坦区間用も翌年6100系が登場している。これは戦後に正面方向幕を採用した例としては、関西の大手私鉄で初である。比較的製造年度の若い車両も、同じ位置に同じ方向幕が比較的容易に後付けできたため(関西の大手私鉄では、阪急以外の4社がこのケースである)、設置が行われていった。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "南海電鉄では優等列車として特急列車を運行しており、系統に応じて下記の愛称がある。", "title": "優等列車" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大人料金(小児は特記のない限り半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。", "title": "優等列車" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、乗り継ぎ料金制度はなく、座席指定特急同士を乗り継ぐ場合(例:天下茶屋駅、新今宮駅または難波駅で「りんかん」から「ラピート」に乗り継ぎ)は、各列車の料金がそれぞれ必要となる。", "title": "優等列車" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "前述の通り、南海の特急は「サザン」の自由席車を除き、すべて全車座席指定なので、乗車には乗車券(PiTaPa/ICOCAそれらと相互利用できる交通系ICカードを含む)のほかに特急券(座席指定券)が必要になる。", "title": "優等列車" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "「ラピート」「こうや」「りんかん」の特急券、「サザン」の座席指定券は以下の場所で購入可能。原則として1か月前の10時から発売している。", "title": "優等列車" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「天空」の座席指定券は上記各列車とは異なり、乗車希望日の10日前から前日まで「天空予約センター」で電話のみの予約受付となっている。", "title": "優等列車" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "特急列車の号車番号は、関西空港・和歌山港・高野山・和泉中央方の先頭が1号車で統一されている。", "title": "優等列車" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "座席番号は数字のみで付番されている。関西空港・和歌山港・高野山・和泉中央方面を向いて左側の窓側を1番として、窓側を奇数、通路側を偶数とする(2013年3月ダイヤ変更までの近鉄特急と同様のルールだが、近鉄とは異なり一部の座席を欠番として、車椅子スペースを設置している)。", "title": "優等列車" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "南海線検車区", "title": "車両基地" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "高野線検車区", "title": "車両基地" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "工場", "title": "車両基地" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "南海線列車区", "title": "乗務員区所" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "高野線列車区", "title": "乗務員区所" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2023年10月1日改定。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "郊外型に近い路線体形で、京阪神間を走る大手私鉄と比べ利用客が少なめのため、中距離以上の運賃は近鉄などと同じように高めに設定されている。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "かつて南海の路線であった貴志川線とそれ以外の鉄道線は運賃体系が別々で、乗車キロの通算制度がなかったため、貴志駅 - (南海貴志川線)→和歌山駅 - (JR紀勢線) - 和歌山市駅 - (南海線) - なんば、のように利用するとかなり高くなってしまうという問題があった(この区間の例では、和歌山電鐵移管直前の2006年3月時点で貴志川線(14.3 km)360円+JR紀勢線(3.3 km)180円+南海線(64.2 km)890円=1,430円。仮に運賃体系が同じで通算制度があれば当時の運賃額で南海(78.5 km)970円+JR紀勢線(3.3 km)180円=1,150円となる)。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、相互直通運転している泉北高速鉄道線の各駅と南海の各駅(中百舌鳥駅除く)間を中百舌鳥駅を経由して利用する場合の普通運賃はそれぞれの普通運賃を合算したものから100円(大人)を割り引いた額である。泉北高速鉄道線の運賃体系は南海と別であるが、割引額が大きいことから、乗車キロを通算して南海の運賃体系に当てはめた場合とほぼ変わらない。ただし、通勤定期運賃は南海に比べ割高である。乗継割引額引き上げ前は、泉北高速線の通学定期運賃も割高であり、通学1か月は中百舌鳥 - 和泉中央間 (14.3 km) が泉北7,910円に対し、同じ距離に相当する南海(難波 - 白鷺間14.4 km)の通学1か月は5,290円と約1.5倍の開きがあったが(普通運賃は泉北が320円、南海が330円)、2015年3月1日に南海・泉北高速線間の乗継割引額の20円から100円への引き上げと、泉北高速線内の通学定期旅客運賃の値下げが行われ、中百舌鳥駅 - 和泉中央駅間の通学1か月は5,940円となった。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "さらに分岐駅通過の特例として、南海本線と高野線との分岐駅である岸里玉出駅と、南海本線と加太線の分岐駅である紀ノ川駅には、いずれも優等列車が停車しないため(ただし後者は普通のほかに区間急行も停車する)、天下茶屋駅 - 岸里玉出駅間(天下茶屋駅#南海電気鉄道の項も参照)と紀ノ川駅 - 和歌山市駅間(南海加太線#運行形態の項も参照)ではそれぞれ、重複(折り返し)乗車が認められている。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2023年10月1日の運賃改定で、高野線の一部区間において特定運賃を設定した。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "回数乗車券は、利用者数の減少およびICカードの利用の定着に伴い、2023年3月31日をもって身体障がい者・知的障がい者用を除き販売を終了した。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "以下の各項目を参照。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "過去に発売されていたもの。「→」で後継の乗車券を示す。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2021年4月より、16駅(当初)に専用改札機を設置し、Visaのタッチ決済またはQRコードによる入出場の実証実験を開始した。約1年8か月の実験ののち、2022年12月12日以降も同サービスを継続している。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "入出場時にタッチ決済対応のクレジットカードを専用改札機にかざすことで乗車区間の運賃を決済するもので、2021年4月3日よりVisaで実証実験を開始した。駅の改札でのVisaのタッチ決済による利用区間の運賃支払いは日本国内初である。また公共交通機関全体でも早い段階での導入となる。その後、グループ会社の南海りんかんバス、南海フェリー、泉北高速鉄道での導入や、JCB、American Express、Diners Club、Discoverのタッチ決済の導入など、規模を拡大している。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "事前に「南海デジタルきっぷ」を購入し、スマートフォン上に表示されたQRコードを専用改札機にかざすことで改札通過を可能とするもので、2021年4月15日より実証実験を開始した。その後、取り扱うきっぷの種類の増加など、規模を拡大している。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "南海では元来、標準語ではなく大阪弁(泉州弁や河内弁)、もしくは和歌山弁のアクセントや発音による車内放送が行われていた。ところが関西国際空港の開港を控えた1990年代初頭から、これらの放送が空港連絡鉄道として相応しくないとの批判が増え始めたため、アナウンサーによるイントネーション講習会の開催や手本となるカセットテープの配布、社内の「案内放送用語例」の改訂などを行い、現在のスタイルの原型を作り上げた。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "さらに2004年6月1日からは、「もてなしの気持ちを表現しながら、より簡潔・明瞭な情報をお伝えする」ため、車内案内放送が一部変更されている。また、これに伴い、車掌などアナウンスに関わる業務に携わる全従業員を対象に、発声等に関する全社的な研修が行われた。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "近年ではインバウンド効果による外国人観光客の増加の影響で多言語による旅客案内も強く要求されるようになった。2014年の8300系を導入を皮切りに自動放送を導入。2017年以降全ての特急列車と南海本線・空港線のほとんどの列車に導入された。日本語と英語の2か国放送が基本ではあるが関西空港駅への旅客案内やマナー啓発放送は中国語・韓国語を加えた4か国語での案内が行われている。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "南海電鉄の駅では、CIを導入した1993年より、非常に多種多様なピクトグラム(図記号)を用いた案内サイン看板を使用し始めるようになった。その見易さや分かり易さから、社団法人日本サインデザイン協会が主催するコンテストで表彰を受けるなど、高い評価を受けている。近年設置されている駅サインのうちの一部のピクトグラムは、財団法人交通エコロジー・モビリティ財団が制定した「一般案内用統一図記号ガイドライン」に準拠したものも使われ始めているが、一方で、独特の斬新なデザインを取り入れた矢印の記号などは現在でも使われている。これらの駅サインに関するマニュアルは、1989年に同社内で制定されたが、このマニュアルに沿った駅サインが設置されている駅は、2010年代前半までは同社の厳しい財政事情が影響し、主要駅を中心にまだ少数に留まっていたが、その後はプリンタで出力するという安価に更新できる方式で駅サイン(特に駅名標)を更新している。南海が2008年3月28日に発表した『2010年までの3か年事業計画(堅進126計画)』において、提供するサービスの品質向上の一環として「案内サイン及び放送等の多言語化の推進」に取り組むとしている。韓国語・中国語を併記した案内表示や交通エコロジー・モビリティ財団の標準案内記号の導入に関しては、バリアフリー等の改良工事が終わった駅から順次導入されている。また2013年度から難波駅を皮切りにLED照明への切り替えを随時進めている。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "駅名標などにおける、固有名詞のローマ字表記については、多数の鉄道事業者で小文字混じりの表記方法(例:「Ōsaka」「Umeda」など)が採用されている中、2022年5月現在でもすべて大文字表記(例:「NAMBA」「WAKAYAMASHI」など)の、旧・国鉄などが採用していた鉄道掲示規程に準じた表記方法となっている。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "最新の駅名標のデザインは1993年にCIを導入した際にリニューアルしたものがベースとなっている。このため、1994年に開業した空港線では最新タイプのみしか存在していない。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2012年4月1日に駅ナンバリングが全駅で導入されたが、大部分の駅では駅名標の改修は行われず既存のものにシールで貼り付ける形になっていた。しかし2013年以後は大半の駅で駅名標の交換が行われており、旧式の駅名標は数を減らしている。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2013年から一部の駅を除いて改札口に16:9サイズのディスプレイを設置、通常時はCMを流している。各線で運行支障があった場合はこのディスプレイで運行情報が表示(主要駅では路線図で)される。また南海各線の運行情報のみならず、徳島航路や金剛山ロープウェイ(オフシーズンは除く)の運行情報、また沿線の海水浴場の遊泳禁止情報(夏場のみ)も流している。", "title": "旅客案内" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "関西の大手私鉄では、京阪神の起点・終点となる駅は大阪難波駅、大阪上本町駅、大阪阿部野橋駅、大阪梅田駅、京都河原町駅、神戸三宮駅など、大阪、京都、神戸などの都市名が頭に付いている駅があり、それが正式な駅名となる前から都市名を付けて案内されていたが、南海のターミナル駅である難波駅は「大阪」を付けていない。単に「なんば」と案内している。なにわ筋線開業後は南海の起点・終点駅で「大阪」と付く駅に大阪駅が加わる。", "title": "その他特記事項" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、他社の同名駅と区別するために「南海」を頭に付けた駅名も存在しない。ただし、過去には山手線(元阪和電気鉄道、現在の阪和線)の南海天王寺駅・南海鶴ケ丘駅・南海東和歌山駅の事例があった。また、なにわ筋線に設置される仮称・南海新難波駅が仮称通りの駅名に決定すれば、約90年ぶりに南海の冠名が復活することとなる。", "title": "その他特記事項" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "地下駅がなく、地下鉄乗り入れ対応車両も保有していない。大手私鉄でこの両方が該当するのは、南海のほかには西日本鉄道のみである。", "title": "その他特記事項" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "将来的には、計画中の地下線であるなにわ筋線(前述)が完成すれば、南海新難波駅(仮称)が自社管理の地下駅となる。なお、なにわ筋線に設置される予定の駅のうち西本町駅と中之島駅(いずれも仮称)については、JR西日本・南海のいずれの管理駅とするのか、あるいは関西空港駅と同様に2社での共同管理とするのかは未定であるが、大阪駅(地下ホーム)は、梅田貨物線との分岐駅となる関係上、JR西日本の管理駅となり、なにわ筋線に設置する予定の駅では最も早く2020年に駅名が決定している。車両面では50000系の置き換えおよびなにわ筋線末端区間の南海新難波駅(仮称) - 新今宮駅間にある44‰の急勾配にも対応できるズームカー並の登坂能力を持つ地下線対応・大阪駅 - 新大阪駅の乗り入れに対応する一般車両を計画している。", "title": "その他特記事項" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1963年の大阪市交通事業基本計画で策定された大阪市交通局高速電気軌道6号線(現在のOsaka Metro堺筋線)と相互乗り入れを行う計画があった。6号線には、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)も天神橋付近での相互乗り入れ希望し、それぞれの規格が異なっていたことから激論となった。", "title": "その他特記事項" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "大阪市は御堂筋線などの既設路線で1,435 mm軌間(標準軌)・直流750 V 第三軌条方式を採用していたことから、6号線についても当初はトンネル断面を最小限に抑えられ、また自局他線との車両融通が容易なこの規格による路線建設を希望していた。そのため、それぞれ規格の異なる両社との相互乗り入れには消極的で、特に軌間・集電方式・電圧(当時は直流600 V。ただしこの当時既に1500 Vへの昇圧が決定していた)の規格が全く異なる南海との乗り入れに対しては、当初から消極的であった。", "title": "その他特記事項" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "最終的には、日本万国博覧会の開催決定や千里丘陵の宅地開発を考慮し、当時の運輸省大阪陸運局長の裁定によって、堺筋線を軌間1,435 mm、直流1,500 V 架空電車線方式で建設し、阪急千里線などからと相互乗り入れとすることで決定。南海への乗り入れは実現しなかった。", "title": "その他特記事項" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1971年12月8日都市交通審議会第13号答申では、堺筋線の動物園前 - 天下茶屋間が緊急整備区間に挙げられた。この区間の計画時にも大阪市と南海の協議が続けられ、南海は大阪市から標準軌に改軌して相互直通運転を行うことと、天王寺支線の廃止を求められた。南海はいずれも困難として交渉が難航したが、両者の歩み寄りにより南海が天王寺支線を廃止し、大阪市が南海との相互直通運転を断念することで合意した。", "title": "その他特記事項" } ]
南海電気鉄道株式会社は、大阪市の難波から関西国際空港や和歌山県北部の和歌山市、高野山までを結ぶ鉄道を経営する会社。総営業キロは154.8 km。日本の大手私鉄の一つであり、純民間資本としては現存する日本最古の私鉄である。南海グループの中核企業で、一般には「南海」または「南海電鉄」と略され、また「南海電車」の呼称もある。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} {{基礎情報 会社 |社名 = 南海電気鉄道株式会社 |英文社名 = Nankai Electric Railway Co., Ltd. |ロゴ = Nankai logo.svg |画像 = NANKAI Namba No.1 Building.jpg |画像説明 = 南海なんば第1ビル(本社事務所) |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |機関設計 = |市場情報 = {{上場情報|東証プライム|9044|2008年3月21日}} |略称 = 南海、南海電鉄<br />南海電(銘柄略称) |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 556-8503 |本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]][[敷津東]]二丁目1番41号(南海なんば第1ビル) |本社緯度度 = 34|本社緯度分 = 39|本社緯度秒 = 26.7|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 135|本社経度分 = 30|本社経度秒 = 6.1|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP |本店郵便番号 = 542-0076 |本店所在地 = 大阪府大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]][[難波]]五丁目1番60号(南海会館ビル、[[なんばスカイオ]]) |本店緯度度 = 34 |本店緯度分 = 39 |本店緯度秒 = 49.6 |本店N(北緯)及びS(南緯) = N |本店経度度 = 135 |本店経度分 = 30 |本店経度秒 = 3.1 |本店E(東経)及びW(西経) = E |本店地図国コード = JP |設立 = [[1925年]]([[大正]]14年)[[3月28日]]<br />([[高野山電気鉄道]]株式会社) |業種 = 5050 |事業内容 = 旅客鉄道事業、土地・建物の売買および賃貸、ショッピングセンターの経営、遊園地など娯楽施設の経営 |代表者 = [[代表取締役]][[会長]]兼[[最高経営責任者|CEO]] [[遠北光彦]]<br /><!--代表取締役-->[[社長]]兼[[最高執行責任者|COO]] 岡嶋信行<ref>{{Cite press release|和書|title=社長交代(代表取締役の異動)に関するお知らせ|publisher=南海電気鉄道|date=2023-01-31|url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/news/pdf/230131.pdf|format=PDF|access-date=2022-04-06}}</ref> |資本金 = 729億8300万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho">{{Cite report |author=南海電気鉄道株式会社 |date=2022-06-23 |title=第105期(2021年4月1日 - 2022年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |発行済株式総数 = 1億1340万2446株<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |売上高 = 連結: 2017億9300万円<br />単独: 819億9000万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |営業利益 = 連結: 121億9000万円<br />単独: 34億9200万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |経常利益 = 連結: 99億3100万円<br />単独: 4億4400万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純利益 = 連結: 45億5300万円<br />単独: △2億4000万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純資産 = 連結: 2607億1600万円<br />単独: 1922億8800万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |総資産 = 連結: 9209億7600万円<br />単独: 8263億0300万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |従業員数 = 連結: 8,887人<br />単独: 2,601人<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |決算期 = 3月31日 |会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref name="yuho" /> |主要株主 = [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 10.47%<br />[[日本カストディ銀行]](信託口) 5.64%<br />[[日本生命保険]] 2.19%<br />[[三井住友信託銀行]] 1.34%<br />[[三菱UFJ銀行]] 1.30%<br />JP MORGAN CHASE BANK 385781 1.27%<br />[[三井住友銀行]] 1.26%<br />[[池田泉州銀行]] 1.14%<br />STATE STREET BANK WEST CLIENT – TREATY 505234 1.06%<br />[[髙島屋]] 0.89%<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 有価証券報告書提出会社は上位10名の株主を記載してください --> |主要子会社 = [[南海グループ]]を参照 |関係する人物 = [[松本重太郎]]<br />[[藤田伝三郎]]<br />[[田中市兵衛]]<br />[[根津嘉一郎 (初代)]]<br />[[大塚惟明]]<br />[[小原英一]]<br />[[壷田修]]<br />[[川勝傳]]<br />[[川勝泰司]]<br />[[山中諄]] |外部リンク = https://www.nankai.co.jp/ <!-- URL表記は省略しないこと --> |特記事項 = 創業は、大阪堺間鉄道が設立された[[1884年]]([[明治]]17年)[[6月16日]]。 }} '''南海電気鉄道株式会社'''(なんかいでんきてつどう、{{Lang-en-short|Nankai Electric Railway Co., Ltd.}})は、[[大阪市]]の[[難波]]から[[関西国際空港]]や[[和歌山県]]北部の[[和歌山市]]、[[高野山]]までを結ぶ鉄道<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/railmap.html 路線図・停車駅] 南海電気鉄道(2021年8月21日閲覧)</ref>を経営する会社。総[[営業キロ]]は154.8 km。日本の[[大手私鉄]]の一つであり、純民間資本としては現存する[[日本最古の一覧|日本最古]]の[[私鉄]]である。[[南海グループ]]の中核企業で、一般には「'''南海'''」または「'''南海電鉄'''」と略され、また「'''南海電車'''」の呼称もある{{Refnest|group="注釈"|現行社章が制定された1972年(昭和47年)にロゴタイプを「南海電車」から「南海電鉄」に変更している<ref name=N90>{{Cite book|和書|author=南海電気鉄道株式会社社史編さん専門部会(編)|year=1976|title=南海電鉄創業90周年記念 創造と前進の10年|publisher=南海電気鉄道株式会社創業90周年記念事業企画委員会|page=81}}</ref>。}}。 == 概要 == 本社は大阪市[[浪速区]]の[[今宮戎駅]]北西側に立地する南海なんば第1ビルに所在し、[[東京証券取引所]]プライム市場に[[上場]]している<ref>{{Cite press release|和書|title=本日、東京証券取引所市場第一部に上場しました|publisher=南海電気鉄道株式会社|date=2008-3-21|url=https://www.nankai.co.jp/library/ir/pdf/080321.pdf|format=PDF|accessdate=2023-11-12}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[1954年]]の東証上場廃止以来、長きにわたり東証には上場していなかったが、[[2008年]][[3月21日]]をもって東京証券取引所第一部市場に再上場した。かつては[[大阪証券取引所|大証]]一部にも上場していたが、東京証券取引所との現物株統合に伴い2013年7月12日をもって上場廃止となった。また、[[名古屋証券取引所|名証]]一部についても南海電鉄独自の判断により2013年12月15日をもって上場廃止となった<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/131031.pdf 名古屋証券取引所における株式の上場廃止申請に関するお知らせ]}} - 南海電気鉄道、2013年10月31日 と [http://www.nse.or.jp/news/2013/1114_4824.html 上場廃止等の決定について<東レ(株)、旭化成(株)、コスモ石油(株)、南海電気鉄道(株)>] - 名古屋証券取引所、2013年11月14日</ref>}}。[[阪堺電気軌道]]、[[泉北高速鉄道]]、[[南海バス]]、[[南海フェリー]]などの交通事業者を傘下に置く。高野山への路線を運営していることから[[全国登山鉄道‰会]]に加盟している。 社名の「南海」は[[紀伊国]]が属する[[律令制]]の[[南海道]]に由来し、[[堺]] - 和歌山間の出願時に名づけられ、のちに南海道に属する[[淡路島|淡路]]・[[四国]]への航路との連絡も果たした。2020年に迎えた創業135周年を機に定めたブランドスローガンは「‘なんかいいね’があふれてる」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/company/brand.html|title=南海ブランド|website=南海電気鉄道|accessdate=2023-11-12}}</ref>({{Lang-en-short|Bound for Good Times.}}<!-- 英文サイト上の表記 -->)。 鉄道との相乗効果が大きい[[観光]]・小売・[[不動産]]開発といった方面に事業を多角化しているが、本社や[[ターミナル駅]]の[[難波駅 (南海)|難波駅]]がある[[難波]]周辺([[ミナミ]]地区)に重点を置く<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28948470T00C18A4000000/|title=【記者の目】南海、株価を占う大阪・ミナミ流再開発|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2018-04-04|accessdate=2023-11-12}}</ref>。グループ内に[[百貨店]]を持っていない唯一の[[関西私鉄|関西大手私鉄]]であるが、難波駅の[[駅ビル]]である[[南海ビルディング]]に系列外の[[髙島屋]]大阪店がテナントとして入居している。 かつては[[日本プロ野球|プロ野球]]球団(南海ホークス、後の福岡ダイエーホークス、[[福岡ソフトバンクホークス]])を保有し、[[大阪スタヂアム]](大阪球場)・[[中百舌鳥球場]](いずれも後に解体)や遊園地([[さやま遊園]]と[[みさき公園]])も経営していたが、球団経営からは[[1988年]]、遊園地経営からは[[2020年]]に撤退した。<!-- [[南海ホークス]]・[[福岡ダイエーホークス]]は[[福岡ソフトバンクホークス]]への、[[関西急行鉄道]]は[[近畿日本鉄道]]へのリダイレクトになっていますので、リンクはどちらか一方だけで結構です --> <!-- 「南海」は、この記事自身と、「南海道」、「福岡ソフトバンクホークス」への曖昧さ回避ページになっており、いずれも既にリンクされているので「南海」はリンクしなくて結構です。 --> == 歴史 == 1884年に[[関西]]経済界の重鎮であった[[藤田伝三郎]]、[[松本重太郎]]、[[田中市兵衛]]、[[外山脩造]]らによって[[大阪市|大阪]]と[[堺市|堺]]の間を結ぶ鉄道敷設が出願され、'''大阪堺間鉄道'''として会社設立が許可されたのが始まりである。同年に社名を'''[[阪堺鉄道]]'''と改め、翌1885年12月に難波駅 - 大和川駅(後に廃止)間を開業した。[[日本鉄道]](半官半民)、[[東京馬車鉄道]]に次ぐ、日本で3番目の私鉄として、また純民間資本としては日本最初の私鉄<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2008年8月臨時増刊号 第807号([[電気車研究会]] 鉄道図書刊行会)p.10</ref>として設立され、路線は1883年に廃止された[[釜石鉱山鉄道]]の資材を用いて敷設された。1898年に新設会社の'''南海鉄道'''が阪堺鉄道の事業を譲り受けた。 :この1898年に[[南海高野線#歴史|'''高野鉄道''']](1896年設立。当時の社長は[[松方幸次郎]]{{sfn|公評散史|1896}})が堺から高野山を目指し、[[南海高野線|高野線]]の前身となる大小路駅(現在の[[堺東駅]]) - [[狭山駅]]間を開業している。同年中に長野駅(現在の[[河内長野駅]])まで延伸し、1900年には道頓堀駅(現在の[[汐見橋駅]]) - 大小路駅間が開業した。しかし経営は思わしくなく、[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]が出資して設立された[[南海高野線#歴史|'''高野登山鉄道''']]が1907年に経営を引き継いで1915年に[[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]]まで路線を延ばし、'''大阪高野鉄道'''に社名を改めた。 南海鉄道は以後も合併により営業地域や規模を広げたが、路線は長らく[[大阪湾]]沿岸部に集中していた。南海鉄道の『開通五十年』では[[日露戦争]]後の[[鉄道国有法|鉄道国有化]]の時(1906年)、「わが社が国有化されなかったのは当時沿岸部にしか路線がないので軍事的立場から除外されたから」としている<ref name="わが社の国有問題">[[#南海1936 |(南海1936)p.30「わが社の國有問題」]]</ref>。1909年には競合路線を有していた[[阪堺電気軌道上町線|浪速電車軌道]]を、1915年には同じく阪堺電気軌道を合併した。1920年の[[原内閣]]時に再度国有化の話が浮上し、前述の阪堺線買収後の赤字気味で今買収されるのは最悪の状態と南海重役の佐々木勇太郎と垂井清右衛門が上京して[[帝国議会]]に抗議しに行くほどの事態になったが、彼らの活躍とは無関係に議会が解散してしまい、この話はなかったことにされたという<ref name="わが社の国有問題"/>。 そして1922年には根津嘉一郎から譲られる形で初めて内陸に伸びる大阪高野鉄道を、1940年には[[日中戦争]]激化に伴う交通統制([[陸上交通事業調整法]])で競合会社の[[阪和電気鉄道]]を、[[太平洋戦争]]開戦後の1942年には[[南海加太線|加太電気鉄道]]を合併した。 1944年に、元阪和電気鉄道の路線を[[戦時買収私鉄|戦時買収]]で[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]に譲渡([[阪和線]]となる)した後、前記の陸上交通事業調整法による戦時企業統合政策で[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]](関急、1941年に大阪電気軌道(大軌)を母体に設立)と合併し、'''[[近畿日本鉄道]]'''<!--(近鉄) この当時「近鉄」は「近江鉄道」を指し、「近畿日本鉄道」の略は「近日」-->となり<ref name="kghd" group="注釈">後述の南海分離後、2015年に[[持株会社]]に移行して[[近鉄グループホールディングス]]となり、新設の近畿日本鉄道に鉄道事業を分割した。</ref>、鉄道線は難波営業局、軌道線は天王寺営業局の管轄となった。しかしこの合併は、資本面も含めて殆ど接点のない、経緯や社風が全く異なる者同士のものであって、当初から体制に無理が生じていた。当時の関急側の代表者であり、関急成立の立役者である[[種田虎雄]]でさえ、「南海との合同だけは、政府から無理強いされたもので、自分が望んだものではなかった」と語っていた。一般利用客の間でも、旧南海鉄道の路線については近畿日本鉄道に併合されていた時期でも従来通り「南海」「南海電車」と呼んでいた。そういう理由もあって、終戦後に難波営業局員主導で分離運動が起こり、1947年に[[高野下駅]] - [[高野山駅]]間を運営していた'''[[高野山電気鉄道]]'''へ旧・南海鉄道の路線を譲渡する形で、'''南海電気鉄道'''が発足した(このため[[法人]]としての南海電気鉄道の設立日は高野山電気鉄道の設立日である1925年3月28日となっている)。1961年には、[[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]](2006年に[[和歌山電鐵]]へ譲渡)や和歌山軌道線(1971年廃止)を経営していた[[南海和歌山軌道線|和歌山電気軌道]]も統合している。 なお、浪速電車軌道と(初代)阪堺電気軌道の路線については、1980年に南海子会社の(2代)[[阪堺電気軌道]]へ譲渡された。 他の在阪の大手私鉄は2016年4月までに[[阪急阪神ホールディングス]]、[[近鉄グループホールディングス]]、[[京阪ホールディングス]]といった[[持株会社|純粋持株会社]]に移行した。南海は2018年5月時点で在阪の大手私鉄では唯一、純粋持株会社制度を取っておらず、移行の予定もない。 === 年表 === * [[1884年]]([[明治]]17年) **[[6月16日]] '''大阪堺間鉄道'''設立。 ** [[11月22日]] 大阪堺間鉄道が'''[[阪堺鉄道]]'''に社名変更。 * [[1885年]](明治18年)[[12月29日]] 阪堺鉄道が[[難波駅 (南海)|難波駅]] - 大和川駅(後に廃止)間を開業<ref group="注釈">南海電気鉄道車両部・井上広和『日本の私鉄9 南海』([[保育社]]、1981年)などでは12月27日としているが、『[{{NDLDC|960214/451}} 日本鉄道史 上編]』([[鉄道省]]、1921年、[[国立国会図書館]]デジタルコレクションより)p.762によると12月27日は開業式を行った日で、営業開始は12月29日からとある。国土交通省鉄道局監修『[[鉄道要覧]]』では12月29日が運輸開始年月日となっている。</ref>。 * [[1895年]](明治28年)[[8月25日]] '''南海鉄道'''設立。 * [[1898年]](明治31年)[[10月1日]] 阪堺鉄道が南海鉄道に事業譲渡。高野鉄道株式会社がが高野鉄道の大小路駅(現在の[[堺東駅]]) - [[狭山駅]]間を開業{{sfn|公評散史|1896}}。 * [[1900年]](明治33年)[[10月26日]] [[天下茶屋駅]] - [[天王寺駅]]間([[南海天王寺支線|天王寺支線]])を開業。 * [[1903年]](明治36年)[[3月21日]] 難波駅 - [[和歌山市駅]]間全通。 ** 同年、経営難になった[[紀和鉄道]]が身売りに来るが、色々と揉めた末に買収せず<ref name="わが社の国有問題"/>。 * [[1905年]](明治38年) ** [[6月24日]] 臨時株主総会を開き、[[資本金]]70万円増資で難波 - [[浜寺公園駅|浜寺]]、並びに天王寺支線[[鉄道の電化|電化]]事業に取り組むことを決定する<ref name="電化時代">[[#南海1936 |(南海1936)p.31-33「電化時代」]]</ref>。 ** [[10月]] 同じく浜寺公園<ref group="注釈">『開通五十年』p.31原文ママ、「浜寺」と「浜寺公園」は同一の駅で、明治38(1905)年時点では「浜寺駅」、明治40年に改名しているので『開通五十年』が書かれた昭和11年(1936年)時点では「浜寺公園駅」がそれぞれ正式名。</ref> - 貝塚の電化に160万円増資<ref name="電化時代"/>。 * [[1907年]](明治40年) ** 3月 残部電化のため90万円増資<ref name="電化時代"/>。 ** 8月21日 7月に[[複線化]]工事も済ませていた難波駅 - 浜寺駅間で電車運転を開始(天王寺支線は同年11月から電車運転開始)<ref name="電化時代"/>。 * [[1907年]](明治40年)1月 客車(電車)の等級を一等・二等・三等から特等・並等に変更<ref name="電化時代"/>。 * [[1909年]](明治42年)[[12月24日]] 浪速電車軌道を合併。[[阪堺電気軌道上町線|上町線]]とする<ref name="電化時代"/>。 * [[1911年]](明治44年)[[11月21日]] 難波駅 - 和歌山市駅間の全線電化完成<ref name="電化時代"/>。 * [[1912年]](大正元年)[[8月1日]] 大阪府南部の沿線の10か村に電灯電力の供給を開始(詳細は「[[関西私鉄の電力供給事業]]」を参照)<ref>『南海電気鉄道百年史』(南海電気鉄道株式会社編集発行 昭和60年)p.159</ref> * [[1915年]]([[大正]]4年)[[6月21日]] (初代)阪堺電気軌道を合併<ref name="電化時代"/>。[[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]、[[南海大浜支線|大浜線]]、[[南海平野線|平野線]]とする。 * [[1922年]](大正11年) ** [[9月6日]] 大阪高野鉄道、高野大師鉄道(未開業)を合併。[[南海高野線|高野線]]とする。 ** [[12月2日]] 南海本線全線[[複線]]化完成。 * [[1925年]](大正14年)[[3月28日]] '''高野山電気鉄道'''設立。 * [[1938年]]([[昭和]]13年) **[[2月11日]] 高野線[[汐見橋駅]] - 長野駅(現・[[河内長野駅]])間複線化完成。 ** [[5月1日]] 狭山遊園(後の[[さやま遊園]])開園。 * [[1934年]](昭和9年)[[11月17日]] [[日本国有鉄道|国鉄]]紀勢西線(現・[[紀勢本線]])直通列車「[[黒潮号]]」運転開始。 * [[1940年]](昭和15年)[[12月1日]] 阪和電気鉄道を合併。山手線とする。 * [[1942年]](昭和17年)[[2月1日]] 加太電気鉄道を合併。[[南海加太線|加太線]]とする。 * [[1944年]](昭和19年) ** [[5月1日]] [[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]が山手線を買収。国鉄[[阪和線]]となる。 ** [[6月1日]] 関西急行鉄道と南海鉄道が合併、'''近畿日本鉄道'''となる<ref name="kghd" group="注釈" />。 * [[1947年]](昭和22年) ** [[3月15日]] 高野山電気鉄道が'''南海電気鉄道'''に社名変更。 ** 6月1日 近畿日本鉄道が、旧・南海鉄道の路線を南海電気鉄道へ分離譲渡。<!-- 3月15日に社名変更後に譲渡 --> * [[1949年]](昭和24年)5月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場。 * [[1951年]](昭和26年)[[7月7日]] 高野線で[[特別急行列車|特急]]「[[こうや]]号」運転開始。 * [[1954年]](昭和29年)3月 東証を上場廃止(大証・名証への上場は維持)。 * [[1957年]](昭和32年)4月1日 [[みさき公園]]開園。 * [[1958年]](昭和33年)[[8月1日]] 高野線で[[ズームカー]] [[南海21000系電車|21000系]]電車営業運転開始<ref name="colorbooks811-p149">{{Cite book|和書 |author=南海電気鉄道車両部 |author2=諸河久 |author3=岩堀春夫 |year=1991 |title=南海 |series=カラーブックス 811 日本の私鉄 11 |publisher=保育社 |page=149}}</ref><ref name="reki-megu-p25">『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線・大手私鉄』16号 南海電気鉄道([[朝日新聞出版]])p.25</ref>。 * [[1961年]](昭和36年) ** [[11月1日]] 和歌山電気軌道を合併。貴志川線、和歌山軌道線とする。 ** [[7月5日]] 高野線の特急「こうや号」でデラックスズームカー[[南海20000系電車|20000系]]電車営業運転開始<ref name="colorbooks811-p149" /><ref name="reki-megu-p25" />。 * [[1962年]](昭和37年)12月 高野線[[オールステンレス車両|ステンレスカー]] [[南海6000系電車|6000系]]電車が製造<ref name="colorbooks811-p149" /><ref name="reki-megu-p25" />。<!-- 出典colorbooks811、reki-meguでは営業運転開始時期は不明 --> * [[1963年]](昭和38年)10月 南海線 [[南海7000系電車|7000系]]が製造<ref name="colorbooks811-p149" />。<!-- 出典colorbooks811では営業運転開始時期は不明 --> * [[1966年]](昭和41年)12月1日 [[南海北島支線|北島支線]]廃止。 * [[1967年]](昭和42年) ** 4月1日 南海本線の男里川橋梁で列車[[列車脱線事故|脱線]]転落事故発生(「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#南海電鉄男里川橋梁列車脱線転落事故|男里川橋梁列車脱線転落事故]]」参照)。 ** 7月24日 南海本線 [[箱作駅]]で[[貨物列車]]と[[急行列車]]の衝突事故発生(「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#南海電鉄箱作駅構内列車衝突事故|南海電鉄箱作駅構内列車衝突事故]]」参照)。 * [[1968年]](昭和43年)[[1月18日]] 天下茶屋駅構内で高野線[[回送]]列車と南海線急行列車の衝突事故発生(「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故|天下茶屋駅列車衝突事故]]」参照)。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[4月1日]] 和歌山軌道線が全線廃止。南海電鉄バス(当時、現在の[[和歌山バス]])に代替。 ** 4月1日 [[泉北高速鉄道線]]が開業し、高野線と[[直通運転|相互直通運転]]開始。 * [[1972年]](昭和47年) ** 6月1日 新社章を制定。 ** 12月1日 和歌山市駅に[[自動改札機]]を初設置し、試験運用を開始。 * [[1973年]](昭和48年)10月 貴志川線を除く鉄道線全線の架線電圧1500 [[ボルト (単位)|V]]への昇圧が行われる。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[6月15日]] 第1次大阪市内[[立体交差]]化(南海本線の[[玉出駅]] - [[住ノ江駅]]間)が完成。  ** [[11月23日]] 難波駅改良工事完成。この頃から、駅の案内表示にそれぞれの路線のシンボルマークとラインカラー(南海線は青、高野線は緑)が使われはじめる。 ** 11月28日 平野線と大浜線(1949年から休止中)が廃止。平野線は前日に開通した[[Osaka Metro谷町線|大阪市営地下鉄谷町線]]天王寺駅 - [[八尾南駅]]間に代替。 ** 12月1日 上町線と阪堺線を(2代)阪堺電気軌道に分離譲渡。 * [[1982年]](昭和57年)[[4月16日]]<ref name="colorbooks811-p150">{{Cite book|和書 |author=南海電気鉄道車両部 |author2=諸河久 |author3=岩堀春夫 |year=1991 |title=南海 |series=カラーブックス 811 日本の私鉄 11 |publisher=保育社 |page=150}}</ref> 高野線で[[界磁チョッパ制御]]車[[南海8200系電車|8200系]]電車営業運転開始。 * [[1983年]](昭和58年)[[6月26日]] 高野線の特急「こうや号」で[[南海30000系電車|30000系]]電車営業運転開始<ref name="colorbooks811-p150" /><ref name="reki-megu-p25" />。 * [[1984年]](昭和59年)[[11月18日]] 天王寺支線の天下茶屋駅 - [[今池町駅]]間が廃止([[Osaka Metro堺筋線|大阪市営地下鉄堺筋線]]の延伸工事、第2次大阪市内立体交差化工事の本格化に伴う処置)。 * [[1985年]](昭和60年) ** 3月14日 紀勢本線との直通列車「[[きのくに (列車)|きのくに]]」(南海線内は特急、国鉄線内は急行)廃止。  ** 4月30日 南海線で[[南海9000系電車|9000系]]電車営業運転開始<ref name="colorbooks811-p150" />。 ** 5月7日 南海本線の[[堺市]]内立体交差化工事(住ノ江駅 - [[石津川駅]]間)が完成<ref name="colorbooks811-p150" />。 ** 11月1日 南海線で[[南海10000系電車|10000系]]による特急「[[サザン (列車)|サザン]]」運転開始<ref name="reki-megu-p15">『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線・大手私鉄』16号 南海電気鉄道(朝日新聞出版)p.15</ref>。特急「[[サザン (列車)#沿革|四国号]]」廃止。 * [[1987年]](昭和62年)8月1日 自社専用の磁気式[[プリペイドカード]]「マイチケット」の販売開始。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** 4月 アバンに業務委託<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.avan.co.jp/biz.html |title=事業紹介 |publisher=アバン |accessdate=2012-10-19}}</ref>し、同社から派遣を受けた「パッセンジャー・アテンダント」(女性乗務員)の乗務開始。 ** [[5月2日]] 高野線で[[南海2000系電車|2000系]]電車営業運転開始<ref name="colorbooks811-p150" />。 * [[1992年]](平成4年) ** 4月9日 これまでの[[南海グリーン|緑色]]から、灰色地に青帯とオレンジ帯のニューカラーデザイン電車を運転開始。以後、全車両の塗色が変更される。 ** [[11月10日]] 高野線で[[南海11000系電車|11000系]]による特急「[[こうや|りんかん]]」運転開始。特急「こうや号」を特急「こうや」に改称<ref name="reki-megu-p25" />。 ** 南海線・高野線で[[南海1000系電車 (2代)|1000系]]電車営業運転開始。 * [[1993年]](平成5年) ** 4月1日 [[南海天王寺支線|天王寺支線]]の今池町駅 - 天王寺駅間が廃止され、同線全線廃止。 ** 4月1日 [[橋本市|橋本]]・高野山地区のバス路線を[[南海りんかんバス]]に移管。 ** 4月1日 [[#社章・コーポレートシンボル|羽車]]の社章に代わりコーポレートシンボルマークを制定<ref name="kotsu19930323">{{Cite news |title=新たな企業理念制定 南海電鉄、新年度機に 経営環境の変化に対応 コーポレートシンボルも |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-03-23 |page=2 }}</ref>。 * [[1994年]](平成6年) ** [[6月15日]] 関西国際空港に乗り入れる[[南海空港線|空港線]]開業(ラインカラーは紫)。 ** [[9月4日]] 関西国際空港の開港に伴い南海線で[[南海50000系電車|50000系]]による空港特急「[[ラピート]]」運転開始<ref name="reki-megu-p15" />。 * [[1995年]](平成7年) ** 9月1日 高野線河内長野駅 - 橋本駅間の複線化が完成。同線難波駅 - 橋本駅間の愛称「りんかんサンライン」使用開始([[南海高野線#「りんかんサンライン」の愛称について|命名経緯]])。 ** 11月1日 大阪市内連続立体交差化が全面完成。 * [[1999年]](平成11年) ** 3月1日 高野線の特急「こうや」「りんかん」で[[南海31000系電車|31000系]]電車営業運転開始<ref name="reki-megu-p25" />。 ** 3月31日 磁気式プリペイドカード「マイチケット」の販売終了。 ** 4月1日 貴志川線を除く全線で[[スルッとKANSAI]]を導入。「[[南海コンパスカード]]」を発売。 * [[2000年]](平成12年)4月1日 さやま遊園閉園。 * [[2001年]](平成13年)10月1日 バス部門(南海電鉄バス)を[[南海バス]]に分社。 * [[2002年]](平成14年)[[5月26日]] [[南海和歌山港線|和歌山港線]]の[[和歌山港駅]] - [[水軒駅]]間が廃止。 * [[2005年]](平成17年) ** 3月31日 高野線で[[南海2300系電車|2300系]]電車営業運転開始<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/050328.pdf 3月31日(木)からの営業運転開始を記念して「2300系デビュー記念乗車券」を発売します]}} - 南海電気鉄道(2005年3月28日)2021年8月21日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/050307.pdf 世界遺産登録の高野山へ、いよいよ発車します! 新型車両「2300系」の営業運転開始が3/31(木)に決定しました!]}} - 南海電気鉄道(2005年3月7日)2021年8月21日閲覧</ref>。 ** [[11月27日]] [[泉佐野駅]]の立体交差化工事が完成。 * [[2006年]](平成18年) ** [[4月1日]] 貴志川線を[[岡山電気軌道]]の子会社[[和歌山電鐵]]に譲渡。 ** [[7月1日]] [[PiTaPa]]導入。南海は[[南海グループカード minapita]]を発行。同時に[[ICOCA]]も利用可能に。 * [[2007年]](平成19年)[[4月19日]] 大阪球場再開発事業([[なんばパークス]])全面開業。[[ファイル:Nankai namba station05s3200.jpg|thumb|right|200px|なんばパークス(画像左端下が南海会館ビル)]] * [[2008年]](平成20年) ** [[3月21日]] 東京証券取引所第一部市場に再上場(上場承認日は[[3月14日]])。 ** 南海線で[[南海8000系電車 (2代)|8000系]]電車(2代)営業運転開始。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月20日]] 「りんかんサンライン」の愛称、事実上廃止。 ** [[3月21日]] [[徳島バス]]を子会社化。 ** [[7月3日]] 高野線で観光列車「[[南海高野線#観光列車「天空」|天空]]」運転開始<ref name="reki-megu-p25" />。 * [[2010年]](平成22年)[[10月1日]] [[南海都市創造]]を吸収合併。 * [[2011年]](平成23年) ** 4月1日 関西の大手私鉄では初となる、全駅での駅構内終日[[禁煙]]を開始。 ** [[9月1日]] 全ての特急列車が禁煙となる。南海線の特急「サザン」で[[南海12000系電車|12000系]]営業運転開始<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/110825.pdf 「サザン・プレミアム」運行開始記念セレモニーを開催します]}} - 南海電気鉄道(2011年8月25日)2021年8月21日閲覧</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[4月1日]] 全線(乗り入れ先の泉北高速鉄道線、子会社の阪堺電気軌道も含む)で[[駅ナンバリング]]を導入。南海本線に走っていた[[自由席]]のみの特急を廃止。 * [[2013年]](平成25年) ** [[2月12日]] 本社事務所を[[浪速区]]敷津東の難波C街区に所在する南海なんば第1ビルへ移転<ref>{{Cite press release |和書 |title=難波C街区オフィスビルの概要および大阪府立大学の誘致について |publisher=南海電気鉄道 |date=2011-2-15 |url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/110215.pdf |format=PDF |accessdate= 2021-08-21}}</ref><ref>[http://www.nankai.co.jp/company/company/company.html 会社概要] 南海電鉄(2012年3月4日閲覧)</ref>。 ** [[3月23日]] [[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]がIC乗車カード全国相互利用開始で利用可能に。 ** [[4月1日]] これまで支線の一部駅のみであった[[無人駅|駅員の無人化]]を主要駅を除く駅のうちの多くに実施。 ** [[7月12日]] 大証における上場を廃止。 ** [[12月15日]] 名証における上場を廃止。 * [[2014年]](平成26年)7月1日 大阪府などから株式を取得し、泉北高速鉄道線を運営する大阪府都市開発を子会社化<ref name="nankai20140515">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140515_2.pdf 大阪府都市開発株式会社の株式の取得(子会社化)に関するお知らせ]}} - 南海電気鉄道(2014年5月15日)2021年8月21日閲覧</ref>。大阪府都市開発は[[泉北高速鉄道]]に社名変更<ref name="senboku20140701">{{PDFlink|[http://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2014/07/d654a80c8f72b6556f29d20c0af33768.pdf 社名変更に関するお知らせ]}} - 泉北高速鉄道(2014年7月1日)2021年8月21日閲覧</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** 9月30日 南海線の7000系電車定期運用終了<ref>[http://railf.jp/news/2015/10/01/170000.html 「南海7000系が定期運用から離脱」][[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]・railf.jp 鉄道ニュース(2015年10月1日掲載)2021年8月21日閲覧</ref>。10月3日の[[住ノ江検車区]]での記念撮影会のための[[団体臨時列車]]で営業運転終了<ref>[http://railf.jp/news/2015/10/04/205500.html 「住ノ江検車区で南海7000系の引退記念撮影会開催」]鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース(2015年10月4日掲載)2021年8月21日閲覧</ref>。 ** 10月8日 南海線で[[南海8300系電車|8300系]]電車が営業運転開始<ref>[http://railf.jp/news/2015/10/14/150000.html 「南海電鉄8300系が営業運転を開始」]鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース(2015年10月14日掲載)2021年8月21日閲覧</ref>。南海の通勤車両初の自動放送搭載。 * [[2017年]](平成29年) ** [[3月25日]] 南海電鉄各駅で[[ICOCA]]、およびICOCA[[定期乗車券|定期券]](南海線内定期券、および泉北高速・阪神・京阪・近鉄・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]などとの連絡定期券)の発売を開始<ref name="nankai20150123">{{Cite web|和書|title=南海電鉄におけるICOCAおよびICOCA定期券の販売について|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/170203_01_IC.pdf|publisher=南海電鉄|format=PDF |date=2017-02-03|accessdate=2017-02-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ICOCA連絡定期券の発売開始について|url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/170203_1.pdf|publisher=南海電鉄|format=PDF |date=2017-02-03|accessdate=2017-12-26}}</ref>。 ** [[4月1日]] [[前照灯]]の[[昼間点灯|終日点灯]]を開始(泉北高速鉄道も同日から実施)。 ** [[4月25日]] [[関西エアポート]]とともに[[台湾]]の[[桃園捷運公司]]・[[桃園国際機場公司]]との間で連携協定を締結<ref>[http://japan.cna.com.tw/news/aeco/201704250002.aspx 「桃園空港・メトロ、関空・南海電鉄と連携協定 乗車券相互販売を検討/台湾」][[フォーカス台湾]](2017年4月25日配信)2021年8月21日閲覧</ref>。 ** [[10月22日]] [[平成29年台風第21号|台風21号]]により、南海本線[[樽井駅]] - [[尾崎駅]]間の男里川橋梁で橋脚傾斜、高野線[[上古沢駅]]構内で道床流出が発生し、南海本線樽井駅 - 尾崎駅間と高野線高野下駅 - 極楽橋駅間が不通となる<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001207347.pdf#page=50 台風第21号による被害状況等について(第4報)(2017/10/24 7:00現在)]}} - 国土交通省</ref><ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/transfer.html 台風21号の影響による列車の運休区間について]{{リンク切れ|date=2021年8月}}南海電気鉄道(2017年10月24日)</ref>。 ** [[10月24日]] [[スイス]]の[[モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道]] (MOB) と姉妹鉄道協定を締結<ref>[https://namba.keizai.biz/headline/3733/ 「南海、スイスの鉄道会社と姉妹協定 記念ヘッドマークを贈呈」][[みんなの経済新聞ネットワーク|なんば経済新聞]](2017年10月24日配信)2021年8月21日閲覧</ref>。 ** [[11月1日]] 南海本線樽井駅 - 尾崎駅間の男里川橋梁の上り線について、安全に運行できることが確認され、単線運転により運行を再開<ref>[https://www.sankei.com/article/20171101-A7IIROB2VRIGNJM4TAIYVWE744/ 台風21号で線路グニャリ…南海本線11月1日運転再開も「復旧費用は算定できない」 高野線は運行めど立たず]『[[産経新聞]]』2017年11月1日(2021年8月21日閲覧)</ref>。 ** [[11月23日]] 南海本線樽井駅 - 尾崎駅間の男里川橋梁下り線が復旧し、上下線での運行を再開<ref>[https://response.jp/article/2017/11/21/302785.html 「11月23日から上下線とも通常ダイヤ…南海本線の男里川橋りょうが仮復旧」] [[Response.|レスポンス]](2017年11月21日配信)2021年8月21日閲覧</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23841550T21C17A1AC8Z00/ 「台風で線路ゆがんだ南海本線、1カ月ぶり通常運行」][[日本経済新聞]]ニュースサイト2017年11月23日配信の[[共同通信]]記事(2021年8月21日閲覧)</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[3月31日]] 高野線高野下駅 - 極楽橋駅間が復旧し、運行再開<ref>[https://trafficnews.jp/post/80026 「南海高野線の不通区間、31日再開 上古沢の列車交換設備移設で一部ダイヤ修正」]乗りものニュース(2018年3月22日配信)2021年8月21日閲覧</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20180401/k00/00m/040/030000c 「南海高野線:5カ月ぶり運転再開 台風被害で運休」][[毎日新聞]]ニュースサイト(2018年3月31日配信)2021年8月21日閲覧</ref>。 {{Double image aside|right|E212南海鐵道友好彩繪車.jpg|150|E213南海鐵道友好彩繪車.jpg|150|[[台湾鉄路管理局E200型電気機関車|E200型電気機関車]]E212号機「台日友誼号」|同E213号機「藍武士号」}} * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) **1月 台湾での訪日旅行促進活動の一環で[[台湾鉄路管理局]](台鉄)および[[交通部観光局]]とコラボレーション、「ラピートブルー」の塗装を施した台鉄の列車運行を開始(期間は約半年間)<ref>{{Zh-tw icon}}[http://www.epochtimes.com/b5/19/1/14/n10975060.htm 「鐵道迷看過來! 藍武士號彩繪車今首航」][[大紀元]]台湾(2019年1月14日配信)2021年8月21日閲覧</ref>。 **[[10月1日]] [[南紀|南紀エリア]]の事業統括・旅行業を担う[[中間持株会社]]として株式会社南紀観光ホールディングスが発足<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/191001.pdf|title=2019年10月1日「株式会社南紀観光ホールディングス」発足!|accessdate=2019年10月2日|publisher=南海電気鉄道}}</ref>。 ** 11月22日 高野線でも8300系電車が営業運転開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2019/11/23/200000.html |title=南海高野線で8300系が営業運転を開始 |access-date=2022-09-20 |publisher=交友社 |date=2019-11-23 |website=鉄道ファン・railf.jp |work=鉄道ニュース}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[3月31日]] みさき公園の事業から撤退<ref>{{Cite press release |和書 |title=「みさき公園」事業からの撤退について |publisher=南海電気鉄道 |date=2019-03-26 |url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/190326.pdf |format=PDF |accessdate=2019-03-27 }}</ref><ref>{{Cite news |title= 思い出をありがとう みさき公園が閉園 |newspaper=[[わかやま新報]] |date=2020-04-02 |url=https://www.wakayamashimpo.co.jp/2020/04/20200402_93065.html |publisher=和歌山新報社 |accessdate=2020-04-09}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** 4月3日 主要16駅において、[[Visaのタッチ決済]]による入出場の実証実験を開始<ref name=":1" />。 ** 4月15日 主要16駅において、[[QRコード]]による入出場の実証実験を開始<ref name=":1" />。 ** [[7月7日]] [[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウイルス感染症の流行]]に対応して、[[人工知能]](AI)による非接触型利用者案内の実験を、難波駅において[[近畿日本鉄道]]と連携して開始<ref>[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/210701_1.pdf 難波駅におけるAIを活用した「非接触」でのお客さま案内実証実験の開始について] 南海電気鉄道プレスリリース(2021年7月1日)2021年8月21日閲覧</ref>。 * [[2022年]](令和4年)5月27日 高野線の[[小原田検車区]]で、特急「こうや」「りんかん」で使用している30000系電車が入換時に運転士が信号確認をしないまま動かしたため脱線。翌日から特急を2000系電車で代替して自由席特急として運転<ref>{{Cite web|和書|url=https://response.jp/article/2022/05/30/358158.html |title=南海の特急車両が車庫で脱線…赤信号を無視、ポイントを損傷 5月27日発生 |date=2022-05-30 |access-date=2022-05-31 |website=レスポンス |publisher=[[イード (企業)|イード]]}}</ref>。31日から一部の特急「こうや」「りんかん」を特急車両で運転再開<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/traffic/info/koya_rinkan_2022.html |title=特急こうや・りんかんの運休と両数変更について |publisher=南海電気鉄道 |date=2022-05-30 |access-date=2022-05-31}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** 3月1日 minapitaポイントマイレージで利用登録済のPiTaPaまたはICOCAで乗車した際にminapitaポイントを進呈する「ICカード登録型minapitaポイント還元サービス」を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/news/230130.html |title=3月1日(水)から、 利用登録した PiTaPa や ICOCA で乗車した際に「minapita ポイント」がたまる新サービスを開始! |publisher=南海電気鉄道 |access-date=2023-4-20}}</ref>。 ** 3月31日 普通[[回数乗車券]](障がい者割引回数乗車券を除く)の発売をこの日限りで終了<ref name=":2">{{Cite press release |和書 |title=2023年3月31日(金)をもちまして回数乗車券の発売を終了します|publisher=南海電気鉄道|date=2023-02-07|url=https://www.nankai.co.jp/news/230207.html|access-date=2023-04-01}}</ref>。 ** 4月29日 前述の2022年5月に小原田検車区で脱線事故を起こした30000系電車の修復が終わり、この日から特急「こうや」の運行本数が約11か月ぶりに通常に復帰<ref>{{cite press release |和書 |url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/news/pdf/230406.pdf |title=〜 見頃を迎える新緑彩る高野山へ 〜 特急こうやは、4月29日(土・祝)から通常運転します |publisher=南海電気鉄道 |format=PDF |date=2023-04-06 |accessdate=2023-08-24 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2023/04/29/174000.html |title=南海30000系30001編成が営業運転に復帰 |date=2023-04-29 |publisher=交友社 |website=鉄道ファン・railf.jp |accessdate=2023-08-24}}</ref>。 {{-}} <!-- 各路線の詳細な歴史は路線記事に記述。駅の開業・改称・廃止は各路線または当該駅の記事で--> == 社章・コーポレートシンボル == [[File:Nankai Namba Haguruma1 DSCN3240 20120831.JPG|200px|thumb|難波駅北口にある「羽車マーク」のモニュメント]] [[File:南海土地境界標 01.jpg|200px|thumb|土地境界標]] 初代社章は'''羽車マーク'''と呼ばれ、前身の[[阪堺鉄道]]時代の意匠から車輪の向きを変えて継承したものである<ref name="NDLDC1266118">南海鉄道(編)[{{NDLDC|1266118/21}} 『開通五十年』](国立国会図書館デジタルコレクション)、1936年、12頁</ref>。[[車輪]]に[[羽根]]([[翼]])が生えたデザインは[[ヨーロッパ]]諸国の国営鉄道の紋章によく見られるものだが、南海がヨーロッパから車両を輸入した際この紋章の「車輪に羽根が生えれば速い」との意匠を気に入り、車輪の向きのみ変えて採用したとされる<ref>{{Cite book|和書 |author=南海電気鉄道車両部 |coauthors=井上広和 |year=1981 |title=南海 |series=カラーブックス 547 日本の私鉄 9 |publisher=保育社 |page=96}}</ref>。1947年6月1日、グレートリングから改称した[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の球団名も、この「羽根=鳥」にちなんだといわれる<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.ritomo.jp/rbc/rbc96h.htm |title=球団ニックネームAtoZ |work=綱島プロ野球研究所 |publisher=[[綱島理友]]事務所 |accessdate=2012-10-19}}</ref>。現在でも難波駅の北側入口上には、羽車をかたどったモニュメントが飾られている。 また、南海の各駅に広告が掲示されている「[[ハグルマ|羽車ソース]]」のマークも、南海の旧社章をモチーフとしたものである<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.k-haguruma.co.jp/company_3.html |title=ロゴマークの由来 |publisher=ハグルマ株式会社 |accessdate=2012-10-19}}</ref>。 現行社章(作者・信貴徳三)は会社新発足25周年を記念して[[1972年]](昭和47年)6月1日に制定されたものである<ref name=N90/>。'''はぐるま'''と称するその意匠は先代社章の要素を踏襲しており、両翼は南海線・高野線の二大幹線を表すとともに明日への創造・飛躍を、先代よりも記号化された車輪は諸事業における無限の可能性と徹底的追求を象徴している<ref name=N90/>。これらの意匠を囲む円は南海沿線を表現したもので、同時に制定された南海グループの統一社章では二重円となっている<ref name=N90/>。 関西国際空港の開港を翌年に控えた[[1993年]](平成5年)4月1日に、社章とは別に[[コーポレートアイデンティティ|CI]]導入による「''NANKAI''」を表したコーポレートシンボルを制定した(作者・レイ吉村){{R|kotsu19930323}}<ref name=PIC615>{{Cite journal|和書|author = 吉川文夫|title = 羽車マークをめぐって|date = 1995-12 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 615|page=127}}</ref>。2色のコーポレートカラー(未来を切り開く英知を表す「ファインレッド」、豊かな生活や文化を育む活力を表す「ブライトオレンジ」<ref name=PIC615/>)からなるコーポレートシンボルも翼の要素を引き継いでおり、総合生活企業として未来に向けて力強く羽ばたいていく姿勢を表現している{{R|kotsu19930323}}<ref>{{Cite web |author= |date= |url=http://www.nankai.co.jp/company/company/index.html |title=企業理念 |publisher=南海電気鉄道 |accessdate=2012-10-19}}</ref>。 [[阪堺電気軌道]]・[[和歌山バス]]などのグループ会社もこのコーポレートシンボルを追随して導入している{{Refnest|group="注釈"|阪堺電気軌道の場合、南海現行社章に近いデザインのものをシンボルマークと別に社章として継続使用している。}}。 <gallery widths="200"> Nankai Railway logomark.svg|初代社章 Nankai corporate mark old.svg|2代目社章(現行) Nankai logo 2.svg|コーポレートシンボル </gallery> == 本社事務所 == 南海なんば第1ビルとして[[2012年]]12月竣工。[[設計]]は[[大林組]]、[[施工]]は同社と[[南海辰村建設]]。地上12階、高さ約55m、延床面積16,838[[平方メートル]] <ref>{{Cite web|和書|url= https://saitoshika-west.com/blog-entry-1680.html|publisher=再都市化|title=南海なんば第1ビル 12.11|accessdate=2021-2-21}}</ref>。難波再開発地区の南端にあり、ビル低層部には[[大阪府立大学]]の生涯学習の拠点があり、[[ライブハウス]]・[[Zepp#施設一覧|Zepp Namba]]に中庭で接続する。内部は無柱なため、フレキシブルなオフィスが可能。また[[ルーバー]]や小[[庇]]による熱負荷の低減、[[緑のカーテン|壁面緑化]]の採用など、環境にも配慮した建物となっている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.obayashi.co.jp/works/detail/work_1678.html|publisher=大林組|title=南海なんば第1ビル|accessdate=2021-2-21}}</ref>。2016年に第36回[[大阪都市景観建築賞]]奨励賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://osaka-machinami.jp/collection/collection036.html#oma036-8|title=第36回 大阪まちなみ賞 受賞作品 -2016-(平成28年)第36回奨励賞|publisher=大阪都市景観建築賞運営委員会|accessdate=2021-02-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170504183938/http://osaka-machinami.jp/collection/collection036.html#oma036-8|archivedate=2017-05-04}}</ref>。 == 路線 == 以下の各路線を有し、[[南海本線]]とその支線群(本線群扱いである[[南海空港線|空港線]]を除く)を南海線と総称している。南海線の各支線は「高師浜支線」というように「…支線」と称していたが、天王寺支線が廃止された1993年から空港線が開業した1994年頃より単に「…線」と呼ばれることが多くなった。なお、[[国土交通省]]監修の『[[鉄道要覧]]』には「…線」と記載されている。路線の総延長は154.8 km。南海本線・空港線および[[南海高野線|高野線]]が主要路線であり、その路線群ごとにシンボルマークが制定されている。 === 現有路線 === [[file:Namba Station.JPG|thumb|200px|難波駅(なんばスカイオ竣工前)]] [[駅ナンバリング]]の路線記号はすべて[[File:Number prefix Nankai Railway line.png|26px|top|NK]] (NK) * [[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] 南海線(ラインカラーは{{Legend2|#0065af|青}}) ** [[南海本線]]: [[難波駅 (南海)|難波駅]] - [[和歌山市駅]] 64.2 km ** [[南海高師浜線|高師浜線]]: [[羽衣駅]] - [[高師浜駅]] 1.4 km (羽衣駅高架化工事のため2021年5月22日から列車運休・[[バス代行]]輸送中) ** [[南海多奈川線|多奈川線]]: [[みさき公園駅]] - [[多奈川駅]] 2.6 km ** [[南海加太線|加太線]]: [[紀ノ川駅]] - [[加太駅 (和歌山県)|加太駅]] 9.6 km ** [[南海和歌山港線|和歌山港線]]: 和歌山市駅 - [[和歌山港駅]] 2.8 km * [[ファイル:Nankai airport line symbol.svg|15px|■]] [[南海空港線|空港線]](ラインカラーは{{Legend2|#594bac|紫}}): [[泉佐野駅]] - [[関西空港駅]] 8.8 km * [[ファイル:Nankai koya line symbol.svg|15px|■]] 高野線(ラインカラーは{{Legend2|#009a41|緑}}) ** [[南海高野線|高野線]]: [[汐見橋駅]] - [[極楽橋駅]] 64.5 km(ただし列車運行上は難波駅発着である<ref group="注釈">難波駅 - 極楽橋駅間は63.8 kmで、このうち難波駅 - 岸里玉出駅間 3.9 kmは南海本線乗り入れ区間。</ref>) *** [[南海高野線|汐見橋線]](通称): 上記のうち、汐見橋駅 - [[岸里玉出駅]] 4.6 km ** [[南海鋼索線|鋼索線]]: 極楽橋駅 - [[高野山駅]] 0.8 km 他の関西の大手私鉄の路線は、[[京都市]]・[[大阪市]]・[[神戸市]]の[[京阪神]]3都市のうち2都市以上を結んでいるのに対し、南海はこのうち大阪市にしか路線を持たない<ref group="注釈">このため、他の関西の大手私鉄は、自社路線でこれらのうち複数の都市の地下鉄事業者の路線と乗り換え可能だが、南海は大阪市の[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]しか乗り換えできない。</ref>。 [[File:Nankai Electric Railway Linemap.svg|thumb|none|500px|路線図]] === 廃止・譲渡路線 === * 南海線 ** [[南海天王寺支線|天王寺支線]]:[[天下茶屋駅]] - [[天王寺駅]] 2.4 km ** 国社連絡線:和歌山市駅 - 国社分界点 1.0 km([[鉄道事業法]]施行時に[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)に施設ごと貸与し、同社の第1種鉄道事業区間となった) ** [[南海和歌山港線|和歌山港線]]:和歌山港駅 - [[水軒駅]] 2.6 km<!--及び和歌山市 - 和歌山港間の駅--> ** [[南海北島支線|北島支線]]:和歌山市駅 - 北島駅 - [[東松江駅 (和歌山県)|東松江駅]] 2.6 km * 高野線 ** [[南海高野線|紀ノ川口支線]]:妻信号所 - 紀ノ川口駅 0.6 km * [[阪和電気鉄道|山手線]]:(国有化され[[阪和線]]となる) ** [[天王寺駅|南海天王寺駅]] - [[和歌山駅|南海東和歌山駅]] 61.2 km ** [[鳳駅]] - [[東羽衣駅|山手羽衣駅]] 1.6 km * [[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]]: [[和歌山駅]] - [[貴志駅]] 14.3 km([[岡山電気軌道]]が出資する[[和歌山電鐵]]が継承) * [[南海大阪軌道線|大阪軌道線]] ** [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]:[[恵美須町駅|恵美須町]] - [[浜寺駅前停留場|浜寺駅前]] 14.1 km([[阪堺電気軌道]]が継承) ** [[阪堺電気軌道上町線|上町線]]:[[天王寺駅|天王寺駅前]] - [[住吉大社駅|住吉公園]] 4.6 km(阪堺電気軌道が継承) ** [[南海平野線|平野線]]:[[今池停留場|今池]] - [[平野停留場|平野]] 5.9 km ** [[南海大浜支線|大浜支線]]:[[宿院停留場|宿院]] - 大浜海岸 1.4 km * [[南海和歌山軌道線|和歌山軌道線]] ** 海南線:市駅前 - 海南駅前 13.4 km ** 新町線:公園前 - 国鉄和歌山駅 1.6 km ** 和歌浦支線:和歌浦口 - 新和歌浦 1.1 km === 計画路線 === ==== なにわ筋線 ==== {{Main|なにわ筋線}} * 新今宮駅 - (仮称)[[西本町駅]] - [[大阪駅]](地下ホーム)<ref name="kkr_naniwasuji">{{Cite web|url=http://www.kr-railway.co.jp/naniwa.html|title=なにわ筋線について|publisher=関西高速鉄道株式会社|accessdate=2023-04-10}}</ref><ref name="nk_naniwasuji">{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/sustainability/materiality/03future/naniwasuji|title=なにわ筋線の開業による新たな南北軸の形成|publisher=南海電気鉄道|accessdate=2023-05-19}}</ref> ** 新今宮駅と大阪駅以外の駅名は仮称{{Refnest|group="注釈"|name="kitaumeda"|大阪駅地下ホームは、供用開始以前(計画時)は「(仮称)北梅田駅」とされていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rpi.or.jp/library/library_BMF18_1.pdf|title=大阪圏における鉄道網整備基本計画|format=PDF|publisher=関西高速鉄道|date=2019-11|accessdate=2023-04-10}}</ref>。}}。 新大阪と難波を結んで関空アクセスの利便性を高める路線として1980年代から'''[[なにわ筋線]]'''の計画があった。長らく構想自体が停滞していたが、2017年3月、大阪府と大阪市、JR西日本、南海電気鉄道、[[阪急電鉄]]の5者が新たな事業計画で大筋合意したと報じられた<ref>{{Cite news |title=阪急も「なにわ筋線」乗り入れ…関空へ時間短縮 |newspaper=[[YOMIURI ONLINE]] |publisher=[[読売新聞社]] |date=2017-03-16 |accessdate=2017-03-16 |url=http://www.yomiuri.co.jp/economy/20170316-OYT1T50111.html}}</ref>。 同年5月には、[[JR難波駅]] - (仮称)西本町駅 - (仮称)中之島駅 - (仮称)北梅田駅(現・大阪駅)<ref group="注釈" name="kitaumeda" />間および、(南海)新今宮駅 - (仮称)南海新難波駅 - (仮称)西本町駅 - (仮称)中之島駅 - (仮称)北梅田駅(現・大阪駅)間を[[第三セクター]]が整備(建設)し、南海新難波駅、西本町駅、中之島駅および北梅田駅の4駅を新設すること、JR難波 - 北梅田間をJR西日本、新今宮 - 北梅田間を南海が営業主体となって営業(西本町 - 北梅田間はJR西日本・南海が共同営業)すること、[[2031年]]春の開業を目標としていることが5者から発表された<ref name="sankei20170523">[https://www.sankei.com/article/20170523-S42CJCM2RFLWJJNY6SBLMPYTDA/ 「なにわ筋線」平成43年春開業、「北梅田」「中之島」「西本町」「南海新難波」計4駅新設 関空アクセスは「20分」短縮] 産経WEST(2017年5月23日配信)2021年8月21日閲覧</ref><ref name="nankai20170523">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/170523_1.pdf なにわ筋線の整備に向けて]}} - 南海電気鉄道他(2017年5月23日)2021年8月21日閲覧</ref>。大半が地下線で、南海は新今宮駅から南海本線に乗り入れる<ref name="sankei20170523" />。阪急も大阪駅 - [[十三駅]]間を結ぶ[[なにわ筋連絡線]]の新設を調査・検討するとしており<ref name="nankai20170523" />、なにわ筋線と直通運転する協議を進める<ref name="sankei20170523" />。 2019年7月には[[鉄道事業法]]に基づく鉄道事業許可、2020年8月には[[都市計画法]]に基づく鉄道路線としての事業認可をそれぞれ受け、2021年10月に本格着工しており、[[関西高速鉄道]]が事業主体となり整備が進められている<ref name="kkr_naniwasuji"/><ref name="nk_naniwasuji"/>。 なにわ筋線計画が具体化したことにより、悲願であった「[[梅田]]進出」が達成される。過去3度、梅田までの延伸を申請していたが、いずれも大阪市に却下されている。また競合するJR西日本が難色を示したことで断念していた<ref name="sankei20170606">[https://www.sankei.com/article/20170606-LJEKLRYWZFJ23G2ELTOI7PP5UE/2/ 「なにわ筋線」で交錯する野望と悲願 阪急、JR西、南海に京阪も〝争奪戦〟] 産経WEST(2017年6月6日配信)2021年8月21日閲覧</ref>。同時に阪神と同じく難波と梅田の両方に拠点駅を置く2社目の関西私鉄となる<ref group="注釈">なお、阪神とは梅田地区と難波地区に位置する駅名が異なっている。難波側は阪神では大阪難波駅、南海では難波駅と仮称南海新難波駅、梅田側は阪神では大阪梅田駅、南海では大阪駅となる。</ref>。 === 軌間 === 全線がJRの[[在来線]]と同じ[[軌間]] [[3フィート6インチ軌間|1,067 mm]]の[[狭軌]]であり、関西の大手私鉄では唯一[[標準軌]](軌間1,435 mm)の路線を有していない。なお、標準軌の路線を持つ近畿日本鉄道に統合されていた時期を除くと、過去には[[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]・[[阪堺電気軌道上町線|上町線]](1980年に[[阪堺電気軌道]]へ譲渡)、[[南海平野線|平野線]]・[[南海大浜支線|大浜支線]](廃止)の各軌道線が標準軌であった。 軌間がJR在来線と同一であることから、[[総合車両製作所]]横浜事業所(旧・[[東急車輛製造]])で製造した新製車両をJR線を走行して搬送([[車両輸送|甲種輸送]])<ref group="注釈">沿線の堺に所在し長年車両を発注していた[[帝國車輛工業]]が[[東急車輛製造]]に吸収合併され、かつ同社大阪製作所となった旧帝國車輛工業での車両製造が打ち切られたため、以後は東急車輛製造横浜製作所および後身の総合車両製作所横浜事業所で製造された車両を輸送している。また、6000系製造当時はライセンスの関係で東急車輛製造以外にはオールステンレス車を製造できなかったことも影響している。</ref>することや、[[南海空港線|空港線]]の[[りんくうタウン駅]] - [[関西空港駅]]間でJR西日本の[[関西空港線]]と、また建設中の[[なにわ筋線]]でJR西日本と同一の線路を共用する、といったことが容易に可能である。その一方、狭軌であるがゆえに、標準軌である大阪市営地下鉄堺筋線(現・[[Osaka Metro堺筋線]])への[[直通運転|相互乗り入れ]]計画が頓挫した([[#地下鉄乗り入れ計画|後述]])。 == 列車種別 == 南海電鉄における[[列車種別]]は以下の通りである。 * [[南海本線]] - [[特別急行列車|特急]](ラピート・サザン)・[[急行列車|急行]]・-急行-(通称:白線急行)・[[南海本線|空港急行]]・[[列車種別#区間種別|区間急行]](区急)・[[準急列車|準急行]](準急)・[[普通列車|普通車]](普通) * [[南海空港線|空港線]] - 特急(ラピート)・空港急行・普通車 * [[南海和歌山港線|和歌山港線]] - 特急(サザン)・急行・普通車 * [[南海高野線|高野線]] - 特急(こうや・りんかん・泉北ライナー・天空<ref group="注釈">運行開始時点では臨時列車の扱いであった。</ref>)・[[快速急行]](快急)・急行・区間急行(区急)・準急行(準急)・[[各駅停車]](各停) 上記以外の路線では普通車のみの設定である。-急行-は急行の停車駅の他に、[[春木駅]]に追加で停車している。南海本線では空港急行と-急行-および区間急行は行先が違うだけで難波駅 - 泉佐野駅間の停車駅は同じである<ref group="注釈">すなわち関西空港駅発着の-急行-を空港急行と呼んでいることになる。</ref>。 [[方向幕|方向幕・種別幕]]などの案内表示では、快速急行は「快急」、区間急行は「区急」、準急行は「準急」、普通車は「普通」、各駅停車は「各停」と略して表示される。また一部の案内では空港急行も「空急」と略される。 南海本線系統各線が「普通車」、高野線が「各駅停車」となっているのは、両線の列車が[[複々線]]の線路を並行して走る南海本線[[難波駅 (南海)|難波駅]] - [[天下茶屋駅]]間において、高野線の列車が走る東側2線の線路にしか[[今宮戎駅]]・[[萩ノ茶屋駅]]のホームがなく、西側2線を走る南海本線の列車はこの2駅を全て通過するためである。[[1970年]]以前は南海本線からの各駅停車(東線ローカル)や高野線からの普通車も存在した。 詳しくは各列車種別および路線の記事を参照。 [[ファイル:New Nankai 2014-2.png|thumb|none|500px|南海線 停車駅]] [[ファイル:New Koya2.png|thumb|none|500px|高野線 停車駅]] === 列車種別の表示 === 車両先頭の[[方向幕|方向幕・種別幕]]の表示のほか、列車識別灯([[通過標識灯]])でも大方判別できる。 * 両側が点灯 - 特急、快速急行、急行、空港急行、区間急行、準急行、[[回送]]、[[試運転]]、団体専用 * 片側(助士席側)のみ点灯 - 普通車・各駅停車 列車種別の案内色は快速急行以外[[京阪電気鉄道|京阪]]と同じだが、区間急行と準急行の停車駅の方式が京阪とは逆転している。区間急行が南海の準急行の停車駅方式に準じ、準急が南海の区間急行の停車駅方式に準じている。英語表記も京阪の準急と南海の区間急行が「SUB EXPRESS」、京阪の区間急行と南海の準急行が「SEMI EXPRESS」というように逆転している。 === 行先標 === 電車の行先表示に方向幕が普及した[[高度経済成長]]以後も、車両先頭に掲出して列車種別や運行区間を示す[[行先標|方向板]]を、関西の大手私鉄では後世まで好んで使用し、駅の売店でもミニサボが発売されている程であった。これらは列車の種類によって丸い板と四角い板を使い分けていたが、南海は本線が丸板、支線が支線内折返列車も本線からの直通列車も角板で表示するのが基本であった。大阪軌道線は丸板と角板を使い分けていたが、貴志川線や泉北高速鉄道は支線という定義により角板である。普通車に使用していた方向板は、他の関西大手私鉄4社は角板だったが、南海のみは前述の理由により、丸板も使用していた。 新造時からの[[方向幕]]の設置は、特定の種別に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、[[1969年]]に登場した[[南海7000系電車#7100系|7100系]]と[[南海22000系電車|22000系]]で、高野線平坦区間用も翌年[[南海6100系電車|6100系]]が登場している。これは戦後に正面方向幕を採用した例としては、関西の大手私鉄で初である。比較的製造年度の若い車両も、同じ位置に同じ方向幕が比較的容易に後付けできたため(関西の大手私鉄では、阪急以外の4社がこのケースである)、設置が行われていった。 <gallery> Nankai 21001 ZoomCar 1989.jpg|本線用急行板。高野線急行は駅名を記さないことや、この21000系など[[国鉄80系電車#前面形状 (湘南スタイル)|湘南スタイル]]の車両は中央に掲示していたことが特徴だった。 6000系.jpg|本線用区間急行板。この6000系は左上に方向幕を新設しているが、まだ使用開始していない。 Semboku586.JPG|南海と泉北の直通用に、両社が共通で使っていた区間急行用。泉北は支線扱いのため角板である。準急も同じデザイン。車両は泉北100系。 Nankai7000green.jpg|本線用普通板。普通でも関西私鉄で丸板を使っていたのは南海だけ。車両は7000系。 南海1201形.JPG|支線用普通板。他の関西大手と比べ、幅が狭かった。車両は1201形。 </gallery> == 優等列車 == 南海電鉄では優等列車として[[特別急行列車|特急列車]]を運行しており、系統に応じて下記の愛称がある。 # '''「[[ラピート]]」''' [[南海本線]]・[[南海空港線|空港線]]を走る[[関西国際空港]]への連絡列車。 # '''「[[サザン (列車)|サザン]]」''' 南海本線・[[南海和歌山港線|和歌山港線]]での速達列車。[[南海フェリー]]徳島航路との接続列車でもある。 # '''「[[こうや]]」''' [[南海高野線|高野線]]を走る[[高野山]]への観光列車。 # '''「[[こうや|りんかん]]」''' 高野線を走る近郊特急。 # '''「[[泉北ライナー]]」''' 高野線と泉北高速鉄道線とを結ぶ直通特急。[[準大手私鉄]]5社での有料特急運転は初の事例となった。 # '''「[[南海高野線#観光列車「天空」|天空]]」''' 高野線橋本以南を走る観光列車。 *「ラピート」「こうや」「りんかん」「泉北ライナー」は全車座席指定、「サザン」「天空」は一部座席指定である。 * 2005年以降、車掌の携帯端末で特急券(座席指定券)の情報を確認するため、車内改札は原則として行われない。 <gallery> Nankai 50000 series 50002F.jpg|南海本線・空港線を走行する「[[ラピート]]」 Nankai-Series10000_7100.jpg|南海本線を走行する「[[サザン (列車)|サザン]]」 Nankai 30000 series 011.JPG|高野線を走行する「[[こうや]]」 ファイル:Semboku12021 SembokuLiner.jpg|高野線から泉北高速鉄道線を直通運転する「[[泉北ライナー]]」 </gallery> === 料金 === 大人料金(小児は特記のない限り半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref name="nankai20190905" />。 {| class="wikitable" style="font-size:88%" |- !colspan="2"|料金!!金額(円)!!備考 |- |rowspan="3"|特別急行料金 |泉佐野 - 関西空港間 |style="text-align:right"|100 |「ラピート」レギュラーシートにのみ適用 |- |上記以外で<br>乗車キロ45 kmまで |style="text-align:right"|520 |rowspan="2"|「ラピート」「こうや」「りんかん」「泉北ライナー」に適用 |- |46 km以上 |style="text-align:right"|790 |- |colspan="2"|座席指定料金 |style="text-align:right"|520 |「サザン」「天空」の座席指定車に適用(自由席車は料金不要) |- |colspan="2"|特別車両料金 |style="text-align:right"|210 |「ラピート」のスーパーシートに適用し、特別急行券と合わせて1枚で発売。小児も同額 |- |} なお、[[乗り継ぎ料金制度]]はなく、座席指定特急同士を乗り継ぐ場合(例:天下茶屋駅、新今宮駅または難波駅で「りんかん」から「ラピート」に乗り継ぎ)は、各列車の料金がそれぞれ必要となる。 === 特急券(座席指定券)の発券方法 === 前述の通り、南海の特急は「サザン」の自由席車を除き、すべて全車座席指定なので、乗車には乗車券(PiTaPa/ICOCAそれらと相互利用できる交通系ICカードを含む)のほかに[[特別急行券|特急券]](座席指定券)が必要になる。 「ラピート」「こうや」「りんかん」の特急券、「サザン」の座席指定券は以下の場所で購入可能<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/guide.html#02 きっぷに関するご案内#特急券の発売場所] - 南海電気鉄道公式ホームページ</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/traffic/express/rapit.html?rapid=2 |title=特急ラピート|publisher=南海電気鉄道 |access-date=2023-4-20}}</ref>。原則として1か月前の10時から発売している。 * 主要駅の窓口 ** 駅窓口での発券方法はJR線の[[マルス (システム)|マルス]]と違い、係員が空席情報を見て発券時に一番良いと思われる席を指定する方式である(空いていれば購入者自身で指定できる)。難波駅ではグループ会社の南海国際旅行が特急券・座席指定券の発売を南海より委託されている。 * [[南海国際旅行]]や日本国内の主要旅行代理店(「泉北ライナー」を除く) * 特急停車駅の一部自動券売機 ** 現金、ICカード残高が利用できる。また、一部の券売機ではクレジットカードも利用できる。 * [[NATTS鉄道倶楽部|南海・特急チケットレスサービス]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.club-nankai.jp/traffic/ticketless/index.html |title=南海・特急チケットレスサービス |publisher=南海電気鉄道 |access-date=2023-4-20}}</ref> ** パソコンやスマートフォンからインターネットを利用し特急券、座席指定券を購入できるサービス。 ** 会員登録を行っていない場合はクレジットカードのみが利用できる。 ** 会員登録を行っている場合は購入金額に応じて南海特急ポイントが付与される。クレジットカード、特急積立金、南海特急ポイント利用による支払いが可能。また南海特急ポイントはminapitaポイントと相互に交換可能。 * ホーム上の特急券自動券売機 ** 列車発車の20分前より発売開始。その時点で満席の場合は発売されずその列車には乗車できない。 ** 現金、ICカード残高が利用できる。クレジットカードは使えない。 「天空」の座席指定券は上記各列車とは異なり、乗車希望日の10日前から前日まで「天空予約センター」で電話のみの予約受付となっている。 === 特急列車の号車・座席番号 === 特急列車の号車番号は、関西空港・和歌山港・高野山・和泉中央方の先頭が1号車で統一されている。 座席番号は数字のみで付番されている。関西空港・和歌山港・高野山・和泉中央方面を向いて左側の窓側を1番として、窓側を奇数、通路側を偶数とする(2013年3月ダイヤ変更までの近鉄特急と同様のルールだが、近鉄とは異なり一部の座席を欠番として、[[車椅子スペース]]を設置している)。 == 車両 == {{See|南海電気鉄道の車両形式}} == 車両基地 == 南海線検車区 * [[住ノ江検車区]] * [[羽倉崎検車区|羽倉崎検車支区]] * 和歌山出張場 高野線検車区 * [[小原田検車区]] * [[南海電鉄千代田工場#千代田検車支区|千代田検車支区]] * 高野山検車区 工場 * [[南海電鉄千代田工場|千代田工場]] == 乗務員区所 == 南海線列車区 * 堺支区(南海本線・空港線・高師浜線)'''特急担当区''' * 泉佐野支区(南海本線・空港線・多奈川線) * 和歌山支区(南海本線・空港線・加太線) 高野線列車区 * 難波支区(高野線 難波駅 - 橋本駅・極楽橋駅、岸里玉出駅 - 汐見橋駅、難波駅 - [[和泉中央駅]])'''特急担当区''' * 中百舌鳥支区(高野線 難波駅 - 橋本駅、難波駅 - 和泉中央駅) * 橋本支区(高野線 難波駅 - 橋本駅、橋本駅 - 極楽橋駅、難波駅 - 和泉中央駅) == 駅管区 == * 出典:{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/company/handbook/pdf2021/04.pdf ハンドブック南海2021]}} === 駅長所在駅と管轄駅 === ==== 南海線 ==== * [[難波駅 (南海)|難波駅]](単駅管理) * [[新今宮駅]]([[今宮戎駅]] - [[岸里玉出駅]]) * [[堺駅]]([[粉浜駅]] - [[石津川駅]]) * [[泉大津駅]]([[諏訪ノ森駅]] - [[忠岡駅]]、[[南海高師浜線|高師浜線]]各駅) * [[岸和田駅]]([[春木駅]] - [[二色浜駅]]) * [[泉佐野駅]]([[鶴原駅]] - [[樽井駅]]、[[りんくうタウン駅]]) * [[和歌山市駅]]([[尾崎駅]] - 和歌山市駅、[[南海多奈川線|多奈川線]]各駅、[[和歌山港駅]]) * [[関西空港駅]](単駅管理) * [[加太駅 (和歌山県)|加太駅]]([[南海加太線|加太線]]各駅) ==== 高野線 ==== * [[住吉東駅]]([[汐見橋駅]] - [[西天下茶屋駅]]、[[帝塚山駅]] - [[我孫子前駅]]) * [[堺東駅]]([[浅香山駅]] - [[白鷺駅]]) * [[北野田駅]]([[初芝駅]] - [[金剛駅]]) * [[河内長野駅]]([[滝谷駅 (大阪府)|滝谷駅]] - [[天見駅]]) * [[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]]([[紀見峠駅]] - [[高野下駅]]) * [[高野山駅]]([[下古沢駅]] - 高野山駅) == 運賃 == 大人普通旅客[[運賃]](小児半額・10円未満切り上げ)。2023年10月1日改定<ref name="nankai202310">{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/traffic/kaitei_2023.html |title=運賃改定の実施について |access-date=2023-10-01 |publisher=南海電気鉄道}}</ref><ref>{{Cite press release|title=鉄道線旅客運賃の改定申請が認可されました|publisher=南海電気鉄道|date=2023-02-03|url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/news/pdf/230203.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-01}}</ref>。 ;鉄道線 :{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !colspan="2"|キロ程!!運賃(円) !キロ程!!運賃(円) |- |colspan="2"|1 - 3||180 |55 - 59||880 |- |colspan="2"|4 - 7||240 |60 - 64||930 |- |colspan="2"|8 - 11||290 |65 - 69||970 |- |colspan="2" style="border-bottom:none"|12 - 15||370 |rowspan="2"|70 - 74||rowspan="2"|1,010 |-style="font-size:95%" |style="border-top:none"| ||難波駅 - 中百舌鳥駅間内||350 |- |colspan="2"|16 - 19||420 |75 - 80||1,060 |- |colspan="2"|20 - 23||490 |81 - 86||1,090 |- |colspan="2"|24 - 27||540 |87 - 92||1,140 |- |colspan="2"|28 - 31||610 |93 - 98||1,190 |- |colspan="2"|32 - 35||650 |99 - 104||1,230 |- |colspan="2"|36 - 39||690 |105 - 110||1,280 |- |colspan="2"|40 - 44||740 |111 - 116||1,320 |- |colspan="2"|45 - 49||790 |117 - 122||1,360 |- |colspan="2"|50 - 54||850 |123 - 128||1,400 |} :*南海線と高野線とにまたがって乗車する場合の営業キロ程は、難波駅 - 天下茶屋駅間各駅と高野線各駅相互の場合は岸ノ里分岐点接続で、その他の各駅相互の場合は岸里玉出駅接続で営業キロ程を合計する。 :**天下茶屋駅 - 岸ノ里分岐点間 0.7 km :*難波駅 - 中百舌鳥駅間内の12 - 15 km区間(370円区間)は普通運賃に限り大人350円・小児180円の特定運賃。 :*空港線内または空港線と他線をまたがって乗車する場合は、上表で求めた全乗車区間の金額に、空港線内の乗車区間に応じて以下の金額を加算する。 :**泉佐野駅 - [[りんくうタウン駅]]間 130円 :**泉佐野駅 - [[関西空港駅]]間 230円 ::りんくうタウン駅 - 関西空港駅間 (6.9 km) だけを乗車する場合は、大人370円・小児180円の特定運賃(この区間を共用するJR西日本も同額)。 ;鋼索線 :500円 郊外型に近い路線体形で、京阪神間を走る大手私鉄と比べ利用客が少なめのため、中距離以上の運賃は近鉄などと同じように高めに設定されている。 かつて南海の路線であった貴志川線とそれ以外の鉄道線は運賃体系が別々で、乗車キロの通算制度がなかったため、[[貴志駅]] - (南海貴志川線)→[[和歌山駅]] - (JR紀勢線) - [[和歌山市駅]] - (南海線) - なんば、のように利用するとかなり高くなってしまうという問題があった(この区間の例では、和歌山電鐵移管直前の2006年3月時点で貴志川線(14.3 km)360円+JR紀勢線(3.3 km)180円+南海線(64.2 km)890円=1,430円。仮に運賃体系が同じで通算制度があれば当時の運賃額で南海(78.5 km)970円+JR紀勢線(3.3 km)180円=1,150円となる)。 また、相互直通運転している[[泉北高速鉄道線]]の各駅と南海の各駅([[中百舌鳥駅]]除く)間を中百舌鳥駅を経由して利用する場合の普通運賃はそれぞれの普通運賃を合算したものから100円(大人)を割り引いた額である。泉北高速鉄道線の運賃体系は南海と別であるが、割引額が大きいことから、乗車キロを通算して南海の運賃体系に当てはめた場合とほぼ変わらない。ただし、通勤定期運賃は南海に比べ割高である。乗継割引額引き上げ前は、泉北高速線の通学定期運賃も割高であり、通学1か月は中百舌鳥 - 和泉中央間 (14.3 km) が泉北7,910円に対し、同じ距離に相当する南海(難波 - 白鷺間14.4 km)の通学1か月は5,290円と約1.5倍の開きがあったが(普通運賃は泉北が320円、南海が330円)、2015年3月1日に南海・泉北高速線間の乗継割引額の20円から100円への引き上げと、泉北高速線内の通学定期旅客運賃の値下げが行われ、中百舌鳥駅 - 和泉中央駅間の通学1か月は5,940円となった<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/150129_3.pdf 3月1日(日)に「南海・泉北連絡普通旅客運賃」および「泉北線内通学定期旅客運賃」の値下げを実施します]}} - 南海電気鉄道、2015年1月29日</ref>。 さらに分岐駅通過の特例として、南海本線と高野線との分岐駅である岸里玉出駅と、南海本線と加太線の分岐駅である[[紀ノ川駅]]には、いずれも優等列車が停車しないため(ただし後者は普通のほかに区間急行も停車する)、天下茶屋駅 - 岸里玉出駅間([[天下茶屋駅#南海電気鉄道]]の項も参照)と紀ノ川駅 - 和歌山市駅間([[南海加太線#運行形態]]の項も参照)ではそれぞれ、重複(折り返し)乗車が認められている。 2023年10月1日の運賃改定で、高野線の一部区間において特定運賃を設定した<ref name="nankai202310" />。 {{Main2|特急料金(座席指定料金)については、「[[#料金|料金]]」の節を}} === 回数乗車券 === [[回数乗車券]]は、利用者数の減少およびICカードの利用の定着に伴い、2023年3月31日をもって身体障がい者・知的障がい者用を除き販売を終了した<ref name=":2" />。 * 普通回数乗車券:11枚で10回分の運賃。 * 時差回数乗車券:平日の10 - 16時および土・休日に使用可能。12枚で10回分の運賃。 * 土・休日割引回数乗車券:土・休日に使用可能。14枚で10回分の運賃。 * 通学用回数乗車券 === 乗車カード・企画乗車券・特急券 === 以下の各項目を参照。 * 交通系ICカード ** [[南海グループカード minapita]] - 南海発行の[[PiTaPa]]カード ** [[ICOCA]] - IC乗車カード。2017年3月25日発売開始。 * クレジットカードの[[非接触型決済|タッチ決済]](一部の駅のみ) ** [[好きっぷ|スマート好きっぷ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/contents/contactless/smartskp/ |title=スマート好きっぷ |access-date=2023-4-18 |publisher=南海電気鉄道}}</ref> * [[定期特別急行券・定期座席指定券]] * 企画乗車券<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/traffic/otoku |title=おトクなきっぷ | publisher=南海電気鉄道 |access-date=2023-4-18}}</ref>、南海デジタルきっぷ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/traffic/digital |title=南海デジタルきっぷ | publisher=南海電気鉄道 |access-date=2023-4-18}}</ref> ** [[高野山フリーサービック|高野山・世界遺産きっぷ、高野山・世界遺産デジタルきっぷ]] ** [[りんくうプレミアム・アウトレットきっぷ|りんくうプレミアム・アウトレットきっぷ、りんくうプレミアム・アウトレットデジタルきっぷ]][[高野山フリーサービック|(旧:関空・りんくうプレミアムきっぷ)]] ** [[ラピート#関空トク割ラピートきっぷ|関空トク割 ラピートきっぷ、ラピートデジタルきっぷ]] ** [[和歌山万葉きっぷ|和歌山観光きっぷ、和歌山観光デジタルきっぷ]] ** 加太観光きっぷ ** 金剛山ハイキングきっぷ、金剛山ハイキングデジタルきっぷ ** [[好きっぷ|好きっぷ、とくしま好きっぷ]] ** 大阪周遊パス 大阪エリア版 ** 京成×南海 特得チケット * [[高野山1dayチケット]] - 高野山へのアクセスの乗車券のため自社では発売せず。 * [[関西1デイパス]] ** 2009年よりJR西日本との共同企画商品として発売。JR西日本の[[アーバンネットワーク]]エリアの[[一日乗車券]]に、南海電気鉄道・[[京阪電気鉄道]]、および[[近畿日本鉄道]](2012年度より)のいずれか一社の一日乗車券への引換クーポンが付属したものである。これまでに「関西1デイ納涼パス/夏の関西1デイパス」「秋の関西1デイパス」「冬の関西1デイパス」「春の関西1デイパス」が発売されている。 過去に発売されていたもの。「→」で後継の乗車券を示す。 * 乗車カード ** マイチケット - 自動券売機で切符に引き換えができるカード。 ** [[南海コンパスカード]] - 南海発行の[[スルッとKANSAI]]対応カード。カードに印字される符号は'''NK'''である。 * 特急券 ** [[DAY5特急回数券]] - 2019年12月をもって発売終了。 ** [[ラピート#関空トク割ラピートきっぷ|ラピート得10きっぷ]] - 関空トク割 ラピートきっぷの発売に伴い、2012年12月8日をもって販売終了<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/121109.pdf |title=関西空港へは南海電車がお得!ラピート特急券と片道乗車券がセットで割引の「関空トク割 ラピートきっぷ」を発売します! |access-date=2023-4-18 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>。 ** ラピート得ダネ往復券 - 関空トク割 ラピートきっぷの発売に伴い、2012年12月8日をもって販売終了<ref name=":0" />。 * [[3・3・SUNフリーきっぷ]] - 2006年8月発売終了。[[近畿日本鉄道]]・[[名古屋鉄道]]との3社間の鉄軌道路線が利用できた乗車券。 ** [[3・3・SUNフリーきっぷ|ワイド3・3・SUNフリーきっぷ]] - 2006年3月発売終了。南海・近鉄・名鉄の3社間に加え各社の関連会社・沿線付近の交通機関も利用できた乗車券。 * [[サービック]] - 2009年4月からこの名称は使用されていない。 ** [[高野山フリーサービック]] →高野山・世界遺産きっぷ ** [[高野山・立里荒神サービック]] →高野山・立里荒神きっぷ ** [[徳島とくとくサービック]] →[[好きっぷ2000|とくしま好きっぷ]] ** [[徳島とくとくサービック|浪花なみなみサービック]] →[[好きっぷ2000|好きっぷ]] ** [[みさき公園1日遊園の旅サービック]] →みさき公園わくわくきっぷ ** [[みさき公園1日遊園の旅サービック|みさき公園ぷ〜るらんどRioサービック]] →みさき公園ウキウキきっぷ(夏季に発売) ** [[みさき公園1日遊園の旅サービック|みさき公園わくわくきっぷ]] ** [[みさき公園1日遊園の旅サービック|みさき公園ウキウキきっぷ]](夏季に発売) ** [[潮干狩りサービック]] * 企画乗車券 ** [[和歌山万葉きっぷ]] →和歌山おでかけきっぷ→和歌山観光きっぷ ** [[京都 宇治・洛南1dayチケット]] ** Peach・なんばきっぷ ** [[奈良・斑鳩1dayチケット]] - 2020年度版をもって発売終了、他社は発売継続。 ** [[高野山・立里荒神サービック|高野山・立里荒神きっぷ]] - 2020年度版をもって発売終了 ** 犬鳴山温泉&ハイキングきっぷ - 2020年度版をもって発売終了 ** 大型児童館「ビッグ・バン」きっぷ - 2020年度版をもって発売終了 ** 堺・ハーベストの丘きっぷ - 2020年度版をもって発売終了 ** 大阪周遊パス 南海関空版 - 2020年度版をもって発売休止 ** OSAKA海遊きっぷ - 発売休止中 ** 関空ちかトクきっぷ - 2023年9月30日で発売終了<ref name="nankai20230810">[https://www.nankai.co.jp/traffic/info/kaitei_20230810.html 運賃改定に伴う一部企画乗車券の発売価格見直しと発売終了について] - 南海電気鉄道(2023年8月10日)、2023年8月24日閲覧。</ref> ** 京都アクセスきっぷ - 2023年9月30日で発売終了<ref name="nankai20230810" /> ** 神戸アクセスきっぷ - 2023年9月30日で発売終了<ref name="nankai20230810" /> ** 奈良アクセスきっぷ - 2023年9月30日で発売終了<ref name="nankai20230810" /> ** 関空アクセスきっぷ - 関西国際空港へのアクセスの乗車券のため自社では発売せず。2023年9月30日で発売終了<ref name="nankai20230810" /> === クレジットカードのタッチ決済とQRコードによる入出場 === 2021年4月より、16駅(当初)に専用改札機を設置し、[[Visaのタッチ決済]]または[[QRコード]]による入出場の実証実験を開始した<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/210325_2.pdf |title=南海電鉄16駅の改札機で、実証実験を開始します 4月3日(土)から「Visa のタッチ決済」利用開始 4月15日(木)から「南海デジタルチケット第1弾(時差通勤応援きっぷ)」発売 |access-date=2023-4-18 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>。約1年8か月の実験ののち、2022年12月12日以降も同サービスを継続している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/221206.pdf |title=南海グループは2022年12月12日(月)以降も継続し、インバウンド旅客を含む 多くのお客さまに便利にご利用いただける環境を整備していきます |access-date=2023-4-18 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>。 ==== クレジットカードのタッチ決済 ==== 入出場時に[[非接触型決済|タッチ決済]]対応の[[クレジットカード]]を専用改札機にかざすことで乗車区間の運賃を決済するもので、2021年4月3日より[[Visa]]で実証実験を開始した。駅の改札でのVisaのタッチ決済による利用区間の運賃支払いは日本国内初である。また公共交通機関全体でも早い段階での導入となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://tetsudo-ch.com/12845962.html/2 |title=ページ 2 {{!}} わずか1年で取引件数が38.1倍に――「Visaのタッチ決済」が日本の公共交通機関で急拡大 実は大手鉄道事業者も興味津々?【コラム】|date=2022-12-04 |work=鉄道コラム |website=鉄道チャンネル |access-date=2023-4-18}}</ref><ref group="注釈">日本の公共交通機関で最初に導入したのは[[茨城交通]]の高速バス「勝田・東海―東京線」で、2020年7月29日導入である。また鉄道では、[[WILLER TRAINS|京都丹後鉄道]]の先例がある。</ref>。その後、グループ会社の[[南海りんかんバス]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/210922.pdf |title=南海りんかんバス、Visa のタッチ決済の実証実験を実施 10月1日から高野山内路線バス等でも Visa のタッチ決済が利用可能に! ~加えて、「KiiPass Koyasan」にて同日からデジタルチケットを販売~ |date=2022-09-22 |access-date=2023-4-18 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>、[[南海フェリー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/220310.pdf |title=【日本初】 鉄道×船舶 Visa のタッチ決済を用いた乗り継ぎ環境の提供 3月25日から南海フェリーが Visa のタッチ決済の実証実験を開始! ~同日より、事前購入なしで「スマート好きっぷ」割引の適用開始、非接触でスムーズな乗車・乗船を実現~ |date=2022-03-10 |access-date=2023-4-18 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>、[[泉北高速鉄道]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/220415.pdf |title=「Visa のタッチ決済」利用可能駅を大幅に拡大! 4月25日(月)から泉北高速鉄道の全駅で利用可能となるほか、 5月より順次、南海電鉄の5駅に専用改札機を新設し、合計28駅(※現在18駅)に|date=2022-04-15 |access-date=2023-4-18 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>での導入や、[[ジェーシービー|JCB]]、[[アメリカン・エキスプレス|American Express]]、[[ダイナースクラブ|Diners Club]]、[[ディスカバーカード|Discover]]のタッチ決済の導入<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/news/pdf/230417.pdf |title=南海グループ4社で JCB/American Express/Diners Club/Discover の タッチ決済が交通利用できるようになります! ~鉄道改札機利用は関西初、フェリー利用は国内初!~ |date=2023-04-18 |access-date=2023-4-18}}</ref>など、規模を拡大している。 ==== QRコード ==== 事前に「南海デジタルきっぷ」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/220602_1.pdf |title=「りんくうプレミアム・アウトレットデジタルきっぷ」 を2022年6月6日(月)から発売を開始します! |access-date=2023-4-18 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>を購入し、スマートフォン上に表示されたQRコードを専用改札機にかざすことで改札通過を可能とするもので、2021年4月15日より実証実験を開始した。その後、取り扱うきっぷの種類の増加など、規模を拡大している。 == 旅客案内 == === 車内放送 === 南海では元来、[[標準語]]ではなく[[大阪弁]]([[泉州弁]]や[[河内弁]])、もしくは[[紀州弁|和歌山弁]]の[[アクセント]]や発音による[[車内放送]]が行われていた。ところが[[関西国際空港]]の開港を控えた[[1990年]]代初頭から、これらの放送が[[空港連絡鉄道]]として相応しくないとの批判が増え始めたため、[[アナウンサー]]による[[イントネーション]]講習会の開催や手本となる[[カセットテープ]]の配布、社内の「案内放送用語例」の改訂などを行い、現在のスタイルの原型を作り上げた<ref>{{cite news |title= |author= |newspaper=[[朝日新聞]] |date=1991-5-24 |url= |accessdate= }}</ref>。 さらに[[2004年]]6月1日からは、「もてなしの気持ちを表現しながら、より簡潔・明瞭な情報をお伝えする」<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=ニュース南海 |year=2004 |publisher=南海電気鉄道 |journal=[[NATTS]] |issue=2004年6月号 |page= }}</ref>ため、車内案内放送が一部変更されている。また、これに伴い、車掌などアナウンスに関わる業務に携わる全従業員を対象に、発声等に関する全社的な研修が行われた<ref>2004年末頃(日付失念)の朝日新聞大阪版の記事に詳細あり{{要高次出典|date=2015年9月}}</ref>。 近年ではインバウンド効果による[[訪日外国人旅行|外国人観光客]]の増加の影響で多言語による旅客案内も強く要求されるようになった。[[2014年]]の[[南海8300系電車|8300系]]を導入を皮切りに自動放送を導入。2017年以降全ての特急列車と南海本線・空港線のほとんどの列車に導入された。日本語と英語の2か国放送が基本ではあるが[[関西空港駅]]への旅客案内やマナー啓発放送は中国語・韓国語を加えた4か国語での案内が行われている。 === 駅の案内サイン === 南海電鉄の駅では、CIを導入した1993年より、非常に多種多様な[[ピクトグラム]](図記号)を用いた案内サイン看板を使用し始めるようになった。その見易さや分かり易さから、社団法人日本サインデザイン協会が主催するコンテストで表彰を受けるなど、高い評価を受けている。近年設置されている駅サインのうちの一部のピクトグラムは、財団法人交通エコロジー・モビリティ財団が制定した「一般案内用統一図記号ガイドライン」に準拠したものも使われ始めているが、一方で、独特の斬新なデザインを取り入れた矢印の記号などは現在でも使われている。これらの駅サインに関するマニュアルは、[[1989年]]に同社内で制定されたが、このマニュアルに沿った駅サインが設置されている駅は、2010年代前半までは同社の厳しい財政事情が影響し、主要駅を中心にまだ少数に留まっていたが、その後はプリンタで出力するという安価に更新できる方式で駅サイン(特に駅名標)を更新している。南海が[[2008年]]3月28日に発表した『2010年までの3か年事業計画(堅進126計画)』において、提供するサービスの品質向上の一環として「案内サイン及び放送等の多言語化の推進」に取り組むとしている<ref>{{Cite press release |和書 |title=新3か年経営計画「堅進126計画」について |publisher=南海電気鉄道 |date=2008-3-28 |url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/080328.pdf |format=PDF |accessdate= }}</ref>。韓国語・中国語を併記した案内表示や交通エコロジー・モビリティ財団の標準案内記号の導入に関しては、バリアフリー等の改良工事が終わった駅から順次導入されている。また2013年度から難波駅を皮切りに[[LED照明]]への切り替えを随時進めている。 [[駅名標]]などにおける、固有名詞の[[ローマ字]]表記については、多数の鉄道事業者で小文字混じりの表記方法(例:「Ōsaka」「Umeda」など)が採用されている中、2022年5月現在でもすべて大文字表記(例:「NAMBA」「WAKAYAMASHI」など)の、旧・国鉄などが採用していた[[鉄道掲示規程]]に準じた表記方法となっている。 最新の駅名標のデザインは1993年にCIを導入した際にリニューアルしたものがベースとなっている。このため、1994年に開業した空港線では最新タイプのみしか存在していない。 2012年4月1日に[[駅ナンバリング]]が全駅で導入されたが、大部分の駅では駅名標の改修は行われず既存のものにシールで貼り付ける形になっていた。しかし2013年以後は大半の駅で駅名標の交換が行われており、旧式の駅名標は数を減らしている。 2013年から一部の駅を除いて改札口に16:9サイズのディスプレイを設置、通常時はCMを流している。各線で運行支障があった場合はこのディスプレイで運行情報が表示(主要駅では路線図で)される。また南海各線の運行情報のみならず、[[南海フェリー|徳島航路]]や[[金剛山ロープウェイ]](オフシーズンは除く)の運行情報、また沿線の[[海水浴場]]の遊泳禁止情報(夏場のみ)も流している。 <gallery widths="200"> File:Nankai Mikkaichicho.jpg|ローマ字が大文字表記の駅名標([[三日市町駅]]) </gallery> == その他特記事項 == === 駅名 === 関西の大手私鉄では、京阪神の起点・終点となる駅は[[大阪難波駅]]、[[大阪上本町駅]]、[[大阪阿部野橋駅]]、[[梅田地区の鉄道駅|大阪梅田駅]]、[[京都河原町駅]]、[[三宮駅|神戸三宮駅]]など、大阪、京都、神戸などの都市名が頭に付いている駅があり、それが正式な駅名となる<ref group="注釈">これらのうち大阪難波駅([[近畿日本鉄道|近鉄]]・[[阪神電気鉄道|阪神]]共用、近鉄管理)および大阪上本町駅は2009年3月20日から、神戸三宮駅は2013年12月21日([[阪急電鉄|阪急]])並びに2014年4月1日(阪神)から、大阪梅田駅と京都河原町駅も2019年10月1日からそれぞれ正式な駅名となっている。</ref>前から都市名を付けて案内されていたが、南海のターミナル駅である[[難波駅 (南海)|難波駅]]は「大阪」を付けていない。単に「なんば」と案内している<ref group="注釈">[[京阪電気鉄道|京阪]]でも2003年までは「大阪[[淀屋橋駅|淀屋橋]]」「京都[[出町柳駅|出町柳]]」と案内していたが現在は大阪と京都は付けていない。ただし、2017年8月から電光掲示板や一部車両の行先案内表示では淀屋橋駅と出町柳駅に限り大阪と京都をそれぞれ付けている。</ref>。なにわ筋線開業後は南海の起点・終点駅で「大阪」と付く駅に大阪駅が加わる。 また、他社の同名駅と区別するために「南海」を頭に付けた駅名も存在しない。ただし、過去には山手線(元阪和電気鉄道、現在の阪和線)の[[天王寺駅|南海天王寺駅]]・[[鶴ケ丘駅|南海鶴ケ丘駅]]・[[和歌山駅|南海東和歌山駅]]の事例があった。また、なにわ筋線に設置される仮称・南海新難波駅が仮称通りの駅名に決定すれば、約90年ぶりに南海の冠名が復活することとなる。 === 地下駅 === 地下駅がなく、地下鉄乗り入れ対応車両も保有していない<ref group="注釈">中百舌鳥駅付近に相互乗り入れ先である泉北高速鉄道線の地下トンネルがあるため、南海の車両が地下線に全く乗り入れないという訳ではない。</ref>。大手私鉄でこの両方が該当するのは、南海のほかには[[西日本鉄道]]のみである<ref group="注釈">なお、[[東武鉄道]]は唯一の地下駅である[[押上駅]]が[[東京地下鉄|東京メトロ]]の管理のため、自社管理の地下駅が存在しない。</ref>。 将来的には、計画中の地下線である[[なにわ筋線]]([[#計画路線|前述]])が完成すれば、南海新難波駅(仮称)が自社管理の地下駅となる。なお、なにわ筋線に設置される予定の駅のうち[[西本町駅]]と[[中之島駅]](いずれも仮称)については、JR西日本・南海のいずれの管理駅とするのか、あるいは関西空港駅と同様に2社での共同管理<ref group="注釈">1つの施設を複数の鉄道事業者で共同管理する駅は、日本では少なく、他には[[相模鉄道]]と[[東急電鉄]]が共同管理している[[新横浜駅]]程度である。</ref>とするのかは未定であるが、[[大阪駅]](地下ホーム)は、[[梅田貨物線]]との分岐駅となる関係上、JR西日本の管理駅となり、なにわ筋線に設置する予定の駅では最も早く2020年に駅名が決定している。車両面では50000系の置き換えおよびなにわ筋線末端区間の南海新難波駅(仮称) - 新今宮駅間にある44‰の急勾配にも対応できるズームカー並の登坂能力を持つ地下線対応・大阪駅 - 新大阪駅の乗り入れに対応する一般車両を計画している。 === 地下鉄乗り入れ計画 === 1963年の大阪市交通事業基本計画で策定された<ref>『大阪市交通局百年史(本編)』大阪市交通局、2005年、p.338</ref>大阪市交通局高速電気軌道6号線(現在の[[Osaka Metro堺筋線]])と<!--[[天下茶屋駅|天下茶屋]]付近で →1963年時点では6号線は霞町(動物園前)までの計画-->相互乗り入れを行う計画があった。6号線には、京阪神急行電鉄(現在の[[阪急電鉄]])も[[天神橋筋六丁目駅|天神橋]]付近での相互乗り入れ希望し、それぞれの規格が異なっていたことから激論となった。 大阪市は[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]などの既設路線で1,435 mm軌間(標準軌)・直流750 V [[第三軌条方式]]を採用していたことから、6号線についても当初はトンネル断面を最小限に抑えられ、また自局他線との車両融通が容易なこの規格による路線建設を希望していた。そのため、それぞれ規格の異なる両社との相互乗り入れには消極的で、特に軌間・集電方式・電圧(当時は直流600 V。ただしこの当時既に1500 Vへの昇圧が決定していた)の規格が全く異なる南海との乗り入れに対しては、当初から消極的であった。 最終的には、[[日本万国博覧会]]の開催決定や千里丘陵の宅地開発を考慮し、当時の運輸省大阪陸運局長の裁定によって、堺筋線を軌間1,435 mm、直流1,500 V [[架空電車線方式]]で建設し、[[阪急千里線]]などからと相互乗り入れとすることで決定。南海への乗り入れは実現しなかった。 1971年12月8日都市交通審議会第13号答申では、堺筋線の動物園前 - [[天下茶屋駅|天下茶屋]]間が緊急整備区間に挙げられた<ref>『大阪市交通局百年史(本編)』大阪市交通局、2005年、pp.345-346,350</ref>。この区間の計画時にも大阪市と南海の協議が続けられ、南海は大阪市から標準軌に改軌して相互直通運転を行うことと、天王寺支線の廃止を求められた<ref name="omtb100-p.388">『大阪市交通局百年史(本編)』大阪市交通局、2005年、pp.388-389</ref>。南海はいずれも困難として交渉が難航したが、両者の歩み寄りにより南海が天王寺支線を廃止し、大阪市が南海との相互直通運転を断念することで合意した<ref name="omtb100-p.388" />。 === ダイヤ・臨時列車 === {{See also|南海電気鉄道のダイヤ改正}} * [[お盆]]期間中(原則として[[8月13日]] - [[8月15日|15日]])の平日は、関西の[[私鉄]]や[[地下鉄]]ではほとんどの路線が土曜・休日[[ダイヤグラム|ダイヤ]](または土曜ダイヤ)で運行されるが、南海は平日ダイヤで運行される。これは、空港線内のりんくうタウン - 関西空港間がJRと共用になっているため、JRの平日ダイヤに合わせざるを得ないからである。なお、[[南海高野線|高野線]]や[[泉北高速鉄道線]]も平日ダイヤで運行される。この関係で、土曜・休日ダイヤで運行されている各社局で使用できる[[回数乗車券|土休日回数券]]も、南海では使用できない。 * 近年はやや増加傾向にはあるが、催し物による臨時列車の本数や頻度が少ない。特に[[岸和田だんじり祭]]・[[春木だんじり祭]]の開催日(毎年[[敬老の日]]直前の土曜・日曜日)や[[正月三が日]](この時は特急以外の昼間時間帯の全列車が[[住吉大社駅]]に停車する。一部時刻変更あり)においては南海線を中心に激しく混雑するものの、[[大晦日]]から[[元日]]にかけての[[終夜運転]]の列車を除いて臨時列車をほとんど走らせない(ただし、南海線では2扉車の普通電車を4扉車に変更(加えて編成両数を4両から6両に変更する場合もあり)する。また、関西国際空港開港以前には、岸和田だんじり祭・春木だんじり祭の2日間、[[泉大津駅]] - [[羽倉崎駅]]間で臨時の普通列車を走らせていたことはある。このため、[[岸和田駅]]上り線ホームの[[反転フラップ式案内表示機|フラップ式行先表示機]]には「普通 泉大津」「各駅にとまります」と書かれたパターンが残っている)。2008年には、沿線で行われた野外コンサート「[[a-nation]]'08」への対応で、難波駅 - [[高石駅]]間の臨時準急が多数運転された。また、[[堺泉北港#主な施設|泉大津フェニックス]]での野外[[ロック・フェスティバル]](「[[RUSH BALL]]」や「[[OTODAMA 音泉魂]]」など)開催時には特急サザンを泉大津駅に臨時停車する場合がある。 * 近年はお盆に臨時列車として難波駅 - 極楽橋駅間に特急(全車自由席の一般車で運行・特急料金不要)を、橋本駅 - 極楽橋駅間に各駅停車やノンストップの列車を運転している。また[[教祖祭PL花火芸術|PL花火大会]](毎年8月1日)の時には[[近鉄南大阪線]]・[[近鉄長野線|長野線]]での激しい混雑を敬遠して高野線の利用客が増加する傾向であることから臨時列車を出すことがある。 === 他社との共同PR === * [[2008年]]に[[東京証券取引所|東証一部]]へ再上場してからは、[[首都圏 (日本)|首都圏]]でも積極的にPRするようになった。東京の南青山で「高野山カフェ」を行う時期がある。また首都圏の鉄道事業者([[東京都交通局]]、[[京浜急行電鉄]]、[[箱根登山鉄道]]、[[京成電鉄]])との[[コラボレーション]]も展開し、互いに吊り広告などで割引切符や沿線にある名所のPRを行っている。 * 関西圏でも、2008年から「'''KEIHAN NANKAIええとこどり'''」キャンペーンとして、[[京阪電気鉄道]]やその子会社である[[叡山電鉄]]と展開している。2009年の[[阪神なんば線]]開業時から、[[阪神電気鉄道]]との間でも同様のPRを展開している。 * [[2009年]]から同じ山岳路線を持つ私鉄会社([[富士急行]]・[[神戸電鉄]]・[[大井川鐵道]]・箱根登山鉄道・叡山電鉄、2019年3月22日より[[アルピコ交通]]も加入)で'''[[全国登山鉄道‰会|全国登山鉄道‰(パーミル)会]]'''を結成し、こちらでもコラボレーションによるPRを展開している。 * [[2011年]]からは、近鉄との間でも「'''Nan×Kinめぐるーと'''」キャンペーンを行っている。 * [[2012年]]は[[通天閣]]開業100周年の年ということもあって「'''新世界[[キン肉マン]]プロジェクト'''」が開催され、子会社の阪堺電気軌道のほかJR西日本とも共同PRが行われている。 * また首都圏各社や九州の大手民鉄である[[西日本鉄道]]の鉄道ファン向けイベントでも積極的に出店し、PRを行っている。 * [[2014年]]にはラピート運行開始20周年記念と、劇場版『[[機動戦士ガンダムUC]] episode 7 「虹の彼方に」』の公開記念でタイアップ行事を実施<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140410.pdf 「機動戦士ガンダムUC×特急ラピート 赤い彗星の再来 特急ラピート ネオ・ジオンバージョン」4/26(土)発進!]}} - 南海電気鉄道、2014年4月10日</ref>。「ラピート」を赤い外装の[[南海50000系電車|50000系]]電車で運行。 * 2014年9月7日から2015年8月31日の間、[[Peach Aviation]]との共同プロモーション、「Peach×ラピートハッピーライナー」を実施し、「ラピート」をPeach カラーの特別デザインの50000系電車で運行<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140807_4.pdf 「出逢えたらラッキー Peach×ラピート ハッピーライナー」を運行します]}} - 南海電気鉄道、2014年8月7日閲覧</ref>。2015年8月23日には和歌山港線にも入線<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/150715.pdf ありがとう企画「Peach×ラピート ハッピーライナー」で和歌山港へ行こう!]}} - 南海電気鉄道、2015年7月15日(2015年12月29日閲覧)</ref>。 * 2015年11月21日から2016年5月8日の間、2015年12月18日公開の映画『[[スター・ウォーズ/フォースの覚醒]]』とタイアップし、「ラピート」を黒い外装の50000系電車で運行した<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/151021.pdf 特急ラピート「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」号 11/21(土)運行開始!! ]}} - 南海電気鉄道、2015年10月21日(2018年8月13日閲覧)</ref>。運行期間中にはTVCMも放映された。 <gallery> |南海電鉄の駅(写真は堺駅)に掲出されている京阪電鉄の広告 File:Nankai 50000 series 201405040809 Neo Xeon.jpg|ラピート×[[機動戦士ガンダムUC|ガンダムUC]]<br />[[ネオ・ジオン#ネオ・ジオン残党(袖付き)|ネオ・ジオン]] バージョン </gallery> === その他 === * [[1987年]]から[[2005年]]の間(ただし一時期発売されていない時期もあった)、『南海時刻表』が発売されていた。2007年のダイヤ変更から2019年の南海線ダイヤ変更まで時刻表は無料配布の形に変更となっていた。ただし、従前の南海時刻表と異なり南海線・空港線系統と高野線系統で別製作となっており、沿線案内や南海バスの主要路線や阪堺電気軌道の時刻表は掲載されていなかった。2021年のダイヤ変更ではポケット時刻表を含め、時刻表の配布及び販売は行われず、南海電鉄ホームページまたは南海アプリから確認することになる(一部の駅ではQRコードが配布されているほか、駅に設置されている時刻表にQRコードが掲載されている)。 * [[1995年]]に泉北高速鉄道の車両を含む全車両の運転席の[[乗務行路表|運行スタフ]](時刻表)が、[[タッチパネル]]式ディスプレイ表示(乗務行路指示の内容が記録されたICカードを読み込んで表示する方式)に統一された。全車両の運転席の運行スタフがディスプレイ化されるのは関西民鉄初である。なお、この装置は、[[列車選別装置]]([[停車駅通過防止装置]])を兼ねており、列車が停車駅に近づいた時に、「●●駅 停車」というディスプレイ表示の点滅とともに、運転士側・車掌側の双方で警告チャイム音が鳴る。 * [[2007年]]より駅の[[便所]]に[[無水トイレ|無水小便器]](米国ファルコン・ウォーターフリー・テクノロジーズ社製、後に[[LIXIL]]製品も採用)を設置している。これにより水道使用量の削減、それに伴い[[二酸化炭素]]排出の削減を実現させている<ref>{{Cite press release |和書 |title=日本で初めて「無水小便器」を大量に導入します |publisher=南海電気鉄道 |date=2008-3-19 |url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/080319_1.pdf |format=PDF |accessdate= }}</ref>。この無水小便器は、2011年に新造された[[南海12000系電車|12000系]]の車内トイレにも設置された<ref>{{Cite press release |和書 |title=新型特急「サザン」12000系を導入します |publisher=南海電気鉄道 |date=2011-1-17 |url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/110117.pdf |format=PDF |accessdate= }}</ref>。なお、2016年以降にトイレリニューアルプロジェクト等で、リニューアルされた駅の小便器は無水式ではなく、センサー式となっている。 * 南海電車の[[列車便所|トイレ]]の歴史は古く1913年(大正2年)製造の電附1形(後のクハ1821形)が日本初の便所付き電車である<ref>[[#福原2007|(福原2007)p.48-49「1-7 ボギー車の連結運転と阪和間の運転(南海電1〜3形)」]]</ref>。 * 昭和30年代から40年代には[[三木鶏郎]]作詞・作曲、唄・[[伴久美子]]によるコマーシャルソング「'''南海電車の歌'''」が使用されていた。なお、同じ三木鶏郎の作品としては、「[[京阪特急 (曲)|京阪特急]]」や「[[近鉄特急 (曲)|近鉄特急]]」など、他の民鉄各社でもそれぞれ使用された。 * [[2015年]]には、創業130周年記念のプロモーション「''愛が、多すぎる。NANKAI''」を展開している<ref name="nankai20150331" />。イメージソングは[[田原俊彦]]の「愛が、多すぎる。」<ref>[http://ai-nankai.com/ 愛が、多すぎる。 NANKAI 南海電鉄]</ref>。2016年にはプロモーション用のマスコットとして「黒い鳥」がお目見えし、名前は公募により「大杉愛多(おおすぎあいた)」に決定している。 * 2015年2月には、[[訪日外国人旅行|訪日外国人旅行者]]向けにラピートのデザインをモチーフとした[[キャラクター|イメージキャラクター]]、「[[ラピートルジャー]]」を公表した。3月26日から2017年12月まで[[南海50000系電車|50000系]]第4編成の乗務員扉横にラピートルジャーのラッピングが施された。 * 2017年4月1日より全列車昼間時でも前照灯を点灯([[昼間点灯]])するようになった。 * [[みどり会]]の会員企業であり[[三和グループ]]に属している<ref>[http://www.midorikai.co.jp/member.html メンバー会社一覧 - みどり会]</ref>。このため、南海のメインバンクは三和グループもルーツの一つになっている[[三菱UFJ銀行]]である。<ref group="注釈">他の関西の私鉄では、阪急電鉄が南海と同じく旧[[三和銀行]]時代の、近畿日本鉄道が旧[[三菱銀行]]時代の取引を継承して三菱UFJ銀行をメインバンクとしている。</ref> <gallery> File:Nankai2000 2195F.jpg|昼間点灯を実施した車両の一例([[南海2000系電車|2000系]]) </gallery> == 南海とゆかりのある人物 == * [[松本重太郎]] * [[藤田伝三郎]] * [[田中市兵衛]] * [[根津嘉一郎 (初代)]] * [[寺田甚吉]] - 元社長で近畿日本鉄道設立時に会長。 * [[川勝傳]] - 社長・会長、[[日本民営鉄道協会]]会長、南海ホークスオーナー([[1968年]] - [[1988年]]死去まで)。存命中はホークスの身売りを頑なに拒否していたが川勝の没後ホークスは[[ダイエー]]に身売りされた。 == グループ会社 == {{See|南海グループ}} == 南海と関連する企業 == * [[大阪市高速電気軌道]]([[大阪市交通局]]の鉄軌道事業を継承。Osaka Metro) - 不定期であるが、大阪市営時代より車内広告を相互に掲示するなど広告面で協力関係がある。また子会社の[[南海商事]]と[[東急グループ]]の[[東急不動産]]と共同で天王寺駅、なんば駅、[[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]の[[駅ナカ]]施設「ekimo」のディベロッパーも展開。 * [[近畿日本鉄道]]([[近鉄グループホールディングス]]) - 戦時中統合されていた。なお、2011年からは共同観光誘致キャンペーン「'''Nan×Kinめぐるーと'''」を展開している。 * [[阪和電気鉄道]] - 南海のライバル会社で[[阪和線]]の前身。戦時中南海が買収して「山手線」に改称した。 * [[泉北高速鉄道]] - 唯一、[[直通運転|相互直通運転]]を行っている会社。大阪府都市開発という大阪府が出資する[[第三セクター]]だったが、2014年5月15日に大阪府が南海に株式を売却する契約を締結、同年7月1日に南海の傘下に入り<ref>[http://www.pref.osaka.lg.jp/hodo/index.php?site=fumin&pageId=16420 大阪府都市開発株式会社(OTK)の株式売却について] - 大阪府、2014年5月15日</ref><ref name="nankai20140515" />、社名を運営する路線([[泉北高速鉄道線]])と同名の泉北高速鉄道と改めた。 * [[京阪電気鉄道]] - [[コンビニエンスストア]]「[[アンスリー]]」を共同経営しているほか、駅配布のフリーペーパー「Kプレス」を南海の駅に置いたり、南海発行のフリーペーパー「[[NATTS]]」を京阪の駅(淀屋橋駅・天満橋駅・香里園駅・枚方市駅・樟葉駅)に置いたり、不定期であるが車内広告を相互に掲示したりと広告面で協力関係がある。また難波駅の駅ナカ(「SWEET BOX」)のディベロッパーも行っている。戦前は和歌山水力電気の買収や阪和電気鉄道への資本参加などで南海の営業エリアである和歌山にも影響力を持っていた。 * [[阪神電気鉄道]] - 過去に[[コンビニエンスストア]]「アンスリー」を共同経営していたほか、ウォーキングイベントなどを共同開催する関係がある。また[[阪神なんば線]]開業後は、難波駅乗換の連絡定期やフリーチケットを設定したり、沿線をPRするポスターを共同制作して車内や駅などに掲出したりしている。 * [[名古屋鉄道]] - かつて共同で「[[3・3・SUNフリーきっぷ]]」を発行していたほか、共同で沿線情報紙上でのプロモーションを展開している<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/130830.pdf 名鉄と南海が相互の情報誌でコラボ企画を展開]}} - 南海電気鉄道、2013年8月30日</ref>。 * [[東京都交通局]]、[[東武鉄道]]、[[西武鉄道]]、[[京成電鉄]]、[[京浜急行電鉄]]、[[西日本鉄道]] - 共同で沿線情報紙上でのプロモーションを展開している<ref> * {{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140717.pdf 東京都交通局と南海電鉄の「沿線ガイドブック」を設置します]}} - 南海電気鉄道、2014年7月17日 * {{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140623.pdf 東武鉄道&南海電鉄が沿線情報誌で初コラボ!]}} - 南海電気鉄道、2014年6月23日 * {{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140328_1.pdf 西武鉄道&南海電鉄が沿線情報誌で初コラボ!]}} - 南海電気鉄道、2014年3月28日 * {{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/131129_1.pdf 京急&南海が沿線情報誌でコラボ企画を展開!]}} - 南海電気鉄道、2013年11月29日 * {{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/131022_1.pdf 京成&南海が沿線情報誌でコラボ企画を展開!]}} - 南海電気鉄道、2013年10月22日 * {{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/130628_1.pdf 西鉄&南海 情報誌でのコラボ企画第2弾]}} - 南海電気鉄道、2013年6月28日</ref>。 * [[和歌山電鐵]] - 元々南海が所有していた[[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]](和歌山 - 貴志)の運営を引き継いだ。[[両備ホールディングス]]のグループ会社。 * [[Peach Aviation]] - 関西国際空港を拠点とする[[格安航空会社]](LCC)。機内で難波駅までの特急「ラピート」の特急券付きの割引切符を発売している。 * [[東急車輛製造]]・[[総合車両製作所]]<!-- 東急車輛時代に製造した車両がまだ多数あるので併記--> - 南海が所有するほとんどの車両はここで製造されている。[[1968年]]に、それ以前のほとんどの車両を製造していた[[帝國車輛工業]]([[堺市]]、跡地に[[アリオ鳳]]が2008年開店)を[[東京急行電鉄]]の[[東急グループ|グループ会社]]である東急車輛製造が吸収合併したことによる。 * [[近畿車輛]] - 南海が所有する車両のうち、[[南海7000系電車|7000系・7100系]]および[[南海8300系電車|8300系]]はここで製造されている<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0120150427aaai.html|title=近畿車両、南海から新型車両受注―40年ぶり、「8300系」30億円規模|newspaper=[[日刊工業新聞]]|date=2015-04-27|accessdate=2023-09-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150427143530/http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0120150427aaai.html|archivedate=2015-04-27}}</ref>。 * [[日立製作所]] - 一部の例外を除き制御装置を納入している。 * [[日本製鉄]](旧・[[住友金属工業]]) - 一部の例外を除いて台車を納入している。[[1984年]]2月まで[[日本製鉄和歌山製鉄所|和歌山製鉄所]]向けに加太線・和歌山港線で貨物列車が運転されていた。 * [[ダイキン工業]] - [[南海2001形電車#冷房電車|日本初の鉄道車両用冷房装置]]を堺工場(堺市[[北区 (堺市) |北区]])で製造したことが縁で、近くを走る南海に納入した。 * [[ダイエー]] - 所有していた球団(南海ホークス)の譲渡先。 * [[ソフトバンク]] - 所有していた球団の現在の所有者。 * アバン - 女性乗務員の業務の委託先。 * [[髙島屋]] - 主要株主{{Refnest|group="注釈"|髙島屋の第115期有価証券報告書によると、保有株式は1,007,002株であり、全体の0.89%となる。}}の一社で、南海沿線の[[難波駅 (南海)|難波駅]]に大阪店、[[堺東駅]]に堺店、[[和歌山市駅]]に和歌山店(2014年8月閉店)、および高野線と相互乗り入れしている泉北高速鉄道[[泉ケ丘駅]]に泉北店([[パンジョ]])を出店。 * [[蓬萊 (飲食店)|551蓬萊]] - 主要駅の駅構内を中心に店舗を展開。駅構内での初出店が難波駅だった。 * [[北欧フードサービス]] - 設立当初は南海の子会社だった。 * [[MBSメディアホールディングス]] - 主要株主の一社で、傘下の[[毎日放送]]でのホークス戦試合中継数が南海ホークス時代から他局より多く繋がりが深かった。[[2003年]]まで南海は当時の毎日放送の第10位の大株主でもあった<ref>{{Cite book|和書 |title=日本民間放送年鑑2003 |publisher=コーケン出版 |date=2003-11-20 |page=366 |editor=[[日本民間放送連盟]] |language=ja}}</ref>。また、南海ホークスの本拠地だった大阪スタヂアム(大阪球場)跡地の[[なんばパークス]]に傘下の毎日放送([[MBSラジオ]])の[[サテライトスタジオ]]があった。 * [[テレビ大阪]] - かつては20:55のニュースの後に「'''南海スポットナウ'''」のタイトルが入ったCM([[インフォマーシャル]]形式)が流れていた。また、南海も含めて在阪の私鉄各社が相乗りで設立に関与するなど、関係が深い。 * [[東京スター銀行]] - 2013年まで主要駅構内に、[[現金自動預け払い機|ATM]]網「駅の銀行ATM・ひきだし上手」を展開していた。 * [[泉州銀行]](現・[[池田泉州銀行]]) - 南海電鉄がかつて大株主であった(現在は[[池田泉州ホールディングス]]の完全子会社)。 * [[ステーションネットワーク関西]] - [[阪急電鉄]]系の会社ではあるが、2013年以降南海の駅に設置されているATM「PatSat(パッとサッと)」を展開している。上記の池田泉州銀行が幹事行となっている。 * [[紀陽銀行]] - [[紀陽ホールディングス]](2013年に紀陽銀行と合併して解散)設立時まで南海電鉄が大株主であった。 * [[テレビ和歌山]] - 同局のみで流れる、和歌山県内向け独自の南海グループのCMが放送されている。 * [[和歌山放送]] - 南海電鉄が筆頭株主となっている。 ** なお、テレビ和歌山・和歌山放送の2局では空港特急「ラピート」のCMは流していない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="nankai20150331">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/150331.pdf ブランドイメージ向上プロモーションを展開します]}} - 南海電気鉄道、2015年3月31日</ref> <ref name="nankai20190905">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/190905.pdf 10月1日(火)から鉄道線旅客運賃・料金を改定します]}} - 南海電気鉄道、2019年9月5日</ref> }} == 参考文献 == * {{Citation|和書| author=公評散史| year=1896| url =https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778622/66| title=兵庫県人物評| volume=2| volume-title=| publisher=神戸同盟出版社 | page=43| quote=| ref =harv}} * {{Cite |和書|author =南海鉄道株式会社 編 |title =開通五十年|url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000707796-00|date =1936年 |publisher =南海鉄道 |ref = 南海1936 |accessdate=2019-4-14}} * {{Cite book|和書| author= 福原俊一|authorlink=福原俊一 (電車発達史研究家) | year =2007 | title = 日本の電車物語 旧性能電車編 <small>創業時から初期高性能電車まで</small>|publisher = [[JTBパブリッシング]]|isbn=978-4-533-06867-6| ref =福原2007}} == 関連項目 == * [[南海電気鉄道のダイヤ改正]] * [[NATTS]] * [[P+natts]] * [[福岡ソフトバンクホークス]] - 南海ホークス時代からの歴史など * [[大阪スタヂアム]](大阪球場) * [[住之江競艇場]] * [[大阪府立体育会館]](大阪府大阪市浪速区) - 南海電鉄が大阪府から委託を受け、[[指定管理者]]となっている。 * [[大阪府立臨海スポーツセンター]](大阪府高石市) - 同上。 * [[アンスリー]] - [[京阪電気鉄道]]と共同経営の[[コンビニエンスストア]]。 * [[南海グリーン]] - 南海の車両に使用された緑色。 * [[関西国際空港連絡橋]](空港線) * [[紀見トンネル]](高野線) - 紀見峠トンネルという通称がある。 * [[友ヶ島]] - 戦前は[[由良要塞]]があったところで、戦後に南海が観光地として開発した。 * [[藤谷文子]] - 「ラピート」運行開始後にイメージキャラクターとして起用された女優。 * [[田原俊彦]] - 南海創業130周年記念で製作された歌「愛が、多過ぎる」を歌唱した歌手。 == 外部リンク == {{Commons|Category:Nankai Electric Railway}} * [https://www.nankai.co.jp/ 南海電気鉄道 公式ホームページ] * {{Facebook|nankairailway|南海電鉄}} * {{Twitter|nankai_official|南海電鉄【公式】}} {{南海グループ}} {{大手私鉄}} {{日本のケーブルカー}} {{戦時買収私鉄}} {{スルッとKANSAI}} {{ICOCA}} {{ミナミ活性化委員会}} {{みどり会}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なんかいてんきてつとう}} [[Category:南海電気鉄道|*]] [[Category:大手私鉄・準大手私鉄]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:かつて存在した日本の軌道事業者]] [[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]<!-- 一部路線 --> [[Category:浪速区の企業]] [[Category:難波]] [[Category:近鉄グループの歴史]] [[Category:南海グループ|*なんかいてんきてつとう]] [[Category:南海ホークス]] [[Category:東証プライム上場企業]] [[Category:1949年上場の企業]] [[Category:1925年設立の企業]] [[Category:1890年代日本の設立]]<!--前身の阪堺鉄道開業により--> [[Category:20世紀の日本の設立]] [[Category:三和グループ]] [[Category:みどり会]] [[Category:1944年の合併と買収]] [[Category:明治時代の大阪]]
2003-07-24T02:37:27Z
2023-12-24T02:52:30Z
false
false
false
[ "Template:Cite", "Template:Main", "Template:Cite journal", "Template:Lang-en-short", "Template:Legend2", "Template:R", "Template:PDFlink", "Template:Commons", "Template:Facebook", "Template:日本のケーブルカー", "Template:Sfn", "Template:Citation", "Template:See", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:大手私鉄", "Template:ミナミ活性化委員会", "Template:Refnest", "Template:Double image aside", "Template:Main2", "Template:Cite press release", "Template:Cite news", "Template:リンク切れ", "Template:要高次出典", "Template:Twitter", "Template:Pp-vandalism", "Template:-", "Template:戦時買収私鉄", "Template:Cite web", "Template:Zh-tw icon", "Template:みどり会", "Template:基礎情報 会社", "Template:See also", "Template:スルッとKANSAI", "Template:ICOCA", "Template:Normdaten", "Template:特殊文字", "Template:南海グループ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%B7%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93
12,113
本願
本願(ほんがん、梵: pūrva-praṇidhāna, プールヴァ・プラニダーナ)とは、仏教において、仏や菩薩が過去において立てた誓願を指す。宿願(しゅくがん)とも言う。菩薩としての修行中に立てたもので、たとえば阿弥陀仏ならば法蔵菩薩としての修行中に立てられたものを言う。 原語のうち「プールヴァ」(pūrva)は「以前の」「過去の」、「プラニダーナ」(praṇidhāna)とは「誓願」(せいがん)。 原始経典では「天国に生れることを希願する」というように用いられる。仏教の場合は、絶対者などに対して祈るのではなく、自己への祈りであり、願いである。その意味で、「真実の祈誓」(sacca-kiriyā)であり、真実の実行を意味する。いわば、悟りを開き仏陀たらんとする願いとその実行をいう。 「仏や菩薩が過去において一切の生あるものを救おうとして立てた誓願」の意味が、「プールヴァ・プラニダーナ」といわれる言葉の意味で、これが本願である。 この「本」に2つの意味がある。 原語のうち「プールヴァ」は先述のように「以前の」ということであるから、初めの意味に近い。しかし、仏となるためには必ず願を起し、その願いの完成したことで仏と言い得るから、仏の根本は願にある。その点で「願」が成仏の根本だから、第二義が近い。仏のことをヴィパーカ・カーヤ(vipāka-kāya)と呼び、報身とするのはこの理由による。 仏はすべて同じ誓願を持つ。これを総願(梵: sāmānya-praṇidhāna)という。具体的には四弘誓願(しぐぜいがん)を指す。菩提心(ぼだいしん)と呼ばれるものも、これと同義である。 諸仏それぞれの願を別願(梵: viśeṣa-praṇidhāna)と言う。この別願によって、それぞれの仏が特徴づけられている。 とりわけ、薬師如来の十二願、阿弥陀如来の四十八願などが有名である。薬師如来の十二願は「一切衆生の苦悩を除き、一切の病患を除かん」というものであり、阿弥陀如来の四十八願は、法蔵菩薩の時に立てて成就したものであり「念仏の衆生を救いとげん」との誓願である。 日本においてかなり古くから、本願には、塔をつくり寺を建て法会を執行することを指している。「東大寺の本願」とか、「善光寺本願」などが、これである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "本願(ほんがん、梵: pūrva-praṇidhāna, プールヴァ・プラニダーナ)とは、仏教において、仏や菩薩が過去において立てた誓願を指す。宿願(しゅくがん)とも言う。菩薩としての修行中に立てたもので、たとえば阿弥陀仏ならば法蔵菩薩としての修行中に立てられたものを言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "原語のうち「プールヴァ」(pūrva)は「以前の」「過去の」、「プラニダーナ」(praṇidhāna)とは「誓願」(せいがん)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "原始経典では「天国に生れることを希願する」というように用いられる。仏教の場合は、絶対者などに対して祈るのではなく、自己への祈りであり、願いである。その意味で、「真実の祈誓」(sacca-kiriyā)であり、真実の実行を意味する。いわば、悟りを開き仏陀たらんとする願いとその実行をいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「仏や菩薩が過去において一切の生あるものを救おうとして立てた誓願」の意味が、「プールヴァ・プラニダーナ」といわれる言葉の意味で、これが本願である。 この「本」に2つの意味がある。", "title": "菩薩の誓願" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "原語のうち「プールヴァ」は先述のように「以前の」ということであるから、初めの意味に近い。しかし、仏となるためには必ず願を起し、その願いの完成したことで仏と言い得るから、仏の根本は願にある。その点で「願」が成仏の根本だから、第二義が近い。仏のことをヴィパーカ・カーヤ(vipāka-kāya)と呼び、報身とするのはこの理由による。", "title": "菩薩の誓願" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "仏はすべて同じ誓願を持つ。これを総願(梵: sāmānya-praṇidhāna)という。具体的には四弘誓願(しぐぜいがん)を指す。菩提心(ぼだいしん)と呼ばれるものも、これと同義である。", "title": "総願" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "諸仏それぞれの願を別願(梵: viśeṣa-praṇidhāna)と言う。この別願によって、それぞれの仏が特徴づけられている。", "title": "別願" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "とりわけ、薬師如来の十二願、阿弥陀如来の四十八願などが有名である。薬師如来の十二願は「一切衆生の苦悩を除き、一切の病患を除かん」というものであり、阿弥陀如来の四十八願は、法蔵菩薩の時に立てて成就したものであり「念仏の衆生を救いとげん」との誓願である。", "title": "別願" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本においてかなり古くから、本願には、塔をつくり寺を建て法会を執行することを指している。「東大寺の本願」とか、「善光寺本願」などが、これである。", "title": "発起人としての本願" } ]
本願とは、仏教において、仏や菩薩が過去において立てた誓願を指す。宿願(しゅくがん)とも言う。菩薩としての修行中に立てたもので、たとえば阿弥陀仏ならば法蔵菩薩としての修行中に立てられたものを言う。 原語のうち「プールヴァ」(pūrva)は「以前の」「過去の」、「プラニダーナ」(praṇidhāna)とは「誓願」(せいがん)。 原始経典では「天国に生れることを希願する」というように用いられる。仏教の場合は、絶対者などに対して祈るのではなく、自己への祈りであり、願いである。その意味で、「真実の祈誓」(sacca-kiriyā)であり、真実の実行を意味する。いわば、悟りを開き仏陀たらんとする願いとその実行をいう。
'''本願'''(ほんがん、{{lang-sa-short|pūrva-praṇidhāna}}, '''プールヴァ・プラニダーナ''')とは、[[仏教]]において、仏や[[菩薩]]が過去において立てた[[誓願]]を指す。'''宿願'''(しゅくがん)とも言う。菩薩としての修行中に立てたもので、たとえば阿弥陀仏ならば法蔵菩薩としての修行中に立てられたものを言う。 原語のうち「プールヴァ」(pūrva)は「以前の」「過去の」、「プラニダーナ」(praṇidhāna)とは「'''[[誓願]]'''」(せいがん){{efn2|「あるものに心を寄せる」「切望する」「祈る」などを意味する動詞「プラニダー」(サンスクリット:praṇidhā)からでた名詞。}}。 原始経典では「天国に生れることを希願する」というように用いられる。仏教の場合は、絶対者などに対して祈るのではなく、自己への祈りであり、願いである。その意味で、「真実の祈誓」(sacca-kiriyā)であり、真実の実行を意味する。いわば、[[悟り]]を開き[[仏陀]]たらんとする願いとその実行をいう。 ==菩薩の誓願== 「仏や菩薩が過去において一切の生あるものを救おうとして立てた誓願」の意味が、「プールヴァ・プラニダーナ」といわれる言葉の意味で、これが本願である。 この「本」に2つの意味がある。 # 「因」の意味。因位(仏になる前)に願を立て、それが果として成就したから、本願(もとの願)という。 # 「根本」の意味。悟りを完成する根本になる誓願の意味。 原語のうち「プールヴァ」は先述のように「以前の」ということであるから、初めの意味に近い。しかし、仏となるためには必ず願を起し、その願いの完成したことで仏と言い得るから、仏の根本は願にある。その点で「願」が成仏の根本だから、第二義が近い。仏のことをヴィパーカ・カーヤ(vipāka-kāya)と呼び、[[報身]]とするのはこの理由による。 ==総願== 仏はすべて同じ誓願を持つ。これを総願({{lang-sa-short|sāmānya-praṇidhāna}})という。具体的には'''[[四弘誓願]]'''(しぐぜいがん)を指す。'''[[菩提心]]'''(ぼだいしん)と呼ばれるものも、これと同義である<ref>[http://kotobank.jp/word/%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%BF%83 菩提心とは] - [[マイペディア]]/[[コトバンク]]</ref>。 * 衆生無辺誓願度 - 一切の衆生を度脱せしめん * 煩悩無尽誓願断 - 一切の煩悩を悉く断じつくさん * 法門無量誓願学 - 一切の教法を必ず学習しつくさん * 仏道無上誓願成 - 無上の仏道を成就せん ==別願== 諸仏それぞれの願を別願({{lang-sa-short|viśeṣa-praṇidhāna}})と言う。この別願によって、それぞれの仏が特徴づけられている。 とりわけ、薬師如来の十二願、阿弥陀如来の四十八願などが有名である。[[薬師如来]]の十二願は「一切衆生の苦悩を除き、一切の病患を除かん」というものであり、[[阿弥陀如来]]の[[四十八願]]は、法蔵菩薩の時に立てて成就したものであり「念仏の衆生を救いとげん」との誓願である。 ==発起人としての本願== 日本においてかなり古くから、本願には、塔をつくり寺を建て法会を執行することを指している。「東大寺の本願」とか、「善光寺本願」などが、これである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} ==関連項目== *[[誓願]] *[[本願寺]] {{Buddhism2}} {{浄土教2}} {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:ほんかん}} [[Category:仏教用語]] [[Category:誓約と宣誓]]
null
2019-08-24T17:19:29Z
false
false
false
[ "Template:Buddhism-stub", "Template:Lang-sa-short", "Template:Efn2", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist2", "Template:Reflist", "Template:Buddhism2", "Template:浄土教2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98
12,116
クサイ
クサイ
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "クサイ", "title": null } ]
クサイ 「クサイ氏」とも呼称される、イラク大統領サッダーム・フセインとその最初の妻サージダ・ハイラッラーの次男。クサイ・サッダーム・フセインを参照のこと。 ギリシア文字の第14字母。Ξを参照のこと。 クサイ (植物) - 草藺。イグサ科の植物。 クサイ島 - ミクロネシア連邦に属するコスラエ島の旧名。
'''クサイ''' * 「クサイ氏」とも呼称される、[[イラク]]大統領[[サッダーム・フセイン]]とその最初の妻[[サージダ・ハイラッラー]]の次男。[[クサイ・サッダーム・フセイン]]を参照のこと。 * [[ギリシア文字]]の第14[[字母]]。[[Ξ]]を参照のこと。 * [[クサイ (植物)]] - 草藺。[[イグサ科]]の[[植物]]。 * クサイ島 - [[ミクロネシア連邦]]に属する[[コスラエ島]]の旧名。 <!--* 聞いていて恥ずかしくなることに対する俗称。(くさい台詞など)--> {{Aimai}} {{デフォルトソート:くさい}}
null
2014-08-22T02:31:21Z
true
false
false
[ "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%A4
12,119
東京メトロ日比谷線
日比谷線(ひびやせん)は、東京都足立区の北千住駅から目黒区の中目黒駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は2号線日比谷線。 路線名の由来は日比谷公園のある日比谷から。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「シルバー」(#b5b5ac、銀)、路線記号はH。 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が1957年(昭和32年)5月18日に、都市計画第4号線の新宿以西(開業当初の荻窪線、現在の丸ノ内線)とともに都市計画第2号線(日比谷線)の建設に着手することを決定した。営団地下鉄は北千住 - 人形町間、人形町 - 虎ノ門駅間、虎ノ門 - 中目黒間(当初計画では虎ノ門駅で銀座線と連絡する予定であったが、実際には設けられなかった。現在の虎ノ門ヒルズ駅とは無関係である)の3区間に分けて建設を行い、当初の建設費用は348億9,300万円を見込んだ。1959年(昭和34年)5月1日に最初の建設工事に着手し、1961年(昭和36年)3月28日に南千住 - 仲御徒町間3.7 kmが開業した。 既存の銀座線は建設年度が古く、輸送力は最大でも6両編成2分間隔運転が限度であり、年々増大する輸送需要に対応できなくなることが予想されていた。このため、特に東急東横線からの乗客を渋谷駅から中目黒駅経由の日比谷線へと転移させることで、銀座線の混雑緩和を図ることを目的とした。また、日比谷線を南千住方面から建設したのは、同駅付近に国鉄から用地を譲り受け、車両基地を確保するためであった。 都内の北東の北千住駅から西南の中目黒駅まで、途中銀座駅を中心として上野駅・秋葉原駅・日比谷駅・霞ケ関駅・六本木駅・恵比寿駅などを経由して結ぶ路線である。北千住駅 - 南千住駅間は、隅田川を渡るため地上区間になっている(隅田川を横断する地下鉄の中では唯一地上で橋を渡る路線である)。ほとんどの区間が既存の道路下に開削工法で建設されたため、交差点付近の平面線形は半径200 m以下で90度曲がるような急カーブが連続する。基本的には道路の下を通っているものの、カーブのため道路から大きくはみ出す箇所も複数存在する。1964年(昭和39年)の東京オリンピックに全線開通を間に合わせるため、突貫工事で建設された。 当初は北千住側から中目黒方面に向かって、順次延伸開業する計画であった。しかし、銀座駅付近には東京都が計画した三原橋 - 祝田橋間(日比谷線東銀座 - 霞ケ関間と重なる)に地下自動車道の建設構想があり、営団地下鉄との間で調整が難航した。東京オリンピック開催までに日比谷線全線の開業を間に合わせるため、中目黒方面を先行して施工し、銀座駅付近を最後の施工区間とするよう変更した。この調整には当時の運輸省、建設省も仲裁に入り、約4年の歳月を経て最終的に営団地下鉄案を基本とすることで合意した。銀座駅は1962年(昭和37年)9月に建設工事に着工し、東京オリンピック開催までのわずか2年で施工する突貫工事となり、警視庁の協力で夜間は三原橋 - 日比谷間の路上交通を止めるなどして完成が急がれた。 入谷 - 秋葉原付近(延長約2.4 km)では日比谷線の上部に首都高速1号上野線が通る計画ができたことから、先に建設した日比谷線のトンネル構築上部には首都高速道路の橋脚が建設できるよう、地中梁を施工した。 東武鉄道および東京急行電鉄と相互直通運転を行うことから、軌条は1,067 mm(狭軌)を採用し、集電方式には架空電車線方式を採用した。地下区間の電車線には、営団地下鉄が新たに開発した剛体架線設備を採用しており、断線のおそれがなく、トンネル断面を小さくできて建設費用の低減に繋がるメリットがある。 現在は、北千住駅から東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)および同線経由で日光線と相互直通運転を行っている。2013年(平成25年)3月15日までは、中目黒駅から東急東横線とも相互直通運転を行っていた(後述)。 2020年(令和2年)3月をもって東武の乗り入れ車両を含めた20 m級車両への置き換えが完了し、同年度から順次ホームドア設置工事を実施している。 1995年(平成7年)に起きた同時多発テロ事件である地下鉄サリン事件では、日比谷線は丸ノ内線、千代田線とともに被害を受けた。 東京の地下鉄で起点と終点である両端の駅が地上駅となっているのは当路線と東西線、千代田線のみである。また、両端の駅が他社の管轄になっているのも副都心線と共に数少ないケースである。 北千住 - 南千住付近は高架の地上区間であるが、当初は地下式とする案もあった。しかし、当時の北千住駅には国鉄・東武の貨物側線が多数あり、軟弱地盤地帯でこれらの線路を仮受けして掘削することは、難工事になることが予想された。また隅田川の横断には橋梁方式か地下方式があるが、地下方式には多額の費用を要するが、北千住 - 南千住間では国鉄から地上線用地を取得することができたため、経済的に有利な橋梁方式となった。 南千住駅付近には日光街道と国鉄隅田川貨物線の平面交差(踏切)があり、将来的に東京都は道路を地下化して立体交差とする計画があり、日比谷線を地下方式とする場合には地下8 m以下とすることが求められた。この付近も軟弱地盤地帯であり、さらに隅田川貨物駅の側線群の地下を掘削することは技術的に困難であると予想された。これら理由から、北千住 - 南千住間は地上区間とし、日光街道を超える付近までは高架線とする現在の構造となった。 日比谷線の隅田川橋梁は、常磐線隅田川橋梁のすぐ下流にあり、営団地下鉄として初めての本格的な橋梁工事であった。橋梁は支間65.5 mの2径間連続複線下路ワーレントラス橋で、製作は横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)、延長131 m・重量は約390 tである。 トンネル区間は、大部分は開削工法によって建設している。ただし、軟弱地盤である日比谷地区や河川下横断箇所は安全性に配慮した、潜函工法(ニューマチック・ケーソン工法)採用した。茅場橋横断部、中ノ橋横断部は、橋梁を避けるためにトンネルを迂回させている。 本路線の建設費用は総額635億6,000万円である(1966年6月時点)。内訳は土木関係費が412億3,157万円、電気関係費が41億2,277万9,000円、車両関係費が99億725万7,000円、その他が82億9,839万4,000円となっている。 ただし、1967年(昭和42年)6月に営団地下鉄は日比谷線全線8両編成化に伴う輸送力増強計画を策定しており、この費用を建設費用に含めることとされた。同時点での建設費用の総額は652億4,600万円に改訂された。なお、実際には計画変更が生じており、1971年(昭和46年)5月時点で全線8両編成化を行い、以降の車両数は8両編成38本(304両)となっている(1988年(昭和63年)まで)。 日比谷線の路線免許は、東京23区の前身にあたる東京市が戦前に計画した東京市営地下鉄6路線に遡(さかのぼ)り、大正14年内務省告示第56号に基づいて1925年(大正14年)5月16日に取得したものである。このうち現在の日比谷線にあたるのは、当時の第2号線目黒駅 - 西久保 - 祝田町 - 本石町 - 浅草橋 - 田原町 - 南千住間16.1 kmの路線免許である。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線渋谷 - 巣鴨間 と第5号線池袋 - 洲崎間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の公債があり、財政悪化を懸念した当時の内務省と大蔵省の反対があり、許可を得ることができなかった。その後、特に建設計画は立てられず帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、東京市が所有していたすべての路線免許は1941年(昭和16年)に営団地下鉄へ有償譲渡された。 終戦後、戦災復興院によって「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、1946年(昭和21年)12月7日に戦災復興院告示第252号によって都市計画第2号線は以下のように告示・改訂した。この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、1949年(昭和24年)4月28日に起業目論見変更認可を申請し、同年5月23日に認可を受けた。 その後、都市交通審議会答申第1号に基づいて、1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号により、都市計画第2号線は経由地を皇居の西側を通る前述のルートから、皇居の東側を通る現在の日比谷線北千住 - 中目黒のルートに改訂され、分岐線は廃止された。 これを受け、営団地下鉄は1957年(昭和32年)6月18日に第2号線(日比谷線)の起業目論見変更認可申請と地方鉄道敷設免許の申請を行った。起業目論見変更認可申請は、1949年(昭和24年)5月に起業目論見変更認可を受けていた免許経路のうち、恵比寿 - 南千住間の経路を1957年(昭和32年)に改訂した経路に改めるものと、軌間を1,435 mm(標準軌)から直通運転に対応した1,067 mm(狭軌)に変更する申請である。これは1957年(昭和32年)8月13日に認可された。 前記に含まれない(取得をしていない)恵比寿 - 中目黒間および南千住 - 北千住間の路線免許は、運輸大臣に免許申請を行い、1958年(昭和33年)3月1日に路線免許を取得した(すなわち、現在の日比谷線北千住 - 中目黒間全線の路線免許を取得)。 1972年(昭和47年)3月1日の都市交通審議会答申第15号では終点が松原団地に改められ、北千住以北は東武伊勢崎線を複々線化することとされた。その後、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号では竹ノ塚駅 - 北越谷駅間の東武線複々線化が示されている。 日比谷線の建設が計画された当初、将来的に東急東横線からの直通列車は18 m級車両で最大8両編成、東武伊勢崎線からの直通列車は同じく最大6両編成で対応できると予想されていた。これは、東急東横線沿線で宅地開発が進んでいた一方、東武伊勢崎線沿線では宅地開発が進んでいなかったためである。 中目黒駅 - 八丁堀駅間の各駅のホームは8両編成対応(ホーム延長152 mを基本)で建設され、八丁堀駅には8両編成列車の折り返しが可能な引き上げ線が北千住寄りに設けられた。それ以北の茅場町駅 - 北千住駅間は6両編成対応(ホーム延長120 mを基本)で建設された。ただし、これは建設途中の1960年(昭和35年)4月に東急東横線からの輸送需要が多いと予想したことから、6両編成対応から8両編成対応に設計変更したものである。 ところが、予想とは逆に伊勢崎線が日比谷線と繋がったことにより、伊勢崎線の利便性が飛躍的に向上し、沿線の宅地開発が急速に進み、東武線から日比谷線への旅客が急増した。それまでの伊勢崎線の終点は浅草駅であり、通勤客は北千住で国鉄常磐線に乗り換えるか、浅草駅で銀座線に乗り換えて都心へ向かっていたが、日比谷線と直通運転を開始したことで、上野や銀座などの都心へ直行できるようになったためである。東武鉄道側でも、予想を大きく超える増加であった。 このため、急速な車両増備を行ったことで千住検車区の収容能力を超えてしまい、東武鉄道から西新井電車区を譲り受けて営団地下鉄の竹ノ塚検車区とすることで増備車両を収容したほか、八丁堀駅以北のホーム延伸工事と伊勢崎線直通列車の8両編成化などの輸送力増強が急がれた。6両編成対応で建設が進んだ茅場町駅 - 北千住駅間の一部の駅で中目黒方面行きと北千住方面行きとでホームの位置がずれているのはこのためである。 一方、東急東横線からの直通列車利用客は、同線の終着駅である渋谷駅まで利用する乗客も多かったため、東武伊勢崎線からの直通利用客ほど増加はしなかった。 『営団地下鉄五十年史』では日比谷線の輸送需要を少なく予想しすぎたことや、東武鉄道方面からの旅客増加が著しいことから、当初計画になかった全線の8両編成化を決断せざるを得なかったとされている。東武鉄道側でも、車両の増結や列車本数の増発を行ってきたが、もはや複線区間では限界に達したことから、1967年(昭和42年)6月に伊勢崎線北千住 - 竹ノ塚間(6.3 km)の複々線化工事に着手し、1974年(昭和49年)7月に完成させている(最終的に複々線化は北越谷まで行われている)。 定期列車の大半が各駅停車であるが、平日・土休日ともに朝方に上り方面2本、夕方 - 夜間に下り方面5本の東武70000系70090型を使用した有料座席指定列車「THライナー」の運行がある。北千住駅 - 中目黒駅間の所要時分は43分(表定速度は28.3 km/h)。平日朝夕ラッシュ時間帯は約2分間隔、日中時間帯は5分間隔の高頻度で運行されている。大半の列車が全区間を通して運行するが、一部時間帯には南千住駅を始発・終着とする列車や、東武線からおよび北千住発の六本木行き、中目黒発における終電およびその直前には広尾行きの列車が設定されている。 終着駅である北千住駅において、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を経由して日光線南栗橋駅まで相互直通運転を実施している。また「THライナー」のみ伊勢崎線東武動物公園駅 - 久喜駅間と直通運転を行う。 日中時間帯の運転間隔は、10分の間に線内列車と東武伊勢崎線直通列車が交互に運行されている。東武伊勢崎線直通列車は1時間あたり東武動物公園駅発着列車が4本、北春日部駅発着列車が2本運行されている。 2003年3月19日に設定された朝の南栗橋発の上り1本を除き、長らく東武動物公園駅までの直通運転であったが、2013年3月16日から南栗橋駅まで相互直通運転区間が延長された。日中は上下線とも草加駅とせんげん台駅で急行(半蔵門線経由東急田園都市線直通)に接続し、南栗橋発着列車は東武動物公園駅で久喜駅発着の急行に接続する。 日中の北千住駅 - 東武動物公園駅間の普通列車は全列車が日比谷線直通である。朝夕には竹ノ塚駅、北越谷駅、南栗橋駅を始発・終着駅とする列車も運転されている。乗り入れ区間の営業キロは44.3 km(うち日光線10.4 km)。2013年3月16日のダイヤ改正までは、日中時間帯の東武伊勢崎線直通列車は北越谷駅発着と東武動物公園駅発着が交互運転で走っていた。2003年3月19日の半蔵門線と東武伊勢崎線との相互直通運転開始前は、現在よりも2本多く東武伊勢崎線直通列車が設定されていたが、準急と接続する駅は統一されていなかった。 東京メトロの車両(13000系)の車両基地は、南千住駅に隣接する千住検車区と東武伊勢崎線内の竹ノ塚駅に隣接する千住検車区竹ノ塚分室にある(ただし、全般検査・重要部検査といった定期検査は、半蔵門線所属車両と同じく鷺沼工場で行う)。竹ノ塚の車両基地は、かつての東武鉄道西新井車庫を営団が譲り受けたものである。2020年6月6日改正ダイヤでは、東京メトロ車2本が東武の南栗橋車両管区春日部支所で、東武車2本が千住検車区でそれぞれ夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。 運用番号の末尾は、東武車がT、自社車がSである。運用番号は東武車が 01T - 47Tの奇数、自社車が 02S - 74S の偶数と 61S・63S・65Sである。 なお、2013年3月15日までは、もう一方の終着駅である中目黒駅から東急東横線菊名駅までの相互直通運転を行っていたが、東急東横線と副都心線との相互直通運転を開始した翌16日からは、 東急東横線との直通列車は設定されていない「当面の間休止」の状態である。ドア数や車両の長さが副都心線及び東横線の標準的な車両とは異なる、東横線へのホームドア設置の整備の際にドアピッチが問題となったこと、東横線の輸送規模の容量を超過するなど、東横線に副都心線と日比谷線の乗り入れを共存させることは問題点が多い。なお、現在の新型車両はドア数や車両の長さが副都心線及び東横線の標準的な車両と同じであり、東横線に副都心線と日比谷線の乗り入れを共存しやすくなったが、2016年の車両公開時の取材に対して、東京メトロの関係者は「特に(直通運転の)予定があるわけではない」と述べている。 かつての東急東横線内乗り入れ区間の営業キロは16.6 km。早朝および夕方は10分から15分間隔で武蔵小杉駅または菊名駅発着、日中は30分間隔で菊名駅発着であり、途中駅の元住吉駅で特急の通過待ちを行っていた。直通列車は、東横特急運転開始前は日中15分間隔であったが、2001年3月28日の東横特急運転開始と同時に、日中は30分間隔となるなど、本数が削減され、同時に東急1000系電車による日比谷線内折り返し列車(中目黒行き)が設定されるようになった。この本数削減の代わりに、中目黒駅で東急東横線との接続が考慮された。2003年3月19日以降は中目黒駅に全列車が停車するようになり、さらに接続の改善が図られた。 3社相互直通はなかったが、東京メトロの車両が「菊名駅→北千住駅→中目黒駅→東武動物公園駅」のように、一日の間に東急東横線・東武伊勢崎線の両方に乗り入れる運用は存在した。 東急東横線との相互直通運転が終了した後も、日比谷線所属車両の定期検査は東急田園都市線鷺沼駅に隣接する東京メトロ鷺沼工場において行われるため、東急線(東横線・目黒線・大井町線・田園都市線)を経由する回送ルートが組まれている。 東急車の運用番号の末尾はKであり、運用番号は81K - 85Kで設定されていた。 ゴールデンウィークやクリスマスなどのシーズンには、菊名駅を超えて横浜高速鉄道みなとみらい線の元町・中華街駅まで直通する臨時列車「みなとみらい号」を運転した。この臨時列車は、日比谷線内でも急行列車として運転し、途中の停車駅は上野駅・仲御徒町駅・秋葉原駅・人形町駅・茅場町駅・八丁堀駅・東銀座駅・銀座駅・日比谷駅・霞ケ関駅・六本木駅・恵比寿駅であったが、2007年4月21日のみなとみらい号からは日比谷線内各駅停車に変更されている。車両は東急1000系が使用された。 日比谷線における臨時急行列車は、2003年12月に「東京ミレナリオ号」として急行運転(停車駅はみなとみらい号と同じ)を行ったことがあったが、その際の車両には日比谷線03系車両が使用されていた。 日比谷線の車両は、建設当時既に20 m車を標準としていた東武から20 m車規格が提案されたが、当時の営団がルート上に急曲線が設定できることから用地買収がより容易となる18 m車の採用に傾いたため、協議の末に18 mが採用された。東急は当時18 m車が標準であったが、東横線では既に20 m車の走行実績があった。 しかし、その後3社とも20 m車が標準となる中、東武、東急とも18 m車の日比谷線乗り入れ専用車両を製造して乗り入れる状況が続いた。また、建設当時の東急東横線が最大6両編成であったことから当初は6両編成を前提に建設されたが、建設途中から8両に変更されている。車両の扉数は片側3扉が標準であったが、最混雑区間では混雑率が200%を超える状況が続いていたため、車両更新と併せて運行本数を増加させることで輸送力の確保したが、乗降時間が長引き、駅に停車する時間が所定時間を大幅に超える結果となってしまい、1時間あたりの列車本数が確保できない事態が生じていた。そのため、1990年から製造された東京メトロおよび東武の一部車両は、編成の両端2両ずつを5扉としてラッシュ混雑時の乗降時間の短縮を図った。 北千住駅 - 上野駅間は東西線用5000系車両の試運転などでの入線実績があり、当初から20 m車の入線が可能となっている区間もあった。東京メトロは2010年にすべての路線へのホームドア設置を表明しており、かねてから東武は日比谷線直通車両の20 m化を要望していたこともあって、2011年からホームドア設置と車両の20 m車導入の検討を開始した。東京メトロは鉄道総研への調査委託による、建築限界測定、橋梁・高架部の強度測定、走行安全性評価を行った結果、小規模な改修で20 m車両を導入することが可能であることが分かり、六本木駅などの曲線半径の小さいホームの削正、曲線半径の拡大による路線形状の変更、入換信号機・標識・線内の誘導無線・架線の電架柱基礎などの建築限界支障箇所の移設と撤去、車両の軸重の増加による橋梁部と高架部の補強、国土交通省への運転関係・車両関係・設備関係などの届出済基準の変更などを行った。これらの施行後に新型車両はホームや折り返し線の有効長を考慮して、18 m車両8両編成(全長144 m)から20 m車両7両編成(全長140 m)とし、東京メトロ・東武の両社で仕様の統一を図り、20 m車7両編成4扉の新型車両(東京メトロ13000系、東武70000系)を導入して車両の置き換えを進めることとした。これは日比谷線内・東武線内のホームドア導入に際し、車両長を20 m車に統一させる必要があったためである。製造は13000系・70000系ともに近畿車輛である。 2017年3月25日より13000系が営業運転を開始。2017年7月7日からは東武70000系が運行を開始した、2020年3月20日からは70090型が加わっている。 かつては、東急1000系のみがワンハンドル車で、同車の乗り入れ終了に伴い当線でのワンハンドル車の運行がなくなったが、13000系・70000系の導入で、4年ぶりにワンハンドル車での運行が復活した。 車両の号車番号表記は、東京メトロの車両は中目黒方先頭車を1号車、東急の車両は北千住方先頭車を1号車としており、東武の車両は号車番号表記がなかったが、2011年時点では東京メトロの車両も北千住方先頭車を1号車としている。 開業当初日比谷線で使用していた自動列車制御装置 (ATC) は地上信号式 (WS) で、原則として運転士が手動で制動(ブレーキ)を掛ける方式であった。色灯式信号により、進行信号 (G) 70 km/h、減速信号 (YG) 50 km/h、注意信号 (Y) 40 km/h、警戒信号 (YY) 25 km/hの速度制限が掛かる。 日比谷線の最終運転計画では、6両編成の2分間隔運転(1時間あたり30本)を想定していたが、前述したとおり1960年(昭和35年)4月に八丁堀 - 中目黒間が8両編成の2分間隔運転に変更となった。八丁堀(東急東横線・中目黒方面からの折り返しが可能) - 霞ケ関駅(東武伊勢崎線・北千住方面からの折り返しが可能)間では、1分30秒間隔運転(1時間あたり40本)に対応できる信号設備を備えていた。 その後、2003年(平成15年)10月12日に車内信号方式の新CS-ATCに切り換えられた。 日比谷線では、過去に長期間にわたって自動列車運転装置 (ATO) の試験運転が実施されていた。 日比谷線における女性専用車は、2006年3月27日に乗り入れ先である東武伊勢崎線の日比谷線直通普通列車とともに導入された。 平日朝7時30分から9時までの間に北千住駅を発車する中目黒方面行きの全列車において実施されており、途中駅始発・終着列車も対象である。線内で9時を過ぎた時点で女性専用車の扱いは解除となる。進行方向最後尾車両である1号車に設定され、実施区間は東武南栗橋駅→東武動物公園駅→北千住駅→中目黒駅である。また、かつて設定されていた東急東横線直通列車は、中目黒駅到着後に女性専用車の実施を終了し、東横線内では実施されなかった。 2022年(令和4年)度の最混雑区間(A線、三ノ輪 → 入谷間)の混雑率は135%である。 北千住までの延伸開業以降、A線は東武伊勢崎線からの直通人員が急増し、朝ラッシュ時の混雑率は200%を越えていた。このため朝ラッシュ時の増発が頻繁になされ、1968年の時点で毎時26本が運転されるようになった。1966年9月1日に全列車が6両編成に、1971年5月31日に全列車が8両編成になり、長編成化が急ピッチで行われたことで一旦は混雑率が180%台に緩和するが、輸送人員の増加により1975年度からは220%台で高止まりとなった。1971年3月20日に千代田線が霞ケ関まで延伸開業して北千住 - 霞ケ関間のバイパス路線となったが、こちらも1973年度以降は混雑率が200%を超えるようになった。 乗り入れ先の東武伊勢崎線でも、北千住駅のホームが日比谷線への乗換客で埋め尽くされる事態が頻発したこともあり、乗換客を減らす苦肉の策として1988年11月21日に浅草う回乗車制度が、1990年9月25日に業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)折り返し用10両対応の地平ホーム設置と押上駅への連絡通路設置に伴い押上う回乗車制度が導入された。う回制度の導入後は日比谷線の輸送人員が減少し、混雑率は1991年度に200%台に、1995年度に180%台に低下した。北千住駅の重層化工事が1997年3月25日に完成したことを受け、これらの制度は同年3月31日に廃止された。 2003年3月19日に東武伊勢崎線と半蔵門線が相互直通運転を開始し、2005年8月24日につくばエクスプレスが開業するなど、北千住駅から都心方向へ直通する路線が増えたことで乗客が分散され、2008年度に混雑率は150%台まで低下した。 2007年度の一日平均通過人員は、入谷 - 上野間が381,878人で最も多い。北千住方面は緩やかに減少するが、北千住 - 南千住間の一日平均通過人員は335,314人であり、北千住 - 秋葉原間の各駅は一日平均通過人員が33万人を上回っている。中目黒方面も緩やかに減少し、八丁堀 - 築地間の一日平均通過人員は302,551人であるが、この区間を境にして一旦は通過人員が増加に転じ、東銀座 - 銀座間の一日平均通過人員は327,090人である。その後は再度緩やかに減少して銀座 - 霞ケ関間で一日平均通過人員が30万人を下回るが、霞ケ関 - 神谷町間で303,895人に増加する。その後は各駅で通過人員が大きく減少し、恵比寿 - 中目黒間が190,475人で最も少ない。 全線開業年度以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 東京メトロが2015年6月から9月までホームページ上において発車メロディ(発車サイン音)に使用する楽曲のリクエストを募集した結果、秋葉原駅のメロディとしてAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」、銀座駅のメロディとして石原裕次郎と牧村旬子の「銀座の恋の物語」がそれぞれ採用され、秋葉原駅では2016年3月31日から、銀座駅では同年4月8日から使用を開始した。 そのほかの駅については、2020年2月7日から中目黒駅と北千住駅を除く全駅で使用を開始した(中目黒駅と北千住駅では引き続きブザーを使用)。同時に、前述の秋葉原駅と銀座駅のメロディを新規に制作したバージョンに変更している。 メロディは全てスイッチの制作で、塩塚博、福嶋尚哉、大和優子、松澤健の4名が作曲および編曲を手掛けた。 東京都は、2020年に開催予定の東京オリンピックまでに霞ケ関駅と神谷町駅の間の虎ノ門地区に新駅を設置する構想を2014年9月に東京都長期ビジョン(仮称)の中間報告にて発表した。同年10月14日には、UR都市機構が新駅整備事業の実施主体となり、東京地下鉄が設計・工事を受託し、供用開始後の運営管理を行うことになった旨の発表がされている。2016年2月8日に虎ノ門新駅(仮称)の起工式が行われ、2020年6月6日に虎ノ門ヒルズ駅として暫定開業、2023年7月15日に拡張工事が完成した。 広尾駅と上野駅でバリアフリー対応工事、茅場町駅で混雑緩和工事を行う。 全駅に新型行先案内表示装置を導入し、液晶ディスプレイを用いてフルカラーで表示する。新たに行先駅にナンバリングを表示する。接近時や「○番線は、発車致します」という発車時の放送も更新され、接近時には英語放送が追加された。 東武鉄道は、『東武グループ中期経営計画2017 - 2020』の中で、「日比谷線直通列車速達性向上の検討」を挙げている。 また、2019年3月26日には東武線・東京メトロ日比谷線直通列車における有料着席サービスを2020年度より導入することを発表。同年12月19日に上述の2020年6月6日の虎ノ門ヒルズ駅暫定開業に合わせて、「THライナー」の名称で運行を開始した。 無線式列車制御システムであるCBTCの当線への導入を2023年度に実施する予定である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日比谷線(ひびやせん)は、東京都足立区の北千住駅から目黒区の中目黒駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は2号線日比谷線。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "路線名の由来は日比谷公園のある日比谷から。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「シルバー」(#b5b5ac、銀)、路線記号はH。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が1957年(昭和32年)5月18日に、都市計画第4号線の新宿以西(開業当初の荻窪線、現在の丸ノ内線)とともに都市計画第2号線(日比谷線)の建設に着手することを決定した。営団地下鉄は北千住 - 人形町間、人形町 - 虎ノ門駅間、虎ノ門 - 中目黒間(当初計画では虎ノ門駅で銀座線と連絡する予定であったが、実際には設けられなかった。現在の虎ノ門ヒルズ駅とは無関係である)の3区間に分けて建設を行い、当初の建設費用は348億9,300万円を見込んだ。1959年(昭和34年)5月1日に最初の建設工事に着手し、1961年(昭和36年)3月28日に南千住 - 仲御徒町間3.7 kmが開業した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "既存の銀座線は建設年度が古く、輸送力は最大でも6両編成2分間隔運転が限度であり、年々増大する輸送需要に対応できなくなることが予想されていた。このため、特に東急東横線からの乗客を渋谷駅から中目黒駅経由の日比谷線へと転移させることで、銀座線の混雑緩和を図ることを目的とした。また、日比谷線を南千住方面から建設したのは、同駅付近に国鉄から用地を譲り受け、車両基地を確保するためであった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "都内の北東の北千住駅から西南の中目黒駅まで、途中銀座駅を中心として上野駅・秋葉原駅・日比谷駅・霞ケ関駅・六本木駅・恵比寿駅などを経由して結ぶ路線である。北千住駅 - 南千住駅間は、隅田川を渡るため地上区間になっている(隅田川を横断する地下鉄の中では唯一地上で橋を渡る路線である)。ほとんどの区間が既存の道路下に開削工法で建設されたため、交差点付近の平面線形は半径200 m以下で90度曲がるような急カーブが連続する。基本的には道路の下を通っているものの、カーブのため道路から大きくはみ出す箇所も複数存在する。1964年(昭和39年)の東京オリンピックに全線開通を間に合わせるため、突貫工事で建設された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当初は北千住側から中目黒方面に向かって、順次延伸開業する計画であった。しかし、銀座駅付近には東京都が計画した三原橋 - 祝田橋間(日比谷線東銀座 - 霞ケ関間と重なる)に地下自動車道の建設構想があり、営団地下鉄との間で調整が難航した。東京オリンピック開催までに日比谷線全線の開業を間に合わせるため、中目黒方面を先行して施工し、銀座駅付近を最後の施工区間とするよう変更した。この調整には当時の運輸省、建設省も仲裁に入り、約4年の歳月を経て最終的に営団地下鉄案を基本とすることで合意した。銀座駅は1962年(昭和37年)9月に建設工事に着工し、東京オリンピック開催までのわずか2年で施工する突貫工事となり、警視庁の協力で夜間は三原橋 - 日比谷間の路上交通を止めるなどして完成が急がれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "入谷 - 秋葉原付近(延長約2.4 km)では日比谷線の上部に首都高速1号上野線が通る計画ができたことから、先に建設した日比谷線のトンネル構築上部には首都高速道路の橋脚が建設できるよう、地中梁を施工した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東武鉄道および東京急行電鉄と相互直通運転を行うことから、軌条は1,067 mm(狭軌)を採用し、集電方式には架空電車線方式を採用した。地下区間の電車線には、営団地下鉄が新たに開発した剛体架線設備を採用しており、断線のおそれがなく、トンネル断面を小さくできて建設費用の低減に繋がるメリットがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在は、北千住駅から東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)および同線経由で日光線と相互直通運転を行っている。2013年(平成25年)3月15日までは、中目黒駅から東急東横線とも相互直通運転を行っていた(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)3月をもって東武の乗り入れ車両を含めた20 m級車両への置き換えが完了し、同年度から順次ホームドア設置工事を実施している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)に起きた同時多発テロ事件である地下鉄サリン事件では、日比谷線は丸ノ内線、千代田線とともに被害を受けた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "東京の地下鉄で起点と終点である両端の駅が地上駅となっているのは当路線と東西線、千代田線のみである。また、両端の駅が他社の管轄になっているのも副都心線と共に数少ないケースである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "北千住 - 南千住付近は高架の地上区間であるが、当初は地下式とする案もあった。しかし、当時の北千住駅には国鉄・東武の貨物側線が多数あり、軟弱地盤地帯でこれらの線路を仮受けして掘削することは、難工事になることが予想された。また隅田川の横断には橋梁方式か地下方式があるが、地下方式には多額の費用を要するが、北千住 - 南千住間では国鉄から地上線用地を取得することができたため、経済的に有利な橋梁方式となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "南千住駅付近には日光街道と国鉄隅田川貨物線の平面交差(踏切)があり、将来的に東京都は道路を地下化して立体交差とする計画があり、日比谷線を地下方式とする場合には地下8 m以下とすることが求められた。この付近も軟弱地盤地帯であり、さらに隅田川貨物駅の側線群の地下を掘削することは技術的に困難であると予想された。これら理由から、北千住 - 南千住間は地上区間とし、日光街道を超える付近までは高架線とする現在の構造となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日比谷線の隅田川橋梁は、常磐線隅田川橋梁のすぐ下流にあり、営団地下鉄として初めての本格的な橋梁工事であった。橋梁は支間65.5 mの2径間連続複線下路ワーレントラス橋で、製作は横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)、延長131 m・重量は約390 tである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "トンネル区間は、大部分は開削工法によって建設している。ただし、軟弱地盤である日比谷地区や河川下横断箇所は安全性に配慮した、潜函工法(ニューマチック・ケーソン工法)採用した。茅場橋横断部、中ノ橋横断部は、橋梁を避けるためにトンネルを迂回させている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "本路線の建設費用は総額635億6,000万円である(1966年6月時点)。内訳は土木関係費が412億3,157万円、電気関係費が41億2,277万9,000円、車両関係費が99億725万7,000円、その他が82億9,839万4,000円となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただし、1967年(昭和42年)6月に営団地下鉄は日比谷線全線8両編成化に伴う輸送力増強計画を策定しており、この費用を建設費用に含めることとされた。同時点での建設費用の総額は652億4,600万円に改訂された。なお、実際には計画変更が生じており、1971年(昭和46年)5月時点で全線8両編成化を行い、以降の車両数は8両編成38本(304両)となっている(1988年(昭和63年)まで)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日比谷線の路線免許は、東京23区の前身にあたる東京市が戦前に計画した東京市営地下鉄6路線に遡(さかのぼ)り、大正14年内務省告示第56号に基づいて1925年(大正14年)5月16日に取得したものである。このうち現在の日比谷線にあたるのは、当時の第2号線目黒駅 - 西久保 - 祝田町 - 本石町 - 浅草橋 - 田原町 - 南千住間16.1 kmの路線免許である。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線渋谷 - 巣鴨間 と第5号線池袋 - 洲崎間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の公債があり、財政悪化を懸念した当時の内務省と大蔵省の反対があり、許可を得ることができなかった。その後、特に建設計画は立てられず帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、東京市が所有していたすべての路線免許は1941年(昭和16年)に営団地下鉄へ有償譲渡された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "終戦後、戦災復興院によって「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、1946年(昭和21年)12月7日に戦災復興院告示第252号によって都市計画第2号線は以下のように告示・改訂した。この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、1949年(昭和24年)4月28日に起業目論見変更認可を申請し、同年5月23日に認可を受けた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その後、都市交通審議会答申第1号に基づいて、1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号により、都市計画第2号線は経由地を皇居の西側を通る前述のルートから、皇居の東側を通る現在の日比谷線北千住 - 中目黒のルートに改訂され、分岐線は廃止された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これを受け、営団地下鉄は1957年(昭和32年)6月18日に第2号線(日比谷線)の起業目論見変更認可申請と地方鉄道敷設免許の申請を行った。起業目論見変更認可申請は、1949年(昭和24年)5月に起業目論見変更認可を受けていた免許経路のうち、恵比寿 - 南千住間の経路を1957年(昭和32年)に改訂した経路に改めるものと、軌間を1,435 mm(標準軌)から直通運転に対応した1,067 mm(狭軌)に変更する申請である。これは1957年(昭和32年)8月13日に認可された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "前記に含まれない(取得をしていない)恵比寿 - 中目黒間および南千住 - 北千住間の路線免許は、運輸大臣に免許申請を行い、1958年(昭和33年)3月1日に路線免許を取得した(すなわち、現在の日比谷線北千住 - 中目黒間全線の路線免許を取得)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)3月1日の都市交通審議会答申第15号では終点が松原団地に改められ、北千住以北は東武伊勢崎線を複々線化することとされた。その後、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号では竹ノ塚駅 - 北越谷駅間の東武線複々線化が示されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日比谷線の建設が計画された当初、将来的に東急東横線からの直通列車は18 m級車両で最大8両編成、東武伊勢崎線からの直通列車は同じく最大6両編成で対応できると予想されていた。これは、東急東横線沿線で宅地開発が進んでいた一方、東武伊勢崎線沿線では宅地開発が進んでいなかったためである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "中目黒駅 - 八丁堀駅間の各駅のホームは8両編成対応(ホーム延長152 mを基本)で建設され、八丁堀駅には8両編成列車の折り返しが可能な引き上げ線が北千住寄りに設けられた。それ以北の茅場町駅 - 北千住駅間は6両編成対応(ホーム延長120 mを基本)で建設された。ただし、これは建設途中の1960年(昭和35年)4月に東急東横線からの輸送需要が多いと予想したことから、6両編成対応から8両編成対応に設計変更したものである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ところが、予想とは逆に伊勢崎線が日比谷線と繋がったことにより、伊勢崎線の利便性が飛躍的に向上し、沿線の宅地開発が急速に進み、東武線から日比谷線への旅客が急増した。それまでの伊勢崎線の終点は浅草駅であり、通勤客は北千住で国鉄常磐線に乗り換えるか、浅草駅で銀座線に乗り換えて都心へ向かっていたが、日比谷線と直通運転を開始したことで、上野や銀座などの都心へ直行できるようになったためである。東武鉄道側でも、予想を大きく超える増加であった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このため、急速な車両増備を行ったことで千住検車区の収容能力を超えてしまい、東武鉄道から西新井電車区を譲り受けて営団地下鉄の竹ノ塚検車区とすることで増備車両を収容したほか、八丁堀駅以北のホーム延伸工事と伊勢崎線直通列車の8両編成化などの輸送力増強が急がれた。6両編成対応で建設が進んだ茅場町駅 - 北千住駅間の一部の駅で中目黒方面行きと北千住方面行きとでホームの位置がずれているのはこのためである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方、東急東横線からの直通列車利用客は、同線の終着駅である渋谷駅まで利用する乗客も多かったため、東武伊勢崎線からの直通利用客ほど増加はしなかった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "『営団地下鉄五十年史』では日比谷線の輸送需要を少なく予想しすぎたことや、東武鉄道方面からの旅客増加が著しいことから、当初計画になかった全線の8両編成化を決断せざるを得なかったとされている。東武鉄道側でも、車両の増結や列車本数の増発を行ってきたが、もはや複線区間では限界に達したことから、1967年(昭和42年)6月に伊勢崎線北千住 - 竹ノ塚間(6.3 km)の複々線化工事に着手し、1974年(昭和49年)7月に完成させている(最終的に複々線化は北越谷まで行われている)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "定期列車の大半が各駅停車であるが、平日・土休日ともに朝方に上り方面2本、夕方 - 夜間に下り方面5本の東武70000系70090型を使用した有料座席指定列車「THライナー」の運行がある。北千住駅 - 中目黒駅間の所要時分は43分(表定速度は28.3 km/h)。平日朝夕ラッシュ時間帯は約2分間隔、日中時間帯は5分間隔の高頻度で運行されている。大半の列車が全区間を通して運行するが、一部時間帯には南千住駅を始発・終着とする列車や、東武線からおよび北千住発の六本木行き、中目黒発における終電およびその直前には広尾行きの列車が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "終着駅である北千住駅において、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を経由して日光線南栗橋駅まで相互直通運転を実施している。また「THライナー」のみ伊勢崎線東武動物公園駅 - 久喜駅間と直通運転を行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日中時間帯の運転間隔は、10分の間に線内列車と東武伊勢崎線直通列車が交互に運行されている。東武伊勢崎線直通列車は1時間あたり東武動物公園駅発着列車が4本、北春日部駅発着列車が2本運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2003年3月19日に設定された朝の南栗橋発の上り1本を除き、長らく東武動物公園駅までの直通運転であったが、2013年3月16日から南栗橋駅まで相互直通運転区間が延長された。日中は上下線とも草加駅とせんげん台駅で急行(半蔵門線経由東急田園都市線直通)に接続し、南栗橋発着列車は東武動物公園駅で久喜駅発着の急行に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日中の北千住駅 - 東武動物公園駅間の普通列車は全列車が日比谷線直通である。朝夕には竹ノ塚駅、北越谷駅、南栗橋駅を始発・終着駅とする列車も運転されている。乗り入れ区間の営業キロは44.3 km(うち日光線10.4 km)。2013年3月16日のダイヤ改正までは、日中時間帯の東武伊勢崎線直通列車は北越谷駅発着と東武動物公園駅発着が交互運転で走っていた。2003年3月19日の半蔵門線と東武伊勢崎線との相互直通運転開始前は、現在よりも2本多く東武伊勢崎線直通列車が設定されていたが、準急と接続する駅は統一されていなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "東京メトロの車両(13000系)の車両基地は、南千住駅に隣接する千住検車区と東武伊勢崎線内の竹ノ塚駅に隣接する千住検車区竹ノ塚分室にある(ただし、全般検査・重要部検査といった定期検査は、半蔵門線所属車両と同じく鷺沼工場で行う)。竹ノ塚の車両基地は、かつての東武鉄道西新井車庫を営団が譲り受けたものである。2020年6月6日改正ダイヤでは、東京メトロ車2本が東武の南栗橋車両管区春日部支所で、東武車2本が千住検車区でそれぞれ夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "運用番号の末尾は、東武車がT、自社車がSである。運用番号は東武車が 01T - 47Tの奇数、自社車が 02S - 74S の偶数と 61S・63S・65Sである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、2013年3月15日までは、もう一方の終着駅である中目黒駅から東急東横線菊名駅までの相互直通運転を行っていたが、東急東横線と副都心線との相互直通運転を開始した翌16日からは、 東急東横線との直通列車は設定されていない「当面の間休止」の状態である。ドア数や車両の長さが副都心線及び東横線の標準的な車両とは異なる、東横線へのホームドア設置の整備の際にドアピッチが問題となったこと、東横線の輸送規模の容量を超過するなど、東横線に副都心線と日比谷線の乗り入れを共存させることは問題点が多い。なお、現在の新型車両はドア数や車両の長さが副都心線及び東横線の標準的な車両と同じであり、東横線に副都心線と日比谷線の乗り入れを共存しやすくなったが、2016年の車両公開時の取材に対して、東京メトロの関係者は「特に(直通運転の)予定があるわけではない」と述べている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "かつての東急東横線内乗り入れ区間の営業キロは16.6 km。早朝および夕方は10分から15分間隔で武蔵小杉駅または菊名駅発着、日中は30分間隔で菊名駅発着であり、途中駅の元住吉駅で特急の通過待ちを行っていた。直通列車は、東横特急運転開始前は日中15分間隔であったが、2001年3月28日の東横特急運転開始と同時に、日中は30分間隔となるなど、本数が削減され、同時に東急1000系電車による日比谷線内折り返し列車(中目黒行き)が設定されるようになった。この本数削減の代わりに、中目黒駅で東急東横線との接続が考慮された。2003年3月19日以降は中目黒駅に全列車が停車するようになり、さらに接続の改善が図られた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "3社相互直通はなかったが、東京メトロの車両が「菊名駅→北千住駅→中目黒駅→東武動物公園駅」のように、一日の間に東急東横線・東武伊勢崎線の両方に乗り入れる運用は存在した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "東急東横線との相互直通運転が終了した後も、日比谷線所属車両の定期検査は東急田園都市線鷺沼駅に隣接する東京メトロ鷺沼工場において行われるため、東急線(東横線・目黒線・大井町線・田園都市線)を経由する回送ルートが組まれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "東急車の運用番号の末尾はKであり、運用番号は81K - 85Kで設定されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ゴールデンウィークやクリスマスなどのシーズンには、菊名駅を超えて横浜高速鉄道みなとみらい線の元町・中華街駅まで直通する臨時列車「みなとみらい号」を運転した。この臨時列車は、日比谷線内でも急行列車として運転し、途中の停車駅は上野駅・仲御徒町駅・秋葉原駅・人形町駅・茅場町駅・八丁堀駅・東銀座駅・銀座駅・日比谷駅・霞ケ関駅・六本木駅・恵比寿駅であったが、2007年4月21日のみなとみらい号からは日比谷線内各駅停車に変更されている。車両は東急1000系が使用された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日比谷線における臨時急行列車は、2003年12月に「東京ミレナリオ号」として急行運転(停車駅はみなとみらい号と同じ)を行ったことがあったが、その際の車両には日比谷線03系車両が使用されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日比谷線の車両は、建設当時既に20 m車を標準としていた東武から20 m車規格が提案されたが、当時の営団がルート上に急曲線が設定できることから用地買収がより容易となる18 m車の採用に傾いたため、協議の末に18 mが採用された。東急は当時18 m車が標準であったが、東横線では既に20 m車の走行実績があった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし、その後3社とも20 m車が標準となる中、東武、東急とも18 m車の日比谷線乗り入れ専用車両を製造して乗り入れる状況が続いた。また、建設当時の東急東横線が最大6両編成であったことから当初は6両編成を前提に建設されたが、建設途中から8両に変更されている。車両の扉数は片側3扉が標準であったが、最混雑区間では混雑率が200%を超える状況が続いていたため、車両更新と併せて運行本数を増加させることで輸送力の確保したが、乗降時間が長引き、駅に停車する時間が所定時間を大幅に超える結果となってしまい、1時間あたりの列車本数が確保できない事態が生じていた。そのため、1990年から製造された東京メトロおよび東武の一部車両は、編成の両端2両ずつを5扉としてラッシュ混雑時の乗降時間の短縮を図った。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "北千住駅 - 上野駅間は東西線用5000系車両の試運転などでの入線実績があり、当初から20 m車の入線が可能となっている区間もあった。東京メトロは2010年にすべての路線へのホームドア設置を表明しており、かねてから東武は日比谷線直通車両の20 m化を要望していたこともあって、2011年からホームドア設置と車両の20 m車導入の検討を開始した。東京メトロは鉄道総研への調査委託による、建築限界測定、橋梁・高架部の強度測定、走行安全性評価を行った結果、小規模な改修で20 m車両を導入することが可能であることが分かり、六本木駅などの曲線半径の小さいホームの削正、曲線半径の拡大による路線形状の変更、入換信号機・標識・線内の誘導無線・架線の電架柱基礎などの建築限界支障箇所の移設と撤去、車両の軸重の増加による橋梁部と高架部の補強、国土交通省への運転関係・車両関係・設備関係などの届出済基準の変更などを行った。これらの施行後に新型車両はホームや折り返し線の有効長を考慮して、18 m車両8両編成(全長144 m)から20 m車両7両編成(全長140 m)とし、東京メトロ・東武の両社で仕様の統一を図り、20 m車7両編成4扉の新型車両(東京メトロ13000系、東武70000系)を導入して車両の置き換えを進めることとした。これは日比谷線内・東武線内のホームドア導入に際し、車両長を20 m車に統一させる必要があったためである。製造は13000系・70000系ともに近畿車輛である。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2017年3月25日より13000系が営業運転を開始。2017年7月7日からは東武70000系が運行を開始した、2020年3月20日からは70090型が加わっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "かつては、東急1000系のみがワンハンドル車で、同車の乗り入れ終了に伴い当線でのワンハンドル車の運行がなくなったが、13000系・70000系の導入で、4年ぶりにワンハンドル車での運行が復活した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "車両の号車番号表記は、東京メトロの車両は中目黒方先頭車を1号車、東急の車両は北千住方先頭車を1号車としており、東武の車両は号車番号表記がなかったが、2011年時点では東京メトロの車両も北千住方先頭車を1号車としている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "開業当初日比谷線で使用していた自動列車制御装置 (ATC) は地上信号式 (WS) で、原則として運転士が手動で制動(ブレーキ)を掛ける方式であった。色灯式信号により、進行信号 (G) 70 km/h、減速信号 (YG) 50 km/h、注意信号 (Y) 40 km/h、警戒信号 (YY) 25 km/hの速度制限が掛かる。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日比谷線の最終運転計画では、6両編成の2分間隔運転(1時間あたり30本)を想定していたが、前述したとおり1960年(昭和35年)4月に八丁堀 - 中目黒間が8両編成の2分間隔運転に変更となった。八丁堀(東急東横線・中目黒方面からの折り返しが可能) - 霞ケ関駅(東武伊勢崎線・北千住方面からの折り返しが可能)間では、1分30秒間隔運転(1時間あたり40本)に対応できる信号設備を備えていた。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "その後、2003年(平成15年)10月12日に車内信号方式の新CS-ATCに切り換えられた。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日比谷線では、過去に長期間にわたって自動列車運転装置 (ATO) の試験運転が実施されていた。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日比谷線における女性専用車は、2006年3月27日に乗り入れ先である東武伊勢崎線の日比谷線直通普通列車とともに導入された。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "平日朝7時30分から9時までの間に北千住駅を発車する中目黒方面行きの全列車において実施されており、途中駅始発・終着列車も対象である。線内で9時を過ぎた時点で女性専用車の扱いは解除となる。進行方向最後尾車両である1号車に設定され、実施区間は東武南栗橋駅→東武動物公園駅→北千住駅→中目黒駅である。また、かつて設定されていた東急東横線直通列車は、中目黒駅到着後に女性専用車の実施を終了し、東横線内では実施されなかった。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の最混雑区間(A線、三ノ輪 → 入谷間)の混雑率は135%である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "北千住までの延伸開業以降、A線は東武伊勢崎線からの直通人員が急増し、朝ラッシュ時の混雑率は200%を越えていた。このため朝ラッシュ時の増発が頻繁になされ、1968年の時点で毎時26本が運転されるようになった。1966年9月1日に全列車が6両編成に、1971年5月31日に全列車が8両編成になり、長編成化が急ピッチで行われたことで一旦は混雑率が180%台に緩和するが、輸送人員の増加により1975年度からは220%台で高止まりとなった。1971年3月20日に千代田線が霞ケ関まで延伸開業して北千住 - 霞ケ関間のバイパス路線となったが、こちらも1973年度以降は混雑率が200%を超えるようになった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "乗り入れ先の東武伊勢崎線でも、北千住駅のホームが日比谷線への乗換客で埋め尽くされる事態が頻発したこともあり、乗換客を減らす苦肉の策として1988年11月21日に浅草う回乗車制度が、1990年9月25日に業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)折り返し用10両対応の地平ホーム設置と押上駅への連絡通路設置に伴い押上う回乗車制度が導入された。う回制度の導入後は日比谷線の輸送人員が減少し、混雑率は1991年度に200%台に、1995年度に180%台に低下した。北千住駅の重層化工事が1997年3月25日に完成したことを受け、これらの制度は同年3月31日に廃止された。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2003年3月19日に東武伊勢崎線と半蔵門線が相互直通運転を開始し、2005年8月24日につくばエクスプレスが開業するなど、北千住駅から都心方向へ直通する路線が増えたことで乗客が分散され、2008年度に混雑率は150%台まで低下した。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2007年度の一日平均通過人員は、入谷 - 上野間が381,878人で最も多い。北千住方面は緩やかに減少するが、北千住 - 南千住間の一日平均通過人員は335,314人であり、北千住 - 秋葉原間の各駅は一日平均通過人員が33万人を上回っている。中目黒方面も緩やかに減少し、八丁堀 - 築地間の一日平均通過人員は302,551人であるが、この区間を境にして一旦は通過人員が増加に転じ、東銀座 - 銀座間の一日平均通過人員は327,090人である。その後は再度緩やかに減少して銀座 - 霞ケ関間で一日平均通過人員が30万人を下回るが、霞ケ関 - 神谷町間で303,895人に増加する。その後は各駅で通過人員が大きく減少し、恵比寿 - 中目黒間が190,475人で最も少ない。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "全線開業年度以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "東京メトロが2015年6月から9月までホームページ上において発車メロディ(発車サイン音)に使用する楽曲のリクエストを募集した結果、秋葉原駅のメロディとしてAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」、銀座駅のメロディとして石原裕次郎と牧村旬子の「銀座の恋の物語」がそれぞれ採用され、秋葉原駅では2016年3月31日から、銀座駅では同年4月8日から使用を開始した。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "そのほかの駅については、2020年2月7日から中目黒駅と北千住駅を除く全駅で使用を開始した(中目黒駅と北千住駅では引き続きブザーを使用)。同時に、前述の秋葉原駅と銀座駅のメロディを新規に制作したバージョンに変更している。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "メロディは全てスイッチの制作で、塩塚博、福嶋尚哉、大和優子、松澤健の4名が作曲および編曲を手掛けた。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "東京都は、2020年に開催予定の東京オリンピックまでに霞ケ関駅と神谷町駅の間の虎ノ門地区に新駅を設置する構想を2014年9月に東京都長期ビジョン(仮称)の中間報告にて発表した。同年10月14日には、UR都市機構が新駅整備事業の実施主体となり、東京地下鉄が設計・工事を受託し、供用開始後の運営管理を行うことになった旨の発表がされている。2016年2月8日に虎ノ門新駅(仮称)の起工式が行われ、2020年6月6日に虎ノ門ヒルズ駅として暫定開業、2023年7月15日に拡張工事が完成した。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "広尾駅と上野駅でバリアフリー対応工事、茅場町駅で混雑緩和工事を行う。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "全駅に新型行先案内表示装置を導入し、液晶ディスプレイを用いてフルカラーで表示する。新たに行先駅にナンバリングを表示する。接近時や「○番線は、発車致します」という発車時の放送も更新され、接近時には英語放送が追加された。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "東武鉄道は、『東武グループ中期経営計画2017 - 2020』の中で、「日比谷線直通列車速達性向上の検討」を挙げている。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、2019年3月26日には東武線・東京メトロ日比谷線直通列車における有料着席サービスを2020年度より導入することを発表。同年12月19日に上述の2020年6月6日の虎ノ門ヒルズ駅暫定開業に合わせて、「THライナー」の名称で運行を開始した。", "title": "今後の予定" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "無線式列車制御システムであるCBTCの当線への導入を2023年度に実施する予定である。", "title": "今後の予定" } ]
日比谷線(ひびやせん)は、東京都足立区の北千住駅から目黒区の中目黒駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は2号線日比谷線。 路線名の由来は日比谷公園のある日比谷から。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「シルバー」(#b5b5ac、銀)、路線記号はH。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Tokyo Metro logo.svg|20px|東京地下鉄|link=東京地下鉄]] 日比谷線 |路線色=#b5b5ac |ロゴ=File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg |ロゴサイズ=40px |画像=Tokyo Metro 13000 series at Minami-Senju Station 2019-05-04 (48528352786).jpg |画像サイズ=300px |画像説明=日比谷線で運用される[[東京メトロ13000系電車|13000系]]<br>(2019年5月、[[三ノ輪駅]] - [[南千住駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]] |種類=[[地下鉄]] |路線網=[[東京地下鉄|東京メトロ]] |起点=[[北千住駅]] |終点=[[中目黒駅]] |駅数=22駅<ref name="metro2" /> |輸送実績=2,391,622千[[輸送量の単位|人キロ]]<small>(2019年度)<ref name="passenger numbers">{{Cite web|和書|url= https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19qa041401.xls|title=東使用京都統計年鑑(平成31年・令和元年)/運輸|format=XLS|publisher=[[東京都]]|accessdate =2021-07-31}}</ref></small> |1日利用者数= |路線記号=H |路線番号=2号線 |路線色3={{Legend2|#b5b5ac|シルバー}} |開業=[[1961年]][[3月28日]] |全通=[[1964年]][[8月29日]] |休止= |廃止= |所有者=[[東京地下鉄]] |運営者=東京地下鉄 |車両基地=[[千住検車区]]・[[千住検車区竹ノ塚分室]]<br/>[[南栗橋車両管区#春日部支所|南栗橋車両管区春日部支所]](東武車) |使用車両=[[東京メトロ13000系電車|13000系]] 7両編成<br/>[[東武70000系電車|東武70000系]] 7両編成 |路線距離=20.3&nbsp;[[キロメートル|km]]<ref name="metro2" /> |軌間=1,067&nbsp;[[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])<ref name="metro2">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211017105609/http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|title=令和3年度 地下鉄事業の現況|work=7.営業線の概要|date=2021-10|archivedate=2021-10-17|accessdate=2021-10-17|publisher=[[日本地下鉄協会|一般社団法人日本地下鉄協会]]|format=PDF|language=日本語|pages=3 - 4|deadlinkdate=}}</ref> |線路数=[[複線]] |複線区間=全区間 |電化方式=[[直流電化|直流]]1500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])<ref name="metro2" /> |最大勾配=39&nbsp;[[パーミル|‰]]<ref name="Hibiya-Const486">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.486。</ref><br>(南千住 - 三ノ輪間<ref name="Hibiya-Const486"/>) |最小曲線半径=126.896&nbsp;[[メートル|m]]<ref name="Hibiya-Const486"/><br>(日比谷→霞ケ関間・A線(内側)<ref name="Hibiya-Const486"/>) |閉塞方式=速度制御式 |保安装置=[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車運転装置|ATO]] |最高速度=80&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2" /><ref name="judan">{{Cite book|和書|author=小佐野カゲトシ|title=日本縦断! 地下鉄の謎|date=2016-12-09|language=日本語|isbn=9784408112015|publisher=[[実業之日本社]]}}</ref> |路線図= [[File:日比谷線案内.png|300px]]<br />(虎ノ門ヒルズ駅開業前) }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#b5b5ac}} {{BS-table}} <!-- 経路図の横幅を狭く保つため、一行を全角12文字(キロ程除く、インライン画像は1文字換算)以下に押さえています。加筆の際にはご配慮下さい --> {{BS3|||hCONTg|||[[東急電鉄|東急]]:[[東急東横線|東横線]]({{stn|横浜}}方面)|}} {{BS3||hSTR+l|hABZgr}} {{BS3||hBHF|O2=HUBaq|hBHF|O3=HUBeq|0.0|H-01 [[中目黒駅]] {{rint|tokyo|ty}}||}} {{BS3||htSTRa|hCONTf|||東急:東横線({{stn|渋谷}}方面)|}} {{BS|tBHF|1.0|H-02 [[恵比寿駅]] {{rint|ja|eyt}} {{rint|ja|esk}} {{rint|ja|ess}}|}} {{BS|tBHF|2.5|H-03 [[広尾駅]]||}} {{BS|tBHF|4.2|H-04 [[六本木駅]] {{rint|tokyo|e}}||}} {{BS|tBHF|5.7|H-05 [[神谷町駅]]||}} {{BS|tBHF|6.2|H-06 [[虎ノ門ヒルズ駅]]||}} {{BS|tSTR|||([[虎ノ門駅]] {{rint|tokyo|g}})|}} {{BS|tBHF|7.0|H-07 [[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]] {{rint|tokyo|m}} {{rint|tokyo|c}}||}} {{BS3||tSTR|tCONTl+f|||東京メトロ:[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]({{stn|和光市}}方面)|}} {{BS3||KBL2|O2=tBHF|BLc3|O3=tSTR|8.2|H-08 [[日比谷駅]] {{rint|tokyo|c}} {{rint|tokyo|i}}||}} {{BS3||tSTR|O2=BLc1|KBL4|O3=tBHF|||([[有楽町駅]] {{rint|tokyo|y}} {{rint|ja|ekt}} {{rint|ja|eyt}})|}} {{BS3||KBL2|O2=tBHF|tSTR|O3=BLc3|8.6|H-09 [[銀座駅]] {{rint|tokyo|g}} {{rint|tokyo|m}}||}} {{BS3||tSTR|O2=BLc1|KBL4|O3=tBHF|||([[銀座一丁目駅]] {{rint|tokyo|y}})|}} {{BS3||tBHF|tSTR|9.0|H-10 [[東銀座駅]] {{rint|tokyo|a}}||}} {{BS3||KBL2|O2=tBHF|tSTR|O3=BLc3|9.6|H-11 [[築地駅]]||}} {{BS3||tSTR|O2=BLc1|KBL4|O3=tBHF|||([[新富町駅]] {{rint|tokyo|y}})|}} {{BS3|tCONTgq|tKRZt|tSTRr|||東京メトロ:有楽町線({{stn|新木場}}方面)|}} {{BS|tBHF|10.6|H-12 [[八丁堀駅]] {{rint|ja|eky}}||}} {{BS|tBHF|11.1|H-13 [[茅場町駅]]|{{rint|tokyo|t}}|}} {{BS|tKRZW|||[[日本橋川]]|}} {{BS|tBHF|12.0|H-14 [[人形町駅]] {{rint|tokyo|a}}||}} {{BS|tSTR|||([[水天宮前駅]] {{rint|tokyo|z}})|}} {{BS|tBHF|12.6|H-15 [[小伝馬町駅]]||}} {{BS3|WASSERq|O1=tSTRc2|tSTR3|O2=WASSERq|WASSERq|||[[神田川 (東京都)|神田川]]|}} {{BS5||tSTR+1|tSTRc4|hCONTg||||JR東日本:[[東北本線#東京地区の電車特定区間|東北本線]]({{stn|東京}}方面)|}} {{BS5||tBHF|O2=HUBaq|tKBHFa|O3=HUBq|hBHF|O4=HUBeq||13.5|H-16 [[秋葉原駅]] {{rint|ja|ekt}} {{rint|ja|eyt}} {{rint|ja|ecs}} [[File:Tsukuba Express mark.svg|15px|首都圏新都市鉄道|link=首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]||}} {{BS5||tSTR|tSTR|hSTR||||([[岩本町駅]] {{rint|tokyo|s}})|}} {{BS5||BLaq|O2=tBHF|BLq|O3=tSTR|BLeq|O4=hBHF||14.5|H-17 [[仲御徒町駅]]|([[御徒町駅]] {{rint|ja|ekt}} {{rint|ja|eyt}})|}} {{BS5|tSTR+l|tKRZto|tSTRr|hSTR||||([[上野広小路駅]] {{rint|tokyo|g}}・[[上野御徒町駅]] {{rint|tokyo|e}})|}} {{BS5|tSTR|tBHF|O2=HUBaq|HUBq|hBHF|O4=HUBeq||15.0|H-18 [[上野駅]] {{rint|ja|新幹線|東北}} {{rint|tokyo|g}} {{rint|ja|eun}} {{rint|ja|ejr}} {{rint|ja|ekt}} {{rint|ja|eyt}}||}} {{BS5|tLSTR|tSTR2|tSTRc3|hLSTR||||([[京成上野駅]] {{rint|tokyo|ks|link=京成本線}})|}} {{BS5||tSTRc1|tSTR+4|hABZgl|hCONTfq|||JR東日本:東北本線({{stn|大宮|埼玉県}}方面)|}} {{BS5|||tBHF|hSTR2|hSTRc3|16.2|H-19 [[入谷駅 (東京都)|入谷駅]]||}} {{BS5|tLSTR||tBHF|hSTRc1|hSTR+4|17.4|H-20 [[三ノ輪駅]] {{rint|tokyo|toden|arakawa}}||}} {{BS5|tSTRl|tSTRq|htSTRe@f|O3=tSTRq|tSTR+r|hHST|||[[三河島駅]]|}} {{BS5|||hBHF|O3=HUBaq|tBHF|O4=HUBq|hBHF|O5=HUBeq|18.2|H-21 [[南千住駅]] {{rint|ja|ejr}} [[File:Tsukuba Express mark.svg|15px|首都圏新都市鉄道|link=首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]||}} {{BS5||KDSTaq|hABZgr|htSTRe|hSTR||[[千住検車区]]||}} {{BS5||WASSERq|hKRZW|hKRZW|hKRZW|||[[隅田川]]|}} {{BS5||hSTRq|hKRZhu|hKRZhu|hKRZhu|||[[京成本線]]|}} {{BS5||hCONTg|hSTR|hSTR|hSTR|||[[東武鉄道|東武]]:[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]({{stn|浅草}}方面)|}} {{BS5||hBHF|O2=HUBaq|hBHF|O3=HUBq|hBHF|O4=HUBq|hBHF|O5=HUBeq|20.3|H-22 [[北千住駅]] {{rint|tokyo|c}} {{rint|ja|ejr}} {{rint|tokyo|ts}} [[File:Tsukuba Express mark.svg|15px|首都圏新都市鉄道|link=首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]||}} {{BS5||hABZg+l|hSTRr|hSTR|hSTR||||}} {{BS5||hKRZW|WASSERq|hKRZW|hKRZW|||[[荒川 (関東)|荒川]]|}} {{BS5||hLSTR||hSTR|hCONTf|||{{BSsplit|JR東日本:常磐線|(常磐快速線:{{stn|取手}}方面)}}|}} {{BS3|hABZgl|hSTR+re|hCONTf|||{{BSsplit|首都圏新都市鉄道:つくばエクスプレス|({{stn|つくば}}方面)}}|}} {{BS3|hSTR|KDSTe||||[[千住検車区竹ノ塚分室]]|}} {{BS3|hCONTf|||||東武:伊勢崎線({{stn|東武動物公園}}方面)|}} |} |} '''日比谷線'''(ひびやせん)は、[[東京都]][[足立区]]の[[北千住駅]]から[[目黒区]]の[[中目黒駅]]までを結ぶ、[[東京地下鉄]](東京メトロ)が運営する[[鉄道路線]]である。『[[鉄道要覧]]』における名称は'''2号線日比谷線'''。 路線名の由来は経由地である[[日比谷]]から。車体および路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「シルバー」(#b5b5ac、銀)<ref name="color">{{Cite web|和書|url=https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210604113943/https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|title=東京メトロ オープンデータ 開発者サイト|archivedate=2021-06-04|accessdate=2021-06-04|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、路線記号は'''H'''。 == 概要 == [[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)が[[1957年]](昭和32年)5月18日に、都市計画第4号線の新宿以西(開業当初の[[東京メトロ丸ノ内線|荻窪線]]、現在の[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]])とともに都市計画第2号線(日比谷線)の建設に着手することを決定した<ref name="Marunouchi-Const1-228">[[#Morunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.228 - 230。</ref>。営団地下鉄は[[北千住駅|北千住]] - [[人形町駅|人形町]]間、人形町 - [[虎ノ門駅]]間、虎ノ門 - [[中目黒駅|中目黒]]間(当初計画では虎ノ門駅で銀座線と連絡する予定であったが<ref name="Marunouchi-Const1-228"/>、実際には設けられなかった。現在の[[虎ノ門ヒルズ駅]]とは無関係である)の3区間に分けて建設を行い、当初の建設費用は348億9,300万円を見込んだ<ref name="Marunouchi-Const1-228"/>。[[1959年]](昭和34年)[[5月1日]]に最初の建設工事に着手し<ref name="Hibiya-Const27">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.27。</ref>、[[1961年]](昭和36年)[[3月28日]]に[[南千住駅|南千住]] - [[仲御徒町駅|仲御徒町]]間3.7&nbsp;kmが開業した<ref name="letter20200602" />。 既存の[[東京メトロ銀座線|銀座線]]は建設年度が古く、輸送力は最大でも6両編成2分間隔運転が限度であり、年々増大する輸送需要に対応できなくなることが予想されていた<ref name="Hibiya-Const54-55">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.54 - 55。</ref>。このため、特に[[東急東横線]]からの乗客を[[渋谷駅]]から[[中目黒駅]]経由の日比谷線へと転移させることで、銀座線の混雑緩和を図ることを目的とした<ref name="Hibiya-Const54-55"/>。また、日比谷線を南千住方面から建設したのは、同駅付近に[[日本国有鉄道|国鉄]]から用地を譲り受け、[[車両基地]]を確保するためであった<ref name="Hibiya-Const54-55"/>。 都内の北東の北千住駅から西南の中目黒駅まで、途中[[銀座駅]]を中心として[[上野駅]]・[[秋葉原駅]]・[[日比谷駅]]・[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]・[[六本木駅]]・[[恵比寿駅]]などを経由して結ぶ路線である。北千住駅 - 南千住駅間は、[[隅田川]]を渡るため地上区間になっている(隅田川を横断する地下鉄の中では唯一地上で橋を渡る路線である)。ほとんどの区間が既存の道路下に開削工法で建設されたため、[[交差点]]付近の[[線形 (路線)|平面線形]]は半径200&nbsp;m以下で90度曲がるような急カーブが連続する。基本的には道路の下を通っているものの、カーブのため道路から大きくはみ出す箇所も複数存在する。[[1964年]](昭和39年)の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に全線開通を間に合わせるため、突貫工事で建設された<ref name="letter20200602"/>{{refnest|group="注釈"|日比谷線とほぼ同時期に建設され、押上駅 - 新橋駅間で開業していた[[都営地下鉄浅草線]]は同年、新橋駅 - 大門駅間を開通させたのみで全線開通がオリンピックに間に合わず、開催期間中は工事が休止された。}}。 当初は北千住側から中目黒方面に向かって、順次延伸開業する計画であった<ref name="Hibiya-Con91">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.91 - 92・260 - 265・384 - 395。</ref>。しかし、銀座駅付近には東京都が計画した三原橋 - [[祝田橋]]間(日比谷線東銀座 - 霞ケ関間と重なる)に地下自動車道の建設構想があり、営団地下鉄との間で調整が難航した<ref name="Hibiya-Con91"/>。東京オリンピック開催までに日比谷線全線の開業を間に合わせるため、中目黒方面を先行して施工し、銀座駅付近を最後の施工区間とするよう変更した<ref name="Hibiya-Con91"/>。この調整には当時の[[運輸省]]、[[建設省]]も仲裁に入り、約4年の歳月を経て最終的に営団地下鉄案を基本とすることで合意した<ref name="Hibiya-Con91"/>。銀座駅は1962年(昭和37年)9月に建設工事に着工し、東京オリンピック開催までのわずか2年で施工する突貫工事となり、[[警視庁]]の協力で夜間は三原橋 - 日比谷間の路上交通を止めるなどして完成が急がれた<ref name="Hibiya-Con91"/>。 [[入谷駅 (東京都)|入谷]] - [[秋葉原駅|秋葉原]]付近(延長約2.4&nbsp;km)では日比谷線の上部に[[首都高速道路|首都高速]][[首都高速1号上野線|1号上野線]]が通る計画ができたことから、先に建設した日比谷線のトンネル構築上部には首都高速道路の橋脚が建設できるよう、地中梁を施工した<ref name="Hibiya-Const355-357">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.355 - 357。</ref>。 [[東武鉄道]]および[[東急電鉄|東京急行電鉄]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行うことから、[[軌条]]は1,067&nbsp;mm([[狭軌]])を採用し、集電方式には[[架線|架空電車線]]方式を採用した<ref name="Hibiya-Const483-550">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.483・550 - 555。</ref>。地下区間の電車線には、営団地下鉄が新たに開発した[[剛体架線]]設備を採用しており、断線のおそれがなく、トンネル断面を小さくできて建設費用の低減に繋がるメリットがある<ref name="Hibiya-Const483-550"/>。 現在は、北千住駅から[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)および同線経由で[[東武日光線|日光線]]と相互直通運転を行っている。[[2013年]]([[平成]]25年)3月15日までは、中目黒駅から東急東横線とも相互直通運転を行っていた(後述)<ref group="報道" name="tokyu-release130122" />。 [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月]]をもって東武の乗り入れ車両を含めた20&nbsp;m級車両への置き換えが完了し<ref name="yurakucho-l" />、同年度から順次[[ホームドア]]設置工事を実施している<ref name="metroplan2018">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201201091950/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf|title=東京メトログループ中期経営計画 東京メトロプラン2018 〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜|pages=14 - 15|archivedate=2020-12-01|accessdate=2021-01-30|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 [[1995年]](平成7年)に起きた同時多発テロ事件である[[地下鉄サリン事件]]では、日比谷線は[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]とともに被害を受けた。 東京の地下鉄で起点と終点である両端の駅が地上駅となっているのは当路線と[[東京メトロ東西線|東西線]]、千代田線のみである。また、両端の駅が他社の管轄になっているのも[[東京メトロ副都心線|副都心線]]と共に数少ないケースである{{refnest|group="注釈"|副都心線の終点のひとつである[[和光市駅]]は[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]との共同路線として使用しており、駅の管轄は東武鉄道が行っている。また、[[中目黒駅]]では2013年3月16日から日比谷線と[[東急東横線]]との相互直通運転を廃止したが、対面乗り換えできるホームの特性と駅舎や構内に変化がないことから引き続き東急電鉄の管轄となっている。}}。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):20.3&nbsp;[[キロメートル|km]](うち地上部:2.9&nbsp;km)<ref name="metro2" /> * [[軌間]]:[[3フィート6インチ軌間|1,067&nbsp;mm]]<ref name="metro2" /> * 駅数:22駅(起終点駅含む)<ref name="metro2" /> * 複線区間:全線 * 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500&nbsp;V、[[架空電車線方式]])<ref name="metro2" /> * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:速度制御式([[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]) * [[列車無線]]方式:[[誘導無線]] (IR) 方式 * 最高速度:80&nbsp;km/h<ref name="metro2" /><ref name="judan" /> * 平均速度:33.9&nbsp;km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * [[表定速度]]:27.1&nbsp;km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * 全線所要時分:45分00秒(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * 最急勾配:39&nbsp;[[パーミル|‰]]<ref name="Hibiya-Const486"/>(南千住駅 - 三ノ輪駅間<ref name="Hibiya-Const486"/>) ** この急勾配区間は半径160&nbsp;mの曲線地点にあり、走行する列車には44&nbsp;‰勾配相当の抵抗がかかる<ref name="Hibiya-Const675">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.675。</ref>。 ** 本線ではないが、南千住駅から千住車両基地への入出庫線には、40&nbsp;‰の勾配がある<ref name="Hibiya-Const329">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.329。<!--p.658にある「4/1000の勾配」は、「40/1000の勾配」の誤記であると思われる。--></ref> * 最小曲線半径:126.896&nbsp;m<ref name="Hibiya-Const486"/>(日比谷→霞ケ関間・A線(内側)<ref name="Hibiya-Const486"/>) ** 茅場町→人形町・東銀座→築地・六本木→神谷町間のB線(内側)にも127.044&nbsp;mの急曲線がある<ref name="Hibiya-Const486"/>。曲線の外側も131&nbsp;mの急曲線である<ref name="Hibiya-Const486"/>。 * [[車両基地]]:[[千住検車区]]・[[千住検車区竹ノ塚分室]](東武伊勢崎線内) * 工場:[[鷺沼車両基地#鷺沼工場|鷺沼工場]]([[東急田園都市線]]内) * 地上区間:北千住駅 - 三ノ輪駅付近(約2.63&nbsp;km{{Refnest|group="注釈"|付図「別図 日比谷線線路平面図および縦断面図(北千住・仲御徒町間)」では「北千住駅は北千住起点&nbsp;&minus;<!--マイナス-->0&nbsp;K090&nbsp;M」・「南千住駅は南千住起点0&nbsp;K420&nbsp;M」と書かれている<ref name="Hibiya-Const254-255">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.254 - 255。</ref>。すなわち、北千住 - 南千住駅間の距離は2.098&nbsp;km (2.1&nbsp;km) である(重層化工事前)。「南千住→三ノ輪のトンネル坑口は955 M」、南千住駅中心からトンネル坑口までの地上区間は535&nbsp;m、坑口から三ノ輪駅駅中心までの地下区間は253&nbsp;mである。}})・中目黒駅付近(310&nbsp;m{{Refnest|group="注釈"|付図「図113 中目黒駅付近一般図(その1)」では「トンネル坑口18 K290 M00」・「中目黒駅中心は南千住起点18K600 M00」と書かれており、地上区間は310&nbsp;mである<ref name="Hibiya-Const438-439">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.438 - 439。</ref>。}}) === 地上区間 === 北千住 - 南千住付近は高架の地上区間であるが、当初は地下式とする案もあった<ref name="Hibiya-Con255">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.255 - 258・321 - 327。</ref>。しかし、当時の北千住駅には[[日本国有鉄道|国鉄]]・東武の貨物側線が多数あり、[[軟弱地盤]]地帯でこれらの線路を仮受けして掘削することは、難工事になることが予想された<ref name="Hibiya-Con255"/>。また[[隅田川]]の横断には橋梁方式か地下方式があるが、地下方式には多額の費用を要するが、北千住 - 南千住間では国鉄から地上線用地を取得することができたため、経済的に有利な橋梁方式となった<ref name="Hibiya-Con255"/>。 南千住駅付近には[[日光街道]]と国鉄[[常磐線|隅田川貨物線]]の[[平面交差]]([[踏切]])があり、将来的に東京都は道路を地下化して立体交差とする計画があり、日比谷線を地下方式とする場合には地下8&nbsp;m以下とすることが求められた<ref name="Hibiya-Con255"/>。この付近も軟弱地盤地帯であり、さらに[[隅田川駅|隅田川貨物駅]]の側線群の地下を掘削することは技術的に困難であると予想された<ref name="Hibiya-Con255"/>。これら理由から、北千住 - 南千住間は地上区間とし、日光街道を超える付近までは高架線とする現在の構造となった<ref name="Hibiya-Con255"/>。 日比谷線の隅田川橋梁は、常磐線隅田川橋梁のすぐ下流にあり、営団地下鉄として初めての本格的な橋梁工事であった<ref name="Hibiya-Con255"/>。橋梁は支間65.5&nbsp;mの2径間連続複線下路[[トラス橋|ワーレントラス橋]]で、製作は横河橋梁製作所(現・[[横河ブリッジ]])、延長131&nbsp;m・重量は約390&nbsp;tである<ref name="Hibiya-Con255"/>。 === 地下区間 === トンネル区間は、大部分は[[トンネル#開鑿(開削)工法|開削工法]]によって建設している<ref name="Hibiya-Con295">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.295 - 296。</ref>。ただし、[[軟弱地盤]]である[[日比谷]]地区や河川下横断箇所は安全性に配慮した、[[ケーソン|潜函工法]](ニューマチック・ケーソン工法)採用した<ref name="Hibiya-Con295"/>。茅場橋横断部、中ノ橋横断部は、橋梁を避けるためにトンネルを迂回させている<ref name="Hibiya-Con373"/>。 :人形町 - 茅場町間 :* 中央区[[日本橋人形町]]1丁目、民有地の地下を半径130&nbsp;mの急曲線で通過する区間<ref name="Hibiya-Con366">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.366 - 372。</ref>。当初計画では潜函5函を沈下させる予定であったが、そのうち2函を開削工法(イコス工法:地下連続壁工法の原型)での施工に変更、実際には3函を沈設<ref name="Hibiya-Con366"/>。 :* [[日本橋川]]に架かる茅場橋横断部、潜函4函を沈下(茅場橋潜函、延長89 m)<ref name="Hibiya-Con373">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.373 - 378。</ref> :八丁堀 - 築地間 :* [[桜川 (東京都)|桜川]](廃止)に架かる中ノ橋横断部、潜函4函を沈下(中ノ橋潜函、延長87 m)<ref name="Hibiya-Con373"/> :* [[築地川]](廃止)の東分流に架かる入船橋横断部、潜函6函を沈下(入船橋潜函、延長126 m)<ref name="Hibiya-Con373"/> :日比谷駅とその前後 :* [[晴海通り]]([[東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線|都道304号]])[[日本劇場]]前(現在は[[有楽町センタービル]])から日比谷駅構築を含む日比谷交差点までの279.0&nbsp;mの区間<ref name="Hibiya-Con401">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.401 - 404。</ref>。地上部は交通量の激しい道路となることから、道路覆工下に潜函(ケーソン)を構築し、沈設と構築を継ぎ足しながら沈設する路下式ケーソン工法とした<ref name="Hibiya-Con401"/><ref name="DOBOKU1965-7">土木技術社『土木技術』1965年7月号「地下鉄2号線の路下式潜函工法 - 日比谷1工区の土木工事 - 」pp.89 - 101。</ref>。 :* 発注元の営団地下鉄からは潜函工法(ケーソン工法)の採用と[[1964年東京オリンピック]]の開催に間に合わせることが絶対条件とされた<ref name="Hibiya-Con401"/><ref name="Hazamagumi-100th-Picture82">間組『間組百年史 1945-1989 写真編』「地下鉄日比谷線日比谷駅」pp.82 - 83。</ref>。このため、工事請負元の[[間組]](現・[[安藤・間|安藤ハザマ]])はケーソンを約10 m間隔で構築し、沈設後にケーソン間を開削工法にてトンネルを構築する「間抜きケーソン工法」を使用した<ref name="Hazamagumi100th-464">間組『間組百年史 1945 - 1989』「3 営団地下鉄日比谷線(2号線)工事」p.464。</ref><ref name="DOBOKU1965-7"/><ref group="注釈">一般的な工区全てを潜函工法(ケーソン工法)で構築する方法では、1964年東京オリンピックの開催までに間に合わない。</ref>。この工法は実績がなく、発注元の営団地下鉄は当初難色を示したが、間組によって成功を収め<ref name="Hazamagumi100th-464"/>、その後の地下鉄工事でも採用される工法となった<ref name="Hazamagumi-100th-Picture82"/>。各潜函は、地下3階部が日比谷線軌道または日比谷駅(停留場)、地下2階はコンコース、地下1階は日比谷地下自動車道(銀座→[[祝田橋]]への一方通行)と[[共同溝]]となっている<ref name="DOBOKU1965-7"/>。 :** 国鉄第一有楽架道橋下([[東海道本線]]・[[京浜東北線]]・[[山手線]]架道橋) - 潜函第一有楽架道橋下型 特潜1・2号(幅10.59 m・長さ30 m・28 m) :** 日比谷駅 - 日比谷停留場型 潜函8函(幅18.9 m・長さ10.5 - 13.0 m)、各潜函間は開削工法<ref name="DOBOKU1965-7"/> :** 日比谷交差点地下 - 将来計画線立体交差型 特潜3・4号(幅18.9 m・延長10.24 m・10.10 m)地下3階部は日比谷線、地下2階部は計画線であった9号線([[東京メトロ千代田線|千代田線]])・6号線([[都営地下鉄三田線|都営三田線]])の交差部を構築<ref name="DOBOKU1965-7"/> :日比谷 - 霞ケ関間 :* 晴海通り(都道304号)の[[日比谷公園]]入口付近からから法曹会館前までの約430&nbsp;mの区間、最大長さ31.25&nbsp;mの潜函を15函沈下(路上式または道路覆工下に構築する路下式ケーソン)<ref name="Hibiya-Con407">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.407 - 410。</ref>。ただし、祝田橋交差点横断部12.7&nbsp;mは、下水函渠があるため開削工法で施工<ref name="Hibiya-Con407"/>。日比谷交差点寄りの1 - 4号潜函には日比谷地下自動車道と共同溝が併設 === 建設費用 === 本路線の建設費用は総額635億6,000万円である(1966年6月時点)。内訳は土木関係費が412億3,157万円、電気関係費が41億2,277万9,000円、車両関係費が99億725万7,000円、その他が82億9,839万4,000円となっている<ref name="Hibiya-Const14-171">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.14・171 - 175。</ref>。 ただし、[[1967年]](昭和42年)6月に営団地下鉄は日比谷線全線8両編成化に伴う輸送力増強計画を策定しており、この費用を建設費用に含めることとされた<ref name="Hibiya-Const14-171"/>。同時点での建設費用の総額は652億4,600万円に改訂された<ref name="Hibiya-Const14-171"/>。なお、実際には計画変更が生じており、1971年(昭和46年)5月時点で全線8両編成化を行い、以降の車両数は8両編成38本(304両)となっている(1988年(昭和63年)まで)。 * 第1期計画 ** 1968年(昭和43年)6月を目途に車両6両を増備し、車両数を6両編成39本(234両)とする<ref name="Hibiya-Const14-171"/>。 ** 1971年(昭和46年)5月を目途に車両62両を増備し、車両数を8両編成・6両編成(計296両)とする<ref name="Hibiya-Const14-171"/>。 ** 具体的には北千住 - 茅場町間10駅のホーム延伸工事(8両編成対応化)、車両基地の拡張、[[変電所]]設備の増強を行い、車両費(68両)を含めて52億49万5,000円<ref name="Hibiya-Const14-171"/>。 * 第2期計画(最終計画) ** 車両基地、変電所設備の増強を行い、車両費を含めて46億6,000万円<ref name="Hibiya-Const14-171"/>。日比谷線の車両は136両増備して、8両編成54本(432両)とする<ref name="Hibiya-Const14-171"/>。ただし、日比谷線輸送力増強計画の費用は、第1期計画のみ建設費用に計上することとした<ref name="Hibiya-Const14-171"/>。 === 路線免許 === 日比谷線の路線免許は、[[東京都区部|東京23区]]の前身にあたる[[東京市]]が[[戦前]]に計画した東京市営地下鉄6路線に遡(さかのぼ)り、[[大正14年内務省告示第56号]]に基づいて[[1925年]]([[大正]]14年)[[5月16日]]に取得したものである<ref name="Marunouchi-Const1-19">[[#Morunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.19 - 24。</ref>。このうち現在の日比谷線にあたるのは、当時の第2号線[[目黒駅]] - [[西久保 (東京都港区)|西久保]] - [[皇居外苑|祝田町]] - [[日本橋本石町|本石町]] - [[浅草橋 (台東区)|浅草橋]] - [[田原町駅 (東京都)|田原町]] - [[南千住]]間16.1&nbsp;kmの路線免許である<ref name="Marunouchi-Const1-295">[[#Morunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.295 - 299。</ref>。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線[[渋谷駅|渋谷]] - [[巣鴨駅|巣鴨]]間<ref group="注釈">現在(戦後)の都市計画第3号線(銀座線)とは異なる。</ref> と第5号線[[池袋駅|池袋]] - [[洲崎 (東京都)|洲崎]]間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の[[公債]]があり、財政悪化を懸念した当時の[[内務省 (日本)|内務省]]と[[大蔵省]]の反対があり、許可を得ることができなかった<ref name="Marunouchi-Const1-19"/>。その後、特に建設計画は立てられず[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)が設立され、東京市が所有していたすべての路線免許は[[1941年]](昭和16年)に営団地下鉄へ有償譲渡された<ref name="Marunouchi-Const1-19"/>。 [[終戦]]後、[[戦災復興院]]によって「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、[[1946年]](昭和21年)[[12月7日]]に[[戦災復興院告示第252号]]によって都市計画第2号線は以下のように告示・改訂した<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、[[1949年]](昭和24年)[[4月28日]]に起業目論見変更認可を申請し、同年[[5月23日]]に認可を受けた<ref name="Hibiya-Const39">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.39 - 40・48 - 53。</ref>。 * [[祐天寺駅]] - [[恵比寿駅]] - [[愛宕 (東京都港区)|愛宕町]] - [[虎ノ門]] - [[永田町]] - [[九段|九段上]] - [[神田駅 (東京都)|神田駅]] - [[浅草橋駅]] - 田原町 - [[三ノ輪|三ノ輪町]] - [[北千住駅]]および分岐線として浅草橋駅 - [[錦糸町駅]]に至る23.8&nbsp;kmの路線<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>{{Refnest|group="注釈"|別図74に詳しい経由地が記載されている<ref name="Marunouchi-Const1-298-74">[[#Morunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.298 - 299。</ref>。}}。 その後、[[都市交通審議会答申第1号]]に基づいて、[[1957年]](昭和32年)[[6月17日]]に告示された建設省告示第835号により、都市計画第2号線は経由地を皇居の西側を通る前述のルートから、皇居の東側を通る現在の日比谷線北千住 - [[中目黒駅|中目黒]]のルートに改訂され、分岐線は廃止された<ref name="Hibiya-Const39"/>。 これを受け、営団地下鉄は1957年(昭和32年)[[6月18日]]に第2号線(日比谷線)の起業目論見変更認可申請と地方鉄道敷設免許の申請を行った<ref name="Hibiya-Const39"/>。起業目論見変更認可申請は、1949年(昭和24年)5月に起業目論見変更認可を受けていた免許経路のうち、恵比寿 - 南千住間の経路を1957年(昭和32年)に改訂した経路に改めるものと、[[軌間]]を1,435&nbsp;mm([[標準軌]])から直通運転に対応した1,067&nbsp;mm([[狭軌]])に変更する申請である<ref name="Hibiya-Const39"/>。これは1957年(昭和32年)8月13日に認可された<ref name="Hibiya-Const39"/>。 前記に含まれない(取得をしていない)恵比寿 - 中目黒間および南千住 - 北千住間の路線免許は、[[運輸大臣]]に免許申請を行い、[[1958年]](昭和33年)3月1日に路線免許を取得した(すなわち、現在の日比谷線北千住 - 中目黒間全線の路線免許を取得)<ref name="Hibiya-Const39"/>。 [[1972年]](昭和47年)[[3月1日]]の[[都市交通審議会答申第15号]]では終点が'''[[獨協大学前駅|松原団地]]'''<!--答申文には「駅」は付かない-->に改められ、[[北千住駅|北千住]]以北は'''[[東武伊勢崎線]]を[[複々線]]化'''することとされた<ref name="Tozai-Const208">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.208 - 216。</ref>。その後、[[1985年]](昭和60年)の[[運輸政策審議会答申第7号]]では[[竹ノ塚駅]] - [[北越谷駅]]間の東武線複々線化が示されている<ref name="Yurakucho1198">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.1198。</ref>。 == 沿革 == * [[1925年]]([[大正]]14年) ** [[3月30日]]:内務省より「東京都市計画高速度交通機関路線」の改訂が行われ、都市計画第2号線は目黒駅 - 南千住間として告示される<ref name="Hibiya-Const207-236">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.207 - 236。</ref>。 ** [[5月6日]]:東京市は前述の告示に基づいて都市計画第2号線ほかの路線免許申請を行い、[[5月16日]]に取得する<ref name="Hibiya-Const207-236"/>。 * [[1941年]]([[昭和]]16年)[[9月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、東京市が所有していた都市計画第2号線の路線免許は営団地下鉄に譲渡される<ref name="Hibiya-Const207-236"/>。 * [[1946年]](昭和21年)[[12月7日]]:戦災復興院より「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、都市計画第2号線は祐天寺駅 - 北千住駅間・浅草橋駅 - 錦糸町駅間の路線として告示される<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。 * [[1957年]](昭和32年) ** [[5月18日]]:営団地下鉄が都市計画第2号線(日比谷線)の建設計画を決定<ref name="Marunouchi-Const1-228"/>。 ** [[6月17日]]:都市交通審議会答申第1号に基づいた告示により、都市計画第2号線は経由地を現在の日比谷線北千住 - 中目黒のルートに改訂し、分岐線を廃止する<ref name="Hibiya-Const39"/>。 ** [[9月24日]]:日比谷線開業後に相互直通運転することを3事業者(営団・東武・東急)の合意とする([[覚書]]を取り交わす)<ref name="Hibiya-Const41">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.41 - 44。</ref>。 * [[1958年]](昭和33年) ** [[3月1日]]:日比谷線北千住 - 中目黒間全線の路線免許を取得完了(前述記事参照)<ref name="Hibiya-Const39"/>。 ** [[6月10日]]:用地交渉を開始<ref name="Hibiya-Const693">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.693。</ref>。 * [[1959年]](昭和34年)[[5月1日]]:建設工事に着手<ref name="Hibiya-Const27"/>。 * [[1960年]](昭和35年) ** 4月:[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]が東京で開催することが決定したため、全線の開業予定をオリンピック開催前とする<ref name="Hibiya-Const76">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.76。</ref>。 ** [[10月21日]]:2号線を日比谷線と呼称決定<ref name="Hibiya-Const78">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.78。</ref>。 * [[1961年]](昭和36年)[[3月28日]]:南千住駅 - 仲御徒町駅間 (3.7&nbsp;km) 開業<ref name="letter20200602">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709092642/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|title=東京メトロニュースレター第78号 >「日比谷線の歩み」編|archivedate=2020-07-09|date=2020-06-02|page=2|accessdate=2020-07-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref name="Hibiya-Const78"/>。[[営団3000系電車|3000系]]2両編成を使用して、朝夕混雑時4分間隔、日中は6分間隔で運転した<ref name="Hibiya-Const78"/>。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[4月16日]]・17日:[[自動列車運転装置]] (ATO) 公開試験運転を実施<ref name="Hibiya-Const126">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.126。</ref>。 ** [[5月31日]]:北千住駅 - 南千住駅間 (2.1&nbsp;km) および仲御徒町駅 - 人形町駅間 (2.5&nbsp;km) 開業<ref name="letter20200602"/><ref name="Hibiya-Const113">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.113。</ref>。[[東武伊勢崎線]][[北越谷駅]]まで相互直通運転開始<ref name="Hibiya-Const113"/>。この時点から4両編成となり、朝夕混雑時4分間隔、日中は5分間隔で運転した<ref name="Hibiya-Const113"/>。 * [[1963年]](昭和38年)[[2月28日]]:人形町駅 - 東銀座駅間 (3.0&nbsp;km) 開業<ref name="letter20200602"/>。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[3月25日]]:霞ケ関駅 - 恵比寿駅間 (6.0&nbsp;km) 開業<ref name="letter20200602"/><ref name="Hibiya-Const136">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.136。</ref>。 ** [[7月22日]]:恵比寿駅 - 中目黒駅間 (1.0&nbsp;km) 開業<ref name="letter20200602"/><ref name="Hibiya-Const157">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.157 - 159。</ref>。この時点から一部6両編成での運転を開始した<ref name="Hibiya-Const157"/>。 ** [[8月29日]]:東銀座駅 - 霞ケ関駅間 (1.9&nbsp;km) 開業により全線開通<ref name="letter20200602"/><ref name="Hibiya-Const157"/>。[[東急東横線]][[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]まで相互直通運転開始<ref name="Hibiya-Const157"/><ref name="RP608_84" /><ref name="RP608_194-203" />。この時点では6両または4両編成で運行し、朝夕混雑時3 - 4分間隔、日中は4分間隔で運転した<ref name="Hibiya-Const157"/>。 ** [[9月8日]]:南千住駅 - 人形町駅間で自動列車運転装置 (ATO) の使用を開始<ref name="eidan583">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.583。</ref>。 * [[1966年]](昭和41年)[[9月1日]]:全列車を6両編成の運転とする<ref name="Tozai-Const124">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.124。</ref>。東武伊勢崎線への乗り入れ区間を[[北春日部駅]]まで延長<ref name="RP608_84">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=営団地下鉄 思い出の路線風景|journal=鉄道ピクトリアル|date=1995-07-10|volume=45|issue=第7号(通巻608号)|page=84|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref><ref name="RP608_194-203" /><ref name="Tozai-Const124"/>。 * [[1968年]](昭和43年)[[1月27日]]:[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故|神谷町駅 - 六本木駅間で車両火災事故]]が発生<ref name="eidan586">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.586。</ref><ref group="新聞">{{Cite news|title=「燃えない地下鉄」この通り 日比谷線の火事 ラッシュなら大惨事 &#8220;不燃&#8221;を過信、処置遅れる|newspaper=読売新聞|date=1968-01-28|publisher=読売新聞社|page=15}}</ref>。以後鉄道車両の[[地下鉄対応車両|不燃化対策]]が強化される。 * [[1970年]](昭和45年) ** 7月:[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]を導入(日比谷線はシルバー)<ref name="eidan50_285">[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、pp.285 - 288。</ref>。なお、それ以前は路線図において紫色で表示されていた<ref name="Hibiya-Constmap">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、付属地図。</ref>。 ** [[10月7日]]:全線で自動列車運転装置 (ATO) の使用を開始<ref name="eidan590">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.590。</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[5月31日]]:終日8両編成での運転を開始<ref name="eidan591">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.591。</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)[[11月21日]]:[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#地下鉄日比谷線広尾駅車両火災事故|広尾駅で車両火災]]<ref group="新聞">{{Cite news|title=地下の足連日&#8220;迷惑&#8221; 車両火噴き猛煙 日比谷線広尾ー六本木 乗客は避難、大混雑|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=1972-11-21|page=11(夕刊)}}</ref>。 * [[1981年]](昭和56年)[[3月16日]]:東武伊勢崎線への乗り入れ区間を[[東武動物公園駅]]まで延長<ref name="eidan599">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.599。</ref>。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[6月1日]]:車両冷房の運用を開始<ref name="eidan605">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.605。</ref>{{refnest|group="注釈"|当初は乗り入れ東武鉄道20000系のみ。}}。 ** [[7月1日]]:[[営団03系電車|03系]]車両営業運転開始<ref name="eidan606">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.606。</ref>。同年には[[東武20000系電車|東武20000系]]・[[東急1000系電車|東急1000系]]の営業運転もそれぞれ開始され、3事業者揃って新型車両への代替が始まる。 ** [[8月9日]]:03系2編成の増備を反映したダイヤ改正を実施<ref name="Yurakucho324" />。朝ラッシュ時の運転間隔を2分15秒(1時間あたり27本)から2分10秒(1時間あたり28本)に増発<ref name="Yurakucho324">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.324 - 326。</ref>。東急東横線日吉駅の改良工事に伴って同駅南側([[桜木町駅|桜木町]]方)の引き上げ線が一時的に撤去されるのに伴い、東急東横線への乗り入れ区間を[[菊名駅]]まで延長<ref name="eidan606" /><ref name="Yurakucho324" />。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[8月19日]]:土曜日ダイヤを導入<ref name="eidan607">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.607。</ref>。 * [[1990年]](平成2年)[[9月17日]]:03系5扉試作車の営業運転を開始<ref name="eidan608">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.608。</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=乗り降りスムーズに 営団日比谷線 5扉車来月17日デビュー |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-08-31 |page=4 }}</ref>。 * [[1991年]](平成3年)[[11月]]:東急東横線日吉駅の改良工事完成に伴い、東急東横線への乗り入れ区間を日中のみ日吉駅までに変更し、菊名駅への乗り入れは朝夕ラッシュ時のみとなる。 * [[1992年]](平成4年)[[6月16日]]:[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線衝突事故|中目黒駅引上線で衝突事故]]発生<ref name="eidan611">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.611。</ref><ref group="新聞">{{Cite news|title=出入庫の電車が衝突し脱線 地下鉄日比谷線|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=1992-06-16|page=18(夕刊)}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年)[[7月23日]]:3000系車両が引退<ref name="RP608_194-203">{{Cite journal|和書|author=齊藤和夫(メトロ車両事業部)|title=3000系の誕生から終焉、そして現在|journal=鉄道ピクトリアル|date=1995-07-10|volume=45|issue=第7号(通巻608号)|pages=194 - 203|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref><ref group="新聞" name="koutuu19940714">{{Cite news|title=営団3000系 22日に引退 さよなら「マッコウクジラ」<!--23日にさよなら体験ツアーがあり-->|newspaper=交通新聞|date=1994-07-14|publisher=交通新聞社|page=3}}</ref>。全車両が冷房車両となる<ref>{{Cite journal|和書|author=岸上明彦・焼田健|title=東京地下鉄 現有車両プロフィール&データファイル2005|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=207|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref group="注釈">乗り入れ車両を含む。</ref>。 * [[1995年]](平成7年)[[3月20日]]:[[地下鉄サリン事件]]発生<ref name="eidan271-279">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.271 - 279。</ref>。当線は、[[神谷町駅]]、[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]、[[築地駅]]、[[小伝馬町駅]]など、営団路線の中で最も大きな被害が発生し、終日運休となった<ref name="eidan271-279" />。 * [[1996年]](平成8年)7月23日:北千住駅の改良工事の大部分が完成し、日比谷線の発着は1階の東武線ホームから3階のホームに分離される(全体の完成は1997年3月25日)<ref name="eidan616-617">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.616 - 617。</ref><ref group="報道" name="pr19961128">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/kitasenjyu2.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19970802233924/http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/kitasenjyu2.html|language=日本語|title=着々と進む北千住駅大改良工事 12月11日(水)から日比谷線・東武日比谷線相互直通ホームが2面3線に 都心方向への発車ホームは6・7番線を使用|publisher=東武鉄道/営団地下鉄|date=1996-11-28|accessdate=2021-01-29|archivedate=1997-08-02}}</ref><ref group="報道" name="pr19970318">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/senjyu.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19970802233742/http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/senjyu.html|language=日本語|title=3月25日(火)に北千住駅改良工事が完成 より一層のサービス向上をめざし同日からダイヤ改正も実施|publisher=東武鉄道/営団地下鉄|date=1997-03-18|accessdate=2021-01-29|archivedate=1997-08-02}}</ref>。 * [[1997年]](平成9年)[[10月12日]]:営団地下鉄で初のイベント列車「ドリームエクスプレス'97」が東急東横線日吉駅 - 霞ケ関駅間で往復運行される(なお、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]や[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]でも同様のイベントが同時に行われた)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/97-sp.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630203159/http://www.tokyometro.go.jp/news/97-sp.html|language=日本語|title=4社共同「鉄道の日」記念列車 “ドリームエクスプレス'97”を運転|publisher=営団地下鉄/小田急電鉄/東京急行電鉄/東武鉄道|date=1997-08-27|accessdate=2021-04-30|archivedate=1998-06-30}}</ref>。 * [[2000年]](平成12年) ** [[3月8日]]:中目黒駅付近で[[列車脱線事故]]([[営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故]])発生、5人が死亡した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/owabi.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000510094718/http://www.tokyometro.go.jp/owabi.html|language=日本語|title=お詫び|publisher=営団地下鉄|date=2000-03-17|accessdate=2020-05-02|archivedate=2000-05-10}}</ref><ref name="eidan279-281">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.279 - 281。</ref>。営団時代に発生した事故の中で唯一、乗客に死者が出た事故である。 ** [[12月12日]]:仲御徒町駅と[[東京メトロ銀座線|銀座線]][[上野広小路駅]]との連絡業務を開始<ref group="報道" name="pr20001115">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-16.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011220061326/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-16.html|language=日本語|title=平成12年12月12日 営団地下鉄・都営地下鉄連絡普通旅客運賃の変更 営団地下鉄・都営地下鉄共通一日乗車券の発売 日比谷線仲御徒町駅を発着とする一部区間の普通旅客運賃の変更 都営地下鉄通過連絡(営団-都営-営団)定期乗車券発売区間の追加|publisher=営団地下鉄|date=2000-11-15|accessdate=2020-11-16|archivedate=2001-12-20}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)3月28日:東武伊勢崎線北千住駅 - 北越谷駅間の複々線化工事完成および東急東横線の「特急」運転開始に伴うダイヤ改正を実施<ref name="eidan623">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.623。</ref>。東急東横線との相互直通列車の本数が削減される。 * [[2003年]](平成15年) ** [[10月12日]]:保安装置を開業以来使用していた[[自動列車制御装置#地下鉄のATC|WS-ATC]](地上信号式)から新CS-ATC(車内信号式)に切り換え<ref name="eidan627">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.627。</ref>。 ** [[10月18日]]:新ATC化に対応したダイヤ改正を実施<ref group="報道" name="CS-ATS">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-35.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040606221449/https://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-35.html|language=日本語|title=より親しまれる地下鉄を目指して 日比谷線の新CS-ATC化工事が完成いたします。日比谷線のダイヤ改正を行います。平成15年10月18日(土)から|publisher=営団地下鉄|date=2003-10-09|accessdate=2020-05-01|archivedate=2004-06-06}}</ref><ref name="eidan627"/>。最高速度を70&nbsp;km/hから80&nbsp;km/hに引き上げ<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2004-01-01 |title = 鉄道記録帳2003年10月 |journal = RAIL FAN |issue = 1 |volume = 51 |publisher = 鉄道友の会 |page = 19 }}</ref>、一部区間で所要時分が変更<ref group="報道" name="CS-ATS" /><ref name="PICT2005-3-35">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=35|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:[[帝都高速度交通営団]]が民営化し、東京地下鉄(東京メトロ)になる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-05-01|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年) ** [[3月27日]]:平日7時30分から9時まで北千住駅を発車する中目黒方面行き(東武伊勢崎線からの直通列車を含む)で[[女性専用車両|女性専用車]]を導入した<ref group="報道" name="pr20060313">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-11.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718023304/http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-11.html|language=日本語|title=平成18年3月27日(月) 日比谷線で女性専用車両を導入します|publisher=東京地下鉄|date=2006-03-13|accessdate=2020-11-14|archivedate=2017-07-18}}</ref>。運用は中目黒駅まで、9時の時点で一斉終了となる<ref group="報道" name="pr20060313"/>。 ** [[9月25日]]:東急東横線[[元住吉駅]]の高架化に伴い、元住吉検車区に出・入庫する全列車が元住吉発着から[[武蔵小杉駅]]発着に変更となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/060619_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414174734/http://www.tokyu.co.jp/file/060619_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2006年9月25日(月)、東横線・目黒線など5路線でダイヤ改正を実施します 目黒線で急行運転を開始し、目黒〜武蔵小杉間の所要時間を5分短縮 東横線でも武蔵小杉〜日吉間の高架化により日中の所要時間を短縮|publisher=東京急行電鉄|date=2006-06-19|accessdate=2020-11-14|archivedate=2015-04-14}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[8月23日]]:東急東横線のダイヤ改正で[[2008年]][[6月22日]]の目黒線延伸による工事の関係上日吉駅の2・3番ホームが一時使用停止となったため、日中の日吉駅発着列車を菊名駅発着に変更する<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/070725_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201114012330/https://www.tokyu.co.jp/file/070725_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2007年8月23日(木)、東横線・みなとみらい線のダイヤ改正を実施|publisher=東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2007-07-25|accessdate=2020-11-14|archivedate=2020-11-14}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月14日]]:同月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から東武伊勢崎線・東急東横線との相互直通運転が休止される。 ** 3月28日:東武伊勢崎線との相互直通運転が全面的に再開される。 ** [[4月25日]]:東急東横線との相互直通運転が平日の朝・夕ラッシュ時のみ再開される。 ** [[9月10日]]:東急東横線との相互直通運転が全面的に再開される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20110905_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170719034229/http://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20110905_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=9月10日から節電対策を見直します。列車ダイヤ・駅冷房等を通常どおりに戻す一方、照明関係は一部消灯を継続します。|publisher=東京地下鉄|date=2011-09-05|accessdate=2020-11-14|archivedate=2017-07-19}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年) ** [[8月30日]]:日比谷駅 - 中目黒駅間で[[携帯電話]]の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121029Metronews_keitaiarea.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170245/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121029Metronews_keitaiarea.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアが大幅に拡大しさらに便利になります! 丸ノ内線 茗荷谷駅〜淡路町駅間 日比谷線 日比谷駅〜中目黒駅間 千代田線 綾瀬駅〜湯島駅間 南北線 後楽園駅〜本駒込駅間 東京メトロホームページで利用可能区間のご案内を始めます|publisher=東京地下鉄|date=2012-08-27|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。 ** [[11月15日]]:築地駅 - 日比谷駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121107metroNews_keitaierea2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170337/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121107metroNews_keitaierea2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアが拡大します! 丸ノ内線 新中野駅〜荻窪駅間 日比谷線 築地駅〜日比谷駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-11-07|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。 ** [[12月6日]]:小伝馬町駅 - 築地駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121129_1290b.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170448/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121129_1290b.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアがさらに拡大! 銀座線 青山一丁目駅〜渋谷駅間 日比谷線 小伝馬町駅〜築地駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-11-29|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[3月7日]]:南千住駅 - 小伝馬町駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道" name="pr20130305">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130305_mp2154.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212100049/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130305_mp2154.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ますます拡大! 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア 平成25年3月7日(木)より日比谷線・東西線の全線で携帯電話のご利用が可能に! 日比谷線 南千住駅〜小伝馬町駅間 東西線 九段下駅〜日本橋駅間|publisher=東京地下鉄|date=2013-03-05|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 ** [[3月16日]]:東急東横線と[[東京メトロ副都心線|副都心線]]との直通運転開始に合わせ、東急東横線との相互直通運転を終了する<ref group="報道" name="tokyu-release130122">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/130122.pdf|title=東京メトロ副都心線との相互直通運転開始に伴い3月16日(土)に東横線のダイヤを改正します|publisher=東京急行電鉄|date=2013-01-22|accessdate=2020-05-30|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140220185913/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/130122.pdf|archivedate=2014-02-20}}</ref><ref group="報道" name="metro-release120724">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120724metronews_soutyoku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190615100633/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120724metronews_soutyoku.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月16日(土)から相互直通運転開始 副都心線と東急東横線・横浜高速みなとみらい線がつながります|publisher=東京地下鉄|date=2012-07-24|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-06-15}}</ref>。同時に、東武線への相互直通運転区間を[[東武日光線|日光線]]の南栗橋駅まで延長<ref group="報道" name="metro-release130214">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130214_3.16newdia.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191128220222/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130214_3.16newdia.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日比谷線 ・千代田線 ・半蔵門線 ・南北線 平成25年3月16日(土)にダイヤ改正を実施します ―お客様の利便性向上に向けて―|publisher=東京地下鉄|date=2013-02-14|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-11-28}}</ref><ref group="報道" name="tobu-release130214">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/0246ff6eb40a2a1a4f4b9c182920225e/130214-1.pdf?date=20130214125102|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130228031121/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/0246ff6eb40a2a1a4f4b9c182920225e/130214-1.pdf?date=20130214125102|format=PDF|language=日本語|title=快速・区間快速列車が「とうきょうスカイツリー駅」に停車!! 3月16日(土)東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線 ダイヤ改正|publisher=東武鉄道|date=2013-02-14|accessdate=2020-04-30|archivedate=2013-02-28}}</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、日比谷線の車両の分解・検査業務は、2004年から[[鷺沼車両基地]]が担当している。そのため、中目黒駅から東急東横線・目黒線・大井町線を経由し、田園都市線鷺沼駅まで列車を回送する運用は存続している。}}。秋葉原駅と[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]][[岩本町駅]]を連絡駅に指定<ref group="報道" name="pr20130215">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130215_serviceittaika.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191227021441/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130215_serviceittaika.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月16日(土)東京の地下鉄がさらに便利になります|publisher=東京都交通局/東京地下鉄|date=2013-02-15|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-12-27}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年) ** [[3月25日]]:20&nbsp;m級片側4ドア7両編成の[[東京メトロ13000系電車|13000系]]が本格営業運転開始<ref group="報道" name="release20140430">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20140430_h93.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191202175620/https://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20140430_h93.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ日比谷線、東武スカイツリーラインに新型車両を導入します ‐日比谷線・東武スカイツリーライン新型車両を導入し、日比谷線にホームドアを設置‐|publisher=東京地下鉄/東武鉄道|date=2014-04-30|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-12-02}}</ref><ref group="報道" name="metro-release20150617">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/20150617metroNews_g18n91.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190911211305/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/20150617metroNews_g18n91.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ日比谷線・東武スカイツリーライン新型車両の形式と基本仕様が決定 相互直通車両の仕様共通化を促進し、すべての車両をご利用いただきやすくします! 〜2019年度までに導入を進めます〜|publisher=東京地下鉄/東武鉄道|date=2015-06-17|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-09-11}}</ref><ref group="報道" name="metro-release20170315">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170315_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170806123850/http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170315_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日比谷線新型車両13000系 2017年3月25日(土)から本格運行開始します! 東武スカイツリーラインとの直通運転にて使用、2020 年中に全編成導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2017-03-15|accessdate=2020-05-01|archivedate=2017-08-06}}</ref>。 ** [[7月7日]]:[[東武70000系電車|東武70000系]]が営業運転開始<ref group="報道" name="tobu-70000">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/fff044630876dab31fd1ef42f8e0c589/170622%E6%96%B0%E5%9E%8B%E8%BB%8A%E4%B8%A170000%E7%B3%BB%E9%81%8B%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%90%EF%BC%A8%EF%BC%B0%E7%94%A8%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%E3%80%91.pdf?date=20170622170923|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171007095800/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/fff044630876dab31fd1ef42f8e0c589/170622%E6%96%B0%E5%9E%8B%E8%BB%8A%E4%B8%A170000%E7%B3%BB%E9%81%8B%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%90%EF%BC%A8%EF%BC%B0%E7%94%A8%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%E3%80%91.pdf?date=20170622170923|format=PDF|language=日本語|title=東武スカイツリーライン・東京メトロ日比谷線直通新型車両「70000系」7月7日(金)運行開始|publisher=東武鉄道|date=2017-06-22|accessdate=2020-05-01|archivedate=2017-10-07}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[1月29日]]:日中時間帯の13000系による列車2往復で、車内[[背景音楽|BGM]]の試行運用開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180124_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180202002726/http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180124_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日比谷線車内で日中時間帯にBGM放送を試行運用します 13000系車両において2018年1月29日(月)から運用開始|publisher=東京地下鉄|date=2018-01-24|accessdate=2020-05-01|archivedate=2018-02-02}}</ref>。 ** 3月17日:[[人形町駅]]と半蔵門線[[水天宮前駅]]および築地駅と有楽町線[[新富町駅]]を連絡駅に指定<ref group="報道" name="metro180215" />。 * [[2020年]]([[令和]]2年) **[[2月28日]]:[[営団03系電車|03系]]車両が引退<ref name="2020-02-28">{{Cite news|url=https://trafficnews.jp/post/94213|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200303063721/https://trafficnews.jp/post/94213|title=東京メトロ日比谷線03系電車が引退 イベントもなく 営団地下鉄で初の新製冷房車|newspaper=乗りものニュース|date=2020-03-03|accessdate=2020-03-03|archivedate=2020-03-03}}</ref>。 ** [[3月27日]]:18&nbsp;m車の運行が終了<ref name="yurakucho-l">{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/dot/2020041700021.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200421085427/https://dot.asahi.com/dot/2020041700021.html?page=1|title=来年で”還暦”の日比谷線 車両更新は完了し、ただいま激変中|archivedate=2020-04-21|date=2020-04-21|accessdate=2020-04-21|publisher=[[朝日新聞出版]]|work=[[AERA dot.]]}}</ref>。 ** [[3月28日]]:20&nbsp;m車への統一と同時に[[自動列車運転装置|自動列車運転装置(ATO)]]運転を開始<ref name="yurakucho-l"/>。 ** [[6月6日]] *** 神谷町駅 - 霞ケ関駅間に[[虎ノ門ヒルズ駅]]が開業{{Refnest|group="注釈"|虎ノ門ヒルズ駅の[[駅ナンバリング]]をH-06(開業前は霞ケ関駅の駅ナンバリングにあたる)とし、霞ケ関駅 - 北千住駅間の日比谷線用駅ナンバリングを変更(各駅で数字を1つずつ加算)<ref group="報道" name="pr20200602" />。}}<ref group="報道" name="pr20200602">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20200602_g13.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200606050018/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20200602_g13.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土)日比谷線虎ノ門ヒルズ駅 開業|publisher=独立行政法人都市再生機構/東京地下鉄|date=2020-06-02|accessdate=2020-06-08|archivedate=2020-06-06}}</ref><ref group="報道" name="2020-06-06">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews201901111_g50.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日比谷線に虎ノ門ヒルズ駅が誕生します! 2020年6月6日(土)開業|publisher=独立行政法人都市再生機構/東京地下鉄|date=2019-11-11|accessdate=2019-11-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191111065705/https://www.ur-net.go.jp/toshisaisei/press/lrmhph0000015qbk-att/20191111_toranomon_ur.pdf|archivedate=2019-11-11}}</ref>。開業と同時に銀座線[[虎ノ門駅]]との乗り換え業務を開始<ref group="報道" name="2020-06-06"/><ref group="報道" name="pr20200514"/>。日比谷線の新駅としては、1964年8月の日比谷駅以来56年ぶり。 *** 銀座駅と[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]][[銀座一丁目駅]]との乗り換え業務を開始<ref group="報道" name="pr20200514">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514061131/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ線でのお乗換えがさらに便利になります! 新たな乗換駅の設定(虎ノ門駅⇔虎ノ門ヒルズ駅、銀座駅⇔銀座一丁目駅)改札外乗換時間を30分から60分に拡大|publisher=東京地下鉄|date=2020-05-14|accessdate=2020-05-14|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 *** 有料座席指定列車「[[THライナー]]」を運行開始<ref group="報道" name="pr20200511">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews200511_39.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200528084829/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews200511_39.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土)日比谷線のダイヤを改正します 「THライナー」の運行開始及び平日の霞ケ関駅行列車を中目黒駅行に変更します|publisher=東京地下鉄|date=2020-05-11|accessdate=2020-05-30|archivedate=2020-05-28}}</ref><ref group="報道" name="press20191219">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/4353a1a050835f139e2e94adf9cd5dc0/191219_2.pdf?date=20191219123402|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土)東武鉄道・東京メトロダイヤ改正 東武線・日比谷線相互直通列車に初の座席指定制列車「THライナー」が誕生!|publisher=東武鉄道/東京地下鉄|date=2019-12-19|accessdate=2020-01-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191219084312/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/4353a1a050835f139e2e94adf9cd5dc0/191219_2.pdf?date=20191219123402|archivedate=2019-12-19}}</ref><ref group="新聞" name="saitama20200607">{{Cite news|url=https://saitama-np.co.jp/news/2020/06/07/05_.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130120808/https://saitama-np.co.jp/news/2020/06/07/05_.html|title=東武鉄道がダイヤ改正 久喜から日比谷線に直通、座席指定「THライナー」運行 都心との往来を快適に|newspaper=埼玉新聞|date=2020-06-07|accessdate=2021-01-30|archivedate=2021-01-30}}</ref>。 === 輸送力増強 === 日比谷線の建設が計画された当初、将来的に東急東横線からの直通列車は18&nbsp;m級車両で最大8両編成、東武伊勢崎線からの直通列車は同じく最大6両編成で対応できると予想されていた<ref name="eidan50th-271-272">[[#eidan50th|営団地下鉄五十年史]]、pp.271 - 272。</ref>。これは、東急東横線沿線で[[宅地開発事業|宅地開発]]が進んでいた一方、東武伊勢崎線沿線では宅地開発が進んでいなかったためである。 [[中目黒駅]] - [[八丁堀駅]]間の各駅のホームは8両編成対応(ホーム延長152&nbsp;mを基本)で建設され<ref name="eidan50th-271-272"/>、八丁堀駅には8両編成列車の折り返しが可能な[[引き上げ線]]が北千住寄りに設けられた<ref name="Hibiya-Const277">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.277。</ref>。それ以北の[[茅場町駅]] - 北千住駅間は6両編成対応(ホーム延長120&nbsp;mを基本)で建設された<ref name="eidan50th-271-272"/><ref name="Hibiya-Const291">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.291。</ref>。ただし、これは建設途中の[[1960年]](昭和35年)4月に東急東横線からの輸送需要が多いと予想したことから、6両編成対応から8両編成対応に設計変更したものである<ref name="Hibiya-Const76"/>。 ところが、予想とは逆に伊勢崎線が日比谷線と繋がったことにより、伊勢崎線の利便性が飛躍的に向上し、沿線の宅地開発が急速に進み<ref group="注釈">沿線の広大な農地を[[農地転用|転用]]できたため、大規模開発が可能であった。具体的には竹ノ塚団地、北三谷団地、[[武里団地]]、栗原団地など。</ref>、東武線から日比谷線への旅客が急増した<ref name="Hibiya-Const14-171"/><ref name="eidan50th-271-272"/>。それまでの伊勢崎線の終点は[[浅草駅]]であり、通勤客は北千住で国鉄[[常磐線]]に乗り換えるか、浅草駅で[[東京メトロ銀座線|銀座線]]に乗り換えて都心へ向かっていたが、日比谷線と直通運転を開始したことで、[[上野]]や[[銀座]]などの都心へ直行できるようになったためである<ref name="Tobu-History100th-665">[[#tobu100th|東武鉄道百年史]]、pp.665 - 666・689 - 690。</ref>。東武鉄道側でも、予想を大きく超える増加であった<ref name="Tobu-History100th-665"/>。 * 小菅→北千住間のラッシュ1時間あたりの通過量は、1962年(昭和37年)時点の2万571人から1968年(昭和43年)には2.5倍となる5万1,578人に増加<ref name="Tobu-History100th-665"/>。 * 東武伊勢崎線から日比谷線への直通客(終日)は、1962年(昭和37年)時点の1万5,658人から1968年(昭和43年)には5.5倍となる8万6,094人に増加<ref name="Tobu-History100th-665"/>。 このため、急速な車両増備を行ったことで[[千住検車区]]の収容能力を超えてしまい、東武鉄道から西新井電車区を譲り受けて営団地下鉄の[[千住検車区竹ノ塚分室|竹ノ塚検車区]]とすることで増備車両を収容したほか、八丁堀駅以北のホーム延伸工事と伊勢崎線直通列車の8両編成化などの輸送力増強が急がれた<ref name="eidan50th-271-272"/>。6両編成対応で建設が進んだ茅場町駅 - 北千住駅間の一部の駅で中目黒方面行きと北千住方面行きとでホームの位置がずれているのはこのためである。 一方、東急東横線からの直通列車利用客は、同線の終着駅である[[渋谷駅]]まで利用する乗客も多かったため、東武伊勢崎線からの直通利用客ほど増加はしなかった<ref name="Tobu-History100th-665"/>。 『営団地下鉄五十年史』では日比谷線の輸送需要を少なく予想しすぎたことや、東武鉄道方面からの旅客増加が著しいことから、当初計画になかった全線の8両編成化を決断せざるを得なかったとされている<ref name="eidan50th-271-272"/>。東武鉄道側でも、車両の増結や列車本数の増発を行ってきたが、もはや[[複線]]区間では限界に達したことから、[[1967年]](昭和42年)6月に伊勢崎線北千住 - [[竹ノ塚駅|竹ノ塚]]間(6.3&nbsp;km)の[[複々線]]化工事に着手し、[[1974年]](昭和49年)7月に完成させている<ref name="Tobu-History100th-728">[[#tobu100th|東武鉄道百年史]]、pp.728 - 729・821 - 823。</ref>(最終的に複々線化は[[北越谷駅|北越谷]]まで行われている)。 == 運行形態 == [[ファイル:Hibiya Line-2005-10-24 1.jpg|thumb|right|列車内ドア上にある次駅案内と路線案内(03系電車、2013年3月15日までのもの)]] 定期列車の大半が[[各駅停車]]であるが、平日・土休日ともに朝方に上り方面2本、夕方 - 夜間に下り方面5本の[[東武70000系電車#70090型|東武70000系70090型]]を使用した有料座席指定列車「[[THライナー]]」の運行がある。[[北千住駅]] - [[中目黒駅]]間の所要時分は43分([[表定速度]]は28.3&nbsp;km/h)。平日朝夕ラッシュ時間帯は約2分間隔、日中時間帯は5分間隔の高頻度で運行されている。大半の列車が全区間を通して運行するが、一部時間帯には[[南千住駅]]を始発・終着とする列車や、東武線からおよび北千住発の[[六本木駅|六本木]]行き、中目黒発における終電およびその直前には[[広尾駅|広尾]]行きの列車が設定されている。 === 直通運転 === [[ファイル:TRTA SERIES03 03134F.jpg|thumb|right|南栗橋行きの日比谷線車両(2013年6月)]] 終着駅である北千住駅において、[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)を経由して[[東武日光線|日光線]][[南栗橋駅]]まで[[直通運転|相互直通運転]]を実施している。また「THライナー」のみ伊勢崎線[[東武動物公園駅]] - [[久喜駅]]間と直通運転を行う。 日中時間帯の運転間隔は、10分の間に線内列車と東武伊勢崎線直通列車が交互に運行されている。東武伊勢崎線直通列車は1時間あたり東武動物公園駅発着列車が4本、[[北春日部駅]]発着列車が2本運行されている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20211210120436z2ZpUL2macF_-vcgP5S43w.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220416012406/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20211210120436z2ZpUL2macF_-vcgP5S43w.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線等にて 2022年3月12日(土)ダイヤ改正を実施します 〜ご利用状況を踏まえた運転本数の見直しや最終列車の繰り上げ等を実施します〜|publisher=東武鉄道|date=2021-12-10|page=2|accessdate=2022-05-18|archivedate=2022-04-16}}</ref>。 2003年3月19日に設定された朝の南栗橋発の上り1本を除き、長らく東武動物公園駅までの直通運転であったが、[[2013年]][[3月16日]]から南栗橋駅まで相互直通運転区間が延長された<ref group="報道" name="metro-release130214"/><ref group="報道" name="tobu-release130214"/>。日中は上下線とも[[草加駅]]と[[せんげん台駅]]で急行([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]経由[[東急田園都市線]]直通)に接続し、南栗橋発着列車は東武動物公園駅で[[久喜駅]]発着の急行に接続する。 日中の北千住駅 - 東武動物公園駅間の普通列車は全列車が日比谷線直通である。朝夕には竹ノ塚駅、[[北越谷駅]]、南栗橋駅を始発・終着駅とする列車も運転されている。乗り入れ区間の営業キロは44.3&nbsp;km(うち日光線10.4&nbsp;km)。2013年3月16日のダイヤ改正までは、日中時間帯の東武伊勢崎線直通列車は北越谷駅発着と東武動物公園駅発着が交互運転で走っていた。2003年3月19日の半蔵門線と東武伊勢崎線との相互直通運転開始前は、現在よりも2本多く東武伊勢崎線直通列車が設定されていたが、準急と接続する駅は統一されていなかった。 東京メトロの車両([[東京メトロ13000系電車|13000系]])の車両基地は、南千住駅に隣接する[[千住検車区]]と東武伊勢崎線内の竹ノ塚駅に隣接する[[千住検車区竹ノ塚分室]]にある(ただし、全般検査・重要部検査といった定期検査は、半蔵門線所属車両と同じく[[鷺沼工場]]で行う)。竹ノ塚の車両基地は、かつての東武鉄道西新井車庫を営団が譲り受けたものである。2020年6月6日改正ダイヤでは、東京メトロ車2本が東武の[[南栗橋車両管区]]春日部支所で、東武車2本が千住検車区でそれぞれ[[夜間滞泊|夜間留置]]となる「外泊運用」が組まれている。 運用番号の末尾は、東武車が'''T'''、自社車が'''S'''である。運用番号は東武車が 01T - 47Tの奇数、自社車が 02S - 74S の偶数と 61S・63S・65Sである。 なお、2013年3月15日までは、もう一方の終着駅である中目黒駅から[[東急東横線]][[菊名駅]]までの相互直通運転を行っていたが、東急東横線と[[東京メトロ副都心線|副都心線]]との相互直通運転を開始した翌16日からは、 東急東横線との直通列車は設定されていない<ref group="報道" name="tokyu-release130122"/><ref group="報道" name="metro-release120724"/><ref group="報道" name="metro-release130214"/>「当面の間休止」の状態である。ドア数や車両の長さが副都心線及び東横線の標準的な車両とは異なる、東横線へのホームドア設置の整備の際にドアピッチが問題となったこと、東横線の輸送規模の容量を超過するなど、東横線に副都心線と日比谷線の乗り入れを共存させることは問題点が多い。なお、現在の新型車両はドア数や車両の長さが副都心線及び東横線の標準的な車両と同じであり、東横線に副都心線と日比谷線の乗り入れを共存しやすくなったが、2016年の車両公開時の取材に対して、東京メトロの関係者は「特に(直通運転の)予定があるわけではない」と述べている。 かつての東急東横線内乗り入れ区間の営業キロは16.6&nbsp;km。早朝および夕方は10分から15分間隔で[[武蔵小杉駅]]または菊名駅発着、日中は30分間隔で菊名駅発着であり、途中駅の[[元住吉駅]]で特急の通過待ちを行っていた。直通列車は、東横特急運転開始前は日中15分間隔であったが、[[2001年]][[3月28日]]の東横特急運転開始と同時に<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/010202.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201217053606/https://www.tokyu.co.jp/file/010202.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東横線に「特急」を新設 2001年3月28日(水)の東横線ダイヤ改正から|publisher=東京急行電鉄|date=2001-02-02|accessdate=2021-01-|archivedate=2020-12-17}}</ref>、日中は30分間隔となるなど、本数が削減され、同時に[[東急1000系電車]]による日比谷線内折り返し列車(中目黒行き)が設定されるようになった。この本数削減の代わりに、中目黒駅で東急東横線との接続が考慮された。[[2003年]][[3月19日]]以降は中目黒駅に全列車が停車するようになり、さらに接続の改善が図られた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/030124.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180130204920/http://www.tokyu.co.jp/file/030124.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2003年3月19日(水)、東急線全線のダイヤを改正します。東横線の平日の朝・夕に通勤特急を新設するほか、特急停車駅に中目黒を追加します。|publisher=東京急行電鉄|date=2003-01-24|accessdate=2021-01-30|archivedate=2018-01-30}}</ref>。 3社相互直通はなかったが、東京メトロの車両が「菊名駅→北千住駅→中目黒駅→東武動物公園駅」のように、一日の間に東急東横線・東武伊勢崎線の両方に乗り入れる運用は存在した。 東急東横線との相互直通運転が終了した後も、日比谷線所属車両の定期検査は東急田園都市線[[鷺沼駅]]に隣接する東京メトロ[[鷺沼車両基地|鷺沼工場]]において行われるため、東急線(東横線・目黒線・大井町線・田園都市線)を経由する回送ルートが組まれている。 東急車の運用番号の末尾は'''K'''であり、運用番号は81K - 85Kで設定されていた。 === 臨時列車 === ゴールデンウィークやクリスマスなどのシーズンには、菊名駅を超えて[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]の[[元町・中華街駅]]まで直通する[[臨時列車]]「[[みなとみらい号]]{{refnest|group="注釈"|第1回の運転時は「横浜みらい号」と称した}}」を運転した。この臨時列車は、日比谷線内でも急行列車として運転し、途中の停車駅は[[上野駅]]・[[仲御徒町駅]]・[[秋葉原駅]]・[[人形町駅]]・[[茅場町駅]]・八丁堀駅・[[東銀座駅]]・[[銀座駅]]・[[日比谷駅]]・霞ケ関駅・六本木駅・恵比寿駅であったが、2007年[[4月21日]]のみなとみらい号からは日比谷線内各駅停車に変更されている。車両は東急1000系が使用された。 日比谷線における臨時急行列車は、2003年12月に「[[東京ミレナリオ]]号」として急行運転(停車駅はみなとみらい号と同じ)を行ったことがあったが、その際の車両には日比谷線03系車両が使用されていた。 == 車両 == 日比谷線の車両は、建設当時既に20&nbsp;m車を標準としていた東武から20&nbsp;m車規格が提案されたが、当時の営団がルート上に急曲線が設定できることから用地買収がより容易となる18&nbsp;m車の採用に傾いたため、協議の末に18&nbsp;mが採用された。東急は当時18&nbsp;m車が標準であった{{Refnest|group="注釈"|ただし、東横線と日比谷線の直通に際し製造された7000系は、車体幅2,800&nbsp;mm規格で製造されたことから、東急全線での標準車両として運用できる仕様ではなく、大井町線・池上線等に入線できなかった。このため東横線以外の各線向けに、車体幅を2,744&nbsp;mm(地方鉄道定規)とした7200系が別に製造されたが、後年7000系もこれらの路線に入線が可能となっており、田園都市線溝の口以南の開業記念列車に7000系が使用されていたことが写真および動画に映像として残っている。}}が、東横線では既に20&nbsp;m車の走行実績があった{{Refnest|group="注釈"|碑文谷工場で再生されたいわゆる「戦災復興電車」や[[伊豆急行100系電車]]など20&nbsp;m車が試運転ながら走行した実績があった。}}。 しかし、その後3社とも20&nbsp;m車が標準となる中、東武、東急とも18&nbsp;m車の日比谷線乗り入れ専用車両を製造して乗り入れる状況が続いた{{Refnest|group="注釈"|1000系は製造当初は日比谷線乗り入れ専用としての位置付けであったが、後年は目蒲線(当時)との共通編成の登場や池上線への新製配置があり、最終的には専用形式ではなくなった。また、東横線に配置されていた編成の一部は日比谷線への乗り入れ終了後に池上線・多摩川線用に改造転用されている。}}。また、建設当時の東急東横線が最大6両編成であったことから当初は6両編成を前提に建設されたが、建設途中から8両に変更されている。車両の扉数は片側3扉が標準であったが、最混雑区間では混雑率が200%を超える状況が続いていたため、車両更新と併せて運行本数を増加させることで輸送力の確保したが、乗降時間が長引き、駅に停車する時間が所定時間を大幅に超える結果となってしまい、1時間あたりの列車本数が確保できない事態が生じていた<ref name="RF716_94" />。そのため、1990年から製造された東京メトロおよび東武の一部車両は、編成の両端2両ずつを5扉としてラッシュ混雑時の乗降時間の短縮を図った<ref name="RF716_94" />。 北千住駅 - 上野駅間は[[東京メトロ東西線|東西線]]用[[営団5000系電車|5000系]]車両の試運転などでの入線実績があり{{Refnest|group="注釈"|東西線が[[中野駅 (東京都)|中野]]まで開通して[[日本国有鉄道|国鉄]]と接続された1966年から東西線の[[深川車両基地|深川工場]]が稼動を開始した1968年まで国鉄で中野駅 - 北千住駅間を回送して[[千住検車区|千住工場]]で[[日本の鉄道車両検査|検査]]が行われたため。}}<ref name="Tozai-Const699">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.699 - 770。</ref><ref name="RP489_162">{{Cite journal|和書|author=斎藤和夫(帝都高速度交通営団車両部車両課)|title=私鉄車両めぐり〔135〕帝都高速度交通営団|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1987-12-10|volume=37|issue=第12号(通巻489号)|page=162|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、当初から20&nbsp;m車の入線が可能となっている区間もあった。東京メトロは2010年にすべての路線へのホームドア設置を表明しており、かねてから東武は日比谷線直通車両の20&nbsp;m化を要望していたこともあって、2011年からホームドア設置と車両の20&nbsp;m車導入の検討を開始した<ref name="RF716_94" />。東京メトロは[[鉄道総研]]への調査委託による、[[建築限界#鉄道|建築限界]]測定、橋梁・高架部の強度測定、走行安全性評価を行った結果、小規模な改修で20&nbsp;m車両を導入することが可能であることが分かり{{Refnest|group="注釈"|日比谷線の設計基準は、最小曲線半径は本線160&nbsp;m、ホーム500&nbsp;mとしている<ref name="RF716_94" />。しかし、民地部用地の取得の困難により、特例として人形町駅 - 茅場町駅間、築地駅 - 東銀座駅間、日比谷駅 - 霞ケ関駅間、神谷町駅 - 六本木駅間の4か所で半径約127&nbsp;m、ホームでは上野駅で約490&nbsp;m、六本木駅と恵比寿駅で半径約300&nbsp;mの曲線半径を採用している<ref name="RF716_94" />。日比谷線は半径800&nbsp;m以下の曲線半径では「W(拡大すべき寸法・mm)&#x3D;20000/R(曲線半径・m)」としている<ref name="RF716_94" />。20&nbsp;m規格で建設された[[東京メトロ東西線|東西線]]以降の路線の曲線半径では「W(拡大すべき寸法・mm)&#x3D;24000/R(曲線半径・m)」としており、曲線部の一部において建築限界に支障する<ref name="RF716_94" />。}}、六本木駅などの曲線半径の小さいホームの削正、曲線半径の拡大による路線形状の変更、入換信号機・標識・線内の誘導無線・架線の電架柱基礎などの建築限界支障箇所の移設と撤去、車両の軸重の増加による橋梁部と高架部の補強、国土交通省への運転関係・車両関係・設備関係などの届出済基準の変更などを行った<ref name="RF716_94" />。これらの施行後に新型車両はホームや折り返し線の有効長を考慮して、18&nbsp;m車両8両編成(全長144&nbsp;m)から20&nbsp;m車両7両編成(全長140&nbsp;m)とし<ref name="RF716_94">{{Cite journal|和書|author=枝久保達也|date=2020-12-01|title=東京メトロ日比谷線 20m化の記録|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=60|issue=第12号(通巻716号)|pages=94 - 99|publisher=[[交友社]]}}</ref>、東京メトロ・東武の両社で仕様の統一を図り、20&nbsp;m車7両編成4扉の新型車両([[東京メトロ13000系電車|東京メトロ13000系]]、[[東武70000系電車|東武70000系]])を導入して車両の置き換えを進めることとした<ref group="報道" name="metro-release20150617" />。これは日比谷線内・東武線内のホームドア導入に際し、車両長を20&nbsp;m車に統一させる必要があったためである<ref name="metroplan2018" />。製造は13000系・70000系ともに[[近畿車輛]]である<ref group="報道" name="news141106">{{Cite press release|和書|url=http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news141106.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200322065938/http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news141106.htm|language=日本語|title=東京地下鉄株式会社殿日比谷線新型車両受注に関するお知らせ|publisher=近畿車輛|date=2014-11-06|accessdate=2020-06-02|archivedate=2020-03-22}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news150617.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200322065939/http://www.kinkisharyo.co.jp/ja/news/news150617.htm|language=日本語|title=東武鉄道株式会社殿東武スカイツリーライン新型車両(東京メトロ日比谷線相互直通運転車両)の製作者に決定しました|publisher=近畿車輛|date=2015-06-17|accessdate=2020-06-02|archivedate=2020-03-22}}</ref>。 2017年3月25日より13000系が営業運転を開始<ref group="報道" name="release20140430"/>。2017年7月7日からは東武70000系が運行を開始した<ref group="報道" name="tobu-70000"/>{{Refnest|group="注釈"|当初は同年6月より営業運転を開始する予定と発表されたが、7月7日に延期となった<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.saitama-np.co.jp/news/2017/04/13/08_.html|title=東武鉄道、新型70000系公開 沿線風景をデザイン、6月から運転 |date=2017-04-13|newspaper=[[埼玉新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170413071145/http://www.saitama-np.co.jp/news/2017/04/13/08_.html|archivedate=2017-04-13|accessdate= 2017年4月27日}}</ref>。}}、2020年3月20日からは70090型が加わっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/03/21/190500.html|title=東武70090形営業運転を開始|website=[https://railf.jp/news/ 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース]|publisher=交友社|date=2020-03-21|accessdate=2020-3-22}}</ref>。 かつては、[[東急1000系電車|東急1000系]]のみが[[マスター・コントローラー#概要|ワンハンドル]]車で、同車の乗り入れ終了に伴い当線でのワンハンドル車の運行がなくなったが、13000系・70000系の導入で、4年ぶりにワンハンドル車での運行が復活した。 車両の号車番号表記は、東京メトロの車両は中目黒方先頭車を1号車、東急の車両は北千住方先頭車を1号車としており、東武の車両は号車番号表記がなかったが、2011年時点では東京メトロの車両も北千住方先頭車を1号車としている<ref>[https://www.tokyometro.jp/station/line_hibiya/position.html のりかえ出口案内 - 日比谷線/H] - 東京地下鉄公式サイト</ref>。 === 自社車両 === * [[東京メトロ13000系電車|13000系]] <gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:Tokyo-Metro-Series13000-13111.jpg|13000系(2021年4月) </gallery> === 乗り入れ車両 === ; [[東武鉄道]] :* [[東武70000系電車|70000系70000型]] :* [[東武70000系電車#70090型|70000系70090型]] <gallery widths="180"> ファイル:Tobu-Series70000-71701.jpg|70000系70000型(2021年4月) ファイル:Tobu-Series70090-71792F.jpg|70000系70090型(2021年4月) </gallery> === 過去の自社車両 === * [[営団3000系電車|3000系]](1961年3月28日 - 1994年7月23日)<ref name="RP608_194-203" /> ** 3000系の計画当初、ラインカラーの帯取り付けの検討がなされたが「1・2・3等など旧来の客車の等級を感じさせるので好ましくない」という[[関義臣#家族|東義胤]]運転部・車両部分掌理事(当時)の指示により取り止めとなった<ref name="RJ794_110">{{Cite journal|和書|author=里田啓一(元営団地下鉄車両部長)|title=【連載】私の鉄道人生75年史-第10回 再び本社車両課に勤務(その2)-日比谷線3000系の設計-|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2007-10-01|volume=57|issue=第10号(通巻第794号)|pages=110 - 111|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[営団03系電車|03系]](1988年7月1日 - 2020年2月28日<ref name="2020-02-28" />) ** 第09 - 28編成は編成の両端2両ずつが5扉車 <gallery widths="180"> ファイル:Teito rapid transit authority 3000 3021.jpg|3000系(1988年) ファイル:Metro-03series.jpg|03系(2018年12月) ファイル:TRTA SERIES03 03113F.JPG|03系5扉車(2008年10月) </gallery> === 過去の乗り入れ車両 === ; [[東武鉄道]] :* [[東武2000系電車|2000系]](1962年5月31日 - 1993年8月1日<ref group="新聞">{{Cite news |title=新型車への置換え完了 東武の日比谷線乗り入れ車両 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-08-05 |page=2 }}</ref>) :* [[東武20000系電車|20000系20000型・20050型]](1988年3月25日 - 2020年3月27日<ref name="yurakucho-l" /><ref name="dime20180527" />) :* [[東武20000系電車|20000系20070型]](1997年3月25日 - 2018年3月7日<ref name="dime20180527">{{Cite web|和書|url=https://dime.jp/genre/549445/2/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130122621/https://dime.jp/genre/549445/2/|title=次のステージへと向かう東武鉄道唯一の18m車両、日比谷線第2世代車両20000系|website=[[DIME (雑誌)|@DIME]]|date=2018-05-27|archivedate=2021-01-30|accessdate=2021-01-30}}</ref>) <gallery widths="180"> ファイル:Tobu 2000 2409 nishiarai.jpg|2000系(1988年) ファイル:Tobu20000.jpg|20000型(2007年11月) ファイル:Tobu-20050series.jpg|20050型(2020年3月) ファイル:Tobu20070.jpg|20070型(2008年5月) </gallery> ; [[東急電鉄]] :* [[東急7000系電車 (初代)|7000系(初代)]](1964年8月29日 - 1991年6月3日) :* [[東急1000系電車|1000系]](1988年12月26日 - 2013年3月15日) <gallery widths="180"> ファイル:Tkk7000.JPG|7000系(1980年3月) ファイル:Tokyu1000 8cars.jpg|1000系(2007年2月) </gallery> == 保安装置 == 開業当初日比谷線で使用していた[[自動列車制御装置]] (ATC) は地上信号式 ([[自動列車制御装置#ATC-3型|WS]]) で、原則として運転士が手動で制動(ブレーキ)を掛ける方式であった。[[日本の鉄道信号|色灯式信号]]により、進行信号 (G) 70&nbsp;km/h、減速信号 (YG) 50&nbsp;km/h、注意信号 (Y) 40&nbsp;km/h、警戒信号 (YY) 25&nbsp;km/hの速度制限が掛かる<ref name="Hibiya-Const573">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.573 - 584・673。</ref>。 日比谷線の最終運転計画では、6両編成の2分間隔運転(1時間あたり30本)を想定していたが、前述したとおり[[1960年]](昭和35年)4月に八丁堀 - 中目黒間が8両編成の2分間隔運転に変更となった<ref name="Hibiya-Const536">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、p.536。</ref>。[[八丁堀駅|八丁堀]](東急東横線・中目黒方面からの折り返しが可能) - [[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]](東武伊勢崎線・北千住方面からの折り返しが可能)間では、1分30秒間隔運転(1時間あたり40本)に対応できる信号設備を備えていた<ref name="Hibiya-Const573"/>。 その後、[[2003年]](平成15年)[[10月12日]]に[[車内信号]]方式の[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]に切り換えられた<ref name="eidan627"/>。 === ATO試験 === 日比谷線では、過去に長期間にわたって[[自動列車運転装置]] (ATO) の試験運転が実施されていた。 {{main|営団3000系電車#ATO試験}} == 女性専用車 == {{出典の明記|date=2016年7月|section=1}} {|style="float:right; text-align:center; border:1px solid gray; margin:0em 0em 0em 2em;" |- |style="background:#eee; border-bottom:solid 4px #b5b5ac;"|女性専用車 |- |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|中目黒|<br>北千住・南栗橋}} |- | {| class="wikitable" style="border:1px; font-size:80%; text-align:center; margin:auto;" |- |7||6||5||4||3||2||style="background-color:#fdf;"|1 |} |} 日比谷線における[[女性専用車両|女性専用車]]は、[[2006年]][[3月27日]]に乗り入れ先である東武伊勢崎線の日比谷線直通普通列車とともに導入された<ref group="報道" name="pr20060313"/>。 平日朝7時30分から9時までの間に[[北千住駅]]を発車する[[中目黒駅|中目黒]]方面行きの全列車において実施されており、途中駅始発・終着列車も対象である。線内で9時を過ぎた時点で女性専用車の扱いは解除となる。進行方向最後尾車両である1号車に設定され、実施区間は東武[[南栗橋駅]]→[[東武動物公園駅]]→北千住駅→中目黒駅である<ref>[http://www.tokyometro.jp/safety/attention/women/#anc01 女性専用車 日比谷線] - 東京メトロ 2016年7月8日閲覧</ref>。また、かつて設定されていた東急東横線直通列車は、中目黒駅到着後に女性専用車の実施を終了し、東横線内では実施されなかった。 == 利用状況 == 2022年(令和4年)度の最混雑区間(A線、[[三ノ輪駅|三ノ輪]] → [[入谷駅 (東京都)|入谷]]間)の[[乗車率|混雑率]]は'''135%'''である<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=3|format=PDF}}</ref>。 北千住までの延伸開業以降、A線は東武伊勢崎線からの直通人員が急増し、朝ラッシュ時の混雑率は200%を越えていた。このため朝ラッシュ時の増発が頻繁になされ、1968年の時点で毎時26本が運転されるようになった。[[1966年]][[9月1日]]に全列車が6両編成に、[[1971年]][[5月31日]]に全列車が8両編成になり、長編成化が急ピッチで行われたことで一旦は混雑率が180%台に緩和するが、輸送人員の増加により1975年度からは220%台で高止まりとなった。1971年[[3月20日]]に[[東京メトロ千代田線|千代田線]]が[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関]]まで延伸開業して[[北千住駅|北千住]] - 霞ケ関間のバイパス路線となったが、こちらも1973年度以降は混雑率が200%を超えるようになった。 乗り入れ先の東武伊勢崎線でも、北千住駅のホームが日比谷線への乗換客で埋め尽くされる事態が頻発したこともあり、乗換客を減らす苦肉の策として[[1988年]][[11月21日]]に浅草う回乗車制度が、[[1990年]][[9月25日]]に業平橋駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]])折り返し用10両対応の地平ホーム設置と押上駅への連絡通路設置に伴い押上う回乗車制度が導入された。う回制度の導入後は日比谷線の輸送人員が減少し、混雑率は1991年度に200%台に、1995年度に180%台に低下した。北千住駅の重層化工事が[[1997年]][[3月25日]]に完成したことを受け、これらの制度は同年[[3月31日]]に廃止された。 [[2003年]][[3月19日]]に東武伊勢崎線と半蔵門線が相互直通運転を開始し、[[2005年]][[8月24日]]につくばエクスプレスが開業するなど、北千住駅から都心方向へ直通する路線が増えたことで乗客が分散され、2008年度に混雑率は150%台まで低下した。 2007年度の一日平均通過人員は、入谷 - 上野間が381,878人で最も多い。北千住方面は緩やかに減少するが、北千住 - 南千住間の一日平均通過人員は335,314人であり、北千住 - 秋葉原間の各駅は一日平均通過人員が33万人を上回っている。中目黒方面も緩やかに減少し、八丁堀 - 築地間の一日平均通過人員は302,551人であるが、この区間を境にして一旦は通過人員が増加に転じ、東銀座 - 銀座間の一日平均通過人員は327,090人である。その後は再度緩やかに減少して銀座 - 霞ケ関間で一日平均通過人員が30万人を下回るが、霞ケ関 - 神谷町間で303,895人に増加する。その後は各駅で通過人員が大きく減少し、恵比寿 - 中目黒間が190,475人で最も少ない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/0810/metro.pdf|format=PDF|title=東京地下鉄 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2017-09-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190406020630/https://www.train-media.net/report/0810/metro.pdf|archivedate=2019-04-06}}</ref>。 全線開業年度以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|最混雑区間輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09|url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf|title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月)|publisher=神奈川県|accessdate=2015-05-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf|format=PDF|archivedate=2015-01-13}}</ref> !rowspan="2"|特記事項 |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% |- |1964年(昭和39年) | 20 || 14,784 || style="background-color: #ccffcc;"|27,890 || style="background-color: #ccffcc;"|'''196''' |style="text-align:left;"|最混雑区間は入谷 → 上野間 |- |1965年(昭和40年) | 20 || 14,784 || 33,119 || '''224''' | |- |1966年(昭和41年) | 24 || 18,048 || 37,173 || '''206''' |style="text-align:left;"|9月1日、全列車が18m車6両編成となる |- |1967年(昭和42年) | 24 || 18,048 || 44,980 || style="background-color: #ffcccc;"|'''249''' | |- |1968年(昭和43年) | 26|| 19,552 || 44,897 || '''230''' | |- |1969年(昭和44年) | 26|| 19,552 || 46,424 || '''237''' |style="text-align:left;"|12月20日、千代田線北千住 - 大手町間開業 |- |1970年(昭和45年) | 26 || 19,552 || 47,523 || '''243''' |style="text-align:left;"|1971年3月20日、千代田線大手町 - 霞ケ関間開業 |- |1971年(昭和46年) | 26 || 26,208 || 48,977 || '''187''' |style="text-align:left;"|5月31日、全列車が18m車8両編成となる |- |1972年(昭和47年) | 26 || 26,208 || 52,273 || '''199''' | |- |1973年(昭和48年) | 26 || 26,208 || 54,310 || '''207''' | |- |1974年(昭和49年) | 26 || 26,208 || 56,280 || '''215''' | |- |1975年(昭和50年) | 26 || 26,208 || 58,816 || '''224''' | |- |1976年(昭和51年) | 26 || 26,208 || 58,706 || '''224''' | |- |1977年(昭和52年) | 26 || 26,208 || 58,574 || '''223''' | |- |1978年(昭和53年) | 26 || 26,208 || 56,860 || '''217''' | |- |1979年(昭和54年) | 26 || 26,208 || 58,494 || '''223''' | |- |1980年(昭和55年) | 27 || 27,216 || 60,760 || '''223''' |style="text-align:left;"|最混雑区間を三ノ輪 → 入谷間に変更 |- |1981年(昭和56年) | 27 || 27,216 || 59,195 || '''218''' | |- |1982年(昭和57年) | 27 || 27,216 || 60,967 || '''224''' | |- |1983年(昭和58年) | 27 || 27,216 || 61,112 || '''225''' | |- |1984年(昭和59年) | 27 || 27,216 || 61,350 || '''225''' | |- |1985年(昭和60年) | 27 || 27,216 || style="background-color: #ffcccc;"|62,850 || '''231''' | |- |1986年(昭和61年) | 27 || 27,216 || 62,479 || '''230''' | |- |1987年(昭和62年) | 27 || 27,216 || 62,178 || '''228''' | |- |1988年(昭和63年) | 28 || 28,224 || 58,976 || '''209''' |style="text-align:left;"|11月21日、東武伊勢崎線に浅草迂回乗車制度を導入 |- |1989年(平成元年) | 28 || 28,224 || 60,678 || '''215''' | |- |1990年(平成{{0}}2年) | 28 || 28,224 || 59,417 || '''211''' |style="text-align:left;"|9月25日、東武伊勢崎線に押上迂回乗車制度を導入 |- |1991年(平成{{0}}3年) | 28 || 28,224 || 55,931 || '''198''' | |- |1992年(平成{{0}}4年) | 28 || 28,224 || 57,205 || '''203''' | |- |1993年(平成{{0}}5年) | 28 || 28,224 || 56,247 || '''199''' | |- |1994年(平成{{0}}6年) | 28 || 28,224 || 54,506 || '''193''' | |- |1995年(平成{{0}}7年) | 28 || 28,224 || 52,469 || '''186''' | |- |1996年(平成{{0}}8年) | 28 || 28,224 || 51,296 || '''182''' |style="text-align:left;"|1997年3月31日、東武伊勢崎線の迂回乗車制度廃止 |- |1997年(平成{{0}}9年) | 28 || 28,224 || 50,680 || '''180''' | |- |1998年(平成10年) | 28 || 28,224 || 49,939 || '''177''' | |- |1999年(平成11年) | 28 || 28,224 || 49,152 || '''174''' | |- |2000年(平成12年) | 28 || 28,224 || 48,731 || '''173''' | |- |2001年(平成13年) | 28 || 28,224 || || '''174''' | |- |2002年(平成14年) | 28 || 28,224 || 48,485 || '''172''' |style="text-align:left;"|2003年3月19日、半蔵門線押上延伸開業 |- |2003年(平成15年) | 28 || 28,224 || 47,216 || '''167''' | |- |2004年(平成16年) | 28 || 28,224 || || '''165''' | |- |2005年(平成17年) | 28 || 28,224 || || '''163''' |style="text-align:left;"|8月24日、つくばエクスプレス開業 |- |2006年(平成18年) | 28 || 28,224 || 45,784 || '''162''' | |- |2007年(平成19年) | 28 || 28,224 || 46,270 || '''164''' | |- |2008年(平成20年) | 28 || 28,224 || 44,865 || '''159''' | |- |2009年(平成21年) | 28 || 28,224 || 43,925 || '''156''' | |- |2010年(平成22年) | 28 || 28,224 || 43,328 || '''154''' | |- |2011年(平成23年) | 28 || 28,224 || 43,100 || '''153''' | |- |2012年(平成24年) | 28 || 28,224 || 43,887 || '''155''' | |- |2013年(平成25年) | 28 || 28,224 || 43,185 || '''153''' | |- |2014年(平成26年) | 28 || 28,224 || 44,879 || '''159''' |style="text-align:left;"|2015年3月14日、上野東京ライン開業 |- |2015年(平成27年) | 28 || 28,224 || 43,110 || '''153''' | |- |2016年(平成28年) | 28 || 28,224 || 43,648 || '''155''' |style="text-align:left;"|2017年3月25日、20m車7両編成運転開始 |- |2017年(平成29年) | 27 || 27,216 || 42,595 || '''157''' | |- |2018年(平成30年) | 27 || 27,216 || 42,754 || '''157''' | |- |2019年(令和元年) | 27 || 27,216 || 43,068 || '''158''' |style="text-align:left;"|2020年3月27日、18m車8両編成運転終了 |- |2020年(令和{{0}}2年) | 27 || 27,945 || style="background-color: #ccffff;"|30,679 || style="background-color: #ccffff;"|'''110''' |style="text-align:left;"|6月6日、虎ノ門ヒルズ駅開業 |- |2021年(令和{{0}}3年) | 27 || 27,945 || 35,542 || '''127''' | |- |2022年(令和{{0}}4年) | 27 || 27,945 || 37,726 || '''135''' | |} == 駅一覧 == <!--接続路線の事業者名・駅番号は付けたほうがよいかと--> * 駅番号はB線方向(中目黒から北千住の方向)に増加。 * 全駅[[東京都]]内に所在。 * 各駅停車は全駅に停車する(表中省略)。 * 下り(久喜行き)の[[THライナー]]は全列車が霞ケ関駅 - 久喜駅間での運転となっている。また、上り(恵比寿行き)のTHライナーは霞ケ関駅 - 恵比寿駅間がフリー乗降区間となっており、乗車券のみで利用することが出来る。 ; 凡例 : ●: 停車、△: 上り列車のみ停車、◇: 運転停車、|: 通過 {|class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:3px solid #b5b5ac;"|駅番号 !style="width:11em; border-bottom:3px solid #b5b5ac;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #b5b5ac;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #b5b5ac;"|累計キロ !style="width:1em; border-bottom:3px solid #b5b5ac;"|{{縦書き|THライナー|height=7em}} !style="border-bottom:3px solid #b5b5ac;"|接続路線・備考 !style="border-bottom:3px solid #b5b5ac; width:1em; line-height:1em;"|{{縦書き|地上/地下}} !style="border-bottom:3px solid #b5b5ac;"|所在地 |- !H-01 |[[中目黒駅]]{{Refnest|group="*"|中目黒駅は他社接続の共同使用駅で、東急電鉄の管轄駅である<ref name="RP912">{{Cite journal|和書|author=佐藤悠歩(東京急行電鉄鉄道事業本部運転車両部保安課)、佐藤宏至(東京急行電鉄鉄道事業本部運輸営業部サービス課)|title=駅務、乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2015-12-10|volume=65|issue=第12号(通巻第912号)|page=47|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。}} |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"| |[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線|東横線]] (TY03) |style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em; line-height:1em;"|{{縦書き|地上}} |[[目黒区]] |- !H-02 |[[恵比寿駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:center;"|△ |[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 21)・[[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 09)・[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 18) |rowspan="19" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em;"|{{縦書き|地下区間}} |[[渋谷区]] |- !H-03 |[[広尾駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:center;"|△ |&nbsp; |rowspan="4"|[[港区 (東京都)|港区]] |- !H-04 |[[六本木駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|4.2 |style="text-align:center;"|△ |[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-23) |- !H-05 |[[神谷町駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|5.7 |style="text-align:center;"|△ |&nbsp; |- !H-06 |[[虎ノ門ヒルズ駅]]<ref group="報道" name="2020-06-06"/> |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|6.2 |style="text-align:center;"|△ |[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]]([[虎ノ門駅]]:G-07)<ref group="*" name="norikae20200606" /> |- !H-07 |[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|7.0 |style="text-align:center;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-15) ・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|千代田線]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-08) |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]] |- !H-08 |[[日比谷駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|8.2 |style="text-align:center;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|千代田線]] 千代田線 (C-09)、[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]([[有楽町駅]]:Y-18)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|三田線]] [[都営地下鉄三田線|三田線]] (I-08)<!-- 日比谷線ではJR有楽町駅との乗換案内を行っていない --> |- !H-09 |[[銀座駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[松屋 (百貨店)|松屋]]・[[三越]]前)}}}} |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|8.6 |style="text-align:center;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] 銀座線 (G-09) ・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] 丸ノ内線 (M-16)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] 有楽町線([[銀座一丁目駅]]:Y-19){{Refnest|group="*"|name="norikae20200606"|2020年6月6日から乗換駅指定<ref group="報道" name="pr20200514"/>。}} |rowspan="7"|[[中央区 (東京都)|中央区]] |- !H-10 |[[東銀座駅]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|9.0 |style="text-align:center;"|| |都営地下鉄:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|浅草線]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-11) |- !H-11 |[[築地駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[本願寺築地別院|本願寺]]前)}}}} |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|9.6 |style="text-align:center;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線([[新富町駅]]:Y-20){{Refnest|group="*"|name="norikae180215"|2018年3月17日から乗換駅指定<ref group="報道" name="metro180215">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180215_12.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190427212238/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180215_12.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月17日(土)から新たな乗換駅の設定を開始します 人形町駅(東京メトロ・都営交通)⇔水天宮前駅、築地駅⇔新富町駅|publisher=東京地下鉄|date=2018-02-15|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-04-27}}</ref>。}} |- !H-12 |[[八丁堀駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|10.6 |style="text-align:center;"|| |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JE line symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] (JE 02) |- !H-13 |[[茅場町駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|11.1 |style="text-align:center;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|東西線]] [[東京メトロ東西線|東西線]] (T-11) |- !H-14 |[[人形町駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|12.0 |style="text-align:center;"|| |都営地下鉄:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|浅草線]] 浅草線 (A-14)<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|半蔵門線]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]([[水天宮前駅]]:Z-10)<ref group="*" name="norikae180215" /> |- !H-15 |[[小伝馬町駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|12.6 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- !H-16 |[[秋葉原駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|13.5 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 03)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 28)・[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]](JB 19)<br />[[首都圏新都市鉄道]]:[[ファイル:Tsukuba_Express_symbol.svg|18px|TX]] [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] (TX01)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|新宿線]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]]([[岩本町駅]]:S-08){{refnest|group="*"|秋葉原駅と岩本町駅は至近(約150&nbsp;[[メートル|m]])であり、都営新宿線と乗り換えが可能。岩本町駅開業当初は連絡駅に指定されていなかったが、[[2013年]][[3月16日]]から、[[連絡運輸|連絡扱い]](メトロ⇔都営地下鉄乗り継ぎ割引適用)が適用されている<ref group="報道" name="pr20130215"/>。}} |千代田区 |- !H-17 |[[仲御徒町駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|14.5 |style="text-align:center;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] 銀座線([[上野広小路駅]]:G-15){{Refnest|group="*"|2000年12月12日から乗換駅指定<ref group="報道" name="pr20001115"/>。}}<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] 大江戸線([[上野御徒町駅]]:E-09) |rowspan="4"|[[台東区]] |- !H-18 |[[上野駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|15.0 |style="text-align:center;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] 銀座線 (G-16)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen-E.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]<br />・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 05)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 30)・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]] (JU 02)<br />・[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐快速線|常磐線(快速)]](JJ 01)・{{Color|purple|■}}[[上野東京ライン]]<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]([[京成上野駅]]:KS01) |- !H-19 |[[入谷駅 (東京都)|入谷駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|16.2 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- !H-20 |[[三ノ輪駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|17.4 |style="text-align:center;"|| |&nbsp;<!-- 都電・三ノ輪橋停留場は日比谷線では乗り換え案内がなされないため省略 --> |- !H-21 |[[南千住駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|18.2 |style="text-align:center;"|| |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線(快速)(JJ 04)<br />首都圏新都市鉄道:[[ファイル:Tsukuba_Express_symbol.svg|18px|TX]] つくばエクスプレス (TX04)<br /><ref group="*">南千住駅は'''乗り換え駅としては認められていない'''。3社とも乗り換え案内は行っているが、連絡業務を行っていない(詳細は[[南千住駅]]の項を参照)。</ref>&nbsp; |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em;"|{{縦書き|地上区間}} |[[荒川区]] |- !H-22 |[[北千住駅]]<ref group="*">北千住駅は他社接続の共同使用駅で、東武鉄道の管轄駅である。</ref> |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|20.3 |style="text-align:center;"|◇ |'''[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|18px|TS]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]](TS-09)([[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|18px|TN]] [[東武日光線|日光線]][[南栗橋駅]]([[THライナー]]のみ [[ファイル:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|18px|TI]] 伊勢崎線[[久喜駅]])まで直通運転)'''<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|千代田線]] 千代田線 (C-18)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線(快速)(JJ 05)・[[ファイル:JR JL line symbol.svg|18px|JL]] [[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]<br />首都圏新都市鉄道:[[ファイル:Tsukuba_Express_symbol.svg|18px|TX]] つくばエクスプレス (TX05) |[[足立区]] |} {{Reflist|group="*"}} * 北千住駅から日比谷駅や霞ケ関駅へ向かう場合、茅場町駅・築地駅経由で遠回りとなる日比谷線よりも千代田線の方が所要時間が短い。このため、東武伊勢崎線の乗客が北千住駅で日比谷線に乗車せずに千代田線に乗り換えるケースも多く、朝ラッシュ時の北千住駅千代田線ホームは大変な混雑となっている(詳細は[[北千住駅]]の項を参照)。 * 東京メトロおよび乗り入れ各社では[[PASMO]]・[[Suica]]などの交通系ICカードを利用することが出来るが、改札口を出ないルートで乗り継いだ場合でも最短最安運賃で算出される。 * 現在、[[国土交通省]]は[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令|新鉄道技術省令]]の解釈基準で電車線の勾配を最大で35‰と規定しているが、三ノ輪駅 - 南千住駅間には地下で[[溝渠#暗渠|暗渠]]をくぐり地上で常磐貨物線を高架で跨ぐ必要があるため39‰の勾配が存在する。 <!--* 神谷町駅 - 六本木間で[[東京メトロ南北線|南北線]]と交差するが、交差する地点([[飯倉 (東京都港区)|飯倉片町]]交差点直下)に日比谷線・南北線とも駅はなく乗り換えは出来ない。--> == 発車メロディ == 東京メトロが2015年6月から9月まで[[ホームページ]]上において[[発車メロディ]](発車サイン音)に使用する楽曲のリクエストを募集した結果、秋葉原駅のメロディとして[[AKB48]]の「[[恋するフォーチュンクッキー]]」、銀座駅のメロディとして[[石原裕次郎]]と[[牧村旬子]]の「[[銀座の恋の物語]]」がそれぞれ採用され<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2016/article_pdf/metroNews20160120_02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191227021439/https://www.tokyometro.jp/news/2016/article_pdf/metroNews20160120_02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日比谷線 秋葉原駅・銀座駅 千代田線 乃木坂駅 お客様リクエストによる 発車メロディ導入曲決定! ~リクエスト楽曲第1位は、乃木坂駅の乃木坂46「君の名は希望」~|publisher=東京地下鉄|date=2016-01-20|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-12-27}}</ref>、秋葉原駅では2016年3月31日から、銀座駅では同年4月8日から使用を開始した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160322_22.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191227021450/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160322_22.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千代田線 乃木坂駅 日比谷線 秋葉原駅・銀座駅 お客様リクエストによる発車メロディ導入日決定! 3月26日(土)始発より乃木坂駅から順次導入|publisher=東京地下鉄|date=2016-03-22|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-12-27}}</ref>。 そのほかの駅については、2020年2月7日から中目黒駅と北千住駅を除く全駅で使用を開始した(中目黒駅と北千住駅では引き続きブザーを使用)。同時に、前述の秋葉原駅と銀座駅のメロディを新規に制作したバージョンに変更している。 メロディは全て[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、[[塩塚博]]、[[福嶋尚哉]]、大和優子、[[松澤健]]の4名が作曲および編曲を手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ 日比谷線「秋葉原駅・銀座駅」発車メロディ制作!|url=http://www.switching.co.jp/news/222|website=スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-07-13|language=ja|date=2016-01-20|publisher=スイッチ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ日比谷線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/505|date=2020-02-07|website=スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2020-02-07|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ日比谷線車載メロディを制作|url=http://www.switching.co.jp/news/523|website=スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2020-05-15|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。 {| class="wikitable" ! rowspan="2" |駅名 ! colspan="2" |曲名 ! rowspan="2" |導入年月日 |- !A線(中目黒方面) !B線(北千住・東武線方面) |-style="border-top:3px solid #b5b5ac !中目黒 |2:(降車専用ホームのためなし) |3:(ブザー) | |- !恵比寿 |1:アルテミス【福嶋】 |2:Sparkling Road【大和】 | rowspan="4" |2020年2月7日 |- !広尾 |1:昼下がりのテラス【塩塚】 |2:希望の地へ【松澤】 |- !六本木 |1:セレンディピティ【福嶋】 |2:patio【福嶋】 |- !神谷町 |1:昇って降りて【福嶋】 |2:Lovely Morning【大和】 |- !虎ノ門ヒルズ |1:輝く都市【福嶋】 |2:夏雲【福嶋】 | 2020年6月6日 |- !霞ケ関 |3:明日への序章【塩塚】 |4:今日も一日【福嶋】 | rowspan="2" |2020年2月7日 |- !日比谷 |1:銀杏の下で【福嶋】 |2:公園日和【福嶋】 |- !銀座 |5:銀座の恋の物語 verC【福嶋】 |6:銀座の恋の物語 verD【福嶋】 |2016年4月8日{{Refnest|group="注釈"|当初は塩塚が編曲した約3秒の短いバージョン(verA・verB)を使用していたが、2020年2月7日に福嶋が編曲した約7秒の長いバージョンに変更された。}} |- !東銀座 |3:桃山【福嶋】 |4:ノスタルジア【大和】 | rowspan="6" |2020年2月7日 |- !築地 |1:オールマイティー【塩塚】 |2:潮騒【福嶋】 |- !八丁堀 |1:黄金虫のワルツ【塩塚】 |2:煌めき【大和】 |- !茅場町 |1:スピネル【塩塚】 |2:キャノピー【福嶋】 |- !人形町 |1:そぞろ歩き【福嶋】 |2:御伽草子【大和】 |- !小伝馬町 |1:いつもの店で【塩塚】 |2:向こう岸【大和】 |- !秋葉原 |1:恋するフォーチュンクッキー verC【塩塚】 |2:恋するフォーチュンクッキー verD【塩塚】 |2016年3月31日{{Refnest|group="注釈"|当初は福嶋が編曲した約3秒の短いバージョン(verA・verB)を使用していたが、2020年2月7日に塩塚が編曲した約7秒の長いバージョンに変更された。}} |- !仲御徒町 |1:アッシュグレイ【福嶋】 |2:ゆれる袂【大和】 | rowspan="5" |2020年2月7日 |- !上野 |1:Toy garden【大和】 |2:さあ、行くよ!【福嶋】 |- !入谷 |1:銀箭【福嶋】 |2:花びら【大和】 |- !三ノ輪 |1:タイムマシン【大和】 |2:星まつり【福嶋】 |- !南千住 |1:桜の川堤【福嶋】 |2:プリズム【福嶋】 |- !北千住 |6:(ブザー)<br />7:(ブザー) |5:(東武鉄道汎用発車メロディ) | |- !(車載メロディ) |メトロの休日【福嶋】 |七色の翼【福嶋】 |不明 |} * 上表の数字は各駅の番線、【】内は作曲者(銀座駅と秋葉原駅は編曲者)を表す。 == 今後の予定 == {{Main2|20m級4ドア車両への統一計画|#車両}} === 新駅設置 === 東京都は、[[2020年]]に開催予定の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]までに霞ケ関駅と神谷町駅の間の虎ノ門地区に新駅<!-- 東京都長期ビジョン中間報告には単に「新駅」とあり、虎ノ門新駅等の名称は出てこない-->を設置する構想を[[2014年]][[9月]]に東京都長期ビジョン(仮称)の中間報告にて発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seisakukikaku.metro.tokyo.jp/tokyo_vision/chuukan_houkoku/04.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170816110642/http://www.seisakukikaku.metro.tokyo.jp/tokyo_vision/chuukan_houkoku/04.pdf|format=PDF|title=「東京都長期ビジョン(仮称)」中間報告 第三章 将来像を実現するための8つの都市戦略と25の政策指針 |publisher=東京都政策企画局|date=2014-09-12|archivedate=2017-08-16|accessdate=2020-11-14}}</ref>。同年10月14日には、[[都市再生機構|UR都市機構]]が新駅整備事業の実施主体となり、東京地下鉄が設計・工事を受託し、供用開始後の運営管理を行うことになった旨の発表がされている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20141014_sinekisebi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190610044638/https://www.tokyometro.jp/news/2014/pdf/metroNews20141014_sinekisebi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ日比谷線霞ケ関駅〜神谷町駅間の新駅整備について|publisher=独立行政法人都市再生機構/東京地下鉄|date=2014-10-14|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-06-10}}</ref>。2016年2月8日に'''虎ノ門新駅'''(仮称)の起工式が行われ<ref group="報道" name="pr20160208">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160208_g06.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190526204419/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160208_g06.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ日比谷線虎ノ門新駅(仮称)整備にかかる工事着手について|publisher=独立行政法人都市再生機構/東京地下鉄|date=2016-02-08|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-05-26}}</ref>、2020年6月6日に'''[[虎ノ門ヒルズ駅]]'''<ref group="報道" name="tokyometro20181205">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20181205_120.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190725072829/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20181205_120.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日比谷線新駅の名称を「虎ノ門ヒルズ駅」に決定しました!|publisher=東京地下鉄|date=2018-12-15|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-07-25}}</ref>として暫定開業<ref group="報道" name="2020-06-06"/>、2023年7月15日に拡張工事が完成した<ref name="press20230621" group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews230621_g15.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230621074715/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews230621_g15.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年7月15日(土)から、広々とした地下鉄駅前広場と接続 虎ノ門ヒルズ駅の拡張工事完成 虎ノ門ヒルズ ステーションタワーとつながり、まちと一体となった新たな駅へ|publisher=独立行政法人都市再生機構/東京地下鉄|date=2023-06-21|accessdate=2023-06-21|archivedate=2023-06-21}}</ref>。 === 改装工事 === 広尾駅と上野駅でバリアフリー対応工事、茅場町駅で混雑緩和工事を行う。 === 新型行先案内表示導入 === 全駅に新型行先案内表示装置を導入し、液晶ディスプレイを用いてフルカラーで表示する。新たに行先駅にナンバリングを表示する。接近時や「○番線は、発車致します」という発車時の放送も更新され、接近時には英語放送が追加された。<!-- 2016年11月13日時点では銀座駅を除く --> === 東武線直通列車の速達化および有料着席サービスの開始 === 東武鉄道は、『東武グループ中期経営計画2017 - 2020』の中で、「日比谷線直通列車速達性向上の検討」<!-- 速達列車新設とは明記していない。 -->を挙げている<ref group="報道" name="toubugroup2017">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/45b1654a4f72173989dec62a23761286/20170428-3.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190306042610/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/45b1654a4f72173989dec62a23761286/20170428-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「東武グループ中期経営計画 2017〜2020」の策定について|publisher=東武鉄道|date=2017-04-28|accessdate=2021-01-30|archivedate=2019-03-06}}</ref>。 また、2019年3月26日には東武線・東京メトロ日比谷線直通列車における有料着席サービスを2020年度より導入することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/b45e7ea444db6f7c2a3fa9bbed58dfb1/190326.pdf?date=20190326142742|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190330073813/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/b45e7ea444db6f7c2a3fa9bbed58dfb1/190326.pdf?date=20190326142742|format=PDF|language=日本語|title=東武線・東京メトロ日比谷線相互直通列車に有料着席サービスを新たに導入します! 〜東武鉄道70000系をベースとした新造車両「70090型」を導入予定〜|publisher=東武鉄道/東京地下鉄|date=2019-03-26|accessdate=2020-05-30|archivedate=2019-03-30}}</ref>。同年12月19日に上述の2020年6月6日の虎ノ門ヒルズ駅暫定開業に合わせて、「[[THライナー]]」の名称で運行を開始した<ref group="報道" name="press20191219" />。 === 無線式列車制御システムCBTC導入=== 無線式列車制御システムである[[CBTC]]の当線への導入を2023年度に実施する予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190327090906/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf|title=東京メトロプラン2021 東京メトログループ中期経営計画|page=18|archivedate=2019-03-27|accessdate=2021-01-30|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 報道発表資料 === {{Reflist|group="報道"|2}} === 新聞記事 === {{Reflist|group="新聞"}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hibiya.html/|date=1969-01-31|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hibiya-Con}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_marunouchi.html/|date=1960-03-31|title=東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Morunouchi-Con1}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_touzai.html/|date=1978-07-31|title=東京地下鉄道東西線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Tozai-Const}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_yurakucho.html/|date=1996-07-31|title=東京地下鉄道有楽町線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Yurakucho-Const}} * {{Cite book |和書 |title=営団地下鉄五十年史 |publisher=帝都高速度交通営団 |date=1991-07-04|ref=eidan50th}} * {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}} * {{Cite journal|和書|author=増田泰博(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)、佐藤公一、楠居利彦|date=2004-09-01|title=特集:東京メトロ|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=44|issue=第9号(通巻第521号)|pages=pp.9 - 68|publisher=[[交友社]]|ref=RF521}} * 土木技術社『[[土木技術 (雑誌)|土木技術]]』1965年7月号「地下鉄2号線の路下式潜函工法 - 日比谷1工区の土木工事 - 」(田中 精二・羽生田 嘉重) * 間組『間組百年史 1945 - 1989』 * 『私鉄電車ビジュアルガイド 東武鉄道』(編者・著者 東武鉄道研究会、出版・発行:中央書院 2003年) ISBN 4887321422 * 『MY LINE 東京時刻表』各号([[交通新聞社]]) * 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2016年11月号 03系の置換えを目的に平成28年から導入開始 東京地下鉄13000系([[交友社]]) * 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2017年1月号 平成28年度中に営業運転を開始する日比谷線向け車両 東京地下鉄13000系([[交友社]]) * {{Cite book |和書 |title=東武鉄道百年史 |publisher=東武鉄道|date=1998-09-30|ref=tobu100th}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tokyo Metro Hibiya Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[東京横浜電鉄新宿延伸計画]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/line_hibiya/ 日比谷線/H | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://metroarchive.jp/content/hibiya.html/ 日比谷線の歴史] - メトロアーカイブアルバム(公益財団法人メトロ文化財団) {{東京の地下鉄路線}} {{デフォルトソート:とうきようめとろひひやせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|ひひや]] [[Category:東京地下鉄の鉄道路線|ひひや]] [[Category:東京都の交通]]
2003-07-24T03:20:30Z
2023-12-31T15:08:35Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:Refnest", "Template:Main", "Template:TrainDirection", "Template:Reflist", "Template:Main2", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:UKrail-header2", "Template:BS-table", "Template:Cite news", "Template:出典の明記", "Template:0", "Template:Color", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite press release", "Template:Pp-vandalism", "Template:BS3", "Template:BS", "Template:BS5", "Template:縦書き", "Template:Smaller", "Template:東京の地下鉄路線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AD%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%B7%9A
12,120
ウダイ・サッダーム・フセイン
ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー(アラビア語:عدي صدام حسين 、Uday Saddam Hussein、1964年6月18日 - 2003年7月22日)は、イラク元大統領サッダーム・フセインとその最初の妻サージダ・ハイラッラーの長男。クサイの兄。新聞「アル=バービル」、テレビ局「アル=シャハーブ」(青年の意)、ラジオ局「ボイス・オブ・イラク」といった独自のメディアを設立、自ら経営していた。ニコラエ・チャウシェスクの次男ニク・チャウシェスクとはスイスやモナコで度々会うなど親しくした。以前は、サッダームの後継者と目されていた。 イラク代表のサッカー選手に対する激しい拷問やイラン等との密輸等数々の悪名で知られる。 ウダイは、サッダームの長男として生まれてから、両親に甘やかされて育てられたと言われ、それが後の歪んだ人格に大きく影響したと言われる。これはサッダーム自身が継父から体罰などの厳しい教育を受けたためで、「自分の子には厳しいしつけはしたくない」という親心からだったといわれる。 高校は、弟と共に、父の母校で、かつて母が統括していたハールフ高校に通った。当時の同級生の回想によるとウダイは騒々しく、乱暴な性格で手に負えない生徒だった。また、しばしば実弾入りの弾帯を巻いて登校していたという。車に夢中だったらしく、気に入った生徒の父母の車を見つけると護衛に命じて奪い取ったりした。ウダイが足を骨折した時にはクラスごと1階に引っ越したと言われる。このころには、葉巻や“女性”にも手を出していた。そんなウダイの当時の夢は、イラクが核兵器保有国となるために核物理学者になることだったという。そして物理学を学ぶために、アメリカの大学に留学するはずであったが、1980年にイラン・イラク戦争が開戦したため、夢は断たれた。 1984年、ウダイはバグダード工科大学を首席で卒業する。話によれば、ウダイに高得点を付けない教師は報復として拷問を受けたり、解雇されたりしたという。後にウダイは政治学の博士号を授与された。 ウダイは、前々からスポーツに関心を示し、自ら「アル=バアス・アッ=リヤーズィー」(スポーツ復興の意)というスポーツ雑誌を発行していた。とりわけサッカーに興味があり、イラン・イラク戦争中に自ら「アッ=ラシード」というサッカークラブを創設した。このクラブでは、高い報酬や装備、食事、兵役免除などの特典があった。アッ=ラシードの選手は、前線では無く、バグダード周辺警備が任務の共和国防衛隊の特別部隊に配属された。また、イラク各地のサッカークラブの優秀な選手を引き抜いた事も国民を怒らせた。 イラン・イラク戦争中、サッダームの命令で一兵士としてイラク陸軍に入隊したが、軍当局の計らいで、危険な前線からは遠ざけられ、ほとんど軍の任務には参加しなかった。ウダイが前線に行くところ必ず、イラク軍参謀総長のアブドルジャッバール・シャンシャール大将が同行した。ある時、サッダームとウダイが、イラン軍との最前線に現れた。サッダームはウダイにイラン軍を攻撃せよと命じ、シャンシャール大将の説得も空しくウダイは戦闘ヘリで飛び立ち、イラン軍とおぼしき一群を攻撃した。後に判明したところでは、ウダイがミサイルで攻撃した一群はイラン軍では無く、味方であるはずのイラク軍の部隊であった。 そのような失態は伏せられ、バアス党のプロパガンダ機関は、ウダイが前線で勇敢に戦い、イラン軍を撃退したという旨の写真、記事を発表し続けた。 1986年、サッダームはウダイを政界進出と青年層の掌握、スポーツ外交を通じて、後継者として世界に認知させるために、青年省の傘下にあるイラク・オリンピック委員会の会長に任命した。ウダイは翌年に青年省を廃省し、オリンピック委員会が同省の権限を引き継いだ。巨大な権力と地位の足がかりを手に入れた。 1988年8月、エジプトのホスニー・ムバーラク大統領夫人スーザーン・ムバーラクがイラクを訪問。スーザーンとサージダ・ハイラッラーは意気投合し、二人はこの夜、迎賓館で眠りについた。迎賓館のすぐ近くには、豪華なゲストハウスがあり、そこではサッダームの信任厚い側近のカーミル・ハンナ・ジョジョが仲間と共にイラン・イラク戦争終結を祝う宴会を開いていた。ウダイは別のゲストハウスに住んでいたが、サージダとスーザーンが宴会での大音量の音楽と、酔った勢いで銃を空に向けて発砲した音で起きてしまうと、護衛の一人に静かにするようにと伝令させたが、宴会の騒ぎは収まらず、個人秘書のザファール・ムハンマド・ジャービルや護衛と共に騒ぎを止めに出かけた。 会場に付くや否や、ウダイは酔いつぶれたハンナと口論になり、手に持っていた象牙のステッキで殴りつけた。ハンナは床に倒れたが、ウダイは酔った勢いで倒れたのだと思い込んでいたという。翌朝、サッダームがウダイに電話をかけ、ハンナが死亡したことを告げた。この時、サッダームは息子の狼藉とお気に入りの側近を殺されたことに怒り狂っており、放っておけば自らウダイを殺しかねない勢いだったという。異父弟のバルザーン・イブラーヒーム・ハサンの助言で、ひとまずウダイの処遇を裁判所に委ねることに同意した。 一方、ウダイは事件にショックを受け、睡眠薬を多量に服用して自殺を図ったが、一命を取り留めた。病院を退院すると、ウダイは自宅に篭城し、サッダームの警護官が彼を捕らえるために自宅を訪れると銃撃で迎えた。まだ、精神状態が不安定であり、サッダームは数日間放置した。むしろ、司法の場で裁かれるよりも身内だけで解決したいと思っていた。しかし、海外に事件が報道され、公に公表せざるをえなくなった。サッダームは事件の特別委員会を設置、委員会が有罪と判定すれば、ウダイを裁判所に引き渡すとした。 サッダームは、ウダイが悪い友人たちと付き合っていた故に、自分を見失い、狼藉を働いたに違いないと思い込んでいた。共和国宮殿にウダイの友人達を出頭させ、息子の生活について尋問させた。しかし、尋問の結果、父であるサッダームさえ知らなかったウダイの堕落した生活が明らかになり、失望したとされる。また、ウダイが大学時代に知り合った恋人の存在も明らかになった。友人全員が今後、ウダイと付き合ってはならないと署名させられ、また、恋人の父親のもとに警護官を送り、二度とウダイと遭わせないように通達させた。 サッダームはウダイを全ての公的職から解任する。当時のウダイの肩書はイラク・オリンピック委員会会長、イラク・サッカー協会会長、サッダーム・フセイン科学技術大学学長だった。 ウダイは陸軍の刑務所に収監されることになった。だが、その刑務所長はウダイの母方従兄弟で、ウダイは独房ではなく兵舎に収容された。数週間後に、バグダードのラドワニーヤ地区にあるサッダーム個人の屋敷に独房が設置され、そこに収監された。独房にはサッダームとサージダが交代に泊まりに来て、一緒に眠ったという。46日後にウダイは釈放された。 ヨルダンのフセイン1世国王が事件解決の仲介を行ったこともあり、サッダームはカーミル・ハンナの遺族を共和国宮殿に招待し、遺族がウダイの助命を求めるという和解のシーンを国営テレビで放送した。それらは、部族社会のイラクでは伝統的な和解方法に則ったものだった。またサッダームの親族や側近らも減刑を求めた。結局、ウダイが裁判所に引き渡されることは無かった。 事件の二週間後、ウダイはイラクのジュネーヴ国連代表部一等書記官に任命され、スイスに任官した。叔父であるバルザーンがお目付け役となり、ウダイの野性を丸くしようと努力したが、無駄だった。ウダイは外交官としてスイスに滞在するための滞在許可を申請したが、その申請が審議されている最中にジュネーヴのレストランで店側とトラブルを起こし、ナイフを振りかざして、警官と口論となったのである。スイス滞在中も外交官らしい仕事を一切せず、毎夜のようにバーやナイトクラブなど、風俗街に入り浸りになっていた。結局、パリ、イスタンブールを転々とした後、イラクに帰国した。 湾岸戦争はウダイにとって予想外の出来事だったらしく、彼は戦争になるとは思っていなかったという。91年1月、イラク軍占領下のクウェートを訪問中、イラクがイスラエルを弾道ミサイルで攻撃したというニュースが飛び込んでくると、ウダイはイスラエルの報復攻撃を恐れて狼狽し、急いでバグダードに引き返した。その途中、ウダイの乗った車列が多国籍軍の爆撃を受けたが、本人は難を逃れた。 湾岸戦争終結後に南部シーア派住民による反政府蜂起が起きた際には、意外にも「シーア派の人間を殺す気にはなれない」と言い、南部に行くことを拒否した。 イラクが国連による経済制裁を受ける中、ウダイは義兄弟のフセイン・カーミル・ハサンと共に「アル=アミール社」を設立し、かつての敵国イランと食料や石油密輸、兵器売買などの密貿易で私腹を肥やした。例えば、国連からの人道支援物資を闇市に横流ししたり、日本から送られた児童用ミルクの荷札を張り替えて売り飛ばした。このことは、その後、米軍がバグダードを制圧した際に、ウダイが経営する企業の倉庫から大量の人道支援用の粉ミルクが発見されたことから明らかになっている。また、キプロスを経由して密輸タバコも売っていた。 このことを聞きつけたサッダームにより、同社は解散させられたが、ウダイはすでにイランだけでは無く、ヨルダン、シリア、トルコなどにも密輸ルートを独自に確保していた。また、イラクで唯一のペプシコーラ製造工場や、ファーストフード店も経営していた。また、ロシアン・マフィアや南米の麻薬組織とも関係が深かったと言われる。このころのウダイはイラクでもっとも裕福な男となっており、個人資産は数億ドルあるとされた。 このころ、カーミル・ハンナ殺害直後に解任された全職への復職が許された。その後、イラク・ジャーナリスト協会会長、イラク作家連盟会長、イラク俳優連盟会長など文化・芸能面にも権力を進出させた。また、イラクオリンピック委員長にも復帰した。 イラク・オリンピック委員長時代、成績不振のスポーツ選手に対して日常的に拷問が行われ、52人ものスポーツ選手が彼の拷問によって命を落としたと言われ、のちにアメリカ軍によってイラク制圧後にウダイが利用していたとされる拷問用のマスクなど多数の拷問器具が発見されている。また、ウダイと対立したサッカー・イラク代表監督はウダイから自宅にロケット砲を撃ち込まれている。 1993年に行われたFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア地区最終予選の日本対イラク戦(ドーハの悲劇)でも、もしイラク代表が日本代表に敗北していた場合、メンバーに対し全員鞭打ちの刑に処せられることになっていた、と当時のイラク代表のメンバーが語っていた。 前半を一点ビハインドで折り返した際、ハーフタイム中にロッカールームにウダイが現れ「お前たち、分かっているだろうな」と敗戦後の拷問をほのめかしたという。後半は打って変わって激しいフィジカルコンタクトを前面に押し出したサッカーを終始続け、終了間際に同点ゴールを決めたことで鞭打ちの刑が回避されたとも、結局予選敗退となったことで鞭打ちが執行されたものの引き分けに免じて回数が半分になったともされる。この時のイラクの選手たちの様子をラモス瑠偉は「前後半でまるで違うチームになった」と述懐している。 1997年、イラクは、第1シードとして、仏W杯アジア1次予選グループ9でカザフスタンとパキスタンと同じ組になったが、カザフスタンがイラクの成績を上回り、イラクの予選敗退が決まった。1997年6月29日、1次予選最終戦のアウェイでのカザフスタン戦でイラクが敗退し、イラク代表選手たちが帰国すると、イラクサッカー協会会長を兼務していたウダイが代表選手たちを軍事施設に連行し、鞭打ちした。また、コンクリートむき出しの狭い拷問部屋(立って歩けない程の低い天井で、狭く、更に部屋中に無数のコンクリートの柱がひしめき合うように立っていた)に選手を閉じ込めたりした。この事件をイギリスの新聞がセンセーショナルに報道したことで、後に国際サッカー連盟(FIFA)が調査したが、「暴行は無かった」と報告した。しかし、2003年のイラク戦争で、フセイン政権が倒れると、報道されたウダイの拷問の全てが事実であったことが判明した。 また、自ら設立したメディア機関で、ターハー・ヤースィーン・ラマダーン、ターリク・ミハイル・アズィーズなどのバアス党内の古参幹部や時のアフマド・フセイン・フダイル内閣の経済政策、外交政策を辛辣に批判し、政府の人事や政策にも大きく影響した。 1994年、ウダイはサッダームの異父弟で叔父にあたるバルザーン・イブラーヒーム・ハサンの娘サジャーと結婚した。サッダームは結婚によってウダイの性格が丸くなることを望んだが、結婚生活は長く続かず、僅か4日後にウダイはバグダードの高級ホテルで売春婦と暮らし始めた。結局、1年足らずで事実上の離婚となった。 1995年にはイッザト・イブラーヒームの娘と結婚したが、長くは続かず、翌年離婚した。 1995年8月8日、ウダイの叔父で、母サージダの弟であるルアイ・ハイラッラーはある売春婦を巡って、ルアイの姉の夫ワトバーン・イブラーヒーム・ハサンと争っており、その日、ルアイは自分のボディーガードをワトバーンのいる宴会場に送り、女のことを諦めるよう伝達させた。しかし、ワトバーンは自分のボディーガードに、ルアイのボディーガードを殴り倒すように命じ、数時間たってルアイのボディーガードは、血を流しながら戻ってきた。これに怒ったルアイは、ウダイに助けを求めた。 ウダイは当日かなり酔っており、ふたつ返事で了承すると、大型の銃を持って宴会場に向かうと、まずワトバーンのボディーガードらを銃撃し、関係の無い宴会の参加者らも射殺した。そこに帰宅したはずのワトバーンが戻ってきた。ウダイの車列が通り過ぎたのを見て、引き返してきたのだった。ウダイはワトバーンに向けて銃を発射。ワトバーンは両足を撃たれ、重傷を負ったが、ワトバーンのボディーガードらはウダイに向かって発砲することはなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。 本来なら、ウダイは罰せられるはずだが、ちょうどこの時、フセイン・カーミル兄弟が親族と共に亡命する事件が発生、そちらの方の対処が優先された。ワトバーンの二人の兄(バルザーンとサブアーウィー)はウダイを罰するように主張したが、サッダームはそれを避けた。理由は、売春婦を巡る争いが事件の発端だということが公になると、一族の不名誉になると考えたからだった。 サッダームは自分流の罰として、ウダイの大切な高級車のコレクション、ポルシェ、BMW、フェラーリ等を格納しているガレージに火を点けた。後に残ったのは、それらの焼け焦げた残骸であった。ウダイはこの事態に落胆し、後年になっても未練がましく弟のクサイに愚痴をこぼしたとされる。もっとも、燃やされた車はウダイの保有する自動車のほんの一部であったとされる。 1996年12月12日、ウダイは友人のパーティーに向かうため、バグダードのマンスール地区を車で移動中、スポーツバッグに銃を隠し持っていた男らによって銃撃された。男らは現場から逃走、ウダイは意識不明に陥った。 銃弾はウダイの左胸から貫通し、心臓をかすめたために命は助かったが、胃が切り裂かれ体外に飛び出ていたという。また、左足の脛骨が銃弾で破壊され、右足にも重傷を負った。 一時は死へと近づいたが、緊急手術の甲斐があって何とか命を取り留めたが、体の左半分の動きが鈍くなり、血圧が急激に低下した。また、胸の強い痛みを訴え、肺血栓の疑いが濃くなった。 翌年には、サッダームの強い要望でフランスの病院で、治療させることを求めたが、フランス政府からの許可が下りず、かわりに仏人医師団がイラクに到着した。検査の結果、左下腹部に血栓が見つかった。医師らは血栓を取り除く手術を求めたが、ウダイが拒否したために薬剤投与の治療に切り替え、何とか命の危機は脱した。左足の手術は、まだ足が腫上がっていたため、仏人医師が一ヶ月間延期を求めたが、ウダイがそれに激怒、代わりにドイツから来た医師が手術を行った。 懸命の手術や治療にもかかわらずなかなか左足の傷が完治しなかった。理由は、ウダイが病室を抜け出してドライブをしたり、毎夜のように仲間らと共に酒の入ったパーティーを行い、あげくの果てに病室のベッドで女と一夜を共にするという、ふしだらな行為を続けていたからであった。 また、事件によりインポテンツになったという噂があったが、前述の通りデマであった。ウダイにはかねてより自分を拒む女性をレイプしていたという複数の証言があり、実行犯らはこれを「天罰」と称していたという。 結局、左腕は治ったものの、酷く重傷を負った左足はついに完治せず、以来歩行が困難になり、杖が必需品となった。また、以前にもまして短気で攻撃的な性格になったという。 奇しくも、ウダイが負傷した左足の傷は、かつて自分が銃撃で負傷させた叔父ワトバーンの足の傷と同じ位置にあった。 その後、実行犯らが「アン=ナフダ」というグループ名で犯行声明を出した。長らく、ウダイ暗殺未遂事件を実行したのはシーア派反体制派勢力の仕業と見られていたが、実はイラクの民主化を目指す国内の若者や学生らによる地下組織の仕業であったことが、イギリス人ジャーナリストのパトリック・コバーンの取材で判明した。 ウダイを暗殺しようとする事件は、度々発生しており、93年にはウダイが会長を務めるオリンピック委員会本部のゴミ箱に爆弾を仕掛けて、爆殺を計る計画があったが、爆発はウダイが建物を出たときに発生したために計画は失敗に終わった。 かねてからの素行の悪さに加えて暗殺未遂による後遺症など一連の騒動の結果、ウダイは完全に後継レースから外れ、弟のクサイが後継者として周囲から認知されるようになった(クサイと異なり幹部会である革命指導評議会のメンバーにも入っていない)。それ以降、ウダイの権力は弱体化し、国内のメディア・娯楽・スポーツ・ビジネスといった範囲に限定された。1996年にフィダーイー・サッダーム(英語版)という民兵組織を創設したものの、その後、クサイに指揮権限を奪われるなど、このころのウダイは不遇な時期を過ごしていた。 2000年にはイラクの国会にあたる国民議会の選挙において議員にトップで当選した。 ちなみに、2002年頃Yahoo!やMSNの無料アカウントを自身の名前で取得し、それを使って自分の気に入らないジャーナリストらに対して脅迫メールを送付したことがある。 2003年、イラク戦争開戦に伴い、国営ラジオにてウダイの名で「神は侵略者から我々を守る」とアメリカ軍を中心とした多国籍軍に対して抵抗を呼びかける内容の声明が発表された。 しかし、ウダイは戦争に乗じて政権の転覆を計っていたと、ジャーナリストのピーター・アーネットは主張している。アーネットによるとウダイはサッダーム政権の独裁制や国連からの経済制裁を招いた父の外交手法に苛立ち、サッダームに苦言を呈していたという(もっともウダイも独裁制の下で自由奔放に動き、経済制裁で多額の利益を得ていた)。 開戦後の3月26日、ウダイの副官でフィダーイー・サッダームの予算担当財務総括官だったマキ・ムスタファー・ハムダート将軍がウダイへ宛てた手紙で「閣下(ウダイ)を長として、閣下の指令と命令により新たに政権を確立する件について、我々フィダーイー・サッダームの上官達全員に、新政権での閣僚へ加わるという閣下の希望を伝達済みであります。」とウダイ政権に忠誠を誓う内容となっている。 この3月26日にウダイは自ら経営するラジオ局「ボイス・オブ・イラク」放送を通じてクーデター開始を発表するはずだったが、米軍がラジオ局を空爆したため、計画は敢無く挫折したという。 ウダイは開戦前からオリンピック委員会を隠れ蓑に影の政府的なものを作っていたという。アーネットによればウダイこそ、体制内で政権交代を唱えた高位クラスの人物だとして、「遡ること10年前、ウダイはゆっくりと権力要素を組み立てていった。イラク軍将校と政治家達を集めて、専制的な父親を屈服させるつもりでいた」と主張している。 4月1日、イラク国営放送にてサッダーム、クサイと共に会合するウダイの姿が公表されたが、これがウダイの最後の映像となった。バグダード陥落直前、ウダイは一旦、サッダームと別れてクサイと共に米軍の追及を逃れ、イラク北部の拠点でサッダームと合流し、シリアに亡命しようとしたが、シリア側に入国を阻止されて失敗したという。5月にウダイが駐留米軍を通じて投降交渉を行っているとの報道がなされたが、その後、米軍によって否定された。逃亡中の動向については一切不明だが、サッダームとは別行動を取っていたと言われる。 2003年7月22日、米軍はある情報提供者から、イラク北部のモスルの邸宅に大物逃亡者が潜伏しているとの情報を得ると、24時間かけて綿密な計画を準備し、アメリカ陸軍第101空挺師団をその邸宅に向かわせ、家を包囲した。家宅捜査をしようとしたその瞬間、室内から米兵に向けて激しい銃撃が起きた。劣勢に立たされた米軍部隊は一旦撤収し、その後、攻撃ヘリの支援を得て、邸宅を攻撃、約4時間に及ぶ戦闘を行った。 そして、突入した米兵によりウダイ、クサイ、クサイの息子ムスタファー、4人の護衛の遺体が確認された。ウダイとクサイは、銃撃戦の最中にもパニックになりながら友人や支援者らに電話を掛けており、その会話を傍受していた米軍は電話先の居場所を割り出し、彼らも拘束した。 7月24日、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の決定により、米軍は死んだウダイ・クサイ兄弟の写真を公表した。 米軍司令部は、イラクでウダイ、クサイ兄弟がまだ生きているという噂を打ち消すために兄弟の遺体の写真を公開した。この公開について、「戦闘中に殺害された米兵捕虜の写真を公開したサッダーム・フセインをブッシュ政権が非難したこと」を考えると、アメリカは二重基準であると一部から批判があがった。米軍はこの批判に、ウダイ、クサイは戦闘員ではなく国際法上問題ないと答え、イラク国民にとって転換点になると述べた。 これにより、彼らの死を喜んだ多くのイラク国民が、祝砲として至るところで銃を発砲した。だがこの流れ弾により31人が死亡し多数の負傷者が出た。 ちなみに、ウダイ・クサイが潜伏していると米軍に通報したのはナワーフ・ザイダーンという地元建設会社社長で、ウダイ・クサイ兄弟を自分の自宅に匿ったと言われている。サッダームの出身一族「アルブ・ナースィル」の出身で、旧政権時代にサッダームは自身の「従兄弟」であると嘘をついたため、サッダームの怒りを買い投獄された経験があるという。ザイダーンはその後、米軍から賞金を受け取ると、家族と共にアメリカに亡命したと報じられた。 アメリカ側は、これで当時、イラクの治安悪化の元凶と見なされていたサッダーム旧政権残党勢力が力を落として弱体化すると楽観的な見通しを示したが、むしろこの後、駐留外国軍に対する攻撃は悪化、苛烈さを増した。 ウダイの遺体は弟クサイ、その息子ムスタファーと共に、ティクリートの墓地に埋葬された。2007年、サッダーム処刑後はティクリート近郊のアル=アウジャ村にあるサッダームも眠る墓地に埋葬し直された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー(アラビア語:عدي صدام حسين 、Uday Saddam Hussein、1964年6月18日 - 2003年7月22日)は、イラク元大統領サッダーム・フセインとその最初の妻サージダ・ハイラッラーの長男。クサイの兄。新聞「アル=バービル」、テレビ局「アル=シャハーブ」(青年の意)、ラジオ局「ボイス・オブ・イラク」といった独自のメディアを設立、自ら経営していた。ニコラエ・チャウシェスクの次男ニク・チャウシェスクとはスイスやモナコで度々会うなど親しくした。以前は、サッダームの後継者と目されていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イラク代表のサッカー選手に対する激しい拷問やイラン等との密輸等数々の悪名で知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ウダイは、サッダームの長男として生まれてから、両親に甘やかされて育てられたと言われ、それが後の歪んだ人格に大きく影響したと言われる。これはサッダーム自身が継父から体罰などの厳しい教育を受けたためで、「自分の子には厳しいしつけはしたくない」という親心からだったといわれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "高校は、弟と共に、父の母校で、かつて母が統括していたハールフ高校に通った。当時の同級生の回想によるとウダイは騒々しく、乱暴な性格で手に負えない生徒だった。また、しばしば実弾入りの弾帯を巻いて登校していたという。車に夢中だったらしく、気に入った生徒の父母の車を見つけると護衛に命じて奪い取ったりした。ウダイが足を骨折した時にはクラスごと1階に引っ越したと言われる。このころには、葉巻や“女性”にも手を出していた。そんなウダイの当時の夢は、イラクが核兵器保有国となるために核物理学者になることだったという。そして物理学を学ぶために、アメリカの大学に留学するはずであったが、1980年にイラン・イラク戦争が開戦したため、夢は断たれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1984年、ウダイはバグダード工科大学を首席で卒業する。話によれば、ウダイに高得点を付けない教師は報復として拷問を受けたり、解雇されたりしたという。後にウダイは政治学の博士号を授与された。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ウダイは、前々からスポーツに関心を示し、自ら「アル=バアス・アッ=リヤーズィー」(スポーツ復興の意)というスポーツ雑誌を発行していた。とりわけサッカーに興味があり、イラン・イラク戦争中に自ら「アッ=ラシード」というサッカークラブを創設した。このクラブでは、高い報酬や装備、食事、兵役免除などの特典があった。アッ=ラシードの選手は、前線では無く、バグダード周辺警備が任務の共和国防衛隊の特別部隊に配属された。また、イラク各地のサッカークラブの優秀な選手を引き抜いた事も国民を怒らせた。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "イラン・イラク戦争中、サッダームの命令で一兵士としてイラク陸軍に入隊したが、軍当局の計らいで、危険な前線からは遠ざけられ、ほとんど軍の任務には参加しなかった。ウダイが前線に行くところ必ず、イラク軍参謀総長のアブドルジャッバール・シャンシャール大将が同行した。ある時、サッダームとウダイが、イラン軍との最前線に現れた。サッダームはウダイにイラン軍を攻撃せよと命じ、シャンシャール大将の説得も空しくウダイは戦闘ヘリで飛び立ち、イラン軍とおぼしき一群を攻撃した。後に判明したところでは、ウダイがミサイルで攻撃した一群はイラン軍では無く、味方であるはずのイラク軍の部隊であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そのような失態は伏せられ、バアス党のプロパガンダ機関は、ウダイが前線で勇敢に戦い、イラン軍を撃退したという旨の写真、記事を発表し続けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1986年、サッダームはウダイを政界進出と青年層の掌握、スポーツ外交を通じて、後継者として世界に認知させるために、青年省の傘下にあるイラク・オリンピック委員会の会長に任命した。ウダイは翌年に青年省を廃省し、オリンピック委員会が同省の権限を引き継いだ。巨大な権力と地位の足がかりを手に入れた。", "title": null }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1988年8月、エジプトのホスニー・ムバーラク大統領夫人スーザーン・ムバーラクがイラクを訪問。スーザーンとサージダ・ハイラッラーは意気投合し、二人はこの夜、迎賓館で眠りについた。迎賓館のすぐ近くには、豪華なゲストハウスがあり、そこではサッダームの信任厚い側近のカーミル・ハンナ・ジョジョが仲間と共にイラン・イラク戦争終結を祝う宴会を開いていた。ウダイは別のゲストハウスに住んでいたが、サージダとスーザーンが宴会での大音量の音楽と、酔った勢いで銃を空に向けて発砲した音で起きてしまうと、護衛の一人に静かにするようにと伝令させたが、宴会の騒ぎは収まらず、個人秘書のザファール・ムハンマド・ジャービルや護衛と共に騒ぎを止めに出かけた。", "title": null }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "会場に付くや否や、ウダイは酔いつぶれたハンナと口論になり、手に持っていた象牙のステッキで殴りつけた。ハンナは床に倒れたが、ウダイは酔った勢いで倒れたのだと思い込んでいたという。翌朝、サッダームがウダイに電話をかけ、ハンナが死亡したことを告げた。この時、サッダームは息子の狼藉とお気に入りの側近を殺されたことに怒り狂っており、放っておけば自らウダイを殺しかねない勢いだったという。異父弟のバルザーン・イブラーヒーム・ハサンの助言で、ひとまずウダイの処遇を裁判所に委ねることに同意した。", "title": null }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一方、ウダイは事件にショックを受け、睡眠薬を多量に服用して自殺を図ったが、一命を取り留めた。病院を退院すると、ウダイは自宅に篭城し、サッダームの警護官が彼を捕らえるために自宅を訪れると銃撃で迎えた。まだ、精神状態が不安定であり、サッダームは数日間放置した。むしろ、司法の場で裁かれるよりも身内だけで解決したいと思っていた。しかし、海外に事件が報道され、公に公表せざるをえなくなった。サッダームは事件の特別委員会を設置、委員会が有罪と判定すれば、ウダイを裁判所に引き渡すとした。", "title": null }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "サッダームは、ウダイが悪い友人たちと付き合っていた故に、自分を見失い、狼藉を働いたに違いないと思い込んでいた。共和国宮殿にウダイの友人達を出頭させ、息子の生活について尋問させた。しかし、尋問の結果、父であるサッダームさえ知らなかったウダイの堕落した生活が明らかになり、失望したとされる。また、ウダイが大学時代に知り合った恋人の存在も明らかになった。友人全員が今後、ウダイと付き合ってはならないと署名させられ、また、恋人の父親のもとに警護官を送り、二度とウダイと遭わせないように通達させた。", "title": null }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "サッダームはウダイを全ての公的職から解任する。当時のウダイの肩書はイラク・オリンピック委員会会長、イラク・サッカー協会会長、サッダーム・フセイン科学技術大学学長だった。", "title": null }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ウダイは陸軍の刑務所に収監されることになった。だが、その刑務所長はウダイの母方従兄弟で、ウダイは独房ではなく兵舎に収容された。数週間後に、バグダードのラドワニーヤ地区にあるサッダーム個人の屋敷に独房が設置され、そこに収監された。独房にはサッダームとサージダが交代に泊まりに来て、一緒に眠ったという。46日後にウダイは釈放された。", "title": null }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ヨルダンのフセイン1世国王が事件解決の仲介を行ったこともあり、サッダームはカーミル・ハンナの遺族を共和国宮殿に招待し、遺族がウダイの助命を求めるという和解のシーンを国営テレビで放送した。それらは、部族社会のイラクでは伝統的な和解方法に則ったものだった。またサッダームの親族や側近らも減刑を求めた。結局、ウダイが裁判所に引き渡されることは無かった。", "title": null }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "事件の二週間後、ウダイはイラクのジュネーヴ国連代表部一等書記官に任命され、スイスに任官した。叔父であるバルザーンがお目付け役となり、ウダイの野性を丸くしようと努力したが、無駄だった。ウダイは外交官としてスイスに滞在するための滞在許可を申請したが、その申請が審議されている最中にジュネーヴのレストランで店側とトラブルを起こし、ナイフを振りかざして、警官と口論となったのである。スイス滞在中も外交官らしい仕事を一切せず、毎夜のようにバーやナイトクラブなど、風俗街に入り浸りになっていた。結局、パリ、イスタンブールを転々とした後、イラクに帰国した。", "title": null }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "湾岸戦争はウダイにとって予想外の出来事だったらしく、彼は戦争になるとは思っていなかったという。91年1月、イラク軍占領下のクウェートを訪問中、イラクがイスラエルを弾道ミサイルで攻撃したというニュースが飛び込んでくると、ウダイはイスラエルの報復攻撃を恐れて狼狽し、急いでバグダードに引き返した。その途中、ウダイの乗った車列が多国籍軍の爆撃を受けたが、本人は難を逃れた。", "title": null }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "湾岸戦争終結後に南部シーア派住民による反政府蜂起が起きた際には、意外にも「シーア派の人間を殺す気にはなれない」と言い、南部に行くことを拒否した。", "title": null }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イラクが国連による経済制裁を受ける中、ウダイは義兄弟のフセイン・カーミル・ハサンと共に「アル=アミール社」を設立し、かつての敵国イランと食料や石油密輸、兵器売買などの密貿易で私腹を肥やした。例えば、国連からの人道支援物資を闇市に横流ししたり、日本から送られた児童用ミルクの荷札を張り替えて売り飛ばした。このことは、その後、米軍がバグダードを制圧した際に、ウダイが経営する企業の倉庫から大量の人道支援用の粉ミルクが発見されたことから明らかになっている。また、キプロスを経由して密輸タバコも売っていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "このことを聞きつけたサッダームにより、同社は解散させられたが、ウダイはすでにイランだけでは無く、ヨルダン、シリア、トルコなどにも密輸ルートを独自に確保していた。また、イラクで唯一のペプシコーラ製造工場や、ファーストフード店も経営していた。また、ロシアン・マフィアや南米の麻薬組織とも関係が深かったと言われる。このころのウダイはイラクでもっとも裕福な男となっており、個人資産は数億ドルあるとされた。", "title": null }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このころ、カーミル・ハンナ殺害直後に解任された全職への復職が許された。その後、イラク・ジャーナリスト協会会長、イラク作家連盟会長、イラク俳優連盟会長など文化・芸能面にも権力を進出させた。また、イラクオリンピック委員長にも復帰した。", "title": null }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イラク・オリンピック委員長時代、成績不振のスポーツ選手に対して日常的に拷問が行われ、52人ものスポーツ選手が彼の拷問によって命を落としたと言われ、のちにアメリカ軍によってイラク制圧後にウダイが利用していたとされる拷問用のマスクなど多数の拷問器具が発見されている。また、ウダイと対立したサッカー・イラク代表監督はウダイから自宅にロケット砲を撃ち込まれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1993年に行われたFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア地区最終予選の日本対イラク戦(ドーハの悲劇)でも、もしイラク代表が日本代表に敗北していた場合、メンバーに対し全員鞭打ちの刑に処せられることになっていた、と当時のイラク代表のメンバーが語っていた。 前半を一点ビハインドで折り返した際、ハーフタイム中にロッカールームにウダイが現れ「お前たち、分かっているだろうな」と敗戦後の拷問をほのめかしたという。後半は打って変わって激しいフィジカルコンタクトを前面に押し出したサッカーを終始続け、終了間際に同点ゴールを決めたことで鞭打ちの刑が回避されたとも、結局予選敗退となったことで鞭打ちが執行されたものの引き分けに免じて回数が半分になったともされる。この時のイラクの選手たちの様子をラモス瑠偉は「前後半でまるで違うチームになった」と述懐している。", "title": null }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1997年、イラクは、第1シードとして、仏W杯アジア1次予選グループ9でカザフスタンとパキスタンと同じ組になったが、カザフスタンがイラクの成績を上回り、イラクの予選敗退が決まった。1997年6月29日、1次予選最終戦のアウェイでのカザフスタン戦でイラクが敗退し、イラク代表選手たちが帰国すると、イラクサッカー協会会長を兼務していたウダイが代表選手たちを軍事施設に連行し、鞭打ちした。また、コンクリートむき出しの狭い拷問部屋(立って歩けない程の低い天井で、狭く、更に部屋中に無数のコンクリートの柱がひしめき合うように立っていた)に選手を閉じ込めたりした。この事件をイギリスの新聞がセンセーショナルに報道したことで、後に国際サッカー連盟(FIFA)が調査したが、「暴行は無かった」と報告した。しかし、2003年のイラク戦争で、フセイン政権が倒れると、報道されたウダイの拷問の全てが事実であったことが判明した。", "title": null }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、自ら設立したメディア機関で、ターハー・ヤースィーン・ラマダーン、ターリク・ミハイル・アズィーズなどのバアス党内の古参幹部や時のアフマド・フセイン・フダイル内閣の経済政策、外交政策を辛辣に批判し、政府の人事や政策にも大きく影響した。", "title": null }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1994年、ウダイはサッダームの異父弟で叔父にあたるバルザーン・イブラーヒーム・ハサンの娘サジャーと結婚した。サッダームは結婚によってウダイの性格が丸くなることを望んだが、結婚生活は長く続かず、僅か4日後にウダイはバグダードの高級ホテルで売春婦と暮らし始めた。結局、1年足らずで事実上の離婚となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1995年にはイッザト・イブラーヒームの娘と結婚したが、長くは続かず、翌年離婚した。", "title": null }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1995年8月8日、ウダイの叔父で、母サージダの弟であるルアイ・ハイラッラーはある売春婦を巡って、ルアイの姉の夫ワトバーン・イブラーヒーム・ハサンと争っており、その日、ルアイは自分のボディーガードをワトバーンのいる宴会場に送り、女のことを諦めるよう伝達させた。しかし、ワトバーンは自分のボディーガードに、ルアイのボディーガードを殴り倒すように命じ、数時間たってルアイのボディーガードは、血を流しながら戻ってきた。これに怒ったルアイは、ウダイに助けを求めた。", "title": null }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ウダイは当日かなり酔っており、ふたつ返事で了承すると、大型の銃を持って宴会場に向かうと、まずワトバーンのボディーガードらを銃撃し、関係の無い宴会の参加者らも射殺した。そこに帰宅したはずのワトバーンが戻ってきた。ウダイの車列が通り過ぎたのを見て、引き返してきたのだった。ウダイはワトバーンに向けて銃を発射。ワトバーンは両足を撃たれ、重傷を負ったが、ワトバーンのボディーガードらはウダイに向かって発砲することはなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "本来なら、ウダイは罰せられるはずだが、ちょうどこの時、フセイン・カーミル兄弟が親族と共に亡命する事件が発生、そちらの方の対処が優先された。ワトバーンの二人の兄(バルザーンとサブアーウィー)はウダイを罰するように主張したが、サッダームはそれを避けた。理由は、売春婦を巡る争いが事件の発端だということが公になると、一族の不名誉になると考えたからだった。", "title": null }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "サッダームは自分流の罰として、ウダイの大切な高級車のコレクション、ポルシェ、BMW、フェラーリ等を格納しているガレージに火を点けた。後に残ったのは、それらの焼け焦げた残骸であった。ウダイはこの事態に落胆し、後年になっても未練がましく弟のクサイに愚痴をこぼしたとされる。もっとも、燃やされた車はウダイの保有する自動車のほんの一部であったとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1996年12月12日、ウダイは友人のパーティーに向かうため、バグダードのマンスール地区を車で移動中、スポーツバッグに銃を隠し持っていた男らによって銃撃された。男らは現場から逃走、ウダイは意識不明に陥った。", "title": null }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "銃弾はウダイの左胸から貫通し、心臓をかすめたために命は助かったが、胃が切り裂かれ体外に飛び出ていたという。また、左足の脛骨が銃弾で破壊され、右足にも重傷を負った。", "title": null }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一時は死へと近づいたが、緊急手術の甲斐があって何とか命を取り留めたが、体の左半分の動きが鈍くなり、血圧が急激に低下した。また、胸の強い痛みを訴え、肺血栓の疑いが濃くなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "翌年には、サッダームの強い要望でフランスの病院で、治療させることを求めたが、フランス政府からの許可が下りず、かわりに仏人医師団がイラクに到着した。検査の結果、左下腹部に血栓が見つかった。医師らは血栓を取り除く手術を求めたが、ウダイが拒否したために薬剤投与の治療に切り替え、何とか命の危機は脱した。左足の手術は、まだ足が腫上がっていたため、仏人医師が一ヶ月間延期を求めたが、ウダイがそれに激怒、代わりにドイツから来た医師が手術を行った。", "title": null }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "懸命の手術や治療にもかかわらずなかなか左足の傷が完治しなかった。理由は、ウダイが病室を抜け出してドライブをしたり、毎夜のように仲間らと共に酒の入ったパーティーを行い、あげくの果てに病室のベッドで女と一夜を共にするという、ふしだらな行為を続けていたからであった。", "title": null }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、事件によりインポテンツになったという噂があったが、前述の通りデマであった。ウダイにはかねてより自分を拒む女性をレイプしていたという複数の証言があり、実行犯らはこれを「天罰」と称していたという。", "title": null }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "結局、左腕は治ったものの、酷く重傷を負った左足はついに完治せず、以来歩行が困難になり、杖が必需品となった。また、以前にもまして短気で攻撃的な性格になったという。", "title": null }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "奇しくも、ウダイが負傷した左足の傷は、かつて自分が銃撃で負傷させた叔父ワトバーンの足の傷と同じ位置にあった。", "title": null }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後、実行犯らが「アン=ナフダ」というグループ名で犯行声明を出した。長らく、ウダイ暗殺未遂事件を実行したのはシーア派反体制派勢力の仕業と見られていたが、実はイラクの民主化を目指す国内の若者や学生らによる地下組織の仕業であったことが、イギリス人ジャーナリストのパトリック・コバーンの取材で判明した。", "title": null }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ウダイを暗殺しようとする事件は、度々発生しており、93年にはウダイが会長を務めるオリンピック委員会本部のゴミ箱に爆弾を仕掛けて、爆殺を計る計画があったが、爆発はウダイが建物を出たときに発生したために計画は失敗に終わった。", "title": null }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "かねてからの素行の悪さに加えて暗殺未遂による後遺症など一連の騒動の結果、ウダイは完全に後継レースから外れ、弟のクサイが後継者として周囲から認知されるようになった(クサイと異なり幹部会である革命指導評議会のメンバーにも入っていない)。それ以降、ウダイの権力は弱体化し、国内のメディア・娯楽・スポーツ・ビジネスといった範囲に限定された。1996年にフィダーイー・サッダーム(英語版)という民兵組織を創設したものの、その後、クサイに指揮権限を奪われるなど、このころのウダイは不遇な時期を過ごしていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2000年にはイラクの国会にあたる国民議会の選挙において議員にトップで当選した。", "title": null }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ちなみに、2002年頃Yahoo!やMSNの無料アカウントを自身の名前で取得し、それを使って自分の気に入らないジャーナリストらに対して脅迫メールを送付したことがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2003年、イラク戦争開戦に伴い、国営ラジオにてウダイの名で「神は侵略者から我々を守る」とアメリカ軍を中心とした多国籍軍に対して抵抗を呼びかける内容の声明が発表された。", "title": null }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし、ウダイは戦争に乗じて政権の転覆を計っていたと、ジャーナリストのピーター・アーネットは主張している。アーネットによるとウダイはサッダーム政権の独裁制や国連からの経済制裁を招いた父の外交手法に苛立ち、サッダームに苦言を呈していたという(もっともウダイも独裁制の下で自由奔放に動き、経済制裁で多額の利益を得ていた)。", "title": null }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "開戦後の3月26日、ウダイの副官でフィダーイー・サッダームの予算担当財務総括官だったマキ・ムスタファー・ハムダート将軍がウダイへ宛てた手紙で「閣下(ウダイ)を長として、閣下の指令と命令により新たに政権を確立する件について、我々フィダーイー・サッダームの上官達全員に、新政権での閣僚へ加わるという閣下の希望を伝達済みであります。」とウダイ政権に忠誠を誓う内容となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この3月26日にウダイは自ら経営するラジオ局「ボイス・オブ・イラク」放送を通じてクーデター開始を発表するはずだったが、米軍がラジオ局を空爆したため、計画は敢無く挫折したという。", "title": null }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ウダイは開戦前からオリンピック委員会を隠れ蓑に影の政府的なものを作っていたという。アーネットによればウダイこそ、体制内で政権交代を唱えた高位クラスの人物だとして、「遡ること10年前、ウダイはゆっくりと権力要素を組み立てていった。イラク軍将校と政治家達を集めて、専制的な父親を屈服させるつもりでいた」と主張している。", "title": null }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "4月1日、イラク国営放送にてサッダーム、クサイと共に会合するウダイの姿が公表されたが、これがウダイの最後の映像となった。バグダード陥落直前、ウダイは一旦、サッダームと別れてクサイと共に米軍の追及を逃れ、イラク北部の拠点でサッダームと合流し、シリアに亡命しようとしたが、シリア側に入国を阻止されて失敗したという。5月にウダイが駐留米軍を通じて投降交渉を行っているとの報道がなされたが、その後、米軍によって否定された。逃亡中の動向については一切不明だが、サッダームとは別行動を取っていたと言われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2003年7月22日、米軍はある情報提供者から、イラク北部のモスルの邸宅に大物逃亡者が潜伏しているとの情報を得ると、24時間かけて綿密な計画を準備し、アメリカ陸軍第101空挺師団をその邸宅に向かわせ、家を包囲した。家宅捜査をしようとしたその瞬間、室内から米兵に向けて激しい銃撃が起きた。劣勢に立たされた米軍部隊は一旦撤収し、その後、攻撃ヘリの支援を得て、邸宅を攻撃、約4時間に及ぶ戦闘を行った。", "title": null }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "そして、突入した米兵によりウダイ、クサイ、クサイの息子ムスタファー、4人の護衛の遺体が確認された。ウダイとクサイは、銃撃戦の最中にもパニックになりながら友人や支援者らに電話を掛けており、その会話を傍受していた米軍は電話先の居場所を割り出し、彼らも拘束した。", "title": null }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "7月24日、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の決定により、米軍は死んだウダイ・クサイ兄弟の写真を公表した。", "title": null }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "米軍司令部は、イラクでウダイ、クサイ兄弟がまだ生きているという噂を打ち消すために兄弟の遺体の写真を公開した。この公開について、「戦闘中に殺害された米兵捕虜の写真を公開したサッダーム・フセインをブッシュ政権が非難したこと」を考えると、アメリカは二重基準であると一部から批判があがった。米軍はこの批判に、ウダイ、クサイは戦闘員ではなく国際法上問題ないと答え、イラク国民にとって転換点になると述べた。", "title": null }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "これにより、彼らの死を喜んだ多くのイラク国民が、祝砲として至るところで銃を発砲した。だがこの流れ弾により31人が死亡し多数の負傷者が出た。", "title": null }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ちなみに、ウダイ・クサイが潜伏していると米軍に通報したのはナワーフ・ザイダーンという地元建設会社社長で、ウダイ・クサイ兄弟を自分の自宅に匿ったと言われている。サッダームの出身一族「アルブ・ナースィル」の出身で、旧政権時代にサッダームは自身の「従兄弟」であると嘘をついたため、サッダームの怒りを買い投獄された経験があるという。ザイダーンはその後、米軍から賞金を受け取ると、家族と共にアメリカに亡命したと報じられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アメリカ側は、これで当時、イラクの治安悪化の元凶と見なされていたサッダーム旧政権残党勢力が力を落として弱体化すると楽観的な見通しを示したが、むしろこの後、駐留外国軍に対する攻撃は悪化、苛烈さを増した。", "title": null }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ウダイの遺体は弟クサイ、その息子ムスタファーと共に、ティクリートの墓地に埋葬された。2007年、サッダーム処刑後はティクリート近郊のアル=アウジャ村にあるサッダームも眠る墓地に埋葬し直された。", "title": null } ]
ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティーは、イラク元大統領サッダーム・フセインとその最初の妻サージダ・ハイラッラーの長男。クサイの兄。新聞「アル=バービル」、テレビ局「アル=シャハーブ」(青年の意)、ラジオ局「ボイス・オブ・イラク」といった独自のメディアを設立、自ら経営していた。ニコラエ・チャウシェスクの次男ニク・チャウシェスクとはスイスやモナコで度々会うなど親しくした。以前は、サッダームの後継者と目されていた。 イラク代表のサッカー選手に対する激しい拷問やイラン等との密輸等数々の悪名で知られる。
{{暴力的}} [[File:Uday Saddam Hussein.png|thumb|ウダイ・サッダーム・フセイン]] '''ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー'''([[アラビア語]]:عدي صدام حسين 、Uday Saddam Hussein、[[1964年]][[6月18日]] - [[2003年]][[7月22日]])は、[[イラク]]元大統領[[サッダーム・フセイン]]とその最初の妻[[サージダ・ハイラッラー]]の長男。[[クサイ・サッダーム・フセイン|クサイ]]の兄。[[新聞]]「アル=バービル」、[[テレビ局]]「アル=シャハーブ」(青年の意)、[[ラジオ局]]「ボイス・オブ・イラク」といった独自のメディアを設立、自ら経営していた。[[ニコラエ・チャウシェスク]]の次男[[ニク・チャウシェスク]]とはスイスやモナコで度々会うなど親しくした<ref>Latif Yahia; Karl Wendl (1997). I Was Saddam's Son (in English). Little, Brown and Company. p. 297. ISBN 978-155-970-373-4.</ref><ref>Pacepa, p.63</ref>。以前は、サッダームの後継者と目されていた。 [[サッカーイラク代表|イラク代表のサッカー選手]]に対する激しい拷問やイラン等との密輸等数々の悪名で知られる。 == 生い立ち == ウダイは、サッダームの長男として生まれてから、両親に甘やかされて育てられたと言われ、それが後の歪んだ人格に大きく影響したと言われる。これはサッダーム自身が継父から体罰などの厳しい教育を受けたためで、「自分の子には厳しいしつけはしたくない」という親心からだったといわれる。 高校は、弟と共に、父の母校で、かつて母が統括していたハールフ高校に通った。当時の同級生の回想によるとウダイは騒々しく、乱暴な性格で手に負えない生徒だった。また、しばしば実弾入りの弾帯を巻いて登校していたという。車に夢中だったらしく、気に入った生徒の父母の車を見つけると護衛に命じて奪い取ったりした。ウダイが足を骨折した時にはクラスごと1階に引っ越したと言われる。このころには、[[葉巻きたばこ|葉巻]]や“女性”にも手を出していた。そんなウダイの当時の夢は、イラクが[[核兵器]]保有国となるために[[核物理学]]者になることだったという。そして物理学を学ぶために、アメリカの大学に留学するはずであったが、1980年に[[イラン・イラク戦争]]が開戦したため、夢は断たれた。 1984年、ウダイはバグダード工科大学を'''首席'''で卒業する。話によれば、ウダイに高得点を付けない教師は報復として拷問を受けたり、解雇されたりしたという。後にウダイは政治学の博士号を授与された。 ウダイは、前々からスポーツに関心を示し、自ら「アル=バアス・アッ=リヤーズィー」(スポーツ復興の意)というスポーツ雑誌を発行していた。とりわけサッカーに興味があり、[[イラン・イラク戦争]]中に自ら「アッ=ラシード」というサッカークラブを創設した。このクラブでは、高い報酬や装備、食事、兵役免除などの特典があった。アッ=ラシードの選手は、前線では無く、バグダード周辺警備が任務の[[共和国防衛隊]]の特別部隊に配属された。また、イラク各地のサッカークラブの優秀な選手を引き抜いた事も国民を怒らせた。 イラン・イラク戦争中、サッダームの命令で一兵士としてイラク陸軍に入隊したが、軍当局の計らいで、危険な前線からは遠ざけられ、ほとんど軍の任務には参加しなかった。ウダイが前線に行くところ必ず、イラク軍[[参謀総長]]の[[アブドルジャッバール・シャンシャール]][[大将]]が同行した。ある時、サッダームとウダイが、イラン軍との最前線に現れた。サッダームはウダイにイラン軍を攻撃せよと命じ、シャンシャール大将の説得も空しくウダイは戦闘ヘリで飛び立ち、イラン軍とおぼしき一群を攻撃した。後に判明したところでは、ウダイがミサイルで攻撃した一群はイラン軍では無く、味方であるはずのイラク軍の部隊であった。 そのような失態は伏せられ、[[バアス党]]の[[プロパガンダ]]機関は、ウダイが前線で勇敢に戦い、イラン軍を撃退したという旨の写真、記事を発表し続けた。 1986年、サッダームはウダイを政界進出と青年層の掌握、スポーツ外交を通じて、後継者として世界に認知させるために、青年省の傘下にあるイラク・[[近代オリンピック|オリンピック]]委員会の会長に任命した。ウダイは翌年に青年省を廃省し、オリンピック委員会が同省の権限を引き継いだ。巨大な権力と地位の足がかりを手に入れた。 == 殺人 == 1988年8月、[[エジプト]]の[[ホスニー・ムバーラク]]大統領夫人スーザーン・ムバーラクがイラクを訪問。スーザーンと[[サージダ・ハイラッラー]]は意気投合し、二人はこの夜、迎賓館で眠りについた。迎賓館のすぐ近くには、豪華なゲストハウスがあり、そこではサッダームの信任厚い側近のカーミル・ハンナ・ジョジョが仲間と共にイラン・イラク戦争終結を祝う宴会を開いていた。ウダイは別のゲストハウスに住んでいたが、サージダとスーザーンが宴会での大音量の音楽と、酔った勢いで銃を空に向けて発砲した音で起きてしまうと、護衛の一人に静かにするようにと伝令させたが、宴会の騒ぎは収まらず、個人秘書のザファール・ムハンマド・ジャービルや護衛と共に騒ぎを止めに出かけた。 会場に付くや否や、ウダイは酔いつぶれたハンナと口論になり、手に持っていた[[象牙]]のステッキで殴りつけた。ハンナは床に倒れたが、ウダイは酔った勢いで倒れたのだと思い込んでいたという。翌朝、サッダームがウダイに電話をかけ、ハンナが死亡したことを告げた。この時、サッダームは息子の狼藉とお気に入りの側近を殺されたことに怒り狂っており、放っておけば自らウダイを殺しかねない勢いだったという。異父弟の[[バルザーン・イブラーヒーム・ハサン]]の助言で、ひとまずウダイの処遇を裁判所に委ねることに同意した。 一方、ウダイは事件にショックを受け、[[睡眠薬]]を多量に服用して[[自殺]]を図ったが、一命を取り留めた。病院を退院すると、ウダイは自宅に篭城し、サッダームの警護官が彼を捕らえるために自宅を訪れると銃撃で迎えた。まだ、精神状態が不安定であり、サッダームは数日間放置した。むしろ、司法の場で裁かれるよりも身内だけで解決したいと思っていた。しかし、海外に事件が報道され、公に公表せざるをえなくなった。サッダームは事件の特別委員会を設置、委員会が有罪と判定すれば、ウダイを裁判所に引き渡すとした。 サッダームは、ウダイが悪い友人たちと付き合っていた故に、自分を見失い、狼藉を働いたに違いないと思い込んでいた。共和国宮殿にウダイの友人達を出頭させ、息子の生活について尋問させた。しかし、尋問の結果、父であるサッダームさえ知らなかったウダイの堕落した生活が明らかになり、失望したとされる。また、ウダイが大学時代に知り合った恋人の存在も明らかになった。友人全員が今後、ウダイと付き合ってはならないと署名させられ、また、恋人の父親のもとに警護官を送り、二度とウダイと遭わせないように通達させた。 サッダームはウダイを全ての公的職から解任する。当時のウダイの肩書はイラク・オリンピック委員会会長、イラク・サッカー協会会長、サッダーム・フセイン科学技術大学学長だった。 ウダイは陸軍の刑務所に収監されることになった。だが、その刑務所長はウダイの母方従兄弟で、ウダイは独房ではなく兵舎に収容された。数週間後に、バグダードのラドワニーヤ地区にあるサッダーム個人の屋敷に独房が設置され、そこに収監された。独房にはサッダームとサージダが交代に泊まりに来て、一緒に眠ったという。46日後にウダイは釈放された。 [[ヨルダン]]の[[フセイン1世]]国王が事件解決の仲介を行ったこともあり、サッダームはカーミル・ハンナの遺族を共和国宮殿に招待し、遺族がウダイの助命を求めるという和解のシーンを国営テレビで放送した。それらは、部族社会のイラクでは伝統的な和解方法に則ったものだった。またサッダームの親族や側近らも減刑を求めた。結局、ウダイが裁判所に引き渡されることは無かった。 == ウダイの権力復帰 == 事件の二週間後、ウダイはイラクの[[ジュネーヴ]]国連代表部一等書記官に任命され、[[スイス]]に任官した。叔父であるバルザーンがお目付け役となり、ウダイの野性を丸くしようと努力したが、無駄だった。ウダイは外交官としてスイスに滞在するための滞在許可を申請したが、その申請が審議されている最中にジュネーヴのレストランで店側とトラブルを起こし、ナイフを振りかざして、警官と口論となったのである。スイス滞在中も外交官らしい仕事を一切せず、毎夜のようにバーやナイトクラブなど、風俗街に入り浸りになっていた。結局、[[パリ]]、[[イスタンブール]]を転々とした後、イラクに帰国した。 [[湾岸戦争]]はウダイにとって予想外の出来事だったらしく、彼は戦争になるとは思っていなかったという。91年1月、イラク軍占領下の[[クウェート]]を訪問中、イラクが[[イスラエル]]を[[弾道ミサイル]]で攻撃したというニュースが飛び込んでくると、ウダイはイスラエルの報復攻撃を恐れて狼狽し、急いでバグダードに引き返した。その途中、ウダイの乗った車列が[[多国籍軍]]の爆撃を受けたが、本人は難を逃れた。 湾岸戦争終結後に南部シーア派住民による反政府蜂起が起きた際には、意外にも「シーア派の人間を殺す気にはなれない」と言い、南部に行くことを拒否した。 イラクが[[国際連合|国連]]による[[経済制裁]]を受ける中、ウダイは義兄弟の[[フセイン・カーミル・ハサン]]と共に「アル=アミール社」を設立し、かつての敵国[[イラン]]と食料や石油密輸、兵器売買などの密貿易で私腹を肥やした。例えば、国連からの人道支援物資を闇市に横流ししたり、[[日本]]から送られた児童用ミルクの荷札を張り替えて売り飛ばした。このことは、その後、米軍がバグダードを制圧した際に、ウダイが経営する企業の倉庫から大量の人道支援用の粉ミルクが発見されたことから明らかになっている。また、[[キプロス]]を経由して密輸タバコも売っていた。 このことを聞きつけたサッダームにより、同社は解散させられたが、ウダイはすでにイランだけでは無く、[[ヨルダン]]、[[シリア]]、[[トルコ]]などにも密輸ルートを独自に確保していた。また、イラクで唯一の[[ペプシコーラ]]製造工場や、[[ファーストフード]]店も経営していた。また、[[ロシアン・マフィア]]や[[南アメリカ|南米]]の[[麻薬]]組織とも関係が深かったと言われる。このころのウダイはイラクでもっとも裕福な男となっており、個人資産は数億ドルあるとされた。 このころ、カーミル・ハンナ殺害直後に解任された全職への復職が許された。その後、イラク・ジャーナリスト協会会長、イラク作家連盟会長、イラク俳優連盟会長など文化・芸能面にも権力を進出させた。また、イラクオリンピック委員長にも復帰した。 イラク・オリンピック委員長時代、成績不振のスポーツ選手に対して日常的に[[拷問]]が行われ、52人ものスポーツ選手が彼の拷問によって命を落としたと言われ、のちにアメリカ軍によってイラク制圧後にウダイが利用していたとされる拷問用のマスクなど多数の拷問器具が発見されている。また、ウダイと対立したサッカー・イラク代表監督はウダイから自宅に[[ロケット砲]]を撃ち込まれている。 [[1993年]]に行われた[[1994 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・アメリカ大会]]アジア地区最終予選の[[サッカー日本代表|日本]]対[[サッカーイラク代表|イラク]]戦([[ドーハの悲劇]])でも、もしイラク代表が日本代表に敗北していた場合、メンバーに対し全員鞭打ちの刑に処せられることになっていた、と当時のイラク代表のメンバーが語っていた。 前半を一点ビハインドで折り返した際、ハーフタイム中にロッカールームにウダイが現れ「お前たち、分かっているだろうな」と敗戦後の拷問をほのめかしたという。後半は打って変わって激しいフィジカルコンタクトを前面に押し出したサッカーを終始続け、終了間際に同点ゴールを決めたことで鞭打ちの刑が回避されたとも、結局予選敗退となったことで鞭打ちが執行されたものの引き分けに免じて回数が半分になったともされる。この時のイラクの選手たちの様子を[[ラモス瑠偉]]は「前後半でまるで違うチームになった」と述懐している。 [[1997年]]、[[サッカーイラク代表|イラク]]は、第1シードとして、[[1998 FIFAワールドカップ・アジア予選|仏W杯アジア1次予選]]グループ9で[[サッカーカザフスタン代表|カザフスタン]]と[[サッカーパキスタン代表|パキスタン]]と同じ組になったが、カザフスタンがイラクの成績を上回り、イラクの予選敗退が決まった。1997年6月29日、1次予選最終戦のアウェイでのカザフスタン戦でイラクが敗退し、イラク代表選手たちが帰国すると、[[イラクサッカー協会]]会長を兼務していたウダイが代表選手たちを軍事施設に連行し、鞭打ちした。また、コンクリートむき出しの狭い拷問部屋(立って歩けない程の低い天井で、狭く、更に部屋中に無数のコンクリートの柱がひしめき合うように立っていた)に選手を閉じ込めたりした。この事件をイギリスの新聞がセンセーショナルに報道したことで、後に[[国際サッカー連盟|国際サッカー連盟(FIFA)]]が調査したが、「暴行は無かった」と報告した。しかし、2003年の[[イラク戦争]]で、フセイン政権が倒れると、報道されたウダイの拷問の全てが事実であったことが判明した<ref>大住良之著『アジア最終予選 サッカー日本代表 2006ワールドカップへの戦い』P217</ref>。 また、自ら設立した[[メディア (媒体)|メディア]]機関で、[[ターハー・ヤースィーン・ラマダーン]]、[[ターリク・ミハイル・アズィーズ]]などのバアス党内の古参幹部や時の[[アフマド・フセイン・フダイル]][[内閣]]の経済政策、外交政策を辛辣に批判し、政府の人事や政策にも大きく影響した。 [[1994年]]、ウダイはサッダームの異父弟で叔父にあたる[[バルザーン・イブラーヒーム・ハサン]]の娘サジャーと結婚した。サッダームは結婚によってウダイの性格が丸くなることを望んだが、結婚生活は長く続かず、僅か4日後にウダイはバグダードの高級ホテルで売春婦と暮らし始めた。結局、1年足らずで事実上の離婚となった。 [[1995年]]には[[イッザト・イブラーヒーム]]の娘と結婚したが、長くは続かず、翌年離婚した。 == 叔父を銃撃 == 1995年8月8日、ウダイの叔父で、母サージダの弟である[[ルアイ・ハイラッラー]]はある売春婦を巡って、ルアイの姉の夫[[ワトバーン・イブラーヒーム・ハサン]]と争っており、その日、ルアイは自分のボディーガードをワトバーンのいる宴会場に送り、女のことを諦めるよう伝達させた。しかし、ワトバーンは自分のボディーガードに、ルアイのボディーガードを殴り倒すように命じ、数時間たってルアイのボディーガードは、血を流しながら戻ってきた。これに怒ったルアイは、ウダイに助けを求めた。 ウダイは当日かなり酔っており、ふたつ返事で了承すると、大型の銃を持って宴会場に向かうと、まずワトバーンのボディーガードらを銃撃し、関係の無い宴会の参加者らも射殺した。そこに帰宅したはずのワトバーンが戻ってきた。ウダイの車列が通り過ぎたのを見て、引き返してきたのだった。ウダイはワトバーンに向けて銃を発射。ワトバーンは両足を撃たれ、重傷を負ったが、ワトバーンのボディーガードらはウダイに向かって発砲することはなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。 本来なら、ウダイは罰せられるはずだが、ちょうどこの時、フセイン・カーミル兄弟が親族と共に亡命する事件が発生、そちらの方の対処が優先された。ワトバーンの二人の兄(バルザーンとサブアーウィー)はウダイを罰するように主張したが、サッダームはそれを避けた。理由は、売春婦を巡る争いが事件の発端だということが公になると、一族の不名誉になると考えたからだった。 サッダームは自分流の罰として、ウダイの大切な高級車のコレクション、[[ポルシェ]]、[[BMW]]、[[フェラーリ]]等を格納しているガレージに火を点けた。後に残ったのは、それらの焼け焦げた残骸であった。ウダイはこの事態に落胆し、後年になっても未練がましく弟のクサイに愚痴をこぼしたとされる。もっとも、燃やされた車はウダイの保有する自動車のほんの一部であったとされる。 == 暗殺未遂 == 1996年12月12日、ウダイは友人のパーティーに向かうため、バグダードのマンスール地区を車で移動中、スポーツバッグに銃を隠し持っていた男らによって銃撃された。男らは現場から逃走、ウダイは意識不明に陥った。 銃弾はウダイの左胸から貫通し、心臓をかすめたために命は助かったが、胃が切り裂かれ体外に飛び出ていたという。また、左足の脛骨が銃弾で破壊され、右足にも重傷を負った。 一時は死へと近づいたが、緊急手術の甲斐があって何とか命を取り留めたが、体の左半分の動きが鈍くなり、血圧が急激に低下した。また、胸の強い痛みを訴え、肺血栓の疑いが濃くなった。 翌年には、サッダームの強い要望で[[フランス]]の病院で、治療させることを求めたが、フランス政府からの許可が下りず、かわりに仏人医師団がイラクに到着した。検査の結果、左下腹部に血栓が見つかった。医師らは血栓を取り除く手術を求めたが、ウダイが拒否したために薬剤投与の治療に切り替え、何とか命の危機は脱した。左足の手術は、まだ足が腫上がっていたため、仏人医師が一ヶ月間延期を求めたが、ウダイがそれに激怒、代わりにドイツから来た医師が手術を行った。 懸命の手術や治療にもかかわらずなかなか左足の傷が完治しなかった。理由は、ウダイが病室を抜け出してドライブをしたり、毎夜のように仲間らと共に酒の入ったパーティーを行い、あげくの果てに病室のベッドで女と一夜を共にするという、ふしだらな行為を続けていたからであった。 また、事件により[[インポテンツ]]になったという噂があったが、前述の通りデマであった。ウダイにはかねてより自分を拒む女性を[[レイプ]]していたという複数の証言があり、実行犯らはこれを「天罰」と称していたという。 結局、左腕は治ったものの、酷く重傷を負った左足はついに完治せず、以来歩行が困難になり、杖が必需品となった。また、以前にもまして短気で攻撃的な性格になったという。 奇しくも、ウダイが負傷した左足の傷は、かつて自分が銃撃で負傷させた叔父ワトバーンの足の傷と同じ位置にあった。 その後、実行犯らが「アン=ナフダ」というグループ名で犯行声明を出した。長らく、ウダイ暗殺未遂事件を実行したのはシーア派反体制派勢力の仕業と見られていたが、実はイラクの民主化を目指す国内の若者や学生らによる地下組織の仕業であったことが、イギリス人ジャーナリストのパトリック・コバーンの取材で判明した。<ref>パトリック・コバーン・アンドリュー・コバーン著「灰の中から サダム・フセインのイラク」 391頁 </ref> ウダイを暗殺しようとする事件は、度々発生しており、93年にはウダイが会長を務めるオリンピック委員会本部のゴミ箱に爆弾を仕掛けて、爆殺を計る計画があったが、爆発はウダイが建物を出たときに発生したために計画は失敗に終わった。 == 後継者レースから脱落 == かねてからの素行の悪さに加えて暗殺未遂による後遺症など一連の騒動の結果、ウダイは完全に後継レースから外れ、弟のクサイが後継者として周囲から認知されるようになった(クサイと異なり幹部会である[[革命指導評議会]]のメンバーにも入っていない)。それ以降、ウダイの権力は弱体化し、国内のメディア・娯楽・スポーツ・ビジネスといった範囲に限定された。1996年に{{ill2|フィダーイー・サッダーム|en|Fedayeen Saddam}}という民兵組織を創設したものの、その後、クサイに指揮権限を奪われるなど、このころのウダイは不遇な時期を過ごしていた。 2000年にはイラクの[[国会]]にあたる国民議会の選挙において議員に'''トップ'''で当選した。 ちなみに、2002年頃[[Yahoo!]]やMSNの無料アカウントを自身の名前で取得し、それを使って自分の気に入らないジャーナリストらに対して脅迫メールを送付したことがある。 == イラク戦争〜死 == 2003年、[[イラク戦争]]開戦に伴い、国営ラジオにてウダイの名で「神は侵略者から我々を守る」とアメリカ軍を中心とした多国籍軍に対して抵抗を呼びかける内容の声明が発表された。 しかし、ウダイは戦争に乗じて政権の転覆を計っていたと、ジャーナリストの[[ピーター・アーネット]]は主張している。アーネットによるとウダイはサッダーム政権の独裁制や国連からの経済制裁を招いた父の外交手法に苛立ち、サッダームに苦言を呈していたという<ref>{{cite news|url=http://www.smh.com.au/news/After-Saddam/Son-was-ready-to-topple-Saddam/2005/03/03/1109700611766.html |title=Son was ready to topple Saddam|publisher=[[シドニー・モーニング・ヘラルド]]|language=en|date=2005-03-04}}</ref>(もっともウダイも独裁制の下で自由奔放に動き、経済制裁で多額の利益を得ていた)。 開戦後の3月26日、ウダイの副官でフィダーイー・サッダームの予算担当財務総括官だったマキ・ムスタファー・ハムダート将軍がウダイへ宛てた手紙で「閣下(ウダイ)を長として、閣下の指令と命令により新たに政権を確立する件について、我々フィダーイー・サッダームの上官達全員に、新政権での閣僚へ加わるという閣下の希望を伝達済みであります。」とウダイ政権に忠誠を誓う内容となっている。 この3月26日にウダイは自ら経営するラジオ局「ボイス・オブ・イラク」放送を通じてクーデター開始を発表するはずだったが、米軍がラジオ局を空爆したため、計画は敢無く挫折したという。 ウダイは開戦前からオリンピック委員会を隠れ蓑に影の政府的なものを作っていたという。アーネットによればウダイこそ、体制内で政権交代を唱えた高位クラスの人物だとして、「遡ること10年前、ウダイはゆっくりと権力要素を組み立てていった。イラク軍将校と政治家達を集めて、専制的な父親を屈服させるつもりでいた」と主張している。 4月1日、イラク国営放送にてサッダーム、クサイと共に会合するウダイの姿が公表されたが、これがウダイの最後の映像となった。バグダード陥落直前、ウダイは一旦、サッダームと別れてクサイと共に米軍の追及を逃れ、イラク北部の拠点でサッダームと合流し、[[シリア]]に亡命しようとしたが、シリア側に入国を阻止されて失敗したという。5月にウダイが駐留米軍を通じて投降交渉を行っているとの報道がなされたが、その後、米軍によって否定された。逃亡中の動向については一切不明だが、サッダームとは別行動を取っていたと言われる。 [[2003年]][[7月22日]]、米軍はある情報提供者から、イラク北部の[[モスル]]の邸宅に大物逃亡者が潜伏しているとの情報を得ると、24時間かけて綿密な計画を準備し、[[アメリカ陸軍]][[第101空挺師団 (アメリカ軍)|第101空挺師団]]をその邸宅に向かわせ、家を包囲した。家宅捜査をしようとしたその瞬間、室内から米兵に向けて激しい銃撃が起きた。劣勢に立たされた米軍部隊は一旦撤収し、その後、攻撃ヘリの支援を得て、邸宅を攻撃、約4時間に及ぶ戦闘を行った。 そして、突入した米兵によりウダイ、クサイ、クサイの息子ムスタファー、4人の護衛の遺体が確認された。ウダイとクサイは、銃撃戦の最中にもパニックになりながら友人や支援者らに電話を掛けており、その会話を傍受していた米軍は電話先の居場所を割り出し、彼らも拘束した<ref>{{cite news|newspaper=日本経済新聞|date=2003-08-05}}</ref>。 7月24日、[[ドナルド・ラムズフェルド]]国防長官の決定により、米軍は死んだウダイ・クサイ兄弟の写真を公表した。 米軍司令部は、イラクでウダイ、クサイ兄弟がまだ生きているという噂を打ち消すために兄弟の遺体の写真を公開した。この公開について、「戦闘中に殺害された米兵捕虜の写真を公開したサッダーム・フセインをブッシュ政権が非難したこと」を考えると、アメリカは二重基準であると一部から批判があがった。米軍はこの批判に、ウダイ、クサイは戦闘員ではなく国際法上問題ないと答え、イラク国民にとって転換点になると述べた。 これにより、彼らの死を喜んだ多くのイラク国民が、祝砲として至るところで銃を発砲した。だがこの流れ弾により31人が死亡し多数の負傷者が出た。 ちなみに、ウダイ・クサイが潜伏していると米軍に通報したのはナワーフ・ザイダーンという地元建設会社社長で、ウダイ・クサイ兄弟を自分の自宅に匿ったと言われている<ref>{{cite news|newspaper=[[読売新聞]]|date=2003-07-24}}</ref>。サッダームの出身一族「アルブ・ナースィル」の出身で、旧政権時代にサッダームは自身の「従兄弟」であると嘘をついたため、サッダームの怒りを買い投獄された経験があるという。ザイダーンはその後、米軍から賞金を受け取ると、家族と共にアメリカに亡命したと報じられた。 アメリカ側は、これで当時、イラクの治安悪化の元凶と見なされていたサッダーム旧政権残党勢力が力を落として弱体化すると楽観的な見通しを示したが、むしろこの後、駐留外国軍に対する攻撃は悪化、苛烈さを増した。 ウダイの遺体は弟クサイ、その息子ムスタファーと共に、[[ティクリート]]の墓地に埋葬された。2007年、サッダーム処刑後はティクリート近郊のアル=アウジャ村にあるサッダームも眠る墓地に埋葬し直された。 == 参考文献 == *「裸の独裁者サダム 主治医回想録」 アラ・バシール ラーシュ・スンナノー著 山下丈訳 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.globalsecurity.org/military/world/iraq/uday.htm GlobalSecurity.org: Uday Saddam Hussein al-Tikriti] * [http://www.desert-voice.net/saddam_sons.htm DesertVoice.net: Saddam's sons] * [http://united-states.asinah.net/us-weblinks/odp.database/Regional/Middle_East/Iraq/Society_and_Culture/Politics/Politicians/Saddam_Hussein/ Saddam's Family] * [http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/2495481.stm BBC News: Saddam pounces on son's newspaper, 20 Nov 2002] * [http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/2475925.stm BBC News: Saddam's son steps into debate, 14 Nov 2002] * [http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/2236137.stm BBC News: Saddam's rival sons, 10 Sep 2002] * [http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3088393.stm BBC News: Saddam sons 'dead', 23 July, 2003] == 関連項目 == *[[ラティフ・ヤヒア]](ウダイの[[影武者]]であったと称する人物。映画『[[デビルズ・ダブル -ある影武者の物語-|デビルズ・ダブル]]』の原作者、主人公のモデル。) {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:ふせいん うたいさたむ}} [[Category:イラクの人物]] [[Category:イラク戦争の人物]] [[Category:サッカー組織の幹部]] [[Category:自動車収集家]] [[Category:サッダーム・フセインの子女|うたい]] [[Category:戦死した人物]] [[Category:拷問殺人]] [[Category:バアス党]] [[Category:バグダード出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:2003年没]]
2003-07-24T03:25:06Z
2023-12-11T03:42:59Z
false
false
true
[ "Template:Authority control", "Template:暴力的", "Template:Ill2", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite news" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B3
12,123
ももせたまみ
ももせ たまみは、日本の漫画家、同人作家。女性。東京都出身、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。血液型はAB型。青年誌および4コマ誌を中心に4コマ漫画を発表している。 大学卒業後にゲーム会社に勤務する傍ら、1993年に『ヤングアニマル』(白泉社)連載の『ももいろシスターズ』でデビュー。その後3年ほどOLと漫画家の二足のわらじで生活する。 1997年からは『まんがライフオリジナル』(竹書房)で『せんせいのお時間』の連載も開始、これらの2作品は1997年以降共にドラマCD化、TVアニメ化されている。 2003年には『せんせいのお時間』を看板作品に据えた『まんがライフMOMO』が竹書房より『近代麻雀ゴールド』増刊号として創刊され、ほぼ毎号表紙を描いているほか、『お時間』の主人公役を務めた声優の南央美の実体験を漫画化した『おみたま』も2010年まで『お時間』と共に連載していた。2013年より同誌での連載作品が『私設花野女子怪館』に交代した後も、引き続き表紙の中心イラストを担当している。 『ももいろスウィーティー』(ヤングアニマル)、『ななはん』(月刊アフタヌーン)、『せんせいのお時間』・『おみたま』・『通販BINちゃん生活(の挿絵)』(まんがライフMOMO)と一時は5本の連載を抱えていたが、2006年2月から産休のため全ての連載を休んでいた。その後無事女子の双子を出産し、『まんがライフMOMO』2006年8月号より活動を再開。『Silky』2008年2月号より双子の育児エッセイ『ツインぴーくす』(後に『ぷりぷりふたごシスターズ』と改題)を、2013年の同誌休刊まで連載した。 2010年には第3子となる男児を出産。このときは『せんせいのお時間』は『まんがライフMOMO』2010年11月号より2011年3月号まで毎月2 - 4ページ程度に減らして乗り切ったが、『Silky』2011年2月号の『ツインぴーくす』は休載となった。 作風としては少女漫画タッチの絵柄で、いわゆる萌え系の4コマ漫画に分類され、萌え系4コマ漫画家として最初期の作家の一人に数えられる。特に『ももいろシスターズ』ではそういった絵柄とH系なネタとのギャップで人気を博し、通巻10巻という長期連載となった。 投稿時代は「ももじりたまこ」というペンネームを使用していたが本人も編集長もとても恥ずかしい思いをしたためデビューの際に現在のペンネームに変更したという。ペンネームの「ももせ」は近所にあった不動産屋の名前からとのこと。 なお「講漫社」「ももせ商会」などのサークル名で成年誌系の作家である海野螢やアイザック乳頭らとともに同人活動をしていたこともあり、おたくや同人誌に関するネタも多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ももせ たまみは、日本の漫画家、同人作家。女性。東京都出身、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。血液型はAB型。青年誌および4コマ誌を中心に4コマ漫画を発表している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大学卒業後にゲーム会社に勤務する傍ら、1993年に『ヤングアニマル』(白泉社)連載の『ももいろシスターズ』でデビュー。その後3年ほどOLと漫画家の二足のわらじで生活する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1997年からは『まんがライフオリジナル』(竹書房)で『せんせいのお時間』の連載も開始、これらの2作品は1997年以降共にドラマCD化、TVアニメ化されている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2003年には『せんせいのお時間』を看板作品に据えた『まんがライフMOMO』が竹書房より『近代麻雀ゴールド』増刊号として創刊され、ほぼ毎号表紙を描いているほか、『お時間』の主人公役を務めた声優の南央美の実体験を漫画化した『おみたま』も2010年まで『お時間』と共に連載していた。2013年より同誌での連載作品が『私設花野女子怪館』に交代した後も、引き続き表紙の中心イラストを担当している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『ももいろスウィーティー』(ヤングアニマル)、『ななはん』(月刊アフタヌーン)、『せんせいのお時間』・『おみたま』・『通販BINちゃん生活(の挿絵)』(まんがライフMOMO)と一時は5本の連載を抱えていたが、2006年2月から産休のため全ての連載を休んでいた。その後無事女子の双子を出産し、『まんがライフMOMO』2006年8月号より活動を再開。『Silky』2008年2月号より双子の育児エッセイ『ツインぴーくす』(後に『ぷりぷりふたごシスターズ』と改題)を、2013年の同誌休刊まで連載した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2010年には第3子となる男児を出産。このときは『せんせいのお時間』は『まんがライフMOMO』2010年11月号より2011年3月号まで毎月2 - 4ページ程度に減らして乗り切ったが、『Silky』2011年2月号の『ツインぴーくす』は休載となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "作風としては少女漫画タッチの絵柄で、いわゆる萌え系の4コマ漫画に分類され、萌え系4コマ漫画家として最初期の作家の一人に数えられる。特に『ももいろシスターズ』ではそういった絵柄とH系なネタとのギャップで人気を博し、通巻10巻という長期連載となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "投稿時代は「ももじりたまこ」というペンネームを使用していたが本人も編集長もとても恥ずかしい思いをしたためデビューの際に現在のペンネームに変更したという。ペンネームの「ももせ」は近所にあった不動産屋の名前からとのこと。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお「講漫社」「ももせ商会」などのサークル名で成年誌系の作家である海野螢やアイザック乳頭らとともに同人活動をしていたこともあり、おたくや同人誌に関するネタも多い。", "title": "概要" } ]
ももせ たまみは、日本の漫画家、同人作家。女性。東京都出身、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。血液型はAB型。青年誌および4コマ誌を中心に4コマ漫画を発表している。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = ももせ たまみ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生地 = {{JPN}} [[東京都]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢||7|21}}<ref>本人単行本『ももたま&#9829;ミックス』折り返しプロフィールより。</ref> | 没年 = | 職業 = [[漫画家]]、[[同人]]作家 | 活動期間 = [[1993年]] - | ジャンル = [[4コマ漫画]] | 代表作 = 『[[ももいろシスターズ]]』<br />『[[せんせいのお時間]]』 | 受賞 = | 公式サイト = }} '''ももせ たまみ'''は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[同人]]作家。[[女性]]。[[東京都]]出身、[[早稲田大学]][[教育学部]]国語国文学科卒業<ref name="aa">本人単行本『ももいろシスターズ』1巻折り返しプロフィールより。</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|AB型]]<ref name="aa" />。青年誌および4コマ誌を中心に[[4コマ漫画]]を発表している。 == 経歴 == 大学卒業後にゲーム会社に勤務する傍ら、[[1993年]]に『[[ヤングアニマル]]』([[白泉社]])連載の『[[ももいろシスターズ]]』でデビュー。その後3年ほど[[OL]]と[[漫画家]]の二足のわらじで生活する<ref>1996年末に発売された本人単行本『ももいろシスターズ』3巻折り返しプロフィールにて会社を辞めた旨の発表がある。</ref><ref>同年1月に発売された2巻ではまだ「二足のわらじ」として活動している旨が発表されているため約3年間兼業していたと推計される。</ref>。 [[1997年]]からは『[[まんがライフオリジナル]]』([[竹書房]])で『[[せんせいのお時間]]』の連載も開始、これらの2作品は1997年以降共に[[ドラマCD]]化、[[テレビアニメ|TVアニメ]]化されている。 [[2003年]]には『せんせいのお時間』を看板作品に据えた『[[まんがライフMOMO]]』が[[竹書房]]より『[[近代麻雀ゴールド]]』増刊号として創刊<ref>2008年11月28日発売の2009年1月号より独立創刊。</ref>され、ほぼ毎号<!--ごく少数例外あり-->表紙を描いているほか、『お時間』の主人公役を務めた[[声優]]の[[南央美]]の実体験を漫画化した『おみたま』も2010年まで『お時間』と共に連載していた。[[2013年]]より同誌での連載作品が『私設花野女子怪館』に交代した後も、引き続き表紙の中心イラストを担当している。 『[[ももいろスウィーティー]]』(ヤングアニマル)、『[[ななはん〜七屋ちょこっと繁盛記〜|ななはん]]』([[月刊アフタヌーン]])、『せんせいのお時間』・『おみたま』・『通販BINちゃん生活(の挿絵)』(まんがライフMOMO)と一時は5本の連載を抱えていたが、[[2006年]]2月から産休のため全ての連載を休んでいた。その後無事女子の[[双生児|双子]]を出産し、『まんがライフMOMO』2006年8月号より活動を再開。『[[Silky]]』2008年2月号より双子の育児エッセイ『ツインぴーくす』(後に『ぷりぷりふたごシスターズ』と改題)を、2013年の同誌休刊まで連載した。 2010年には第3子となる男児を出産。このときは『せんせいのお時間』は『まんがライフMOMO』2010年11月号より2011年3月号まで毎月2 - 4ページ程度に減らして乗り切ったが、『Silky』2011年2月号の『ツインぴーくす』は休載となった。 == 概要 == 作風としては少女漫画タッチの絵柄で、いわゆる[[萌え]]系の4コマ漫画に分類され、萌え系4コマ漫画家として最初期の作家の一人に数えられる。特に『[[ももいろシスターズ]]』ではそういった絵柄とH系なネタとのギャップで人気を博し、通巻10巻という長期連載となった。 投稿時代は「ももじりたまこ」というペンネームを使用していたが本人も編集長もとても恥ずかしい思いをしたためデビューの際に現在のペンネームに変更したという<ref>本人単行本 『ももいろシスターズ』1巻P124あとがき漫画より。</ref>。ペンネームの「ももせ」は近所にあった不動産屋の名前からとのこと<ref>同 『ももいろシスターズ』2巻P136あとがきより。</ref>。 なお「講漫社」「ももせ商会」などのサークル名で成年誌系の作家である[[海野螢]]や[[アイザック乳頭]]らとともに同人活動をしていたこともあり、[[おたく]]や[[同人誌]]に関するネタも多い。 == 作品リスト(単行本) == * [[ももいろシスターズ]](1993年 - 2002年、白泉社 全10巻) ** ももいろふぁいぶ(2008年、白泉社 全1巻) ** ももいろ愛かっぷる(2008年、白泉社 全1巻) ** ももいろフレンズ(2009年、白泉社 全1巻) ** ももいろリトルシスター(2009年、白泉社 全1巻) : いずれも「ももいろシスターズ」の再編集版。 * [[せんせいのお時間]](1997年 - 2013年、竹書房 全12巻) * ワーキングガールの素(1999年、白泉社 全1巻)ISBN 9784592131908 * ななはん〜七屋ちょこっと繁盛記〜(2000年 - 2007年、[[講談社]] 全2巻) *# ISBN 9784063375473 *# ISBN 9784063376302 * ももたま・ミックス(2003年、白泉社 全1巻)短編作品集 ※なお4作品とも掲載誌はすべて白泉社刊行雑誌 ISBN 9784592132301 ** ホームぺぇじ([[Silky]])1999年8月号 - 2002年10月号 全20話 ** マジック♥マジック([[ヤングアニマル嵐]])2002年 vol5 - 2003年 vol12 全8話 ** おくさまはねこみみギャルだにゃん♥(ヤングアニマル嵐)2001年 vol2 ** ビューティフルラバーズ(Silky増刊 スパイス)2001年5月10日号 * [[ももいろスウィーティー]](2003年 - 2010年、白泉社 全5巻) * おみたま通販便(2004年 - 2010年、竹書房 全3巻)※[[南央美]]との共著 *# 『おみたま通販便』<!--巻数表記なし-->ISBN 9784812459577 *# 『おみたま通販便2』ISBN 9784812467534(通常版)、ISBN 9784812467541(特装版) *# 『おみたま通販便finale』ISBN 9784812476802 * ぷりぷりふたごシスターズ(2008年 - 2013年、白泉社 既刊1巻で中断)※旧タイトルは『ツインぴーくす』だが、単行本1巻発売時に改題。 *# ISBN 9784592144786 * [[ナナとカオル#派生作品|ナナとカオルぴんくぴゅあ]](2011年 - 2013年、白泉社 全1巻)※雑誌掲載時タイトルは『ナナカオぴんくぴゅあ』だが、単行本で改題。なお、『[[ナナとカオル]]』の著者である[[甘詰留太]]に関する[[著作権|権利]]記載は、掲載誌面にも単行本にも行なわれていない。 *: ISBN 9784592142348 * 私設花野女子怪館(2013年 - 2016年、竹書房 全3巻) *# ISBN 9784801950177 *# ISBN 9784801954069 *# ISBN 9784801956162 === 挿絵 === *[[要塞学園アルファルファ]](1999年 - 2000年、集英社 全3巻)原作:[[矢成みゆき]]&[[あかほりさとる]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[甘詰留太]] - 大学の[[後輩]]、[[白泉社]]に紹介して一般誌デビューのきっかけを作った。 == 外部リンク == * {{Twitter|momosetamami|公式ももせたまみ}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ももせ たまみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:同人作家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
null
2022-01-30T05:15:59Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 漫画家", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Twitter", "Template:Normdaten", "Template:Manga-artist-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%82%82%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%BF
12,125
クサイ・サッダーム・フセイン
クサイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー(قصي صدام حسين、Qusay Saddam Husayn、1966年5月17日 - 2003年7月22日)は、イラク大統領サッダーム・フセインと第一夫人サージダ・ハイラッラーの次男。 ウダイの弟。日本国内での報道はフルネームではなく「クサイ氏」とされることが多い。 1966年バグダードで生まれる。学生時代は、兄のウダイに比べて物静かで計算高い性格だったとされる。バグダード大学政治学部を卒業している。1984年、バグダード市内のホテルでサウジアラビアの外交官と酔っていた勢いで喧嘩となり、サウジの外交官を殴打したため、刑務所に拘禁された。 1985年には、「イラクのロンメル」と評されたイラン・イラク戦争の英雄であるマーヒル・アブドゥッラシード将軍の娘サハルと結婚。元来、サッダームとマーヒルはサッダームの命によってマーヒルの叔父が暗殺されて以来、険悪な関係であったが、イラク国民からの人気が高くティクリート出身で陸軍の名家でもあるアブドゥッラシード将軍と姻戚関係になることで、サッダーム家の社会的地位の上昇を狙ったいわゆる政略結婚であった。しかし、二人の間に子供ができると離婚させられた。原因はサッダームとマーヒル将軍が戦争指導を巡って対立し、軍司令官の地位を解任されたためである。終戦後、アブドゥッラシード将軍は自宅軟禁の目にあった。 1990年、イラクがクウェートを侵略・占領するとクサイは叔父のフセイン・カーミル・ハサンらと共にクウェートの王族の宮殿や屋敷から絵画や宝石、高級車、イタリア製家具などを大量に略奪し、トラックで運び去った。湾岸戦争停戦後に起きたシーア派住民によるインティファーダの鎮圧、その後に起きた住民虐殺や南部湿地帯に住む「マーシュ・アラブ人」の殺害・湿地帯の破壊に、クサイは主導的な役割を果たしたとされる。 1991年5月に国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会による査察が開始されると、クサイは査察妨害を目的とした通称「隠蔽作戦委員会」の委員長に任命され、いかにして国連査察団から大量破壊兵器の存在を隠すかに専念した。 1995年から96年にかけて、叔父フセイン・カーミルとサッダーム・カーミルの亡命・殺害、兄ウダイによる叔父ワトバーンの銃撃事件、ウダイ自身の暗殺未遂事件と一族内のライバルがサッダームの後継レースから脱落していき、クサイが事実上の後継者として頭角を現した。ウダイ暗殺未遂以降、サッダームはクサイを後継者と決定したとの見方もある。 これまでクサイは、1990年代の初頭にイラクの大半の治安・情報機関・治安部隊を自らの支配下に置いていたとされる。公式な肩書やポストでは無いものの、共和国防衛隊監督者、イラク特殊軍司令官、88年には特別保安機関(Jihaz al-Amn al-Khass)副長官、92年には長官に任命されていた。95年には国家安全保障会議副議長、1997年には、ウダイが創設した民兵組織「フェダーイーン・サッダーム(英語版)」総司令官に就任し、兄から指揮権限を奪った。 クサイもまた、イラクの恐怖政治の一翼を担っていた。1995年、スンナ派一大部族であるドゥライミー部族の反乱、1997年にはシーア派住民による反乱が起きたが、いずれもクサイが指揮する特殊軍や共和国防衛隊、特別保安機関によって押さえ込まれた。1999年に発生した、大アーヤトッラー・ムハンマド・サーディク・アッ=サドルの暗殺事件も、クサイが暗殺を命じたと見られている。この他にも、旧イラク反体制派によると、クサイは多くの反政府活動家の殺害に関与してきたとしている。この他にも、政治犯の尋問・投獄、その家族の拘束を認可する命令を発し、それにより数千人が刑務所に投獄された。1998年には投獄された政治犯で過密状態となった各刑務所を「清掃」する名目で、約4千人の政治犯がクサイの命令の下、処刑された。 1998年、米英軍による「砂漠の狐作戦」が行われると、クサイはイラクの4つの軍管区のうち、中央軍管区司令官に任命され、首都防衛の責任者となった。2003年のイラク戦争開戦前にも同軍管区司令官に任命された。 2000年、クサイは非常時における臨時大統領代行に指名され、2001年には、バアス党の権力昇進コースである党軍事局副議長に任命されると共に、党地域指導部メンバーに選出された。クサイが付与された初の正式な公職である。この年の第12回地域指導部大会において、古参党幹部が落選しており、事実上のクサイ体制に向けた布石と思われた。2002年に暗殺未遂に遭っている。 2003年3月20日、イラク戦争が開始されると、国営テレビにサッダームや軍幹部と共に会議に臨む映像が複数回放送された。4月8日には、空爆で死亡したとの報道が流れた。 米誌「タイム」によると、クサイは軍将校との会合において、同じ質問を何度も繰り返すなど、精神的に不安定な状態が続いていたという。また、同誌によればクサイがバグダード陥落前日の4月8日に、首都を防衛する共和国防衛隊の部隊に移動を命じたため、部隊の配置が間に合わず、進撃してくるアメリカ軍に対応できなかったと報じた。 また、エジプトの新聞「アル=ウスブーア」によれば、クサイがバグダード防衛を巡ってイラク軍と対立していたと報じられた。4月下旬、クサイはイラク軍にアメリカ軍をバグダードに誘い込み、市街戦に持ち込もうとしたが、イラク軍は「敵は想像以上に強力」として、逆にバグダード郊外での攻撃及び補給線の切断を提案したが、クサイは拒否。軍はサッダームに首都決戦を避けるように進言しようとしたが、サッダームとの連絡が取れず、そのため軍は、敗戦は決定的と判断したとされる。 バグダードが陥落した9日には、クサイはサッダームと共に市内に現れ、熱狂した民衆に取り囲まれる映像がアラブ・メディアによって放送された。サンデー・タイムズの報道によれば、別々のルートで隣国シリアに亡命し、現地で合流することをサッダームが2人の息子に提案したところ、クサイは涙を流しながら父と別れることを拒否したという。その後、クサイはシリアに入国しようとしたが、同国当局に拒まれたため、クサイはウダイと共に、イラク中・北部で潜伏生活を送った。 しかし、2003年7月22日、モースルにある隠れ家を密告され、米第101空挺師団との銃撃戦で戦死した(年齢は推定37歳)。クサイは米軍に対して激しく抵抗したとされ、最終的に米軍のBGM-71 TOW対戦車ミサイルによる攻撃で死亡したと見られる。この際、クサイの14歳になる息子ムスタファーが最後まで抵抗し、射殺された。しかしムスタファーの射殺については異なった情報も示されている。 2003年7月24日、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の決定により、イラク駐留米軍は、死んだウダイ・クサイ兄弟の遺体の写真を報道陣に公表した。 米軍は、イラクでウダイ、クサイ兄弟がまだ生きているという噂を打ち消すために兄弟の遺体の写真の公表に踏み切ったとしている。この公開について、「紛争中に殺害されたアメリカ兵捕虜の写真を公開したサッダーム・フセイン政権をブッシュ政権が非難したこと」を考えると、アメリカは二重基準であると一部から批判があがった。アメリカ軍はこの批判に、ウダイ、クサイは戦闘員ではなく国際法上問題ないと答え、イラク国民にとって転換点になると述べた。 その後、ウダイとムスタファーと一緒に、父の故郷であるティクリートのアル=アウジャ村の墓地に埋葬された。2007年には、再び埋葬し直され、現在はアウジャ村のモスクの敷地内にある墓地で処刑された父と共に眠っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "クサイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー(قصي صدام حسين、Qusay Saddam Husayn、1966年5月17日 - 2003年7月22日)は、イラク大統領サッダーム・フセインと第一夫人サージダ・ハイラッラーの次男。 ウダイの弟。日本国内での報道はフルネームではなく「クサイ氏」とされることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1966年バグダードで生まれる。学生時代は、兄のウダイに比べて物静かで計算高い性格だったとされる。バグダード大学政治学部を卒業している。1984年、バグダード市内のホテルでサウジアラビアの外交官と酔っていた勢いで喧嘩となり、サウジの外交官を殴打したため、刑務所に拘禁された。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1985年には、「イラクのロンメル」と評されたイラン・イラク戦争の英雄であるマーヒル・アブドゥッラシード将軍の娘サハルと結婚。元来、サッダームとマーヒルはサッダームの命によってマーヒルの叔父が暗殺されて以来、険悪な関係であったが、イラク国民からの人気が高くティクリート出身で陸軍の名家でもあるアブドゥッラシード将軍と姻戚関係になることで、サッダーム家の社会的地位の上昇を狙ったいわゆる政略結婚であった。しかし、二人の間に子供ができると離婚させられた。原因はサッダームとマーヒル将軍が戦争指導を巡って対立し、軍司令官の地位を解任されたためである。終戦後、アブドゥッラシード将軍は自宅軟禁の目にあった。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1990年、イラクがクウェートを侵略・占領するとクサイは叔父のフセイン・カーミル・ハサンらと共にクウェートの王族の宮殿や屋敷から絵画や宝石、高級車、イタリア製家具などを大量に略奪し、トラックで運び去った。湾岸戦争停戦後に起きたシーア派住民によるインティファーダの鎮圧、その後に起きた住民虐殺や南部湿地帯に住む「マーシュ・アラブ人」の殺害・湿地帯の破壊に、クサイは主導的な役割を果たしたとされる。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1991年5月に国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会による査察が開始されると、クサイは査察妨害を目的とした通称「隠蔽作戦委員会」の委員長に任命され、いかにして国連査察団から大量破壊兵器の存在を隠すかに専念した。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1995年から96年にかけて、叔父フセイン・カーミルとサッダーム・カーミルの亡命・殺害、兄ウダイによる叔父ワトバーンの銃撃事件、ウダイ自身の暗殺未遂事件と一族内のライバルがサッダームの後継レースから脱落していき、クサイが事実上の後継者として頭角を現した。ウダイ暗殺未遂以降、サッダームはクサイを後継者と決定したとの見方もある。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これまでクサイは、1990年代の初頭にイラクの大半の治安・情報機関・治安部隊を自らの支配下に置いていたとされる。公式な肩書やポストでは無いものの、共和国防衛隊監督者、イラク特殊軍司令官、88年には特別保安機関(Jihaz al-Amn al-Khass)副長官、92年には長官に任命されていた。95年には国家安全保障会議副議長、1997年には、ウダイが創設した民兵組織「フェダーイーン・サッダーム(英語版)」総司令官に就任し、兄から指揮権限を奪った。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "クサイもまた、イラクの恐怖政治の一翼を担っていた。1995年、スンナ派一大部族であるドゥライミー部族の反乱、1997年にはシーア派住民による反乱が起きたが、いずれもクサイが指揮する特殊軍や共和国防衛隊、特別保安機関によって押さえ込まれた。1999年に発生した、大アーヤトッラー・ムハンマド・サーディク・アッ=サドルの暗殺事件も、クサイが暗殺を命じたと見られている。この他にも、旧イラク反体制派によると、クサイは多くの反政府活動家の殺害に関与してきたとしている。この他にも、政治犯の尋問・投獄、その家族の拘束を認可する命令を発し、それにより数千人が刑務所に投獄された。1998年には投獄された政治犯で過密状態となった各刑務所を「清掃」する名目で、約4千人の政治犯がクサイの命令の下、処刑された。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1998年、米英軍による「砂漠の狐作戦」が行われると、クサイはイラクの4つの軍管区のうち、中央軍管区司令官に任命され、首都防衛の責任者となった。2003年のイラク戦争開戦前にも同軍管区司令官に任命された。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2000年、クサイは非常時における臨時大統領代行に指名され、2001年には、バアス党の権力昇進コースである党軍事局副議長に任命されると共に、党地域指導部メンバーに選出された。クサイが付与された初の正式な公職である。この年の第12回地域指導部大会において、古参党幹部が落選しており、事実上のクサイ体制に向けた布石と思われた。2002年に暗殺未遂に遭っている。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2003年3月20日、イラク戦争が開始されると、国営テレビにサッダームや軍幹部と共に会議に臨む映像が複数回放送された。4月8日には、空爆で死亡したとの報道が流れた。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "米誌「タイム」によると、クサイは軍将校との会合において、同じ質問を何度も繰り返すなど、精神的に不安定な状態が続いていたという。また、同誌によればクサイがバグダード陥落前日の4月8日に、首都を防衛する共和国防衛隊の部隊に移動を命じたため、部隊の配置が間に合わず、進撃してくるアメリカ軍に対応できなかったと報じた。 また、エジプトの新聞「アル=ウスブーア」によれば、クサイがバグダード防衛を巡ってイラク軍と対立していたと報じられた。4月下旬、クサイはイラク軍にアメリカ軍をバグダードに誘い込み、市街戦に持ち込もうとしたが、イラク軍は「敵は想像以上に強力」として、逆にバグダード郊外での攻撃及び補給線の切断を提案したが、クサイは拒否。軍はサッダームに首都決戦を避けるように進言しようとしたが、サッダームとの連絡が取れず、そのため軍は、敗戦は決定的と判断したとされる。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "バグダードが陥落した9日には、クサイはサッダームと共に市内に現れ、熱狂した民衆に取り囲まれる映像がアラブ・メディアによって放送された。サンデー・タイムズの報道によれば、別々のルートで隣国シリアに亡命し、現地で合流することをサッダームが2人の息子に提案したところ、クサイは涙を流しながら父と別れることを拒否したという。その後、クサイはシリアに入国しようとしたが、同国当局に拒まれたため、クサイはウダイと共に、イラク中・北部で潜伏生活を送った。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しかし、2003年7月22日、モースルにある隠れ家を密告され、米第101空挺師団との銃撃戦で戦死した(年齢は推定37歳)。クサイは米軍に対して激しく抵抗したとされ、最終的に米軍のBGM-71 TOW対戦車ミサイルによる攻撃で死亡したと見られる。この際、クサイの14歳になる息子ムスタファーが最後まで抵抗し、射殺された。しかしムスタファーの射殺については異なった情報も示されている。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2003年7月24日、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の決定により、イラク駐留米軍は、死んだウダイ・クサイ兄弟の遺体の写真を報道陣に公表した。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "米軍は、イラクでウダイ、クサイ兄弟がまだ生きているという噂を打ち消すために兄弟の遺体の写真の公表に踏み切ったとしている。この公開について、「紛争中に殺害されたアメリカ兵捕虜の写真を公開したサッダーム・フセイン政権をブッシュ政権が非難したこと」を考えると、アメリカは二重基準であると一部から批判があがった。アメリカ軍はこの批判に、ウダイ、クサイは戦闘員ではなく国際法上問題ないと答え、イラク国民にとって転換点になると述べた。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、ウダイとムスタファーと一緒に、父の故郷であるティクリートのアル=アウジャ村の墓地に埋葬された。2007年には、再び埋葬し直され、現在はアウジャ村のモスクの敷地内にある墓地で処刑された父と共に眠っている。", "title": "プロフィール" } ]
クサイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティーは、イラク大統領サッダーム・フセインと第一夫人サージダ・ハイラッラーの次男。 ウダイの弟。日本国内での報道はフルネームではなく「クサイ氏」とされることが多い。
[[File:Qusayhossein.png|thumb|1980年代頃のクサイ・フセイン]] '''クサイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー'''('''قصي صدام حسين'''、Qusay Saddam Husayn、[[1966年]][[5月17日]] - [[2003年]][[7月22日]])は、[[イラクの大統領|イラク大統領]][[サッダーム・フセイン]]と第一夫人[[サージダ・ハイラッラー]]の次男。フセイン体制時代は将来の大統領候補とも言われ、また当時は[[共和国防衛隊]]の司令官としても知られた。 [[ウダイ・サッダーム・フセイン]]の弟。[[日本]]国内での報道はフルネームではなく「クサイ氏」と呼ばれる事も多い。 == プロフィール == === 生い立ち === [[1966年]][[バグダード]]で生まれる。学生時代は、兄のウダイに比べて物静かで計算高い性格だったとされる。[[バグダード大学]][[政治学部]]を卒業している。[[1984年]]、バグダード市内のホテルで[[サウジアラビア]]の[[外交官]]と酔っていた勢いで喧嘩となり、サウジの外交官を殴打したため、刑務所に拘禁された。 [[1985年]]には、「[[イラク]]の[[ロンメル]]」と評された[[イラン・イラク戦争]]の英雄である[[マーヒル・アブドゥッラシード]]将軍の娘サハルと結婚。元来、サッダームとマーヒルはサッダームの命によってマーヒルの叔父が[[暗殺]]されて以来、険悪な関係であったが、イラク国民からの人気が高く[[ティクリート]]出身で陸軍の名家でもあるアブドゥッラシード将軍と姻戚関係になることで、サッダーム家の社会的地位の上昇を狙ったいわゆる政略結婚であった。しかし、二人の間に子供ができると離婚させられた。原因はサッダームとマーヒル将軍が戦争指導を巡って対立し、軍司令官の地位を解任されたためである。終戦後、アブドゥッラシード将軍は自宅軟禁の目にあった。 === 権力の掌握 === [[1990年]]、イラクが[[クウェート]]を侵略・占領するとクサイは叔父の[[フセイン・カーミル・ハサン]]らと共にクウェートの王族の宮殿や屋敷から絵画や宝石、高級車、[[イタリア]]製家具などを大量に略奪し、トラックで運び去った。[[湾岸戦争]]停戦後に起きたシーア派住民による[[インティファーダ]]の鎮圧、その後に起きた住民虐殺や南部湿地帯に住む「マーシュ・アラブ人」の殺害・湿地帯の破壊に、クサイは主導的な役割を果たしたとされる。 [[1991年]]5月に[[国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会]]による査察が開始されると、クサイは査察妨害を目的とした通称「隠蔽作戦委員会」の委員長に任命され、いかにして国連査察団から大量破壊兵器の存在を隠すかに専念した。 [[1995年]]から[[1996年|96年]]にかけて、叔父フセイン・カーミルと[[サッダーム・カーミル]]の[[亡命]]・殺害、兄ウダイによる叔父ワトバーンの銃撃事件、ウダイ自身の暗殺未遂事件と一族内のライバルがサッダームの後継レースから脱落していき、クサイが事実上の後継者として頭角を現した。ウダイ暗殺未遂以降、サッダームはクサイを後継者と決定したとの見方もある。 これまでクサイは、1990年代の初頭にイラクの大半の治安・情報機関・治安部隊を自らの支配下に置いていたとされる。公式な肩書やポストでは無いものの、[[共和国防衛隊]]監督者、イラク特殊軍司令官、88年には[[特別保安機関]](Jihaz al-Amn al-Khass)副長官、92年には長官に任命されていた。95年には国家安全保障会議副議長、[[1997年]]には、ウダイが創設した民兵組織「{{ill2|フェダーイーン・サッダーム|en|Fedayeen Saddam}}」総司令官に就任し、兄から指揮権限を奪った。 === 後継者 === クサイもまた、イラクの[[恐怖政治]]の一翼を担っていた。1995年、[[スンナ派]]一大部族であるドゥライミー部族の反乱、1997年には[[シーア派]]住民による反乱が起きたが、いずれもクサイが指揮する特殊軍や共和国防衛隊、特別保安機関によって押さえ込まれた。1999年に発生した、大[[アーヤトッラー]]・[[ムハンマド・サーディク・アッ=サドル]]の暗殺事件も、クサイが暗殺を命じたと見られている。この他にも、旧イラク反体制派によると、クサイは多くの反政府活動家の殺害に関与してきたとしている。この他にも、[[政治犯]]の尋問・投獄、その家族の拘束を認可する命令を発し、それにより数千人が刑務所に投獄された。[[1998年]]には投獄された政治犯で過密状態となった各刑務所を「清掃」する名目で、約4千人の政治犯がクサイの命令の下、処刑された。 1998年、米[[イギリス軍|英軍]]による「[[砂漠の狐作戦]]」が行われると、クサイはイラクの4つの軍管区のうち、中央軍管区司令官に任命され、首都防衛の責任者となった。2003年の[[イラク戦争]]開戦前にも同軍管区司令官に任命された。 [[2000年]]、クサイは非常時における臨時大統領代行に指名され、[[2001年]]には、[[バアス党]]の権力昇進コースである党軍事局副議長に任命されると共に、党地域指導部メンバーに選出された。クサイが付与された初の正式な公職である。この年の第12回地域指導部大会において、古参党幹部が落選しており、事実上のクサイ体制に向けた布石と思われた。[[2002年]]に暗殺未遂に遭っている。 === 最期 === 2003年3月20日、イラク戦争が開始されると、国営テレビにサッダームや軍幹部と共に会議に臨む映像が複数回放送された。4月8日には、空爆で死亡したとの報道が流れた。 米誌「[[タイム (雑誌)|タイム]]」によると、クサイは軍将校との会合において、同じ質問を何度も繰り返すなど、精神的に不安定な状態が続いていたという。また、同誌によればクサイがバグダード陥落前日の4月8日に、首都を防衛する共和国防衛隊の部隊に移動を命じたため、部隊の配置が間に合わず、進撃してくる[[アメリカ軍]]に対応できなかったと報じた。 また、[[エジプト]]の新聞「アル=ウスブーア」によれば、クサイがバグダード防衛を巡ってイラク軍と対立していたと報じられた。4月下旬、クサイは[[イラク治安部隊|イラク軍]]にアメリカ軍をバグダードに誘い込み、市街戦に持ち込もうとしたが、イラク軍は「敵は想像以上に強力」として、逆にバグダード郊外での攻撃及び補給線の切断を提案したが、クサイは拒否。軍はサッダームに首都決戦を避けるように進言しようとしたが、サッダームとの連絡が取れず、そのため軍は、敗戦は決定的と判断したとされる<ref>読売新聞 2003年4月21日付記事</ref>。 バグダードが陥落した9日には、クサイはサッダームと共に市内に現れ、熱狂した民衆に取り囲まれる映像がアラブ・メディアによって放送された。[[サンデー・タイムズ]]の報道によれば、別々のルートで隣国[[シリア]]に亡命し、現地で合流することをサッダームが2人の息子に提案したところ、クサイは涙を流しながら父と別れることを拒否したという。その後、クサイはシリアに入国しようとしたが、同国当局に拒まれたため、クサイはウダイと共に、イラク中・北部で潜伏生活を送った。 しかし、[[2003年]][[7月22日]]、[[モースル]]にある隠れ家を密告され、米[[第101空挺師団 (アメリカ軍)|第101空挺師団]]との銃撃戦で戦死した(年齢は推定37歳)。クサイは米軍に対して激しく抵抗したとされ、最終的に米軍の[[BGM-71 TOW]][[対戦車ミサイル]]による攻撃で死亡したと見られる。この際、クサイの14歳になる息子ムスタファーが最後まで抵抗し、射殺された。しかしムスタファーの射殺については異なった情報も示されている。 2003年7月24日、[[ドナルド・ラムズフェルド]][[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]の決定により、イラク駐留米軍は、死んだウダイ・クサイ兄弟の遺体の写真を報道陣に公表した。 米軍は、イラクでウダイ、クサイ兄弟がまだ生きているという噂を打ち消すために兄弟の遺体の写真の公表に踏み切ったとしている。この公開について、「紛争中に殺害されたアメリカ兵捕虜の写真を公開したサッダーム・フセイン政権を[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]政権が非難したこと」を考えると、アメリカは二重基準であると一部から批判があがった。アメリカ軍はこの批判に、ウダイ、クサイは戦闘員ではなく国際法上問題ないと答え、イラク国民にとって転換点になると述べた。 その後、ウダイとムスタファーと一緒に、父の故郷である[[ティクリート]]のアル=アウジャ村の墓地に埋葬された。2007年には、再び埋葬し直され、現在はアウジャ村のモスクの敷地内にある墓地で処刑された父と共に眠っている。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == *「フセイン・イラク政権の支配構造」酒井啓子著 岩波書店  == 外部リンク == * [http://www.iraqfoundation.org/news/2002/joct/3_newson.html Iraq Foundation: A New Son Is Rising Over Iraq (October 2002)] * [http://www.desert-voice.net/saddam_sons.htm DesertVoice.net: Saddam's sons] * [http://www.gulf-news.com/Articles/news.asp?ArticleID=80958 Gulf News: Qusay given key role in war plans, 17-03-2003] * [http://www.globalsecurity.org/military/world/iraq/qusay.htm GlobalSecurity.org: Qusay Saddam Hussein al-Tikriti] * [http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/2236137.stm BBC News: Saddam's rival sons, 10 Sep 2002] * [http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3089379.stm BBC News: Saddam's hated sons, 23 July 2003] {{authority control}} {{DEFAULTSORT:ふせいん くさいさたむ}} [[Category:イラクの人物]] [[Category:イラク戦争の人物]] [[Category:サッダーム・フセインの子女|くさい]] [[Category:バアス党]] [[Category:バグダード出身の人物]] [[Category:戦死した人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:2003年没]]
2003-07-24T03:34:26Z
2023-11-03T10:42:25Z
false
false
false
[ "Template:External media", "Template:Ill2", "Template:Authority control" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B3
12,126
五大明王
五大明王(ごだいみょうおう)は、仏教における信仰対象であり、密教特有の尊格である明王のうち、中心的役割を担う5名の明王を組み合わせたものである。本来は別個の尊格として起こった明王たちが、中心となる不動明王を元にして配置されたものである。 彫像、画像等では、不動明王が中心に位置し、東に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、南に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、西に大威徳明王(だいいとくみょうおう)、北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)を配する場合が多い。なお、この配置は真言宗に伝承される密教(東密)のものであり、天台宗に伝承される密教(台密)においては金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が五大明王の一尊として数えられる。 五大明王像は日本において盛んに造像されたが、中国でも若干の遺例を見ることができる。日本では、密教が平安時代前期に隆盛したことから、五壇法の本尊として五大明王が祀られた。日本における代表的な造像例としては、京都の東寺講堂に安置されている平安時代前半の像(国宝)が知られる。その造像は、講堂が創建された承和6年(839年)頃と推定されている。この他、各地の寺院に彫像があるほか、画像も東寺、醍醐寺等に残存している。 五大明王の配置 全作例を列挙することは不可能なため、国宝または重要文化財に指定された物件を列挙するにとどめる。 (※「重要文化財」は、文化財保護法第27条により日本国文部科学大臣が指定したもの(「国の重要文化財」)を指す。)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "五大明王(ごだいみょうおう)は、仏教における信仰対象であり、密教特有の尊格である明王のうち、中心的役割を担う5名の明王を組み合わせたものである。本来は別個の尊格として起こった明王たちが、中心となる不動明王を元にして配置されたものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "彫像、画像等では、不動明王が中心に位置し、東に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、南に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、西に大威徳明王(だいいとくみょうおう)、北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)を配する場合が多い。なお、この配置は真言宗に伝承される密教(東密)のものであり、天台宗に伝承される密教(台密)においては金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が五大明王の一尊として数えられる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "五大明王像は日本において盛んに造像されたが、中国でも若干の遺例を見ることができる。日本では、密教が平安時代前期に隆盛したことから、五壇法の本尊として五大明王が祀られた。日本における代表的な造像例としては、京都の東寺講堂に安置されている平安時代前半の像(国宝)が知られる。その造像は、講堂が創建された承和6年(839年)頃と推定されている。この他、各地の寺院に彫像があるほか、画像も東寺、醍醐寺等に残存している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "五大明王の配置", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "全作例を列挙することは不可能なため、国宝または重要文化財に指定された物件を列挙するにとどめる。", "title": "日本の主な五大明王像" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "(※「重要文化財」は、文化財保護法第27条により日本国文部科学大臣が指定したもの(「国の重要文化財」)を指す。)", "title": "日本の主な五大明王像" } ]
五大明王(ごだいみょうおう)は、仏教における信仰対象であり、密教特有の尊格である明王のうち、中心的役割を担う5名の明王を組み合わせたものである。本来は別個の尊格として起こった明王たちが、中心となる不動明王を元にして配置されたものである。
[[File:The Five Wisdom Kings.jpg|thumb|200px|五大明王 中央は大日大聖不動明王、右下から時計回りに降三世夜叉明王、軍荼利夜叉明王、大威徳夜叉明王、金剛夜叉明王]] [[File:Five Great Myoo (Vidyarajas) (Nara National Museum).jpg|thumb|200px|五大明王像 奈良国立博物館蔵]] '''五大明王'''(ごだいみょうおう)は、[[仏教]]における信仰対象であり、[[密教]]特有の尊格である[[明王]]のうち、中心的役割を担う5名の明王を組み合わせたものである。本来は別個の尊格として起こった明王たちが、中心となる[[不動明王]]を元にして配置されたものである。 == 概説 == 彫像、画像等では、[[不動明王]]が中心に位置し、東に[[降三世明王]](ごうざんぜみょうおう)、南に[[軍荼利明王]](ぐんだりみょうおう)、西に[[大威徳明王]](だいいとくみょうおう)、北に[[金剛夜叉明王]](こんごうやしゃみょうおう)を配する場合が多い。なお、この配置は[[真言宗]]に伝承される[[密教]]([[東密]])のものであり、[[天台宗]]に伝承される密教([[台密]])においては金剛夜叉明王の代わりに[[烏枢沙摩明王]](うすさまみょうおう)が五大明王の一尊として数えられる。 五大明王像は日本において盛んに造像されたが、中国でも若干の遺例を見ることができる。日本では、密教が[[平安時代]]前期に隆盛したことから、'''[[五壇法]]'''の本尊として五大明王が祀られた。日本における代表的な造像例としては、京都の[[東寺]]講堂に安置されている平安時代前半の像(国宝)が知られる。その造像は、講堂が創建された[[承和 (日本)|承和]]6年([[839年]])頃と推定されている。この他、各地の寺院に彫像があるほか、画像も[[東寺]]、[[醍醐寺]]等に残存している。 '''五大明王の配置''' * '''中央''' - [[不動明王]] - [[大日如来]]の教令輪身 * '''東方''' - [[降三世明王]] - [[阿閦如来]]の教令輪身 * '''南方''' - [[軍荼利明王]] - [[宝生如来]]の教令輪身 * '''西方''' - [[大威徳明王]] - [[阿弥陀如来]]の教令輪身 * '''北方''' - [[金剛夜叉明王]](東密系) - [[不空成就如来]]の教令輪身 または [[烏枢沙摩明王]](台密系) == 日本の主な五大明王像 == 全作例を列挙することは不可能なため、[[国宝]]または[[重要文化財]]に指定された物件を列挙するにとどめる。<!--国指定の作品のみが重要で、県指定のものは価値がないということではなく、該当作品全てを公平に列挙することが不可能なので、国指定物件にとどめるという意味です。よろしくご理解願います。--> ; 絵画 * 岐阜県 [[来振寺]]本 国宝 東密系の画像 * 滋賀県 [[芦浦観音寺]]本 重要文化財 不動明王像を欠く。 * 京都府 [[東寺]]本 国宝 * 京都府 [[醍醐寺]]本 国宝 * [[奈良国立博物館]]本 重要文化財 1幅に五大明王と制吒迦童子・矜羯羅童子を描く。 ; 彫刻 * 京都府 [[東寺]]講堂像 国宝 * 京都府 [[大覚寺]]像 明円作 重要文化財 * 京都府 [[醍醐寺]]像(上醍醐五大堂) 重要文化財 * 京都府 醍醐寺像(霊宝館) 重要文化財 * 滋賀県 [[金勝寺]]像 (軍荼利明王独尊にて安置) 重要文化財 * 奈良県 [[不退寺]]像 重要文化財 * 奈良県 [[宝山寺]]像 湛海作 重要文化財 * 宮城県 [[瑞巌寺]](松島五大堂)像 重要文化財 * 三重県 [[常福寺 (伊賀市)|常福寺]]像 重要文化財 * 千葉県 [[成田山新勝寺]](平和大塔)像 重要文化財 (※「重要文化財」は、[[文化財保護法]]第27条により日本国文部科学大臣が指定したもの(「国の重要文化財」)を指す。) ; 来振寺本 <gallery> File:Ususama Kiburi-ji.jpg|烏蒭沙摩明王 File:Daiitoku Kiburi-ji.jpg|大威徳明王 File:Acala Kiburi-ji.jpg|不動明王 File:Gundari Kiburi-ji.jpg|軍荼利明王 File:Gōzanze Kiburi-ji.jpg|降三世明王 </gallery> == 関連項目 == * [[仏の一覧]] * [[五大堂]] * [[五大力さん]] * [[迦楼羅]] - 光背には炎の鳥(悪しきものを食い尽くし奇病を退ける鳥)が描かれていものがあり、この炎は迦楼羅炎(かるらえん)という。 * [[五智如来]] {{Buddhism2}} {{密教2}} {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:こたいみようおう}} [[Category:明王]] [[Category:密教]] [[Category:神々]] [[Category:仏教の名数5|みようおう]]
2003-07-24T03:35:42Z
2023-09-22T23:13:51Z
false
false
false
[ "Template:Buddhism2", "Template:密教2", "Template:Buddhism-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E6%98%8E%E7%8E%8B